窪田評釈 巻一
(4)  凡 例
 
一、本巻には万葉集巻第一、巻第二の二巻の評釈を収めた。
一、本文は西本願寺を底本とし、諸本をもって改めた個所もある。
一、題詞、歌、左注は仮名まじり文に書き改めた。なお、歌と左注とには白文を付した。
 
(5)序 本書は、その題名の元すが如く、万葉集の評釈を試みたもので、筆者の新たに稿を起したものである。
 此の稿を起すについて、筆者はただ一つの事を期している。本書を手にされた人に対して、その事を簡単に記す。
 我が国の古典を貫いている性格的なものの第一は、集団性の濃厚だということである。これは言いかえると、共同にもっている現実を尊重し、これに即して離れまいとすることである。此の性格の最も濃厚に現れているものは、抒情を旨としている和歌である。その形式の短小を便利とし、これに甘んじ満足して、益々短小に向わんとする傾向のあるのは、一にこの集団性の致すところである。詠み人の言わんとするところは共通の人間性で、そしてそれを現すには、聴く人と共に現に眼にしているところの現実に即し、それに依る心をもってするのである。聴く人もまた、詠み人と同じ心をもってし、その言うところと、この現実とを絡ませつつ聴くのである。和歌の形式の短小をもって足れりとするのは此の共同の現実を媒介とするが為であって、和歌にはそれを詠んだ時の環境即ち題が、必ず添うべきものとなっているのは、此の事を示しているものである。
 今言ったことは和歌としては初期である上代に属することで、後期と目すべき中世より近世へ降ると、稍々《やや》趣を異にしているが、伝統を重んずる和歌にあっては、その推移は極めて緩慢であって、幾何《いくばく》の変化もないといえる。上代の和歌に属する万葉集は、すでに或る完成期に達しているが、此の趣を極めて濃厚にもっているものである。
 以上は言うを要さないことで、絮説《じよせつ》に似たものであるが、最古の古典に属する万葉集の注釈を試みようとする筆者にとっては、今一応くり返し思わざるを得ないことなのである。
万葉集の歌を理会し味解するには、最初に必要なることは、その歌の取材となっているところの環境に対しての理会である。環境とは上代の或る時期であって、その時期は更に上代よりの繋がりをもちつつ急速なる推移をしていた時である。生活様式も、もとより現代とは遥かに異なっていて、その抱く信仰を初めとし、風俗習慣言語に至るまで、すべて研究にょって知られ得るものである。万葉集の歌は人間性の単純なる発露にすぎないものとはいえ、いずれも此の環境に即し、環境をとおして表現されているものなので、今日にしてそれを理会し味解しようとするには、先ずその環境を知らなければならない。その必要なることはいうまでもないことである。幸いなるかなわれわれは、多くの尊むべき先賢と、それを継承する現代諸家の研究とによって、たやすくもその大体を知り得るのである。そこにはまだ残されている幾多の問題があるのであるが、和歌に捉えられている取材という限られた範囲においては、不十分ながら略略《ほぼ》教えられたという状態に達そうとしていると言い得られる。
(6) 万葉集がわれわれにとって極めて貴重なる物とされているのは、言うまでもなく和歌として極めて優秀なるが為である。その優秀というのは、千古に亘って渝《かわ》るべくもあらぬ人間性が、豊かに強く深く湛えられてさながらに生きて居り、今日のわれわれの生命にも響き来たり、また明日にも響き得るものと信ぜられるからである。そこにはわれわれの遠き祖先の精神であるというなつかしさも伴っているが、それは此の優秀さに付随したものである。その優秀さは偶然な物ではなく、その当然の理由がなくてはならない。我が文芸とはいえ、個人性を容れ得るところの多い、稍々降っての代の散文の世界にあっては、この事はたやすくは窺い得ないものでもあろうが、集団性の濃厚である上代の和歌にあっては、比較的たやすく辿られ得べきことに属する。即ち万葉集の歌の詠み人が、集団人の一人として、如何なる信仰と信念に支持せられて、如何なる生活態度をとり、如何なる刺激と感動をもち、如何なる必然性に駆られて、如何なる手法をもってその歌を詠んでいるかということは、これを辿ろうとすれば必ずしも難事ではなく、或る程度までは辿り得られることである。これが即ち文芸としての和歌の価値批評であって、現在の筆者にとっては、万葉集に対して最も必要なことと信じているものである。
 万葉集の注釈は、言ったがごとく、最初に必要なものは、その歌をして現に見るがごとき状態にあらしめた時代の研究であって、ついで必要なものは、これを文芸として観ての価値批評でなくてはならない。その必要の程度においては、後者は前者にまさるものである。然るに前者の研究の進展は著しきものがあるにも拘らず、後者の研究は立ち後れているがごとくに感ぜられる。その何故に立ち後れているかは、筆者自身の体験によれば、知り難くないことである。それは価値批評ということは、事としては相応の労を要することであるが、陥るところは単にその人一人の感想に終って、他と相渉《わた》るところの少く見えるが為である。価値批評の基準は、現在は定まるべくもなく、要するにその人その人のものである。そうした基準をもってする批評の空疎なるものに見えがちなのは、これは余儀なき次第である。しかしながら、貴重なる古典を単に架上のものにとどめず、これを胸中のものとしようとするには、この価値批評を通さなければならない。それをすることによって優秀なる和歌の詠み人にして、なつかしむべき上代の祖先とわれわれとの間に、密接なる関係を結ぶことが出来、その関係をとおして初めてわれわれの胸中の物となり得るのだと筆者は信じている。
 本書は、そうした心をもって稿を起したものである。もとより古典のことであるから、語句の解釈に重きをおくべきは言うまでもないが、それは一に、先賢及び現代諸家の研究の恩賚《おんらい》を蒙ったもので、寡聞その足らざるをおそれているものである。極めていささかの私案を試みた場合もあるが、それは言うにも足りないものである。したがって此の方面は、その稍々特殊なものに限って、研究者の名を挙げて依るところを明らかにしたが、大体としては省路を旨とし、簡明ならんことを期した。
 批評の方面は、筆者の理会し得ているもののみである。もと(7)より未熟にして空疎なものであることは覚悟しているが、臆するところなく私見の概路を述べたものである。それとても従来の尊ぶべき研究の恩賚を蒙るところ多いものであることは言うまでもない。しかしその中には、あるいは問題の芽となり得るもののいささかあり得はしないかと思って、それをもって慰めとしている。
 万葉集の注釈は、筆者としては洵《まこと》に身に余るものであることは知っている。齢もすでに老いて気力の衰えを来たしているので、その果して成し遂げ得るものであるか否かも危ぶまれるものである。しかし努めて続行したいと期してはいる。事としてはあらずもがなのものとも思うが、時代に感激の情をもち、未熟ながらもなし得ることをしようとの一念に駆られてのことである。
 
    昭和十八年二月
                        著者
 
(10) 萬葉葉 巻第一概説
 
 万葉集の評釈をしようとする以上、先ず万葉集全体に亘っての概説をするのが当然である。しかし筆者はそれは見合わせ、一巻一巻について、部分的にしていくこととする。それは万葉集は全部二十巻、歌数として四千五百首を越える浩瀚なものである。加えて毎巻ほとんど趣を異にする極めて複雑なものである。これを取りまとめて一時にするということは、煩雑にすぎることで、筆者とともに読者も、得るよりも失うところの多いものだろうと思われるからである。それでここは巻第一だけに限って概説する。
万葉集巻第一について正確に知られていることは、極めていささかのことで、それもさしたる発見とは言えない程度のものである。今それを言うと、第一は、いかなる動機でこうした撰集が出来たかという事であるが、それは明らかにはわからない。それというのが、この点を明らかにすべき序が添ってはいず、また他にも、その事に触れての記録は全然ないからである。この事については、その動機の起り得る範囲を推定するにすぎない。第二は、撰者である。これもその動機と同じく、序がなく、またそれに触れての記録も全然ないので、明らかにする方法がない。これに触れての平安朝時代の言い伝えはあるが、これは単なる言い伝えで、明らかに根底のないものだと確かめられている。ただ知られている一事は、万葉集は何人かの編纂者によって、逐次編纂されていったもので、これは巻の異なるごとに、編纂の方針も用意も異なっているところから推定されるというのである。比較的明らかなことは、これら編纂者の中に、大伴家持が大きく働いており、万葉集のある部分は家持の手によってなされたものだろうということである。これを撰者といわず編纂者というのは、万葉集は巻第一と二とは精選された趣をもっていて、そこに撰者のあったことを思わせられるが、他の巻の多くは、資料を蒐集し、一とおりの整理を加えたというにすぎない趣のものだからである。その撰者の面目を具《そな》えている巻第一の撰者も、言うがごとく何びとであるかは全くわからず、わずかに想像し得られることは、その人は宮中に収められていたと思われる和歌を、資料として稍々自由に見るを得た人と思われること、次に巻第一と二とは、その編纂の上から、他の巻とは異なって有機的関係をもってい、万葉集の部立ての三大綱目たる、雑歌、相聞、挽歌の一わたりを、此の二巻に割り当てて完備させているところから見て、同一人でなくてはならないと推定されていることである。第二には、上の理由により、巻第一と二とは略々同時に撰定されたものと見て、そのときは何時であったかということであるが、これは年代順に排列した歌が、奈良遷都直後に終わっているのと、また歌の題詞の記し方によって、奈良遷都後|幾何《いくばく》も経たない時であったということだけが明らかである。
(11) 万葉集は、巻第一、二というごとき重要なる部分においても、その書史的方面は極めて不明で、ほとんど白紙と同様なのである。
 
 巻第一と二との撰者が、いかなる動機から万葉集の撰定を思い立ったかということは、言うがごとく全く不明なことであるが、しかしその動機の範囲の推定も許されないような神秘なこととも思われない。それについての思い寄りを言う。
 万葉集は左注の形において、当時存在していた多くの歌集の名を挙げている。最も多く出るのは柿本朝臣人麿歌集で笠朝臣金村歌集高橋蟲麿歌集田辺福麿歌集などがある。これらは家集である。また、古歌集というがあり、民謠集である巻第十三によると、そこには何部かの民謠集のあったことが知られるが、これらは得るがまにまに蒐集した集と思われる。最も注意されたのは、山上憶良の類聚歌林である。これは内容の不明なものであるが、その題名によって、多くの人の歌を類別した集であったろうと想像される。万葉集が撰定されまた編纂された当時、いかに多くの歌集が世に伝わっていたかということは、たやすく想像される。
 需要のないところには供給はない。これらの歌集が供給されていたのは、そこにこれに相当する需要があったためと思われる。需要とは何ぞといえば、上代の生活にあっては、和歌は日常生活の上の必需品であって、生活の中に織り込まれている、生活のための歌だったのである。その※[目+者]《み》やすい例をいえば、上代の集団生活にあっては、賀の歌は必要欠くべからざるものであった。言霊《ことだま》信仰の深かった時代には、人の他に向っていう言には、言の中に霊《たま》が宿っていて、その霊はその言に応じての働きを現し、言わるる人の上に作用を及ぼすものだと信じられていた。すなわち善い言には善い霊が宿り、悪い言には反対に悪い霊が宿ってい、賀の心も詛《のろ》いの心も遂げ得るものだと信じていた。さらにまた、善い言という中、その麗わしく言い連ねたものは、最も効果的なものだとも信じられていた。麗わしい言とはすなわち歌である。賀の心は歌でなければならなかったのである。また、男女間の交渉も歌をもってする風となっていた。その心は賀の歌と通うところのものであったろうが、とにかくこれが風をなしていたことは、伊邪那岐《いざなぎ》、伊邪郡美《いざなみ》の二神が、国生みに先だっての婚儀に、双方の意志を歌謡の形式として相唱和されたとしていることは、この風の起源を最も畏き神につないだものであって、その風の動かすべくもないものになっていたことを裏書するものである。さらにまた、葬儀の時にも歌謡が必要であったと思われる。御大葬の際の歌謡の起源を、日本武尊の死の際につないでいるごときも、その風の根源の深いものであったことを示すものと思われる。だいたいこのような状態で和歌は日常生活の上に関係していたのである。それだと、他人の歌にして、取って範とすべきもの、また流用に堪えるものは、ある程度の生活を営んでいる家にあっては、まさに必需品であったことと思われる。類聚歌林が想像されるがごとき内容であったとすれば、おそらくこの利用に最も簡便なものであ(12)ったろうと思われる。
 また、この和歌が、いかに広く流布していたかということも、たやすく想像される。例せば東歌、防人の歌のごときを見れば、今日のわれわれをもってすれば、驚き怪しまれるものである。中央都市の支配階級の作る和歌は、交通の極めて不便な世、遠き僻陬《へきすう》の庶民の、おそらく文字を解せざる者に、口承をとおして深くも親灸《しんしや》し、見るがごとき和歌を作らしめるに至っていたのである。さらにまた、柿本朝臣人麿の歌は、その部分部分に多くの異伝を含んでいる。その異伝は概していうと、本行のものよりも平明なものとなり、劣ったものとなっている。そしてこのことは、一人《ひとり》この人の歌に限られたことなのである。これはきわめて高名であり、また魅力のあった人麿の歌は、口承をとおして流布すること弘《ひろ》く、したがってその間に流動し変化させられて、たまたまその記録せられたものも、すでに何程かの異同を生じていたことを示しているものである。和歌の流布の速かにしてまた弘かったことは、想像に余りあるものがある。
 万葉集の巻第一と二との撰者は、和歌のこうした状態であった世に生存し、そしてそれを眼前の事象として見ていたのである。その和歌の上において、この撰者なる人をして遺憾に感ぜしめ、むしろ心外を感ぜしめた一つの事があったろうと、筆者には想像される。
 撰者は、何等かの経路によって、宮中に保存せられている高貴の御方々の和歌を知っていた。歴代の天皇の御製、皇后、皇子方の御歌の、いかに御気宇の高く豊かに、また御風格の高雅なものであるかを知っていた。またこれらの和歌は、臣民の間には伝わってはいないことも知っていた。一方、国運は隆々として高まりつつあって、皇室の限りなき尊貴を顕すべき古事記、また国家の権威を宣揚すべき日本書紀の撰進は、すでにされ、またされようともしている時代である。撰者は宮中に秘められたる形をもって保存せられている和歌を、この古事記、日本書紀と同じき態度をもって、臣民の世に顕わそうと思い立ったのではないか。これはもとより想像にすぎないものであるが、必ずしも許されがたいものではないように思われる。
 この想像の下に、万葉集巻第一と二とを見ると、筆者には撰者の意図がかなりはっきりと窺えるように思われる。その第一は、巻中の歌の撰である。巻第一の巻首には雄略天皇、巻第二の巻首には磐姫皇后というように、古の天皇、皇后の、歌の上には盛名を保たせられている至上の御方々を、時代の甚しい飛躍をも顧みずに載せているのを初めとして、巻第一の歌は、だいたい高貴の御方々の御製御歌を連ねることをもって建前としている。その中には、身分低き者の歌、また詠み人知らずの歌もあるが、その身分低き者の歌は、すべて行幸の供奉《ぐぷ》という、皇室に関係せる特別の際に詠んだ歌で、それ以外の折のものは全くない。また詠み人知らずの歌は、すべて皇室に対しての賀の歌であって、これまたそれ以外のものではない。この撰は、意図するところがあってのものと思われる。第二には、雑歌、相聞、挽歌の三大都立の中、巻一は、充《あ》てるに雑歌をもってしていることである。この部立は、いずれを重しとすることもで(13)きないものであるが、万葉集全体を通じていえば、歌数の最も多く、したがって最も重く扱われているものは相聞である。かりにこれが巻第一に充てられていたとしても、万葉集を単なる歌集として選んだものとすれば、何等の不自然もないものである。然るに雑歌をもって巻第一に充てたのは、高貴な方の御歌にして、まず臣民の世に示すものとしては、雑歌の範囲のものをもってすることが至当だと考えたのではないかと思われる。その意識的であったのは、巻首の雄略天皇の御製のごとき、雑歌とはいえ、明らかに相聞で、しかも典型的なものである。また高貴な方の歌には、これと同じきものがある。これは強《し》いたことで、撰者は意識して行なっていることと思われる。第三には、万葉集という題名である。万葉とは万世の意であるということは、今では定論となっている。撰者からいえば、万葉集は私撰であって、しかも巻第一と二だけのものである。それにこのようないかめしい題を付したということは、高貴なる方々の歌を主にしての集に対し、賀の心をもって付けたもので、単なる歌集としての題ではなかろうと思われる。
 以上は推測にすぎざることで、また長きにも失したが、巻第一の特色に触れるところがあると思って記した。
 
 巻第一と二との撰者は、皇室を中心としての歌を蒐集し、これを一部二巻に編もうとするに当り、これを部立によって整理した。雑歌、相聞、挽歌がそれである。これは上にも触れたがように、生活のための歌であったこの当時の歌は、おのずからにこの三類になっていたのである。雑歌は、巻第一にあっては、だいたい、賀歌と行幸の供奉の際の歌である。相聞は、巻第二にあっては男女関係のみの歌である。また挽歌は、死者を慰めようとして、直接にその柩前で謡うもの、および死者を追慕して悲しむものである。すなわち雑歌と相聞とは、生を楽しもうとする心のもの、挽歌は生を楽しもうとする心の遂げ難きを悲しむものである。これらはいずれも自然発生的のもので、同時に生活の全部を網羅《もうら》し得るものである。これらの名称は、いずれも漢籍より取り来たったものであるが、それは便宜に従ったのみのことであるのは言うまでもない。そしてこの撰者の新たに捉へ来たったものか、あるいはすでに一部には行なわれていたものであったかも明らかならぬものである。この撰者の立てたこの部立は、時代の降るに伴って分岐して複雑なものとなったが、それは生活のための歌に、歌のための歌という文芸性を加味させようとする要求から来たもので、この部立は基本として動かし難いものとされ、最後まで踏襲されたのである。
 
 この撰者はまた、撰定に当り、歌を排列するに、作歌の年代順に依ってしている。上代の歌は実際に即して作ったものであるところから、知名の人である限りはそれを確かめ得る可能性があったのである。それの明らかでないものは、出来得る限りを考証し、左注の形をもってそのことを言っている。中にはその甲斐の認められないものもあるが、そうしたものさえ、なお書き添える細心さをもってしているのである。また、年代の知(14)り難いものは、一括して別にしているという方法を取ってもいる。
 歌の題詞の書式は一定していず、区々《まちまち》となっている。これは撰者の意志をもって書きかえるということはしまいとし、一に原形に依ったものと思われる。ここにも撰者の細心さが現れている。
 こうした態度を、意識的に、徹底させていっているのは、巻第一と巻第二だけである。この二巻を完成したる精選本とする理由は、こうした点にもある。
 
 この巻第一と巻第二との撰定された奈良遷都直後のころ、いかに歌が盛行していたかは上に言った。歌はおそらく、人が集団生活を営み始めるとともに生まれ来たったもので、その発生の古さと、したがってその作られた数の多さとは測り難いもので、今日に残っているものは、その優秀なるもののきわめてわずかが、偶然なる機会によって残されたものであろう。しかし今、巻第一と巻第二の皇室関係を主としてのわずかの歌を通じて観ても、明らかに一つの事が認められる。それは歌は積極的精神の所産だということである。雄路天皇、磐姫皇后はしばらく措《お》き、舒明天皇より元明天皇に至る約八十年間は、国運の著しく伸張しつつあった時代で、上下一致、前途にかがやかしい時代を望みつつ、眼前の実務に努力した時代である。男子の理想とするところは益荒夫ということであって、臣下はもとより高貴なる皇子さえもそれを念とされていた。この緊張した精神から日常生活は肯定され、楽しまれ、そしてそこから、明るく、強く、楽しい、いわゆる清《さや》かにしておもしろい歌は生まれ出たのである。すなわちこの当時は、歌が盛行したというだけでなく、歌が著しく向上し進歩したのである。
 この歌の向上進歩の上に、漢文学が刺激をなしていたことは、否み難い事実である。それは外国の文芸である漢詩の作が、すでに天智天皇の御代より行なわれ、奈良遷都後には漢詩集である懐風藻の編まれるに至ったのでも察しられ、また遷都以前の万葉集の作者の、その作歌を記すに、自在に漢字を扱っているのでも察しられる。刺激の受け方には二様ある。受ける者に自信の足りない時には圧倒され、十分にあるときには、自主的態度をとってそれを利用する。古事記、日本書紀を撰ばしめられたわが皇室は、当時世界の文化を集めていたといわれる唐に対して、十分なる自信をもって対立し、彼の長を摂取して利用したが、それは一部にすぎなかったことを、歴代の御製、皇子の方々の御歌の上に明らかに元している。それは飽くまでも伝統を重んじて、現実性の上に立つことにおいては微動もされずに、しかも一面には、実用性の歌を文芸性の歌にと、一歩前進せしめられているのである。これをしている人は、当時代表的の教養をもっていられたと思われる高貴の御方に限られていることも、注意されることである。身分が低くしてしかもこれを実行し、保守と進取を大規模に行ない得たのは、一人柿本人麿があるのみである。
 この当時、中国の道教が伝わって、その不老不死の神僊思想(15)が、少くともわが支配階級に信じられていたことは、藤原宮※[人偏+殳]民作歌、また持統天皇の御製の中に、明らかに現れているのでも察しられる。生活を肯定し楽しもうとする心の、たやすくもこれに繋がり得るもののあることは、※[目+者」《み》やすいことである。これは瑞祥を喜ぶ思想となって、次第に拡がり、長くもとどまった。この思想も、実用性の歌に文芸性を加味させる上には、間接ながらも影響するところのあったものと思われる。
 以上を巻第一を主とし、巻第二にも及ぶ概説とする。概説にすぎるかの感があるが、それは本書の性質を斟酌《しんしやく》してのことである。
 
(20) 大行天皇、吉野宮に幸しし時の歌二首      一二六
 或は云ふ、天皇の御製歌              一二六
 長屋王の歌
 
和銅元年戊申                    一二七
 
 天皇の御製歌                   一二七
 御名部《みなぺ》皇女の和へ奉れる御歌       一二八
 三年庚戌の春二月、藤原宮より寧楽宮に遷りましし時、御輿を長屋の原に停めて※[しんにょう+向]《はる》かに古郷を望みて御作歌《つくりませるうた》  一二九
 一書の歌                     一三〇
 五年王子の夏四月、長田王を伊勢の斎宮に遣しし時、山辺の御井にて作れる歌三首  一三四
 
寧楽宮                       一三七
 
 長皇子、志貴皇子と佐紀《さきの》宮にて宴せる歌  一三七
 長皇子の御歌                   一三八
 
(21) 雑歌
 
【標目】 「雑歌」は、本集の歌をその性質によって三部に分填し、雑歌、相聞、挽歌と部立てをしてあるその一つで、相聞、挽歌以外のものを総括しての称である。詳しくは概説にある。
 
 泊瀬朝倉宮御宇天皇代《はつせのあさくらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ》       大泊瀬稚武天皇《おほはつせのわかたけのすめらみこと》
 
【標目】 泊瀬朝倉宮は、雄路天皇の皇居の称で、現在奈良県桜井市初瀬町の西の初瀬川に臨んだ地に、その名を存している。御宇は、「御」は統治。「宇」は、天の下の意で、本集には仮名書きで、「あめのしたしらしめしし」という例が多く、それに当てた語である。「馭宇」という語もあるので、「ぎょう」ともいったことが知られる。天皇は、「すめらみこと」と訓む。「すめ」は、統ぶの体言「すめ」。「ら」は、他語との接続をあらわす助詞。「みこと」は敬称。命・尊の文字を当てる語。「代」は、美称の接頭語「み」を添えて「みよ」と訓む。古くは、天皇御一代ごとに宮を改めたので、宮号をもって天皇を呼んだ。尊んでのことである。大泊瀬椎武天皇。雄略天皇の御名。「雄略」という漢風の謚号《しごう》を奉らない前の御称。天皇は、允恭天皇の第五皇子。御母は忍坂《おさか》の大中《おおなか》姫の皇后。皇兄安康天皇の三年、眉輪《まよわの》王を誅し、その後を承けて朝倉宮で即位された。治世二十三年であった。
 
     天皇《すめらみこと》の御製歌《おほみうた》
 
【題意】 天皇の御製歌。天皇は、雄略天皇。御製歌は、漢文風に音で「ごせいか」と訓んだか、または国風に「おほみうた」と訓んだか不明である。それは、題詞は漢文で書いてあり、当時の文章はすべて漢文であったから、漢文風の訓みも存しうるからであって、「新訓」は「ごせいか」と訓んでいる。御製という語は漢語である。他方、古事記には、この天皇の歌に対して大御歌《おほみうた》と呼んでいるからである。「おほみうた」に従う。天皇の御製は、本条にはこの一首のみであるが、古事記には長歌五首、短歌四首、日本書紀には長歌一首がある。古事記のものは、すべて歌物語の詞章とみえるもので、それを天皇の伝記の一部のごとく(22)扱ったものと思われる。この一首もその範囲のものであろうと思われる。
 
l 籠《こ》もよ み籠《こ》持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡《をか》に 菜採《なつ》ます子 家告《いへの》らせ 名告《なの》らさね そらみつ 大和《やまと》の国《くに》は おしなべて 吾《われ》こそ居《を》れ しきなべて 吾《われ》こそ座《ま》せ 我《われ》こそは 告《の》らめ 家《いへ》をも名《な》をも
    籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尓 菜摘須兒 家吉閑 名告紗根 虚見津  山跡乃國者 押奈戸手 吾許曾居 師吉名倍手 吾己曾座 我許背歯 告目 家呼毛名雄母
 
【語釈】 ○籠もよみ籠持ち 「籠」は、かごの古語。竹製の、物を容れる器で、ここは摘菜の容れ物。「もよ」は、詠款の助詞、間投助詞である。「み」は美称の接頭語。○ふくしもよみぶくし持ち 「ふくし」は、土を掘る串で、金ふくしという語があるので、ここは木か竹で造ったへら。菜の根を掘るための物。「み」は、美称の接頭語。○この岡に 「岡」は本文は「岳」であるが、小高い所の意。○菜採ます子 「菜」は、副食物となる物の総称で、魚も「な」といい、野の雑草で食用になるものをも総括しての称。ここは疏菜ではなく、選ばれた雑草とみえる。「採ます」は、採むに敬語の助動詞「す」を添えて敬語としたもの。古語には自他に対して敬語が多く、なかばは慣用で、必ずしも意識的のものではなかろう。ここもそれに近く、親愛の情をもってのものだろうと『全註釈』はいっている。「子」は愛称で、男女を通じて用いている。呼びかけである。○家告らせ 本文は「家吉閑」で、旧訓は、「名」をここへ訓み付け、「いへきかな」となっていた。家聞くという語は、他に類例のない、意をなさない語であるとして、諸家さまざまの解を立てている。『考』は「吉」は「告」の誤写、「閑」は「閇」の誤写として、「家告らへ」と改めた。『古義』はまた、「吉閑」を「告勢」の誤写として「のらせ」としているが、この誤写説は承認されなかった。しかるに、『私注』は、「閑」はそのまま「せ」の借訓となりうる字である。現在は「閑」は「間」すなわち「ひま」の意にのみ用いられているが、本来は、門を木をもってさえぎった貌で、防、禦木の意があり、馬柵を「ませ」と訓むことからすれば、「閑」を「せ」に借りないとは言い難く、次の「なのらさね」に照応するためにも「いへのらせ」の訓は心ひかれるところ大きいといっている。『注釈』はさらにそれを確めている。従うべき解である。「告らせ」は、「告れ」に敬語の助動詞「す」を添えての命令形。○名告らさね 「ね」は他に対しての願望の助詞。「家告らせ名告らさね」は、当時の求婚の言葉で、「家」はその女の身分・所在を示すもの、「名」は、当時の女子は極秘にしていて、それを知らせる時は、その人に一身を委ねる時としていた。ここはその意味でのものである。以上一段である。男が求婚する場合には、女の家と名を問うだけではなく、それとともに自身の家と名も知らせるべきことになっていた。その証歌は多い。○そらみつ 大和にかかる枕詞。日本書紀の神武紀に、にぎはやひの命が天の磐船に乗って天降った時、大和の地を見下ろして来たのによる詞だという。それだと空の御津の意で、大和を讃えた意のものと思われる。古い枕詞とみえる。○おしなべて (23)押し靡かせてで、総じて従えて。○吾こそ居れ 吾が統治しているの意を、やさしくいったもの。○しきなべて吾こそ座せ 「しきなべて」は、「しき」は領有して、「なべて」は、従えてで、「座せ」は、「居れ」の敬語。この二句は、上の二句と対句となっている。口承時代の歌謡の繰り返しに近く、多くの変化を示してはいないが、前の二句には強さを含んでおり、後の二句には柔らかさと落ちつきがあって、気分としては漸層的に深まっている。○我こそは告らめ家をも名をも この訓みは、『注釈』によって『五十槻《いつきの》大人(荒木田|久老《ひさおゆ》)口授万葉集|聞書《ききがき》』のものだと知った。さらにこれは中世の『古葉略類聚鈔』(二)にも、すでに「われこそはつげめ」と訓まれているとのことである。『新考』も上の『聞書』の訓みと同じである。これに従う。文面から見ると天皇は、第二段の「そらみつ大和の国は」以下二句対の対句をもって、その御身分を告げていられる。これは「家をも名をも」告げたことである。さらに改めてこのようなことを繰り返される要がなく、一見無用なものに見える。しかしその際の情景を思うと、「菜採ます子」という言葉によって呼ばれている女は、初めて見かけた男性から突然求婚をされ、しかもその男性が天皇であることを知らされたので、羞恥と恐懼の感からものがいえず、ただ当惑していたことと思われる。天皇はその情を察して、やさしく、婉曲に、女の応諾を促した言葉と取れる。すなわち第一段の結末の「家告らせ名告らさね」に対応させて、「我こそは告らめ」と、対立の意の助詞「は」を用いていわれているのであって、言いかえると求婚の意を繰り返していわれたものと解せる。一首、一見素朴には似ているが、微旨を含んだ表現をしている歌であるから、この解はうがちすぎたものではなく、むしろ自然なものと思う。また、そう解することによって余意が生じるとも思う。
【釈】 まあいい籠を、いい籠を持ち、掘串よ、よい掘串を持って、この岡で菜を摘んでいられるかわいい娘さん。家をおっしゃい。名をおっしゃいね。この大和の国は、すべて従わせてわたしがいるのです。すべて領してわたしがいられるのです。わたしこそいいましょう。家も名も。
【評】 万葉集としてこの巻首にすえたこの御製歌は、時代的に見ても飛鳥朝をかけ離れた古いものであり、作者としても歴代の天皇中でも高名な雄路天皇であるから、まさにふさわしい歌というべきである。これを御製歌とするについては、なんらかのしかるべき拠り所のあったことと思われるが、その点は不明である。
 これを取材の上から見れば、当時はいわゆる自由結婚時代で、少数の尊貴の人は例外で、他はすべて自身直接に求婚し、結婚していたので、求婚ということは万人ひとしく体験し、またしようとしていることである。同時に、生涯を通じて最も感銘深く、またあこがれの的ともなっている事柄である。歌材という上からいうと、これほど一般性をもった、また興味深いものは他にはないといえる。
 表現の上から見ると、この御製歌は、口承時代の歌謡性のきわめて濃厚なものである。歌の基本は音律で、音律とは短長の組合わせである。口承時代も短長は動かず、記載時代に入ってそれが五七に定着するのであるが、この御製歌は、短長になっているが、五七はないという特殊なものである。音数から見ると、三四、五六、五五、五五。四七、五六、五六。五三七となっているのである。この不定は、歌謡としても稀れなものである。
 しかるにこれを一首の歌として見ると、安定感の強い渾然たる作となっている。音数の不定は当然乱雑の感を起こさせるものであるが、この御製歌では反対に、力強さとなり、それが安(24)定感を生むものとなっているのである。
 一首の内容は、「菜採ます子」というたぶん若い女性に対しての、天皇の求婚の意志表示という、きわめて簡単なものである。しかも天皇御一人の言葉だけで、相手の女性は黙して答えないという、何ら他奇なきものである。しかしこの御製歌は、その簡単な中に、比較的複雑味を含んでいて、それが一首の味わいをなしている。複雑味というのは、その際の天皇の心理、若い女性の心理を暗示して、いわゆる余情をかもし出していることである。
 この御製歌は短いながらに三段の構成をもっている。
 第一段は、起首より「名告らさね」までである。これが一首の主意である。「籠もよみ籠持ちふくしもよみぶくし持ち」は、「菜採ます子」の状態描写で、それが天皇に恋ごころを起こさせたのであるが、この状態描写は非凡なものである。当時の若菜つみは信仰も伴ってのことで、若い女性の行事となっていた。春の野山には珍しからず見られたことであろう。籠、ふくしは常凡な器具である。それに目を着け、それを讃えることによって、「菜採ます子」のもつ魅力を暗示し、同時に呼びかけとしているところ、いかにも特殊であり、また巧妙である。そしてそれがただちに進展して、「家告らせ名告らさね」の求婚の言葉に飛躍してゆくのである。事は求婚であるが、それをとおして善良にして闊達な、また多感な古代の帝王の面目がほうふつとしてくる。
 第二段は、「そらみつ」より「吾こそ座せ」までである。これは求婚の条件として求婚者の家と名をいったものである。
 この一段と二段との間には、あるギャップがあり、それがいわざる状態を語っている。状態とは求婚された若い女性のそれである。その女性は、岡で菜採みをしている所へ、ふと見知らぬ男性があらわれ、ふさわしからぬ世辞をいわれるとともに求婚されたのである。当然、驚きと当惑に捉えられて、いうところを知らなかったとみえる。その状態を見た天皇は、初めて気がついて、御自身の身分を告げたのである。これは迎えての解ではなく、第一段の軽快なるもの言いとは反対に、堂々たる口調をもって、この国の統治者であることを告げていられる、その表現技法によってギャップが感じられる。このギャップは余情の範囲のものである。
 第三段は、「我こそは告らめ家をも名をも」の結末である。この結末は問題となっているもので、諸家の解がさまざまである。筆者には第二段とこの結末の間には、第一、第二段の間と同じくギャップがあると認める。求婚の相手とされた若い女性は、その男性が天皇であると知らされると、前の驚きと当惑の情は恐懼の情と一変し、ますます口をかたく閉じて何事もいえなかったとみえる。その状態がある程度続いたとみえる。天皇はそれを見られてもっともと思われ、あわれみの情をまじえて、重ねて求婚の意志表示をする心をもって、やさしく、婉曲にこのようにいわれたものと解される。したがってこの結末は、最も含蓄あり、余情あるもので、雄略天皇のお人柄の美を最も発揮したものと解される。
 この一首は、形は素朴で、また簡潔なものであるが、内容は微細な味わいを含んだ比較的複雑なものである。その複雑味は、一見、平面描写に似ているが、ある程度、時間の推移を含み、立体感をもっているがゆえである。このことは、表面は純抒情(25)であるが、背後に散文味をもっているとも言いかえられるものである。読後、岡の上に相対して立っている天皇と菜採みの若い女性、双方の心理のおのずから想像されるものがあって、相聞の歌としては、類を絶した客観味のある歌であることが、以上のように解させる次第である。
 結句の五三七、あるいは八七の形は、古事記の歌謡にもあるが、時代の明らかなのは本集の中大兄の三山の歌の「うつせみも妻を争ふらしき」(一三)、額田王の近江の国に下りし時作れる歌の「情《こころ》なく雲の隠さふべしや」(一七)その他であり、五七七に至る過程の一時期のものである。これは伝誦の間に起こった変化ともいえるが、この歌の成立時期につながりあるものとも解せることである。
 
 高市岡本宮御宇天皇代《たけちのをかもとのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ》   息長足日広額天皇《おきながたらしひひろぬかのすめらみこと》
 
【標目】 高市岡本官は、奈良県高市郡明日香村|雷岡《いかづちのおか》の付近にあった舒明天皇の宮殿の称。天皇の二年に営まれたのである。その年の六月火災に罹り、田中宮に遷られたが、十一年百済川の側に大宮を御造営になり、十二年十月に遷られた。しかし天皇の御代の名としては「高市岡本宮天皇御代」と申したのである。
 息長足日広額天皇は、舒明天皇の御名。天皇は敏達天皇の孫、彦人大兄皇子の御子である。推古天皇の二十九年に皇太子聖徳皇子が薨じ、三十六年天皇が崩じられた後即位されたのである。在位十三年の十月九日崩じた。御年四十九。皇后は斉明天皇で、御二万の間に天智、天武の両天皇がある。
 
     天皇 香具山《かぐやま》に登りて望国《くにみ》したまひし時の御製歌《おほみうた》
 
【題意】 天皇は舒明天皇。香具山は、奈良県橿原市と桜井市とにわたり、平野に孤立している山で、畝火、耳梨とともに大和三山と称せられている山の一つ、標高一四八メートルの小山である。歌中では天《あめ》の香具山と称せられている。「天の」は神聖なるの意で、古代の神事には、この山の土をもって祭器を作り、この山の賢木を祭場に据え、またこの山の鹿の骨を焼いて神事の卜占をしたことが伝えられている。「かぐ」とは神霊の意で、卜占に使われる神聖なる鹿も同語であると『全註釈』はいっている。また、折口信夫氏は、この山は地勢がそれに適しているところから、古代斎場にしばしば用いられたことをいい、天あるいは高処から降臨すると信じられていた昔の神人《じんにん》の、里に来る足掛りに、格好な地であるともいっている。望国、国見は、高地に登って国状を視察することの称。元来は政治的の意味をもってのことであったが、後には風光観賞のためのこととなった。
 
(26)2 大和《やまと》には 群山《むらやま》あれど とりよろふ 天《あめ》の香具山《かぐやま》 登《のぼ》り立《た》ち 国見《くにみ》をすれば 国原《くにばら》は 煙《けぷり》立ち立つ 海原《うなばら》は かまめ立《た》ちたつ 怜※[立心偏+可]《おもしろ》き 国《くに》ぞ 蜻島《あきづしま》 やまとの国《くに》は
    山常庭 村山有等 取与呂布 天乃香具山 騰立 國見乎爲者 國原波 煙立龍 海原波 加万目立多都 怜※[立心偏+可] 國曾 蜻嶋 八問跡能國者
 
【語釈】 ○大和には群山あれど 「大和には」の「は」は、他と対させた意のもの。「群山」は、多くの山で、大和を繞らしている山々はもとより、三山までも含めてのもの。大和の国には、多くの山々があるけれども。○とりよろふ天の香具山 「とりよろふ」の「とり」は、接頭語で、作用をあらわす語に冠して、その意を強めるもの。「よろふ」は、物の揃い足っていることをあらわす古語。ここは香具山の山の形を讃めたもの。香具山は、大和の三山の一で、三山とも平野に孤立していて印象的な山であるが、その中でも最も形の美しい山で、青香具山といわれ、樹木もほどよく茂っていたのである。「天の」は、香具山にのみ冠していう語で、この語は、広くは神聖なものという意をもっているが、香具山に冠しての場合は、上にいった神事に深いつながりをもっていたからである。○登り立ち 登って立ってであるが、この場合「立ち」は、強めの意で添えたもの。他にも類似の語がある。○国原は煙立ち立つ 「国原」の「国」は古くは単に一定の地域をさす称で、郡県制度以後の称とは趣を異にしている。「原」は、広く平らな所をいう。「は」は、他に対させる意のもの。「煙」は、炊煙。「立ち立つ」は、立ちに立つで、あちこちから立つ意のものである。国原の方では炊煙が、あちこちから多く立つ意。○海原はかまめ立ちたつ 「海原」は、香具山の上で、国原に対させて仰せになっているので、古く、香具山の北麓にあったという埴安の池と取れる。この池は今は涸《あ》せて、池尻、池内などという地名が残っていて、その存在を思わせているのみである。池を海原と仰せられたのは、池を海と呼び、池または川の岸を磯、中心を沖と呼ぶなど、いささかの水を海に関係させて呼んでいる例が多い。海のなく、また海を見る機会の少なか(97)った当時の大和の人の、海に対してのあこがれの心からの称ではないかといわれている。「海原」の「原」は、国原の原と同じ。「かまめ」は、現在の鴎。「立ちたつ」は、ここも、あちこちから多く立つ意。○怜※[立心偏+可]き国ぞ 「怜※[立心偏+可]」は、旧訓「おもしろき」。この字は、集中二様の語に当てて用いている。「あはれ」と「おもしろき」とである。『講義』によると、「あはれ」の例は、巻三(四一五)「此旅人※[立心偏+可]怜《このたぴとあはれ》」以下四か所、「おもしろき」の例は、巻四(七四六)「かく※[立心偏+可]怜《おもしろく》縫へる嚢は」のほか、いま一か所ある。すなわちいずれにも訓めるのである。『考』は、神代紀に「可怜小汀」の注として、「可怜此云2于麻師《うまし》1」とあるにより、「可怜」を、「可」を「怜」になぞらえて扁を加え、また書写の際顛倒させたものとして、「うまし」と訓んでおり、後、これに従った注が多い。「おもしろき」も「うまし」も、大和を讃えた意では同様であるが、御作意から察しると、大和の国柄を讃えるよりは大和の風景を讃えたもので、その上からは「おもしろき」の方が適切に思われるので、旧訓に従う。また、この句は、五三、あるいは八音の句と思われ、この当時行なわれた句作りに従われたものとも思われる。○蜻島やまとの国は 「蜻島」は、大和の讃え名で、古事記には「大倭豊秋津島」とあり、日本書紀には「大日本豊秋津島」とある。豊秋つ島は、豊年の収穫の豊かなる島の意で、ここは大和の枕詞として用いたものである。「やまとの国は」の「は」は、起首、「大和には」の「は」と同じ。
【釈】 大和の国には、山々が群がっているが、すべて足り整っている天の香具山よ。この山に登り立って国見をすると、国原には、炊煙があちこちから立っている。海原には、鴎が舞い立ち舞い立ちしている。よい国だなあ、この秋津島の大和の国は。
【評】 国見ということは、本来政治的の意味のものであったと思われる。この場合は、天皇の特に遊ばしているのであるから、その意味の濃厚なことが予想される。また、この御製の歌が、大和の国をお讃めになっているものであることは明らかである。上代には讃め歌が多く、神を讃め、国を讃め、人を讃め、家を讃め、物までも讃めている。すべて言霊《ことだま》の信仰の現われで、善い語をもって讃めると、語に宿る霊《たま》の神秘力が、讃められる物の上に作用して、その語どおりの事が現われて来ると信じてのことである。この意味においての歌は実用性のものであって、文芸性以前のものである。この御製の歌は、事は天皇の国見ということで、政治性のものであり、歌は国讃めの範疇のものであるが、その国讃めは、人民の生活の場として、その生活の安泰を賀するという性質のものではなく、それに触れたお語《ことば》としては「蜻島」という一語があるのみで、それとても「やまと」に枕詞として添えられたもので、従属的な軽いものと見なければならない。しかるに、風景を愛《め》でさせられるお心持は反対に濃厚で、国見を遊ばされる場所としての香具山を仰せられるにも、「とりよろふ天の香具山」と、山としてもつ好景に力を入れられ、一首の中心としての「国原」をいわれるにも、「煙立ち立つ」は、「海原」の「かまめ立ちたつ」と対句の関係においていわれているところから、炊煙の豊かなるを賀せられるのではなく、風景としてのおもしろさをいわれたものと思われる。結末のお語の「怜※[立心偏+可]」を、「おもしろき」であると思われるのも、この意味においてである。これを下に続けて、「怜※[立心偏+可]国《うましくに》ぞ」と訓めば、大和の国柄、すなわち人民の生活の場としての好さをいう意が濃厚となってきて、一首の御作意に分裂をきたすがごとく思われる。要するにこの御製の歌は、実用性の範疇に属すべき歌を、文芸性のものにまでお進めになったものであると思われる。
 この御製の歌は、構成がきわめて自然で、整然たるものであ(28)る。中心となる対句の、遠く国原を遠望し、近く海原を見下ろして、鴨の状態を御覧になられたなど、その整然たるとともに、単純な語の中に豊かな心を具象したものである。一首全体の単純にして、明るく、豊かにして安定し、気品の高さのあるところ、まさに御製の歌と思わしめる。なお、雄略天皇の御製は特別のものとして、この集の編纂に近い時代のものとして、第一にこうした御製を選んでいるのは、和歌を実用性以後すなわち文芸性のものとした編纂者の意図の加わっていることを思わせる。
 
     天皇 内野《うちのの》に遊猟《みかり》し給ひし時 中皇命《なかつすめらみこと》の間人連老《はしひとのむらじおゆ》をして献《たてまつ》らしめたまへる歌
 
【題意】 天皇は、舒明天皇。内野は、奈良県宇智郡にある原野。現在、字智、北宇智、南宇智の三村があり、五条市にかけての辺りかとされている。固有名詞。遊猟の猟は、いわゆる薬猟とみえる。薬猟は五月五日に行なわれる行事で、正陽の節目に採集した薬品は特効があるとして、男は猟をして鹿の袋角を採り、女は薬草を採るのである。遊薬を兼ねてのことである。中皇命は、解に諸説があるが、喜田貞吉氏の「中天皇考」の説が有力なものとなっている。要は、中皇命は「なかつすめらみこと」と訓むべく、中天皇《なかつすめらみこと》の意で、「中皇命とは先帝と後帝との中間を取りつぐ中間天皇の意か、もしくは中宮天皇の略称なるべし」といい、この場合は舒明天皇の皇后で、後に即位された皇極天皇だとしている。間人連老は、間人は氏、連は姓、老は名である。日本書紀の孝徳天皇紀に、遣唐使の判官となった中臣間人連老があるが、同人であろうとされている。献らしめたまへる歌は、この場合一つの目的をもってのものと解される。目的とは、猟の幸《さち》を祈る賀歌という意である。そのことは歌の内容から察せられる。猟人は猟に出るに先立って禁忌をまもり、潔斎したことが集中の歌で知られる。事の性質上ありうべきことで、ここも天皇の猟に出られるに先立って、弓弭《ゆはず》を鳴らすという呪法を行なわれるのに対して、歌をもって声援されたので、一種の賀歌であると解される。
 
3 やすみしし わが大王《おほきみ》の 朝《あした》には 取《と》り撫《な》でたまひ 夕《ゆふぺ》には いより立《た》たしし みとらしの 梓《あづさ》の弓《ゆみ》の なか弭《はず》の 音《おと》すなり 朝猟《あさかり》に 今《いま》立《た》たすらし 夕猟《ゆふかり》に 今《いま》立《た》たすらし みとらしの 梓《あづさ》の弓《ゆみ》の なか弭《はず》の 音《おと》すなり
    八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音爲奈利 朝※[獣偏+葛]尓 今立須良思 慕※[獣偏+葛]尓 今他田渚良之 御執能 梓弓之 奈加弭乃 音爲奈里
 
(29)【語釈】 ○やすみしし 「八隅知之」「安見知之」と二様の文字が用いられており、したがって語義も二様に解されている。『全註釈』の解によると、「八隅」は、わが国土全体の意で、「知之」は、「知」は、日並皇子(持統天皇の皇太子で、摂政)を、日並|斯《し》皇子尊と称し、また、日並|所知《しらす》皇子尊とも称しているので、「斯」に所知の意があり、「知」はその意のもの、「之」は時の助動詞だというのである。また、「安見知之」は、「安」は形容詞。「見」は、上一段活用の動詞で、それに敬語の助動詞「し」を添え、時の助詞「し」を接続させたものだといっている。いずれがあたっているかは定まっていない。いずれにしても天皇の徳を讃えた語で、大王の修飾としたものである。古く宮廷歌謡に用いられた語で、この集の時代には解釈がまちまちになったものだというのである。○わが大王 「わが」は親しんで添えた語。○取り撫で給ひ 「取り」は、手に取る意であるが、接頭語に近い意となったもの。「撫で」は、愛する意よりのこと。○いより立たしし 「いより」は、「い」は接頭語。「より」は寄りで、近寄る意。「立たしし」は、「立たし」は、「立つ」に、敬語の助動詞「す」を添えたもの。「し」は時の助動詞。近寄ってお立ちになられたで、愛してのこと。この二句は、上二句と対句になっている。○みとらしの 「み」は敬語の接頭語。「とらし」は、執るに敬語の助動詞「す」が添ったもので、名詞形となったもの。御料というにあたる。○梓の弓 「梓」は、白井光太郎氏が現在の「よぐそみねばり」または「はんざ」であろうとしている。古くは弓材として最も多く用いられた木。○なか弭 「弭」は、弓に弦を掛ける所の称で、弓の一部である。したがって上下にあり、本弭末弭と呼ばれている。弦を引いて放すと高い音を発し、戦陣にあっては敵を威嚇するに足るものであったことが、「弓弭の騒」(一九九)という句でも知られる。「なか弭」は不明の句とされ、諸説がある。長弭であるとし、「なか」が誤写で上下したので、「かな」すなわち金阿須であるとし、その他にもある。『講義』は文字どおり中弭だとしている。本弭と末弭の中間にある弭の意である。実戦に用いる弓としては不自然であるが、遊猟用の弓で、呪法として高い弦声を発しさせるためとすれば、ありうるものと想像される。弦声によって悪精霊を追う呪法は、平安時代には宮中の滝口の衛士の行なったことであり、源氏物語にもある。それらは古法を伝えたものであり、古くまで溯りうるものではないかと思われる。この場合は猟の幸《さち》を防げる悪精霊を追うために、特に高い弦声を発しる中弭を取り付けた弓ではなかったかと想像される。○音すなり 「なり」は強く指定する意の助動詞。○朝猟に今立たすらし 「立たす」は「立つ」に敬語の助動詞「す」を添えたもの。お出ましになる。「らし」は根拠のある推量をあらわす助動詞。根拠はなか弭の音。○夕猟に 上の二句と対句になっているが、繰り返しに近いもので、古風なものである。なお、眼前のことをいうに朝猟・夕猟といっているのは、一見、不自然に感じられるが、猟は本来朝か夕にするものである。それは獲物とすべき鳥獣が夕方、草木の陰に潜んで眠った時、朝、目をさまさない時にすることなので、朝猟・夕猟ということは、単に猟ということと同意語で、修辞にすぎないものなのである。
【釈】 天下を知ろしめすわが天皇の、朝には御愛撫になられ、夕にはお近寄りになられた、御料の梓弓の、なか弭の鳴る音がすることです。朝猟に今お出ましになるとみえます。夕猟に今お出ましになるとみえます。御料の梓弓の、なか弭の鳴る音がすることです。
【評】 天皇と御一緒に、宇智野に近いわたりの行宮《あんぐう》にいらせられた中皇命が、天皇の行宮をお出ましになり、今や御猟場に向かわれようとして、猟に先立って、猟の幸《さち》を祈るための呪法として、弓の中弭を鳴らされる音をお聞きになり、同じく猟の幸《さち》(30)を祈る御心をもって献《たてまつ》られた賀の歌と解される。この歌を献るにつき、その御使が間人連老であることを特にいってあるのは、この御歌は口頭をもって謡わしめたもので、その方法はこの当時はすでに古風な特殊なことに属していたので、謡ったところの御使の名をもいってあるものと解せられる。こうしたことを思わせるのは、この御歌がきわめて古風なものだからである。単純な内容を二段に分けて、その結末は、長い四句をそのままに繰り返しにし、さらに単なる繰り返しのために、事としてはやや不自然な「朝晩に、夕猟に」の二句を添えてあるなど、謡い物の特色を極度にもったものである。これはこの当時にあってはすでに古風なものであったことは、上の(二)の天皇御製歌と比較すると、きわめて明白である。この古風ということは、中皇命の女性でいらせられるということよりも、呪法としての中弭の音に、さらに呪力を加えしめるために、歌をもってその音を賀せられるという、同じく呪法としての御歌であるところから、当然のこととして古風にお詠みになったものと思われる。なおまた、中皇命がそうした意味の御歌をお詠みになったということは、こうした場合には、その場におられる最も尊貴なる女性のされるということが定まっていたものかとも思われる。これは他にも例のあることである。作者はいうまでもなく中皇命である。上半の御料の弓に対する愛は、中皇命でないといえないことである。一首としても力量ある御歌である。
 
     反歌
 
【釈】 反歌は、訓は、はんか。長歌の末に添えた短歌の称で、きわめて稀れに旋頭歌をもってしたものもある。古くはなかったもので、後より起こったものである。時代の明らかなのは、この時代あたりからのようである。本来は、長歌の結末の、多くは抒情性の高い部分を繰り返して謡ったのが、次第に独立の歌となってきたもので、自然発生的のものと思われる。それに漢詩文の影響もあったとみえる。それは荀子の反辞または小歌で、反辞は注に、「反辞(ハ)反覆叙説之辞(ナリ)、猶2楚詞(ノ)乱曰1」といい、小歌は、「(上略)※[手偏+總の旁]2論(スル)前意(ヲ)1也」とあるものである。反歌の古い物は、大体この注のごとく、長歌の意を反覆し、総論したとも取れるもので、上にいった結末の反覆と一致するのである。しかし反歌は、早くもその域を脱して、長歌の意を展開させ、別個の意をいうものとなり、双方を関係させることによって、全体に複雑な味わいをもたせるものとなってきた。ここにも、実用性の歌より文芸性のものへの進展が見える。このことは、早い時代からすでに行なわれてもいた。
 
4 たまきはる 内《うち》の大野《おほの》に 馬《うま》なめて 朝ふますらむ その草深野《くさふかの》
    玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
 
(31)【語釈】 ○たまきはる 「いのち」「代」「うち」などにかかる枕詞。意味は詳らかでない。○内の大野 上にいった宇智野。「大」は、称美して添えたもの。○馬なめて 「馬」は、天皇初め供奉の人の乗馬。「なめて」は並めて、並べ連ねてで、狩場における状態。○朝ふますらむ 「朝」は、「朝」に。「ふます」は「踏む」に敬語の助動詞「す」を添えたもの。「らむ」は現在推量の助動詞。天皇のお踏みになられる意。踏むは、「朝猟に鹿猪《しし》践《ぶ》み起し、暮猟《ゆふがり》に鶉雉《とり》履《ふ》み立て」(四七八)とあり、他にもこれに似たものが二か所ある。鳥獣を狩立てる意である。ここも猟の場合であるから、踏み立てさせられる意。○その草深野 「その」は、上を承けての繰り返しで、進展させての言いかえ、「草深野」は、草深き野で、「深」を語幹から名詞に続けて熟語としたもの。深は高い意で、草の高い野。大体猟は冬から春へかけてするのが普通であるが、この語によって、その薬猟であることをあらわしたもの。下に「を」の助詞を添えて解すべきである。
【釈】 宇智の大きな野に馬を並べて、朝、鳥獣を踏み立て起こして、いらせられるであろう。あの草の深い野よ。
【評】 長歌を進展させて、新境地を拓ききたった反歌で、早くも繰り返しの域を脱した新風の反歌である。初句より四句までは狩場の光景を想像したものであるが、あくまで具象的で、颯爽とした感がある。結句の「その草深野」は第二句の繰り返しであるが、常套を脱した、新意のあるもので、含蓄深く、響高い句である。この句によって、その遊猟が薬猟であることが明らかになり、「朝ふますらむ」が生きてきている。のみならず長歌のなか弭の呪が、いまや現われんとしていることを予想させるたのしさをもあらわしている。第二句の「内の大野に」が、この句によって一段と具象化され、一首が生動してくる。非凡な句というべきである。
 
     讃岐国《さぬきのくに》安益郡《あやのこほり》に幸《いでま》しし時、軍王《いくさのおほきみ》の山を見て作れる歌
 
【題意】 讃岐国安益郡は、和名抄、郡名の条に、「阿野 綾」とある地である。現在は鵜足《うたり》郡と併合して綾歌郡という。高松市の西、丸亀市の東にある地で、昔の国府の遺址がある。幸《いでま》ししは舒明天皇であるが、天皇がこの地に行幸されたことは日本書紀には載っていない。天皇はその十一年、伊予の温湯の宮に行幸されているので、その帰途この地にお立寄りになったのではないかという。軍王は、他に所見がなく、伝不明である。
 
5 霞《かすみ》立《た》つ 長《なが》き春日《はるひ》の 晩《く》れにける わづきも知らず むら肝《ぎも》の 心《こころ》を痛《いた》み ぬえこ鳥《とり》 うら歎《な》きをれば 玉《たま》だすき かけのよろしく 遠《とほ》つ神《かみ》 吾《わ》が大君《おほきみ》の 行幸《いでまし》の 山《やま》越《こ》す風《かぜ》の 独《》居《ひとりを》る 吾《わ》が衣手《ころもで》に 朝夕《あさよひ》に かへらひぬれば ますら男《を》と 思《おも》へる我《われ》も 草枕《くさまくら》 旅《たび》にし(32)あれば 思《おも》ひやる たづきを知《し》らに 網《あみ》の浦《うら》の あま処女《をとめ》らが 焼《や》く塩《しほ》の 思《おも》ひぞ焼《や》くる 我《わ》が下ごころ
    霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨居 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能涌之 海處女等之 焼塩乃 念曾所焼 吾下情
 
【語釈】 ○霞立つ 春の枕詞。光景を捉えての修飾の枕詞となったもの。○わづきも知らず 「わづき」は、ここにあるのみで、他にはない語。この当時口語としては用いられていたが、文語とはならなかったものと思われる。嘆きにとらわれて、見さかいもつかなかった意の語だろうと旅の続きから推量される。かりに見さかいとみなす。未詳の語。○むら肝の 心の枕詞。「むら」は群らで、群らがっている肝、いわゆる五臓六腑の中に心がある意での枕詞。○心を痛み 心が嘆きのために痛くして。○ぬえこ鳥 「こ」は愛称。ぬえ鳥は現在の虎つぐみ。夜、哀切な声を出して鳴く。比喩として「泣き」にかかる枕詞。「歎」を「なき」と訓むのは、他に用例がある。○玉だすき 「玉」は美称。「たすき」は襷。古くは一種の礼装として肩に掛けた。掛詞として「かけ」にかかる枕詞。○かけのよろしく 「かけ」は心に掛け、言葉に掛ける意の語で、用例の多い語。「よろしく」は、好ましくで、口にするのも好ましく。これは下の「朝夕にかへらひぬれば」に続いて、副詞句となっている。「かへらひ」は、「翻《かえ》らひ」であるが、「還らひ」すなわち自身の家のある大和へ還ることにつながりをもっているからである。○遠つ神吾が大君の 「遠つ神」は、「つ」は「の」の意の助詞。この句は従来、天皇は凡人の境よりは遠い神の意で、大君を讃える枕詞と解されていた。『全註釈』はそれを誤りとして、違い日に神となられた天皇の意であると正し、用例として、「住吉《すみのえ》の野木の松原遠つ神わが大君の行幸《いでまし》処」(巻三、二九五)を引いている。したがって題詞の「幸讃岐国安益郡之時」は、この「遠つ神」を誤解した上で、歌によって設けたものではないかと疑っている。新見で、従うべきものである。「吾が大君の」は、「吾が」は親しんで添えた語で、「大君」は何天皇であるか不明である。舒明天皇も推測しての天皇であるが、かりにあたっているとしても、その行幸のあった時よりも、かなり後になって詠んだ歌ということになる。○行幸の山越す風の 行幸処の遺址の山を越して吹いてくる風ので、行在所址《あんざいしよあと》よりは距離のある地点にいたのである。○独居る吾が衣手に 「独居る」は、事実であるとともに、さびしさを暗示した語。「ころもで」は、衣の意にも用いるが、ここは袖。当時の窄袖は、長めの物で、風に翻りやすかつたのである。○朝夕にかへらひぬれば 「朝夕」は、朝に対しては夕を「よひ」と呼んだ。風の吹きやすい時刻としてである。「かへらひ」は、ひるがえるを古くは「かへる」といった。その「かへる」の未然形に、継続進行をあらわす助動詞を添えたもので、翻りつづける意。翻《かえ》りは還りに通じるので、上の「かけのよろしく」、家に還ることを連想させられて、旅愁が一段とつのるのである。○ますら男と思へる我も 勇気あり思慮ある男子と思っている我もで、用例の多い語。○草枕旅にしあれば 「草枕」は、旅の枕詞。草を枕とすることで、上代の旅の実状を捉えたもの。「旅にし」の「し」は強意の助詞。○思ひやるたづきを知らに 「思ひやる」は、嘆きを晴らすで、一語。「たづきを知らに」は、手段が知られずに。○網の浦の 所在不明。○(33)あま処女らが 「あま」は、海に関しての事を職業とする男女の称。「処女ら」は若い女の称で、既婚者にもいう。愛称といえる。○焼く塩の 「焼く塩」は、海水を濺《そそ》いだ藻草を焼いて塩を製すことを簡略にいったもので、焼いて造る塩。「の」は、のごとく。三句序詞で、下の「焼く」に同語の繰り返しで続く。○思ひぞ焼くる 嘆きに焼けることであるよで、「ぞ」は係、連体形で結んでいる。○我が下ごころ 網の浦の以下で、完全な短歌形式になっている。
【釈】 長い春の日の暮れていった、そのけじめも知られず、嘆きに心が痛く、ぬえ鳥のように心中で泣いていると、口にするのも好ましく、遠き時に神となられたわが大君の、行幸《いでまし》どころであった山を越して来る風が、独りでいるわが衣の袖に、翻《かえ》りつづけるので、その還るのに刺激されて、ますら男《お》であると思っている我も、旅にいるので、嘆きをまぎらす手段を知らないで、網の浦の海人《あま》の若い女が、焼く藻塩のように、嘆きに焼けることであるよ、わが心の底は。
【評】 『全註釈』の「遠つ神」の新解によって、この歌の舒明天皇時代のものでないことが、初めて明らかになった。いつの時代のものかはわからないが、大体奈良朝時代に入ってのものと思われる。誤りの原因は、編集者が「遠つ神」を正解し得なかったことにある。題詞は歌によって設けたものということになるが、「讃岐国安益郡」はよるところのあったもので、「幸《いでま》しし時」だけが設けたものと思われる。また、軍王という人を作者とすると、その人は一微臣で、何らかの官命を帯びて、国庁のあった安益郡に単身で赴いた人で、公務の性質上、やや長い期間の滞在を余義なくされたものとみえる。一首の作意は、単なる旅愁で、大和の家にいる妻恋しい情を、ひたすらに詠歎しているものである。作風は、相応に長いものであるにかかわらず、一首一文である。枕詞も相応に多い。この作風は特殊なもので、集中に類をもとめると柿本人麿の作風に近いものである。たぶん人麿の作風を模したものであろう。独自の工夫よりのものとは思われない。力量ある人とは思われないからである。
 力量をいうのは、一首が平面的で、伴っていいはずの立体感が全くなく、平板で単調である。詠歎ではあるが、それとしても説明的で、冗長である。一首の頂点は、「玉だすきかけのよろしく」以下、「朝夕にかへらひぬれば」までであるが、「遠つ神吾が大君の行幸の山越す風の」は、行幸の供奉としてであればものをいうところもあるが、行在所の遺址のある山よりの風であっては、調子に乗り過ぎてのものとなり、適切性がなく、むしろ冗漫である。「かけのよろしく」のかかり具合も繊細に過ぎる。結末の「網の浦の」以下五句の完全に短歌形式になっているのも、柿本人麿の「従2石見国1別v妻上来時歌」(巻二、一三一)の手法と同一で、これも他に類例のないものである。摸したものと思える。
 一首、全体に派手で、言葉が浮いていて、食い入る力をもっていないもので、ここにこの歌のあるのを怪しませたものであるが、『全註釈』によってその怪しみが解かれるに至った。
 
(34)     反歌
 
6 山越《やまご》しの 風《かぜ》を時《とき》じみ 寝《ぬ》る夜《よ》おちず 家《いへ》なる妹《いも》を 懸《か》けてしのひつ
    山越乃 風乎時自見 寐夜不落 家在妹乎 懸而小竹※[木+貴]
 
【語釈】 ○風を時じみ 「時じみ」は、形容詞の語幹「時じ」に、「み」を添えて連用形としたもの。上の「心を痛み」と同じ。「時じ」は、集中「非時」「不時」の字をあてている。意は、その時でない意。一句の意は、風が春の時のものではない意で、すなわち春の風のようではなく寒い意でいったもの。この意は、下の続きで明らかである。○寝る夜おちず 「おちず」は、漏れずで、すなわち連夜の意。○家なる妹を懸けてしのひつ 「家なる」は、家にある。「懸けて」は、心に懸けて。「しのひ」は、思い慕う意。「ひ」は古くは清音であった。「つ」は、完了の助動詞。
【釈】 山越しに吹いて来る風が、その時のものではなく、すなわち季節はずれに寒いので、独り寝をする夜の漏れる夜もなく、肌寒さから、家にいる妻を心に懸けて思い慕った。
【評】 長歌は夕べの心であるが、反歌は時間的に展開をさせて夜の心とし、いっそう妻を思い慕う心の強さをいっている。一首の心は概括した言い方のものであるが、時間の経過を追っているので、ある日の夕暮につづく夜という、限られた感じを持ったものとも見うるところがある。これは余情とも称しうべきもので、技巧的なものである。
 
     右、日本書紀を検ふるに、讃岐国に幸《いでま》しし事なし。また、軍王いまだ詳ならず。但し、山上憶良|大夫《まへつぎみ》の顆聚歌林に曰はく、記に曰はく、天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔にして壬午の日、伊予の温湯《ゆ》の宮に幸《いでま》しき云々。一書に、この時に宮の前に二つの樹木あり、この二つの樹に斑鳩《いかるが》、比米《ひめ》、二つの鳥|大《いた》く集れり。時に勅して多く稲穂を懸けて之を養ひたまふ。すなはち作れる歌云々。けだし疑はくはこの便《たより》より幸《いでま》ししか。
      右、検2日本書紀1無v幸2於讃岐國1。亦軍三未v詳也。但、山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸2于伊豫温湯宮1云々。一書、是時宮前在2二樹木1。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂2稻穗1而養v之。仍作歌云々。若疑從2此便1幸之歟。
 
【釈】 これは、この歌に対しての注で、この歌の成立について、編集者の添えたものである。大体、この巻を編纂、分類した際に加えたものと思われる。左注と称せられている。
 第一節は、撰者が日本書紀によりて、この行幸の事を検して、行幸も、軍王の事もないことを確かめたのである。「但し」以下は、撰者がさらに、同じくこの歌の収められている類聚歌林によって検し、その注を引いたのである。「山上憶良」は、本集の代表的歌人の一人である。また「大夫」と呼んでいるのは、大夫は当時四位五位の者に対する称であって、憶良がそれに値したのは、和銅七年以後であったから、この注の記された時も、それ以後ということがわかる。類聚歌林は、憶良の編集したもので、それが平安朝末期まで存在していたことはわかるが、それ以後はわからない。名によって、和歌を分類して編纂したもので、本集に似たものということだけは察しられる。以下はすべて類聚歌林の注である。「記」とあるは日本書紀の己巳の朔にして、壬午は、十二月の朔日が己巳で、それから数えて、壬午は十四日。「伊予の温湯《ゆ》の宮」は、今日の道後温泉である。「一書」は、いかなる書であるかわからない。「斑鳩」は、今日「いかるが」とも「まめまはし」とも呼んでいる。「比米」は、今日も同じ名で呼んでいる。結末は、あるいはこの温湯《ゆ》の宮の行幸のついでをもって行幸になったかもしれぬというのである。
 
 明日香川原宮御宇《あすかのかはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代   天豊財重日足姫天皇《あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと》
 
【標目】 明日香川原宮は、現在の奈良県高市郡明日吉村飛鳥川のあたりにあり、皇極天皇の宮である。天豊財重日足姫天皇は、後の御名は皇極天皇と申し、舒明天皇の皇后にましまし、天皇の後を受けて御即位、四年にして同母弟孝徳天皇に御譲位、天皇御在位五年にして崩御の後、重祚があって斉明天皇と申し上げる。川原宮にましましたのは斉明天皇の御代であるが、編集者はこの御代をも籠めたとみえるといわれている。
 
     額田王《ぬかだのおほきみ》の歌 未だ詳ならず
 
【題意】 額田王は、日本書紀、天武巻に「天皇初娶2鏡王女額田姫王1生2十市皇女1」とある方で、鏡王は、宣化天皇四世の孫。額田王はその娘で、後、天智天皇の大津の宮に召され、壬申の乱後は大和に帰り、持統天皇の朝まで生存されたことが知られる。万葉集初期の代表的歌人である。未詳は、いまだあきらかならずと訓む。作者についての注で、この注は左注と関係のあるものである。
 
(36)7 秋《あき》の野《の》の み草《くさ》苅《か》り葺《ふ》き やどれりし 宇治《うぢ》のみやこの かりいほし思《おも》ほゆ
    金野乃 美草苅茸 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
 
【語釈》 ○秋の野の 秋に「金」の字を用いているのは、中国の五行説によったもので、集中に用例が少なくない。五行というのは宇宙間の万象を、木火土金水の五行に配して説明する方法で、四季は、春は木、夏は火、土用は土、秋は金、冬は水とするのである。○み葺苅り葺き 「み草」は、「み」は美称の接頭語で、ここは薄《すすき》をさしている。屋根を葺く材料に使う大切な草だったからである。木の中、杉、檜を「ま木」と称するのも同じ意味からである。「苅り葺き」は、刈り取って屋根を葺いて。○やどれりし 動詞「宿る」に、助動詞「り」の連用形「り」が接続し、それに助動詞「き」の連体形「し」が接続して、過去に宿ったことをあらわした語。○宇治のみやこの 「宇治」は、大和と近江をつなぐ街道にある地区。「みやこ」は、天皇の宮のある地の称で、たとい一夜でも行宮《あんぐう》のある所は、どこでも「みやこ」と呼んだ。これもその意味のもの。○かりいほし思ほゆ 仮廬で、かりそめに設けた小屋。廬がすでに小屋であるのに、かりそめの意の「仮」を冠して、その感を強めたもの。上代の旅行は、旅宿などはないので、行くさきざきで小屋がけをして宿るのが常で、ここもそれである。「し」は、強意の助詞。「思ほゆ」は、「思はる」で、受身の助動詞「る」「らる」は、上代は「ゆ」が多く、「思はゆ」が、「お」段の「お」、「も」の重なりを受けて「は」が「ほ」に転じた形である。この句は九音であるが、その中に単独母音節の「い、お」があるために、音調が自然なものになっている。
【釈】 秋の野の、尾花を苅って屋根を葺いて宿った、あの宇治のみやこのかりそめの小屋が思われる。
【評】 追憶の作であるが、印象がじつに鮮明である。それは上三句が、なつかしむ感情をとおしての細かい描写になっているためと、四、五句も、宇治のみやこという荘重な語と、九音の結句とによって、広々とした秋の野に対して、小さい仮廬を確保している気分が現われているためとである。声調ものびやかにして張っており、一首の気分を統一している。気品あるすぐれた歌である。
 
     右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに、曰はく。一書に戊申の年、比良《ひら》宮に幸《いでま》しし大御歌《おほみうた》といへり。但し、紀に曰はく、五年春正月己卯の朔にして辛巳の日、天皇、紀の温湯《ゆ》より至りたまひき。三月戊寅の朝、天皇吉野宮に幸して肆宴《とよのあかり》きこしめしき。庚辰の日、天皇、近江の平《ひら》の浦に幸すといへり。
      右、檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、一書戊申年幸2比良宮1大御歌。但、紀曰、五年春正月己(37)卯朔、辛巳、天皇、至v自2紀温湯1。三月戊寅朔、天皇幸2吉野宮1而肆宴焉。庚辰之日、天皇幸2近江之平浦1。
 
【釈】 類聚歌林の文は、「大御歌といへり」までである。その中の「一書」というは、何の書か不明である。戊申の年は、崇峻天皇の元年、孝徳天皇の大化四年、元明天皇の和銅四年である。額田王に関係しうる年は大化四年である。「比良宮」は近江の比良であろうが、行幸のことは他にはない。あったとすれば、「大御歌」は孝徳天皇の御製であるが、そうした歌ではない。「但し」以下は、編集者の注で、類聚歌林の参考のものである。「紀に曰はく」は、日本書紀の文の検出で、「五年」は斉明天皇の五年であり、以下、この歌に関係ありそうなものはない。
 
  後岡本宮御宇《のちのをかもとのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代    天豊財重日足姫《あめとよたからいかしひたらしひめ》天皇、位《みくらゐ》の後、後の岡本宮に即位したまふ
 
【標目】 後の岡本宮は、斉明天皇の皇居である。岡本宮は舒明天皇の皇居であったが、天皇の八年火災に罹り、他に御遷りになられたが、斉明天皇は古を慕わせられ、再びそこに宮を御造営になられたので、前と差別するために後の岡本官と呼んだのである。「位の後云々」は、原文は「位後即位後岡本宮」とあるが、これでは意を成さない。『美夫君志』は、初めの「位」の上に「譲」を脱したものだろうと考証している。事としては、そうである。
 
     額田王の歌
 
【題意】 額田王の歌。額田王も供奉の中に加わっていて詠んだのである。しかしこのことは、左注によって否定されている。
 
8 熟田津《にぎたづ》に 船乗《ふなの》りせむと 月《つき》待《ま》てば 潮《しほ》もかなひぬ 今《いま》はこぎ出《い》でな
    ※[就/火]田津尓 船乘世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
 
【語釈】 ○熟田津に 愛媛県の現在の松山市の中にあった港であるが、現在では地形が変わって港もなく、その名も残っていない。日本書紀の斉明紀に、「七年正月、庚戌、御船泊2于伊予熟田津|石湯《いはゆ》行宮1」とある時のことで、石湯は現在の道後温泉であろうから、当時はその辺まで海が湾入していたのである。「に」は、ここは「にて」の意の助詞。○船乗りせむと 「船乗り」は、乗船で、発航する意。この行幸は、当時、新羅が百(38)済を犯してきたので、朝廷は新羅討伐軍を派遣し、天皇の宮を筑前国朝倉郡朝倉宮に遷された際の行幸である。○月待てば 海潮は月と密接な関係をもっていて、月の状態によって潮ぐあいが知られるのである。『注釈』は、専門家の説をあげて、この際の月と湖の状態を立証している。大体をいうと、月の出と満潮とは伴うものであるが、瀬戸内海は事実として月より後れる。この船出は二十二、三日の午前二、三時頃で、月は下弦の月で、夜明けに間のある頃であったろう。潮も高潮を待ったのだろう、とのことである。すなわち月のそうした状態になるのを待っていれば。○潮もかなひぬ 月とともに潮もまた。「かなひぬ」は、船出に相応した状態となった。○今はこぎ出でな 「な」は、自身に対しての願望をあらわす助詞。
【釈】 熱田津で船出をしようとして、月を待っていると、潮もまた、相応してきた。今は漕ぎ出そうよ。
【評】 その場合の重大さにふさわしく、気魄のみなぎった、それに伴って調べの張った歌である。「熟田津に船乗りせむと月待てば」と、三句まで一気に、強く太く、事と心とを一つにして言いつづけ、四句「潮もかなひぬ」と、目に見る月の状態を躍り越えて、中核の潮の高まったことによってそれをあらわし、同時にその潮は船出に相応するものであることをいいきって結び、「今はこぎいでな」と、「船乗りせむと」と照応させて、我と我に確かめているところ、まことに磐石のようである。左注によると天皇の御製という伝もあって、伝は二様になっているが、重大な軍事の全責任を一身に負っているという気宇を感じさせるところ、供奉の額田王の作ではなく、まさに天皇の御製歌だと思われる。三句より四句への飛躍は、絶妙というべきである。
 
     右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに、曰はく、飛鳥岡本宮に天《あめ》の下知《したし》らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉十二月己巳の朝にして壬午の日、天皇、大后《おほきさき》、伊予の湯の宮に幸《いでま》したまひき。後岡本宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉の春正月丁酉の朔にして壬寅の日、御船西に征《ゆ》き、始めて海路に就く。庚戌、御船、伊予の熟田津の石湯《いはゆ》の行宮《かりみや》に泊《は》つ。天皇、昔日《むかし》よりなほ存《のこ》れる物を御覧《みそなは》して、当時《そのかみ》忽ちに感愛の情を起したまふ。このゆゑに歌詠を製《つく》りて哀傷したまふといへり。即ち此の歌は天皇の御製なり。但し、額田王の歌は別に四首あり。
      右、検2山上憶良大夫類聚歌林1曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸2于伊豫湯宮1。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征、始就2于海路1。庚戌、御船、泊2于伊豫※[就/火]田津石湯行宮1。天皇、御2覽昔日猶存之物1、当時忽起2感愛之情1。所以因製2歌詠1爲2之哀傷1也。即此歌者天皇御製焉。但、額田王歌者別有2四首1。
 
(39)【釈】 右は類聚歌林を引いて、この歌に対する異説のあることをいったものである。「飛鳥岡本宮」以下、「伊予の湯の宮に幸《いでま》したまひき」までは、先帝舒明天皇の御代のことで、「大后」とあるは、今の斉明天皇である。日本書紀では、この行幸は「十二年」となっていて、干支はその方が合うのである。「後岡本宮」以下、「石湯《いはゆ》の行宮《かりみや》に泊《は》つ」までは、書紀と同じ。以下、「哀傷したまふ」までが類聚歌林の注である。「即ち」以下は左注者の案で、右によりてこの歌は御製の歌で、額田王の歌は別に四首あるというが、この歌には類聚歌林のいう感愛の心は認められない。そうした歌があって佚脱したと見るほかはない。額田王の四首の歌というのは、この際のものと取れるが、それは伝わっていない。
 
     紀の温泉に幸《いでま》しし時、額田王の作れる歌
 
【題意】 斉明天皇の紀伊の国の温泉へ行幸になられた時、供奉した額田王の作った歌。
 
9 莫囂円隣之 大相七兄爪湯気 吾《わ》が背子《せこ》が 射立為兼《いたたせりけむ》 五可新《いつかし》が本《もと》
    莫囂圓隣之 大相七見爪湯氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本
 
【語釈】 ○初二句は、古来訓み難くしている。多くの試訓があるが、定訓となっていない。◇三句は、問題でない。○四句は、粂川定一氏の訓である。○五句は、『代匠記』の訓である。
 
     中皇命《なかつすめらみこと》、紀の温泉《ゆ》に往《い》でましし時の御歌
 
【題意】 中皇命は、上の(三)に出た。皇后にして即位をされた方の称。斉明天皇は(三)の場合と同じく、その称せられるべき方であるが、この時代には天智天皇の皇后倭姫命もあった。皇后は古人大兄《ふるひとおおえ》の皇子の御娘で、天皇の七年皇后となり、天皇の崩じられた後、政務を摂《と》られたのであろうとされている。『注釈』は、この時代の例を見ると、後の位置を溯らせていう例は見えないから、(三)の場合と同じく斉明天皇であろうという。倭姫命の御歌は巻二に出ているが、いずれも重厚の感のある歌風で、ここにある御歌の軽快なのとは距離あるものにみえる。斉明天皇との解に従う。紀の温泉は牟婁《むろ》の湯である。
 
10 君《きみ》が歯《よ》も 吾《わ》が代《よ》も知《し》るや 磐代《いはしろ》の 岡《をか》の草根《くさね》を いざ結《むす》びてな
(40)    君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去來結手名
 
【語釈】 ○君が歯も 「君」は、男性に対しての敬称。「歯」は、齢で、寿命。○吾が代も知るや 「代」は生涯で、齢と同義である。「知るや」は、「知る」は、支配する意で、用例の多い語。「や」は詠歎の助詞で、連体形へ接続する。○磐代の 和歌山県日高郡にある地名。神を祀ってあった所。有間の皇子の松の枝を結んだので、名高くなった所である。○岡の草根を 「草根」は、草で「根」は地に立っている意で添える接尾語。○いざ結びてな 「いざ」は、人を誘う語。「結び」は、古くは、重大なる呪術となっていた。事としては、草、木の枝、紐などを結ぶのであるが、一切の祈りを籠める心よりのことであった。「な」は、自身の言行に対しての願望をあらわす助詞。前出。
【釈】 君が寿命も、わが生涯も支配しているところの、この磐代の岡の草を、さあ祝って結びましょうよ。
【評】 君は御夫君舒明天皇ではないかという。磐代の岡は牟婁の湯への途中にある岡であって、次の歌で見ると、一夜をそこに宿られたのである。事は草の葉を結んで祈りをするという一般的のことであるが、場合は旅中であり、場所は磐代の岡であるから、それらと相俟って、「君が歯も吾が代も知る」という大きく深い心のものとなったと思われる。これは信心深いお心があればこそ出ることで、命のお人柄を思わせられる御歌である。一首全体としては明るい、こまやかな情味が感じられる。
 
11 吾《わ》が背子《せこ》は 借廬《かりほ》作《つく》らす 草《くさ》なくば 小松《こまつ》が下《した》の 草《くさ》を苅《か》らさね
    吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
 
【語釈】 ○吾が背子は 「背」は、女より男を呼ぶ称であるが、男同士が親しんで呼ぶ時の称ともなっている。「吾」も「子」も、親しんで添える語。呼びかけての称で、上の歌の「君」である。○借廬作らす草なくば 「借廬」は、(七)に出た。仮の廬て、上代の旅行にあつては、やや身分の高い人は、夜の寝所として作ることになっていた。「作らす」は、「作る」の未然形に助動詞「す」を接しさせての敬語。連体形。「草」は屋根を葺く料としての草で薄と思われる。「なくば」は、ないならばで、それを捜していられるところを見ての注意ということを暗示している語。○小松が下の草を苅らさね 「小松」の「小」は、美称。他にも例がある。小さい意としては、意が通じかねる。「草」は、上と同じ。「苅らさね」は、「刈る」の敬語「刈らす」の未然形に、他に対しての希望の助詞「ね」の添ったもの。
【釈】 わが背子は、仮廬をお作りになる草がないならば、あの松の下の草をお刈りなさいましよ。
【評】 一つの用向きの言葉を、歌をもっていわれたものである。上代の風習として、改まってものをいう場合には、歌の形式をもってすることが普通となっていた。それが、次第に範囲が広がって、改まる必要のない日常の言葉も、歌の形式をもっ(41)てするようになってきたと思われる。すなわち日常生活の中に、芸術味を取り入れようとする要求の現われである。この御歌もその範囲のものである。「吾が背子は」と、呼びかけに近い形をもっていい出し、「借廬作らす草なくば」と、やや疑いを持った形で、目に認めることをいい、「小松が下の草《くさ》を苅らさね」と、初めて思うことをいわれているところ、実際に即して、心理的で、加うるにおおらかに品位をもちつつも、心の明敏さをあらわした御歌である。「背子」と呼ばれる御方が、親しくその労作に関係されること、女君も同じく関心をもたせられる点など、上代の風の思われるものがある。
 
12 吾《わ》が欲《ほ》りし 野島《のじま》は見《み》せつ 底深《そこふか》き 阿胡根《あこね》の浦《うら》の 珠《たま》ぞ拾《ひり》はぬ
    吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曾不拾
 
【語釈】 ○吾が欲りし野島は見せつ 「欲りし」は、欲したで、願っていたの意。「野島」、「阿胡根の浦」について、本居宣長は考証している。紀伊国日高郡塩屋の浦の南に、野島という里があり、その近くの海を阿胡根の浦と呼んでいるというのである。現在の、和歌山県御坊市名田町野島。野島は熊野街道にあたっている。「見せつ」は、見しめつで、「見せ」は、他動詞、下二段活用。○底深き阿胡根の浦の 「底深き」は、海の状態をいったもので、下の「珠」に関係している。○珠ぞ拾はぬ 「珠」は、真珠貝で、鮑玉であるが、美しい小石や貝をも称した。珠は上代では、呪力ある物として男女ともに身に着けたが、次第に、女の装身具となったものである。ここはその意味のものと取れる。「拾はぬ」は、上代はすべて「拾《ひり》ふ」といい、「拾《ひろ》ふ」は東歌にあるのみである。野島のあたりの海は、貝の多く寄る所だと、本居宣長が考証している。これも実際に即してのお心である。
【釈】 わが見たいと思っていた野島は見せて下さった。水底《みなそこ》の深い阿胡根の浦の珠の方は、拾わないことですよ。
【評】 野島から阿胡根の浦と、かねて心を寄せられていた地を遊覧された後、その感じられた興趣のなお尽きないものを胸にもってのお歌である。二つの地を一つづきのものとし、道行き風にそれぞれの地に対しての興趣をいわれたもので、野島に対しては、「吾が欲りし」と「見せつ」とで、興趣の満たされたことをいい、阿胡根の浦の方は、「底深き」でその浦の興趣を漂わし、「珠ぞ拾はぬ」で、あこがれの情の、なお残るもののあることをあらわしている。「底深き」「拾はぬ」とは関係があるが、いずれも興趣の上でのことで、因果関係をもったものではない。事としては比較的複雑であるが、安らかに、立体感をもったものとなっているのは、抒情気分で貫いているがためである。珠に興味の中心をおいていられるところ、女性のお心である。
 
(42)     或は頭に云ふ、わが欲りし子島は見しを
      或頭云、吾欲子嶋羽見遠
 
【釈】 「頭」は、頭句の意で、初二句を意味していると取れる。「子島」は、いかなる土地かわからない。
 
     右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに曰はく、天皇御製の歌云々。
      右、検2山上憶良大夫類聚歌林1曰、天皇御製歌云々。
 
【評】 類聚歌林は、この歌を斉明天皇の御製の歌としているというのである。右というのは三首全部か、最後の一首だけを指すのか。異伝にもせよ、前二首は天皇の御製の歌としては、事としてふさわしくない感がある。不明であるが、歌材、歌風から見て全部と解せる。「中皇命」としたのは、資料とした本によったためと思われる。
 
     中大兄《なかつおほえ》【近江宮御宇天皇】三山の歌一首
 
【題意】 三山は、大和の平野に鼎立している香具山、畝傍山、耳梨山の称で、最高の畝傍山でさえ一九九メートルの低いものであるが、その周囲と三山の状態などの関係から印象的に見える山である。香具山は前に出た。これは東にあたる。畝傍山は、橿原市畝傍町にあり、西にあたる。耳梨山は、橿原市北部にあり、北にあたる。この三山の伝説は、播磨国風土記に出ている。中大兄は、天智天皇の皇子としての御称で、舒明天皇の第一皇子。「中《なかつ》」は中心の意。大兄は敬称である。近江宮は、天皇は近江の国滋賀の大津に都されたからの称。この歌の歌材となっている古伝説は、播磨国風土記の揖保郡の条に載っている。それは「出雲国|阿菩《あぼ》大神、聞2大倭国畝火香山耳梨三山相闘1此欲2諌止1上来之時、到2於此処1、乃聞2闘止1、覆2其所v乗之船1而坐之。故号2神阜1阜形似v覆《ふね》1。」というのである。主としているところは、例の多い、地名の起源伝説で、三山の闘は背後のものである。三山の妻争いについて『全註釈』は、耳梨、畝傍は、古代の城塞であったとみえ、現在でも石鏃が多く発見される。妻争いはそれに脈を引いているのであろうと興味ある解をしていられる。
 
13 香具山《かぐやま》は 畝火《うねび》を愛《を》しと 耳梨《みみなし》と 相争《あひあらそ》ひき 神代《かみよ》より かくなるらし 古《いにしへ》も しかなれこそ うつせみも 妻《つま》を 争《あらそ》ふらしき
(43)    高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代從 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曾 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
 
【語釈】 ○畝火を愛しと 「畝火」は、三山中最も男性的に見える山であるところから、「雄男志」を男々しの意に解いていたのを、木下|幸文《たかぶみ》と大神真潮《おおみわましお》とが「愛《を》し」と改めた。「愛し」は、愛すべき意の形容詞。畝火を女神とし、香具山と耳梨山とを男神としたのである。その解に従う。上代は、国土、山海川などの自然物を、神そのものとする信仰があった。本集でも、山では富士が根、筑波山などその適例であり、国では、四国の国々などがそれである。このことは現在でも、山の名にそれをとどめているものが少なくない。○耳梨と相争ひき 「相争ふ」は、妻に獲ようとして、争い合つたの意。○神代よりかくなるらし 「かくなる」の訓は、『略解』のもの。「かく」は、伝説を眼前のものと見てのもの。「らし」は、証拠をもっての推量で、その証拠は、伝統そのものである。神代からこのようにあるだろうの意。○古もしかなれこそ 「古」は、「神代」の繰り返し。「しかなれ」は、下に条件法で「ば」が添っていると同様な心をあらわす古格で、例が少なくない。古もそのようであったればこそ。○うつせみも妻を争ふらしき 「うつせみ」は、現し身で、現世に生きている人の意。幽世《かくりよ》にあると信じていた幽身《かくりみ》に対させたもの。「も」は、もまたの意のもの。今、世に生きている者もまたというにあたる。「妻を」は、三音一句のもの。「争ふらしき」の「らしき」は、上の「こそ」の係の結び、連体形。意は、上の「らし」と同じで、眼前に、妻争いをしているのを証としての助動詞。「らしき」の形は、早く亡びてしまった。
【釈】 男神の香具山は、女神の畝火山がかわゆいと思って、男神の耳梨山と、互いに争った。神代でもこのようであるらしい。昔もそのようであったればこそ、今現に生きてる身も眼前に妻を争うらしいことよ。
【評】 この歌を読むと、おのずから中大兄の皇子と、大海人の皇子とが、額田王を中にしての妻争いの事件が連想されてくる。その事件は前にも触れたように、額田王は初め大海人の皇子に召されて十市《とおち》の皇女を生んだのであるが、後、中大兄の皇子に召されてその妃となったのである。事の委曲は不明であるが、額田王は心ひそかに大海人の皇子を思っていたらしい消息が、後に出る歌によってうかがわれる。この作は、反歌によって播(44)磨の地において作られたもののように見えるが、それは皇子が、斉明天皇の筑紫に向かわれる行幸の供奉としての旅であって、額田王も同じく供奉に加わっていたのである。皇子は播磨に来られると、その国に伝わっている大和三山の妻争い古伝説を思われ、それが刺激となって、平常念頭にある御自身の妻争いのことを強く思い出し、尊むべき神代にしてなお妻争いをしている。人の世の自分がそれと同じ事をしたのは当然のことであると、御自身の行動を是認し、肯定しようとするのが作意であったと思われる。一首の中心が、結句の「うつせみも妻を争ふらしき」にあるのを見ても、そのことは明らかである。すなわち皇子の抒情歌で、古伝説はそれを具象化する手段にすぎない歌である。
 表現は特色がある。全体として、素朴で、雄勁《ゆうけい》で、したがって簡潔で、太い線を直線的につづけて、その中心である結句に向かって、一気に詠み下したものである。「神代よりかくなるらし古もしかなれこそ」と、その重大な部分を操り返しを対句に近い形として用いられているところ、古風に新味を加えたもので、その時代を思わせるものである。まさに王者の気息というべき作である。
 
     反歌
 
14 香具山《かぐやま》と 耳梨山《みみなしやま》と 会《あ》ひし時 立《ときた》ちて見《み》に来《こ》し 印南国原《いなみくにはら》
    高山与 耳梨山与 相之時 立見尓來之 伊奈美國波良
 
【語釈】 会ひし時 「あふ」は、敵対する意。戦いも、たたきあいで、類似の語。日本書紀の神功巻の歌に、「うま人は、うま人どちや、いと子はも、いと子どち、いざ合はな吾は」とある「合はな」は、戦いの意で、ここの用法にあたる。○立ちて見に来し 「立ちて」は、旅立ちしてで、出雲より。「見に来し」の「し」は連体形。諌止しようとして来た意で、主格は、阿菩《あぼ》大神である。○印南国原 「印南」は、高砂市、加古川市から明石市にかけての平野。「国原」は、(二)の歌に出た。一区画の地の称。この歌では、阿菩大神の古跡は、印南郡となっていて、風土記とは一致しない。この伝説は揖保郡だけのものではなく、印南郡にもあったものだろうという。ありうべきことである。また、風土記では、阿菩大神は神阜《かむおか》にとどまられたので、上代の信仰により、神阜はすなわち阿菩大神なのであり、この御歌では、国原なのである。句の下に感歎が省かれている。
【釈】 香具山と耳梨山とが戦った時に、出雲より旅立ちをして、見て諌止しようとして来たところのこの印南国原よ。
【評】 この反歌は、長歌との関係からいうと、長歌の作因であるところの神代の妻争いということを具体的に立証しているものである。すなわち長歌を支えているもので、その際の皇子の主観を強力に立体的にする役を負っているものである。またこの時代には反歌がなくて、あっても長歌の結末の繰り返しに終わったのであるが、この反歌は、長歌とは別の観点に立っての取材で、したがって変化のあるもので、その意味では、後の柿本人麿によって開拓された手法のその先蹤をなしている趣のあるものである。
 
15 わたつみの 豊旗雲《とよはたぐも》に 入日《いりひ》さし 今夜《こよひ》の月夜《つくよ》 清明《あきらけく》こそ
    渡津海乃 豐旗雲尓 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曾
 
【語釈】 ○わたつみの 「わたつみ」は、海の神の意で、転じて海の意にも用いられたもの。ここは海。山祇《やまつみ》と対する意。○豊旗雲に 「豊」は美称であるが、豊かの意をもったもの。旗雲は、長く旗のごとき形をした雲の称。○入日さし 「さし」は、訓みがさまざまになっている語で、「さし」はその中の有力な一つ。眼前の光景を叙したものであるから、この訓みに従う。「さし」は中止形である。○今夜の月夜 「月夜」は、「夜」はここは接尾語で、月の意。○清明こそ 「清明」は、訓みがさまざまである。「あきらけく」は、『考』を初めとして諸家の取っている訓みである。「豊旗雲に入日さし」は、夕焼けである。夕焼けすると晴れるとは現在もいっていることで、こうしたことは古も同様で、思いも言いもしていたことであろう。ここは晴れを推量してのよろこびである。四句までの歌柄が大らかで、直截であるところから、この訓みが最も適切だと思われる。「こそ」は係で、下に「あらめ」が省略されている。例のある語であり、推量してのものであるから、これまた適切と思われる。
【釈】 海の上の豊かな旗雲に入り日がさしていて、今夜の月は真明るく照ることであろう。
【評】 編集者は左注で、「右の一首は、今案ふるに反歌に似ず。但し旧本この歌を以て反歌に載す」と断わっている。疑っているとおりの感がある。原本に、上の長歌、反歌とともにあったからのことで、その原形を重んじてのことと思われる。それだとこの歌は、長歌、上の反歌とともに播磨の海岸において詠まれたものだろうと想像するほかはないものである。また、それだとすると、時は、斉明天皇筑紫の筑前へ行幸の途中であって、途も海路を取られた際の歌である。そのことはこの歌の作因も語っていることである。作因は、海路の緊要事である天候の平穏を思われてのもので、月の清明を推量されたのは、一にそのためだということが察しられる。
 「わたつみの豊旗雲に入日さし」という、眼前の大景を双されての表現は、その大らかにして美しく、声調の張っているところ、無類なものである。転じて、「今夜の月夜あきらけくこそ」と、一首の中心に入られるところも、上と調和をもったもので、いささかの弛みもないものである。「こそ」で結んで下を省路に付されたところも、その際の皇子には、心足るものであって、適切な技法であったろうと思われる。一首、絶唱というべきものである。
 
(46)     右一首の歌、今|案《かんが》ふるに反歌に似ず。但し、旧本この歌を以て反歌に載す。故《かれ》、今猶この次に載す。また紀に曰はく、天豊財重日足姫天皇《あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと》の先の四年乙巳に、天皇を立てて皇太子となすといへり。
      右一首歌、今案不v似2反歌1也。但、舊本以2此歌1載2於反歌1。故、今猶載2此次1。亦紀曰、天豐財重日足姫天皇先四年乙巳、立2天皇1爲2皇太子1。
 
【評】 「紀に曰はく」の一節は、皇子の位置の考証である。「先の四年乙巳」は、斉明天皇の、先に皇極天皇にましました時の意である。
 
  近江大津宮御宇《あふみのおほつのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代    天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇、謚を天智天皇と曰す
 
【標目】 近江の大津の宮は、天智・弘文二代の宮室であるが、ここには天智天皇の御代として挙げてある。その址は、現に大津市の付近にあり、南滋賀町、滋賀町、錦織町など諸説がある。天命聞別天皇は、天智天皇の御称号である。その下の「謚」以下は元暦校本以後の古写本にある。
 
     天皇、内大臣《うちのおはおみ》藤原|朝臣《あそみ》に詔《みことのり》して、春山の万花の艶、秋山の千葉の彩を競憐《あらそ》はしめ給ひし時、額田王、歌を以《も》ちて判《ことわ》れる歌
 
【題意】 内大臣は、宮廷奉仕の臣の首班で、藤原朝臣は、藤原鎌足。藤原の氏は、天智天皇の八年に賜わったもので、その前は中臣氏であった。名を書かないのは、敬意よりのことである。また朝臣は、天武天皇の御代に藤原氏に賜わった姓《かばね》で、すべて前へめぐらしての称である。万花の艶の艶は、美で、花の美しさ、千葉の彩の彩は色で、黄葉の美しさで、競隣はしめは、その優劣を争わしめられたのである。これはいわゆる春秋の争いで、文芸的な遊びである。漢文学の影響と見るべきものである。このことは、平安朝時代に盛行し、その後にも及んだものである。こうした遊びが天皇の詔により、鎌足を執行者として、朝廷において、廷臣の間に催されたのである。歌を以ちて判るは、その優劣を歌をもって定める意で、意見を歌としたのである。
 
(47)16 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》さり来《く》れば 鳴《な》かざりし 鳥《とり》も来鳴《きな》きぬ 咲《さ》かざりし 花《はな》もさけれど 山を茂《しげ》み 入りても取らず 草深み 取《と》りても見《み》ず 秋山《あきやま》の 木《こ》の葉《は》を見《み》ては 黄葉《もみち》をば 取《と》りてぞしのふ 青《あを》きをば 置《お》きぞ歎《なげ》く そこし恨《うら》めし 秋山《あきやま》吾《われ》は
    冬木成 春去來者 不喧有之 鳥毛來鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曾思努布 青乎者 置而曾歎久 曾許之恨之 秋山吾者
 
【語釈】 ○冬ごもり 語義は諸説があるが、冬の季節がまだ残っているという解に従う。意味で春にかかる枕詞。○春さり来れば 「さり」は進行移動を意味する語で、「し(後)さる」が後《し》りに動く、「居ざる」が居たままに動くと同じだという解に従う。春が移って来れば、すなわち春になればの意。○鳴かざりし鳥も来鳴きぬ 冬の間は鳴かなかった鳥で、鶯などを心に置いた語。「も」は、下の花と並べたもの。「来鳴きぬ」は、来て鳴いた。○咲かざりし花もさけれど 「さけれど」は、「さきあり」の約《つづ》まった咲けりの已然形。冬の間は咲かなかった花もまた咲いたけれどもで、花は梅、桜など、木に咲く花を心に置いていったもの。この二句は上の二句と対句になっている。○山を茂み入りても取らず 「山を茂み」は、山が茂くて。茂くは、春の草木が茂くの意。「入りても」は、山に立ち入ってもで、「も」は、下の「取りても」と並べたもの。山は大津の宮の辺りのもの。「取らず」は、折り取らずで、花を愛すれば、手に折り取らずにはいられない意でいったもの。○草深み取りても見ず 「草深み」は、草が茂くなっていて。「取りても見ず」は、花を折り取って、しみじみと見ることもしない。二句、上の二句と対句。これまでで一段。○黄葉をば取りてぞしのふ 「黄葉」は、草木の葉の紅にあるいは黄に変ずる意の動詞で、上二段活用の連用形を体言としたもの。「をば」は、下の「青きをば」に対させた意。「しのふ」は、當美する意のもの。しのふの「ふ」は古くは清音であった。○青きをば置きてぞ歎く 「青きをば」は、黄葉しない性質の青葉をば。「置きて」は、そのままにさし置いてで、すなわち折り取らずして。「歎く」は、その黄葉しないことをあきたらず感じて歎く意。二句は、上の「黄葉をば」の二句と対句。○そこし恨めし 「そこ」は、その点の意で、上の「青きをば」の二句を承けたもの。「し」は、強意の助詞で、秋のその点だけが。「恨めし」は、すなわちあきたらず、不足として、恨みにするの意。以上、一段。○秋山吾は 「秋山」は、下に詠歎がこもっている。秋山の方よ。秋山の方が優っているとする判定の語。「吾は」は主語。
【釈】 春が移って来ると、冬の間は鳴かなかった鳥も、来ては鳴いた。咲かなかった花もまた咲いたが、山の草木が茂くて、入り立ってその花を手に折り取りもしない。草が深いので折り取ってしみじみと見ることもしない。秋の山の木の葉を見る時には、黄葉したのを折り取って賞美をする。黄葉しない木の方は、そのままにさしおいて、嘆息する。その点だけが恨めしい。秋山の(48)方よ私は。
【評】 この歌の題詞である春秋の優劣論は、近江朝が文化の面で、時代的にいかに突端を行こうとしていたかを思わせるものである。農業国であるわが国では、自然現象は、信頼と畏怖とを一つにしたもので、万人の胸に、ひとしく重圧となってのしかかってきているものである。そうした自然現象を、距離を置いてみて、美と感ずるという余裕などなかつたと思われる。まして自然美の代表を春秋とし、美という観点からその優劣を論ずるなどいうことは自然発生としてはあるべからざることで、これは一に漢文学の模倣だったのである。すなわち漢文学の教義をもっている貴族が、文雅な遊戯として行なったにすぎないことだったのである。額田王は、女性ながらにその会に加わっていたとみえる。優劣の判定は、もとより口頭語をもってしたろうと思われるが、王がそれをいうことになった際、即座に長歌形式をもってそれを述べたのが、すなわちこの歌であろう。これは題詞そのものにも劣らぬ尖端的なことで、まさに話柄になったものであろうと思われる。
 歌は三段より成っていて、春と秋の特色をあげて比較することに二段を与え、最後の一段でその判定をしているもので、まさに論理的である。しかし一篇を貫いているものは、作者の感情で、それもきわやかに個性を示した特色のあるものである。
 個性というのは、額田王の女性としての心情である。春山の花、秋山の黄葉の美も、それを美と感ずるのは、距離を置いて、遠く眺めてのそれではなく、近寄って、手に折り取って、しみじみと賞美しうることを条件としてのもので、優劣の差は、一にその事のできるできないによって定まるのである。これは、名は自然であり、春秋であるが、実は愛玩に堪える美しいものということであって、男性の興味というよりは、女性の興味というべきである。しかも、手に折り取れるということを条件として、秋山の黄葉の方を優れりとしているのであるが、それにもまた条件を付して、「青きをば置きてぞ歎く」といって、全面的に優っているとはいわずにいる。これは婉曲を欲しての言い方という末梢的のものではなく、秋山の全面的に、一様に黄葉しないのをあきたらずとする心のもので、純粋を求めてやまない心の現われと見られ、ここに女性の心情の機微があると思われる。「歎く」といい「恨めし」といって、力強くいっているのは、その要求からと思われる。最後の判語は、「秋山吾は」の一語であるが、これは、簡潔というよりも、その場合の実情に即しての敏活な言い方で、生動を覚えるものである。なお、春山の方は、「鳥も」「花も」といい、「入りても」「取りても」といって、対句とともに、微細な点にも均斉を保たせ、秋山の方は、「黄葉をば」「青きをば」と、同じ心づかいをしている点も、細心のほどを思わせる。この個性的な微細な感受を、論理的な構成に溶かし、整然と、安らかに、抒情味を漂わせつつ詠んでいるのは、優れた手腕と称すべきである。
 なお、この歌は、意としては議論で、それを歌をもって述べているのは、歌を実用性のものとする態度であるが結果から見ると、文芸性のものとなっている。この交錯は時代のさせているものである。
 
(49)     額田王、近江国に下りし時作れる歌。井戸《ゐのへの》王即ち和《こた》ふる歌
 
【題意】 「近江国に下りし」は、近江大津宮の天智天皇に召されてのことと解される。それだと「下りし」は異例な語で、都は近江にあったのだから、当然「上る」とあるべきだからである。諸説があるが、『全註釈』は、これは資料となったものにこのように書いてあったのを、そのままに写したもので、題詞を書いた人は天武天皇時代の人で、近江を地方とする気分があったためであろうといっている。それに従う。井戸王は、伝が未詳である。「即ち和ふる」は、額田王が歌を詠まれると、ただちに唱和した歌の意である。これも通常は別に書くべきであるのを、ただちに続けているのは異例である。資料にあったままを写したと解すべきであろう。その歌は次の歌と解される。それだと、歌によって女王と知られる。額田王に随行していたと解される。なお、一緒にいる人が歌をもってものをいった場合、傍らにいる人は、同じく歌をもって唱和することは当時の風習となっていたこととみえて、その例が多い。口承時代、歌は謡って表示をし、相手も同じく謡って表示をすることになっていた、その延長と解される。
 
17 味酒《うまざけ》 三輪《みわ》の山《やま》 あをによし 奈良《なら》の山《やま》の 山《やま》の際《ま》に い隠《かく》るまで 道《みち》の隈《くま》 い積《つも》るまでに つばらにも 見《み》つつ行《ゆ》かむを しばしばも 見放《みさ》けむ山《やま》を 情《こころ》なく 雲《くも》の 隠《かく》さふべしや
    味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隱万代 道隈 伊積流万代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八万雄 情無 雲乃 隱障倍之也
 
【語釈】 ○味酒三輪の山 「味酒」は、うまき酒で、和名抄に「日本紀私記云、神酒和語云2美和1」とあって、古くは神酒《みき》をみわといったので、同意の語を畳む関係で、三輪の枕詞としたもの。「三輪の山」は、奈良県磯城郡三輪町の東方にあり、大和東方の連山中の最高の山で、大神《おほみわ》神社の神体としている山である。飛鳥地方では最も印象的な山である。「山」の下に詠歎の意の助詞のある意のもの。○あをによし奈良の山の 「あをによし」は、奈良を讃えた意の枕詞で、古いもの。語義は未詳であるが、青い土。「よし」は、呼びかけの「よ」に強意の、「し」の合したものとする解が有力である。「奈良の山」は、平城京の北方に横たわっている低い連山で、大和国より近江国に行くには、それを越して山城国の相楽《さがら》または木津へ出るのである。その道を今歌姫越という。○山の際にい隠るまで 「山の際」は、山の間で、奈良山の連山の間。「い隠る」は、「い」は、接頭語。「隠る」は、古くは四段活用で、隠れるまで。○道の隈い積るまでに 「隈」は道の曲がり角の所で、山道には当然あるものとしていっ(50)たもの。「い積る」は、「い」は接頭語。「積る」は、数多く重なる意。この二句は、上の二句と対句で、次第に距離の遠くなる意を具象的にいったもの。○つばらにも見つつ行かむを 「つばら」は、『考』の旧訓。例のあるもの。つまびらかに、すなわち十分にで、「も」は、感歎の助詞。「見つつ行かむを」は、見つつは、継続。「を」は詠歎の助詞で、ものをの意。○しばしばも見放けむ山を 「見放ける」は、遠く望む意。「を」は、上に同じ。この二句も上の二句と対句。○情なく雲の隠さふべしや 「情なく」は、無情にもで、雲に対しての恨み。「隠さふ」は、古くは四段活用で、その未然形に継続の助詞「ふ」の添ったもの。隠しつづけるの意をあらわすもの。「や」は、反語で、「やは」にあたる。
【釈】 三輪の山よ、その山を国境の奈良の山の、連山の間に隠れるまでに、山路の曲がり角の積もり重なるまで、十分に見つづけて行こうものを、しばしばも遠く見ようとする山であるものを、無情に雲が隠しつづけるべきであろうか、あるまい。
【評】 額田王が、近江大津宮の天智天皇に召され、住みなれた飛鳥の地を去って旅路に向かい、今、故郷の見納めとなるべき奈良山の上に立たれた際の感懐である。惜別の情の堪えないものがあって、普通だと短歌でも足るべきことを、長歌形式とし、しかも古風の謡い物風のものとして、その綿々の思いを叙したものである。しかし、謡い物風とはいえ、じつに文芸味の多いものとして、その哀感を尽くしている作である。
 起首、突如、「味酒三輪の山」と呼びかけての表現は、非凡である。三輪山は飛鳥の里の目標となるもので、また、その里における一切の思いをも包容しうる山である。さらにまた、今も眼にしうるものはその山だけで、まさに視界から消えようとしている山でもあるのである。その山を呼びかけ、それによって哀感を統一づけて尽くそうとするのは、非凡なる表現技法というべきである。「山の際に」「道の隈」と、対句を用いて、その山に対する愛着を具象し、さらに、「つばらにも」「しばしばも」と、同じく対句を用いて、その愛着を深めた上で、一転して、「情なく雲の隠さふべしや」と、その深い愛着の裏切られたことを恨んでいるところ、余情の限りないものがある。優れた作と(51)いうべきである。
 なお、表現技法についていえば、この長歌は短いものであるにかかわらず、対句を二つ重ねてあって、対句を主とした観のあるものである。その対句も、ほとんど繰り返しに近いもので、古風なものである。また、一首全体としても平明であって、その意味で謡い物に近いのである。しかし同時にそれらは、簡潔にして含蓄あるものとなっていて、その意味では文芸的のものとなっているのである。この時代を思わせる作風である。結句の五三七の形も、同じくこの時代の風である。
 
     反歌
 
18 三輪山《みわやま》を しかも隠《かく》すか 雲《くも》だにも 情《こころ》あらなむ かくさふべしや
    三輪山乎 然毛隱賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
 
【語釈】 ○しかも隠すか 「しか」は、そのように。「も」は、詠歎の助詞。「か」は、ここは詠歎の助詞。そのようにまでも隠すのかなあ。○雲だにも情あらなむ 「だに」は、重きを言外に置き軽きをいう助詞。せめて雲だけなりとも。「なむ」は、未然形に接して希望をあらわす助詞。
【釈】 三輪山をそのようにまでも隠すのかなあ。雲だけなりとも情があってほしいものである。隠しつづけるということがあるべきだろうか、あるべきではない。
【評】 長歌の結末を反復した意の反歌で、反歌の本来のものである。結末と異なっているところは、「雲だにも」と「雲」に「だに」を添えていることである。これは雲という自然物を他と比較し、本来|情《こころ》なきものにそれを要求しているところから、情あるべきものにそれのないことを暗示しているものである。そうした者は王と関係の深い人でなくてはならない。そしてそれには直接に触れていないのである。一首三段に分かれていて、暗示にとどめてはいるが、昂奮した心をもっての恨みである。これも長歌と同じく、三輪山の雲を対象としたものではあるが、長歌のしめやかに静かであったのとは異なって、にわかに鋭さをあらわしきたって、長歌以上に抒情気分をあらわしたものとしている。叙事的なのを抒情的に、平面的なのを立体的にしているところ、長歌と短歌の特色を示しているといえる。
 
     右二首の歌、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江国に遷しし時、三輪山を御覧せる御歌なりといへり。日本書紀に曰はく、六年丙寅春三月辛酉の朔にして己卯の日、都を近江に遷しきといへり。
(52)      右二首歌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷2都近江國1時、御2覽三輪山1御歌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷2都于近江1。
 
【釈】 「御歌なりといへり」までは、類聚歌林の説である。「御歌」は天皇御製の歌の意と取れる。そういう伝もあったのである。「日本書紀」以下は、撰者の注である。「丙寅」は五年で、「六年」とあるのとは一致しないというので、問題とされている。類聚歌林の説は尊重すべきであるが、遷都をされた天智天皇が、こうした哀感を有していられたとは思い難い。また作風は明らかに女性のもので、この敏感と繊細味は、男性といううち、英邁な天皇の作とは思い難い。
 
19 綜麻県《へそがた》の 林《はやし》の始《さき》の さ野榛《のはり》の 衣《きぬ》に着《つ》くなす 目《め》につくわが背《せ》
    綜麻形乃 林始乃 狹野榛能 衣尓着成 自尓都久和我勢
 
【語釈】 ○綜麻県の 『代匠記』の訓みである。「綜麻」は地名で、「県」はあがた。所在は不明である。現在、滋賀県の栗東町付近という説もある。「綜麻」は、績《う》んだ麻を円く巻いたものの称で、それと何らかのつながりのある地名か。○林の始の 「始」は、先端の意で、現在用いている口語の、「とっつき」にあたる。○さ野榛の 「さ」は接頭語。「野榛」は、野にある榛の木。榛は、現在の「はん」の木にも萩にも用いる字であるが、「はん」の木とする解に従う。その皮や実は煮汁として染料に用いる物。「野榛」は野にある榛で、用の多い木であるから屋敷木にもしたとみえ、それに対する称と解される。○衣に着くなす 衣に着くは、染料としてよく染まる意。「なす」は、のごとく。以上四句は、結句の「目につく」の「つく」に同音の関係で掛かる序詞。五句の歌の四句までを序詞とするのは、他に例もあるが、珍しいものである。○目につくわが背 「目につく」は、現在の口語にあるもの。「つく」は連体形。「わが背」は、女性の男性を親しんで呼ぶ称で、下に詠歎が含まれている。
【釈】 綜麻県の林のとっつきに生えている野榛の、染料として衣に染みつくように、目につく吾が背よ。
【評】 この歌は題詞の「井戸王即ち和《こた》ふる歌」とあるにあたるものと取れる。和え歌にはふさわしくないから、何らかの誤りの伴っている歌であろうとして、諸説のあるものである。しかし必ずしも誤りとも思えない歌である。題詞の解でもいったように、人が歌をもって抒情をした際は、傍らにいる人は、それに和える心をもって同じく歌で抒情をすることが風習となっていた。これもそれで、「即ち」という語はその間の消息を示しているようにみえる。井戸王が額田王に親しく、その心の機微を感じうる女性であったとしたら、額田王の三輪山に対する深い惜別の情と、雲に対する強い恨みとの背後に、一人の男性のあることを感取したということも、ありうべからざることではない。しかしそのことは、口にのぼすべき性質のものではないので、顧みて他をいう態度を取って、自分も綜麻県の地に、同じく思う男性を残して来て、恋しく思っているという心を、額(53)田王の作風に似せて、謡い物風の作にして和えたのであろうと解せられる。親しい女性同士で、やや年齢をした者の間には、この種のことが、古も今と異ならず行なわれていたろうと思われる。それだと、この和え歌は、その際の額田王にはいい慰めとなったことと思われる。以上のように解して、この歌はさして不自然なものではないのみならず、むしろ巧妙な作と思う。一首の歌としても、四句の長序が、そうしたものの陥りやすい語戯とならず、「わが背」という人の住んでいた地を具体的に暗示する内容をもったものともなってき、力量ある作ともなってくる。
 
     右、一首の歌、今案ふるに、和ふる歌に似ず。但し、旧本此の次に載す。故《かれ》、猶載す。
      右一首歌、今案、不v似2和歌1。但、舊本載2于此次1。故以猶載v焉。
 
     天皇、蒲生野《がまふの》に遊猟し給ひし時、額田王の作れる歌
 
【題意】 蒲生野は、滋賀県近江八幡市、武佐の東蒲生郡安土町、内野から八日市市蒲生野、野口、市辺にわたる野といい、古の名残りをとどめているという。遊猟のことは左注によると、天皇の七年五月五日のことである。額田王も盛儀に加わっていたのである。
 
20 茜草《あかね》さす 紫野|行《ゆ》き 標野《しめの》行《ゆ》き 野守《のもり》は見《み》ずや 君《きみ》が袖《そで》振《ふ》る
     茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
 
【語釈】 ○茜草さす 茜いろのまじっている意。「茜」は、草の名であるとともに色の名ともなっている。ここは色である。草としての茜は、蔓性の茜草科の多年生植物で、根は赤く、それから赤色の染料を取る。古代紫の色は赤味を帯びているので、紫の修飾語から枕詞となったもの。○紫野行き 「紫野」は、紫草を作ってある野で、題詞の蒲生野の一部である。紫草は、紫草科の多年生植物で、その根が紫色をして、それから紫色の染料を取った。紫色は当時貴重な色としており、需要が多かったが、野生の物はすでに少なくて需要が満たせず、諸国に命じて栽培させていた。この紫野もその範囲のもので、紫草を作っている野の意。「行き」は、歩きで、主格は君。○標野行き 「標野」は、その野を占有しているしるしの繩張り、あるいは杙《くい》を立てて、他人の立ち入りを禁じた野で、上の紫草園を語を替えていったものである。「行き」は、上と同じ。○野守は見ずや 「野守」は、上の紫野すなわち標野の番人である。「見ずや」は、「や」は疑問の助詞で、見ないであろうかで、この句は独立した挿入句である。○君が袖振る 「君」は皇太子大海人皇子。袖振るは、やや遠くいて愛情表示のためにするしぐさで、例の多いものである。佐伯梅友氏は、本集には、「が」「の」の助詞を含んでいる句で、終止形で結んだものはなく、すべて連体形で結んでいる、といっていられる。すなわち(54)係のない結びになっていて、したがって詠歎を含んでいるというのである。ここはそれで、袖を振ることよの意である。
【釈】 紫草を作ってある野を歩き、その立ち入りを禁じられている野を君は歩いて、野守は見ないであろうか。君はわたしに袖を振っていることであるよ。
【評】 薬狩は、男は鹿の落し角を拾い、女は薬草を摘むことになっている行楽で、したがって自由行動の取れる場合である。この歌から想像すると、額田王は天皇の傍らを離れて、たぶん侍女とともに野を漫歩していられ、辺りに人目がなかったとみえる。前の夫君であられた大海人皇子は、やや遠くそのさまを認め、王に近づこうとして、立ち入り禁止の紫草園をもかまわず内に立ち入り、王に向かって、愛情表示のしぐさとなっていた袖を振ることをされたのである。それを認めた額田王は、その心をうれしく受け入れて、「茜さす紫野行き標野行き」という、事としては無法であるが、心としては一瞬うれしく感じたことを、「紫野」「標野」という異語同義の畳句の、華麗さを連想させる言葉をもって叙したが、つと心づいて、「野守は見ずや」という不安に襲われたのである。そしてはじめて事の主体を捉えて、「君が袖振る」と、うれしさと不安さの一つになった、歎息に近い心をもって結んだのである。これは迎えての解のようであるが、この歌は贈歌であって、作意は皇子の行動を制止するにあるはずと思われるのに、それとしては、制止の心も微弱であり、訴えの心もほとんど見えず、むしろ皇子の行動に陶酔し、中間に、つと不安を感じつつも、その行動を客観的に描写した趣の勝ったものとなっているのである。さらにいえば、皇子の行動を認めた際の王の一瞬時の主観の具象化という趣のある歌である。集中、額田王の歌は少なくないが、この歌ほど王の心境の端的をあらわしたものはない。一首の歌として見ても絶唱である。
 
     皇太子の答へませる御歌 【明日香《あすか》宮御宇天皇 謚して天武天皇と曰す】
 
【題意】 皇太子は、日嗣の皇子《みこ》すなわち天皇の嫡嗣の称で、この時の皇太子は、皇弟大海人の皇子である。前の歌の「君」がこの御歌で明らかである。注は、皇太子に対してのもので、後に明日香宮に御宇《あめのしたしら》しめしし天皇の意である。天武の謚号は、奈良時代に入ってのもので、元暦校本以後の古写本に見える。
 
21 紫《むらさき》の にほへる妹《いも》を にくくあらば 人妻《ひとづま》ゆゑに われ恋《こ》ひめやも
    紫草能 尓保敞類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
 
(55)【語釈】 ○紫のにほへる妹を 「紫」は、ここでは色にしていったもの。「にほへる」は、色についていったもので、色の含みをもって美しい意をいう語。紫色のごとく、含みをもった美しい妹をの意。○にくくあらば いとわしく思うならば。○人妻ゆゑに 「人妻」は、他人の妻。「ゆゑ」は、理由、縁故をいう語。他人の妻であるのに。○われ恋ひめやも 「やも」は、「む」の已然形「め」を受ける時は反語となる。われは恋いようか、恋いはしないの意。
【釈】 紫のにおっているようなあなたをいとわしく思うのであったら、他人の妻であるのに、わたしは恋いようか、恋いはしない。
【評】 贈答の答歌には型があって、贈歌の用語を捉えて異なる意を盛り、反対な事をいうことになっている。この御歌もその範囲のもので、贈歌の紫は草であるのに、答歌では色としている。しかしそれは、尊重されている紫のように色うつくしいあなたと続けて、王の美貌を讃える語としている。そして、額田王の婉曲な制止を受けて、人妻に恋いすべきではないことは弁えているが、あなたを憎く思っていないからするしぐさだ、恋しいからのことだといっているのである。思慮あり勇気ある堂堂たる男子の、余裕をもっての歌で、しかも答歌の型に従ってされている御製である。額田王の陶酔と敏感と相俟った麗わしい歌に対させると、闊達、直截な御製で、その比類なき点においては劣らざるものである。
 
     紀に曰はく、天皇の七年丁卯の夏五月五日、蒲生野に縦猟したまふ。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、悉《ことごとに》皆従ひきといへり。
      紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日、縱2※[獣偏+葛]於※[草がんむり/補]生野1。于v時大皇弟、諸王、内臣、及群臣、悉皆從焉。
 
【注】 「紀」は日本書紀。「縦猟」は、薬狩のことで、前出。「大皇弟」は、大海人の皇子。「諸王」は、皇族のうち、王と称せられる方々。「内臣」は、中臣の鎌足。「群臣」は、広く地方官をもふくめての称。
 
  明日香清御原宮御宇《あすかのきよみはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代 【天渟中原瀛真人《あめのぬなはらおきのまひと》天皇謚して天武天皇と曰す】
 
【標目】 明日香は、奈良県高市郡の内で、今明日香村といっている地を中心に、その付近をも含んだ地方の総名である。清御原宮は、天武天皇の宮室で、天皇の元年の冬にお遷りになられた。その地は、現在の明日香村の小学校の付近だろうと喜田貞吉氏は考証している。雷岡の南である。
 
(56)     十市皇女《とをちのひめみこ》、伊勢の神宮《かむみや》に参赴《まゐむ》きし時、波多《はた》の横山《よこやま》の巌《いはほ》を見て、吹※[草がんむり/欠]刀自《ふぶきのとじ》の作れる歌
 
【題意】 十市皇女は、天武天皇の皇長女で、御母は額田王。弘文天皇の妃となって葛野王をお生み申したが、壬申の乱後は、御父天皇の許にいられた。この参宮は、左注にもあるように阿閉《あべの》皇女の御同行であったが、吹※[草がんむり/欠]刀自は十市皇女に奉仕していた者といふ関係上、阿閉皇女の方は省略したものと取れる。波多の横山は、伊勢への途中にある土地で、今の三重県松阪市から、伊勢への途中に波太村というがあり、そこだろうという。通路は波瀬《はぜ》川に沿っている。横山は、横に長く続いている山勢の称。吹※[草がんむり/欠]刀自は、伝未詳である。巻四にも歌がある。吹※[草がんむり/欠]は食用植物の蕗であるが、氏か名か不明である。刀自は、一家の主婦に対する称。
 
22 河《かは》の上《へ》の 斎《ゆ》つ巌群《いはむら》に 草《くさ》むさず 常《つね》にもがもな 常処女《とこをとめ》にて
    河上乃 湯都盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女※[者/火]手
 
【語釈】 ○河の上の 「河の上」は、旧訓「かはかみ」を、『略解』の改めたもの。川のほとりの意。○斎つ巌群に 「斎」は、忌み斎《きよ》める意の名詞で、神聖というにあたる。「つ」は、「の」と同じ。「巌群」は、大きな岩石の群れで、古代信仰として巨石には神性を感じた、その意のもの。○草むさず 「むす」は、生える意。草が生えていなかったのである。寓目のその状態に永久を感じ、「常」の比喩としたので、三句「常」にかかる副詞句。○常にもがもな 「常」は永久。「がも」は願望の助詞。「な」は詠嘆の助詞。永久でありたいものであるなあ。○常処女にて 「常処女」は、永久に若い女子の意。処女は若い女子の意で用いられていた。「にて」は、であって。これは十市皇女を対象としてのものと思われる。
【釈】 川のほとりの神聖なる巌の群れに、草が生えていない。永久にあのようにありたいものです、永久の若い女子で。
【評】 巨石信仰を抱いている女性が、その巨石の草の生えない状態に永久の若さを感取し、それを供奉している十市皇女につないで、その常処女であられんことを願った心理は自然である。「常処女」という語はここにあるのみのものであるが、当時、不老不死の神仙思想が行なわれていたので、天女の存在を信じており、それを連想し、支えとしての語であろうと思われる。一首、表現が素朴で、声調が鋭く、女性の作としては珍しいものである。これはその際の皇女の状態につながりのあるものかもしれぬ。
 
     吹※[草がんむり/欠]刀自、未だ詳ならず。但し、紀に曰はく、天皇四年乙亥、春二月乙亥の朝にして丁亥の日、(57)十市皇女、阿閉皇女、伊勢の神宮《かむみや》に參赴《まゐむ》き給ふといへり。
     吹※[草がんむり/欠]刀自未v詳也。但、紀曰、天皇四年乙亥、春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閉皇女、參2赴於伊勢神宮1。
 
【注】 吹※[草がんむり/欠]刀自は前にいった。「但し」以下は日本書紀によって、この時を考証したもの。阿閉皇女は、天智天皇の皇女、草壁の皇太子の妃で、文武天皇の御母、即位して元明天皇と申す。
 
     麻続王《をみのおほきみ》の伊勢国伊良虞《いせのくにいらご》の島《しま》に流《なが》されし時《とき》、人《ひと》の哀傷して作れる歌
 
【題意】 麻続王は、系譜が明らかでない。「続」は「績」と通用文字であった。伊良虞の島は、今は愛知県に属し、渥美町伊良湖崎で島ではなく崎である。古くは伊勢国に属せしめて呼んだとみえ、同様のことが、後にも出る。王のことは、なお(二四)の左注にある。
 
23 打麻《うちそ》を 麻続《をみ》の王《おほきみ》 白水郎《あま》なれや 伊艮虞《いらご》が島の 珠藻《たまも》苅《か》ります
    打麻乎 麻績王 白水郎有哉 射等籠荷四間乃 殊藻苅麻須
 
【語釈】 ○打麻を 「打麻」は、打って和らげた麻《そ》。「を」は、詠歎の助詞で、「よ」にあたる。それを麻《を》に績《う》む意で、麻続にかかる枕詞。○白水郎なれや 「白水郎」は、漢語で、「あま」に当てたもの。「あま」は、漁人の意。「なれや」は、後世の「なればにや」にあたる語。「や」は疑問の助詞。○珠藻苅ります 「珠」は、美称。「藻」は、食料としての物。「ます」は、いる意の敬語。いらせられる。
【釈】 打麻を麻続王は海人《あま》なのであろうか。伊良虞が島の藻を、刈っていらせられる。
【評】 作者は「人」というだけで、誰ともわからない。また、王も知らない、無関係の第三者である。したがって民謡の条件を備えた歌である。歌そのものも内容は一般性をもっており、感傷的で、調べも柔らかいもので、まさしく民謡的である。たぶん一方、時の人の皇室に対する尊崇の情から王ともある方が、島に流されて、海人《あま》の中にまじっていらせられるということは、怪しくも悲しいことだったろうと思われる。「伊良虞が島の珠藻苅ります」というのは、王の状態を思いやって哀傷する心から、おのずからに生み出した具象化ではなかろうか。
 
(58)     麻続王、これを聞きて感傷して和ふる歌
 
24 うつせみの 命を惜しみ 浪に濡れ 伊良虞の島の 玉藻苅り食む
    空蝉之 命乎惜美 浪尓所湿 伊良虞能鴫之 玉藻苅食
 
【語釈】○うつせみの 現し身の転で、生きている身の。(一三)に出た。○浪に濡れ 「濡れ」は原文「所湿」で、「所」は被役をあらわす字で、濡らされの意。○苅り食む 「食む」は「をす」と訓んでいる例もある。「食す」は敬語で、自身のことに用いた例がない。これも旧訓の一つである。  
【釈】生きている身の命を惜しんで、浪に濡らされて、伊良虞の島の藻を刈って食べている。
【評】王の上の歌を聞いて和えられた歌は、同じく感傷ではあるが徴底している。「うつせみの命を惜しみ」は、時の人の哀傷は、王ともある身に対してのそれであるが、王はそぅした身分から離れ、一人の人間の立場に立ってのものである。「浪に濡れ」「苅り食む」は、労苦して命をつないでいる意であるが、具象化が巧みである。一首、事としては沈痛であるが、一脈の明るさと軽さがある。表現技法が上の歌と相通っている。この点から見てこの二首は、王の事件を捉えての歌物語ではなかったかと思われる。左注の疑いを挟んでいるのも、その点につながりあるものと解される。
 
     右、日本紀を案ふるに曰はく、天皇の四年乙亥の夏四月戊戌の朔にして乙卯の日、三位麻続王ありて、因幡に流さる。一子は伊豆の島に流され、一子は血鹿の島に流されきといへり。ここに伊勢国伊良虞の島に流さるといへるは、若し疑はくは後人歌の辞に因りて誤り記せるか。
      右、案日本紀曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻続王有罪、流于因幡。一子流伊豆鴫、一子流血鹿鴫也。是云配千伊勢國伊良虞鴫者 若疑後人緑歌辞而    誤記乎。
 
【注】撰者の日本書紀によっての考証と、題詞についての疑いである。血鹿の島は今の九州五島である。さらにまた、常陸国風土記には、その行方郡板来村の条に、麻続王がその地に流されて住んでいたといぅことを伝えている。因幡、伊勢、常陸と、諸国にその伝えのあるのは、流所を改(59)められたためともいえるが、むしろ事のあわれさから、そうした伝えを生み出したものかと思われる。
 
     天皇の御製歌
 
25 み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間なくぞ 雨は降りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隅もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
    三吉野之 耳我嶺尓 時無曾 雪者落家留 問無曾 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 問無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道乎
 
【語釈】 ○み吉野の耳我の嶺に 「み吉野」の「み」は、美称。「耳我の嶺は」は、今いずれの峰とものからない。歌の上から見ると、吉野山の中の高蜂であることが知られる。不明なのは、名称の変わったためであろう。○時なくぞ 定まった時がなく。これは高山の常の状態である。○間なくぞ 「間」は、旧訓「ひま」。『古義』が改めた。間断もなくで、すなわち絶えずの意。これも高山の状態である。○隈もおちず 「隈」は、道の曲がり角。「も」は、詠歎の助詞。「おちず」は、漏らさずで、道の隈々の、その一隈さえも漏らさずにで、絶えずの意。○思ひつつぞ来る 「思ひ」は、妹を恋う心である。○その山道を 「その」は、「山道」を強くいうために添えたもの。
【釈】 吉野の耳我の嶺には、その時でもなく、雪が降ることであるよ。絶え間なく雨が降ることであるよ。その雪のいつということのないように、その雨の絶え間のないように、我も山道の曲がり角の多いその一と曲がり角をも漏らさずに、歎きをしつづけて来ることであるよ。その山道を。
【評】この御製歌は題詞がないので、いつ、いかなる際のものかは不明である。しかし御製そのものは、吉野の山中にあって甚しくもの思いをされた意のものであるから、自然、大津宮時代、皇太子を辞して吉野へ退隠された際のものではないかと推量される。
 表現は甚だ古樸である。「み吉野の耳我の峰に、時なくぞ雪は降りける、間なくぞ雨は降りける」と、高山の常態として気象の変化がはげしく、雪と雨が襲いとおしにしている実況を叙している。ついでその実況を間断のない比喩として、「その雪の時なきが如、その雨の間なきが如」と、同じく対句としていい、さらに「隈もおちず」と、その間断なさを、身辺の実情を叙することによって深めて、「思ひつつぞ来る、その山道を」と結んでいるのである。これは隈多い山道を、間断なくもの思いをしつつ辿っていられる実情であって、その思いの何であるかには全然触れていない表現である。しかし吉野山の冬の暗い光景と、それを間断なきことの比愉とされての上のことなので、(60)それらが「思ひ」におのずから綜合されてきて、その思いの重大さと重量とが、おのずからに感じられるものとなってきている。その「思ひ」のいかなる範囲のものであるかにも触れていないところから見ると、この御製は全然対者を予想しての訴えではなく、独詠であったろうといぅことを思わせられる。
 とにかく一首を読むと、天皇が陰鬱の情にとざされて、吉野山中の山道を辿られるさまが想像され、その全く説明をされざる「思ひ」が余情となって、魅力ある御製となっているのである。表現は上にいったがごとく甚だ古撲で、したがって反歌もないものである。これを皇太子の時期、額田王に和えられた上の歌と比較すると、全く別人の感がある。同じ天皇の心の両面の、その一面のあざやかに現われている御製歌である。
 
     或本の歌
 
【題意】 「或る本」というのは、本集の資料とは別の資料といぅ意である。詞句の類似の多い歌、作者、作歌事情で伝えの異なっている歌を参考として載せている。
 
26 み芳野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降ると  いふ その雪の 時じきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来る  その山道を
    三芳野之 耳我山尓 時自久曾 雪者落等言 無間曾 雨者落等言 其雪 不時如其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎
 
     右、句々相換れり。因りてここに重ねて載す。
      右句々相換。因此重載焉。
 
【語釈】 ○時じく (六)に出た。その時ならずして。
【評】前の歌は、耳我の嶺の雪と雨とを、眼に見ているものとして扱っているのに、この歌は、それを話に開いたものとしていっている。すなわち耳我の峰よりは遠く離れた所で謡われた歌と思われる。「時なくぞ」を「時じくぞ」に換えたところにも、この心は現われている。この御製はなお巻十三に別伝があり、また、同巻に流動して民謡化したものもある。その巻に譲る。
 
     天皇、吉野宮に幸しし時の御製歌
 
(61)【題意】 吉野宮は、吉野川沿岸宮滝がその旧址とされている。吉野上市町をさかのぽること一里ばかりの地である。吉野宮のことは、応神天皇十九年にはじめて見え、雄略天皇も二回行幸のことが見え、斉明天皇の二年、宮をお作りになったことが見えている。皇室に由緒深い地である。
 
27 淑き人の 良しと吉く見て よしといひし 芳野よく見よ よき人よくみつ
    淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三
 
【語釈】 ○淑き人の 「淑き人」は、古の尊い人を尊んでの称。○良しと吉く見てよしといひし 良い所だと思って、よくよく見て、その上で好い所だといったで、上の「良し」は、良い所と思い、下の「よし」は、好い所と定めたといぅ意を含んでいる。○芳野よく見よ その芳野をよくよく見よと命じた意。命じられたものは供奉の廷臣である。○よき人よくみつ 良き人がよくよく見たことであるで、初二句の意を纏めて繰り返したもの。そぅすることによって三句「よしといひし」の意を認めよということを余意としたもの。
【釈】 古の尊い人が、良い所だと思ってよくよく見て、よい所だといったこの芳野を、人々よ、よくよく見よ。古の尊い人がよく見た所だ。
【評】 吉野宮へ行幸になった襟、供奉の廷臣に向かって、お言葉をもってなさる代りに、当時の風に従って歌をもって仰せになったものと取れる。主意は、この吉野の山水をよくよく見て、その好さを会得せよ。古の尊い人もそれをしたが、それにならってせよというのである。初句より四句まで一と続きに、一わたりのことを仰せられ、結句において繰り返して諭されたもので、心の細かく、自然なものである。「淑き人」と仰せになっている人は、どういう人であるかはわからない。しかし大体として、吉野の山水の美を鑑賞し得た、高い教養をもった人ということであろう。当時にあっては、自然の美の鑑賞ということは、中国文学の刺激を受けて進んできたもので、上流階級の中の少数者に限られたことであった。その趣は懐風藻で窺われる。その意味でこの「淑き人」は、さして古い人ではなく、またそう多くでもなく、仰せになる天皇にも、承る廷臣にも、はぼ見当のついていたことと思われる。この御製は特珠な技巧をもったもので、「よし」という一形容詞を捉え、「淑き」「良し」「吉く」と、音の同じで、意味の近い語を、一首の中に八回までも繰り返されている。これはむろん意図してのもので、頭韻、畳語を意図した歌の中でも代表的なもので、語戯の範囲のものといえる。しかしそうした歌の陥りやすいわざとらしさの感の少ないのは、一つには、山水の美の鑑賞を勧めるという思想的なものであるからだが、それよりも重いことは、仰せになっていることが理ではなくて気分であり、その気分がまた真摯なものであるからである。すなわち戯れの形で真摯な気分をお詠みに(62)なり、それが渾然としたものとなり得ているからである。歌を実用性のものとしていた時代にあっては、当然あるべき形の歌である。 
 
     紀に曰はく、八年己卯五月庚辰の朔にして甲申の日、吉野宮に幸しきといへり。
      紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。
 
【注】 日本書紀によつて、行幸の時を考証しただけのものである。
 
  藤原宮御宇天皇代    高天原広野姫天皇 元年丁亥の十一年位を軽太子に譲りたまふ。尊号を太上天皇と曰す
 
【標目】藤原宮は、持統天皇の八年十二月、飛鳥淨御原宮よりお遷りになり、文武天皇を経て、元明天皇の和銅三年、寧楽宮へお遷りになるまでの十六年間の宮である。宮址は、奈良県橿原市高殿町に、宮所、大宮、南京殿、北京殿、大君、宮の口などいう字があり、これらはいずれも皇居の敷地の一部であろうという。ここは畝傍、耳梨、香具の三山の間で、香具山を背後にした所である。高天原広野姫の天皇は、持統天皇の御謚号前の御号である。天皇、少名はう(漢字)野の讃良の皇女、天智天皇の第二皇女である。天武天皇の皇后となり、天皇の崩後御即位、在位十年で、草壁皇太子の皇子軽皇子に譲位された。それが文武天皇である。初めの謚号は高天原広野姫の天皇、後の謚が持統天皇である。万葉集からいうと,天皇の御代はその黄金時代で、柿本人麿を初めとしてすぐれた歌人の輩出した時期である。
 
     天皇の御製歌
 
28 春過ぎて 夏来たるらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山
    春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
 
【語釈】 ○夏来たるらし 「来たる」は、「釆至る」の約。「らし」は、証拠を挙げての誰定をあらわす助動詞。証拠は、下の「衣乾したり」である。○白妙の衣乾したり 「白妙」は、白い妙で、妙は栲。本来楮(別字)が木その物の名であったが、その繊維で織った布の名に転じたもの。「白妙の衣」は、当時は上下とも、白い衣を常用していたのである。○天の香具山 (二)に出た。香具山にの意で、衣を乾してある場所としていわれたも(63)の。山の麓に住んでいる者が、日あたりの好い山裾を選んで衣を乾したのである。
【釈】 春が過ぎて夏が来ていると思われる。白妙の衣が乾してある。天の香具山には。
【評】 香具山は、藤原宮の東にある、低い山である。天皇は宮の内から、香具山の上に白い衣の乾してあるのを望ませられ、それは夏になってすることであるところから、季節感を催されての御製である。歌に現われている季節は、大体春と秋で、圧倒的に多い。農業国であるわが国では、生活をとおして季節に関係する以上、これは当然のことである。生活に余裕のある階級の者は、わが国の風土と季節の美を味解することになり、文芸的の意味のいわゆる季節感をもつことになったが、そうなっても春と秋が依然として多い。この御製の季節は夏であって、この当時としては特異なものである。加ぅるに深い感激をもって、夏を肯定していられる。青い山に乾した白い衣は印象的のものと思われるが、衣に引きつけられていられるのは、女帝のためだと思われ、そこに個人性が感じられる。また、一首三段に切れ、強くさわやかにお詠みになっている点は、他の御製と較べても異色あるもので、感激のほどがうかがわれるものである。すなわち季節感に向かって、個性をとおして、文芸化の一歩を進めさせられた御製といえる。
 
     近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麿の作れる歌
 
【題意】 近江の荒れたる都は、天智、弘文二帝の大津宮の、壬申の乱後荒廃に帰していたのをいう。乱ょりこの歌の作られた持統天皇の御代までは、その末年までとしても二十五年である。そこを過ぎし時といぅは、他の事のついでをもってその地を通ったのである。柿本朝臣人麿の伝は明らかではない。柿本氏は孝昭天皇の皇子天押帯日子命ょり出、朝臣の姓は天武天皇の御代に賜わったのである。少壮の頃、舎人として出仕している。舎人は本来、上流貴族の子弟の任ぜられる職で、人麿がそれに加えられていた(64)のは、何らかの事情の伴つてのことと思われるが、その点はわからない。後、他の職に転じ、近江、山城、紀伊、四国、九州に旅をしたことはその作歌によって知られる。晩年、石見国の国司の一人となったこと、また、その任地で没したことも作歌によって知られる。時は奈良時代に入ってのことかと考証されて、位は六位以下であった。伝記の不明なのは、身分低く行績が記録されていないからである。歌人としての人麿は、この時代の代表者であるのみならず万葉集の代表者であり、和歌史上の第一人者でもある。人としての人麿は、皇室に対しての宗教的尊信の情を抱き、個人的には恋愛を生き甲斐としている。歌人としては、わが国古来の伝統の上に立ち、漢文学を摂取して、彼此を融合してわが有となし、古来の歌謡を新文芸に高めるとともに、それを大成したのである。本集にある人麿の作は、その作ということの明らかなものと、柿本人麿歌集と称する歌集にあるものとの二種類がある。歌集の歌の中には、他人の作を備忘のために記したものの、きわめて少数が混じているかに見えるが、他はすべて人麿の作と思われる。これはその取材、表現技法の上で、彼以外の何びとにもなし得ぬ特色をもっているからである。また、人麿の作には、他に例のないまでに別伝が多く、これは作者自身の再案と、伝誦者の誤伝とである。大体は、編集者の本文として伝えているものが正当なものとみられる。
            
29 玉襷《たまだすき》 畝火《うねび》の山《やま》の 橿原《かしはら》の 日知《ひじり》の御世《みよ》ゆ 【或は云ふ、宮ゆ】  生《あ》れましし 神《かみ》のことごと 樛《つが》の木の いやつぎつぎに 天《あめ》の下《した》 知らしめししを【或は云ふ、知らしめしける》 天《そら》に満《み》つ 大和《やまと》を置《お》きて 青丹《あをに》よし 奈良山《ならやま》を越え【或は云ふ、虚《そら》見つ大和を置き青丹よし奈良《なら》山越えて】 いかさまに 念《おも》ほしめせか【或は云ふ、念ほしけめか】 天離《あまざか》る 夷《ひな》にはあれど 石走《いはばし》る 近江《あふみ》の国《くに》の 楽浪《ささなみ》の 大津《おほつ》の宮《みや》に 天《あめ》の下《した》 知《し》らしめしけむ 天皇《すめろぎ》の 神《かみ》の尊の 大宮《おほみや》は 此処《ここ》と聞けども 大殿《おほとの》は 此処《ここ》といへども 春草《はるくさ》の 茂《しげ》く生《お》ひたる 霞《かすみ》立《た》つ 春日《はるび》の霧《き》れる【或は云ふ、霞立つ 春日か霧《き》れる、夏草か繁くなりぬる】  ももしきの 大宮処 見れば悲しも【或は云ふ、見ればさぶしも】
    玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世從【或云、宮自】 阿礼座師 神之盡 樛木乃 弥繼嗣尓 天下 所知食之乎【或云、食來】 天尓滿 倭乎置而 青丹吉 平山乎超【或云、虚見倭乎置青丹吉平山越而】 何方 御念食可【或云、所念計米可】 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者此間(65)等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流【或云、霞立春日香霧流夏草香繁成奴留】 百磯城之 大宮處 見者悲毛【或云、見者左夫思毛】
 
【語釈】 ○玉襷畝火の山の 「玉だすき」の「玉」は、美称。襷を頂《うなじ》に掛けることをうなぐというので、そのうなを、音の近い畝《うね》に転じて枕詞としたもの。「畝火の山」は、下の「橿原」の位置をいったもの。○橿原の日知の御世ゆ 「橿原」は、畝傍山の東南の地で、神武天皇の宮の所在地。「日知」は、漢籍の「聖」の字の義訓で、聖帝として神武天皇を讃えた称。『全註釈』は「日知」は、農耕の上の暦日をわきまえている人を尊んでの称で、この用字は語源を示したものだといっている。「ゆ」は、よりの古語。以上、神武天皇の御世よりということを、讃えの心をもって、その宮を鄭重にいうことによってあらわしたもの。○「御世」が、一書には「宮」とある。「御世」この方が荘重味がある。○生れましし神のことごと 「生れ」は、現われの意で、人の上では、生まれる意。母を主としては生むで、子を主とすれば「生まる」である。神、天皇、皇子に対しての敬語。「まし」は、敬語の助動詞、下の「し」は助動詞、「生れましし」は、生まれ給いしの意。「神」は、天皇を現《あき》つ神としての称。「ことごと」は、ことごとくの意。○樛の木のいやつぎつぎに 「樛」は、今は栂《とが》という。樅《もみ》に似た木で、良材。音の似ているところから畳音の関係で「つぎ」にかかる枕詞。「いや」は、いよいよの意の接頭語。「つぎつぎに」は、次第次第に御代を継いでで、御歴代の意。○天の下知らしめししを 「天の下」は、天下で、わが国。「知らしめししを」は、「知らし」は知るの敬語、「めし」は敬語の助動詞。「し」は時の助動詞。「を」は逆転の助詞。「のに」にあたる。御統治になったのにの意。「天の下」の上に「大和において」という語があるべきだが、それは次の句にこもらせて省いてある。○一書には、「めししを」が、「めしける」とある。これは、下の「大和」の修飾になり、本文の屈折味を失わせる。 ○天に満つ大和を置きて 「天に満つ」は、大和の枕詞。他はいずれも「そらみつ」であって、「に」のあるのはここのみである。語義不明である。「大和を置きて」は、大和の国をさし置いての意。この「大和」には、歴代の宮のあったその大和の意がこもっている。○青丹よし奈良山を越え 「青丹よし奈良山」は、(一七)に出た。○一書には、「虚《そら》見つ大和を置き、青丹よし奈良山越えて」とある。これも、「て」のない本文の方が力がある。○いかさまに念ほしめせか 「いかさまに」は、どのように。「念ほし」は、「念ふ」の敬語で「念ふ」に、敬語の助動詞「す」の添った「念はす」。「めせ」は敬語の助動詞。「か」は、疑問の助詞。「めせか」は「めせばか」の古格。全体では、どのように思し召されたのであろうかの意。この二句は、神であらせられる天皇の御心は、下賤の者のうかがい知れないものであるとの意でいっているものである。なおこの二句は、独立した挿入句で、意味としては、上の「天に満つ大和を置きて」の前にあるべきものである。○一書には、「念ほしめせか」が、「念ほしけめか」とある。お思いになったであろうかで、心は同じである。○天離る夷にはあれど 「天離る」は、天のあなたに遠ざかっているで、離るは離れる意味で、「夷」にかかる枕詞。「夷」は、都以外の地方の総称。○石走る近江の国の 「石走」は「石走る」と訓み、石の上を走る「溢水《あふみ》」と続け、「近江《あふみ》」に転じたものという解に従う。「近江」の枕詞。○楽浪の大津の宮に 「楽浪」は、近江国の南方一帯の称。○天の下知らしめしけむ 「けむ」は、連体形で、天皇につづく。○天皇の神の尊の 「天皇」は、皇祖神を申し、転じて、当今の天皇までをも申す語。「神」は、天皇を現つ神としての称。「尊」は、尊称。今は天智天皇を申す語。○大宮は此処と聞けども 「大」は、美称。「宮」は、宮殿。「聞けども」は、人から聞くけれども。○大殿は此処といへども 「大」は、上に同じ。「殿」は、同じく宮殿。「いへども」は、人がいうけれども。二句、上と対句で、同じ意を、語を変えて繰(66)り返したもの。○春草の茂く生ひたる 春の草が茂く生えているで、下の「大宮処」へつづく。大宮として残る何物もないことを余情としたもの。○霞立つ春日の霧れる 「霞立つ」は、春の枕詞。実景の枕詞化したもの。「霧る」は霞む意で、霧はその名詞となったものである。春の日が、霞に霞んでいるで、下の「大官処」へ続く。この二句は、上の二句と対句となっており、いずれも大宮も、それに縁《ゆかり》ある何物も見えなくなっているということを余情にもっているものである。○或は云ふ、「霞立つ春日か霧れる、夏草か繁く成りぬる」 ある一書の伝えは、春の日が霞んでいるために何も見えないのか、または、夏草が茂くなっているために何も見えないのかである。何も見えないことを余情としている点は本行と同じであるが、こちらは春と夏との異なった季節を取合わせている点が異なる。本行の眼前を叙しているのとは態度を異にして、気分を主としていったものである。これは人麿のしなかったことと思われる。○ももしきの大宮処 「百磯城」で、百は多くで「磯城」は、石をもって固め成した一郭の所の称。多くの磯城をもったで、讃える意。宮にかかる枕詞。「大宮処」は、大宮の地域。○見れば悲しも 「も」は、詠款の助詞。目に見れば悲しいことであるよ。○或は云ふ、「見ればさぶしも」「さぶし」は、今のさびしである。本行の強さを採るべき所と思われる。
【釈】 畝火の山の橿原の宮の聖《ひじり》の帝《みかど》の御世よりこの方、お生まれになられた神にます帝のことごとくは、ますます御代を嗣ぎ嗣ぎして、大和の国において天下を御統治になられたのに(御統治になられて来たところの)、その大和の国をあとにして、奈良山を越えて、どのように思し召されたのか(どのように思し召されたのであろうか)、夷の国ではあるけれども、近江の国の楽浪の大津宮に、天下を御統治になったであろう、その天皇《すめろぎ》の神の尊の、大宮はここであると人から聞くけれども、大殿はここであると人はいうけれども、春の草が茂く生い立ち、春の日が霞んでぼんやりしている(春の日に霞んでいるのか、夏草が繁くなっているためか)大宮の処を見ると悲しいことであるよ(さみしいことであるよ)。
【評】 大和の藤原の宮に仕えていた人麿が、壬申の乱のあって以来二十五年以内のある年の春、何らかの用向きをもって近江の大津宮の址のある方面へ旅行したついでに、初めてその宮の址に立ち、荒廃しつくして、今は一物の残る物もないさまを目に見て、悲しみに堪えずして詠んだ歌である。
 この歌は、前半と後半とは趣を異にしていて、前半は大津宮の由緒を思ったもの、後半はその荒廃を悲しんだものである。さらにいえば、前半は、大津宮の限りなく尊いことをいったもので、後半は、その尊い宮の跡かたもなくなったのを、尊いがゆえに限りなく悲しんだ心である。
 前半の大津宮の尊さは、それが天智天皇の宮であるがゆえに限りなく尊いとするので、これは意《こころ》としてはあらわにはいわず、旨として語《ことば》の上であらわしている。天智天皇の尊さは、天皇が「高照らす日の皇子《みこ》」であらせられるというのみではなく、それとともに「八隅知し吾が大王《おほきみ》」でいらせられるがゆえとしている。「橿原の日知の御世」以来、「いやつぎつぎに天の下知らしめしし」「神」であるという讃え方をしているのは、すなわちこのためである。天智天皇を申す場合に、このすでにいった称を操り返して、「天の下知らしめしけむ天皇の神の尊」と改めて申しているのでも、そのいかに尊んでいるかが知られる。
 しかし前半は、単に天智天皇の尊さを申すだけではなく、それに近江大津への遷都のことを絡ませて、これを重くいってい(67)る。今、大津宮の由緒を思う上では、これは当然いわなくてはならない事柄ではあるが、それにしてもその言い方には、かなりまで誇張が伴っていて、事実とは相違してさえいる。神武天皇以来、都はすべて大和の内であったというのは、明らかに強いたことである。都は難波にも河内にも近江などにも遷されているのは明らかなことで、知識人である人麿がそれを知らないはずはない。また、遷都ということを格別のことであるかのようにいってもいるが、歴代、御代の改まるごとに都を遷されることは普通のことで、旧都となった所が荒廃するということも自然のことで、これまた何ら格別のことではない。しかるに、遷都ということが格別なことで、ひとり天智天皇に限られたことであるかのようにいい、また遷都が荒廃の原因でであるかのような口気をもっていっているのは、解し難いこととしなくてはならない。これは、限りなく尊く思っている天智天皇の宮が、眼前にあわれなる荒廃を見せているところからくる、人麿個人の感傷のいわせることか、あるいはまた、その事柄の畏さに、思うを憚り、言うを得ずにはいるが、時の人の胸裏には、一般に言い難い悲しみの漂っているものがあって、それを人麿が代弁しているのかとも思われる。おそらくはあとのものが主でそれに前のものが伴って、前半の複雑した気分を成しているのではないかと思われる。
 後半は、純粋な悲哀で、前半の複雑さがない。もしありとすれば、限りない尊い天皇の宮の址にふさわしく、そのあわれなる荒廃のさまを、余情として、婉曲に扱っているということだけである。
 この歌は人麿の長歌としては、美しくはあるが力の弱いもので、若い頃の作かと思われる。彼は後にも近江の国へは行っているが、この時はその最初の時と思わせ、若い頃ということを思わせる。しかし一首一章で、前半は複雑した気分を、よく融合させることによって単純にし、また、句を前後させることによって、気分の進行を直線的にし、後半、眼前をいう時には、対句を二回まで操り返し、その中に季節までもあらわしているなど、至れる技巧をもっていたことを思わせる。
 この歌には、「或は云ふ」という所が六か所まである。人麿自身のしたことか、あるいは伝唱されるうちに他人によってそうされたものかは定め難い。
 
