窪田評釈 巻一
(4)  凡 例
 
一、本巻には万葉集巻第一、巻第二の二巻の評釈を収めた。
一、本文は西本願寺を底本とし、諸本をもって改めた個所もある。
一、題詞、歌、左注は仮名まじり文に書き改めた。なお、歌と左注とには白文を付した。
 
(5)序 本書は、その題名の元すが如く、万葉集の評釈を試みたもので、筆者の新たに稿を起したものである。
 此の稿を起すについて、筆者はただ一つの事を期している。本書を手にされた人に対して、その事を簡単に記す。
 我が国の古典を貫いている性格的なものの第一は、集団性の濃厚だということである。これは言いかえると、共同にもっている現実を尊重し、これに即して離れまいとすることである。此の性格の最も濃厚に現れているものは、抒情を旨としている和歌である。その形式の短小を便利とし、これに甘んじ満足して、益々短小に向わんとする傾向のあるのは、一にこの集団性の致すところである。詠み人の言わんとするところは共通の人間性で、そしてそれを現すには、聴く人と共に現に眼にしているところの現実に即し、それに依る心をもってするのである。聴く人もまた、詠み人と同じ心をもってし、その言うところと、この現実とを絡ませつつ聴くのである。和歌の形式の短小をもって足れりとするのは此の共同の現実を媒介とするが為であって、和歌にはそれを詠んだ時の環境即ち題が、必ず添うべきものとなっているのは、此の事を示しているものである。
 今言ったことは和歌としては初期である上代に属することで、後期と目すべき中世より近世へ降ると、稍々《やや》趣を異にしているが、伝統を重んずる和歌にあっては、その推移は極めて緩慢であって、幾何《いくばく》の変化もないといえる。上代の和歌に属する万葉集は、すでに或る完成期に達しているが、此の趣を極めて濃厚にもっているものである。
 以上は言うを要さないことで、絮説《じよせつ》に似たものであるが、最古の古典に属する万葉集の注釈を試みようとする筆者にとっては、今一応くり返し思わざるを得ないことなのである。
万葉集の歌を理会し味解するには、最初に必要なることは、その歌の取材となっているところの環境に対しての理会である。環境とは上代の或る時期であって、その時期は更に上代よりの繋がりをもちつつ急速なる推移をしていた時である。生活様式も、もとより現代とは遥かに異なっていて、その抱く信仰を初めとし、風俗習慣言語に至るまで、すべて研究にょって知られ得るものである。万葉集の歌は人間性の単純なる発露にすぎないものとはいえ、いずれも此の環境に即し、環境をとおして表現されているものなので、今日にしてそれを理会し味解しようとするには、先ずその環境を知らなければならない。その必要なることはいうまでもないことである。幸いなるかなわれわれは、多くの尊むべき先賢と、それを継承する現代諸家の研究とによって、たやすくもその大体を知り得るのである。そこにはまだ残されている幾多の問題があるのであるが、和歌に捉えられている取材という限られた範囲においては、不十分ながら略略《ほぼ》教えられたという状態に達そうとしていると言い得られる。
(6) 万葉集がわれわれにとって極めて貴重なる物とされているのは、言うまでもなく和歌として極めて優秀なるが為である。その優秀というのは、千古に亘って渝《かわ》るべくもあらぬ人間性が、豊かに強く深く湛えられてさながらに生きて居り、今日のわれわれの生命にも響き来たり、また明日にも響き得るものと信ぜられるからである。そこにはわれわれの遠き祖先の精神であるというなつかしさも伴っているが、それは此の優秀さに付随したものである。その優秀さは偶然な物ではなく、その当然の理由がなくてはならない。我が文芸とはいえ、個人性を容れ得るところの多い、稍々降っての代の散文の世界にあっては、この事はたやすくは窺い得ないものでもあろうが、集団性の濃厚である上代の和歌にあっては、比較的たやすく辿られ得べきことに属する。即ち万葉集の歌の詠み人が、集団人の一人として、如何なる信仰と信念に支持せられて、如何なる生活態度をとり、如何なる刺激と感動をもち、如何なる必然性に駆られて、如何なる手法をもってその歌を詠んでいるかということは、これを辿ろうとすれば必ずしも難事ではなく、或る程度までは辿り得られることである。これが即ち文芸としての和歌の価値批評であって、現在の筆者にとっては、万葉集に対して最も必要なことと信じているものである。
 万葉集の注釈は、言ったがごとく、最初に必要なものは、その歌をして現に見るがごとき状態にあらしめた時代の研究であって、ついで必要なものは、これを文芸として観ての価値批評でなくてはならない。その必要の程度においては、後者は前者にまさるものである。然るに前者の研究の進展は著しきものがあるにも拘らず、後者の研究は立ち後れているがごとくに感ぜられる。その何故に立ち後れているかは、筆者自身の体験によれば、知り難くないことである。それは価値批評ということは、事としては相応の労を要することであるが、陥るところは単にその人一人の感想に終って、他と相渉《わた》るところの少く見えるが為である。価値批評の基準は、現在は定まるべくもなく、要するにその人その人のものである。そうした基準をもってする批評の空疎なるものに見えがちなのは、これは余儀なき次第である。しかしながら、貴重なる古典を単に架上のものにとどめず、これを胸中のものとしようとするには、この価値批評を通さなければならない。それをすることによって優秀なる和歌の詠み人にして、なつかしむべき上代の祖先とわれわれとの間に、密接なる関係を結ぶことが出来、その関係をとおして初めてわれわれの胸中の物となり得るのだと筆者は信じている。
 本書は、そうした心をもって稿を起したものである。もとより古典のことであるから、語句の解釈に重きをおくべきは言うまでもないが、それは一に、先賢及び現代諸家の研究の恩賚《おんらい》を蒙ったもので、寡聞その足らざるをおそれているものである。極めていささかの私案を試みた場合もあるが、それは言うにも足りないものである。したがって此の方面は、その稍々特殊なものに限って、研究者の名を挙げて依るところを明らかにしたが、大体としては省路を旨とし、簡明ならんことを期した。
 批評の方面は、筆者の理会し得ているもののみである。もと(7)より未熟にして空疎なものであることは覚悟しているが、臆するところなく私見の概路を述べたものである。それとても従来の尊ぶべき研究の恩賚を蒙るところ多いものであることは言うまでもない。しかしその中には、あるいは問題の芽となり得るもののいささかあり得はしないかと思って、それをもって慰めとしている。
 万葉集の注釈は、筆者としては洵《まこと》に身に余るものであることは知っている。齢もすでに老いて気力の衰えを来たしているので、その果して成し遂げ得るものであるか否かも危ぶまれるものである。しかし努めて続行したいと期してはいる。事としてはあらずもがなのものとも思うが、時代に感激の情をもち、未熟ながらもなし得ることをしようとの一念に駆られてのことである。
 
    昭和十八年二月
                        著者
 
(10) 萬葉葉 巻第一概説
 
 万葉集の評釈をしようとする以上、先ず万葉集全体に亘っての概説をするのが当然である。しかし筆者はそれは見合わせ、一巻一巻について、部分的にしていくこととする。それは万葉集は全部二十巻、歌数として四千五百首を越える浩瀚なものである。加えて毎巻ほとんど趣を異にする極めて複雑なものである。これを取りまとめて一時にするということは、煩雑にすぎることで、筆者とともに読者も、得るよりも失うところの多いものだろうと思われるからである。それでここは巻第一だけに限って概説する。
万葉集巻第一について正確に知られていることは、極めていささかのことで、それもさしたる発見とは言えない程度のものである。今それを言うと、第一は、いかなる動機でこうした撰集が出来たかという事であるが、それは明らかにはわからない。それというのが、この点を明らかにすべき序が添ってはいず、また他にも、その事に触れての記録は全然ないからである。この事については、その動機の起り得る範囲を推定するにすぎない。第二は、撰者である。これもその動機と同じく、序がなく、またそれに触れての記録も全然ないので、明らかにする方法がない。これに触れての平安朝時代の言い伝えはあるが、これは単なる言い伝えで、明らかに根底のないものだと確かめられている。ただ知られている一事は、万葉集は何人かの編纂者によって、逐次編纂されていったもので、これは巻の異なるごとに、編纂の方針も用意も異なっているところから推定されるというのである。比較的明らかなことは、これら編纂者の中に、大伴家持が大きく働いており、万葉集のある部分は家持の手によってなされたものだろうということである。これを撰者といわず編纂者というのは、万葉集は巻第一と二とは精選された趣をもっていて、そこに撰者のあったことを思わせられるが、他の巻の多くは、資料を蒐集し、一とおりの整理を加えたというにすぎない趣のものだからである。その撰者の面目を具《そな》えている巻第一の撰者も、言うがごとく何びとであるかは全くわからず、わずかに想像し得られることは、その人は宮中に収められていたと思われる和歌を、資料として稍々自由に見るを得た人と思われること、次に巻第一と二とは、その編纂の上から、他の巻とは異なって有機的関係をもってい、万葉集の部立ての三大綱目たる、雑歌、相聞、挽歌の一わたりを、此の二巻に割り当てて完備させているところから見て、同一人でなくてはならないと推定されていることである。第二には、上の理由により、巻第一と二とは略々同時に撰定されたものと見て、そのときは何時であったかということであるが、これは年代順に排列した歌が、奈良遷都直後に終わっているのと、また歌の題詞の記し方によって、奈良遷都後|幾何《いくばく》も経たない時であったということだけが明らかである。
(11) 万葉集は、巻第一、二というごとき重要なる部分においても、その書史的方面は極めて不明で、ほとんど白紙と同様なのである。
 
 巻第一と二との撰者が、いかなる動機から万葉集の撰定を思い立ったかということは、言うがごとく全く不明なことであるが、しかしその動機の範囲の推定も許されないような神秘なこととも思われない。それについての思い寄りを言う。
 万葉集は左注の形において、当時存在していた多くの歌集の名を挙げている。最も多く出るのは柿本朝臣人麿歌集で笠朝臣金村歌集高橋蟲麿歌集田辺福麿歌集などがある。これらは家集である。また、古歌集というがあり、民謠集である巻第十三によると、そこには何部かの民謠集のあったことが知られるが、これらは得るがまにまに蒐集した集と思われる。最も注意されたのは、山上憶良の類聚歌林である。これは内容の不明なものであるが、その題名によって、多くの人の歌を類別した集であったろうと想像される。万葉集が撰定されまた編纂された当時、いかに多くの歌集が世に伝わっていたかということは、たやすく想像される。
 需要のないところには供給はない。これらの歌集が供給されていたのは、そこにこれに相当する需要があったためと思われる。需要とは何ぞといえば、上代の生活にあっては、和歌は日常生活の上の必需品であって、生活の中に織り込まれている、生活のための歌だったのである。その※[目+者]《み》やすい例をいえば、上代の集団生活にあっては、賀の歌は必要欠くべからざるものであった。言霊《ことだま》信仰の深かった時代には、人の他に向っていう言には、言の中に霊《たま》が宿っていて、その霊はその言に応じての働きを現し、言わるる人の上に作用を及ぼすものだと信じられていた。すなわち善い言には善い霊が宿り、悪い言には反対に悪い霊が宿ってい、賀の心も詛《のろ》いの心も遂げ得るものだと信じていた。さらにまた、善い言という中、その麗わしく言い連ねたものは、最も効果的なものだとも信じられていた。麗わしい言とはすなわち歌である。賀の心は歌でなければならなかったのである。また、男女間の交渉も歌をもってする風となっていた。その心は賀の歌と通うところのものであったろうが、とにかくこれが風をなしていたことは、伊邪那岐《いざなぎ》、伊邪郡美《いざなみ》の二神が、国生みに先だっての婚儀に、双方の意志を歌謡の形式として相唱和されたとしていることは、この風の起源を最も畏き神につないだものであって、その風の動かすべくもないものになっていたことを裏書するものである。さらにまた、葬儀の時にも歌謡が必要であったと思われる。御大葬の際の歌謡の起源を、日本武尊の死の際につないでいるごときも、その風の根源の深いものであったことを示すものと思われる。だいたいこのような状態で和歌は日常生活の上に関係していたのである。それだと、他人の歌にして、取って範とすべきもの、また流用に堪えるものは、ある程度の生活を営んでいる家にあっては、まさに必需品であったことと思われる。類聚歌林が想像されるがごとき内容であったとすれば、おそらくこの利用に最も簡便なものであ(12)ったろうと思われる。
 また、この和歌が、いかに広く流布していたかということも、たやすく想像される。例せば東歌、防人の歌のごときを見れば、今日のわれわれをもってすれば、驚き怪しまれるものである。中央都市の支配階級の作る和歌は、交通の極めて不便な世、遠き僻陬《へきすう》の庶民の、おそらく文字を解せざる者に、口承をとおして深くも親灸《しんしや》し、見るがごとき和歌を作らしめるに至っていたのである。さらにまた、柿本朝臣人麿の歌は、その部分部分に多くの異伝を含んでいる。その異伝は概していうと、本行のものよりも平明なものとなり、劣ったものとなっている。そしてこのことは、一人《ひとり》この人の歌に限られたことなのである。これはきわめて高名であり、また魅力のあった人麿の歌は、口承をとおして流布すること弘《ひろ》く、したがってその間に流動し変化させられて、たまたまその記録せられたものも、すでに何程かの異同を生じていたことを示しているものである。和歌の流布の速かにしてまた弘かったことは、想像に余りあるものがある。
 万葉集の巻第一と二との撰者は、和歌のこうした状態であった世に生存し、そしてそれを眼前の事象として見ていたのである。その和歌の上において、この撰者なる人をして遺憾に感ぜしめ、むしろ心外を感ぜしめた一つの事があったろうと、筆者には想像される。
 撰者は、何等かの経路によって、宮中に保存せられている高貴の御方々の和歌を知っていた。歴代の天皇の御製、皇后、皇子方の御歌の、いかに御気宇の高く豊かに、また御風格の高雅なものであるかを知っていた。またこれらの和歌は、臣民の間には伝わってはいないことも知っていた。一方、国運は隆々として高まりつつあって、皇室の限りなき尊貴を顕すべき古事記、また国家の権威を宣揚すべき日本書紀の撰進は、すでにされ、またされようともしている時代である。撰者は宮中に秘められたる形をもって保存せられている和歌を、この古事記、日本書紀と同じき態度をもって、臣民の世に顕わそうと思い立ったのではないか。これはもとより想像にすぎないものであるが、必ずしも許されがたいものではないように思われる。
 この想像の下に、万葉集巻第一と二とを見ると、筆者には撰者の意図がかなりはっきりと窺えるように思われる。その第一は、巻中の歌の撰である。巻第一の巻首には雄略天皇、巻第二の巻首には磐姫皇后というように、古の天皇、皇后の、歌の上には盛名を保たせられている至上の御方々を、時代の甚しい飛躍をも顧みずに載せているのを初めとして、巻第一の歌は、だいたい高貴の御方々の御製御歌を連ねることをもって建前としている。その中には、身分低き者の歌、また詠み人知らずの歌もあるが、その身分低き者の歌は、すべて行幸の供奉《ぐぷ》という、皇室に関係せる特別の際に詠んだ歌で、それ以外の折のものは全くない。また詠み人知らずの歌は、すべて皇室に対しての賀の歌であって、これまたそれ以外のものではない。この撰は、意図するところがあってのものと思われる。第二には、雑歌、相聞、挽歌の三大都立の中、巻一は、充《あ》てるに雑歌をもってしていることである。この部立は、いずれを重しとすることもで(13)きないものであるが、万葉集全体を通じていえば、歌数の最も多く、したがって最も重く扱われているものは相聞である。かりにこれが巻第一に充てられていたとしても、万葉集を単なる歌集として選んだものとすれば、何等の不自然もないものである。然るに雑歌をもって巻第一に充てたのは、高貴な方の御歌にして、まず臣民の世に示すものとしては、雑歌の範囲のものをもってすることが至当だと考えたのではないかと思われる。その意識的であったのは、巻首の雄略天皇の御製のごとき、雑歌とはいえ、明らかに相聞で、しかも典型的なものである。また高貴な方の歌には、これと同じきものがある。これは強《し》いたことで、撰者は意識して行なっていることと思われる。第三には、万葉集という題名である。万葉とは万世の意であるということは、今では定論となっている。撰者からいえば、万葉集は私撰であって、しかも巻第一と二だけのものである。それにこのようないかめしい題を付したということは、高貴なる方々の歌を主にしての集に対し、賀の心をもって付けたもので、単なる歌集としての題ではなかろうと思われる。
 以上は推測にすぎざることで、また長きにも失したが、巻第一の特色に触れるところがあると思って記した。
 
 巻第一と二との撰者は、皇室を中心としての歌を蒐集し、これを一部二巻に編もうとするに当り、これを部立によって整理した。雑歌、相聞、挽歌がそれである。これは上にも触れたがように、生活のための歌であったこの当時の歌は、おのずからにこの三類になっていたのである。雑歌は、巻第一にあっては、だいたい、賀歌と行幸の供奉の際の歌である。相聞は、巻第二にあっては男女関係のみの歌である。また挽歌は、死者を慰めようとして、直接にその柩前で謡うもの、および死者を追慕して悲しむものである。すなわち雑歌と相聞とは、生を楽しもうとする心のもの、挽歌は生を楽しもうとする心の遂げ難きを悲しむものである。これらはいずれも自然発生的のもので、同時に生活の全部を網羅《もうら》し得るものである。これらの名称は、いずれも漢籍より取り来たったものであるが、それは便宜に従ったのみのことであるのは言うまでもない。そしてこの撰者の新たに捉へ来たったものか、あるいはすでに一部には行なわれていたものであったかも明らかならぬものである。この撰者の立てたこの部立は、時代の降るに伴って分岐して複雑なものとなったが、それは生活のための歌に、歌のための歌という文芸性を加味させようとする要求から来たもので、この部立は基本として動かし難いものとされ、最後まで踏襲されたのである。
 
 この撰者はまた、撰定に当り、歌を排列するに、作歌の年代順に依ってしている。上代の歌は実際に即して作ったものであるところから、知名の人である限りはそれを確かめ得る可能性があったのである。それの明らかでないものは、出来得る限りを考証し、左注の形をもってそのことを言っている。中にはその甲斐の認められないものもあるが、そうしたものさえ、なお書き添える細心さをもってしているのである。また、年代の知(14)り難いものは、一括して別にしているという方法を取ってもいる。
 歌の題詞の書式は一定していず、区々《まちまち》となっている。これは撰者の意志をもって書きかえるということはしまいとし、一に原形に依ったものと思われる。ここにも撰者の細心さが現れている。
 こうした態度を、意識的に、徹底させていっているのは、巻第一と巻第二だけである。この二巻を完成したる精選本とする理由は、こうした点にもある。
 
 この巻第一と巻第二との撰定された奈良遷都直後のころ、いかに歌が盛行していたかは上に言った。歌はおそらく、人が集団生活を営み始めるとともに生まれ来たったもので、その発生の古さと、したがってその作られた数の多さとは測り難いもので、今日に残っているものは、その優秀なるもののきわめてわずかが、偶然なる機会によって残されたものであろう。しかし今、巻第一と巻第二の皇室関係を主としてのわずかの歌を通じて観ても、明らかに一つの事が認められる。それは歌は積極的精神の所産だということである。雄路天皇、磐姫皇后はしばらく措《お》き、舒明天皇より元明天皇に至る約八十年間は、国運の著しく伸張しつつあった時代で、上下一致、前途にかがやかしい時代を望みつつ、眼前の実務に努力した時代である。男子の理想とするところは益荒夫ということであって、臣下はもとより高貴なる皇子さえもそれを念とされていた。この緊張した精神から日常生活は肯定され、楽しまれ、そしてそこから、明るく、強く、楽しい、いわゆる清《さや》かにしておもしろい歌は生まれ出たのである。すなわちこの当時は、歌が盛行したというだけでなく、歌が著しく向上し進歩したのである。
 この歌の向上進歩の上に、漢文学が刺激をなしていたことは、否み難い事実である。それは外国の文芸である漢詩の作が、すでに天智天皇の御代より行なわれ、奈良遷都後には漢詩集である懐風藻の編まれるに至ったのでも察しられ、また遷都以前の万葉集の作者の、その作歌を記すに、自在に漢字を扱っているのでも察しられる。刺激の受け方には二様ある。受ける者に自信の足りない時には圧倒され、十分にあるときには、自主的態度をとってそれを利用する。古事記、日本書紀を撰ばしめられたわが皇室は、当時世界の文化を集めていたといわれる唐に対して、十分なる自信をもって対立し、彼の長を摂取して利用したが、それは一部にすぎなかったことを、歴代の御製、皇子の方々の御歌の上に明らかに元している。それは飽くまでも伝統を重んじて、現実性の上に立つことにおいては微動もされずに、しかも一面には、実用性の歌を文芸性の歌にと、一歩前進せしめられているのである。これをしている人は、当時代表的の教養をもっていられたと思われる高貴の御方に限られていることも、注意されることである。身分が低くしてしかもこれを実行し、保守と進取を大規模に行ない得たのは、一人柿本人麿があるのみである。
 この当時、中国の道教が伝わって、その不老不死の神僊思想(15)が、少くともわが支配階級に信じられていたことは、藤原宮※[人偏+殳]民作歌、また持統天皇の御製の中に、明らかに現れているのでも察しられる。生活を肯定し楽しもうとする心の、たやすくもこれに繋がり得るもののあることは、※[目+者」《み》やすいことである。これは瑞祥を喜ぶ思想となって、次第に拡がり、長くもとどまった。この思想も、実用性の歌に文芸性を加味させる上には、間接ながらも影響するところのあったものと思われる。
 以上を巻第一を主とし、巻第二にも及ぶ概説とする。概説にすぎるかの感があるが、それは本書の性質を斟酌《しんしやく》してのことである。
 
(20) 大行天皇、吉野宮に幸しし時の歌二首      一二六
 或は云ふ、天皇の御製歌              一二六
 長屋王の歌
 
和銅元年戊申                    一二七
 
 天皇の御製歌                   一二七
 御名部《みなぺ》皇女の和へ奉れる御歌       一二八
 三年庚戌の春二月、藤原宮より寧楽宮に遷りましし時、御輿を長屋の原に停めて※[しんにょう+向]《はる》かに古郷を望みて御作歌《つくりませるうた》  一二九
 一書の歌                     一三〇
 五年王子の夏四月、長田王を伊勢の斎宮に遣しし時、山辺の御井にて作れる歌三首  一三四
 
寧楽宮                       一三七
 
 長皇子、志貴皇子と佐紀《さきの》宮にて宴せる歌  一三七
 長皇子の御歌                   一三八
 
(21) 雑歌
 
【標目】 「雑歌」は、本集の歌をその性質によって三部に分填し、雑歌、相聞、挽歌と部立てをしてあるその一つで、相聞、挽歌以外のものを総括しての称である。詳しくは概説にある。
 
 泊瀬朝倉宮御宇天皇代《はつせのあさくらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ》       大泊瀬稚武天皇《おほはつせのわかたけのすめらみこと》
 
【標目】 泊瀬朝倉宮は、雄路天皇の皇居の称で、現在奈良県桜井市初瀬町の西の初瀬川に臨んだ地に、その名を存している。御宇は、「御」は統治。「宇」は、天の下の意で、本集には仮名書きで、「あめのしたしらしめしし」という例が多く、それに当てた語である。「馭宇」という語もあるので、「ぎょう」ともいったことが知られる。天皇は、「すめらみこと」と訓む。「すめ」は、統ぶの体言「すめ」。「ら」は、他語との接続をあらわす助詞。「みこと」は敬称。命・尊の文字を当てる語。「代」は、美称の接頭語「み」を添えて「みよ」と訓む。古くは、天皇御一代ごとに宮を改めたので、宮号をもって天皇を呼んだ。尊んでのことである。大泊瀬椎武天皇。雄略天皇の御名。「雄略」という漢風の謚号《しごう》を奉らない前の御称。天皇は、允恭天皇の第五皇子。御母は忍坂《おさか》の大中《おおなか》姫の皇后。皇兄安康天皇の三年、眉輪《まよわの》王を誅し、その後を承けて朝倉宮で即位された。治世二十三年であった。
 
     天皇《すめらみこと》の御製歌《おほみうた》
 
【題意】 天皇の御製歌。天皇は、雄略天皇。御製歌は、漢文風に音で「ごせいか」と訓んだか、または国風に「おほみうた」と訓んだか不明である。それは、題詞は漢文で書いてあり、当時の文章はすべて漢文であったから、漢文風の訓みも存しうるからであって、「新訓」は「ごせいか」と訓んでいる。御製という語は漢語である。他方、古事記には、この天皇の歌に対して大御歌《おほみうた》と呼んでいるからである。「おほみうた」に従う。天皇の御製は、本条にはこの一首のみであるが、古事記には長歌五首、短歌四首、日本書紀には長歌一首がある。古事記のものは、すべて歌物語の詞章とみえるもので、それを天皇の伝記の一部のごとく(22)扱ったものと思われる。この一首もその範囲のものであろうと思われる。
 
l 籠《こ》もよ み籠《こ》持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡《をか》に 菜採《なつ》ます子 家告《いへの》らせ 名告《なの》らさね そらみつ 大和《やまと》の国《くに》は おしなべて 吾《われ》こそ居《を》れ しきなべて 吾《われ》こそ座《ま》せ 我《われ》こそは 告《の》らめ 家《いへ》をも名《な》をも
    籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尓 菜摘須兒 家吉閑 名告紗根 虚見津  山跡乃國者 押奈戸手 吾許曾居 師吉名倍手 吾己曾座 我許背歯 告目 家呼毛名雄母
 
【語釈】 ○籠もよみ籠持ち 「籠」は、かごの古語。竹製の、物を容れる器で、ここは摘菜の容れ物。「もよ」は、詠款の助詞、間投助詞である。「み」は美称の接頭語。○ふくしもよみぶくし持ち 「ふくし」は、土を掘る串で、金ふくしという語があるので、ここは木か竹で造ったへら。菜の根を掘るための物。「み」は、美称の接頭語。○この岡に 「岡」は本文は「岳」であるが、小高い所の意。○菜採ます子 「菜」は、副食物となる物の総称で、魚も「な」といい、野の雑草で食用になるものをも総括しての称。ここは疏菜ではなく、選ばれた雑草とみえる。「採ます」は、採むに敬語の助動詞「す」を添えて敬語としたもの。古語には自他に対して敬語が多く、なかばは慣用で、必ずしも意識的のものではなかろう。ここもそれに近く、親愛の情をもってのものだろうと『全註釈』はいっている。「子」は愛称で、男女を通じて用いている。呼びかけである。○家告らせ 本文は「家吉閑」で、旧訓は、「名」をここへ訓み付け、「いへきかな」となっていた。家聞くという語は、他に類例のない、意をなさない語であるとして、諸家さまざまの解を立てている。『考』は「吉」は「告」の誤写、「閑」は「閇」の誤写として、「家告らへ」と改めた。『古義』はまた、「吉閑」を「告勢」の誤写として「のらせ」としているが、この誤写説は承認されなかった。しかるに、『私注』は、「閑」はそのまま「せ」の借訓となりうる字である。現在は「閑」は「間」すなわち「ひま」の意にのみ用いられているが、本来は、門を木をもってさえぎった貌で、防、禦木の意があり、馬柵を「ませ」と訓むことからすれば、「閑」を「せ」に借りないとは言い難く、次の「なのらさね」に照応するためにも「いへのらせ」の訓は心ひかれるところ大きいといっている。『注釈』はさらにそれを確めている。従うべき解である。「告らせ」は、「告れ」に敬語の助動詞「す」を添えての命令形。○名告らさね 「ね」は他に対しての願望の助詞。「家告らせ名告らさね」は、当時の求婚の言葉で、「家」はその女の身分・所在を示すもの、「名」は、当時の女子は極秘にしていて、それを知らせる時は、その人に一身を委ねる時としていた。ここはその意味でのものである。以上一段である。男が求婚する場合には、女の家と名を問うだけではなく、それとともに自身の家と名も知らせるべきことになっていた。その証歌は多い。○そらみつ 大和にかかる枕詞。日本書紀の神武紀に、にぎはやひの命が天の磐船に乗って天降った時、大和の地を見下ろして来たのによる詞だという。それだと空の御津の意で、大和を讃えた意のものと思われる。古い枕詞とみえる。○おしなべて (23)押し靡かせてで、総じて従えて。○吾こそ居れ 吾が統治しているの意を、やさしくいったもの。○しきなべて吾こそ座せ 「しきなべて」は、「しき」は領有して、「なべて」は、従えてで、「座せ」は、「居れ」の敬語。この二句は、上の二句と対句となっている。口承時代の歌謡の繰り返しに近く、多くの変化を示してはいないが、前の二句には強さを含んでおり、後の二句には柔らかさと落ちつきがあって、気分としては漸層的に深まっている。○我こそは告らめ家をも名をも この訓みは、『注釈』によって『五十槻《いつきの》大人(荒木田|久老《ひさおゆ》)口授万葉集|聞書《ききがき》』のものだと知った。さらにこれは中世の『古葉略類聚鈔』(二)にも、すでに「われこそはつげめ」と訓まれているとのことである。『新考』も上の『聞書』の訓みと同じである。これに従う。文面から見ると天皇は、第二段の「そらみつ大和の国は」以下二句対の対句をもって、その御身分を告げていられる。これは「家をも名をも」告げたことである。さらに改めてこのようなことを繰り返される要がなく、一見無用なものに見える。しかしその際の情景を思うと、「菜採ます子」という言葉によって呼ばれている女は、初めて見かけた男性から突然求婚をされ、しかもその男性が天皇であることを知らされたので、羞恥と恐懼の感からものがいえず、ただ当惑していたことと思われる。天皇はその情を察して、やさしく、婉曲に、女の応諾を促した言葉と取れる。すなわち第一段の結末の「家告らせ名告らさね」に対応させて、「我こそは告らめ」と、対立の意の助詞「は」を用いていわれているのであって、言いかえると求婚の意を繰り返していわれたものと解せる。一首、一見素朴には似ているが、微旨を含んだ表現をしている歌であるから、この解はうがちすぎたものではなく、むしろ自然なものと思う。また、そう解することによって余意が生じるとも思う。
【釈】 まあいい籠を、いい籠を持ち、掘串よ、よい掘串を持って、この岡で菜を摘んでいられるかわいい娘さん。家をおっしゃい。名をおっしゃいね。この大和の国は、すべて従わせてわたしがいるのです。すべて領してわたしがいられるのです。わたしこそいいましょう。家も名も。
【評】 万葉集としてこの巻首にすえたこの御製歌は、時代的に見ても飛鳥朝をかけ離れた古いものであり、作者としても歴代の天皇中でも高名な雄路天皇であるから、まさにふさわしい歌というべきである。これを御製歌とするについては、なんらかのしかるべき拠り所のあったことと思われるが、その点は不明である。
 これを取材の上から見れば、当時はいわゆる自由結婚時代で、少数の尊貴の人は例外で、他はすべて自身直接に求婚し、結婚していたので、求婚ということは万人ひとしく体験し、またしようとしていることである。同時に、生涯を通じて最も感銘深く、またあこがれの的ともなっている事柄である。歌材という上からいうと、これほど一般性をもった、また興味深いものは他にはないといえる。
 表現の上から見ると、この御製歌は、口承時代の歌謡性のきわめて濃厚なものである。歌の基本は音律で、音律とは短長の組合わせである。口承時代も短長は動かず、記載時代に入ってそれが五七に定着するのであるが、この御製歌は、短長になっているが、五七はないという特殊なものである。音数から見ると、三四、五六、五五、五五。四七、五六、五六。五三七となっているのである。この不定は、歌謡としても稀れなものである。
 しかるにこれを一首の歌として見ると、安定感の強い渾然たる作となっている。音数の不定は当然乱雑の感を起こさせるものであるが、この御製歌では反対に、力強さとなり、それが安(24)定感を生むものとなっているのである。
 一首の内容は、「菜採ます子」というたぶん若い女性に対しての、天皇の求婚の意志表示という、きわめて簡単なものである。しかも天皇御一人の言葉だけで、相手の女性は黙して答えないという、何ら他奇なきものである。しかしこの御製歌は、その簡単な中に、比較的複雑味を含んでいて、それが一首の味わいをなしている。複雑味というのは、その際の天皇の心理、若い女性の心理を暗示して、いわゆる余情をかもし出していることである。
 この御製歌は短いながらに三段の構成をもっている。
 第一段は、起首より「名告らさね」までである。これが一首の主意である。「籠もよみ籠持ちふくしもよみぶくし持ち」は、「菜採ます子」の状態描写で、それが天皇に恋ごころを起こさせたのであるが、この状態描写は非凡なものである。当時の若菜つみは信仰も伴ってのことで、若い女性の行事となっていた。春の野山には珍しからず見られたことであろう。籠、ふくしは常凡な器具である。それに目を着け、それを讃えることによって、「菜採ます子」のもつ魅力を暗示し、同時に呼びかけとしているところ、いかにも特殊であり、また巧妙である。そしてそれがただちに進展して、「家告らせ名告らさね」の求婚の言葉に飛躍してゆくのである。事は求婚であるが、それをとおして善良にして闊達な、また多感な古代の帝王の面目がほうふつとしてくる。
 第二段は、「そらみつ」より「吾こそ座せ」までである。これは求婚の条件として求婚者の家と名をいったものである。
 この一段と二段との間には、あるギャップがあり、それがいわざる状態を語っている。状態とは求婚された若い女性のそれである。その女性は、岡で菜採みをしている所へ、ふと見知らぬ男性があらわれ、ふさわしからぬ世辞をいわれるとともに求婚されたのである。当然、驚きと当惑に捉えられて、いうところを知らなかったとみえる。その状態を見た天皇は、初めて気がついて、御自身の身分を告げたのである。これは迎えての解ではなく、第一段の軽快なるもの言いとは反対に、堂々たる口調をもって、この国の統治者であることを告げていられる、その表現技法によってギャップが感じられる。このギャップは余情の範囲のものである。
 第三段は、「我こそは告らめ家をも名をも」の結末である。この結末は問題となっているもので、諸家の解がさまざまである。筆者には第二段とこの結末の間には、第一、第二段の間と同じくギャップがあると認める。求婚の相手とされた若い女性は、その男性が天皇であると知らされると、前の驚きと当惑の情は恐懼の情と一変し、ますます口をかたく閉じて何事もいえなかったとみえる。その状態がある程度続いたとみえる。天皇はそれを見られてもっともと思われ、あわれみの情をまじえて、重ねて求婚の意志表示をする心をもって、やさしく、婉曲にこのようにいわれたものと解される。したがってこの結末は、最も含蓄あり、余情あるもので、雄略天皇のお人柄の美を最も発揮したものと解される。
 この一首は、形は素朴で、また簡潔なものであるが、内容は微細な味わいを含んだ比較的複雑なものである。その複雑味は、一見、平面描写に似ているが、ある程度、時間の推移を含み、立体感をもっているがゆえである。このことは、表面は純抒情(25)であるが、背後に散文味をもっているとも言いかえられるものである。読後、岡の上に相対して立っている天皇と菜採みの若い女性、双方の心理のおのずから想像されるものがあって、相聞の歌としては、類を絶した客観味のある歌であることが、以上のように解させる次第である。
 結句の五三七、あるいは八七の形は、古事記の歌謡にもあるが、時代の明らかなのは本集の中大兄の三山の歌の「うつせみも妻を争ふらしき」(一三)、額田王の近江の国に下りし時作れる歌の「情《こころ》なく雲の隠さふべしや」(一七)その他であり、五七七に至る過程の一時期のものである。これは伝誦の間に起こった変化ともいえるが、この歌の成立時期につながりあるものとも解せることである。
 
 高市岡本宮御宇天皇代《たけちのをかもとのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ》   息長足日広額天皇《おきながたらしひひろぬかのすめらみこと》
 
【標目】 高市岡本官は、奈良県高市郡明日香村|雷岡《いかづちのおか》の付近にあった舒明天皇の宮殿の称。天皇の二年に営まれたのである。その年の六月火災に罹り、田中宮に遷られたが、十一年百済川の側に大宮を御造営になり、十二年十月に遷られた。しかし天皇の御代の名としては「高市岡本宮天皇御代」と申したのである。
 息長足日広額天皇は、舒明天皇の御名。天皇は敏達天皇の孫、彦人大兄皇子の御子である。推古天皇の二十九年に皇太子聖徳皇子が薨じ、三十六年天皇が崩じられた後即位されたのである。在位十三年の十月九日崩じた。御年四十九。皇后は斉明天皇で、御二万の間に天智、天武の両天皇がある。
 
     天皇 香具山《かぐやま》に登りて望国《くにみ》したまひし時の御製歌《おほみうた》
 
【題意】 天皇は舒明天皇。香具山は、奈良県橿原市と桜井市とにわたり、平野に孤立している山で、畝火、耳梨とともに大和三山と称せられている山の一つ、標高一四八メートルの小山である。歌中では天《あめ》の香具山と称せられている。「天の」は神聖なるの意で、古代の神事には、この山の土をもって祭器を作り、この山の賢木を祭場に据え、またこの山の鹿の骨を焼いて神事の卜占をしたことが伝えられている。「かぐ」とは神霊の意で、卜占に使われる神聖なる鹿も同語であると『全註釈』はいっている。また、折口信夫氏は、この山は地勢がそれに適しているところから、古代斎場にしばしば用いられたことをいい、天あるいは高処から降臨すると信じられていた昔の神人《じんにん》の、里に来る足掛りに、格好な地であるともいっている。望国、国見は、高地に登って国状を視察することの称。元来は政治的の意味をもってのことであったが、後には風光観賞のためのこととなった。
 
(26)2 大和《やまと》には 群山《むらやま》あれど とりよろふ 天《あめ》の香具山《かぐやま》 登《のぼ》り立《た》ち 国見《くにみ》をすれば 国原《くにばら》は 煙《けぷり》立ち立つ 海原《うなばら》は かまめ立《た》ちたつ 怜※[立心偏+可]《おもしろ》き 国《くに》ぞ 蜻島《あきづしま》 やまとの国《くに》は
    山常庭 村山有等 取与呂布 天乃香具山 騰立 國見乎爲者 國原波 煙立龍 海原波 加万目立多都 怜※[立心偏+可] 國曾 蜻嶋 八問跡能國者
 
【語釈】 ○大和には群山あれど 「大和には」の「は」は、他と対させた意のもの。「群山」は、多くの山で、大和を繞らしている山々はもとより、三山までも含めてのもの。大和の国には、多くの山々があるけれども。○とりよろふ天の香具山 「とりよろふ」の「とり」は、接頭語で、作用をあらわす語に冠して、その意を強めるもの。「よろふ」は、物の揃い足っていることをあらわす古語。ここは香具山の山の形を讃めたもの。香具山は、大和の三山の一で、三山とも平野に孤立していて印象的な山であるが、その中でも最も形の美しい山で、青香具山といわれ、樹木もほどよく茂っていたのである。「天の」は、香具山にのみ冠していう語で、この語は、広くは神聖なものという意をもっているが、香具山に冠しての場合は、上にいった神事に深いつながりをもっていたからである。○登り立ち 登って立ってであるが、この場合「立ち」は、強めの意で添えたもの。他にも類似の語がある。○国原は煙立ち立つ 「国原」の「国」は古くは単に一定の地域をさす称で、郡県制度以後の称とは趣を異にしている。「原」は、広く平らな所をいう。「は」は、他に対させる意のもの。「煙」は、炊煙。「立ち立つ」は、立ちに立つで、あちこちから立つ意のものである。国原の方では炊煙が、あちこちから多く立つ意。○海原はかまめ立ちたつ 「海原」は、香具山の上で、国原に対させて仰せになっているので、古く、香具山の北麓にあったという埴安の池と取れる。この池は今は涸《あ》せて、池尻、池内などという地名が残っていて、その存在を思わせているのみである。池を海原と仰せられたのは、池を海と呼び、池または川の岸を磯、中心を沖と呼ぶなど、いささかの水を海に関係させて呼んでいる例が多い。海のなく、また海を見る機会の少なか(97)った当時の大和の人の、海に対してのあこがれの心からの称ではないかといわれている。「海原」の「原」は、国原の原と同じ。「かまめ」は、現在の鴎。「立ちたつ」は、ここも、あちこちから多く立つ意。○怜※[立心偏+可]き国ぞ 「怜※[立心偏+可]」は、旧訓「おもしろき」。この字は、集中二様の語に当てて用いている。「あはれ」と「おもしろき」とである。『講義』によると、「あはれ」の例は、巻三(四一五)「此旅人※[立心偏+可]怜《このたぴとあはれ》」以下四か所、「おもしろき」の例は、巻四(七四六)「かく※[立心偏+可]怜《おもしろく》縫へる嚢は」のほか、いま一か所ある。すなわちいずれにも訓めるのである。『考』は、神代紀に「可怜小汀」の注として、「可怜此云2于麻師《うまし》1」とあるにより、「可怜」を、「可」を「怜」になぞらえて扁を加え、また書写の際顛倒させたものとして、「うまし」と訓んでおり、後、これに従った注が多い。「おもしろき」も「うまし」も、大和を讃えた意では同様であるが、御作意から察しると、大和の国柄を讃えるよりは大和の風景を讃えたもので、その上からは「おもしろき」の方が適切に思われるので、旧訓に従う。また、この句は、五三、あるいは八音の句と思われ、この当時行なわれた句作りに従われたものとも思われる。○蜻島やまとの国は 「蜻島」は、大和の讃え名で、古事記には「大倭豊秋津島」とあり、日本書紀には「大日本豊秋津島」とある。豊秋つ島は、豊年の収穫の豊かなる島の意で、ここは大和の枕詞として用いたものである。「やまとの国は」の「は」は、起首、「大和には」の「は」と同じ。
【釈】 大和の国には、山々が群がっているが、すべて足り整っている天の香具山よ。この山に登り立って国見をすると、国原には、炊煙があちこちから立っている。海原には、鴎が舞い立ち舞い立ちしている。よい国だなあ、この秋津島の大和の国は。
【評】 国見ということは、本来政治的の意味のものであったと思われる。この場合は、天皇の特に遊ばしているのであるから、その意味の濃厚なことが予想される。また、この御製の歌が、大和の国をお讃めになっているものであることは明らかである。上代には讃め歌が多く、神を讃め、国を讃め、人を讃め、家を讃め、物までも讃めている。すべて言霊《ことだま》の信仰の現われで、善い語をもって讃めると、語に宿る霊《たま》の神秘力が、讃められる物の上に作用して、その語どおりの事が現われて来ると信じてのことである。この意味においての歌は実用性のものであって、文芸性以前のものである。この御製の歌は、事は天皇の国見ということで、政治性のものであり、歌は国讃めの範疇のものであるが、その国讃めは、人民の生活の場として、その生活の安泰を賀するという性質のものではなく、それに触れたお語《ことば》としては「蜻島」という一語があるのみで、それとても「やまと」に枕詞として添えられたもので、従属的な軽いものと見なければならない。しかるに、風景を愛《め》でさせられるお心持は反対に濃厚で、国見を遊ばされる場所としての香具山を仰せられるにも、「とりよろふ天の香具山」と、山としてもつ好景に力を入れられ、一首の中心としての「国原」をいわれるにも、「煙立ち立つ」は、「海原」の「かまめ立ちたつ」と対句の関係においていわれているところから、炊煙の豊かなるを賀せられるのではなく、風景としてのおもしろさをいわれたものと思われる。結末のお語の「怜※[立心偏+可]」を、「おもしろき」であると思われるのも、この意味においてである。これを下に続けて、「怜※[立心偏+可]国《うましくに》ぞ」と訓めば、大和の国柄、すなわち人民の生活の場としての好さをいう意が濃厚となってきて、一首の御作意に分裂をきたすがごとく思われる。要するにこの御製の歌は、実用性の範疇に属すべき歌を、文芸性のものにまでお進めになったものであると思われる。
 この御製の歌は、構成がきわめて自然で、整然たるものであ(28)る。中心となる対句の、遠く国原を遠望し、近く海原を見下ろして、鴨の状態を御覧になられたなど、その整然たるとともに、単純な語の中に豊かな心を具象したものである。一首全体の単純にして、明るく、豊かにして安定し、気品の高さのあるところ、まさに御製の歌と思わしめる。なお、雄略天皇の御製は特別のものとして、この集の編纂に近い時代のものとして、第一にこうした御製を選んでいるのは、和歌を実用性以後すなわち文芸性のものとした編纂者の意図の加わっていることを思わせる。
 
     天皇 内野《うちのの》に遊猟《みかり》し給ひし時 中皇命《なかつすめらみこと》の間人連老《はしひとのむらじおゆ》をして献《たてまつ》らしめたまへる歌
 
【題意】 天皇は、舒明天皇。内野は、奈良県宇智郡にある原野。現在、字智、北宇智、南宇智の三村があり、五条市にかけての辺りかとされている。固有名詞。遊猟の猟は、いわゆる薬猟とみえる。薬猟は五月五日に行なわれる行事で、正陽の節目に採集した薬品は特効があるとして、男は猟をして鹿の袋角を採り、女は薬草を採るのである。遊薬を兼ねてのことである。中皇命は、解に諸説があるが、喜田貞吉氏の「中天皇考」の説が有力なものとなっている。要は、中皇命は「なかつすめらみこと」と訓むべく、中天皇《なかつすめらみこと》の意で、「中皇命とは先帝と後帝との中間を取りつぐ中間天皇の意か、もしくは中宮天皇の略称なるべし」といい、この場合は舒明天皇の皇后で、後に即位された皇極天皇だとしている。間人連老は、間人は氏、連は姓、老は名である。日本書紀の孝徳天皇紀に、遣唐使の判官となった中臣間人連老があるが、同人であろうとされている。献らしめたまへる歌は、この場合一つの目的をもってのものと解される。目的とは、猟の幸《さち》を祈る賀歌という意である。そのことは歌の内容から察せられる。猟人は猟に出るに先立って禁忌をまもり、潔斎したことが集中の歌で知られる。事の性質上ありうべきことで、ここも天皇の猟に出られるに先立って、弓弭《ゆはず》を鳴らすという呪法を行なわれるのに対して、歌をもって声援されたので、一種の賀歌であると解される。
 
3 やすみしし わが大王《おほきみ》の 朝《あした》には 取《と》り撫《な》でたまひ 夕《ゆふぺ》には いより立《た》たしし みとらしの 梓《あづさ》の弓《ゆみ》の なか弭《はず》の 音《おと》すなり 朝猟《あさかり》に 今《いま》立《た》たすらし 夕猟《ゆふかり》に 今《いま》立《た》たすらし みとらしの 梓《あづさ》の弓《ゆみ》の なか弭《はず》の 音《おと》すなり
    八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音爲奈利 朝※[獣偏+葛]尓 今立須良思 慕※[獣偏+葛]尓 今他田渚良之 御執能 梓弓之 奈加弭乃 音爲奈里
 
(29)【語釈】 ○やすみしし 「八隅知之」「安見知之」と二様の文字が用いられており、したがって語義も二様に解されている。『全註釈』の解によると、「八隅」は、わが国土全体の意で、「知之」は、「知」は、日並皇子(持統天皇の皇太子で、摂政)を、日並|斯《し》皇子尊と称し、また、日並|所知《しらす》皇子尊とも称しているので、「斯」に所知の意があり、「知」はその意のもの、「之」は時の助動詞だというのである。また、「安見知之」は、「安」は形容詞。「見」は、上一段活用の動詞で、それに敬語の助動詞「し」を添え、時の助詞「し」を接続させたものだといっている。いずれがあたっているかは定まっていない。いずれにしても天皇の徳を讃えた語で、大王の修飾としたものである。古く宮廷歌謡に用いられた語で、この集の時代には解釈がまちまちになったものだというのである。○わが大王 「わが」は親しんで添えた語。○取り撫で給ひ 「取り」は、手に取る意であるが、接頭語に近い意となったもの。「撫で」は、愛する意よりのこと。○いより立たしし 「いより」は、「い」は接頭語。「より」は寄りで、近寄る意。「立たしし」は、「立たし」は、「立つ」に、敬語の助動詞「す」を添えたもの。「し」は時の助動詞。近寄ってお立ちになられたで、愛してのこと。この二句は、上二句と対句になっている。○みとらしの 「み」は敬語の接頭語。「とらし」は、執るに敬語の助動詞「す」が添ったもので、名詞形となったもの。御料というにあたる。○梓の弓 「梓」は、白井光太郎氏が現在の「よぐそみねばり」または「はんざ」であろうとしている。古くは弓材として最も多く用いられた木。○なか弭 「弭」は、弓に弦を掛ける所の称で、弓の一部である。したがって上下にあり、本弭末弭と呼ばれている。弦を引いて放すと高い音を発し、戦陣にあっては敵を威嚇するに足るものであったことが、「弓弭の騒」(一九九)という句でも知られる。「なか弭」は不明の句とされ、諸説がある。長弭であるとし、「なか」が誤写で上下したので、「かな」すなわち金阿須であるとし、その他にもある。『講義』は文字どおり中弭だとしている。本弭と末弭の中間にある弭の意である。実戦に用いる弓としては不自然であるが、遊猟用の弓で、呪法として高い弦声を発しさせるためとすれば、ありうるものと想像される。弦声によって悪精霊を追う呪法は、平安時代には宮中の滝口の衛士の行なったことであり、源氏物語にもある。それらは古法を伝えたものであり、古くまで溯りうるものではないかと思われる。この場合は猟の幸《さち》を防げる悪精霊を追うために、特に高い弦声を発しる中弭を取り付けた弓ではなかったかと想像される。○音すなり 「なり」は強く指定する意の助動詞。○朝猟に今立たすらし 「立たす」は「立つ」に敬語の助動詞「す」を添えたもの。お出ましになる。「らし」は根拠のある推量をあらわす助動詞。根拠はなか弭の音。○夕猟に 上の二句と対句になっているが、繰り返しに近いもので、古風なものである。なお、眼前のことをいうに朝猟・夕猟といっているのは、一見、不自然に感じられるが、猟は本来朝か夕にするものである。それは獲物とすべき鳥獣が夕方、草木の陰に潜んで眠った時、朝、目をさまさない時にすることなので、朝猟・夕猟ということは、単に猟ということと同意語で、修辞にすぎないものなのである。
【釈】 天下を知ろしめすわが天皇の、朝には御愛撫になられ、夕にはお近寄りになられた、御料の梓弓の、なか弭の鳴る音がすることです。朝猟に今お出ましになるとみえます。夕猟に今お出ましになるとみえます。御料の梓弓の、なか弭の鳴る音がすることです。
【評】 天皇と御一緒に、宇智野に近いわたりの行宮《あんぐう》にいらせられた中皇命が、天皇の行宮をお出ましになり、今や御猟場に向かわれようとして、猟に先立って、猟の幸《さち》を祈るための呪法として、弓の中弭を鳴らされる音をお聞きになり、同じく猟の幸《さち》(30)を祈る御心をもって献《たてまつ》られた賀の歌と解される。この歌を献るにつき、その御使が間人連老であることを特にいってあるのは、この御歌は口頭をもって謡わしめたもので、その方法はこの当時はすでに古風な特殊なことに属していたので、謡ったところの御使の名をもいってあるものと解せられる。こうしたことを思わせるのは、この御歌がきわめて古風なものだからである。単純な内容を二段に分けて、その結末は、長い四句をそのままに繰り返しにし、さらに単なる繰り返しのために、事としてはやや不自然な「朝晩に、夕猟に」の二句を添えてあるなど、謡い物の特色を極度にもったものである。これはこの当時にあってはすでに古風なものであったことは、上の(二)の天皇御製歌と比較すると、きわめて明白である。この古風ということは、中皇命の女性でいらせられるということよりも、呪法としての中弭の音に、さらに呪力を加えしめるために、歌をもってその音を賀せられるという、同じく呪法としての御歌であるところから、当然のこととして古風にお詠みになったものと思われる。なおまた、中皇命がそうした意味の御歌をお詠みになったということは、こうした場合には、その場におられる最も尊貴なる女性のされるということが定まっていたものかとも思われる。これは他にも例のあることである。作者はいうまでもなく中皇命である。上半の御料の弓に対する愛は、中皇命でないといえないことである。一首としても力量ある御歌である。
 
     反歌
 
【釈】 反歌は、訓は、はんか。長歌の末に添えた短歌の称で、きわめて稀れに旋頭歌をもってしたものもある。古くはなかったもので、後より起こったものである。時代の明らかなのは、この時代あたりからのようである。本来は、長歌の結末の、多くは抒情性の高い部分を繰り返して謡ったのが、次第に独立の歌となってきたもので、自然発生的のものと思われる。それに漢詩文の影響もあったとみえる。それは荀子の反辞または小歌で、反辞は注に、「反辞(ハ)反覆叙説之辞(ナリ)、猶2楚詞(ノ)乱曰1」といい、小歌は、「(上略)※[手偏+總の旁]2論(スル)前意(ヲ)1也」とあるものである。反歌の古い物は、大体この注のごとく、長歌の意を反覆し、総論したとも取れるもので、上にいった結末の反覆と一致するのである。しかし反歌は、早くもその域を脱して、長歌の意を展開させ、別個の意をいうものとなり、双方を関係させることによって、全体に複雑な味わいをもたせるものとなってきた。ここにも、実用性の歌より文芸性のものへの進展が見える。このことは、早い時代からすでに行なわれてもいた。
 
4 たまきはる 内《うち》の大野《おほの》に 馬《うま》なめて 朝ふますらむ その草深野《くさふかの》
    玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
 
(31)【語釈】 ○たまきはる 「いのち」「代」「うち」などにかかる枕詞。意味は詳らかでない。○内の大野 上にいった宇智野。「大」は、称美して添えたもの。○馬なめて 「馬」は、天皇初め供奉の人の乗馬。「なめて」は並めて、並べ連ねてで、狩場における状態。○朝ふますらむ 「朝」は、「朝」に。「ふます」は「踏む」に敬語の助動詞「す」を添えたもの。「らむ」は現在推量の助動詞。天皇のお踏みになられる意。踏むは、「朝猟に鹿猪《しし》践《ぶ》み起し、暮猟《ゆふがり》に鶉雉《とり》履《ふ》み立て」(四七八)とあり、他にもこれに似たものが二か所ある。鳥獣を狩立てる意である。ここも猟の場合であるから、踏み立てさせられる意。○その草深野 「その」は、上を承けての繰り返しで、進展させての言いかえ、「草深野」は、草深き野で、「深」を語幹から名詞に続けて熟語としたもの。深は高い意で、草の高い野。大体猟は冬から春へかけてするのが普通であるが、この語によって、その薬猟であることをあらわしたもの。下に「を」の助詞を添えて解すべきである。
【釈】 宇智の大きな野に馬を並べて、朝、鳥獣を踏み立て起こして、いらせられるであろう。あの草の深い野よ。
【評】 長歌を進展させて、新境地を拓ききたった反歌で、早くも繰り返しの域を脱した新風の反歌である。初句より四句までは狩場の光景を想像したものであるが、あくまで具象的で、颯爽とした感がある。結句の「その草深野」は第二句の繰り返しであるが、常套を脱した、新意のあるもので、含蓄深く、響高い句である。この句によって、その遊猟が薬猟であることが明らかになり、「朝ふますらむ」が生きてきている。のみならず長歌のなか弭の呪が、いまや現われんとしていることを予想させるたのしさをもあらわしている。第二句の「内の大野に」が、この句によって一段と具象化され、一首が生動してくる。非凡な句というべきである。
 
     讃岐国《さぬきのくに》安益郡《あやのこほり》に幸《いでま》しし時、軍王《いくさのおほきみ》の山を見て作れる歌
 
【題意】 讃岐国安益郡は、和名抄、郡名の条に、「阿野 綾」とある地である。現在は鵜足《うたり》郡と併合して綾歌郡という。高松市の西、丸亀市の東にある地で、昔の国府の遺址がある。幸《いでま》ししは舒明天皇であるが、天皇がこの地に行幸されたことは日本書紀には載っていない。天皇はその十一年、伊予の温湯の宮に行幸されているので、その帰途この地にお立寄りになったのではないかという。軍王は、他に所見がなく、伝不明である。
 
5 霞《かすみ》立《た》つ 長《なが》き春日《はるひ》の 晩《く》れにける わづきも知らず むら肝《ぎも》の 心《こころ》を痛《いた》み ぬえこ鳥《とり》 うら歎《な》きをれば 玉《たま》だすき かけのよろしく 遠《とほ》つ神《かみ》 吾《わ》が大君《おほきみ》の 行幸《いでまし》の 山《やま》越《こ》す風《かぜ》の 独《》居《ひとりを》る 吾《わ》が衣手《ころもで》に 朝夕《あさよひ》に かへらひぬれば ますら男《を》と 思《おも》へる我《われ》も 草枕《くさまくら》 旅《たび》にし(32)あれば 思《おも》ひやる たづきを知《し》らに 網《あみ》の浦《うら》の あま処女《をとめ》らが 焼《や》く塩《しほ》の 思《おも》ひぞ焼《や》くる 我《わ》が下ごころ
    霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨居 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能涌之 海處女等之 焼塩乃 念曾所焼 吾下情
 
【語釈】 ○霞立つ 春の枕詞。光景を捉えての修飾の枕詞となったもの。○わづきも知らず 「わづき」は、ここにあるのみで、他にはない語。この当時口語としては用いられていたが、文語とはならなかったものと思われる。嘆きにとらわれて、見さかいもつかなかった意の語だろうと旅の続きから推量される。かりに見さかいとみなす。未詳の語。○むら肝の 心の枕詞。「むら」は群らで、群らがっている肝、いわゆる五臓六腑の中に心がある意での枕詞。○心を痛み 心が嘆きのために痛くして。○ぬえこ鳥 「こ」は愛称。ぬえ鳥は現在の虎つぐみ。夜、哀切な声を出して鳴く。比喩として「泣き」にかかる枕詞。「歎」を「なき」と訓むのは、他に用例がある。○玉だすき 「玉」は美称。「たすき」は襷。古くは一種の礼装として肩に掛けた。掛詞として「かけ」にかかる枕詞。○かけのよろしく 「かけ」は心に掛け、言葉に掛ける意の語で、用例の多い語。「よろしく」は、好ましくで、口にするのも好ましく。これは下の「朝夕にかへらひぬれば」に続いて、副詞句となっている。「かへらひ」は、「翻《かえ》らひ」であるが、「還らひ」すなわち自身の家のある大和へ還ることにつながりをもっているからである。○遠つ神吾が大君の 「遠つ神」は、「つ」は「の」の意の助詞。この句は従来、天皇は凡人の境よりは遠い神の意で、大君を讃える枕詞と解されていた。『全註釈』はそれを誤りとして、違い日に神となられた天皇の意であると正し、用例として、「住吉《すみのえ》の野木の松原遠つ神わが大君の行幸《いでまし》処」(巻三、二九五)を引いている。したがって題詞の「幸讃岐国安益郡之時」は、この「遠つ神」を誤解した上で、歌によって設けたものではないかと疑っている。新見で、従うべきものである。「吾が大君の」は、「吾が」は親しんで添えた語で、「大君」は何天皇であるか不明である。舒明天皇も推測しての天皇であるが、かりにあたっているとしても、その行幸のあった時よりも、かなり後になって詠んだ歌ということになる。○行幸の山越す風の 行幸処の遺址の山を越して吹いてくる風ので、行在所址《あんざいしよあと》よりは距離のある地点にいたのである。○独居る吾が衣手に 「独居る」は、事実であるとともに、さびしさを暗示した語。「ころもで」は、衣の意にも用いるが、ここは袖。当時の窄袖は、長めの物で、風に翻りやすかつたのである。○朝夕にかへらひぬれば 「朝夕」は、朝に対しては夕を「よひ」と呼んだ。風の吹きやすい時刻としてである。「かへらひ」は、ひるがえるを古くは「かへる」といった。その「かへる」の未然形に、継続進行をあらわす助動詞を添えたもので、翻りつづける意。翻《かえ》りは還りに通じるので、上の「かけのよろしく」、家に還ることを連想させられて、旅愁が一段とつのるのである。○ますら男と思へる我も 勇気あり思慮ある男子と思っている我もで、用例の多い語。○草枕旅にしあれば 「草枕」は、旅の枕詞。草を枕とすることで、上代の旅の実状を捉えたもの。「旅にし」の「し」は強意の助詞。○思ひやるたづきを知らに 「思ひやる」は、嘆きを晴らすで、一語。「たづきを知らに」は、手段が知られずに。○網の浦の 所在不明。○(33)あま処女らが 「あま」は、海に関しての事を職業とする男女の称。「処女ら」は若い女の称で、既婚者にもいう。愛称といえる。○焼く塩の 「焼く塩」は、海水を濺《そそ》いだ藻草を焼いて塩を製すことを簡略にいったもので、焼いて造る塩。「の」は、のごとく。三句序詞で、下の「焼く」に同語の繰り返しで続く。○思ひぞ焼くる 嘆きに焼けることであるよで、「ぞ」は係、連体形で結んでいる。○我が下ごころ 網の浦の以下で、完全な短歌形式になっている。
【釈】 長い春の日の暮れていった、そのけじめも知られず、嘆きに心が痛く、ぬえ鳥のように心中で泣いていると、口にするのも好ましく、遠き時に神となられたわが大君の、行幸《いでまし》どころであった山を越して来る風が、独りでいるわが衣の袖に、翻《かえ》りつづけるので、その還るのに刺激されて、ますら男《お》であると思っている我も、旅にいるので、嘆きをまぎらす手段を知らないで、網の浦の海人《あま》の若い女が、焼く藻塩のように、嘆きに焼けることであるよ、わが心の底は。
【評】 『全註釈』の「遠つ神」の新解によって、この歌の舒明天皇時代のものでないことが、初めて明らかになった。いつの時代のものかはわからないが、大体奈良朝時代に入ってのものと思われる。誤りの原因は、編集者が「遠つ神」を正解し得なかったことにある。題詞は歌によって設けたものということになるが、「讃岐国安益郡」はよるところのあったもので、「幸《いでま》しし時」だけが設けたものと思われる。また、軍王という人を作者とすると、その人は一微臣で、何らかの官命を帯びて、国庁のあった安益郡に単身で赴いた人で、公務の性質上、やや長い期間の滞在を余義なくされたものとみえる。一首の作意は、単なる旅愁で、大和の家にいる妻恋しい情を、ひたすらに詠歎しているものである。作風は、相応に長いものであるにかかわらず、一首一文である。枕詞も相応に多い。この作風は特殊なもので、集中に類をもとめると柿本人麿の作風に近いものである。たぶん人麿の作風を模したものであろう。独自の工夫よりのものとは思われない。力量ある人とは思われないからである。
 力量をいうのは、一首が平面的で、伴っていいはずの立体感が全くなく、平板で単調である。詠歎ではあるが、それとしても説明的で、冗長である。一首の頂点は、「玉だすきかけのよろしく」以下、「朝夕にかへらひぬれば」までであるが、「遠つ神吾が大君の行幸の山越す風の」は、行幸の供奉としてであればものをいうところもあるが、行在所の遺址のある山よりの風であっては、調子に乗り過ぎてのものとなり、適切性がなく、むしろ冗漫である。「かけのよろしく」のかかり具合も繊細に過ぎる。結末の「網の浦の」以下五句の完全に短歌形式になっているのも、柿本人麿の「従2石見国1別v妻上来時歌」(巻二、一三一)の手法と同一で、これも他に類例のないものである。摸したものと思える。
 一首、全体に派手で、言葉が浮いていて、食い入る力をもっていないもので、ここにこの歌のあるのを怪しませたものであるが、『全註釈』によってその怪しみが解かれるに至った。
 
(34)     反歌
 
6 山越《やまご》しの 風《かぜ》を時《とき》じみ 寝《ぬ》る夜《よ》おちず 家《いへ》なる妹《いも》を 懸《か》けてしのひつ
    山越乃 風乎時自見 寐夜不落 家在妹乎 懸而小竹※[木+貴]
 
【語釈】 ○風を時じみ 「時じみ」は、形容詞の語幹「時じ」に、「み」を添えて連用形としたもの。上の「心を痛み」と同じ。「時じ」は、集中「非時」「不時」の字をあてている。意は、その時でない意。一句の意は、風が春の時のものではない意で、すなわち春の風のようではなく寒い意でいったもの。この意は、下の続きで明らかである。○寝る夜おちず 「おちず」は、漏れずで、すなわち連夜の意。○家なる妹を懸けてしのひつ 「家なる」は、家にある。「懸けて」は、心に懸けて。「しのひ」は、思い慕う意。「ひ」は古くは清音であった。「つ」は、完了の助動詞。
【釈】 山越しに吹いて来る風が、その時のものではなく、すなわち季節はずれに寒いので、独り寝をする夜の漏れる夜もなく、肌寒さから、家にいる妻を心に懸けて思い慕った。
【評】 長歌は夕べの心であるが、反歌は時間的に展開をさせて夜の心とし、いっそう妻を思い慕う心の強さをいっている。一首の心は概括した言い方のものであるが、時間の経過を追っているので、ある日の夕暮につづく夜という、限られた感じを持ったものとも見うるところがある。これは余情とも称しうべきもので、技巧的なものである。
 
     右、日本書紀を検ふるに、讃岐国に幸《いでま》しし事なし。また、軍王いまだ詳ならず。但し、山上憶良|大夫《まへつぎみ》の顆聚歌林に曰はく、記に曰はく、天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔にして壬午の日、伊予の温湯《ゆ》の宮に幸《いでま》しき云々。一書に、この時に宮の前に二つの樹木あり、この二つの樹に斑鳩《いかるが》、比米《ひめ》、二つの鳥|大《いた》く集れり。時に勅して多く稲穂を懸けて之を養ひたまふ。すなはち作れる歌云々。けだし疑はくはこの便《たより》より幸《いでま》ししか。
      右、検2日本書紀1無v幸2於讃岐國1。亦軍三未v詳也。但、山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸2于伊豫温湯宮1云々。一書、是時宮前在2二樹木1。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂2稻穗1而養v之。仍作歌云々。若疑從2此便1幸之歟。
 
【釈】 これは、この歌に対しての注で、この歌の成立について、編集者の添えたものである。大体、この巻を編纂、分類した際に加えたものと思われる。左注と称せられている。
 第一節は、撰者が日本書紀によりて、この行幸の事を検して、行幸も、軍王の事もないことを確かめたのである。「但し」以下は、撰者がさらに、同じくこの歌の収められている類聚歌林によって検し、その注を引いたのである。「山上憶良」は、本集の代表的歌人の一人である。また「大夫」と呼んでいるのは、大夫は当時四位五位の者に対する称であって、憶良がそれに値したのは、和銅七年以後であったから、この注の記された時も、それ以後ということがわかる。類聚歌林は、憶良の編集したもので、それが平安朝末期まで存在していたことはわかるが、それ以後はわからない。名によって、和歌を分類して編纂したもので、本集に似たものということだけは察しられる。以下はすべて類聚歌林の注である。「記」とあるは日本書紀の己巳の朔にして、壬午は、十二月の朔日が己巳で、それから数えて、壬午は十四日。「伊予の温湯《ゆ》の宮」は、今日の道後温泉である。「一書」は、いかなる書であるかわからない。「斑鳩」は、今日「いかるが」とも「まめまはし」とも呼んでいる。「比米」は、今日も同じ名で呼んでいる。結末は、あるいはこの温湯《ゆ》の宮の行幸のついでをもって行幸になったかもしれぬというのである。
 
 明日香川原宮御宇《あすかのかはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代   天豊財重日足姫天皇《あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと》
 
【標目】 明日香川原宮は、現在の奈良県高市郡明日吉村飛鳥川のあたりにあり、皇極天皇の宮である。天豊財重日足姫天皇は、後の御名は皇極天皇と申し、舒明天皇の皇后にましまし、天皇の後を受けて御即位、四年にして同母弟孝徳天皇に御譲位、天皇御在位五年にして崩御の後、重祚があって斉明天皇と申し上げる。川原宮にましましたのは斉明天皇の御代であるが、編集者はこの御代をも籠めたとみえるといわれている。
 
     額田王《ぬかだのおほきみ》の歌 未だ詳ならず
 
【題意】 額田王は、日本書紀、天武巻に「天皇初娶2鏡王女額田姫王1生2十市皇女1」とある方で、鏡王は、宣化天皇四世の孫。額田王はその娘で、後、天智天皇の大津の宮に召され、壬申の乱後は大和に帰り、持統天皇の朝まで生存されたことが知られる。万葉集初期の代表的歌人である。未詳は、いまだあきらかならずと訓む。作者についての注で、この注は左注と関係のあるものである。
 
(36)7 秋《あき》の野《の》の み草《くさ》苅《か》り葺《ふ》き やどれりし 宇治《うぢ》のみやこの かりいほし思《おも》ほゆ
    金野乃 美草苅茸 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
 
【語釈》 ○秋の野の 秋に「金」の字を用いているのは、中国の五行説によったもので、集中に用例が少なくない。五行というのは宇宙間の万象を、木火土金水の五行に配して説明する方法で、四季は、春は木、夏は火、土用は土、秋は金、冬は水とするのである。○み葺苅り葺き 「み草」は、「み」は美称の接頭語で、ここは薄《すすき》をさしている。屋根を葺く材料に使う大切な草だったからである。木の中、杉、檜を「ま木」と称するのも同じ意味からである。「苅り葺き」は、刈り取って屋根を葺いて。○やどれりし 動詞「宿る」に、助動詞「り」の連用形「り」が接続し、それに助動詞「き」の連体形「し」が接続して、過去に宿ったことをあらわした語。○宇治のみやこの 「宇治」は、大和と近江をつなぐ街道にある地区。「みやこ」は、天皇の宮のある地の称で、たとい一夜でも行宮《あんぐう》のある所は、どこでも「みやこ」と呼んだ。これもその意味のもの。○かりいほし思ほゆ 仮廬で、かりそめに設けた小屋。廬がすでに小屋であるのに、かりそめの意の「仮」を冠して、その感を強めたもの。上代の旅行は、旅宿などはないので、行くさきざきで小屋がけをして宿るのが常で、ここもそれである。「し」は、強意の助詞。「思ほゆ」は、「思はる」で、受身の助動詞「る」「らる」は、上代は「ゆ」が多く、「思はゆ」が、「お」段の「お」、「も」の重なりを受けて「は」が「ほ」に転じた形である。この句は九音であるが、その中に単独母音節の「い、お」があるために、音調が自然なものになっている。
【釈】 秋の野の、尾花を苅って屋根を葺いて宿った、あの宇治のみやこのかりそめの小屋が思われる。
【評】 追憶の作であるが、印象がじつに鮮明である。それは上三句が、なつかしむ感情をとおしての細かい描写になっているためと、四、五句も、宇治のみやこという荘重な語と、九音の結句とによって、広々とした秋の野に対して、小さい仮廬を確保している気分が現われているためとである。声調ものびやかにして張っており、一首の気分を統一している。気品あるすぐれた歌である。
 
     右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに、曰はく。一書に戊申の年、比良《ひら》宮に幸《いでま》しし大御歌《おほみうた》といへり。但し、紀に曰はく、五年春正月己卯の朔にして辛巳の日、天皇、紀の温湯《ゆ》より至りたまひき。三月戊寅の朝、天皇吉野宮に幸して肆宴《とよのあかり》きこしめしき。庚辰の日、天皇、近江の平《ひら》の浦に幸すといへり。
      右、檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、一書戊申年幸2比良宮1大御歌。但、紀曰、五年春正月己(37)卯朔、辛巳、天皇、至v自2紀温湯1。三月戊寅朔、天皇幸2吉野宮1而肆宴焉。庚辰之日、天皇幸2近江之平浦1。
 
【釈】 類聚歌林の文は、「大御歌といへり」までである。その中の「一書」というは、何の書か不明である。戊申の年は、崇峻天皇の元年、孝徳天皇の大化四年、元明天皇の和銅四年である。額田王に関係しうる年は大化四年である。「比良宮」は近江の比良であろうが、行幸のことは他にはない。あったとすれば、「大御歌」は孝徳天皇の御製であるが、そうした歌ではない。「但し」以下は、編集者の注で、類聚歌林の参考のものである。「紀に曰はく」は、日本書紀の文の検出で、「五年」は斉明天皇の五年であり、以下、この歌に関係ありそうなものはない。
 
  後岡本宮御宇《のちのをかもとのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代    天豊財重日足姫《あめとよたからいかしひたらしひめ》天皇、位《みくらゐ》の後、後の岡本宮に即位したまふ
 
【標目】 後の岡本宮は、斉明天皇の皇居である。岡本宮は舒明天皇の皇居であったが、天皇の八年火災に罹り、他に御遷りになられたが、斉明天皇は古を慕わせられ、再びそこに宮を御造営になられたので、前と差別するために後の岡本官と呼んだのである。「位の後云々」は、原文は「位後即位後岡本宮」とあるが、これでは意を成さない。『美夫君志』は、初めの「位」の上に「譲」を脱したものだろうと考証している。事としては、そうである。
 
     額田王の歌
 
【題意】 額田王の歌。額田王も供奉の中に加わっていて詠んだのである。しかしこのことは、左注によって否定されている。
 
8 熟田津《にぎたづ》に 船乗《ふなの》りせむと 月《つき》待《ま》てば 潮《しほ》もかなひぬ 今《いま》はこぎ出《い》でな
    ※[就/火]田津尓 船乘世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
 
【語釈】 ○熟田津に 愛媛県の現在の松山市の中にあった港であるが、現在では地形が変わって港もなく、その名も残っていない。日本書紀の斉明紀に、「七年正月、庚戌、御船泊2于伊予熟田津|石湯《いはゆ》行宮1」とある時のことで、石湯は現在の道後温泉であろうから、当時はその辺まで海が湾入していたのである。「に」は、ここは「にて」の意の助詞。○船乗りせむと 「船乗り」は、乗船で、発航する意。この行幸は、当時、新羅が百(38)済を犯してきたので、朝廷は新羅討伐軍を派遣し、天皇の宮を筑前国朝倉郡朝倉宮に遷された際の行幸である。○月待てば 海潮は月と密接な関係をもっていて、月の状態によって潮ぐあいが知られるのである。『注釈』は、専門家の説をあげて、この際の月と湖の状態を立証している。大体をいうと、月の出と満潮とは伴うものであるが、瀬戸内海は事実として月より後れる。この船出は二十二、三日の午前二、三時頃で、月は下弦の月で、夜明けに間のある頃であったろう。潮も高潮を待ったのだろう、とのことである。すなわち月のそうした状態になるのを待っていれば。○潮もかなひぬ 月とともに潮もまた。「かなひぬ」は、船出に相応した状態となった。○今はこぎ出でな 「な」は、自身に対しての願望をあらわす助詞。
【釈】 熱田津で船出をしようとして、月を待っていると、潮もまた、相応してきた。今は漕ぎ出そうよ。
【評】 その場合の重大さにふさわしく、気魄のみなぎった、それに伴って調べの張った歌である。「熟田津に船乗りせむと月待てば」と、三句まで一気に、強く太く、事と心とを一つにして言いつづけ、四句「潮もかなひぬ」と、目に見る月の状態を躍り越えて、中核の潮の高まったことによってそれをあらわし、同時にその潮は船出に相応するものであることをいいきって結び、「今はこぎいでな」と、「船乗りせむと」と照応させて、我と我に確かめているところ、まことに磐石のようである。左注によると天皇の御製という伝もあって、伝は二様になっているが、重大な軍事の全責任を一身に負っているという気宇を感じさせるところ、供奉の額田王の作ではなく、まさに天皇の御製歌だと思われる。三句より四句への飛躍は、絶妙というべきである。
 
     右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに、曰はく、飛鳥岡本宮に天《あめ》の下知《したし》らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉十二月己巳の朝にして壬午の日、天皇、大后《おほきさき》、伊予の湯の宮に幸《いでま》したまひき。後岡本宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉の春正月丁酉の朔にして壬寅の日、御船西に征《ゆ》き、始めて海路に就く。庚戌、御船、伊予の熟田津の石湯《いはゆ》の行宮《かりみや》に泊《は》つ。天皇、昔日《むかし》よりなほ存《のこ》れる物を御覧《みそなは》して、当時《そのかみ》忽ちに感愛の情を起したまふ。このゆゑに歌詠を製《つく》りて哀傷したまふといへり。即ち此の歌は天皇の御製なり。但し、額田王の歌は別に四首あり。
      右、検2山上憶良大夫類聚歌林1曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸2于伊豫湯宮1。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征、始就2于海路1。庚戌、御船、泊2于伊豫※[就/火]田津石湯行宮1。天皇、御2覽昔日猶存之物1、当時忽起2感愛之情1。所以因製2歌詠1爲2之哀傷1也。即此歌者天皇御製焉。但、額田王歌者別有2四首1。
 
(39)【釈】 右は類聚歌林を引いて、この歌に対する異説のあることをいったものである。「飛鳥岡本宮」以下、「伊予の湯の宮に幸《いでま》したまひき」までは、先帝舒明天皇の御代のことで、「大后」とあるは、今の斉明天皇である。日本書紀では、この行幸は「十二年」となっていて、干支はその方が合うのである。「後岡本宮」以下、「石湯《いはゆ》の行宮《かりみや》に泊《は》つ」までは、書紀と同じ。以下、「哀傷したまふ」までが類聚歌林の注である。「即ち」以下は左注者の案で、右によりてこの歌は御製の歌で、額田王の歌は別に四首あるというが、この歌には類聚歌林のいう感愛の心は認められない。そうした歌があって佚脱したと見るほかはない。額田王の四首の歌というのは、この際のものと取れるが、それは伝わっていない。
 
     紀の温泉に幸《いでま》しし時、額田王の作れる歌
 
【題意】 斉明天皇の紀伊の国の温泉へ行幸になられた時、供奉した額田王の作った歌。
 
9 莫囂円隣之 大相七兄爪湯気 吾《わ》が背子《せこ》が 射立為兼《いたたせりけむ》 五可新《いつかし》が本《もと》
    莫囂圓隣之 大相七見爪湯氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本
 
【語釈】 ○初二句は、古来訓み難くしている。多くの試訓があるが、定訓となっていない。◇三句は、問題でない。○四句は、粂川定一氏の訓である。○五句は、『代匠記』の訓である。
 
     中皇命《なかつすめらみこと》、紀の温泉《ゆ》に往《い》でましし時の御歌
 
【題意】 中皇命は、上の(三)に出た。皇后にして即位をされた方の称。斉明天皇は(三)の場合と同じく、その称せられるべき方であるが、この時代には天智天皇の皇后倭姫命もあった。皇后は古人大兄《ふるひとおおえ》の皇子の御娘で、天皇の七年皇后となり、天皇の崩じられた後、政務を摂《と》られたのであろうとされている。『注釈』は、この時代の例を見ると、後の位置を溯らせていう例は見えないから、(三)の場合と同じく斉明天皇であろうという。倭姫命の御歌は巻二に出ているが、いずれも重厚の感のある歌風で、ここにある御歌の軽快なのとは距離あるものにみえる。斉明天皇との解に従う。紀の温泉は牟婁《むろ》の湯である。
 
10 君《きみ》が歯《よ》も 吾《わ》が代《よ》も知《し》るや 磐代《いはしろ》の 岡《をか》の草根《くさね》を いざ結《むす》びてな
(40)    君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去來結手名
 
【語釈】 ○君が歯も 「君」は、男性に対しての敬称。「歯」は、齢で、寿命。○吾が代も知るや 「代」は生涯で、齢と同義である。「知るや」は、「知る」は、支配する意で、用例の多い語。「や」は詠歎の助詞で、連体形へ接続する。○磐代の 和歌山県日高郡にある地名。神を祀ってあった所。有間の皇子の松の枝を結んだので、名高くなった所である。○岡の草根を 「草根」は、草で「根」は地に立っている意で添える接尾語。○いざ結びてな 「いざ」は、人を誘う語。「結び」は、古くは、重大なる呪術となっていた。事としては、草、木の枝、紐などを結ぶのであるが、一切の祈りを籠める心よりのことであった。「な」は、自身の言行に対しての願望をあらわす助詞。前出。
【釈】 君が寿命も、わが生涯も支配しているところの、この磐代の岡の草を、さあ祝って結びましょうよ。
【評】 君は御夫君舒明天皇ではないかという。磐代の岡は牟婁の湯への途中にある岡であって、次の歌で見ると、一夜をそこに宿られたのである。事は草の葉を結んで祈りをするという一般的のことであるが、場合は旅中であり、場所は磐代の岡であるから、それらと相俟って、「君が歯も吾が代も知る」という大きく深い心のものとなったと思われる。これは信心深いお心があればこそ出ることで、命のお人柄を思わせられる御歌である。一首全体としては明るい、こまやかな情味が感じられる。
 
11 吾《わ》が背子《せこ》は 借廬《かりほ》作《つく》らす 草《くさ》なくば 小松《こまつ》が下《した》の 草《くさ》を苅《か》らさね
    吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
 
【語釈】 ○吾が背子は 「背」は、女より男を呼ぶ称であるが、男同士が親しんで呼ぶ時の称ともなっている。「吾」も「子」も、親しんで添える語。呼びかけての称で、上の歌の「君」である。○借廬作らす草なくば 「借廬」は、(七)に出た。仮の廬て、上代の旅行にあつては、やや身分の高い人は、夜の寝所として作ることになっていた。「作らす」は、「作る」の未然形に助動詞「す」を接しさせての敬語。連体形。「草」は屋根を葺く料としての草で薄と思われる。「なくば」は、ないならばで、それを捜していられるところを見ての注意ということを暗示している語。○小松が下の草を苅らさね 「小松」の「小」は、美称。他にも例がある。小さい意としては、意が通じかねる。「草」は、上と同じ。「苅らさね」は、「刈る」の敬語「刈らす」の未然形に、他に対しての希望の助詞「ね」の添ったもの。
【釈】 わが背子は、仮廬をお作りになる草がないならば、あの松の下の草をお刈りなさいましよ。
【評】 一つの用向きの言葉を、歌をもっていわれたものである。上代の風習として、改まってものをいう場合には、歌の形式をもってすることが普通となっていた。それが、次第に範囲が広がって、改まる必要のない日常の言葉も、歌の形式をもっ(41)てするようになってきたと思われる。すなわち日常生活の中に、芸術味を取り入れようとする要求の現われである。この御歌もその範囲のものである。「吾が背子は」と、呼びかけに近い形をもっていい出し、「借廬作らす草なくば」と、やや疑いを持った形で、目に認めることをいい、「小松が下の草《くさ》を苅らさね」と、初めて思うことをいわれているところ、実際に即して、心理的で、加うるにおおらかに品位をもちつつも、心の明敏さをあらわした御歌である。「背子」と呼ばれる御方が、親しくその労作に関係されること、女君も同じく関心をもたせられる点など、上代の風の思われるものがある。
 
12 吾《わ》が欲《ほ》りし 野島《のじま》は見《み》せつ 底深《そこふか》き 阿胡根《あこね》の浦《うら》の 珠《たま》ぞ拾《ひり》はぬ
    吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曾不拾
 
【語釈】 ○吾が欲りし野島は見せつ 「欲りし」は、欲したで、願っていたの意。「野島」、「阿胡根の浦」について、本居宣長は考証している。紀伊国日高郡塩屋の浦の南に、野島という里があり、その近くの海を阿胡根の浦と呼んでいるというのである。現在の、和歌山県御坊市名田町野島。野島は熊野街道にあたっている。「見せつ」は、見しめつで、「見せ」は、他動詞、下二段活用。○底深き阿胡根の浦の 「底深き」は、海の状態をいったもので、下の「珠」に関係している。○珠ぞ拾はぬ 「珠」は、真珠貝で、鮑玉であるが、美しい小石や貝をも称した。珠は上代では、呪力ある物として男女ともに身に着けたが、次第に、女の装身具となったものである。ここはその意味のものと取れる。「拾はぬ」は、上代はすべて「拾《ひり》ふ」といい、「拾《ひろ》ふ」は東歌にあるのみである。野島のあたりの海は、貝の多く寄る所だと、本居宣長が考証している。これも実際に即してのお心である。
【釈】 わが見たいと思っていた野島は見せて下さった。水底《みなそこ》の深い阿胡根の浦の珠の方は、拾わないことですよ。
【評】 野島から阿胡根の浦と、かねて心を寄せられていた地を遊覧された後、その感じられた興趣のなお尽きないものを胸にもってのお歌である。二つの地を一つづきのものとし、道行き風にそれぞれの地に対しての興趣をいわれたもので、野島に対しては、「吾が欲りし」と「見せつ」とで、興趣の満たされたことをいい、阿胡根の浦の方は、「底深き」でその浦の興趣を漂わし、「珠ぞ拾はぬ」で、あこがれの情の、なお残るもののあることをあらわしている。「底深き」「拾はぬ」とは関係があるが、いずれも興趣の上でのことで、因果関係をもったものではない。事としては比較的複雑であるが、安らかに、立体感をもったものとなっているのは、抒情気分で貫いているがためである。珠に興味の中心をおいていられるところ、女性のお心である。
 
(42)     或は頭に云ふ、わが欲りし子島は見しを
      或頭云、吾欲子嶋羽見遠
 
【釈】 「頭」は、頭句の意で、初二句を意味していると取れる。「子島」は、いかなる土地かわからない。
 
     右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに曰はく、天皇御製の歌云々。
      右、検2山上憶良大夫類聚歌林1曰、天皇御製歌云々。
 
【評】 類聚歌林は、この歌を斉明天皇の御製の歌としているというのである。右というのは三首全部か、最後の一首だけを指すのか。異伝にもせよ、前二首は天皇の御製の歌としては、事としてふさわしくない感がある。不明であるが、歌材、歌風から見て全部と解せる。「中皇命」としたのは、資料とした本によったためと思われる。
 
     中大兄《なかつおほえ》【近江宮御宇天皇】三山の歌一首
 
【題意】 三山は、大和の平野に鼎立している香具山、畝傍山、耳梨山の称で、最高の畝傍山でさえ一九九メートルの低いものであるが、その周囲と三山の状態などの関係から印象的に見える山である。香具山は前に出た。これは東にあたる。畝傍山は、橿原市畝傍町にあり、西にあたる。耳梨山は、橿原市北部にあり、北にあたる。この三山の伝説は、播磨国風土記に出ている。中大兄は、天智天皇の皇子としての御称で、舒明天皇の第一皇子。「中《なかつ》」は中心の意。大兄は敬称である。近江宮は、天皇は近江の国滋賀の大津に都されたからの称。この歌の歌材となっている古伝説は、播磨国風土記の揖保郡の条に載っている。それは「出雲国|阿菩《あぼ》大神、聞2大倭国畝火香山耳梨三山相闘1此欲2諌止1上来之時、到2於此処1、乃聞2闘止1、覆2其所v乗之船1而坐之。故号2神阜1阜形似v覆《ふね》1。」というのである。主としているところは、例の多い、地名の起源伝説で、三山の闘は背後のものである。三山の妻争いについて『全註釈』は、耳梨、畝傍は、古代の城塞であったとみえ、現在でも石鏃が多く発見される。妻争いはそれに脈を引いているのであろうと興味ある解をしていられる。
 
13 香具山《かぐやま》は 畝火《うねび》を愛《を》しと 耳梨《みみなし》と 相争《あひあらそ》ひき 神代《かみよ》より かくなるらし 古《いにしへ》も しかなれこそ うつせみも 妻《つま》を 争《あらそ》ふらしき
(43)    高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代從 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曾 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
 
【語釈】 ○畝火を愛しと 「畝火」は、三山中最も男性的に見える山であるところから、「雄男志」を男々しの意に解いていたのを、木下|幸文《たかぶみ》と大神真潮《おおみわましお》とが「愛《を》し」と改めた。「愛し」は、愛すべき意の形容詞。畝火を女神とし、香具山と耳梨山とを男神としたのである。その解に従う。上代は、国土、山海川などの自然物を、神そのものとする信仰があった。本集でも、山では富士が根、筑波山などその適例であり、国では、四国の国々などがそれである。このことは現在でも、山の名にそれをとどめているものが少なくない。○耳梨と相争ひき 「相争ふ」は、妻に獲ようとして、争い合つたの意。○神代よりかくなるらし 「かくなる」の訓は、『略解』のもの。「かく」は、伝説を眼前のものと見てのもの。「らし」は、証拠をもっての推量で、その証拠は、伝統そのものである。神代からこのようにあるだろうの意。○古もしかなれこそ 「古」は、「神代」の繰り返し。「しかなれ」は、下に条件法で「ば」が添っていると同様な心をあらわす古格で、例が少なくない。古もそのようであったればこそ。○うつせみも妻を争ふらしき 「うつせみ」は、現し身で、現世に生きている人の意。幽世《かくりよ》にあると信じていた幽身《かくりみ》に対させたもの。「も」は、もまたの意のもの。今、世に生きている者もまたというにあたる。「妻を」は、三音一句のもの。「争ふらしき」の「らしき」は、上の「こそ」の係の結び、連体形。意は、上の「らし」と同じで、眼前に、妻争いをしているのを証としての助動詞。「らしき」の形は、早く亡びてしまった。
【釈】 男神の香具山は、女神の畝火山がかわゆいと思って、男神の耳梨山と、互いに争った。神代でもこのようであるらしい。昔もそのようであったればこそ、今現に生きてる身も眼前に妻を争うらしいことよ。
【評】 この歌を読むと、おのずから中大兄の皇子と、大海人の皇子とが、額田王を中にしての妻争いの事件が連想されてくる。その事件は前にも触れたように、額田王は初め大海人の皇子に召されて十市《とおち》の皇女を生んだのであるが、後、中大兄の皇子に召されてその妃となったのである。事の委曲は不明であるが、額田王は心ひそかに大海人の皇子を思っていたらしい消息が、後に出る歌によってうかがわれる。この作は、反歌によって播(44)磨の地において作られたもののように見えるが、それは皇子が、斉明天皇の筑紫に向かわれる行幸の供奉としての旅であって、額田王も同じく供奉に加わっていたのである。皇子は播磨に来られると、その国に伝わっている大和三山の妻争い古伝説を思われ、それが刺激となって、平常念頭にある御自身の妻争いのことを強く思い出し、尊むべき神代にしてなお妻争いをしている。人の世の自分がそれと同じ事をしたのは当然のことであると、御自身の行動を是認し、肯定しようとするのが作意であったと思われる。一首の中心が、結句の「うつせみも妻を争ふらしき」にあるのを見ても、そのことは明らかである。すなわち皇子の抒情歌で、古伝説はそれを具象化する手段にすぎない歌である。
 表現は特色がある。全体として、素朴で、雄勁《ゆうけい》で、したがって簡潔で、太い線を直線的につづけて、その中心である結句に向かって、一気に詠み下したものである。「神代よりかくなるらし古もしかなれこそ」と、その重大な部分を操り返しを対句に近い形として用いられているところ、古風に新味を加えたもので、その時代を思わせるものである。まさに王者の気息というべき作である。
 
     反歌
 
14 香具山《かぐやま》と 耳梨山《みみなしやま》と 会《あ》ひし時 立《ときた》ちて見《み》に来《こ》し 印南国原《いなみくにはら》
    高山与 耳梨山与 相之時 立見尓來之 伊奈美國波良
 
【語釈】 会ひし時 「あふ」は、敵対する意。戦いも、たたきあいで、類似の語。日本書紀の神功巻の歌に、「うま人は、うま人どちや、いと子はも、いと子どち、いざ合はな吾は」とある「合はな」は、戦いの意で、ここの用法にあたる。○立ちて見に来し 「立ちて」は、旅立ちしてで、出雲より。「見に来し」の「し」は連体形。諌止しようとして来た意で、主格は、阿菩《あぼ》大神である。○印南国原 「印南」は、高砂市、加古川市から明石市にかけての平野。「国原」は、(二)の歌に出た。一区画の地の称。この歌では、阿菩大神の古跡は、印南郡となっていて、風土記とは一致しない。この伝説は揖保郡だけのものではなく、印南郡にもあったものだろうという。ありうべきことである。また、風土記では、阿菩大神は神阜《かむおか》にとどまられたので、上代の信仰により、神阜はすなわち阿菩大神なのであり、この御歌では、国原なのである。句の下に感歎が省かれている。
【釈】 香具山と耳梨山とが戦った時に、出雲より旅立ちをして、見て諌止しようとして来たところのこの印南国原よ。
【評】 この反歌は、長歌との関係からいうと、長歌の作因であるところの神代の妻争いということを具体的に立証しているものである。すなわち長歌を支えているもので、その際の皇子の主観を強力に立体的にする役を負っているものである。またこの時代には反歌がなくて、あっても長歌の結末の繰り返しに終わったのであるが、この反歌は、長歌とは別の観点に立っての取材で、したがって変化のあるもので、その意味では、後の柿本人麿によって開拓された手法のその先蹤をなしている趣のあるものである。
 
15 わたつみの 豊旗雲《とよはたぐも》に 入日《いりひ》さし 今夜《こよひ》の月夜《つくよ》 清明《あきらけく》こそ
    渡津海乃 豐旗雲尓 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曾
 
【語釈】 ○わたつみの 「わたつみ」は、海の神の意で、転じて海の意にも用いられたもの。ここは海。山祇《やまつみ》と対する意。○豊旗雲に 「豊」は美称であるが、豊かの意をもったもの。旗雲は、長く旗のごとき形をした雲の称。○入日さし 「さし」は、訓みがさまざまになっている語で、「さし」はその中の有力な一つ。眼前の光景を叙したものであるから、この訓みに従う。「さし」は中止形である。○今夜の月夜 「月夜」は、「夜」はここは接尾語で、月の意。○清明こそ 「清明」は、訓みがさまざまである。「あきらけく」は、『考』を初めとして諸家の取っている訓みである。「豊旗雲に入日さし」は、夕焼けである。夕焼けすると晴れるとは現在もいっていることで、こうしたことは古も同様で、思いも言いもしていたことであろう。ここは晴れを推量してのよろこびである。四句までの歌柄が大らかで、直截であるところから、この訓みが最も適切だと思われる。「こそ」は係で、下に「あらめ」が省略されている。例のある語であり、推量してのものであるから、これまた適切と思われる。
【釈】 海の上の豊かな旗雲に入り日がさしていて、今夜の月は真明るく照ることであろう。
【評】 編集者は左注で、「右の一首は、今案ふるに反歌に似ず。但し旧本この歌を以て反歌に載す」と断わっている。疑っているとおりの感がある。原本に、上の長歌、反歌とともにあったからのことで、その原形を重んじてのことと思われる。それだとこの歌は、長歌、上の反歌とともに播磨の海岸において詠まれたものだろうと想像するほかはないものである。また、それだとすると、時は、斉明天皇筑紫の筑前へ行幸の途中であって、途も海路を取られた際の歌である。そのことはこの歌の作因も語っていることである。作因は、海路の緊要事である天候の平穏を思われてのもので、月の清明を推量されたのは、一にそのためだということが察しられる。
 「わたつみの豊旗雲に入日さし」という、眼前の大景を双されての表現は、その大らかにして美しく、声調の張っているところ、無類なものである。転じて、「今夜の月夜あきらけくこそ」と、一首の中心に入られるところも、上と調和をもったもので、いささかの弛みもないものである。「こそ」で結んで下を省路に付されたところも、その際の皇子には、心足るものであって、適切な技法であったろうと思われる。一首、絶唱というべきものである。
 
(46)     右一首の歌、今|案《かんが》ふるに反歌に似ず。但し、旧本この歌を以て反歌に載す。故《かれ》、今猶この次に載す。また紀に曰はく、天豊財重日足姫天皇《あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと》の先の四年乙巳に、天皇を立てて皇太子となすといへり。
      右一首歌、今案不v似2反歌1也。但、舊本以2此歌1載2於反歌1。故、今猶載2此次1。亦紀曰、天豐財重日足姫天皇先四年乙巳、立2天皇1爲2皇太子1。
 
【評】 「紀に曰はく」の一節は、皇子の位置の考証である。「先の四年乙巳」は、斉明天皇の、先に皇極天皇にましました時の意である。
 
  近江大津宮御宇《あふみのおほつのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代    天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇、謚を天智天皇と曰す
 
【標目】 近江の大津の宮は、天智・弘文二代の宮室であるが、ここには天智天皇の御代として挙げてある。その址は、現に大津市の付近にあり、南滋賀町、滋賀町、錦織町など諸説がある。天命聞別天皇は、天智天皇の御称号である。その下の「謚」以下は元暦校本以後の古写本にある。
 
     天皇、内大臣《うちのおはおみ》藤原|朝臣《あそみ》に詔《みことのり》して、春山の万花の艶、秋山の千葉の彩を競憐《あらそ》はしめ給ひし時、額田王、歌を以《も》ちて判《ことわ》れる歌
 
【題意】 内大臣は、宮廷奉仕の臣の首班で、藤原朝臣は、藤原鎌足。藤原の氏は、天智天皇の八年に賜わったもので、その前は中臣氏であった。名を書かないのは、敬意よりのことである。また朝臣は、天武天皇の御代に藤原氏に賜わった姓《かばね》で、すべて前へめぐらしての称である。万花の艶の艶は、美で、花の美しさ、千葉の彩の彩は色で、黄葉の美しさで、競隣はしめは、その優劣を争わしめられたのである。これはいわゆる春秋の争いで、文芸的な遊びである。漢文学の影響と見るべきものである。このことは、平安朝時代に盛行し、その後にも及んだものである。こうした遊びが天皇の詔により、鎌足を執行者として、朝廷において、廷臣の間に催されたのである。歌を以ちて判るは、その優劣を歌をもって定める意で、意見を歌としたのである。
 
(47)16 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》さり来《く》れば 鳴《な》かざりし 鳥《とり》も来鳴《きな》きぬ 咲《さ》かざりし 花《はな》もさけれど 山を茂《しげ》み 入りても取らず 草深み 取《と》りても見《み》ず 秋山《あきやま》の 木《こ》の葉《は》を見《み》ては 黄葉《もみち》をば 取《と》りてぞしのふ 青《あを》きをば 置《お》きぞ歎《なげ》く そこし恨《うら》めし 秋山《あきやま》吾《われ》は
    冬木成 春去來者 不喧有之 鳥毛來鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曾思努布 青乎者 置而曾歎久 曾許之恨之 秋山吾者
 
【語釈】 ○冬ごもり 語義は諸説があるが、冬の季節がまだ残っているという解に従う。意味で春にかかる枕詞。○春さり来れば 「さり」は進行移動を意味する語で、「し(後)さる」が後《し》りに動く、「居ざる」が居たままに動くと同じだという解に従う。春が移って来れば、すなわち春になればの意。○鳴かざりし鳥も来鳴きぬ 冬の間は鳴かなかった鳥で、鶯などを心に置いた語。「も」は、下の花と並べたもの。「来鳴きぬ」は、来て鳴いた。○咲かざりし花もさけれど 「さけれど」は、「さきあり」の約《つづ》まった咲けりの已然形。冬の間は咲かなかった花もまた咲いたけれどもで、花は梅、桜など、木に咲く花を心に置いていったもの。この二句は上の二句と対句になっている。○山を茂み入りても取らず 「山を茂み」は、山が茂くて。茂くは、春の草木が茂くの意。「入りても」は、山に立ち入ってもで、「も」は、下の「取りても」と並べたもの。山は大津の宮の辺りのもの。「取らず」は、折り取らずで、花を愛すれば、手に折り取らずにはいられない意でいったもの。○草深み取りても見ず 「草深み」は、草が茂くなっていて。「取りても見ず」は、花を折り取って、しみじみと見ることもしない。二句、上の二句と対句。これまでで一段。○黄葉をば取りてぞしのふ 「黄葉」は、草木の葉の紅にあるいは黄に変ずる意の動詞で、上二段活用の連用形を体言としたもの。「をば」は、下の「青きをば」に対させた意。「しのふ」は、當美する意のもの。しのふの「ふ」は古くは清音であった。○青きをば置きてぞ歎く 「青きをば」は、黄葉しない性質の青葉をば。「置きて」は、そのままにさし置いてで、すなわち折り取らずして。「歎く」は、その黄葉しないことをあきたらず感じて歎く意。二句は、上の「黄葉をば」の二句と対句。○そこし恨めし 「そこ」は、その点の意で、上の「青きをば」の二句を承けたもの。「し」は、強意の助詞で、秋のその点だけが。「恨めし」は、すなわちあきたらず、不足として、恨みにするの意。以上、一段。○秋山吾は 「秋山」は、下に詠歎がこもっている。秋山の方よ。秋山の方が優っているとする判定の語。「吾は」は主語。
【釈】 春が移って来ると、冬の間は鳴かなかった鳥も、来ては鳴いた。咲かなかった花もまた咲いたが、山の草木が茂くて、入り立ってその花を手に折り取りもしない。草が深いので折り取ってしみじみと見ることもしない。秋の山の木の葉を見る時には、黄葉したのを折り取って賞美をする。黄葉しない木の方は、そのままにさしおいて、嘆息する。その点だけが恨めしい。秋山の(48)方よ私は。
【評】 この歌の題詞である春秋の優劣論は、近江朝が文化の面で、時代的にいかに突端を行こうとしていたかを思わせるものである。農業国であるわが国では、自然現象は、信頼と畏怖とを一つにしたもので、万人の胸に、ひとしく重圧となってのしかかってきているものである。そうした自然現象を、距離を置いてみて、美と感ずるという余裕などなかつたと思われる。まして自然美の代表を春秋とし、美という観点からその優劣を論ずるなどいうことは自然発生としてはあるべからざることで、これは一に漢文学の模倣だったのである。すなわち漢文学の教義をもっている貴族が、文雅な遊戯として行なったにすぎないことだったのである。額田王は、女性ながらにその会に加わっていたとみえる。優劣の判定は、もとより口頭語をもってしたろうと思われるが、王がそれをいうことになった際、即座に長歌形式をもってそれを述べたのが、すなわちこの歌であろう。これは題詞そのものにも劣らぬ尖端的なことで、まさに話柄になったものであろうと思われる。
 歌は三段より成っていて、春と秋の特色をあげて比較することに二段を与え、最後の一段でその判定をしているもので、まさに論理的である。しかし一篇を貫いているものは、作者の感情で、それもきわやかに個性を示した特色のあるものである。
 個性というのは、額田王の女性としての心情である。春山の花、秋山の黄葉の美も、それを美と感ずるのは、距離を置いて、遠く眺めてのそれではなく、近寄って、手に折り取って、しみじみと賞美しうることを条件としてのもので、優劣の差は、一にその事のできるできないによって定まるのである。これは、名は自然であり、春秋であるが、実は愛玩に堪える美しいものということであって、男性の興味というよりは、女性の興味というべきである。しかも、手に折り取れるということを条件として、秋山の黄葉の方を優れりとしているのであるが、それにもまた条件を付して、「青きをば置きてぞ歎く」といって、全面的に優っているとはいわずにいる。これは婉曲を欲しての言い方という末梢的のものではなく、秋山の全面的に、一様に黄葉しないのをあきたらずとする心のもので、純粋を求めてやまない心の現われと見られ、ここに女性の心情の機微があると思われる。「歎く」といい「恨めし」といって、力強くいっているのは、その要求からと思われる。最後の判語は、「秋山吾は」の一語であるが、これは、簡潔というよりも、その場合の実情に即しての敏活な言い方で、生動を覚えるものである。なお、春山の方は、「鳥も」「花も」といい、「入りても」「取りても」といって、対句とともに、微細な点にも均斉を保たせ、秋山の方は、「黄葉をば」「青きをば」と、同じ心づかいをしている点も、細心のほどを思わせる。この個性的な微細な感受を、論理的な構成に溶かし、整然と、安らかに、抒情味を漂わせつつ詠んでいるのは、優れた手腕と称すべきである。
 なお、この歌は、意としては議論で、それを歌をもって述べているのは、歌を実用性のものとする態度であるが結果から見ると、文芸性のものとなっている。この交錯は時代のさせているものである。
 
(49)     額田王、近江国に下りし時作れる歌。井戸《ゐのへの》王即ち和《こた》ふる歌
 
【題意】 「近江国に下りし」は、近江大津宮の天智天皇に召されてのことと解される。それだと「下りし」は異例な語で、都は近江にあったのだから、当然「上る」とあるべきだからである。諸説があるが、『全註釈』は、これは資料となったものにこのように書いてあったのを、そのままに写したもので、題詞を書いた人は天武天皇時代の人で、近江を地方とする気分があったためであろうといっている。それに従う。井戸王は、伝が未詳である。「即ち和ふる」は、額田王が歌を詠まれると、ただちに唱和した歌の意である。これも通常は別に書くべきであるのを、ただちに続けているのは異例である。資料にあったままを写したと解すべきであろう。その歌は次の歌と解される。それだと、歌によって女王と知られる。額田王に随行していたと解される。なお、一緒にいる人が歌をもってものをいった場合、傍らにいる人は、同じく歌をもって唱和することは当時の風習となっていたこととみえて、その例が多い。口承時代、歌は謡って表示をし、相手も同じく謡って表示をすることになっていた、その延長と解される。
 
17 味酒《うまざけ》 三輪《みわ》の山《やま》 あをによし 奈良《なら》の山《やま》の 山《やま》の際《ま》に い隠《かく》るまで 道《みち》の隈《くま》 い積《つも》るまでに つばらにも 見《み》つつ行《ゆ》かむを しばしばも 見放《みさ》けむ山《やま》を 情《こころ》なく 雲《くも》の 隠《かく》さふべしや
    味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隱万代 道隈 伊積流万代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八万雄 情無 雲乃 隱障倍之也
 
【語釈】 ○味酒三輪の山 「味酒」は、うまき酒で、和名抄に「日本紀私記云、神酒和語云2美和1」とあって、古くは神酒《みき》をみわといったので、同意の語を畳む関係で、三輪の枕詞としたもの。「三輪の山」は、奈良県磯城郡三輪町の東方にあり、大和東方の連山中の最高の山で、大神《おほみわ》神社の神体としている山である。飛鳥地方では最も印象的な山である。「山」の下に詠歎の意の助詞のある意のもの。○あをによし奈良の山の 「あをによし」は、奈良を讃えた意の枕詞で、古いもの。語義は未詳であるが、青い土。「よし」は、呼びかけの「よ」に強意の、「し」の合したものとする解が有力である。「奈良の山」は、平城京の北方に横たわっている低い連山で、大和国より近江国に行くには、それを越して山城国の相楽《さがら》または木津へ出るのである。その道を今歌姫越という。○山の際にい隠るまで 「山の際」は、山の間で、奈良山の連山の間。「い隠る」は、「い」は、接頭語。「隠る」は、古くは四段活用で、隠れるまで。○道の隈い積るまでに 「隈」は道の曲がり角の所で、山道には当然あるものとしていっ(50)たもの。「い積る」は、「い」は接頭語。「積る」は、数多く重なる意。この二句は、上の二句と対句で、次第に距離の遠くなる意を具象的にいったもの。○つばらにも見つつ行かむを 「つばら」は、『考』の旧訓。例のあるもの。つまびらかに、すなわち十分にで、「も」は、感歎の助詞。「見つつ行かむを」は、見つつは、継続。「を」は詠歎の助詞で、ものをの意。○しばしばも見放けむ山を 「見放ける」は、遠く望む意。「を」は、上に同じ。この二句も上の二句と対句。○情なく雲の隠さふべしや 「情なく」は、無情にもで、雲に対しての恨み。「隠さふ」は、古くは四段活用で、その未然形に継続の助詞「ふ」の添ったもの。隠しつづけるの意をあらわすもの。「や」は、反語で、「やは」にあたる。
【釈】 三輪の山よ、その山を国境の奈良の山の、連山の間に隠れるまでに、山路の曲がり角の積もり重なるまで、十分に見つづけて行こうものを、しばしばも遠く見ようとする山であるものを、無情に雲が隠しつづけるべきであろうか、あるまい。
【評】 額田王が、近江大津宮の天智天皇に召され、住みなれた飛鳥の地を去って旅路に向かい、今、故郷の見納めとなるべき奈良山の上に立たれた際の感懐である。惜別の情の堪えないものがあって、普通だと短歌でも足るべきことを、長歌形式とし、しかも古風の謡い物風のものとして、その綿々の思いを叙したものである。しかし、謡い物風とはいえ、じつに文芸味の多いものとして、その哀感を尽くしている作である。
 起首、突如、「味酒三輪の山」と呼びかけての表現は、非凡である。三輪山は飛鳥の里の目標となるもので、また、その里における一切の思いをも包容しうる山である。さらにまた、今も眼にしうるものはその山だけで、まさに視界から消えようとしている山でもあるのである。その山を呼びかけ、それによって哀感を統一づけて尽くそうとするのは、非凡なる表現技法というべきである。「山の際に」「道の隈」と、対句を用いて、その山に対する愛着を具象し、さらに、「つばらにも」「しばしばも」と、同じく対句を用いて、その愛着を深めた上で、一転して、「情なく雲の隠さふべしや」と、その深い愛着の裏切られたことを恨んでいるところ、余情の限りないものがある。優れた作と(51)いうべきである。
 なお、表現技法についていえば、この長歌は短いものであるにかかわらず、対句を二つ重ねてあって、対句を主とした観のあるものである。その対句も、ほとんど繰り返しに近いもので、古風なものである。また、一首全体としても平明であって、その意味で謡い物に近いのである。しかし同時にそれらは、簡潔にして含蓄あるものとなっていて、その意味では文芸的のものとなっているのである。この時代を思わせる作風である。結句の五三七の形も、同じくこの時代の風である。
 
     反歌
 
18 三輪山《みわやま》を しかも隠《かく》すか 雲《くも》だにも 情《こころ》あらなむ かくさふべしや
    三輪山乎 然毛隱賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
 
【語釈】 ○しかも隠すか 「しか」は、そのように。「も」は、詠歎の助詞。「か」は、ここは詠歎の助詞。そのようにまでも隠すのかなあ。○雲だにも情あらなむ 「だに」は、重きを言外に置き軽きをいう助詞。せめて雲だけなりとも。「なむ」は、未然形に接して希望をあらわす助詞。
【釈】 三輪山をそのようにまでも隠すのかなあ。雲だけなりとも情があってほしいものである。隠しつづけるということがあるべきだろうか、あるべきではない。
【評】 長歌の結末を反復した意の反歌で、反歌の本来のものである。結末と異なっているところは、「雲だにも」と「雲」に「だに」を添えていることである。これは雲という自然物を他と比較し、本来|情《こころ》なきものにそれを要求しているところから、情あるべきものにそれのないことを暗示しているものである。そうした者は王と関係の深い人でなくてはならない。そしてそれには直接に触れていないのである。一首三段に分かれていて、暗示にとどめてはいるが、昂奮した心をもっての恨みである。これも長歌と同じく、三輪山の雲を対象としたものではあるが、長歌のしめやかに静かであったのとは異なって、にわかに鋭さをあらわしきたって、長歌以上に抒情気分をあらわしたものとしている。叙事的なのを抒情的に、平面的なのを立体的にしているところ、長歌と短歌の特色を示しているといえる。
 
     右二首の歌、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江国に遷しし時、三輪山を御覧せる御歌なりといへり。日本書紀に曰はく、六年丙寅春三月辛酉の朔にして己卯の日、都を近江に遷しきといへり。
(52)      右二首歌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷2都近江國1時、御2覽三輪山1御歌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷2都于近江1。
 
【釈】 「御歌なりといへり」までは、類聚歌林の説である。「御歌」は天皇御製の歌の意と取れる。そういう伝もあったのである。「日本書紀」以下は、撰者の注である。「丙寅」は五年で、「六年」とあるのとは一致しないというので、問題とされている。類聚歌林の説は尊重すべきであるが、遷都をされた天智天皇が、こうした哀感を有していられたとは思い難い。また作風は明らかに女性のもので、この敏感と繊細味は、男性といううち、英邁な天皇の作とは思い難い。
 
19 綜麻県《へそがた》の 林《はやし》の始《さき》の さ野榛《のはり》の 衣《きぬ》に着《つ》くなす 目《め》につくわが背《せ》
    綜麻形乃 林始乃 狹野榛能 衣尓着成 自尓都久和我勢
 
【語釈】 ○綜麻県の 『代匠記』の訓みである。「綜麻」は地名で、「県」はあがた。所在は不明である。現在、滋賀県の栗東町付近という説もある。「綜麻」は、績《う》んだ麻を円く巻いたものの称で、それと何らかのつながりのある地名か。○林の始の 「始」は、先端の意で、現在用いている口語の、「とっつき」にあたる。○さ野榛の 「さ」は接頭語。「野榛」は、野にある榛の木。榛は、現在の「はん」の木にも萩にも用いる字であるが、「はん」の木とする解に従う。その皮や実は煮汁として染料に用いる物。「野榛」は野にある榛で、用の多い木であるから屋敷木にもしたとみえ、それに対する称と解される。○衣に着くなす 衣に着くは、染料としてよく染まる意。「なす」は、のごとく。以上四句は、結句の「目につく」の「つく」に同音の関係で掛かる序詞。五句の歌の四句までを序詞とするのは、他に例もあるが、珍しいものである。○目につくわが背 「目につく」は、現在の口語にあるもの。「つく」は連体形。「わが背」は、女性の男性を親しんで呼ぶ称で、下に詠歎が含まれている。
【釈】 綜麻県の林のとっつきに生えている野榛の、染料として衣に染みつくように、目につく吾が背よ。
【評】 この歌は題詞の「井戸王即ち和《こた》ふる歌」とあるにあたるものと取れる。和え歌にはふさわしくないから、何らかの誤りの伴っている歌であろうとして、諸説のあるものである。しかし必ずしも誤りとも思えない歌である。題詞の解でもいったように、人が歌をもって抒情をした際は、傍らにいる人は、それに和える心をもって同じく歌で抒情をすることが風習となっていた。これもそれで、「即ち」という語はその間の消息を示しているようにみえる。井戸王が額田王に親しく、その心の機微を感じうる女性であったとしたら、額田王の三輪山に対する深い惜別の情と、雲に対する強い恨みとの背後に、一人の男性のあることを感取したということも、ありうべからざることではない。しかしそのことは、口にのぼすべき性質のものではないので、顧みて他をいう態度を取って、自分も綜麻県の地に、同じく思う男性を残して来て、恋しく思っているという心を、額(53)田王の作風に似せて、謡い物風の作にして和えたのであろうと解せられる。親しい女性同士で、やや年齢をした者の間には、この種のことが、古も今と異ならず行なわれていたろうと思われる。それだと、この和え歌は、その際の額田王にはいい慰めとなったことと思われる。以上のように解して、この歌はさして不自然なものではないのみならず、むしろ巧妙な作と思う。一首の歌としても、四句の長序が、そうしたものの陥りやすい語戯とならず、「わが背」という人の住んでいた地を具体的に暗示する内容をもったものともなってき、力量ある作ともなってくる。
 
     右、一首の歌、今案ふるに、和ふる歌に似ず。但し、旧本此の次に載す。故《かれ》、猶載す。
      右一首歌、今案、不v似2和歌1。但、舊本載2于此次1。故以猶載v焉。
 
     天皇、蒲生野《がまふの》に遊猟し給ひし時、額田王の作れる歌
 
【題意】 蒲生野は、滋賀県近江八幡市、武佐の東蒲生郡安土町、内野から八日市市蒲生野、野口、市辺にわたる野といい、古の名残りをとどめているという。遊猟のことは左注によると、天皇の七年五月五日のことである。額田王も盛儀に加わっていたのである。
 
20 茜草《あかね》さす 紫野|行《ゆ》き 標野《しめの》行《ゆ》き 野守《のもり》は見《み》ずや 君《きみ》が袖《そで》振《ふ》る
     茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
 
【語釈】 ○茜草さす 茜いろのまじっている意。「茜」は、草の名であるとともに色の名ともなっている。ここは色である。草としての茜は、蔓性の茜草科の多年生植物で、根は赤く、それから赤色の染料を取る。古代紫の色は赤味を帯びているので、紫の修飾語から枕詞となったもの。○紫野行き 「紫野」は、紫草を作ってある野で、題詞の蒲生野の一部である。紫草は、紫草科の多年生植物で、その根が紫色をして、それから紫色の染料を取った。紫色は当時貴重な色としており、需要が多かったが、野生の物はすでに少なくて需要が満たせず、諸国に命じて栽培させていた。この紫野もその範囲のもので、紫草を作っている野の意。「行き」は、歩きで、主格は君。○標野行き 「標野」は、その野を占有しているしるしの繩張り、あるいは杙《くい》を立てて、他人の立ち入りを禁じた野で、上の紫草園を語を替えていったものである。「行き」は、上と同じ。○野守は見ずや 「野守」は、上の紫野すなわち標野の番人である。「見ずや」は、「や」は疑問の助詞で、見ないであろうかで、この句は独立した挿入句である。○君が袖振る 「君」は皇太子大海人皇子。袖振るは、やや遠くいて愛情表示のためにするしぐさで、例の多いものである。佐伯梅友氏は、本集には、「が」「の」の助詞を含んでいる句で、終止形で結んだものはなく、すべて連体形で結んでいる、といっていられる。すなわち(54)係のない結びになっていて、したがって詠歎を含んでいるというのである。ここはそれで、袖を振ることよの意である。
【釈】 紫草を作ってある野を歩き、その立ち入りを禁じられている野を君は歩いて、野守は見ないであろうか。君はわたしに袖を振っていることであるよ。
【評】 薬狩は、男は鹿の落し角を拾い、女は薬草を摘むことになっている行楽で、したがって自由行動の取れる場合である。この歌から想像すると、額田王は天皇の傍らを離れて、たぶん侍女とともに野を漫歩していられ、辺りに人目がなかったとみえる。前の夫君であられた大海人皇子は、やや遠くそのさまを認め、王に近づこうとして、立ち入り禁止の紫草園をもかまわず内に立ち入り、王に向かって、愛情表示のしぐさとなっていた袖を振ることをされたのである。それを認めた額田王は、その心をうれしく受け入れて、「茜さす紫野行き標野行き」という、事としては無法であるが、心としては一瞬うれしく感じたことを、「紫野」「標野」という異語同義の畳句の、華麗さを連想させる言葉をもって叙したが、つと心づいて、「野守は見ずや」という不安に襲われたのである。そしてはじめて事の主体を捉えて、「君が袖振る」と、うれしさと不安さの一つになった、歎息に近い心をもって結んだのである。これは迎えての解のようであるが、この歌は贈歌であって、作意は皇子の行動を制止するにあるはずと思われるのに、それとしては、制止の心も微弱であり、訴えの心もほとんど見えず、むしろ皇子の行動に陶酔し、中間に、つと不安を感じつつも、その行動を客観的に描写した趣の勝ったものとなっているのである。さらにいえば、皇子の行動を認めた際の王の一瞬時の主観の具象化という趣のある歌である。集中、額田王の歌は少なくないが、この歌ほど王の心境の端的をあらわしたものはない。一首の歌として見ても絶唱である。
 
     皇太子の答へませる御歌 【明日香《あすか》宮御宇天皇 謚して天武天皇と曰す】
 
【題意】 皇太子は、日嗣の皇子《みこ》すなわち天皇の嫡嗣の称で、この時の皇太子は、皇弟大海人の皇子である。前の歌の「君」がこの御歌で明らかである。注は、皇太子に対してのもので、後に明日香宮に御宇《あめのしたしら》しめしし天皇の意である。天武の謚号は、奈良時代に入ってのもので、元暦校本以後の古写本に見える。
 
21 紫《むらさき》の にほへる妹《いも》を にくくあらば 人妻《ひとづま》ゆゑに われ恋《こ》ひめやも
    紫草能 尓保敞類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
 
(55)【語釈】 ○紫のにほへる妹を 「紫」は、ここでは色にしていったもの。「にほへる」は、色についていったもので、色の含みをもって美しい意をいう語。紫色のごとく、含みをもった美しい妹をの意。○にくくあらば いとわしく思うならば。○人妻ゆゑに 「人妻」は、他人の妻。「ゆゑ」は、理由、縁故をいう語。他人の妻であるのに。○われ恋ひめやも 「やも」は、「む」の已然形「め」を受ける時は反語となる。われは恋いようか、恋いはしないの意。
【釈】 紫のにおっているようなあなたをいとわしく思うのであったら、他人の妻であるのに、わたしは恋いようか、恋いはしない。
【評】 贈答の答歌には型があって、贈歌の用語を捉えて異なる意を盛り、反対な事をいうことになっている。この御歌もその範囲のもので、贈歌の紫は草であるのに、答歌では色としている。しかしそれは、尊重されている紫のように色うつくしいあなたと続けて、王の美貌を讃える語としている。そして、額田王の婉曲な制止を受けて、人妻に恋いすべきではないことは弁えているが、あなたを憎く思っていないからするしぐさだ、恋しいからのことだといっているのである。思慮あり勇気ある堂堂たる男子の、余裕をもっての歌で、しかも答歌の型に従ってされている御製である。額田王の陶酔と敏感と相俟った麗わしい歌に対させると、闊達、直截な御製で、その比類なき点においては劣らざるものである。
 
     紀に曰はく、天皇の七年丁卯の夏五月五日、蒲生野に縦猟したまふ。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、悉《ことごとに》皆従ひきといへり。
      紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日、縱2※[獣偏+葛]於※[草がんむり/補]生野1。于v時大皇弟、諸王、内臣、及群臣、悉皆從焉。
 
【注】 「紀」は日本書紀。「縦猟」は、薬狩のことで、前出。「大皇弟」は、大海人の皇子。「諸王」は、皇族のうち、王と称せられる方々。「内臣」は、中臣の鎌足。「群臣」は、広く地方官をもふくめての称。
 
  明日香清御原宮御宇《あすかのきよみはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代 【天渟中原瀛真人《あめのぬなはらおきのまひと》天皇謚して天武天皇と曰す】
 
【標目】 明日香は、奈良県高市郡の内で、今明日香村といっている地を中心に、その付近をも含んだ地方の総名である。清御原宮は、天武天皇の宮室で、天皇の元年の冬にお遷りになられた。その地は、現在の明日香村の小学校の付近だろうと喜田貞吉氏は考証している。雷岡の南である。
 
(56)     十市皇女《とをちのひめみこ》、伊勢の神宮《かむみや》に参赴《まゐむ》きし時、波多《はた》の横山《よこやま》の巌《いはほ》を見て、吹※[草がんむり/欠]刀自《ふぶきのとじ》の作れる歌
 
【題意】 十市皇女は、天武天皇の皇長女で、御母は額田王。弘文天皇の妃となって葛野王をお生み申したが、壬申の乱後は、御父天皇の許にいられた。この参宮は、左注にもあるように阿閉《あべの》皇女の御同行であったが、吹※[草がんむり/欠]刀自は十市皇女に奉仕していた者といふ関係上、阿閉皇女の方は省略したものと取れる。波多の横山は、伊勢への途中にある土地で、今の三重県松阪市から、伊勢への途中に波太村というがあり、そこだろうという。通路は波瀬《はぜ》川に沿っている。横山は、横に長く続いている山勢の称。吹※[草がんむり/欠]刀自は、伝未詳である。巻四にも歌がある。吹※[草がんむり/欠]は食用植物の蕗であるが、氏か名か不明である。刀自は、一家の主婦に対する称。
 
22 河《かは》の上《へ》の 斎《ゆ》つ巌群《いはむら》に 草《くさ》むさず 常《つね》にもがもな 常処女《とこをとめ》にて
    河上乃 湯都盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女※[者/火]手
 
【語釈】 ○河の上の 「河の上」は、旧訓「かはかみ」を、『略解』の改めたもの。川のほとりの意。○斎つ巌群に 「斎」は、忌み斎《きよ》める意の名詞で、神聖というにあたる。「つ」は、「の」と同じ。「巌群」は、大きな岩石の群れで、古代信仰として巨石には神性を感じた、その意のもの。○草むさず 「むす」は、生える意。草が生えていなかったのである。寓目のその状態に永久を感じ、「常」の比喩としたので、三句「常」にかかる副詞句。○常にもがもな 「常」は永久。「がも」は願望の助詞。「な」は詠嘆の助詞。永久でありたいものであるなあ。○常処女にて 「常処女」は、永久に若い女子の意。処女は若い女子の意で用いられていた。「にて」は、であって。これは十市皇女を対象としてのものと思われる。
【釈】 川のほとりの神聖なる巌の群れに、草が生えていない。永久にあのようにありたいものです、永久の若い女子で。
【評】 巨石信仰を抱いている女性が、その巨石の草の生えない状態に永久の若さを感取し、それを供奉している十市皇女につないで、その常処女であられんことを願った心理は自然である。「常処女」という語はここにあるのみのものであるが、当時、不老不死の神仙思想が行なわれていたので、天女の存在を信じており、それを連想し、支えとしての語であろうと思われる。一首、表現が素朴で、声調が鋭く、女性の作としては珍しいものである。これはその際の皇女の状態につながりのあるものかもしれぬ。
 
     吹※[草がんむり/欠]刀自、未だ詳ならず。但し、紀に曰はく、天皇四年乙亥、春二月乙亥の朝にして丁亥の日、(57)十市皇女、阿閉皇女、伊勢の神宮《かむみや》に參赴《まゐむ》き給ふといへり。
     吹※[草がんむり/欠]刀自未v詳也。但、紀曰、天皇四年乙亥、春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閉皇女、參2赴於伊勢神宮1。
 
【注】 吹※[草がんむり/欠]刀自は前にいった。「但し」以下は日本書紀によって、この時を考証したもの。阿閉皇女は、天智天皇の皇女、草壁の皇太子の妃で、文武天皇の御母、即位して元明天皇と申す。
 
     麻続王《をみのおほきみ》の伊勢国伊良虞《いせのくにいらご》の島《しま》に流《なが》されし時《とき》、人《ひと》の哀傷して作れる歌
 
【題意】 麻続王は、系譜が明らかでない。「続」は「績」と通用文字であった。伊良虞の島は、今は愛知県に属し、渥美町伊良湖崎で島ではなく崎である。古くは伊勢国に属せしめて呼んだとみえ、同様のことが、後にも出る。王のことは、なお(二四)の左注にある。
 
23 打麻《うちそ》を 麻続《をみ》の王《おほきみ》 白水郎《あま》なれや 伊艮虞《いらご》が島の 珠藻《たまも》苅《か》ります
    打麻乎 麻績王 白水郎有哉 射等籠荷四間乃 殊藻苅麻須
 
【語釈】 ○打麻を 「打麻」は、打って和らげた麻《そ》。「を」は、詠歎の助詞で、「よ」にあたる。それを麻《を》に績《う》む意で、麻続にかかる枕詞。○白水郎なれや 「白水郎」は、漢語で、「あま」に当てたもの。「あま」は、漁人の意。「なれや」は、後世の「なればにや」にあたる語。「や」は疑問の助詞。○珠藻苅ります 「珠」は、美称。「藻」は、食料としての物。「ます」は、いる意の敬語。いらせられる。
【釈】 打麻を麻続王は海人《あま》なのであろうか。伊良虞が島の藻を、刈っていらせられる。
【評】 作者は「人」というだけで、誰ともわからない。また、王も知らない、無関係の第三者である。したがって民謡の条件を備えた歌である。歌そのものも内容は一般性をもっており、感傷的で、調べも柔らかいもので、まさしく民謡的である。たぶん一方、時の人の皇室に対する尊崇の情から王ともある方が、島に流されて、海人《あま》の中にまじっていらせられるということは、怪しくも悲しいことだったろうと思われる。「伊良虞が島の珠藻苅ります」というのは、王の状態を思いやって哀傷する心から、おのずからに生み出した具象化ではなかろうか。
 
(58)     麻続王、これを聞きて感傷して和ふる歌
 
24 うつせみの 命を惜しみ 浪に濡れ 伊良虞の島の 玉藻苅り食む
    空蝉之 命乎惜美 浪尓所湿 伊良虞能鴫之 玉藻苅食
 
【語釈】○うつせみの 現し身の転で、生きている身の。(一三)に出た。○浪に濡れ 「濡れ」は原文「所湿」で、「所」は被役をあらわす字で、濡らされの意。○苅り食む 「食む」は「をす」と訓んでいる例もある。「食す」は敬語で、自身のことに用いた例がない。これも旧訓の一つである。  
【釈】生きている身の命を惜しんで、浪に濡らされて、伊良虞の島の藻を刈って食べている。
【評】王の上の歌を聞いて和えられた歌は、同じく感傷ではあるが徴底している。「うつせみの命を惜しみ」は、時の人の哀傷は、王ともある身に対してのそれであるが、王はそぅした身分から離れ、一人の人間の立場に立ってのものである。「浪に濡れ」「苅り食む」は、労苦して命をつないでいる意であるが、具象化が巧みである。一首、事としては沈痛であるが、一脈の明るさと軽さがある。表現技法が上の歌と相通っている。この点から見てこの二首は、王の事件を捉えての歌物語ではなかったかと思われる。左注の疑いを挟んでいるのも、その点につながりあるものと解される。
 
     右、日本紀を案ふるに曰はく、天皇の四年乙亥の夏四月戊戌の朔にして乙卯の日、三位麻続王ありて、因幡に流さる。一子は伊豆の島に流され、一子は血鹿の島に流されきといへり。ここに伊勢国伊良虞の島に流さるといへるは、若し疑はくは後人歌の辞に因りて誤り記せるか。
      右、案日本紀曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻続王有罪、流于因幡。一子流伊豆鴫、一子流血鹿鴫也。是云配千伊勢國伊良虞鴫者 若疑後人緑歌辞而    誤記乎。
 
【注】撰者の日本書紀によっての考証と、題詞についての疑いである。血鹿の島は今の九州五島である。さらにまた、常陸国風土記には、その行方郡板来村の条に、麻続王がその地に流されて住んでいたといぅことを伝えている。因幡、伊勢、常陸と、諸国にその伝えのあるのは、流所を改(59)められたためともいえるが、むしろ事のあわれさから、そうした伝えを生み出したものかと思われる。
 
     天皇の御製歌
 
25 み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間なくぞ 雨は降りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隅もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
    三吉野之 耳我嶺尓 時無曾 雪者落家留 問無曾 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 問無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道乎
 
【語釈】 ○み吉野の耳我の嶺に 「み吉野」の「み」は、美称。「耳我の嶺は」は、今いずれの峰とものからない。歌の上から見ると、吉野山の中の高蜂であることが知られる。不明なのは、名称の変わったためであろう。○時なくぞ 定まった時がなく。これは高山の常の状態である。○間なくぞ 「間」は、旧訓「ひま」。『古義』が改めた。間断もなくで、すなわち絶えずの意。これも高山の状態である。○隈もおちず 「隈」は、道の曲がり角。「も」は、詠歎の助詞。「おちず」は、漏らさずで、道の隈々の、その一隈さえも漏らさずにで、絶えずの意。○思ひつつぞ来る 「思ひ」は、妹を恋う心である。○その山道を 「その」は、「山道」を強くいうために添えたもの。
【釈】 吉野の耳我の嶺には、その時でもなく、雪が降ることであるよ。絶え間なく雨が降ることであるよ。その雪のいつということのないように、その雨の絶え間のないように、我も山道の曲がり角の多いその一と曲がり角をも漏らさずに、歎きをしつづけて来ることであるよ。その山道を。
【評】この御製歌は題詞がないので、いつ、いかなる際のものかは不明である。しかし御製そのものは、吉野の山中にあって甚しくもの思いをされた意のものであるから、自然、大津宮時代、皇太子を辞して吉野へ退隠された際のものではないかと推量される。
 表現は甚だ古樸である。「み吉野の耳我の峰に、時なくぞ雪は降りける、間なくぞ雨は降りける」と、高山の常態として気象の変化がはげしく、雪と雨が襲いとおしにしている実況を叙している。ついでその実況を間断のない比喩として、「その雪の時なきが如、その雨の間なきが如」と、同じく対句としていい、さらに「隈もおちず」と、その間断なさを、身辺の実情を叙することによって深めて、「思ひつつぞ来る、その山道を」と結んでいるのである。これは隈多い山道を、間断なくもの思いをしつつ辿っていられる実情であって、その思いの何であるかには全然触れていない表現である。しかし吉野山の冬の暗い光景と、それを間断なきことの比愉とされての上のことなので、(60)それらが「思ひ」におのずから綜合されてきて、その思いの重大さと重量とが、おのずからに感じられるものとなってきている。その「思ひ」のいかなる範囲のものであるかにも触れていないところから見ると、この御製は全然対者を予想しての訴えではなく、独詠であったろうといぅことを思わせられる。
 とにかく一首を読むと、天皇が陰鬱の情にとざされて、吉野山中の山道を辿られるさまが想像され、その全く説明をされざる「思ひ」が余情となって、魅力ある御製となっているのである。表現は上にいったがごとく甚だ古撲で、したがって反歌もないものである。これを皇太子の時期、額田王に和えられた上の歌と比較すると、全く別人の感がある。同じ天皇の心の両面の、その一面のあざやかに現われている御製歌である。
 
     或本の歌
 
【題意】 「或る本」というのは、本集の資料とは別の資料といぅ意である。詞句の類似の多い歌、作者、作歌事情で伝えの異なっている歌を参考として載せている。
 
26 み芳野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降ると  いふ その雪の 時じきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来る  その山道を
    三芳野之 耳我山尓 時自久曾 雪者落等言 無間曾 雨者落等言 其雪 不時如其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎
 
     右、句々相換れり。因りてここに重ねて載す。
      右句々相換。因此重載焉。
 
【語釈】 ○時じく (六)に出た。その時ならずして。
【評】前の歌は、耳我の嶺の雪と雨とを、眼に見ているものとして扱っているのに、この歌は、それを話に開いたものとしていっている。すなわち耳我の峰よりは遠く離れた所で謡われた歌と思われる。「時なくぞ」を「時じくぞ」に換えたところにも、この心は現われている。この御製はなお巻十三に別伝があり、また、同巻に流動して民謡化したものもある。その巻に譲る。
 
     天皇、吉野宮に幸しし時の御製歌
 
(61)【題意】 吉野宮は、吉野川沿岸宮滝がその旧址とされている。吉野上市町をさかのぽること一里ばかりの地である。吉野宮のことは、応神天皇十九年にはじめて見え、雄略天皇も二回行幸のことが見え、斉明天皇の二年、宮をお作りになったことが見えている。皇室に由緒深い地である。
 
27 淑き人の 良しと吉く見て よしといひし 芳野よく見よ よき人よくみつ
    淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三
 
【語釈】 ○淑き人の 「淑き人」は、古の尊い人を尊んでの称。○良しと吉く見てよしといひし 良い所だと思って、よくよく見て、その上で好い所だといったで、上の「良し」は、良い所と思い、下の「よし」は、好い所と定めたといぅ意を含んでいる。○芳野よく見よ その芳野をよくよく見よと命じた意。命じられたものは供奉の廷臣である。○よき人よくみつ 良き人がよくよく見たことであるで、初二句の意を纏めて繰り返したもの。そぅすることによって三句「よしといひし」の意を認めよということを余意としたもの。
【釈】 古の尊い人が、良い所だと思ってよくよく見て、よい所だといったこの芳野を、人々よ、よくよく見よ。古の尊い人がよく見た所だ。
【評】 吉野宮へ行幸になった襟、供奉の廷臣に向かって、お言葉をもってなさる代りに、当時の風に従って歌をもって仰せになったものと取れる。主意は、この吉野の山水をよくよく見て、その好さを会得せよ。古の尊い人もそれをしたが、それにならってせよというのである。初句より四句まで一と続きに、一わたりのことを仰せられ、結句において繰り返して諭されたもので、心の細かく、自然なものである。「淑き人」と仰せになっている人は、どういう人であるかはわからない。しかし大体として、吉野の山水の美を鑑賞し得た、高い教養をもった人ということであろう。当時にあっては、自然の美の鑑賞ということは、中国文学の刺激を受けて進んできたもので、上流階級の中の少数者に限られたことであった。その趣は懐風藻で窺われる。その意味でこの「淑き人」は、さして古い人ではなく、またそう多くでもなく、仰せになる天皇にも、承る廷臣にも、はぼ見当のついていたことと思われる。この御製は特珠な技巧をもったもので、「よし」という一形容詞を捉え、「淑き」「良し」「吉く」と、音の同じで、意味の近い語を、一首の中に八回までも繰り返されている。これはむろん意図してのもので、頭韻、畳語を意図した歌の中でも代表的なもので、語戯の範囲のものといえる。しかしそうした歌の陥りやすいわざとらしさの感の少ないのは、一つには、山水の美の鑑賞を勧めるという思想的なものであるからだが、それよりも重いことは、仰せになっていることが理ではなくて気分であり、その気分がまた真摯なものであるからである。すなわち戯れの形で真摯な気分をお詠みに(62)なり、それが渾然としたものとなり得ているからである。歌を実用性のものとしていた時代にあっては、当然あるべき形の歌である。 
 
     紀に曰はく、八年己卯五月庚辰の朔にして甲申の日、吉野宮に幸しきといへり。
      紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。
 
【注】 日本書紀によつて、行幸の時を考証しただけのものである。
 
  藤原宮御宇天皇代    高天原広野姫天皇 元年丁亥の十一年位を軽太子に譲りたまふ。尊号を太上天皇と曰す
 
【標目】藤原宮は、持統天皇の八年十二月、飛鳥淨御原宮よりお遷りになり、文武天皇を経て、元明天皇の和銅三年、寧楽宮へお遷りになるまでの十六年間の宮である。宮址は、奈良県橿原市高殿町に、宮所、大宮、南京殿、北京殿、大君、宮の口などいう字があり、これらはいずれも皇居の敷地の一部であろうという。ここは畝傍、耳梨、香具の三山の間で、香具山を背後にした所である。高天原広野姫の天皇は、持統天皇の御謚号前の御号である。天皇、少名はう(漢字)野の讃良の皇女、天智天皇の第二皇女である。天武天皇の皇后となり、天皇の崩後御即位、在位十年で、草壁皇太子の皇子軽皇子に譲位された。それが文武天皇である。初めの謚号は高天原広野姫の天皇、後の謚が持統天皇である。万葉集からいうと,天皇の御代はその黄金時代で、柿本人麿を初めとしてすぐれた歌人の輩出した時期である。
 
     天皇の御製歌
 
28 春過ぎて 夏来たるらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山
    春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
 
【語釈】 ○夏来たるらし 「来たる」は、「釆至る」の約。「らし」は、証拠を挙げての誰定をあらわす助動詞。証拠は、下の「衣乾したり」である。○白妙の衣乾したり 「白妙」は、白い妙で、妙は栲。本来楮(別字)が木その物の名であったが、その繊維で織った布の名に転じたもの。「白妙の衣」は、当時は上下とも、白い衣を常用していたのである。○天の香具山 (二)に出た。香具山にの意で、衣を乾してある場所としていわれたも(63)の。山の麓に住んでいる者が、日あたりの好い山裾を選んで衣を乾したのである。
【釈】 春が過ぎて夏が来ていると思われる。白妙の衣が乾してある。天の香具山には。
【評】 香具山は、藤原宮の東にある、低い山である。天皇は宮の内から、香具山の上に白い衣の乾してあるのを望ませられ、それは夏になってすることであるところから、季節感を催されての御製である。歌に現われている季節は、大体春と秋で、圧倒的に多い。農業国であるわが国では、生活をとおして季節に関係する以上、これは当然のことである。生活に余裕のある階級の者は、わが国の風土と季節の美を味解することになり、文芸的の意味のいわゆる季節感をもつことになったが、そうなっても春と秋が依然として多い。この御製の季節は夏であって、この当時としては特異なものである。加ぅるに深い感激をもって、夏を肯定していられる。青い山に乾した白い衣は印象的のものと思われるが、衣に引きつけられていられるのは、女帝のためだと思われ、そこに個人性が感じられる。また、一首三段に切れ、強くさわやかにお詠みになっている点は、他の御製と較べても異色あるもので、感激のほどがうかがわれるものである。すなわち季節感に向かって、個性をとおして、文芸化の一歩を進めさせられた御製といえる。
 
     近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麿の作れる歌
 
【題意】 近江の荒れたる都は、天智、弘文二帝の大津宮の、壬申の乱後荒廃に帰していたのをいう。乱ょりこの歌の作られた持統天皇の御代までは、その末年までとしても二十五年である。そこを過ぎし時といぅは、他の事のついでをもってその地を通ったのである。柿本朝臣人麿の伝は明らかではない。柿本氏は孝昭天皇の皇子天押帯日子命ょり出、朝臣の姓は天武天皇の御代に賜わったのである。少壮の頃、舎人として出仕している。舎人は本来、上流貴族の子弟の任ぜられる職で、人麿がそれに加えられていた(64)のは、何らかの事情の伴つてのことと思われるが、その点はわからない。後、他の職に転じ、近江、山城、紀伊、四国、九州に旅をしたことはその作歌によって知られる。晩年、石見国の国司の一人となったこと、また、その任地で没したことも作歌によって知られる。時は奈良時代に入ってのことかと考証されて、位は六位以下であった。伝記の不明なのは、身分低く行績が記録されていないからである。歌人としての人麿は、この時代の代表者であるのみならず万葉集の代表者であり、和歌史上の第一人者でもある。人としての人麿は、皇室に対しての宗教的尊信の情を抱き、個人的には恋愛を生き甲斐としている。歌人としては、わが国古来の伝統の上に立ち、漢文学を摂取して、彼此を融合してわが有となし、古来の歌謡を新文芸に高めるとともに、それを大成したのである。本集にある人麿の作は、その作ということの明らかなものと、柿本人麿歌集と称する歌集にあるものとの二種類がある。歌集の歌の中には、他人の作を備忘のために記したものの、きわめて少数が混じているかに見えるが、他はすべて人麿の作と思われる。これはその取材、表現技法の上で、彼以外の何びとにもなし得ぬ特色をもっているからである。また、人麿の作には、他に例のないまでに別伝が多く、これは作者自身の再案と、伝誦者の誤伝とである。大体は、編集者の本文として伝えているものが正当なものとみられる。
            
29 玉襷《たまだすき》 畝火《うねび》の山《やま》の 橿原《かしはら》の 日知《ひじり》の御世《みよ》ゆ 【或は云ふ、宮ゆ】  生《あ》れましし 神《かみ》のことごと 樛《つが》の木の いやつぎつぎに 天《あめ》の下《した》 知らしめししを【或は云ふ、知らしめしける》 天《そら》に満《み》つ 大和《やまと》を置《お》きて 青丹《あをに》よし 奈良山《ならやま》を越え【或は云ふ、虚《そら》見つ大和を置き青丹よし奈良《なら》山越えて】 いかさまに 念《おも》ほしめせか【或は云ふ、念ほしけめか】 天離《あまざか》る 夷《ひな》にはあれど 石走《いはばし》る 近江《あふみ》の国《くに》の 楽浪《ささなみ》の 大津《おほつ》の宮《みや》に 天《あめ》の下《した》 知《し》らしめしけむ 天皇《すめろぎ》の 神《かみ》の尊の 大宮《おほみや》は 此処《ここ》と聞けども 大殿《おほとの》は 此処《ここ》といへども 春草《はるくさ》の 茂《しげ》く生《お》ひたる 霞《かすみ》立《た》つ 春日《はるび》の霧《き》れる【或は云ふ、霞立つ 春日か霧《き》れる、夏草か繁くなりぬる】  ももしきの 大宮処 見れば悲しも【或は云ふ、見ればさぶしも】
    玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世從【或云、宮自】 阿礼座師 神之盡 樛木乃 弥繼嗣尓 天下 所知食之乎【或云、食來】 天尓滿 倭乎置而 青丹吉 平山乎超【或云、虚見倭乎置青丹吉平山越而】 何方 御念食可【或云、所念計米可】 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者此間(65)等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流【或云、霞立春日香霧流夏草香繁成奴留】 百磯城之 大宮處 見者悲毛【或云、見者左夫思毛】
 
【語釈】 ○玉襷畝火の山の 「玉だすき」の「玉」は、美称。襷を頂《うなじ》に掛けることをうなぐというので、そのうなを、音の近い畝《うね》に転じて枕詞としたもの。「畝火の山」は、下の「橿原」の位置をいったもの。○橿原の日知の御世ゆ 「橿原」は、畝傍山の東南の地で、神武天皇の宮の所在地。「日知」は、漢籍の「聖」の字の義訓で、聖帝として神武天皇を讃えた称。『全註釈』は「日知」は、農耕の上の暦日をわきまえている人を尊んでの称で、この用字は語源を示したものだといっている。「ゆ」は、よりの古語。以上、神武天皇の御世よりということを、讃えの心をもって、その宮を鄭重にいうことによってあらわしたもの。○「御世」が、一書には「宮」とある。「御世」この方が荘重味がある。○生れましし神のことごと 「生れ」は、現われの意で、人の上では、生まれる意。母を主としては生むで、子を主とすれば「生まる」である。神、天皇、皇子に対しての敬語。「まし」は、敬語の助動詞、下の「し」は助動詞、「生れましし」は、生まれ給いしの意。「神」は、天皇を現《あき》つ神としての称。「ことごと」は、ことごとくの意。○樛の木のいやつぎつぎに 「樛」は、今は栂《とが》という。樅《もみ》に似た木で、良材。音の似ているところから畳音の関係で「つぎ」にかかる枕詞。「いや」は、いよいよの意の接頭語。「つぎつぎに」は、次第次第に御代を継いでで、御歴代の意。○天の下知らしめししを 「天の下」は、天下で、わが国。「知らしめししを」は、「知らし」は知るの敬語、「めし」は敬語の助動詞。「し」は時の助動詞。「を」は逆転の助詞。「のに」にあたる。御統治になったのにの意。「天の下」の上に「大和において」という語があるべきだが、それは次の句にこもらせて省いてある。○一書には、「めししを」が、「めしける」とある。これは、下の「大和」の修飾になり、本文の屈折味を失わせる。 ○天に満つ大和を置きて 「天に満つ」は、大和の枕詞。他はいずれも「そらみつ」であって、「に」のあるのはここのみである。語義不明である。「大和を置きて」は、大和の国をさし置いての意。この「大和」には、歴代の宮のあったその大和の意がこもっている。○青丹よし奈良山を越え 「青丹よし奈良山」は、(一七)に出た。○一書には、「虚《そら》見つ大和を置き、青丹よし奈良山越えて」とある。これも、「て」のない本文の方が力がある。○いかさまに念ほしめせか 「いかさまに」は、どのように。「念ほし」は、「念ふ」の敬語で「念ふ」に、敬語の助動詞「す」の添った「念はす」。「めせ」は敬語の助動詞。「か」は、疑問の助詞。「めせか」は「めせばか」の古格。全体では、どのように思し召されたのであろうかの意。この二句は、神であらせられる天皇の御心は、下賤の者のうかがい知れないものであるとの意でいっているものである。なおこの二句は、独立した挿入句で、意味としては、上の「天に満つ大和を置きて」の前にあるべきものである。○一書には、「念ほしめせか」が、「念ほしけめか」とある。お思いになったであろうかで、心は同じである。○天離る夷にはあれど 「天離る」は、天のあなたに遠ざかっているで、離るは離れる意味で、「夷」にかかる枕詞。「夷」は、都以外の地方の総称。○石走る近江の国の 「石走」は「石走る」と訓み、石の上を走る「溢水《あふみ》」と続け、「近江《あふみ》」に転じたものという解に従う。「近江」の枕詞。○楽浪の大津の宮に 「楽浪」は、近江国の南方一帯の称。○天の下知らしめしけむ 「けむ」は、連体形で、天皇につづく。○天皇の神の尊の 「天皇」は、皇祖神を申し、転じて、当今の天皇までをも申す語。「神」は、天皇を現つ神としての称。「尊」は、尊称。今は天智天皇を申す語。○大宮は此処と聞けども 「大」は、美称。「宮」は、宮殿。「聞けども」は、人から聞くけれども。○大殿は此処といへども 「大」は、上に同じ。「殿」は、同じく宮殿。「いへども」は、人がいうけれども。二句、上と対句で、同じ意を、語を変えて繰(66)り返したもの。○春草の茂く生ひたる 春の草が茂く生えているで、下の「大宮処」へつづく。大宮として残る何物もないことを余情としたもの。○霞立つ春日の霧れる 「霞立つ」は、春の枕詞。実景の枕詞化したもの。「霧る」は霞む意で、霧はその名詞となったものである。春の日が、霞に霞んでいるで、下の「大官処」へ続く。この二句は、上の二句と対句となっており、いずれも大宮も、それに縁《ゆかり》ある何物も見えなくなっているということを余情にもっているものである。○或は云ふ、「霞立つ春日か霧れる、夏草か繁く成りぬる」 ある一書の伝えは、春の日が霞んでいるために何も見えないのか、または、夏草が茂くなっているために何も見えないのかである。何も見えないことを余情としている点は本行と同じであるが、こちらは春と夏との異なった季節を取合わせている点が異なる。本行の眼前を叙しているのとは態度を異にして、気分を主としていったものである。これは人麿のしなかったことと思われる。○ももしきの大宮処 「百磯城」で、百は多くで「磯城」は、石をもって固め成した一郭の所の称。多くの磯城をもったで、讃える意。宮にかかる枕詞。「大宮処」は、大宮の地域。○見れば悲しも 「も」は、詠款の助詞。目に見れば悲しいことであるよ。○或は云ふ、「見ればさぶしも」「さぶし」は、今のさびしである。本行の強さを採るべき所と思われる。
【釈】 畝火の山の橿原の宮の聖《ひじり》の帝《みかど》の御世よりこの方、お生まれになられた神にます帝のことごとくは、ますます御代を嗣ぎ嗣ぎして、大和の国において天下を御統治になられたのに(御統治になられて来たところの)、その大和の国をあとにして、奈良山を越えて、どのように思し召されたのか(どのように思し召されたのであろうか)、夷の国ではあるけれども、近江の国の楽浪の大津宮に、天下を御統治になったであろう、その天皇《すめろぎ》の神の尊の、大宮はここであると人から聞くけれども、大殿はここであると人はいうけれども、春の草が茂く生い立ち、春の日が霞んでぼんやりしている(春の日に霞んでいるのか、夏草が繁くなっているためか)大宮の処を見ると悲しいことであるよ(さみしいことであるよ)。
【評】 大和の藤原の宮に仕えていた人麿が、壬申の乱のあって以来二十五年以内のある年の春、何らかの用向きをもって近江の大津宮の址のある方面へ旅行したついでに、初めてその宮の址に立ち、荒廃しつくして、今は一物の残る物もないさまを目に見て、悲しみに堪えずして詠んだ歌である。
 この歌は、前半と後半とは趣を異にしていて、前半は大津宮の由緒を思ったもの、後半はその荒廃を悲しんだものである。さらにいえば、前半は、大津宮の限りなく尊いことをいったもので、後半は、その尊い宮の跡かたもなくなったのを、尊いがゆえに限りなく悲しんだ心である。
 前半の大津宮の尊さは、それが天智天皇の宮であるがゆえに限りなく尊いとするので、これは意《こころ》としてはあらわにはいわず、旨として語《ことば》の上であらわしている。天智天皇の尊さは、天皇が「高照らす日の皇子《みこ》」であらせられるというのみではなく、それとともに「八隅知し吾が大王《おほきみ》」でいらせられるがゆえとしている。「橿原の日知の御世」以来、「いやつぎつぎに天の下知らしめしし」「神」であるという讃え方をしているのは、すなわちこのためである。天智天皇を申す場合に、このすでにいった称を操り返して、「天の下知らしめしけむ天皇の神の尊」と改めて申しているのでも、そのいかに尊んでいるかが知られる。
 しかし前半は、単に天智天皇の尊さを申すだけではなく、それに近江大津への遷都のことを絡ませて、これを重くいってい(67)る。今、大津宮の由緒を思う上では、これは当然いわなくてはならない事柄ではあるが、それにしてもその言い方には、かなりまで誇張が伴っていて、事実とは相違してさえいる。神武天皇以来、都はすべて大和の内であったというのは、明らかに強いたことである。都は難波にも河内にも近江などにも遷されているのは明らかなことで、知識人である人麿がそれを知らないはずはない。また、遷都ということを格別のことであるかのようにいってもいるが、歴代、御代の改まるごとに都を遷されることは普通のことで、旧都となった所が荒廃するということも自然のことで、これまた何ら格別のことではない。しかるに、遷都ということが格別なことで、ひとり天智天皇に限られたことであるかのようにいい、また遷都が荒廃の原因でであるかのような口気をもっていっているのは、解し難いこととしなくてはならない。これは、限りなく尊く思っている天智天皇の宮が、眼前にあわれなる荒廃を見せているところからくる、人麿個人の感傷のいわせることか、あるいはまた、その事柄の畏さに、思うを憚り、言うを得ずにはいるが、時の人の胸裏には、一般に言い難い悲しみの漂っているものがあって、それを人麿が代弁しているのかとも思われる。おそらくはあとのものが主でそれに前のものが伴って、前半の複雑した気分を成しているのではないかと思われる。
 後半は、純粋な悲哀で、前半の複雑さがない。もしありとすれば、限りない尊い天皇の宮の址にふさわしく、そのあわれなる荒廃のさまを、余情として、婉曲に扱っているということだけである。
 この歌は人麿の長歌としては、美しくはあるが力の弱いもので、若い頃の作かと思われる。彼は後にも近江の国へは行っているが、この時はその最初の時と思わせ、若い頃ということを思わせる。しかし一首一章で、前半は複雑した気分を、よく融合させることによって単純にし、また、句を前後させることによって、気分の進行を直線的にし、後半、眼前をいう時には、対句を二回まで操り返し、その中に季節までもあらわしているなど、至れる技巧をもっていたことを思わせる。
 この歌には、「或は云ふ」という所が六か所まである。人麿自身のしたことか、あるいは伝唱されるうちに他人によってそうされたものかは定め難い。
 
     反歌
 
30 楽浪《ささなみ》の 志賀《しが》の辛崎《からさき》 幸《さき》くあれど 大宮人《おほみやびと》の 船まちかねつ
    楽浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 般麻知兼津
 
【語釈】 ○志賀の辛崎 「志賀」は、滋賀の地。「辛崎」は、今も名高い所である。○幸くあれど 「幸く」は無事、幸福の意で、副詞。辛崎の地に人格を認めての語で、山や川が同時に神であるとした古信仰と同じ系統のものと取れる。今は古き都跡という関係においていっているので、こ(68)の信仰はもちやすいものであったと思われる。○大宮人の船まちかねつ 「大宮人」は、大宮に奉仕する人。「船」は、舟遊びのそれで、辛崎はそれに関係の深かった地であることが、後出の歌によって知られる。「まちかねつ」の「かね」は、難の意の動詞で、今も用いられている。「まちかねつ」は、待てど待ち得ずにいる意。
【釈】 楽浪の志賀の辛崎は、その昔に変わらずにいるけれども、大宮人の舟遊びの船を待って待ち得ずにいる。
【評】 不変な自然を人格化し、推移する人事と対照し、人事の推移の悲しみを詠んでいる態度である。悲しみの上では長歌に連なっているが、長歌では大宮の址に立って天皇を悲しんだのと角度を変え、ここでは、湖のほとりに来て、自然をして大宮人を悲しませているのである。態度としては高度の文芸性のものとすると同時に、反歌としては、長歌の繰り返しであったのを進展させ、それと対照的にし、双方を構成的にするという、従来にない変化をもったものとしている。この反歌の手法は、人麿の作にほぼ共通しているもので、彼によって文芸的に進展されたものである。「崎」と「幸」と同音を重ねているところに声調の美しさがあるが、技巧を感じさせない。
 
31 ささなみの 志賀《しが》の【一に云ふ、比良《ひら》の】 大《おほ》わだ淀むとも 昔《むかし》の人《ひと》に またも逢はめやも【一に云ふ、あはむともへや】
    左散難弥乃 志我能【一云、比良乃】 大和太 与杼六友 昔人二 亦母相目八毛【一云、將會跡母戸八】
 
【語釈】 ○志賀の大わだ 「わだ」は、湾曲した水域の称で、湾。志賀の大きな湾で、現在の大津湾。○比良の 志賀のの別伝。比良は琵琶湖の西岸の地名で、大わだと称すべき地形ではない。本行の方がよい。○淀むとも 「淀む」は、水の停滞して動かずにいること。「とも」は、仮説をあらわす助詞で、事実を認めつつ仮定であらわす語法。たといそのように淀んでいようともの意。水の淀んでいるさまに、舟遊びの人を待っている気分を感取しての意。○昔の人に その昔の大津の宮の宮びとに。○またも逢はめやも 「や」は反語。「も」はいずれも詠歎の助(69)詞。また逢うことがあろうか、ありはしないことよ。○あはむともへや 本行の別伝。「もへ」は、「思へ」で、「お」の省略されたもの。「思ふ」の已然形。「や」は反語。今、思えようか、思わないの意。
【釈】 さざなみの志賀の大きな湾の水は、たといそのように人待ち顔に淀んでいようとも、昔ここで舟遊びをした大宮人にまたも逢おうか、逢いはしないことだ。
【評】 上の反歌の延長である。上では志賀の辛崎と狭く限っていったのを、これは志賀の大わだと漸層的に湖上を大観して、その水の静かに淀んでいるのに対し、人待ち顔のさまを感取して、さらに深い哀感を寄せたのである。湖に人格を感じているところも上の歌と同じである。反歌を二首重ねていることも、他に例のないことで、人麿によって創められたことと思える。二首明らかに連作となっており、これも注意されることである。
 
     高市古人《たけちのふるひと》 近江の旧き堵《みやこ》を感傷して作れる歌 或る書にいふ、高市連黒人
 
【題意】 古人という人は、ほかに所見もなく、伝もわからない。資料とした書に従ったもの。堵は、垣の意であるが、都《と》と音が通じるために、通じて用いたもの。近江の旧き堵は、前の歌と同じく古の大津宮である。一書には、作者を高市連黒人ともしてある。黒人はこの時代の人で、集中に多くの佳作をとどめている人である。作風に個性的なところがあって、この歌にもそれがある。黒人の誤りではないかという想像は、理由のあるものである。
 
32 古りにし 人にわれあれや 楽浪《ささなみ》の 故《ふる》き都《みやこ》を 見れば悲しき
    古 人尓和礼有哉 楽浪乃 故京乎 見者悲寸
 
【語釈】 ○古りにし人にわれあれや 「古りにし人」は、本文「古人」で、訓みがさまざまである。「古りにし人」という語は、集中に用例が幾つもあるので、それに従う。「に」は完了の助動詞で強意のもの。世に古くなってしまった人で、言いかえると、老いて感傷的になっている人の意。「われあれや」は、「や」は疑問の係助詞。我はなっているのか。○楽浪の古き都を 楽浪の地にある古い都で、大津宮。天智、弘文二帝の郡で、都は宮の在る所の意。○見れば悲しき 「見れば」は、目にすればで、初めて見たと思われる。「悲しき」は、連体形で、「や」の結び。
【釈】 古くなり去った人で自分はあるのか、楽浪の昔の都を見ると、悲しいことであるよ。
【評】 黒人が初めて大津宮の址を見た時の感と思われる。人麿の歌にあるように、大宮をはじめすべての建造物は、壬申の乱(70)の戦火によって焼失し、残る物とては何一つなかったのである。先代の古都のそうしたさまを見ると、哀感が胸に満ちて堪えられなかったとみえる。しかし人麿とは違って、その哀感を眼前の光景につなごうとはせず、眼を自身の心に向けて、哀感そのものの甚しいのを怪しむ感に捉えられたのである。「古りにし人にわれあれや」は、三句以下その説明である。自身を主としての感傷に終止しているのである。そこに特色がある。表現も、単純に、透きとおっていて、一種の味わいがあり、特色がある。
 
33 楽浪《ささなみ》の 国《くに》つみ神《かみ》の うらさびて 荒《あ》れたる都《みやこ》 見《み》れば悲《かな》しも
    楽浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛
 
【語釈】 ○国つみ神 「国」は、(二)に出た。一まとまりの地域の称で、今は楽浪。「み」は、美称。この神は、楽浪を護る神である。天つ神に対する神である。○うらさびて 「うらさび」は、一つの語。「うら」は、心で、表面に現われない時にいう。「さび」は、「不楽」の字をあてた場合もあって、その意の語。心が楽しまずして。○荒れたる都 大津宮で、楽浪の中のもの。
【釈】 楽浪を護り給う神の心が楽しまなくて、このように荒れた都を見ると、悲しいことであるよ。
【評】 その土地の吉凶禍福は、一にその土地を護り給う神意次第のもので、神の心が喜ぶ時には栄え、喜ばない時には衰えるものと信じてい、またその神の心は、測り難い怖るべきものとも信じられていた。今はこの信仰を心においての悲しみと取れる。大津の宮の荒れ果てたことを、人事のためではなく、不可抗の神意のためとしたのである。事、神である天皇にかかわるものなので、思議を越えたものとし、また、天皇の御事にもせよ、土地の上に行なわれている以上、その土地の神の影響は避け難いものとして、ひたすらに悲しんだ心と解される。この「国つみ神」のことは、当時としては一般に信じられていたことと思われるが、他人によっては言われていないものである。都の荒れた理由を求めて、ここに帰したところは、前の歌と関連があり、天つ神の直系である天皇にもまして、国つ神の威力をより大きく感じているところに、特色がある。庶民の心を代弁しているかの感がある。
 
     紀伊国に幸しし時の川島皇子の御作歌《みうた》 或は云ふ、山上臣憶良の作れる
 
【題意】 川島の皇子は、天智天皇第二皇子で、持統天皇の御弟。行幸に供奉されたのである。「或は云ふ」は、この歌、山上憶良の作という伝えがあったので、巻九にこの歌が重ねて出て、それには今とは反対になっている。
 
(71)34 白浪《しらなみ》の 浜松《はままつ》が枝《え》の 手向草《たむけぐさ》 幾《いく》代までにか 年《とし》の経《へ》ぬらむ【一に云ふ、年は経にけむ】
    白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武【一云、年者經尓計武】
 
【語釈】 ○白浪の浜松が枝の 「白浪の」は、意としては、白浪の寄せるところの意で、それを簡潔にいったもの。この言い方は、後になるにつれてふえてきている。「浜松」は、一つの語。浜に立っている松。「枝の」は、枝の上ので、下の「手向草」のある位置。神に物を供えるには、机に載せるか、または木の枝につけるのが古の風であった。○手向草 「手向」は、神を祭るために供える物の総称。「草」は、料の意の語で、手向の物の意。下に詠歎がある。古は行旅の際、途中の無事を祈るために、行くさきざきの神に幣物を供えて祭をするのが風で、その幣物は、主としては布であったが、木綿《ゆう》、糸、紙なども用いた。○幾代までにか年の経ぬらむ 「幾代」は、幾年。「か」は、疑問の助詞で、係の助詞。「らむ」は推量。幾年ほどの年を、今までに経ていることであろうか。○一に云ふ「年は経にけむ」 「けむ」は過去の推量。年を経て来たことであろうかと、過去にしての想像。
【釈】 白浪の寄せる浜べの松の枝に付けてある手向の幣《ぬさ》よ、どれほどの年を今までに経ているのであろうか。一に云う、どれほどの年の間を経たのであろうか。
【評】 行幸の供奉をしつつ、途中、浜辺の松の枝に付けてある手向草を見られての感である。「幾代までにか」といわれているので、比較的長く朽ちない布であったろうと思われる。行幸とはいえ、行旅の心の緊張しているのは自然である。いつの時にか、我より先に、同じ道を旅した者があって、途中の無事を祈った跡のあるのを認めては、旅愁に似たものを感じずにはいられない。この歌はそれである。しかし旅愁には触れず、「幾代までにか年の経ぬらむ」と、幣の古さに力点を置いていわれているのは、旅愁という実感からやや遊離させたものである。これはいわゆる文芸化で、この態度は「白浪の浜松」という、当時としては新味ある続け方をされたのとも調和するものである。当時の歌の文芸性に向かっていた跡を示している歌といえる。
 「一に云ふ」の方は、手向草の古さの方に注意したもので、比較するとやや知的に見たものである。本行の方がまさっている。これは、山上憶良の作の結句である。
 
     日本紀に曰はく、朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊国に幸したまひきといへり
      日本紀曰、朱島四年庚寅秋九月、天皇幸2紀伊國1也。
 
【注】 日本書紀によって、行幸の年月を考証したものである。
 
(72)     勢《せ》の山を越えましし時の阿閉皇女《あべのひめみこ》の御作歌《みうた》
 
【題意】 勢の山は、和歌山県伊都郡かつらぎ町背の山。吉野川の北岸にある山。大和国から紀伊国へ越えるには必ず通るべき地にある。阿閉皇女は、天智天皇の第四皇女で、持統天皇の御妹。草壁皇太子の妃で、文武天皇の御母。後に即位して元明天皇と申す。行幸の際供奉をされたのであるが、この行幸は持統天皇四年九月で、その前年、すなわち三年四月に夫君は没せられたのである。御歌は夫君を哀悼されたものである。
 
35 これやこの 大和《やまと》にしては 我《わ》が恋《こ》ふる 紀路《きぢ》にありとふ 名《な》に負《お》ふ勢《せ》の山《やま》
    此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山
 
【語釈】 ○これやこの 現に眼前にあるものをさして、これがあのと指示する語法のもので、「や」は、感動の助詞、下に何々なるかの結びのあるもの。○大和にしては我が恋ふる 「大和にして」は、大和に在って。「は」は、大和と現にいる紀伊とを対させる意のもの。「我が恋ふる」は、下の「勢」に続く意のもので、連体形。○紀路にありとふ 「紀路」は、紀州街道というにあたる。「ありとふ」は、あると人のいうで、上と同じく「勢」に続く。○名に負ふ勢の山 「名に負ふ」は、名を負いもっているで、その名は、「勢」すなわち夫を意味する「背」である。一句は、背という名を負いもつている勢の山なのかで、結びは省略されている。
【釈】 これがあの、大和にあってはわが恋い慕うている背の、紀州街道にあると人のいっている、その背という名を負いもっているところの勢の山なのか。
【評】 今、紀伊の山をお越しになる時、その山はかねがね、紀州街道にある山と人からお聞きになっていることを思い出されると同時に、その名に刺激せられて、大和に在って絶えず恋い慕っていられる亡き背の君をさらに恋いしく思われ、それとこれとを一つにして詠まれた御歌である。古は、名というものに対しては、今よりはうかがい難いまでの神秘性を認めていたので、ここも「勢」という名によって、深い感を発せられたものと思われる。複雑な、あらわしやすくはない気分を、屈折をもった言い方であらわしていられるが、混雑なく、安定をもって詠まれているのみならず、突然感を発せられた、その際の気息の強さをもあらわしていられるのは、手腕のほどが思われる御歌である。実感をあらわすだけを目的とされたものと思われるが、技巧の上には、文芸性の高度のものがある。
 
(73)     吉野《よしの》宮に幸しし時 柿本朝臣人麿の作れる歌
 
【題意】 持統天皇の吉野離宮への行幸は、史上に見えるものは三十度を越ゆるまで多いもので、この行幸はいつのこととも知れない。柿本人暦は供奉の中に加わっていて、賀歌を献じたのである。行幸の際はもとより、何らか特殊なことのあった際に、賀の詞を申し上げることは、自然なことに思われる。詞に代えるに歌をもってすることは、上代の風習としてこれまたきわめて自然なことである。もっとも漢文学の影響のあったことは、懐風藻の詩によっても知られることで、この当時は、事に堪える者はすべきことになっていたと思われる。
 
36 やすみしし 吾《わ》が大君《おほきみ》の 聞《きこ》し食《め》す 天《あめ》の下《した》に 国《くに》はしも 多《さは》にあれども 山川《やまかは》の 清《きよ》き 河内《かふち》と 御心《みこころ》を 吉野《よしの》の国《くに》の 花散《はなち》らふ 秋津《あきつ》の野辺《のべ》に 宮柱《みやはしら》 太敷《ふとし》き座《ま》せば 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやひと》は 船《ふね》並《な》めて 朝川《あさかは》渡《わた》り 舟競《ふなぎほ》ひ 夕河《ゆふかは》渡《わた》る この川《かは》の 絶《た》ゆる事なく この山《やま》の いや高《たか》しらす 水激《みなぎ》らふ 滝《たき》のみやこは 見《み》れど飽《あ》かぬかも
    八隅知之 吾大王之 所間食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可間
 
【語釈】 やすみしし吾が大君の (三)に出た。○聞し食す天の下に 「聞し食す」は、一語。「聞し」は、「聞く」に敬詞「す」がついて聞かすとなり、「か」が「こ」に転じたもの。「食す」は、「をす」とも「めす」とも訓んでいる。「めす」の方が用例が多い。「知らしめす」と同意で、御統治になられるの意。「天の下」は、既出。○国はしも多にあれども 「国」は、地理的に、一区域の地をさしていう、郡県制度以前のもの。ここでは、下の続きより見ると、景勝の地域の意でいっているもの。「しも」は、強意の助詞「し」に詠歎の助詞「も」の添ったもの。「多」は、数の多い意で沢山。○山川の清き河内と 「山川の」は、山と川との揃っている意。「河内」は、川の中心、川の行きめぐっている地をも称する語。今は後のものである。「と」は、として。宮滝の地は、吉野川が屈曲して、三方を繞《めぐ》らしている形となっていて、河内というにあたる地勢である。山川の揃っている、清き河内の地であるとしての意。○御心を吉野の国の 「御心を」は、御心を寄すと続き、寄すを音の近い吉に転じて、同音異義で続けた枕詞。「吉野の国」の「国」は、上の「国」と同意味のもの。○花散らふ秋津の野辺に 「花散らふ」は、散るに「ふ」を添えて継続(74)をあらわしたもの。花が散りつづけているで 下の秋津の野の状態をいったもの。この花は、折から眼に見る実景を捉えていったもので、花は桜と思われる。それは人麿の長歌には、何らかの形において、その季節をあらわすのが、手法となっている関係においてである。「秋津の野辺」は、吉野川を中にして、宮滝と、その対岸の野をこめて広い範囲の称であったとみえる。離宮を「あきつの宮」とも呼んでいるからである。現在、宮滝の対岸、吉野川岸に秋戸という名が残っている。○宮柱太敷き座せば 「宮柱」は、宮殿の柱。「太敷き」は、「太」は、柱は大きを貴しとする意で、柱を讃える詞。「敷き」は、「知り」と並び用いられた語で、領有する意。ここは営む意。「座せば」は、いらせらるれば。宮の柱を太く営んでいらせられればで、この二句は古来の成句である。○百磯城の大宮人は 既出。ここは供奉の臣下の意。○船並めて朝川渡り 「船並めて」は、船を連ねて。「朝川」は、川を朝夕に分けていったもので、朝の川。この朝夕は、終日を具象的にまた文芸的にいおうとしてのもの。伝統的な言い方である。○舟競ひ夕河渡る 「舟競ひ」は、舟をこぎ競わせることをして。「夕河渡る」は、夕の河を渡るで、この二句は、上の二句と対句となっていて、供奉の臣下の天皇にお仕えすることのたゆみなさを、離宮の風景に関係させ、また繰り返しとして、力強くいったもので、この状態がすなわち賀の一面である。以上で、一段落である。○この川の絶ゆる事なく 「この川の」は、この川のごとく。「絶ゆる事なく」は、永遠にで、二句、川に寄せての賀である。○この山のいや高しらす 「この山の」は、この山のごとく。「いや」は、ますます。「高しらす」は、諸本異同がある。『新訓万葉集』の訓に従う。これは成語で、「高」は讃え語で、高大に。「しらす」は、御支配になられるの意で、下の「みやこ」に続く。この二句は、山に寄せて永遠を賀したもので、上の二句と対句になっている。○水激らふ滝のみやこは 「水激らふ」は、旧訓「水はしる」を『私注』の改めたもの。「漲る」に、「ふ」を添えて継続をあらわした語。水のあふれほとばしる意。滝の修飾。「滝」は、「たぎつ」という動詞の名詞となったもので、激流をいう。滝の所の意。「みやこ」は、都で、宮の在り場所であるが、ここは宮を主としての意。○見れど飽かぬかも いくら見ても飽かぬことで、きわめて賞美する意。慣用語である。都を勝景を通して讃えた語で、それがやがて賀である。
【釈】 安らかに御支配になっていられるわが大君の御統治になられる天下に、国はたくさんあるけれども、山と川との揃った、清き河内であるとして、御心をお寄せになるこの吉野の国の花の散り継いでいる秋津の野に、宮柱を太く御営みになっていらせられるので、供奉の大宮人は、船を連ねて朝の川を渡って御仕え申し上げ、舟をこぎ競って夕の川を渡って御仕え申し上げる。この川のごとくに永遠に絶えることがなく、この山のごとくにますます高大に御支配になられる、水のあふれつづけている滝の宮は、いくら見ても飽かないことであるよなあ。
【評】 賀の歌は、いわゆる言霊《ことだま》信仰の上に立ったもので、賀の意を言葉短く述べるべきものであったろう。ことにそれが天皇に対しまつる場合にあっては、この用意はいっそう強かるべきである。漢文学を模倣した詩にあっては、これを懐風藻に見ても、帝徳を讃えることが主となっているが、中国の君臣間ではそれが妥当であっても、わが国の天皇と臣下との間にあっては、この事は妥当なのではなく、我にあっては、むしろ天皇の尊貴を涜す怖れあるに近いことである。天皇に対する賀の歌を作るとすれば、ただ天皇の尊貴を讃えまつる心を述べるほかには法がないのである。人麿のこの賀歌は、その態度でのものである。
(75) 長歌の形式を選んだのは、短歌よりも長歌の方が伝統が久しく、したがって今のような儀礼の歌にあっては、古きに従うべきだとして選んだと思える。また、純粋に、単純であるべき賀の歌にあっては、情を尽くすことによって初めて心が遂げられるので、その意味では長歌の形式を必要としたことと思われる。
 この長歌は、二段から成っている。第一段は、天皇が吉野宮にいませば、供奉の臣下は、終日間断なくお仕え申し上げることをいって、天皇の尊貴を述べ、第二段は、吉野宮の永遠なるべきを、永遠なる川と山とに寄せて讃えまつっている。しかしこれは、この長歌を素材的に見てのことであって、人麿の態度は、この素材の扱い方の上にある。言いかえると、この素材の背後にある、語《ことば》とはせずにいるものの中に、正真の人麿の精神は漂っているのである。
 この賀歌は天皇に献ずるものであり、天皇は現に吉野の離宮にましますにもかかわらず、この賀歌にはいずこにも、天皇御自身の面影を偲ばせるものは、一語とてない。天皇は臣下よりは遙かに遠い、眼の及ばないあたりにいられて、臣下はただ心の中に感ずるよりほかないものとしているのである。第一段の、臣下が天皇にお仕え申す状態を述べている部分についていえば、人麿も供奉の臣下の一人で、当然そのお仕え申す者の中に加わっているはずである。しかるに、それをいうにさえ、人麿は第三者として、単にその状態を傍観している者のごとき言い方をしているのである。これは、人麿自身もその中に加わっているようにいうのは、憚りあることとして、わざと避けてのことと思われる。臣下の専心お仕え申すことをいうに、単に「朝川渡り」「夕河渡る」という間接な、何を目的にしたのかが明らかでない言い方をしている関係においてもそう解せられる。この言い方は、文芸性を欲してのものとは逆で、もしそれが許されるものであったならば、全然趣の異なったものとしていようと思われる。
 この扱い方は、第二段も同様である。第二段は宮の永遠と天皇の御威徳とを賀するもので、永遠を川に、御威徳を山に寄せて賀しているのである。言霊《ことだま》信仰の行なわれていた当時にあっては、力強い賀であったに相違ない。しかし賀歌を献ずるのは、天皇に対しまつってである。それを天皇と臣下との間に第一段と同じ隔てをつけ、誰の眼にも映ずるものである宮に言いかえ、しかもその宮を「みやこ」という語に言いかえ、さらにまた、「見れど飽かぬかも」という、勝景に対する讃え語をもって結末としているのは、意識し、用意している人麿の態度からのものと思われる。
 この長歌で注意される今一つの事は、人麿は限られた範囲におき、許される程度において、文芸性を発揮しようとしていることである。ここに文芸性というは、美しさである。
 第一段で、「御心を吉野の国の、花散らふ秋津の野辺」というのは、離宮の所在をいうに、合理的な範囲において、努めて美しさをいおうとしたものと思われる。ことに「花散らふ」は、桜の花の散り継いでいることで、眼前の実景であったろうと取れる。また、第二段の結末の、「水激らふ滝のみやこは見れど飽かぬかも」は、上にいったように、主としては事を間接にしたものと思われるが、同時に他方では、宮を「みやこ」とし、勝景として見る心も伴ったもので、双方が一つになった複雑な味わいをもったものとなっている。これも許される範囲において(76)文芸性を求めたものと思われる。
 全篇単純な構成をつけ、直線的に進行させ、第一段、第二段の結末は、いずれも対句を用いてその事を強化しているなどの点は、事と相俟ってのもので、当然とすべきである。
 
     反歌
 
37 見《み》れど飽《あ》かぬ 吉野《よしの》の河《かは》の 常滑《とこなめ》の 絶《た》ゆる事《こと》なく 復《また》かへり見《み》む
    雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 説事無久 復遠見牟
 
【語釈】 ○常滑の 「常滑」は、「とこ」は、床岩の略で、頂の平らな大岩、「なめ」は、滑《なめ》で、滑らの語幹。表面の滑らかな床のごとき大岩で、川岸の最も印象的なもの。頂の平らな岩の連なりの称だといっている。巻十一(二五一一)に、「隠口の豊泊瀬道《とよはつせぢ》は常滑《とこなめ》の恐《かしこ》き道ぞ」、その他にもある。「の」は、のごとく。
【釈】 いくら見ても飽くことのない吉野の川の、その岸にある常滑のごとくに、絶えることなく後もまた立ち還ってみょう。
【評】 永遠のものである常滑に寄せて、離宮を賀したものである。常滑は、吉野川の特色で、ことに離宮のあたりは代表的に多い。川と山に寄せた心を進め、物と場所を局限することによって妥当性を進めて、それに寄せて賀したのは適切である。その常滑をいうに、「見れど飽かぬ吉野の河の」を添えているのは、常滑の在り場所を具体的にいうとともに、その場所の美しさをも言い添えたもので、長歌と同じ用意をもったものである。
 この反歌の初句「見れど飽かぬ」は、長歌の結句の繰り返しとなっている。人麿よりいささか古い時代の反歌は、長歌の繰(77)り返しのものが多い。反歌はそれから発生したものと思える。反歌に新生面を拓いた人麿であるが、今は立ちかえって、古い型によっている。これは賀歌という、伝統を重んずべきものであるから、意識して、わざとしたものと思われる。この反歌で人麿は、はじめて間接ながら自身をあらわしている。古い型をとおして、新意を出したのである。
【題意】 題は前の歌と同じである。前の歌と同時のものか、または別時のものかは明らかでない。しかし同時のものと思われなくはない。それは人麿は、明らかに長歌の連作をしている上に、前の歌は、大宮人の天皇に仕え奉ることをいったのに対し、この歌は、山の神、川の神が天皇に仕え奉るものなので、天皇の絶対の尊貴を讃えまつるために、観点を変えて、連作として作ったものとも見得られるからである。今は連作と見る。
 
38 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》 神《かむ》ながら 神《かむ》さびせすと 芳野川《よしのかは》 たぎつ河内《かふち》に 高殿《たかとの》を 高知《たかし》りまして 上《のぼ》り立《た》ち 国見《くにみ》を為《せ》せば 畳《たたな》はる 青垣山《あをがきやま》 山神《やまつみ》の 奉《まつ》る御調《みつぎ》と 春べは 花《はな》かざし持《も》ち 秋《あき》立《た》てば 黄葉《もみち》かざせり【一に云ふ、黄葉《もみちば》かざし】 逝《ゆ》き副《そ》ふ 川《かは》の神《かみ》も 大御食《おほみけ》に 仕《つか》へ奉《まつ》ると 上《かみ》つ瀬《せ》に 鵜川《うかは》を立《た》ち 下《しも》つ瀬《せ》に 小網《さで》さし渡《わた》す 山川《やまかは》も 依《よ》りてつかふる 神《かみ》の御代《みよ》かも
    安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 芳野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 国見乎爲勢婆 疊有 青垣山 々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭刺理【一云、黄葉加射之】 逝副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨
 
【語釈】 ○やすみしし吾が大王の 既出。○神ながら 「ながら」は、そのままにの意で、神にましますままに。この「神」は、天皇を現つ神《かむ》としてのもの。○神さびせすと 「さび」は、上二段の動詞で、ここは、その名詞形。そのものに相応した振舞いをする意をあらわす語。「せす」はサ行変格の未然形に敬語の助動詞「す」の添ったもの。「し給ふ」にあたる。「と」は、とて。神としての性をあらわし給うとての意。○たぎつ河内に 「たぎつ」は、水の激しく流れる意。「河内」は、前の歌のものと同じく、河の繞らしている地。○高殿を高知りまして 「高殿」は、高い(78)殿で、離宮には楼があったのである。「高知り」は、「高」は、讃え語で、前に出た。「知り」は、「太敷く」の「敷く」と同じ、全体では、高殿を高大にお営みになられて。○上り立ち国見を為せば 「国見」は(二)に既出。「為せ」は、上の、敬語「せす」の已然形。なされば。他に用例のない語。○畳はる青垣山 「畳はる」は、畳まり重なる意で、下の「山」の状態。「青垣山」は、青い垣のごとき山で、「青」は樹木の色。成語である。この垣は、単なる比喩ではなく、宮にあるべき物とする垣の意のもので、周囲の山。○山神の奉る御調と 「山神」の「み」は、神の意で、山の神。「奉る」は、献ずの古語。「御調」は、「御」は美称。「調」は租税であって、公の御料として、民のその土地に産する物を献じた、その物の称。「と」は、として。山の神の献ずる貢物として。山の神は山その物で、山にして同時に神であるとした、いわゆる自然神である。これは上代の信仰である。その神が、民と同じく天皇に貢物を献ずる意で、天皇を神を支配する絶対神としていっているもの。○春べは花かざし持ち 「春べ」の「べ」は、方の意で、時の上でいったもの。春の頃。「かざし」は、古くは、時の花を髪に挿すのが風となっていた。後の簪《かんざし》はその次第に転じたもの。山の上に咲く花を、山神《やまつみ》のかざしている物とし、それをすなわちその土地の貢物と見たのである。○秋立てば黄葉《もみち》かざせり 「秋立てば」は、秋になれば。「かざせり」は、かざしている。もみちの「ち」は清音である。○一に云ふ、黄葉かざし 一本には、「かざし」と連用形にして、切らずにあるのである。○逝き副ふ川の神も 「逝き副ふ」は、副って流れ逝くで、下の川の状態。「副う」のは高殿に副うので、宮を守る状態とみての語で、川は吉野川である。上の「青垣山」と対させてある。「川の神」は、山神《やまつみ》と同じ性質のもの。「も」は、並べてのもの。○大御食に仕へ奉ると 「大御食」は、天皇の御食饌。「仕へ奉る」は、天皇の御為にする一切をさす語。しようとの意。「と」は、とて。○上つ瀬に鵜川を立ち 「上つ瀬」は、「つ」は「の」。上流。「鵜川」は、鵜飼。「立ち」は、「狩猟に立つ」というと同じで、催す意。鵜飼を催させて。四段活用の他動詞。させるのは川の神である。○下つ瀬に小網さし渡す 「小網」は、小さな手綱で、魚をすくい上げて捕る物。「さす」は、小網《さで》を水にさし入れる意。「渡す」は、こちらの岸から、あちらの岸まで行く意で、魚を捕る状態。上と同じく、人のすることであるが、川の神がさせることとしていっている。○山川も依りてつかふる神の御代かも 「山川も」は、山の神も川の神もともに。「依りてつかふる」は、「依りて」は帰服して。「つかふる」は貢物を献上する意。「神の御代」は、天皇を神として、御代を限りなく讃えた意。「かも」は、感嘆の助詞。
【釈】 安らかに御支配になられるわが大君の、神そのままに、神にふさわしき行ないをなされるとて、吉野川のはげしく流れる河内に、高殿を高大に御営みなされて、その上に登り立って国見をなされると、畳まり重なって、宮を繞っている青垣のごとき山の、その山の神の献ずる貢物として、春の頃は花をかざしとしてもち、秋になると黄葉をかざしとしている。宮に副って流れて同じく守りをする川の神も御饌に献上するとて、上流には鵜飼のわざを催させ、下流には小網《さで》をさし入れてこの岸からかの岸まで行っている。山の神も川の神も帰服して、お仕え申している神の御代であることよ。
【評】 この歌は、天皇にして同時に神にましますところの天皇の、その神の方面を、吉野宮をとおして讃え、それによって賀の心をあらわしたものである。
 天皇の神であることは、天皇があらゆる神々を帰服させていられることをあらわすよりほかに法はない。その帰服は、そのことを具体的にいうことによって、はじめて髣髴《はうふつ》させうるものである。その神々とは山にして同時に山神《やまつみ》である神、川にして同時に川の神であるいわゆる自然神で、帰服とは、それらの神(79)神が、天皇の御民と同じく、その土地で産する物を貢として献ずることである。これは信仰の異なって来た後世から、単に政治的の眼で見ると、何の奇もないことであるが、自然神に対して、その暴力の発揮を極度に畏怖していた上代の心より見れば、それらの神々を帰服せしめて、み民と異ならない従順な態度において貢を献じさせているということは、神々の神にしてはじめて可能なことだったのである。自然神に対する畏怖の情は、貴族にして同時に知識人であった階級によっては、多くの文辞とはなっていないのであるが、農業を生業とし、かたわら狩猟・漁撈をも兼ねていた一般民衆に取っては、根深い、抜き難いものであったろうと思われる。また貴族といってもその下階の者にあっては、その生活上、庶民の生業と密接な関係をもっていたところから、知識の有無にかかわらず、ほとんど庶民と選ぶところのない感情をもたされていたことだろうと思われる。人麿のこの歌によってあらわしている心は、広汎なる範囲にわたっての臣民の情を代弁したもので、ひとり彼のみの心ではなく、まして文芸性のものではないと思える。
 しかし、この感情を表現するに際して取った人麿の態度は、高度の文芸性をもったものである。前の歌においては、天皇を統治者としての天皇の一面に限り、その尊貴を表現するに、天皇と臣下との間に遠い距離を付け、それをすることによって尊貴をあらわした。しかるに今は、その距離を徹底的に徹し去り、神《かむ》ながら神《かむ》さびしたまうとて、高殿に登って国見をする天皇の眼をとおして、山神《やまつみ》、川の神の買物を献ずる状態を御覧になるという、きわめて直接な、したがって主観的な方法を取っているものである。この方法によればこそ、山の春の花、秋の黄葉、川の鵜飼、小網《さで》によっての漁撈が、神の奉仕となりうるので、かりにこれを人の眼をもって見たこととしたならば、たとえいかにいおうとも、神秘性を髣髴しうるものとはならない事柄であろう。すなわち人麿は、神である天皇の神性を表現するには、それよりほかにはない、唯一の方法を選んでいるのである。しかもまた他方により見れば、この神と神との交渉という神秘性を帯びた事柄が、客観的に、印象の鮮明な、むしろ劇的とも感じられるものとなっていて、主観を客観に、神秘を平明にするという矛盾したことを、微妙に調和し得てもいる。この手腕は高度の文芸性のものというべきである。
 この長歌は二段から成っていて、第一段は起首から、結末に近い「小網さし渡す」までで、第二段は、「山川も」以下である。第一段は、天皇自身の御覧になる事柄が、天皇の限りなき尊貴の現われである意で、天皇への賀となり、第二段は、それに密接な関連をもちつつ、臣下より奉る賀となっているのである。この即不即の状態にも、文芸性の凡ならざるものがある。表現技法で注意されることは、第一段の長対句である。すなわち「畳はる」より「黄葉かざせり」までの八句と、「逝き副ふ」以下「小網さし渡す」までの八句は、長対句で、これが一首の中心である。対句は抒情の高潮をあらわす技法で、操り返しの進展したものである。したがって大体は二句の対句である。八句という長対句は、人麿特有のもので、他には企及し得たものがないのである。その自然にして充実していることも独得で、ここに見るとおりである。
 
(80)     反歌
 
39 山川も よりて奉ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも
    山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母
 
【語釈】 ○山川もよりて奉ふる 長歌の結末を、前の歌の反歌の場合と同じく繰り返したもの。この二句は形容詞的修飾語で、下に修飾される名詞が続くべきであり、さらにまた一首の意味からいえば、それが一首の主格となるべき重いものである。しかるにその名詞か省かれた形になっている。「神ながら」は副詞であって、その資格はないというので、問題とされている。作意からいうと、「神」という語がなくてはならないところである。その上からいうと、長歌の結末の「山川も依りてつかふる神の御代かも」の「神」までをここ繰り返し、その「神」の「神ながら」と続く関係において、「神」を「神ながら」に籠めたものと見るよりほかはないものに思われる。「神ながら」は熟語であるから「神」の一語にの み掛けることは許されず、また例もないことである。籠めていると思われる。全体にこの長歌は措辞が簡勁であり,またこの反歌は、ことに精神の昂揚したものであるから、そうした飛躍を行なったものと解される。○神ながら 既出。神そのままにの意で、下の「船出せすす」に続く。○たぎつ河内に 「河内」は、意味の狭い方のもので、河の内。激しく流れる河の内への意。○船出せすかも 「船出」は、船に乗って出る意で、それをされるのは天皇である。「せすかも」は,長歌の語。なされることよなあ。
【釈】 山の神も川の神も帰服してお仕え申す神の神そのままに、激しく流れる河の内へ, 船出をなされることであるよ。
【評】 この長歌と反歌とは一貫して、天皇の神ながら神さびしたまう方面を申したものである。長歌は、この静的な方面をいったのに対し、反歌は、形においては繰り返しであるが、作意としては方面を変えて、その動的な方面をいったものである。この静的動的ということは和み魂、荒み魂と言いかえられるもので、神性の両面である。またたぎつ河内に船出するということは、すでに大宮人の行なっていることで、特殊な事柄ではない。それを神ながら神さびしたまうこととしているのは長歌の場合と同じく人麿の主観で、そこに賀の心があるのである。この反歌は長歌の延長で、心としては繰り返しに近いものであるが、上の反歌と同じく、人麿が自身の眼をもって見た状態で、その意妹を帯びさせたものである。
     右、日本紀に曰はく、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。八月吉野宮に幸す。四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月、吉野宮に幸す。五年、辛卯正月、吉野宮に幸す。四月、吉野宮に幸すといへれば、いまだ詳に知らず、何れの月従駕にして作れる歌なるかを。
(81)      右、日本紀曰、三年己丑正月、天皇幸吉野官。八月幸吉野宮。四年庚寅二月、幸吉野宮。五月幸吉野宮。五年辛卯正月、幸吉野宮。四月、幸吉野宮者、未詳知、何月従駕作歌。
 
【注】 日本書紀より、吉野宮の行幸を抄出し、この歌のいつのものであるかが明らかでないことを考証したものである。ここには天皇の五年までを抄してあるが、六年以後十一年までの行幸を合わせると、二十九度に及んでいるのである。編集者の注である。
 
     伊勢国に幸しし時 京に留まれる 柿本朝臣人暦の作れる歌
 
【題意】 この行幸は、左注によると天皇の六年三月である。この時は都は浄見原にあったのである。人麿は供奉に加わることができず、京に留まって、行幸先のさまを想像して作ったのである。
 
40 嗚呼見の浦に 船乗すらむ をとめらが 玉裳のすそに しほみつらむか
    鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 ※[女+感]嬬等之 珠裳乃須十二 四寶三都良武香
 
【語釈】 ○鳴呼見の浦に「嗚呼見の浦」は、日本書紀に、この年の五月、「御阿胡行宮時云云」という記事があるのにより、阿胡は三重県英虞郡にあり、当時の国府でもあった。その辺りの浦を「あこの滴」といい「こ」にあてた「児」を「見」と誤写したのではないかというのである。『注釈』は委しく考証し、鳥羽湾の西に突出している小浜の入海ではなかろうか、現にその地名が残っているという。従うべきである。○船乗すらむ 「船乗」は、熟語で、船に乗ること。ここは、舟遊びである。「らむ」は、現在推量の助動詞。○をとめらが 「をとめ」は、若き女の意。供奉の女官たちを親しんで呼んだもの。○玉裳のすそにしほみつらむか「玉裳」の「玉」は、美称。「すそ」は裾。「しほみつらむか」は、海の潮が満ちるであろうかで、「らむ」は上と同じ。舟中に坐している若い女と、その舟を繞り囲んでいる海の潮との関係(82)を、玉裳という感覚的なものを逢して想像しての状態である。
【釈】 鳴呼見の浦に今、舟遊びをするだろうおとめたちの、美しい裳の裾に、今、満潮が、寄せていることであろうか。
【評】 大和の平原にのみ生活していた大宮人は、海に対して強いあこがれをもち、また強い魅力を感じさせられていたことは集中の歌によって明らかである。また、天皇は女帝にましますところから、したがって供奉の女官は多かったことと思われる。行幸先を想像すると、第一に浮かんできたことは、「鳴呼見の浦」という土地で、そこは行幸の予定地となっており、また人麿の知っていた所でもあったろう。想像の中心は、満潮を待っての女官たちの舟遊びで、「玉裳のすそにしほみつらむか」はその想像の描写である。浦にある小さな舟に乗り、海の上に出ている若い女官たちの、印象的な裾を繞って、蒼い潮が近々と寄せている状態は感動的なものである。客観的に描写しているが、「らむ」の現在推量を二つまで重ね、「潮満つ」で、満潮時をもあらわしているところ、非凡な技倆である。
 
41 釧着く 手節の崎に 今もかも 大宮人の 玉藻苅るらむ
    釼著 手節乃埼二 今毛可母 大宮人之 玉藻苅良武
 
【語釈】 ○釧着 「釧」は、古の装身具の一種で、臂へ巻いた物で、ひじまきという。釧を着ける手と続いて、手にかかる枕詞。○手節の崎 鳥羽港の海上に答志島があり、そこの崎。○今もかも 「も」は、上の「も」は強意、下の「も」は詠歎の助詞。「か」は、疑問の助詞で係。○玉藻苅るらむ 玉藻の「玉」は、芙称。「藻」は、海草で食料となるもの。藻を苅るのは海人としては生業の一部であるが、大宮人のするのはもとより遊びのためである。
【釈】 手節の崎で、現に今、大宮人は玉藻を苅って遊ぶであろうか。
【評】 行幸の路順を思うと、人麿も知っていたろうと思われる手節の崎が浮かんでくる。そこに想像されることは、大宮人の、海人の生業の一部である藻苅りをまねて興じている光景である。海に憧れている大宮人には、これはきわめて珍しく楽しい遊びで、人麿も、それを想像すると、心躍るものがあったとみえる。その心を、「今もかも」という急迫した語によってあらわし、現在推量の「らむ」で結んでいるのである。この一句が一首の眼目で、これによって一首を生動せしめている。自然と人事との交錯は、この歌に限らず、すベてに通じてのことであるが、「手節の崎」という土地をいうに「釧着く」という人事を配し、「玉藻」に「大宮人」を配している緊密さは、目だたぬものであるためにことに心を引く。作者としてはおそらく無意識なものであろうが、そこに文芸性の現われが感じられる。
 
(83)42 潮さゐに 伊良虞の島べ こぐ船に 妹乗るらむか 荒き島回を
    潮左為二 五十等兄乃鴫邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒鴫廻乎
 
【語釈】 ○潮さゐに 「潮さゐ」は、潮の騒ぐ意。「さゐ」は「騒」の転じたものという。満潮、天侯などの関係よりのもの。潮さいの時に。○伊良虞の島べ 既出。現在は愛知県に属している。前の歌の答志島と伊良湖岬との間は三里で、いらごの渡りといい,途中に幾つもの島がある。『注釈』は、答志島の先、伊良胡崎寄りにある神島を、大まかにいっているのではないかとし、それでも遠過ぎるとしている。人麿の想像しての地であるから、ありうることである。○妹乗るらむか 「妹」は、男より女を親しんで呼ぶ称で,単に親しみの意味でも呼ぶ。前の歌で「をとめら」と呼んだその女官を呼びかえたものと取れる。同じく舟中の女官ではあるが、前の歌の平穏な光景であったのに較べ、これは女官としては不安を感ぜしめる想像であるところから、その気分から親しんで主観的な呼び方にかえさせたものと取れる。○荒き島回を 「島回」は、島辺り。「を」は、「であるものを」の意を含んだ感嘆の助詞。
【釈】 潮さいの時に、いらごが島の辺りをこぐ舟の上に、妹が乗っていることであろぅか。そこは浪の荒い島の辺りであるのに。
【評】 いらごが島における女官たちが想像に浮かんでくると、女官たちはそこの海でもまた舟遊びをすることだろうと思い、それと同時に、そこの海の浪の荒さを知っているところから、にわかに不安を感じてきて、前の二つの場所を想像した時のような平穏な気分ではいられず、その光景を、不安で暗くしたものである。その不安が、前にいった「妹」という特別な呼び方をさえさせているのである。
 以上三首、一境一境気分が異なっているのであるが、いずれも既知の土地の上に大宮人を想像しての気分であって、その変化は一に土地その物が起こさせているものである。同一の人々が、環境の異なるに従って状態を異にしてくるものとし、それを想像の上に描いているところに、人暦の文芸性がみられる。一面連作の趣のみえるのは、それはおのずからなる結果とみるべきである。
 
     当麻真人麿の妻の作れる歌
 
【題意】 上と同じ行幸の際、供奉に加わった夫の当麻磨を思って、京にいるその妻の作った歌である。当麻氏は用明天皇ょり出た。真人姓。麿の伝は明らかでない。
 
(84)43 吾がせこは 何所行くらむ おきつもの 隠の山を 今日か越ゆらむ
    吾勢枯波 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六
 
【語釈】 ○吾がせこは何所行くらむ 「吾がせこ」は、既出。最愛の称。「何所行くらむ」は、「何所」は後世のいづこ。「行く」は都を中心としての語で、都へ向かって来る意。「らむ」は現在推量。供奉の帰程を思って自問したもの。○おきつもの隠の山を 「おきつも」は、沖の藻にあてた字。沖の藻は、浪に障れている物として、隠れるの古語「なばり」に続け、その「なばり」を,地名の名張に転じての枕詞。「隠の山」は、名張の駅家の辺りにある山。名張は三重県にある地で、現在も名張市がある。大和の飛鳥、藤原から伊勢へ行くには、必ず通るべき要地である。飛鳥から名張までは、二日あるいは三日の旅程だという。○今日か越ゆらむ 「か」は、疑問の係の助詞。今日は越えるだろうかで、第三句以下は自問に対して自答したもの。
【釈】 なつかしい夫は、どの辺を帰っていることであろうか。名張の山を今日は越えているであろうか。
【評】 供奉の夫の上を思いやっての心であるが、その心は落ち着いて、明るく、夫を気にかけてはいるが、不安をもってはいないことが注意される。表現は、二段とし、第一段で自問し、第二段で自答している。また、語の続け方は直線的で、平明である。これらは口承文学の特色で、ことにその自問自答の形は、旋頭歌の影響を思わせられるものである。この時代は、口承文学より記載文学に移りつついた時代で、これはその前期の系統を引くものである。
 
     石上大臣の従駕にして作れる歌
 
【題意】 右上大臣は、右上朝臣麿。石上氏は餞速日命の子孫で物部氏の支族。麿が大臣となったのは、この時より後の慶雲元年に右大臣、さらにその後の和銅元年に左大臣となったのである。したがって大臣とあるのは、後の官位にょるものである。従駕は行幸の供奉で、行幸は、前と同じ時。
 
44 吾妹子を いざ見の山を 高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも
    吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
 
【語釈】 ○吾妹子を 妻に対する最愛の称で、前の歌の「吾がせこ」に対するもの。吾妹子を、いざ見むといぅ意で「いざ見」にかけた枕詞。○(85)いざ見の山を高みかも 「いざ見の山」は、三重県飯南郡の西端と奈良県吉野郡との境にある高見山であろうという。この山はその付近の山の中で最も高く、また、吉野と伊勢神宮との交通要路にあるといぅ。「高み」は、「高」を動詞に化したもので、高き故にの意。「かも」の「か」は、疑問の係の助詞。○大和の見えぬ 「見えぬ」は、見られぬで、「か」の結びで、連体形。○国遠みかも 大和の国の遠いゆえなのか。
【釈】 吾妹子をいざ見ようという名をもったいざ見の山が高いゆえであろうか、なつかしい大和の国が見えないことよ。それとも大和の国が遠いゆえであろうか。
【評】 麿はこの当時も重職にいたのであるが、行幸の供奉をしていると旅愁を感じ、婉曲ながらそれをいっているのである。これは身分の低い者にはなく、高い者にだけ限られていたこととみえる。このことは言いかえると、身分高く、したがって教養も高い者は、文芸性を発揮しようと意識していたものとみえる。表現としては、口承文学の伝統の上に立ったもので、初句より四句まで直線的に続け、結句で多少の屈折を付けたもので、全体としても、明るく、軽く、浸透性の少ないものである。しかし同時に、記載文学としての細かい技巧をも伴わせていて、その点が注意させられる。「大和」といい、「国」と繰り返していっているのは、その家であり、家とは妻と同意語である。今は繰り返しによってその心を暗示している。これがすでに細かい技巧てある。しかしそれにとどめず、「いざ見の山」の枕詞として、「吾味子を」という語を据えきたり、それによってこの心を強めてもいる。これらはすべて記載文学の技巧で、しかも高度なものである。また、三句「高みかも」は、心としてはそこに休止はないが、調べとしては置いてある。それは、結句の「国遠みかも」と、調べの上で繰り返しの形を取らせょうとしているがためである。この技巧は、本来としては口承文学のものであるが、その技巧の用法の心細かさは、記載文学的なものといえる。口承文学と記載文学とが、極度の心細かさをもって交錯している歌で、時代を語っているものである。この歌も相聞である。ここに加えた理由は、前の歌と同じである。
 
     右、日本紀に日はく、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔にして戊辰の日、浄広肆広瀬王等を以ちて留守の官となす。ここに中納言三輪朝臣高市麿、その冠位を脱ぎて朝に(敬と手)上げ、諌を重ねて曰さく、農作の前、車駕いまだ以ちて動きたまふべからずと。辛未の日、天皇諌に従はずして、遂に伊勢に幸したまふ。五月乙丑の朔にして庚午の日、阿胡の行に御しきといへり。
      右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以浄廣肆廣瀬王等為留守官官。於是中納言三輪朝臣高市暦、脱其冠位撃(敬と手)上於朝、重諌曰、農作之前、車駕未可以動。辛未、天(86)皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。
 
【左注】 日本書紀によって、伊勢国への行幸のことを考証したものである。浄広肆は、天武天皇の十四年に定められた位階であり、広瀬王は、系譜は未詳。小治田の広瀬王として歌(巻八・一四六八)がある。養老六年正月、正四位下で卒す。留守官は、天皇の行幸の際、京にとどまって、諸司の鑰を管し、宮城を守る官。三輪朝臣高市暦は、三輪氏は大国主命の後。朝臣は天武天皇の十三年に賜わった姓。「冠位を脱ぎて朝に(敬と手)上げ」は、位階は冠によって順序が定められていたので、それを脱ぎて撃(敬と手)上げるのは、位階を返上する意。阿胡の行宮は上にいった。
 
     軽皇子の安騎野に宿りたまひし時、柿本朝臣人麿の作れる歌   
 
【歌意】 軽皇子は後の文武天皇。御父は皇太子草壁皇子(日並知皇子尊)の第二子で、持統天皇の十二年二月皇太子となり、その八月即位した。安騎野は奈良県宇陀郡で、今の松山町迫間付近の野である。この野は皇室の御狩場となっていた。「宿りたまひし」は、この行啓の時は、御父草壁皇子の薨去になられた後で、追慕の心をもって、生前、狩猟をなされた野に、その事のあった冬の季節に行啓になり、御宿りになった意である。草壁皇太子の薨去は、持統天皇の三年四月で、それから即位までの間である。人贋はその供奉の中に加わっていたのである。
 
45 やすみしし 吾が大王 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷か す 京を置きて 隠口の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根 禁樹押し靡べ  坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪落る 阿騎の大野に 旗すすき しのを押し靡べ 草枕 たびやどりせす 古念ひて
    八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須登 太教為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而
 
【語釈】 ○やすみしし吾が大王 (三)に出た。○高照らす日の皇子 「高照らす」は、高く照らしているで、日の修飾。「日の皇子」は、日神の御末の意。以上、四句は、君主であるとともに神である意で、天皇、またはおもだった皇族に対する讃詞。ここは軽の皇子に対していったもの。(87)○神ながら紳さぴせすと (三八)に出た。○太敷かす京を置きて 「太敷かす」は、太敷くの敬語。(三六)に出た。高大に御支配になる。「京を
置きて」は、「大和を置きて」(二九)と同じ形で、京をさし置いて。京は、浄御原か藤原か不明である。○隠口の泊瀬の山は 「隠口」は、隠れる国の意で、その地勢をいぅ意で、泊瀬にかかる枕詞。大和国風土記残篇に、「長谷郷云々、古老伝云,此地両山潤水相夾而、谷間甚長、故云隠口長谷也」とある。「く」は「くに」。「泊瀬」は、今、桜井市、初瀬町といっている町を中心として、黒崎、出雲などをその一部としている旧、朝倉村をも含んだ地であったと思われる。「は」は、他と対させる意の助詞。○真木立つ荒山道を 「真木立つ」の「真木」は、檜、杉など立派な木の通称。「立つ」は、そうした木の生い立っている。「荒山道」は、人どおりの稀れな荒い山道。「を」は、感歎の助詞で、ものをの意のもの。○岩が根禁樹押し靡べ 「岩が根」は、岩で、「根」は、木根、垣根などの根と同じく、地に固定している物に添えていう語で、単に石というに同じ。「禁樹」は、訓み難くしているが、正宗敦夫氏の、「道をさえぎる木」の意に従い「さへき」とよむ。「押し靡べ」は押し伏せての意。岩が根と禁樹の双方に対してのこと。○坂鳥の朝越えまして 「坂鳥の」は、坂を飛び越える鳥のごとくの意で、鳥は習性として朝早く塒を出て、餌をあさるところから、「朝越え」の比喩としたもの。枕詞の一歩前のもの。「越えまし」は、「越え」の敬語。朝の間に、泊瀬の山をお越えになって。○玉かぎる夕さり来れば 「玉かぎる」の「玉」は、玉。石や貝で作ったもの。「かぎる」は、ほのかにかがやく意。夕、ほのか、はるかなどにかかる枕詞。「夕さり釆れば」は、夕ベと移り来れば。○み雪落る阿騎の大野に 「み雪」の「み」は、美称。「雪落る」は、眼前の景。鷹狩は冬の事と定まっていた。「大野」の「大」は、野をたたえて添えたもの。○旗すすきしのを押し靡 「旗すすき」の「旗」は、薄の穂の旗のように見えるところからの語で、熟語。眼前の物。「しの」は、小竹を初め、茅、荻など禾本科植物の総称。「押し靡べ」は、上と同じ。○草枕たぴやどりせす 「草枕」は、「たび」の枕詞。「せす」は、「す」の敬語。○古念ひて 「古」は、御父尊のこの野に狩をしたまいしこと。この二句は、この行啓の御趣意をいったもので、行啓は狩のためではなく、古を思ってのことで、そのために旅宿りをしたまうの意。当時は、近い過去も古といった。
【釈】 やすみししわが大王にして、高照らす日の皇子には、神とましますままに神の御行ないをなされようして、高大に御統治こなられる京をさし置いて、泊瀬の山は、真木の立ちつづく荒い山道であるのに,そこの岩をも遮り立っている木立をも押し伏せて、坂を越える鳥のごとくに朝の間にお越えになられて、夕ベと移り来ると、雪の降っている阿騎の大野に、旗のさまをしている薄と、小竹などを押し靡かせて、旅宿りをしたまう、古の父尊の御事をお思いになって。
【評】 日並皇子尊の殯宮の時、人麿の挽歌として作った長歌の反歌の一首に、 
 ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも(一六八)
といぅのがある。薨去になられた皇子尊に対しての忠誠は、いつまでも皇子を偲び奉りて忘れないといぅことが、残された唯一のものであり、また偲び奉るには、何らかの物または事を通さなければならないといぅのが当時の人の心であった。この歌は、その偲び奉るべき御門が、薨去とともに荒廃に委ねらるべきことを思って、その意味で悲しんだのである。軽皇子の安騎野への行啓は、それと心を同じくしたもので、父皇子の好んで鷹狩をなされた野へ、その事のあった季節において行啓になり、(88)父皇子を御追慕になろうとしたのである。当時は狩は、男子にとっては代表的の遊びであって、日並皇子尊の殯宮へ仕え奉っていた舎人《とねり》の一人は、
  褻衣《けごろも》を時|片設《かたま》けて幸《いでま》しし宇陀の大野《おほの》は思ほえむかも(一九一)
と悲しんでいる。宇陀の大野とはすなわち安騎野である。父皇子追慕の場所としては、安騎野は絶好の場所だったのである。
 この歌は、長歌と短歌と相対立した形になっているものである。長歌の方では皇子の上をのみ申し、短歌の方で臣下の心を述べる形となっている。今、長歌についていうと、心としては殯宮の歌に近いものであるが、事としてはそれとは別で、したがって言うことにも制限がなくてはならない。今は、皇子を通してその心をいおうとしているのであるから、一段と制限がある。皇子に対して捧げまつるべき尊敬の心は、なれなれしい物言い、すなわち立ち入つての物言いをするのは、あくまで遠慮すべきである。一首の眼目を結末に置き、「たびやどりせす古念ひて」という、距離を置いた、つつましい物言いにとどめているのは、こうした際の、臣下の態度として、当然なものと思われる。しかしこの「古念ひて」は、世の常のものではないことをいおうとし、それをいうにも、同じ用意から、婉曲に、余情的にいおうとして、その点には力をそそいでいる。起首の「太敷かす京を置きて」以下、結末の「草枕たびやどりせす」まで、すなわち一首のほとんど全部は、道中の容易ならぬことをいうことによって、追慕の情のいかに強きかを暗示したものなのである。この暗示的な、すなわち余情的な言い方が、皇子に対して臣下の言うを許される限度であるとしたのである。
 藤原の都から、宇陀の安騎野までの道は、困難な道であるにもせよ一日路である。まして父皇子の狩のためにしばしば通われた道でもある。その困難にも程度がある。しかるに今は、「隠口の泊瀬の山は真木立つ荒山路を、岩が根|禁樹《さへき》押し靡べ」と、きわめて困難な道のようにいっている。また、鷹狩は冬季のもので、野に宿るのは普通のことであるのに、「み雪落る阿騎の大野に、旗すすきしのを押し靡べ」と、これまた、きわめて侘びしいことのようにいっている。楽しんですることと悲しんですることとは、同じことでも甚しく異なって感じられるのは当然であるが、今の場合は、意識的にその困難、佗びしさを強調したもので、その強調によって、皇子の追慕の深さを暗示しようとしたものと思われる。ここに人麿の表現技巧が認められる。
 
     短歌
 
【題意】 長歌に添う短歌は、反歌と称してきたのが、ここにはじめて短歌とある。反歌と同じ意味で用いるようになったものと思われる。長歌の題に単に「歌」と記し、反歌が添うようになってから「并に反歌」と記しているのは、伝統の上からは比較的古い記し方と思われる。長歌は古い形式で、歌といえば長歌と定まっており、その長歌の結末を、短歌形式で繰り返したものが反歌だったと思われる。しかるに、長歌より後れて発達した短歌が、時代の要求に適しているところから勢力をもち、従来単なる繰り返しであった反歌が、長歌よりなかば独立した趣をもつようになってきたのであるが、その延長として、反歌を短歌と記(89)すようにさえなったものと思われる。反歌を長歌よりなかば独立させたのも、いったがように人麿によって創められたことである。今また、反歌を短歌と記すのも、同じく人麿の作において見るのである。この記し方は、人麿のしたものと思われる。
 
46 安騎《あき》の野《の》に 宿《やど》る旅人《たびびと》 うち靡《なび》き 寐《い》も宿《ぬ》らめやも 古《いにしへ》念《おも》ふに
    阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓
 
【語釈】 ○宿る旅人 宿っている旅の人で、供奉の臣下のみを指したものと取れる。皇子の御上は長歌の方で止め、こちらは臣下のみのことをいったことは、以下の歌でも察しられる。○うち靡き寐も宿らめやも 「うち靡き」は、安らかに寐る状態を、草などに喩えていつた語。「寐《い》」は、「寐る」の名詞形。「も」は、感歎。「宿らめや」の「や」は、已然形の「め」を受けた反語。「も」は、感歎。熟睡などできようかできないの意。
【釈】 安騎の野に宿っているわれわれ供奉の旅人は、身を横たえて熟睡などできようかできはしない、薨去になった皇子尊を思うので。
【評】 以下四首の短歌は、長歌で皇子の御事を申したのに対させて、供奉の臣下の事のみをいったものである。また、時間的にも対させて、皇子の方は、夕方までで止め、こちらは、宵から朝までへかけての心持をいっている。その上からいうと、この歌は宵の心持で、身を横たえて寐る気にもなれないことをいったものと取れる。しかし長歌とは繋がりをつけて、長歌の結句「古念ひて」と同じく、こちらも「古念ふに」といっている。
 
47 真草《まくさ》苅《か》る 荒野《あらの》にはあれど 黄葉《もみちば》の 過《す》ぎにし君《きみ》が 形見《かたみ》とぞ来《こ》し
    眞草苅 荒野者雖有 黄葉 過去君之 形見跡曾來師
 
【語釈】 ○真草苅る荒野にはあれど 「真草」の「真」は、「真木」のそれと同じく、立派なという意で、「真草」は丈高い、荒野にふさわしい草。「荒野」は、「荒山」のそれと同じく、人跡の稀れな、すなわち荒涼たる野。○黄葉の過ぎにし君が 「葉」は、「黄葉の過ぎ」という語が集中に多いところから推して、「葉」の上に「黄」の脱したものと『代匠記』が考証した。黄葉のごとくで、その脆く散るところから「過ぎ」に意味で続く枕詞。「過ぎにし」は、命過ぎにしの意で、死にしの意。君は、日並知皇子尊。○形見とぞ来し 「形見」は、今もいう語。目に見ない人の記念として見る物の意で、今は安騎野である。「来し」の「し」は、「ぞ」の結び。
【釈】 丈高い草を苅るだけの、人跡稀れな野ではあるけれども、亡くなられた君の記念の野として来たことである。
(90)【評】 荒涼たる野の中に、思い出の悲しみに浸っていて、野の荒涼感の深まるとともに、悲哀も深まって来た時、われとわが状態を意識し、その状態の本意であることを強く思った心の表現である。時間のことはいってはいないが、全体が連作である関係上、そのことは前後の歌で暗示してい.ると取れる。それだとこの感を発したのは、真夜中と思われる。そう思うと、この心理は自然なものとなってくる。「真草苅る」と人事にからませ、また「黄葉の」と季節にからませての用法は、さりげないものであるが、緊密で、深い哀感にふさわしい。
 
48 東《ひむかし》の 野《の》に 炎《かげろひ》の 立《た》つ見《み》えて 反《かへ》り見《み》すれば 月西渡《つきかたぷ》きぬ
    東 野炎 立所見而 反見爲者 月西渡
 
【語釈】 ○東の野に 「東」は、日向《ひむか》しの意で、東の古語。用例の少なくないもの。「野」は、安騎野。○炎の立つ見えて 「炎」は、火気でも日光でも、その気が大気に映ってゆらゆらする状態をいう語で、名詞。今は、日が出るに先立って、その気が野の大気に映っているもの。「立つ」は、現われるで、炎のゆらめく状態。○反り見すれば月西渡きぬ 「反り見すれば」は、振り返って反対の方すなわち西を見れば。「月西渡きぬ」は、月の入らんとして斜めになった意。
【釈】 東方の野には、日の出に先立つ陽炎のゆらめくのが見えて、振り返って見る西方の空には、夜の月が傾いた。
【評】 夜明け前の野の景の直写である。夜より明け方にと時が推移するに伴って、環境としての野の光景が変わってくる、その変化のために、浸りつづけていた悲哀から離れた状態である。現在ここと推定される安騎野は、さして広いものではないという。それだと、広漠たる野であるがごとく感じているところに、心理の自然があるといえ、またそこに人麿の文芸性があるともいえる。また、この歌は、東の炎と、傾ぶく月との対照には、皇子と父尊とが暗黙の間にからんでいるがごとき感を起こさせるものがある。人麿の気分のうちに、そうしたものがあったのではないかと思われる。
 
49 日並《ひなみし》の 皇子《みこ》の命《みこと》の 馬《うま》なめて 御猟《みかり》立《た》たしし 時《とき》は来向《きむか》ふ
    日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獵立師斯 時者來向
 
【語釈】 ○日並の皇子の命の 「日並」は、語意とすると、日に並んで統治する意で、いわゆる摂政の意で、普通名詞と解される。今は皇太子草壁皇子の尊称で、やがてこの皇子の御名のごとくなった語。「皇子の命」は皇太子を尊んでいう称。○馬なめて御猟立たしし 「馬なめて」は、馬を(91)並べて。「御猟立たしし」の「立たしし」は.「立つ」の敬語「立たす」の過去。御猟にお出かけになったことのあったの意。〇時は来向ふ 「時」は、意味の広い語で、今は時刻とも季節とも取れる。ここは季節である。「来向ふ」は、来て対している意で、その時刻となっているの意。
【釈】 日並皇子命が、馬を連ねて御猟にお出かけになられたことのあった、ちょうどその季節となっている。
【評】 第一首の結句「古念ふに」また第二首の結句「形見とぞ来し」という心の、その最高潮は、この歌の「御猟立たしし時は来向ふ」である。すなわちお偲びする皇子を、その形見の野において、ありありと眼の前に偲ぶことのできる時だからである。これが四首の連作の頂点で、前の三首はこの頂点の内容をなすためのものとも言いうるものである。長歌の題詞において「宿り給ひし」といって、その内容も宿られるに止め、短歌の方も、一|夜《よ》の宿りの推移をいい、思い出の頂点において止めている形のものである。それがこの行啓の趣意であったことが明らかである。歌の上では、猟ということには全然触れていないことが注意される。
 
     藤原宮の※[人偏+殳]民《えだちのたみ》の作れる歌
 
【題意】 藤原宮の御造営の際、※[人偏+殳]《え》として仕え奉った民の作った歌である。「※[人偏+殳]」は「役」に同じ。藤原宮の御造営のことは、左注にある。「※[人偏+殳]」というのは、当時の制として、国民は租調のほかに、労力をも献ずべきこととなっていて、それを※[人偏+殳]と呼んだ。一年に十日間の労力である。※[人偏+殳]として出ることを「※[人偏+殳]に立つ」とも、「※[人偏+殳]立《えだ》ち」ともいった。「※[人偏+殳]民」の訓は定まっていない。「えだちの民」と訓む。この歌は、※[人偏+殳]民の作った歌となっているが、歌そのものは、天神地祇の心を合わせてこの事を助けたまうのに加えて、※[人偏+殳]民の専心に奉仕しているさまを、第三者として見ての心を述べたものである。その点から見るとこの題詞は、歌の内容を示そうとするよりも、歌そのものの性質を示そうとしているものである。こういう題詞の添え方は、宮中の歌※[人偏+舞]所《うたまひのつかさ》においてされたものではないかと思われる。それだとすれば、その題詞を、そのままにここに移したものと思われる。作者はもとより不明である。
 
50 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》 高照《たかて》らす 日《ひ》の皇子《みこ》 荒妙《あらたへ》の 藤原《ふぢはら》がうへに 食《を》す国《くに》を 見《め》し賜《たま》はむと 都宮《みあらか》は 高知《たかし》らさむと 神《かむ》ながら 念《おも》ほすなへに 天地《あめつち》も よりてあれこそ 磐走《いはばし》る 淡海《あふみ》の国《くに》の 衣手《ころもで》の 田上山《たなかみやま》の 真木《まき》さく 檜《ひ》の嬬手《つまで》を もののふの 八十氏河《やそうぢかは》に (92)玉藻《たまも》なす 浮《うか》べ流《なが》せれ 其《そ》を取《と》ると さわぐみ民《たみ》も 家《いへ》忘《わす》れ 身《み》もたな知《し》らず 鴨《かも》じもの 水《みづ》に浮《う》き居《ゐ》て 吾《わ》が作《つく》る 日《ひ》の御門《みかど》に 知《し》らぬ国《くに》 依《よ》し巨勢道《こせぢ》より 我《わ》が国《くに》は 常世《とこよ》に成《な》らむ 図《ふみ》負《お》へる 神《くす》しき亀《かめ》も 新代《あらたよ》と 泉《いづみ》の河《かは》に  持《も》ち越《こ》せる 真木《まき》のつま手《で》を 百《もも》足《た》らず いかだに作《つく》り 泝《のぼ》すらむ いそはく見《み》れば 神《かむ》ながらならし
    八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國平 安之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曾 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 眞木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國  依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 眞木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
 
【語釈】 ○やすみしし吾が大王、高照らす日の皇子 既出。持統天皇を申している。○荒妙の藤原がうへに 「荒妙」の「妙」は、織布の総称。「荒」は、繊維の粗《あら》い意で、その反対の「和《にぎ》」に対した語。藤、葛などの繊維がすなわちそれで、意味で、「藤」にかかる枕詞。「藤原」は既出。古くは「藤井が原」と呼んだことが、次の歌で知られる。「が」は、「の」と似ているが、下の語を主とした場合に用いる。「うへ」は、上で、「野上《ののへ》のう萩」(二二一)、「高円《たかまと》の秋野《あきの》のうへの」(四三一九)などと同じく、そこにある物につき、その地域を指す語。○食す国を見し賜はむと 「食す国」の「食す」は、(三六)に出た。食すの古語で敬語。転じて、外部の物を身に取り入れる意から、統治の意となったもの。統治する国、「見し」は、「見る」の敬語で、「見」をサ行四段に転じたもの。これも、「食す」と同じく、転じて御統治の意となった語。○都宮は高知らさむと 「都宮」の訓は、『考』の訓で、古語拾遺にある語である。「み」は、美称。「あらか」の「あら」は、「現る」の語幹で、現われる処の意であろうと『講義』はいっている。宮殿の意。「高知らさむ」は、(三八)に出た。「高」は讃え詞。「知らさむ」は、知るの敬語で、ここは御造営になろうの意。○神ながら念ほすなへに 「神ながら」は、(三八)に出た。「念ほす」は、「念ふ」の敬語「思はす」の転じた語。「なへ」は、並みの転で、上のことに並んでで、同時に、それにつれての意。神ながら思し召されると同時に。○天地もよりてあれこそ 「天地」は、天つ神、地《くに》つ祇《かみ》の意。「も」は、並ぶ意のもので、下の「み民」に対するもの。この「天地」は、造営の檜材を、近江国の田上山が供給し、その運搬のことを宇治河より泉河がしていることをいったもので、下の続きがそれである。「よりてあれこそ」は、「よりてまつれる」と(三八)に出た。天皇に帰服してあ(93)ればこその意。「あれ」からただちに「こそ」に続くは古格で、後世だと間に「ば」とあるところである。「こそ」は係で、下の「浮べ流せれ」に続く。○磐走る淡海の国の (二九)に出た。○衣手の田上山の 「衣手の」は、衣手は袖で「手」を畳音の関係で「田」に続けて枕詞としたもの。「田上山」は、滋賀県栗太郡瀬田町、大戸川下流の南岸にある山。『講義』は正倉院の古文書に、「田上山作所」とあるところから、この山に、今日いう製材所のあったものだろうといっている。○真木さく檜の嬬手を 「真木さく」は、「真木」は檜、杉などの良材の称であるが、ここは続く「さく」との関係から檜と取れる。「さく」は、裂くである。檜は木理《もくめ》の関係から、これを縦に裂くには、楔《くさぴ》の類を打ち込み、裂け目を作ると、たやすく薄く裂くことができ、これは今日でも実行している方法である。「真木さく」は、檜を裂くところの「ひ」と続け、その「ひ」を同音の「檜」に転じたものと解される。「ひ」という語は、古典の上には見えないものであるが、長野県の松本地方では、口語として用いているのを耳にしている。それは建築の際、縦の柱と横の椽木《たるき》との間に、いささかの隙間のできたような場合には、そこを締めるために、隙間に合わせた楔を作って打ち込む、その楔を「ひ」といい、それを打ち込むことを「ひを打つ」ともいっているのである。「楔」という名称と「ひ」という名称とは関係のあるものに思われる。古典の上で、この「ひ」に関係のある語として、『講義』は、古事記上巻、八十神が大穴牟遅神を虐げる条に、大木の割れ目に矢という物を茹《は》めた、それを「氷目矢《ひめや》」といったのを引いている。「矢」というのは、楔が鏃《やじり》の形をしているからの称で、「氷目失」は、楔として用いる矢という意で、「ひの矢」の意と思われる。今は「ひ」をそれと解し、これが同音異義の関係で「檜」の枕詞となっていると解しておく。「嬬手」は、「嬬」は稜《つま》で、木造りした木のもっている角《かど》。「手」は、料で、檜の木造りをした物。○もののふの八十氏河に 「もののふ」は、物の部《ふ》で、「物」は、多くの物の意。「部」は、職業団体の称で、貢物をもって、また勤労をもって、朝廷に奉仕する多くの集団の意で、廷臣はその集団の長すなわち緒であった。「八十氏」は、そうした奉仕をする氏が多かったところから続けたもの。要するに朝廷の百官の意で、それが武臣を意味する語となったのは、やや後のことで、意味が転じたのである。「氏」を「宇治」に、同音異義で転じて、序詞としたもの。「宇治河」は、近江の海から発して、淀河に合流する河の、宇治を通過する時の名称で、上流は田上川、瀬田川、下流は泉川(木津川)である。○玉藻なす浮べ流せれ 「玉藻なす」は、「玉藻」は、(四二〉に出た。玉藻のごとく。「浮べ流せれ」は、上の「天地もよりてあれこそ」の結びで、天地の神、すなわち上代信仰による山にして同時に山つみであり、川にして同時に川の神である神々が、山つみはその貢物として檜の嬬手を献じ、川の神はその役として、それを浮かべて流したというのである。注意されることは、「天地」とはいうが、この山と川の神は、いずれも「地」の神であって、「天」と称すべきではないことである。以上、一段である。○其を取るとさわぐみ民も 「そ」は、檜の嬬手。「取る」は、流れるのを取り止める意。「と」は、とて。「さわぐ」は、忙しく立ち働く状態をいったもの。「み民」の「み」は、天皇の民とのゆえで、重んじて添えたもの。これは、民自身も、同じ意識からいう称。今は前者の意である。「も」は、上の「天地」に対させたもので、もまた。○家忘れ身もたな知らず 「家忘れ」は、公のために、私の家の事は忘れ去って。「身も」の「も」は、「家」に対させたもの。「たな知らず」の「たな」は、「たな曇り」など、例が少なくない。全くというにあたると、安藤正次氏はいっている。「知らず」は、知られずで、上の「忘れ」と同じ心を、強く繰り返したもの。○鴨じもの水に浮き居て 「鴨じもの」は、「じもの」は、のごときものの意で、「じ」は、シク活用の語幹で、体言を形容詞化するために添えたもの。名詞形で、連用修飾語。例の多いものである。「水に浮き居て」は、宇治川の流れの中に浮かぶ形で立っていてで、この語は、文意としては後の「泉の河」に続くものである。○吾が作る日の御門に 「吾が作る」は、御民われが造営する。「日の御門」は、日の御子の宮殿の御門で、(94)日の御子は天皇。御門は宮殿を代表させての語で、宮殿の意。天皇の宮殿にの意。○知らぬ国依し巨勢道より 「知らぬ国」は、未知の国で、わが国以外の異国。「依し巨勢」は上よりの続きは「依し来せ」で、その来せを「巨勢」に転じたもので、「吾が作る以下」は、その序詞である。「依し来せ」につき、『全註釈』は、「来せ」は、希望の助動詞「こす」の命令形で、寄ってほしいの意とし、証として「妻依来西尼《つまよしこせね》」(巻九、一六七九)、「許余比太尓郡麻余之許西祢《こよひだにつまよしこせね》」(巻十四・三四五四)を挙げている。しかし「依し」は「依り」と訓んでいたのを『注釈』は「依し」と訓むべきだとしている。上の二例だと同語だとしてのことである。「依し」はサ行下二段の他動詞で、したがって「依し来せ」は、天地の神がわが朝廷に、異国を帰服させ給えの意だとしている。これに従う。この序詞は特殊なもので、形としては同音異義でかかる普通のものであるが、心としては、天皇の御代の尊さを示している事実なのである。この御代に異国人の帰化したということは、際立った事実としては史上に現われていないがこの種の事は、すでに古い時代より始まっているもので、歴代、継続的に行なわれていた事と思われるので、この御代にも当然あった事と思われる。今は、御代を讃える心をまずもって、その事を取り立てて強調し、これを序詞の形をもっていっているのである。「巨勢」は、今の奈良県|御所《ごせ》市古瀬付近。巨勢山の東にある地。「巨勢道」は、その巨勢へ行く道。○我が国は常世に成らむ 「常世」は、恒久不変の国の意で、中国の道教でいう不老不死の国の意味である。「成らむ」は、変わらむで、これは「図《ふみ》」に続く。○図負へる神しき亀も 「図負へる」は、模様を背中にもっているで、その模様は、上の「我が国は常世に成らむ」という意味をもったものである。「神しき亀」は、「神しき」は、不思議の意。「図負へる亀」は瑞祥としての物で、その思想は中国から来たものである。中国でそれを瑞祥とするのは上代からで、尚書に禹《う》の時代からこれを尊信したことを伝えている。わが国では唐時代の制を伝えて、延喜式の瑞祥の中には、神亀を大瑞と定めている。今もそうした心をもっているのである。「亀も」の「も」は、並べる意のもので、これを田上山、宇治河の神々と並べて、天つ神のその意をお示しになったものとしたのである。すなわち上の「天地」といっている中の、山川の神の地《くに》つ祇《かみ》であるのに対させて、「天」すなわち天つ神の方にあてていっているのである。○新代と泉の河に 「新代」は、新しき御代で、『講義』はこの「新」は、「天(ノ)命維(レ)新(ナリ)」というそれで、御時世の一新をいったものだろうといっている。「と」は、としてで、新代の瑞祥としての意。さて形の上からは、「新代と出づ」と続き、その「出づ」を、地名の泉の河「いづ」に転じて、「吾が国は常代に成らむ」以下「新代と」までの長い語を、「泉」の序詞としているのである。しかしこれを意の上から見ると、巨勢道より神しき亀が出たという事実にもとづき、それを天意を示すところの大瑞なりとし、当時の信仰によって、これを天つ神の神意の現われであると解して、天皇の御代を讃えているものである。これを序詞の形としているのは、文芸上の技巧を喜ぶ心からのことで、意《こころ》としては、この一首の中の重大なる部分なのである。「泉の河」は、今の木津川である。山城国|相楽《さがら》郡にある川で、伊賀より来たり、男山の麓で淀川(宇治川)に合流する。『講義』は、木津という名は、古、流し来る材木を、そこで陸揚げをしたので、それにちなんで命じられた名であろういい、正倉院文書、天平十一年に、「泉木屋所」という語があると考証している。「泉の河に」は、泉河の方にで、宇治川を流れ下る嬬手の、淀まで流れて行ったのを、それに合流する泉河の河尻への意。○持ち越せる真木のつま手を 「持ち越せる」は、持ち運んで来たで、そうした檜のつま手をである。持ち運ぶのは、水の上においてである。〇百足らずいかだに作り 「百足らず」は、百には足らぬで、五十の古語「い」に、意味でかかる枕詞。「いかだに作り」は、筏に組み。〇泝すらむいそはく見れば 「泝すらむ」は、溯らせようとで、泉河の河尻から、陸揚げをする場所、すなわち木津に向かって溯らせる意。「いそはく」は、争うの意の「いそふ」を、ハ行四段に活かして、体言としたもので、争うことの意。争うのは、事を競い励む意である。泝らせようと(95)争って働く様を見ると。○神ながらならし 「らし」は、証拠を挙げての推量をあらわす助動詞で、ここは、天地と御民の仕えまつる状態がすなわち証拠である。天皇はまさしくも神そのままにいらせられることであろうの意。
【釈】 やみみししわが天皇にして、高く照る日神の御子《みこ》なる天皇が、藤原の地にして、御領有の国を御統治になられようと、おわします大宮をめでたく御造営になられようと、神としてお思いになられると同時に、天の神地の祇も、帰服してその事に奉仕しようとすればこそ、淡海の国の田上山の、檜の木の製材を宇治河の上に、玉藻のように浮かべて流すのであった。流れ来るその材を取り止めようと、忙しくも立働く天皇の御民は、奉仕のためにその家を忘れ、その身も全く忘れ去って、鴨のように水に浮かんでいて、(われらが作る日の御神の御子の大宮に、未知の異国の人を帰服させ給えと思う、その来《こ》せにゆかりある巨勢道から、わが国は恒久不変の国に変わってゆこうということをあらわす模様を、その甲背にもっている霊妙なる亀が、新たなる時の来たる瑞祥として現われ出でた、その出ずという名をもつ)泉の河の方にと、御民らの取り止めて持ち運んだ檜の製材を、ここでさらに筏に組み、それを陸揚げする場所まで溯らせようと競い励んでいる状態を見ると、天つ神|地《くに》つ祇《かみ》とともに御民の奉仕するところの天皇は、まさしくも神そのままにましますのであろう。
【評】 題は、藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌とあるが、歌の内容から見ると、この歌を作った者は※[人偏+殳]民ではなく、※[人偏+殳]民の競い励んで立ち働いている状態を、第三者の立場に立って傍らから観ており、それを天皇の神ながらの御勢のしからしむるところだとして、天皇を讃えまつる料としている人である。それのみならずその人の、この讃え詞をいっている場所も明らかにしている。それは淡海の田上山から田上川に流し下す檜の嬬手が、勢田川、宇治川と一つ水流を流れ下り、その水流が山城において泉川と合流し、それともに淀川となろうとする地点に立っているのである。水流を利用して運んで来た檜の嬬手は、その地点で取り止め、今度は泉川を人力をもって溯らしめ、便宜な所で陸揚げをする方針なのである。運搬の上からいうと、宇治川と泉川との合流地点は、最も肝要な場所で、※[人偏+殳]民の第一に立ち働くのもそこである。この歌の作者の立っているのはその地点である。この人は、※[人偏+殳]民を監督している人でなくてはならない。藤原宮造営の事を奉行している、廷臣の一人と見るべきであろう。
 歌は、藤原宮造営の事を通して、天皇の御稜威《みいつ》を讃えたものである。造営その事よりも、それによって現われる御稜威の方に力点を置いたものである。御稜威は、(三六)より(三九)にわたる「吉野宮に幸《いでま》しし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」に現われているがごとく、天皇の御民のみならず、この国土につながる地《くに》つ祇《かみ》も、御民と同じく天皇に奉仕し、加えて天つ神も加護したまうということによってあらわされるのである。そしてこれは、眼前に展開している事実に即することによって、その意を全うするものである。
 一首の構成は、起首において「神ながら念ほすなへに」といい、結末に「神ながらならし」といって、御稜威を讃うる心を一貫せしめ、その中間に、「天地」と「御民」の状態を、具象的に叙しているのである。
 「玉藻なす浮べ流せれ」までは、一に地《くに》つ祇《かみ》の奉仕の状態であ(96)る。山であると同時に山つみである田上山は、そこから産する物として、檜の嬬手を貢物として天皇に献ずる。田上山に発して田上川となり、末は淀川になる川は、川であると同時に川の神であって、これは※[人偏+殳]として、檜の嬬手の運搬を、天皇のために奉仕する。いずれも地つ祇であるが、天皇に帰服して御民と同じく奉仕するのである。かくて檜の嬬手は、宇治川が泉川を合わせて淀川となろうとする地点まで運ばれゆくのである。
 宇治川と泉川との合流地点において、檜の嬬手は、※[人偏+殳]の御民の手によって取り止められ、泉川を、いささか溯らしめて陸揚げをして、事としては一段落つくのである。流れの中に立ち、その嬬手を取り止め、これを筏に組んで泉川を溯らしめる段となって、はじめて御民の奉仕が現われる。
 地つ祇と御民との奉仕を通しての天皇の御稜威は、以上の※[目+者]《み》やすいことによってあらわしているが、「天地《あめつち》も依りてあれこそ」というその「天」の方も、御稜威を徹底的にあらわす上では触れなくてはならないことである。また、それに触れるとすれば、具象的な事実を通してでなければならない。事実のそれに値するものはあった。それは史上に明記されるような際立ったものではないが、巨勢道から神しき亀が現われ出たということである。亀を瑞祥とすることは、先々帝である天智天皇の紀にも見え、この御代以後は著しくふえていることである。これは中国思想の影響を受けた信仰であるが、これを外形から見ると、「我が国は常世にならむ、図《ふみ》負へる神しき亀も、新代と出づ」というのは、道教の信仰と、天命説との混淆したものであって、影響というよりはむしろ模倣というべきものである。ことに「新代」という語《ことば》のもっている内容は、わが国には不適当なものである。しかしこのように語を尽くしていっている精神を思うと、これは中国でいうところの天意ではなく、天つ神の天皇の御代に対して暗示し給う加護である。その事は、「吾が作る日の御門に、知らぬ国依し巨勢」という、天皇の御代を讃える詞と、対句のごとき関係においていわれているのでも明らかである。すなわち本質としては、中国思想を摂取しているのみで、そのために変質させられているものではないのである。この事は、この歌の作者が、天皇の御稜威を徹底的にいうには、天つ神の加護をいわずにはやめられないとして、この歌の構成の上からは、加えるに困難なものであるにもかかわらず、「巨勢」と「泉の河」との序詞という形をもって、しいていっている点からも、明らかに看取できることである。この歌の作者の、作者としての技倆は、かかってこの一点にあるといえる。
 天つ神の加護を具体的にいうことによって、「天地」「御民」のすべてを整えることができ、それが天皇の御稜威に帰することとなったので、結尾の「神ながらならし」が重い響のあるものとなったのである。
 一首は、平明に、直線的に間《ま》が緩やかで、口承文学の色彩の濃厚なものである。「吾が作る日の御門」以下の、天つ神の加護をあらわそうとする点は、微細感をもったものであるが、しかし全体の調子を破るものではなく、調和を保ち得ているものである。こうした作をする作者が、誰であったとも伝えられていないのは、おそらく身分の低かったがためであろう。作の態度の上からみれば、上にいったがように、造営の奉行の一人である廷臣だとみえるが、これは当時の作風として、作者は実際に即している態度を取るべきものとしているところからされて(97)いることで、実際の作者は、当時の歌※[人偏+舞]所に仕えていたいわゆる歌人《うたぴと》の一人ではなかったかと思われる。それで歌としては優れているが、身分の関係上その名を省かれたのではないか。またこの歌の題詞の、上にいったがごとく不適切であるのも、それが歌※[人偏+舞]所のもので、他と紛れざるためにのみ添えたものであったためではないか。これは臆測にすぎないものであるが、これについで収められている「藤涼宮の御井の歌」も、これと怪しきまでに揆を一つにしていて、単にこの歌のみではないからである。
 
     右、日本紀に曰はく、朱鳥七年癸巳の秋八月、藤原宮の地に幸す。八年甲午の春正月、藤原宮に幸す。冬十二月庚戊の朔乙卯の日、藤原宮に遷り給ふといへり。
      右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸2藤原宮地1。八年甲午春正月、幸2藤原宮1。冬十二月庚戊朔乙卯、遷2居藤原宮1。
 
【左注】 日本書紀から、藤原宮造営に関する記事を抜いて列ねたものである。
 
     明日香宮より藤原宮に遷居《うつ》りし後の志貴|皇子《みこ》の御作歌《みうた》
 
【題意】 明日香宮より藤原宮へ遷られたのは、七年十二月である。この歌は、その年以後の春に作られたものである。志貴皇子は、天智天皇の第七皇子で、持統天皇には御弟である。光仁天皇の御父であられるところから、その御代に追尊ありて春日宮御宇天皇と申し、世に田原天皇ともいう。歌の題によると、皇子は遷都の後も、旧都にとどまられたようである。
 
51 采女《うねめ》の 袖吹《そでふ》き反《かへ》す 明日香風《あすかかぜ》 都《みやこ》を遠《とほ》み いたづらにふく
    ※[女+采]女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
 
【語釈】 ○采女の 「采女」は、後宮に仕える女官で、供奉、御饌の事を職とする、下級の官である。日本書紀、孝徳巻に採択の条件が載っている。「凡采女者、貢2郡少領以上姉妹及子女、形容端正者1」というのである。原文「妹※[女+采]」という文字は、中国六朝時代にもっぱら行なわれた文字で、それを採ったのだと『講義』は考証している。○袖吹き反す明日香風 「反す」は、翻す。「明日香風」は、明日香の風で、明日香の地に吹いている風をそう呼んだ。好んで用いられた言い方で、佐保《さほ》風、泊瀬《はつせ》風、伊香保《いかほ》風などの例がある。「吹き反す」は現在法であるが、事としては過去と(98)なったもので、感情の上でいっているのである。すなわち吹き反すべきの意である。下に、感歎の意の詞が省かれている形のもの。○都を遠みいたづらにふく 「都を遠み」は、都が遠きによりてで、都は藤原。遠きは、明日香より藤原をいうので、幾何《いくばく》の距離もないのである。が、それを「遠み」といって趣をもたせたのである。「いたづらに」は、甲斐なくで、吹いても作用しうる雅《みや》びた物がない意でいったもの。
【釈】 采女の袖を吹きひるがえすべき明日香風よ、都が遠いによって、今はその甲斐もなく吹いている。
【評】 明日香の都が旧都となって、さびれてきた中にとどまっていられた皇子が、そのさびしさを嘆かれた歌である。その感を誘ったものは風であるが、その風は、采女の袖ふき反すことを連想させるものであるから、春のことであったろうと思われる。春風に吹かれた旧都のさびしさを感じさせられたとすれば、心理の自然がある。歌は、春風を叙した形となっているが、春風はすなわち皇子の心で、美しい采女の雅びやかなさまを見せていた皇居が遷されたので、以前とは異なって、明日香には、心を寄せるべきものもないというのである。これを態度の上から見ると、この歌は我と心を遣られるためのものであるが、その主観を、季節のものという中にも、春の風という、捉えては言い難い物に託され、一見、風そのものを叙したがような隠約な詠み方をされているのは、純文芸性のもので、しかもその高度なるものといぅべきである。前後の歌の、技巧としては優れたものが多いが、態度としては大体実用性の範囲にとどまっている中に、純文芸性の作をしていられることは、時代的にみて注目させられることである。
 
     藤原宮の御井《みゐ》の歌
 
【題意】 藤原宮の御井は、大宮に属した井の称であるが、藤原の地に皇居をお奠《さだ》めになったのは、その井がおもなる理由の一つ(99)をなしていたことと思われる。清列な飲用水は必ずしも獲やすくはなく、一方これは居を占むるには第一に考えなければならないものだからである。歌で見ると藤原は、藤井が原とも呼んでいたことがわかる。この藤井が原の方が旧名で、藤井というのは、飲用に適する水の、井と称すべきものが、叢生している藤の中にあり、その藤は、その井を保護する物として特別に扱われていたところから、自然その井の名となり、原の方も、その藤井のあるところから、藤井が原と呼ばれるに至ったものと思われる。題は、藤原宮の御井の歌とあって、御井その物を詠んだ形としてあるが、作意は、新たに遷られた藤原宮に対する賀歌であって、宮の永遠を賀する心を、湧いてやまない御井の清水に寄せたものである。
 
52 やすみしし わご大王《おほきみ》 高照《たかて》らす 日の皇子《みこ》 荒たへの 藤井《ふぢゐ》が原《はら》に 大御門《おほみかど》 始《はじ》めたまひて 埴安《はにやす》の堤《つつみ》の上《うへ》に 在《あ》り立《た》たし 見《め》したまへば 大和《やまと》の 青香具山《あをかぐやま》は 日《ひ》の経《たて》の大御門《おほみかど》に 春山《はるやま》と しみさび立《た》てり 畝火《うねび》の このみづ山《やま》は 日《ひ》の経《ぬき》の 大御門《おほみかど》に みづ山《やま》と 山《やま》さびいます 耳為《みみなし》の 青菅山《あをすがやま》は 背面《そとも》の 大御門《おほみかど》に 宜《よろ》しなへ 神《かむ》さび立《た》てり 名《な》ぐはし 吉野《よしの》の山《やま》は 影面《かげとも》の 大御門《おほみかと》ゆ 雲居《くもゐ》にぞ 遠《とほ》くありける 高知《たかし》るや 天《あま》の御陰《みかげ》 天知《あめし》るや 日《ひ》の御陰《みかげ》の 水《みづ》こそは 常《とこしへ》にあらめ 御井《みゐ》の清水《ましみづ》
    八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳高之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宜名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曾 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曾婆 常尓有米 御井之清水
 
【語釈】 ○やすみしし 既出。○わご大王 「わご」の「ご」は、「わが」の「が」が、下に続く「大」の「お」に同化されて、「ご」と転じたものである。他にも例のあるもの。これは歌が謡い物、すなわち口承文学であった時期の名残りをとどめているものである。○高照らす日の皇子 (四五)に出た。○荒たへの (五〇)に出た。○藤井が原 題意にいった。○大御門始めたまひて 「大御門」は、言葉どおり皇居の御門の意に(100)も用い、また、皇居を代表させて、皇居の意でも用いている。ここは皇居の意のもの。「始めたまひて」は、造営をお始めになって。○埴安の堤の上に 「埴安」は、埴安の池。(二)に出た。○在り立たし見したまへば 「在り立たし」の「在り」は、動詞に冠することによって、その動詞の意の継続をあらわすためのもので、「あり通ふ」「あり待つ」「あり経る」「あり渡る」など、類例の多いものである。「立たし」は、立つの敬語。しばしばお立ちになってで、飛鳥浄見原宮より、行幸になられてのこと。「見し」は、見るの敬語で、見をサ行四段に活かしたもの。御覧になれば。○大和の青香具山は 大和を香具山に冠したのは、香具山を重んじていうがためで、讃え詞《ごと》である。「青」は、山の木立の繁っているさまをいったもので、賞美の意からである。「は」は、他と対させた意の助詞。○日の経の大御門に 「日の経」は、上代の方角の呼び方で、これについで、「日の緯《ぬき》」「背面《そとも》」「影面《かげとも》」と出ているので、一括していう。経緯は、本来織物の糸の名で、これを太陽の運行の道に配して、方位の名としたものである。起源は中国である。わが国のものとしては、日本書紀、成務巻に、「因《ニ》以2東西1為2日縦1、南北為2日横1、山陽曰2影面1。山陰曰2背面1」とある。これによると、朝日を基として、それに向かっての線、すなわち東西を日の経《たて》と呼び、これに対して日中の線、すなわち南北をもって日の横と呼んだのである。横というのは、経《たて》に対しての緯《ぬき》をいうのであるから、日の横は日の経とも呼びうるものである。中国では、日中の太陽を基としているので、南北を経とし、それに対して東西を緯としているのである。「影面《かげとも》」は、山を基としての名で、影面《かげつおも》すなわち光線の直射する面で、これは南であり、「背面《そとも》」は、背面《そつおも》で、影面に対して光線のあたらぬ面すなわち北である。前者は太陽その物を基としての称、後者は太陽に山を加えた物を基としたもので、基とするものを異にしており、したがって重複もしている。また、本朝月令に引く高橋氏文には、「日堅、日横、陰面、背面(乃)諸国人(乎)割移(天)」とある。これによると、日の竪は東、日の横は西、陰面、背面は南北である。この歌における日の縦、日の緯は、この双方と一致しているもので、当時は西を日の緯と呼んでいたことがわかる。『講義』はこの方位について精しい考証をしている。「大御門」は、ここは御門の意である。日の経の大御門は、東の御門である。○春山としみさび立てり 「春山と」は、春山のごとくで、春は山の木の繁る時として、下の「しみさび」の状態としていったもの。「しみさび」の「しみ」は、繁《しげり》の意の古語で、副詞。「さび」は、接尾語で、他の語に添って、それを上二段活用の動詞とするもの。それにふさわしい状態をする意。神《かむ》さび、翁《おきな》さび、処女《おとめ》さびなど、類例が多い。全体では、春の山のごとくに、青く繁ったさまをあらわして立っているの意。香具山を初め、これにつづく他の三つの山も、上代の信仰の、山にして同時に神であるとしていっているものである。○畝火のこのみづ山は 「みづ山」の「みづ」は、若くうるわしい意で瑞枝《みずえ》の瑞と同じである。うるわしく若木の繁っている山は。○日の緯《ぬき》の大御門に 「緯」は、旧訓「ぬき」で、『考』が「よこ」と改めている。藤原からは畝火山は西にあたるので、上の高橋氏文の西を「日の横」といっているのに恰当《こうとう》する。しかし、これを日の横と呼び、西を意味させる称は、この当時のことであって、同じく上の日本書紀、成務巻にある日の緯《ぬき》と呼び、日の経が東を意味するのに対し、南を意味させる称は、現在、口語として存している。長野県の南部の一半、埼玉県の三峰山の辺りでは、現に口語として用いていることを私は耳にしている。他でも用いられていよう。もっともそれは、太陽が南方に回った時刻をあらわす語に転じ、日の緯《のき》となっている。用字から見て旧訓があたっていようと思われる。「大御門」は、上と同じ。○みづ山と山さびいます 「みづ山と」は、瑞山のごとく。「山さび」の「さび」は、上の「しみさび」のそれと同じく、山としてふさわしきさまをあらわす意で、うるわしく若木の繁っているさまが、山にふさわしいまでである意。「います」は、敬語で、山を神としていっているもの。○耳為の青菅山は 「耳為」の為は原文「高」、『考』が「為《なし》」の誤写であろうとし、以後それに従っている。北にある山としては、耳梨以外にはないからである。「青菅(101)山」は、青々と山菅に蔽われている山の意。○背面の大御門に 「背面」は北方。○宜しなへ神さび立てり 「宜しなへ」は、「宜し」は、物の足り整っている意。「なへ」は、並べで、並んでいる意。一つの物の中に、宜しさが並んでいる意の語である。十二分に宜しくというほどの意。用例の少なくない語。「神さび立てり」は、神なる山が、神にふさわしきさまをあらわして立っている意。○名ぐはし吉野の山は 「名ぐはし」の「ぐはし」は、美しい意の古語で、香《カ》ぐはし、くはし妹《いも》、くはし女《め》など、類例が多い。名の美しいで、吉野に意味でかかる枕詞と取れる。○影面の大御門ゆ 「影面」は、南。「大御門ゆ」は、御門より。○雲居にぞ遠くありける 「雲居」は、雲の居る所で、すなわち空。「ける」は、上の「ぞ」の結び。以上の一段で、天皇の御眼をもって御覧になったものとして、皇居の四門を、山にして同時に神である山が、守護しまつっていることをいったもの。○高知るや天の御陰 「高知るや」は、「高知る」は、高く領する意。「や」は、間投の助詞。「天」にかかる枕詞。「天の御陰」は、天より隠れる陰で、宮殿の意。御は美称。○天知るや日の御陰の 「天知るや」は、天を領するで、意味で「日」にかかる枕詞。「曰の御陰」は、日より隠れるところの宮殿で、この二句は、上の二句と対句になっている。意味を強めるためである。「天の御陰、日の御陰」という語は、上代よりの成語であって、延喜式の祝詞の中にしばしば出ている。祈年祭の祝詞にも、「皇孫命(乃)瑞能御舎(乎)仕奉(※[氏/一])、天御陰日御陰(登)隠坐(※[氏/一])《すめみまのみことのみつのみあらかをつかへまつりてあまのみかげひのみかげとかくりまして》」とある。○水こそは常にあらめ 「水」は、天の御陰、日の御陰に、第一に必要なる飲用水で、「こそ」と「は」は、強めである。「常尓有米」は、訓みがさまざまである。注意される訓みは、『考』の「とこしへならめ」と、富士谷御杖の「つねにあらめ」とである。「常」は、常住不変の意で、「つね」という訓みは最も自然なものである。しかし、「常」の意を「とこしへ」というのも、集中に例の少なくないものである。その中のいずれであろうかというに就いては、(一)の雄略天皇の御製より初めて、この時代に先立つある期間には、長歌の結尾を、五三八、あるいは八七をもってすることが風となっていた。この結末もそれではないかと思われる。それだと、「常にあらめ」と、五三、あるいは八に訓むべきであろう。藤原宮をいうに、成語とはいえ、天の御陰、日の御陰と、天と日とに関係する語をもってあらわし、そこに湧き出ずる飲用水を、必ず常住不変のものであろうとするのは、すなわち宮殿の常住不変を、天つ神の加護を心に置いてお祝いする意である。○御井の清水 「清水」を、「ましみづ」と訓んだのは『考』で、調べのためだと断わっている。「ま」にあたる文字はなく、また「しみづ」に「ま」を添える例も、古文献の上には見あたらないものである。しかし調べの上では、この歌にふさわしいものであり、いったがように、結尾を五三七、あるいは八七とするのが風であったとすれば、この字によって誤りなく、そう訓んだのではないかと思われる。「清水」は、しみいずる水。「ま」は、物の十分なる意で、接頭語。下に、感歎が含まれている。
【釈】 やすみししわご大王《おおきみ》にして、高照らす曰の皇子《みこ》が、荒たえの藤井が原に宮殿の造営をお初めになられて、埴安の池の堤の上にしばしばお立ちになって御覧になると、大和の青々とした香具山は、東の御門にあたって、春の山として木立の繁ったさまをあらわして立っている。畝傍のかのうるわしく若々しい山は、西の御門にあたって、うるわしく若々しい山というにふさわしく、山の趣をあらわしていられる。耳為《みみなし》の青々と菅に蔽われた山は、北の御門にあたって、十二分に足り整って、神としてのさまをあらわして立っていられる。名のよい吉野の山は、南の御門から、空遠く立っていることである。空を領するところの天《あめ》より隠れる御陰としての宮殿、天《あめ》を領するところの日より隠れる御陰としての宮殿に湧き出る水こそは、この殿舎とともに常住不(102)変なことであろう、この御井に湧き出る清水よ。
【評】 藤原宮の御井の歌としてあるが、作意は、藤原宮の造営の当初、この宮の恒久不変を祝うことを目的とした、典型的な賀の歌である。御井そのものは、祝意をあらわす上では一部分にすぎない物で、御井の清水の湧いてやまぬところに恒久不変のさまを観じ、そこを捉え、それに寄せて、祝意を表するものとしたのである。
 作者は、何びとであるかはわからない。これは撰集の当時すでに不明だったのである。しかし上代の歌風として、実際に即した形をもってものをいっているので、おのずからに作者の身分を暗示するものがある。それは、「大御門始めたまひて、埴安の堤の上に在り立たし見《め》したまへば」という言葉によってである。これによると藤原宮造営の当初、持統天皇はおりおりに、飛鳥浄見原宮より、藤原の地へ行幸になり、その事を御覧になられたことが知られる。この歌の作者は、供奉の中に加わっていた一人で、天皇のその御さまを、親しく眼をもって見ていたのである。「在り立たし」という言葉は、行幸の都度供奉していたことを示しているもので、おのずから身分の低い官人であったことを暗示している。しかもこの歌が、賀歌としての性質上、歌※[人偏+舞]所《うたまひのつかさ》に保存されていたものだろうと思われるのに、その名が伝えられていないということは、偶然のことではなく、伝えるに及ばないこととされたためかと思われるが、これは身分の低いというにほかならぬことである。さらにまたこの作者は、この歌の反歌において、その身が、不断に天皇に側近しうる采女でないことを嘆く心をもって、采女を羨んでいるのである。これは男女の差はあるが、身分としては、采女に匹敵するものであるところからの羨みと解せられる。以上の二つの点から、この歌の作者は、天皇に側近しうる機会をもっていた、身分の低い官人であったことを思わせられる。
 歌は二段より構成されていて、第一段は、皇居の四門を、山にして同時に神である四つの山が守護しまつっていることをいって、天皇の御稜威とともに、皇居の安泰を賀したものである。第二段は、一転して、皇居の御井の清水の湧いてやまないことに寄せて、皇居の恒久不変を賀したものである。 第一段で注意されることは、上代信仰である山にして同時に神である四つの山が、天皇に対しては臣下として帰服し、武臣(103)となって四門を守護する役をしているという信仰を、作者自身の信仰としてはいわず、天皇の御眼をもって御覧になった自明な事実としていっていることである。これは(三八)の、吉野宮に幸《いでま》しし時、柿本人麿の作れる歌と、全く揆を一にしたものである。どちらが先に作られたものかはわからないが、後から作った方は、先の物の影響を受けていることだけは明らかである。
 同じ系列の賀歌ではあるが、(五〇)の藤原宮の※[人偏+殳]《えだち》の作れる歌は、上代信仰によってのものであるが、その中に、中国思想の影響の著しいものがあり、瑞祥を説くことが多い。皇都を奠《さだ》めるには、政治上のこと、平生の生活上のことなど、さまざまのことが考慮に入ろうが、瑞祥を重んじた当時にあっては、地相ということも重大なることであったろうと思われる。しかるにこの歌は、全然地相というようなことには触れていない。これはこの時代としても古風なことと思われる。この古風は、方位をいう上にも及んで、漢文学の影響の深かった時代に、日の経、日の韓、影面、背面というような、他には例のない呼び方をしている点にも現われている。なお、列挙している四門の山を讃えるに、その風景の美については一言も触れず、山をただちに神として、耳為山には「神さびいます」といい、香具山には「繁さび立てり」、畝傍山には「山さびいます」といって、神である山の容《さま》の、それにふさわしさをいっているのである。また、遠く立つ吉野山に対しては差別をつけ、「名ぐはし」という枕詞を冠するにとどめている。これは作意が那辺にあったかを示していることとして注意される。
 以上、第一段は、天皇の御眼をとおしての事実をいっているのであるが、第二段は一転して、臣下である作者自身の感想として、御井の清水に寄せて皇居を賀しているのである。第一段よりこの第二段への飛躍は、相応に際やかなもので、口承文学すなわち謡い物の系統のものとしては、追随するに注意を要するほどのものであるといえる。これは口承文学の上に立ちつつも、記載文学に向かって一歩前進したものといえる。なおこの点は、藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌における、「吾が作る日の御門《みかど》に、知らぬ国依し巨勢道」以下の、記載文学的の部分の加わりきたっているのと、趣の通うものがあるといえる。しかしこの歌にあっては、古来の成語の、「天の御陰」「日の御陰」という語を捉えて、第一段と同じく、努めて古風を守ろうとしているところがあり、同時にその語によって、皇居と天上の世界との繋がりを、間接ながらにあらわして、皇居に対する天つ神の加護を暗示しようとしているのも、同じく古風といえるが、その言いあらわし方の婉曲なのは、記載文学的であって、ここにも記載文学への前進が認められる。
 この歌と、藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌との作者は、同一人かまたは別人かということは問題となるものである。作風を比較すると、かれは平面的で、事象を重んじる心が強く、したがって間《ま》が緩く、概していえば客観的である。これは趣を異にして、立体的で、当時の風としては事象は重んじてはいるが、かれほどには強くはなく、したがってかれほどの細心がなく、やや粗雑に、簡潔で、おのずから間《ま》が早くなっている。概していうと、かれよりは主観的である。この作風の相違は、別人であろうと思わせる。この歌の題詞の付け方は、※[人偏+殳]民の作れる歌についてもいったように、歌※[人偏+舞]所で付けたものと思われる。したがって(104)この歌の作者もまた、歌※[人偏+舞]所の歌人《うたびと》の一人と思わせられる。この事は、この時代の作歌の雰囲気のいかに濃厚であったか示しているもので、柿本人麿の出現の偶然でなかったことを語るものといえる。
 
     短歌
 
【題意】 「短歌」は、反歌の心をもって、同じものとして書いた語である。これは(四六)にも出ているものである。
 
53 藤原《ふぢはら》の 大宮《おほみや》つかへ あれつぐや 処女《をとめ》がともは 乏《とも》しきろかも
    藤原之 大宮都加倍 安礼衝哉 處女之友者 乏吉呂賀聞
 
     右の歌、作者未だ詳かならず
      右歌、作者未v詳。
 
【語釈】 ○藤原の大宮つかへ 「大宮つかへ」は、大宮への奉仕で、名詞。下への続きから見ると、「に」という助詞の添うべきものである。○あれつぐや処女がともは 「あれつぐや」は、「あれ」は現われで、生まれる意。「つぐや」は代々生まれ継ぐで、下の「処女」に続く。聖寿は限りないので、奉仕するには生まれ継がなくてはできない意の語。「処女」は、天皇に側近してお仕え申す采女。「とも」は、伴《とも》で、部属の意のもの。「は」は、他と対させたもの。○乏しきろかも 「乏」は、諸本「之」とあるので訓み難くしていたのを、田中道麿が「乏」の誤写として訓んだもの。「乏し」は、羨しの意の古語で、用例の多いものである。「きろ」の「ろ」は、音調のためのもので、用例が少なくない。「かも」は、感歎。
【釈】 藤原の大宮の奉仕のために、代々生まれ継ぐところの采女の伴は、天皇に御側近申すことができて、羨しいことではあるよ。
【評】 短歌は、長歌の賀の心から転じて、私情をいったものである。しかし「あれつぐや」は、賀の心よりのもので、それを「処女」の修飾として目立たず用いているところに、手腕がみえる。またこの羨望は、いったがように作者の身分を間接ながら語っているものでもある。短歌を長歌より飛躍させて、即しつつも離れたものとし、それによって個人的の感情をいうこの歌の風は、柿本人麿の好んで用いている手法である。ここにも人麿との関連が際やかにみえる。
 
     大宝元年幸丑の秋九月 太上天皇の紀伊国に幸《いでま》しし時の歌
 
(105)【題意】 大宝元年は、文武天皇の即位第五年に改元された年号である。この集の巻一、二の編集体裁は、これ以前は宮号をもってしているのに、ここから、さらに年号をもって細別するようになっている。この事と、また作者を歌の後に記しているのとは、行幸という事の性質上、その記録があって、このようになっていた関係からのことと思われる。太上天皇は、譲位後の天皇を申す称で、中国に倣ったものである。これは持統天皇で、この称はこの天皇より始まったものである。この時の行幸のことは続紀に明記されているが、それは天皇のみで、上皇の御同列であったことは記してない。しかし巻九(一六六七)の題詞によると、御同列であったことが明らかである。
 
54 巨勢山《こせやま》の つらつら椿《つばき》 つらつらに 見《み》つつ思《しの》はな 巨勢《こせ》の春野《はるの》を
    巨勢山乃 列々椿 都良々々尓 見乍思奈 許湍乃春野乎
 
     右一首、坂門人足《さかとのひとたり》
      右一首、坂門人足
 
【語釈】 ○巨勢山のつらつら棒 「巨勢山」は、(五〇)に「巨勢道」とあったその巨勢で、今の古瀬の西にある山である。大和より紀伊への街道は、その山の麓をとおっていたのである。「つらつら椿」は、『注釈』は熟合した名詞で、「つらつら」は花の連なっている状態をいったものだとしている。葉のてらてらした状態をいったものとする解に反対してである。従うべきである。○つらつらに見つつ思はな 「つらつらに」は、心をこめて事をする意の副詞で、つくづくというにあたる。今も用いられている。「見つつ」は、「見」の継続。「思はな」の「な」は、軽い願望の助詞。「よ」に近い。○巨勢の春野を 「春野」は、春の季節の野の様で、その華やかなおもしろさを暗示している語である。今は花のない秋である。○坂戸人足 伝が詳かでない。姓がないので、卑い氏であったとみえる。供奉の中の一人である。
【釈】 巨勢の山のつらつら椿をつくづくと見ながら思いやることであるよ。この巨勢の春の野のおもしろいさまを。
【評】 秋、紀伊への街道を、従駕の旅をしつつ、巨勢山の椿を見やっての感である。つらつら椿を称されてはいるが、季節柄花のないのを見て、花のつらつらに咲く春の季節を思いやってゆかしんだのである。「春野」といっているのは、巨勢山の麓の野に野遊びをし、つらつら椿を一望に収めたい心である。二句の「つらつら椿」を、三句で、同語異義の「つらつらに」と続けているところ、謡い物の明るくたのしい気が濃厚で、それがまたその時の作者の気分であったことが思われる。
 
(106)55 朝《あさ》もよし 紀人《きびと》乏《とも》しも 亦打山《まつちやま》 行《ゆ》き来《く》と見《み》らむ 紀人《きびと》ともしも
    朝毛吉 木人乏母 亦打山 行來跡見良武 樹人友師母
 
     右一首、調首淡海《つきのおひとあふみ》
      右一首、調首淡海
 
【語釈】 ○朝もよし紀人乏しも 「朝もよし」の「朝も」は、麻裳で、麻をもって織った裳。「よし」は、「よ」は呼びかけ、「し」は、強めの助詞で、合して一語となったもの。「著」と続き、同音異義の「紀」に転じての枕詞。「紀人」は、紀伊国の人。紀伊は古くは紀とのみいった。「乏し」は、羨し。「も」は感歎の助詞。○亦打山行き来と見らむ 「亦打山」は、奈良県五条市|上野《こうずけ》町から、和歌山県橋本市|隅田《すだ》町|真土《まつち》へ越える間の峠で、紀州街道の要路である。下に「を」の助詞を添えて解すべきもの。「行き来と見らむ」の、「行き来と」は、あちらに行くとては、こちちに来るとては。「見らむ」は、連用形から「らむ」に続く、古い一つの格で、現在の「見るらむ」にあたるもの。「らむ」は、現在推量の助動詞で、連体形で、下へ続く。○調首淡海 日本書紀天武天皇の条にも、続日本紀、和銅二年、同六年、慶雲七年の条にも出ている。最後には正五位上となり、姓も連を賜わった人である。祖は百済よりの帰化人である。
【釈】 紀伊の国人《くにびと》は羨ましいことよ。この亦打山を、あちらへ行くとては、こちちへ来るとては、たびたび見るであろうところの紀伊の国人は羨ましいことであるよ。
【評】 供奉をして紀伊の国に入り、亦打山を越えながら、その好景に驚嘆しての心である。「行き来と見らむ」と羨しがっているところから、作者|淡海《おうみ》の初めてこの山を見たことが察しられる。実感に即して作ってはいるが、そこには知らぬ国に対する不安もなく、旅愁もなく、ただ明るい気分があるのみで、しかもその気分を生んでいるものは、好風景からである。前の歌と同じく風景歌。旧い時代にはなく新しい時代への過渡を示している歌である。表現は、二段とし、第二句を第五句で繰り返しているという、口承文学の典型的な方法をもっている。これは旧い時代の風に従ったものである。ここにも時代性が見える。
 
     或本の歌
 
56 河上《かはかみ》の つらつら椿《つばき》 つらつらに 見《み》れどもあかず 巨勢《こせ》の春野《はるの》は
    河上乃 列々椿 都良々々尓 雖見安可受 巨勢能春野者
 
(107)     右一首、春日蔵首老《かすがのくらひとおゆ》
      右一首、春日蔵首老
 
【語釈】 ○河上のつらつら椿 「河上の」は、『講義』は、曾我川の上流の古瀬山の辺りのものを指してい、『注釈』は曾我川の上流としている。「つらつら椿」は、(五四)に出た。○つらつらに見れどもあかず 「つらつらに」は、(五四)に出た。「見れどもあかず」は、いくら見ても見飽かないで、絶賞の意をあらわしたもの。○巨勢の春野は 「巨勢の春野」は、(五四)に出た。「は」は、取り立てていう意の助詞。○春日蔵首老 続日本紀、大宝元年三月の条に、初め僧で、弁紀と称していたが、勅によって還俗し、名を賜わったことが出ている。それによると、春日は氏、蔵首は姓、老は名である。和銅七年には従五位下を授けられた。懐風藻には、「従五位下常陸介春日蔵首老、年五十二」とある。他にも歌のある人である。
【釈】 河の上流のつらつら椿を、つくづくと見ても、見飽かない。この巨勢の春野のさまは。
【評】 この歌は、「巨勢の春野」を親しく見て、その絶景を讃えたものである。この歌も、「つらつら椿」を捉えてはいるが、その在り場所は、(五四)の「巨勢山」よりも遙かに狭く、「河上」としている。すなわち具象を高めている。また、「河上のつらつら椿」は、眼前の景を捉えて「つらつら」の序詞としたもので、一首の中心は「巨勢の春野」で、春野の絶景に間接なつながりをもち、余情をなしているものである。さらにまた、「つらつらに見れどもあかず巨勢の春野は」というのは、直線的で、柔らかく、明るく、この当時にあっては新風といいうるものである。一首全体として(五四)に較べると、こちらの方が、遙かに才情が豊かで、新しい歌である。二首は、影響というよりはむしろ模倣の濃厚なものであるが、(五四)の作者人足とこの歌の作者老とは同時代の人であるから、どちらが後から模倣して作ったかは明らかにすることはできない。しかしそのできばえから見ると、人足の方が模倣したもののように思われる。模倣とはいえ、この当時の歌は、口承文学の域を脱しきらず、いかに創意ある句も、一たび発表すれば共有の物と化したのであるから、これは問題とならなかったことである。劣った人足の歌が正式に選ばれ、優れた老の歌が、単に参考として注の形で載せられているということは、人足の歌は行幸の供奉の際に作ったもので、記録として重んじられていたものだということが、強く関係していようと思われる。それだと、この集の撰者の意図もうかがわれることである。
 
     二年壬寅 太上天皇の参河国に幸《いでま》しし時の歌
 
【題意】 釈日本紀に、この行幸のことが出ている。すなわち大宝二年十月の条に、「(乙未朔)甲辰(十日)太上天皇幸2参河国1」(108)とあり、また、尾張、美濃、伊勢、伊賀を経て、十一月(甲子朔)戊子(廿五日)京に還幸となった。以下五首はこの行幸の際の歌である。
 
57 引馬野《ひくまの》に にほふ榛原《はりはら》 入《い》り乱《みだ》れ 衣《ころも》にほはせ たびのしるしに
    引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓
 
     右一首、長忌寸奥暦《ながのいみきおきまろ》
      右一首、長忌寸奧麿
 
【語釈】 ○引馬野に 「引馬野」は、遠江国浜松市の北にあった野の称で、今も曳馬《ひくま》という名をとどめている。国は遠江であるが、参河に接しているので、ついでのある所としていったのである。○にほふ榛原 「にほふ」は、色の艶やかなことをいう。「榛」のことは、(一九)に出た。萩とし、榛《はん》の木ともいうが、『注釈』の榛とするに従う。榛は当時、染料とした一般に用いられていた実用品で、観賞の萩よりも生活に密着していた物である。また、季節からいっても旧十月は萩には縁遠いからである。「榛原」の下に、「に」の助詞のある意のもの。○入り乱れ衣にほはせ 「乱れ」は、四段活用の時代はあったとみえるが、本集では下二段活用である。入り乱れての意で、自由に分け入って。「にほはせ」は、「にほはす」の命令形で、にほわせよ。これは上の「にほふ」と同じく、艶やかにせよの意。榛は染料であるところからの想像。○たびのしるしに 「しるし」は、記念の意である。その旅を思い出の深かるべきものとしてである。○長忌寸奥麿 伝が詳かでない。巻三にも歌があり、「意吉麿《おきまろ》」として、巻二、九、十六にもある。歌人として相応に注意されていた人と思われる。
【釈】 引馬野に色艶やかになっている榛原に入り乱れて、衣を艶やかにしたまえよ。行幸の供奉という思い出深かるべき旅の記念に。
【評】 作者奥麿は京にとどまっていたとすれば、この歌は、車駕の京を発する際、供奉をするほぼ相似た身分の者に対して、口頭をもって挨拶の辞を述べる代りに、上代の風のままに歌をもっていったものである。別れを惜しむ心に触れず、旅の無事を祈る心にも触れず、また、供奉その事にも触れず、ただ賑わしく楽しかるべき旅として思いやっているところに、事宜に適した詠み方ということを思わせられる。すなわち適当な方法によって賀の心を暗示しているといえるのである。想像される事は、旅の自然の美しさで、そこに文芸的な心がみえるが、しかしその自然は、「衣にほはせ、たびのしるしに」という、自身の生活に引き着けることを主としたものであって、文芸的とはいえ限度のあるもので、しかもその程度は低いものである。時代(109)が思わせられる。表現は、結句「たびのしるしに」は、意味からいえば四句にあるべきで、倒句となっているものであるが、初句より四句まで直線的に続いてい、倒句ということを思わせないものとなっている。これは口承文学の、耳に解しやすきことを旨としている風に従っての詠み方だからである。一首印象が明らかで、気分が豊かに、落ち着いていて、この時代を思わせるものである。
 
58 いづくにか 船泊《ふなは》てすらむ 安礼《あれ》の崎《さき》 こぎたみ行《ゆ》きし 棚無《たなな》し小舟《をぶね》
    何所尓可 船泊爲良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
 
     右一首、高市連黒人《たけちのむらじくろひと》
      右一首、高市連黒人
 
【語釈】 ○いづくにか船泊てすらむ 「船泊て」は、熟語。「ふね」を「ふな」というのは、熟語をなすための音の変化。「泊つ」は、舟行して止まることをいう古語。「らむ」は、現在の状態を推量する助動詞。○安礼の崎こぎたみ行きし 「安礼の崎」は、久松潜一氏の得られた延享三年の古地図には、三河国宝飯郡|御津《みと》町御馬村の南に「安礼乃崎」の名が記されているという。「こぎたみ」は、熟語。「たみ」は、迂回する意の古語。漕ぎめぐるというにあたる。当時の舟行は、風の危険を怖れるところから、海岸に密接させて漕ぐのが風であった。ここも、安礼の崎の海岸に沿って漕ぎめぐって行つたの意である。○棚無し小舟 熟語。船棚《ふなだな》のない小さな舟の意。船の棚というのは、やや大きな船だと、舷の上に、舷を丈夫にし、またその上を渡り歩けるために付けた板の称で、それのないのはすなわち小さな舟である。この語は、小さな舟ということを力強くいおうがために、具体的にいったものである。今も単に小さな舟の意で用いている。用例の多い語である。下に詠歎が含まれている。○高市連黒人 伝が詳かでない。巻四にはこの人の羈旅歌八首があり、この時代の代表的歌人の一人である。
【釈】 どこに舟泊りをしているであろうか。安礼の崎の海岸に沿って漕ぎめぐって行った、あの棚無し小舟よ。
【評】 舟行のできなくなった夕暮れ時の想像である。頓宮《かりみや》はもとよりしかるべき地で、供奉の者もその同じ地に宿ることであるが、身分低い者の宿りは、侘びしく、旅愁を感ぜしめるようなものであったろう。加えて夕暮れ時は、その感の強い時でもある。安礼の崎は、その日供奉として通り過ぎた地で、こぎたみ行く棚無し小舟は、折から見かけたものである。大和国の京に住む作者には、海が珍しく、その棚無し小舟も、感を引く、印象的なものだったとみえる。夜の宿りにいる作者は、夕暮れ時が来ると、昼見たその棚無し小舟が思い出されてきたのである。思い出に浮かんできた棚無し小舟は、それがあわれな舟であるとともに、遠い行程をもっているものに思え、哀愁を帯びたものに感じられてきたのである。「いづくにか船泊てすらむ」(110)と、まず不安の情を打ち出し、「こぎたみ行きし」と、同じく不安を伴わせた語をもっているのは、すなわち哀愁の情の表現である。一首全体としてみると、太い線で、棚無し小舟の印象を鮮やかにいっているだけの歌であるが、それが哀愁を漂わし、双方が渾然として一つの世界をなしているのは、作者のその時の哀愁が、椰無し小舟に反映しているからである。これは言いかえると、作者のその時の哀愁を、棚無し小舟によって具象化しているとも言いうるものである。その意味では高い文芸性をもっている歌であるが、しかし作者自身は無意識にしていることと思われる。
 
     与謝女王《よさのおほきみ》の作れる歌
 
【題意】同じ行幸の際の歌であるが、作者の名を初めに記してある点が異なっている。おそらく原拠となった記録がこのようになっており、その事柄を尊むところから、記録のままに書いたものであろう。与謝女王は、続日本紀、慶雲三年の条に、「六月癸酉朔丙申従四位下与謝女王卒」とあるほかは、父祖も、夫君も詳かでない。「背の君」と称される方の供奉に加わっておられるのを思い、京にあって作った歌と思われる。
 
59 流らふる 妻《つま》(雪)吹《ふ》く風《かぜ》の 寒き夜《さむよ》に 吾《わ》が背《せ》の君《きみ》は 独《ひとり》か宿《ぬ》らむ
    流經 妻吹風之 寒夜尓 吾勢能君者 獨香宿良武
 
【語釈】 ○流らふる 「流らふ」は、流るに継続の意をあらわす助動詞「ふ」の添った語。連体形。この語は、雨、雪花びらなどの空より降り、移動してゆくのをあらわす語で、用例が少なくはない。○妻吹く風の「妻」は、女王自身、あるいは衣《ころも》の褄と解されていて、事としても、言葉続きとしても、唐突な難解なものとなっていた。『注釈』は、荒木田久老の『槻の落葉』に、この歌を引用した個所があり、それには「妻」が「雪」となっているのを見、誤写としてそれに従うべきだといっている。それだと、事としても、言葉続きとしても自然である。かなり不自然なものが甚だ自然なものになることであるから、久老がそうした原本に拠つてのことと信じて従う。○寒き夜に 寒い夜であるのに。○吾が背の君は 行幸に供奉している夫。○独か宿らむ 独寝をしていようかで、「か」は疑問の係。「らむ」は、現在推量の助動詞で結び、連体形。
【釈】 降り続いている、雪を吹く風の寒い夜だのに、わが夫《せ》の君は、寒さを侘びしんで独寝をしているであろうか。
【評】 陰暦十月より十一月にかけての風の寒い夜、供奉に加わっている夫君を思って、京にある女王の作ったものである。寒い夜、夫の独寝を隣れむのは、寒さの侘びしさを隣れむ心で、夫婦間では常識ともなっているものである。第二句「妻吹く風の」は妻を女王自身としても、衣の褄としても、事としても、また言葉続きとしても、唐突な不熟なものとなるが、「妻」を(111)「雪」の誤写とするとその反対に、事としては自然な、言葉としては順直なものとなり、女王にふさわしく、おおどかな、その意味で品位ある作となる。荒木田久老は学殖深く、歌才ある信ずべき国学者である。拠るところあってのこととして、『注釈』の解に従う。歌としては相聞であるが、行幸につながりがあるとして、原本のままに収めたものと解せる。
 
     長皇子《ながのみこ》の御歌《みうた》
 
【題意】 同じ行幸の供奉の中の女性を思って、京にある長皇子のお作りになられた歌である。皇子は、続紀、霊亀元年六月の条に、「甲寅一品長親王薨、天武天皇第四皇子也」とある。なお目録には、この題の下に続けて、「従駕作歌」とある。歌は従駕のものではなく、また、「御歌」という語づかいと、「作歌」という語づかいとは明らかに矛盾するので、他より誤っての竄入《ざんにゆう》であろうとされ、おそらく次の舎人娘子の歌に添っている語を、こちらへも添えたのではないかとされている。
 
60 暮《よひ》にあひて 朝《あした》面《おも》無《な》み なばりにか け長《なが》く妹《いも》が 廬《いほり》せりけむ
    暮相而 朝面無美 隱尓加 氣長妹之 廬利爲里計武
 
【語釈】 ○暮にあひて朝面無み 「暮」は、夜。「あひて」は、男女共寐をしての意。「朝」は、「暮」に対させたもので、その翌朝。「面無み」の「無み」は、形容詞「無し」の語幹に「み」を添えて、連用修飾語としたもの。面無くしての意。「面無し」は後世も用いた語で、面目なしというにあたり、顔が合わせられずして恥ずかしい意を具象的にいった語。これは若い女の立場に立っての語である。この二句は、「隠れる」の古語「なばり」へ、意味で続く序詞で、そのなばりを、(四三)と同じく、地名の名張に転じたものである。 ○なばりにか 「なばり」は、名張で、(四三)に出た。三重県伊賀郡にあって、参河国への順路でもある。「か」は疑問の助詞。○け長く妹が廬せりけむ 「け」は来経《きへ》という動詞の約言で、それが名詞となったもの。日時の経過をあらわす語。「け長く」は、幾日も久しくの意。「廬せり」は、「廬」はかりそめの家の意で、旅中の仮屋。「せり」は、している。「けむ」は、過去の想像。
【釈】 夜を共寐して、明くる朝は恥ずかしくて隠れる、それに因みある名張の地に、日久しく妹は、仮屋住まいをしていたのであろうか。
【評】 妹といっている女性は、行幸の供奉をしている女官の一人で、天皇の駕が、今日かあるいは明日か還幸になるということを聞いた際の独詠である。「け長く」というのは、還幸の日取りは大体わかっていたのに、予期よりも連れたためでまた、「なばりにか」というのは、そこは都に最も近い地で、還幸の日取りから推測したものと解される。一首としては、待ちわびた(112)妹の帰ることを知り得えてのよろこびであり、表現として初二句の序詞の巧みさである。これは「妹」につながりをもったもので、その年若さと、関係を結んで幾ほどもないことをおのずから暗示しているものである。文芸性をもっている歌である。またそのことは独詠ということとも関係をもっているといえる。
 
     舎人《とねり》の娘子《をとめ》従駕にして作れる歌
 
【題意】 舎人娘子は、舎人は氏で、娘子は娘の意であろう。舎人氏は百済よりの帰化人の末だという。巻二に、この娘子の舎人親王と詠みかわした歌があるところから、親王の傅《ふ》であった舎人氏の娘ではないかと想像されている。巻八にも歌がある。
 
61 大夫《ますらを》が 得物矢《さつや》手挿《たばさ》み 立《た》ち向《むか》ひ 射《い》る円方《まとかた》は 見《み》るに清潔《さやけ》し
    大夫之 得物矢手插 立向 射流圓方波 見尓清潔之
 
【語釈】 ○大夫が得物矢手挿み 「大夫」は、(五)に出た。勇気ある男の意で、尊んでの称。「得物矢」の「得物」は、山幸海幸《やまさちうみさち》の幸で、熟語の場合には「さつ」に転じている例が多い。得物矢は幸矢で、その矢を用いれば幸が多い意で、神の加護の加わっている矢の意である。転じて、普通の矢にも用いたと解せる。ここは、転じての意の矢。「手挿み」は、手に挿み持ち。○立ち向ひ射る 立ち向かって射るで、下の「円《まと》」すなわち的《まと》に意味で続き、その「円」を、地名の「円方」の「円」に転じたもので、初句よりここまでは、「円」の序詞である。○円方は見るに清潔し 「円方」は伊勢国の浦の名である。この浦のことは伊勢風土記に、「的形者、此浦地形似v的故為v名、今已跡絶成2江湖1也」とある松阪市、東方、東黒部一帯かといわれている。「は」は、取り立てていう助詞。「清潔し」は、今も用いている。清くさわやかな意。
【釈】 益荒夫がさつ矢を手に挿み持ち、立ち向かって射る的の、その的を名としている的形《まとかた》の浦は、見るとさやかである。
【評】 的形の浦を讃えた歌である。讃えるのは、その風光をさやかなりとしてである。口承文学時代、土地を讃えるのは、その土地に住んでいる人が、そこに幸いをきたらせようとして、祝いの心をもって讃えるのが風であった。その場合には、その土地を修飾するための枕詞、時には序詞を用い、さらにその土地の愛《め》でたさを言い添えるのを型としていた。この歌も、形としてはそれで、円方をいうに三句以上の長い序詞を用い、讃える語も添えているので、まさに典型的なものである。しかしその讃える心は、幸いをきたらせようとして祝うのではなく、単に風光の美を讃えてのものである。すなわち口承文学時代の実用性の歌が、その内容の上からは、記載文学としての文芸性のものへと推移しているのである。この歌は明らかにそれを示している。上に引いた伊勢風土記には、それに続いて、その的形においての景行天皇の御製の歌というのを伝えている。歌は、
(113)  ますらをの得物矢《さつや》手挿み向ひ立ち射るや円方浜のさやけさ
というので、異なるところいささかである。単に風光を讃える、いわゆる叙景の歌は、大体この時代頃から始まったものだろうと思われるから、御製の歌と伝えるものの方が、舎人娘子の歌よりも後のものであったかもしれない。それはとにかく、この二首を比較すると、舎人娘子の歌には、調べに強さがあり、したがって立体味が醸し出されているが、御製と伝える歌は、調べが柔らかく、したがって平面的な感をもったものである。記載文学としての娘子の歌が、口承文学として謡われていると、御製と伝える歌のように変じてゆくのは例の多い一般的のことで、ここも、たまたまこの歌の性質を語っているものである。
 
     三野連《みののむらじ》名闕く 入唐《につたう》の時、春日蔵首老《かすがのくらひとおゆ》の作れる歌
 
【題意】 三野連名闕くとあるのは、原拠となった記録に名がなかったためと取れる。『講義』はこれについて詳しく考証している。その名は岡麿といい、続紀、元正天皇霊亀二年正月の条に、「授2正六位上美努連岡麿従五位下1」とある人である。遣唐使の一行に加わったことは、明治五年大和国平群郡から発掘された墓誌によって明らかとなった。入唐というのは、その遣唐使に加わった時のことで、時は文武天皇の大宝元年、大使は粟田真人であった。入唐という語は、唐を主としたもので、妥当を欠くが、当時の用法であったとみえる。春日蔵首老のことは、(五六)に出た。
 
62 在根《ありね》よし 対馬《つしま》の渡《わたり》 海中《わたなか》に 幣《ぬさ》取《と》り向《む》けて 早《はや》還《かへ》りこね
    在根良 對馬乃渡 々中尓 幣取向而 早還許年
 
【語釈】 ○在根よし対馬の渡 「在根よし」は、品田太吉氏は、「在」は高く現われている所の称で、在原・在尾などはその例だといい、「根」は、伊豆の小島、岩礁などにその語を添えたものがあるといっている。民俗学では、神の現われる地の称だという。「根」は峰の「ね」である。「よし」は、青丹よし、麻裳よしなどのよしと同じで、「よ」は詠歎、「し」は強意の助詞である。後の解に従う。海上から見る対馬の状態をいって、対馬の枕詞としたもの。「対馬の渡」の「渡」は、川でも海でも、往来の道筋として渡って行く所の称。壱岐と対馬の間の渡りであろうという。今の朝鮮海峡で、風波の荒い、危険な所である。○海中に幣取り向けて 「海中」は海の中にで、そこには海を領《うしは》く神がいられ、風波の荒いのは、すなわちその神の心が荒ぶるためであると信じていたのである。「幣」は、神に手向け、または祓に出す物の総称。「取り向け」は、手に取って手向けてで、捧げる意。○早還り来ね 「ね」は、願望の助詞。早く帰朝したまえよの意。
【釈】 神の現われたまう山のある対馬の渡りの、そこの海の中にいます荒ぶる神に、幣を捧げて御心を和らげて、荒い風波に障らずに、早く帰朝したまえよ。
(114)【評】 当時の航海は危険の多いものであったが、ことに中国への航海は危険で、現にこの際も、一年に余る間を筑紫にとどまっていたほどである。歌は送別のもので、一に無事を祝う心をもって作ったものである。それをいうに、対馬の渡りの海中《わたなか》にいます荒ぶる神の御心を和《やわ》せということを心をこめていっている。これはいうまでもなく実際に行なっていたことであろうが、それを改めていうということが、すなわち無事を祝う方法だったのである。一首の心は儀礼的なものであるが、調べに、しみじみしたものがある。
 
     山上臣憶良《やまのうへのおみおくら》大唐《もろこし》に在りし時、本郷《もとつくに》を恋ひて作れる歌
 
【題意】 山上臣憶良の、臣は姓。その唐に在ったのは、前の歌の粟田真人が大使となって遣わされた時、少録として随行したので、続記の遣唐使任命の記事に、「无位山於憶艮為2少録1」とある。学才によって抜擢されたものとみえる。遣唐使の出発は、いったがように大宝元年であったが、途中筑紫に一年余りを滞在、翌二年六月に渡航、翌々年慶雲元年七月に帰朝した。歌は在唐中に詠んだものである。大唐という語は、前の歌の入唐と同じく、彼を主としたもので、当時の慣用である。本郷は日本である。憶良の歌は集中に五十余首あり、本集代表歌人の一人である。
 