     反歌
 
30 楽浪《ささなみ》の 志賀《しが》の辛崎《からさき》 幸《さき》くあれど 大宮人《おほみやびと》の 船まちかねつ
    楽浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 般麻知兼津
 
【語釈】 ○志賀の辛崎 「志賀」は、滋賀の地。「辛崎」は、今も名高い所である。○幸くあれど 「幸く」は無事、幸福の意で、副詞。辛崎の地に人格を認めての語で、山や川が同時に神であるとした古信仰と同じ系統のものと取れる。今は古き都跡という関係においていっているので、こ(68)の信仰はもちやすいものであったと思われる。○大宮人の船まちかねつ 「大宮人」は、大宮に奉仕する人。「船」は、舟遊びのそれで、辛崎はそれに関係の深かった地であることが、後出の歌によって知られる。「まちかねつ」の「かね」は、難の意の動詞で、今も用いられている。「まちかねつ」は、待てど待ち得ずにいる意。
【釈】 楽浪の志賀の辛崎は、その昔に変わらずにいるけれども、大宮人の舟遊びの船を待って待ち得ずにいる。
【評】 不変な自然を人格化し、推移する人事と対照し、人事の推移の悲しみを詠んでいる態度である。悲しみの上では長歌に連なっているが、長歌では大宮の址に立って天皇を悲しんだのと角度を変え、ここでは、湖のほとりに来て、自然をして大宮人を悲しませているのである。態度としては高度の文芸性のものとすると同時に、反歌としては、長歌の繰り返しであったのを進展させ、それと対照的にし、双方を構成的にするという、従来にない変化をもったものとしている。この反歌の手法は、人麿の作にほぼ共通しているもので、彼によって文芸的に進展されたものである。「崎」と「幸」と同音を重ねているところに声調の美しさがあるが、技巧を感じさせない。
 
31 ささなみの 志賀《しが》の【一に云ふ、比良《ひら》の】 大《おほ》わだ淀むとも 昔《むかし》の人《ひと》に またも逢はめやも【一に云ふ、あはむともへや】
    左散難弥乃 志我能【一云、比良乃】 大和太 与杼六友 昔人二 亦母相目八毛【一云、將會跡母戸八】
 
【語釈】 ○志賀の大わだ 「わだ」は、湾曲した水域の称で、湾。志賀の大きな湾で、現在の大津湾。○比良の 志賀のの別伝。比良は琵琶湖の西岸の地名で、大わだと称すべき地形ではない。本行の方がよい。○淀むとも 「淀む」は、水の停滞して動かずにいること。「とも」は、仮説をあらわす助詞で、事実を認めつつ仮定であらわす語法。たといそのように淀んでいようともの意。水の淀んでいるさまに、舟遊びの人を待っている気分を感取しての意。○昔の人に その昔の大津の宮の宮びとに。○またも逢はめやも 「や」は反語。「も」はいずれも詠歎の助(69)詞。また逢うことがあろうか、ありはしないことよ。○あはむともへや 本行の別伝。「もへ」は、「思へ」で、「お」の省略されたもの。「思ふ」の已然形。「や」は反語。今、思えようか、思わないの意。
【釈】 さざなみの志賀の大きな湾の水は、たといそのように人待ち顔に淀んでいようとも、昔ここで舟遊びをした大宮人にまたも逢おうか、逢いはしないことだ。
【評】 上の反歌の延長である。上では志賀の辛崎と狭く限っていったのを、これは志賀の大わだと漸層的に湖上を大観して、その水の静かに淀んでいるのに対し、人待ち顔のさまを感取して、さらに深い哀感を寄せたのである。湖に人格を感じているところも上の歌と同じである。反歌を二首重ねていることも、他に例のないことで、人麿によって創められたことと思える。二首明らかに連作となっており、これも注意されることである。
 
     高市古人《たけちのふるひと》 近江の旧き堵《みやこ》を感傷して作れる歌 或る書にいふ、高市連黒人
 
【題意】 古人という人は、ほかに所見もなく、伝もわからない。資料とした書に従ったもの。堵は、垣の意であるが、都《と》と音が通じるために、通じて用いたもの。近江の旧き堵は、前の歌と同じく古の大津宮である。一書には、作者を高市連黒人ともしてある。黒人はこの時代の人で、集中に多くの佳作をとどめている人である。作風に個性的なところがあって、この歌にもそれがある。黒人の誤りではないかという想像は、理由のあるものである。
 
32 古りにし 人にわれあれや 楽浪《ささなみ》の 故《ふる》き都《みやこ》を 見れば悲しき
    古 人尓和礼有哉 楽浪乃 故京乎 見者悲寸
 
【語釈】 ○古りにし人にわれあれや 「古りにし人」は、本文「古人」で、訓みがさまざまである。「古りにし人」という語は、集中に用例が幾つもあるので、それに従う。「に」は完了の助動詞で強意のもの。世に古くなってしまった人で、言いかえると、老いて感傷的になっている人の意。「われあれや」は、「や」は疑問の係助詞。我はなっているのか。○楽浪の古き都を 楽浪の地にある古い都で、大津宮。天智、弘文二帝の郡で、都は宮の在る所の意。○見れば悲しき 「見れば」は、目にすればで、初めて見たと思われる。「悲しき」は、連体形で、「や」の結び。
【釈】 古くなり去った人で自分はあるのか、楽浪の昔の都を見ると、悲しいことであるよ。
【評】 黒人が初めて大津宮の址を見た時の感と思われる。人麿の歌にあるように、大宮をはじめすべての建造物は、壬申の乱(70)の戦火によって焼失し、残る物とては何一つなかったのである。先代の古都のそうしたさまを見ると、哀感が胸に満ちて堪えられなかったとみえる。しかし人麿とは違って、その哀感を眼前の光景につなごうとはせず、眼を自身の心に向けて、哀感そのものの甚しいのを怪しむ感に捉えられたのである。「古りにし人にわれあれや」は、三句以下その説明である。自身を主としての感傷に終止しているのである。そこに特色がある。表現も、単純に、透きとおっていて、一種の味わいがあり、特色がある。
 
33 楽浪《ささなみ》の 国《くに》つみ神《かみ》の うらさびて 荒《あ》れたる都《みやこ》 見《み》れば悲《かな》しも
    楽浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛
 
【語釈】 ○国つみ神 「国」は、(二)に出た。一まとまりの地域の称で、今は楽浪。「み」は、美称。この神は、楽浪を護る神である。天つ神に対する神である。○うらさびて 「うらさび」は、一つの語。「うら」は、心で、表面に現われない時にいう。「さび」は、「不楽」の字をあてた場合もあって、その意の語。心が楽しまずして。○荒れたる都 大津宮で、楽浪の中のもの。
【釈】 楽浪を護り給う神の心が楽しまなくて、このように荒れた都を見ると、悲しいことであるよ。
【評】 その土地の吉凶禍福は、一にその土地を護り給う神意次第のもので、神の心が喜ぶ時には栄え、喜ばない時には衰えるものと信じてい、またその神の心は、測り難い怖るべきものとも信じられていた。今はこの信仰を心においての悲しみと取れる。大津の宮の荒れ果てたことを、人事のためではなく、不可抗の神意のためとしたのである。事、神である天皇にかかわるものなので、思議を越えたものとし、また、天皇の御事にもせよ、土地の上に行なわれている以上、その土地の神の影響は避け難いものとして、ひたすらに悲しんだ心と解される。この「国つみ神」のことは、当時としては一般に信じられていたことと思われるが、他人によっては言われていないものである。都の荒れた理由を求めて、ここに帰したところは、前の歌と関連があり、天つ神の直系である天皇にもまして、国つ神の威力をより大きく感じているところに、特色がある。庶民の心を代弁しているかの感がある。
 
     紀伊国に幸しし時の川島皇子の御作歌《みうた》 或は云ふ、山上臣憶良の作れる
 
【題意】 川島の皇子は、天智天皇第二皇子で、持統天皇の御弟。行幸に供奉されたのである。「或は云ふ」は、この歌、山上憶良の作という伝えがあったので、巻九にこの歌が重ねて出て、それには今とは反対になっている。
 
(71)34 白浪《しらなみ》の 浜松《はままつ》が枝《え》の 手向草《たむけぐさ》 幾《いく》代までにか 年《とし》の経《へ》ぬらむ【一に云ふ、年は経にけむ】
    白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武【一云、年者經尓計武】
 
【語釈】 ○白浪の浜松が枝の 「白浪の」は、意としては、白浪の寄せるところの意で、それを簡潔にいったもの。この言い方は、後になるにつれてふえてきている。「浜松」は、一つの語。浜に立っている松。「枝の」は、枝の上ので、下の「手向草」のある位置。神に物を供えるには、机に載せるか、または木の枝につけるのが古の風であった。○手向草 「手向」は、神を祭るために供える物の総称。「草」は、料の意の語で、手向の物の意。下に詠歎がある。古は行旅の際、途中の無事を祈るために、行くさきざきの神に幣物を供えて祭をするのが風で、その幣物は、主としては布であったが、木綿《ゆう》、糸、紙なども用いた。○幾代までにか年の経ぬらむ 「幾代」は、幾年。「か」は、疑問の助詞で、係の助詞。「らむ」は推量。幾年ほどの年を、今までに経ていることであろうか。○一に云ふ「年は経にけむ」 「けむ」は過去の推量。年を経て来たことであろうかと、過去にしての想像。
【釈】 白浪の寄せる浜べの松の枝に付けてある手向の幣《ぬさ》よ、どれほどの年を今までに経ているのであろうか。一に云う、どれほどの年の間を経たのであろうか。
【評】 行幸の供奉をしつつ、途中、浜辺の松の枝に付けてある手向草を見られての感である。「幾代までにか」といわれているので、比較的長く朽ちない布であったろうと思われる。行幸とはいえ、行旅の心の緊張しているのは自然である。いつの時にか、我より先に、同じ道を旅した者があって、途中の無事を祈った跡のあるのを認めては、旅愁に似たものを感じずにはいられない。この歌はそれである。しかし旅愁には触れず、「幾代までにか年の経ぬらむ」と、幣の古さに力点を置いていわれているのは、旅愁という実感からやや遊離させたものである。これはいわゆる文芸化で、この態度は「白浪の浜松」という、当時としては新味ある続け方をされたのとも調和するものである。当時の歌の文芸性に向かっていた跡を示している歌といえる。
 「一に云ふ」の方は、手向草の古さの方に注意したもので、比較するとやや知的に見たものである。本行の方がまさっている。これは、山上憶良の作の結句である。
 
     日本紀に曰はく、朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊国に幸したまひきといへり
      日本紀曰、朱島四年庚寅秋九月、天皇幸2紀伊國1也。
 
【注】 日本書紀によって、行幸の年月を考証したものである。
 
(72)     勢《せ》の山を越えましし時の阿閉皇女《あべのひめみこ》の御作歌《みうた》
 
【題意】 勢の山は、和歌山県伊都郡かつらぎ町背の山。吉野川の北岸にある山。大和国から紀伊国へ越えるには必ず通るべき地にある。阿閉皇女は、天智天皇の第四皇女で、持統天皇の御妹。草壁皇太子の妃で、文武天皇の御母。後に即位して元明天皇と申す。行幸の際供奉をされたのであるが、この行幸は持統天皇四年九月で、その前年、すなわち三年四月に夫君は没せられたのである。御歌は夫君を哀悼されたものである。
 
35 これやこの 大和《やまと》にしては 我《わ》が恋《こ》ふる 紀路《きぢ》にありとふ 名《な》に負《お》ふ勢《せ》の山《やま》
    此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山
 
【語釈】 ○これやこの 現に眼前にあるものをさして、これがあのと指示する語法のもので、「や」は、感動の助詞、下に何々なるかの結びのあるもの。○大和にしては我が恋ふる 「大和にして」は、大和に在って。「は」は、大和と現にいる紀伊とを対させる意のもの。「我が恋ふる」は、下の「勢」に続く意のもので、連体形。○紀路にありとふ 「紀路」は、紀州街道というにあたる。「ありとふ」は、あると人のいうで、上と同じく「勢」に続く。○名に負ふ勢の山 「名に負ふ」は、名を負いもっているで、その名は、「勢」すなわち夫を意味する「背」である。一句は、背という名を負いもつている勢の山なのかで、結びは省略されている。
【釈】 これがあの、大和にあってはわが恋い慕うている背の、紀州街道にあると人のいっている、その背という名を負いもっているところの勢の山なのか。
【評】 今、紀伊の山をお越しになる時、その山はかねがね、紀州街道にある山と人からお聞きになっていることを思い出されると同時に、その名に刺激せられて、大和に在って絶えず恋い慕っていられる亡き背の君をさらに恋いしく思われ、それとこれとを一つにして詠まれた御歌である。古は、名というものに対しては、今よりはうかがい難いまでの神秘性を認めていたので、ここも「勢」という名によって、深い感を発せられたものと思われる。複雑な、あらわしやすくはない気分を、屈折をもった言い方であらわしていられるが、混雑なく、安定をもって詠まれているのみならず、突然感を発せられた、その際の気息の強さをもあらわしていられるのは、手腕のほどが思われる御歌である。実感をあらわすだけを目的とされたものと思われるが、技巧の上には、文芸性の高度のものがある。
 
(73)     吉野《よしの》宮に幸しし時 柿本朝臣人麿の作れる歌
 
【題意】 持統天皇の吉野離宮への行幸は、史上に見えるものは三十度を越ゆるまで多いもので、この行幸はいつのこととも知れない。柿本人暦は供奉の中に加わっていて、賀歌を献じたのである。行幸の際はもとより、何らか特殊なことのあった際に、賀の詞を申し上げることは、自然なことに思われる。詞に代えるに歌をもってすることは、上代の風習としてこれまたきわめて自然なことである。もっとも漢文学の影響のあったことは、懐風藻の詩によっても知られることで、この当時は、事に堪える者はすべきことになっていたと思われる。
 
36 やすみしし 吾《わ》が大君《おほきみ》の 聞《きこ》し食《め》す 天《あめ》の下《した》に 国《くに》はしも 多《さは》にあれども 山川《やまかは》の 清《きよ》き 河内《かふち》と 御心《みこころ》を 吉野《よしの》の国《くに》の 花散《はなち》らふ 秋津《あきつ》の野辺《のべ》に 宮柱《みやはしら》 太敷《ふとし》き座《ま》せば 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやひと》は 船《ふね》並《な》めて 朝川《あさかは》渡《わた》り 舟競《ふなぎほ》ひ 夕河《ゆふかは》渡《わた》る この川《かは》の 絶《た》ゆる事なく この山《やま》の いや高《たか》しらす 水激《みなぎ》らふ 滝《たき》のみやこは 見《み》れど飽《あ》かぬかも
    八隅知之 吾大王之 所間食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可間
 
【語釈】 やすみしし吾が大君の (三)に出た。○聞し食す天の下に 「聞し食す」は、一語。「聞し」は、「聞く」に敬詞「す」がついて聞かすとなり、「か」が「こ」に転じたもの。「食す」は、「をす」とも「めす」とも訓んでいる。「めす」の方が用例が多い。「知らしめす」と同意で、御統治になられるの意。「天の下」は、既出。○国はしも多にあれども 「国」は、地理的に、一区域の地をさしていう、郡県制度以前のもの。ここでは、下の続きより見ると、景勝の地域の意でいっているもの。「しも」は、強意の助詞「し」に詠歎の助詞「も」の添ったもの。「多」は、数の多い意で沢山。○山川の清き河内と 「山川の」は、山と川との揃っている意。「河内」は、川の中心、川の行きめぐっている地をも称する語。今は後のものである。「と」は、として。宮滝の地は、吉野川が屈曲して、三方を繞《めぐ》らしている形となっていて、河内というにあたる地勢である。山川の揃っている、清き河内の地であるとしての意。○御心を吉野の国の 「御心を」は、御心を寄すと続き、寄すを音の近い吉に転じて、同音異義で続けた枕詞。「吉野の国」の「国」は、上の「国」と同意味のもの。○花散らふ秋津の野辺に 「花散らふ」は、散るに「ふ」を添えて継続(74)をあらわしたもの。花が散りつづけているで 下の秋津の野の状態をいったもの。この花は、折から眼に見る実景を捉えていったもので、花は桜と思われる。それは人麿の長歌には、何らかの形において、その季節をあらわすのが、手法となっている関係においてである。「秋津の野辺」は、吉野川を中にして、宮滝と、その対岸の野をこめて広い範囲の称であったとみえる。離宮を「あきつの宮」とも呼んでいるからである。現在、宮滝の対岸、吉野川岸に秋戸という名が残っている。○宮柱太敷き座せば 「宮柱」は、宮殿の柱。「太敷き」は、「太」は、柱は大きを貴しとする意で、柱を讃える詞。「敷き」は、「知り」と並び用いられた語で、領有する意。ここは営む意。「座せば」は、いらせらるれば。宮の柱を太く営んでいらせられればで、この二句は古来の成句である。○百磯城の大宮人は 既出。ここは供奉の臣下の意。○船並めて朝川渡り 「船並めて」は、船を連ねて。「朝川」は、川を朝夕に分けていったもので、朝の川。この朝夕は、終日を具象的にまた文芸的にいおうとしてのもの。伝統的な言い方である。○舟競ひ夕河渡る 「舟競ひ」は、舟をこぎ競わせることをして。「夕河渡る」は、夕の河を渡るで、この二句は、上の二句と対句となっていて、供奉の臣下の天皇にお仕えすることのたゆみなさを、離宮の風景に関係させ、また繰り返しとして、力強くいったもので、この状態がすなわち賀の一面である。以上で、一段落である。○この川の絶ゆる事なく 「この川の」は、この川のごとく。「絶ゆる事なく」は、永遠にで、二句、川に寄せての賀である。○この山のいや高しらす 「この山の」は、この山のごとく。「いや」は、ますます。「高しらす」は、諸本異同がある。『新訓万葉集』の訓に従う。これは成語で、「高」は讃え語で、高大に。「しらす」は、御支配になられるの意で、下の「みやこ」に続く。この二句は、山に寄せて永遠を賀したもので、上の二句と対句になっている。○水激らふ滝のみやこは 「水激らふ」は、旧訓「水はしる」を『私注』の改めたもの。「漲る」に、「ふ」を添えて継続をあらわした語。水のあふれほとばしる意。滝の修飾。「滝」は、「たぎつ」という動詞の名詞となったもので、激流をいう。滝の所の意。「みやこ」は、都で、宮の在り場所であるが、ここは宮を主としての意。○見れど飽かぬかも いくら見ても飽かぬことで、きわめて賞美する意。慣用語である。都を勝景を通して讃えた語で、それがやがて賀である。
【釈】 安らかに御支配になっていられるわが大君の御統治になられる天下に、国はたくさんあるけれども、山と川との揃った、清き河内であるとして、御心をお寄せになるこの吉野の国の花の散り継いでいる秋津の野に、宮柱を太く御営みになっていらせられるので、供奉の大宮人は、船を連ねて朝の川を渡って御仕え申し上げ、舟をこぎ競って夕の川を渡って御仕え申し上げる。この川のごとくに永遠に絶えることがなく、この山のごとくにますます高大に御支配になられる、水のあふれつづけている滝の宮は、いくら見ても飽かないことであるよなあ。
【評】 賀の歌は、いわゆる言霊《ことだま》信仰の上に立ったもので、賀の意を言葉短く述べるべきものであったろう。ことにそれが天皇に対しまつる場合にあっては、この用意はいっそう強かるべきである。漢文学を模倣した詩にあっては、これを懐風藻に見ても、帝徳を讃えることが主となっているが、中国の君臣間ではそれが妥当であっても、わが国の天皇と臣下との間にあっては、この事は妥当なのではなく、我にあっては、むしろ天皇の尊貴を涜す怖れあるに近いことである。天皇に対する賀の歌を作るとすれば、ただ天皇の尊貴を讃えまつる心を述べるほかには法がないのである。人麿のこの賀歌は、その態度でのものである。
(75) 長歌の形式を選んだのは、短歌よりも長歌の方が伝統が久しく、したがって今のような儀礼の歌にあっては、古きに従うべきだとして選んだと思える。また、純粋に、単純であるべき賀の歌にあっては、情を尽くすことによって初めて心が遂げられるので、その意味では長歌の形式を必要としたことと思われる。
 この長歌は、二段から成っている。第一段は、天皇が吉野宮にいませば、供奉の臣下は、終日間断なくお仕え申し上げることをいって、天皇の尊貴を述べ、第二段は、吉野宮の永遠なるべきを、永遠なる川と山とに寄せて讃えまつっている。しかしこれは、この長歌を素材的に見てのことであって、人麿の態度は、この素材の扱い方の上にある。言いかえると、この素材の背後にある、語《ことば》とはせずにいるものの中に、正真の人麿の精神は漂っているのである。
 この賀歌は天皇に献ずるものであり、天皇は現に吉野の離宮にましますにもかかわらず、この賀歌にはいずこにも、天皇御自身の面影を偲ばせるものは、一語とてない。天皇は臣下よりは遙かに遠い、眼の及ばないあたりにいられて、臣下はただ心の中に感ずるよりほかないものとしているのである。第一段の、臣下が天皇にお仕え申す状態を述べている部分についていえば、人麿も供奉の臣下の一人で、当然そのお仕え申す者の中に加わっているはずである。しかるに、それをいうにさえ、人麿は第三者として、単にその状態を傍観している者のごとき言い方をしているのである。これは、人麿自身もその中に加わっているようにいうのは、憚りあることとして、わざと避けてのことと思われる。臣下の専心お仕え申すことをいうに、単に「朝川渡り」「夕河渡る」という間接な、何を目的にしたのかが明らかでない言い方をしている関係においてもそう解せられる。この言い方は、文芸性を欲してのものとは逆で、もしそれが許されるものであったならば、全然趣の異なったものとしていようと思われる。
 この扱い方は、第二段も同様である。第二段は宮の永遠と天皇の御威徳とを賀するもので、永遠を川に、御威徳を山に寄せて賀しているのである。言霊《ことだま》信仰の行なわれていた当時にあっては、力強い賀であったに相違ない。しかし賀歌を献ずるのは、天皇に対しまつってである。それを天皇と臣下との間に第一段と同じ隔てをつけ、誰の眼にも映ずるものである宮に言いかえ、しかもその宮を「みやこ」という語に言いかえ、さらにまた、「見れど飽かぬかも」という、勝景に対する讃え語をもって結末としているのは、意識し、用意している人麿の態度からのものと思われる。
 この長歌で注意される今一つの事は、人麿は限られた範囲におき、許される程度において、文芸性を発揮しようとしていることである。ここに文芸性というは、美しさである。
 第一段で、「御心を吉野の国の、花散らふ秋津の野辺」というのは、離宮の所在をいうに、合理的な範囲において、努めて美しさをいおうとしたものと思われる。ことに「花散らふ」は、桜の花の散り継いでいることで、眼前の実景であったろうと取れる。また、第二段の結末の、「水激らふ滝のみやこは見れど飽かぬかも」は、上にいったように、主としては事を間接にしたものと思われるが、同時に他方では、宮を「みやこ」とし、勝景として見る心も伴ったもので、双方が一つになった複雑な味わいをもったものとなっている。これも許される範囲において(76)文芸性を求めたものと思われる。
 全篇単純な構成をつけ、直線的に進行させ、第一段、第二段の結末は、いずれも対句を用いてその事を強化しているなどの点は、事と相俟ってのもので、当然とすべきである。
 
     反歌
 
37 見《み》れど飽《あ》かぬ 吉野《よしの》の河《かは》の 常滑《とこなめ》の 絶《た》ゆる事《こと》なく 復《また》かへり見《み》む
    雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 説事無久 復遠見牟
 
【語釈】 ○常滑の 「常滑」は、「とこ」は、床岩の略で、頂の平らな大岩、「なめ」は、滑《なめ》で、滑らの語幹。表面の滑らかな床のごとき大岩で、川岸の最も印象的なもの。頂の平らな岩の連なりの称だといっている。巻十一(二五一一)に、「隠口の豊泊瀬道《とよはつせぢ》は常滑《とこなめ》の恐《かしこ》き道ぞ」、その他にもある。「の」は、のごとく。
【釈】 いくら見ても飽くことのない吉野の川の、その岸にある常滑のごとくに、絶えることなく後もまた立ち還ってみょう。
【評】 永遠のものである常滑に寄せて、離宮を賀したものである。常滑は、吉野川の特色で、ことに離宮のあたりは代表的に多い。川と山に寄せた心を進め、物と場所を局限することによって妥当性を進めて、それに寄せて賀したのは適切である。その常滑をいうに、「見れど飽かぬ吉野の河の」を添えているのは、常滑の在り場所を具体的にいうとともに、その場所の美しさをも言い添えたもので、長歌と同じ用意をもったものである。
 この反歌の初句「見れど飽かぬ」は、長歌の結句の繰り返しとなっている。人麿よりいささか古い時代の反歌は、長歌の繰(77)り返しのものが多い。反歌はそれから発生したものと思える。反歌に新生面を拓いた人麿であるが、今は立ちかえって、古い型によっている。これは賀歌という、伝統を重んずべきものであるから、意識して、わざとしたものと思われる。この反歌で人麿は、はじめて間接ながら自身をあらわしている。古い型をとおして、新意を出したのである。
【題意】 題は前の歌と同じである。前の歌と同時のものか、または別時のものかは明らかでない。しかし同時のものと思われなくはない。それは人麿は、明らかに長歌の連作をしている上に、前の歌は、大宮人の天皇に仕え奉ることをいったのに対し、この歌は、山の神、川の神が天皇に仕え奉るものなので、天皇の絶対の尊貴を讃えまつるために、観点を変えて、連作として作ったものとも見得られるからである。今は連作と見る。
 
38 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》 神《かむ》ながら 神《かむ》さびせすと 芳野川《よしのかは》 たぎつ河内《かふち》に 高殿《たかとの》を 高知《たかし》りまして 上《のぼ》り立《た》ち 国見《くにみ》を為《せ》せば 畳《たたな》はる 青垣山《あをがきやま》 山神《やまつみ》の 奉《まつ》る御調《みつぎ》と 春べは 花《はな》かざし持《も》ち 秋《あき》立《た》てば 黄葉《もみち》かざせり【一に云ふ、黄葉《もみちば》かざし】 逝《ゆ》き副《そ》ふ 川《かは》の神《かみ》も 大御食《おほみけ》に 仕《つか》へ奉《まつ》ると 上《かみ》つ瀬《せ》に 鵜川《うかは》を立《た》ち 下《しも》つ瀬《せ》に 小網《さで》さし渡《わた》す 山川《やまかは》も 依《よ》りてつかふる 神《かみ》の御代《みよ》かも
    安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 芳野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 国見乎爲勢婆 疊有 青垣山 々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭刺理【一云、黄葉加射之】 逝副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨
 
【語釈】 ○やすみしし吾が大王の 既出。○神ながら 「ながら」は、そのままにの意で、神にましますままに。この「神」は、天皇を現つ神《かむ》としてのもの。○神さびせすと 「さび」は、上二段の動詞で、ここは、その名詞形。そのものに相応した振舞いをする意をあらわす語。「せす」はサ行変格の未然形に敬語の助動詞「す」の添ったもの。「し給ふ」にあたる。「と」は、とて。神としての性をあらわし給うとての意。○たぎつ河内に 「たぎつ」は、水の激しく流れる意。「河内」は、前の歌のものと同じく、河の繞らしている地。○高殿を高知りまして 「高殿」は、高い(78)殿で、離宮には楼があったのである。「高知り」は、「高」は、讃え語で、前に出た。「知り」は、「太敷く」の「敷く」と同じ、全体では、高殿を高大にお営みになられて。○上り立ち国見を為せば 「国見」は(二)に既出。「為せ」は、上の、敬語「せす」の已然形。なされば。他に用例のない語。○畳はる青垣山 「畳はる」は、畳まり重なる意で、下の「山」の状態。「青垣山」は、青い垣のごとき山で、「青」は樹木の色。成語である。この垣は、単なる比喩ではなく、宮にあるべき物とする垣の意のもので、周囲の山。○山神の奉る御調と 「山神」の「み」は、神の意で、山の神。「奉る」は、献ずの古語。「御調」は、「御」は美称。「調」は租税であって、公の御料として、民のその土地に産する物を献じた、その物の称。「と」は、として。山の神の献ずる貢物として。山の神は山その物で、山にして同時に神であるとした、いわゆる自然神である。これは上代の信仰である。その神が、民と同じく天皇に貢物を献ずる意で、天皇を神を支配する絶対神としていっているもの。○春べは花かざし持ち 「春べ」の「べ」は、方の意で、時の上でいったもの。春の頃。「かざし」は、古くは、時の花を髪に挿すのが風となっていた。後の簪《かんざし》はその次第に転じたもの。山の上に咲く花を、山神《やまつみ》のかざしている物とし、それをすなわちその土地の貢物と見たのである。○秋立てば黄葉《もみち》かざせり 「秋立てば」は、秋になれば。「かざせり」は、かざしている。もみちの「ち」は清音である。○一に云ふ、黄葉かざし 一本には、「かざし」と連用形にして、切らずにあるのである。○逝き副ふ川の神も 「逝き副ふ」は、副って流れ逝くで、下の川の状態。「副う」のは高殿に副うので、宮を守る状態とみての語で、川は吉野川である。上の「青垣山」と対させてある。「川の神」は、山神《やまつみ》と同じ性質のもの。「も」は、並べてのもの。○大御食に仕へ奉ると 「大御食」は、天皇の御食饌。「仕へ奉る」は、天皇の御為にする一切をさす語。しようとの意。「と」は、とて。○上つ瀬に鵜川を立ち 「上つ瀬」は、「つ」は「の」。上流。「鵜川」は、鵜飼。「立ち」は、「狩猟に立つ」というと同じで、催す意。鵜飼を催させて。四段活用の他動詞。させるのは川の神である。○下つ瀬に小網さし渡す 「小網」は、小さな手綱で、魚をすくい上げて捕る物。「さす」は、小網《さで》を水にさし入れる意。「渡す」は、こちらの岸から、あちらの岸まで行く意で、魚を捕る状態。上と同じく、人のすることであるが、川の神がさせることとしていっている。○山川も依りてつかふる神の御代かも 「山川も」は、山の神も川の神もともに。「依りてつかふる」は、「依りて」は帰服して。「つかふる」は貢物を献上する意。「神の御代」は、天皇を神として、御代を限りなく讃えた意。「かも」は、感嘆の助詞。
【釈】 安らかに御支配になられるわが大君の、神そのままに、神にふさわしき行ないをなされるとて、吉野川のはげしく流れる河内に、高殿を高大に御営みなされて、その上に登り立って国見をなされると、畳まり重なって、宮を繞っている青垣のごとき山の、その山の神の献ずる貢物として、春の頃は花をかざしとしてもち、秋になると黄葉をかざしとしている。宮に副って流れて同じく守りをする川の神も御饌に献上するとて、上流には鵜飼のわざを催させ、下流には小網《さで》をさし入れてこの岸からかの岸まで行っている。山の神も川の神も帰服して、お仕え申している神の御代であることよ。
【評】 この歌は、天皇にして同時に神にましますところの天皇の、その神の方面を、吉野宮をとおして讃え、それによって賀の心をあらわしたものである。
 天皇の神であることは、天皇があらゆる神々を帰服させていられることをあらわすよりほかに法はない。その帰服は、そのことを具体的にいうことによって、はじめて髣髴《はうふつ》させうるものである。その神々とは山にして同時に山神《やまつみ》である神、川にして同時に川の神であるいわゆる自然神で、帰服とは、それらの神(79)神が、天皇の御民と同じく、その土地で産する物を貢として献ずることである。これは信仰の異なって来た後世から、単に政治的の眼で見ると、何の奇もないことであるが、自然神に対して、その暴力の発揮を極度に畏怖していた上代の心より見れば、それらの神々を帰服せしめて、み民と異ならない従順な態度において貢を献じさせているということは、神々の神にしてはじめて可能なことだったのである。自然神に対する畏怖の情は、貴族にして同時に知識人であった階級によっては、多くの文辞とはなっていないのであるが、農業を生業とし、かたわら狩猟・漁撈をも兼ねていた一般民衆に取っては、根深い、抜き難いものであったろうと思われる。また貴族といってもその下階の者にあっては、その生活上、庶民の生業と密接な関係をもっていたところから、知識の有無にかかわらず、ほとんど庶民と選ぶところのない感情をもたされていたことだろうと思われる。人麿のこの歌によってあらわしている心は、広汎なる範囲にわたっての臣民の情を代弁したもので、ひとり彼のみの心ではなく、まして文芸性のものではないと思える。
 しかし、この感情を表現するに際して取った人麿の態度は、高度の文芸性をもったものである。前の歌においては、天皇を統治者としての天皇の一面に限り、その尊貴を表現するに、天皇と臣下との間に遠い距離を付け、それをすることによって尊貴をあらわした。しかるに今は、その距離を徹底的に徹し去り、神《かむ》ながら神《かむ》さびしたまうとて、高殿に登って国見をする天皇の眼をとおして、山神《やまつみ》、川の神の買物を献ずる状態を御覧になるという、きわめて直接な、したがって主観的な方法を取っているものである。この方法によればこそ、山の春の花、秋の黄葉、川の鵜飼、小網《さで》によっての漁撈が、神の奉仕となりうるので、かりにこれを人の眼をもって見たこととしたならば、たとえいかにいおうとも、神秘性を髣髴しうるものとはならない事柄であろう。すなわち人麿は、神である天皇の神性を表現するには、それよりほかにはない、唯一の方法を選んでいるのである。しかもまた他方により見れば、この神と神との交渉という神秘性を帯びた事柄が、客観的に、印象の鮮明な、むしろ劇的とも感じられるものとなっていて、主観を客観に、神秘を平明にするという矛盾したことを、微妙に調和し得てもいる。この手腕は高度の文芸性のものというべきである。
 この長歌は二段から成っていて、第一段は起首から、結末に近い「小網さし渡す」までで、第二段は、「山川も」以下である。第一段は、天皇自身の御覧になる事柄が、天皇の限りなき尊貴の現われである意で、天皇への賀となり、第二段は、それに密接な関連をもちつつ、臣下より奉る賀となっているのである。この即不即の状態にも、文芸性の凡ならざるものがある。表現技法で注意されることは、第一段の長対句である。すなわち「畳はる」より「黄葉かざせり」までの八句と、「逝き副ふ」以下「小網さし渡す」までの八句は、長対句で、これが一首の中心である。対句は抒情の高潮をあらわす技法で、操り返しの進展したものである。したがって大体は二句の対句である。八句という長対句は、人麿特有のもので、他には企及し得たものがないのである。その自然にして充実していることも独得で、ここに見るとおりである。
 
(80)     反歌
 
39 山川も よりて奉ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも
    山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母
 
【語釈】 ○山川もよりて奉ふる 長歌の結末を、前の歌の反歌の場合と同じく繰り返したもの。この二句は形容詞的修飾語で、下に修飾される名詞が続くべきであり、さらにまた一首の意味からいえば、それが一首の主格となるべき重いものである。しかるにその名詞か省かれた形になっている。「神ながら」は副詞であって、その資格はないというので、問題とされている。作意からいうと、「神」という語がなくてはならないところである。その上からいうと、長歌の結末の「山川も依りてつかふる神の御代かも」の「神」までをここ繰り返し、その「神」の「神ながら」と続く関係において、「神」を「神ながら」に籠めたものと見るよりほかはないものに思われる。「神ながら」は熟語であるから「神」の一語にの み掛けることは許されず、また例もないことである。籠めていると思われる。全体にこの長歌は措辞が簡勁であり,またこの反歌は、ことに精神の昂揚したものであるから、そうした飛躍を行なったものと解される。○神ながら 既出。神そのままにの意で、下の「船出せすす」に続く。○たぎつ河内に 「河内」は、意味の狭い方のもので、河の内。激しく流れる河の内への意。○船出せすかも 「船出」は、船に乗って出る意で、それをされるのは天皇である。「せすかも」は,長歌の語。なされることよなあ。
【釈】 山の神も川の神も帰服してお仕え申す神の神そのままに、激しく流れる河の内へ, 船出をなされることであるよ。
【評】 この長歌と反歌とは一貫して、天皇の神ながら神さびしたまう方面を申したものである。長歌は、この静的な方面をいったのに対し、反歌は、形においては繰り返しであるが、作意としては方面を変えて、その動的な方面をいったものである。この静的動的ということは和み魂、荒み魂と言いかえられるもので、神性の両面である。またたぎつ河内に船出するということは、すでに大宮人の行なっていることで、特殊な事柄ではない。それを神ながら神さびしたまうこととしているのは長歌の場合と同じく人麿の主観で、そこに賀の心があるのである。この反歌は長歌の延長で、心としては繰り返しに近いものであるが、上の反歌と同じく、人麿が自身の眼をもって見た状態で、その意妹を帯びさせたものである。
     右、日本紀に曰はく、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。八月吉野宮に幸す。四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月、吉野宮に幸す。五年、辛卯正月、吉野宮に幸す。四月、吉野宮に幸すといへれば、いまだ詳に知らず、何れの月従駕にして作れる歌なるかを。
(81)      右、日本紀曰、三年己丑正月、天皇幸吉野官。八月幸吉野宮。四年庚寅二月、幸吉野宮。五月幸吉野宮。五年辛卯正月、幸吉野宮。四月、幸吉野宮者、未詳知、何月従駕作歌。
 
【注】 日本書紀より、吉野宮の行幸を抄出し、この歌のいつのものであるかが明らかでないことを考証したものである。ここには天皇の五年までを抄してあるが、六年以後十一年までの行幸を合わせると、二十九度に及んでいるのである。編集者の注である。
 
     伊勢国に幸しし時 京に留まれる 柿本朝臣人暦の作れる歌
 
【題意】 この行幸は、左注によると天皇の六年三月である。この時は都は浄見原にあったのである。人麿は供奉に加わることができず、京に留まって、行幸先のさまを想像して作ったのである。
 
40 嗚呼見の浦に 船乗すらむ をとめらが 玉裳のすそに しほみつらむか
    鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 ※[女+感]嬬等之 珠裳乃須十二 四寶三都良武香
 
【語釈】 ○鳴呼見の浦に「嗚呼見の浦」は、日本書紀に、この年の五月、「御阿胡行宮時云云」という記事があるのにより、阿胡は三重県英虞郡にあり、当時の国府でもあった。その辺りの浦を「あこの滴」といい「こ」にあてた「児」を「見」と誤写したのではないかというのである。『注釈』は委しく考証し、鳥羽湾の西に突出している小浜の入海ではなかろうか、現にその地名が残っているという。従うべきである。○船乗すらむ 「船乗」は、熟語で、船に乗ること。ここは、舟遊びである。「らむ」は、現在推量の助動詞。○をとめらが 「をとめ」は、若き女の意。供奉の女官たちを親しんで呼んだもの。○玉裳のすそにしほみつらむか「玉裳」の「玉」は、美称。「すそ」は裾。「しほみつらむか」は、海の潮が満ちるであろうかで、「らむ」は上と同じ。舟中に坐している若い女と、その舟を繞り囲んでいる海の潮との関係(82)を、玉裳という感覚的なものを逢して想像しての状態である。
【釈】 鳴呼見の浦に今、舟遊びをするだろうおとめたちの、美しい裳の裾に、今、満潮が、寄せていることであろうか。
【評】 大和の平原にのみ生活していた大宮人は、海に対して強いあこがれをもち、また強い魅力を感じさせられていたことは集中の歌によって明らかである。また、天皇は女帝にましますところから、したがって供奉の女官は多かったことと思われる。行幸先を想像すると、第一に浮かんできたことは、「鳴呼見の浦」という土地で、そこは行幸の予定地となっており、また人麿の知っていた所でもあったろう。想像の中心は、満潮を待っての女官たちの舟遊びで、「玉裳のすそにしほみつらむか」はその想像の描写である。浦にある小さな舟に乗り、海の上に出ている若い女官たちの、印象的な裾を繞って、蒼い潮が近々と寄せている状態は感動的なものである。客観的に描写しているが、「らむ」の現在推量を二つまで重ね、「潮満つ」で、満潮時をもあらわしているところ、非凡な技倆である。
 
41 釧着く 手節の崎に 今もかも 大宮人の 玉藻苅るらむ
    釼著 手節乃埼二 今毛可母 大宮人之 玉藻苅良武
 
【語釈】 ○釧着 「釧」は、古の装身具の一種で、臂へ巻いた物で、ひじまきという。釧を着ける手と続いて、手にかかる枕詞。○手節の崎 鳥羽港の海上に答志島があり、そこの崎。○今もかも 「も」は、上の「も」は強意、下の「も」は詠歎の助詞。「か」は、疑問の助詞で係。○玉藻苅るらむ 玉藻の「玉」は、芙称。「藻」は、海草で食料となるもの。藻を苅るのは海人としては生業の一部であるが、大宮人のするのはもとより遊びのためである。
【釈】 手節の崎で、現に今、大宮人は玉藻を苅って遊ぶであろうか。
【評】 行幸の路順を思うと、人麿も知っていたろうと思われる手節の崎が浮かんでくる。そこに想像されることは、大宮人の、海人の生業の一部である藻苅りをまねて興じている光景である。海に憧れている大宮人には、これはきわめて珍しく楽しい遊びで、人麿も、それを想像すると、心躍るものがあったとみえる。その心を、「今もかも」という急迫した語によってあらわし、現在推量の「らむ」で結んでいるのである。この一句が一首の眼目で、これによって一首を生動せしめている。自然と人事との交錯は、この歌に限らず、すベてに通じてのことであるが、「手節の崎」という土地をいうに「釧着く」という人事を配し、「玉藻」に「大宮人」を配している緊密さは、目だたぬものであるためにことに心を引く。作者としてはおそらく無意識なものであろうが、そこに文芸性の現われが感じられる。
 
(83)42 潮さゐに 伊良虞の島べ こぐ船に 妹乗るらむか 荒き島回を
    潮左為二 五十等兄乃鴫邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒鴫廻乎
 
【語釈】 ○潮さゐに 「潮さゐ」は、潮の騒ぐ意。「さゐ」は「騒」の転じたものという。満潮、天侯などの関係よりのもの。潮さいの時に。○伊良虞の島べ 既出。現在は愛知県に属している。前の歌の答志島と伊良湖岬との間は三里で、いらごの渡りといい,途中に幾つもの島がある。『注釈』は、答志島の先、伊良胡崎寄りにある神島を、大まかにいっているのではないかとし、それでも遠過ぎるとしている。人麿の想像しての地であるから、ありうることである。○妹乗るらむか 「妹」は、男より女を親しんで呼ぶ称で,単に親しみの意味でも呼ぶ。前の歌で「をとめら」と呼んだその女官を呼びかえたものと取れる。同じく舟中の女官ではあるが、前の歌の平穏な光景であったのに較べ、これは女官としては不安を感ぜしめる想像であるところから、その気分から親しんで主観的な呼び方にかえさせたものと取れる。○荒き島回を 「島回」は、島辺り。「を」は、「であるものを」の意を含んだ感嘆の助詞。
【釈】 潮さいの時に、いらごが島の辺りをこぐ舟の上に、妹が乗っていることであろぅか。そこは浪の荒い島の辺りであるのに。
【評】 いらごが島における女官たちが想像に浮かんでくると、女官たちはそこの海でもまた舟遊びをすることだろうと思い、それと同時に、そこの海の浪の荒さを知っているところから、にわかに不安を感じてきて、前の二つの場所を想像した時のような平穏な気分ではいられず、その光景を、不安で暗くしたものである。その不安が、前にいった「妹」という特別な呼び方をさえさせているのである。
 以上三首、一境一境気分が異なっているのであるが、いずれも既知の土地の上に大宮人を想像しての気分であって、その変化は一に土地その物が起こさせているものである。同一の人々が、環境の異なるに従って状態を異にしてくるものとし、それを想像の上に描いているところに、人暦の文芸性がみられる。一面連作の趣のみえるのは、それはおのずからなる結果とみるべきである。
 
     当麻真人麿の妻の作れる歌
 
【題意】 上と同じ行幸の際、供奉に加わった夫の当麻磨を思って、京にいるその妻の作った歌である。当麻氏は用明天皇ょり出た。真人姓。麿の伝は明らかでない。
 
(84)43 吾がせこは 何所行くらむ おきつもの 隠の山を 今日か越ゆらむ
    吾勢枯波 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六
 
【語釈】 ○吾がせこは何所行くらむ 「吾がせこ」は、既出。最愛の称。「何所行くらむ」は、「何所」は後世のいづこ。「行く」は都を中心としての語で、都へ向かって来る意。「らむ」は現在推量。供奉の帰程を思って自問したもの。○おきつもの隠の山を 「おきつも」は、沖の藻にあてた字。沖の藻は、浪に障れている物として、隠れるの古語「なばり」に続け、その「なばり」を,地名の名張に転じての枕詞。「隠の山」は、名張の駅家の辺りにある山。名張は三重県にある地で、現在も名張市がある。大和の飛鳥、藤原から伊勢へ行くには、必ず通るべき要地である。飛鳥から名張までは、二日あるいは三日の旅程だという。○今日か越ゆらむ 「か」は、疑問の係の助詞。今日は越えるだろうかで、第三句以下は自問に対して自答したもの。
【釈】 なつかしい夫は、どの辺を帰っていることであろうか。名張の山を今日は越えているであろうか。
【評】 供奉の夫の上を思いやっての心であるが、その心は落ち着いて、明るく、夫を気にかけてはいるが、不安をもってはいないことが注意される。表現は、二段とし、第一段で自問し、第二段で自答している。また、語の続け方は直線的で、平明である。これらは口承文学の特色で、ことにその自問自答の形は、旋頭歌の影響を思わせられるものである。この時代は、口承文学より記載文学に移りつついた時代で、これはその前期の系統を引くものである。
 
     石上大臣の従駕にして作れる歌
 
【題意】 右上大臣は、右上朝臣麿。石上氏は餞速日命の子孫で物部氏の支族。麿が大臣となったのは、この時より後の慶雲元年に右大臣、さらにその後の和銅元年に左大臣となったのである。したがって大臣とあるのは、後の官位にょるものである。従駕は行幸の供奉で、行幸は、前と同じ時。
 
44 吾妹子を いざ見の山を 高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも
    吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
 
【語釈】 ○吾妹子を 妻に対する最愛の称で、前の歌の「吾がせこ」に対するもの。吾妹子を、いざ見むといぅ意で「いざ見」にかけた枕詞。○(85)いざ見の山を高みかも 「いざ見の山」は、三重県飯南郡の西端と奈良県吉野郡との境にある高見山であろうという。この山はその付近の山の中で最も高く、また、吉野と伊勢神宮との交通要路にあるといぅ。「高み」は、「高」を動詞に化したもので、高き故にの意。「かも」の「か」は、疑問の係の助詞。○大和の見えぬ 「見えぬ」は、見られぬで、「か」の結びで、連体形。○国遠みかも 大和の国の遠いゆえなのか。
【釈】 吾妹子をいざ見ようという名をもったいざ見の山が高いゆえであろうか、なつかしい大和の国が見えないことよ。それとも大和の国が遠いゆえであろうか。
【評】 麿はこの当時も重職にいたのであるが、行幸の供奉をしていると旅愁を感じ、婉曲ながらそれをいっているのである。これは身分の低い者にはなく、高い者にだけ限られていたこととみえる。このことは言いかえると、身分高く、したがって教養も高い者は、文芸性を発揮しようと意識していたものとみえる。表現としては、口承文学の伝統の上に立ったもので、初句より四句まで直線的に続け、結句で多少の屈折を付けたもので、全体としても、明るく、軽く、浸透性の少ないものである。しかし同時に、記載文学としての細かい技巧をも伴わせていて、その点が注意させられる。「大和」といい、「国」と繰り返していっているのは、その家であり、家とは妻と同意語である。今は繰り返しによってその心を暗示している。これがすでに細かい技巧てある。しかしそれにとどめず、「いざ見の山」の枕詞として、「吾味子を」という語を据えきたり、それによってこの心を強めてもいる。これらはすべて記載文学の技巧で、しかも高度なものである。また、三句「高みかも」は、心としてはそこに休止はないが、調べとしては置いてある。それは、結句の「国遠みかも」と、調べの上で繰り返しの形を取らせょうとしているがためである。この技巧は、本来としては口承文学のものであるが、その技巧の用法の心細かさは、記載文学的なものといえる。口承文学と記載文学とが、極度の心細かさをもって交錯している歌で、時代を語っているものである。この歌も相聞である。ここに加えた理由は、前の歌と同じである。
 
     右、日本紀に日はく、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔にして戊辰の日、浄広肆広瀬王等を以ちて留守の官となす。ここに中納言三輪朝臣高市麿、その冠位を脱ぎて朝に(敬と手)上げ、諌を重ねて曰さく、農作の前、車駕いまだ以ちて動きたまふべからずと。辛未の日、天皇諌に従はずして、遂に伊勢に幸したまふ。五月乙丑の朔にして庚午の日、阿胡の行に御しきといへり。
      右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以浄廣肆廣瀬王等為留守官官。於是中納言三輪朝臣高市暦、脱其冠位撃(敬と手)上於朝、重諌曰、農作之前、車駕未可以動。辛未、天(86)皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。
 
【左注】 日本書紀によって、伊勢国への行幸のことを考証したものである。浄広肆は、天武天皇の十四年に定められた位階であり、広瀬王は、系譜は未詳。小治田の広瀬王として歌(巻八・一四六八)がある。養老六年正月、正四位下で卒す。留守官は、天皇の行幸の際、京にとどまって、諸司の鑰を管し、宮城を守る官。三輪朝臣高市暦は、三輪氏は大国主命の後。朝臣は天武天皇の十三年に賜わった姓。「冠位を脱ぎて朝に(敬と手)上げ」は、位階は冠によって順序が定められていたので、それを脱ぎて撃(敬と手)上げるのは、位階を返上する意。阿胡の行宮は上にいった。
 
     軽皇子の安騎野に宿りたまひし時、柿本朝臣人麿の作れる歌   
 
【歌意】 軽皇子は後の文武天皇。御父は皇太子草壁皇子(日並知皇子尊)の第二子で、持統天皇の十二年二月皇太子となり、その八月即位した。安騎野は奈良県宇陀郡で、今の松山町迫間付近の野である。この野は皇室の御狩場となっていた。「宿りたまひし」は、この行啓の時は、御父草壁皇子の薨去になられた後で、追慕の心をもって、生前、狩猟をなされた野に、その事のあった冬の季節に行啓になり、御宿りになった意である。草壁皇太子の薨去は、持統天皇の三年四月で、それから即位までの間である。人贋はその供奉の中に加わっていたのである。
 
45 やすみしし 吾が大王 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷か す 京を置きて 隠口の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根 禁樹押し靡べ  坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪落る 阿騎の大野に 旗すすき しのを押し靡べ 草枕 たびやどりせす 古念ひて
    八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須登 太教為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而
 
【語釈】 ○やすみしし吾が大王 (三)に出た。○高照らす日の皇子 「高照らす」は、高く照らしているで、日の修飾。「日の皇子」は、日神の御末の意。以上、四句は、君主であるとともに神である意で、天皇、またはおもだった皇族に対する讃詞。ここは軽の皇子に対していったもの。(87)○神ながら紳さぴせすと (三八)に出た。○太敷かす京を置きて 「太敷かす」は、太敷くの敬語。(三六)に出た。高大に御支配になる。「京を
置きて」は、「大和を置きて」(二九)と同じ形で、京をさし置いて。京は、浄御原か藤原か不明である。○隠口の泊瀬の山は 「隠口」は、隠れる国の意で、その地勢をいぅ意で、泊瀬にかかる枕詞。大和国風土記残篇に、「長谷郷云々、古老伝云,此地両山潤水相夾而、谷間甚長、故云隠口長谷也」とある。「く」は「くに」。「泊瀬」は、今、桜井市、初瀬町といっている町を中心として、黒崎、出雲などをその一部としている旧、朝倉村をも含んだ地であったと思われる。「は」は、他と対させる意の助詞。○真木立つ荒山道を 「真木立つ」の「真木」は、檜、杉など立派な木の通称。「立つ」は、そうした木の生い立っている。「荒山道」は、人どおりの稀れな荒い山道。「を」は、感歎の助詞で、ものをの意のもの。○岩が根禁樹押し靡べ 「岩が根」は、岩で、「根」は、木根、垣根などの根と同じく、地に固定している物に添えていう語で、単に石というに同じ。「禁樹」は、訓み難くしているが、正宗敦夫氏の、「道をさえぎる木」の意に従い「さへき」とよむ。「押し靡べ」は押し伏せての意。岩が根と禁樹の双方に対してのこと。○坂鳥の朝越えまして 「坂鳥の」は、坂を飛び越える鳥のごとくの意で、鳥は習性として朝早く塒を出て、餌をあさるところから、「朝越え」の比喩としたもの。枕詞の一歩前のもの。「越えまし」は、「越え」の敬語。朝の間に、泊瀬の山をお越えになって。○玉かぎる夕さり来れば 「玉かぎる」の「玉」は、玉。石や貝で作ったもの。「かぎる」は、ほのかにかがやく意。夕、ほのか、はるかなどにかかる枕詞。「夕さり釆れば」は、夕ベと移り来れば。○み雪落る阿騎の大野に 「み雪」の「み」は、美称。「雪落る」は、眼前の景。鷹狩は冬の事と定まっていた。「大野」の「大」は、野をたたえて添えたもの。○旗すすきしのを押し靡 「旗すすき」の「旗」は、薄の穂の旗のように見えるところからの語で、熟語。眼前の物。「しの」は、小竹を初め、茅、荻など禾本科植物の総称。「押し靡べ」は、上と同じ。○草枕たぴやどりせす 「草枕」は、「たび」の枕詞。「せす」は、「す」の敬語。○古念ひて 「古」は、御父尊のこの野に狩をしたまいしこと。この二句は、この行啓の御趣意をいったもので、行啓は狩のためではなく、古を思ってのことで、そのために旅宿りをしたまうの意。当時は、近い過去も古といった。
【釈】 やすみししわが大王にして、高照らす日の皇子には、神とましますままに神の御行ないをなされようして、高大に御統治こなられる京をさし置いて、泊瀬の山は、真木の立ちつづく荒い山道であるのに,そこの岩をも遮り立っている木立をも押し伏せて、坂を越える鳥のごとくに朝の間にお越えになられて、夕ベと移り来ると、雪の降っている阿騎の大野に、旗のさまをしている薄と、小竹などを押し靡かせて、旅宿りをしたまう、古の父尊の御事をお思いになって。
【評】 日並皇子尊の殯宮の時、人麿の挽歌として作った長歌の反歌の一首に、 
 ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも(一六八)
といぅのがある。薨去になられた皇子尊に対しての忠誠は、いつまでも皇子を偲び奉りて忘れないといぅことが、残された唯一のものであり、また偲び奉るには、何らかの物または事を通さなければならないといぅのが当時の人の心であった。この歌は、その偲び奉るべき御門が、薨去とともに荒廃に委ねらるべきことを思って、その意味で悲しんだのである。軽皇子の安騎野への行啓は、それと心を同じくしたもので、父皇子の好んで鷹狩をなされた野へ、その事のあった季節において行啓になり、(88)父皇子を御追慕になろうとしたのである。当時は狩は、男子にとっては代表的の遊びであって、日並皇子尊の殯宮へ仕え奉っていた舎人《とねり》の一人は、
  褻衣《けごろも》を時|片設《かたま》けて幸《いでま》しし宇陀の大野《おほの》は思ほえむかも(一九一)
と悲しんでいる。宇陀の大野とはすなわち安騎野である。父皇子追慕の場所としては、安騎野は絶好の場所だったのである。
 この歌は、長歌と短歌と相対立した形になっているものである。長歌の方では皇子の上をのみ申し、短歌の方で臣下の心を述べる形となっている。今、長歌についていうと、心としては殯宮の歌に近いものであるが、事としてはそれとは別で、したがって言うことにも制限がなくてはならない。今は、皇子を通してその心をいおうとしているのであるから、一段と制限がある。皇子に対して捧げまつるべき尊敬の心は、なれなれしい物言い、すなわち立ち入つての物言いをするのは、あくまで遠慮すべきである。一首の眼目を結末に置き、「たびやどりせす古念ひて」という、距離を置いた、つつましい物言いにとどめているのは、こうした際の、臣下の態度として、当然なものと思われる。しかしこの「古念ひて」は、世の常のものではないことをいおうとし、それをいうにも、同じ用意から、婉曲に、余情的にいおうとして、その点には力をそそいでいる。起首の「太敷かす京を置きて」以下、結末の「草枕たびやどりせす」まで、すなわち一首のほとんど全部は、道中の容易ならぬことをいうことによって、追慕の情のいかに強きかを暗示したものなのである。この暗示的な、すなわち余情的な言い方が、皇子に対して臣下の言うを許される限度であるとしたのである。
 藤原の都から、宇陀の安騎野までの道は、困難な道であるにもせよ一日路である。まして父皇子の狩のためにしばしば通われた道でもある。その困難にも程度がある。しかるに今は、「隠口の泊瀬の山は真木立つ荒山路を、岩が根|禁樹《さへき》押し靡べ」と、きわめて困難な道のようにいっている。また、鷹狩は冬季のもので、野に宿るのは普通のことであるのに、「み雪落る阿騎の大野に、旗すすきしのを押し靡べ」と、これまた、きわめて侘びしいことのようにいっている。楽しんですることと悲しんですることとは、同じことでも甚しく異なって感じられるのは当然であるが、今の場合は、意識的にその困難、佗びしさを強調したもので、その強調によって、皇子の追慕の深さを暗示しようとしたものと思われる。ここに人麿の表現技巧が認められる。
 
     短歌
 
【題意】 長歌に添う短歌は、反歌と称してきたのが、ここにはじめて短歌とある。反歌と同じ意味で用いるようになったものと思われる。長歌の題に単に「歌」と記し、反歌が添うようになってから「并に反歌」と記しているのは、伝統の上からは比較的古い記し方と思われる。長歌は古い形式で、歌といえば長歌と定まっており、その長歌の結末を、短歌形式で繰り返したものが反歌だったと思われる。しかるに、長歌より後れて発達した短歌が、時代の要求に適しているところから勢力をもち、従来単なる繰り返しであった反歌が、長歌よりなかば独立した趣をもつようになってきたのであるが、その延長として、反歌を短歌と記(89)すようにさえなったものと思われる。反歌を長歌よりなかば独立させたのも、いったがように人麿によって創められたことである。今また、反歌を短歌と記すのも、同じく人麿の作において見るのである。この記し方は、人麿のしたものと思われる。
 
46 安騎《あき》の野《の》に 宿《やど》る旅人《たびびと》 うち靡《なび》き 寐《い》も宿《ぬ》らめやも 古《いにしへ》念《おも》ふに
    阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓
 
【語釈】 ○宿る旅人 宿っている旅の人で、供奉の臣下のみを指したものと取れる。皇子の御上は長歌の方で止め、こちらは臣下のみのことをいったことは、以下の歌でも察しられる。○うち靡き寐も宿らめやも 「うち靡き」は、安らかに寐る状態を、草などに喩えていつた語。「寐《い》」は、「寐る」の名詞形。「も」は、感歎。「宿らめや」の「や」は、已然形の「め」を受けた反語。「も」は、感歎。熟睡などできようかできないの意。
【釈】 安騎の野に宿っているわれわれ供奉の旅人は、身を横たえて熟睡などできようかできはしない、薨去になった皇子尊を思うので。
【評】 以下四首の短歌は、長歌で皇子の御事を申したのに対させて、供奉の臣下の事のみをいったものである。また、時間的にも対させて、皇子の方は、夕方までで止め、こちらは、宵から朝までへかけての心持をいっている。その上からいうと、この歌は宵の心持で、身を横たえて寐る気にもなれないことをいったものと取れる。しかし長歌とは繋がりをつけて、長歌の結句「古念ひて」と同じく、こちらも「古念ふに」といっている。
 
47 真草《まくさ》苅《か》る 荒野《あらの》にはあれど 黄葉《もみちば》の 過《す》ぎにし君《きみ》が 形見《かたみ》とぞ来《こ》し
    眞草苅 荒野者雖有 黄葉 過去君之 形見跡曾來師
 
【語釈】 ○真草苅る荒野にはあれど 「真草」の「真」は、「真木」のそれと同じく、立派なという意で、「真草」は丈高い、荒野にふさわしい草。「荒野」は、「荒山」のそれと同じく、人跡の稀れな、すなわち荒涼たる野。○黄葉の過ぎにし君が 「葉」は、「黄葉の過ぎ」という語が集中に多いところから推して、「葉」の上に「黄」の脱したものと『代匠記』が考証した。黄葉のごとくで、その脆く散るところから「過ぎ」に意味で続く枕詞。「過ぎにし」は、命過ぎにしの意で、死にしの意。君は、日並知皇子尊。○形見とぞ来し 「形見」は、今もいう語。目に見ない人の記念として見る物の意で、今は安騎野である。「来し」の「し」は、「ぞ」の結び。
【釈】 丈高い草を苅るだけの、人跡稀れな野ではあるけれども、亡くなられた君の記念の野として来たことである。
(90)【評】 荒涼たる野の中に、思い出の悲しみに浸っていて、野の荒涼感の深まるとともに、悲哀も深まって来た時、われとわが状態を意識し、その状態の本意であることを強く思った心の表現である。時間のことはいってはいないが、全体が連作である関係上、そのことは前後の歌で暗示してい.ると取れる。それだとこの感を発したのは、真夜中と思われる。そう思うと、この心理は自然なものとなってくる。「真草苅る」と人事にからませ、また「黄葉の」と季節にからませての用法は、さりげないものであるが、緊密で、深い哀感にふさわしい。
 
48 東《ひむかし》の 野《の》に 炎《かげろひ》の 立《た》つ見《み》えて 反《かへ》り見《み》すれば 月西渡《つきかたぷ》きぬ
    東 野炎 立所見而 反見爲者 月西渡
 
【語釈】 ○東の野に 「東」は、日向《ひむか》しの意で、東の古語。用例の少なくないもの。「野」は、安騎野。○炎の立つ見えて 「炎」は、火気でも日光でも、その気が大気に映ってゆらゆらする状態をいう語で、名詞。今は、日が出るに先立って、その気が野の大気に映っているもの。「立つ」は、現われるで、炎のゆらめく状態。○反り見すれば月西渡きぬ 「反り見すれば」は、振り返って反対の方すなわち西を見れば。「月西渡きぬ」は、月の入らんとして斜めになった意。
【釈】 東方の野には、日の出に先立つ陽炎のゆらめくのが見えて、振り返って見る西方の空には、夜の月が傾いた。
【評】 夜明け前の野の景の直写である。夜より明け方にと時が推移するに伴って、環境としての野の光景が変わってくる、その変化のために、浸りつづけていた悲哀から離れた状態である。現在ここと推定される安騎野は、さして広いものではないという。それだと、広漠たる野であるがごとく感じているところに、心理の自然があるといえ、またそこに人麿の文芸性があるともいえる。また、この歌は、東の炎と、傾ぶく月との対照には、皇子と父尊とが暗黙の間にからんでいるがごとき感を起こさせるものがある。人麿の気分のうちに、そうしたものがあったのではないかと思われる。
 
49 日並《ひなみし》の 皇子《みこ》の命《みこと》の 馬《うま》なめて 御猟《みかり》立《た》たしし 時《とき》は来向《きむか》ふ
    日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獵立師斯 時者來向
 
【語釈】 ○日並の皇子の命の 「日並」は、語意とすると、日に並んで統治する意で、いわゆる摂政の意で、普通名詞と解される。今は皇太子草壁皇子の尊称で、やがてこの皇子の御名のごとくなった語。「皇子の命」は皇太子を尊んでいう称。○馬なめて御猟立たしし 「馬なめて」は、馬を(91)並べて。「御猟立たしし」の「立たしし」は.「立つ」の敬語「立たす」の過去。御猟にお出かけになったことのあったの意。〇時は来向ふ 「時」は、意味の広い語で、今は時刻とも季節とも取れる。ここは季節である。「来向ふ」は、来て対している意で、その時刻となっているの意。
【釈】 日並皇子命が、馬を連ねて御猟にお出かけになられたことのあった、ちょうどその季節となっている。
【評】 第一首の結句「古念ふに」また第二首の結句「形見とぞ来し」という心の、その最高潮は、この歌の「御猟立たしし時は来向ふ」である。すなわちお偲びする皇子を、その形見の野において、ありありと眼の前に偲ぶことのできる時だからである。これが四首の連作の頂点で、前の三首はこの頂点の内容をなすためのものとも言いうるものである。長歌の題詞において「宿り給ひし」といって、その内容も宿られるに止め、短歌の方も、一|夜《よ》の宿りの推移をいい、思い出の頂点において止めている形のものである。それがこの行啓の趣意であったことが明らかである。歌の上では、猟ということには全然触れていないことが注意される。
 
     藤原宮の※[人偏+殳]民《えだちのたみ》の作れる歌
 
【題意】 藤原宮の御造営の際、※[人偏+殳]《え》として仕え奉った民の作った歌である。「※[人偏+殳]」は「役」に同じ。藤原宮の御造営のことは、左注にある。「※[人偏+殳]」というのは、当時の制として、国民は租調のほかに、労力をも献ずべきこととなっていて、それを※[人偏+殳]と呼んだ。一年に十日間の労力である。※[人偏+殳]として出ることを「※[人偏+殳]に立つ」とも、「※[人偏+殳]立《えだ》ち」ともいった。「※[人偏+殳]民」の訓は定まっていない。「えだちの民」と訓む。この歌は、※[人偏+殳]民の作った歌となっているが、歌そのものは、天神地祇の心を合わせてこの事を助けたまうのに加えて、※[人偏+殳]民の専心に奉仕しているさまを、第三者として見ての心を述べたものである。その点から見るとこの題詞は、歌の内容を示そうとするよりも、歌そのものの性質を示そうとしているものである。こういう題詞の添え方は、宮中の歌※[人偏+舞]所《うたまひのつかさ》においてされたものではないかと思われる。それだとすれば、その題詞を、そのままにここに移したものと思われる。作者はもとより不明である。
 
50 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》 高照《たかて》らす 日《ひ》の皇子《みこ》 荒妙《あらたへ》の 藤原《ふぢはら》がうへに 食《を》す国《くに》を 見《め》し賜《たま》はむと 都宮《みあらか》は 高知《たかし》らさむと 神《かむ》ながら 念《おも》ほすなへに 天地《あめつち》も よりてあれこそ 磐走《いはばし》る 淡海《あふみ》の国《くに》の 衣手《ころもで》の 田上山《たなかみやま》の 真木《まき》さく 檜《ひ》の嬬手《つまで》を もののふの 八十氏河《やそうぢかは》に (92)玉藻《たまも》なす 浮《うか》べ流《なが》せれ 其《そ》を取《と》ると さわぐみ民《たみ》も 家《いへ》忘《わす》れ 身《み》もたな知《し》らず 鴨《かも》じもの 水《みづ》に浮《う》き居《ゐ》て 吾《わ》が作《つく》る 日《ひ》の御門《みかど》に 知《し》らぬ国《くに》 依《よ》し巨勢道《こせぢ》より 我《わ》が国《くに》は 常世《とこよ》に成《な》らむ 図《ふみ》負《お》へる 神《くす》しき亀《かめ》も 新代《あらたよ》と 泉《いづみ》の河《かは》に  持《も》ち越《こ》せる 真木《まき》のつま手《で》を 百《もも》足《た》らず いかだに作《つく》り 泝《のぼ》すらむ いそはく見《み》れば 神《かむ》ながらならし
    八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國平 安之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曾 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 眞木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國  依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 眞木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
 
【語釈】 ○やすみしし吾が大王、高照らす日の皇子 既出。持統天皇を申している。○荒妙の藤原がうへに 「荒妙」の「妙」は、織布の総称。「荒」は、繊維の粗《あら》い意で、その反対の「和《にぎ》」に対した語。藤、葛などの繊維がすなわちそれで、意味で、「藤」にかかる枕詞。「藤原」は既出。古くは「藤井が原」と呼んだことが、次の歌で知られる。「が」は、「の」と似ているが、下の語を主とした場合に用いる。「うへ」は、上で、「野上《ののへ》のう萩」(二二一)、「高円《たかまと》の秋野《あきの》のうへの」(四三一九)などと同じく、そこにある物につき、その地域を指す語。○食す国を見し賜はむと 「食す国」の「食す」は、(三六)に出た。食すの古語で敬語。転じて、外部の物を身に取り入れる意から、統治の意となったもの。統治する国、「見し」は、「見る」の敬語で、「見」をサ行四段に転じたもの。これも、「食す」と同じく、転じて御統治の意となった語。○都宮は高知らさむと 「都宮」の訓は、『考』の訓で、古語拾遺にある語である。「み」は、美称。「あらか」の「あら」は、「現る」の語幹で、現われる処の意であろうと『講義』はいっている。宮殿の意。「高知らさむ」は、(三八)に出た。「高」は讃え詞。「知らさむ」は、知るの敬語で、ここは御造営になろうの意。○神ながら念ほすなへに 「神ながら」は、(三八)に出た。「念ほす」は、「念ふ」の敬語「思はす」の転じた語。「なへ」は、並みの転で、上のことに並んでで、同時に、それにつれての意。神ながら思し召されると同時に。○天地もよりてあれこそ 「天地」は、天つ神、地《くに》つ祇《かみ》の意。「も」は、並ぶ意のもので、下の「み民」に対するもの。この「天地」は、造営の檜材を、近江国の田上山が供給し、その運搬のことを宇治河より泉河がしていることをいったもので、下の続きがそれである。「よりてあれこそ」は、「よりてまつれる」と(三八)に出た。天皇に帰服してあ(93)ればこその意。「あれ」からただちに「こそ」に続くは古格で、後世だと間に「ば」とあるところである。「こそ」は係で、下の「浮べ流せれ」に続く。○磐走る淡海の国の (二九)に出た。○衣手の田上山の 「衣手の」は、衣手は袖で「手」を畳音の関係で「田」に続けて枕詞としたもの。「田上山」は、滋賀県栗太郡瀬田町、大戸川下流の南岸にある山。『講義』は正倉院の古文書に、「田上山作所」とあるところから、この山に、今日いう製材所のあったものだろうといっている。○真木さく檜の嬬手を 「真木さく」は、「真木」は檜、杉などの良材の称であるが、ここは続く「さく」との関係から檜と取れる。「さく」は、裂くである。檜は木理《もくめ》の関係から、これを縦に裂くには、楔《くさぴ》の類を打ち込み、裂け目を作ると、たやすく薄く裂くことができ、これは今日でも実行している方法である。「真木さく」は、檜を裂くところの「ひ」と続け、その「ひ」を同音の「檜」に転じたものと解される。「ひ」という語は、古典の上には見えないものであるが、長野県の松本地方では、口語として用いているのを耳にしている。それは建築の際、縦の柱と横の椽木《たるき》との間に、いささかの隙間のできたような場合には、そこを締めるために、隙間に合わせた楔を作って打ち込む、その楔を「ひ」といい、それを打ち込むことを「ひを打つ」ともいっているのである。「楔」という名称と「ひ」という名称とは関係のあるものに思われる。古典の上で、この「ひ」に関係のある語として、『講義』は、古事記上巻、八十神が大穴牟遅神を虐げる条に、大木の割れ目に矢という物を茹《は》めた、それを「氷目矢《ひめや》」といったのを引いている。「矢」というのは、楔が鏃《やじり》の形をしているからの称で、「氷目失」は、楔として用いる矢という意で、「ひの矢」の意と思われる。今は「ひ」をそれと解し、これが同音異義の関係で「檜」の枕詞となっていると解しておく。「嬬手」は、「嬬」は稜《つま》で、木造りした木のもっている角《かど》。「手」は、料で、檜の木造りをした物。○もののふの八十氏河に 「もののふ」は、物の部《ふ》で、「物」は、多くの物の意。「部」は、職業団体の称で、貢物をもって、また勤労をもって、朝廷に奉仕する多くの集団の意で、廷臣はその集団の長すなわち緒であった。「八十氏」は、そうした奉仕をする氏が多かったところから続けたもの。要するに朝廷の百官の意で、それが武臣を意味する語となったのは、やや後のことで、意味が転じたのである。「氏」を「宇治」に、同音異義で転じて、序詞としたもの。「宇治河」は、近江の海から発して、淀河に合流する河の、宇治を通過する時の名称で、上流は田上川、瀬田川、下流は泉川(木津川)である。○玉藻なす浮べ流せれ 「玉藻なす」は、「玉藻」は、(四二〉に出た。玉藻のごとく。「浮べ流せれ」は、上の「天地もよりてあれこそ」の結びで、天地の神、すなわち上代信仰による山にして同時に山つみであり、川にして同時に川の神である神々が、山つみはその貢物として檜の嬬手を献じ、川の神はその役として、それを浮かべて流したというのである。注意されることは、「天地」とはいうが、この山と川の神は、いずれも「地」の神であって、「天」と称すべきではないことである。以上、一段である。○其を取るとさわぐみ民も 「そ」は、檜の嬬手。「取る」は、流れるのを取り止める意。「と」は、とて。「さわぐ」は、忙しく立ち働く状態をいったもの。「み民」の「み」は、天皇の民とのゆえで、重んじて添えたもの。これは、民自身も、同じ意識からいう称。今は前者の意である。「も」は、上の「天地」に対させたもので、もまた。○家忘れ身もたな知らず 「家忘れ」は、公のために、私の家の事は忘れ去って。「身も」の「も」は、「家」に対させたもの。「たな知らず」の「たな」は、「たな曇り」など、例が少なくない。全くというにあたると、安藤正次氏はいっている。「知らず」は、知られずで、上の「忘れ」と同じ心を、強く繰り返したもの。○鴨じもの水に浮き居て 「鴨じもの」は、「じもの」は、のごときものの意で、「じ」は、シク活用の語幹で、体言を形容詞化するために添えたもの。名詞形で、連用修飾語。例の多いものである。「水に浮き居て」は、宇治川の流れの中に浮かぶ形で立っていてで、この語は、文意としては後の「泉の河」に続くものである。○吾が作る日の御門に 「吾が作る」は、御民われが造営する。「日の御門」は、日の御子の宮殿の御門で、(94)日の御子は天皇。御門は宮殿を代表させての語で、宮殿の意。天皇の宮殿にの意。○知らぬ国依し巨勢道より 「知らぬ国」は、未知の国で、わが国以外の異国。「依し巨勢」は上よりの続きは「依し来せ」で、その来せを「巨勢」に転じたもので、「吾が作る以下」は、その序詞である。「依し来せ」につき、『全註釈』は、「来せ」は、希望の助動詞「こす」の命令形で、寄ってほしいの意とし、証として「妻依来西尼《つまよしこせね》」(巻九、一六七九)、「許余比太尓郡麻余之許西祢《こよひだにつまよしこせね》」(巻十四・三四五四)を挙げている。しかし「依し」は「依り」と訓んでいたのを『注釈』は「依し」と訓むべきだとしている。上の二例だと同語だとしてのことである。「依し」はサ行下二段の他動詞で、したがって「依し来せ」は、天地の神がわが朝廷に、異国を帰服させ給えの意だとしている。これに従う。この序詞は特殊なもので、形としては同音異義でかかる普通のものであるが、心としては、天皇の御代の尊さを示している事実なのである。この御代に異国人の帰化したということは、際立った事実としては史上に現われていないがこの種の事は、すでに古い時代より始まっているもので、歴代、継続的に行なわれていた事と思われるので、この御代にも当然あった事と思われる。今は、御代を讃える心をまずもって、その事を取り立てて強調し、これを序詞の形をもっていっているのである。「巨勢」は、今の奈良県|御所《ごせ》市古瀬付近。巨勢山の東にある地。「巨勢道」は、その巨勢へ行く道。○我が国は常世に成らむ 「常世」は、恒久不変の国の意で、中国の道教でいう不老不死の国の意味である。「成らむ」は、変わらむで、これは「図《ふみ》」に続く。○図負へる神しき亀も 「図負へる」は、模様を背中にもっているで、その模様は、上の「我が国は常世に成らむ」という意味をもったものである。「神しき亀」は、「神しき」は、不思議の意。「図負へる亀」は瑞祥としての物で、その思想は中国から来たものである。中国でそれを瑞祥とするのは上代からで、尚書に禹《う》の時代からこれを尊信したことを伝えている。わが国では唐時代の制を伝えて、延喜式の瑞祥の中には、神亀を大瑞と定めている。今もそうした心をもっているのである。「亀も」の「も」は、並べる意のもので、これを田上山、宇治河の神々と並べて、天つ神のその意をお示しになったものとしたのである。すなわち上の「天地」といっている中の、山川の神の地《くに》つ祇《かみ》であるのに対させて、「天」すなわち天つ神の方にあてていっているのである。○新代と泉の河に 「新代」は、新しき御代で、『講義』はこの「新」は、「天(ノ)命維(レ)新(ナリ)」というそれで、御時世の一新をいったものだろうといっている。「と」は、としてで、新代の瑞祥としての意。さて形の上からは、「新代と出づ」と続き、その「出づ」を、地名の泉の河「いづ」に転じて、「吾が国は常代に成らむ」以下「新代と」までの長い語を、「泉」の序詞としているのである。しかしこれを意の上から見ると、巨勢道より神しき亀が出たという事実にもとづき、それを天意を示すところの大瑞なりとし、当時の信仰によって、これを天つ神の神意の現われであると解して、天皇の御代を讃えているものである。これを序詞の形としているのは、文芸上の技巧を喜ぶ心からのことで、意《こころ》としては、この一首の中の重大なる部分なのである。「泉の河」は、今の木津川である。山城国|相楽《さがら》郡にある川で、伊賀より来たり、男山の麓で淀川(宇治川)に合流する。『講義』は、木津という名は、古、流し来る材木を、そこで陸揚げをしたので、それにちなんで命じられた名であろういい、正倉院文書、天平十一年に、「泉木屋所」という語があると考証している。「泉の河に」は、泉河の方にで、宇治川を流れ下る嬬手の、淀まで流れて行ったのを、それに合流する泉河の河尻への意。○持ち越せる真木のつま手を 「持ち越せる」は、持ち運んで来たで、そうした檜のつま手をである。持ち運ぶのは、水の上においてである。〇百足らずいかだに作り 「百足らず」は、百には足らぬで、五十の古語「い」に、意味でかかる枕詞。「いかだに作り」は、筏に組み。〇泝すらむいそはく見れば 「泝すらむ」は、溯らせようとで、泉河の河尻から、陸揚げをする場所、すなわち木津に向かって溯らせる意。「いそはく」は、争うの意の「いそふ」を、ハ行四段に活かして、体言としたもので、争うことの意。争うのは、事を競い励む意である。泝らせようと(95)争って働く様を見ると。○神ながらならし 「らし」は、証拠を挙げての推量をあらわす助動詞で、ここは、天地と御民の仕えまつる状態がすなわち証拠である。天皇はまさしくも神そのままにいらせられることであろうの意。
【釈】 やみみししわが天皇にして、高く照る日神の御子《みこ》なる天皇が、藤原の地にして、御領有の国を御統治になられようと、おわします大宮をめでたく御造営になられようと、神としてお思いになられると同時に、天の神地の祇も、帰服してその事に奉仕しようとすればこそ、淡海の国の田上山の、檜の木の製材を宇治河の上に、玉藻のように浮かべて流すのであった。流れ来るその材を取り止めようと、忙しくも立働く天皇の御民は、奉仕のためにその家を忘れ、その身も全く忘れ去って、鴨のように水に浮かんでいて、(われらが作る日の御神の御子の大宮に、未知の異国の人を帰服させ給えと思う、その来《こ》せにゆかりある巨勢道から、わが国は恒久不変の国に変わってゆこうということをあらわす模様を、その甲背にもっている霊妙なる亀が、新たなる時の来たる瑞祥として現われ出でた、その出ずという名をもつ)泉の河の方にと、御民らの取り止めて持ち運んだ檜の製材を、ここでさらに筏に組み、それを陸揚げする場所まで溯らせようと競い励んでいる状態を見ると、天つ神|地《くに》つ祇《かみ》とともに御民の奉仕するところの天皇は、まさしくも神そのままにましますのであろう。
【評】 題は、藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌とあるが、歌の内容から見ると、この歌を作った者は※[人偏+殳]民ではなく、※[人偏+殳]民の競い励んで立ち働いている状態を、第三者の立場に立って傍らから観ており、それを天皇の神ながらの御勢のしからしむるところだとして、天皇を讃えまつる料としている人である。それのみならずその人の、この讃え詞をいっている場所も明らかにしている。それは淡海の田上山から田上川に流し下す檜の嬬手が、勢田川、宇治川と一つ水流を流れ下り、その水流が山城において泉川と合流し、それともに淀川となろうとする地点に立っているのである。水流を利用して運んで来た檜の嬬手は、その地点で取り止め、今度は泉川を人力をもって溯らしめ、便宜な所で陸揚げをする方針なのである。運搬の上からいうと、宇治川と泉川との合流地点は、最も肝要な場所で、※[人偏+殳]民の第一に立ち働くのもそこである。この歌の作者の立っているのはその地点である。この人は、※[人偏+殳]民を監督している人でなくてはならない。藤原宮造営の事を奉行している、廷臣の一人と見るべきであろう。
 歌は、藤原宮造営の事を通して、天皇の御稜威《みいつ》を讃えたものである。造営その事よりも、それによって現われる御稜威の方に力点を置いたものである。御稜威は、(三六)より(三九)にわたる「吉野宮に幸《いでま》しし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」に現われているがごとく、天皇の御民のみならず、この国土につながる地《くに》つ祇《かみ》も、御民と同じく天皇に奉仕し、加えて天つ神も加護したまうということによってあらわされるのである。そしてこれは、眼前に展開している事実に即することによって、その意を全うするものである。
 一首の構成は、起首において「神ながら念ほすなへに」といい、結末に「神ながらならし」といって、御稜威を讃うる心を一貫せしめ、その中間に、「天地」と「御民」の状態を、具象的に叙しているのである。
 「玉藻なす浮べ流せれ」までは、一に地《くに》つ祇《かみ》の奉仕の状態であ(96)る。山であると同時に山つみである田上山は、そこから産する物として、檜の嬬手を貢物として天皇に献ずる。田上山に発して田上川となり、末は淀川になる川は、川であると同時に川の神であって、これは※[人偏+殳]として、檜の嬬手の運搬を、天皇のために奉仕する。いずれも地つ祇であるが、天皇に帰服して御民と同じく奉仕するのである。かくて檜の嬬手は、宇治川が泉川を合わせて淀川となろうとする地点まで運ばれゆくのである。
 宇治川と泉川との合流地点において、檜の嬬手は、※[人偏+殳]の御民の手によって取り止められ、泉川を、いささか溯らしめて陸揚げをして、事としては一段落つくのである。流れの中に立ち、その嬬手を取り止め、これを筏に組んで泉川を溯らしめる段となって、はじめて御民の奉仕が現われる。
 地つ祇と御民との奉仕を通しての天皇の御稜威は、以上の※[目+者]《み》やすいことによってあらわしているが、「天地《あめつち》も依りてあれこそ」というその「天」の方も、御稜威を徹底的にあらわす上では触れなくてはならないことである。また、それに触れるとすれば、具象的な事実を通してでなければならない。事実のそれに値するものはあった。それは史上に明記されるような際立ったものではないが、巨勢道から神しき亀が現われ出たということである。亀を瑞祥とすることは、先々帝である天智天皇の紀にも見え、この御代以後は著しくふえていることである。これは中国思想の影響を受けた信仰であるが、これを外形から見ると、「我が国は常世にならむ、図《ふみ》負へる神しき亀も、新代と出づ」というのは、道教の信仰と、天命説との混淆したものであって、影響というよりはむしろ模倣というべきものである。ことに「新代」という語《ことば》のもっている内容は、わが国には不適当なものである。しかしこのように語を尽くしていっている精神を思うと、これは中国でいうところの天意ではなく、天つ神の天皇の御代に対して暗示し給う加護である。その事は、「吾が作る日の御門に、知らぬ国依し巨勢」という、天皇の御代を讃える詞と、対句のごとき関係においていわれているのでも明らかである。すなわち本質としては、中国思想を摂取しているのみで、そのために変質させられているものではないのである。この事は、この歌の作者が、天皇の御稜威を徹底的にいうには、天つ神の加護をいわずにはやめられないとして、この歌の構成の上からは、加えるに困難なものであるにもかかわらず、「巨勢」と「泉の河」との序詞という形をもって、しいていっている点からも、明らかに看取できることである。この歌の作者の、作者としての技倆は、かかってこの一点にあるといえる。
 天つ神の加護を具体的にいうことによって、「天地」「御民」のすべてを整えることができ、それが天皇の御稜威に帰することとなったので、結尾の「神ながらならし」が重い響のあるものとなったのである。
 一首は、平明に、直線的に間《ま》が緩やかで、口承文学の色彩の濃厚なものである。「吾が作る日の御門」以下の、天つ神の加護をあらわそうとする点は、微細感をもったものであるが、しかし全体の調子を破るものではなく、調和を保ち得ているものである。こうした作をする作者が、誰であったとも伝えられていないのは、おそらく身分の低かったがためであろう。作の態度の上からみれば、上にいったがように、造営の奉行の一人である廷臣だとみえるが、これは当時の作風として、作者は実際に即している態度を取るべきものとしているところからされて(97)いることで、実際の作者は、当時の歌※[人偏+舞]所に仕えていたいわゆる歌人《うたぴと》の一人ではなかったかと思われる。それで歌としては優れているが、身分の関係上その名を省かれたのではないか。またこの歌の題詞の、上にいったがごとく不適切であるのも、それが歌※[人偏+舞]所のもので、他と紛れざるためにのみ添えたものであったためではないか。これは臆測にすぎないものであるが、これについで収められている「藤涼宮の御井の歌」も、これと怪しきまでに揆を一つにしていて、単にこの歌のみではないからである。
 
     右、日本紀に曰はく、朱鳥七年癸巳の秋八月、藤原宮の地に幸す。八年甲午の春正月、藤原宮に幸す。冬十二月庚戊の朔乙卯の日、藤原宮に遷り給ふといへり。
      右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸2藤原宮地1。八年甲午春正月、幸2藤原宮1。冬十二月庚戊朔乙卯、遷2居藤原宮1。
 
【左注】 日本書紀から、藤原宮造営に関する記事を抜いて列ねたものである。
 
     明日香宮より藤原宮に遷居《うつ》りし後の志貴|皇子《みこ》の御作歌《みうた》
 
【題意】 明日香宮より藤原宮へ遷られたのは、七年十二月である。この歌は、その年以後の春に作られたものである。志貴皇子は、天智天皇の第七皇子で、持統天皇には御弟である。光仁天皇の御父であられるところから、その御代に追尊ありて春日宮御宇天皇と申し、世に田原天皇ともいう。歌の題によると、皇子は遷都の後も、旧都にとどまられたようである。
 
51 采女《うねめ》の 袖吹《そでふ》き反《かへ》す 明日香風《あすかかぜ》 都《みやこ》を遠《とほ》み いたづらにふく
    ※[女+采]女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
 
【語釈】 ○采女の 「采女」は、後宮に仕える女官で、供奉、御饌の事を職とする、下級の官である。日本書紀、孝徳巻に採択の条件が載っている。「凡采女者、貢2郡少領以上姉妹及子女、形容端正者1」というのである。原文「妹※[女+采]」という文字は、中国六朝時代にもっぱら行なわれた文字で、それを採ったのだと『講義』は考証している。○袖吹き反す明日香風 「反す」は、翻す。「明日香風」は、明日香の風で、明日香の地に吹いている風をそう呼んだ。好んで用いられた言い方で、佐保《さほ》風、泊瀬《はつせ》風、伊香保《いかほ》風などの例がある。「吹き反す」は現在法であるが、事としては過去と(98)なったもので、感情の上でいっているのである。すなわち吹き反すべきの意である。下に、感歎の意の詞が省かれている形のもの。○都を遠みいたづらにふく 「都を遠み」は、都が遠きによりてで、都は藤原。遠きは、明日香より藤原をいうので、幾何《いくばく》の距離もないのである。が、それを「遠み」といって趣をもたせたのである。「いたづらに」は、甲斐なくで、吹いても作用しうる雅《みや》びた物がない意でいったもの。
【釈】 采女の袖を吹きひるがえすべき明日香風よ、都が遠いによって、今はその甲斐もなく吹いている。
【評】 明日香の都が旧都となって、さびれてきた中にとどまっていられた皇子が、そのさびしさを嘆かれた歌である。その感を誘ったものは風であるが、その風は、采女の袖ふき反すことを連想させるものであるから、春のことであったろうと思われる。春風に吹かれた旧都のさびしさを感じさせられたとすれば、心理の自然がある。歌は、春風を叙した形となっているが、春風はすなわち皇子の心で、美しい采女の雅びやかなさまを見せていた皇居が遷されたので、以前とは異なって、明日香には、心を寄せるべきものもないというのである。これを態度の上から見ると、この歌は我と心を遣られるためのものであるが、その主観を、季節のものという中にも、春の風という、捉えては言い難い物に託され、一見、風そのものを叙したがような隠約な詠み方をされているのは、純文芸性のもので、しかもその高度なるものといぅべきである。前後の歌の、技巧としては優れたものが多いが、態度としては大体実用性の範囲にとどまっている中に、純文芸性の作をしていられることは、時代的にみて注目させられることである。
 
     藤原宮の御井《みゐ》の歌
 
【題意】 藤原宮の御井は、大宮に属した井の称であるが、藤原の地に皇居をお奠《さだ》めになったのは、その井がおもなる理由の一つ(99)をなしていたことと思われる。清列な飲用水は必ずしも獲やすくはなく、一方これは居を占むるには第一に考えなければならないものだからである。歌で見ると藤原は、藤井が原とも呼んでいたことがわかる。この藤井が原の方が旧名で、藤井というのは、飲用に適する水の、井と称すべきものが、叢生している藤の中にあり、その藤は、その井を保護する物として特別に扱われていたところから、自然その井の名となり、原の方も、その藤井のあるところから、藤井が原と呼ばれるに至ったものと思われる。題は、藤原宮の御井の歌とあって、御井その物を詠んだ形としてあるが、作意は、新たに遷られた藤原宮に対する賀歌であって、宮の永遠を賀する心を、湧いてやまない御井の清水に寄せたものである。
 
52 やすみしし わご大王《おほきみ》 高照《たかて》らす 日の皇子《みこ》 荒たへの 藤井《ふぢゐ》が原《はら》に 大御門《おほみかど》 始《はじ》めたまひて 埴安《はにやす》の堤《つつみ》の上《うへ》に 在《あ》り立《た》たし 見《め》したまへば 大和《やまと》の 青香具山《あをかぐやま》は 日《ひ》の経《たて》の大御門《おほみかど》に 春山《はるやま》と しみさび立《た》てり 畝火《うねび》の このみづ山《やま》は 日《ひ》の経《ぬき》の 大御門《おほみかど》に みづ山《やま》と 山《やま》さびいます 耳為《みみなし》の 青菅山《あをすがやま》は 背面《そとも》の 大御門《おほみかど》に 宜《よろ》しなへ 神《かむ》さび立《た》てり 名《な》ぐはし 吉野《よしの》の山《やま》は 影面《かげとも》の 大御門《おほみかと》ゆ 雲居《くもゐ》にぞ 遠《とほ》くありける 高知《たかし》るや 天《あま》の御陰《みかげ》 天知《あめし》るや 日《ひ》の御陰《みかげ》の 水《みづ》こそは 常《とこしへ》にあらめ 御井《みゐ》の清水《ましみづ》
    八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳高之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宜名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曾 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曾婆 常尓有米 御井之清水
 
【語釈】 ○やすみしし 既出。○わご大王 「わご」の「ご」は、「わが」の「が」が、下に続く「大」の「お」に同化されて、「ご」と転じたものである。他にも例のあるもの。これは歌が謡い物、すなわち口承文学であった時期の名残りをとどめているものである。○高照らす日の皇子 (四五)に出た。○荒たへの (五〇)に出た。○藤井が原 題意にいった。○大御門始めたまひて 「大御門」は、言葉どおり皇居の御門の意に(100)も用い、また、皇居を代表させて、皇居の意でも用いている。ここは皇居の意のもの。「始めたまひて」は、造営をお始めになって。○埴安の堤の上に 「埴安」は、埴安の池。(二)に出た。○在り立たし見したまへば 「在り立たし」の「在り」は、動詞に冠することによって、その動詞の意の継続をあらわすためのもので、「あり通ふ」「あり待つ」「あり経る」「あり渡る」など、類例の多いものである。「立たし」は、立つの敬語。しばしばお立ちになってで、飛鳥浄見原宮より、行幸になられてのこと。「見し」は、見るの敬語で、見をサ行四段に活かしたもの。御覧になれば。○大和の青香具山は 大和を香具山に冠したのは、香具山を重んじていうがためで、讃え詞《ごと》である。「青」は、山の木立の繁っているさまをいったもので、賞美の意からである。「は」は、他と対させた意の助詞。○日の経の大御門に 「日の経」は、上代の方角の呼び方で、これについで、「日の緯《ぬき》」「背面《そとも》」「影面《かげとも》」と出ているので、一括していう。経緯は、本来織物の糸の名で、これを太陽の運行の道に配して、方位の名としたものである。起源は中国である。わが国のものとしては、日本書紀、成務巻に、「因《ニ》以2東西1為2日縦1、南北為2日横1、山陽曰2影面1。山陰曰2背面1」とある。これによると、朝日を基として、それに向かっての線、すなわち東西を日の経《たて》と呼び、これに対して日中の線、すなわち南北をもって日の横と呼んだのである。横というのは、経《たて》に対しての緯《ぬき》をいうのであるから、日の横は日の経とも呼びうるものである。中国では、日中の太陽を基としているので、南北を経とし、それに対して東西を緯としているのである。「影面《かげとも》」は、山を基としての名で、影面《かげつおも》すなわち光線の直射する面で、これは南であり、「背面《そとも》」は、背面《そつおも》で、影面に対して光線のあたらぬ面すなわち北である。前者は太陽その物を基としての称、後者は太陽に山を加えた物を基としたもので、基とするものを異にしており、したがって重複もしている。また、本朝月令に引く高橋氏文には、「日堅、日横、陰面、背面(乃)諸国人(乎)割移(天)」とある。これによると、日の竪は東、日の横は西、陰面、背面は南北である。この歌における日の縦、日の緯は、この双方と一致しているもので、当時は西を日の緯と呼んでいたことがわかる。『講義』はこの方位について精しい考証をしている。「大御門」は、ここは御門の意である。日の経の大御門は、東の御門である。○春山としみさび立てり 「春山と」は、春山のごとくで、春は山の木の繁る時として、下の「しみさび」の状態としていったもの。「しみさび」の「しみ」は、繁《しげり》の意の古語で、副詞。「さび」は、接尾語で、他の語に添って、それを上二段活用の動詞とするもの。それにふさわしい状態をする意。神《かむ》さび、翁《おきな》さび、処女《おとめ》さびなど、類例が多い。全体では、春の山のごとくに、青く繁ったさまをあらわして立っているの意。香具山を初め、これにつづく他の三つの山も、上代の信仰の、山にして同時に神であるとしていっているものである。○畝火のこのみづ山は 「みづ山」の「みづ」は、若くうるわしい意で瑞枝《みずえ》の瑞と同じである。うるわしく若木の繁っている山は。○日の緯《ぬき》の大御門に 「緯」は、旧訓「ぬき」で、『考』が「よこ」と改めている。藤原からは畝火山は西にあたるので、上の高橋氏文の西を「日の横」といっているのに恰当《こうとう》する。しかし、これを日の横と呼び、西を意味させる称は、この当時のことであって、同じく上の日本書紀、成務巻にある日の緯《ぬき》と呼び、日の経が東を意味するのに対し、南を意味させる称は、現在、口語として存している。長野県の南部の一半、埼玉県の三峰山の辺りでは、現に口語として用いていることを私は耳にしている。他でも用いられていよう。もっともそれは、太陽が南方に回った時刻をあらわす語に転じ、日の緯《のき》となっている。用字から見て旧訓があたっていようと思われる。「大御門」は、上と同じ。○みづ山と山さびいます 「みづ山と」は、瑞山のごとく。「山さび」の「さび」は、上の「しみさび」のそれと同じく、山としてふさわしきさまをあらわす意で、うるわしく若木の繁っているさまが、山にふさわしいまでである意。「います」は、敬語で、山を神としていっているもの。○耳為の青菅山は 「耳為」の為は原文「高」、『考』が「為《なし》」の誤写であろうとし、以後それに従っている。北にある山としては、耳梨以外にはないからである。「青菅(101)山」は、青々と山菅に蔽われている山の意。○背面の大御門に 「背面」は北方。○宜しなへ神さび立てり 「宜しなへ」は、「宜し」は、物の足り整っている意。「なへ」は、並べで、並んでいる意。一つの物の中に、宜しさが並んでいる意の語である。十二分に宜しくというほどの意。用例の少なくない語。「神さび立てり」は、神なる山が、神にふさわしきさまをあらわして立っている意。○名ぐはし吉野の山は 「名ぐはし」の「ぐはし」は、美しい意の古語で、香《カ》ぐはし、くはし妹《いも》、くはし女《め》など、類例が多い。名の美しいで、吉野に意味でかかる枕詞と取れる。○影面の大御門ゆ 「影面」は、南。「大御門ゆ」は、御門より。○雲居にぞ遠くありける 「雲居」は、雲の居る所で、すなわち空。「ける」は、上の「ぞ」の結び。以上の一段で、天皇の御眼をもって御覧になったものとして、皇居の四門を、山にして同時に神である山が、守護しまつっていることをいったもの。○高知るや天の御陰 「高知るや」は、「高知る」は、高く領する意。「や」は、間投の助詞。「天」にかかる枕詞。「天の御陰」は、天より隠れる陰で、宮殿の意。御は美称。○天知るや日の御陰の 「天知るや」は、天を領するで、意味で「日」にかかる枕詞。「曰の御陰」は、日より隠れるところの宮殿で、この二句は、上の二句と対句になっている。意味を強めるためである。「天の御陰、日の御陰」という語は、上代よりの成語であって、延喜式の祝詞の中にしばしば出ている。祈年祭の祝詞にも、「皇孫命(乃)瑞能御舎(乎)仕奉(※[氏/一])、天御陰日御陰(登)隠坐(※[氏/一])《すめみまのみことのみつのみあらかをつかへまつりてあまのみかげひのみかげとかくりまして》」とある。○水こそは常にあらめ 「水」は、天の御陰、日の御陰に、第一に必要なる飲用水で、「こそ」と「は」は、強めである。「常尓有米」は、訓みがさまざまである。注意される訓みは、『考』の「とこしへならめ」と、富士谷御杖の「つねにあらめ」とである。「常」は、常住不変の意で、「つね」という訓みは最も自然なものである。しかし、「常」の意を「とこしへ」というのも、集中に例の少なくないものである。その中のいずれであろうかというに就いては、(一)の雄略天皇の御製より初めて、この時代に先立つある期間には、長歌の結尾を、五三八、あるいは八七をもってすることが風となっていた。この結末もそれではないかと思われる。それだと、「常にあらめ」と、五三、あるいは八に訓むべきであろう。藤原宮をいうに、成語とはいえ、天の御陰、日の御陰と、天と日とに関係する語をもってあらわし、そこに湧き出ずる飲用水を、必ず常住不変のものであろうとするのは、すなわち宮殿の常住不変を、天つ神の加護を心に置いてお祝いする意である。○御井の清水 「清水」を、「ましみづ」と訓んだのは『考』で、調べのためだと断わっている。「ま」にあたる文字はなく、また「しみづ」に「ま」を添える例も、古文献の上には見あたらないものである。しかし調べの上では、この歌にふさわしいものであり、いったがように、結尾を五三七、あるいは八七とするのが風であったとすれば、この字によって誤りなく、そう訓んだのではないかと思われる。「清水」は、しみいずる水。「ま」は、物の十分なる意で、接頭語。下に、感歎が含まれている。
【釈】 やすみししわご大王《おおきみ》にして、高照らす曰の皇子《みこ》が、荒たえの藤井が原に宮殿の造営をお初めになられて、埴安の池の堤の上にしばしばお立ちになって御覧になると、大和の青々とした香具山は、東の御門にあたって、春の山として木立の繁ったさまをあらわして立っている。畝傍のかのうるわしく若々しい山は、西の御門にあたって、うるわしく若々しい山というにふさわしく、山の趣をあらわしていられる。耳為《みみなし》の青々と菅に蔽われた山は、北の御門にあたって、十二分に足り整って、神としてのさまをあらわして立っていられる。名のよい吉野の山は、南の御門から、空遠く立っていることである。空を領するところの天《あめ》より隠れる御陰としての宮殿、天《あめ》を領するところの日より隠れる御陰としての宮殿に湧き出る水こそは、この殿舎とともに常住不(102)変なことであろう、この御井に湧き出る清水よ。
【評】 藤原宮の御井の歌としてあるが、作意は、藤原宮の造営の当初、この宮の恒久不変を祝うことを目的とした、典型的な賀の歌である。御井そのものは、祝意をあらわす上では一部分にすぎない物で、御井の清水の湧いてやまぬところに恒久不変のさまを観じ、そこを捉え、それに寄せて、祝意を表するものとしたのである。
 作者は、何びとであるかはわからない。これは撰集の当時すでに不明だったのである。しかし上代の歌風として、実際に即した形をもってものをいっているので、おのずからに作者の身分を暗示するものがある。それは、「大御門始めたまひて、埴安の堤の上に在り立たし見《め》したまへば」という言葉によってである。これによると藤原宮造営の当初、持統天皇はおりおりに、飛鳥浄見原宮より、藤原の地へ行幸になり、その事を御覧になられたことが知られる。この歌の作者は、供奉の中に加わっていた一人で、天皇のその御さまを、親しく眼をもって見ていたのである。「在り立たし」という言葉は、行幸の都度供奉していたことを示しているもので、おのずから身分の低い官人であったことを暗示している。しかもこの歌が、賀歌としての性質上、歌※[人偏+舞]所《うたまひのつかさ》に保存されていたものだろうと思われるのに、その名が伝えられていないということは、偶然のことではなく、伝えるに及ばないこととされたためかと思われるが、これは身分の低いというにほかならぬことである。さらにまたこの作者は、この歌の反歌において、その身が、不断に天皇に側近しうる采女でないことを嘆く心をもって、采女を羨んでいるのである。これは男女の差はあるが、身分としては、采女に匹敵するものであるところからの羨みと解せられる。以上の二つの点から、この歌の作者は、天皇に側近しうる機会をもっていた、身分の低い官人であったことを思わせられる。
 歌は二段より構成されていて、第一段は、皇居の四門を、山にして同時に神である四つの山が守護しまつっていることをいって、天皇の御稜威とともに、皇居の安泰を賀したものである。第二段は、一転して、皇居の御井の清水の湧いてやまないことに寄せて、皇居の恒久不変を賀したものである。 第一段で注意されることは、上代信仰である山にして同時に神である四つの山が、天皇に対しては臣下として帰服し、武臣(103)となって四門を守護する役をしているという信仰を、作者自身の信仰としてはいわず、天皇の御眼をもって御覧になった自明な事実としていっていることである。これは(三八)の、吉野宮に幸《いでま》しし時、柿本人麿の作れる歌と、全く揆を一にしたものである。どちらが先に作られたものかはわからないが、後から作った方は、先の物の影響を受けていることだけは明らかである。
 同じ系列の賀歌ではあるが、(五〇)の藤原宮の※[人偏+殳]《えだち》の作れる歌は、上代信仰によってのものであるが、その中に、中国思想の影響の著しいものがあり、瑞祥を説くことが多い。皇都を奠《さだ》めるには、政治上のこと、平生の生活上のことなど、さまざまのことが考慮に入ろうが、瑞祥を重んじた当時にあっては、地相ということも重大なることであったろうと思われる。しかるにこの歌は、全然地相というようなことには触れていない。これはこの時代としても古風なことと思われる。この古風は、方位をいう上にも及んで、漢文学の影響の深かった時代に、日の経、日の韓、影面、背面というような、他には例のない呼び方をしている点にも現われている。なお、列挙している四門の山を讃えるに、その風景の美については一言も触れず、山をただちに神として、耳為山には「神さびいます」といい、香具山には「繁さび立てり」、畝傍山には「山さびいます」といって、神である山の容《さま》の、それにふさわしさをいっているのである。また、遠く立つ吉野山に対しては差別をつけ、「名ぐはし」という枕詞を冠するにとどめている。これは作意が那辺にあったかを示していることとして注意される。
 以上、第一段は、天皇の御眼をとおしての事実をいっているのであるが、第二段は一転して、臣下である作者自身の感想として、御井の清水に寄せて皇居を賀しているのである。第一段よりこの第二段への飛躍は、相応に際やかなもので、口承文学すなわち謡い物の系統のものとしては、追随するに注意を要するほどのものであるといえる。これは口承文学の上に立ちつつも、記載文学に向かって一歩前進したものといえる。なおこの点は、藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌における、「吾が作る日の御門《みかど》に、知らぬ国依し巨勢道」以下の、記載文学的の部分の加わりきたっているのと、趣の通うものがあるといえる。しかしこの歌にあっては、古来の成語の、「天の御陰」「日の御陰」という語を捉えて、第一段と同じく、努めて古風を守ろうとしているところがあり、同時にその語によって、皇居と天上の世界との繋がりを、間接ながらにあらわして、皇居に対する天つ神の加護を暗示しようとしているのも、同じく古風といえるが、その言いあらわし方の婉曲なのは、記載文学的であって、ここにも記載文学への前進が認められる。
 この歌と、藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌との作者は、同一人かまたは別人かということは問題となるものである。作風を比較すると、かれは平面的で、事象を重んじる心が強く、したがって間《ま》が緩く、概していえば客観的である。これは趣を異にして、立体的で、当時の風としては事象は重んじてはいるが、かれほどには強くはなく、したがってかれほどの細心がなく、やや粗雑に、簡潔で、おのずから間《ま》が早くなっている。概していうと、かれよりは主観的である。この作風の相違は、別人であろうと思わせる。この歌の題詞の付け方は、※[人偏+殳]民の作れる歌についてもいったように、歌※[人偏+舞]所で付けたものと思われる。したがって(104)この歌の作者もまた、歌※[人偏+舞]所の歌人《うたびと》の一人と思わせられる。この事は、この時代の作歌の雰囲気のいかに濃厚であったか示しているもので、柿本人麿の出現の偶然でなかったことを語るものといえる。
 
     短歌
 
【題意】 「短歌」は、反歌の心をもって、同じものとして書いた語である。これは(四六)にも出ているものである。
 
53 藤原《ふぢはら》の 大宮《おほみや》つかへ あれつぐや 処女《をとめ》がともは 乏《とも》しきろかも
    藤原之 大宮都加倍 安礼衝哉 處女之友者 乏吉呂賀聞
 
     右の歌、作者未だ詳かならず
      右歌、作者未v詳。
 
【語釈】 ○藤原の大宮つかへ 「大宮つかへ」は、大宮への奉仕で、名詞。下への続きから見ると、「に」という助詞の添うべきものである。○あれつぐや処女がともは 「あれつぐや」は、「あれ」は現われで、生まれる意。「つぐや」は代々生まれ継ぐで、下の「処女」に続く。聖寿は限りないので、奉仕するには生まれ継がなくてはできない意の語。「処女」は、天皇に側近してお仕え申す采女。「とも」は、伴《とも》で、部属の意のもの。「は」は、他と対させたもの。○乏しきろかも 「乏」は、諸本「之」とあるので訓み難くしていたのを、田中道麿が「乏」の誤写として訓んだもの。「乏し」は、羨しの意の古語で、用例の多いものである。「きろ」の「ろ」は、音調のためのもので、用例が少なくない。「かも」は、感歎。
【釈】 藤原の大宮の奉仕のために、代々生まれ継ぐところの采女の伴は、天皇に御側近申すことができて、羨しいことではあるよ。
【評】 短歌は、長歌の賀の心から転じて、私情をいったものである。しかし「あれつぐや」は、賀の心よりのもので、それを「処女」の修飾として目立たず用いているところに、手腕がみえる。またこの羨望は、いったがように作者の身分を間接ながら語っているものでもある。短歌を長歌より飛躍させて、即しつつも離れたものとし、それによって個人的の感情をいうこの歌の風は、柿本人麿の好んで用いている手法である。ここにも人麿との関連が際やかにみえる。
 
     大宝元年幸丑の秋九月 太上天皇の紀伊国に幸《いでま》しし時の歌
 
(105)【題意】 大宝元年は、文武天皇の即位第五年に改元された年号である。この集の巻一、二の編集体裁は、これ以前は宮号をもってしているのに、ここから、さらに年号をもって細別するようになっている。この事と、また作者を歌の後に記しているのとは、行幸という事の性質上、その記録があって、このようになっていた関係からのことと思われる。太上天皇は、譲位後の天皇を申す称で、中国に倣ったものである。これは持統天皇で、この称はこの天皇より始まったものである。この時の行幸のことは続紀に明記されているが、それは天皇のみで、上皇の御同列であったことは記してない。しかし巻九(一六六七)の題詞によると、御同列であったことが明らかである。
 
54 巨勢山《こせやま》の つらつら椿《つばき》 つらつらに 見《み》つつ思《しの》はな 巨勢《こせ》の春野《はるの》を
    巨勢山乃 列々椿 都良々々尓 見乍思奈 許湍乃春野乎
 
     右一首、坂門人足《さかとのひとたり》
      右一首、坂門人足
 
【語釈】 ○巨勢山のつらつら棒 「巨勢山」は、(五〇)に「巨勢道」とあったその巨勢で、今の古瀬の西にある山である。大和より紀伊への街道は、その山の麓をとおっていたのである。「つらつら椿」は、『注釈』は熟合した名詞で、「つらつら」は花の連なっている状態をいったものだとしている。葉のてらてらした状態をいったものとする解に反対してである。従うべきである。○つらつらに見つつ思はな 「つらつらに」は、心をこめて事をする意の副詞で、つくづくというにあたる。今も用いられている。「見つつ」は、「見」の継続。「思はな」の「な」は、軽い願望の助詞。「よ」に近い。○巨勢の春野を 「春野」は、春の季節の野の様で、その華やかなおもしろさを暗示している語である。今は花のない秋である。○坂戸人足 伝が詳かでない。姓がないので、卑い氏であったとみえる。供奉の中の一人である。
【釈】 巨勢の山のつらつら椿をつくづくと見ながら思いやることであるよ。この巨勢の春の野のおもしろいさまを。
【評】 秋、紀伊への街道を、従駕の旅をしつつ、巨勢山の椿を見やっての感である。つらつら椿を称されてはいるが、季節柄花のないのを見て、花のつらつらに咲く春の季節を思いやってゆかしんだのである。「春野」といっているのは、巨勢山の麓の野に野遊びをし、つらつら椿を一望に収めたい心である。二句の「つらつら椿」を、三句で、同語異義の「つらつらに」と続けているところ、謡い物の明るくたのしい気が濃厚で、それがまたその時の作者の気分であったことが思われる。
 
(106)55 朝《あさ》もよし 紀人《きびと》乏《とも》しも 亦打山《まつちやま》 行《ゆ》き来《く》と見《み》らむ 紀人《きびと》ともしも
    朝毛吉 木人乏母 亦打山 行來跡見良武 樹人友師母
 
     右一首、調首淡海《つきのおひとあふみ》
      右一首、調首淡海
 
【語釈】 ○朝もよし紀人乏しも 「朝もよし」の「朝も」は、麻裳で、麻をもって織った裳。「よし」は、「よ」は呼びかけ、「し」は、強めの助詞で、合して一語となったもの。「著」と続き、同音異義の「紀」に転じての枕詞。「紀人」は、紀伊国の人。紀伊は古くは紀とのみいった。「乏し」は、羨し。「も」は感歎の助詞。○亦打山行き来と見らむ 「亦打山」は、奈良県五条市|上野《こうずけ》町から、和歌山県橋本市|隅田《すだ》町|真土《まつち》へ越える間の峠で、紀州街道の要路である。下に「を」の助詞を添えて解すべきもの。「行き来と見らむ」の、「行き来と」は、あちらに行くとては、こちちに来るとては。「見らむ」は、連用形から「らむ」に続く、古い一つの格で、現在の「見るらむ」にあたるもの。「らむ」は、現在推量の助動詞で、連体形で、下へ続く。○調首淡海 日本書紀天武天皇の条にも、続日本紀、和銅二年、同六年、慶雲七年の条にも出ている。最後には正五位上となり、姓も連を賜わった人である。祖は百済よりの帰化人である。
【釈】 紀伊の国人《くにびと》は羨ましいことよ。この亦打山を、あちらへ行くとては、こちちへ来るとては、たびたび見るであろうところの紀伊の国人は羨ましいことであるよ。
【評】 供奉をして紀伊の国に入り、亦打山を越えながら、その好景に驚嘆しての心である。「行き来と見らむ」と羨しがっているところから、作者|淡海《おうみ》の初めてこの山を見たことが察しられる。実感に即して作ってはいるが、そこには知らぬ国に対する不安もなく、旅愁もなく、ただ明るい気分があるのみで、しかもその気分を生んでいるものは、好風景からである。前の歌と同じく風景歌。旧い時代にはなく新しい時代への過渡を示している歌である。表現は、二段とし、第二句を第五句で繰り返しているという、口承文学の典型的な方法をもっている。これは旧い時代の風に従ったものである。ここにも時代性が見える。
 
     或本の歌
 
56 河上《かはかみ》の つらつら椿《つばき》 つらつらに 見《み》れどもあかず 巨勢《こせ》の春野《はるの》は
    河上乃 列々椿 都良々々尓 雖見安可受 巨勢能春野者
 
(107)     右一首、春日蔵首老《かすがのくらひとおゆ》
      右一首、春日蔵首老
 
【語釈】 ○河上のつらつら椿 「河上の」は、『講義』は、曾我川の上流の古瀬山の辺りのものを指してい、『注釈』は曾我川の上流としている。「つらつら椿」は、(五四)に出た。○つらつらに見れどもあかず 「つらつらに」は、(五四)に出た。「見れどもあかず」は、いくら見ても見飽かないで、絶賞の意をあらわしたもの。○巨勢の春野は 「巨勢の春野」は、(五四)に出た。「は」は、取り立てていう意の助詞。○春日蔵首老 続日本紀、大宝元年三月の条に、初め僧で、弁紀と称していたが、勅によって還俗し、名を賜わったことが出ている。それによると、春日は氏、蔵首は姓、老は名である。和銅七年には従五位下を授けられた。懐風藻には、「従五位下常陸介春日蔵首老、年五十二」とある。他にも歌のある人である。
【釈】 河の上流のつらつら椿を、つくづくと見ても、見飽かない。この巨勢の春野のさまは。
【評】 この歌は、「巨勢の春野」を親しく見て、その絶景を讃えたものである。この歌も、「つらつら椿」を捉えてはいるが、その在り場所は、(五四)の「巨勢山」よりも遙かに狭く、「河上」としている。すなわち具象を高めている。また、「河上のつらつら椿」は、眼前の景を捉えて「つらつら」の序詞としたもので、一首の中心は「巨勢の春野」で、春野の絶景に間接なつながりをもち、余情をなしているものである。さらにまた、「つらつらに見れどもあかず巨勢の春野は」というのは、直線的で、柔らかく、明るく、この当時にあっては新風といいうるものである。一首全体として(五四)に較べると、こちらの方が、遙かに才情が豊かで、新しい歌である。二首は、影響というよりはむしろ模倣の濃厚なものであるが、(五四)の作者人足とこの歌の作者老とは同時代の人であるから、どちらが後から模倣して作ったかは明らかにすることはできない。しかしそのできばえから見ると、人足の方が模倣したもののように思われる。模倣とはいえ、この当時の歌は、口承文学の域を脱しきらず、いかに創意ある句も、一たび発表すれば共有の物と化したのであるから、これは問題とならなかったことである。劣った人足の歌が正式に選ばれ、優れた老の歌が、単に参考として注の形で載せられているということは、人足の歌は行幸の供奉の際に作ったもので、記録として重んじられていたものだということが、強く関係していようと思われる。それだと、この集の撰者の意図もうかがわれることである。
 
     二年壬寅 太上天皇の参河国に幸《いでま》しし時の歌
 
【題意】 釈日本紀に、この行幸のことが出ている。すなわち大宝二年十月の条に、「(乙未朔)甲辰(十日)太上天皇幸2参河国1」(108)とあり、また、尾張、美濃、伊勢、伊賀を経て、十一月(甲子朔)戊子(廿五日)京に還幸となった。以下五首はこの行幸の際の歌である。
 
57 引馬野《ひくまの》に にほふ榛原《はりはら》 入《い》り乱《みだ》れ 衣《ころも》にほはせ たびのしるしに
    引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓
 
     右一首、長忌寸奥暦《ながのいみきおきまろ》
      右一首、長忌寸奧麿
 
【語釈】 ○引馬野に 「引馬野」は、遠江国浜松市の北にあった野の称で、今も曳馬《ひくま》という名をとどめている。国は遠江であるが、参河に接しているので、ついでのある所としていったのである。○にほふ榛原 「にほふ」は、色の艶やかなことをいう。「榛」のことは、(一九)に出た。萩とし、榛《はん》の木ともいうが、『注釈』の榛とするに従う。榛は当時、染料とした一般に用いられていた実用品で、観賞の萩よりも生活に密着していた物である。また、季節からいっても旧十月は萩には縁遠いからである。「榛原」の下に、「に」の助詞のある意のもの。○入り乱れ衣にほはせ 「乱れ」は、四段活用の時代はあったとみえるが、本集では下二段活用である。入り乱れての意で、自由に分け入って。「にほはせ」は、「にほはす」の命令形で、にほわせよ。これは上の「にほふ」と同じく、艶やかにせよの意。榛は染料であるところからの想像。○たびのしるしに 「しるし」は、記念の意である。その旅を思い出の深かるべきものとしてである。○長忌寸奥麿 伝が詳かでない。巻三にも歌があり、「意吉麿《おきまろ》」として、巻二、九、十六にもある。歌人として相応に注意されていた人と思われる。
【釈】 引馬野に色艶やかになっている榛原に入り乱れて、衣を艶やかにしたまえよ。行幸の供奉という思い出深かるべき旅の記念に。
【評】 作者奥麿は京にとどまっていたとすれば、この歌は、車駕の京を発する際、供奉をするほぼ相似た身分の者に対して、口頭をもって挨拶の辞を述べる代りに、上代の風のままに歌をもっていったものである。別れを惜しむ心に触れず、旅の無事を祈る心にも触れず、また、供奉その事にも触れず、ただ賑わしく楽しかるべき旅として思いやっているところに、事宜に適した詠み方ということを思わせられる。すなわち適当な方法によって賀の心を暗示しているといえるのである。想像される事は、旅の自然の美しさで、そこに文芸的な心がみえるが、しかしその自然は、「衣にほはせ、たびのしるしに」という、自身の生活に引き着けることを主としたものであって、文芸的とはいえ限度のあるもので、しかもその程度は低いものである。時代(109)が思わせられる。表現は、結句「たびのしるしに」は、意味からいえば四句にあるべきで、倒句となっているものであるが、初句より四句まで直線的に続いてい、倒句ということを思わせないものとなっている。これは口承文学の、耳に解しやすきことを旨としている風に従っての詠み方だからである。一首印象が明らかで、気分が豊かに、落ち着いていて、この時代を思わせるものである。
 
58 いづくにか 船泊《ふなは》てすらむ 安礼《あれ》の崎《さき》 こぎたみ行《ゆ》きし 棚無《たなな》し小舟《をぶね》
    何所尓可 船泊爲良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
 
     右一首、高市連黒人《たけちのむらじくろひと》
      右一首、高市連黒人
 
【語釈】 ○いづくにか船泊てすらむ 「船泊て」は、熟語。「ふね」を「ふな」というのは、熟語をなすための音の変化。「泊つ」は、舟行して止まることをいう古語。「らむ」は、現在の状態を推量する助動詞。○安礼の崎こぎたみ行きし 「安礼の崎」は、久松潜一氏の得られた延享三年の古地図には、三河国宝飯郡|御津《みと》町御馬村の南に「安礼乃崎」の名が記されているという。「こぎたみ」は、熟語。「たみ」は、迂回する意の古語。漕ぎめぐるというにあたる。当時の舟行は、風の危険を怖れるところから、海岸に密接させて漕ぐのが風であった。ここも、安礼の崎の海岸に沿って漕ぎめぐって行つたの意である。○棚無し小舟 熟語。船棚《ふなだな》のない小さな舟の意。船の棚というのは、やや大きな船だと、舷の上に、舷を丈夫にし、またその上を渡り歩けるために付けた板の称で、それのないのはすなわち小さな舟である。この語は、小さな舟ということを力強くいおうがために、具体的にいったものである。今も単に小さな舟の意で用いている。用例の多い語である。下に詠歎が含まれている。○高市連黒人 伝が詳かでない。巻四にはこの人の羈旅歌八首があり、この時代の代表的歌人の一人である。
【釈】 どこに舟泊りをしているであろうか。安礼の崎の海岸に沿って漕ぎめぐって行った、あの棚無し小舟よ。
【評】 舟行のできなくなった夕暮れ時の想像である。頓宮《かりみや》はもとよりしかるべき地で、供奉の者もその同じ地に宿ることであるが、身分低い者の宿りは、侘びしく、旅愁を感ぜしめるようなものであったろう。加えて夕暮れ時は、その感の強い時でもある。安礼の崎は、その日供奉として通り過ぎた地で、こぎたみ行く棚無し小舟は、折から見かけたものである。大和国の京に住む作者には、海が珍しく、その棚無し小舟も、感を引く、印象的なものだったとみえる。夜の宿りにいる作者は、夕暮れ時が来ると、昼見たその棚無し小舟が思い出されてきたのである。思い出に浮かんできた棚無し小舟は、それがあわれな舟であるとともに、遠い行程をもっているものに思え、哀愁を帯びたものに感じられてきたのである。「いづくにか船泊てすらむ」(110)と、まず不安の情を打ち出し、「こぎたみ行きし」と、同じく不安を伴わせた語をもっているのは、すなわち哀愁の情の表現である。一首全体としてみると、太い線で、棚無し小舟の印象を鮮やかにいっているだけの歌であるが、それが哀愁を漂わし、双方が渾然として一つの世界をなしているのは、作者のその時の哀愁が、椰無し小舟に反映しているからである。これは言いかえると、作者のその時の哀愁を、棚無し小舟によって具象化しているとも言いうるものである。その意味では高い文芸性をもっている歌であるが、しかし作者自身は無意識にしていることと思われる。
 
     与謝女王《よさのおほきみ》の作れる歌
 
【題意】同じ行幸の際の歌であるが、作者の名を初めに記してある点が異なっている。おそらく原拠となった記録がこのようになっており、その事柄を尊むところから、記録のままに書いたものであろう。与謝女王は、続日本紀、慶雲三年の条に、「六月癸酉朔丙申従四位下与謝女王卒」とあるほかは、父祖も、夫君も詳かでない。「背の君」と称される方の供奉に加わっておられるのを思い、京にあって作った歌と思われる。
 
59 流らふる 妻《つま》(雪)吹《ふ》く風《かぜ》の 寒き夜《さむよ》に 吾《わ》が背《せ》の君《きみ》は 独《ひとり》か宿《ぬ》らむ
    流經 妻吹風之 寒夜尓 吾勢能君者 獨香宿良武
 
【語釈】 ○流らふる 「流らふ」は、流るに継続の意をあらわす助動詞「ふ」の添った語。連体形。この語は、雨、雪花びらなどの空より降り、移動してゆくのをあらわす語で、用例が少なくはない。○妻吹く風の「妻」は、女王自身、あるいは衣《ころも》の褄と解されていて、事としても、言葉続きとしても、唐突な難解なものとなっていた。『注釈』は、荒木田久老の『槻の落葉』に、この歌を引用した個所があり、それには「妻」が「雪」となっているのを見、誤写としてそれに従うべきだといっている。それだと、事としても、言葉続きとしても自然である。かなり不自然なものが甚だ自然なものになることであるから、久老がそうした原本に拠つてのことと信じて従う。○寒き夜に 寒い夜であるのに。○吾が背の君は 行幸に供奉している夫。○独か宿らむ 独寝をしていようかで、「か」は疑問の係。「らむ」は、現在推量の助動詞で結び、連体形。
【釈】 降り続いている、雪を吹く風の寒い夜だのに、わが夫《せ》の君は、寒さを侘びしんで独寝をしているであろうか。
【評】 陰暦十月より十一月にかけての風の寒い夜、供奉に加わっている夫君を思って、京にある女王の作ったものである。寒い夜、夫の独寝を隣れむのは、寒さの侘びしさを隣れむ心で、夫婦間では常識ともなっているものである。第二句「妻吹く風の」は妻を女王自身としても、衣の褄としても、事としても、また言葉続きとしても、唐突な不熟なものとなるが、「妻」を(111)「雪」の誤写とするとその反対に、事としては自然な、言葉としては順直なものとなり、女王にふさわしく、おおどかな、その意味で品位ある作となる。荒木田久老は学殖深く、歌才ある信ずべき国学者である。拠るところあってのこととして、『注釈』の解に従う。歌としては相聞であるが、行幸につながりがあるとして、原本のままに収めたものと解せる。
 
     長皇子《ながのみこ》の御歌《みうた》
 
【題意】 同じ行幸の供奉の中の女性を思って、京にある長皇子のお作りになられた歌である。皇子は、続紀、霊亀元年六月の条に、「甲寅一品長親王薨、天武天皇第四皇子也」とある。なお目録には、この題の下に続けて、「従駕作歌」とある。歌は従駕のものではなく、また、「御歌」という語づかいと、「作歌」という語づかいとは明らかに矛盾するので、他より誤っての竄入《ざんにゆう》であろうとされ、おそらく次の舎人娘子の歌に添っている語を、こちらへも添えたのではないかとされている。
 
60 暮《よひ》にあひて 朝《あした》面《おも》無《な》み なばりにか け長《なが》く妹《いも》が 廬《いほり》せりけむ
    暮相而 朝面無美 隱尓加 氣長妹之 廬利爲里計武
 
【語釈】 ○暮にあひて朝面無み 「暮」は、夜。「あひて」は、男女共寐をしての意。「朝」は、「暮」に対させたもので、その翌朝。「面無み」の「無み」は、形容詞「無し」の語幹に「み」を添えて、連用修飾語としたもの。面無くしての意。「面無し」は後世も用いた語で、面目なしというにあたり、顔が合わせられずして恥ずかしい意を具象的にいった語。これは若い女の立場に立っての語である。この二句は、「隠れる」の古語「なばり」へ、意味で続く序詞で、そのなばりを、(四三)と同じく、地名の名張に転じたものである。 ○なばりにか 「なばり」は、名張で、(四三)に出た。三重県伊賀郡にあって、参河国への順路でもある。「か」は疑問の助詞。○け長く妹が廬せりけむ 「け」は来経《きへ》という動詞の約言で、それが名詞となったもの。日時の経過をあらわす語。「け長く」は、幾日も久しくの意。「廬せり」は、「廬」はかりそめの家の意で、旅中の仮屋。「せり」は、している。「けむ」は、過去の想像。
【釈】 夜を共寐して、明くる朝は恥ずかしくて隠れる、それに因みある名張の地に、日久しく妹は、仮屋住まいをしていたのであろうか。
【評】 妹といっている女性は、行幸の供奉をしている女官の一人で、天皇の駕が、今日かあるいは明日か還幸になるということを聞いた際の独詠である。「け長く」というのは、還幸の日取りは大体わかっていたのに、予期よりも連れたためでまた、「なばりにか」というのは、そこは都に最も近い地で、還幸の日取りから推測したものと解される。一首としては、待ちわびた(112)妹の帰ることを知り得えてのよろこびであり、表現として初二句の序詞の巧みさである。これは「妹」につながりをもったもので、その年若さと、関係を結んで幾ほどもないことをおのずから暗示しているものである。文芸性をもっている歌である。またそのことは独詠ということとも関係をもっているといえる。
 
     舎人《とねり》の娘子《をとめ》従駕にして作れる歌
 
【題意】 舎人娘子は、舎人は氏で、娘子は娘の意であろう。舎人氏は百済よりの帰化人の末だという。巻二に、この娘子の舎人親王と詠みかわした歌があるところから、親王の傅《ふ》であった舎人氏の娘ではないかと想像されている。巻八にも歌がある。
 
61 大夫《ますらを》が 得物矢《さつや》手挿《たばさ》み 立《た》ち向《むか》ひ 射《い》る円方《まとかた》は 見《み》るに清潔《さやけ》し
    大夫之 得物矢手插 立向 射流圓方波 見尓清潔之
 
【語釈】 ○大夫が得物矢手挿み 「大夫」は、(五)に出た。勇気ある男の意で、尊んでの称。「得物矢」の「得物」は、山幸海幸《やまさちうみさち》の幸で、熟語の場合には「さつ」に転じている例が多い。得物矢は幸矢で、その矢を用いれば幸が多い意で、神の加護の加わっている矢の意である。転じて、普通の矢にも用いたと解せる。ここは、転じての意の矢。「手挿み」は、手に挿み持ち。○立ち向ひ射る 立ち向かって射るで、下の「円《まと》」すなわち的《まと》に意味で続き、その「円」を、地名の「円方」の「円」に転じたもので、初句よりここまでは、「円」の序詞である。○円方は見るに清潔し 「円方」は伊勢国の浦の名である。この浦のことは伊勢風土記に、「的形者、此浦地形似v的故為v名、今已跡絶成2江湖1也」とある松阪市、東方、東黒部一帯かといわれている。「は」は、取り立てていう助詞。「清潔し」は、今も用いている。清くさわやかな意。
【釈】 益荒夫がさつ矢を手に挿み持ち、立ち向かって射る的の、その的を名としている的形《まとかた》の浦は、見るとさやかである。
【評】 的形の浦を讃えた歌である。讃えるのは、その風光をさやかなりとしてである。口承文学時代、土地を讃えるのは、その土地に住んでいる人が、そこに幸いをきたらせようとして、祝いの心をもって讃えるのが風であった。その場合には、その土地を修飾するための枕詞、時には序詞を用い、さらにその土地の愛《め》でたさを言い添えるのを型としていた。この歌も、形としてはそれで、円方をいうに三句以上の長い序詞を用い、讃える語も添えているので、まさに典型的なものである。しかしその讃える心は、幸いをきたらせようとして祝うのではなく、単に風光の美を讃えてのものである。すなわち口承文学時代の実用性の歌が、その内容の上からは、記載文学としての文芸性のものへと推移しているのである。この歌は明らかにそれを示している。上に引いた伊勢風土記には、それに続いて、その的形においての景行天皇の御製の歌というのを伝えている。歌は、
(113)  ますらをの得物矢《さつや》手挿み向ひ立ち射るや円方浜のさやけさ
というので、異なるところいささかである。単に風光を讃える、いわゆる叙景の歌は、大体この時代頃から始まったものだろうと思われるから、御製の歌と伝えるものの方が、舎人娘子の歌よりも後のものであったかもしれない。それはとにかく、この二首を比較すると、舎人娘子の歌には、調べに強さがあり、したがって立体味が醸し出されているが、御製と伝える歌は、調べが柔らかく、したがって平面的な感をもったものである。記載文学としての娘子の歌が、口承文学として謡われていると、御製と伝える歌のように変じてゆくのは例の多い一般的のことで、ここも、たまたまこの歌の性質を語っているものである。
 
     三野連《みののむらじ》名闕く 入唐《につたう》の時、春日蔵首老《かすがのくらひとおゆ》の作れる歌
 
【題意】 三野連名闕くとあるのは、原拠となった記録に名がなかったためと取れる。『講義』はこれについて詳しく考証している。その名は岡麿といい、続紀、元正天皇霊亀二年正月の条に、「授2正六位上美努連岡麿従五位下1」とある人である。遣唐使の一行に加わったことは、明治五年大和国平群郡から発掘された墓誌によって明らかとなった。入唐というのは、その遣唐使に加わった時のことで、時は文武天皇の大宝元年、大使は粟田真人であった。入唐という語は、唐を主としたもので、妥当を欠くが、当時の用法であったとみえる。春日蔵首老のことは、(五六)に出た。
 
62 在根《ありね》よし 対馬《つしま》の渡《わたり》 海中《わたなか》に 幣《ぬさ》取《と》り向《む》けて 早《はや》還《かへ》りこね
    在根良 對馬乃渡 々中尓 幣取向而 早還許年
 
【語釈】 ○在根よし対馬の渡 「在根よし」は、品田太吉氏は、「在」は高く現われている所の称で、在原・在尾などはその例だといい、「根」は、伊豆の小島、岩礁などにその語を添えたものがあるといっている。民俗学では、神の現われる地の称だという。「根」は峰の「ね」である。「よし」は、青丹よし、麻裳よしなどのよしと同じで、「よ」は詠歎、「し」は強意の助詞である。後の解に従う。海上から見る対馬の状態をいって、対馬の枕詞としたもの。「対馬の渡」の「渡」は、川でも海でも、往来の道筋として渡って行く所の称。壱岐と対馬の間の渡りであろうという。今の朝鮮海峡で、風波の荒い、危険な所である。○海中に幣取り向けて 「海中」は海の中にで、そこには海を領《うしは》く神がいられ、風波の荒いのは、すなわちその神の心が荒ぶるためであると信じていたのである。「幣」は、神に手向け、または祓に出す物の総称。「取り向け」は、手に取って手向けてで、捧げる意。○早還り来ね 「ね」は、願望の助詞。早く帰朝したまえよの意。
【釈】 神の現われたまう山のある対馬の渡りの、そこの海の中にいます荒ぶる神に、幣を捧げて御心を和らげて、荒い風波に障らずに、早く帰朝したまえよ。
(114)【評】 当時の航海は危険の多いものであったが、ことに中国への航海は危険で、現にこの際も、一年に余る間を筑紫にとどまっていたほどである。歌は送別のもので、一に無事を祝う心をもって作ったものである。それをいうに、対馬の渡りの海中《わたなか》にいます荒ぶる神の御心を和《やわ》せということを心をこめていっている。これはいうまでもなく実際に行なっていたことであろうが、それを改めていうということが、すなわち無事を祝う方法だったのである。一首の心は儀礼的なものであるが、調べに、しみじみしたものがある。
 
     山上臣憶良《やまのうへのおみおくら》大唐《もろこし》に在りし時、本郷《もとつくに》を恋ひて作れる歌
 
【題意】 山上臣憶良の、臣は姓。その唐に在ったのは、前の歌の粟田真人が大使となって遣わされた時、少録として随行したので、続記の遣唐使任命の記事に、「无位山於憶艮為2少録1」とある。学才によって抜擢されたものとみえる。遣唐使の出発は、いったがように大宝元年であったが、途中筑紫に一年余りを滞在、翌二年六月に渡航、翌々年慶雲元年七月に帰朝した。歌は在唐中に詠んだものである。大唐という語は、前の歌の入唐と同じく、彼を主としたもので、当時の慣用である。本郷は日本である。憶良の歌は集中に五十余首あり、本集代表歌人の一人である。
 
63 いざ子《こ》ども 早《はや》く日本《やまと》へ 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の浜松《はままつ》 待《ま》ち恋《こ》ひぬらむ
    去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
 
【語釈】 ○いざ子ども早く日本へ 「いざ」は、人を誘う意の副詞。さあ、というにあたる。「子ども」の「子」は、わが子はもとより、従者などを親しんで呼ぶ称。「ども」は、複数をあらわすもの。今は従者に対しての呼びかけである。「早く日本へ」は早く本国へ還ろうの意の言いさしで、ここで一段である。○大伴の 「大伴」は、難波の辺一帯の地名である。下の(六六)に、「大伴の高師《たかし》の浜」とあり、巻七(一〇八六)に、「靭《ゆぎ》懸《か》くる伴《とも》の雄《を》広き大伴に国栄えむと月は照るらし」ともあるので知られる。古く大伴氏の領地であった所から、地名ともなったろうといわれている。○御津の浜松 「御津」は、大御船の発着する津であるところから、「御」の美称の添えられたもので、大津というのと同じである。固定して地名となったもの。難波の中にあったのである。遣唐使の船の発着もここである。現在の大阪市の三津寺町は、その名の名残りだといわれている。「浜松」は、浜辺に立っている松。二句「大伴の御津の浜松」は、家人《いへびと》の隠喩となっている。唐にあって従者どもと共通に本国を恋しむと、第一に思われてくるのは家人すなわち妻であるが、それを婉曲にいおうとして、御津の浜松をかりたのである。これは大御船の本国を出発する時に見た印象深いもので、また帰朝を思うと、大御船の泊《は》つる所のものとして思われてくるもので、譬喩として心理的妥当性のあるものである。また、この「松」は、下の「待ち」と畳語的な関係をもっているので、二句、序詞に近いものといえる。○待ち恋ひぬらむ 「待ち恋ふ」は、一つ(115)の語。用例の少なくないものであるが、巻四(六五一)「宅《いへ》なる人も待ち恋ひぬらむ」のように、いずれも旅にある夫の、その妻に対しての心をいう語である。ここもそれである。この語によって、上の隠喩の心は明らかにされている。「ぬらむ」は、確かにそれと推量する意の助動詞。
【釈】 さあ、皆の者ども、早く本国へ還ろうよ。大伴の御津の浜松もきっと待ち恋うていることであろう。
【評】 当時の代に、使して遠く唐に在った者が、本国を恋しむ情は共通のもので、事に触れ、折に触れて口頭にのぼったことであろう。この歌はそうした際に、憶良が従者のような人に対して、語の代りに歌に詠んで、たぶんは謡ったものであろう。本国を思うと、第一に思われてくるものは、ひとしくその妻であるが、それをいうに「大伴の御津の浜松」という譬喩を用いている。これは勅命を帯びて発船した場所と、船中より見納めとして見た浜松とを一つにしたもので、畏さとなつかしさをこめた、複雑したものである。その松を待ちに続けて序詞的な、趣をもたせたのは、口承文学的なすぐれた技巧である。一首として、調べが強く、情理を流し込んでいるところ、憶良の特質の現われている作である。
 
     慶雲《きやううん》三年丙午 難波宮に幸《いでま》しし時
 
【題意】 目録には、この標題の下に「歌二首」とある。こちらは脱したものとみえる。行幸のことは、続紀、同年九月の条に、「丙寅行2幸難波1」とあり、十月の条に、「冬十月壬午還宮」とある。難波宮の所在は明らかではない。長柄豊崎宮だろうともいうが、明らかとはいえない。
 
     志貴皇子の御作歌《みうた》
 
【題意】 志貴皇子のことは、(五一)に出た。
 
64 葦辺《あしべ》行《ゆ》く 鴨《かも》の羽《は》がひに 霜《しも》ふりて 寒《さむ》き暮夕《ゆふべ》は 大和《やまと》し念《おも》ほゆ
    葦邊行 鴨乃羽我比尓 霜零而 寒暮夕 倭之所念
 
【語釈】 ○葦辺行く鴨の羽がひに 「葦辺」は、葦の生い繁っている辺り。葦は水辺の物で、難波は古来葦の多い所とされていたその葦である。供奉として居られる所が水近かったのである。「行く」は、水鳥の鴨の動きであるから、泳いでいるのをいったもの。「羽がひ」は、「羽交《はが》ひ」で、(116)羽根の重なり合っていることで、畳まっていること。ここは背中で、それを具体的にいったもの。○霜ふりて 霜がふり置いての意。時は晩秋初冬だから、霜の置く季節ではあるが、しかし霜の置くのは暁のことである。今は夕べであるから、鴨の背中の寒げに光っているのを日喩的にいったもの。○寒き暮夕は 「は」は、取り立てた意のもので、夕べはことにの意。○大和し念ほゆ 原文「倭」は、「和」となっている本もある。通じて用いていた。家の意で、家とは家人《いへびと》すなわち妻を意味させた語で、今も妻ということを婉曲にいったもの。「し」は、強め、「念ほゆ」は、思われる。
【釈】 水辺の葦の叢生している辺りを泳いでいる鴨の、その背の上に霜がふり置いて、ことに寒さを感じる夕べには、大和の家の妹がおのずから思われてくる。
【評】 旅愁を詠まれたものである。旅にあって、心さみしい時、ことに、寒い夜の独寝の床に、家にいる妻が思われるというのは、当時すでに常識ともなって繰り返されている心である。この御歌もそれである。しかしこの御歌は、その表現技巧の上に高度の文芸性をもったものである。初句より三句までは、「寒き暮夕」の具象化であって、水辺の枯葦の辺りを泳いでいる鴨の、その背の寒げに光っているという一事を捉えて、難波の旅の宿りの夕幕の寒さをあらわされたのは、優れたる技巧というべきである。鴨の背中を「羽がい」といひ、寒げに光るのを「霜ふりて」と誇張して、具象を感覚的なものにまで高めていられるのは、技巧というよりも感性の豊かさを思うべきである。この寒さは、やがて旅の侘びしさである。結句の「大和し念ほゆ」も、婉曲にして心のとおった、品位ある言い方である。高貴の方々の、文芸性の上で時代の尖端を行かれるところ、おおらかに、気品のあるところが注意される。相聞の範囲の御歌である。
 
     長皇子の御歌
 
【題意】 長皇子のことは、(六〇)に出た。
 
65 霞打《あられう》つ あられ松原《まつばら》 住吉《すみのえ》の 弟日娘《おとひをとめ》と 見《み》れど飽《あ》かぬかも
    霞打 安良礼松原 住吉乃 弟日娘与 見礼常不飽香聞
 
【語釈】 ○零打つ 霰が打っているの意で、打つのは下の松原である。眼前の光景である。晩秋初冬のことであるから、ありうべき事柄である。この「霞」は、下の「あられ」と畳語の形になっているところから、枕詞のごとくにもみえる。しかしそれは、期せずしてそうなった特殊の趣とみるべきである。○あられ松原 「あられ」は地名で、そこにある松原ゆえの称。「あられ」は大坂市住吉区住吉神社の付近一帯の称。下に詠歎が(117)ある。○住吉の弟日娘と 「住吉」は、今大阪市の住吉神社のある地。この地は古は、大和の京と、西国、三韓とをつなぐ船の発着する地で、交通上の要衝だったのである。「弟日娘」は、「弟日」は、兄姉に対しての弟妹の称で、普通名詞。ここは、それがその人の名となったもの。「娘」は女であるがゆえに添えていった語。この女は、いわゆる遊行女婦であろうという。遊行女婦は十分明らかにされていないが、集中に見えるところでは、旅客の多い地に住み、その旅情を慰めることをしている者であることが知られる。「と」は、とともに、の意のもの。○見れど飽かぬかも 見ても見ても見飽かないことよの意。慣用成句。
【釈】 霰が降って来て打っているあられ松原よ。住吉の弟日娘とともに見ても見ても見飽かないことであるよ。
【評】 旅情を慰めるために、住吉の弟日娘というを侍らしめ、あられ松原を眺めていられての歌である。あられ松原という名から推して、その松原はその辺りでも目にたつ、相当に大きなものに思われる。それに対しての「霞打つ」という状態は、さわやかな、動的なもので、壮快な感をもったものである。その景を愛すべき遊行婦を侍らせてともに見ていると、興趣が一段と加わって、見れど飽かぬというのである。自然観賞が主となっている作で、高度な文芸性をもった作である。一首の調べが強くさわやかで、皇子の面目を思わせられる。
 
     太上天皇、難波宮に幸しし時の歌
 
【題意】 太上天皇は持統天皇である。持統天皇の難波宮に行幸のことは、史上には見えないので、続紀、文武天皇の三年正月、難波宮に行幸のあった際、御同列で行幸になったのではないかという。また、持統天皇は大宝二年十二月崩御になられたので、慶雲三年以後のここに載せるということは不審であるが、それはこの集の原拠となった記録に、行幸の年月が記してなかったため、差別して最後に回したのではないかという。なおその事は、これだけではなく、以下四項の和銅年間に至るまで同様であると考証されている。題詞の下に、目録の方には、「四首」とある。ここにもあるべきものである。
 
66 大伴《おほとも》の 高師《たかし》の浜《はま》の 松《まつ》が根《ね》を 枕《まくら》き宿《ぬ》れど 家《いへ》し偲《しの》はゆ
    大伴乃 高師能濱乃 松之根乎 枕宿杼 家之所偲由
 
     右一首、置始東人《おきそめのあづまびと》
      右一首、置始東人
 
(113)【語釈】 ○大伴の高師の浜の 「大伴」は、(六三)に出た。難波辺り一帯の地の総名。「高師の浜」は、今の堺市の南の高石町にその名をとどめており、浜寺の海岸をそれと見てよいと、『注釈』はいっている。○松が根を 松の根をで、浜松の根は地上に現われがちなものである。「松が」は、松の方を主としての語である。○枕き宿れど 「枕」の訓は諸注さまざまである。上の「を」を受ける関係上、これは動詞であることは明らかであり、『講義』は「枕《まくら》く」と訓んでいる。用例は、巻五(八一〇)「いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上《へ》我がまくらかむ」、巻十九(四一六三)「妹が袖われまくらかむ」、巻三、(四三九)「京師《みやこ》にて誰が手もとをか吾が将枕《まくらかむ》」である。四段活用の語である。この訓に従う。枕として一夜を寝たけれども。○家し偲はゆ 「家」は、大和の家で、妻のいる所。妻の意でいったもの。「し」は、強め。「偲はゆ」は、慕い思われる意。○置始東人 伝が詳かでない。姓《かばね》のないところから卑しい人と思われる。
【釈】 大伴の高師の浜の浜松の根を枕として寝たけれども、それにもかかわらず、家にいる妻ばかりが恋しく思われる。
【評】 太上天皇の難波宮の行幸に供奉した人々の、海を恋うる心から住吉の海岸に遊んでの感である。「大伴の高師の浜の松が根を」と単に一|夜《よ》を枕とした物に対して、一首のなかば以上を費していっているのは、その物を尊んでのことである。尊さをいうに説明的の語をもってせず、鄭重にいうことによってその心をあらわそうとするのは、具象を重んじた上代の心で、ここもそれである。何ゆえに尊んだかというと、高師の浜の松を風景としてすぐれたものとしたためで、言いかえると文芸性を重じんたがためである。しかし一首の中心は、「枕き宿れど家し偲はゆ」で、それにもかかわらず、やはり妻のみが思われるというのでこれは実感である。上流貴族のする自然観賞を慕う心はあるが、それに徹し得ぬところ、階級性を示している作といえる。
 