63 いざ子《こ》ども 早《はや》く日本《やまと》へ 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の浜松《はままつ》 待《ま》ち恋《こ》ひぬらむ
    去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
 
【語釈】 ○いざ子ども早く日本へ 「いざ」は、人を誘う意の副詞。さあ、というにあたる。「子ども」の「子」は、わが子はもとより、従者などを親しんで呼ぶ称。「ども」は、複数をあらわすもの。今は従者に対しての呼びかけである。「早く日本へ」は早く本国へ還ろうの意の言いさしで、ここで一段である。○大伴の 「大伴」は、難波の辺一帯の地名である。下の(六六)に、「大伴の高師《たかし》の浜」とあり、巻七(一〇八六)に、「靭《ゆぎ》懸《か》くる伴《とも》の雄《を》広き大伴に国栄えむと月は照るらし」ともあるので知られる。古く大伴氏の領地であった所から、地名ともなったろうといわれている。○御津の浜松 「御津」は、大御船の発着する津であるところから、「御」の美称の添えられたもので、大津というのと同じである。固定して地名となったもの。難波の中にあったのである。遣唐使の船の発着もここである。現在の大阪市の三津寺町は、その名の名残りだといわれている。「浜松」は、浜辺に立っている松。二句「大伴の御津の浜松」は、家人《いへびと》の隠喩となっている。唐にあって従者どもと共通に本国を恋しむと、第一に思われてくるのは家人すなわち妻であるが、それを婉曲にいおうとして、御津の浜松をかりたのである。これは大御船の本国を出発する時に見た印象深いもので、また帰朝を思うと、大御船の泊《は》つる所のものとして思われてくるもので、譬喩として心理的妥当性のあるものである。また、この「松」は、下の「待ち」と畳語的な関係をもっているので、二句、序詞に近いものといえる。○待ち恋ひぬらむ 「待ち恋ふ」は、一つ(115)の語。用例の少なくないものであるが、巻四(六五一)「宅《いへ》なる人も待ち恋ひぬらむ」のように、いずれも旅にある夫の、その妻に対しての心をいう語である。ここもそれである。この語によって、上の隠喩の心は明らかにされている。「ぬらむ」は、確かにそれと推量する意の助動詞。
【釈】 さあ、皆の者ども、早く本国へ還ろうよ。大伴の御津の浜松もきっと待ち恋うていることであろう。
【評】 当時の代に、使して遠く唐に在った者が、本国を恋しむ情は共通のもので、事に触れ、折に触れて口頭にのぼったことであろう。この歌はそうした際に、憶良が従者のような人に対して、語の代りに歌に詠んで、たぶんは謡ったものであろう。本国を思うと、第一に思われてくるものは、ひとしくその妻であるが、それをいうに「大伴の御津の浜松」という譬喩を用いている。これは勅命を帯びて発船した場所と、船中より見納めとして見た浜松とを一つにしたもので、畏さとなつかしさをこめた、複雑したものである。その松を待ちに続けて序詞的な、趣をもたせたのは、口承文学的なすぐれた技巧である。一首として、調べが強く、情理を流し込んでいるところ、憶良の特質の現われている作である。
 
     慶雲《きやううん》三年丙午 難波宮に幸《いでま》しし時
 
【題意】 目録には、この標題の下に「歌二首」とある。こちらは脱したものとみえる。行幸のことは、続紀、同年九月の条に、「丙寅行2幸難波1」とあり、十月の条に、「冬十月壬午還宮」とある。難波宮の所在は明らかではない。長柄豊崎宮だろうともいうが、明らかとはいえない。
 
     志貴皇子の御作歌《みうた》
 
【題意】 志貴皇子のことは、(五一)に出た。
 
64 葦辺《あしべ》行《ゆ》く 鴨《かも》の羽《は》がひに 霜《しも》ふりて 寒《さむ》き暮夕《ゆふべ》は 大和《やまと》し念《おも》ほゆ
    葦邊行 鴨乃羽我比尓 霜零而 寒暮夕 倭之所念
 
【語釈】 ○葦辺行く鴨の羽がひに 「葦辺」は、葦の生い繁っている辺り。葦は水辺の物で、難波は古来葦の多い所とされていたその葦である。供奉として居られる所が水近かったのである。「行く」は、水鳥の鴨の動きであるから、泳いでいるのをいったもの。「羽がひ」は、「羽交《はが》ひ」で、(116)羽根の重なり合っていることで、畳まっていること。ここは背中で、それを具体的にいったもの。○霜ふりて 霜がふり置いての意。時は晩秋初冬だから、霜の置く季節ではあるが、しかし霜の置くのは暁のことである。今は夕べであるから、鴨の背中の寒げに光っているのを日喩的にいったもの。○寒き暮夕は 「は」は、取り立てた意のもので、夕べはことにの意。○大和し念ほゆ 原文「倭」は、「和」となっている本もある。通じて用いていた。家の意で、家とは家人《いへびと》すなわち妻を意味させた語で、今も妻ということを婉曲にいったもの。「し」は、強め、「念ほゆ」は、思われる。
【釈】 水辺の葦の叢生している辺りを泳いでいる鴨の、その背の上に霜がふり置いて、ことに寒さを感じる夕べには、大和の家の妹がおのずから思われてくる。
【評】 旅愁を詠まれたものである。旅にあって、心さみしい時、ことに、寒い夜の独寝の床に、家にいる妻が思われるというのは、当時すでに常識ともなって繰り返されている心である。この御歌もそれである。しかしこの御歌は、その表現技巧の上に高度の文芸性をもったものである。初句より三句までは、「寒き暮夕」の具象化であって、水辺の枯葦の辺りを泳いでいる鴨の、その背の寒げに光っているという一事を捉えて、難波の旅の宿りの夕幕の寒さをあらわされたのは、優れたる技巧というべきである。鴨の背中を「羽がい」といひ、寒げに光るのを「霜ふりて」と誇張して、具象を感覚的なものにまで高めていられるのは、技巧というよりも感性の豊かさを思うべきである。この寒さは、やがて旅の侘びしさである。結句の「大和し念ほゆ」も、婉曲にして心のとおった、品位ある言い方である。高貴の方々の、文芸性の上で時代の尖端を行かれるところ、おおらかに、気品のあるところが注意される。相聞の範囲の御歌である。
 
     長皇子の御歌
 
【題意】 長皇子のことは、(六〇)に出た。
 
65 霞打《あられう》つ あられ松原《まつばら》 住吉《すみのえ》の 弟日娘《おとひをとめ》と 見《み》れど飽《あ》かぬかも
    霞打 安良礼松原 住吉乃 弟日娘与 見礼常不飽香聞
 
【語釈】 ○零打つ 霰が打っているの意で、打つのは下の松原である。眼前の光景である。晩秋初冬のことであるから、ありうべき事柄である。この「霞」は、下の「あられ」と畳語の形になっているところから、枕詞のごとくにもみえる。しかしそれは、期せずしてそうなった特殊の趣とみるべきである。○あられ松原 「あられ」は地名で、そこにある松原ゆえの称。「あられ」は大坂市住吉区住吉神社の付近一帯の称。下に詠歎が(117)ある。○住吉の弟日娘と 「住吉」は、今大阪市の住吉神社のある地。この地は古は、大和の京と、西国、三韓とをつなぐ船の発着する地で、交通上の要衝だったのである。「弟日娘」は、「弟日」は、兄姉に対しての弟妹の称で、普通名詞。ここは、それがその人の名となったもの。「娘」は女であるがゆえに添えていった語。この女は、いわゆる遊行女婦であろうという。遊行女婦は十分明らかにされていないが、集中に見えるところでは、旅客の多い地に住み、その旅情を慰めることをしている者であることが知られる。「と」は、とともに、の意のもの。○見れど飽かぬかも 見ても見ても見飽かないことよの意。慣用成句。
【釈】 霰が降って来て打っているあられ松原よ。住吉の弟日娘とともに見ても見ても見飽かないことであるよ。
【評】 旅情を慰めるために、住吉の弟日娘というを侍らしめ、あられ松原を眺めていられての歌である。あられ松原という名から推して、その松原はその辺りでも目にたつ、相当に大きなものに思われる。それに対しての「霞打つ」という状態は、さわやかな、動的なもので、壮快な感をもったものである。その景を愛すべき遊行婦を侍らせてともに見ていると、興趣が一段と加わって、見れど飽かぬというのである。自然観賞が主となっている作で、高度な文芸性をもった作である。一首の調べが強くさわやかで、皇子の面目を思わせられる。
 
     太上天皇、難波宮に幸しし時の歌
 
【題意】 太上天皇は持統天皇である。持統天皇の難波宮に行幸のことは、史上には見えないので、続紀、文武天皇の三年正月、難波宮に行幸のあった際、御同列で行幸になったのではないかという。また、持統天皇は大宝二年十二月崩御になられたので、慶雲三年以後のここに載せるということは不審であるが、それはこの集の原拠となった記録に、行幸の年月が記してなかったため、差別して最後に回したのではないかという。なおその事は、これだけではなく、以下四項の和銅年間に至るまで同様であると考証されている。題詞の下に、目録の方には、「四首」とある。ここにもあるべきものである。
 
66 大伴《おほとも》の 高師《たかし》の浜《はま》の 松《まつ》が根《ね》を 枕《まくら》き宿《ぬ》れど 家《いへ》し偲《しの》はゆ
    大伴乃 高師能濱乃 松之根乎 枕宿杼 家之所偲由
 
     右一首、置始東人《おきそめのあづまびと》
      右一首、置始東人
 
(113)【語釈】 ○大伴の高師の浜の 「大伴」は、(六三)に出た。難波辺り一帯の地の総名。「高師の浜」は、今の堺市の南の高石町にその名をとどめており、浜寺の海岸をそれと見てよいと、『注釈』はいっている。○松が根を 松の根をで、浜松の根は地上に現われがちなものである。「松が」は、松の方を主としての語である。○枕き宿れど 「枕」の訓は諸注さまざまである。上の「を」を受ける関係上、これは動詞であることは明らかであり、『講義』は「枕《まくら》く」と訓んでいる。用例は、巻五(八一〇)「いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上《へ》我がまくらかむ」、巻十九(四一六三)「妹が袖われまくらかむ」、巻三、(四三九)「京師《みやこ》にて誰が手もとをか吾が将枕《まくらかむ》」である。四段活用の語である。この訓に従う。枕として一夜を寝たけれども。○家し偲はゆ 「家」は、大和の家で、妻のいる所。妻の意でいったもの。「し」は、強め。「偲はゆ」は、慕い思われる意。○置始東人 伝が詳かでない。姓《かばね》のないところから卑しい人と思われる。
【釈】 大伴の高師の浜の浜松の根を枕として寝たけれども、それにもかかわらず、家にいる妻ばかりが恋しく思われる。
【評】 太上天皇の難波宮の行幸に供奉した人々の、海を恋うる心から住吉の海岸に遊んでの感である。「大伴の高師の浜の松が根を」と単に一|夜《よ》を枕とした物に対して、一首のなかば以上を費していっているのは、その物を尊んでのことである。尊さをいうに説明的の語をもってせず、鄭重にいうことによってその心をあらわそうとするのは、具象を重んじた上代の心で、ここもそれである。何ゆえに尊んだかというと、高師の浜の松を風景としてすぐれたものとしたためで、言いかえると文芸性を重じんたがためである。しかし一首の中心は、「枕き宿れど家し偲はゆ」で、それにもかかわらず、やはり妻のみが思われるというのでこれは実感である。上流貴族のする自然観賞を慕う心はあるが、それに徹し得ぬところ、階級性を示している作といえる。
 
67 旅《たび》にして 物恋《ものこひ》しきに 鶴《たづ》が音《ね》も 聞《きこ》えざりせば 恋ひて死なまし
    旅尓之而 物戀之□鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死万思
 
     右一首、高安大島《たかやすのおほしま》
      右一首、高安大嶋
 
【語釈】 ○旅にして 旅にあって。旅は上の語と同じく、行幸の供奉をしての難波。○物恋しきに鶴が音も 現行の寛永本は、「物恋之伎乃鳴事毛《ものこふしきのなくことも》」とあり、形容詞の語尾「しき」を鴫《しぎ》の掛詞と解している。『全註釈』は、こういう形の掛詞は、集中に例のないものであり、不熟なものとし、また「鳴事」という言葉続きも、同じく不熟のものとして、諸本を検討して訂正している。簡単にいうと、元暦校本、類聚古集などには、本文は「物恋之鳴毛」とあるのみで、古来数字が脱落していたことが明らかだとし、それでは訓み難いところから、後人が諸本を参照して、訓みうるよ(119)うに字を補ったものとしたのである。「物恋之」は、下に「伎迩《きに》」とあったろうとして、「物恋しきに」としている。これは巻三(二七〇)に「客為而物恋敷尓《たびにしてものこひしきに》」の例があるので、それによったのである。意は、何事となしに恋しいのにで、旅のさびしさから家恋しい心を婉曲にいったもの。「鳴毛」は、「鳴」は「音《ね》」にあてて用いられている字で、ここもそれであるとし、それだと上に鳥が脱落していると見、「鶴」か「雁」であろうとし、「鶴」とし、「鶴《たづ》が」と「が」を訓み添えている。所は難波で、そこの海岸には鶴が多かったとみえ、鶴の歌が他にも少なくないから、これは妥当の解である。○聞えざりせば もし聞こえなかったならばで、仮設。○恋ひて死なまし 「まし」は、仮設の推量の助動詞。恋い死にに死ぬことだろう。○高安大島 伝未詳。
【釈】 旅にいて何となく家恋しい気がしているのに、もし鶴の声が聞こえなかったならば、恋い死にに死ぬことであろう。
【評】 上の歌とおなじく難波の海岸で、寒夜、野宿に近いわびしい状態で宿って、家恋しい気分のつのっていた時、たまたま聞いた鶴の声が珍しくたのしくて、ほっとした時の実感であろう。「物恋しきに」といい、さらに「恋ひて死なまし」と強調しているのは、寒夜のわびしさを思わせるものがある。鶴の声は哀愁をそそるものとされていたが、水辺の鳥である鶴は、水の乏しい大和には少なかったろうから、甚だ珍しく、したがって楽しかったことと思われる。実感に即して素朴に詠んだ歌である。
 
68 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の浜《はま》なる 忘貝《わすれがひ》 家《いへ》なる妹《いも》を 忘《わす》れて念《おも》へや
    大伴乃 美津能濱尓有 忘貝 家尓有妹乎 忘而念哉
 
     右一首、身入部王《むとべのおほきみ》
      右一首、身入部王
 
【語釈】 ○大伴の御津の浜なる 「大伴の御津の浜」は、前に出た。「なる」は、「にある」の約言。○忘貝 身無し貝すなわち殻のみとなった貝の、海浜にうち寄せられた物。また、忘貝と称する一種の貝があるが、これはそれではない。集中、忘貝に関する歌は十首の多きに及んでいるが、いずれも忘貝という名のためである。言霊《ことだま》信仰の強いものをもっていた上代人は、語はその語どおりの力をもってい、それを人の身に及ぼすものだと信じていた。忘貝も、また忘草《わすれぐさ》も、その名のとおり、忘れたいと思う嘆きを忘れさせる力があると信じ、それを身に近く置き、また身に着けることによって、主として恋いの嘆きを忘れようとした心のものである。今もその範囲のことを心に置いたものである。○家なる妹を 家にある妹をで、家は大和の京である。○忘れて念へや 「忘れて念ふ」は、後世の「思ひ忘る」と同じ意味の古語である。「や」は、上の已然形を受けて反語の助詞。忘れようか忘れないの意。○身入部王 系譜は詳かでない。読紀、神亀二年二月に正四位上、天平元年正月に卒せられた。
(120)【釈】 大伴の御津の浜にある忘貝よ、大和の家にいる妹を、我は思い忘れようか、忘れはしない。
【評】 難波宮の行幸に供奉の身となって、旅愁を抱きつつ、そこの御津の浜の忘貝を見ての感として詠んだものである。中心は、大和の家にある妹を深くも思い慕っているということであるが、その心的態度も、表現も、この当時としてはきわめて新しいものである。心としては、呪力ありと信じられてき、また一股には信じられている忘貝というものを斥けて、単に一つの物として見ていることである。この「忘貝」には、何ら信仰的なものはない。表現としては、御津の浜にある忘具と、家にある妹とを対立させ、忘れるという一語で双方を繋いでいるもので、これは知的な方法である。双方とも、この当時としては新しいものというべきである。技巧としては、忘貝をいうに三句を費して、それに呼びかけに近い感歎をこめて、力強くいっているのは、それを反映させることによって、中心の「忘れて念へや」を力強くさせようためである。また、知的ではあるが、調べが張っているので、強い情感を思わせるものとなっていて、いずれも技巧のすぐれた歌といえる。
 
69 草枕《くさまくら》 旅《たび》行《ゆ》く君《きみ》と 知《し》らませは 岸《きし》の埴生《はにふ》に にほはさましを
    草枕 客去君跡 知麻世波 崖之埴布尓 仁寶播散麻思乎
 
     右一首、清江娘子《すみのえのをとめ》、長皇子《ながのみこ》に進《たてまつ》れる 【姓氏いまだ詳かならず】
      右一首、清江娘子、進2長皇子1 【姓氏未v詳】
 
【語釈】 ○草枕旅行く君と 「草枕」は、(四)に出た。「旅行く」は、旅を行くで定住しないの意。「君」は、左注によって長皇子に呼びかけたもの。○知らませば 「ませ」は、「まし」の未然形で、仮想した条件をいうもの。もし前から知っていたならばの意。○岸の埴生に 「岸」は、海の岸、山の崖にもいう。住吉にある岸で、埴の産地として聞こえていた。「埴生」の埴は、黄色または赤色の粘土。それを白い衣に摺りつけることが行なわれていた。「生」は、産する所の意。「埴生」は、埴の産する所の意の語であるが、埴その物の意に用いている。○にほはさましを 「にほふ」は、色のうるわしい意で、(五七)に出た。「にほはさす」は、その他動で、色うるわしくさせる。すなわち旅衣《たぴごろも》に摺りつけようの意。「を」は、ものをの意の詠歎の助詞。○清江娘子 住吉に住んでいる娘子の意で、姓氏いまだ詳かならずといわれている者である。多くいた遊行女婦の一人と思われる。それが別れに臨んで、長皇子に進《たてまつ》つた歌である。
【釈】 旅を行く君であるともし知っていたならば、ここの岸の埴をもって、君が旅衣を色うるわしく摺っておこうものを。
【評】 住吉娘子が、長皇子との別れを惜しんだ歌で、口頭によって歌ったものと思われる。行幸の供奉の皇子を「旅ゆく君と(121)知らませば」というのは、娘子には口なれている言い方で、自然であるが、皇子には不自然である。要するに挨拶程度の歌で才情は汲めるが、いうほどのものではない。
 
     太上天皇、吉野宮に幸《いでま》しし時、高市連黒人の作れる歌
 
【題意】 太上天皇は持統天皇。太上天皇として吉野宮へ行幸になったことは史に見えない。したがっていつの事とも明らかではない。高市連黒人は(三二)に出た。
 
70 大和《やまと》には 鳴《な》きてか来《く》らむ 呼子鳥《よぶこどり》 象《きさ》の中山《なかやま》 呼《よ》びぞ越《こ》ゆなる
    倭尓者 鳴而歟來良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曾越奈流
 
【語釈】 ○大和には 「大和」は、旅をして他国にある時、その妻の待っている家を「大和」と呼んでいる例は、(六四)にある。今もそれで、吉野も同じく大和であるが、藤原の京をさしていったもの。「には」は、「に」は狭く限った範囲をさし、「は」は取り立てていう助詞であるから、妻のいる家の意でいっているものである。○鳴きてか来らむ 「来らむ」は、今だと「行くらむ」というところである。この集には「行く」を「来」といっている場合が相応にある。『代匠記』は、本来の住所をわが方《かた》としていうのだといい、『燈』は、こちらに心を置くと「行く」といい、あちらに置くと「来」というのが、古い用法だといっている。『講義』『注釈』も同様である。鳴いて行くのであろうか、と疑問の形でいったもの。○呼子鳥 この名は、時代とともに変わって、「喚子鳥」と書いた字面から閑古鳥《かんこどり》といわれ、郭公《かつこう》といわれ、「かつぽう」ともいわれている。形はほととぎすに似て、やや(122)大きく、春より夏にかけて来る渡鳥で、鳴き声は、「かっこう」とも「かっぽう」とも聞こえ、一つ所にとどまって、繰り返して鳴くのである。それを聞いていると、親しい人を呼んでいるように感じられるので、呼子鳥という名が付けられたものと思われる。その繰り返し呼んでいる声には一種の哀調があって、恋の心を連想させるところから、恋に関係させた歌が多い。○象の中山 「象」は、地名。吉野離宮のあった宮滝の南の地で、巻三(三一六)に「象《きさ》の小河《をがは》」を詠んだ歌があり、今も喜佐谷《きさだに》と呼ぶ谷がある。「中山」は、そこにある山。○呼びぞ越ゆなる 「呼び」は、呼子鳥の鳴くのを、その感じから言いかえたものであるが、今は、明らかに呼んでの意でいったもの。「ぞ」は、係。「越ゆなる」の「なる」は、連体形で、上の「ぞ」の結び。
【釈】 都の妻のいる家にと、旅のここから鳴いていくのであろうか。呼子鳥は、ここの象の中山を、呼び立てて越えてゆくことであるよ。
【評】 黒人が持統天皇の吉野離宮への行幸の供奉をしている時、心中郷愁を感じている折から、呼子鳥が妻のいる藤原の京の方角へ鳴きながら飛んでゆくのを見て、その鳥にわが郷愁を伝えさせる心をもって詠んだ作である。「大和には鳴きてか来らむ」は、妻のもとへ鳴いて行くだろうかであるが、場合柄あらわにいうことを憚って、「大和には」と甚だ婉曲な言い方をし、さらに「か」の疑問を添えていったのである。しかし「来らむ」は、その心を徹しさせたものである。「呼子鳥」以下は、上の感を発しさせた情景を具象的にいったものである。古くから鳥は、わが思いを遠方にいる人に伝えさせうるものだとしていた。黒人はその時、その心を起こしたとみえる。「呼びぞ越ゆなる」の「呼び」は、ここでは妻を呼ぶのである。呼ぶのは伝えるべきことがあるからである。この「呼び」は「呼子鳥」の呼びの畳語という程度のものではなく、含蓄をもったものである。一首、表面にはいささかも郷愁の趣を見せていないが、実質は純郷愁で、婉曲を極めたものである。技法としては、この当時すでに象徴に近い表現をしていたのである。
 
     大行天皇、難波宮に幸しし時の歌
 
【題意】 大行天皇は、ここでは文武天皇。本来大行天皇という尊号は、中国にならったもので、天皇崩御後、御謚号《ごしごう》を奉らない間の称である。しかるにこの頃には、先帝をいう意味で用いるようになっていた。この事は、『講義』が詳しく考証している。その点から、この題詞は、次の御代、元明天皇の時に記録したものを、そのままに用いたものと思われる。行幸の年月は明らかでない。
 
71 大和《やまと》恋《こ》ひ 寐《い》の宿《ね》らえぬに 情《こころ》なく この渚崎廻《すさきみ》に たづ鳴《な》くべしや
(123)    倭戀 寐之不所宿尓 情無 此渚埼未尓 多津鳴倍思哉
 
     右一首、忍坂部乙麿《おさかべのおとまろ》
      右一首、忍坂部乙麿
 
【語釈】 ○大和恋ひ寐の宿らえぬに 「大和」は、大和国であるが、旅にあって家を意味させているもの。「い」は、眠りの意で、名詞。「宿らえ」の「らえ」は、「られ」の古語。眠ろうとしても眠られないのに。○情なく 思いやりなく。○この渚崎廻に 「廻」は、『新訓』による。渚の崎の、水中に差し出ている辺りにで、そうした所は鶴などの、餌を漁ろうとして好んでいる所である。○たづ鳴くべしや 「たづ」は、当時は、鶴を始め鶴類を広く呼んだ称。「や」は、今は反語。鳴くべきであろうか、鳴くべきでないの意で、夜の「たづ」の鳴き声に刺激されて、ますます旅愁がつのるゆえの心。○忍坂部乙麿 伝が詳かでない。
【釈】 大和の家を恋って、眠ろうとして眠れずにいるのに、思いやりなく、ここの洲崎の辺りに、鶴が鳴くべきであろうか、鳴くべきではない。
【評】 旅愁を、我と慰めるための歌であるが、調べに迫るものがあって、その平淡なのを救っている。この歌に限らず、この種の歌のすべてに通じてのことであるが、旅愁の大半は旅の侘びしさより起こるものである。行幸の供奉としての旅は、侘びしさにも限度があって、その家居の時とさして異なったものではなかろうと思われる。異なるのは、妹の添っていないことだけである。すなわち旅愁は、いわゆる旅愁とは異なって、妹と別れていることによって起こってくるものなのである。ここに当時の人の、いかに善意に富んでいたかを思わせるものがある。この歌ではまた、「情なく、たづ鳴くべしや」の「情なく」が注意される。これは必ずしも特殊なものではなく、(一七)にも、「情なく雲の隠きふべしや」というのがあった。これらは後世の詩的技巧とは趣を異にして、作者は自然にいっているものであろうと思われる。これらの語の自然さは、自然そのものに対して善意を期待しているところがあり、その反映として、期待に添わないのに恨み怒りを感じてきてのものと思われる。この歌には、そうした善意が、やや際やかに現われている。
 
72 玉藻《たまも》刈《か》る 沖《おき》辺はこがじ しきたへの 枕《まくら》辺の人《ひと》 忘《わす》れかねつも
    玉藻苅 奧敞波不榜 敷妙乃 枕邊之人 忘可祢津藻
 
     右一首、式部卿藤原|宇合《うまかひ》
(124)      右一首、式部卿藤原宇合
 
【語釈】 ○玉藻苅る 既出。藻を苅り取るで、「沖」の状態としてかかる枕詞。○沖辺はこがじ 「沖辺」は、沖の方。「へ」は助詞ではない。沖の方へはこぎ出すまい。遠い遊びはしまいの意。○しきたへの 織目の繁い、すなわち細かい織物。衣、家、床、枕など多くの物へかかる枕詞。枕へかかるのは、床の延長と思われる。 ○枕辺の人 この句は細井本以外の古写本は「枕辺之人」とあるに従い『注釈』も『私注』も「枕辺の人」と訓んでいる。枕を並べている床上の女である。『注釈』は、難波の遊行婦としている。従うべきである。○忘れかねつも 忘れることができないなあ。「かね」は、現在も用いられている。「も」は、詠歎。○式部卿藤原宇合 目録の方には、「作主《つくりぬし》いまだ詳かならざる歌」とあり、「式部卿」以下は、細字となっている。宇合は天平九年に薨じた人で、懐風藻、公卿補任によると、年は三十四、四十四、または五十四で、不定である。持統天皇七年の出生であるから、この時は十六歳であったろうという。『注釈』は詳しく考証している。
【釈】 藻を苅り取る沖の方へは、わが船は漕ぎ出すまい。夜床の枕のほとりにいた人が、忘れられないことだなあ。
【評】 作者は岸近い辺りで舟遊びをしていて、沖の方へ漕ぎ出さないかと勧められたのに対し、この歌をもって答えたものと思われる。明るく軽い作で、独詠とはみえないものである。挨拶の歌としても、相手は遠慮のいらない、親しい部下かと思われる。手放しな物言いである。「沖辺」「枕辺」と対させて、突きはなして客観的な言い方をしているところ、初心ではあるが、文芸的の才能の閃きがあるといえる。
 
     長皇子の御歌
 
【題意】 長皇子は、(六〇)に出た。
 
73 吾妹子《わぎもこ》を 早見浜風《はやみはまかぜ》 大和《やまと》なる 吾《わ》を松《まつ》椿《つばき》 吹《ふ》かざるなゆめ
    吾妹子乎 早見濱風 倭有 吾松椿 不吹有勿勤
 
【語釈】 ○吾妹子を早見浜風 「吾妹子」は、妻をきわめて親しんで呼ぶ称。「早見浜風」の「早見」は、掛詞となっていて、上よりの続きは、早く見るとなり、同時に、「浜風」を形容する意をもっていて、そちらは「早み」で、これは形容詞の連体形で、浄見原《きよみはら》、朱鳥《あかみどり》などと同じ例である。「浜風」は、海より浜に吹いてくる風で、その烈しいのを「早み」といっているので、早きというにあたる。「早見浜風」は一つの語で、今は呼びかけていっているもの。○大和なる 大和にあるで、その大和は旅にあってわが家《や》を意味させる語であるから、わが家にあるの意。○吾を松椿 (125)「吾《わ》を松」は『考』の訓み。「松」は掛詞で、吾を待つ、すなわちわが帰京を待つと、松の木と椿とをかけたもの。わが帰りを待つ松の木や椿を。○吹かざるなゆめ 「吹かざるな」は、吹かずはあるなで、吹けということを、不安をもって消極的にいったもの。「ゆめ」は、「忌む」の古語「斎《ゆ》む」の命令形で、慣用より副詞となり、強く命令する意でいう語。今は、きっとというにあたる。
【釈】 吾妹子を早く見るという名をもっている早み浜風よ。大和のわが家にあるわが帰京を待つ松の木や椿を、吹かないということはするなよ、きっと。
【評】 行幸の供奉をして難波にあって、旅愁を感じられていた皇子が、いうところの早み浜風に吹かれていると、大和の家にいて、皇子の帰京を待っている妻を思慕する心が起こり、その心をその浜風に託したのである。第一に託されたのは、「早見浜風」という語である。(五) の長歌に、「玉襷懸けのよろしく、朝夕《あさよひ》に還らひぬれば」という語がある。言霊《ことだま》信仰は、今日いうところの縁起のよい語で、それを信じ頼む心の、きわめて深いものである。「早見」という語は、「吾妹子を早見」という意味をもちうるもので、その名をもった「早見浜風」は、この際の皇子としては、貴くも懐かしいものだったのである。「早見」を掛詞にして、「浜風」に呼びかけたのは、この伝統久しい信仰からで、技巧はそれに付随したものである。第二に託されたのは、風はその本性として遠く行きうるものであるから、この風が大和のわが家まで至り得ないものではなく、またそれだと、今わが身に触れている風が、同じく妹が身にも触れ得ないものでもないと思われた。一つの物が相思う二人の身に触れるということは、それを通して魂の交流をもなしうるものだという信仰は、何首かの歌となっている。巻十(二三二〇)「わが袖に降りつる雪も流れゆきて妹が袂にい行き触れぬか」はその一例である。皇子はその風にこの信仰を託されようとしたのである。しかしそれについては、皇子の心は合理的に働かれ、風の最も触れやすい松と椿の木とを思われ、しかもこの風が、はたして遠いわが家まで至りうるかどうかという不安をも思われ、「吹かざるなゆめ」という、消極的な、しかし力をこめた訴え方をしているのである。「吾を松椿」は無論「吾妹子」を言いかえたもので、この言いかえは、その事を合理的にする必要からのもので、技巧は付随したものである。古い信仰と、新しい合理的な心との交錯した歌である。心の複雑なのに比して、調べの強さとさわやかさを失っていないのは、皇子の手腕である。
 
     大行天皇、吉野宮に幸しし時の歌
 
【題意】 大行天皇は、文武天皇。天皇の吉野官への行幸は、続日本紀、大宝二年七月にあったことが記されているが、歌によると寒い季節であったことが知られるので、その時ではない。
 
(126)74 み吉野《よしの》の 山《やま》の下風《あらし》の 寒《さむ》けくに はたや今夜《こよひ》も 我《わ》が独《ひとり》宿《ね》む
    見吉野乃 山下風之 寒久尓 爲當也今夜毛 我獨宿牟
 
     右一首、或は云ふ、天皇の御製歌
      右一首、或云、天皇御製歌
 
【語釈】 ○み吉野の山の下風の 「み吉野」は、既出。「下風」は、「あらし」にあてた文字。「山下出風」の意。○寒けくに 「寒けく」は、形容詞「寒し」の未然形に、古くは「寒け」の形があり、それに「く」を添えて、名詞のごとくしたもの。寒きことなるにの意。○はたや今夜も 「はた」は、またに、嘆きの意の添ったもので、またも詮なくの意。「や」は、疑問の係の助詞。○我が独宿む ひとり寐は、共寐に較べて寒いものとの意でいった語。○この歌は作者の明らかでないものである。天皇すなわち元明天皇の御製とも伝えているというのである。
【釈】 み吉野の山の嵐は、寒いことであるのに、またも詮なく、ただ独りで今夜も寐るのであろうか。
【評】 吉野に幾夜かを宿った後、その夜も寐ようとして、折からの嵐の寒さに、夜々を肌寒くて眠り難いところから、妻との共寐の凌ぎやすかったことを思い出していたので、今夜もまた、あのとおりであろうかと予感しての嘆きである。寒夜の旅愁で、墳憩の多いものであるが、表現が物静かで、旅愁が婉曲なため、品位ある歌となっている。大行天皇すなわち文武天皇の御製はこの一首のみであるが、異説もあったのである。
 
75 宇治間山《うぢまやま》 朝風《あさかぜ》寒《さむ》し 旅《たび》にして 衣《ころも》貸《か》すべき 妹《いも》もあらなくに
    宇治間山 朝風寒之 旅尓師手 衣應倍 妹毛有勿久尓
 
     右一首、長屋王《ながやのおほきみ》
      右一首、長屋王
 
【語釈】 ○宇治間山 吉野町、上市の東方にある山で、飛鳥から吉野へ行く近路にあたっている。現在千股とある地。○朝風寒し 朝、山越えしての感である。○旅にして 旅にあって。○衣貸すべき妹もあらなくに 「衣貸すべき妹」は、衣を貸してくれるような妻。古くは下の衣は、女(127)の物も男に用いられたので、この意の歌が少なくない。別居生活の関係からである。妻は、京にいる妻である。「も」は、詠歎。「あらなくに」は「なく」は、打消の助動詞の未然形「な」に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎の助詞。○長屋王 高市皇子の御子で、天武天皇の御孫である。慶雲元年に正四位上、後、宮内卿、式部卿、大納言、右大臣を経て、神亀元年、正二位左大臣となり、天平元年讒にあって、四十六あるいは五十四をもって自尽された。
【釈】 宇治間山は朝風が寒い。旅にあって、衣を貸してくれるような妹もいないことであるのになあ。
【評】 吉野宮へ供奉の往復に、秋か冬の朝風の寒い頃、宇治間山を越えながらの歌で、旅愁の作である。妻を訪い、朝別れるおり、寒い時には、妻が下着を貸すのが風となっていたので、それを思い出しての嘆きで、類想の作の少なくないものである。軽い心よりの作であるが、実感に即しつつ落ちついて豊かに詠まれているところに、風格があり、味がある。
 
   和銅元年戊申
     天皇の御製歌《おほみうた》
 
【題意】 元明天皇は、慶雲四年即位されたので、和銅元年はその翌年である。天皇は、御諱は阿閉皇女、文武天皇の御母である。天皇崩御の後即位され、和銅三年までは藤原宮にいられた。
 なお和銅二年には、蝦夷が叛いたので、征伐の軍を送っている。その前年である元年には、準備のための訓練が行なわれていたことと思われる。
 
76 大夫《ますらを》の 鞆《とも》の音《と》すなり もののふの 大臣《おはまへつぎみ》 楯《たて》立《た》つらしも
    大夫之 鞆乃音爲奈利 物部乃 大臣 楯立良思母
 
【語釈】 ○大夫の 「大夫」は、(五)に出た。猛き武夫の意である。○鞆の音すなり 「鞆」は、武具、弓を射る時、左の手の手首に付けて、矢を射る時弓弦が反ってあたり高い音を立てるようにした物で獣革で袋を作り、中に獣毛を入れた物である。「すなり」は、「す」に「なり」を添えて強くいったもの。○もののふの (五〇)に出た。本来は文武百官の総称であるが、ここは意味が狭くて、武官の意でいっていられる。○大臣 「臣《まへつぎみ》」は、前つ君の意で、天皇の御前近く侍う臣を尊んでの称。「大」は、その中に特に貴い人として添えた語。上の句を待って将軍というにあたる。○楯立つらしも 「楯」は、戦争の際、敵の矢、鉾《ほこ》を防ぐための武器。延喜式に載っている大甞祭の神楯は、長さ一丈二尺余、濶《ひろ》さ四尺余、(128)厚さ二寸。その表に黒の牛皮の、長さ八尺、広さ六尺の物を張り、さらに鉄の、長さ四尺、広さ五寸、厚さ一分の物を打ち付けたものである。「立つ」は、立てるで、楯を立てるのは陣容を整える意である。「らし」は、証を挙げての推定をあらわす助動詞。「も」は、詠歎。
【釈】 猛き武夫どもの、弓を射る鞆の音がするよ。将軍は、軍容を整えている様子だなあ。
【評】 宮に間近い辺りで、将軍が出征のための調練としての弓を射る鞆の音をお聞きになり、その全体を想像されての御製である。事相を叙されたのみで、内容には触れてはいないが、これは他に聞く者があるとしても、側近の人のみで、それらの人たちは、その内容の何であるかは、天皇と同じく心得ているのであるから、その必要はなかったのである。しかし一首の調べは、明らかにその事相に対してのお心持をうかがわさせるものがある。卒然と、初二句その事の中核を成すことをいって、言いきられ、ついで、「もののふの大臣楯立つらしも」と、全貌を想像され、感歎を添えていっていられるのである。事の全貌を捉え、素朴な、強い声調をもって、食い入るがごとく詠まれているので、表現が気分そのものとなり、迫りくるものがある。女帝ながら天皇の責任を痛感されての御製である。
 
     御名部皇女《みなべのひめみこ》、和《こた》へ奉《まつ》れる御歌
 
【題意】 御名部皇女は、天智天皇の御女で、元明天皇の、同母の御姉である。
 
77 吾《わ》が大王《おほきみ》 物《もの》な思《おも》ほし 皇神《すめがみ》の 嗣《つ》ぎて賜《たま》へる 吾《わ》がなけなくに
    吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
 
【語釈】 ○吾が大王物な思ほし 「吾が大王」は、臣下として天皇を呼びかけての称。御姉ではいられるが、天皇の位にある方に対しては当然臣下なのである。「な」は、禁止の意をもった助詞。「思ほし」は、「思ふ」の敬語「思ほす」の連用形。これに「な」が添って、お思いたもうなの意を成す古語。「物思ふ」は、嘆く意をあらわす語で、御心配なさいますなの意となる。○皇神の 「すめ」は、統《す》めで、統治の意がある。皇祖神を称する語で、また一般に神をも崇めてもいう称。『講義』は、ここは皇産霊神の意であると解している。わが国は、国土そのものを初め一切のものは、神々の産霊の御力より生まれたものであるということは、上代の信仰で、深く広かったものである。○嗣ぎて賜へる これは「吾」の修飾語で、天皇につぐものとして神のお下しなされたところの。すなわち天皇をお下しなされ、ついで、輔佐する者としてお下しなされたところの。○吾がなけなくに 「吾が」は、従来|吾《われ》と訓んできたのを、『注釈』が改めたもの。「なけなく」に続く場合、「が」を訓み添えるのが例となっている。「なけなく」は前出。「なく」はないことであるの意。「に」は詠歎。卑の形をもって強くいう語法。
(129)【釈】 吾が大君よ、御心配はなさいますな。皇祖神の天皇につぐ者としてお下しになったところのわたくしがなくはないのでございますのに。
【評】 天皇の御製は、直接に皇女に対してのものとは思われないが、皇女は側近していてそれを伺ったところから、同じく歌をもって和《こた》へ奉ったものとみえる。これは古くからの風で、後世になると必ずそうすべきものとなっていた風である。皇女は天皇の御心を十分に察し、東北地方の国情不安を御心配になってのこととし、それを御慰めしたのである。「吾が大王物な思ほし」と、まず総括して、力強く言いきられ、ついで、「皇神の嗣ぎて賜へる吾がなけなくに」と、その理由をいわれたのである。これはきわめて深い信仰の上に立ってのお語《ことば》である。皇祖神より押し進めて他の神々をも「皇神」と申すのは、国土を統治なさる神の意であって、わが国土は神の物と信じられてのことである。天皇はその皇神の御身代りとして下された方、御自分も天皇につぐ者として、かく添い奉っていないのではないのに、というのは〔五字傍点〕、深い信仰をもっての言である。すなわち、いささかの国情の不安などには微動をもなさらないお心である。これはまさに御信念の端的なる披瀝であると思われる。天皇の女帝ながら、国家を任となされる御心に対し、皇女の雄々しくいられるこの唱和も、共に強い責任感の現われである。
 
     和銅三年庚戌の春二月 藤原宮より寧楽宮に遣りましし時 御輿《みこし》を長屋《ながや》の原に停《とど》めて※[しんにょう+向]《はる》かに古郷《ふるさと》を望みて作りませる御歌 一書に云ふ、太上天皇の御製
 
【題意】 寧楽宮の遺址は、今の奈良市の西から郡山町の北にあたる一帯の地である。宮の造営は、和銅元年に始まり、遷都は同三年三月に終わった。今はその二月である。御輿は高貴の御方の乘物。長屋の原は、今はその名が伝わっていない。天理市永原町、長柄町一帯であろうという。それだと藤原宮からは三里ばかりの地である。古郷は、藤原である。ここに作主の名があるべきであるが、ない。他は詳しく敍しているところからみると、原拠となった記録のままに記したもので、その記録は遷都に供奉した者の手に成った関係上、改めて記すには及ばないものとしたためかもしれぬ。とにかく、このままでは不明である。「作りませる御歌」という書きようも、御製としては妥当なものとはいえない。しかし上と同じ関係のものかもしれぬ。「一書に云ふ、太上天皇の御製」という語は、目録の方にはないもので、後からのものと思われる。この御代には、「太上天皇」と申されるべき御方はない。
 
(130)78 飛《と》ぶ鳥《とり》の 明日香《あすか》の里《さと》を 置《お》きていなば 君《きみ》があたりは見えずかもあらむ【一に云ふ、君があたりを見ずてかもあらむ】
    飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武【一云ふ、君之當乎不見而香毛安良牟】
 
【語釈】 ○飛ぶ鳥の明日香の里を 「飛ぶ鳥の」は、明日香の枕詞として用いられているが、これは天武天皇の十五年、大和の国から赤雉を献上したのを瑞祥として、朱鳥《あかみどり》と改元されたのと、藤原宮が明日香の地域にあるのとで、明日香を讃える意で枕詞となったもの。「明日香」は、飛鳥《あすか》地方一帯の名で、現在の明日香村一帯が、それにあたる。○置きていなば すて置いて離れて行ったならば。○君があたりは 「君」は、皇族などの親しくお思いになられる方。「あたりは」は、家のあたりはで、「は」は取り立てる意の助詞。○見えずかもあらむ 「か」は、疑い、「も」は感歎の意の助詞。見られなくなるのであろうか。○一に云ふ、君があたりを見ずてかもあらむ 君が家のあたりを、見なくていることであろうか。
【釈】 飛ぶ鳥の明日香の里をすて置いて行ったならば、そこにいる君が家のあたりは、見られなくなることであろうか。一にいう。君の家のあたりを見なくていることであろうか。
【評】 京は新しい寧楽に遷つても、従来どおり明日香の里にとどまっていられる親しい方に対して、別れを惜しまれたお心である。一首、おおらかな中に情感のこもったもので、四、五句はことにその感が深い。気品の高いものである。
 
     或る本 藤原京より寧楽宮に遷りし時の歌
 
【題意】 或本というのは、上にある歌に対して、別本には小異のある場合、参考として添える場合にのみ用いる語である。これはそれと異なり、上の歌と、時を同じゅうしている意でいっているもので、後より追加した歌ということを示しているものである。歌は、遷都とともに一皇族が藤原より奈良へ邸を移した時、その工事にあたった工匠の、家主に贈ったものである。
 
79 天皇《おほきみ》の 御命畏《みことかしこ》み 柔《にき》びにし 家《いへ》をおき 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の川《かは》に 舟《ふね》浮《う》けて 吾《わ》が行《ゆ》く川《かは》の 川隈《かはくま》の 八十隈《やそくま》おちず 万度《よろづたび》 顧《かへり》みしつつ 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》行《ゆ》き暮らし 青丹《あをに》よし 奈良《なら》の京《みやこ》の 佐保川《さほかは》に い行《ゆ》き至《いた》りて 我《わ》がねたる 衣《ころも》の上《うへ》ゆ 朝月夜《あさづくよ》 清《さや》かに見《み》れば 栲《たへ》の穂《ほ》に 夜《よる》の霜《しも》ふり 磐床《いはどこ》と 川《かは》の氷《ひ》凝《こご》り 寒《さむ》き夜《よ》を いこふことなく 通《かよ》ひつつ 作《つく》れる家《いへ》に (131)千代《ちよ》までに 座《いま》せ大君《きみ》よ 吾《われ》も通《かよ》はむ
    天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隱國乃 泊瀬乃川尓 ※[舟+共]浮而 吾行河乃 河隈之 八十阿不落 万段 顧爲乍 玉桙乃 道行娩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上從 朝月夜 清尓見者 栲乃穗尓 夜之霜落 磐床等 川之氷凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手 來座多公与 吾毛通武
 
【語釈】 ○天皇の御命畏み 「天皇」を「おほきみ」と訓むにつき、荒木田久老は、「おほきみ」は当代の天皇より皇子諸王までの称であり、「すめらぎ」は遠祖の天皇の称であるが、皇祖より受け継がれた大御位についていう上では、当代の天皇をも申すことのある称だといっている。その意味で今も、普通の称に従って「おほきみ」と訓んでいる。「御命畏み」は、勅を畏み承りて。これは成句となっていたものである。事としては一宮人から工匠が依頼を受けたことであるが、それに最高の語を転用したものである。○柔びにし家をおきて 「柔び」は「荒《すさ》び」に対した語で、和らぎ睦ぶ意。家人との関係をいったもの。原文「擇」は、「釈」に通ずる字で、「捨」の意、「置」の意とをもっている。『講義』は、用例の多きに従って「置」を取っている。その家をさし置いて。○隠口の泊瀬の川に 「隠口の」は、(四五)に出た。泊瀬の枕詞。「泊瀬の川」は、大和川の上流で、その支流の一つである佐保川と合流するまでの間の称である。この川は、三輪山の麓をめぐり、国中《くんなか》の平野を流れて、佐保川に合する。○舟浮けて吾が行く川の 原文「※[舟+共]」は、小さく深い舟を意味する字。わが国の高瀬舟にあたる。この川は大船は用い難いためである。「浮けて」は、浮かべて。「吾が行く川」は、水路の便のある限り、それを利用するのが上代の風であった。荷物も共に運び得たものと思える。舟に乗る地点は、藤原方面からだと、三輪の辺りであろうと『講義』はいっている。○川隈の八十隈おちず 「川隈」は、川の曲がり目で、「隈」は(一七)に出た。「八十隈」は、多くの隈。「落ちず」は、(二五)に出た。「漏れず」の意。○万度顧みしつつ 「万度」は、何回となくの意。「顧みしつつ」は、後を振り返って見い見いしてで、遠ざかり、見えなくなる家を、限りなく思い慕いつつの意をあらわしたもの。○玉桙の道行き暮らし 「玉桙の」は、主として「道」にかかる枕詞(132)である。『注釈』は、新解釈をしている。「玉」は霊。「桙」は男根。古代の農村は里の入口、あるいは三叉路に、道祖神を祀っていた。これは他より入り来る邪霊を追い払うもので、また男根もともに祀ってあったといぅのである。したがって、道あるいは里の修飾語としてのもので、男根にはたぶん、農作物繁殖の呪力があるとしてのことと思われる。「道」は、ここは舟路。「行き暮らし」は、行くに暮らしてで、行くに暮れてというと異ならない。以上は泊瀬川の行路で、舟は下りである。○青丹よし奈良の京の 「青丹よし」は、(一七)に出た。「奈良の京」は、前に出た。○佐保川に 「佐保川」は、上にいった大和川の支流の一つで、春日山中から発し、今の奈良市の北を流れ、古の奈良の京の間を流れて、初瀬川と合して大和川となるのである。「奈良の京の佐保川」という続きは、この川が奈良の京に通じているところからの言い方である。 ○い行き至りて 「い」は、接頭語。「行き至り」は、行き着くで、舟が佐保川に移ってからは、川上に向かって溯るのである。○我がねたる衣の上ゆ 「我がねたる衣」は、夜を舟の中に寝て、寝るに被《かず》いているところの衣である。「上ゆ」は、上より。寝ているままで、その被いている衣の上から。○朝月夜清かに見れば 「朝月夜」は、朝月で朝になってもある月。在明月の意。朝月夜の光にの意。「清やかに見れば」は、はっきりと見ると。○栲の穂に 「栲」は、今の楮《こうぞ》の古名で、「たく」ともいった。その繊維をもって織った布も、同じく「たへ」といった。これはいずれも白色のものである。「穂」は、物の現われて見え、目に着くことをいう意の語。その物の光沢にもいう。「栲の穂」は、白い楮の特に白い所の意で、真っ白なことを具体的にいったもの。真っ白に。○夜の霜ふリ 夜の物の霜が降り。○磐床と 「磐床」は、磐が床のようになっているものの称で、磐の広く平らになっているもの。「と」は、のごとくに。○川の氷凝り 佐保川の氷が凝って。○寒き夜をいこふことなく 「いこふ」は、休息の意で、励み努めての意。○通ひつつ作れる家に 「通ひつつ」は、藤原より奈良へと通いつづけて。「作れる家に」は、わが建築したところの家に。○千代までに 「千代」は、原文「千代二手来」の「来」は、次の句に属させていたのを、『考』は「尓」の誤写として、今のごとくにし、それ以来の注は従っている。千年で、いついつまでも長く。○座せ大君よ 原文「座多公与」とある。「多公」を「おほきみ」と訓むのは、不自然の感があるが『注釈』は、「多」を「大」にあてた例を挙げて、万葉後期にはありうる用字だとしている。家主を「大君」と呼ぶのは、すでに起首に出ていることで、呼びうる人であったとみえる。「よ」は呼びかけである。○吾も通はむ 「吾も」は、我もまたこの家に。「通はむ」は、出入りをする意で恩顧をこうむらそうとしてである。
【釈】 大君の仰せを畏み承って、和《なご》み睦んできた家族のいるわが家をさし置いて、泊瀬の川に小舟を浮かべて、わが通い行く川の、その川の曲がり角の多くある曲がり角の一角をも漏らさず、幾たびも幾たびもわが家を振り返って見い見いして、舟路に日を暮らして、奈良の京を流れている佐保川にまで行き着いて、わが寝て引被《ひきかず》いている衣の上から、照る朝の月の光に、はっきりと見ると、着ている白い栲より白く霜が降り、床を成している磐のようにごつごつと川の氷は凝っている寒い夜を、休息することもなく、通い通いして建築したこの家に、いついつまでもお住まいなさいませ大君。我もまた今後御恩顧をこうむるために、通ってまいりましょう。
【評】 藤原より奈良へ遷都の勅命が下り、大宮の造営が始まると、大宮に奉仕すべき大宮人は、それとともに各自の邸宅を建築しなければならないことになった。一人の大宮人から、そのことの依頼を受けた藤原に住んでいた工匠は、依願のままに、(133)藤原から奈良へと通って、建築にあたったのである。遷都は和銅三年三月で、天皇は二月にすでに御移りになられたことが、前の歌でわかる。この大宮人の家は、それに先立って完成しなければならない。「栲の穂に夜の霜ふり、磐床と川の氷凝り」といっているのは、冬の酷寒の季節の状態で、遷都に先立っていたことがわかる。その工匠のこの歌を作った心は、依頼主である大君という大宮人に、その工事を引き受けたことを縁として、今後の恩顧を乞おうとしてのものである。それをいうには、このために、いかに心身を労したかということを具《つぶ》さに訴えて、まず依頼主の同情を得ようとしたのである。起首から結末に近い「作れる家に」までのほとんど全部は、そのためのものである。結末に至って、そのいわんとする要点を初めていっているが、それは「吾も通はむ」という婉曲なもので、しかもそれをいうには、その作れる家に「千代までに座せ大君よ」という、その家と家主《いえあるじ》に対する賀の詞を述べ、それに付随していうという、用意深い態度を取っているのである。一首の主意は、明らかなものといえる。
 表現も、その態度にふさわしい用意をもったものである。起首の「天皇の御命畏み」は、意としては結末に近い「通ひつつ作れる家に」に続くものである。ここで「天皇」といっているのは邸宅の建築を命じた人で、その人に対する敬称である。この称は広く、皇族にも用いたものであり、またいう者は工匠であるから、皇族の一人であれば、不自然ではない。また、結尾にも繰り返しているから、そうした人と解される。また起首より「寒き夜を」までは、一日一夜の労苦を叔して訴えたものである。これは事を具象的にすることによって強め、それによって訴えを強めているもので、この歌に限ったことではないが、要を得たものである。さらに部分的にいえば、「柔びにし家をおき」より「万度顧みしつつ」までは、工匠がその家と離れることを悲しむ心である。距離は藤原より奈良までの間で、しかも「通ひつつ」といい「通はむ」といっている間である。これは明らかに誇張で、訴えんがためのものである。「川隈の」以下「顧みしつつ」までの四句は、巻二(一三一)柿木人麿の歌にほとんど同様のものがあって、当時にあっては成句に近いものである。この影響の受け方は口承文学的である。しかし、「吾がねたる衣の上ゆ、朝月夜清かに見れば」は、相応に簡潔で、まさに記載文学のものである。「寒き夜を」より転じて、「いこふことなく、通ひつつ作れる家に」の間《ま》の早さも、同じく記載文学のものである。総括して、大小の用意をもっているもので、おのずから口承文学と記載文学の交錯も示している、相応に高い技巧をもった歌といえるものである。
 これを全体として見ると、一工匠の、一人の大宮人の恩顧を得ようとして室寿《むろほ》ぎの際謡った形のもので、実用性のものであり、したがって文芸的の気品を欠いた歌である。
 
     反歌
 
80 青丹《あをに》よし 奈良《なら》の家《いへ》には 万代《よろづよ》に 吾《われ》も通《かよ》はむ 忘《わす》ると念《おも》ふな
(134)    青丹吉 寧樂乃家尓者 万代尓 吾母將通 忘跡念勿
 
     右の歌、作主いまだ詳なからず
      右歌、作主未v詳
 
【語釈】 ○青丹よし 既出。○奈良の家には 長歌の「通ひつつ作りし家」。○万代に 万年にで、いつまでもの意。長歌の「千代に」に照応させたもの。○吾も通はむ 長歌の結句。○忘ると念ふな われがこの家を忘れることがあるとは思いたもうなの意。○作主 作者であるが、その名は不明の意。
【釈】 このわれが作った奈良の家へは、万年と末長く通ってこよう。われがこの家を忘れることがあるとは思いたもうな。
【評】 長歌の結句の心を、繰り返して強めたものである。「忘ると念ふな」は、訴えとしては執拗な感をもったものである。
 
     和銅五年壬子の夏四月、長田王《ながたのおほきみ》を伊勢の斎宮《いつきのみや》に遣しし時、山辺《やまのべ》の御井《みゐ》にて作れる歌
 
【題意】 長田王は、続日本紀、和銅四年夏四月、正五位下に叙され、近江守、衛門督、摂津大夫らに歴任し、天平九年六月に、「散位正四位下長田王卒」と見えている人。父祖は詳かでない。斎宮は、伊勢神宮に奉仕される斎王の、お住まいになる宮の称である。また神宮をも称した例がある。斎王とは、歴代天皇の御|手代《てしろ》として神宮に奉仕せらるる内親王の称である。その宮は、伊勢国多気郡にあった。山辺の御井については、『講義』は精細な考証をしている。簡単にいうと、本居宣長が『玉勝間』で、河曲郡(鈴鹿郡)といっているのは誤りか、もしくは郡域の変更かであろう。山辺だと論じ、爾来信じられているが、これは誤りである。続紀、聖武天皇の天平十三年十月壬午の神宮への行幸の順路、また、『江家次第』の、斎王が任解けて、難波に解除《はらい》に赴か(135)れる日取り、順路を見ると、古来、大和から伊勢神宮への順路は一定している。河曲郡山辺は、この順路よりは約十里を隔ててい、往復では二十里である。公務を帯びた者が、遊覧のために二十里の迂路をするということはあるべくもない。これは誤りである。一方、御鎮座本紀に、豊受大神の伊勢にうつりませる順路をいった中に、「次山辺行宮御一宿 【今号壱志郡新家村也是】とある。この書は偽造だとの定評があるが、地名までは偽造ができない。山辺行宮というものの人に知られていた頃の偽造であろう。三重県一志郡桃園村|新家《にのみ》とすると順路と一致する。巻十三(三二三四)に、「山辺」に行宮または離宮のあったように詠まれている歌とも一致する。その遺址は今は考えられないというのである。しかし、定解とはなっていない。『注釈』は、御井の跡と主張する地の三か所を踏査したが、確証は得られなかったといっている。「御井」という称で、行宮、離宮、あるいは神宮に付属した井と知られる。
 
81 山辺《やまのぺ》の 御井を兄がてり 神風の 伊勢|処女《をとめ》ども 相見つるかも
    山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃 伊勢處女等 相見鶴鴨
 
【語釈】 ○山辺の御井を見がてり 「がてり」は「がてら」ともいっている。一つの事を主とし、他の事をも兼ねてする意をいう語で、「がてら」は現在も用いている。○神風の伊勢処女ども 「神風の」は、伊勢の枕詞で、古いものである。『注釈』の伊勢は風の荒い国で、現在も日常語として用いられている。修飾語だという解に従う。古い枕詞は感性によって捉えたものが多く、これもそれと思われるからである。「伊勢処女」は、伊勢に住んでいる女の意で、意味の広いもの。「処女」は、女を尊ぶ意で用いている例が多い。「御井」との関係から、宮に奉仕している宮女と思われる。それだと水部の女嬬である。「ども」は、複数を示したもの。○相見つるかも 「相」は、一緒にのい意と、互いにの意とがある。ここは、互いにもの。「かも」は、詠歎。互いに見たことであるよ。
【釈】 山辺の御井を見るついでに、その水を汲む何人かの伊勢処女と見合ったことであるよ。
【評】 上代では、飲用水に充てる水のある井は、一般に尊重されたのであるが、この歌では、見物のためにわざわざ立寄ったとみえるから、御井の由緒を重んじてのこととみえる。井の水を汲むのは、女のすることとなっていたので、そこに女のいる ことは特別のことではないのに、三句以下は、強い感動をもっていっているものである。すなわち御井その物よりも、伊勢処女を主としたものである。旅中、思いがけずも多くの処女を見た楽しさである。「相見つる」は、処女どももこちらと同じくゆかしんで見たとしてのもので、迎えての解である。しかしそこに情味がある。
 
(136)82 うらさぶる 情《こころ》さまねし ひさかたの 天《あめ》のしぐれの 流《なが》らふ見《み》れば
    浦佐夫流 情佐麻祢之 久堅乃 天之四具礼能 流相見者
 
【語釈】○うらさぶる情さまねし 「うらさぶる」は、たのしくない意の動詞。連体形で「情」に続いている。たのしくない気持。「さまねし」の「さ」は、按頭語。「まねし」は、あまねしと同じ。腹いっぱいであるの意。○ひさかたの天のしぐれの 「ひさかたの」は、「天」を初め、「日」「月」などにかかる枕詞であるが、定説はない。瓠形《ひさかた》の意というのが最も妥当に聞こえる。瓠《ひさご》は上代には、井の水を汲むに常用していた物で、その形をしたの意で、意味で「天」にかかる枕詞。「天の」は、「しぐれ」を天から降るものとして添えた詞で、強めのためのもの。「しぐれ」は、暮秋の頃、降りみ降らずみの状態で続く小雨。○流らふ見れば 「流らふ」は、「流る」の継続を示す意の語。流るは降るの意の古語。
【釈】 荒《すさ》みごころがまことに深い。天からのしぐれが降り続くを見ると、たのしくない気持が腹いっぱいである。
【評】 暮秋の頃、降りみ降らずみの状態で打続いているしぐれに対しての心持である。しぐれの降るという自然現象はきわめて普通のもので、取り立てていうほどのものではない。しかるに今はそれを取り立てて、三句以下、語を尽くして、重大なこととしていっている。これを重大視するのは、そのわが心に及ぼす影響という関係においてである。すなわち自然と人間心理との関係を問題としての歌である。これはまさしく文芸性のもので、奈良遷都以後に至ってはじめて起こってきた歌風である。抒情を先として、初二句で言いきり、三句以下その情を起こさしめた事をいうという、反転法を用いているのは、必ずしも珍しい法ではないが、これは次の時代に入って盛行した風で、この当時としては新しい法に属するものである。しかし語の続きは直線的で、思い入って、懇ろにいったもので、明らかに古風を伝えたものである。上の歌は、四月の歌であるのに、これはしぐれの季節の作で、同時のものではない。長田王自身が記録したものであろう。旅情を叙した作と思われる。三句以下、大景を対象としてのものである。
 
83 海《わた》の底《そこ》 沖《おき》つ白浪《しらなみ》 立田山《たつたやま》 何時《いつ》か越《こ》えなむ 妹《いも》があたり見《み》む
    海底 奧津白浪 立田山 何時鹿越奈武 妹之當見武
 
【語釈】 ○海の底 「底」には、奥の意があり、奥は沖に通じるので、「沖」にかかる枕詞。○沖つ白浪 「沖」は、「辺」に対する語。沖の方から寄せて来る白波。波が立つと続き、その立つを、地名の立田の立つに転じて、初句とつづけて序詞としたもの。○立田山 生駒山中の一峰で、大和川の北岸に近い山。大和と摂津の御津とをつなぐ要路にあたっており、古は関も置かれた山。ここは、御津から大和へ向かう場合。○何時か越(137)えなむ いつになったら越えられようかで、待ち遠い意の語。○妹があたり見む 妹が家の辺りが見られよう。
【釈】 海の沖に白波が立つのにゆかりある名の立田山よ、いつ越えられるだろうか。そして妹が家のあたりが見られよう。
【評】 遠い旅に出ている男が、古里にいる妻を恋って、いつになったら逢えようかと、待ち遠しく思っての心である。心としてはありふれたものであるが、表現には特殊なものがある。古里はどこともいっていないが、大和の京で、男は官人としての旅をしていることを思わせる。妻を思うと、妻のいる地への路が眼に浮かび、立田山が現われてくる。それとともに、現在いる海上の景が、「海の底沖つ白浪」という序詞として浮かんできたのである。しかもこの序詞は、その中に枕詞をも含み、複雑なものである。一首、心は単純であるが、表現は、眼前を捉えて美化しつつ、連想を具象化している、文芸性のゆたかなものである。この表現は、前の歌と同じく、奈良遷都以後のものである。
 
     右二首、今案ふるに、御井にして作れるに似ず。けだし疑はくは、當時誦めりし古歌か。
      右二首、今案、不v似2御井所1作。若疑、當時誦之古歌歟。
 
【左注】 右の二首の歌は、御井で作ったもののようではないというのは、もっともである。前の歌は秋の歌で、季節が異なっており、後の歌も、境を異にしたものである。しかし、古歌かという疑いはあたらないもので、同じく長田王の作で、ついでをもってここに載せたのだろうという解に従うべきである。
 
 寧楽宮
 
     長皇子、志貴皇子と佐紀《さき》宮にて倶《とも》に宴《うたげ》せる歌
 
【題意】 寧楽宮は、前に出たように、和銅三年三月の遷都であるから、この前の歌、すなわち和銅五年の前にあるべきであり、場所も誤っている。何らかの経路によっての誤りである。長皇子と志貴皇子のことは前に出た。従兄弟の間柄である。佐紀は、現在奈良市の西方にあたり、大極殿址の北方の地である。成務天皇、神功皇后、新しくは孝謙天皇の高野《たかぬ》御陵がある。佐紀宮は、長皇子の宮である。志貴皇子の宮は、巻二(二三〇)によると、高円《たかまと》にあったからである。歌は宴《うたげ》の際に、主人長皇子の即興として作られたものである。
 
(138)84 秋《あき》さらば 今《いま》も見《み》る如《ごと》 妻恋《つまご》ひに 鹿《か》鳴《な》かむ山《やま》ぞ 高野原《たかのはら》のうへ
    秋去者 今毛見如 妻戀尓 鹿將鳴山曾 高野原之宇倍
 
     右一首、長皇子
      右一首、長皇子
 
【語釈】 ○秋さらば 秋が来たならばの意。これは秋を未来としていっている形であるが、二句「今も見る如」とのつづきから、現在をいっているものである。毎年、秋になると、の意である。○今も見る如 今も見ているごとくにで、現に見ているものをさしての語で、三句以下の景である。思うに客の志貴皇子が、佐紀宮より見える高野原の山を見つつ愛でられたのに対して、主《あるじ》の長皇子も、同じく目をやって、誇りをもっていわれた意の語である。○妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ 妻恋いのために鹿が鳴くであろうところの山ぞの意。牡鹿の妻恋いをするのは秋である。本来鳴く声の悲しくあわれな鹿を、妻恋いのためのものに聞きなし、それを秋の趣の代表的なものとしたのは、この時代に入って愛された詩情で、ここもそれである。「ぞ」は、強く指し示す意の語で、その趣を、誇りをもって強めたのである。○高野原のうへ 「高野原」は、佐紀の地勢をいったもの。「うへ」は、野を野の上というそれで、強意のためのもの。
【釈】 秋が来たならば、今も御覧になっているとおりに、妻恋いのために牡鹿があわれに鳴くことですよ、この高野原は。
【評】 この歌は、長皇子の佐紀宮へ、志貴皇子がはじめて訪問された時の作である。時は秋で、宮の付近には、牡鹿が妻恋いをしてあわれに鳴く時だったのである。主の皇子は歓待の心より、挨拶代りに、佐紀宮の秋の情趣を誇りをもって詠んだ歌と解される。両皇子とも作歌に長《た》けていられたので、この当時としては普通のことであったろうと思われる。文芸趣味を愛される兩皇子の打寛いだ風貌の偲ばれる作である。この歌は、「秋さらば」「鹿鳴かむ」「今も見る如」とが、時の関係上解しやすくないために、解がまちまちになっていた。この解は『注解』に負うものである。
 「右一首、長皇子」とあり、また、こうした場合は、和え歌のあるのが普通である。元暦校本、冷泉本、神田本の目録には、この次に、「志貴皇子御歌」とあるので、本来は和え歌のあったのを、逸したのであろうといわれている。
 
  萬葉集評釋 卷第二
 
(140)   序
 
 本集の巻第一が刊行されて以来、久しく巻第二の刊行を見ないので、どうしたのだ、待っているのだがと、年若い知人の何人かから、屡々《しばしば》尋ねられた。引続いて刊行されるものと予期してのことである。
 刊行書肆はそのつもりで、事を進捗させ、巻第二はすでに紙型となり、印刷にかかろうとしていた折から、戦火はその紙型を灰燼としてしまったのである。終戦後の出版事情は、相当の量のある物を、新たに版とすることが困難であり、用紙の関係も伴って、事の荏苒《じんぜん》している由を書肆から断られ、機を待つより外ないと思わせられたのである。今度漸くその機を得た次第である。
 本集二十巻の原稿は、終戦後間もない頃に書き終っている。特別の事情の起らない限り、次第に刊本となるものと思っている。
 本集の稿を草しつつあった間の感は、筆者には、猶《な》お新たなるものがある。稿を起したのは戦時下であったが、巻第四を終った時には、明らかに根気の衰えを感じ、中絶させようかと思った。然るにその頃は、次第に戦局の容易ならざるものとなり来ったことが、報道の如何にかかわらず、おのずからにして感じられるものとなって来た。親近している若き学徒、親戚の若い人、筆者の次男など、相次いで兵とされ、何処とも分らぬ戦線に送られた。それらの人々の研学の精神は、筆者には極めてなつかしいものである。あの人々に代って書物に親しもう、他に用いるなき老国民で、その業にいそしむことによって、あの人々に酬いるより外はない。筆者はその一念に駆られ、その人人の顔を目睫の間に浮べつつ、筆を続けたのである。筆者は本書の成果を思うの遑《いとま》もなく、稿本の存在をも期し得なかったのが実情であった。
 本集の稿を成さしめた、それら若き学徒の中には、永久に帰還せざる者が少くない。筆者の次男もその中にある。
 巻第一の読者に対しては、本巻は久濶のものである。私情を述べて序とする。
 
   昭和二十二年九月
                  著者
 
(141)   萬葉集 巻第二概説
 
 巻第二の概説として云うべきことは、巻第一の概説を云う際に既に云っている。それは撰者の意図を察しると、この両巻は連続したもので、この兩巻をもってその意図を遂げさせ、完結させようとしたものであることが明らかに推量され、切り離して観ることが出来ないからである。簡単に繰返して云うと、この両巻は、天皇、太后、皇族の方々の御作歌が、いかに優秀なものであるかを顕揚しようとして、それらの御作歌を、何らかの関係事情によって、比較的たやすく眼にすることの許されていた撰者が、意図してのものだといぅことである。随って作者の大部分は、上に云った尊貴の方々であるが、一部分臣下の歌が例外の形をもって取り入れられている。しかしそれには条件が付いていた如くである。巻第一について云えば、それら例外の作者の大部分は、行幸の供奉をした人々であって、行幸の記事の一部として保管されていた歌が、資料として取り入れられたのであって、それらは作者より歌材に重きを置き、撰者の意図と齟齬《そご》しない物として取り入れたのだと見られる。それ以外の作者には、柿本人麿、高市古人、山上憶良、不明の一人の四人があるが、前二人の作は、近江の荒都を見て感傷した作、憶良のは、遣唐使の随員として唐にあってのもの、不明の一人は、京が藤原より奈良に遷される際、一官人の邸宅造営に当った工匠の、その邸宅を賀する意で作ったもので、間接ではあるが、歌材としては皇室に繋がりを持っているもので、撰者の意図の範囲に属するものだと、観れば観られるもののみである。
 この集の三部立の第一である雑歌を、巻第一に充《あ》てた撰者は、巻第二は、相聞と挽歌とに充てて、首尾完結したものとしたのである。
 相聞は、大体は恋愛の歌であるが、血族友人間などの消息往来の歌をも含ませての称である。後者は比較にならない程の少数である。恋の歌は、憧れての求婚に始まり、関係の結ばれての後の、思うがままに逢い難きを嘆きつつ、その中の永続を希うのが頂点をなしていて、後世の歌に多い、離れ去っての怨み、或は思い出してのあわれさは、殆《ほとん》ど無い。その中最も特色をなしているものは、本巻の歌には著しくはないが、男女互にその貞実を誓い合う歌である。これは恐らくは信仰の伴っているもので、歌という形式をもってその事をするのがやがてその事を顕わしているのではないかと思われる。本集の恋の歌の、代表的に力強いものは、この範囲に属するものであるが、この心は直接には顕われなくても、何時も恋の歌の底流をなしており、それが重量感、立体感をもたせるものとなっている。本集の恋の歌で更に重要なことは、その最大部分が、いずれも必要があって、直接相手に贈り、又答えたものだということである。即《すなわ》ち実際の効果を目標として、それを遂げしめようとして作ったものなのである。実用性のものである。その豊かに持っている(142)文芸性は、その実用を有効に遂げしめようとしての方便にすぎないものである。実用性が主であり目的であって、文芸性は従であり方便であるということが、本条の恋歌の特色である。これは後世にも続くことであるが、後世では、文芸性その物が魅力となって、それが効果をもたらし得るものとなったのであるが、本集では真実そのものが魅力をなしていて、文芸性はそれに較べては比較にならない軽いものであったと観られる。今日より観ると、この主たる実用性と、従たる文芸性の、絡みもつれて渾然たる趣をなしているところに、深い興味があるのである。以上はこの巻に限ったことではないが、続く巻々にも関係のあることであるから、絮説《じよせつ》を敢えてしたのである。
 この巻の相聞歌は、歌数としては五十六首(「国歌大観」八五−一四〇)にすぎない。雑歌の八十四首に較べてもかなり少い。これは巻第一、二に限ったことであって、本集全体より観ると、相聞歌は圧倒的に多く、雑歌は比較にならないまでに少いのであるから、まさにこの巻の特色である。これは尊貴の方々は、その日常生活の状態として、相聞の歌を作る必要を感じられることが少かった為かと思われる。雑歌の多いのは、行幸に関係したものが多い為で、賀歌の奉献の許されていた場合ということも、大きく影響していたのである。賀歌が信仰より発するものであることは云うまでもなく、それとの関係は、漠然と想像されるよりも案外に大きいものであったろう。
 相聞の起首は、「磐姫皇后天皇を思ひたてまつる御作歌」四首の連作をもってしている。これは巻第一の起首を、「天皇御製歌」をもってしたのと相対させたもので、巻第一、二の撰された奈良朝時代よりは、遙に飛び離れた時代の、しかも極めて著明な天皇と皇后とを巻首に据えまつったもので、しかも雄略天皇の御製歌は、雑歌ではなく相聞であるのを、強いて充てているなど、撰者の意図を最も明瞭に示しているものである。仁徳天皇の時代に、短歌の連作として極めて典型的なものの存在したとすることも、十分問題となるべきものである。
 相聞の作者の主体をなしている人は、皇子皇女であって、その点は、巻第一の雑歌と同じであって、少くとも他の巻には決して見られないまでに多く、撰者の意図は一貫していると云える。しかしこの部にあっては、例外がかなりに多く、殆ど例外とは云えないまでである。中臣鎌足の鏡王女に対しての歌はもとより、采女安見児についての歌は、皇室につながりのあるものと云える。石川郎女(女郎ともある)は、日並皇子、大津皇子にも関係を結んでいる、藤原宮時代の最も魅惑的な女であったと見える。皇子との贈答の歌は、皇室に関係のあるものとして問題にならないのであるが、大伴田主との贈答の歌は、まさしく撰者の最初の意図以外のものである。これに左注を加えて、その歌の背景を委しく云っているのは、それ程の魅惑的な女が、進んで挑み寄ったにもかかわらず、田主がこれを拒み斥けたのを、心憎い所行であるとして、その風流を讃えているのである。然るにその歌は、何れもさしたるものではない。相聞歌が風流ということと絡み合い、風流なるが故にさしたる点もない歌をも採るということは、明らかに撰者の意図に動揺のあったこと(143)を示しているものである。撰者は奈良朝の初期に生存していた人であることは、挽歌に聊《いささか》ながら奈良朝の歌を取っていることで知られる。時代の影響は、明確なる意図を持っていた撰者をも動揺させたものと思われる。この事は、単にこれにとどまらず、「三方沙弥、園臣生羽の女に娶《あ》ひて未だ幾時も経ず病に臥して作れる歌」と題する三首の贈答歌を取っている。作者は何れも皇室には何のつながりもない臣下である。何故にそうした歌が取られているかは明らかでない。その歌は事としては場合が哀れであり、又歌は、取材が小さく、調べが細くて、この時期の他の歌に較べると、著しく奈良朝の歌風に近いものである。その点より観ると、上の田主の風流を讃えると同じく、さうした歌風がこの時期に、新風として暗然の間に迎えられており、少くとも撰者は、それに心を引かれるところが多く、最初の意図より逸脱して、取るに至ったことと思われる。大伴宿禰と巨勢郎女との贈答の歌は、同じく作者は圏外のものであり、歌も単なる求婚のものであるが、恐らく郎女の歌が、柔らかく美しい点で、上の歌と同系統の物として取られたのではないかと思われる。作者も歌も、皇室とは何の繋りもなくて取られているのは、柿本人麿の、「石見国より妻に別れて上り来る時の歌」と題する、長歌二首の連作と、反歌の五首を持った大作である。これは入麿としても代表的の作であるから、撰者としては、人麿の歌人としての位置よりも取らざるを得なかったものと思われる。撰者が歌その物のみにとどまれず、それに関係しての事にまで及ぼして行った心は、人麿の歌の対象となっている「妻」をも閑却できず、それに添えて、「人麿の妻依羅娘子、人麿と相別るる歌」をもって、それを相聞の結尾としていることでも窺われる。
 挽歌は、信仰より生れ来ったもので、その由る所は深く強いものであったろうと思われるが、現在ではその輪郭は推量するより外ないものである。上代では死を穢れとして、これを怖れることの極めて深かったことは、皇居はもとより皇子などの場合では、その主人である方が他界されると、その住居は住み棄てて荒廃に委ねたのでも察しられる。しかし生と死の境は極めて近く、日並皇子尊の薨去の後など、その舎人等は、殯宮に移した皇子に、一年間、生者に仕えると同じ態度をもって奉仕したことが、歌に依って知られる。概して身分ある人は、死ぬと共に地中に埋葬することはせず、或る期間は生者と同じ扱いをした事が明らかにされてもいる。この事が単に、儀礼よりのものでなかったことは、柿本人麿の、「妻死せし後、泣血哀慟して作れる歌二首」の一首は、妻を葬った後、その妻をも知っている人が、人麿に、汝の妻は羽易《はがい》の山に居られたと、見懸けて来て教えると、人麿は云われるままに、死んだ妻に逢おうとしてその山に行き、見えなかったことを歎息しているのである。教える人も人麿も、何ら異常の事ではないように云っているのを見ると、人麿時代の信仰は、現在の心より窺いかねるものである。死者を穢れとして深く怖れると共に、その厳存を信じているのであるから、勢いその死者を尊み、悲しむことによって、その心を慰め、穏やかにあらしめる事は、自身の生存上必要な(144)重大なことだったのである。挽歌は、死者の心を慰める上には、最も適当な方法で、時期としても有効なものだったのである。この巻における挽歌は、死者との関係の直接間接の差によって、おのずから云い方は異っているが、何れもこの線に沿ってのものである。
 本巻に収められている挽歌の数は、九十四首(一四一−二三四)であって、何れも作者の明らかなものである。一巻の中にこれだけの歌数を持ち、又作者も明らかな巻は他には無いことで、挽歌の上では、本巻は万葉集中の代表的のものである。
 挽歌を供えられる人と、供える人との関係は、余程厳しい条件の付いていたものと思われる。本巻について観ても、天智天皇に挽歌を作っている人は倭の太后御一方であり、額田王のものは稍々《やや》間接なものとなっており、天武天皇に対しては、太后にして後の持統天皇御一方である。皇子皇女の場合だと、御夫婦、御兄弟の方々であり、然らざれば側近に仕えていた舎人のみであり、その関係の明らかでない者は、柿本人麿のみである。しかしその人麿も、皇族なるが故に、何方にも同じような心をもって作っているとは見えず、同じく皇女ではあるが、明日香皇女に対しては、心を尽して悲しみを申しているのであるが、泊瀬部皇女に対しては、直接なる何事をも云わず、妻としての皇女を悲む夫君忍坂部皇子に対して、その悲まれるのを悲むという間接な云い方をしているのである。これは他にも例のあるもので死者と自身の関係の親疎ということが、このようにさせたので、そうせざるを得なかったものと観られる。此の点から観ると、人麿の日並皇子尊、高市皇子尊に対しての挽歌は、彼がこれら二人の皇子に対して、舎人として奉仕していたという親しい関係を通じてのものか、然らずんば、舎人の依頼を受けて代作したかの孰《いず》れかでなければならないものに見える。代作ということは例のあることであり、又挽歌はその性質上、出来得る限り整った物でなければならなかったのであるから、藤原宮時代にあっては、人麿が選ばれてその任に当ったということも想像され得ることである。それは現在だと、一つの集団を代表しての弔詞を、達文の人として代作させられたということと異らないことだからである。
 挽歌の形式は長歌であることを本格としていたと観られる。本来挽歌は、抒情を旨とすれば、事の性質上、単純に云い得るものであって、短歌で事が足るのであるが、飽くまで心を尽しきろうとすれば、死者その人の経歴に即せざるを得ず、即すれば叙事とならざるを得ないのであるから、死者の魂を慰めることを目的とする挽歌は、長歌形式でなければならなかったことと思われる。又この当時は、「歌」といえば長歌を意味し、短歌は「短歌」と断る必要のあった時代であるから、葬祭など古風を守って変えようとしないものにあっては、本格の挽歌は、長歌形式でなくては事が足りないと感じられていたものと見える。
 本巻の挽歌は、殆ど皇室関係の方々のもので、撰者の意図の行われているものであるが、柿本人麿だけは、その歌人的位置から例外扱いをされ、河辺宮人は、奈良宮時代の者として、時代的に例外扱いされている。人麿のその種の歌としては、「妻(145)死せし時」、「吉備津采女の死せし時」、「讃岐の狭岑の島に石中の死人を見て」であり、宮人の作は、「姫島の松原に嬢子の屍を見て」であって、何れも皇室とは何の繋がるところもないものである。
 人麿の、その妻の死を泣血哀慟しての作は、夫としてであるから当然のものであるが、吉備津采女と、狭岑の島の石中の死人とは、彼と直接繋がりの何もない人々であって、当時の風習から思うと、何故に力を籠めての力作をして弔ったかを怪しませるものである。然るに、これら弔われている人々の死には、共通の事情がある。吉備津采女は、その反歌に依って見ると、尋常の死ではなく、水死をしている人である。その事情には触れて云わず、云うところは若くして美しかった人の、はかない死を痛歎するのみで、熱意をもって美しいものの亡び去ったことを云っているのに魅せられるのであるが、その水死ということが作因ではなかったかと思われる。狭岑島の死人は、水死者である。又、姫島の嬢子も同じく水死者である。これら異常の死をした人で、殊にその死を弔う者もない人に対しては、直接には何の繋がるところもない人にもせよ、その魂を慰めようとして挽歌を供えることが、一方には行われており、又その事をするのは、死者に対して持つ一種の信仰から発したことではな
いかと思われるが、さし当ってはこれを明らかにする事が出来ない。路上の行き斃れに対しての挽歌は、他にも例のあるものなので、この事を思わせられるのである。
 万葉集の歌の価値は、巻第一、二が最も優れたものであるということは、現在は定説の如くなっている。両巻を通じての頂点は、藤原宮時代で、云いかえると柿本人麿を中心とした時代である。これを時代的にいえば、皇室の勢威の、一路高まりつつあった時代で、大津宮時代より、浄見原宮時代を経、前方に、奈良宮時代を望んでいた時代なのである。勢威は文化と並行してのものであって、皇室が絶えず文化の指導者であられたことは、巻第一、二に収められている御製歌、御作歌によっても窺われる。巻第一の雑歌にあっても、作者を柿本人麿に擬せられもする無名作者の「藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌」、「藤原宮の御井の歌」がある。本巻の挽歌の中にも「皇子尊の宮の舎人等|慟傷《かなし》みて作れる歌二十三首」があって、これまたその名を記されずにいる身分の者である。藤原宮時代の文化が如何に高く、その雰囲気の如何に濃密なものであったかは、これらに依っても窺われる。人麿はこの雰囲気の中に人となり、それに支持されつつ、時代を代弁したのである。彼ひとりが卓越していたのではない。
 巻第一、二の撰者は何びとであるか分らないが、皇室の歌風を顕揚しようとの意図をもって編んだ此の両巻はいみじくもその意図を果すと共に、此の両巻が基本となり、基準となって、異った方面の作者の歌、異った時代の作者の歌を積み重ねて、現在見るが如き二十巻となったのである。一人の心に宿した意図の結果と云うべき本巻は、巻第一と共に、万葉集中でも最も重んずべき由緒を持ったものである。
 
(152) 相聞《さうもん》
 
【標目】 相聞は漢語で、相問往復の意をもった語である。今はそれを取って、男女間の恋愛関係の歌をはじめ、近親者間、友人間の消息の歌の全部を含めた名としたのである。巻一と二とを、雑歌、相聞、挽歌の三部門に分かっているが、これはその一部門である。この分項は、懐風藻も同様である。訓は、『考』は「あひぎこえ」、『古義』は「したしみ歌」と訓んでいるが、間宮永好の『鶏犬随筆』、『美夫君志』が、「さうもん」と音に訓むべきことをいい、山田孝雄氏も『相聞考』で詳しく論じて、それを強化している。本集の撰ばれた奈良時代は、漢文学のきわめて重んじられた時代であるから、語とともに音をも用いたものと思われる。相聞の出典は文選の「常子建与2呉季重1書」に、「口授不v悉、往来数相聞」とあり、その注に「聞問也」とあるによったものである。しかし本集の相聞は、それより遙かに意味の重いものである。わが国は上代から、男の求婚の意志表示、女のそれに対する諾否は、すべて歌による風習があり、さらに夫婦別居しているところから消息を交わす要が多かったが、それも作歌をもってする風習であった。すなわち実生活と歌とのつながりは、きわめて緊密だったのである。その点からいうと、わが国の歌の主体は相聞だったのである。本集でも相聞の占める位置は最も重いのである。なお相聞は範囲が広がり、後世の恋の歌と同意語となり、独詠の歌を含むようになつてもいる。
 
  難波高津宮御宇天皇代《なにはのたかつのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ》  大鷦鷯天皇《おほさざきのすめらみこと》、謚を仁徳天皇と曰す
 
【標目】 難波は、古の難波国で、後の摂津国の西生郡及び東生郡の西辺にかけての地域で、さらにいえば今の大阪市を主とする地域の旧名である。古の京は、今の大阪城より南方へかけて、東高津味原池の辺(東区法円阪町)の台地であり、皇居は高地の海岸であったろうという。大鷦鷯は、御|謚号《しごう》仁徳天皇の御諱であって、元暦校本以後の古写本にはその注記がある。
 
     磐姫皇后《いはのひめのおほきさき》、天皇を思《しの》ひたてまつる御作歌《みうた》四首
 
【題意】 磐姫皇后は、天皇の二年皇后となられた方で、葛城曾都毘古《かずらきのそつひこ》の娘である。曾都毘古は孝元天皇の曾孫にあたる武内宿禰の子で、皇后は天皇の六世の孫である。聖武天皇以前は、皇后は皇族に限られていた。後世は皇親は五世までに限られたが、古くはそれにこだわらなかったのである。皇后は、履仲、反正、允恭の三天皇の御母である。皇后は御名を記さないのが普通であ(153)るのに、ここにそれのあるのは、仁徳天皇には前後二人の皇后がいられたためである。すなわち磐姫皇后は、天皇の三十五年六月に崩じ、三十八年に八田皇女《やたのひめみこ》が皇后となられたからである。御歌は、天皇がある山地に行幸になり、久しく還幸になられないので、皇后として思慕の情に堪えず、その情の起伏を連作の形式をもって作られたものである。
 
85 君《きみ》が行《ゆき》 け長《なが》くなりぬ 山《やま》たづね 迎《むか》へか行《ゆ》かむ 待《ま》ちにか待《ま》たむ
    君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加將行 待命可將待
 
【語釈】 ○君が行け長くなりぬ 「君」は、天皇。「行」は、「行く」の名詞形で、行幸の意。「け長く」の「け」は「日」と同意で、時日という意の古語で、集中にきわめて用例が多い。天皇の行幸は、滞在の時日が久しくなったの意。○山たづね迎へか行かむ 「山」は、行幸先、すなわち行宮のある所の意。「たづね」は、尋ねで、現在口語でもいっている。「迎へか」は、迎えにかで、「か」は、疑問の係助詞。行宮のある山を尋ねてお迎えに行ったものであろうかで、還幸を待ちわびての心。○待ちにか待たむ このように同語を重ねていうのは、用例の多い一つの語法である。その場合、上の「待ち」は連用形で、それに「に」を添えて、下の「待たむ」の修飾語とし、下の「待たむ」の意味を強めるのが定まりである。「か」は、上に同じ。ただひたすらにお待ち申そうかの意。
【釈】 君が行幸は、御滞在の時日がすでに久しくなった。還幸を待つに堪えないので、その行宮のあるという山を尋ねて、お迎えに行こうか。それとも堪えてただひたすらにお待ち申そうか。
【評】 この御歌は、以下三首とともにいわゆる連作を成しているものである。連作というのは、ここでは、天皇の還幸の遅いのを、皇后として待ち侘び給う心情を、その起伏の方面に力点を置き、時間的推移を追って展開し、一つの物語の趣をもつものとしてあるということである。連作といぅ形は集中に例の少なくないものではあるが、上代のものであるところから、問題を含んでいるものである。その事については後に総括していうこととする。
 この御歌を独立した一首とみると、「君が行け長くなりぬ」は、事の全体を総叙したもので、客観的な趣のあるものである。「迎へか行かむ待ちにか待たむ」は、心の動揺をいったものであるが、「待ちにか待たむ」は、いったがように、待つというその事を強めていったもので、焦燥に向かわんとする心を、その一歩手前で引き止めた趣をもったもので、微細感を含んだものである。三句「山たづね」は、問題となるべきものである。それは、単に「山」というだけでは、その事に合わせて、内容が漠然としすぎるからである。行幸といぅ事は改まったことであって、その事に対する礼として、必ず地名を挙げるべき事柄である。また、実際に即する歌風から見ても、それのあるのが自然だからである。さらにまた、行幸の事は史上に載るのが普通であるのに、天皇が山地へ行幸になられた事は記録にないので、かたがた疑わしいという理由においてである。この第三句に深(154)く立ち入らず、文字どおりに見ると、広い心をもって事の全体を捉え、穏やかな態度をもって、余裕をもち、距離を置いて、静かに詠ませられた御歌というべきで、しかもそこには、「待ちにか待たむ」という、微細な心も織り込まれているものである。一首、まさしく独立した御歌である。
 
     右の一首の歌は、山上憶良の臣の類聚歌林に載す
      右一首歌、山上憶良臣類聚歌林載焉
 
【釈】 「山上憶良の臣の類聚歌林」は、巻一に出た。その書は、巻一、二の撰ばれた和銅年間よりは後の書であるから、この注は後人の加えたものである。注の意は、右の一首の歌は、類聚歌林にも、同じく磐姫皇后の御歌として載っているものであるということを考証したものである。
 
86 かくばかり 恋《こ》ひつつあらずは 高山《たかやま》の 磐根《いはね》しまきて 死《し》なましものを
    如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四卷手 死奈麻死物呼
 
【語釈】 ○かくばかり恋ひつつあらずは 「かくばかり」は、このようにのみで、「ばかり」は強めの意のもの。「恋ひつつあらずは」の「あらずは」は、集中に例の少なくない古語。本居宣長は、「あらんよりは」の意だといつたのを、橋本進吉氏は、「ず」は連用形で、「は」は軽く添った係助詞で、意は「ず」と同じだとしている。今はこの解に従う。このようにばかり恋いつづけていずに。○高山の盤根しまきて 「高山」は、下の続きで陵墓を営む地であることがわかる。巻三(四一七)「河内王《かふちのおほきみ》を豊前国鏡山に葬れる時」、また(四二〇)「石田王《いはたのおほきみ》の卒せし時」などの歌により、奈良遷都前後は、陵墓は山の上を選んだことが知られる。「高」は誇張を伴った語と取れる。「磐根」は、磐で、「根」は添えていった語。「し」は、強め。「まきて」は、枕とする意の動詞。磐を枕としてで、下の「死」の状態をいったもの。古くは貴人の墓は、石槨を構え、内に石棺を据え、石の枕を備えて亡骸《なきがら》を納めるのが定めであったので、その状態をいったもの。○死なましものを 「まし」は、仮想の意の助動詞で、上の「あらず」の仮想の帰結。「を」は、詠歎。
【釈】 このようにばかり恋いつづけていずに、高山の磐を枕にして、死んでしまおうものを。
【評】 「かくばかり恋ひつつあらずは」と、憧れの情の苦しいものを、堪え忍び続けられていることをいい、「高山の磐根しまきて死なましものを」は、その苦しさの極まりを、具象的にいわれたものである。全体としては、堪え忍ぶことの極まった瞬間に起こる感傷的の心であって、心理的に自然さをもったものである。それも、「死」ということを思うと、「高山の磐根しまき(155)て」と、ある余裕をもって、その状態を思い浮かべ、また感傷の心よりの誇張もまじえられたもので、美しさを失われないものである。激情には似ているが、感傷よりの瞬間の心であり、女性の思慕の心の、いわゆる甘え心をもったもので、教養を保ち得ている趣のあるものである。前の御歌との関係から見ると、温藉なる心の、焦燥を含んでいたものが、ついに焦燥そのものに陥られた状態のもので、時間的推移の明らかに見えるものである。
 
87 ありつつも 君《きみ》をば待《ま》たむ 打《う》ち靡《なび》く 吾《わ》が黒髪《くろかみ》に 霜《しも》の置《お》くまでに
    在管裳 君乎者將待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置万代日
 
【語釈】 ○ありつつも君をば待たむ 「ありつつも」の「あり」は、下の続きによって、生きながらえの意のもの。「つつ」は、継続。「も」は、詠歎。生きながらえ続けて。「君」は、天皇。「待たむ」は、還幸を待ち奉らむ。○打ち靡く吾が黒髪に 「打ち靡く」は、垂髪にしていた黒髪のなよなよと靡く状態をいったもの。「黒髪」は、若い人の髪。○霜の置くまでに 「霜」は、ここは、白髪の譬喩としたもの。巻五(八〇四)山上憶良、「みなのわたか黒《ぐろ》き髪に、いつの間《ま》か霜の降りけむ」とあって、例のあるものである。白髪となるまで、いつまでもの意。
【釈】 生きながらえ続けていて、天皇の還幸を待ち奉ろう。打靡いているわが若き黒髪に、老いの白髪のまじるまでいつまでも。
【評】 この歌は、一首を独立したものと見ると、やや不自然の感の起こるものである。一首とすると、帰る時の全く測り難い夫を、限りなく待っていようという妻の心情で、事としてはもとよりありうるものであるが、これを一首の歌とすると、背後の特殊の事情に全く触れたところがないために、唐突の感のするものだからである。左注として引いてある(八九)の歌は、この歌の類歌としてのもので、それは一首の歌としてきわめて自然であり、また一般性の多いものであって、おそらく誰にも記憶されていたろうと思われるものである。この歌はそれと関係のあるものではないかと思われる。その関係というのは、この歌は、連作ということに力点を置き、そちらの一般性のある歌にいささかの変化を与えて、この連作の組織にかなうものとしたのではないかということである。これは(八九)と対照すると明らかに感じられることである。「霜」を白髪の隠喩とすることは、いったがように例のあるものであるが、その例は山上憶良の歌のもので、高い文芸性をもっているもので、この歌としては、時代的に疑いのあるものである。これを連作の上から見ると、一たびは「死なましものを」という焦燥の情をもたされたが、それは瞬間のことで、その心を抑えると、きわめて貞淑なる本性に復《かえ》られたことをあらわしているものである。
 
88 秋《あき》の田《た》の 穂《ほ》の上《へ》に霧《き》らふ 朝霞《あさがすみ》 いつへの方《かた》に 我《わ》が恋《こひ》息《や》まむ
(156)    秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀將息
 
【語釈】 ○秋の田の穂の上に霧らふ「秋の田」は、「秋」を添えることによって、稲の熟していることをあらわす語。晩秋の霧の多い季節を暗示している。「穂の上」は、稲穂の上で、下の「霞」の位置をあらわしているもの。霞すなわち現在の霧が、低く、したがって深くかかっていることをあらわしたもの。「霧らふ」は、「霧る」という動詞の継続の意をもつ語。「霧る」は、霧のかかることをあらわす古語で、今は廃語となったもの。その名詞となった霧だけが残っている。霧が時間的にかかりつづけている意で、深く籠めているにあたる。○朝霞 朝に立つ霞。古くは、霧と霞との区別がなく、一様に霞と呼び、秋の物は秋霞と呼んでいた。この称は和歌の上では平安朝にも及んでいる。初句から三句までは一つづきで、眼前に見た風景をいったもので、下に詠歎の意がある。○いつへの方に我が恋息まむ 「いつへの方」の「いつ」は、不明をあらわす語。「へ」は方で、いずれの方。「方」は、方角。いずれの方角にの意であって、下の「方」は重語の形となっている。これは下の「息まむ」への続きで、霧としては、その霽《は》れゆく方角のあるものとし、霧に似たわが悩みは、それを忘れ去る方がないというところから、その「方」を強めるために重ねたものである。すなわち嘆きをあらわす必要よりの重語である。「我が恋息まむ」は、わがこの憧れの心はやむであろうかと疑った意で、疑いは上の「いつへ」によってあらわされている。
【釈】秋の熟《みの》り田の、その稲穂の上に、低く深くもかかり続けている朝の霧よ。その霧は霽れゆく方角があろうが、いずれの方に、わが憧れの心はやむのであろうか、おぼつかないことである。
【評】 この御歌は、表現の上に注意すべき問題をもっているものである。全体としていうと、「秋の田の穂の上に霧らふ朝霞」が、皇后の懊悩せられる心象そのものであり、「いつへの方に我が恋息まむ」は、その朝霞の状態から連想される嘆きである。すなわち「朝霞」は譬喩ではなく、それ以前の原始的なものであって、そうした光景に対されたがゆえに、漠然とした心象がはじめてはっきりと捉えられ、また捉えたがゆえに嘆きが深まって、ここに具象化を得たという形のものである。この方法は、恋の悩みという形のないものを表現する上には、最も自然な方法で、したがって原始的なもので、東歌《あずまうた》などに多い形のものである。その意味ではこの御歌は、原始的な、古い形を取ったものである。しかし部分的に見ると、この御歌は、尖鋭な感性をもって、細かい注意をしたものである。「秋の田の穂の上」は、「朝霞」の位置をあらわしたものであるが、「秋の田」によってその朝霞の深いものであること、また広範囲にわたってのものであることをあらわし、「穂の上」によって、その朝霞の重く、また低く降っていることをあらわしているものである。これらのことは状態描写よりくる自然の結果だといえる範囲のものではあるが、意識して暗示的にいったものと取れる。さらにまた、「いつ辺の方に我が恋息まむ」は、上よりの語《ことば》続きから見れば、明らかに飛躍をもったものである。しかし心としては、深い朝霞の霽れそうにも見えない状態に、御自身の心象を感じられて、嘆いていわれているものであることは明らかである。飛躍はあるが心は感じられるといぅことは、まさしく暗示で、しかもその大きなものである。「いつへの方に」は重語であって、重語は感を強めるものであることはいった。要するに細部にわたっ(157)ての技巧は、高度の文芸性をもったもので、その大体の捉え方の原始的なのとは反対に、後世的のものである。この御歌が譬喩というよりもそれ以上な、いわゆる象徴的のもののような感を起こさせるのはそのためで、表現の上では問題を含んでいるものといわなくてはならない。さてこれを一首の歌として見ると、中心が「我が恋息まむ」という、時間的推移を目標としたものであるところから、独立性の薄い趣がある。しかし連作の一首として見ると、前の歌では、「吾が黒髪に霜の置くまでに」と思われたが、それは御意志よりのことで、時が経つと憧れの心が復《かへ》ってき、懊悩の情に鎖されたというので、この動揺はきわめて自然なものと思われる。また、一連の上からいうと、第一首の「待ちにか待たむ」の焦燥を含んだ御気分が、今は鬱した、静かなものとなってきていて、そこにも同じく自然の趣のあるものとなっている。
【評 又】 この四首の御歌は、多くの問題をもったものである。まず注意されることは、磐姫皇后は、本集を通じての最古の方だといぅことである。それはこの御歌につぐ歌は、天智天皇の御製であるが、その間じつに二十二代を隔てているのである。すなわちひとりかけ離れて古い方なのである。これは巻一、巻首の雄路天皇の御製についてもいったように、巻一、二の撰者の意図よりきていることで、巻一、雑歌の最初を、古の名高い天皇であり、また御製も多い雄略天皇とするとともに、巻二、相聞の歌の最初も、同じく古の名高い皇后であり、御歌も多い磐姫皇后にしようとしたからのことと思われる。そしてこの事は、皇室の和歌の、いかに愛《め》でたくも尊いものであるかということを宣揚しようとする撰者の意図からのことと思われる。
 次にはこの四首の御歌はいわゆる連作だということで、これは注意されることである。そのいかに整った連作であるかということは、各首の評ですでにいったから、改めては繰り返さないことにする。由来連作は、本集には比較的少ないものであるが、古事記・日本書紀の歌謡にあってはきわめて多いもので、その大半は連作だといいうるまでである。それには理由がある。古事記・日本書紀の物語は、そのやや興味的なものにあっては、必ず歌謡が織り込まれており、物語が長いものである場合には、何首かの歌謡がまじっており、しかもそれが興味の頂点頂点をあらわすものともなっているのである。したがって歌謡は、前後相関連をもち、連続したもののごとき趣をもっているのである。時代が降ると、この傾向は濃厚となり、中には歌謡そのものが物語の主体をなして、いわゆる歌物語となっているものさえもある。しかしそれらの歌謡は、これを形式からいうと、長歌の方が多く、短歌は少ない状態である。その中にただ一つ、短歌形式をもってした歌物語が、日本書紀の中にあるのであるが、それはじつに仁徳天皇と磐姫皇后とのものなのである。本集には、いったがごとく連作は少なく、ことに古い時代のものには全くなく、初めて意図的に試みたのは柿本人麿である。長歌の完成者である人麿は、同時に一方では連作の創始者であって、巻一(四六)より(四九)に至る、「軽皇子《かるのみこ》安騎野《あきのの》に宿りませる時」の長歌の反歌四首は、いったがごとく典型的な連作である。しかしこれは反歌であって、長歌に対立させる程度のものである。独立した短歌の連作は、本集にあっては、巻五(八五三)より(八六三)に至る、大伴旅人の「松浦河に遊ぶ」と題するものなどが代表的なものである。これは興味本位の、純(158)文芸的なものなのである。
 これを要するに、連作は、歌謡または短歌という、抒情を旨とするものを連ねることによって、時間的推移を旨とする物語の代用をさせようとするものであって、和歌としては、その本来の実用性を離れて文芸性を展開させた形のものである。この御歌四首は、その範囲のものである。日本書紀における仁徳天皇と磐姫皇后との短歌の連作は、その制作年代については問題をもっているから、しばらくおくこととすると、この御歌の連作は、その制作年代に疑いを挾ましめるものである。
 疑いというのは、この連作は、その取材が恋であるとはいえ、そこには表面に現われての事件というべきものがなく、一に気分の起伏にすぎないものであって、その意味ではあくまでも文芸的なものである。これは降っての時代を思わせることである。さらにまた、その作風を見ると、四首一貫したものではなく、同一の作者のものではないのみならず、連作としての組織をもたせるために、かなりまで無理を行なっている跡を、明らかに示しているものでもある。その点がこの連作の制作年代を疑わしめるのである。
 これを簡単にいうと、第一首は、左注の形をもって類歌を引いている。それは(九〇)「君が行《ゆき》け長くなりぬやまたづの迎へをゆかむ待つには待たじ」である。これは允恭天皇の御代、木梨軽皇子《きなしかるのみこ》と軽太郎女《かるのおおいらつめ》との事件のあった時、太郎女の詠まれた歌の一首である。この事件に関しての歌謡は多くあるが、いずれも宮中の歌※[人偏+舞]所《うたまいづかさ》に保存せられ、宮中において謡われた証を残しているものであって、一股化されていたものである。この歌の第三句「やまたづの」は、これを古事記に記録する際、すでに不明な、注を要する語《ことば》となっていた。それは「ここに山たづといへるは、これ今の造木《みやつこぎ》といふ者なり」というのである。しかるに、その「造木」が再び不明となり、近世に至って今の接骨木《にわとこ》の古名であるとわかり、その葉の対生しているところから「迎へ」の枕詞として用いているものであることもわかったのである。第一首の第三句「山たづね」が、不自然なものであることはその所でいったが、その不自然は、この歌謡を謡い物として謡った庶民が、文字によっての注を見ず、単に耳から聞くだけなので、その意味が解せられず、臆測によって「山たづね」と、解しやすい語《ことば》に変えたのである。これは謡い物としてはきわめて普通なことである。また、「迎へをゆかむ待つには待たじ」という屈折のある語《ことば》も、同じく解しやすいところの「迎へか行かむ待ちにか持たむ」と変えたのである。この連作の組織者は、その庶民の謡っている歌謡に、尊い起源を与えて、これを磐姫皇后の御歌としたとみえる。眼前に行なわれているものに、能う限りの尊い起源を与えることは、すでに古事記、日本書紀において行なわれていることで、躊躇を要さないことだったのである。この歌の作者とされている軽太郎女は、磐姫皇后には孫にあたる方である。第二首目の歌は、類歌の見えないものである。第一首と同じく民謡であったか、またはこの連作の組織者の作であるかはわからない。皇后が嫉妬の情の烈しくいらせられたことは、史上に明記されていることである。「高山の磐根しまきて」ということは、想像し難いまでのことではない。第三首目の御歌は、左注に類歌として、(八九)「居明《ゐあ》かして君をば待たむぬばたまの吾が黒髪に霜は零《ふ》るとも」を引いているが、これと関係のあるものと取れる。この「居明かして」(159)の歌は、きわめて一般性をもったものである。夫婦別居していた時代とて、妻としては夫の通って来るのを待つよりほかには法はない。しかるに夫は妻の期待にそうことができず、妻を嘆かしめがちであった。この歌もそれで、秋の夜寒の人なつかしい頃、妻は夫を待って待ち迎え得ず、終夜を待ち明かそう、髪に霜が降ろうとも、戸外に出ても待とうというので、世の妻という妻の嘆きを代弁している歌で、広く謡われていたものとみえる。連作の組織者は、この周知の歌謡を取って組織の中に入れようとしたのであるが、それには一夜ということをあらわしている「居明かして」では適さないところから、長期を意味する「ありつつも」に変え、またその関係から、実際の夜霜をあらわしている「霜」を、白髪の隠喩である「霜」としたのである。この隠喩は、いったがように集中に例のあるものであるが、その例は山上憶良の歌であるところからも、その一般に通じうるものとなった時期が思われる。第四首目の歌についてはすでにいった。第一首より第三首までは、これを形の上から見ると、口承文学の色彩の濃厚なものである。心は平明で、語《ことば》は直線的に続いており、含蓄、屈折の趣がなく、耳に聞けばただちに胸に感じ得られる性質のものである。第四首はいったがようなもので、記載文学としても典型的なもので、後代の趣の深いものである。感性を主としているものなので、耳に聞いて感じ難いというものではなかったと思われるが、とにかく高度の文芸性をもった人によって作られたものであることは明らかである。この歌は、この連作を組織するにあたって作られたもので、その意味で連作組織者の作ではないかと思わせる。
 以上は、この連作が、和歌史的に見て後世の物ではないかとの疑いを、本集が歌書であるがゆえに許されることとしていったものであるが、この歌が、巻一、二の撰ばれる当時、磐姫皇后の御歌であると信じられていたことは確実な、疑うべくもないことと思われる。それは古事記、日本書紀という尊むべき官撰の史書の中に収められている歌謡が、ほとんど全部といっていいほどまで作者が明らかに定められており、またその作者は、概して高貴の方であるのを見ても、これらの歌が磐姫皇后の御歌と定められていたとしても、少しも怪しむにはあたらない。巻一、二の撰者は、しかるべき書物によって編纂したので、そこには私意は挟まれてはいなかったのである。第一首目の御歌の、山上憶良の類聚歌林にも同様になっているという考証も、この事を語るものである。しかしこれらの御歌については、前後に例のないまでに考証をし、左注の形をもって添えていることは、古も、それを必要とする心のあったことを思わせる。
 
     或本の歌に曰はく
 
【題意】 この題詞は、目録には一字下げて、「或本の歌一首」とあるもので、後人の参考のために添えたものである。
 
89 居明《ゐあ》かして 君《きみ》をば待《ま》たむ ぬばたまの 吾《わ》が黒髪《くろかみ》に 霜《しも》は零《ふ》るとも
(160)    居明而 君乎者將待 奴婆珠能 吾黒髪尓 霜者零騰文
 
【語釈】 ○居明かして 「居明かす」は、熟語。「居」は起きている意で、夜を起きて明かす意。○君をば待たむ 上代の風習によって、妻の家へ夜《よる》通って来る夫の、その来るのを待とうの意。○ぬばたまの吾が黒髪に 「ぬばたまの」は、意味で「黒」にかかる枕詞。「黒髪」は、身体を代表させていっているもの。○霜は零るとも 「霜」は、秋の夜降るものとしてのそれで、戸外にいることを示しているもの。「零るとも」は、降ろうとも。夜寒をもいとわず、久しく戸外に立って.いようとすることを示したもの。
【釈】 夜を寝ずに起き明かして、通ってこられる君を待とう。戸外に立って待っている吾が黒髪の上に、霜が降って来ようとも。
【評】 これは第三首の類歌として挙げたものである。歌は、秋の夜、通って来ることときめて待っている夫の、夜更けても来ないのを、どこまでも待っていようとする妻の心を詠んだものである。こうしたことは上代の夫婦生活にあってはきわめて多いことで、ことに妻としては味わわされがちな苦しさであったろうと思われる。歌は、一、二句で心の全体をいい、三句以下で実際に即して細かい心をいったもので、内容も形式も平明な、謡い物の特色を濃厚にもったものである。注意されるのは、上代のこの種の歌に共通のこととして、いささかの怨みの情もまじえず、あくまでも従順なことである。これを第三首と比較すると、第三首は一句が「ありつつも」となっている。「あり」は意味の広い語で、世に生きながらえているという長い時間の意もあらわすが、単に「ある」という意で、時間に関係させない語ともなりうる。後の意とすると、「ありつつも」は「居明かして」と異ならない心を漠然といったものとも取りうる。また五句の「霜は零るとも」と、第三首の「霜の置くまでに」とは、「ありつつも」を上のように解すると、これまた意味としては異ならないものとなり、第三首の「霜」も白髪の譬喩とするには及ばず、実際の霜となりうるのである。すなわち第三首は、連作という関係においてそこにいったような意味となるのであるが、一首の独立した歌とすると、この類歌と同じものとなりうるものである。短歌といううち、ことに恋の歌は意味の広いもので、迎えて味わえばやや異なった内容のものと取りうるところのあるもので、それが短歌の性格なのである。ここに連作というものの成り立ちうる一つの根拠があるのである。
 
     右一首、古歌集の中に出づ
      右一首、古歌集中出
 
【釈】 「古歌集」というのは、集中にしばしば引かれるもので、一種の歌集の名である。題詞の「或本」というのはすなわちそれである。この集は今は伝わっていないものである。
 
(161)     古事記に曰はく、軽太子《かるのひつぎのみこ》、軽太郎女《かるのおほいらつめ》と※[(女/女)+干]《たは》けぬ。故《かれ》その太子は伊予の湯に流されき。この時|衣通王《そとほりのひめみこ》、恋慕に堪へずして追ひ往く時の歌に曰はく
      古事記曰、輕太子※[(女/女)+干]2輕太郎女1。故其太子流2於伊豫湯1也。此時衣通王、不v堪2戀慕1而追徃時歌曰
 
【題意】 これは後人の注で、第一首の類歌を古事記に認め、それを挙げようとして、古事記のその歌の在り場所の文を節略して引いたものである。「軽太子」は、允恭天皇の皇太子|木梨《きなし》軽皇子、「軽太郎女」は、その同母妹である。上代は同母兄妹の結婚は重い穢れであるとして禁じられていたのを、太子は破ったので、罪として伊予の湯へ流されたのである。「衣通王」は太郎女のまたの名である。
 
90 君《きみ》が行《ゆき》 け長《なが》くなりぬ やまたづの 迎《むか》へをゆかむ 待つには待たじ【ここにやまたづと云へるは、今の造木なり】
    君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎將往 待尓者不徃【此云2山多豆1者、是今造木者也】
 
【語釈】 ○君が行け長くなりぬ 第一首と同じ。○やまたづの これについては、古事記撰述者が注を加えている。やまたづはその当時すでに不明になりかかっていたのである。注の「造木」がまた解しやすくなくなっていたのを、加納諸平が「みやつこ木」と訓み、和名抄に「接骨木和名美夜都古岐」とあるのだとしたのである。接骨木は「にわとこ」である。これは枝も葉も対生して相向かっているところから、意味で「迎へ」につづけ、その枕詞としたのである。○迎へをゆかむ 「を」は、連用形につく詠歎の助詞で、意味を強めるためのもの。どうでも迎えに行こうという意。○待つには待たじ 待つということは、待ちきれまい。
【釈】 君が旅行きは時が久しくなった。どうでも迎えに行こう。待つというのは待ちきれない。
【評】 第一首と異なるのは、三句以下である。三句「やまたづの」は、一首の中心である四句「迎へをゆかむ」を強めるものであって、「迎へを」の「を」と相俟って、きわめて妥当なものである。五句「待つには待たじ」は、四句「迎へをゆかむ」の決意の突発的なのを、合理化するために、釈明する心をもって添えた趣をもつものである。すなわち三句以下は、感情の屈折と抑揚とを含んだ複雑なものである。それにもかかわらず、内容にも表現にもいささかの強いるところのないものである。これに較べると第一首の「山たづね」は、内容としては不備であり、表現としては突飛にすぎるものである。四、五句は、三句に伴(162)っての平明なものであるが、こちらの歌の微妙な味わいはもち得ないものである。双方の関係は、「評又」でいった。
 
     右一首の歌は、古事記と類聚歌林と説く所同じからず。歌主亦異なり。因りて曰本紀を検《かんが》ふるに曰く、難波高津宮御宇大鷦鷯《おほさざきの》天皇の二十二年春正月、天皇、皇后に語りて八田《やた》皇女を納《い》れて妃となさむとす。時に皇后|聴《ゆる》さず。ここに天皇歌もて皇后に乞ひたまふ云々。三十年秋九月乙卯朔乙丑の日、皇后紀伊国に遊行《いでま》して熊野岬に到り、その他の御鋼葉《みつながしは》を取りて還りたまふ。ここに天皇、皇后の在《いま》さざるを伺ひて、八田皇女に娶《あ》ひて宮中に納《い》れたまふ。時に皇后難波の済《わたり》に到りて、天皇八田皇女を召《め》しつと聞きて、大《いた》く恨みたまふ云々。亦曰はく、遠飛鳥《とほつあすか》宮御宇雄朝嬬稚子宿禰《をあさづまわくごのすくね》天皇二十三年の春正月甲午の朔にして庚子の日、木梨軽《きなしかるの》皇子を、太子と為す。容姿佳麗にして見る者|自《おのづか》ら感《め》づ。同母妹軽太娘皇女また艶妙なり云々。遂に竊《ひそか》に通じぬ。乃《すなは》ち悒懐少しく息《や》む。二十四年夏六月、御羮《おもの》の汁凝りて氷《ひ》と作《な》れり。天皇|異《あやし》みてそのゆゑを卜はす。卜ふ者曰はく、内の乱あり。蓋し親々相|姦《たは》くるかと云々。仍りて太娘皇女を伊与に移すといへり。今案ずるに、二代二時この歌を見ざるなり。
      右一首歌、古事記与2類聚歌林1所v説不v同。歌主亦異焉。因検2日本紀1曰、難波高津宮御宇鷦鷯天皇廿二年春正月、天皇、語2皇后1納2八田皇女1将v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇歌以乞2於皇后云々。三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行紀伊國1、到2熊野岬1、取2其處之御綱葉1而還。於v是天皇、伺2皇后不1v在、而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波濟1、聞3天皇合2八田皇女1、大恨v之云々。亦曰、違飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春正月甲午朔庚子、木梨輕皇子爲2太子1。容姿佳麗、見者自感。同母妹輕太娘皇女亦艶妙也云々。遂竊通。乃悒懐少息。廿四年夏六月、御羮汁凝以作v氷。天皇異v之卜2其所由1。卜者曰、有2内乱1。盖親々相※[(女/女)+干]乎云々、仍移2太娘皇女於伊与1者、今案二代二時不v見2此歌1也。
 
(163)【釈】 この注は、撰者が、第一首につき、この歌は、この書の原本としたものも、類聚歌林も、歌も歌主も同様で異同がないと注したのにつき、後人がさらに検討の範囲を広め、それはそれであっても、古事記には類歌があるといってそれを引くにつき、最初にいったがように古事記のその在り場所をいった上に、さらに日本書紀をも検討し、この歌の類歌のあるべき部分を引いたのである。すなわち第一には、磐姫皇后の御歌のあるべき部分を引き、第二には、同じく日本書紀、允恭紀の、古事記と関係のあるべき部分を引いたのである。そして結論として、どちらにもこの歌に関係するものはないと断定したものである。
 
 近江大津宮御宇《あふみのおほつのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代   天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇、謚を天智天皇と曰す
【標目】 巻一に出た。
 
     天皇、鏡王女《かがみのおほきみ》に賜へる御歌一首
 
【題意】 天皇は天智天皇。鏡王女は、伝が明瞭を欠いていたが、『注釈』は中島光風氏の研究により、舒明天皇の皇女または皇孫だろうとしている。それは『諸陵式』に、鏡王女の墓が、舒明天皇陵の域内にあると記されていることからの推定である。それだと、年齢的に見て皇孫ではなく皇女だとしている。皇女と王女とは通じて用いられていたことも考証している。すなわち王女は、天智、天武両帝と御姉妹である。王女が藤原鎌足の正妻であったことは興福寺縁起で明らかであり、また、日本書紀、天武紀十二年七月の条に「己丑(四日)、天皇幸2鏡姫王之家1訊v病」とあり、これは王女薨去の前日のことである。この待遇は格別のもので、御血縁であるからのことだろうとしている。しかしなお問題が残されている。
 
91 妹《いも》が家《いへ》も 継《つ》ぎて見《み》ましを 大和《やまと》なる 大島《おほしま》の嶺《ね》に 家《いへ》もあらましを【一に云ふ、妹があたり継《つ》ぎても見《み》むに。一に云ふ、家《いへ居《を》らましを】
   妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有猿尾【一云、妹之當継而毛見武尓・一云、家居麻之乎】
 
【語釈】 ○妹が家も 「妹が家」は、王女の家で、下の大島の嶺の裾のあたりにあったのである。「も」は、をもの意のもので、大島の嶺と並べていったもの。○継ぎて見ましを 「継ぎて」は、継続してで、すなわち常にの意。「見ましを」の「まし」は、仮想の意をあらわす助動詞。「を」は、ものを。見ようものを。○大和なる大島の嶺に 「大和なる」は、大和にあるで、下の大島の嶺の所在をいったもの。「大島の嶺」は、大和国(164)内の山という以上にはわからない。王女の領地のあった所の山で、その裾に王女の家のあった関係から御製に捉えられているので、『注釈』は生駒郡生駒山の南につづく信貴山の東麓という。また大和郡山市額田部町の山、または大阪府中河内郡との境にある高安山など諸説がある。「嶺」は、峰《みね》で、峰《みね》は嶺《ね》に「み」の接頭語の添ったものである。「嶺に」は峰にで、山の高所で、遠望のできる所としていわれたもの。大和にある大島の山の頂にの意。このように、一つの土地をいうに、その在る所の国名を冠していうのには、二つの場合がある。一つは、その土地を明らかにいおうとする場合で、他国にあっていうには、その必要のあることである。今一つは、その土地を懇ろにいおうとする場合で、意味の上からはその必要がないのであるが、その土地に情を寄せて、強くいおうとする場合に用いるのである。今は後の場合のものと解される。○家もあらましを 「家」は、初句の「妹が家」。「も」は並べる意味のもので、嶺《ね》とともに家もまたの意。○一に云ふ、妹があたり継ぎても見むに 一書には、初二句がこうなっているというのである。意味は、妹が家のあたりを常に見ようと思うに。○一に云ふ、家居らましを一書には、結句がこうなっているというのである。「家居《いへゐ》る」は、家居している意である。
【釈】 妹が家もまた、大島の嶺《ね》とともに見ようものを。大和にある大島の嶺の上に、妹が家もまたあったならば、見えようものを。
【評】 歌意は、天皇が王女の家のあたりに立っている大島の嶺《ね》を望ませられ、王女に逢い難き嘆きから、せめてその家なりとも見たいと思わせられ、家が嶺の上にあったならば、嶺とともに見えようものをと、繰り返して仰せになっているもので、思慕の情を詠ませられたものである。天皇と王女との関係を思わせるものは他にはなく、ただこの贈答の歌のみである。この贈答の歌のあった時代は、興福寺縁起によると、天皇の即位二年には、王女はすでに鎌足の嫡室となっていられるのであるから、常識よりいえば、王女も鎌足とともに大津の京にいられたことと思われる。たとい大和にとどまっていられたとしても、すでにそうした関係となっていられる王女に、天皇からこうした御製を賜わるということは想像し難いことである。それでこの御製のあったのは、近江遷都以前、天皇も王女も大和にいられ、また王女と鎌足との関係も成立しなかった頃のものと思われる。したがって御製は、天皇が大島の嶺をさやかに御覧になってのものと思われる。王女の和歌《こたえ》によると、その季節は秋であるから、大島の嶺《ね》の上に、王女の家を想像されるということも、不自然ではなく思われる。一首二段より成り、第一段では、「妹が家も継ぎて見ましを」と、思慕の情をこめて、おおらかに豊かに仰せられ、第二段では、綴り返して、具象的に仰せになっていられるのであるが、「大和なる大島の嶺に」と、王女を思う上で、ただ一つの御覧になりうるものに、懇ろに心を寄せた言い方をなされているので、思慕の情の言外に溢れきたるものとなり、またこれによって、「妹が家も」の「も」にこもらせた、豊かにして細かい御心も生きてくるのである。実際に即した、おおらかにして豊かに細かい御情愛をもった御製と思われる。この一首を、二段として採り返しにされる形は、口承文学の典型的なもので、当時としても古い形のものである。一書の伝えは、御製を平明にしようとして、合理的に、平面的にならしめたもので、後よりのものと思われる。
 
(165)     鏡王女《かがみのおほきみ》、御歌《みうた》に和《こた》へ奉《まつ》れる一首 【鏡王女は又額田姫王といふなり】
 
【題意】 注は、鏡女王と額田姫王とを同一人としてのもので、これは誤りである。これのない本もある。後人の加えたものである。
 
92 秋山《あきやま》の 樹《こ》の下《した》隠《がく》り 逝《ゆ》く水《みづ》の 吾《われ》こそ益《ま》さめ 御念《みおもひ》よりは
    秋山之 樹下隱 逝水乃 吾許曾益目 御念従者
 
【語釈】 ○秋山の樹の下隠り 「秋山」は、当時の風として眼前を捉えたものと思われる。それだと御製の大島の嶺である。「隠る」は、古くは四段活用であった。秋山の樹立の下を、見えない状態でで、下へ続く。○逝く水の 流れゆく水で、山に湧く水の流れである。初句よりこれまでは、秋山の流れは、水涸れの夏山に較べると、水嵩が増す意で、四句の「益さめ」に続く序詞である。○吾こそ益さめ 「こそ」は、取り立てて強くいう助詞。「益さめ」の「め」は、「こそ」の結び。益すは、量の多いことをあらわす語。全体では、吾の方こそは、君を思いまつる思いが多いことであろうで、水嵩の増すを、思いの多い意に転じたものである。○御念よりは 吾を思いたもう御思いよりは。
【釈】 秋山の樹の下を見えない状態で流れてゆく水の流れの、夏山に較べては水嵩が増しているので思われるが、吾の方こそは君を思いまつる思いが多いことであろう。君の吾を思おしたもう御思いよりは。
【評】 男女間の相聞の歌は、贈歌に対して答歌は言い返しをするのが型のようになっている。言い返しは、ほとんど全部、善意よりのもので、結果から見ると、語の遊戯のごとくに見える(166)ものである。王女のこの答歌にはその趣が全くなく、天皇の情愛深い御製にすがって、思慕の情を訴えているものである。王女も高貴の御身分でいらせられるので、身分の上の憚りとは思えない。天皇と王女との関係の実情が、王女にこうした態度をとらせたものと思われる。歌はもとより当時者の間だけの実用性のもので、他よりはその機微はうかがえないものである。初句より三句までの序詞は、譬喩と見れば見られうるほどそれに近いもので、比較的序詞に近い程度のものである。一首の調子の控えめに、素樸に感じられるのは、一つはそのためである。
 
     内大臣藤原卿、鏡王女を娉《つまど》ひし時、鏡王女の内大臣に贈れる歌一首
 
【題意】 「内大臣藤原卿」は、藤原鎌足で、卿は高位の人に対する尊称である。尊称として大夫というがあり、巻一に出ているが、「卿」は大夫以上の人に対してのものである。「娉ふ」は、結婚の申込みをすることである。「鏡王女」は前にもいったように、藤原鎌足の嫡室となられた人で、それは少なくとも天智天皇の即位二年よりも以前のことであるから、この歌の作られた時は、それよりもさらに以前でなくてはならない。近江への遷都は天皇の五年であるから、大和国においてのことである。
 
93 玉《たま》くしげ 覆《おほ》ふを安《やす》み あけて行《ゆ》かば 君《きみ》が名《な》はあれど 吾《わ》が名《な》し惜《を》しも
    玉※[しんにょう+更] 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
 
【語釈】 ○玉くしげ 「玉」は、美称、「くしげ」は「匣」、櫛笥《くしげ》にあてた字である。笥《け》は古くは容器の総称で、櫛笥は櫛を容れる箱すなわち櫛箱の意である。櫛は厳粧具《けしようぐ》の代表としての名で、この箱は鏡をも容れた物とみえる。玉匣を枕詞として、「身《み》」「ふた」「開《あ》け」「開《ひら》く」とも続けているところから、その箱の状態が想像される。ここは、意味で下へ続けている。○覆ふを安み 蓋を覆うのがたやすくしての意。これは蓋の開閉がたやすいところから、したがって注意をせず、開けても置く意で、下の「あけ」へ続けたもので、「玉くしげ」以下二句は「あけ」の序詞である。これは、「玉くしげあけ」という続けがあるところから、その「あけ」に、「覆ふを安み」という説明を加えて、今のように二句のものとし、序詞という形式としたものである。「覆ふを安み」の解には諸説があるが、『講義』の解が最も妥当に思われるので、それに従った。○あけて行かば 「あけ」は、明けで、夜が明けての意。「あけ」を同音異義で転じたのである。夜が明けてここから帰って行ったならばの意。下の続きで見ると、鎌足が王女の許へ求婚の意で訪ねて来、王女は拒んだにもかかわらず帰ろうとせず、夜明けまでも居そうなので、帰りを促す心でいわれたものである。○君が名はあれど 「名」は、名誉。「あれど」は、傷つかないけれどもの意。男女関係では、男はいかなる噂が立っても名誉にはさわらないものとしての言。○吾が名し惜しも 「し」は、強め。「惜し」は、名誉が傷つくので、それが惜しいの意。「も」は、詠歎。女の身は反対に、名誉がすたるので、それがいかにも惜しいの意。
(167)【釈】 櫛笥の蓋の、覆うのもたやすいところから開けてもおく、その開けという夜が明けてに帰って行ったならば、必ず人目につこうが、君は男のこととて名誉はそのままであるが、われは女とて、名誉がなくなってしまう、それがいかにも惜しいことだ。
【評】 求婚に対しての拒絶であるが、実際に即しつつ、いわゆる情理を尽くして、訴えの心をもってされているところに、上代の特色が現われている。事としてはすでに拒絶の意を示されていたものと思われるが、歌としていわれているところは、三句以下、「あけて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」という、さしあたっての迷惑で、ただ帰りを促していられるのみのものである。「君が名」と「吾が名」とを対照的に扱い、「吾が名」に力点を置いているのは、訴えの心をもってのものである。男女の立場の相違は、常識ともいうべきものであるが、保身の上から強調していわれているところに、知性が見えて、情理を兼ねている趣がある。「あけ」をいうのに、身辺の「玉くしげ」を捉え、さらに心を強めるがために「覆ふを安み」を添えていられるところにも、同じく情理を兼ねた趣が見られる。落ちついた、豊かな心をもった、思慮ある人柄の思われる歌である。序詞を用いているのは、求婚の際の歌には、口承文学の面影をとどめたものが多いので、その関係からと思われる。
 
     内大臣藤原脚、鏡王女に報《こた》へ贈れる歌一首
 
94 玉《たま》くしげ みもろの山《やま》の さな葛《かづら》 さ寐《ね》ずはつひに ありかつましじ【或本の歌に曰く、王匣|三室戸山《みむろとやま》の】
    玉※[しんにょう+更] 將見圓山乃 狹名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之自【或本歌曰、王匣三室戸山乃】
 
【語釈】 ○玉くしげ 蓋に対する身を「みもろ」の「み」に転じて枕詞としたもの。○みもろの山の 「みもろ」とも「みむろ」ともいう。御室、すなわち神を斎《いつ》き奉《まつ》る室《むろ》の意である。御室は山の上にあるべきものと信じられていたところから、御室の山と呼ばれる山は諸所にある。その中でも、大三輪の神が最も名高かつた関係から、三輪山のまたの名のごとくになってきた。すなわち普通名詞が固有名詞のごとくなってきたのである。今も三輪山を意味したものと思われる。これは重い響をもつていた山と思われる。○さな葛 さね葛ともいっている。さな葛の方が古語である。普通|美男葛《びなんかずら》といっている木質蔓性の植物である。その茎から粘液がとれるが、古くはそれを頭髪に塗る料としていた。初句からこれまでは、この「さな」を四句「さ寐」に、畳音で関係させるための序詞である。○さ寐ずはつひに 「さ寐」の「さ」は、接頭語。「寐」は、男女共寐をする意で用いている。「つひに」は、結局の意で、次の語を修飾している。○ありかつましじ 「あり」は、存在する、すなわち生きている意。「かつ」は、下二段活用の動詞で、得る、堪える意の語。「ましじ」は、後には「まじ」となる助動詞で、奈良朝時代を通じて用いられた。橋本進吉氏によって明らかにされた語である。否定の推量をあらわしている。生きてありうることはできなかろうの意。○一書には、第二句が「三室戸山の」とある。これは山城国宇治(京都府宇治市)にある山という説がある。伝唱されてその土地で謡われていたのを記録したものと取れる。
(168)【釈】 三室の山に生えているさな葛よ、そのさなのさ寐ることをしなかったならば、われは結局生きていることはできなかろう。
【評】 王女の歌は、いったがように、求婚ということは拒み、それに関連しての迷惑をも避けられようとしたものであるが、この歌は男の立場に立ち、さらに求婚の心をあらわし、のみならず積極的にさえいったものである。中心は四、五句の「さ寐ずはつひにありかつましじ」であるが、この「さ寐」という語は、上代にあっては結婚という語と同意語であって、後世とは語感を異にしていたものであろうと思われる。この二句は命をかけて求婚している意を伝え得ていたものであろう。このことは、初句より三句までの「さ寐」の序詞として用いている「玉くしげみもろの山のさな葛」にも現われている。序詞を用いたのは王女の歌と同じく、この種の歌には口承文学的のこうしたものがあるべきだとしたためと思われ、また「玉くしげ」を捉えたのも王女の序詞に従ったのであるが、「さな葛」を捉えたのは、それが塗料の原料で、「玉くしげ」に属した物としてである。しかしその「さな葛」の産地として「みもろの山」を捉えたのは、明らかに鎌足の創意と思われる。本来さな葛は山野に自生する物で、みもろの山と特別の関係のある物ではない。もしありとすれば、そこにもあるというほどの関係である。それをみもろの山に限っているもののごとき言い方をしているのは、古より最も畏い神と信じてきた大三輪の神を、この歌をもってあらわす心に関係を付け、取り入れてこようとしたためと思われる。もとより序詞の中でのことではあるが、中心の「ありかつましじ」に響ききたるところのあるものとして、生命をかけて思っているという気分をあらわすためにしたことと思われる。直接に王女に対して訴える語としての「さ寐ずは」というごとき語が、軽からぬものとなって感じられるのは、そのためと思われる。一首、熱意の強い男性的のもので、王女の歌と相俟って全幅を傾けてものをいいあっていることを感じさせる。
 
     内大臣藤原卿、采女|安見児《うねめやすみこ》に娶《あ》ひし時作れる歌一首
 
【題意】 「采女」のことは、巻一(五一)に出た。采女は天皇の御饌に奉仕する職で、神聖なる職とした。これを犯す者は、重き罪科に処せられた。鎌足がこれを得たのは、私としてならば前《さき》の采女であり、公にならば勅許があって前の采女としてのことであろうと『講義』はいっている。安見児はその采女の名。伝は知れない。
 
95 吾《われ》はもや 安見児《やすみこ》得《え》たり 皆人《みなひと》の 得《え》かてにすとふ 安見児《やすみこ》得《え》たり
    吾者毛也 安見見得有 皆人乃 得難尓爲云 安見兒衣多利
 
【語釈】 ○吾はもや 「も」も「や」も詠歎の助詞で、一語をなしているもの。○安見児得たり 「安見児」は、采女の名。女子の名に「児」の付(169)いている例は集中に多い。「得」は、娶る意に用いられたもの。○皆人の得かてにすとふ 「皆人」は、すべての人。「かて」は、上の歌の「かつ」と同じく、できる意。「に」は、否定の助動詞の連用語。「すとふ」は、するというので下へ続く。
【釈】 吾こそは安見児を娶った。すべての人が娶り得ないものとしているという、その安見児を娶った。
【評】 歓喜した心をそのままに、即興として詠んだものである。安見児という采女の名を繰り返していっているのは、その采女は評判の者であったことを思わせる。それをわが物としたのが喜びの一半である。また、采女は娶り難いものとなっているのに、それを特に娶り得たという優越感が、喜びの他の一半で、「得」という語を三たびまで繰り返しているのはそのためである。二句で言いきり、三句以下で繰り返して、結句は二句と同様にするのは、口承文学としても典型的なものである。口頭の語を歌の形をもっていったもので、歌が日常生活の中のものであった時代をあらわしているものである。一つの実感を尽くし得ているので、おのずから魅力のあるものとなっている。
 
     久米禅師《くめのぜんじ》、石川郎女《いしかはのいらつめ》を娉《つまど》ひし時の歌五首
 
【題意】 「久米禅師」は、久米は氏。禅師は名であるか、あるいは法師としての称であるかが不明である。当時、これに類した名が行なわれていたからである。伝はわからない。「石川郎女」も、石川は氏。郎女は、身分ある女性の敬称で、伝はこれまたわからないが、この当時京にあって、貴族階級の何人かの男に関係した、評判の高い女であったことは、以下の歌で知られる。
 
96 水薦《みこも》苅《か》る 信濃《しなの》の真弓《まゆみ》 吾《わ》が引《ひ》かば うま人さびて いなと言《い》はむかも 禅師
    水薦苅 信濃乃眞弓 吾引者 宇眞人佐備而 不欲常將言可聞 禅師
 
【語釈】 ○水薦苅る 信濃の枕詞。「水」は美称。「薦」は水辺に生える草。『童蒙抄』以来ミスズカルと読まれてきて、『講義』はミススカルと読み詳しく考証しているが、今は諸古写本の訓に従う。○信濃の真弓 「真」は、美称。信濃国は貢物として梓弓を献じたことが、続日本紀、延喜式に出ている。溯つた時代にもその事があったとみえる。この二句は、「引かば」と続き、その序詞となっているもの。○吾が引かば 「引かば」は、心を引いたならばで、われに靡くか否かを試みたならばの意。弓の引くを同音異義で転じている。○うま人さびて 「うま人」は、貴人。「さびて」は、そのようにふるまう意で、翁さび、乙女《おとめ》さびなどの類。「うま人さび」は一語で、動詞。貴人ぶるというにあたる。○いなと言はむかも 「いな」は、否で、否といって、拒む意。「かも」の「か」は、疑問、「も」は詠歎。
(170)【釈】 水薦を苅る信濃國より出る弓を引くという、その心を引くことをしたならば、あなたは貴人にふさわしいふるまいをして、私をいやしめて否ということであろうか。
【評】 娉《つまどい》の訴えである。歌で見ると、禅師と郎女とは、社会的に見てある程度の身分の隔りがあったと思われるが、この歌はそれを極度に気にしたものである。こうした際には、男性は身分の隔りなどいうことは超えて、全幅的に訴え、少なくとも全幅的であるかのように装うのが常識であったのに、禅師は全くそれとは異に、強い自意識をもち、したがって臆病さをもち、しかも郎女を批評的に見ている心をあからさまにあらわして、「うま人さびていなと言はむかも」といっている。これは恋愛に対する態度としては、明らかに個人的になり、遊戯的に傾いてきていることで、時代的に見れば、従来にはない新味のあるものである。あくまで実際に即している点、序詞を用いている点は伝統的である。「水薦苅る信濃の真弓」という序詞は、この一連の最後の(一〇〇)の歌で見ると、折から諸国からの貢物の京へ集まって來る時であったことがわかり、眼前を捉えたものであることが知られる。
 
97 三薦《みこも》苅《か》る 信濃《しなの》の真弓《まゆみ》 引《ひ》かずして 弦《を》はくる行事《わざ》を 知《し》るといはなくに 郎女
    三薦苅 信濃乃眞弓 不引爲而 弦作留行事乎 知跡言莫君二 郎女
 
【語釈】 ○三薦苅る信濃の真弓 贈歌の序詞をそのままに取って、同じく「引く」の序詞としたもの。○引かずして 贈歌の「吾が引かば」に対させたもの。意味も同じく、靡くか否かを試みずして。贈歌は「引かば」と、引く一歩前のことをいっているのを、非難の心をもって強めて、てんで引いてもみないこととしたもの。○弦はくる行事を 「弦」は、諸本「強」となっている。『代匠記』が誤写として今のように改め、定説となっているもの。「はくる」は、下二段活用の動詞で、「佩く」をあてる語である。「弦はくる」は弓に弦をかけるの意である。(九九)「つら弦《を》取りはけ」、卷十六(三八八六)「牛にこそ鼻繩《はななわ》はくれ」とある。「行事《わざ》」は、事の意である。一句、弓に弦を取りつけることの意。弓は弦をかけてはおかず、用いるに先立ってかける物である。これを弓からいうと、弦をかけられることによって、はじめて弓たるの資格を得るものである。これは郎女が自身の譬喩としていっているもので、我を我たらしめること、進めていえば御身の物とならしめることの意である。この譬喩は、「三薦苅る信濃の真弓」との繋がりにおいて設けたものである。○知るといはなくに 「なく」は、打消の「ぬ」の未然形の「な」に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎。知っているとはいえないことであるものをの意。
【釈】 三薦苅る信濃の真弓を引くという、その引き試みることを御身はてんでしないので、それでは、真弓の縁でいえば、真弓に弦をかけて、真弓たらしめること、すなわち我を我たらしめることを知っている人とはいえないことであるものを。
(171)【評】 一首の心は、こうした場合の女に共通な態度として、男の心情にある程度の不安を感じ、危惧をもち、それを非難しつつも、同時に一方ではそれを嘆きとして、結局承諾を与えようとする心のものである。心が複雜しているので、譬喩をもってあらわすことの方を便利とし、その法を取っているので、したがって解しやすからぬものとなっている。しかしそれとして見ると、比較的解しやすいものである。初句より三句までの「三鷹苅る信濃の真弓引かずして」は、贈歌にそのままによったものと思われる。「引かずして」は、いったがように贈歌の「吾が引かば」を非難してのものである。求婚をしようとならば、熱意をもった打ち込んだ態度をもって引くべきであるとするのは、女の立場にあっては当然の要求で、非難せずにはいられないことと思われる。その非難があるならば、本來としては拒むべきであるのに、郎女は拒んではいず、婉曲に承諾の意をあらわしてもいる。そこに四、五句の隱喩の婉曲さがある。「弦はくる行事《わざ》」は、いったがように初二句の真弓のつながりで新たに設けた譬喩と思われる。これは含蓄の多いものである。求婚される以前の自身を弦をはけざる弓とし、されることを弦をはけられることとして言っているのであるが、それだと求婚されることを待ち望んでいる心のものである。「知るといはなくに」は、それを徹底的にしないことを、嘆きをもっていっているものである。この四、五句は、初句より三句までの「引かずして」に、譲歩をし、妥協の心をもって説明を付けたもので、要するところは、非難をしつつも、嘆きをもって承諾を与えた心である。四句「弦はくる行事を」は、前との関係では、自然な、そのものとしては巧妙な譬喩で、郎女の歌才を思わせるものである。
 
98 梓弓《あづさゆみ》 引《ひ》かばまにまに 依《よ》らめども 後《のち》の心《こころ》を 知《し》りかてぬかも 郎女
    梓弓 引者隨意 依目友 後心乎 知勝奴鴨 郎女
 
【語釈】 ○梓弓 梓をもって造った弓。古く信濃國から貢物としたのは梓弓であった。「信濃の真弓」を言いかえたもの。○引かばまにまに 弓を引いたならば、引くがまにまにの意。「まにまに」につき『講義』は、後世この語は、上に「の」または「が」の助詞を伴い、また用言の連体形についた、付属的のもののみのようであるが、古くはここのように全く独立の副詞として用いられており、これはその著しい例であると注意している。初二句は、弓を引くと、その本末《もとすえ》が寄り合う意で、下の「依る」の序詞としたもの。○依らめども 「依る」は、靡く意で、同音異義で転じさせてある。靡こうけれども。『講義』は、「め」の已然形に、「ども」を續けるのは古格だと注意している。○後の心を 将来の御身の情愛を。○知りかてぬかも 「かて」は、(九四)の「ありかつましじ」の「かつ」と同じく、堪えきる意。「ぬ」は、否定。「かも」は、詠歎。知りきれないことである。
【釈】 梓弓の、引いたならば、引くがまにまに本末《もとすえ》の寄る、それのように、我も君が心のままに寄り添い靡こうけれども、後になっての君の情愛の渝《かわ》らずにいるということは、知りきれないことであるよ。
(172)【評】 前の歌と一緒に答えたものであることは、これに続く禅師の歌が、この二首に対して詠んだものであることによって知られる。前の歌は、文芸的の巧みを念としたもので、したがって解しやすくないところももったものであるが、これは平明な、きわめてわかりやすいものである。同じ心を、一歩進めて繰り返しているのである。しかしこの歌でも技巧は捨てず、「信濃の真弓」を「梓弓」と合理的に言いかえ、「引かばまにまに」を添えて序詞とし、しかもその序詞にも感情をもたせるという、細心の注意を払っているのである。一首の心は、こうした際の女性に共通な、型のようになっているものである。
 
99 梓弓《あづさゆみ》 つら絃《を》取《と》りはけ 引《ひ》く人《ひと》は 後《のち》の心《こころ》を 知《し》る人ぞ引《ひ》く 禅師
    梓弓 都良絃取波氣 引人者 後心乎 知人曾引 禅師
 
【語釈】 ○梓弓 郎女の前の歌の語を取ったもの。○つら絃取りはけ 「つら絃」は、「つら」も絃で、「轡《くつわ》づら」などの例もある。「絃」は、弦で、同意の語を重ねたもの。弦《ゆずる》をこのように呼んでいたと取れる。「取りはけ」は、取りかけて。弓に弦をかけてで、弓を弓たらしめての意。これは郎女の前の歌に対させたもので、郎女のいかなる人であるかを十分に知ってという意を下に置いたもの。○引く人は 「人」は、自身を客観的に言いかえたもの。弓を引く者はで、「引く」に、娉《つまどい》の心をもたせてある。○後の心を知る人ぞ引く 「後の心」は、郎女の前の歌に対してのもの。後も情愛の渝らないという意。「知る人ぞ引く」は、知っているわが引くで、引くは、三句の繰り返しである。
【釈】 梓弓に弦《ゆずる》を取りかけて、弓を弓たらしめて引く人は、後にも渝らない情愛をもつということを知っている人が引くことである。
【評】 郎女の二首の歌に対して、一首で答えた形のものである。梓弓を郎女に譬え、引くに二様の意をもたせてあるのは前よりの引続きである。一首は誓言の心をもったものである。我を「人」と言いかえ、「人は」「人ぞ」と力をこめていい、また、「引く」を繰り返しているのも、その心からである。当事者の間のもので、双方の実際を超えかねる趣をもっている。
 
100 東人《あづまど》の 荷向《のさき》の箱の 荷《に》の緒《を》にも 妹《いも》は情《こころ》に 乗《の》りにけるかも 禅師
    東人之 荷向〓乃 荷之緒尓毛 妹情尓 乘尓家留香聞 禅師
 
【語釈】 ○東人の 訓は『考』のもの。「東人」は、東国人を指す称であるが、広く地方人の意でも用いられた。ここは後の意のもの。○荷向の箱の 「荷向」は、毎年地方より朝廷に奉る調物の初《はつ》ほをいう。「箱」はその調物の絹などを納めたもので、韓櫃《からびつ》を用いたようである。○荷の緒に(173)も 「荷の緒」は、調物の箱を、馬に負わせるために、鞍に結びつける緒の意。祈年祭の祝詞に、「自v陸往道荷緒縛堅 ※[氏/一]」とあって、この緒は、事を鄭重にするために、堅く結えたことがわかる。「に」は、形容の意を示すもので、「にも」は、ごとくにもの意。○妹は情に乗りにけるかも 「妹」は、主格。「情に」は、わが心の上に。「情に乗る」は、心を占領する意で、「乗りにける」は、占領してしまっているの意。これは当時慣用されていた成語である。「かも」は、詠歎。
【釈】 諸の地方の人の、調物の初《はつ》ほを納めた箱の、それを馬の背に負わせて結いつけてある緒のごとくにも、しっかりと妹はわが心にかかって占領してしまっていることであるよ。
【評】 これは禅師が郎女と婚を結び、その家に通うようになった頃の歌である。四、五句は成句に近いもので、創意は、初句より三句までの譬喩にある。これは奇抜の感のあるものであるが、上にもいったように、その頃は諸国から毎年の例のとおり、京に調物を奉る頃だったので、眼の前に見る荷の緒の状態を、心から離れない妹の状態に連想してのものと取れる。それには、祈年祭の祝詞の語も関係していよう。実際に即しての歌である。
【評 又】 以上、禅師と郎女との贈答四首で、事の起こりからその推移を示し、最後の禅師の歌で、その事の結末を示して、一つの纏まった事件をあらわしている。これは明らかに歌物語である。天智天皇の御代に、歌をもって物語を展開することが喜ばれ、また行なわれていたことが知られる。この物語の伝わったのには、石川郎女なる女性がこの時代に注目され、注意される存在であって、その人に関する物語だというので、特に保存されていたためではないかと思われる。この点は、この後に現われる郎女の歌と行動とによって思わせられることである。
 
     大伴宿禰《おほとものすくね》、巨勢郎女《こせのいらつめ》を娉《つまど》ひし時の歌一首 【大伴宿禰は諱を安麿と曰ふ。難波朝の右大臣大紫大伴長徳卿の第六子、平城朝に大納言兼大将軍に任じて薨りき】
 
【題意】 「大伴宿禰」は、金沢本、元暦本などには注があって、「大伴宿禰諱曰2安麻呂1也、難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子、平城朝任2大納言兼大将軍1薨也」とある。薨じた時は、続日本紀に「和銅七年五月朔日薨」とある。この朝には安麿は公卿にはならなかったので、姓の宿禰だけをいったと見える。大伴氏の姓はもとは連であったのを、天武天皇の十年に宿禰となったので、これは後よりの称である。「巨勢郎女」は、同じく金沢本、元暦本などの注に、「即近江朝大納言巨勢人卿之女也」とある。
 
101 玉葛《たまかづら》 実《み》ならぬ樹《き》には ちはやぶる 神《かみ》ぞつくとふ ならぬ樹《き》ごとに
    玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曾著常云 不成樹別尓
 
(174)【語釈】 ○玉葛実ならぬ樹には 「玉葛」は明らかでない。次の歌にも出ていて、花だけ咲いて実のならない物とわかる。その点から「玉」は美称で、「葛《かづら》は葛《くず》ではないかといはれている。それだとその繊維を布の原料とするなど、生活に親しい物である。葛《くす》の花は印象的なもので、実はなっても目だたないので、実ならぬといいうるものである。「玉葛」は「実ならぬ」の譬喩とされているもので、下に「のごとく」の意の「の」が省かれて、下へ続くものと取れる。「実《み》ならぬ樹」は、実のならない樹の意であるが、この語は、恋に実意のない、すなわち口頭のみのものの意で慣用されている語である。巻七(一三六五)「吾妹子のやどの秋萩花よりは実になりてこそ恋ひまさりけれ」など例が多い。ここもその意をもたせてある。「樹」は、樹木で、広く指していったもの。○ちはやぶる 最速《いちはや》ぶるの約で、勢の鋭い意。怖るべきの意で、下の「神」の性質をいったもので、(一九九)「ちはやぶる人を和《やは》せと」とある類である。○神ぞつくとふ 神が依り憑《つ》くと世間でいっているの意で、これは当時の信仰である。○ならぬ樹ごとに 実のならない樹という樹にはで、二句を繰り返して強めたもの。
【釈】 玉葛のごとく実のならない樹には、怖るべき神が依り憑くと世間でいっている。実のならない樹という樹には。
【評】 歌は「花」と「実」に二様の意味をもたせ、表面は木草《きぐさ》のこととしているが、心は恋の上の譬喩としたもので、「花」は美しい語《ことば》、「実」は実際に相逢うこととしているのである。宿禰のこれを贈ったのは、郎女が宿禰の求婚に対して、語《ことば》としては優しくしかるべきことをいっているが、実際に相逢おうとはいわないので、それをもどかしく感じ、男性にありがちな威嚇を試みたものである。すなわち上手事ばかりをいっていて、実際に相逢おうとしない人には、邪神が憑くということである。そういう人々にはとの心である。樹と人の双方にわたって同じような信仰があったので、それを利用したものであるが、歌としてできあがった上から見ると、樹の方だけをいって人の方を感じさせているもので、全部が隠喩になっており、したがって文芸的なものとなっている。歌因は、郎女を威嚇してその目的を遂げようとする実用性のものに、これだけの文芸性をもたせたもので、高次のものとすべきである。歌因から見ると、玉葛を葛とすると、その花が過ぎて、樹には実のなる頃であったろうと思われる。
 
     巨勢郎女、報《こた》へ贈れる歌一首 即ち近江朝の大納言巨勢人卿の女なり
 
102 玉葛《たまかづら》 花《はな》のみ咲きて ならざるは 誰《た》が恋《こひ》ならめ 吾《わ》は恋ひ思《も》ふを
    玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎
 
【語釈】 ○玉葛 贈歌では「ならぬ樹」の譬喩にしているのを、今は玉葛その物に限っている。言い返しの意で変えたのである。○花のみ咲きてならざるは 花が咲くだけで実のならないのはの意。初句よりこれまでの三句は、贈歌の「玉葛実ならぬ樹には」の二句を、委しく言いかえたも(175)の。○誰が恋ならめ 誰の恋であろうかの意で、「誰」を宿禰にあてて、御身こそそれではないかの意味でいったもの。『講義』は、ここのように、「誰」「何」と係って「め」で結ぶのは古言の一格で、この「め」は後世の「めや」にあたるもので、反語をなしていると注意している。○吾恋ひ思ふを われは御身を恋い慕うているものをの意。
【釈】 玉葛のごとく花ばかり咲いて、実のならない、すなわち口頭のやさしさだけで真意のないのは、誰の恋なのであろうか。われの方は恋しく思っているものを。
【評】 贈歌の語に縋っての歌であるが、贈歌の「玉葛」の内容を、いったがごとくに変え、しかも贈歌ではこちらを暗示したものであるのに、全然先方の譬喩とし、「花のみ咲きてならざる」と、贈歌にはない「花」を添えて「実」を省くなど、やさしいながらに言い返しの意を徹底させている。答歌の型に従ったのである。しかし心としては、余裕のもてない、哀切さを含んだものである。当時の教養ある、上流の女性を思わせられる作である。
 
  明日香清御原宮御宇《あすかのきよみはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代    天渟名原瀛真人天皇《あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと》、謚を天武天皇と曰す
 
【標目】 巻一に出ている。天武天皇の御代である。
 
     天皇、藤原夫人《ふぢはらのぷにん》に賜へる御歌一首
 
【題意】 「天皇」は天武天皇。「藤原夫人」の「夫人」は、後宮の職名で、藤原氏の出の夫人の意である。夫人は中国の名称で、漢では皇帝の妃、先秦では諸侯の妻、漢以後には常人の正妻をいい、また婦人の尊称ともなったものである。わが国では、令の制に、皇后のほかに、後宮の職員に、「妃三員、夫人三員、嬪四員」とある。妃は皇族に限られたので、臣族の出は、最高が夫人であった。ここもその意のものである。天武紀に「又夫人藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女1、次夫人氷上娘弟五百重娘生2新田部皇子1」とある。すなわち藤原鎌足の娘で、藤原夫人と称せられる人が二人あったのである。この夫人は大原に住んでいたことが歌でわかる。巻八、夏雑歌に藤原夫人の歌があり、注に「明日香清御原宮御宇天皇夫人也、字曰2大原大刀自1、即新田部皇子之母也」とあるのにより、この夫人は五百重娘と知られる。「御歌」は、「御製歌」とあるべきである。
 
103 吾《わ》が里《さと》に 大雪《おほゆき》ふれり 大原《おほはら》の 古《ふ》りにし里《さと》に ふらまくは後《のち》
(176)    吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落卷者後
 
【語釈】 ○吾が里に大雪ふれり 「吾が里」は、天皇のいらせられる清御原の京。「大原」に対してわざとそう仰せられたもの。「大雪」は、今も用いる語。ここで切れている。○大原の 「大原」は、現在夫人のいられる地。今明日香村の東南に小原という地があり、その名をとどめている。藤原鎌足の生誕の地といわれる。夫人が大原大刀自と称せられたのも、そこに住んでいたからである。大原は清御原から幾何《いくばく》の距離もない所である。○古りにし里に 「古りにし里」は、古いものとなってしまった里で、以前住んでいた里をもいい、また、人の住むことの稀れになった、荒れた里のことをもいう。集中には両方がある。ここは後者で、大原を戯れの心をもって貶《おと》しめていわれたもの。○ふらまくは後 「ふらまく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、降ろうことはの意。「後」は、わが里よりも後れた時の意。
【釈】 わが住む里には、大雪がおもしろくも降った。そなたの住んでいる大原の、さみしく荒れてしまった里に、降ることは後であるよ。
【評】 大雪の降った後に、天皇が夫人を思われて賜わった御製である。天皇は大雪のおもしろさを御覧になりながら、夫人がともに見られないのを飽き足らず感じられ、それをいってやろうと御思いになったのであるが、それを歌となされる際には、すっかり変形なされ、御情愛を内に包んで、表面は揶揄の形のものとなされたのである。清御原と大原とは幾何も離れてはいない地なので、清御原に降った大雪の、同じく大原にも降っていることは自明なことである。それをわざと両地を差別あるもののようにいわれ、「吾が里」「大原の古りにし里」と、いずれにも誇張を加えた言い方をなされたうえ、さらに双方に、「ふれり」「ふらまくは」と、同じ語を繰り返されたのは、一に対照を際立たせようがためである。「古りにし」という語にも、同音の興を絡ませてあるかに思える。一首、しいても羨ませようとなさつているのは、表面は揶揄であるが、御心としては、と(177)もに大雪を見ないのを夫人にも飽き足らず思わせようとの御心で、その御情愛が、おおらかに、太く緩やかに御詠みになっている一首の中に、明らかに感じられる。御製としてふさわしいものである。
 
     藤原夫人、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
 
104 吾《わ》が岡《をか》の おかみに言《い》ひて ふらしめし 雪《ゆき》の摧《くだ》けし そこに散《ち》りけむ
    吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武
 
【語釈】 ○吾が岡の わが大原の岡ので、大原は丘陵の地である。この岡は、下の「おかみ」の鎮まる所としていっている。神はその地の高い所に降《くだ》り、また鎮まるともされていた。○おかみに言ひて 「おかみ」は、日本書紀巻一に、「竜此云2於箇美1」という注がある。また日本書紀には高〓神《たかおかみ》があり、古事記には闇於箇美神《くらおかみのかみ》がある。竜神で、雨をつかさどる神とされていた。現在も雨を請うのはこの神である。今は、雪のことをいっているが、雨の延長として、雪をつかさどるのもこの神としたものとみえる。「言ひて」は、命じてである。天神地祇はすべて天皇に奉仕するとされていたので、天皇に対して申すには、このようなこともいえたのだと取れる。○ふらしめし 降らせたで、過去のこととしていっている。「ふらまくは後」に対して、こちらの方がすでに先に降ったの意でいったもの。○雪の摧けし 「摧け」は、名詞で、一部分。「し」は、強め。○そこに散りけむ そちらすなわち清御原にこぼれたのであろう。
【釈】 わが大原の岡に鎮まる竜神に命じて、こちらへ降らせた雪の、その摧けの一部分だけが、そちらへもこぼれたのでございましょう。
【評】 御製に対して、劣らじとして言い返した形のもので、和え歌の型に従ったものである。御製の「ふらまくは後」を中心として、「おかみに言ひてふらしめし」といって、こちらにはすでにそちらよりも先に降っているといい、さらに進めて、御製の「大雪ふれり」に対して、「摧けしそこに散りけむ」と、あくまでも言い返したものである。「おかみに言ひてふらしめし」は、当時としては思いやすいものであったろうと思われる。したがって語としては突飛ではあるが、御製の、清御原と大原とに地理的差別を立てたような諧謔味はないものである。御製は余裕があり、綜合的であって、御情愛の漂うものがあるが、和え歌は、いうところは諧謔であるが、分解的で、迫った趣をもったものである。しかし矜恃と才気の認められるものといえる。
 
  藤原宮|御宇《あめのしたしらしめしし》高天原広野姫天皇代 【天皇諱を持統天皇と曰す、元年丁亥の十一年位を軽太子に譲り、尊号を太上天皇と曰す】
 
(178)【標目】 高天原広野姫天皇は持統天皇である。この標目は諸本に異同がある。
 
     大津皇子《おほつのみこ》、竊《ひそ》かに伊勢《いせ》の神宮《かむみや》に下《くだ》りて上《のぼ》り来《き》ましし時の大伯皇女《おほくのひめみこ》の御作歌《みうた》二首
 
【題意】 大津皇子は天武天皇の第三皇子である。天智天皇の皇女|大田皇女《おおたのひめみこ》と※[盧+鳥]野讃艮《うのさらら》皇女とは、ともに天武天皇の後宮に入り、讃良皇女は皇后となり、後に即位して持統天皇となられた。大田皇女は、大伯《おおく》皇女と大津皇子を生んで早世されたのである。大津皇子は天武紀十二年の条に「二月己未朔、大津皇子始聴2朝政1」とある。朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩じられると、大津皇子は、御姉大伯皇女の斎宮として赴いていられる伊勢の神宮に下ったが、帰り来られての十月二日、謀反の罪に問われて死を賜わった。持統前紀に「庚午(三日)賜2死皇子於|訳語田舎《ヲサダノイヘニ》1。時年廿四。妃皇女山辺被v髪徒跣、奔赴殉焉。見者皆歔欷。皇子大津天渟中原瀛真人天皇第三子也。容止墻岸、音辞俊朗。為2天命開別(天智)天皇1所v愛。及v長弁有2才学1、尤愛2文筆1。詩賦之興自2大津1始也」とある。また、懐風藻には「……及v壮愛v武、多力而能撃v剣。性頗放蕩、不v拘2法度1。陸v節礼v士。由v是人多付託。時有2新羅僧行心1。解2天文卜筮1。詔2皇子1曰、太子骨法、不2是人臣之相1、以v此久在2下位1、恐不v全v身。因進2逆謀1。迷2此※[言+圭]誤1。嗚呼惜哉云々」とある。
 大伯皇女の事は、斉明記七年正月の条(左注参照)に、「甲辰。御船到2于|大伯《オホクノ》海1。時大田姫皇女産v女焉。仍名2是女1曰2大伯皇女1」とある。大伯は岡山県|邑久《おく》郡の地で、吉井川河口の東のあたりかといわれている。天武二年伊勢の斎宮と定められ、翌三年十月伊勢へ下られた。時に年十四であった。弟大津皇子に訪問された時は二十六である。「竊かに」は、皇子としては微行だったのである。時は秋で、事の発覚の直前である。
 
105 吾《わ》が背子《せこ》を 大和《やまと》へ遣《や》ると さ夜《よ》ふけて 暁露《あかときつゆ》に 吾《わ》が立《た》ち濡《ぬ》れし
    吾勢※[示+古]乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
 
【語釈】 ○吾が背子を 「背」は、女から男の兄弟を呼ぶ称で、長幼にかかわらない称である。これは男より女の兄弟を妹と称するに対した語である。「子」は、親しんで添える語。「吾が」も同様である。今は皇女の弟皇子をきわめて親しまれての称である。○大和へ遣ると 「大和」は京。「遣る」は、京へ還られるのを、このようにいったもので、御姉として、幼い弟を扱うがごとき語をもっていわれているのである。「と」は、とて。○さ夜ふけて 「さ」は、接頭語。夜が更けてで、ただ時間の経過をいってあるだけであるが、上よりの続きで、弟皇子との別れを惜しんでのためであることは明らかである。○暁露に 「暁」は原文「鶏鳴《あかとき》」で、明時すなわち夜の明るくなりかかる時でまだ暗い午前四時の時刻。「暁露」は、熟語で、明時の露の意である。明時は露の最も繁く結ぶ時である。この熟語は集中に用例のあるものである。○吾が立ち濡れし 「し」は助(179)動詞「き」の連体形。『講義』は、主格に「が」を添え、連体形で結ぶのは、古格の一格だと注意している。われは立って濡れたで、下に詠歎を含んでいる。上の句より続いて、弟皇子を戸外に立って見送っていたことをいったものであるが、そのいかに久しく立っていられたかを思わせるものである。
【釈】 なつかしい弟を大和国へ立たせてやるとて、夜が更けて、明け方の露に私は立っていて濡れたことであるよ。
【評】 秋の夜深く、微行の形で大和へ帰る弟皇子を見送って、久しくも戸外に立っていられた姉皇女の、闇に見えない弟皇子から心を離して、我にかえられた時の心で、我にかえるとともに、その夜の全体を大観されて、哀愁をもって詠まれた御歌である。いったがように、単に「さ夜ふけて」といい、「吾が立ち濡れし」といって、一|夜《や》の輪郭をいっているだけで、内部へは全く触れていない。それにもかかわらず、その一夜の皇女の哀愁が、余情の形をとって直接に感じられてくる御歌である。これは一に調べの力である。一首の調べが皇女の哀愁をあみ出させているといえる。その哀愁は、これにつぐ御歌でほぼ察しられるが、兄弟の間の単純なる情愛のもつおのずからなる哀愁で、それ以外のものとは思われない。
 
106 二人《ふたり》行《ゆ》けど 行《ゆ》き過《す》ぎ難《がた》き 秋山《あきやま》を いかにか君《きみ》が 独《ひと》り越《こ》ゆらむ
    二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
 
【語釈】 ○二人行けど 「二人」は、この場合、皇女と皇子。「行けど」は、行ったけれどもで、行ったのは下の「秋山」である。皇子の滞在中、兄弟で、近いあたりの秋の山を遊覧されたことのあつたのを思い出してのもの。○行き過ぎ難き秋山を 「行き過ぎ難き」は、進んで行き難いで、下の「秋山」の状態をいったもの。その状態は下で知られるが、秋山のもつ寂しさに堪えられなかったのである。その「秋山」の位置は、斎宮に近く、京へ行くには越えなければならない所にあることが、下で知られる。○いかにか君が独り越ゆらむ 「いかに」は、どんなに寂しい気持がしてで、「行き過ぎ難き」に照応させてあるもの。「か」は、疑問。「君が」の「が」は皇子の気分の方を主としていったもの。「独り越ゆらむ」は、一人で越えるだろうかで、「独り」は初句の「二人」に照応させてある。
【釈】 二人で遊覧に行ったけれども、それでも行きかねたあの秋山を、どんなにして君は一人で越えていることであろうか。
【評】 弟皇子の見送りを終った姉皇女が、一たびその一夜の自分の状態を顧みられると、今度は転じて、弟皇子の旅を思われての心である。弟皇子の旅を思うと、第一に浮かんでくるのは、斎宮に遠くないあたりの秋山であるが、その浮かんで来たのは、近く御一緒に行かれたことのあるためと思われる。「二人」は、「君が独り」に対させてある関係上、「二人」は御兄弟を意味させたものと取れる。その記憶にある山を中心に、二人でいらした時の気分と、想像に浮かんでくる独りでお越しになっている(180)気分とを対照したのが、一首の心である。皇女の御歌は、ここ以外にもあるが、すべて実際に即した詠み口であって、気分に乗って想像を詠まれたものはないところから、ここもそれであろうと思われる。二句の「行き過ぎ難き」の「き」音の重なり、四句の「いかにか君が」の「か」音の重なりは、自然のことではあるが、皇女の御気分の細かい刻みをあらわし得ているものと思われる。
 
     大津皇子、石川郎女に贈れる御歌一首
 
【題意】 「石川郎女」は(九六)に出た、久米禅師と結婚した女性とは別人であろうとされている。この郎女は既婚の人とはみえないからである。石川は氏。郎女は女子を尊んでの称であり、適用の範囲の広い称で、一人とは定め難いからである。この名の人の歌が集中に短歌八首あり、この郎女は日並皇子の侍女である。
 
407 あしひきの 山《やま》のしづくに 妹《いも》待《ま》つと 吾《われ》立《た》ち濡れぬ 山《やま》のしづくに
    足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二
 
【語釈】 ○あしひきの山のしづくに 「あしひきの」の意味は諸説があるが不明である。山にかかる枕詞。「山のしづくに」は、山の木や草に宿る雫のために。○妹待つと吾立ち濡れぬ 「妹待つと」は、「妹」は郎女。「待つ」は、かねて約束がしてあって、その来るのを待つ意。古くは男女ひそかに逢うに、人目に遠い野や山においてするのは、特別のことではなかった。ここもそれである。「吾立ち濡れぬ」は、われは沾れたの意で、「立ち」は、事実ではあるが、感を強めるために添える意のあるもので、当時慣用された語。○山のしづくに 感を強めるために、第二句を繰り返したもの。型となっている法である。
【釈】 山の雫に、そなたの来るのを待つとて、われは立ち濡れた、山の雫に。
【評】 山の中で密会しようと約束をしたので、行って待っていたが、ついに来なかった嘆きをいってやられたものである。山は近い辺りのもので、時は草木《くさき》の雫の多い、夏から秋へかけてのこととわかる。嘆きをいうに、直接には何もいわれず、「山のしづくに立ち濡れぬ」とのみいい、しかしその侘びしさをあらわすために、「山のしづくに」を結句で綴り返しにしているのは、男としてこうした範囲の歌には、怨みはもとより嘆きもいうまいとするのが本意だが、さすがに侘びしさだけはいおうとされたものと取れる。その侘びしさをあらわす山の雫も、「山の雫」という組合わせの際やかな語をもってして、その繁さをあらわすとともに、美しさもあらわしている点が注意される。一首、地歩を占めておおらかに、余裕をもちつつ、しかも心を(181)尽くしていて、その調べの清いところなど、高貴の風貌と、文才のほどを思わせる御歌である。
 
     石川郎女、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
 
108 吾《あ》を待《ま》つと 君《きみ》が濡《ぬ》れけむ あしひきの 山《やま》のしづくに ならましものを
    吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
 
【語釈】 ○吾を待つと君が濡れけむ 「吾《あ》」は、「あ」「わ」のいずれも仮名書きのあるものである。「吾《あ》」は最も古い形である。吾を待つとて君が濡れたであろうところの。○ならましものを 「なる」は、変化する意。「まし」は仮設の意をあらわす助動詞。わが身を変えようものをの意。古くは、その人の身に添い、あるいは身に着いている物は、やがてその人の一部だという心持が濃厚であった。その意味で、君を濡らしたという雫になりたいということは、君の物になりたいという意をあらわしたものである。
【釈】 吾を待つとて君が濡れられたという、その山の雫に、なれるものであったらなったろうに。
【評】 違約をしたいいわけはせず、侘びしかったといわれた山の雫を捉え、その雫にわが身を変えて、君に添い、君の物となりたかったというので、機才のあるとともに、媚態の濃厚なものである。これにつぐ歌で見ると、郎女はこの当時、日並皇子の侍女となっていたことが知られる。この和え歌に弁明のないのは、その理由はおのずから明らかだったからと思われる。皇子への和え歌として恥じない歌才のある作である。気品、重厚味のないのは、人柄の差である。
 
     大津皇子、竊かに石川女郎に婚《あ》ひし時、津守連通《つもりのむらじとほる》其事を占《うら》へ露《あら》はししかば皇子の作りませる御歌一首 未だ詳かならず
 
【題意】 「石川女郎」は、前の歌に出ている女である。この女は、次の歌によると、皇太子日並崇子に召されていたのであった。大津皇子がこの女に婚《あ》うのは許されないことだったのである。「津守違通」は、新撰姓氏録に天香山命の後とある。和銅七年には従五位下美作守となった人で、この当時甚だ重んじられていた陰陽道の達人で、その道において朝廷より賞賜のあった人である。「占へ露はす」というは、不明な事を神意を伺って明らかにすることで、上代より信じられていたことである。
 
(182)109 大船《おほふね》の 津守《つもり》が占《うら》に 告《の》らむとは まさしに知《し》りて 我《わ》が二人《ふたり》寐《ね》し
    大船之 津守之占尓 將告登波 益爲尓知而 我二人宿之
 
【語釈】 ○大船の津守が占に 「大船の」は、大きな船で、その出入りする津の意で津にかけた枕詞。「津守」は、津守通。「占」は、卜占。○告らむとは 占によってあらわれようとは。○まさしに知りて我が二人寐し 「まさし」は、形容詞「正《まさ》しく」の語幹で、それに「に」を続けて副詞としたもの。「我が二人寐し」は、我は二人で共寐をしたことであるよの意。「が」と「し」の係結びは(一〇五)に出た。
【釈】 津守が占いによっていいあらわれようということは、正《まさ》しくも知っていて、我は二人共寐をしたことよ。
【評】 題詞にある、憚りあることが占え露わされた直後の御歌である。一首、心としては単純であるが、声調をとおして複雑な気分を感じさせる歌である。心としては、事が露われて、不首尾をきたすことは十分承知していながらも、やむにやまれぬあわれさより起こった事だということに取れる。当時男女間は、上代の風として寛やかであった。また、女は皇太子のものとはいえ、単なる召人《めしびと》であって、何らの位地も与えられていたものとは思われない。大津皇子の位地からいえば、憚るべきことには相違ないが、それも限度のあることであったと思える。「大船の津守が占」と力強くいわれているのは、当時陰陽道の盛行していたその影響よりのことで、一首の心よりいえば、さして重いものとは思われないから、これは除外のできるものである。心がそれであり、それが一首の全部であるとすると、皇子に同情し得られるものがあるといえるが、しかしこの御歌の声調には、鋭く強いものがあり、それが熱意の迸りというよりは、むしろ反対に、ある冷たさを感じさせるものである。「まさしに知りて我が二人寐し」という声調は、しっかりと地歩を占めた上で、強く言い放った趣を感じさせるのである。これはあわれの範囲のものではなく、それを超えてのものと思われる。ここにある複雑さを感じさせられるのである。これはやがて皇子の伝記につながりをもつものに思える。いつの時のことかは明らかにわからないが、二十四歳にして罪を得られた皇子の高邁さを感じさせられる御歌である。すなわち朝廷がこのようなことを問題にしたことに対する反抗気分の現われとも取れる。
 
     日並皇子尊《ひなみしのみこのみこと》、石川女郎に贈り賜へる御歌一首 【女郎、字を大名児といふ】
 
【題意】 「日並皇子」のことは、巻一(四五)に出た。持統天皇の皇太子草壁皇子で、日並皇子尊は、摂政の皇子としての尊称で、やがて御名のごとくなったものである。「贈り賜へる」の「贈り」という文字は、目録にはなく、またない本も少なくない。「石川女郎」は前の歌に出ている人とみえる。そちらに郎女とあったのを、ここでは女郎と書いている。用例によると、郎女は敬称(183)であるが、女郎は女性をあらわすにすぎない称と取れる。ここの場合は、資料に従ってのものだろうと『全註釈』は解している。注の「字」は、本名のほかに、世に称する名である。女の名に「児」の添うのは、前に「安見児」があり、後にも「桜児」「鬘児」などがある。
 
110 大名児《おほなこ》 彼方野辺《をちかたのべ》に 苅《か》る草《かや》の 束《つか》の間《あひだ》も 吾《われ》忘《わす》れめや
    大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八
 
【語釈】 ○大名児 原文にしたがって四音に訓む。従来「大名児を」と「を」を訓み添えたのを、『新訓』が四音にし、『注釈』が考証を加えている。直接に呼びかけたもので、字《あざな》をもってしたのである。「よ」の意がある。○彼方野辺に苅る草の 「彼方」は、こちらに対してのあちらである。遠近の遠ではない。あちらの野辺にある。「草」は「かや」で薄、萱などの総称。苅つて束《つか》ねる意で、「束」にかかる序詞。○束の間も 「束」は、古く尺度の単位をあらわす語で、一|握《つか》み、すなわち四本の指の並んだ長さである。八握髯《やつかひげ》、十握剣《とつかのつるき》などその例である。これは短いものであるところから、その意で時の方にも用いた。「束の間も」は、しばらくの間も。○吾忘れめや 吾は忘れようか、忘れはしないの意。「や」は反語。
【釈】 大名児よ、あちらの野辺に苅る草の、苅れば束ねることをする、その一束の短い間も我は忘れようか、忘れはしない。
【評】 高貴の方が、身分の低い者に対して、情愛を示されたものという感の深い御歌である。心としてはその児に呼びかけて、深い情愛を直截にいわれているものであるが、一首の調べがおおらかに、和やかなものであるために、その直截さが溶かされて、ただ温かなものとなっている。「彼方野辺に苅る草の」という、素撲な感を起こさせる序詞が、一首の感味の上に大きな働きをしている。
【評 又】 (一〇七)からこの歌に至るまでの四首は、いずれも石川女郎の重く関係している歌のみである。この(一一〇)によって見ると、女郎は当時日並皇子尊の召人《めしびと》となり、命の愛をこうむっていたのであるが、その間にあって女郎は、他の三首によると、大津皇子と密会しようとし、ついにひそかに相逢うという関係となり、それが問題となって、津守通の占いを俟つまでに至ったのである。この占いのことは、日並皇子尊によってなされたことと思われる。これは一人の女郎を中にして最も尊貴なる二皇子の愛の争いをなされたということで、この四首を、単に歌という上から見ると、まさしく歌物語である。歌数は四首にすぎないのであるが、その歌はすべて実際に即したものであり、また歌そのものはいずれも優れたものなので、これを連ねて読むと複雑した味わいをもった歌物語となってくる。この四首を一括して撰者のここに収めたのは、年次としても、事としても、そうするのが自然であったためとも取れるが、上の久米禅師の場合と同じく、石川女郎に関する歌物語的興味も伴ってのことではないかとも思われる。なおこの意味のものは(一二六)より(二一八)にわたってのものにもある。
 
(184)     吉野宮に幸《いでま》しし時、弓削《ゆげの》皇子の額田《ぬかたの》王に贈与《おくり》たまへる歌一首
 
【題意】 持統天皇の吉野宮への行幸の事は巻一に出た。前後三十回以上に及んでいるので、いつのことともわからない。歌にほととぎすが出ていることから推して、四年五月か、五年四月かであろうといわれている。「弓削皇子」は、天武紀に、「次妃大江皇女生3長皇子与2弓削皇子1」とあり、天皇の第六皇子である。持統天皇七年に、位、浄広弐を授けられ、続日本紀に文武天皇三年七月薨去の事が出ている。額田王は、京にいられたのである。
 
111 古《いにしへ》に 恋《こ》ふる鳥《とり》かも 弓絃葉《ゆづるは》の み井《ゐ》の上《うへ》より 鳴《な》き渡《わた》りゆく
    古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上從 鳴濟遊久
 
【語釈】 ○古に恋ふる鳥かも 「古に」の「に」につき、『講義』は、「に対して」の意で、「恋ふる」の対象としている。なお「を」との区別は、「に」は静的な目標をさし、「を」は動的の目標をさす語だと注意している。「かも」は、詠歎の助詞。古を恋う鳥なのかの意。この烏は次の和《こた》え歌によって、ほととぎすということが明らかである。ほととぎすは古を恋う鳥だということは中国の伝説で、蜀王が死んでその魂からなった鳥といわれ、古を恋って鳴くといい、蜀魂という文字をあててもいる。こうした伝説が、当時の有識階級には行なわれて興味をもたれていたのである。○弓絃葉のみ井の上より 「弓絃葉のみ井」は、井の名。「弓絃葉」は、今は交譲木《ゆずりは》と呼び、新年の供え物に用いている植物である。「み井」の「み」は、美称で、「井」は山中のこととて、自然に湧き出す清水を湛えたものと思われる。古くは、井のほとりにはしかるべき植物を立たせて、井の水を保護させるのを常とした。その関係から、その植物をその井の目標とし、井の名ともした。桜井、藤井、櫟井《いちいい》などそれである。弓絃葉のみ井も同じく井の名である。み井というのは、この井は吉野宮の御用の物だったからであろう。したがって宮の付近にあった物と思われる。今は所在がわからない。「上」は、ほとり。「より」は、経過する地点の意をあらわす助詞で、を通って。○鳴き渡りゆく 「渡り」は、行動の、一つの地点から他の地点に及ぶのをあらわす語。「ゆく」は連体形。
【釈】 古に対して恋うる鳥なのであろうか。吉野宮の弓絃葉のみ井のほとりをとおって、鳴き渡って行くことよ。
【評】 弓削皇子が、行幸の供奉として吉野宮におられ、所柄として父帝の事を思わせられていた際、ほととぎすの、宮に近いほとりを、鳴きながら飛びゆくのを御覧になっての心である。ほととぎすは古を恋って鳴く鳥だということは、中国の伝説の伝わつてのものであるが、道教の信仰の深かった当時とて、その神秘的な点が、有識階級に興味をもたれていたものとみえる。皇子は眼前にほととぎすの飛びつつ鳴くのを御覧になると、自身の感情をその鳥に結びつけて、我と同じ心をもっているのかと見られたのである。しかしその心情には限度をつけられて、「古に恋ふる鳥かも」と、疑いを残した態度で言い出され、つい(185)で、それと感じられるほととぎすの状態を描き出されているのである。弓絃葉のみ井は、宮に関係深いものであり、父帝の御代からの物であるので、そこにほととぎすの思慕の心を認め、また鳴き渡りゆく状態に、その心深さを認めたのである。一首の心は感傷であり、抒情であるのに、それに適当な客観性をもたせ、余裕のある態度を持していられるために、おのずからに余情をもったものとなっている点は、まさしく文芸性の歌である。京にある額田王に贈られたものであるが、歌はそのために詠まれたものというより、むしろ皇子自身のためのもので、できての上で、王に示そうとの心から贈られたもののように見える。それは王が同感されようと思ってのことであろう。
 
     額田王、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首 倭の京より進入《たてま》つれる
 
112 古《いにしへ》に 恋《こ》ふらむ鳥《とり》は ほととぎす けだしや鳴《な》きし 吾《わ》が念《も》へるごと
    古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰
 
【語釈】 ○古に恋ふらむ鳥は 「らむ」は、現在の推量をあらわす助動詞。「は」は、取り立てていう意の助詞。古に対して恋うであろうと推量する鳥はで、皇子の「古に恋ふる鳥かも」に対して、一歩を進めていったもの。○ほととぎす 下に詠歎がある。○けだしや鳴きし 「けだし」は、疑って推測する意の副詞。もしというに近い。「や」は、疑問で、係となっている。「鳴きし」の「し」は、「や」の結び。もしくは鳴いたのであろうか。○吾が念へるごと 「念へる」は、古に対して。「ごと」は、如で、「如し」の語幹。吾が古を思っているがように思って。
【釈】 古に対して恋うるのであろうと御推量なさる鳥は、ほととぎすであるよ。たぶん鳴いたのであろうか、私が古を思っているがように思って。
【評】 皇子の贈歌に和《こた》えたもので、贈歌の心を十分に察し、また、皇子の贈られた心をも察して、それをうべない喜ぶ心をあらわした歌である。贈歌の「古に恋ふる鳥かも」と、疑いを残していっていられるのに対して、それはほかではなくほととぎすであろうといい、皇子がそうした鳥を見も聞きもして、古を恋うる心を刺激されながら、それとはいわれずにいるのを、王はただちにわが事として、我が古を思うがように思って、同じように鳴いたのであろうと、あからさまな、強いものに進めたのである。皇子の歌は文芸性をもった新風のものであるが、王の和え歌は、実用性の古風なものである。和え歌に伴う語のおもしろさをもたせようとしていないのは、事が事であるためもあるが、一つには、皇子のやさしさに対しての感謝の念が伴っているからだろうと取れる。
 
(186)     吉野より蘿《こけ》生《む》せる松が柯《え》を折り取りて遣しし時、額田王の奉入《たてまつ》れる歌一首
 
【題意】 「蘿」は、松蘿とも女蘿ともあて、「松のこけ」とも「さるおがせ」ともいった。今も「さるおがせ」といい、あるいは「さがりごけ」ともいっている。深山の松杉などの樹枝にかかって長く垂れている植物である。歌は、さるおがせの生えた松の枝を贈られた額田王の、それに対しての喜びを詠んだものである。贈ったのは、弓削皇子と思われる。その松の枝は、歌で見ると、御言《みこと》をもっての使と見て愛《め》でているものである。
 
113 み吉野《よしの》の 玉松《たままつ》が枝《え》は はしきかも 君《きみ》が御言《みこと》を 持《も》ちて通《かよ》はく
    三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 者之御言乎 持而加欲波久
 
【語釈】 ○み吉野の玉松が枝は 「み吉野」の「み」は、美称。「玉松」の「玉」も、同じく美称。その物を愛《め》でる意から、珍重した玉を添える例は、植物の上でも、「玉葛」「玉藻」がある。これもそれである。蘿《こけ》の生《む》しているという特別の松であるから、ふさわしい愛《め》で方である。「松が枝」という言い方は、仮名書きがある。○はしきかも 「はし」は、愛《は》しをあてる語で、愛する意をいう古語で、形容詞。「かも」は、詠歎の助詞。可愛いことかなで、松の枝が消息をもって、使の役をしている意で、使その者に擬して愛した意の語。○君が御言を 「御言」は皇子の歌。○持ちて通はく 「通はく」は、「通ふ」に「く」を添えて名詞形としたもので、通うことよの意。通うは往来する意で使のていである。これは松が枝を使と見ることによって言いうる語である。
【釈】 み吉野の玉松が枝は、可愛ゆくもあることかな。君が御言《みこと》をもって、使として通うことよ。
【評】 消息を木の枝に付けるのは当時の風で、特別なことではなかったと思われる。しかしこの場合は、その木の枝は単なる儀式のものではなく、蘿《こけ》の生《む》している松が枝という特別な物で、それは王の心を喜ばせようという皇子のやさしい心からのものだったのである。王としては、皇子の心を喜んだ意をあらわさなくてはならない場合である。この歌はその心のものである。歌は松が枝その物に多く興じたことはいわず、そちらは「玉松」という一語にとどめ、中心は、そういうことをされた皇子の方に置き、この松が枝は、皇子の消息の使をする可愛ゆいものだという言い方をしたのである。すなわち松が枝のおもしろさと、皇子の消息をされた有難さを一つにして、松が枝を愛すべき使といったのである。巧みにして品位ある挨拶というべきである。額田王としては、年代的に見て、これが最後の歌だろうと注意されている。若い頃の艶《つや》やかさの豊かに流れ出ずるような趣はないが、頭脳の明らかに、余裕をもった、冴えた物言いをされる趣は、十分に感じられる。
 
(187)     但馬皇女《たぢまのひめみこ》、高市皇子《たけちのみこ》の宮に在《いま》しし時、穂積皇子《ほづみのみこ》を思ふ御歌一首
 
【題意】 「但馬皇女」は、天武天皇の皇女で、御母は、藤原鎌足の女氷上|娘《いらつめ》である。天武紀のこの記事は、(一〇三)に引いてある。続日本紀に、「和銅元年六月丙戌三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也」とある。「高市皇子」は、天武天皇の皇子で、御母は、胸形君徳善の女尼子娘である。この事は日本書紀、天武紀二年に見える。すなわち皇子と皇女は異母兄妹である。日本書紀、持統紀四年に、この皇子が太政大臣になった記があり、同じく十年七月に薨去の記がある。その際の記事に、「後皇子命」と記してある。また、懐風藻の吉野王の伝の中に、「高市皇子薨後、皇太后引2王公卿士於禁中1謀立2日嗣1」とあるところなどから察すると、皇太子草壁皇子の薨後皇太子となられたこととみえる。しかし立太子の事は史上に見えない。但馬皇女がこの皇子の宮にあられたのは、妃であったとみえる。「穂積皇子」は天武天皇の第五皇子で、御母は蘇我|赤兄《あかえ》の女|大〓娘《おおぬのいらつめ》である。続日本紀、霊亀元年正月一品に叙せられ、同七月薨ぜられた。当時は異母兄妹の結婚は普通のことであった。
 
114 秋《あき》の田《た》の 穂向《ほむき》のよれる かたよりに 君《きみ》によりなな こちたかりとも
    秋田之 穗向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母
 
【語釈】 ○秋の田の穂向のよれる 「秋の田」は、秋の、稲の熟した田の意。「穂向」は、穂の傾いた向きで、穂は熟して重くなると、自然に傾くし、折からの風で、同じ方角に向かうものである。「よれる」は、傾いている状態。秋の田の熟した稲穂の傾いているのを譬喩として、下の「かたより」にかかる序詞。○かたよりに 旧訓。「異」を「かた」と訓むのは義訓であるが、拠は明らかでない。巻十(二二四七)「秋の田の穂向きの依れる片よりに吾は物念ふつれなきものを」があり、皇女のこの歌より出たものと思われるので、これが訓の拠とされている。『注釈』は原文「異所」を「かた」と訓み、考証している。「かたより」は体言。風などのために、すべて同じ方向に傾いて、そのまま立ちなおらずにいる状態をいう。「に」は、状態の形容で、のごとくにあたる。○君によりなな 「君」は、穂積皇子。「より」は、靡《なび》き従う意。「なな」は、上の「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形で、この場合は強意のためのもの。下の「な」は、みずから冀《ねが》う意をあらわす語。君に必ず靡き従おうと思うの意。○こちたかりとも 「こちたし」は、言甚《こといた》しを約《つづ》めた語で、人の物言いのうるさい意。たとい、うるさく言い騒がれようともの意。
【釈】 秋の熟した稲田の、穂の傾いた向きのように、ただ一かたに君に靡き寄りたいものだ。たとい煩《うるさ》く言い騒がれようとも。
【評】 高市皇子の妃となるべき但馬皇女の、穂積皇子に情を寄せられ、ある程度まで心を通わし合っていられた頃の述懐の歌と取れる。結句の「こちたかりとも」は、事としてはまだ現われない前に、その事を予想されたもので、その予想は、そうした事があろうとも、それを乗り越えようという心を固められるためのものだからである。初二句の序詞は、序詞ではあるが譬(188)喩の意をもったもので、眼前の実景と思われる。目に捉えた「縁る」という語を「かたより」で繰り返し、さらに心中の冀いである「よりなな」によって強めているところ、譬喩というよりも、むしろ抒情そのものという感をもったものである。一首熱意の表現で、形が素樸なため、事の不合理を、沈痛味のあるものにしている、すぐれた御歌である。
 
     穂積皇子に勅して近江の志賀《しが》の山寺《やまでら》に遣しし時、但馬皇女の御作歌《みうた》一首
 
【題意】 「志賀の山寺」は、天智天皇の建立にかかる寺で、志我山《しがやま》の上にあるところから志賀寺と呼んだ。本名は崇福《すうふく》寺といい、古は名高い大寺であった。中世の歌に、志賀山越とあるは、京都方面から叡山を越えてこの寺に詣でることで、一つの行事となっていたからの称である。後、園城寺に遷されてしまった。遺址と伝えられるものが大津市(南滋賀町西方)にある。穂積皇子をこの寺に遣わされたことは、史には見えない。したがっていかなる御用であったかもわからない。
 
115 おくれゐて 恋《こ》ひつつあらずは 追《お》ひ及《し》かむ 道《みち》の隈回《くまみ》に 標《しめ》結《ゆ》へ吾《わ》が背《せ》
    遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
 
【語釈】 ○おくれゐて恋ひつつあらずは 「おくれ」は、親しい人の旅などに行って、後に残っている意をいう古語。「恋ひつつあらずは」は、恋いつづけていずに。(八六)にも出た。○追ひ及かむ 「及く」は及ぶで、「追ひ及く」は、今の追いつくにあたる。○道の隈回に 「隈回」は、一語で、「隈」は、道の曲がり角、「回」は、辺りの意で、曲がり角。道の迷いやすい所としていっている。○標結へ吾が背 「標」は、本来は、人の所有を示すしるしで、場所、物などに対して、立ち入り、触れることを禁ずるために結ぶしめ繩などの称。いわゆる禁忌のしるしである。転じて、目じるしの意にも用いた。ここはそれである。「結へ」は、「標結ふ」と慣用しているところからの語で、今は、しるしをする意である。後世の栞をするにあたる。「結へ」は、命令形である。「吾が背」は、「背」は女より男を呼ぶ称。「吾が」も、親しんで添えた語。呼びかけである。
【釈】 後に残っていて、恋いつづけていずに、後を追って追いつこう。道の曲がり角の迷いやすい所に、迷わぬための目じるしをしたまえよ、わが背よ。
【評】 皇子に贈った歌である。思慕の情の極まった、突き詰めた熱意をあらわしたものであるが、それとともに他面には落着いた心細かいものをもっている歌である。皇女の人柄の現われと思える。全体としてはおおらかなので、おのずから一首に沈痛な響がある。この歌は三句切、名詞止の形になっている。この三句切は、昂奮した感情の自然に取った形である。
 
(189)     但馬皇女、高市皇子の宮に在《いま》しし時、竊《ひそ》かに穂積皇子に接《あ》ひて、事既に形《あらは》れて作りませる御歌一首
 
116 人言《ひとごと》を 繁《しげ》みこちたみ 己《おの》が世《よ》に いまだ渡《わた》らぬ 朝川《あさかは》渡《わた》る
    人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
 
【語釈】 ○人言を 「人言」は、他人の我に対しての物言いであるが、事の性質上、人は宮に仕えていた人々であろう。○繁みこちたみ 「繁み」は、形容詞「繁し」の語幹「繁」に「み」を添えて、動詞のごとくしたもの。繁くして。「こちたみ」も、同様で、こちたくすなわちうるさくして。ほぼ同じ事を繰り返して、その強さをあらわしたもの。繁く、うるさくして。○己が世に 原文、流布本には「己」と「世」との間に「母」があるが、元暦本を初め、類聚古集、西本願寺本などにはない。何らかの誤りで加わったものと見える。「己が世」は、わが生涯で、生まれて以来というにあたる。○いまだ渡らぬ朝川渡る 「朝川」は、夕川に対した語で、朝の川の意。熟語として用いられていた。「渡る」は、徒渉する意。かつてしたことのない朝の川を徒渉するの意。古くは、橋の設備が十分ではなく、したがって徒渉ということは特別なことではなかったが、しかししかるべき道には無論橋があったのである。ここは、それほどではない道で、川にも橋はなかったとみえる。すなわち皇女の御身分としては、平生は通るべくもない路であったと見える。題詞との関係上、高市皇子の宮から、夜明けに脱出されてのことと思われる。
【釈】 人の我に対する物言いを、繁くうるさく思うによって、わが生まれて以来、まだ一度もしたことのない朝の川の徒渉をする。
【評】 この歌につき『考』は、「事あらはれしにつけて朝明に道行給ふよし有て皇女の慣れぬわびしき事にあひたまふをのたまふか」といっている。題詞を合わせてみると、そうした際の歌とみえる。感を発しられたのは、朝川を徒渉される際で、かつて経験のないそうしたわびしい事をなされると、それに刺激されて身世を大観させられ、「己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る」と、大きく、思い入っていわれたのである。しかしそれをなさる理由は、「人言を繁みこちたみ」ということで、全く身外の、周囲の者によってしいられて、余儀なくもさせられることになっている。これは、こうした状態における女性の当然の心理ともいえるが、皇女としては、これを当然ならしめるものがあったかもしれぬ。三句以下、「渡る」を繰り返した、沈痛な響をもった表現は、おのずからそういうことを思わせるものがある。
【評 又】 以上三首の歌は、一つの事件の中にあって、時の推移に従ってその時々の心を詠まれたもので、他意あるものではない。歌が実際生活に即したものであることも当時の風で、これまた他意のないことである。しかし結果からみると、おのずからにして歌物語の趣をもつものとなってきて、意図をもって(190)の連作と同様なものとなっている。これは本集に少なくない連作、歌物語の発生と密接な関係をもつこととして注意される。
 
     舎人皇子《とねりのみこ》の御歌一首
 
【題意】 「舎人皇子」は、天武天皇の第三皇子で、御母は新田部皇女である。日本書紀の撰者である。養老四年知太政官事となられ、天平七年に薨ぜられた。御子の大炊王はすなわち淳仁天皇である。「御歌」は、他の例によると「御作歌」とあるべきである。この歌は、和え歌によると舎人娘子に賜わったものである。皇子の御名は、乳母が舎人氏であったところから称せられたものではないかという。これは他の例によっての推測である。
 
117 大夫《ますらを》や 片恋《かたこひ》せむと 嘆《なげ》けども 醜《しこ》のますらを なほ恋ひにけり
    大夫哉 片戀將爲跡 嘆友 鬼乃益卜雄 尚戀二家里
 
【語釈】 ○大夫や片恋せむと 「大夫」は猛く強き男。ここは、みずからそれをもって任じ、誇つての称。「や」は疑問の係助詞で、反語を起こしているもの。「片恋」は、思う相手に知られず、独りで恋している意。「せむ」は、上の「や」の結びで、大夫たる者が、片恋などすべきであろうか、ないの意。○嘆けども 嘆きをするけれども。○醜のますらを 「醜」は、集中に用例の多い語で「にくむべき」の意で、他に対しては物を罵り、自らに対しては、あるいは自ら卑下し、あるいは自ら嘲っていう語である。ここは自ら嘲る意で、其のますらおではなく、悪むべきますらおの意。○なほ恋ひにけり 「なほ」は、やはり。「恋ひにけり」は、恋ったことであるよの意。
【釈】 大丈夫たる者が、片恋などをすべきであろうか、すべきではないと思って嘆いたけれども、この悪《にく》むべきますらおは、やはり片恋をしたことであるよ。
【評】 歌は恋の訴えである。しかしそれとしてはきわめて余裕をもったものである。男子が丈夫をもって自任し、また丈夫たる者は女々《めめ》しき振舞いをしないものとし、それをするのを恥としたのは、当時の通念で、例の少なくないものである。この歌は、一にその通念の上に立って、それだけをいわれたものである。すなわち我は丈夫で、女々しき心をもつまいと思っているが、それをもたされてしまったと、ただそれだけをいわれたのみで、相手に対しては、直接の訴えは一語もまじえていないものである。これは相手に対して、高く地歩を占め、また親しみをもっていての上の訴えだからである。しかし訴えの気持は、おのずからに滲み出している。実際に即しての歌で、実用性の濃厚なものである。堂々とした、気品ある歌である。
 
(191)     舎人娘子《とねりのをとめ》、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
 
【題意】 「舎人娘子」は、巻一(六一)に出た。
 
118 嘆《なげ》きつつ 大夫《ますらをのこ》の 恋《こ》ふれこそ 吾《わ》が結《ゆ》ふ髪《かみ》の 漬《ひ》ぢてぬれけれ
    嘆管 大夫之 戀礼許曾 吾髪結乃 漬而奴礼計礼
 
【語釈】 ○歎きつつ 「つつ」は、継続の意。贈歌の語を受けたもので、そちらは恋の上ではなく、片恋をすることの嘆きであるのに、これはすなおに、恋の嘆きとしたもの。○大夫の恋ふれこそ 「ますらをのこ」は、ますらおを鄭重にいったもの。巻九(一八〇一)に「古《いにしへ》の益荒丁子《ますらをのこ》の各《あひ》競ひ」とある。「恋ふれこそ」は、後世の「恋ふればこそ」にあたる古格の語で、用例の多いものである。○吾が結ふ髪の 「結ふ髪」は原文「髪結」であり、「もとゆひ」と訓まれていたが、下の続きから見ると、「もとゆひ」ではなく、髪そのものと解される。『全註釈』『注釈』は元暦本の旧訓に従っている。従うべきである。○漬ぢてぬれけれ 「漬づ」は、湿める意。「ぬれ」は集中に例の少なくない語で、ぬるぬるとすべって、解ける意である。これは当時の俗信で、男に思われると、それが女の髪に感応して、髪が湿って、ぬるぬると解けると信じられていたのである。「けれ」は「こそ」の結び。
【釈】 嘆きながら、ますらおのこが我を恋うていればこそ、私の髪は湿りを帯びて、ぬるぬるとすべって解けていたことでございます。
【評】 皇子の歌に対する和え歌である。その歌は片恋をしてこられたことについての現在の嘆きであるが、娘子の歌は、その片恋ということを巧妙に否定し、皇子の恋の心は、それと同時にわが身に感応し、我は以前から、髪が漬じてぬれていたことだというのである。この先方の心がこちらの身に感応していたということは、当時の女性にあっては大きなことで、このことをいっているのは、すなわち皇子の御心を受け入れるということを、婉曲にあらわしているものといえる。語の上に贈歌を受けているものは、「嘆きつつ」だけで、わずかに内容を変えたにとどまり、他は一切、すなおに受け入れており、のみならず贈歌よりもはるかに踏み入った心をいっているのである。相聞の和え歌としては珍しいものである。おそらく身分の懸隔がこうした態度を取らせたもので、実際に即したものと思われる。一首、つつましく用意深いが、さわやかさを失ってはいないものである。
 
     弓削皇子《ゆげのみこ》、紀皇女《きのひめみこ》を思ふ御歌四首
 
(192)【題意】 「弓削皇子」は、上の(一一一)に出た。「紀皇女」は、天武天皇の皇女で、上の(一一四)の穂積皇子と御同腹で、御母は蘇我|大〓娘《おおぬのいらつめ》である。すなわち異母兄弟である。
 
119 吉野河《よしのがは》 逝《ゆ》く瀬《せ》の早《はや》み しましくも よどむことなく ありこせぬかも
    芳野河 逝瀬之早見 須臾毛 不通事無 有巨勢濃香問
 
【語釈】 ○吉野河 山河の急流としていったものであるが、風景の愛《め》でたい所としての意ももたせたもの。○逝く瀬の早み 「逝く瀬」は、流れゆく河瀬。「早み」は、早くして。○しましくも 「しましく」は、御世のしばらくの意の古語。「しまらく」ともいった。○よどむことなく 「よどむ」は、水の流れ行かずに滞ってある意で、現在も用いている。初句よりこれまでは、吉野河の流れの状態をいったものである。しかしそれをいうには、わが恋の上のよどみないことを心に思いつついつているもので、心としては譬喩に近いものである。それを讐喩とまでの差別をせず、双方を一つにした関係においていっているものである。また、吉野河は眼前のものではなく、記憶の中のものである。○ありこせぬかも 「こせ」は、希望の助動詞「こす」の未然形。「ぬか」の「ぬ」は、打消の助動詞。「か」は疑問の助詞で、反語の意をもっている。「ぬか」は、願望をあらわし、巻五(八一六)「梅の花今咲ける如散り過ぎず吾家《わがへ》の苑《その》にありこせぬかも」、巻六(一〇二五)「千年五百歳《ちとせいほとせ》ありこせぬかも」などがある。「も」は、詠歎の助詞。全体では、あってくれぬか、あってくれよの意。
【釈】 吉野河の流れゆく河瀬の、しばらくもよどむことがない、それにゆかりある、わが恋も障ることなくあってくれぬか、あってくれよ。
【評】 求婚の不成功に終わるということはありがちなことで、当事者にとっては第一に思われ、強くも思われることである。この歌は、それのないことを念じていると、その心に繋がって、記憶の中にある吉野河の河瀬の水の澱むことのない状態が、その風景の愛《め》でたさとともに心に浮かんでき、それが現にいだいている不安な気分とは反対ななつかしいものに感じられたのである。それで、現在の気分を心に置いて吉野河の河瀬の状態を初句より四句まで言いつづけ、結句に至って現在の気分を言い添えたのである。この二つの気分を一つにしていうということは純粋な気分でされたことで、そこに知的な思議がはいつていないことがこの歌の特色である。この吉野河は、心としては当然譬喩であるが、譬喩には知的なものが加わるのに、ここにはそれがない。すなわち譬喩より一歩手前のもの、または、譬喩を超えてのものである。さらにまた、初句より三句までを、「よどむ」の序詞とすることも可能で、しいていえば、その趣がないともいえないが、序詞は語の変化を際やかにすることによって初めて興味のあるもので、これは同じく知的なものをまじえなければできないものである。この歌はそれでもない。要するに、この歌は純粋な気分のものである。気分を主として、記憶にある風景を捉えきたって、それによって一つの心象をあら(193)わすということは、後世に喜ばれた法であって、この時代としてはきわめて新しいことである。一方には実用性の素樸な力強さを旨とした歌が行なわれている際に、同時に一方には、あくまでも文芸性のものにしようとする風もすでに萌していたのである。これはこの皇子の歌の風で、続いての歌にも見えているものである。なお、風景を四句まで思うままに言い続け、一首の歌としての統一をももち得ているということは、作歌の修練の結果、一首の形が十分にわがものとなっていたがためである。
 
120 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ひつつあらずは 秋萩《あきはぎ》の 咲きて散《ち》りぬる 花にあらましを
    吾味兒尓 戀乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾
 
【語釈】 ○恋ひつつあらずは (一一五)に出た。○秋萩の 原文「芽」の漢字をはぎにあてたにつき、『講義』は詳しく考証している。わが国で始めた字だろうという。「秋萩」と「秋」を添えていうのは、花を連想させようとしてである。○咲きて散りぬる 咲いて散って行くところので、「散り」に中心を置いての言い方。「散り」は死ということを暗示したものである。○花にあらましを 花のごとくあろうものをで、「まし」は仮定の推量で、上の「あらずは」の帰結。
【釈】 吾妹子に、このように恋いつづけて悩んでいず、できることならわが身は秋萩の、咲いて散って行くところの花であろうものを。
【評】 恋の懊悩より死を連想するということは、一種の常識のようになりきたっていたものである。この歌もその範囲のものである。この歌は、しみじみとした、消極的な気分の流れているものである。その上から見ると、萩は眼前のものではなく、上の歌と同じく、懊悩されている気分の中に思ひ浮かべられたものと思われる。「秋萩の咲きて散りぬる」という語は、語としては慣用されている範囲のものばかりであるが、「秋萩」と、「秋」の添った語を選び、「咲きて散りぬる」と、その脆さを暗示する語を選んで、それによって死を暗示させているのは、一つの気分に浸っていての上のことと思われる。作歌の態度としては、上の歌と同一なものである。
 
121 暮《ゆふ》さらば 塩《しほ》満《み》ち来《き》なむ 住吉《すみのえ》の 浅香《あさか》の浦《うら》に 玉藻《たまも》刈《か》りてな
    暮去者 塩滿來奈武 住吉乃 淺鹿乃浦尓 玉藻苅手名
 
【語釈】 ○暮さらば塩満ち来なむ 「暮さらば」は、夕方と時が移り来たならば。「塩」は、潮。上からの続きで、夕方の満潮。「な」は完了「ぬ」(194)の未然形で強意、「む」は未来の推量。○住吉の浅香の浦に 「住吉」は、今の大阪市の住吉神社のある地。「浅香の浦」は、住吉神社の南方の浦。堺市に現在浅香山町がある。○玉藻刈りてな 「玉藻」の「玉」は、美称。「刈りてな」の「て」は、完了「つ」の未然形。強める意をもったもの。「な」は、我に対しての希望をあらわす助詞。
【釈】 夕方となってきたならば、定まっている潮が満ちてくることであろう。今の中に、住吉の浅香の浦の藻を刈り取りたいものだ。
【評】 この歌は、題詞が添っていなければ、単に行楽の歌と見られうるもので、題詞と合わせてみて、はじめて恋の焦燥を詠んだものとわかる歌である。前二首の歌と同じく、相逢うことにあこがれつつ、その機会の逸しやすいことを嘆いていられた折、住吉の浅香の浦の藻刈りのことを思い浮かべ、それをいうことによって現在の心をあらわしたものである。難波の海は、当時の人の憧れの対象となっていた所で、皇子も知られ、また、そこでの藻刈りの行楽は、よく記憶されていたことと思われる。それの思い浮かべられたのは、現在の心と相通うものがあるからである。それをいうことによって妨げの起こらないうちに相逢おうという心をあらわそうとしたのは、前二首の歌と同じく、気分を主とし、それを、自然をかりて具象しようとしたので、その上ではこの歌は、全部が自然に対する心とされている点で、最も文芸性の多いものである。これは譬喩というよりも、譬喩を超えた暗示的なものといえるものである。
 
122 大船《おほふね》の 泊《は》つるとまりの たゆたひに 物《もの》思《も》ひ痩《や》せぬ 人《ひと》の子《こ》ゆゑに
    大船之 泊流登麻里能 絶多日二 物念痩奴 人能兒故尓
 
【語釈】 ○大船の泊つるとまりの 「大船の」は、大きな船が。「泊つるとまり」は、「泊つる」は、碇泊するで、予定の航程を終えて碇泊する意の動詞。「とまり」は、船着き場。以上、「たゆたひ」にかかる序詞。○たゆたひに 「たゆたひ」は、「たゆたふ」の名詞形。動揺する意。大船は小舟と違って、たやすく岸に着けられず、水上に動揺する意で、それを恋の上で、事が進捗せず、心の動揺をつづけている意に転じている。○物思ひ痩せぬ 「物思ひ」は熟語。嘆きに。「痩せぬ」は、身も衰えて痩せた。○人の子ゆゑに 「人の子」は、「子」は愛称で、愛する人の意。人の子は、人妻の意にも用いる。ここは紀皇女を、客観的にいったもの。「ゆゑに」は、根拠、理由をあらわす語。人のゆえで。
【釈】 大船が碇泊する船着き場で、水上に動揺している、それにゆかりのある心の動揺をつづけて、嘆きに身も衰えて痩せた。愛する人のゆえで。
【評】 片恋の嘆きをつづけてきた成りゆきとして、自身を反省し大観しての強い嘆きの独詠である。嘆きの中心は事の成否の(195)見とおしのつかない動揺の苦しみである。「大船の泊つるとまりのたゆたひに」は、そうした気分の具象化としては、適切な、強力なものである。「大船の泊つるとまりの」は序詞であるが、譬喩的なもので、したがって眼前の景を捉えての実感と思わせるところがある。結句の「人の子ゆゑに」の、愛しつつも客観視しての言い方も、序詞に照応して統一あり調和あるものとなっている。この種の歌としては、響の高い、すぐれた作である。
【評 又】 四首、皇子の皇女を思われて、ある期間、事の成否もわからずにいられた間に、その時々に詠まれたものを、事件が一つ事であるために並べ記してあったものと思われる。すなわち(八五)より(八八)に至る磐姫皇后の御歌の連作であるのとは異なって、心の動揺があるのみで、展開をもったものではない。第一首は、事の滞りなく進まん願い、第二首は、恋の疲れよりの悲哀、第三首は、機会を得ようとしての焦燥、第四首は、恋の疲れの深まってきた結果、恋そのものを反撥しようとする積極的な心の動きで、一貫した心理の推移の認められないものである。その意味でこの四首は、連作の意図があったものではないが、結果から見ると、おのずからその趣をもつようになったものである。
 
     三方沙弥《みかたのさみ》の園臣生羽《そののおみいくは》の女に娶《あ》ひて、未《いま》だ幾時《いくだ》も経ず病に臥して作れる歌三首
 
【題意】 「三方沙弥」は、三方は氏であるが、沙弥は名であるか、または出家としての称であるかわからない。(九五)に禅師という名のあったところから、ありうべきものだからである。出家としての称であろうという。それだと、沙弥は、十戒は受けたが、比丘となるまでの修行は積まないための称だという。伝は不明である。「園臣生羽の女」は、園は氏、臣は姓、生羽は名で、その女である。古の結婚は、その当座は、男が女の家へ通うのが普通であったが、これは結婚後間もなく男は病臥して通えなくなった際の歌である。
 
123 たけばぬれ たかねば長《なが》き 妹《いも》が髪《かみ》 この頃《ごろ》見《み》ぬに 掻きれつらむか 三方沙弥
    多氣婆奴礼 多香根者長寸 妹之髪 比來不見尓 掻入津良武香 三方沙弥
 
【語釈】 ○たけばぬれ 「たけば」は、「たく」は四段活用の動詞で、たぐるというに近い意をもった古語。集中に例が少なくない。ここと同じく垂れている髪を、結うために上げる意にも用い、また、女が機《はた》を織る時、筬《おさ》を使って緯糸《よこいと》を織り込むために、掻上《かか》げる作用をもいい、また馬上で手綱を掻いぐることをも「たく」といっている。『講義』は「たぐる」という語は、「たぎ、くる」の約と考えられると注意している。ここの「たけば」は、生羽の女が、結婚はしたが、まだ少女の時のままに、髪を結わず、後ろに垂らしているが、それが上げて結うだけの長さに達していない状態を対象としていっているもので、髪を上げるの意。「ぬれ」は、(一一八)に出た。ここは、髪が短いために、結うと、ずるずるとずりさが(196)る意。○たかねば長き妹が髪 「たかねば」は、髪を上げずにおけば。「長き」はさすがに長きにすぎる意。「妹が髪」は、感歎をこめていったもの。女の髪は、童女期には四方に垂らして現在のおかっぱのようにしていた。これを目ざしと呼んだ。やや長じると、後ろへ垂らした。これを放髪《はなりがみ》とも童放《うないはなり》とも呼んだ。十四、五歳となり、婚期に達しると、髪を上げて結った。この髪を上げるのが女の成年式である。『講義』は、後世はこれを鬢そぎと称し、女に許婚の男があれば、その男が事にあたり、なければ、父兄などが代ってしたといっている。こうした式は、古風を墨守するものであるから、古もそうした風があり、女が放髪《はなりがみ》のまま結婚したとすると、髪上げをするのは、夫たる男のすることであったとみえる。今もその状態の下で、妹の髪を問題としているものと思われる。○この頃見ぬに この頃じゅう、病臥して見ずにいる間に。○掻きれつらむか 「掻きれ」は『代匠記』の訓で「みだり」を正したものである。束ねた髪の短く垂れるのを櫛で掻き入れる意。「つ」は完了の助動詞。「らむ」は現在を推量する助動詞。「か」は、疑問。○三方沙弥 贈主を明らかにするための注。
【釈】 結おうとして上げれば、ずるずるとほどけ、上げずにおけば、さすがに長きにすぎるところの妹が髪よ、この頃じゅう病臥して見ずにいる間に、きっと伸びて乱れていることであろうか。
【評】 題詞のごとき事情の下にある沙弥には、その妻の放髪《はなりがみ》にしている髪の形が、しきりに気になったのである。これは当時の風習からいうと、当然のことに思える。当時の結婚は、男はもとより女も自由であって、その母にさえ謀らず、自分の意志だけでしたものである。ある期間が過ぎて、はじめて親に打ち明けるというのが風で、これは後世へまでも続いたことである。これは夫たる男より見れば、その妻に対する不安の起こらざるをえないことである。まして妻は親の許にあって、自分とは離れて暮らしているのであるから、この不安はいっそうのはずである。この不安から脱れる第一方法は、女はすでに夫をもっている者だということを、その周囲の者に示すために、髪上げをすることである。男よりいえば髪上げは、妻たる女に対して標《しめ》を結ったのと同様なのである。この髪上げは、第一に夫たる男のする事で、後の歌で見ると、沙弥もすでにそれを試みたのであるが、妻はまだ幼くて、それをするだけに髪が伸びきっていず、したがって十分にはできなかったのである。それだと放髪でいると同様で、不安が起こらざるを得ず、その不安は同時に思慕の情を募らせるものとなるのである。この歌の一に髪のことのみをいっているのはそのためで、「たけばぬれたかねば長き妹が髪」と、委曲を尽くしていっているのは、夫たる自分の手で、髪上げをしてやろうと試みたことも背後に置き、それの十分にできなかった、すなわちわが物との標《しめ》を結いきれなかった不安をこめての語である。「この頃見ぬに掻きれつらむか」は、放髪の状態がふさわしくなくなり、それとともに妙齢な、まだ夫のない女という状態が、人の目にたつ者となったろうかというので、思慕というよりは、それを内にこめた、不安の情の方を主としての語である。病臥の間はどれほどであるか、歌ではわからないが、さして久しい間とは思われない。それを「掻きれつらむか」と力を入れていっている。しばらくの間に髪の毛は著しく伸びるものではないから、この語には誇張がある。この誇張はその不安をいうに必要なものだったのである。一首、気分が集中してい、調べがとおって、微細な事柄を溶か(197)し込み得ているのは、実情の強いものがあるからである。
 
124 人《ひと》皆《みな》は 今《いま》は長《なが》しと たけと言《い》へど 君《きみ》が見《み》し髪《かみ》 乱《みだ》れたりとも 娘子
    人皆者 今波長跡 多計登雖言 君之見師髪 乱有等母 娘子
 
【語釈】 ○人皆は今は長しと 「人皆」は、周囲の人のすべてはで、「は」は、他に対させた意のもの。「今は」は、過去に対させたもの。「長し」は、放と《はなりがみ》としては長すぎる意。「と」は、といってで、いうは、次の句に譲ったもの。○たけと言へど 髪を上げよというけれども。○君が見し髪乱れたりとも 「君が見し髪」は、君が結婚の時見た髪で、放髪。「乱れたりとも」は、それとしては伸びすぎて、乱れていようともで、そのままにしているのを省いている。○娘子 作者としての注で、前の歌の答の意をあらわしたもの。
【釈】 周囲の人はすべて、今は髪が長くなったといって、上げて結えよというけれども、君が結婚の時に見た放髪は、伸びすぎて乱れていようとも、そのままにしておこう。
【評】 娘子の和え歌は、単純と純情そのもので、沙弥の「掻きれつらむか」ということの真意を汲み取ることができず、ただの髪の状態として受け取っているのである。しかし、それによって満腔の純情を披瀝しているのである。「人皆は」は、家族をはじめ周囲の人全部であろうが、それらの人は娘子と沙弥の婚事を知らずにいっているとみえる。その中にいて娘は、「君が見し髪乱れたりとも」と思い入って、それに応ぜずにいるのである。「乱れたりとも」の言いさしも、この場合適切な表現である。一首全体としては、むしろたどたどしさをもっているが、それがかえって内容を生かしている。成女期に入ったばかりの女性が、事細かに叙事をして、それをただちに抒情にする技法をもっていたことは、その時代を思わせられることである。
 
125 橘《たちばな》の 蔭《かげ》履《ふ》む路《みち》の 八衢《やちまた》に 物《もの》をぞ念《おも》ふ 妹《いも》にあはずて 三方沙弥
    橘之 蔭履路乃 八衢尓 物乎曾念 妹尓不相而 三方沙弥
 
【語釈】 ○橘の蔭履む路の 「橘」は、田道間守が垂仁天皇の勅を奉じて、常世の国から将来したという果樹で、常緑の小喬木。「蔭履む路」は、その葉の落している蔭を踏んで歩く路で、藤原の京の大路のさまをいったもの。橘を街路樹として、京の大路に植えることは、この御代よりも古い頃からのことで、勅令によって行なわれたことである。これは暑い時にはその蔭に憩い、渇いた者はその果によって、医させようとする御心よりのことであった。後には僧侶の手によって地方にまでも及んだ。以上、序詞。○八衢に 「八」は、数の多い意。「衢」は、道股《ちまた》で、道の岐《わか》れ(198)ている意。多くの岐れ路の意で、幾筋かの路の交叉している所の称。上からの続きは路の状態で、それを「さまざま」の意の譬喩に転じて下に続けている。「に」は、状態を形容した語で、のごとくの意のもの。八衢のごとく、さまざまに。○物をぞ念ふ 嘆きをすることであるの意。○妹にあはずて 終止形の「ず」からただちに「て」に続けるのは、古語の一つの格であって、あわずしてと意は同じである。妹に逢わなくていてで、病のために違えない意をいったもの。○三方沙弥 作主としての注。
【釈】 橘の木蔭を踏んで歩く路の、その八衢のごとくに、さまざまに嘆きをすることであるよ。妹に逢わずにいて。
【評】 この歌は、娘子に訴えた歌ではなく、沙弥自身の心やりのために詠んだ趣のあるものである。病臥して妻の許へ通えずにいるところから起こる思慕と不安の情を直叙したもので、心としては第一首の、娘子に贈ったものと同じものである。今は贈歌としての新釈なく、思うままに詠んだものと取れる。初句より三句までの清新さも調べの強さも、そこからきているものとみえる。この歌は伝唱されるものとなって、天平十年秋、橘諸兄の家の宴で、人によって歌われたことが、巻六(一〇二七)で知られる。それは、「橘の本《もと》に道|履《ふ》み八衢に物をぞ念ふ人に知らえず」というので、第二句、三句、五句ともかわっているが、これは伝唱の常である。一般性とともに魅力のある歌だったことが知られる。
【評 又】 三首、一つの特殊の状態の下における夫婦生活を、微細にあらわしているもので、歌物語の趣をもったものである。しかし、事としての展開のないもので、それとしては足りないものというべきである。
 
     石川|女郎《いらつめ》、大伴宿禰|田主《たぬし》に贈れる歌一首 【即ち佐保大納言大伴卿の第二子なり。母を巨勢朝臣と曰ふ。】
 
【題意】 「石川女郎」は(一〇七)以後しばしば出た。「大伴宿禰田主」については、題詞の下に注があって「即佐保大納言大伴卿之第二子。母曰2巨勢朝臣1也」とある。大納言大伴卿は、(一〇一)に出た安麿である。したがって母巨勢朝臣は、(一〇二)巨勢郎女であり、安麿の妻となったことと取れる。田主の事は史上には見えない。
 
126 遊士《みやぴを》と 吾《われ》は聞《き》けるを 屋戸《やど》貸《か》さず 吾《われ》を還《かへ》せり おその風流士《みやびを》
    遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曾能風流士
 
【語釈】 ○遊士と 「遊士」を「みやびを」と訓んだのは、本居宣長である。下には「風流士」の字もあてている。これにつき『講義』は、巻六(一〇一六)「海原の遠き渡《わたり》を遊士の遊ぶを見むとなづさひぞ来し」に、同じく「遊士」とあり、その左注に、「右の一首は、白紙に書きて星の壁に懸け著けたり。題して曰はく、蓬莱の仙媛の化《な》れる嚢蘰《ふくろかづら》は、風流秀才の士の為なり。これ凡客の望み見る所にあらざらむか」とある。この(199)「遊士」は注の「風流秀才の士」であり、したがって「風流士」も、同じく風流秀才の士を略したものだろうといっている。「遊士」は、宮びた人すなわち大宮人の趣をもった人の意であるが、ここでは転じて、教養よりくる物わかりの好さと、情《なさけ》に対して敏感な人という意になっているのである。○吾は聞けるを 吾は聞いているものをで、それなのにの余意のある語。○屋戸貸さず吾を遠せり 「屋戸」は、ここは宿の意のもの。宿を貸して寝させようとせず吾を還したで、この事は左注に詳しい。○おその風流士 心鈍き風流士よの意。
【釈】 君はみやびおだとわれは聞いていたものを、それなのに宿を貸して寝させずにわれを還した。まことは心鈍いみやびおであるよ。
【評】 事情に即しての歌で、事情を離しては解し難いほどの歌である。心は、女郎の方から田主に挑んだのを、素気なく扱われたそのいまいましさから、田主を嘲った歌である。歌としてはいうほどのものではなく、しいていえば、こうした極度の私事《わたくしごと》を根にしての嘲りを歌にしたものは、珍しいという程度のものである。撰者がここに収めたのは、その背後にある事柄の興味に引かれてのことと思われる。すなわち歌物語としての興味である。みやびおという語は、漢語の風流秀才之士をあててはいるが、いったがように、物わかりの好く、情《なさけ》に敏感な意のものであったことは、田主の情《なさけ》に敏感でなかったのを見て女郎が「おその風流士」と嘲っているのでも明らかである。一方には「大夫《ますらを》」を讃えつつ、同時に他方には、こうした意味の「みやびを」をも讃えていたことがわかる。この「みやびを」は、後の平安朝時代には理想的の人物とされたのであるが、その傾向はすでにこの時代に萌していたものであることが知られる。
 
     大伴田主、字を仲郎と曰へり。容姿佳艶にして、風流秀絶なり。見る人聞く者歎息せざることなし。時に石川女郎というものあり。自《みづか》ら雙栖《さうせい》の感を成し、恒に独守の難きを悲しむ。意に書を寄せむと欲して未だ良信に逢はず。爰に方便を作《な》して、賤しき嫗に似せて、己《おのれ》堝子《なべ》を提げて寝側に到り、哽音※[足+滴の旁]足して戸を叩きて諮《い》ひて曰はく、東隣の貧女火を取らむとして来れりといふ。ここに仲郎暗き裏《うち》に冒隠の形を識らず。慮の外に拘接の計に堪へず。念《おもひ》の任《まま》に火を取り、跡に就き帰り去りぬ。明けて後、女郎既に自媒の愧づべきを恥ぢ、復《また》心契の果さざるを恨む。因りて斯の歌を作り、以て贈り謔戯《たはぶれ》としき。
      大伴田主、字曰2仲郎1。容姿佳艶、風流秀絶。見人聞者靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1。自成2雙栖之感1、恒悲2獨守之難1。意欲v寄v書未v逢2良信1。爰作2方便1而似2賤嫗1己提2堝子1而(200)到2寝側1、※[口+更]音※[足+滴の旁]足叩v戸諮曰、東隣貧女將v取v火來矣。於v是仲郎暗裏非v識2冒隱之形1。慮外不v堪2拘接之計1。任v念取v火、就v跡歸去也。明後、女郎既恥2自媒之可1v愧、復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1以贈2謔戯1焉。
 
【釈】 「字」は、実名のほかにもっている名。「仲郎」は二郎の意で、旅人《たびと》の弟。「秀絶」は、類を絶って秀でている意。「雙栖」は共に栖むで、夫婦生活。「独守」は、女性の独身生活。「良信」は、適当な使。「賤しき嫗に似せ」は、下賤の老女の様を装い。「堝子を提げ」は、「堝」は、土鍋《どなべ》、「子」は、中国で名詞の下に添えて用いる字。堝子は、火を容れるための器。「※[口+更]音」は、声の咽《むせ》ぶ意で、老女の物言い。「※[足+滴の旁]足」は、足の進まない意で、同じく老女の歩みぶり。「諮ひ」は、謀《はか》りて。「火を取らむとして来れり」は、火種を貰おうとして来たで、これは当時普通に行なわれていたこと。「冒隠の形を識らず」は、「冒」は覆うで、覆い隠している形、すなわち老女を装っている姿を、よくは認めず。「慮の外に」は、思いも寄らぬ事なので。「拘接の計に堪へず」は、同寝しようとするたくらみを空しくしたの意。「跡に就き」は、入って来た所をとおって、帰って行った。「明けて後」は、翌朝。「自媒」は、媒《なかだち》のない情事。「心契」は、心に予期したこと。「謔戯」は、戯れる意。
 
     大伴宿禰田主、報《こた》へ贈れる歌一首
 
127 遊士《みやびを》に 吾《われ》はありけり 屋戸《やど》貸《か》さず 還《かへ》しし吾《われ》ぞ 風流士《みやびを》にはある
    遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曾 風流士者有
 
【語釈】 ○屋戸貸さず 泊めて共寝をせず。
【釈】 遊士でわれはあったことであるよ。宿を貸さずに還したわれこそは、まことの風流士であることだ。
【評】 女郎の「おその風流士」と嘲ったのに対して、「吾ぞ風流士にはある」と嘲り返したのである。女郎の嘲るのは、いったがように、風流士の資格として情《なさけ》に敏感であるべきを、その反対であったと嘲るのであるが、田主の嘲り返すのは、同じく風流士の資格としての礼儀正しさという一面を強調し、女郎のような恥ずべき振舞いをする者は、それと知っても、わざと知らぬさまを装ったのだということを言外にもたせていっているのである。これはもとより実際とは異なっているが、わざとそういったところに嘲りの心があるのである。
 
(201)     同じ石川女郎、更に大伴田主中郡に贈れる歌一首
 
128 吾《わ》が聞《き》きし 耳《みみ》によく似《に》る 葦《あし》の若末《うれ》の 足《あし》痛《ひ》く吾《わ》が背 勤《つと》めたぶべし
    吾聞之 耳尓好似 葦若末乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
 
【語釈】 ○耳によく似る 「耳」は、聞きということをあらわす古語。「似る」は、ごときで、「吾が背」に続く。噂のごとく。○葦の若末の 「若未」は、植物の生きて伸びてゆく先端をさす名詞。ここでは、次の「足」へ、畳音の関係でかかる枕詞。○足痛く吾が背 「足痛」は、訓がいろいろある。『講義』はその中の「足|痛《ひ》く」を取り、これは左注の田主の「足疾」をいったもので、訓についての類例として、券四(六七〇)「月読の光に来ませ足疾《あしひき》の山を隔てて遠からなくに」、巻七(一二六二)「岸病《あしひき》の山椿さく八岑《やつを》越え」を引いている。これに従う。「吾が背」は呼びかけ。○勤めたぶべし 「勤め」は、自愛の意。「たぶ」は、「賜ふ」の古語で、先方を主にしての敬語。自愛したまうべきであるの意。
【釈】 わが前から噂に聞いていたごとく、足を引いて歩く君よ、自愛したまうべきである。
【評】 田主の報《こた》えての嘲り返しに対し、女郎はそれに相当したことをいわなくてはならないこととして、局面を転じて、表面は好意のありそうに見えて、実は嘲り返しを含んだ歌をもってしたのである。「葦の若未の」という枕詞は工夫してのもので、この際のものとしては心の利いたものといえる。
【評 又】 以上の三首は、いったがように歌物語としての興味を主としたものである。歌としては三首とも優れたものではなく、背後の事件の方は、精細なる注を要するほどの特殊なものであることによって、そのことは明らかである。なおこの歌物語の興味の大半は、前よりの関係から見ると、石川女郎が主となっているところにあったと見える。また、ここにある歌はすべて善意をもってのものではなく、反対にある程度の悪意をもったものである。作歌態度として、生活の実際に即するとすると、そこにはおのずから悪意のものもありうるわけである。しかし本集の歌を見ると、悪意をもってのものはきわめて稀れで、例外と称する程度にすぎない。これは歌というものはそのようにあるべきものとして、歌の性格とさえしていたことと思われる。例外となる悪意のものは、上代の歌垣の贈答の中に見える。それはいわゆる言葉争いで、歌をもって相手をいい負かそうとする刺激に駆られてのものである。その言葉争いは、善意をもってする相聞の贈答の中に伝わっていて、型のごとくにさえなっている。ここの三首は、その言葉争いが、たまたま悪意を含んでいるということが特色となっている。もっとも悪意とはいっても淡泊な、諧謔といえば言いうる程度のものである。『全註釈』はこれを虚構の作品とし、作者は田主の兄旅人ではないかといっている。興味は注を主としたもので、歌はそれに付随した趣があり、また歌も同一人の手に成った趣をもっているからである。うなずける新見である。
 
(202)     右は仲郎の足疾によりて、この歌を贈りて問ひ訊《とぶら》へるなり。
      右、依2中郎足疾1、贈2此歌1問訊也。
 
     大津皇子の宮の侍《まかたち》石川女郎、大伴宿禰|宿奈麿《すくなまろ》に贈れる歌一首 【女郎、字を山田郎女といふ、宿奈麿宿禰は、大納言兼大将軍卿の第三子なり】
 
【題意】 「侍」は、侍婢従女をあらわす古語である。石川女郎には、元暦本以下多くの本には注があって、「女郎字曰2山田郎女1也」とある。それだと、(一一〇)の石川女郎の、「女郎字曰2大名児1也」とは別人である。大伴宿禰宿奈麿は同じく元暦本などには注があって、「宿奈暦宿祢者、大納言兼大将軍卿之第三子也」とある。大納言兼大将軍卿は、大伴安麿である。その第三子だと、上の田主の弟である。続日本紀によると、和銅元年従六位下から従五位下に叙せられ、左衛士督、安芸周防二国の按察使を歴任し、神亀元年従四位下を授けられている。没年は知れない。
 
129 古《ふ》りにし 嫗《おみな》にしてや かくばかり 恋《こひ》に沈《しづ》まむ 手童《たわらは》の如《ごと》【一に云ふ、恋をだに忍びかねてむたわらはの如】
    古之 嫗尓爲而也 如此許 戀尓將沈 如手童兒【一云、戀乎太尓忍金手武多和良波乃如】
 
【語釈】 ○古りにし嫗にしてや 「古りにし」は、年寄ってしまったの意。「嫗」は、老女の称。「にして」は、にあって。「や」は、疑問の助詞。係となって、反語を成すもの。○恋に沈まむ 「沈まむ」は、捉われ尽くす意を具象的にいったもの。現在の溺れるというにあたる。○手童の如 「手童」は「手」は、「た」で、接頭語。童と同じ。○一に云ふ、恋をだに忍びかねてむ 恋だけでもこらえ難くすることであろうかの意。
【釈】 年寄った老女であって、このように恋に溺れるべきであろうか、あるまじきことだ。ただ泣くだけの童のように。一にいうは、恋だけでもこらえ難くすることだろうか。
【評】 女郎の方から宿奈麿に言い寄った歌である。歌の性質としては訴えであるが、この歌は、我とわが恋情を訝り咎めて独語しているごとき趣をもったもので、訴えの方は間接にしたものである。「古りにし」という語が、その意味を最もよくあらわしている。古りにしといってはいるが、実はそれほど年をしていたのではなく、誇張した語と取れる。女の方から言い寄るという、不自然なことをしている状態から、そういわずにはいられなかったであろうが、一つには、早婚であった当時の習慣がいわせているところもあろう。しかしそれらよりも力強いものは、女郎と宿奈麿との身分の隔りで、それを意識し、自省している態度を取ることが、訴えんとするこの場合、第一に必要なものと思われる。「かくばかり」は、具象性の強い語で、こ(203)れによってそれ以下を生動させている。一首、痛切な情を抒《の》べたものであるが、用意をもったもので、力量のある作である。
 
     長皇子《ながのみこ》、皇弟《いろとのみこ》に与ふる御歌一首
 
【題意】 「長皇子」は、巻一(六〇)に出た。「皇弟」はどなたであるか明らかでない。この語は本来天皇の御弟をあらわす語で、また「弟」という語は男女を通じて用いていたからである。もし皇子の御弟の意で用いてあるとすれば、日本書紀天武紀に、「妃大江皇女、生2長皇子与2弓削皇子1」とあるので、同母弟弓削皇子が最も近いことになる。
 
130 丹生《にふ》の河《かは》 瀬《せ》は渡《わた》らずて ゆくゆくと 恋痛《こひた》き吾弟《わおと》 こち通《かよ》ひ来《こ》ね
    丹生乃河 瀬者不渡而 由久遊久登 戀痛吾弟 乞通來祢
 
【語釈】 ○丹生の河 吉野川の支流。吉野郡黒滝村赤滝から発し、霊安寺村(五条市)で吉野川に合する。この川の川上に、官幣大社丹生川上神社下社があり、また吉野川への合流地点に近く、宇智野もある。古来皇室に縁故深い地である。○瀬は渡らずて 「渡らずて」は、「ず」よりただちに「て」に続けたもので、その中間の「あり」または「し」を略したもの。用例の少なくないもの。「渡る」は、河に橋がないので徒渉をする意で、それをせずして。渡り難い事情があってのことと思われる。○ゆくゆくと 「ゆくゆく」は、思う心が遂げられずに、猶予《たゆた》っている意。巻十九(四二二〇)「大船のゆくらゆくらに、面影にもとな見えつつ、かく恋ひば」の「ゆくらゆくら」と同意。この例は少なくない。○恋痛き吾弟 「恋痛き」は、「恋ひ痛き」の約で、甚しく恋しい意。「吾弟」は、呼びかけ。○こち通ひ来ね 「こち」は、「此方《こち》」にもあて、また発語の「いで」にもあてている。ここは「此方《こち》」の意と取れる。此方は、長皇子の邸のある方。「通ひ来ね」は、「来《こ》」の命令形に、希望の助詞「ね」を添えたもの。
【釈】 丹生の河の、瀬の徒渉をわれはせずして、こころ動揺して、甚しく恋うているわが弟よ。こちらの方へ通って来て下さい。
【評】 豊かな、落着いた趣をもった御歌である。この趣は、丹生の河に緊密に関係を付け、したがって客観的に扱っているところから生まれてきているものである。長皇子には、当時河を徒渉することのできない事情があられたのかもしれぬが、それがないにしても、年長者としていわれているのであるから、当然のこととも見られる。とにかく、双方が等しく見ている、そして大きくはない丹生の河を、このように客観的に扱われるのは、歌を日常生活の具としていたところから、自然に馴致された風であろうと思われる。それがまた、当時の歌風ともなっていたのである。時を隔てた後世から見ると、その態度が文芸的に見えるものとなったのである。この御歌の趣はそこにある。
 
(204)     柿本朝臣人麿、石見国《いはみのくに》より妻に別れて上り来し時の歌二首 并に短歌
 
【題意】 柿本朝臣人麿のことは、巻一(二九)に出た。人麿が晩年石見国に在ったことは、この歌によって知られ、また(二二三)によって、石見国で死んだことも知られる。在住は、国司の一人としてであろうと推測され、また官は、守、介などよりも低く、掾、目、史生の程度であったろうとも推測されている。任地で妻のあったことはこの歌によって知られる。その妻は、この歌に続いての歌を作っている依羅娘子《よさみのおとめ》であったろうといわれる。それだと後妻で、石見で娶った人と思われる。娘子の住居は、国府から一里余り隔つた角の里であった。「上る」は、京に上るのであるが、妻を置いてのことであるから、公用を帯びて国庁より遣わされたものと取れる。また、その季節は、これにつぐ長歌によって、黄葉の盛んに散る時であったことが知られる。それこれより見て、この使は、国庁より朝廷に対して一年四度の使を出すその一つの朝集使《ちようしゆうし》ではないかとされている。これは諸国の介、掾、目などの一人が、朝集帳を持って京に上り、遠国は十一月一日を期として、弁官、式部省、兵部省について、その国の行政全般の事を申す使である。なお延喜式によると、石見国より調を貢する行程は、上り二十九日、下り十五日であるので、日取りの上からもほぼそれにあたるからである。
 
131 石見《いはみ》の海《うみ》 角《つの》の浦廻《うらみ》を 浦《うら》なしと 人《ひと》こそ見《み》らめ 潟《かた》なしと【一に云ふ、礒なしと】 人《ひと》こそ見《み》らめ よしゑやし 浦《うら》はなくとも よしゑやし 潟は【一に云ふ、礒は】なくとも 鯨魚《いさな》取《と》り 海辺《うみべ》を指《さ》して 和多豆《わたづ》の 荒磯《ありそ》の上《うへ》に か青《あを》なる 玉藻《たまも》沖つ藻《も》 朝羽振《あさは ふ》る 風《かぜ》こそ寄らめ 夕羽振《ゆふはふ》る 浪《なみ》こそ来寄《きよ》れ 浪《なみ》の共《むた》 か寄りかく寄る 玉藻《たまも》なす 依《よ》り寝し妹《いも》を【一に云ふ、はしきよし妹がたもとを】 露霜《つゆしも》の 置《お》きてし来《く》れば この道《みち》の 八十隈《やそくま》毎《ごと》に 万《よろづ》たび 顧《かへり》みすれど いや遠《とほ》に 里《さと》は放《さか》りぬ いや高《たか》に 山《やま》も越《こ》え来《き》ぬ 夏草《なつくさ》の 念《おも》ひしなえて 偲《しの》ふらむ 妹《いも》が門《かど》 見《み》む 靡《なび》けこの山《やま》
    石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等【一云、礒無登】 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縱畫屋師 滷者【一云、礒者】無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社來縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎【一云、波之伎余思妹之手本乎】 露霜乃 置而(205)之來者 此道乃 八十隈毎 万段 顧爲騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越來奴 夏草之 念思奈要而 志怒布良武 妹之門將見 靡此山
 
【語釈】 ○石見の海角の浦廻を 「石見の海」は、緊張をもっていおうとするところから、客観的に大きく捉えたもの。「角」は和名抄に「石見国那賀郡都農【都乃】」とある地で、今は都野津町(江津市)。「浦廻」は、「浦」は、入江、「廻」は、辺。で、浦の辺りの意で、その辺一帯をさしたもの。ここは石見国の国府(今、浜田の東に、下府《しもかふ》、国分などいう地のある辺りかという)から、東方四、五里の所である。ここは人麿の妻の家のある地。○浦なしと人こそ見らめ 「浦なしと」は、浦がないといつてで、浦は風景のおもしろい所としていったもの。日本海の海岸には、事実浦が少ない。「人こそ見らめ」は、他人は見ることであろう。○潟なしと人こそ見らめ 「潟」につき『講義』は、普通干潟の意であるが、日本海岸では異なっていて、現在、砂洲によって海と界している一種の鹹湖の称として用いている。古くも同じであったろうといっている。この潟も、この浦と同じく、風景のおもしろい所としていっているもの。○一に云ふ、礒なしと 「礒」は、岩石の多い海岸。風景としては潟の方が妥当である。潟を親しく感じない人の謡い替えたものと取れる。○よしゑやし浦はなくとも 「よしゑやし」は、「よし」は、そのままに任す意で、よしやというにあたる。「ゑやし」は詠歎の助詞で、「よしゑ」とだけの用例もある。「浦はなくとも」は、おもしろい風景の浦はなかろうとも。○よしゑやし潟はなくとも 上と同じ。○一に云ふ、礒は 「礒」については、前と同じ。以上四句の対句は、我には浦、潟にまさる物があるという意を、余意としたもの。○鯨魚取り海辺を指して 「鯨魚取り」は、「鯨」は鯨、「魚」は魚の古語。「取り」は獲《と》りで、意味で海にかかる枕詞。「海辺を指して」は、海辺を目指しての意。○和多豆の 「和多豆」は、今、渡津(江津市)と呼び、江川《ごうのかわ》を越した所にある。渡津は、船で渡る港の意で、河口に因《ちな》んでのものと思われる。ここは都野津よりもさらに東にあたっている。すなわち道は、海寄りを東へ東へと向かって行くのである。(一三八)の歌により、ここを「ニキタヅ」と訓む説もある。○荒礒の上に 「荒礒」は、荒ら磯の約。「礒」は岩石の意で、海岸に現われている大きな岩群をいったもの。「上に」は、「野の上」などのそれと同じく意味の軽いもの。下の藻の所在。○か青なる玉藻沖つ藻 「か青」の「か」は、接頭語。「玉藻」の「玉」は、美称。この「玉藻」は、荒礒の上に生えている物。次の長歌の、「荒礒には玉藻ぞ生ふる」とあるにあたる物。「沖つ藻」は、沖の藻で、同じく次の長歌の「いくりにぞ深海松《ふかみる》生ふる」にあたる物で、文字どおり沖の物である。「玉藻沖つ藻」と重ねているのは、その多いことをあらわしたので、「か青なる」は、この双方にかかっていて、荒礒の一面に真青な感をいったもの。「沖つ藻」の下に、感歎の語がある意のもの。○朝羽振る風こそ寄らめ 「朝」は、次の「夕」に対させたもので、終日すなわち絶えずという意を、具象的にいおうとしたもの。朝川、夕川というと同じ類のもの。「羽振る」は、鳥の羽を振る、すなわち羽ばたきをする意の語で、羽ぶくともいう。海上の風や浪が、岸の方へ寄せようとして、音を立てて来るのを譬喩的にいったもの。「寄らめ」は、『考』『講義』の訓で、風その物が寄せて来ようの意である。○夕羽振る浪こそ来寄れ 夕べに鳥の羽ばたきのごとき音を立てて浪が寄せて来るの意で、これも上と同じく、浪その物が寄せて来る意である。「和多豆の荒礒」以下ここまでは、起首「浦なしと」「潟なしと」の他人の思わくに対し、「よしゑやし浦はなくとも」「潟はなくとも」と、対句を続けて力強く反撥した、その実証としていっているものであって、人麿の心としては、「浦」「潟」はないが、和多豆の海岸は、「か青なる玉藻沖つ藻」と「朝羽振る風」と「夕羽振る浪」との絶えざるものがあって、それにも勝る風景であるといって、徹底的に風景として叙しているものであ(206)る。この風景に刺激されて、妹思う感を発し、次いで「浪の共か寄りかく寄る」と、風景と妻とを一つにして言っているのである。「風こそ寄せめ」と訓むと、景によって感を発するというこの歌の特色である道行きの心が失われて、静的なものとなって来る。作意との関係から、「寄らめ」の訓は、この歌にとっては重大なものである。○浪の共か寄りかく寄る 「浪の共」は、浪と共にの意。用例の多い古語。「か寄りかく寄る」は、「か」「かく」は相対した語で、あちらに寄りこちらに寄るで、浪のままに靡く意。「寄る」は連体形で、下の「玉藻」に続く。○玉藻なす依り寝し妹を 「玉藻なす」は、玉藻のごとくで、柔らかな状態を捉えての譬喩。「依り寝し妹」は、寄り添って共寝をした妹。○一に云ふ、はしきよし妹がたもとを 「はしきよし」は、愛《は》しき、すなわち愛すべきに、感歎の助詞「よ」と「し」の一語となったものを添えた語。「たもと」は、手元で、腕で、手枕の意でいったもの。この二句は、上よりの続きが不明である。本行に従うべきである。○露霜の置きてし来れば 「露霜の」は、露と霜との意で、いずれも置く物であるところから、置くと続けて、その枕詞としたもの。「置き」は、残して置く意で、同音異義で転じたもの。「し」は、強め。○この道の八十隈毎に 「この道」は、人麿の今歩みつついる道で、山道。すなわち国府より都農、和多豆と経て、今は山にかかっている道。「八十隈」は、多くの曲がり目で、道を曲がると、後ろが見えなくなる意でいっていたもの。○万たび顧みすれど 「万たび」は、限りなく何度も。「顧みすれど」は、顧みれどを強めていったもの。妻の恋しさに振り返って見たがの意。○いや遠に里は放りぬ 「いや遠に」は、ますます遠くに。「里は放りぬ」は、妻の家のある角の里は離れたの意。「放る」は遠ざかるの基をなしている語。○いや高に山も越え来ぬ 「いや高に」は、ますます高くで、下の「山」の状態。道は、海寄りより山道へ移って来て、その山道は次第に高くなってゆくことをあらわしたもの。「山も越え来ぬ」は、山もまた越えて来たで、妻より遠ざかることを旨としていったもの。○夏草の 夏草は烈しい日光に照らされて、萎《しな》えるのを特色として、下の「しなえ」へ意味でかかる枕詞。○念ひしなえて 「念ひ」は、嘆き。「しなえ」は、思いに弱る状態。○偲ふらむ 我を恋い思うらむで、これは連体格で、下の「妹」に続く。○妹が門見む 妻が住んでいる家の門を目に見よう。○靡けこの山 「靡け」は、命令形で、靡けよ。「この山」は、眼前に眼を遮って高く立っている山に、低く、横になって、わが視界を展かせよの意で呼びかけた形。
【釈】 石見の海の角の浦の辺りを、風景のおもしろい浦がないと思って、他人は見ていよう。風景のおもしろい潟がないと思って、他人は見ていよう。よしやそうした浦はなくても、よしやそうした潟はなくても、沖より海べを指して、この和多豆の荒礒に生えている、真青な玉藻、沖の藻の美しさよ、それに朝は音立てて風が寄って来よう、夕は音立てて浪が寄って来ることである。その浪と一緒になって、あちらへ寄りこちらへ寄っている玉藻のように、我に寄り添って共寝をした妻を、あとに残して置いて来たので、わが行く山道の、そこに限りなくある曲がり角ごとに、限りなく何度となく振り返って見るけれども、妻の住む角の里はますます遠ざかって来た、山もまたますます高い方へと越えて来た。夏草のように我を思ってしおれているだろう妻の、その家の門を見よう、靡き片寄って我に見せしめよ、この眼の前の山よ。
【評】 この歌はいったがように、公用を帯びて京へ上るしばらくの期間を、その妻との別れを惜しむ情を抒べたものである。その期間は、延喜式にある調《みつぎ》を貢する日程でさえも、上り二十九日、下り十五日というのである。人麿の旅はおそらく、その下りの日程ほどをも要さないものであったろうから、短い期間のことであったろう。その期間の別れを惜しむ情を抒べるため(207)に、長歌二首、そのおのおのに二首の反歌の添ったという大連作をしているのである。人麿は連作を好んだ人であるが、これほどまでに際やかな連作を試みているのは、巻一(三六)より(四八)にわたる吉野宮行幸の際に献った賀歌以外にはないので、この歌は人麿にとっても力作というべきである。それほどのことにこれだけの力作を試みたということは、常識的に見て異常なことであって、人麿独自の内部生活に深い根ざしをもってのことで、そこから必然的に発したものと思わざるを得ない。その内部生活とは何かというと、人麿は現実生活に対してきわめて強い執着をもっていたが、その執着の中心を夫婦生活に置いていた。これは人間の一般性であって、ひとり人麿に限ったことではないが、彼の執着は特に強いものであって、執着の半面として必ずそれに伴うところの、それの遂げ難い悲哀を満喫したところの人で、そこに人麿の特色があるのである。これをその歌で見ると、人麿には夫婦関係の喜びを詠んだ歌といっては全くなく、あればすべてその満たされざる悲しみである。言いかえれば憧れを通しての悲しみである。その委細はしばらくおき、今この連作についてみても、彼はしばらくを妻と離れていなければならないということになると、そのいささかの不如意を通して、ただちに夫婦関係の全幅を思い返させられてき、その妻の価値をもかつて感じなかったまでに痛感してき、同時に永久に再びは逢えない別れででもあるかのごとき悲哀を感じるとともに強い憧れをも抱いてきている。これはおそらくは人麿に限ったことであって、その間の消息をこれらの歌はつぶさに語っているのである。
 この長歌は、二首の連作のその第一首であるが、二首は一貫した手法の下に詠まれている。手法というのはいわゆる道行き体である。道行き体の歌は上代の歌謡に少なくないものであるが、ことに民謡集である巻十三には多いもので、夫の妻問いを道行き体をもって詠んだものは、この当時の庶民にはきわめて愛好されたと思われる。この二首はその体に倣ったもので、国庁より京への使として国府を発し、角《つの》、和多豆《わたず》と海べ寄りの道を経て、高角山《たかつのやま》渡《わたり》の山、屋上《やかみ》の山と山道に移って、京の方へと向かって行く道行きである。この体は、行く行く景によって情を発し、景と情とを渾融させつつ、変化と統一とをもたせることを型としているものであるが、これらの歌もそれに倣ったも(208)ので、景は海と山、情は別れきたった恋を悲しむものである。この第一首は、海の景と、それが刺激となって思慕されてくる妻と、山の景と、山によって遮られて妻の里が見えなくなり、見えないのが刺激となって思慕が最高潮に高められ、言い難い悲哀となってくるのをもって打ち切ったものである。景としては山と海との対照、情としては思慕よりその高まりの哀情に至るのが、この第一首の大体である。
 表現の上から見ると、一首、小さな切れ目はあるが、心としては一と続きとなっていて、一句一文と異ならないものである。また、海と山とを対照的に扱っているところから、心としてはおのずから二段となっている。第一段は起首より、妻の住む角の里の海岸の美景を叙した「夕羽振る浪こそ来寄れ」までである。一に海の景である。一段二節になっており、前節は「よしゑやし潟はなくとも」までで、単調な、何の慰めもないことをいい、後節は、「鯨魚取り海辺を指して」以下で、和多豆の荒磯の玉藻沖つ藻の、風浪にゆらぐ美観があり、自身はそれによって独り慰められていることをいっているのである。この一段は、人には荒涼たる僻地の石見にも、我には妻があって慰められているという余意をあらわすとともに、さらに自体としては、第二段の序詞としたもので、玉藻は妻の譬喩となっている。その点、古歌謡の構成、また短歌の序詞と同様である。なお、第一段での「角」の捉え方は甚だ巧妙である。「石見の海角の浦廻を」と卒然と歌い出しているが、しかもそれは「浦なし」「潟なし」という平凡な景としてである。しかし事は妻の住地で、そこから発足したごとくである。すなわちこの歌としては重大な場所である。しかるに直接には妻に触れていわず、前進して和多豆に到り、浪に揺らぐ玉藻を見て連想し回想する、その直前において第一段を打ち切っているのである。これは道行き風の、情によって情を起こす型に従ってのもので、その起状はじつに巧妙である。
 第一段から第二段への移りも微妙である。第一段は叙景でとどめ、第二段はその叙景を承けて妻の譬喩として、「玉藻なす依り寝し妹を、露霜の置きてし来れば」と、全篇を貫く思慕の情の第一声を、思い出の形においてここでいい、上の角と隠約ではあるが緊密に照応させるところから、角が妻の里であるということは明らかにしているのである。
 なおついでにいへば、人麿は国司の一人として国府に住んでいなければならないのに、角はその国府からは四、五里も離れているので、妻の里としては遠きにすぎるという感が起きる。しかし上代にあってはこれは珍しくなかったことで、巻十三には、大和に住む男が近江の妻の家へ楽しんで通っている歌があり、なおその類のものが限りなくある上からも察しられる。またこれにつぐ(一四〇)の人麿の妻の歌により、人麿は発足前妻と逢っていることがわかるのである。
 第二段は、「浪の共か寄りかく寄る」以下結末までで、山を取材とした部分である。こちらは道行き体とはいえ、風景に触れるところはほとんどなく、惜別の情のみを主として一本調子に進め、最後に「靡けこの山」の高潮に至らせているものである。これは第一段との対照において、心理的に見ても自然なことであり、また技巧的に見ても変化あらしめていることで、これまた妥当を思わしめるものである。量としては全体の三分の一で、やや少なきにすぎる感があるが、これにつぐ反歌こそは、山の(209)風景の多いものであるから、それを連続せしめると、優に均衡を保ち得ているものとなる。
 なお細部的にいぅと、結末の五句が注意される。「夏草の念ひしなえて偲ふらむ妹が門見む靡けこの山」は独立した短歌に近いものである。反歌は長歌を要約しての繰り返しだということは、定説となっている。しかるに長歌の中心は普通結末にある。長歌を要約するということは、おのずから結末の繰り返しとなるのである。この結末は、それ自体が独立の短歌となりうるものなので、反歌の性質を知る上には、格好なる参考となるものである。また、「靡けこの山」という句は、その異常にして同時に心理的自然をもっている点で、人麿の歌にあっても名句のごとくいわれているものである。しかるにこの句に似たものが、しばしばいった巻十三(三二四二)にある。それは、「靡けと人は踏めども、かく依れと人は衝けども、心なき山の奥礒山《おきそやま》三野《みの》の山」というので、この歌はこの当時流行していたと思われるものである。伝統を重んじた人麿のこの結句が、その歌の影響を受けていないとは言い難いことで、また受けても怪しむに足りないことである。
 全篇を総括して、技巧の上から見れば、最も注意される一つの事がある。それは詠み方の際立って立体的だということである。本来道行き体は平面的になるべきものである。この体は、景によって情を発し、それを連続させることによって事の進行をあらわしてゆくものだからで、魅力もそこにかかっているのである。しかるにこの歌には平面的に事を叙そうとする心が少なく、最も肝腎なその妻との別れにさえも、いったがごとくきわめて隠約な間に、余情としてあらわす態度を取っているのである。全篇を貫いているのは惜別の情で、風景はその情を起こさしめる刺激として捉えているにすぎないものに見える。その意味においては、風景は惜別の情を具象化する方便であるかのごとくにさえみえる。和多豆の海岸の風景のごときは、明らかにそれを思わせている。この立体的なのはすなわち人麿の人柄の現実生活に執着の強かったということであるが、さらにいえば主情的であり、理想家肌であったということである。その歌の実際に即することの強いのは、一つは現実生活に執着することのためであるが、今一つは当時の歌風のいたさしめることである。またそのことの力強く輝かしいのは、人麿の詩情のいたさせることで、本質的にいえば理想家肌であったがためである。この事は、これにつぐ長歌についても同様である。
 
     反歌
 
132 石見《いはみ》のや 高角山《たかつのやま》の 木《こ》の間《ま》より わが振《ふ》る袖《そで》を 妹《いも》見《み》つらむか
    石見乃也 高角山之 木際從 我振袖乎 妹見都良武香
 
【語釈】 ○石見のや 「や」は、詠歎の助詞。国名をいっているのは、長歌の起首と同じく、その土地を重んじる心よりのことである。○高角山(210)の木の間より 「高角山」の名は今は明らかには伝わっていないが、江津市の島星山かといわれている。石見の国府から京へ上る道にある山で、国府から東にあたる都野、渡津の海寄りを経て、ただちに入り行く山で、しかも妻の里を見下ろす可能性のある山の中の高峯とだけは知られる。「木の間より」は、山の木の間を通してで、その山は木のある山だったのである。○我が振る袖を妹見つらむか 「振る袖」は、やや遠く離れていて語《ことば》の通じ難い場合、心を通わすためにするしぐさである。多くは女のすることで、女はまた領巾《ひれ》をも振ったので、集中にその例がきわめて多い。「妹見つらむか」の「つ」は完了、「らむ」は現在推量、「か」は、疑問の助詞で、妹は見ていたであろうか。
【釈】 石見の高角山の木立の間を通して、名残を惜しんでわが振る袖を、妻は見ていたであろうか。
【評】 高角山は、その名によって角の里にある山と想像される。それを越すと、妻の住んでいる里の見えなくなる、いわゆる見おさめをする山であったとみえる。その山を下ろうとして、見おさめをしつつ、遠くいて心を通わすしぐさとしての袖を振ることをしたのは、心理的には自然である。時は十月の末の初冬のことであるから、空が晴れていて、「妹見つらむか」という想像も起こりうる状態であったろうと思われる。しかし、常識からいえば、木の間隠れの人麿が妻に見えるはずはない。それを可能のことのように想像したのは、妻に対する憧れの情の極まつての妄念というよりほかはない。長歌の「妹が門見む」より、この「妹見つらむか」は、さらに昂奮の度の高いもので、異常な情熱である。道行き体の歌としての時間の推移に関係させてのことである。表現としては歌柄が大きく、堂々としていて、声調の高いものである。これは事の可能を信じて、当然の推量としていっているからである。
 
133 小竹《ささ》の葉《は》は み山《やま》もさやに さやげども われは妹《いも》思《おも》ふ 別《わか》れ来《き》ぬれば
    小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別來礼婆
 
【語釈】 ○小竹の葉は 「小竹」は、笹で、風に音を立てやすい物。『新考』は、石見の山には現在も笹の多いことを注意している。○み山もさやに 「み」は、美称。「山」は、高角山。「さや」は、動詞さやぐの語幹で、「さやに」は、さやぐさまの副詞。山がその葉ずれの音でさやさやとの意。「路も狭《せ》に」、「岩もとどろに」などと同じ語格で、「も……に」という形をもって、次の語の修飾句となっているもの。○さやげども 「乱」の訓は、諸説があって一定していない。旧訓は、「みだれ」、『代匠記』は「まがへ」、『考』は「さわげ」、『攷証』は「まがへ」で『代匠記』と同じく、『檜嬬手』は「さやげ」である。『講義』は、「乱」を「さやげ」と訓むべき例は古来一つもないとし、「まがへ」は成立し難く、「みだれ」の旧訓が最もあたっているものとしてそれに従っている。しかし、『講義』の引いている古事記、神武の巻の「畝火山|木《こ》の葉さやぎぬ」、巻十(二一三四)、「葦べなる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなべに」を初め、木の葉の風に鳴る音をさやぐという例は限りなくある。「乱」を「さやげ」に用いた例はなくても、ここは義をもってそう訓ませようとしたものと解したい。それは「乱」を「みだれ」と訓むと、視覚も加わって来る感が起こ(211)るが、ここは聴覚のみのものである方が、一首の心理として適当だと思われるからである。さらにいうと、一首の中心は「吾は妹思ふ」の一点に集中した気分にあり、それとの対照として捉えてあるものであるから、反対でありながらも相通うところのものでありたいからである。疑問を残して「さやげ」とする。意味は、鳴るけれども。○われは妹思ふ別れ来ぬれば 「われは妹思ふ」は、昂奮した気分が反動的に打沈んできた状態での心持である。「別れ来ぬれば」は、別れて来てしまったのでの意で、妻との距離の遠い見難いものであることを、上の句に注釈的に添えたもので、形からいえば上の句と倒句となっているもの。
【釈】 笹の葉は、山全体をもさやさやという音にしているけれども、我はただ妻を思っている。別れて来てしまったので。
【評】 高角山は、その高い所には木立があるが、その他は笹であったとみえる。今は高い所を去って、笹原の中の道を歩きつづけている時の心で、道行きとしての時間的進行を示している歌である。心理としても、袖を振った時の昂奮は鎮まって、今は全く見られないものとして、憧れの心を抱いて歩んでいるのである。すなわち時間に伴う心理の推移も示しているのである。技巧は、全山を占めている笹の葉の葉ずれの音と、わが沈んだ心との対照であって、その対照によって打ち沈んだ心を暗示しているのである。「乱友」を「みだれども」と訓んでも、同じく聴覚を主としてのものではあるが、初冬の風に、全山の笹の葉がさやかに鳴るということは、おのずから情を催させられるものであるから、この場合、その音の騒がしい中に、同時に一種のさみしさを感じたものと思われて、その点からいうと、視覚もまじる趣のある「乱友《みだれども》」よりも、純粋に聴覚のみの「さやげども」の方に心を引かれる。なお、「さやにさやげども」と、頭韻を踏んだと見ることが、その感情にふさわしく思われて、これまた心を引かれる点である。初句より三句までは平面的に環境を叙し、四、五句は反対に、その環境の中にある自身を立体的に捉えているところ、対照法の際やかに用いられている作である。上の歌とともに、浪漫的であると同時に、現実的であった人麿を端的に示している作である。
 
     或本の反歌
 
134 石見《いはみ》なる 高角山《たかつのやま》の 木《こ》の間《ま》ゆも わが袖《そで》振《ふ》るを 妹《いも》見《み》けむかも
    石見尓有 高角山乃 木間從文 吾袂振乎 妹見監鴨
 
【語釈】 ○石見なる 石見にあるで、下の「高角山」の位置を断わったもの。「石見のや」の強い感激のものに較べると、これは説明にしたものである。○木の間ゆも 「ゆ」は、より。「も」は、詠歎の助詞。○わが袖振るを われの袖を振ることの方を主としたもの。「わが振る袖を」は、「袖」が中心となっており、感動を主としたものであるが、これは事を主としたものである。○妹見けむかも 「か」は、疑問で、それに「も」(212)の詠歎の添ったもの。「妹見つらむか」は、「らむ」によって現在の疑問としてあるが、これは「けむ」によって過去の疑問としたもので、思い出の形である。
【釈】 石見にある高角山の木立の間から、わが袖を振ることをしたのを、妹は見たことであったろうか。
【評】 本行の方は、昂奮した感を、事をとおして詠んだもので、したがって訴えるものであるのに、これは事そのものの方を主として詠んだもので、事を説明したにすぎないものである。抒情の歌としては、内容が全く異なっている。これは人麿の作風ではない。思うに、この歌が伝唱されてゆくうちに、次第にわかりやすいものとされてゆき、ついにここまで来たのであろう。こうした現象は、口承文学としては普通のことである。
 
135 つのさはふ 石見《いはみ》の海《うみ》の 言《こと》さへく 韓《から》の崎《さき》なる いくりにぞ 深海松《ふかみる》生《お》ふる 荒礒《ありそ》にぞ 玉藻《たまも》は生《お》ふる 玉藻《たまも》なす 靡《なび》き寐《ね》し児《こ》を 深海松《ふかみる》の 深《ふか》めて思《も》へど さ宿《ね》し夜《よ》は いくだもあらず 這《は》ふつたの 別《わか》れし来《く》れば 肝向《きもむか》ふ 心を痛《こころいた》み 念《おも》ひつつ 顧《かへり》みすれど 大船《おほふね》の 渡《わたり》の山《やま》の 黄葉《もみちば》の 散《ち》りの乱《まが》ひに 妹《いも》が袖《そで》 清《さや》にも見《み》えず 嬬隠《つまごも》る 屋上《やかみ》の【一に云ふ、室上山】山《やま》の 雲間《くもま》より 渡《わた》らふ月《つき》の 惜《を》しけども 隠《かく》ろひ来《く》れば 天伝《あまづた》ふ 入日《いりひ》さしぬれ 大夫《ますらを》と 念《おも》へる吾《われ》も 敷《しき》たへの 衣《ころも》の袖《そで》は 通《とほ》りて濡《ぬ》れぬ
    角障經 石見之海乃 言佐敞久 辛乃埼有 伊久里尓曾 深海松生流 荒礒尓曾 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 深海松乃 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之來者 肝向 心乎痛 念乍 顧爲騰 大舟之 渡乃山之 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隱有 屋上乃【一云、室上山】山乃 自雲間 渡相月乃 雖惜 隱比來者 天傳 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而沾奴
 
【語釈】 ○つのさはふ石見の海の 「つの」は、今の蔦《つた》。『考』は、綱《つた》、蘿《つた》と通じて用いる字で、葛《つた》の意だとし、「さはふ」は、荒木田久老は『日(213)本紀歌之解槻落葉』で、「さ」は接頭語で「這ふ」か、または「多延《さはふ》」の意かとしている。蔦は石に多く這い纏わる意で、石にかかる枕詞。古くからあるものである。○言さへく韓の崎なる 「言さへく」の「さへく」は、「障ふ」と同様の語で、言葉が通ぜず、隔りある意で、「韓」にかかる枕詞。「韓の崎」は、『新講』は、石見風土記逸文に、「可良島秀2海中1、因v之可良埼云、度半里」とある地だという。それだと、渡津から東方十里ばかり、邇摩郡仁摩町宅野の海上にある韓島の、その海への出鼻である。『注釈』は、それでは道行き風の構成の上からみて、妻のいる角の里に遠過ぎるとして、文献と実地踏査の上から新解を試みている。それは渡津、江川、嘉久志、都野津、高田と道を進むと、高田の北の海岸に波子《はし》町があり、その東北に山があり、その海への出鼻の大崎鼻は、その辺の唯一の崎である。その山は今は名をとどめていないが、唐山と文献にある山で、その崎がここにある「韓の崎」だろうというのである。○いくりにぞ深海松生ふる 「いくり」は『講義』が詳しく考証している。『袖中抄』では「船路には石をくりともいへり」といい、『仙覚抄』では「山陰道の風俗、石をばくりと云也」といい、それ以外にもある。日本海の海岸で、航海の上で、暗礁を称する語である。「深海松」は、海松の一種。海松は海藻で食用とする物。形は松に似て、葉がない。深海松は、海の深い所の石に生えるからの称で、上の長歌の「沖つ藻」にあたる物と思われる。○荒礒にぞ玉藻は生ふる 「荒礒」も「玉藻」も、上の長歌に出た。この二句は、上の二句と対させたもので、海の叙景である。またこの海は、下の山と対させたもので、その対照は、上の長歌と同様である。○玉藻なす靡き寐し児を 「玉藻なす」は、上の玉藻をうけて、その玉藻のごとくの意。「靡き寐し」は、「靡き」は、靡き寄って。「寐し」は共寝をした。「児」は、愛称で、妻の意。○深海松の深めて思へど 「深海松の」は、同じく上の深海松をうけたもので、「の」は、上の「玉藻なす」に対させてある関係上、のごとくの意のものと取れる。その藻は海の深い所に生えるところから、心深くの意の深めの譬喩としたもの。心深く妹を思うけれどもの意。「玉藻なす」以下四句は、景によって情を起こしたもので、その関係は、上の長歌と同様である。○さ宿し夜はいくだもあらず 「さ宿し」の「さ」は、接頭語。「宿し」は、共寐をした。「いくだ」は、「幾ら」の古語。「あらず」は、連用形で、あらずしての意で、下の「別れ」に続く。○這ふつたの別れし来れば 「這ふつたの」は、這う蔦ので、蔦は這うまにまに蔓が別れるところから、意味で「別れ」の枕詞。「別れし来れば」は、「し」は、強意の助詞。別れて来たので。○肝向ふ心を痛み 「肝向ふ」は、肝は体内の五臓。「向ふ」は、それらが相対している意で、群がると同じである。心というものは、その間にあるものとして意味で心にかかる枕詞。「痛み」は、形容詞「痛し」の動詞化したものの連用形で、痛くしての意。心が悲しみのために痛くして。○念ひつつ顧みすれど 「念ひつつ」は嘆きつつで、「つつ」は継続。「顧みすれど」は、妻の里の方を顧みするけれども。○大船の渡の山の 「大船の」は、それの渡るところでの意で、渡《わたり》にかかる枕詞。「渡の山」は、所在は明らかでないが、江津市渡津付近の山、江川河口の渡り場近くの山かという。とにかく高角山より東方へ向かって進んで来るある地点の山である。この山と次の屋上の山とは、上の海としての韓の埼に対照させたものである。○黄葉の散りの乱ひに 「黄葉」は、実景として眼前にあるものである。「散りの乱ひ」は、「散り」も「乱ひ」もいずれも名詞である。「に」は、によって。黄葉の散り乱れて見分けのつかないために。「大船の」以下これまでの四句は、道行き体として山の風景を捉えていったものである。○妹が袖清にも見えず 「妹が袖」は、妻が我を慕って心通えと思って振っている袖の意である。「清にも見えず」は、「清に」はここは明らかには。「も」は詠歎。「見えず」は見られずで、明らかにも見られないの意。この二句は風景に刺激されて起こって来た感としていったものである。渡の山の位置はいったがようにわからないが、これ以下の続きによって、その日の夕方に近い頃に越えた山だということはわかる。その山から「妹が袖」の見えようはずのないことは当然のことであ(214)る。また妻も、その時まで袖を振りつづけていようとは、人麿も想像しなかったであろう。それなのに、そうしたことがあり得るように言っているのは、折から散っている黄葉の状態が、妻の振る袖の状態に似ていて、それを連想せずにはいられなかったものと思われる。今一つは、この黄葉の散っている場所は渡《わたり》の山の頂上で、そこからは上の高角山と同じように妻の里が見られうる所で、妹の袖の連想を支持するものがあったためと思われる。この頂上ということは迎えての感ではなく、この山と対させている次の屋上の山では、路が下りになっていることをいっているので、それとの対照として頂上ということが想像し得られることとしていっているものと思われるからである。「妹が袖清にも見えず」が連想としていっているものとすると、この二句は道行き体の型としているところの、風景の刺激によって起こってきた思慕をいおうとしてのものである。上の「黄葉の散りの乱ひに」とこの二句との続きがあまりにも緊密なので、一と続きのことをいっているがごとく感じられ、単に昂奮した思慕の情のいわせていたもののごとく取られるのであるが、それは作意ではなく解される。それで、上の二句と下の二句との間に、散る黄葉より連想されるところのという意を補って解すべきである。○嬬隠る屋上の山の 「嬬隠る」は、嬬が籠って住むの意で、屋と続き、いわゆる嬬星《つまや》をあらわす語で、屋の枕詞としてのもの。「屋上の山」は、所在は十分に明らかにはなっていない。『講義』は『日本地誌提要』に「高仙《たかせん》【又屋上山ト云、那賀郡浅利村ヨリ十三町五間】」とあるを引き、この浅利(江津市)は渡津からは東方で、山陰道の要路にあたっている。高仙山の辺りに屋上の山というがあればそれであろうといっている。また『新考』は、豊田八十代の実地踏査を引いているが、それは『講義』と同様である。大体高仙山がそれであろうと思われる。○一に云ふ、室上山 むろがみ山と訓むのであろうが、屋上の山の訓みの相違かと思われる。○雲間より渡らふ月の 「雲間」は、雲の絶え間。「より」は、進行の地点をあらわす語で、現在だと「を」であらわすもの。「渡らふ」は、「渡る」の未然形に「ふ」を添えて、その継続をあらわす語。渡り渡りするの意。「月の」は、月のごとくにの意のもの。雲の絶え間を渡り渡りする月のごとくにで、そうした月はしばらくより見えない意で「惜し」に続け、惜しを転義しての序詞。晴れた空に見る月よりもいっそう惜しまれるものであるところから、下の「惜し」の譬喩としていっているもの。「嬬隠る」以下これまでの四句は、道行き体の風景としていっているもので、屋上の山の実景である。○惜しけども隠ろひ来れば「惜しけども」は、後世の「惜しけれども」に相当する古格のもの。惜しいけれどもで、その惜しいのは、妻の里の全く見えなくなるのを惜しむ意である。「隠ろひ」は、隠るの継続をあらわす。「来れば」は、「来れ」は現在だと行けばというところで、前途に重点を置いていうところから、差別を付けていっているもの。次第に隠れ隠れして行くのに。この二句は、道行き体として、上の風景に刺激されて起こってくる思慕の情をいったものである。なお、「大船の」より「清にも見えず」までの六句と、「嬬隠る」以下「隠ろひ来れば」までの六句とは、その組立を一にした対句で、風景とそれより起こる感とを緊密に関係させたものであって、それとともに、道の進行をあらわし、時の推移をもあらわそうとしているものである。時の推移の方は、「入日さしぬれ」に至って明らかになっている。○天伝ふ入日さしぬれ 「天伝ふ」は、空を伝うで、日の状態をいってその枕詞としたもの。「入日さしぬれ」の「ぬれ」は、已然形のままで条件をあらわす古い語格であって、後世の「ぬれば」に相当するものである。なお、月が出ているとともに入日がさしているということは、矛盾するがごとくに感じられるが、初月に近い頃には普通に見られる珍しからぬことである。十一月一日には京にある予定をもって、調貢には二十九日を要する旅の第一日の夕べであるから、山上にあって冬空に出る細い月と入日とを見得たことは当然のことである。○大夫と念へる吾も 大夫すなわち立派な男子と自任している自分もで、思慕の情のさみしさに加えて、入日時の特殊なさみしさを感じさせられての余意をもったもの。○敷たへの衣の袖は通りて濡れぬ 「敷たへの」は、「敷」は、織目の繁(215)くあるすなわち良い物の意。「たへ」は、織物の総称で、讃える意で衣にかかる枕詞。衣、その他にも用いる。「衣の袖」は、涙を拭う物としていったもの。「通りて濡れぬ」は、涙が繁くして、濡れとおったの意で、上の大夫との関係上、涙を暗示的にいったもの。
【釈】 葛の多く這っている石《いわ》にちなみある石見国の、言葉に隔りある韓人《からびと》にちなみある韓の崎にある暗礁には、深海松が生えている。そこの荒磯には玉藻が生えている。その玉藻のごとくに我に罪き寄って共寝をしたかわゆい妻を、深海松のごとく心深く思ってはいるけれども、共寝をした夜とてはいくらもなくて、這う葛のように別れて来たので、悲しみのために心は痛くて、嘆き嘆き顧みをするけれども、大船の渡るにちなみある渡の山の、折からの黄葉の繁くも散り乱れるのに見分けがつかず、名残りを惜しんで妻が振っている袖が、はっきりとは見えない。妻が籠もって住む屋にちなみある屋上の【一にいう、室上山の】山の、折から雲の絶え間を移り移りして見える月のように惜しいけれども、妻の袖が隠れ続けて行くと、折しもさみしい入日が射して来たので、大夫《ますらお》と思っている我ではあるが、涙がしげくも流れて、それを拭う衣の袖は濡れとおってしまった。
【評】 この長歌も、その作意においても、その表現技法においても、前の長歌と全く揆を一にしたものである。すなわち作意としては、惜別の情の全幅を出そうとしているものであり、構成としては、海と山とを組合わせたものである。その上からいうと、全くの繰り返しである。異なるところは、道行き体として、場所と時間とを進展させ推移させてあることである。すなわち場所は、前の歌は、角、和多豆より高角山までであったのを、この歌ではそれより東方の韓《から》の崎より後、屋上の山までとし、時としては、前の歌では朝より昼のある時までであったのを、この歌では昼より夕べまでとしてあるのである。すなわち一日を二分したその後半の午後なのである。また構成の上にも異なるものがあって、前の歌では海の部分を多く、山の部分を少なくしているのに、この歌はそれとは正反対に、海の部分は少なく軽くし、山の部分を多く重くしているのである。これは二首を一連とする関係上、全体としての均衡を保たせようと用意しての結果と思われる。
 この歌も二段になっていて、第一段は海の部分で、起首より「別れし来れば」までである。「玉藻は生ふる」までは海としての風景で、それ以下はその風景によって起こさせられてくる思慕惜別の情で、道行き体の型に従ったものである。海の風景としての韓の崎は、何ら創意の認められないもので、人麿のものとしては平凡を極めたものである。情の方では、「寐し」「さ宿《ね》し」を重ねてそのことを強調しているが、これは当時の一般性であるとはいうものの、特に人麿の好んでいっていることで、その意味において注意されるものである。
 第二段は、「肝向ふ心を痛み」以下結末までで、これは山の部分である。一篇の中心はこの二段にあるが、表現技法はこの部分において極まっており、第一段と比較して勝っているという程度のものではなく、おそらくは人麿の生涯の頂点を示しているものであろうと思われる。その技巧の頂点というは、「大船の渡の山の、黄葉の散りの乱《まが》ひに、妹が袖|清《さや》にも見えず、嬬|隠《ごも》る屋上の山の、雲間より渡らふ月の、惜しけども隠ろひ来れば」の六句の長対である。ここの意義はすでに「語釈」でいったが、さらに総括していうと、人麿が渡の山で、「黄葉の散り」に「妹(216)が袖」を連想し、「その乱ひに」「清にも見えず」と嘆いたのは、時は初冬の晴れた日であり、距離は馬での山道の一日|路《じ》以内のことであるから、おそらくその里は清《さや》かに見えて、見えなかったのは妹が袖だけだったのであろう。六句を費やしていっているこのことは架空のことではなく、のみならず思慕の頂点たらしめたことだったのである。この六句は高らかにまた華やかに言い続けているが、これに対する次の六句とともに、その含蓄と余情においては限度以上を示しているもので、まさに驚歎すべきものである。なおまたこれは、問題は異なってくるが、人麿の創めたと思われる長歌の連作ということとも関係をもつことである。人麿の長歌の連作としては、これ以外には、巻一(三六)以下の「吉野宮に幸せる時、柿本朝臣人麿の作れる歌」と題するものがあるだけである。その歌は連作にせざるを得ぬ必要に駆られてのものである。すなわち(三六)は、天皇を一国の君主として仰いで賀したもの、(三八)は、天皇を現人神と仰いで讃えたものであって、この両面をいわないと、天皇に対しての賀の心は徹底し難いとして作ったものである。今のこの連作は、妻に対する思慕惜別といういささかの私情であって、長歌の連作というがごとき規模は要さないものとみえるが、しかしその情を按瀝し尽くそうとすると、長歌とせざるを得なかったのである。それは別れたる妻を思慕せしめらるる頂点は、再び見るを得ないと定めたその妻の里が、地勢の関係上、偶然な形において、今一たび視野に入りきたった時で、これは想像しやすいことである。人麿はこの旅においてそれを二度まで繰り返したのである。すなわち一度は高角山、一度は今の渡の山であって、しかも渡の山の方は、路の距離は加わり、時は夕べ近くなっていて、その最後の遠望であることは既定のことだったのである。この場合の人麿としては、それを中心としての歌を詠まずにはいられず、この要求は長歌の連作とせざるを得なかったのである。「大船の」以下の六句は、長歌の連作ということにもおのずからに触れているものである。さて、「嬬隠る」以下の六句は、形においては上の六句と長対をなしているが、心としては、対句の普通とする、意味を強めるための繰り返しのものとは全然別趣のもので、これは対立的なものである。すなわち渡の山ではいったがように山の頂上に立っての喜びであるが、この屋上の山では、それとは反対に山を下り行く悲しみなのである。すなわち高められたる思慕から、深められゆく惜別への推移を、道行きを通してあらわしているものなのである。その深められゆく惜別の情が、「天伝ふ入日さしぬれ」に極まって、ここに連作の長歌の結末となる。妙はいうべからざるものである。
 
     反歌二首
 
136 青駒《あをごま》の 足掻《あがき》を速《はや》み 雲居《くもゐ》にぞ 妹《いも》があたりを 過《す》ぎて来《き》にける【一に云ふ、あたりは隠り来にける】
    青駒之 足掻乎速 雲居曾 妹之當乎 過而來計類【一云、當者隱來計留】
 
(217)【語釈】 ○青駒の足掻を速み 「青駒」は、青毛と白毛とのまじった午の称である。青馬を貴ぶことは、中国から伝わったことで、青を陽の色として、それにあやかろうがためである。当時の道教の信仰からきているものと思われる。「足掻」は、馬の歩むことで、今もいっている。歩む様を具体的にいった語。「速み」は、速くして。○雲居にぞ妹があたりを 「雲居」は、雲の居る所、すなわち空であるが、転じて遙かなことの意にもした。ここはそれである。「妹があたり」は、妹の家のあるあたりを。○過ぎて来にける 「過ぎ」は、眼前の物でなくなる意で、遠く見えなくなることをあらわす語。「ける」は、「ぞ」の結び。○一に云ふ、あたりは隠り来にける 「隠り」は、「過ぎ」と心は同じである。
【釈】 わが乗る青駒の足掻が速くして、遙かにも、妻の家のあたりを、離れてきたことであるよ。
【評】 前の長歌もその反歌も、またこの長歌も、いったがように、道行きとして構成したものであるが、ここに至って、その道行きの進転に結末を付けた反歌を添えている。その結末も、駒の足掻が速いので、遠ざかってしまったと、一に駒に責めを負わせた言い方をしているのは、あくまでも感傷に終始したのである。「雲居にぞ」という語は、創意とまではいえないものであろうが、強い感をもったものである。一日の行程の隔たりを、こうした語でいっているのも、同じく感傷で、感はむしろこちらにあるといえる。長歌とのつながりは、「惜しけども隠ろひ来れば」の繰り返しとなっている。しかし哀感は長歌に譲り、叙事を主としたものにして、変化をつけている。この技法は人麿の創意である。
 
137 秋山《あきやま》に 落《お》つる黄葉《もみちば》 しましくは な散《ち》りまがひそ 妹《いも》があたり見《み》む【一に云ふ、散りなまがひそ】
    秋山尓 落黄葉 須臾者 勿散乱曾 妹之當將見【一云、知里勿乱曾】
 
【語釈】 ○秋山に落つる黄葉 「秋山に」は、長歌の渡の山を言いかえたもの。「黄葉」は、呼びかけ。○しましくはな散りまがひそ しばらくの間は、散り乱れずにいよで、上に続けて同じく命令したもの。○妹があたり見む 妻の家のあたりを見よう。○一に云ふ、散りなまがひそ 四句、一本にはこうあるというのである。意味は同じである。本行に較べると、感動より一歩説明に近づいたので、劣っている。人麿の加筆と思われる。
【釈】 秋山に落ちている黄葉よ。しばらくの間は、そのように散り乱れずにいよ。妻の家のあたりを見よう。
【評】 長歌の「大船の渡の山」以下六句の心を繰り返したものである。その六句はいったがように、妻に対する思慕の情の頂点をなしているものなので、この長歌を連作の形においてみず、一首の独立したものとしてみれば、この反歌は型どおりのものである。人麿以前の反歌はしばしばいったがように、長歌を要約して繰り返すということがほとんど型となっていたのを、人麿はその型を破り新生面を拓《ひら》いたのである。その上からいうと、この反歌は逆戻りをさせた形のものである。しかし長歌そのままではなく、新しい趣を加えてはいる。長歌では「妹が袖|清《さや》にも見えず」といって、単に見えない嘆きにしていたのを、これ(218)は「妹が袖」を「妹があたり」として範囲を広めている。長歌で察すると、妹が里は見えている。したがって「妹があたり」も見得られるはずである。ここにいっていることは、その見える妹があたりをあくまでも見ようとする心で、そしてそれとともに、そのことを妨げている黄葉の散りの繁さをも暗示しているのである。長歌の昂奮につぐやや沈静した気分で、落着きとともに美しさをもった、客観性の豊かな作である。すなわち繰り返しとはいえ、進展と新味とのあるものである。
 
     或本の歌一首并に短歌
 
138 石見《いはみ》の海《み》 津《つ》の浦《うら》を無《な》み  浦なしと 人《ひと》こそ見《み》らめ 潟《かた》なしと 人《ひと》こそ見《み》らめ よしゑやし 浦《うら》はなくとも よしゑやし 潟《かた》はなくとも 勇魚《いさな》取《と》り 海辺《うみべ》を指《さ》して 柔田津《にぎたづ》の 荒礒《あり》の上《うへ》に か青《あを》なる 玉藻《たまも》沖つ藻《も》 明《あ》けくれは 浪《なみ》こそ来よれ 夕《ゆふ》されば 風《かぜ》こそ来よれ 浪《なみ》の共《むた》 か寄りかく寄り 玉藻《たまも》なす 靡《なび》き吾《わ》が宿《ね》し 敷《しき》たへの 妹《いも》がたもとを 露霜《つゆしも》の 置《お》きてし来《く》れば この道《みち》の 八十隈《やそくま》毎《ごと》に 万度《よろづたび》 顧《かへり》みすれど いや遠《とほ》に 里《さと》放《さか》り来《き》ぬ いや高《たか》に 山《やま》も越《こ》え来《き》ぬ はしきやし 吾《わ》が嬬《つま》の児《こ》が 夏草《なつくさ》の 思《おも》ひしなえて 嘆《なげ》くらむ 角《つの》の里《さと》見《み》む 靡《なび》けこの山《やま》
    石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者離無 縱惠夜思 滷者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明來者 浪己曾來依 夕去者 風己曾來依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之來者 此道之 八十隈毎 万段 顧離爲 弥遠尓 里放來奴 益高尓 山毛起來奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 將嘆 角里將見 靡此山
 
【語釈】 ○津の浦を無み 「津」は、船の発着所の称で、「浦」は、入江。津となるべき浦がなくしてで、意としては通るが、下への続きが不自然である。「角の浦廻」のその「角」という地名を、この歌では結末に加えた関係上、ここにもあっては重複するとして、このような説明的な事柄(219)に歌い替えたと思われる。○柔田津の 「柔田津」という地名はないという。「和多豆」の「和」を、「にぎ」と訓んだところからのことと思われる。これも和多豆を知らない人のしたことと思われる。○明けくれば浪こそ来よれ 「朝羽振る風こそ寄らめ」を、「朝羽振る」の含蓄ある、したがってやや解し難き語を、「明け来れば」と平明なものに替えたのである。それとともに、「風」とあるのを、それよりも浪の方を印象的に思い、「浪」に替えたのである。いずれも伝承に伴って起こる普通な現象である。○夕されば風こそ来よれ 「夕羽振る浪こそ来寄れ」を替えたもので、理由は上と同じである。(一三一)は藻の浪に動揺することを暗示した、序詞としての叙景であったのを、単なる叙景としたのである。風と浪との順序の変わっているのも、そのためである。○靡き吾が宿し 「靡き」は、人麿が妻に寄った意。「依り寝し妹を」を替えたもので、人麿自身のこととした方が、哀感が深いものとして替えたと思われる。この替え方は、不自然で、甚だ平俗である。○敷たへの妹がたもとを 「敷たへの」は、上の長歌に出た。たもとへかかる枕詞。「たもと」は、ここは袖の意で、ここは妹そのものを言いかえたもの。この二句は(一三一)にはなくて、新たに加えられたものである。哀感を深めるためのものであることは、上に同じである。○里放り来ぬ 「里は」を、「里」と替えている。「里は」として、里に力を入れ、次の「山も」に照応させた微細さを失っている。○はしきやし吾が嬬の児が 「はしきやし」は、「愛しき」に「やし」の詠歎の添ったもので、「やし」は「よしゑやし」のそれと同様である。「嬬の児」の「児」は親しんで添えたもの。この二句は(一三一)にはないもので、本行のこれに続く「妹が門」がこちらにはないため、その補いとしてここに加えたものである。(一三一)の、昂奮し、それとともに飛躍をもって、わざと省いてあるものを、事柄を平明にしようがためにここに加えたのである。すなわち気分を主として、飛躍をもっていってあるのを、事柄を主として、細かく説明したのである。伝承の結果として極度に平明化したのである。○嘆くらむ角の里見む 「偲ふらむ妹が門見む」を替えたものである。(一三一)の、気分より描き出した、感覚的な「妹が門」という語を、常識的に、事件的に「角の里」に替えたので、それにつれられて、「偲ふらむ」よりも「嘆くらむ」という一般的の語に替えたものと思われる。
【釈】 (一三一)の歌との相違は「語釈」にゆずって、省く。
【評】 「或本」というのは、人麿の長歌が、時の人に愛唱され、また伝承されて、「和多豆」という地名を、「柔田津」と訓むような地方、すなわち石見の土地を知らず、文字によってのみ訓んで知るという、いわゆる国境を越えたものとなった時に、何びとかによって記録せられたのが、この「或本」である。その時には、人麿の感情そのものよりもその感情を生み出した事件、環境の方が主となり、それを理解しやすい、すなわち合理的なものにしようとして、人麿が「靡けこの山」と命令した、それがそのとおりになれば、角の里が見えることでなければならないとして、「妹が門」を「角の里」と替えたのである。したがって起首の「角の浦廻」は重複するものとなるので、平明ではあるがきわめて拙い説明に改められたのである。その他もすべて、理解しやすいために平明な説明にし、また感傷的にするために余分な句までも添加していることは、「語釈」でいったごとくである。これは口承文学としては共通な運命であって、ひとりこの作にとどまったものではない。このようなことの起こった経路はもとより不明であるが、人麿がこの作をした時と、本巻の編集された時とは幾ばくの時間的距離のない点から想うと、彼はこの京への途上の作を、京に逗留中、多くあったろうと思われる詞友に示し、その歌稿が、詞友より他の人々に示されて、(220)半解の人によって誤写され、口承されているうちに、ついにこ  のような形のものとなったのであろうと推測される。
 
     反歌一首
 
139 石見《いはみ》の海《うみ》 打歌《うつた》の山《やま》の 木《こ》の間《ま》より 吾《わ》が振《ふ》る袖《そで》を 妹《いも》見《み》つらむか
    石見之海 打歌山乃 木原從 吾振袖乎 妹將見香
 
【語釈】 ○石見の海 本行の「石見のや」を変えたものである。下の「山」の所在をあらわすものとしていったものなので、「海」というのは通らないものである。○打歌の山の 旧訓「うつたのやまの」としてある。「打歌」を「高角」の「高」にあてたものという解もあるが、それも誤脱の経路を想像したにすぎないものである。文字は諸本すべてこのとおりである。記録の際にすでにこうなっていたものと思われる。
【釈】 本行との相違は初二句だけで、それはわからないので、釈すべきでない。
 
     右、歌の体同じと雖も、句句相替れり。此《これ》に因りて重ねて載す。
      右、歌躰雖v同、句々相替。因v此重載。
 
     柿本朝臣人麿の妻|依羅娘子《よさみのをとめ》、人麿と相別るる歌一首
 
【題意】 依羅娘子は、依羅は氏、娘子は女子を敬愛しての称で、妻にもいった。この氏につき、『講義』は詳しく考証している。依羅氏は摂津、河内などに住んで、それが地名ともなっている。この氏には、新撰姓氏録によると宿禰の姓のものと連の姓のものとあり、宿禰姓の方は開化天皇より出で、連姓の方は饒速日命と、百済国人より出ている。娘子はその中のいずれとも知れない。娘子は石見国に住んでいた人で、上の長歌にある妻と思われる。それはこの歌の排列順もそう思われるとともに、人麿が石見国で死に臨んで作った歌についで、「柿本朝臣人麿死せし時、妻依羅娘子の作れる歌二首」(二二四−二二五)とあって、それによると人麿の墓所の見られる辺りに住んでいたことがわかるからである。(一三五)は「さ宿し夜はいくだもあらず」とあり、結婚後、時久しくはなかったことが知られる。
 