67 旅《たび》にして 物恋《ものこひ》しきに 鶴《たづ》が音《ね》も 聞《きこ》えざりせば 恋ひて死なまし
    旅尓之而 物戀之□鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死万思
 
     右一首、高安大島《たかやすのおほしま》
      右一首、高安大嶋
 
【語釈】 ○旅にして 旅にあって。旅は上の語と同じく、行幸の供奉をしての難波。○物恋しきに鶴が音も 現行の寛永本は、「物恋之伎乃鳴事毛《ものこふしきのなくことも》」とあり、形容詞の語尾「しき」を鴫《しぎ》の掛詞と解している。『全註釈』は、こういう形の掛詞は、集中に例のないものであり、不熟なものとし、また「鳴事」という言葉続きも、同じく不熟のものとして、諸本を検討して訂正している。簡単にいうと、元暦校本、類聚古集などには、本文は「物恋之鳴毛」とあるのみで、古来数字が脱落していたことが明らかだとし、それでは訓み難いところから、後人が諸本を参照して、訓みうるよ(119)うに字を補ったものとしたのである。「物恋之」は、下に「伎迩《きに》」とあったろうとして、「物恋しきに」としている。これは巻三(二七〇)に「客為而物恋敷尓《たびにしてものこひしきに》」の例があるので、それによったのである。意は、何事となしに恋しいのにで、旅のさびしさから家恋しい心を婉曲にいったもの。「鳴毛」は、「鳴」は「音《ね》」にあてて用いられている字で、ここもそれであるとし、それだと上に鳥が脱落していると見、「鶴」か「雁」であろうとし、「鶴」とし、「鶴《たづ》が」と「が」を訓み添えている。所は難波で、そこの海岸には鶴が多かったとみえ、鶴の歌が他にも少なくないから、これは妥当の解である。○聞えざりせば もし聞こえなかったならばで、仮設。○恋ひて死なまし 「まし」は、仮設の推量の助動詞。恋い死にに死ぬことだろう。○高安大島 伝未詳。
【釈】 旅にいて何となく家恋しい気がしているのに、もし鶴の声が聞こえなかったならば、恋い死にに死ぬことであろう。
【評】 上の歌とおなじく難波の海岸で、寒夜、野宿に近いわびしい状態で宿って、家恋しい気分のつのっていた時、たまたま聞いた鶴の声が珍しくたのしくて、ほっとした時の実感であろう。「物恋しきに」といい、さらに「恋ひて死なまし」と強調しているのは、寒夜のわびしさを思わせるものがある。鶴の声は哀愁をそそるものとされていたが、水辺の鳥である鶴は、水の乏しい大和には少なかったろうから、甚だ珍しく、したがって楽しかったことと思われる。実感に即して素朴に詠んだ歌である。
 
68 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の浜《はま》なる 忘貝《わすれがひ》 家《いへ》なる妹《いも》を 忘《わす》れて念《おも》へや
    大伴乃 美津能濱尓有 忘貝 家尓有妹乎 忘而念哉
 
     右一首、身入部王《むとべのおほきみ》
      右一首、身入部王
 
【語釈】 ○大伴の御津の浜なる 「大伴の御津の浜」は、前に出た。「なる」は、「にある」の約言。○忘貝 身無し貝すなわち殻のみとなった貝の、海浜にうち寄せられた物。また、忘貝と称する一種の貝があるが、これはそれではない。集中、忘貝に関する歌は十首の多きに及んでいるが、いずれも忘貝という名のためである。言霊《ことだま》信仰の強いものをもっていた上代人は、語はその語どおりの力をもってい、それを人の身に及ぼすものだと信じていた。忘貝も、また忘草《わすれぐさ》も、その名のとおり、忘れたいと思う嘆きを忘れさせる力があると信じ、それを身に近く置き、また身に着けることによって、主として恋いの嘆きを忘れようとした心のものである。今もその範囲のことを心に置いたものである。○家なる妹を 家にある妹をで、家は大和の京である。○忘れて念へや 「忘れて念ふ」は、後世の「思ひ忘る」と同じ意味の古語である。「や」は、上の已然形を受けて反語の助詞。忘れようか忘れないの意。○身入部王 系譜は詳かでない。読紀、神亀二年二月に正四位上、天平元年正月に卒せられた。
(120)【釈】 大伴の御津の浜にある忘貝よ、大和の家にいる妹を、我は思い忘れようか、忘れはしない。
【評】 難波宮の行幸に供奉の身となって、旅愁を抱きつつ、そこの御津の浜の忘貝を見ての感として詠んだものである。中心は、大和の家にある妹を深くも思い慕っているということであるが、その心的態度も、表現も、この当時としてはきわめて新しいものである。心としては、呪力ありと信じられてき、また一股には信じられている忘貝というものを斥けて、単に一つの物として見ていることである。この「忘貝」には、何ら信仰的なものはない。表現としては、御津の浜にある忘具と、家にある妹とを対立させ、忘れるという一語で双方を繋いでいるもので、これは知的な方法である。双方とも、この当時としては新しいものというべきである。技巧としては、忘貝をいうに三句を費して、それに呼びかけに近い感歎をこめて、力強くいっているのは、それを反映させることによって、中心の「忘れて念へや」を力強くさせようためである。また、知的ではあるが、調べが張っているので、強い情感を思わせるものとなっていて、いずれも技巧のすぐれた歌といえる。
 
69 草枕《くさまくら》 旅《たび》行《ゆ》く君《きみ》と 知《し》らませは 岸《きし》の埴生《はにふ》に にほはさましを
    草枕 客去君跡 知麻世波 崖之埴布尓 仁寶播散麻思乎
 
     右一首、清江娘子《すみのえのをとめ》、長皇子《ながのみこ》に進《たてまつ》れる 【姓氏いまだ詳かならず】
      右一首、清江娘子、進2長皇子1 【姓氏未v詳】
 
【語釈】 ○草枕旅行く君と 「草枕」は、(四)に出た。「旅行く」は、旅を行くで定住しないの意。「君」は、左注によって長皇子に呼びかけたもの。○知らませば 「ませ」は、「まし」の未然形で、仮想した条件をいうもの。もし前から知っていたならばの意。○岸の埴生に 「岸」は、海の岸、山の崖にもいう。住吉にある岸で、埴の産地として聞こえていた。「埴生」の埴は、黄色または赤色の粘土。それを白い衣に摺りつけることが行なわれていた。「生」は、産する所の意。「埴生」は、埴の産する所の意の語であるが、埴その物の意に用いている。○にほはさましを 「にほふ」は、色のうるわしい意で、(五七)に出た。「にほはさす」は、その他動で、色うるわしくさせる。すなわち旅衣《たぴごろも》に摺りつけようの意。「を」は、ものをの意の詠歎の助詞。○清江娘子 住吉に住んでいる娘子の意で、姓氏いまだ詳かならずといわれている者である。多くいた遊行女婦の一人と思われる。それが別れに臨んで、長皇子に進《たてまつ》つた歌である。
【釈】 旅を行く君であるともし知っていたならば、ここの岸の埴をもって、君が旅衣を色うるわしく摺っておこうものを。
【評】 住吉娘子が、長皇子との別れを惜しんだ歌で、口頭によって歌ったものと思われる。行幸の供奉の皇子を「旅ゆく君と(121)知らませば」というのは、娘子には口なれている言い方で、自然であるが、皇子には不自然である。要するに挨拶程度の歌で才情は汲めるが、いうほどのものではない。
 
     太上天皇、吉野宮に幸《いでま》しし時、高市連黒人の作れる歌
 
【題意】 太上天皇は持統天皇。太上天皇として吉野宮へ行幸になったことは史に見えない。したがっていつの事とも明らかではない。高市連黒人は(三二)に出た。
 
70 大和《やまと》には 鳴《な》きてか来《く》らむ 呼子鳥《よぶこどり》 象《きさ》の中山《なかやま》 呼《よ》びぞ越《こ》ゆなる
    倭尓者 鳴而歟來良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曾越奈流
 
【語釈】 ○大和には 「大和」は、旅をして他国にある時、その妻の待っている家を「大和」と呼んでいる例は、(六四)にある。今もそれで、吉野も同じく大和であるが、藤原の京をさしていったもの。「には」は、「に」は狭く限った範囲をさし、「は」は取り立てていう助詞であるから、妻のいる家の意でいっているものである。○鳴きてか来らむ 「来らむ」は、今だと「行くらむ」というところである。この集には「行く」を「来」といっている場合が相応にある。『代匠記』は、本来の住所をわが方《かた》としていうのだといい、『燈』は、こちらに心を置くと「行く」といい、あちらに置くと「来」というのが、古い用法だといっている。『講義』『注釈』も同様である。鳴いて行くのであろうか、と疑問の形でいったもの。○呼子鳥 この名は、時代とともに変わって、「喚子鳥」と書いた字面から閑古鳥《かんこどり》といわれ、郭公《かつこう》といわれ、「かつぽう」ともいわれている。形はほととぎすに似て、やや(122)大きく、春より夏にかけて来る渡鳥で、鳴き声は、「かっこう」とも「かっぽう」とも聞こえ、一つ所にとどまって、繰り返して鳴くのである。それを聞いていると、親しい人を呼んでいるように感じられるので、呼子鳥という名が付けられたものと思われる。その繰り返し呼んでいる声には一種の哀調があって、恋の心を連想させるところから、恋に関係させた歌が多い。○象の中山 「象」は、地名。吉野離宮のあった宮滝の南の地で、巻三(三一六)に「象《きさ》の小河《をがは》」を詠んだ歌があり、今も喜佐谷《きさだに》と呼ぶ谷がある。「中山」は、そこにある山。○呼びぞ越ゆなる 「呼び」は、呼子鳥の鳴くのを、その感じから言いかえたものであるが、今は、明らかに呼んでの意でいったもの。「ぞ」は、係。「越ゆなる」の「なる」は、連体形で、上の「ぞ」の結び。
【釈】 都の妻のいる家にと、旅のここから鳴いていくのであろうか。呼子鳥は、ここの象の中山を、呼び立てて越えてゆくことであるよ。
【評】 黒人が持統天皇の吉野離宮への行幸の供奉をしている時、心中郷愁を感じている折から、呼子鳥が妻のいる藤原の京の方角へ鳴きながら飛んでゆくのを見て、その鳥にわが郷愁を伝えさせる心をもって詠んだ作である。「大和には鳴きてか来らむ」は、妻のもとへ鳴いて行くだろうかであるが、場合柄あらわにいうことを憚って、「大和には」と甚だ婉曲な言い方をし、さらに「か」の疑問を添えていったのである。しかし「来らむ」は、その心を徹しさせたものである。「呼子鳥」以下は、上の感を発しさせた情景を具象的にいったものである。古くから鳥は、わが思いを遠方にいる人に伝えさせうるものだとしていた。黒人はその時、その心を起こしたとみえる。「呼びぞ越ゆなる」の「呼び」は、ここでは妻を呼ぶのである。呼ぶのは伝えるべきことがあるからである。この「呼び」は「呼子鳥」の呼びの畳語という程度のものではなく、含蓄をもったものである。一首、表面にはいささかも郷愁の趣を見せていないが、実質は純郷愁で、婉曲を極めたものである。技法としては、この当時すでに象徴に近い表現をしていたのである。
 
     大行天皇、難波宮に幸しし時の歌
 
【題意】 大行天皇は、ここでは文武天皇。本来大行天皇という尊号は、中国にならったもので、天皇崩御後、御謚号《ごしごう》を奉らない間の称である。しかるにこの頃には、先帝をいう意味で用いるようになっていた。この事は、『講義』が詳しく考証している。その点から、この題詞は、次の御代、元明天皇の時に記録したものを、そのままに用いたものと思われる。行幸の年月は明らかでない。
 
71 大和《やまと》恋《こ》ひ 寐《い》の宿《ね》らえぬに 情《こころ》なく この渚崎廻《すさきみ》に たづ鳴《な》くべしや
(123)    倭戀 寐之不所宿尓 情無 此渚埼未尓 多津鳴倍思哉
 
     右一首、忍坂部乙麿《おさかべのおとまろ》
      右一首、忍坂部乙麿
 
【語釈】 ○大和恋ひ寐の宿らえぬに 「大和」は、大和国であるが、旅にあって家を意味させているもの。「い」は、眠りの意で、名詞。「宿らえ」の「らえ」は、「られ」の古語。眠ろうとしても眠られないのに。○情なく 思いやりなく。○この渚崎廻に 「廻」は、『新訓』による。渚の崎の、水中に差し出ている辺りにで、そうした所は鶴などの、餌を漁ろうとして好んでいる所である。○たづ鳴くべしや 「たづ」は、当時は、鶴を始め鶴類を広く呼んだ称。「や」は、今は反語。鳴くべきであろうか、鳴くべきでないの意で、夜の「たづ」の鳴き声に刺激されて、ますます旅愁がつのるゆえの心。○忍坂部乙麿 伝が詳かでない。
【釈】 大和の家を恋って、眠ろうとして眠れずにいるのに、思いやりなく、ここの洲崎の辺りに、鶴が鳴くべきであろうか、鳴くべきではない。
【評】 旅愁を、我と慰めるための歌であるが、調べに迫るものがあって、その平淡なのを救っている。この歌に限らず、この種の歌のすべてに通じてのことであるが、旅愁の大半は旅の侘びしさより起こるものである。行幸の供奉としての旅は、侘びしさにも限度があって、その家居の時とさして異なったものではなかろうと思われる。異なるのは、妹の添っていないことだけである。すなわち旅愁は、いわゆる旅愁とは異なって、妹と別れていることによって起こってくるものなのである。ここに当時の人の、いかに善意に富んでいたかを思わせるものがある。この歌ではまた、「情なく、たづ鳴くべしや」の「情なく」が注意される。これは必ずしも特殊なものではなく、(一七)にも、「情なく雲の隠きふべしや」というのがあった。これらは後世の詩的技巧とは趣を異にして、作者は自然にいっているものであろうと思われる。これらの語の自然さは、自然そのものに対して善意を期待しているところがあり、その反映として、期待に添わないのに恨み怒りを感じてきてのものと思われる。この歌には、そうした善意が、やや際やかに現われている。
 
72 玉藻《たまも》刈《か》る 沖《おき》辺はこがじ しきたへの 枕《まくら》辺の人《ひと》 忘《わす》れかねつも
    玉藻苅 奧敞波不榜 敷妙乃 枕邊之人 忘可祢津藻
 
     右一首、式部卿藤原|宇合《うまかひ》
(124)      右一首、式部卿藤原宇合
 
【語釈】 ○玉藻苅る 既出。藻を苅り取るで、「沖」の状態としてかかる枕詞。○沖辺はこがじ 「沖辺」は、沖の方。「へ」は助詞ではない。沖の方へはこぎ出すまい。遠い遊びはしまいの意。○しきたへの 織目の繁い、すなわち細かい織物。衣、家、床、枕など多くの物へかかる枕詞。枕へかかるのは、床の延長と思われる。 ○枕辺の人 この句は細井本以外の古写本は「枕辺之人」とあるに従い『注釈』も『私注』も「枕辺の人」と訓んでいる。枕を並べている床上の女である。『注釈』は、難波の遊行婦としている。従うべきである。○忘れかねつも 忘れることができないなあ。「かね」は、現在も用いられている。「も」は、詠歎。○式部卿藤原宇合 目録の方には、「作主《つくりぬし》いまだ詳かならざる歌」とあり、「式部卿」以下は、細字となっている。宇合は天平九年に薨じた人で、懐風藻、公卿補任によると、年は三十四、四十四、または五十四で、不定である。持統天皇七年の出生であるから、この時は十六歳であったろうという。『注釈』は詳しく考証している。
【釈】 藻を苅り取る沖の方へは、わが船は漕ぎ出すまい。夜床の枕のほとりにいた人が、忘れられないことだなあ。
【評】 作者は岸近い辺りで舟遊びをしていて、沖の方へ漕ぎ出さないかと勧められたのに対し、この歌をもって答えたものと思われる。明るく軽い作で、独詠とはみえないものである。挨拶の歌としても、相手は遠慮のいらない、親しい部下かと思われる。手放しな物言いである。「沖辺」「枕辺」と対させて、突きはなして客観的な言い方をしているところ、初心ではあるが、文芸的の才能の閃きがあるといえる。
 
     長皇子の御歌
 
【題意】 長皇子は、(六〇)に出た。
 
73 吾妹子《わぎもこ》を 早見浜風《はやみはまかぜ》 大和《やまと》なる 吾《わ》を松《まつ》椿《つばき》 吹《ふ》かざるなゆめ
    吾妹子乎 早見濱風 倭有 吾松椿 不吹有勿勤
 
【語釈】 ○吾妹子を早見浜風 「吾妹子」は、妻をきわめて親しんで呼ぶ称。「早見浜風」の「早見」は、掛詞となっていて、上よりの続きは、早く見るとなり、同時に、「浜風」を形容する意をもっていて、そちらは「早み」で、これは形容詞の連体形で、浄見原《きよみはら》、朱鳥《あかみどり》などと同じ例である。「浜風」は、海より浜に吹いてくる風で、その烈しいのを「早み」といっているので、早きというにあたる。「早見浜風」は一つの語で、今は呼びかけていっているもの。○大和なる 大和にあるで、その大和は旅にあってわが家《や》を意味させる語であるから、わが家にあるの意。○吾を松椿 (125)「吾《わ》を松」は『考』の訓み。「松」は掛詞で、吾を待つ、すなわちわが帰京を待つと、松の木と椿とをかけたもの。わが帰りを待つ松の木や椿を。○吹かざるなゆめ 「吹かざるな」は、吹かずはあるなで、吹けということを、不安をもって消極的にいったもの。「ゆめ」は、「忌む」の古語「斎《ゆ》む」の命令形で、慣用より副詞となり、強く命令する意でいう語。今は、きっとというにあたる。
【釈】 吾妹子を早く見るという名をもっている早み浜風よ。大和のわが家にあるわが帰京を待つ松の木や椿を、吹かないということはするなよ、きっと。
【評】 行幸の供奉をして難波にあって、旅愁を感じられていた皇子が、いうところの早み浜風に吹かれていると、大和の家にいて、皇子の帰京を待っている妻を思慕する心が起こり、その心をその浜風に託したのである。第一に託されたのは、「早見浜風」という語である。(五) の長歌に、「玉襷懸けのよろしく、朝夕《あさよひ》に還らひぬれば」という語がある。言霊《ことだま》信仰は、今日いうところの縁起のよい語で、それを信じ頼む心の、きわめて深いものである。「早見」という語は、「吾妹子を早見」という意味をもちうるもので、その名をもった「早見浜風」は、この際の皇子としては、貴くも懐かしいものだったのである。「早見」を掛詞にして、「浜風」に呼びかけたのは、この伝統久しい信仰からで、技巧はそれに付随したものである。第二に託されたのは、風はその本性として遠く行きうるものであるから、この風が大和のわが家まで至り得ないものではなく、またそれだと、今わが身に触れている風が、同じく妹が身にも触れ得ないものでもないと思われた。一つの物が相思う二人の身に触れるということは、それを通して魂の交流をもなしうるものだという信仰は、何首かの歌となっている。巻十(二三二〇)「わが袖に降りつる雪も流れゆきて妹が袂にい行き触れぬか」はその一例である。皇子はその風にこの信仰を託されようとしたのである。しかしそれについては、皇子の心は合理的に働かれ、風の最も触れやすい松と椿の木とを思われ、しかもこの風が、はたして遠いわが家まで至りうるかどうかという不安をも思われ、「吹かざるなゆめ」という、消極的な、しかし力をこめた訴え方をしているのである。「吾を松椿」は無論「吾妹子」を言いかえたもので、この言いかえは、その事を合理的にする必要からのもので、技巧は付随したものである。古い信仰と、新しい合理的な心との交錯した歌である。心の複雑なのに比して、調べの強さとさわやかさを失っていないのは、皇子の手腕である。
 
     大行天皇、吉野宮に幸しし時の歌
 
【題意】 大行天皇は、文武天皇。天皇の吉野官への行幸は、続日本紀、大宝二年七月にあったことが記されているが、歌によると寒い季節であったことが知られるので、その時ではない。
 
(126)74 み吉野《よしの》の 山《やま》の下風《あらし》の 寒《さむ》けくに はたや今夜《こよひ》も 我《わ》が独《ひとり》宿《ね》む
    見吉野乃 山下風之 寒久尓 爲當也今夜毛 我獨宿牟
 
     右一首、或は云ふ、天皇の御製歌
      右一首、或云、天皇御製歌
 
【語釈】 ○み吉野の山の下風の 「み吉野」は、既出。「下風」は、「あらし」にあてた文字。「山下出風」の意。○寒けくに 「寒けく」は、形容詞「寒し」の未然形に、古くは「寒け」の形があり、それに「く」を添えて、名詞のごとくしたもの。寒きことなるにの意。○はたや今夜も 「はた」は、またに、嘆きの意の添ったもので、またも詮なくの意。「や」は、疑問の係の助詞。○我が独宿む ひとり寐は、共寐に較べて寒いものとの意でいった語。○この歌は作者の明らかでないものである。天皇すなわち元明天皇の御製とも伝えているというのである。
【釈】 み吉野の山の嵐は、寒いことであるのに、またも詮なく、ただ独りで今夜も寐るのであろうか。
【評】 吉野に幾夜かを宿った後、その夜も寐ようとして、折からの嵐の寒さに、夜々を肌寒くて眠り難いところから、妻との共寐の凌ぎやすかったことを思い出していたので、今夜もまた、あのとおりであろうかと予感しての嘆きである。寒夜の旅愁で、墳憩の多いものであるが、表現が物静かで、旅愁が婉曲なため、品位ある歌となっている。大行天皇すなわち文武天皇の御製はこの一首のみであるが、異説もあったのである。
 
75 宇治間山《うぢまやま》 朝風《あさかぜ》寒《さむ》し 旅《たび》にして 衣《ころも》貸《か》すべき 妹《いも》もあらなくに
    宇治間山 朝風寒之 旅尓師手 衣應倍 妹毛有勿久尓
 
     右一首、長屋王《ながやのおほきみ》
      右一首、長屋王
 
【語釈】 ○宇治間山 吉野町、上市の東方にある山で、飛鳥から吉野へ行く近路にあたっている。現在千股とある地。○朝風寒し 朝、山越えしての感である。○旅にして 旅にあって。○衣貸すべき妹もあらなくに 「衣貸すべき妹」は、衣を貸してくれるような妻。古くは下の衣は、女(127)の物も男に用いられたので、この意の歌が少なくない。別居生活の関係からである。妻は、京にいる妻である。「も」は、詠歎。「あらなくに」は「なく」は、打消の助動詞の未然形「な」に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎の助詞。○長屋王 高市皇子の御子で、天武天皇の御孫である。慶雲元年に正四位上、後、宮内卿、式部卿、大納言、右大臣を経て、神亀元年、正二位左大臣となり、天平元年讒にあって、四十六あるいは五十四をもって自尽された。
【釈】 宇治間山は朝風が寒い。旅にあって、衣を貸してくれるような妹もいないことであるのになあ。
【評】 吉野宮へ供奉の往復に、秋か冬の朝風の寒い頃、宇治間山を越えながらの歌で、旅愁の作である。妻を訪い、朝別れるおり、寒い時には、妻が下着を貸すのが風となっていたので、それを思い出しての嘆きで、類想の作の少なくないものである。軽い心よりの作であるが、実感に即しつつ落ちついて豊かに詠まれているところに、風格があり、味がある。
 
   和銅元年戊申
     天皇の御製歌《おほみうた》
 
【題意】 元明天皇は、慶雲四年即位されたので、和銅元年はその翌年である。天皇は、御諱は阿閉皇女、文武天皇の御母である。天皇崩御の後即位され、和銅三年までは藤原宮にいられた。
 なお和銅二年には、蝦夷が叛いたので、征伐の軍を送っている。その前年である元年には、準備のための訓練が行なわれていたことと思われる。
 
76 大夫《ますらを》の 鞆《とも》の音《と》すなり もののふの 大臣《おはまへつぎみ》 楯《たて》立《た》つらしも
    大夫之 鞆乃音爲奈利 物部乃 大臣 楯立良思母
 
【語釈】 ○大夫の 「大夫」は、(五)に出た。猛き武夫の意である。○鞆の音すなり 「鞆」は、武具、弓を射る時、左の手の手首に付けて、矢を射る時弓弦が反ってあたり高い音を立てるようにした物で獣革で袋を作り、中に獣毛を入れた物である。「すなり」は、「す」に「なり」を添えて強くいったもの。○もののふの (五〇)に出た。本来は文武百官の総称であるが、ここは意味が狭くて、武官の意でいっていられる。○大臣 「臣《まへつぎみ》」は、前つ君の意で、天皇の御前近く侍う臣を尊んでの称。「大」は、その中に特に貴い人として添えた語。上の句を待って将軍というにあたる。○楯立つらしも 「楯」は、戦争の際、敵の矢、鉾《ほこ》を防ぐための武器。延喜式に載っている大甞祭の神楯は、長さ一丈二尺余、濶《ひろ》さ四尺余、(128)厚さ二寸。その表に黒の牛皮の、長さ八尺、広さ六尺の物を張り、さらに鉄の、長さ四尺、広さ五寸、厚さ一分の物を打ち付けたものである。「立つ」は、立てるで、楯を立てるのは陣容を整える意である。「らし」は、証を挙げての推定をあらわす助動詞。「も」は、詠歎。
【釈】 猛き武夫どもの、弓を射る鞆の音がするよ。将軍は、軍容を整えている様子だなあ。
【評】 宮に間近い辺りで、将軍が出征のための調練としての弓を射る鞆の音をお聞きになり、その全体を想像されての御製である。事相を叙されたのみで、内容には触れてはいないが、これは他に聞く者があるとしても、側近の人のみで、それらの人たちは、その内容の何であるかは、天皇と同じく心得ているのであるから、その必要はなかったのである。しかし一首の調べは、明らかにその事相に対してのお心持をうかがわさせるものがある。卒然と、初二句その事の中核を成すことをいって、言いきられ、ついで、「もののふの大臣楯立つらしも」と、全貌を想像され、感歎を添えていっていられるのである。事の全貌を捉え、素朴な、強い声調をもって、食い入るがごとく詠まれているので、表現が気分そのものとなり、迫りくるものがある。女帝ながら天皇の責任を痛感されての御製である。
 
     御名部皇女《みなべのひめみこ》、和《こた》へ奉《まつ》れる御歌
 
【題意】 御名部皇女は、天智天皇の御女で、元明天皇の、同母の御姉である。
 
77 吾《わ》が大王《おほきみ》 物《もの》な思《おも》ほし 皇神《すめがみ》の 嗣《つ》ぎて賜《たま》へる 吾《わ》がなけなくに
    吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
 
【語釈】 ○吾が大王物な思ほし 「吾が大王」は、臣下として天皇を呼びかけての称。御姉ではいられるが、天皇の位にある方に対しては当然臣下なのである。「な」は、禁止の意をもった助詞。「思ほし」は、「思ふ」の敬語「思ほす」の連用形。これに「な」が添って、お思いたもうなの意を成す古語。「物思ふ」は、嘆く意をあらわす語で、御心配なさいますなの意となる。○皇神の 「すめ」は、統《す》めで、統治の意がある。皇祖神を称する語で、また一般に神をも崇めてもいう称。『講義』は、ここは皇産霊神の意であると解している。わが国は、国土そのものを初め一切のものは、神々の産霊の御力より生まれたものであるということは、上代の信仰で、深く広かったものである。○嗣ぎて賜へる これは「吾」の修飾語で、天皇につぐものとして神のお下しなされたところの。すなわち天皇をお下しなされ、ついで、輔佐する者としてお下しなされたところの。○吾がなけなくに 「吾が」は、従来|吾《われ》と訓んできたのを、『注釈』が改めたもの。「なけなく」に続く場合、「が」を訓み添えるのが例となっている。「なけなく」は前出。「なく」はないことであるの意。「に」は詠歎。卑の形をもって強くいう語法。
(129)【釈】 吾が大君よ、御心配はなさいますな。皇祖神の天皇につぐ者としてお下しになったところのわたくしがなくはないのでございますのに。
【評】 天皇の御製は、直接に皇女に対してのものとは思われないが、皇女は側近していてそれを伺ったところから、同じく歌をもって和《こた》へ奉ったものとみえる。これは古くからの風で、後世になると必ずそうすべきものとなっていた風である。皇女は天皇の御心を十分に察し、東北地方の国情不安を御心配になってのこととし、それを御慰めしたのである。「吾が大王物な思ほし」と、まず総括して、力強く言いきられ、ついで、「皇神の嗣ぎて賜へる吾がなけなくに」と、その理由をいわれたのである。これはきわめて深い信仰の上に立ってのお語《ことば》である。皇祖神より押し進めて他の神々をも「皇神」と申すのは、国土を統治なさる神の意であって、わが国土は神の物と信じられてのことである。天皇はその皇神の御身代りとして下された方、御自分も天皇につぐ者として、かく添い奉っていないのではないのに、というのは〔五字傍点〕、深い信仰をもっての言である。すなわち、いささかの国情の不安などには微動をもなさらないお心である。これはまさに御信念の端的なる披瀝であると思われる。天皇の女帝ながら、国家を任となされる御心に対し、皇女の雄々しくいられるこの唱和も、共に強い責任感の現われである。
 
     和銅三年庚戌の春二月 藤原宮より寧楽宮に遣りましし時 御輿《みこし》を長屋《ながや》の原に停《とど》めて※[しんにょう+向]《はる》かに古郷《ふるさと》を望みて作りませる御歌 一書に云ふ、太上天皇の御製
 
【題意】 寧楽宮の遺址は、今の奈良市の西から郡山町の北にあたる一帯の地である。宮の造営は、和銅元年に始まり、遷都は同三年三月に終わった。今はその二月である。御輿は高貴の御方の乘物。長屋の原は、今はその名が伝わっていない。天理市永原町、長柄町一帯であろうという。それだと藤原宮からは三里ばかりの地である。古郷は、藤原である。ここに作主の名があるべきであるが、ない。他は詳しく敍しているところからみると、原拠となった記録のままに記したもので、その記録は遷都に供奉した者の手に成った関係上、改めて記すには及ばないものとしたためかもしれぬ。とにかく、このままでは不明である。「作りませる御歌」という書きようも、御製としては妥当なものとはいえない。しかし上と同じ関係のものかもしれぬ。「一書に云ふ、太上天皇の御製」という語は、目録の方にはないもので、後からのものと思われる。この御代には、「太上天皇」と申されるべき御方はない。
 
(130)78 飛《と》ぶ鳥《とり》の 明日香《あすか》の里《さと》を 置《お》きていなば 君《きみ》があたりは見えずかもあらむ【一に云ふ、君があたりを見ずてかもあらむ】
    飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武【一云ふ、君之當乎不見而香毛安良牟】
 
【語釈】 ○飛ぶ鳥の明日香の里を 「飛ぶ鳥の」は、明日香の枕詞として用いられているが、これは天武天皇の十五年、大和の国から赤雉を献上したのを瑞祥として、朱鳥《あかみどり》と改元されたのと、藤原宮が明日香の地域にあるのとで、明日香を讃える意で枕詞となったもの。「明日香」は、飛鳥《あすか》地方一帯の名で、現在の明日香村一帯が、それにあたる。○置きていなば すて置いて離れて行ったならば。○君があたりは 「君」は、皇族などの親しくお思いになられる方。「あたりは」は、家のあたりはで、「は」は取り立てる意の助詞。○見えずかもあらむ 「か」は、疑い、「も」は感歎の意の助詞。見られなくなるのであろうか。○一に云ふ、君があたりを見ずてかもあらむ 君が家のあたりを、見なくていることであろうか。
【釈】 飛ぶ鳥の明日香の里をすて置いて行ったならば、そこにいる君が家のあたりは、見られなくなることであろうか。一にいう。君の家のあたりを見なくていることであろうか。
【評】 京は新しい寧楽に遷つても、従来どおり明日香の里にとどまっていられる親しい方に対して、別れを惜しまれたお心である。一首、おおらかな中に情感のこもったもので、四、五句はことにその感が深い。気品の高いものである。
 
     或る本 藤原京より寧楽宮に遷りし時の歌
 
【題意】 或本というのは、上にある歌に対して、別本には小異のある場合、参考として添える場合にのみ用いる語である。これはそれと異なり、上の歌と、時を同じゅうしている意でいっているもので、後より追加した歌ということを示しているものである。歌は、遷都とともに一皇族が藤原より奈良へ邸を移した時、その工事にあたった工匠の、家主に贈ったものである。
 
79 天皇《おほきみ》の 御命畏《みことかしこ》み 柔《にき》びにし 家《いへ》をおき 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の川《かは》に 舟《ふね》浮《う》けて 吾《わ》が行《ゆ》く川《かは》の 川隈《かはくま》の 八十隈《やそくま》おちず 万度《よろづたび》 顧《かへり》みしつつ 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》行《ゆ》き暮らし 青丹《あをに》よし 奈良《なら》の京《みやこ》の 佐保川《さほかは》に い行《ゆ》き至《いた》りて 我《わ》がねたる 衣《ころも》の上《うへ》ゆ 朝月夜《あさづくよ》 清《さや》かに見《み》れば 栲《たへ》の穂《ほ》に 夜《よる》の霜《しも》ふり 磐床《いはどこ》と 川《かは》の氷《ひ》凝《こご》り 寒《さむ》き夜《よ》を いこふことなく 通《かよ》ひつつ 作《つく》れる家《いへ》に (131)千代《ちよ》までに 座《いま》せ大君《きみ》よ 吾《われ》も通《かよ》はむ
    天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隱國乃 泊瀬乃川尓 ※[舟+共]浮而 吾行河乃 河隈之 八十阿不落 万段 顧爲乍 玉桙乃 道行娩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上從 朝月夜 清尓見者 栲乃穗尓 夜之霜落 磐床等 川之氷凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手 來座多公与 吾毛通武
 
【語釈】 ○天皇の御命畏み 「天皇」を「おほきみ」と訓むにつき、荒木田久老は、「おほきみ」は当代の天皇より皇子諸王までの称であり、「すめらぎ」は遠祖の天皇の称であるが、皇祖より受け継がれた大御位についていう上では、当代の天皇をも申すことのある称だといっている。その意味で今も、普通の称に従って「おほきみ」と訓んでいる。「御命畏み」は、勅を畏み承りて。これは成句となっていたものである。事としては一宮人から工匠が依頼を受けたことであるが、それに最高の語を転用したものである。○柔びにし家をおきて 「柔び」は「荒《すさ》び」に対した語で、和らぎ睦ぶ意。家人との関係をいったもの。原文「擇」は、「釈」に通ずる字で、「捨」の意、「置」の意とをもっている。『講義』は、用例の多きに従って「置」を取っている。その家をさし置いて。○隠口の泊瀬の川に 「隠口の」は、(四五)に出た。泊瀬の枕詞。「泊瀬の川」は、大和川の上流で、その支流の一つである佐保川と合流するまでの間の称である。この川は、三輪山の麓をめぐり、国中《くんなか》の平野を流れて、佐保川に合する。○舟浮けて吾が行く川の 原文「※[舟+共]」は、小さく深い舟を意味する字。わが国の高瀬舟にあたる。この川は大船は用い難いためである。「浮けて」は、浮かべて。「吾が行く川」は、水路の便のある限り、それを利用するのが上代の風であった。荷物も共に運び得たものと思える。舟に乗る地点は、藤原方面からだと、三輪の辺りであろうと『講義』はいっている。○川隈の八十隈おちず 「川隈」は、川の曲がり目で、「隈」は(一七)に出た。「八十隈」は、多くの隈。「落ちず」は、(二五)に出た。「漏れず」の意。○万度顧みしつつ 「万度」は、何回となくの意。「顧みしつつ」は、後を振り返って見い見いしてで、遠ざかり、見えなくなる家を、限りなく思い慕いつつの意をあらわしたもの。○玉桙の道行き暮らし 「玉桙の」は、主として「道」にかかる枕詞(132)である。『注釈』は、新解釈をしている。「玉」は霊。「桙」は男根。古代の農村は里の入口、あるいは三叉路に、道祖神を祀っていた。これは他より入り来る邪霊を追い払うもので、また男根もともに祀ってあったといぅのである。したがって、道あるいは里の修飾語としてのもので、男根にはたぶん、農作物繁殖の呪力があるとしてのことと思われる。「道」は、ここは舟路。「行き暮らし」は、行くに暮らしてで、行くに暮れてというと異ならない。以上は泊瀬川の行路で、舟は下りである。○青丹よし奈良の京の 「青丹よし」は、(一七)に出た。「奈良の京」は、前に出た。○佐保川に 「佐保川」は、上にいった大和川の支流の一つで、春日山中から発し、今の奈良市の北を流れ、古の奈良の京の間を流れて、初瀬川と合して大和川となるのである。「奈良の京の佐保川」という続きは、この川が奈良の京に通じているところからの言い方である。 ○い行き至りて 「い」は、接頭語。「行き至り」は、行き着くで、舟が佐保川に移ってからは、川上に向かって溯るのである。○我がねたる衣の上ゆ 「我がねたる衣」は、夜を舟の中に寝て、寝るに被《かず》いているところの衣である。「上ゆ」は、上より。寝ているままで、その被いている衣の上から。○朝月夜清かに見れば 「朝月夜」は、朝月で朝になってもある月。在明月の意。朝月夜の光にの意。「清やかに見れば」は、はっきりと見ると。○栲の穂に 「栲」は、今の楮《こうぞ》の古名で、「たく」ともいった。その繊維をもって織った布も、同じく「たへ」といった。これはいずれも白色のものである。「穂」は、物の現われて見え、目に着くことをいう意の語。その物の光沢にもいう。「栲の穂」は、白い楮の特に白い所の意で、真っ白なことを具体的にいったもの。真っ白に。○夜の霜ふリ 夜の物の霜が降り。○磐床と 「磐床」は、磐が床のようになっているものの称で、磐の広く平らになっているもの。「と」は、のごとくに。○川の氷凝り 佐保川の氷が凝って。○寒き夜をいこふことなく 「いこふ」は、休息の意で、励み努めての意。○通ひつつ作れる家に 「通ひつつ」は、藤原より奈良へと通いつづけて。「作れる家に」は、わが建築したところの家に。○千代までに 「千代」は、原文「千代二手来」の「来」は、次の句に属させていたのを、『考』は「尓」の誤写として、今のごとくにし、それ以来の注は従っている。千年で、いついつまでも長く。○座せ大君よ 原文「座多公与」とある。「多公」を「おほきみ」と訓むのは、不自然の感があるが『注釈』は、「多」を「大」にあてた例を挙げて、万葉後期にはありうる用字だとしている。家主を「大君」と呼ぶのは、すでに起首に出ていることで、呼びうる人であったとみえる。「よ」は呼びかけである。○吾も通はむ 「吾も」は、我もまたこの家に。「通はむ」は、出入りをする意で恩顧をこうむらそうとしてである。
【釈】 大君の仰せを畏み承って、和《なご》み睦んできた家族のいるわが家をさし置いて、泊瀬の川に小舟を浮かべて、わが通い行く川の、その川の曲がり角の多くある曲がり角の一角をも漏らさず、幾たびも幾たびもわが家を振り返って見い見いして、舟路に日を暮らして、奈良の京を流れている佐保川にまで行き着いて、わが寝て引被《ひきかず》いている衣の上から、照る朝の月の光に、はっきりと見ると、着ている白い栲より白く霜が降り、床を成している磐のようにごつごつと川の氷は凝っている寒い夜を、休息することもなく、通い通いして建築したこの家に、いついつまでもお住まいなさいませ大君。我もまた今後御恩顧をこうむるために、通ってまいりましょう。
【評】 藤原より奈良へ遷都の勅命が下り、大宮の造営が始まると、大宮に奉仕すべき大宮人は、それとともに各自の邸宅を建築しなければならないことになった。一人の大宮人から、そのことの依頼を受けた藤原に住んでいた工匠は、依願のままに、(133)藤原から奈良へと通って、建築にあたったのである。遷都は和銅三年三月で、天皇は二月にすでに御移りになられたことが、前の歌でわかる。この大宮人の家は、それに先立って完成しなければならない。「栲の穂に夜の霜ふり、磐床と川の氷凝り」といっているのは、冬の酷寒の季節の状態で、遷都に先立っていたことがわかる。その工匠のこの歌を作った心は、依頼主である大君という大宮人に、その工事を引き受けたことを縁として、今後の恩顧を乞おうとしてのものである。それをいうには、このために、いかに心身を労したかということを具《つぶ》さに訴えて、まず依頼主の同情を得ようとしたのである。起首から結末に近い「作れる家に」までのほとんど全部は、そのためのものである。結末に至って、そのいわんとする要点を初めていっているが、それは「吾も通はむ」という婉曲なもので、しかもそれをいうには、その作れる家に「千代までに座せ大君よ」という、その家と家主《いえあるじ》に対する賀の詞を述べ、それに付随していうという、用意深い態度を取っているのである。一首の主意は、明らかなものといえる。
 表現も、その態度にふさわしい用意をもったものである。起首の「天皇の御命畏み」は、意としては結末に近い「通ひつつ作れる家に」に続くものである。ここで「天皇」といっているのは邸宅の建築を命じた人で、その人に対する敬称である。この称は広く、皇族にも用いたものであり、またいう者は工匠であるから、皇族の一人であれば、不自然ではない。また、結尾にも繰り返しているから、そうした人と解される。また起首より「寒き夜を」までは、一日一夜の労苦を叔して訴えたものである。これは事を具象的にすることによって強め、それによって訴えを強めているもので、この歌に限ったことではないが、要を得たものである。さらに部分的にいえば、「柔びにし家をおき」より「万度顧みしつつ」までは、工匠がその家と離れることを悲しむ心である。距離は藤原より奈良までの間で、しかも「通ひつつ」といい「通はむ」といっている間である。これは明らかに誇張で、訴えんがためのものである。「川隈の」以下「顧みしつつ」までの四句は、巻二(一三一)柿木人麿の歌にほとんど同様のものがあって、当時にあっては成句に近いものである。この影響の受け方は口承文学的である。しかし、「吾がねたる衣の上ゆ、朝月夜清かに見れば」は、相応に簡潔で、まさに記載文学のものである。「寒き夜を」より転じて、「いこふことなく、通ひつつ作れる家に」の間《ま》の早さも、同じく記載文学のものである。総括して、大小の用意をもっているもので、おのずから口承文学と記載文学の交錯も示している、相応に高い技巧をもった歌といえるものである。
 これを全体として見ると、一工匠の、一人の大宮人の恩顧を得ようとして室寿《むろほ》ぎの際謡った形のもので、実用性のものであり、したがって文芸的の気品を欠いた歌である。
 
     反歌
 
80 青丹《あをに》よし 奈良《なら》の家《いへ》には 万代《よろづよ》に 吾《われ》も通《かよ》はむ 忘《わす》ると念《おも》ふな
(134)    青丹吉 寧樂乃家尓者 万代尓 吾母將通 忘跡念勿
 
     右の歌、作主いまだ詳なからず
      右歌、作主未v詳
 
【語釈】 ○青丹よし 既出。○奈良の家には 長歌の「通ひつつ作りし家」。○万代に 万年にで、いつまでもの意。長歌の「千代に」に照応させたもの。○吾も通はむ 長歌の結句。○忘ると念ふな われがこの家を忘れることがあるとは思いたもうなの意。○作主 作者であるが、その名は不明の意。
【釈】 このわれが作った奈良の家へは、万年と末長く通ってこよう。われがこの家を忘れることがあるとは思いたもうな。
【評】 長歌の結句の心を、繰り返して強めたものである。「忘ると念ふな」は、訴えとしては執拗な感をもったものである。
 
     和銅五年壬子の夏四月、長田王《ながたのおほきみ》を伊勢の斎宮《いつきのみや》に遣しし時、山辺《やまのべ》の御井《みゐ》にて作れる歌
 
【題意】 長田王は、続日本紀、和銅四年夏四月、正五位下に叙され、近江守、衛門督、摂津大夫らに歴任し、天平九年六月に、「散位正四位下長田王卒」と見えている人。父祖は詳かでない。斎宮は、伊勢神宮に奉仕される斎王の、お住まいになる宮の称である。また神宮をも称した例がある。斎王とは、歴代天皇の御|手代《てしろ》として神宮に奉仕せらるる内親王の称である。その宮は、伊勢国多気郡にあった。山辺の御井については、『講義』は精細な考証をしている。簡単にいうと、本居宣長が『玉勝間』で、河曲郡(鈴鹿郡)といっているのは誤りか、もしくは郡域の変更かであろう。山辺だと論じ、爾来信じられているが、これは誤りである。続紀、聖武天皇の天平十三年十月壬午の神宮への行幸の順路、また、『江家次第』の、斎王が任解けて、難波に解除《はらい》に赴か(135)れる日取り、順路を見ると、古来、大和から伊勢神宮への順路は一定している。河曲郡山辺は、この順路よりは約十里を隔ててい、往復では二十里である。公務を帯びた者が、遊覧のために二十里の迂路をするということはあるべくもない。これは誤りである。一方、御鎮座本紀に、豊受大神の伊勢にうつりませる順路をいった中に、「次山辺行宮御一宿 【今号壱志郡新家村也是】とある。この書は偽造だとの定評があるが、地名までは偽造ができない。山辺行宮というものの人に知られていた頃の偽造であろう。三重県一志郡桃園村|新家《にのみ》とすると順路と一致する。巻十三(三二三四)に、「山辺」に行宮または離宮のあったように詠まれている歌とも一致する。その遺址は今は考えられないというのである。しかし、定解とはなっていない。『注釈』は、御井の跡と主張する地の三か所を踏査したが、確証は得られなかったといっている。「御井」という称で、行宮、離宮、あるいは神宮に付属した井と知られる。
 
81 山辺《やまのぺ》の 御井を兄がてり 神風の 伊勢|処女《をとめ》ども 相見つるかも
    山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃 伊勢處女等 相見鶴鴨
 
【語釈】 ○山辺の御井を見がてり 「がてり」は「がてら」ともいっている。一つの事を主とし、他の事をも兼ねてする意をいう語で、「がてら」は現在も用いている。○神風の伊勢処女ども 「神風の」は、伊勢の枕詞で、古いものである。『注釈』の伊勢は風の荒い国で、現在も日常語として用いられている。修飾語だという解に従う。古い枕詞は感性によって捉えたものが多く、これもそれと思われるからである。「伊勢処女」は、伊勢に住んでいる女の意で、意味の広いもの。「処女」は、女を尊ぶ意で用いている例が多い。「御井」との関係から、宮に奉仕している宮女と思われる。それだと水部の女嬬である。「ども」は、複数を示したもの。○相見つるかも 「相」は、一緒にのい意と、互いにの意とがある。ここは、互いにもの。「かも」は、詠歎。互いに見たことであるよ。
【釈】 山辺の御井を見るついでに、その水を汲む何人かの伊勢処女と見合ったことであるよ。
【評】 上代では、飲用水に充てる水のある井は、一般に尊重されたのであるが、この歌では、見物のためにわざわざ立寄ったとみえるから、御井の由緒を重んじてのこととみえる。井の水を汲むのは、女のすることとなっていたので、そこに女のいる ことは特別のことではないのに、三句以下は、強い感動をもっていっているものである。すなわち御井その物よりも、伊勢処女を主としたものである。旅中、思いがけずも多くの処女を見た楽しさである。「相見つる」は、処女どももこちらと同じくゆかしんで見たとしてのもので、迎えての解である。しかしそこに情味がある。
 
(136)82 うらさぶる 情《こころ》さまねし ひさかたの 天《あめ》のしぐれの 流《なが》らふ見《み》れば
    浦佐夫流 情佐麻祢之 久堅乃 天之四具礼能 流相見者
 
【語釈】○うらさぶる情さまねし 「うらさぶる」は、たのしくない意の動詞。連体形で「情」に続いている。たのしくない気持。「さまねし」の「さ」は、按頭語。「まねし」は、あまねしと同じ。腹いっぱいであるの意。○ひさかたの天のしぐれの 「ひさかたの」は、「天」を初め、「日」「月」などにかかる枕詞であるが、定説はない。瓠形《ひさかた》の意というのが最も妥当に聞こえる。瓠《ひさご》は上代には、井の水を汲むに常用していた物で、その形をしたの意で、意味で「天」にかかる枕詞。「天の」は、「しぐれ」を天から降るものとして添えた詞で、強めのためのもの。「しぐれ」は、暮秋の頃、降りみ降らずみの状態で続く小雨。○流らふ見れば 「流らふ」は、「流る」の継続を示す意の語。流るは降るの意の古語。
【釈】 荒《すさ》みごころがまことに深い。天からのしぐれが降り続くを見ると、たのしくない気持が腹いっぱいである。
【評】 暮秋の頃、降りみ降らずみの状態で打続いているしぐれに対しての心持である。しぐれの降るという自然現象はきわめて普通のもので、取り立てていうほどのものではない。しかるに今はそれを取り立てて、三句以下、語を尽くして、重大なこととしていっている。これを重大視するのは、そのわが心に及ぼす影響という関係においてである。すなわち自然と人間心理との関係を問題としての歌である。これはまさしく文芸性のもので、奈良遷都以後に至ってはじめて起こってきた歌風である。抒情を先として、初二句で言いきり、三句以下その情を起こさしめた事をいうという、反転法を用いているのは、必ずしも珍しい法ではないが、これは次の時代に入って盛行した風で、この当時としては新しい法に属するものである。しかし語の続きは直線的で、思い入って、懇ろにいったもので、明らかに古風を伝えたものである。上の歌は、四月の歌であるのに、これはしぐれの季節の作で、同時のものではない。長田王自身が記録したものであろう。旅情を叙した作と思われる。三句以下、大景を対象としてのものである。
 
83 海《わた》の底《そこ》 沖《おき》つ白浪《しらなみ》 立田山《たつたやま》 何時《いつ》か越《こ》えなむ 妹《いも》があたり見《み》む
    海底 奧津白浪 立田山 何時鹿越奈武 妹之當見武
 
【語釈】 ○海の底 「底」には、奥の意があり、奥は沖に通じるので、「沖」にかかる枕詞。○沖つ白浪 「沖」は、「辺」に対する語。沖の方から寄せて来る白波。波が立つと続き、その立つを、地名の立田の立つに転じて、初句とつづけて序詞としたもの。○立田山 生駒山中の一峰で、大和川の北岸に近い山。大和と摂津の御津とをつなぐ要路にあたっており、古は関も置かれた山。ここは、御津から大和へ向かう場合。○何時か越(137)えなむ いつになったら越えられようかで、待ち遠い意の語。○妹があたり見む 妹が家の辺りが見られよう。
【釈】 海の沖に白波が立つのにゆかりある名の立田山よ、いつ越えられるだろうか。そして妹が家のあたりが見られよう。
【評】 遠い旅に出ている男が、古里にいる妻を恋って、いつになったら逢えようかと、待ち遠しく思っての心である。心としてはありふれたものであるが、表現には特殊なものがある。古里はどこともいっていないが、大和の京で、男は官人としての旅をしていることを思わせる。妻を思うと、妻のいる地への路が眼に浮かび、立田山が現われてくる。それとともに、現在いる海上の景が、「海の底沖つ白浪」という序詞として浮かんできたのである。しかもこの序詞は、その中に枕詞をも含み、複雑なものである。一首、心は単純であるが、表現は、眼前を捉えて美化しつつ、連想を具象化している、文芸性のゆたかなものである。この表現は、前の歌と同じく、奈良遷都以後のものである。
 
     右二首、今案ふるに、御井にして作れるに似ず。けだし疑はくは、當時誦めりし古歌か。
      右二首、今案、不v似2御井所1作。若疑、當時誦之古歌歟。
 
【左注】 右の二首の歌は、御井で作ったもののようではないというのは、もっともである。前の歌は秋の歌で、季節が異なっており、後の歌も、境を異にしたものである。しかし、古歌かという疑いはあたらないもので、同じく長田王の作で、ついでをもってここに載せたのだろうという解に従うべきである。
 
 寧楽宮
 
     長皇子、志貴皇子と佐紀《さき》宮にて倶《とも》に宴《うたげ》せる歌
 
【題意】 寧楽宮は、前に出たように、和銅三年三月の遷都であるから、この前の歌、すなわち和銅五年の前にあるべきであり、場所も誤っている。何らかの経路によっての誤りである。長皇子と志貴皇子のことは前に出た。従兄弟の間柄である。佐紀は、現在奈良市の西方にあたり、大極殿址の北方の地である。成務天皇、神功皇后、新しくは孝謙天皇の高野《たかぬ》御陵がある。佐紀宮は、長皇子の宮である。志貴皇子の宮は、巻二(二三〇)によると、高円《たかまと》にあったからである。歌は宴《うたげ》の際に、主人長皇子の即興として作られたものである。
 
(138)84 秋《あき》さらば 今《いま》も見《み》る如《ごと》 妻恋《つまご》ひに 鹿《か》鳴《な》かむ山《やま》ぞ 高野原《たかのはら》のうへ
    秋去者 今毛見如 妻戀尓 鹿將鳴山曾 高野原之宇倍
 
     右一首、長皇子
      右一首、長皇子
 
【語釈】 ○秋さらば 秋が来たならばの意。これは秋を未来としていっている形であるが、二句「今も見る如」とのつづきから、現在をいっているものである。毎年、秋になると、の意である。○今も見る如 今も見ているごとくにで、現に見ているものをさしての語で、三句以下の景である。思うに客の志貴皇子が、佐紀宮より見える高野原の山を見つつ愛でられたのに対して、主《あるじ》の長皇子も、同じく目をやって、誇りをもっていわれた意の語である。○妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ 妻恋いのために鹿が鳴くであろうところの山ぞの意。牡鹿の妻恋いをするのは秋である。本来鳴く声の悲しくあわれな鹿を、妻恋いのためのものに聞きなし、それを秋の趣の代表的なものとしたのは、この時代に入って愛された詩情で、ここもそれである。「ぞ」は、強く指し示す意の語で、その趣を、誇りをもって強めたのである。○高野原のうへ 「高野原」は、佐紀の地勢をいったもの。「うへ」は、野を野の上というそれで、強意のためのもの。
【釈】 秋が来たならば、今も御覧になっているとおりに、妻恋いのために牡鹿があわれに鳴くことですよ、この高野原は。
【評】 この歌は、長皇子の佐紀宮へ、志貴皇子がはじめて訪問された時の作である。時は秋で、宮の付近には、牡鹿が妻恋いをしてあわれに鳴く時だったのである。主の皇子は歓待の心より、挨拶代りに、佐紀宮の秋の情趣を誇りをもって詠んだ歌と解される。両皇子とも作歌に長《た》けていられたので、この当時としては普通のことであったろうと思われる。文芸趣味を愛される兩皇子の打寛いだ風貌の偲ばれる作である。この歌は、「秋さらば」「鹿鳴かむ」「今も見る如」とが、時の関係上解しやすくないために、解がまちまちになっていた。この解は『注解』に負うものである。
 「右一首、長皇子」とあり、また、こうした場合は、和え歌のあるのが普通である。元暦校本、冷泉本、神田本の目録には、この次に、「志貴皇子御歌」とあるので、本来は和え歌のあったのを、逸したのであろうといわれている。
 
  萬葉集評釋 卷第二
 
(140)   序
 
 本集の巻第一が刊行されて以来、久しく巻第二の刊行を見ないので、どうしたのだ、待っているのだがと、年若い知人の何人かから、屡々《しばしば》尋ねられた。引続いて刊行されるものと予期してのことである。
 刊行書肆はそのつもりで、事を進捗させ、巻第二はすでに紙型となり、印刷にかかろうとしていた折から、戦火はその紙型を灰燼としてしまったのである。終戦後の出版事情は、相当の量のある物を、新たに版とすることが困難であり、用紙の関係も伴って、事の荏苒《じんぜん》している由を書肆から断られ、機を待つより外ないと思わせられたのである。今度漸くその機を得た次第である。
 本集二十巻の原稿は、終戦後間もない頃に書き終っている。特別の事情の起らない限り、次第に刊本となるものと思っている。
 本集の稿を草しつつあった間の感は、筆者には、猶《な》お新たなるものがある。稿を起したのは戦時下であったが、巻第四を終った時には、明らかに根気の衰えを感じ、中絶させようかと思った。然るにその頃は、次第に戦局の容易ならざるものとなり来ったことが、報道の如何にかかわらず、おのずからにして感じられるものとなって来た。親近している若き学徒、親戚の若い人、筆者の次男など、相次いで兵とされ、何処とも分らぬ戦線に送られた。それらの人々の研学の精神は、筆者には極めてなつかしいものである。あの人々に代って書物に親しもう、他に用いるなき老国民で、その業にいそしむことによって、あの人々に酬いるより外はない。筆者はその一念に駆られ、その人人の顔を目睫の間に浮べつつ、筆を続けたのである。筆者は本書の成果を思うの遑《いとま》もなく、稿本の存在をも期し得なかったのが実情であった。
 本集の稿を成さしめた、それら若き学徒の中には、永久に帰還せざる者が少くない。筆者の次男もその中にある。
 巻第一の読者に対しては、本巻は久濶のものである。私情を述べて序とする。
 
   昭和二十二年九月
                  著者
 
(141)   萬葉集 巻第二概説
 
 巻第二の概説として云うべきことは、巻第一の概説を云う際に既に云っている。それは撰者の意図を察しると、この両巻は連続したもので、この兩巻をもってその意図を遂げさせ、完結させようとしたものであることが明らかに推量され、切り離して観ることが出来ないからである。簡単に繰返して云うと、この両巻は、天皇、太后、皇族の方々の御作歌が、いかに優秀なものであるかを顕揚しようとして、それらの御作歌を、何らかの関係事情によって、比較的たやすく眼にすることの許されていた撰者が、意図してのものだといぅことである。随って作者の大部分は、上に云った尊貴の方々であるが、一部分臣下の歌が例外の形をもって取り入れられている。しかしそれには条件が付いていた如くである。巻第一について云えば、それら例外の作者の大部分は、行幸の供奉をした人々であって、行幸の記事の一部として保管されていた歌が、資料として取り入れられたのであって、それらは作者より歌材に重きを置き、撰者の意図と齟齬《そご》しない物として取り入れたのだと見られる。それ以外の作者には、柿本人麿、高市古人、山上憶良、不明の一人の四人があるが、前二人の作は、近江の荒都を見て感傷した作、憶良のは、遣唐使の随員として唐にあってのもの、不明の一人は、京が藤原より奈良に遷される際、一官人の邸宅造営に当った工匠の、その邸宅を賀する意で作ったもので、間接ではあるが、歌材としては皇室に繋がりを持っているもので、撰者の意図の範囲に属するものだと、観れば観られるもののみである。
 この集の三部立の第一である雑歌を、巻第一に充《あ》てた撰者は、巻第二は、相聞と挽歌とに充てて、首尾完結したものとしたのである。
 相聞は、大体は恋愛の歌であるが、血族友人間などの消息往来の歌をも含ませての称である。後者は比較にならない程の少数である。恋の歌は、憧れての求婚に始まり、関係の結ばれての後の、思うがままに逢い難きを嘆きつつ、その中の永続を希うのが頂点をなしていて、後世の歌に多い、離れ去っての怨み、或は思い出してのあわれさは、殆《ほとん》ど無い。その中最も特色をなしているものは、本巻の歌には著しくはないが、男女互にその貞実を誓い合う歌である。これは恐らくは信仰の伴っているもので、歌という形式をもってその事をするのがやがてその事を顕わしているのではないかと思われる。本集の恋の歌の、代表的に力強いものは、この範囲に属するものであるが、この心は直接には顕われなくても、何時も恋の歌の底流をなしており、それが重量感、立体感をもたせるものとなっている。本集の恋の歌で更に重要なことは、その最大部分が、いずれも必要があって、直接相手に贈り、又答えたものだということである。即《すなわ》ち実際の効果を目標として、それを遂げしめようとして作ったものなのである。実用性のものである。その豊かに持っている(142)文芸性は、その実用を有効に遂げしめようとしての方便にすぎないものである。実用性が主であり目的であって、文芸性は従であり方便であるということが、本条の恋歌の特色である。これは後世にも続くことであるが、後世では、文芸性その物が魅力となって、それが効果をもたらし得るものとなったのであるが、本集では真実そのものが魅力をなしていて、文芸性はそれに較べては比較にならない軽いものであったと観られる。今日より観ると、この主たる実用性と、従たる文芸性の、絡みもつれて渾然たる趣をなしているところに、深い興味があるのである。以上はこの巻に限ったことではないが、続く巻々にも関係のあることであるから、絮説《じよせつ》を敢えてしたのである。
 この巻の相聞歌は、歌数としては五十六首(「国歌大観」八五−一四〇)にすぎない。雑歌の八十四首に較べてもかなり少い。これは巻第一、二に限ったことであって、本集全体より観ると、相聞歌は圧倒的に多く、雑歌は比較にならないまでに少いのであるから、まさにこの巻の特色である。これは尊貴の方々は、その日常生活の状態として、相聞の歌を作る必要を感じられることが少かった為かと思われる。雑歌の多いのは、行幸に関係したものが多い為で、賀歌の奉献の許されていた場合ということも、大きく影響していたのである。賀歌が信仰より発するものであることは云うまでもなく、それとの関係は、漠然と想像されるよりも案外に大きいものであったろう。
 相聞の起首は、「磐姫皇后天皇を思ひたてまつる御作歌」四首の連作をもってしている。これは巻第一の起首を、「天皇御製歌」をもってしたのと相対させたもので、巻第一、二の撰された奈良朝時代よりは、遙に飛び離れた時代の、しかも極めて著明な天皇と皇后とを巻首に据えまつったもので、しかも雄略天皇の御製歌は、雑歌ではなく相聞であるのを、強いて充てているなど、撰者の意図を最も明瞭に示しているものである。仁徳天皇の時代に、短歌の連作として極めて典型的なものの存在したとすることも、十分問題となるべきものである。
 相聞の作者の主体をなしている人は、皇子皇女であって、その点は、巻第一の雑歌と同じであって、少くとも他の巻には決して見られないまでに多く、撰者の意図は一貫していると云える。しかしこの部にあっては、例外がかなりに多く、殆ど例外とは云えないまでである。中臣鎌足の鏡王女に対しての歌はもとより、采女安見児についての歌は、皇室につながりのあるものと云える。石川郎女(女郎ともある)は、日並皇子、大津皇子にも関係を結んでいる、藤原宮時代の最も魅惑的な女であったと見える。皇子との贈答の歌は、皇室に関係のあるものとして問題にならないのであるが、大伴田主との贈答の歌は、まさしく撰者の最初の意図以外のものである。これに左注を加えて、その歌の背景を委しく云っているのは、それ程の魅惑的な女が、進んで挑み寄ったにもかかわらず、田主がこれを拒み斥けたのを、心憎い所行であるとして、その風流を讃えているのである。然るにその歌は、何れもさしたるものではない。相聞歌が風流ということと絡み合い、風流なるが故にさしたる点もない歌をも採るということは、明らかに撰者の意図に動揺のあったこと(143)を示しているものである。撰者は奈良朝の初期に生存していた人であることは、挽歌に聊《いささか》ながら奈良朝の歌を取っていることで知られる。時代の影響は、明確なる意図を持っていた撰者をも動揺させたものと思われる。この事は、単にこれにとどまらず、「三方沙弥、園臣生羽の女に娶《あ》ひて未だ幾時も経ず病に臥して作れる歌」と題する三首の贈答歌を取っている。作者は何れも皇室には何のつながりもない臣下である。何故にそうした歌が取られているかは明らかでない。その歌は事としては場合が哀れであり、又歌は、取材が小さく、調べが細くて、この時期の他の歌に較べると、著しく奈良朝の歌風に近いものである。その点より観ると、上の田主の風流を讃えると同じく、さうした歌風がこの時期に、新風として暗然の間に迎えられており、少くとも撰者は、それに心を引かれるところが多く、最初の意図より逸脱して、取るに至ったことと思われる。大伴宿禰と巨勢郎女との贈答の歌は、同じく作者は圏外のものであり、歌も単なる求婚のものであるが、恐らく郎女の歌が、柔らかく美しい点で、上の歌と同系統の物として取られたのではないかと思われる。作者も歌も、皇室とは何の繋りもなくて取られているのは、柿本人麿の、「石見国より妻に別れて上り来る時の歌」と題する、長歌二首の連作と、反歌の五首を持った大作である。これは入麿としても代表的の作であるから、撰者としては、人麿の歌人としての位置よりも取らざるを得なかったものと思われる。撰者が歌その物のみにとどまれず、それに関係しての事にまで及ぼして行った心は、人麿の歌の対象となっている「妻」をも閑却できず、それに添えて、「人麿の妻依羅娘子、人麿と相別るる歌」をもって、それを相聞の結尾としていることでも窺われる。
 挽歌は、信仰より生れ来ったもので、その由る所は深く強いものであったろうと思われるが、現在ではその輪郭は推量するより外ないものである。上代では死を穢れとして、これを怖れることの極めて深かったことは、皇居はもとより皇子などの場合では、その主人である方が他界されると、その住居は住み棄てて荒廃に委ねたのでも察しられる。しかし生と死の境は極めて近く、日並皇子尊の薨去の後など、その舎人等は、殯宮に移した皇子に、一年間、生者に仕えると同じ態度をもって奉仕したことが、歌に依って知られる。概して身分ある人は、死ぬと共に地中に埋葬することはせず、或る期間は生者と同じ扱いをした事が明らかにされてもいる。この事が単に、儀礼よりのものでなかったことは、柿本人麿の、「妻死せし後、泣血哀慟して作れる歌二首」の一首は、妻を葬った後、その妻をも知っている人が、人麿に、汝の妻は羽易《はがい》の山に居られたと、見懸けて来て教えると、人麿は云われるままに、死んだ妻に逢おうとしてその山に行き、見えなかったことを歎息しているのである。教える人も人麿も、何ら異常の事ではないように云っているのを見ると、人麿時代の信仰は、現在の心より窺いかねるものである。死者を穢れとして深く怖れると共に、その厳存を信じているのであるから、勢いその死者を尊み、悲しむことによって、その心を慰め、穏やかにあらしめる事は、自身の生存上必要な(144)重大なことだったのである。挽歌は、死者の心を慰める上には、最も適当な方法で、時期としても有効なものだったのである。この巻における挽歌は、死者との関係の直接間接の差によって、おのずから云い方は異っているが、何れもこの線に沿ってのものである。
 本巻に収められている挽歌の数は、九十四首(一四一−二三四)であって、何れも作者の明らかなものである。一巻の中にこれだけの歌数を持ち、又作者も明らかな巻は他には無いことで、挽歌の上では、本巻は万葉集中の代表的のものである。
 挽歌を供えられる人と、供える人との関係は、余程厳しい条件の付いていたものと思われる。本巻について観ても、天智天皇に挽歌を作っている人は倭の太后御一方であり、額田王のものは稍々《やや》間接なものとなっており、天武天皇に対しては、太后にして後の持統天皇御一方である。皇子皇女の場合だと、御夫婦、御兄弟の方々であり、然らざれば側近に仕えていた舎人のみであり、その関係の明らかでない者は、柿本人麿のみである。しかしその人麿も、皇族なるが故に、何方にも同じような心をもって作っているとは見えず、同じく皇女ではあるが、明日香皇女に対しては、心を尽して悲しみを申しているのであるが、泊瀬部皇女に対しては、直接なる何事をも云わず、妻としての皇女を悲む夫君忍坂部皇子に対して、その悲まれるのを悲むという間接な云い方をしているのである。これは他にも例のあるもので死者と自身の関係の親疎ということが、このようにさせたので、そうせざるを得なかったものと観られる。此の点から観ると、人麿の日並皇子尊、高市皇子尊に対しての挽歌は、彼がこれら二人の皇子に対して、舎人として奉仕していたという親しい関係を通じてのものか、然らずんば、舎人の依頼を受けて代作したかの孰《いず》れかでなければならないものに見える。代作ということは例のあることであり、又挽歌はその性質上、出来得る限り整った物でなければならなかったのであるから、藤原宮時代にあっては、人麿が選ばれてその任に当ったということも想像され得ることである。それは現在だと、一つの集団を代表しての弔詞を、達文の人として代作させられたということと異らないことだからである。
 挽歌の形式は長歌であることを本格としていたと観られる。本来挽歌は、抒情を旨とすれば、事の性質上、単純に云い得るものであって、短歌で事が足るのであるが、飽くまで心を尽しきろうとすれば、死者その人の経歴に即せざるを得ず、即すれば叙事とならざるを得ないのであるから、死者の魂を慰めることを目的とする挽歌は、長歌形式でなければならなかったことと思われる。又この当時は、「歌」といえば長歌を意味し、短歌は「短歌」と断る必要のあった時代であるから、葬祭など古風を守って変えようとしないものにあっては、本格の挽歌は、長歌形式でなくては事が足りないと感じられていたものと見える。
 本巻の挽歌は、殆ど皇室関係の方々のもので、撰者の意図の行われているものであるが、柿本人麿だけは、その歌人的位置から例外扱いをされ、河辺宮人は、奈良宮時代の者として、時代的に例外扱いされている。人麿のその種の歌としては、「妻(145)死せし時」、「吉備津采女の死せし時」、「讃岐の狭岑の島に石中の死人を見て」であり、宮人の作は、「姫島の松原に嬢子の屍を見て」であって、何れも皇室とは何の繋がるところもないものである。
 人麿の、その妻の死を泣血哀慟しての作は、夫としてであるから当然のものであるが、吉備津采女と、狭岑の島の石中の死人とは、彼と直接繋がりの何もない人々であって、当時の風習から思うと、何故に力を籠めての力作をして弔ったかを怪しませるものである。然るに、これら弔われている人々の死には、共通の事情がある。吉備津采女は、その反歌に依って見ると、尋常の死ではなく、水死をしている人である。その事情には触れて云わず、云うところは若くして美しかった人の、はかない死を痛歎するのみで、熱意をもって美しいものの亡び去ったことを云っているのに魅せられるのであるが、その水死ということが作因ではなかったかと思われる。狭岑島の死人は、水死者である。又、姫島の嬢子も同じく水死者である。これら異常の死をした人で、殊にその死を弔う者もない人に対しては、直接には何の繋がるところもない人にもせよ、その魂を慰めようとして挽歌を供えることが、一方には行われており、又その事をするのは、死者に対して持つ一種の信仰から発したことではな
いかと思われるが、さし当ってはこれを明らかにする事が出来ない。路上の行き斃れに対しての挽歌は、他にも例のあるものなので、この事を思わせられるのである。
 万葉集の歌の価値は、巻第一、二が最も優れたものであるということは、現在は定説の如くなっている。両巻を通じての頂点は、藤原宮時代で、云いかえると柿本人麿を中心とした時代である。これを時代的にいえば、皇室の勢威の、一路高まりつつあった時代で、大津宮時代より、浄見原宮時代を経、前方に、奈良宮時代を望んでいた時代なのである。勢威は文化と並行してのものであって、皇室が絶えず文化の指導者であられたことは、巻第一、二に収められている御製歌、御作歌によっても窺われる。巻第一の雑歌にあっても、作者を柿本人麿に擬せられもする無名作者の「藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌」、「藤原宮の御井の歌」がある。本巻の挽歌の中にも「皇子尊の宮の舎人等|慟傷《かなし》みて作れる歌二十三首」があって、これまたその名を記されずにいる身分の者である。藤原宮時代の文化が如何に高く、その雰囲気の如何に濃密なものであったかは、これらに依っても窺われる。人麿はこの雰囲気の中に人となり、それに支持されつつ、時代を代弁したのである。彼ひとりが卓越していたのではない。
 巻第一、二の撰者は何びとであるか分らないが、皇室の歌風を顕揚しようとの意図をもって編んだ此の両巻はいみじくもその意図を果すと共に、此の両巻が基本となり、基準となって、異った方面の作者の歌、異った時代の作者の歌を積み重ねて、現在見るが如き二十巻となったのである。一人の心に宿した意図の結果と云うべき本巻は、巻第一と共に、万葉集中でも最も重んずべき由緒を持ったものである。
 
(152) 相聞《さうもん》
 
【標目】 相聞は漢語で、相問往復の意をもった語である。今はそれを取って、男女間の恋愛関係の歌をはじめ、近親者間、友人間の消息の歌の全部を含めた名としたのである。巻一と二とを、雑歌、相聞、挽歌の三部門に分かっているが、これはその一部門である。この分項は、懐風藻も同様である。訓は、『考』は「あひぎこえ」、『古義』は「したしみ歌」と訓んでいるが、間宮永好の『鶏犬随筆』、『美夫君志』が、「さうもん」と音に訓むべきことをいい、山田孝雄氏も『相聞考』で詳しく論じて、それを強化している。本集の撰ばれた奈良時代は、漢文学のきわめて重んじられた時代であるから、語とともに音をも用いたものと思われる。相聞の出典は文選の「常子建与2呉季重1書」に、「口授不v悉、往来数相聞」とあり、その注に「聞問也」とあるによったものである。しかし本集の相聞は、それより遙かに意味の重いものである。わが国は上代から、男の求婚の意志表示、女のそれに対する諾否は、すべて歌による風習があり、さらに夫婦別居しているところから消息を交わす要が多かったが、それも作歌をもってする風習であった。すなわち実生活と歌とのつながりは、きわめて緊密だったのである。その点からいうと、わが国の歌の主体は相聞だったのである。本集でも相聞の占める位置は最も重いのである。なお相聞は範囲が広がり、後世の恋の歌と同意語となり、独詠の歌を含むようになつてもいる。
 
  難波高津宮御宇天皇代《なにはのたかつのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ》  大鷦鷯天皇《おほさざきのすめらみこと》、謚を仁徳天皇と曰す
 
【標目】 難波は、古の難波国で、後の摂津国の西生郡及び東生郡の西辺にかけての地域で、さらにいえば今の大阪市を主とする地域の旧名である。古の京は、今の大阪城より南方へかけて、東高津味原池の辺(東区法円阪町)の台地であり、皇居は高地の海岸であったろうという。大鷦鷯は、御|謚号《しごう》仁徳天皇の御諱であって、元暦校本以後の古写本にはその注記がある。
 
     磐姫皇后《いはのひめのおほきさき》、天皇を思《しの》ひたてまつる御作歌《みうた》四首
 
【題意】 磐姫皇后は、天皇の二年皇后となられた方で、葛城曾都毘古《かずらきのそつひこ》の娘である。曾都毘古は孝元天皇の曾孫にあたる武内宿禰の子で、皇后は天皇の六世の孫である。聖武天皇以前は、皇后は皇族に限られていた。後世は皇親は五世までに限られたが、古くはそれにこだわらなかったのである。皇后は、履仲、反正、允恭の三天皇の御母である。皇后は御名を記さないのが普通であ(153)るのに、ここにそれのあるのは、仁徳天皇には前後二人の皇后がいられたためである。すなわち磐姫皇后は、天皇の三十五年六月に崩じ、三十八年に八田皇女《やたのひめみこ》が皇后となられたからである。御歌は、天皇がある山地に行幸になり、久しく還幸になられないので、皇后として思慕の情に堪えず、その情の起伏を連作の形式をもって作られたものである。
 
85 君《きみ》が行《ゆき》 け長《なが》くなりぬ 山《やま》たづね 迎《むか》へか行《ゆ》かむ 待《ま》ちにか待《ま》たむ
    君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加將行 待命可將待
 
【語釈】 ○君が行け長くなりぬ 「君」は、天皇。「行」は、「行く」の名詞形で、行幸の意。「け長く」の「け」は「日」と同意で、時日という意の古語で、集中にきわめて用例が多い。天皇の行幸は、滞在の時日が久しくなったの意。○山たづね迎へか行かむ 「山」は、行幸先、すなわち行宮のある所の意。「たづね」は、尋ねで、現在口語でもいっている。「迎へか」は、迎えにかで、「か」は、疑問の係助詞。行宮のある山を尋ねてお迎えに行ったものであろうかで、還幸を待ちわびての心。○待ちにか待たむ このように同語を重ねていうのは、用例の多い一つの語法である。その場合、上の「待ち」は連用形で、それに「に」を添えて、下の「待たむ」の修飾語とし、下の「待たむ」の意味を強めるのが定まりである。「か」は、上に同じ。ただひたすらにお待ち申そうかの意。
【釈】 君が行幸は、御滞在の時日がすでに久しくなった。還幸を待つに堪えないので、その行宮のあるという山を尋ねて、お迎えに行こうか。それとも堪えてただひたすらにお待ち申そうか。
【評】 この御歌は、以下三首とともにいわゆる連作を成しているものである。連作というのは、ここでは、天皇の還幸の遅いのを、皇后として待ち侘び給う心情を、その起伏の方面に力点を置き、時間的推移を追って展開し、一つの物語の趣をもつものとしてあるということである。連作といぅ形は集中に例の少なくないものではあるが、上代のものであるところから、問題を含んでいるものである。その事については後に総括していうこととする。
 この御歌を独立した一首とみると、「君が行け長くなりぬ」は、事の全体を総叙したもので、客観的な趣のあるものである。「迎へか行かむ待ちにか待たむ」は、心の動揺をいったものであるが、「待ちにか待たむ」は、いったがように、待つというその事を強めていったもので、焦燥に向かわんとする心を、その一歩手前で引き止めた趣をもったもので、微細感を含んだものである。三句「山たづね」は、問題となるべきものである。それは、単に「山」というだけでは、その事に合わせて、内容が漠然としすぎるからである。行幸といぅ事は改まったことであって、その事に対する礼として、必ず地名を挙げるべき事柄である。また、実際に即する歌風から見ても、それのあるのが自然だからである。さらにまた、行幸の事は史上に載るのが普通であるのに、天皇が山地へ行幸になられた事は記録にないので、かたがた疑わしいという理由においてである。この第三句に深(154)く立ち入らず、文字どおりに見ると、広い心をもって事の全体を捉え、穏やかな態度をもって、余裕をもち、距離を置いて、静かに詠ませられた御歌というべきで、しかもそこには、「待ちにか待たむ」という、微細な心も織り込まれているものである。一首、まさしく独立した御歌である。
 
     右の一首の歌は、山上憶良の臣の類聚歌林に載す
      右一首歌、山上憶良臣類聚歌林載焉
 
【釈】 「山上憶良の臣の類聚歌林」は、巻一に出た。その書は、巻一、二の撰ばれた和銅年間よりは後の書であるから、この注は後人の加えたものである。注の意は、右の一首の歌は、類聚歌林にも、同じく磐姫皇后の御歌として載っているものであるということを考証したものである。
 
86 かくばかり 恋《こ》ひつつあらずは 高山《たかやま》の 磐根《いはね》しまきて 死《し》なましものを
    如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四卷手 死奈麻死物呼
 
【語釈】 ○かくばかり恋ひつつあらずは 「かくばかり」は、このようにのみで、「ばかり」は強めの意のもの。「恋ひつつあらずは」の「あらずは」は、集中に例の少なくない古語。本居宣長は、「あらんよりは」の意だといつたのを、橋本進吉氏は、「ず」は連用形で、「は」は軽く添った係助詞で、意は「ず」と同じだとしている。今はこの解に従う。このようにばかり恋いつづけていずに。○高山の盤根しまきて 「高山」は、下の続きで陵墓を営む地であることがわかる。巻三(四一七)「河内王《かふちのおほきみ》を豊前国鏡山に葬れる時」、また(四二〇)「石田王《いはたのおほきみ》の卒せし時」などの歌により、奈良遷都前後は、陵墓は山の上を選んだことが知られる。「高」は誇張を伴った語と取れる。「磐根」は、磐で、「根」は添えていった語。「し」は、強め。「まきて」は、枕とする意の動詞。磐を枕としてで、下の「死」の状態をいったもの。古くは貴人の墓は、石槨を構え、内に石棺を据え、石の枕を備えて亡骸《なきがら》を納めるのが定めであったので、その状態をいったもの。○死なましものを 「まし」は、仮想の意の助動詞で、上の「あらず」の仮想の帰結。「を」は、詠歎。
【釈】 このようにばかり恋いつづけていずに、高山の磐を枕にして、死んでしまおうものを。
【評】 「かくばかり恋ひつつあらずは」と、憧れの情の苦しいものを、堪え忍び続けられていることをいい、「高山の磐根しまきて死なましものを」は、その苦しさの極まりを、具象的にいわれたものである。全体としては、堪え忍ぶことの極まった瞬間に起こる感傷的の心であって、心理的に自然さをもったものである。それも、「死」ということを思うと、「高山の磐根しまき(155)て」と、ある余裕をもって、その状態を思い浮かべ、また感傷の心よりの誇張もまじえられたもので、美しさを失われないものである。激情には似ているが、感傷よりの瞬間の心であり、女性の思慕の心の、いわゆる甘え心をもったもので、教養を保ち得ている趣のあるものである。前の御歌との関係から見ると、温藉なる心の、焦燥を含んでいたものが、ついに焦燥そのものに陥られた状態のもので、時間的推移の明らかに見えるものである。
 
87 ありつつも 君《きみ》をば待《ま》たむ 打《う》ち靡《なび》く 吾《わ》が黒髪《くろかみ》に 霜《しも》の置《お》くまでに
    在管裳 君乎者將待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置万代日
 
【語釈】 ○ありつつも君をば待たむ 「ありつつも」の「あり」は、下の続きによって、生きながらえの意のもの。「つつ」は、継続。「も」は、詠歎。生きながらえ続けて。「君」は、天皇。「待たむ」は、還幸を待ち奉らむ。○打ち靡く吾が黒髪に 「打ち靡く」は、垂髪にしていた黒髪のなよなよと靡く状態をいったもの。「黒髪」は、若い人の髪。○霜の置くまでに 「霜」は、ここは、白髪の譬喩としたもの。巻五(八〇四)山上憶良、「みなのわたか黒《ぐろ》き髪に、いつの間《ま》か霜の降りけむ」とあって、例のあるものである。白髪となるまで、いつまでもの意。
【釈】 生きながらえ続けていて、天皇の還幸を待ち奉ろう。打靡いているわが若き黒髪に、老いの白髪のまじるまでいつまでも。
【評】 この歌は、一首を独立したものと見ると、やや不自然の感の起こるものである。一首とすると、帰る時の全く測り難い夫を、限りなく待っていようという妻の心情で、事としてはもとよりありうるものであるが、これを一首の歌とすると、背後の特殊の事情に全く触れたところがないために、唐突の感のするものだからである。左注として引いてある(八九)の歌は、この歌の類歌としてのもので、それは一首の歌としてきわめて自然であり、また一般性の多いものであって、おそらく誰にも記憶されていたろうと思われるものである。この歌はそれと関係のあるものではないかと思われる。その関係というのは、この歌は、連作ということに力点を置き、そちらの一般性のある歌にいささかの変化を与えて、この連作の組織にかなうものとしたのではないかということである。これは(八九)と対照すると明らかに感じられることである。「霜」を白髪の隠喩とすることは、いったがように例のあるものであるが、その例は山上憶良の歌のもので、高い文芸性をもっているもので、この歌としては、時代的に疑いのあるものである。これを連作の上から見ると、一たびは「死なましものを」という焦燥の情をもたされたが、それは瞬間のことで、その心を抑えると、きわめて貞淑なる本性に復《かえ》られたことをあらわしているものである。
 
88 秋《あき》の田《た》の 穂《ほ》の上《へ》に霧《き》らふ 朝霞《あさがすみ》 いつへの方《かた》に 我《わ》が恋《こひ》息《や》まむ
(156)    秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀將息
 
【語釈】 ○秋の田の穂の上に霧らふ「秋の田」は、「秋」を添えることによって、稲の熟していることをあらわす語。晩秋の霧の多い季節を暗示している。「穂の上」は、稲穂の上で、下の「霞」の位置をあらわしているもの。霞すなわち現在の霧が、低く、したがって深くかかっていることをあらわしたもの。「霧らふ」は、「霧る」という動詞の継続の意をもつ語。「霧る」は、霧のかかることをあらわす古語で、今は廃語となったもの。その名詞となった霧だけが残っている。霧が時間的にかかりつづけている意で、深く籠めているにあたる。○朝霞 朝に立つ霞。古くは、霧と霞との区別がなく、一様に霞と呼び、秋の物は秋霞と呼んでいた。この称は和歌の上では平安朝にも及んでいる。初句から三句までは一つづきで、眼前に見た風景をいったもので、下に詠歎の意がある。○いつへの方に我が恋息まむ 「いつへの方」の「いつ」は、不明をあらわす語。「へ」は方で、いずれの方。「方」は、方角。いずれの方角にの意であって、下の「方」は重語の形となっている。これは下の「息まむ」への続きで、霧としては、その霽《は》れゆく方角のあるものとし、霧に似たわが悩みは、それを忘れ去る方がないというところから、その「方」を強めるために重ねたものである。すなわち嘆きをあらわす必要よりの重語である。「我が恋息まむ」は、わがこの憧れの心はやむであろうかと疑った意で、疑いは上の「いつへ」によってあらわされている。
【釈】秋の熟《みの》り田の、その稲穂の上に、低く深くもかかり続けている朝の霧よ。その霧は霽れゆく方角があろうが、いずれの方に、わが憧れの心はやむのであろうか、おぼつかないことである。
【評】 この御歌は、表現の上に注意すべき問題をもっているものである。全体としていうと、「秋の田の穂の上に霧らふ朝霞」が、皇后の懊悩せられる心象そのものであり、「いつへの方に我が恋息まむ」は、その朝霞の状態から連想される嘆きである。すなわち「朝霞」は譬喩ではなく、それ以前の原始的なものであって、そうした光景に対されたがゆえに、漠然とした心象がはじめてはっきりと捉えられ、また捉えたがゆえに嘆きが深まって、ここに具象化を得たという形のものである。この方法は、恋の悩みという形のないものを表現する上には、最も自然な方法で、したがって原始的なもので、東歌《あずまうた》などに多い形のものである。その意味ではこの御歌は、原始的な、古い形を取ったものである。しかし部分的に見ると、この御歌は、尖鋭な感性をもって、細かい注意をしたものである。「秋の田の穂の上」は、「朝霞」の位置をあらわしたものであるが、「秋の田」によってその朝霞の深いものであること、また広範囲にわたってのものであることをあらわし、「穂の上」によって、その朝霞の重く、また低く降っていることをあらわしているものである。これらのことは状態描写よりくる自然の結果だといえる範囲のものではあるが、意識して暗示的にいったものと取れる。さらにまた、「いつ辺の方に我が恋息まむ」は、上よりの語《ことば》続きから見れば、明らかに飛躍をもったものである。しかし心としては、深い朝霞の霽れそうにも見えない状態に、御自身の心象を感じられて、嘆いていわれているものであることは明らかである。飛躍はあるが心は感じられるといぅことは、まさしく暗示で、しかもその大きなものである。「いつへの方に」は重語であって、重語は感を強めるものであることはいった。要するに細部にわたっ(157)ての技巧は、高度の文芸性をもったもので、その大体の捉え方の原始的なのとは反対に、後世的のものである。この御歌が譬喩というよりもそれ以上な、いわゆる象徴的のもののような感を起こさせるのはそのためで、表現の上では問題を含んでいるものといわなくてはならない。さてこれを一首の歌として見ると、中心が「我が恋息まむ」という、時間的推移を目標としたものであるところから、独立性の薄い趣がある。しかし連作の一首として見ると、前の歌では、「吾が黒髪に霜の置くまでに」と思われたが、それは御意志よりのことで、時が経つと憧れの心が復《かへ》ってき、懊悩の情に鎖されたというので、この動揺はきわめて自然なものと思われる。また、一連の上からいうと、第一首の「待ちにか待たむ」の焦燥を含んだ御気分が、今は鬱した、静かなものとなってきていて、そこにも同じく自然の趣のあるものとなっている。
【評 又】 この四首の御歌は、多くの問題をもったものである。まず注意されることは、磐姫皇后は、本集を通じての最古の方だといぅことである。それはこの御歌につぐ歌は、天智天皇の御製であるが、その間じつに二十二代を隔てているのである。すなわちひとりかけ離れて古い方なのである。これは巻一、巻首の雄路天皇の御製についてもいったように、巻一、二の撰者の意図よりきていることで、巻一、雑歌の最初を、古の名高い天皇であり、また御製も多い雄略天皇とするとともに、巻二、相聞の歌の最初も、同じく古の名高い皇后であり、御歌も多い磐姫皇后にしようとしたからのことと思われる。そしてこの事は、皇室の和歌の、いかに愛《め》でたくも尊いものであるかということを宣揚しようとする撰者の意図からのことと思われる。
 次にはこの四首の御歌はいわゆる連作だということで、これは注意されることである。そのいかに整った連作であるかということは、各首の評ですでにいったから、改めては繰り返さないことにする。由来連作は、本集には比較的少ないものであるが、古事記・日本書紀の歌謡にあってはきわめて多いもので、その大半は連作だといいうるまでである。それには理由がある。古事記・日本書紀の物語は、そのやや興味的なものにあっては、必ず歌謡が織り込まれており、物語が長いものである場合には、何首かの歌謡がまじっており、しかもそれが興味の頂点頂点をあらわすものともなっているのである。したがって歌謡は、前後相関連をもち、連続したもののごとき趣をもっているのである。時代が降ると、この傾向は濃厚となり、中には歌謡そのものが物語の主体をなして、いわゆる歌物語となっているものさえもある。しかしそれらの歌謡は、これを形式からいうと、長歌の方が多く、短歌は少ない状態である。その中にただ一つ、短歌形式をもってした歌物語が、日本書紀の中にあるのであるが、それはじつに仁徳天皇と磐姫皇后とのものなのである。本集には、いったがごとく連作は少なく、ことに古い時代のものには全くなく、初めて意図的に試みたのは柿本人麿である。長歌の完成者である人麿は、同時に一方では連作の創始者であって、巻一(四六)より(四九)に至る、「軽皇子《かるのみこ》安騎野《あきのの》に宿りませる時」の長歌の反歌四首は、いったがごとく典型的な連作である。しかしこれは反歌であって、長歌に対立させる程度のものである。独立した短歌の連作は、本集にあっては、巻五(八五三)より(八六三)に至る、大伴旅人の「松浦河に遊ぶ」と題するものなどが代表的なものである。これは興味本位の、純(158)文芸的なものなのである。
 これを要するに、連作は、歌謡または短歌という、抒情を旨とするものを連ねることによって、時間的推移を旨とする物語の代用をさせようとするものであって、和歌としては、その本来の実用性を離れて文芸性を展開させた形のものである。この御歌四首は、その範囲のものである。日本書紀における仁徳天皇と磐姫皇后との短歌の連作は、その制作年代については問題をもっているから、しばらくおくこととすると、この御歌の連作は、その制作年代に疑いを挾ましめるものである。
 疑いというのは、この連作は、その取材が恋であるとはいえ、そこには表面に現われての事件というべきものがなく、一に気分の起伏にすぎないものであって、その意味ではあくまでも文芸的なものである。これは降っての時代を思わせることである。さらにまた、その作風を見ると、四首一貫したものではなく、同一の作者のものではないのみならず、連作としての組織をもたせるために、かなりまで無理を行なっている跡を、明らかに示しているものでもある。その点がこの連作の制作年代を疑わしめるのである。
 これを簡単にいうと、第一首は、左注の形をもって類歌を引いている。それは(九〇)「君が行《ゆき》け長くなりぬやまたづの迎へをゆかむ待つには待たじ」である。これは允恭天皇の御代、木梨軽皇子《きなしかるのみこ》と軽太郎女《かるのおおいらつめ》との事件のあった時、太郎女の詠まれた歌の一首である。この事件に関しての歌謡は多くあるが、いずれも宮中の歌※[人偏+舞]所《うたまいづかさ》に保存せられ、宮中において謡われた証を残しているものであって、一股化されていたものである。この歌の第三句「やまたづの」は、これを古事記に記録する際、すでに不明な、注を要する語《ことば》となっていた。それは「ここに山たづといへるは、これ今の造木《みやつこぎ》といふ者なり」というのである。しかるに、その「造木」が再び不明となり、近世に至って今の接骨木《にわとこ》の古名であるとわかり、その葉の対生しているところから「迎へ」の枕詞として用いているものであることもわかったのである。第一首の第三句「山たづね」が、不自然なものであることはその所でいったが、その不自然は、この歌謡を謡い物として謡った庶民が、文字によっての注を見ず、単に耳から聞くだけなので、その意味が解せられず、臆測によって「山たづね」と、解しやすい語《ことば》に変えたのである。これは謡い物としてはきわめて普通なことである。また、「迎へをゆかむ待つには待たじ」という屈折のある語《ことば》も、同じく解しやすいところの「迎へか行かむ待ちにか持たむ」と変えたのである。この連作の組織者は、その庶民の謡っている歌謡に、尊い起源を与えて、これを磐姫皇后の御歌としたとみえる。眼前に行なわれているものに、能う限りの尊い起源を与えることは、すでに古事記、日本書紀において行なわれていることで、躊躇を要さないことだったのである。この歌の作者とされている軽太郎女は、磐姫皇后には孫にあたる方である。第二首目の歌は、類歌の見えないものである。第一首と同じく民謡であったか、またはこの連作の組織者の作であるかはわからない。皇后が嫉妬の情の烈しくいらせられたことは、史上に明記されていることである。「高山の磐根しまきて」ということは、想像し難いまでのことではない。第三首目の御歌は、左注に類歌として、(八九)「居明《ゐあ》かして君をば待たむぬばたまの吾が黒髪に霜は零《ふ》るとも」を引いているが、これと関係のあるものと取れる。この「居明かして」(159)の歌は、きわめて一般性をもったものである。夫婦別居していた時代とて、妻としては夫の通って来るのを待つよりほかには法はない。しかるに夫は妻の期待にそうことができず、妻を嘆かしめがちであった。この歌もそれで、秋の夜寒の人なつかしい頃、妻は夫を待って待ち迎え得ず、終夜を待ち明かそう、髪に霜が降ろうとも、戸外に出ても待とうというので、世の妻という妻の嘆きを代弁している歌で、広く謡われていたものとみえる。連作の組織者は、この周知の歌謡を取って組織の中に入れようとしたのであるが、それには一夜ということをあらわしている「居明かして」では適さないところから、長期を意味する「ありつつも」に変え、またその関係から、実際の夜霜をあらわしている「霜」を、白髪の隠喩である「霜」としたのである。この隠喩は、いったがように集中に例のあるものであるが、その例は山上憶良の歌であるところからも、その一般に通じうるものとなった時期が思われる。第四首目の歌についてはすでにいった。第一首より第三首までは、これを形の上から見ると、口承文学の色彩の濃厚なものである。心は平明で、語《ことば》は直線的に続いており、含蓄、屈折の趣がなく、耳に聞けばただちに胸に感じ得られる性質のものである。第四首はいったがようなもので、記載文学としても典型的なもので、後代の趣の深いものである。感性を主としているものなので、耳に聞いて感じ難いというものではなかったと思われるが、とにかく高度の文芸性をもった人によって作られたものであることは明らかである。この歌は、この連作を組織するにあたって作られたもので、その意味で連作組織者の作ではないかと思わせる。
 以上は、この連作が、和歌史的に見て後世の物ではないかとの疑いを、本集が歌書であるがゆえに許されることとしていったものであるが、この歌が、巻一、二の撰ばれる当時、磐姫皇后の御歌であると信じられていたことは確実な、疑うべくもないことと思われる。それは古事記、日本書紀という尊むべき官撰の史書の中に収められている歌謡が、ほとんど全部といっていいほどまで作者が明らかに定められており、またその作者は、概して高貴の方であるのを見ても、これらの歌が磐姫皇后の御歌と定められていたとしても、少しも怪しむにはあたらない。巻一、二の撰者は、しかるべき書物によって編纂したので、そこには私意は挟まれてはいなかったのである。第一首目の御歌の、山上憶良の類聚歌林にも同様になっているという考証も、この事を語るものである。しかしこれらの御歌については、前後に例のないまでに考証をし、左注の形をもって添えていることは、古も、それを必要とする心のあったことを思わせる。
 
     或本の歌に曰はく
 
【題意】 この題詞は、目録には一字下げて、「或本の歌一首」とあるもので、後人の参考のために添えたものである。
 
89 居明《ゐあ》かして 君《きみ》をば待《ま》たむ ぬばたまの 吾《わ》が黒髪《くろかみ》に 霜《しも》は零《ふ》るとも
(160)    居明而 君乎者將待 奴婆珠能 吾黒髪尓 霜者零騰文
 
【語釈】 ○居明かして 「居明かす」は、熟語。「居」は起きている意で、夜を起きて明かす意。○君をば待たむ 上代の風習によって、妻の家へ夜《よる》通って来る夫の、その来るのを待とうの意。○ぬばたまの吾が黒髪に 「ぬばたまの」は、意味で「黒」にかかる枕詞。「黒髪」は、身体を代表させていっているもの。○霜は零るとも 「霜」は、秋の夜降るものとしてのそれで、戸外にいることを示しているもの。「零るとも」は、降ろうとも。夜寒をもいとわず、久しく戸外に立って.いようとすることを示したもの。
【釈】 夜を寝ずに起き明かして、通ってこられる君を待とう。戸外に立って待っている吾が黒髪の上に、霜が降って来ようとも。
【評】 これは第三首の類歌として挙げたものである。歌は、秋の夜、通って来ることときめて待っている夫の、夜更けても来ないのを、どこまでも待っていようとする妻の心を詠んだものである。こうしたことは上代の夫婦生活にあってはきわめて多いことで、ことに妻としては味わわされがちな苦しさであったろうと思われる。歌は、一、二句で心の全体をいい、三句以下で実際に即して細かい心をいったもので、内容も形式も平明な、謡い物の特色を濃厚にもったものである。注意されるのは、上代のこの種の歌に共通のこととして、いささかの怨みの情もまじえず、あくまでも従順なことである。これを第三首と比較すると、第三首は一句が「ありつつも」となっている。「あり」は意味の広い語で、世に生きながらえているという長い時間の意もあらわすが、単に「ある」という意で、時間に関係させない語ともなりうる。後の意とすると、「ありつつも」は「居明かして」と異ならない心を漠然といったものとも取りうる。また五句の「霜は零るとも」と、第三首の「霜の置くまでに」とは、「ありつつも」を上のように解すると、これまた意味としては異ならないものとなり、第三首の「霜」も白髪の譬喩とするには及ばず、実際の霜となりうるのである。すなわち第三首は、連作という関係においてそこにいったような意味となるのであるが、一首の独立した歌とすると、この類歌と同じものとなりうるものである。短歌といううち、ことに恋の歌は意味の広いもので、迎えて味わえばやや異なった内容のものと取りうるところのあるもので、それが短歌の性格なのである。ここに連作というものの成り立ちうる一つの根拠があるのである。
 
     右一首、古歌集の中に出づ
      右一首、古歌集中出
 
【釈】 「古歌集」というのは、集中にしばしば引かれるもので、一種の歌集の名である。題詞の「或本」というのはすなわちそれである。この集は今は伝わっていないものである。
 
(161)     古事記に曰はく、軽太子《かるのひつぎのみこ》、軽太郎女《かるのおほいらつめ》と※[(女/女)+干]《たは》けぬ。故《かれ》その太子は伊予の湯に流されき。この時|衣通王《そとほりのひめみこ》、恋慕に堪へずして追ひ往く時の歌に曰はく
      古事記曰、輕太子※[(女/女)+干]2輕太郎女1。故其太子流2於伊豫湯1也。此時衣通王、不v堪2戀慕1而追徃時歌曰
 
【題意】 これは後人の注で、第一首の類歌を古事記に認め、それを挙げようとして、古事記のその歌の在り場所の文を節略して引いたものである。「軽太子」は、允恭天皇の皇太子|木梨《きなし》軽皇子、「軽太郎女」は、その同母妹である。上代は同母兄妹の結婚は重い穢れであるとして禁じられていたのを、太子は破ったので、罪として伊予の湯へ流されたのである。「衣通王」は太郎女のまたの名である。
 
90 君《きみ》が行《ゆき》 け長《なが》くなりぬ やまたづの 迎《むか》へをゆかむ 待つには待たじ【ここにやまたづと云へるは、今の造木なり】
    君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎將往 待尓者不徃【此云2山多豆1者、是今造木者也】
 
【語釈】 ○君が行け長くなりぬ 第一首と同じ。○やまたづの これについては、古事記撰述者が注を加えている。やまたづはその当時すでに不明になりかかっていたのである。注の「造木」がまた解しやすくなくなっていたのを、加納諸平が「みやつこ木」と訓み、和名抄に「接骨木和名美夜都古岐」とあるのだとしたのである。接骨木は「にわとこ」である。これは枝も葉も対生して相向かっているところから、意味で「迎へ」につづけ、その枕詞としたのである。○迎へをゆかむ 「を」は、連用形につく詠歎の助詞で、意味を強めるためのもの。どうでも迎えに行こうという意。○待つには待たじ 待つということは、待ちきれまい。
【釈】 君が旅行きは時が久しくなった。どうでも迎えに行こう。待つというのは待ちきれない。
【評】 第一首と異なるのは、三句以下である。三句「やまたづの」は、一首の中心である四句「迎へをゆかむ」を強めるものであって、「迎へを」の「を」と相俟って、きわめて妥当なものである。五句「待つには待たじ」は、四句「迎へをゆかむ」の決意の突発的なのを、合理化するために、釈明する心をもって添えた趣をもつものである。すなわち三句以下は、感情の屈折と抑揚とを含んだ複雑なものである。それにもかかわらず、内容にも表現にもいささかの強いるところのないものである。これに較べると第一首の「山たづね」は、内容としては不備であり、表現としては突飛にすぎるものである。四、五句は、三句に伴(162)っての平明なものであるが、こちらの歌の微妙な味わいはもち得ないものである。双方の関係は、「評又」でいった。
 
     右一首の歌は、古事記と類聚歌林と説く所同じからず。歌主亦異なり。因りて曰本紀を検《かんが》ふるに曰く、難波高津宮御宇大鷦鷯《おほさざきの》天皇の二十二年春正月、天皇、皇后に語りて八田《やた》皇女を納《い》れて妃となさむとす。時に皇后|聴《ゆる》さず。ここに天皇歌もて皇后に乞ひたまふ云々。三十年秋九月乙卯朔乙丑の日、皇后紀伊国に遊行《いでま》して熊野岬に到り、その他の御鋼葉《みつながしは》を取りて還りたまふ。ここに天皇、皇后の在《いま》さざるを伺ひて、八田皇女に娶《あ》ひて宮中に納《い》れたまふ。時に皇后難波の済《わたり》に到りて、天皇八田皇女を召《め》しつと聞きて、大《いた》く恨みたまふ云々。亦曰はく、遠飛鳥《とほつあすか》宮御宇雄朝嬬稚子宿禰《をあさづまわくごのすくね》天皇二十三年の春正月甲午の朔にして庚子の日、木梨軽《きなしかるの》皇子を、太子と為す。容姿佳麗にして見る者|自《おのづか》ら感《め》づ。同母妹軽太娘皇女また艶妙なり云々。遂に竊《ひそか》に通じぬ。乃《すなは》ち悒懐少しく息《や》む。二十四年夏六月、御羮《おもの》の汁凝りて氷《ひ》と作《な》れり。天皇|異《あやし》みてそのゆゑを卜はす。卜ふ者曰はく、内の乱あり。蓋し親々相|姦《たは》くるかと云々。仍りて太娘皇女を伊与に移すといへり。今案ずるに、二代二時この歌を見ざるなり。
      右一首歌、古事記与2類聚歌林1所v説不v同。歌主亦異焉。因検2日本紀1曰、難波高津宮御宇鷦鷯天皇廿二年春正月、天皇、語2皇后1納2八田皇女1将v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇歌以乞2於皇后云々。三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行紀伊國1、到2熊野岬1、取2其處之御綱葉1而還。於v是天皇、伺2皇后不1v在、而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波濟1、聞3天皇合2八田皇女1、大恨v之云々。亦曰、違飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春正月甲午朔庚子、木梨輕皇子爲2太子1。容姿佳麗、見者自感。同母妹輕太娘皇女亦艶妙也云々。遂竊通。乃悒懐少息。廿四年夏六月、御羮汁凝以作v氷。天皇異v之卜2其所由1。卜者曰、有2内乱1。盖親々相※[(女/女)+干]乎云々、仍移2太娘皇女於伊与1者、今案二代二時不v見2此歌1也。
 
(163)【釈】 この注は、撰者が、第一首につき、この歌は、この書の原本としたものも、類聚歌林も、歌も歌主も同様で異同がないと注したのにつき、後人がさらに検討の範囲を広め、それはそれであっても、古事記には類歌があるといってそれを引くにつき、最初にいったがように古事記のその在り場所をいった上に、さらに日本書紀をも検討し、この歌の類歌のあるべき部分を引いたのである。すなわち第一には、磐姫皇后の御歌のあるべき部分を引き、第二には、同じく日本書紀、允恭紀の、古事記と関係のあるべき部分を引いたのである。そして結論として、どちらにもこの歌に関係するものはないと断定したものである。
 
 近江大津宮御宇《あふみのおほつのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代   天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇、謚を天智天皇と曰す
【標目】 巻一に出た。
 
     天皇、鏡王女《かがみのおほきみ》に賜へる御歌一首
 
【題意】 天皇は天智天皇。鏡王女は、伝が明瞭を欠いていたが、『注釈』は中島光風氏の研究により、舒明天皇の皇女または皇孫だろうとしている。それは『諸陵式』に、鏡王女の墓が、舒明天皇陵の域内にあると記されていることからの推定である。それだと、年齢的に見て皇孫ではなく皇女だとしている。皇女と王女とは通じて用いられていたことも考証している。すなわち王女は、天智、天武両帝と御姉妹である。王女が藤原鎌足の正妻であったことは興福寺縁起で明らかであり、また、日本書紀、天武紀十二年七月の条に「己丑(四日)、天皇幸2鏡姫王之家1訊v病」とあり、これは王女薨去の前日のことである。この待遇は格別のもので、御血縁であるからのことだろうとしている。しかしなお問題が残されている。
 
91 妹《いも》が家《いへ》も 継《つ》ぎて見《み》ましを 大和《やまと》なる 大島《おほしま》の嶺《ね》に 家《いへ》もあらましを【一に云ふ、妹があたり継《つ》ぎても見《み》むに。一に云ふ、家《いへ居《を》らましを】
   妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有猿尾【一云、妹之當継而毛見武尓・一云、家居麻之乎】
 
【語釈】 ○妹が家も 「妹が家」は、王女の家で、下の大島の嶺の裾のあたりにあったのである。「も」は、をもの意のもので、大島の嶺と並べていったもの。○継ぎて見ましを 「継ぎて」は、継続してで、すなわち常にの意。「見ましを」の「まし」は、仮想の意をあらわす助動詞。「を」は、ものを。見ようものを。○大和なる大島の嶺に 「大和なる」は、大和にあるで、下の大島の嶺の所在をいったもの。「大島の嶺」は、大和国(164)内の山という以上にはわからない。王女の領地のあった所の山で、その裾に王女の家のあった関係から御製に捉えられているので、『注釈』は生駒郡生駒山の南につづく信貴山の東麓という。また大和郡山市額田部町の山、または大阪府中河内郡との境にある高安山など諸説がある。「嶺」は、峰《みね》で、峰《みね》は嶺《ね》に「み」の接頭語の添ったものである。「嶺に」は峰にで、山の高所で、遠望のできる所としていわれたもの。大和にある大島の山の頂にの意。このように、一つの土地をいうに、その在る所の国名を冠していうのには、二つの場合がある。一つは、その土地を明らかにいおうとする場合で、他国にあっていうには、その必要のあることである。今一つは、その土地を懇ろにいおうとする場合で、意味の上からはその必要がないのであるが、その土地に情を寄せて、強くいおうとする場合に用いるのである。今は後の場合のものと解される。○家もあらましを 「家」は、初句の「妹が家」。「も」は並べる意味のもので、嶺《ね》とともに家もまたの意。○一に云ふ、妹があたり継ぎても見むに 一書には、初二句がこうなっているというのである。意味は、妹が家のあたりを常に見ようと思うに。○一に云ふ、家居らましを一書には、結句がこうなっているというのである。「家居《いへゐ》る」は、家居している意である。
【釈】 妹が家もまた、大島の嶺《ね》とともに見ようものを。大和にある大島の嶺の上に、妹が家もまたあったならば、見えようものを。
【評】 歌意は、天皇が王女の家のあたりに立っている大島の嶺《ね》を望ませられ、王女に逢い難き嘆きから、せめてその家なりとも見たいと思わせられ、家が嶺の上にあったならば、嶺とともに見えようものをと、繰り返して仰せになっているもので、思慕の情を詠ませられたものである。天皇と王女との関係を思わせるものは他にはなく、ただこの贈答の歌のみである。この贈答の歌のあった時代は、興福寺縁起によると、天皇の即位二年には、王女はすでに鎌足の嫡室となっていられるのであるから、常識よりいえば、王女も鎌足とともに大津の京にいられたことと思われる。たとい大和にとどまっていられたとしても、すでにそうした関係となっていられる王女に、天皇からこうした御製を賜わるということは想像し難いことである。それでこの御製のあったのは、近江遷都以前、天皇も王女も大和にいられ、また王女と鎌足との関係も成立しなかった頃のものと思われる。したがって御製は、天皇が大島の嶺をさやかに御覧になってのものと思われる。王女の和歌《こたえ》によると、その季節は秋であるから、大島の嶺《ね》の上に、王女の家を想像されるということも、不自然ではなく思われる。一首二段より成り、第一段では、「妹が家も継ぎて見ましを」と、思慕の情をこめて、おおらかに豊かに仰せられ、第二段では、綴り返して、具象的に仰せになっていられるのであるが、「大和なる大島の嶺に」と、王女を思う上で、ただ一つの御覧になりうるものに、懇ろに心を寄せた言い方をなされているので、思慕の情の言外に溢れきたるものとなり、またこれによって、「妹が家も」の「も」にこもらせた、豊かにして細かい御心も生きてくるのである。実際に即した、おおらかにして豊かに細かい御情愛をもった御製と思われる。この一首を、二段として採り返しにされる形は、口承文学の典型的なもので、当時としても古い形のものである。一書の伝えは、御製を平明にしようとして、合理的に、平面的にならしめたもので、後よりのものと思われる。
 
(165)     鏡王女《かがみのおほきみ》、御歌《みうた》に和《こた》へ奉《まつ》れる一首 【鏡王女は又額田姫王といふなり】
 
【題意】 注は、鏡女王と額田姫王とを同一人としてのもので、これは誤りである。これのない本もある。後人の加えたものである。
 
92 秋山《あきやま》の 樹《こ》の下《した》隠《がく》り 逝《ゆ》く水《みづ》の 吾《われ》こそ益《ま》さめ 御念《みおもひ》よりは
    秋山之 樹下隱 逝水乃 吾許曾益目 御念従者
 
【語釈】 ○秋山の樹の下隠り 「秋山」は、当時の風として眼前を捉えたものと思われる。それだと御製の大島の嶺である。「隠る」は、古くは四段活用であった。秋山の樹立の下を、見えない状態でで、下へ続く。○逝く水の 流れゆく水で、山に湧く水の流れである。初句よりこれまでは、秋山の流れは、水涸れの夏山に較べると、水嵩が増す意で、四句の「益さめ」に続く序詞である。○吾こそ益さめ 「こそ」は、取り立てて強くいう助詞。「益さめ」の「め」は、「こそ」の結び。益すは、量の多いことをあらわす語。全体では、吾の方こそは、君を思いまつる思いが多いことであろうで、水嵩の増すを、思いの多い意に転じたものである。○御念よりは 吾を思いたもう御思いよりは。
【釈】 秋山の樹の下を見えない状態で流れてゆく水の流れの、夏山に較べては水嵩が増しているので思われるが、吾の方こそは君を思いまつる思いが多いことであろう。君の吾を思おしたもう御思いよりは。
【評】 男女間の相聞の歌は、贈歌に対して答歌は言い返しをするのが型のようになっている。言い返しは、ほとんど全部、善意よりのもので、結果から見ると、語の遊戯のごとくに見える(166)ものである。王女のこの答歌にはその趣が全くなく、天皇の情愛深い御製にすがって、思慕の情を訴えているものである。王女も高貴の御身分でいらせられるので、身分の上の憚りとは思えない。天皇と王女との関係の実情が、王女にこうした態度をとらせたものと思われる。歌はもとより当時者の間だけの実用性のもので、他よりはその機微はうかがえないものである。初句より三句までの序詞は、譬喩と見れば見られうるほどそれに近いもので、比較的序詞に近い程度のものである。一首の調子の控えめに、素樸に感じられるのは、一つはそのためである。
 
     内大臣藤原卿、鏡王女を娉《つまど》ひし時、鏡王女の内大臣に贈れる歌一首
 
【題意】 「内大臣藤原卿」は、藤原鎌足で、卿は高位の人に対する尊称である。尊称として大夫というがあり、巻一に出ているが、「卿」は大夫以上の人に対してのものである。「娉ふ」は、結婚の申込みをすることである。「鏡王女」は前にもいったように、藤原鎌足の嫡室となられた人で、それは少なくとも天智天皇の即位二年よりも以前のことであるから、この歌の作られた時は、それよりもさらに以前でなくてはならない。近江への遷都は天皇の五年であるから、大和国においてのことである。
 
93 玉《たま》くしげ 覆《おほ》ふを安《やす》み あけて行《ゆ》かば 君《きみ》が名《な》はあれど 吾《わ》が名《な》し惜《を》しも
    玉※[しんにょう+更] 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
 
【語釈】 ○玉くしげ 「玉」は、美称、「くしげ」は「匣」、櫛笥《くしげ》にあてた字である。笥《け》は古くは容器の総称で、櫛笥は櫛を容れる箱すなわち櫛箱の意である。櫛は厳粧具《けしようぐ》の代表としての名で、この箱は鏡をも容れた物とみえる。玉匣を枕詞として、「身《み》」「ふた」「開《あ》け」「開《ひら》く」とも続けているところから、その箱の状態が想像される。ここは、意味で下へ続けている。○覆ふを安み 蓋を覆うのがたやすくしての意。これは蓋の開閉がたやすいところから、したがって注意をせず、開けても置く意で、下の「あけ」へ続けたもので、「玉くしげ」以下二句は「あけ」の序詞である。これは、「玉くしげあけ」という続けがあるところから、その「あけ」に、「覆ふを安み」という説明を加えて、今のように二句のものとし、序詞という形式としたものである。「覆ふを安み」の解には諸説があるが、『講義』の解が最も妥当に思われるので、それに従った。○あけて行かば 「あけ」は、明けで、夜が明けての意。「あけ」を同音異義で転じたのである。夜が明けてここから帰って行ったならばの意。下の続きで見ると、鎌足が王女の許へ求婚の意で訪ねて来、王女は拒んだにもかかわらず帰ろうとせず、夜明けまでも居そうなので、帰りを促す心でいわれたものである。○君が名はあれど 「名」は、名誉。「あれど」は、傷つかないけれどもの意。男女関係では、男はいかなる噂が立っても名誉にはさわらないものとしての言。○吾が名し惜しも 「し」は、強め。「惜し」は、名誉が傷つくので、それが惜しいの意。「も」は、詠歎。女の身は反対に、名誉がすたるので、それがいかにも惜しいの意。
(167)【釈】 櫛笥の蓋の、覆うのもたやすいところから開けてもおく、その開けという夜が明けてに帰って行ったならば、必ず人目につこうが、君は男のこととて名誉はそのままであるが、われは女とて、名誉がなくなってしまう、それがいかにも惜しいことだ。
【評】 求婚に対しての拒絶であるが、実際に即しつつ、いわゆる情理を尽くして、訴えの心をもってされているところに、上代の特色が現われている。事としてはすでに拒絶の意を示されていたものと思われるが、歌としていわれているところは、三句以下、「あけて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」という、さしあたっての迷惑で、ただ帰りを促していられるのみのものである。「君が名」と「吾が名」とを対照的に扱い、「吾が名」に力点を置いているのは、訴えの心をもってのものである。男女の立場の相違は、常識ともいうべきものであるが、保身の上から強調していわれているところに、知性が見えて、情理を兼ねている趣がある。「あけ」をいうのに、身辺の「玉くしげ」を捉え、さらに心を強めるがために「覆ふを安み」を添えていられるところにも、同じく情理を兼ねた趣が見られる。落ちついた、豊かな心をもった、思慮ある人柄の思われる歌である。序詞を用いているのは、求婚の際の歌には、口承文学の面影をとどめたものが多いので、その関係からと思われる。
 
     内大臣藤原脚、鏡王女に報《こた》へ贈れる歌一首
 
94 玉《たま》くしげ みもろの山《やま》の さな葛《かづら》 さ寐《ね》ずはつひに ありかつましじ【或本の歌に曰く、王匣|三室戸山《みむろとやま》の】
    玉※[しんにょう+更] 將見圓山乃 狹名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之自【或本歌曰、王匣三室戸山乃】
 
【語釈】 ○玉くしげ 蓋に対する身を「みもろ」の「み」に転じて枕詞としたもの。○みもろの山の 「みもろ」とも「みむろ」ともいう。御室、すなわち神を斎《いつ》き奉《まつ》る室《むろ》の意である。御室は山の上にあるべきものと信じられていたところから、御室の山と呼ばれる山は諸所にある。その中でも、大三輪の神が最も名高かつた関係から、三輪山のまたの名のごとくになってきた。すなわち普通名詞が固有名詞のごとくなってきたのである。今も三輪山を意味したものと思われる。これは重い響をもつていた山と思われる。○さな葛 さね葛ともいっている。さな葛の方が古語である。普通|美男葛《びなんかずら》といっている木質蔓性の植物である。その茎から粘液がとれるが、古くはそれを頭髪に塗る料としていた。初句からこれまでは、この「さな」を四句「さ寐」に、畳音で関係させるための序詞である。○さ寐ずはつひに 「さ寐」の「さ」は、接頭語。「寐」は、男女共寐をする意で用いている。「つひに」は、結局の意で、次の語を修飾している。○ありかつましじ 「あり」は、存在する、すなわち生きている意。「かつ」は、下二段活用の動詞で、得る、堪える意の語。「ましじ」は、後には「まじ」となる助動詞で、奈良朝時代を通じて用いられた。橋本進吉氏によって明らかにされた語である。否定の推量をあらわしている。生きてありうることはできなかろうの意。○一書には、第二句が「三室戸山の」とある。これは山城国宇治(京都府宇治市)にある山という説がある。伝唱されてその土地で謡われていたのを記録したものと取れる。
(168)【釈】 三室の山に生えているさな葛よ、そのさなのさ寐ることをしなかったならば、われは結局生きていることはできなかろう。
【評】 王女の歌は、いったがように、求婚ということは拒み、それに関連しての迷惑をも避けられようとしたものであるが、この歌は男の立場に立ち、さらに求婚の心をあらわし、のみならず積極的にさえいったものである。中心は四、五句の「さ寐ずはつひにありかつましじ」であるが、この「さ寐」という語は、上代にあっては結婚という語と同意語であって、後世とは語感を異にしていたものであろうと思われる。この二句は命をかけて求婚している意を伝え得ていたものであろう。このことは、初句より三句までの「さ寐」の序詞として用いている「玉くしげみもろの山のさな葛」にも現われている。序詞を用いたのは王女の歌と同じく、この種の歌には口承文学的のこうしたものがあるべきだとしたためと思われ、また「玉くしげ」を捉えたのも王女の序詞に従ったのであるが、「さな葛」を捉えたのは、それが塗料の原料で、「玉くしげ」に属した物としてである。しかしその「さな葛」の産地として「みもろの山」を捉えたのは、明らかに鎌足の創意と思われる。本来さな葛は山野に自生する物で、みもろの山と特別の関係のある物ではない。もしありとすれば、そこにもあるというほどの関係である。それをみもろの山に限っているもののごとき言い方をしているのは、古より最も畏い神と信じてきた大三輪の神を、この歌をもってあらわす心に関係を付け、取り入れてこようとしたためと思われる。もとより序詞の中でのことではあるが、中心の「ありかつましじ」に響ききたるところのあるものとして、生命をかけて思っているという気分をあらわすためにしたことと思われる。直接に王女に対して訴える語としての「さ寐ずは」というごとき語が、軽からぬものとなって感じられるのは、そのためと思われる。一首、熱意の強い男性的のもので、王女の歌と相俟って全幅を傾けてものをいいあっていることを感じさせる。
 
     内大臣藤原卿、采女|安見児《うねめやすみこ》に娶《あ》ひし時作れる歌一首
 
【題意】 「采女」のことは、巻一(五一)に出た。采女は天皇の御饌に奉仕する職で、神聖なる職とした。これを犯す者は、重き罪科に処せられた。鎌足がこれを得たのは、私としてならば前《さき》の采女であり、公にならば勅許があって前の采女としてのことであろうと『講義』はいっている。安見児はその采女の名。伝は知れない。
 
95 吾《われ》はもや 安見児《やすみこ》得《え》たり 皆人《みなひと》の 得《え》かてにすとふ 安見児《やすみこ》得《え》たり
    吾者毛也 安見見得有 皆人乃 得難尓爲云 安見兒衣多利
 
【語釈】 ○吾はもや 「も」も「や」も詠歎の助詞で、一語をなしているもの。○安見児得たり 「安見児」は、采女の名。女子の名に「児」の付(169)いている例は集中に多い。「得」は、娶る意に用いられたもの。○皆人の得かてにすとふ 「皆人」は、すべての人。「かて」は、上の歌の「かつ」と同じく、できる意。「に」は、否定の助動詞の連用語。「すとふ」は、するというので下へ続く。
【釈】 吾こそは安見児を娶った。すべての人が娶り得ないものとしているという、その安見児を娶った。
【評】 歓喜した心をそのままに、即興として詠んだものである。安見児という采女の名を繰り返していっているのは、その采女は評判の者であったことを思わせる。それをわが物としたのが喜びの一半である。また、采女は娶り難いものとなっているのに、それを特に娶り得たという優越感が、喜びの他の一半で、「得」という語を三たびまで繰り返しているのはそのためである。二句で言いきり、三句以下で繰り返して、結句は二句と同様にするのは、口承文学としても典型的なものである。口頭の語を歌の形をもっていったもので、歌が日常生活の中のものであった時代をあらわしているものである。一つの実感を尽くし得ているので、おのずから魅力のあるものとなっている。
 
     久米禅師《くめのぜんじ》、石川郎女《いしかはのいらつめ》を娉《つまど》ひし時の歌五首
 
【題意】 「久米禅師」は、久米は氏。禅師は名であるか、あるいは法師としての称であるかが不明である。当時、これに類した名が行なわれていたからである。伝はわからない。「石川郎女」も、石川は氏。郎女は、身分ある女性の敬称で、伝はこれまたわからないが、この当時京にあって、貴族階級の何人かの男に関係した、評判の高い女であったことは、以下の歌で知られる。
 
96 水薦《みこも》苅《か》る 信濃《しなの》の真弓《まゆみ》 吾《わ》が引《ひ》かば うま人さびて いなと言《い》はむかも 禅師
    水薦苅 信濃乃眞弓 吾引者 宇眞人佐備而 不欲常將言可聞 禅師
 
【語釈】 ○水薦苅る 信濃の枕詞。「水」は美称。「薦」は水辺に生える草。『童蒙抄』以来ミスズカルと読まれてきて、『講義』はミススカルと読み詳しく考証しているが、今は諸古写本の訓に従う。○信濃の真弓 「真」は、美称。信濃国は貢物として梓弓を献じたことが、続日本紀、延喜式に出ている。溯つた時代にもその事があったとみえる。この二句は、「引かば」と続き、その序詞となっているもの。○吾が引かば 「引かば」は、心を引いたならばで、われに靡くか否かを試みたならばの意。弓の引くを同音異義で転じている。○うま人さびて 「うま人」は、貴人。「さびて」は、そのようにふるまう意で、翁さび、乙女《おとめ》さびなどの類。「うま人さび」は一語で、動詞。貴人ぶるというにあたる。○いなと言はむかも 「いな」は、否で、否といって、拒む意。「かも」の「か」は、疑問、「も」は詠歎。
(170)【釈】 水薦を苅る信濃國より出る弓を引くという、その心を引くことをしたならば、あなたは貴人にふさわしいふるまいをして、私をいやしめて否ということであろうか。
【評】 娉《つまどい》の訴えである。歌で見ると、禅師と郎女とは、社会的に見てある程度の身分の隔りがあったと思われるが、この歌はそれを極度に気にしたものである。こうした際には、男性は身分の隔りなどいうことは超えて、全幅的に訴え、少なくとも全幅的であるかのように装うのが常識であったのに、禅師は全くそれとは異に、強い自意識をもち、したがって臆病さをもち、しかも郎女を批評的に見ている心をあからさまにあらわして、「うま人さびていなと言はむかも」といっている。これは恋愛に対する態度としては、明らかに個人的になり、遊戯的に傾いてきていることで、時代的に見れば、従来にはない新味のあるものである。あくまで実際に即している点、序詞を用いている点は伝統的である。「水薦苅る信濃の真弓」という序詞は、この一連の最後の(一〇〇)の歌で見ると、折から諸国からの貢物の京へ集まって來る時であったことがわかり、眼前を捉えたものであることが知られる。
 
97 三薦《みこも》苅《か》る 信濃《しなの》の真弓《まゆみ》 引《ひ》かずして 弦《を》はくる行事《わざ》を 知《し》るといはなくに 郎女
    三薦苅 信濃乃眞弓 不引爲而 弦作留行事乎 知跡言莫君二 郎女
 
【語釈】 ○三薦苅る信濃の真弓 贈歌の序詞をそのままに取って、同じく「引く」の序詞としたもの。○引かずして 贈歌の「吾が引かば」に対させたもの。意味も同じく、靡くか否かを試みずして。贈歌は「引かば」と、引く一歩前のことをいっているのを、非難の心をもって強めて、てんで引いてもみないこととしたもの。○弦はくる行事を 「弦」は、諸本「強」となっている。『代匠記』が誤写として今のように改め、定説となっているもの。「はくる」は、下二段活用の動詞で、「佩く」をあてる語である。「弦はくる」は弓に弦をかけるの意である。(九九)「つら弦《を》取りはけ」、卷十六(三八八六)「牛にこそ鼻繩《はななわ》はくれ」とある。「行事《わざ》」は、事の意である。一句、弓に弦を取りつけることの意。弓は弦をかけてはおかず、用いるに先立ってかける物である。これを弓からいうと、弦をかけられることによって、はじめて弓たるの資格を得るものである。これは郎女が自身の譬喩としていっているもので、我を我たらしめること、進めていえば御身の物とならしめることの意である。この譬喩は、「三薦苅る信濃の真弓」との繋がりにおいて設けたものである。○知るといはなくに 「なく」は、打消の「ぬ」の未然形の「な」に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎。知っているとはいえないことであるものをの意。
【釈】 三薦苅る信濃の真弓を引くという、その引き試みることを御身はてんでしないので、それでは、真弓の縁でいえば、真弓に弦をかけて、真弓たらしめること、すなわち我を我たらしめることを知っている人とはいえないことであるものを。
(171)【評】 一首の心は、こうした場合の女に共通な態度として、男の心情にある程度の不安を感じ、危惧をもち、それを非難しつつも、同時に一方ではそれを嘆きとして、結局承諾を与えようとする心のものである。心が複雜しているので、譬喩をもってあらわすことの方を便利とし、その法を取っているので、したがって解しやすからぬものとなっている。しかしそれとして見ると、比較的解しやすいものである。初句より三句までの「三鷹苅る信濃の真弓引かずして」は、贈歌にそのままによったものと思われる。「引かずして」は、いったがように贈歌の「吾が引かば」を非難してのものである。求婚をしようとならば、熱意をもった打ち込んだ態度をもって引くべきであるとするのは、女の立場にあっては当然の要求で、非難せずにはいられないことと思われる。その非難があるならば、本來としては拒むべきであるのに、郎女は拒んではいず、婉曲に承諾の意をあらわしてもいる。そこに四、五句の隱喩の婉曲さがある。「弦はくる行事《わざ》」は、いったがように初二句の真弓のつながりで新たに設けた譬喩と思われる。これは含蓄の多いものである。求婚される以前の自身を弦をはけざる弓とし、されることを弦をはけられることとして言っているのであるが、それだと求婚されることを待ち望んでいる心のものである。「知るといはなくに」は、それを徹底的にしないことを、嘆きをもっていっているものである。この四、五句は、初句より三句までの「引かずして」に、譲歩をし、妥協の心をもって説明を付けたもので、要するところは、非難をしつつも、嘆きをもって承諾を与えた心である。四句「弦はくる行事を」は、前との関係では、自然な、そのものとしては巧妙な譬喩で、郎女の歌才を思わせるものである。
 
98 梓弓《あづさゆみ》 引《ひ》かばまにまに 依《よ》らめども 後《のち》の心《こころ》を 知《し》りかてぬかも 郎女
    梓弓 引者隨意 依目友 後心乎 知勝奴鴨 郎女
 
【語釈】 ○梓弓 梓をもって造った弓。古く信濃國から貢物としたのは梓弓であった。「信濃の真弓」を言いかえたもの。○引かばまにまに 弓を引いたならば、引くがまにまにの意。「まにまに」につき『講義』は、後世この語は、上に「の」または「が」の助詞を伴い、また用言の連体形についた、付属的のもののみのようであるが、古くはここのように全く独立の副詞として用いられており、これはその著しい例であると注意している。初二句は、弓を引くと、その本末《もとすえ》が寄り合う意で、下の「依る」の序詞としたもの。○依らめども 「依る」は、靡く意で、同音異義で転じさせてある。靡こうけれども。『講義』は、「め」の已然形に、「ども」を續けるのは古格だと注意している。○後の心を 将来の御身の情愛を。○知りかてぬかも 「かて」は、(九四)の「ありかつましじ」の「かつ」と同じく、堪えきる意。「ぬ」は、否定。「かも」は、詠歎。知りきれないことである。
【釈】 梓弓の、引いたならば、引くがまにまに本末《もとすえ》の寄る、それのように、我も君が心のままに寄り添い靡こうけれども、後になっての君の情愛の渝《かわ》らずにいるということは、知りきれないことであるよ。
(172)【評】 前の歌と一緒に答えたものであることは、これに続く禅師の歌が、この二首に対して詠んだものであることによって知られる。前の歌は、文芸的の巧みを念としたもので、したがって解しやすくないところももったものであるが、これは平明な、きわめてわかりやすいものである。同じ心を、一歩進めて繰り返しているのである。しかしこの歌でも技巧は捨てず、「信濃の真弓」を「梓弓」と合理的に言いかえ、「引かばまにまに」を添えて序詞とし、しかもその序詞にも感情をもたせるという、細心の注意を払っているのである。一首の心は、こうした際の女性に共通な、型のようになっているものである。
 
99 梓弓《あづさゆみ》 つら絃《を》取《と》りはけ 引《ひ》く人《ひと》は 後《のち》の心《こころ》を 知《し》る人ぞ引《ひ》く 禅師
    梓弓 都良絃取波氣 引人者 後心乎 知人曾引 禅師
 
【語釈】 ○梓弓 郎女の前の歌の語を取ったもの。○つら絃取りはけ 「つら絃」は、「つら」も絃で、「轡《くつわ》づら」などの例もある。「絃」は、弦で、同意の語を重ねたもの。弦《ゆずる》をこのように呼んでいたと取れる。「取りはけ」は、取りかけて。弓に弦をかけてで、弓を弓たらしめての意。これは郎女の前の歌に対させたもので、郎女のいかなる人であるかを十分に知ってという意を下に置いたもの。○引く人は 「人」は、自身を客観的に言いかえたもの。弓を引く者はで、「引く」に、娉《つまどい》の心をもたせてある。○後の心を知る人ぞ引く 「後の心」は、郎女の前の歌に対してのもの。後も情愛の渝らないという意。「知る人ぞ引く」は、知っているわが引くで、引くは、三句の繰り返しである。
【釈】 梓弓に弦《ゆずる》を取りかけて、弓を弓たらしめて引く人は、後にも渝らない情愛をもつということを知っている人が引くことである。
【評】 郎女の二首の歌に対して、一首で答えた形のものである。梓弓を郎女に譬え、引くに二様の意をもたせてあるのは前よりの引続きである。一首は誓言の心をもったものである。我を「人」と言いかえ、「人は」「人ぞ」と力をこめていい、また、「引く」を繰り返しているのも、その心からである。当事者の間のもので、双方の実際を超えかねる趣をもっている。
 
100 東人《あづまど》の 荷向《のさき》の箱の 荷《に》の緒《を》にも 妹《いも》は情《こころ》に 乗《の》りにけるかも 禅師
    東人之 荷向〓乃 荷之緒尓毛 妹情尓 乘尓家留香聞 禅師
 
【語釈】 ○東人の 訓は『考』のもの。「東人」は、東国人を指す称であるが、広く地方人の意でも用いられた。ここは後の意のもの。○荷向の箱の 「荷向」は、毎年地方より朝廷に奉る調物の初《はつ》ほをいう。「箱」はその調物の絹などを納めたもので、韓櫃《からびつ》を用いたようである。○荷の緒に(173)も 「荷の緒」は、調物の箱を、馬に負わせるために、鞍に結びつける緒の意。祈年祭の祝詞に、「自v陸往道荷緒縛堅 ※[氏/一]」とあって、この緒は、事を鄭重にするために、堅く結えたことがわかる。「に」は、形容の意を示すもので、「にも」は、ごとくにもの意。○妹は情に乗りにけるかも 「妹」は、主格。「情に」は、わが心の上に。「情に乗る」は、心を占領する意で、「乗りにける」は、占領してしまっているの意。これは当時慣用されていた成語である。「かも」は、詠歎。
【釈】 諸の地方の人の、調物の初《はつ》ほを納めた箱の、それを馬の背に負わせて結いつけてある緒のごとくにも、しっかりと妹はわが心にかかって占領してしまっていることであるよ。
【評】 これは禅師が郎女と婚を結び、その家に通うようになった頃の歌である。四、五句は成句に近いもので、創意は、初句より三句までの譬喩にある。これは奇抜の感のあるものであるが、上にもいったように、その頃は諸国から毎年の例のとおり、京に調物を奉る頃だったので、眼の前に見る荷の緒の状態を、心から離れない妹の状態に連想してのものと取れる。それには、祈年祭の祝詞の語も関係していよう。実際に即しての歌である。
【評 又】 以上、禅師と郎女との贈答四首で、事の起こりからその推移を示し、最後の禅師の歌で、その事の結末を示して、一つの纏まった事件をあらわしている。これは明らかに歌物語である。天智天皇の御代に、歌をもって物語を展開することが喜ばれ、また行なわれていたことが知られる。この物語の伝わったのには、石川郎女なる女性がこの時代に注目され、注意される存在であって、その人に関する物語だというので、特に保存されていたためではないかと思われる。この点は、この後に現われる郎女の歌と行動とによって思わせられることである。
 
     大伴宿禰《おほとものすくね》、巨勢郎女《こせのいらつめ》を娉《つまど》ひし時の歌一首 【大伴宿禰は諱を安麿と曰ふ。難波朝の右大臣大紫大伴長徳卿の第六子、平城朝に大納言兼大将軍に任じて薨りき】
 
【題意】 「大伴宿禰」は、金沢本、元暦本などには注があって、「大伴宿禰諱曰2安麻呂1也、難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子、平城朝任2大納言兼大将軍1薨也」とある。薨じた時は、続日本紀に「和銅七年五月朔日薨」とある。この朝には安麿は公卿にはならなかったので、姓の宿禰だけをいったと見える。大伴氏の姓はもとは連であったのを、天武天皇の十年に宿禰となったので、これは後よりの称である。「巨勢郎女」は、同じく金沢本、元暦本などの注に、「即近江朝大納言巨勢人卿之女也」とある。
 
101 玉葛《たまかづら》 実《み》ならぬ樹《き》には ちはやぶる 神《かみ》ぞつくとふ ならぬ樹《き》ごとに
    玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曾著常云 不成樹別尓
 
(174)【語釈】 ○玉葛実ならぬ樹には 「玉葛」は明らかでない。次の歌にも出ていて、花だけ咲いて実のならない物とわかる。その点から「玉」は美称で、「葛《かづら》は葛《くず》ではないかといはれている。それだとその繊維を布の原料とするなど、生活に親しい物である。葛《くす》の花は印象的なもので、実はなっても目だたないので、実ならぬといいうるものである。「玉葛」は「実ならぬ」の譬喩とされているもので、下に「のごとく」の意の「の」が省かれて、下へ続くものと取れる。「実《み》ならぬ樹」は、実のならない樹の意であるが、この語は、恋に実意のない、すなわち口頭のみのものの意で慣用されている語である。巻七(一三六五)「吾妹子のやどの秋萩花よりは実になりてこそ恋ひまさりけれ」など例が多い。ここもその意をもたせてある。「樹」は、樹木で、広く指していったもの。○ちはやぶる 最速《いちはや》ぶるの約で、勢の鋭い意。怖るべきの意で、下の「神」の性質をいったもので、(一九九)「ちはやぶる人を和《やは》せと」とある類である。○神ぞつくとふ 神が依り憑《つ》くと世間でいっているの意で、これは当時の信仰である。○ならぬ樹ごとに 実のならない樹という樹にはで、二句を繰り返して強めたもの。
【釈】 玉葛のごとく実のならない樹には、怖るべき神が依り憑くと世間でいっている。実のならない樹という樹には。
【評】 歌は「花」と「実」に二様の意味をもたせ、表面は木草《きぐさ》のこととしているが、心は恋の上の譬喩としたもので、「花」は美しい語《ことば》、「実」は実際に相逢うこととしているのである。宿禰のこれを贈ったのは、郎女が宿禰の求婚に対して、語《ことば》としては優しくしかるべきことをいっているが、実際に相逢おうとはいわないので、それをもどかしく感じ、男性にありがちな威嚇を試みたものである。すなわち上手事ばかりをいっていて、実際に相逢おうとしない人には、邪神が憑くということである。そういう人々にはとの心である。樹と人の双方にわたって同じような信仰があったので、それを利用したものであるが、歌としてできあがった上から見ると、樹の方だけをいって人の方を感じさせているもので、全部が隠喩になっており、したがって文芸的なものとなっている。歌因は、郎女を威嚇してその目的を遂げようとする実用性のものに、これだけの文芸性をもたせたもので、高次のものとすべきである。歌因から見ると、玉葛を葛とすると、その花が過ぎて、樹には実のなる頃であったろうと思われる。
 
     巨勢郎女、報《こた》へ贈れる歌一首 即ち近江朝の大納言巨勢人卿の女なり
 
102 玉葛《たまかづら》 花《はな》のみ咲きて ならざるは 誰《た》が恋《こひ》ならめ 吾《わ》は恋ひ思《も》ふを
    玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎
 
【語釈】 ○玉葛 贈歌では「ならぬ樹」の譬喩にしているのを、今は玉葛その物に限っている。言い返しの意で変えたのである。○花のみ咲きてならざるは 花が咲くだけで実のならないのはの意。初句よりこれまでの三句は、贈歌の「玉葛実ならぬ樹には」の二句を、委しく言いかえたも(175)の。○誰が恋ならめ 誰の恋であろうかの意で、「誰」を宿禰にあてて、御身こそそれではないかの意味でいったもの。『講義』は、ここのように、「誰」「何」と係って「め」で結ぶのは古言の一格で、この「め」は後世の「めや」にあたるもので、反語をなしていると注意している。○吾恋ひ思ふを われは御身を恋い慕うているものをの意。
【釈】 玉葛のごとく花ばかり咲いて、実のならない、すなわち口頭のやさしさだけで真意のないのは、誰の恋なのであろうか。われの方は恋しく思っているものを。
【評】 贈歌の語に縋っての歌であるが、贈歌の「玉葛」の内容を、いったがごとくに変え、しかも贈歌ではこちらを暗示したものであるのに、全然先方の譬喩とし、「花のみ咲きてならざる」と、贈歌にはない「花」を添えて「実」を省くなど、やさしいながらに言い返しの意を徹底させている。答歌の型に従ったのである。しかし心としては、余裕のもてない、哀切さを含んだものである。当時の教養ある、上流の女性を思わせられる作である。
 
  明日香清御原宮御宇《あすかのきよみはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代    天渟名原瀛真人天皇《あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと》、謚を天武天皇と曰す
 
【標目】 巻一に出ている。天武天皇の御代である。
 
     天皇、藤原夫人《ふぢはらのぷにん》に賜へる御歌一首
 
【題意】 「天皇」は天武天皇。「藤原夫人」の「夫人」は、後宮の職名で、藤原氏の出の夫人の意である。夫人は中国の名称で、漢では皇帝の妃、先秦では諸侯の妻、漢以後には常人の正妻をいい、また婦人の尊称ともなったものである。わが国では、令の制に、皇后のほかに、後宮の職員に、「妃三員、夫人三員、嬪四員」とある。妃は皇族に限られたので、臣族の出は、最高が夫人であった。ここもその意のものである。天武紀に「又夫人藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女1、次夫人氷上娘弟五百重娘生2新田部皇子1」とある。すなわち藤原鎌足の娘で、藤原夫人と称せられる人が二人あったのである。この夫人は大原に住んでいたことが歌でわかる。巻八、夏雑歌に藤原夫人の歌があり、注に「明日香清御原宮御宇天皇夫人也、字曰2大原大刀自1、即新田部皇子之母也」とあるのにより、この夫人は五百重娘と知られる。「御歌」は、「御製歌」とあるべきである。
 
103 吾《わ》が里《さと》に 大雪《おほゆき》ふれり 大原《おほはら》の 古《ふ》りにし里《さと》に ふらまくは後《のち》
(176)    吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落卷者後
 
【語釈】 ○吾が里に大雪ふれり 「吾が里」は、天皇のいらせられる清御原の京。「大原」に対してわざとそう仰せられたもの。「大雪」は、今も用いる語。ここで切れている。○大原の 「大原」は、現在夫人のいられる地。今明日香村の東南に小原という地があり、その名をとどめている。藤原鎌足の生誕の地といわれる。夫人が大原大刀自と称せられたのも、そこに住んでいたからである。大原は清御原から幾何《いくばく》の距離もない所である。○古りにし里に 「古りにし里」は、古いものとなってしまった里で、以前住んでいた里をもいい、また、人の住むことの稀れになった、荒れた里のことをもいう。集中には両方がある。ここは後者で、大原を戯れの心をもって貶《おと》しめていわれたもの。○ふらまくは後 「ふらまく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、降ろうことはの意。「後」は、わが里よりも後れた時の意。
【釈】 わが住む里には、大雪がおもしろくも降った。そなたの住んでいる大原の、さみしく荒れてしまった里に、降ることは後であるよ。
【評】 大雪の降った後に、天皇が夫人を思われて賜わった御製である。天皇は大雪のおもしろさを御覧になりながら、夫人がともに見られないのを飽き足らず感じられ、それをいってやろうと御思いになったのであるが、それを歌となされる際には、すっかり変形なされ、御情愛を内に包んで、表面は揶揄の形のものとなされたのである。清御原と大原とは幾何も離れてはいない地なので、清御原に降った大雪の、同じく大原にも降っていることは自明なことである。それをわざと両地を差別あるもののようにいわれ、「吾が里」「大原の古りにし里」と、いずれにも誇張を加えた言い方をなされたうえ、さらに双方に、「ふれり」「ふらまくは」と、同じ語を繰り返されたのは、一に対照を際立たせようがためである。「古りにし」という語にも、同音の興を絡ませてあるかに思える。一首、しいても羨ませようとなさつているのは、表面は揶揄であるが、御心としては、と(177)もに大雪を見ないのを夫人にも飽き足らず思わせようとの御心で、その御情愛が、おおらかに、太く緩やかに御詠みになっている一首の中に、明らかに感じられる。御製としてふさわしいものである。
 
     藤原夫人、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
 
104 吾《わ》が岡《をか》の おかみに言《い》ひて ふらしめし 雪《ゆき》の摧《くだ》けし そこに散《ち》りけむ
    吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武
 
【語釈】 ○吾が岡の わが大原の岡ので、大原は丘陵の地である。この岡は、下の「おかみ」の鎮まる所としていっている。神はその地の高い所に降《くだ》り、また鎮まるともされていた。○おかみに言ひて 「おかみ」は、日本書紀巻一に、「竜此云2於箇美1」という注がある。また日本書紀には高〓神《たかおかみ》があり、古事記には闇於箇美神《くらおかみのかみ》がある。竜神で、雨をつかさどる神とされていた。現在も雨を請うのはこの神である。今は、雪のことをいっているが、雨の延長として、雪をつかさどるのもこの神としたものとみえる。「言ひて」は、命じてである。天神地祇はすべて天皇に奉仕するとされていたので、天皇に対して申すには、このようなこともいえたのだと取れる。○ふらしめし 降らせたで、過去のこととしていっている。「ふらまくは後」に対して、こちらの方がすでに先に降ったの意でいったもの。○雪の摧けし 「摧け」は、名詞で、一部分。「し」は、強め。○そこに散りけむ そちらすなわち清御原にこぼれたのであろう。
【釈】 わが大原の岡に鎮まる竜神に命じて、こちらへ降らせた雪の、その摧けの一部分だけが、そちらへもこぼれたのでございましょう。
【評】 御製に対して、劣らじとして言い返した形のもので、和え歌の型に従ったものである。御製の「ふらまくは後」を中心として、「おかみに言ひてふらしめし」といって、こちらにはすでにそちらよりも先に降っているといい、さらに進めて、御製の「大雪ふれり」に対して、「摧けしそこに散りけむ」と、あくまでも言い返したものである。「おかみに言ひてふらしめし」は、当時としては思いやすいものであったろうと思われる。したがって語としては突飛ではあるが、御製の、清御原と大原とに地理的差別を立てたような諧謔味はないものである。御製は余裕があり、綜合的であって、御情愛の漂うものがあるが、和え歌は、いうところは諧謔であるが、分解的で、迫った趣をもったものである。しかし矜恃と才気の認められるものといえる。
 
  藤原宮|御宇《あめのしたしらしめしし》高天原広野姫天皇代 【天皇諱を持統天皇と曰す、元年丁亥の十一年位を軽太子に譲り、尊号を太上天皇と曰す】
 
(178)【標目】 高天原広野姫天皇は持統天皇である。この標目は諸本に異同がある。
 
     大津皇子《おほつのみこ》、竊《ひそ》かに伊勢《いせ》の神宮《かむみや》に下《くだ》りて上《のぼ》り来《き》ましし時の大伯皇女《おほくのひめみこ》の御作歌《みうた》二首
 
【題意】 大津皇子は天武天皇の第三皇子である。天智天皇の皇女|大田皇女《おおたのひめみこ》と※[盧+鳥]野讃艮《うのさらら》皇女とは、ともに天武天皇の後宮に入り、讃良皇女は皇后となり、後に即位して持統天皇となられた。大田皇女は、大伯《おおく》皇女と大津皇子を生んで早世されたのである。大津皇子は天武紀十二年の条に「二月己未朔、大津皇子始聴2朝政1」とある。朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩じられると、大津皇子は、御姉大伯皇女の斎宮として赴いていられる伊勢の神宮に下ったが、帰り来られての十月二日、謀反の罪に問われて死を賜わった。持統前紀に「庚午(三日)賜2死皇子於|訳語田舎《ヲサダノイヘニ》1。時年廿四。妃皇女山辺被v髪徒跣、奔赴殉焉。見者皆歔欷。皇子大津天渟中原瀛真人天皇第三子也。容止墻岸、音辞俊朗。為2天命開別(天智)天皇1所v愛。及v長弁有2才学1、尤愛2文筆1。詩賦之興自2大津1始也」とある。また、懐風藻には「……及v壮愛v武、多力而能撃v剣。性頗放蕩、不v拘2法度1。陸v節礼v士。由v是人多付託。時有2新羅僧行心1。解2天文卜筮1。詔2皇子1曰、太子骨法、不2是人臣之相1、以v此久在2下位1、恐不v全v身。因進2逆謀1。迷2此※[言+圭]誤1。嗚呼惜哉云々」とある。
 大伯皇女の事は、斉明記七年正月の条(左注参照)に、「甲辰。御船到2于|大伯《オホクノ》海1。時大田姫皇女産v女焉。仍名2是女1曰2大伯皇女1」とある。大伯は岡山県|邑久《おく》郡の地で、吉井川河口の東のあたりかといわれている。天武二年伊勢の斎宮と定められ、翌三年十月伊勢へ下られた。時に年十四であった。弟大津皇子に訪問された時は二十六である。「竊かに」は、皇子としては微行だったのである。時は秋で、事の発覚の直前である。
 
105 吾《わ》が背子《せこ》を 大和《やまと》へ遣《や》ると さ夜《よ》ふけて 暁露《あかときつゆ》に 吾《わ》が立《た》ち濡《ぬ》れし
    吾勢※[示+古]乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
 
【語釈】 ○吾が背子を 「背」は、女から男の兄弟を呼ぶ称で、長幼にかかわらない称である。これは男より女の兄弟を妹と称するに対した語である。「子」は、親しんで添える語。「吾が」も同様である。今は皇女の弟皇子をきわめて親しまれての称である。○大和へ遣ると 「大和」は京。「遣る」は、京へ還られるのを、このようにいったもので、御姉として、幼い弟を扱うがごとき語をもっていわれているのである。「と」は、とて。○さ夜ふけて 「さ」は、接頭語。夜が更けてで、ただ時間の経過をいってあるだけであるが、上よりの続きで、弟皇子との別れを惜しんでのためであることは明らかである。○暁露に 「暁」は原文「鶏鳴《あかとき》」で、明時すなわち夜の明るくなりかかる時でまだ暗い午前四時の時刻。「暁露」は、熟語で、明時の露の意である。明時は露の最も繁く結ぶ時である。この熟語は集中に用例のあるものである。○吾が立ち濡れし 「し」は助(179)動詞「き」の連体形。『講義』は、主格に「が」を添え、連体形で結ぶのは、古格の一格だと注意している。われは立って濡れたで、下に詠歎を含んでいる。上の句より続いて、弟皇子を戸外に立って見送っていたことをいったものであるが、そのいかに久しく立っていられたかを思わせるものである。
【釈】 なつかしい弟を大和国へ立たせてやるとて、夜が更けて、明け方の露に私は立っていて濡れたことであるよ。
【評】 秋の夜深く、微行の形で大和へ帰る弟皇子を見送って、久しくも戸外に立っていられた姉皇女の、闇に見えない弟皇子から心を離して、我にかえられた時の心で、我にかえるとともに、その夜の全体を大観されて、哀愁をもって詠まれた御歌である。いったがように、単に「さ夜ふけて」といい、「吾が立ち濡れし」といって、一|夜《や》の輪郭をいっているだけで、内部へは全く触れていない。それにもかかわらず、その一夜の皇女の哀愁が、余情の形をとって直接に感じられてくる御歌である。これは一に調べの力である。一首の調べが皇女の哀愁をあみ出させているといえる。その哀愁は、これにつぐ御歌でほぼ察しられるが、兄弟の間の単純なる情愛のもつおのずからなる哀愁で、それ以外のものとは思われない。
 
106 二人《ふたり》行《ゆ》けど 行《ゆ》き過《す》ぎ難《がた》き 秋山《あきやま》を いかにか君《きみ》が 独《ひと》り越《こ》ゆらむ
    二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
 
【語釈】 ○二人行けど 「二人」は、この場合、皇女と皇子。「行けど」は、行ったけれどもで、行ったのは下の「秋山」である。皇子の滞在中、兄弟で、近いあたりの秋の山を遊覧されたことのあつたのを思い出してのもの。○行き過ぎ難き秋山を 「行き過ぎ難き」は、進んで行き難いで、下の「秋山」の状態をいったもの。その状態は下で知られるが、秋山のもつ寂しさに堪えられなかったのである。その「秋山」の位置は、斎宮に近く、京へ行くには越えなければならない所にあることが、下で知られる。○いかにか君が独り越ゆらむ 「いかに」は、どんなに寂しい気持がしてで、「行き過ぎ難き」に照応させてあるもの。「か」は、疑問。「君が」の「が」は皇子の気分の方を主としていったもの。「独り越ゆらむ」は、一人で越えるだろうかで、「独り」は初句の「二人」に照応させてある。
【釈】 二人で遊覧に行ったけれども、それでも行きかねたあの秋山を、どんなにして君は一人で越えていることであろうか。
【評】 弟皇子の見送りを終った姉皇女が、一たびその一夜の自分の状態を顧みられると、今度は転じて、弟皇子の旅を思われての心である。弟皇子の旅を思うと、第一に浮かんでくるのは、斎宮に遠くないあたりの秋山であるが、その浮かんで来たのは、近く御一緒に行かれたことのあるためと思われる。「二人」は、「君が独り」に対させてある関係上、「二人」は御兄弟を意味させたものと取れる。その記憶にある山を中心に、二人でいらした時の気分と、想像に浮かんでくる独りでお越しになっている(180)気分とを対照したのが、一首の心である。皇女の御歌は、ここ以外にもあるが、すべて実際に即した詠み口であって、気分に乗って想像を詠まれたものはないところから、ここもそれであろうと思われる。二句の「行き過ぎ難き」の「き」音の重なり、四句の「いかにか君が」の「か」音の重なりは、自然のことではあるが、皇女の御気分の細かい刻みをあらわし得ているものと思われる。
 
     大津皇子、石川郎女に贈れる御歌一首
 
【題意】 「石川郎女」は(九六)に出た、久米禅師と結婚した女性とは別人であろうとされている。この郎女は既婚の人とはみえないからである。石川は氏。郎女は女子を尊んでの称であり、適用の範囲の広い称で、一人とは定め難いからである。この名の人の歌が集中に短歌八首あり、この郎女は日並皇子の侍女である。
 
407 あしひきの 山《やま》のしづくに 妹《いも》待《ま》つと 吾《われ》立《た》ち濡れぬ 山《やま》のしづくに
    足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二
 
【語釈】 ○あしひきの山のしづくに 「あしひきの」の意味は諸説があるが不明である。山にかかる枕詞。「山のしづくに」は、山の木や草に宿る雫のために。○妹待つと吾立ち濡れぬ 「妹待つと」は、「妹」は郎女。「待つ」は、かねて約束がしてあって、その来るのを待つ意。古くは男女ひそかに逢うに、人目に遠い野や山においてするのは、特別のことではなかった。ここもそれである。「吾立ち濡れぬ」は、われは沾れたの意で、「立ち」は、事実ではあるが、感を強めるために添える意のあるもので、当時慣用された語。○山のしづくに 感を強めるために、第二句を繰り返したもの。型となっている法である。
【釈】 山の雫に、そなたの来るのを待つとて、われは立ち濡れた、山の雫に。
【評】 山の中で密会しようと約束をしたので、行って待っていたが、ついに来なかった嘆きをいってやられたものである。山は近い辺りのもので、時は草木《くさき》の雫の多い、夏から秋へかけてのこととわかる。嘆きをいうに、直接には何もいわれず、「山のしづくに立ち濡れぬ」とのみいい、しかしその侘びしさをあらわすために、「山のしづくに」を結句で綴り返しにしているのは、男としてこうした範囲の歌には、怨みはもとより嘆きもいうまいとするのが本意だが、さすがに侘びしさだけはいおうとされたものと取れる。その侘びしさをあらわす山の雫も、「山の雫」という組合わせの際やかな語をもってして、その繁さをあらわすとともに、美しさもあらわしている点が注意される。一首、地歩を占めておおらかに、余裕をもちつつ、しかも心を(181)尽くしていて、その調べの清いところなど、高貴の風貌と、文才のほどを思わせる御歌である。
 
     石川郎女、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
 
108 吾《あ》を待《ま》つと 君《きみ》が濡《ぬ》れけむ あしひきの 山《やま》のしづくに ならましものを
    吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
 
【語釈】 ○吾を待つと君が濡れけむ 「吾《あ》」は、「あ」「わ」のいずれも仮名書きのあるものである。「吾《あ》」は最も古い形である。吾を待つとて君が濡れたであろうところの。○ならましものを 「なる」は、変化する意。「まし」は仮設の意をあらわす助動詞。わが身を変えようものをの意。古くは、その人の身に添い、あるいは身に着いている物は、やがてその人の一部だという心持が濃厚であった。その意味で、君を濡らしたという雫になりたいということは、君の物になりたいという意をあらわしたものである。
【釈】 吾を待つとて君が濡れられたという、その山の雫に、なれるものであったらなったろうに。
【評】 違約をしたいいわけはせず、侘びしかったといわれた山の雫を捉え、その雫にわが身を変えて、君に添い、君の物となりたかったというので、機才のあるとともに、媚態の濃厚なものである。これにつぐ歌で見ると、郎女はこの当時、日並皇子の侍女となっていたことが知られる。この和え歌に弁明のないのは、その理由はおのずから明らかだったからと思われる。皇子への和え歌として恥じない歌才のある作である。気品、重厚味のないのは、人柄の差である。
 
     大津皇子、竊かに石川女郎に婚《あ》ひし時、津守連通《つもりのむらじとほる》其事を占《うら》へ露《あら》はししかば皇子の作りませる御歌一首 未だ詳かならず
 
【題意】 「石川女郎」は、前の歌に出ている女である。この女は、次の歌によると、皇太子日並崇子に召されていたのであった。大津皇子がこの女に婚《あ》うのは許されないことだったのである。「津守違通」は、新撰姓氏録に天香山命の後とある。和銅七年には従五位下美作守となった人で、この当時甚だ重んじられていた陰陽道の達人で、その道において朝廷より賞賜のあった人である。「占へ露はす」というは、不明な事を神意を伺って明らかにすることで、上代より信じられていたことである。
 
(182)109 大船《おほふね》の 津守《つもり》が占《うら》に 告《の》らむとは まさしに知《し》りて 我《わ》が二人《ふたり》寐《ね》し
    大船之 津守之占尓 將告登波 益爲尓知而 我二人宿之
 
【語釈】 ○大船の津守が占に 「大船の」は、大きな船で、その出入りする津の意で津にかけた枕詞。「津守」は、津守通。「占」は、卜占。○告らむとは 占によってあらわれようとは。○まさしに知りて我が二人寐し 「まさし」は、形容詞「正《まさ》しく」の語幹で、それに「に」を続けて副詞としたもの。「我が二人寐し」は、我は二人で共寐をしたことであるよの意。「が」と「し」の係結びは(一〇五)に出た。
【釈】 津守が占いによっていいあらわれようということは、正《まさ》しくも知っていて、我は二人共寐をしたことよ。
【評】 題詞にある、憚りあることが占え露わされた直後の御歌である。一首、心としては単純であるが、声調をとおして複雑な気分を感じさせる歌である。心としては、事が露われて、不首尾をきたすことは十分承知していながらも、やむにやまれぬあわれさより起こった事だということに取れる。当時男女間は、上代の風として寛やかであった。また、女は皇太子のものとはいえ、単なる召人《めしびと》であって、何らの位地も与えられていたものとは思われない。大津皇子の位地からいえば、憚るべきことには相違ないが、それも限度のあることであったと思える。「大船の津守が占」と力強くいわれているのは、当時陰陽道の盛行していたその影響よりのことで、一首の心よりいえば、さして重いものとは思われないから、これは除外のできるものである。心がそれであり、それが一首の全部であるとすると、皇子に同情し得られるものがあるといえるが、しかしこの御歌の声調には、鋭く強いものがあり、それが熱意の迸りというよりは、むしろ反対に、ある冷たさを感じさせるものである。「まさしに知りて我が二人寐し」という声調は、しっかりと地歩を占めた上で、強く言い放った趣を感じさせるのである。これはあわれの範囲のものではなく、それを超えてのものと思われる。ここにある複雑さを感じさせられるのである。これはやがて皇子の伝記につながりをもつものに思える。いつの時のことかは明らかにわからないが、二十四歳にして罪を得られた皇子の高邁さを感じさせられる御歌である。すなわち朝廷がこのようなことを問題にしたことに対する反抗気分の現われとも取れる。
 
     日並皇子尊《ひなみしのみこのみこと》、石川女郎に贈り賜へる御歌一首 【女郎、字を大名児といふ】
 
【題意】 「日並皇子」のことは、巻一(四五)に出た。持統天皇の皇太子草壁皇子で、日並皇子尊は、摂政の皇子としての尊称で、やがて御名のごとくなったものである。「贈り賜へる」の「贈り」という文字は、目録にはなく、またない本も少なくない。「石川女郎」は前の歌に出ている人とみえる。そちらに郎女とあったのを、ここでは女郎と書いている。用例によると、郎女は敬称(183)であるが、女郎は女性をあらわすにすぎない称と取れる。ここの場合は、資料に従ってのものだろうと『全註釈』は解している。注の「字」は、本名のほかに、世に称する名である。女の名に「児」の添うのは、前に「安見児」があり、後にも「桜児」「鬘児」などがある。
 
110 大名児《おほなこ》 彼方野辺《をちかたのべ》に 苅《か》る草《かや》の 束《つか》の間《あひだ》も 吾《われ》忘《わす》れめや
    大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八
 
【語釈】 ○大名児 原文にしたがって四音に訓む。従来「大名児を」と「を」を訓み添えたのを、『新訓』が四音にし、『注釈』が考証を加えている。直接に呼びかけたもので、字《あざな》をもってしたのである。「よ」の意がある。○彼方野辺に苅る草の 「彼方」は、こちらに対してのあちらである。遠近の遠ではない。あちらの野辺にある。「草」は「かや」で薄、萱などの総称。苅つて束《つか》ねる意で、「束」にかかる序詞。○束の間も 「束」は、古く尺度の単位をあらわす語で、一|握《つか》み、すなわち四本の指の並んだ長さである。八握髯《やつかひげ》、十握剣《とつかのつるき》などその例である。これは短いものであるところから、その意で時の方にも用いた。「束の間も」は、しばらくの間も。○吾忘れめや 吾は忘れようか、忘れはしないの意。「や」は反語。
【釈】 大名児よ、あちらの野辺に苅る草の、苅れば束ねることをする、その一束の短い間も我は忘れようか、忘れはしない。
【評】 高貴の方が、身分の低い者に対して、情愛を示されたものという感の深い御歌である。心としてはその児に呼びかけて、深い情愛を直截にいわれているものであるが、一首の調べがおおらかに、和やかなものであるために、その直截さが溶かされて、ただ温かなものとなっている。「彼方野辺に苅る草の」という、素撲な感を起こさせる序詞が、一首の感味の上に大きな働きをしている。
【評 又】 (一〇七)からこの歌に至るまでの四首は、いずれも石川女郎の重く関係している歌のみである。この(一一〇)によって見ると、女郎は当時日並皇子尊の召人《めしびと》となり、命の愛をこうむっていたのであるが、その間にあって女郎は、他の三首によると、大津皇子と密会しようとし、ついにひそかに相逢うという関係となり、それが問題となって、津守通の占いを俟つまでに至ったのである。この占いのことは、日並皇子尊によってなされたことと思われる。これは一人の女郎を中にして最も尊貴なる二皇子の愛の争いをなされたということで、この四首を、単に歌という上から見ると、まさしく歌物語である。歌数は四首にすぎないのであるが、その歌はすべて実際に即したものであり、また歌そのものはいずれも優れたものなので、これを連ねて読むと複雑した味わいをもった歌物語となってくる。この四首を一括して撰者のここに収めたのは、年次としても、事としても、そうするのが自然であったためとも取れるが、上の久米禅師の場合と同じく、石川女郎に関する歌物語的興味も伴ってのことではないかとも思われる。なおこの意味のものは(一二六)より(二一八)にわたってのものにもある。
 
(184)     吉野宮に幸《いでま》しし時、弓削《ゆげの》皇子の額田《ぬかたの》王に贈与《おくり》たまへる歌一首
 
【題意】 持統天皇の吉野宮への行幸の事は巻一に出た。前後三十回以上に及んでいるので、いつのことともわからない。歌にほととぎすが出ていることから推して、四年五月か、五年四月かであろうといわれている。「弓削皇子」は、天武紀に、「次妃大江皇女生3長皇子与2弓削皇子1」とあり、天皇の第六皇子である。持統天皇七年に、位、浄広弐を授けられ、続日本紀に文武天皇三年七月薨去の事が出ている。額田王は、京にいられたのである。
 
111 古《いにしへ》に 恋《こ》ふる鳥《とり》かも 弓絃葉《ゆづるは》の み井《ゐ》の上《うへ》より 鳴《な》き渡《わた》りゆく
    古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上從 鳴濟遊久
 
【語釈】 ○古に恋ふる鳥かも 「古に」の「に」につき、『講義』は、「に対して」の意で、「恋ふる」の対象としている。なお「を」との区別は、「に」は静的な目標をさし、「を」は動的の目標をさす語だと注意している。「かも」は、詠歎の助詞。古を恋う鳥なのかの意。この烏は次の和《こた》え歌によって、ほととぎすということが明らかである。ほととぎすは古を恋う鳥だということは中国の伝説で、蜀王が死んでその魂からなった鳥といわれ、古を恋って鳴くといい、蜀魂という文字をあててもいる。こうした伝説が、当時の有識階級には行なわれて興味をもたれていたのである。○弓絃葉のみ井の上より 「弓絃葉のみ井」は、井の名。「弓絃葉」は、今は交譲木《ゆずりは》と呼び、新年の供え物に用いている植物である。「み井」の「み」は、美称で、「井」は山中のこととて、自然に湧き出す清水を湛えたものと思われる。古くは、井のほとりにはしかるべき植物を立たせて、井の水を保護させるのを常とした。その関係から、その植物をその井の目標とし、井の名ともした。桜井、藤井、櫟井《いちいい》などそれである。弓絃葉のみ井も同じく井の名である。み井というのは、この井は吉野宮の御用の物だったからであろう。したがって宮の付近にあった物と思われる。今は所在がわからない。「上」は、ほとり。「より」は、経過する地点の意をあらわす助詞で、を通って。○鳴き渡りゆく 「渡り」は、行動の、一つの地点から他の地点に及ぶのをあらわす語。「ゆく」は連体形。
【釈】 古に対して恋うる鳥なのであろうか。吉野宮の弓絃葉のみ井のほとりをとおって、鳴き渡って行くことよ。
【評】 弓削皇子が、行幸の供奉として吉野宮におられ、所柄として父帝の事を思わせられていた際、ほととぎすの、宮に近いほとりを、鳴きながら飛びゆくのを御覧になっての心である。ほととぎすは古を恋って鳴く鳥だということは、中国の伝説の伝わつてのものであるが、道教の信仰の深かった当時とて、その神秘的な点が、有識階級に興味をもたれていたものとみえる。皇子は眼前にほととぎすの飛びつつ鳴くのを御覧になると、自身の感情をその鳥に結びつけて、我と同じ心をもっているのかと見られたのである。しかしその心情には限度をつけられて、「古に恋ふる鳥かも」と、疑いを残した態度で言い出され、つい(185)で、それと感じられるほととぎすの状態を描き出されているのである。弓絃葉のみ井は、宮に関係深いものであり、父帝の御代からの物であるので、そこにほととぎすの思慕の心を認め、また鳴き渡りゆく状態に、その心深さを認めたのである。一首の心は感傷であり、抒情であるのに、それに適当な客観性をもたせ、余裕のある態度を持していられるために、おのずからに余情をもったものとなっている点は、まさしく文芸性の歌である。京にある額田王に贈られたものであるが、歌はそのために詠まれたものというより、むしろ皇子自身のためのもので、できての上で、王に示そうとの心から贈られたもののように見える。それは王が同感されようと思ってのことであろう。
 
     額田王、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首 倭の京より進入《たてま》つれる
 
112 古《いにしへ》に 恋《こ》ふらむ鳥《とり》は ほととぎす けだしや鳴《な》きし 吾《わ》が念《も》へるごと
    古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰
 
【語釈】 ○古に恋ふらむ鳥は 「らむ」は、現在の推量をあらわす助動詞。「は」は、取り立てていう意の助詞。古に対して恋うであろうと推量する鳥はで、皇子の「古に恋ふる鳥かも」に対して、一歩を進めていったもの。○ほととぎす 下に詠歎がある。○けだしや鳴きし 「けだし」は、疑って推測する意の副詞。もしというに近い。「や」は、疑問で、係となっている。「鳴きし」の「し」は、「や」の結び。もしくは鳴いたのであろうか。○吾が念へるごと 「念へる」は、古に対して。「ごと」は、如で、「如し」の語幹。吾が古を思っているがように思って。
【釈】 古に対して恋うるのであろうと御推量なさる鳥は、ほととぎすであるよ。たぶん鳴いたのであろうか、私が古を思っているがように思って。
【評】 皇子の贈歌に和《こた》えたもので、贈歌の心を十分に察し、また、皇子の贈られた心をも察して、それをうべない喜ぶ心をあらわした歌である。贈歌の「古に恋ふる鳥かも」と、疑いを残していっていられるのに対して、それはほかではなくほととぎすであろうといい、皇子がそうした鳥を見も聞きもして、古を恋うる心を刺激されながら、それとはいわれずにいるのを、王はただちにわが事として、我が古を思うがように思って、同じように鳴いたのであろうと、あからさまな、強いものに進めたのである。皇子の歌は文芸性をもった新風のものであるが、王の和え歌は、実用性の古風なものである。和え歌に伴う語のおもしろさをもたせようとしていないのは、事が事であるためもあるが、一つには、皇子のやさしさに対しての感謝の念が伴っているからだろうと取れる。
 
(186)     吉野より蘿《こけ》生《む》せる松が柯《え》を折り取りて遣しし時、額田王の奉入《たてまつ》れる歌一首
 
【題意】 「蘿」は、松蘿とも女蘿ともあて、「松のこけ」とも「さるおがせ」ともいった。今も「さるおがせ」といい、あるいは「さがりごけ」ともいっている。深山の松杉などの樹枝にかかって長く垂れている植物である。歌は、さるおがせの生えた松の枝を贈られた額田王の、それに対しての喜びを詠んだものである。贈ったのは、弓削皇子と思われる。その松の枝は、歌で見ると、御言《みこと》をもっての使と見て愛《め》でているものである。
 
113 み吉野《よしの》の 玉松《たままつ》が枝《え》は はしきかも 君《きみ》が御言《みこと》を 持《も》ちて通《かよ》はく
    三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 者之御言乎 持而加欲波久
 
【語釈】 ○み吉野の玉松が枝は 「み吉野」の「み」は、美称。「玉松」の「玉」も、同じく美称。その物を愛《め》でる意から、珍重した玉を添える例は、植物の上でも、「玉葛」「玉藻」がある。これもそれである。蘿《こけ》の生《む》しているという特別の松であるから、ふさわしい愛《め》で方である。「松が枝」という言い方は、仮名書きがある。○はしきかも 「はし」は、愛《は》しをあてる語で、愛する意をいう古語で、形容詞。「かも」は、詠歎の助詞。可愛いことかなで、松の枝が消息をもって、使の役をしている意で、使その者に擬して愛した意の語。○君が御言を 「御言」は皇子の歌。○持ちて通はく 「通はく」は、「通ふ」に「く」を添えて名詞形としたもので、通うことよの意。通うは往来する意で使のていである。これは松が枝を使と見ることによって言いうる語である。
【釈】 み吉野の玉松が枝は、可愛ゆくもあることかな。君が御言《みこと》をもって、使として通うことよ。
【評】 消息を木の枝に付けるのは当時の風で、特別なことではなかったと思われる。しかしこの場合は、その木の枝は単なる儀式のものではなく、蘿《こけ》の生《む》している松が枝という特別な物で、それは王の心を喜ばせようという皇子のやさしい心からのものだったのである。王としては、皇子の心を喜んだ意をあらわさなくてはならない場合である。この歌はその心のものである。歌は松が枝その物に多く興じたことはいわず、そちらは「玉松」という一語にとどめ、中心は、そういうことをされた皇子の方に置き、この松が枝は、皇子の消息の使をする可愛ゆいものだという言い方をしたのである。すなわち松が枝のおもしろさと、皇子の消息をされた有難さを一つにして、松が枝を愛すべき使といったのである。巧みにして品位ある挨拶というべきである。額田王としては、年代的に見て、これが最後の歌だろうと注意されている。若い頃の艶《つや》やかさの豊かに流れ出ずるような趣はないが、頭脳の明らかに、余裕をもった、冴えた物言いをされる趣は、十分に感じられる。
 
(187)     但馬皇女《たぢまのひめみこ》、高市皇子《たけちのみこ》の宮に在《いま》しし時、穂積皇子《ほづみのみこ》を思ふ御歌一首
 
【題意】 「但馬皇女」は、天武天皇の皇女で、御母は、藤原鎌足の女氷上|娘《いらつめ》である。天武紀のこの記事は、(一〇三)に引いてある。続日本紀に、「和銅元年六月丙戌三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也」とある。「高市皇子」は、天武天皇の皇子で、御母は、胸形君徳善の女尼子娘である。この事は日本書紀、天武紀二年に見える。すなわち皇子と皇女は異母兄妹である。日本書紀、持統紀四年に、この皇子が太政大臣になった記があり、同じく十年七月に薨去の記がある。その際の記事に、「後皇子命」と記してある。また、懐風藻の吉野王の伝の中に、「高市皇子薨後、皇太后引2王公卿士於禁中1謀立2日嗣1」とあるところなどから察すると、皇太子草壁皇子の薨後皇太子となられたこととみえる。しかし立太子の事は史上に見えない。但馬皇女がこの皇子の宮にあられたのは、妃であったとみえる。「穂積皇子」は天武天皇の第五皇子で、御母は蘇我|赤兄《あかえ》の女|大〓娘《おおぬのいらつめ》である。続日本紀、霊亀元年正月一品に叙せられ、同七月薨ぜられた。当時は異母兄妹の結婚は普通のことであった。
 
114 秋《あき》の田《た》の 穂向《ほむき》のよれる かたよりに 君《きみ》によりなな こちたかりとも
    秋田之 穗向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母
 
【語釈】 ○秋の田の穂向のよれる 「秋の田」は、秋の、稲の熟した田の意。「穂向」は、穂の傾いた向きで、穂は熟して重くなると、自然に傾くし、折からの風で、同じ方角に向かうものである。「よれる」は、傾いている状態。秋の田の熟した稲穂の傾いているのを譬喩として、下の「かたより」にかかる序詞。○かたよりに 旧訓。「異」を「かた」と訓むのは義訓であるが、拠は明らかでない。巻十(二二四七)「秋の田の穂向きの依れる片よりに吾は物念ふつれなきものを」があり、皇女のこの歌より出たものと思われるので、これが訓の拠とされている。『注釈』は原文「異所」を「かた」と訓み、考証している。「かたより」は体言。風などのために、すべて同じ方向に傾いて、そのまま立ちなおらずにいる状態をいう。「に」は、状態の形容で、のごとくにあたる。○君によりなな 「君」は、穂積皇子。「より」は、靡《なび》き従う意。「なな」は、上の「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形で、この場合は強意のためのもの。下の「な」は、みずから冀《ねが》う意をあらわす語。君に必ず靡き従おうと思うの意。○こちたかりとも 「こちたし」は、言甚《こといた》しを約《つづ》めた語で、人の物言いのうるさい意。たとい、うるさく言い騒がれようともの意。
【釈】 秋の熟した稲田の、穂の傾いた向きのように、ただ一かたに君に靡き寄りたいものだ。たとい煩《うるさ》く言い騒がれようとも。
【評】 高市皇子の妃となるべき但馬皇女の、穂積皇子に情を寄せられ、ある程度まで心を通わし合っていられた頃の述懐の歌と取れる。結句の「こちたかりとも」は、事としてはまだ現われない前に、その事を予想されたもので、その予想は、そうした事があろうとも、それを乗り越えようという心を固められるためのものだからである。初二句の序詞は、序詞ではあるが譬(188)喩の意をもったもので、眼前の実景と思われる。目に捉えた「縁る」という語を「かたより」で繰り返し、さらに心中の冀いである「よりなな」によって強めているところ、譬喩というよりも、むしろ抒情そのものという感をもったものである。一首熱意の表現で、形が素樸なため、事の不合理を、沈痛味のあるものにしている、すぐれた御歌である。
 
     穂積皇子に勅して近江の志賀《しが》の山寺《やまでら》に遣しし時、但馬皇女の御作歌《みうた》一首
 
【題意】 「志賀の山寺」は、天智天皇の建立にかかる寺で、志我山《しがやま》の上にあるところから志賀寺と呼んだ。本名は崇福《すうふく》寺といい、古は名高い大寺であった。中世の歌に、志賀山越とあるは、京都方面から叡山を越えてこの寺に詣でることで、一つの行事となっていたからの称である。後、園城寺に遷されてしまった。遺址と伝えられるものが大津市(南滋賀町西方)にある。穂積皇子をこの寺に遣わされたことは、史には見えない。したがっていかなる御用であったかもわからない。
 
115 おくれゐて 恋《こ》ひつつあらずは 追《お》ひ及《し》かむ 道《みち》の隈回《くまみ》に 標《しめ》結《ゆ》へ吾《わ》が背《せ》
    遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
 
【語釈】 ○おくれゐて恋ひつつあらずは 「おくれ」は、親しい人の旅などに行って、後に残っている意をいう古語。「恋ひつつあらずは」は、恋いつづけていずに。(八六)にも出た。○追ひ及かむ 「及く」は及ぶで、「追ひ及く」は、今の追いつくにあたる。○道の隈回に 「隈回」は、一語で、「隈」は、道の曲がり角、「回」は、辺りの意で、曲がり角。道の迷いやすい所としていっている。○標結へ吾が背 「標」は、本来は、人の所有を示すしるしで、場所、物などに対して、立ち入り、触れることを禁ずるために結ぶしめ繩などの称。いわゆる禁忌のしるしである。転じて、目じるしの意にも用いた。ここはそれである。「結へ」は、「標結ふ」と慣用しているところからの語で、今は、しるしをする意である。後世の栞をするにあたる。「結へ」は、命令形である。「吾が背」は、「背」は女より男を呼ぶ称。「吾が」も、親しんで添えた語。呼びかけである。
【釈】 後に残っていて、恋いつづけていずに、後を追って追いつこう。道の曲がり角の迷いやすい所に、迷わぬための目じるしをしたまえよ、わが背よ。
【評】 皇子に贈った歌である。思慕の情の極まった、突き詰めた熱意をあらわしたものであるが、それとともに他面には落着いた心細かいものをもっている歌である。皇女の人柄の現われと思える。全体としてはおおらかなので、おのずから一首に沈痛な響がある。この歌は三句切、名詞止の形になっている。この三句切は、昂奮した感情の自然に取った形である。
 
(189)     但馬皇女、高市皇子の宮に在《いま》しし時、竊《ひそ》かに穂積皇子に接《あ》ひて、事既に形《あらは》れて作りませる御歌一首
 
116 人言《ひとごと》を 繁《しげ》みこちたみ 己《おの》が世《よ》に いまだ渡《わた》らぬ 朝川《あさかは》渡《わた》る
    人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
 
【語釈】 ○人言を 「人言」は、他人の我に対しての物言いであるが、事の性質上、人は宮に仕えていた人々であろう。○繁みこちたみ 「繁み」は、形容詞「繁し」の語幹「繁」に「み」を添えて、動詞のごとくしたもの。繁くして。「こちたみ」も、同様で、こちたくすなわちうるさくして。ほぼ同じ事を繰り返して、その強さをあらわしたもの。繁く、うるさくして。○己が世に 原文、流布本には「己」と「世」との間に「母」があるが、元暦本を初め、類聚古集、西本願寺本などにはない。何らかの誤りで加わったものと見える。「己が世」は、わが生涯で、生まれて以来というにあたる。○いまだ渡らぬ朝川渡る 「朝川」は、夕川に対した語で、朝の川の意。熟語として用いられていた。「渡る」は、徒渉する意。かつてしたことのない朝の川を徒渉するの意。古くは、橋の設備が十分ではなく、したがって徒渉ということは特別なことではなかったが、しかししかるべき道には無論橋があったのである。ここは、それほどではない道で、川にも橋はなかったとみえる。すなわち皇女の御身分としては、平生は通るべくもない路であったと見える。題詞との関係上、高市皇子の宮から、夜明けに脱出されてのことと思われる。
【釈】 人の我に対する物言いを、繁くうるさく思うによって、わが生まれて以来、まだ一度もしたことのない朝の川の徒渉をする。
【評】 この歌につき『考』は、「事あらはれしにつけて朝明に道行給ふよし有て皇女の慣れぬわびしき事にあひたまふをのたまふか」といっている。題詞を合わせてみると、そうした際の歌とみえる。感を発しられたのは、朝川を徒渉される際で、かつて経験のないそうしたわびしい事をなされると、それに刺激されて身世を大観させられ、「己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る」と、大きく、思い入っていわれたのである。しかしそれをなさる理由は、「人言を繁みこちたみ」ということで、全く身外の、周囲の者によってしいられて、余儀なくもさせられることになっている。これは、こうした状態における女性の当然の心理ともいえるが、皇女としては、これを当然ならしめるものがあったかもしれぬ。三句以下、「渡る」を繰り返した、沈痛な響をもった表現は、おのずからそういうことを思わせるものがある。
【評 又】 以上三首の歌は、一つの事件の中にあって、時の推移に従ってその時々の心を詠まれたもので、他意あるものではない。歌が実際生活に即したものであることも当時の風で、これまた他意のないことである。しかし結果からみると、おのずからにして歌物語の趣をもつものとなってきて、意図をもって(190)の連作と同様なものとなっている。これは本集に少なくない連作、歌物語の発生と密接な関係をもつこととして注意される。
 
     舎人皇子《とねりのみこ》の御歌一首
 
【題意】 「舎人皇子」は、天武天皇の第三皇子で、御母は新田部皇女である。日本書紀の撰者である。養老四年知太政官事となられ、天平七年に薨ぜられた。御子の大炊王はすなわち淳仁天皇である。「御歌」は、他の例によると「御作歌」とあるべきである。この歌は、和え歌によると舎人娘子に賜わったものである。皇子の御名は、乳母が舎人氏であったところから称せられたものではないかという。これは他の例によっての推測である。
 
117 大夫《ますらを》や 片恋《かたこひ》せむと 嘆《なげ》けども 醜《しこ》のますらを なほ恋ひにけり
    大夫哉 片戀將爲跡 嘆友 鬼乃益卜雄 尚戀二家里
 
【語釈】 ○大夫や片恋せむと 「大夫」は猛く強き男。ここは、みずからそれをもって任じ、誇つての称。「や」は疑問の係助詞で、反語を起こしているもの。「片恋」は、思う相手に知られず、独りで恋している意。「せむ」は、上の「や」の結びで、大夫たる者が、片恋などすべきであろうか、ないの意。○嘆けども 嘆きをするけれども。○醜のますらを 「醜」は、集中に用例の多い語で「にくむべき」の意で、他に対しては物を罵り、自らに対しては、あるいは自ら卑下し、あるいは自ら嘲っていう語である。ここは自ら嘲る意で、其のますらおではなく、悪むべきますらおの意。○なほ恋ひにけり 「なほ」は、やはり。「恋ひにけり」は、恋ったことであるよの意。
【釈】 大丈夫たる者が、片恋などをすべきであろうか、すべきではないと思って嘆いたけれども、この悪《にく》むべきますらおは、やはり片恋をしたことであるよ。
【評】 歌は恋の訴えである。しかしそれとしてはきわめて余裕をもったものである。男子が丈夫をもって自任し、また丈夫たる者は女々《めめ》しき振舞いをしないものとし、それをするのを恥としたのは、当時の通念で、例の少なくないものである。この歌は、一にその通念の上に立って、それだけをいわれたものである。すなわち我は丈夫で、女々しき心をもつまいと思っているが、それをもたされてしまったと、ただそれだけをいわれたのみで、相手に対しては、直接の訴えは一語もまじえていないものである。これは相手に対して、高く地歩を占め、また親しみをもっていての上の訴えだからである。しかし訴えの気持は、おのずからに滲み出している。実際に即しての歌で、実用性の濃厚なものである。堂々とした、気品ある歌である。
 
(191)     舎人娘子《とねりのをとめ》、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
 
【題意】 「舎人娘子」は、巻一(六一)に出た。
 
118 嘆《なげ》きつつ 大夫《ますらをのこ》の 恋《こ》ふれこそ 吾《わ》が結《ゆ》ふ髪《かみ》の 漬《ひ》ぢてぬれけれ
    嘆管 大夫之 戀礼許曾 吾髪結乃 漬而奴礼計礼
 
【語釈】 ○歎きつつ 「つつ」は、継続の意。贈歌の語を受けたもので、そちらは恋の上ではなく、片恋をすることの嘆きであるのに、これはすなおに、恋の嘆きとしたもの。○大夫の恋ふれこそ 「ますらをのこ」は、ますらおを鄭重にいったもの。巻九(一八〇一)に「古《いにしへ》の益荒丁子《ますらをのこ》の各《あひ》競ひ」とある。「恋ふれこそ」は、後世の「恋ふればこそ」にあたる古格の語で、用例の多いものである。○吾が結ふ髪の 「結ふ髪」は原文「髪結」であり、「もとゆひ」と訓まれていたが、下の続きから見ると、「もとゆひ」ではなく、髪そのものと解される。『全註釈』『注釈』は元暦本の旧訓に従っている。従うべきである。○漬ぢてぬれけれ 「漬づ」は、湿める意。「ぬれ」は集中に例の少なくない語で、ぬるぬるとすべって、解ける意である。これは当時の俗信で、男に思われると、それが女の髪に感応して、髪が湿って、ぬるぬると解けると信じられていたのである。「けれ」は「こそ」の結び。
【釈】 嘆きながら、ますらおのこが我を恋うていればこそ、私の髪は湿りを帯びて、ぬるぬるとすべって解けていたことでございます。
【評】 皇子の歌に対する和え歌である。その歌は片恋をしてこられたことについての現在の嘆きであるが、娘子の歌は、その片恋ということを巧妙に否定し、皇子の恋の心は、それと同時にわが身に感応し、我は以前から、髪が漬じてぬれていたことだというのである。この先方の心がこちらの身に感応していたということは、当時の女性にあっては大きなことで、このことをいっているのは、すなわち皇子の御心を受け入れるということを、婉曲にあらわしているものといえる。語の上に贈歌を受けているものは、「嘆きつつ」だけで、わずかに内容を変えたにとどまり、他は一切、すなおに受け入れており、のみならず贈歌よりもはるかに踏み入った心をいっているのである。相聞の和え歌としては珍しいものである。おそらく身分の懸隔がこうした態度を取らせたもので、実際に即したものと思われる。一首、つつましく用意深いが、さわやかさを失ってはいないものである。
 
     弓削皇子《ゆげのみこ》、紀皇女《きのひめみこ》を思ふ御歌四首
 
(192)【題意】 「弓削皇子」は、上の(一一一)に出た。「紀皇女」は、天武天皇の皇女で、上の(一一四)の穂積皇子と御同腹で、御母は蘇我|大〓娘《おおぬのいらつめ》である。すなわち異母兄弟である。
 
119 吉野河《よしのがは》 逝《ゆ》く瀬《せ》の早《はや》み しましくも よどむことなく ありこせぬかも
    芳野河 逝瀬之早見 須臾毛 不通事無 有巨勢濃香問
 
【語釈】 ○吉野河 山河の急流としていったものであるが、風景の愛《め》でたい所としての意ももたせたもの。○逝く瀬の早み 「逝く瀬」は、流れゆく河瀬。「早み」は、早くして。○しましくも 「しましく」は、御世のしばらくの意の古語。「しまらく」ともいった。○よどむことなく 「よどむ」は、水の流れ行かずに滞ってある意で、現在も用いている。初句よりこれまでは、吉野河の流れの状態をいったものである。しかしそれをいうには、わが恋の上のよどみないことを心に思いつついつているもので、心としては譬喩に近いものである。それを讐喩とまでの差別をせず、双方を一つにした関係においていっているものである。また、吉野河は眼前のものではなく、記憶の中のものである。○ありこせぬかも 「こせ」は、希望の助動詞「こす」の未然形。「ぬか」の「ぬ」は、打消の助動詞。「か」は疑問の助詞で、反語の意をもっている。「ぬか」は、願望をあらわし、巻五(八一六)「梅の花今咲ける如散り過ぎず吾家《わがへ》の苑《その》にありこせぬかも」、巻六(一〇二五)「千年五百歳《ちとせいほとせ》ありこせぬかも」などがある。「も」は、詠歎の助詞。全体では、あってくれぬか、あってくれよの意。
【釈】 吉野河の流れゆく河瀬の、しばらくもよどむことがない、それにゆかりある、わが恋も障ることなくあってくれぬか、あってくれよ。
【評】 求婚の不成功に終わるということはありがちなことで、当事者にとっては第一に思われ、強くも思われることである。この歌は、それのないことを念じていると、その心に繋がって、記憶の中にある吉野河の河瀬の水の澱むことのない状態が、その風景の愛《め》でたさとともに心に浮かんでき、それが現にいだいている不安な気分とは反対ななつかしいものに感じられたのである。それで、現在の気分を心に置いて吉野河の河瀬の状態を初句より四句まで言いつづけ、結句に至って現在の気分を言い添えたのである。この二つの気分を一つにしていうということは純粋な気分でされたことで、そこに知的な思議がはいつていないことがこの歌の特色である。この吉野河は、心としては当然譬喩であるが、譬喩には知的なものが加わるのに、ここにはそれがない。すなわち譬喩より一歩手前のもの、または、譬喩を超えてのものである。さらにまた、初句より三句までを、「よどむ」の序詞とすることも可能で、しいていえば、その趣がないともいえないが、序詞は語の変化を際やかにすることによって初めて興味のあるもので、これは同じく知的なものをまじえなければできないものである。この歌はそれでもない。要するに、この歌は純粋な気分のものである。気分を主として、記憶にある風景を捉えきたって、それによって一つの心象をあら(193)わすということは、後世に喜ばれた法であって、この時代としてはきわめて新しいことである。一方には実用性の素樸な力強さを旨とした歌が行なわれている際に、同時に一方には、あくまでも文芸性のものにしようとする風もすでに萌していたのである。これはこの皇子の歌の風で、続いての歌にも見えているものである。なお、風景を四句まで思うままに言い続け、一首の歌としての統一をももち得ているということは、作歌の修練の結果、一首の形が十分にわがものとなっていたがためである。
 
120 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ひつつあらずは 秋萩《あきはぎ》の 咲きて散《ち》りぬる 花にあらましを
    吾味兒尓 戀乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾
 
【語釈】 ○恋ひつつあらずは (一一五)に出た。○秋萩の 原文「芽」の漢字をはぎにあてたにつき、『講義』は詳しく考証している。わが国で始めた字だろうという。「秋萩」と「秋」を添えていうのは、花を連想させようとしてである。○咲きて散りぬる 咲いて散って行くところので、「散り」に中心を置いての言い方。「散り」は死ということを暗示したものである。○花にあらましを 花のごとくあろうものをで、「まし」は仮定の推量で、上の「あらずは」の帰結。
【釈】 吾妹子に、このように恋いつづけて悩んでいず、できることならわが身は秋萩の、咲いて散って行くところの花であろうものを。
【評】 恋の懊悩より死を連想するということは、一種の常識のようになりきたっていたものである。この歌もその範囲のものである。この歌は、しみじみとした、消極的な気分の流れているものである。その上から見ると、萩は眼前のものではなく、上の歌と同じく、懊悩されている気分の中に思ひ浮かべられたものと思われる。「秋萩の咲きて散りぬる」という語は、語としては慣用されている範囲のものばかりであるが、「秋萩」と、「秋」の添った語を選び、「咲きて散りぬる」と、その脆さを暗示する語を選んで、それによって死を暗示させているのは、一つの気分に浸っていての上のことと思われる。作歌の態度としては、上の歌と同一なものである。
 
121 暮《ゆふ》さらば 塩《しほ》満《み》ち来《き》なむ 住吉《すみのえ》の 浅香《あさか》の浦《うら》に 玉藻《たまも》刈《か》りてな
    暮去者 塩滿來奈武 住吉乃 淺鹿乃浦尓 玉藻苅手名
 
【語釈】 ○暮さらば塩満ち来なむ 「暮さらば」は、夕方と時が移り来たならば。「塩」は、潮。上からの続きで、夕方の満潮。「な」は完了「ぬ」(194)の未然形で強意、「む」は未来の推量。○住吉の浅香の浦に 「住吉」は、今の大阪市の住吉神社のある地。「浅香の浦」は、住吉神社の南方の浦。堺市に現在浅香山町がある。○玉藻刈りてな 「玉藻」の「玉」は、美称。「刈りてな」の「て」は、完了「つ」の未然形。強める意をもったもの。「な」は、我に対しての希望をあらわす助詞。
【釈】 夕方となってきたならば、定まっている潮が満ちてくることであろう。今の中に、住吉の浅香の浦の藻を刈り取りたいものだ。
【評】 この歌は、題詞が添っていなければ、単に行楽の歌と見られうるもので、題詞と合わせてみて、はじめて恋の焦燥を詠んだものとわかる歌である。前二首の歌と同じく、相逢うことにあこがれつつ、その機会の逸しやすいことを嘆いていられた折、住吉の浅香の浦の藻刈りのことを思い浮かべ、それをいうことによって現在の心をあらわしたものである。難波の海は、当時の人の憧れの対象となっていた所で、皇子も知られ、また、そこでの藻刈りの行楽は、よく記憶されていたことと思われる。それの思い浮かべられたのは、現在の心と相通うものがあるからである。それをいうことによって妨げの起こらないうちに相逢おうという心をあらわそうとしたのは、前二首の歌と同じく、気分を主とし、それを、自然をかりて具象しようとしたので、その上ではこの歌は、全部が自然に対する心とされている点で、最も文芸性の多いものである。これは譬喩というよりも、譬喩を超えた暗示的なものといえるものである。
 
122 大船《おほふね》の 泊《は》つるとまりの たゆたひに 物《もの》思《も》ひ痩《や》せぬ 人《ひと》の子《こ》ゆゑに
    大船之 泊流登麻里能 絶多日二 物念痩奴 人能兒故尓
 
【語釈】 ○大船の泊つるとまりの 「大船の」は、大きな船が。「泊つるとまり」は、「泊つる」は、碇泊するで、予定の航程を終えて碇泊する意の動詞。「とまり」は、船着き場。以上、「たゆたひ」にかかる序詞。○たゆたひに 「たゆたひ」は、「たゆたふ」の名詞形。動揺する意。大船は小舟と違って、たやすく岸に着けられず、水上に動揺する意で、それを恋の上で、事が進捗せず、心の動揺をつづけている意に転じている。○物思ひ痩せぬ 「物思ひ」は熟語。嘆きに。「痩せぬ」は、身も衰えて痩せた。○人の子ゆゑに 「人の子」は、「子」は愛称で、愛する人の意。人の子は、人妻の意にも用いる。ここは紀皇女を、客観的にいったもの。「ゆゑに」は、根拠、理由をあらわす語。人のゆえで。
【釈】 大船が碇泊する船着き場で、水上に動揺している、それにゆかりのある心の動揺をつづけて、嘆きに身も衰えて痩せた。愛する人のゆえで。
【評】 片恋の嘆きをつづけてきた成りゆきとして、自身を反省し大観しての強い嘆きの独詠である。嘆きの中心は事の成否の(195)見とおしのつかない動揺の苦しみである。「大船の泊つるとまりのたゆたひに」は、そうした気分の具象化としては、適切な、強力なものである。「大船の泊つるとまりの」は序詞であるが、譬喩的なもので、したがって眼前の景を捉えての実感と思わせるところがある。結句の「人の子ゆゑに」の、愛しつつも客観視しての言い方も、序詞に照応して統一あり調和あるものとなっている。この種の歌としては、響の高い、すぐれた作である。
【評 又】 四首、皇子の皇女を思われて、ある期間、事の成否もわからずにいられた間に、その時々に詠まれたものを、事件が一つ事であるために並べ記してあったものと思われる。すなわち(八五)より(八八)に至る磐姫皇后の御歌の連作であるのとは異なって、心の動揺があるのみで、展開をもったものではない。第一首は、事の滞りなく進まん願い、第二首は、恋の疲れよりの悲哀、第三首は、機会を得ようとしての焦燥、第四首は、恋の疲れの深まってきた結果、恋そのものを反撥しようとする積極的な心の動きで、一貫した心理の推移の認められないものである。その意味でこの四首は、連作の意図があったものではないが、結果から見ると、おのずからその趣をもつようになったものである。
 
     三方沙弥《みかたのさみ》の園臣生羽《そののおみいくは》の女に娶《あ》ひて、未《いま》だ幾時《いくだ》も経ず病に臥して作れる歌三首
 
【題意】 「三方沙弥」は、三方は氏であるが、沙弥は名であるか、または出家としての称であるかわからない。(九五)に禅師という名のあったところから、ありうべきものだからである。出家としての称であろうという。それだと、沙弥は、十戒は受けたが、比丘となるまでの修行は積まないための称だという。伝は不明である。「園臣生羽の女」は、園は氏、臣は姓、生羽は名で、その女である。古の結婚は、その当座は、男が女の家へ通うのが普通であったが、これは結婚後間もなく男は病臥して通えなくなった際の歌である。
 
123 たけばぬれ たかねば長《なが》き 妹《いも》が髪《かみ》 この頃《ごろ》見《み》ぬに 掻きれつらむか 三方沙弥
    多氣婆奴礼 多香根者長寸 妹之髪 比來不見尓 掻入津良武香 三方沙弥
 
【語釈】 ○たけばぬれ 「たけば」は、「たく」は四段活用の動詞で、たぐるというに近い意をもった古語。集中に例が少なくない。ここと同じく垂れている髪を、結うために上げる意にも用い、また、女が機《はた》を織る時、筬《おさ》を使って緯糸《よこいと》を織り込むために、掻上《かか》げる作用をもいい、また馬上で手綱を掻いぐることをも「たく」といっている。『講義』は「たぐる」という語は、「たぎ、くる」の約と考えられると注意している。ここの「たけば」は、生羽の女が、結婚はしたが、まだ少女の時のままに、髪を結わず、後ろに垂らしているが、それが上げて結うだけの長さに達していない状態を対象としていっているもので、髪を上げるの意。「ぬれ」は、(一一八)に出た。ここは、髪が短いために、結うと、ずるずるとずりさが(196)る意。○たかねば長き妹が髪 「たかねば」は、髪を上げずにおけば。「長き」はさすがに長きにすぎる意。「妹が髪」は、感歎をこめていったもの。女の髪は、童女期には四方に垂らして現在のおかっぱのようにしていた。これを目ざしと呼んだ。やや長じると、後ろへ垂らした。これを放髪《はなりがみ》とも童放《うないはなり》とも呼んだ。十四、五歳となり、婚期に達しると、髪を上げて結った。この髪を上げるのが女の成年式である。『講義』は、後世はこれを鬢そぎと称し、女に許婚の男があれば、その男が事にあたり、なければ、父兄などが代ってしたといっている。こうした式は、古風を墨守するものであるから、古もそうした風があり、女が放髪《はなりがみ》のまま結婚したとすると、髪上げをするのは、夫たる男のすることであったとみえる。今もその状態の下で、妹の髪を問題としているものと思われる。○この頃見ぬに この頃じゅう、病臥して見ずにいる間に。○掻きれつらむか 「掻きれ」は『代匠記』の訓で「みだり」を正したものである。束ねた髪の短く垂れるのを櫛で掻き入れる意。「つ」は完了の助動詞。「らむ」は現在を推量する助動詞。「か」は、疑問。○三方沙弥 贈主を明らかにするための注。
【釈】 結おうとして上げれば、ずるずるとほどけ、上げずにおけば、さすがに長きにすぎるところの妹が髪よ、この頃じゅう病臥して見ずにいる間に、きっと伸びて乱れていることであろうか。
【評】 題詞のごとき事情の下にある沙弥には、その妻の放髪《はなりがみ》にしている髪の形が、しきりに気になったのである。これは当時の風習からいうと、当然のことに思える。当時の結婚は、男はもとより女も自由であって、その母にさえ謀らず、自分の意志だけでしたものである。ある期間が過ぎて、はじめて親に打ち明けるというのが風で、これは後世へまでも続いたことである。これは夫たる男より見れば、その妻に対する不安の起こらざるをえないことである。まして妻は親の許にあって、自分とは離れて暮らしているのであるから、この不安はいっそうのはずである。この不安から脱れる第一方法は、女はすでに夫をもっている者だということを、その周囲の者に示すために、髪上げをすることである。男よりいえば髪上げは、妻たる女に対して標《しめ》を結ったのと同様なのである。この髪上げは、第一に夫たる男のする事で、後の歌で見ると、沙弥もすでにそれを試みたのであるが、妻はまだ幼くて、それをするだけに髪が伸びきっていず、したがって十分にはできなかったのである。それだと放髪でいると同様で、不安が起こらざるを得ず、その不安は同時に思慕の情を募らせるものとなるのである。この歌の一に髪のことのみをいっているのはそのためで、「たけばぬれたかねば長き妹が髪」と、委曲を尽くしていっているのは、夫たる自分の手で、髪上げをしてやろうと試みたことも背後に置き、それの十分にできなかった、すなわちわが物との標《しめ》を結いきれなかった不安をこめての語である。「この頃見ぬに掻きれつらむか」は、放髪の状態がふさわしくなくなり、それとともに妙齢な、まだ夫のない女という状態が、人の目にたつ者となったろうかというので、思慕というよりは、それを内にこめた、不安の情の方を主としての語である。病臥の間はどれほどであるか、歌ではわからないが、さして久しい間とは思われない。それを「掻きれつらむか」と力を入れていっている。しばらくの間に髪の毛は著しく伸びるものではないから、この語には誇張がある。この誇張はその不安をいうに必要なものだったのである。一首、気分が集中してい、調べがとおって、微細な事柄を溶か(197)し込み得ているのは、実情の強いものがあるからである。
 
124 人《ひと》皆《みな》は 今《いま》は長《なが》しと たけと言《い》へど 君《きみ》が見《み》し髪《かみ》 乱《みだ》れたりとも 娘子
    人皆者 今波長跡 多計登雖言 君之見師髪 乱有等母 娘子
 
【語釈】 ○人皆は今は長しと 「人皆」は、周囲の人のすべてはで、「は」は、他に対させた意のもの。「今は」は、過去に対させたもの。「長し」は、放と《はなりがみ》としては長すぎる意。「と」は、といってで、いうは、次の句に譲ったもの。○たけと言へど 髪を上げよというけれども。○君が見し髪乱れたりとも 「君が見し髪」は、君が結婚の時見た髪で、放髪。「乱れたりとも」は、それとしては伸びすぎて、乱れていようともで、そのままにしているのを省いている。○娘子 作者としての注で、前の歌の答の意をあらわしたもの。
【釈】 周囲の人はすべて、今は髪が長くなったといって、上げて結えよというけれども、君が結婚の時に見た放髪は、伸びすぎて乱れていようとも、そのままにしておこう。
【評】 娘子の和え歌は、単純と純情そのもので、沙弥の「掻きれつらむか」ということの真意を汲み取ることができず、ただの髪の状態として受け取っているのである。しかし、それによって満腔の純情を披瀝しているのである。「人皆は」は、家族をはじめ周囲の人全部であろうが、それらの人は娘子と沙弥の婚事を知らずにいっているとみえる。その中にいて娘は、「君が見し髪乱れたりとも」と思い入って、それに応ぜずにいるのである。「乱れたりとも」の言いさしも、この場合適切な表現である。一首全体としては、むしろたどたどしさをもっているが、それがかえって内容を生かしている。成女期に入ったばかりの女性が、事細かに叙事をして、それをただちに抒情にする技法をもっていたことは、その時代を思わせられることである。
 
125 橘《たちばな》の 蔭《かげ》履《ふ》む路《みち》の 八衢《やちまた》に 物《もの》をぞ念《おも》ふ 妹《いも》にあはずて 三方沙弥
    橘之 蔭履路乃 八衢尓 物乎曾念 妹尓不相而 三方沙弥
 
【語釈】 ○橘の蔭履む路の 「橘」は、田道間守が垂仁天皇の勅を奉じて、常世の国から将来したという果樹で、常緑の小喬木。「蔭履む路」は、その葉の落している蔭を踏んで歩く路で、藤原の京の大路のさまをいったもの。橘を街路樹として、京の大路に植えることは、この御代よりも古い頃からのことで、勅令によって行なわれたことである。これは暑い時にはその蔭に憩い、渇いた者はその果によって、医させようとする御心よりのことであった。後には僧侶の手によって地方にまでも及んだ。以上、序詞。○八衢に 「八」は、数の多い意。「衢」は、道股《ちまた》で、道の岐《わか》れ(198)ている意。多くの岐れ路の意で、幾筋かの路の交叉している所の称。上からの続きは路の状態で、それを「さまざま」の意の譬喩に転じて下に続けている。「に」は、状態を形容した語で、のごとくの意のもの。八衢のごとく、さまざまに。○物をぞ念ふ 嘆きをすることであるの意。○妹にあはずて 終止形の「ず」からただちに「て」に続けるのは、古語の一つの格であって、あわずしてと意は同じである。妹に逢わなくていてで、病のために違えない意をいったもの。○三方沙弥 作主としての注。
【釈】 橘の木蔭を踏んで歩く路の、その八衢のごとくに、さまざまに嘆きをすることであるよ。妹に逢わずにいて。
【評】 この歌は、娘子に訴えた歌ではなく、沙弥自身の心やりのために詠んだ趣のあるものである。病臥して妻の許へ通えずにいるところから起こる思慕と不安の情を直叙したもので、心としては第一首の、娘子に贈ったものと同じものである。今は贈歌としての新釈なく、思うままに詠んだものと取れる。初句より三句までの清新さも調べの強さも、そこからきているものとみえる。この歌は伝唱されるものとなって、天平十年秋、橘諸兄の家の宴で、人によって歌われたことが、巻六(一〇二七)で知られる。それは、「橘の本《もと》に道|履《ふ》み八衢に物をぞ念ふ人に知らえず」というので、第二句、三句、五句ともかわっているが、これは伝唱の常である。一般性とともに魅力のある歌だったことが知られる。
【評 又】 三首、一つの特殊の状態の下における夫婦生活を、微細にあらわしているもので、歌物語の趣をもったものである。しかし、事としての展開のないもので、それとしては足りないものというべきである。
 
     石川|女郎《いらつめ》、大伴宿禰|田主《たぬし》に贈れる歌一首 【即ち佐保大納言大伴卿の第二子なり。母を巨勢朝臣と曰ふ。】
 
【題意】 「石川女郎」は(一〇七)以後しばしば出た。「大伴宿禰田主」については、題詞の下に注があって「即佐保大納言大伴卿之第二子。母曰2巨勢朝臣1也」とある。大納言大伴卿は、(一〇一)に出た安麿である。したがって母巨勢朝臣は、(一〇二)巨勢郎女であり、安麿の妻となったことと取れる。田主の事は史上には見えない。
 
126 遊士《みやぴを》と 吾《われ》は聞《き》けるを 屋戸《やど》貸《か》さず 吾《われ》を還《かへ》せり おその風流士《みやびを》
    遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曾能風流士
 
【語釈】 ○遊士と 「遊士」を「みやびを」と訓んだのは、本居宣長である。下には「風流士」の字もあてている。これにつき『講義』は、巻六(一〇一六)「海原の遠き渡《わたり》を遊士の遊ぶを見むとなづさひぞ来し」に、同じく「遊士」とあり、その左注に、「右の一首は、白紙に書きて星の壁に懸け著けたり。題して曰はく、蓬莱の仙媛の化《な》れる嚢蘰《ふくろかづら》は、風流秀才の士の為なり。これ凡客の望み見る所にあらざらむか」とある。この(199)「遊士」は注の「風流秀才の士」であり、したがって「風流士」も、同じく風流秀才の士を略したものだろうといっている。「遊士」は、宮びた人すなわち大宮人の趣をもった人の意であるが、ここでは転じて、教養よりくる物わかりの好さと、情《なさけ》に対して敏感な人という意になっているのである。○吾は聞けるを 吾は聞いているものをで、それなのにの余意のある語。○屋戸貸さず吾を遠せり 「屋戸」は、ここは宿の意のもの。宿を貸して寝させようとせず吾を還したで、この事は左注に詳しい。○おその風流士 心鈍き風流士よの意。
【釈】 君はみやびおだとわれは聞いていたものを、それなのに宿を貸して寝させずにわれを還した。まことは心鈍いみやびおであるよ。
【評】 事情に即しての歌で、事情を離しては解し難いほどの歌である。心は、女郎の方から田主に挑んだのを、素気なく扱われたそのいまいましさから、田主を嘲った歌である。歌としてはいうほどのものではなく、しいていえば、こうした極度の私事《わたくしごと》を根にしての嘲りを歌にしたものは、珍しいという程度のものである。撰者がここに収めたのは、その背後にある事柄の興味に引かれてのことと思われる。すなわち歌物語としての興味である。みやびおという語は、漢語の風流秀才之士をあててはいるが、いったがように、物わかりの好く、情《なさけ》に敏感な意のものであったことは、田主の情《なさけ》に敏感でなかったのを見て女郎が「おその風流士」と嘲っているのでも明らかである。一方には「大夫《ますらを》」を讃えつつ、同時に他方には、こうした意味の「みやびを」をも讃えていたことがわかる。この「みやびを」は、後の平安朝時代には理想的の人物とされたのであるが、その傾向はすでにこの時代に萌していたものであることが知られる。
 
     大伴田主、字を仲郎と曰へり。容姿佳艶にして、風流秀絶なり。見る人聞く者歎息せざることなし。時に石川女郎というものあり。自《みづか》ら雙栖《さうせい》の感を成し、恒に独守の難きを悲しむ。意に書を寄せむと欲して未だ良信に逢はず。爰に方便を作《な》して、賤しき嫗に似せて、己《おのれ》堝子《なべ》を提げて寝側に到り、哽音※[足+滴の旁]足して戸を叩きて諮《い》ひて曰はく、東隣の貧女火を取らむとして来れりといふ。ここに仲郎暗き裏《うち》に冒隠の形を識らず。慮の外に拘接の計に堪へず。念《おもひ》の任《まま》に火を取り、跡に就き帰り去りぬ。明けて後、女郎既に自媒の愧づべきを恥ぢ、復《また》心契の果さざるを恨む。因りて斯の歌を作り、以て贈り謔戯《たはぶれ》としき。
      大伴田主、字曰2仲郎1。容姿佳艶、風流秀絶。見人聞者靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1。自成2雙栖之感1、恒悲2獨守之難1。意欲v寄v書未v逢2良信1。爰作2方便1而似2賤嫗1己提2堝子1而(200)到2寝側1、※[口+更]音※[足+滴の旁]足叩v戸諮曰、東隣貧女將v取v火來矣。於v是仲郎暗裏非v識2冒隱之形1。慮外不v堪2拘接之計1。任v念取v火、就v跡歸去也。明後、女郎既恥2自媒之可1v愧、復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1以贈2謔戯1焉。
 
【釈】 「字」は、実名のほかにもっている名。「仲郎」は二郎の意で、旅人《たびと》の弟。「秀絶」は、類を絶って秀でている意。「雙栖」は共に栖むで、夫婦生活。「独守」は、女性の独身生活。「良信」は、適当な使。「賤しき嫗に似せ」は、下賤の老女の様を装い。「堝子を提げ」は、「堝」は、土鍋《どなべ》、「子」は、中国で名詞の下に添えて用いる字。堝子は、火を容れるための器。「※[口+更]音」は、声の咽《むせ》ぶ意で、老女の物言い。「※[足+滴の旁]足」は、足の進まない意で、同じく老女の歩みぶり。「諮ひ」は、謀《はか》りて。「火を取らむとして来れり」は、火種を貰おうとして来たで、これは当時普通に行なわれていたこと。「冒隠の形を識らず」は、「冒」は覆うで、覆い隠している形、すなわち老女を装っている姿を、よくは認めず。「慮の外に」は、思いも寄らぬ事なので。「拘接の計に堪へず」は、同寝しようとするたくらみを空しくしたの意。「跡に就き」は、入って来た所をとおって、帰って行った。「明けて後」は、翌朝。「自媒」は、媒《なかだち》のない情事。「心契」は、心に予期したこと。「謔戯」は、戯れる意。
 
     大伴宿禰田主、報《こた》へ贈れる歌一首
 
127 遊士《みやびを》に 吾《われ》はありけり 屋戸《やど》貸《か》さず 還《かへ》しし吾《われ》ぞ 風流士《みやびを》にはある
    遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曾 風流士者有
 
【語釈】 ○屋戸貸さず 泊めて共寝をせず。
【釈】 遊士でわれはあったことであるよ。宿を貸さずに還したわれこそは、まことの風流士であることだ。
【評】 女郎の「おその風流士」と嘲ったのに対して、「吾ぞ風流士にはある」と嘲り返したのである。女郎の嘲るのは、いったがように、風流士の資格として情《なさけ》に敏感であるべきを、その反対であったと嘲るのであるが、田主の嘲り返すのは、同じく風流士の資格としての礼儀正しさという一面を強調し、女郎のような恥ずべき振舞いをする者は、それと知っても、わざと知らぬさまを装ったのだということを言外にもたせていっているのである。これはもとより実際とは異なっているが、わざとそういったところに嘲りの心があるのである。
 
(201)     同じ石川女郎、更に大伴田主中郡に贈れる歌一首
 
128 吾《わ》が聞《き》きし 耳《みみ》によく似《に》る 葦《あし》の若末《うれ》の 足《あし》痛《ひ》く吾《わ》が背 勤《つと》めたぶべし
    吾聞之 耳尓好似 葦若末乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
 
【語釈】 ○耳によく似る 「耳」は、聞きということをあらわす古語。「似る」は、ごときで、「吾が背」に続く。噂のごとく。○葦の若末の 「若未」は、植物の生きて伸びてゆく先端をさす名詞。ここでは、次の「足」へ、畳音の関係でかかる枕詞。○足痛く吾が背 「足痛」は、訓がいろいろある。『講義』はその中の「足|痛《ひ》く」を取り、これは左注の田主の「足疾」をいったもので、訓についての類例として、券四(六七〇)「月読の光に来ませ足疾《あしひき》の山を隔てて遠からなくに」、巻七(一二六二)「岸病《あしひき》の山椿さく八岑《やつを》越え」を引いている。これに従う。「吾が背」は呼びかけ。○勤めたぶべし 「勤め」は、自愛の意。「たぶ」は、「賜ふ」の古語で、先方を主にしての敬語。自愛したまうべきであるの意。
【釈】 わが前から噂に聞いていたごとく、足を引いて歩く君よ、自愛したまうべきである。
【評】 田主の報《こた》えての嘲り返しに対し、女郎はそれに相当したことをいわなくてはならないこととして、局面を転じて、表面は好意のありそうに見えて、実は嘲り返しを含んだ歌をもってしたのである。「葦の若未の」という枕詞は工夫してのもので、この際のものとしては心の利いたものといえる。
【評 又】 以上の三首は、いったがように歌物語としての興味を主としたものである。歌としては三首とも優れたものではなく、背後の事件の方は、精細なる注を要するほどの特殊なものであることによって、そのことは明らかである。なおこの歌物語の興味の大半は、前よりの関係から見ると、石川女郎が主となっているところにあったと見える。また、ここにある歌はすべて善意をもってのものではなく、反対にある程度の悪意をもったものである。作歌態度として、生活の実際に即するとすると、そこにはおのずから悪意のものもありうるわけである。しかし本集の歌を見ると、悪意をもってのものはきわめて稀れで、例外と称する程度にすぎない。これは歌というものはそのようにあるべきものとして、歌の性格とさえしていたことと思われる。例外となる悪意のものは、上代の歌垣の贈答の中に見える。それはいわゆる言葉争いで、歌をもって相手をいい負かそうとする刺激に駆られてのものである。その言葉争いは、善意をもってする相聞の贈答の中に伝わっていて、型のごとくにさえなっている。ここの三首は、その言葉争いが、たまたま悪意を含んでいるということが特色となっている。もっとも悪意とはいっても淡泊な、諧謔といえば言いうる程度のものである。『全註釈』はこれを虚構の作品とし、作者は田主の兄旅人ではないかといっている。興味は注を主としたもので、歌はそれに付随した趣があり、また歌も同一人の手に成った趣をもっているからである。うなずける新見である。
 
(202)     右は仲郎の足疾によりて、この歌を贈りて問ひ訊《とぶら》へるなり。
      右、依2中郎足疾1、贈2此歌1問訊也。
 
     大津皇子の宮の侍《まかたち》石川女郎、大伴宿禰|宿奈麿《すくなまろ》に贈れる歌一首 【女郎、字を山田郎女といふ、宿奈麿宿禰は、大納言兼大将軍卿の第三子なり】
 
【題意】 「侍」は、侍婢従女をあらわす古語である。石川女郎には、元暦本以下多くの本には注があって、「女郎字曰2山田郎女1也」とある。それだと、(一一〇)の石川女郎の、「女郎字曰2大名児1也」とは別人である。大伴宿禰宿奈麿は同じく元暦本などには注があって、「宿奈暦宿祢者、大納言兼大将軍卿之第三子也」とある。大納言兼大将軍卿は、大伴安麿である。その第三子だと、上の田主の弟である。続日本紀によると、和銅元年従六位下から従五位下に叙せられ、左衛士督、安芸周防二国の按察使を歴任し、神亀元年従四位下を授けられている。没年は知れない。
 
129 古《ふ》りにし 嫗《おみな》にしてや かくばかり 恋《こひ》に沈《しづ》まむ 手童《たわらは》の如《ごと》【一に云ふ、恋をだに忍びかねてむたわらはの如】
    古之 嫗尓爲而也 如此許 戀尓將沈 如手童兒【一云、戀乎太尓忍金手武多和良波乃如】
 
【語釈】 ○古りにし嫗にしてや 「古りにし」は、年寄ってしまったの意。「嫗」は、老女の称。「にして」は、にあって。「や」は、疑問の助詞。係となって、反語を成すもの。○恋に沈まむ 「沈まむ」は、捉われ尽くす意を具象的にいったもの。現在の溺れるというにあたる。○手童の如 「手童」は「手」は、「た」で、接頭語。童と同じ。○一に云ふ、恋をだに忍びかねてむ 恋だけでもこらえ難くすることであろうかの意。
【釈】 年寄った老女であって、このように恋に溺れるべきであろうか、あるまじきことだ。ただ泣くだけの童のように。一にいうは、恋だけでもこらえ難くすることだろうか。
【評】 女郎の方から宿奈麿に言い寄った歌である。歌の性質としては訴えであるが、この歌は、我とわが恋情を訝り咎めて独語しているごとき趣をもったもので、訴えの方は間接にしたものである。「古りにし」という語が、その意味を最もよくあらわしている。古りにしといってはいるが、実はそれほど年をしていたのではなく、誇張した語と取れる。女の方から言い寄るという、不自然なことをしている状態から、そういわずにはいられなかったであろうが、一つには、早婚であった当時の習慣がいわせているところもあろう。しかしそれらよりも力強いものは、女郎と宿奈麿との身分の隔りで、それを意識し、自省している態度を取ることが、訴えんとするこの場合、第一に必要なものと思われる。「かくばかり」は、具象性の強い語で、こ(203)れによってそれ以下を生動させている。一首、痛切な情を抒《の》べたものであるが、用意をもったもので、力量のある作である。
 
     長皇子《ながのみこ》、皇弟《いろとのみこ》に与ふる御歌一首
 
【題意】 「長皇子」は、巻一(六〇)に出た。「皇弟」はどなたであるか明らかでない。この語は本来天皇の御弟をあらわす語で、また「弟」という語は男女を通じて用いていたからである。もし皇子の御弟の意で用いてあるとすれば、日本書紀天武紀に、「妃大江皇女、生2長皇子与2弓削皇子1」とあるので、同母弟弓削皇子が最も近いことになる。
 
130 丹生《にふ》の河《かは》 瀬《せ》は渡《わた》らずて ゆくゆくと 恋痛《こひた》き吾弟《わおと》 こち通《かよ》ひ来《こ》ね
    丹生乃河 瀬者不渡而 由久遊久登 戀痛吾弟 乞通來祢
 
【語釈】 ○丹生の河 吉野川の支流。吉野郡黒滝村赤滝から発し、霊安寺村(五条市)で吉野川に合する。この川の川上に、官幣大社丹生川上神社下社があり、また吉野川への合流地点に近く、宇智野もある。古来皇室に縁故深い地である。○瀬は渡らずて 「渡らずて」は、「ず」よりただちに「て」に続けたもので、その中間の「あり」または「し」を略したもの。用例の少なくないもの。「渡る」は、河に橋がないので徒渉をする意で、それをせずして。渡り難い事情があってのことと思われる。○ゆくゆくと 「ゆくゆく」は、思う心が遂げられずに、猶予《たゆた》っている意。巻十九(四二二〇)「大船のゆくらゆくらに、面影にもとな見えつつ、かく恋ひば」の「ゆくらゆくら」と同意。この例は少なくない。○恋痛き吾弟 「恋痛き」は、「恋ひ痛き」の約で、甚しく恋しい意。「吾弟」は、呼びかけ。○こち通ひ来ね 「こち」は、「此方《こち》」にもあて、また発語の「いで」にもあてている。ここは「此方《こち》」の意と取れる。此方は、長皇子の邸のある方。「通ひ来ね」は、「来《こ》」の命令形に、希望の助詞「ね」を添えたもの。
【釈】 丹生の河の、瀬の徒渉をわれはせずして、こころ動揺して、甚しく恋うているわが弟よ。こちらの方へ通って来て下さい。
【評】 豊かな、落着いた趣をもった御歌である。この趣は、丹生の河に緊密に関係を付け、したがって客観的に扱っているところから生まれてきているものである。長皇子には、当時河を徒渉することのできない事情があられたのかもしれぬが、それがないにしても、年長者としていわれているのであるから、当然のこととも見られる。とにかく、双方が等しく見ている、そして大きくはない丹生の河を、このように客観的に扱われるのは、歌を日常生活の具としていたところから、自然に馴致された風であろうと思われる。それがまた、当時の歌風ともなっていたのである。時を隔てた後世から見ると、その態度が文芸的に見えるものとなったのである。この御歌の趣はそこにある。
 
(204)     柿本朝臣人麿、石見国《いはみのくに》より妻に別れて上り来し時の歌二首 并に短歌
 
【題意】 柿本朝臣人麿のことは、巻一(二九)に出た。人麿が晩年石見国に在ったことは、この歌によって知られ、また(二二三)によって、石見国で死んだことも知られる。在住は、国司の一人としてであろうと推測され、また官は、守、介などよりも低く、掾、目、史生の程度であったろうとも推測されている。任地で妻のあったことはこの歌によって知られる。その妻は、この歌に続いての歌を作っている依羅娘子《よさみのおとめ》であったろうといわれる。それだと後妻で、石見で娶った人と思われる。娘子の住居は、国府から一里余り隔つた角の里であった。「上る」は、京に上るのであるが、妻を置いてのことであるから、公用を帯びて国庁より遣わされたものと取れる。また、その季節は、これにつぐ長歌によって、黄葉の盛んに散る時であったことが知られる。それこれより見て、この使は、国庁より朝廷に対して一年四度の使を出すその一つの朝集使《ちようしゆうし》ではないかとされている。これは諸国の介、掾、目などの一人が、朝集帳を持って京に上り、遠国は十一月一日を期として、弁官、式部省、兵部省について、その国の行政全般の事を申す使である。なお延喜式によると、石見国より調を貢する行程は、上り二十九日、下り十五日であるので、日取りの上からもほぼそれにあたるからである。
 
131 石見《いはみ》の海《うみ》 角《つの》の浦廻《うらみ》を 浦《うら》なしと 人《ひと》こそ見《み》らめ 潟《かた》なしと【一に云ふ、礒なしと】 人《ひと》こそ見《み》らめ よしゑやし 浦《うら》はなくとも よしゑやし 潟は【一に云ふ、礒は】なくとも 鯨魚《いさな》取《と》り 海辺《うみべ》を指《さ》して 和多豆《わたづ》の 荒磯《ありそ》の上《うへ》に か青《あを》なる 玉藻《たまも》沖つ藻《も》 朝羽振《あさは ふ》る 風《かぜ》こそ寄らめ 夕羽振《ゆふはふ》る 浪《なみ》こそ来寄《きよ》れ 浪《なみ》の共《むた》 か寄りかく寄る 玉藻《たまも》なす 依《よ》り寝し妹《いも》を【一に云ふ、はしきよし妹がたもとを】 露霜《つゆしも》の 置《お》きてし来《く》れば この道《みち》の 八十隈《やそくま》毎《ごと》に 万《よろづ》たび 顧《かへり》みすれど いや遠《とほ》に 里《さと》は放《さか》りぬ いや高《たか》に 山《やま》も越《こ》え来《き》ぬ 夏草《なつくさ》の 念《おも》ひしなえて 偲《しの》ふらむ 妹《いも》が門《かど》 見《み》む 靡《なび》けこの山《やま》
    石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等【一云、礒無登】 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縱畫屋師 滷者【一云、礒者】無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社來縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎【一云、波之伎余思妹之手本乎】 露霜乃 置而(205)之來者 此道乃 八十隈毎 万段 顧爲騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越來奴 夏草之 念思奈要而 志怒布良武 妹之門將見 靡此山
 
【語釈】 ○石見の海角の浦廻を 「石見の海」は、緊張をもっていおうとするところから、客観的に大きく捉えたもの。「角」は和名抄に「石見国那賀郡都農【都乃】」とある地で、今は都野津町(江津市)。「浦廻」は、「浦」は、入江、「廻」は、辺。で、浦の辺りの意で、その辺一帯をさしたもの。ここは石見国の国府(今、浜田の東に、下府《しもかふ》、国分などいう地のある辺りかという)から、東方四、五里の所である。ここは人麿の妻の家のある地。○浦なしと人こそ見らめ 「浦なしと」は、浦がないといつてで、浦は風景のおもしろい所としていったもの。日本海の海岸には、事実浦が少ない。「人こそ見らめ」は、他人は見ることであろう。○潟なしと人こそ見らめ 「潟」につき『講義』は、普通干潟の意であるが、日本海岸では異なっていて、現在、砂洲によって海と界している一種の鹹湖の称として用いている。古くも同じであったろうといっている。この潟も、この浦と同じく、風景のおもしろい所としていっているもの。○一に云ふ、礒なしと 「礒」は、岩石の多い海岸。風景としては潟の方が妥当である。潟を親しく感じない人の謡い替えたものと取れる。○よしゑやし浦はなくとも 「よしゑやし」は、「よし」は、そのままに任す意で、よしやというにあたる。「ゑやし」は詠歎の助詞で、「よしゑ」とだけの用例もある。「浦はなくとも」は、おもしろい風景の浦はなかろうとも。○よしゑやし潟はなくとも 上と同じ。○一に云ふ、礒は 「礒」については、前と同じ。以上四句の対句は、我には浦、潟にまさる物があるという意を、余意としたもの。○鯨魚取り海辺を指して 「鯨魚取り」は、「鯨」は鯨、「魚」は魚の古語。「取り」は獲《と》りで、意味で海にかかる枕詞。「海辺を指して」は、海辺を目指しての意。○和多豆の 「和多豆」は、今、渡津(江津市)と呼び、江川《ごうのかわ》を越した所にある。渡津は、船で渡る港の意で、河口に因《ちな》んでのものと思われる。ここは都野津よりもさらに東にあたっている。すなわち道は、海寄りを東へ東へと向かって行くのである。(一三八)の歌により、ここを「ニキタヅ」と訓む説もある。○荒礒の上に 「荒礒」は、荒ら磯の約。「礒」は岩石の意で、海岸に現われている大きな岩群をいったもの。「上に」は、「野の上」などのそれと同じく意味の軽いもの。下の藻の所在。○か青なる玉藻沖つ藻 「か青」の「か」は、接頭語。「玉藻」の「玉」は、美称。この「玉藻」は、荒礒の上に生えている物。次の長歌の、「荒礒には玉藻ぞ生ふる」とあるにあたる物。「沖つ藻」は、沖の藻で、同じく次の長歌の「いくりにぞ深海松《ふかみる》生ふる」にあたる物で、文字どおり沖の物である。「玉藻沖つ藻」と重ねているのは、その多いことをあらわしたので、「か青なる」は、この双方にかかっていて、荒礒の一面に真青な感をいったもの。「沖つ藻」の下に、感歎の語がある意のもの。○朝羽振る風こそ寄らめ 「朝」は、次の「夕」に対させたもので、終日すなわち絶えずという意を、具象的にいおうとしたもの。朝川、夕川というと同じ類のもの。「羽振る」は、鳥の羽を振る、すなわち羽ばたきをする意の語で、羽ぶくともいう。海上の風や浪が、岸の方へ寄せようとして、音を立てて来るのを譬喩的にいったもの。「寄らめ」は、『考』『講義』の訓で、風その物が寄せて来ようの意である。○夕羽振る浪こそ来寄れ 夕べに鳥の羽ばたきのごとき音を立てて浪が寄せて来るの意で、これも上と同じく、浪その物が寄せて来る意である。「和多豆の荒礒」以下ここまでは、起首「浦なしと」「潟なしと」の他人の思わくに対し、「よしゑやし浦はなくとも」「潟はなくとも」と、対句を続けて力強く反撥した、その実証としていっているものであって、人麿の心としては、「浦」「潟」はないが、和多豆の海岸は、「か青なる玉藻沖つ藻」と「朝羽振る風」と「夕羽振る浪」との絶えざるものがあって、それにも勝る風景であるといって、徹底的に風景として叙しているものであ(206)る。この風景に刺激されて、妹思う感を発し、次いで「浪の共か寄りかく寄る」と、風景と妻とを一つにして言っているのである。「風こそ寄せめ」と訓むと、景によって感を発するというこの歌の特色である道行きの心が失われて、静的なものとなって来る。作意との関係から、「寄らめ」の訓は、この歌にとっては重大なものである。○浪の共か寄りかく寄る 「浪の共」は、浪と共にの意。用例の多い古語。「か寄りかく寄る」は、「か」「かく」は相対した語で、あちらに寄りこちらに寄るで、浪のままに靡く意。「寄る」は連体形で、下の「玉藻」に続く。○玉藻なす依り寝し妹を 「玉藻なす」は、玉藻のごとくで、柔らかな状態を捉えての譬喩。「依り寝し妹」は、寄り添って共寝をした妹。○一に云ふ、はしきよし妹がたもとを 「はしきよし」は、愛《は》しき、すなわち愛すべきに、感歎の助詞「よ」と「し」の一語となったものを添えた語。「たもと」は、手元で、腕で、手枕の意でいったもの。この二句は、上よりの続きが不明である。本行に従うべきである。○露霜の置きてし来れば 「露霜の」は、露と霜との意で、いずれも置く物であるところから、置くと続けて、その枕詞としたもの。「置き」は、残して置く意で、同音異義で転じたもの。「し」は、強め。○この道の八十隈毎に 「この道」は、人麿の今歩みつついる道で、山道。すなわち国府より都農、和多豆と経て、今は山にかかっている道。「八十隈」は、多くの曲がり目で、道を曲がると、後ろが見えなくなる意でいっていたもの。○万たび顧みすれど 「万たび」は、限りなく何度も。「顧みすれど」は、顧みれどを強めていったもの。妻の恋しさに振り返って見たがの意。○いや遠に里は放りぬ 「いや遠に」は、ますます遠くに。「里は放りぬ」は、妻の家のある角の里は離れたの意。「放る」は遠ざかるの基をなしている語。○いや高に山も越え来ぬ 「いや高に」は、ますます高くで、下の「山」の状態。道は、海寄りより山道へ移って来て、その山道は次第に高くなってゆくことをあらわしたもの。「山も越え来ぬ」は、山もまた越えて来たで、妻より遠ざかることを旨としていったもの。○夏草の 夏草は烈しい日光に照らされて、萎《しな》えるのを特色として、下の「しなえ」へ意味でかかる枕詞。○念ひしなえて 「念ひ」は、嘆き。「しなえ」は、思いに弱る状態。○偲ふらむ 我を恋い思うらむで、これは連体格で、下の「妹」に続く。○妹が門見む 妻が住んでいる家の門を目に見よう。○靡けこの山 「靡け」は、命令形で、靡けよ。「この山」は、眼前に眼を遮って高く立っている山に、低く、横になって、わが視界を展かせよの意で呼びかけた形。
【釈】 石見の海の角の浦の辺りを、風景のおもしろい浦がないと思って、他人は見ていよう。風景のおもしろい潟がないと思って、他人は見ていよう。よしやそうした浦はなくても、よしやそうした潟はなくても、沖より海べを指して、この和多豆の荒礒に生えている、真青な玉藻、沖の藻の美しさよ、それに朝は音立てて風が寄って来よう、夕は音立てて浪が寄って来ることである。その浪と一緒になって、あちらへ寄りこちらへ寄っている玉藻のように、我に寄り添って共寝をした妻を、あとに残して置いて来たので、わが行く山道の、そこに限りなくある曲がり角ごとに、限りなく何度となく振り返って見るけれども、妻の住む角の里はますます遠ざかって来た、山もまたますます高い方へと越えて来た。夏草のように我を思ってしおれているだろう妻の、その家の門を見よう、靡き片寄って我に見せしめよ、この眼の前の山よ。
【評】 この歌はいったがように、公用を帯びて京へ上るしばらくの期間を、その妻との別れを惜しむ情を抒べたものである。その期間は、延喜式にある調《みつぎ》を貢する日程でさえも、上り二十九日、下り十五日というのである。人麿の旅はおそらく、その下りの日程ほどをも要さないものであったろうから、短い期間のことであったろう。その期間の別れを惜しむ情を抒べるため(207)に、長歌二首、そのおのおのに二首の反歌の添ったという大連作をしているのである。人麿は連作を好んだ人であるが、これほどまでに際やかな連作を試みているのは、巻一(三六)より(四八)にわたる吉野宮行幸の際に献った賀歌以外にはないので、この歌は人麿にとっても力作というべきである。それほどのことにこれだけの力作を試みたということは、常識的に見て異常なことであって、人麿独自の内部生活に深い根ざしをもってのことで、そこから必然的に発したものと思わざるを得ない。その内部生活とは何かというと、人麿は現実生活に対してきわめて強い執着をもっていたが、その執着の中心を夫婦生活に置いていた。これは人間の一般性であって、ひとり人麿に限ったことではないが、彼の執着は特に強いものであって、執着の半面として必ずそれに伴うところの、それの遂げ難い悲哀を満喫したところの人で、そこに人麿の特色があるのである。これをその歌で見ると、人麿には夫婦関係の喜びを詠んだ歌といっては全くなく、あればすべてその満たされざる悲しみである。言いかえれば憧れを通しての悲しみである。その委細はしばらくおき、今この連作についてみても、彼はしばらくを妻と離れていなければならないということになると、そのいささかの不如意を通して、ただちに夫婦関係の全幅を思い返させられてき、その妻の価値をもかつて感じなかったまでに痛感してき、同時に永久に再びは逢えない別れででもあるかのごとき悲哀を感じるとともに強い憧れをも抱いてきている。これはおそらくは人麿に限ったことであって、その間の消息をこれらの歌はつぶさに語っているのである。
 この長歌は、二首の連作のその第一首であるが、二首は一貫した手法の下に詠まれている。手法というのはいわゆる道行き体である。道行き体の歌は上代の歌謡に少なくないものであるが、ことに民謡集である巻十三には多いもので、夫の妻問いを道行き体をもって詠んだものは、この当時の庶民にはきわめて愛好されたと思われる。この二首はその体に倣ったもので、国庁より京への使として国府を発し、角《つの》、和多豆《わたず》と海べ寄りの道を経て、高角山《たかつのやま》渡《わたり》の山、屋上《やかみ》の山と山道に移って、京の方へと向かって行く道行きである。この体は、行く行く景によって情を発し、景と情とを渾融させつつ、変化と統一とをもたせることを型としているものであるが、これらの歌もそれに倣ったも(208)ので、景は海と山、情は別れきたった恋を悲しむものである。この第一首は、海の景と、それが刺激となって思慕されてくる妻と、山の景と、山によって遮られて妻の里が見えなくなり、見えないのが刺激となって思慕が最高潮に高められ、言い難い悲哀となってくるのをもって打ち切ったものである。景としては山と海との対照、情としては思慕よりその高まりの哀情に至るのが、この第一首の大体である。
 表現の上から見ると、一首、小さな切れ目はあるが、心としては一と続きとなっていて、一句一文と異ならないものである。また、海と山とを対照的に扱っているところから、心としてはおのずから二段となっている。第一段は起首より、妻の住む角の里の海岸の美景を叙した「夕羽振る浪こそ来寄れ」までである。一に海の景である。一段二節になっており、前節は「よしゑやし潟はなくとも」までで、単調な、何の慰めもないことをいい、後節は、「鯨魚取り海辺を指して」以下で、和多豆の荒磯の玉藻沖つ藻の、風浪にゆらぐ美観があり、自身はそれによって独り慰められていることをいっているのである。この一段は、人には荒涼たる僻地の石見にも、我には妻があって慰められているという余意をあらわすとともに、さらに自体としては、第二段の序詞としたもので、玉藻は妻の譬喩となっている。その点、古歌謡の構成、また短歌の序詞と同様である。なお、第一段での「角」の捉え方は甚だ巧妙である。「石見の海角の浦廻を」と卒然と歌い出しているが、しかもそれは「浦なし」「潟なし」という平凡な景としてである。しかし事は妻の住地で、そこから発足したごとくである。すなわちこの歌としては重大な場所である。しかるに直接には妻に触れていわず、前進して和多豆に到り、浪に揺らぐ玉藻を見て連想し回想する、その直前において第一段を打ち切っているのである。これは道行き風の、情によって情を起こす型に従ってのもので、その起状はじつに巧妙である。
 第一段から第二段への移りも微妙である。第一段は叙景でとどめ、第二段はその叙景を承けて妻の譬喩として、「玉藻なす依り寝し妹を、露霜の置きてし来れば」と、全篇を貫く思慕の情の第一声を、思い出の形においてここでいい、上の角と隠約ではあるが緊密に照応させるところから、角が妻の里であるということは明らかにしているのである。
 なおついでにいへば、人麿は国司の一人として国府に住んでいなければならないのに、角はその国府からは四、五里も離れているので、妻の里としては遠きにすぎるという感が起きる。しかし上代にあってはこれは珍しくなかったことで、巻十三には、大和に住む男が近江の妻の家へ楽しんで通っている歌があり、なおその類のものが限りなくある上からも察しられる。またこれにつぐ(一四〇)の人麿の妻の歌により、人麿は発足前妻と逢っていることがわかるのである。
 第二段は、「浪の共か寄りかく寄る」以下結末までで、山を取材とした部分である。こちらは道行き体とはいえ、風景に触れるところはほとんどなく、惜別の情のみを主として一本調子に進め、最後に「靡けこの山」の高潮に至らせているものである。これは第一段との対照において、心理的に見ても自然なことであり、また技巧的に見ても変化あらしめていることで、これまた妥当を思わしめるものである。量としては全体の三分の一で、やや少なきにすぎる感があるが、これにつぐ反歌こそは、山の(209)風景の多いものであるから、それを連続せしめると、優に均衡を保ち得ているものとなる。
 なお細部的にいぅと、結末の五句が注意される。「夏草の念ひしなえて偲ふらむ妹が門見む靡けこの山」は独立した短歌に近いものである。反歌は長歌を要約しての繰り返しだということは、定説となっている。しかるに長歌の中心は普通結末にある。長歌を要約するということは、おのずから結末の繰り返しとなるのである。この結末は、それ自体が独立の短歌となりうるものなので、反歌の性質を知る上には、格好なる参考となるものである。また、「靡けこの山」という句は、その異常にして同時に心理的自然をもっている点で、人麿の歌にあっても名句のごとくいわれているものである。しかるにこの句に似たものが、しばしばいった巻十三(三二四二)にある。それは、「靡けと人は踏めども、かく依れと人は衝けども、心なき山の奥礒山《おきそやま》三野《みの》の山」というので、この歌はこの当時流行していたと思われるものである。伝統を重んじた人麿のこの結句が、その歌の影響を受けていないとは言い難いことで、また受けても怪しむに足りないことである。
 全篇を総括して、技巧の上から見れば、最も注意される一つの事がある。それは詠み方の際立って立体的だということである。本来道行き体は平面的になるべきものである。この体は、景によって情を発し、それを連続させることによって事の進行をあらわしてゆくものだからで、魅力もそこにかかっているのである。しかるにこの歌には平面的に事を叙そうとする心が少なく、最も肝腎なその妻との別れにさえも、いったがごとくきわめて隠約な間に、余情としてあらわす態度を取っているのである。全篇を貫いているのは惜別の情で、風景はその情を起こさしめる刺激として捉えているにすぎないものに見える。その意味においては、風景は惜別の情を具象化する方便であるかのごとくにさえみえる。和多豆の海岸の風景のごときは、明らかにそれを思わせている。この立体的なのはすなわち人麿の人柄の現実生活に執着の強かったということであるが、さらにいえば主情的であり、理想家肌であったということである。その歌の実際に即することの強いのは、一つは現実生活に執着することのためであるが、今一つは当時の歌風のいたさしめることである。またそのことの力強く輝かしいのは、人麿の詩情のいたさせることで、本質的にいえば理想家肌であったがためである。この事は、これにつぐ長歌についても同様である。
 
     反歌
 
132 石見《いはみ》のや 高角山《たかつのやま》の 木《こ》の間《ま》より わが振《ふ》る袖《そで》を 妹《いも》見《み》つらむか
    石見乃也 高角山之 木際從 我振袖乎 妹見都良武香
 
【語釈】 ○石見のや 「や」は、詠歎の助詞。国名をいっているのは、長歌の起首と同じく、その土地を重んじる心よりのことである。○高角山(210)の木の間より 「高角山」の名は今は明らかには伝わっていないが、江津市の島星山かといわれている。石見の国府から京へ上る道にある山で、国府から東にあたる都野、渡津の海寄りを経て、ただちに入り行く山で、しかも妻の里を見下ろす可能性のある山の中の高峯とだけは知られる。「木の間より」は、山の木の間を通してで、その山は木のある山だったのである。○我が振る袖を妹見つらむか 「振る袖」は、やや遠く離れていて語《ことば》の通じ難い場合、心を通わすためにするしぐさである。多くは女のすることで、女はまた領巾《ひれ》をも振ったので、集中にその例がきわめて多い。「妹見つらむか」の「つ」は完了、「らむ」は現在推量、「か」は、疑問の助詞で、妹は見ていたであろうか。
【釈】 石見の高角山の木立の間を通して、名残を惜しんでわが振る袖を、妻は見ていたであろうか。
【評】 高角山は、その名によって角の里にある山と想像される。それを越すと、妻の住んでいる里の見えなくなる、いわゆる見おさめをする山であったとみえる。その山を下ろうとして、見おさめをしつつ、遠くいて心を通わすしぐさとしての袖を振ることをしたのは、心理的には自然である。時は十月の末の初冬のことであるから、空が晴れていて、「妹見つらむか」という想像も起こりうる状態であったろうと思われる。しかし、常識からいえば、木の間隠れの人麿が妻に見えるはずはない。それを可能のことのように想像したのは、妻に対する憧れの情の極まつての妄念というよりほかはない。長歌の「妹が門見む」より、この「妹見つらむか」は、さらに昂奮の度の高いもので、異常な情熱である。道行き体の歌としての時間の推移に関係させてのことである。表現としては歌柄が大きく、堂々としていて、声調の高いものである。これは事の可能を信じて、当然の推量としていっているからである。
 
133 小竹《ささ》の葉《は》は み山《やま》もさやに さやげども われは妹《いも》思《おも》ふ 別《わか》れ来《き》ぬれば
    小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別來礼婆
 
【語釈】 ○小竹の葉は 「小竹」は、笹で、風に音を立てやすい物。『新考』は、石見の山には現在も笹の多いことを注意している。○み山もさやに 「み」は、美称。「山」は、高角山。「さや」は、動詞さやぐの語幹で、「さやに」は、さやぐさまの副詞。山がその葉ずれの音でさやさやとの意。「路も狭《せ》に」、「岩もとどろに」などと同じ語格で、「も……に」という形をもって、次の語の修飾句となっているもの。○さやげども 「乱」の訓は、諸説があって一定していない。旧訓は、「みだれ」、『代匠記』は「まがへ」、『考』は「さわげ」、『攷証』は「まがへ」で『代匠記』と同じく、『檜嬬手』は「さやげ」である。『講義』は、「乱」を「さやげ」と訓むべき例は古来一つもないとし、「まがへ」は成立し難く、「みだれ」の旧訓が最もあたっているものとしてそれに従っている。しかし、『講義』の引いている古事記、神武の巻の「畝火山|木《こ》の葉さやぎぬ」、巻十(二一三四)、「葦べなる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなべに」を初め、木の葉の風に鳴る音をさやぐという例は限りなくある。「乱」を「さやげ」に用いた例はなくても、ここは義をもってそう訓ませようとしたものと解したい。それは「乱」を「みだれ」と訓むと、視覚も加わって来る感が起こ(211)るが、ここは聴覚のみのものである方が、一首の心理として適当だと思われるからである。さらにいうと、一首の中心は「吾は妹思ふ」の一点に集中した気分にあり、それとの対照として捉えてあるものであるから、反対でありながらも相通うところのものでありたいからである。疑問を残して「さやげ」とする。意味は、鳴るけれども。○われは妹思ふ別れ来ぬれば 「われは妹思ふ」は、昂奮した気分が反動的に打沈んできた状態での心持である。「別れ来ぬれば」は、別れて来てしまったのでの意で、妻との距離の遠い見難いものであることを、上の句に注釈的に添えたもので、形からいえば上の句と倒句となっているもの。
【釈】 笹の葉は、山全体をもさやさやという音にしているけれども、我はただ妻を思っている。別れて来てしまったので。
【評】 高角山は、その高い所には木立があるが、その他は笹であったとみえる。今は高い所を去って、笹原の中の道を歩きつづけている時の心で、道行きとしての時間的進行を示している歌である。心理としても、袖を振った時の昂奮は鎮まって、今は全く見られないものとして、憧れの心を抱いて歩んでいるのである。すなわち時間に伴う心理の推移も示しているのである。技巧は、全山を占めている笹の葉の葉ずれの音と、わが沈んだ心との対照であって、その対照によって打ち沈んだ心を暗示しているのである。「乱友」を「みだれども」と訓んでも、同じく聴覚を主としてのものではあるが、初冬の風に、全山の笹の葉がさやかに鳴るということは、おのずから情を催させられるものであるから、この場合、その音の騒がしい中に、同時に一種のさみしさを感じたものと思われて、その点からいうと、視覚もまじる趣のある「乱友《みだれども》」よりも、純粋に聴覚のみの「さやげども」の方に心を引かれる。なお、「さやにさやげども」と、頭韻を踏んだと見ることが、その感情にふさわしく思われて、これまた心を引かれる点である。初句より三句までは平面的に環境を叙し、四、五句は反対に、その環境の中にある自身を立体的に捉えているところ、対照法の際やかに用いられている作である。上の歌とともに、浪漫的であると同時に、現実的であった人麿を端的に示している作である。
 
     或本の反歌
 
134 石見《いはみ》なる 高角山《たかつのやま》の 木《こ》の間《ま》ゆも わが袖《そで》振《ふ》るを 妹《いも》見《み》けむかも
    石見尓有 高角山乃 木間從文 吾袂振乎 妹見監鴨
 
【語釈】 ○石見なる 石見にあるで、下の「高角山」の位置を断わったもの。「石見のや」の強い感激のものに較べると、これは説明にしたものである。○木の間ゆも 「ゆ」は、より。「も」は、詠歎の助詞。○わが袖振るを われの袖を振ることの方を主としたもの。「わが振る袖を」は、「袖」が中心となっており、感動を主としたものであるが、これは事を主としたものである。○妹見けむかも 「か」は、疑問で、それに「も」(212)の詠歎の添ったもの。「妹見つらむか」は、「らむ」によって現在の疑問としてあるが、これは「けむ」によって過去の疑問としたもので、思い出の形である。
【釈】 石見にある高角山の木立の間から、わが袖を振ることをしたのを、妹は見たことであったろうか。
【評】 本行の方は、昂奮した感を、事をとおして詠んだもので、したがって訴えるものであるのに、これは事そのものの方を主として詠んだもので、事を説明したにすぎないものである。抒情の歌としては、内容が全く異なっている。これは人麿の作風ではない。思うに、この歌が伝唱されてゆくうちに、次第にわかりやすいものとされてゆき、ついにここまで来たのであろう。こうした現象は、口承文学としては普通のことである。
 
135 つのさはふ 石見《いはみ》の海《うみ》の 言《こと》さへく 韓《から》の崎《さき》なる いくりにぞ 深海松《ふかみる》生《お》ふる 荒礒《ありそ》にぞ 玉藻《たまも》は生《お》ふる 玉藻《たまも》なす 靡《なび》き寐《ね》し児《こ》を 深海松《ふかみる》の 深《ふか》めて思《も》へど さ宿《ね》し夜《よ》は いくだもあらず 這《は》ふつたの 別《わか》れし来《く》れば 肝向《きもむか》ふ 心を痛《こころいた》み 念《おも》ひつつ 顧《かへり》みすれど 大船《おほふね》の 渡《わたり》の山《やま》の 黄葉《もみちば》の 散《ち》りの乱《まが》ひに 妹《いも》が袖《そで》 清《さや》にも見《み》えず 嬬隠《つまごも》る 屋上《やかみ》の【一に云ふ、室上山】山《やま》の 雲間《くもま》より 渡《わた》らふ月《つき》の 惜《を》しけども 隠《かく》ろひ来《く》れば 天伝《あまづた》ふ 入日《いりひ》さしぬれ 大夫《ますらを》と 念《おも》へる吾《われ》も 敷《しき》たへの 衣《ころも》の袖《そで》は 通《とほ》りて濡《ぬ》れぬ
    角障經 石見之海乃 言佐敞久 辛乃埼有 伊久里尓曾 深海松生流 荒礒尓曾 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 深海松乃 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之來者 肝向 心乎痛 念乍 顧爲騰 大舟之 渡乃山之 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隱有 屋上乃【一云、室上山】山乃 自雲間 渡相月乃 雖惜 隱比來者 天傳 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而沾奴
 
【語釈】 ○つのさはふ石見の海の 「つの」は、今の蔦《つた》。『考』は、綱《つた》、蘿《つた》と通じて用いる字で、葛《つた》の意だとし、「さはふ」は、荒木田久老は『日(213)本紀歌之解槻落葉』で、「さ」は接頭語で「這ふ」か、または「多延《さはふ》」の意かとしている。蔦は石に多く這い纏わる意で、石にかかる枕詞。古くからあるものである。○言さへく韓の崎なる 「言さへく」の「さへく」は、「障ふ」と同様の語で、言葉が通ぜず、隔りある意で、「韓」にかかる枕詞。「韓の崎」は、『新講』は、石見風土記逸文に、「可良島秀2海中1、因v之可良埼云、度半里」とある地だという。それだと、渡津から東方十里ばかり、邇摩郡仁摩町宅野の海上にある韓島の、その海への出鼻である。『注釈』は、それでは道行き風の構成の上からみて、妻のいる角の里に遠過ぎるとして、文献と実地踏査の上から新解を試みている。それは渡津、江川、嘉久志、都野津、高田と道を進むと、高田の北の海岸に波子《はし》町があり、その東北に山があり、その海への出鼻の大崎鼻は、その辺の唯一の崎である。その山は今は名をとどめていないが、唐山と文献にある山で、その崎がここにある「韓の崎」だろうというのである。○いくりにぞ深海松生ふる 「いくり」は『講義』が詳しく考証している。『袖中抄』では「船路には石をくりともいへり」といい、『仙覚抄』では「山陰道の風俗、石をばくりと云也」といい、それ以外にもある。日本海の海岸で、航海の上で、暗礁を称する語である。「深海松」は、海松の一種。海松は海藻で食用とする物。形は松に似て、葉がない。深海松は、海の深い所の石に生えるからの称で、上の長歌の「沖つ藻」にあたる物と思われる。○荒礒にぞ玉藻は生ふる 「荒礒」も「玉藻」も、上の長歌に出た。この二句は、上の二句と対させたもので、海の叙景である。またこの海は、下の山と対させたもので、その対照は、上の長歌と同様である。○玉藻なす靡き寐し児を 「玉藻なす」は、上の玉藻をうけて、その玉藻のごとくの意。「靡き寐し」は、「靡き」は、靡き寄って。「寐し」は共寝をした。「児」は、愛称で、妻の意。○深海松の深めて思へど 「深海松の」は、同じく上の深海松をうけたもので、「の」は、上の「玉藻なす」に対させてある関係上、のごとくの意のものと取れる。その藻は海の深い所に生えるところから、心深くの意の深めの譬喩としたもの。心深く妹を思うけれどもの意。「玉藻なす」以下四句は、景によって情を起こしたもので、その関係は、上の長歌と同様である。○さ宿し夜はいくだもあらず 「さ宿し」の「さ」は、接頭語。「宿し」は、共寐をした。「いくだ」は、「幾ら」の古語。「あらず」は、連用形で、あらずしての意で、下の「別れ」に続く。○這ふつたの別れし来れば 「這ふつたの」は、這う蔦ので、蔦は這うまにまに蔓が別れるところから、意味で「別れ」の枕詞。「別れし来れば」は、「し」は、強意の助詞。別れて来たので。○肝向ふ心を痛み 「肝向ふ」は、肝は体内の五臓。「向ふ」は、それらが相対している意で、群がると同じである。心というものは、その間にあるものとして意味で心にかかる枕詞。「痛み」は、形容詞「痛し」の動詞化したものの連用形で、痛くしての意。心が悲しみのために痛くして。○念ひつつ顧みすれど 「念ひつつ」は嘆きつつで、「つつ」は継続。「顧みすれど」は、妻の里の方を顧みするけれども。○大船の渡の山の 「大船の」は、それの渡るところでの意で、渡《わたり》にかかる枕詞。「渡の山」は、所在は明らかでないが、江津市渡津付近の山、江川河口の渡り場近くの山かという。とにかく高角山より東方へ向かって進んで来るある地点の山である。この山と次の屋上の山とは、上の海としての韓の埼に対照させたものである。○黄葉の散りの乱ひに 「黄葉」は、実景として眼前にあるものである。「散りの乱ひ」は、「散り」も「乱ひ」もいずれも名詞である。「に」は、によって。黄葉の散り乱れて見分けのつかないために。「大船の」以下これまでの四句は、道行き体として山の風景を捉えていったものである。○妹が袖清にも見えず 「妹が袖」は、妻が我を慕って心通えと思って振っている袖の意である。「清にも見えず」は、「清に」はここは明らかには。「も」は詠歎。「見えず」は見られずで、明らかにも見られないの意。この二句は風景に刺激されて起こって来た感としていったものである。渡の山の位置はいったがようにわからないが、これ以下の続きによって、その日の夕方に近い頃に越えた山だということはわかる。その山から「妹が袖」の見えようはずのないことは当然のことであ(214)る。また妻も、その時まで袖を振りつづけていようとは、人麿も想像しなかったであろう。それなのに、そうしたことがあり得るように言っているのは、折から散っている黄葉の状態が、妻の振る袖の状態に似ていて、それを連想せずにはいられなかったものと思われる。今一つは、この黄葉の散っている場所は渡《わたり》の山の頂上で、そこからは上の高角山と同じように妻の里が見られうる所で、妹の袖の連想を支持するものがあったためと思われる。この頂上ということは迎えての感ではなく、この山と対させている次の屋上の山では、路が下りになっていることをいっているので、それとの対照として頂上ということが想像し得られることとしていっているものと思われるからである。「妹が袖清にも見えず」が連想としていっているものとすると、この二句は道行き体の型としているところの、風景の刺激によって起こってきた思慕をいおうとしてのものである。上の「黄葉の散りの乱ひに」とこの二句との続きがあまりにも緊密なので、一と続きのことをいっているがごとく感じられ、単に昂奮した思慕の情のいわせていたもののごとく取られるのであるが、それは作意ではなく解される。それで、上の二句と下の二句との間に、散る黄葉より連想されるところのという意を補って解すべきである。○嬬隠る屋上の山の 「嬬隠る」は、嬬が籠って住むの意で、屋と続き、いわゆる嬬星《つまや》をあらわす語で、屋の枕詞としてのもの。「屋上の山」は、所在は十分に明らかにはなっていない。『講義』は『日本地誌提要』に「高仙《たかせん》【又屋上山ト云、那賀郡浅利村ヨリ十三町五間】」とあるを引き、この浅利(江津市)は渡津からは東方で、山陰道の要路にあたっている。高仙山の辺りに屋上の山というがあればそれであろうといっている。また『新考』は、豊田八十代の実地踏査を引いているが、それは『講義』と同様である。大体高仙山がそれであろうと思われる。○一に云ふ、室上山 むろがみ山と訓むのであろうが、屋上の山の訓みの相違かと思われる。○雲間より渡らふ月の 「雲間」は、雲の絶え間。「より」は、進行の地点をあらわす語で、現在だと「を」であらわすもの。「渡らふ」は、「渡る」の未然形に「ふ」を添えて、その継続をあらわす語。渡り渡りするの意。「月の」は、月のごとくにの意のもの。雲の絶え間を渡り渡りする月のごとくにで、そうした月はしばらくより見えない意で「惜し」に続け、惜しを転義しての序詞。晴れた空に見る月よりもいっそう惜しまれるものであるところから、下の「惜し」の譬喩としていっているもの。「嬬隠る」以下これまでの四句は、道行き体の風景としていっているもので、屋上の山の実景である。○惜しけども隠ろひ来れば「惜しけども」は、後世の「惜しけれども」に相当する古格のもの。惜しいけれどもで、その惜しいのは、妻の里の全く見えなくなるのを惜しむ意である。「隠ろひ」は、隠るの継続をあらわす。「来れば」は、「来れ」は現在だと行けばというところで、前途に重点を置いていうところから、差別を付けていっているもの。次第に隠れ隠れして行くのに。この二句は、道行き体として、上の風景に刺激されて起こってくる思慕の情をいったものである。なお、「大船の」より「清にも見えず」までの六句と、「嬬隠る」以下「隠ろひ来れば」までの六句とは、その組立を一にした対句で、風景とそれより起こる感とを緊密に関係させたものであって、それとともに、道の進行をあらわし、時の推移をもあらわそうとしているものである。時の推移の方は、「入日さしぬれ」に至って明らかになっている。○天伝ふ入日さしぬれ 「天伝ふ」は、空を伝うで、日の状態をいってその枕詞としたもの。「入日さしぬれ」の「ぬれ」は、已然形のままで条件をあらわす古い語格であって、後世の「ぬれば」に相当するものである。なお、月が出ているとともに入日がさしているということは、矛盾するがごとくに感じられるが、初月に近い頃には普通に見られる珍しからぬことである。十一月一日には京にある予定をもって、調貢には二十九日を要する旅の第一日の夕べであるから、山上にあって冬空に出る細い月と入日とを見得たことは当然のことである。○大夫と念へる吾も 大夫すなわち立派な男子と自任している自分もで、思慕の情のさみしさに加えて、入日時の特殊なさみしさを感じさせられての余意をもったもの。○敷たへの衣の袖は通りて濡れぬ 「敷たへの」は、「敷」は、織目の繁(215)くあるすなわち良い物の意。「たへ」は、織物の総称で、讃える意で衣にかかる枕詞。衣、その他にも用いる。「衣の袖」は、涙を拭う物としていったもの。「通りて濡れぬ」は、涙が繁くして、濡れとおったの意で、上の大夫との関係上、涙を暗示的にいったもの。
【釈】 葛の多く這っている石《いわ》にちなみある石見国の、言葉に隔りある韓人《からびと》にちなみある韓の崎にある暗礁には、深海松が生えている。そこの荒磯には玉藻が生えている。その玉藻のごとくに我に罪き寄って共寝をしたかわゆい妻を、深海松のごとく心深く思ってはいるけれども、共寝をした夜とてはいくらもなくて、這う葛のように別れて来たので、悲しみのために心は痛くて、嘆き嘆き顧みをするけれども、大船の渡るにちなみある渡の山の、折からの黄葉の繁くも散り乱れるのに見分けがつかず、名残りを惜しんで妻が振っている袖が、はっきりとは見えない。妻が籠もって住む屋にちなみある屋上の【一にいう、室上山の】山の、折から雲の絶え間を移り移りして見える月のように惜しいけれども、妻の袖が隠れ続けて行くと、折しもさみしい入日が射して来たので、大夫《ますらお》と思っている我ではあるが、涙がしげくも流れて、それを拭う衣の袖は濡れとおってしまった。
【評】 この長歌も、その作意においても、その表現技法においても、前の長歌と全く揆を一にしたものである。すなわち作意としては、惜別の情の全幅を出そうとしているものであり、構成としては、海と山とを組合わせたものである。その上からいうと、全くの繰り返しである。異なるところは、道行き体として、場所と時間とを進展させ推移させてあることである。すなわち場所は、前の歌は、角、和多豆より高角山までであったのを、この歌ではそれより東方の韓《から》の崎より後、屋上の山までとし、時としては、前の歌では朝より昼のある時までであったのを、この歌では昼より夕べまでとしてあるのである。すなわち一日を二分したその後半の午後なのである。また構成の上にも異なるものがあって、前の歌では海の部分を多く、山の部分を少なくしているのに、この歌はそれとは正反対に、海の部分は少なく軽くし、山の部分を多く重くしているのである。これは二首を一連とする関係上、全体としての均衡を保たせようと用意しての結果と思われる。
 この歌も二段になっていて、第一段は海の部分で、起首より「別れし来れば」までである。「玉藻は生ふる」までは海としての風景で、それ以下はその風景によって起こさせられてくる思慕惜別の情で、道行き体の型に従ったものである。海の風景としての韓の崎は、何ら創意の認められないもので、人麿のものとしては平凡を極めたものである。情の方では、「寐し」「さ宿《ね》し」を重ねてそのことを強調しているが、これは当時の一般性であるとはいうものの、特に人麿の好んでいっていることで、その意味において注意されるものである。
 第二段は、「肝向ふ心を痛み」以下結末までで、これは山の部分である。一篇の中心はこの二段にあるが、表現技法はこの部分において極まっており、第一段と比較して勝っているという程度のものではなく、おそらくは人麿の生涯の頂点を示しているものであろうと思われる。その技巧の頂点というは、「大船の渡の山の、黄葉の散りの乱《まが》ひに、妹が袖|清《さや》にも見えず、嬬|隠《ごも》る屋上の山の、雲間より渡らふ月の、惜しけども隠ろひ来れば」の六句の長対である。ここの意義はすでに「語釈」でいったが、さらに総括していうと、人麿が渡の山で、「黄葉の散り」に「妹(216)が袖」を連想し、「その乱ひに」「清にも見えず」と嘆いたのは、時は初冬の晴れた日であり、距離は馬での山道の一日|路《じ》以内のことであるから、おそらくその里は清《さや》かに見えて、見えなかったのは妹が袖だけだったのであろう。六句を費やしていっているこのことは架空のことではなく、のみならず思慕の頂点たらしめたことだったのである。この六句は高らかにまた華やかに言い続けているが、これに対する次の六句とともに、その含蓄と余情においては限度以上を示しているもので、まさに驚歎すべきものである。なおまたこれは、問題は異なってくるが、人麿の創めたと思われる長歌の連作ということとも関係をもつことである。人麿の長歌の連作としては、これ以外には、巻一(三六)以下の「吉野宮に幸せる時、柿本朝臣人麿の作れる歌」と題するものがあるだけである。その歌は連作にせざるを得ぬ必要に駆られてのものである。すなわち(三六)は、天皇を一国の君主として仰いで賀したもの、(三八)は、天皇を現人神と仰いで讃えたものであって、この両面をいわないと、天皇に対しての賀の心は徹底し難いとして作ったものである。今のこの連作は、妻に対する思慕惜別といういささかの私情であって、長歌の連作というがごとき規模は要さないものとみえるが、しかしその情を按瀝し尽くそうとすると、長歌とせざるを得なかったのである。それは別れたる妻を思慕せしめらるる頂点は、再び見るを得ないと定めたその妻の里が、地勢の関係上、偶然な形において、今一たび視野に入りきたった時で、これは想像しやすいことである。人麿はこの旅においてそれを二度まで繰り返したのである。すなわち一度は高角山、一度は今の渡の山であって、しかも渡の山の方は、路の距離は加わり、時は夕べ近くなっていて、その最後の遠望であることは既定のことだったのである。この場合の人麿としては、それを中心としての歌を詠まずにはいられず、この要求は長歌の連作とせざるを得なかったのである。「大船の」以下の六句は、長歌の連作ということにもおのずからに触れているものである。さて、「嬬隠る」以下の六句は、形においては上の六句と長対をなしているが、心としては、対句の普通とする、意味を強めるための繰り返しのものとは全然別趣のもので、これは対立的なものである。すなわち渡の山ではいったがように山の頂上に立っての喜びであるが、この屋上の山では、それとは反対に山を下り行く悲しみなのである。すなわち高められたる思慕から、深められゆく惜別への推移を、道行きを通してあらわしているものなのである。その深められゆく惜別の情が、「天伝ふ入日さしぬれ」に極まって、ここに連作の長歌の結末となる。妙はいうべからざるものである。
 
     反歌二首
 
136 青駒《あをごま》の 足掻《あがき》を速《はや》み 雲居《くもゐ》にぞ 妹《いも》があたりを 過《す》ぎて来《き》にける【一に云ふ、あたりは隠り来にける】
    青駒之 足掻乎速 雲居曾 妹之當乎 過而來計類【一云、當者隱來計留】
 
(217)【語釈】 ○青駒の足掻を速み 「青駒」は、青毛と白毛とのまじった午の称である。青馬を貴ぶことは、中国から伝わったことで、青を陽の色として、それにあやかろうがためである。当時の道教の信仰からきているものと思われる。「足掻」は、馬の歩むことで、今もいっている。歩む様を具体的にいった語。「速み」は、速くして。○雲居にぞ妹があたりを 「雲居」は、雲の居る所、すなわち空であるが、転じて遙かなことの意にもした。ここはそれである。「妹があたり」は、妹の家のあるあたりを。○過ぎて来にける 「過ぎ」は、眼前の物でなくなる意で、遠く見えなくなることをあらわす語。「ける」は、「ぞ」の結び。○一に云ふ、あたりは隠り来にける 「隠り」は、「過ぎ」と心は同じである。
【釈】 わが乗る青駒の足掻が速くして、遙かにも、妻の家のあたりを、離れてきたことであるよ。
【評】 前の長歌もその反歌も、またこの長歌も、いったがように、道行きとして構成したものであるが、ここに至って、その道行きの進転に結末を付けた反歌を添えている。その結末も、駒の足掻が速いので、遠ざかってしまったと、一に駒に責めを負わせた言い方をしているのは、あくまでも感傷に終始したのである。「雲居にぞ」という語は、創意とまではいえないものであろうが、強い感をもったものである。一日の行程の隔たりを、こうした語でいっているのも、同じく感傷で、感はむしろこちらにあるといえる。長歌とのつながりは、「惜しけども隠ろひ来れば」の繰り返しとなっている。しかし哀感は長歌に譲り、叙事を主としたものにして、変化をつけている。この技法は人麿の創意である。
 
137 秋山《あきやま》に 落《お》つる黄葉《もみちば》 しましくは な散《ち》りまがひそ 妹《いも》があたり見《み》む【一に云ふ、散りなまがひそ】
    秋山尓 落黄葉 須臾者 勿散乱曾 妹之當將見【一云、知里勿乱曾】
 
【語釈】 ○秋山に落つる黄葉 「秋山に」は、長歌の渡の山を言いかえたもの。「黄葉」は、呼びかけ。○しましくはな散りまがひそ しばらくの間は、散り乱れずにいよで、上に続けて同じく命令したもの。○妹があたり見む 妻の家のあたりを見よう。○一に云ふ、散りなまがひそ 四句、一本にはこうあるというのである。意味は同じである。本行に較べると、感動より一歩説明に近づいたので、劣っている。人麿の加筆と思われる。
【釈】 秋山に落ちている黄葉よ。しばらくの間は、そのように散り乱れずにいよ。妻の家のあたりを見よう。
【評】 長歌の「大船の渡の山」以下六句の心を繰り返したものである。その六句はいったがように、妻に対する思慕の情の頂点をなしているものなので、この長歌を連作の形においてみず、一首の独立したものとしてみれば、この反歌は型どおりのものである。人麿以前の反歌はしばしばいったがように、長歌を要約して繰り返すということがほとんど型となっていたのを、人麿はその型を破り新生面を拓《ひら》いたのである。その上からいうと、この反歌は逆戻りをさせた形のものである。しかし長歌そのままではなく、新しい趣を加えてはいる。長歌では「妹が袖|清《さや》にも見えず」といって、単に見えない嘆きにしていたのを、これ(218)は「妹が袖」を「妹があたり」として範囲を広めている。長歌で察すると、妹が里は見えている。したがって「妹があたり」も見得られるはずである。ここにいっていることは、その見える妹があたりをあくまでも見ようとする心で、そしてそれとともに、そのことを妨げている黄葉の散りの繁さをも暗示しているのである。長歌の昂奮につぐやや沈静した気分で、落着きとともに美しさをもった、客観性の豊かな作である。すなわち繰り返しとはいえ、進展と新味とのあるものである。
 
     或本の歌一首并に短歌
 
138 石見《いはみ》の海《み》 津《つ》の浦《うら》を無《な》み  浦なしと 人《ひと》こそ見《み》らめ 潟《かた》なしと 人《ひと》こそ見《み》らめ よしゑやし 浦《うら》はなくとも よしゑやし 潟《かた》はなくとも 勇魚《いさな》取《と》り 海辺《うみべ》を指《さ》して 柔田津《にぎたづ》の 荒礒《あり》の上《うへ》に か青《あを》なる 玉藻《たまも》沖つ藻《も》 明《あ》けくれは 浪《なみ》こそ来よれ 夕《ゆふ》されば 風《かぜ》こそ来よれ 浪《なみ》の共《むた》 か寄りかく寄り 玉藻《たまも》なす 靡《なび》き吾《わ》が宿《ね》し 敷《しき》たへの 妹《いも》がたもとを 露霜《つゆしも》の 置《お》きてし来《く》れば この道《みち》の 八十隈《やそくま》毎《ごと》に 万度《よろづたび》 顧《かへり》みすれど いや遠《とほ》に 里《さと》放《さか》り来《き》ぬ いや高《たか》に 山《やま》も越《こ》え来《き》ぬ はしきやし 吾《わ》が嬬《つま》の児《こ》が 夏草《なつくさ》の 思《おも》ひしなえて 嘆《なげ》くらむ 角《つの》の里《さと》見《み》む 靡《なび》けこの山《やま》
    石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者離無 縱惠夜思 滷者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明來者 浪己曾來依 夕去者 風己曾來依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之來者 此道之 八十隈毎 万段 顧離爲 弥遠尓 里放來奴 益高尓 山毛起來奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 將嘆 角里將見 靡此山
 
【語釈】 ○津の浦を無み 「津」は、船の発着所の称で、「浦」は、入江。津となるべき浦がなくしてで、意としては通るが、下への続きが不自然である。「角の浦廻」のその「角」という地名を、この歌では結末に加えた関係上、ここにもあっては重複するとして、このような説明的な事柄(219)に歌い替えたと思われる。○柔田津の 「柔田津」という地名はないという。「和多豆」の「和」を、「にぎ」と訓んだところからのことと思われる。これも和多豆を知らない人のしたことと思われる。○明けくれば浪こそ来よれ 「朝羽振る風こそ寄らめ」を、「朝羽振る」の含蓄ある、したがってやや解し難き語を、「明け来れば」と平明なものに替えたのである。それとともに、「風」とあるのを、それよりも浪の方を印象的に思い、「浪」に替えたのである。いずれも伝承に伴って起こる普通な現象である。○夕されば風こそ来よれ 「夕羽振る浪こそ来寄れ」を替えたもので、理由は上と同じである。(一三一)は藻の浪に動揺することを暗示した、序詞としての叙景であったのを、単なる叙景としたのである。風と浪との順序の変わっているのも、そのためである。○靡き吾が宿し 「靡き」は、人麿が妻に寄った意。「依り寝し妹を」を替えたもので、人麿自身のこととした方が、哀感が深いものとして替えたと思われる。この替え方は、不自然で、甚だ平俗である。○敷たへの妹がたもとを 「敷たへの」は、上の長歌に出た。たもとへかかる枕詞。「たもと」は、ここは袖の意で、ここは妹そのものを言いかえたもの。この二句は(一三一)にはなくて、新たに加えられたものである。哀感を深めるためのものであることは、上に同じである。○里放り来ぬ 「里は」を、「里」と替えている。「里は」として、里に力を入れ、次の「山も」に照応させた微細さを失っている。○はしきやし吾が嬬の児が 「はしきやし」は、「愛しき」に「やし」の詠歎の添ったもので、「やし」は「よしゑやし」のそれと同様である。「嬬の児」の「児」は親しんで添えたもの。この二句は(一三一)にはないもので、本行のこれに続く「妹が門」がこちらにはないため、その補いとしてここに加えたものである。(一三一)の、昂奮し、それとともに飛躍をもって、わざと省いてあるものを、事柄を平明にしようがためにここに加えたのである。すなわち気分を主として、飛躍をもっていってあるのを、事柄を主として、細かく説明したのである。伝承の結果として極度に平明化したのである。○嘆くらむ角の里見む 「偲ふらむ妹が門見む」を替えたものである。(一三一)の、気分より描き出した、感覚的な「妹が門」という語を、常識的に、事件的に「角の里」に替えたので、それにつれられて、「偲ふらむ」よりも「嘆くらむ」という一般的の語に替えたものと思われる。
【釈】 (一三一)の歌との相違は「語釈」にゆずって、省く。
【評】 「或本」というのは、人麿の長歌が、時の人に愛唱され、また伝承されて、「和多豆」という地名を、「柔田津」と訓むような地方、すなわち石見の土地を知らず、文字によってのみ訓んで知るという、いわゆる国境を越えたものとなった時に、何びとかによって記録せられたのが、この「或本」である。その時には、人麿の感情そのものよりもその感情を生み出した事件、環境の方が主となり、それを理解しやすい、すなわち合理的なものにしようとして、人麿が「靡けこの山」と命令した、それがそのとおりになれば、角の里が見えることでなければならないとして、「妹が門」を「角の里」と替えたのである。したがって起首の「角の浦廻」は重複するものとなるので、平明ではあるがきわめて拙い説明に改められたのである。その他もすべて、理解しやすいために平明な説明にし、また感傷的にするために余分な句までも添加していることは、「語釈」でいったごとくである。これは口承文学としては共通な運命であって、ひとりこの作にとどまったものではない。このようなことの起こった経路はもとより不明であるが、人麿がこの作をした時と、本巻の編集された時とは幾ばくの時間的距離のない点から想うと、彼はこの京への途上の作を、京に逗留中、多くあったろうと思われる詞友に示し、その歌稿が、詞友より他の人々に示されて、(220)半解の人によって誤写され、口承されているうちに、ついにこ  のような形のものとなったのであろうと推測される。
 
     反歌一首
 
139 石見《いはみ》の海《うみ》 打歌《うつた》の山《やま》の 木《こ》の間《ま》より 吾《わ》が振《ふ》る袖《そで》を 妹《いも》見《み》つらむか
    石見之海 打歌山乃 木原從 吾振袖乎 妹將見香
 
【語釈】 ○石見の海 本行の「石見のや」を変えたものである。下の「山」の所在をあらわすものとしていったものなので、「海」というのは通らないものである。○打歌の山の 旧訓「うつたのやまの」としてある。「打歌」を「高角」の「高」にあてたものという解もあるが、それも誤脱の経路を想像したにすぎないものである。文字は諸本すべてこのとおりである。記録の際にすでにこうなっていたものと思われる。
【釈】 本行との相違は初二句だけで、それはわからないので、釈すべきでない。
 
     右、歌の体同じと雖も、句句相替れり。此《これ》に因りて重ねて載す。
      右、歌躰雖v同、句々相替。因v此重載。
 
     柿本朝臣人麿の妻|依羅娘子《よさみのをとめ》、人麿と相別るる歌一首
 
【題意】 依羅娘子は、依羅は氏、娘子は女子を敬愛しての称で、妻にもいった。この氏につき、『講義』は詳しく考証している。依羅氏は摂津、河内などに住んで、それが地名ともなっている。この氏には、新撰姓氏録によると宿禰の姓のものと連の姓のものとあり、宿禰姓の方は開化天皇より出で、連姓の方は饒速日命と、百済国人より出ている。娘子はその中のいずれとも知れない。娘子は石見国に住んでいた人で、上の長歌にある妻と思われる。それはこの歌の排列順もそう思われるとともに、人麿が石見国で死に臨んで作った歌についで、「柿本朝臣人麿死せし時、妻依羅娘子の作れる歌二首」(二二四−二二五)とあって、それによると人麿の墓所の見られる辺りに住んでいたことがわかるからである。(一三五)は「さ宿し夜はいくだもあらず」とあり、結婚後、時久しくはなかったことが知られる。
 
140 な念《おも》ひと 君《きみ》は言《い》へども あはむ時《とき》 いつと知《し》りてか 吾《わ》が恋《こ》ひざらむ
(221)    勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不戀有牟
 
【語釈】 ○な念ひと君は言へども 「な」は、「なそ」と対させる語法で、禁止の意をあらわす語。嘆くなと君はいわれるけれどもで、別れに臨んで妻の嘆くのを見て、人麿が慰めたのに対して、それを押し返していったもの。○あはむ時いつと知りてか 「あはむ時」は、人麿が任を果たして、石見国へ帰って来る時で、その時をの意、「いつと知りてか」は、いつとあてを付けてかで、「か」は、疑問の助詞。○吾が恋ひざらむ 吾が恋いずにいられようかで、遠路の旅の不安さから、帰期も知れないもののように感じ、嘆かずにはいられないと、理由をあげて反語風にいったもの。
【釈】 嘆くなと君はいわれるけれども、君と再び逢う時を、いつとあてを付けて、恋いずにいられようか、いられはしない。
【評】 京へ上る前に、人麿が妻と逢って別れを告げた際、妻の詠んだ歌である。「な念ひと君は言へども」というので、人麿の慰めの言葉に対して詠んだものであることがわかる。こうしたやや久しい別れをする際などに、悲しみ慰めを言いかわすに、歌の形式をもってするということは、当時にあっては普通のことであった。妻が歌をもって答えている以上、人麿も歌をもっていったと思われる。その歌の伝わらないのは、逸してしまったのであろう。しかし歌のなかったということもありうることであるから、どちらともいえない。この歌は、女性らしい感傷を含んだものではあるが、全体として見ると、心の落着いた、意志の勝ったものである。感傷は「いつと知りてか」というに現われている。人麿の旅は国司の一人として公用を帯びてのもので、復命の必要上、帰期も定められていたものと思われる。もとよりいつと知られないようなものではない。それをこのような語をもってしているのは、夫の長途の旅に対する不安をこめて、妻にふさわしい嘆きを言いかえたものである。ここに感傷が見える。しかしこの感傷は、人麿の「な念ひ」というのを押し返して、その押し返しを合理化するためのものである。しかも人麿の「な念ひ」という心も、十分汲取っての上のものでもある。当時は言霊信仰の保たれていた時代で、このような長途の旅立ちの際には、不安、不吉な言葉をいわないのが風となっていた。この歌の三、四句は、その意味ではふさわしくないものである。直情的な、信仰を顧慮し得ない人であったともみえる。教養の程度も関係していたかもしれぬ。
 
 挽歌《ばんか》
 
【標目】 挽歌は、巻一、二を通じて三部に分類し、雑歌、相聞、挽歌としてあるその挽歌である。これは死者を哭する歌であって、後の勅撰集の哀傷の部にあたるものである。挽歌は漢語で、本来は中国で、柩を挽く時の歌の称であったが、次第に意味が汎《ひろ》くなり、葬儀に用いる歌の称となり、さらに死者を哭する歌の称ともなって、文選には、その最後の意味で一つの部立となっ(222)ている。わが国にもこの種の歌はきわめて古くから存在していたので、それをあらわすにこの語を採り用いたのである。
 
     後岡本宮御宇《のちのをかもとのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代  天豊財重日足姫天皇《あめのとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと》、譲位の後、即ち後岡本宮なり
 
【標目】 斉明天皇の御代で、巻一に出た。
 
     有間皇子《ありまのみこ》、自《みづか》ら傷《かなし》みて松《まつ》が枝《え》を結《むす》べる歌二首
 
【題意】 有間皇子は、孝徳天皇の皇子で、御母は、阿倍倉梯麻呂大臣の女小足媛で、斉明天皇には御甥である。皇子はこの御代に不軌を図り、病を療するためと偽って紀伊の牟婁《むろ》の温湯に往き、帰り来たってその国体勢《くにがた》を讃め、天皇の御心を動かして行幸の事をあらせようとした。斉明天皇には、四年十月十五日その地に行幸になった。皇子はその留守中に事を企てたが、十一月五日、発覚して捕えられ、その九日、行宮に送られ、中大兄皇太子の訊問を受け、同じき十一日送り帰され、途中、紀伊の藤白の坂において死に処せられた。御年十九である。歌は行宮へ送られる途中でのもので、事の容易ならぬを察し、みずから傷《かな》しんで詠んだものである。歌は当時、身の無事を祈る呪《まじな》いとして草の葉または木の枝を結ぶことをしていたが、これは自身の魂を結びこめて置き、再び無事で見ようという心よりのものである。ここもそれで、磐代にある松の枝を結び、歌はその呪いの心を強めるために詠まれたものである。この結びのことは巻一(一〇)に出た。
 
141 磐代《いはしろ》の 浜松《はままつ》が枝《え》を 引《ひ》き結《むす》び 真幸《まさき》くあらば また還《かへ》り見む
    磐白乃 濱松之枝乎 引結 眞幸有者 亦遠見武
 
【語釈】 ○磐代の浜松が枝を 「磐代」は、紀伊国日高郡南部町西磐代。牟婁温湯(白浜町湯崎)に行く要路にあたっている。巻一(一〇)に出た。「浜松」は、浜辺にある松。○引き結び 「引き結び」は、巻一(一〇)に出た。幸いを祈ってする呪い。○真幸くあらば 「真」は、真の意のもの。「幸く」は、幸いにで、無事という意をいったもの。○また還り見む 再び立ち還って来てこれを見ようの意で、牟婁の湯へ行かれる途中でのことと取れる。
【釈】 磐代のこの浜辺の松の枝を引き寄せ結んで呪いをし、その呪いがかなって無事であることを得たならば、また立ち帰って来てその松を見よう。
(223)【評】 生命の危険を痛感されていての作である。皇子の感情は、無事を得るための呪いとしての木の枝を結ぶことに集中している。「磐代の浜松が枝を引き結び」は、今、松が枝を結ぼうとする心である。この結びは木の枝でも草の葉でもよく、何をと限ったものではない。それを「磐代の浜松が枝」と、その地名をいい、木の名をいい、その在り場所までも添えていっているのは、当時の歌風として実際に即した言い方をしようがためばかりではなく、また美しくいおうとするためでもなく、呪いそのものを鄭重にいおうがためであって、少なくともそれが主となっているのである。これは呪いを尊重し、その霊力によって救われようとする心からのことである。「真幸くあらば」は、それほどに信じ頼む呪いでも、はたしてわが生命を救いうるかどうかとの疑いを抱いた心からのものである。これは呪いのもつ霊力に対する疑いではなく、危険の必至を怖れる情のいわせたものである。結句「また還り見む」は、四句のようには感じるが、思いかえして、またその呪いの霊力に縋《すが》り頼もうとする心を、今より引き寄せ結ぼうとする浜松が枝そのものに寄せてあらわしたのである。一首、生命の危険を痛感させられている皇子の心情の、結びをしようとする直前の現われで、そのゆらぎをさながらにとどめているものである。しかし皇子は、送還の途上、磐代を過ぎ藤白の坂で絞首されたのである。
 
142 家《いへ》にあれば 笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を 草枕《くさまくら》 旅《たび》にしあれば 椎《しひ》の葉《は》に盛《も》る
    家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛
 
【語釈】 ○家にあれば笥に盛る飯を 「家」は、下の「旅」に対させたもので、皇子の京にある邸。「笥」は、ここは飯を盛る器で、飯笥《ものけ》といった。この当時は、高貴の方の飯笥は、すでに銀器であったろうと『講義』は考証している。 ○草枕旅にしあれば 「草枕」は、既出。「旅にし」の「し」は、強め。○椎の葉に盛る 「椎の葉」は、笥の代用としての物。当時の飯は強飯であるから、椎の葉を重ねた上にならば盛り得られる物(224)である。椎の葉はその辺りに有り合わせた物で、便宜に任せての物と取れる。木の葉に食物を盛ることは、上代には普通のことであって、この当時も庶民のためには格別のことではなかったろうが、皇子としては思いもよらぬことだったのである。
【釈】 家にいれば、笥《け》に盛る飯であるのに、こうした旅のことなので、椎の葉に盛っている。
【評】 食事の際、椎の葉の上に盛った飯をすすめられたのを見られて、ふと京の邸における日の笥と対比されての感慨である。皇子とはいえ今は大罪の嫌疑者であるから、取扱いがすべて疎路であって、笥としての椎の葉はその一つと思われる。この歌は事としては旅にあって家を恋うという、いわゆる旅愁の範囲のものである。しかしこの歌には、家を恋うということは、語としてはもとより気分としても認められず、心の全体が眼前の笥としての椎の葉に集中されているのである。また一首の調べも、前の歌の烈しいながらに華やかさを失わず、強さを含んでいるのとは違って、ただ素撲に、落着いて、緩やかにいっているものである。皇子は笥としての椎の葉に自身を大観し、過去、現在、未来をその上に観ずる心となっていられたことが、その表現によって直接に感じられる。一首の歌として見るとさしたる所のないものであるにかかわらず、読む者に沁み入る力を怪しきまでにもった歌である。前の歌と同じく、牟婁へ送られる途上においてのものと思われる。
 
     長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》、結《むす》び松《まつ》を見て哀咽《あいえつ》せる歌二首
 
【題意】 「長忌寸意吉麿」は、巻一(五七)に出た。伝は詳かでないが、大体藤原宮時代の人で、後岡本宮時代よりは五十年ばかりも後の人である。その人の歌がここにあるのは、類によって載せたのか、あるいは人の加えたのであろう。「結び松」は、有間皇子の結ばれた松のことであるが、皇子は無事で磐代は過ぎられたのであるから、その結びは自身解かれたのであろうから、結び松はすでに口碑のものとなっていたとみえる。
 
143 磐代《いはしろ》の 岸《きし》の松《まつ》が枝《え》 結《むす》びけむ 人《ひと》はかへりて また見《み》けむかも
    磐代乃 崖之松枝 將結 人者反而 復將見鴨
 
【語釈】 ○磐代の岸の松が枝 「磐代」は、皇子の歌と同じ。「岸の松が枝」は、皇子の「浜松が枝」を言いかえたもの。下に「を」の略されているもの。○結びけむ人はかへりて 「結びけむ」は、皇子の「引き結び」を婉曲に言いかえたもので、婉曲にしたのは敬意からのことである。「けむ」は連体形で、下に続く。「人」は、皇子で、これまた婉曲にしたもの。その心は上と同じ。「かへりて」は、皇子の「還り見む」といったその「還り」によったもの。○また見けむかも 皇子の「また還り見む」により、それに疑問の「か」に、詠歎の「も」の添った「かも」を加えた(225)もの。
【釈】 磐代の岸の松が枝を結んで呪いをされたであろうところの人は、その時の歌のごとくに、立ち還って来てまたその松を見られたことであろうか。
【評】 何らかの官命を帯びて紀伊に行き、話にだけ聞いていた結び松をはじめて眼にして詠んだ歌とみえる。題詞の「哀咽せる」はおそらく意吉麿自身の添えたものであろう。とにかく歌はこの題詞にふさわしいものである。有間皇子の事件は五十年前にすぎないことであるから、歴史上の事実とはいってもさして古いことではない。しかるにこの歌には、皇子その人に対する批評の心は全然なく、あるのはただ皇子の残した歌のあわれさだけである。それは一首全体が皇子の歌に取縋ってのものであり、のみならずそのあわれさを敬意をもって見、皇子の歌で明らかなこともいうに忍びないこととして、わざと婉曲に言いかえていることで明らかである。古歌のもつあわれさに溺れ尽くして他意のないというこの態度は、まさに文芸心であって、時代のもたせたものと取れる。松という自然物に対して人事を悲しむという態度も、同じく文芸心のなさせることである。
 
144 磐代《いはしろ》の 野中《のなか》に立《た》てる 結《むす》び松《まつ》 情《こころ》も解《と》けず いにしへ思《おも》ほゆ【未だ詳かならず】
    磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念 未v詳
 
【語釈】 ○磐代の野中に立てる 「野中」は、前の歌では「岸」といったのを、言いかえてある。地勢が岸ともいえ野中とも言いうる所であったと取れる。実際に即そうとする心からのことと思われる。○結び松 題詞に出た。その松の名とされていたことがわかる。○情も解けず 「情解く」は、情の伸びやかに、快い状態をいった語。これはその反対で、心結ばる、すなわち鬱屈した状態をあらわす語である。皇子のことを思って悲しむ心である。「情も」の「も」は、わが心もまたで、松に並べていったもの。「解けず」は、「結び松」の結びと対させたものである。○いにしへ思ほゆ 昔の事が思われるで、皇子の最期のあわれさを総括的にいったもの。○未だ詳かならず この注は、後人の加えたものだろうとされている。題詞に「二首」とあるその一首で、歌風も前の歌と同じだからである。『講義』は、この歌は拾遺集に取られてい、それには作者を人麿としていることを注意し、作者の動揺の証としている。
【釈】 磐代の野中に立っている結び松よ。これを見ると、わが心もまた、松と同じく悲しみのために結ぼれて、古のあわれであったことが思われる。
【評】 前の歌は古のあわれさに迫るものがあり、したがって動きをもっていたが、この歌は甚しく距離を付け、したがって余裕をもったもので、静かな感傷にすぎないものとなっている。「結び」と「解け」という語の照応をねらっているのは、その態(226)度から出たもので、この歌を低調なものとしている。こうした語そのものの興味は、口承文学にあっては伝統的な、根深いものとなっていたが、すでに個人的な作風に移ったこの歌にあっては、文芸性の末梢的なものにすぎなくなり、作風とは矛盾するものとなったのである。
 
     山上臣憶良《やまのうへのおみおくら》、追《お》ひて和《こた》ふる歌一首
 
【題意】 山上臣憶良は、巻一(六三)に出た。「追ひて和ふる」は、後より追って唱和する意である。上の意吉麿の最初の歌に対してである。憶良も続日本紀の大宝元年の条に名が出ているので、意吉麿と同時の人であるが、意吉麿の歌が先に成立していたので、それを見て追加したものと思われる。
 
145 あまがけり あり通《がよ》ひつつ 見《み》らめども 人《ひと》こそ知《し》らね 松《まつ》は知《し》るらむ
    鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
 
【語釈】 ○あまがけり 「鳥翔成」は、諸訓があり定まっていない。『考』は「つばさ」と訓んだのを『攷証』は「かける」と改めた。「かける」は集中に用例があり、最も妥当だとして『全註釈』も従っている。「成」は「なす」で、のようにの意の語で、動詞の連体形へ接している用例がある。「鳥翔」は、鳥の翔《か》けるがようにの意で、これは有間皇子の魂の状態をいったものである。上代の信仰として、死んだ人の魂は鳥の形となって、生きていた時心を寄せていた所へ自在に翔《と》びゆきうるものとしていた。日本武尊の魂が、白鳥となって、伊勢より大和へ翔んだというのは、最も有名な例で、ここもその心のものである。しかし『注釈』は、佐伯梅友氏の「あまがけり」と義訓しているのに従っている。神霊の行動を叙する語としては、最も妥当なものであり、現に憶良の巻五(八九四)にも用いている例がある。一首のさわやかな上から見ても、「かけるなす」の小刻みなのは不調和である。従うべき訓と思われる。○あり通ひつつ見らめども 「あり通ふ」は、一つの語。「あり」は継続をあらわす語で、継(227)続して通うの意である。思いつづけてというにあたる。「見らめども」は、結び松を見ているであろうけれども。○人こそ知らね 人は知らないが、すなわち、魂の行動は人には認められないけれども、しかしの意。「ね」は打消の助動詞で、「こそ」の結びであるが、「人こそ」「松は」というように対照した場合は、人は知らないが、松はの意を成す。○松は知るらむ 松の方は知っていようの意。
【釈】 皇子の魂は空を飛んで、生前心を寄せた結び松に通いつづけて見ていられるであろうけれども、それを人は知らない、しかし松の方は知っていよう。
【評】 意吉麿が、「人はかへりてまた見けむかも」と、皇子の心の遂げられなかったのを思って悲しんでいるのに和して、憶良はそれを否定して、皇子の魂は生前の心を遂げつついる。その事は人間は知らないが松は知っていようとしたのである。憶良はわが古代よりの信仰の、この当時次第にやや推移しつつあった中に立って、人麿と同じく堅く古風を守っていた人であることは、その歌によっても明らかである。この歌にいっているとろも、その信仰より発したものと思われる。そのことを最も直接にあらわしているのは、この歌のもつ調べの、粘り強く屈折をもっていることである。こうした調べは、その胸臆の直接の披瀝ということからのみ現われるもので、それをほかにしては見られないものである。この歌には、皇子を悲しむ心はなく、慰めまつろうとする心が現われている。慰めることは挽歌の精神で、悲しみもその中のものである。
 
     右の件の歌|等《ども》は、柩を挽く時に作れるにはあらざれども、歌の意に准擬《なぞら》へて、故《かれ》挽歌の類に載す。
      右件謌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、准2擬歌意1、故以載2于挽哥類1焉。
 
【釈】 「右の件の歌等」は、皇子の歌、意吉麿、憶良の歌のすべてをさした語。「柩を挽く時に作れる」は挽歌ということを言いかえた語である。これは後人の注である。なお以下にも、この類の歌が載せられている。
 
     大宝元年辛丑紀伊国に幸しし時結び松を見る歌一首 【柿本朝臣人麻呂歌集の中に出づ】
 
【題意】 文武天皇の大宝元年の紀伊国への行幸は、続日本紀に出ている。この歌、元暦本、金沢本などほとんどの本に、「柿本朝臣人麿歌集の中に出づ」とある。
 
146 後《のち》見《み》むと 君《きみ》が結《むす》べる 磐代《いはしろ》の 子松《こまつ》がうれを 又《また》見《み》けむかも
(228)    後將見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又將見香聞
 【語釈】 ○後見むと君が結べる 「後見むと」は、後に還って来て見ようと思つてで、有間皇子の「また還り見む」(一四一)という語によっていったもの。「君」は、有間皇子。○子松がうれを 「子松」の「子」は、小で、愛称。小さいものは愛らしいというつながりはあるが、小さい意ではない。巻一(一一)に出た。皇子が松を結ばれた時から大宝元年までだけでもすでに四十三年を経ている。相応な松でなければならぬ。「うれ」は、草木の生長盛りの物の末の部分の称。○又見けむかも 意吉麿の(一四三)の結句と同じ。
【釈】 後に見ようと思って皇子が結んだ、磐代のこの松の梢を、またも見られたであろうか。
【評】 結び松を見て有間皇子を思い、その呪いのかなわなかったことを通して皇子を憐れんだ心のものである。憐れみという一事だけを捉え、落着いた、緩やかな調べをもっていっているので、美しさの添ったものとなっていて、そこに魅力がある。(一四三)の意吉麿の歌以後のものと同じく、結び松にちなみのあるものとして、時代にかかわらずに添えたものである。一応完結させて注を添えた後に、さらに同じ性質のものを続けているのは、前例にならって後人のここに書き入れたものであることを語っている。
 
     近江大津宮御宇《あふみのおほつのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代  天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇、謚を天智天皇と曰す
 
【標目】 巻一に出た。
 
     天皇 聖躬不予の時 太后《おほきさき》の奉れる御歌一首
 
【題意】 天皇は、天智天皇。聖躬は天皇御一人にのみ使う語。不予は天皇の病いにかからせ給う意。この事は日本書紀に、天皇の十年九月と十月の条に出ている。その間のことである。太后は、当時皇后を称した国語で、他の妃嬪と区別しての称。皇后は倭姫皇后で、天皇の庶兄|古人大兄《ふるひとのおおえ》の御娘。天皇の皇太子の時よりの妃で、皇后となられた方である。
 
147 天《あま》の原《はら》 振《ふ》り放《さ》け見《み》れば 大王《おほきみ》の 御寿《みいのち》は長《なが》く 天足《あまた》らしたり
    天原 振放見者 大王乃 御壽者長久 天足有
 
(229)【語釈】 ○天の原 「天の原」は、広い天の意。天は空とは別なもので、上代信仰では儼たる霊界とし、聖寿も一にそこにあるものとしてのもの。○振り放け見れば 「振り」は、動詞に冠する強意の語。「放け」は、距離をつけることで、ふり仰いで見れば。祈りの状態である。○大王の御寿は長く 「大王」は、天皇。「御寿は長く」は、聖寿は長久に。○天足らしたり 「天足らす」は、一語で、「足らす」は足るの敬語、「たり」は「てあり」の約で、天に充足していらせられるの意である。
【釈】 広い天をふり仰いで見ますと、天皇の御寿《みいのち》は、天に充足していらせられます。
【評】 御作歌の事情は、題詞で明らかである。天皇御不予にて、御大事に見えた時、皇后が信仰の対象となっていた広い天を仰ぎ、聖寿の万歳を祈った際の直覚で、祝いの心をもって天皇に奉った御歌である。一首、熱意をもってただちに信仰の中核を詠まれたもので、心と調べとが渾然と溶け合って、高い響となっているものである。王者のみのもちうる堂々たる貫禄のある御歌である。
 
     一書に曰はく 近江天皇の聖体不予 御病|急《すみやか》なりし時 太后の奉献《たてまつ》れる御歌一首
 
【釈】 これは、別の資料にあった歌で、類をもってここに収めたものである。
 
148 青旗《あをはた》の 木旗《こはた》の上《うへ》を 通《かよ》ふとは 目《め》には見《み》れども 直《ただ》にあはぬかも
    青旗乃 木旗能上乎 賀欲布跡羽 目尓者雖視 直尓不相香裳
 