140 な念《おも》ひと 君《きみ》は言《い》へども あはむ時《とき》 いつと知《し》りてか 吾《わ》が恋《こ》ひざらむ
(221)    勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不戀有牟
 
【語釈】 ○な念ひと君は言へども 「な」は、「なそ」と対させる語法で、禁止の意をあらわす語。嘆くなと君はいわれるけれどもで、別れに臨んで妻の嘆くのを見て、人麿が慰めたのに対して、それを押し返していったもの。○あはむ時いつと知りてか 「あはむ時」は、人麿が任を果たして、石見国へ帰って来る時で、その時をの意、「いつと知りてか」は、いつとあてを付けてかで、「か」は、疑問の助詞。○吾が恋ひざらむ 吾が恋いずにいられようかで、遠路の旅の不安さから、帰期も知れないもののように感じ、嘆かずにはいられないと、理由をあげて反語風にいったもの。
【釈】 嘆くなと君はいわれるけれども、君と再び逢う時を、いつとあてを付けて、恋いずにいられようか、いられはしない。
【評】 京へ上る前に、人麿が妻と逢って別れを告げた際、妻の詠んだ歌である。「な念ひと君は言へども」というので、人麿の慰めの言葉に対して詠んだものであることがわかる。こうしたやや久しい別れをする際などに、悲しみ慰めを言いかわすに、歌の形式をもってするということは、当時にあっては普通のことであった。妻が歌をもって答えている以上、人麿も歌をもっていったと思われる。その歌の伝わらないのは、逸してしまったのであろう。しかし歌のなかったということもありうることであるから、どちらともいえない。この歌は、女性らしい感傷を含んだものではあるが、全体として見ると、心の落着いた、意志の勝ったものである。感傷は「いつと知りてか」というに現われている。人麿の旅は国司の一人として公用を帯びてのもので、復命の必要上、帰期も定められていたものと思われる。もとよりいつと知られないようなものではない。それをこのような語をもってしているのは、夫の長途の旅に対する不安をこめて、妻にふさわしい嘆きを言いかえたものである。ここに感傷が見える。しかしこの感傷は、人麿の「な念ひ」というのを押し返して、その押し返しを合理化するためのものである。しかも人麿の「な念ひ」という心も、十分汲取っての上のものでもある。当時は言霊信仰の保たれていた時代で、このような長途の旅立ちの際には、不安、不吉な言葉をいわないのが風となっていた。この歌の三、四句は、その意味ではふさわしくないものである。直情的な、信仰を顧慮し得ない人であったともみえる。教養の程度も関係していたかもしれぬ。
 
 挽歌《ばんか》
 
【標目】 挽歌は、巻一、二を通じて三部に分類し、雑歌、相聞、挽歌としてあるその挽歌である。これは死者を哭する歌であって、後の勅撰集の哀傷の部にあたるものである。挽歌は漢語で、本来は中国で、柩を挽く時の歌の称であったが、次第に意味が汎《ひろ》くなり、葬儀に用いる歌の称となり、さらに死者を哭する歌の称ともなって、文選には、その最後の意味で一つの部立となっ(222)ている。わが国にもこの種の歌はきわめて古くから存在していたので、それをあらわすにこの語を採り用いたのである。
 
     後岡本宮御宇《のちのをかもとのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代  天豊財重日足姫天皇《あめのとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと》、譲位の後、即ち後岡本宮なり
 
【標目】 斉明天皇の御代で、巻一に出た。
 
     有間皇子《ありまのみこ》、自《みづか》ら傷《かなし》みて松《まつ》が枝《え》を結《むす》べる歌二首
 
【題意】 有間皇子は、孝徳天皇の皇子で、御母は、阿倍倉梯麻呂大臣の女小足媛で、斉明天皇には御甥である。皇子はこの御代に不軌を図り、病を療するためと偽って紀伊の牟婁《むろ》の温湯に往き、帰り来たってその国体勢《くにがた》を讃め、天皇の御心を動かして行幸の事をあらせようとした。斉明天皇には、四年十月十五日その地に行幸になった。皇子はその留守中に事を企てたが、十一月五日、発覚して捕えられ、その九日、行宮に送られ、中大兄皇太子の訊問を受け、同じき十一日送り帰され、途中、紀伊の藤白の坂において死に処せられた。御年十九である。歌は行宮へ送られる途中でのもので、事の容易ならぬを察し、みずから傷《かな》しんで詠んだものである。歌は当時、身の無事を祈る呪《まじな》いとして草の葉または木の枝を結ぶことをしていたが、これは自身の魂を結びこめて置き、再び無事で見ようという心よりのものである。ここもそれで、磐代にある松の枝を結び、歌はその呪いの心を強めるために詠まれたものである。この結びのことは巻一(一〇)に出た。
 
141 磐代《いはしろ》の 浜松《はままつ》が枝《え》を 引《ひ》き結《むす》び 真幸《まさき》くあらば また還《かへ》り見む
    磐白乃 濱松之枝乎 引結 眞幸有者 亦遠見武
 
【語釈】 ○磐代の浜松が枝を 「磐代」は、紀伊国日高郡南部町西磐代。牟婁温湯(白浜町湯崎)に行く要路にあたっている。巻一(一〇)に出た。「浜松」は、浜辺にある松。○引き結び 「引き結び」は、巻一(一〇)に出た。幸いを祈ってする呪い。○真幸くあらば 「真」は、真の意のもの。「幸く」は、幸いにで、無事という意をいったもの。○また還り見む 再び立ち還って来てこれを見ようの意で、牟婁の湯へ行かれる途中でのことと取れる。
【釈】 磐代のこの浜辺の松の枝を引き寄せ結んで呪いをし、その呪いがかなって無事であることを得たならば、また立ち帰って来てその松を見よう。
(223)【評】 生命の危険を痛感されていての作である。皇子の感情は、無事を得るための呪いとしての木の枝を結ぶことに集中している。「磐代の浜松が枝を引き結び」は、今、松が枝を結ぼうとする心である。この結びは木の枝でも草の葉でもよく、何をと限ったものではない。それを「磐代の浜松が枝」と、その地名をいい、木の名をいい、その在り場所までも添えていっているのは、当時の歌風として実際に即した言い方をしようがためばかりではなく、また美しくいおうとするためでもなく、呪いそのものを鄭重にいおうがためであって、少なくともそれが主となっているのである。これは呪いを尊重し、その霊力によって救われようとする心からのことである。「真幸くあらば」は、それほどに信じ頼む呪いでも、はたしてわが生命を救いうるかどうかとの疑いを抱いた心からのものである。これは呪いのもつ霊力に対する疑いではなく、危険の必至を怖れる情のいわせたものである。結句「また還り見む」は、四句のようには感じるが、思いかえして、またその呪いの霊力に縋《すが》り頼もうとする心を、今より引き寄せ結ぼうとする浜松が枝そのものに寄せてあらわしたのである。一首、生命の危険を痛感させられている皇子の心情の、結びをしようとする直前の現われで、そのゆらぎをさながらにとどめているものである。しかし皇子は、送還の途上、磐代を過ぎ藤白の坂で絞首されたのである。
 
142 家《いへ》にあれば 笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を 草枕《くさまくら》 旅《たび》にしあれば 椎《しひ》の葉《は》に盛《も》る
    家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛
 
【語釈】 ○家にあれば笥に盛る飯を 「家」は、下の「旅」に対させたもので、皇子の京にある邸。「笥」は、ここは飯を盛る器で、飯笥《ものけ》といった。この当時は、高貴の方の飯笥は、すでに銀器であったろうと『講義』は考証している。 ○草枕旅にしあれば 「草枕」は、既出。「旅にし」の「し」は、強め。○椎の葉に盛る 「椎の葉」は、笥の代用としての物。当時の飯は強飯であるから、椎の葉を重ねた上にならば盛り得られる物(224)である。椎の葉はその辺りに有り合わせた物で、便宜に任せての物と取れる。木の葉に食物を盛ることは、上代には普通のことであって、この当時も庶民のためには格別のことではなかったろうが、皇子としては思いもよらぬことだったのである。
【釈】 家にいれば、笥《け》に盛る飯であるのに、こうした旅のことなので、椎の葉に盛っている。
【評】 食事の際、椎の葉の上に盛った飯をすすめられたのを見られて、ふと京の邸における日の笥と対比されての感慨である。皇子とはいえ今は大罪の嫌疑者であるから、取扱いがすべて疎路であって、笥としての椎の葉はその一つと思われる。この歌は事としては旅にあって家を恋うという、いわゆる旅愁の範囲のものである。しかしこの歌には、家を恋うということは、語としてはもとより気分としても認められず、心の全体が眼前の笥としての椎の葉に集中されているのである。また一首の調べも、前の歌の烈しいながらに華やかさを失わず、強さを含んでいるのとは違って、ただ素撲に、落着いて、緩やかにいっているものである。皇子は笥としての椎の葉に自身を大観し、過去、現在、未来をその上に観ずる心となっていられたことが、その表現によって直接に感じられる。一首の歌として見るとさしたる所のないものであるにかかわらず、読む者に沁み入る力を怪しきまでにもった歌である。前の歌と同じく、牟婁へ送られる途上においてのものと思われる。
 
     長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》、結《むす》び松《まつ》を見て哀咽《あいえつ》せる歌二首
 
【題意】 「長忌寸意吉麿」は、巻一(五七)に出た。伝は詳かでないが、大体藤原宮時代の人で、後岡本宮時代よりは五十年ばかりも後の人である。その人の歌がここにあるのは、類によって載せたのか、あるいは人の加えたのであろう。「結び松」は、有間皇子の結ばれた松のことであるが、皇子は無事で磐代は過ぎられたのであるから、その結びは自身解かれたのであろうから、結び松はすでに口碑のものとなっていたとみえる。
 
143 磐代《いはしろ》の 岸《きし》の松《まつ》が枝《え》 結《むす》びけむ 人《ひと》はかへりて また見《み》けむかも
    磐代乃 崖之松枝 將結 人者反而 復將見鴨
 
【語釈】 ○磐代の岸の松が枝 「磐代」は、皇子の歌と同じ。「岸の松が枝」は、皇子の「浜松が枝」を言いかえたもの。下に「を」の略されているもの。○結びけむ人はかへりて 「結びけむ」は、皇子の「引き結び」を婉曲に言いかえたもので、婉曲にしたのは敬意からのことである。「けむ」は連体形で、下に続く。「人」は、皇子で、これまた婉曲にしたもの。その心は上と同じ。「かへりて」は、皇子の「還り見む」といったその「還り」によったもの。○また見けむかも 皇子の「また還り見む」により、それに疑問の「か」に、詠歎の「も」の添った「かも」を加えた(225)もの。
【釈】 磐代の岸の松が枝を結んで呪いをされたであろうところの人は、その時の歌のごとくに、立ち還って来てまたその松を見られたことであろうか。
【評】 何らかの官命を帯びて紀伊に行き、話にだけ聞いていた結び松をはじめて眼にして詠んだ歌とみえる。題詞の「哀咽せる」はおそらく意吉麿自身の添えたものであろう。とにかく歌はこの題詞にふさわしいものである。有間皇子の事件は五十年前にすぎないことであるから、歴史上の事実とはいってもさして古いことではない。しかるにこの歌には、皇子その人に対する批評の心は全然なく、あるのはただ皇子の残した歌のあわれさだけである。それは一首全体が皇子の歌に取縋ってのものであり、のみならずそのあわれさを敬意をもって見、皇子の歌で明らかなこともいうに忍びないこととして、わざと婉曲に言いかえていることで明らかである。古歌のもつあわれさに溺れ尽くして他意のないというこの態度は、まさに文芸心であって、時代のもたせたものと取れる。松という自然物に対して人事を悲しむという態度も、同じく文芸心のなさせることである。
 
144 磐代《いはしろ》の 野中《のなか》に立《た》てる 結《むす》び松《まつ》 情《こころ》も解《と》けず いにしへ思《おも》ほゆ【未だ詳かならず】
    磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念 未v詳
 
【語釈】 ○磐代の野中に立てる 「野中」は、前の歌では「岸」といったのを、言いかえてある。地勢が岸ともいえ野中とも言いうる所であったと取れる。実際に即そうとする心からのことと思われる。○結び松 題詞に出た。その松の名とされていたことがわかる。○情も解けず 「情解く」は、情の伸びやかに、快い状態をいった語。これはその反対で、心結ばる、すなわち鬱屈した状態をあらわす語である。皇子のことを思って悲しむ心である。「情も」の「も」は、わが心もまたで、松に並べていったもの。「解けず」は、「結び松」の結びと対させたものである。○いにしへ思ほゆ 昔の事が思われるで、皇子の最期のあわれさを総括的にいったもの。○未だ詳かならず この注は、後人の加えたものだろうとされている。題詞に「二首」とあるその一首で、歌風も前の歌と同じだからである。『講義』は、この歌は拾遺集に取られてい、それには作者を人麿としていることを注意し、作者の動揺の証としている。
【釈】 磐代の野中に立っている結び松よ。これを見ると、わが心もまた、松と同じく悲しみのために結ぼれて、古のあわれであったことが思われる。
【評】 前の歌は古のあわれさに迫るものがあり、したがって動きをもっていたが、この歌は甚しく距離を付け、したがって余裕をもったもので、静かな感傷にすぎないものとなっている。「結び」と「解け」という語の照応をねらっているのは、その態(226)度から出たもので、この歌を低調なものとしている。こうした語そのものの興味は、口承文学にあっては伝統的な、根深いものとなっていたが、すでに個人的な作風に移ったこの歌にあっては、文芸性の末梢的なものにすぎなくなり、作風とは矛盾するものとなったのである。
 
     山上臣憶良《やまのうへのおみおくら》、追《お》ひて和《こた》ふる歌一首
 
【題意】 山上臣憶良は、巻一(六三)に出た。「追ひて和ふる」は、後より追って唱和する意である。上の意吉麿の最初の歌に対してである。憶良も続日本紀の大宝元年の条に名が出ているので、意吉麿と同時の人であるが、意吉麿の歌が先に成立していたので、それを見て追加したものと思われる。
 
145 あまがけり あり通《がよ》ひつつ 見《み》らめども 人《ひと》こそ知《し》らね 松《まつ》は知《し》るらむ
    鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
 
【語釈】 ○あまがけり 「鳥翔成」は、諸訓があり定まっていない。『考』は「つばさ」と訓んだのを『攷証』は「かける」と改めた。「かける」は集中に用例があり、最も妥当だとして『全註釈』も従っている。「成」は「なす」で、のようにの意の語で、動詞の連体形へ接している用例がある。「鳥翔」は、鳥の翔《か》けるがようにの意で、これは有間皇子の魂の状態をいったものである。上代の信仰として、死んだ人の魂は鳥の形となって、生きていた時心を寄せていた所へ自在に翔《と》びゆきうるものとしていた。日本武尊の魂が、白鳥となって、伊勢より大和へ翔んだというのは、最も有名な例で、ここもその心のものである。しかし『注釈』は、佐伯梅友氏の「あまがけり」と義訓しているのに従っている。神霊の行動を叙する語としては、最も妥当なものであり、現に憶良の巻五(八九四)にも用いている例がある。一首のさわやかな上から見ても、「かけるなす」の小刻みなのは不調和である。従うべき訓と思われる。○あり通ひつつ見らめども 「あり通ふ」は、一つの語。「あり」は継続をあらわす語で、継(227)続して通うの意である。思いつづけてというにあたる。「見らめども」は、結び松を見ているであろうけれども。○人こそ知らね 人は知らないが、すなわち、魂の行動は人には認められないけれども、しかしの意。「ね」は打消の助動詞で、「こそ」の結びであるが、「人こそ」「松は」というように対照した場合は、人は知らないが、松はの意を成す。○松は知るらむ 松の方は知っていようの意。
【釈】 皇子の魂は空を飛んで、生前心を寄せた結び松に通いつづけて見ていられるであろうけれども、それを人は知らない、しかし松の方は知っていよう。
【評】 意吉麿が、「人はかへりてまた見けむかも」と、皇子の心の遂げられなかったのを思って悲しんでいるのに和して、憶良はそれを否定して、皇子の魂は生前の心を遂げつついる。その事は人間は知らないが松は知っていようとしたのである。憶良はわが古代よりの信仰の、この当時次第にやや推移しつつあった中に立って、人麿と同じく堅く古風を守っていた人であることは、その歌によっても明らかである。この歌にいっているとろも、その信仰より発したものと思われる。そのことを最も直接にあらわしているのは、この歌のもつ調べの、粘り強く屈折をもっていることである。こうした調べは、その胸臆の直接の披瀝ということからのみ現われるもので、それをほかにしては見られないものである。この歌には、皇子を悲しむ心はなく、慰めまつろうとする心が現われている。慰めることは挽歌の精神で、悲しみもその中のものである。
 
     右の件の歌|等《ども》は、柩を挽く時に作れるにはあらざれども、歌の意に准擬《なぞら》へて、故《かれ》挽歌の類に載す。
      右件謌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、准2擬歌意1、故以載2于挽哥類1焉。
 
【釈】 「右の件の歌等」は、皇子の歌、意吉麿、憶良の歌のすべてをさした語。「柩を挽く時に作れる」は挽歌ということを言いかえた語である。これは後人の注である。なお以下にも、この類の歌が載せられている。
 
     大宝元年辛丑紀伊国に幸しし時結び松を見る歌一首 【柿本朝臣人麻呂歌集の中に出づ】
 
【題意】 文武天皇の大宝元年の紀伊国への行幸は、続日本紀に出ている。この歌、元暦本、金沢本などほとんどの本に、「柿本朝臣人麿歌集の中に出づ」とある。
 
146 後《のち》見《み》むと 君《きみ》が結《むす》べる 磐代《いはしろ》の 子松《こまつ》がうれを 又《また》見《み》けむかも
(228)    後將見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又將見香聞
 【語釈】 ○後見むと君が結べる 「後見むと」は、後に還って来て見ようと思つてで、有間皇子の「また還り見む」(一四一)という語によっていったもの。「君」は、有間皇子。○子松がうれを 「子松」の「子」は、小で、愛称。小さいものは愛らしいというつながりはあるが、小さい意ではない。巻一(一一)に出た。皇子が松を結ばれた時から大宝元年までだけでもすでに四十三年を経ている。相応な松でなければならぬ。「うれ」は、草木の生長盛りの物の末の部分の称。○又見けむかも 意吉麿の(一四三)の結句と同じ。
【釈】 後に見ようと思って皇子が結んだ、磐代のこの松の梢を、またも見られたであろうか。
【評】 結び松を見て有間皇子を思い、その呪いのかなわなかったことを通して皇子を憐れんだ心のものである。憐れみという一事だけを捉え、落着いた、緩やかな調べをもっていっているので、美しさの添ったものとなっていて、そこに魅力がある。(一四三)の意吉麿の歌以後のものと同じく、結び松にちなみのあるものとして、時代にかかわらずに添えたものである。一応完結させて注を添えた後に、さらに同じ性質のものを続けているのは、前例にならって後人のここに書き入れたものであることを語っている。
 
     近江大津宮御宇《あふみのおほつのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代  天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇、謚を天智天皇と曰す
 
【標目】 巻一に出た。
 
     天皇 聖躬不予の時 太后《おほきさき》の奉れる御歌一首
 
【題意】 天皇は、天智天皇。聖躬は天皇御一人にのみ使う語。不予は天皇の病いにかからせ給う意。この事は日本書紀に、天皇の十年九月と十月の条に出ている。その間のことである。太后は、当時皇后を称した国語で、他の妃嬪と区別しての称。皇后は倭姫皇后で、天皇の庶兄|古人大兄《ふるひとのおおえ》の御娘。天皇の皇太子の時よりの妃で、皇后となられた方である。
 
147 天《あま》の原《はら》 振《ふ》り放《さ》け見《み》れば 大王《おほきみ》の 御寿《みいのち》は長《なが》く 天足《あまた》らしたり
    天原 振放見者 大王乃 御壽者長久 天足有
 
(229)【語釈】 ○天の原 「天の原」は、広い天の意。天は空とは別なもので、上代信仰では儼たる霊界とし、聖寿も一にそこにあるものとしてのもの。○振り放け見れば 「振り」は、動詞に冠する強意の語。「放け」は、距離をつけることで、ふり仰いで見れば。祈りの状態である。○大王の御寿は長く 「大王」は、天皇。「御寿は長く」は、聖寿は長久に。○天足らしたり 「天足らす」は、一語で、「足らす」は足るの敬語、「たり」は「てあり」の約で、天に充足していらせられるの意である。
【釈】 広い天をふり仰いで見ますと、天皇の御寿《みいのち》は、天に充足していらせられます。
【評】 御作歌の事情は、題詞で明らかである。天皇御不予にて、御大事に見えた時、皇后が信仰の対象となっていた広い天を仰ぎ、聖寿の万歳を祈った際の直覚で、祝いの心をもって天皇に奉った御歌である。一首、熱意をもってただちに信仰の中核を詠まれたもので、心と調べとが渾然と溶け合って、高い響となっているものである。王者のみのもちうる堂々たる貫禄のある御歌である。
 
     一書に曰はく 近江天皇の聖体不予 御病|急《すみやか》なりし時 太后の奉献《たてまつ》れる御歌一首
 
【釈】 これは、別の資料にあった歌で、類をもってここに収めたものである。
 
148 青旗《あをはた》の 木旗《こはた》の上《うへ》を 通《かよ》ふとは 目《め》には見《み》れども 直《ただ》にあはぬかも
    青旗乃 木旗能上乎 賀欲布跡羽 目尓者雖視 直尓不相香裳
 
【語釈】 ○青旗の木旗の上を 「青旗」は、青い色をした旗で、これは旗布の色をいったもの。青い色というのは、麻布《あさぬの》の色だろうと『全註釈』はいっている。「の」は、同意義の名詞を連続させる意の助詞。「木旗」は、木すなわち棹にたらした旗である。これは現在でも祭礼の時に立てる幟《のぼり》と同じ性質の物である。幟は天降《あまくだ》る神霊の宿られる物として祭場に立てる物である。この場合もその意味の物で、神々の加護を乞うために幟を立ててあつたと解される。したがって一本とは限らない。「上を」は、その幟の上辺を。○通ふとは 過ぎてゆくとは。上代の人は肉体と魂とは別箇のもので、肉体に魂が鎮まっている時は健康な時、魂が離れ去る時がすなわち死だと信じていた。この「通ふ」は天皇の御魂が聖躬を離れて神上《かんあが》りされる状態である。したがって「御病急なりし時」は崩御の直前の意で、ここは崩御の際のことである。○目には見れども直にあはぬかも 「目には見れども」は、天皇の御魂の過ぎゆくことを目には見るけれども。「直にあはぬ」は、御魂と直接には逢い得ない意で、「かも」は詠歎である。これは御魂の過ぎゆくことを、木旗のその時の状態で感じ得られるが、御魂そのものを直接に認めることはできない嘆きである。この二句(230)は信仰の上に立つての一瞬時の精神状態の叙述で、隠微な消息である。
【釈】 青い旗布で、棹にたらした旗の上を、天皇の御身を離れた霊は通ってゆくとは、目には見るけれども、直接にはお逢い申せないことであるよ。
【評】 倭姫皇后が、近江天皇の御病いが切迫された際、「青旗の木旗」に御目を注いでいられたというのは、宮廷の庭上を祭場として神々へ祈願を立て、天降《あまくだ》る神々を待っていられたためであろう。しかるにその立て並べてある旗がこちらからそちらへかけて揺らぎ渡るというような状態を認め、天皇の御魂が神上《かんあが》られたということを意識された際の御心境の表現である。中核はその際の皇后の悲しみであろうが、その悲しみは崩御そのことに対してのものではなく、神上ります御魂を直接目に見ることのできない悲しみなのである。死生は一に天の原にまします神々の意志によることとし、また御魂は不滅のものであると徹底的に信じていられるところから、このような悲しみ方をしたものと察しられる。その徹底の程度は、「青旗の木旗の上を通ふとは」と、印象的に、細かく旗の状態を叙し、「通ふとは」の一句によって、天皇の御魂の神上られたことをあらわしているのは、その事自体はくわしくはいうにも及ばないとされている表現、また、「目には見れども直にあはぬかも」と、御魂そのものを直接には認め難いことをもって、悲しみの頂点とされている表現、さらにまた、一首全体を貫いている沈静なる美しさは、その信仰の徹底した深さはもとより、皇后の人柄のゆかしさをも十分にうかがわせる御歌である。上の作と相並んで珍重すべき御歌である。
 
     天皇|崩《かむあが》り給ひし時 倭太后の作りませる御歌一首
 
149 人《ひと》はよし 念《おも》ひ息《や》むとも 玉蘰《たまかづら》 影《かげ》に見《み》えつつ 忘《わす》らえぬかも
    人者縱 念息登母 玉蘰 影令所見乍 不所忘鴨
 
【語釈】 ○人はよし念ひ息むとも 「人は」は、我以外の者はで、御自身に対させたもの。「よし」は、そのままに許す意で、よしやというにあたる。「念ひ息むとも」は、「息む」は止むで、慕い止める、すなわち忘れるともで、崩御せられた天皇に対する悲哀の情に対していわれたもの。○玉蘰 『講義』は、日本書紀、持統天皇元年三月の条に、「以2花縵1進2于殯宮1此曰2御蔭1」とあり、また翌二年三月の条にも「以2花縵1進2于殯宮1」とあるを引いている。これは天武天皇の殯宮の時で、ここもそれと同じ花縵である。「玉」は美称で、「蘰」は蔓を編んで花環のようにした物である。「蔭」とも呼んだので、同音の語の「影」につづけ枕詞とする。○影に見えつつ 「影」は、蔭を同音異義で転じたもので、面影の意。「つつ」は、継続。○忘らえぬかも 「忘らえぬ」は、忘られぬ、すなわち忘れられぬ。「かも」は、詠歎。
(231)【釈】 他人はよしや崩御の天皇を思いやむことがあろうとも、我はこの玉かずらの蔭につながりある御面影に見えつづけていて、忘れられないことであるよ。
【評】 題詞と、枕詞としての玉かずらとによって、殯宮においての御歌と思われる。一首、御思慕の深きものを胸に湛えて、静かに、しかし張った調べをもって詠ませられているもので、御気息をも感じうる感のあるものである。「人はよし念ひ息むとも」の仮設は、御自身の深い御嘆きに対照させるための技巧と思われるが、全体の上から見ると、それだけにとどまらず、こうした際もひとり高所に立っていらせられる高貴な方の御心を思わせるもので、余情の形において御人柄を偲ばせる御歌である。
 
     天皇|崩《かむあが》り給ひし時 婦人《をみなめ》の作れる歌一首 【姓氏いまだ詳かならず】
 
【題意】 婦人は、「後宮職員令」の義解に、「宮人謂2婦人仕官者1之惣号」とある。その何びとであったかはわからない。注はそのことをいったものである。
 
150 うつせみし 神《かみ》にあへねば 離《はな》れ居《ゐ》て 朝《あさ》嘆《なげ》く君《きみ》 放《さか》り居《ゐ》て 吾《わ》が恋《こ》ふる君《きみ》 玉《たま》ならば 手《て》に巻《ま》き持《も》ちて 衣《きぬ》ならば 脱《ぬ》ぐ時《とき》もなく 吾《わ》が恋《こ》ふる 君《きみ》ぞきぞの夜《よ》 夢《いめ》に見《み》えつる
    空蝉師 神尓不勝者 離居而 朝嘆君 放居而 吾戀君 玉有者 手尓卷持而 衣有者 脱時毛無 吾戀 君曾伎賊乃夜 夢所見鶴
 
【語釈】 ○うつせみし神にあへねば 「うつせみ」は、現身《うつせみ》で、現《うつ》し身《み》の転。この世に生きている身の意で、幽《かく》り身すなわち幽界に存在している身に対させた語。婦人自身をいったもの。「し」は、強め。「神にあへねば」は、「神」は、今は幽り身とならせられた天皇を申したもの。「あへねば」は、「あへ」は堪えの意のもので、御供をするに堪えねば、すなわち御供を仕えることができないのでの意。○離れ居て朝嘆く君 「離れ居て」は、現《うつ》し世と幽《かく》り世と相離れていて。「朝嘆く」の「朝」は、下の「嘆く」時をいったもの。「嘆く」は、悲しんでため息をつく意。「君」は、(232)天皇。○放り居て吾が恋ふる君 「放り居て」は、上の「離れ居て」を語を換えていったもの。すなわち謡い物の対句の意のものである。「恋ふる」は、あこがれているの意で、これも「嘆く」と内容を同じゅうしたもの。「君」は、上と同じ。○玉ならば手に巻き持ちて 「玉」は、上代の人はそれを緒に貫いて、頸、手、足に着けて、きわめて貴んでいたものである。「玉ならば」は、天皇がもし玉にましましたならばで、天皇を尊んでの譬喩である。「手に巻き持ちて」は、手玉として、手に巻いて持って。上代の人は、その物をわが肌身《はだみ》に着けているということは、その物と我との間に深い交流のあることとして、特殊な親しさを感じたのである。ここはその親しさの方をいったのである。○衣ならば脱ぐ時もなく 「衣ならば」は、天皇がもし衣にましましたならばで、上の「玉」の連想からいいっづけたもの。この「衣」は、上の「玉」の、貴さを主とした譬喩に較べると、親しさの方を主としたものである。「脱ぐ時もなく」は、わが肌身より離す時もなくで、親しさを強調したもの。「も」は、詠歎の助詞。「玉ならば」以下四句は、下の「恋ふる」に、それのごとくの意をもって、修飾格として続くもの。○吾が恋ふる君ぞきぞの夜夢に見えつる 「吾が恋ふる君」は、わが恋いまつる天皇が。「きぞの夜」は、昨夜の意の古語。「夢」は、上代は精神の感応より見えるもので、その感応は思い思われるところから起こるものと信じていた。この信仰は次第に薄らいだが、遠く後世にも及んでいる。これはその信仰の強い頃のものである。「つる」は、上の 「ぞ」の結びで、君が昨夜夢に見えられたことであるよの意。
【釈】 現し世にある身の我は、幽り世に移らせられた神の御供をすることはできないので、離れていてこの朝を嘆きまつるわが大君よ。遠ざかっていてわがあこがれまつる大君よ。大君がもし玉ならば、わが手に巻き持っていて、大君がもし衣ならば、脱ぐ時もなく身に着けていようと、そのようにもわがあこがれまつる大君が、此夜《よべ》は、わが夢にお見えになられたことであるよ。
【評】 後宮に仕えていた一婦人の挽歌で、その氏の逸せられているのはおそらく身分の高くなかったためと思われる。歌は当時すでに古風となっていた長歌の形式を選び、いうことは、一夜天皇を夢に見まつったということに即し、実感をそのままに素樸に述べたものである。後宮の女官としての立場にあって挽歌を詠むのに、天皇に対しまつっての思慕の情を述べるということは、事としては怪しむに足りないが、しかしその思慕は、太后の仰せられるのと同じ範囲のもので、異なるところはやや控えめにしているというだけである。これは後より見ると狎近しすぎたことという感がないでもないが、これは当時夢というものに対する神秘感が深く、ことにそれの深い女性の、実感に駆られるがままに、当時型となって行なわれていた挽歌の様式によって詠み出したものであろうと思われる。その技巧の熟さないのは、「離れ居て朝嘆く君、放《さか》り居て吾が恋ふる君」という、一首の中の重なる技巧である対句の、上二句にあっては「朝」が唐突で熟さず、下二句は単なる繰り返しで、謡い物の繰り返しの型を踏襲するにすぎないのでも知られる。「玉ならば」「衣ならば」の対句は、きわめて常套的なもので、おそらく型となっていたものの踏襲で、その狎近にすぎるものであることも思い得なかったのではないかと取られる。一首、この際の他の挽歌に比して甚しく見劣りのするのは、これが当時の教養の水準であって、そうした者の天皇に奉る挽歌であるからというゆえをもって採録されたものかと思われる。
 
(233)     天皇の大殯《おほあらき》の時の歌二首
 
【題意】 殯《あらき》は新城《あらき》の意で、大は尊んで添えた語である。天皇崩御の後、大葬までの間は、新たに構えた別宮に安置するのが定めで、その別宮がすなわち大殯である。日本書紀、天智天皇十年十二月に「癸亥朔乙丑(三日)天皇崩2于近江宮1、癸酉(十一日)殯2于新宮1」とあるはすなわちこの時である。
 
151 かからむと 予《かね》て知《し》りせば 大御船《おほみふね》泊《は》てしとまりに 標《しめ》結《ゆ》はましを 額田王
    如是有刀 豫知勢婆 大御船 泊之登万里人 標結麻思乎 額田王
 
【語釈】 ○かからむと予て知りせば 「かからむと」は、「と」に諸本「乃」とあるのを『代匠記』が「刀」の誤字として正したものである。上代仮名遣いで「刀」は甲類で、ここは乙類の「跡」であるべきだとの異見が出ているが、『注釈』は「刀」と「跡」とは古くから混乱していると例を引いて否定している。かくあらむとで、かくは、殯宮に移らせられた聖体を、眼の前に拝しての語。「予て知りせば」は、前もって知っていたならば。○大御船泊てしとまりに 「大御船」は、大も、御も尊んでの語で、天皇の御船をいったもの。皇居に近い湖上に御遊びになられるためのもの。「泊て」は、船の行き着いて止まる意で、(五八)に出た。「とまり」は、とどまる所で、船着き場をいう。この「とまり」は次の歌によって、辛埼であることがわかる。また、(三〇)の「楽浪《ささなみ》の志賀《しが》の辛崎|幸《さき》くあれど大宮人の船待ちかねつ」でも明らかである。○標結はましを 「標」は、禁忌の意をあらわす物で、それを施してある土地あるいは物は絶対に犯すことができないということが上代の信仰であった。代表的な例は、古事記上巻、天岩戸の段の、天照大神を天岩戸よりお出し申した続きに、「布刀玉命以2尻久米繩1控2度其御後方1白言、従v此以内不v得2還入1」というのがそれである。ここもその意の標である。「結はましを」は、結おうものをで、標繩を結いめぐらして、何物をも入れなくしようの意である。古代には病気は、目に見えぬ悪い精霊の身に憑《つ》くから起こることと信じていた。天皇の御病気は湖上の御舟遊の直後から起こったものとみえる。標は悪精霊を防ぐためのことと解せる。○額田王 作者の名としてのもので、原拠となった本がこの書式になっていたゆえの書き方と思われる。これは前にも例のあったものである。次の歌も同様である。
【釈】 このような御事があろうと、前もって知っていたならば、湖上に御舟遊のあった際、大御船の行き着いてとどまった所に、お憑《つ》き申そうとする悪精霊を防ぐ標を結おうものを。
【評】 天皇の殯宮の歌は、この歌を初めとして、これに続く二首ともいずれも、近江の湖を捉えて天皇を偲びまつる料としたもののみである。天皇を偲ぶ刺激としては、さまざまの物があったろうと思われるのに、一に湖に限っているのは、思うに天皇御不予の前の、最も印象的なこととして舟遊のことがあったので、それとこれとを関係づけ、御不予は湖上にいる悪霊の業(234)だと解し、そのことは信仰上、自明のこととし、また、恐れ多いとする心から、わざと直接な触れ方はしなかったことと思われる。この歌は深い嘆きと愚痴をいったものであるが、それとしては中核の一点だけを捉え、しかも婉曲にいい、一切はしみじみした声調に托しているものである。王にふさわしい歌である。今一つは、殯宮が湖水を展望できる位置に営まれており、そこに侍していて挽歌を詠もうと思うと、実際に即して歌作していた関係上、勢い天皇を湖に結びつけるようになったためであろう。「かからむと」と言い起こし、「標結はましを」と結んだこの歌は、この際のものとしてはややもの遠く、上のように解せざるを得ないところのあるものである。崩御を天皇の御意志よりのこととする思想は、後の柿本人麿の挽歌にも現われているもので、天皇を絶対の神と仰ぐ心より出ているものである。さかのぼっての上代より伝わっているものと思われる。
 
152 やすみしし わご大王《おほきみ》の 大御船《おほみふね》 待《ま》ちか恋《こ》ふらむ 志賀《しが》の辛崎《からさき》 舎人吉年《とねりのきね》
    八隅知之 吾期大王乃 大御船 待可將戀 四賀乃辛埼 舎人吉年
 
【語釈】 ○やすみししあご大王の 「やすみしし」は、既出。「わご」は、(五二)に出た。「ご」は「吾が大王」の「が」と「お」の約まったもので、謡い物の系統の語である。○大御船待ちか恋ふらむ 「か」は、疑問。待ち恋っているであろうか。○志賀の辛崎 (三〇)に出た。現在の滋賀の唐崎で、上の歌の「泊てしとまり」とある所である。そちらは船の着く所としていっているが、こちらは船の発する所としていっている。辛崎を有情の物としていっているが、これは(三〇)でもいったがように、上代には土地を、土地であると同時に神であるとする信仰があったので、その意味で有情としていたと解せる。すなわち文芸性の上から擬人したのではなく、信仰の上から当然のこととして有情の物としたのである。しかし、この神性には程度があって、(235)天皇の崩御のことは知り得ず「待ちか恋ふらむ」と疑わしめる程度の神性だったのである。○舎人吉年 「舎人」は氏、「吉年」は名で、「きね」と訓むだろうとされている。女官の一人である。
【釈】 安らかに天下をお治めになられるわが天皇の、湖上御遊覧の大御船の発するのを、崩御の事は知らずに、待ち恋っているであろうか、志賀の辛埼は。
【評】 殯宮に侍して、志賀の辛崎を望み、天皇の湖上御遊覧の時のことを思い浮かべて、眼前の御状態を悲しんだ心のものである。その点は上の額田王の歌とすべて同一で、異なるところは、王は「標結はましを」と、しようとすれば自身できることをしなかったとして嘆いているのに、吉年は自身には直接関係させず、「志賀の辛崎」に関係させ、辛埼のもつあわれさをいうことによって、わが嘆きをあらわしているのである。すなわち間接な方法によって嘆いているのである。この間接な方法を取っていることは、これを歌の上から見れば、一見文芸性のさせていることのごとくに見えるが、額田王の歌と比較して見ると、文芸性よりのことではなく、自身の身分の低さを意識し、王と同じ態度をもって悲しみを抒べるのは憚りありとして、卑下の心からわざと間接にしたものと解される。すなわち実用性の上より、そうせざるを得ずしてした結果が、たまたま文芸性のもののごとき形となったのだと解せる。この歌は「わご」という謡い物の語を用いている点、「志賀の辛崎」を有情のものと見ている点など、いずれも古風を旨とした歌であるということがわかる。なお上に引いた(三〇)の柿本人麿の反歌「楽浪《ささなみ》の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」は、この歌の影響のあるものだということが注意される。
 
     太后《おほきさき》の御歌《みうた》一首
 
【題意】 太后は、倭姫皇后である。御歌は上の二首と同じく、大殯の間のものである。
 
153 鯨魚取《いさなと》り 淡海《あふみ》の海《うみ》を 沖《おき》放《さ》けて こぎ来《く》る船《ふね》 辺附《へつ》きて こぎ来《く》る船《ふね》 沖《おき》つかい いたくなはねそ 辺《へ》つかい いたくなはねそ 若草《わかくさ》の 夫《つま》の 念《おも》ふ鳥《とり》立《た》つ
    鯨魚取 淡海乃海乎 奧放而 榜來船 邊附而 栲來船 奧津加伊 痛勿波祢曾 邊津加伊 痛莫波祢曾 若草乃 嬬之 念鳥立
 
【語釈】 ○鯨魚取り淡海の海を 「鯨魚取り」は、(一三一)に出た。「鯨《いさ》」は、鯨《くじら》の古語。鯨を取ることをする意で、海の枕詞。「海」に続く。(236)「淡海の海」は、琵琶湖。○沖放けてこぎ来る船 「放けて」は、離れさせてで、岸より沖の方に離れさせて。これは下の「辺附きて」に対させたもの。「こぎ来る船」は、こちらへ向かって漕いで来る船よの意で、こちらというのは太后のいらせられる所で、殯宮と取れる。○辺附きてこぎ来る船 「辺」は、海の陸に近い所。「附きて」は、寄りついて。○沖つかいいたくなはねそ 「沖」は、下との続きで、沖の方の船の意。「つ」は、の。「かい」は、現在と同じく櫂《かい》で、水を掻いて船を進める具。「かい」の用例は、集中に少なくない。「いたくなはねそ」は、「いたく」は、甚だの意の形容詞で、現在も行なわれている。「な……そ」は、その中問に動詞の連用形を置いて、禁止をあらわす格。「はね」は、撥《は》ねで、水を撥ねさせる意。現在も行なわれている語。○若草の夫の念ふ鳥立つ 「若草の」は、春の若い草の意で、その愛らしい意味で、夫にかかる枕詞。「夫の」は、上代は、夫婦のどちらもその相手を「つま」と呼んだ。ここは太后の天皇を申したもので、夫の意のもの。三音一句。「念ふ鳥立つ」は、「念ふ烏」は、愛している鳥で、湖上に棲む水鳥を、叡覧され愛でさせられたところからの語。「立つ」は、水の撥ねるのに驚いて、飛び立つ意。結末の五三七の形は、この時代の長歌に共通なもので、時代の特色をなしているものである。
【釈】 近江の海を、岸より沖の方に離れさせて、こちらへ向かって漕いで来る船よ。岸の方について、こちらへ向かって漕いで来る船よ。沖の方の船の櫂よ、甚しくは水を撥ねさせるなよ。岸の方の船の櫂よ、甚しくは水を撥ねさせるなよ。夫《つま》の君の、叡覧され愛《め》でさせられたその水鳥が驚いては飛び立つ。
【評】 太后が殯宮にて湖上をひろく展望され、沖の方をこなたへ向かって来る船、岸寄りの方をこなたへ向かって来る船の、その来るがままに、水面に浮かんでいる鳥の、驚いて飛び立つさまを御覧になられ、それに関連して、それらの水鳥は、天皇御在世のみぎり、御覧になり愛でられた水鳥だと思われ、遺愛に堪えられずにお詠みになったものである。時は十二月であったから、湖上のそうした状態は、さやかに御眼にとまって、「沖つかいいたくなはねそ、辺つかいいたくなはねそ」というような微細なこともいわれたものと思われる。一首は、事としても、また心としても単純なもので、作歌に長《た》けさせられた太后にあっては、これを短歌形式にお詠みになろうとすれば、必ずしも困難なものとは思われない。それをわざと長歌形式になされたということは、場合がら、当時としてはまだ新風の趣のある短歌形式よりも、伝統的な、古風な長歌形式の方が適当だと思われてのことと思われる。長歌形式ということは、言いかえると謡い物ということで、この御歌はその趣を濃厚にもっているものである。
 一首の語《ことば》続きは直線的で、したがって意味は明晰で、一首の味わいとしては平面的である。加えてこの短い長歌に、二句対が二回まで用いられているのは、謡い物の特質を濃厚にもったものといえる。上代は、一般の風として、人の死後、葬送をするまでの期間は、その人の死を悲しむことをするとともに、その人を慰める心をもって歌舞をする風のあったことが文献に見えている。この御歌の長歌形式は、その意味の歌ということに関連をもったものではないかと思われる。一首の感味の上からいうと、眼前の湖水を、「鯨魚取り淡海の海を」と、客観的に、荘重に言い起こされ、続く二句対二回の畳用は、あくまで事象に即して、しかも感覚的の細かさを交へ、結末、「若草の夫の念(237)ふ鳥立つ」と、太后以外の者にはいうを許されない親愛の情を、余情をもって言いおさめられて、一首を渾然としたものにしているところ、長歌の方面にも手腕の秀でていられたことを示すものである。なおこの御歌には、「沖放けて」「辺附きて」と、船のこぎ場所を注目していられる。これは実際の印象で、陥るところは多くの水鳥ということを暗示されようがためである。海上をこぐ船は、余儀ない場合を除くのほか、できうる限り辺に付けてこぐのが当時の風であったと思われる。今は湖上で、水のはねるのさえも見えるような静穏な日なので、そうした時には「沖放けて」こぐことも行なわれていたことが注意される。
 
     石川夫人《いしかはのぶにん》の歌一首
 
【題意】 夫人は、後宮の職名で、妃の次、嬪の上の位地で、臣下の出としては最上級の職である。(一〇三)の「題意」参照。『講義』は、日本書紀によると、天皇には妃の外四嬪があったが、夫人はなかった。その四嬪の中に、蘇我山田石川麿の大臣の女である越智娘と姪娘の二人がある。そのいずれかであろうといっている。
 
154 ささ浪《なみ》の 大山守《おほやまもり》は 誰《た》がためか 山《やま》に標《しめ》結《ゆ》ふ 君《きみ》もあらなくに
    神樂浪乃 大山守者 爲誰可 山尓標結 君毛不有國
 
【語釈】 ○ささ浪の大山守は 「ささ浪」は、近江国南方一帯の地名で、皇居はその内にあった。「大山守」は、「大」は、美称。「山守」は、山を守る者すなわち山番で、所有の山の竹木の盗伐されるのを番をして防ぐ者の称である。「大山守」は、御料の山の山番をする官。○誰がためか山に標結ふ 「誰がためか」は、「か」は疑問で、誰のためにかの意。「標結ふ」は、(一五一)に出た。「山」に入るを禁じるための標で、繩の類を結ったものと取れる。○君もあらなくに 「君」は、山を領したまう天皇。「も」は、詠歎。「なく」は、打消の助動詞「ず」の未然形「な」に、接尾語の「く」を添えて、名詞としたもの。「に」は詠歎。「あらなくに」は、あらぬことだのにの意。
【釈】 このささなみにある御料の山を守る大山守は、誰のために山に標を結って置くのであろうか。今は領したまう大君もないことであるのに。
【評】 殯宮の御事の折、何かの機会に、御料の山に以前のままに標の結われてあるのを見て、強い感傷を発しての作である。人の死後、その人に属した物を見ると感傷させられるのは、共通の人情で、生前は無関心で過ぎた小さな物に対して、ことに(238)この感の強く起こるのは常のことである。今も当然のことに対して、「誰がためか山に標結ふ」と強くも疑っているのである。この点は(一五三)の太后の御歌の水鳥も同様である。
 
     山科《やましな》の御陵《みはか》より退散《あらけまか》りし時 額田王の作れる歌一首
 
【題意】 山科の御陵は、天智天皇の山陵である。延喜式、諸陵寮式の注に、「近江大津宮御宇天智天皇、在2山城国宇治郡1、兆域東西十四町、南北十四町、陵戸六烟」とある。京都市東山区御陵町にある。御陵は、歌の方では「みはか」と訓ませている。『新撰字鏡』には「弥佐々木」の訓がある。それにつき『講義』は、その物についていう時には「みささき」といい、その主についていう時は「みはか」といったもののようだといっている。「退散りし時」というのは、殯宮に奉仕する事が終わった時である。奉仕する者は、皇族の御方々、大臣、下って側近に奉仕していた者で、昼夜に分けて交代に奉仕するのである。その期間は明らかにされていないが、持統天皇の皇太子日並皇子尊の殯宮の期間は、歌によって一年間であったことが知られる。『考』はそれによって一年間としている。
 
155 やすみしし わご大君《おほきみ》の 恐《かしこ》きや 御陵《みはか》仕《つか》ふる 山科《やましな》の 鏡《かがみ》の山《やま》に 夜《よる》はも 夜《よ》のことごと 昼《ひる》はも 日《ひ》のことごと 哭《ね》のみを 泣《な》きつつありてや ももしきの 大宮人《おほみやびと》は 行《ゆ》き別《わか》れなむ
    八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳呼 泣乍在而哉 百磯城乃 大宮人者 去別南
 
【語釈】 ○やすみししわご大君 既出。○恐きや御陵仕ふる 「恐き」の訓は、集中の仮名書きの例によるもので、本居宣長の訓。「恐き」は連体格で、「御陵」に続き「や」は間投の助詞である。申すも恐れ多いの意。「御陵仕ふる」は、御陵の奉仕をするで、御陵に関する一切の事をいう。ここは殯宮へ侍する意、御陵にの意。○山科の鏡の山に 「山科」は、上にいった。今は京都市東山区である。「鏡の山」は、御陵のある山の名で旧名である。○夜はも夜のことごと 「はも」の「も」は、軽い詠歎。「ことごと」は、ことごとくの語幹で、意味はことごとくと同じ。夜は夜どおし。○昼はも日のことごと 上の二句と対句としたもの。○哭のみを泣きつつありてや 「哭」は、泣き声で、「のみ」は、ばかりの意。「泣きつつ」は、泣き続ける。「や」は、疑問の助詞で、結句へつづく。音《ね》泣くは悲しみの深い時にすることで、そうした悲しみばかりをしつづけての(239)意。○ももしきの大宮人 既出。巻一(二九)参照。○行き別れなむ ここを去って、散り散りに別れ行くであろう。
【釈】 やすみししわご大君の、恐れ多い御陵《みはか》の奉仕をするとて、山科の鏡の山に夜は夜《よる》どおし、昼は一日じゆう声を立てて泣くことばかりしつづけていた大宮人は、散り散りに別れて行くであろうか。
【評】 題詞のように、山科の殯宮に奉仕していた大宮人が、その期間が過ぎて退散した際に、額田王の作った歌で、額田王はその奉仕の中に加わっていてのことである。殯宮の奉仕は期間の定まっていてのことであるが、今はその事が終わるとなると、悲哀の新たなるものがあったことは察しやすいことで、その悲哀を歌にあらわすということはやがて奉仕であって、またしなくてはならないことではなかったかと思われる。歌は事柄としては取り立てていうほどのものはなく、短歌でも足りるものである。これを古風な長歌とし、しかも口承時代の風の濃厚なものとしているのは、その場合としてその必要があったためではないかと思われる。部分的に見ても、「わご大君」といい、「夜はも」「昼はも」と、成句となっている簡素な語を用い、また一方では、殯宮ということを「恐きや御陵仕ふる山科の鏡の山」という荘重な言い方をしているのも、すべて必要に応じてのことと思われる。一首、語がきわめて少なく、また間《ま》がきわめて静かなのは、その悲哀の情をあらわすに適切なものである。この時宜に適させているところに手腕がうかがわれるものである。
 
   明日香清御原宮御宇《あすかのきよみはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代  天渟中原瀛真人《あめのぬなはらおきのまひと》天皇、謚を天武天皇と曰す
 
【標目】 巻一(二二)、上の(一〇三)に出た。
 
     十市皇女《とをちのひめみこ》薨《かむあが》り給ひし時の高市皇子尊《たけちのみこのみこと》の御作歌《みうた》三首
 
【題意】 十市皇女のことは、巻一(二二)に出た。天武天皇の皇長女で、御母は額田王。弘文天皇の妃となられ、葛野王を生まれた。壬申の乱の後は、天武天皇の許に帰っておられたが、天皇の七年、卒然として薨去になられたことが、日本書紀、天武紀に載っている。それは、七年「夏四月丁亥朔、欲v幸2斎宮1(斎宮は倉梯河上に立てられたもの)卜v之、癸巳食v卜。仍取2平旦時1警蹕既動、百寮成v列、乗輿命v蓋。以未v及2出行1、十市皇女卒然病発、薨2於宮中1。由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣」というのである。また、同じく、「庚子葬2十市皇女於赤穂1。天皇臨v之、降v恩以発v哀」ともあって、その不慮の薨去であったこと、天皇の深く哀悼し給うたことが知られる。高市皇子は、(一一四)に出た。十市皇女の異母弟で、尊称を添えてあるのは、次の持統天皇の御代、皇太子草壁皇子尊の薨去の後、皇太子に立たれたがためで、その事は、天皇の十年七月の条に、皇(240)子の薨去を、「後皇子尊薨」と、皇太子に限った尊の尊称をもってしているので知られる。この題詞の記しざまは、皇太子になられた後のものである。
 
156 三諸《みもろ》の 神《かみ》の神杉《かむすぎ》 已具耳矣 自得見監乍共 いねぬ夜《よ》ぞ多《おほ》き
    三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍共 不寝夜叙多
 
【語釈】 ○三諸の神の神杉 「三諸の」は、四音一句で、下の「神」に続くもの。「三諸」は、御室にあてた字で、普通名詞であるが、この当時は三輪山を意味するものとなっていた。ここはそれである。「神の神杉」は、「神」は三輪の神で、皇居が大和にあった時代は、特に皇室の崇敬した神である。「神杉」は、特に神に関係の深い杉の意。関係というのは、神霊は清浄なる木に降下されるものと信じ、それにあたる木としていた意である。そうした木は斎い清めて神聖なる物としていた。これは三輪の社にだけ限ったことではなく、社という社にあるもので、社の本質はそうした木で、この時代より一時代溯ると、この木が社その物だったのである。巻四(七一二)「味酒《うまざけ》を三輪の祝《はふり》が忌《い》はふ杉手触りし罪か君に逢ひ難き」は、その木の神聖視されていたことを示すもので、他にも例がある。以上二句、序詞の形となっているが、皇女の暗喩と取れる。皇子にとって皇女は貴く気高く感じられたのである。思慕の心よりのことである。○已具耳矣 自得見監乍共 三、四句にあたる部分であるが、古来訓み難くしている。諸注試訓を施しており、誤写としての改字も試みているが、徹しかねる感がある。○いねぬ夜ぞ多き 眠らない夜が多いことであるよで、悲しみを具象的にいわれたもの。
【釈】 上の理由で釈が付けられず、したがって評もできない。
 
157 三輪山《みわやま》の 山辺其蘇木綿《やまべまそゆふ》 短木綿《みじかゆふ》 かくのみ故《から》に 長《なが》くと思《おも》ひき
    神山之 山邊眞蘇木綿 短木綿 如此耳故尓 長等思伎
 
【語釈】 ○三輪山の 原文「神」は、三輪山の神を代表的の神としたところから、「三輸」にあてて用いていた。ここはそれだという古事記伝の解に従う。○山辺真蘇木綿 「山辺」は、山のあたりで、下の「真蘇」のある場所をいったもの。「真蘇」は、「真」は美称。「蘇」は、麻の意。麻苧《あさお》が上略されて麻苧《さお》と呼ばれ、それが約《つ》まって「蘇」と呼ばれたのである。すなわち「蘇」は製品の名であるが、それを素材である麻の方にまで及ぼしての称である。「木綿」は、衣服その他にも用いる繊維の総称である。上の麻、また藤、葛、楮《こうぞ》、栲《たく》、などの甘皮《あまかわ》から取るのである。この「木綿」も、心としては、木綿の素材の一つとしての麻であるが、製品の方に力点を置いた言い方をしたものである。一句、山のあたりに生えている、其蘇木綿となるところの麻の意である。麻は神前へ幣《ぬさ》として捧げる物で、そのつながりにおいて捉えている物。この句は、下の「短木綿」(241)と繰り返しの関係にあるもので、意味からいうと、下に「の」のあるべきところを、省いている形のものである。○短木綿 短い木綿の意と取れる。「短」は、木綿としての丈の短い意。「木綿」は、上の句のそれと同じく、製品としての称で、「短木綿」とはすなわち麻である。『仙覚抄』には、筑紫風土記に、長木綿、短木綿ということがあるといっている。それには説明はないが、そういう称があったとすれば、麻から取る木綿は、素材としての麻の茎が、他の素材に較べては短く、したがって木綿も短いので、たぶん麻から取った木綿の称であったろうと思われる。初句からこれまでの三句は、三輪山に鎮まります神の加護の下にある、短い物という意を具象的にいおうとされたもので、皇女の御命の短さの譬喩としてのものである。○かくのみ故に 「かくのみ」は、「かく」は、これほど、「のみ」は、ばかりで、「かく」を限ることによって強めたもの。これほどばかりにで、上の「短」をうけて、きわめて短いことをいったもの。「故に」は、巻一(二一)「入嬬故」に出た。理由をあらわす語で、「であるのに」というにあたる。一句、これほどまでに短い命をもっているものであるのに。○長くと思ひき 命長くあれと思ってきたことであったの意。
【釈】 三輪山の山のあたりに生えている麻の、その真麻木綿《まそゆう》の短木綿《みじかゆう》よ、これほどまでに短い命をもっているものなのに、命長くあれと思っていたことであった。
【評】 この歌は皇女の短命を悲しんだ心のもので、その短命は題意でいったがようにまさに悲しむべきものだったのである。皇子の悲しみは深いものであったと思われるが、事の性質上、それをあらわす語《ことば》は婉曲なものとなって、したがって真意の捉えやすくない感のあるものとなっている。問題は初句の「三輪山」にある。これは「語釈」でいったがように大和の京に住まれた皇女にとっては守護神であって、皇女の運命はこの神の御心にあるとされていたのである。皇女はついにこの神の加護を受けることができなかったのであるが、しかし事は畏い神に関するものであるから、それに対して怨みをいうべきではなく、いえば悲しみだけで、しかもその悲しみも婉曲な言い方のものでなければならないのである。初句より三句までは、三輪山の山辺の、大神に最も近く生えている、また、大神の御料の物である真蘇木綿のその短木綿というので、形としては短いという意の譬喩であるが、心としては皇女その人を暗示しているもので、いわゆる象徴の形のものである。「木綿」を畳んで繰り返しているのは、その短さを強くいうことによって、皇女の生命の短さを嘆いているのである。「かくのみ故に長くと思ひき」は、直接に皇女の薨去を嘆いたもので、意味からいうと、かくも短い生命と定まった方《かた》によって、我は愚かにも命《いのち》長かれと思って来たといって、事の一切を神意として、黙従して静かに悲しんでいられるものである。すなわち一首を貫いている心は、三輪山に鎮まる神を中心として、大神もいかんともし難い皇女の運命であったとして、それを悟り得ざる人間の愚かさを嘆かれたものである。これを歌を形の上から見ると、初句より三句までは象徴的な一つの纏まった心のものであるにかかわらず、「短木綿」の「短」は「長くと」の「長く」と対照するためのものとなっていて、その意味では単なる譬喩と見ざるを得ないものである。しかし、「三輪山の短木綿」は、一首の骨子で、それあるがゆえに一首の心は成り立っているきわめて重いものなの(242)である。ここにこの歌の複雑さがあり、解しやすくなさがある。それは事柄の性質上、そうせざるを得ずしてしたものであって、文芸的にしようとの要求から起こったことではない。文芸的となったのは必要に駆られてしたことの自然の結果なのである。この歌は表現の上からみると、高度の文芸性をもったものである。初句から三句までのもつ知的な具象力は上にいった。それを「短」の譬喩として「長く」に対照させたこともいったが、これも知的なものである。「かくのみ」の現在と、「思ひき」の過去との対照も知的なものである。一首知性が多分に働いているが、同時に初句より三句までは感性的で、全体として渾然とした豊かな趣をもったものとなっている。高度な文芸性をもったものというべきである。
 
158 山振《やまぶき》の 立《た》ち儀《よそ》ひたる 山清水《やましみづ》 酌《く》みに《ゆ》行かめど 道《みち》のしらなく
    山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴
 
【語釈】 ○山振の立ち儀ひたる 「山振」の「振」は、「振《ふ》る」を古語では「振く」といっていたので、それによってあてた字である。後世の山吹である。皇女の薨去は四月であったから、折から山吹は咲いていたとみえる。「立ち儀ひたる」は、「立ち」は接頭語。「儀」を「よそふ」と訓んだのは『代匠記』である、儀容と熟する文字で、古く「よそふ」にあてていた。二句、下の「山清水」の修飾である。○山清水 山の清水の意で、清水は、湧き出ずる水の意である。山清水は、山には共通のものであるが、ここは「山」に意味をもたせてある。この山は、皇女の御墓のある所としてのものである。古くは墓は丘陵など小高い所を選んで設けるのが普通だったからである。初句からこれまでは、山吹が、その黄色な花をもって装っているところの山清水よというので、心としては、皇女の御墓であるが、それをあらわす方法としては、御墓を間接なものとし、御墓のある山にありうる清らかに美しい光景を思い浮かべ、それの第一を山清水とし、ついで折から水辺には山吹の花が黄に咲いているところから、その山清水をも黄色にするまでに装っているものとしたのである。すなわち御墓を、実際に即しつつ極度に美化したのである。○酌みに行かめど 清水を酌みに行こうと思うけれどもで、心としては、御墓に詣に行こうと思うけれどもということを、「山清水」との関係において言いかえたものである。これも上の延長として、御墓詣ということを美化したものである。○道のしらなく 「しらなく」は知らなくで、打消の「ぬ」に「く」を添えて名詞形にしたもの。知らぬことよ、の意である。一句は、皇女の御墓に行くべき道を知らないということを、嘆きをもっていわれたものである。初句より四句まで、美化したものではあるが、実際に即して離れないものである。この結句は、一首の眼目であるのに、皇子が御姉皇女の御墓の道を知らないということは、実際としてはありうべきことではないことで、この「道のしらなく」も、上と同じく実際でなくてはならないこととなる。それだと、行こうとしても行き得ない所ということを、上と同じく美化していわれたものということになる。橘守部は、この結句から見て、これは幽冥界に対してのことであるとし、そこから推して、「山振の立ち儀ひたる山清水」というのは幽冥界を意味する漢語の黄泉という文字によっての想像だとし、「酌みに行かめど」も、いったがように、詣でようと思うけれどもの意だと解した。『講義』はさらにこれを精細にし、黄泉の黄は五行説では、黄色は地に属したものなので、地中を意味させた語で、黄泉は地中の泉の意であったが、それが転じて墓穴の意とな(243)った。墓は深く地を掘って泉に達せしめる意からである。それがまた転じて幽冥界の意となった。日本書紀の「泉」を冥界《よみ》にあて、「泉津醜女《よもつしこめ》」「泉津平坂《よもつひらさか》」などの文字は、黄泉の黄を略したもので、使用の由来の久しさからの略字だといっている。これに従う。
【釈】 山吹がそのほとりに咲き盛る花をもて黄に装っている、御墓のある山の清水を思わせる、その黄泉よ。我は姉皇女のなつかしさに、その泉を酌みに行こうと思うけれども、幽現、界《よ》を異にしているので、行く道を知らないことであるよ。
【評】 前の御歌と同じく、一方では実際に即しつつ、同時に他方では極度にまで文芸性を発揮し、双方を微妙に調和されたものである。作意は、御姉皇女のなつかしさに、幽冥界にまでもおとずれたいということである。高貴の御方には殯宮の事があり、一般の者も昼はもとより、夜も墓側に過ごす風が行なわれていて、幽冥界と現実界との隔たりは、後世よりははるかに近いものであった。したがって作意は実際に即したものであるといえる。幽冥界を思われると、黄泉ということが連想されたのであるが、この語はいったがように当時は一般化されていたもので、「泉《よみ》」という一字で幽冥界ということをあらわし得ていたのであるから、これまた実際に即しているといえる。その黄泉を思うと、御墓のある赤穂の山に、いずれの山にもある山清水と、折から眼前に咲いている山吹の花の、好んで水辺に咲いていることとを思われ、その花の水に映って、水をも黄に染めていることによって、一躍、黄泉のさまを連想されたのである。この飛躍は飛び離れたものであるが、状態としての自然があるとともに、御姉皇女のなつかしさに引かれての美化という心理的自然も伴っているものなので、さして飛躍を感じさせないものである。一首、気分に終始したものであるが、静かな態度をもって十分に具象化を遂げているために、無理を自然としているものである。時代的に見て、極度の文芸性をもった御歌である。高市皇子の御歌は以上の三首以外には残っていない。歌才の豊かであったことが想われる。
 
     紀に曰はく、七年戊寅の夏四月丁亥の朝にして癸巳の日、十市皇女、卒然《にはか》に病|発《おこ》りて宮の中に薨《かむあが》り給ひきといへり。
      紀曰、七年戊寅夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女卒然病發薨2於宮中1。
 
【解】 上に引いたことの要約である。丁亥の朔にして癸巳の日は七日。
 
     天皇|崩《かむあが》り給ひし時の太后《おほきさき》の御作歌《みうた》一首
 
【題意】 「天皇」は天武天皇。「崩り給ひし時」は、日本書紀、朱鳥元年九月の条に、「丙午天皇病遂不v差、崩2于正宮1。戊申始(244)発v哭。則起2殯宮於南庭1」とある時である。太后は、皇后の意で、後の持統天皇である。皇后初めの名は、※[盧+鳥]野讃艮《うのさらら》皇女。天智天皇の第二皇女。天武天皇の二年皇后となられた。
 
159 やすみしし 我《わ》が大王《おほきみ》の 夕《ゆふ》されば 見《め》したまふらし 明《あ》けくれば 問《と》ひたまふらし 神岳《かみをか》の 山《やま》の黄葉《もみち》を 今日《けふ》もかも 問《と》ひたまはまし 明日《あす》もかも 見《め》したまはまし その山《やま》を 振《ふ》り放《さ》け見《み》つつ 夕《ゆふ》されば あやに哀《かな》しみ 明《あ》けくれば うらさびくらし 荒《あら》たへの 衣《ころも》の袖《そで》は 乾《ふ》る時《とき》もなし
    八隅知之 我大王之 暮去者 召賜良之 明來者 間賜良志 神岳乃 山之黄葉乎 今日毛鴨 問給麻思 明日毛鴨 召賜万旨 其山乎 振放見乍 暮去者 綾哀 明来者 裏佐備挽 荒妙乃 衣之袖者 乾時文無
 
【語釈】 ○やすみしし我が大王の 既出。○夕されば 夕暮と時が移って来ればの意で、夕暮となれば。○見したまふらし 「見し」は、「見る」に敬語の「す」がつづき、「み」が「め」に転じたもの。「らし」は、現実の事をよりどころとしての推量をあらわす助動詞で、今は連体形であり、下の「神岳の山の黄葉」を生前御覧になったことである。一句、御覧になるであろうところのという意で、神霊として御覧になることと推量したのである。○明けくれば問ひたまふらし 「明けくれば」は、夜が明けて来れば。「問ひたまふらし」は、「問ひ」は訪《おとな》いの意で、上の「めし」に対させたもの。「らし」は、上と同じ。夜が明ければ訪って御覧になるであろうところの意で、これまた神霊としてのことである。○神岳の 神岳は、高市郡明日香村大字|雷《いかずち》にある雷丘《いかずちのおか》で、この丘は飛鳥浄見原の皇居より遠からぬ所にある。この丘は、三諸《みもろ》の神南備山《かむなびやま》とも、神南備の三諸の山とも、単に神南備山とも呼び、また神岳とも呼んでいたので、それについては『講義』は詳しい考証をしている。○山の黄葉を 神岳は黄葉の名所であったとみえる。天皇の崩御は九月であるから、黄葉の時季だったのである。○今日もかも問ひたまはまし 「今日も」は、今日もまた。「か」は、疑問、「も」は、詠歎の助詞。「問ひたまはまし」は、「問ひ」は、上の「問ひ」と同じく、訪って御覧になる意。「まし」は、条件付の仮想をあらわす助動詞で、今は条件は、天皇世にましまさばということである。上より続けて、今日もまた、天皇の世にましまさば、訪って御覧になることであろうか。○明日もかも見したまはまし 「明日もかも」は、上の「今日もかも」に対させたもの。「見したまはまし」の「見し」は、上のそれと同じ。二句、上の二句と対句としたもの。○その山を振り放け見つつ 「山」は、神岳で、上をうけて、天皇の御愛着の深いその山を。「振り放け見つつ」は、「振り」は接頭語。「放け」は距離をつける意で、遠くより見やる意をあらわす語。「つつ」は、継続。○夕さればあやに哀しみ 「あやに哀しみ」は、「あやに」は、いおうようもなく深くの意の副詞。○明けくればうらさびくらし 「うらさびくらし」は、「うらさび」(245)は、心の楽しまない意で、連用形。「くらし」は、日をすごし。○荒たへの 「荒たへ」は、和《にぎ》たえに対したもので、荒々しい織物、すなわち粗末なもの。喪服を意味させたもの。○衣の袖は乾る時もなし 「袖」は、涙を拭う物としていったもの。「乾る時もなし」は、涙に濡れとおして、その乾る時とてもないの意。
【釈】 やすみししわが大君の、今は神霊として、夕暮になると御覧になられるであろうところの、夜が明けてくれば訪《おとな》って御覧になられるであろうところの、神岳の山の黄葉を、もし世にましましたならば、今日もまた御覧になられることであろうか、明日《あす》もまた訪って御覧になられることであろうか。大君の御愛着の深いその山を、ひとり遠く見やりつづけ、夕暮になると、言おうようもなく深く悲しくて、夜が明けてくると、心楽しまずに終日をすごして、荒妙の喪服の袖は、涙に濡れとおして乾る時とてもない。
【評】 天皇の殯宮にいられた時、皇后が、「神岳の黄葉」を天皇の御形見と見て、天皇に対するごとき哀情を感じられての御歌である。形見の物を、さながらその人自体のごとく感じるのは、この時代の共通の信仰であって、また根深いものでもあった。この場合もそれで、皇后から見ると、「神岳の黄葉」はその際の第一の御形見だったのである。
 天皇の崩御は九月で、陰暦暮秋である。当時の風物で、秋より冬にかけての代表的なものは萩と黄葉で、その黄葉が色づこうとする時である。神岳は当時黄葉の名所だったとみえる上に、浄見原の皇居からほど近い所だったので、天皇の御関心が深く、朝に夕に、その黄葉の深まる程度を望まれ、またお訊ねにもなったのである。その御関心の深さがすなわち御形見になる理由で、また、その間《かん》の消息を誰よりも最もよく知っていたのは皇后であられるところから、皇后は、神岳の黄葉を、今も天皇の神霊の通いつづけていられることと信じ、天皇に対する心をもって「神岳の黄葉」を御覧になっているのである。すなわちこの場合の神岳の黄葉は、皇后には風物ではないのである。
(246) 一首二段より成り、前段は、「明日もかも見したまはまし」までで、一に天皇と神岳の黄葉とのつながりを叙したものである。「見したまふらし」「問ひたまふらし」の「らし」の助動詞は、根拠ある推量をあらわすもので、根拠とはこの場合、天皇の神霊のそれをなさるのを皇后の確認されたことである。これは信仰をとおしてのことである。「問ひたまはまし」「見したまはまし」の「まし」の助動詞は、仮設を条件としたもので、もし御在世であればとしてのものである。これは神去り給うた天皇としての嘆きである。いずれも「神岳の黄葉」を御形見と見ての範囲のことであるが、そこに皇后のお心の動揺が現われていて、しっかりと現実の上に立ってのお嘆きなのである。
 後段は、一転して、皇后御自身の哀傷である。「神岳の黄葉」にお心をつなぎ言葉少く、叙されているのは、それが礼儀であったと取れる。「あやに哀しみ」「うらさびくらし」は、徹底した現実味というべきである。
 表現形式から見ると、長歌形式はすでに古風な、特殊なものになっていたろうと思われる。その形式を選ばれているのは、儀礼としてのことと解される。その長歌も、さらに心して古樸な風を選ばれている。この長くない一首の中に、二句|対《つい》の対句を三つまで用いられている。しかしその対句は、古い歌謡に用いられている繰り返しに近いもので、文芸性を加えようとするものではなく、感を強めようとするだけのものである。これも皇后にそのお心があって、特に意図してなされたことであろうと思われる。
 また、長歌には反歌が添うこととなっていた時代であるのに、この長歌にはそれがない。これも一に古風に従ってと思われてのことと解される。
 一首全体として見ると、古風を念とされて、古樸に、簡潔に作られてはいるが、その信仰方面を除外すると、徹底した現実味をもち、また微細な気分をも盛られているところは、まさにこの時代のものである。優れた挽歌である。
 
     一書に曰はく、天皇の崩《かむあが》りましし時の、太上天皇の御製歌《おほみうた》二首
 
【題意】 「太上天皇」は、持統天皇で、この称をもってお呼びしたのは、文武天皇の御代である。「御製歌」というのも、その称に従っての語である。この題詞は、文武天皇の御代に記録せられた書にあるままをここに移したものと思われる。しかるに目録の方には、「一書の歌二首」とあるのみで、こことは異なっている。もとより太上天皇の御作歌としてのことで、内容としては同一である。一書というのが同一の物であったか、あるいは異なっていたのかはわかりかねる。
 
160 燃《も》ゆる火《ひ》も 取《と》りてつつみて ふくろには 入《い》ると言《い》はずや あはむ日《ひ》招《を》くも
    燃火物 取而※[果/衣のなべぶたなし]而 幅路庭 入澄不言八 面智男雲
 
(247)【語釈】 ○燃ゆる火も 燃え立っているところの火さえも。○取りてつつみて 手に取って、物に包んで。○ふくろには入ると言はずや 「ふくろ」は嚢。「は」は、強めの意のもの。「入ると言はずや」は、入れるというではないか、言っているで、「や」は反語。○あはむ日招くも 「面智男雲」は訓み無くして、さまざまの訓が試みられている。比較的穏やかなのは、『考』と『檜嬬手』とである。『考』は、「面」を「も」の助詞とし、上句に属するものとして、「入るといはずやも」と八音にし、「智」を、「知曰」の二字の誤写によって一字となったものだろうとし、「知曰男雲《しるといはなくも》」すなわち「知ると云は然くも」としている。意は、「知ると」は、天皇にお逢い申す術で、「曰はなくも」は、知っているという者のあるといわないことよである。『檜嬬手』は、面を第五句のものとし、「智」を「知曰」の二字の誤写として、「面知」を「逢ふ」の義訓としている。「日男雲」を「日なくも」とし、「逢はむ日なくも」としている。これが従来の試訓のうち、比較的に最もうなずきうる訓みであった。しかるに『注釈』は、「面智」は『檜嬬手』の誤写説を認めて「逢はむ日」に従い、「男雲」については、従来とは全く異なった訓みと解をしている。約言すると打消の助動詞「ず」の名詞形「なく」を用いた「なくに」の結びは夥《おびただ》しくあるが、「なくも」と、「も」の詠歎を添えた結びは、集中一例もない。これは他の語でなくてはならない、というのが第一である。次に「男」は仮名としては、「男為鳥《ヲシドリ》」(巻十一、二四九一)、「片思男責《カタモヒヲセム》」(巻四、七一九)、「海部尓有益男《アマニアラマシヲ》」(巻十一、二七四三)など、男は「ヲ」であるから、ここも「をくも」と訓むべきだとし、招く意の「をく」は古語で、大伴家持の用いている例二首(巻十七、四〇一一)、(巻十九、四一九六)を引き、さらに古事記上巻、天孫降臨の条の「遠岐斯八尺之勾※[王+總の旁]《ヲキシヤサカノマガタマ》、神代紀上、天石窟《あまのいわや》の第一の一書の「奉招祷也《ヲキタテマツラム》」を引いて、古事記伝(一五)の、「凡て遠岐《ヲキ》とは、物を招き寄せむとすることにて」という本居宣長の注をも引いている。それだとこの句は、我は天皇にお逢い申す日を招き祷ることであるよの意となり、御製の作意が釈然としたものとなる。前人未踏の創見とすべきである。
【釈】 燃え立っている火さえも、手に取って、物に包んで、嚢の中に入れるという、不可能のことも行なっているというではないか。我は天皇にお逢い申せる日を招き祷《いの》っていることであるよ。
【評】 天皇崩御の後、やや日を経ての御心と思われる。この当時、道教が信じ行なわれていて、瑞祥が勢力あるものとなっていたことは上に出た。中国より伝わった散楽が、幻術を行なってみせてもいた。初句より四句までのようなことが行なわれていて、太后がそれをお聞きになったということはありうべきことである。それを現在の悲しみにつないで、「あはむ日招くも」といわれたのは、上代信仰として、皇祖神に祈ればいかなる事もなろうと信じていられた太上天皇の心持にきわめて自然なものである。加えてこの御製には太上天皇の御風格も現われている。初句より四句まで世に不可能としていることも、現に行なっているではないかと、陰陽道の人のすることを、事細かに力強く叙して言いきられ、一転して結句では、御信念を披瀝していられる。一首の構成、それを貫く熱意のこもった声調は、まさに帝王の風格というべきで、堂々たる御製である。
 
161 北山《きたやま》に たなびく雲《くも》の 青雲《あをぐも》の 星《ほし》離《はな》れ去《ゆ》き 月《つき》を離《はな》れて
(248)    向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而
 
【語釈】 ○北山に 旧訓で、義訓。北方の山の意と取れる。『全註釈』は、天武天皇の明日香の浄見原の山陵としている。○たなびく雲の 「陳」は、文字どおり「つらなる」という訓と、用例の多きに従って「たなびく」とした訓と二た通りある。ここは、北山の上に、たなびいている雲の。「の」は、同じ趣の体言を重ねる時に用いる意のもので、「その」の意で下につづく。○青雲の 「青雲」は、上代の人は、白雲と対して青雲というものが感覚的に認められたと見え、用例が多い。高空にある淡青の雲であったろうと想像される。上の雲と畳語になっており、主格をなしている。青雲が。○星離れ去き 空の星を離れて高く昇りゆき。○月を離れて 星よりも高くいる月をも離れてさらに高く昇ってゆくで、昇りゆくを省略した形。
【釈】 北山の上にたなびいている雲のその青雲が、星を離れて昇ってゆき、さらに月を離れて昇ってゆく。
【評】 天皇の尊骸を明日香の浄見原の山陵におさめた後、幾ばくもない頃のある夜の太上天皇の、感覚的印象をとおしての御製と思われる。天皇をはじめ尊貴なる皇族の方々は、高天が原より降られ、また高天が原に還られるというのが古来からの信仰で、その還られるのがいわゆる神上りますことである。太上天皇はこの信念を強くもたれ、星あり月ある夜、山陵に対していられると、山上に青雲を認められ、その青雲が行動を起こして、みるみる星を越えて上昇し、さらに月をも越えて上昇したのである。雲に神秘性を感じていたのは当時の一般の信仰で、太上天皇はその青雲の行動に天皇の神霊の神上りますのを感覚をとおして認められての御製と解せられる。一に御心境の表現で、信仰状態である。しかしそれとすると、可能な限り具象化され、第一に「北山に」と含蓄をもたせて位置を明示し、ついで「たなびく雲の青雲の」と、畳語を用いて青雲なるものを強調し、最後に「星離れ去《ゆ》き月を離れて」と、一首の中核である青雲の上昇を叙されているところ、具象化として機構の整然たるものである。信仰とこの具象と相俟って、神秘性をもった、力ある御製とされているのである。上とは異なった趣をもった優れた御製である。
 
     天皇|崩《かむあが》りましし後、八年九月九日|奉為《おほみため》の御斎会《ごさいゑ》の夜、夢《いめ》の裏《うち》に習ひ賜へる御歌一首 【古歌集の中に出づ】
 
【題意】 「天皇」は、天武天皇で、崩御は、朱鳥元年九月九日である。その後の八年は、持統天皇御宇七年である。「九月九日」は、天武天皇の御忌日である。「奉為」は、漢語で、「奉」は敬語とするために加えたもの、「おほみ為」にあてた文字である。「御斎会《ごさいえ》」は、天皇御冥福を祈るため、斎《とき》を設けて三宝を供養する会《え》である。宮中における御斎会の、史に見える最初のものは、日本書紀、天武紀四年四月、「戊寅、請2僧尼二千四百余1而大設v斎焉」とあるものである。「夢の裏に習ひ賜へる」は、「習ふ」はしばしば繰り返す意で、みずからお作りになるともなく、自然に得られたことをあらわす語であって、近世の御夢想の歌とい(249)うのと同じ趣のものである。題詞の下に小字をもって「古歌集の中に出づ」と注した本は七種まである。
 
162 明日香《あすか》の 清御原《きよみはら》の宮《みや》に 天《あめ》の下《した》 知《し》らしめしし やすみしし わが大王《おはきみ》 高照《たかて》らす 日《ひ》の皇子《みこ》 いかさまに 念《おも》ほしめせか 神風《かむかぜ》の 伊勢《いせ》の国《くに》は 沖《おき》つ藻《も》も 靡《な》みたる波《なみ》に 潮気《しほけ》のみ かをれる国《くに》に うまごり あやにともしき 高照《たかて》らす 日《ひ》の御子《みこ》
    明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奧津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子
 
【語釈】 ○明日香の清御原の宮に 既出。天武天皇より持統天皇にわたっての皇居。ここは、天武天皇の皇居としていわれている。○天の下知らしめしし 「天の下」は、既出。天下の意で、日本全国。「知らし」は、「知る」の敬語で、支配の意。「めしし」の下の「し」は過去の助動詞「き」の連体形。○やすみししわが大王 既出。○高照らす日の皇子 高照らすは、高く照りたもう。「日の皇子」は、日の神の御末。○いかさまに念ほしめせか 巻一(二九)に出た。「いかさまに」は、どのように。「念ほしめせか」は、「念す」は、「念ふ」の敬語。「めせ」は、上の「めし」と同じで、その已然形。「か」は、疑問で、係辞。どのように思しめされてのことであったろうかで、神にます天皇または皇太子の御上は畏くしてうかがい難いとして、その御行動に対して敬って添えていう語で、成句となっている独立句。○神風の伊勢の国は 「神風の」は、巻一(八一)に出た。神風を息吹《いぶき》とし、その古語「息《い》」に、繰り返しの意でかかる伊勢の枕詞。○沖つ藻も 「沖つ藻」は、沖の方にある藻で、沖は辺《へ》に対させたもの。「も」は、もまたの意のもの。○靡みたる波に 「靡みたる」は原文「靡足」で、『講義』は、「なびきし」と訓んだのを、『全註釈』『注釈』の改めたもの。「足」を仮名の「し」に用いた例は、上にア段の語のある時に限られていて他に用例がなく、「たる」の例は多いとしてである。靡いている波に。○潮気のみかをれる国に 「潮気のみ」は、潮の気ばかり。「かをれる国に」は、「かをる」は古くは、火の状態にも、霧の状態にもいった。ここは潮気の状態をいったもので、烟っている意。潮気ばかりが烟っているところの国にで、上の二句と同じく、伊勢の国の状態をいったもので、対句である。○うまごり 「味《うま》」は、味酒《うまざけ》のそれと同じく、賞美しての語。「凝《ごり》」は、織物の織の意で、名詞。味《うま》き織《おり》の意。意味で綾と続き、その綾を、同音の副詞の「あや」に転じて、その枕詞としたもの。○あやにともしき 「あやに」は(一五九)に出た。いおうようもなく。「ともしき」は、「ともし」は、羨ましい意にも、乏しくして愛すべき意にも用いていた語。ここは後の意のもので、下への続きから見ると、慕わしの意と取れる。
【釈】 明日香の清御原の宮に、天下を御支配遊ばされた、やすみししわが大君の、天に照らしたまう日の神の御子よ。どのよう(250)に思《おば》し召されてのことであったろうか。神風の伊勢の国は、海の沖の方の藻の靡いている波とともに、潮気ばかりが烟っている国に、いおうようもなく慕わしき、天に照らしたまう日の神の御子よ。
【評】 「明日香の」より「日の皇子」までの八句は、天武天皇を讃えた辞《ことば》であるが、これは天皇に対しても最大の讃え辞である。夢のうちに歌を習った方も、その時は同じく天皇であられたのである。結末の「うまごり」以下の四句も、同じく讃え辞で、こちらは「やすみししわが大王」という、支配者としての方面は省き、その代りに、天皇の神性の方面を強調したもので、うるおい深く、感情をこめたものである。中間は天武天皇と伊勢国との関係を思われ、何事かをあらわそうとされたものであることはわかるが、伊勢国の状態を精細に叙されているにもかかわらず、肝腎の事柄には触れられないので、臆測をも許されないものである。壬申の乱の際、天皇には皇后とともに伊勢の桑名にいられたことがあるので、その事ではなかろうかという解がある。伊勢の状態をいわれる語《ことば》は、単なる一つの国としてのみのものに見えるから、その意味ではよりどころのないものではないが、想像にすぎないものである。語句の脱漏があるのではないかという解もあるが、題詞によって見れば、おぼつかない想像といわざるを得ない。小字ながら「古歌集中に出づ」とあり、諸本異同がないのであるから、これが原形で、いずれかの経路で宮中外に伝わって、重んじられていた御製と思われる。この御製の重んじられたのは、題詞にあるように、「御斎会の夜、夢の裏《うち》に習ひ賜へる」というところにあって、御製そのものよりも、御製の成った神秘性の方にあったのではないかと思われる。すなわち仏教に対する神秘性と、上代の夢と、夢に近い無意識の中に詠む歌とに、神のお告げを感じていた風との相俟ってのことと取れる。それとともに注意されることは、一方にそういう風があったにもかかわらず、御製そのものは、純然たる伝統的のもので、そこにはいささかも仏教的色彩を帯びていないことである。そこに天皇の御人柄の偲ばれるものがある。
 
(251)   藤原宮|御宇《あめのしたしらしめしし》天皇代  【高天原広野姫《たかまのはらひろのひめ》天皇、天皇の元年丁亥、十一年、位を軽太子に譲りたまひ、尊号を太上天皇と曰す】
 
【標目】 上に出た。「天皇の元年」以下の注記は金沢本、紀州本など多くの古写本にある。
 
     大津皇子《おほつのみこ》薨《かむあが》り給ひし後、大来皇女《おほくのひめみこ》伊勢の斎宮《いつきのみや》より京《みやこ》に上りし時の御作歌《みうた》二首
 
【題意】 「大津皇子」と「大来皇女」のことは、(一〇五)(一〇六)に出た。天武天皇の皇子皇女で、御同腹であり、皇女は御姉である。大津皇子の薨じたのは、朱鳥元年十月戊辰朔庚午(三日)で、皇太子草壁皇子尊に謀叛の事が露《あらわ》れて誅せられたのである。大来皇女は、天武天皇の御代の伊勢の斎王で、伊勢斎宮にいられたが、天皇崩御となり、御代がかわったので、任が解けて、朱鳥元年十一月丁酉朔壬子(十六日)京へ還られた。これらの事は日本書紀に出ている。皇子薨去より四十日ばかり後のことである。
 
163 神風《かむかぜ》の 伊勢《いせ》の国《くに》にも あらましを いかにか来《き》けむ 君《きみ》もあらなくに
    神風之 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可來計武 君毛不有尓
 
【語釈】 ○神風の伊勢の国にも 上の歌に出た。「も」は、詠歎。○あらましを 居ろうものをの意。「まし」は、不可能の希望の、それの結びとする語であるから、このような事があったと知ったならばの意が含められている。その事は、皇子の薨去のことである。「を」は詠歎。○いかにか来けむ 「いかにか」は旧訓で、「なににか」「なにしか」の訓みもあるが、この字は「いかに」の用例しかないといって『全註釈』は改めている。「か」は、疑問。「来けむ」は、「けむ」は過去の推量。京へ上《のぼ》って来たのであろうかの意。○君もあらなくに 「君」は、大津皇子。「も」は、詠歎。「あらなくに」は、「く」を添えて名詞形とし「に」の詠歎を添えたもの。なつかしい君もいまさぬことであるのに。
【釈】 伊勢国に、こうと知ったならば、そのままにとどまっていようものを。どうして京へ上って来たのであろうか。なつかしい君もいまさぬことであるのに。
【評】 皇子薨去のことは、斎宮の皇女は御存じがなく、京へ還られてはじめてそれと知られ、深い悲しみをもってお詠みになったものである。深い悲しみは、皇子の薨去については何事もいわれず、御自身も皇子と一体となって打ち砕かれ、あるにもあられぬお心を、しめやかにいっていられるところに現われている。すなわち言うにまさる悲しみである。皇子と一体になっ(252)ていられるとはいうが、この御歌は、皇子の方に力点を置いてのものである。結句の「君もあらなくに」は、いったがように、世にいまさぬことであるのにで、上よりの続きでは、京にいまさぬという意味をもったものとなってくる。実感としてはその方が先で、それに、世にいまさぬ意味が伴ったものと取れる。実感をそのままにお詠みになったところから、おのずから綜合された複雑な味わいである。場合がら当然のことである。しめやかながら引き締まった、言葉少なの表現は、おのずから気品あるものとなっている。
 
164 見《み》まく欲《ほ》り 吾《わ》がする君《きみ》も あらなくに いかにか来《き》けむ 馬《うま》疲《つか》らしに
    欲見 吾爲君毛 不有尓 奈何可來計武 居疲尓
 
【語釈】 ○見まく欲り 「見まく」は、見ることの意で、「く」を添えて名詞形としたもの。「欲り」は、「欲す」の古語で、動詞、連用形。○吾がする君もあらなくに 「する」は、上の「欲り」に続けて、その意を強める働きをさせているもの。「君も」も、「あらなくに」も、上の歌と同じ。○馬疲らしに 「馬」は、斎王の供奉の官人の乗馬、駄馬。「疲らし」は、それを労する意で、馬を疲らせることであるにの意。『講義』はこれについて、斎王の御旅は群行と称し、一部隊の旅であった。斎王は御輿であるが、その駕輿丁は、左右の衛府より各十六人ずつを出す定めであり、官人は乗馬、それに駄馬が添うが、『朝野群載』の四、「伊勢斎王帰京国々所課」のうち、近江国の下に、「馬百匹、夫百人」とあり、なおその他も引いている。後世もこれであるから、この当時のさまは想われるといっている。
【釈】 わが逢い見たいことだと思っている君もまさないことであるのに、どうして京へは上《のぼ》って来たのであったろうか。ただ馬を疲らせることであるのに。
【評】一首の形も心も、前の御歌の繰り返しであるが、これは、力点をやや御自身の方へ引きつけられ、弟皇子に逢われることを楽しみとしていた、伊勢から京までの道中の労苦を顧みられたものである。御自身の労苦をいわれず、供奉の者のそれとし、さらに馬とされているところに、お人柄が感ぜられる。これも実感よりおのずからそうなったので、「馬疲らしに」という単純な中に、複雑なるものが綜合されている。一つの心を、やや角度を変えて繰り返すことによって、その心を尽くそうとするのは、謡い物系統の古い型である。(一〇五)(一〇六)の御作歌と型を同じゅうしている。この気品と、具象化の手腕とは、まさに皇女のものである。
 
     大津皇子の屍《かばね》を葛城《かづらき》の二上《ふたがみ》山に移《うつ》し葬《はふ》りし時、大来皇女の哀傷《かなしみいた》む御作歌《みうた》二首
 
(253)【題意】 屍を移し葬るにつき、『講義』は、『攷証』の解を進めて、委しく考証している。この「移し葬る」は、後世の一たび葬った屍を他に改葬するのとは異なって、殯宮または殯屋にある屍を墓所に移して葬る意で、いわゆる殯葬というものであるとし、古く墓所より出土した墓誌をあげて、その期間は、長いことを確かめている。「葛城の二上山」は、大和国北葛城郡当麻村にある山で、今は葛城山と二上山とは別としているが、古くは葛城山の一部とされていたのである。山は二峰相対しており、一を男嶽、他を女嶽と称している。二上《ふたがみ》はそこから起こった称である。皇子の墓は男嶽にあり、現在も保存されている。
 
165 うつそみの 人《ひと》なる吾《われ》や 明日《あす》よりは 二上山《ふたがみやま》を 弟世《なせ》と吾《わ》が見《み》む
    宇都曾見乃 人尓有吾哉 從明日者 二上山乎 弟世登吾將見
 
【語釈】 ○うつそみの人なる吾や 「うつそみ」は、現《うつ》し身の義で、「し」が「そ」に転音した語である。「うつせみ」とも転音している。幽冥界にいる幽《かく》り身に対し、現実界にある身の意。「人なる」は、人にてある。「や」は、詠歎の助詞で疑問の意ももっている。○弟世と吾が見む 「弟世」の訓は、従来さまざまであった。『注釈』は、「世」は「弟」の訓みをあらわしたもので、「せ」すなわち、男性の総称としての語である。一句の音調上、「せ」の一音では足らず、何らかの訓み添えを必要とする。用例としては「いろせ」と「汝《な》せ」とある。「いろ」も「汝」も愛称で用例としては「汝」が多いとして「汝」をとっている。これに従う。「吾が見む」は、見ることであろうかで、「見む」は連体形。
【釈】 現し身の人であるところのわれは、なあ、明日からは、二上山を、弟として見ることであろうか。
【評】 上代にあっては現し身と幽り身の距離は近いものであっ(254)た。ことに殯宮の間は.ほとんど現し身に対すると異ならないものと見なしたのである。皇女の哀傷されたのは、移し葬ることによって新たに加わりくる距離に対しての嘆きである。なお二上山は御墓所を具象的にいったものであるが、この当時にあっては、山は神の意が明らかで、したがって皇子の神霊界に属するものだという感を刺激するところがあり、それも距離を際立たせたのではないかと思われる。結句の「なせ」の愛称、それに「吾が」を添えたのは、いずれも深い哀感の表現で、初二句と相俟って、しめやかながら高い響をなしている。純情とともに皇女の内に蔵された強さを偲ぶに足りる御作である。
 
166 礒《いそ》のうへに 生《お》ふる馬酔木《あしび》を 手折《たを》らめど 見《み》すべき君《きみ》が ありと言《い》はなくに
    礒之於尓 生流馬醉木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
 
【語釈】 ○礒のうへに 「礒」は、石の古語で、古くは石上《いそのかみ》など、石を「いそ」と呼んでいた例がある。「於」は、上の意で、典拠のある文字であえう。ほとりの意のもの。○生ふる馬酔木を手折りめど 「生ふる」は、自生している意。「馬酔木」は、その実を食えば馬が酔う木の意で、わが国で造った文字である。これにあたる木は、現在「あせぼ」と称する木で、その葉の煮汁を飲ませると、馬は脚が痺れ、葉を食わせると鹿は角を落すという。集中仮名書きで「あしび」といっているのが、この馬酔木にあたる。山城大和の山野に多く自生する木で、春、穂を垂れて小壺状の白い花がむらがつて咲く。「手折らめど」は、手折ろうけれども。○見すべき君がありと言はなくに その花を見せて喜ばせるべき君が、世に存していると人がいわないことであるのに。
【釈】 石のほとりに生えている馬酔木の、その愛すべき花を手折りもしようけれども、しかし見せて喜ばせるべき君が、世に存していると人がいわないことであるのに。
【評】 馬酔木を、「礒のうへに生ふる」といわれ、また「見すべき君」ともいわれているので、皇女がそのお住まいになられる邸以外において、たまたま見かけられたも(255)のと取れる。移し葬ることをされた時のことと思われる。事は、愛すべき物を見て、親しい人とともに見ないのをあきたらず思い、それを見せてやろうと思う共通の人情のものである。「ありと言はなくに」は、語としては誇張に似ているが、事としては、皇子の薨去はただ話に聞くだけのもので、全く夢のようにお思いになっていたことと察せられるから、明らかに実感であったろうと思われる。その意味で、含蓄のあるものである。
 
     右一首、今|案《かむが》ふるに、移し葬《はふ》る歌に似ず。蓋し疑はくは、伊勢の神宮より京に還りし時、路上に花を見て、感傷哀咽してこの歌を作りませるか
      右一首、今案、不v似2移葬之歌1。蓋疑、從2伊勢神宮1還v京之時、路上見v花、感傷哀咽作2此歌1乎。
 
【解】 撰者の注か、その後のものかはわからぬ。伊勢より御帰京の際の歌だろうというのである。これは誤りである。御帰京は十一月で、春咲く馬酔木の花のあるべくもない。またその時は、皇子の薨去を知られなかったことが、上の御作歌でわかる。かたがた誤りであることは明らかである。
 
     日並皇子尊《ひなみしのみこのみこと》の殯宮の時 柿本朝臣人麿の作れる歌一首井に短歌
 
【題意】 日並皇子尊のことは、巻一(四五)に出た。皇太子として薨去になったのは、日本書紀、持統紀に、「三年四月乙未皇太子草壁皇子尊薨」とある。「日並皇子尊」は、草壁皇子の皇太子としての尊称で、「日並」は、日を天皇に喩え、それに並びます意の語で、本来普通名詞である。「尊」は、皇太子に限っての敬称である。「殯宮」は、葬所の傍らに設けて、臣下の者の侍する宮である。これに続く舎人の歌によって、皇太子に対する殯宮奉仕の期間は一年間であったことが知られる。
 
167 天地《あめつち》の 初《はじ》めの時《とき》 ひさかたの 天《あま》の河原《かはら》に 八百万《やほよろづ》 千万神《ちよろづがみ》の 神集《かむつと》ひ 集《つと》ひいまして 神分《かむはか》り 分《はか》りし時《とき》に 天照《あまて》らす 日女《ひるめ》の命《みこと》【一に云ふ、さし上《のぼ》る日女《ひるめ》の命《みこと》】 天《あめ》をば 知《し》らしめすと 葦原《あしはら》の 瑞穂《みづほ》の国《くに》を 天地《あめつち》の 寄《よ》り合《あ》ひの極《きはみ》 知《し》らしめす 神《かみ》の命《みこと》と 天雲《あまぐも》の 八重《やへ》かき別《わ》きて【一に(256)云ふ、天雲《あまぐも》の八重雲《やへぐも》別きて】 神下《かむくだ》し いませ奉《まつ》りし 高照《たかて》らす 日《ひ》の皇子《みこ》は 飛《と》ぶ鳥《とり》の 浄《きよみ》の宮《みや》に 神《かむ》ながら 大敷《ふとし》きまして 天皇《すめろぎ》の 敷《し》きます国《くに》と 天《あま》の原《はら》 石門《いはと》を開《ひら》き 神上《かむあが》り 上《あが》りいましぬ【一に云ふ、神登《かむのぼ》りいましにしかば】 吾《わ》が王《おほきみ》 皇子《みこ》の命《みこと》の 天《あめ》の下《した》 知《し》らしめしせば 春花《はるばな》の 貴《たふと》からむと 望月《もちづき》の 満《たた》はしけむと 天《あめ》の下《した》【一に云ふ、食《を》す国《くに》】 四方《よも》の人《ひと》の 大船《おほふね》の 思《おも》ひ憑《たの》みて 天《あま》つ水 《みづ》仰《あふ》ぎて待《ま》つに いかさまに 念《おも》ほしめせか 由縁《つれ》もなき 真弓《まゆみ》の岡《をか》に 宮柱《みやばしら》 太敷《ふとし》きいまし 御殿《みあらか》を 高知《たかし》りまして 朝《あさ》ごとに 御言《みこと》問《と》はさず 日月《ひつき》の 数多《まね》くなりぬる そこ故《ゆゑ》に 皇子《みこ》の宮人《みやびと》 行方《ゆくへ》知《し》らずも【一に云ふ、刺竹《さすたけ》の皇子《みこ》の宮人ゆくへ知《し》らにす】
    天地之 初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命【一云、指上日女之命】 天平婆 所知食登 葦原乃 水穏之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而【一云、天雲之八重雲別而】 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 淨之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴【一云、神登座尓之可婆】 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 滿波之計武跡 天下【一云、食國】 四方之人乃 大船之 思馮憑而天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 眞弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛【一云、刺竹之皇子宮人歸邊不知尓爲】
 
【語釈】 ○天地の初めの時 「天地の初めの時」は、いわゆる天地開闢の時で、天と地とが分かれた時のことである。しかし下の続きから見ると、これは天孫降臨の時ということを意味させたものであって、天地開闢ということと、天孫降臨ということ、言いかえればわが国の国土開発という政治上のこととを、同意義のこととしていっているものである。○ひさかたの天の河原に 「ひさかたの」は、天にかかる枕詞。巻一(八二)に出た。「天の河原」は、古事記上巻に、「是以八百万神於|天安《あめのやす》之河原神集神集而」とある、その天の安の河原である。○八百万千万神の 「八百万」「千万」は、きわめて数の多いことをあらわす語で、重ねていうことによって感を強めたものである。多くの神々のの意である。○神集ひ集ひい(257)まして 「神集ひ」の「神」は、事、神のしわざであるがゆえに添える語で、用例の多いものである。「集」は、古事記の注に、「訓v集云2都度比1」とある。「神集ひ」は、下の「集ひ」に対して修飾格に立っているもので、こうした続け方は古語に例の多いもので、一つの格をなしているものである。「いまして」は、敬語とするために添えたもの。二句、お集まりになられての意で、事としては、上に引いた古事記の文と同じ事柄である。○神分り分りし時に 「分」を、「はかり」と訓むのは旧訓である。他に「わかち」「くばり」「あがち」の訓もある。『講義』は「はかり」に従い、『字鏡集』には「分」に「はかる」の訓がある。事物を判別する意に用いたと思われる。大祓詞に、ここと同じ事柄を、「神議議賜※[氏/一]」とあるその議《はか》りと同じだというのである。「神分り分り」は、上と同じ続き方である。「久堅の」以下、この「分りし時」までは、最初の「天地の初めの時」に、同じ趣の事を体言の形をもって重ねたもので、天地の初めの時にして、すなわち神々の神分りし時にの意である。○天照らす日女の命 「天照らす」は、天に照りたまうの意。「日女の命」は、日本書紀第一に、「生2日神1号2大日〓貴1」とあり、注に「大日〓貴云2於保比屡※[口+羊]能武智《おほひるめのむち》1」とあるそれで、日神の御名である。「ひる」は「日」の古語である。御名をもっていっているのは、その際の事が政治的の事柄であるので、その面を強調しようとしてのことと思われる。○一に云ふ、さし上る日女の命 「さし上る」は、朝日の昇る状態をいったもので、日の枕詞である。本行の方が力がある。○天をば知らしめすと 「天」は、高天原で、この国土に対する世界。「知らしめす」は、巻一(二九)に出た。この訓は仮名書きによってのもの。「知らす」は、「知る」すなわち支配するの敬語。「めす」は、「見る」すなわち支配するの敬語で、助動詞風に重ねたもの。「と」は、とて。二句、高夫原を御支配になるとて。○葦原の瑞穂の国を わが国の古名。「葦原」は、葦は水分の多い所に生える物で、その生えつづいて原をなしている所の。原文「水穂」の「水」は、「瑞《みづ》」で、「穂」は、稲の穂。稲のみずみずしく熟する国の意。主食物の米の豊かにみのる国としてこの国土を讃えての称。○天地の寄り合ひの極 天と地とが寄り合って一つになる、その最後までの意。天地の開闢に対させた思想で、混沌が分かれて天地となった、それがまた合して混沌にかえる意で、未来の無窮ということをあらわすために、ありうべからざることを想像して具象的にいった語。○知らしめす神の命と 「知らしめす」は、御支配になるところの、の意で、連体形。「神の命」の「命」は、尊称。「と」は、として。すなわち皇位に即《つ》かれるべき神としての意。○天雲の八重かき別きて 天の雲の幾重にも重なっているのを分けてで、天孫の降臨をいったものである。古事記、日本書紀、大祓詞にも出ているきわめて重大なる事柄である。○一に云ふ、天雲の八重雲別きて いささかの相違であるが、本行の方が力がある。○神下しいませ奉りし 「神下し」の「神」は、「神集ひ」のそれに同じ。「いませ奉りし」は、敬語とするために添えたもの。二句、御下し申し上げたところので、「奉りし」は連体形。○高照らす日の皇子は 天に照りたまう日神の皇子はで、上の「神の命」の繰り返しの形となっているものである。「皇子は」の「は」は、文意としては、七句を隔てて、「石門を開き」に続き、皇太子日並皇子尊であることの明らかなものである。ここに注意されることは、この「日の皇子」は、上よりの続きでいえば、当然皇孫彦火瓊々杵尊であらせられるのが、下への続きから見ると、日並皇子尊に転じていることである。このことは、天照大神の命をこうむっての皇位の継承という上からいうと、彦火瓊々杵尊と皇太子日並皇子尊とは、ひとしく同格にあらせられるという意よりのことである。これはまた歴代の天皇、皇太子にも通じてのことであって、この歌は私的なものではなく、皇子尊の殯宮において誦した公的なものであるから、既定のこととなっており、人麿はそれを代弁しているものである。○飛ぶ鳥の浄の宮に 上に出た。天武天皇より持統天皇にかけての宮であるが、ここは持統天皇の宮としてのもの。○神ながら太敷きまして 「神ながら」は、神そのままにの意。巻一(三八)(三九)に出た。「太敷きまして」は、「太」は、「敷き」にかかる讃(258)え詞。「敷き」は、広く天皇のなされることをあらわす語で、ここは御支配の意。「まして」は、敬語にするために添えたもの。○天皇の敷きます国と 「天皇」は、皇祖をはじめ、当代の天皇までをこめて申す称。ここは、当代の持統天皇。「敷きます」は、上の「敷きます」と同じ。「国と」は、国として。「飛ぶ鳥の」以下六句は、日並皇子尊のお思いになったこととしていっているもので、すなわちこの国土は、天皇の御支配になられる所であるとしての意。○天の原石門を開き 「天の原」は(一四七)に出た。ここは天の意で、地《つち》に対する世界で、神にまします尊貴なる方々の、幽《かく》り身として永遠にいますべき世界。「石門」は、堅固な門の意、「開き」は、その門を開いてで、天の原に人らせられるには、そうしたことをなされるものと信じての語である。○神上り上りいましぬ 「神上り」の「神」は、「神集ひ」のそれと同じ。天の原に幽り身として上《あが》りたまうことで、すなわち薨去の意である。古く、天皇の崩御を「神上り」と申しているので、それに準じてのものである。「いましぬ」は、「上り」を敬語とするために添えたもの。○一に云ふ、神登りいましにしかば 「神登り」は、意は神上りと同じ。「いまし」は、敬語としてのもの。これは、下へ続く形となっているもので、文意が整わない。本行に従うべきである。以上、第一段である。○吾が王皇子の命の 「吾が王」は、親しんでの称。「皇子の命」は「命」は敬称で皇子である限り、どなたにも添えて申す称で、皇太子には「尊」の文字をもって差別しているのである。ここは普通の敬称である。○天の下知らしめしせば 「せば」は、仮設条件を示す語。皇太子にましましたので、御即位は当然あるべきものだったのである。○春花の貴からむと 「春花の」は、春の花のごとくに。「貴と」は、「太」に、「た」の接頭語の添った語で、その太は、豊かさ、美しきなどの意をもった語。「と」は、と思って。○望月の満《たた》はしけむと 「望月の」は、十五夜の満月のごとく。「満はし」という訓は、『代匠記』がしたもので、巻十三(三三二四)、「十五夜月《もちづき》のたたはしけむと」と仮名書きがあるのによったのである。『講義』は、この語につき委しい考証をし、「たたはし」は本来、「湛ふ」という動詞の形容詞に化したもので、その「湛ふ」は、事物の満ち足りたことをあらわす語で、ここの「満」にあたっているといっている。「満はしけむ」は、「たたはしからむ」を約《つ》めた語である。「と」は、と思って。二句、上の二句と対句としてある。○天の下 天下の者すべてが。○一に云ふ、食す国 「食す国」は、御支配になる国で、天下と同じ。本行に従う。 ○四方の人の 「四方」は、四方で、すなわち全部。○大船の思ひ憑みて 「大船の」は、大船に乗ったごとく。「大船の」は、集中の例は枕詞としてのみ用いているが、ここは、前後と同じく、譬喩として用いてあると解される。本来、響喩から枕詞となった語なので、枕詞以前の用法のもの。「思ひ憑みて」は、信頼して。○天つ水仰ぎて待つに 「天つ水」は、天の水ですなわち雨。「仰ぎて待つ」は、空を仰いで待つ意と、尊い物に対して待つ意とがある。空を仰いで待つのは、大旱の時の状態で、これを尊き物を待つ響喩としたのである。二句、大旱の時、雨の来るのを仰いで待つごとくに、皇子尊の御即位を仰いで待っているのにの意。二句、上の二句と対句。○いかさまに念ほしめせか 巻一(二九)、本巻(一六二)に出た。どのようにお思いなされたのであろうかで、薨去のことを、御自身の意志よりなされたものとし、尊貴の御方のお心は畏くしてうかがい難いという意でいったもの。○由縁もなき真弓の岡に 「由縁」を「つれ」と訓むのは、『玉の小琴』の訓で、下には同じ趣を「所由」とも書いてある。『講義』はこれと同じ場合をいった仮名書きを、集中から二か所引き、この訓を確かめている。「由縁もなき」は、ゆかりもない、すなわちもの淋しいの意。「真弓の岡」は、現高市郡明日香村真弓から高取町佐田にわたる地といわれ、延喜式の諸陵寮式に、「真弓丘陵、岡宮御宇天皇、在2大和国高市郡1、兆域東西二町、南北二町、陵戸六烟」とある所である。岡宮御宇天皇とは日並皇子尊の追贈の号である。○宮柱太敷きいまし 「宮柱」は、宮の柱。「太」は、讃え詞。「敷き」は、ここは営む意。「いまし」は、敬語とするためのもの。宮をお宮みなされての意。なお「太」は、讃え詞では(259)あるが、「柱」に関係をもちうる語で、響き合うところがある。○御殿を高知りまして 「御殿」は、現人神なる天皇の宮の称で、ここはそれに准じていったもの。巻一(五〇)に出た。「高知りまして」は、「高」は、讃え詞。「知り」は、「しき」と同じく、ここは営む意のもの。「まして」は、敬語とするためのもの。四句、御墓の傍らに営む殯宮をいったものである。○朝ごとに御言問はさず 「朝ごとに」は、日ごとにの意で、朝をもって日を代表させた語。これにつき、『講義』は、古の公に仕え奉る時刻のことを、種々の古文献によって詳しく考証し、それによると、朝廷の百官の伺候は、大体卯の刻(午前六時)で、退朝は巳の刻(午前十時)であった。月によって相異はあるが、退朝は巳の二剋(午前十時)を越えることはなかった。朝をもって日をあらわすのはこのためだといっている。これによってこの語は明らかになった。「御言問はさず」は、「言問ふ」はものをいうことで、「さ」は尊敬の助動詞「す」の未然形。二句、いつの日も御用を仰せになられないの意。○日月の数多くなりぬる 「日月」は、日や月の意。「数多く」は、物事の多くしげき意をいう形容詞で、ここは多くの意。「なりぬる」は、ここは重なって来たの意で、「ぬる」は、上の「何方に念ほしめせか」の「か」の疑問の結びで、連体形。以上、第二段である。○そこ故に 「そこ」は、その点。上の状態のゆえに。○皇子の宮人行方知らずも 「皇子の宮人」は、皇子の東宮としての宮に仕えている人で、これは朝廷より付けられる職員である。春宮傅より舎人に及んでいる。「行方知らず」は、行くべき方向が知られない意で、途方にくれる意。仕えまつるべき君が薨じられたので、よるべきところがないの意。「も」は、詠歎。○一に云ふ、刺竹の皇子の宮人ゆくへ知らにす 「刺竹の」は、意味が定まっていない。ここは「皇子」にかかる枕詞。「ゆくへ知らにす」は、「行方知らずも」と意味は同じである。本行の方が力がある。
【釈】 天地《あめつち》の初めの開闢の時、すなわちひさかたの天の安の河原に、八百万千万の多くの神が集いに集って、議《はか》りに議ったその時に、天照らす日女の命は高天原を御支配になることとして、葦原の瑞穂の国をば、天地《あめつち》が再び寄り合う未来の無窮の時までも、御支配になるべき神の命として、天雲の幾重に重なるのを別けて、お下し申し上げた、その高照らす日の神の皇子《みこ》には、この国は飛ぶ鳥の浄《きよみ》の宮に、神そのままに貴くも御支配になって、天皇の御支配になるべき国であるとして、御みずからは、天の原の堅固なる門《と》を開いて、そこへと上《あがか》りに上らせられた。我らの大君の皇子の命が、定まっているとおりに、もし天下を御支配になったならば、春の花のごとくに豊かに美しくあろうと思い、十五夜の月のごとくに満ち足ることであろうと思って、天下の全体の人々は、大船に乘ったがように思い頼み、大旱に天より降る雨を仰ぎ待つように仰ぎ見て待っているのに、畏くもどのようにお思いなされたのであろうか、何の関係もないもの淋しい真弓の岡に、御自分の宮を御営みなされて、大宮を御営みなされて、いつの日にも御用を仰せられず、そうした日や月が多くも重なって来たことである。そうした次第ゆえに、皇子に御仕え申している宮人すべては、将来の方向も知られず、途方にくれていることであるよ。
【評】 真弓の岡にある日並皇子尊の殯宮に奉仕している宮人が、皇子尊を御慰めする心をもって詠んだ挽歌である。挽歌は現し世を去られた人を慰めることを本旨とするもので、慰める方法は、その人を尊むこと、死を悲しむこと、後永く忘れまいとすることで、そのほかには方法はない。そうした時の歌は、神を祭る際の詞と同じく、できる限り麗わしくして、神霊の嘉《よみ》したまうようにすることを条件としていた。この歌が長歌という、それをなしうる形式を選んでいるのも、また作者がその事に最(260)も堪能なる人麿であることもそのためである。人麿はこの宮の舎人《とねり》の一人として選ばれたのか、あるいは作歌に長《た》けている者として他より選ばれたのかは明らかでないが、おそらく舎人の一人としてのことと思われる。この歌を詠んだ時は、「朝ごとに御言問はさず、日月の数多《まね》くなりぬる」という時で、薨去後ある期間が経って、驚きは鎮まり、反対に悲しみは深まってきて、「皇子《みこ》の宮人|行方《ゆくへ》知らずも」というように、自分どもの今後の身の処置も思われてくるようになった時、振り返って見て事の全体を捉えて詠んだものである。
 一首、宮人という立場に立って詠んだものである。宮人は朝廷より皇太子に賜わった職員で、その狎《な》れ親しみ奉っている上よりいえば、おそらく何びとよりも深い者であるが、身分の上よりいえば、最も遠い階級にある者である。したがってこうした際にその心を歌うとしても、最も深い悲しみを通して、最も深い尊みの心を歌わなければならないものである。実際に即して離れまいとする当時の歌であるから、このことは固く守られてこの一首は詠まれている。
 一首、三段から成っている。第一段は、起首から「神上り上りいましぬ」までである。ここは皇子尊を限りなく尊き神として讃えたものである。この段で特に注意されることは、「語釈」でもいったがように、「天地の初めの時」すなわち天地の開闢の時が、「天の河原に、神分り分りし時」すなわち彦火瓊々杵尊のこの国に降臨された時と同時になっていることである。今一つは、「神下しいませ奉りし」というその瓊々杵尊が、日並皇子尊となり、御同体となっていることである。これは歴史的にいうと事実ではないのであるが、国民の信念としては儼たる事実だったのである。その事はこの挽歌が、人麿個人のものではなく、舎人全部を代弁しているものであることでも明らかなことである。天孫と皇太子と御同体であるということは、皇位の万世一系ということであって、この当時にあっては、ここに見るがごとく、全く知性を含まない感性のものであり、きわめて直接なものとなっていたのである。これらは皇子尊を尊み讃えるためにいっているものであることはいうまでもない。また、神上りますのに理由を求めて、「飛ぶ鳥の浄の宮に、神ながら太敷きまして、天皇の敷きます国」としているのは、神上りは自分の御意志よりのこととしたので、これは人としての事ではなく、神のみのなされる事である。これも皇子尊を讃えてのことである。この一段の言葉は荘重を極めたものであるが、これは古事記、日本書紀などの成書を待つまでもなく、祝詞により、また語り継ぐことによって一般化していた言葉を取ったものと思われる。「高照らす日の皇子」という言葉のもつ含蓄は、同じく一般化していたものと思われるが、表現としての簡潔は、作者人麿のものと思われる。
 第二段は、「日月の数多くなりぬる」までである。この一段は、上に対して、人としての皇子尊の御薨去をいったもので、そのいかに惜しむべきことであるかを極力いうことによって、皇子尊を御慰めしようとしているのである。前半は、皇子尊の御即位を、天下の者がいかに待ち望んでいたかを、二句対を二回まで用いることによって華やかにいい、後半の御薨去の悲哀と対照させている。御薨去をいうに「いかさまに念ほしめせか」といっているのは、薨去を自分の意志よりのこととしたので、皇子尊を、人ならぬ神としていっていることである。「朝ごとに(261)御言問はさず、日月の数多くなりぬる」は、時間的に、次第に御薨去のさまをあらわし給うことをいっているもので、宮人の深い悲哀を事実に即していったものである。味わいの深い部分である。
 第三段は、結末の三句である。形の上から見るとこれが一首の力点のある所で、またこの歌の作られた一つの動因でもあるが、それがこのように短く、深い悲哀をこめてのものとなっているのは、実際に即して、虔《つつ》ましい物言いにとどめたがためである。すなわち宮人としての低い身分を意識して、多くをいうことを恐れ多しとして差し控えたのである。一首、挽歌の本旨は十分に尽くしたものであるが、構成が整然とし、言葉の繁簡が適当に、深い用意をもったものとなっているのは、一に作者人麿の力量である。
 なおこの歌で、第一段では明らかに御薨去のことをいい、第二段は、「朝ごとに御言問はさず」と、現し身に対しまつるごとき期待をかけ、そのかなわぬのを悲しんでいるのは、一種の矛盾を感じさせられることである。これを単なる感傷よりのことと見れば、古今に通じての人情で、格別怪しむには足りないものとなる。しかし前後の続きより見れば、あくまでも皇子尊を尊んで、狎れまつるような態度はとるまいとしているので、ここだけが感傷をほしいままにしているものとは思われない。したがってこの期待はある合理性をもったものと思われる。悠久な古にあっては、死生の距離はさして遠くはないものであったと思われる。死ということは幽《かく》り身の状態において存在を続けることと信じられてい、その信念は、多少の推移はあっても保ち続けられていたのである。死者を死後にわかには埋葬しないという風の保たれていたのも、身と魂とを二元的に考えている心からは、自然なことと取れる。まして天皇皇太子など、尊貴を極めた、現人神と仰いでいた御方に対しては、殯宮奉仕の一年間は、神霊は天の原に上られても、御体は地にとどまっており、しかも神霊はきわめて神秘な自在な力をもっていられるので、超自然なことの現われうる可能性は、強くも恃《たの》みうることとしたのであろう。「朝ごとに御言問はさず」ということが、重大なこととして扱われ、またきわめて悲しいこととしていわれているのは、この意味からであって、いわゆる感傷よりの言ではなく、合理性のあったものと解される。これに類することは、他にもある程度まではある。
 
     反歌二首
 
168 ひさかたの 天《あめ》見《み》る如《ごと》く 仰《あふ》ぎ見《み》し 皇子《みこ》の御門《みかど》の 荒《あ》れまく惜《を》しも
    久堅乃 天見如久 仰見之 皇子乃御門之 荒卷惜毛
 
【語釈】 ○ひさかたの天見る如く仰ぎ見し 「ひさかたの」は、上に出た。「天見る如く」は、仰ぐことの譬喩。「天」は、天上の世界としてのも(262)の。「仰ぎ見し」は、事の実際でもあるが、尊んで見ることの方を主としてのもの。○皇子の御門の 「御門」は、宮の意のもので、一部をもって全部を代表させての称。皇居に対してと同じ言い方のものである。この宮は、高市郡明日香村橘の島の宮で、以下の歌に出て来る。○荒れまく惜しも 「荒れまく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、荒れんことの意。「惜しも」の「も」は、詠歎。上代の信仰として、死の穢れを忌むことが甚しく、人が死ぬとただちにその家より出してほかに移した。天皇の大殯《おおあらき》宮もそれである。それのみではなく、ついでその宮を住み棄てられもしたのである。天皇の崩御についで遷都のことのあったのもそのためである。日並皇子尊の宮も、住み棄てられるべきものであったので、その荒れてゆくことを宮人として惜しんだのである。
【釈】 ひさかたの天を見るごとくにも仰いで、尊んで見てきたところの皇子尊の宮の、これからは荒れてゆくだろうことのその惜しさよ。
【評】 長歌の方は、殯宮における皇子尊の、今は現《うつ》し身でないことを認めざるを得ないのをいっているが、ここではそれを進めて、幽《かく》り身としての扱いをしている。また、長歌は殯宮のことのみをいっていたのに、ここでは転じて、御生前の宮をいっている。長歌の操り返しではなく、変化をつけたものである。皇子尊が、現し身であり幽り身であるにしても、御慰めする心は同一である。御薨去になられた以上、お慰めするのは皇子尊を忘れないという一事だけである。忘れないということは、心の中に思うだけでは足らず、皇子尊に直接に関係のある現実の物品を通してお思い申すというのが上代の通念で、形見の重んじられたのはそのためである。皇子尊の形見のうち、その最も重大なる物は御門である。その御門《みかど》は荒れゆかざるを得ないものである。この歌は、それらのすべてを心に置いてのものである。素朴なる形に強い気息をこめ、重い調べをもっていっているのは、お慰めしようにもしかねるような悲哀をもってのものだからである。
 
169 あかねさす 日《ひ》は照《て》らせれど ぬばたまの 夜《よ》渡《わた》る月《つき》の 隠《かく》らく惜《を》しも
    茜刺 日者雖照有 烏玉之 夜渡月之 隱良久惜毛
 
【語釈】 ○あかねさす 「あかね」は、草としての名であるとともに、その根から赤色の染料を取る関係上、赤色を意味する語ともなっていた。ここは赤色の意である。この関係は、紫が草の名であり、色の名であると同様である。「さす」は、発する意。赤色を発するで、日の状態をいうことによって、その枕詞としたもの。○日は照らせれど 「日」は、天皇に喩えたもの。「照らせれど」は、照らしあれどで、天皇の儼然とましませどの譬喩。○ぬばたまの夜渡る月の 「ぬばたまの」は、夜にかかる枕詞。(八九)に出た。「夜渡る月」は、夜空を端《はし》から端へと運行するの意で、「月」を「日」に並ぶ尊いものとして、皇太子に喩えたもの。○隠らく惜しも 「隠らく」は、名詞形で、隠れることの意。すなわち幽り身とならせられたことの喩え。「惜しも」の「も」は、詠歎。
(263)【釈】 日は照っているけれども、すなわち天皇は儼然とましますけれども、しかし夜空を運行する月の隠れたこと、すなわち天皇につぎたまふ皇太子の幽り身となられることの惜しさよ。
【評】 この歌は、さらに転じて、皇子尊を、国家との関係においてお思い申したものである。心としては長歌に繋がりをもったもので、その意味では繰り返しに近いものである。日を天皇にお喩えするのは、日の皇子という讃え詞との関係上、喩えとは言い難いものである。月を皇太子にお喩えするのは、その延長であって、これまた心としては喩え以上のものである。日と月のそれぞれに枕詞を添えているのは、修飾というよりも、尊んで重くいおうとする必要のもので、ここにも修飾以上のものがある。形を素樸に、調べをもって情をあらわしているところは、上の歌と同様である。
 
     或本、件の歌を以て後の皇子尊の殯宮の時の歌の反となせり
      或本、以2件歌1爲2後皇子尊殯宮之時歌反1也
 
【解】 この注記は右の歌(一六九)の下に二行に記されている。西本願寺本には、「或本云」とあるが、「云」は、金沢本などにはない。「後の皇子尊」は、高市皇子尊のことで、後の(一九九)に出る。「歌の反」は、『講義』は、後の琴歌譜によって「歌ひ返し」と訓むべきもので、反歌の国語であり、二様の名が存していたとしている。
 
     或本の歌一首
 
【題意】 「或本」には、次の歌が、この長歌の反歌の一首となっているところから、撰者がここに収めたものとみえる。しかしこの歌は、その性質上、これに続く一連の歌の中に属すべきものとみえる。
 
170 島《しま》の宮《みや》 勾《まがり》の池《いけ》の 放《はな》ち鳥《どり》 人目《ひとめ》に恋《こ》ひて 池《いけ》に潜《かづ》かず
    嶋宮 勾乃池之 放鳥 人目尓戀而 池尓不潜
 
【語釈】 ○島の宮 日並皇子尊の宮殿の名。宮の所在は、今の明日香村島の庄であろうという。この宮については『講義』が詳しく考証している。ここは推古天皇の御代、蘇我馬子が邸を営んだ旧地らしく、後、天武天皇の離宮となり、皇太子に賜わったものだという。島の宮というのは、宮殿内に島があったからの称で、島とは庭園を称する名である。この島ははやく馬子時代からあって、馬子もそれによって島大臣《しまのおとど》と呼ばれていたの(264)であった。○勾の池の 「勾の池」は、池の名である。この池は庭園の一部を成しているもので、いわゆる山水《せんすい》である。○放ち鳥 「放ち鳥」は、放ち飼にしてある鳥にもいわれうる語であり、仏教でいう放生《ほうじよう》のために放つ鳥にもいっている称である。ここはそのいずれかであるが、歌で見ると、鳥が池に住みついている状態をいっているところから推して、放ち飼の鳥とみえる。鳥は水禽である。○人目に恋ひて 「人目」は、人の目で、見ること、見ゆること、見らるることに通じていう語。ここは人に見らるることである。「に」は、(一一一)に出た。「恋ひ」の対象をあらわす語で、に対しての意であり、動的の目標をさした場合のものであると『講義』は説明している。今だと「を」というところである。人を恋しがっての意。○池に潜かず 水の中に潜り入らないの意で、潜るのは小魚を獲りなどするためである。
【釈】 島の宮の勾の池にいる放ち飼の水禽は、人を恋しがって、池水の中に潜り入らない。
【評】 皇子尊の屍は真弓の岡の殯宮へ移らせられ、宮人は殯宮に奉仕していたのであるが、その一部は交替にて島の宮の宿衛もしたことが、後に続く歌で知られる。作者とされている人麿は、その殯宮の期間のある日、島の宮の宿衛の番にあたってこちらへ来、皇子のいらせられた時とは打って変わり、寂然としているさまを見て、悲しくもの寂しい感に堪えなかったとみえる。その時たまたま目に着いたのは、水禽の放ち鳥で、これに向かっていると、折から水禽は水を潜《かず》かないのであったが、これがいつもの習性とは異なっているような気がして、そこに一つの気分が湧いてきたのである。それは水禽も自分と同じく、悲しくもの淋しい気がしていて、今見ている人が恋しくて潜《くぐ》らないのだと感じたのである。それがこの歌の作因である。「島の宮勾の池」と、馴れた宮で、しかも眼前にある池を、固有名詞を二つまで重ねていっているのは、事を鄭重にいうことによって感を尽くそうとしたのである。感とは、皇子尊の近くまでいられて、常に御覧になった物ということにまつわる哀感である。「放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず」は、事としては、折から水禽は小魚を漁ろうとしなかったというにすぎないことであるが、それに自分の哀感を移入して、水禽も我と同じく哀感に堪えずにいるとしたのである。自然物にわが感情を移入するということは、この時代にあっては少数の人よりほかは、十分にはできなかったのであるが、この歌はそれを高度にまで果たし得ているものである。これを果たしたがために、作者のその際の感情は、美しさを帯びたものとなってあらわされ、のみならずその折の島の宮全体のもつ哀感をも漂わしくるという広がりをもったものとなったのである。これは無意識なものでなく意識してのものであることは、「島の宮勾の池の」と重くいっているので明らかである。これは人麿の好んで用いた手法である。この歌によって見ると、人麿は、日並皇子尊の舎人の一人であったようにみえる。
 
     皇子尊の宮の舎人等、慟傷《かなし》みて作れる歌二十三首
 
【題意】 「皇子尊」は、上に続いて、日並皇子尊。舎人は東宮の舎人である。令の制によると、定員六百人である。舎人の職務は、宮中にあつては内舎人、大舎人に分かたれ、内舎人の職務は、「掌2帯刀、宿衛、供奉、雑使1、若駕行分2衛前後1」とあり、大舎(265)人の方は、「分v番宿直仮使」とある。これに准じたものと思われる。慟傷は、いずれの字もいたむの意あるものである。
 
171 高光《たかひか》る 我《わ》が日《ひ》の皇子《みこ》の 万代《よろづよ》に 国《くに》知《し》らさまし 島《しま》の宮《みや》はも
    高光 我日皇子乃 万代尓 國所知麻之 嶋宮波母
 
【語釈】 ○高光る我が日の皇子の 「高光る」の「高」は、天。天に光るで、「日」にかかる枕詞。「我が」は、親しみ尊んで添えた語。○万代に 万年にで、永久の意でいうもの。○国知らさまし 「国」は、わが国、「知らさまし」は、「知る」に尊敬の助動詞「す」の未然形「さ」のついた「知らさ」に、仮想の「まし」の続いたもので、「まし」は連体形である。御支配になるであろうところの意。○島の宮はも 「島の宮」は、上に出た。「はも」は、「は」は、上の体言のあらわそうとするものをさし、余情をこめて言いさしとしたもの。「も」は、その余情に対しての詠歎で、それをもって終止としたものである。ここは、主《あるじ》なき島の宮の荒れ行こうとするのを見て嘆いたものである。
【釈】 高光るわが日の皇子が世にいましたならば、永久にわたってこの国を御支配になるであろうところの島の宮は、ああ。
【評】 二十三首のうち、最も多数を占めているのは、島の宮の荒廃に帰そうとするのを悲しんだ歌である。皇子尊の御薨去からやや時日が立ち、悲哀の情が鎮まって来た時、舎人という身分の者に取っては、最も直接に、また最も痛切に哀感を誘ったのは、平常奉仕のために出入りしていた宮の状態であったろう。この歌は、島の宮の荒廃しつつある状態を目前に見て、今さらに返らぬ嘆きの強いものに衝《つ》き動かされ、それを一気に詠んだもののであることは、一首の調べによって感じられる。しかしそれをいうにも、皇子尊に対する畏さから語に細心の注意をし、御薨去のことは「国知らさまし」の「まし」の仮想によってあらわし、また、宮の荒廃の悲しさは、「島の宮はも」の「はも」によって、一に余情によってあらわすという方法を取っているのである。これらは技巧というべきではなく、真心の現われと見るべきである。一舎人の作としては優れたものである。
 
172 島《しま》の宮《みや》 上《うへ》の池《いけ》なる 放《はな》ち鳥《どり》 荒《あら》びな行《ゆ》きそ 君《きみ》まさずとも
    嶋宮 上池有 放鳥 荒備勿行 君不座十万
 
【語釈】 ○島の宮上の池なる放ち鳥 「島の宮」「放ち鳥」は、(一七〇)に出た。「上の池」は、池の名と取れるが、(一七〇)の勾の池との関係はわからない。「なる」は、にあるで、に居るの意。○荒びな行きそ 「荒び」は、疎く遠ざかる意である。今は、放ち鳥がそこを住み捨てる意である。住み捨てることはするなと命じた意。○君まさずとも 「君」は、主の皇子尊。「まさずとも」は、この宮におわさずとも。
(266)【釈】 島の宮の上の池に住んでいる放ち鳥よ、ここを疎く遠ざかること、すなわち住み捨てることはするなよ。主《あるじ》なる皇子尊はこの宮にはおわさずとも。
【評】 これも島の宮に詰める番に当たった舎人の、宮の荒廃しようとしている状態を悲しんでいる折から、上の、池に住んでいる水禽を見て、自身の情を投げかけたものである。「荒びな行きそ君まさずとも」は、単純に似て複雑である。放ち鳥は池に小魚のいる限りは住みついていようから、荒びゆく怖れは少ないものである。しかし舎人は主《あるじ》なき宮にはいられず、荒び行く形とならざるを得ないものである。その自身の怖れを放ち鳥に移し、哀願する心をもっていっているもので、心は舎人自身のものだからである。咄嗟《とつさ》に発した感で、深く意識していたものとはみえないが、実感であるがゆえにおのずから複雑味を含んでいるのである。境地は(一七〇)と酷似しているが、文芸性のはるかに劣ったものである。
 
173 高光《たかひか》る 吾《わ》が日《ひ》の皇子《みこ》の いましせば 島《しま》の御門《みかど》は 荒《あ》れざらましを
    高光 吾日皇子乃 伊座世者 嶋御門者 不荒有益乎
 
【語釈】 ○高光る吾が日の皇子の (一七一)に出た。○いましせば 「いまし」は、御在世の意。「せば」は、仮設の条件のもので、下の「まし」に対するもの。もしも御在世であったならば。○島の御門は 「御門」は、御殿を、その一部の御門で代表させたもので、島の宮はの意。○荒れざらましを 荒れずにあろうものをで、上の「いましせば」に対する帰結。
【釈】 高光るわが日の皇子がもし御在世であったならば、島の御殿はこのように荒れずにいようものを。
【評】 島の宮に詰めての嘆きである。荒廃するよりほかない島の宮の、すでにその兆をあらわしているのに対し、皇子尊を中に置いて、以前と現在とを対照しての嘆きである。心としては(一七一)と全く同じものである。(一七一)の方は感動そのものを主とし、宮の方は客として詠んでいるのに、これは宮の方を主として詠んだものである。感動に即したものの方が、感の強いものとなっている。
 
174 外《よそ》に見《み》し 檀《まゆみ》の岡《をか》も 君《きみ》ませば 常《とこ》つ御門《みかど》と 侍宿《とのゐ》するかも
    外尓見之 檀乃岡毛 君座者 常都御門跡 侍宿爲鴨
 
【語釈】 ○外に見し 「外」は、現在も口語にまで用いている語で、関係のない、ひいては疎いものの意である。『講義』は、仏典のよその国語化(267)したもので、古くよりそうなった語だと注意している。関係なく見てきた。○檀の岡も 「檀」は、上の真弓。「も」は、詠歎。○君ませば 「君」は、皇子尊。「ませば」は、いますので。○常つ御門と 「常」は、永久。「つ」は、の。「御門」は、御殿。「と」は、として。永久の御殿として。事としては殯宮である。○侍宿するかも 「侍宿」は、殿居《とのい》で、宿直。守衛の役としてである。「かも」は、詠歎。
【釈】 関係なく見てきたところの真弓の岡も、君がそこにましますので、永久の御殿として、守衛のための侍宿をすることであるよ。
【評】 これは、真弓の岡の殯宮に侍宿をしていての悲しみである。悲しみを抒《の》べるに、自分の現在の状態を、客観的に、大きく捉え、しかも「外に見し檀の岡」を、「常つ御門」としていると、際やかなる対照をして、それによって悲しみをあらわしているのである。目だたないものであるが、当時の歌風に従ったもので、要を得た歌である。殯宮を檀の岡と言いかえたのは、感傷の心よりである。
 
175 夢《いめ》にだに 見《み》ざりしものを おほほしく 宮出《みやで》もするか 佐日《さひ》の隈廻《くまみ》を
    夢尓谷 不見在之物乎 欝悒 宮出毛 爲鹿 佐日之隈廻乎
 
【語釈】 ○夢にだに見ざりしものを 「だに」は、軽きをあげ重きを言外に置く意の助詞。夢にさえも見なかったものをで、全く思いもかけなかったのにと嘆いた意。○おほほしく 「欝悒」は、集中に多い語で、『講義』は「おぼろ」の語根に基づいた語で、その「おぼ」を重ねておぼおぼしくとした意であろうという。多くの用例から見ると清音であるらしく、事のはっきりしない意、また、心結ぼれる意をもあらわす語である。ここは、はっきりしない意に取れる。形容詞。○宮出もするか 「宮出」は宮門を出入することで、ここは宮に向かって行く意と取れる。「も」も「か」も詠歎。宮への出仕をすることよの意。○佐日の隈廻を 「佐」は接頭語。「日の隈」は檜隈《ひのくま》の文字を用いたものが多い。高市郡明日香村檜前。現在は真弓の岡の南方にある(268)一地名となっているが、古くは広い地域の大名で、真弓の岡もその中であったかもしれぬと『講義』は考証している。「廻」は、あたり。
【釈】 夢にさえも見なかったことであるのに。事のはっきりしない、すなわち現実とも思われない状態で、宮への出仕をすることであるよ、この檜隈のあたりを。
【評】 一舎人の、真弓の岡の殯宮への出仕の途中、檜隈のあたりを歩きながら、出仕といえば橘の島の宮とばかりきまっていて、それに馴れている心から、打って変わった今の状態を、現実のことではないような感がして、嘆いての歌である。「おほほしく」という語は、ありふれた語であるが、事の全体を大きく捉え、事実に即していおうとする態度に支持されて、含蓄の多い、その際の悲哀の情を微妙にあらわし得たものとなっている。
 
176 天地《あめつち》と 共《とも》に終《を》へむと 念《おも》ひつつ 仕《つか》へ奉《まつ》りし 情《こころ》違《たが》ひぬ
    天地与 共將終登 念乍 奉仕之 情違奴
 
【語釈】 ○天地と共に終へむと 「天地」は、窮りなきものの代表としてのもの。「と共に」は、それと一緒にで、永遠にということを具象的にいったもの。天壌無窮というと同じ意で、例の多い語である。「終へむと」は、終わらせようとで、その終わらせるのは、下の「仕へ奉る」ことである。○念ひつつ 「つつ」は、継続。○仕へ奉りし情違ひぬ 「仕へ奉りし情」は、皇子尊に御仕え申して来た情《こころ》。「違ひぬ」は、期待に反したの意。
【釈】 天地と一緒に、永久にお仕え申しきろうと思い思いして、今までお仕え申してきたところのわが情は、期待に反してしまった。
【評】 皇子尊の御薨去に対しての深い悲哀を、一気に、太く強く訴えた歌である。その悲哀の深さは、一首の調べによって十分に具象化されている。「天地と共に終へむと」は、舎人として仕えまつる情をいったものであるが、この語は、皇子尊を君と仰ぐがゆえにはじめて言いうるもので、すなわち皇子尊を讃えるとともに、臣下としてお仕えする矜りをも一つに溶かし込んだ、複雑味のある語である。また、「情違ひぬ」と、我に即した言い方をして、皇子尊の御薨去をあらわしているところも、その延長で、同じく複雑味をもったものである。一気に詠んではいるが、行届いた用意をもったものである。
 
177 朝日《あさひ》てる 佐太《さだ》の岡辺《をかべ》に 群《む》れ居《ゐ》つつ わがなく涙《なみだ》 やむ時《とき》もなし
    朝日弖流 佐太乃岡邊尓 群居乍 吾等哭涙 息時毛無
 
(269)【語釈】 ○朝日てる 「佐太の岡」を修飾しているもの。日のあたることは、古くから愛《め》でたいこととしており、岡はその最もよくあたる所だから、捉えて修飾としたのである。「朝日」を選んだのは、具象化を尊ぶ心から、日の感の最も強い時として選んだのである。○佐太の岡辺に 下の続きから、殯宮の在り場所であることは明らかだが、それは上に引いたように、正式には真弓の岡とされている。『講義』も、佐太の岡は真弓の岡の西南にあって、相対して一と続きとなっていて、その区別は明瞭ではない。古くはその一帯を真弓の岡と称し、一部を佐太の岡と称していたのだろうといっている。○群れ居つつ 春宮の舎人は上にいったように六百人というので、分番宿衛する者も多人数で、したがって群れ居る状態であったとわかる。○わがなく涙 「吾等」は、「わが」にあてた文字で、国語にあっては単数も複数も同じであるところから、文字によってその複数をあらわしたものである。これは他にも例のあるものである。歌が文字によって読む物になっていたことを明らかに示しているものである。○やむ時もなし 「やむ」は、止む。「も」は、詠歎。
【釈】 朝日の照る佐太の岡に群れて居つつ、我らの悲しんで流す涙は、やむ時とてもない。
【評】 「朝日てる」という修飾は、他にもあるもので、創意のものではないが、これは実際に即したもので、宿衛の夜が明けて、朝日が岡の上に射してくると、その華やかさに刺激されて、哀感を深められたので、それに即していったものと取れる。心理の自然がある。また、殯宮を佐太の岡辺としているのも、この歌がはじめてである。大名よりも小名を選んだことも、上と同じく実際に即したことがわかる。「吾等」がこの作者の用字であったとすれば、そこにも同じ心が見えることである。悲哀の強く感じられるところを捉え、全体の状態としていっているので、感の強いものとなっている。状態を通し、全体を通して悲哀をあらわしているところに、特色がある。
 
178 み立《た》たしの 島《しま》を見《み》る時《とき》 にはたづみ 流《なが》るる涙《なみだ》 止《と》めぞかねつる
    御立爲之 嶋乎見時 庭多泉 流涙 止曾金鶴
 
【語釈】 ○み立たしの 訓が定まっていない。『代匠記』は「みたたせし」、『考』は「みたたしの」、『新考』は旧訓のごとく「みたちせし」、『新訓』も同様である。『考』に従う。「み立たし」は、立つの敬語。その連用形が、体言化し、それに「御」を添えたもの。皇子尊の下り立たせられたところの意。○島を見る時 「島」は、広く庭園の意。○にはたづみ 「庭」は、「俄」にあてた字で、その意のもの。「多泉」「立水《たつみ》」の意。『仙覚抄』は、水にはたて水、ふし水とあり、ふし水は地下にあって地面に現われない水、たて水は、地面に現われて流れる水だといい、『古義』も、辺鄙の語に、夕立などで庭に流れる水を、「たづみ」が走るといっているのは、古言が残っているのだといっている。それらのたて水が、「たづみ」である。すなわちにわかに現われて流れる水の称。涙の譬喩としてのもの。○流るる涙止めぞかねつる 「止めぞかねつる」は、「かね」は難の意の動詞で、現在口語にも用いている。とめかねることであるよと、嘆きをこめていったもの。「つる」は「ぞ」の結び。
(270)【釈】 皇子尊の下り立たせられたところの庭園を見る時、御在世の折のことが眼に浮かんできて、「にはたずみ」のごとくにも流れる涙が、止めようにも止めかねることであるよ。
【評】 これは島の宮に詰めての歌である。島の宮に詰めることとなった舎人の、その島を眼にすると同時に、その島に下り立たせられた時の皇子尊が面影に立って、悲しさがこみ上げてきた、その瞬間の心持を詠んだものである。「島を見る時」と限っていい、一転して「流るる涙」と続けているところは、その瞬間の烈しい悲哀をさながらにあらわしている。きわめて実際に即した歌である。「にはたずみ」は、後には愛用されて枕詞のごとくなっているが、この歌では譬喩と見るべきである。誇張したものではあるが、適切なためにそれを感じさせない、感の深いものである。
 
179 橘《たちばな》の 島《しま》の宮《みや》には 飽《あ》かねかも 佐田《さだ》の岡辺《をかべ》に 侍宿《とのゐ》しに往《ゆ》く
    橘之 嶋宮尓者 不飽鴨 佐田乃岡邊尓 侍宿爲尓徃
 
【語釈】 ○橘の島の宮には 「橘」は、明日香村橘。そこにある島の宮には。「島の宮」のあった所と伝える現在の島の庄は、橘の地域内であったと思われる。○飽かねかも 「飽かね」の「ね」は、打消の「ず」の已然形で、已然形をもって下に接続させ、条件を示すものとすることは、当時の語法であって、後世「ば」の接続助詞をもって続ける「飽かねば」と同じである。これは例の多いものである。「かも」は、疑問で、飽き足らないによってかの意。○佐田の岡辺に侍宿しに往く 「佐田の岡辺」は、(一七七)に、「侍宿」は、(一七四)に出た。
【釈】 橘の島の宮に侍宿《とのい》をすることに飽き足りないによってなのか、我は佐田の岡辺の方に侍宿をしには往くよ。
【評】 佐田の岡辺の殯宮に侍宿をしようとして、そちら(271)への道を歩いていての感である。客観的にいえば、その事はきわめて明らかなことであるが、主観的に、舎人の身に即し、その気分に即してくると、同じく皇子尊の宮とはいえ、橘の島の宮の華やかだったのに較べて、佐田の岡辺という名をもって呼ばれるさみしい宮へ侍宿に往く自分を、何だってこのようなことをするのだろうと、ふと疑うような気が起り、あちらの宮での侍宿は飽き足りないによってのことなのかと、最も手近な、最もありうべき理由を、疑いを残して答としたのである。すなわち自分の気分に即して、きわめて明らかな事にさえ惑おうとした心である。大きな悲哀に心の打ち砕かれた際に起こることのある実感である。「橘の島の宮」という華やかな言い方と、「佐田の岡辺」という侘びしい言い方との対照は、このふとした惑いを表現する上で働きのあるものとはなっているが、一首、微旨をいおうとしたもので、力強いものではない。
 
180 み立《た》たしの 島《しま》をも家《いへ》と 住《す》む鳥《とり》も 荒《あら》びな行《ゆ》きそ 年《とし》替《かは》るまで
    御立爲之 嶋乎母家跡 住鳥毛 荒備勿行 年替左右
 