【語釈】 ○青旗の木旗の上を 「青旗」は、青い色をした旗で、これは旗布の色をいったもの。青い色というのは、麻布《あさぬの》の色だろうと『全註釈』はいっている。「の」は、同意義の名詞を連続させる意の助詞。「木旗」は、木すなわち棹にたらした旗である。これは現在でも祭礼の時に立てる幟《のぼり》と同じ性質の物である。幟は天降《あまくだ》る神霊の宿られる物として祭場に立てる物である。この場合もその意味の物で、神々の加護を乞うために幟を立ててあつたと解される。したがって一本とは限らない。「上を」は、その幟の上辺を。○通ふとは 過ぎてゆくとは。上代の人は肉体と魂とは別箇のもので、肉体に魂が鎮まっている時は健康な時、魂が離れ去る時がすなわち死だと信じていた。この「通ふ」は天皇の御魂が聖躬を離れて神上《かんあが》りされる状態である。したがって「御病急なりし時」は崩御の直前の意で、ここは崩御の際のことである。○目には見れども直にあはぬかも 「目には見れども」は、天皇の御魂の過ぎゆくことを目には見るけれども。「直にあはぬ」は、御魂と直接には逢い得ない意で、「かも」は詠歎である。これは御魂の過ぎゆくことを、木旗のその時の状態で感じ得られるが、御魂そのものを直接に認めることはできない嘆きである。この二句(230)は信仰の上に立つての一瞬時の精神状態の叙述で、隠微な消息である。
【釈】 青い旗布で、棹にたらした旗の上を、天皇の御身を離れた霊は通ってゆくとは、目には見るけれども、直接にはお逢い申せないことであるよ。
【評】 倭姫皇后が、近江天皇の御病いが切迫された際、「青旗の木旗」に御目を注いでいられたというのは、宮廷の庭上を祭場として神々へ祈願を立て、天降《あまくだ》る神々を待っていられたためであろう。しかるにその立て並べてある旗がこちらからそちらへかけて揺らぎ渡るというような状態を認め、天皇の御魂が神上《かんあが》られたということを意識された際の御心境の表現である。中核はその際の皇后の悲しみであろうが、その悲しみは崩御そのことに対してのものではなく、神上ります御魂を直接目に見ることのできない悲しみなのである。死生は一に天の原にまします神々の意志によることとし、また御魂は不滅のものであると徹底的に信じていられるところから、このような悲しみ方をしたものと察しられる。その徹底の程度は、「青旗の木旗の上を通ふとは」と、印象的に、細かく旗の状態を叙し、「通ふとは」の一句によって、天皇の御魂の神上られたことをあらわしているのは、その事自体はくわしくはいうにも及ばないとされている表現、また、「目には見れども直にあはぬかも」と、御魂そのものを直接には認め難いことをもって、悲しみの頂点とされている表現、さらにまた、一首全体を貫いている沈静なる美しさは、その信仰の徹底した深さはもとより、皇后の人柄のゆかしさをも十分にうかがわせる御歌である。上の作と相並んで珍重すべき御歌である。
 
     天皇|崩《かむあが》り給ひし時 倭太后の作りませる御歌一首
 
149 人《ひと》はよし 念《おも》ひ息《や》むとも 玉蘰《たまかづら》 影《かげ》に見《み》えつつ 忘《わす》らえぬかも
    人者縱 念息登母 玉蘰 影令所見乍 不所忘鴨
 
【語釈】 ○人はよし念ひ息むとも 「人は」は、我以外の者はで、御自身に対させたもの。「よし」は、そのままに許す意で、よしやというにあたる。「念ひ息むとも」は、「息む」は止むで、慕い止める、すなわち忘れるともで、崩御せられた天皇に対する悲哀の情に対していわれたもの。○玉蘰 『講義』は、日本書紀、持統天皇元年三月の条に、「以2花縵1進2于殯宮1此曰2御蔭1」とあり、また翌二年三月の条にも「以2花縵1進2于殯宮1」とあるを引いている。これは天武天皇の殯宮の時で、ここもそれと同じ花縵である。「玉」は美称で、「蘰」は蔓を編んで花環のようにした物である。「蔭」とも呼んだので、同音の語の「影」につづけ枕詞とする。○影に見えつつ 「影」は、蔭を同音異義で転じたもので、面影の意。「つつ」は、継続。○忘らえぬかも 「忘らえぬ」は、忘られぬ、すなわち忘れられぬ。「かも」は、詠歎。
(231)【釈】 他人はよしや崩御の天皇を思いやむことがあろうとも、我はこの玉かずらの蔭につながりある御面影に見えつづけていて、忘れられないことであるよ。
【評】 題詞と、枕詞としての玉かずらとによって、殯宮においての御歌と思われる。一首、御思慕の深きものを胸に湛えて、静かに、しかし張った調べをもって詠ませられているもので、御気息をも感じうる感のあるものである。「人はよし念ひ息むとも」の仮設は、御自身の深い御嘆きに対照させるための技巧と思われるが、全体の上から見ると、それだけにとどまらず、こうした際もひとり高所に立っていらせられる高貴な方の御心を思わせるもので、余情の形において御人柄を偲ばせる御歌である。
 
     天皇|崩《かむあが》り給ひし時 婦人《をみなめ》の作れる歌一首 【姓氏いまだ詳かならず】
 
【題意】 婦人は、「後宮職員令」の義解に、「宮人謂2婦人仕官者1之惣号」とある。その何びとであったかはわからない。注はそのことをいったものである。
 
150 うつせみし 神《かみ》にあへねば 離《はな》れ居《ゐ》て 朝《あさ》嘆《なげ》く君《きみ》 放《さか》り居《ゐ》て 吾《わ》が恋《こ》ふる君《きみ》 玉《たま》ならば 手《て》に巻《ま》き持《も》ちて 衣《きぬ》ならば 脱《ぬ》ぐ時《とき》もなく 吾《わ》が恋《こ》ふる 君《きみ》ぞきぞの夜《よ》 夢《いめ》に見《み》えつる
    空蝉師 神尓不勝者 離居而 朝嘆君 放居而 吾戀君 玉有者 手尓卷持而 衣有者 脱時毛無 吾戀 君曾伎賊乃夜 夢所見鶴
 
【語釈】 ○うつせみし神にあへねば 「うつせみ」は、現身《うつせみ》で、現《うつ》し身《み》の転。この世に生きている身の意で、幽《かく》り身すなわち幽界に存在している身に対させた語。婦人自身をいったもの。「し」は、強め。「神にあへねば」は、「神」は、今は幽り身とならせられた天皇を申したもの。「あへねば」は、「あへ」は堪えの意のもので、御供をするに堪えねば、すなわち御供を仕えることができないのでの意。○離れ居て朝嘆く君 「離れ居て」は、現《うつ》し世と幽《かく》り世と相離れていて。「朝嘆く」の「朝」は、下の「嘆く」時をいったもの。「嘆く」は、悲しんでため息をつく意。「君」は、(232)天皇。○放り居て吾が恋ふる君 「放り居て」は、上の「離れ居て」を語を換えていったもの。すなわち謡い物の対句の意のものである。「恋ふる」は、あこがれているの意で、これも「嘆く」と内容を同じゅうしたもの。「君」は、上と同じ。○玉ならば手に巻き持ちて 「玉」は、上代の人はそれを緒に貫いて、頸、手、足に着けて、きわめて貴んでいたものである。「玉ならば」は、天皇がもし玉にましましたならばで、天皇を尊んでの譬喩である。「手に巻き持ちて」は、手玉として、手に巻いて持って。上代の人は、その物をわが肌身《はだみ》に着けているということは、その物と我との間に深い交流のあることとして、特殊な親しさを感じたのである。ここはその親しさの方をいったのである。○衣ならば脱ぐ時もなく 「衣ならば」は、天皇がもし衣にましましたならばで、上の「玉」の連想からいいっづけたもの。この「衣」は、上の「玉」の、貴さを主とした譬喩に較べると、親しさの方を主としたものである。「脱ぐ時もなく」は、わが肌身より離す時もなくで、親しさを強調したもの。「も」は、詠歎の助詞。「玉ならば」以下四句は、下の「恋ふる」に、それのごとくの意をもって、修飾格として続くもの。○吾が恋ふる君ぞきぞの夜夢に見えつる 「吾が恋ふる君」は、わが恋いまつる天皇が。「きぞの夜」は、昨夜の意の古語。「夢」は、上代は精神の感応より見えるもので、その感応は思い思われるところから起こるものと信じていた。この信仰は次第に薄らいだが、遠く後世にも及んでいる。これはその信仰の強い頃のものである。「つる」は、上の 「ぞ」の結びで、君が昨夜夢に見えられたことであるよの意。
【釈】 現し世にある身の我は、幽り世に移らせられた神の御供をすることはできないので、離れていてこの朝を嘆きまつるわが大君よ。遠ざかっていてわがあこがれまつる大君よ。大君がもし玉ならば、わが手に巻き持っていて、大君がもし衣ならば、脱ぐ時もなく身に着けていようと、そのようにもわがあこがれまつる大君が、此夜《よべ》は、わが夢にお見えになられたことであるよ。
【評】 後宮に仕えていた一婦人の挽歌で、その氏の逸せられているのはおそらく身分の高くなかったためと思われる。歌は当時すでに古風となっていた長歌の形式を選び、いうことは、一夜天皇を夢に見まつったということに即し、実感をそのままに素樸に述べたものである。後宮の女官としての立場にあって挽歌を詠むのに、天皇に対しまつっての思慕の情を述べるということは、事としては怪しむに足りないが、しかしその思慕は、太后の仰せられるのと同じ範囲のもので、異なるところはやや控えめにしているというだけである。これは後より見ると狎近しすぎたことという感がないでもないが、これは当時夢というものに対する神秘感が深く、ことにそれの深い女性の、実感に駆られるがままに、当時型となって行なわれていた挽歌の様式によって詠み出したものであろうと思われる。その技巧の熟さないのは、「離れ居て朝嘆く君、放《さか》り居て吾が恋ふる君」という、一首の中の重なる技巧である対句の、上二句にあっては「朝」が唐突で熟さず、下二句は単なる繰り返しで、謡い物の繰り返しの型を踏襲するにすぎないのでも知られる。「玉ならば」「衣ならば」の対句は、きわめて常套的なもので、おそらく型となっていたものの踏襲で、その狎近にすぎるものであることも思い得なかったのではないかと取られる。一首、この際の他の挽歌に比して甚しく見劣りのするのは、これが当時の教養の水準であって、そうした者の天皇に奉る挽歌であるからというゆえをもって採録されたものかと思われる。
 
(233)     天皇の大殯《おほあらき》の時の歌二首
 
【題意】 殯《あらき》は新城《あらき》の意で、大は尊んで添えた語である。天皇崩御の後、大葬までの間は、新たに構えた別宮に安置するのが定めで、その別宮がすなわち大殯である。日本書紀、天智天皇十年十二月に「癸亥朔乙丑(三日)天皇崩2于近江宮1、癸酉(十一日)殯2于新宮1」とあるはすなわちこの時である。
 
151 かからむと 予《かね》て知《し》りせば 大御船《おほみふね》泊《は》てしとまりに 標《しめ》結《ゆ》はましを 額田王
    如是有刀 豫知勢婆 大御船 泊之登万里人 標結麻思乎 額田王
 
【語釈】 ○かからむと予て知りせば 「かからむと」は、「と」に諸本「乃」とあるのを『代匠記』が「刀」の誤字として正したものである。上代仮名遣いで「刀」は甲類で、ここは乙類の「跡」であるべきだとの異見が出ているが、『注釈』は「刀」と「跡」とは古くから混乱していると例を引いて否定している。かくあらむとで、かくは、殯宮に移らせられた聖体を、眼の前に拝しての語。「予て知りせば」は、前もって知っていたならば。○大御船泊てしとまりに 「大御船」は、大も、御も尊んでの語で、天皇の御船をいったもの。皇居に近い湖上に御遊びになられるためのもの。「泊て」は、船の行き着いて止まる意で、(五八)に出た。「とまり」は、とどまる所で、船着き場をいう。この「とまり」は次の歌によって、辛埼であることがわかる。また、(三〇)の「楽浪《ささなみ》の志賀《しが》の辛崎|幸《さき》くあれど大宮人の船待ちかねつ」でも明らかである。○標結はましを 「標」は、禁忌の意をあらわす物で、それを施してある土地あるいは物は絶対に犯すことができないということが上代の信仰であった。代表的な例は、古事記上巻、天岩戸の段の、天照大神を天岩戸よりお出し申した続きに、「布刀玉命以2尻久米繩1控2度其御後方1白言、従v此以内不v得2還入1」というのがそれである。ここもその意の標である。「結はましを」は、結おうものをで、標繩を結いめぐらして、何物をも入れなくしようの意である。古代には病気は、目に見えぬ悪い精霊の身に憑《つ》くから起こることと信じていた。天皇の御病気は湖上の御舟遊の直後から起こったものとみえる。標は悪精霊を防ぐためのことと解せる。○額田王 作者の名としてのもので、原拠となった本がこの書式になっていたゆえの書き方と思われる。これは前にも例のあったものである。次の歌も同様である。
【釈】 このような御事があろうと、前もって知っていたならば、湖上に御舟遊のあった際、大御船の行き着いてとどまった所に、お憑《つ》き申そうとする悪精霊を防ぐ標を結おうものを。
【評】 天皇の殯宮の歌は、この歌を初めとして、これに続く二首ともいずれも、近江の湖を捉えて天皇を偲びまつる料としたもののみである。天皇を偲ぶ刺激としては、さまざまの物があったろうと思われるのに、一に湖に限っているのは、思うに天皇御不予の前の、最も印象的なこととして舟遊のことがあったので、それとこれとを関係づけ、御不予は湖上にいる悪霊の業(234)だと解し、そのことは信仰上、自明のこととし、また、恐れ多いとする心から、わざと直接な触れ方はしなかったことと思われる。この歌は深い嘆きと愚痴をいったものであるが、それとしては中核の一点だけを捉え、しかも婉曲にいい、一切はしみじみした声調に托しているものである。王にふさわしい歌である。今一つは、殯宮が湖水を展望できる位置に営まれており、そこに侍していて挽歌を詠もうと思うと、実際に即して歌作していた関係上、勢い天皇を湖に結びつけるようになったためであろう。「かからむと」と言い起こし、「標結はましを」と結んだこの歌は、この際のものとしてはややもの遠く、上のように解せざるを得ないところのあるものである。崩御を天皇の御意志よりのこととする思想は、後の柿本人麿の挽歌にも現われているもので、天皇を絶対の神と仰ぐ心より出ているものである。さかのぼっての上代より伝わっているものと思われる。
 
152 やすみしし わご大王《おほきみ》の 大御船《おほみふね》 待《ま》ちか恋《こ》ふらむ 志賀《しが》の辛崎《からさき》 舎人吉年《とねりのきね》
    八隅知之 吾期大王乃 大御船 待可將戀 四賀乃辛埼 舎人吉年
 
【語釈】 ○やすみししあご大王の 「やすみしし」は、既出。「わご」は、(五二)に出た。「ご」は「吾が大王」の「が」と「お」の約まったもので、謡い物の系統の語である。○大御船待ちか恋ふらむ 「か」は、疑問。待ち恋っているであろうか。○志賀の辛崎 (三〇)に出た。現在の滋賀の唐崎で、上の歌の「泊てしとまり」とある所である。そちらは船の着く所としていっているが、こちらは船の発する所としていっている。辛崎を有情の物としていっているが、これは(三〇)でもいったがように、上代には土地を、土地であると同時に神であるとする信仰があったので、その意味で有情としていたと解せる。すなわち文芸性の上から擬人したのではなく、信仰の上から当然のこととして有情の物としたのである。しかし、この神性には程度があって、(235)天皇の崩御のことは知り得ず「待ちか恋ふらむ」と疑わしめる程度の神性だったのである。○舎人吉年 「舎人」は氏、「吉年」は名で、「きね」と訓むだろうとされている。女官の一人である。
【釈】 安らかに天下をお治めになられるわが天皇の、湖上御遊覧の大御船の発するのを、崩御の事は知らずに、待ち恋っているであろうか、志賀の辛埼は。
【評】 殯宮に侍して、志賀の辛崎を望み、天皇の湖上御遊覧の時のことを思い浮かべて、眼前の御状態を悲しんだ心のものである。その点は上の額田王の歌とすべて同一で、異なるところは、王は「標結はましを」と、しようとすれば自身できることをしなかったとして嘆いているのに、吉年は自身には直接関係させず、「志賀の辛崎」に関係させ、辛埼のもつあわれさをいうことによって、わが嘆きをあらわしているのである。すなわち間接な方法によって嘆いているのである。この間接な方法を取っていることは、これを歌の上から見れば、一見文芸性のさせていることのごとくに見えるが、額田王の歌と比較して見ると、文芸性よりのことではなく、自身の身分の低さを意識し、王と同じ態度をもって悲しみを抒べるのは憚りありとして、卑下の心からわざと間接にしたものと解される。すなわち実用性の上より、そうせざるを得ずしてした結果が、たまたま文芸性のもののごとき形となったのだと解せる。この歌は「わご」という謡い物の語を用いている点、「志賀の辛崎」を有情のものと見ている点など、いずれも古風を旨とした歌であるということがわかる。なお上に引いた(三〇)の柿本人麿の反歌「楽浪《ささなみ》の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」は、この歌の影響のあるものだということが注意される。
 
     太后《おほきさき》の御歌《みうた》一首
 
【題意】 太后は、倭姫皇后である。御歌は上の二首と同じく、大殯の間のものである。
 
153 鯨魚取《いさなと》り 淡海《あふみ》の海《うみ》を 沖《おき》放《さ》けて こぎ来《く》る船《ふね》 辺附《へつ》きて こぎ来《く》る船《ふね》 沖《おき》つかい いたくなはねそ 辺《へ》つかい いたくなはねそ 若草《わかくさ》の 夫《つま》の 念《おも》ふ鳥《とり》立《た》つ
    鯨魚取 淡海乃海乎 奧放而 榜來船 邊附而 栲來船 奧津加伊 痛勿波祢曾 邊津加伊 痛莫波祢曾 若草乃 嬬之 念鳥立
 
【語釈】 ○鯨魚取り淡海の海を 「鯨魚取り」は、(一三一)に出た。「鯨《いさ》」は、鯨《くじら》の古語。鯨を取ることをする意で、海の枕詞。「海」に続く。(236)「淡海の海」は、琵琶湖。○沖放けてこぎ来る船 「放けて」は、離れさせてで、岸より沖の方に離れさせて。これは下の「辺附きて」に対させたもの。「こぎ来る船」は、こちらへ向かって漕いで来る船よの意で、こちらというのは太后のいらせられる所で、殯宮と取れる。○辺附きてこぎ来る船 「辺」は、海の陸に近い所。「附きて」は、寄りついて。○沖つかいいたくなはねそ 「沖」は、下との続きで、沖の方の船の意。「つ」は、の。「かい」は、現在と同じく櫂《かい》で、水を掻いて船を進める具。「かい」の用例は、集中に少なくない。「いたくなはねそ」は、「いたく」は、甚だの意の形容詞で、現在も行なわれている。「な……そ」は、その中問に動詞の連用形を置いて、禁止をあらわす格。「はね」は、撥《は》ねで、水を撥ねさせる意。現在も行なわれている語。○若草の夫の念ふ鳥立つ 「若草の」は、春の若い草の意で、その愛らしい意味で、夫にかかる枕詞。「夫の」は、上代は、夫婦のどちらもその相手を「つま」と呼んだ。ここは太后の天皇を申したもので、夫の意のもの。三音一句。「念ふ鳥立つ」は、「念ふ烏」は、愛している鳥で、湖上に棲む水鳥を、叡覧され愛でさせられたところからの語。「立つ」は、水の撥ねるのに驚いて、飛び立つ意。結末の五三七の形は、この時代の長歌に共通なもので、時代の特色をなしているものである。
【釈】 近江の海を、岸より沖の方に離れさせて、こちらへ向かって漕いで来る船よ。岸の方について、こちらへ向かって漕いで来る船よ。沖の方の船の櫂よ、甚しくは水を撥ねさせるなよ。岸の方の船の櫂よ、甚しくは水を撥ねさせるなよ。夫《つま》の君の、叡覧され愛《め》でさせられたその水鳥が驚いては飛び立つ。
【評】 太后が殯宮にて湖上をひろく展望され、沖の方をこなたへ向かって来る船、岸寄りの方をこなたへ向かって来る船の、その来るがままに、水面に浮かんでいる鳥の、驚いて飛び立つさまを御覧になられ、それに関連して、それらの水鳥は、天皇御在世のみぎり、御覧になり愛でられた水鳥だと思われ、遺愛に堪えられずにお詠みになったものである。時は十二月であったから、湖上のそうした状態は、さやかに御眼にとまって、「沖つかいいたくなはねそ、辺つかいいたくなはねそ」というような微細なこともいわれたものと思われる。一首は、事としても、また心としても単純なもので、作歌に長《た》けさせられた太后にあっては、これを短歌形式にお詠みになろうとすれば、必ずしも困難なものとは思われない。それをわざと長歌形式になされたということは、場合がら、当時としてはまだ新風の趣のある短歌形式よりも、伝統的な、古風な長歌形式の方が適当だと思われてのことと思われる。長歌形式ということは、言いかえると謡い物ということで、この御歌はその趣を濃厚にもっているものである。
 一首の語《ことば》続きは直線的で、したがって意味は明晰で、一首の味わいとしては平面的である。加えてこの短い長歌に、二句対が二回まで用いられているのは、謡い物の特質を濃厚にもったものといえる。上代は、一般の風として、人の死後、葬送をするまでの期間は、その人の死を悲しむことをするとともに、その人を慰める心をもって歌舞をする風のあったことが文献に見えている。この御歌の長歌形式は、その意味の歌ということに関連をもったものではないかと思われる。一首の感味の上からいうと、眼前の湖水を、「鯨魚取り淡海の海を」と、客観的に、荘重に言い起こされ、続く二句対二回の畳用は、あくまで事象に即して、しかも感覚的の細かさを交へ、結末、「若草の夫の念(237)ふ鳥立つ」と、太后以外の者にはいうを許されない親愛の情を、余情をもって言いおさめられて、一首を渾然としたものにしているところ、長歌の方面にも手腕の秀でていられたことを示すものである。なおこの御歌には、「沖放けて」「辺附きて」と、船のこぎ場所を注目していられる。これは実際の印象で、陥るところは多くの水鳥ということを暗示されようがためである。海上をこぐ船は、余儀ない場合を除くのほか、できうる限り辺に付けてこぐのが当時の風であったと思われる。今は湖上で、水のはねるのさえも見えるような静穏な日なので、そうした時には「沖放けて」こぐことも行なわれていたことが注意される。
 
     石川夫人《いしかはのぶにん》の歌一首
 
【題意】 夫人は、後宮の職名で、妃の次、嬪の上の位地で、臣下の出としては最上級の職である。(一〇三)の「題意」参照。『講義』は、日本書紀によると、天皇には妃の外四嬪があったが、夫人はなかった。その四嬪の中に、蘇我山田石川麿の大臣の女である越智娘と姪娘の二人がある。そのいずれかであろうといっている。
 
154 ささ浪《なみ》の 大山守《おほやまもり》は 誰《た》がためか 山《やま》に標《しめ》結《ゆ》ふ 君《きみ》もあらなくに
    神樂浪乃 大山守者 爲誰可 山尓標結 君毛不有國
 
【語釈】 ○ささ浪の大山守は 「ささ浪」は、近江国南方一帯の地名で、皇居はその内にあった。「大山守」は、「大」は、美称。「山守」は、山を守る者すなわち山番で、所有の山の竹木の盗伐されるのを番をして防ぐ者の称である。「大山守」は、御料の山の山番をする官。○誰がためか山に標結ふ 「誰がためか」は、「か」は疑問で、誰のためにかの意。「標結ふ」は、(一五一)に出た。「山」に入るを禁じるための標で、繩の類を結ったものと取れる。○君もあらなくに 「君」は、山を領したまう天皇。「も」は、詠歎。「なく」は、打消の助動詞「ず」の未然形「な」に、接尾語の「く」を添えて、名詞としたもの。「に」は詠歎。「あらなくに」は、あらぬことだのにの意。
【釈】 このささなみにある御料の山を守る大山守は、誰のために山に標を結って置くのであろうか。今は領したまう大君もないことであるのに。
【評】 殯宮の御事の折、何かの機会に、御料の山に以前のままに標の結われてあるのを見て、強い感傷を発しての作である。人の死後、その人に属した物を見ると感傷させられるのは、共通の人情で、生前は無関心で過ぎた小さな物に対して、ことに(238)この感の強く起こるのは常のことである。今も当然のことに対して、「誰がためか山に標結ふ」と強くも疑っているのである。この点は(一五三)の太后の御歌の水鳥も同様である。
 
     山科《やましな》の御陵《みはか》より退散《あらけまか》りし時 額田王の作れる歌一首
 
【題意】 山科の御陵は、天智天皇の山陵である。延喜式、諸陵寮式の注に、「近江大津宮御宇天智天皇、在2山城国宇治郡1、兆域東西十四町、南北十四町、陵戸六烟」とある。京都市東山区御陵町にある。御陵は、歌の方では「みはか」と訓ませている。『新撰字鏡』には「弥佐々木」の訓がある。それにつき『講義』は、その物についていう時には「みささき」といい、その主についていう時は「みはか」といったもののようだといっている。「退散りし時」というのは、殯宮に奉仕する事が終わった時である。奉仕する者は、皇族の御方々、大臣、下って側近に奉仕していた者で、昼夜に分けて交代に奉仕するのである。その期間は明らかにされていないが、持統天皇の皇太子日並皇子尊の殯宮の期間は、歌によって一年間であったことが知られる。『考』はそれによって一年間としている。
 
155 やすみしし わご大君《おほきみ》の 恐《かしこ》きや 御陵《みはか》仕《つか》ふる 山科《やましな》の 鏡《かがみ》の山《やま》に 夜《よる》はも 夜《よ》のことごと 昼《ひる》はも 日《ひ》のことごと 哭《ね》のみを 泣《な》きつつありてや ももしきの 大宮人《おほみやびと》は 行《ゆ》き別《わか》れなむ
    八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳呼 泣乍在而哉 百磯城乃 大宮人者 去別南
 
【語釈】 ○やすみししわご大君 既出。○恐きや御陵仕ふる 「恐き」の訓は、集中の仮名書きの例によるもので、本居宣長の訓。「恐き」は連体格で、「御陵」に続き「や」は間投の助詞である。申すも恐れ多いの意。「御陵仕ふる」は、御陵の奉仕をするで、御陵に関する一切の事をいう。ここは殯宮へ侍する意、御陵にの意。○山科の鏡の山に 「山科」は、上にいった。今は京都市東山区である。「鏡の山」は、御陵のある山の名で旧名である。○夜はも夜のことごと 「はも」の「も」は、軽い詠歎。「ことごと」は、ことごとくの語幹で、意味はことごとくと同じ。夜は夜どおし。○昼はも日のことごと 上の二句と対句としたもの。○哭のみを泣きつつありてや 「哭」は、泣き声で、「のみ」は、ばかりの意。「泣きつつ」は、泣き続ける。「や」は、疑問の助詞で、結句へつづく。音《ね》泣くは悲しみの深い時にすることで、そうした悲しみばかりをしつづけての(239)意。○ももしきの大宮人 既出。巻一(二九)参照。○行き別れなむ ここを去って、散り散りに別れ行くであろう。
【釈】 やすみししわご大君の、恐れ多い御陵《みはか》の奉仕をするとて、山科の鏡の山に夜は夜《よる》どおし、昼は一日じゆう声を立てて泣くことばかりしつづけていた大宮人は、散り散りに別れて行くであろうか。
【評】 題詞のように、山科の殯宮に奉仕していた大宮人が、その期間が過ぎて退散した際に、額田王の作った歌で、額田王はその奉仕の中に加わっていてのことである。殯宮の奉仕は期間の定まっていてのことであるが、今はその事が終わるとなると、悲哀の新たなるものがあったことは察しやすいことで、その悲哀を歌にあらわすということはやがて奉仕であって、またしなくてはならないことではなかったかと思われる。歌は事柄としては取り立てていうほどのものはなく、短歌でも足りるものである。これを古風な長歌とし、しかも口承時代の風の濃厚なものとしているのは、その場合としてその必要があったためではないかと思われる。部分的に見ても、「わご大君」といい、「夜はも」「昼はも」と、成句となっている簡素な語を用い、また一方では、殯宮ということを「恐きや御陵仕ふる山科の鏡の山」という荘重な言い方をしているのも、すべて必要に応じてのことと思われる。一首、語がきわめて少なく、また間《ま》がきわめて静かなのは、その悲哀の情をあらわすに適切なものである。この時宜に適させているところに手腕がうかがわれるものである。
 
   明日香清御原宮御宇《あすかのきよみはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代  天渟中原瀛真人《あめのぬなはらおきのまひと》天皇、謚を天武天皇と曰す
 
【標目】 巻一(二二)、上の(一〇三)に出た。
 
     十市皇女《とをちのひめみこ》薨《かむあが》り給ひし時の高市皇子尊《たけちのみこのみこと》の御作歌《みうた》三首
 
【題意】 十市皇女のことは、巻一(二二)に出た。天武天皇の皇長女で、御母は額田王。弘文天皇の妃となられ、葛野王を生まれた。壬申の乱の後は、天武天皇の許に帰っておられたが、天皇の七年、卒然として薨去になられたことが、日本書紀、天武紀に載っている。それは、七年「夏四月丁亥朔、欲v幸2斎宮1(斎宮は倉梯河上に立てられたもの)卜v之、癸巳食v卜。仍取2平旦時1警蹕既動、百寮成v列、乗輿命v蓋。以未v及2出行1、十市皇女卒然病発、薨2於宮中1。由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣」というのである。また、同じく、「庚子葬2十市皇女於赤穂1。天皇臨v之、降v恩以発v哀」ともあって、その不慮の薨去であったこと、天皇の深く哀悼し給うたことが知られる。高市皇子は、(一一四)に出た。十市皇女の異母弟で、尊称を添えてあるのは、次の持統天皇の御代、皇太子草壁皇子尊の薨去の後、皇太子に立たれたがためで、その事は、天皇の十年七月の条に、皇(240)子の薨去を、「後皇子尊薨」と、皇太子に限った尊の尊称をもってしているので知られる。この題詞の記しざまは、皇太子になられた後のものである。
 
156 三諸《みもろ》の 神《かみ》の神杉《かむすぎ》 已具耳矣 自得見監乍共 いねぬ夜《よ》ぞ多《おほ》き
    三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍共 不寝夜叙多
 
【語釈】 ○三諸の神の神杉 「三諸の」は、四音一句で、下の「神」に続くもの。「三諸」は、御室にあてた字で、普通名詞であるが、この当時は三輪山を意味するものとなっていた。ここはそれである。「神の神杉」は、「神」は三輪の神で、皇居が大和にあった時代は、特に皇室の崇敬した神である。「神杉」は、特に神に関係の深い杉の意。関係というのは、神霊は清浄なる木に降下されるものと信じ、それにあたる木としていた意である。そうした木は斎い清めて神聖なる物としていた。これは三輪の社にだけ限ったことではなく、社という社にあるもので、社の本質はそうした木で、この時代より一時代溯ると、この木が社その物だったのである。巻四(七一二)「味酒《うまざけ》を三輪の祝《はふり》が忌《い》はふ杉手触りし罪か君に逢ひ難き」は、その木の神聖視されていたことを示すもので、他にも例がある。以上二句、序詞の形となっているが、皇女の暗喩と取れる。皇子にとって皇女は貴く気高く感じられたのである。思慕の心よりのことである。○已具耳矣 自得見監乍共 三、四句にあたる部分であるが、古来訓み難くしている。諸注試訓を施しており、誤写としての改字も試みているが、徹しかねる感がある。○いねぬ夜ぞ多き 眠らない夜が多いことであるよで、悲しみを具象的にいわれたもの。
【釈】 上の理由で釈が付けられず、したがって評もできない。
 
157 三輪山《みわやま》の 山辺其蘇木綿《やまべまそゆふ》 短木綿《みじかゆふ》 かくのみ故《から》に 長《なが》くと思《おも》ひき
    神山之 山邊眞蘇木綿 短木綿 如此耳故尓 長等思伎
 
【語釈】 ○三輪山の 原文「神」は、三輪山の神を代表的の神としたところから、「三輸」にあてて用いていた。ここはそれだという古事記伝の解に従う。○山辺真蘇木綿 「山辺」は、山のあたりで、下の「真蘇」のある場所をいったもの。「真蘇」は、「真」は美称。「蘇」は、麻の意。麻苧《あさお》が上略されて麻苧《さお》と呼ばれ、それが約《つ》まって「蘇」と呼ばれたのである。すなわち「蘇」は製品の名であるが、それを素材である麻の方にまで及ぼしての称である。「木綿」は、衣服その他にも用いる繊維の総称である。上の麻、また藤、葛、楮《こうぞ》、栲《たく》、などの甘皮《あまかわ》から取るのである。この「木綿」も、心としては、木綿の素材の一つとしての麻であるが、製品の方に力点を置いた言い方をしたものである。一句、山のあたりに生えている、其蘇木綿となるところの麻の意である。麻は神前へ幣《ぬさ》として捧げる物で、そのつながりにおいて捉えている物。この句は、下の「短木綿」(241)と繰り返しの関係にあるもので、意味からいうと、下に「の」のあるべきところを、省いている形のものである。○短木綿 短い木綿の意と取れる。「短」は、木綿としての丈の短い意。「木綿」は、上の句のそれと同じく、製品としての称で、「短木綿」とはすなわち麻である。『仙覚抄』には、筑紫風土記に、長木綿、短木綿ということがあるといっている。それには説明はないが、そういう称があったとすれば、麻から取る木綿は、素材としての麻の茎が、他の素材に較べては短く、したがって木綿も短いので、たぶん麻から取った木綿の称であったろうと思われる。初句からこれまでの三句は、三輪山に鎮まります神の加護の下にある、短い物という意を具象的にいおうとされたもので、皇女の御命の短さの譬喩としてのものである。○かくのみ故に 「かくのみ」は、「かく」は、これほど、「のみ」は、ばかりで、「かく」を限ることによって強めたもの。これほどばかりにで、上の「短」をうけて、きわめて短いことをいったもの。「故に」は、巻一(二一)「入嬬故」に出た。理由をあらわす語で、「であるのに」というにあたる。一句、これほどまでに短い命をもっているものであるのに。○長くと思ひき 命長くあれと思ってきたことであったの意。
【釈】 三輪山の山のあたりに生えている麻の、その真麻木綿《まそゆう》の短木綿《みじかゆう》よ、これほどまでに短い命をもっているものなのに、命長くあれと思っていたことであった。
【評】 この歌は皇女の短命を悲しんだ心のもので、その短命は題意でいったがようにまさに悲しむべきものだったのである。皇子の悲しみは深いものであったと思われるが、事の性質上、それをあらわす語《ことば》は婉曲なものとなって、したがって真意の捉えやすくない感のあるものとなっている。問題は初句の「三輪山」にある。これは「語釈」でいったがように大和の京に住まれた皇女にとっては守護神であって、皇女の運命はこの神の御心にあるとされていたのである。皇女はついにこの神の加護を受けることができなかったのであるが、しかし事は畏い神に関するものであるから、それに対して怨みをいうべきではなく、いえば悲しみだけで、しかもその悲しみも婉曲な言い方のものでなければならないのである。初句より三句までは、三輪山の山辺の、大神に最も近く生えている、また、大神の御料の物である真蘇木綿のその短木綿というので、形としては短いという意の譬喩であるが、心としては皇女その人を暗示しているもので、いわゆる象徴の形のものである。「木綿」を畳んで繰り返しているのは、その短さを強くいうことによって、皇女の生命の短さを嘆いているのである。「かくのみ故に長くと思ひき」は、直接に皇女の薨去を嘆いたもので、意味からいうと、かくも短い生命と定まった方《かた》によって、我は愚かにも命《いのち》長かれと思って来たといって、事の一切を神意として、黙従して静かに悲しんでいられるものである。すなわち一首を貫いている心は、三輪山に鎮まる神を中心として、大神もいかんともし難い皇女の運命であったとして、それを悟り得ざる人間の愚かさを嘆かれたものである。これを歌を形の上から見ると、初句より三句までは象徴的な一つの纏まった心のものであるにかかわらず、「短木綿」の「短」は「長くと」の「長く」と対照するためのものとなっていて、その意味では単なる譬喩と見ざるを得ないものである。しかし、「三輪山の短木綿」は、一首の骨子で、それあるがゆえに一首の心は成り立っているきわめて重いものなの(242)である。ここにこの歌の複雑さがあり、解しやすくなさがある。それは事柄の性質上、そうせざるを得ずしてしたものであって、文芸的にしようとの要求から起こったことではない。文芸的となったのは必要に駆られてしたことの自然の結果なのである。この歌は表現の上からみると、高度の文芸性をもったものである。初句から三句までのもつ知的な具象力は上にいった。それを「短」の譬喩として「長く」に対照させたこともいったが、これも知的なものである。「かくのみ」の現在と、「思ひき」の過去との対照も知的なものである。一首知性が多分に働いているが、同時に初句より三句までは感性的で、全体として渾然とした豊かな趣をもったものとなっている。高度な文芸性をもったものというべきである。
 
158 山振《やまぶき》の 立《た》ち儀《よそ》ひたる 山清水《やましみづ》 酌《く》みに《ゆ》行かめど 道《みち》のしらなく
    山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴
 
【語釈】 ○山振の立ち儀ひたる 「山振」の「振」は、「振《ふ》る」を古語では「振く」といっていたので、それによってあてた字である。後世の山吹である。皇女の薨去は四月であったから、折から山吹は咲いていたとみえる。「立ち儀ひたる」は、「立ち」は接頭語。「儀」を「よそふ」と訓んだのは『代匠記』である、儀容と熟する文字で、古く「よそふ」にあてていた。二句、下の「山清水」の修飾である。○山清水 山の清水の意で、清水は、湧き出ずる水の意である。山清水は、山には共通のものであるが、ここは「山」に意味をもたせてある。この山は、皇女の御墓のある所としてのものである。古くは墓は丘陵など小高い所を選んで設けるのが普通だったからである。初句からこれまでは、山吹が、その黄色な花をもって装っているところの山清水よというので、心としては、皇女の御墓であるが、それをあらわす方法としては、御墓を間接なものとし、御墓のある山にありうる清らかに美しい光景を思い浮かべ、それの第一を山清水とし、ついで折から水辺には山吹の花が黄に咲いているところから、その山清水をも黄色にするまでに装っているものとしたのである。すなわち御墓を、実際に即しつつ極度に美化したのである。○酌みに行かめど 清水を酌みに行こうと思うけれどもで、心としては、御墓に詣に行こうと思うけれどもということを、「山清水」との関係において言いかえたものである。これも上の延長として、御墓詣ということを美化したものである。○道のしらなく 「しらなく」は知らなくで、打消の「ぬ」に「く」を添えて名詞形にしたもの。知らぬことよ、の意である。一句は、皇女の御墓に行くべき道を知らないということを、嘆きをもっていわれたものである。初句より四句まで、美化したものではあるが、実際に即して離れないものである。この結句は、一首の眼目であるのに、皇子が御姉皇女の御墓の道を知らないということは、実際としてはありうべきことではないことで、この「道のしらなく」も、上と同じく実際でなくてはならないこととなる。それだと、行こうとしても行き得ない所ということを、上と同じく美化していわれたものということになる。橘守部は、この結句から見て、これは幽冥界に対してのことであるとし、そこから推して、「山振の立ち儀ひたる山清水」というのは幽冥界を意味する漢語の黄泉という文字によっての想像だとし、「酌みに行かめど」も、いったがように、詣でようと思うけれどもの意だと解した。『講義』はさらにこれを精細にし、黄泉の黄は五行説では、黄色は地に属したものなので、地中を意味させた語で、黄泉は地中の泉の意であったが、それが転じて墓穴の意とな(243)った。墓は深く地を掘って泉に達せしめる意からである。それがまた転じて幽冥界の意となった。日本書紀の「泉」を冥界《よみ》にあて、「泉津醜女《よもつしこめ》」「泉津平坂《よもつひらさか》」などの文字は、黄泉の黄を略したもので、使用の由来の久しさからの略字だといっている。これに従う。
【釈】 山吹がそのほとりに咲き盛る花をもて黄に装っている、御墓のある山の清水を思わせる、その黄泉よ。我は姉皇女のなつかしさに、その泉を酌みに行こうと思うけれども、幽現、界《よ》を異にしているので、行く道を知らないことであるよ。
【評】 前の御歌と同じく、一方では実際に即しつつ、同時に他方では極度にまで文芸性を発揮し、双方を微妙に調和されたものである。作意は、御姉皇女のなつかしさに、幽冥界にまでもおとずれたいということである。高貴の御方には殯宮の事があり、一般の者も昼はもとより、夜も墓側に過ごす風が行なわれていて、幽冥界と現実界との隔たりは、後世よりははるかに近いものであった。したがって作意は実際に即したものであるといえる。幽冥界を思われると、黄泉ということが連想されたのであるが、この語はいったがように当時は一般化されていたもので、「泉《よみ》」という一字で幽冥界ということをあらわし得ていたのであるから、これまた実際に即しているといえる。その黄泉を思うと、御墓のある赤穂の山に、いずれの山にもある山清水と、折から眼前に咲いている山吹の花の、好んで水辺に咲いていることとを思われ、その花の水に映って、水をも黄に染めていることによって、一躍、黄泉のさまを連想されたのである。この飛躍は飛び離れたものであるが、状態としての自然があるとともに、御姉皇女のなつかしさに引かれての美化という心理的自然も伴っているものなので、さして飛躍を感じさせないものである。一首、気分に終始したものであるが、静かな態度をもって十分に具象化を遂げているために、無理を自然としているものである。時代的に見て、極度の文芸性をもった御歌である。高市皇子の御歌は以上の三首以外には残っていない。歌才の豊かであったことが想われる。
 
     紀に曰はく、七年戊寅の夏四月丁亥の朝にして癸巳の日、十市皇女、卒然《にはか》に病|発《おこ》りて宮の中に薨《かむあが》り給ひきといへり。
      紀曰、七年戊寅夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女卒然病發薨2於宮中1。
 
【解】 上に引いたことの要約である。丁亥の朔にして癸巳の日は七日。
 
     天皇|崩《かむあが》り給ひし時の太后《おほきさき》の御作歌《みうた》一首
 
【題意】 「天皇」は天武天皇。「崩り給ひし時」は、日本書紀、朱鳥元年九月の条に、「丙午天皇病遂不v差、崩2于正宮1。戊申始(244)発v哭。則起2殯宮於南庭1」とある時である。太后は、皇后の意で、後の持統天皇である。皇后初めの名は、※[盧+鳥]野讃艮《うのさらら》皇女。天智天皇の第二皇女。天武天皇の二年皇后となられた。
 
159 やすみしし 我《わ》が大王《おほきみ》の 夕《ゆふ》されば 見《め》したまふらし 明《あ》けくれば 問《と》ひたまふらし 神岳《かみをか》の 山《やま》の黄葉《もみち》を 今日《けふ》もかも 問《と》ひたまはまし 明日《あす》もかも 見《め》したまはまし その山《やま》を 振《ふ》り放《さ》け見《み》つつ 夕《ゆふ》されば あやに哀《かな》しみ 明《あ》けくれば うらさびくらし 荒《あら》たへの 衣《ころも》の袖《そで》は 乾《ふ》る時《とき》もなし
    八隅知之 我大王之 暮去者 召賜良之 明來者 間賜良志 神岳乃 山之黄葉乎 今日毛鴨 問給麻思 明日毛鴨 召賜万旨 其山乎 振放見乍 暮去者 綾哀 明来者 裏佐備挽 荒妙乃 衣之袖者 乾時文無
 
【語釈】 ○やすみしし我が大王の 既出。○夕されば 夕暮と時が移って来ればの意で、夕暮となれば。○見したまふらし 「見し」は、「見る」に敬語の「す」がつづき、「み」が「め」に転じたもの。「らし」は、現実の事をよりどころとしての推量をあらわす助動詞で、今は連体形であり、下の「神岳の山の黄葉」を生前御覧になったことである。一句、御覧になるであろうところのという意で、神霊として御覧になることと推量したのである。○明けくれば問ひたまふらし 「明けくれば」は、夜が明けて来れば。「問ひたまふらし」は、「問ひ」は訪《おとな》いの意で、上の「めし」に対させたもの。「らし」は、上と同じ。夜が明ければ訪って御覧になるであろうところの意で、これまた神霊としてのことである。○神岳の 神岳は、高市郡明日香村大字|雷《いかずち》にある雷丘《いかずちのおか》で、この丘は飛鳥浄見原の皇居より遠からぬ所にある。この丘は、三諸《みもろ》の神南備山《かむなびやま》とも、神南備の三諸の山とも、単に神南備山とも呼び、また神岳とも呼んでいたので、それについては『講義』は詳しい考証をしている。○山の黄葉を 神岳は黄葉の名所であったとみえる。天皇の崩御は九月であるから、黄葉の時季だったのである。○今日もかも問ひたまはまし 「今日も」は、今日もまた。「か」は、疑問、「も」は、詠歎の助詞。「問ひたまはまし」は、「問ひ」は、上の「問ひ」と同じく、訪って御覧になる意。「まし」は、条件付の仮想をあらわす助動詞で、今は条件は、天皇世にましまさばということである。上より続けて、今日もまた、天皇の世にましまさば、訪って御覧になることであろうか。○明日もかも見したまはまし 「明日もかも」は、上の「今日もかも」に対させたもの。「見したまはまし」の「見し」は、上のそれと同じ。二句、上の二句と対句としたもの。○その山を振り放け見つつ 「山」は、神岳で、上をうけて、天皇の御愛着の深いその山を。「振り放け見つつ」は、「振り」は接頭語。「放け」は距離をつける意で、遠くより見やる意をあらわす語。「つつ」は、継続。○夕さればあやに哀しみ 「あやに哀しみ」は、「あやに」は、いおうようもなく深くの意の副詞。○明けくればうらさびくらし 「うらさびくらし」は、「うらさび」(245)は、心の楽しまない意で、連用形。「くらし」は、日をすごし。○荒たへの 「荒たへ」は、和《にぎ》たえに対したもので、荒々しい織物、すなわち粗末なもの。喪服を意味させたもの。○衣の袖は乾る時もなし 「袖」は、涙を拭う物としていったもの。「乾る時もなし」は、涙に濡れとおして、その乾る時とてもないの意。
【釈】 やすみししわが大君の、今は神霊として、夕暮になると御覧になられるであろうところの、夜が明けてくれば訪《おとな》って御覧になられるであろうところの、神岳の山の黄葉を、もし世にましましたならば、今日もまた御覧になられることであろうか、明日《あす》もまた訪って御覧になられることであろうか。大君の御愛着の深いその山を、ひとり遠く見やりつづけ、夕暮になると、言おうようもなく深く悲しくて、夜が明けてくると、心楽しまずに終日をすごして、荒妙の喪服の袖は、涙に濡れとおして乾る時とてもない。
【評】 天皇の殯宮にいられた時、皇后が、「神岳の黄葉」を天皇の御形見と見て、天皇に対するごとき哀情を感じられての御歌である。形見の物を、さながらその人自体のごとく感じるのは、この時代の共通の信仰であって、また根深いものでもあった。この場合もそれで、皇后から見ると、「神岳の黄葉」はその際の第一の御形見だったのである。
 天皇の崩御は九月で、陰暦暮秋である。当時の風物で、秋より冬にかけての代表的なものは萩と黄葉で、その黄葉が色づこうとする時である。神岳は当時黄葉の名所だったとみえる上に、浄見原の皇居からほど近い所だったので、天皇の御関心が深く、朝に夕に、その黄葉の深まる程度を望まれ、またお訊ねにもなったのである。その御関心の深さがすなわち御形見になる理由で、また、その間《かん》の消息を誰よりも最もよく知っていたのは皇后であられるところから、皇后は、神岳の黄葉を、今も天皇の神霊の通いつづけていられることと信じ、天皇に対する心をもって「神岳の黄葉」を御覧になっているのである。すなわちこの場合の神岳の黄葉は、皇后には風物ではないのである。
(246) 一首二段より成り、前段は、「明日もかも見したまはまし」までで、一に天皇と神岳の黄葉とのつながりを叙したものである。「見したまふらし」「問ひたまふらし」の「らし」の助動詞は、根拠ある推量をあらわすもので、根拠とはこの場合、天皇の神霊のそれをなさるのを皇后の確認されたことである。これは信仰をとおしてのことである。「問ひたまはまし」「見したまはまし」の「まし」の助動詞は、仮設を条件としたもので、もし御在世であればとしてのものである。これは神去り給うた天皇としての嘆きである。いずれも「神岳の黄葉」を御形見と見ての範囲のことであるが、そこに皇后のお心の動揺が現われていて、しっかりと現実の上に立ってのお嘆きなのである。
 後段は、一転して、皇后御自身の哀傷である。「神岳の黄葉」にお心をつなぎ言葉少く、叙されているのは、それが礼儀であったと取れる。「あやに哀しみ」「うらさびくらし」は、徹底した現実味というべきである。
 表現形式から見ると、長歌形式はすでに古風な、特殊なものになっていたろうと思われる。その形式を選ばれているのは、儀礼としてのことと解される。その長歌も、さらに心して古樸な風を選ばれている。この長くない一首の中に、二句|対《つい》の対句を三つまで用いられている。しかしその対句は、古い歌謡に用いられている繰り返しに近いもので、文芸性を加えようとするものではなく、感を強めようとするだけのものである。これも皇后にそのお心があって、特に意図してなされたことであろうと思われる。
 また、長歌には反歌が添うこととなっていた時代であるのに、この長歌にはそれがない。これも一に古風に従ってと思われてのことと解される。
 一首全体として見ると、古風を念とされて、古樸に、簡潔に作られてはいるが、その信仰方面を除外すると、徹底した現実味をもち、また微細な気分をも盛られているところは、まさにこの時代のものである。優れた挽歌である。
 
     一書に曰はく、天皇の崩《かむあが》りましし時の、太上天皇の御製歌《おほみうた》二首
 
【題意】 「太上天皇」は、持統天皇で、この称をもってお呼びしたのは、文武天皇の御代である。「御製歌」というのも、その称に従っての語である。この題詞は、文武天皇の御代に記録せられた書にあるままをここに移したものと思われる。しかるに目録の方には、「一書の歌二首」とあるのみで、こことは異なっている。もとより太上天皇の御作歌としてのことで、内容としては同一である。一書というのが同一の物であったか、あるいは異なっていたのかはわかりかねる。
 
160 燃《も》ゆる火《ひ》も 取《と》りてつつみて ふくろには 入《い》ると言《い》はずや あはむ日《ひ》招《を》くも
    燃火物 取而※[果/衣のなべぶたなし]而 幅路庭 入澄不言八 面智男雲
 
(247)【語釈】 ○燃ゆる火も 燃え立っているところの火さえも。○取りてつつみて 手に取って、物に包んで。○ふくろには入ると言はずや 「ふくろ」は嚢。「は」は、強めの意のもの。「入ると言はずや」は、入れるというではないか、言っているで、「や」は反語。○あはむ日招くも 「面智男雲」は訓み無くして、さまざまの訓が試みられている。比較的穏やかなのは、『考』と『檜嬬手』とである。『考』は、「面」を「も」の助詞とし、上句に属するものとして、「入るといはずやも」と八音にし、「智」を、「知曰」の二字の誤写によって一字となったものだろうとし、「知曰男雲《しるといはなくも》」すなわち「知ると云は然くも」としている。意は、「知ると」は、天皇にお逢い申す術で、「曰はなくも」は、知っているという者のあるといわないことよである。『檜嬬手』は、面を第五句のものとし、「智」を「知曰」の二字の誤写として、「面知」を「逢ふ」の義訓としている。「日男雲」を「日なくも」とし、「逢はむ日なくも」としている。これが従来の試訓のうち、比較的に最もうなずきうる訓みであった。しかるに『注釈』は、「面智」は『檜嬬手』の誤写説を認めて「逢はむ日」に従い、「男雲」については、従来とは全く異なった訓みと解をしている。約言すると打消の助動詞「ず」の名詞形「なく」を用いた「なくに」の結びは夥《おびただ》しくあるが、「なくも」と、「も」の詠歎を添えた結びは、集中一例もない。これは他の語でなくてはならない、というのが第一である。次に「男」は仮名としては、「男為鳥《ヲシドリ》」(巻十一、二四九一)、「片思男責《カタモヒヲセム》」(巻四、七一九)、「海部尓有益男《アマニアラマシヲ》」(巻十一、二七四三)など、男は「ヲ」であるから、ここも「をくも」と訓むべきだとし、招く意の「をく」は古語で、大伴家持の用いている例二首(巻十七、四〇一一)、(巻十九、四一九六)を引き、さらに古事記上巻、天孫降臨の条の「遠岐斯八尺之勾※[王+總の旁]《ヲキシヤサカノマガタマ》、神代紀上、天石窟《あまのいわや》の第一の一書の「奉招祷也《ヲキタテマツラム》」を引いて、古事記伝(一五)の、「凡て遠岐《ヲキ》とは、物を招き寄せむとすることにて」という本居宣長の注をも引いている。それだとこの句は、我は天皇にお逢い申す日を招き祷ることであるよの意となり、御製の作意が釈然としたものとなる。前人未踏の創見とすべきである。
【釈】 燃え立っている火さえも、手に取って、物に包んで、嚢の中に入れるという、不可能のことも行なっているというではないか。我は天皇にお逢い申せる日を招き祷《いの》っていることであるよ。
【評】 天皇崩御の後、やや日を経ての御心と思われる。この当時、道教が信じ行なわれていて、瑞祥が勢力あるものとなっていたことは上に出た。中国より伝わった散楽が、幻術を行なってみせてもいた。初句より四句までのようなことが行なわれていて、太后がそれをお聞きになったということはありうべきことである。それを現在の悲しみにつないで、「あはむ日招くも」といわれたのは、上代信仰として、皇祖神に祈ればいかなる事もなろうと信じていられた太上天皇の心持にきわめて自然なものである。加えてこの御製には太上天皇の御風格も現われている。初句より四句まで世に不可能としていることも、現に行なっているではないかと、陰陽道の人のすることを、事細かに力強く叙して言いきられ、一転して結句では、御信念を披瀝していられる。一首の構成、それを貫く熱意のこもった声調は、まさに帝王の風格というべきで、堂々たる御製である。
 
161 北山《きたやま》に たなびく雲《くも》の 青雲《あをぐも》の 星《ほし》離《はな》れ去《ゆ》き 月《つき》を離《はな》れて
(248)    向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而
 
【語釈】 ○北山に 旧訓で、義訓。北方の山の意と取れる。『全註釈』は、天武天皇の明日香の浄見原の山陵としている。○たなびく雲の 「陳」は、文字どおり「つらなる」という訓と、用例の多きに従って「たなびく」とした訓と二た通りある。ここは、北山の上に、たなびいている雲の。「の」は、同じ趣の体言を重ねる時に用いる意のもので、「その」の意で下につづく。○青雲の 「青雲」は、上代の人は、白雲と対して青雲というものが感覚的に認められたと見え、用例が多い。高空にある淡青の雲であったろうと想像される。上の雲と畳語になっており、主格をなしている。青雲が。○星離れ去き 空の星を離れて高く昇りゆき。○月を離れて 星よりも高くいる月をも離れてさらに高く昇ってゆくで、昇りゆくを省略した形。
【釈】 北山の上にたなびいている雲のその青雲が、星を離れて昇ってゆき、さらに月を離れて昇ってゆく。
【評】 天皇の尊骸を明日香の浄見原の山陵におさめた後、幾ばくもない頃のある夜の太上天皇の、感覚的印象をとおしての御製と思われる。天皇をはじめ尊貴なる皇族の方々は、高天が原より降られ、また高天が原に還られるというのが古来からの信仰で、その還られるのがいわゆる神上りますことである。太上天皇はこの信念を強くもたれ、星あり月ある夜、山陵に対していられると、山上に青雲を認められ、その青雲が行動を起こして、みるみる星を越えて上昇し、さらに月をも越えて上昇したのである。雲に神秘性を感じていたのは当時の一般の信仰で、太上天皇はその青雲の行動に天皇の神霊の神上りますのを感覚をとおして認められての御製と解せられる。一に御心境の表現で、信仰状態である。しかしそれとすると、可能な限り具象化され、第一に「北山に」と含蓄をもたせて位置を明示し、ついで「たなびく雲の青雲の」と、畳語を用いて青雲なるものを強調し、最後に「星離れ去《ゆ》き月を離れて」と、一首の中核である青雲の上昇を叙されているところ、具象化として機構の整然たるものである。信仰とこの具象と相俟って、神秘性をもった、力ある御製とされているのである。上とは異なった趣をもった優れた御製である。
 
     天皇|崩《かむあが》りましし後、八年九月九日|奉為《おほみため》の御斎会《ごさいゑ》の夜、夢《いめ》の裏《うち》に習ひ賜へる御歌一首 【古歌集の中に出づ】
 
【題意】 「天皇」は、天武天皇で、崩御は、朱鳥元年九月九日である。その後の八年は、持統天皇御宇七年である。「九月九日」は、天武天皇の御忌日である。「奉為」は、漢語で、「奉」は敬語とするために加えたもの、「おほみ為」にあてた文字である。「御斎会《ごさいえ》」は、天皇御冥福を祈るため、斎《とき》を設けて三宝を供養する会《え》である。宮中における御斎会の、史に見える最初のものは、日本書紀、天武紀四年四月、「戊寅、請2僧尼二千四百余1而大設v斎焉」とあるものである。「夢の裏に習ひ賜へる」は、「習ふ」はしばしば繰り返す意で、みずからお作りになるともなく、自然に得られたことをあらわす語であって、近世の御夢想の歌とい(249)うのと同じ趣のものである。題詞の下に小字をもって「古歌集の中に出づ」と注した本は七種まである。
 
162 明日香《あすか》の 清御原《きよみはら》の宮《みや》に 天《あめ》の下《した》 知《し》らしめしし やすみしし わが大王《おはきみ》 高照《たかて》らす 日《ひ》の皇子《みこ》 いかさまに 念《おも》ほしめせか 神風《かむかぜ》の 伊勢《いせ》の国《くに》は 沖《おき》つ藻《も》も 靡《な》みたる波《なみ》に 潮気《しほけ》のみ かをれる国《くに》に うまごり あやにともしき 高照《たかて》らす 日《ひ》の御子《みこ》
    明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奧津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子
 
【語釈】 ○明日香の清御原の宮に 既出。天武天皇より持統天皇にわたっての皇居。ここは、天武天皇の皇居としていわれている。○天の下知らしめしし 「天の下」は、既出。天下の意で、日本全国。「知らし」は、「知る」の敬語で、支配の意。「めしし」の下の「し」は過去の助動詞「き」の連体形。○やすみししわが大王 既出。○高照らす日の皇子 高照らすは、高く照りたもう。「日の皇子」は、日の神の御末。○いかさまに念ほしめせか 巻一(二九)に出た。「いかさまに」は、どのように。「念ほしめせか」は、「念す」は、「念ふ」の敬語。「めせ」は、上の「めし」と同じで、その已然形。「か」は、疑問で、係辞。どのように思しめされてのことであったろうかで、神にます天皇または皇太子の御上は畏くしてうかがい難いとして、その御行動に対して敬って添えていう語で、成句となっている独立句。○神風の伊勢の国は 「神風の」は、巻一(八一)に出た。神風を息吹《いぶき》とし、その古語「息《い》」に、繰り返しの意でかかる伊勢の枕詞。○沖つ藻も 「沖つ藻」は、沖の方にある藻で、沖は辺《へ》に対させたもの。「も」は、もまたの意のもの。○靡みたる波に 「靡みたる」は原文「靡足」で、『講義』は、「なびきし」と訓んだのを、『全註釈』『注釈』の改めたもの。「足」を仮名の「し」に用いた例は、上にア段の語のある時に限られていて他に用例がなく、「たる」の例は多いとしてである。靡いている波に。○潮気のみかをれる国に 「潮気のみ」は、潮の気ばかり。「かをれる国に」は、「かをる」は古くは、火の状態にも、霧の状態にもいった。ここは潮気の状態をいったもので、烟っている意。潮気ばかりが烟っているところの国にで、上の二句と同じく、伊勢の国の状態をいったもので、対句である。○うまごり 「味《うま》」は、味酒《うまざけ》のそれと同じく、賞美しての語。「凝《ごり》」は、織物の織の意で、名詞。味《うま》き織《おり》の意。意味で綾と続き、その綾を、同音の副詞の「あや」に転じて、その枕詞としたもの。○あやにともしき 「あやに」は(一五九)に出た。いおうようもなく。「ともしき」は、「ともし」は、羨ましい意にも、乏しくして愛すべき意にも用いていた語。ここは後の意のもので、下への続きから見ると、慕わしの意と取れる。
【釈】 明日香の清御原の宮に、天下を御支配遊ばされた、やすみししわが大君の、天に照らしたまう日の神の御子よ。どのよう(250)に思《おば》し召されてのことであったろうか。神風の伊勢の国は、海の沖の方の藻の靡いている波とともに、潮気ばかりが烟っている国に、いおうようもなく慕わしき、天に照らしたまう日の神の御子よ。
【評】 「明日香の」より「日の皇子」までの八句は、天武天皇を讃えた辞《ことば》であるが、これは天皇に対しても最大の讃え辞である。夢のうちに歌を習った方も、その時は同じく天皇であられたのである。結末の「うまごり」以下の四句も、同じく讃え辞で、こちらは「やすみししわが大王」という、支配者としての方面は省き、その代りに、天皇の神性の方面を強調したもので、うるおい深く、感情をこめたものである。中間は天武天皇と伊勢国との関係を思われ、何事かをあらわそうとされたものであることはわかるが、伊勢国の状態を精細に叙されているにもかかわらず、肝腎の事柄には触れられないので、臆測をも許されないものである。壬申の乱の際、天皇には皇后とともに伊勢の桑名にいられたことがあるので、その事ではなかろうかという解がある。伊勢の状態をいわれる語《ことば》は、単なる一つの国としてのみのものに見えるから、その意味ではよりどころのないものではないが、想像にすぎないものである。語句の脱漏があるのではないかという解もあるが、題詞によって見れば、おぼつかない想像といわざるを得ない。小字ながら「古歌集中に出づ」とあり、諸本異同がないのであるから、これが原形で、いずれかの経路で宮中外に伝わって、重んじられていた御製と思われる。この御製の重んじられたのは、題詞にあるように、「御斎会の夜、夢の裏《うち》に習ひ賜へる」というところにあって、御製そのものよりも、御製の成った神秘性の方にあったのではないかと思われる。すなわち仏教に対する神秘性と、上代の夢と、夢に近い無意識の中に詠む歌とに、神のお告げを感じていた風との相俟ってのことと取れる。それとともに注意されることは、一方にそういう風があったにもかかわらず、御製そのものは、純然たる伝統的のもので、そこにはいささかも仏教的色彩を帯びていないことである。そこに天皇の御人柄の偲ばれるものがある。
 
(251)   藤原宮|御宇《あめのしたしらしめしし》天皇代  【高天原広野姫《たかまのはらひろのひめ》天皇、天皇の元年丁亥、十一年、位を軽太子に譲りたまひ、尊号を太上天皇と曰す】
 
【標目】 上に出た。「天皇の元年」以下の注記は金沢本、紀州本など多くの古写本にある。
 
     大津皇子《おほつのみこ》薨《かむあが》り給ひし後、大来皇女《おほくのひめみこ》伊勢の斎宮《いつきのみや》より京《みやこ》に上りし時の御作歌《みうた》二首
 
【題意】 「大津皇子」と「大来皇女」のことは、(一〇五)(一〇六)に出た。天武天皇の皇子皇女で、御同腹であり、皇女は御姉である。大津皇子の薨じたのは、朱鳥元年十月戊辰朔庚午(三日)で、皇太子草壁皇子尊に謀叛の事が露《あらわ》れて誅せられたのである。大来皇女は、天武天皇の御代の伊勢の斎王で、伊勢斎宮にいられたが、天皇崩御となり、御代がかわったので、任が解けて、朱鳥元年十一月丁酉朔壬子(十六日)京へ還られた。これらの事は日本書紀に出ている。皇子薨去より四十日ばかり後のことである。
 
163 神風《かむかぜ》の 伊勢《いせ》の国《くに》にも あらましを いかにか来《き》けむ 君《きみ》もあらなくに
    神風之 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可來計武 君毛不有尓
 
【語釈】 ○神風の伊勢の国にも 上の歌に出た。「も」は、詠歎。○あらましを 居ろうものをの意。「まし」は、不可能の希望の、それの結びとする語であるから、このような事があったと知ったならばの意が含められている。その事は、皇子の薨去のことである。「を」は詠歎。○いかにか来けむ 「いかにか」は旧訓で、「なににか」「なにしか」の訓みもあるが、この字は「いかに」の用例しかないといって『全註釈』は改めている。「か」は、疑問。「来けむ」は、「けむ」は過去の推量。京へ上《のぼ》って来たのであろうかの意。○君もあらなくに 「君」は、大津皇子。「も」は、詠歎。「あらなくに」は、「く」を添えて名詞形とし「に」の詠歎を添えたもの。なつかしい君もいまさぬことであるのに。
【釈】 伊勢国に、こうと知ったならば、そのままにとどまっていようものを。どうして京へ上って来たのであろうか。なつかしい君もいまさぬことであるのに。
【評】 皇子薨去のことは、斎宮の皇女は御存じがなく、京へ還られてはじめてそれと知られ、深い悲しみをもってお詠みになったものである。深い悲しみは、皇子の薨去については何事もいわれず、御自身も皇子と一体となって打ち砕かれ、あるにもあられぬお心を、しめやかにいっていられるところに現われている。すなわち言うにまさる悲しみである。皇子と一体になっ(252)ていられるとはいうが、この御歌は、皇子の方に力点を置いてのものである。結句の「君もあらなくに」は、いったがように、世にいまさぬことであるのにで、上よりの続きでは、京にいまさぬという意味をもったものとなってくる。実感としてはその方が先で、それに、世にいまさぬ意味が伴ったものと取れる。実感をそのままにお詠みになったところから、おのずから綜合された複雑な味わいである。場合がら当然のことである。しめやかながら引き締まった、言葉少なの表現は、おのずから気品あるものとなっている。
 
164 見《み》まく欲《ほ》り 吾《わ》がする君《きみ》も あらなくに いかにか来《き》けむ 馬《うま》疲《つか》らしに
    欲見 吾爲君毛 不有尓 奈何可來計武 居疲尓
 
【語釈】 ○見まく欲り 「見まく」は、見ることの意で、「く」を添えて名詞形としたもの。「欲り」は、「欲す」の古語で、動詞、連用形。○吾がする君もあらなくに 「する」は、上の「欲り」に続けて、その意を強める働きをさせているもの。「君も」も、「あらなくに」も、上の歌と同じ。○馬疲らしに 「馬」は、斎王の供奉の官人の乗馬、駄馬。「疲らし」は、それを労する意で、馬を疲らせることであるにの意。『講義』はこれについて、斎王の御旅は群行と称し、一部隊の旅であった。斎王は御輿であるが、その駕輿丁は、左右の衛府より各十六人ずつを出す定めであり、官人は乗馬、それに駄馬が添うが、『朝野群載』の四、「伊勢斎王帰京国々所課」のうち、近江国の下に、「馬百匹、夫百人」とあり、なおその他も引いている。後世もこれであるから、この当時のさまは想われるといっている。
【釈】 わが逢い見たいことだと思っている君もまさないことであるのに、どうして京へは上《のぼ》って来たのであったろうか。ただ馬を疲らせることであるのに。
【評】一首の形も心も、前の御歌の繰り返しであるが、これは、力点をやや御自身の方へ引きつけられ、弟皇子に逢われることを楽しみとしていた、伊勢から京までの道中の労苦を顧みられたものである。御自身の労苦をいわれず、供奉の者のそれとし、さらに馬とされているところに、お人柄が感ぜられる。これも実感よりおのずからそうなったので、「馬疲らしに」という単純な中に、複雑なるものが綜合されている。一つの心を、やや角度を変えて繰り返すことによって、その心を尽くそうとするのは、謡い物系統の古い型である。(一〇五)(一〇六)の御作歌と型を同じゅうしている。この気品と、具象化の手腕とは、まさに皇女のものである。
 
     大津皇子の屍《かばね》を葛城《かづらき》の二上《ふたがみ》山に移《うつ》し葬《はふ》りし時、大来皇女の哀傷《かなしみいた》む御作歌《みうた》二首
 
(253)【題意】 屍を移し葬るにつき、『講義』は、『攷証』の解を進めて、委しく考証している。この「移し葬る」は、後世の一たび葬った屍を他に改葬するのとは異なって、殯宮または殯屋にある屍を墓所に移して葬る意で、いわゆる殯葬というものであるとし、古く墓所より出土した墓誌をあげて、その期間は、長いことを確かめている。「葛城の二上山」は、大和国北葛城郡当麻村にある山で、今は葛城山と二上山とは別としているが、古くは葛城山の一部とされていたのである。山は二峰相対しており、一を男嶽、他を女嶽と称している。二上《ふたがみ》はそこから起こった称である。皇子の墓は男嶽にあり、現在も保存されている。
 
165 うつそみの 人《ひと》なる吾《われ》や 明日《あす》よりは 二上山《ふたがみやま》を 弟世《なせ》と吾《わ》が見《み》む
    宇都曾見乃 人尓有吾哉 從明日者 二上山乎 弟世登吾將見
 
【語釈】 ○うつそみの人なる吾や 「うつそみ」は、現《うつ》し身の義で、「し」が「そ」に転音した語である。「うつせみ」とも転音している。幽冥界にいる幽《かく》り身に対し、現実界にある身の意。「人なる」は、人にてある。「や」は、詠歎の助詞で疑問の意ももっている。○弟世と吾が見む 「弟世」の訓は、従来さまざまであった。『注釈』は、「世」は「弟」の訓みをあらわしたもので、「せ」すなわち、男性の総称としての語である。一句の音調上、「せ」の一音では足らず、何らかの訓み添えを必要とする。用例としては「いろせ」と「汝《な》せ」とある。「いろ」も「汝」も愛称で用例としては「汝」が多いとして「汝」をとっている。これに従う。「吾が見む」は、見ることであろうかで、「見む」は連体形。
【釈】 現し身の人であるところのわれは、なあ、明日からは、二上山を、弟として見ることであろうか。
【評】 上代にあっては現し身と幽り身の距離は近いものであっ(254)た。ことに殯宮の間は.ほとんど現し身に対すると異ならないものと見なしたのである。皇女の哀傷されたのは、移し葬ることによって新たに加わりくる距離に対しての嘆きである。なお二上山は御墓所を具象的にいったものであるが、この当時にあっては、山は神の意が明らかで、したがって皇子の神霊界に属するものだという感を刺激するところがあり、それも距離を際立たせたのではないかと思われる。結句の「なせ」の愛称、それに「吾が」を添えたのは、いずれも深い哀感の表現で、初二句と相俟って、しめやかながら高い響をなしている。純情とともに皇女の内に蔵された強さを偲ぶに足りる御作である。
 
166 礒《いそ》のうへに 生《お》ふる馬酔木《あしび》を 手折《たを》らめど 見《み》すべき君《きみ》が ありと言《い》はなくに
    礒之於尓 生流馬醉木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
 
【語釈】 ○礒のうへに 「礒」は、石の古語で、古くは石上《いそのかみ》など、石を「いそ」と呼んでいた例がある。「於」は、上の意で、典拠のある文字であえう。ほとりの意のもの。○生ふる馬酔木を手折りめど 「生ふる」は、自生している意。「馬酔木」は、その実を食えば馬が酔う木の意で、わが国で造った文字である。これにあたる木は、現在「あせぼ」と称する木で、その葉の煮汁を飲ませると、馬は脚が痺れ、葉を食わせると鹿は角を落すという。集中仮名書きで「あしび」といっているのが、この馬酔木にあたる。山城大和の山野に多く自生する木で、春、穂を垂れて小壺状の白い花がむらがつて咲く。「手折らめど」は、手折ろうけれども。○見すべき君がありと言はなくに その花を見せて喜ばせるべき君が、世に存していると人がいわないことであるのに。
【釈】 石のほとりに生えている馬酔木の、その愛すべき花を手折りもしようけれども、しかし見せて喜ばせるべき君が、世に存していると人がいわないことであるのに。
【評】 馬酔木を、「礒のうへに生ふる」といわれ、また「見すべき君」ともいわれているので、皇女がそのお住まいになられる邸以外において、たまたま見かけられたも(255)のと取れる。移し葬ることをされた時のことと思われる。事は、愛すべき物を見て、親しい人とともに見ないのをあきたらず思い、それを見せてやろうと思う共通の人情のものである。「ありと言はなくに」は、語としては誇張に似ているが、事としては、皇子の薨去はただ話に聞くだけのもので、全く夢のようにお思いになっていたことと察せられるから、明らかに実感であったろうと思われる。その意味で、含蓄のあるものである。
 
     右一首、今|案《かむが》ふるに、移し葬《はふ》る歌に似ず。蓋し疑はくは、伊勢の神宮より京に還りし時、路上に花を見て、感傷哀咽してこの歌を作りませるか
      右一首、今案、不v似2移葬之歌1。蓋疑、從2伊勢神宮1還v京之時、路上見v花、感傷哀咽作2此歌1乎。
 
【解】 撰者の注か、その後のものかはわからぬ。伊勢より御帰京の際の歌だろうというのである。これは誤りである。御帰京は十一月で、春咲く馬酔木の花のあるべくもない。またその時は、皇子の薨去を知られなかったことが、上の御作歌でわかる。かたがた誤りであることは明らかである。
 
     日並皇子尊《ひなみしのみこのみこと》の殯宮の時 柿本朝臣人麿の作れる歌一首井に短歌
 
【題意】 日並皇子尊のことは、巻一(四五)に出た。皇太子として薨去になったのは、日本書紀、持統紀に、「三年四月乙未皇太子草壁皇子尊薨」とある。「日並皇子尊」は、草壁皇子の皇太子としての尊称で、「日並」は、日を天皇に喩え、それに並びます意の語で、本来普通名詞である。「尊」は、皇太子に限っての敬称である。「殯宮」は、葬所の傍らに設けて、臣下の者の侍する宮である。これに続く舎人の歌によって、皇太子に対する殯宮奉仕の期間は一年間であったことが知られる。
 
167 天地《あめつち》の 初《はじ》めの時《とき》 ひさかたの 天《あま》の河原《かはら》に 八百万《やほよろづ》 千万神《ちよろづがみ》の 神集《かむつと》ひ 集《つと》ひいまして 神分《かむはか》り 分《はか》りし時《とき》に 天照《あまて》らす 日女《ひるめ》の命《みこと》【一に云ふ、さし上《のぼ》る日女《ひるめ》の命《みこと》】 天《あめ》をば 知《し》らしめすと 葦原《あしはら》の 瑞穂《みづほ》の国《くに》を 天地《あめつち》の 寄《よ》り合《あ》ひの極《きはみ》 知《し》らしめす 神《かみ》の命《みこと》と 天雲《あまぐも》の 八重《やへ》かき別《わ》きて【一に(256)云ふ、天雲《あまぐも》の八重雲《やへぐも》別きて】 神下《かむくだ》し いませ奉《まつ》りし 高照《たかて》らす 日《ひ》の皇子《みこ》は 飛《と》ぶ鳥《とり》の 浄《きよみ》の宮《みや》に 神《かむ》ながら 大敷《ふとし》きまして 天皇《すめろぎ》の 敷《し》きます国《くに》と 天《あま》の原《はら》 石門《いはと》を開《ひら》き 神上《かむあが》り 上《あが》りいましぬ【一に云ふ、神登《かむのぼ》りいましにしかば】 吾《わ》が王《おほきみ》 皇子《みこ》の命《みこと》の 天《あめ》の下《した》 知《し》らしめしせば 春花《はるばな》の 貴《たふと》からむと 望月《もちづき》の 満《たた》はしけむと 天《あめ》の下《した》【一に云ふ、食《を》す国《くに》】 四方《よも》の人《ひと》の 大船《おほふね》の 思《おも》ひ憑《たの》みて 天《あま》つ水 《みづ》仰《あふ》ぎて待《ま》つに いかさまに 念《おも》ほしめせか 由縁《つれ》もなき 真弓《まゆみ》の岡《をか》に 宮柱《みやばしら》 太敷《ふとし》きいまし 御殿《みあらか》を 高知《たかし》りまして 朝《あさ》ごとに 御言《みこと》問《と》はさず 日月《ひつき》の 数多《まね》くなりぬる そこ故《ゆゑ》に 皇子《みこ》の宮人《みやびと》 行方《ゆくへ》知《し》らずも【一に云ふ、刺竹《さすたけ》の皇子《みこ》の宮人ゆくへ知《し》らにす】
    天地之 初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命【一云、指上日女之命】 天平婆 所知食登 葦原乃 水穏之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而【一云、天雲之八重雲別而】 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 淨之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴【一云、神登座尓之可婆】 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 滿波之計武跡 天下【一云、食國】 四方之人乃 大船之 思馮憑而天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 眞弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛【一云、刺竹之皇子宮人歸邊不知尓爲】
 
【語釈】 ○天地の初めの時 「天地の初めの時」は、いわゆる天地開闢の時で、天と地とが分かれた時のことである。しかし下の続きから見ると、これは天孫降臨の時ということを意味させたものであって、天地開闢ということと、天孫降臨ということ、言いかえればわが国の国土開発という政治上のこととを、同意義のこととしていっているものである。○ひさかたの天の河原に 「ひさかたの」は、天にかかる枕詞。巻一(八二)に出た。「天の河原」は、古事記上巻に、「是以八百万神於|天安《あめのやす》之河原神集神集而」とある、その天の安の河原である。○八百万千万神の 「八百万」「千万」は、きわめて数の多いことをあらわす語で、重ねていうことによって感を強めたものである。多くの神々のの意である。○神集ひ集ひい(257)まして 「神集ひ」の「神」は、事、神のしわざであるがゆえに添える語で、用例の多いものである。「集」は、古事記の注に、「訓v集云2都度比1」とある。「神集ひ」は、下の「集ひ」に対して修飾格に立っているもので、こうした続け方は古語に例の多いもので、一つの格をなしているものである。「いまして」は、敬語とするために添えたもの。二句、お集まりになられての意で、事としては、上に引いた古事記の文と同じ事柄である。○神分り分りし時に 「分」を、「はかり」と訓むのは旧訓である。他に「わかち」「くばり」「あがち」の訓もある。『講義』は「はかり」に従い、『字鏡集』には「分」に「はかる」の訓がある。事物を判別する意に用いたと思われる。大祓詞に、ここと同じ事柄を、「神議議賜※[氏/一]」とあるその議《はか》りと同じだというのである。「神分り分り」は、上と同じ続き方である。「久堅の」以下、この「分りし時」までは、最初の「天地の初めの時」に、同じ趣の事を体言の形をもって重ねたもので、天地の初めの時にして、すなわち神々の神分りし時にの意である。○天照らす日女の命 「天照らす」は、天に照りたまうの意。「日女の命」は、日本書紀第一に、「生2日神1号2大日〓貴1」とあり、注に「大日〓貴云2於保比屡※[口+羊]能武智《おほひるめのむち》1」とあるそれで、日神の御名である。「ひる」は「日」の古語である。御名をもっていっているのは、その際の事が政治的の事柄であるので、その面を強調しようとしてのことと思われる。○一に云ふ、さし上る日女の命 「さし上る」は、朝日の昇る状態をいったもので、日の枕詞である。本行の方が力がある。○天をば知らしめすと 「天」は、高天原で、この国土に対する世界。「知らしめす」は、巻一(二九)に出た。この訓は仮名書きによってのもの。「知らす」は、「知る」すなわち支配するの敬語。「めす」は、「見る」すなわち支配するの敬語で、助動詞風に重ねたもの。「と」は、とて。二句、高夫原を御支配になるとて。○葦原の瑞穂の国を わが国の古名。「葦原」は、葦は水分の多い所に生える物で、その生えつづいて原をなしている所の。原文「水穂」の「水」は、「瑞《みづ》」で、「穂」は、稲の穂。稲のみずみずしく熟する国の意。主食物の米の豊かにみのる国としてこの国土を讃えての称。○天地の寄り合ひの極 天と地とが寄り合って一つになる、その最後までの意。天地の開闢に対させた思想で、混沌が分かれて天地となった、それがまた合して混沌にかえる意で、未来の無窮ということをあらわすために、ありうべからざることを想像して具象的にいった語。○知らしめす神の命と 「知らしめす」は、御支配になるところの、の意で、連体形。「神の命」の「命」は、尊称。「と」は、として。すなわち皇位に即《つ》かれるべき神としての意。○天雲の八重かき別きて 天の雲の幾重にも重なっているのを分けてで、天孫の降臨をいったものである。古事記、日本書紀、大祓詞にも出ているきわめて重大なる事柄である。○一に云ふ、天雲の八重雲別きて いささかの相違であるが、本行の方が力がある。○神下しいませ奉りし 「神下し」の「神」は、「神集ひ」のそれに同じ。「いませ奉りし」は、敬語とするために添えたもの。二句、御下し申し上げたところので、「奉りし」は連体形。○高照らす日の皇子は 天に照りたまう日神の皇子はで、上の「神の命」の繰り返しの形となっているものである。「皇子は」の「は」は、文意としては、七句を隔てて、「石門を開き」に続き、皇太子日並皇子尊であることの明らかなものである。ここに注意されることは、この「日の皇子」は、上よりの続きでいえば、当然皇孫彦火瓊々杵尊であらせられるのが、下への続きから見ると、日並皇子尊に転じていることである。このことは、天照大神の命をこうむっての皇位の継承という上からいうと、彦火瓊々杵尊と皇太子日並皇子尊とは、ひとしく同格にあらせられるという意よりのことである。これはまた歴代の天皇、皇太子にも通じてのことであって、この歌は私的なものではなく、皇子尊の殯宮において誦した公的なものであるから、既定のこととなっており、人麿はそれを代弁しているものである。○飛ぶ鳥の浄の宮に 上に出た。天武天皇より持統天皇にかけての宮であるが、ここは持統天皇の宮としてのもの。○神ながら太敷きまして 「神ながら」は、神そのままにの意。巻一(三八)(三九)に出た。「太敷きまして」は、「太」は、「敷き」にかかる讃(258)え詞。「敷き」は、広く天皇のなされることをあらわす語で、ここは御支配の意。「まして」は、敬語にするために添えたもの。○天皇の敷きます国と 「天皇」は、皇祖をはじめ、当代の天皇までをこめて申す称。ここは、当代の持統天皇。「敷きます」は、上の「敷きます」と同じ。「国と」は、国として。「飛ぶ鳥の」以下六句は、日並皇子尊のお思いになったこととしていっているもので、すなわちこの国土は、天皇の御支配になられる所であるとしての意。○天の原石門を開き 「天の原」は(一四七)に出た。ここは天の意で、地《つち》に対する世界で、神にまします尊貴なる方々の、幽《かく》り身として永遠にいますべき世界。「石門」は、堅固な門の意、「開き」は、その門を開いてで、天の原に人らせられるには、そうしたことをなされるものと信じての語である。○神上り上りいましぬ 「神上り」の「神」は、「神集ひ」のそれと同じ。天の原に幽り身として上《あが》りたまうことで、すなわち薨去の意である。古く、天皇の崩御を「神上り」と申しているので、それに準じてのものである。「いましぬ」は、「上り」を敬語とするために添えたもの。○一に云ふ、神登りいましにしかば 「神登り」は、意は神上りと同じ。「いまし」は、敬語としてのもの。これは、下へ続く形となっているもので、文意が整わない。本行に従うべきである。以上、第一段である。○吾が王皇子の命の 「吾が王」は、親しんでの称。「皇子の命」は「命」は敬称で皇子である限り、どなたにも添えて申す称で、皇太子には「尊」の文字をもって差別しているのである。ここは普通の敬称である。○天の下知らしめしせば 「せば」は、仮設条件を示す語。皇太子にましましたので、御即位は当然あるべきものだったのである。○春花の貴からむと 「春花の」は、春の花のごとくに。「貴と」は、「太」に、「た」の接頭語の添った語で、その太は、豊かさ、美しきなどの意をもった語。「と」は、と思って。○望月の満《たた》はしけむと 「望月の」は、十五夜の満月のごとく。「満はし」という訓は、『代匠記』がしたもので、巻十三(三三二四)、「十五夜月《もちづき》のたたはしけむと」と仮名書きがあるのによったのである。『講義』は、この語につき委しい考証をし、「たたはし」は本来、「湛ふ」という動詞の形容詞に化したもので、その「湛ふ」は、事物の満ち足りたことをあらわす語で、ここの「満」にあたっているといっている。「満はしけむ」は、「たたはしからむ」を約《つ》めた語である。「と」は、と思って。二句、上の二句と対句としてある。○天の下 天下の者すべてが。○一に云ふ、食す国 「食す国」は、御支配になる国で、天下と同じ。本行に従う。 ○四方の人の 「四方」は、四方で、すなわち全部。○大船の思ひ憑みて 「大船の」は、大船に乗ったごとく。「大船の」は、集中の例は枕詞としてのみ用いているが、ここは、前後と同じく、譬喩として用いてあると解される。本来、響喩から枕詞となった語なので、枕詞以前の用法のもの。「思ひ憑みて」は、信頼して。○天つ水仰ぎて待つに 「天つ水」は、天の水ですなわち雨。「仰ぎて待つ」は、空を仰いで待つ意と、尊い物に対して待つ意とがある。空を仰いで待つのは、大旱の時の状態で、これを尊き物を待つ響喩としたのである。二句、大旱の時、雨の来るのを仰いで待つごとくに、皇子尊の御即位を仰いで待っているのにの意。二句、上の二句と対句。○いかさまに念ほしめせか 巻一(二九)、本巻(一六二)に出た。どのようにお思いなされたのであろうかで、薨去のことを、御自身の意志よりなされたものとし、尊貴の御方のお心は畏くしてうかがい難いという意でいったもの。○由縁もなき真弓の岡に 「由縁」を「つれ」と訓むのは、『玉の小琴』の訓で、下には同じ趣を「所由」とも書いてある。『講義』はこれと同じ場合をいった仮名書きを、集中から二か所引き、この訓を確かめている。「由縁もなき」は、ゆかりもない、すなわちもの淋しいの意。「真弓の岡」は、現高市郡明日香村真弓から高取町佐田にわたる地といわれ、延喜式の諸陵寮式に、「真弓丘陵、岡宮御宇天皇、在2大和国高市郡1、兆域東西二町、南北二町、陵戸六烟」とある所である。岡宮御宇天皇とは日並皇子尊の追贈の号である。○宮柱太敷きいまし 「宮柱」は、宮の柱。「太」は、讃え詞。「敷き」は、ここは営む意。「いまし」は、敬語とするためのもの。宮をお宮みなされての意。なお「太」は、讃え詞では(259)あるが、「柱」に関係をもちうる語で、響き合うところがある。○御殿を高知りまして 「御殿」は、現人神なる天皇の宮の称で、ここはそれに准じていったもの。巻一(五〇)に出た。「高知りまして」は、「高」は、讃え詞。「知り」は、「しき」と同じく、ここは営む意のもの。「まして」は、敬語とするためのもの。四句、御墓の傍らに営む殯宮をいったものである。○朝ごとに御言問はさず 「朝ごとに」は、日ごとにの意で、朝をもって日を代表させた語。これにつき、『講義』は、古の公に仕え奉る時刻のことを、種々の古文献によって詳しく考証し、それによると、朝廷の百官の伺候は、大体卯の刻(午前六時)で、退朝は巳の刻(午前十時)であった。月によって相異はあるが、退朝は巳の二剋(午前十時)を越えることはなかった。朝をもって日をあらわすのはこのためだといっている。これによってこの語は明らかになった。「御言問はさず」は、「言問ふ」はものをいうことで、「さ」は尊敬の助動詞「す」の未然形。二句、いつの日も御用を仰せになられないの意。○日月の数多くなりぬる 「日月」は、日や月の意。「数多く」は、物事の多くしげき意をいう形容詞で、ここは多くの意。「なりぬる」は、ここは重なって来たの意で、「ぬる」は、上の「何方に念ほしめせか」の「か」の疑問の結びで、連体形。以上、第二段である。○そこ故に 「そこ」は、その点。上の状態のゆえに。○皇子の宮人行方知らずも 「皇子の宮人」は、皇子の東宮としての宮に仕えている人で、これは朝廷より付けられる職員である。春宮傅より舎人に及んでいる。「行方知らず」は、行くべき方向が知られない意で、途方にくれる意。仕えまつるべき君が薨じられたので、よるべきところがないの意。「も」は、詠歎。○一に云ふ、刺竹の皇子の宮人ゆくへ知らにす 「刺竹の」は、意味が定まっていない。ここは「皇子」にかかる枕詞。「ゆくへ知らにす」は、「行方知らずも」と意味は同じである。本行の方が力がある。
【釈】 天地《あめつち》の初めの開闢の時、すなわちひさかたの天の安の河原に、八百万千万の多くの神が集いに集って、議《はか》りに議ったその時に、天照らす日女の命は高天原を御支配になることとして、葦原の瑞穂の国をば、天地《あめつち》が再び寄り合う未来の無窮の時までも、御支配になるべき神の命として、天雲の幾重に重なるのを別けて、お下し申し上げた、その高照らす日の神の皇子《みこ》には、この国は飛ぶ鳥の浄《きよみ》の宮に、神そのままに貴くも御支配になって、天皇の御支配になるべき国であるとして、御みずからは、天の原の堅固なる門《と》を開いて、そこへと上《あがか》りに上らせられた。我らの大君の皇子の命が、定まっているとおりに、もし天下を御支配になったならば、春の花のごとくに豊かに美しくあろうと思い、十五夜の月のごとくに満ち足ることであろうと思って、天下の全体の人々は、大船に乘ったがように思い頼み、大旱に天より降る雨を仰ぎ待つように仰ぎ見て待っているのに、畏くもどのようにお思いなされたのであろうか、何の関係もないもの淋しい真弓の岡に、御自分の宮を御営みなされて、大宮を御営みなされて、いつの日にも御用を仰せられず、そうした日や月が多くも重なって来たことである。そうした次第ゆえに、皇子に御仕え申している宮人すべては、将来の方向も知られず、途方にくれていることであるよ。
【評】 真弓の岡にある日並皇子尊の殯宮に奉仕している宮人が、皇子尊を御慰めする心をもって詠んだ挽歌である。挽歌は現し世を去られた人を慰めることを本旨とするもので、慰める方法は、その人を尊むこと、死を悲しむこと、後永く忘れまいとすることで、そのほかには方法はない。そうした時の歌は、神を祭る際の詞と同じく、できる限り麗わしくして、神霊の嘉《よみ》したまうようにすることを条件としていた。この歌が長歌という、それをなしうる形式を選んでいるのも、また作者がその事に最(260)も堪能なる人麿であることもそのためである。人麿はこの宮の舎人《とねり》の一人として選ばれたのか、あるいは作歌に長《た》けている者として他より選ばれたのかは明らかでないが、おそらく舎人の一人としてのことと思われる。この歌を詠んだ時は、「朝ごとに御言問はさず、日月の数多《まね》くなりぬる」という時で、薨去後ある期間が経って、驚きは鎮まり、反対に悲しみは深まってきて、「皇子《みこ》の宮人|行方《ゆくへ》知らずも」というように、自分どもの今後の身の処置も思われてくるようになった時、振り返って見て事の全体を捉えて詠んだものである。
 一首、宮人という立場に立って詠んだものである。宮人は朝廷より皇太子に賜わった職員で、その狎《な》れ親しみ奉っている上よりいえば、おそらく何びとよりも深い者であるが、身分の上よりいえば、最も遠い階級にある者である。したがってこうした際にその心を歌うとしても、最も深い悲しみを通して、最も深い尊みの心を歌わなければならないものである。実際に即して離れまいとする当時の歌であるから、このことは固く守られてこの一首は詠まれている。
 一首、三段から成っている。第一段は、起首から「神上り上りいましぬ」までである。ここは皇子尊を限りなく尊き神として讃えたものである。この段で特に注意されることは、「語釈」でもいったがように、「天地の初めの時」すなわち天地の開闢の時が、「天の河原に、神分り分りし時」すなわち彦火瓊々杵尊のこの国に降臨された時と同時になっていることである。今一つは、「神下しいませ奉りし」というその瓊々杵尊が、日並皇子尊となり、御同体となっていることである。これは歴史的にいうと事実ではないのであるが、国民の信念としては儼たる事実だったのである。その事はこの挽歌が、人麿個人のものではなく、舎人全部を代弁しているものであることでも明らかなことである。天孫と皇太子と御同体であるということは、皇位の万世一系ということであって、この当時にあっては、ここに見るがごとく、全く知性を含まない感性のものであり、きわめて直接なものとなっていたのである。これらは皇子尊を尊み讃えるためにいっているものであることはいうまでもない。また、神上りますのに理由を求めて、「飛ぶ鳥の浄の宮に、神ながら太敷きまして、天皇の敷きます国」としているのは、神上りは自分の御意志よりのこととしたので、これは人としての事ではなく、神のみのなされる事である。これも皇子尊を讃えてのことである。この一段の言葉は荘重を極めたものであるが、これは古事記、日本書紀などの成書を待つまでもなく、祝詞により、また語り継ぐことによって一般化していた言葉を取ったものと思われる。「高照らす日の皇子」という言葉のもつ含蓄は、同じく一般化していたものと思われるが、表現としての簡潔は、作者人麿のものと思われる。
 第二段は、「日月の数多くなりぬる」までである。この一段は、上に対して、人としての皇子尊の御薨去をいったもので、そのいかに惜しむべきことであるかを極力いうことによって、皇子尊を御慰めしようとしているのである。前半は、皇子尊の御即位を、天下の者がいかに待ち望んでいたかを、二句対を二回まで用いることによって華やかにいい、後半の御薨去の悲哀と対照させている。御薨去をいうに「いかさまに念ほしめせか」といっているのは、薨去を自分の意志よりのこととしたので、皇子尊を、人ならぬ神としていっていることである。「朝ごとに(261)御言問はさず、日月の数多くなりぬる」は、時間的に、次第に御薨去のさまをあらわし給うことをいっているもので、宮人の深い悲哀を事実に即していったものである。味わいの深い部分である。
 第三段は、結末の三句である。形の上から見るとこれが一首の力点のある所で、またこの歌の作られた一つの動因でもあるが、それがこのように短く、深い悲哀をこめてのものとなっているのは、実際に即して、虔《つつ》ましい物言いにとどめたがためである。すなわち宮人としての低い身分を意識して、多くをいうことを恐れ多しとして差し控えたのである。一首、挽歌の本旨は十分に尽くしたものであるが、構成が整然とし、言葉の繁簡が適当に、深い用意をもったものとなっているのは、一に作者人麿の力量である。
 なおこの歌で、第一段では明らかに御薨去のことをいい、第二段は、「朝ごとに御言問はさず」と、現し身に対しまつるごとき期待をかけ、そのかなわぬのを悲しんでいるのは、一種の矛盾を感じさせられることである。これを単なる感傷よりのことと見れば、古今に通じての人情で、格別怪しむには足りないものとなる。しかし前後の続きより見れば、あくまでも皇子尊を尊んで、狎れまつるような態度はとるまいとしているので、ここだけが感傷をほしいままにしているものとは思われない。したがってこの期待はある合理性をもったものと思われる。悠久な古にあっては、死生の距離はさして遠くはないものであったと思われる。死ということは幽《かく》り身の状態において存在を続けることと信じられてい、その信念は、多少の推移はあっても保ち続けられていたのである。死者を死後にわかには埋葬しないという風の保たれていたのも、身と魂とを二元的に考えている心からは、自然なことと取れる。まして天皇皇太子など、尊貴を極めた、現人神と仰いでいた御方に対しては、殯宮奉仕の一年間は、神霊は天の原に上られても、御体は地にとどまっており、しかも神霊はきわめて神秘な自在な力をもっていられるので、超自然なことの現われうる可能性は、強くも恃《たの》みうることとしたのであろう。「朝ごとに御言問はさず」ということが、重大なこととして扱われ、またきわめて悲しいこととしていわれているのは、この意味からであって、いわゆる感傷よりの言ではなく、合理性のあったものと解される。これに類することは、他にもある程度まではある。
 
     反歌二首
 
168 ひさかたの 天《あめ》見《み》る如《ごと》く 仰《あふ》ぎ見《み》し 皇子《みこ》の御門《みかど》の 荒《あ》れまく惜《を》しも
    久堅乃 天見如久 仰見之 皇子乃御門之 荒卷惜毛
 
【語釈】 ○ひさかたの天見る如く仰ぎ見し 「ひさかたの」は、上に出た。「天見る如く」は、仰ぐことの譬喩。「天」は、天上の世界としてのも(262)の。「仰ぎ見し」は、事の実際でもあるが、尊んで見ることの方を主としてのもの。○皇子の御門の 「御門」は、宮の意のもので、一部をもって全部を代表させての称。皇居に対してと同じ言い方のものである。この宮は、高市郡明日香村橘の島の宮で、以下の歌に出て来る。○荒れまく惜しも 「荒れまく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、荒れんことの意。「惜しも」の「も」は、詠歎。上代の信仰として、死の穢れを忌むことが甚しく、人が死ぬとただちにその家より出してほかに移した。天皇の大殯《おおあらき》宮もそれである。それのみではなく、ついでその宮を住み棄てられもしたのである。天皇の崩御についで遷都のことのあったのもそのためである。日並皇子尊の宮も、住み棄てられるべきものであったので、その荒れてゆくことを宮人として惜しんだのである。
【釈】 ひさかたの天を見るごとくにも仰いで、尊んで見てきたところの皇子尊の宮の、これからは荒れてゆくだろうことのその惜しさよ。
【評】 長歌の方は、殯宮における皇子尊の、今は現《うつ》し身でないことを認めざるを得ないのをいっているが、ここではそれを進めて、幽《かく》り身としての扱いをしている。また、長歌は殯宮のことのみをいっていたのに、ここでは転じて、御生前の宮をいっている。長歌の操り返しではなく、変化をつけたものである。皇子尊が、現し身であり幽り身であるにしても、御慰めする心は同一である。御薨去になられた以上、お慰めするのは皇子尊を忘れないという一事だけである。忘れないということは、心の中に思うだけでは足らず、皇子尊に直接に関係のある現実の物品を通してお思い申すというのが上代の通念で、形見の重んじられたのはそのためである。皇子尊の形見のうち、その最も重大なる物は御門である。その御門《みかど》は荒れゆかざるを得ないものである。この歌は、それらのすべてを心に置いてのものである。素朴なる形に強い気息をこめ、重い調べをもっていっているのは、お慰めしようにもしかねるような悲哀をもってのものだからである。
 
169 あかねさす 日《ひ》は照《て》らせれど ぬばたまの 夜《よ》渡《わた》る月《つき》の 隠《かく》らく惜《を》しも
    茜刺 日者雖照有 烏玉之 夜渡月之 隱良久惜毛
 
【語釈】 ○あかねさす 「あかね」は、草としての名であるとともに、その根から赤色の染料を取る関係上、赤色を意味する語ともなっていた。ここは赤色の意である。この関係は、紫が草の名であり、色の名であると同様である。「さす」は、発する意。赤色を発するで、日の状態をいうことによって、その枕詞としたもの。○日は照らせれど 「日」は、天皇に喩えたもの。「照らせれど」は、照らしあれどで、天皇の儼然とましませどの譬喩。○ぬばたまの夜渡る月の 「ぬばたまの」は、夜にかかる枕詞。(八九)に出た。「夜渡る月」は、夜空を端《はし》から端へと運行するの意で、「月」を「日」に並ぶ尊いものとして、皇太子に喩えたもの。○隠らく惜しも 「隠らく」は、名詞形で、隠れることの意。すなわち幽り身とならせられたことの喩え。「惜しも」の「も」は、詠歎。
(263)【釈】 日は照っているけれども、すなわち天皇は儼然とましますけれども、しかし夜空を運行する月の隠れたこと、すなわち天皇につぎたまふ皇太子の幽り身となられることの惜しさよ。
【評】 この歌は、さらに転じて、皇子尊を、国家との関係においてお思い申したものである。心としては長歌に繋がりをもったもので、その意味では繰り返しに近いものである。日を天皇にお喩えするのは、日の皇子という讃え詞との関係上、喩えとは言い難いものである。月を皇太子にお喩えするのは、その延長であって、これまた心としては喩え以上のものである。日と月のそれぞれに枕詞を添えているのは、修飾というよりも、尊んで重くいおうとする必要のもので、ここにも修飾以上のものがある。形を素樸に、調べをもって情をあらわしているところは、上の歌と同様である。
 
     或本、件の歌を以て後の皇子尊の殯宮の時の歌の反となせり
      或本、以2件歌1爲2後皇子尊殯宮之時歌反1也
 
【解】 この注記は右の歌(一六九)の下に二行に記されている。西本願寺本には、「或本云」とあるが、「云」は、金沢本などにはない。「後の皇子尊」は、高市皇子尊のことで、後の(一九九)に出る。「歌の反」は、『講義』は、後の琴歌譜によって「歌ひ返し」と訓むべきもので、反歌の国語であり、二様の名が存していたとしている。
 
     或本の歌一首
 
【題意】 「或本」には、次の歌が、この長歌の反歌の一首となっているところから、撰者がここに収めたものとみえる。しかしこの歌は、その性質上、これに続く一連の歌の中に属すべきものとみえる。
 
170 島《しま》の宮《みや》 勾《まがり》の池《いけ》の 放《はな》ち鳥《どり》 人目《ひとめ》に恋《こ》ひて 池《いけ》に潜《かづ》かず
    嶋宮 勾乃池之 放鳥 人目尓戀而 池尓不潜
 
【語釈】 ○島の宮 日並皇子尊の宮殿の名。宮の所在は、今の明日香村島の庄であろうという。この宮については『講義』が詳しく考証している。ここは推古天皇の御代、蘇我馬子が邸を営んだ旧地らしく、後、天武天皇の離宮となり、皇太子に賜わったものだという。島の宮というのは、宮殿内に島があったからの称で、島とは庭園を称する名である。この島ははやく馬子時代からあって、馬子もそれによって島大臣《しまのおとど》と呼ばれていたの(264)であった。○勾の池の 「勾の池」は、池の名である。この池は庭園の一部を成しているもので、いわゆる山水《せんすい》である。○放ち鳥 「放ち鳥」は、放ち飼にしてある鳥にもいわれうる語であり、仏教でいう放生《ほうじよう》のために放つ鳥にもいっている称である。ここはそのいずれかであるが、歌で見ると、鳥が池に住みついている状態をいっているところから推して、放ち飼の鳥とみえる。鳥は水禽である。○人目に恋ひて 「人目」は、人の目で、見ること、見ゆること、見らるることに通じていう語。ここは人に見らるることである。「に」は、(一一一)に出た。「恋ひ」の対象をあらわす語で、に対しての意であり、動的の目標をさした場合のものであると『講義』は説明している。今だと「を」というところである。人を恋しがっての意。○池に潜かず 水の中に潜り入らないの意で、潜るのは小魚を獲りなどするためである。
【釈】 島の宮の勾の池にいる放ち飼の水禽は、人を恋しがって、池水の中に潜り入らない。
【評】 皇子尊の屍は真弓の岡の殯宮へ移らせられ、宮人は殯宮に奉仕していたのであるが、その一部は交替にて島の宮の宿衛もしたことが、後に続く歌で知られる。作者とされている人麿は、その殯宮の期間のある日、島の宮の宿衛の番にあたってこちらへ来、皇子のいらせられた時とは打って変わり、寂然としているさまを見て、悲しくもの寂しい感に堪えなかったとみえる。その時たまたま目に着いたのは、水禽の放ち鳥で、これに向かっていると、折から水禽は水を潜《かず》かないのであったが、これがいつもの習性とは異なっているような気がして、そこに一つの気分が湧いてきたのである。それは水禽も自分と同じく、悲しくもの淋しい気がしていて、今見ている人が恋しくて潜《くぐ》らないのだと感じたのである。それがこの歌の作因である。「島の宮勾の池」と、馴れた宮で、しかも眼前にある池を、固有名詞を二つまで重ねていっているのは、事を鄭重にいうことによって感を尽くそうとしたのである。感とは、皇子尊の近くまでいられて、常に御覧になった物ということにまつわる哀感である。「放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず」は、事としては、折から水禽は小魚を漁ろうとしなかったというにすぎないことであるが、それに自分の哀感を移入して、水禽も我と同じく哀感に堪えずにいるとしたのである。自然物にわが感情を移入するということは、この時代にあっては少数の人よりほかは、十分にはできなかったのであるが、この歌はそれを高度にまで果たし得ているものである。これを果たしたがために、作者のその際の感情は、美しさを帯びたものとなってあらわされ、のみならずその折の島の宮全体のもつ哀感をも漂わしくるという広がりをもったものとなったのである。これは無意識なものでなく意識してのものであることは、「島の宮勾の池の」と重くいっているので明らかである。これは人麿の好んで用いた手法である。この歌によって見ると、人麿は、日並皇子尊の舎人の一人であったようにみえる。
 
     皇子尊の宮の舎人等、慟傷《かなし》みて作れる歌二十三首
 
【題意】 「皇子尊」は、上に続いて、日並皇子尊。舎人は東宮の舎人である。令の制によると、定員六百人である。舎人の職務は、宮中にあつては内舎人、大舎人に分かたれ、内舎人の職務は、「掌2帯刀、宿衛、供奉、雑使1、若駕行分2衛前後1」とあり、大舎(265)人の方は、「分v番宿直仮使」とある。これに准じたものと思われる。慟傷は、いずれの字もいたむの意あるものである。
 
171 高光《たかひか》る 我《わ》が日《ひ》の皇子《みこ》の 万代《よろづよ》に 国《くに》知《し》らさまし 島《しま》の宮《みや》はも
    高光 我日皇子乃 万代尓 國所知麻之 嶋宮波母
 
【語釈】 ○高光る我が日の皇子の 「高光る」の「高」は、天。天に光るで、「日」にかかる枕詞。「我が」は、親しみ尊んで添えた語。○万代に 万年にで、永久の意でいうもの。○国知らさまし 「国」は、わが国、「知らさまし」は、「知る」に尊敬の助動詞「す」の未然形「さ」のついた「知らさ」に、仮想の「まし」の続いたもので、「まし」は連体形である。御支配になるであろうところの意。○島の宮はも 「島の宮」は、上に出た。「はも」は、「は」は、上の体言のあらわそうとするものをさし、余情をこめて言いさしとしたもの。「も」は、その余情に対しての詠歎で、それをもって終止としたものである。ここは、主《あるじ》なき島の宮の荒れ行こうとするのを見て嘆いたものである。
【釈】 高光るわが日の皇子が世にいましたならば、永久にわたってこの国を御支配になるであろうところの島の宮は、ああ。
【評】 二十三首のうち、最も多数を占めているのは、島の宮の荒廃に帰そうとするのを悲しんだ歌である。皇子尊の御薨去からやや時日が立ち、悲哀の情が鎮まって来た時、舎人という身分の者に取っては、最も直接に、また最も痛切に哀感を誘ったのは、平常奉仕のために出入りしていた宮の状態であったろう。この歌は、島の宮の荒廃しつつある状態を目前に見て、今さらに返らぬ嘆きの強いものに衝《つ》き動かされ、それを一気に詠んだもののであることは、一首の調べによって感じられる。しかしそれをいうにも、皇子尊に対する畏さから語に細心の注意をし、御薨去のことは「国知らさまし」の「まし」の仮想によってあらわし、また、宮の荒廃の悲しさは、「島の宮はも」の「はも」によって、一に余情によってあらわすという方法を取っているのである。これらは技巧というべきではなく、真心の現われと見るべきである。一舎人の作としては優れたものである。
 
172 島《しま》の宮《みや》 上《うへ》の池《いけ》なる 放《はな》ち鳥《どり》 荒《あら》びな行《ゆ》きそ 君《きみ》まさずとも
    嶋宮 上池有 放鳥 荒備勿行 君不座十万
 
【語釈】 ○島の宮上の池なる放ち鳥 「島の宮」「放ち鳥」は、(一七〇)に出た。「上の池」は、池の名と取れるが、(一七〇)の勾の池との関係はわからない。「なる」は、にあるで、に居るの意。○荒びな行きそ 「荒び」は、疎く遠ざかる意である。今は、放ち鳥がそこを住み捨てる意である。住み捨てることはするなと命じた意。○君まさずとも 「君」は、主の皇子尊。「まさずとも」は、この宮におわさずとも。
(266)【釈】 島の宮の上の池に住んでいる放ち鳥よ、ここを疎く遠ざかること、すなわち住み捨てることはするなよ。主《あるじ》なる皇子尊はこの宮にはおわさずとも。
【評】 これも島の宮に詰める番に当たった舎人の、宮の荒廃しようとしている状態を悲しんでいる折から、上の、池に住んでいる水禽を見て、自身の情を投げかけたものである。「荒びな行きそ君まさずとも」は、単純に似て複雑である。放ち鳥は池に小魚のいる限りは住みついていようから、荒びゆく怖れは少ないものである。しかし舎人は主《あるじ》なき宮にはいられず、荒び行く形とならざるを得ないものである。その自身の怖れを放ち鳥に移し、哀願する心をもっていっているもので、心は舎人自身のものだからである。咄嗟《とつさ》に発した感で、深く意識していたものとはみえないが、実感であるがゆえにおのずから複雑味を含んでいるのである。境地は(一七〇)と酷似しているが、文芸性のはるかに劣ったものである。
 
173 高光《たかひか》る 吾《わ》が日《ひ》の皇子《みこ》の いましせば 島《しま》の御門《みかど》は 荒《あ》れざらましを
    高光 吾日皇子乃 伊座世者 嶋御門者 不荒有益乎
 
【語釈】 ○高光る吾が日の皇子の (一七一)に出た。○いましせば 「いまし」は、御在世の意。「せば」は、仮設の条件のもので、下の「まし」に対するもの。もしも御在世であったならば。○島の御門は 「御門」は、御殿を、その一部の御門で代表させたもので、島の宮はの意。○荒れざらましを 荒れずにあろうものをで、上の「いましせば」に対する帰結。
【釈】 高光るわが日の皇子がもし御在世であったならば、島の御殿はこのように荒れずにいようものを。
【評】 島の宮に詰めての嘆きである。荒廃するよりほかない島の宮の、すでにその兆をあらわしているのに対し、皇子尊を中に置いて、以前と現在とを対照しての嘆きである。心としては(一七一)と全く同じものである。(一七一)の方は感動そのものを主とし、宮の方は客として詠んでいるのに、これは宮の方を主として詠んだものである。感動に即したものの方が、感の強いものとなっている。
 
174 外《よそ》に見《み》し 檀《まゆみ》の岡《をか》も 君《きみ》ませば 常《とこ》つ御門《みかど》と 侍宿《とのゐ》するかも
    外尓見之 檀乃岡毛 君座者 常都御門跡 侍宿爲鴨
 
【語釈】 ○外に見し 「外」は、現在も口語にまで用いている語で、関係のない、ひいては疎いものの意である。『講義』は、仏典のよその国語化(267)したもので、古くよりそうなった語だと注意している。関係なく見てきた。○檀の岡も 「檀」は、上の真弓。「も」は、詠歎。○君ませば 「君」は、皇子尊。「ませば」は、いますので。○常つ御門と 「常」は、永久。「つ」は、の。「御門」は、御殿。「と」は、として。永久の御殿として。事としては殯宮である。○侍宿するかも 「侍宿」は、殿居《とのい》で、宿直。守衛の役としてである。「かも」は、詠歎。
【釈】 関係なく見てきたところの真弓の岡も、君がそこにましますので、永久の御殿として、守衛のための侍宿をすることであるよ。
【評】 これは、真弓の岡の殯宮に侍宿をしていての悲しみである。悲しみを抒《の》べるに、自分の現在の状態を、客観的に、大きく捉え、しかも「外に見し檀の岡」を、「常つ御門」としていると、際やかなる対照をして、それによって悲しみをあらわしているのである。目だたないものであるが、当時の歌風に従ったもので、要を得た歌である。殯宮を檀の岡と言いかえたのは、感傷の心よりである。
 
175 夢《いめ》にだに 見《み》ざりしものを おほほしく 宮出《みやで》もするか 佐日《さひ》の隈廻《くまみ》を
    夢尓谷 不見在之物乎 欝悒 宮出毛 爲鹿 佐日之隈廻乎
 
【語釈】 ○夢にだに見ざりしものを 「だに」は、軽きをあげ重きを言外に置く意の助詞。夢にさえも見なかったものをで、全く思いもかけなかったのにと嘆いた意。○おほほしく 「欝悒」は、集中に多い語で、『講義』は「おぼろ」の語根に基づいた語で、その「おぼ」を重ねておぼおぼしくとした意であろうという。多くの用例から見ると清音であるらしく、事のはっきりしない意、また、心結ぼれる意をもあらわす語である。ここは、はっきりしない意に取れる。形容詞。○宮出もするか 「宮出」は宮門を出入することで、ここは宮に向かって行く意と取れる。「も」も「か」も詠歎。宮への出仕をすることよの意。○佐日の隈廻を 「佐」は接頭語。「日の隈」は檜隈《ひのくま》の文字を用いたものが多い。高市郡明日香村檜前。現在は真弓の岡の南方にある(268)一地名となっているが、古くは広い地域の大名で、真弓の岡もその中であったかもしれぬと『講義』は考証している。「廻」は、あたり。
【釈】 夢にさえも見なかったことであるのに。事のはっきりしない、すなわち現実とも思われない状態で、宮への出仕をすることであるよ、この檜隈のあたりを。
【評】 一舎人の、真弓の岡の殯宮への出仕の途中、檜隈のあたりを歩きながら、出仕といえば橘の島の宮とばかりきまっていて、それに馴れている心から、打って変わった今の状態を、現実のことではないような感がして、嘆いての歌である。「おほほしく」という語は、ありふれた語であるが、事の全体を大きく捉え、事実に即していおうとする態度に支持されて、含蓄の多い、その際の悲哀の情を微妙にあらわし得たものとなっている。
 
176 天地《あめつち》と 共《とも》に終《を》へむと 念《おも》ひつつ 仕《つか》へ奉《まつ》りし 情《こころ》違《たが》ひぬ
    天地与 共將終登 念乍 奉仕之 情違奴
 
【語釈】 ○天地と共に終へむと 「天地」は、窮りなきものの代表としてのもの。「と共に」は、それと一緒にで、永遠にということを具象的にいったもの。天壌無窮というと同じ意で、例の多い語である。「終へむと」は、終わらせようとで、その終わらせるのは、下の「仕へ奉る」ことである。○念ひつつ 「つつ」は、継続。○仕へ奉りし情違ひぬ 「仕へ奉りし情」は、皇子尊に御仕え申して来た情《こころ》。「違ひぬ」は、期待に反したの意。
【釈】 天地と一緒に、永久にお仕え申しきろうと思い思いして、今までお仕え申してきたところのわが情は、期待に反してしまった。
【評】 皇子尊の御薨去に対しての深い悲哀を、一気に、太く強く訴えた歌である。その悲哀の深さは、一首の調べによって十分に具象化されている。「天地と共に終へむと」は、舎人として仕えまつる情をいったものであるが、この語は、皇子尊を君と仰ぐがゆえにはじめて言いうるもので、すなわち皇子尊を讃えるとともに、臣下としてお仕えする矜りをも一つに溶かし込んだ、複雑味のある語である。また、「情違ひぬ」と、我に即した言い方をして、皇子尊の御薨去をあらわしているところも、その延長で、同じく複雑味をもったものである。一気に詠んではいるが、行届いた用意をもったものである。
 
177 朝日《あさひ》てる 佐太《さだ》の岡辺《をかべ》に 群《む》れ居《ゐ》つつ わがなく涙《なみだ》 やむ時《とき》もなし
    朝日弖流 佐太乃岡邊尓 群居乍 吾等哭涙 息時毛無
 
(269)【語釈】 ○朝日てる 「佐太の岡」を修飾しているもの。日のあたることは、古くから愛《め》でたいこととしており、岡はその最もよくあたる所だから、捉えて修飾としたのである。「朝日」を選んだのは、具象化を尊ぶ心から、日の感の最も強い時として選んだのである。○佐太の岡辺に 下の続きから、殯宮の在り場所であることは明らかだが、それは上に引いたように、正式には真弓の岡とされている。『講義』も、佐太の岡は真弓の岡の西南にあって、相対して一と続きとなっていて、その区別は明瞭ではない。古くはその一帯を真弓の岡と称し、一部を佐太の岡と称していたのだろうといっている。○群れ居つつ 春宮の舎人は上にいったように六百人というので、分番宿衛する者も多人数で、したがって群れ居る状態であったとわかる。○わがなく涙 「吾等」は、「わが」にあてた文字で、国語にあっては単数も複数も同じであるところから、文字によってその複数をあらわしたものである。これは他にも例のあるものである。歌が文字によって読む物になっていたことを明らかに示しているものである。○やむ時もなし 「やむ」は、止む。「も」は、詠歎。
【釈】 朝日の照る佐太の岡に群れて居つつ、我らの悲しんで流す涙は、やむ時とてもない。
【評】 「朝日てる」という修飾は、他にもあるもので、創意のものではないが、これは実際に即したもので、宿衛の夜が明けて、朝日が岡の上に射してくると、その華やかさに刺激されて、哀感を深められたので、それに即していったものと取れる。心理の自然がある。また、殯宮を佐太の岡辺としているのも、この歌がはじめてである。大名よりも小名を選んだことも、上と同じく実際に即したことがわかる。「吾等」がこの作者の用字であったとすれば、そこにも同じ心が見えることである。悲哀の強く感じられるところを捉え、全体の状態としていっているので、感の強いものとなっている。状態を通し、全体を通して悲哀をあらわしているところに、特色がある。
 
178 み立《た》たしの 島《しま》を見《み》る時《とき》 にはたづみ 流《なが》るる涙《なみだ》 止《と》めぞかねつる
    御立爲之 嶋乎見時 庭多泉 流涙 止曾金鶴
 
【語釈】 ○み立たしの 訓が定まっていない。『代匠記』は「みたたせし」、『考』は「みたたしの」、『新考』は旧訓のごとく「みたちせし」、『新訓』も同様である。『考』に従う。「み立たし」は、立つの敬語。その連用形が、体言化し、それに「御」を添えたもの。皇子尊の下り立たせられたところの意。○島を見る時 「島」は、広く庭園の意。○にはたづみ 「庭」は、「俄」にあてた字で、その意のもの。「多泉」「立水《たつみ》」の意。『仙覚抄』は、水にはたて水、ふし水とあり、ふし水は地下にあって地面に現われない水、たて水は、地面に現われて流れる水だといい、『古義』も、辺鄙の語に、夕立などで庭に流れる水を、「たづみ」が走るといっているのは、古言が残っているのだといっている。それらのたて水が、「たづみ」である。すなわちにわかに現われて流れる水の称。涙の譬喩としてのもの。○流るる涙止めぞかねつる 「止めぞかねつる」は、「かね」は難の意の動詞で、現在口語にも用いている。とめかねることであるよと、嘆きをこめていったもの。「つる」は「ぞ」の結び。
(270)【釈】 皇子尊の下り立たせられたところの庭園を見る時、御在世の折のことが眼に浮かんできて、「にはたずみ」のごとくにも流れる涙が、止めようにも止めかねることであるよ。
【評】 これは島の宮に詰めての歌である。島の宮に詰めることとなった舎人の、その島を眼にすると同時に、その島に下り立たせられた時の皇子尊が面影に立って、悲しさがこみ上げてきた、その瞬間の心持を詠んだものである。「島を見る時」と限っていい、一転して「流るる涙」と続けているところは、その瞬間の烈しい悲哀をさながらにあらわしている。きわめて実際に即した歌である。「にはたずみ」は、後には愛用されて枕詞のごとくなっているが、この歌では譬喩と見るべきである。誇張したものではあるが、適切なためにそれを感じさせない、感の深いものである。
 
179 橘《たちばな》の 島《しま》の宮《みや》には 飽《あ》かねかも 佐田《さだ》の岡辺《をかべ》に 侍宿《とのゐ》しに往《ゆ》く
    橘之 嶋宮尓者 不飽鴨 佐田乃岡邊尓 侍宿爲尓徃
 
【語釈】 ○橘の島の宮には 「橘」は、明日香村橘。そこにある島の宮には。「島の宮」のあった所と伝える現在の島の庄は、橘の地域内であったと思われる。○飽かねかも 「飽かね」の「ね」は、打消の「ず」の已然形で、已然形をもって下に接続させ、条件を示すものとすることは、当時の語法であって、後世「ば」の接続助詞をもって続ける「飽かねば」と同じである。これは例の多いものである。「かも」は、疑問で、飽き足らないによってかの意。○佐田の岡辺に侍宿しに往く 「佐田の岡辺」は、(一七七)に、「侍宿」は、(一七四)に出た。
【釈】 橘の島の宮に侍宿《とのい》をすることに飽き足りないによってなのか、我は佐田の岡辺の方に侍宿をしには往くよ。
【評】 佐田の岡辺の殯宮に侍宿をしようとして、そちら(271)への道を歩いていての感である。客観的にいえば、その事はきわめて明らかなことであるが、主観的に、舎人の身に即し、その気分に即してくると、同じく皇子尊の宮とはいえ、橘の島の宮の華やかだったのに較べて、佐田の岡辺という名をもって呼ばれるさみしい宮へ侍宿に往く自分を、何だってこのようなことをするのだろうと、ふと疑うような気が起り、あちらの宮での侍宿は飽き足りないによってのことなのかと、最も手近な、最もありうべき理由を、疑いを残して答としたのである。すなわち自分の気分に即して、きわめて明らかな事にさえ惑おうとした心である。大きな悲哀に心の打ち砕かれた際に起こることのある実感である。「橘の島の宮」という華やかな言い方と、「佐田の岡辺」という侘びしい言い方との対照は、このふとした惑いを表現する上で働きのあるものとはなっているが、一首、微旨をいおうとしたもので、力強いものではない。
 
180 み立《た》たしの 島《しま》をも家《いへ》と 住《す》む鳥《とり》も 荒《あら》びな行《ゆ》きそ 年《とし》替《かは》るまで
    御立爲之 嶋乎母家跡 住鳥毛 荒備勿行 年替左右
 
【語釈】 ○み立たしの島をも家と 「み立たしの」は、(一七八)に出た。「島をも」は、庭園をさえもの意で、上より続いて、皇子尊の御立たしになられたところのその貴い庭園をさえもの意。「家と」は、家としてで、水禽が池に住みついているところから、その池を家と見立てていったものである。「家」という言い方は、水禽に舎人と同じ情を要求しようとして、人に引きつけていったもので、技巧としてのものではない。○住む鳥も 「鳥も」の「も」は、もまたで、鳥もまた舎人と同じくの意のもの。○荒びな行きそ 「荒び」は、(一七二)に出た。疎く遠ざかる意。疎く遠ざかるなというのは、ここを捨てて、他へ移り住むようなことはするなの意。○年替るまで 「年替る」は、年改まるで、この舎人の歌を通じて見ると、殯宮の事は一周年を期間としたのである。年替るは、その一周年を意味させたものであることが、舎人を標準としていっているところからわかる。全体では、一周年の来るまではの意。
【釈】 皇子のお下り立ちになったところの貴い庭園をさえも、その家として住んでいる水禽もまた、ここを捨てて他へ移り住むようなことはするな、我らと同じく一周年の来るまでは。
【評】 天皇、皇太子のごとききわめて尊貴な御方には、臣民はもとよりのこと、上は天神地祇より、下は山野の鳥獣まで、一切がお仕えすべきだということは、一般の通念となっていた。「み立たしの島をも家と住む鳥」は、当然特別なる奉仕をしなければならないものである。この舎人は、その心から、水禽に対して、我ら舎人と同じく一周年までの間は奉仕せよと命じたのである。これは特別な感傷からではなく、当然のこととして要求し、諭して聞かせたものである。初句より三句までは、水禽が皇子尊に対して従来もってきた深い関係をいって聞かせているもので、自明なことを改めていって聞かせているものである。(272)しかしその奉仕にも限度をつけて、我ら舎人と同じく一周年間をといっているのは、行き届いた心である。水禽に対してある不安を感じていっているところはまさしく実感である。
 
181 み立《た》たしの 島《しま》の荒礒《ありそ》を 今《いま》見《み》れば 生《お》ひざりし草《くさ》 生《お》ひにけるかも
    御立爲之 嶋之荒礒乎 今見者 不生有之草 生尓來鴨
 
【語釈】 ○み立たしの島の荒礒を 「み立たしの島」は、上に出た。「荒礒」は、「荒」は、巻一(五〇)「都宮《みあらか》」の「あら」と同じく現われる意。「礒」は、石の古語で、地上に現われている石。池のほとりにある石を称したもの。また、石のあるあたりは、草の生えやすく伸び立ちやすい所である。○今見れば 「今」は、絶えず詰めていた島の宮から離れていて、今、こちらへ立ち帰って来た時をあらわしたもの。○生ひざりし草 生えなかった草で、皇子尊の御在世の時は、生えるとすぐに抜いて生い立たせなかった草を言いかえたもの。○生ひにけるかも 「生ひにける」は、生えて伸び立ってしまっている意で、これはその係の者がいなくなったからの自然の成りゆきである。「かも」は、詠歎。
【釈】 皇子尊の下り立たせられたところの庭園を、今見ると、以前には生えなかった草が、生えて伸び立ってしまっていることではあるよ。
【評】 島の荒礒に草の生えているのを眼にして、甚しくも嘆いた心である。島の宮は、その主《あるじ》である皇子尊が御薨去になったので、当時の風に従って住み捨てられ荒廃に委ねらるべきものとなっていた。皇子尊の第一の御形見である宮が、そのようになってゆくということは、舎人にとっては思うにだに堪え難い悲しみだったのである。しかるに今、しばらく島の宮を離れていて立帰って見ると、すでに荒廃の兆を示している。見るものは「草生ひに」であるが、それは「生ひざりし」草なのである。語を尽くし、強い調べに託して嘆いているのは、まさに実感と思われる。
 
182 鳥〓《とぐら》立《た》て 飼《か》ひし鴈《かり》の子《こ》 巣立《すだ》ちなば まゆみの岡《をか》に 飛《と》びかへり来《こ》ね
    鳥〓立 飼之鴈乃兒 栖立去者 檀岡尓 飛反來年
 
【語釈】 ○鳥〓立て 「〓」は、『美夫君志』が考証して、「栖」の俗字だとしている。「鳥〓」は、鳥座《とぐら》で、鳥座《とりくら》の約《つ》まった語。鳥の宿りすわる所の意。「立て」は、構えて。鳥を巣飼いする状態を、具象的にいったもの。○飼ひし鴈の子 「鴈」は、今日よりは意味の広い語で、雁《がん》、鴨の類を総称していった。「子」は、雛。呼びかけていったもの。○巣立ちなば 「巣立ち」は、現在も口語に用いている。雛が自活に堪えるまで育つと、(273)巣立ちをするところからいっている語で、独立ができるようになったならばの意。○まゆみの岡 上に出た。○飛びかへり来ね 「飛びかへり」の原文「反」は、「翻《かへ》り」の意で、鳥の飛ぶ状態をいったもの。『新考』は、巻九(一七五五)、霍公鳥《ほととぎす》の歌の「卯の花の咲きたる野辺ゆ、飛翻《とびかへ》り来鳴きとよもし」を例としている。「来ね」は、来よと懇ろに誂えたもの。
【釈】 鳥栖《とぐら》を構えて飼って来た鴈の雛よ、お前が巣立ちができるようになったならば、皇子尊のまします真弓の岡へ翻り飛んで来てお仕え申し上げよ。
【評】 (一八〇)と同じく、皇子尊の御恩をこうむった鳥は、当然、舎人と同じように、殯宮の御奉仕をするべき者であるとして、それを諭す心のものである。「鳥〓立て飼ひし鴈の子」と、皇子尊の御恵みの深かったことをいい、御恩返しをするべきこととして、「まゆみの岡に飛び反り来ね」といっているところは、全く同一である。異なるのは、彼は独立している水禽で、どこへでも移ろうとすれば移って住める鳥であるところから、その不安を抱いて諭しているのに、これは独立のできない雛であるところからその不安はなく、また、皇子尊の御恵みも、教えることによってはじめて知りうるものとして、諭すというよりは、教える態度をもっていっている点である。おそらく(一八〇)の歌を見て、それにならって詠んだものではないかと思われる。この方が作者の心が単純である。
 
183 吾《わ》が御門《みかど》 千代常《ちよとこ》とばに 栄《さか》えむと 念《おも》ひてありし われし悲《かな》しも
    吾御門 千代常登婆尓 將榮等 念而有之 吾志悲毛
 
【語釈】 ○吾が御門 「吾が」は、親しんで添える語。「御門」は、ここは宮を代表させてのもので、島の宮の意。○千代常とはに 「千代」は、千年で、永久の意。「常とば」は「常とば」は永久、不変。「婆」は濁音、仏足石歌その他に用例がある。どちらも同じ意の副詞で、強めるために畳んだもの。○栄えむと 栄えて行こうとで、皇子尊の栄えを宮に寄せていったもの。○念ひてありしわれし悲しも 「われし」の「し」は、強め、「も」は、詠歎。念つて来たところの我は悲しいことよの意。
【釈】 吾が皇子尊の宮は、まことに永久に栄えて行くことであろうとばかり思って来たところの我は、深く悲しいことであるよ。
【評】 皇子尊の思いがけぬ薨去に逢って、その悲しみに打ち砕かれた心を直写したものである。直線的に、強い調べをもって詠んであるがために、その深い悲しみがさながらに現われている。「念ひてありし」と過去にし、「悲しも」を添えることによって薨去をあらわしているのは、実際に即したがためであるが、それだけで不足を感じさせないのは、強い調べが補いをなしているからである。
 
(274)184 東《ひむかし》の たぎの御門《みかど》に 伺侍《さもら》へど 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 召《め》す言《こと》もなし
    東乃 多藝能御門尓 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無
 
【語釈】 ○東のたぎの御門に 東方の御門にしてで、たぎのある御門にの意。「東」は、巻一(五二)に出たように、わが国では中国とは反対に、東西を経とし、南北を経とするところから、宮殿の御門も、東方のものを正門とした。この「東」はその意のものである。「たぎ」は、巻一(三六)に出たように、急流のたぎる水をさす語で、「たぎる」の語幹「たぎ」の名詞となったものである。この「たぎ」は、勾の池の水である。その落ち口か取入れ口かについて、『講義』は詳しい考証をしている。要は、島の宮の故地は、東は多武蜂または細川山の麓で、傾斜が急であるから、落ち口ではなく取入れ口でなくてはならない。思うに古は、飛鳥川の本流か、または支流である細川が、島の宮の東を流れていたのだろうといっている。○伺侍へど 伺候し、詰めているけれどもで、東の御門に舎人の詰所があったとわかる。○昨日も今日も召す言もなし 「召す言」の「言」は、事とも、文字どおり言《こと》とも取れる。『講義』の「言」の意としたのに従う。
【釈】 東のたぎの御門に伺候して詰めているけれども、昨日も今日も、皇子尊のお召しになるお言葉がない。
【評】 多くの舎人らが、番を定めて、真弓の岡と島の宮とへ分かれて詰めることにしていて、この舎人は今、島の宮へ詰めていたのである。詰め馴れた島の宮の、東のたぎの御門の詰所に伺侍《さむら》っていると、宮には皇子尊がいらせられ、今にも御用でお召しになるような気がしつづけているのであるが、待ちに待ってもそのお声がないと嘆いているのである。永い間の習慣に引かれるところからくるこうした惑いは、心理的にきわめて自然なもので、感傷ともいえないものである。したがって誇張は含んでいない実感とみるべきである。「東のたぎの御門に伺侍へど」と、事を懇ろにいい、「昨日も今日も」とさらに言を重ねているのは、その永い習慣に引かれることを具象したもので、用意をもった表現というべきである。
 
185 水《きづ》伝《つた》ふ 礒《いそ》の浦廻《うらみ》の 石《いは》つつじ もく開《さ》く道《みち》を また見《み》なむかも
    水傳 礒乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又將見鴨
 
【語釈】 ○水伝ふ 水が伝って動いて行く意で、下の「礒の浦廻」の状態をいったもの。勾の池の水が、落ち口の方へ向かって動いているのが、汀では感じられるのをいったもの。風景のおもしろさとしてのものである。○礒の浦廻の 「礒」は、石。ここは、勾の池の岸が石で固めてあったとみえる。「浦廻」は、浦のあたりで、池の岸の入り込んだ所を、海の浦になぞらえて呼んだ称。池や川などに、海の名称を移して用いるのは当時の風で、これもそれである。○石つつじ 躑躅の名。岩のある地に自生するところからの名であろうという。○もく開く道を 「木丘」は、(275)日本書紀を初め、古典に用例の多い語で、繁く盛んな意をあらわす古語である。諸注、多くの例を引いている。顕宗紀に、来目部小楯の事をいって、「厥功茂《そのこうもし》焉」とあり、応神紀に、「芳草薈蔚《もくしげし》」とあり、「薈」は玉篇に「草盛貌」とある。『講義』は、『古語拾遺』『将門記』『朗詠』『毛詩』『尚書』『文選』『遊仙窟』などから例を引いている。「もく、もし、もき」と働く形容詞である。一句、繁く盛んに咲いている道をで、風景の愛《め》でたさをいったものである。○また見なむかも 「かも」は、反語として用いている。またも見ることがあろうか、ないの意。
【釈】 水が伝って移ってゆく池辺の礒の、その浦回にある石つつじよ。この繁く盛んに咲いている愛《め》でたい道をまたも見ることがあろうか、ありはしない。
【評】 島の宮の、その島の内の勾の池のほとりの、折から咲き盛っている石躑躅の間の道をそぞろ歩きしながら、悲しみに駆られて詠んだ歌である。皇子尊の薨去は四月の十三日なので、一年間の殯宮の期間を、舎人らは窺宮に奉仕し、島の宮も守衛をしていたのであるが、その期間が終ると退散しなくてはならないのであるから、石つつじの花をいっているのは、その退散の期の迫った頃とみえる。一たび退散すれば、島の宮との関係は絶えてしまうので来年のこの石つつじの咲くのは見ることができず、まさに「又見なむかも」である。嘆かざるを得ないはずである。歌は石つつじの間の道を中心としたものであるが、その石つつじのある所を「礒の浦廻」といい、さらにその「礒の浦廻」をいうに「水伝ふ」という新しい修飾を加えている。『講義』の説くところによれば、島の宮の所在地は傾斜地である。それだと勾の池の水は落ち口に向かって移動をし、礒のあたりではそれが露《あら》わに感じられたと思われる。石つつじだけではなく、その咲いている場所も特殊なる愛《め》でたさをもっているものとして、心をこめてそれをあらわしているのはそのためである。これらはすべて愛惜の心からのことで、その愛惜はやがて悲哀なのである。あわれの深い、しかし実際に即した、落着いた心をもって詠んだ歌である。
 
186 一日《ひとひ》には 千遍《ちたび》參入《まゐ》りし 東《ひむかし》の 大《おほ》き御門《みかど》を 入《い》りかてぬかも
    一日者 千遍參入之 東乃 大寸御門乎 入不勝鴨
 
【語釈】 ○一日には 「一日」は、短い間の意でいった、譬喩的なもの。「は」は、皇子等の御生前を、御薨去の今に対させた意で用いたもの。○千遍参入りし 「千遍」は、千回で、多い意でいった、譬喩的のもの。「参入る」は、尊い所へ伺う意。○東の大き御門を 「大寸」は、『考』の訓。「大」を「た」とし、また「太」の誤りとして、「たぎの」との訓もある。『考』に従う。「大寸」は尊んで添えた語。正門であったので、それにあたってもいる。○入りかてぬかも 「かて」は、(九四)「有りかつましじ」の「かつ」と同じく、堪える意の古語。「ぬ」は打消。「かも」は、詠歎。入るに入りかねることよの意で、仕えまつるべき皇子尊の、宮におわさぬ悲しみをいったもの。
(276)【釈】 御生前には、一日に千回もお伺いをした、この東の大き御門を、御薨去の今は、悲しみのために入りかねることであるよ。
【評】 島の宮の守衛の番のまわってきた舎人が、その詰所のある東の御門の内に入ろうとして、皇子尊の御生前と御薨去後の今とが今さらのごとくに比較されて、悲しさに立ち入りかねるような感のしたことを詠んだものである。「一日には千遍参入りし」と、「入りかてぬかも」とを対照させて、際やかにいっているのはそのためである。殯宮の期間は、御生前と同じく島の宮の守衛をもしていた、その間の心である。御生前を強くいい、現在をその対照によって暗示的にいっているところに、その際の感が現われている。
 
187 つれもなき 佐太《さだ》の岡辺《をかべ》に かへり居《ゐ》ば 島《しま》の御橋《みはし》に 誰《たれ》か住《す》まはむ
    所由無 佐太乃岡邊尓 反居者 嶋御橋尓 誰加住※[人偏+舞]無
 
【語釈】 ○つれもなき 本居宣長の訓。(一六七)に出た。○佐太の岡辺に 上に出た。○かへり居ば 『考』の訓。立ち帰って居たならば。佐太の岡辺の殯宮を、主として奉仕するべき所とし、島の宮へは、たまたまに宿衛に来たものとして、あちらへ立ち帰って居たならばの意でいったもの。殯宮の期間は、御生前と同じく奉仕したのであるから、主《あるじ》のまさぬ島の宮ではあるが、こなたもそれに准ずる扱いをして、その期間は宿衛したものであろうと、歌によって取れる。そうしたことは、よるべき証のないことだとしても、(一八四)「昨日も今日も召す言もなし」によって、二日にわたっての宿衛をしたことも明らかである。ここもその意のものと解される。○島の御橋に 「島」は、庭園。「御橋」は、池に架けた橋で、中島に架けたものかと思われる。庭園の中の最も眺めの好い所としていっているものと思われる。○誰か住まはむ 「誰」は、舎人をさしたもの。「か」は、疑問。「住まふ」は、「住む」の継続の意をあらわすもの。誰がとどまることであろうか。
【釈】 もの淋しいあの佐太の岡辺へ、自分が立ち帰っていたならば、この眺めの好い島の御橋の上に、誰がとどまるのであらうか、とどまる者もない。
【評】 この舎人は、仕え馴れた島の宮の、その島の中でも最も眺めの好い池の御橋の上に立って、主として奉仕するべき殯宮のことを思いやりつつ、御橋を去り難くしている嘆きを詠んだのである。殯宮をそれとしていわず、「つれもなき佐太の岡辺」という侘びしい名をもって呼んでいるのは、「島の御橋」のなつかしさをあらわそうがための対照であって、力点を眺めに置いたからである。「島の御橋」をなつかしむのは、御生前の皇子尊を慕っているからで、そこにいわざる深い悲しみがある。「誰か住まはむ」は、誇張のあるもので、島の宮にも宿衛していたことは前後の歌で知られる。この誇張は御生前との対照で、悲哀を新たにしたところから自然に出ているものである。眼前の眺めを惜しむ形とはなっているが、それは皇子尊を悲しむ心(277)から発しているものなのであって、あわれ深いものがある。
 
188 朝曇《あさぐも》り 日《ひ》の入《い》りゆけば み立《た》たしの 島《しま》に下《お》りゐて 嘆《なげ》きつるかも
    旦覆 日之入去者 御立之 嶋尓下座而 嘆鶴鴨
 
【語釈】 ○朝曇り 「旦《たん》」は朝。「覆」は覆う意で、「くもり」にあてたものだと、『攷証』が考証している。下の「日の入り」の状態をいったもの。○日の入りゆけば 日が入ったのでで、悲哀の深い時としてのもの。○み立たしの島に下りゐて 「み立たし」は、名詞。皇子尊の下り立たせられたところの庭園に、自分も下りていてで、皇子尊に接近しうるかのごとき感のしてのこと。○嘆きつるかも 「かも」は、詠歎。嘆いたことであるよ。
【釈】 朝の空が曇って、日が入ったので、その状態に刺激されて悲しみが深くなってき、皇子尊の下り立たせられたところの庭園に我も下りていて、嘆きをしたことであるよ。
【評】 島の宮にあって、日が雲にかくれた時に感じた気分を具象したものである。そのさびしさは特殊なものであるが、今はそのさびしさが悲しさとなり、悲しさは皇子等の慕わしさとなって、「み立たしの島に下りゐて」となったのである。あらわしやすくない気分を、的確に具象し得ている歌である。「旦覆」も、実景として捉えたものと思われるが、これも気分に溶け入って、具象の上に少なからぬ働きをしている。単純な気分を十分に具象している点で注意される歌である。
 
189 朝日《あさひ》照《て》る 島《しま》の御門《みかど》に おほほしく 人音《ひとおと》もせねば まうらがなしも
    旦日照 嶋乃御門尓 欝悒 人音毛不爲者 眞浦悲毛
 
【語釈】 ○朝日照る島の御門に 「朝日照る」は、(一七七)「朝日照る佐太の岡辺に」に出た。本来は宮を讃える成句で、「朝日照り夕日照る」と続けてもいう語である。ここもその心をもって「島の御門」を讃えているのであるが、それだけではなく、同時に眼前の実景としてもいっているものである。そのことは下の続きの「人音もせねば」によって解せられる。皇子の御生前は、「朝日照る」時刻は、舎人のすべてが出仕している時刻だったのである。「島の御門」は、(一七三)に出た。島の宮である。○おほほしく (一七五)に出た。おぼつかなく、心細い意。「まうらがなしも」に続く。○人音もせねば 「人音」は、人の声、人の立てる物音を総括したもので、「人」とは多くの舎人である。「も」は、詠歎。当時の出仕。勤務が早朝と定まっていたことは、(一六七)でいった。「朝日照る」という時刻は、一日を通じて島の宮の最も活気づき、賑わしい時刻だ(278)ったのである。この舎人は、皇子御生前の時と同じく、夜を島の宮の詰所に宿衛して、朝を迎えたのであるが、今は朝を出仕する一人の舎人もなく、宮は寂然としているので、これとそれとが対照されてき、続いて将来の宮のさまが思われてきて、そのおぼつかなくも心細さが今さらのごとく感じられてきたのである。○まうらがなしも 「まうらがなし」は、熟語で、「うらがなし」に「ま」の接頭語の添った形のものである。「うら」は、心裏。「かなし」は、悲しである。「まうらがなし」という語は他に用例の見えないものであるが、「ま悲し」という語は例の多いものであるから、当然ありうる自然な語である。「ま」の接頭語を添えることによって、語感を強めたものである。「も」は、詠歎。
【釈】 朝日の照っている島の御門《みかど》に、ありし日の華やかに賑わしかったのとは引きかえて、おぼつかなく心細くも舎人らの出仕勤労の人音もしないので、まことに心悲しいことであるよ。
【評】 この舎人は、「島の御門」の最も華やかに賑わしかるべき朝日の照る時刻において、反対に、寂しさの極みを感じて、その哀感を詠んだので、心理の自然さがある。また前の舎人は、自身の哀感を主としているのに、この舎人は宮そのものの哀感を主としているので、その点も異なっている。しかしその綜合力と感性の細かさは同じであって、「朝日照る」という宮の讃え詞に、一首にとって最も大切な哀感の土台を捉えて、それをこの一句に具象させており、また「おほほしく」の一語によって、遠からず荒廃に委ねられるべき宮そのものの哀感をも、暗示的にあらわしているのは、非凡というべきである。一首の調べにおいて、前の歌ほどの張りはもっていず、その点ではいささか劣っているが、これは取材との関係もあることで、一概にはいえないものである。なおこれら舎人の挽歌は、慟哭《どうこく》の声のまさに破れんとするものが、脈々として迫ってくる感がある。舎人は宮中より賜わるもので、廷臣としての一つの職であり、また挽歌には儀礼の面があるのであるが、これらの挽歌は君臣関係を超え、後世の主従関係のごとき切情となっているのである。この情は天皇に対してももっているもので、あらわすのを恐れ多しとしているものを、皇子尊であるがゆえに許されるとして、赤裸々にあらわしているものと解される。
 
190 真木柱《まきばしら》 太《ふと》き心《こころ》は ありしかど この吾《わ》が心《こころ》 鎮《しづ》めかねつも
    眞木柱 太心者 有之香杼 此吾心 鎭目金津毛
 
【語釈】 ○真木柱太き心は 「其木柱」は、檜をもって作った柱で、柱の中でも中心的な貴重なもの。日本書紀、神代紀に、「造宮之制者《みやつくるさまは》、柱者高太《はしらはたかくふとく》」とあり、他にもある。宮の柱はもとより、しかるべき家だと、中心となる柱はこれに准じたものであったと思われる。これは下の「太」に意味で続く枕詞。「太き心」の「太き」は、細きに対した語で、ここは男々しいの意。○ありしかど 以前はあったけれども。○この吾が心 「この」は、間近いものをさしていう語で、「吾が心」をさしている。これは上の過去の心に対させたもので、現に今ある心。その心は悲しみに砕(279)かれている心で、それを説明せずに綜合的にいったもの。○鎮めかねつも 「鎮め」は、平静を保つ意。「かね」は、難しの意の動詞。「も」は、詠歎。平静を保たせ難いことよの意。上代は、体と魂とは別なもので、心を甚しく動揺させると、魂は体から離れて、生命を危険にすると信じられていた。そういう際に、魂を鎮めるのがいわゆる鎮魂で、これは重大なる神事としていた。家の中心となっている柱を、身近にある、鎮まっている物の代表とし、心をそれにあやからせようとする心は、室寿詞《むろほぎのことば》にもあって、常識となっていた。「鎮めかねつも」という嘆きは、それを心に置いていっているものである。
【釈】 真木柱の、我も太く男々しい心があったのであるが、皇子尊の御薨去に逢って打ち砕かれた。現在の悲しい心は、平静を保たせようとしても保たせ難いことであるよ。
【評】 皇子尊の御薨去に遭って、打ち砕かれた心が保ちきれず、不安を感ずるまでに至ったのを、その心の方に力点を置いて詠んだ歌である。「この吾が心」という綜合的な言い方をし、「真木柱太き心」と対照することによって、言い難い悲哀をあらわしているのは、その目的の上から見るときわめて要を得たものである。「真木柱太き心」という誇りは、他にも例のあるものであるが、皇子尊の舎人としてもっていた心をいったものなので、宮を誘える語の「真木柱」が、単に枕詞というにとどまらず、室寿詞にあるごとく、一般性のあり、自身にも繋がりのあるものとなってきている。一首、技巧のないもののごとくに見えて、実は用意のあるものである。力量ある作というべきである。あらわしやすくない気分を捉えて、力強いものとしているのは、一首を貫いている調べのためで、太くうねりをもった調べである。(一八三)の「吾が御門千代常とばに」というと境地を同じくしているが、それよりはかなり勝れた歌である。
 
191 毛《け》ごろもを とき片設《かたま》けて 幸《いでま》しし 宇陀《うだ》の大野《おほの》は 思《おも》ほえむかも
    毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陀乃大野者 所念武鴨
 
【語釈】 ○毛ごろもを 『講義』が詳しく考証している。獣皮をもって拵えた衣で、毛衣《けごろも》とも皮衣《かわごろも》とも呼んでいた。上代に用いていた証は、日本書紀、応神紀に、日向諸県君牛が、その女を朝廷に奉ろうとして従者を連れて上る時、それらが皆「著v角鹿皮」を衣服としていたのを、天皇は途中で御覧になり、鹿の群れかとあやしまれたのを証としている。また後の『嵯峨野物語』に、鷹狩の装束は、皮ごろも、皮袴だとあるので、狩の時には毛ごろもを用いたことがわかるというのである。衣《ころも》は解くことをする物なので、その意で枕詞としたもの。今は猟のことをいおうとしているところから、新たに工夫した語。○とき片設けて 原文の「冬」は、衍字で、一本に「春」の傍らに書いてあったものが、本文に入ったのではないかと『新考』は疑っている。しかし諸本皆同じである。『全註釈』が「春冬」を季節の意の「とき」と訓んだのに従う。春と冬は、野の草木の枯れている時なので、猟の季節とされていた。ここもそれとしてである。「片設け」は、『講義』が詳しく考証している。時の上にのみいう語で、(280)自動詞。時自身が用意する意で、近づこうとしてそのしるしの見え初める意であろうという。『万葉辞典』は、「片」は不完全の意。「設け」は整える意だと解している。一句、春と冬とがその様子をどうやらあらわしてきての意。○幸しし 皇子尊のお出ましになったで、下の続きで、御猟とわかる。○宇陀の大野は 大和の宇陀郡の野で、巻一(四五)の安騎野と同じ。御猟の野。○思ほえむかも 「思ほえむ」は、偲ばれるであろうで、なつかしく思い出されようの意。「かも」は、詠歎。
【釈】 毛ごろもを張るというその春や冬が、その様子をどうやらあらわしてくると、皇子尊の御猟にとお出ましになった、あの宇陀の野は、なつかしくも思い出されることであろうよ。
【評】 皇子尊に対する悲哀が鎮まって、なつかしい思い出に転じてきた頃の歌である。最もなつかしい思い出は宇陀の野の御猟の時だったのである。上代にあっては猟は楽しみの代表的なものだったので、心理として当然なものである。歌は、末永く思い出されようというのであるが、これは皇子尊を忘れないということであって、この場合に適した心である。「毛ごろもを」という枕詞は、この歌としてはきわめて適切なものである。他に用例のないもので、この舎人の創出したものかと思われる。
 
192 朝日《あさひ》照《て》る 佐太《さだ》の岡辺《をかべ》に 鳴《な》く鳥《とり》の 夜鳴《よな》き変《かは》らふ この年《とし》ごろを
    朝日照 佐太乃岡邊尓 鳴鳥之 夜鳴變布 此年己呂乎
 