【語釈】 ○み立たしの島をも家と 「み立たしの」は、(一七八)に出た。「島をも」は、庭園をさえもの意で、上より続いて、皇子尊の御立たしになられたところのその貴い庭園をさえもの意。「家と」は、家としてで、水禽が池に住みついているところから、その池を家と見立てていったものである。「家」という言い方は、水禽に舎人と同じ情を要求しようとして、人に引きつけていったもので、技巧としてのものではない。○住む鳥も 「鳥も」の「も」は、もまたで、鳥もまた舎人と同じくの意のもの。○荒びな行きそ 「荒び」は、(一七二)に出た。疎く遠ざかる意。疎く遠ざかるなというのは、ここを捨てて、他へ移り住むようなことはするなの意。○年替るまで 「年替る」は、年改まるで、この舎人の歌を通じて見ると、殯宮の事は一周年を期間としたのである。年替るは、その一周年を意味させたものであることが、舎人を標準としていっているところからわかる。全体では、一周年の来るまではの意。
【釈】 皇子のお下り立ちになったところの貴い庭園をさえも、その家として住んでいる水禽もまた、ここを捨てて他へ移り住むようなことはするな、我らと同じく一周年の来るまでは。
【評】 天皇、皇太子のごとききわめて尊貴な御方には、臣民はもとよりのこと、上は天神地祇より、下は山野の鳥獣まで、一切がお仕えすべきだということは、一般の通念となっていた。「み立たしの島をも家と住む鳥」は、当然特別なる奉仕をしなければならないものである。この舎人は、その心から、水禽に対して、我ら舎人と同じく一周年までの間は奉仕せよと命じたのである。これは特別な感傷からではなく、当然のこととして要求し、諭して聞かせたものである。初句より三句までは、水禽が皇子尊に対して従来もってきた深い関係をいって聞かせているもので、自明なことを改めていって聞かせているものである。(272)しかしその奉仕にも限度をつけて、我ら舎人と同じく一周年間をといっているのは、行き届いた心である。水禽に対してある不安を感じていっているところはまさしく実感である。
 
181 み立《た》たしの 島《しま》の荒礒《ありそ》を 今《いま》見《み》れば 生《お》ひざりし草《くさ》 生《お》ひにけるかも
    御立爲之 嶋之荒礒乎 今見者 不生有之草 生尓來鴨
 
【語釈】 ○み立たしの島の荒礒を 「み立たしの島」は、上に出た。「荒礒」は、「荒」は、巻一(五〇)「都宮《みあらか》」の「あら」と同じく現われる意。「礒」は、石の古語で、地上に現われている石。池のほとりにある石を称したもの。また、石のあるあたりは、草の生えやすく伸び立ちやすい所である。○今見れば 「今」は、絶えず詰めていた島の宮から離れていて、今、こちらへ立ち帰って来た時をあらわしたもの。○生ひざりし草 生えなかった草で、皇子尊の御在世の時は、生えるとすぐに抜いて生い立たせなかった草を言いかえたもの。○生ひにけるかも 「生ひにける」は、生えて伸び立ってしまっている意で、これはその係の者がいなくなったからの自然の成りゆきである。「かも」は、詠歎。
【釈】 皇子尊の下り立たせられたところの庭園を、今見ると、以前には生えなかった草が、生えて伸び立ってしまっていることではあるよ。
【評】 島の荒礒に草の生えているのを眼にして、甚しくも嘆いた心である。島の宮は、その主《あるじ》である皇子尊が御薨去になったので、当時の風に従って住み捨てられ荒廃に委ねらるべきものとなっていた。皇子尊の第一の御形見である宮が、そのようになってゆくということは、舎人にとっては思うにだに堪え難い悲しみだったのである。しかるに今、しばらく島の宮を離れていて立帰って見ると、すでに荒廃の兆を示している。見るものは「草生ひに」であるが、それは「生ひざりし」草なのである。語を尽くし、強い調べに託して嘆いているのは、まさに実感と思われる。
 
182 鳥〓《とぐら》立《た》て 飼《か》ひし鴈《かり》の子《こ》 巣立《すだ》ちなば まゆみの岡《をか》に 飛《と》びかへり来《こ》ね
    鳥〓立 飼之鴈乃兒 栖立去者 檀岡尓 飛反來年
 
【語釈】 ○鳥〓立て 「〓」は、『美夫君志』が考証して、「栖」の俗字だとしている。「鳥〓」は、鳥座《とぐら》で、鳥座《とりくら》の約《つ》まった語。鳥の宿りすわる所の意。「立て」は、構えて。鳥を巣飼いする状態を、具象的にいったもの。○飼ひし鴈の子 「鴈」は、今日よりは意味の広い語で、雁《がん》、鴨の類を総称していった。「子」は、雛。呼びかけていったもの。○巣立ちなば 「巣立ち」は、現在も口語に用いている。雛が自活に堪えるまで育つと、(273)巣立ちをするところからいっている語で、独立ができるようになったならばの意。○まゆみの岡 上に出た。○飛びかへり来ね 「飛びかへり」の原文「反」は、「翻《かへ》り」の意で、鳥の飛ぶ状態をいったもの。『新考』は、巻九(一七五五)、霍公鳥《ほととぎす》の歌の「卯の花の咲きたる野辺ゆ、飛翻《とびかへ》り来鳴きとよもし」を例としている。「来ね」は、来よと懇ろに誂えたもの。
【釈】 鳥栖《とぐら》を構えて飼って来た鴈の雛よ、お前が巣立ちができるようになったならば、皇子尊のまします真弓の岡へ翻り飛んで来てお仕え申し上げよ。
【評】 (一八〇)と同じく、皇子尊の御恩をこうむった鳥は、当然、舎人と同じように、殯宮の御奉仕をするべき者であるとして、それを諭す心のものである。「鳥〓立て飼ひし鴈の子」と、皇子尊の御恵みの深かったことをいい、御恩返しをするべきこととして、「まゆみの岡に飛び反り来ね」といっているところは、全く同一である。異なるのは、彼は独立している水禽で、どこへでも移ろうとすれば移って住める鳥であるところから、その不安を抱いて諭しているのに、これは独立のできない雛であるところからその不安はなく、また、皇子尊の御恵みも、教えることによってはじめて知りうるものとして、諭すというよりは、教える態度をもっていっている点である。おそらく(一八〇)の歌を見て、それにならって詠んだものではないかと思われる。この方が作者の心が単純である。
 
183 吾《わ》が御門《みかど》 千代常《ちよとこ》とばに 栄《さか》えむと 念《おも》ひてありし われし悲《かな》しも
    吾御門 千代常登婆尓 將榮等 念而有之 吾志悲毛
 
【語釈】 ○吾が御門 「吾が」は、親しんで添える語。「御門」は、ここは宮を代表させてのもので、島の宮の意。○千代常とはに 「千代」は、千年で、永久の意。「常とば」は「常とば」は永久、不変。「婆」は濁音、仏足石歌その他に用例がある。どちらも同じ意の副詞で、強めるために畳んだもの。○栄えむと 栄えて行こうとで、皇子尊の栄えを宮に寄せていったもの。○念ひてありしわれし悲しも 「われし」の「し」は、強め、「も」は、詠歎。念つて来たところの我は悲しいことよの意。
【釈】 吾が皇子尊の宮は、まことに永久に栄えて行くことであろうとばかり思って来たところの我は、深く悲しいことであるよ。
【評】 皇子尊の思いがけぬ薨去に逢って、その悲しみに打ち砕かれた心を直写したものである。直線的に、強い調べをもって詠んであるがために、その深い悲しみがさながらに現われている。「念ひてありし」と過去にし、「悲しも」を添えることによって薨去をあらわしているのは、実際に即したがためであるが、それだけで不足を感じさせないのは、強い調べが補いをなしているからである。
 
(274)184 東《ひむかし》の たぎの御門《みかど》に 伺侍《さもら》へど 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 召《め》す言《こと》もなし
    東乃 多藝能御門尓 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無
 
【語釈】 ○東のたぎの御門に 東方の御門にしてで、たぎのある御門にの意。「東」は、巻一(五二)に出たように、わが国では中国とは反対に、東西を経とし、南北を経とするところから、宮殿の御門も、東方のものを正門とした。この「東」はその意のものである。「たぎ」は、巻一(三六)に出たように、急流のたぎる水をさす語で、「たぎる」の語幹「たぎ」の名詞となったものである。この「たぎ」は、勾の池の水である。その落ち口か取入れ口かについて、『講義』は詳しい考証をしている。要は、島の宮の故地は、東は多武蜂または細川山の麓で、傾斜が急であるから、落ち口ではなく取入れ口でなくてはならない。思うに古は、飛鳥川の本流か、または支流である細川が、島の宮の東を流れていたのだろうといっている。○伺侍へど 伺候し、詰めているけれどもで、東の御門に舎人の詰所があったとわかる。○昨日も今日も召す言もなし 「召す言」の「言」は、事とも、文字どおり言《こと》とも取れる。『講義』の「言」の意としたのに従う。
【釈】 東のたぎの御門に伺候して詰めているけれども、昨日も今日も、皇子尊のお召しになるお言葉がない。
【評】 多くの舎人らが、番を定めて、真弓の岡と島の宮とへ分かれて詰めることにしていて、この舎人は今、島の宮へ詰めていたのである。詰め馴れた島の宮の、東のたぎの御門の詰所に伺侍《さむら》っていると、宮には皇子尊がいらせられ、今にも御用でお召しになるような気がしつづけているのであるが、待ちに待ってもそのお声がないと嘆いているのである。永い間の習慣に引かれるところからくるこうした惑いは、心理的にきわめて自然なもので、感傷ともいえないものである。したがって誇張は含んでいない実感とみるべきである。「東のたぎの御門に伺侍へど」と、事を懇ろにいい、「昨日も今日も」とさらに言を重ねているのは、その永い習慣に引かれることを具象したもので、用意をもった表現というべきである。
 
185 水《きづ》伝《つた》ふ 礒《いそ》の浦廻《うらみ》の 石《いは》つつじ もく開《さ》く道《みち》を また見《み》なむかも
    水傳 礒乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又將見鴨
 
【語釈】 ○水伝ふ 水が伝って動いて行く意で、下の「礒の浦廻」の状態をいったもの。勾の池の水が、落ち口の方へ向かって動いているのが、汀では感じられるのをいったもの。風景のおもしろさとしてのものである。○礒の浦廻の 「礒」は、石。ここは、勾の池の岸が石で固めてあったとみえる。「浦廻」は、浦のあたりで、池の岸の入り込んだ所を、海の浦になぞらえて呼んだ称。池や川などに、海の名称を移して用いるのは当時の風で、これもそれである。○石つつじ 躑躅の名。岩のある地に自生するところからの名であろうという。○もく開く道を 「木丘」は、(275)日本書紀を初め、古典に用例の多い語で、繁く盛んな意をあらわす古語である。諸注、多くの例を引いている。顕宗紀に、来目部小楯の事をいって、「厥功茂《そのこうもし》焉」とあり、応神紀に、「芳草薈蔚《もくしげし》」とあり、「薈」は玉篇に「草盛貌」とある。『講義』は、『古語拾遺』『将門記』『朗詠』『毛詩』『尚書』『文選』『遊仙窟』などから例を引いている。「もく、もし、もき」と働く形容詞である。一句、繁く盛んに咲いている道をで、風景の愛《め》でたさをいったものである。○また見なむかも 「かも」は、反語として用いている。またも見ることがあろうか、ないの意。
【釈】 水が伝って移ってゆく池辺の礒の、その浦回にある石つつじよ。この繁く盛んに咲いている愛《め》でたい道をまたも見ることがあろうか、ありはしない。
【評】 島の宮の、その島の内の勾の池のほとりの、折から咲き盛っている石躑躅の間の道をそぞろ歩きしながら、悲しみに駆られて詠んだ歌である。皇子尊の薨去は四月の十三日なので、一年間の殯宮の期間を、舎人らは窺宮に奉仕し、島の宮も守衛をしていたのであるが、その期間が終ると退散しなくてはならないのであるから、石つつじの花をいっているのは、その退散の期の迫った頃とみえる。一たび退散すれば、島の宮との関係は絶えてしまうので来年のこの石つつじの咲くのは見ることができず、まさに「又見なむかも」である。嘆かざるを得ないはずである。歌は石つつじの間の道を中心としたものであるが、その石つつじのある所を「礒の浦廻」といい、さらにその「礒の浦廻」をいうに「水伝ふ」という新しい修飾を加えている。『講義』の説くところによれば、島の宮の所在地は傾斜地である。それだと勾の池の水は落ち口に向かって移動をし、礒のあたりではそれが露《あら》わに感じられたと思われる。石つつじだけではなく、その咲いている場所も特殊なる愛《め》でたさをもっているものとして、心をこめてそれをあらわしているのはそのためである。これらはすべて愛惜の心からのことで、その愛惜はやがて悲哀なのである。あわれの深い、しかし実際に即した、落着いた心をもって詠んだ歌である。
 
186 一日《ひとひ》には 千遍《ちたび》參入《まゐ》りし 東《ひむかし》の 大《おほ》き御門《みかど》を 入《い》りかてぬかも
    一日者 千遍參入之 東乃 大寸御門乎 入不勝鴨
 
【語釈】 ○一日には 「一日」は、短い間の意でいった、譬喩的なもの。「は」は、皇子等の御生前を、御薨去の今に対させた意で用いたもの。○千遍参入りし 「千遍」は、千回で、多い意でいった、譬喩的のもの。「参入る」は、尊い所へ伺う意。○東の大き御門を 「大寸」は、『考』の訓。「大」を「た」とし、また「太」の誤りとして、「たぎの」との訓もある。『考』に従う。「大寸」は尊んで添えた語。正門であったので、それにあたってもいる。○入りかてぬかも 「かて」は、(九四)「有りかつましじ」の「かつ」と同じく、堪える意の古語。「ぬ」は打消。「かも」は、詠歎。入るに入りかねることよの意で、仕えまつるべき皇子尊の、宮におわさぬ悲しみをいったもの。
(276)【釈】 御生前には、一日に千回もお伺いをした、この東の大き御門を、御薨去の今は、悲しみのために入りかねることであるよ。
【評】 島の宮の守衛の番のまわってきた舎人が、その詰所のある東の御門の内に入ろうとして、皇子尊の御生前と御薨去後の今とが今さらのごとくに比較されて、悲しさに立ち入りかねるような感のしたことを詠んだものである。「一日には千遍参入りし」と、「入りかてぬかも」とを対照させて、際やかにいっているのはそのためである。殯宮の期間は、御生前と同じく島の宮の守衛をもしていた、その間の心である。御生前を強くいい、現在をその対照によって暗示的にいっているところに、その際の感が現われている。
 
187 つれもなき 佐太《さだ》の岡辺《をかべ》に かへり居《ゐ》ば 島《しま》の御橋《みはし》に 誰《たれ》か住《す》まはむ
    所由無 佐太乃岡邊尓 反居者 嶋御橋尓 誰加住※[人偏+舞]無
 
【語釈】 ○つれもなき 本居宣長の訓。(一六七)に出た。○佐太の岡辺に 上に出た。○かへり居ば 『考』の訓。立ち帰って居たならば。佐太の岡辺の殯宮を、主として奉仕するべき所とし、島の宮へは、たまたまに宿衛に来たものとして、あちらへ立ち帰って居たならばの意でいったもの。殯宮の期間は、御生前と同じく奉仕したのであるから、主《あるじ》のまさぬ島の宮ではあるが、こなたもそれに准ずる扱いをして、その期間は宿衛したものであろうと、歌によって取れる。そうしたことは、よるべき証のないことだとしても、(一八四)「昨日も今日も召す言もなし」によって、二日にわたっての宿衛をしたことも明らかである。ここもその意のものと解される。○島の御橋に 「島」は、庭園。「御橋」は、池に架けた橋で、中島に架けたものかと思われる。庭園の中の最も眺めの好い所としていっているものと思われる。○誰か住まはむ 「誰」は、舎人をさしたもの。「か」は、疑問。「住まふ」は、「住む」の継続の意をあらわすもの。誰がとどまることであろうか。
【釈】 もの淋しいあの佐太の岡辺へ、自分が立ち帰っていたならば、この眺めの好い島の御橋の上に、誰がとどまるのであらうか、とどまる者もない。
【評】 この舎人は、仕え馴れた島の宮の、その島の中でも最も眺めの好い池の御橋の上に立って、主として奉仕するべき殯宮のことを思いやりつつ、御橋を去り難くしている嘆きを詠んだのである。殯宮をそれとしていわず、「つれもなき佐太の岡辺」という侘びしい名をもって呼んでいるのは、「島の御橋」のなつかしさをあらわそうがための対照であって、力点を眺めに置いたからである。「島の御橋」をなつかしむのは、御生前の皇子尊を慕っているからで、そこにいわざる深い悲しみがある。「誰か住まはむ」は、誇張のあるもので、島の宮にも宿衛していたことは前後の歌で知られる。この誇張は御生前との対照で、悲哀を新たにしたところから自然に出ているものである。眼前の眺めを惜しむ形とはなっているが、それは皇子尊を悲しむ心(277)から発しているものなのであって、あわれ深いものがある。
 
188 朝曇《あさぐも》り 日《ひ》の入《い》りゆけば み立《た》たしの 島《しま》に下《お》りゐて 嘆《なげ》きつるかも
    旦覆 日之入去者 御立之 嶋尓下座而 嘆鶴鴨
 
【語釈】 ○朝曇り 「旦《たん》」は朝。「覆」は覆う意で、「くもり」にあてたものだと、『攷証』が考証している。下の「日の入り」の状態をいったもの。○日の入りゆけば 日が入ったのでで、悲哀の深い時としてのもの。○み立たしの島に下りゐて 「み立たし」は、名詞。皇子尊の下り立たせられたところの庭園に、自分も下りていてで、皇子尊に接近しうるかのごとき感のしてのこと。○嘆きつるかも 「かも」は、詠歎。嘆いたことであるよ。
【釈】 朝の空が曇って、日が入ったので、その状態に刺激されて悲しみが深くなってき、皇子尊の下り立たせられたところの庭園に我も下りていて、嘆きをしたことであるよ。
【評】 島の宮にあって、日が雲にかくれた時に感じた気分を具象したものである。そのさびしさは特殊なものであるが、今はそのさびしさが悲しさとなり、悲しさは皇子等の慕わしさとなって、「み立たしの島に下りゐて」となったのである。あらわしやすくない気分を、的確に具象し得ている歌である。「旦覆」も、実景として捉えたものと思われるが、これも気分に溶け入って、具象の上に少なからぬ働きをしている。単純な気分を十分に具象している点で注意される歌である。
 
189 朝日《あさひ》照《て》る 島《しま》の御門《みかど》に おほほしく 人音《ひとおと》もせねば まうらがなしも
    旦日照 嶋乃御門尓 欝悒 人音毛不爲者 眞浦悲毛
 
【語釈】 ○朝日照る島の御門に 「朝日照る」は、(一七七)「朝日照る佐太の岡辺に」に出た。本来は宮を讃える成句で、「朝日照り夕日照る」と続けてもいう語である。ここもその心をもって「島の御門」を讃えているのであるが、それだけではなく、同時に眼前の実景としてもいっているものである。そのことは下の続きの「人音もせねば」によって解せられる。皇子の御生前は、「朝日照る」時刻は、舎人のすべてが出仕している時刻だったのである。「島の御門」は、(一七三)に出た。島の宮である。○おほほしく (一七五)に出た。おぼつかなく、心細い意。「まうらがなしも」に続く。○人音もせねば 「人音」は、人の声、人の立てる物音を総括したもので、「人」とは多くの舎人である。「も」は、詠歎。当時の出仕。勤務が早朝と定まっていたことは、(一六七)でいった。「朝日照る」という時刻は、一日を通じて島の宮の最も活気づき、賑わしい時刻だ(278)ったのである。この舎人は、皇子御生前の時と同じく、夜を島の宮の詰所に宿衛して、朝を迎えたのであるが、今は朝を出仕する一人の舎人もなく、宮は寂然としているので、これとそれとが対照されてき、続いて将来の宮のさまが思われてきて、そのおぼつかなくも心細さが今さらのごとく感じられてきたのである。○まうらがなしも 「まうらがなし」は、熟語で、「うらがなし」に「ま」の接頭語の添った形のものである。「うら」は、心裏。「かなし」は、悲しである。「まうらがなし」という語は他に用例の見えないものであるが、「ま悲し」という語は例の多いものであるから、当然ありうる自然な語である。「ま」の接頭語を添えることによって、語感を強めたものである。「も」は、詠歎。
【釈】 朝日の照っている島の御門《みかど》に、ありし日の華やかに賑わしかったのとは引きかえて、おぼつかなく心細くも舎人らの出仕勤労の人音もしないので、まことに心悲しいことであるよ。
【評】 この舎人は、「島の御門」の最も華やかに賑わしかるべき朝日の照る時刻において、反対に、寂しさの極みを感じて、その哀感を詠んだので、心理の自然さがある。また前の舎人は、自身の哀感を主としているのに、この舎人は宮そのものの哀感を主としているので、その点も異なっている。しかしその綜合力と感性の細かさは同じであって、「朝日照る」という宮の讃え詞に、一首にとって最も大切な哀感の土台を捉えて、それをこの一句に具象させており、また「おほほしく」の一語によって、遠からず荒廃に委ねられるべき宮そのものの哀感をも、暗示的にあらわしているのは、非凡というべきである。一首の調べにおいて、前の歌ほどの張りはもっていず、その点ではいささか劣っているが、これは取材との関係もあることで、一概にはいえないものである。なおこれら舎人の挽歌は、慟哭《どうこく》の声のまさに破れんとするものが、脈々として迫ってくる感がある。舎人は宮中より賜わるもので、廷臣としての一つの職であり、また挽歌には儀礼の面があるのであるが、これらの挽歌は君臣関係を超え、後世の主従関係のごとき切情となっているのである。この情は天皇に対してももっているもので、あらわすのを恐れ多しとしているものを、皇子尊であるがゆえに許されるとして、赤裸々にあらわしているものと解される。
 
190 真木柱《まきばしら》 太《ふと》き心《こころ》は ありしかど この吾《わ》が心《こころ》 鎮《しづ》めかねつも
    眞木柱 太心者 有之香杼 此吾心 鎭目金津毛
 
【語釈】 ○真木柱太き心は 「其木柱」は、檜をもって作った柱で、柱の中でも中心的な貴重なもの。日本書紀、神代紀に、「造宮之制者《みやつくるさまは》、柱者高太《はしらはたかくふとく》」とあり、他にもある。宮の柱はもとより、しかるべき家だと、中心となる柱はこれに准じたものであったと思われる。これは下の「太」に意味で続く枕詞。「太き心」の「太き」は、細きに対した語で、ここは男々しいの意。○ありしかど 以前はあったけれども。○この吾が心 「この」は、間近いものをさしていう語で、「吾が心」をさしている。これは上の過去の心に対させたもので、現に今ある心。その心は悲しみに砕(279)かれている心で、それを説明せずに綜合的にいったもの。○鎮めかねつも 「鎮め」は、平静を保つ意。「かね」は、難しの意の動詞。「も」は、詠歎。平静を保たせ難いことよの意。上代は、体と魂とは別なもので、心を甚しく動揺させると、魂は体から離れて、生命を危険にすると信じられていた。そういう際に、魂を鎮めるのがいわゆる鎮魂で、これは重大なる神事としていた。家の中心となっている柱を、身近にある、鎮まっている物の代表とし、心をそれにあやからせようとする心は、室寿詞《むろほぎのことば》にもあって、常識となっていた。「鎮めかねつも」という嘆きは、それを心に置いていっているものである。
【釈】 真木柱の、我も太く男々しい心があったのであるが、皇子尊の御薨去に逢って打ち砕かれた。現在の悲しい心は、平静を保たせようとしても保たせ難いことであるよ。
【評】 皇子尊の御薨去に遭って、打ち砕かれた心が保ちきれず、不安を感ずるまでに至ったのを、その心の方に力点を置いて詠んだ歌である。「この吾が心」という綜合的な言い方をし、「真木柱太き心」と対照することによって、言い難い悲哀をあらわしているのは、その目的の上から見るときわめて要を得たものである。「真木柱太き心」という誇りは、他にも例のあるものであるが、皇子尊の舎人としてもっていた心をいったものなので、宮を誘える語の「真木柱」が、単に枕詞というにとどまらず、室寿詞にあるごとく、一般性のあり、自身にも繋がりのあるものとなってきている。一首、技巧のないもののごとくに見えて、実は用意のあるものである。力量ある作というべきである。あらわしやすくない気分を捉えて、力強いものとしているのは、一首を貫いている調べのためで、太くうねりをもった調べである。(一八三)の「吾が御門千代常とばに」というと境地を同じくしているが、それよりはかなり勝れた歌である。
 
191 毛《け》ごろもを とき片設《かたま》けて 幸《いでま》しし 宇陀《うだ》の大野《おほの》は 思《おも》ほえむかも
    毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陀乃大野者 所念武鴨
 
【語釈】 ○毛ごろもを 『講義』が詳しく考証している。獣皮をもって拵えた衣で、毛衣《けごろも》とも皮衣《かわごろも》とも呼んでいた。上代に用いていた証は、日本書紀、応神紀に、日向諸県君牛が、その女を朝廷に奉ろうとして従者を連れて上る時、それらが皆「著v角鹿皮」を衣服としていたのを、天皇は途中で御覧になり、鹿の群れかとあやしまれたのを証としている。また後の『嵯峨野物語』に、鷹狩の装束は、皮ごろも、皮袴だとあるので、狩の時には毛ごろもを用いたことがわかるというのである。衣《ころも》は解くことをする物なので、その意で枕詞としたもの。今は猟のことをいおうとしているところから、新たに工夫した語。○とき片設けて 原文の「冬」は、衍字で、一本に「春」の傍らに書いてあったものが、本文に入ったのではないかと『新考』は疑っている。しかし諸本皆同じである。『全註釈』が「春冬」を季節の意の「とき」と訓んだのに従う。春と冬は、野の草木の枯れている時なので、猟の季節とされていた。ここもそれとしてである。「片設け」は、『講義』が詳しく考証している。時の上にのみいう語で、(280)自動詞。時自身が用意する意で、近づこうとしてそのしるしの見え初める意であろうという。『万葉辞典』は、「片」は不完全の意。「設け」は整える意だと解している。一句、春と冬とがその様子をどうやらあらわしてきての意。○幸しし 皇子尊のお出ましになったで、下の続きで、御猟とわかる。○宇陀の大野は 大和の宇陀郡の野で、巻一(四五)の安騎野と同じ。御猟の野。○思ほえむかも 「思ほえむ」は、偲ばれるであろうで、なつかしく思い出されようの意。「かも」は、詠歎。
【釈】 毛ごろもを張るというその春や冬が、その様子をどうやらあらわしてくると、皇子尊の御猟にとお出ましになった、あの宇陀の野は、なつかしくも思い出されることであろうよ。
【評】 皇子尊に対する悲哀が鎮まって、なつかしい思い出に転じてきた頃の歌である。最もなつかしい思い出は宇陀の野の御猟の時だったのである。上代にあっては猟は楽しみの代表的なものだったので、心理として当然なものである。歌は、末永く思い出されようというのであるが、これは皇子尊を忘れないということであって、この場合に適した心である。「毛ごろもを」という枕詞は、この歌としてはきわめて適切なものである。他に用例のないもので、この舎人の創出したものかと思われる。
 
192 朝日《あさひ》照《て》る 佐太《さだ》の岡辺《をかべ》に 鳴《な》く鳥《とり》の 夜鳴《よな》き変《かは》らふ この年《とし》ごろを
    朝日照 佐太乃岡邊尓 鳴鳥之 夜鳴變布 此年己呂乎
 
【語釈】 ○朝日照る 上に出た。○佐太の岡辺に これは御陵の意ではなく、御陵のある地としていっているもの。○鳴く鳥の夜鳴き変らふ 「鳴く鳥」は、何鳥かわからないが、下の続きで、夜鳴きをする鳥である。ここで夜鳴きを聞くのは、殯宮に奉仕するようになってからのことである。「夜鳴き」は、夜の鳴き声。「変らふ」は、「変る」をは行四段に再活用した語で、変わることの継続をあらわすもの。鳥の鳴き声の平生と異なるのは、凶兆だとする信仰は、現在も保たれているものであるが、おそらくきわめて古いものと思われる。この信仰は、鳥を霊異あるものとしたところから起こったものである。ここは、凶兆としてではなく、霊異ある鳥の舎人とともに悲しむ意でいっているものと取れる。山川の神はもとより、鳥獣も、天皇に仕えまつるという信仰は一般性をもっていたもので、特殊なものではない。ここもそれと解される。○この年ごろを 「この」は、さしあたっての意をあらわしたもので、現在のこと。「年ごろ」は、『考』は、殯宮の一周年の間をさしているものだといっている。従うべきである。それだと年より年へわたってのことで、殯宮の期間も終りに近い頃の歌と取れる。
【釈】 朝日の照る佐太の岡あたりに鳴く鳥の、その夜鳴きの声が、平生とは変わりつづけている。この年の間を。
【評】 殯宮の奉仕の終り近い頃、悲哀に浸って過ごした一周年の間を顧みる心をもって詠んだ歌である。殯宮にあっては、悲哀を尽くすということがすなわち奉仕であって、その深さが奉仕の大きさであり、また舎人自身の心やりでもあったのである。(281)「夜鳴き変らふこの年ごろを」ということは、鳥もまた皇子尊に対して悲哀をつづけたということで、これは当時一般にもっていた信念であるが、舎人から見ると、皇子尊に最も関係深い自分らと悲哀をともにする者があるということで、心やりを深めうるものなのでもある。この歌は悲哀に浸りながらも、鎮まった、静かな気分をもって、思い返し、見渡して詠んだ歌である。
 
193 八多籠《はたこ》らが 夜昼《よるひる》といはず 行《ゆ》く路《みち》を 吾《われ》はことごと 宮路《みやぢ》にぞする
    八多籠良我 夜晝登不云 行路乎 吾者皆悉 宮道叙爲
 
【語釈】 ○八多籠らが 「八多籠」という語は、他に例のないもので、諸注訓み難くしている。誤字があろうとして、字を改めての訓を試みたものが多いが、諸本一致していて、誤字説は認められない。『古義』は、一説として和名抄によっての解を引いている。それは同書、行旅(ノ)具に、「〓……漢語抄云、波太古《ハタゴ》、俗(ニ)用(フ)2旅寵(ノ)二字(ヲ)1、飼(フ)v馬(ヲ)籠也」とあり、昔は行旅の具として馬に飼う籠を備えたところから、それをつけて行く馬、馬を引く馬子をもハタゴと呼んだが、ここはその馬子の意だというのである。用字の上からいうと、無理の少ない解である。『講義』はこれを取っている。賤しい者の意である。また橋本四郎氏は田子に対して畠子という語があったかとし、『注釈』『大系本』が採っている。○夜昼といはず行く路を 昼夜の別ちもなく往来する路をで、普通の、何の憚るところもない路の意。○吾はことごと 「ことごと」につき、『講義』は、このような数量を示す語が、それに対する本体としての語に付く「は」の助詞の下にあることは、同語であることをあらわす一つの現象であって、意は、我らことごとくは、であると説いている。○宮路にぞする 宮への通路《かよいじ》とすることよの意。
【釈】 賤しいはたこなどが、昼夜の別ちもなく往来する普通の路を、我らことごとくは、畏い宮の通路としていることであるよ。
【評】 舎人のともがらが打ち揃って、奉仕のため殯宮へ通う途上、その中の一人が嘆いて詠んだものである。島の宮への宮路は、尊いものとして、相当の警戒があり、賤しい者がみだりに通行することはできなかったとみえる。それに較べると、真弓の岡の殯宮への路は、奉仕する舎人の心より見れば同じく宮路ではあるが、実際は甚しく趣がちがって、はたこらが憚るところなく行く路なのである。この変化は舎人らにとっては、嘆かざるを得ないもので、その嘆きはやがて皇子尊に対しての悲しみなのである。その時の舎人にのみ限った実感で、実感に即しているがゆえにうなずかれる歌となっている。
 
     右、日本紀に曰はく、三年己丑の夏四月癸未朔にして乙未の日|薨《かむあが》りましぬといへり。
      右、日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨。
 
(282)【解】 撰者の、日並皇子尊の薨去の時を、日本書紀巻三十から引いたものである。
 
     柿本朝臣人麿、泊瀬部皇女《はつせべのひめみこ》、忍坂部皇子《おさかべのみこ》に献れる歌一首井に短歌
 
【題意】 泊瀬部皇女と忍坂部皇子とは、同腹の御兄弟である。日本書紀、天武紀に、「次宍人臣大麻呂女|※[木+疑]《かぢ》媛娘生2二男二女1。其一曰2忍壁《おさかべ》皇子1、其二曰2磯城《しき》皇子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基《たき》皇女1。」とあり、皇女は皇子の御妹である。皇女については、続日本紀、霊亀元年正月に、四品長谷部内親王に、封一百戸を益さるとあり、同天平九年二月に、三品を授けらるとあり、天平十三年三月に、「己酉、三品長谷部内親王薨、天武天皇之皇女也」とある。忍坂部皇子については、日本書紀、天武紀、十年三月に、勅して帝紀および上古の諸事を記し定めしめられたる諸員の中に御名があり、同十四年正月に、浄大参の位を授けられ、同朱鳥元年八月に、封百戸を加えしめるとある。続日本紀、文武の条四年六月に、勅して、親王を首として藤原不比等以下十七名に、律令を撰定せしめるとあり、大宝元年八月に、その成ったことがあり、同三年正月に、「詔三品刑部親王知2太政官事1」とあり、慶雲元年正月に、封二百戸を益され、同二年四月に、越前国野一百町を賜うとあり、「五月丙戊、三品忍壁親王薨、遣v使監2護喪事1、天武天皇之第九皇子也」とあって、重きをなしていた皇子である。歌で見ると、柿本人麿が、泊瀬部皇女が夫君に御死別なされた後、皇女を御慰めしようとして献ったものである。左注によると、夫君は、河島皇子であられる。題詞とすると、河島皇子薨去の時ということがあるべきであり、また、歌としては泊瀬部皇女に献ったものと見えるのに、忍坂部皇子の御名をも連ねているのは、題詞の例に異なっているとして、諸注私案を試みている。しかしここの文句は諸本一致していて異同のないものである。思うに原拠となった本にこのように記してあったものと思われる。歌で見ると人麿は、直接には、河島皇子の薨去を悲しむ語をまじえず、薨去によって起こる泊瀬部皇女の悲しみを痛んでいるのみである。その点から見ると、人麿は河島皇子には直接な関係がなく、第三者として献ったものと思われる。またそれをするにも、泊瀬部皇女には直接には献れず、何らかの関係のあった、御同腹の御兄忍坂部皇子にまで献ったということもありうろことである。それだと、その時としては、事を省いたこうした題詞もありうることであり、それを原拠として改めまいとすれば、今見るごときものとなってくる。大体そうした範囲の題詞かと想像される。
 
194 飛《と》ぶ鳥《とり》の 明日香《あすか》の河《かは》の 上《かみ》つ瀬《せ》に 生《お》ふる玉藻《たまも》は 下《しも》つ瀬《せ》に 流《なが》れ触《ふ》らばふ 玉藻《たまも》なす か寄《よ》りかく寄《よ》り 靡《なび》かひし 嬬《つま》の命《みこと》の たたなづく 柔膚《にぎはだ》すらを 剣刀《つるぎたち》 身《み》に副《そ》へ寝《ね》ねば(283) ぬばたまの 夜床《よどこ》も荒《あ》るらむ【一に云ふ、あれなむ】 そこ故《ゆゑ》に なぐさめかねて けだしくも あふやと念ひて【一に云ふ、君《きみ》もあふやと】 玉垂《たまだれ》の 越智《をち》の大野《おほの》の 朝露《あさつゆ》に 玉裳《たまも》はひづち 夕霧《ゆふぎり》に 衣《ころも》は濡《ぬ》れて 草枕《くさまくら》 旅宿《たびね》かもする あはぬ君《きみ》ゆゑ
    飛鳥 明日香乃河之 上瀬尓 生玉藻者 下瀬尓 流觸經 玉藻成 彼依此依 靡相之 嬬乃命乃 多田名附 柔膚尚乎 劔刀 於身副不寐者 烏玉乃 夜床母荒良無【一云、阿礼奈牟】 所虚故 名具鮫兼天 氣田敷藻 相屋常念而【一云、公毛相哉登】 玉垂乃 越能大野之 旦露尓 玉裳者※[泥/土]打 夕霧尓 衣者沾而 草枕 旅宿鴨爲留 不相君故
 
【語釈】 ○飛ぶ鳥の明日香の河の 「飛ぶ鳥の」は、巻一(七八)に出た。明日香へかかる枕詞であるが、その関係は不明。「明日香の河」は、上代の皇居に近い川であったところから、古典に現われる機会の多い川である。水源は二か所あり、一は、竜門、高取の山々に発し、一は多武峰に発して、明日香村祝戸で合流し、藤原の京を西北に横ぎり、大和川に入る。今は水量の多くない川であるが、古はかなりな川であったと察せられる。○上つ瀬に生ふる玉藻は 「上つ瀬」は、上の瀬で、今の上流。「玉藻」は、「玉」は、美称。「藻」は、水中に生える草の総称で、海の物にも川の物にもいう。ここは川の物。清らかな水でないと生えない物で、細い葉が長く伸びて、水流のまにまに靡く、印象的なものである。○下つ瀬に流れ触らばふ 「下つ瀬」は、下流。「流れ」は、流れの中に靡いている状態を形容したもの。根のある物であるから流れるはずはなく、したがって語としては譬喩であるが、感じとしてはさながら流れているがように見えるので、感じを主としてのもの。「触らばふ」は、「触る」の古語。宣長、春日政治氏の説を『注釈』が注意している。上の「流れ」に重ねる形で、同じく藻の状態をいったものである。二句、下流に流れて、触れあっていることよの意。○玉藻なすか寄りかく寄り 「玉藻なす」は、玉藻のごとくで、巻一(五〇)に出た。「か寄りかく寄り」は、ああも寄りこうも寄りで、すなおに寄り添う状態をいったもの。(一三一)に出た。○靡かひし嬬の命の 「靡かひし」は、「靡く」をハ行四段に再活用して継続をあらわす「靡かふ」とした、その過去。「靡く」は、従う意で、従いつづけてきた。「嬬」は、「夫《つま》」にあてた字。「命」は、敬称。○たたなづく柔膚すらを 「たたなづく」は、畳なわり付く意で、重なり畳まっている状態をあらわす語。古事記、景行の巻、「たたなづく青墻山隠《あをがきやまごも》れる大和しうるはし」の「たたなづく」が、山の青墻のごとく重なっている状態をいっているのがその例である。ここは下の「柔膚」の状態をいっているもので、肉の重なり合い、盛りあがっている意で、肉の肥えていることを具体的にいったものと取れる。「柔膚」は、柔らかな膚。「すら」は、一事をあげて他を類推させる意の語。二句、重なり合い、盛りあがっている柔かい膚だけをもの意。○剣刀身に副へ寝ねば 「剣刀」は、下の「身に副へ」に、意味でかかる枕詞。「身に副へ寝ねば」は、わが身に添えて寝ないのでで、共寐をしないのでの意。○ぬばたまの夜床も荒るらむ 「ぬばたまの」は、(八九)に出た。「夜」にかかる枕詞。「夜床」は、夜寝る床。「も」は、詠歎。「荒るらむ」の「荒る」は、古人は夫の床はきわ(284)めて貴い物として、その妻は、夫の通って来ない時、旅をしている時、また死後も一周年の間は、これを斎《い》んで、過ちをしまいとして、積もる塵なども払わないようにするのが風であった。その手を触れずにいるところからくる状態を「荒る」といっている。「らむ」は、現在の想像。○一に云ふ、あれなむ 心は異ならないが、本行の方が力がある。以上、一段。○そこ故に (一六七)に出た。その点のために。○なぐさめかねて 「兼」は原文「魚」で、諸本皆一致している字で、訓み難くし、したがってさまざまに訓まれていたものである。『略解』は、荒木田久老の説として、「魚」は「兼」の、また、次の句の「田」も原文は「留」であるが、「田」の誤字だとする説を引いて、それに従って以来、ほとんど定説のごとくなっている。誤字説ではあるが、それに従えば訓み得、また難のないものとなるからである。従うべきである。慰めようとして慰め難くして。○けだしくもあふやと念ひて 「けだし」は、万一にもの意で、現在も用いている。「けだしく」という形につき『講義』は、「もし」を「もしくは」というと趣が似ていると注意している。夫君に逢うこともあろうかと思って。〇一に云ふ、君もあふやと 本行の方が直線的で、力がある。○玉垂の越智の大野の 「玉垂の」は、「緒《を》」と続き、「を」の一音にかかる枕詞。「玉垂の小簾《をす》」という例は、集中三か所にある。玉垂がどういうものであるかは今は不明である。「緒」というところから、玉を緒をもって貫いたものだろうと想像されているだけである。「越智の大野」は、今の高市郡高取町|越智《おち》である。皇極天皇の山陵のある地である。「大」は、たたえて添えた語。○朝露に玉裳はひづち 「朝露」は、朝置く露。「玉裳」は、「玉」は、美称。「裳」は女性の礼装として、袴の上に着けるもの。「ひづち」は、濡れてである。「講義』は、この「ひづち」と「ひぢ」とは、従来同じ語のように解かれているが、本来別語で、「ひづち」は、泥濘《ぬかるみ》を歩くとはねが上がって、それで濡れる意の語だと、詳しく考証している。○夕霧に衣は濡れて 「夕霧」は、夕に立つ霧。「濡れて」は、湿っての意。左注によると、河島皇子の薨去は秋九月なので、「露」も「霧」も晩秋のものと取れる。この二句は、上の二句と対句にしたもの。○草枕旅宿かもする 「草枕」は、旅の枕詞。巻一(五)に出た。「かも」は「か」は疑問、「も」は詠歎の助詞。二句、旅寝をすることであろうかで、古は新喪の時には、高貴の方に対しては、墓所のほとりに廬を結んで、一周年の問、墓主に関係のある者は、近く侍っていることを風としていた。(一六七)日並皇子尊の殯宮は、すなわちそれである。今の場合もそれと同じき殯宮があって、皇女も時々そこへ行って宿らせられたのである。旅宿というのはそれである。○あはぬ君ゆゑ 「ゆゑ」は、理由をあらわす語で、ここは、によっての意。一句、逢うことのない君によって。
【釈】 明日香河の上流に生えているところの玉藻は、下流に向かって流れるさまをして振り振りしている。その玉藻のごとくに、ああも寄りこうも寄りして、すなおに寄り添って、従いつづけてきたところの夫の命の、その畳まり合い盛りあがっている柔らかい膚だけをも、剣刀のごとく身に添えての共寝をしないので、夜の床も荒れたさまとなっていることであろう。その点のために、慰めようにも心が慰め難くて、万一にも逢い見ることがあろうかと思って、御墓所のある越智の大野の、折からの朝露に裳は濡れ、夕霧に衣は湿って、殯宮に旅寝をすることであろうか、逢うことのない君によって。
【評】 この歌は人麿が、泊瀬部皇女の御心中の悲哀を、人麿自身の立場に立ち、自身の心持よりお察しして詠んだもので、人麿の推察によっての悲哀をもって皇女を御慰め申したものである。皇子皇女という方に対しての挽歌とすると、人麿としては特殊なものである。自身の気分には即するが、しかし実際からは離れない人麿が、こうした高貴な御方に対して、自身の気分(285)を極度といいうるまでに発揮した詠み方をしているのは、それに相当した理由があってのことと思われる。
 自身の気分というのは、この歌にいっていることはすべて想像であって、人麿が親しく眼に見たことは一句も入っていないからである。また、自身の心持というのは、この歌を貫いていることは、極度に現実生活に執着する心であって、悲哀は、その心の裏切られることで、そのほかには何ものもないのであるが、これは人麿のすべての歌に通じて現われているものだからである。
 この歌は二段から成っていて、第一段は、「夜床も荒るらむ」までであるが、起首よりここまでにいっていることは、夫妻共寝の歓びで、それを力をこめて、ありありと想像したものである。明日香河の玉藻の状態を捉えて、それを皇女に関係させているのは、おそらくは宮がその河に近いというような関係からのことで、人麿の文芸性がさせていることであるが、その玉藻は、皇女の夜床における状態を連想しているだけのもので、それ以外のものではない。それをさらに進めて、「たたなづく柔膚すらを、剣刀身に副へ寝ねば」といっているのは、まさしくも人麿自身の興味といわざるを得ないものである。夫婦共寝ということを生き甲斐としている人麿にとっては、これはいうを憚らないことで、今当然いうべきこととしたであろうが、今の場合は皇女に対しての挽歌である。これはおそらく人麿以外の何びともいわないことと思われる。
 第二段は、「そこ故に」より結末までであるが、ここにいっていることは、皇女の殯宮へ行って宿られるのは、万一にも御夫君に逢い得ようかとのお心よりのこととし、結局それのかなわないことの悲哀を思って、それを皇女に対しての御慰めとしている。殯宮に奉仕するということは、古くは殯宮の期間は、生者と異ならないとする心をもって、傍らにあろうとすることであり、また、すでに墓に葬められて神霊となられたものとしても、同じく神霊とともにいようとする心よりのことと取られる。あるいは現し身の御方として逢えるかもしれぬというような想像は、この当時としても、特殊な想像であったろうと思われる。それを人麿は普通のことのごとくにいい、そのかなわないことをもって大いなる悲哀としているのである。これもまた人麿独(286)自の心持で、人麿をしてこのように思わせているのは、その現実に執着する心の強さが、おのずから特殊を普通とならしめているからだと思われる。
 すなわち一首を貫いている心持は、全く人麿自身のもので、それがはたして皇女に直接なものであったかどうかを疑わせるものである。しかしこれを単に一首の歌として見れば、人麿のもつこの極度に現実に執着する心は、わが上代よりの思想で、それを人麿は代表的に保持していたのである。この当時仏教が上流の階級に勢力をもっていたことは、(一六二)の宮中における御斎会の盛んなのによっても察せられる。知識人である人麿が、その雰囲気の中にいて、この歌に見られるような心持をもっていたということは、そのいかに保守的であったかが思われて、注意されることである。またこの歌を技巧の上から見ると、全部人麿の気分であるにもかかわらず、その具象の力はあざやかなもので、さながらに目に見ている様を描いているがようである。しかも艶《つや》とうるおいとを帯びていて、挽歌たるを忘れさせようとするまでである。挽歌にして挽歌たるを忘れさせようとし、結局特殊な、すぐれた挽歌だと思わせるのは、人麿の技巧のもつ魅力のさせることである。長歌としては短い方であるが、人麿の心をほしいままにした、特色のあるものである。
 
     反歌一首
 
195 敷《しき》たへの 《そで》袖かへし君《きみ》 玉垂《たまだれ》の 越野《をちの》に過《す》ぎぬ 亦《また》もあはめやも
    敷妙乃 袖易之君 玉垂之 越野過去 亦毛將相八方【一に云ふ、乎知野尓過奴】
 
【語釈】 ○敷たへの袖かへし君 「敷たへの」は、巻一(七二)に出た。織目のしげくある布で、ここは意味で「袖」にかかる枕詞。「袖かへし君」は、袖を交わした君で、共寝をした君、すなわち夫の君。○玉垂の越野に過ぎぬ 「過ぎ」は巻一(四七)に出た。死去する意。○亦もあはめやも 「めや」は、推量の「む」の已然形「め」に、疑問の「や」の添って反語を成すもの。「も」は、詠歎。また逢うことがあろうか、ありはしないの意。○一に云ふ、乎知野に過ぎぬ 三句字面の異なったものがあるために引いたもの。
【釈】 袖を交わして共寝をした夫の君は、越野におかくれになった。また逢うことがあろうか、ありはしない。
【評】 形としては、長歌の結句「あはぬ君ゆゑ」をうけて、長歌の第二段の心を要約して繰り返した趣をもったものであるが、心としては、繰り返しにとどまらず、進展させたものである。すなわち長歌では、皇女の御心中を思いやって、ともに悲しんでいる趣にとどめていたのを、反歌はその主観的な態度から離れて、全体を客観的に見た態度のものとしているのである。そのために、皇女に対する同感は内にこもるものとなり、悲しみというよりは愍《あわれ》みに近い感じをもったものとなっている。反歌を繰り返しのものとするのは古風な方法であるが、今はそうした形を取りつつも、変化のある、すなわち新意あるものとして(287)いる。重厚な、沈痛味のあるところ、長歌とは対蹠的である。
 
     右、或る本に曰はく、河島皇子を越智野に葬りし時、泊瀬部皇女に献りし歌なりといへり。日本紀に曰はく、朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朝にして丁丑の日、浄大参皇子川島|薨《かむあが》りましきといへり。
     右、或本曰、葬2河嶋皇子越智野1之時、獻2泊瀬部皇女1歌也。日本紀曰、朱鳥五年辛卯、秋九月己巳朔丁丑、淨大參皇子川嶋薨。
 
     明日香皇女《あすかのひめみこ》の木〓《きのへ》の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「明日香皇女」は、天智天皇の皇女である。日本書紀、天智紀に、「遂納2四嬪1。……次有2阿倍倉梯麿大臣女1。曰2橘娘1。生3飛鳥皇女与2新田部皇女1」とある。また薨去のことは、続日本紀、文武天皇四年夏四月の条に、「癸未、浄広肆明日香皇女薨。遣v使弔2賻之1。天智天皇之皇女也」とある。皇女には御夫君のあったことが歌でわかり、また御夫君の殿を、「朝宮」「夕宮」といっているところから、皇子であったこともわかるが、そのどなたであったかはわからない。「木〓の殯宮」につき、『美夫君志』『講義』が詳しく考証している。〓は字書にない字だが、※[缶+瓦]と同字であって、※[缶+瓦]は土器の総称で、同じ意のわが古語「へ」にあてたものだというのである。「きのへ」の訓は、『考』のしたものである。殯宮のあった地で、その地は今の北葛城郡広陵町大塚だという。人麿の作歌態度から見ると、人麿は明日香皇女と御夫君である皇子とに、親しい関係をもち得ていて、皇女の薨去を重大なることとして作歌していることがわかる。上の日並皇子尊、またこの歌につぐ高市皇子尊の挽歌では、人麿は兩皇子に舎人の一人として仕えていたがように見える。この前の泊瀬部皇女に対しては、第三者であったらしいことは上にいった。しかるにこの皇女に対しては、日並皇子尊、高市皇子尊に准ずる態度を取って、悲しみを尽くしての挽歌を作っており、また歌で見ると、皇女の殯宮へも奉仕したかのようである。こうした歌は、実際の関係に即した態度をもって作るものであろうから、作歌態度はおのずから相互の関係を示しているものと解される。しかしどういう関係であったかまではわからない。
 
196 飛《と》ぶ鳥《とり》の 明日香《あすか》の河《かは》の 上《かみ》つ瀬《せ》に 石橋《いしばし》渡《わた》し【一に云ふ、石《いし》なみ】 下《しも》つ瀬《せ》に 打橋《うちはし》渡《わた》す 石橋《いしばし》に【一に云ふ、石なみに】 生《お》ひ靡《なび》ける 玉藻《たまも》もぞ 絶《た》ゆれば生《お》ふる 打橋《うちはし》に 生《お》ひををれる 川藻《かはも》もぞ 枯《か》る(288)れば生《は》ゆる 何《なに》しかも 吾《わ》が王《おほきみ》の 立《た》たせば 玉藻《たまも》のもころ 臥《こや》せば 川藻《かはも》の如《ごと》く 靡《なび》かひし 宜《よろ》しき君《きみ》が 朝宮《あさみや》を 忘《わす》れたまふや 夕宮《ゆふみや》を 背《そむ》きたまふや うつそみと 念《おも》ひし時《とき》 春《はる》べは 花《はな》折《を》りかざし 秋立《あきた》てば 黄葉《もみちば》かざし 敷《しき》たへの 袖携《そでたづさ》はり 鏡《かがみ》なす 見《み》れども 飽《あ》かず 望月《もちづき》の いやめ.づらしみ 思《おも》ほしし 君《きみ》と時時《ときどき》 幸《いでま》して 遊《あそ》びたまひし 御食向《みけむか》ふ 城上《きのへ》の宮《みや》を 常宮《とこみや》と 定《さだ》めたまひて あぢさはふ 日言《めこと》も絶《た》えぬ 然《しか》れかも【一に云ふ、そこをしも】 あやに悲《かな》しみ ぬえ鳥《どり》の 片恋嬬《かたこひづま》【一に云ふ、しつつ】 朝鳥《あさとり》の【一に云ふ、朝霧の】 通《かよ》はす君《きみ》が 夏草《なつくさ》の 思《おも》ひ萎《しな》えて 夕星《ゆふづつ》の か行《ゆ》きかく行《ゆ》き 大船《おほふね》の たゆたふ見《み》れば おもひやる 情《こころ》もあらず そこ故《ゆゑ》に すべ知らましや 音《おと》のみも 名《な》のみも絶《た》えず 天地《あめつち》の いや遠長《とほなが》く 偲ひ行《ゆ》かむ 御名《みな》に懸《か》かせる 明日香河《あすかがは》 万代《よろづよ》までに はしきやし 吾《わ》が王《おほきみ》の 形見《かたみ》にここを
    飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡【一云、石浪】 下瀬 打橋渡 石橋【一云、石浪】 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎烏礼流 川藻毛叙 干者波由流 何然毛 吾王能 立者 玉藻之母許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 宜君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉 宇都曾臣跡 念之時 春部者 花祈插頭 秋立者 黄葉插頭 敷妙之 袖携 鏡成 雖見不※[厭のがんだれなし] 三五月之 益目頬染 所念之 君与時々 幸而 遊賜之 御食向 木〓之宮乎 常宮跡 定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨【一云、所己乎之毛】 綾尓憐 宿兄鳥之 片戀嬬【一云、爲乍】 朝鳥【一云、朝霧】 徃來爲君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼徃此去 大船 猶預不定見者 遣悶流 情毛不在 其故 爲便知之也 音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思將徃 御名尓懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見何此焉
 
【語釈】 ○飛ぶ鳥の明日香の河の上つ瀬に 上の歌に出た。○石橋渡し 「石橋」は、川の流れの中に、石を庭の飛石のように据え、石から石へ(289)踏んで渡る橋。○一に云々ふ、石なみ 「石浪」は、「浪」は「並」にあてた字で、石の並んでいる状態からの称で、石橋と同じである。二様によんでいたのである。○下つ瀬に 前の歌に出た。○打橋渡す 「打橋」は、橋の一種。高くない岸から岸へと、板の類を架けた橋。巻十(二〇六二)に、「機《はたもの》の※[足+搨の旁]木《ふみき》持《も》ち往きて天の河打橋渡す公が来む為」があり、これによると打橋なる物の大体が想像できる。橋には、集中に、高橋、浮橋、舟橋などがある。高橋は、岸が高いところから高く架っている橋。浮橋は、流れに浮いている橋で、舟、筏などを利用した橋。舟橋は、舟を橋にしたもので、浮橋に似た物であったろう。これらは川の性質に応じてのものと思われる。○石橋に生ひ靡ける 「石橋に」は、石橋の間々に。「生ひ靡ける」は、生えて、靡いている。○一に云ふ、石なみに 石なみも、石の並んでいる間々に。○玉藻もぞ絶ゆれば生ふる 「玉藻」は、前の歌に出た。「も」は、「玉藻」を次の「川藻」の一類のものとし、その一つをあげてのもの。「ぞ」は「も」を強めたもの。「絶ゆれば生ふる」は、無くなるとまた生えてくるで、その生命の永く続くことをいったもの。○打橋に生ひををれる 「打橋に」は、打橋の下の意でいっているものと取れる。「生ひ」は、生え。「ををれる」は、『考』が「為」を「烏」の誤字としての訓である。『美夫君志』は、「字音弁証」にこれを問題として、「乎為里」「乎為流」の例は、集中にこのほか四か所あるが、いずれも「為」となっていて、誤字とはし難い、「為」には「を」の音があるといって詳論している。「ををる」という語は、集中に仮名書きの例が多く、これら五例も、そう訓むことによってはじめて意の通じるものである。今は『美夫君志』に従うよりほかはない。「ををれる」は、「ををる」と「あり」との熟した語である。その意味につき、『考』は、「とをを」は「たわわ」と同語で、「とをを」の「と」を省いて活《はたら》かせた語であるといっている。たわたわとするほど茂る意で、ラ行四段の動詞。○川藻もぞ枯るれば生ゆる 「川藻」は、川に生える藻で、藻は海にも生えるところから差別しての名。「枯るれば生ゆる」は、枯れてしまうと、また新たに生えてくるで、上の「絶ゆれば生ふる」を繰り返したもの。思うに明日香河には全面的に藻が生えていて、「石橋に」「打橋に」というように局部的のものではなかろう。それをこのようにいっているのは、橋を渡る際に見える藻が、最も印象的なところから、技巧上、それだけを限っていっているものと思われる。○何しかも吾が王の 「何しかも」は、「し」は強め、「かも」は疑問で、なぜなればと疑ったもの。「吾が」は、親しんで添えたもの。「王」は、明日香皇女。○立たせば玉藻のもころ 「立たせば」は、四音一句。下の「臥せば」に対させたもので、「起臥」の「起」にあたる意の敬語。起きていらっしゃると。「もころ」は、ごとしという意の古語で、集中に例のあるものである。○臥せば川藻の如く 「臥せば」は、敬語。お臥しになると。二句、上の二句とともに、下の「靡かひし」の譬喩。○靡かひし宜しき君が 「靡かひし」は、前の歌に出たものと同じで、「靡かふ」の過去、従いつづけてきたの意。「宜しき」は、十分に良い意。「君」は、皇女の御夫君。○朝宮を忘れたまふや 「朝宮」は、下の「夕宮」に対させた語で、絶えず居られる宮を時間的に分けていったもの。宮は、皇子の御殿の称であるから、上の「君」は皇子であることがわかる。「朝宮を」は、巻十三(三二三〇)「朝宮に仕へ奉《まつ》りて」によると、朝宮の奉仕をの意と取れる。「忘れたまふや」は、上の「何しかも」の「かも」を「たまふ」で結んだのである。したがって「や」は、疑問の助詞として解し難くなる。『新考』は、この「や」は常のものより軽い一種の助辞だといい、『講義』は、いうところの間投助詞だといって、それに賛している。「忘れたまふ」は、上の奉仕の不能なのを、お忘れになったのだろうかと疑った形でいったもので、薨去を間接にいったものである。○夕宮を背きたまふや 「夕宮を」は、上に対させたもので、夕宮の奉仕を。「背きたまふや」は、なさるまいとするのであろうかで、「忘れたまふや」を語を変えて繰り返したものである。以上第一段。○うつそみと念ひし時 「うつそみ」は、現し身で、幽《かく》り身すなわち神霊界の身に対した語。「念ひし時」は、人が思っていた時で、二句、心としては、御在世の時(290)にはということである。こうした特殊な言い方をしているのは、人は現し身より幽り身にわたって存在しているものである上に、現在は皇女は殯宮にましまし、現し身に准じての特殊な状態にあらせられるので、それにふさわしい言い方をしようとしてのものである。○春べは花折りかざし 「春べ」は、春ころ。「折りかざし」は、折って挿頭《かざし》として挿しで、春の行楽を花に代表させたもの。○秋立てば黄葉かざし 「秋立てば」は、立秋を訳した語で、秋が来れば。「黄葉かざし」は、黄葉を挿頭《かざし》として挿しで、秋の行楽を代表させたもの。○敷たへの袖携はり 「敷たへの」は、前の歌に出た。ここは袖にかかる枕詞。「袖携はり」は、お二人の袖と袖とを連ねてで、御一緒に睦まじくの意を具象的にいったもの。○鏡なす見れども飽かず 「鏡なす」は、鏡のごとくで、意味で「見る」にかかる枕詞。「見れども飽かず」は、幾ら見ても飽かないの意で、きわめて好い物を讃える成語。ここは下の「君」を讃えたもの。○望月のいやめづらしみ 原文「三五月」は、十五夜の月、すなわち満月のごとくで、意味で「めづらし」にかかる枕詞。「いや」は、ますます。「めづらしみ」は、動詞「めづ」より形容詞に転じ、接尾語「み」のついた語。珍しく思っての意。二句、ますます珍しく思つてで、上の「見れども飽かず」を進めたもの。同じく、下の「君」を讃えたもの。○思ほしし君と時時 お思いになっていたところのその御夫君と時々にの意。○幸して遊びたまひし お出ましになって御遊覧なさつた所の。○御食向ふ城上の宮を 「御食向ふ」は、「食」は食物の総称。「御」は敬って添えたもので、御食物として向かう葱《き》と続き、それを「城」に転じての枕詞。「城上の宮」は、城上の御墓所に造った殯宮。○常宮と定めたまひて 「常宮」の「常」は、常《とこ》しえの意で、宮を讃えて添えたもの。ここは殯宮をさしたもの。「定めたまひて」は、お定めになられてで、御自身の意志としてなされた意のもの。これはきわめて尊んでの言い方である。○あぢさはふ目言も絶えぬ 「あぢさはふ」は、旧訓。『古義』は「うまさはふ」と訓んでいる。集中の用例によると、「め」にかかる枕詞であるが、訓も意味も定まらず、不明である。「目言」は、「目」は、目に見上げること。「言」は、口にして申し上げる語。「絶えぬ」は、終った意。二句、見上げ物申すことも終ったで、御薨去になったことを、具体的にいったもの。これは上の「うつしみと念ひし時」に対させた語で、現し身ならぬ幽《かく》り身となられたとの意である。以上第二段。○然れかも 「然れ」は、「しかあれ」で、「かも」は、疑問。後世だと、「れ」の下に「ば」のある格である。上の次第、すなわち薨去の状態であればかで、「か」は、係となっている。この係は、十句を隔てて、「たゆたふ」で結ばれた形となっていることを、『講義』は詳しく論じている。○一に云ふ、そこをしも 「そこ」は、その点で、同じく薨去の状態。「しも」は、強め。「然れかも」よりもこちらが解しやすいところから、諸注ほとんどこちらを取っている。「一に云ふ」は、ほとんど全部、本行より解しやすくなっているものである。その点から見て、あるいは後より改めたものかとの疑いのあるもので、つとめて本行に従うべきである。○あやに悲しみ 「あやに」は、譬えようもなく。「悲しみ」は、哀《かな》しみで、これは皇女の御夫君のことである。○ぬえ鳥の片恋嬬 「ぬえ鳥の」は、巻一(五)に、「ぬえ子鳥」と出た物と同じで、今は虎つぐみとよんでいる。夜、悲しい声をして鳴くところから、片恋をする鳥だとされている。意味で、「片恋」にかかる枕詞。「片恋嬬」の「嬬」は、「夫《つま》」にあてた字。片恋する夫となっての意。○一に云ふ、しつつ 「片恋しつつ」とあるというのである。この方が意味は平明である。○朝鳥の通はす君が 「朝鳥の」は、鳥は夙《はや》く塒《ねぐら》を離れ、餌のあるところへと飛ぶ習性をもっているもので、その時も餌のあるところも定まっていると見て、意味で「通ふ」に続けた枕詞。○一に云ふ、朝霧の通はす君が 枕詞としては下へ続きかねるものである。この二句は、前の二句と対句となっている関係上、ここは枕詞と取れるものである。「通はす君」は、「通はす」は、「通ふ」に尊敬の助動詞「す」のついたの敬語。「君」は、御夫君で、二句御自分の宮より殯宮へと頻繁に通わされる意である。○夏草の思ひ萎えて 「夏草の」は(一三一)に出た。夏草の烈日に照らされ(291)て萎えると続き、「萎え」の枕詞。「思ひ萎えて」は、嘆きしおれて。○夕星のか行きかく行き 「夕星」は、今いう金星で、宵の明星ともよんでいる。時刻によって在り場所が異なり、宵には西、明けには東に見える。「の」は、のごとくの意のもので、意味で「か行きかく行き」にかかる枕詞。「か行きかく行き」は、集中に例のある語で、あちらへ行き、こちらへ行きで、悲しみのために心が乱れた結果、足取りも定まらない状態で、甚しい悲哀を具象的にいったもの。○大船のたゆたふ見れば 「大船の」は、(一二二)に出た。大船は岸へ着けようとする時、すぐには着かず、たゆたいがちにするところから、「たゆたふ」へ意味でかかる枕詞。「たゆたふ見れば」は、行きつ戻りつしている状態を見ればで、上の「か行きかく行き」を語をかえて繰り返したもの。心を強めるためである。上の「然れかも」の「か」の係は、この「たゆたふ」で結ばれた形となっている。○おもひやる情もあらず 「おもひやる」は、用例の少なくない語。嘆きをまぎらす意。「情もあらず」は、そうする心さえもないで、人麿自身の心をいったもの。上の御夫君の恋しみ悲しんでいらせられる状態を見ると、それに刺激されて、もとよりの嘆きが一段と深まってきて、その嘆きをまぎらそうとする気力までも失せ、全く嘆きに鎖《とざ》されてしまう意。なぐさもる、なぐさむるの訓もある。○そこ故にすべ知らましや 「そこ故に」は、(一六七)に出た。その点ゆえにで、悲しみに鎖されてしまうゆえに。「すべ知らましや」は、「すべ」は、せん術《すべ》で、いかにせば嘆きをまぎらしうるかという術《すべ》。「しらましや」は、『考』の訓。「せむすべ知れや」と訓む説もあるが、『考』に従っておく。「や」は、反語で、知られようか、知られないの意。以上、第三段。○音のみも名のみも絶えず 「音のみも」は、音、すなわち評判だけなりとも。「名のみも」は、名、すなわち名声だけなりともで、ほとんど同意味のことを、強めるために重ねたもの。「絶えず」は、絶やさず、無くならせずで、二句を隔てて「偲ひ行かむ」に続く。○天地のいや遠長く 天地のいよいよ遠く長いがごとくの意で、永遠という意の響喩。○偲ひ行かむ御名に懸かせる 「偲ひ行かむ」は、慕って行こうとするで、「行かむ」は連体格で、「御名」に続いている。「音」も「名」も、「御名」が主体となって、それによって偲ばれるからである。「御名に懸かせる」の「懸かせる」は、「懸く」に尊敬の助動詞「す」と完了の助動詞「り」がついた語。御名すなわち、明日香皇女としてもっていらせられるで、下の「明日香河」に続く。○明日香河万代までに 「明日香河」は、呼びかけた形のもの。「万代までに」は、万年の末までにで、すなわち永遠に。○はしきやし吾が王の形見にここを 「はしきやし」は、「はしき」は、愛すべき。「やし」は、「や」は詠歎、「し」は強めで、調べのために添えたもの。「吾が王の」は、皇女を親しみ尊んでの称。「形見」は、見ることのかなわない人を思う種となる物の総称で、現在もいっている語。上代は、人を思うには、必ず物によらなければならないとする念がきわめて強かった。ここもその意である。「にここを」の「に」の原文「何」は、本居宣長が「荷」の誤字だとしたものである。『訓義弁証』は「何」のままで「に」と訓み得ることを例をあげて述べている。「ここを」は、明日香河を強めるために、繰り返す意で指し示したもの。「に」は、下に動詞があるべき詞で、ここは「せむ」の意が略かれている形である。
【釈】 明日香河の上流には、石橋を渡してい、下流には打橋を渡している。石橋の間に生えて靡いている藻は、なくなればまた生えてくる。打橋の下に生えてたわたわとして茂っている河藻は、枯れるとまた生えてくる。なぜなれば、わが王《おおきみ》は、起きていられると、靡く藻のように、お臥しになると、靡く河藻のように、やさしくも従い続けてきた誠に愛《め》でたい御夫君の、朝宮の奉仕をお忘れになったのであろうか、夕宮の奉仕をなさらなくなったのであろうか。現し身とお思い申した時は、春の頃には花を折って挿頭《かざし》とし、秋が来ると黄葉《もみじば》を挿頭とし、袖と袖とを連ねて、鏡のようにいかに繁く見ても厭かず、望月《もちづき》のようにますます(292)珍しくお思いになった御夫君と時々に、お出ましになってご覧になった、その城上の宮を、永久の宮とお定めになって、今はお見上げすることも、物を申し上げることもできなくなってしまった。そうした次第であるからであろうか(そうした状態であればこそ)譬えようもなく悲しんで、ぬえ鳥のように片恋をする夫《つま》となり、しげしげと殯宮へとお通いになられる御夫君の、嘆きしおれて、あちらへ行きこちらへ行って、足取りも定まらず、行きつ戻りつしていられるさまをお見上げすると、それに刺激されて嘆きをまぎらそうとする心とてもなく、それゆえにまたどうすればよいかの方法とても知られようか。知られないことである。今はせめて御評判だけなりとも、御名声だけなりともなくならせずに、天地《あめつち》の遠く永いがごとく永遠にお慕い申してゆこうとする、その主体なる御名としてもっていらせられる明日香河よ、万年の後までも、愛すべきわが王の御形見とこれをしょう。
【評】 この挽歌は、いずれも技巧のそれぞれの面を尽くしている人麿の挽歌の中でも、一首の構成の上に、細心な用意をしている点が、特に注意される作である。
 一首四段から成っている。第一段は、起首から「夕宮を背きたまふや」までである。この段はさらに二小段となっている。第一小段は、「枯るれば生ゆる」までで、明日香河の河藻を捉えていっている部分である。主意とするところは、人間は推移を免れず、生きているものは必ず死んで常のないものであるが、自然はそれに反して永久で、河藻のごとき物でさえも、滅したと見ると同時に生えてくることをいったもので、それを尊貴なる皇女の薨去と対比して、皇女を悲しむ心の基調としたのである。この対比よりくる悲しみは、一首全体を貫いているものである。すなわち総叙というべきである。この自然と人間とを対比する悲哀は、後世では常識となったものであるが、この時代には新鮮味のあるものだったのである。漢詩の影響は否み難いものである。この河藻を明日香河の物として捉えたのは、明日香皇女との関係においてのことで、これはまた、終末において照応させているのである。河藻を、石橋と打橋との関係において捉えているのは、藻は河に全面的に生えていたものであろうが、橋を渡る際に特に印象的に見えるところから来たもので、「絶ゆれば生ふる」「枯るれば生ゆる」の微細なことも、またそれがために生きてくるのである。これらは皆実際に即そうとしたがためである。しかるに、第二小段に移ると、この「玉藻」と「河藻」とは内容を異にしてきて、それらは皇女の御夫君に靡いていられたことの譬喩となっているのである。すなわち皇女にのみ即したものとなるのである。この関係は序詞と同様である。さて、そう変化させての上で、皇女の従来の状態とは異なり、「朝宮を忘れたまふや」「夕宮を背きたまふや」という、推移した状態をいっているので、その対比の上から、その状態を、疑いをもっていえることとなったのである。人麿の位地としては、皇女の薨去ということは距離を置いていう必要のあったことと思われるが、その必要を、藻と人との対比によってあらわすという、文芸的な方法をもって充たしているので、この一段はきわめて細心な、また巧緻なものとなり、したがって露《あら》わでないものとなっている。
 第二段は、「目言も絶えぬ」までである。この一段は、前の段を受けて、それを進めて、皇女の薨去のことのみをいったものである。薨去ということの内容は、「語釈」でいったがように、(293)現し身が幽り身となられたということで、これは伝統の久しくまた深い信念となっているものである。御生前をいうに「うつそみと念ひし時」といい、御薨去をいうに「目言も絶えぬ」という語をもってしているのは、この時代の信念がさせていることで、文芸的にいったものではない。この一段は、人間を常なきものとして、推移の一線に沿って、それを具体的に、また簡単にいっているものであるが、それをいうに、常に自然と絡ませ、自然の永久性と対比する心をもっていっていることが注意される。さらにまた注意されることは、その対比は、単に人間の無常のさみしさというためのものではないことである。対比の意味で捉えられている自然はいずれも美しい物ばかりであり、人間もまた、人生の楽しさにおいて湛えられていて、そうした物と物とが対比されているので、そこにいわゆるさみしさはない。この点はここだけではなく、第一段の河藻と皇女の御生活との対比も同様であって、これは人麿が意識してしていることである。すなわち徹底的に人間を主体とし、生活はあくまでも明るく、楽しいものとし、薨去ということは、現し世のその生活が幽り世に移されるという意味で、ある齟齬《そご》があるものとして悲しむのである。これは消極的な諦めではなく、積極的な悲しみである。これも独り人麿の心ではなく、時代の心である。この一段はその心を背後に置き、皇女が限りなく生活を楽しまれたその御夫君とともに、時に行楽の場所としてお出ましになった城上という土地すなわち自然を、独りいますべき常宮になされたと、人間と自然とを際やかに対比しているのであるが、これは上にいったがごとき条件をもったものなのである。この対比によって一段は立体味をもったものとなり、したがって簡潔な叙事となったのである。またこの段に御夫君を強くあらわしているのは、この段としての必要もあるが、後段の伏線をも兼ねているのである。
 第三段は、「すべ知らましや」までである。この段は、皇女に対しての御夫君の悲歎を、力をきわめて叙している。悲歎は御夫君のみならず、人麿とてももつているのであるが、それはわざといわず、結末の「おもひやる情《こころ》もあらず」以下で間接にあらわしているのは、人麿の位地としては皇女に対して直接なあらわし方をするのは恐れ多いとして控えているためと取れる。御夫君の悲歎を力をきわめて叙しているのは、それによって自身の心をもあらわそうとしたものと思える。結末の「おもひやる」以下は、御夫君の悲軟に刺激されて、何としても堪えられなくなって、はじめて悲歎をいうという形のもので、そこには心理的自然があり、また悲歎の合理的なところもあって、巧妙な一段といえる。この御夫君の状態は、親しく目にしなくてはいえない形のものであるところから、人麿が殯宮に奉仕していたことを思わせるものである。この御夫君を初め関係者の悲歎は、皇女に対しての御慰めであって、殯宮奉仕の心をあらわしたものである。
 第四段は、結末までである。ここは、皇女を永遠に忘れまいということで、殯宮よりそれ以後にもわたっての心である。これは皇女に何らかの関係のある者の、共通に思う心のもので、一般性をもったものといえる。現し世になき人を思うには形見によらなければならないとする当時の心より見れば、明日香河は、明日香皇女にとっては、最上の形見である。最上というのは、それが永遠なる自然その物だからである。これは今日感ず(294)るよりは力強いものであったと思われる。これはまた、第一段に照応し、それを高調しているものでもある。
 以上は構成の上のことで、この構成の上に立っての詠み方にも、この歌には特色がある。それは二句対を頻繁に用いていることで、ほとんどそれを建前としているかの観がある。対句は人麿の長歌の特色をなしているものであるが、この歌のごとく二句対に限って、それを頻繁に用いているものは他にはない。そのために結末の第四段を除くと、全体に柔らかく美しい感じをもったものとなっている。題材次第で、自在に変化しうる人麿である。明日香皇女に対しては、柔らかく美しい表現を適当とする理由があったものかと思われるが、その辺はうかがい難い。
 
     短歌二首
 
197 明日香川《あすかがは》 しがらみ渡《わた》し 塞《せ》かませば 流《なが》るる水《みづ》も のどにかあらまし【一に云ふ、水のよどにかあらまし】
    明日香川 四我良美渡之 塞益者 進留水母 能杼尓賀有万思【一云、水乃与杼尓加有益】
 
【語釈】 ○明日香川しがらみ渡し 「明日香川」は、明日香川にの意。長歌で、明日香川を明日香皇女の形見と見ようといったそれを承けてのもの。「しがらみ」は、木や竹を杭などに絡ませたもので、今も用いているもの。「渡し」は、岸から岸へと構える意。○塞かませば 「塞く」は、今日もいっている語で、水をとめる意。「ませ」は、下の「まし」の未然形で、それと照応させた語で、仮設の条件をあらわしたもの。○流るる水も 訓は旧訓。流れることを自然としている水でも。○のどにかあらまし 「のど」は、のどかで、ここはゆっくりする意。「まし」は、上にいった。ゆっくりすることであろうか。○一に云ふ、水のよどにかあらまし 水が、澱《よど》となることであろうかで、意味としてはさして異ならない。本行の方が全体との調和が濃い。
【釈】 明日香川に、岸より岸へ柵《しらがみ》を構えて塞きとめたならば、流れるのを自然とする水でも、ゆっくりとす
(295)ることであろうか。
【評】 長歌をうけて、立ちかえって、皇女の薨去を悲しむ心をもって詠んだものである。長歌と同じく、薨去のことをいうにきわめて間接な方法を取って、暗示的な言い方をしている。いっているところは、明日香川の水流に対しての一つの想像である。流れることを自然としている水ではあるが、柵を構えて塞いたならば、少しは水流を緩やかにすることもできたろうといって、何らかの方法を取ったならば、皇女の御命も、あるいは今少し長くすることができたろうかと、悲しみというよりはむしろ愚痴をいっているのである。間接とはいえ、ここには、皇女も生死は免れ難い心をもっていっているので、その意味では長歌よりは進展のあるものである。明日香川は自然その物ではあるが、長歌ですでに明日香皇女の形見であることを力強くいっているので、皇女を暗示しうるものとなっているのである。これは譬喩以上のものである。人事の上の一つの心持を、直接にはそれに何の触れるところもなく、一に自然をいうのみによってあらわすということは、この当時にあっては、きわめて文芸的な方法である。この歌はそれを成し遂げているのである。しかしそれは長歌に依存することによって成し遂げているもので、単にこの歌だけでは遂げられないのである。そこに限度がある。一首、単純なものではあるが、人麿の手腕を示している点では、注意されるものである。
 
198 明日香川《あすかがは》 明日《あす》だに【一に云ふ、さへ】見《み》むと 念《おも》へやも【一に云ふ、念へかも】 吾《わ》が王《おほきみ》の 御名《みな》忘《わす》れせぬ【一に云ふ、御名忘らえぬ】
    明日香川 明日谷【一云、佐倍】、將見等 念八方【一云、念香毛】 吾王 御名忘世奴【一云、御名不所忘】
 
【語釈】 ○明日香川 皇女のその御名を負っている川として、皇女を暗示するものとしていい、それとともに、畳音の関係で、下の「明日」の枕詞の意ももたせたものである。枕詞の方は付随的なものである。皇女との関係は前の歌と同じ。○明日だに見むと 「だに」は、あげている点を主として、他は問題としない意の助詞。口語の「でも」というにあたる。「見むと」は、見られようとの意で、皇女との関係の上では、お目にかかれようという意のもの。今はかなわないが、明日にでもお目にかかれようとの意。○一に云ふ、さへ 「さへ」は、ある上に、さらに加わる意をいう助詞。口語の「まで」にあたる。この場合にはあたらないものである。○念へやも 「や」は、疑問。「も」は、詠歎。「念へ」の已然形から続いているので、後世の「念へばや」にあたる語。○一に云ふ、念へかも 「か」は、疑問で、意味は同じ。○吾が王の御名忘れせぬ 「吾が王」は、皇女を親しみ尊んでの称。「御名」は、皇女御自身と御名とは同一とする信念からいっているもので、御上というに近い。「ぬ」は、上の「や」の結びで、連体形。御上を忘れはせぬことよの意。○一に云ふ、御名志らえぬ 「忘らえぬ」は、忘れられないことよで、同じく連体形。
【釈】 明日香川を、明日にでも見られようと思っているせいであろうか、その名を負いたまえるわが王の御上を忘れはせぬことよ。
(296)【評】 これは薨去後の心をいったもので、前の歌より時間的進展をさせたものである。心としては、長歌の結末の第四段と同じものであるが、そちらは一般的な、公式の追慕であるのに、こちらは、私的な、したがって感傷的なものであって、範囲は同じであるが趣は異なっている。「明日香川」は皇女御自身を暗示するものとするとともに、枕詞的の意も絡ませてあるところは、自在な技巧である。上の歌と、心においても形においても緊密な関係をもっていて、人麿の好む連作となっている。
 
     高市皇子尊《たけちのみこのみこと》の城上《きのへ》の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「高市皇子尊」のことは(一五六)に出た。皇子尊という称は、皇太子にましましたがゆえである。皇太子に立たせられた年月は、日本書紀に明記がない。しかし、持統天皇三年四月草壁皇太子薨去の後、同四年七月、この皇子は太政大臣に任ぜられ、また、同月の詔勅の中に「皇太子」の語があるので、その頃皇太子に立たれたことと思われる。持統天皇十年七月の条に、「庚戌(十日)後皇子尊薨」とあるは、すなわち高市皇子尊のことである。城上《きのえ》は、前の明日香皇女の殯宮のあった地と同じである。延喜式に、「三立岡墓【高市皇子、在大和国広瀬郡、兆域東西六町、南北四町、無守戸】」とある。現在は北葛城郡広陵町である。人麿は、歌で見ると舎人の立場に立って作っている。皇太子の舎人の一人であったのか、または舎人に代ってのことであるかは不明である。舎人の一人としての歌かと思われる。
 
199 かけまくも ゆゆしきかも【一に云ふ、ゆゆしけれども】 言《い》はまくも あやに畏《かしこ》き 明日香《あすか》の 真神《まがみ》の原《はら》に ひさかたの 天《あま》つ御門《みかど》を かしこくも 定《さだ》めたまひて 神《かむ》さぶと 磐隠《いはがく》ります やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 聞《き》こしめす 背面《そとも》の国《くに》の 真木《まき》立《た》つ 不破山《ふはやま》越《こ》えて 高麗剣《こまつるぎ》 和射見《わざみ》が原《はら》の 行宮《かりみや》に あもりいまして 天《あめ》の下《した》 治《をさ》めたまひ【一に云ふ、掃《はら》ひたまひて】 食《を》す国《くに》を 定《さだ》めたまふと 鶏《とり》が鳴《な》く 吾妻《あづま》の国《くに》の 御軍士《みいくさ》を 召《め》したまひて ちはやぶる 人《ひと》を和《やは》せと まつろはぬ 国《くに》を治《をさ》めと【一に云ふ、掃《はら》へと】 皇子《みこ》ながら 任《よさ》したまへば 大御身《おほみみ》に 大刀《たち》取帯《とりは》かし 大御手《おほみて》に 弓《ゆみ》取持《とりも》たし 御軍士《みいくさ》を あどもひたまひ 斉《ととの》ふる 鼓《つづみ》の音《おと》は 雷《いかづち》の 声《こゑ》と聞《き》くまで 吹《ふ》き響《な》せる 小角《くだ》の音《おと》も【一に云ふ、笛《ふえ》の音《おと》は】 敵《あた》みたる 虎《とら》かほゆると 諸人《もろびと》の おびゆるまでに【一に云ふ、聞き惑ふまで】(297) ささげたる 幡《はた》の靡《なび》きは 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》さり来《く》れば 野《の》ごとに つきてある火《ひ》の【一に云ふ、冬《ふゆ》ごもり春野《はるの》焼《や》く火の】 風《かぜ》の共《むた》 靡《なび》くが如《ごと》く 取《と》り持《も》てる 弓弭《ゆはず》の騒《さわき》 み雪《ゆき》ふる 冬《ふゆ》の林《はやし》に【一に云ふ、ゆふの林に】 飄《つむじ》かも い巻《ま》き渡《わた》ると 思《おも》ふまで 聞《き》きの恐《かしこ》く【一に云ふ、諸人の見惑ふまでに】 引《ひ》き放《はな》つ 箭《や》の繁《しげ》けく 大雪《おほゆき》の 乱《みだ》れて来《きた》れ【一に云ふ、霰なすそちよりくれば】 まつろはず 立《た》ち向《むか》ひしも 露霜《つゆしも》の 消《け》なば消《け》ぬべく 行《ゆ》く鳥《とり》の あらそふはしに【一に云ふ、朝霜《あさじも》の消《け》なば消《け》ぬとふにうつせみとあらそふはしに】 度会《わたらひ》の 斎《いつき》の宮《みや》ゆ 神風《かむかぜ》に い吹《ふ》き惑《まと》はし 天雲《あまぐも》を 日《ひ》の目《め》も見《み》せず 常闇《とこやみ》に 覆《おほ》ひたまひて 定《さだ》めてし 瑞穂《みづほ》の国《くに》を 神《かむ》ながら 太敷《ふとし》きまして やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 天《あめ》の下《した》 申《まを》したまへば 万代《よろづよ》に 然しもあらむと【一に云ふ、かくもあらむと】 木綿花《ゆふばな》の 栄《さか》ゆる時《とき》に 吾《わ》が大王《おほきみ》 皇子《みこ》の御門《みかど》を【一に云ふ、刺竹《さすたけ》の皇子《みこ》の御門《みかど》を】 神宮《かむみや》に 装《よそ》ひまつりて つかはしし 御門《みかど》の人《ひと》も 白《しろ》たへの 麻衣《あさごろも》著《き》て 埴安《はにやす》の 御門《みかど》の原《はら》に あかねさす 日《ひ》のことごと 鹿《しし》じもの いはひ伏《ふ》しつつ ぬばたまの 夕《ゆふ》べになれば 大殿《おほとの》を ふり放《さ》け見《み》つつ 鶉《うづら》なす いはひもとほり さもらへど さもらひ得《え》ねば 春鳥《はるとり》の さまよひぬれば 嘆《なげ》きも いまだ過《す》ぎぬに 憶《おも》ひも いまだ尽《つ》きねば 言《こと》さへく 百済《くだら》の原《はら》ゆ 神葬《かむはふ》り 葬《はふ》りいまして あさもよし 城上《きのへ》の宮《みや》を 常宮《とこみや》と 高《たか》くしまつりて 神《かむ》ながら 鎮《しづ》まりましぬ 然《しか》れども 吾《わ》が大王《おほきみ》の 万代《よろづよ》と 念《おも》ほしめして 作《つく》らしし 香具山《かぐやま》の宮《みや》 万代《よろづよ》に 過《す》ぎむと思《おも》へや 天《あめ》の如《ごと》 ふり放《さ》け見《み》つつ 玉《たま》だすき かけて偲《しの》はむ 恐《かしこ》かれども
    挂文 忌之伎鴨【一云、由遊志計礼杼母】 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 眞神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母(298)定賜而 神佐扶跡 磐隱座 八隅知之 吾大王乃 所聞見爲 背友乃國之 眞木立 不破山越而 狛釼 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜【一云、掃賜而】 食國乎 定賜等 ※[奚+隹]之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和爲跡 不奉仕 國乎治跡【一云、掃部等】  皇子隨 任賜者 大御身尓 大刀取帶之 大御手尓 弓取持之 御軍士乎 安騰毛比賜 齊流 鼓之音者 雷之 聲登聞麻※[人偏+弖] 吹響流 小角乃音母【一云、笛之音波】 敵見有 虎可※[口+立刀]吼登 諸人之 恊流麻※[人偏+弖]尓【一云、聞或麻泥】 指擧有 幡之靡者 冬木成 春去來者 野毎 著而有火之【一云、冬木成春野燒火乃】  風之共 靡如久 取持流 弓波受乃驟 三雪落 冬乃林尓【一云、由布乃林】 飃可毛 伊卷渡等 念麻※[人偏+弖] 聞之恐久【一云、諸人見或麻※[人偏+弖]尓】 引放 箭之繁計久 大雪乃 亂而來礼【一云、霰成曾知余里久礼婆】 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久 去鳥乃 相競端尓【一云、朝霜之消者消言尓打蝉等安良蘇布波之尓】 渡會乃 齊宮從 神風尓 伊吹或之 天雲乎 日之目毛不令見 常闇尓 覆賜而 定之 水穗之國乎 神隨 太敷座而 八隅知之 吾大王之 天下 申賜者 萬代尓 然之毛將有登【一云、如是毛安良無等】 木綿花乃 榮時尓 吾大王 皇子之御門乎【一云、刺竹皇子御門乎】 神宮尓 装束奉而 遣使 御門之人毛 白妙乃 麻衣著 埴安乃 御門之原尓 赤根刺 日之盡 鹿自物 伊波比伏管 烏玉能 暮爾至者 大殿乎 振放見乍 鶉成 伊波比廻 雖侍候 佐母良比不得者 春鳥之 佐麻欲比奴礼者 嘆毛 未過尓 憶毛 未不盡者 言左敝久 百濟之原從 神葬 々伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神隨 安定座奴 雖然 吾大王之 万代跡 所念食而 作良志之 香來山之宮 万代尓 過牟登念哉 天之如 振放見乍 玉手次 懸而將偲 恐有騰文
 
【語釈】 ○かけまくも 「かけまく」は、「かく」の未然形「かけ」と「む」の未然形に「く」を添えて名詞形としたもの。口にかけていうにも、心にかけて思うにもいう。ここは、下の「言はまく」の対となっていて、心にかける意のもの。心にかけることもの意。○ゆゆしきかも 「ゆゆし」は、「ゆ」は忌《い》み清まわる意で、それを重ねて形容詞としたもの。忌み憚るべきの意。恐れ多いというにあたる。「かも」は、詠歎。○一に云ふ、ゆゆしけれども 恐れ多くあるけれども。これは下への続きが自然ではない。○言はまくもあやに畏き 「言はまくも」は、口にしていうことも。「あやに」は、いいようもなく。「畏き」は、恐れ多いで、連体形。下の「真神」へ続く。○明日香の真神の原に 「明日香」は、現在の高市郡明日香村。「真神の原」は、最も確かな文献としては、日本書紀、崇峻紀に、「元年……壊2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1始作2法興寺1。此地名2飛鳥(299)真神原1、亦名2飛鳥苫田1」とあるものである。法興寺は飛鳥寺ともいった。現在、飛鳥大仏のある安居院はその跡であり、古く真神の原とよばれた所だったのである。○ひさかたの天つ御門を 「ひさかたの」は、天の枕詞。「天つ御門」は、「天つ」は御門を尊んで添えた語。「御門」は、宮殿の義にも用い、(一六八)(一七四)にもあるように、御陵墓の義にも用いている。したがってここは両様に取れる。従来、御陵墓の地と解されていたが、喜田貞吉、『講義』などの考証によって、宮殿の地と解されるに至った。天武天皇の御陵は、延喜式に、檜隈大内陵とあり、そこは現在、明日香村大字野口であって、飛鳥とは離れていて、明らかに別である。したがって御門は宮殿であって、真神が原に浄御原宮はあったというのである。従うべきである。○かしこくも定めたまひて 恐れ多くもお定めになって。○神さぶと磐隠ります 「神さぶと」は、神としてのお振舞いをせられるとての意。「磐隠ります」は、磐の内に隠れていらせられるで、御陵墓は磐をもって構えるので、その内に入らせられる意で、二句、崩御後の御状態を申したもの。○やすみしし吾が大王の 字義は前に出た。天武天皇の御事。○聞こしめす背面の国の 「聞こしめす」は、巻一(三六)に出た。「聞こす」は「聞く」の、「めす」は「見る」の敬語で、天下を御支配になる意。「背面の国」は、「背面」は巻一(五二)に出た。北方の意で、大和国よりいうのである。「国」は下の続きで美濃国とわかる。○真木立つ不破山越えて 「真木立つ」は、巻一(四五)に出た。杉檜などの生い立っているで、深山の状態。「不破山」は、岐阜県不破郡と滋賀県坂田郡との境にある山と解される。『講義』は、現在この名をもった山はない。不破の関のある山をそう称したのではないかといっている。「越えて」は、大和国を中心としての語。この時天皇は伊勢の桑名にいられ、美濃を本営とするために、そちらへ行幸されたのである。○高麗剣 高麗の剣の意。※[木+覇]《つか》の頭に環を着ける特殊な作りであったところから、輪と続けて、「わざみ」の「わ」に転じた枕詞。○和射見が原の この名は今は伝わっていない。したがって諸説がある。『講義』は、『長等《ながら》の山風《やまかぜ》』の所説に基づき、今の青野が原(赤坂町青野)であろうといっている。また、不破郡関が原町関が原の説もある。○行宮に 「行宮」は、天皇の行幸の際とどまりたもう宮である。日本書紀によると、和射見が原は、高市皇子の本営のあった所で、行宮は野上(関が原町大字野上)にあった。そこは青野が原の西方にある所である。天皇は野上の行宮よりしばしば和射見が原に行幸になり、軍事を検校されたので、このようにいったのであろうという。○あもりいまして 「あもり」は、「天降り」の字をあてる。「天降《あめお》り」の約で、行幸を神としての御行動としていったもの。「いまして」は、ましまして。○天の下治めたまひ 天下の乱れをお治めになり。○一に云ふ、掃ひたまひて 一掃なさつてで、事の終った後の意となって、事実に合わない。○食す国を定めたまふと 「食す国」は、巻一(五〇)に出た。御支配になる国で、すなわち天下。「定めたまふと」は、安定させようとなさって。○鶏が鳴く吾妻の国の 「鶏が鳴く」は、「吾妻」にかかる枕詞。その関係は明らかでない。「吾妻」は、東方の意の古語と取れる。大和よりの称である。○御軍士を召したまひて 「軍士」は、軍将士卒を総称する古語。「御」は、天皇のものであるゆえに尊んで添えたもの。主として尾張の軍士で、信濃の軍士も加わったという。「召したまひて」は、召集なされて。○ちはやぶる人を和せと 「ちはやぶる」は、「いちはやぶる」の意で、『講義』は、形容詞「いちはやし」の語幹に「ぶる」を連ねて連詞としたものだといい、「いちはやし」の例はこの当時の文献には見えないが、平安朝にはあると説いている。「いちはやし」は、稜威すなわち勢いの速く、強い意。「ぶる」は、その性質を発揮する意で、勢いの強い意である。これは善悪に通じていう。ここは悪い方で、強暴なるにあたる。「人」は、敵となっている人で、大津宮の御軍士を、天皇の立場からさしていったもの。「和せ」は、和らげよで、命令形。これは天武天皇の高市皇子に命ぜられた御語《みことば》。○まつろはぬ国を治めと 天皇に従わない国を治めよとの意で、上の二句の意を対句の形において繰り返したもので、「治め」は命令形。○一に云ふ、掃へと (300)一掃せよというので、意味は異ならない。本行の方が、心が穏やかである。○皇子ながら任したまへば 「皇子ながら」は『考』の訓。原文「随」は、「神随」のそれと同じく、皇子にましますままにの意。兵馬の大権は天皇のみのものであるのを、皇子にますがゆえに代らしめた意。「任したまへば」は、諸注、訓がさまざまである。「任《よさ》す」と訓んだのは『代匠記』である。『講義』は、「よす」は古くは四段活用で、これはその敬語である。意は任じたまうであると、詳しく考証している。○大御身に大刀取帯かし 「大御」は、至尊の御方に関するものに、尊んでかぶせる語。「取帯かし」は、大刀は佩《は》くという、それを敬語としたもの。○大御手に弓取持たし 「持たし」は、「持つ」の敬語。○御軍士をあどもひたまひ 「あどもふ」は、集中用例の多い語である。日本書紀には「誘」の字をあてている。誘い率いる意で、部下の軍将士卒を誘い率いさせられてである。○斉ふる鼓の音は 「斉ふる」は、軍隊を斉えるで、共同の進退をさせる意。「鼓の音は」は、太鼓の音はで、号令する音はである。二句、軍隊に共同の進退を号令するところの太鼓の音はの意。○雷の声と聞くまで 雷鳴の音かと聞くまでにもの凄く。○吹き響せる小角の音も 「響す」は、鳴らすの古語。「小角」は、竹筒で作ったもの。二句、号令をするために吹き鳴らす竹筒の音もまた。○一に云ふ、笛の音は 「笛」は、範囲の広い名で、小角もその中のものである。本行の方が前後に調和がある。○敵みたる虎かほゆると 「あたみたる」は、「あたむ」は一つの動詞。怨み憎みの情をあらわす語。「虎かほゆると」は、虎が吼《ほ》えるのであるかと。○諸人のおびゆるまでに 「諸人」は、人々であるが、敵のすべての人の意。「おびゆるまでに」は、恐れて失神するほどに。○一に云ふ、聞き惑ふまで 惑って聞くまで。本行の方が力がある。○ささげたる幡の靡きは 「ささげ」は、「指し挙げ」の約。「幡の靡きは」は、幡の風に靡くさまは。「靡き」は、名詞形。この幡はすべて赤旗であったことが、日本書紀に出ている。○冬ごもり春さり来れば 巻一(一六)に出た。冬が尽きて春が来ればの意。○野ごとにつきてある火の 野という野に一時についている火がで、この火は、いわゆる焼畑《やきばた》を作るために、去年の枯草を灰として肥料とならせるために焼くところの火で、大体大規模のものである。○一に云ふ、冬ごもり春野焼く火の これは、上の「冬ごもり」以下四句を二句としたものである。これはここの「幡」の状態と、これに続く「弓弭」の状態を、八句対としてある関係上、本行に従うべきである。○風の共靡くが如く 「風の共」は、風と共に。「靡くが如く」は、その火の靡くがごとくにで、幡の赤色であったことを暗示している。○取り持てる弓弭の騒 「取り持てる」は、将卒の手に持っている。「弓弭」は、弓の両端の、弦をかけるところの称。今は弦の意で用いている。「さわき」は、『代匠記』の訓。集中に例のある字である。騒がしく鳴る音は。○み雪ふる冬の林に 「み雪」の「み」は、接頭語。雪の降る冬の林に。○一に云ふ、ゆふの林に 「由布」は、「布由」の誤字で、文字の相異だけで引いたものと取れる。○飄かもい巻き渡ると 「瓢」は、つむじ風。「かも」は、疑問。「い巻き」は、「い」は接頭語。二句、つむじ風が巻きつつ渡って行くかとの意。○思ふまで聞きの恐く 「聞き」は、名詞。弓弭の騒ぎの聞こえ。「恐く」は、畏るべく。○一に云ふ、諸人の見惑ふまでに 敵の人々が惑って見るほどに。弓弭の音をいっている場合なので、これは不合理である。○引き放つ箭の繁けく 「繁けく」は、「繁き」に、「く」を添えて名詞形としたもので、繁きことはの意。○大雪の乱れて来れ 「大雪の」は、大雪のごとく。「乱れて来れ」の「来れ」は、已然形のままで条件をあらわすもので、後世の「来れば」と同じ意をあらわすものである。例はすでに出た。二句、大雪のごとくに乱れてくるのでの意で、この「来れ」は、受身となっている大津宮の軍の感じをいったものである。すなわちこの一語で、主客を転じさせている形である。○一に云ふ、霰なすそちよりくれば 「霞なす」は、霞のごとくに。「そち」は、大津宮の軍の立場に立ち、高市皇子の軍の方をさしているもの。上の二句を平明に解しやすくしたもので、「来れ」のもつ巧みさを失ったものである。○まつろはず立ち向ひしも 「まつろはず」は、従わずに。(301)「立ち向ひしも」は、「立ち向ふ」は熟語で、敵対すること。『講義』は「立ち向ひし」は準体言だと注意している。「も」は、もまたの意のもの。二句、従わずして敵対した大津宮の将卒もまた。○露霜の消なば消ぬべく 「露霜の」は、露や霜ので、消《け》と続き、その消《け》を死の意に転じた枕詞。「消なば消ぬべく」は、死ぬならば死のうというので、死を決して戦う態度をいったもの。これは上に続いて大津宮の将卒の上である。○行く鳥のあらそふはしに 「行く鳥の」は、群れをなして飛びゆく鳥のごとくで、下の「あらそふ」の譬喩。「あらそふ」は、先頭を争うで、勇敢なる状態をいったもの。「はし」は、『新考』は口語の「とたん」にあたるといっている。『講義』は、その際にといっている。時の急迫をあらわした語。○一に云ふ、朝霜の消なば消ぬとふに、うつせみとあらそふはしに 上四句が、一本にはこうあるというのである。「朝霜の」は、「消」の枕詞で、他にも例のあるもの。「消ぬとふに」は原文「消言尓」、諸本一致しているもので、諸注訓み難くして誤字説を出している。『講義』は「消ぬとふに」と訓むべきかといっている。それに従うと、ここで死ぬならば、いずれは死ぬという命であるのにの意。「うつせみと」は、現し身の死ぬべき命と思つての意で、四句、決死の態度と状態をいったもの。本行の方が前後に調和する。○渡会の斎の宮ゆ 「渡会」は、伊勢の皇大神宮の鎮まります地の郡名。現在伊勢市内。「斎の宮」は、「斎」は「いつき」「いはひ」両様の訓がある。「いつき」の訓の方が多いので、諸注多くはそれに従っている。「斎の宮」は二様に用いられている。皇大神を斎く宮すなわち神宮の意と、天皇の大御手代としての斎の内親王のいます宮である。内親王の斎の宮は多気郡にあり、これは渡会郡であるから、皇大神宮である。「ゆ」は、より。○神風にい吹き惑はし 「神風」は、神の吹かせたまう風の意であるが、上代には、神の呼吸がすなわち風であるという信仰があり、その意でいっているものである。すなわち神の息である風の意である。「に」は、をもっての意。「い吹き」は、大祓詞に、「気吹」を「いぶき」と訓ませてあって、呼吸をする意の古語で、動詞である。「惑はし」は、大津宮の軍を昏迷させの意。二句は、神の気《いき》である風をもって、その呼吸《いき》をすることによって困惑させてで、さらにいうと、神意をもって大風を吹かせて、敵を困惑させての意である。この神風のことは、日本書紀にも古事記の序にも見えず、ただここにあるのみのものである。したがって事実か、単なる伝えかを疑わせている。○天雲を日の目も見せず 「天雲を」は、雲をで、その雲は、大風に伴って起こったものである。「日の目」の「目」は、「見え」の約で、日の顔。「見せず」は、見せしめず。○常闇に覆ひたまひて 「常闇」は、常《とこ》しえの闇で、真闇《まつくら》な意をいったもの。「覆ひたまひて」は、大津宮の軍隊をお覆いになってで、「天雲を」以下、神助としていっているものである。○定めてし瑞穂の国を 「定めてし」は、「て」は完了。平定させおわったで、上の「食す国を定めたまふと」に照応させたものである。主格は高市皇子である。「瑞穂の国」は、(一六七)に出た、わが日本国を。○神ながら太敷きまして 「神ながら」は、巻一(三八)に、「太敷きます」は、同じく(三六)に出た。神とましますままに御支配になってで、主格は上の「定めてし」に続いて高市皇子である。これは下に続いて繰り返されている。○やすみしし吾が大王の 二句、皇子を尊んで申したもので、当代の天皇は持統天皇。○天の下申したまへば 「天の下申し」は、国家の大政を執《と》り申しで、太政大臣の事をする意である。高市皇子が太政大臣であられたことは上にいった。これは、「神ながら太敷きまして」の内容を繰り返していったものである。○万代に然しもあらむと 「万代に」は、万年にで、永久に。「然しも」は、「然」は上のことをさした語。「しも」は、強め。そのようにばかり。二句、永久にそのようにばかりあろうと思つてで、天下の者の心をいったもの。○ーに云ふ、かくもあらむと このようであろうと。心は異ならないが、本行の方が、上との続きが緊密である。○木綿花の栄ゆる時に 「木綿花」は、集中に例が少なくないものだが、よくはわからない。木綿は楮《こうぞ》の繊誰で、それをもって造った花と取れる。白波の譬喩に用いているところから、白く美しい物だったと察しられる。しか(302)し何に用いたものかは明らかではない。「春花の栄ゆる」とあるのと同じく、「木綿花の」は、意味で栄ゆにかかる枕詞と思われる。「栄ゆる」は、『古義』は、「酒漬《さかみづ》き栄ゆる」「咲《ゑ》み栄ゆる」と同じく、うるわしく、はなばなしい意だとしている。『新考』は、世の人の思う心をいったものだと注意している。楽しみにしているという意に取れる。○吾が大王皇子の御門を 「御門」は、宮殿。後の続きで、宮殿は香具山にあったことが知られる。○一に云ふ、刺竹の皇子の御門を 「刺竹の」は、用例の多い枕詞であるが、意味は不明。○神宮に装ひまつりて 「神宮」は、神のまします宮で、皇子を、天《あめ》にます神と同じにお扱い申しての語である。それは天皇、皇子のみまかられることを神去《かむさ》るという語であらわしているのでも知られるように、尊貴な御方はみまかられるとともに神となられるという信仰からいうものである。今は皇子が薨去になられたので、殯宮へお移し申したその殯宮を神宮といっているのだと取れる。「装ひまつりて」は、神宮としての装おいをして。すなわち設けをして。○つかはしし御門の人も 原文「遣使」は、諸注、訓がさまざまである。これは『古事記伝』の訓である。お召使いになられた。「御門の人」は、御宮に属した人で、朝廷より賜わっていた舎人。「も」は、もまた。○白たへの麻衣著て 「白たへ」は、巻一(二八)に出た。ここは白という意のもの。「麻衣」は、麻の衣で、身分の低い者の常服であったが、ここはそれではなく、神事の衣は白色と定まっていた、その意のものである。服装は黒染、またはそれに近い鼠色、鈍色《にびいろ》であったが、礼服としては白を着ることに定まっていたのである。○埴安の御門の原に 「埴安」は、香具山の麓、藤原宮の東方の地で、橿原市南浦町あたりか。「御門の原」は、御門の前にある原すなわち広場で、御門は皇子の宮のものと取れる。○あかねさす日のことごと 「あかねさす」は、赤色を放つで、意味で日にかかる枕詞。「日のことごと」は、一日じゆう。○鹿じものいはひ伏しつつ 「鹿じもの」は、これと同じ形の「鴨じもの」が、巻一(五〇)に出た。『講義』は、「じ」は体言に続いて形容詞を構成し、「ししじ」で「しく、しき」の活用の語幹をなさせ、それに「もの」を続けて熟語としたものであり、意は、鹿のごとき物というほどのことだといっている。「鹿《しし》」は、宍《しし》すなわち肉にあてた字で、肉を食料とする獣の総称である。ここは「鹿」をその代表としたもの。獣の足を曲げて地に伏している習性を捉えて譬喩としたもの。「いはひ伏しつつ」は、「い」は接頭語。「はひ伏す」は礼の形で、後世の平伏、土下座《どげざ》と同じ形のものである。日本書紀、天武紀に、跪礼、匍匐礼をやめるという勅があり、さらに続日本紀、文武天皇、慶雲年間にも、同じ勅が出ているので、当時それの行なわれていたことがわかる。「つつ」は、継続。二句、獣のごときさまに平伏しつづけて。○ぬばたまの夕べになれば 「ぬばたまの」は、(八九)に出た。射千《ひおうぎ》の実で、色の黒いところから黒の枕詞となり、夜、夕などにも及んでいるもの。今は夕べの枕詞。「夕べになれば」は、夜に移れば。○大殿をふり放け見つつ 「大殿」は、皇子の宮殿。「ふり放け見」は、(一四七)に出た。仰いで遠くの物を見ること。「つつ」は、継続。事としては近く見るのであるが、尊む意から、遠く見るように言いかえたもの。○鶉なすいはひもとほり 「鶉なす」は、鶉のごとくで、鶉は、草原を這い回っているので、そのさまを捉えて譬喩としたもの。「いはひもとほり」は、「いはひ」は上と同じく、「もとほり」は同じ所を回って歩く意の古語。二句、平伏しつつも、悲しみに堪えずして動き回る意で、上の二句と対句とし、一歩心を進めたもの。○さもらへどさもらひ得ねば 「さもらへど」は、伺候しているけれども。「さもらひ得ねば」は、伺候の意が遂げられないのでの意で、伺候していてもお召しになることもなく、その詮がないので。○春鳥のさまよひぬれば 「春鳥の」は、春の鳥のごとくで、その高音《たかね》に、また繁く鳴く点を捉えて、譬喩の意で枕詞としたもの。「さまよひぬれば」は、「さまよふ」は懊悩して呻き声を発する意の動詞で、巻二十(四四〇八)「若草のつまも子どもも、をちこちに沢《さは》に囲《かく》みゐ、春鳥の声のさまよひ、白妙の袖泣き濡らし」とあると同じ意のものである。この語は『講義』が詳しく考証している。二句、上の二句に続いて、(303)伺候していてもその詮がないので、懊悩して呻き声を発していればの意。○嘆きもいまだ過ぎぬに 「嘆き」は、御薨去の嘆き。「過ぎぬに」は、過去のものとはならないのに。○憶ひもいまだ尽きねば 「憶ひ」は、嘆き。「尽きねば」の「ねば」は、「ぬに」と同じ心で用いられている古語である。○言さへく百済の原ゆ 「言さへく」は(一三五)に出た。「韓《から》」、または百済へかかる枕詞。「百済の原」は、今は北葛城郡広陵町字百済。「ゆ」は、「より」の古語で、経過する地点を示す語。二句、百済の原を過ぎて。○神葬り葬りいまして 「神葬り」の「神」は、その事が神に関する場合に添えていう語で、(一六七)「神集《かむつど》ひ集ひいまして」と同じ形のものである。「葬り」は、放《ほう》りの意で、平生の住まいより出して遠くやる意の語で、野辺送りというにあたる。「座而《いまして》」は旧訓で、「座而《いませて》」の訓もあり、諸注二つに分かれている。『講義』は旧訓に従い、その理由を明らかにしている。「座而《いまして》」は、「葬り」という用言に添えたもので、単なる形式的の敬語である。「座而《いませて》」は、巻十二(三〇〇五)「高々《たかだか》に君を座せて」というように実質を含んだもので、ここにはあたらない。事としては、皇太子としての皇子を葬ることで、これを行なうのはむろん朝廷である。「座而《いまして》」は朝廷に対して添えたところの形式的の敬語だというのである。○あさもよし城上の宮を 「あさもよし」は、巻一(五五)に出た。「麻裳よし」で、「よし」は詠歎。著《き》と続け、城に転じての枕詞。「城上の宮」は、上にいった。○常宮と高くしまつりて 「常宮」は、(一九六)に出た。永久の宮で、ここは殯宮を讃えていつたもの。「高之奉而」は、訓がさまざまである。多くは誤字があるとして改めてのものである。しかし文字は諸本一様である。『講義』は、「高くしまつりて」と訓むほかはないとしている。高く作り奉りての意である。○神ながら鎮まりましぬ 神とあるままにお鎮まりなされたの意。起首よりこれまでで一段。○然れども吾が大王の そうした御状態ではあるけれども、わが皇子尊の。○万代と念ほしめして 「万代と」は、万年にわたって変わらなくあれとの意。「念ほしめす」は、「念ふ」の敬語「念ほす」に、「見」の敬語「めす」の続いたもの。○作らしし香具山の宮 お作りになられた香具山の宮で、皇子の宮である。上の「埴安の御門の原」を門前とし、香具山寄りにあった宮と取れる。この宮は皇子御薨去の後は、荒廃に任せられるべきものである。○万代に過ぎむと思へや 「万代に」は、上の「万代と」に照応させたもので、お思いなされたがごとく、万年にわたっての意のもの。「過ぎむと思へや」は、「過ぎむと」は過去のものとなろうと。「思へや」は「思ふ」の己然形「思へ」に、「や」の添ったもので、反語。思おうか思いはしない。二句、万年にわたって、過去のものとならせるようなことは、思おうか思わないの意。○天の如ふり放け見つつ 「天の如」は、天を見るごとくに。「ふり放け見つつ」は、遠く望みつづけてで、宮を尊みなつかしむ心からいったもの。○玉だすきかけて偲はむ 「玉だすき」は、巻一(二九)に出た。襷《たすき》に玉の美称を添えたもの。「かけ」の枕詞。「かけて偲はむ」は、心にかけて深くお思い申そうで、宮を皇子のお形見として、皇子同様にお思い申そうの意。○恐かれども 恐れ多くはあるけれどもで、身分の低い者としては憚るべきことであるけれどもの意。この句は起首に照応させてのもの。
【釈】 口にして申すことは恐れ多いことであるよ。言葉とすることはいおうようなく恐れ多いことであるけれども、明日香の真神の原に、神としての宮殿をお定めになられて、今は神のお振舞いをなさって御陵に岩隠れていらせられるやすみししわが大王なる天武天皇の、御支配になられる北方の国美濃の、不破の山を越えて、わざみが原の行宮に行幸にならせられて、天下の乱れをお治めになろうとて、御支配になる国を安定おさせになろうとて、東国の軍将士卒を御召集になられて、強暴なる人を和らげよ、お従い申さぬ国を治めよと、皇子とましますままにお任じなされると、皇子尊には御身に太刀《たち》をお佩きになり、御手に弓を(304)お持ちになり、軍将士卒を誘い率いさせられ、軍隊の進退を号令する太鼓の音は、雷のとどろき鳴る声かと聞くまでに、同じく吹き鳴らす竹筒の音も、怨み憎みを起こしている虎が吼えるのであるかと思って、敵の人々が恐れて失神するほどに(惑って聞くまでに)、捧げている幡の風に靡《なび》くさまは、春が来ると、野という野に燃えついている火が(春の野を焼く火が)、吹く風につれて靡くがように赤く熾《さか》んに、手に持っている弓の弦の騒ぎは、冬の林に飄《つむじ》かぜが捲き渡っているのかと思うまでに音が恐ろしく(敵のすべてが見惑うほどに)、引放つ箭の繁さは、大雪のごとくに乱れて飛び来るので(霞のようにあちらから来るので)、従わずして敵対していた敵軍も、今は死ぬならば死ねよと先頭を争って向かって来るとたんに(ここで死ぬならば、いずれは死ぬという命であるのに、死ぬべき現し身であるのにと思って、先頭を争って向かって来るとたんに)、伊勢の渡会の皇大神宮から、神の気《いき》である大風をもって、吹いて敵軍を困惑させ、天《あめ》の雲を、日の影も見せず真の闇になるまでにお覆いになられて、それによって安定になされたところの瑞穂の国を、皇子尊は神とましますままに御支配になられて、持統天皇も御代の大政を執り申されるので、万年にわたってそのようにばかりあろうと、天下が楽しみにしている時に、わが大王皇子の宮を、神宮《かむみや》に更《か》えて装い申し上げ、お召使いになっていた宮の舎人《とねり》も、神事の服である白色の麻衣を着て、埴安の御門の原に、昼は一日じゅう、さながら鹿のようなさまに平伏しつづけ、夜に移って来ると、宮を仰ぎ望みながら、鶉《うずら》のように平伏して居ざり回って、伺候はしているがその詮もないので、懊悩して呻き声を立てていると、その嘆きもまだ過去のものとはならないのに、悲しみもまだ尽きないのに、百済の原を過ぎて、神葬りに葬り申されて、城上《きのえ》の宮を永久の宮として高く作り奉って、皇子尊には神とましますままにお鎮まりになられた。そうではあるけれども、わが大王皇子尊の、万年にわたって変わらずもあれとお思い遊ばして、お作りなにられたところの香具山の宮は、お心のとおりに万年にわたって過去の物とならせようと思おうか思いはしない。畏き天のごとくにも仰ぎ望みつづけて、お形見のそれによって皇子尊を心にかけて深くお思い申そう、恐れ多くはあるけれども。
【評】 この挽歌は、その量においても百四十九句という、本集を通じての最長篇であるとともに、その質においてもまた、人麿の手腕の最も発揮されているものとして、その代表作と目されているものである。
 作歌の意図は単純で、したがってまた明瞭である。事は皇太子高市皇子尊の薨去に対しての挽歌であって、神となられて殯宮にいらせられる皇子尊に対して、その御薨去の悲しみを述べ、その延長として、皇子尊を永遠にお慕い申そうと述べて、神霊を慰めまつるものである。これは挽歌の型となっていることである。しかるに対象となられている皇子尊は、天皇につぐ尊貴な御方でいらせられ、これをいう人麿はきわめて身分の低い者である関係上、悲しみの情をほしいままにするということは、身分の距離を忘れた狎《な》れすぎたこととして控えねばならぬことであり、したがってつとめて距離をおいての物言いをしなければならない。すなわち御薨去のことに直接触れていうことは恐れ多いこととし、間接に、言葉少なにいわなくてはならないことになる。作歌の用意の第一は、この事であったと思われる。次に人麿は、皇子尊に対し、いかなる関係の者としてこの歌を(305)作っているかということである。皇太子である皇子尊の御薨去に対する悲しみは天下のものであるのに、この歌でそれを悲しんでいる者は、神宮《かむみや》すなわち殯宮となった香具山の宮の御門前に、神事の服である白妙の麻衣を着て、昼夜を分かたず、平伏して伺候している者だけに限ってあって、そのほかの者には触れていない。それらは香具山の宮の舎人である。また人麿は手法として、長歌を作る場合には、その反歌によって私情を述べる場合が多い。しかるにこの長歌の反歌二首は、いずれも舎人の悲しみを述べているものである。それらから見るとこの挽歌は、皇子尊に対して、舎人という立場に立って作ったものである。こうした歌は、神霊の喜ばれるものでなくてはならぬ関係から、歌人人麿が作らせられたものと思われる。人麿が高市皇子尊の舎人であってもまたなくても、そのことはありうることである。そのいずれであったにもせよ、皇子尊の舎人という立場に立ち、その用意をもって作ったものであることは明らかである。これが用意の第二である。第一の用意と第二の用意とは緊密に関連しているもので、皇子尊に対して、舎人という身分低い者の態度をもって述べようと意識し、その用意をもって作っているものである。この長歌のもつ構成と技巧とは、この用意の下になされているものである。
 構成から見ると、第一段は起首より、百三十六句目の「鎮《しづ》まりましぬ」までであり、第二段はそれより結末までである。
 第一段は、三つの事を連ねたもので、第一は皇子尊が壬申の乱に将軍となられた事、第二は持統天皇の太政大臣として、また皇太子として大政を執られた事、第三は御薨去の事である。これら三つの事に対して費やしている言葉の量は、舎人として皇子尊に対して抱きまつっていた尊崇の情を尽くしているものといえる。第一の壬申の乱の事は、起首より「定めてし瑞穂の国を」の「定めてし」までで、じつに八十七句である。第二の大政を執られたことは、「瑞穂の国を」より「栄ゆる時に」までで、十一句。第三の御薨去の事は、「吾が大王皇子の御門を」以下で、三十八句である。御生前のことを叙した第一第二におい(306)て、第二は十一句であるのに、第一に対して八十七句を費やしていることは、全体の上から見て、均衡を失しているがごとくみえる。しかし挽歌でいわんとしていることは、皇子尊の生涯の御事績そのものではなく、神霊を慰め奉ろうとする目的をもって、功業をお讃え申すことにある。その上よりいうと、この御代における壬申の乱の位置は、他に較べるもののない重大なもので、その乱に将軍として偉功を樹てられたということは、皇子尊の御生涯の上でも際立って輝かしい、きわめて特殊なことだったのである。加うるにこの時代は、国家が盛運に向かう時で、男子の本懐は大夫《ますらお》たるにあった時勢であるから、皇子尊のこの軍功は、きわめて魅力の多いものであったことは明らかである。第二の、大政を執られた事の方は軽く扱うにとどめたのは、事実としてもその期間は長いものではなく、また第一との比較においても、そう扱うことが自然であったであろう。第三の、御薨去の事をいうにあたり、御薨去その事については直接にいうところがなく、御薨去という状態において扱われたまう皇子尊を、第三者として見ているがごとき態度をとり、その立場に立っての悲歎の情を叙《の》べているのは、舎人という低い身分の者としては、明らかに距離をつけてのそうした態度を取ることが、すなわち皇子尊に対する敬意であるとして、それを当然のこととしたためと取れる。しかしこの第三は、事をつぶさに叙すことによって悲歎の情を具体化しているものである上に、第一の大夫としての華やかな事象とおのずから対照されるところがあるために、その悲軟に深みと重みとが添うものとなり、その態度の間接であるにもかかわらず、その情としては、不足を感ぜしめないものとなっているのである。
 以上は第一段の構成である。この段のきわめて異彩のあるのは、その構成を貫いて流れている人麿の抒情の方法である。これを形から見ると、起首の第二句にきわめて軽い読点《とうてん》があるが、それを除外すると、百三十六句、三つの事項が、ただ一文の中に収められていて、その間に一読点をももっていないのである。これは人麿の手法の特色であるが、この歌において極まっているものである。この一句にしてきわめて長い一文は、人麿の全体的の熱情の、送り流れてとどまるところを知らない結果であることは明らかである。しかるに、優れたる文芸性をもっている人麿にあつては、その熱情を起こさしめた事象と起こした熱情と相溶け合って、その間に差別のつけられない一つのものとなっているのである。ここに人麿の面目がある。同時にまた人麿には、その全体的の熱情にして同時に事象であるところのものに溺れ入ることがなく、反対に、冷静に、余裕をもち、それを支配しきる一面があるのである。この矛盾したる両面が、微妙に働き、微妙に現われているものが、すなわちこの一段である。一句一文が百三十六句であり、熱情の流れであるとともに事象の展開となり、しかも三つの事項を含んだものとなり、各事項が適当な重量をもちつつ連続しているのはこの特殊な力のためである。またその連続のさせ方は、巧妙を極めたもので、第一と第二の連続は、「定めてし瑞穂の国を」であるが、「瑞穂の国」までは第一に属するもので、同時にこれはまた、第二に属するものである。その連続は、「を」の一助詞によってされているのである。第二と第三の連続は、「木綿花の栄ゆる時に」であって、これはきわやかな巧妙さは見せないものであるが、第三の事項の重大なるものへの移り目という上からは、そのきわ(307)やかでないところに同じく巧妙さがあるといえる。この連続のさせ方が、三つの事項という変化に統一をつけて一つの事象としているのである。
 さらに細部的にいえば、この一段は飛躍のきわやかなものを示している。第一の起首、天武天皇を申している、「ひさかたの天つ御門を、かしこくも定めたまひて、神さぶと磐隠ります」の、「神さぶ」への移りも、今日から見ると飛躍があるといえる。神は永遠にましますという上からは、飛躍とはいえないともみられるが、文字の続きからいえば、それを感じさせられるものである。また、戦争の結末近く、「引き放つ箭の繁けく、大雪の乱れて来れ」の「来れ」の一語によって、主客を一転せしめた飛躍は、「語釈」でいったがように巧妙を極めたものである。また、第二の、「天の下申したまへば」は、天武天皇に嗣ぐ持統天皇の
御代のことで、甚しき飛躍のあるものである。これらの飛躍は、全体的の熱情の方を主とし、事象はそれに溶かしこみつつも、しかも客観的に扱っているところからくるものである。そこに破綻《はたん》を見せず、かえって妙味を感ぜしめるのは、冷静なる心の働きといわなければならない。第一の、五種の軍器を扱う上にも、鼓に四句、小角《くだ》に六句、幡と弓とに各八句、箭に四句を用いているなども、細心に、適当な分量を与えるものとみられる。
 第二段は、皇子尊の神霊を慰めまつる心をもって、永久に御追慕しようということをいったものである。これは天下の者の等しく思うべきものであるが、今はその代表者として、御生前皇子尊に親近してお仕えした舎人としていっているものである。これは挽歌としては全く型となっている部分で、特別の言い方のない性質のものである。
 しかしこの段も、特色がないとはいえない。それは第一段の第一、すなわち壬申の乱をいう時には、むしろ叙事的に、事象の方を主としていっているのに、この段はそれとは正反対に、抒情をもって終始しているのであるが、それが長篇の首尾という関係において、おのずから対照される位置に立つものとなり、際立つものとなっているところに特色がある。上代の思慕は、単に心だけをもってするものではなく、形見となるべき物品に寄せてするのが普通となっていた。これは集中にあげるに堪えないまで例のあるものである。高市皇子尊の御形見としては、万人等しく見られるものは香具山の宮である。人麿はそれを捉えていっている。その心はきわめて深いものであるが、言葉は短いもので、短い言葉の中に深い心をこめている。「万代と念ほしめして、作らしし香具山の宮、万代に過ぎむと思へや」はすなわちそれである。この「万代」は、含蓄の多い、根深い語である。しかも同時に、「天の如ふり放け見つつ」といって、きわめて深い尊崇の情をもこもらせているのである。この言葉の短く、心の深い、すなわち純抒情的なのは、意識して、第一段の第一に照応させたものと思われる。結句の「恐《かしこ》かれども」も、起首と照応させてあるもので、細心の用意のほどを感じさせられる。
 
     短歌二首
 
200 ひさかたの 天《あめ》しらしぬる 君《きみ》ゆゑに 日月《ひつき》も知《し》らに 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
(308)    久堅之 天所知流 君故尓 日月毛不知 戀渡鴨
 
【語釈】 ○ひさかたの天しらしぬる 「ひさかたの」は、天にかかる枕詞。「しらしぬる」は、『考』の訓である。「天」は、天上。「しらす」は、支配の意の「知る」の敬語。御支配になられているところの、の意。皇子尊の如き尊貴な御方は、御薨去になると、神として天上に帰られると信じていて、御薨去を神上《かむあが》りといっている。ここはその神上りを、天を御支配になる為のこととしたのである。○君ゆゑに 「ゆゑ」は、理由をあらわす語。君の故にで、君によりての意。○日月も知らに 原文「不知」は、「知らず」「知らに」の両様の訓がある。「知らに」に従う。「に」は打消「ぬ」の連用形で、意味は知らずであり、下に続く。事の理由をあらわす時に用いる。事は「恋ひ」の理由。月日の経過をも覚えず、長い間を、悲歎のために心を奪われている状態をいったもの。○恋ひ渡るかも 「恋ひ」は、思うを強くいったもので、憧れるというに近い。「渡る」は、継続をあらわしたもの。「かも」は、詠歎。
【釈】 神として天上を御支配になられているところの君によって、月日の経過をも覚えず、憧れつづけていることであるよ。
【評】 「日月も知らに」というので、一周年を殯宮に奉仕しつづけている舎人としていっているものであることがわかる。長歌の方は、舎人としての心が濃厚に加わってはいるが、必ずしもそれと限ったものではない。ここでは純粋に舎人としていっているのである。また、長歌は、皇子尊を城上《きのえ》の殯宮にお移ししたことで終っているが、これはその後相応な期間を経過しての心でもある。長歌とは明らかに変化のあるもので、人麿の反歌の面目をもっている。歌は、悲歎に鎖されて過ごしてきた長い期間の心を総括していっているもので、純粋な抒情的なものである。したがって歌柄が大きく、調べが強く、重量をもったものである。「天」「日月」という用語は、尊崇の気分を醸し出すものとなっている。無意識のものとは思われない。
 
201 埴安《はにやす》の 池《いけ》の堤《つつみ》の 隠沼《こもりぬ》の 去方《ゆくへ》を知《し》らに 舎人《とねり》は惑《まと》ふ
    埴安乃 池之堤之 隱沼乃 去方乎不知 舎人者迷惑
 
【語釈】 ○埴安の池の堤の 巻一(五二)に出て、「埴安の堤の上に、在り立たし見《め》したまへば」とあった。堤はやや小高いものであったとみえる。「堤の」の「の」は、堤の内にあるの意のもの。○隠沼の 「こもりぬ」は『代匠記』の訓。「ぬ」は、沼の古語である。隠沼は、堤に籠もっている沼の意。この沼は潅漑用の貯水池であったと思われる。「隠沼の」の「の」は、の如くの意のもの。水は流れるものを普通とするところから、この沼の水の流れない点を捉へて、それを譬喩としたもの。意は隠沼の水の如く。○去方を知らに 「去方」は、将来の身を処する方法。「知らに」は、上に出た。知らずで、下の「惑ふ」の理由。将来をどうしたものかわからずして。○舎人は惑ふ 舎人は途方にくれているの意。
【釈】 埴安の池の堤のうちにあるその隠沼の水の、流れゆく所がないごとく、将来をどうしたものかわからず、舎人は途方にく(309)れている。
【評】 前の歌と同じく、皇子尊の御薨去の後、相応な期間を経た時に、舎人としての心をいったものである。悲歌が多少鎮まると、仕えまつるべき主君を失った、自身の将来を思わずにはいられなくなるのは自然である。この歌はその心のものである。前の歌は殯宮に在つてのものであるが、これは香具山の宮でのものである。日並皇子尊の時と同様に、殯宮の期間は、舎人は、御生前の宮である香具山の宮へも宿衛したものと思われる。宮からは埴安の池は眼下に見下ろされたものと思われる。高い堤に囲まれて流れずにいる水の状態を見ると、仕えまつる君のなく、したがって行くところのない舎人の状態が連想されてき、その悲しみを訴えたものである。長歌に香具山の宮を重く扱っている関係上、それに関しての反歌があってしかるべきである。この歌はその用意のあったものと思われる。
 
     或書の反歌一首
 
202 哭沢《なきさは》の 神社《もり》に神酒《みわ》すゑ 祈《いの》れども 我《わ》が大王《おほきみ》は 高日《たかひ》知《し》らしぬ
    哭澤之 神社尓三輪須惠 雖祷祈 我王者 高日所知奴
 
【語釈】 ○哭沢の神社に 「哭沢」は、神の御名で、古事記、日本書紀ともに出ている。伊邪那美命のおかくれになった時、伊邪那岐命の嘆きの御涙から成った神である。古事記には「故《かれ》爾《ここ》に伊邪那岐命|詔《の》りたまはく、愛《うつく》しき我《わ》が那邇妹命《なにものみこと》や、子の一木《ひとつけ》に易《か》へつるかもと謂《の》りたまひて、乃ち御枕方《みまくらべ》に匍匐《はらば》ひ、御足方《みあとべ》に匍匐《はらば》ひて哭《な》きたまふ時に、御涙《みなみだ》に成りませる神は、香山《かぐやま》の畝尾《うねを》の木本《このもと》に坐《ま》す、名《みな》は泣沢女神《なきさはめのかみ》」とあり、日本書紀の方も同様である。「神社」は、集中、「杜《もり》」をあててもいる。上代は、神の社のないのが普通で、神は斎《い》み清めた大木に降りたまうこととして、杜を社としていたのである。大和の大三輪神社、信濃の諏訪神社は、今もその風を伝えている。この社は延喜式には、高市郡の条に、「畝尾坐|健土安神《たけはにやす》社」「畝尾|都多本《つたもと》神社」とあり、今は、健土安神社は下八釣村、都多本神社は橿原市木之本町哭沢森にあるが、両地は続いていて、ともに香具山の西麓である。○神酒すゑ 原文「三輪」は、御酒《みき》の古名。巻一(一七)に出た。「すゑ」は、上代の甕《みか》は、底の丸い物で、据わりの悪い物であったところから、土を掘って供えたのである。「すゑ」は、供えの意である。○祈れども 御平癒を祈ったけれども。○我が大王は 高市皇子尊。○高日知らしぬ 「高」は、天の意。巻一(四五)に「高照らす日の御子」とあるそれである。「高日」は、天の日で、高天原を言いかえたもの。「知らす」は、「知る」の敬語で、御支配になる意。高天原に上りましたで、御薨去のことをいったもの。(二〇〇)にも出た。
【釈】 哭沢の杜《もり》の神に、御酒《みき》を供えてお祈り申したけれども、わが大王皇子尊には、高天原を御支配になられた。
【評】 皇子尊の御薨去を悲しんでの心のものであるが、しかし一首に沁み入っているものは、悲しみよりもむしろ皇子尊の神(310)性に対する畏敬の情である。中心は、「我が大王は高日知らしぬ」で、「哭沢の神社に神酒すゑ祈れども」という、畏き神への懇ろなる祈りも、何の甲斐もなかったということが、やがて皇子尊の神性をあらわすこととなっているのである。悲しみが畏敬となっているという特殊な気分をもった歌で、皇室に対する感情の深く沁み入っている歌である。哭沢の神社は香具山の西麓にあり、また『古事記伝』が注意しているように、人の命を祈るには由のある神としてのことと思われる。反歌という上より見ると、上の二首は長歌と緊密に関連し、有機的な関係をなしていて、それだけで完備しているものとみえる。その点から見るとこの歌は遊離している。おそらく事の方を主として、同じ場合の歌として書き連ねられていたものではないかと思われる。それについてのことを左注もいっている。
 
     右一首、類聚歌林に曰はく、檜隈女王《ひのくまのひめみこ》の泣沢神社を怨むる歌なりといへり。日本紀を案ふるに曰はく、十年丙申の秋七月辛丑朔にして庚戌の日後の皇子尊薨りましぬといへり。
      右一首、類聚歌林曰、檜隈女王、怨2泣澤神社1之歌也。案2日本紀1曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨。
 
【解】 注は二段から成っていて、第一段は、類聚歌林にこの歌が載っていて、作者と題詞とを異にしているというのである。「檜隈女王」は伝が明らかでない。『講義』は、続日本紀、天平九年二月の叙位に、従四位下檜隈王を従四位上に叙せられる記事のあることを注意し、同じ方《かた》ではないかといっている。題詞の「泣沢神社を怨むる」ということはどうかと思われる。それだと皇子尊が無力のごとくなって、作意にかなわないものとなるからである。第二段は、日本書紀から引いたものである。
 
     但馬皇女薨り給ひし後、穂積皇子、冬の日雪|落《ふ》るに、遙に御墓を望み、悲傷流涕して作りませる御歌一首
 
【題意】 「但馬皇女」のことは、(一一四)に出た。薨じられた時は、続日本紀、和銅元年の条に、「六月、丙戌(二十五日)三品但馬内親王薨。天武天皇之皇女也」とある。「穂積皇子」のことも、(一一四)に出た。元明天皇霊亀元年薨去された。この頃は知太政官事であった。但馬皇女とは妹背の御仲であった。冬の日は、皇女御薨去の年の冬と取れる。御墓は、歌によって吉隠《よなばり》とわかる。「遙に望み」は、藤原の京からであろう。「悲傷流涕」は、歌の内容がそれである。
 
(311)203 ふる雪《ゆき》は あはにな落《ふ》りそ 吉隠《よなばり》の 猪養《ゐかひ》の岡《をか》の 塞《せき》にならまくに
    零雪者 安播尓勿落 吉隱之 猪養乃岡之 塞有卷尓
 
【語釈】 ○ふる雪は 今、眼前に降っているこの雪は。○あはにな落りそ 「あは」は、集中ここだけにある語である。それは近江の浅井郡では、大雪のことを「あは」といっており、これもそれであろうと本居宣長の説を『略解』が引いている。『講義』は徳川時代の随筆の中から、これに関する諸家の説を集めている。伴蒿蹊の『関田耕筆』に、近江の山村では、大雪の積もって崩れるのをいうといい、村田春海の『織錦舎随筆』には二説を挙げ、一説は近江と越前境の山村で、大雪のことをいい、いま一説は、美濃の広瀬の山中では、古い雪の上へ新しい雪が積み、凍み合わない中に風に吹かれて崩れるのをいうというのである。山地で、大雪の崩れやすい状態のものをいう称と取れる。それだと今の場合にもかなうものとなる。「なそ」は、禁止。○吉隠の猪養の岡の 「吉隠」は、桜井市初瀬町に属している。諸説がある。当時は、藤原の京から伊賀の名張へ出る街道の中にあって、長谷、吉隠と経て行ったのである。「猪養の岡」は、今は名が残ってはいず、明らかでないが、吉隠の東北方かという。その岡に皇女の御墓があったのである。○塞にならまくに 『童蒙抄』の訓。この一句、訓に諸説があって定まらない。「塞」は、「塞く」の名詞形で、関と同じ。道を遮るものとしていっている。「に」は、訓添《よみそ》えで、「なる」に続く場合は「に」であるのが古語の常である。「ならまく」は、「ならむ」に「く」を添えて名詞形としたもので、なろうとすることであるの意。「なる」は、化成の意である。「に」は、詠歎。
【釈】 今降っている雪は、「あは」といわれるまでには降るな。「あは」に降ると、吉臆の猪養の岡の妹が墓への道の関と化することであろうに。
【評】 皇女の薨去になったのは六月であるから、この冬の日は、その年の冬と思われる。尊貴の御方には殯宮一年の儀があり、その間は御生前に准じた奉仕をした。皇女に対してもそれに准じた事が行なわれていたろうと思われる。それだとここにいう冬の日は、その殯宮の期間ではなかったかと思われる。「あは」に降る雪となるならば、御墓への道が閉ざされようと思われ、それを思うことによって悲傷流涕されたということは、そうした事情が背後にあってはじめて自然となることである。御作歌は実際に即した、おおらかな、皇子の風貌《ふうぼう》を偲ばせるものである。
 
     弓削《ゆげ》皇子薨り給ひし時、置始東人《おきそめのあづまひと》の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「弓削皇子」のことは、(一一一)に出た。天武天皇第六皇子で、薨去は、続日本紀によると、文武天皇三年七月である。「置始末人」は、巻一、(六六)に出た。
 
(312)204 やすみしし 吾《わ》が王《おほきみ》 高光《たかひか》る 日《ひ》の皇子《みこ》 ひさかたの 天《あま》つ宮《みや》に 神《かむ》ながら 神《かみ》と座《いま》せば そこをしも あやに恐《かしこ》み 昼《ひる》はも 日《ひ》のことごと 夜《よる》はも 夜《よ》のことごと 臥《ふ》し居《ゐ》嘆《なげ》けど 飽《あ》き足《た》らぬかも
    安見知之 吾王 高光 日之皇子 久堅乃 天宮尓 神随 神等座者 其乎霜 文尓恐美 晝波毛 日之盡 夜羽毛 夜之盡 臥居雖嘆 飽不足香裳
 
【語釈】 ○やすみしし吾が王 上に出た。弓削皇子を申したもの。○高光る日の皇子 「高光る」は、(一七一)に出た。空に光る意で、日の枕詞。「日の皇子」は、上の「王」を言いかえたもの。二句、上の二句と同格で、重くいうがために繰り返したもの。○ひさかたの天つ宮に 「ひさかたの」は、天の枕詞。「天つ宮」は、天上にある宮で、尊貴な方の現し世を去るとともに移られる宮の意。高天原というと同じで、それを具体化したもの。○神ながら神と座せば 「神ながら」は、神とましますままに。「神と座せば」は、神として天上にましますのでで、二句、皇子としての御他界になった後の状態をいったもの。○そこをしもあやに恐み 「そこ」は、その点で、御他界になったこと。「しも」は、強め。「あやに恐み」は、いおうようなく恐れ多しとして。○昼はも日のことごと、夜はも夜のことごと 昼は終日、夜は終夜。○臥し居嘆けど 「臥し居」は、臥していて、また起きていてで、さまざまの状態での意。○飽き足らぬかも 「飽き足らぬ」は、満足せぬで、悲款の尽くし難い意。「かも」は、詠歎。
【釈】 やすみししわが王の天に光る日の皇子には、天上の宮に、神にますままに神として座《ま》しますこととなったので、その点がいおうようなく恐れ多くて、昼は終日、夜は終夜、臥していて、また起きていてさまざまの状態で悲しみ泣くけれども、それにもかかわらず悲しみは尽くせず、満足できないことではあるよ。
【評】 置始東人は、弓削皇子に何らか特別の関係をもち得ていたところから、この挽歌を献ったものと思われる。挽歌はいちめん儀礼のものであって、その上からは古風の長歌形式によるべきであるとして、つとめて作った歌であろうと思われる。本来長歌は短歌よりは手腕を要するものであり、この歌には作者の手腕と認めらるべきものがないところから、しいて作ったものだろうと取れるからである。この歌はほとんど全部成句より成っていて、作者によって作り出された特殊なものは見えない。実際に即する当時の歌風からいって、作者に手腕があれば、皇子に関しての何らかの特殊なことに言い及び得られたろうと思われるのに、それが全くないのである。しかし皇子に対しての尊崇の精神は十分にあって、言葉をつつしみ、多くをいうまいとしている態度は感じられる。「ひさかたの天つ宮に、神ながら神と座せば」という四句が、この歌にあってはきわめて自然なものとなっているのは、尊崇の精神から流れ出したものだからである。
 
(313)     反歌一首
 
205 王《おほきみ》は 神《かみ》にし座《ま》せば 天雲《あまぐも》の 五百重《いほへ》が下《した》に 隠《かく》りたまひぬ
    王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隱賜奴
 
【語釈】 ○王は神にし座せば 「王」は、天皇を初め皇族に対しての讃え詞で、皇子は現人神にましますのでの意である。これは上の長歌の「やすみしし吾が王、高光る日の皇子」と全く内容を同じゅうするものである。○天雲の五百重が下に 「天雲」は、天の雲。「五百重」は、限りなく深く重なっていることを具体的にいったもの。「下」は、『攷証』は、(二四一三)「吾が裏紐《したひも》を」、(二四四一)「裏《した》ゆ恋ふれば」などの「裏《した》」と同じく裏《うら》の意だといっている。中《うち》といっても同じである。二句、天上の、人間の眼の及ばぬ所ということを、具体的にいったもの。○隠りたまひぬ お隠れになったで、神上《かむあが》られたということを、同じく具体的にいったもの。
【釈】 王は神にましますので、天上の雲の限りなくも深く重なった中の、人間の眼の及ばぬ境にお隠れにならせられた。
【評】 長歌の「ひさかたの天つ宮に、神ながら神と座せば」を、言葉をかえて繰り返したもので、反歌としても古風なものである。皇子の尊貴な一面だけをいって、他に及ぼしていないところは、長歌と態度を同じくしたものである。「王は神にしませば」は成句となっているもので、「天雲の五百重が下に」というだけが作者のものである。「天つ宮」を具体化しようとしたもので、遂げ得ているものというべきである。
 
     又短歌一首
 
【題意】 これは、前の長歌および反歌とは関連のない別な歌であるが、事の範囲は同じで、また作者も同じだという意味のものである。
206 ささなみの 志賀《しが》さざれ浪《なみ》 しくしくに 常《つね》にと君《きみ》が 思《おも》ほせりける
    神樂浪之 志賀左射礼浪 敷布尓 常丹跡君之 所念有計類
 
【語釈】 ○ささなみの 「ささなみ」は、滋賀県滋賀郡および大津市にわたる湖岸一帯をいった。○志賀さざれ浪 「志賀」は、地名。湖水に接した地で、辛埼などのあるところ。「さざれ浪」は、ささ波。湖水に立つ浪である。志賀のさざれ浪の意で、「の」をはぶいたもの。二句「しくし(314)く」へかかる序詞。○しくしくに 「しく」は、「頻《しき》る」と同じ意の動詞で、上よりの続きは、浪の打続いて寄ってくる意。「しくしく」はその「しく」を重ねて副詞とし、しきりにの意に転じたものである。「しくしくに」は、「思ほす」へ続くものである。○常にと君が 「常にと」は、「常」は、永久の意で、永く世にあるの意。「に」は、にありたいの意で、動詞のはぶかれている形のもの。○思ほせりける 訓は本居宣長の付けたもの。「思ほせり」は、「思ほす」と完了の助動詞「り」との熟した語で、「思ほす」は、「思ふ」の敬語。「ける」は、連体形で、上に係がなく、これを終止としたものである。これは詠歎を含ませたものである。お思いになっていられたことであるよの意。
【釈】 ささなみの志賀にさざれ浪がしきりに寄る、そのしきりにも、永く世にありたいものだと君は、お思いになっていたことであるよ。
【評】 弓削皇子の薨去になった後のある時に、東人《あずまひと》が皇子を思い出し、しみじみと悲しんだ心のものである。思い出したことは、「常にと君が思ほせり」ということで、皇子には生命の保ち難い不安を感じられ、常々東人にいわれていたそれである。「ささなみの志賀さざれ浪」という序詞は、歌の上で見ると、東人がその境に立って目睹したものと見られるものである。語としては「しくしくに」の序詞にすぎないものであり、また類例の少なくないものでもあって、想像でも捉え得られる範囲のものであるが、しかし歌の上で見ると、この序詞は全体ときわめて好く調和していて、近江の湖辺の美しく穏やかな風光に対していて、それと対照的に人事のはかなさが思い出されてきたという感を起こさせるものである。そうした感を起こさせるのは、「しくしくに」以下の悲歎の、一般性をもっている深いものであるとともに、それが静かにしみじみといわれているがためである。部分的に見ても、「志賀さざれ浪」は簡浄であり、「しくしくに」以下も屈折をもっていて、形の上からも手腕の見えるものである。これを長歌と較べると別人のごとき観がある。この差は、長歌の衰えをも語っているものといえる。
 
     柿本朝臣人麿、妻|死《みまか》りし後、泣血哀慟して作れる歌二首 并に短歌
 
【題意】 この題詞の下に、長歌二首と、そのそれぞれに、短歌二首ずつの添ったものを、一と続きとして収めてある。これは同じ作者の、巻一(三六)より(三九)にわたる「吉野宮に幸せる時作れる歌」と題する連作と同じ形式のものである。さらにまた、「妻死りし後」と、一人の妻であるがごとく記しているところから、いっそう連作であるかの感を深めさせられる。しかし歌を見ると、同じく「妻」といってい、また若くして死ぬという特別な運命を等しく負ってはいるが、別人と取れる。それは、初めの軽の妻は、その死んだのは秋であり、人麿がその事を聞かされて軽の地へ行った時は、すでに葬儀が終った後で、妻は折から黄葉している山へ葬られていた時であることがわかる。後の、子のある妻の死んだ時には、人麿はその葬儀に立ち合っており、少なくともその柩《ひつぎ》の野辺送りされるのを目にしているのである。さらにまたその時から、妻の遺して行った乳呑児を、妻に代っ(315)て見なくてはならないという状態であり、また、妻の死後、人麿とその周囲の人との交渉の深いもののあるところより見ると、この妻は軽の妻の人目を憚っていたのとは異なって、同棲をしていたものと取れる。「妻」は明らかに二人で、別人であったと思われる。一夫多妻の時代であったから、この二人の妻は同時にもっていたものとしても怪《あや》しむには足りないが、前後していたものかもしれぬ。その辺は全く不明である。この曖昧《あいまい》さは、題詞の簡略にすぎるところから起こるものであるが、歌は尊貴な御方に対してのものではなく、単に人麿自身の心やりのための私的なものであるところから、したがって題詞の記し方がきわめて簡略であったか、あるいはなかったかのいずれかであったろうと思われる。撰者は原拠とした本を重んじて私意を加えまいとする風があるから、これも原拠を重んじてのものと思われる。
 
207 天飛《あまと》ぶや 軽《かる》の路《みち》は 吾妹子《わぎもこ》が 里《さと》にしあれば ねもころに 見《み》まく欲《ほ》しけど 止《や》まず行《ゆ》かば 人目《ひとめ》を多《おほ》み まねく行《ゆ》かば 人知《ひとし》りぬべみ さね葛《かづら》 後《のち》もあはむと 大船《おほぶね》の 思《おも》ひ憑《たの》みて 玉《たま》かぎる 磐垣淵《いはがきふち》の 隠《こも》りのみ 恋《こ》ひつつあるに 渡《わた》る日《ひ》の 暮《く》れゆくが如《ごと》 照《て》る月《つき》の 雪隠《くもがく》る如《ごと》 沖《おき》つ藻《も》の 靡《なぴ》きし妹《いも》は 黄葉《もみちば》の 過《す》ぎていにきと 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》の言《い》へば 梓弓《あづさゆみ》 声《おと》に聞《き》きて【一に云ふ、声のみ聞きて】 言《い》はむ術《すべ》 為《せ》むすべ知《し》らに 声《おと》のみを 聞《き》きてあり得《え》ねば 吾《わ》が恋《こ》ふる 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も おもひやる 情《こころ》もありやと 吾妹子《わぎもこ》が 止《や》まず出《い》で見《み》し 軽《かる》の市《いち》に 吾《わ》が立《た》ち聞《き》けば 玉《たま》だすき 畝火《うねび》の山《やま》に 鳴《な》く鳥《とり》の 声《こゑ》も聞《きこ》えず 玉桙《たまほこ》の 道《みち》行《ゆ》く人《ひと》も ひとりだに 似《に》てし行《ゆ》かねば すべを無《な》み 妹《いも》が名《な》喚《よ》びて 袖《そで》ぞ振《ふ》りつる【或本、名のみを聞きてあり得ねばといへる句あり】
    天飛也 輕路者 吾味兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不已行者 人目乎多見 眞根久徃者 人應知見 狹板葛 後毛將相等 大船之 思憑而 玉蜻 磐垣淵之 隱耳 戀管在尓 度日乃 晩去之如 照月乃 雲隱如 奥津藻之 名延之妹者 黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使之言者 梓弓 聲尓聞而【一云、(316)聲耳聞而】 將言爲便 世武爲便不知尓 聲耳乎 聞而有不得者 吾戀 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 輕市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 獨谷 似之不去者 爲便乎無見 妹之名喚而 袖曾振鶴【或本、有d謂2之名耳聞而有不v得者1句u】
 
【語釈】 ○天飛ぶや軽の路は 「天飛ぶや」は、天を翔り飛ぶで、「や」は詠歎の意のもの。意味で、雁《かり》の転音で、同じ意で用いられていた軽にかかる枕詞。これは用例のあるものである。「軽」は、橿原市大軽・見瀬・石川・五条野の辺という。懿徳《いとく》、孝元、応神の三朝の皇居の地のあった所であり、また軽の市もあって、上代は名高い地であった。「軽の路」は、軽へ行く路の意にも、また軽の地域間の路の意にもいわれる語である。ここは前者で、藤原の京より軽へ行く路はの意。○吾妹子が里にしあれば 「吾妹子」は、妹を親しんでの称。「里」は、家のある地としてのもの。「し」は、強め。以上四句は、軽は吾妹子の里であるが、そこへ行く路はという意で、今は路の方を主としていおうとするところから、わざと前後させた続け方をしたものである。○ねもころに見まく欲しけど 「ねもころに」は、後世の「ねんごろに」の原形にあたる語であるが、当時の用法を見ると、内容の広い語であるといって、『講義』は詳しく考証している。帰するところは十分にという意であるといっている。これに従う。「見まく欲しけど」は、「見まく」は「く」を添えることによって名詞形としたもので、見ること。「欲しけど」は欲しくあれどの約《つづ》まった語。見ることをしたいけれどもの意。○止まず行かば人目を多み 「止まず行かば」は、絶えずその路をかよって行ったならば。「人目を多み」は、人の目にかかることが多いによりで、この妻はその生家にいたものであることがわかる。○まねく行かば人知りぬべみ 「まねく」は、繁く。「行かば」は、その路をかよって行ったならば。「人知りぬべみ」は、他人が知ってしまうべきによって。○さね葛後もあはむと 「さね葛」は、(九四)に「さな葛」とあった物と同じく、今日の美男葛《びなんかずら》と称するもの。蔓が分かれても、延びて行った末でまた合うという意で、男女別れていてもまた逢うの譬喩として捉えられ、固定して枕詞となったもの。「後もあはむと」は後にも逢おうと思って。○大船の思ひ憑みて 「大船の」は、意味で「憑む」にかかる枕詞。「思ひ憑みて」は、思って、あてにして。二句、(一六七)に出た。○玉かぎる磐垣淵の 「玉かぎる」は、『古義』の訓。巻一(四五)に出た。意味は、玉のR《かがや》くで、ほのかなRきをいったもの。「磐垣淵」にかかる関係は、玉は磐の中にまじっているところから磐にだけかかるか、または、珠の主なるものは真珠で、淵に在るものなので、淵にかかるかともいわれている。前の解に従う。「磐垣淵」は、磐の垣のごとくに繞らしている淵で、山川の状態をいったもの。二句、淵の水は籠もって流れない意で、下の「隠《こも》る」と続け、その序詞としたもの。○隠りのみ恋ひつつあるに 「隠り」は、心の中にこめてひそかにの意。心の中でばかり恋いつづけているに。人目を憚って通わずにいる心の状態。○渡る日の暮れゆくが如 天を渡って移ってゆく日の暮れてゆくがようにで、いかんともし難い状態での意。○照る月の雪隠る如 天に照る月が、雲に隠れるがようにで、上の二句と対句。心は同じであるが、思いかけずもという意が添っている。○沖つ藻の靡きし妹は 「沖つ藻の」は、海の沖に生えている藻のごとくで、その波に靡いている意で、「靡き」にかかる枕詞。「靡きし」は、従っていたの意であるが、夫婦間にあっては、共寐をしたの意に慣用されている。ここはそれである。○黄葉の過ぎていにきと この続きは、巻一(四七)に出た。「黄葉の」は、その黄変するのを推移と見、推移の意の「過ぎ」に続けて、その枕詞としたもの。「過ぎていにきと」の「過ぎ」は、死ぬの意。「いにき」は、行っ(317)たで、終止形。死んで行ってしまったと。○玉梓の使の言へば 「玉梓の」は、主として「使」にかかる枕詞で、転じて使そのものにも用いられている。また「妹」の枕詞ともしている。意は諸説があるが定まらない。『講義』は、「玉」は美称。「梓」は、梓の木をもって造った杖で、古、使は、そのしるしとして梓の杖をついていたところから出た語であろう。それは、使を職とする者を「馳使部《はせつかいべ》」といい、これを「丈部」とも書いているが、「丈」は「杖」の略字だから、使は杖をついていたことは明らかだからというのである。「妹」にかかる関係は不明である。従うべき解である。「使の言へば」は、使が来て知らせるので。○梓弓声に聞きて 「梓弓」は、弦が高い音を立てる意で、「声《おと》」にかかる枕詞。「声《おと》」は、声《こえ》と通じて用いていた。言葉の意である。二句、話に聞いてで、これは目に見るに対させていっている語《ことば》である。○一に云ふ、声のみ聞きて 話にだけ聞いてで、これは、前からの続きは自然に聞こえるが、後への続きは不自然となる。本行の方が自然である。○言はむ術為むすべ知らに 「に」は、打消として用いられていた古語で、連用形。いうこともすることもわからずしての意。驚きのために自失した心を具象化したもので、成句である。○声のみを聞きてあり得ねば 話だけを聞いて、そのままには居るに居かねるので。○吾が恋ふる千重の一重も 「吾が恋ふる」は、吾が恋うる心の。「千重の一重」は、千重ある中の一重で、千分の一もの意。○おもひやる情もありやと 「おもひやる」は、嘆きを散らす意。(一九六)に出た。「情もありやと」の「や」は、疑問の助詞で、二句、嘆きを紛らすところもあろうかと思っての意。○吾妹子が止まず出で見し 妻が常に出て見ていた。○軽の市に吾が立ち聞けば 「軽の市」は、軽に設けられていた市で、固有名詞。市は物を交易し売買する所で、地域も定まってい、時も午時から日の入り前までと定まっていて、官の管督の下にあったもの。人々の群がる場所である。「吾が立ち聞けば」は、その中に立って耳を澄ます意で、これは上の「出で見し」に対させたものである。「吾妹子が」以下四句は、死者を偲ぶには、その形見によらなければならないとする心から、軽の市を妻に関係のあるところとし、間接ながら形見と見てのことである。○玉だすき畝火の山に 巻一(二九)に出た。「玉だすき」は、うなぐの意で「畝」にかかる枕詞。「畝火の山」は、軽の市からは近く、目につく山である。○鳴く鳥の声も聞えず 「鳴く鳥の」は、「声」に続けるためのもので、「玉だすき」よりこれまでの三句は、「声」の序詞である。「声も聞えず」は、「声」を鳥より妻に転じたもの。「も」は、次の「人も」と並べたもの。妻の声も聞こえないの意。○玉梓の道行く人も 「玉梓の」は、「道」にかかる枕詞。巻一(七九)に出た。「道行く人も」は、「道」は、軽の路で、市は路を挟んで設けられるので、その市の間の路の意。「行く人も」は、市の路を行く人、すなわち市へ集まってくるところの人もまた。○ひとりだに似てし行かねば 「ひとりだに」は、ただ一人でも。「似てし行かねば」は、「し」は強めで、妻に似たような形をした者は歩いて行かないので。○すべを無み せむ術がなくしてで、これは上の「おもひやる情《こころ》もありやと」に照応させたもので、その願いのかなわないのみか、かえって恋うる心を深めさせられての意をいったもの。○妹が名喚びて袖ぞ振りつる 「妹が名喚びて」は、そこにはいず、遠くにいるものと思って、それを喚ぶ意である。「袖ぞ振りつる」は、袖を振ることは、距離があって声の届かない所にいる者に、心を通わせようとする業《わざ》で、男女間の風習。巻一(二〇)に出た。袖を振ったことであるよと、心をこめての言い方のもの。○或本、名のみを聞きてあり得ねば 「声のみを聞きてあり得ねば」が、ある本には上のようにあるとの注である。「名」では意が通じなくなるので、明らかに誤りである。
【釈】 天《あめ》を飛ぶ雁《かる》の、その名をもっている軽への路は、わが妻の住んでいるなつかしい里であるので、十分に心ゆくまで見たいものだと思っているけれども、京よりそこへ行く街道を、絶えずかよって行ったならば、人目に着くことが多いにより、繁くか(318)よって行ったならば人が事情を知ってしまうべきにより、離れてはいても後にも逢おうと、深くも思い憑《たの》んで、磐垣淵の水の籠もっているそれの、心の中でだけ恋い恋いしているのに、空を移ってゆく日の暮れるがように余儀なくも、照る月の雲に隠れるがように思いがけなくも、われに靡いて共寝をしたところの妻は死んで行ってしまったと、妻の里よりの使が来て知らせていうので、その話を聞いて、(その話だけを聞いて)いおうようも、なすべきこともわからずに、話に聞いただけでは居るにも居かねるので、わが恋しい心の千分の一だけでも紛れる心もあろうかと思って、わが妻が常に出て行って見ていた軽の市に、われは立ちまじって耳を澄ましていたが、近く見る畝火山に鳴く鳥の声の、その妻の声も聞こえてはこず、市の路を歩いて行く人もまた、一人だけでも妻に似たような形をしては行かないので、紛れようとしたそれも詮がなくて、遠くにいるであろう妻の名を喚《よ》んで、心通えとわが袖を振ったことであるよ。
【評】 同じく挽歌ではあるが、この歌は、上の尊貴なる皇族の方々に対してのものとは趣を異にしているものである。上の歌は、御薨去になった神霊に対し、それを慰めまつることを目的として、御生前を讃え、御薨去を悲しみ、加えて永久に忘るまじきことを誓う形のものである。しかるにこの歌は、死者その人に対して直接に訴えようとするところは全然なく、いっていることはすべて、死によって惹き起こされた自身の悲しみと、その人に対しての見果てぬ夢よりくる憧れのみである。自身のことのみで終始している。この心も死者に対しての慰めとはなりうるもので、その心をもってのものとは思われるが、いちめん、わが心やり、わが慰めという心の濃厚なものであることは否み難いものである。すなわち作歌態度の上に著しい相違がある。思うに尊貴の御方に対しての場合は、儀礼という意が大きく、また事の性質上、伝統を守らなければならないところが多く、要するに実用性の範囲のものであったろう。妻という私的な関係の者に対しての場合は、同じく上の心を離れることはで(319)きなかったにもせよ、その程度に著しい差が許されて、いきおい個人的なものとなり得たのであろう。個人的になりうるということは、言いかえると文芸性が許されるということである。この挽歌の、上の挽歌と異なるところは、実用性より文芸性に移っているものだということである。これは時代のしからしめたことと思われるが、むしろ人麿の歌才のさせたことと思われる。この歌は、一句一文であって、切れ目をもっていない。しかし事としては、三つの事柄を連ねていて、その上では三段より成っているといえる。
 第一段は、起首から「隠《こも》りのみ恋ひつつあるに」までで、当時の風習に従って、夫婦関係を秘密にし、人に知られまいとするために、おのずから憧れ心をもたされる状態であったことを叙したものである。初めの事を叔した部分は二句ずつで調子を取り、終りの憧れ心を叙した部分は四句ずつの調子として、感情の高調をあらわしている。起首の「天飛ぶや軽の路は」の「路」は、意味としては「里」であると『新考』が注意しているが、気分としては、「止まず行かば」「まねく行かば」が主となっているところから、その関係上、意識して「路」に変えたもので、部分的にも、いかに細心の用意をもっていたかを示しているものである。
 第二段は、「渡る日の」以下、「おもひやる情もありやと」までで、妻の死を知ること、悲しみを紛らす方法として、その死を直接に眼にしたい心を起こし、その方法のないところから、妻の形見となるものなりを見ようとする心である。比較的複雑した心理を、単純な形において叙した一段である。しかし死の知らせを受けた部分は、「渡る日の暮れゆくが如、照る月の雲隠る如」と、妻の死の譬喩としては荘重にすぎるものを、しかも対句として用いているが、これは妻の死の余儀なさ、思いがけなさをあらわすとともに、それに対する感傷を暗示しようがためで、使の言葉と聞く心とを一つにしたものと解される。また、「沖つ藻の」「黄葉の」「玉梓の」「梓弓」と、一語ごとに枕詞を添えて語感を重くしているのは、一に感傷の心よりのことであ(320)る。転じて、「声《おと》のみを聞きてあり得ねば」より、「おもひやる情もありやと」までの心理は、語《ことば》は少ないが心は複雑なものである。この部分は他と比較すると粘り強い言い方をしているものであるが、この転回は、一首の上で重大なもので、これまた適当な方法と思われる。この第二段を貫いている心は、第一段と同じく憧れの心で、第一段のそれを合理的に、また漸層的に高めたものである。
 第三段は、「吾妹子が止まず出で見し」以下で、妻の死を確認せざるを得ない状態におかれて、憧れの心の極度に昂揚したことを一段としたものである。第二段で注意されることは、人麿が軽の市へ立ったことをいっている第二段より第三段への移り目が、他の部分に較べると甚しく飛躍的に感じられることである。この飛躍は作意からいえば妥当のものと思われる。それはいったがように、当時の風習として、死者を偲ぶには形見の物によらなければならない。しかるにこの妻は、形見と目すべき何物も遺してはいず、しいて求めれば、「止まず出で見し軽の市」があるという状態だったのである。それは間接な、形見とも言い難いものであるが、「吾が恋ふる千|重《へ》の一重もおもひやる情《こころ》もありや」と物色した果てに思い得たものとすれば、心理的には妥当性のあるものといえる。その心理的妥当性がこの飛躍をさせているのである。飛躍はこれだけにとどまっていず、さらに大きなものがある。それは「軽の市に吾が立ち聞けば」という人麿は、「玉だすき畝火の山に、鳴く鳥の声も聞えず」といって、一方ではその死を知っている妻の声を、市の群集の中において聞き取ろうとし、その聞こえないことを嘆いているのであるが、これはきわめて大きい飛躍といわなければならない。
これは一見突飛なる飛躍のごとく見えるが、ここにも妥当性はある。それはすでに軽の市を妻の形見として見ている人麿には、すべての形見が示すと同じく、その市に、何らかの形において妻の面影がとどまっていると想像されたのである。その想像したものは妻の声だったのである。しかもその声は、「玉だすき畝火の山に鳴く鳥の」という序詞を用いて、その微《かす》かさを暗示している程度の声なのである。この心理は不自然なものとはいえない。まして軽の市は、妻の死を聞かない前と異ならない状態を示していて、それが感覚に映じているのであるから、それに支持されて、この心理は自然なものともなるのである。ここは大きな飛躍をもっているがごとくで、じつは合理的な、妥当なものといえるのである。結末の、「すべを無み、妹が名喚びて袖ぞ振りつる」は、形見も甲斐なき物とされ、在るがままの現実に引戻され、その人麿が、更に遠い世界へ向かってつなぐ悲しい憧れであって、ここに時代とともにもつ人麿の面目がある。
 以上観てきたことは、技巧上の用意の細心さで、その技巧は事実に即したものである。しかるにこの事実を貫いているものは人麿の憧れの心で、それが主となって、一句一文、三段の形を取って層々高まっているもので、事実はその具象化のためのもの、細心な技巧はその徹底のためのものなのである。事実をとおしての憧れという、質としては異なっているその二つのものが、渾然と一体となっているのは、一に人麿の手腕で、そこに人麿の秘密がある。この事はこの歌に限ったものではないが、それを自由に安易に現わしている点で、特別なものである。
 
(321)     短歌二首
 
208 秋山《あきやま》の 黄葉《もみち》を茂《しげ》み 迷《まど》ひぬる 妹《いも》を求《もと》めむ 山道《やまぢ》知《し》らずも【一に云ふ、路知らずして】
    秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎將求 山道不知母【一云、路不知而】
 
【語釈】 ○秋山の黄葉を茂み 「茂み」は、茂きによりて。秋の山の黄葉が茂くあるによってで、「山」は妻の葬られた所としてのもの。ここに妻の死んだ季節が現われてゐる。○迷ひぬる 妻が秋山に葬られたのを、自身黄葉を見に入ったものとし、その帰らないのを、道を迷っているためとしてのもの。○妹を求めむ山道知らずも 「求めむ」は、捜し出そう、の意。連体形。「も」は、詠歎。さうした状態の妻を捜し出そうとするその山の道を我も知らないことよの意。○一に云ふ、路知らずして 道を知らなくしてと言いさした形にしたものである。本行の、嘆きをもって強く言いきったものの方が、上と調和する。
【釈】 秋山の黄葉が茂くあるによって、道を迷って帰れずにいる妻を捜し出そうにも、その山の道の我に知られないことよ。
【評】 死んだ妻に対する憧れの心を詠んだものである。当時墓は山地を選ぶのが普通であったから、人麿の妻も折からの秋山に葬られたものと見える。歌はその秋山を望んでのものである。心としては長歌の結末の、「妹が名喚びて袖ぞ振りつる」を延長させたもので、軽の市に失望した心を、転じてその墓所のある山につないだのである。当時の信仰として、死者は幽《かく》り身とはなるが、異なった状態において依然存在しているものと思ったので、山に葬られたのを、自身の心をもって山に入ったものとし、また帰ろうとすればそれもできると信じたのである。この歌はそれが根本となっているのである。「黄葉を茂み迷《まと》ひぬる」といっているのは、時は秋で、折から黄葉が美しい時だったので、人麿の美に対する感覚と、妹を思う心とが一つになって、その帰らないことの理由を案出したのである。この憧れは、人麿には特に強かったもので、これはその一つの現われである。
 
209 黄葉《もみちば》の 散《ち》りゆくなべに 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》を見《み》れば あひし日《ひ》思《おも》ほゆ
    黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
 
【語釈】 ○黄葉の散りゆくなべに 「なべに」は、とともにの意で、黄葉の散ってゆくのを見ているその折からにという意。○玉梓の使を見れば 「玉梓の使」は、長歌に出ているもの。訃報を伝えてきた使を見るとの意で、「見」が黄葉と両方につながっている。○あひし日思ほゆ 「あひし(322)日」は、旧訓。妻と相逢った日で、夫婦間にあっては意味の広い、漠然とした語であるが、上の「黄葉の散りゆく」との関係で、少なくとも去年の今頃ということは明らかで、またその時はきわめて印象的な、忘れられない時ということも暗示しているので、はじめて相逢った日と解される。今、妻の死に遭って、その関係の全体を思いかえしたのである。「思ほゆ」は、思われる。
【釈】 黄葉の散ってゆくのを見ているその折からに、妻の訃報を伝えてきた使を見ると、はじめて妻と相逢った、今日に似た日のことが思われる。
【評】 これは、長歌にある心に立ち戻っていう形のものであるが、訃報を聞いて驚き呆れ、軽の市へ立って憧れ、昂奮した心が鎮まっての後、改めて事の全体を思い返した心で、その意味で心の進展をもったものである。すなわちはじめて訃報を聞いた時には思い及べずにいたことを、思い返すことによってはじめて捉え、「黄葉の散りゆく」という折からの自然の風景を縁として妻とはじめて相逢った日と、その死の知らせとをつなぎ合わせ、妻との関係の全体をしみじみと思ったのである。自然と人事を対照的に扱った形とはなっているが、そこには観念的のものはいささかもなく、ただ事実に即していっているものなので、自然と人事との交錯がきわめて味わいの深いものとなっている。すぐれた反歌である。また長歌との関係において見れば、人麿の限りなく昂奮するとともに、深い沈静をもっていた、その両面を同時に示しているもので、その意味での味わいもある。
 
210 うつせみと 思《おも》ひし時《とき》に【一に云ふ、うつそみと思ひし】 取《と》り持《も》ちて 吾《わ》が二人《ふたり》見《み》し 走出《はしりで》の 堤《つつみ》に立《た》てる 槻《つき》の木《き》の こちごちの枝《え》の 春《はる》の葉《は》の 茂《しげ》きが如《ごと》く 思《おも》へりし 妹《いも》にはあれど たのめりし 児《こ》らにはあれど 世《よ》の中《なか》を 背《そむ》きし得《え》ねば かぎろひの 燃《も》ゆる荒野《あらの》に 白《しろ》たへの 天領巾隠《あまひれがく》り 鳥《とり》じもの 朝立《あさた》ちいまして 入日《いりひ》なす 隠《かく》りにしかば 吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》に置《お》ける みどり児《こ》の 乞《こ》ひ泣《な》くごとに 取《と》り与《あた》ふ 物《もの》しなければ 男《をとこ》じもの 販《わき》ばさみ持《も》ち 吾妹子《わぎもこ》と 二人《ふたり》吾《わ》が宿《ね》し 枕《まくら》づく 嬬屋《つまや》の内《うち》に 昼《ひる》はも うらさび暮《く》らし 夜《よる》はも 息《いき》づき明《あ》かし 嘆《なげ》けども せむすべ知《し》らに 恋《こ》ふれども 相《あ》ふよしを無《な》み 大鳥《おほとり》の 羽易《はかひ》の山《やま》に 吾《わ》が恋《こ》ふる 妹《いも》はいますと 人《ひと》の言《い》へば 石根《いはね》さくみて なづみ来《こ》し よけくもぞなき(323) うつせみと 思《おも》ひし妹《いも》が 玉《たま》かぎる ほのかにだにも 見《み》えぬ思《おも》へば
    打蝉等 念之時尓【一云、宇都曾臣等念之】 取持而 吾二人見之 ※[走+多]出之 堤尓立有 槻木之 己知碁知乃枝之 春葉之 茂之如久 念有之 妹者雖有 憑有之 兒等尓者雖有 世間乎 背之不得者 蜻火之 燎流荒野尓 白妙之 天領巾隱 鳥自物 朝立伊麻之弖 入日成 隱去之鹿齒 吾妹子之 形見尓置有 若兒乃 乞泣毎 取与 物之無者 烏徳自物 腋扶持 吾妹子与 二人吾宿之 枕付 嬬屋之内尓 晝羽裳 浦不樂晩之 夜者裳 氣衝明之 嘆友 世武爲便不知尓 戀友 相因乎無見 大鳥乃 羽貝乃山尓 吾戀流 妹者伊座等 人云者 石根左久見手 名積來之 吉雲曾無寸 打蝉等 念之妹之 珠蜻 髣髴谷裳 不見思者
 
【語釈】 ○うつせみと思ひし時に 「うつせみ」は、巻一(一三)(二四)、巻二(一九六)に出た。現し身の転で、現し世にある身。これは幽《かく》り世に幽《かく》り身として存在するのに対する語《ことば》。「思ひし時」は、わが思っていた時で、これは同じ人に幽り身ということも思えるところから添えていったもの。二句、妻を現し身と思っていた時にで、こうした言い方をしているのは、この歌の結末に幽り身のことをいっているので、それに対させるためである。○一に云ふ、うつそみと思ひし これは、「打蝉」が「宇都曾臣《うつそみ》」と仮名書きになってい、また一音が異なっているだけの相違である。○取り持ちて吾が二人見し 「取り持ちて」は、手に取り持ってで、そうしたのは下の「槻の木のこちごちの枝」である。「吾が二人」は、我ら二人、すなわち夫妻の意。○走出の堤に立てる 「走出」は、門《かど》に近い所で、ちょっと走り出れば見える所をいった古語。「堤」は、池を繞《めく》らしている土手。「立てる」は、立ちてある。○槻の木のこちごちの枝の 「槻の木」は、堤に植えてある木。当時は池の堤に種々の木を植えて、その池の堰《いせき》の用に充てることが定めとなっていた。これもそれである。「こちごち」は、『講義』が考証して明らかにしている。要は、当時「こち」という語はあったが、「そち」という語は見えず、「あ」「あち」という語は発生しなかった。方向を示す語としてはただ「こち」があったのみだから、現在の「あちら、こちら」ということをあらわすに「こち」を重ねて「こちごち」といったのだというのである。「こちごちの枝」は、あちらこちらの枝であるが、多くの枝という意をいったものと取れる。○春の葉の茂きが如く 春の若葉の茂きがようにで、槻の若葉は、にわかに茂ってくる感のするものである。起首よりこれまでは、下の「思へりし」「たのめりし」の譬喩である。しかしこれは、実境を思い出の形において捉えたものなので、叙事と異ならぬ趣をもったものである。○思へりし妹にはあれど 「思へりし」の「り」は完了、「し」は過去の助動詞。二句、思っていた妻ではあるけれども。○たのめりし児らにはあれど 「たのめりし」の「り」と「し」とは上と同じ。たのんでいた。「児ら」は、「児」は妻を愛しての称、「ら」は音調のために添えたもの。二句、上二句の繰り返しで、心を強めるためのもの。○世の中を背きし得ねば 「世の中を」は、世間の理法をで、生きている者は死ぬという掟を。「背きし得ねば」は、「し」は強め。背くことはできないので。二句、妻の死をいった(324)もので、そのことを観念的に受け入れた形のもの。○かぎろひの燃ゆる荒野に 「かぎろひ」は、陽炎《かげろう》。日光、火気の大気に映ってゆらめく状態の称。「荒野」は、人跡の稀れな野。「に」は、に向かって。二句、陽炎の立っている人跡の稀れな野にで、妻の葬られる場所をいったもの。この「かぎろひ」は、四季を通じて夜明けに見られるものであることが、下の続きで知られる。○白たへの天領巾隠り 「白たへの」は、白い布であるが、ここは、白の意のもの。「天領巾」は、「天」は、「領巾」に修飾として添えた語と取れる。「領巾」は、上代の婦人が飾りとして領《えり》、頂《うなじ》、肩にかけた巾である。その幅、丈《たけ》は、皇大神宮儀式帳に、「生絹御比礼八端【須蘇長各五尺弘二幅】」、また豊受大神宮儀式帳には、「生※[糸+施の旁]比礼四具【長各二尺五寸広随幅】」とある。その大体が想像される。『講義』は、現在朝鮮人は、長さ六尺ばかり、幅一幅の布巾を常に携えていて、手拭いのごとくにもし、また頭を包みなどもする。わが古の領巾もそうした物であったろうといっている。「隠り」は、上代の四段活用のもので、連用形。身を隠しての意。二句、死者としての妻の、葬られる際の装おいを叙したもので、「白たへの」は、葬式の際の衣服は白色と定まっていたので、その意のもの。「天」は、死者は尊ぶのを礼としてい、また尊き死者は幽《かく》り世として天へ昇るとしていたので、ここも広く尊む意をもって、死者の装いとしての領巾に添えたものと思われる。「領巾」は、死者が女であるがゆえに、礼装の一つとしてもつ領巾を、その礼装の代表としていったものと思われる。「隠り」は、誇張を伴わしめた語と取れる。二句、白い布の、尊い領巾をもって、その身を包んでの意。○鳥じもの朝立ちいまして 「鳥じもの」は、巻一(五〇)の「鴨じもの」と同じで、「鳥」に「じ」を添えた形容詞の語幹に、「もの」を続けて熟語としたもの。鳥というもののごとくの意で、鳥が朝早く塒《ねぐら》を立つ意での譬喩。「朝立ちいまして」は、「います」は、行くの敬語。朝、家を立って行かれてで、朝、柩の野に送られるのを、尊む意から、妻自身の意志のごとくにいったもの。○入日なす隠りにしかば 「入日なす」は、入日のごとくで、意味で「隠り」にかかる枕詞。「隠りにしかば」は、「に」は、完了。隠れてしまったのでで、葬ったことを、尊む意から妻自身の意としていったもの。○吾妹子が形見に置ける 妻がその形見として残して行ったところの。○みどり児の乞ひ泣くごとに 「みどり児」は、原文「若児」「わかきこ」とも訓める。いずれも例があるからである。「みどり児」に従う。幼い児の意である。「乞ひ泣くごとに」は、物を乞うて泣くごとにで、物をほしがってたえず泣く意をいったもの。○取り与ふ物しなければ 「取り与ふ」の「与ふ」は、古くは四段活用であったと『講義』は注意している。下二段活用として「与ふる」と訓む説もある。「し」は、強め。手に取って与える物がないので。以上四句の言い方は強いもので、「乞ひ泣く」物は若き児に抜ききしのならぬ物、「物しなければ」は母でなくてはないところの乳と取れる。○男じもの腋ばさみ持ち 原文「烏徳」は諸本「鳥穂」で、諸注訓み難くし、私案を試みているが、通じ難いものばかりである。『考』は「烏徳」の誤りとし、「をとこじもの」と訓んでいる。巻三(四八一)に、「男じもの負ひみ抱《うだ》きみ」という似た例がある。またこの歌のある本の伝えは、ここが「男じもの」となっている。『考』の誤字説に従うこととする。「男じもの」は、上の「鳥じもの」と同じく、男とあるものがの意。「腋ばさみ持ち」は、抱きかかえての意。○吾妹子と二人吾が宿し 妻と二人で共寐をした。○枕づく嬬屋の内に 「枕づく」は、夫妻の枕を並べ付けるで、意味で嬬屋にかかる枕詞。「嬬屋」は、閨。○昼はもうらさび暮らし 「昼はも」は、「も」は意の軽いもので、昼はというとほぼ同じである。「うらさび」は、「うら」は心、「さび」はさびしき状態をいう動詞で、心さびしく。「暮らし」は、日を暮らし。○夜はも息づき明かし 「夜はも」は、「昼はも」に対させたもの。「息づき」は、ため息をつくで、嘆きの状態。「明かし」は、眠らずに夜を明かして、四句、幼児を扱いかねて、昼夜悩んでいる状態をいったもの。○嘆けどもせむすべ知らに 嘆くけれども、どうすべき方法も知られずして。○恋ふれども相ふよしを無み 妻を恋うけれども、逢うべき方法がないによって。○大鳥の羽易の山に(325) 「大鳥の」は、「羽」とつづいて、「羽易」の「羽」の枕詞。「羽易の山」は、巻十(一八二七)に、「春日《かすが》なる羽買《はかひ》の山ゆ」とあるので、奈良市春日にあった山と知られる。当時の春日は今よりは広い地域であったが、この山の名は伝わっておらず、したがっていずれともわからない。○吾が恋ふる妹はいますと 自分の恋っているところの妻がいられるとで、「います」は、敬語。○人の言へば石根さくみて 「人の言へば」は、他人が教えていうので。「大鳥の」以下五句は、死んだので葬った妻を、羽易の山で見かけたといって人が教えた意である。「石根さくみて」は、「石根」は岩で、「根」は地に固定するものとして添えた語。「さくみて」の「さく」は裂くで、「さくむ」とマ行に活用した語。裂き分ける意で、岩を踏み分けて。○なづみ来しよけくもぞなき 「なづみ来し」は、「なづみ」は行き悩む、難儀する意。「来し」は、「来《こ》」は未然形で、それに「し」の続くのは古語の形。「よけくもぞなき」は、「よけく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、好いことの意。「なき」は、「ぞ」の結び。二句、なずんできたが、よいこともないことよの意。○うつせみと思ひし妹が 現し身でいると思っていた妻がで、人に教えられたままに信じていたことをいったもの。教える人も尋常の事としてい、人麿もまた尋常の事としていたことが注意される。○玉かぎるほのかにだにも 「玉かぎる」は、上の(二〇七)と同じく、玉のかがやく意。ここは意味でほのかにかかる枕詞。「ほのかにだにも」は、ほのかな程度にでも。○見えぬ思へば 妻の姿の見えないことを思えばで、上の「よけくもぞなき」は、意味の上からいえばこれに続くべきものを、倒句としたのである。
【釈】 わが妻を現し身と思っていた時に、手に取り持って我ら二人が見た、走出《はしりで》の池の堤の上に立っているところの槻《つき》の木の、そちこちの多くの枝の、春の若葉の茂きがように、多くも思っていた妻ではあったが、多くも思い憑《たの》んでいた愛する者ではあったが、人の世の理法というものはけっして背くことができないので、その妻は陽炎の燃えている荒野へ、死者の着る白色の、尊い領巾に身を包んで、鳥というもののごとくに朝に家を立たれて、入日のごとくに隠れていってしまったので、わが妻がその形見として残して行った幼児の、物を乞うて泣くごとに、取って与える物もないので、男とある者がその児を抱きかかえて、わが妻と二人で共寐をした、枕の並びついている閨の内で、昼は心さびしく日を暮らし、夜はため息をついて夜を明かし、嘆くけれどもするべき方法も知られず、妻を恋うけれども逢うべき方法もないによって、羽易の山に、わが恋っている妻がいられたのを見たと人が教えていうので、岩を踏みわけて、難儀して歩いて来たが、よいことでもないことよ。現し身でいると思ってきた妻の、ほのかな程度にでも見ることのできないのを思うと。
【評】 この歌は、内容が特殊のものであるから、まず部分的に見てゆくことにする。この歌もほとんど一句一文であるが、事としては四つの部分をまとめたものである。第一は妻の生時、第二は死、第三は死後の当惑と悲しみ、第四は死んだ妻の姿をあらわしていることを聞き、見に行って失望したことで、全体はやや長い期間にわたってのことであるが、それを抒情を旨としつつ、叙事的に構成したものである。抒情の頂点をなしているのは、第四の失望である。
 第一段は、起首から、「たのめりし児らにはあれど」までである。「うつせみと思ひし時」以下「春の葉の」までの九句は、それに続く「茂きが如く」をいうための譬喩である。これは譬喩としては実に長いもので、その意味で特殊なものであるが、(326)この長さは他の意味も含んでいるからである。その一つは、「うつせみと思ひし時」というのは、いったがように幽《かく》り身に対させての語《ことば》で、今の場合も、後に幽り身を再び現し世にあらわすということを照応させていっているものである。その二つは、「槻の木」である。これは「春の葉の茂きが如く」をいうためのものであるが、その在り場所として「走出《はしりで》の堤に立てる」といっているので、人麿の家の門前のものと知られる。そうした木に対して「春の葉の茂き」ということは、冬木の槻の小枝がちにさみしいのが、春の若葉でにわかに茂ってくるという時の推移を思わせる語で、またそれに対して「吾が二人見し」というのは、人麿がその家に久しく妻と同棲していたことを思わせる語でもある。実際に即してものをいうのは当時の風で、人麿もそれをしていた人である。譬喩として異常に長い語《ことば》を用いているのは、これらのことをもそれに含めていおうとする要求よりのことで、必要を感じてのものと思われる。なおその三つには、「春の葉の茂きが如く」という譬喩は、生時の情愛をいうためのものであって、この生時は、今は死後との対照においていっているものである関係上、その捉えた生時は、死の前久しからざる時ではなかったかと思われる。人麿の長歌は、そのどこかに、作歌の季節に触れた語《ことば》を用いていることが多い。実際に即するということは、おのずからそうなることでもあるが、このことは意識しての場合が多いようである。今も、死の久しからぬ前ということを意識してのものではないかと思われる。このことは妻を葬送する野を、「かぎろひの燃ゆる荒野」といっているのにも関係する。「かぎろひ」は今は夜明けの景で、春としての景ではないが、「春の葉」との関係から見ると、春のものとしていっているのではないかと思われる。それこれで「春の葉」は、単に文芸的の意味だけのものではなく、妻の死んだ季節をもあらわしているものと思われるのである。
 第二段は、「世の中を背きし得ねば」以下、「入日なす隱りにしかば」までである。この「世の中を」の二句は、仏説によったがごとく思われるものであるが、心としてはそれは全くないものであることは、後の続きで明らかである。この二句が際立って目だつものとなっているのは、一首の眼目が生死であり、死後の消息であるから、それにふさわしく強い響きをもたせようがためのものと取れる。次に、「かぎろひの燃ゆる荒野に」は、「隠りにしかば」に続くもので、これによると墓地は荒野であったこととなる。その荒野は「鳥じもの朝立ち」をして、「入日なす隠り」といわれる所で、「鳥じもの」「入日なす」はいずれも枕詞であるが、譬喩の意をもったものであるから、実際にも絡んだものとすると、そこは、人麿の住んでいた所からはかなり遠い地と思われる。後に、妻の幽り身をあらわしたといわれる所は、春日の羽易の山である。また、短歌によると、墓地は「引手《ひきて》の山」という山である。それだと「荒野」は文芸的にいったもので、実際と関係をつけると、山地に続く荒野ということでなければならない。これは抒情を旨としたために、事の精しさは念としなかったことの思われるものである。
 第三段は、「吾妹子が形見に置ける」より、「恋ふれども相ふよしを無み」までである。この一段は、はじめて悲歎を言い出してきたもので、しかも実際に即して叙しているものである。由来死者の「形見」は、その人を偲ぶ唯一のよすがとなるもので、そこに悲しみがあるとともに慰めもあるものである。しか(327)るに人麿の残された形見は、ただもてあまし、悩まされるだけの若児で、ない乳を乞うて泣く、如何《いかん》ともしようのないものだったのである。この悩みは、妻を恋う刺激とならざるを得ないものである。「嘆けどもせむすべ知らに、恋ふれども相ふよしを無み」は、対句の形にはなっているが、それはその心理の推移を暗示しているもので、その間の飛躍は含蓄のあるものである。同時にこの「恋ふれども相ふよしを無み」は、次の一段の背景をもなすのである。
 第四段は、「大鳥の羽易の山に」以下である。この一段は、今日より思うときわめて異常なことである。しかし歌の上で見ると、一首全体のうち最も平坦に、ほとんど昂奮を帯びず、尋常の事として叙している部分である。「大鳥の羽易の山に、吾が恋ふる妹はいますと、人の言へば」と、言ふ人はさながら世間話のように告げるのである。それを聞く人麿も、ただちに「石根《いはね》さくみて」と、何の躊躇するところもなく出かけるのである。これは死者は単に幽《かく》り身となっただけで、依然として存在し、時あって地上に現われきたるものであるということを、疑いを挟む余地のない、平凡なこととする信念が、言う者にも聞く者にも共通になければ起こり得ないことである。この死生観は、上代より伝統しきたったもので、庶民の間には根強く保たれていたものとみえる。この死生観に類した歌が、集中に他に二、三あるが、いずれも作者不明の、民謡に近いものの中にあるにすぎず、上流の知識階級の歌の中にはない。それらも、この歌ほど直接に、明らかにいったものはなく、これはその顎《たぐい》の中の代表的なものである。この信念はしだいに仏教的のものと変わり、後には仏教と混じた形において伝わるものとなったと思われる。ここでは、人麿がそうした信念をもっていたということにとどめておく。次に、こういうことを人麿に教えた「人」は、人麿の妻とも親しい間でなくてはならない。これは同棲をしている嫡妻ということを裏書しているものと取れる。次に、妻の現われたという春日の羽易の山である。そこは幽《かく》り身の者が姿をあらわすに自然なところということが、告げる「人」にも、聞く人麿にも思われていた所かと取れる。そこに何らかの理由があったに相違ないが、知りかねる。単に墓所に近い山だとすると、墓所はこれに続く短歌によって「引手《ひきて》の山」ということが明らかであるから、そこでなくてはならないことになる。思うに羽易の山は、何らかの特殊性があって、死者の現われる山と信じられていたのであろう。その理由は今は辿りようがない。起首、生前のことをいうにも「うつせみと思ひし時」といって幽《かく》り身の存在を信じ、現に今も「うつせみと思ひし妹」と信じ、逢いに来た人麿も、結局は、「なづみ来しよけくもぞなき」と、失望に終ってしまった。そしてこれが妻に対する最後の直接交渉となったのである。
 以上を総括していうと、前の軽の妻に対した場合には、人麿の心は憧れに終っている。人目を憚るために逢う瀬もまれであった妻の、急死のような状態での死に逢うと、愛着は見果てぬ夢となり、強い憧れとなった。今はそれとは異なって、同棲していた嫡妻の、乳呑児を残しての死に逢うと、悲歎よりもまず苦悩に打ち負かされ、苦悩を通しての悲歎となり、それに刺激されるところもあって、たまたま死んだ妻を羽易の山で見たと告げる人があると、同じ信念を抱いているところから、躊躇なくその山へ出かけて行ったが、事は失望に終って、結局諦めざ(328)るを得ない心となったという、軽の妻に対したとは正反対な、諦めを強いられたのである。憧れと諦めという、同じく死者に対してのことであるが、恋の初めと終りのごとき心的状態を味わわされたのである。軽の妻に対する心は明るく、この妻に対する心は暗いものである。
 作歌態度からいうと、この歌は性質は挽歌であるが、死者の霊を慰めようとする心は全然もっていず、ただ自身の心やりのものである。その点は軽の妻に対するよりもさらに徹底したものである。その個人的な心をほしいままにしている点は、純粋な文芸的なものである。人麿は生活価値の一半を夫婦生活に認めていたように思われる人である。その人麿ではあるが、死という大事に遭った場合にも、妻に対して儀礼的な言は一言も発していないところに、その人の思われるところがある。
 
     短歌二首
 
211 去年《こぞ》見《み》てし 秋《あき》の月夜《つくよ》は 照《て》らせども 相見《あひみ》し妹《いも》は いや年《とし》さかる
    去年見而之 秋乃月夜者 雖照 相見之妹者 弥年放
 
【語釈】 ○去年見てし秋の月夜は照らせども 去年見た秋の月は照っているけれどもで、「去年」というのは、妻の死後、はじめて逢った秋から顧みていったもので、死んだのは春と思われるから、その年の秋である。○相見し妹は ともにその月を見た妻は。○いや年さかる ますます年が遠ざかって行く。
【釈】 去年見た秋の月は、今年も同じように照っているけれども、この月をともに見た妻は故人となって、しかもその年は増すます遠ざかって行く。
【評】 秋の澄んだ月に対していると、昔を思わせられるのは、古も今も渝《かわ》らない人情である。人麿の月に対して思わせられた昔は、死んだ妻であって、しかもその妻とともに見た同じ月だったのである。いっぽう自然の年々に同じ状態であるのを見ると、その悠久を思わせられ、それに比して人間の無常を思わせられるのも、同じく古も今も渝らない人情である。悠久なる自然と無常なる人間とを対比させて、人間を悲しむという心は、後世では歌の上の常識となったものであるが、この当時はまだ新鮮味のあったものと思われる。命長い巌、あるいは松などを見て、命をそれにあやからせようとする心の歌は、これ以前にもあったので、それを一歩進めるとこうした心となるのであるが、この歌はその進め方の際やかなるものである。一首の調べが高く強く、その思い入れの深さの思われるものである。長歌との関係からいうと、妻の死の直後、苦悩と悲歌のために昂奮(329)し、人のいうがままに羽易の山に妻に逢いに行って失望をした頃の心持とは違い、「世間」を深く心に沁《し》ましめての上の感慨である。そこに心理の推移がある。また時としても、春より秋への推移があって、長歌と対照をなしているものである。
 
212 衾道《ふすまぢ》を 引手《ひきて》の山《やま》に 妹《いも》を置《お》きて 山路《やまぢ》を行《ゆ》けば 生《い》けりともなし
    衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無
 
【語釈】 ○衾道を 「引手の山」に続く関係から見て、その枕詞とはみえるが、意味は不明である。「衾道」を、衾という地へ行く道との解があるが、そうした地名は見えない。また、襖《ふすま》の乳《ち》の意で、「引き」へかかる意だともいうが、当時襖障子があり、それに乳《ち》があって開閉に用いたということも想像し難いので、これまた不明である。要するにわからないものである。○引手の山に 『講義』は、『大和志』により、その山辺郡に、「在2中村東1呼曰2竜王1高聳人以為v望」といい、この竜王山は天理市萱生と藤井の間にある。これが古の引手の山かどうかを疑っている。下の続きで、引手の山が墓地であったとわかる。長歌では「荒野」といっているが、それは広い意味でいったのである。○妹を置きて 妻を残してで、葬って立ち去った時の心である。○山路を行けば生けりともなし 「山路を行けば」は、家に帰ろうとしてその山の路を行けばの意。「生けりともなし」の、「り」は完了の助動詞の終止形、「と」は助詞。生きているという気もしないの意。
【釈】 引手の山に、妻を残して置いて、家へ帰ろうとしてその山の路を行くと、我は生きているという気もしない。
【評】 これは妻を墓地に葬って、帰る途中の心持である。事としてはやや以前に属するものであるが、今、秋の月に対してしみじみと妻のことを思うと、最も強く思われることはその時のことで、それがまた妻の最後のことともなっているのである。前の歌に続けて、これをいっているのは、心理的に見て不自然ではない。過去の思い出という形にせず、眼前のことのように詠んでいるのは、感情の強さがさせることで、そこに人麿の手法があるものとみられる。
 
     或本の歌に曰はく
 
213 うつそみと 思《おも》ひし時《とき》に 携《たづさ》はり 吾《わ》が二人《ふたり》見《み》し 出立《いでたち》の 百枝《ももえ》槻《つき》の木《き》 こちごちに 枝《えだ》させる如《ごと》 春《はる》の葉《は》の 茂《しげ》きが如《ごと》く 思《おも》へりし 妹《いも》にはあれど たのめりし 妹《いも》にはあれど 世《よ》の中《なか》を 背《そむ》きし得《え》ねば かぎろひの 燃《も》ゆる荒野《あらの》に 白《しろ》たへの 天領巾隠《あまひれがく》り 鳥《とり》じもの (330)朝立《あさた》ちい行《ゆ》きて 入日《いりひ》なす 隠《かく》りにしかば 吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》に置《お》ける 縁児《みどりご》の 乞《こ》ひ泣《な》くごとに 取《と》り委《まか》す 物《もの》しなければ 男《をとこ》じもの 腋《わき》ばさみ持《も》ち 吾妹子《わぎもこ》と 二人《ふたり》吾《わ》が宿《ね》し 枕《まくら》づく 嬬屋《つまや》の内《うち》に 昼《ひる》は うらさび暮《く》らし 夜《よる》は 息《いき》づき明《あ》かし 嘆《なげ》けども せむすべ知《し》らに 恋《こ》ふれども あふよしをなみ 大鳥《おほとり》の 羽易《はかひ》の山《やま》に 汝《な》が恋《こ》ふる 妹《いも》はいますと 人《ひと》のいへば 石根《いはね》さくみて なづみ来《こ》し よけくもぞなき うつそみと 思《おも》ひし妹《いも》が 灰《はひ》にてませば
    字都曾臣等 念之時 携手 吾二見之 出立 百兄槻木 虚知期知尓 枝刺有如 春葉 茂如 念有之 妹庭雖在 恃有之 妹庭雖有 世中 背不得者 香切火之 燎流荒野尓 白栲 天領巾隱 鳥自物 朝立伊行而 入日成 隱西加婆 吾妹子之 形見尓置有 緑兒之 乞哭別 取委 物之無者 男自物 腋挟持 吾妹子与 二吾宿之 枕附 嬬屋内尓 日者 浦不怜晩之 夜者 息衝明之 雖嘆 爲便不知 雖戀 相縁無  大鳥 羽易山尓 汝戀 妹座等 人云者 石根割見而 奈積來之 好雲叙無 宇都曾臣 念之妹我 灰而座者
 
【語釈】 前の歌と異なっている部分だけをあげる。○携はり 手と手を携える意で、親しんださま。下の「二人」へ続く。前の歌では「取り持ちて」とあり、「こちごちの枝《え》」に続いた。前の歌の活躍を没して平明としたもの。○出立の百枝槻の木 「出立」は、前の歌の「走出《はしりで》」と意味は同じで、並び行なわれていた語。「百枝槻の木」は、百の枝、すなわち多くの枝をもっている槻の木で、伝来の熟語。槻は枝の多い木である。○枝させる如 枝を張っているごとくで、「百枝」を説明したもの。前の歌では、妻に対しての思いの繁さの譬喩として、「春の葉」だけを捉えていたのを、これは「枝」までをも捉えて、並べていっている。前の歌は感じの方を主として、単純にいっているのを、これは事柄を重んじて、複雑にしたのである。譬喩としては、前の歌の方が効果的である。○取委す物しなければ 「委す」は旧訓で四段活用。『代匠記』は、児に持たせて、その心に任せる意だとしている。下二段活用として「委する」と訓む説もある。○汝が恋ふる 前の歌は「吾が恋ふる」である。今の方は他人の言葉をそのままに用いた形である。すなわち事を主とした言い方にしたもので、前の歌の心を主としたものの方が、全体の上に調和する。○灰にてませば 「灰」は、亡骸《なきがら》を火葬にして、残った灰。「ませば」は、女性に慣用した敬語。上からの続きで、現し身と思ってきた妻は、すでに灰と(331)なっていられるのでの意である。火葬のことの正史に現われているのは、続日本紀、文武四年の条に、「三月己未道昭和尚物化、……火葬於栗原、天下火葬従此而始也」とあるのが初めで、それより四年後の大宝三年十二月には、持統天皇の尊骸をさえ飛鳥岡で火葬し奉るまでとなった。巻三(四二八)「土形娘子《ひぢかたのをとめ》を泊瀬山にて火葬せし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首」、同じく、(四二九)「溺死せし出雲娘子《いづものをとめ》を吉野山に火葬せし時、柿本朝臣人麿の作れる歌二首」があるので、人麿の妻も時代的に見て火葬されたということもありうることである。この「灰にてませば」は、前の歌の「たまかぎるほのかにだにも見えぬ思へば」の三句にあたる部分である。どちらも心は同じで、信じていたことの裏切られ、失望に終わる嘆きをいったものである。幽り世の者となった死者が、現し身であった時と同じ姿をもって再び現われることがあるというのは、前の歌でいったように伝統の信仰であって、人麿の周囲の者の教えたのも、人麿が教えられるがままに行動に移したのも、その信仰に導かれてのことである。「ほのかにだにも見えぬ思へば」は、同じく失望ではあっても、その信仰に繋がりをもち得ているもので、自然なところがある。「灰にてませば」は、その繋がりをもち得ないもので、すでに火葬をしたものであれば、現し身の姿をあらわすという信仰も繋ぎ難いものに思われる。この点から見て、人麿の妻は前の歌にあるように、現し身をあらわす可能性のある葬られ方、すなわち火葬ではない旧来の葬られ方をしたのであって、「灰にてませば」は、火葬が一般化した後、前の歌を伝唱した人によって改作されたのではないかと思われる。
【釈】 略す。
【評】 この「或本の歌」は、いったがように、人麿の前の歌が伝唱されているうちに、伝唱者によって部分的に改められていったものを、何びとかによって記録されたものと思われる。それは「語釈」でいったように、その改まっている部分は、前の歌よりもすべて劣ったものとなっていることが察しられる。劣っているというのは、前の歌では感を主とし、単純にして含蓄のある形となっているが、改まった方は、事を主とし、複雑にして平明なものとしてい、また前の歌では、具象的ではあるが、同時に間接な言い方をして、ある美しさを保たせているものが、改めているものは抽象的な、単に平明を旨としたものとしている意味においてである。これは伝唱された歌のすべてに通じて起こっていることで、この歌もそれに漏れないのである。その甚しいのは結末の「灰にてませば」である。これは一首の頂点をなしている部分で、前の歌のようにあってこそ、はじめて悲歌の情が生きるのであるが、この歌のようだと、浅薄なものと化し、人麿の周囲の者も、またそのいうがままに羽易の山へ出かけて行った人麿も、本来不可能なるべきことを、空想または幻想に駆られて言いもし、行ないもしたこととなってくる。実際を重んじた当時の社会の生活においては、これは極度に個人的な心情である。大体人麿の歌は、当時の庶民の信仰または感情を代弁した趣の濃厚なもので、それが技巧の卓絶したのと相俟つて大を成しているものである。そうした個人的の空想、幻想が、この歌に限って基調をなしているものとは思われない。その意味でも、火葬ということが一般化した雰囲気の中にあって、伝唱者の改めたものと思われる。
 
(332)     短歌三首
 
214 去年《こぞ》見《み》てし 秋《あき》の月夜《つくよ》は 渡《わた》れども 相見《あひみ》し妹《いも》は いや年《とし》離《さか》る
    去年見而之 秋月夜者 雖度 相見之妹者 益年離
 
【語釈】 ○渡れども 空を渡るけれどもで、前の反歌の「照らせども」と異なっている。「照らせども」の方が印象的で、感が深い。時間的にして平明にしているものである。
 
215 衾路《ふすまぢ》を 引出《ひきで》の山《やま》に 妹《いも》を置《お》きて 山路《やまぢ》思《おも》ふに 生《い》けりともなし
    衾路 引出山 妹置 山路念迩 生刀毛無
 
【語釈】 ○山路思ふに 「山路」は、山の意でいっているもの。その山を思うにで、山よりある距離を置いて、墓所を中心として山を思いやる心をいったもの。前の反歌の「山路《やまぢ》を行けば」とは、これだけが異なっているのである。これもまた、前の歌の、墓所を離れた直後の心の方が感が深い。
 
216 家《いへ》に来《き》て 吾《わ》が家《や》を見《み》れば 玉床《たまどこ》の 外《ほか》に向《む》きけり 妹《いも》が木枕《こまくら》
    家來而 吾屋乎見者 玉床之 外向來 妹木枕
 
【語釈】 ○家に来て 家に帰って来ての意で、妻の墓所から帰ったことが、下でわかる。○吾が家を見れば 「吾が」は、親しみの意から添えたもの。その親しみは、妻と同棲した家として感じたものであることは、下の続きでわかる。○玉床の外に向きけり 「玉床」の「玉」は、妻と共寐をした床として、愛《め》でて添えた語。巻十(二〇五〇)、「明日よりは吾が玉床を打払ひ公《きみ》と宿ねずてひとりかも寐む」という用例がある。「外に向きけり」は、下の「木枕」が、平生とは異なった状態になっていることを、具体的にいったものである。上代は、その人の身に付いた物は、その人の魂が宿っているものとして重んじたが、ことに床や枕を重んじて、その人の余所へ行っていない時、また死後も一周年の間は、大切にして手を触れないことにし、粗末にすると、その人に災いが起こると信ずる風習があった。「外に向きけり」ということは、木枕におのずからに異常なことが起こっていたことをいったものと取れる。その異常は、妻の死と関連した不吉な状態を暗示していることと取れる。言葉の上で見ると、床の外へ出かかっているということと思えるが、それ以上はわからない。○妹が木枕 「木枕」は、木で作った枕で、当時の普通のものであったとみえる。
(333)【釈】 墓所から家に帰って来て、妻と同棲したなつかしい家を見ると、共寐をした床から、不吉にも外へ出かかっているよ、妻の木枕は。
【評】 妻を墓所に葬って宿に帰り、今さらのごとく悲しみを新たにして、嬬屋を見、妻の木枕に不吉な状態の現われていることを発見し、その死のまぬかれ難いものであったことを思わせられた心である。信仰心の深い上代の生活から生まれている感である。前の歌は墓所より家に帰るまでの途中の感であるから、二首は時間的に関係させてあって、連作となっている。これは前の長歌の反歌の異伝ではなく、新たに加えられているものである。また、歌そのものからいうと、人麿の歌であるかどうかを疑わせるところのあるものである。人麿の歌は取材の如何にかかわらず、内から盛り上がってくる豊かなものと艶やかなものをもっていて、ある華やかさを帯びてい、それが魅力となっている。この歌にはそうした趣はない。単に取材の上からいえば、こうした挽歌は、当時の生活からいえば得難いものではない。この長歌の伝唱者が、前の反歌との関係において、その連作とすればできるところから、新たにここに加えたものではないかと疑わせるところのある歌である。
 
     吉備《きび》の津《つ》の采女《うねめ》の死《みまか》りし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「吉備の津の采女」は、吉備国の津から貢した采女である。采女のことは巻一(五一)に出た。後宮に仕える身分の低い女官で、天皇の供奉、御饌のことを職とするものである。諸国の郡の少領以上の者の姉妹子女にして、形容の端正なる者を選ばれた。後宮においては、その出身地名をもって呼名《よびな》とされた。大体は国をもってし、時には郡をも添えられ、さらにまた里の名をもってすることもあった。「吉備」は、後の備前、備中、備後である。「津」は、『講義』は、後の備中国に都宇郡というのがある。この都宇は、本来一字をもって呼んだ地は、和銅の頃勅により、好字二字に改めさせられたので、それに従って、一字の韻にあたる字を加えたものだと考証している。吉備の津の采女は後の備中国都宇郡を出身地とする采女だったのである。采女は在職中は、結婚は堅く禁じられてい、犯す者は重き刑に処せられる制であった。しかるにこの采女は夫をもっているので、采女としての任の解けた、前《さきの》采女だということがわかる。また、短歌によると、近江国の志賀に住んでいたこともわかる。自由な身として、かつてそこに居住していたのである。人麿はこの采女を見かけたことがあって、いわゆる見知りこしであった。たぶんは後宮に仕えていた頃のことであろう。この采女は次で見ると水死をしている。しかも自殺であったと見える。その事情はわからない。人麿はその死後|幾時《いくばく》もない頃、何らかの事情で志賀へ行き、その噂《うわさ》を聞き、その若き生命を我と殺したのに驚き、訝《いぷか》り、悲しんで、強い衝撃のままにこの歌を作ったのである。
 
(334)217 秋山《あきやま》の 下《した》へる妹《いも》 なよ竹《たけ》の とをよる子《こ》らは いかさまに 思《おも》ひ居《を》れか 栲繩《たくなは》の 長《なが》き 命《いのち》を 露《つゆ》こそは 朝に置《あしたお》きて 夕《ゆふべ》は 消《き》ゆと言《い》へ 霧《きり》こそは 夕《ゆふべ》に立《た》ちて 朝《あした》は 失《う》すと言《い》へ 梓弓《あづさゆみ》 音《おと》聞《き》く吾《われ》も おほに見《み》し 事《こと》悔《くや》しきを しきたへの 手枕《たまくら》まきて 剣刀《つるぎたち》 身《み》に副《そ》へ寐《ね》けむ 若草《わかくさ》の その嬬《つま》の子《こ》は さぶしみか 思《おも》ひて寐《ぬ》らむ 悔《くや》しみか 思ひ恋ふらむ 時《とき》ならず 過《す》ぎにし 子《こ》らが 朝露《あさつゆ》のごと 夕霧《ゆふぎり》のごと
    秋山 下部留妹 奈用竹乃 騰遠依子等者 何方尓 念居可 栲紲之 長命乎 露己曾婆 朝尓置而 夕者 消等言 霧己曾婆 夕立而 明者 失等言 梓弓 言聞吾母 髣髴見之 事悔敷乎 布栲乃 手枕纏而 釼刀 身二副寐價牟 若草 其嬬子者 不怜弥可 念而寐良武 悔弥可 念戀良武 時不在 過去子等我 朝露乃如也 夕霧乃如也
 
【語釈】 ○秋山の下へる妹 「秋山の」は、黄葉を秋山の特色として、その意を含めての言い方で、「炎《かぎろひ》の春」、「※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の春」などと同じ言い方の語。「下へる」は、『略解』以来「下ぶる」と訓まれてきたが、「したふ」は四段活用で、完了の助動詞「り」の連体形がついた形。紅《くれない》に色づいている意。紅顔《にほへるかほ》を称美していつたもの。「妹」は、采女を親しんでの称。二句、秋山の紅葉《もみじ》の紅ににおっているがごとき妹の意で、顔の美しさを讃えたもの。○なよ竹のとをよる子らは 「なよ竹」は、なよなよとした竹で、今の女竹。「とをよる」は、「とを」は「撓《たわ》」と同意の語で、撓み寄る意。「子ら」の「ら」は、音調のために添えた語で、「子」は、上の「妹」と同じく親しんでの称。二句、なよ竹のごとく撓みよる子はで、上に続けて、姿の可憐さを讃えたもの。○いかさまに思ひ居れか 「いかさまに」は、どのように。「思ひ居れか」は、「か」は疑問で、「居れか」は後世の「居ればか」にあたる古格。思っていたのであろうかの意。その心持の解し難いのを、怪しみ訝った意。○栲繩の長き命を 「栲繩の」は、栲すなわち楮の類の織維をもって作った繩。その長い物であったところから、譬喩の意で長きの枕詞となったもの。「長き命を」は、本来長かるべき命をの意。「いかさまに」以下四句は、長かるべき命を、どのような心持がしていたのかと、若き命を我と殺したことを、それと言いきるのは忍び難いこととして、怪しみ訝りの形にして、言いさしにとどめたもの。○露こそは朝に置きて夕は消ゆと言へ 命の短い露こそは、朝、木草の上に置いて、その夕べには消えるとはいえの意で、世に最も命の短いものを、采女との対比としてあげたもの。○霧こそは夕に立ちて朝は失すと言へ 上の四句と対句にしたもの。この対句は、世に最も命の短いものを、強くいおうとして繰り返したもので、「露」と「霧」、「朝」と「夕」といささかの変化はつけているが、心は全く同じである。この八句は、その前の「長き命を」とは、語《ことば》としては直接には続いていないが、心としては連絡をもっていて、采女の命短く、またあまりにもはかなく死んだことを、自然の現象をかりて暗示したもので、下に、人はそうしたものではないも(335)のをということを含ませたものである。なお、ここに「露」と「霧」とを捉えてきたのは、心としては代表的に命の短いものとしてではあるが、作意からいうと、人麿の采女のことを聞いてこの歌を作った時は、折から露や霧の多い秋であったためと思われる。以上、心としては一段落である。○梓弓音聞く吾も 「梓弓」は、梓の弓で、単に弓の代表としていったもの。弦の音が印象的なところから、音と続き、音の意を転じての枕詞。「音」は、噂の意のもの。「吾も」は、吾さえも。○おほに見し事悔しきを 「おほ」は「おぼつかなし」「おぼろ」などのおほで、不十分にの意。よそ目に一目《ひとめ》というにあたる。「悔しきを」は、残り惜しいものをの意。○しきたへの手枕まきて 「しきたへの」は、(一三五)に出た。ここは「枕」の枕詞。「手枕まきて」は、手枕を枕としてで、手枕は采女の手。枕とするはその夫。○剣刀身に副へ寐けむ 「剣刀」は、刀身すなわち身を主とするところから、「身」と続けて、その身を転じての枕詞。「身に副へ寐けむ」は、その身に添わしめて共寐をしたであろうところので、夫の立場からいったもの。○若草のその嬬の子は 「若草の」は、(一五三)に出た。嬬にかかる枕詞。「その嬬の子は」は、「その」は、嬬をさした語。「嬬」は、夫の意のもの。「子」は、親しんでの称。二句、その夫はで、采女に夫のあったことをいったもの。このことは題意でいった。○さぶしみか思ひて寐らむ 「さぶしみ」は、さみしくして。「か」は、疑問。「思ひて寐らむ」は、嘆いて寐ていようで、二句、さみしくして、嘆いて寐ているのであろうかと、自身と比較して思いやったので、人麿と采女の夫との関係の親しくはないことを思わせる口気である。○悔しみか思ひ恋ふらむ 残念なことにして、嘆いて恋っているであろうか。この二句、流布本にはなく、類聚古集、紀州本、西本願寺本ほか二本にはある。この二句が、原形としてあったかなかったかは問題となる。上の二句についていったように、この歌は挽歌とはいえ、夫たる人に贈ったものとは思われないので、したがって夫に対しての思いやりは、多きを必要としないものに思われるからである。ない方が原形ではないかと思われる。○時ならず過ぎにし子らが 「時ならず」は、その時すなわち天寿ではなくして。「過ぎにし」は、死んで行ってしまった。「子ら」は、起首の「とをよる子ら」のそれと同じ。「が」は、「子ら」の主格であることをあらわしているもの。二句、天寿ならずして死んでしまった子はの意。この句は、上の「いかさまに思ひ居れか」と、作意としては繰り返しの意で緊密に関係しているもので、あらわには言いきっていないが、自殺したことをいっているものである。言いきらないのは、「何方に」の場合と同じく、言いきるに忍びないものとしてのためと取れる。しかし、それよりも一歩を進めて、自殺ということをやや強く暗示したものである。○朝露のごと夕霧のごと 第一段の結末を、いま一たび繰り返して、その生命の短く、あまりにもはかないことをいったもの。この結末は、七七七で、七を三回重ねている。これは謡い物系統のものの上には現われていることで、古風な形である。謡い物では、最後の七は、音調を主としての繰り返しとなっている趣が多いが、この歌では、心としての必要をもったものとなっている。すなわち古い形を一歩前進させたものである。
【釈】 秋山の紅葉の紅ににおっているごとき顔の妹、なよ竹のごとくに撓み寄る姿をした子は、どのような心持をもっていたのであろうか、その長かるべき命を。世にはかないものの露こそは、朝に草木《くさき》に置いて、夕べには消えるとはいえ、同じく霧こそは、夕べに空に立って朝には失せるとはいえ、人はそうしたものではないものを。ただ噂に聞く自分でさえも、生前よそ目に一目見ただけなのが残り惜しいものを。その手枕を枕として、身に添わしめて共寐をしたその夫は、さびしい心に嘆いて寐ているのであろうか。残念なことにして嘆いて恋っているであろうか。天寿ではなくして死んで行ってしまった子は、朝露のように、夕霧のようにもあるよ。
(336)【評】 人麿がたまたま近江の大津へ行った時、前采女《さきのうねめ》で、美しくして若く、以前一度見かけたことのあった人の、今は人妻となってそこに住んでいる人が、河に身を投げて自殺をしたという訪を聞き、強い衝動を受けて作った歌である。その事は誰にしても衝撃を受けずにはいられないものであるが、本来生命への執着の強いものをもっている上に、時代性によってその感を強めさせられていた人麿であり、くわえてまた、夫婦生活を生活価値の大部分とし、したがって女性の美しさを尊重する情の強かった人麿としては、きわめて強い衝撃を受けたのであった。その心とその衝撃とは、この歌の表現を通して如実に現われている。
 大体挽歌は、第一には死者その人の霊を慰めることを目的とし、第二には死者の近親者と、ともに悲しむことによって慰めるを目的とするものである。そのほかには、挽歌を作ることによって自分自身を慰めようとするもので、例せばこの歌に先立つ自身の妻の死に対してのようなものである。最後のものは実用上の目的をもたない、純然たる文芸的のものである。人麿のこの歌はいかなる立場に立ってのものかというと、第一の、死者その人に対して言いかけているところは全然ない。第二の、死者の近親者に対してということも、「さぶしみか思ひて寐らむ」という思いやりの句があるだけで、それも自身の心残りの比較においていっているにすぎないもので、采女の夫に対して、直接に言いかけているものとは思われない。この歌で人麿のいっているものは、単に自身の感懐のみである。すなわち「秋山の下へる妹」「なよ竹のとをよる子ら」と讃うべき美しく若い女性の、「いかさまに思ひ居れか」「時ならず過ぎにし子ら」となったことに対する怪しみ訝りであって、その怪しみ訝りを通しての愛情をいうことに終始しているのである。これは人麿の文芸心を充たすのみの挽歌である。しかもそれを、深い関係はなく、単に見知りごしというにすぎない女性に対してしているのは、美しく若くして、当然生命の執着の限りなく強かるべき人が、意識的にそれを棄て去ったという衝動に駆られてしているので、そこにいっそう人麿の文芸心が見られるのである。
 この歌の表現は、人麿の他の長歌の手法とは異なった特殊なものである。人麿の長歌は、事の全体を腹に収め、十分に支配しきり、盛り上がる情熱の力をもって緩やかに展開させたもののみである。一首が整然たる構成をもちほとんど句絶というものがなく、一首一句のごとき有様をなしているのは、一にそのためである。しかるにこの歌は、躍る心のまにまに、反射的に、思うことをぶちつけぶちつけしているごとき趣をもっている。しかし、さすがに乱れを見せず、一首を二段とし、第一段では死に対する怪しみをいい、第二段では怪しみを通しての悲しみをいって、繰り返しの形をもって漸層的に高めているのは、その卓絶した手腕のいたすところで、全体としては他に例のない昂奮そのままを示しているものである。人麿の感懐は、この表現の形式の中に如実に現われているといえる。
 なお人麿の長歌は、その抒情の中に、何らかの形で季節感をあらわしているのが風である。この歌の「露」と「霧」とは、いったがように、この事は秋であったことをあらわしているものと思われる。「秋山の下へる」という、やや特殊な譬喩も、同じく季節感をあらわしているものと見られる。結末の七音三句を重ねたものであることは、上にいった。
 
(337)     短歌二首
 
218 ささなみの 志賀津《しがつ》の子らが【一に云ふ、志賀《しが》の津《つ》の子が】 罷道《まかりぢ》の 川瀬《かはせ》の道《みち》を 見《み》ればさぶしも
    樂浪之 志我津子等何【一云、志我乃津之子我】 罷道之 川瀬道 見者不怜毛
 
【語釈】 ○ささなみの志賀津の子らが 「ささなみ」は、琵琶湖の西一帯の地名。「志賀津」は、志賀にある津で、他にも用例のあるものである。志賀にある津は大津と取れる。「子ら」は、長歌の方に出ているもので、「子」は采女を親しんでの称。「ら」は音調のためのもの。この采女は、題意でいったように、任が解けて、前《さきの》采女として、人妻となって志賀津に住んでいたものと解される。○罷道の 「罷道」は、一つの語で、死出の旅の道の意。続日本紀、巻三十一、藤原永手の薨去を悼《いた》ませられた宣命に、「美麻之大臣乃罷道母宇之呂軽久心母意太比爾念而《みましおほおみのまかりぢもうしろがろくこころもおだひにおもひて》」という用例がある。「の」は、同じ趣の語を重ねていう意のもの。死出の旅への道にして、それとともにの意。○川瀬の道を 「川瀬の道」は、特殊な語である。川瀬には道というものがあるべきでないからである。これは上の「罷道」を言いかえた語で、道ならぬ道、すなわち不自然な道で、長歌では暗示にとどめていた自殺ということを、一歩進展させて、投身ということを婉曲《えんきよく》にいったものと取れる。『代匠記』は、「川瀬の道は身を投むとて行しを云なるべし」といっているが、身を投げて溺れ死んだ所とすべきである。『新考』は、「川瀬を渡りてゆく道なり」といって、葬地に行く道としているが、それだと「道」とはいわず「渡り」というべきであり、また人麿が采女の死を聞いたのは、死後ある期間を隔てた時ということが長歌で察しられるから、いま葬送のさまを見ているとするのは、事としても不自然に思われる。○見ればさぶしも その所を目に見ると、さびしいことであるよ。
【釈】 ささなみの志賀津の子が、死出の旅の路にして、それとともに川瀬の中の道という、不自然な、道ならぬ道を、ここぞと目に見ると、さびしいことであるよ。
【評】 この歌は、長歌を進展させて、采女の投身して死んだ跡に立って見ての感である。「罷道の川瀬の道」という語は、投身ということをかなり明らかにあらわしたものであるが、長歌と同じく、婉曲に、言いきらずにいったものである。「川瀬の道」は、いったがようにやや無理な言い方をした語であるが、婉曲にいおうとするところから生み出した語と取れる。「川瀬の遺」の「道」は、上の「罷道」の「道」を繰り返した形となっているので、無理とはいっても自然さを保っているもので、無理でいて無理ではないものとなっている。すなわち無理を遂げているもので、むしろ、天才的というべきものである。この二句の婉曲は、一首の形の上からも自然なものとなっている。それはこれに先行する「楽油の志賀津の子らが」という、重く、また親しみ深くいっている語との照応によっても支持されているからである。初句より四句までの続きは、采女に対する愛惜と悲哀を、不信のうちに具象しているものである。結句「見ればさぶしも」は一転、感覚となっているので、上を結ぶ力の十(338)分にあるものとなっている。手腕の現われた作というべきである。
219 天数《あまかぞ》ふ 大津《おほつ》の子《こ》が あひし日《ひ》に おほに見《み》しかば 今《いま》ぞ悔《くや》しき
    天數 凡津子之 相日 於保尓見敷者 今叙悔
 
【語釈】 ○天数ふ この語はここに用いられているだけのもので、他には用例のないものである。訓も解も不定のものである。旧訓は「あまかぞふ」で、爾来諸説があるが、「凡」か「津」のいずれかにかかる枕詞として、その関係を通して迎えて施しているものである。比較的穏やかに聞こえるのは『講義』の解で、訓は旧訓に従い、「天」は、山といってそこに生えている草木をも含めていう例により、天の星をも含めたものとし、その数の多いところから「多《おほ》」と続けて、同音の「凡」の枕詞としたものだろうといっている。しばらくこれに従う。○大津の子が 「大津」は、前の歌の志賀津と同じで、それを言いかえたもの。「子」は、采女を親しんでの称。○あひし日におほに見しかば 「あひし日に」は、逢ったことのあった時にで、たぶんは、かつて采女として後宮にあり、供奉として外出した折などであろう。「おほに見しかば」は、長歌に出た。一目、よそながら見ただけなので。○今ぞ悔しき その人の亡くなった今は、再び見難いので残念なことであるの意。
【釈】 天数う大津の子の、逢った時に、ただ一目よそながら見ただけなので、亡い今は、再び見難く残念なことであるよ。
【評】 これは長歌の繰り返しである。反歌は長歌を繰り返すのが人麿以前の風で、今はそれに従ったものである。繰り返しは、長歌の要点に対してするのが風で、それは心理的にも当然なことである。ここに繰り返していることは、死んだ采女を慰めるものでもなく、また最も悲しんでいるはずのその夫を慰めるものでもなく、単に見知りごしという関係にすぎない人麿自身の心で、挽歌の性質からいうと最も軽かるべき部分である。それを反歌として繰り返していることは、やがてこの挽歌の性質を語っていることで、この挽歌は人麿自身の思いをやることを主眼としたものなのである。采女に対してきわめて関係の薄い人麿が、何ゆえにこのような情熱をもって挽歌を作ったかというと、それは亡び去った若く美しい采女を惜しむ心からだろうと思われる。采女は形容の端正ということを一つの資格としているものである。この采女も美しい人であったろうと察しられる。その美しさを愛惜し尊重する心が、こうした情熱となったのであろう。長歌の起首の、新意をもった美貌《ぴぼう》を讃える語、また反歌の「ささなみの志賀津の子ら」「天数ふ大津の子」などいう、讃え詞に近い呼び方も、すべてその心よりのものと思われる。根本は人麿の人生を愛する心からのものであるが、それに加うるに美を愛する心があって、後のものの方が強く働いている歌と取れる。
 
(339)     讃岐の狭岑島《さみねのしま》に石中に死《みまか》れる人を視て、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 人麿が瀬戸内海を航海中、風浪を避けるために、船を讃岐の狭岑島に着けて上陸すると、はからずも浜辺に屍体を発見しての感傷を詠んだものである。「狭岑島」は、香川県坂出市港外にある島。狭岑島は反歌では佐美《さみ》の山といっているので、狭岑とも佐美とも呼ばれていたことがわかる。これは島を島根ともまた島山ともいうが、根と山とは同意語で、海の上から見ると、島は山の感をもっているからの称で、狭岑とは佐美根、すなわち佐美の島と思われる。歌で見ると、そこは普通の航路にあたっていたところと思われる。なお路順から見ると、この航海は、西方より東方へ向かってのものとわかる。「石中」は、屍体のあった場所で、屍体は行き倒れと解されたようなので、浜辺の小石の中と取れる。
 
220 玉藻《たまも》よし 讃岐《さぬき》の国《くに》は 国柄《くにから》か 見《み》れども飽《あ》かぬ 神柄《かむから》か ここだ貴《たふと》き 天地《あめつち》 日月《ひつき》と共《とも》に 満《た》り行《ゆ》かむ 神《かみ》の御面《みおも》と つぎて来《く》る 中《なか》の水門《みなと》ゆ 船《ふね》浮《う》けて 吾《わ》がこぎ来《く》れば 時《とき》つ風《かぜ》 雲居《くもゐ》に吹《ふ》くに 沖《おき》見《み》れば とゐ浪《なみ》立《た》ち 辺《へ》見《み》れば 白浪《しらなみ》さわく 鯨魚取《いさなと》り 海を恐《うみかしこ》み 行《ゆ》く船《ふね》の 梶《かぢ》引《ひ》き折《を》りて をちこちの 島《しま》は多《おは》けど 名《な》ぐはし 狭岑《さみね》の島《しま》の 荒磯面《ありそも》に 廬《いほ》りて見《み》れば 浪《なみ》の音《と》の 繁《しげ》き浜辺《はまべ》を しきたへの 枕《まくら》になして 荒床《あらどこ》に ころふす君《きみ》が 家《いへ》知《し》らば 行《ゆ》きても告《つ》げむ 妻《つま》知《し》らば 来《き》も問《と》はましを 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》だに知《し》らず おほほしく 待《ま》ちか恋《こ》ふらむ 愛《は》しき妻《つま》らは
    玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貿寸 天地 日月与共 満將行 神乃御面跡 次來 中乃水門從 船浮而 吾榜來者 時風 雲居尓吹尓 奧見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭岑之嶋乃 荒礒面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓爲而 荒床 自伏君之 家知者 徃而毛將告 妻知者 來毛問益乎 玉桙之 道大尓不知 欝悒久 待加戀良武 愛伎妻等者
 
(340)【語釈】 ○玉藻よし讃岐の国は 「玉藻よし」は、「玉藻」は(一三一)に出た。藻を讃えての称。「よし」は「青丹《あをに》よし」と同類で、「よ」の詠歎に「し」の強めの添ったもの。讃岐の枕詞としてある。他には例のないもので、人麿が海上より讃岐を見て、その国の讃え詞として造ったものと思われる。○国柄か見れども飽かぬ 「国柄」は、熟語。「柄」は、故《から》の意で、国が良きゆえの意。「か」は、疑問。「見れども飽かぬ」は、しばしば出た。いくら見ても飽かないで、きわめて賞美する意。二句、国が良いゆえか、いくら見ても飽かないことよ。○神柄かここだ貴き 「神柄か」は、上の「国柄か」を語をかえて繰り返したもの。国はすべて諾冊二神の生ませたもうたもので、神の分身であり、神であるということは、上代の信仰である。ここもそれである。古事記、上巻に、「次生2伊予之二名島1此島者身一而有2面四1毎v面有v名、故伊予国謂2愛比売1、讃岐国謂2飯依比古1云々」とあり、伊予は四国の総名で、讃岐の神であることは明記されてもいる。「ここだ」は、「ここば」ともいい、後には転じて「ここら」となった語で、多いという意の古語。「貴き」は、讃えてのもの。二句、神にますゆえか、はなはだ貴きことよで、二句、上の二句と対句。以上第一段。○天地日月と共に 「天地日月」は、いずれも欠くるところのない完全なものとして、下の「満《た》る」の譬喩としたもの。「共に」は、それらと同じくの意。○満り行かむ神の御面と 「満り行かむ」は、満ち足りて行こうとする、すなわち完全なるものとなろうとするで、下の「御面」につづく。「神の御面」は、「神」は国にして同時に神である意のその神。「御面」は国の有様の眼に映るところを、神との関係で御面といったもの。「と」は、と思っての意。四句、天地月日の完全なると同じく、完全なるものとなって行くであろうところの神の御面すなわち国の有様であると思ってというので、上を承けて、讃岐の国の海岸寄りを航行しつつ、子細にその国を讃えた意。○つぎて来る中の水門ゆ 「つぎて来る」は、「つぎて」は、続きての意のもの。「来る」は、こいで来る意で、人麿の航行のさまをいったもの。主格は作者である。「中の水門」は、「中」は、古の那珂郡。香川県丸亀市下金倉町金倉川河口。「水門」は、港。那珂の港は丸亀の近くにある中津であろうといわれている。「ゆ」は、より。○船浮けて吾がこぎ来れば 船を浮かべてこいで来るとで、舟子《かこ》のこぐのを自身のするようにいったもの。そのこいで来るのは、狭岑の島すなわち今の砂弥島で、中津からは北東にあたっている。人麿の航海の西方より東方に向かっていたものであることが知れる。以上、意味の上では第二段となっている。○時つ風雲居に吹くに 「時つ風」は、潮の満ちて来る時に吹く風で、時にあたって吹く風の称であろうという。巻六(九五八)に、「時つ風吹くべくなりぬ香椎《かしひ》潟潮干のうらに玉藻苅りてな」とあるので知られる。相応に強い風と取れる。「雲居」は、空の意のもの。海上に見る空で、水平線に沿っている空をいっている。○沖見ればとゐ浪立ち 「奥」は、沖。海の遠方。「跡位浪」の「跡位」は、『考』以来「しき」にあてた文字で、重浪《しきなみ》と訓まれてきたが、北条忠雄氏の訓と解に従い、うねり撓み立つ浪の意とする。なお重浪《しきなみ》とすれば頻繁に寄せて来る浪の意で、『講義』が委しい考証をしている。○辺見れば白浪さわく 「辺」は、海岸寄りの所。船中から見ての状態で、船は陸寄りを航行することになっているから、その折から添っていたところの陸の状態。○鯨魚取り海を恐み 「鯨魚取り」は、(一五三)に出た。海の枕詞。「海を恐み」は、海を恐れて。○行く船の梶引き祈りて 「行く船」は、前方へこいでゆく船。「梶」は、今の※[舟+虜]《ろ》にあたるもの。「引き折り」は、引き撓めてで、強くこぐ状態をいったもの。二句、風浪の危険から脱れるために、避難場所へ着けようと、こぎゆく船の※[舟+虜]を、撓むまで強く使って。○をちこちの島は多けど 「をちこち」は、あちらにもこちらにも。「多けど」は、後世の多けれどと同意の古語。○名ぐはし狭岑の島の 「名ぐはし」は、巻一(五二)に出た。名のよろしきの意で、土地を讃える意で添えたもの。「狭岑の島」は、題意でいった。○荒磯面に廬りて見れば 「荒磯面」は、海辺の水上に現われている石の上。「廬りて」は、航海中、陸寄りの場合は、危険を避けるために上陸するのが風で、その場合、(341)廬を作って入るのも風であった。無事な時でも、夜寐るためにはすることであった。以上、意味の上では、第三段となっている。○浪の音の繁き浜辺を 「浪の音」の「音」は、仮名書きによってのもの。「浜辺」は、磯辺と差別して、磯辺が石ころ続きの所であるのに、砂原になっている所をいう。二句、時つ風のために浪の音がたえず立っている侘びしい砂原をの意。○しきたへの枕になして 「しきたへの」は、しばしば出た。ここは「枕」の枕詞。「枕になして」は、枕としてで、枕とはすべくもない物をそれとしての意で、死人のさまを美しくいったもの。○荒床にころふす君が 「荒床に」は、荒ららかな床にで、床とはすべくもない浜辺をそれとしている意。「ころふす君が」の「ころ」は独り、または自分自身を意味する語で、古くから用例がある。みずから横たわるの意。これも死人のさまを美しくいったもの。以上四句、直接に死人といわず、不自然な所に寐ているといって、美しくそのことをあらわしているのは、死者を敬う心からのことと取れる。「君」という代名詞も、敬意をもってのもので、それと一致している。○家知らば行きても告げむ 死人の家を自分が知っているならば、そこへ行って家人に知らせようで、死者その人を思うよりも、思いを死者の家人に寄せたもの。○妻知らば来も間はましを 「妻知らば」は、死人に妻があるとして、その妻が夫がここにいると知ったならば。「来も問はましを」は、来て問おうものをで、「も」は軽く、「を」は重い詠歎。ここも死人を、死人とまではしきらず、生きている者であるかのようにいっている。○玉桙の道だに知らず 「玉桙の」は、道の枕詞。夫のいる所へ行く道だけも知らず。○おほほしく待ちか恋ふらむ 「おほほしく」は、(一七五)に出た。心が晴れずに。「待ちか恋ふらむ」は、夫の帰りを待って恋っているであろうか。○愛しき妻らは 「ら」は、音調のためのもの。この人の愛している妻は。
【釈】 玉藻よし讃岐国は、その国の良いがゆえか、いくら見ても飽かないことよ、その国の神にましますゆえか、甚しくも貴いことよ。完全なるものの天地日月と同じく、完全になってゆく神の御面とみえる国の有様であると愛でたく思って、航路の次第を追って次から次と続けてきた中の港から、船を浮かべて前方へとこいでくると、満潮に伴う時つ風が、水平線上の空に吹き起こって、沖の方を見ると、うねり盛りあがる浪が立ち、沿ってゆく陸の海岸寄りのところには白浪が騒いでいる。海の危険を恐れて、前方に向かってゆく船の※[舟+虜]《ろ》を、撓《たわ》むまでに強くこいで、あちらこちらに島は多くあるけれども、名の良い狭岑の島にこぎ寄せて避難をし、荒磯の上に廬を作って周囲を見ると、浪の音のたえずも立っている浜辺を、不自然にも枕となし、またそこを荒ららかな床としてみずから伏している君の、その家を我が知っているならば、往っても家人に告げ知らせよう、この君の妻がここにいると知るならば、来て様子を尋ねもしようものを、夫のいるあたりの道だけでも知らずに、心晴れずその帰りを待って恋っているであろうか、この君の愛している妻は。
【評】 この歌は人麿が、瀬戸内海を西方より東方に向かって航海しているうち、讃岐《さぬき》の狭岑の島ではからずも死人を見て、それに対しての感懐を詠んだもので、歌の体からいうといわゆる道行きである。この体は伝統の久しいもので、また人麿の好んで用いた体でもある。
 一首の中心となっているものは死者に対する感懐なので、その意味では挽歌と称すべきものである。しかし歌を見ると、死者その者に対しては多く触れるところがなく、死者の状態を、(342)生者とさして異ならないような間接な、また美しい語《ことば》をもって叙することによって、一種の敬意をあらわしているだけで、人麿の心はただちに死者の妻に馳せ、夫の死を知らずして、その帰りを待ち恋っているだろう妻を憐れむものとなり、それを中心としているのである。しかも人麿は、その死者に妻の有る無しも知らないので、その憐れみは妻があると想像の上で定めてのものである。これは挽歌としては特殊なもので、取材の上からは、挽歌の範囲のものであるが、心としては、人麿の人生に対する心持の方が主となっているものである。一首の味わいもまたそこにあるものである。この事は、この歌の構成も示しているところである。
 第一段は、「語釈」でいったように、起首より「ここだ貴き」までで、讃岐国を大観して讃えたものである。この讃え詞は、いったがように古事記上巻の諾冊二神の国生みに脈を引いているもので、重く力強いものである。第二段は、いったがように意味の上からのもので、「船浮けて吾がこぎ来れば」までで、第一段をうけて、讃岐国を子細に讃えてい、これまた、第一段に劣らず、重く力強いものとなっている。第一段と第二段、すなわちこの歌の前半は、国であるとともに神にまします讃岐国を、舟行の旅人の心と眼を通して讃えたもので、強く人間生活を肯定する、明るい心の現われである。一首の一半を人間生活の肯定にあてるということは、単なる挽歌を詠もうとする心からはおそらくはしないことである。この歌を人麿の人生に対する心持をいおうとしたものだということは、ここにも現われている。
 第三段は、いったがように、心の上でのもので、「荒磯面に廬りて見れば」までである。当時の航海は、その船の脆弱な物であった関係上、多少なりとも風浪の惧《おそ》れのある時は、安全な島蔭に避けて、その鎮まるのを待つのが普通であった。人麿のこの時に遭った風は、いわゆる時つ風で、特異なものではない。狭岑の島の廬は、むしろ普通なことであったと思われる。第四段は、それより結末までで、第三段を承けて、そこではからずも死人を発見したことである。当時の旅行は、不便でもありまた困難でもあって、旅人の行路病者として行き倒れとなる者、また餓死する者さえもあって、まれなことではなかったのであ(343)る。人麿の見た者もその範囲の者である。しかしそれが、いたくも人麿の胸を打ったことは、この長歌の中心を、その行き倒れにしていることによって明らかである。しかるに人麿の心は、死者そのものを隣れむことには向けられず、そこには死者を隣れむ語《ことば》も、また慰めようとする語もない。そこにあるのは、死者なるがゆえに敬って、死者をいうにも、死ということは暗示にとどめる程度の間接なまた美しい語をもっているだけである。死者をいうことを中心とした歌で、しかもその死者はこうした特殊な状態のものであるにもかかわらず、その惨《いた》ましい状態には触れまいとしているところに、人麿の心があるといえる。なお人麿は、目にしている死者についてはいうまいとしているが、目に見ざるその妻には深い隣れみをよせている。死者に妻の有る無しはいったがように人麿の知らない所であるのに、それを有ると定め、しかも死者に取っては「愛《は》しき妻ら」であると定め、そしてその妻は「おほほしく待ちか恋ふらむ」と定めているのは、人麿の他の歌にも示しているように、人間生活の価値、興味を夫婦生活にありとし、それを通して強く人間生活を肯定しようとする心の現われであって、それのかなわなくなった死者はつとめて見ぬさまをし、死者を超えたあなたの、その有る無しもわからぬ妻にその心を繋いで、そこに深い隣れみを感じているのである。この死者に対する人麿の態度は、挽歌の心ではなく、死者を通して新たに感じさせられてきた、人間生活に対する心持にほかならぬものに見える。
 さらに前半の、讃岐国の国土に対し、その生成発展に対しての礼讃と、この後半の、死者を軽く、生者を重く見ている心とは、緊密に関連しているもので、前半によって後半の心が明らかに、後半によって前半の心が明らかにされることが見られる。一首は要するに死者という人間生活肯定の心を裏切るものを縁とし、刺激として、人間生活に属する強い肯定と執着とを示したものである。一首、事を叙することを主としているごとく見えるが、その事は人麿の主観を表現するためのものにすぎないものである。人麿の豊かな詩情を、散文的な方法をもって、微妙にあらわし得ている歌である。
 
     反歌二首
 
221 妻《つま》もあらば 採《つ》みてたげまし 佐美《さみ》の山《やま》 野《の》の《へ》上のうはぎ 過《す》ぎにけらずや
    妻毛有者 採而多宜麻之 作美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也
 
【語釈】 ○妻もあらば 「妻」は、死人の妻。「も」は、詠歎。「あらば」は、ここに居たならばと想像したもの。妻がもしここに居たらば。○採みてたげまし 「採む」は、下の「うはぎ」を採み取ること。「たぐ」は、飲食する意の古語で、下二段活用の動詞。「たげまし」は食べさせようで、「まし」は上の「あらば」と照応させたもの。○佐美の山 上の狭岑の島を言いかえたもの。そのことは題意でいった。○野の上のうはぎ (344)「野の上」は、「上」は、広く物のある位置をあらわす語で、単に野というと異ならない。「うはぎ」は、「おはぎ」ともいっている。今の嫁菜《よめな》である。古は一般に食料としたものである。○過ぎにけらずや 「過ぐ」は、食料とする時節が過ぎる意。嫁菜は春季の物なので、それが過ぎて食べられなくなるのは夏季である。「けらずや」は、後世は用いられなくなった語で、「や」は、反語。過ぎ去らなかったか、過ぎ去つたの意。
【釈】 妻がもしここに居たならば、採み取って茹《ゆ》でて食べさせたであろう。この佐美の山の野に生えている嫁菜は、食べる時節が過ぎ去ってしまったではないか。
【評】 反歌は、死人その人を中心として、隣れみの情をよせている。すなわち長歌に新たな展開を与えたのである。人麿は、死人を発見した驚きと、広い意味の感懐を味わわされると、心が静まって、死人の死因を思わせられ、餓死と判じたとみえる。さらにあたりを見ると、そこにはどこにでも生え、また茂りもする野草の嫁菜のあるのに心づき、これでも食べたならばと感じたのである。しかし、それを食べられるようにするには、妻の手がいるものとしたのは、妻思いの人麿の感傷である。たとい妻が居ても、すでに時節を過ぎた嫁菜では如何《いかん》ともし難かったのであろう。事の如何は顧みず、隣れみの気分を主として、心をこめていっているところに人麿の面目がある。
 
222 沖《おき》つ波《なみ》 来《き》よる荒磯《ありそ》を しきたへの 枕《まくら》とまきて 寝《な》せる君《きみ》かも
    奧波 來依荒磯乎 色妙乃 枕等卷而 奈世流君香聞
 
【語釈】 ○沖つ波来よる荒磯を 「沖つ波」は、沖の波のの意。「来よる」は、寄り来るの意の当時の言い方。「荒磯」は、上に出た。○しきたへの枕とまきて 「しきたへの」は、ここは「枕」の枕詞。「まきて」は、枕としての意。二句、大切なる物である枕とはしての意をいつたもの。○寝せる君かも 「寝せる」は、「寝《ぬ》」に敬語「す」がつき、「なす」となり、完了の助動詞「り」の連体形の接続したもの。寐ていられるの意。「君」は、死人を尊んでの称。「かも」は、詠歎。
【釈】 沖の波の寄って来る荒磯を、それとはすべくもない枕にはして、寐られているところの君ではあるよ。
【評】 これは長歌の一節を繰り返したもので、人麿以前の反歌の手法に立ち戻って詠んだものである。心としては、前の歌と同じく隣れみの情を主としたものである。死ということを直接にいうのを避けているのは、隣れみの情よりしていることとみえるが、必ずしもそればかりではなく、それに触れることを厭う心の伴っているためと思われる。それは前の歌も同様で、長歌もまた同様である。これは詩情というようなものではないことは長歌でいった。しかし一面には人麿の人柄よりきているところもあろうと思われる。
 
(345)     柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死《みまから》むとせし時、自ら傷みて作れる歌一首
 
【題意】 「石見国に在りて」というので、人麿が京より遣わされて、石見国の国司の一人として、国庁に在任中であったことが知られる。また、「死」とあるので、人麿の位の低かったことが知られる。それは喪葬令に、「凡百官身亡、親王及三位以上称v薨、五位以上及皇親称v卒、六位以下達2於庶人1称v死」と定められていた、それに従っての用字だからである。すなわち人麿は六位以下だったのである。『講義』は、石見国は中国で、守でも六位以下であったから、人麿が守以下であったとすれば当然のことであるといっている。人麿の死んだ年月は記されたものがないが、年次に従って編している本巻によって、この一類の歌の次は「寧楽宮」となっているところから、藤原宮時代のことで、遷都のあった和銅三年三月以前で、おそらくはその直前のことであったろうと想像される。斎藤茂吉氏は『柿本人麿』で慶雲四年説を立てている。
 
223 鴨山《かもやま》の 磐根《いはね》しまける われをかも 知《し》らにと妹《いも》が 待《ま》ちつつあらむ
    鴨山之 磐根之卷有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍將有
 
【語釈】 ○鴨山の磐根しまける 「鴨山」は、題詞によつて、石見国にある山とは知れるが、今はその名が伝わってはいず、したがってどの辺にある山ともわからないが、高角山と同じとするもの、江津市神村、浜田市旧城山の亀山、邑智郡邑智町亀、湯抱温泉付近の山、奈良県葛城山などの諸説が多い。しかし下の続きによって、その山の性格は知ることができる。「磐根しまける」は、「磐根」は、磐で、「根」は添えていった語。「し」は、強め。「まける」は、「巻き」「ある」の熟合した語で、「巻き」は枕とする意。磐を枕としているで、下の「吾」の状態としていっているもの。磐根をまくは、成句に近いもので、本巻(八六)磐姫皇后の御作歌「かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを」のそれと同意で、死して石槨の内に葬られている状態をいう語《ことば》である。この語は他にも用例の少なくないもので、古くは普通の語だったのである。ここは人麿が生者としていっているものなので、不自然なごとくに見えるが、その時は「死に臨みし時」で、死を覚悟し、またそれに関連して妻を憫《あわれ》む心で感傷している時でもあったので、近くあるべき状態を、すでにあったことのごとく強調していっているものと取れる。○われをかも 「かも」は、「か」の疑問に、「も」の詠歎の添ったもの。これは結句「待ちつつあらむ」にかかるものである。○知らにと妹が 「知らにと」は、『玉の小琴』の訓。古事記、崇神の巻、「うかがはく、しらにと」を証としてである。「知らに」の「に」は、打消「ず」の連用形で、古語。「知らず」を「知らに」というのは、下に続く事柄の理由をあらわす時のことで、ここはその事柄は「待ちつつ」である。「と」は、「知らに」を一つの状態として、修飾格とならせるためのもの。「妹」は、これに続く歌によって依羅娘子《よさみのおとめ》と知られ、また上の(一三一)「石見国より妻に別れて上り来し時」とあるその妻と知られる。それだとこの妻は人麿と同棲してはいず、人麿の住んでいたと思われる国府よりは、四、五里を隔てた角《つの》の里に住んでいたことが、同じく(一三一)以下の歌で知られる。○待ちつつあらむ 「待ち」は、人麿のその家より通って行くことを待つ意で、「つつ」は、(346)その継続。「らむ」は、現在の推量。三句の「かも」がこれに添ってくる。
【釈】 鴨山の石槨の内に、磐を枕として葬られている吾をそれとも知らずして、妻は平生のとおり、わが通ってゆくのを今も待ち待ちしていることであろうか。
【評】 年代順に歌を排列した本巻に、「臨死むとせし時」とあり、その後には歌がないので、これが人麿の最後の歌となったと思われ、感慨の深いものがある。当時の夫妻の関係は、これを人麿の歌について見ても、本巻(一三五)に、「さ寐し夜はいくだもあらず」という状態で、それがここにいう「妹」すなわち依羅娘子なのである。また、上の(二〇七)軽の妻も、その死は、葬儀も済んだ後、使の報告によってはじめて知るという状態であったことが知られる。これは特殊なことではなく、普通のことであったとみえる。それから推すとこの歌の場合も同様に、人麿はその国府にある家に病んで、いま命終えんとしているのであるが、それを妻の依羅娘子には知らさず、したがって娘子は知らずにいるという状態だったと見える。そうした状態にあって、人麿の最後の心は、その妻に対する憫みとなって現われたのである。「待ちつつあらむ」というこの単純な憫みが、その生に対する最後の執着だったのである。人麿の人柄が思いやられる。「鴨山の磐根しまける」は、その憫みの深さを具象化させるためのもので、そのほかのものではない。したがって「鴨山」は、死せば葬られる所と定まっていた山とみえる。墓所は山上を選ぶ当時の風習から国府からさして遠くなく、またさして高くない山であったろうと思われる。また人麿の想像した「磐根しまける」は、古風の土葬であるが、これに続く歌で見ると、事実は新風の火葬だったことがわかる。死に臨んだ時の想像が、古風な葬儀であったということも、人麿を思わせるものがある。
 
     柿本朝臣人麿の死《みまか》りし時 妻|依羅《よさみの》娘子の作れる歌二首
 
【題意】 依羅娘子は、(一四〇)に出た。(一三一)の、人麿が石見国から京に上る時に別れを惜しんだところの妻である。歌で見ると、人麿の墓所となった山を遠望しうるところに住んでいたことがわかる。
 
224 今日今日《けふけふ》と 吾《わ》が待《ま》つ君《きみ》は 石川《いしかは》の 峡《かひ》に【一に云ふ、谷に】まじりて ありと言《い》はずやも
    且今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓【一云、谷尓】交而 有登不言八方
 
【語釈】 ○今日今日と 原文「今日」に「且」を添えているのにつき、『講義』は詳しく説明している。「且」は漢字の助字で、疑問の意の「か」(347)の意をあらわすために添えたのだという。今日か、今日かと思って。○吾が待つ君は 通い来るのを吾が待っているところの君はで、人麿をさしたもの。○石川の峡にまじりて 「石川」は、鴨山と考えられている諸地域の川で、江の川上流、女良谷川、葛城連山の西麓を流れる石川(大和川の支流)などの諸説がある。「峡」は原文「貝」、近藤芳樹は『註疏』で、「峡《かひ》」にあてた借字だといっている。斎藤茂吉氏も「鴨山考」で、同じく谿谷としている。人麿のいう鴨山の範囲を広げていったものと思える。「まじりて」は、同じく『註疏』は、古今集などに野山に入って遊ぶのをまじりてといっているその意のものだといっている。古今集春下に、「いざ今日は春の山べにまじりなむ暮れなばなげの花の蔭かは」などがある。入り込む意である。○一に云、ふ、谷に 「峡」が、一本には「谷」とあるというのである。意味は同じで、谷の方がさらに一般的である。伝唱されて変化したのであろう。○ありと言はずやも 「やも」は、反語。あるといっているではないか、いっている、というので、驚き呆れた心をあらわしたもの。
【釈】 今日だろうか、今日だろうかと思って、吾が、通い来るのを待っている君は、石川の峡《かい》に入り込んでいると人がいっているではないか、いっている。
【評】 人麿の使がその変事を知らせに来た時の依羅娘子の心である。歌は事の意外なのに驚き呆れて、なかばは使の知らせを繰り返していい、その事を我と確かめようとするごときものである。賀茂真淵の考証によると、その時人麿は五十歳前後だったろうという。使の知らせのきわめて意外なものであったことは察しられる。依羅娘子は(一四〇)の、人麿の京に上る際の別れを惜しむ歌を見ると、気性のしっかりした、感情の強い、どちらかというと理知的な人に見えるが、この時はただ驚き呆れるのみだったのである。しかし詠み方には、その人柄を思わせるものがある。
 
225 直《ただ》のあひは あひかつましじ 石川《いしかは》に 雲《くも》立《た》ち渡《わた》れ 見《み》つつ偲《しの》はむ
    直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍將偲
 
【語釈】 ○直のあひはあひかつましじ 「直のあひは」は、旧訓「直にあはば」である。『玉の小琴』は、「相」を名詞として、今のように改めた。巻四(七四一)「夢のあひは苦しかりけり」を例としている。意味は、直接に逢うことはで、直接にというのは生前どおりにである。これに従う。「あひかつましじ」の「かつましじ」は(九四)に出た。逢い得なくなるであろうの意。○石川に雲立ち渡れ 「石川」は、上の歌と同じで、人麿の死んだ場所。「雲」は、火葬の煙で、当時の風に従って火葬にされたものと取れる。「立ち渡れ」は、立ちて広がれよと命令したもの。「立ち渡れ」と、「渡れ」を添えていっているのは、依羅娘子の住んでいる所からは、それでないと見えない意からの命令と取れる。○見つつ偲はむ その雲を見つつ夫を偲ぼうというので、これは初句の「直のあひ」に対照させ、死後の今となつては、唯一の、せめてもの慰めとしてのものである。
(348)【釈】 生前のごとく直接に逢うことは、できないであろう。火葬をされるというその石川の峡《かい》に、火葬の煙の雲と立って広がれよ。今はせめてそれを見つつも夫を偲ぼう。
【評】 妻として夫に対する挽歌である。深く悲しんではいるが、その悲しみを抑えて、おちついて、思い得られる限りのことを思って、昂奮のさまを見せていないことは、その歌の二つの句絶をもち、強く、素樸に詠んでいる所にも現われている。このことは単に挽歌として見ても珍しいまでのものである。これを人麿と比較すると、まさに正反対の感がある。人麿の妻を思う歌は、こうした性格の妻を対象としていたものであることが注意される。
 
     丹比真人《たぢひのまひと》名闕く柿本朝臣人麿の意《こころ》に擬《なずら》へて報《こた》ふる歌一首
 
【題意】 「丹比真人」は、丹比は氏、真人は姓《かばね》。「名闕く」は、原拠とした本に名が記してない意で、その誰であるかはわからない。『講義』は、集中に、この氏で名の異なる者が七人あるといってあげている。「意に擬へて報ふる歌」は、人麿の意中を推しはかつて、その心をもって、依羅娘子の歌に答える歌との意である。すなわち試みに人麿に代って詠む意のものである。おそらく人麿夫妻の歌が京に伝えられ、それに刺激されて、そうした文芸的な遊びをしたものであろう。これは奈良宮時代になると珍しくないこととなったものである。
 
226 荒浪《あらなみ》に 寄《よ》り来《く》る玉《たま》を 枕《まくら》に置《お》き 吾《われ》ここにありと 誰《たれ》か告《つ》げけむ
    荒浪尓 縁來玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰將告
 
【語釈】 ○荒浪に寄り来る玉を 「荒浪に」は、荒い浪によって。「寄り来る玉を」は、「寄り来る」は打寄せられて来る。「玉」は、貝の中にある玉にもいい、小石にもいっている。ここは多くの小石の意と取れる。○枕に置き 枕もとに置いて。○吾ここにありと誰か告げけむ 自分がここにいるということを、誰がそなたに告げ知らせたのであろうかで、その侘びしいさまを妻に知らせたことを、不本意に思う心をいったもの。
【釈】 荒い浪によって打ち寄せられて来る沖の小石を枕もとに置いて、自分がここにいるということを、誰がそなたに告げ知らせたのであろうか。
【評】 この「報ふる」というのは、(二二四)の「今日今日と吾が待つ君は石川《いしかは》の峡《かひ》にまじりてありと言はずやも」に対してのものと取れる。妻のその歌が人麿に伝えられ、人麿はそれに対して詠んだとしたのである。初句より三句までは、人麿が海べ(349)に倒れて寐ているものとして、その状態を想像で描いたものである。なぜに海べとしたかは、「石川の峡にまじりて」というのを、文字どおりに貝の多くある所に身を横たえたと取ったところからのことと思われる。これは誤りである。しかし結句「誰か告げけむ」と、告げたことを不本意としている心は、「鴨山の」の心に通うものがあって、技巧があるといえる。事件の関係で取られた歌とみえる。
 
     或本の歌に曰はく
 
227 天離《あまさか》る 夷《ひな》の荒野《あらの》に 君《きみ》を置《お》きて 思《おも》ひつつあれば 生《い》けりともなし
    天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
 
【語釈】 ○天離る夷の荒野に 「天離る」は、天とともに遠く離れているで、意味で夷にかかる枕詞。巻一(二九)に出た。「夷の荒野」は、地方の人げの稀れなさみしい野。○君を置きて 君を葬って、一人残しておいて。○思ひつつあれば生けりともなし 「思ひつつあれば」は、偲びつづけていれば。「生けりともなし」は、(二一二)に出た。生きているという気もしないの意。
【釈】 市より遠い地方の、人げの稀れな野に君を葬って、一人残しておいて、偲びつづけていると、生きているという気もしない。
【評】 これは(二一二)、「衾道を引手の山に妹を置きて山路《やまぢ》を行けば生けりともなし」を模倣し、それを概念化したものである。そのことは挽歌に例の多いことである。歌は、依羅娘子の心を詠んだものと取れ、左注にいう古本も、この巻の撰者もまた、その心をもってここに載せたものと取れる。作者が詳かでないというが、古本の方では前の歌に関係のあるものとし、作者は同じく丹比真人で、依羅娘子の(二二五)「直のあひは」の後の心を推しはかって、人麿にしたと同じ心をもって詠んだものとしたのであろう。そう想像するよりほかない歌に思われる。
 
     右の一首の歌、作者未だ詳かならず。但古本この歌を以てこの次《ついで》に載す。
      右一首歌、作者未v詳。但、古本以2此歌1載2於此次1也。
 
【解】 撰者の添えたもので、この歌は作者が詳かでない。ただし、古本がこの次《ついで》に載せているので、同じく載せるというのであ(350)る。
 
   寧楽宮
 
【標目】 寧楽宮は、元明天皇の和銅三年三月より、光仁天皇に至るまでの七代の宮である。本巻は、元正天皇の霊亀元年までで終っているから、当代の宮としていっているものである。
 
     和銅四年歳次辛亥、河辺宮人《かはべのみやひと》、姫島の松原に嬢子《をとめ》の屍を見て悲歎して作れる歌二首
 
【題目】 「河辺宮人」は、河辺は氏、宮人は名。河辺氏は新撰姓氏録によると、武内宿禰より出、宗我宿禰の後で、天武天皇の御代に朝臣の姓を賜わった氏である。しかるに宮人には姓がないところから、『講義』は考証して、河辺氏には他の一族があって、それは帰化人の一種の称であった勝《かち》の一族であり、宮人はそれであろう。またこの歌の趣から見ると、この河辺の氏は、摂津国川辺郡に因《ちな》みがあるのではないかといっている。「姫島」は摂津の地名で、古史の上に折々出ている地である。所在については諸説があって明らかではない。が、大阪市難波区勘助町、西淀川区姫島町などの説がある。「嬢子の屍を見て」は、歌によると投身して死んだ嬢子のあったことを聞いて知っただけで、屍を目にしているのではない。題詞は文章を主としたものと取れる。嬢子が何ゆえに自殺したかはわからない。美しい嬢子の何らかのあわれさからのこととして、作者はその大体を知っての上の作と思われる。
 
228 妹《いも》が名《な》は 千代《ちよ》に流《なが》れむ 姫島《ひめしま》の 子松《こまつ》が末《うれ》に 蘿《こけ》生《む》すまでに
    妹之名者 千代尓將流 姫嶋之 子松之末尓 蘿生万代尓
 
【語釈】 ○妹が名は千代に流れむ 「妹」は、男より女を親しんで呼ぶ称で、ここは死者であるがゆえに懇ろに呼んでいるものと取れる。「名」は、呼名で、その土地の者にはよく知られてい、作者宮人もむろん知っていたものと取れる。「千代に流れむ」は、千年の後までも、すなわち永く言い継ぐことによって伝わろうの意。これは死者を忘れずに永く記憶することが、その霊を慰める第一の方法だったからである。○姫島の子松が末に 「子松」は、文字どおりに若松。そこは姫島の松原で、松は多いのであるが、その中の小松を選んでいったもの。「末」は、梢。○蘿生すまでに 「蘿」は、松のこけとも、さるおがせともいう。これは老松の梢に生える物としていっている。「姫島の」以下は、「千代」ということを強めるために、具象的に言い添えたものである。
(351)【釈】 妹の名前は、千年の後までも、人が言い継ぐことによって伝わってゆこう。ここにある小松が老松となって、その梢にさるおがせが生える遠い後までも。
【評】 いったがように投身して死んだ若い女の霊を慰める心をもって詠んだ挽歌で、「名は千代に流れむ」というのがすなわち慰めである。いかに挽歌とはいえ、その人に合わせてはその言葉が大げさで、不釣合の感のするものである。生活価値の大部分を夫婦関係に置いたところから、若い女の自殺ということは甚だ感傷を誘うものであったことは、人麿の歌でもわかる。この歌の心もその範囲のもので、作者宮人は、『講義』の注意しているようにその任地の関係から、嬢子の死因を聞き知って、そのためにこうした強い感傷を起こしたものと思われる。歌の調べは、細く弱いところをもち、遷都以後の風をもっている。
 
229 難波潟《なにはがた》 潮《しほ》干《ひ》なありそね 沈《しづ》みにし 妹《いも》が光儀《すがた》を 見《み》まく苦《くる》しも
    難波方 塩干勿有曾祢 沈之 妹之光儀乎 見卷苦流思母
 
【語釈】 ○難波潟 「潟」は干潟のそれで、干潮の時は底をあらわす所。難波の海にはそうした所があって、集中に限りなく出ている。一句、呼びかけたもの。○潮干なありそね 「潮干」は、干潮。「な……そ」は、禁止。「ね」は、他に対して頼み望む意のもの。干潮があってくれるな。○沈みにし妹が光儀を 「沈みにし」は、「に」は、完了。投身した。「妹」は、上の歌と同じ。「光儀」は、姿にあてた漢語。○見まく苦しも 「見まく」は、「見む」に「く」を添えて名詞形としたもので、見るであろうこと。「苦しも」は、心苦しに、「も」の詠歎の添ったもの。
【釈】 難波潟よ、干潮があってくれるな。投身をした妹の姿の現われるのを見るであろうことは、心苦しいことであるに。
【評】 前の歌と同じく、強い感傷をもって死者を隣れんだもので、隣れみは挽歌の心である。憐れみというのは、当時は死穢に触れることを忌む風が甚しかったが、この歌は死穢というようなことは遠く超えて、ただいたましさに堪えられない心から、屍体の現われんことを怖れているものだからである。潮の干満のある難波潟に対して、干潮のなからんことを願い、また干潮があれば必ず屍体の現われることとしているところは、感傷のさせることである。調べは前の歌と同じである。しかし溺れた感傷をあらわし得ているものである。
 
     霊亀元年歳次乙卯の秋九月 志貴親王《しきのみこ》の薨り給ひし時作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「志貴親王」は、巻一(五一)およびその後にも出ている志貴皇子で、親王とあるのは大宝令継嗣令の制に、「凡皇兄弟(352)皇子皆為2親王1」とあるによったものと取れる。それだと親王は、天智天皇の第七皇子、光仁天皇の御父で、追尊して田原天皇と申した方である。しかるに、親王の薨去の事は続日本紀に明記されており、霊亀二年八月の条に「甲寅二品志貴親王薨云々」とあって、年も月も異なっているので、そこに問題が起こってくる。『攷証』は、本集の薨去の年月の方が真であるとして、理由として、元年九月は元正天皇御即位の事のあった時で、薨去のことは、事の性質上忌み憚るべきだとして、薨奏を翌年八月まで延ばしたのであろう。続日本紀に記されている時はすなわち薨奏のあった時で、本集の方が真であるといっている。『代匠記』は、薨去の年月の齟齬《そご》しているところから、志貴皇子であるかどうかに疑いを挾み、『古義』はそれをうけて、日本書紀天武紀に、天武天皇の皇子に磯城《しきの》皇子と申す同名の皇子があられる。この皇子の薨去のことは記載から漏れている。志貴親王の薨去の年月をこれほどまでに誤るべくもないから、これは磯城皇子であろうというのである。『講義』は、本集中にある志貴皇子の御歌六首は、その五まで後の勅撰集に入っているが、いずれも田原天皇御製としている。古来そう認めていたことが知られる。しかし『攷証』のいうがごとく、薨奏が一年も後れるということが当時行なわれていたかどうかすこぶる疑わしい。決定的のことはいえないと、疑いを存している。歌から見ると『攷証』の解に従うよりほかなく思われる。今はそれに従う。作者は左注によって、笠朝臣金村とわかる。
 
230 梓弓《あづさゆみ》 手《て》に取《と》り持《も》ちて 大夫《ますらを》の 得物矢《さつや》手《た》ばさみ 立《た》ち向《むか》ふ 高円山《たかまとやま》に 春野《はるの》焼《や》く 野火《のび》と見《み》るまで 燃《も》ゆる火《ひ》を いかにと問《と》へば 玉桙《たまほこ》の 道《みち》来《く》る人《ひと》の 泣《な》く涙《なみだ》 ※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]《こさめ》にふれば 白《しろ》たへの 衣《ころも》ひづちて 立《た》ち留《とま》り 吾《われ》に語《かた》らく 何《なに》しかも もとなとぶらふ 聞《き》けば 泣《ね》のみし哭《な》かゆ 語《かた》れば 心《こころ》ぞ痛《いた》き 天皇《すめろぎ》の 神《かみ》の御子《みこ》の 御駕《いでまし》の 手火《たび》の光《ひかり》ぞ ここだ照《て》りたる
    梓弓 手取持而 大夫之 得物矢手挾 立向 高圓山尓 春野焼 野火登見左右 燎火乎 何如問者 玉桙之 道來人乃 泣涙 ※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]尓落 白妙之 衣※[泥/土]漬而 立留 吾尓語久 何鴨 本名※[口+言] 聞者 泣耳師所哭 語者 心曾痛 天皇之 神之御子之 御駕之 手火之光曾 幾許照而有
 
【語釈】 ○梓弓手に取り持ちて 梓弓を手に持つてで、弓を射る時の状態。○大夫の得物矢手ばさみ 「得物矢」は、幸矢《さちや》すなわち獲物の幸《さち》のあ(353)るべき矢の、その音の転じたもの。「手ばさみ」は、手の指に挟むこと。強い男子が矢を手の指に挟んで。○立ち向ふ 立って向かうで、連体形「向ふ」で的と続ける、その的を、下の高円の円に転じたのである。初句からこれまでの五句は、円《まと》の序詞。この序詞は、巻一(六一)「大夫《ますらを》の得物矢《さつや》手挿《たばさ》み立ち向ひ射る円方《まとかた》は見るに清《さや》けし」にならつたものと思われる。○高円山に 「高円山」は、奈良市の東にあり、春日山の南に、谷を隔てて立っている山で、聖武天皇の御代、ここに離宮を営まれたことが巻二十(四三一六)によって知られる。今の場合の高円山につき、『講義』は委しい考証をしている。志貴親王の宮は春日にあった。それは光仁天皇の宝亀元年十一月、この親王を追尊して天皇と称し奉った時の宣命に、「御2春日宮1皇子奉v称2天皇1」とあるので明らかである。また親王の御陵は田原西陵と称し、延喜式に「春日宮御宇天皇在2大和国添上郡1」とあり、現在は田原村字東金坊の東矢田原である。さて春日の地から田原西陵への順路は、春日から南へ向かい、高円山の中腹をめぐり、漸次東に転じ、東へと鉢伏峠を越えて行くのだという。すなわち高円山は親王の葬列の経過地点として捉えてあるものなのである。『攷証』もはやくこの事に触れ、「春日にをさめ奉らんとして、葬送のこの高円山をすぎしなるべし」といっている。○春野焼く野火と見るまで 「春野焼く野火」は、いわゆる焼畑をつくるために、春先、枯草を焼き払うことで、熾《さか》んな火だったのである。○燃ゆる火をいかにと問へば 燃えている火を何の火かと怪しみ訊ねるとで、問うたのは作者、問われたのは下の「道来る人」である。○玉桙の道来る人の 「玉桙の」は、道にかかる枕詞。巻一(七九)に出た。「道来る人」は、折から道をこちらへ来る人。○泣く涙※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]にふれば 「※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]」は中国の熟字で、小雨《こさめ》にあてたもの。諸本、文字が幾様にもなっている。「に」は、のごとく。泣く涙が小雨のごとくに落ちればで、道来る人の、作者の問いのために、悲しみを新たにして、はげしく泣き出した状態。○白たへの衣ひづちて 「白たへの」は、白いの意。「衣ひづちて」は、衣が涙のために濡れての意。「ひづち」につき『講義』は、この語の本義は、雨や露のために、衣の下部の泥土に濡れる意で、ここも涙を雨に譬えた関係から、その心をもたせたものだといっている。二句、上に続けて、道行く人の状態。○立ち留り吾に語らく 「立ち留り」は、問いを受けて、答えるために立ちどまった意。「語らく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、語ることには。○何しかももとなとぶらふ 「何しかも」は、「し」は強め、「か」は疑問。なんだってまあというほどの意。「もとな」は、ここは、由もなくというにあたる。「とぶらふ」は尋ねるの意。原文「※[口+言]」は京大本の書入れにあり、吉永登氏の訓による。なんだつてまあ由もないことを尋ねるのかの意。○聞けば泣のみし哭かゆ 「聞けば」は、そういう問いを聞くと。「泣のみし」は、「泣」は、泣き声。「のみ」は、ばかり。「し」は、強めで、声を立ててばかりで、悲しみの甚しい意。「哭かゆ」は、泣かれる。○語れば心ぞ痛き 「語れば」は、問われることのわけを語れば。「心ぞ痛き」は、悲しみの甚しさに、心が痛くなることであるよ。○天皇の神の御子の 「天皇」は、皇祖より歴代の天皇をこめ奉った広い意のもの。「神」は、そうした御方々は神に坐《いま》す意のもの。「御子」は、親王で、天皇の神の御子にまします御方と、志貴親王を讃えての称。○御駕の手火の光ぞここだ照りたる 「御駕」は、尊貴の御方の他行の意で、ここは親王の御葬送を婉曲にいったもの。「手火」は、松明《たいまつ》で、御葬送の夜は、松明を照らしてすることとなっていた。「ここだ」は、多く。「たる」は、連体形で、「ぞ」の結び、照っていることであるよの意。
【釈】 梓弓を手に持ち、強い男子が幸矢《さつや》を指に挾んで、立ち向かうところの的の、その的という高円山に、焼畑をつくるために春先の野の枯草を焼く野火かと見るまでに熾んに燃えている火は、一体何の火なのか訝とって訊ねると、道を来かかる人の、我に問われるままに、泣く涙を小雨のように降らせるので、その白い衣も濡れて、立ちどまって我に答えることには、なんだって(354)まあ由もないことを尋ねるのであるか、そういうことを聞くと、悲しさに声ばかり立てて泣かれる、わけを語れば悲しさに心までも痛くなることであるよ。あれは天皇《すめろぎ》の神の御子なる畏い御方の悲しい御駕《いでまし》の松明の光が、あのように多く照っていることであるよ。
【評】 挽歌は世を去った人に対して、その事を悲しみ、その人を忘れまいといって、霊を慰めることを目的とするものである。直接にその霊に訴えるか、あるいは間接にわが心としていうかの差はあるが、いずれにもせよ慰めを旨とした抒情のものである。しかるにこの歌は、それらとは類を異にしているものである。ここに扱っているものも、志貴親王に対する悲しみの範囲のものではあるが、親王に訴えるものでもなく、自身の悲しみでもなく、単に他人の悲しみを見せられ聞かされているというきわめて間接なもので、挽歌の本旨からは甚しく遊離したものである。表現もまた、挽歌の唯一の方法であるべき抒情ではなく、叙事の範囲のもので、叙事という中にも、むしろ劇的なものでさえある。それは、暗夜の路上に、高円山に怪しくも燃えている火を望んで、何の火だろうと訝る一人と、折から来かかって、その人の疑問に対して、その火の性質を泣きながら説明する他の一人との対話という構成にしているものだからである。志貴親王の薨去という、当時にあっては大きな事件を、暗夜の山上の手火という一些事に集中してあらわそうとし、またその山上は、『講義』の考証によって知られるように、葬列の経過する一地点にすぎないので、いかに印象を主としたものであるかが知られる。これは劇的な構成と称し得られるものである。最も抒情的であるべき挽歌を、最も散文的にし、同時に、最も宮廷的であるべき事件を、庶民的な扱いをしたもので、挽歌としては際やかな推移を示しているものというべきである。
 
     短歌二首
 
(355)231 高円《たかまと》の 野辺《のべ》の秋萩《あきはぎ》 いたづらに 咲《さ》きか散《ち》るらむ 見《み》る人《ひと》なしに
    高圓之 野邊秋芽子 徒 開香將散 見人無尓
 
【語釈】 ○高円の野辺の秋萩 「高円の野辺」は、高円山の西麓の緩やかな傾斜であろうと『講義』はいっている。萩の花の名所であったとみえ、集中の歌に多く出ている。「秋萩」は、四季を通じてある萩であるから、花を意味させるために「秋」を添えたもの。○いたづらに咲きか散るらむ 「いたづらに」は、甲斐なくで、その意は下にいっている。「咲きか散る」は、「か」は疑問で、咲きまた散るであろうかで、咲くも散るも趣のあるものとしていっている。○見る人なしに 「見る人」は、鑑賞する人で、ここは志貴親王をさしている。そのことは長歌との関係であらわしている。親王の宮が高円の野に近かつたのである。
【釈】 高円の野辺の秋萩の花は、甲斐なくも咲きまた散るであろうか。今はその趣を愛《め》でたもう人すなわち親王もなくて。
【評】 親王の薨去は「秋九月」であるから、萩の花の季節である。また「見る人なしに」は親王をさしているもので、それでないと足りない語《ことば》であるから、上の長歌の反歌であることは確かである。しかし長歌との関係から見ると、親王の宮が高円にあることは長歌に明らかに出てはいないので、その上から見ても飛躍がありすぎ、したがって関係の稀薄になっているものである。長歌と反歌とが緊密な関係を保っているのは、人麿時代までで、それ以後になると、憶良、赤人などの歌でも、この歌のような状態を示している。思うに短歌が盛んになり、反対に長歌は衰えて、短歌が時代的に中心となってきたことの反映であろう。この歌も、長歌との繋がりはもっているとはいえ、作者の心を第一に動かしたのは、高円の野辺の秋萩であって、自然の美観である。親王は、その美観のいたずらなるものとなるを惜しむ心から、その繋がりとなられているにすぎないものとなっている。挽歌が、自然の美観のいたずらになるのを惜しむ心から詠まれるということは、歌が生活実感から遊離したことを示すことで、時代的に見て注意されることである。
 
232 御笠山《みかさやま》 野辺《のべ》往《ゆ》く道《みち》は こきだくも 繁《しげ》く荒《あ》れたるか 久《ひさ》にあらなくに
    御笠山 野邊徃道者 己伎太雲 繁荒有可 久尓有勿國
 
【語釈】 ○御笠山野辺往く道は 「御笠山」は、春日神社の裏にある山で、上の高円山の北にあたっている。「野辺」は、御笠山の野辺で、御笠山が春日の内であるから、野は春日野である。「往く道」は、野の中を行く道で、この道は志貴親王の宮へ続く道とわかる。○こきだくも繁く荒れ(356)たるか 「こきだく」は、数の多いことをいう語であるが、今は甚しくの意で用いている。「繁く」は、「繁《しじ》に」「しげり」とも訓める。草の繁っている状態をいったもの。「か」は、詠歎。○久にあらなくに 「久に」は、久しいことではの意で、親王薨去以後の時をいったもの。「あらなく」は、名詞形としたもの。「に」は、詠歎。
【釈】 御笠山の麓の野を行く道は、甚しくも、草が繁って荒れていることであるかな、親王の薨去後久しいことでもないことなのに。
【評】 志貴親王の春日の宮への通路に立って、薨去後たちまちにして、その路に草の繁ってきたことを嘆いた心である。親王薨去とともに宮は住み棄てられ、したがって往来も絶え、野の路はたちまちにして荒れてきたとみえる。上の歌と同じく、長歌との関係において解される歌で、反歌の性格をもったものである。この歌は、宮の荒廃することを悲しむ心のもので、前の歌に較べると挽歌の心が直接で、したがって濃厚である。しかしその心は個人的の感傷で、親王に及ぼしてゆこうとするまでの心はないものである。挽歌を作る態度の上の推移が思われる。
 
     右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ。
      右歌、笠朝臣金村歌集出。
 
【解】 「右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ」という注につき、『講義』は注意すべき問題を提出している。要をいうと、巻一、二を通じて、ここに見るような注をしてあるのは、まず本《もと》として立てた歌があり、他にもそれに類似のあった場合に、「或本に」、あるいは「一本に」として、参照のためにあげたもののみである。しかるにこれは、本説として立てたものがなくして添えてある注である。一方、笠朝臣金村の歌集の歌は、集中に何首かあり、年代の明らかにして最後のものは、「天平五年春閏三月入唐使に贈れる歌」(巻八)があり、結集はその後のこととみなければならない。この注が原《もと》より存していたものとすると、巻二の撰定は天平五年以後ということにならざるを得ない。ここに三つの問題が起こる。一は、この歌は原より存し、左注だけが後人の加えたものとする考え。二は、歌も左注も原本にはなくてすべて後人の加えたものとする考え。三は、歌も左注も原より存したものとする考えだというのである。これは急には定められない問題である。最も想像されやすいことは、三つの中の最初の一で、本巻の撰者がこの歌を取った時には、歌が志貴親王の挽歌であるという、皇室に関係のあるものということを理由として取ったのであって、作者は不明だったのではないかと思われる。題詞にも目録にも作者名のないことがこれを思わせる。また、これに続く「或本の歌」のごとく、反歌に異伝があり、その異伝の原歌よりわかりやすいものになっているところから見て、この歌は口承され流布していたもので、撰者はそれによったのではないかということも思わせられる。すなわちこの歌は、歌の性質によ(357)つて取られたもので、作者の何びとかということは問題にされなかったのではないかと思われるのである。しかるに後年、笠朝臣金村歌集が結集され、それによると金村の作であることがわかったので、発見の興味と、その必要をも感じたところから、いま見るごとき左注を加えたのではないかと想像される。そう想像するのが自然に思われるが、これを証明することは困難である。
 
     或本の歌に曰はく
 
233 高円《たかまと》の 野辺《のべ》の秋萩《あきはぎ》 な散《ち》りそね 君《きみ》が形見《かたみ》に 見《み》つつしのはむ
    高圓之 野邊乃秋芽子 勿散称 君之形見尓 兄管思奴播武
 
【釈】 高円の野の秋萩よ、散ることはするなよ。親王《みこ》の形見として、いつまでも見つつ親王を偲びまつろう。
【評】 (二三一)を詠みかえたものであるが、三句以下は、対象が萩の花であるために、甚しく感傷的なものに感じられる。こうした感傷は、春日の宮に仕えていた人で、しかも女性ででもなければしないものに思われる。とにかく長歌との関係は、全然顧みないものである。(二三一)の歌が口承されているうちに起こった変化と思われる。
 
234 三笠山《みかさやま》 野辺《のべ》ゆ行《ゆ》く道《みち》 こきだくも 荒《あ》れにけるかも 久《ひさ》にあらなくに
    三笠山 野邊從遊久道 己伎太久母 荒尓計類鴨 久尓有名國
 
【釈】 三笠山の野から春日の宮にと往く道は、甚しくも荒れてしまったことかな。親王《みこ》薨去の後久しいことでもないのに。
【評】 (二三二)とは、二句「野辺往く道は」が、「野辺ゆ行く道」となり、四句「繁く荒れたるか」が、「荒れにけるかも」となって、いずれもわかりやすいものになっている。この変化は上の歌と同じく、口承された結果、平明化してきたためと思われる。
 
窪田空穗全集 第十三卷 萬葉集評釋T
 
昭和四十一年一月十五日 初版發行
          定價二〇〇〇圓
 著作者  窪 田 空 穗
 發行者  角 川 源 義
 印刷者  中内 あ き子
 發行所 【株式會社】角 川 書 店
    東京都千代田區富士見町二ノ七
    振替 東京一九五二〇八
    電話東京(【265】)七一一一(大代表)
 
(6)萬葉集 巻第三概説
 本巻に収められている歌は、その数からいうと二百五十二首という相応の量に上るものである。『国歌大観』の番号によると(二三五)より(四八三)にあたるのである。
 歌形からいうと、長歌と短歌とであって、旋頭歌は一首も含まれていない。その割当てからいうと、長歌は二十三首であって、他はすべて短歌である。これをこの巻に先行する巻第一、二に較べると、長歌が減って短歌が著しく増しているのである。これは本巻の歌の詠まれた時代の影響であって、言いかえると巻第一、二よりも時代が降っていることを語っているものである。
 なお、この歌数については言い添えるべきことがある。それは本巻には明らかに重出歌が一首あり、また、一つの歌の伝《つたえ》を異にして、部分的に幾分かの相異のあるにすぎないものの若干がある。これらも上の歌数の中に加わっているのである。重出歌は明らかに誤りであるが、異伝の歌は、独立した歌と見る方がむしろ自然である。それというが、いずれは記載されて伝わった歌で、その意味では記載時代といえるが、同時に一方には口承の風が加わっており、口承歌はそれの行なわれる時と処の相異によって、当事者にふさわしいように改作されるのが普通である。これは一種の創作であって、その当時者はおそらくは誇りをもってしていたことでもある。本来、口承歌は、たえず流動していて定形を保ち難いということがその性格であるから、いずれを真、いずれを偽とは定められないものだからである。
 本巻撰修の方針は、本巻とこれにつぐ巻第四とを一纏《ひとまと》めとし、巻第一と二とを規模とし、一にそれにならい襲おうとしているものである。これを部立の上でいうと、巻第一と二が、両卷を通じて「雑歌」「挽歌」「相聞」に当てているのと同じく、巻第三と四もそれをし、また、巻第一、二が歌の排列は年代順によっているのにならい、これも同じくそれにより、さらにまた、巻第一、二が、作者はその名の明らかなる者に限ろうとし、それも高貴の御方を主としようとしたのに、これも同じくそれによろうとしているのである。しかし時代の相異と、蒐集《しゆうしゆう》しうる資料の相異とは、その結果において、ある程度の相異はきたさしめているのである。
 部立の上で対比させると、巻第一は、全部を雑歌に当てているのに、こちらは、「雑歌」「挽歌」、それに加うるに、「相聞」の一部の「譬喩歌」を当てて、細かく分類している。これだけでは相通うところがない形であるが、それの代わりとして、巻第二の「相聞」「挽歌」に当てているのに対し、巻第四は、全部を「相聞」に当てて、その埋合わせをしているのである。すなわち両卷を三部に当てているという建前は同様であって、こちらは新たに「譬愉歌」という部を設けている点が異なるのみである。
(7) 「譬喩歌」という名称は、新しい部立であるがゆえに説明を要するものであるが、単にそれのみではなく、万葉集時代としては最盛の時期である奈良京時代の歌風を語る上には、重大なる関係をもつものであるから、かたがたここで概説をする。
「譬喩歌」の譬喩という語は、おそらく本卷の撰者の初めて用いたところのものであり、その譬喩は、広く万事にわたっていうものではなく、恋愛の感情を、自然の形象あるいは器物などに寄せていうに限られた名称なのである。この譬喩ということは、これを発生的に見ると、きわめて自然なものであり、したがってきわめて古いものでもある。本来恋愛の感情は、男女互いにもち合う漠然たる憧れの気分であり、その強いものであるにもかかわらず、とらえて語《ことば》とするには最も困難なものである。しかし上代の結婚にあっては、男女互いにこれを詠出する必要があって、せずにはいられなかったのである。その緊張した気分で、自然の風光、身辺の器物に対していると、その上にわが気分と通うもののあることを発見し、その対象にわが気分を絡ませていうことによって、初めてその気分を具象し得たのである。上代の相聞の歌には、その跡をありありと示しているものが少なくはない。この結果に名づけて譬喩というのは、後世の文芸意識よりのことであって、当時者によってはその譬喩は、文芸的のものではないのみならず、方便でもなく、ただちに目的であって、心と物と相一致したものであり、実際であるとともに心でもあったのである。これがいうところの譬喩の発生的に見た輪郭である。さらにこれを実際の成行きについて観《み》ると、「譬喩歌」という部は後の巻第七にもあり、そこには柿本人麿の歌が、この部立の中に取られて多くある。さらにまた巻第十一には、「物に寄せて思を陳ぶる歌」という、「譬喩歌」ということを更に説明的にした部分けがあり、そこには、同じく柿本人麿の歌がじつに多くその中に取られているのである。「譬愉歌」という名称は後のものであるが、事実としては奈良京以前にすでに盛行してさえいたのである。それらの譬喩は、人麿の偉大なる文芸性によって扱われ、美しく微妙なものになっているが、しかしそれを用いている人麿の態度は、発生的の意味でいう譬喩に即したもので、いささかの揺《ゆる》ぎもないものである。すなわち人麿は譬喩に即して自身の恋愛感情をあらわしており、譬喩がすなわち恋愛感情であり、その譬喩をいいおおせることが目的となっているのである。以上のごとき譬喩が、「譬喩歌」という名称のない以前の譬喩であり、これを文芸意識の上からいうと、無意識なものであり、譬喩以前のものだったのである。
 時代が降って奈良京に入ると、当時の人、あるいはそれを繞っている人々の生活気分は著しく変わってきた。飛鳥京、近江朝以来、憧憬し翹望《ぎようぼう》していた時代は現実として眼前に現われ、人々の実生活は、以前に較べるとはるかに物資豊かに、また容易に遂行されるものとなってきた。国家的の不安も解消し、人人は泰平を保証されるに至った。こういう状態の下にあると、国家に対し、また自身の生活に対して、緊張した精神をもって協力する必要は薄らいでき、弛緩してくる。これは具体的にいうと、集団精神が衰え、個人精神が昂まってくることである。(8)さらに一方には、仏教の興隆は、寺院の荘厳をとおして人々の耽美心《たんぴしん》を刺激する上に、漢文学の盛行は、わが国人をして、外国の詩形である漢詩を自由に作り、多くの名手を出すまでに至ったのである。和歌がそれら諸情勢の影響をこうむり、個人性を重んじ、耽美性を尊むものとなってきたのは当然の成行きというべきである。これを具体的にいえば、従来は生活態度の延長として、実際を重んじ、それに即して詠むことを性格としていた和歌は、同じく実際とはしつつも、それの醸し出す美的気分のみを偏愛し、それをわが心内に引きつけ、わがものとし、そこから和歌を詠み出すように変化しきたったのである。恋愛は人間本能の中の最も普遍性をもったものであり、また享楽を目的としているものである。これは美化するということは、心の諸相のうち、最も願わしく望ましいことである。恋愛気分を四季の風物の中の最も美しく、また最もあわれなるものによせ、また身辺の愛用している器物によせていうことは、美化するのみならず朧化《ろうか》し、一般化することである。従来あったものにしてその名のなかった譬喩に、漢詩文と等しなみに譬喩の名を与え、「譬喩歌」という部を特に設けるということは、時代性の反映であり、また得意としたところであろうと思われる。
 さて、以上の三部立と、歌の割当てを見ると、「雑歌」は百五十八首、「譬喩歌」は二十五首、「挽歌」は六十九首である。「譬喩歌」は少数であるが、これは巻第四の全部が「相聞」であることを背後に置いての数である。「挽歌」は、衰えてはいるけれども、相応の数というべきである。
 撰者は、誰かということは、重大な問題であるが、本巻は、大伴家持であることが定説となっている。その根拠となることは、本巻はいったがごとく巻第四と不可分の関係にあるのであるが、その巻第四には、大伴家持が数多の女性より贈られた恋の歌が、集を通じて他の誰にも見られないまでに多く採録されている事実である。相聞といううち、恋の歌は、その当事者が知っているのみで、第三者にはうかがい知り難い性質のものである。それをきわめて多く採録するということは、当事者にして、また歌を文芸として酷愛する人でなければできないことである。また、巻第三、四の撰修された時期と、それらの女性の作歌をした時期とは、さして隔たってはいないとみえるので、それが世間に流布《るふ》する暇もなかったろうと思われる点も加わって、撰修者は家持以外の人ではなかろうと推定されているのである。今はこれに従うのほかはない。
 歌の排列は、いったがごとく巻第一にならって年代順とし、また巻首、部立の最初は、いずれも巻第一にならって、最も古くして、高貴なる御方としようとしている。しかし本巻の撰修にあたって家持の獲た資料は、「挽歌」の首位に据えたのは、(四一五)「上宮聖徳皇子、竹原井《たかはらのゐ》に出遊《いでま》しし時、竜田山の死人を見て悲み傷みて御作《つくりませる》歌一首」と題した、「家にあらば妹が手纏かむ草枕旅に臥《こや》せるこの旅人《たびと》あはれ」である。これは日本書紀、推古紀二十一年の条に出ている、皇子が片岡に出でまし、道側に飢え伏している人を御覧になって詠ませられた長歌と歌因を同じゅうしているものと思われ、一事二伝ではないかといわれている。それとすると、歌形を異にしているという事は、その距離の甚しいものである。撰者としての家持がこれを探ったのは、もとよりしかるべき伝本によってのことと思われる。いつの代にできた異伝であるかはわからないが、永い時代がそれを承認しきたっていたという上からは、これを歴史的事実と認めたとしても、訝《いぷか》るにはあたらないことである。とにかく、古くして新しいものは得難かったのである。これをほかにすれば、「雑歌」の首位の、(二三五)「天皇、雷岳に遊びましし時、柿本朝臣人暦の作れる歌一首」であり、「天皇」は持統天皇にましますと推定されている。これを時代の確実なるものの初めとすれば、以下しだいに降って、「雑歌」にあっては、その年紀の明らかなものは、終わりに近く、(三七九)「大伴坂上郎女」の「祭神の歌」の天平五年十一月、「譬喩歌」は、天平初期のものと思われるだけで年代は不明、「挽歌」では、(四八一)「死せる妻を悲傷《かなし》みて、高橋朝臣の作れる歌」の、天平十六年七月に至っている。
 本巻はいったがごとく、作者の明らかな歌を取ることを建前としているが、その作者は七十余名である。代表的な作者は、柿本人暦、高市黒人、長奥暦、大伴旅人、山部赤人、大伴家持などであり、女流としては、持統天皇を初め、大伴坂上郎女である。本巻は皇族の御歌が少ないのであるが、これは撰者家持の手の及ばず、得難かったためと思われる。なおこれらの作者を年代的に大別すると、奈良遷都以前の人、遷都前後にまたがった人、遷都後の人であるが、遷都以前の人はその二割にすぎず、他の八割は遷都後の人なのである。これは巻第四にも通じてのことで、この両巻の歌風をも暗示しているものである。
 最後に、本巻に現われている歌風について概言すべきであるが、それは上の「譬喩歌」の解でほぼ尽くしているがごとく思われるから、ここでは繰り返さないこととする。要するに本巻の歌風は、奈良遷都前の二割の作者の歌風と、遷都後の八割の作者の比較であって、その二割の歌の八割の歌に推移しきたった跡が、すなわち本巻の歌風なのである。撰者家持は、敏感にその推移の中心をとらえ、これに「譬喩歌」と命名したのである。しかしいったがごとく、それに恰当《こうとう》する数は少なく、「譬喩歌」は新たなる憧憬の目標だったのである。そのいかに進展したかは、本巻以下の立証することである。
 なお、歌風の上で、特に注意される一事がある。それは連作の歌の、意識的に、強力に開展してこようとしていることである。その著しい例は、(三三八――三五〇)「大宰帥大伴卿、酒を讃《ほ》むる歌十三首」と題する連作である。十三首というがごとき多数の連作は、従前にはなく、ここに初めて見るものである。
 連作の歴史は、文献的には古事記、日本書紀の歌謡にまで溯りうるもので、索《もと》め難くはないまでのものである。それらはかりに制作年代に疑いがあるとしても、記紀撰述以前のものであることは確実である。短歌という形式が抒情に通するものとして愛用されるに至った時代、一首の短歌ではその情が尽くせずとしてあきたらず思い、いま一首をそれに連関して詠むということはきわめて自然なことであり、さらにいま一首を詠み添え(10)るということもありうることである。この連作を意識的に試みたのは柿本人麿である。そういう場合には人麿は、抒情的叙事ということを念頭に置き、叙事的進展を試みたので、長歌に代用させようとしたごとく見える。それにしても、その最大量は、巻一(四六−−四九)の四首である。しかるに、上にいう大伴旅人の十三首は、旅人が欝情《うつじょう》に堪えきれず、それにより脱れる術《すべ》として飲酒をした際の、その酔中の心情の起伏を叙したもので、純粋な抒情的なものであり、またあくまでも個性的なものでもあって、文芸ということは全く思料に上せていないかのごとく見えるものである。こうした歌は、歌は集団的のものであり、集団に通じなければならないものとしていた時代にはあり得ないものであって、集団から解放され、個人性をほしいままにすることが是認された時代に入って、初めて存在するものである。これは「譬喩歌」とは全然傾向を異にしているものであるが、その母胎は個人性の確保されての上のことであって、同腹の関係にあるものというべきである。この傾向は、さしたる展開は遂げなかったが、しかしある程度までは継承されるものとなっている。これも明らかに奈良京の歌風の一面である。なおこの傾向は、反面から観れば、短歌の叙事化であって、言いかえれば散文化である。それとしての展開は、本巻には見られないが、後の巻には有力に現われるものとなっている。
 