【語釈】 ○朝日照る 上に出た。○佐太の岡辺に これは御陵の意ではなく、御陵のある地としていっているもの。○鳴く鳥の夜鳴き変らふ 「鳴く鳥」は、何鳥かわからないが、下の続きで、夜鳴きをする鳥である。ここで夜鳴きを聞くのは、殯宮に奉仕するようになってからのことである。「夜鳴き」は、夜の鳴き声。「変らふ」は、「変る」をは行四段に再活用した語で、変わることの継続をあらわすもの。鳥の鳴き声の平生と異なるのは、凶兆だとする信仰は、現在も保たれているものであるが、おそらくきわめて古いものと思われる。この信仰は、鳥を霊異あるものとしたところから起こったものである。ここは、凶兆としてではなく、霊異ある鳥の舎人とともに悲しむ意でいっているものと取れる。山川の神はもとより、鳥獣も、天皇に仕えまつるという信仰は一般性をもっていたもので、特殊なものではない。ここもそれと解される。○この年ごろを 「この」は、さしあたっての意をあらわしたもので、現在のこと。「年ごろ」は、『考』は、殯宮の一周年の間をさしているものだといっている。従うべきである。それだと年より年へわたってのことで、殯宮の期間も終りに近い頃の歌と取れる。
【釈】 朝日の照る佐太の岡あたりに鳴く鳥の、その夜鳴きの声が、平生とは変わりつづけている。この年の間を。
【評】 殯宮の奉仕の終り近い頃、悲哀に浸って過ごした一周年の間を顧みる心をもって詠んだ歌である。殯宮にあっては、悲哀を尽くすということがすなわち奉仕であって、その深さが奉仕の大きさであり、また舎人自身の心やりでもあったのである。(281)「夜鳴き変らふこの年ごろを」ということは、鳥もまた皇子尊に対して悲哀をつづけたということで、これは当時一般にもっていた信念であるが、舎人から見ると、皇子尊に最も関係深い自分らと悲哀をともにする者があるということで、心やりを深めうるものなのでもある。この歌は悲哀に浸りながらも、鎮まった、静かな気分をもって、思い返し、見渡して詠んだ歌である。
 
193 八多籠《はたこ》らが 夜昼《よるひる》といはず 行《ゆ》く路《みち》を 吾《われ》はことごと 宮路《みやぢ》にぞする
    八多籠良我 夜晝登不云 行路乎 吾者皆悉 宮道叙爲
 
【語釈】 ○八多籠らが 「八多籠」という語は、他に例のないもので、諸注訓み難くしている。誤字があろうとして、字を改めての訓を試みたものが多いが、諸本一致していて、誤字説は認められない。『古義』は、一説として和名抄によっての解を引いている。それは同書、行旅(ノ)具に、「〓……漢語抄云、波太古《ハタゴ》、俗(ニ)用(フ)2旅寵(ノ)二字(ヲ)1、飼(フ)v馬(ヲ)籠也」とあり、昔は行旅の具として馬に飼う籠を備えたところから、それをつけて行く馬、馬を引く馬子をもハタゴと呼んだが、ここはその馬子の意だというのである。用字の上からいうと、無理の少ない解である。『講義』はこれを取っている。賤しい者の意である。また橋本四郎氏は田子に対して畠子という語があったかとし、『注釈』『大系本』が採っている。○夜昼といはず行く路を 昼夜の別ちもなく往来する路をで、普通の、何の憚るところもない路の意。○吾はことごと 「ことごと」につき、『講義』は、このような数量を示す語が、それに対する本体としての語に付く「は」の助詞の下にあることは、同語であることをあらわす一つの現象であって、意は、我らことごとくは、であると説いている。○宮路にぞする 宮への通路《かよいじ》とすることよの意。
【釈】 賤しいはたこなどが、昼夜の別ちもなく往来する普通の路を、我らことごとくは、畏い宮の通路としていることであるよ。
【評】 舎人のともがらが打ち揃って、奉仕のため殯宮へ通う途上、その中の一人が嘆いて詠んだものである。島の宮への宮路は、尊いものとして、相当の警戒があり、賤しい者がみだりに通行することはできなかったとみえる。それに較べると、真弓の岡の殯宮への路は、奉仕する舎人の心より見れば同じく宮路ではあるが、実際は甚しく趣がちがって、はたこらが憚るところなく行く路なのである。この変化は舎人らにとっては、嘆かざるを得ないもので、その嘆きはやがて皇子尊に対しての悲しみなのである。その時の舎人にのみ限った実感で、実感に即しているがゆえにうなずかれる歌となっている。
 
     右、日本紀に曰はく、三年己丑の夏四月癸未朔にして乙未の日|薨《かむあが》りましぬといへり。
      右、日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨。
 
(282)【解】 撰者の、日並皇子尊の薨去の時を、日本書紀巻三十から引いたものである。
 
     柿本朝臣人麿、泊瀬部皇女《はつせべのひめみこ》、忍坂部皇子《おさかべのみこ》に献れる歌一首井に短歌
 
【題意】 泊瀬部皇女と忍坂部皇子とは、同腹の御兄弟である。日本書紀、天武紀に、「次宍人臣大麻呂女|※[木+疑]《かぢ》媛娘生2二男二女1。其一曰2忍壁《おさかべ》皇子1、其二曰2磯城《しき》皇子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基《たき》皇女1。」とあり、皇女は皇子の御妹である。皇女については、続日本紀、霊亀元年正月に、四品長谷部内親王に、封一百戸を益さるとあり、同天平九年二月に、三品を授けらるとあり、天平十三年三月に、「己酉、三品長谷部内親王薨、天武天皇之皇女也」とある。忍坂部皇子については、日本書紀、天武紀、十年三月に、勅して帝紀および上古の諸事を記し定めしめられたる諸員の中に御名があり、同十四年正月に、浄大参の位を授けられ、同朱鳥元年八月に、封百戸を加えしめるとある。続日本紀、文武の条四年六月に、勅して、親王を首として藤原不比等以下十七名に、律令を撰定せしめるとあり、大宝元年八月に、その成ったことがあり、同三年正月に、「詔三品刑部親王知2太政官事1」とあり、慶雲元年正月に、封二百戸を益され、同二年四月に、越前国野一百町を賜うとあり、「五月丙戊、三品忍壁親王薨、遣v使監2護喪事1、天武天皇之第九皇子也」とあって、重きをなしていた皇子である。歌で見ると、柿本人麿が、泊瀬部皇女が夫君に御死別なされた後、皇女を御慰めしようとして献ったものである。左注によると、夫君は、河島皇子であられる。題詞とすると、河島皇子薨去の時ということがあるべきであり、また、歌としては泊瀬部皇女に献ったものと見えるのに、忍坂部皇子の御名をも連ねているのは、題詞の例に異なっているとして、諸注私案を試みている。しかしここの文句は諸本一致していて異同のないものである。思うに原拠となった本にこのように記してあったものと思われる。歌で見ると人麿は、直接には、河島皇子の薨去を悲しむ語をまじえず、薨去によって起こる泊瀬部皇女の悲しみを痛んでいるのみである。その点から見ると、人麿は河島皇子には直接な関係がなく、第三者として献ったものと思われる。またそれをするにも、泊瀬部皇女には直接には献れず、何らかの関係のあった、御同腹の御兄忍坂部皇子にまで献ったということもありうろことである。それだと、その時としては、事を省いたこうした題詞もありうることであり、それを原拠として改めまいとすれば、今見るごときものとなってくる。大体そうした範囲の題詞かと想像される。
 
194 飛《と》ぶ鳥《とり》の 明日香《あすか》の河《かは》の 上《かみ》つ瀬《せ》に 生《お》ふる玉藻《たまも》は 下《しも》つ瀬《せ》に 流《なが》れ触《ふ》らばふ 玉藻《たまも》なす か寄《よ》りかく寄《よ》り 靡《なび》かひし 嬬《つま》の命《みこと》の たたなづく 柔膚《にぎはだ》すらを 剣刀《つるぎたち》 身《み》に副《そ》へ寝《ね》ねば(283) ぬばたまの 夜床《よどこ》も荒《あ》るらむ【一に云ふ、あれなむ】 そこ故《ゆゑ》に なぐさめかねて けだしくも あふやと念ひて【一に云ふ、君《きみ》もあふやと】 玉垂《たまだれ》の 越智《をち》の大野《おほの》の 朝露《あさつゆ》に 玉裳《たまも》はひづち 夕霧《ゆふぎり》に 衣《ころも》は濡《ぬ》れて 草枕《くさまくら》 旅宿《たびね》かもする あはぬ君《きみ》ゆゑ
    飛鳥 明日香乃河之 上瀬尓 生玉藻者 下瀬尓 流觸經 玉藻成 彼依此依 靡相之 嬬乃命乃 多田名附 柔膚尚乎 劔刀 於身副不寐者 烏玉乃 夜床母荒良無【一云、阿礼奈牟】 所虚故 名具鮫兼天 氣田敷藻 相屋常念而【一云、公毛相哉登】 玉垂乃 越能大野之 旦露尓 玉裳者※[泥/土]打 夕霧尓 衣者沾而 草枕 旅宿鴨爲留 不相君故
 
【語釈】 ○飛ぶ鳥の明日香の河の 「飛ぶ鳥の」は、巻一(七八)に出た。明日香へかかる枕詞であるが、その関係は不明。「明日香の河」は、上代の皇居に近い川であったところから、古典に現われる機会の多い川である。水源は二か所あり、一は、竜門、高取の山々に発し、一は多武峰に発して、明日香村祝戸で合流し、藤原の京を西北に横ぎり、大和川に入る。今は水量の多くない川であるが、古はかなりな川であったと察せられる。○上つ瀬に生ふる玉藻は 「上つ瀬」は、上の瀬で、今の上流。「玉藻」は、「玉」は、美称。「藻」は、水中に生える草の総称で、海の物にも川の物にもいう。ここは川の物。清らかな水でないと生えない物で、細い葉が長く伸びて、水流のまにまに靡く、印象的なものである。○下つ瀬に流れ触らばふ 「下つ瀬」は、下流。「流れ」は、流れの中に靡いている状態を形容したもの。根のある物であるから流れるはずはなく、したがって語としては譬喩であるが、感じとしてはさながら流れているがように見えるので、感じを主としてのもの。「触らばふ」は、「触る」の古語。宣長、春日政治氏の説を『注釈』が注意している。上の「流れ」に重ねる形で、同じく藻の状態をいったものである。二句、下流に流れて、触れあっていることよの意。○玉藻なすか寄りかく寄り 「玉藻なす」は、玉藻のごとくで、巻一(五〇)に出た。「か寄りかく寄り」は、ああも寄りこうも寄りで、すなおに寄り添う状態をいったもの。(一三一)に出た。○靡かひし嬬の命の 「靡かひし」は、「靡く」をハ行四段に再活用して継続をあらわす「靡かふ」とした、その過去。「靡く」は、従う意で、従いつづけてきた。「嬬」は、「夫《つま》」にあてた字。「命」は、敬称。○たたなづく柔膚すらを 「たたなづく」は、畳なわり付く意で、重なり畳まっている状態をあらわす語。古事記、景行の巻、「たたなづく青墻山隠《あをがきやまごも》れる大和しうるはし」の「たたなづく」が、山の青墻のごとく重なっている状態をいっているのがその例である。ここは下の「柔膚」の状態をいっているもので、肉の重なり合い、盛りあがっている意で、肉の肥えていることを具体的にいったものと取れる。「柔膚」は、柔らかな膚。「すら」は、一事をあげて他を類推させる意の語。二句、重なり合い、盛りあがっている柔かい膚だけをもの意。○剣刀身に副へ寝ねば 「剣刀」は、下の「身に副へ」に、意味でかかる枕詞。「身に副へ寝ねば」は、わが身に添えて寝ないのでで、共寐をしないのでの意。○ぬばたまの夜床も荒るらむ 「ぬばたまの」は、(八九)に出た。「夜」にかかる枕詞。「夜床」は、夜寝る床。「も」は、詠歎。「荒るらむ」の「荒る」は、古人は夫の床はきわ(284)めて貴い物として、その妻は、夫の通って来ない時、旅をしている時、また死後も一周年の間は、これを斎《い》んで、過ちをしまいとして、積もる塵なども払わないようにするのが風であった。その手を触れずにいるところからくる状態を「荒る」といっている。「らむ」は、現在の想像。○一に云ふ、あれなむ 心は異ならないが、本行の方が力がある。以上、一段。○そこ故に (一六七)に出た。その点のために。○なぐさめかねて 「兼」は原文「魚」で、諸本皆一致している字で、訓み難くし、したがってさまざまに訓まれていたものである。『略解』は、荒木田久老の説として、「魚」は「兼」の、また、次の句の「田」も原文は「留」であるが、「田」の誤字だとする説を引いて、それに従って以来、ほとんど定説のごとくなっている。誤字説ではあるが、それに従えば訓み得、また難のないものとなるからである。従うべきである。慰めようとして慰め難くして。○けだしくもあふやと念ひて 「けだし」は、万一にもの意で、現在も用いている。「けだしく」という形につき『講義』は、「もし」を「もしくは」というと趣が似ていると注意している。夫君に逢うこともあろうかと思って。〇一に云ふ、君もあふやと 本行の方が直線的で、力がある。○玉垂の越智の大野の 「玉垂の」は、「緒《を》」と続き、「を」の一音にかかる枕詞。「玉垂の小簾《をす》」という例は、集中三か所にある。玉垂がどういうものであるかは今は不明である。「緒」というところから、玉を緒をもって貫いたものだろうと想像されているだけである。「越智の大野」は、今の高市郡高取町|越智《おち》である。皇極天皇の山陵のある地である。「大」は、たたえて添えた語。○朝露に玉裳はひづち 「朝露」は、朝置く露。「玉裳」は、「玉」は、美称。「裳」は女性の礼装として、袴の上に着けるもの。「ひづち」は、濡れてである。「講義』は、この「ひづち」と「ひぢ」とは、従来同じ語のように解かれているが、本来別語で、「ひづち」は、泥濘《ぬかるみ》を歩くとはねが上がって、それで濡れる意の語だと、詳しく考証している。○夕霧に衣は濡れて 「夕霧」は、夕に立つ霧。「濡れて」は、湿っての意。左注によると、河島皇子の薨去は秋九月なので、「露」も「霧」も晩秋のものと取れる。この二句は、上の二句と対句にしたもの。○草枕旅宿かもする 「草枕」は、旅の枕詞。巻一(五)に出た。「かも」は「か」は疑問、「も」は詠歎の助詞。二句、旅寝をすることであろうかで、古は新喪の時には、高貴の方に対しては、墓所のほとりに廬を結んで、一周年の問、墓主に関係のある者は、近く侍っていることを風としていた。(一六七)日並皇子尊の殯宮は、すなわちそれである。今の場合もそれと同じき殯宮があって、皇女も時々そこへ行って宿らせられたのである。旅宿というのはそれである。○あはぬ君ゆゑ 「ゆゑ」は、理由をあらわす語で、ここは、によっての意。一句、逢うことのない君によって。
【釈】 明日香河の上流に生えているところの玉藻は、下流に向かって流れるさまをして振り振りしている。その玉藻のごとくに、ああも寄りこうも寄りして、すなおに寄り添って、従いつづけてきたところの夫の命の、その畳まり合い盛りあがっている柔らかい膚だけをも、剣刀のごとく身に添えての共寝をしないので、夜の床も荒れたさまとなっていることであろう。その点のために、慰めようにも心が慰め難くて、万一にも逢い見ることがあろうかと思って、御墓所のある越智の大野の、折からの朝露に裳は濡れ、夕霧に衣は湿って、殯宮に旅寝をすることであろうか、逢うことのない君によって。
【評】 この歌は人麿が、泊瀬部皇女の御心中の悲哀を、人麿自身の立場に立ち、自身の心持よりお察しして詠んだもので、人麿の推察によっての悲哀をもって皇女を御慰め申したものである。皇子皇女という方に対しての挽歌とすると、人麿としては特殊なものである。自身の気分には即するが、しかし実際からは離れない人麿が、こうした高貴な御方に対して、自身の気分(285)を極度といいうるまでに発揮した詠み方をしているのは、それに相当した理由があってのことと思われる。
 自身の気分というのは、この歌にいっていることはすべて想像であって、人麿が親しく眼に見たことは一句も入っていないからである。また、自身の心持というのは、この歌を貫いていることは、極度に現実生活に執着する心であって、悲哀は、その心の裏切られることで、そのほかには何ものもないのであるが、これは人麿のすべての歌に通じて現われているものだからである。
 この歌は二段から成っていて、第一段は、「夜床も荒るらむ」までであるが、起首よりここまでにいっていることは、夫妻共寝の歓びで、それを力をこめて、ありありと想像したものである。明日香河の玉藻の状態を捉えて、それを皇女に関係させているのは、おそらくは宮がその河に近いというような関係からのことで、人麿の文芸性がさせていることであるが、その玉藻は、皇女の夜床における状態を連想しているだけのもので、それ以外のものではない。それをさらに進めて、「たたなづく柔膚すらを、剣刀身に副へ寝ねば」といっているのは、まさしくも人麿自身の興味といわざるを得ないものである。夫婦共寝ということを生き甲斐としている人麿にとっては、これはいうを憚らないことで、今当然いうべきこととしたであろうが、今の場合は皇女に対しての挽歌である。これはおそらく人麿以外の何びともいわないことと思われる。
 第二段は、「そこ故に」より結末までであるが、ここにいっていることは、皇女の殯宮へ行って宿られるのは、万一にも御夫君に逢い得ようかとのお心よりのこととし、結局それのかなわないことの悲哀を思って、それを皇女に対しての御慰めとしている。殯宮に奉仕するということは、古くは殯宮の期間は、生者と異ならないとする心をもって、傍らにあろうとすることであり、また、すでに墓に葬められて神霊となられたものとしても、同じく神霊とともにいようとする心よりのことと取られる。あるいは現し身の御方として逢えるかもしれぬというような想像は、この当時としても、特殊な想像であったろうと思われる。それを人麿は普通のことのごとくにいい、そのかなわないことをもって大いなる悲哀としているのである。これもまた人麿独(286)自の心持で、人麿をしてこのように思わせているのは、その現実に執着する心の強さが、おのずから特殊を普通とならしめているからだと思われる。
 すなわち一首を貫いている心持は、全く人麿自身のもので、それがはたして皇女に直接なものであったかどうかを疑わせるものである。しかしこれを単に一首の歌として見れば、人麿のもつこの極度に現実に執着する心は、わが上代よりの思想で、それを人麿は代表的に保持していたのである。この当時仏教が上流の階級に勢力をもっていたことは、(一六二)の宮中における御斎会の盛んなのによっても察せられる。知識人である人麿が、その雰囲気の中にいて、この歌に見られるような心持をもっていたということは、そのいかに保守的であったかが思われて、注意されることである。またこの歌を技巧の上から見ると、全部人麿の気分であるにもかかわらず、その具象の力はあざやかなもので、さながらに目に見ている様を描いているがようである。しかも艶《つや》とうるおいとを帯びていて、挽歌たるを忘れさせようとするまでである。挽歌にして挽歌たるを忘れさせようとし、結局特殊な、すぐれた挽歌だと思わせるのは、人麿の技巧のもつ魅力のさせることである。長歌としては短い方であるが、人麿の心をほしいままにした、特色のあるものである。
 
     反歌一首
 
195 敷《しき》たへの 《そで》袖かへし君《きみ》 玉垂《たまだれ》の 越野《をちの》に過《す》ぎぬ 亦《また》もあはめやも
    敷妙乃 袖易之君 玉垂之 越野過去 亦毛將相八方【一に云ふ、乎知野尓過奴】
 
【語釈】 ○敷たへの袖かへし君 「敷たへの」は、巻一(七二)に出た。織目のしげくある布で、ここは意味で「袖」にかかる枕詞。「袖かへし君」は、袖を交わした君で、共寝をした君、すなわち夫の君。○玉垂の越野に過ぎぬ 「過ぎ」は巻一(四七)に出た。死去する意。○亦もあはめやも 「めや」は、推量の「む」の已然形「め」に、疑問の「や」の添って反語を成すもの。「も」は、詠歎。また逢うことがあろうか、ありはしないの意。○一に云ふ、乎知野に過ぎぬ 三句字面の異なったものがあるために引いたもの。
【釈】 袖を交わして共寝をした夫の君は、越野におかくれになった。また逢うことがあろうか、ありはしない。
【評】 形としては、長歌の結句「あはぬ君ゆゑ」をうけて、長歌の第二段の心を要約して繰り返した趣をもったものであるが、心としては、繰り返しにとどまらず、進展させたものである。すなわち長歌では、皇女の御心中を思いやって、ともに悲しんでいる趣にとどめていたのを、反歌はその主観的な態度から離れて、全体を客観的に見た態度のものとしているのである。そのために、皇女に対する同感は内にこもるものとなり、悲しみというよりは愍《あわれ》みに近い感じをもったものとなっている。反歌を繰り返しのものとするのは古風な方法であるが、今はそうした形を取りつつも、変化のある、すなわち新意あるものとして(287)いる。重厚な、沈痛味のあるところ、長歌とは対蹠的である。
 
     右、或る本に曰はく、河島皇子を越智野に葬りし時、泊瀬部皇女に献りし歌なりといへり。日本紀に曰はく、朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朝にして丁丑の日、浄大参皇子川島|薨《かむあが》りましきといへり。
     右、或本曰、葬2河嶋皇子越智野1之時、獻2泊瀬部皇女1歌也。日本紀曰、朱鳥五年辛卯、秋九月己巳朔丁丑、淨大參皇子川嶋薨。
 
     明日香皇女《あすかのひめみこ》の木〓《きのへ》の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「明日香皇女」は、天智天皇の皇女である。日本書紀、天智紀に、「遂納2四嬪1。……次有2阿倍倉梯麿大臣女1。曰2橘娘1。生3飛鳥皇女与2新田部皇女1」とある。また薨去のことは、続日本紀、文武天皇四年夏四月の条に、「癸未、浄広肆明日香皇女薨。遣v使弔2賻之1。天智天皇之皇女也」とある。皇女には御夫君のあったことが歌でわかり、また御夫君の殿を、「朝宮」「夕宮」といっているところから、皇子であったこともわかるが、そのどなたであったかはわからない。「木〓の殯宮」につき、『美夫君志』『講義』が詳しく考証している。〓は字書にない字だが、※[缶+瓦]と同字であって、※[缶+瓦]は土器の総称で、同じ意のわが古語「へ」にあてたものだというのである。「きのへ」の訓は、『考』のしたものである。殯宮のあった地で、その地は今の北葛城郡広陵町大塚だという。人麿の作歌態度から見ると、人麿は明日香皇女と御夫君である皇子とに、親しい関係をもち得ていて、皇女の薨去を重大なることとして作歌していることがわかる。上の日並皇子尊、またこの歌につぐ高市皇子尊の挽歌では、人麿は兩皇子に舎人の一人として仕えていたがように見える。この前の泊瀬部皇女に対しては、第三者であったらしいことは上にいった。しかるにこの皇女に対しては、日並皇子尊、高市皇子尊に准ずる態度を取って、悲しみを尽くしての挽歌を作っており、また歌で見ると、皇女の殯宮へも奉仕したかのようである。こうした歌は、実際の関係に即した態度をもって作るものであろうから、作歌態度はおのずから相互の関係を示しているものと解される。しかしどういう関係であったかまではわからない。
 
196 飛《と》ぶ鳥《とり》の 明日香《あすか》の河《かは》の 上《かみ》つ瀬《せ》に 石橋《いしばし》渡《わた》し【一に云ふ、石《いし》なみ】 下《しも》つ瀬《せ》に 打橋《うちはし》渡《わた》す 石橋《いしばし》に【一に云ふ、石なみに】 生《お》ひ靡《なび》ける 玉藻《たまも》もぞ 絶《た》ゆれば生《お》ふる 打橋《うちはし》に 生《お》ひををれる 川藻《かはも》もぞ 枯《か》る(288)れば生《は》ゆる 何《なに》しかも 吾《わ》が王《おほきみ》の 立《た》たせば 玉藻《たまも》のもころ 臥《こや》せば 川藻《かはも》の如《ごと》く 靡《なび》かひし 宜《よろ》しき君《きみ》が 朝宮《あさみや》を 忘《わす》れたまふや 夕宮《ゆふみや》を 背《そむ》きたまふや うつそみと 念《おも》ひし時《とき》 春《はる》べは 花《はな》折《を》りかざし 秋立《あきた》てば 黄葉《もみちば》かざし 敷《しき》たへの 袖携《そでたづさ》はり 鏡《かがみ》なす 見《み》れども 飽《あ》かず 望月《もちづき》の いやめ.づらしみ 思《おも》ほしし 君《きみ》と時時《ときどき》 幸《いでま》して 遊《あそ》びたまひし 御食向《みけむか》ふ 城上《きのへ》の宮《みや》を 常宮《とこみや》と 定《さだ》めたまひて あぢさはふ 日言《めこと》も絶《た》えぬ 然《しか》れかも【一に云ふ、そこをしも】 あやに悲《かな》しみ ぬえ鳥《どり》の 片恋嬬《かたこひづま》【一に云ふ、しつつ】 朝鳥《あさとり》の【一に云ふ、朝霧の】 通《かよ》はす君《きみ》が 夏草《なつくさ》の 思《おも》ひ萎《しな》えて 夕星《ゆふづつ》の か行《ゆ》きかく行《ゆ》き 大船《おほふね》の たゆたふ見《み》れば おもひやる 情《こころ》もあらず そこ故《ゆゑ》に すべ知らましや 音《おと》のみも 名《な》のみも絶《た》えず 天地《あめつち》の いや遠長《とほなが》く 偲ひ行《ゆ》かむ 御名《みな》に懸《か》かせる 明日香河《あすかがは》 万代《よろづよ》までに はしきやし 吾《わ》が王《おほきみ》の 形見《かたみ》にここを
    飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡【一云、石浪】 下瀬 打橋渡 石橋【一云、石浪】 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎烏礼流 川藻毛叙 干者波由流 何然毛 吾王能 立者 玉藻之母許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 宜君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉 宇都曾臣跡 念之時 春部者 花祈插頭 秋立者 黄葉插頭 敷妙之 袖携 鏡成 雖見不※[厭のがんだれなし] 三五月之 益目頬染 所念之 君与時々 幸而 遊賜之 御食向 木〓之宮乎 常宮跡 定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨【一云、所己乎之毛】 綾尓憐 宿兄鳥之 片戀嬬【一云、爲乍】 朝鳥【一云、朝霧】 徃來爲君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼徃此去 大船 猶預不定見者 遣悶流 情毛不在 其故 爲便知之也 音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思將徃 御名尓懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見何此焉
 
【語釈】 ○飛ぶ鳥の明日香の河の上つ瀬に 上の歌に出た。○石橋渡し 「石橋」は、川の流れの中に、石を庭の飛石のように据え、石から石へ(289)踏んで渡る橋。○一に云々ふ、石なみ 「石浪」は、「浪」は「並」にあてた字で、石の並んでいる状態からの称で、石橋と同じである。二様によんでいたのである。○下つ瀬に 前の歌に出た。○打橋渡す 「打橋」は、橋の一種。高くない岸から岸へと、板の類を架けた橋。巻十(二〇六二)に、「機《はたもの》の※[足+搨の旁]木《ふみき》持《も》ち往きて天の河打橋渡す公が来む為」があり、これによると打橋なる物の大体が想像できる。橋には、集中に、高橋、浮橋、舟橋などがある。高橋は、岸が高いところから高く架っている橋。浮橋は、流れに浮いている橋で、舟、筏などを利用した橋。舟橋は、舟を橋にしたもので、浮橋に似た物であったろう。これらは川の性質に応じてのものと思われる。○石橋に生ひ靡ける 「石橋に」は、石橋の間々に。「生ひ靡ける」は、生えて、靡いている。○一に云ふ、石なみに 石なみも、石の並んでいる間々に。○玉藻もぞ絶ゆれば生ふる 「玉藻」は、前の歌に出た。「も」は、「玉藻」を次の「川藻」の一類のものとし、その一つをあげてのもの。「ぞ」は「も」を強めたもの。「絶ゆれば生ふる」は、無くなるとまた生えてくるで、その生命の永く続くことをいったもの。○打橋に生ひををれる 「打橋に」は、打橋の下の意でいっているものと取れる。「生ひ」は、生え。「ををれる」は、『考』が「為」を「烏」の誤字としての訓である。『美夫君志』は、「字音弁証」にこれを問題として、「乎為里」「乎為流」の例は、集中にこのほか四か所あるが、いずれも「為」となっていて、誤字とはし難い、「為」には「を」の音があるといって詳論している。「ををる」という語は、集中に仮名書きの例が多く、これら五例も、そう訓むことによってはじめて意の通じるものである。今は『美夫君志』に従うよりほかはない。「ををれる」は、「ををる」と「あり」との熟した語である。その意味につき、『考』は、「とをを」は「たわわ」と同語で、「とをを」の「と」を省いて活《はたら》かせた語であるといっている。たわたわとするほど茂る意で、ラ行四段の動詞。○川藻もぞ枯るれば生ゆる 「川藻」は、川に生える藻で、藻は海にも生えるところから差別しての名。「枯るれば生ゆる」は、枯れてしまうと、また新たに生えてくるで、上の「絶ゆれば生ふる」を繰り返したもの。思うに明日香河には全面的に藻が生えていて、「石橋に」「打橋に」というように局部的のものではなかろう。それをこのようにいっているのは、橋を渡る際に見える藻が、最も印象的なところから、技巧上、それだけを限っていっているものと思われる。○何しかも吾が王の 「何しかも」は、「し」は強め、「かも」は疑問で、なぜなればと疑ったもの。「吾が」は、親しんで添えたもの。「王」は、明日香皇女。○立たせば玉藻のもころ 「立たせば」は、四音一句。下の「臥せば」に対させたもので、「起臥」の「起」にあたる意の敬語。起きていらっしゃると。「もころ」は、ごとしという意の古語で、集中に例のあるものである。○臥せば川藻の如く 「臥せば」は、敬語。お臥しになると。二句、上の二句とともに、下の「靡かひし」の譬喩。○靡かひし宜しき君が 「靡かひし」は、前の歌に出たものと同じで、「靡かふ」の過去、従いつづけてきたの意。「宜しき」は、十分に良い意。「君」は、皇女の御夫君。○朝宮を忘れたまふや 「朝宮」は、下の「夕宮」に対させた語で、絶えず居られる宮を時間的に分けていったもの。宮は、皇子の御殿の称であるから、上の「君」は皇子であることがわかる。「朝宮を」は、巻十三(三二三〇)「朝宮に仕へ奉《まつ》りて」によると、朝宮の奉仕をの意と取れる。「忘れたまふや」は、上の「何しかも」の「かも」を「たまふ」で結んだのである。したがって「や」は、疑問の助詞として解し難くなる。『新考』は、この「や」は常のものより軽い一種の助辞だといい、『講義』は、いうところの間投助詞だといって、それに賛している。「忘れたまふ」は、上の奉仕の不能なのを、お忘れになったのだろうかと疑った形でいったもので、薨去を間接にいったものである。○夕宮を背きたまふや 「夕宮を」は、上に対させたもので、夕宮の奉仕を。「背きたまふや」は、なさるまいとするのであろうかで、「忘れたまふや」を語を変えて繰り返したものである。以上第一段。○うつそみと念ひし時 「うつそみ」は、現し身で、幽《かく》り身すなわち神霊界の身に対した語。「念ひし時」は、人が思っていた時で、二句、心としては、御在世の時(290)にはということである。こうした特殊な言い方をしているのは、人は現し身より幽り身にわたって存在しているものである上に、現在は皇女は殯宮にましまし、現し身に准じての特殊な状態にあらせられるので、それにふさわしい言い方をしようとしてのものである。○春べは花折りかざし 「春べ」は、春ころ。「折りかざし」は、折って挿頭《かざし》として挿しで、春の行楽を花に代表させたもの。○秋立てば黄葉かざし 「秋立てば」は、立秋を訳した語で、秋が来れば。「黄葉かざし」は、黄葉を挿頭《かざし》として挿しで、秋の行楽を代表させたもの。○敷たへの袖携はり 「敷たへの」は、前の歌に出た。ここは袖にかかる枕詞。「袖携はり」は、お二人の袖と袖とを連ねてで、御一緒に睦まじくの意を具象的にいったもの。○鏡なす見れども飽かず 「鏡なす」は、鏡のごとくで、意味で「見る」にかかる枕詞。「見れども飽かず」は、幾ら見ても飽かないの意で、きわめて好い物を讃える成語。ここは下の「君」を讃えたもの。○望月のいやめづらしみ 原文「三五月」は、十五夜の月、すなわち満月のごとくで、意味で「めづらし」にかかる枕詞。「いや」は、ますます。「めづらしみ」は、動詞「めづ」より形容詞に転じ、接尾語「み」のついた語。珍しく思っての意。二句、ますます珍しく思つてで、上の「見れども飽かず」を進めたもの。同じく、下の「君」を讃えたもの。○思ほしし君と時時 お思いになっていたところのその御夫君と時々にの意。○幸して遊びたまひし お出ましになって御遊覧なさつた所の。○御食向ふ城上の宮を 「御食向ふ」は、「食」は食物の総称。「御」は敬って添えたもので、御食物として向かう葱《き》と続き、それを「城」に転じての枕詞。「城上の宮」は、城上の御墓所に造った殯宮。○常宮と定めたまひて 「常宮」の「常」は、常《とこ》しえの意で、宮を讃えて添えたもの。ここは殯宮をさしたもの。「定めたまひて」は、お定めになられてで、御自身の意志としてなされた意のもの。これはきわめて尊んでの言い方である。○あぢさはふ目言も絶えぬ 「あぢさはふ」は、旧訓。『古義』は「うまさはふ」と訓んでいる。集中の用例によると、「め」にかかる枕詞であるが、訓も意味も定まらず、不明である。「目言」は、「目」は、目に見上げること。「言」は、口にして申し上げる語。「絶えぬ」は、終った意。二句、見上げ物申すことも終ったで、御薨去になったことを、具体的にいったもの。これは上の「うつしみと念ひし時」に対させた語で、現し身ならぬ幽《かく》り身となられたとの意である。以上第二段。○然れかも 「然れ」は、「しかあれ」で、「かも」は、疑問。後世だと、「れ」の下に「ば」のある格である。上の次第、すなわち薨去の状態であればかで、「か」は、係となっている。この係は、十句を隔てて、「たゆたふ」で結ばれた形となっていることを、『講義』は詳しく論じている。○一に云ふ、そこをしも 「そこ」は、その点で、同じく薨去の状態。「しも」は、強め。「然れかも」よりもこちらが解しやすいところから、諸注ほとんどこちらを取っている。「一に云ふ」は、ほとんど全部、本行より解しやすくなっているものである。その点から見て、あるいは後より改めたものかとの疑いのあるもので、つとめて本行に従うべきである。○あやに悲しみ 「あやに」は、譬えようもなく。「悲しみ」は、哀《かな》しみで、これは皇女の御夫君のことである。○ぬえ鳥の片恋嬬 「ぬえ鳥の」は、巻一(五)に、「ぬえ子鳥」と出た物と同じで、今は虎つぐみとよんでいる。夜、悲しい声をして鳴くところから、片恋をする鳥だとされている。意味で、「片恋」にかかる枕詞。「片恋嬬」の「嬬」は、「夫《つま》」にあてた字。片恋する夫となっての意。○一に云ふ、しつつ 「片恋しつつ」とあるというのである。この方が意味は平明である。○朝鳥の通はす君が 「朝鳥の」は、鳥は夙《はや》く塒《ねぐら》を離れ、餌のあるところへと飛ぶ習性をもっているもので、その時も餌のあるところも定まっていると見て、意味で「通ふ」に続けた枕詞。○一に云ふ、朝霧の通はす君が 枕詞としては下へ続きかねるものである。この二句は、前の二句と対句となっている関係上、ここは枕詞と取れるものである。「通はす君」は、「通はす」は、「通ふ」に尊敬の助動詞「す」のついたの敬語。「君」は、御夫君で、二句御自分の宮より殯宮へと頻繁に通わされる意である。○夏草の思ひ萎えて 「夏草の」は(一三一)に出た。夏草の烈日に照らされ(291)て萎えると続き、「萎え」の枕詞。「思ひ萎えて」は、嘆きしおれて。○夕星のか行きかく行き 「夕星」は、今いう金星で、宵の明星ともよんでいる。時刻によって在り場所が異なり、宵には西、明けには東に見える。「の」は、のごとくの意のもので、意味で「か行きかく行き」にかかる枕詞。「か行きかく行き」は、集中に例のある語で、あちらへ行き、こちらへ行きで、悲しみのために心が乱れた結果、足取りも定まらない状態で、甚しい悲哀を具象的にいったもの。○大船のたゆたふ見れば 「大船の」は、(一二二)に出た。大船は岸へ着けようとする時、すぐには着かず、たゆたいがちにするところから、「たゆたふ」へ意味でかかる枕詞。「たゆたふ見れば」は、行きつ戻りつしている状態を見ればで、上の「か行きかく行き」を語をかえて繰り返したもの。心を強めるためである。上の「然れかも」の「か」の係は、この「たゆたふ」で結ばれた形となっている。○おもひやる情もあらず 「おもひやる」は、用例の少なくない語。嘆きをまぎらす意。「情もあらず」は、そうする心さえもないで、人麿自身の心をいったもの。上の御夫君の恋しみ悲しんでいらせられる状態を見ると、それに刺激されて、もとよりの嘆きが一段と深まってきて、その嘆きをまぎらそうとする気力までも失せ、全く嘆きに鎖《とざ》されてしまう意。なぐさもる、なぐさむるの訓もある。○そこ故にすべ知らましや 「そこ故に」は、(一六七)に出た。その点ゆえにで、悲しみに鎖されてしまうゆえに。「すべ知らましや」は、「すべ」は、せん術《すべ》で、いかにせば嘆きをまぎらしうるかという術《すべ》。「しらましや」は、『考』の訓。「せむすべ知れや」と訓む説もあるが、『考』に従っておく。「や」は、反語で、知られようか、知られないの意。以上、第三段。○音のみも名のみも絶えず 「音のみも」は、音、すなわち評判だけなりとも。「名のみも」は、名、すなわち名声だけなりともで、ほとんど同意味のことを、強めるために重ねたもの。「絶えず」は、絶やさず、無くならせずで、二句を隔てて「偲ひ行かむ」に続く。○天地のいや遠長く 天地のいよいよ遠く長いがごとくの意で、永遠という意の響喩。○偲ひ行かむ御名に懸かせる 「偲ひ行かむ」は、慕って行こうとするで、「行かむ」は連体格で、「御名」に続いている。「音」も「名」も、「御名」が主体となって、それによって偲ばれるからである。「御名に懸かせる」の「懸かせる」は、「懸く」に尊敬の助動詞「す」と完了の助動詞「り」がついた語。御名すなわち、明日香皇女としてもっていらせられるで、下の「明日香河」に続く。○明日香河万代までに 「明日香河」は、呼びかけた形のもの。「万代までに」は、万年の末までにで、すなわち永遠に。○はしきやし吾が王の形見にここを 「はしきやし」は、「はしき」は、愛すべき。「やし」は、「や」は詠歎、「し」は強めで、調べのために添えたもの。「吾が王の」は、皇女を親しみ尊んでの称。「形見」は、見ることのかなわない人を思う種となる物の総称で、現在もいっている語。上代は、人を思うには、必ず物によらなければならないとする念がきわめて強かった。ここもその意である。「にここを」の「に」の原文「何」は、本居宣長が「荷」の誤字だとしたものである。『訓義弁証』は「何」のままで「に」と訓み得ることを例をあげて述べている。「ここを」は、明日香河を強めるために、繰り返す意で指し示したもの。「に」は、下に動詞があるべき詞で、ここは「せむ」の意が略かれている形である。
【釈】 明日香河の上流には、石橋を渡してい、下流には打橋を渡している。石橋の間に生えて靡いている藻は、なくなればまた生えてくる。打橋の下に生えてたわたわとして茂っている河藻は、枯れるとまた生えてくる。なぜなれば、わが王《おおきみ》は、起きていられると、靡く藻のように、お臥しになると、靡く河藻のように、やさしくも従い続けてきた誠に愛《め》でたい御夫君の、朝宮の奉仕をお忘れになったのであろうか、夕宮の奉仕をなさらなくなったのであろうか。現し身とお思い申した時は、春の頃には花を折って挿頭《かざし》とし、秋が来ると黄葉《もみじば》を挿頭とし、袖と袖とを連ねて、鏡のようにいかに繁く見ても厭かず、望月《もちづき》のようにますます(292)珍しくお思いになった御夫君と時々に、お出ましになってご覧になった、その城上の宮を、永久の宮とお定めになって、今はお見上げすることも、物を申し上げることもできなくなってしまった。そうした次第であるからであろうか(そうした状態であればこそ)譬えようもなく悲しんで、ぬえ鳥のように片恋をする夫《つま》となり、しげしげと殯宮へとお通いになられる御夫君の、嘆きしおれて、あちらへ行きこちらへ行って、足取りも定まらず、行きつ戻りつしていられるさまをお見上げすると、それに刺激されて嘆きをまぎらそうとする心とてもなく、それゆえにまたどうすればよいかの方法とても知られようか。知られないことである。今はせめて御評判だけなりとも、御名声だけなりともなくならせずに、天地《あめつち》の遠く永いがごとく永遠にお慕い申してゆこうとする、その主体なる御名としてもっていらせられる明日香河よ、万年の後までも、愛すべきわが王の御形見とこれをしょう。
【評】 この挽歌は、いずれも技巧のそれぞれの面を尽くしている人麿の挽歌の中でも、一首の構成の上に、細心な用意をしている点が、特に注意される作である。
 一首四段から成っている。第一段は、起首から「夕宮を背きたまふや」までである。この段はさらに二小段となっている。第一小段は、「枯るれば生ゆる」までで、明日香河の河藻を捉えていっている部分である。主意とするところは、人間は推移を免れず、生きているものは必ず死んで常のないものであるが、自然はそれに反して永久で、河藻のごとき物でさえも、滅したと見ると同時に生えてくることをいったもので、それを尊貴なる皇女の薨去と対比して、皇女を悲しむ心の基調としたのである。この対比よりくる悲しみは、一首全体を貫いているものである。すなわち総叙というべきである。この自然と人間とを対比する悲哀は、後世では常識となったものであるが、この時代には新鮮味のあるものだったのである。漢詩の影響は否み難いものである。この河藻を明日香河の物として捉えたのは、明日香皇女との関係においてのことで、これはまた、終末において照応させているのである。河藻を、石橋と打橋との関係において捉えているのは、藻は河に全面的に生えていたものであろうが、橋を渡る際に特に印象的に見えるところから来たもので、「絶ゆれば生ふる」「枯るれば生ゆる」の微細なことも、またそれがために生きてくるのである。これらは皆実際に即そうとしたがためである。しかるに、第二小段に移ると、この「玉藻」と「河藻」とは内容を異にしてきて、それらは皇女の御夫君に靡いていられたことの譬喩となっているのである。すなわち皇女にのみ即したものとなるのである。この関係は序詞と同様である。さて、そう変化させての上で、皇女の従来の状態とは異なり、「朝宮を忘れたまふや」「夕宮を背きたまふや」という、推移した状態をいっているので、その対比の上から、その状態を、疑いをもっていえることとなったのである。人麿の位地としては、皇女の薨去ということは距離を置いていう必要のあったことと思われるが、その必要を、藻と人との対比によってあらわすという、文芸的な方法をもって充たしているので、この一段はきわめて細心な、また巧緻なものとなり、したがって露《あら》わでないものとなっている。
 第二段は、「目言も絶えぬ」までである。この一段は、前の段を受けて、それを進めて、皇女の薨去のことのみをいったものである。薨去ということの内容は、「語釈」でいったがように、(293)現し身が幽り身となられたということで、これは伝統の久しくまた深い信念となっているものである。御生前をいうに「うつそみと念ひし時」といい、御薨去をいうに「目言も絶えぬ」という語をもってしているのは、この時代の信念がさせていることで、文芸的にいったものではない。この一段は、人間を常なきものとして、推移の一線に沿って、それを具体的に、また簡単にいっているものであるが、それをいうに、常に自然と絡ませ、自然の永久性と対比する心をもっていっていることが注意される。さらにまた注意されることは、その対比は、単に人間の無常のさみしさというためのものではないことである。対比の意味で捉えられている自然はいずれも美しい物ばかりであり、人間もまた、人生の楽しさにおいて湛えられていて、そうした物と物とが対比されているので、そこにいわゆるさみしさはない。この点はここだけではなく、第一段の河藻と皇女の御生活との対比も同様であって、これは人麿が意識してしていることである。すなわち徹底的に人間を主体とし、生活はあくまでも明るく、楽しいものとし、薨去ということは、現し世のその生活が幽り世に移されるという意味で、ある齟齬《そご》があるものとして悲しむのである。これは消極的な諦めではなく、積極的な悲しみである。これも独り人麿の心ではなく、時代の心である。この一段はその心を背後に置き、皇女が限りなく生活を楽しまれたその御夫君とともに、時に行楽の場所としてお出ましになった城上という土地すなわち自然を、独りいますべき常宮になされたと、人間と自然とを際やかに対比しているのであるが、これは上にいったがごとき条件をもったものなのである。この対比によって一段は立体味をもったものとなり、したがって簡潔な叙事となったのである。またこの段に御夫君を強くあらわしているのは、この段としての必要もあるが、後段の伏線をも兼ねているのである。
 第三段は、「すべ知らましや」までである。この段は、皇女に対しての御夫君の悲歎を、力をきわめて叙している。悲歎は御夫君のみならず、人麿とてももつているのであるが、それはわざといわず、結末の「おもひやる情《こころ》もあらず」以下で間接にあらわしているのは、人麿の位地としては皇女に対して直接なあらわし方をするのは恐れ多いとして控えているためと取れる。御夫君の悲歎を力をきわめて叙しているのは、それによって自身の心をもあらわそうとしたものと思える。結末の「おもひやる」以下は、御夫君の悲軟に刺激されて、何としても堪えられなくなって、はじめて悲歎をいうという形のもので、そこには心理的自然があり、また悲歎の合理的なところもあって、巧妙な一段といえる。この御夫君の状態は、親しく目にしなくてはいえない形のものであるところから、人麿が殯宮に奉仕していたことを思わせるものである。この御夫君を初め関係者の悲歎は、皇女に対しての御慰めであって、殯宮奉仕の心をあらわしたものである。
 第四段は、結末までである。ここは、皇女を永遠に忘れまいということで、殯宮よりそれ以後にもわたっての心である。これは皇女に何らかの関係のある者の、共通に思う心のもので、一般性をもったものといえる。現し世になき人を思うには形見によらなければならないとする当時の心より見れば、明日香河は、明日香皇女にとっては、最上の形見である。最上というのは、それが永遠なる自然その物だからである。これは今日感ず(294)るよりは力強いものであったと思われる。これはまた、第一段に照応し、それを高調しているものでもある。
 以上は構成の上のことで、この構成の上に立っての詠み方にも、この歌には特色がある。それは二句対を頻繁に用いていることで、ほとんどそれを建前としているかの観がある。対句は人麿の長歌の特色をなしているものであるが、この歌のごとく二句対に限って、それを頻繁に用いているものは他にはない。そのために結末の第四段を除くと、全体に柔らかく美しい感じをもったものとなっている。題材次第で、自在に変化しうる人麿である。明日香皇女に対しては、柔らかく美しい表現を適当とする理由があったものかと思われるが、その辺はうかがい難い。
 
     短歌二首
 
197 明日香川《あすかがは》 しがらみ渡《わた》し 塞《せ》かませば 流《なが》るる水《みづ》も のどにかあらまし【一に云ふ、水のよどにかあらまし】
    明日香川 四我良美渡之 塞益者 進留水母 能杼尓賀有万思【一云、水乃与杼尓加有益】
 
【語釈】 ○明日香川しがらみ渡し 「明日香川」は、明日香川にの意。長歌で、明日香川を明日香皇女の形見と見ようといったそれを承けてのもの。「しがらみ」は、木や竹を杭などに絡ませたもので、今も用いているもの。「渡し」は、岸から岸へと構える意。○塞かませば 「塞く」は、今日もいっている語で、水をとめる意。「ませ」は、下の「まし」の未然形で、それと照応させた語で、仮設の条件をあらわしたもの。○流るる水も 訓は旧訓。流れることを自然としている水でも。○のどにかあらまし 「のど」は、のどかで、ここはゆっくりする意。「まし」は、上にいった。ゆっくりすることであろうか。○一に云ふ、水のよどにかあらまし 水が、澱《よど》となることであろうかで、意味としてはさして異ならない。本行の方が全体との調和が濃い。
【釈】 明日香川に、岸より岸へ柵《しらがみ》を構えて塞きとめたならば、流れるのを自然とする水でも、ゆっくりとす
(295)ることであろうか。
【評】 長歌をうけて、立ちかえって、皇女の薨去を悲しむ心をもって詠んだものである。長歌と同じく、薨去のことをいうにきわめて間接な方法を取って、暗示的な言い方をしている。いっているところは、明日香川の水流に対しての一つの想像である。流れることを自然としている水ではあるが、柵を構えて塞いたならば、少しは水流を緩やかにすることもできたろうといって、何らかの方法を取ったならば、皇女の御命も、あるいは今少し長くすることができたろうかと、悲しみというよりはむしろ愚痴をいっているのである。間接とはいえ、ここには、皇女も生死は免れ難い心をもっていっているので、その意味では長歌よりは進展のあるものである。明日香川は自然その物ではあるが、長歌ですでに明日香皇女の形見であることを力強くいっているので、皇女を暗示しうるものとなっているのである。これは譬喩以上のものである。人事の上の一つの心持を、直接にはそれに何の触れるところもなく、一に自然をいうのみによってあらわすということは、この当時にあっては、きわめて文芸的な方法である。この歌はそれを成し遂げているのである。しかしそれは長歌に依存することによって成し遂げているもので、単にこの歌だけでは遂げられないのである。そこに限度がある。一首、単純なものではあるが、人麿の手腕を示している点では、注意されるものである。
 
198 明日香川《あすかがは》 明日《あす》だに【一に云ふ、さへ】見《み》むと 念《おも》へやも【一に云ふ、念へかも】 吾《わ》が王《おほきみ》の 御名《みな》忘《わす》れせぬ【一に云ふ、御名忘らえぬ】
    明日香川 明日谷【一云、佐倍】、將見等 念八方【一云、念香毛】 吾王 御名忘世奴【一云、御名不所忘】
 
【語釈】 ○明日香川 皇女のその御名を負っている川として、皇女を暗示するものとしていい、それとともに、畳音の関係で、下の「明日」の枕詞の意ももたせたものである。枕詞の方は付随的なものである。皇女との関係は前の歌と同じ。○明日だに見むと 「だに」は、あげている点を主として、他は問題としない意の助詞。口語の「でも」というにあたる。「見むと」は、見られようとの意で、皇女との関係の上では、お目にかかれようという意のもの。今はかなわないが、明日にでもお目にかかれようとの意。○一に云ふ、さへ 「さへ」は、ある上に、さらに加わる意をいう助詞。口語の「まで」にあたる。この場合にはあたらないものである。○念へやも 「や」は、疑問。「も」は、詠歎。「念へ」の已然形から続いているので、後世の「念へばや」にあたる語。○一に云ふ、念へかも 「か」は、疑問で、意味は同じ。○吾が王の御名忘れせぬ 「吾が王」は、皇女を親しみ尊んでの称。「御名」は、皇女御自身と御名とは同一とする信念からいっているもので、御上というに近い。「ぬ」は、上の「や」の結びで、連体形。御上を忘れはせぬことよの意。○一に云ふ、御名志らえぬ 「忘らえぬ」は、忘れられないことよで、同じく連体形。
【釈】 明日香川を、明日にでも見られようと思っているせいであろうか、その名を負いたまえるわが王の御上を忘れはせぬことよ。
(296)【評】 これは薨去後の心をいったもので、前の歌より時間的進展をさせたものである。心としては、長歌の結末の第四段と同じものであるが、そちらは一般的な、公式の追慕であるのに、こちらは、私的な、したがって感傷的なものであって、範囲は同じであるが趣は異なっている。「明日香川」は皇女御自身を暗示するものとするとともに、枕詞的の意も絡ませてあるところは、自在な技巧である。上の歌と、心においても形においても緊密な関係をもっていて、人麿の好む連作となっている。
 
     高市皇子尊《たけちのみこのみこと》の城上《きのへ》の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「高市皇子尊」のことは(一五六)に出た。皇子尊という称は、皇太子にましましたがゆえである。皇太子に立たせられた年月は、日本書紀に明記がない。しかし、持統天皇三年四月草壁皇太子薨去の後、同四年七月、この皇子は太政大臣に任ぜられ、また、同月の詔勅の中に「皇太子」の語があるので、その頃皇太子に立たれたことと思われる。持統天皇十年七月の条に、「庚戌(十日)後皇子尊薨」とあるは、すなわち高市皇子尊のことである。城上《きのえ》は、前の明日香皇女の殯宮のあった地と同じである。延喜式に、「三立岡墓【高市皇子、在大和国広瀬郡、兆域東西六町、南北四町、無守戸】」とある。現在は北葛城郡広陵町である。人麿は、歌で見ると舎人の立場に立って作っている。皇太子の舎人の一人であったのか、または舎人に代ってのことであるかは不明である。舎人の一人としての歌かと思われる。
 
199 かけまくも ゆゆしきかも【一に云ふ、ゆゆしけれども】 言《い》はまくも あやに畏《かしこ》き 明日香《あすか》の 真神《まがみ》の原《はら》に ひさかたの 天《あま》つ御門《みかど》を かしこくも 定《さだ》めたまひて 神《かむ》さぶと 磐隠《いはがく》ります やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 聞《き》こしめす 背面《そとも》の国《くに》の 真木《まき》立《た》つ 不破山《ふはやま》越《こ》えて 高麗剣《こまつるぎ》 和射見《わざみ》が原《はら》の 行宮《かりみや》に あもりいまして 天《あめ》の下《した》 治《をさ》めたまひ【一に云ふ、掃《はら》ひたまひて】 食《を》す国《くに》を 定《さだ》めたまふと 鶏《とり》が鳴《な》く 吾妻《あづま》の国《くに》の 御軍士《みいくさ》を 召《め》したまひて ちはやぶる 人《ひと》を和《やは》せと まつろはぬ 国《くに》を治《をさ》めと【一に云ふ、掃《はら》へと】 皇子《みこ》ながら 任《よさ》したまへば 大御身《おほみみ》に 大刀《たち》取帯《とりは》かし 大御手《おほみて》に 弓《ゆみ》取持《とりも》たし 御軍士《みいくさ》を あどもひたまひ 斉《ととの》ふる 鼓《つづみ》の音《おと》は 雷《いかづち》の 声《こゑ》と聞《き》くまで 吹《ふ》き響《な》せる 小角《くだ》の音《おと》も【一に云ふ、笛《ふえ》の音《おと》は】 敵《あた》みたる 虎《とら》かほゆると 諸人《もろびと》の おびゆるまでに【一に云ふ、聞き惑ふまで】(297) ささげたる 幡《はた》の靡《なび》きは 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》さり来《く》れば 野《の》ごとに つきてある火《ひ》の【一に云ふ、冬《ふゆ》ごもり春野《はるの》焼《や》く火の】 風《かぜ》の共《むた》 靡《なび》くが如《ごと》く 取《と》り持《も》てる 弓弭《ゆはず》の騒《さわき》 み雪《ゆき》ふる 冬《ふゆ》の林《はやし》に【一に云ふ、ゆふの林に】 飄《つむじ》かも い巻《ま》き渡《わた》ると 思《おも》ふまで 聞《き》きの恐《かしこ》く【一に云ふ、諸人の見惑ふまでに】 引《ひ》き放《はな》つ 箭《や》の繁《しげ》けく 大雪《おほゆき》の 乱《みだ》れて来《きた》れ【一に云ふ、霰なすそちよりくれば】 まつろはず 立《た》ち向《むか》ひしも 露霜《つゆしも》の 消《け》なば消《け》ぬべく 行《ゆ》く鳥《とり》の あらそふはしに【一に云ふ、朝霜《あさじも》の消《け》なば消《け》ぬとふにうつせみとあらそふはしに】 度会《わたらひ》の 斎《いつき》の宮《みや》ゆ 神風《かむかぜ》に い吹《ふ》き惑《まと》はし 天雲《あまぐも》を 日《ひ》の目《め》も見《み》せず 常闇《とこやみ》に 覆《おほ》ひたまひて 定《さだ》めてし 瑞穂《みづほ》の国《くに》を 神《かむ》ながら 太敷《ふとし》きまして やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 天《あめ》の下《した》 申《まを》したまへば 万代《よろづよ》に 然しもあらむと【一に云ふ、かくもあらむと】 木綿花《ゆふばな》の 栄《さか》ゆる時《とき》に 吾《わ》が大王《おほきみ》 皇子《みこ》の御門《みかど》を【一に云ふ、刺竹《さすたけ》の皇子《みこ》の御門《みかど》を】 神宮《かむみや》に 装《よそ》ひまつりて つかはしし 御門《みかど》の人《ひと》も 白《しろ》たへの 麻衣《あさごろも》著《き》て 埴安《はにやす》の 御門《みかど》の原《はら》に あかねさす 日《ひ》のことごと 鹿《しし》じもの いはひ伏《ふ》しつつ ぬばたまの 夕《ゆふ》べになれば 大殿《おほとの》を ふり放《さ》け見《み》つつ 鶉《うづら》なす いはひもとほり さもらへど さもらひ得《え》ねば 春鳥《はるとり》の さまよひぬれば 嘆《なげ》きも いまだ過《す》ぎぬに 憶《おも》ひも いまだ尽《つ》きねば 言《こと》さへく 百済《くだら》の原《はら》ゆ 神葬《かむはふ》り 葬《はふ》りいまして あさもよし 城上《きのへ》の宮《みや》を 常宮《とこみや》と 高《たか》くしまつりて 神《かむ》ながら 鎮《しづ》まりましぬ 然《しか》れども 吾《わ》が大王《おほきみ》の 万代《よろづよ》と 念《おも》ほしめして 作《つく》らしし 香具山《かぐやま》の宮《みや》 万代《よろづよ》に 過《す》ぎむと思《おも》へや 天《あめ》の如《ごと》 ふり放《さ》け見《み》つつ 玉《たま》だすき かけて偲《しの》はむ 恐《かしこ》かれども
    挂文 忌之伎鴨【一云、由遊志計礼杼母】 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 眞神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母(298)定賜而 神佐扶跡 磐隱座 八隅知之 吾大王乃 所聞見爲 背友乃國之 眞木立 不破山越而 狛釼 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜【一云、掃賜而】 食國乎 定賜等 ※[奚+隹]之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和爲跡 不奉仕 國乎治跡【一云、掃部等】  皇子隨 任賜者 大御身尓 大刀取帶之 大御手尓 弓取持之 御軍士乎 安騰毛比賜 齊流 鼓之音者 雷之 聲登聞麻※[人偏+弖] 吹響流 小角乃音母【一云、笛之音波】 敵見有 虎可※[口+立刀]吼登 諸人之 恊流麻※[人偏+弖]尓【一云、聞或麻泥】 指擧有 幡之靡者 冬木成 春去來者 野毎 著而有火之【一云、冬木成春野燒火乃】  風之共 靡如久 取持流 弓波受乃驟 三雪落 冬乃林尓【一云、由布乃林】 飃可毛 伊卷渡等 念麻※[人偏+弖] 聞之恐久【一云、諸人見或麻※[人偏+弖]尓】 引放 箭之繁計久 大雪乃 亂而來礼【一云、霰成曾知余里久礼婆】 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久 去鳥乃 相競端尓【一云、朝霜之消者消言尓打蝉等安良蘇布波之尓】 渡會乃 齊宮從 神風尓 伊吹或之 天雲乎 日之目毛不令見 常闇尓 覆賜而 定之 水穗之國乎 神隨 太敷座而 八隅知之 吾大王之 天下 申賜者 萬代尓 然之毛將有登【一云、如是毛安良無等】 木綿花乃 榮時尓 吾大王 皇子之御門乎【一云、刺竹皇子御門乎】 神宮尓 装束奉而 遣使 御門之人毛 白妙乃 麻衣著 埴安乃 御門之原尓 赤根刺 日之盡 鹿自物 伊波比伏管 烏玉能 暮爾至者 大殿乎 振放見乍 鶉成 伊波比廻 雖侍候 佐母良比不得者 春鳥之 佐麻欲比奴礼者 嘆毛 未過尓 憶毛 未不盡者 言左敝久 百濟之原從 神葬 々伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神隨 安定座奴 雖然 吾大王之 万代跡 所念食而 作良志之 香來山之宮 万代尓 過牟登念哉 天之如 振放見乍 玉手次 懸而將偲 恐有騰文
 
【語釈】 ○かけまくも 「かけまく」は、「かく」の未然形「かけ」と「む」の未然形に「く」を添えて名詞形としたもの。口にかけていうにも、心にかけて思うにもいう。ここは、下の「言はまく」の対となっていて、心にかける意のもの。心にかけることもの意。○ゆゆしきかも 「ゆゆし」は、「ゆ」は忌《い》み清まわる意で、それを重ねて形容詞としたもの。忌み憚るべきの意。恐れ多いというにあたる。「かも」は、詠歎。○一に云ふ、ゆゆしけれども 恐れ多くあるけれども。これは下への続きが自然ではない。○言はまくもあやに畏き 「言はまくも」は、口にしていうことも。「あやに」は、いいようもなく。「畏き」は、恐れ多いで、連体形。下の「真神」へ続く。○明日香の真神の原に 「明日香」は、現在の高市郡明日香村。「真神の原」は、最も確かな文献としては、日本書紀、崇峻紀に、「元年……壊2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1始作2法興寺1。此地名2飛鳥(299)真神原1、亦名2飛鳥苫田1」とあるものである。法興寺は飛鳥寺ともいった。現在、飛鳥大仏のある安居院はその跡であり、古く真神の原とよばれた所だったのである。○ひさかたの天つ御門を 「ひさかたの」は、天の枕詞。「天つ御門」は、「天つ」は御門を尊んで添えた語。「御門」は、宮殿の義にも用い、(一六八)(一七四)にもあるように、御陵墓の義にも用いている。したがってここは両様に取れる。従来、御陵墓の地と解されていたが、喜田貞吉、『講義』などの考証によって、宮殿の地と解されるに至った。天武天皇の御陵は、延喜式に、檜隈大内陵とあり、そこは現在、明日香村大字野口であって、飛鳥とは離れていて、明らかに別である。したがって御門は宮殿であって、真神が原に浄御原宮はあったというのである。従うべきである。○かしこくも定めたまひて 恐れ多くもお定めになって。○神さぶと磐隠ります 「神さぶと」は、神としてのお振舞いをせられるとての意。「磐隠ります」は、磐の内に隠れていらせられるで、御陵墓は磐をもって構えるので、その内に入らせられる意で、二句、崩御後の御状態を申したもの。○やすみしし吾が大王の 字義は前に出た。天武天皇の御事。○聞こしめす背面の国の 「聞こしめす」は、巻一(三六)に出た。「聞こす」は「聞く」の、「めす」は「見る」の敬語で、天下を御支配になる意。「背面の国」は、「背面」は巻一(五二)に出た。北方の意で、大和国よりいうのである。「国」は下の続きで美濃国とわかる。○真木立つ不破山越えて 「真木立つ」は、巻一(四五)に出た。杉檜などの生い立っているで、深山の状態。「不破山」は、岐阜県不破郡と滋賀県坂田郡との境にある山と解される。『講義』は、現在この名をもった山はない。不破の関のある山をそう称したのではないかといっている。「越えて」は、大和国を中心としての語。この時天皇は伊勢の桑名にいられ、美濃を本営とするために、そちらへ行幸されたのである。○高麗剣 高麗の剣の意。※[木+覇]《つか》の頭に環を着ける特殊な作りであったところから、輪と続けて、「わざみ」の「わ」に転じた枕詞。○和射見が原の この名は今は伝わっていない。したがって諸説がある。『講義』は、『長等《ながら》の山風《やまかぜ》』の所説に基づき、今の青野が原(赤坂町青野)であろうといっている。また、不破郡関が原町関が原の説もある。○行宮に 「行宮」は、天皇の行幸の際とどまりたもう宮である。日本書紀によると、和射見が原は、高市皇子の本営のあった所で、行宮は野上(関が原町大字野上)にあった。そこは青野が原の西方にある所である。天皇は野上の行宮よりしばしば和射見が原に行幸になり、軍事を検校されたので、このようにいったのであろうという。○あもりいまして 「あもり」は、「天降り」の字をあてる。「天降《あめお》り」の約で、行幸を神としての御行動としていったもの。「いまして」は、ましまして。○天の下治めたまひ 天下の乱れをお治めになり。○一に云ふ、掃ひたまひて 一掃なさつてで、事の終った後の意となって、事実に合わない。○食す国を定めたまふと 「食す国」は、巻一(五〇)に出た。御支配になる国で、すなわち天下。「定めたまふと」は、安定させようとなさって。○鶏が鳴く吾妻の国の 「鶏が鳴く」は、「吾妻」にかかる枕詞。その関係は明らかでない。「吾妻」は、東方の意の古語と取れる。大和よりの称である。○御軍士を召したまひて 「軍士」は、軍将士卒を総称する古語。「御」は、天皇のものであるゆえに尊んで添えたもの。主として尾張の軍士で、信濃の軍士も加わったという。「召したまひて」は、召集なされて。○ちはやぶる人を和せと 「ちはやぶる」は、「いちはやぶる」の意で、『講義』は、形容詞「いちはやし」の語幹に「ぶる」を連ねて連詞としたものだといい、「いちはやし」の例はこの当時の文献には見えないが、平安朝にはあると説いている。「いちはやし」は、稜威すなわち勢いの速く、強い意。「ぶる」は、その性質を発揮する意で、勢いの強い意である。これは善悪に通じていう。ここは悪い方で、強暴なるにあたる。「人」は、敵となっている人で、大津宮の御軍士を、天皇の立場からさしていったもの。「和せ」は、和らげよで、命令形。これは天武天皇の高市皇子に命ぜられた御語《みことば》。○まつろはぬ国を治めと 天皇に従わない国を治めよとの意で、上の二句の意を対句の形において繰り返したもので、「治め」は命令形。○一に云ふ、掃へと (300)一掃せよというので、意味は異ならない。本行の方が、心が穏やかである。○皇子ながら任したまへば 「皇子ながら」は『考』の訓。原文「随」は、「神随」のそれと同じく、皇子にましますままにの意。兵馬の大権は天皇のみのものであるのを、皇子にますがゆえに代らしめた意。「任したまへば」は、諸注、訓がさまざまである。「任《よさ》す」と訓んだのは『代匠記』である。『講義』は、「よす」は古くは四段活用で、これはその敬語である。意は任じたまうであると、詳しく考証している。○大御身に大刀取帯かし 「大御」は、至尊の御方に関するものに、尊んでかぶせる語。「取帯かし」は、大刀は佩《は》くという、それを敬語としたもの。○大御手に弓取持たし 「持たし」は、「持つ」の敬語。○御軍士をあどもひたまひ 「あどもふ」は、集中用例の多い語である。日本書紀には「誘」の字をあてている。誘い率いる意で、部下の軍将士卒を誘い率いさせられてである。○斉ふる鼓の音は 「斉ふる」は、軍隊を斉えるで、共同の進退をさせる意。「鼓の音は」は、太鼓の音はで、号令する音はである。二句、軍隊に共同の進退を号令するところの太鼓の音はの意。○雷の声と聞くまで 雷鳴の音かと聞くまでにもの凄く。○吹き響せる小角の音も 「響す」は、鳴らすの古語。「小角」は、竹筒で作ったもの。二句、号令をするために吹き鳴らす竹筒の音もまた。○一に云ふ、笛の音は 「笛」は、範囲の広い名で、小角もその中のものである。本行の方が前後に調和がある。○敵みたる虎かほゆると 「あたみたる」は、「あたむ」は一つの動詞。怨み憎みの情をあらわす語。「虎かほゆると」は、虎が吼《ほ》えるのであるかと。○諸人のおびゆるまでに 「諸人」は、人々であるが、敵のすべての人の意。「おびゆるまでに」は、恐れて失神するほどに。○一に云ふ、聞き惑ふまで 惑って聞くまで。本行の方が力がある。○ささげたる幡の靡きは 「ささげ」は、「指し挙げ」の約。「幡の靡きは」は、幡の風に靡くさまは。「靡き」は、名詞形。この幡はすべて赤旗であったことが、日本書紀に出ている。○冬ごもり春さり来れば 巻一(一六)に出た。冬が尽きて春が来ればの意。○野ごとにつきてある火の 野という野に一時についている火がで、この火は、いわゆる焼畑《やきばた》を作るために、去年の枯草を灰として肥料とならせるために焼くところの火で、大体大規模のものである。○一に云ふ、冬ごもり春野焼く火の これは、上の「冬ごもり」以下四句を二句としたものである。これはここの「幡」の状態と、これに続く「弓弭」の状態を、八句対としてある関係上、本行に従うべきである。○風の共靡くが如く 「風の共」は、風と共に。「靡くが如く」は、その火の靡くがごとくにで、幡の赤色であったことを暗示している。○取り持てる弓弭の騒 「取り持てる」は、将卒の手に持っている。「弓弭」は、弓の両端の、弦をかけるところの称。今は弦の意で用いている。「さわき」は、『代匠記』の訓。集中に例のある字である。騒がしく鳴る音は。○み雪ふる冬の林に 「み雪」の「み」は、接頭語。雪の降る冬の林に。○一に云ふ、ゆふの林に 「由布」は、「布由」の誤字で、文字の相異だけで引いたものと取れる。○飄かもい巻き渡ると 「瓢」は、つむじ風。「かも」は、疑問。「い巻き」は、「い」は接頭語。二句、つむじ風が巻きつつ渡って行くかとの意。○思ふまで聞きの恐く 「聞き」は、名詞。弓弭の騒ぎの聞こえ。「恐く」は、畏るべく。○一に云ふ、諸人の見惑ふまでに 敵の人々が惑って見るほどに。弓弭の音をいっている場合なので、これは不合理である。○引き放つ箭の繁けく 「繁けく」は、「繁き」に、「く」を添えて名詞形としたもので、繁きことはの意。○大雪の乱れて来れ 「大雪の」は、大雪のごとく。「乱れて来れ」の「来れ」は、已然形のままで条件をあらわすもので、後世の「来れば」と同じ意をあらわすものである。例はすでに出た。二句、大雪のごとくに乱れてくるのでの意で、この「来れ」は、受身となっている大津宮の軍の感じをいったものである。すなわちこの一語で、主客を転じさせている形である。○一に云ふ、霰なすそちよりくれば 「霞なす」は、霞のごとくに。「そち」は、大津宮の軍の立場に立ち、高市皇子の軍の方をさしているもの。上の二句を平明に解しやすくしたもので、「来れ」のもつ巧みさを失ったものである。○まつろはず立ち向ひしも 「まつろはず」は、従わずに。(301)「立ち向ひしも」は、「立ち向ふ」は熟語で、敵対すること。『講義』は「立ち向ひし」は準体言だと注意している。「も」は、もまたの意のもの。二句、従わずして敵対した大津宮の将卒もまた。○露霜の消なば消ぬべく 「露霜の」は、露や霜ので、消《け》と続き、その消《け》を死の意に転じた枕詞。「消なば消ぬべく」は、死ぬならば死のうというので、死を決して戦う態度をいったもの。これは上に続いて大津宮の将卒の上である。○行く鳥のあらそふはしに 「行く鳥の」は、群れをなして飛びゆく鳥のごとくで、下の「あらそふ」の譬喩。「あらそふ」は、先頭を争うで、勇敢なる状態をいったもの。「はし」は、『新考』は口語の「とたん」にあたるといっている。『講義』は、その際にといっている。時の急迫をあらわした語。○一に云ふ、朝霜の消なば消ぬとふに、うつせみとあらそふはしに 上四句が、一本にはこうあるというのである。「朝霜の」は、「消」の枕詞で、他にも例のあるもの。「消ぬとふに」は原文「消言尓」、諸本一致しているもので、諸注訓み難くして誤字説を出している。『講義』は「消ぬとふに」と訓むべきかといっている。それに従うと、ここで死ぬならば、いずれは死ぬという命であるのにの意。「うつせみと」は、現し身の死ぬべき命と思つての意で、四句、決死の態度と状態をいったもの。本行の方が前後に調和する。○渡会の斎の宮ゆ 「渡会」は、伊勢の皇大神宮の鎮まります地の郡名。現在伊勢市内。「斎の宮」は、「斎」は「いつき」「いはひ」両様の訓がある。「いつき」の訓の方が多いので、諸注多くはそれに従っている。「斎の宮」は二様に用いられている。皇大神を斎く宮すなわち神宮の意と、天皇の大御手代としての斎の内親王のいます宮である。内親王の斎の宮は多気郡にあり、これは渡会郡であるから、皇大神宮である。「ゆ」は、より。○神風にい吹き惑はし 「神風」は、神の吹かせたまう風の意であるが、上代には、神の呼吸がすなわち風であるという信仰があり、その意でいっているものである。すなわち神の息である風の意である。「に」は、をもっての意。「い吹き」は、大祓詞に、「気吹」を「いぶき」と訓ませてあって、呼吸をする意の古語で、動詞である。「惑はし」は、大津宮の軍を昏迷させの意。二句は、神の気《いき》である風をもって、その呼吸《いき》をすることによって困惑させてで、さらにいうと、神意をもって大風を吹かせて、敵を困惑させての意である。この神風のことは、日本書紀にも古事記の序にも見えず、ただここにあるのみのものである。したがって事実か、単なる伝えかを疑わせている。○天雲を日の目も見せず 「天雲を」は、雲をで、その雲は、大風に伴って起こったものである。「日の目」の「目」は、「見え」の約で、日の顔。「見せず」は、見せしめず。○常闇に覆ひたまひて 「常闇」は、常《とこ》しえの闇で、真闇《まつくら》な意をいったもの。「覆ひたまひて」は、大津宮の軍隊をお覆いになってで、「天雲を」以下、神助としていっているものである。○定めてし瑞穂の国を 「定めてし」は、「て」は完了。平定させおわったで、上の「食す国を定めたまふと」に照応させたものである。主格は高市皇子である。「瑞穂の国」は、(一六七)に出た、わが日本国を。○神ながら太敷きまして 「神ながら」は、巻一(三八)に、「太敷きます」は、同じく(三六)に出た。神とましますままに御支配になってで、主格は上の「定めてし」に続いて高市皇子である。これは下に続いて繰り返されている。○やすみしし吾が大王の 二句、皇子を尊んで申したもので、当代の天皇は持統天皇。○天の下申したまへば 「天の下申し」は、国家の大政を執《と》り申しで、太政大臣の事をする意である。高市皇子が太政大臣であられたことは上にいった。これは、「神ながら太敷きまして」の内容を繰り返していったものである。○万代に然しもあらむと 「万代に」は、万年にで、永久に。「然しも」は、「然」は上のことをさした語。「しも」は、強め。そのようにばかり。二句、永久にそのようにばかりあろうと思つてで、天下の者の心をいったもの。○ーに云ふ、かくもあらむと このようであろうと。心は異ならないが、本行の方が、上との続きが緊密である。○木綿花の栄ゆる時に 「木綿花」は、集中に例が少なくないものだが、よくはわからない。木綿は楮《こうぞ》の繊誰で、それをもって造った花と取れる。白波の譬喩に用いているところから、白く美しい物だったと察しられる。しか(302)し何に用いたものかは明らかではない。「春花の栄ゆる」とあるのと同じく、「木綿花の」は、意味で栄ゆにかかる枕詞と思われる。「栄ゆる」は、『古義』は、「酒漬《さかみづ》き栄ゆる」「咲《ゑ》み栄ゆる」と同じく、うるわしく、はなばなしい意だとしている。『新考』は、世の人の思う心をいったものだと注意している。楽しみにしているという意に取れる。○吾が大王皇子の御門を 「御門」は、宮殿。後の続きで、宮殿は香具山にあったことが知られる。○一に云ふ、刺竹の皇子の御門を 「刺竹の」は、用例の多い枕詞であるが、意味は不明。○神宮に装ひまつりて 「神宮」は、神のまします宮で、皇子を、天《あめ》にます神と同じにお扱い申しての語である。それは天皇、皇子のみまかられることを神去《かむさ》るという語であらわしているのでも知られるように、尊貴な御方はみまかられるとともに神となられるという信仰からいうものである。今は皇子が薨去になられたので、殯宮へお移し申したその殯宮を神宮といっているのだと取れる。「装ひまつりて」は、神宮としての装おいをして。すなわち設けをして。○つかはしし御門の人も 原文「遣使」は、諸注、訓がさまざまである。これは『古事記伝』の訓である。お召使いになられた。「御門の人」は、御宮に属した人で、朝廷より賜わっていた舎人。「も」は、もまた。○白たへの麻衣著て 「白たへ」は、巻一(二八)に出た。ここは白という意のもの。「麻衣」は、麻の衣で、身分の低い者の常服であったが、ここはそれではなく、神事の衣は白色と定まっていた、その意のものである。服装は黒染、またはそれに近い鼠色、鈍色《にびいろ》であったが、礼服としては白を着ることに定まっていたのである。○埴安の御門の原に 「埴安」は、香具山の麓、藤原宮の東方の地で、橿原市南浦町あたりか。「御門の原」は、御門の前にある原すなわち広場で、御門は皇子の宮のものと取れる。○あかねさす日のことごと 「あかねさす」は、赤色を放つで、意味で日にかかる枕詞。「日のことごと」は、一日じゆう。○鹿じものいはひ伏しつつ 「鹿じもの」は、これと同じ形の「鴨じもの」が、巻一(五〇)に出た。『講義』は、「じ」は体言に続いて形容詞を構成し、「ししじ」で「しく、しき」の活用の語幹をなさせ、それに「もの」を続けて熟語としたものであり、意は、鹿のごとき物というほどのことだといっている。「鹿《しし》」は、宍《しし》すなわち肉にあてた字で、肉を食料とする獣の総称である。ここは「鹿」をその代表としたもの。獣の足を曲げて地に伏している習性を捉えて譬喩としたもの。「いはひ伏しつつ」は、「い」は接頭語。「はひ伏す」は礼の形で、後世の平伏、土下座《どげざ》と同じ形のものである。日本書紀、天武紀に、跪礼、匍匐礼をやめるという勅があり、さらに続日本紀、文武天皇、慶雲年間にも、同じ勅が出ているので、当時それの行なわれていたことがわかる。「つつ」は、継続。二句、獣のごときさまに平伏しつづけて。○ぬばたまの夕べになれば 「ぬばたまの」は、(八九)に出た。射千《ひおうぎ》の実で、色の黒いところから黒の枕詞となり、夜、夕などにも及んでいるもの。今は夕べの枕詞。「夕べになれば」は、夜に移れば。○大殿をふり放け見つつ 「大殿」は、皇子の宮殿。「ふり放け見」は、(一四七)に出た。仰いで遠くの物を見ること。「つつ」は、継続。事としては近く見るのであるが、尊む意から、遠く見るように言いかえたもの。○鶉なすいはひもとほり 「鶉なす」は、鶉のごとくで、鶉は、草原を這い回っているので、そのさまを捉えて譬喩としたもの。「いはひもとほり」は、「いはひ」は上と同じく、「もとほり」は同じ所を回って歩く意の古語。二句、平伏しつつも、悲しみに堪えずして動き回る意で、上の二句と対句とし、一歩心を進めたもの。○さもらへどさもらひ得ねば 「さもらへど」は、伺候しているけれども。「さもらひ得ねば」は、伺候の意が遂げられないのでの意で、伺候していてもお召しになることもなく、その詮がないので。○春鳥のさまよひぬれば 「春鳥の」は、春の鳥のごとくで、その高音《たかね》に、また繁く鳴く点を捉えて、譬喩の意で枕詞としたもの。「さまよひぬれば」は、「さまよふ」は懊悩して呻き声を発する意の動詞で、巻二十(四四〇八)「若草のつまも子どもも、をちこちに沢《さは》に囲《かく》みゐ、春鳥の声のさまよひ、白妙の袖泣き濡らし」とあると同じ意のものである。この語は『講義』が詳しく考証している。二句、上の二句に続いて、(303)伺候していてもその詮がないので、懊悩して呻き声を発していればの意。○嘆きもいまだ過ぎぬに 「嘆き」は、御薨去の嘆き。「過ぎぬに」は、過去のものとはならないのに。○憶ひもいまだ尽きねば 「憶ひ」は、嘆き。「尽きねば」の「ねば」は、「ぬに」と同じ心で用いられている古語である。○言さへく百済の原ゆ 「言さへく」は(一三五)に出た。「韓《から》」、または百済へかかる枕詞。「百済の原」は、今は北葛城郡広陵町字百済。「ゆ」は、「より」の古語で、経過する地点を示す語。二句、百済の原を過ぎて。○神葬り葬りいまして 「神葬り」の「神」は、その事が神に関する場合に添えていう語で、(一六七)「神集《かむつど》ひ集ひいまして」と同じ形のものである。「葬り」は、放《ほう》りの意で、平生の住まいより出して遠くやる意の語で、野辺送りというにあたる。「座而《いまして》」は旧訓で、「座而《いませて》」の訓もあり、諸注二つに分かれている。『講義』は旧訓に従い、その理由を明らかにしている。「座而《いまして》」は、「葬り」という用言に添えたもので、単なる形式的の敬語である。「座而《いませて》」は、巻十二(三〇〇五)「高々《たかだか》に君を座せて」というように実質を含んだもので、ここにはあたらない。事としては、皇太子としての皇子を葬ることで、これを行なうのはむろん朝廷である。「座而《いまして》」は朝廷に対して添えたところの形式的の敬語だというのである。○あさもよし城上の宮を 「あさもよし」は、巻一(五五)に出た。「麻裳よし」で、「よし」は詠歎。著《き》と続け、城に転じての枕詞。「城上の宮」は、上にいった。○常宮と高くしまつりて 「常宮」は、(一九六)に出た。永久の宮で、ここは殯宮を讃えていつたもの。「高之奉而」は、訓がさまざまである。多くは誤字があるとして改めてのものである。しかし文字は諸本一様である。『講義』は、「高くしまつりて」と訓むほかはないとしている。高く作り奉りての意である。○神ながら鎮まりましぬ 神とあるままにお鎮まりなされたの意。起首よりこれまでで一段。○然れども吾が大王の そうした御状態ではあるけれども、わが皇子尊の。○万代と念ほしめして 「万代と」は、万年にわたって変わらなくあれとの意。「念ほしめす」は、「念ふ」の敬語「念ほす」に、「見」の敬語「めす」の続いたもの。○作らしし香具山の宮 お作りになられた香具山の宮で、皇子の宮である。上の「埴安の御門の原」を門前とし、香具山寄りにあった宮と取れる。この宮は皇子御薨去の後は、荒廃に任せられるべきものである。○万代に過ぎむと思へや 「万代に」は、上の「万代と」に照応させたもので、お思いなされたがごとく、万年にわたっての意のもの。「過ぎむと思へや」は、「過ぎむと」は過去のものとなろうと。「思へや」は「思ふ」の己然形「思へ」に、「や」の添ったもので、反語。思おうか思いはしない。二句、万年にわたって、過去のものとならせるようなことは、思おうか思わないの意。○天の如ふり放け見つつ 「天の如」は、天を見るごとくに。「ふり放け見つつ」は、遠く望みつづけてで、宮を尊みなつかしむ心からいったもの。○玉だすきかけて偲はむ 「玉だすき」は、巻一(二九)に出た。襷《たすき》に玉の美称を添えたもの。「かけ」の枕詞。「かけて偲はむ」は、心にかけて深くお思い申そうで、宮を皇子のお形見として、皇子同様にお思い申そうの意。○恐かれども 恐れ多くはあるけれどもで、身分の低い者としては憚るべきことであるけれどもの意。この句は起首に照応させてのもの。
【釈】 口にして申すことは恐れ多いことであるよ。言葉とすることはいおうようなく恐れ多いことであるけれども、明日香の真神の原に、神としての宮殿をお定めになられて、今は神のお振舞いをなさって御陵に岩隠れていらせられるやすみししわが大王なる天武天皇の、御支配になられる北方の国美濃の、不破の山を越えて、わざみが原の行宮に行幸にならせられて、天下の乱れをお治めになろうとて、御支配になる国を安定おさせになろうとて、東国の軍将士卒を御召集になられて、強暴なる人を和らげよ、お従い申さぬ国を治めよと、皇子とましますままにお任じなされると、皇子尊には御身に太刀《たち》をお佩きになり、御手に弓を(304)お持ちになり、軍将士卒を誘い率いさせられ、軍隊の進退を号令する太鼓の音は、雷のとどろき鳴る声かと聞くまでに、同じく吹き鳴らす竹筒の音も、怨み憎みを起こしている虎が吼えるのであるかと思って、敵の人々が恐れて失神するほどに(惑って聞くまでに)、捧げている幡の風に靡《なび》くさまは、春が来ると、野という野に燃えついている火が(春の野を焼く火が)、吹く風につれて靡くがように赤く熾《さか》んに、手に持っている弓の弦の騒ぎは、冬の林に飄《つむじ》かぜが捲き渡っているのかと思うまでに音が恐ろしく(敵のすべてが見惑うほどに)、引放つ箭の繁さは、大雪のごとくに乱れて飛び来るので(霞のようにあちらから来るので)、従わずして敵対していた敵軍も、今は死ぬならば死ねよと先頭を争って向かって来るとたんに(ここで死ぬならば、いずれは死ぬという命であるのに、死ぬべき現し身であるのにと思って、先頭を争って向かって来るとたんに)、伊勢の渡会の皇大神宮から、神の気《いき》である大風をもって、吹いて敵軍を困惑させ、天《あめ》の雲を、日の影も見せず真の闇になるまでにお覆いになられて、それによって安定になされたところの瑞穂の国を、皇子尊は神とましますままに御支配になられて、持統天皇も御代の大政を執り申されるので、万年にわたってそのようにばかりあろうと、天下が楽しみにしている時に、わが大王皇子の宮を、神宮《かむみや》に更《か》えて装い申し上げ、お召使いになっていた宮の舎人《とねり》も、神事の服である白色の麻衣を着て、埴安の御門の原に、昼は一日じゅう、さながら鹿のようなさまに平伏しつづけ、夜に移って来ると、宮を仰ぎ望みながら、鶉《うずら》のように平伏して居ざり回って、伺候はしているがその詮もないので、懊悩して呻き声を立てていると、その嘆きもまだ過去のものとはならないのに、悲しみもまだ尽きないのに、百済の原を過ぎて、神葬りに葬り申されて、城上《きのえ》の宮を永久の宮として高く作り奉って、皇子尊には神とましますままにお鎮まりになられた。そうではあるけれども、わが大王皇子尊の、万年にわたって変わらずもあれとお思い遊ばして、お作りなにられたところの香具山の宮は、お心のとおりに万年にわたって過去の物とならせようと思おうか思いはしない。畏き天のごとくにも仰ぎ望みつづけて、お形見のそれによって皇子尊を心にかけて深くお思い申そう、恐れ多くはあるけれども。
【評】 この挽歌は、その量においても百四十九句という、本集を通じての最長篇であるとともに、その質においてもまた、人麿の手腕の最も発揮されているものとして、その代表作と目されているものである。
 作歌の意図は単純で、したがってまた明瞭である。事は皇太子高市皇子尊の薨去に対しての挽歌であって、神となられて殯宮にいらせられる皇子尊に対して、その御薨去の悲しみを述べ、その延長として、皇子尊を永遠にお慕い申そうと述べて、神霊を慰めまつるものである。これは挽歌の型となっていることである。しかるに対象となられている皇子尊は、天皇につぐ尊貴な御方でいらせられ、これをいう人麿はきわめて身分の低い者である関係上、悲しみの情をほしいままにするということは、身分の距離を忘れた狎《な》れすぎたこととして控えねばならぬことであり、したがってつとめて距離をおいての物言いをしなければならない。すなわち御薨去のことに直接触れていうことは恐れ多いこととし、間接に、言葉少なにいわなくてはならないことになる。作歌の用意の第一は、この事であったと思われる。次に人麿は、皇子尊に対し、いかなる関係の者としてこの歌を(305)作っているかということである。皇太子である皇子尊の御薨去に対する悲しみは天下のものであるのに、この歌でそれを悲しんでいる者は、神宮《かむみや》すなわち殯宮となった香具山の宮の御門前に、神事の服である白妙の麻衣を着て、昼夜を分かたず、平伏して伺候している者だけに限ってあって、そのほかの者には触れていない。それらは香具山の宮の舎人である。また人麿は手法として、長歌を作る場合には、その反歌によって私情を述べる場合が多い。しかるにこの長歌の反歌二首は、いずれも舎人の悲しみを述べているものである。それらから見るとこの挽歌は、皇子尊に対して、舎人という立場に立って作ったものである。こうした歌は、神霊の喜ばれるものでなくてはならぬ関係から、歌人人麿が作らせられたものと思われる。人麿が高市皇子尊の舎人であってもまたなくても、そのことはありうることである。そのいずれであったにもせよ、皇子尊の舎人という立場に立ち、その用意をもって作ったものであることは明らかである。これが用意の第二である。第一の用意と第二の用意とは緊密に関連しているもので、皇子尊に対して、舎人という身分低い者の態度をもって述べようと意識し、その用意をもって作っているものである。この長歌のもつ構成と技巧とは、この用意の下になされているものである。
 構成から見ると、第一段は起首より、百三十六句目の「鎮《しづ》まりましぬ」までであり、第二段はそれより結末までである。
 第一段は、三つの事を連ねたもので、第一は皇子尊が壬申の乱に将軍となられた事、第二は持統天皇の太政大臣として、また皇太子として大政を執られた事、第三は御薨去の事である。これら三つの事に対して費やしている言葉の量は、舎人として皇子尊に対して抱きまつっていた尊崇の情を尽くしているものといえる。第一の壬申の乱の事は、起首より「定めてし瑞穂の国を」の「定めてし」までで、じつに八十七句である。第二の大政を執られたことは、「瑞穂の国を」より「栄ゆる時に」までで、十一句。第三の御薨去の事は、「吾が大王皇子の御門を」以下で、三十八句である。御生前のことを叙した第一第二におい(306)て、第二は十一句であるのに、第一に対して八十七句を費やしていることは、全体の上から見て、均衡を失しているがごとくみえる。しかし挽歌でいわんとしていることは、皇子尊の生涯の御事績そのものではなく、神霊を慰め奉ろうとする目的をもって、功業をお讃え申すことにある。その上よりいうと、この御代における壬申の乱の位置は、他に較べるもののない重大なもので、その乱に将軍として偉功を樹てられたということは、皇子尊の御生涯の上でも際立って輝かしい、きわめて特殊なことだったのである。加うるにこの時代は、国家が盛運に向かう時で、男子の本懐は大夫《ますらお》たるにあった時勢であるから、皇子尊のこの軍功は、きわめて魅力の多いものであったことは明らかである。第二の、大政を執られた事の方は軽く扱うにとどめたのは、事実としてもその期間は長いものではなく、また第一との比較においても、そう扱うことが自然であったであろう。第三の、御薨去の事をいうにあたり、御薨去その事については直接にいうところがなく、御薨去という状態において扱われたまう皇子尊を、第三者として見ているがごとき態度をとり、その立場に立っての悲歎の情を叙《の》べているのは、舎人という低い身分の者としては、明らかに距離をつけてのそうした態度を取ることが、すなわち皇子尊に対する敬意であるとして、それを当然のこととしたためと取れる。しかしこの第三は、事をつぶさに叙すことによって悲歎の情を具体化しているものである上に、第一の大夫としての華やかな事象とおのずから対照されるところがあるために、その悲軟に深みと重みとが添うものとなり、その態度の間接であるにもかかわらず、その情としては、不足を感ぜしめないものとなっているのである。
 以上は第一段の構成である。この段のきわめて異彩のあるのは、その構成を貫いて流れている人麿の抒情の方法である。これを形から見ると、起首の第二句にきわめて軽い読点《とうてん》があるが、それを除外すると、百三十六句、三つの事項が、ただ一文の中に収められていて、その間に一読点をももっていないのである。これは人麿の手法の特色であるが、この歌において極まっているものである。この一句にしてきわめて長い一文は、人麿の全体的の熱情の、送り流れてとどまるところを知らない結果であることは明らかである。しかるに、優れたる文芸性をもっている人麿にあつては、その熱情を起こさしめた事象と起こした熱情と相溶け合って、その間に差別のつけられない一つのものとなっているのである。ここに人麿の面目がある。同時にまた人麿には、その全体的の熱情にして同時に事象であるところのものに溺れ入ることがなく、反対に、冷静に、余裕をもち、それを支配しきる一面があるのである。この矛盾したる両面が、微妙に働き、微妙に現われているものが、すなわちこの一段である。一句一文が百三十六句であり、熱情の流れであるとともに事象の展開となり、しかも三つの事項を含んだものとなり、各事項が適当な重量をもちつつ連続しているのはこの特殊な力のためである。またその連続のさせ方は、巧妙を極めたもので、第一と第二の連続は、「定めてし瑞穂の国を」であるが、「瑞穂の国」までは第一に属するもので、同時にこれはまた、第二に属するものである。その連続は、「を」の一助詞によってされているのである。第二と第三の連続は、「木綿花の栄ゆる時に」であって、これはきわやかな巧妙さは見せないものであるが、第三の事項の重大なるものへの移り目という上からは、そのきわ(307)やかでないところに同じく巧妙さがあるといえる。この連続のさせ方が、三つの事項という変化に統一をつけて一つの事象としているのである。
 さらに細部的にいえば、この一段は飛躍のきわやかなものを示している。第一の起首、天武天皇を申している、「ひさかたの天つ御門を、かしこくも定めたまひて、神さぶと磐隠ります」の、「神さぶ」への移りも、今日から見ると飛躍があるといえる。神は永遠にましますという上からは、飛躍とはいえないともみられるが、文字の続きからいえば、それを感じさせられるものである。また、戦争の結末近く、「引き放つ箭の繁けく、大雪の乱れて来れ」の「来れ」の一語によって、主客を一転せしめた飛躍は、「語釈」でいったがように巧妙を極めたものである。また、第二の、「天の下申したまへば」は、天武天皇に嗣ぐ持統天皇の
御代のことで、甚しき飛躍のあるものである。これらの飛躍は、全体的の熱情の方を主とし、事象はそれに溶かしこみつつも、しかも客観的に扱っているところからくるものである。そこに破綻《はたん》を見せず、かえって妙味を感ぜしめるのは、冷静なる心の働きといわなければならない。第一の、五種の軍器を扱う上にも、鼓に四句、小角《くだ》に六句、幡と弓とに各八句、箭に四句を用いているなども、細心に、適当な分量を与えるものとみられる。
 第二段は、皇子尊の神霊を慰めまつる心をもって、永久に御追慕しようということをいったものである。これは天下の者の等しく思うべきものであるが、今はその代表者として、御生前皇子尊に親近してお仕えした舎人としていっているものである。これは挽歌としては全く型となっている部分で、特別の言い方のない性質のものである。
 しかしこの段も、特色がないとはいえない。それは第一段の第一、すなわち壬申の乱をいう時には、むしろ叙事的に、事象の方を主としていっているのに、この段はそれとは正反対に、抒情をもって終始しているのであるが、それが長篇の首尾という関係において、おのずから対照される位置に立つものとなり、際立つものとなっているところに特色がある。上代の思慕は、単に心だけをもってするものではなく、形見となるべき物品に寄せてするのが普通となっていた。これは集中にあげるに堪えないまで例のあるものである。高市皇子尊の御形見としては、万人等しく見られるものは香具山の宮である。人麿はそれを捉えていっている。その心はきわめて深いものであるが、言葉は短いもので、短い言葉の中に深い心をこめている。「万代と念ほしめして、作らしし香具山の宮、万代に過ぎむと思へや」はすなわちそれである。この「万代」は、含蓄の多い、根深い語である。しかも同時に、「天の如ふり放け見つつ」といって、きわめて深い尊崇の情をもこもらせているのである。この言葉の短く、心の深い、すなわち純抒情的なのは、意識して、第一段の第一に照応させたものと思われる。結句の「恐《かしこ》かれども」も、起首と照応させてあるもので、細心の用意のほどを感じさせられる。
 
     短歌二首
 
200 ひさかたの 天《あめ》しらしぬる 君《きみ》ゆゑに 日月《ひつき》も知《し》らに 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
(308)    久堅之 天所知流 君故尓 日月毛不知 戀渡鴨
 
【語釈】 ○ひさかたの天しらしぬる 「ひさかたの」は、天にかかる枕詞。「しらしぬる」は、『考』の訓である。「天」は、天上。「しらす」は、支配の意の「知る」の敬語。御支配になられているところの、の意。皇子尊の如き尊貴な御方は、御薨去になると、神として天上に帰られると信じていて、御薨去を神上《かむあが》りといっている。ここはその神上りを、天を御支配になる為のこととしたのである。○君ゆゑに 「ゆゑ」は、理由をあらわす語。君の故にで、君によりての意。○日月も知らに 原文「不知」は、「知らず」「知らに」の両様の訓がある。「知らに」に従う。「に」は打消「ぬ」の連用形で、意味は知らずであり、下に続く。事の理由をあらわす時に用いる。事は「恋ひ」の理由。月日の経過をも覚えず、長い間を、悲歎のために心を奪われている状態をいったもの。○恋ひ渡るかも 「恋ひ」は、思うを強くいったもので、憧れるというに近い。「渡る」は、継続をあらわしたもの。「かも」は、詠歎。
【釈】 神として天上を御支配になられているところの君によって、月日の経過をも覚えず、憧れつづけていることであるよ。
【評】 「日月も知らに」というので、一周年を殯宮に奉仕しつづけている舎人としていっているものであることがわかる。長歌の方は、舎人としての心が濃厚に加わってはいるが、必ずしもそれと限ったものではない。ここでは純粋に舎人としていっているのである。また、長歌は、皇子尊を城上《きのえ》の殯宮にお移ししたことで終っているが、これはその後相応な期間を経過しての心でもある。長歌とは明らかに変化のあるもので、人麿の反歌の面目をもっている。歌は、悲歎に鎖されて過ごしてきた長い期間の心を総括していっているもので、純粋な抒情的なものである。したがって歌柄が大きく、調べが強く、重量をもったものである。「天」「日月」という用語は、尊崇の気分を醸し出すものとなっている。無意識のものとは思われない。
 
201 埴安《はにやす》の 池《いけ》の堤《つつみ》の 隠沼《こもりぬ》の 去方《ゆくへ》を知《し》らに 舎人《とねり》は惑《まと》ふ
    埴安乃 池之堤之 隱沼乃 去方乎不知 舎人者迷惑
 
【語釈】 ○埴安の池の堤の 巻一(五二)に出て、「埴安の堤の上に、在り立たし見《め》したまへば」とあった。堤はやや小高いものであったとみえる。「堤の」の「の」は、堤の内にあるの意のもの。○隠沼の 「こもりぬ」は『代匠記』の訓。「ぬ」は、沼の古語である。隠沼は、堤に籠もっている沼の意。この沼は潅漑用の貯水池であったと思われる。「隠沼の」の「の」は、の如くの意のもの。水は流れるものを普通とするところから、この沼の水の流れない点を捉へて、それを譬喩としたもの。意は隠沼の水の如く。○去方を知らに 「去方」は、将来の身を処する方法。「知らに」は、上に出た。知らずで、下の「惑ふ」の理由。将来をどうしたものかわからずして。○舎人は惑ふ 舎人は途方にくれているの意。
【釈】 埴安の池の堤のうちにあるその隠沼の水の、流れゆく所がないごとく、将来をどうしたものかわからず、舎人は途方にく(309)れている。
【評】 前の歌と同じく、皇子尊の御薨去の後、相応な期間を経た時に、舎人としての心をいったものである。悲歌が多少鎮まると、仕えまつるべき主君を失った、自身の将来を思わずにはいられなくなるのは自然である。この歌はその心のものである。前の歌は殯宮に在つてのものであるが、これは香具山の宮でのものである。日並皇子尊の時と同様に、殯宮の期間は、舎人は、御生前の宮である香具山の宮へも宿衛したものと思われる。宮からは埴安の池は眼下に見下ろされたものと思われる。高い堤に囲まれて流れずにいる水の状態を見ると、仕えまつる君のなく、したがって行くところのない舎人の状態が連想されてき、その悲しみを訴えたものである。長歌に香具山の宮を重く扱っている関係上、それに関しての反歌があってしかるべきである。この歌はその用意のあったものと思われる。
 
     或書の反歌一首
 
202 哭沢《なきさは》の 神社《もり》に神酒《みわ》すゑ 祈《いの》れども 我《わ》が大王《おほきみ》は 高日《たかひ》知《し》らしぬ
    哭澤之 神社尓三輪須惠 雖祷祈 我王者 高日所知奴
 
【語釈】 ○哭沢の神社に 「哭沢」は、神の御名で、古事記、日本書紀ともに出ている。伊邪那美命のおかくれになった時、伊邪那岐命の嘆きの御涙から成った神である。古事記には「故《かれ》爾《ここ》に伊邪那岐命|詔《の》りたまはく、愛《うつく》しき我《わ》が那邇妹命《なにものみこと》や、子の一木《ひとつけ》に易《か》へつるかもと謂《の》りたまひて、乃ち御枕方《みまくらべ》に匍匐《はらば》ひ、御足方《みあとべ》に匍匐《はらば》ひて哭《な》きたまふ時に、御涙《みなみだ》に成りませる神は、香山《かぐやま》の畝尾《うねを》の木本《このもと》に坐《ま》す、名《みな》は泣沢女神《なきさはめのかみ》」とあり、日本書紀の方も同様である。「神社」は、集中、「杜《もり》」をあててもいる。上代は、神の社のないのが普通で、神は斎《い》み清めた大木に降りたまうこととして、杜を社としていたのである。大和の大三輪神社、信濃の諏訪神社は、今もその風を伝えている。この社は延喜式には、高市郡の条に、「畝尾坐|健土安神《たけはにやす》社」「畝尾|都多本《つたもと》神社」とあり、今は、健土安神社は下八釣村、都多本神社は橿原市木之本町哭沢森にあるが、両地は続いていて、ともに香具山の西麓である。○神酒すゑ 原文「三輪」は、御酒《みき》の古名。巻一(一七)に出た。「すゑ」は、上代の甕《みか》は、底の丸い物で、据わりの悪い物であったところから、土を掘って供えたのである。「すゑ」は、供えの意である。○祈れども 御平癒を祈ったけれども。○我が大王は 高市皇子尊。○高日知らしぬ 「高」は、天の意。巻一(四五)に「高照らす日の御子」とあるそれである。「高日」は、天の日で、高天原を言いかえたもの。「知らす」は、「知る」の敬語で、御支配になる意。高天原に上りましたで、御薨去のことをいったもの。(二〇〇)にも出た。
【釈】 哭沢の杜《もり》の神に、御酒《みき》を供えてお祈り申したけれども、わが大王皇子尊には、高天原を御支配になられた。
【評】 皇子尊の御薨去を悲しんでの心のものであるが、しかし一首に沁み入っているものは、悲しみよりもむしろ皇子尊の神(310)性に対する畏敬の情である。中心は、「我が大王は高日知らしぬ」で、「哭沢の神社に神酒すゑ祈れども」という、畏き神への懇ろなる祈りも、何の甲斐もなかったということが、やがて皇子尊の神性をあらわすこととなっているのである。悲しみが畏敬となっているという特殊な気分をもった歌で、皇室に対する感情の深く沁み入っている歌である。哭沢の神社は香具山の西麓にあり、また『古事記伝』が注意しているように、人の命を祈るには由のある神としてのことと思われる。反歌という上より見ると、上の二首は長歌と緊密に関連し、有機的な関係をなしていて、それだけで完備しているものとみえる。その点から見るとこの歌は遊離している。おそらく事の方を主として、同じ場合の歌として書き連ねられていたものではないかと思われる。それについてのことを左注もいっている。
 
     右一首、類聚歌林に曰はく、檜隈女王《ひのくまのひめみこ》の泣沢神社を怨むる歌なりといへり。日本紀を案ふるに曰はく、十年丙申の秋七月辛丑朔にして庚戌の日後の皇子尊薨りましぬといへり。
      右一首、類聚歌林曰、檜隈女王、怨2泣澤神社1之歌也。案2日本紀1曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨。
 
【解】 注は二段から成っていて、第一段は、類聚歌林にこの歌が載っていて、作者と題詞とを異にしているというのである。「檜隈女王」は伝が明らかでない。『講義』は、続日本紀、天平九年二月の叙位に、従四位下檜隈王を従四位上に叙せられる記事のあることを注意し、同じ方《かた》ではないかといっている。題詞の「泣沢神社を怨むる」ということはどうかと思われる。それだと皇子尊が無力のごとくなって、作意にかなわないものとなるからである。第二段は、日本書紀から引いたものである。
 
     但馬皇女薨り給ひし後、穂積皇子、冬の日雪|落《ふ》るに、遙に御墓を望み、悲傷流涕して作りませる御歌一首
 
【題意】 「但馬皇女」のことは、(一一四)に出た。薨じられた時は、続日本紀、和銅元年の条に、「六月、丙戌(二十五日)三品但馬内親王薨。天武天皇之皇女也」とある。「穂積皇子」のことも、(一一四)に出た。元明天皇霊亀元年薨去された。この頃は知太政官事であった。但馬皇女とは妹背の御仲であった。冬の日は、皇女御薨去の年の冬と取れる。御墓は、歌によって吉隠《よなばり》とわかる。「遙に望み」は、藤原の京からであろう。「悲傷流涕」は、歌の内容がそれである。
 
(311)203 ふる雪《ゆき》は あはにな落《ふ》りそ 吉隠《よなばり》の 猪養《ゐかひ》の岡《をか》の 塞《せき》にならまくに
    零雪者 安播尓勿落 吉隱之 猪養乃岡之 塞有卷尓
 
【語釈】 ○ふる雪は 今、眼前に降っているこの雪は。○あはにな落りそ 「あは」は、集中ここだけにある語である。それは近江の浅井郡では、大雪のことを「あは」といっており、これもそれであろうと本居宣長の説を『略解』が引いている。『講義』は徳川時代の随筆の中から、これに関する諸家の説を集めている。伴蒿蹊の『関田耕筆』に、近江の山村では、大雪の積もって崩れるのをいうといい、村田春海の『織錦舎随筆』には二説を挙げ、一説は近江と越前境の山村で、大雪のことをいい、いま一説は、美濃の広瀬の山中では、古い雪の上へ新しい雪が積み、凍み合わない中に風に吹かれて崩れるのをいうというのである。山地で、大雪の崩れやすい状態のものをいう称と取れる。それだと今の場合にもかなうものとなる。「なそ」は、禁止。○吉隠の猪養の岡の 「吉隠」は、桜井市初瀬町に属している。諸説がある。当時は、藤原の京から伊賀の名張へ出る街道の中にあって、長谷、吉隠と経て行ったのである。「猪養の岡」は、今は名が残ってはいず、明らかでないが、吉隠の東北方かという。その岡に皇女の御墓があったのである。○塞にならまくに 『童蒙抄』の訓。この一句、訓に諸説があって定まらない。「塞」は、「塞く」の名詞形で、関と同じ。道を遮るものとしていっている。「に」は、訓添《よみそ》えで、「なる」に続く場合は「に」であるのが古語の常である。「ならまく」は、「ならむ」に「く」を添えて名詞形としたもので、なろうとすることであるの意。「なる」は、化成の意である。「に」は、詠歎。
【釈】 今降っている雪は、「あは」といわれるまでには降るな。「あは」に降ると、吉臆の猪養の岡の妹が墓への道の関と化することであろうに。
【評】 皇女の薨去になったのは六月であるから、この冬の日は、その年の冬と思われる。尊貴の御方には殯宮一年の儀があり、その間は御生前に准じた奉仕をした。皇女に対してもそれに准じた事が行なわれていたろうと思われる。それだとここにいう冬の日は、その殯宮の期間ではなかったかと思われる。「あは」に降る雪となるならば、御墓への道が閉ざされようと思われ、それを思うことによって悲傷流涕されたということは、そうした事情が背後にあってはじめて自然となることである。御作歌は実際に即した、おおらかな、皇子の風貌《ふうぼう》を偲ばせるものである。
 
     弓削《ゆげ》皇子薨り給ひし時、置始東人《おきそめのあづまひと》の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「弓削皇子」のことは、(一一一)に出た。天武天皇第六皇子で、薨去は、続日本紀によると、文武天皇三年七月である。「置始末人」は、巻一、(六六)に出た。
 
(312)204 やすみしし 吾《わ》が王《おほきみ》 高光《たかひか》る 日《ひ》の皇子《みこ》 ひさかたの 天《あま》つ宮《みや》に 神《かむ》ながら 神《かみ》と座《いま》せば そこをしも あやに恐《かしこ》み 昼《ひる》はも 日《ひ》のことごと 夜《よる》はも 夜《よ》のことごと 臥《ふ》し居《ゐ》嘆《なげ》けど 飽《あ》き足《た》らぬかも
    安見知之 吾王 高光 日之皇子 久堅乃 天宮尓 神随 神等座者 其乎霜 文尓恐美 晝波毛 日之盡 夜羽毛 夜之盡 臥居雖嘆 飽不足香裳
 
【語釈】 ○やすみしし吾が王 上に出た。弓削皇子を申したもの。○高光る日の皇子 「高光る」は、(一七一)に出た。空に光る意で、日の枕詞。「日の皇子」は、上の「王」を言いかえたもの。二句、上の二句と同格で、重くいうがために繰り返したもの。○ひさかたの天つ宮に 「ひさかたの」は、天の枕詞。「天つ宮」は、天上にある宮で、尊貴な方の現し世を去るとともに移られる宮の意。高天原というと同じで、それを具体化したもの。○神ながら神と座せば 「神ながら」は、神とましますままに。「神と座せば」は、神として天上にましますのでで、二句、皇子としての御他界になった後の状態をいったもの。○そこをしもあやに恐み 「そこ」は、その点で、御他界になったこと。「しも」は、強め。「あやに恐み」は、いおうようなく恐れ多しとして。○昼はも日のことごと、夜はも夜のことごと 昼は終日、夜は終夜。○臥し居嘆けど 「臥し居」は、臥していて、また起きていてで、さまざまの状態での意。○飽き足らぬかも 「飽き足らぬ」は、満足せぬで、悲款の尽くし難い意。「かも」は、詠歎。
【釈】 やすみししわが王の天に光る日の皇子には、天上の宮に、神にますままに神として座《ま》しますこととなったので、その点がいおうようなく恐れ多くて、昼は終日、夜は終夜、臥していて、また起きていてさまざまの状態で悲しみ泣くけれども、それにもかかわらず悲しみは尽くせず、満足できないことではあるよ。
【評】 置始東人は、弓削皇子に何らか特別の関係をもち得ていたところから、この挽歌を献ったものと思われる。挽歌はいちめん儀礼のものであって、その上からは古風の長歌形式によるべきであるとして、つとめて作った歌であろうと思われる。本来長歌は短歌よりは手腕を要するものであり、この歌には作者の手腕と認めらるべきものがないところから、しいて作ったものだろうと取れるからである。この歌はほとんど全部成句より成っていて、作者によって作り出された特殊なものは見えない。実際に即する当時の歌風からいって、作者に手腕があれば、皇子に関しての何らかの特殊なことに言い及び得られたろうと思われるのに、それが全くないのである。しかし皇子に対しての尊崇の精神は十分にあって、言葉をつつしみ、多くをいうまいとしている態度は感じられる。「ひさかたの天つ宮に、神ながら神と座せば」という四句が、この歌にあってはきわめて自然なものとなっているのは、尊崇の精神から流れ出したものだからである。
 
(313)     反歌一首
 
205 王《おほきみ》は 神《かみ》にし座《ま》せば 天雲《あまぐも》の 五百重《いほへ》が下《した》に 隠《かく》りたまひぬ
    王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隱賜奴
 
【語釈】 ○王は神にし座せば 「王」は、天皇を初め皇族に対しての讃え詞で、皇子は現人神にましますのでの意である。これは上の長歌の「やすみしし吾が王、高光る日の皇子」と全く内容を同じゅうするものである。○天雲の五百重が下に 「天雲」は、天の雲。「五百重」は、限りなく深く重なっていることを具体的にいったもの。「下」は、『攷証』は、(二四一三)「吾が裏紐《したひも》を」、(二四四一)「裏《した》ゆ恋ふれば」などの「裏《した》」と同じく裏《うら》の意だといっている。中《うち》といっても同じである。二句、天上の、人間の眼の及ばぬ所ということを、具体的にいったもの。○隠りたまひぬ お隠れになったで、神上《かむあが》られたということを、同じく具体的にいったもの。
【釈】 王は神にましますので、天上の雲の限りなくも深く重なった中の、人間の眼の及ばぬ境にお隠れにならせられた。
【評】 長歌の「ひさかたの天つ宮に、神ながら神と座せば」を、言葉をかえて繰り返したもので、反歌としても古風なものである。皇子の尊貴な一面だけをいって、他に及ぼしていないところは、長歌と態度を同じくしたものである。「王は神にしませば」は成句となっているもので、「天雲の五百重が下に」というだけが作者のものである。「天つ宮」を具体化しようとしたもので、遂げ得ているものというべきである。
 
     又短歌一首
 
【題意】 これは、前の長歌および反歌とは関連のない別な歌であるが、事の範囲は同じで、また作者も同じだという意味のものである。
206 ささなみの 志賀《しが》さざれ浪《なみ》 しくしくに 常《つね》にと君《きみ》が 思《おも》ほせりける
    神樂浪之 志賀左射礼浪 敷布尓 常丹跡君之 所念有計類
 
【語釈】 ○ささなみの 「ささなみ」は、滋賀県滋賀郡および大津市にわたる湖岸一帯をいった。○志賀さざれ浪 「志賀」は、地名。湖水に接した地で、辛埼などのあるところ。「さざれ浪」は、ささ波。湖水に立つ浪である。志賀のさざれ浪の意で、「の」をはぶいたもの。二句「しくし(314)く」へかかる序詞。○しくしくに 「しく」は、「頻《しき》る」と同じ意の動詞で、上よりの続きは、浪の打続いて寄ってくる意。「しくしく」はその「しく」を重ねて副詞とし、しきりにの意に転じたものである。「しくしくに」は、「思ほす」へ続くものである。○常にと君が 「常にと」は、「常」は、永久の意で、永く世にあるの意。「に」は、にありたいの意で、動詞のはぶかれている形のもの。○思ほせりける 訓は本居宣長の付けたもの。「思ほせり」は、「思ほす」と完了の助動詞「り」との熟した語で、「思ほす」は、「思ふ」の敬語。「ける」は、連体形で、上に係がなく、これを終止としたものである。これは詠歎を含ませたものである。お思いになっていられたことであるよの意。
【釈】 ささなみの志賀にさざれ浪がしきりに寄る、そのしきりにも、永く世にありたいものだと君は、お思いになっていたことであるよ。
【評】 弓削皇子の薨去になった後のある時に、東人《あずまひと》が皇子を思い出し、しみじみと悲しんだ心のものである。思い出したことは、「常にと君が思ほせり」ということで、皇子には生命の保ち難い不安を感じられ、常々東人にいわれていたそれである。「ささなみの志賀さざれ浪」という序詞は、歌の上で見ると、東人がその境に立って目睹したものと見られるものである。語としては「しくしくに」の序詞にすぎないものであり、また類例の少なくないものでもあって、想像でも捉え得られる範囲のものであるが、しかし歌の上で見ると、この序詞は全体ときわめて好く調和していて、近江の湖辺の美しく穏やかな風光に対していて、それと対照的に人事のはかなさが思い出されてきたという感を起こさせるものである。そうした感を起こさせるのは、「しくしくに」以下の悲歎の、一般性をもっている深いものであるとともに、それが静かにしみじみといわれているがためである。部分的に見ても、「志賀さざれ浪」は簡浄であり、「しくしくに」以下も屈折をもっていて、形の上からも手腕の見えるものである。これを長歌と較べると別人のごとき観がある。この差は、長歌の衰えをも語っているものといえる。
 
     柿本朝臣人麿、妻|死《みまか》りし後、泣血哀慟して作れる歌二首 并に短歌
 
【題意】 この題詞の下に、長歌二首と、そのそれぞれに、短歌二首ずつの添ったものを、一と続きとして収めてある。これは同じ作者の、巻一(三六)より(三九)にわたる「吉野宮に幸せる時作れる歌」と題する連作と同じ形式のものである。さらにまた、「妻死りし後」と、一人の妻であるがごとく記しているところから、いっそう連作であるかの感を深めさせられる。しかし歌を見ると、同じく「妻」といってい、また若くして死ぬという特別な運命を等しく負ってはいるが、別人と取れる。それは、初めの軽の妻は、その死んだのは秋であり、人麿がその事を聞かされて軽の地へ行った時は、すでに葬儀が終った後で、妻は折から黄葉している山へ葬られていた時であることがわかる。後の、子のある妻の死んだ時には、人麿はその葬儀に立ち合っており、少なくともその柩《ひつぎ》の野辺送りされるのを目にしているのである。さらにまたその時から、妻の遺して行った乳呑児を、妻に代っ(315)て見なくてはならないという状態であり、また、妻の死後、人麿とその周囲の人との交渉の深いもののあるところより見ると、この妻は軽の妻の人目を憚っていたのとは異なって、同棲をしていたものと取れる。「妻」は明らかに二人で、別人であったと思われる。一夫多妻の時代であったから、この二人の妻は同時にもっていたものとしても怪《あや》しむには足りないが、前後していたものかもしれぬ。その辺は全く不明である。この曖昧《あいまい》さは、題詞の簡略にすぎるところから起こるものであるが、歌は尊貴な御方に対してのものではなく、単に人麿自身の心やりのための私的なものであるところから、したがって題詞の記し方がきわめて簡略であったか、あるいはなかったかのいずれかであったろうと思われる。撰者は原拠とした本を重んじて私意を加えまいとする風があるから、これも原拠を重んじてのものと思われる。
 
207 天飛《あまと》ぶや 軽《かる》の路《みち》は 吾妹子《わぎもこ》が 里《さと》にしあれば ねもころに 見《み》まく欲《ほ》しけど 止《や》まず行《ゆ》かば 人目《ひとめ》を多《おほ》み まねく行《ゆ》かば 人知《ひとし》りぬべみ さね葛《かづら》 後《のち》もあはむと 大船《おほぶね》の 思《おも》ひ憑《たの》みて 玉《たま》かぎる 磐垣淵《いはがきふち》の 隠《こも》りのみ 恋《こ》ひつつあるに 渡《わた》る日《ひ》の 暮《く》れゆくが如《ごと》 照《て》る月《つき》の 雪隠《くもがく》る如《ごと》 沖《おき》つ藻《も》の 靡《なぴ》きし妹《いも》は 黄葉《もみちば》の 過《す》ぎていにきと 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》の言《い》へば 梓弓《あづさゆみ》 声《おと》に聞《き》きて【一に云ふ、声のみ聞きて】 言《い》はむ術《すべ》 為《せ》むすべ知《し》らに 声《おと》のみを 聞《き》きてあり得《え》ねば 吾《わ》が恋《こ》ふる 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も おもひやる 情《こころ》もありやと 吾妹子《わぎもこ》が 止《や》まず出《い》で見《み》し 軽《かる》の市《いち》に 吾《わ》が立《た》ち聞《き》けば 玉《たま》だすき 畝火《うねび》の山《やま》に 鳴《な》く鳥《とり》の 声《こゑ》も聞《きこ》えず 玉桙《たまほこ》の 道《みち》行《ゆ》く人《ひと》も ひとりだに 似《に》てし行《ゆ》かねば すべを無《な》み 妹《いも》が名《な》喚《よ》びて 袖《そで》ぞ振《ふ》りつる【或本、名のみを聞きてあり得ねばといへる句あり】
    天飛也 輕路者 吾味兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不已行者 人目乎多見 眞根久徃者 人應知見 狹板葛 後毛將相等 大船之 思憑而 玉蜻 磐垣淵之 隱耳 戀管在尓 度日乃 晩去之如 照月乃 雲隱如 奥津藻之 名延之妹者 黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使之言者 梓弓 聲尓聞而【一云、(316)聲耳聞而】 將言爲便 世武爲便不知尓 聲耳乎 聞而有不得者 吾戀 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 輕市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 獨谷 似之不去者 爲便乎無見 妹之名喚而 袖曾振鶴【或本、有d謂2之名耳聞而有不v得者1句u】
 
【語釈】 ○天飛ぶや軽の路は 「天飛ぶや」は、天を翔り飛ぶで、「や」は詠歎の意のもの。意味で、雁《かり》の転音で、同じ意で用いられていた軽にかかる枕詞。これは用例のあるものである。「軽」は、橿原市大軽・見瀬・石川・五条野の辺という。懿徳《いとく》、孝元、応神の三朝の皇居の地のあった所であり、また軽の市もあって、上代は名高い地であった。「軽の路」は、軽へ行く路の意にも、また軽の地域間の路の意にもいわれる語である。ここは前者で、藤原の京より軽へ行く路はの意。○吾妹子が里にしあれば 「吾妹子」は、妹を親しんでの称。「里」は、家のある地としてのもの。「し」は、強め。以上四句は、軽は吾妹子の里であるが、そこへ行く路はという意で、今は路の方を主としていおうとするところから、わざと前後させた続け方をしたものである。○ねもころに見まく欲しけど 「ねもころに」は、後世の「ねんごろに」の原形にあたる語であるが、当時の用法を見ると、内容の広い語であるといって、『講義』は詳しく考証している。帰するところは十分にという意であるといっている。これに従う。「見まく欲しけど」は、「見まく」は「く」を添えることによって名詞形としたもので、見ること。「欲しけど」は欲しくあれどの約《つづ》まった語。見ることをしたいけれどもの意。○止まず行かば人目を多み 「止まず行かば」は、絶えずその路をかよって行ったならば。「人目を多み」は、人の目にかかることが多いによりで、この妻はその生家にいたものであることがわかる。○まねく行かば人知りぬべみ 「まねく」は、繁く。「行かば」は、その路をかよって行ったならば。「人知りぬべみ」は、他人が知ってしまうべきによって。○さね葛後もあはむと 「さね葛」は、(九四)に「さな葛」とあった物と同じく、今日の美男葛《びなんかずら》と称するもの。蔓が分かれても、延びて行った末でまた合うという意で、男女別れていてもまた逢うの譬喩として捉えられ、固定して枕詞となったもの。「後もあはむと」は後にも逢おうと思って。○大船の思ひ憑みて 「大船の」は、意味で「憑む」にかかる枕詞。「思ひ憑みて」は、思って、あてにして。二句、(一六七)に出た。○玉かぎる磐垣淵の 「玉かぎる」は、『古義』の訓。巻一(四五)に出た。意味は、玉のR《かがや》くで、ほのかなRきをいったもの。「磐垣淵」にかかる関係は、玉は磐の中にまじっているところから磐にだけかかるか、または、珠の主なるものは真珠で、淵に在るものなので、淵にかかるかともいわれている。前の解に従う。「磐垣淵」は、磐の垣のごとくに繞らしている淵で、山川の状態をいったもの。二句、淵の水は籠もって流れない意で、下の「隠《こも》る」と続け、その序詞としたもの。○隠りのみ恋ひつつあるに 「隠り」は、心の中にこめてひそかにの意。心の中でばかり恋いつづけているに。人目を憚って通わずにいる心の状態。○渡る日の暮れゆくが如 天を渡って移ってゆく日の暮れてゆくがようにで、いかんともし難い状態での意。○照る月の雪隠る如 天に照る月が、雲に隠れるがようにで、上の二句と対句。心は同じであるが、思いかけずもという意が添っている。○沖つ藻の靡きし妹は 「沖つ藻の」は、海の沖に生えている藻のごとくで、その波に靡いている意で、「靡き」にかかる枕詞。「靡きし」は、従っていたの意であるが、夫婦間にあっては、共寐をしたの意に慣用されている。ここはそれである。○黄葉の過ぎていにきと この続きは、巻一(四七)に出た。「黄葉の」は、その黄変するのを推移と見、推移の意の「過ぎ」に続けて、その枕詞としたもの。「過ぎていにきと」の「過ぎ」は、死ぬの意。「いにき」は、行っ(317)たで、終止形。死んで行ってしまったと。○玉梓の使の言へば 「玉梓の」は、主として「使」にかかる枕詞で、転じて使そのものにも用いられている。また「妹」の枕詞ともしている。意は諸説があるが定まらない。『講義』は、「玉」は美称。「梓」は、梓の木をもって造った杖で、古、使は、そのしるしとして梓の杖をついていたところから出た語であろう。それは、使を職とする者を「馳使部《はせつかいべ》」といい、これを「丈部」とも書いているが、「丈」は「杖」の略字だから、使は杖をついていたことは明らかだからというのである。「妹」にかかる関係は不明である。従うべき解である。「使の言へば」は、使が来て知らせるので。○梓弓声に聞きて 「梓弓」は、弦が高い音を立てる意で、「声《おと》」にかかる枕詞。「声《おと》」は、声《こえ》と通じて用いていた。言葉の意である。二句、話に聞いてで、これは目に見るに対させていっている語《ことば》である。○一に云ふ、声のみ聞きて 話にだけ聞いてで、これは、前からの続きは自然に聞こえるが、後への続きは不自然となる。本行の方が自然である。○言はむ術為むすべ知らに 「に」は、打消として用いられていた古語で、連用形。いうこともすることもわからずしての意。驚きのために自失した心を具象化したもので、成句である。○声のみを聞きてあり得ねば 話だけを聞いて、そのままには居るに居かねるので。○吾が恋ふる千重の一重も 「吾が恋ふる」は、吾が恋うる心の。「千重の一重」は、千重ある中の一重で、千分の一もの意。○おもひやる情もありやと 「おもひやる」は、嘆きを散らす意。(一九六)に出た。「情もありやと」の「や」は、疑問の助詞で、二句、嘆きを紛らすところもあろうかと思っての意。○吾妹子が止まず出で見し 妻が常に出て見ていた。○軽の市に吾が立ち聞けば 「軽の市」は、軽に設けられていた市で、固有名詞。市は物を交易し売買する所で、地域も定まってい、時も午時から日の入り前までと定まっていて、官の管督の下にあったもの。人々の群がる場所である。「吾が立ち聞けば」は、その中に立って耳を澄ます意で、これは上の「出で見し」に対させたものである。「吾妹子が」以下四句は、死者を偲ぶには、その形見によらなければならないとする心から、軽の市を妻に関係のあるところとし、間接ながら形見と見てのことである。○玉だすき畝火の山に 巻一(二九)に出た。「玉だすき」は、うなぐの意で「畝」にかかる枕詞。「畝火の山」は、軽の市からは近く、目につく山である。○鳴く鳥の声も聞えず 「鳴く鳥の」は、「声」に続けるためのもので、「玉だすき」よりこれまでの三句は、「声」の序詞である。「声も聞えず」は、「声」を鳥より妻に転じたもの。「も」は、次の「人も」と並べたもの。妻の声も聞こえないの意。○玉梓の道行く人も 「玉梓の」は、「道」にかかる枕詞。巻一(七九)に出た。「道行く人も」は、「道」は、軽の路で、市は路を挟んで設けられるので、その市の間の路の意。「行く人も」は、市の路を行く人、すなわち市へ集まってくるところの人もまた。○ひとりだに似てし行かねば 「ひとりだに」は、ただ一人でも。「似てし行かねば」は、「し」は強めで、妻に似たような形をした者は歩いて行かないので。○すべを無み せむ術がなくしてで、これは上の「おもひやる情《こころ》もありやと」に照応させたもので、その願いのかなわないのみか、かえって恋うる心を深めさせられての意をいったもの。○妹が名喚びて袖ぞ振りつる 「妹が名喚びて」は、そこにはいず、遠くにいるものと思って、それを喚ぶ意である。「袖ぞ振りつる」は、袖を振ることは、距離があって声の届かない所にいる者に、心を通わせようとする業《わざ》で、男女間の風習。巻一(二〇)に出た。袖を振ったことであるよと、心をこめての言い方のもの。○或本、名のみを聞きてあり得ねば 「声のみを聞きてあり得ねば」が、ある本には上のようにあるとの注である。「名」では意が通じなくなるので、明らかに誤りである。
【釈】 天《あめ》を飛ぶ雁《かる》の、その名をもっている軽への路は、わが妻の住んでいるなつかしい里であるので、十分に心ゆくまで見たいものだと思っているけれども、京よりそこへ行く街道を、絶えずかよって行ったならば、人目に着くことが多いにより、繁くか(318)よって行ったならば人が事情を知ってしまうべきにより、離れてはいても後にも逢おうと、深くも思い憑《たの》んで、磐垣淵の水の籠もっているそれの、心の中でだけ恋い恋いしているのに、空を移ってゆく日の暮れるがように余儀なくも、照る月の雲に隠れるがように思いがけなくも、われに靡いて共寝をしたところの妻は死んで行ってしまったと、妻の里よりの使が来て知らせていうので、その話を聞いて、(その話だけを聞いて)いおうようも、なすべきこともわからずに、話に聞いただけでは居るにも居かねるので、わが恋しい心の千分の一だけでも紛れる心もあろうかと思って、わが妻が常に出て行って見ていた軽の市に、われは立ちまじって耳を澄ましていたが、近く見る畝火山に鳴く鳥の声の、その妻の声も聞こえてはこず、市の路を歩いて行く人もまた、一人だけでも妻に似たような形をしては行かないので、紛れようとしたそれも詮がなくて、遠くにいるであろう妻の名を喚《よ》んで、心通えとわが袖を振ったことであるよ。
【評】 同じく挽歌ではあるが、この歌は、上の尊貴なる皇族の方々に対してのものとは趣を異にしているものである。上の歌は、御薨去になった神霊に対し、それを慰めまつることを目的として、御生前を讃え、御薨去を悲しみ、加えて永久に忘るまじきことを誓う形のものである。しかるにこの歌は、死者その人に対して直接に訴えようとするところは全然なく、いっていることはすべて、死によって惹き起こされた自身の悲しみと、その人に対しての見果てぬ夢よりくる憧れのみである。自身のことのみで終始している。この心も死者に対しての慰めとはなりうるもので、その心をもってのものとは思われるが、いちめん、わが心やり、わが慰めという心の濃厚なものであることは否み難いものである。すなわち作歌態度の上に著しい相違がある。思うに尊貴の御方に対しての場合は、儀礼という意が大きく、また事の性質上、伝統を守らなければならないところが多く、要するに実用性の範囲のものであったろう。妻という私的な関係の者に対しての場合は、同じく上の心を離れることはで(319)きなかったにもせよ、その程度に著しい差が許されて、いきおい個人的なものとなり得たのであろう。個人的になりうるということは、言いかえると文芸性が許されるということである。この挽歌の、上の挽歌と異なるところは、実用性より文芸性に移っているものだということである。これは時代のしからしめたことと思われるが、むしろ人麿の歌才のさせたことと思われる。この歌は、一句一文であって、切れ目をもっていない。しかし事としては、三つの事柄を連ねていて、その上では三段より成っているといえる。
 第一段は、起首から「隠《こも》りのみ恋ひつつあるに」までで、当時の風習に従って、夫婦関係を秘密にし、人に知られまいとするために、おのずから憧れ心をもたされる状態であったことを叙したものである。初めの事を叔した部分は二句ずつで調子を取り、終りの憧れ心を叙した部分は四句ずつの調子として、感情の高調をあらわしている。起首の「天飛ぶや軽の路は」の「路」は、意味としては「里」であると『新考』が注意しているが、気分としては、「止まず行かば」「まねく行かば」が主となっているところから、その関係上、意識して「路」に変えたもので、部分的にも、いかに細心の用意をもっていたかを示しているものである。
 第二段は、「渡る日の」以下、「おもひやる情もありやと」までで、妻の死を知ること、悲しみを紛らす方法として、その死を直接に眼にしたい心を起こし、その方法のないところから、妻の形見となるものなりを見ようとする心である。比較的複雑した心理を、単純な形において叙した一段である。しかし死の知らせを受けた部分は、「渡る日の暮れゆくが如、照る月の雲隠る如」と、妻の死の譬喩としては荘重にすぎるものを、しかも対句として用いているが、これは妻の死の余儀なさ、思いがけなさをあらわすとともに、それに対する感傷を暗示しようがためで、使の言葉と聞く心とを一つにしたものと解される。また、「沖つ藻の」「黄葉の」「玉梓の」「梓弓」と、一語ごとに枕詞を添えて語感を重くしているのは、一に感傷の心よりのことであ(320)る。転じて、「声《おと》のみを聞きてあり得ねば」より、「おもひやる情もありやと」までの心理は、語《ことば》は少ないが心は複雑なものである。この部分は他と比較すると粘り強い言い方をしているものであるが、この転回は、一首の上で重大なもので、これまた適当な方法と思われる。この第二段を貫いている心は、第一段と同じく憧れの心で、第一段のそれを合理的に、また漸層的に高めたものである。
 第三段は、「吾妹子が止まず出で見し」以下で、妻の死を確認せざるを得ない状態におかれて、憧れの心の極度に昂揚したことを一段としたものである。第二段で注意されることは、人麿が軽の市へ立ったことをいっている第二段より第三段への移り目が、他の部分に較べると甚しく飛躍的に感じられることである。この飛躍は作意からいえば妥当のものと思われる。それはいったがように、当時の風習として、死者を偲ぶには形見の物によらなければならない。しかるにこの妻は、形見と目すべき何物も遺してはいず、しいて求めれば、「止まず出で見し軽の市」があるという状態だったのである。それは間接な、形見とも言い難いものであるが、「吾が恋ふる千|重《へ》の一重もおもひやる情《こころ》もありや」と物色した果てに思い得たものとすれば、心理的には妥当性のあるものといえる。その心理的妥当性がこの飛躍をさせているのである。飛躍はこれだけにとどまっていず、さらに大きなものがある。それは「軽の市に吾が立ち聞けば」という人麿は、「玉だすき畝火の山に、鳴く鳥の声も聞えず」といって、一方ではその死を知っている妻の声を、市の群集の中において聞き取ろうとし、その聞こえないことを嘆いているのであるが、これはきわめて大きい飛躍といわなければならない。
これは一見突飛なる飛躍のごとく見えるが、ここにも妥当性はある。それはすでに軽の市を妻の形見として見ている人麿には、すべての形見が示すと同じく、その市に、何らかの形において妻の面影がとどまっていると想像されたのである。その想像したものは妻の声だったのである。しかもその声は、「玉だすき畝火の山に鳴く鳥の」という序詞を用いて、その微《かす》かさを暗示している程度の声なのである。この心理は不自然なものとはいえない。まして軽の市は、妻の死を聞かない前と異ならない状態を示していて、それが感覚に映じているのであるから、それに支持されて、この心理は自然なものともなるのである。ここは大きな飛躍をもっているがごとくで、じつは合理的な、妥当なものといえるのである。結末の、「すべを無み、妹が名喚びて袖ぞ振りつる」は、形見も甲斐なき物とされ、在るがままの現実に引戻され、その人麿が、更に遠い世界へ向かってつなぐ悲しい憧れであって、ここに時代とともにもつ人麿の面目がある。
 以上観てきたことは、技巧上の用意の細心さで、その技巧は事実に即したものである。しかるにこの事実を貫いているものは人麿の憧れの心で、それが主となって、一句一文、三段の形を取って層々高まっているもので、事実はその具象化のためのもの、細心な技巧はその徹底のためのものなのである。事実をとおしての憧れという、質としては異なっているその二つのものが、渾然と一体となっているのは、一に人麿の手腕で、そこに人麿の秘密がある。この事はこの歌に限ったものではないが、それを自由に安易に現わしている点で、特別なものである。
 
(321)     短歌二首
 
208 秋山《あきやま》の 黄葉《もみち》を茂《しげ》み 迷《まど》ひぬる 妹《いも》を求《もと》めむ 山道《やまぢ》知《し》らずも【一に云ふ、路知らずして】
    秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎將求 山道不知母【一云、路不知而】
 
【語釈】 ○秋山の黄葉を茂み 「茂み」は、茂きによりて。秋の山の黄葉が茂くあるによってで、「山」は妻の葬られた所としてのもの。ここに妻の死んだ季節が現われてゐる。○迷ひぬる 妻が秋山に葬られたのを、自身黄葉を見に入ったものとし、その帰らないのを、道を迷っているためとしてのもの。○妹を求めむ山道知らずも 「求めむ」は、捜し出そう、の意。連体形。「も」は、詠歎。さうした状態の妻を捜し出そうとするその山の道を我も知らないことよの意。○一に云ふ、路知らずして 道を知らなくしてと言いさした形にしたものである。本行の、嘆きをもって強く言いきったものの方が、上と調和する。
【釈】 秋山の黄葉が茂くあるによって、道を迷って帰れずにいる妻を捜し出そうにも、その山の道の我に知られないことよ。
【評】 死んだ妻に対する憧れの心を詠んだものである。当時墓は山地を選ぶのが普通であったから、人麿の妻も折からの秋山に葬られたものと見える。歌はその秋山を望んでのものである。心としては長歌の結末の、「妹が名喚びて袖ぞ振りつる」を延長させたもので、軽の市に失望した心を、転じてその墓所のある山につないだのである。当時の信仰として、死者は幽《かく》り身とはなるが、異なった状態において依然存在しているものと思ったので、山に葬られたのを、自身の心をもって山に入ったものとし、また帰ろうとすればそれもできると信じたのである。この歌はそれが根本となっているのである。「黄葉を茂み迷《まと》ひぬる」といっているのは、時は秋で、折から黄葉が美しい時だったので、人麿の美に対する感覚と、妹を思う心とが一つになって、その帰らないことの理由を案出したのである。この憧れは、人麿には特に強かったもので、これはその一つの現われである。
 
209 黄葉《もみちば》の 散《ち》りゆくなべに 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》を見《み》れば あひし日《ひ》思《おも》ほゆ
    黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
 
【語釈】 ○黄葉の散りゆくなべに 「なべに」は、とともにの意で、黄葉の散ってゆくのを見ているその折からにという意。○玉梓の使を見れば 「玉梓の使」は、長歌に出ているもの。訃報を伝えてきた使を見るとの意で、「見」が黄葉と両方につながっている。○あひし日思ほゆ 「あひし(322)日」は、旧訓。妻と相逢った日で、夫婦間にあっては意味の広い、漠然とした語であるが、上の「黄葉の散りゆく」との関係で、少なくとも去年の今頃ということは明らかで、またその時はきわめて印象的な、忘れられない時ということも暗示しているので、はじめて相逢った日と解される。今、妻の死に遭って、その関係の全体を思いかえしたのである。「思ほゆ」は、思われる。
【釈】 黄葉の散ってゆくのを見ているその折からに、妻の訃報を伝えてきた使を見ると、はじめて妻と相逢った、今日に似た日のことが思われる。
【評】 これは、長歌にある心に立ち戻っていう形のものであるが、訃報を聞いて驚き呆れ、軽の市へ立って憧れ、昂奮した心が鎮まっての後、改めて事の全体を思い返した心で、その意味で心の進展をもったものである。すなわちはじめて訃報を聞いた時には思い及べずにいたことを、思い返すことによってはじめて捉え、「黄葉の散りゆく」という折からの自然の風景を縁として妻とはじめて相逢った日と、その死の知らせとをつなぎ合わせ、妻との関係の全体をしみじみと思ったのである。自然と人事を対照的に扱った形とはなっているが、そこには観念的のものはいささかもなく、ただ事実に即していっているものなので、自然と人事との交錯がきわめて味わいの深いものとなっている。すぐれた反歌である。また長歌との関係において見れば、人麿の限りなく昂奮するとともに、深い沈静をもっていた、その両面を同時に示しているもので、その意味での味わいもある。
 
210 うつせみと 思《おも》ひし時《とき》に【一に云ふ、うつそみと思ひし】 取《と》り持《も》ちて 吾《わ》が二人《ふたり》見《み》し 走出《はしりで》の 堤《つつみ》に立《た》てる 槻《つき》の木《き》の こちごちの枝《え》の 春《はる》の葉《は》の 茂《しげ》きが如《ごと》く 思《おも》へりし 妹《いも》にはあれど たのめりし 児《こ》らにはあれど 世《よ》の中《なか》を 背《そむ》きし得《え》ねば かぎろひの 燃《も》ゆる荒野《あらの》に 白《しろ》たへの 天領巾隠《あまひれがく》り 鳥《とり》じもの 朝立《あさた》ちいまして 入日《いりひ》なす 隠《かく》りにしかば 吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》に置《お》ける みどり児《こ》の 乞《こ》ひ泣《な》くごとに 取《と》り与《あた》ふ 物《もの》しなければ 男《をとこ》じもの 販《わき》ばさみ持《も》ち 吾妹子《わぎもこ》と 二人《ふたり》吾《わ》が宿《ね》し 枕《まくら》づく 嬬屋《つまや》の内《うち》に 昼《ひる》はも うらさび暮《く》らし 夜《よる》はも 息《いき》づき明《あ》かし 嘆《なげ》けども せむすべ知《し》らに 恋《こ》ふれども 相《あ》ふよしを無《な》み 大鳥《おほとり》の 羽易《はかひ》の山《やま》に 吾《わ》が恋《こ》ふる 妹《いも》はいますと 人《ひと》の言《い》へば 石根《いはね》さくみて なづみ来《こ》し よけくもぞなき(323) うつせみと 思《おも》ひし妹《いも》が 玉《たま》かぎる ほのかにだにも 見《み》えぬ思《おも》へば
    打蝉等 念之時尓【一云、宇都曾臣等念之】 取持而 吾二人見之 ※[走+多]出之 堤尓立有 槻木之 己知碁知乃枝之 春葉之 茂之如久 念有之 妹者雖有 憑有之 兒等尓者雖有 世間乎 背之不得者 蜻火之 燎流荒野尓 白妙之 天領巾隱 鳥自物 朝立伊麻之弖 入日成 隱去之鹿齒 吾妹子之 形見尓置有 若兒乃 乞泣毎 取与 物之無者 烏徳自物 腋扶持 吾妹子与 二人吾宿之 枕付 嬬屋之内尓 晝羽裳 浦不樂晩之 夜者裳 氣衝明之 嘆友 世武爲便不知尓 戀友 相因乎無見 大鳥乃 羽貝乃山尓 吾戀流 妹者伊座等 人云者 石根左久見手 名積來之 吉雲曾無寸 打蝉等 念之妹之 珠蜻 髣髴谷裳 不見思者
 
【語釈】 ○うつせみと思ひし時に 「うつせみ」は、巻一(一三)(二四)、巻二(一九六)に出た。現し身の転で、現し世にある身。これは幽《かく》り世に幽《かく》り身として存在するのに対する語《ことば》。「思ひし時」は、わが思っていた時で、これは同じ人に幽り身ということも思えるところから添えていったもの。二句、妻を現し身と思っていた時にで、こうした言い方をしているのは、この歌の結末に幽り身のことをいっているので、それに対させるためである。○一に云ふ、うつそみと思ひし これは、「打蝉」が「宇都曾臣《うつそみ》」と仮名書きになってい、また一音が異なっているだけの相違である。○取り持ちて吾が二人見し 「取り持ちて」は、手に取り持ってで、そうしたのは下の「槻の木のこちごちの枝」である。「吾が二人」は、我ら二人、すなわち夫妻の意。○走出の堤に立てる 「走出」は、門《かど》に近い所で、ちょっと走り出れば見える所をいった古語。「堤」は、池を繞《めく》らしている土手。「立てる」は、立ちてある。○槻の木のこちごちの枝の 「槻の木」は、堤に植えてある木。当時は池の堤に種々の木を植えて、その池の堰《いせき》の用に充てることが定めとなっていた。これもそれである。「こちごち」は、『講義』が考証して明らかにしている。要は、当時「こち」という語はあったが、「そち」という語は見えず、「あ」「あち」という語は発生しなかった。方向を示す語としてはただ「こち」があったのみだから、現在の「あちら、こちら」ということをあらわすに「こち」を重ねて「こちごち」といったのだというのである。「こちごちの枝」は、あちらこちらの枝であるが、多くの枝という意をいったものと取れる。○春の葉の茂きが如く 春の若葉の茂きがようにで、槻の若葉は、にわかに茂ってくる感のするものである。起首よりこれまでは、下の「思へりし」「たのめりし」の譬喩である。しかしこれは、実境を思い出の形において捉えたものなので、叙事と異ならぬ趣をもったものである。○思へりし妹にはあれど 「思へりし」の「り」は完了、「し」は過去の助動詞。二句、思っていた妻ではあるけれども。○たのめりし児らにはあれど 「たのめりし」の「り」と「し」とは上と同じ。たのんでいた。「児ら」は、「児」は妻を愛しての称、「ら」は音調のために添えたもの。二句、上二句の繰り返しで、心を強めるためのもの。○世の中を背きし得ねば 「世の中を」は、世間の理法をで、生きている者は死ぬという掟を。「背きし得ねば」は、「し」は強め。背くことはできないので。二句、妻の死をいった(324)もので、そのことを観念的に受け入れた形のもの。○かぎろひの燃ゆる荒野に 「かぎろひ」は、陽炎《かげろう》。日光、火気の大気に映ってゆらめく状態の称。「荒野」は、人跡の稀れな野。「に」は、に向かって。二句、陽炎の立っている人跡の稀れな野にで、妻の葬られる場所をいったもの。この「かぎろひ」は、四季を通じて夜明けに見られるものであることが、下の続きで知られる。○白たへの天領巾隠り 「白たへの」は、白い布であるが、ここは、白の意のもの。「天領巾」は、「天」は、「領巾」に修飾として添えた語と取れる。「領巾」は、上代の婦人が飾りとして領《えり》、頂《うなじ》、肩にかけた巾である。その幅、丈《たけ》は、皇大神宮儀式帳に、「生絹御比礼八端【須蘇長各五尺弘二幅】」、また豊受大神宮儀式帳には、「生※[糸+施の旁]比礼四具【長各二尺五寸広随幅】」とある。その大体が想像される。『講義』は、現在朝鮮人は、長さ六尺ばかり、幅一幅の布巾を常に携えていて、手拭いのごとくにもし、また頭を包みなどもする。わが古の領巾もそうした物であったろうといっている。「隠り」は、上代の四段活用のもので、連用形。身を隠しての意。二句、死者としての妻の、葬られる際の装おいを叙したもので、「白たへの」は、葬式の際の衣服は白色と定まっていたので、その意のもの。「天」は、死者は尊ぶのを礼としてい、また尊き死者は幽《かく》り世として天へ昇るとしていたので、ここも広く尊む意をもって、死者の装いとしての領巾に添えたものと思われる。「領巾」は、死者が女であるがゆえに、礼装の一つとしてもつ領巾を、その礼装の代表としていったものと思われる。「隠り」は、誇張を伴わしめた語と取れる。二句、白い布の、尊い領巾をもって、その身を包んでの意。○鳥じもの朝立ちいまして 「鳥じもの」は、巻一(五〇)の「鴨じもの」と同じで、「鳥」に「じ」を添えた形容詞の語幹に、「もの」を続けて熟語としたもの。鳥というもののごとくの意で、鳥が朝早く塒《ねぐら》を立つ意での譬喩。「朝立ちいまして」は、「います」は、行くの敬語。朝、家を立って行かれてで、朝、柩の野に送られるのを、尊む意から、妻自身の意志のごとくにいったもの。○入日なす隠りにしかば 「入日なす」は、入日のごとくで、意味で「隠り」にかかる枕詞。「隠りにしかば」は、「に」は、完了。隠れてしまったのでで、葬ったことを、尊む意から妻自身の意としていったもの。○吾妹子が形見に置ける 妻がその形見として残して行ったところの。○みどり児の乞ひ泣くごとに 「みどり児」は、原文「若児」「わかきこ」とも訓める。いずれも例があるからである。「みどり児」に従う。幼い児の意である。「乞ひ泣くごとに」は、物を乞うて泣くごとにで、物をほしがってたえず泣く意をいったもの。○取り与ふ物しなければ 「取り与ふ」の「与ふ」は、古くは四段活用であったと『講義』は注意している。下二段活用として「与ふる」と訓む説もある。「し」は、強め。手に取って与える物がないので。以上四句の言い方は強いもので、「乞ひ泣く」物は若き児に抜ききしのならぬ物、「物しなければ」は母でなくてはないところの乳と取れる。○男じもの腋ばさみ持ち 原文「烏徳」は諸本「鳥穂」で、諸注訓み難くし、私案を試みているが、通じ難いものばかりである。『考』は「烏徳」の誤りとし、「をとこじもの」と訓んでいる。巻三(四八一)に、「男じもの負ひみ抱《うだ》きみ」という似た例がある。またこの歌のある本の伝えは、ここが「男じもの」となっている。『考』の誤字説に従うこととする。「男じもの」は、上の「鳥じもの」と同じく、男とあるものがの意。「腋ばさみ持ち」は、抱きかかえての意。○吾妹子と二人吾が宿し 妻と二人で共寐をした。○枕づく嬬屋の内に 「枕づく」は、夫妻の枕を並べ付けるで、意味で嬬屋にかかる枕詞。「嬬屋」は、閨。○昼はもうらさび暮らし 「昼はも」は、「も」は意の軽いもので、昼はというとほぼ同じである。「うらさび」は、「うら」は心、「さび」はさびしき状態をいう動詞で、心さびしく。「暮らし」は、日を暮らし。○夜はも息づき明かし 「夜はも」は、「昼はも」に対させたもの。「息づき」は、ため息をつくで、嘆きの状態。「明かし」は、眠らずに夜を明かして、四句、幼児を扱いかねて、昼夜悩んでいる状態をいったもの。○嘆けどもせむすべ知らに 嘆くけれども、どうすべき方法も知られずして。○恋ふれども相ふよしを無み 妻を恋うけれども、逢うべき方法がないによって。○大鳥の羽易の山に(325) 「大鳥の」は、「羽」とつづいて、「羽易」の「羽」の枕詞。「羽易の山」は、巻十(一八二七)に、「春日《かすが》なる羽買《はかひ》の山ゆ」とあるので、奈良市春日にあった山と知られる。当時の春日は今よりは広い地域であったが、この山の名は伝わっておらず、したがっていずれともわからない。○吾が恋ふる妹はいますと 自分の恋っているところの妻がいられるとで、「います」は、敬語。○人の言へば石根さくみて 「人の言へば」は、他人が教えていうので。「大鳥の」以下五句は、死んだので葬った妻を、羽易の山で見かけたといって人が教えた意である。「石根さくみて」は、「石根」は岩で、「根」は地に固定するものとして添えた語。「さくみて」の「さく」は裂くで、「さくむ」とマ行に活用した語。裂き分ける意で、岩を踏み分けて。○なづみ来しよけくもぞなき 「なづみ来し」は、「なづみ」は行き悩む、難儀する意。「来し」は、「来《こ》」は未然形で、それに「し」の続くのは古語の形。「よけくもぞなき」は、「よけく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、好いことの意。「なき」は、「ぞ」の結び。二句、なずんできたが、よいこともないことよの意。○うつせみと思ひし妹が 現し身でいると思っていた妻がで、人に教えられたままに信じていたことをいったもの。教える人も尋常の事としてい、人麿もまた尋常の事としていたことが注意される。○玉かぎるほのかにだにも 「玉かぎる」は、上の(二〇七)と同じく、玉のかがやく意。ここは意味でほのかにかかる枕詞。「ほのかにだにも」は、ほのかな程度にでも。○見えぬ思へば 妻の姿の見えないことを思えばで、上の「よけくもぞなき」は、意味の上からいえばこれに続くべきものを、倒句としたのである。
【釈】 わが妻を現し身と思っていた時に、手に取り持って我ら二人が見た、走出《はしりで》の池の堤の上に立っているところの槻《つき》の木の、そちこちの多くの枝の、春の若葉の茂きがように、多くも思っていた妻ではあったが、多くも思い憑《たの》んでいた愛する者ではあったが、人の世の理法というものはけっして背くことができないので、その妻は陽炎の燃えている荒野へ、死者の着る白色の、尊い領巾に身を包んで、鳥というもののごとくに朝に家を立たれて、入日のごとくに隠れていってしまったので、わが妻がその形見として残して行った幼児の、物を乞うて泣くごとに、取って与える物もないので、男とある者がその児を抱きかかえて、わが妻と二人で共寐をした、枕の並びついている閨の内で、昼は心さびしく日を暮らし、夜はため息をついて夜を明かし、嘆くけれどもするべき方法も知られず、妻を恋うけれども逢うべき方法もないによって、羽易の山に、わが恋っている妻がいられたのを見たと人が教えていうので、岩を踏みわけて、難儀して歩いて来たが、よいことでもないことよ。現し身でいると思ってきた妻の、ほのかな程度にでも見ることのできないのを思うと。
【評】 この歌は、内容が特殊のものであるから、まず部分的に見てゆくことにする。この歌もほとんど一句一文であるが、事としては四つの部分をまとめたものである。第一は妻の生時、第二は死、第三は死後の当惑と悲しみ、第四は死んだ妻の姿をあらわしていることを聞き、見に行って失望したことで、全体はやや長い期間にわたってのことであるが、それを抒情を旨としつつ、叙事的に構成したものである。抒情の頂点をなしているのは、第四の失望である。
 第一段は、起首から、「たのめりし児らにはあれど」までである。「うつせみと思ひし時」以下「春の葉の」までの九句は、それに続く「茂きが如く」をいうための譬喩である。これは譬喩としては実に長いもので、その意味で特殊なものであるが、(326)この長さは他の意味も含んでいるからである。その一つは、「うつせみと思ひし時」というのは、いったがように幽《かく》り身に対させての語《ことば》で、今の場合も、後に幽り身を再び現し世にあらわすということを照応させていっているものである。その二つは、「槻の木」である。これは「春の葉の茂きが如く」をいうためのものであるが、その在り場所として「走出《はしりで》の堤に立てる」といっているので、人麿の家の門前のものと知られる。そうした木に対して「春の葉の茂き」ということは、冬木の槻の小枝がちにさみしいのが、春の若葉でにわかに茂ってくるという時の推移を思わせる語で、またそれに対して「吾が二人見し」というのは、人麿がその家に久しく妻と同棲していたことを思わせる語でもある。実際に即してものをいうのは当時の風で、人麿もそれをしていた人である。譬喩として異常に長い語《ことば》を用いているのは、これらのことをもそれに含めていおうとする要求よりのことで、必要を感じてのものと思われる。なおその三つには、「春の葉の茂きが如く」という譬喩は、生時の情愛をいうためのものであって、この生時は、今は死後との対照においていっているものである関係上、その捉えた生時は、死の前久しからざる時ではなかったかと思われる。人麿の長歌は、そのどこかに、作歌の季節に触れた語《ことば》を用いていることが多い。実際に即するということは、おのずからそうなることでもあるが、このことは意識しての場合が多いようである。今も、死の久しからぬ前ということを意識してのものではないかと思われる。このことは妻を葬送する野を、「かぎろひの燃ゆる荒野」といっているのにも関係する。「かぎろひ」は今は夜明けの景で、春としての景ではないが、「春の葉」との関係から見ると、春のものとしていっているのではないかと思われる。それこれで「春の葉」は、単に文芸的の意味だけのものではなく、妻の死んだ季節をもあらわしているものと思われるのである。
 第二段は、「世の中を背きし得ねば」以下、「入日なす隱りにしかば」までである。この「世の中を」の二句は、仏説によったがごとく思われるものであるが、心としてはそれは全くないものであることは、後の続きで明らかである。この二句が際立って目だつものとなっているのは、一首の眼目が生死であり、死後の消息であるから、それにふさわしく強い響きをもたせようがためのものと取れる。次に、「かぎろひの燃ゆる荒野に」は、「隠りにしかば」に続くもので、これによると墓地は荒野であったこととなる。その荒野は「鳥じもの朝立ち」をして、「入日なす隠り」といわれる所で、「鳥じもの」「入日なす」はいずれも枕詞であるが、譬喩の意をもったものであるから、実際にも絡んだものとすると、そこは、人麿の住んでいた所からはかなり遠い地と思われる。後に、妻の幽り身をあらわしたといわれる所は、春日の羽易の山である。また、短歌によると、墓地は「引手《ひきて》の山」という山である。それだと「荒野」は文芸的にいったもので、実際と関係をつけると、山地に続く荒野ということでなければならない。これは抒情を旨としたために、事の精しさは念としなかったことの思われるものである。
 第三段は、「吾妹子が形見に置ける」より、「恋ふれども相ふよしを無み」までである。この一段は、はじめて悲歎を言い出してきたもので、しかも実際に即して叙しているものである。由来死者の「形見」は、その人を偲ぶ唯一のよすがとなるもので、そこに悲しみがあるとともに慰めもあるものである。しか(327)るに人麿の残された形見は、ただもてあまし、悩まされるだけの若児で、ない乳を乞うて泣く、如何《いかん》ともしようのないものだったのである。この悩みは、妻を恋う刺激とならざるを得ないものである。「嘆けどもせむすべ知らに、恋ふれども相ふよしを無み」は、対句の形にはなっているが、それはその心理の推移を暗示しているもので、その間の飛躍は含蓄のあるものである。同時にこの「恋ふれども相ふよしを無み」は、次の一段の背景をもなすのである。
 第四段は、「大鳥の羽易の山に」以下である。この一段は、今日より思うときわめて異常なことである。しかし歌の上で見ると、一首全体のうち最も平坦に、ほとんど昂奮を帯びず、尋常の事として叙している部分である。「大鳥の羽易の山に、吾が恋ふる妹はいますと、人の言へば」と、言ふ人はさながら世間話のように告げるのである。それを聞く人麿も、ただちに「石根《いはね》さくみて」と、何の躊躇するところもなく出かけるのである。これは死者は単に幽《かく》り身となっただけで、依然として存在し、時あって地上に現われきたるものであるということを、疑いを挟む余地のない、平凡なこととする信念が、言う者にも聞く者にも共通になければ起こり得ないことである。この死生観は、上代より伝統しきたったもので、庶民の間には根強く保たれていたものとみえる。この死生観に類した歌が、集中に他に二、三あるが、いずれも作者不明の、民謡に近いものの中にあるにすぎず、上流の知識階級の歌の中にはない。それらも、この歌ほど直接に、明らかにいったものはなく、これはその顎《たぐい》の中の代表的なものである。この信念はしだいに仏教的のものと変わり、後には仏教と混じた形において伝わるものとなったと思われる。ここでは、人麿がそうした信念をもっていたということにとどめておく。次に、こういうことを人麿に教えた「人」は、人麿の妻とも親しい間でなくてはならない。これは同棲をしている嫡妻ということを裏書しているものと取れる。次に、妻の現われたという春日の羽易の山である。そこは幽《かく》り身の者が姿をあらわすに自然なところということが、告げる「人」にも、聞く人麿にも思われていた所かと取れる。そこに何らかの理由があったに相違ないが、知りかねる。単に墓所に近い山だとすると、墓所はこれに続く短歌によって「引手《ひきて》の山」ということが明らかであるから、そこでなくてはならないことになる。思うに羽易の山は、何らかの特殊性があって、死者の現われる山と信じられていたのであろう。その理由は今は辿りようがない。起首、生前のことをいうにも「うつせみと思ひし時」といって幽《かく》り身の存在を信じ、現に今も「うつせみと思ひし妹」と信じ、逢いに来た人麿も、結局は、「なづみ来しよけくもぞなき」と、失望に終ってしまった。そしてこれが妻に対する最後の直接交渉となったのである。
 以上を総括していうと、前の軽の妻に対した場合には、人麿の心は憧れに終っている。人目を憚るために逢う瀬もまれであった妻の、急死のような状態での死に逢うと、愛着は見果てぬ夢となり、強い憧れとなった。今はそれとは異なって、同棲していた嫡妻の、乳呑児を残しての死に逢うと、悲歎よりもまず苦悩に打ち負かされ、苦悩を通しての悲歎となり、それに刺激されるところもあって、たまたま死んだ妻を羽易の山で見たと告げる人があると、同じ信念を抱いているところから、躊躇なくその山へ出かけて行ったが、事は失望に終って、結局諦めざ(328)るを得ない心となったという、軽の妻に対したとは正反対な、諦めを強いられたのである。憧れと諦めという、同じく死者に対してのことであるが、恋の初めと終りのごとき心的状態を味わわされたのである。軽の妻に対する心は明るく、この妻に対する心は暗いものである。
 作歌態度からいうと、この歌は性質は挽歌であるが、死者の霊を慰めようとする心は全然もっていず、ただ自身の心やりのものである。その点は軽の妻に対するよりもさらに徹底したものである。その個人的な心をほしいままにしている点は、純粋な文芸的なものである。人麿は生活価値の一半を夫婦生活に認めていたように思われる人である。その人麿ではあるが、死という大事に遭った場合にも、妻に対して儀礼的な言は一言も発していないところに、その人の思われるところがある。
 
     短歌二首
 
211 去年《こぞ》見《み》てし 秋《あき》の月夜《つくよ》は 照《て》らせども 相見《あひみ》し妹《いも》は いや年《とし》さかる
    去年見而之 秋乃月夜者 雖照 相見之妹者 弥年放
 
【語釈】 ○去年見てし秋の月夜は照らせども 去年見た秋の月は照っているけれどもで、「去年」というのは、妻の死後、はじめて逢った秋から顧みていったもので、死んだのは春と思われるから、その年の秋である。○相見し妹は ともにその月を見た妻は。○いや年さかる ますます年が遠ざかって行く。
【釈】 去年見た秋の月は、今年も同じように照っているけれども、この月をともに見た妻は故人となって、しかもその年は増すます遠ざかって行く。
【評】 秋の澄んだ月に対していると、昔を思わせられるのは、古も今も渝《かわ》らない人情である。人麿の月に対して思わせられた昔は、死んだ妻であって、しかもその妻とともに見た同じ月だったのである。いっぽう自然の年々に同じ状態であるのを見ると、その悠久を思わせられ、それに比して人間の無常を思わせられるのも、同じく古も今も渝らない人情である。悠久なる自然と無常なる人間とを対比させて、人間を悲しむという心は、後世では歌の上の常識となったものであるが、この当時はまだ新鮮味のあったものと思われる。命長い巌、あるいは松などを見て、命をそれにあやからせようとする心の歌は、これ以前にもあったので、それを一歩進めるとこうした心となるのであるが、この歌はその進め方の際やかなるものである。一首の調べが高く強く、その思い入れの深さの思われるものである。長歌との関係からいうと、妻の死の直後、苦悩と悲歌のために昂奮(329)し、人のいうがままに羽易の山に妻に逢いに行って失望をした頃の心持とは違い、「世間」を深く心に沁《し》ましめての上の感慨である。そこに心理の推移がある。また時としても、春より秋への推移があって、長歌と対照をなしているものである。
 
212 衾道《ふすまぢ》を 引手《ひきて》の山《やま》に 妹《いも》を置《お》きて 山路《やまぢ》を行《ゆ》けば 生《い》けりともなし
    衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無
 
【語釈】 ○衾道を 「引手の山」に続く関係から見て、その枕詞とはみえるが、意味は不明である。「衾道」を、衾という地へ行く道との解があるが、そうした地名は見えない。また、襖《ふすま》の乳《ち》の意で、「引き」へかかる意だともいうが、当時襖障子があり、それに乳《ち》があって開閉に用いたということも想像し難いので、これまた不明である。要するにわからないものである。○引手の山に 『講義』は、『大和志』により、その山辺郡に、「在2中村東1呼曰2竜王1高聳人以為v望」といい、この竜王山は天理市萱生と藤井の間にある。これが古の引手の山かどうかを疑っている。下の続きで、引手の山が墓地であったとわかる。長歌では「荒野」といっているが、それは広い意味でいったのである。○妹を置きて 妻を残してで、葬って立ち去った時の心である。○山路を行けば生けりともなし 「山路を行けば」は、家に帰ろうとしてその山の路を行けばの意。「生けりともなし」の、「り」は完了の助動詞の終止形、「と」は助詞。生きているという気もしないの意。
【釈】 引手の山に、妻を残して置いて、家へ帰ろうとしてその山の路を行くと、我は生きているという気もしない。
【評】 これは妻を墓地に葬って、帰る途中の心持である。事としてはやや以前に属するものであるが、今、秋の月に対してしみじみと妻のことを思うと、最も強く思われることはその時のことで、それがまた妻の最後のことともなっているのである。前の歌に続けて、これをいっているのは、心理的に見て不自然ではない。過去の思い出という形にせず、眼前のことのように詠んでいるのは、感情の強さがさせることで、そこに人麿の手法があるものとみられる。
 
     或本の歌に曰はく
 
213 うつそみと 思《おも》ひし時《とき》に 携《たづさ》はり 吾《わ》が二人《ふたり》見《み》し 出立《いでたち》の 百枝《ももえ》槻《つき》の木《き》 こちごちに 枝《えだ》させる如《ごと》 春《はる》の葉《は》の 茂《しげ》きが如《ごと》く 思《おも》へりし 妹《いも》にはあれど たのめりし 妹《いも》にはあれど 世《よ》の中《なか》を 背《そむ》きし得《え》ねば かぎろひの 燃《も》ゆる荒野《あらの》に 白《しろ》たへの 天領巾隠《あまひれがく》り 鳥《とり》じもの (330)朝立《あさた》ちい行《ゆ》きて 入日《いりひ》なす 隠《かく》りにしかば 吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》に置《お》ける 縁児《みどりご》の 乞《こ》ひ泣《な》くごとに 取《と》り委《まか》す 物《もの》しなければ 男《をとこ》じもの 腋《わき》ばさみ持《も》ち 吾妹子《わぎもこ》と 二人《ふたり》吾《わ》が宿《ね》し 枕《まくら》づく 嬬屋《つまや》の内《うち》に 昼《ひる》は うらさび暮《く》らし 夜《よる》は 息《いき》づき明《あ》かし 嘆《なげ》けども せむすべ知《し》らに 恋《こ》ふれども あふよしをなみ 大鳥《おほとり》の 羽易《はかひ》の山《やま》に 汝《な》が恋《こ》ふる 妹《いも》はいますと 人《ひと》のいへば 石根《いはね》さくみて なづみ来《こ》し よけくもぞなき うつそみと 思《おも》ひし妹《いも》が 灰《はひ》にてませば
    字都曾臣等 念之時 携手 吾二見之 出立 百兄槻木 虚知期知尓 枝刺有如 春葉 茂如 念有之 妹庭雖在 恃有之 妹庭雖有 世中 背不得者 香切火之 燎流荒野尓 白栲 天領巾隱 鳥自物 朝立伊行而 入日成 隱西加婆 吾妹子之 形見尓置有 緑兒之 乞哭別 取委 物之無者 男自物 腋挟持 吾妹子与 二吾宿之 枕附 嬬屋内尓 日者 浦不怜晩之 夜者 息衝明之 雖嘆 爲便不知 雖戀 相縁無  大鳥 羽易山尓 汝戀 妹座等 人云者 石根割見而 奈積來之 好雲叙無 宇都曾臣 念之妹我 灰而座者
 
【語釈】 前の歌と異なっている部分だけをあげる。○携はり 手と手を携える意で、親しんださま。下の「二人」へ続く。前の歌では「取り持ちて」とあり、「こちごちの枝《え》」に続いた。前の歌の活躍を没して平明としたもの。○出立の百枝槻の木 「出立」は、前の歌の「走出《はしりで》」と意味は同じで、並び行なわれていた語。「百枝槻の木」は、百の枝、すなわち多くの枝をもっている槻の木で、伝来の熟語。槻は枝の多い木である。○枝させる如 枝を張っているごとくで、「百枝」を説明したもの。前の歌では、妻に対しての思いの繁さの譬喩として、「春の葉」だけを捉えていたのを、これは「枝」までをも捉えて、並べていっている。前の歌は感じの方を主として、単純にいっているのを、これは事柄を重んじて、複雑にしたのである。譬喩としては、前の歌の方が効果的である。○取委す物しなければ 「委す」は旧訓で四段活用。『代匠記』は、児に持たせて、その心に任せる意だとしている。下二段活用として「委する」と訓む説もある。○汝が恋ふる 前の歌は「吾が恋ふる」である。今の方は他人の言葉をそのままに用いた形である。すなわち事を主とした言い方にしたもので、前の歌の心を主としたものの方が、全体の上に調和する。○灰にてませば 「灰」は、亡骸《なきがら》を火葬にして、残った灰。「ませば」は、女性に慣用した敬語。上からの続きで、現し身と思ってきた妻は、すでに灰と(331)なっていられるのでの意である。火葬のことの正史に現われているのは、続日本紀、文武四年の条に、「三月己未道昭和尚物化、……火葬於栗原、天下火葬従此而始也」とあるのが初めで、それより四年後の大宝三年十二月には、持統天皇の尊骸をさえ飛鳥岡で火葬し奉るまでとなった。巻三(四二八)「土形娘子《ひぢかたのをとめ》を泊瀬山にて火葬せし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首」、同じく、(四二九)「溺死せし出雲娘子《いづものをとめ》を吉野山に火葬せし時、柿本朝臣人麿の作れる歌二首」があるので、人麿の妻も時代的に見て火葬されたということもありうることである。この「灰にてませば」は、前の歌の「たまかぎるほのかにだにも見えぬ思へば」の三句にあたる部分である。どちらも心は同じで、信じていたことの裏切られ、失望に終わる嘆きをいったものである。幽り世の者となった死者が、現し身であった時と同じ姿をもって再び現われることがあるというのは、前の歌でいったように伝統の信仰であって、人麿の周囲の者の教えたのも、人麿が教えられるがままに行動に移したのも、その信仰に導かれてのことである。「ほのかにだにも見えぬ思へば」は、同じく失望ではあっても、その信仰に繋がりをもち得ているもので、自然なところがある。「灰にてませば」は、その繋がりをもち得ないもので、すでに火葬をしたものであれば、現し身の姿をあらわすという信仰も繋ぎ難いものに思われる。この点から見て、人麿の妻は前の歌にあるように、現し身をあらわす可能性のある葬られ方、すなわち火葬ではない旧来の葬られ方をしたのであって、「灰にてませば」は、火葬が一般化した後、前の歌を伝唱した人によって改作されたのではないかと思われる。
【釈】 略す。
【評】 この「或本の歌」は、いったがように、人麿の前の歌が伝唱されているうちに、伝唱者によって部分的に改められていったものを、何びとかによって記録されたものと思われる。それは「語釈」でいったように、その改まっている部分は、前の歌よりもすべて劣ったものとなっていることが察しられる。劣っているというのは、前の歌では感を主とし、単純にして含蓄のある形となっているが、改まった方は、事を主とし、複雑にして平明なものとしてい、また前の歌では、具象的ではあるが、同時に間接な言い方をして、ある美しさを保たせているものが、改めているものは抽象的な、単に平明を旨としたものとしている意味においてである。これは伝唱された歌のすべてに通じて起こっていることで、この歌もそれに漏れないのである。その甚しいのは結末の「灰にてませば」である。これは一首の頂点をなしている部分で、前の歌のようにあってこそ、はじめて悲歌の情が生きるのであるが、この歌のようだと、浅薄なものと化し、人麿の周囲の者も、またそのいうがままに羽易の山へ出かけて行った人麿も、本来不可能なるべきことを、空想または幻想に駆られて言いもし、行ないもしたこととなってくる。実際を重んじた当時の社会の生活においては、これは極度に個人的な心情である。大体人麿の歌は、当時の庶民の信仰または感情を代弁した趣の濃厚なもので、それが技巧の卓絶したのと相俟つて大を成しているものである。そうした個人的の空想、幻想が、この歌に限って基調をなしているものとは思われない。その意味でも、火葬ということが一般化した雰囲気の中にあって、伝唱者の改めたものと思われる。
 
(332)     短歌三首
 
214 去年《こぞ》見《み》てし 秋《あき》の月夜《つくよ》は 渡《わた》れども 相見《あひみ》し妹《いも》は いや年《とし》離《さか》る
    去年見而之 秋月夜者 雖度 相見之妹者 益年離
 
【語釈】 ○渡れども 空を渡るけれどもで、前の反歌の「照らせども」と異なっている。「照らせども」の方が印象的で、感が深い。時間的にして平明にしているものである。
 
215 衾路《ふすまぢ》を 引出《ひきで》の山《やま》に 妹《いも》を置《お》きて 山路《やまぢ》思《おも》ふに 生《い》けりともなし
    衾路 引出山 妹置 山路念迩 生刀毛無
 
【語釈】 ○山路思ふに 「山路」は、山の意でいっているもの。その山を思うにで、山よりある距離を置いて、墓所を中心として山を思いやる心をいったもの。前の反歌の「山路《やまぢ》を行けば」とは、これだけが異なっているのである。これもまた、前の歌の、墓所を離れた直後の心の方が感が深い。
 
216 家《いへ》に来《き》て 吾《わ》が家《や》を見《み》れば 玉床《たまどこ》の 外《ほか》に向《む》きけり 妹《いも》が木枕《こまくら》
    家來而 吾屋乎見者 玉床之 外向來 妹木枕
 
【語釈】 ○家に来て 家に帰って来ての意で、妻の墓所から帰ったことが、下でわかる。○吾が家を見れば 「吾が」は、親しみの意から添えたもの。その親しみは、妻と同棲した家として感じたものであることは、下の続きでわかる。○玉床の外に向きけり 「玉床」の「玉」は、妻と共寐をした床として、愛《め》でて添えた語。巻十(二〇五〇)、「明日よりは吾が玉床を打払ひ公《きみ》と宿ねずてひとりかも寐む」という用例がある。「外に向きけり」は、下の「木枕」が、平生とは異なった状態になっていることを、具体的にいったものである。上代は、その人の身に付いた物は、その人の魂が宿っているものとして重んじたが、ことに床や枕を重んじて、その人の余所へ行っていない時、また死後も一周年の間は、大切にして手を触れないことにし、粗末にすると、その人に災いが起こると信ずる風習があった。「外に向きけり」ということは、木枕におのずからに異常なことが起こっていたことをいったものと取れる。その異常は、妻の死と関連した不吉な状態を暗示していることと取れる。言葉の上で見ると、床の外へ出かかっているということと思えるが、それ以上はわからない。○妹が木枕 「木枕」は、木で作った枕で、当時の普通のものであったとみえる。
(333)【釈】 墓所から家に帰って来て、妻と同棲したなつかしい家を見ると、共寐をした床から、不吉にも外へ出かかっているよ、妻の木枕は。
【評】 妻を墓所に葬って宿に帰り、今さらのごとく悲しみを新たにして、嬬屋を見、妻の木枕に不吉な状態の現われていることを発見し、その死のまぬかれ難いものであったことを思わせられた心である。信仰心の深い上代の生活から生まれている感である。前の歌は墓所より家に帰るまでの途中の感であるから、二首は時間的に関係させてあって、連作となっている。これは前の長歌の反歌の異伝ではなく、新たに加えられているものである。また、歌そのものからいうと、人麿の歌であるかどうかを疑わせるところのあるものである。人麿の歌は取材の如何にかかわらず、内から盛り上がってくる豊かなものと艶やかなものをもっていて、ある華やかさを帯びてい、それが魅力となっている。この歌にはそうした趣はない。単に取材の上からいえば、こうした挽歌は、当時の生活からいえば得難いものではない。この長歌の伝唱者が、前の反歌との関係において、その連作とすればできるところから、新たにここに加えたものではないかと疑わせるところのある歌である。
 
     吉備《きび》の津《つ》の采女《うねめ》の死《みまか》りし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「吉備の津の采女」は、吉備国の津から貢した采女である。采女のことは巻一(五一)に出た。後宮に仕える身分の低い女官で、天皇の供奉、御饌のことを職とするものである。諸国の郡の少領以上の者の姉妹子女にして、形容の端正なる者を選ばれた。後宮においては、その出身地名をもって呼名《よびな》とされた。大体は国をもってし、時には郡をも添えられ、さらにまた里の名をもってすることもあった。「吉備」は、後の備前、備中、備後である。「津」は、『講義』は、後の備中国に都宇郡というのがある。この都宇は、本来一字をもって呼んだ地は、和銅の頃勅により、好字二字に改めさせられたので、それに従って、一字の韻にあたる字を加えたものだと考証している。吉備の津の采女は後の備中国都宇郡を出身地とする采女だったのである。采女は在職中は、結婚は堅く禁じられてい、犯す者は重き刑に処せられる制であった。しかるにこの采女は夫をもっているので、采女としての任の解けた、前《さきの》采女だということがわかる。また、短歌によると、近江国の志賀に住んでいたこともわかる。自由な身として、かつてそこに居住していたのである。人麿はこの采女を見かけたことがあって、いわゆる見知りこしであった。たぶんは後宮に仕えていた頃のことであろう。この采女は次で見ると水死をしている。しかも自殺であったと見える。その事情はわからない。人麿はその死後|幾時《いくばく》もない頃、何らかの事情で志賀へ行き、その噂《うわさ》を聞き、その若き生命を我と殺したのに驚き、訝《いぷか》り、悲しんで、強い衝撃のままにこの歌を作ったのである。
 
(334)217 秋山《あきやま》の 下《した》へる妹《いも》 なよ竹《たけ》の とをよる子《こ》らは いかさまに 思《おも》ひ居《を》れか 栲繩《たくなは》の 長《なが》き 命《いのち》を 露《つゆ》こそは 朝に置《あしたお》きて 夕《ゆふべ》は 消《き》ゆと言《い》へ 霧《きり》こそは 夕《ゆふべ》に立《た》ちて 朝《あした》は 失《う》すと言《い》へ 梓弓《あづさゆみ》 音《おと》聞《き》く吾《われ》も おほに見《み》し 事《こと》悔《くや》しきを しきたへの 手枕《たまくら》まきて 剣刀《つるぎたち》 身《み》に副《そ》へ寐《ね》けむ 若草《わかくさ》の その嬬《つま》の子《こ》は さぶしみか 思《おも》ひて寐《ぬ》らむ 悔《くや》しみか 思ひ恋ふらむ 時《とき》ならず 過《す》ぎにし 子《こ》らが 朝露《あさつゆ》のごと 夕霧《ゆふぎり》のごと
    秋山 下部留妹 奈用竹乃 騰遠依子等者 何方尓 念居可 栲紲之 長命乎 露己曾婆 朝尓置而 夕者 消等言 霧己曾婆 夕立而 明者 失等言 梓弓 言聞吾母 髣髴見之 事悔敷乎 布栲乃 手枕纏而 釼刀 身二副寐價牟 若草 其嬬子者 不怜弥可 念而寐良武 悔弥可 念戀良武 時不在 過去子等我 朝露乃如也 夕霧乃如也
 
【語釈】 ○秋山の下へる妹 「秋山の」は、黄葉を秋山の特色として、その意を含めての言い方で、「炎《かぎろひ》の春」、「※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の春」などと同じ言い方の語。「下へる」は、『略解』以来「下ぶる」と訓まれてきたが、「したふ」は四段活用で、完了の助動詞「り」の連体形がついた形。紅《くれない》に色づいている意。紅顔《にほへるかほ》を称美していつたもの。「妹」は、采女を親しんでの称。二句、秋山の紅葉《もみじ》の紅ににおっているがごとき妹の意で、顔の美しさを讃えたもの。○なよ竹のとをよる子らは 「なよ竹」は、なよなよとした竹で、今の女竹。「とをよる」は、「とを」は「撓《たわ》」と同意の語で、撓み寄る意。「子ら」の「ら」は、音調のために添えた語で、「子」は、上の「妹」と同じく親しんでの称。二句、なよ竹のごとく撓みよる子はで、上に続けて、姿の可憐さを讃えたもの。○いかさまに思ひ居れか 「いかさまに」は、どのように。「思ひ居れか」は、「か」は疑問で、「居れか」は後世の「居ればか」にあたる古格。思っていたのであろうかの意。その心持の解し難いのを、怪しみ訝った意。○栲繩の長き命を 「栲繩の」は、栲すなわち楮の類の織維をもって作った繩。その長い物であったところから、譬喩の意で長きの枕詞となったもの。「長き命を」は、本来長かるべき命をの意。「いかさまに」以下四句は、長かるべき命を、どのような心持がしていたのかと、若き命を我と殺したことを、それと言いきるのは忍び難いこととして、怪しみ訝りの形にして、言いさしにとどめたもの。○露こそは朝に置きて夕は消ゆと言へ 命の短い露こそは、朝、木草の上に置いて、その夕べには消えるとはいえの意で、世に最も命の短いものを、采女との対比としてあげたもの。○霧こそは夕に立ちて朝は失すと言へ 上の四句と対句にしたもの。この対句は、世に最も命の短いものを、強くいおうとして繰り返したもので、「露」と「霧」、「朝」と「夕」といささかの変化はつけているが、心は全く同じである。この八句は、その前の「長き命を」とは、語《ことば》としては直接には続いていないが、心としては連絡をもっていて、采女の命短く、またあまりにもはかなく死んだことを、自然の現象をかりて暗示したもので、下に、人はそうしたものではないも(335)のをということを含ませたものである。なお、ここに「露」と「霧」とを捉えてきたのは、心としては代表的に命の短いものとしてではあるが、作意からいうと、人麿の采女のことを聞いてこの歌を作った時は、折から露や霧の多い秋であったためと思われる。以上、心としては一段落である。○梓弓音聞く吾も 「梓弓」は、梓の弓で、単に弓の代表としていったもの。弦の音が印象的なところから、音と続き、音の意を転じての枕詞。「音」は、噂の意のもの。「吾も」は、吾さえも。○おほに見し事悔しきを 「おほ」は「おぼつかなし」「おぼろ」などのおほで、不十分にの意。よそ目に一目《ひとめ》というにあたる。「悔しきを」は、残り惜しいものをの意。○しきたへの手枕まきて 「しきたへの」は、(一三五)に出た。ここは「枕」の枕詞。「手枕まきて」は、手枕を枕としてで、手枕は采女の手。枕とするはその夫。○剣刀身に副へ寐けむ 「剣刀」は、刀身すなわち身を主とするところから、「身」と続けて、その身を転じての枕詞。「身に副へ寐けむ」は、その身に添わしめて共寐をしたであろうところので、夫の立場からいったもの。○若草のその嬬の子は 「若草の」は、(一五三)に出た。嬬にかかる枕詞。「その嬬の子は」は、「その」は、嬬をさした語。「嬬」は、夫の意のもの。「子」は、親しんでの称。二句、その夫はで、采女に夫のあったことをいったもの。このことは題意でいった。○さぶしみか思ひて寐らむ 「さぶしみ」は、さみしくして。「か」は、疑問。「思ひて寐らむ」は、嘆いて寐ていようで、二句、さみしくして、嘆いて寐ているのであろうかと、自身と比較して思いやったので、人麿と采女の夫との関係の親しくはないことを思わせる口気である。○悔しみか思ひ恋ふらむ 残念なことにして、嘆いて恋っているであろうか。この二句、流布本にはなく、類聚古集、紀州本、西本願寺本ほか二本にはある。この二句が、原形としてあったかなかったかは問題となる。上の二句についていったように、この歌は挽歌とはいえ、夫たる人に贈ったものとは思われないので、したがって夫に対しての思いやりは、多きを必要としないものに思われるからである。ない方が原形ではないかと思われる。○時ならず過ぎにし子らが 「時ならず」は、その時すなわち天寿ではなくして。「過ぎにし」は、死んで行ってしまった。「子ら」は、起首の「とをよる子ら」のそれと同じ。「が」は、「子ら」の主格であることをあらわしているもの。二句、天寿ならずして死んでしまった子はの意。この句は、上の「いかさまに思ひ居れか」と、作意としては繰り返しの意で緊密に関係しているもので、あらわには言いきっていないが、自殺したことをいっているものである。言いきらないのは、「何方に」の場合と同じく、言いきるに忍びないものとしてのためと取れる。しかし、それよりも一歩を進めて、自殺ということをやや強く暗示したものである。○朝露のごと夕霧のごと 第一段の結末を、いま一たび繰り返して、その生命の短く、あまりにもはかないことをいったもの。この結末は、七七七で、七を三回重ねている。これは謡い物系統のものの上には現われていることで、古風な形である。謡い物では、最後の七は、音調を主としての繰り返しとなっている趣が多いが、この歌では、心としての必要をもったものとなっている。すなわち古い形を一歩前進させたものである。
【釈】 秋山の紅葉の紅ににおっているごとき顔の妹、なよ竹のごとくに撓み寄る姿をした子は、どのような心持をもっていたのであろうか、その長かるべき命を。世にはかないものの露こそは、朝に草木《くさき》に置いて、夕べには消えるとはいえ、同じく霧こそは、夕べに空に立って朝には失せるとはいえ、人はそうしたものではないものを。ただ噂に聞く自分でさえも、生前よそ目に一目見ただけなのが残り惜しいものを。その手枕を枕として、身に添わしめて共寐をしたその夫は、さびしい心に嘆いて寐ているのであろうか。残念なことにして嘆いて恋っているであろうか。天寿ではなくして死んで行ってしまった子は、朝露のように、夕霧のようにもあるよ。
(336)【評】 人麿がたまたま近江の大津へ行った時、前采女《さきのうねめ》で、美しくして若く、以前一度見かけたことのあった人の、今は人妻となってそこに住んでいる人が、河に身を投げて自殺をしたという訪を聞き、強い衝動を受けて作った歌である。その事は誰にしても衝撃を受けずにはいられないものであるが、本来生命への執着の強いものをもっている上に、時代性によってその感を強めさせられていた人麿であり、くわえてまた、夫婦生活を生活価値の大部分とし、したがって女性の美しさを尊重する情の強かった人麿としては、きわめて強い衝撃を受けたのであった。その心とその衝撃とは、この歌の表現を通して如実に現われている。
 大体挽歌は、第一には死者その人の霊を慰めることを目的とし、第二には死者の近親者と、ともに悲しむことによって慰めるを目的とするものである。そのほかには、挽歌を作ることによって自分自身を慰めようとするもので、例せばこの歌に先立つ自身の妻の死に対してのようなものである。最後のものは実用上の目的をもたない、純然たる文芸的のものである。人麿のこの歌はいかなる立場に立ってのものかというと、第一の、死者その人に対して言いかけているところは全然ない。第二の、死者の近親者に対してということも、「さぶしみか思ひて寐らむ」という思いやりの句があるだけで、それも自身の心残りの比較においていっているにすぎないもので、采女の夫に対して、直接に言いかけているものとは思われない。この歌で人麿のいっているものは、単に自身の感懐のみである。すなわち「秋山の下へる妹」「なよ竹のとをよる子ら」と讃うべき美しく若い女性の、「いかさまに思ひ居れか」「時ならず過ぎにし子ら」となったことに対する怪しみ訝りであって、その怪しみ訝りを通しての愛情をいうことに終始しているのである。これは人麿の文芸心を充たすのみの挽歌である。しかもそれを、深い関係はなく、単に見知りごしというにすぎない女性に対してしているのは、美しく若くして、当然生命の執着の限りなく強かるべき人が、意識的にそれを棄て去ったという衝動に駆られてしているので、そこにいっそう人麿の文芸心が見られるのである。
 この歌の表現は、人麿の他の長歌の手法とは異なった特殊なものである。人麿の長歌は、事の全体を腹に収め、十分に支配しきり、盛り上がる情熱の力をもって緩やかに展開させたもののみである。一首が整然たる構成をもちほとんど句絶というものがなく、一首一句のごとき有様をなしているのは、一にそのためである。しかるにこの歌は、躍る心のまにまに、反射的に、思うことをぶちつけぶちつけしているごとき趣をもっている。しかし、さすがに乱れを見せず、一首を二段とし、第一段では死に対する怪しみをいい、第二段では怪しみを通しての悲しみをいって、繰り返しの形をもって漸層的に高めているのは、その卓絶した手腕のいたすところで、全体としては他に例のない昂奮そのままを示しているものである。人麿の感懐は、この表現の形式の中に如実に現われているといえる。
 なお人麿の長歌は、その抒情の中に、何らかの形で季節感をあらわしているのが風である。この歌の「露」と「霧」とは、いったがように、この事は秋であったことをあらわしているものと思われる。「秋山の下へる」という、やや特殊な譬喩も、同じく季節感をあらわしているものと見られる。結末の七音三句を重ねたものであることは、上にいった。
 
(337)     短歌二首
 
218 ささなみの 志賀津《しがつ》の子らが【一に云ふ、志賀《しが》の津《つ》の子が】 罷道《まかりぢ》の 川瀬《かはせ》の道《みち》を 見《み》ればさぶしも
    樂浪之 志我津子等何【一云、志我乃津之子我】 罷道之 川瀬道 見者不怜毛
 
【語釈】 ○ささなみの志賀津の子らが 「ささなみ」は、琵琶湖の西一帯の地名。「志賀津」は、志賀にある津で、他にも用例のあるものである。志賀にある津は大津と取れる。「子ら」は、長歌の方に出ているもので、「子」は采女を親しんでの称。「ら」は音調のためのもの。この采女は、題意でいったように、任が解けて、前《さきの》采女として、人妻となって志賀津に住んでいたものと解される。○罷道の 「罷道」は、一つの語で、死出の旅の道の意。続日本紀、巻三十一、藤原永手の薨去を悼《いた》ませられた宣命に、「美麻之大臣乃罷道母宇之呂軽久心母意太比爾念而《みましおほおみのまかりぢもうしろがろくこころもおだひにおもひて》」という用例がある。「の」は、同じ趣の語を重ねていう意のもの。死出の旅への道にして、それとともにの意。○川瀬の道を 「川瀬の道」は、特殊な語である。川瀬には道というものがあるべきでないからである。これは上の「罷道」を言いかえた語で、道ならぬ道、すなわち不自然な道で、長歌では暗示にとどめていた自殺ということを、一歩進展させて、投身ということを婉曲《えんきよく》にいったものと取れる。『代匠記』は、「川瀬の道は身を投むとて行しを云なるべし」といっているが、身を投げて溺れ死んだ所とすべきである。『新考』は、「川瀬を渡りてゆく道なり」といって、葬地に行く道としているが、それだと「道」とはいわず「渡り」というべきであり、また人麿が采女の死を聞いたのは、死後ある期間を隔てた時ということが長歌で察しられるから、いま葬送のさまを見ているとするのは、事としても不自然に思われる。○見ればさぶしも その所を目に見ると、さびしいことであるよ。
【釈】 ささなみの志賀津の子が、死出の旅の路にして、それとともに川瀬の中の道という、不自然な、道ならぬ道を、ここぞと目に見ると、さびしいことであるよ。
【評】 この歌は、長歌を進展させて、采女の投身して死んだ跡に立って見ての感である。「罷道の川瀬の道」という語は、投身ということをかなり明らかにあらわしたものであるが、長歌と同じく、婉曲に、言いきらずにいったものである。「川瀬の道」は、いったがようにやや無理な言い方をした語であるが、婉曲にいおうとするところから生み出した語と取れる。「川瀬の遺」の「道」は、上の「罷道」の「道」を繰り返した形となっているので、無理とはいっても自然さを保っているもので、無理でいて無理ではないものとなっている。すなわち無理を遂げているもので、むしろ、天才的というべきものである。この二句の婉曲は、一首の形の上からも自然なものとなっている。それはこれに先行する「楽油の志賀津の子らが」という、重く、また親しみ深くいっている語との照応によっても支持されているからである。初句より四句までの続きは、采女に対する愛惜と悲哀を、不信のうちに具象しているものである。結句「見ればさぶしも」は一転、感覚となっているので、上を結ぶ力の十(338)分にあるものとなっている。手腕の現われた作というべきである。
219 天数《あまかぞ》ふ 大津《おほつ》の子《こ》が あひし日《ひ》に おほに見《み》しかば 今《いま》ぞ悔《くや》しき
    天數 凡津子之 相日 於保尓見敷者 今叙悔
 
【語釈】 ○天数ふ この語はここに用いられているだけのもので、他には用例のないものである。訓も解も不定のものである。旧訓は「あまかぞふ」で、爾来諸説があるが、「凡」か「津」のいずれかにかかる枕詞として、その関係を通して迎えて施しているものである。比較的穏やかに聞こえるのは『講義』の解で、訓は旧訓に従い、「天」は、山といってそこに生えている草木をも含めていう例により、天の星をも含めたものとし、その数の多いところから「多《おほ》」と続けて、同音の「凡」の枕詞としたものだろうといっている。しばらくこれに従う。○大津の子が 「大津」は、前の歌の志賀津と同じで、それを言いかえたもの。「子」は、采女を親しんでの称。○あひし日におほに見しかば 「あひし日に」は、逢ったことのあった時にで、たぶんは、かつて采女として後宮にあり、供奉として外出した折などであろう。「おほに見しかば」は、長歌に出た。一目、よそながら見ただけなので。○今ぞ悔しき その人の亡くなった今は、再び見難いので残念なことであるの意。
【釈】 天数う大津の子の、逢った時に、ただ一目よそながら見ただけなので、亡い今は、再び見難く残念なことであるよ。
【評】 これは長歌の繰り返しである。反歌は長歌を繰り返すのが人麿以前の風で、今はそれに従ったものである。繰り返しは、長歌の要点に対してするのが風で、それは心理的にも当然なことである。ここに繰り返していることは、死んだ采女を慰めるものでもなく、また最も悲しんでいるはずのその夫を慰めるものでもなく、単に見知りごしという関係にすぎない人麿自身の心で、挽歌の性質からいうと最も軽かるべき部分である。それを反歌として繰り返していることは、やがてこの挽歌の性質を語っていることで、この挽歌は人麿自身の思いをやることを主眼としたものなのである。采女に対してきわめて関係の薄い人麿が、何ゆえにこのような情熱をもって挽歌を作ったかというと、それは亡び去った若く美しい采女を惜しむ心からだろうと思われる。采女は形容の端正ということを一つの資格としているものである。この采女も美しい人であったろうと察しられる。その美しさを愛惜し尊重する心が、こうした情熱となったのであろう。長歌の起首の、新意をもった美貌《ぴぼう》を讃える語、また反歌の「ささなみの志賀津の子ら」「天数ふ大津の子」などいう、讃え詞に近い呼び方も、すべてその心よりのものと思われる。根本は人麿の人生を愛する心からのものであるが、それに加うるに美を愛する心があって、後のものの方が強く働いている歌と取れる。
 
(339)     讃岐の狭岑島《さみねのしま》に石中に死《みまか》れる人を視て、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 人麿が瀬戸内海を航海中、風浪を避けるために、船を讃岐の狭岑島に着けて上陸すると、はからずも浜辺に屍体を発見しての感傷を詠んだものである。「狭岑島」は、香川県坂出市港外にある島。狭岑島は反歌では佐美《さみ》の山といっているので、狭岑とも佐美とも呼ばれていたことがわかる。これは島を島根ともまた島山ともいうが、根と山とは同意語で、海の上から見ると、島は山の感をもっているからの称で、狭岑とは佐美根、すなわち佐美の島と思われる。歌で見ると、そこは普通の航路にあたっていたところと思われる。なお路順から見ると、この航海は、西方より東方へ向かってのものとわかる。「石中」は、屍体のあった場所で、屍体は行き倒れと解されたようなので、浜辺の小石の中と取れる。
 
220 玉藻《たまも》よし 讃岐《さぬき》の国《くに》は 国柄《くにから》か 見《み》れども飽《あ》かぬ 神柄《かむから》か ここだ貴《たふと》き 天地《あめつち》 日月《ひつき》と共《とも》に 満《た》り行《ゆ》かむ 神《かみ》の御面《みおも》と つぎて来《く》る 中《なか》の水門《みなと》ゆ 船《ふね》浮《う》けて 吾《わ》がこぎ来《く》れば 時《とき》つ風《かぜ》 雲居《くもゐ》に吹《ふ》くに 沖《おき》見《み》れば とゐ浪《なみ》立《た》ち 辺《へ》見《み》れば 白浪《しらなみ》さわく 鯨魚取《いさなと》り 海を恐《うみかしこ》み 行《ゆ》く船《ふね》の 梶《かぢ》引《ひ》き折《を》りて をちこちの 島《しま》は多《おは》けど 名《な》ぐはし 狭岑《さみね》の島《しま》の 荒磯面《ありそも》に 廬《いほ》りて見《み》れば 浪《なみ》の音《と》の 繁《しげ》き浜辺《はまべ》を しきたへの 枕《まくら》になして 荒床《あらどこ》に ころふす君《きみ》が 家《いへ》知《し》らば 行《ゆ》きても告《つ》げむ 妻《つま》知《し》らば 来《き》も問《と》はましを 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》だに知《し》らず おほほしく 待《ま》ちか恋《こ》ふらむ 愛《は》しき妻《つま》らは
    玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貿寸 天地 日月与共 満將行 神乃御面跡 次來 中乃水門從 船浮而 吾榜來者 時風 雲居尓吹尓 奧見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭岑之嶋乃 荒礒面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓爲而 荒床 自伏君之 家知者 徃而毛將告 妻知者 來毛問益乎 玉桙之 道大尓不知 欝悒久 待加戀良武 愛伎妻等者
 
(340)【語釈】 ○玉藻よし讃岐の国は 「玉藻よし」は、「玉藻」は(一三一)に出た。藻を讃えての称。「よし」は「青丹《あをに》よし」と同類で、「よ」の詠歎に「し」の強めの添ったもの。讃岐の枕詞としてある。他には例のないもので、人麿が海上より讃岐を見て、その国の讃え詞として造ったものと思われる。○国柄か見れども飽かぬ 「国柄」は、熟語。「柄」は、故《から》の意で、国が良きゆえの意。「か」は、疑問。「見れども飽かぬ」は、しばしば出た。いくら見ても飽かないで、きわめて賞美する意。二句、国が良いゆえか、いくら見ても飽かないことよ。○神柄かここだ貴き 「神柄か」は、上の「国柄か」を語をかえて繰り返したもの。国はすべて諾冊二神の生ませたもうたもので、神の分身であり、神であるということは、上代の信仰である。ここもそれである。古事記、上巻に、「次生2伊予之二名島1此島者身一而有2面四1毎v面有v名、故伊予国謂2愛比売1、讃岐国謂2飯依比古1云々」とあり、伊予は四国の総名で、讃岐の神であることは明記されてもいる。「ここだ」は、「ここば」ともいい、後には転じて「ここら」となった語で、多いという意の古語。「貴き」は、讃えてのもの。二句、神にますゆえか、はなはだ貴きことよで、二句、上の二句と対句。以上第一段。○天地日月と共に 「天地日月」は、いずれも欠くるところのない完全なものとして、下の「満《た》る」の譬喩としたもの。「共に」は、それらと同じくの意。○満り行かむ神の御面と 「満り行かむ」は、満ち足りて行こうとする、すなわち完全なるものとなろうとするで、下の「御面」につづく。「神の御面」は、「神」は国にして同時に神である意のその神。「御面」は国の有様の眼に映るところを、神との関係で御面といったもの。「と」は、と思っての意。四句、天地月日の完全なると同じく、完全なるものとなって行くであろうところの神の御面すなわち国の有様であると思ってというので、上を承けて、讃岐の国の海岸寄りを航行しつつ、子細にその国を讃えた意。○つぎて来る中の水門ゆ 「つぎて来る」は、「つぎて」は、続きての意のもの。「来る」は、こいで来る意で、人麿の航行のさまをいったもの。主格は作者である。「中の水門」は、「中」は、古の那珂郡。香川県丸亀市下金倉町金倉川河口。「水門」は、港。那珂の港は丸亀の近くにある中津であろうといわれている。「ゆ」は、より。○船浮けて吾がこぎ来れば 船を浮かべてこいで来るとで、舟子《かこ》のこぐのを自身のするようにいったもの。そのこいで来るのは、狭岑の島すなわち今の砂弥島で、中津からは北東にあたっている。人麿の航海の西方より東方に向かっていたものであることが知れる。以上、意味の上では第二段となっている。○時つ風雲居に吹くに 「時つ風」は、潮の満ちて来る時に吹く風で、時にあたって吹く風の称であろうという。巻六(九五八)に、「時つ風吹くべくなりぬ香椎《かしひ》潟潮干のうらに玉藻苅りてな」とあるので知られる。相応に強い風と取れる。「雲居」は、空の意のもの。海上に見る空で、水平線に沿っている空をいっている。○沖見ればとゐ浪立ち 「奥」は、沖。海の遠方。「跡位浪」の「跡位」は、『考』以来「しき」にあてた文字で、重浪《しきなみ》と訓まれてきたが、北条忠雄氏の訓と解に従い、うねり撓み立つ浪の意とする。なお重浪《しきなみ》とすれば頻繁に寄せて来る浪の意で、『講義』が委しい考証をしている。○辺見れば白浪さわく 「辺」は、海岸寄りの所。船中から見ての状態で、船は陸寄りを航行することになっているから、その折から添っていたところの陸の状態。○鯨魚取り海を恐み 「鯨魚取り」は、(一五三)に出た。海の枕詞。「海を恐み」は、海を恐れて。○行く船の梶引き祈りて 「行く船」は、前方へこいでゆく船。「梶」は、今の※[舟+虜]《ろ》にあたるもの。「引き折り」は、引き撓めてで、強くこぐ状態をいったもの。二句、風浪の危険から脱れるために、避難場所へ着けようと、こぎゆく船の※[舟+虜]を、撓むまで強く使って。○をちこちの島は多けど 「をちこち」は、あちらにもこちらにも。「多けど」は、後世の多けれどと同意の古語。○名ぐはし狭岑の島の 「名ぐはし」は、巻一(五二)に出た。名のよろしきの意で、土地を讃える意で添えたもの。「狭岑の島」は、題意でいった。○荒磯面に廬りて見れば 「荒磯面」は、海辺の水上に現われている石の上。「廬りて」は、航海中、陸寄りの場合は、危険を避けるために上陸するのが風で、その場合、(341)廬を作って入るのも風であった。無事な時でも、夜寐るためにはすることであった。以上、意味の上では、第三段となっている。○浪の音の繁き浜辺を 「浪の音」の「音」は、仮名書きによってのもの。「浜辺」は、磯辺と差別して、磯辺が石ころ続きの所であるのに、砂原になっている所をいう。二句、時つ風のために浪の音がたえず立っている侘びしい砂原をの意。○しきたへの枕になして 「しきたへの」は、しばしば出た。ここは「枕」の枕詞。「枕になして」は、枕としてで、枕とはすべくもない物をそれとしての意で、死人のさまを美しくいったもの。○荒床にころふす君が 「荒床に」は、荒ららかな床にで、床とはすべくもない浜辺をそれとしている意。「ころふす君が」の「ころ」は独り、または自分自身を意味する語で、古くから用例がある。みずから横たわるの意。これも死人のさまを美しくいったもの。以上四句、直接に死人といわず、不自然な所に寐ているといって、美しくそのことをあらわしているのは、死者を敬う心からのことと取れる。「君」という代名詞も、敬意をもってのもので、それと一致している。○家知らば行きても告げむ 死人の家を自分が知っているならば、そこへ行って家人に知らせようで、死者その人を思うよりも、思いを死者の家人に寄せたもの。○妻知らば来も間はましを 「妻知らば」は、死人に妻があるとして、その妻が夫がここにいると知ったならば。「来も問はましを」は、来て問おうものをで、「も」は軽く、「を」は重い詠歎。ここも死人を、死人とまではしきらず、生きている者であるかのようにいっている。○玉桙の道だに知らず 「玉桙の」は、道の枕詞。夫のいる所へ行く道だけも知らず。○おほほしく待ちか恋ふらむ 「おほほしく」は、(一七五)に出た。心が晴れずに。「待ちか恋ふらむ」は、夫の帰りを待って恋っているであろうか。○愛しき妻らは 「ら」は、音調のためのもの。この人の愛している妻は。
【釈】 玉藻よし讃岐国は、その国の良いがゆえか、いくら見ても飽かないことよ、その国の神にましますゆえか、甚しくも貴いことよ。完全なるものの天地日月と同じく、完全になってゆく神の御面とみえる国の有様であると愛でたく思って、航路の次第を追って次から次と続けてきた中の港から、船を浮かべて前方へとこいでくると、満潮に伴う時つ風が、水平線上の空に吹き起こって、沖の方を見ると、うねり盛りあがる浪が立ち、沿ってゆく陸の海岸寄りのところには白浪が騒いでいる。海の危険を恐れて、前方に向かってゆく船の※[舟+虜]《ろ》を、撓《たわ》むまでに強くこいで、あちらこちらに島は多くあるけれども、名の良い狭岑の島にこぎ寄せて避難をし、荒磯の上に廬を作って周囲を見ると、浪の音のたえずも立っている浜辺を、不自然にも枕となし、またそこを荒ららかな床としてみずから伏している君の、その家を我が知っているならば、往っても家人に告げ知らせよう、この君の妻がここにいると知るならば、来て様子を尋ねもしようものを、夫のいるあたりの道だけでも知らずに、心晴れずその帰りを待って恋っているであろうか、この君の愛している妻は。
【評】 この歌は人麿が、瀬戸内海を西方より東方に向かって航海しているうち、讃岐《さぬき》の狭岑の島ではからずも死人を見て、それに対しての感懐を詠んだもので、歌の体からいうといわゆる道行きである。この体は伝統の久しいもので、また人麿の好んで用いた体でもある。
 一首の中心となっているものは死者に対する感懐なので、その意味では挽歌と称すべきものである。しかし歌を見ると、死者その者に対しては多く触れるところがなく、死者の状態を、(342)生者とさして異ならないような間接な、また美しい語《ことば》をもって叙することによって、一種の敬意をあらわしているだけで、人麿の心はただちに死者の妻に馳せ、夫の死を知らずして、その帰りを待ち恋っているだろう妻を憐れむものとなり、それを中心としているのである。しかも人麿は、その死者に妻の有る無しも知らないので、その憐れみは妻があると想像の上で定めてのものである。これは挽歌としては特殊なもので、取材の上からは、挽歌の範囲のものであるが、心としては、人麿の人生に対する心持の方が主となっているものである。一首の味わいもまたそこにあるものである。この事は、この歌の構成も示しているところである。
 第一段は、「語釈」でいったように、起首より「ここだ貴き」までで、讃岐国を大観して讃えたものである。この讃え詞は、いったがように古事記上巻の諾冊二神の国生みに脈を引いているもので、重く力強いものである。第二段は、いったがように意味の上からのもので、「船浮けて吾がこぎ来れば」までで、第一段をうけて、讃岐国を子細に讃えてい、これまた、第一段に劣らず、重く力強いものとなっている。第一段と第二段、すなわちこの歌の前半は、国であるとともに神にまします讃岐国を、舟行の旅人の心と眼を通して讃えたもので、強く人間生活を肯定する、明るい心の現われである。一首の一半を人間生活の肯定にあてるということは、単なる挽歌を詠もうとする心からはおそらくはしないことである。この歌を人麿の人生に対する心持をいおうとしたものだということは、ここにも現われている。
 第三段は、いったがように、心の上でのもので、「荒磯面に廬りて見れば」までである。当時の航海は、その船の脆弱な物であった関係上、多少なりとも風浪の惧《おそ》れのある時は、安全な島蔭に避けて、その鎮まるのを待つのが普通であった。人麿のこの時に遭った風は、いわゆる時つ風で、特異なものではない。狭岑の島の廬は、むしろ普通なことであったと思われる。第四段は、それより結末までで、第三段を承けて、そこではからずも死人を発見したことである。当時の旅行は、不便でもありまた困難でもあって、旅人の行路病者として行き倒れとなる者、また餓死する者さえもあって、まれなことではなかったのであ(343)る。人麿の見た者もその範囲の者である。しかしそれが、いたくも人麿の胸を打ったことは、この長歌の中心を、その行き倒れにしていることによって明らかである。しかるに人麿の心は、死者そのものを隣れむことには向けられず、そこには死者を隣れむ語《ことば》も、また慰めようとする語もない。そこにあるのは、死者なるがゆえに敬って、死者をいうにも、死ということは暗示にとどめる程度の間接なまた美しい語をもっているだけである。死者をいうことを中心とした歌で、しかもその死者はこうした特殊な状態のものであるにもかかわらず、その惨《いた》ましい状態には触れまいとしているところに、人麿の心があるといえる。なお人麿は、目にしている死者についてはいうまいとしているが、目に見ざるその妻には深い隣れみをよせている。死者に妻の有る無しはいったがように人麿の知らない所であるのに、それを有ると定め、しかも死者に取っては「愛《は》しき妻ら」であると定め、そしてその妻は「おほほしく待ちか恋ふらむ」と定めているのは、人麿の他の歌にも示しているように、人間生活の価値、興味を夫婦生活にありとし、それを通して強く人間生活を肯定しようとする心の現われであって、それのかなわなくなった死者はつとめて見ぬさまをし、死者を超えたあなたの、その有る無しもわからぬ妻にその心を繋いで、そこに深い隣れみを感じているのである。この死者に対する人麿の態度は、挽歌の心ではなく、死者を通して新たに感じさせられてきた、人間生活に対する心持にほかならぬものに見える。
 さらに前半の、讃岐国の国土に対し、その生成発展に対しての礼讃と、この後半の、死者を軽く、生者を重く見ている心とは、緊密に関連しているもので、前半によって後半の心が明らかに、後半によって前半の心が明らかにされることが見られる。一首は要するに死者という人間生活肯定の心を裏切るものを縁とし、刺激として、人間生活に属する強い肯定と執着とを示したものである。一首、事を叙することを主としているごとく見えるが、その事は人麿の主観を表現するためのものにすぎないものである。人麿の豊かな詩情を、散文的な方法をもって、微妙にあらわし得ている歌である。
 
     反歌二首
 
221 妻《つま》もあらば 採《つ》みてたげまし 佐美《さみ》の山《やま》 野《の》の《へ》上のうはぎ 過《す》ぎにけらずや
    妻毛有者 採而多宜麻之 作美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也
 
【語釈】 ○妻もあらば 「妻」は、死人の妻。「も」は、詠歎。「あらば」は、ここに居たならばと想像したもの。妻がもしここに居たらば。○採みてたげまし 「採む」は、下の「うはぎ」を採み取ること。「たぐ」は、飲食する意の古語で、下二段活用の動詞。「たげまし」は食べさせようで、「まし」は上の「あらば」と照応させたもの。○佐美の山 上の狭岑の島を言いかえたもの。そのことは題意でいった。○野の上のうはぎ (344)「野の上」は、「上」は、広く物のある位置をあらわす語で、単に野というと異ならない。「うはぎ」は、「おはぎ」ともいっている。今の嫁菜《よめな》である。古は一般に食料としたものである。○過ぎにけらずや 「過ぐ」は、食料とする時節が過ぎる意。嫁菜は春季の物なので、それが過ぎて食べられなくなるのは夏季である。「けらずや」は、後世は用いられなくなった語で、「や」は、反語。過ぎ去らなかったか、過ぎ去つたの意。
【釈】 妻がもしここに居たならば、採み取って茹《ゆ》でて食べさせたであろう。この佐美の山の野に生えている嫁菜は、食べる時節が過ぎ去ってしまったではないか。
【評】 反歌は、死人その人を中心として、隣れみの情をよせている。すなわち長歌に新たな展開を与えたのである。人麿は、死人を発見した驚きと、広い意味の感懐を味わわされると、心が静まって、死人の死因を思わせられ、餓死と判じたとみえる。さらにあたりを見ると、そこにはどこにでも生え、また茂りもする野草の嫁菜のあるのに心づき、これでも食べたならばと感じたのである。しかし、それを食べられるようにするには、妻の手がいるものとしたのは、妻思いの人麿の感傷である。たとい妻が居ても、すでに時節を過ぎた嫁菜では如何《いかん》ともし難かったのであろう。事の如何は顧みず、隣れみの気分を主として、心をこめていっているところに人麿の面目がある。
 
222 沖《おき》つ波《なみ》 来《き》よる荒磯《ありそ》を しきたへの 枕《まくら》とまきて 寝《な》せる君《きみ》かも
    奧波 來依荒磯乎 色妙乃 枕等卷而 奈世流君香聞
 
【語釈】 ○沖つ波来よる荒磯を 「沖つ波」は、沖の波のの意。「来よる」は、寄り来るの意の当時の言い方。「荒磯」は、上に出た。○しきたへの枕とまきて 「しきたへの」は、ここは「枕」の枕詞。「まきて」は、枕としての意。二句、大切なる物である枕とはしての意をいつたもの。○寝せる君かも 「寝せる」は、「寝《ぬ》」に敬語「す」がつき、「なす」となり、完了の助動詞「り」の連体形の接続したもの。寐ていられるの意。「君」は、死人を尊んでの称。「かも」は、詠歎。
【釈】 沖の波の寄って来る荒磯を、それとはすべくもない枕にはして、寐られているところの君ではあるよ。
【評】 これは長歌の一節を繰り返したもので、人麿以前の反歌の手法に立ち戻って詠んだものである。心としては、前の歌と同じく隣れみの情を主としたものである。死ということを直接にいうのを避けているのは、隣れみの情よりしていることとみえるが、必ずしもそればかりではなく、それに触れることを厭う心の伴っているためと思われる。それは前の歌も同様で、長歌もまた同様である。これは詩情というようなものではないことは長歌でいった。しかし一面には人麿の人柄よりきているところもあろうと思われる。
 
(345)     柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死《みまから》むとせし時、自ら傷みて作れる歌一首
 
【題意】 「石見国に在りて」というので、人麿が京より遣わされて、石見国の国司の一人として、国庁に在任中であったことが知られる。また、「死」とあるので、人麿の位の低かったことが知られる。それは喪葬令に、「凡百官身亡、親王及三位以上称v薨、五位以上及皇親称v卒、六位以下達2於庶人1称v死」と定められていた、それに従っての用字だからである。すなわち人麿は六位以下だったのである。『講義』は、石見国は中国で、守でも六位以下であったから、人麿が守以下であったとすれば当然のことであるといっている。人麿の死んだ年月は記されたものがないが、年次に従って編している本巻によって、この一類の歌の次は「寧楽宮」となっているところから、藤原宮時代のことで、遷都のあった和銅三年三月以前で、おそらくはその直前のことであったろうと想像される。斎藤茂吉氏は『柿本人麿』で慶雲四年説を立てている。
 
223 鴨山《かもやま》の 磐根《いはね》しまける われをかも 知《し》らにと妹《いも》が 待《ま》ちつつあらむ
    鴨山之 磐根之卷有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍將有
 
【語釈】 ○鴨山の磐根しまける 「鴨山」は、題詞によつて、石見国にある山とは知れるが、今はその名が伝わってはいず、したがってどの辺にある山ともわからないが、高角山と同じとするもの、江津市神村、浜田市旧城山の亀山、邑智郡邑智町亀、湯抱温泉付近の山、奈良県葛城山などの諸説が多い。しかし下の続きによって、その山の性格は知ることができる。「磐根しまける」は、「磐根」は、磐で、「根」は添えていった語。「し」は、強め。「まける」は、「巻き」「ある」の熟合した語で、「巻き」は枕とする意。磐を枕としているで、下の「吾」の状態としていっているもの。磐根をまくは、成句に近いもので、本巻(八六)磐姫皇后の御作歌「かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを」のそれと同意で、死して石槨の内に葬られている状態をいう語《ことば》である。この語は他にも用例の少なくないもので、古くは普通の語だったのである。ここは人麿が生者としていっているものなので、不自然なごとくに見えるが、その時は「死に臨みし時」で、死を覚悟し、またそれに関連して妻を憫《あわれ》む心で感傷している時でもあったので、近くあるべき状態を、すでにあったことのごとく強調していっているものと取れる。○われをかも 「かも」は、「か」の疑問に、「も」の詠歎の添ったもの。これは結句「待ちつつあらむ」にかかるものである。○知らにと妹が 「知らにと」は、『玉の小琴』の訓。古事記、崇神の巻、「うかがはく、しらにと」を証としてである。「知らに」の「に」は、打消「ず」の連用形で、古語。「知らず」を「知らに」というのは、下に続く事柄の理由をあらわす時のことで、ここはその事柄は「待ちつつ」である。「と」は、「知らに」を一つの状態として、修飾格とならせるためのもの。「妹」は、これに続く歌によって依羅娘子《よさみのおとめ》と知られ、また上の(一三一)「石見国より妻に別れて上り来し時」とあるその妻と知られる。それだとこの妻は人麿と同棲してはいず、人麿の住んでいたと思われる国府よりは、四、五里を隔てた角《つの》の里に住んでいたことが、同じく(一三一)以下の歌で知られる。○待ちつつあらむ 「待ち」は、人麿のその家より通って行くことを待つ意で、「つつ」は、(346)その継続。「らむ」は、現在の推量。三句の「かも」がこれに添ってくる。
【釈】 鴨山の石槨の内に、磐を枕として葬られている吾をそれとも知らずして、妻は平生のとおり、わが通ってゆくのを今も待ち待ちしていることであろうか。
【評】 年代順に歌を排列した本巻に、「臨死むとせし時」とあり、その後には歌がないので、これが人麿の最後の歌となったと思われ、感慨の深いものがある。当時の夫妻の関係は、これを人麿の歌について見ても、本巻(一三五)に、「さ寐し夜はいくだもあらず」という状態で、それがここにいう「妹」すなわち依羅娘子なのである。また、上の(二〇七)軽の妻も、その死は、葬儀も済んだ後、使の報告によってはじめて知るという状態であったことが知られる。これは特殊なことではなく、普通のことであったとみえる。それから推すとこの歌の場合も同様に、人麿はその国府にある家に病んで、いま命終えんとしているのであるが、それを妻の依羅娘子には知らさず、したがって娘子は知らずにいるという状態だったと見える。そうした状態にあって、人麿の最後の心は、その妻に対する憫みとなって現われたのである。「待ちつつあらむ」というこの単純な憫みが、その生に対する最後の執着だったのである。人麿の人柄が思いやられる。「鴨山の磐根しまける」は、その憫みの深さを具象化させるためのもので、そのほかのものではない。したがって「鴨山」は、死せば葬られる所と定まっていた山とみえる。墓所は山上を選ぶ当時の風習から国府からさして遠くなく、またさして高くない山であったろうと思われる。また人麿の想像した「磐根しまける」は、古風の土葬であるが、これに続く歌で見ると、事実は新風の火葬だったことがわかる。死に臨んだ時の想像が、古風な葬儀であったということも、人麿を思わせるものがある。
 
     柿本朝臣人麿の死《みまか》りし時 妻|依羅《よさみの》娘子の作れる歌二首
 
【題意】 依羅娘子は、(一四〇)に出た。(一三一)の、人麿が石見国から京に上る時に別れを惜しんだところの妻である。歌で見ると、人麿の墓所となった山を遠望しうるところに住んでいたことがわかる。
 
224 今日今日《けふけふ》と 吾《わ》が待《ま》つ君《きみ》は 石川《いしかは》の 峡《かひ》に【一に云ふ、谷に】まじりて ありと言《い》はずやも
    且今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓【一云、谷尓】交而 有登不言八方
 
【語釈】 ○今日今日と 原文「今日」に「且」を添えているのにつき、『講義』は詳しく説明している。「且」は漢字の助字で、疑問の意の「か」(347)の意をあらわすために添えたのだという。今日か、今日かと思って。○吾が待つ君は 通い来るのを吾が待っているところの君はで、人麿をさしたもの。○石川の峡にまじりて 「石川」は、鴨山と考えられている諸地域の川で、江の川上流、女良谷川、葛城連山の西麓を流れる石川(大和川の支流)などの諸説がある。「峡」は原文「貝」、近藤芳樹は『註疏』で、「峡《かひ》」にあてた借字だといっている。斎藤茂吉氏も「鴨山考」で、同じく谿谷としている。人麿のいう鴨山の範囲を広げていったものと思える。「まじりて」は、同じく『註疏』は、古今集などに野山に入って遊ぶのをまじりてといっているその意のものだといっている。古今集春下に、「いざ今日は春の山べにまじりなむ暮れなばなげの花の蔭かは」などがある。入り込む意である。○一に云、ふ、谷に 「峡」が、一本には「谷」とあるというのである。意味は同じで、谷の方がさらに一般的である。伝唱されて変化したのであろう。○ありと言はずやも 「やも」は、反語。あるといっているではないか、いっている、というので、驚き呆れた心をあらわしたもの。
【釈】 今日だろうか、今日だろうかと思って、吾が、通い来るのを待っている君は、石川の峡《かい》に入り込んでいると人がいっているではないか、いっている。
【評】 人麿の使がその変事を知らせに来た時の依羅娘子の心である。歌は事の意外なのに驚き呆れて、なかばは使の知らせを繰り返していい、その事を我と確かめようとするごときものである。賀茂真淵の考証によると、その時人麿は五十歳前後だったろうという。使の知らせのきわめて意外なものであったことは察しられる。依羅娘子は(一四〇)の、人麿の京に上る際の別れを惜しむ歌を見ると、気性のしっかりした、感情の強い、どちらかというと理知的な人に見えるが、この時はただ驚き呆れるのみだったのである。しかし詠み方には、その人柄を思わせるものがある。
 
225 直《ただ》のあひは あひかつましじ 石川《いしかは》に 雲《くも》立《た》ち渡《わた》れ 見《み》つつ偲《しの》はむ
    直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍將偲
 
【語釈】 ○直のあひはあひかつましじ 「直のあひは」は、旧訓「直にあはば」である。『玉の小琴』は、「相」を名詞として、今のように改めた。巻四(七四一)「夢のあひは苦しかりけり」を例としている。意味は、直接に逢うことはで、直接にというのは生前どおりにである。これに従う。「あひかつましじ」の「かつましじ」は(九四)に出た。逢い得なくなるであろうの意。○石川に雲立ち渡れ 「石川」は、上の歌と同じで、人麿の死んだ場所。「雲」は、火葬の煙で、当時の風に従って火葬にされたものと取れる。「立ち渡れ」は、立ちて広がれよと命令したもの。「立ち渡れ」と、「渡れ」を添えていっているのは、依羅娘子の住んでいる所からは、それでないと見えない意からの命令と取れる。○見つつ偲はむ その雲を見つつ夫を偲ぼうというので、これは初句の「直のあひ」に対照させ、死後の今となつては、唯一の、せめてもの慰めとしてのものである。
(348)【釈】 生前のごとく直接に逢うことは、できないであろう。火葬をされるというその石川の峡《かい》に、火葬の煙の雲と立って広がれよ。今はせめてそれを見つつも夫を偲ぼう。
【評】 妻として夫に対する挽歌である。深く悲しんではいるが、その悲しみを抑えて、おちついて、思い得られる限りのことを思って、昂奮のさまを見せていないことは、その歌の二つの句絶をもち、強く、素樸に詠んでいる所にも現われている。このことは単に挽歌として見ても珍しいまでのものである。これを人麿と比較すると、まさに正反対の感がある。人麿の妻を思う歌は、こうした性格の妻を対象としていたものであることが注意される。
 
     丹比真人《たぢひのまひと》名闕く柿本朝臣人麿の意《こころ》に擬《なずら》へて報《こた》ふる歌一首
 
【題意】 「丹比真人」は、丹比は氏、真人は姓《かばね》。「名闕く」は、原拠とした本に名が記してない意で、その誰であるかはわからない。『講義』は、集中に、この氏で名の異なる者が七人あるといってあげている。「意に擬へて報ふる歌」は、人麿の意中を推しはかつて、その心をもって、依羅娘子の歌に答える歌との意である。すなわち試みに人麿に代って詠む意のものである。おそらく人麿夫妻の歌が京に伝えられ、それに刺激されて、そうした文芸的な遊びをしたものであろう。これは奈良宮時代になると珍しくないこととなったものである。
 
226 荒浪《あらなみ》に 寄《よ》り来《く》る玉《たま》を 枕《まくら》に置《お》き 吾《われ》ここにありと 誰《たれ》か告《つ》げけむ
    荒浪尓 縁來玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰將告
 
【語釈】 ○荒浪に寄り来る玉を 「荒浪に」は、荒い浪によって。「寄り来る玉を」は、「寄り来る」は打寄せられて来る。「玉」は、貝の中にある玉にもいい、小石にもいっている。ここは多くの小石の意と取れる。○枕に置き 枕もとに置いて。○吾ここにありと誰か告げけむ 自分がここにいるということを、誰がそなたに告げ知らせたのであろうかで、その侘びしいさまを妻に知らせたことを、不本意に思う心をいったもの。
【釈】 荒い浪によって打ち寄せられて来る沖の小石を枕もとに置いて、自分がここにいるということを、誰がそなたに告げ知らせたのであろうか。
【評】 この「報ふる」というのは、(二二四)の「今日今日と吾が待つ君は石川《いしかは》の峡《かひ》にまじりてありと言はずやも」に対してのものと取れる。妻のその歌が人麿に伝えられ、人麿はそれに対して詠んだとしたのである。初句より三句までは、人麿が海べ(349)に倒れて寐ているものとして、その状態を想像で描いたものである。なぜに海べとしたかは、「石川の峡にまじりて」というのを、文字どおりに貝の多くある所に身を横たえたと取ったところからのことと思われる。これは誤りである。しかし結句「誰か告げけむ」と、告げたことを不本意としている心は、「鴨山の」の心に通うものがあって、技巧があるといえる。事件の関係で取られた歌とみえる。
 
     或本の歌に曰はく
 
227 天離《あまさか》る 夷《ひな》の荒野《あらの》に 君《きみ》を置《お》きて 思《おも》ひつつあれば 生《い》けりともなし
    天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
 
【語釈】 ○天離る夷の荒野に 「天離る」は、天とともに遠く離れているで、意味で夷にかかる枕詞。巻一(二九)に出た。「夷の荒野」は、地方の人げの稀れなさみしい野。○君を置きて 君を葬って、一人残しておいて。○思ひつつあれば生けりともなし 「思ひつつあれば」は、偲びつづけていれば。「生けりともなし」は、(二一二)に出た。生きているという気もしないの意。
【釈】 市より遠い地方の、人げの稀れな野に君を葬って、一人残しておいて、偲びつづけていると、生きているという気もしない。
【評】 これは(二一二)、「衾道を引手の山に妹を置きて山路《やまぢ》を行けば生けりともなし」を模倣し、それを概念化したものである。そのことは挽歌に例の多いことである。歌は、依羅娘子の心を詠んだものと取れ、左注にいう古本も、この巻の撰者もまた、その心をもってここに載せたものと取れる。作者が詳かでないというが、古本の方では前の歌に関係のあるものとし、作者は同じく丹比真人で、依羅娘子の(二二五)「直のあひは」の後の心を推しはかって、人麿にしたと同じ心をもって詠んだものとしたのであろう。そう想像するよりほかない歌に思われる。
 
     右の一首の歌、作者未だ詳かならず。但古本この歌を以てこの次《ついで》に載す。
      右一首歌、作者未v詳。但、古本以2此歌1載2於此次1也。
 
【解】 撰者の添えたもので、この歌は作者が詳かでない。ただし、古本がこの次《ついで》に載せているので、同じく載せるというのであ(350)る。
 
   寧楽宮
 
【標目】 寧楽宮は、元明天皇の和銅三年三月より、光仁天皇に至るまでの七代の宮である。本巻は、元正天皇の霊亀元年までで終っているから、当代の宮としていっているものである。
 
     和銅四年歳次辛亥、河辺宮人《かはべのみやひと》、姫島の松原に嬢子《をとめ》の屍を見て悲歎して作れる歌二首
 
【題目】 「河辺宮人」は、河辺は氏、宮人は名。河辺氏は新撰姓氏録によると、武内宿禰より出、宗我宿禰の後で、天武天皇の御代に朝臣の姓を賜わった氏である。しかるに宮人には姓がないところから、『講義』は考証して、河辺氏には他の一族があって、それは帰化人の一種の称であった勝《かち》の一族であり、宮人はそれであろう。またこの歌の趣から見ると、この河辺の氏は、摂津国川辺郡に因《ちな》みがあるのではないかといっている。「姫島」は摂津の地名で、古史の上に折々出ている地である。所在については諸説があって明らかではない。が、大阪市難波区勘助町、西淀川区姫島町などの説がある。「嬢子の屍を見て」は、歌によると投身して死んだ嬢子のあったことを聞いて知っただけで、屍を目にしているのではない。題詞は文章を主としたものと取れる。嬢子が何ゆえに自殺したかはわからない。美しい嬢子の何らかのあわれさからのこととして、作者はその大体を知っての上の作と思われる。
 
228 妹《いも》が名《な》は 千代《ちよ》に流《なが》れむ 姫島《ひめしま》の 子松《こまつ》が末《うれ》に 蘿《こけ》生《む》すまでに
    妹之名者 千代尓將流 姫嶋之 子松之末尓 蘿生万代尓
 
【語釈】 ○妹が名は千代に流れむ 「妹」は、男より女を親しんで呼ぶ称で、ここは死者であるがゆえに懇ろに呼んでいるものと取れる。「名」は、呼名で、その土地の者にはよく知られてい、作者宮人もむろん知っていたものと取れる。「千代に流れむ」は、千年の後までも、すなわち永く言い継ぐことによって伝わろうの意。これは死者を忘れずに永く記憶することが、その霊を慰める第一の方法だったからである。○姫島の子松が末に 「子松」は、文字どおりに若松。そこは姫島の松原で、松は多いのであるが、その中の小松を選んでいったもの。「末」は、梢。○蘿生すまでに 「蘿」は、松のこけとも、さるおがせともいう。これは老松の梢に生える物としていっている。「姫島の」以下は、「千代」ということを強めるために、具象的に言い添えたものである。
(351)【釈】 妹の名前は、千年の後までも、人が言い継ぐことによって伝わってゆこう。ここにある小松が老松となって、その梢にさるおがせが生える遠い後までも。
【評】 いったがように投身して死んだ若い女の霊を慰める心をもって詠んだ挽歌で、「名は千代に流れむ」というのがすなわち慰めである。いかに挽歌とはいえ、その人に合わせてはその言葉が大げさで、不釣合の感のするものである。生活価値の大部分を夫婦関係に置いたところから、若い女の自殺ということは甚だ感傷を誘うものであったことは、人麿の歌でもわかる。この歌の心もその範囲のもので、作者宮人は、『講義』の注意しているようにその任地の関係から、嬢子の死因を聞き知って、そのためにこうした強い感傷を起こしたものと思われる。歌の調べは、細く弱いところをもち、遷都以後の風をもっている。
 
229 難波潟《なにはがた》 潮《しほ》干《ひ》なありそね 沈《しづ》みにし 妹《いも》が光儀《すがた》を 見《み》まく苦《くる》しも
    難波方 塩干勿有曾祢 沈之 妹之光儀乎 見卷苦流思母
 
【語釈】 ○難波潟 「潟」は干潟のそれで、干潮の時は底をあらわす所。難波の海にはそうした所があって、集中に限りなく出ている。一句、呼びかけたもの。○潮干なありそね 「潮干」は、干潮。「な……そ」は、禁止。「ね」は、他に対して頼み望む意のもの。干潮があってくれるな。○沈みにし妹が光儀を 「沈みにし」は、「に」は、完了。投身した。「妹」は、上の歌と同じ。「光儀」は、姿にあてた漢語。○見まく苦しも 「見まく」は、「見む」に「く」を添えて名詞形としたもので、見るであろうこと。「苦しも」は、心苦しに、「も」の詠歎の添ったもの。
【釈】 難波潟よ、干潮があってくれるな。投身をした妹の姿の現われるのを見るであろうことは、心苦しいことであるに。
【評】 前の歌と同じく、強い感傷をもって死者を隣れんだもので、隣れみは挽歌の心である。憐れみというのは、当時は死穢に触れることを忌む風が甚しかったが、この歌は死穢というようなことは遠く超えて、ただいたましさに堪えられない心から、屍体の現われんことを怖れているものだからである。潮の干満のある難波潟に対して、干潮のなからんことを願い、また干潮があれば必ず屍体の現われることとしているところは、感傷のさせることである。調べは前の歌と同じである。しかし溺れた感傷をあらわし得ているものである。
 
     霊亀元年歳次乙卯の秋九月 志貴親王《しきのみこ》の薨り給ひし時作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「志貴親王」は、巻一(五一)およびその後にも出ている志貴皇子で、親王とあるのは大宝令継嗣令の制に、「凡皇兄弟(352)皇子皆為2親王1」とあるによったものと取れる。それだと親王は、天智天皇の第七皇子、光仁天皇の御父で、追尊して田原天皇と申した方である。しかるに、親王の薨去の事は続日本紀に明記されており、霊亀二年八月の条に「甲寅二品志貴親王薨云々」とあって、年も月も異なっているので、そこに問題が起こってくる。『攷証』は、本集の薨去の年月の方が真であるとして、理由として、元年九月は元正天皇御即位の事のあった時で、薨去のことは、事の性質上忌み憚るべきだとして、薨奏を翌年八月まで延ばしたのであろう。続日本紀に記されている時はすなわち薨奏のあった時で、本集の方が真であるといっている。『代匠記』は、薨去の年月の齟齬《そご》しているところから、志貴皇子であるかどうかに疑いを挾み、『古義』はそれをうけて、日本書紀天武紀に、天武天皇の皇子に磯城《しきの》皇子と申す同名の皇子があられる。この皇子の薨去のことは記載から漏れている。志貴親王の薨去の年月をこれほどまでに誤るべくもないから、これは磯城皇子であろうというのである。『講義』は、本集中にある志貴皇子の御歌六首は、その五まで後の勅撰集に入っているが、いずれも田原天皇御製としている。古来そう認めていたことが知られる。しかし『攷証』のいうがごとく、薨奏が一年も後れるということが当時行なわれていたかどうかすこぶる疑わしい。決定的のことはいえないと、疑いを存している。歌から見ると『攷証』の解に従うよりほかなく思われる。今はそれに従う。作者は左注によって、笠朝臣金村とわかる。
 
230 梓弓《あづさゆみ》 手《て》に取《と》り持《も》ちて 大夫《ますらを》の 得物矢《さつや》手《た》ばさみ 立《た》ち向《むか》ふ 高円山《たかまとやま》に 春野《はるの》焼《や》く 野火《のび》と見《み》るまで 燃《も》ゆる火《ひ》を いかにと問《と》へば 玉桙《たまほこ》の 道《みち》来《く》る人《ひと》の 泣《な》く涙《なみだ》 ※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]《こさめ》にふれば 白《しろ》たへの 衣《ころも》ひづちて 立《た》ち留《とま》り 吾《われ》に語《かた》らく 何《なに》しかも もとなとぶらふ 聞《き》けば 泣《ね》のみし哭《な》かゆ 語《かた》れば 心《こころ》ぞ痛《いた》き 天皇《すめろぎ》の 神《かみ》の御子《みこ》の 御駕《いでまし》の 手火《たび》の光《ひかり》ぞ ここだ照《て》りたる
    梓弓 手取持而 大夫之 得物矢手挾 立向 高圓山尓 春野焼 野火登見左右 燎火乎 何如問者 玉桙之 道來人乃 泣涙 ※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]尓落 白妙之 衣※[泥/土]漬而 立留 吾尓語久 何鴨 本名※[口+言] 聞者 泣耳師所哭 語者 心曾痛 天皇之 神之御子之 御駕之 手火之光曾 幾許照而有
 
【語釈】 ○梓弓手に取り持ちて 梓弓を手に持つてで、弓を射る時の状態。○大夫の得物矢手ばさみ 「得物矢」は、幸矢《さちや》すなわち獲物の幸《さち》のあ(353)るべき矢の、その音の転じたもの。「手ばさみ」は、手の指に挟むこと。強い男子が矢を手の指に挟んで。○立ち向ふ 立って向かうで、連体形「向ふ」で的と続ける、その的を、下の高円の円に転じたのである。初句からこれまでの五句は、円《まと》の序詞。この序詞は、巻一(六一)「大夫《ますらを》の得物矢《さつや》手挿《たばさ》み立ち向ひ射る円方《まとかた》は見るに清《さや》けし」にならつたものと思われる。○高円山に 「高円山」は、奈良市の東にあり、春日山の南に、谷を隔てて立っている山で、聖武天皇の御代、ここに離宮を営まれたことが巻二十(四三一六)によって知られる。今の場合の高円山につき、『講義』は委しい考証をしている。志貴親王の宮は春日にあった。それは光仁天皇の宝亀元年十一月、この親王を追尊して天皇と称し奉った時の宣命に、「御2春日宮1皇子奉v称2天皇1」とあるので明らかである。また親王の御陵は田原西陵と称し、延喜式に「春日宮御宇天皇在2大和国添上郡1」とあり、現在は田原村字東金坊の東矢田原である。さて春日の地から田原西陵への順路は、春日から南へ向かい、高円山の中腹をめぐり、漸次東に転じ、東へと鉢伏峠を越えて行くのだという。すなわち高円山は親王の葬列の経過地点として捉えてあるものなのである。『攷証』もはやくこの事に触れ、「春日にをさめ奉らんとして、葬送のこの高円山をすぎしなるべし」といっている。○春野焼く野火と見るまで 「春野焼く野火」は、いわゆる焼畑をつくるために、春先、枯草を焼き払うことで、熾《さか》んな火だったのである。○燃ゆる火をいかにと問へば 燃えている火を何の火かと怪しみ訊ねるとで、問うたのは作者、問われたのは下の「道来る人」である。○玉桙の道来る人の 「玉桙の」は、道にかかる枕詞。巻一(七九)に出た。「道来る人」は、折から道をこちらへ来る人。○泣く涙※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]にふれば 「※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]」は中国の熟字で、小雨《こさめ》にあてたもの。諸本、文字が幾様にもなっている。「に」は、のごとく。泣く涙が小雨のごとくに落ちればで、道来る人の、作者の問いのために、悲しみを新たにして、はげしく泣き出した状態。○白たへの衣ひづちて 「白たへの」は、白いの意。「衣ひづちて」は、衣が涙のために濡れての意。「ひづち」につき『講義』は、この語の本義は、雨や露のために、衣の下部の泥土に濡れる意で、ここも涙を雨に譬えた関係から、その心をもたせたものだといっている。二句、上に続けて、道行く人の状態。○立ち留り吾に語らく 「立ち留り」は、問いを受けて、答えるために立ちどまった意。「語らく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、語ることには。○何しかももとなとぶらふ 「何しかも」は、「し」は強め、「か」は疑問。なんだってまあというほどの意。「もとな」は、ここは、由もなくというにあたる。「とぶらふ」は尋ねるの意。原文「※[口+言]」は京大本の書入れにあり、吉永登氏の訓による。なんだつてまあ由もないことを尋ねるのかの意。○聞けば泣のみし哭かゆ 「聞けば」は、そういう問いを聞くと。「泣のみし」は、「泣」は、泣き声。「のみ」は、ばかり。「し」は、強めで、声を立ててばかりで、悲しみの甚しい意。「哭かゆ」は、泣かれる。○語れば心ぞ痛き 「語れば」は、問われることのわけを語れば。「心ぞ痛き」は、悲しみの甚しさに、心が痛くなることであるよ。○天皇の神の御子の 「天皇」は、皇祖より歴代の天皇をこめ奉った広い意のもの。「神」は、そうした御方々は神に坐《いま》す意のもの。「御子」は、親王で、天皇の神の御子にまします御方と、志貴親王を讃えての称。○御駕の手火の光ぞここだ照りたる 「御駕」は、尊貴の御方の他行の意で、ここは親王の御葬送を婉曲にいったもの。「手火」は、松明《たいまつ》で、御葬送の夜は、松明を照らしてすることとなっていた。「ここだ」は、多く。「たる」は、連体形で、「ぞ」の結び、照っていることであるよの意。
【釈】 梓弓を手に持ち、強い男子が幸矢《さつや》を指に挾んで、立ち向かうところの的の、その的という高円山に、焼畑をつくるために春先の野の枯草を焼く野火かと見るまでに熾んに燃えている火は、一体何の火なのか訝とって訊ねると、道を来かかる人の、我に問われるままに、泣く涙を小雨のように降らせるので、その白い衣も濡れて、立ちどまって我に答えることには、なんだって(354)まあ由もないことを尋ねるのであるか、そういうことを聞くと、悲しさに声ばかり立てて泣かれる、わけを語れば悲しさに心までも痛くなることであるよ。あれは天皇《すめろぎ》の神の御子なる畏い御方の悲しい御駕《いでまし》の松明の光が、あのように多く照っていることであるよ。
【評】 挽歌は世を去った人に対して、その事を悲しみ、その人を忘れまいといって、霊を慰めることを目的とするものである。直接にその霊に訴えるか、あるいは間接にわが心としていうかの差はあるが、いずれにもせよ慰めを旨とした抒情のものである。しかるにこの歌は、それらとは類を異にしているものである。ここに扱っているものも、志貴親王に対する悲しみの範囲のものではあるが、親王に訴えるものでもなく、自身の悲しみでもなく、単に他人の悲しみを見せられ聞かされているというきわめて間接なもので、挽歌の本旨からは甚しく遊離したものである。表現もまた、挽歌の唯一の方法であるべき抒情ではなく、叙事の範囲のもので、叙事という中にも、むしろ劇的なものでさえある。それは、暗夜の路上に、高円山に怪しくも燃えている火を望んで、何の火だろうと訝る一人と、折から来かかって、その人の疑問に対して、その火の性質を泣きながら説明する他の一人との対話という構成にしているものだからである。志貴親王の薨去という、当時にあっては大きな事件を、暗夜の山上の手火という一些事に集中してあらわそうとし、またその山上は、『講義』の考証によって知られるように、葬列の経過する一地点にすぎないので、いかに印象を主としたものであるかが知られる。これは劇的な構成と称し得られるものである。最も抒情的であるべき挽歌を、最も散文的にし、同時に、最も宮廷的であるべき事件を、庶民的な扱いをしたもので、挽歌としては際やかな推移を示しているものというべきである。
 
     短歌二首
 
(355)231 高円《たかまと》の 野辺《のべ》の秋萩《あきはぎ》 いたづらに 咲《さ》きか散《ち》るらむ 見《み》る人《ひと》なしに
    高圓之 野邊秋芽子 徒 開香將散 見人無尓
 
【語釈】 ○高円の野辺の秋萩 「高円の野辺」は、高円山の西麓の緩やかな傾斜であろうと『講義』はいっている。萩の花の名所であったとみえ、集中の歌に多く出ている。「秋萩」は、四季を通じてある萩であるから、花を意味させるために「秋」を添えたもの。○いたづらに咲きか散るらむ 「いたづらに」は、甲斐なくで、その意は下にいっている。「咲きか散る」は、「か」は疑問で、咲きまた散るであろうかで、咲くも散るも趣のあるものとしていっている。○見る人なしに 「見る人」は、鑑賞する人で、ここは志貴親王をさしている。そのことは長歌との関係であらわしている。親王の宮が高円の野に近かつたのである。
【釈】 高円の野辺の秋萩の花は、甲斐なくも咲きまた散るであろうか。今はその趣を愛《め》でたもう人すなわち親王もなくて。
【評】 親王の薨去は「秋九月」であるから、萩の花の季節である。また「見る人なしに」は親王をさしているもので、それでないと足りない語《ことば》であるから、上の長歌の反歌であることは確かである。しかし長歌との関係から見ると、親王の宮が高円にあることは長歌に明らかに出てはいないので、その上から見ても飛躍がありすぎ、したがって関係の稀薄になっているものである。長歌と反歌とが緊密な関係を保っているのは、人麿時代までで、それ以後になると、憶良、赤人などの歌でも、この歌のような状態を示している。思うに短歌が盛んになり、反対に長歌は衰えて、短歌が時代的に中心となってきたことの反映であろう。この歌も、長歌との繋がりはもっているとはいえ、作者の心を第一に動かしたのは、高円の野辺の秋萩であって、自然の美観である。親王は、その美観のいたずらなるものとなるを惜しむ心から、その繋がりとなられているにすぎないものとなっている。挽歌が、自然の美観のいたずらになるのを惜しむ心から詠まれるということは、歌が生活実感から遊離したことを示すことで、時代的に見て注意されることである。
 
232 御笠山《みかさやま》 野辺《のべ》往《ゆ》く道《みち》は こきだくも 繁《しげ》く荒《あ》れたるか 久《ひさ》にあらなくに
    御笠山 野邊徃道者 己伎太雲 繁荒有可 久尓有勿國
 
【語釈】 ○御笠山野辺往く道は 「御笠山」は、春日神社の裏にある山で、上の高円山の北にあたっている。「野辺」は、御笠山の野辺で、御笠山が春日の内であるから、野は春日野である。「往く道」は、野の中を行く道で、この道は志貴親王の宮へ続く道とわかる。○こきだくも繁く荒れ(356)たるか 「こきだく」は、数の多いことをいう語であるが、今は甚しくの意で用いている。「繁く」は、「繁《しじ》に」「しげり」とも訓める。草の繁っている状態をいったもの。「か」は、詠歎。○久にあらなくに 「久に」は、久しいことではの意で、親王薨去以後の時をいったもの。「あらなく」は、名詞形としたもの。「に」は、詠歎。
【釈】 御笠山の麓の野を行く道は、甚しくも、草が繁って荒れていることであるかな、親王の薨去後久しいことでもないことなのに。
【評】 志貴親王の春日の宮への通路に立って、薨去後たちまちにして、その路に草の繁ってきたことを嘆いた心である。親王薨去とともに宮は住み棄てられ、したがって往来も絶え、野の路はたちまちにして荒れてきたとみえる。上の歌と同じく、長歌との関係において解される歌で、反歌の性格をもったものである。この歌は、宮の荒廃することを悲しむ心のもので、前の歌に較べると挽歌の心が直接で、したがって濃厚である。しかしその心は個人的の感傷で、親王に及ぼしてゆこうとするまでの心はないものである。挽歌を作る態度の上の推移が思われる。
 
     右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ。
      右歌、笠朝臣金村歌集出。
 
【解】 「右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ」という注につき、『講義』は注意すべき問題を提出している。要をいうと、巻一、二を通じて、ここに見るような注をしてあるのは、まず本《もと》として立てた歌があり、他にもそれに類似のあった場合に、「或本に」、あるいは「一本に」として、参照のためにあげたもののみである。しかるにこれは、本説として立てたものがなくして添えてある注である。一方、笠朝臣金村の歌集の歌は、集中に何首かあり、年代の明らかにして最後のものは、「天平五年春閏三月入唐使に贈れる歌」(巻八)があり、結集はその後のこととみなければならない。この注が原《もと》より存していたものとすると、巻二の撰定は天平五年以後ということにならざるを得ない。ここに三つの問題が起こる。一は、この歌は原より存し、左注だけが後人の加えたものとする考え。二は、歌も左注も原本にはなくてすべて後人の加えたものとする考え。三は、歌も左注も原より存したものとする考えだというのである。これは急には定められない問題である。最も想像されやすいことは、三つの中の最初の一で、本巻の撰者がこの歌を取った時には、歌が志貴親王の挽歌であるという、皇室に関係のあるものということを理由として取ったのであって、作者は不明だったのではないかと思われる。題詞にも目録にも作者名のないことがこれを思わせる。また、これに続く「或本の歌」のごとく、反歌に異伝があり、その異伝の原歌よりわかりやすいものになっているところから見て、この歌は口承され流布していたもので、撰者はそれによったのではないかということも思わせられる。すなわちこの歌は、歌の性質によ(357)つて取られたもので、作者の何びとかということは問題にされなかったのではないかと思われるのである。しかるに後年、笠朝臣金村歌集が結集され、それによると金村の作であることがわかったので、発見の興味と、その必要をも感じたところから、いま見るごとき左注を加えたのではないかと想像される。そう想像するのが自然に思われるが、これを証明することは困難である。
 
     或本の歌に曰はく
 
233 高円《たかまと》の 野辺《のべ》の秋萩《あきはぎ》 な散《ち》りそね 君《きみ》が形見《かたみ》に 見《み》つつしのはむ
    高圓之 野邊乃秋芽子 勿散称 君之形見尓 兄管思奴播武
 
【釈】 高円の野の秋萩よ、散ることはするなよ。親王《みこ》の形見として、いつまでも見つつ親王を偲びまつろう。
【評】 (二三一)を詠みかえたものであるが、三句以下は、対象が萩の花であるために、甚しく感傷的なものに感じられる。こうした感傷は、春日の宮に仕えていた人で、しかも女性ででもなければしないものに思われる。とにかく長歌との関係は、全然顧みないものである。(二三一)の歌が口承されているうちに起こった変化と思われる。
 
234 三笠山《みかさやま》 野辺《のべ》ゆ行《ゆ》く道《みち》 こきだくも 荒《あ》れにけるかも 久《ひさ》にあらなくに
    三笠山 野邊從遊久道 己伎太久母 荒尓計類鴨 久尓有名國
 
【釈】 三笠山の野から春日の宮にと往く道は、甚しくも荒れてしまったことかな。親王《みこ》薨去の後久しいことでもないのに。
【評】 (二三二)とは、二句「野辺往く道は」が、「野辺ゆ行く道」となり、四句「繁く荒れたるか」が、「荒れにけるかも」となって、いずれもわかりやすいものになっている。この変化は上の歌と同じく、口承された結果、平明化してきたためと思われる。
 
窪田空穗全集 第十三卷 萬葉集評釋T
 
昭和四十一年一月十五日 初版發行
          定價二〇〇〇圓
 著作者  窪 田 空 穗
 發行者  角 川 源 義
 印刷者  中内 あ き子
 發行所 【株式會社】角 川 書 店
    東京都千代田區富士見町二ノ七
    振替 東京一九五二〇八
    電話東京(【265】)七一一一(大代表)
 
(6)萬葉集 巻第三概説
 本巻に収められている歌は、その数からいうと二百五十二首という相応の量に上るものである。『国歌大観』の番号によると(二三五)より(四八三)にあたるのである。
 歌形からいうと、長歌と短歌とであって、旋頭歌は一首も含まれていない。その割当てからいうと、長歌は二十三首であって、他はすべて短歌である。これをこの巻に先行する巻第一、二に較べると、長歌が減って短歌が著しく増しているのである。これは本巻の歌の詠まれた時代の影響であって、言いかえると巻第一、二よりも時代が降っていることを語っているものである。
 なお、この歌数については言い添えるべきことがある。それは本巻には明らかに重出歌が一首あり、また、一つの歌の伝《つたえ》を異にして、部分的に幾分かの相異のあるにすぎないものの若干がある。これらも上の歌数の中に加わっているのである。重出歌は明らかに誤りであるが、異伝の歌は、独立した歌と見る方がむしろ自然である。それというが、いずれは記載されて伝わった歌で、その意味では記載時代といえるが、同時に一方には口承の風が加わっており、口承歌はそれの行なわれる時と処の相異によって、当事者にふさわしいように改作されるのが普通である。これは一種の創作であって、その当時者はおそらくは誇りをもってしていたことでもある。本来、口承歌は、たえず流動していて定形を保ち難いということがその性格であるから、いずれを真、いずれを偽とは定められないものだからである。
 本巻撰修の方針は、本巻とこれにつぐ巻第四とを一纏《ひとまと》めとし、巻第一と二とを規模とし、一にそれにならい襲おうとしているものである。これを部立の上でいうと、巻第一と二が、両卷を通じて「雑歌」「挽歌」「相聞」に当てているのと同じく、巻第三と四もそれをし、また、巻第一、二が歌の排列は年代順によっているのにならい、これも同じくそれにより、さらにまた、巻第一、二が、作者はその名の明らかなる者に限ろうとし、それも高貴の御方を主としようとしたのに、これも同じくそれによろうとしているのである。しかし時代の相異と、蒐集《しゆうしゆう》しうる資料の相異とは、その結果において、ある程度の相異はきたさしめているのである。
 部立の上で対比させると、巻第一は、全部を雑歌に当てているのに、こちらは、「雑歌」「挽歌」、それに加うるに、「相聞」の一部の「譬喩歌」を当てて、細かく分類している。これだけでは相通うところがない形であるが、それの代わりとして、巻第二の「相聞」「挽歌」に当てているのに対し、巻第四は、全部を「相聞」に当てて、その埋合わせをしているのである。すなわち両卷を三部に当てているという建前は同様であって、こちらは新たに「譬愉歌」という部を設けている点が異なるのみである。
(7) 「譬喩歌」という名称は、新しい部立であるがゆえに説明を要するものであるが、単にそれのみではなく、万葉集時代としては最盛の時期である奈良京時代の歌風を語る上には、重大なる関係をもつものであるから、かたがたここで概説をする。
「譬喩歌」の譬喩という語は、おそらく本卷の撰者の初めて用いたところのものであり、その譬喩は、広く万事にわたっていうものではなく、恋愛の感情を、自然の形象あるいは器物などに寄せていうに限られた名称なのである。この譬喩ということは、これを発生的に見ると、きわめて自然なものであり、したがってきわめて古いものでもある。本来恋愛の感情は、男女互いにもち合う漠然たる憧れの気分であり、その強いものであるにもかかわらず、とらえて語《ことば》とするには最も困難なものである。しかし上代の結婚にあっては、男女互いにこれを詠出する必要があって、せずにはいられなかったのである。その緊張した気分で、自然の風光、身辺の器物に対していると、その上にわが気分と通うもののあることを発見し、その対象にわが気分を絡ませていうことによって、初めてその気分を具象し得たのである。上代の相聞の歌には、その跡をありありと示しているものが少なくはない。この結果に名づけて譬喩というのは、後世の文芸意識よりのことであって、当時者によってはその譬喩は、文芸的のものではないのみならず、方便でもなく、ただちに目的であって、心と物と相一致したものであり、実際であるとともに心でもあったのである。これがいうところの譬喩の発生的に見た輪郭である。さらにこれを実際の成行きについて観《み》ると、「譬喩歌」という部は後の巻第七にもあり、そこには柿本人麿の歌が、この部立の中に取られて多くある。さらにまた巻第十一には、「物に寄せて思を陳ぶる歌」という、「譬喩歌」ということを更に説明的にした部分けがあり、そこには、同じく柿本人麿の歌がじつに多くその中に取られているのである。「譬愉歌」という名称は後のものであるが、事実としては奈良京以前にすでに盛行してさえいたのである。それらの譬喩は、人麿の偉大なる文芸性によって扱われ、美しく微妙なものになっているが、しかしそれを用いている人麿の態度は、発生的の意味でいう譬喩に即したもので、いささかの揺《ゆる》ぎもないものである。すなわち人麿は譬喩に即して自身の恋愛感情をあらわしており、譬喩がすなわち恋愛感情であり、その譬喩をいいおおせることが目的となっているのである。以上のごとき譬喩が、「譬喩歌」という名称のない以前の譬喩であり、これを文芸意識の上からいうと、無意識なものであり、譬喩以前のものだったのである。
 時代が降って奈良京に入ると、当時の人、あるいはそれを繞っている人々の生活気分は著しく変わってきた。飛鳥京、近江朝以来、憧憬し翹望《ぎようぼう》していた時代は現実として眼前に現われ、人々の実生活は、以前に較べるとはるかに物資豊かに、また容易に遂行されるものとなってきた。国家的の不安も解消し、人人は泰平を保証されるに至った。こういう状態の下にあると、国家に対し、また自身の生活に対して、緊張した精神をもって協力する必要は薄らいでき、弛緩してくる。これは具体的にいうと、集団精神が衰え、個人精神が昂まってくることである。(8)さらに一方には、仏教の興隆は、寺院の荘厳をとおして人々の耽美心《たんぴしん》を刺激する上に、漢文学の盛行は、わが国人をして、外国の詩形である漢詩を自由に作り、多くの名手を出すまでに至ったのである。和歌がそれら諸情勢の影響をこうむり、個人性を重んじ、耽美性を尊むものとなってきたのは当然の成行きというべきである。これを具体的にいえば、従来は生活態度の延長として、実際を重んじ、それに即して詠むことを性格としていた和歌は、同じく実際とはしつつも、それの醸し出す美的気分のみを偏愛し、それをわが心内に引きつけ、わがものとし、そこから和歌を詠み出すように変化しきたったのである。恋愛は人間本能の中の最も普遍性をもったものであり、また享楽を目的としているものである。これは美化するということは、心の諸相のうち、最も願わしく望ましいことである。恋愛気分を四季の風物の中の最も美しく、また最もあわれなるものによせ、また身辺の愛用している器物によせていうことは、美化するのみならず朧化《ろうか》し、一般化することである。従来あったものにしてその名のなかった譬喩に、漢詩文と等しなみに譬喩の名を与え、「譬喩歌」という部を特に設けるということは、時代性の反映であり、また得意としたところであろうと思われる。
 さて、以上の三部立と、歌の割当てを見ると、「雑歌」は百五十八首、「譬喩歌」は二十五首、「挽歌」は六十九首である。「譬喩歌」は少数であるが、これは巻第四の全部が「相聞」であることを背後に置いての数である。「挽歌」は、衰えてはいるけれども、相応の数というべきである。
 撰者は、誰かということは、重大な問題であるが、本巻は、大伴家持であることが定説となっている。その根拠となることは、本巻はいったがごとく巻第四と不可分の関係にあるのであるが、その巻第四には、大伴家持が数多の女性より贈られた恋の歌が、集を通じて他の誰にも見られないまでに多く採録されている事実である。相聞といううち、恋の歌は、その当事者が知っているのみで、第三者にはうかがい知り難い性質のものである。それをきわめて多く採録するということは、当事者にして、また歌を文芸として酷愛する人でなければできないことである。また、巻第三、四の撰修された時期と、それらの女性の作歌をした時期とは、さして隔たってはいないとみえるので、それが世間に流布《るふ》する暇もなかったろうと思われる点も加わって、撰修者は家持以外の人ではなかろうと推定されているのである。今はこれに従うのほかはない。
 歌の排列は、いったがごとく巻第一にならって年代順とし、また巻首、部立の最初は、いずれも巻第一にならって、最も古くして、高貴なる御方としようとしている。しかし本巻の撰修にあたって家持の獲た資料は、「挽歌」の首位に据えたのは、(四一五)「上宮聖徳皇子、竹原井《たかはらのゐ》に出遊《いでま》しし時、竜田山の死人を見て悲み傷みて御作《つくりませる》歌一首」と題した、「家にあらば妹が手纏かむ草枕旅に臥《こや》せるこの旅人《たびと》あはれ」である。これは日本書紀、推古紀二十一年の条に出ている、皇子が片岡に出でまし、道側に飢え伏している人を御覧になって詠ませられた長歌と歌因を同じゅうしているものと思われ、一事二伝ではないかといわれている。それとすると、歌形を異にしているという事は、その距離の甚しいものである。撰者としての家持がこれを探ったのは、もとよりしかるべき伝本によってのことと思われる。いつの代にできた異伝であるかはわからないが、永い時代がそれを承認しきたっていたという上からは、これを歴史的事実と認めたとしても、訝《いぷか》るにはあたらないことである。とにかく、古くして新しいものは得難かったのである。これをほかにすれば、「雑歌」の首位の、(二三五)「天皇、雷岳に遊びましし時、柿本朝臣人暦の作れる歌一首」であり、「天皇」は持統天皇にましますと推定されている。これを時代の確実なるものの初めとすれば、以下しだいに降って、「雑歌」にあっては、その年紀の明らかなものは、終わりに近く、(三七九)「大伴坂上郎女」の「祭神の歌」の天平五年十一月、「譬喩歌」は、天平初期のものと思われるだけで年代は不明、「挽歌」では、(四八一)「死せる妻を悲傷《かなし》みて、高橋朝臣の作れる歌」の、天平十六年七月に至っている。
 本巻はいったがごとく、作者の明らかな歌を取ることを建前としているが、その作者は七十余名である。代表的な作者は、柿本人暦、高市黒人、長奥暦、大伴旅人、山部赤人、大伴家持などであり、女流としては、持統天皇を初め、大伴坂上郎女である。本巻は皇族の御歌が少ないのであるが、これは撰者家持の手の及ばず、得難かったためと思われる。なおこれらの作者を年代的に大別すると、奈良遷都以前の人、遷都前後にまたがった人、遷都後の人であるが、遷都以前の人はその二割にすぎず、他の八割は遷都後の人なのである。これは巻第四にも通じてのことで、この両巻の歌風をも暗示しているものである。
 最後に、本巻に現われている歌風について概言すべきであるが、それは上の「譬喩歌」の解でほぼ尽くしているがごとく思われるから、ここでは繰り返さないこととする。要するに本巻の歌風は、奈良遷都前の二割の作者の歌風と、遷都後の八割の作者の比較であって、その二割の歌の八割の歌に推移しきたった跡が、すなわち本巻の歌風なのである。撰者家持は、敏感にその推移の中心をとらえ、これに「譬喩歌」と命名したのである。しかしいったがごとく、それに恰当《こうとう》する数は少なく、「譬喩歌」は新たなる憧憬の目標だったのである。そのいかに進展したかは、本巻以下の立証することである。
 なお、歌風の上で、特に注意される一事がある。それは連作の歌の、意識的に、強力に開展してこようとしていることである。その著しい例は、(三三八――三五〇)「大宰帥大伴卿、酒を讃《ほ》むる歌十三首」と題する連作である。十三首というがごとき多数の連作は、従前にはなく、ここに初めて見るものである。
 連作の歴史は、文献的には古事記、日本書紀の歌謡にまで溯りうるもので、索《もと》め難くはないまでのものである。それらはかりに制作年代に疑いがあるとしても、記紀撰述以前のものであることは確実である。短歌という形式が抒情に通するものとして愛用されるに至った時代、一首の短歌ではその情が尽くせずとしてあきたらず思い、いま一首をそれに連関して詠むということはきわめて自然なことであり、さらにいま一首を詠み添え(10)るということもありうることである。この連作を意識的に試みたのは柿本人麿である。そういう場合には人麿は、抒情的叙事ということを念頭に置き、叙事的進展を試みたので、長歌に代用させようとしたごとく見える。それにしても、その最大量は、巻一(四六−−四九)の四首である。しかるに、上にいう大伴旅人の十三首は、旅人が欝情《うつじょう》に堪えきれず、それにより脱れる術《すべ》として飲酒をした際の、その酔中の心情の起伏を叙したもので、純粋な抒情的なものであり、またあくまでも個性的なものでもあって、文芸ということは全く思料に上せていないかのごとく見えるものである。こうした歌は、歌は集団的のものであり、集団に通じなければならないものとしていた時代にはあり得ないものであって、集団から解放され、個人性をほしいままにすることが是認された時代に入って、初めて存在するものである。これは「譬喩歌」とは全然傾向を異にしているものであるが、その母胎は個人性の確保されての上のことであって、同腹の関係にあるものというべきである。この傾向は、さしたる展開は遂げなかったが、しかしある程度までは継承されるものとなっている。これも明らかに奈良京の歌風の一面である。なおこの傾向は、反面から観れば、短歌の叙事化であって、言いかえれば散文化である。それとしての展開は、本巻には見られないが、後の巻には有力に現われるものとなっている。
 
(11)萬葉集巻第三 目次
雑 歌                          20
 天皇、雷岳に遊びましし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首  20
 天皇、志斐嫗に賜へる御歌一首              23
 志斐嫗の和へ奉れる歌一首                24
 長忌寸意吾暦、詔に応ずる歌一首             25
 長皇子、猟路池に遊び給へる時、柿本朝臣人暦の作れる歌二首 
  井に短歌                       26
 或本の反歌一首                     29
 弓削皇子、吉野に遊び給へる時の御歌一首         30
 春日王の和へ奉れる歌一首                31
 或本の歌一首                      32
 長田王、筑紫に遺され、水島に渡る時の歌二首       33
 石川大夫、和ふる歌一首 名闕く             34
 又、長田王の作れる歌一首                35
 柿本朝臣人麿の覊〔馬が奇〕旅の歌八首          36
 
 
(20) 雑歌
 
     天皇、雷岳《いかづちのをか》に遊びましし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首
255 皇《おほきみ》は 神《かみ》にしませば 天雲《あまぐも》の 雷《いかづち》の上《うへ》に 廬為《いほりせ》るかも
    皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬爲流鴨
 
【題意】 「天皇」は御称号がないので、いずれの天皇にましますかがわからない。思うにこれは、原拠となった記録にこのようにあったのを、そのままに採録したもので、その原拠のものは、事、当代であるがゆえに詳しく記すに及ばないとしたのであろう。それだとその記録は、作者人麿の生存した時代でなくてはならない。人麿は持統、文武両朝の人であるのと、またこの巻は大体年次を逐って排列してあり、これにつぐ歌は女帝でましますところから推して、天皇は持統天皇であろうとされている。「雷岳《いかづちのをか》」は、訓は『考』によるものである。この岳は、いま高市郡明日香村|字《あざ》雷にあり、それについては、日本書紀、雄略紀七年に記録があって、初め三諸岳《みもろのおか》と呼んでいたのを、名を賜わって雷岳としたとあるので明らかである。そこは浄見原宮からも藤原宮からも幾何《いくばく》の距離もない地である。歌は天皇がその岳に行幸になられた時、そうした際の風として人麿が作ったところの賀の歌である。
【語釈】 ○皇は神にしませば 「皇《おほきみ》」は、『考』の訓。旧訓「すめろぎ」。これは当代の天皇を称し奉った語であり、一国の治者、すなわち政治上の君主の意で申したものである。「神」は、天皇を皇祖天照大神の御子として、大神と同じく神にましますとしての称である。「し」は、強め。「ませば」は、敬語である。大君はまさしくも神にましますのでというので、二句、天皇に対しての讃え詞であって、この当時すでに成句となっていたものである。巻一、二の長歌にしばしば出た「八隅知し吾が大王、高照らす日の御子」という讃え詞と、内容としては全く同じものである。短歌が時代の下るとともに盛行し、従来の讃え詞は形式として用い難くなった関係上案出されたものと思われる。なおこの系統の詞として、「現つ神」「現人神」がある。○天雲の雪の上に 「天雲の」は、天の雲のの意であるが、下の「雷」の居場所としていったもので、天の雲の中にいるの意で、雷の枕詞としたもの。「雷」は、上よりの続きは鳴神《なるかみ》ともいわれている雷であるが、それを雷岳としての雷に転義したもの。「上に」は、雷岳の頂上にの意。二句、天の雲の中にいる雷の、その雷という名を負っている雷岳の頂上にの意。「雷」は、転義させてあり、またそれであればこそ、「天雲の」は枕詞という形のものとなっているのであるが、作意から見ると、その転義がなく、文字どおり「天雲の雷」そのものなのである。(21)形としては転義したごとくにし、心としてはしていないという、その微妙な点が人麿の志したところであり、それがまた一首の眼目ともなっているのである。しかしこのことは、この当時にあっては、必ずしも技巧と称すべきものではなく、むしろ常識であったと思われる。それは上にいった雄略の巻によると、雷岳に坐《いま》す神は怖るべき蛇《おろち》であり、鳴神《なるかみ》もまた蛇だったのである。また神の坐す山は、山そのものも神であると信じられていたので、「天雲の雷」と、雷岳としての「雷」とは、信仰の上からはほとんど差別のないもののごとく感じていたことと思われる。もっとも時代的にいうと、信仰そのものも推移をまぬかれず、上代信仰はしだいに衰える傾向を取っていたとはみえるが、この場合、事としては天皇の行幸の際であり、歌はそれに対する賀歌であり、詠む者は上代信仰の保持者である人麿であるから、この二句の心は、厳存の事実として、安んじて言いえたものと思われる。○庵為るかも 「廬」は、かりそめの家に宿ることをあらわす名詞。「為《せ》る」は、『槻落葉』の訓。旧訓「する」。「せる」は、「しある」の約で、事の継続している状態をあらわすもの。「かも」は詠歎。ここは、かりの御座所を設けて、そこにいさせられることよの意で、お慰みの意をもって国見をしていらせられることを、距離をおいて申した語。
【釈】 大君はまさしく神にましますので、天雲《あまぐも》の中にいる雷《いかずち》の、その雷岳《いかずちのおか》の上に、かりそめの御座所を設けて、その内にいさせられることであるよ。
【評】 天皇を賀する心をもって、御稜威《みいつ》を誘えた歌である。上代にあっては、天皇の御稜威の最も際《きわ》やかに現われているのは、この国土に鎮まるあらゆる神々が、天皇に対しては臣としての礼をとり、その貢《みつぎ》を献じ、その力を奉るところにあるとした。巻一(三八)「吉野宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」、また(五〇)「藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌」は、いずれも山の神、河の神のこの事をするさまをいっているものである。更にまた、巻五(八九四)「好去好来の歌」は、ひとりこの国土の内のみならず、遠き海原をうしはく神々も、天皇の御使の乗る船を、みずから力を労して護ることをいっているのである。神は無上の力をもっているものと信じていた時代に、天皇はその神々を帰服せしめていらせられるということは、まさに絶対の尊さだっ(22)たのである。この歌はその信仰を下に踏んでのものである。「天雲の雷」は、「語釈」でいったがように、上代にあっては怖るべき神であった。しかるに天皇は今、その「雷の上に廬為る」という状態を示していらせられるのである。これは御稜威の積極的な現われというべきであるとし、それを捉え、それを中心として一首を成しているのである。「天雲の雷の上」という言い方は、形式から見れば文芸的のものとみえるが、精神としては文芸以前のもので、神の神たる天皇の御稜威をあらわそうとしていっているものであり、その文芸的の方面は、付属にすぎないのである。この、形式としては文芸であるが、精神としては文芸以前のものであり、しかもその関係は微妙であって、一見分かち難いものとなっているところに、人麿の国民としての態度はしばらくおき、歌人としての技倆が現われているのである。「皇は神にしませば」は成句であるが、この場合、その下に対しての繋がりは緊密を極めたものであり、また、お慰みの心をもっての国見を「廬為るかも」と、尊崇の心より距離をつけ、温藉《おんしや》の心をもって具象している技倆も、いずれも秀抜とすべきである。
 
     右、或本に云ふ、忍壁皇子《おさかべのみこ》に献れるなり。その歌に曰はく、王《おほきみ》は 神《かみ》にしませば 雲隠《くもかく》る いかづち山《やま》に 宮敷《みやし》きいます
      右、或本云、獻2忍壁皇子1也。其歌曰、王 神座者 雲隱 伊加土山尓 宮敷座
 
【語釈】 ○右、或本に云ふ一本は伝を異にして、忍壁皇子に献ったものとなっているというのである。○忍壁皇子 巻二(一九四)に出ており、天武天皇の皇子である。○王は神にしませば 当時成句となっており、天皇より皇子にも及ぼしたものと取れる。○雲隠る 「雲隠る」は、「隠る」は古くは四段活用であって、これは連体形である。雲に隠れているところのの意で、下の「雷」の状態をいったものである。上の歌の「天雲の」と内容は同じであるが、それを説明的にしたものである。○いかづち山に 「雷」を山の名としてのそれに転義したもので、この点も上の歌と同様である。したがって「雲隠る」は、形としては枕詞であるが、心としては必要な修飾であって、この関係もまた上の歌と同様である。○宮敷きいます 「宮」は、天皇、皇子など、神とます方《かた》のいます所の称で、上の歌の「廬せる」という御座所も宮である。「敷き」は、「知り」と同義で、ここはお営みになること。「います」は、いる意の敬語。
【釈】 大君はまさしく神にましますので、雲の中に隠れている雷、その雷という名の山に、宮を営んでいさせられる。
【評】 この歌は、上の歌とは題詞を異にしており、歌の語もかなりまで異なっているので、伝を異にしたものというよりも、むしろ別の歌と見るべきものである。これを伝の異なったものとのみ見たのは、一首の内容の近似していることを理由としてのことと思われる。忍壁皇子は持統天皇の御代の方であるから、上の歌と何らかの関係のあるものと見てのことかもしれぬが、(23)それはわからないことである。内容が近似しているとはいうが、それは単に素材のみのことで、双方のもつ抒情味の上には大きな相違がある。上の歌は精神力の緊張をもち、したがって躍動があり、全体として立体感の深いものであるが、この歌は抒情味より叙事性の勝ったもので、平面的な感をもったものである。その上より見ると、異伝というより本質の異なったものである。これを異伝と見たのは撰者の見である。『国歌大観』は番号を付していない。
 
     天皇、志斐嫗《しひのおみな》に賜へる御歌一首
 
【題意】 「天皇」は、上の歌に時代的に続けていると思われる点、また御製が女帝にましますと思われる点、さらにこれに続く歌が文武天皇の御代と思われる点などから、持統天皇であろうとされている。「志斐嫗」は、いかなる人であるかわからない。志斐は氏で、嫗は老女の通称であるとわかっているだけである。その氏というのは、『新撰|姓氏録《しようじろく》』に、天武天皇の御代、大彦命の後である阿部名代が、阿倍志斐連なる氏姓を天皇より賜わったことが載っているので、それによって知られるのである。御歌は御製とあるべきである。
 
236 不聴《いな》といへど 強《し》ふる志斐《しひ》のが 強語《しひがたり》 このごろ聞《き》かずて 朕《われ》恋《こ》ひにけり
    不聽跡雖云 強流志斐能我 強語 比者不聞而 朕戀尓家里
 
【語釈】 ○不聴といへど 「不聴」の「聴」は、聴許と熟するそれで、ゆるすの意のもの。義訓である。否《いな》の意で、用例の多い語。否、聞かずというけれどもの意。○強ふる志斐のが 「強ふる」は、強いて聞かせようとする意。「志斐の」の「の」は、東歌にだけ例のあるもので、巻十四(三四〇二)「背なのが袖もさやに振らしつ」、同(三五二八)「妹のらに物いはず来にて」を見ると、親しんでいう際に添えて用いる詞であろうという。○強語 強いて聞かせようとしてする物語の意と取れる。こうした語《ことば》の存在するのは、一方には聞かせなくてはならないこととして物語をする人があり、同時に一方には、そうした物語を聞くことを好まない人とがあって、そのために成立った語と思われる。またそうした物語は、単なる興味のものではなく、何らかの必要をもったものでなくてはならない。その上からいうと「語《かたり》」という語は語部《かたりべ》の語《かたり》を連想させるものである。語部の語ったことは、日常生活の上で心得ておかなければならない事柄の根幹をなすもので、古事記、日本書紀の資料となったものと範囲を同じゅうするものと思われる。志斐嫗はそうした物語をすることを職としていた者ではないかと想像される。○このごろ聞かずて しばらくのあいだ聞かないので。嫗が宮に参らなかったためと取れ、したがって嫗は直接に宮にお仕え申してはいなかった者と取れる。○朕恋ひにけり 「朕」は、天皇の御自称に限った文字。「恋ひにけり」は、「に」は完了。恋しがっていたことであるよの意で、恋しがられたのはその「強語」である。
【釈】 否、聞くまいというけれども、しいて聞かせるところの志斐のが強語よ。この頃は開かずにいるので、朕《われ》は恋しがってい(24)たことであるよ。
【評】 この御製を嫗に賜わったのは、嫗の和《こた》え奉る歌とあわせてみると、嫗がしばらく間《あいだ》をおいて宮に参り、天皇に謁を賜わった時であったと思われる。口頭をもってする言葉の代わりに歌をもってするというのは上代の風で、これもその範囲のものであるが、歌をもってするのは、何らかの意味において、そうする必要のある場合に限られたことと思われる。この御製は、必要というほどのものは認められず、善意をもってのお戯れで、興味よりのものと思われる。これは歌が文芸的となってき、時代とともにそれがしだいに濃厚になってきていたためと取れる。お戯れというのは、嫗を前にした、「不聴といへど強ふる志斐のが強語」と、揶揄《やゆ》なさったところにある。しかし一首の中心は、結句の「朕《われ》恋ひにけり」にあって、「恋ひ」というのは、表面は「強語」であるが、裏面は嫗その人に対しての御心もこもっているものと思われる。すなわち上の揶揄はこの好意をお示しになるためのものなのである。これはいわゆる語の機知に属するものであるが、それによって好意の限度をお示しになり、そうした際にも御身分の隔りをおつけになっているもので、含蓄をもったものである。「強ふる志斐のが強語」と、「し」の頭韻を踏んでいられるのは、おのずからにそうなったものと思われるが、無意識のものとは思われない。全体がおおらかに、温かく、客観性を十分にもたせていらせられるところは、尊貴の御歌風で、それに上の微細感を溶かし込まれているものである。
 
     志斐嫗の和《こた》へ奉れる歌一首 嫗の名未だ詳ならず
 
237 不聴《いな》といへど 話《かた》れ話《かた》れと 詔《の》らせこそ 志斐《しひ》いは奏《まを》せ 強話と言《しひがたりの》る
    不聽雖謂 話礼々々常 詔許曾 志斐伊波奏 強話登言
 
【語釈】 ○不聴といへど 上の歌と同じ。○話れ話れと詔らせこそ 「話」は、かたるの意をもった字で、典故のあるもの。「詔らせ」は、「のる」の敬語で、「のる」は告ぐる。「詔らせこそ」は、已然形よりただちに下に接続する古格のもので、後世の詔らせばこそにあたるもの。○志斐いは奏せ 「志斐い」の「い」は、主格に添えていう助詞で、平安朝以後は廃ったもの。「奏せ」は、上のこその結。○強話と言る 「話」は、上の「話れ」と同じ。強語だというで、上に「詔らせ」の敬語があるので、ここはそれで足りたとしたものである。
【釈】 否《いや》と申すけれども、語れよ語れよと仰せになればこそ、志斐は奏《もう》すのである。それを強語だと仰せられる。
【評】 この歌は、御製の心に縋り語に縋りつつ、ただ弁明をしたのみのものである。結句の「強話《しひがたり》と言《の》る」は、明らかに恨みを帯びたものである。この嫗の歌の生《き》一|本《ぽん》なところから見ると、事の真相は嫗のいうがごとくであって、天皇には「強語」と仰(25)せられるところのものをお好みになっており、同時にまた古い物語は、「強語」をもすべき大切なものであることをもお認めになっておられてのことと思われる。それだと御製の揶揄と機知とはますます加わりきたることとなる。和え歌は「朕《われ》恋ひにけり」には全く触れていないが、この生一本の歌は、その思し召に感動してのものと取れる。君臣の和気を眼に親しく感じさせられるような御製と和え歌である。
 
     長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》、詔《みことのり》に応ずる歌一首
 
【題意】 「長忌寸奥麿」とあるのと同じ人と思われる。この人の歌は巻一(五七)「二年(大宝)壬寅、太上天皇の参河国に幸しし時の歌」と題する中に一首あり、文武天皇大宝年代に生存した人とわかる。また巻九、「大宝元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇の紀伊国に幸《いでま》しし時の歌十三首」の中、(一六七三)はこの人の歌であり、時代は上と同様である。「詔」とあるは、年代的に見て文武天皇の詔であろうとされている。また、所は、歌で見ると海に近い離宮であるとわかるところから、孝徳天皇の坐しました難波豊崎宮で、時は、続日本紀に、文武天皇三年正月「幸2難波宮1」とある時であろうとされている。歌は、詔をこうむって作ったものである。
 
238 大宮《おほみや》の 内《うち》まで聞《きこ》ゆ 網引《あびき》すと 網子《あご》調《ととの》ふる 海人《あま》の呼《よ》び声《ごゑ》
    大宮之 内二手所聞 網引爲跡 網子調流 海人之呼聲
 
【語釈】 ○大宮の内まで聞ゆ 「大宮」は、皇居を尊んでの称。大宮の内までも聞こえてくるというので、大宮は尊く畏く、庶民の声などは聞こえるべくもない所であるとし、それがいま聞こえてくると、詠歎をこめていったもの。○網引すと 「網引」は、漁りをしようとして海に張ってあった網を、魚を捕えるために陸の方に引き寄せることをあらわす語で、名詞。「すと」は、その網引をするとて。○網子調ふる 「網子」は、網に従事する者の総称で、田を作る者を田子というと同じである。「調ふる」は、巻二(一九九)「斉《ととの》ふる 鼓《つづみ》の音《おと》は」につき、『講義』が詳細に研究し、軍隊の進退の節度を示すために、鼓を鳴らすことをいっている語だとした。ここも同様で、網引をするにあたり、網子の調子を合わせさせる意である。○海人の呼び声 「海人」は、本来は部族の名であったのが、その部族が海業をするところから、転じて海業をする者の意となった。ここはそれで、網子の頭《かしら》であることがわかる。「呼び声」の「呼ぶ」は、高声を発することにもいう語で、ここはそれである。上よりの続きで、調子を取らせるための高声で、今の音頭を取る、あるいは号令をかけるというにあたる。
【釈】 尊く畏い大宮の内までも聞こえてくる。今、網引《あびき》をするとて、それをする網子《あご》に、調子を合わせさせるためにするところの海人の懸声《かけごえ》の高声は。
(26)【評】 大和《やまと》の藤原宮にまします天皇には、海の光景が珍しく、したがって面白いものに思し召され、供奉の意吉麿にこれを歌に作れと仰せられたものと思われる。意吉麿は詔を畏んで、大宮と海人の呼び声をつないで一首の歌とし、表面は海の光景に興じ、それを客観的に叙したものとし、裏面には、畏き皇居と賤しき庶民とを「呼び声」を通して接近せしめ、天皇にはその声に興じられ、庶民はその声をたよりに勤労を続けている状態を暗示して、それによって国家を賀する情を抒《の》べたのである。海の光景の中「海人の呼び声」だけを選び、それを過不足なく扱い、太く、明るく、朗らかな調べに溶かし込んで、賀の心を徹底させているところ、まさに手腕と称すべきである。
 
     右一首
 
【解】 「題意」に引いた巻一、「二年壬寅云々」の行幸の際の歌にも、これと同じき左注がある。行幸の際の歌は、行幸その事を中心として、何人かの歌を集めるところから、このような注のあるのが型となっていたと思われる。それだとこの注は原拠となった本にあったままを記したものと取れる。
 
     長皇子《ながのみこ》、猟路池《かりぢのいけ》に遊び給へる時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「長皇子」は、巻一(六〇)に出た。天武天皇の第四皇子である。「猟路地」は、『大和志』に、「十市郡猟路小野、鹿路《ろくろ》村、旧属2高市郡1」とあり、今の桜井市鹿路で、多武峰より吉野に行く道にあたっている山中である。『講義』は、鹿路《ろくろ》というのは鹿路《かじ》を音読したもので、鹿路は猟路《かりじ》の約であろうといっている。そこには今は池はないが、涸《か》らせたのであろうという。
 
239 八隅知《やすみし》し 吾《わ》が大王《おほきみ》 高光《たかひか》る 吾《わ》が日《ひ》の皇子《みこ》の 馬《うま》並《な》めて み猟《かり》立《た》たせる 弱薦《わかごも》を 猟路《かりぢ》の小野《をの》に ししこそは いはひ拝《をろが》め 鶉《うづら》こそ いはひ廻《もとほ》れ ししじもの いはひ拝《をろが》み 鶉《うづら》なす いはひもとはり 恐《かしこ》みと 仕《つか》へ奉《まつ》りて 久堅《ひさかた》の 天《あめ》見《み》る如《ごと》く まそ鏡《かがみ》 仰《あふ》ぎて見《み》れど 春草《はるくさ》の いやめづらしき 吾《わ》がおほきみかも
    八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三※[獣偏+葛]立流 弱薦乎 ※[獣偏+葛]路乃小野尓 十六社者 伊(27)波比拜目 鶉己曾 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拜 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久竪乃 天見如久 眞十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞
 
【語釈】 ○八隅知し吾が大王高光る吾が日の皇子の 巻一以来しばしば出た。天皇に対しまつる讃え詞で、皇子にも適用したものである。今は長皇子に対してのもの。○馬並めてみ猟立たせる 「馬並めて」は、乗馬を並べ連ねて。「立たせる」は、猟をする意の「立つ」を敬語「立たす」にし、それと完了の「り」との熟合した語。なさるというにあたる。○弱薦を猟路の小野に 「弱薦」は、若い菰《こも》で、それを苅ると続けて「猟」に転じさせた枕詞。「猟路の小野」は、「小」は美称。「猟路」は地名で、「野」も「池」もそれにちなんでの称と取れ、野の中に池があり、池を繞《めぐ》った辺《あた》りで、猟をされたものとみえる。○ししこそはいはひ拝め 「しし」は、原文「十六」、四々十六という算術の九々より出た字であろうという。「しし」は肉《しし》で、その肉を食料とするものの総称であり、主として猪鹿をいう。これは猟の獲物として代表的のものである。猪鹿はその習性として、膝を折って腹這いになるものである。今は主としてその点を捉えていっている。「いはひ」の「い」は、接頭語。「はひ」は、「這ひ」。「拝《おろが》め」は、「拝《おが》む」の古語で、「こそ」の結である。続けては、這って拝んでいるの意である。日本書紀、天武天皇十一年九月の詔に、「勅自v今以後、脆礼《きれい》、匍匐礼《ほふくれい》並止之、吏用2難波朝廷之立礼1」とある。今はそれより幾何もたたない時であるから、公式の場合は立礼となったであろうが、普通の場合には跪礼、匍匐礼を行なっていたことと思われる。猪鹿の膝を折って腹這いになっている状態は、当時の礼の状態さながらだったのである。この状態を単に儀礼のものと見ず、臣民の天皇、皇子に対すると同じく、猪鹿の奉仕を誓っている状態と見たのである。奉仕とはこの場合、皇子の獲物となって身を捧げることである。二句、この心を具象化させ、暗示的にいったものである。○鶉こそいはひ廻れ 「鶉」は、猪鹿についで猟の獲物となるものである。この鳥は、その習性として、めぐり回っていたものである。「いはひ廻《もとほ》れ」は、「いはひ」は上と同じく、「廻れ」はめぐり回る意で、「れ」は「こそ」の結である。「いはひ廻る」は匍匐礼の状態で、その心は、上と同様である。なお、巻二(一九九)に「いはひ廻り 侍候へど」と出ていて、そこでもいった。この二句は上の二句と対句で、獣に対して鳥をいったもので、これによって獲物として皇子に獲らるべきものを網羅したのである。○ししじものいはひ拝み 「ししじもの」の「じ」は、名詞について形容詞化する辞で、それを「しし」に添え、「もの」に続けて熟語としたもの。ししのごときものの意。巻二(一九九)に出た。「いはひ拝み」は、上に同じ。猪鹿のごとくに腹這いとなって拝みで、これは供奉の臣下の皇子に奉仕する心を、御猟の野の状態を通してあらわしたもの。○鶉なすいはひもとほり 「鶉なす」は、鶉のごとく。「いはひもとほり」は、上と同じ。二句、上の二句と対句となっている。以上四句は、臣下の者の皇子に対する絶対の奉仕をいったもので、上の四句の獣、鳥の奉仕を展開させたものである。しかし形としては、獣鳥と不離の関係においてし、しかも対句としたものである。○恐みと仕へ奉りて 「恐《かしこ》み」は、『玉の小琴』の訓。旧訓「かしこし」。「と」は、として。○久堅の天見る如く 「久堅の」は、天にかかる枕詞。「天見る如く」は、下の「仰ぎ」に続き、その譬喩。○まそ鏡仰ぎて見れど 「まそ鏡」は、真澄《ますみ》鏡の意とされている。『講義』は、それだと「ます鏡」の転であろうが、「ます鏡」という語は当時のものには見えないと注意している。飽かず見る意で、「見」にかかる枕詞。「仰ぎ見れども」は、尊きものに対する心を具象的にいったもの。そのようにしているけれども。○春草のいやめづらしき 「春草の」は、春の草のごとくで、意味で「めづらし」にかかる枕詞。「いやめづらしき」は、ますます愛《め》でたいところの。○吾がおほきみかも 「おほきみ」は、長皇子。「かも」は詠歎。
(28)【釈】 安らかに天下をお治めになるわが大君にして、天《あめ》に光る日の神の皇子《みこ》の、乗馬を並べ連ねて御猟をなされるところの、若菰を苅るという、その猟路の野に、猪鹿《しし》こそはまず膝を折って腹這いの拝礼をして、皇子への奉仕を誓いまつっている。鶉こそ腹這いの拝礼をしてめぐり廻って、皇子の奉仕を誓いまつっている。その猪鹿のごとく腹這つての拝礼をし、その鶉のごとく腹這いめぐり廻っての拝礼をして、供奉の臣下も恐《かしこ》しとしてお仕え申し上げて、久堅の天《あめ》を見るごとくに仰ぎ、まそ鏡のごとく飽かずも見るけれども、春草のごとくますます愛でたくいらせられるわが皇子にましますことよ。
【評】 天皇の行幸の際、皇子の行啓の際などは、それをしかるべき機会として、供奉の臣下より賀歌を献じるのが上代の風であった。これは言霊《ことだま》の信仰から、賀歌そのものに御稜威を加えうる力がありとしてのことで、俵礼としてではなかったと思われる。漢土の風の影響もあったろうとは思うが、それは刺激にすぎなかったろうと思われる。当時の歌風として、実際に即し、具体的に詠まなければならない関係上、その場合の光景は叙してはいるが、それは賀の精神を徹底させるための方便で、目的ではなかったのである。この歌もその範囲のもので、「八隅知し吾が大王、高光る吾が日の皇子の」に始まり、「吾がおほきみかも」に終わって、皇子を讃えることに終始しているのはそのためである。一首二段から成っており、第一段は、「鶉こそいはひ廻れ」までである。これは野に棲む猪鹿《しし》、鶉のごとき禽獣までも、歓び進んで、身を捧げて大君に奉仕しようとしている心を、状態を通して具体的にいったものである。修辞が巧妙であるがために、一見文芸的のものに感じられるが、意とするところは、この国土の内にある一切のものは、その大君のものであることを意識し、それを歓びとしていることをいっているものである。第二段はそれより結末までで、こちらは供奉の臣下の奉仕の心をいったものである。御猟場そのものを主としたものとすれば臣下のことはいうを要さないものともなるのであるが、皇子に対しまつっての讃え詞とすると、これは何にも増して重いものでなくてはならないので、重く、終末に据えていっているのである。したがってこの供奉の臣下は、国民全体を代表する意をもつものであるが、その意は、上の禽獣との対照によって暗示し得ているといえる。「ししじもの」「鶉なす」は、形としては枕詞であるが、意としては重いもので、その場合に即し、事と心とを緊密に関係させ、簡潔に言いあらわす役をしているもので、文芸的のものではない。甚しく文芸的に見えもするのは、上の場合と同じく人麿の修辞力のいたすところである。次に、一首全体の上からいうと、対句が多く、枕詞が多く、まさに口承文学の系統のものである。しかしそれとすると、簡潔にして含蓄をもち、また部分部分に細心の用意をもっていて、記載文学としても優れたものである。部分的の方をいうと、「猟路の小野」をいふに、「弱薦《わかごも》の」という枕詞を用い、「いやめづらしき」をいうに「春草の」という枕詞を用いている。狩猟は冬から春までに限られた遊びである。これらの枕詞は、眼前を捉えてのもので、その時が春の、若草の萌え出した時であったことを暗示しているものである。文芸性の豊かさを思わせられる。
 
(29)     反歌一首
 
240 久堅《ひさかた》の 天《あめ》ゆく月《つき》を 網《あみ》に刺《さ》し 我《わ》が大王《おほきみ》は 蓋《きぬがさ》にせり
    久堅乃 天歸月乎 網尓刺 我大王者 盖尓爲有
 
【語釈】○久堅の天ゆく月を 「久堅の」は、天の枕詞。「帰」は、行くに当てた字で、典故のある、集中に用例のあるものである。「天ゆく月を」は、天を行くところの月をで、下の「蓋《きぬがさ》」に続くもの。○網に刺し 「網」は、諸本同様で、旧訓「あみ」である。『考』は「綱」の誤写とした。『攷証』を除いての諸注すべてそれに従っている。『講義』は『攷証』に従い、解釈の上で補正を加えている。要は、誤写説は証のないもので従いかねる。「刺す」は、集中に用例のある語で、渡り鳥を捕えるために網を張る、その張る意で、ひいて、烏を網の内にとどめておくにもいっている。しかるに「綱」には「刺す」という語は縁のないものである。ここは、空を渡る月を、おりから遊猟の場合である連想として、空を行く渡り鳥を網で掃え、またその内にとどめておくこととし、皇子がその事をなされているとしたのである。したがってこれは月の状態をいったもので、下の「蓋」にまでは及んでいないのだという。従うべきである。○我が大王は蓋にせり 「我が大王」は、長皇子。「蓋」は、絹張の長柄のついている傘。天皇、親王、公卿など外出の時、後ろより差し翳《かざ》すものである。
【釈】 久堅の天《あめ》を渡ってゆく月を、網を張ってとどめて、わが大君は蓋《きぬがさ》にしている。
【評】 長皇子の猟の御帰途は夜に入り、おりから月のある頃で、月が皇子の頭上に現われたのを見ての歌である。作意は、月を蓋と見立てたことであるが、この見立ては、単に興味よりした文芸的のものではなく、意図をもってのものである。意図というのは、月が蓋となったのではなく、皇子が蓋となされたので、そこに人麿の心があるのである。長歌の方はいったがように、第一には野に棲む禽獣、第二には供奉の臣下が、心より皇子に奉仕しようとしていることをいったのであるが、反歌に至るとさらに進展させて、皇子の御稜威は天上の月をもわが用具とし給うということをいおうとしたのである。そうしたことは、皇子といえども不可能なことなので、それをつとめて合理的に、また妥当のことにしようとして、今の猟の場合に関係させて、「網に刺し」といったのである。これが作意である。月を蓋と見、また網に刺すというようなことは、単に文芸的のもののように見えるのであるが、これは人麿の豊かなる詩情のさせていることで、作意の上からいえば従属的のものにすぎず、技巧と称すべきである。また、昼の猟に対して夜の帰途を捉えた点も、時間的進展を与えたことで、同じく技巧とすべきである。
 
     或本の反歌一首
 
【解】 「或本」には、上の長歌の反歌として、次の一首があるの意と取れる。
 
(30)241 皇《おほきみ》は 神《かみ》にしませは 真木《まき》の立《た》つ 荒山中《あらやまなか》に 海《うみ》を成《な》すかも
    皇者 神尓之生者 眞木乃立 荒山中尓 海成可聞
 
【語釈】 ○皇は神にしませば (二三五)に同じ。○真木の立つ荒山中に 「真木の立つ」は、「真木」は良材の意で、杉檜など深山の木。それの立つで、下の「荒山」の状態をいつたもの。「荒山」は、人げの疎い山。 ○海を成すかも 「海」は、当時の人は、湖も、広い池をも称していた称。「成す」は、つくる意。「かも」は、詠歎。
【釈】 大君はまさしく神にましますので、御稜威が限りなく、海などとは思いもよらない真木の立つている荒山の中に、その海をつくることであるよ。
【評】 「題意」でいつたように、猟路の小野は「荒山中」と称しうる所であり、また当時の称によれば「猟路地」は「海」と言いうるものである。また、この歌の作意は、大君の御稜威の限りなさを讃えたものである。猟路地の掘られたのはいつのことかはわからないが、これを大君|御業《みわざ》として見る上では、現在のこととしても妥当を欠かない。さてこの歌を上の長歌の反歌として見ると、長歌はいったがように皇子を大君に准じて、その御稜威を讃えることを作意としたものであるから、同じく御稜威を讃えるこの歌を、その反歌として見ても不自然ではない。歌も熱意と魄力《はくりよく》のあるもので、人麿の作と思われるものである。これを反歌とした本のあるのも偶然とは思われない。しかしこの歌を前の歌に較べると、長歌との關係が稀薄になり、有機的な微妙な味わいが減つてくる。あるいはこの歌が初稿であって、後に改められたというような事情のあるものではないかと思われる。
 
     弓削皇子《ゆげのみこ》、吉野に遊び給へる時の御歌一首
 
【題意】 「弓削皇子」は、巻二(一一一)に出た。天武天皇第六皇子で、上の長皇子の同母弟である。文武天皇の三年秋七月薨去された。
 
242 滝《たぎ》の上《うへ》の 三船《みふね》の山《やま》に 居《ゐ》る雲《くも》の 常《つね》にあらむと わが念《おも》はなくに
    瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常將有等 和我不念久尓
 
【語釈】 ○滝の上の三船の山に 「滝」は、吉野宮のあったあたり、すなわち吉野川の水がそのあたりの岩石に激している所。「上」は、ここは、(31)上方の意のもの。「三船の山」は、「大和志」に、「吉野郡御船山、在2菜摘山東南1、望v之如v船、坂路甚險」とあるもの。○居る雲の 「居る雲」は、かかっている雲で、「の」は、のごとくの意のもの。雲の早くも散って消えることを捉えて、譬喩としたもの。○常にあらむと 「常」は、常住不変の意。「あらむ」は、生きていようとは。○わが念はなくに 「なくに」は、「な」は打消の助動詞。「く」は「な」を名詞形とするために添えたもの。「に」は詠歎。巻一(七五)に既出。我は念わないことであるを。
【釈】 滝《たぎ》の上方の三船の山にかかっている雲のごとくに、久しく生きていようとは、我は思わないことであるを。
【評】 吉野に遊び、大宮のある滝《たぎ》の辺りから、三船の山にかかっている雲を眺められ、その雲の散って消えやすいことに思い及ぶと、一転してわが生命の短かきことが連想され、感傷して嘆かれた御歌である。実際に即し、心理の自然を追ったものであるところから、感のあるものとなっている。初句より三句までは、形としては四、五句の譬喩であるが、心としてはむしろそちらが主で、四、五句は、この景よりの連想であって、その意味で譬喩以上のものである。恋の懊悩《おうのう》などの場合は知らず、単に自然の佳景に対して、生命の短かさを嘆くというのは、この時代にあっては文芸性の多いもので、例も少ないものである。この感傷は、資性よりのものではないかと思われる。それは巻二(一一九)以下の四首は、場合は違うが、この時代としては感傷性の強く、繊細を極めたものであるところから類推されるのである。
 
     春日王《かすがのおほきみ》の和へ奉れる歌一首
 
【題意】 「春日王」は、伝が明らかでない。続日本紀に、「文武天皇三年六月庚成、浄大肆春日王卒」とある方で、志貴皇子の御子の春日王とは別人であろうとされている。
 
243 王《おほきみ》は 千歳《ちとせ》にまさむ 白雲《しらくも》も 三船《みふね》の山《やま》に 絶《た》ゆる日《ひ》あらめや
    王者 千歳二麻佐武 白雲毛 三船乃山尓 絶日安良米也
 
【語釈】 ○王は千歳にまさむ 「王」は、弓削皇子。「千歳に」は、永久に。「まさむ」は、世にとどまり給わんで、皇子の嘆きを打消したもの。『講義』は「まさむ」につき、これは普通には「いまさむ」とあるべき場合で、他の用言に続く関係でなくて「ます」とあるは稀れな例だと注意している。○白雲も 「白雲」は、「居る雲」の「雲」を印象的に言いかえたもの。「も」は、もまたで、はかない雲もまたの意。○三船の山に絶ゆる日あらめや 「あらめや」は、推量の助動詞「む」の已然形「め」に疑問の「や」の添つて反語となつているもの。三船の山に絶える日があろうか、ありはしないの意。これは吉野の山中であり、吉野川のほとりのこととて、雲がかかりがちであり、その時もかかっていたのに即しての言と取れる。
(32)【釈】 王《おおきみ》は永久に世にましますことであろう。はかない白雲もまた、三船の山になくなる日があろうか、ありはしない。
【評】 春日王は傍らにあって、弓削皇子の嘆きを言い消して、慰めたものである。三句以下は実際に即してのものと取れるが、さらにまた、はかない白雲も、皇子に引かれて永遠にあろうと言いなし、「白雲も」と、「も」の一音によって言い直しているのは、機知というよりも才情を思わせるものである。
 
     或本の歌一首
 
【解】 これは、弓削皇子の歌に対して、類歌として挙げたものである。
 
244 み吉野《よしの》の 御船《みふね》の山《やま》に 立《た》つ雲《くも》の 常《つね》にあらむと 我《わ》が思《おも》はなくに
    三吉野之 御船乃山尓 立雲之 常將在跡 我思莫苦二
 
【語釈】 ○立つ雲の 「立つ」は、湧き出ずる意で、居るに対する語である。「の」は、のごとく。
【評】 皇子の御歌と較べると、初句と三句とが異なっているのみである。双方を比較すると、「滝の上の」は、叙景が細かいとともに、作者がその時立っていた場所をも暗示しているもので、実際的である。「み吉野の」は、その微細感を捨てて、概念的に、調子を高くしたものである。また、「居る雲の」は、山にかかっている雲の状態に見入ることが主で、その消えることは暗示となっているが、「立つ雲の」は反対に、消えることの方が主となっていて、これまた概念的である。二首、別な歌とはみえず、皇子の御歌からこの歌は出たものとみえる。それだと皇子の歌が伝わって唱えられている間に、平明化してきたものと思われる。この平明化は伝承には宿命的なことである。
 
     右の一首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
      右一首、柿本朝臣人麿之哥集出。
 
【解】 この歌の性質は、評にいったがようである。これが人麿歌集にあった歌とすると、人麿は弓削皇子の御歌として伝承されているものを聞き、そのままに記録したものと思われる。これは人麿歌集の一面を語っていることである。
 
(33)     長田王《ながたのおほきみ》、筑紫《つくし》に遣され、水島に渡る時の歌二首
 
【題意】 「長田王」は、巻一(八一)に出た。和銅四年正五位下に叙され、近江守、衛門督、摂津大夫を歴任した人であろうという。筑紫へ遣わされたのは、何のためとも明らかではないが、肥後まで行っているので、大宰府管内巡察のためではなかったかと『講義』はいっている。「水島」は、『講義』は、肥後国(熊本県)葦北郡と八代郡との境にある海上の小島で、今は八代郡に属している。島は周囲五、六間、大方は岩石で、高さ五、六丈、その岩石の海に向かった方から一体に水が湧き出し、その水にはほとんど塩気がないという。島は今は陸に近いが、それは地形が変わったためで、古くはかなり離れていたことが以下の歌で知られるといっている。この島の所在については諸説があって、明らかには定め難い。この島につき、日本書紀、景行紀に、十八年筑紫を巡狩、夏四月熊の県に到りました条に、「自2海路1而泊2於葦北小島1而進食。時召2山部阿弭古之祖小左1、令v進2冷水1、適是時島中旡v水。不v知2所為1。則仰之祈2于天神地祇1、忽寒泉従2崖傍1湧出、乃酌以献焉。故号2其島1曰2水島1也。其泉猶今在2水島崖1也」とある。
 
245 聞《き》きし如《ごと》 真《まこと》貴《たふと》く 奇《くす》しくも 神《かむ》さび居《を》るか これの水島《みづしま》
    如聞 眞貴久 奇母 神左備居賀 許礼能水嶋
 
【語釈】 ○聞きし如真貴く 「聞きし如」は、聞いていたとおりでで、「題意」でいった水島の伝説をさしたもの。「真」はいかにも実際にの意で、現在も同じ意で用いている。「貴く」も、現在と同じである。○奇しくも神さび居るか 「奇し」は、霊妙不思議の意をあらわす語で、神異というにあたる。「も」は「貴く」に並べた意のもの。「神さび」は、神の神らしき状態をあらわしている意で、水島の水の湧出を、天神地祇のなすところとし、進んで水島を神そのものと見ていったもの。「か」は、詠歎。○これの水島 「これの」は、「この」の古形で、その意の強いもの。「水島」は、水島はで、一首の主格。
【釈】 前々より聞いていたとおりに、いかにも実際、貴く、神異にも、神としての状態をあらわしていることであるよ。この水島は。
【評】 水島の水の湧出を、景行天皇に奉仕するために現われた神と見、ひいては島そのものをも神と見る心を背後においての歌である。当時の信仰を、感動をもって詠んだものである。
 
246 葦北《あしきた》の 野坂《のさか》の浦《うら》ゆ 船出《ふなで》して 水島《みづしま》に去《ゆ》かむ 浪《なみ》立《た》つなゆめ
(34)    葦北乃 野坂乃浦從 船出爲而 水嶋尓將去 浪立莫勤
 
【語釈】 ○葦北の野坂の浦ゆ 「葦北」は、「題意」にいった葦北郡で、日本書紀によると水島はそちらに属していたのである。「野坂の浦」は、今はその名が伝わっていず、どこともわからない。「ゆ」は、より。○船出して水島に去かむ 海路を取って水島に行こう。○浪立つなゆめ 「ゆめ」は、「な」を伴って強い禁止。浪よ立つな、ゆめゆめと命令したもの。
【釈】 葦北の野坂の浦から船出をして、水島に渡って行こう。浪よ立つな、ゆめゆめ。
【評】 船出をする際、海上の無事を祈る心をもってする呪《まじな》いであって、信仰よりのものである。この歌は水島を見ない前の歌で、前の歌と順序が入れかわっているかのように見える。それにつき『講義』は、『新考』に引く中島広足の説にもとづき、再度水島を見ようとした時の歌だろうといっている。広足は、野坂の浦は、今の佐敷の津の辺りだろうといい、そこから水島まで海上五里ばかりだともいっている。『講義』は、それだと大宰府方面から下って一たび水島を見た後、さらに下って野坂の浦まで行き、あるいは薩摩までも行って、その帰途、海路を取って再び水島を見ようとしたのだろうといっている。
 
     石川大夫、和ふる歌一首 名闕く
 
【題意】 「石川大夫」は、「名闕く」とあって誰ともわからない。左注がこの事に触れている。「大夫」という称は、集中の例から推すと、四位五位に対してのものであるといい、『講義』は詳しい考証をしている。この人は大宰府の官人で、王の巡視に伴っていたのである。
 
247 奥《おき》つ浪《なみ》 辺波《へなみ》立《た》つとも わがせこが み船《ふね》のとまり なみ立《た》ためやも
    奧浪 邊波雖立 和我世故我 三船乃登麻里 瀾立目八方
 
【語釈】 ○奥つ浪辺波立つとも 「奥つ浪」は、沖の浪。「辺波」は、岸寄りの方の波で、沖の波が立ち辺の波が立とうとも。○わがせこがみ船のとまり 「わがせこ」は、「吾が背子」で、本来女より男を親しんでの称であるが、男同志も用いた。ここは長田王に対していっているもの。「み船」の「み」は、尊んで添えたもの。「とまり」は、船の着く所の称。○なみ立ためやも 「立ためやも」は、「む」の已然形「め」に「や」の添って反語をなし、それに詠歎の「も」の添ったもの。浪が立とうか、立ちはしないと強くいったもの。
【釈】 沖の浪が立ち、辺の波が立とうとも、わが背子の御船の着く所に、浪が立とうか、立ちはしない。
(35)【評】 上の王の歌の、浪を懸念するのに対して、歌をもって祝ったのである。上代の航海では、船が行き着いて泊《と》まる時が、最も困難な時であったとみえる。王の船は大きなものであったろうから、その困難はいっそうである。この歌は、その困難な時を中心として、その時の平穏を祝ったものである。王の歌もこの歌も、実用性のもので、語って時宜に適することを旨としたものである。
 
     右、今案ずるに、従四位下石川宮麿朝臣慶雲年中大弐に任ぜらる。又正五位下石川朝臣吉美侯、神亀年中少弐に任ぜらる。両人の誰《いづ》れこの歌を作れるかを知らず。
      右、今案、從四位下石川宮麿朝臣慶雲年中任2大貳1。又正五位下石川朝臣吉美侯、神龜年中任2小貳1。不v知3兩人誰作2此歌1焉。
 
【解】 撰者の注である。宮麿、吉美侯(君子とも書く)は四位と五位であるから大夫と称さるべき人で、したがって不明だとするのである。そのいずれであるかについては諸説があるが、定説は得られずにある。沢瀉久孝氏は、この歌を和銅以前のものと見、慶雲以前、宮麿がまだ少弐であった頃の作であろうとしている。
 
     又、長田王の作れる歌一首
 
248 隼人《はやひと》の 薩摩《さつま》の迫門《せと》を 雲居《くもゐ》なす 遠《とほ》くも吾《われ》は 今日《けふ》見《み》つるかも
    隼人乃 薩麻乃迫門乎 雲居奈須 遠毛吾者 今日見鶴鴨
 
【語釈】 ○隼人の 「隼人」は、薩摩、大隅を統べての旧名。『古事記伝』は、古この二国を隼人の国と呼んだ、その国人がすぐれて敏捷《はや》く猛勇《たけ》きところからの名である、薩摩という名が国名となったのは、大宝から霊亀の頃だろうといっている。『講義』は、そのことは文武天皇の四年六月まで溯れると考証している。○薩摩の迫門を 「迫門」は、後世瀬戸の字を当てている。海が陸と陸とによって狭められている所で、航海の上よりいわれている称。「薩摩の迫門」は、古くは隼人の迫門とも呼んだ。今は黒の瀬戸という。鹿児島県出水郡西長島村と阿久根市との間の海峡。○雲居なす遠くも吾は 「雲居」は、空。「なす」は、のごとくで、意味で「遠く」にかかる枕詞。「遠くも」の「も」は、詠歎。○今日見つるかも 「今日」は、今日初めての意で、強める意でいっているもの。「見つるかも」は、「かも」は詠歎。見たことであるよ。
【釈】 隼人の国の薩摩の迫門という音に聞こえた所を、空見るごとく遠くも吾は、今日という日に初めて目に見たことであるよ。
(36)【評】 船中にあって、海上遠く薩摩の迫門を望んでの感である。古の隼人の国は、皇化の及ぶことの少ない所で、したがって問題の多い所であった。またその国への旅は船によったのであろうから、薩摩の迫門は京の人にとって重い響をもった名であったろうと思われる。その迫門を、遠くよりながら親しく目をもって見られたのであるから、感慨が深かったろうと思われる。歌は感慨を抒《の》べようとして、しかもその境をいうにとどまるものであるが、一首の調べの強さがその感慨の深さをあらわし得ているものである。
 
     柿本朝臣人麿の※[羈の馬が奇]旅の歌八首
 
249 三津《みつ》の埼《さき》 浪《なみ》を恐《かしこ》み 隠江《こもりえ》の 舟公宣奴嶋尓
    三津埼 浪矣恐 隱江乃 舟公宣奴嶋尓
 
【語釈】 ○三津の埼浪を恐み 「三津」は、巻一(六三)に出た。難波の津で、御用の津であるところから、尊んで「三」すなわち「み」を添えたもの。「埼」は、岬。「恐み」は、恐《かしこ》くしてで、御津の埼の浪を恐くして。 ○隠江の 「隠江」は、熟語で、「隠沼《こもりぬ》」と同系のもの。「隠《こも》る」は、物に蔽われて見えなくなっている状態。「江」は、海のみでなく、池、川などにもいった。『講義』は、淀川の河口内をいったものではないかという。語としても無理ではなく、地形としても自然な解である。○舟公宜 四句より五句へかけてのものと取れるが、訓み難いものである。旧訓は「ふねこぐきみがゆくか」と訓んでいるが、強いたものである。諸注それぞれに訓を試みているが、定訓とはなり得ないものである。文字の誤脱があるものと思われる。問題として残すべきである。
【釈】 釈《あら》わし難い。
 
250 珠藻《たまも》苅《か》る 敏馬《みぬめ》を過《す》ぎて 夏草《なつくさ》の 野島《のじま》が埼《さき》に 舟《ふね》近《ちか》づきぬ
    珠藻苅 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼尓 舟近著奴
 
【語釈】 ○珠藻苅る敏馬を過ぎて 「珠藻」の「珠」は美称で、しばしば出た。藻を苅るのは海辺の者の常態なので、敏馬の枕詞としたもの。「敏馬」は、その名としては伝わっていない。今の神戸市灘区の辺の海岸の称であろうという。難波より西への航路の最初の泊《とまり》とされていた地である。「過ぎて」は、航路として通り過ぎて。○夏草の野島が埼に 「夏草の」は、意味で「野」にかかる枕詞。「野島が埼」は、今、淡路の北西部にある北淡町野島の内と取れる。○舟近づきぬ 船が明石海峡を横切って近づいたの意。
(37)【釈】 珠藻を苅る敏馬の泊を過ぎて、夏草の野という、その野島が崎にわが船は近づいた。
【評】 いっていることは事柄だけであるが、一首の味では、明るく躍る気分そのものである。当時の航海は不安の多いものであったが、今は全くそれがなく、順風を得て深く航行したことを、具体的にいおうとして言いえたものだからである。「敏馬」と「野島が埼」にそれぞれ枕詞を添えていっているのは、その地を重んじてのことであって、重んじたのは航行の上の目標地となっているからである。この心が一首の気分に重く響いている。
 
     一本に云ふ、処女《をとめ》を過《す》ぎて 夏草《なつくさ》の 野島《のじま》が埼《さき》に いほりす吾等《われ》は
      一本云、處女乎過而 夏草乃 野嶋我埼尓 伊保里爲吾等者
 
【語釈】 一本にある類歌として引いたものである。初句は同じなために略したので、異なるのは二句と結句である。○処女を過ぎて 「敏馬」が「処女」となっている。『代匠記』は、「処女を過ぎてとは第九に、葦屋処女墓をよめる歌(一八〇九)あり、彼由緒にてよりて菟原郡葦屋浦を処女とのみいへるなり」といっている。○いほりす吾等は 「いほりす」は、廬を作って宿る意。「吾等《われ》」は、文字によって複数をあらわしたもので、巻二(一七七)「吾等《わ》が哭《な》く涙|息《や》む時もなし」と同じである。航行中、夜は陸に上って廬を結んで寐るのが当時の風で、「吾等」は同船の人々を意味させたのである。この歌は巻十五(三六〇六)に出ていて、左注に、「柿本朝臣人麿歌、敏馬を過ぎて、又曰く、ふねちかづきぬ」とある。すなわち左に注とし合っているものである。
 
251 粟路《あはぢ》の 野島《のじま》が前《さき》の 浜風《はまかぜ》に 妹《いも》が結びし 紐《ひも》吹《ふ》きかへす
(38)    粟路之 野嶋之前乃 濱風尓 妹之結 ※[糸+刃]吹返
 
【語釈】 ○粟路の 粟路は、今の淡路。粟すなわち阿波の国へ渡る路にある国の意。四音一句。○野島が前の浜風に 「野島が前」は、前の歌に出た。当時の航海は、普通の場合でも、夜は上陸して宿るのを風としていた。ここもそれで、野島が埼に宿ろうとして上陸したので、したがって海上にある時よりも安静な気分になり得ていた時と思われる。「浜風」は、海より浜に向かって吹く風。「に」は、浜風の中に立てばという心をもったもので、下への続きからは、その浜風のという心をももっている。それは、この歌は抒情を旨としてのもので、その具象化としての叙事であるために、おのずから余情的な言い方となっているからである。 ○妹が結びし 原文は「妹之結」で「妹が結びし」とも「妹が結べる」とも訓みうるもので、二様の訓がある。双方を比較すると、「妹が結びし」と過去のこととした方は、妹の方に力点があり、「妹が結べる」と現在にすると、紐の方に力点があるものとなり、相違が起こってくる。この歌は旅愁を旨としたものであるから、「結びし」と訓み、妹に力点を置くべきものである。夫が旅立の際、妹が旅の無事を祈って紐を結ぶということは、集中に例の多いことであるから、これもそれと思われる。 ○紐吹きかへす 「紐」は、衣のすなわち旅衣の紐である。そのいかなる物であったかは明らかにし難い。『講義』は、今のボタンの役をするもので、襟に着いていたものであろうといっている。衣の性質上、実用の物であったろうと思われるから、穏やかな解である。「吹きかへす」は、吹き翻すで、浜風が吹き翻すのである。
【釈】 粟路の野島が埼で浜風の中に立っていると、その浜風が、旅立の際、妹がわが無事を祝って結んだ旅衣の紐を吹いて翻す。
【評】 難波の三津から船出をして、敏馬《みぬめ》、明石と寄港しての航海をする目標地の一つである野島が埼へ上陸し、一|夜《よ》をそこで過ごそうとした時の感である。そこは海を越しての国であって、旅という感は濃厚である上に、妹と別れた際の印象はまだ新しいので、海上での不安が去って、心が安静になるとともに、いわゆる旅愁を感じてきたのは自然なことである。しかしこの旅愁は、何といっても淡いものであったろうと思われる。この歌は、そうした旅愁を、さながらにあらわそうとしたものである。「粟路の野島が前の浜風に」と、浜風をいうに地名を二つまで重ねていっているのは、旅という気分を具象的にあらわそうがためであり、また下の「妹」に対照させようがためでもある。
「紐」は特殊なものである。風に翻る物というと、普通で袖あるのに、紐はそれよりも小さく、したがって翻り方もはげしいだろうと思われて、印象的に感じられる。加えてその紐は、いったがように「妹が結びし」によって妹を連想させ、また妹を主としてのもので、この場合妹を象徴している物である。その「紐」が「粟路の野島が前」という大きな景と対照されているので、それに助けられて感の深いものとなっている。一首、作者としては多くの用意をもって詠んだものとは思われないが、心理の自然があり、感覚的に具象しているので、おのずから含蓄のある広がりをもったものとなっているのである。この歌、「浜風に」と、「吹きかへす」とが打合わないという論がある。かりに「浜風の」とあるとすれば、いわゆる打合ってその論はなくなる訳である。しかしそれであれば、浜風が紐を吹き翻すという、事象そのものの方に中心が移って、旅愁の方は間接な、稀薄なものとなってき、一首の感は著しく浅いものとなってく(39)る。作意は、旅愁にあって、その具象化と取れるので、その上では「に」の一助詞は重い役をしているものであり、「語釈」でいったがような余情をもっているものと見なければならない。人麿の技倆を示している一首である。
 
252 荒栲《あらたへ》の 藤江《ふぢえ》の浦《うら》に すずき釣《つ》る 泉郎《あま》とか見《み》らむ 旅《たび》去《ゆ》く吾《われ》を
    荒栲 藤江之浦尓 鈴寸釣 泉郎跡香將見 放去吾乎
 
【語釈】 ○荒栲の藤江の浦に 「荒栲の」は、織目の荒い栲ので、その材料は藤の繊維であるところから、意味で藤にかかる枕詞。「藤江の浦」は播磨《はりま》国|明石《あかし》郡で、今、明石市西の浜に藤江の名が伝わっている。淡路に向かった地なので、野島が埼からそこをさして航行したとみえる。 ○すずき釣る泉郎とか見らむ 「すずき」は、鱸《すずき》。「泉郎とか見らむ」は、「か」は疑問、海人《あま》と人は我を見るであろうかで、鱸を釣る海人の釣舟の中に、人麿の乗っている船もまじって、釣舟と同じく動かないさまでいるのを、第三者から見たならば、同じく釣舟の一つと見るであろうかと想像したのである。○旅去く吾を 海人ではなく、旅路を行く吾なるをの意で、「を」は詠歎。自身の現在を意識したことをあらわしたもの。
【釈】 藤江の浦に、釣舟を停めて鱸を釣っている海人と、第三者はわが船を、吾《われ》を見るであろうか。旅路を行く吾であるを。
【評】 野島が埼から、海を横切って、陸近い藤江の浦まで来、穏やかな海の上に鱸を釣っている舟を見ると、京びとのこととて釣のさまが面白く、船を停めて挑め、我を忘れていたのであるが、我にかえって、立ち去ろうとした時の心である。その時の心は、「旅去く吾を」という、現在の境遇の意識であって、「を」の詠歎を添えていうべき心なのである。詠歎は、語としては軽くいっているにすぎないが、初句から四句までの鱸を釣るさまの平穏なのとの対照で、余情をもった強いものとなっている。この詠歎は旅愁である。漠然とした旅愁を、実境に即して具象化して、十分にあらわしているもので、上の歌と同じく技倆を示している一首である。
 
     一本に云ふ、白栲《しろたへ》の 藤江の浦に いざりする
      一本云、白栲乃 藤江能浦尓 伊射利爲流
 
【解】 これは、(二五〇)と同じく、巻十五(三六〇七)に出ているもので、四、五句は同様である。「白栲の」は、白い栲を織る材料としての藤の意で、「藤」にかかる枕詞。「いざりする」は、「いざり」は、「漁《いさ》り」で、名詞。「する」はそれをするの意。「すずき釣る」という特殊な、印象的なことが、「いざりする」という一般的な、平明なものに転じたものである。
 
(40)253 稲日野《いなびの》も 去《ゆ》き過《す》ぎかてに 思《おも》へれば 心《こころ》恋《こ》ほしき 可古《かこ》の島《しま》見《み》ゆ【一に云ふ、湖《みなと》見ゆ】
    稻日野毛 去過勝尓 思有者 心戀敷 可古能嶋所見【一云、湖見】
 
【語釈】 ○稲日野も 「稲日野」は、播磨国印南郡にある野で、本来は「いなみ」であるが、「み」が「び」に音通で転じて、古くから「いなび」といっている。「も」は相対する意をあらわすもので、下の「可古の島」に対している。○去き過ぎかてに思へれば 「かてに」の「かて」は、下二段活用の動詞で、終止形「かつ」の未然形。可能の意をあらわす語とされている。これに打消の意の「に」「ぬ」が結んで、「かてに」「かてぬ」となって用いられている。行き過ぎ難くの意。「思へれば」の「ば」は、この場合のごとく已然形に接続する時は、理由をあらわすものではなく、「思へるに」というと異ならないものになるのは、当時の格である。思っている。○心恋ほしき可古の島見ゆ 「恋」は「こほし」とも「こひし」とも訓みうる字である。「こほし」の方が古い形で、ここは古い方に思える。心に恋しと思うところの。「可古」は、兵庫県加古郡。「島」は、『攷証』は、島というべきではない。広い国も、海上から望み見ると、島のごとくに見えるところからの称だといい、「倭島《やまとじま》」などを例としている。また、陸上の一地方を某島と呼んでもいる。ここは可古の辺りの意と取れる。『新考』は、今、高砂と呼んでいる地は加古川の河口のデルタである。これは古の可古の島の変形したものであろうといっているが、高砂市の辺りがすなわち可古の島と見るべきであろう。○一に云ふ、湖見ゆ 港が見える意。集中に「湖」を「みなと」に当てた例は多い。
【釈】 稲日野の風光もまた面白くて、行き過ぎ難く思っているのに、海の向こうには、心に恋しく思っているところの可古の島もまた見える。
【評】 航路の方面からいうと、稲日野は、可古の島より西にあたっている。その上からいうと、この航路は、西より東に向かっているもので、すなわち京への帰途である。上の歌はすべて京より西へ向かってのものであるが、ここに至って反対になっていることを『講義』は注意している。一首の作意は、「稲日野も去き過ぎかてに思へれば」は、明らかに風光の面白さをいったものである。しかしそれに対させてある「心恋はしき可古の島見ゆ」の「心恋ほしき」は、何を内容としているのか明らかではない。「去き過ぎかてに」というと同じく、風光に対しての憧れと見られなくもないが、この八首の中最初の一首を除く七首とも、風光の面白さのみを作意としたものは一首もなく、風光は抒情の方便として用いているのみである。そのことはここのみではなく、人麿の歌全体に通じても言いうるのである。それから推すと、可古の島は、航海の常とする船着きの島であって、したがって「心恋ほしき」は、そこで上陸して安静を得ることに対しての憧れと思われる。「一に云ふ」の「湖見ゆ」によると、このことはさらに明らかである。またこのことは、この当時にあっては自明なこととなっていたものと察せられる。
 
254 留火《ともしび》の 明石大門《あかしおほと》に 入《い》らむ日《ひ》や 榜《こ》ぎ別《わか》れなむ 家《いへ》のあたり見《み》ず
(41)    留火之 明大門尓 入日哉 榜將別 家當不見
 
【語釈】 ○留火の明石大門に 「留火の」は、「燭」を誤って、「蜀火」とし、さらに「蜀」を「留」に誤ったのではないかと『講義』はいっている。燭《ともしび》の明しと続けて、「明石」の枕詞としたもの。「明石大門」は「明石」は播磨国の明石、「大門」は、「大」はその港の名高いところから讃えて添えたものと取れる。「門」は水《み》な門《と》(港)の門で、明石の名高い港に。○入らむ日や 「入らむ日」は、乗っている船の榜ぎ入るであろう日。「や」は疑問。○榜ぎ別れなむ家のあたり見ず 「榜ぎ別れ」は、海上の別れであるところからの語。陸上の行き別れにあたる。「む」は、上の「や」の結、連体形。「家のあたり見ず」は、家のある辺りで、明石の港に入るまでは、家のある大和の青山が遠く望み得られるところからの語。「見ず」の「ず」は連用形で、「ずして」というにあたる。
【釈】 明石の名高い港にわが船の榜ぎ入るであろう日には、榜ぎ別れをすることであろうか。今まで眼にしてきた、妹のいるその家の辺りをも見なくなって。
【評】 この歌は、瀬戸内海を西に向かっての航行の際のもので、地理的にいうと、「粟路の野島が前《さき》」に向かう以前のものである。詠んだのは、船が明石の港に入る前で、その入った時を想像してのものである。一首の中心は、結句「家のあたり見ず」にある。この句は形の上からいうと、四句「榜ぎ別れなむ」と倒句になっていて、意味からいうと「家のあたり見ず榜ぎ別れなむ」である。それを倒句にしたのは、結句に力点を置いたがためで、なぜにそこに力点を置いたかは、現在の事実として家のあたりを遠望しつづけていて、その望めなくなることを思うと、思うさえも悲しくなってきて、その悲しみをいうことを作意としたからである。「家」とは妹のいるところで、それ以外のものではなく、「妹」と言いかえ得られるものである。それを「家」とし、「あたり」を添えて、現在眼にしている大和国の山をあらわすものとしたのである。
 
(42)255 天離《あまざか》る 夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ 恋《こ》ひ来《く》れば 明石《あかし》の門《と》より 倭島見《やまとしまみ》ゆ
    天離 夷之長道從 戀來者 自明門 倭嶋所見
 
【語釈】 ○天離る夷の長道ゆ 「天離る」は、天と離れているで、意味で夷にかかる枕詞。離れるは、京を中心としてのもの。「夷の長道ゆ」は、「夷」は、京以外の地、すなわち地方の総名。「長道」は、長い道中。「ゆ」は、よりで、後世の「を」にあたる語。遠い地方から京へ向かっての長い道中を。○恋ひ来れば 憧れくればで、恋うのは、家にいる妹。○明石の門より倭島見ゆ 「明石の門」は、前に出た。ここは明石に属する海をいうほどの広い意のものに取れる。「倭島」は、倭の国の意で、「島」は上の「可古の島」の島と同じである。すなわち遠く海上に現われて見える畿内の山々に対しての称である。倭の称は、大和国一国とは限らず、狭く大和の一地域にも、また日本全国にも用いた。ここは畿内の称と取れる。「倭島」は我を待つ妹のいる所としてのものである。
【釈】 遠い地方から京へ向かっての長い道中を、妹を憧れてくると、明石の門《と》のあたりから、海上遙かに、我を待つ妹のいる大和国が見える。
【評】 西国での任が終わって、瀬戸内海を船で京に向かい、明石の海峡まで来て、遠く大和の山々の、海上遙かに島のごとくに浮かぶのを、初めて見た瞬間の心である。道中、心を占めつくしていたのは、妹を恋う思いであるが、それをただ「恋ひ来れば」といい、「倭島見ゆ」という、余情のある言い方であらわしたものである。この余情は技巧としてではなく、実際に即した言いあらわしをしたところから、おのずからに添ってきたものと思われる。実際というのは、妹恋しさの情に馴らされてしまっていて、それ以上をいう必要のないものとなっていたためと思われる。すなわちこの余情的になっているところに、かえって実感の深いものが現われているのである。一首の調べの強く張っているところに、その情の深さが直接に現われている。
 
     一本に云ふ、家門《いへ》のあたり見ゆ
      一本云、家門當見由
 
【解】 一本の結句である。「家門」は、多くの注は「やと」「やど」と訓んでいるが、『攷証』は家に当てた熟語として「いへの」と訓んでいる。一首の意味の続きから本行の方が自然である。平明にしようとしたためのものと思われる。
 
(43)256 飼飯《けひ》の海《うみ》の 庭好《にはよ》くあらし 苅薦《かりこも》の 乱《みだ》れ出《い》づ見《み》ゆ 海人《あま》の釣船《つりぶね》
    飼飯海乃 庭好有之 苅薦乃 乱出所見 海人釣船
 
【語釈】 ○飼飯の海の 「飼飯」という地名は諸国にあって、どこと定め難い。『槻落葉』は、淡路に飼飯野という地名があるといい、『講義』はさらに、淡路国(兵庫県三原郡)の西海岸、松帆の浦の付近に、今「笥飯野《けひの》」と書く地がある。「飼飯の海」は、松帆の浦のようだといっている。他はすべて瀬戸内海に関係した歌であるから、そこと思われる。○庭好くあらし 「庭」は、方言研究家によって、漁夫、農民などのその生業を営む場所を称する語だといわれている。農民の上でいうと、秋、田畑より取入れた穀物を、その家の周囲で始末をする時、それをする場所のことを秋庭《あきにわ》と呼んでいる。これは庭園の意味の庭とは関係のない語である。これは分布の広い語だという。ここは海人の漁場の意と取れる。「好く」は、工合の好い意、すなわち平穏の意である。「あらし」は、「あるらし」の約で、「らし」は、眼前のものを証としての推測をあらわす語。証は下の「釣船」である。漁物の工合が好いらしいの意。○苅薦の乱れ出づ見ゆ 「苅薦の」は、苅った薦ので、乱れやすい物であるところから、意味で乱れにかかる枕詞。「出づ見ゆ」は、「出づ」の終止形から「見ゆ」に続けるのは、古格である。
【釈】 飼飯の海の漁場の工合が好いらしい。その証拠には、乱れて出ているのが見える、海人《あま》の釣船が。
【評】 この歌は、形からいうと、一、二句は、それ以下と倒句になっている。すなわち眼に見た事象の与える感動の方を先にいい、事象の方は後からいった形となっている。しかも「らし」によって原因結果の関係を緊密にあらわしているものである。この倒句は、強い感動をもって言ったことをあらわしているものである。これほどの事象に対して、なぜにそうした強い感動を与えられたかというと、おりから人麿は海路によっての旅をしており、海に対して深い関心をもっていたからと思われる。「庭好く」ということは、安心して航海ができるということを確め得たことで、感動はそこから起こってきたのである。したがってこの歌は、いっていることは風光そのものであるが、心としては安心の喜びをいおうとしたもので、風光はその具象化の方法としてのものである。この歌は、現に航海をしている際の心か、または船出をしようとして、海の様子をうかがっていた際の心かは明らかではないが、瞬間的な心をいっているところから見ると、旅の場合であったろうと思われる。
 
     一本に云ふ、武庫《むこ》の海《うみ》の 庭好くあらし いざりする 海部《あま》の釣船《つりぶね》 浪《なみ》の《へ》上ゆ見《み》ゆ
      一本云、武庫乃海能 尓波好有之 伊射里爲流 海部乃釣船 浪上從所見
 
【解】 一本には、上の歌をこのように作つてもあるとして引いたものである。
(44)【語釈】 ○武庫の海の庭好くあらし 「武庫の海」は、摂津国武庫郡の海。「の庭好くあらし」の原文「能尓波好有之」は、後述のように、吉沢氏および紀州本の一本に従ったもの。他の諸本は「舶(舳)尓波有之」とあって、訓がさまざまである。『略解』は、本居宣長の訓によって「ふなにはならし」と訓んでいる。「ふなには」は、船庭の意であろう。他に例のない語であるが、「庭」を上の歌のように解すると、船によってする漁場という意に取れなくはなく、成立たない語ともいえない。この一、二句は一段をなしているもので、意味が纏まらなくてはならない。これを前後との関係において見ると、解し難いものとなってくる。『古義』は、一、二句を、「武庫の海の舶《ふね》にはあらし」と訓んでいる。これは解しやすくは見えるが、現に武庫の海で見る船をこのようにいうということは、不自然なことである。しかも、その「舶」を「釣船」といって再び繰り返していっているのも、妥当を欠いた、同じく不自然なことである。吉沢義則氏は、紀州本に、「一本云」として、「武庫乃海能尓時好有之」とあるのに注意し、「時」の草体は「波」の草体とよく似ているところから紛れたもので、「時」は「波」であり、「尓波」すなわち「には」であったろうといっている。なおこの歌とただ第二句の異なったものが、巻十五(三六〇九)に出ており、それは第二句が「尓波余久安艮之《にはよくあらし》」となっているのを参考としている。その巻十五の歌は、左注に、「柿本朝臣人麿の歌に曰はく」として、上の(二五六)の歌を引き、第四句を「乱れて出づ見ゆ」としてある。この歌は巻十五の歌と関係の深いものに見えるので、誤字説ではあるが、氏の解に従うべきものである。○浪の上ゆ見ゆ 「上ゆ」は、上よりの意であるが、後の上にというにあたる。
【釈】 武庫の海の漁場は平穏であるようだ。漁りをする船が浪の上に見える。
【評】 前の歌と較べてみて、捉えている境は異なっているが、心は同じであるかのように見える。しかし心の上ではかなり隔たりのあるものである。前の歌はいったがように、航海者として海上の模様を懸念しており、その懸念の打消されたのを喜んでの心で、いわゆる生活に即した歌である。そこに心の躍りがある。この歌にはその心の躍りがない。作者としてはもったかもしれぬが、とにかく歌の上には現われていない。歌の上に見えているものは、海上の光景に心を寄せたというだけのもので、しかも事象に一つの判断を下しただけのものに見える。すなわち形は似ているが、心は遠く隔たったものである。これを前の歌と同じく人麿の作であるかのように扱っているのは怪しむべきである。
 
     鴨君足人《かものきみたりひと》、香具山の歌一首 并に短歌
 
【題意】 「鴨」は氏、「君」は姓、「足人」は名である。この人のことは他に所見がなく、何事もわからない。『新撰姓氏録』によると、鴨君は摂津国の皇別の中にあって、「鴨君日下部宿禰同祖、彦坐神之後也。続日本紀合」とある。「香具山」は、大和国で、高市皇子尊の宮のあった山である。
 
257 天降《あも》り付《つ》く 天《あめ》の香具山《かぐやま》 霞立《かすみた》つ 春《はる》に至《いた》れば 松風《まつかぜ》に 池浪《いけなみ》立《た》ちて 桜花《さくらばな》 木《こ》の晩《くれ》茂《しげ》に (45)奥《おき》へは 鴨《かも》妻《つま》喚《よ》ばひ 辺《へ》つ方《へ》に 味《あぢ》むらさわき 百礒城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》の 退《まか》り出《いで》て 遊《あそ》ぶ船《ふね》には 梶《かぢ》棹《さを》も なくてさぶしも こぐ人《ひと》なしに
    天降付 天之芳來山 霞立 春尓至婆 松風尓 池浪立而 櫻花 木乃晩茂尓 奧邊波 鴨妻喚 邊津方尓 味村左和伎 百礒城之 大宮人乃 退出而 遊船尓波 梶棹毛 無而不樂毛 己具人奈四二
 
【語釈】 ○天降り付く天の香具山 「天降り付く」の「天降り」は、「あまおり」の約だといい、天より降りる意。「付く」は、地上に付着している意で、天より降りて地に付いているところの意。「天の香具山」の「天の」は、香具山はもと天上のものであったとするところから添えた語。これは釈日本紀に引く伊予国風土記に、「倭在2天加具山1自v天天降時、二分而以2片端1者天2降於倭国1、以2片端1者天2降於此土1、因謂2天山《あまやま》1、本也。」とある、その伝説によってのものである。香具山は、しばしば出た。○霞立つ春に至れば 「霞立つ」は、意味で春にかかる枕詞。「春に至れば」は、春になったので。○松風に池浪立ちて 「松風に」は、松風によって。「池浪」は、池の浪の意で、熟語となったもの。池は、香具山の下にある埴安の池。松風の吹くによって池浪が立って。○桜花木の晩茂に 「桜花」は、桜の花が。「木の晩茂に」は、「木の晩」は、木が繁って、下蔭が小暗くなる意で、名詞。「茂に」は、茂くで、木の晩の状態。桜の花が、その下蔭を、小暗さの深くなるまでに咲いている意。○奥へは鴨妻喚ばひ 「奥へ」は、沖の方で、埴安の池についてのこと。「鴨」は、雌雄離れずにいる習性をもつ鳥。「喚ばひ」は、「喚ぶ」をハ行四段に再活用して、継続をあらわす語としたもの。沖の方には鴨がその妻を喚びつづけており。○辺つ方に味むらさわき 「辺つ方」は、岸寄りの方。「味」は、味鳧《あじかも》と称する、鴨よりやや小さい鳥。「むら」は、群れ。この鳥は群棲する習性をもっている。「さわき」は、群棲するところからしたがって騒がしく鳴く意。○百礒城の大宮人の 「百礒城の」は、百と多くの礒城のあるで、讃える意で宮にかかる枕詞。「大宮人」は、朝廷に仕える百官。ここは香具山をいっているところから、そこに宮のあった皇太子高市皇子尊の宮人を、朝廷に準じていったのであろうという。○退り出て遊ぶ船には 「退り出て」は、「退り」は、貴い所から賤しい所へ退く意で、一日の公務を終えて、追出して。「遊ぶ船」は、埴安の池で船遊びをしたその船。「遊ぶ」は、事としては過去であるが、感を強めるために現在にしたもの。○梶棹もなくてさぶしも 「梶棹も」は、船を漕ぐための梶も棹もで、梶は今の櫓。棹は竹竿である。「なくて」は、失せてしまって。「さぶしも」は、「さぶし」は、心楽しまない意。「も」は、詠歎。○こぐ人なしに 「こぐ人」は、漕いで遊ぶ人、すなわち大宮人。「なしに」は、なくて。
【釈】 天より降りて地についた、天のものである香具山よ、霞立つ春になったので、山に吹く松風によって、その下の埴安の池には池浪が立ち、また山に咲く桜の花は、その下蔭の小暗さが深いまでに咲き、池の沖の方には、雌雄《めお》離れぬ鴨がその妻を喚びつづけており、岸寄りの方には、群棲する味鳧《あじかも》の群れが鳴き騒いでおって、すべて愛《め》でたい風景であるが、香具山の宮の大宮人が、公務を終えて退出して、舟遊びをした船には、それを漕ぐ櫓も棹も失せてしまっていて、心楽しまぬことであるよ、漕ぎ遊ぶ大宮人もなくて。
(46)【評】 足人《たりひと》の伝は全くわからないが、歌から見て高市皇子尊を偲びまつったものだろうと察しられる。尊の香具山の宮は、尊の薨去の後は、上代の風に従って荒廃に委ねられたものと思われる。尊を偲びまつる上で、最も直接な、第一のものは、その宮でなくてはならない。足人は現にその宮のある香具山に立っているのであるから、このことはいっそうである。しかるにこの歌はそのことにはほとんど触れず、触れている点は、皇子尊に仕えた大宮人が、宮より退出の後、埴安の池で楽しげに舟遊びをした、間接な触れ方をしているにすぎないのである。また、それをするに一年のうち最も華やかなる春の季節の桜の花盛りの時を選び、さらにまた、それほどの限られたことをいうのに、香具山と埴安の池という山と水という対照的なものを選び、それに絡ませていうという、限った、特殊な言い方をもしているのである。これは生活実感からある遊離をもたせ、間接に、自然の風景に絡ませていうという手法であって、まさしく文芸的のものである。この歌の作られた年代は明らかではないが、これを人麿の同じ皇子尊の挽歌として作った巻二(一九九)に較べると、生活実感より文芸的のものへと移った跡が際やかに見られる。この点が第一に注意される。表現の態度もそれとともに異なっている。この歌は、その心との相関もあるが、きわめて静かな態度をもって詠んだもので、また神経もきわめて細かに働いている。「松風に池浪立ちて、桜花木の晩茂に」のごとき、上二句は、香具山の上より埴安の池を見下ろした作者の位置がはっきり現われ、下二句は咲き満ちている桜の下蔭に立っていることをあらわしている。客観的なのは当時の作風で、いわんとしているのは山と水との好景で、作者のその際の位置のごときは意図にないものと思われるのであるが、それをもこのようにあらわし得ているのは、その神経の細かく働いているがためで、これは作者の人柄ばかりではなく、時代も関係していることと思われる。この心細かさは、廃船をいうに、「遊ぶ船」と現在法を用い、また「梶棹もなくて」と具象しているところにも、同じく現われている。結句の「こぐ人なしに」によって、「大宮人」を繰り返し強めているところにも、同じく現われているといえる。一首要するに巧緻な作であるが、長歌によって巧緻を尽くしているところに特色があり、時代性の認められるものである。
 
     反歌二首
 
258 人《ひと》榜《こ》がず あらくもしるし 潜《かづ》きする
鴦《をし》とたかべと 船《ふね》の上《うへ》に住《す》む
    人不榜 有雲知之 潜爲 鴦与高部共 船上住
 
【語釈】 ○人榜がずあらくもしるし 「人榜がず」は、長歌の結句を繰り返したもの。「あらく」は、「ある」に「く」を添えて名詞形としたもの。「も」は、詠歎。「しるし」は、「著《しる》し」で、明らかだの意。 ○潜きする 水禽の習性をいったもの。 ○鴦とたかべと 「鴦」は、延応《おしどり》。「たか(47)べ」は、小鴨。○船の上に住む 船の上をその巣として住んでいる。
【釈】 人が漕がずにいることは明らかである。潜きをする水禽の鴛鴦と小鴨とが、そこを巣として船の上に住んでいる。
【評】 長歌の結句を承けて、それを延長させ、廃船を具象することによって、長歌の作意である、香具山の宮に対する悲しみを徹底させたものである。これは反歌の型となっている手法である。三句以下、実際に即しての捉え方で、調子は低いが、哀愁の情をあらわし得ているものである。
 
259 何時《いつ》の間《ま》も 神《かむ》さびけるか 香具山《かぐやま》の 鉾杉《ほこすぎ》が本《もと》に 薛《こけ》生《む》すまでに
    何時間毛 神左備祁留鹿 香山之 鉾※[木+褞の旁]之本尓 薛生左右二
 
【語釈】 ○何時の間も 「も」は、詠歎。いつの間にの意である。○神さびけるか 「神さび」は、物の古くなって神々しく見える意。
「か」は、疑問。○鉾杉が本に「鉾杉」の「鉾」は、杉の立っているさまが、鉾を立てたのに似ているところから添えたもの。「鉾杉」は集中ここにあるのみである。「本」は、幹。○薛生すまでに 「薛生す」は、老木でなくてはないこととしてのもの。
【釈】 いつの間にこのように神々《こうごう》しいさまとなってしまったのであろうか。香具山の鉾杉の幹に薛の生えるまでに。
【評】 上の歌は埴安の池についていったので、これは転じて、それと対照的に扱っている香具山についていったのである。長歌でいった香具山は、「松風」と「桜花」という興趣のものであったのに、ここでは進展させて、皇子尊に対する追慕の悲しみを、時の推移を通してあらわしているのである。その手法の間接なのは長歌と同様である。
 
     或本の歌に云ふ
 
260 天降《あも》りつく 神《かみ》の香具山《かぐやま》 打靡《うちなび》く 春さり来《く》れば 桜花《さくらばな》 木《こ》の晩《くれ》茂《しげ》に松風《まつかぜ》に池浪《いけなみ》※[風+火三つ]《た》ち 辺《へ》つへには あぢむら動《さわ》き 奥《おき》つへは 鴨《かも》妻《つま》喚《よ》ばひ 百《もも》しきの 大宮人《おほみやびと》の まかり出《いで》て 榜《こ》ぎける舟《ふね》は 竿《さを》梶《かぢ》も なくてさぶしも 榜《こ》がむと思へど
    天降就 神乃香山 打靡 春去來者 櫻花 木暗茂 松風丹 池浪※[風+火三つ]邊都遍者 阿遅村動 奧邊者(48) 鴨妻喚 百式乃 大宮人乃 去出 榜來舟者 竿梶母 無而佐夫之毛 榜与雖思
 
【語釈】 ○神の香具山 「神の」は、他に例のないものである。山を神とする信仰のあった上に、香具山はもと天上のものであったところからいったものと思える。○打靡く春さり来れば 「打靡く」は、春の木草は柔らかに靡くところから、意味で春にかかる枕詞。「春さり来れば」は、春になって来ると。○池浪※[風+火三つ]ち 「※[風+火三つ]」を、「たつ」と訓むにつき、『講義』は考証をしている。○榜ぎける舟は 榜いだところの舟はで、過去としていつたもの。○竿梶も 上の歌とは順序を反対にしている。
【釈】 路す。
【評】 この歌は、一本のものとはいうが、そうしたものに例の多い、伝承の結果異伝を生じたという範囲のものではなく、同じ作者によって異なる時に作られたものと思われる。それは一本の歌が劣ったものではないのみならず、むしろ優ったものだからである。双方を比較して、その最も異なっているのは、第一は、「桜花木の晩茂に、松風に池浪※[風+火三つ]ち」である。これは前の歌では、「桜花」と「松風」との順序がこの歌とは反対になっているのである。いずれが全体との関係から見て優っているかというと、この歌の方が明らかに優っている。こちらは華やかな桜花の下蔭を過ぎ、心深い松風の音を聞き、それを池浪に関係させるとともに、ただちに池の状態に移っていて、心理の推移が自然だからである。第二は、結句の「榜がむと思へど」である。香具山の宮人の榜いだ船を、懐古の情に浸っている足人が、自身をその宮人になぞらえて、榜いでみようとする心は、自然といえる。「竿梶」もなくてそのかなわないところから「さぶしも」と感じるのは、実感的であって、前の歌の「こぐ人なしに」と、ただに懐古の情のみとしているのよりも、力強さがある。総じていうと、前の歌は沈静のみであるが、この歌はそれに躍動が加わっているのである。これはさらにいうと、前の歌はかなりまで距離をつけて作ったものであるのに、この歌はその距離を近づけて作っているのである。同じく間接的な扱い方ながらも、あまり多くの距離をつけまいとしたことは時代的に見て妥当なことと思える。こうした巧緻な作風にあっては、改作はなされやすいことである。この歌は、前の歌を作った後、作者自身それに加筆をしたものではないかと思われる。
 
     右、今案ずるに、都を寧楽に遷しし後、旧《ふる》きを怜《かなし》みてこの歌を作れるか。
      右、今案、遷2都寧樂1之後、怜v舊作2此歌1歟。
 
【解】 この注は、奈良遷都の後、故京藤原宮を悲しんでの作と解したものである。しかるにこの歌の作因は、いったがように香具山の宮に対してのものと思われる。また、歌の排列の上から見ても、この歌は和銅三年遷都以前のものと思われる。それらの(49)点からこの注は、撰者より後の人の加えたものではないかとされている。
 
     柿本朝臣人麿、新田部《にひたべの》皇子に献《たてまつ》れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「新田部皇子」は、天武天皇の第七皇子であり、御母は、藤原鎌足の女《むすめ》五百重娘である。元正天皇の養老三年、優詔を賜わって、二品新田部親王は、舎人《とねり》親王とともに国家の柱石であるとして、舎人、衛士を賜わり、また封五百戸を益して一千五百戸を賜わっている。聖武天皇の神亀元年には一品を授けられ、天平三年、初めて畿内惣管、諸道鎮撫使を置かれた時には、親王には大惣管とせられた。天平七年に薨じられた。この歌は賀の心のもので、歌から見ると、人麿は親王の宮に親しく出入りしていた者のようである。
 
261 八隅《やすみ》知《し》し 吾《わ》が大王《おほきみ》 高輝《たかてら》す 日《ひ》の皇子《みこ》 茂座《さかえます》 大殿《おほとの》のうへに 久方《ひさかた》の 天伝《あまづた》ひ来《く》る 白雪《ゆき》じもの 往来《ゆきかよ》ひつつ 益《いや》常世《とこよ》まで
    八隅知之 吾大王 高輝 日之皇子 茂座 大殿於 久万 天傳來 白雪仕物 徃來乍 益及常世
 
【語釈】 ○八隅知し吾が大王 既出。○高輝す日の皇子 「高輝す」は、天に光るで、四句、天皇、皇子に対しての讃え詞。○茂座 旧訓「しげくます」、『代匠記』「しきませる」、『童蒙抄』「さかえます」、『略解』「しきます」であり、『攷証』は「茂」は「敷」の借字で、知り領しますの意だとしている。『講義』は『童蒙抄』の「さかえます」に従い、その理由をいっている。要は「茂」は「しく」と訓みうる字ではなく、また「茂り」「茂る」「栄ゆ」という意で「しく」という語もない。『類聚名義抄』には、「茂」に「さかゆ、もし、つとむ、もつ、さかり」の訓がある。また、『説文』『広韻』にも「さかゆ」の意がある。『童蒙抄』の「さかえます」が当たっているというのである。これに従う。意は、今いう「栄ゆ」と同じで、集中に用例の多い語である。栄えていらせられると、皇子を賀したもの。○大殿のうへに 「大殿」は、皇子の殿を讃えての称。この殿は、反歌で見ると「八釣山《やつりやま》」にあったものである。八釣山は高市郡明日香村字八釣の上方にある山で、顕宗天皇の近飛鳥八釣宮《ちかつあすかのやつりのみや》のあった地である。皇子の殿は藤原京にあり、そちらには別殿があって、おりふしそちらへいらせられたものと、歌の上から察しられる。今はそうした場合である。 ○久方の天伝ひ来る 「久方の」は、天にかかる枕詞。既出。「天伝ひ来る」は、天を伝って降ってくるで、下の「雪」の状態をいったもの。 ○白雪じもの往来ひつつ 「白雪じもの」は、上の(二三九)「十六《しし》じもの」と同系の語で、他にも出た。雪のごとき物の意の形容で、ここは、雪のごとくにの意である。「往来ひつつ」は、八釣山の大殿に、藤原京から通い行きつつで、「つつ」は継続。この往来う者は新田部皇子で、主格は「日の皇子」である。 ○益常世まで 「益」は、集中に用例の少なくない字。ますます。「常世」は、ここは永久の意のもの。ますます永久にわたつてで、言いさしの形のもの。下に栄えませの意が省かれている。
(50)【釈】 八隅知し吾が大王の、高|輝《てら》す日の皇子《みこ》よ。めでたくも御機嫌うるわしくいらせられる大殿の上に、おりから、久方の天を伝って降ってくる雪のごとくに、藤原京よりこの大殿へと通い来ることを続けて、ますます永久にわたって栄えいませよ。
【評】 反歌と合わせてみると、この歌の作意は明らかである。人麿がこの歌を献った時には、皇子は藤原京から八釣山の別殿へ来ていらせられた。そのおりから大雪が降ったので、皇子の宮に親しく出入りしていた人麿は、当時も風《ふう》となっていたとみえる、大風、大雪など天変に近いことのあった際には御見舞いを申し上げる、その風に従って御見舞いに伺って、それを機会として献った、皇子に対する賀の歌である。賀の歌は、天皇に対し奉っては、行幸の際には必ず献るもののようになっていた。今は皇子の別殿にいらせられている際で、それに准じうる機会である。加えて大雪の降ったという特殊な際でもあるので、それをするにはいっそう妥当な機《おり》であるとして献ったものとみえる。さて、改まって賀の歌を献るとすると、そのおりからの大雪を捉えていうよりほかにはより所がないところから、この歌はその雪を力点としたのである。「茂座大殿のうへに、久方の天伝ひ来る白雪じもの」はすなわちそれである。これは形の上からいうと、下の「往来ひ」の「ゆき」に畳音《じようおん》の関係で続いているので、序詞と見るべきであるが、作意の上からいうと、一首の力点で、きわめて重いものである。大体としては、おりからの眼前の大雪を捉えて、「往来ひつつ」の譬喩としたもので、今降っている雪のごとくにしげしげと京よりこの大殿へと往《ゆ》き来《かよ》いたまいての意と取れる。同時に、その雪をいうに、「久方の天伝ひ来る」と、雪を天上のものとし、その伝い来る所を「茂座大殿のうへに」と大殿の上に限ったもののごとくいっているのは、ここに賀の心をもたせようとしたものと取れる。すなわち譬喩とはいうが、その時の状態と心とを一つにした複雑なものである。加えて「白雪じもの往」と序詞の形をももたせているのは、一に人麿の優れた技倆というべきである。なおいえば、実際に即して、乏しい資料を、十二分に働かせたもので、高度の文芸性をもったものである。
 
     反歌一首
 
262 矢釣山《やつりやま》 木立《こだち》も見《み》えず 落《ふ》り乱《まが》ふ 雪《ゆき》に驟《うくづ》き 朝楽《まゐりくらく》も
    失釣山 木立不見 落乱 雪驟 朝樂毛
 
【語釈】 ○矢釣山木立も見えず 「矢釣山」は、前頁にいった。「木立も見えず」は、山の木立も見えずにの意で、雪の降る状態。「見えず」は連用形で、「落り」につづく。○落り乱ふ雪に驟き 「落り乱ふ」は、降るために、物の紛れて見えない状態をいったもの。「乱ふ」は連体形で、「雪」につづく。「驟」は、諸本、文字に異同があり、したがって訓もさまざまで、定説がない。この字は、『類聚古集』のものである。この字を原形で(51)あろうとしたものは、古くは『古義』で、訓を「さわぎて」としている。ついで、これに従って考証をしたのは生田耕一氏で、『日本文学論纂』で、「うくづき」と訓んでいる。これをさらに詳しく考証したのは『講義』で、要は、「うくづく」は、日本書紀、『文選』の古訓に用例のある語である。意義は、『新撰字鏡』に「駆」とあり、なお『説文』には「馬疾歩也」、『玉篇』には「奔也」ともあり、馬を走らすことの古語だといっている。今はこれに従う。二句、物のまぎれるような大雪の中を、お見舞いにと路を急ぐことを、具象的にいったもの。○朝楽も 「朝」は、漢語の「朝す」の意の字。訓は、旧訓、『考』のものである。「まゐり来」は、尊い所へ伺う意を、そちらを主としていった語で、今だとまいり行くという意である。「らく」は、「く」を添えることによって、「来」を名詞形としたもので、「も」は、詠歎。お伺いすることであるかの意。
【釈】 矢釣山の木立も見えないまでにまがえて降っている大雪の中を、お見舞いのために、馬を走らせて路を急いでお伺いすることであるよ。
【評】 長歌は、おりからの大雪に寄せて皇子を賀しまつったのであるが、反歌は転じて、人麿自身のことをいったもので、その大雪の中を、臣下として、鞠躬加《きつきゆうじよ》として奉仕する心をいったものである。一首、大雪の光景の明るく、面白さを連想させるものがあるが、長歌との関係において見る時は、上のごとく解するほかはないものと取れ、それが作意であると思われる。
 
     近江国より上り来る時、刑部垂麿の作れる歌一首
 
【題意】 「刑部垂麿」の伝は不明である。この人の歌は、なお本巻に一首ある。
 
263 馬《うま》な疾《いた》く 打《う》ちてな行《ゆ》きそ 日並《けなら》べて 見《み》てもわが帰《ゆ》く 志賀《しが》にあらなくに
    馬莫疾 打莫行 氣並而 見弖毛和我歸 志賀尓安良七國
 
【語釈】 ○馬な疾く打ちてな行きそ 「馬な」は、「馬」は、乗馬。「な」は、禁止の意をあらわす助詞で、二句にもあるものである。一句に二つの禁止があるので、一つは誤りであろうというが、諸本皆同様である。宣命にはその例があるが、歌にはないものである。一つの事に二つの禁止を用いていったものと見るよりほかはない。「疾く」は、甚しくで、下の「打ち」へつづく。「打ちてな行きそ」は、「な……そ」は禁止。馬を鞭打つのは、路を急がせようとするためで、それを禁止したのは、そのように急いでは行くなの意を具体的にいったもの。同行者の、その乗馬を扱う状態を見ての言で、先立って行く者に対しての言である。○日並べて見てもわが帰く 「日並べて」は、日を並べて、すなわち幾日もの間、ゆっくりとの意。「見ても」の「も」は、詠歎。○志賀にあらなくに 「志賀」は、近江琵琶湖の西岸の、天智、弘文二帝の京のあった地。「あらなく」の「なく」は、打消の「な」に、「く」を添えて名詞形としたもの。
【釈】 乗馬を、そのように甚しく鞭打って、路を急がせて行くな。日を重ねて、ゆっくりと見て行くところのこの志賀ではない(52)ことなのに。
【評】 題詞によって、近江国から藤原京へ帰る時のこととわかる。何ゆえに近江国へ行ったのかは明らかにはわからないが、これにつぐ人麿の歌によって見ると、遊覧のためではなかったかと思われる。海のない大和国に住んでいた人に取っては、海は珍しく、むしろ憧れとなっていたがようであるから、近江の湖は強く心を引かれるものであったとみえる。また、近江の大津宮のことは、この当時にあっては近い過去のことであったから、その意味の懐かしさも伴っていたものと思われる。歌は、口頭の言をもってしても心の足るほどのものであるのを、上代の口承文学の風に従って、歌の形式としたものである。いわんとしているところは、湖辺の風光に心が引かれて、帰路を急ぐ同行者に、少しくゆっくりとするように訴えたものである。「馬な」の「な」の重複も、当座の歌で、訴えの心を主として、語に屈折をもたせようとしたところから、なかば無意識に重ねてしまったのではないかと思われるが、もとより疑問を残すべきものである。
 
     柿本朝臣人麿、近江国より上り来る時、宇治河の辺《ほとり》に至りて作れる歌一首
 
【題意】 「宇治河の辺」というのは、山城国字治郡の宇治河で、大和国から近江国への往復には、必ず通るべき路筋となっていた。僧道登が宇治橋を作ったのは、大化年中のことであるから、いずれは橋があったのである。
 
264 物《もの》の部《ふ》の 八十氏河《やそうぢがは》の あじろ木《ぎ》に いさよふ浪《なみ》の 去辺《ゆくへ》しらずも
    物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代經浪乃 去邊白不母
 
【語釈】 ○物の部の八十氏河の この語は、巻一(五〇)に出た。「物の部」の「物」は、多くの物。「部」は朝廷に奉仕するための職業団体を意味する語。「八十氏」は、「八十」は多数ということを具体的にいった語。「氏」は現在のそれと同じ。その「氏」を、河の名の「宇治」に、同音異義で転じたもの。全体では、朝廷に奉仕する多くの氏の、その氏という宇治河のの意で、「物の部の八十」は、宇治の序詞である。なお「物の部の八十氏」は、各部の氏が朝廷の臣として奉仕していたところから、百官の意である。○あじろ木に 「あじろ」は、網代《あじろ》で、鮎、氷魚《ひお》などの川魚を獲るための物で、川の流れに、竹木をもって網の形の物を作ってしかけた物である。すなわち水中に、左右に杙《くい》を打ち、上を広く、下を狭く、竹木をしがらませ、最後の所に簀を設け、水中の魚の流れとともに網代に入り、簀に入るのを捕える法である。「網代木」は、その網代の杙であるが、ここは網代そのものの意で用いたもの。○いさよふ浪の 「いさよふ」は、たゆたう意で、網代に流れ入る水の小さな浪となって、しばらくそこにたゆたうような状態をするのをいったもの。○去辺しらずも 「去辺」は、浪の行方。「しらず」は、知られず。「も」は、詠歎。波は立ちつ消えつして、ほとんど間断なく同じ状態を繰り返しているのであるが、その消え失せる浪に対して、感傷の心をもっていったもの。
(53)【釈】 物の部《ふ》の八十氏という、その宇治河の網代に、立ってはたゆたっている浪の、つぎつぎに消え失せて行って、その行方の知られないことよ。
【評】 宇治川という広く豊かな大河の上に、網代の上にいさよう浪といういささかなものに眼をとめ、思い入った心を抒《の》べた歌である。「近江国」とある以上、むろん大津の荒都も見たことであろうが、それについては何事もいわず、帰途宇治河まで来てこの一事を選んだというのは、人麿の主観に触れきたるものがあったためであろう。人麿のいわんとしていることは、「いさよふ浪の去辺しらずも」ということで、初句より三句までは「いさよふ浪」に客観性を与えるにすぎぬもので、また光景としては、そうしたさまは、状態は異なるが、どこの川にもあることで、何ら特殊なものでもないのである。「いさよふ浪の去辺しらずも」と、詠歎を添えていっているのは、ものの推移を悲しむ心で、推移の跡のあまりにもはかないのを悲しむ心である。推移を悲しむのは、現実生活に愛着する心の現われで、生命に対する執着と言いかえうるものである。これは人麿の歌のすべてにわたってその基調をなしているもので、その強さが人麿の特色をなしているものである。この歌にあらわしているのも、その平生の心で、その心が、この平凡な事象に刺激され
たのである。この歌で問題となるのは、これを詠んだ際人麿は、単にこうした事象によって平生の心を刺激されたがために詠んだのか、または、題詞の「近江国より上り来る時」という条件の下にあって、平生の心が大津の荒都を見ることによって刺激され、深化されていた際、幾ほどもなくしてこうした光景を眼にしたために、重ねてそれに刺激されて、大津宮の跡を悲しむ心をそれに寄せて詠んだものかということである。この一首は、人麿の歌としては、沈潜の趣の深いものである。この沈潜は近江の荒都を連想させるものがある。「物の部の八十氏河」は、成句となっていたと思われるものであるが、これは天皇の宮廷を思わせるもので、偶然なものではなく、「いさよふ浪の去辺しらずも」は、最も適切に大津の荒都の成行きを思わせるものである。それにその事は、事柄の性質上、この当時にあっては、露骨なる抒情を許さないものでもある。人麿平生の心と、大津の荒都に対する悲哀とを一丸とし、象徴ともいうべき文芸的な方法をもって詠んだのが、この一首だと思われる。この際の人麿の感の強さは、一首の調べにいみじくもあらわされているが、それは言い得られないものである。
 
     長忌寸奥麿の歌一首
 
【題意】 「長忌寸奥麿」は、上の(二三八)に出ている。
 
265 苦《くる》しくも 零《ふ》り来《く》る雨《あめ》か 神《みわ》の埼《さき》 狭野《さの》の渡《わたり》に 家《いへ》もあらなくに
(54)    苦毛 零來雨可 神之埼 狹野乃渡尓 家裳不有國
 
【語釈】 ○苦しくも零り来る雨か 「苦しくも」の「も」は、詠歎。旅路を行きながらの感。「零り来る雨か」の「か」は、詠歎。○神の埼狭野の渡に この二つの地は、和歌山県新宮市の南に三輪崎というがあり、その字《あざ》に佐野というがあり、そこだとされている。「渡」は佐野の南に川があるので、そこの徒渉地であろうという。上代は特別な路でない限り川に橋がなく、徒渉するのが普通であった。○家もあらなくに 「家」は、宿を借るべき家。「も」は、詠歎。「なく」は、打消「な」に、「く」の添って名詞形となったもの。
【釈】 苦しくも降って来る雨であるよ。神《みわ》の埼の狭野《さの》の渡り場に、宿を借るべき家もないことであるのに。
【評】 廷臣として、何らかの命を帯びて紀伊へ旅した際の歌とみえる。歌は、実感を実際に即して、素朴に詠んだものである。人に告げようとしてのものではなく、我とわが心を紛らすために詠んだものとみえる。すなわち文芸性の範囲のものである。この歌のもつ迫真性は人を打つものがあり、他奇のないものであるにかかわらず、後世に影響を与えているものである。
 
     柿本朝臣人麿の歌一首
 
266 淡海《あふみ》の海《み》 夕浪千鳥《ゆふなみちどり》 汝《な》が鳴《な》けば 情《こころ》もしのに 古《いにしへ》念《おも》ほゆ
    淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念
 
【語釈】 ○淡海の海 「海」は、旧訓「うみ」。仮名書きによつてのものである。琵琶湖のこと。その湖辺に天智、弘文両帝の大津宮があったのである。○夕浪千鳥 夕浪の上に飛んでいる千鳥の意で、呼びかけたもの。千鳥は、川原、海岸など、水辺に棲み、小魚を食としている小鳥である。今もこの名で呼んでいる。この簡潔な続け方は、人麿の創意とみえる。○汝が鳴けば 「汝」は、呼びかけていっているもの。「鳴けば」は、鳴くので。千鳥の鳴き声は、低く、さみしいもので、聞くと哀愁をそそられるものである。今その声を取立てていっているので、夕浪も音が低く、あたりもひっそりとしていることが、余情として感じられる。○心もしのに古念ほゆ 「しの」は、しほる、しなえるの意をもった語で、「情もしのに」は、心がしおれた状態となってで、「念ほゆ」に続く。「古《いにしへ》」は、大津宮の荒都となった古の事蹟で、それを婉曲《えんきよく》にあらわしたもの。「念ほゆ」は、思われる。
【釈】 近江の海の夕浪の上に飛んでいる千鳥よ。お前がそのように鳴くので、我は心もしおれた状態となって、ここにあった古の悲しい事蹟が思われる。
【評】 歌によって見ると、人麿がこの歌を詠んだ時には、古の大津宮に近く、湖辺にいたことがわかる。また、夕暮れになる(55)までそこにいたこともわかる。思うに懐古の情に捉われて、そこを立ち去りかねていたのであろう。千鳥が夕浪の上を乱れ飛んで、低くさみしい鳴き声をたてるのは、その時の実景で、感傷を催しやすい夕暮れ時、旅人として自然の大景の中にいて、その鳴き声を聞くと、胸中に湛えられていた古を思う感がいっそう深まってきて、「心もしのに」という状態にならされたものと思われる。一首、比較的複雑した気分を、「千鳥」という一生物に集中させて、単純に、余情を多くあらわしているものである。細部についていうと、「淡海の海夕浪」における「み」音、「千鳥……心もしのに古」における「い」韻の反覆は、徹妙なものとして注意されている。これは無意識にしたことを、結果から見ていうことと思われるが、とにかく、この同音同韻の反覆は、一首に沈静の味わいをもたせるものとなっている。この歌は人麿の作中でも文芸性の豊かなもので、加えていわゆる小手《こて》の利いたものであるところから、人麿の代表作であるかのごとくいわれているが、それはむしろ後世の好尚のいわしめることで、人麿の一面をあらわしている作とすべきであろう。
 
     志貴《しきの》皇子の御歌一首
 
【題意】 「志貴皇子」は、巻一(五一)(六四)に出た。天智天皇の皇子、光仁天皇の御父である。
 
267 むささびは 木末《こぬれ》求《もと》むと 足日木《あしひき》の 山《やま》のさつ雄《を》に あひにけるかも
    牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓來鴨
 
【語釈】 ○むささびは 「むささび」は、※[鼠+吾]鼠。俗に「ももんが」とも「のぶすま」ともいう小獣である。『和名抄』に、「状如v※[獣偏+爰]、而肉翼如2蝙蝠1、能従v高而下、不v能2従v下而上1、常食2火烟1、声如2小児1者也」とある。巻七(一三六七)「三国山《みくにやま》木末《こぬれ》に住まふむささびの鳥待つが如われ俟《ま》ち痩せむ」とあって、小鳥を食とする獣で、そのために梢に住んでいるのである。○木末求むと 「木末」は、木の若く栄え立っている部分の称。梢にあたる。小鳥の止まる所としていったもの。「求むと」は、捜すとしてで、小鳥の止まりそうな所を捜そうとして。○山のさつ雄にあひにけるかも 「山のきつ雄」は、「さつ」は幸で、鳥獣を獲る意。「雄」は男で、山の幸を得ようとする男、すなわち猟師。「あひにけるかも」の「あひ」は、※[鼠+吾]鼠と猟師の関係を、※[鼠+吾]鼠の方を主としていった語で、猟師の方を主とすると、発見したことである。出逢ってしまったことであるよの意。
【釈】 ※[鼠+吾]鼠《むささび》は、小鳥の止まりそうな梢を捜そうとして、山の猟師に出違ってしまったことであるよ。
【評】 ※[鼠+吾]鼠の歌は、集中にこのほかにもあって、当時は比較的目に触れやすい獣であったとみえる。したがってその習性とし(56)て、小鳥の止まりそうな山の梢を捜し廻って住むことも知られていたとみえる。御歌はそれを背後に置き、  窮鼠が梢より梢へと渡って歩いていたために、その姿を山の猟師に発見されてしまったことを、  窮鼠の方を主とし詠歎の情をもって詠まれたものである。作意は、  窮鼠が猟師に獲られてしまったのを見られ、それを隣む心をいわれたもので、その事は余意としたものと思える。歌としては境が特殊であり、また余意をもたせて扱われているところは、皇子の詩情のさせていることと思われる。
 
     長屋王《ながやのおほきみ》の故郷の歌一首
 
【題意】 「長屋王」は、巻一(七五)に出た。高市皇子の子で、天武天皇の御孫である。国家の柱石であったが、天平元年、四十六歳のあるいは五十四歳をもって、讒にあって自尽された。「故郷」というのは明日香で、それについては左注がある。
 
268 吾《わ》が背子《せこ》が 古家《ふるへ》の里《さと》の 明日香《あすか》には 千鳥《ちどり》鳴《な》くなり 島《しま》待《ま》ちかねて
    吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 嶋待不得而
 
【語釈】 ○吾が背子が 「背」は、本来女より男を呼ぶ称であるが、男同志の問にも用いられるものとなった。ここはそれである。「吾が」と「子」とを添えてあるのは、いずれも親愛の情を示しているものである。○古家の里の明日香には 「古家」は、古里と同じく、以前住んでいたところの家。「古家の里」は、古家のあるところの里で、「明日香」は、それを繰り返したもので、そうした里である飛鳥の意。○千鳥鳴くなり 「千鳥」は、水辺に棲む鳥。「鳴くなり」の「なり」は、終止形に続いて、上の意を強めるもの。○島待ちかねて 「嶋」は、諸本皆同様である。『講義』は、巻二(一七一)以下の「島の宮」「み立たしの島」などの島と同じく、庭園を意味する語で、その庭園は、山水《せんすい》を掘り、中に中島を築くのが風となっていたので、「島」という語で、そうした庭園を代表させたものだといっている。その島はこの場合、水辺の島である千鳥の棲むところとしてのものである。「待ちかねて」は、待ち得ずしてで、千鳥が棲みつこうとして、それに適する状態となるのを待っているが、棲めない状態のままで、すなわち荒れて、水が涸《か》れ涸れになつたままで続いているのでの意。
【釈】 吾が背子が、住み棄てた古い家のある里のその飛鳥では、千鳥が嘆いて鳴いていることである。棲みつこうとする島の、そうした状態に復するのを待ち得ずして。
【評】 王が故郷の飛鳥の里を訪い、その荒廃したさみしさを、京にある親しい人に報じた歌で、歌としては実用性のものである。しかしその荒廃の状をいうには、一に千鳥に寄せていうという文芸的のものである。庭園の荒れて山水《せんすい》はあるが、水の涸れ涸れになったのと、飛鳥川に多い千鳥とを取合わせ、双方を緊密に関係させて、その千鳥は山水に棲みつこうとして、山水のその状態に復するのを待って、待ち得ずしてさみしく鳴いているのだと、千鳥に情《こころ》あらしめて、それによって古家の里の荒(57)廃しているさまを暗示しているのである。「島待ちかねて」の含蓄はもとより、「古家の里の明日香」も、巧みな言い方で、技倆の歌である。
 
     右、今案ずるに、明日香より藤原宮に還りましし後、此歌を作れるか。
      右、今案、從2明日香1遷2藤原宮1之後、作2此謌1歟。
 
【解】 この歌の作られた時についての注であるが、このことにつき『講義』は、長屋王の生まれたのは天武天皇十二年で、藤原宮遷都の時は十一歳であった。また、藤原宮より奈良宮へ遷都の時は二十七歳であった。したがってそのいずれの時かわからない。それで藤原宮遷都に続いてのこととすると、六、七年後のことでなくてはなるまいといっている。
 
     阿倍女郎《あべのいらつめ》の屋部坂の歌一首
 
【題意】 「阿倍女郎」は、父祖も伝記も明らかではない。阿倍氏は『新撰姓氏録』に「阿倍朝臣孝元天皇皇子大彦命之後也」とあり、その一族の人と思われる。集中に歌が五首ある。それによると、中臣朝臣東人と贈答をしているが、東人は和銅四年従五位下を授けられ、天平四年兵部大輔に任ぜられた人であるから、女郎の壮年期の時代が察しられる。また、大伴家持より女郎に贈った歌〔巻八(一六三一)〕があるが、歌の中に「今造る久邇《くに》の京《みやこ》に」とあり、その時は奈良遷都後三十年を経てのことであるから、女郎は五十歳もしくはそれ以上の老年でなくてはならないと『講義』は考証している。「屋部坂」は、『代匠記』は、「三代実録十七云、高市郡夜部村云々、此処歟」といってい、『講義』は詳しく考証して、高市郡明日香村小山の辺りであろうといっているが、他に説が多い。
 
269 人《ひと》見《み》ずは 我《わ》が袖《そで》もちて 隠《かく》さむを 焼《や》けつつかあらむ 服《き》ずて来《き》にけり
    人不見者 我袖用手 將隱乎 所焼乍可將有 不服而來來
 
【語釈】 ○人見ずは 見る人がないならばで、そこは人目のある所で、また次のことは、人の見る所でするのははばかるべきことであるという余意をもっての語。○我が袖ももて隠さむを わが袖をもって隠してやろうものをで、「を」は詠歎。対象となっている物の有様が、見るに忍びない心をもってのもの。初句よりこれまでは、対象から与えられる感と、その感に対して動いた心である。○焼けつつかあらむ 焼かれ続けているのであろうかというので、対象の状態に対しての理由づけである。対象は夜部坂であって、眼前のものであるから省いているのである。「焼け」(58)は、「焼かれ」の約で、事柄としては、坂が赤くなって、すなわち草木が生えず、赤土の地肌を露出していることと取れる。また「袖もちて隠さむ」といっているので、その範囲は広くはない、一部分のことと取れる。赤土がちな大和国であるから、坂の一部に地辷りができ、草木が生えずにいると、赤く焼けているように感じられよう。これは珍しくない事柄である。心持としては、恋の思いに胸を焦すことを胸を焼くというのは例の少なくない語で、巻十三(三二七一)「吾が情《こころ》焼くも吾なり」などがある。胸を焼くのは女にありがちなことである所から、今も坂に女性を連想していると取れる。この連想は上代にあつては自然なものである。○服ずて来にけり 「服ずて」は、衣を着ずしてで、上の句を承《う》けてのもの。事柄としては、坂の一部に草木の生えず、地肌の露出していることをいったものであるが、その草木を坂の衣と見、「焼け」に関係させて、焼かれたので衣がなく、したがって、衣を着ずして、すなわち裸での意。「来にけり」は、過ぎて来たことであるよと、時間を主としていったもの。これは上の句の「焼けつつ」の「つつ」に照応させてある。心持としては、上の句を承けて、坂を女性と見ることに力点を置いたものである。
【釈】 見る人がなかったならば、わが袖をもって隠してもやろうものを。この坂の一部の、地辷りのために草木が生えず、赤土の地肌を露出させているところを見ると、恋の思いに焼かれつづけて、衣は燃えてしまったのであろうか、衣を着ずに過ぎて来ていることであるよ。
【評】 この歌は、『代匠記』が、「意得がたき歌なり」といって、推測の解を試みているのを初めとして、諸説まちまちである。上の解は、大体『考』の解によって下したものである。夜部坂にあった地辷りのために赤土の地肌が現われ、草木が生えずにいる部分というのは、丘陵地だとどこにも見られる相で、けっして珍しいものではない。それが印象的なものにされていたのは、その場所が往来の道筋にあたっていた、人目に着きやすいためであったろう。歌は、女郎がその坂を通って、たまたま目にしたところからのものと思われる。作意は、坂に自分と同性の女性を連想して、そのさまをかつ恥じかつ隣れんでのものである。一首、ほとんど抒情に終始していて、直接状態に触れるところのないのは、その坂を通る人の等しく見ているところであるとともに、女郎としてはいうに忍びないとしたためであろう。解に異説の多いのは、抒情を旨としたものだからである。作歌態度としては、実際に即して、扱いにくい対象を、文芸的に扱い得ているものである。
 
     高市連黒人《たけちのむらじくろひと》の※[羈の馬が奇]旅の歌八首
 
【題意】 「高市連黒人」は、巻一(三二)に出、そこでいった。父祖も官位も徴すべきものがなく、伝は不明である。ただ知られるのは、(五八)の題詞によって、大宝二年、太上(持統)天皇、参河国に幸《いでま》された時に供奉し、また同じ天皇の吉野宮の行幸に供奉して歌(七〇)を作っているので、大体その生存年代が知られ、また、ここに見るごとく東国地方に関する歌が多いところから、国庁に仕えていた身分高からざる人かと想像されるのみである。歌は、集中十八首をとどめているが、全部旅の歌で、主として自然を対象としたもので、独自の歌風を示しているものである。時代としては人麿とほぼ同時であるが、人麿の人事のみ(59)を扱ったのに対し、黒人はほとんど自然のみであり、また人麿の一般性を代弁したごとき観があるのに対し、黒人は叙景という、その当時にはほとんど先蹤《せんしよう》のない方面を拓き、また人麿の一面保守的で、その風の華麗であったのに対し、黒人は進取的で、その風は素朴であるなど、要するに対蹠的の歌人であったことを示している。集中の代表歌人の一人である。ここの八首は、黒人の歌としては最も纏まっているものである。
 
270 旅《たび》にして 物恋《ものこ》ほしきに 山下《やました》の 赤《あけ》のそほ船《ぶね》 奥《おき》へ榜《こ》ぐ見《み》ゆ
    客爲而 物戀敷尓 山下 赤乃曾保船 奧傍所見
 
【語釈】 ○旅にして物恋ほしきに 「旅にして」は、旅にありての意。「恋ほし」は、「恋ひし」よりは古い形で、この時代は「恋ほし」といったのであろうと『講義』が考証している。「物恋ほしきに」は、憧れ心の起こることであるのにの意で、その憧れ心は、古里に対してのものである。○山下の 山の下で、続きより見ると、そこはただちに海となっているのである。黒人は山の上にいたので、間接に、その位置をあらわしているもの。○赤のそほ船 「赤《あけ》」は、「赤《あか》」の古語。「そほ船」は、そほをもって塗った船の意。そほは赤土を称する語で、その純粋なものを真《ま》そほといった。赤《あか》に、そほをもって塗った船。そほをもって船を塗るのは、船材の腐朽するのを防ごうがためで、上代より現在に及んでいる方法であり、現在も漁船は赤土を塗っていると『講義』はいっている。これは外国のセメント、コールタをもって塗るのと同様である。集中に「さ丹塗《にぬり》の小船《をぶね》」、「赤ら小船《をぶね》」とあるのも同じ意よりのものである。この赤土をもって塗ることは、大船であれば、それを重んずる心から必ずしたことと取れる。なお、『槻落葉別記』は、『令義解』につき、船舶に関する部分を調べ、『講義』はそれを補足している。○奥へ榜ぐ見ゆ 沖の方に向かって漕いで行くのが見える。
【釈】 旅にあっては、古里に対する憧れ心が起こることであるのに、ここの山の下にある海にいる赤のそほ船が、沖の方へ向かって漕いで行くのが見える。
【評】 「旅にして物恋ほしきに」というのは、旅行をしていての心ではなくて、旅の一定の場所に泊まっていての心と取れる。すなわち国庁にいてのものであろう。これは下の続きから思われることである。「山下の赤のそほ船」はその続き方がやや隠約で、曖昧だともいえる。これは実際に即しての写生で、一般性の足りないものだからである。ここに黒人の個人性が見え、特色が見える。「奥へ榜ぐ見ゆ」は、ただちに京へ向かっての航路を取っていると解する必要のないものである。当時の旅行は、陸路は困難が多かったところから、つとめて海路によろうとしていた。ここもそれで、ただ旅程に上っているものと見ただけである。京ということは、連想の中にはあったろうが、表面にあらわそうとまでは思わなかったものと取れる。この余情がまた、黒人の特色となっている。なお旅程ということは、上の「赤のそほ船」につながりがあって、その相応な大船だと思(60)われるところからくるものである。一首あくまで実際に即してはいるが、同時に他方では、情趣を重んじ、余情を重んじているもので、これを人麿に較べると、作歌態度としては、新しく、進歩的なものである。
 
271 桜田《さくらだ》へ 鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る 年魚市《あゆち》がた 塩《しほ》干《ひ》にけらし 鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る
    櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡
 
【語釈】 ○桜田へ鶴鳴き渡る 「桜田」は、尾張国愛知郡(現在名古屋市)作良《さくら》の郷の田と取れる。そこは今は明らかではないが、熱田と鳴海との間、笠寺の東に、桜という字を付した町名があるのは、その跡ではないかという。「鶴鳴き渡る」は、鶴が鳴きつつ移ってゆく。○年魚市がた塩干にけらし 「年魚市がた」は、「がた」は、潟。これは今、熱田神宮の西南、熱田新田と呼ぶ辺は、古は海で、その辺の称ではないかという。「塩干にけらし」は、「塩」は潮。「らし」は眼前を証拠としての推測で、その証拠は鶴。たしかに潮が干てしまったらしいというので、渚《なぎさ》にいて餌をあさる鶴の、空を鳴き渡ることによって、そのさまを推量したのである。
【釈】 桜田の方へ鶴が鳴きながら移ってゆく。たしかに年魚市渇は潮が干てしまったらしい。鶴が鳴きながら移ってゆく。
【評】 この歌は、形からいうと、第二句で切り、第四句で切り、第五句で第二句を繰り返しているものであって、口承文学時代の形をそのままに伝えているものである。語《ことば》つづきも単純であり、地名を二つまでも用いているところも、それにふさわしいものである。しかし捉えていっていることは、自然に対する興趣であって、これは口承文学とは遠い文芸性のものである。自然の興趣とはいうが、それは「鶴鳴き渡る」というだけのもので、鶴を目馴れていたこの時代にあっては、平凡なものにすぎない。それに理由づけはしているが、これまた平凡なものである。この平凡に興趣を感じ、それに甘んじ、躍動をもった調べによって生かしているのは、黒人の文芸性で、個性的と言いうるものである。
 
272 四極山《しはつやま》 打越《うちこ》え見《み》れば 笠縫《かさぬひ》の 島《しま》榜《こ》ぎ隠《かく》る 棚無《たなな》し小舟《をぶね》
    四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隱 棚無小船
 
【語釈】 ○四極山 『代匠記』は、「和名抄云、参河国|幡豆《はづの》郡磯泊【之波止】、是今の四極と同じき歟」といい、第一に参河とし、次に、「又住吉にも磯歯津《しはつ》あり。第六巻に見ゆべし」といっている。諸注、この二つの中のいずれかを取っている。すなわち二か所の内のいずれとも定められずにいるのである。それだと、『代匠記』がいい、『攷証』が支持しているように、前後の歌がすべて東国の地である関係上、参河とする方が穏やかに思える。(61)黒人のこの際の歌としては、史上に有名である方ということは、証とはならない。○打越え見れば 越えて見渡せばで、山の頂に登り切り、眼界の改まった瞬間を捉えたもの。○笠縫の島榜ぎ隱る 「笠縫の島」は、参河としても摂津としても、その名をとどめている島はない。本来笠縫は、菅笠を編むことで、それを業とする人の住んでいたところから地名となったものと思われる。上代の生活にあってはこの業をする人が多く、したがって笠縫という地名は少なくないが、生活状態の推移したため、地名も亡びたものと思われる。この島は、下の「棚無し小舟」との関係より見て、四極山の頂からは、眼下に近く見えたものと思われる。「榜ぎ隠る」は、棚無し小舟といわれるような舟は、航海の危険を避けるため、岸に添って繞るようにして榜ぐのが普通であったから、久しからずして島蔭になったものと思われる。これは島の小ささも暗示している語である。○棚無し小舟 「棚」は、船の舷側にとりつけた棚板の称で、それのない小さな舟の意で、小舟を印象的にいった語。
【釈】 四極山を越えて、その頂から見渡すと、眼界は一変して、眼下近い笠縫の島の、岸寄りを繞って漕いで、見ていると島蔭に隠れてゆく、棚無し小舟よ。
《評》 「四極山打越え見れば」と、山の登りの極まって、限界の遙かに一変したことを暗示する語をもって切り、「笠縫の島榜ぎ隠る棚無し小舟」と展開させ、そこに展けきたのは、山とは対抗的に広い海であり、海には陸近く島があり、その島には、今しも岸よりを漕ぎめぐっている一艘の小舟のあることをいっている。この変化は鮮やかで、また華やかなものである。しかしこの華やかな光景の中で、黒人の心を寄せたのは、最も小さな物である「棚無し小舟」で、それに心を集めて熟視していたのである。そのことは、「島榜ぎ隠る」と時間的にいい、また、それを結句に重く据えているのでもわかる。この「榜ぎ隠る」には、上とは反対な、静かな変化があり、それが一首の中心ともなっている。全体として、調べが華やかで、地名を二つまで用いていっているところは、前の歌と同じく口承文学の色合いの濃厚なものであるが、捉えているところは、自然そのものの興趣であって、「棚無し小舟」という人事的な物をも、全く自然の景象化としていっているもので、その意味では高度の文芸性のものである。すべて前の歌と同様で、異なるところは、事相も気分もそれよりは遙かに複雑なものだということだけである。この歌が古今集の大歌所の謡い物の中に取られているのも、ゆえあることである。
 
273 礒《いそ》の前《さき》 榜《こ》ぎたみ行《ゆ》けば 近江《あふみ》の海《み》 八十《やそ》の湊《みなと》に 鵠《たづ》さはに鳴《な》く 未だ詳ならず
    礒前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴 未詳
 
【語釈】 ○礒の前 「礒」は、海岸の石の多くあるところ。「前」は、「埼」で、出鼻。ここは湖であるが、古称は海と同じにするのが風であった。○榜ぎたみ行けば 「たみ」は、迂回することで、漕ぎめぐって行くと。当時の航海は、つとめて岸を離れないようにするのが風であった。不時の危険を避けやすくするためである。○近江の海八十の湊に 「近江の海」は、琵琶湖。「八十」は、数の多いことを、具体的にあらわそうとする(62)語。「湊」は、船の着くところ。琵琶湖を繞って散在している土地の交通路は、一に船によったのであるから、湊の数は限りなくあったのである。○鵠さはに鳴く 「鵠」は、鶴に通じて用いていた。一方、「たづ」は、鵠、鶴などを総括しての称でもあった。「さは」は、多く。○未だ詳ならず この注は『類聚古集』『古葉略類聚鈔』、紀州本にはないものであり、また、その意味も明らかではないものである。後人の書入れの混入ではないかとされている。
【釈】 磯の崎を漕ぎめぐって行くと、近江の海の、八十《やそ》と限りなくある湊々に、鵠《たず》が多く鳴いている。
【評】 「礒の前榜ぎたみ行けば」は、湖を越えようとしても、また一方の岸の、ある地から地へ行こうとしても、つとめてとろうとする方法であった。ここはそのいずれともわからないが、旅の途次としてのことであったと思える。「八十の湊に鵠さはに鳴く」は、鵠の湊にいるのは、そこを餌をあさるに適当な場所としているので、鳴くのはおのずからに鳴く場合もあり、また、船の出入りがあるために、警《いまし》め合って鳴く場合もある。ここは後の場合を心に置いてのものと取れる。船はもとより黒人の船だけではなく、多くの船があるので、それに驚いて鳴く鵠の声の多いのは当然であるが、聞くのは黒人で、「八十の湊」の声を同時に聞くということは、ありうべからざることに思える。ここには誇張があり、飛躍がある。しかし、鵠の声は高いものであり、湊は比較的接近して幾つもあり、加えて、浪のない時の湖上は静寂で、音をさえぎる何物もないのであるから、湊々の鵠の声が同時に聞こえるということも、必ずしも甚しい誇張ではない。気分としてはまさにそのような気がしたろうと思われる。情趣を重んじる黒人にとっては、湖上全体の情趣を捉えていおうとすると、こうした誇張と飛躍を安んじて行なったものと思え、そこに一首の趣を感じる。前二首と同じく、純粋な自然詠であって、高度の文芸性をもったものである。
 
(63)274 吾《わ》が船《ふね》は 枚《ひら》の湖《みなと》に 榜《こ》ぎ泊《は》てむ 奥《おき》へなさかり さ夜《よ》ふけにけり
    吾船者 枚乃湖尓 榜將泊 奧部莫避 左夜深去來
 
【語釈】 ○吾が船は枚の湖に 「吾が船は」は、自分の乗っている船は。「枚」は、今は比良《ひら》と書く。潮水の西岸の地。「湖」は、集中に用例のある字で、(二五三)に出た。○榜ぎ泊てむ 「泊つ」は、船の着いて止まる意で、漕ぎ着けて止まろう。○奥へなさかり 「奥」は、沖。「なさかり」は、「な」は禁止。後世は「な……そ」をもってすることになったが、古くは「な」だけであった。「さかり」は、遠ざかるのさかると同じく、離れる意。これは連用形で、こうした場合の定まりである。○さ夜ふけにけり 「さ」は、接頭語。「ふけにけり」は、「に」は、完了で、更けてきたことだ。
【釈】 わが船は、比良の港へ着けて止めよう。沖の方へ離れることはするな。夜は更けてきたことだ。
【評】 自身の乗った船を漕いでいる船子《かこ》に対して命じた語である。本来は口頭の語をもってするべきものを、歌の形式をもってしたもので、いわゆる実用性の、口承文学の系統のものである。これを歌として見ると、その際の全体が現われており、また作者の気息もさながらに現われていて、優に一首の歌を成しているものである。この結果をきたさしめているのは、なかば以上形式の力である。短歌というものの性格を語っている歌といえる。
 
275 何処《いつく》にか 吾《われ》は宿《やど》らむ 高島《たかしま》の 勝野《かちの》の原《はら》に この日《ひ》暮《く》れなば
    何處 吾將宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者
 
【語釈】 ○何処にか吾は宿らむ どこを宿りとしようかで、夜を寝るべき所を、下の「勝野の原」と予定し、その原にはもとより家はなく、寝るべき場所を自身設けるべきこととしての疑問。○高島の勝野の原に 「高島」は、近江国の郡名で、琵琶湖の西岸の内、北部一帯にかけての地。「勝野の原」は、高島郡の南端の、湖に接した地。現在は、高島町の内に、勝野という名をとどめている。○この日暮れなば 今日の日が暮れたならばで、行先を想像してのもの。
【釈】 何処《いすこ》を吾は宿りとしようか。高島の勝野の原で今日の日が暮れたならば。
【評】 上代の旅行にあつては、その日その日の夜の宿りが、最大の関心事であったことは思いやすいことである。これもそれで、旅路を行きつつ、その夜の宿りを気にしての心である。勝野の原は、古、大和京から北陸方面へ向かってゆく本街道にあ(64)たっての地である。この歌は、昼、その街道を歩いていての心であるが、どちらへ向かっているのかはわからない。我と呟いたもので、心やりの歌である。
 
276 妹《いも》も我《われ》も 一《ひと》つなれかも 三河《みかは》なる 二見《ふたみ》の道《みち》ゆ 別《わか》れかねつる
    妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴
 
【語釈】 ○妹も我も一つなれかも 「一つ」は、一体の意でいったもの。「なれかも」は、後世だと「なればかも」という意の古格。「なれ」は、「にあれ」の約で、断定。「かも」は、「か」の疑問と「も」の詠歎と合したもの。妹も我も一体であるからであろうかの意。○三河なる二見の道ゆ 「三河なる」は、三河国にある。「二見の道」は、今は明らかではない。したがって諸説がある。要するに東海道の一部分の名で、古の国府のあった御油《ごゆ》の付近の道で、ただ一筋であった本街道の名ともいい、二筋に岐れるその一筋の名であるともいわれていて定まらない。「ゆ」は、よりで、経過する地点をあらわす語。○別れかねつる 「かね」は、不能の意。「つる」は、完了の助動詞「つ」の連体形で、上の「か」の結。
【釈】 妹も我も一体であるからであろうか、三河国にあるこの二見の道で、別れ得ずにいることであるよ。
【評】 黒人が旅の路に立って、その妻との別れを惜しんでいる心である。その心の暗くはなく、どちらかというと明るいものであるところから見ると、その別れは何らかの都合があって、しばらく別れている程度のものであったろうと思われる。しかし「妹も我も一つなれかも、別れかねつる」というのは、一日二日の別れという軽いものともみえない。その都合の何であったかはもとよりわからず、そこに必然性を求めるのは想像にすぎないものとなる。「三河なる二見の道」と地名を重ねてくるのは、口承文学の系統のもので、ここもそれに従ってのものとみえる。一首の中に、「一」「二」「三」という数字の重なってくることは問題となることである。要は、これを主として、その興味で詠んだ歌か、または、付随的のものかということである。口承文学としての謡い物は、相応に技巧の多いもので、ことに音の興味を重んずるものである。いったがように二つの地名を取入れたのは、口承文学の系統のことである。それは、数字とはいえ、音の興味に近いものの加わったのがこの数字である。無意識な、自然なものとはいえないが、ほとんどそれに近い状態で詠んだ歌に、黒人の歌才の成行きとして、労せずして絡んできた技巧ではないかと思われる。
 
     一本に云ふ、水河《みかは》の 二見《ふたみ》の道《みち》ゆ 別《わか》れなば 吾《わ》がせも吾《われ》も 独《ひとり》かも去《ゆ》かむ
      一本云、水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文將去
 
(65)【語釈】 略す。
【釈】 三河国の二見の道で別れたならば、わが背も吾も、独りでさびしく旅をすることであろうか。
【評】 上の歌と同じものとして、こうした伝えもあるとの意で引いたものとみえる。しかしこれは女の歌で、上の歌に和《こた》えたものであることは明らかである。黒人の妻の歌であろう。『考』は、この歌は題詞の八首の歌が終わった後、別に題詞があって載っていたのを、乱れてここに入ったものだろうといっている。撰者がこのような扱いをしたものとは思われない。
 
277 速《と》く来《き》ても 見《み》てましものを 山背《やましろ》の 高《たか》の槻村《つきむら》 散《ち》りにけるかも
    速来而母 見手盆物乎 山背 高槻村 散去奚留鴨
 
【語釈】 ○速く来ても見てましものを 「速く来ても」は、「も」は、詠歎。もっと早い時に来て。「見てましものを」は、「て」は完了、「まし」は、仮想をあらわす助動詞で、見るべきであったものを。○山背の高の槻村 「山背」は、山城国で、平安奠郡以前はこの字、その他をも用いた。大和京から見て山背《やまうしろ》の義。「高槻村」は、古来難解とした。それは全体を地名と解したがためであるが、そうした地名の山背国にあることは証し難いためである。最近に生田耕一氏が改訓を試みた。訓は「高《たか》の槻村」《つきむら》とし、その「高」は、古にいう山城国|綴喜《つづき》郡多賀郷であるとし、その地は今の多賀、井手一円の地であるとした。「多賀」は「たか」で、土地の人は皆そういっており、式内の「高神社」もあるというのである。また「槻村」は槻の木群《こむら》だといっている。爾来この解が用いられている。○散りにけるかも 「に」は、完了。「ける」は、過去。「かも」は、詠歎。散ってしまったことであるよ。
【釈】 もつと時早く来て見るべきであったものを。山城国の高の槻の木群《こむら》の黄葉《もみじ》は、散り去ってしまったことであるよ。
【評】 黄葉に対して深い愛をもっていたのは、上代の人に共通なことである。しかし槻の黄葉だけを捉えて一首の歌としているのは初めてである。しかもこの歌は、時過ぎてそれの見られなかったことを嘆いているもので、単純を極めたものである。それにもかかわらず、感の深いものとしているのは、黒人の自然に対する愛と、ものを綜合的に感じ、その奥にある情趣を捉える力との、相俟って醸し出すところのものである。これはこの時代としては、まさに個性的なものである。
 
     石川少郎の歌一首
 
【題意】 「石川少郎」については左注がある。大宰少弐の職にもあった人であるから、その頃の作とみえる。
 
(66)278 志可《しか》の海人《あま》は 軍布《め》苅《か》り塩《しほ》焼《や》き 暇《いとま》無《な》み 髪梳《くしげ》の小櫛《をぐし》 取《と》りも見《み》なくに
    然之海人者 軍布苅塩焼 無暇 髪梳乃小櫛 取毛不見久尓
 
【語釈】 ○志可の海人は 原文「然」は、「しか」の地名に当てたもので、この地名は諸所にあるが、ここは大宰府に近い志可《しか》島だろうとされている。志可は筑前国(福岡県)糟屋郡志賀町に属し博多湾の東北一帯を抱えている半島の、その端の部分にある。海運・漁業など海人の業をもって古来聞こえており、集中にもその地を詠んだ歌が多い。「海人《あま》」は、本来は部族の名称で、男女を通じての称であるが、ここは女だけをいったものであることが、下の続きでわかる。 ○軍布苅り塩焼き 「軍布」は、「め」に当てた字と取れるが、そのよるところは明らかでない。諸説があるか、定まらずにいる。「め」は大体わかめをいっている。「塩焼き」は、製塩をし。○暇無み 「無み」の形は、しばしば出た。無くしての意。○髪梳の小櫛 「髪梳」は、訓み難くして、さまさまの訓か試みられている。心としては「小櫛」を修飾するもので、形としては、「の」に続く関係上名詞であり、音数としては三音を適当とするものである。訓は、「つげ」「かみけづり」「くしげ」「くし」「ゆする」「かみすき」「けづり」などある。これらの中では「くしげ」に心が引かれる。これは新勅撰集の訓で、『拾穂抄』が賛しているものである。この訓は、櫛笥《くしげ》はその名のことく、主として櫛を容れる筥《はこ》であり、また櫛は女の大切にした物であるから、その良否はとにかく、当然禰笥に入れてあることと解して、「髪梳」を櫛笥に当てたものではないかと思われる。「然《しか》」「軍布《め》」など用字にある凝りを示している関係上、許され難いものとは思われない。これは最も常識的な訓で、作意を主として迎えてのものであるが、作者は貴族で、海人《あま》の生活を傍観してのものであり、歌はまた、謡い物の色彩の濃厚なものであるから、この平凡な訓か真に近くはないかと思われる。「小櫛」の「小」は、接頭語。○取りも見なくに 手に取っても見ないことよの意で、「も」も「に」も詠歎。「取らなく」を嘆きをもって強めていい、さらに言いさしにしたもの。
(67)【釈】 志可の海人《あま》の女は、軍布《め》を苅ったり塩を焼いたりするのに暇がなくて、櫛笥の櫛を、手に取って見ることもしずにいることよ。
【評】 貴族として海人《あま》の生活を傍観し、女の方に憐れみの心を寄せたものである。しかしその隣れみは、海人の女がその生業にあまりにも忙しく、女として第一に重んずる髪をいたわる暇もないことを中心としたもので、貴族の耽美《たんび》の心を通しての隣れみである。結句は嘆きをこめていってゐるので、海人自身の訴えのごとき感があり、謡い物の匂いをもったものとなっている。実際に即していう歌風に従ってのものなので、おのずから厚みが添い、耽美の心の隠れようとしているところがあって、それが趣となっている。
 
     右、今案ずるに、石川朝臣君子、号を少郎子といへり。
      右、今案、石川朝臣君子、号曰2少郎子1也。
 
【解】 題詞の「少郎」についての注である。この人は、上の(二四七)「石川大夫和ふる歌」の左注に、「正五位下石川朝臣|吉美侯《きみこ》、神亀年中任2少弐1」とある人である。この任官は続日本紀には見えないが、漏れたものだろうという。「少郎子」は、中国風にならっての号で、兄弟三人以上ある時、末にあたっている人に対しての号である。
 
     高市連黒人の歌二首
 
279 吾味児《わぎもこ》に 猪名野《ゐなの》は見《み》せつ) 名次山《なすぎやま》 角《つの》の松原《まつばら》 何時《いつ》か示《しめ》さむ
    吾妹兒二 猪名野者令見都 名次山 角松原 何時可將示
 
【語釈】 ○吾妹児に猪名野は見せつ 「猪名野」は摂津国河辺郡にあった野で、古はそこに国府を遷そうとされたこともあり、また牧ともされた。今の伊丹市はその中で、市の内外に猪名神社、猪名寺、稲野などがあって、名残りをとどめている。「見せつ」は、見させたで、見せようと心がけていて見せた心でいっているもの。猪名野が一つの名所となっていたことがわかる。○名次山 『槻落葉』が所在を考証し、「神名帳」有馬郡に名次神社があり、この神社は今、広田神社の摂社として、同社の西名次丘にあるが、その丘であろうという。ここは猪名野よりは西で、大路に沿った地である。ここも一つの名所であったとみえる。○角の松原何時か示さむ 「角の松原」は、諸注考証しているが、要は、『和名抄』に、武庫郡津門【都止】とある所であろうか。それだと西宮の東につつ川という流れがあり、その辺であろう。それだと、名次山より順路でもあるというの(68)である。『講義』は、はたしてここだとすると、角《つの》より「つの」「都門《つと》」と転じてきたものとしなければならないが、「門《と》」は濁音でなくてはならないといって、難を残している。「示さむ」は、さし示して見せようの意。
【釈】 吾妹児に名所の猪名野は見せた。この路についである名所の名次山《なすぎやま》、角《つの》の松原は、いつさし示して見せられようか。
【評】 妻に猪名野を見せようとして伴って行って見せ、それを喜ぶとともに、何らかの都合で、その路の前方にある名次山、角の松原は見せられないのに心を残し、憧れをつないでの歌である。史蹟や名所を重んじ喜ぶ心は、国家が隆運に向かっている時に、それに伴って起こってくる心である。この歌で見ると、黒人が喜ぶとともに、妻も名所を喜んでいたことがわかる。当時の生活を思わせる歌である。
 
280 いざ児《こ》ども 倭《やまと》へ早《はや》く 白菅《しらすげ》の 真野《まの》の榛原《はりはら》 手折《たを》りて帰《ゆ》かむ
   去來児等 倭部早 日菅乃 眞野乃榛原 手折而將歸
 
【語釈】 ○いざ児ども 「いざ」は、誘う意の語。「児ども」は、目下《めした》の者を親しんで呼ぶ称。ここは呼びかけてのもの。〇倭へ早く 「倭」は、大和で、その家の在る所を広くいったもの。「早く」は、心としては下の「帰かむ」へ譲って、言いさしにして言いきったもの。 ○白菅の 「白菅」につき『講義』は、水辺、湿地に自生する一種の草で、かやつり草に似ているが、質は軟弱で、淡緑色をしており、やや白色を帯びている。他の歌によって、真野にそれの生えていたことが知られるから、実景として、白菅の生えている野の意で、真野に続けたものだといっている。○真野の榛原 「真野」につき『攷証』は、摂津国矢田部郡に、「真野滞在2西池尻村1真野池在2池尻村1」とある所であろうといっているが、現在は、神戸市の中に入り、長田区東尻池町、西尻池町の辺り。「榛原」は、萩原で、しばしば出た。真野は集中に多く出ており、巻十一(二七七二)「真野の池の小菅を笠に縫はずして」、巻七(一一六六)「衣《きぬ》に摺りけむ真野《まの》の榛原《はりはり》」など他にもあり、池には小菅、野には榛の多かったことが知られる。水辺には白菅が続いていたのである。○手折りて帰かむ 「手折りて」は、「榛原」に続き、その榛を手折ってで、折るのは家づととしてである。「帰かむ」は家へ帰って行こうの意。
【釈】 さあ、皆の者、大和へ早く。白菅の生えている真野のこの萩原の萩を手折って、苞《つと》として家に帰って行こう。
【評】 この歌は、次の黒人の妻の和《こた》え歌と合わせてみると、黒人夫妻に、従者が添って、萩の花の盛りの頃、その名所とされていた真野へ遊覧に行き、十分に遊覧しての後、主人である黒人が帰りを促すために詠んだものと取れる。すなわち歌としては実用性のものであるが、他面文芸性の豊かなものである。
 「いざ児ども倭へ早く」は、実用性を端的にあらわしたものである。「白菅の真野の榛原」は、野の特色、すなわち水と野と相まじっている複雑な趣を、白菅と榛とによって美しく具象した(69)技巧的なものである。「手折りて帰かむ」は、一同の遊覧に飽かない心を察しながらも、それに主人としての分別を加え、上の「早く」へ絡ませていったものなのである。さらに全体として見ると、「倭へ早く」の言いさし、「榛原手折りて」の続きの飛躍など、その際の黒人の心の満ちていたことを思わせるものである。こうした続けは、情熱の高まった際にのみできるものだからである。この歌は、巻一(六三)「いざ子どもはやく日本《やまと》へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ」という山上憶良の歌と通うところの多いものである。いずれも口承を旨とした歌で、その程の歌の風として、影響を及ぼしているものと思える。
 
     黒人の妻の答ふる歌一首
 
281 白菅《しらすげ》の 真野《まの》の榛原《はりはら》 往《ゆ》くさ来《く》さ 君《きみ》こそ見《み》らめ 真野《まの》の榛原《はりはら》
   白菅乃 眞野之榛原 徃左來左 君社見良目 眞野乃榛原
 
【語釈】 ○往くさ来さ 『代匠記』は、往きさまかえりさまなりと解している。他にも諸説があるが、『講義』は、「さ」は「さま」の義であろうとし、さまは普通、空間的に方向をさすものとのみ考えられているが、古くは意味が広く、時間的にも通わしていたようであると、詳しく説いている。これは京から西への旅を心に置いての語である。〇君こそ見らめ 「見らめ」の「らめ」は「らむ」の已然形。「らむ」は、古くは上二段活用に限り、連用形に続けた。君こそは見ようで、我は見られないの意をもった語。
【釈】 白菅の生えている真野の榛原よ。西への旅の往きざまにも帰りざまにも、君こそは見もしようが、我は見られない。好景の真野の榛原よ。
【評】 前の歌に対しての和え歌である。「いざ児ども倭へ早く」と呼びかけられたうちに黒人の妻もいて、その場で和えたものと取れる。「往くさ来さ君こそ見らめ」は、いったがように我我は珍しく、したがって見飽かないという心を腕曲にいったもので、さらに第二句と結句とで「真野の榛原」を繰り返して、その好景であることを誘え、その見飽かぬ心を強めたものである。すなわち「早く」と促すのを押し返し、遊覧を続けたい心を婉曲に訴えたものと取れる。これも黒人の歌とともに実用性の範囲の歌である。
 
     春日蔵首老《かすがのくらひとおゆ》の歌一首
 
【題意】 「老」は、巻一(五六)に出た。初めは僧であったが、大宝元年三月、勅命によりて還俗《けんぞく》した人である。
 
(70)282 つのさはふ 石村《いはれ》も過《す》ぎず 泊瀬山《はつせやま》 何時《いつ》かも越《こ》えむ 夜《よ》は深《ふ》げにつつ
    角障經 石村毛不過 泊瀬山 何時毛將超 夜者深去通都
 
【語釈】 ○つのさはふ石村も過ぎず 「つのさはふ」は、巻二(一三五)に出た。「石」にかかる枕詞。「石村《いはれ》」は、「磐余」の字も用いる。今は高市郡であるが、古は十市郡であった。桜井から香具山付近へかけての一帯の地の称。「石村も過ぎず」は、石村の地さえもまだ通り過ぎないというので、石村を歩いている際の心。○泊瀬山 この山は、石村から東の方の初瀬川の谷間を溯つて行った所の、その北方にある山で、天神山を山口とする山だと『講義』はいっている。○何時かも超えむ いつ越え得られようかで、泊瀬山を越えての彼方まで行こうとしての心。○夜は深けにつつ 「に」は完了。夜は更けてしまいつつ。
【釈】 まだ石村《いわれ》の地さえも通り過ぎない。泊瀬山はいつ越え得られるのであろうか。夜は更けてしまいつつ。
【評】 何らかの急用を帯びて、夜、泊瀬山を越しての彼方まで行こうと志して、現に歩いていての心である。藤原京から石村までは幾ほどもない間であるのに、その地にあって焦燥の感を起こし、途中の第一の難場である泊瀬山を越え終わる時をいつのことかと懸念し、夜の更けて行くのに関係させて焦燥を深めているのである。歌は心やりのためのもので、焦燥そのものを内容としている、あくまで実際に即したものである。迫真性の豊かな、特色のあるものである。
 
     高市連黒人の歌一首
 
283 墨吉《すみのえ》の 得名津《えなつ》に立《た》ちて 見渡《みわた》せば 武庫《むこ》の泊《とまり》ゆ 出《い》づる船人《ふなびと》
    墨吉乃 得名津尓立而 見渡者 六兒乃泊從 出流船人
 
【語釈】 ○墨吉の得名津に立ちて見渡せば 「墨吉」は、摂津国住吉郡住吉神社のある所。「得名津」は、今は明らかではない。『講義』は、『堺鑑』の説くところに基づき、今の堺市の北、住吉に近い地だろうといっている。「立ちて見渡せば」は、立って遠望をすればで、その地の海岸であることをあらわしている。○武庫の泊ゆ 「武庫の泊」は、摂津国の武庫郡と河辺郡の堺を流れる武庫川の河口で、古史に「務口水門《む二のみなと》」と呼ばれている所であろうという。「ゆ」は、より。『講義』は、得名津とされている地点から、武庫の泊までは海上三里で、中間は大阪湾で目を遮る物がないといっている。○出づる船人 漕ぎ出すところの船人よの意で、遠望する目に映る物は、もとより船であるが、船には船人が乗っているものとして言いかえた語。
(71)【釈】 墨吉の得名津の海辺から遠望をすると、今しも武庫の泊から漕ぎ出すところの船人よ。
【評】 墨吉の得名津から武庫の泊まで、海上三里を隔てて、当時の大きくない船の漕ぎ出すのが見えるというので、その時の空は晴れ、海の穏やかであったのが想像される。これはまさしく自然詠で、「船人」も大自然の中の一点景となって溶け入っている感のあるものである。しかしこの歌には一種の情趣があって、その情趣は対象そのものからくるのみではなく、作者の心の加わっているものと思える。作者の方からいうと、黒人は旅中の自然詠ばかりをしている人で、旅に対しての憧れをもっていた人と思える。当時の旅は大体船によるのを原則としている。そうした穏やかな海に船出をするのを見ると、心動かずにはいられなかったろう。船を「船人」と言いかえたのは、その船人を旅する人とし、それに対して羨望の情を寄せたがためではないかと取れる。この歌の情趣は、一半はその心の現われで、自然詠とは見えるが、人事詠の絡んでいるものと解される。
 
     春日蔵首老の歌一首
 
【題意】 歌で見ると、老《おゆ》が駿河国に定住していての作と思われる。それだと国司であったと見えるが、そのことは所見がない。老の詩の懐風藻にあるものに題して、「従五位下常陸介春日蔵老」とあるので、その東国に在ったことはわかる。
 
284 焼津辺《やきつべ》に 吾《わ》が去《ゆ》きしかば 駿河《するが》なる 阿倍《あべ》の市道《いちぢ》に あひし児《こ》らはも
    焼津邊 吾去鹿齒 駿河奈流 阿倍乃市道尓 相之兒等羽裳
 
【語釈】 ○焼津辺に吾が去きしかば 「焼津」は、駿河国|益頭《ましつ》郡にあり、日本武尊が賊のために火をもって囲まれたという名高い事蹟のあった地である。今の静岡よりは西南方三里を隔てた海岸の地である(現焼津市付近)。「辺に」は、方面に。「吾が去きしかば」は、わが行った時にの意。「ば」は、「ば」がこの場合のように已然形に接続する時には理由をあらわすものとはならず、去《ゆ》きし時にという意と異ならないものになるのは、当時の格である。上の(二五三)「行き過ぎかてに思へれば」の「ば」、また下の(三八八)「寝《い》の宿《ね》かてねば」の「ば」など、すべて同じである。○駿河なる阿倍の市道に 「駿河なる」は、駿河国にあるで、下の「阿倍の市道」の所在を示したもの。「阿倍」は、駿河国の郡名であるが、その郡に国府があり、また今の静岡は、明治維新までは府中といっていたので、国府所在地の地名ともなっていたと取れる。「市」は、毎月何回か、定めてある日に、定めてある場所に人々が集まり、物品を売買することの称。「市道」は、その市へ行く道にも、市そのものの中の道にも通じていう語。ここは、後の意のものと取れる。○あひし児らはも 「あひし」は、ここは見かけた。「児ら」の「児」は、若い女を親しんでの称。「ら」は複数を示したものではなく、単に添えていったもの。「はも」は、「は」と言いさし、それに「も」の詠歎を添えたもの。見かけたあの若い女はよという意。
(72)【釈】 焼津方面へわが行った時に、その途中、駿河国に立つ阿倍の市の、その市中《いちなか》の道で見かけた、あの若い女はよ。
【評】 一首の中心は、「あひし児らはも」で、老がたまたま路上で見かけた若い女の、その美しさを忘れ難くして、後より思い出してなつかしんでいることで、他はすべて、その女を見かけた事情をいっているものである。事情というのは、そういう事とは全然関係のない、おそらくは国司として公務を帯びて「焼津辺」に行こうとし、たまたま「阿倍の市道」を過ぎたということで、あくまでも実際に即したものであり、その即し方は特異なまでである。これは老の人柄よりくることかと思われる。しかし結果からいうと、そのために「焼津」「駿河」「阿倍」という三地名を取入れた、土地の色彩のきわめて濃厚なものとなっている。しかもそれは、「児らはも」に集中されるものとなっているので、一首としては、その土地に対する好感をあらわしたものとなっている。これは民謡に国讃めの歌の絡んだものといえることである。その中の「駿河なる」が「児ら」を重からしめる役をもっているのは、微細な技巧というべきである。
 
     丹比真人笠麿《たぢひのまひとかさまろ》、紀伊の国に往き、背《せ》の山を越ゆる時作れる歌一首
 
【題意】 「丹比真人笠麿」は、伝が知られない。丹比は氏、真人は姓、笠麿は名である。勢の山は、和歌山県伊都郡かつらぎ町の北にある山で、大和国より紀伊国へ越えるには必ず通るべき道筋にあたっている。古の紀関はここにあったろうといわれている。
 
285 栲領巾《たくひれ》の 懸《か》けまく欲《ほ》しき 妹《いも》の名《な》を この背《せ》の山《やま》に 懸《か》けば奈何《いか》にあらむ【一に云ふ、かへばいかにあらむ】
    栲領巾乃 懸卷欲寸 妹名乎 此勢能山尓 懸者奈何將有【一云、可倍波伊香尓安良牟】
 
【語釈】 ○栲領巾の懸けまく欲しき 「栲領巾の」は、栲すなわち楮《こうぞ》類の繊細をもって織った、女の、領《えり》より肩へ懸ける領巾で、「懸け」と続いて、その枕詞。「懸けまく」は、「懸けむ」に「く」を添えて名詞形としたもので、懸けようことの意。懸くは、心に懸ける意と、言《こと》に懸ける意とのある語で、ここは言の方で、言い及ぼすというにあたる語。「欲しき」は、ほしいところので、下へ続く。全体では、言《こと》に懸けて、すなわち包まずに口へ出して言い及ぼしたいところのの意。○妹の名を 妹という名を。○この背の山に懸けば奈何にあらむ 「この背の山に」は、いま現に越えつついるこの山に。「懸けば」は、言い及ぼしたならばで、妹という名を及ぼすのは、「背」を「妹」と喚びかえたならばの意。「奈何にあらむ」は、どんなものであろうかと、相談の意をもっていったもの。
【釈】 栲領布の懸けるというその言《こと》に懸けて、すなわち口に出して言い及ぼしたいところの妹という名を、この越えつついる背(73)の山に言い及ぼして、妹の山と喚びかえたならば、どんなものであろうか。
【評】 この歌に和える春日老の歌と合わせ見ると、二人は相伴って背の山を越えようとしていたことがわかる。打揃っての旅をしているところから見て、行幸の供奉をしていたのではないかといわれている。背の山は紀路の難路で、これを越すとまさしく旅という感がしたものと思われる。旅にはいわゆる旅愁が付き物で、それをもつのが普通とされていたとみえる。しかし親しい者同志が相対していう場合には、さすがにそれにも程度が必要であったとみえる。「栲領布の懸けまく欲しき妹」というのは、その程度を守っての言い方と取れる。妹と背とは相対して離し難いものであって、妹といえば必ず背は連想されてくる。しかるに今越えている山は、その背という名をもった「背の山」である。その妹をこの「背の山」に関係させることは、この場合しゃれたことであり、文芸的とも言いうることである。「妹の名をこの背の山に懸けば」はすなわちそれである。「奈何にあらむ」は、同感を求める心をもって相談した形のもので、親しい微笑の感じられる語である。歌を社交の具とし、良い意味の戯れをいおうとするのは伝統的のことで、この歌はその範囲のものである。
 
     春日蔵首老、即ち和《こた》ふる歌一首
 
【題意】 「即ち」は、即座にの意で、老が相伴っていたことを知りうる語である。
 
286 宜《よろ》しなへ 吾《わ》が背《せ》の君《きみ》が 負《お》ひ来《き》にし この背《せ》の山《やま》を 妹《いも》とは喚《よ》ばじ
    宜奈倍 吾背乃君之 負來尓之 此勢能山乎 妹者不喚
 
【語釈】 ○宜しなへ 巻一(五二)に出、他にも二か所に出ている。「宜し」は、ものの十分に好いこと。「なへ」は、「並べ」で並ぶ意。はなはだ結構なという意にあたる。○吾が背の君が負ひ来にしこの背の山を 「吾が背の君」は、男同志が深く親しんで呼ぶ称にもした語。ここは笠麿をさしている。「負ひ来にし」は、「に」は完了。負いもってきたところの。「この背の山を」は、いま現に越えている背の山をで、「背」は、「負ひ来にし」の続きとしては、妹に対しての背すなわち笠麿を意味させるとともに、山の名としての「背《せ》」をも意味させているものである。全体では、わが背の君が負いもってきたところの背というを名としているこの背の山をで、夫としての背と、山としての背とを一つにしているのである。それがすなわち「宜しなへ」と讃えるべきことなのである。○妹とは喚ばじ 我は妹とは喚ぶまいで、背《せ》の山で結構だの意。
【釈】 はなはだ結構にも、君の負いもってきているところの背ということを名としているこの背の山を、我は妹とは喚ぶまい。
【評】 老の和え歌は、作意としては、我は君のいわれようとする妹のことは思わない。同伴者に君があるので十分であるとい(74)うので、その心を和え歌の型として、笠麿の歌に関係させていっているのである。詠み方は、「この背の山に懸けば奈何にあらむ」に対し、「この背の山を妹とは喚ばじ」と反対したのである。これは、反対しなければ面白くないので、おのずからに決まっている型である。この反対には理由がなくてはならず、その理由は善意をもったものでなくてはならないことも、また型となっているものである。「宜しなへ吾が背の君が負ひ来にし」がすなわちそれである。笠麿のいわんとしたのは「懸けまく欲しき妹の名」で、老にも同感させようとしたのであるが、老は自身の妹のことには全然触れず、笠麿に対しても、その妹の夫であるという点だけを挙げ、そこに「宜しなへ」という喜びをあらわすにとどめている。これはしかし笠麿の心をうべなっているものである。即座に和《こた》えた歌としては、心のはっきりとした、相応に技巧のある歌というべきである。
 
     志賀に幸《みゆき》せる時、石上《いそのかみの》卿の作れる歌一首 名闕く
 
【題意】 「志賀」は近江国滋賀郡のことである。行幸は、何帝のいつのことともわからない。左注にも「行幸の年月を審にせず」といっているのである。思うに出典とした本の、この部分だけを抄出して、前後を顧みなかったのであろうという。『考』以来、諸注考証を重ねているが、『講義』は最も精細なる考証をしている。「石上卿」は「名闕く」とあるので誰ともわからないが、これにつぐ穂積朝臣老の歌は、この行幸の際同じく供奉して作ったものであるところから、老を手がかりとして考証を進め、さらに歌の排列順から年代を推測したものである。結論的にいうと、穂積朝臣老の史上に見えるのは、続日本紀、大宝三年より天平十六年までである。その頃石上氏にして卿と呼ばるべき人は、石上朝臣麿と乙麿と豊庭との三人で、そのうちのいずれかでなくてはならない。また、歌の排列順から見ると、この辺の歌は大体、藤原朝から奈良朝の初めのものとみえるが、その頃近江国へ行幸のあったのは、元正天皇の養老元年九月、美濃国当耆郡多度山の醴泉に行幸があり、その途次、「戊申(十二日)行(テ)至2近江国1観2望淡海1云々」の一事があるのみである。それだと石上卿は豊庭であろうというのである。
 
287 ここにして 家《いへ》やも何処《いづく》 白雲《しらくも》の 棚引《たなび》く山《やま》を 越《こ》えて来《き》にけり
    此間爲而 家八万何處 白雲乃 棚引山乎 超而來二家里
 
【語釈】 ○ここにして家やも何処 「ここにして」は、ここにありてで、ここは滋賀。「家」は「我が家」で、大和にある家。「やも」は、「や」の疑問に「も」の詠歎の添ったもの。「何処」は、どこにあるのか。○白雲の棚引く山を 「白雲」は、行幸は九月初句であるから、秋の雲。○越えて来にけり 「に」は、完了。打越えて来たことであるよ。
(75)【釈】 ここの滋賀にあって、大和のわが家はどこにあるのであろうか。あの秋の白雲の靡いている山を打越えて来たことであるよ。
【評】 旅にあってわが家を思う心のものであるが、風景に対する感が重く働いて、溶け合って、情趣となっているものである。淡く、品位のあるもので、奈良朝初期の貴族を思わせる歌である。漢詩の風韻に通うものがあって、その影響を思わせられる。親しさの足りない感を起こさせるのは、そのためではないかと思われる。
 
     穂積朝臣老の歌一首
 
【題意】 「穂積朝臣老」は、続日本紀でその伝が知られる。要は、大宝三年、正八位。和銅三年、正五位上大伴宿禰旅人が左将軍の時、従五位下でその副将軍。同六年従五位上。養老元年正五位下、式部少輔。同二年正五位上、式部大輔。同六年、「坐3指2斥乗輿1所2斬刑1。而依2皇太子奏1隆2死一等1配2流佐渡島1」ということがあり、天平十二年、大赦があって京に入るを許された。同十六年大蔵大輔となる。天平勝宝元年八月卒。歌は行幸に供奉して作ったもの。
 
288 吾《わ》が命《いのち》し 真幸《まさき》くあらば 亦《また》も見《み》む 志賀《しが》の大津《おほつ》に よする白浪《しらなみ》
    吾命之 眞幸有者 亦毛將見 志賀乃大津尓 縁流白浪
 
【語釈】 ○吾が命し真幸くあらば 「命し」の「し」は、強め。「真幸く」は、つつがなく。わが命が、もしつつがなくているならば。○亦も見む 再びこれを見よう。○志賀の大津によする白浪 「志賀の大津」は、天智天皇の大津宮のあった所。「よする白浪」は、寄せるところの白浪よの意。
【釈】 わが命が、もしつつがなくているならば、再びこれを見よう。志賀の大津へ向かって寄せるところの湖の白浪よ。
【評】 旅にあって絶景に逢うと、生きて再び見られるかどうかを危ぶむ心の起こるのは、人間の通有性である。老もそうした感を起こしたのである。絶景と感じたのは、「志賀の大津によする白浪」であるが、大和国の京に住んでいて、大湖を目にする機会がなかったとすれば、起こりうる感である。一首、沈痛な響があって、その感の真実を裏書している。この沈痛の度については、老の人柄が関係しているかとも思われる。
 
     右、今案ずるに、幸行の年月を審にせず。
(76)      右、今案、不v審2幸行年月1。
 
【解】 石上卿の誰であるかが不明であった所からの注である。「幸行」の文字は古書に例のあるものだと『略解』が注意している。
 
     間人《はしひとの》宿禰|大浦《おほうら》の初月《みかづき》の歌二首
 
【題意】 「間人宿禰」は、『新撰姓氏録』にあり、「間人宿禰、仲哀天皇皇子、誉屋別命之後也」とある。「大浦」については、何の記録もない。初月は、漢語の熟字で、月初の月の意であるが、この集には三日月の意で用いている。
 
289 天《あま》の原《はら》 ふりさけ見《み》れば 白真弓《しらまゆみ》 張《は》りて懸《か》けたり 夜路《よみち》は吉《よ》けむ
    天原 振離見者 白眞弓 張而懸有 夜路者將吉
 
【語釈】 ○天の原ふりさけ見れば 上にしばしば出た。大空を遠く仰ぐとの意。○白真弓 「白真弓」は、集中、「白檀」の字を用いてもいる。檀は上代、弓材として用いていた木で、黏《ねば》り強く、それに適した木であったとみえる。今、檀という木とは異なった木であろう。壇の弓は白木《しらき》のままで用いたところから、この称ができたとみえる。槻弓、梓弓などと同じく弓を添えるべきであるが、同音の重なる関係上、弓を略《はう》いたのである。○張りて懸けたり 「張りて」は、弦を張ってで、それをすると弓が彎曲するところから、その彎曲した形を三日月に譬えていったもの。「懸けたり」は、懸けてありで、空にかかっている意。○夜道は吉けむ 「吉けむ」は、「吉し」の未然形「吉け」に推量の「む」のついたもの「近けむ」「全《また》けむ」と同じ語格のもの。
【釈】 大空を遠く仰ぐと、白真弓に弦を張ってかけてある。これだと夜道をするにはよくあろう。
【評】 中心は、結句「夜路は吉けむ」にあるところから見て、遠い道の、急ぐべき道を歩いていて、夜にかけて歩き続けようと思っている際、空に三日月の現われているのを発見して、夜路には都合がよかろうと喜んだものと取れる。技巧は、「白真弓張りて懸けたり」の隠喩にある。上代、多少なりとも身分のある人が、長途の旅をする場合には、護身の具を携えるということは普通のことであったろう。三日月に対しての「白真弓」という連想は、そうした護身具からのものではないかと思われる。それだと三日月を身に引きつけうる感がしたことであろう。一首、生活に即して、その上の喜びを直接にいったもので、文芸的のものではないが、結果からいうと、「白真弓」の隠喩によって、その感の伴ったものとなっている。
 
(77)290 椋橋《くらはし》の 山《やま》を高《たか》みか 夜隠《よなばり》に 出《い》で来《く》る月《つき》の 光《ひかり》乏《とも》しき
    椋橋乃 山乎高可 夜隱尓 出來月乃 光乏寸
 
【語釈】 ○椋橋の山を高みか 「椋橋の山」は、大和国磯城郡多武蜂の東に連なり、宇陀郡に界している山で、今、音羽山と呼んでいる山だという。『講義』はこれを疑い、『大和志』『大和国町村誌集』には倉梯山《くらはしやま》と音羽山とは別となっており、また集中、倉梯山の山はしばしば出るが、音羽山というのは見えないので、古くは倉梯山は、音羽山をもこめての名ではなかったかといっている。「高みか」は、高きゆえにかで、「か」は疑問。○夜隠に出で来る月の 「夜隠」は、訓が定まらず、したがって解も定まらずにいたものである。訓は二様で、『童蒙抄』は、「よなばり」と訓み、地名とした。例は、「隠」を「なばり」と訓むのは、巻一(四三)「隠《なばり》の山」があり、また、巻二(二〇三)「吉隠《よなばり》の猪養《ゐかひ》の岡」もあって、それらを証としてである。『代匠記』以下諸注、それを認めず、一に「夜隠《よごもり》」と訓んでいる。「夜隠《よごもり》」は、暁の、まだ夜に隠《こも》って明けきらない意の名詞で、それ以外の意はない語である。下への続きは、「出で来る月」で、暁のまだ夜の闇を保っている時に出て来る月ということになる。これは二十日以後の月の状態で、題詞の「初月」によってあらわしている三日月とは明らかに矛盾するものである。したがって「夜隠《よごもり》」の意味を広くして、宵にも適用しうるとし、または誤字であるとの説も出てきている。『講義』は、『童蒙抄』と同じ訓とし、「夜隠」を上にいった「吉隠《よなばり》」すなわち現在は磯城郡初瀬町の大字《おおあざ》として残っている地だと解して、実地について精細なる討究をしている。「夜隱《よなばり》」は、初瀬町と宇陀郡榛原との中間にあり、伊賀国名張へ向かう道にあって、古の東国へ行く要路にあたっているというのである。また、そこは、三日月と方角の関係からいうと、西空低く現われる三日月が、西方の倉梯山に遮られる地点だともいうのである。これは『講義』によって初めて確められたものである。「出で来る月の」は、西空に現われる月ので、三日月の状態。○光乏しき 「乏し」は、集中、羨しの意にも用いられているが、ここは現在の用法と同じく、少しの意のもの。「乏しき」は連体形で、上の「か」の結。
【釈】 椋橋山が高いゆえなのか、この夜隠《よなばり》の、空に現われる月が遮られて、その光の少ないことであるよ。
【評】 前の歌と同じく、夕べ近く、三日月の現われる頃道を歩いていて、前途を急ぐところから、三日月の光を夜道の便りとしようとする心をもち、それの十分に行かないのをかこつ歌である。対象は三日月ではあるが、鑑賞の心はまじえていないものと取れる。道は東国への道である。前の歌とは連絡はないが、いずれも旅路としての夜道に、月光を利用しようとする心からのもので、その点では一致している。実際生活に即したものである。
 
     小田事《をだのつかふ》の背《せ》の山の歌一首
 
【題意】 「小田事」は、伝が全く知られない。小田という氏は、『新撰姓氏録』にも収められてはいない。「背の山」は(二八五)(78)に出た紀伊国の山。
 
291 真木《まき》の葉《は》の しなふ背《せ》の山《やま》 しのばずて 吾《わ》が越《こ》え去《ゆ》げは 木《こ》の葉《は》知《し》りけむ
    眞木葉乃 之奈布勢能山 之努波受而 吾超去者 木葉知家武
 
【語釈】 ○真木の葉のしなふ背の山 「真木」は、杉檜など代表的の木の称にもいい、また、槇《まき》にもいう。ここは槇であるという解に従う。「しなふ」は、ハ行四段活用の語で、若く撓《しな》やかな状態をあらわす語。巻十三(三二三四)「春山のしなひ盛《さか》えて」、巻二十(四四四一)「立ちしなふ君がすがたを」など、他にもある。「真木の葉のしなふ」は、槇の葉が若く撓やかであるで、下へ続く。「背の山」は、上の(二八五)に出た。大和と紀伊の国境をなす山で、大和から紀伊に行く者は、この山を越すと、その国を離れて旅に出たという感を強くし、また「背」という名の連想で、妹を思わせられる歌が集中に多い。この山は妹を思う山だということが、当時一つの常識となっていたものではないかと思われる。○しのばずて 「しのぶ」は、意味の広い語である。ここは忍び隠す意と取れる。「しのばずて」と、打消の「ず」からただちに「て」に続けるのは古格で、集中に少なくない。「ずして」の意である。すなわち、忍び隠さずして。妹を恋う心は、普通、人に見せまいとして忍び隠すのであるが、今は場所柄とてそれをせず、表面に露《あら》わしての意である。この句は上の「背の山」に直接に続いていて、背の山をしのばずしての意のもので、その間に飛躍がある。この飛躍は、背の山が旅愁を起こさせる山だということが認められていないと成立たないものである。いったがように、それが成立っており、これで通じ得たものと解される。○吾が超え去けば わが越えて行ったのでで、しのばずという状態を続けて歩を続けたのでの意がある。○木の葉知りけむ 槇の葉がわが心を知ったのであろうの意。樹木が人の心を感じる力をもっているということは、上代の信仰であったとみえる。巻二(一四五)山上憶良、「あまがけりあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ」は、結松《むすびまつ》に通う神霊を、松は人以上に知るというのであり、巻七(一三〇四)「天雲の棚引く山の隠《こも》りたる吾が下心《したごころ》木の葉知るらむ」は、これと心を同じくするものである。なお、古事記、神代の巻の、樹木を掌る神のあることも、この信仰につながりのあるものであろう。
【釈】 槇の木の若く撓《しな》やかなところの背の山を、ここを越すと妹を思わせられるというとおりに、吾も妹を思う心を起こし、場所柄とてそれを忍び隠さずに越えて行ったので、人の心を知る木の葉は、それと知ったのであろう。
【評】 歌因は明らかで、背の山を越えつつ、旅にある夫に通有な、妻恋しい心を起こしたということである。さらにいえば、槇の木の立ち続いている山路の、人の少ないところを歩いていてのことなので、その妻恋しい思いをはばかる必要がなく、それをほしいままに露《あら》わしたのであるが、心づくと、そこに立ち並んでいた槇の木の葉は、それを知ったことであろうと、恥ずかしい感を起こしたというのである。「真木の葉のしなふ」は「木の葉」に照応させたところのあるもので、槇は葉をもって代表させるよりほかないものだからと取れる。木が人の心を感知する神秘力をもっているとするのは、いわゆる詩情からのも(79)のではなく、当時そうした信仰が存していたためかと思われる。また、「勢の山しのばずて」の続きも、いったがごとき心理に依拠してのことと思われるが、いずれも疑問を残すべきである。
 
     角麿《つののまろ》の歌四首
 
【題意】 「角麿」は、ここよりほかには見えず、伝はわからない。角氏は『新撰姓氏録』に出ており、「角朝臣、紀朝臣同祖、紀角宿禰之後也、日本紀合」とある。日本書紀、雄路紀に、「角臣等初居2角国1而名2角臣1自v此始也」とある。角国は今の周防国|都濃《つの》郡で、天武天皇の御代に朝臣を賜わった。
 
292 久方《ひさかた》の 天《あま》の探女《さぐめ》が 石船《いはふね》の 泊《は》てし高津《たかつ》は 浅《あ》せにけるかも
    久方乃 天之探女之 石船乃 泊師高津者 淺尓家留香裳
 
【語釈】 ○久方の天の探女が 「久方の」は、天の枕詞。「天」は、高天原に属するものに、この国土のものと差別する意で添えていう語。「探女」は、女の名前で、この女のことは古事記にも日本書紀にもあり、天稚彦《あめわかひこ》の従者である。天稚彦は高天原より出雲国を平定すべき詔を承けて降らせられた三人目の御使であるが、これまた前の二人と同じく出雲の勢力に圧しられて、復奏しないこと八年に及んだ。高天原では事を促そうとして、鳴女《なきめ》という雉《きじ》を遣わすと、天の探女は天稚彦に勧めて、その鳴女を射させたということによって伝わっている女である。これは古事記も日本書紀も同様で、探女という意は、他人の心を探って、主人に知らせる女という意であろうという。○石船の泊てし高津は 「石船」は、天磐※[木+豫]樟船《あまのいわくすぶね》ともいっており、「石《いは》」は、船の堅固なことを讃えていった語。「泊てし」は、船が着いて止まることをあらわす語。「高津」は、仁徳天皇の難波高津宮のあった所で、現在の大阪城の辺りであろうといわれている。○浅せにけるかも 「浅す」は、浅くなる意。浅くなってしまったことであるよと、感慨をこめていったもの。
【釈】 天の探女が高天原から乗って来た堅固な船の、着いて止まった高津は、津くなってしまったことであるよ。
【評】 これは古事記、日本書紀とは全く異伝である。『代匠記』は、「或物に津国風土記を引て云、難波高津は天稚彦天降りし時、天稚彦に属《つき》て粁れる神天探女磐船に乗て此に到る。天磐船の泊る故に高津と号《なづ》く云々」といっている。その「或物」というは『続歌林良材集 上』であるが、これは地名の起源伝説であり、存在する可能性のあるものである。この歌は、そうした伝説の上に立ったものである。天稚彦をいわずに、天の探女の方をいっているのは、ある特殊な精神力をもった女に魅力を感じたがためで、時代性の影響があってのことかと思われる。
 
(80)293 塩干《しほひ》の 三津《みつ》の海人《あま》の くぐつ持《も》ち 玉藻《たまも》苅《か》るらむ いざ行《ゆ》きて見《み》む
    塩干乃 三津之海女乃 久具都持 玉藻將苅 率行見
 
【語釈】 ○塩干の三津の海人の 「塩干の」は、干潮のおりの。「三澤の海人の」は、「三澤」は難波の津で、「三」は御料の津であるゆえに尊んで添えたもの。「海人」は海人の女の意のもので、上にも出た。この初二句は、四六音である。○くぐつ持ち 「くぐつ」につき、『講義』は、諸注の考証を進めている。「くぐ」は海浜に生ずる草の名で、今もある物であり、それでつくった繩が現に用いているくぐ繩である。くぐ繩で編んだ籠がすなわちくぐつで、くぐつ籠の略であろうというのである。○玉藻苅るらむ 「玉藻」は、藻。「苅るらむ」は、くぐつに収めるために苅るので、苅るのをと下へ続く。○いざ行きて見む 「いざ」は、人を誘う意の語。
【釈】 干潮の時の三津の海人《あま》が、手にくぐつを持ち、藻を苅るであろうさまを、さあ、一緒に見物に行こう。
【評】 大和国に住んでいる人の、たまたま見る海珍しさの心のものである。海岸の海人の生活が珍しく、干潮時、くぐつを持って、食料のための藻を苅りに出る様を、すでに見て知っているにもかかわらず、また飽かずにまたも見ようとし、しかも人を誘っているのである。誘われる人も同感であったとみえる。生活に即した、実用性の歌である。
 
294 風《かぜ》を疾《はや》み 奥《おき》つ白浪《しらなみ》 高《たか》からし 海人《あま》の釣船《つりぶね》 浜《はま》にかへりぬ
    風乎疾 奥津白浪 高有之 海人釣船 濱眷奴
 
【語釈】 ○風を疾み 「疾み」は、旧訓「いたみ」で、爾来それが定訓のごとくなっていた。『講義』は、「疾」には「いたし」という意はなく、「はやし」と訓むほかはない字であると詳しく考証をしている。風が早くして。○奥つ白浪高からし 沖の白浪が高く立つのだろうで、「らし」は、眼前を証としての推測で、証は下の船の状態。○海人の釣船浜にかへりぬ 沖に見ていた海人の釣船が、危険を避けるために、浜に帰った。
【釈】 風が疾くして、沖の白浪が高く立つのであろう。海人の釣船が浜に帰った。
【評】 海岸にあっては平凡極まることで、いうにも足りないことであるが、前の歌と同じく、海の状態の珍しさから、わが心やりとして詠んでいるものである。わが生活に即して第三者は問題とせずに、心やりとして詠むということは、歌が集団から離れて、個人のものとなり、したがって文芸的なものとなると、当然に起こってくるべきことである。この人の歌にはその傾向が著しい。
 
(81)295 清江《すみのえ》の きしの松原《まつばら》 遠《とは》つ神《かみ》 我《わ》が大王《おほきみ》の 幸行処《いでましどころ》
    清江乃 木笑松原 遠神 我王之 幸行處
 
【語釈】 ○清江のきしの松原 「清江」は、今の住吉神社のあるところ。「きしの松原」は、海岸の松原で、そこは今も松原となっている。下に感歎の心がある。○遠つ神我が大王の 「遠つ神」は、下の「大王」を讃えた語で、天皇は神聖にして、人界よりは遠い神であるの意。「我が大王」は、天皇を親しんで申したもの。○幸行処 「幸行」は、前にも出た。行幸されたところの地の意で、熟語。
【釈】 清江の岸の松原よ、ここは遠つ神にますわが天皇の幸行処《いでましどころ》であるよ。
【評】 住吉の岸の松原の愛でたく清らかなのを目にし、そこは天皇の行幸地となっていることを思い合わせて、その地を讃えるとともに尊んだ心のものである。一首、名詞と助詞のみで、一つの動詞さえもない歌である。しかもいささかの不自然もなく、落着いた、清らかな趣をもった歌となっている。
 
     田口益人《たぐちのますひとの》大夫、上野国司に任ぜられし時、駿河国|浄見埼《きよみのさき》に至りて作れる歌二首
 
【題意】 「田口益人」のこの時のことは、続日本紀、和銅元年三月の条に、「従五位上田口朝臣益人為2上野守1」と出ている。また、同じく和銅二年十一月の条に、「従五位上田口朝臣益人為2右兵衛率1」と出ているので、国司であった期間も知られる。「田口氏」は、『新撰姓氏録』に、「田口朝臣、石川朝臣同祖、武内宿禰大臣之後也。蝙蝠《かはほり》臣豊御食炊屋姫天皇御世家2於大和国高市郡田口村1、仍号2田口臣1、日本紀漏」とある。「益人」の父祖は許かでない。「大夫」は、四位・五位の人の敬称。「駿河国浄見埼」は、清水市で、海岸に迫った地。今の興津の清見寺のある辺りで、その門前に関屋里というがあり、そこが昔関のあった所で、清見埼の通過地点であったろうと推定されている。なお、上野国は東山道に属しているので、本来は東山道を下るべきであるが、信濃国の道路が困難なため、東海道により、したがって駿河国を経過したのだろうとされている。これは例のあることである。
 
296 廬原《いほはら》の 清見《きよみ》の埼《さき》の 見穂《みほ》の浦《うら》の 寛《ゆた》けき見《み》つつ 物念《ものおも》ひもなし
    廬原乃 淨見乃埼乃 見穗之浦乃 寛見乍 物念毛奈信
 
【語釈】 ○廬原の清見の埼の見穂の浦の 「廬原の清見の埼の」は、上にいった。「見穂の浦」の「見穂」は、今の三保の松原の地である。ここは(82)今は清水市に属している。三保の埼は、清見が埼と南北に相対していて、西の方に湾入して清水港を抱いている。「見穂の浦」は、その入江を称したものと取れる。さて、「清見の埼の見穂の浦」という続け方は、三穂の浦が清見の埼に属しているがごとき続け方であるが、これは実地とは違っている。それにつき『講義』は、この続け方は他にも例のあるもので、巻十二(三一九二)「草陰《くさかげ》の荒藺《あらゐ》の埼の笠島を見つつか君が山|道《ぢ》越ゆらむ」とあるが、これも荒藺の崎のうちに笠島があるというのではなく、荒藺の崎から見渡すと、眼下に近く笠島が見えるというのであるらしく、ここの場合と同じだというのである。これに従う。○寛けき見つつ 「寛けき」は、寛かなるさまで、海の状態をいったもの。すなわち海の広く穏やかなさまを、総合的にいったもので、例のあるものである。「見つつ」は、継続。○物念ひもなし 「物念ひ」は、意味の広い語で、人として世に生きている以上、せずにはいられない嘆かわしい思いのすべてをあらわす語。「も」は、詠歎。一句、最上の幸福感をいったものである。
【釈】 廬原の清見の埼から、見穂の浦の寛《ゆた》かなさま、すなわち広く穏やかなさまを見い見いしていると、わが心はその佳景と一つになって、世の物念いとてはない。
【評】 赴任の途次、東海道の風景の中でも尤《ゆう》なるものとされている駿河湾の佳景に初めて接し、大和に在住する人の、海を珍しむ心も伴って、最上の快感を得たところからの歌である。その中心は、「物念ひもなし」ということで、これをもって最上の喜びとし、明らかに言いきっているところに、風景そのものを鑑賞する心も、実際生活からは遊離していなかったことをあらわしている。「廬原の清見の埼の見穂の浦の寛けき見つつ」は、駿河湾の大景を総合して客観化したものである。地名を三つまで重ねていることは、注意されることであるが、これはその土地を重んじる心からのもので、伝統となっている手法である。ここは重んじるというよりも、驚歎し愛でているもので、同時にそれが、間接ながら具象の効果を挙げている。「寛けき見つつ」はそれを総合しての具象である。一首、単純に、また素朴を極めたものであるが、その際の強い感動から生まれた調べによって、力あるものとなっている。
 
297 昼《ひる》見《み》れど 飽《あ》かぬ田児《たご》の浦《うら》 大王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 夜《よる》見《み》つるかも
    畫見騰 不飽田兒浦 大王之 命恐 夜見鶴鴨
 
【語釈】 ○昼見れど飽かぬ田児の浦 「昼見れど飽かぬ」は、昼の光で十分に見たけれども、それでも飽きることのないところの意で、「見れど飽かぬ」は、歎美の情をあらわす最上の語。「昼」は、下の「夜」と対照させたものである。「田児の浦」は、古くは廬原郡に属していた。森本治吉氏は、興津町の東方、薩※[土+垂]峠《さつたとうげ》から、現在の東海道線由比駅の辺りのようであるといっている。○大王の命恐み 「大王の命」は、ここでは、国司として京より任国へ着くまでの日数が、朝廷より定められている意。「恐み」は、謹み承《う》けまつってで、その日数は厳格に守っての意である。『講義』は、この当時の規程はわからないが、延喜式によると、上野国から山城の京に調物《みつぎもの》を貢する日数は、上り二十九日、下り十四日とある。大和(83)の京からの国司の日数は、この下りに一、二日を加えたものであろうが、同じく延喜式によると、武藏国までの下りは十五日であるので東海道によっての益人の行程は、よほどまで強行しなければならないものだったろうといっている。○夜見つるかも 「夜」は、夜にかけての旅をしていたことが、上よりの続きでわかる。「かも」は詠歎。残り惜しくも、夜見たことであるよの意。
【釈】 昼の光で見たけれどもなお飽くことのないところの田児の浦を、我は天皇の仰せたまえる規程を謹み承《う》けまつって、残り惜しくも、夜見たことであるよ。
【評】 前の歌に続いて詠んだものである。田児の浦は、清見の埼よりも東にあたっていて、いったがごとくやや広い地域である。田児の浦に沿っての海道を通る時にはすでに夜に入っており、行く行くも見て楽しもうとする海は見えなくなっていたのである。しかし規定の日数を思うと、心残りは忍ばなければならなかったのであるが、その心残りを、「大王の命恐み」という心によって一掃したのである。これは成句となっているきわめて重い心をもったもので、それによって、「昼見れど飽かぬ」に対照させている「夜見つるかも」は、単なる嘆きではなく、佳景に対する愛着の強さをあらわすものとなって、味わいをなしているのである。実際生活を重んじつつ、しかもつとめて佳景を楽しもうとする、この時代の人の心がうかがわれる。
 
     弁基の歌一首
 
【題意】 「弁基」は、巻一(五六)、それ以下にも出た、春日蔵首老の法師としての名である。弁基が勅命によって還俗《げんぞく》したのは、大宝元年三月である。この名によると、還俗以前の歌である。
 
298 亦打山《まつちやま》 暮越《ゆふこ》え行《ゆ》きて 廬前《いほさき》の 角太河原《すみだがはら》に 独《ひとり》かも宿《ね》む
    亦打山 暮越行而 廬前乃 角太河原尓 獨可毛將宿
 
【語釈】 ○亦打山暮越え行きて 「亦打山」は、奈良県五条市上野町から和歌山県橋本市隅田町真土に越える待乳峠。「暮越え行きて」は、夕暮れに越えて行ってで、下の続きから見ると、大和国から紀伊国へ向かって行くのである。○廬前の角太河原に 「廬前の」は、不明で、古くから問題とされている。下の「角太河原」への続きから見ると、枕詞か、または地名と取れるのであるが、枕詞としては認められず、また地名としてはその名の地は認められないからである。大体、角太河原を含んだ大名であって、後に忘れられたものと取れる。「角太河原」は、亦打山《まつちやま》を越えると隅田があり、紀の川がその地を通過しているところからの、その河原であろうという。○独かも宿む 「か」は、疑問、「も」は、詠歎。ただ独り宿ることであろうか。
(84)【釈】 真土山を夕暮れに越えて行って、廬前の角太河原に、ただ独りで宿ることであろうか。
【評】 大和から紀伊への旅をしようとして、その道を歩きながら、その夜の寝場所を思いやった心である。それを思ったのは、まだ大和の地域を歩いている時で、真土山を越すのは夕暮れ時で、紀伊の地域へ入ったら、廬前の角太河原で寝ようと思い、独りさびしく寝るのを思いやって感傷的になった心である。「廬前の角太河原に」と、地名を重ねて明らかにいっているのは、感傷の心の伴ってのことと取れるが、一つには、その地を知っていてのことと思われる。この当時の旅のそうした侘びしさは、すでに経験のある地ということによって軽くはならず、かえって深められたものと思われる。思いやりを素朴に詠んだものであるが、感のある歌である。
 
    右、或は云ふ、弁基は春日蔵首老の法師名なりと。
     右、或云、弁基者春日藏首老之法師名也。
 
【解】 このことは、題意でいった。
 
     大納言大伴卿の歌一首 未だ詳ならず
 
【題意】 「大納言大伴卿」は、大納言であるがゆえに、尊んで名を記さず、代わりに、三位以上の敬称とする卿をもってしたものである。大伴氏で大納言となった人は、前後五人ある。天武天皇の朝の大納言大伴望陀の連《むらじ》、文武天皇の朝の大納言大伴宿禰御行、大納言大伴安麿、聖武天皇の朝の大納言大伴旅人である。ここの大納言大伴卿はその中の誰かである。その誰であるかについては、沢瀉久孝氏の考証がある。要は、この巻の歌の排列は、大体年代順となっており、この前後の歌で年代の明らかなのは、上の田口益人の上野国司となったのは、和銅元年三月であり、後に続く柿本人麿は和銅二、三年に死んだと推定されているので、ここの大伴卿はその頃の人でなければならない。その点から見ると、大伴安麿の大納言となったのは、続日本紀、慶雲二年八月の条に、「為2大納言1」とあり、また、和銅七年五月の条に、「大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麿薨」とあるので、安麿と推定すべきだというのである。これは本巻の撰者には、問題とならなかったこととみえる。安麿のことは、巻二(一〇一)に出た。したがって、「未だ詳ならず」という注は、後人の加えたものとわかる。
 
299 奥山《おくやま》の 菅《すが》の葉《は》凌《しの》ぎ 零《ふ》る雪《ゆき》の 消《け》な