(11)萬葉集巻第三 目次
雑 歌                          20
 天皇、雷岳に遊びましし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首  20
 天皇、志斐嫗に賜へる御歌一首              23
 志斐嫗の和へ奉れる歌一首                24
 長忌寸意吾暦、詔に応ずる歌一首             25
 長皇子、猟路池に遊び給へる時、柿本朝臣人暦の作れる歌二首 
  井に短歌                       26
 或本の反歌一首                     29
 弓削皇子、吉野に遊び給へる時の御歌一首         30
 春日王の和へ奉れる歌一首                31
 或本の歌一首                      32
 長田王、筑紫に遺され、水島に渡る時の歌二首       33
 石川大夫、和ふる歌一首 名闕く             34
 又、長田王の作れる歌一首                35
 柿本朝臣人麿の覊〔馬が奇〕旅の歌八首          36
 
 
(20) 雑歌
 
     天皇、雷岳《いかづちのをか》に遊びましし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首
255 皇《おほきみ》は 神《かみ》にしませば 天雲《あまぐも》の 雷《いかづち》の上《うへ》に 廬為《いほりせ》るかも
    皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬爲流鴨
 
【題意】 「天皇」は御称号がないので、いずれの天皇にましますかがわからない。思うにこれは、原拠となった記録にこのようにあったのを、そのままに採録したもので、その原拠のものは、事、当代であるがゆえに詳しく記すに及ばないとしたのであろう。それだとその記録は、作者人麿の生存した時代でなくてはならない。人麿は持統、文武両朝の人であるのと、またこの巻は大体年次を逐って排列してあり、これにつぐ歌は女帝でましますところから推して、天皇は持統天皇であろうとされている。「雷岳《いかづちのをか》」は、訓は『考』によるものである。この岳は、いま高市郡明日香村|字《あざ》雷にあり、それについては、日本書紀、雄略紀七年に記録があって、初め三諸岳《みもろのおか》と呼んでいたのを、名を賜わって雷岳としたとあるので明らかである。そこは浄見原宮からも藤原宮からも幾何《いくばく》の距離もない地である。歌は天皇がその岳に行幸になられた時、そうした際の風として人麿が作ったところの賀の歌である。
【語釈】 ○皇は神にしませば 「皇《おほきみ》」は、『考』の訓。旧訓「すめろぎ」。これは当代の天皇を称し奉った語であり、一国の治者、すなわち政治上の君主の意で申したものである。「神」は、天皇を皇祖天照大神の御子として、大神と同じく神にましますとしての称である。「し」は、強め。「ませば」は、敬語である。大君はまさしくも神にましますのでというので、二句、天皇に対しての讃え詞であって、この当時すでに成句となっていたものである。巻一、二の長歌にしばしば出た「八隅知し吾が大王、高照らす日の御子」という讃え詞と、内容としては全く同じものである。短歌が時代の下るとともに盛行し、従来の讃え詞は形式として用い難くなった関係上案出されたものと思われる。なおこの系統の詞として、「現つ神」「現人神」がある。○天雲の雪の上に 「天雲の」は、天の雲のの意であるが、下の「雷」の居場所としていったもので、天の雲の中にいるの意で、雷の枕詞としたもの。「雷」は、上よりの続きは鳴神《なるかみ》ともいわれている雷であるが、それを雷岳としての雷に転義したもの。「上に」は、雷岳の頂上にの意。二句、天の雲の中にいる雷の、その雷という名を負っている雷岳の頂上にの意。「雷」は、転義させてあり、またそれであればこそ、「天雲の」は枕詞という形のものとなっているのであるが、作意から見ると、その転義がなく、文字どおり「天雲の雷」そのものなのである。(21)形としては転義したごとくにし、心としてはしていないという、その微妙な点が人麿の志したところであり、それがまた一首の眼目ともなっているのである。しかしこのことは、この当時にあっては、必ずしも技巧と称すべきものではなく、むしろ常識であったと思われる。それは上にいった雄略の巻によると、雷岳に坐《いま》す神は怖るべき蛇《おろち》であり、鳴神《なるかみ》もまた蛇だったのである。また神の坐す山は、山そのものも神であると信じられていたので、「天雲の雷」と、雷岳としての「雷」とは、信仰の上からはほとんど差別のないもののごとく感じていたことと思われる。もっとも時代的にいうと、信仰そのものも推移をまぬかれず、上代信仰はしだいに衰える傾向を取っていたとはみえるが、この場合、事としては天皇の行幸の際であり、歌はそれに対する賀歌であり、詠む者は上代信仰の保持者である人麿であるから、この二句の心は、厳存の事実として、安んじて言いえたものと思われる。○庵為るかも 「廬」は、かりそめの家に宿ることをあらわす名詞。「為《せ》る」は、『槻落葉』の訓。旧訓「する」。「せる」は、「しある」の約で、事の継続している状態をあらわすもの。「かも」は詠歎。ここは、かりの御座所を設けて、そこにいさせられることよの意で、お慰みの意をもって国見をしていらせられることを、距離をおいて申した語。
【釈】 大君はまさしく神にましますので、天雲《あまぐも》の中にいる雷《いかずち》の、その雷岳《いかずちのおか》の上に、かりそめの御座所を設けて、その内にいさせられることであるよ。
【評】 天皇を賀する心をもって、御稜威《みいつ》を誘えた歌である。上代にあっては、天皇の御稜威の最も際《きわ》やかに現われているのは、この国土に鎮まるあらゆる神々が、天皇に対しては臣としての礼をとり、その貢《みつぎ》を献じ、その力を奉るところにあるとした。巻一(三八)「吉野宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」、また(五〇)「藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌」は、いずれも山の神、河の神のこの事をするさまをいっているものである。更にまた、巻五(八九四)「好去好来の歌」は、ひとりこの国土の内のみならず、遠き海原をうしはく神々も、天皇の御使の乗る船を、みずから力を労して護ることをいっているのである。神は無上の力をもっているものと信じていた時代に、天皇はその神々を帰服せしめていらせられるということは、まさに絶対の尊さだっ(22)たのである。この歌はその信仰を下に踏んでのものである。「天雲の雷」は、「語釈」でいったがように、上代にあっては怖るべき神であった。しかるに天皇は今、その「雷の上に廬為る」という状態を示していらせられるのである。これは御稜威の積極的な現われというべきであるとし、それを捉え、それを中心として一首を成しているのである。「天雲の雷の上」という言い方は、形式から見れば文芸的のものとみえるが、精神としては文芸以前のもので、神の神たる天皇の御稜威をあらわそうとしていっているものであり、その文芸的の方面は、付属にすぎないのである。この、形式としては文芸であるが、精神としては文芸以前のものであり、しかもその関係は微妙であって、一見分かち難いものとなっているところに、人麿の国民としての態度はしばらくおき、歌人としての技倆が現われているのである。「皇は神にしませば」は成句であるが、この場合、その下に対しての繋がりは緊密を極めたものであり、また、お慰みの心をもっての国見を「廬為るかも」と、尊崇の心より距離をつけ、温藉《おんしや》の心をもって具象している技倆も、いずれも秀抜とすべきである。
 
     右、或本に云ふ、忍壁皇子《おさかべのみこ》に献れるなり。その歌に曰はく、王《おほきみ》は 神《かみ》にしませば 雲隠《くもかく》る いかづち山《やま》に 宮敷《みやし》きいます
      右、或本云、獻2忍壁皇子1也。其歌曰、王 神座者 雲隱 伊加土山尓 宮敷座
 
【語釈】 ○右、或本に云ふ一本は伝を異にして、忍壁皇子に献ったものとなっているというのである。○忍壁皇子 巻二(一九四)に出ており、天武天皇の皇子である。○王は神にしませば 当時成句となっており、天皇より皇子にも及ぼしたものと取れる。○雲隠る 「雲隠る」は、「隠る」は古くは四段活用であって、これは連体形である。雲に隠れているところのの意で、下の「雷」の状態をいったものである。上の歌の「天雲の」と内容は同じであるが、それを説明的にしたものである。○いかづち山に 「雷」を山の名としてのそれに転義したもので、この点も上の歌と同様である。したがって「雲隠る」は、形としては枕詞であるが、心としては必要な修飾であって、この関係もまた上の歌と同様である。○宮敷きいます 「宮」は、天皇、皇子など、神とます方《かた》のいます所の称で、上の歌の「廬せる」という御座所も宮である。「敷き」は、「知り」と同義で、ここはお営みになること。「います」は、いる意の敬語。
【釈】 大君はまさしく神にましますので、雲の中に隠れている雷、その雷という名の山に、宮を営んでいさせられる。
【評】 この歌は、上の歌とは題詞を異にしており、歌の語もかなりまで異なっているので、伝を異にしたものというよりも、むしろ別の歌と見るべきものである。これを伝の異なったものとのみ見たのは、一首の内容の近似していることを理由としてのことと思われる。忍壁皇子は持統天皇の御代の方であるから、上の歌と何らかの関係のあるものと見てのことかもしれぬが、(23)それはわからないことである。内容が近似しているとはいうが、それは単に素材のみのことで、双方のもつ抒情味の上には大きな相違がある。上の歌は精神力の緊張をもち、したがって躍動があり、全体として立体感の深いものであるが、この歌は抒情味より叙事性の勝ったもので、平面的な感をもったものである。その上より見ると、異伝というより本質の異なったものである。これを異伝と見たのは撰者の見である。『国歌大観』は番号を付していない。
 
     天皇、志斐嫗《しひのおみな》に賜へる御歌一首
 
【題意】 「天皇」は、上の歌に時代的に続けていると思われる点、また御製が女帝にましますと思われる点、さらにこれに続く歌が文武天皇の御代と思われる点などから、持統天皇であろうとされている。「志斐嫗」は、いかなる人であるかわからない。志斐は氏で、嫗は老女の通称であるとわかっているだけである。その氏というのは、『新撰|姓氏録《しようじろく》』に、天武天皇の御代、大彦命の後である阿部名代が、阿倍志斐連なる氏姓を天皇より賜わったことが載っているので、それによって知られるのである。御歌は御製とあるべきである。
 
236 不聴《いな》といへど 強《し》ふる志斐《しひ》のが 強語《しひがたり》 このごろ聞《き》かずて 朕《われ》恋《こ》ひにけり
    不聽跡雖云 強流志斐能我 強語 比者不聞而 朕戀尓家里
 
【語釈】 ○不聴といへど 「不聴」の「聴」は、聴許と熟するそれで、ゆるすの意のもの。義訓である。否《いな》の意で、用例の多い語。否、聞かずというけれどもの意。○強ふる志斐のが 「強ふる」は、強いて聞かせようとする意。「志斐の」の「の」は、東歌にだけ例のあるもので、巻十四(三四〇二)「背なのが袖もさやに振らしつ」、同(三五二八)「妹のらに物いはず来にて」を見ると、親しんでいう際に添えて用いる詞であろうという。○強語 強いて聞かせようとしてする物語の意と取れる。こうした語《ことば》の存在するのは、一方には聞かせなくてはならないこととして物語をする人があり、同時に一方には、そうした物語を聞くことを好まない人とがあって、そのために成立った語と思われる。またそうした物語は、単なる興味のものではなく、何らかの必要をもったものでなくてはならない。その上からいうと「語《かたり》」という語は語部《かたりべ》の語《かたり》を連想させるものである。語部の語ったことは、日常生活の上で心得ておかなければならない事柄の根幹をなすもので、古事記、日本書紀の資料となったものと範囲を同じゅうするものと思われる。志斐嫗はそうした物語をすることを職としていた者ではないかと想像される。○このごろ聞かずて しばらくのあいだ聞かないので。嫗が宮に参らなかったためと取れ、したがって嫗は直接に宮にお仕え申してはいなかった者と取れる。○朕恋ひにけり 「朕」は、天皇の御自称に限った文字。「恋ひにけり」は、「に」は完了。恋しがっていたことであるよの意で、恋しがられたのはその「強語」である。
【釈】 否、聞くまいというけれども、しいて聞かせるところの志斐のが強語よ。この頃は開かずにいるので、朕《われ》は恋しがってい(24)たことであるよ。
【評】 この御製を嫗に賜わったのは、嫗の和《こた》え奉る歌とあわせてみると、嫗がしばらく間《あいだ》をおいて宮に参り、天皇に謁を賜わった時であったと思われる。口頭をもってする言葉の代わりに歌をもってするというのは上代の風で、これもその範囲のものであるが、歌をもってするのは、何らかの意味において、そうする必要のある場合に限られたことと思われる。この御製は、必要というほどのものは認められず、善意をもってのお戯れで、興味よりのものと思われる。これは歌が文芸的となってき、時代とともにそれがしだいに濃厚になってきていたためと取れる。お戯れというのは、嫗を前にした、「不聴といへど強ふる志斐のが強語」と、揶揄《やゆ》なさったところにある。しかし一首の中心は、結句の「朕《われ》恋ひにけり」にあって、「恋ひ」というのは、表面は「強語」であるが、裏面は嫗その人に対しての御心もこもっているものと思われる。すなわち上の揶揄はこの好意をお示しになるためのものなのである。これはいわゆる語の機知に属するものであるが、それによって好意の限度をお示しになり、そうした際にも御身分の隔りをおつけになっているもので、含蓄をもったものである。「強ふる志斐のが強語」と、「し」の頭韻を踏んでいられるのは、おのずからにそうなったものと思われるが、無意識のものとは思われない。全体がおおらかに、温かく、客観性を十分にもたせていらせられるところは、尊貴の御歌風で、それに上の微細感を溶かし込まれているものである。
 
     志斐嫗の和《こた》へ奉れる歌一首 嫗の名未だ詳ならず
 
237 不聴《いな》といへど 話《かた》れ話《かた》れと 詔《の》らせこそ 志斐《しひ》いは奏《まを》せ 強話と言《しひがたりの》る
    不聽雖謂 話礼々々常 詔許曾 志斐伊波奏 強話登言
 
【語釈】 ○不聴といへど 上の歌と同じ。○話れ話れと詔らせこそ 「話」は、かたるの意をもった字で、典故のあるもの。「詔らせ」は、「のる」の敬語で、「のる」は告ぐる。「詔らせこそ」は、已然形よりただちに下に接続する古格のもので、後世の詔らせばこそにあたるもの。○志斐いは奏せ 「志斐い」の「い」は、主格に添えていう助詞で、平安朝以後は廃ったもの。「奏せ」は、上のこその結。○強話と言る 「話」は、上の「話れ」と同じ。強語だというで、上に「詔らせ」の敬語があるので、ここはそれで足りたとしたものである。
【釈】 否《いや》と申すけれども、語れよ語れよと仰せになればこそ、志斐は奏《もう》すのである。それを強語だと仰せられる。
【評】 この歌は、御製の心に縋り語に縋りつつ、ただ弁明をしたのみのものである。結句の「強話《しひがたり》と言《の》る」は、明らかに恨みを帯びたものである。この嫗の歌の生《き》一|本《ぽん》なところから見ると、事の真相は嫗のいうがごとくであって、天皇には「強語」と仰(25)せられるところのものをお好みになっており、同時にまた古い物語は、「強語」をもすべき大切なものであることをもお認めになっておられてのことと思われる。それだと御製の揶揄と機知とはますます加わりきたることとなる。和え歌は「朕《われ》恋ひにけり」には全く触れていないが、この生一本の歌は、その思し召に感動してのものと取れる。君臣の和気を眼に親しく感じさせられるような御製と和え歌である。
 
     長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》、詔《みことのり》に応ずる歌一首
 
【題意】 「長忌寸奥麿」とあるのと同じ人と思われる。この人の歌は巻一(五七)「二年(大宝)壬寅、太上天皇の参河国に幸しし時の歌」と題する中に一首あり、文武天皇大宝年代に生存した人とわかる。また巻九、「大宝元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇の紀伊国に幸《いでま》しし時の歌十三首」の中、(一六七三)はこの人の歌であり、時代は上と同様である。「詔」とあるは、年代的に見て文武天皇の詔であろうとされている。また、所は、歌で見ると海に近い離宮であるとわかるところから、孝徳天皇の坐しました難波豊崎宮で、時は、続日本紀に、文武天皇三年正月「幸2難波宮1」とある時であろうとされている。歌は、詔をこうむって作ったものである。
 
238 大宮《おほみや》の 内《うち》まで聞《きこ》ゆ 網引《あびき》すと 網子《あご》調《ととの》ふる 海人《あま》の呼《よ》び声《ごゑ》
    大宮之 内二手所聞 網引爲跡 網子調流 海人之呼聲
 
【語釈】 ○大宮の内まで聞ゆ 「大宮」は、皇居を尊んでの称。大宮の内までも聞こえてくるというので、大宮は尊く畏く、庶民の声などは聞こえるべくもない所であるとし、それがいま聞こえてくると、詠歎をこめていったもの。○網引すと 「網引」は、漁りをしようとして海に張ってあった網を、魚を捕えるために陸の方に引き寄せることをあらわす語で、名詞。「すと」は、その網引をするとて。○網子調ふる 「網子」は、網に従事する者の総称で、田を作る者を田子というと同じである。「調ふる」は、巻二(一九九)「斉《ととの》ふる 鼓《つづみ》の音《おと》は」につき、『講義』が詳細に研究し、軍隊の進退の節度を示すために、鼓を鳴らすことをいっている語だとした。ここも同様で、網引をするにあたり、網子の調子を合わせさせる意である。○海人の呼び声 「海人」は、本来は部族の名であったのが、その部族が海業をするところから、転じて海業をする者の意となった。ここはそれで、網子の頭《かしら》であることがわかる。「呼び声」の「呼ぶ」は、高声を発することにもいう語で、ここはそれである。上よりの続きで、調子を取らせるための高声で、今の音頭を取る、あるいは号令をかけるというにあたる。
【釈】 尊く畏い大宮の内までも聞こえてくる。今、網引《あびき》をするとて、それをする網子《あご》に、調子を合わせさせるためにするところの海人の懸声《かけごえ》の高声は。
(26)【評】 大和《やまと》の藤原宮にまします天皇には、海の光景が珍しく、したがって面白いものに思し召され、供奉の意吉麿にこれを歌に作れと仰せられたものと思われる。意吉麿は詔を畏んで、大宮と海人の呼び声をつないで一首の歌とし、表面は海の光景に興じ、それを客観的に叙したものとし、裏面には、畏き皇居と賤しき庶民とを「呼び声」を通して接近せしめ、天皇にはその声に興じられ、庶民はその声をたよりに勤労を続けている状態を暗示して、それによって国家を賀する情を抒《の》べたのである。海の光景の中「海人の呼び声」だけを選び、それを過不足なく扱い、太く、明るく、朗らかな調べに溶かし込んで、賀の心を徹底させているところ、まさに手腕と称すべきである。
 
     右一首
 
【解】 「題意」に引いた巻一、「二年壬寅云々」の行幸の際の歌にも、これと同じき左注がある。行幸の際の歌は、行幸その事を中心として、何人かの歌を集めるところから、このような注のあるのが型となっていたと思われる。それだとこの注は原拠となった本にあったままを記したものと取れる。
 
     長皇子《ながのみこ》、猟路池《かりぢのいけ》に遊び給へる時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「長皇子」は、巻一(六〇)に出た。天武天皇の第四皇子である。「猟路地」は、『大和志』に、「十市郡猟路小野、鹿路《ろくろ》村、旧属2高市郡1」とあり、今の桜井市鹿路で、多武峰より吉野に行く道にあたっている山中である。『講義』は、鹿路《ろくろ》というのは鹿路《かじ》を音読したもので、鹿路は猟路《かりじ》の約であろうといっている。そこには今は池はないが、涸《か》らせたのであろうという。
 
239 八隅知《やすみし》し 吾《わ》が大王《おほきみ》 高光《たかひか》る 吾《わ》が日《ひ》の皇子《みこ》の 馬《うま》並《な》めて み猟《かり》立《た》たせる 弱薦《わかごも》を 猟路《かりぢ》の小野《をの》に ししこそは いはひ拝《をろが》め 鶉《うづら》こそ いはひ廻《もとほ》れ ししじもの いはひ拝《をろが》み 鶉《うづら》なす いはひもとはり 恐《かしこ》みと 仕《つか》へ奉《まつ》りて 久堅《ひさかた》の 天《あめ》見《み》る如《ごと》く まそ鏡《かがみ》 仰《あふ》ぎて見《み》れど 春草《はるくさ》の いやめづらしき 吾《わ》がおほきみかも
    八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三※[獣偏+葛]立流 弱薦乎 ※[獣偏+葛]路乃小野尓 十六社者 伊(27)波比拜目 鶉己曾 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拜 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久竪乃 天見如久 眞十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞
 
【語釈】 ○八隅知し吾が大王高光る吾が日の皇子の 巻一以来しばしば出た。天皇に対しまつる讃え詞で、皇子にも適用したものである。今は長皇子に対してのもの。○馬並めてみ猟立たせる 「馬並めて」は、乗馬を並べ連ねて。「立たせる」は、猟をする意の「立つ」を敬語「立たす」にし、それと完了の「り」との熟合した語。なさるというにあたる。○弱薦を猟路の小野に 「弱薦」は、若い菰《こも》で、それを苅ると続けて「猟」に転じさせた枕詞。「猟路の小野」は、「小」は美称。「猟路」は地名で、「野」も「池」もそれにちなんでの称と取れ、野の中に池があり、池を繞《めぐ》った辺《あた》りで、猟をされたものとみえる。○ししこそはいはひ拝め 「しし」は、原文「十六」、四々十六という算術の九々より出た字であろうという。「しし」は肉《しし》で、その肉を食料とするものの総称であり、主として猪鹿をいう。これは猟の獲物として代表的のものである。猪鹿はその習性として、膝を折って腹這いになるものである。今は主としてその点を捉えていっている。「いはひ」の「い」は、接頭語。「はひ」は、「這ひ」。「拝《おろが》め」は、「拝《おが》む」の古語で、「こそ」の結である。続けては、這って拝んでいるの意である。日本書紀、天武天皇十一年九月の詔に、「勅自v今以後、脆礼《きれい》、匍匐礼《ほふくれい》並止之、吏用2難波朝廷之立礼1」とある。今はそれより幾何もたたない時であるから、公式の場合は立礼となったであろうが、普通の場合には跪礼、匍匐礼を行なっていたことと思われる。猪鹿の膝を折って腹這いになっている状態は、当時の礼の状態さながらだったのである。この状態を単に儀礼のものと見ず、臣民の天皇、皇子に対すると同じく、猪鹿の奉仕を誓っている状態と見たのである。奉仕とはこの場合、皇子の獲物となって身を捧げることである。二句、この心を具象化させ、暗示的にいったものである。○鶉こそいはひ廻れ 「鶉」は、猪鹿についで猟の獲物となるものである。この鳥は、その習性として、めぐり回っていたものである。「いはひ廻《もとほ》れ」は、「いはひ」は上と同じく、「廻れ」はめぐり回る意で、「れ」は「こそ」の結である。「いはひ廻る」は匍匐礼の状態で、その心は、上と同様である。なお、巻二(一九九)に「いはひ廻り 侍候へど」と出ていて、そこでもいった。この二句は上の二句と対句で、獣に対して鳥をいったもので、これによって獲物として皇子に獲らるべきものを網羅したのである。○ししじものいはひ拝み 「ししじもの」の「じ」は、名詞について形容詞化する辞で、それを「しし」に添え、「もの」に続けて熟語としたもの。ししのごときものの意。巻二(一九九)に出た。「いはひ拝み」は、上に同じ。猪鹿のごとくに腹這いとなって拝みで、これは供奉の臣下の皇子に奉仕する心を、御猟の野の状態を通してあらわしたもの。○鶉なすいはひもとほり 「鶉なす」は、鶉のごとく。「いはひもとほり」は、上と同じ。二句、上の二句と対句となっている。以上四句は、臣下の者の皇子に対する絶対の奉仕をいったもので、上の四句の獣、鳥の奉仕を展開させたものである。しかし形としては、獣鳥と不離の関係においてし、しかも対句としたものである。○恐みと仕へ奉りて 「恐《かしこ》み」は、『玉の小琴』の訓。旧訓「かしこし」。「と」は、として。○久堅の天見る如く 「久堅の」は、天にかかる枕詞。「天見る如く」は、下の「仰ぎ」に続き、その譬喩。○まそ鏡仰ぎて見れど 「まそ鏡」は、真澄《ますみ》鏡の意とされている。『講義』は、それだと「ます鏡」の転であろうが、「ます鏡」という語は当時のものには見えないと注意している。飽かず見る意で、「見」にかかる枕詞。「仰ぎ見れども」は、尊きものに対する心を具象的にいったもの。そのようにしているけれども。○春草のいやめづらしき 「春草の」は、春の草のごとくで、意味で「めづらし」にかかる枕詞。「いやめづらしき」は、ますます愛《め》でたいところの。○吾がおほきみかも 「おほきみ」は、長皇子。「かも」は詠歎。
(28)【釈】 安らかに天下をお治めになるわが大君にして、天《あめ》に光る日の神の皇子《みこ》の、乗馬を並べ連ねて御猟をなされるところの、若菰を苅るという、その猟路の野に、猪鹿《しし》こそはまず膝を折って腹這いの拝礼をして、皇子への奉仕を誓いまつっている。鶉こそ腹這いの拝礼をしてめぐり廻って、皇子の奉仕を誓いまつっている。その猪鹿のごとく腹這つての拝礼をし、その鶉のごとく腹這いめぐり廻っての拝礼をして、供奉の臣下も恐《かしこ》しとしてお仕え申し上げて、久堅の天《あめ》を見るごとくに仰ぎ、まそ鏡のごとく飽かずも見るけれども、春草のごとくますます愛でたくいらせられるわが皇子にましますことよ。
【評】 天皇の行幸の際、皇子の行啓の際などは、それをしかるべき機会として、供奉の臣下より賀歌を献じるのが上代の風であった。これは言霊《ことだま》の信仰から、賀歌そのものに御稜威を加えうる力がありとしてのことで、俵礼としてではなかったと思われる。漢土の風の影響もあったろうとは思うが、それは刺激にすぎなかったろうと思われる。当時の歌風として、実際に即し、具体的に詠まなければならない関係上、その場合の光景は叙してはいるが、それは賀の精神を徹底させるための方便で、目的ではなかったのである。この歌もその範囲のもので、「八隅知し吾が大王、高光る吾が日の皇子の」に始まり、「吾がおほきみかも」に終わって、皇子を讃えることに終始しているのはそのためである。一首二段から成っており、第一段は、「鶉こそいはひ廻れ」までである。これは野に棲む猪鹿《しし》、鶉のごとき禽獣までも、歓び進んで、身を捧げて大君に奉仕しようとしている心を、状態を通して具体的にいったものである。修辞が巧妙であるがために、一見文芸的のものに感じられるが、意とするところは、この国土の内にある一切のものは、その大君のものであることを意識し、それを歓びとしていることをいっているものである。第二段はそれより結末までで、こちらは供奉の臣下の奉仕の心をいったものである。御猟場そのものを主としたものとすれば臣下のことはいうを要さないものともなるのであるが、皇子に対しまつっての讃え詞とすると、これは何にも増して重いものでなくてはならないので、重く、終末に据えていっているのである。したがってこの供奉の臣下は、国民全体を代表する意をもつものであるが、その意は、上の禽獣との対照によって暗示し得ているといえる。「ししじもの」「鶉なす」は、形としては枕詞であるが、意としては重いもので、その場合に即し、事と心とを緊密に関係させ、簡潔に言いあらわす役をしているもので、文芸的のものではない。甚しく文芸的に見えもするのは、上の場合と同じく人麿の修辞力のいたすところである。次に、一首全体の上からいうと、対句が多く、枕詞が多く、まさに口承文学の系統のものである。しかしそれとすると、簡潔にして含蓄をもち、また部分部分に細心の用意をもっていて、記載文学としても優れたものである。部分的の方をいうと、「猟路の小野」をいふに、「弱薦《わかごも》の」という枕詞を用い、「いやめづらしき」をいうに「春草の」という枕詞を用いている。狩猟は冬から春までに限られた遊びである。これらの枕詞は、眼前を捉えてのもので、その時が春の、若草の萌え出した時であったことを暗示しているものである。文芸性の豊かさを思わせられる。
 
(29)     反歌一首
 
240 久堅《ひさかた》の 天《あめ》ゆく月《つき》を 網《あみ》に刺《さ》し 我《わ》が大王《おほきみ》は 蓋《きぬがさ》にせり
    久堅乃 天歸月乎 網尓刺 我大王者 盖尓爲有
 
【語釈】○久堅の天ゆく月を 「久堅の」は、天の枕詞。「帰」は、行くに当てた字で、典故のある、集中に用例のあるものである。「天ゆく月を」は、天を行くところの月をで、下の「蓋《きぬがさ》」に続くもの。○網に刺し 「網」は、諸本同様で、旧訓「あみ」である。『考』は「綱」の誤写とした。『攷証』を除いての諸注すべてそれに従っている。『講義』は『攷証』に従い、解釈の上で補正を加えている。要は、誤写説は証のないもので従いかねる。「刺す」は、集中に用例のある語で、渡り鳥を捕えるために網を張る、その張る意で、ひいて、烏を網の内にとどめておくにもいっている。しかるに「綱」には「刺す」という語は縁のないものである。ここは、空を渡る月を、おりから遊猟の場合である連想として、空を行く渡り鳥を網で掃え、またその内にとどめておくこととし、皇子がその事をなされているとしたのである。したがってこれは月の状態をいったもので、下の「蓋」にまでは及んでいないのだという。従うべきである。○我が大王は蓋にせり 「我が大王」は、長皇子。「蓋」は、絹張の長柄のついている傘。天皇、親王、公卿など外出の時、後ろより差し翳《かざ》すものである。
【釈】 久堅の天《あめ》を渡ってゆく月を、網を張ってとどめて、わが大君は蓋《きぬがさ》にしている。
【評】 長皇子の猟の御帰途は夜に入り、おりから月のある頃で、月が皇子の頭上に現われたのを見ての歌である。作意は、月を蓋と見立てたことであるが、この見立ては、単に興味よりした文芸的のものではなく、意図をもってのものである。意図というのは、月が蓋となったのではなく、皇子が蓋となされたので、そこに人麿の心があるのである。長歌の方はいったがように、第一には野に棲む禽獣、第二には供奉の臣下が、心より皇子に奉仕しようとしていることをいったのであるが、反歌に至るとさらに進展させて、皇子の御稜威は天上の月をもわが用具とし給うということをいおうとしたのである。そうしたことは、皇子といえども不可能なことなので、それをつとめて合理的に、また妥当のことにしようとして、今の猟の場合に関係させて、「網に刺し」といったのである。これが作意である。月を蓋と見、また網に刺すというようなことは、単に文芸的のもののように見えるのであるが、これは人麿の豊かなる詩情のさせていることで、作意の上からいえば従属的のものにすぎず、技巧と称すべきである。また、昼の猟に対して夜の帰途を捉えた点も、時間的進展を与えたことで、同じく技巧とすべきである。
 
     或本の反歌一首
 
【解】 「或本」には、上の長歌の反歌として、次の一首があるの意と取れる。
 
(30)241 皇《おほきみ》は 神《かみ》にしませは 真木《まき》の立《た》つ 荒山中《あらやまなか》に 海《うみ》を成《な》すかも
    皇者 神尓之生者 眞木乃立 荒山中尓 海成可聞
 
【語釈】 ○皇は神にしませば (二三五)に同じ。○真木の立つ荒山中に 「真木の立つ」は、「真木」は良材の意で、杉檜など深山の木。それの立つで、下の「荒山」の状態をいつたもの。「荒山」は、人げの疎い山。 ○海を成すかも 「海」は、当時の人は、湖も、広い池をも称していた称。「成す」は、つくる意。「かも」は、詠歎。
【釈】 大君はまさしく神にましますので、御稜威が限りなく、海などとは思いもよらない真木の立つている荒山の中に、その海をつくることであるよ。
【評】 「題意」でいつたように、猟路の小野は「荒山中」と称しうる所であり、また当時の称によれば「猟路地」は「海」と言いうるものである。また、この歌の作意は、大君の御稜威の限りなさを讃えたものである。猟路地の掘られたのはいつのことかはわからないが、これを大君|御業《みわざ》として見る上では、現在のこととしても妥当を欠かない。さてこの歌を上の長歌の反歌として見ると、長歌はいったがように皇子を大君に准じて、その御稜威を讃えることを作意としたものであるから、同じく御稜威を讃えるこの歌を、その反歌として見ても不自然ではない。歌も熱意と魄力《はくりよく》のあるもので、人麿の作と思われるものである。これを反歌とした本のあるのも偶然とは思われない。しかしこの歌を前の歌に較べると、長歌との關係が稀薄になり、有機的な微妙な味わいが減つてくる。あるいはこの歌が初稿であって、後に改められたというような事情のあるものではないかと思われる。
 
     弓削皇子《ゆげのみこ》、吉野に遊び給へる時の御歌一首
 
【題意】 「弓削皇子」は、巻二(一一一)に出た。天武天皇第六皇子で、上の長皇子の同母弟である。文武天皇の三年秋七月薨去された。
 
242 滝《たぎ》の上《うへ》の 三船《みふね》の山《やま》に 居《ゐ》る雲《くも》の 常《つね》にあらむと わが念《おも》はなくに
    瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常將有等 和我不念久尓
 
【語釈】 ○滝の上の三船の山に 「滝」は、吉野宮のあったあたり、すなわち吉野川の水がそのあたりの岩石に激している所。「上」は、ここは、(31)上方の意のもの。「三船の山」は、「大和志」に、「吉野郡御船山、在2菜摘山東南1、望v之如v船、坂路甚險」とあるもの。○居る雲の 「居る雲」は、かかっている雲で、「の」は、のごとくの意のもの。雲の早くも散って消えることを捉えて、譬喩としたもの。○常にあらむと 「常」は、常住不変の意。「あらむ」は、生きていようとは。○わが念はなくに 「なくに」は、「な」は打消の助動詞。「く」は「な」を名詞形とするために添えたもの。「に」は詠歎。巻一(七五)に既出。我は念わないことであるを。
【釈】 滝《たぎ》の上方の三船の山にかかっている雲のごとくに、久しく生きていようとは、我は思わないことであるを。
【評】 吉野に遊び、大宮のある滝《たぎ》の辺りから、三船の山にかかっている雲を眺められ、その雲の散って消えやすいことに思い及ぶと、一転してわが生命の短かきことが連想され、感傷して嘆かれた御歌である。実際に即し、心理の自然を追ったものであるところから、感のあるものとなっている。初句より三句までは、形としては四、五句の譬喩であるが、心としてはむしろそちらが主で、四、五句は、この景よりの連想であって、その意味で譬喩以上のものである。恋の懊悩《おうのう》などの場合は知らず、単に自然の佳景に対して、生命の短かさを嘆くというのは、この時代にあっては文芸性の多いもので、例も少ないものである。この感傷は、資性よりのものではないかと思われる。それは巻二(一一九)以下の四首は、場合は違うが、この時代としては感傷性の強く、繊細を極めたものであるところから類推されるのである。
 
     春日王《かすがのおほきみ》の和へ奉れる歌一首
 
【題意】 「春日王」は、伝が明らかでない。続日本紀に、「文武天皇三年六月庚成、浄大肆春日王卒」とある方で、志貴皇子の御子の春日王とは別人であろうとされている。
 
243 王《おほきみ》は 千歳《ちとせ》にまさむ 白雲《しらくも》も 三船《みふね》の山《やま》に 絶《た》ゆる日《ひ》あらめや
    王者 千歳二麻佐武 白雲毛 三船乃山尓 絶日安良米也
 
【語釈】 ○王は千歳にまさむ 「王」は、弓削皇子。「千歳に」は、永久に。「まさむ」は、世にとどまり給わんで、皇子の嘆きを打消したもの。『講義』は「まさむ」につき、これは普通には「いまさむ」とあるべき場合で、他の用言に続く関係でなくて「ます」とあるは稀れな例だと注意している。○白雲も 「白雲」は、「居る雲」の「雲」を印象的に言いかえたもの。「も」は、もまたで、はかない雲もまたの意。○三船の山に絶ゆる日あらめや 「あらめや」は、推量の助動詞「む」の已然形「め」に疑問の「や」の添つて反語となつているもの。三船の山に絶える日があろうか、ありはしないの意。これは吉野の山中であり、吉野川のほとりのこととて、雲がかかりがちであり、その時もかかっていたのに即しての言と取れる。
(32)【釈】 王《おおきみ》は永久に世にましますことであろう。はかない白雲もまた、三船の山になくなる日があろうか、ありはしない。
【評】 春日王は傍らにあって、弓削皇子の嘆きを言い消して、慰めたものである。三句以下は実際に即してのものと取れるが、さらにまた、はかない白雲も、皇子に引かれて永遠にあろうと言いなし、「白雲も」と、「も」の一音によって言い直しているのは、機知というよりも才情を思わせるものである。
 
     或本の歌一首
 
【解】 これは、弓削皇子の歌に対して、類歌として挙げたものである。
 
244 み吉野《よしの》の 御船《みふね》の山《やま》に 立《た》つ雲《くも》の 常《つね》にあらむと 我《わ》が思《おも》はなくに
    三吉野之 御船乃山尓 立雲之 常將在跡 我思莫苦二
 
【語釈】 ○立つ雲の 「立つ」は、湧き出ずる意で、居るに対する語である。「の」は、のごとく。
【評】 皇子の御歌と較べると、初句と三句とが異なっているのみである。双方を比較すると、「滝の上の」は、叙景が細かいとともに、作者がその時立っていた場所をも暗示しているもので、実際的である。「み吉野の」は、その微細感を捨てて、概念的に、調子を高くしたものである。また、「居る雲の」は、山にかかっている雲の状態に見入ることが主で、その消えることは暗示となっているが、「立つ雲の」は反対に、消えることの方が主となっていて、これまた概念的である。二首、別な歌とはみえず、皇子の御歌からこの歌は出たものとみえる。それだと皇子の歌が伝わって唱えられている間に、平明化してきたものと思われる。この平明化は伝承には宿命的なことである。
 
     右の一首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
      右一首、柿本朝臣人麿之哥集出。
 
【解】 この歌の性質は、評にいったがようである。これが人麿歌集にあった歌とすると、人麿は弓削皇子の御歌として伝承されているものを聞き、そのままに記録したものと思われる。これは人麿歌集の一面を語っていることである。
 
(33)     長田王《ながたのおほきみ》、筑紫《つくし》に遣され、水島に渡る時の歌二首
 
【題意】 「長田王」は、巻一(八一)に出た。和銅四年正五位下に叙され、近江守、衛門督、摂津大夫を歴任した人であろうという。筑紫へ遣わされたのは、何のためとも明らかではないが、肥後まで行っているので、大宰府管内巡察のためではなかったかと『講義』はいっている。「水島」は、『講義』は、肥後国(熊本県)葦北郡と八代郡との境にある海上の小島で、今は八代郡に属している。島は周囲五、六間、大方は岩石で、高さ五、六丈、その岩石の海に向かった方から一体に水が湧き出し、その水にはほとんど塩気がないという。島は今は陸に近いが、それは地形が変わったためで、古くはかなり離れていたことが以下の歌で知られるといっている。この島の所在については諸説があって、明らかには定め難い。この島につき、日本書紀、景行紀に、十八年筑紫を巡狩、夏四月熊の県に到りました条に、「自2海路1而泊2於葦北小島1而進食。時召2山部阿弭古之祖小左1、令v進2冷水1、適是時島中旡v水。不v知2所為1。則仰之祈2于天神地祇1、忽寒泉従2崖傍1湧出、乃酌以献焉。故号2其島1曰2水島1也。其泉猶今在2水島崖1也」とある。
 
245 聞《き》きし如《ごと》 真《まこと》貴《たふと》く 奇《くす》しくも 神《かむ》さび居《を》るか これの水島《みづしま》
    如聞 眞貴久 奇母 神左備居賀 許礼能水嶋
 
【語釈】 ○聞きし如真貴く 「聞きし如」は、聞いていたとおりでで、「題意」でいった水島の伝説をさしたもの。「真」はいかにも実際にの意で、現在も同じ意で用いている。「貴く」も、現在と同じである。○奇しくも神さび居るか 「奇し」は、霊妙不思議の意をあらわす語で、神異というにあたる。「も」は「貴く」に並べた意のもの。「神さび」は、神の神らしき状態をあらわしている意で、水島の水の湧出を、天神地祇のなすところとし、進んで水島を神そのものと見ていったもの。「か」は、詠歎。○これの水島 「これの」は、「この」の古形で、その意の強いもの。「水島」は、水島はで、一首の主格。
【釈】 前々より聞いていたとおりに、いかにも実際、貴く、神異にも、神としての状態をあらわしていることであるよ。この水島は。
【評】 水島の水の湧出を、景行天皇に奉仕するために現われた神と見、ひいては島そのものをも神と見る心を背後においての歌である。当時の信仰を、感動をもって詠んだものである。
 
246 葦北《あしきた》の 野坂《のさか》の浦《うら》ゆ 船出《ふなで》して 水島《みづしま》に去《ゆ》かむ 浪《なみ》立《た》つなゆめ
(34)    葦北乃 野坂乃浦從 船出爲而 水嶋尓將去 浪立莫勤
 
【語釈】 ○葦北の野坂の浦ゆ 「葦北」は、「題意」にいった葦北郡で、日本書紀によると水島はそちらに属していたのである。「野坂の浦」は、今はその名が伝わっていず、どこともわからない。「ゆ」は、より。○船出して水島に去かむ 海路を取って水島に行こう。○浪立つなゆめ 「ゆめ」は、「な」を伴って強い禁止。浪よ立つな、ゆめゆめと命令したもの。
【釈】 葦北の野坂の浦から船出をして、水島に渡って行こう。浪よ立つな、ゆめゆめ。
【評】 船出をする際、海上の無事を祈る心をもってする呪《まじな》いであって、信仰よりのものである。この歌は水島を見ない前の歌で、前の歌と順序が入れかわっているかのように見える。それにつき『講義』は、『新考』に引く中島広足の説にもとづき、再度水島を見ようとした時の歌だろうといっている。広足は、野坂の浦は、今の佐敷の津の辺りだろうといい、そこから水島まで海上五里ばかりだともいっている。『講義』は、それだと大宰府方面から下って一たび水島を見た後、さらに下って野坂の浦まで行き、あるいは薩摩までも行って、その帰途、海路を取って再び水島を見ようとしたのだろうといっている。
 
     石川大夫、和ふる歌一首 名闕く
 
【題意】 「石川大夫」は、「名闕く」とあって誰ともわからない。左注がこの事に触れている。「大夫」という称は、集中の例から推すと、四位五位に対してのものであるといい、『講義』は詳しい考証をしている。この人は大宰府の官人で、王の巡視に伴っていたのである。
 
247 奥《おき》つ浪《なみ》 辺波《へなみ》立《た》つとも わがせこが み船《ふね》のとまり なみ立《た》ためやも
    奧浪 邊波雖立 和我世故我 三船乃登麻里 瀾立目八方
 
【語釈】 ○奥つ浪辺波立つとも 「奥つ浪」は、沖の浪。「辺波」は、岸寄りの方の波で、沖の波が立ち辺の波が立とうとも。○わがせこがみ船のとまり 「わがせこ」は、「吾が背子」で、本来女より男を親しんでの称であるが、男同志も用いた。ここは長田王に対していっているもの。「み船」の「み」は、尊んで添えたもの。「とまり」は、船の着く所の称。○なみ立ためやも 「立ためやも」は、「む」の已然形「め」に「や」の添って反語をなし、それに詠歎の「も」の添ったもの。浪が立とうか、立ちはしないと強くいったもの。
【釈】 沖の浪が立ち、辺の波が立とうとも、わが背子の御船の着く所に、浪が立とうか、立ちはしない。
(35)【評】 上の王の歌の、浪を懸念するのに対して、歌をもって祝ったのである。上代の航海では、船が行き着いて泊《と》まる時が、最も困難な時であったとみえる。王の船は大きなものであったろうから、その困難はいっそうである。この歌は、その困難な時を中心として、その時の平穏を祝ったものである。王の歌もこの歌も、実用性のもので、語って時宜に適することを旨としたものである。
 
     右、今案ずるに、従四位下石川宮麿朝臣慶雲年中大弐に任ぜらる。又正五位下石川朝臣吉美侯、神亀年中少弐に任ぜらる。両人の誰《いづ》れこの歌を作れるかを知らず。
      右、今案、從四位下石川宮麿朝臣慶雲年中任2大貳1。又正五位下石川朝臣吉美侯、神龜年中任2小貳1。不v知3兩人誰作2此歌1焉。
 
【解】 撰者の注である。宮麿、吉美侯(君子とも書く)は四位と五位であるから大夫と称さるべき人で、したがって不明だとするのである。そのいずれであるかについては諸説があるが、定説は得られずにある。沢瀉久孝氏は、この歌を和銅以前のものと見、慶雲以前、宮麿がまだ少弐であった頃の作であろうとしている。
 
     又、長田王の作れる歌一首
 
248 隼人《はやひと》の 薩摩《さつま》の迫門《せと》を 雲居《くもゐ》なす 遠《とほ》くも吾《われ》は 今日《けふ》見《み》つるかも
    隼人乃 薩麻乃迫門乎 雲居奈須 遠毛吾者 今日見鶴鴨
 
【語釈】 ○隼人の 「隼人」は、薩摩、大隅を統べての旧名。『古事記伝』は、古この二国を隼人の国と呼んだ、その国人がすぐれて敏捷《はや》く猛勇《たけ》きところからの名である、薩摩という名が国名となったのは、大宝から霊亀の頃だろうといっている。『講義』は、そのことは文武天皇の四年六月まで溯れると考証している。○薩摩の迫門を 「迫門」は、後世瀬戸の字を当てている。海が陸と陸とによって狭められている所で、航海の上よりいわれている称。「薩摩の迫門」は、古くは隼人の迫門とも呼んだ。今は黒の瀬戸という。鹿児島県出水郡西長島村と阿久根市との間の海峡。○雲居なす遠くも吾は 「雲居」は、空。「なす」は、のごとくで、意味で「遠く」にかかる枕詞。「遠くも」の「も」は、詠歎。○今日見つるかも 「今日」は、今日初めての意で、強める意でいっているもの。「見つるかも」は、「かも」は詠歎。見たことであるよ。
【釈】 隼人の国の薩摩の迫門という音に聞こえた所を、空見るごとく遠くも吾は、今日という日に初めて目に見たことであるよ。
(36)【評】 船中にあって、海上遠く薩摩の迫門を望んでの感である。古の隼人の国は、皇化の及ぶことの少ない所で、したがって問題の多い所であった。またその国への旅は船によったのであろうから、薩摩の迫門は京の人にとって重い響をもった名であったろうと思われる。その迫門を、遠くよりながら親しく目をもって見られたのであるから、感慨が深かったろうと思われる。歌は感慨を抒《の》べようとして、しかもその境をいうにとどまるものであるが、一首の調べの強さがその感慨の深さをあらわし得ているものである。
 
     柿本朝臣人麿の※[羈の馬が奇]旅の歌八首
 
249 三津《みつ》の埼《さき》 浪《なみ》を恐《かしこ》み 隠江《こもりえ》の 舟公宣奴嶋尓
    三津埼 浪矣恐 隱江乃 舟公宣奴嶋尓
 
【語釈】 ○三津の埼浪を恐み 「三津」は、巻一(六三)に出た。難波の津で、御用の津であるところから、尊んで「三」すなわち「み」を添えたもの。「埼」は、岬。「恐み」は、恐《かしこ》くしてで、御津の埼の浪を恐くして。 ○隠江の 「隠江」は、熟語で、「隠沼《こもりぬ》」と同系のもの。「隠《こも》る」は、物に蔽われて見えなくなっている状態。「江」は、海のみでなく、池、川などにもいった。『講義』は、淀川の河口内をいったものではないかという。語としても無理ではなく、地形としても自然な解である。○舟公宜 四句より五句へかけてのものと取れるが、訓み難いものである。旧訓は「ふねこぐきみがゆくか」と訓んでいるが、強いたものである。諸注それぞれに訓を試みているが、定訓とはなり得ないものである。文字の誤脱があるものと思われる。問題として残すべきである。
【釈】 釈《あら》わし難い。
 
250 珠藻《たまも》苅《か》る 敏馬《みぬめ》を過《す》ぎて 夏草《なつくさ》の 野島《のじま》が埼《さき》に 舟《ふね》近《ちか》づきぬ
    珠藻苅 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼尓 舟近著奴
 
【語釈】 ○珠藻苅る敏馬を過ぎて 「珠藻」の「珠」は美称で、しばしば出た。藻を苅るのは海辺の者の常態なので、敏馬の枕詞としたもの。「敏馬」は、その名としては伝わっていない。今の神戸市灘区の辺の海岸の称であろうという。難波より西への航路の最初の泊《とまり》とされていた地である。「過ぎて」は、航路として通り過ぎて。○夏草の野島が埼に 「夏草の」は、意味で「野」にかかる枕詞。「野島が埼」は、今、淡路の北西部にある北淡町野島の内と取れる。○舟近づきぬ 船が明石海峡を横切って近づいたの意。
(37)【釈】 珠藻を苅る敏馬の泊を過ぎて、夏草の野という、その野島が崎にわが船は近づいた。
【評】 いっていることは事柄だけであるが、一首の味では、明るく躍る気分そのものである。当時の航海は不安の多いものであったが、今は全くそれがなく、順風を得て深く航行したことを、具体的にいおうとして言いえたものだからである。「敏馬」と「野島が埼」にそれぞれ枕詞を添えていっているのは、その地を重んじてのことであって、重んじたのは航行の上の目標地となっているからである。この心が一首の気分に重く響いている。
 
     一本に云ふ、処女《をとめ》を過《す》ぎて 夏草《なつくさ》の 野島《のじま》が埼《さき》に いほりす吾等《われ》は
      一本云、處女乎過而 夏草乃 野嶋我埼尓 伊保里爲吾等者
 
【語釈】 一本にある類歌として引いたものである。初句は同じなために略したので、異なるのは二句と結句である。○処女を過ぎて 「敏馬」が「処女」となっている。『代匠記』は、「処女を過ぎてとは第九に、葦屋処女墓をよめる歌(一八〇九)あり、彼由緒にてよりて菟原郡葦屋浦を処女とのみいへるなり」といっている。○いほりす吾等は 「いほりす」は、廬を作って宿る意。「吾等《われ》」は、文字によって複数をあらわしたもので、巻二(一七七)「吾等《わ》が哭《な》く涙|息《や》む時もなし」と同じである。航行中、夜は陸に上って廬を結んで寐るのが当時の風で、「吾等」は同船の人々を意味させたのである。この歌は巻十五(三六〇六)に出ていて、左注に、「柿本朝臣人麿歌、敏馬を過ぎて、又曰く、ふねちかづきぬ」とある。すなわち左に注とし合っているものである。
 
251 粟路《あはぢ》の 野島《のじま》が前《さき》の 浜風《はまかぜ》に 妹《いも》が結びし 紐《ひも》吹《ふ》きかへす
(38)    粟路之 野嶋之前乃 濱風尓 妹之結 ※[糸+刃]吹返
 
【語釈】 ○粟路の 粟路は、今の淡路。粟すなわち阿波の国へ渡る路にある国の意。四音一句。○野島が前の浜風に 「野島が前」は、前の歌に出た。当時の航海は、普通の場合でも、夜は上陸して宿るのを風としていた。ここもそれで、野島が埼に宿ろうとして上陸したので、したがって海上にある時よりも安静な気分になり得ていた時と思われる。「浜風」は、海より浜に向かって吹く風。「に」は、浜風の中に立てばという心をもったもので、下への続きからは、その浜風のという心をももっている。それは、この歌は抒情を旨としてのもので、その具象化としての叙事であるために、おのずから余情的な言い方となっているからである。 ○妹が結びし 原文は「妹之結」で「妹が結びし」とも「妹が結べる」とも訓みうるもので、二様の訓がある。双方を比較すると、「妹が結びし」と過去のこととした方は、妹の方に力点があり、「妹が結べる」と現在にすると、紐の方に力点があるものとなり、相違が起こってくる。この歌は旅愁を旨としたものであるから、「結びし」と訓み、妹に力点を置くべきものである。夫が旅立の際、妹が旅の無事を祈って紐を結ぶということは、集中に例の多いことであるから、これもそれと思われる。 ○紐吹きかへす 「紐」は、衣のすなわち旅衣の紐である。そのいかなる物であったかは明らかにし難い。『講義』は、今のボタンの役をするもので、襟に着いていたものであろうといっている。衣の性質上、実用の物であったろうと思われるから、穏やかな解である。「吹きかへす」は、吹き翻すで、浜風が吹き翻すのである。
【釈】 粟路の野島が埼で浜風の中に立っていると、その浜風が、旅立の際、妹がわが無事を祝って結んだ旅衣の紐を吹いて翻す。
【評】 難波の三津から船出をして、敏馬《みぬめ》、明石と寄港しての航海をする目標地の一つである野島が埼へ上陸し、一|夜《よ》をそこで過ごそうとした時の感である。そこは海を越しての国であって、旅という感は濃厚である上に、妹と別れた際の印象はまだ新しいので、海上での不安が去って、心が安静になるとともに、いわゆる旅愁を感じてきたのは自然なことである。しかしこの旅愁は、何といっても淡いものであったろうと思われる。この歌は、そうした旅愁を、さながらにあらわそうとしたものである。「粟路の野島が前の浜風に」と、浜風をいうに地名を二つまで重ねていっているのは、旅という気分を具象的にあらわそうがためであり、また下の「妹」に対照させようがためでもある。
「紐」は特殊なものである。風に翻る物というと、普通で袖あるのに、紐はそれよりも小さく、したがって翻り方もはげしいだろうと思われて、印象的に感じられる。加えてその紐は、いったがように「妹が結びし」によって妹を連想させ、また妹を主としてのもので、この場合妹を象徴している物である。その「紐」が「粟路の野島が前」という大きな景と対照されているので、それに助けられて感の深いものとなっている。一首、作者としては多くの用意をもって詠んだものとは思われないが、心理の自然があり、感覚的に具象しているので、おのずから含蓄のある広がりをもったものとなっているのである。この歌、「浜風に」と、「吹きかへす」とが打合わないという論がある。かりに「浜風の」とあるとすれば、いわゆる打合ってその論はなくなる訳である。しかしそれであれば、浜風が紐を吹き翻すという、事象そのものの方に中心が移って、旅愁の方は間接な、稀薄なものとなってき、一首の感は著しく浅いものとなってく(39)る。作意は、旅愁にあって、その具象化と取れるので、その上では「に」の一助詞は重い役をしているものであり、「語釈」でいったがような余情をもっているものと見なければならない。人麿の技倆を示している一首である。
 
252 荒栲《あらたへ》の 藤江《ふぢえ》の浦《うら》に すずき釣《つ》る 泉郎《あま》とか見《み》らむ 旅《たび》去《ゆ》く吾《われ》を
    荒栲 藤江之浦尓 鈴寸釣 泉郎跡香將見 放去吾乎
 
【語釈】 ○荒栲の藤江の浦に 「荒栲の」は、織目の荒い栲ので、その材料は藤の繊維であるところから、意味で藤にかかる枕詞。「藤江の浦」は播磨《はりま》国|明石《あかし》郡で、今、明石市西の浜に藤江の名が伝わっている。淡路に向かった地なので、野島が埼からそこをさして航行したとみえる。 ○すずき釣る泉郎とか見らむ 「すずき」は、鱸《すずき》。「泉郎とか見らむ」は、「か」は疑問、海人《あま》と人は我を見るであろうかで、鱸を釣る海人の釣舟の中に、人麿の乗っている船もまじって、釣舟と同じく動かないさまでいるのを、第三者から見たならば、同じく釣舟の一つと見るであろうかと想像したのである。○旅去く吾を 海人ではなく、旅路を行く吾なるをの意で、「を」は詠歎。自身の現在を意識したことをあらわしたもの。
【釈】 藤江の浦に、釣舟を停めて鱸を釣っている海人と、第三者はわが船を、吾《われ》を見るであろうか。旅路を行く吾であるを。
【評】 野島が埼から、海を横切って、陸近い藤江の浦まで来、穏やかな海の上に鱸を釣っている舟を見ると、京びとのこととて釣のさまが面白く、船を停めて挑め、我を忘れていたのであるが、我にかえって、立ち去ろうとした時の心である。その時の心は、「旅去く吾を」という、現在の境遇の意識であって、「を」の詠歎を添えていうべき心なのである。詠歎は、語としては軽くいっているにすぎないが、初句から四句までの鱸を釣るさまの平穏なのとの対照で、余情をもった強いものとなっている。この詠歎は旅愁である。漠然とした旅愁を、実境に即して具象化して、十分にあらわしているもので、上の歌と同じく技倆を示している一首である。
 
     一本に云ふ、白栲《しろたへ》の 藤江の浦に いざりする
      一本云、白栲乃 藤江能浦尓 伊射利爲流
 
【解】 これは、(二五〇)と同じく、巻十五(三六〇七)に出ているもので、四、五句は同様である。「白栲の」は、白い栲を織る材料としての藤の意で、「藤」にかかる枕詞。「いざりする」は、「いざり」は、「漁《いさ》り」で、名詞。「する」はそれをするの意。「すずき釣る」という特殊な、印象的なことが、「いざりする」という一般的な、平明なものに転じたものである。
 
(40)253 稲日野《いなびの》も 去《ゆ》き過《す》ぎかてに 思《おも》へれば 心《こころ》恋《こ》ほしき 可古《かこ》の島《しま》見《み》ゆ【一に云ふ、湖《みなと》見ゆ】
    稻日野毛 去過勝尓 思有者 心戀敷 可古能嶋所見【一云、湖見】
 
【語釈】 ○稲日野も 「稲日野」は、播磨国印南郡にある野で、本来は「いなみ」であるが、「み」が「び」に音通で転じて、古くから「いなび」といっている。「も」は相対する意をあらわすもので、下の「可古の島」に対している。○去き過ぎかてに思へれば 「かてに」の「かて」は、下二段活用の動詞で、終止形「かつ」の未然形。可能の意をあらわす語とされている。これに打消の意の「に」「ぬ」が結んで、「かてに」「かてぬ」となって用いられている。行き過ぎ難くの意。「思へれば」の「ば」は、この場合のごとく已然形に接続する時は、理由をあらわすものではなく、「思へるに」というと異ならないものになるのは、当時の格である。思っている。○心恋ほしき可古の島見ゆ 「恋」は「こほし」とも「こひし」とも訓みうる字である。「こほし」の方が古い形で、ここは古い方に思える。心に恋しと思うところの。「可古」は、兵庫県加古郡。「島」は、『攷証』は、島というべきではない。広い国も、海上から望み見ると、島のごとくに見えるところからの称だといい、「倭島《やまとじま》」などを例としている。また、陸上の一地方を某島と呼んでもいる。ここは可古の辺りの意と取れる。『新考』は、今、高砂と呼んでいる地は加古川の河口のデルタである。これは古の可古の島の変形したものであろうといっているが、高砂市の辺りがすなわち可古の島と見るべきであろう。○一に云ふ、湖見ゆ 港が見える意。集中に「湖」を「みなと」に当てた例は多い。
【釈】 稲日野の風光もまた面白くて、行き過ぎ難く思っているのに、海の向こうには、心に恋しく思っているところの可古の島もまた見える。
【評】 航路の方面からいうと、稲日野は、可古の島より西にあたっている。その上からいうと、この航路は、西より東に向かっているもので、すなわち京への帰途である。上の歌はすべて京より西へ向かってのものであるが、ここに至って反対になっていることを『講義』は注意している。一首の作意は、「稲日野も去き過ぎかてに思へれば」は、明らかに風光の面白さをいったものである。しかしそれに対させてある「心恋はしき可古の島見ゆ」の「心恋ほしき」は、何を内容としているのか明らかではない。「去き過ぎかてに」というと同じく、風光に対しての憧れと見られなくもないが、この八首の中最初の一首を除く七首とも、風光の面白さのみを作意としたものは一首もなく、風光は抒情の方便として用いているのみである。そのことはここのみではなく、人麿の歌全体に通じても言いうるのである。それから推すと、可古の島は、航海の常とする船着きの島であって、したがって「心恋ほしき」は、そこで上陸して安静を得ることに対しての憧れと思われる。「一に云ふ」の「湖見ゆ」によると、このことはさらに明らかである。またこのことは、この当時にあっては自明なこととなっていたものと察せられる。
 
254 留火《ともしび》の 明石大門《あかしおほと》に 入《い》らむ日《ひ》や 榜《こ》ぎ別《わか》れなむ 家《いへ》のあたり見《み》ず
(41)    留火之 明大門尓 入日哉 榜將別 家當不見
 
【語釈】 ○留火の明石大門に 「留火の」は、「燭」を誤って、「蜀火」とし、さらに「蜀」を「留」に誤ったのではないかと『講義』はいっている。燭《ともしび》の明しと続けて、「明石」の枕詞としたもの。「明石大門」は「明石」は播磨国の明石、「大門」は、「大」はその港の名高いところから讃えて添えたものと取れる。「門」は水《み》な門《と》(港)の門で、明石の名高い港に。○入らむ日や 「入らむ日」は、乗っている船の榜ぎ入るであろう日。「や」は疑問。○榜ぎ別れなむ家のあたり見ず 「榜ぎ別れ」は、海上の別れであるところからの語。陸上の行き別れにあたる。「む」は、上の「や」の結、連体形。「家のあたり見ず」は、家のある辺りで、明石の港に入るまでは、家のある大和の青山が遠く望み得られるところからの語。「見ず」の「ず」は連用形で、「ずして」というにあたる。
【釈】 明石の名高い港にわが船の榜ぎ入るであろう日には、榜ぎ別れをすることであろうか。今まで眼にしてきた、妹のいるその家の辺りをも見なくなって。
【評】 この歌は、瀬戸内海を西に向かっての航行の際のもので、地理的にいうと、「粟路の野島が前《さき》」に向かう以前のものである。詠んだのは、船が明石の港に入る前で、その入った時を想像してのものである。一首の中心は、結句「家のあたり見ず」にある。この句は形の上からいうと、四句「榜ぎ別れなむ」と倒句になっていて、意味からいうと「家のあたり見ず榜ぎ別れなむ」である。それを倒句にしたのは、結句に力点を置いたがためで、なぜにそこに力点を置いたかは、現在の事実として家のあたりを遠望しつづけていて、その望めなくなることを思うと、思うさえも悲しくなってきて、その悲しみをいうことを作意としたからである。「家」とは妹のいるところで、それ以外のものではなく、「妹」と言いかえ得られるものである。それを「家」とし、「あたり」を添えて、現在眼にしている大和国の山をあらわすものとしたのである。
 
(42)255 天離《あまざか》る 夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ 恋《こ》ひ来《く》れば 明石《あかし》の門《と》より 倭島見《やまとしまみ》ゆ
    天離 夷之長道從 戀來者 自明門 倭嶋所見
 
【語釈】 ○天離る夷の長道ゆ 「天離る」は、天と離れているで、意味で夷にかかる枕詞。離れるは、京を中心としてのもの。「夷の長道ゆ」は、「夷」は、京以外の地、すなわち地方の総名。「長道」は、長い道中。「ゆ」は、よりで、後世の「を」にあたる語。遠い地方から京へ向かっての長い道中を。○恋ひ来れば 憧れくればで、恋うのは、家にいる妹。○明石の門より倭島見ゆ 「明石の門」は、前に出た。ここは明石に属する海をいうほどの広い意のものに取れる。「倭島」は、倭の国の意で、「島」は上の「可古の島」の島と同じである。すなわち遠く海上に現われて見える畿内の山々に対しての称である。倭の称は、大和国一国とは限らず、狭く大和の一地域にも、また日本全国にも用いた。ここは畿内の称と取れる。「倭島」は我を待つ妹のいる所としてのものである。
【釈】 遠い地方から京へ向かっての長い道中を、妹を憧れてくると、明石の門《と》のあたりから、海上遙かに、我を待つ妹のいる大和国が見える。
【評】 西国での任が終わって、瀬戸内海を船で京に向かい、明石の海峡まで来て、遠く大和の山々の、海上遙かに島のごとくに浮かぶのを、初めて見た瞬間の心である。道中、心を占めつくしていたのは、妹を恋う思いであるが、それをただ「恋ひ来れば」といい、「倭島見ゆ」という、余情のある言い方であらわしたものである。この余情は技巧としてではなく、実際に即した言いあらわしをしたところから、おのずからに添ってきたものと思われる。実際というのは、妹恋しさの情に馴らされてしまっていて、それ以上をいう必要のないものとなっていたためと思われる。すなわちこの余情的になっているところに、かえって実感の深いものが現われているのである。一首の調べの強く張っているところに、その情の深さが直接に現われている。
 
     一本に云ふ、家門《いへ》のあたり見ゆ
      一本云、家門當見由
 
【解】 一本の結句である。「家門」は、多くの注は「やと」「やど」と訓んでいるが、『攷証』は家に当てた熟語として「いへの」と訓んでいる。一首の意味の続きから本行の方が自然である。平明にしようとしたためのものと思われる。
 
(43)256 飼飯《けひ》の海《うみ》の 庭好《にはよ》くあらし 苅薦《かりこも》の 乱《みだ》れ出《い》づ見《み》ゆ 海人《あま》の釣船《つりぶね》
    飼飯海乃 庭好有之 苅薦乃 乱出所見 海人釣船
 
【語釈】 ○飼飯の海の 「飼飯」という地名は諸国にあって、どこと定め難い。『槻落葉』は、淡路に飼飯野という地名があるといい、『講義』はさらに、淡路国(兵庫県三原郡)の西海岸、松帆の浦の付近に、今「笥飯野《けひの》」と書く地がある。「飼飯の海」は、松帆の浦のようだといっている。他はすべて瀬戸内海に関係した歌であるから、そこと思われる。○庭好くあらし 「庭」は、方言研究家によって、漁夫、農民などのその生業を営む場所を称する語だといわれている。農民の上でいうと、秋、田畑より取入れた穀物を、その家の周囲で始末をする時、それをする場所のことを秋庭《あきにわ》と呼んでいる。これは庭園の意味の庭とは関係のない語である。これは分布の広い語だという。ここは海人の漁場の意と取れる。「好く」は、工合の好い意、すなわち平穏の意である。「あらし」は、「あるらし」の約で、「らし」は、眼前のものを証としての推測をあらわす語。証は下の「釣船」である。漁物の工合が好いらしいの意。○苅薦の乱れ出づ見ゆ 「苅薦の」は、苅った薦ので、乱れやすい物であるところから、意味で乱れにかかる枕詞。「出づ見ゆ」は、「出づ」の終止形から「見ゆ」に続けるのは、古格である。
【釈】 飼飯の海の漁場の工合が好いらしい。その証拠には、乱れて出ているのが見える、海人《あま》の釣船が。
【評】 この歌は、形からいうと、一、二句は、それ以下と倒句になっている。すなわち眼に見た事象の与える感動の方を先にいい、事象の方は後からいった形となっている。しかも「らし」によって原因結果の関係を緊密にあらわしているものである。この倒句は、強い感動をもって言ったことをあらわしているものである。これほどの事象に対して、なぜにそうした強い感動を与えられたかというと、おりから人麿は海路によっての旅をしており、海に対して深い関心をもっていたからと思われる。「庭好く」ということは、安心して航海ができるということを確め得たことで、感動はそこから起こってきたのである。したがってこの歌は、いっていることは風光そのものであるが、心としては安心の喜びをいおうとしたもので、風光はその具象化の方法としてのものである。この歌は、現に航海をしている際の心か、または船出をしようとして、海の様子をうかがっていた際の心かは明らかではないが、瞬間的な心をいっているところから見ると、旅の場合であったろうと思われる。
 
     一本に云ふ、武庫《むこ》の海《うみ》の 庭好くあらし いざりする 海部《あま》の釣船《つりぶね》 浪《なみ》の《へ》上ゆ見《み》ゆ
      一本云、武庫乃海能 尓波好有之 伊射里爲流 海部乃釣船 浪上從所見
 
【解】 一本には、上の歌をこのように作つてもあるとして引いたものである。
(44)【語釈】 ○武庫の海の庭好くあらし 「武庫の海」は、摂津国武庫郡の海。「の庭好くあらし」の原文「能尓波好有之」は、後述のように、吉沢氏および紀州本の一本に従ったもの。他の諸本は「舶(舳)尓波有之」とあって、訓がさまざまである。『略解』は、本居宣長の訓によって「ふなにはならし」と訓んでいる。「ふなには」は、船庭の意であろう。他に例のない語であるが、「庭」を上の歌のように解すると、船によってする漁場という意に取れなくはなく、成立たない語ともいえない。この一、二句は一段をなしているもので、意味が纏まらなくてはならない。これを前後との関係において見ると、解し難いものとなってくる。『古義』は、一、二句を、「武庫の海の舶《ふね》にはあらし」と訓んでいる。これは解しやすくは見えるが、現に武庫の海で見る船をこのようにいうということは、不自然なことである。しかも、その「舶」を「釣船」といって再び繰り返していっているのも、妥当を欠いた、同じく不自然なことである。吉沢義則氏は、紀州本に、「一本云」として、「武庫乃海能尓時好有之」とあるのに注意し、「時」の草体は「波」の草体とよく似ているところから紛れたもので、「時」は「波」であり、「尓波」すなわち「には」であったろうといっている。なおこの歌とただ第二句の異なったものが、巻十五(三六〇九)に出ており、それは第二句が「尓波余久安艮之《にはよくあらし》」となっているのを参考としている。その巻十五の歌は、左注に、「柿本朝臣人麿の歌に曰はく」として、上の(二五六)の歌を引き、第四句を「乱れて出づ見ゆ」としてある。この歌は巻十五の歌と関係の深いものに見えるので、誤字説ではあるが、氏の解に従うべきものである。○浪の上ゆ見ゆ 「上ゆ」は、上よりの意であるが、後の上にというにあたる。
【釈】 武庫の海の漁場は平穏であるようだ。漁りをする船が浪の上に見える。
【評】 前の歌と較べてみて、捉えている境は異なっているが、心は同じであるかのように見える。しかし心の上ではかなり隔たりのあるものである。前の歌はいったがように、航海者として海上の模様を懸念しており、その懸念の打消されたのを喜んでの心で、いわゆる生活に即した歌である。そこに心の躍りがある。この歌にはその心の躍りがない。作者としてはもったかもしれぬが、とにかく歌の上には現われていない。歌の上に見えているものは、海上の光景に心を寄せたというだけのもので、しかも事象に一つの判断を下しただけのものに見える。すなわち形は似ているが、心は遠く隔たったものである。これを前の歌と同じく人麿の作であるかのように扱っているのは怪しむべきである。
 
     鴨君足人《かものきみたりひと》、香具山の歌一首 并に短歌
 
【題意】 「鴨」は氏、「君」は姓、「足人」は名である。この人のことは他に所見がなく、何事もわからない。『新撰姓氏録』によると、鴨君は摂津国の皇別の中にあって、「鴨君日下部宿禰同祖、彦坐神之後也。続日本紀合」とある。「香具山」は、大和国で、高市皇子尊の宮のあった山である。
 
257 天降《あも》り付《つ》く 天《あめ》の香具山《かぐやま》 霞立《かすみた》つ 春《はる》に至《いた》れば 松風《まつかぜ》に 池浪《いけなみ》立《た》ちて 桜花《さくらばな》 木《こ》の晩《くれ》茂《しげ》に (45)奥《おき》へは 鴨《かも》妻《つま》喚《よ》ばひ 辺《へ》つ方《へ》に 味《あぢ》むらさわき 百礒城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》の 退《まか》り出《いで》て 遊《あそ》ぶ船《ふね》には 梶《かぢ》棹《さを》も なくてさぶしも こぐ人《ひと》なしに
    天降付 天之芳來山 霞立 春尓至婆 松風尓 池浪立而 櫻花 木乃晩茂尓 奧邊波 鴨妻喚 邊津方尓 味村左和伎 百礒城之 大宮人乃 退出而 遊船尓波 梶棹毛 無而不樂毛 己具人奈四二
 
【語釈】 ○天降り付く天の香具山 「天降り付く」の「天降り」は、「あまおり」の約だといい、天より降りる意。「付く」は、地上に付着している意で、天より降りて地に付いているところの意。「天の香具山」の「天の」は、香具山はもと天上のものであったとするところから添えた語。これは釈日本紀に引く伊予国風土記に、「倭在2天加具山1自v天天降時、二分而以2片端1者天2降於倭国1、以2片端1者天2降於此土1、因謂2天山《あまやま》1、本也。」とある、その伝説によってのものである。香具山は、しばしば出た。○霞立つ春に至れば 「霞立つ」は、意味で春にかかる枕詞。「春に至れば」は、春になったので。○松風に池浪立ちて 「松風に」は、松風によって。「池浪」は、池の浪の意で、熟語となったもの。池は、香具山の下にある埴安の池。松風の吹くによって池浪が立って。○桜花木の晩茂に 「桜花」は、桜の花が。「木の晩茂に」は、「木の晩」は、木が繁って、下蔭が小暗くなる意で、名詞。「茂に」は、茂くで、木の晩の状態。桜の花が、その下蔭を、小暗さの深くなるまでに咲いている意。○奥へは鴨妻喚ばひ 「奥へ」は、沖の方で、埴安の池についてのこと。「鴨」は、雌雄離れずにいる習性をもつ鳥。「喚ばひ」は、「喚ぶ」をハ行四段に再活用して、継続をあらわす語としたもの。沖の方には鴨がその妻を喚びつづけており。○辺つ方に味むらさわき 「辺つ方」は、岸寄りの方。「味」は、味鳧《あじかも》と称する、鴨よりやや小さい鳥。「むら」は、群れ。この鳥は群棲する習性をもっている。「さわき」は、群棲するところからしたがって騒がしく鳴く意。○百礒城の大宮人の 「百礒城の」は、百と多くの礒城のあるで、讃える意で宮にかかる枕詞。「大宮人」は、朝廷に仕える百官。ここは香具山をいっているところから、そこに宮のあった皇太子高市皇子尊の宮人を、朝廷に準じていったのであろうという。○退り出て遊ぶ船には 「退り出て」は、「退り」は、貴い所から賤しい所へ退く意で、一日の公務を終えて、追出して。「遊ぶ船」は、埴安の池で船遊びをしたその船。「遊ぶ」は、事としては過去であるが、感を強めるために現在にしたもの。○梶棹もなくてさぶしも 「梶棹も」は、船を漕ぐための梶も棹もで、梶は今の櫓。棹は竹竿である。「なくて」は、失せてしまって。「さぶしも」は、「さぶし」は、心楽しまない意。「も」は、詠歎。○こぐ人なしに 「こぐ人」は、漕いで遊ぶ人、すなわち大宮人。「なしに」は、なくて。
【釈】 天より降りて地についた、天のものである香具山よ、霞立つ春になったので、山に吹く松風によって、その下の埴安の池には池浪が立ち、また山に咲く桜の花は、その下蔭の小暗さが深いまでに咲き、池の沖の方には、雌雄《めお》離れぬ鴨がその妻を喚びつづけており、岸寄りの方には、群棲する味鳧《あじかも》の群れが鳴き騒いでおって、すべて愛《め》でたい風景であるが、香具山の宮の大宮人が、公務を終えて退出して、舟遊びをした船には、それを漕ぐ櫓も棹も失せてしまっていて、心楽しまぬことであるよ、漕ぎ遊ぶ大宮人もなくて。
(46)【評】 足人《たりひと》の伝は全くわからないが、歌から見て高市皇子尊を偲びまつったものだろうと察しられる。尊の香具山の宮は、尊の薨去の後は、上代の風に従って荒廃に委ねられたものと思われる。尊を偲びまつる上で、最も直接な、第一のものは、その宮でなくてはならない。足人は現にその宮のある香具山に立っているのであるから、このことはいっそうである。しかるにこの歌はそのことにはほとんど触れず、触れている点は、皇子尊に仕えた大宮人が、宮より退出の後、埴安の池で楽しげに舟遊びをした、間接な触れ方をしているにすぎないのである。また、それをするに一年のうち最も華やかなる春の季節の桜の花盛りの時を選び、さらにまた、それほどの限られたことをいうのに、香具山と埴安の池という山と水という対照的なものを選び、それに絡ませていうという、限った、特殊な言い方をもしているのである。これは生活実感からある遊離をもたせ、間接に、自然の風景に絡ませていうという手法であって、まさしく文芸的のものである。この歌の作られた年代は明らかではないが、これを人麿の同じ皇子尊の挽歌として作った巻二(一九九)に較べると、生活実感より文芸的のものへと移った跡が際やかに見られる。この点が第一に注意される。表現の態度もそれとともに異なっている。この歌は、その心との相関もあるが、きわめて静かな態度をもって詠んだもので、また神経もきわめて細かに働いている。「松風に池浪立ちて、桜花木の晩茂に」のごとき、上二句は、香具山の上より埴安の池を見下ろした作者の位置がはっきり現われ、下二句は咲き満ちている桜の下蔭に立っていることをあらわしている。客観的なのは当時の作風で、いわんとしているのは山と水との好景で、作者のその際の位置のごときは意図にないものと思われるのであるが、それをもこのようにあらわし得ているのは、その神経の細かく働いているがためで、これは作者の人柄ばかりではなく、時代も関係していることと思われる。この心細かさは、廃船をいうに、「遊ぶ船」と現在法を用い、また「梶棹もなくて」と具象しているところにも、同じく現われている。結句の「こぐ人なしに」によって、「大宮人」を繰り返し強めているところにも、同じく現われているといえる。一首要するに巧緻な作であるが、長歌によって巧緻を尽くしているところに特色があり、時代性の認められるものである。
 
     反歌二首
 
258 人《ひと》榜《こ》がず あらくもしるし 潜《かづ》きする
鴦《をし》とたかべと 船《ふね》の上《うへ》に住《す》む
    人不榜 有雲知之 潜爲 鴦与高部共 船上住
 
【語釈】 ○人榜がずあらくもしるし 「人榜がず」は、長歌の結句を繰り返したもの。「あらく」は、「ある」に「く」を添えて名詞形としたもの。「も」は、詠歎。「しるし」は、「著《しる》し」で、明らかだの意。 ○潜きする 水禽の習性をいったもの。 ○鴦とたかべと 「鴦」は、延応《おしどり》。「たか(47)べ」は、小鴨。○船の上に住む 船の上をその巣として住んでいる。
【釈】 人が漕がずにいることは明らかである。潜きをする水禽の鴛鴦と小鴨とが、そこを巣として船の上に住んでいる。
【評】 長歌の結句を承けて、それを延長させ、廃船を具象することによって、長歌の作意である、香具山の宮に対する悲しみを徹底させたものである。これは反歌の型となっている手法である。三句以下、実際に即しての捉え方で、調子は低いが、哀愁の情をあらわし得ているものである。
 
259 何時《いつ》の間《ま》も 神《かむ》さびけるか 香具山《かぐやま》の 鉾杉《ほこすぎ》が本《もと》に 薛《こけ》生《む》すまでに
    何時間毛 神左備祁留鹿 香山之 鉾※[木+褞の旁]之本尓 薛生左右二
 
【語釈】 ○何時の間も 「も」は、詠歎。いつの間にの意である。○神さびけるか 「神さび」は、物の古くなって神々しく見える意。
「か」は、疑問。○鉾杉が本に「鉾杉」の「鉾」は、杉の立っているさまが、鉾を立てたのに似ているところから添えたもの。「鉾杉」は集中ここにあるのみである。「本」は、幹。○薛生すまでに 「薛生す」は、老木でなくてはないこととしてのもの。
【釈】 いつの間にこのように神々《こうごう》しいさまとなってしまったのであろうか。香具山の鉾杉の幹に薛の生えるまでに。
【評】 上の歌は埴安の池についていったので、これは転じて、それと対照的に扱っている香具山についていったのである。長歌でいった香具山は、「松風」と「桜花」という興趣のものであったのに、ここでは進展させて、皇子尊に対する追慕の悲しみを、時の推移を通してあらわしているのである。その手法の間接なのは長歌と同様である。
 
     或本の歌に云ふ
 
260 天降《あも》りつく 神《かみ》の香具山《かぐやま》 打靡《うちなび》く 春さり来《く》れば 桜花《さくらばな》 木《こ》の晩《くれ》茂《しげ》に松風《まつかぜ》に池浪《いけなみ》※[風+火三つ]《た》ち 辺《へ》つへには あぢむら動《さわ》き 奥《おき》つへは 鴨《かも》妻《つま》喚《よ》ばひ 百《もも》しきの 大宮人《おほみやびと》の まかり出《いで》て 榜《こ》ぎける舟《ふね》は 竿《さを》梶《かぢ》も なくてさぶしも 榜《こ》がむと思へど
    天降就 神乃香山 打靡 春去來者 櫻花 木暗茂 松風丹 池浪※[風+火三つ]邊都遍者 阿遅村動 奧邊者(48) 鴨妻喚 百式乃 大宮人乃 去出 榜來舟者 竿梶母 無而佐夫之毛 榜与雖思
 
【語釈】 ○神の香具山 「神の」は、他に例のないものである。山を神とする信仰のあった上に、香具山はもと天上のものであったところからいったものと思える。○打靡く春さり来れば 「打靡く」は、春の木草は柔らかに靡くところから、意味で春にかかる枕詞。「春さり来れば」は、春になって来ると。○池浪※[風+火三つ]ち 「※[風+火三つ]」を、「たつ」と訓むにつき、『講義』は考証をしている。○榜ぎける舟は 榜いだところの舟はで、過去としていつたもの。○竿梶も 上の歌とは順序を反対にしている。
【釈】 路す。
【評】 この歌は、一本のものとはいうが、そうしたものに例の多い、伝承の結果異伝を生じたという範囲のものではなく、同じ作者によって異なる時に作られたものと思われる。それは一本の歌が劣ったものではないのみならず、むしろ優ったものだからである。双方を比較して、その最も異なっているのは、第一は、「桜花木の晩茂に、松風に池浪※[風+火三つ]ち」である。これは前の歌では、「桜花」と「松風」との順序がこの歌とは反対になっているのである。いずれが全体との関係から見て優っているかというと、この歌の方が明らかに優っている。こちらは華やかな桜花の下蔭を過ぎ、心深い松風の音を聞き、それを池浪に関係させるとともに、ただちに池の状態に移っていて、心理の推移が自然だからである。第二は、結句の「榜がむと思へど」である。香具山の宮人の榜いだ船を、懐古の情に浸っている足人が、自身をその宮人になぞらえて、榜いでみようとする心は、自然といえる。「竿梶」もなくてそのかなわないところから「さぶしも」と感じるのは、実感的であって、前の歌の「こぐ人なしに」と、ただに懐古の情のみとしているのよりも、力強さがある。総じていうと、前の歌は沈静のみであるが、この歌はそれに躍動が加わっているのである。これはさらにいうと、前の歌はかなりまで距離をつけて作ったものであるのに、この歌はその距離を近づけて作っているのである。同じく間接的な扱い方ながらも、あまり多くの距離をつけまいとしたことは時代的に見て妥当なことと思える。こうした巧緻な作風にあっては、改作はなされやすいことである。この歌は、前の歌を作った後、作者自身それに加筆をしたものではないかと思われる。
 
     右、今案ずるに、都を寧楽に遷しし後、旧《ふる》きを怜《かなし》みてこの歌を作れるか。
      右、今案、遷2都寧樂1之後、怜v舊作2此歌1歟。
 
【解】 この注は、奈良遷都の後、故京藤原宮を悲しんでの作と解したものである。しかるにこの歌の作因は、いったがように香具山の宮に対してのものと思われる。また、歌の排列の上から見ても、この歌は和銅三年遷都以前のものと思われる。それらの(49)点からこの注は、撰者より後の人の加えたものではないかとされている。
 
     柿本朝臣人麿、新田部《にひたべの》皇子に献《たてまつ》れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「新田部皇子」は、天武天皇の第七皇子であり、御母は、藤原鎌足の女《むすめ》五百重娘である。元正天皇の養老三年、優詔を賜わって、二品新田部親王は、舎人《とねり》親王とともに国家の柱石であるとして、舎人、衛士を賜わり、また封五百戸を益して一千五百戸を賜わっている。聖武天皇の神亀元年には一品を授けられ、天平三年、初めて畿内惣管、諸道鎮撫使を置かれた時には、親王には大惣管とせられた。天平七年に薨じられた。この歌は賀の心のもので、歌から見ると、人麿は親王の宮に親しく出入りしていた者のようである。
 
261 八隅《やすみ》知《し》し 吾《わ》が大王《おほきみ》 高輝《たかてら》す 日《ひ》の皇子《みこ》 茂座《さかえます》 大殿《おほとの》のうへに 久方《ひさかた》の 天伝《あまづた》ひ来《く》る 白雪《ゆき》じもの 往来《ゆきかよ》ひつつ 益《いや》常世《とこよ》まで
    八隅知之 吾大王 高輝 日之皇子 茂座 大殿於 久万 天傳來 白雪仕物 徃來乍 益及常世
 
【語釈】 ○八隅知し吾が大王 既出。○高輝す日の皇子 「高輝す」は、天に光るで、四句、天皇、皇子に対しての讃え詞。○茂座 旧訓「しげくます」、『代匠記』「しきませる」、『童蒙抄』「さかえます」、『略解』「しきます」であり、『攷証』は「茂」は「敷」の借字で、知り領しますの意だとしている。『講義』は『童蒙抄』の「さかえます」に従い、その理由をいっている。要は「茂」は「しく」と訓みうる字ではなく、また「茂り」「茂る」「栄ゆ」という意で「しく」という語もない。『類聚名義抄』には、「茂」に「さかゆ、もし、つとむ、もつ、さかり」の訓がある。また、『説文』『広韻』にも「さかゆ」の意がある。『童蒙抄』の「さかえます」が当たっているというのである。これに従う。意は、今いう「栄ゆ」と同じで、集中に用例の多い語である。栄えていらせられると、皇子を賀したもの。○大殿のうへに 「大殿」は、皇子の殿を讃えての称。この殿は、反歌で見ると「八釣山《やつりやま》」にあったものである。八釣山は高市郡明日香村字八釣の上方にある山で、顕宗天皇の近飛鳥八釣宮《ちかつあすかのやつりのみや》のあった地である。皇子の殿は藤原京にあり、そちらには別殿があって、おりふしそちらへいらせられたものと、歌の上から察しられる。今はそうした場合である。 ○久方の天伝ひ来る 「久方の」は、天にかかる枕詞。既出。「天伝ひ来る」は、天を伝って降ってくるで、下の「雪」の状態をいったもの。 ○白雪じもの往来ひつつ 「白雪じもの」は、上の(二三九)「十六《しし》じもの」と同系の語で、他にも出た。雪のごとき物の意の形容で、ここは、雪のごとくにの意である。「往来ひつつ」は、八釣山の大殿に、藤原京から通い行きつつで、「つつ」は継続。この往来う者は新田部皇子で、主格は「日の皇子」である。 ○益常世まで 「益」は、集中に用例の少なくない字。ますます。「常世」は、ここは永久の意のもの。ますます永久にわたつてで、言いさしの形のもの。下に栄えませの意が省かれている。
(50)【釈】 八隅知し吾が大王の、高|輝《てら》す日の皇子《みこ》よ。めでたくも御機嫌うるわしくいらせられる大殿の上に、おりから、久方の天を伝って降ってくる雪のごとくに、藤原京よりこの大殿へと通い来ることを続けて、ますます永久にわたって栄えいませよ。
【評】 反歌と合わせてみると、この歌の作意は明らかである。人麿がこの歌を献った時には、皇子は藤原京から八釣山の別殿へ来ていらせられた。そのおりから大雪が降ったので、皇子の宮に親しく出入りしていた人麿は、当時も風《ふう》となっていたとみえる、大風、大雪など天変に近いことのあった際には御見舞いを申し上げる、その風に従って御見舞いに伺って、それを機会として献った、皇子に対する賀の歌である。賀の歌は、天皇に対し奉っては、行幸の際には必ず献るもののようになっていた。今は皇子の別殿にいらせられている際で、それに准じうる機会である。加えて大雪の降ったという特殊な際でもあるので、それをするにはいっそう妥当な機《おり》であるとして献ったものとみえる。さて、改まって賀の歌を献るとすると、そのおりからの大雪を捉えていうよりほかにはより所がないところから、この歌はその雪を力点としたのである。「茂座大殿のうへに、久方の天伝ひ来る白雪じもの」はすなわちそれである。これは形の上からいうと、下の「往来ひ」の「ゆき」に畳音《じようおん》の関係で続いているので、序詞と見るべきであるが、作意の上からいうと、一首の力点で、きわめて重いものである。大体としては、おりからの眼前の大雪を捉えて、「往来ひつつ」の譬喩としたもので、今降っている雪のごとくにしげしげと京よりこの大殿へと往《ゆ》き来《かよ》いたまいての意と取れる。同時に、その雪をいうに、「久方の天伝ひ来る」と、雪を天上のものとし、その伝い来る所を「茂座大殿のうへに」と大殿の上に限ったもののごとくいっているのは、ここに賀の心をもたせようとしたものと取れる。すなわち譬喩とはいうが、その時の状態と心とを一つにした複雑なものである。加えて「白雪じもの往」と序詞の形をももたせているのは、一に人麿の優れた技倆というべきである。なおいえば、実際に即して、乏しい資料を、十二分に働かせたもので、高度の文芸性をもったものである。
 
     反歌一首
 
262 矢釣山《やつりやま》 木立《こだち》も見《み》えず 落《ふ》り乱《まが》ふ 雪《ゆき》に驟《うくづ》き 朝楽《まゐりくらく》も
    失釣山 木立不見 落乱 雪驟 朝樂毛
 
【語釈】 ○矢釣山木立も見えず 「矢釣山」は、前頁にいった。「木立も見えず」は、山の木立も見えずにの意で、雪の降る状態。「見えず」は連用形で、「落り」につづく。○落り乱ふ雪に驟き 「落り乱ふ」は、降るために、物の紛れて見えない状態をいったもの。「乱ふ」は連体形で、「雪」につづく。「驟」は、諸本、文字に異同があり、したがって訓もさまざまで、定説がない。この字は、『類聚古集』のものである。この字を原形で(51)あろうとしたものは、古くは『古義』で、訓を「さわぎて」としている。ついで、これに従って考証をしたのは生田耕一氏で、『日本文学論纂』で、「うくづき」と訓んでいる。これをさらに詳しく考証したのは『講義』で、要は、「うくづく」は、日本書紀、『文選』の古訓に用例のある語である。意義は、『新撰字鏡』に「駆」とあり、なお『説文』には「馬疾歩也」、『玉篇』には「奔也」ともあり、馬を走らすことの古語だといっている。今はこれに従う。二句、物のまぎれるような大雪の中を、お見舞いにと路を急ぐことを、具象的にいったもの。○朝楽も 「朝」は、漢語の「朝す」の意の字。訓は、旧訓、『考』のものである。「まゐり来」は、尊い所へ伺う意を、そちらを主としていった語で、今だとまいり行くという意である。「らく」は、「く」を添えることによって、「来」を名詞形としたもので、「も」は、詠歎。お伺いすることであるかの意。
【釈】 矢釣山の木立も見えないまでにまがえて降っている大雪の中を、お見舞いのために、馬を走らせて路を急いでお伺いすることであるよ。
【評】 長歌は、おりからの大雪に寄せて皇子を賀しまつったのであるが、反歌は転じて、人麿自身のことをいったもので、その大雪の中を、臣下として、鞠躬加《きつきゆうじよ》として奉仕する心をいったものである。一首、大雪の光景の明るく、面白さを連想させるものがあるが、長歌との関係において見る時は、上のごとく解するほかはないものと取れ、それが作意であると思われる。
 
     近江国より上り来る時、刑部垂麿の作れる歌一首
 
【題意】 「刑部垂麿」の伝は不明である。この人の歌は、なお本巻に一首ある。
 
263 馬《うま》な疾《いた》く 打《う》ちてな行《ゆ》きそ 日並《けなら》べて 見《み》てもわが帰《ゆ》く 志賀《しが》にあらなくに
    馬莫疾 打莫行 氣並而 見弖毛和我歸 志賀尓安良七國
 
【語釈】 ○馬な疾く打ちてな行きそ 「馬な」は、「馬」は、乗馬。「な」は、禁止の意をあらわす助詞で、二句にもあるものである。一句に二つの禁止があるので、一つは誤りであろうというが、諸本皆同様である。宣命にはその例があるが、歌にはないものである。一つの事に二つの禁止を用いていったものと見るよりほかはない。「疾く」は、甚しくで、下の「打ち」へつづく。「打ちてな行きそ」は、「な……そ」は禁止。馬を鞭打つのは、路を急がせようとするためで、それを禁止したのは、そのように急いでは行くなの意を具体的にいったもの。同行者の、その乗馬を扱う状態を見ての言で、先立って行く者に対しての言である。○日並べて見てもわが帰く 「日並べて」は、日を並べて、すなわち幾日もの間、ゆっくりとの意。「見ても」の「も」は、詠歎。○志賀にあらなくに 「志賀」は、近江琵琶湖の西岸の、天智、弘文二帝の京のあった地。「あらなく」の「なく」は、打消の「な」に、「く」を添えて名詞形としたもの。
【釈】 乗馬を、そのように甚しく鞭打って、路を急がせて行くな。日を重ねて、ゆっくりと見て行くところのこの志賀ではない(52)ことなのに。
【評】 題詞によって、近江国から藤原京へ帰る時のこととわかる。何ゆえに近江国へ行ったのかは明らかにはわからないが、これにつぐ人麿の歌によって見ると、遊覧のためではなかったかと思われる。海のない大和国に住んでいた人に取っては、海は珍しく、むしろ憧れとなっていたがようであるから、近江の湖は強く心を引かれるものであったとみえる。また、近江の大津宮のことは、この当時にあっては近い過去のことであったから、その意味の懐かしさも伴っていたものと思われる。歌は、口頭の言をもってしても心の足るほどのものであるのを、上代の口承文学の風に従って、歌の形式としたものである。いわんとしているところは、湖辺の風光に心が引かれて、帰路を急ぐ同行者に、少しくゆっくりとするように訴えたものである。「馬な」の「な」の重複も、当座の歌で、訴えの心を主として、語に屈折をもたせようとしたところから、なかば無意識に重ねてしまったのではないかと思われるが、もとより疑問を残すべきものである。
 
     柿本朝臣人麿、近江国より上り来る時、宇治河の辺《ほとり》に至りて作れる歌一首
 
【題意】 「宇治河の辺」というのは、山城国字治郡の宇治河で、大和国から近江国への往復には、必ず通るべき路筋となっていた。僧道登が宇治橋を作ったのは、大化年中のことであるから、いずれは橋があったのである。
 
264 物《もの》の部《ふ》の 八十氏河《やそうぢがは》の あじろ木《ぎ》に いさよふ浪《なみ》の 去辺《ゆくへ》しらずも
    物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代經浪乃 去邊白不母
 
【語釈】 ○物の部の八十氏河の この語は、巻一(五〇)に出た。「物の部」の「物」は、多くの物。「部」は朝廷に奉仕するための職業団体を意味する語。「八十氏」は、「八十」は多数ということを具体的にいった語。「氏」は現在のそれと同じ。その「氏」を、河の名の「宇治」に、同音異義で転じたもの。全体では、朝廷に奉仕する多くの氏の、その氏という宇治河のの意で、「物の部の八十」は、宇治の序詞である。なお「物の部の八十氏」は、各部の氏が朝廷の臣として奉仕していたところから、百官の意である。○あじろ木に 「あじろ」は、網代《あじろ》で、鮎、氷魚《ひお》などの川魚を獲るための物で、川の流れに、竹木をもって網の形の物を作ってしかけた物である。すなわち水中に、左右に杙《くい》を打ち、上を広く、下を狭く、竹木をしがらませ、最後の所に簀を設け、水中の魚の流れとともに網代に入り、簀に入るのを捕える法である。「網代木」は、その網代の杙であるが、ここは網代そのものの意で用いたもの。○いさよふ浪の 「いさよふ」は、たゆたう意で、網代に流れ入る水の小さな浪となって、しばらくそこにたゆたうような状態をするのをいったもの。○去辺しらずも 「去辺」は、浪の行方。「しらず」は、知られず。「も」は、詠歎。波は立ちつ消えつして、ほとんど間断なく同じ状態を繰り返しているのであるが、その消え失せる浪に対して、感傷の心をもっていったもの。
(53)【釈】 物の部《ふ》の八十氏という、その宇治河の網代に、立ってはたゆたっている浪の、つぎつぎに消え失せて行って、その行方の知られないことよ。
【評】 宇治川という広く豊かな大河の上に、網代の上にいさよう浪といういささかなものに眼をとめ、思い入った心を抒《の》べた歌である。「近江国」とある以上、むろん大津の荒都も見たことであろうが、それについては何事もいわず、帰途宇治河まで来てこの一事を選んだというのは、人麿の主観に触れきたるものがあったためであろう。人麿のいわんとしていることは、「いさよふ浪の去辺しらずも」ということで、初句より三句までは「いさよふ浪」に客観性を与えるにすぎぬもので、また光景としては、そうしたさまは、状態は異なるが、どこの川にもあることで、何ら特殊なものでもないのである。「いさよふ浪の去辺しらずも」と、詠歎を添えていっているのは、ものの推移を悲しむ心で、推移の跡のあまりにもはかないのを悲しむ心である。推移を悲しむのは、現実生活に愛着する心の現われで、生命に対する執着と言いかえうるものである。これは人麿の歌のすべてにわたってその基調をなしているもので、その強さが人麿の特色をなしているものである。この歌にあらわしているのも、その平生の心で、その心が、この平凡な事象に刺激され
たのである。この歌で問題となるのは、これを詠んだ際人麿は、単にこうした事象によって平生の心を刺激されたがために詠んだのか、または、題詞の「近江国より上り来る時」という条件の下にあって、平生の心が大津の荒都を見ることによって刺激され、深化されていた際、幾ほどもなくしてこうした光景を眼にしたために、重ねてそれに刺激されて、大津宮の跡を悲しむ心をそれに寄せて詠んだものかということである。この一首は、人麿の歌としては、沈潜の趣の深いものである。この沈潜は近江の荒都を連想させるものがある。「物の部の八十氏河」は、成句となっていたと思われるものであるが、これは天皇の宮廷を思わせるもので、偶然なものではなく、「いさよふ浪の去辺しらずも」は、最も適切に大津の荒都の成行きを思わせるものである。それにその事は、事柄の性質上、この当時にあっては、露骨なる抒情を許さないものでもある。人麿平生の心と、大津の荒都に対する悲哀とを一丸とし、象徴ともいうべき文芸的な方法をもって詠んだのが、この一首だと思われる。この際の人麿の感の強さは、一首の調べにいみじくもあらわされているが、それは言い得られないものである。
 
     長忌寸奥麿の歌一首
 
【題意】 「長忌寸奥麿」は、上の(二三八)に出ている。
 
265 苦《くる》しくも 零《ふ》り来《く》る雨《あめ》か 神《みわ》の埼《さき》 狭野《さの》の渡《わたり》に 家《いへ》もあらなくに
(54)    苦毛 零來雨可 神之埼 狹野乃渡尓 家裳不有國
 
【語釈】 ○苦しくも零り来る雨か 「苦しくも」の「も」は、詠歎。旅路を行きながらの感。「零り来る雨か」の「か」は、詠歎。○神の埼狭野の渡に この二つの地は、和歌山県新宮市の南に三輪崎というがあり、その字《あざ》に佐野というがあり、そこだとされている。「渡」は佐野の南に川があるので、そこの徒渉地であろうという。上代は特別な路でない限り川に橋がなく、徒渉するのが普通であった。○家もあらなくに 「家」は、宿を借るべき家。「も」は、詠歎。「なく」は、打消「な」に、「く」の添って名詞形となったもの。
【釈】 苦しくも降って来る雨であるよ。神《みわ》の埼の狭野《さの》の渡り場に、宿を借るべき家もないことであるのに。
【評】 廷臣として、何らかの命を帯びて紀伊へ旅した際の歌とみえる。歌は、実感を実際に即して、素朴に詠んだものである。人に告げようとしてのものではなく、我とわが心を紛らすために詠んだものとみえる。すなわち文芸性の範囲のものである。この歌のもつ迫真性は人を打つものがあり、他奇のないものであるにかかわらず、後世に影響を与えているものである。
 
     柿本朝臣人麿の歌一首
 
266 淡海《あふみ》の海《み》 夕浪千鳥《ゆふなみちどり》 汝《な》が鳴《な》けば 情《こころ》もしのに 古《いにしへ》念《おも》ほゆ
    淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念
 
【語釈】 ○淡海の海 「海」は、旧訓「うみ」。仮名書きによつてのものである。琵琶湖のこと。その湖辺に天智、弘文両帝の大津宮があったのである。○夕浪千鳥 夕浪の上に飛んでいる千鳥の意で、呼びかけたもの。千鳥は、川原、海岸など、水辺に棲み、小魚を食としている小鳥である。今もこの名で呼んでいる。この簡潔な続け方は、人麿の創意とみえる。○汝が鳴けば 「汝」は、呼びかけていっているもの。「鳴けば」は、鳴くので。千鳥の鳴き声は、低く、さみしいもので、聞くと哀愁をそそられるものである。今その声を取立てていっているので、夕浪も音が低く、あたりもひっそりとしていることが、余情として感じられる。○心もしのに古念ほゆ 「しの」は、しほる、しなえるの意をもった語で、「情もしのに」は、心がしおれた状態となってで、「念ほゆ」に続く。「古《いにしへ》」は、大津宮の荒都となった古の事蹟で、それを婉曲《えんきよく》にあらわしたもの。「念ほゆ」は、思われる。
【釈】 近江の海の夕浪の上に飛んでいる千鳥よ。お前がそのように鳴くので、我は心もしおれた状態となって、ここにあった古の悲しい事蹟が思われる。
【評】 歌によって見ると、人麿がこの歌を詠んだ時には、古の大津宮に近く、湖辺にいたことがわかる。また、夕暮れになる(55)までそこにいたこともわかる。思うに懐古の情に捉われて、そこを立ち去りかねていたのであろう。千鳥が夕浪の上を乱れ飛んで、低くさみしい鳴き声をたてるのは、その時の実景で、感傷を催しやすい夕暮れ時、旅人として自然の大景の中にいて、その鳴き声を聞くと、胸中に湛えられていた古を思う感がいっそう深まってきて、「心もしのに」という状態にならされたものと思われる。一首、比較的複雑した気分を、「千鳥」という一生物に集中させて、単純に、余情を多くあらわしているものである。細部についていうと、「淡海の海夕浪」における「み」音、「千鳥……心もしのに古」における「い」韻の反覆は、徹妙なものとして注意されている。これは無意識にしたことを、結果から見ていうことと思われるが、とにかく、この同音同韻の反覆は、一首に沈静の味わいをもたせるものとなっている。この歌は人麿の作中でも文芸性の豊かなもので、加えていわゆる小手《こて》の利いたものであるところから、人麿の代表作であるかのごとくいわれているが、それはむしろ後世の好尚のいわしめることで、人麿の一面をあらわしている作とすべきであろう。
 
     志貴《しきの》皇子の御歌一首
 
【題意】 「志貴皇子」は、巻一(五一)(六四)に出た。天智天皇の皇子、光仁天皇の御父である。
 
267 むささびは 木末《こぬれ》求《もと》むと 足日木《あしひき》の 山《やま》のさつ雄《を》に あひにけるかも
    牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓來鴨
 
【語釈】 ○むささびは 「むささび」は、※[鼠+吾]鼠。俗に「ももんが」とも「のぶすま」ともいう小獣である。『和名抄』に、「状如v※[獣偏+爰]、而肉翼如2蝙蝠1、能従v高而下、不v能2従v下而上1、常食2火烟1、声如2小児1者也」とある。巻七(一三六七)「三国山《みくにやま》木末《こぬれ》に住まふむささびの鳥待つが如われ俟《ま》ち痩せむ」とあって、小鳥を食とする獣で、そのために梢に住んでいるのである。○木末求むと 「木末」は、木の若く栄え立っている部分の称。梢にあたる。小鳥の止まる所としていったもの。「求むと」は、捜すとしてで、小鳥の止まりそうな所を捜そうとして。○山のさつ雄にあひにけるかも 「山のきつ雄」は、「さつ」は幸で、鳥獣を獲る意。「雄」は男で、山の幸を得ようとする男、すなわち猟師。「あひにけるかも」の「あひ」は、※[鼠+吾]鼠と猟師の関係を、※[鼠+吾]鼠の方を主としていった語で、猟師の方を主とすると、発見したことである。出逢ってしまったことであるよの意。
【釈】 ※[鼠+吾]鼠《むささび》は、小鳥の止まりそうな梢を捜そうとして、山の猟師に出違ってしまったことであるよ。
【評】 ※[鼠+吾]鼠の歌は、集中にこのほかにもあって、当時は比較的目に触れやすい獣であったとみえる。したがってその習性とし(56)て、小鳥の止まりそうな山の梢を捜し廻って住むことも知られていたとみえる。御歌はそれを背後に置き、  窮鼠が梢より梢へと渡って歩いていたために、その姿を山の猟師に発見されてしまったことを、  窮鼠の方を主とし詠歎の情をもって詠まれたものである。作意は、  窮鼠が猟師に獲られてしまったのを見られ、それを隣む心をいわれたもので、その事は余意としたものと思える。歌としては境が特殊であり、また余意をもたせて扱われているところは、皇子の詩情のさせていることと思われる。
 
     長屋王《ながやのおほきみ》の故郷の歌一首
 
【題意】 「長屋王」は、巻一(七五)に出た。高市皇子の子で、天武天皇の御孫である。国家の柱石であったが、天平元年、四十六歳のあるいは五十四歳をもって、讒にあって自尽された。「故郷」というのは明日香で、それについては左注がある。
 
268 吾《わ》が背子《せこ》が 古家《ふるへ》の里《さと》の 明日香《あすか》には 千鳥《ちどり》鳴《な》くなり 島《しま》待《ま》ちかねて
    吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 嶋待不得而
 
【語釈】 ○吾が背子が 「背」は、本来女より男を呼ぶ称であるが、男同志の問にも用いられるものとなった。ここはそれである。「吾が」と「子」とを添えてあるのは、いずれも親愛の情を示しているものである。○古家の里の明日香には 「古家」は、古里と同じく、以前住んでいたところの家。「古家の里」は、古家のあるところの里で、「明日香」は、それを繰り返したもので、そうした里である飛鳥の意。○千鳥鳴くなり 「千鳥」は、水辺に棲む鳥。「鳴くなり」の「なり」は、終止形に続いて、上の意を強めるもの。○島待ちかねて 「嶋」は、諸本皆同様である。『講義』は、巻二(一七一)以下の「島の宮」「み立たしの島」などの島と同じく、庭園を意味する語で、その庭園は、山水《せんすい》を掘り、中に中島を築くのが風となっていたので、「島」という語で、そうした庭園を代表させたものだといっている。その島はこの場合、水辺の島である千鳥の棲むところとしてのものである。「待ちかねて」は、待ち得ずしてで、千鳥が棲みつこうとして、それに適する状態となるのを待っているが、棲めない状態のままで、すなわち荒れて、水が涸《か》れ涸れになつたままで続いているのでの意。
【釈】 吾が背子が、住み棄てた古い家のある里のその飛鳥では、千鳥が嘆いて鳴いていることである。棲みつこうとする島の、そうした状態に復するのを待ち得ずして。
【評】 王が故郷の飛鳥の里を訪い、その荒廃したさみしさを、京にある親しい人に報じた歌で、歌としては実用性のものである。しかしその荒廃の状をいうには、一に千鳥に寄せていうという文芸的のものである。庭園の荒れて山水《せんすい》はあるが、水の涸れ涸れになったのと、飛鳥川に多い千鳥とを取合わせ、双方を緊密に関係させて、その千鳥は山水に棲みつこうとして、山水のその状態に復するのを待って、待ち得ずしてさみしく鳴いているのだと、千鳥に情《こころ》あらしめて、それによって古家の里の荒(57)廃しているさまを暗示しているのである。「島待ちかねて」の含蓄はもとより、「古家の里の明日香」も、巧みな言い方で、技倆の歌である。
 
     右、今案ずるに、明日香より藤原宮に還りましし後、此歌を作れるか。
      右、今案、從2明日香1遷2藤原宮1之後、作2此謌1歟。
 
【解】 この歌の作られた時についての注であるが、このことにつき『講義』は、長屋王の生まれたのは天武天皇十二年で、藤原宮遷都の時は十一歳であった。また、藤原宮より奈良宮へ遷都の時は二十七歳であった。したがってそのいずれの時かわからない。それで藤原宮遷都に続いてのこととすると、六、七年後のことでなくてはなるまいといっている。
 
     阿倍女郎《あべのいらつめ》の屋部坂の歌一首
 
【題意】 「阿倍女郎」は、父祖も伝記も明らかではない。阿倍氏は『新撰姓氏録』に「阿倍朝臣孝元天皇皇子大彦命之後也」とあり、その一族の人と思われる。集中に歌が五首ある。それによると、中臣朝臣東人と贈答をしているが、東人は和銅四年従五位下を授けられ、天平四年兵部大輔に任ぜられた人であるから、女郎の壮年期の時代が察しられる。また、大伴家持より女郎に贈った歌〔巻八(一六三一)〕があるが、歌の中に「今造る久邇《くに》の京《みやこ》に」とあり、その時は奈良遷都後三十年を経てのことであるから、女郎は五十歳もしくはそれ以上の老年でなくてはならないと『講義』は考証している。「屋部坂」は、『代匠記』は、「三代実録十七云、高市郡夜部村云々、此処歟」といってい、『講義』は詳しく考証して、高市郡明日香村小山の辺りであろうといっているが、他に説が多い。
 
269 人《ひと》見《み》ずは 我《わ》が袖《そで》もちて 隠《かく》さむを 焼《や》けつつかあらむ 服《き》ずて来《き》にけり
    人不見者 我袖用手 將隱乎 所焼乍可將有 不服而來來
 
【語釈】 ○人見ずは 見る人がないならばで、そこは人目のある所で、また次のことは、人の見る所でするのははばかるべきことであるという余意をもっての語。○我が袖ももて隠さむを わが袖をもって隠してやろうものをで、「を」は詠歎。対象となっている物の有様が、見るに忍びない心をもってのもの。初句よりこれまでは、対象から与えられる感と、その感に対して動いた心である。○焼けつつかあらむ 焼かれ続けているのであろうかというので、対象の状態に対しての理由づけである。対象は夜部坂であって、眼前のものであるから省いているのである。「焼け」(58)は、「焼かれ」の約で、事柄としては、坂が赤くなって、すなわち草木が生えず、赤土の地肌を露出していることと取れる。また「袖もちて隠さむ」といっているので、その範囲は広くはない、一部分のことと取れる。赤土がちな大和国であるから、坂の一部に地辷りができ、草木が生えずにいると、赤く焼けているように感じられよう。これは珍しくない事柄である。心持としては、恋の思いに胸を焦すことを胸を焼くというのは例の少なくない語で、巻十三(三二七一)「吾が情《こころ》焼くも吾なり」などがある。胸を焼くのは女にありがちなことである所から、今も坂に女性を連想していると取れる。この連想は上代にあつては自然なものである。○服ずて来にけり 「服ずて」は、衣を着ずしてで、上の句を承《う》けてのもの。事柄としては、坂の一部に草木の生えず、地肌の露出していることをいったものであるが、その草木を坂の衣と見、「焼け」に関係させて、焼かれたので衣がなく、したがって、衣を着ずして、すなわち裸での意。「来にけり」は、過ぎて来たことであるよと、時間を主としていったもの。これは上の句の「焼けつつ」の「つつ」に照応させてある。心持としては、上の句を承けて、坂を女性と見ることに力点を置いたものである。
【釈】 見る人がなかったならば、わが袖をもって隠してもやろうものを。この坂の一部の、地辷りのために草木が生えず、赤土の地肌を露出させているところを見ると、恋の思いに焼かれつづけて、衣は燃えてしまったのであろうか、衣を着ずに過ぎて来ていることであるよ。
【評】 この歌は、『代匠記』が、「意得がたき歌なり」といって、推測の解を試みているのを初めとして、諸説まちまちである。上の解は、大体『考』の解によって下したものである。夜部坂にあった地辷りのために赤土の地肌が現われ、草木が生えずにいる部分というのは、丘陵地だとどこにも見られる相で、けっして珍しいものではない。それが印象的なものにされていたのは、その場所が往来の道筋にあたっていた、人目に着きやすいためであったろう。歌は、女郎がその坂を通って、たまたま目にしたところからのものと思われる。作意は、坂に自分と同性の女性を連想して、そのさまをかつ恥じかつ隣れんでのものである。一首、ほとんど抒情に終始していて、直接状態に触れるところのないのは、その坂を通る人の等しく見ているところであるとともに、女郎としてはいうに忍びないとしたためであろう。解に異説の多いのは、抒情を旨としたものだからである。作歌態度としては、実際に即して、扱いにくい対象を、文芸的に扱い得ているものである。
 
     高市連黒人《たけちのむらじくろひと》の※[羈の馬が奇]旅の歌八首
 
【題意】 「高市連黒人」は、巻一(三二)に出、そこでいった。父祖も官位も徴すべきものがなく、伝は不明である。ただ知られるのは、(五八)の題詞によって、大宝二年、太上(持統)天皇、参河国に幸《いでま》された時に供奉し、また同じ天皇の吉野宮の行幸に供奉して歌(七〇)を作っているので、大体その生存年代が知られ、また、ここに見るごとく東国地方に関する歌が多いところから、国庁に仕えていた身分高からざる人かと想像されるのみである。歌は、集中十八首をとどめているが、全部旅の歌で、主として自然を対象としたもので、独自の歌風を示しているものである。時代としては人麿とほぼ同時であるが、人麿の人事のみ(59)を扱ったのに対し、黒人はほとんど自然のみであり、また人麿の一般性を代弁したごとき観があるのに対し、黒人は叙景という、その当時にはほとんど先蹤《せんしよう》のない方面を拓き、また人麿の一面保守的で、その風の華麗であったのに対し、黒人は進取的で、その風は素朴であるなど、要するに対蹠的の歌人であったことを示している。集中の代表歌人の一人である。ここの八首は、黒人の歌としては最も纏まっているものである。
 
270 旅《たび》にして 物恋《ものこ》ほしきに 山下《やました》の 赤《あけ》のそほ船《ぶね》 奥《おき》へ榜《こ》ぐ見《み》ゆ
    客爲而 物戀敷尓 山下 赤乃曾保船 奧傍所見
 
【語釈】 ○旅にして物恋ほしきに 「旅にして」は、旅にありての意。「恋ほし」は、「恋ひし」よりは古い形で、この時代は「恋ほし」といったのであろうと『講義』が考証している。「物恋ほしきに」は、憧れ心の起こることであるのにの意で、その憧れ心は、古里に対してのものである。○山下の 山の下で、続きより見ると、そこはただちに海となっているのである。黒人は山の上にいたので、間接に、その位置をあらわしているもの。○赤のそほ船 「赤《あけ》」は、「赤《あか》」の古語。「そほ船」は、そほをもって塗った船の意。そほは赤土を称する語で、その純粋なものを真《ま》そほといった。赤《あか》に、そほをもって塗った船。そほをもって船を塗るのは、船材の腐朽するのを防ごうがためで、上代より現在に及んでいる方法であり、現在も漁船は赤土を塗っていると『講義』はいっている。これは外国のセメント、コールタをもって塗るのと同様である。集中に「さ丹塗《にぬり》の小船《をぶね》」、「赤ら小船《をぶね》」とあるのも同じ意よりのものである。この赤土をもって塗ることは、大船であれば、それを重んずる心から必ずしたことと取れる。なお、『槻落葉別記』は、『令義解』につき、船舶に関する部分を調べ、『講義』はそれを補足している。○奥へ榜ぐ見ゆ 沖の方に向かって漕いで行くのが見える。
【釈】 旅にあっては、古里に対する憧れ心が起こることであるのに、ここの山の下にある海にいる赤のそほ船が、沖の方へ向かって漕いで行くのが見える。
【評】 「旅にして物恋ほしきに」というのは、旅行をしていての心ではなくて、旅の一定の場所に泊まっていての心と取れる。すなわち国庁にいてのものであろう。これは下の続きから思われることである。「山下の赤のそほ船」はその続き方がやや隠約で、曖昧だともいえる。これは実際に即しての写生で、一般性の足りないものだからである。ここに黒人の個人性が見え、特色が見える。「奥へ榜ぐ見ゆ」は、ただちに京へ向かっての航路を取っていると解する必要のないものである。当時の旅行は、陸路は困難が多かったところから、つとめて海路によろうとしていた。ここもそれで、ただ旅程に上っているものと見ただけである。京ということは、連想の中にはあったろうが、表面にあらわそうとまでは思わなかったものと取れる。この余情がまた、黒人の特色となっている。なお旅程ということは、上の「赤のそほ船」につながりがあって、その相応な大船だと思(60)われるところからくるものである。一首あくまで実際に即してはいるが、同時に他方では、情趣を重んじ、余情を重んじているもので、これを人麿に較べると、作歌態度としては、新しく、進歩的なものである。
 
271 桜田《さくらだ》へ 鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る 年魚市《あゆち》がた 塩《しほ》干《ひ》にけらし 鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る
    櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡
 
【語釈】 ○桜田へ鶴鳴き渡る 「桜田」は、尾張国愛知郡(現在名古屋市)作良《さくら》の郷の田と取れる。そこは今は明らかではないが、熱田と鳴海との間、笠寺の東に、桜という字を付した町名があるのは、その跡ではないかという。「鶴鳴き渡る」は、鶴が鳴きつつ移ってゆく。○年魚市がた塩干にけらし 「年魚市がた」は、「がた」は、潟。これは今、熱田神宮の西南、熱田新田と呼ぶ辺は、古は海で、その辺の称ではないかという。「塩干にけらし」は、「塩」は潮。「らし」は眼前を証拠としての推測で、その証拠は鶴。たしかに潮が干てしまったらしいというので、渚《なぎさ》にいて餌をあさる鶴の、空を鳴き渡ることによって、そのさまを推量したのである。
【釈】 桜田の方へ鶴が鳴きながら移ってゆく。たしかに年魚市渇は潮が干てしまったらしい。鶴が鳴きながら移ってゆく。
【評】 この歌は、形からいうと、第二句で切り、第四句で切り、第五句で第二句を繰り返しているものであって、口承文学時代の形をそのままに伝えているものである。語《ことば》つづきも単純であり、地名を二つまでも用いているところも、それにふさわしいものである。しかし捉えていっていることは、自然に対する興趣であって、これは口承文学とは遠い文芸性のものである。自然の興趣とはいうが、それは「鶴鳴き渡る」というだけのもので、鶴を目馴れていたこの時代にあっては、平凡なものにすぎない。それに理由づけはしているが、これまた平凡なものである。この平凡に興趣を感じ、それに甘んじ、躍動をもった調べによって生かしているのは、黒人の文芸性で、個性的と言いうるものである。
 
272 四極山《しはつやま》 打越《うちこ》え見《み》れば 笠縫《かさぬひ》の 島《しま》榜《こ》ぎ隠《かく》る 棚無《たなな》し小舟《をぶね》
    四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隱 棚無小船
 
【語釈】 ○四極山 『代匠記』は、「和名抄云、参河国|幡豆《はづの》郡磯泊【之波止】、是今の四極と同じき歟」といい、第一に参河とし、次に、「又住吉にも磯歯津《しはつ》あり。第六巻に見ゆべし」といっている。諸注、この二つの中のいずれかを取っている。すなわち二か所の内のいずれとも定められずにいるのである。それだと、『代匠記』がいい、『攷証』が支持しているように、前後の歌がすべて東国の地である関係上、参河とする方が穏やかに思える。(61)黒人のこの際の歌としては、史上に有名である方ということは、証とはならない。○打越え見れば 越えて見渡せばで、山の頂に登り切り、眼界の改まった瞬間を捉えたもの。○笠縫の島榜ぎ隱る 「笠縫の島」は、参河としても摂津としても、その名をとどめている島はない。本来笠縫は、菅笠を編むことで、それを業とする人の住んでいたところから地名となったものと思われる。上代の生活にあってはこの業をする人が多く、したがって笠縫という地名は少なくないが、生活状態の推移したため、地名も亡びたものと思われる。この島は、下の「棚無し小舟」との関係より見て、四極山の頂からは、眼下に近く見えたものと思われる。「榜ぎ隠る」は、棚無し小舟といわれるような舟は、航海の危険を避けるため、岸に添って繞るようにして榜ぐのが普通であったから、久しからずして島蔭になったものと思われる。これは島の小ささも暗示している語である。○棚無し小舟 「棚」は、船の舷側にとりつけた棚板の称で、それのない小さな舟の意で、小舟を印象的にいった語。
【釈】 四極山を越えて、その頂から見渡すと、眼界は一変して、眼下近い笠縫の島の、岸寄りを繞って漕いで、見ていると島蔭に隠れてゆく、棚無し小舟よ。
《評》 「四極山打越え見れば」と、山の登りの極まって、限界の遙かに一変したことを暗示する語をもって切り、「笠縫の島榜ぎ隠る棚無し小舟」と展開させ、そこに展けきたのは、山とは対抗的に広い海であり、海には陸近く島があり、その島には、今しも岸よりを漕ぎめぐっている一艘の小舟のあることをいっている。この変化は鮮やかで、また華やかなものである。しかしこの華やかな光景の中で、黒人の心を寄せたのは、最も小さな物である「棚無し小舟」で、それに心を集めて熟視していたのである。そのことは、「島榜ぎ隠る」と時間的にいい、また、それを結句に重く据えているのでもわかる。この「榜ぎ隠る」には、上とは反対な、静かな変化があり、それが一首の中心ともなっている。全体として、調べが華やかで、地名を二つまで用いていっているところは、前の歌と同じく口承文学の色合いの濃厚なものであるが、捉えているところは、自然そのものの興趣であって、「棚無し小舟」という人事的な物をも、全く自然の景象化としていっているもので、その意味では高度の文芸性のものである。すべて前の歌と同様で、異なるところは、事相も気分もそれよりは遙かに複雑なものだということだけである。この歌が古今集の大歌所の謡い物の中に取られているのも、ゆえあることである。
 
273 礒《いそ》の前《さき》 榜《こ》ぎたみ行《ゆ》けば 近江《あふみ》の海《み》 八十《やそ》の湊《みなと》に 鵠《たづ》さはに鳴《な》く 未だ詳ならず
    礒前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴 未詳
 
【語釈】 ○礒の前 「礒」は、海岸の石の多くあるところ。「前」は、「埼」で、出鼻。ここは湖であるが、古称は海と同じにするのが風であった。○榜ぎたみ行けば 「たみ」は、迂回することで、漕ぎめぐって行くと。当時の航海は、つとめて岸を離れないようにするのが風であった。不時の危険を避けやすくするためである。○近江の海八十の湊に 「近江の海」は、琵琶湖。「八十」は、数の多いことを、具体的にあらわそうとする(62)語。「湊」は、船の着くところ。琵琶湖を繞って散在している土地の交通路は、一に船によったのであるから、湊の数は限りなくあったのである。○鵠さはに鳴く 「鵠」は、鶴に通じて用いていた。一方、「たづ」は、鵠、鶴などを総括しての称でもあった。「さは」は、多く。○未だ詳ならず この注は『類聚古集』『古葉略類聚鈔』、紀州本にはないものであり、また、その意味も明らかではないものである。後人の書入れの混入ではないかとされている。
【釈】 磯の崎を漕ぎめぐって行くと、近江の海の、八十《やそ》と限りなくある湊々に、鵠《たず》が多く鳴いている。
【評】 「礒の前榜ぎたみ行けば」は、湖を越えようとしても、また一方の岸の、ある地から地へ行こうとしても、つとめてとろうとする方法であった。ここはそのいずれともわからないが、旅の途次としてのことであったと思える。「八十の湊に鵠さはに鳴く」は、鵠の湊にいるのは、そこを餌をあさるに適当な場所としているので、鳴くのはおのずからに鳴く場合もあり、また、船の出入りがあるために、警《いまし》め合って鳴く場合もある。ここは後の場合を心に置いてのものと取れる。船はもとより黒人の船だけではなく、多くの船があるので、それに驚いて鳴く鵠の声の多いのは当然であるが、聞くのは黒人で、「八十の湊」の声を同時に聞くということは、ありうべからざることに思える。ここには誇張があり、飛躍がある。しかし、鵠の声は高いものであり、湊は比較的接近して幾つもあり、加えて、浪のない時の湖上は静寂で、音をさえぎる何物もないのであるから、湊々の鵠の声が同時に聞こえるということも、必ずしも甚しい誇張ではない。気分としてはまさにそのような気がしたろうと思われる。情趣を重んじる黒人にとっては、湖上全体の情趣を捉えていおうとすると、こうした誇張と飛躍を安んじて行なったものと思え、そこに一首の趣を感じる。前二首と同じく、純粋な自然詠であって、高度の文芸性をもったものである。
 
(63)274 吾《わ》が船《ふね》は 枚《ひら》の湖《みなと》に 榜《こ》ぎ泊《は》てむ 奥《おき》へなさかり さ夜《よ》ふけにけり
    吾船者 枚乃湖尓 榜將泊 奧部莫避 左夜深去來
 
【語釈】 ○吾が船は枚の湖に 「吾が船は」は、自分の乗っている船は。「枚」は、今は比良《ひら》と書く。潮水の西岸の地。「湖」は、集中に用例のある字で、(二五三)に出た。○榜ぎ泊てむ 「泊つ」は、船の着いて止まる意で、漕ぎ着けて止まろう。○奥へなさかり 「奥」は、沖。「なさかり」は、「な」は禁止。後世は「な……そ」をもってすることになったが、古くは「な」だけであった。「さかり」は、遠ざかるのさかると同じく、離れる意。これは連用形で、こうした場合の定まりである。○さ夜ふけにけり 「さ」は、接頭語。「ふけにけり」は、「に」は、完了で、更けてきたことだ。
【釈】 わが船は、比良の港へ着けて止めよう。沖の方へ離れることはするな。夜は更けてきたことだ。
【評】 自身の乗った船を漕いでいる船子《かこ》に対して命じた語である。本来は口頭の語をもってするべきものを、歌の形式をもってしたもので、いわゆる実用性の、口承文学の系統のものである。これを歌として見ると、その際の全体が現われており、また作者の気息もさながらに現われていて、優に一首の歌を成しているものである。この結果をきたさしめているのは、なかば以上形式の力である。短歌というものの性格を語っている歌といえる。
 
275 何処《いつく》にか 吾《われ》は宿《やど》らむ 高島《たかしま》の 勝野《かちの》の原《はら》に この日《ひ》暮《く》れなば
    何處 吾將宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者
 
【語釈】 ○何処にか吾は宿らむ どこを宿りとしようかで、夜を寝るべき所を、下の「勝野の原」と予定し、その原にはもとより家はなく、寝るべき場所を自身設けるべきこととしての疑問。○高島の勝野の原に 「高島」は、近江国の郡名で、琵琶湖の西岸の内、北部一帯にかけての地。「勝野の原」は、高島郡の南端の、湖に接した地。現在は、高島町の内に、勝野という名をとどめている。○この日暮れなば 今日の日が暮れたならばで、行先を想像してのもの。
【釈】 何処《いすこ》を吾は宿りとしようか。高島の勝野の原で今日の日が暮れたならば。
【評】 上代の旅行にあつては、その日その日の夜の宿りが、最大の関心事であったことは思いやすいことである。これもそれで、旅路を行きつつ、その夜の宿りを気にしての心である。勝野の原は、古、大和京から北陸方面へ向かってゆく本街道にあ(64)たっての地である。この歌は、昼、その街道を歩いていての心であるが、どちらへ向かっているのかはわからない。我と呟いたもので、心やりの歌である。
 
276 妹《いも》も我《われ》も 一《ひと》つなれかも 三河《みかは》なる 二見《ふたみ》の道《みち》ゆ 別《わか》れかねつる
    妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴
 
【語釈】 ○妹も我も一つなれかも 「一つ」は、一体の意でいったもの。「なれかも」は、後世だと「なればかも」という意の古格。「なれ」は、「にあれ」の約で、断定。「かも」は、「か」の疑問と「も」の詠歎と合したもの。妹も我も一体であるからであろうかの意。○三河なる二見の道ゆ 「三河なる」は、三河国にある。「二見の道」は、今は明らかではない。したがって諸説がある。要するに東海道の一部分の名で、古の国府のあった御油《ごゆ》の付近の道で、ただ一筋であった本街道の名ともいい、二筋に岐れるその一筋の名であるともいわれていて定まらない。「ゆ」は、よりで、経過する地点をあらわす語。○別れかねつる 「かね」は、不能の意。「つる」は、完了の助動詞「つ」の連体形で、上の「か」の結。
【釈】 妹も我も一体であるからであろうか、三河国にあるこの二見の道で、別れ得ずにいることであるよ。
【評】 黒人が旅の路に立って、その妻との別れを惜しんでいる心である。その心の暗くはなく、どちらかというと明るいものであるところから見ると、その別れは何らかの都合があって、しばらく別れている程度のものであったろうと思われる。しかし「妹も我も一つなれかも、別れかねつる」というのは、一日二日の別れという軽いものともみえない。その都合の何であったかはもとよりわからず、そこに必然性を求めるのは想像にすぎないものとなる。「三河なる二見の道」と地名を重ねてくるのは、口承文学の系統のもので、ここもそれに従ってのものとみえる。一首の中に、「一」「二」「三」という数字の重なってくることは問題となることである。要は、これを主として、その興味で詠んだ歌か、または、付随的のものかということである。口承文学としての謡い物は、相応に技巧の多いもので、ことに音の興味を重んずるものである。いったがように二つの地名を取入れたのは、口承文学の系統のことである。それは、数字とはいえ、音の興味に近いものの加わったのがこの数字である。無意識な、自然なものとはいえないが、ほとんどそれに近い状態で詠んだ歌に、黒人の歌才の成行きとして、労せずして絡んできた技巧ではないかと思われる。
 
     一本に云ふ、水河《みかは》の 二見《ふたみ》の道《みち》ゆ 別《わか》れなば 吾《わ》がせも吾《われ》も 独《ひとり》かも去《ゆ》かむ
      一本云、水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文將去
 
(65)【語釈】 略す。
【釈】 三河国の二見の道で別れたならば、わが背も吾も、独りでさびしく旅をすることであろうか。
【評】 上の歌と同じものとして、こうした伝えもあるとの意で引いたものとみえる。しかしこれは女の歌で、上の歌に和《こた》えたものであることは明らかである。黒人の妻の歌であろう。『考』は、この歌は題詞の八首の歌が終わった後、別に題詞があって載っていたのを、乱れてここに入ったものだろうといっている。撰者がこのような扱いをしたものとは思われない。
 
277 速《と》く来《き》ても 見《み》てましものを 山背《やましろ》の 高《たか》の槻村《つきむら》 散《ち》りにけるかも
    速来而母 見手盆物乎 山背 高槻村 散去奚留鴨
 
【語釈】 ○速く来ても見てましものを 「速く来ても」は、「も」は、詠歎。もっと早い時に来て。「見てましものを」は、「て」は完了、「まし」は、仮想をあらわす助動詞で、見るべきであったものを。○山背の高の槻村 「山背」は、山城国で、平安奠郡以前はこの字、その他をも用いた。大和京から見て山背《やまうしろ》の義。「高槻村」は、古来難解とした。それは全体を地名と解したがためであるが、そうした地名の山背国にあることは証し難いためである。最近に生田耕一氏が改訓を試みた。訓は「高《たか》の槻村」《つきむら》とし、その「高」は、古にいう山城国|綴喜《つづき》郡多賀郷であるとし、その地は今の多賀、井手一円の地であるとした。「多賀」は「たか」で、土地の人は皆そういっており、式内の「高神社」もあるというのである。また「槻村」は槻の木群《こむら》だといっている。爾来この解が用いられている。○散りにけるかも 「に」は、完了。「ける」は、過去。「かも」は、詠歎。散ってしまったことであるよ。
【釈】 もつと時早く来て見るべきであったものを。山城国の高の槻の木群《こむら》の黄葉《もみじ》は、散り去ってしまったことであるよ。
【評】 黄葉に対して深い愛をもっていたのは、上代の人に共通なことである。しかし槻の黄葉だけを捉えて一首の歌としているのは初めてである。しかもこの歌は、時過ぎてそれの見られなかったことを嘆いているもので、単純を極めたものである。それにもかかわらず、感の深いものとしているのは、黒人の自然に対する愛と、ものを綜合的に感じ、その奥にある情趣を捉える力との、相俟って醸し出すところのものである。これはこの時代としては、まさに個性的なものである。
 
     石川少郎の歌一首
 
【題意】 「石川少郎」については左注がある。大宰少弐の職にもあった人であるから、その頃の作とみえる。
 
(66)278 志可《しか》の海人《あま》は 軍布《め》苅《か》り塩《しほ》焼《や》き 暇《いとま》無《な》み 髪梳《くしげ》の小櫛《をぐし》 取《と》りも見《み》なくに
    然之海人者 軍布苅塩焼 無暇 髪梳乃小櫛 取毛不見久尓
 
【語釈】 ○志可の海人は 原文「然」は、「しか」の地名に当てたもので、この地名は諸所にあるが、ここは大宰府に近い志可《しか》島だろうとされている。志可は筑前国(福岡県)糟屋郡志賀町に属し博多湾の東北一帯を抱えている半島の、その端の部分にある。海運・漁業など海人の業をもって古来聞こえており、集中にもその地を詠んだ歌が多い。「海人《あま》」は、本来は部族の名称で、男女を通じての称であるが、ここは女だけをいったものであることが、下の続きでわかる。 ○軍布苅り塩焼き 「軍布」は、「め」に当てた字と取れるが、そのよるところは明らかでない。諸説があるか、定まらずにいる。「め」は大体わかめをいっている。「塩焼き」は、製塩をし。○暇無み 「無み」の形は、しばしば出た。無くしての意。○髪梳の小櫛 「髪梳」は、訓み難くして、さまさまの訓か試みられている。心としては「小櫛」を修飾するもので、形としては、「の」に続く関係上名詞であり、音数としては三音を適当とするものである。訓は、「つげ」「かみけづり」「くしげ」「くし」「ゆする」「かみすき」「けづり」などある。これらの中では「くしげ」に心が引かれる。これは新勅撰集の訓で、『拾穂抄』が賛しているものである。この訓は、櫛笥《くしげ》はその名のことく、主として櫛を容れる筥《はこ》であり、また櫛は女の大切にした物であるから、その良否はとにかく、当然禰笥に入れてあることと解して、「髪梳」を櫛笥に当てたものではないかと思われる。「然《しか》」「軍布《め》」など用字にある凝りを示している関係上、許され難いものとは思われない。これは最も常識的な訓で、作意を主として迎えてのものであるが、作者は貴族で、海人《あま》の生活を傍観してのものであり、歌はまた、謡い物の色彩の濃厚なものであるから、この平凡な訓か真に近くはないかと思われる。「小櫛」の「小」は、接頭語。○取りも見なくに 手に取っても見ないことよの意で、「も」も「に」も詠歎。「取らなく」を嘆きをもって強めていい、さらに言いさしにしたもの。
(67)【釈】 志可の海人《あま》の女は、軍布《め》を苅ったり塩を焼いたりするのに暇がなくて、櫛笥の櫛を、手に取って見ることもしずにいることよ。
【評】 貴族として海人《あま》の生活を傍観し、女の方に憐れみの心を寄せたものである。しかしその隣れみは、海人の女がその生業にあまりにも忙しく、女として第一に重んずる髪をいたわる暇もないことを中心としたもので、貴族の耽美《たんび》の心を通しての隣れみである。結句は嘆きをこめていってゐるので、海人自身の訴えのごとき感があり、謡い物の匂いをもったものとなっている。実際に即していう歌風に従ってのものなので、おのずから厚みが添い、耽美の心の隠れようとしているところがあって、それが趣となっている。
 
     右、今案ずるに、石川朝臣君子、号を少郎子といへり。
      右、今案、石川朝臣君子、号曰2少郎子1也。
 
【解】 題詞の「少郎」についての注である。この人は、上の(二四七)「石川大夫和ふる歌」の左注に、「正五位下石川朝臣|吉美侯《きみこ》、神亀年中任2少弐1」とある人である。この任官は続日本紀には見えないが、漏れたものだろうという。「少郎子」は、中国風にならっての号で、兄弟三人以上ある時、末にあたっている人に対しての号である。
 
     高市連黒人の歌二首
 
279 吾味児《わぎもこ》に 猪名野《ゐなの》は見《み》せつ) 名次山《なすぎやま》 角《つの》の松原《まつばら》 何時《いつ》か示《しめ》さむ
    吾妹兒二 猪名野者令見都 名次山 角松原 何時可將示
 
【語釈】 ○吾妹児に猪名野は見せつ 「猪名野」は摂津国河辺郡にあった野で、古はそこに国府を遷そうとされたこともあり、また牧ともされた。今の伊丹市はその中で、市の内外に猪名神社、猪名寺、稲野などがあって、名残りをとどめている。「見せつ」は、見させたで、見せようと心がけていて見せた心でいっているもの。猪名野が一つの名所となっていたことがわかる。○名次山 『槻落葉』が所在を考証し、「神名帳」有馬郡に名次神社があり、この神社は今、広田神社の摂社として、同社の西名次丘にあるが、その丘であろうという。ここは猪名野よりは西で、大路に沿った地である。ここも一つの名所であったとみえる。○角の松原何時か示さむ 「角の松原」は、諸注考証しているが、要は、『和名抄』に、武庫郡津門【都止】とある所であろうか。それだと西宮の東につつ川という流れがあり、その辺であろう。それだと、名次山より順路でもあるというの(68)である。『講義』は、はたしてここだとすると、角《つの》より「つの」「都門《つと》」と転じてきたものとしなければならないが、「門《と》」は濁音でなくてはならないといって、難を残している。「示さむ」は、さし示して見せようの意。
【釈】 吾妹児に名所の猪名野は見せた。この路についである名所の名次山《なすぎやま》、角《つの》の松原は、いつさし示して見せられようか。
【評】 妻に猪名野を見せようとして伴って行って見せ、それを喜ぶとともに、何らかの都合で、その路の前方にある名次山、角の松原は見せられないのに心を残し、憧れをつないでの歌である。史蹟や名所を重んじ喜ぶ心は、国家が隆運に向かっている時に、それに伴って起こってくる心である。この歌で見ると、黒人が喜ぶとともに、妻も名所を喜んでいたことがわかる。当時の生活を思わせる歌である。
 
280 いざ児《こ》ども 倭《やまと》へ早《はや》く 白菅《しらすげ》の 真野《まの》の榛原《はりはら》 手折《たを》りて帰《ゆ》かむ
   去來児等 倭部早 日菅乃 眞野乃榛原 手折而將歸
 
【語釈】 ○いざ児ども 「いざ」は、誘う意の語。「児ども」は、目下《めした》の者を親しんで呼ぶ称。ここは呼びかけてのもの。〇倭へ早く 「倭」は、大和で、その家の在る所を広くいったもの。「早く」は、心としては下の「帰かむ」へ譲って、言いさしにして言いきったもの。 ○白菅の 「白菅」につき『講義』は、水辺、湿地に自生する一種の草で、かやつり草に似ているが、質は軟弱で、淡緑色をしており、やや白色を帯びている。他の歌によって、真野にそれの生えていたことが知られるから、実景として、白菅の生えている野の意で、真野に続けたものだといっている。○真野の榛原 「真野」につき『攷証』は、摂津国矢田部郡に、「真野滞在2西池尻村1真野池在2池尻村1」とある所であろうといっているが、現在は、神戸市の中に入り、長田区東尻池町、西尻池町の辺り。「榛原」は、萩原で、しばしば出た。真野は集中に多く出ており、巻十一(二七七二)「真野の池の小菅を笠に縫はずして」、巻七(一一六六)「衣《きぬ》に摺りけむ真野《まの》の榛原《はりはり》」など他にもあり、池には小菅、野には榛の多かったことが知られる。水辺には白菅が続いていたのである。○手折りて帰かむ 「手折りて」は、「榛原」に続き、その榛を手折ってで、折るのは家づととしてである。「帰かむ」は家へ帰って行こうの意。
【釈】 さあ、皆の者、大和へ早く。白菅の生えている真野のこの萩原の萩を手折って、苞《つと》として家に帰って行こう。
【評】 この歌は、次の黒人の妻の和《こた》え歌と合わせてみると、黒人夫妻に、従者が添って、萩の花の盛りの頃、その名所とされていた真野へ遊覧に行き、十分に遊覧しての後、主人である黒人が帰りを促すために詠んだものと取れる。すなわち歌としては実用性のものであるが、他面文芸性の豊かなものである。
 「いざ児ども倭へ早く」は、実用性を端的にあらわしたものである。「白菅の真野の榛原」は、野の特色、すなわち水と野と相まじっている複雑な趣を、白菅と榛とによって美しく具象した(69)技巧的なものである。「手折りて帰かむ」は、一同の遊覧に飽かない心を察しながらも、それに主人としての分別を加え、上の「早く」へ絡ませていったものなのである。さらに全体として見ると、「倭へ早く」の言いさし、「榛原手折りて」の続きの飛躍など、その際の黒人の心の満ちていたことを思わせるものである。こうした続けは、情熱の高まった際にのみできるものだからである。この歌は、巻一(六三)「いざ子どもはやく日本《やまと》へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ」という山上憶良の歌と通うところの多いものである。いずれも口承を旨とした歌で、その程の歌の風として、影響を及ぼしているものと思える。
 
     黒人の妻の答ふる歌一首
 
281 白菅《しらすげ》の 真野《まの》の榛原《はりはら》 往《ゆ》くさ来《く》さ 君《きみ》こそ見《み》らめ 真野《まの》の榛原《はりはら》
   白菅乃 眞野之榛原 徃左來左 君社見良目 眞野乃榛原
 
【語釈】 ○往くさ来さ 『代匠記』は、往きさまかえりさまなりと解している。他にも諸説があるが、『講義』は、「さ」は「さま」の義であろうとし、さまは普通、空間的に方向をさすものとのみ考えられているが、古くは意味が広く、時間的にも通わしていたようであると、詳しく説いている。これは京から西への旅を心に置いての語である。〇君こそ見らめ 「見らめ」の「らめ」は「らむ」の已然形。「らむ」は、古くは上二段活用に限り、連用形に続けた。君こそは見ようで、我は見られないの意をもった語。
【釈】 白菅の生えている真野の榛原よ。西への旅の往きざまにも帰りざまにも、君こそは見もしようが、我は見られない。好景の真野の榛原よ。
【評】 前の歌に対しての和え歌である。「いざ児ども倭へ早く」と呼びかけられたうちに黒人の妻もいて、その場で和えたものと取れる。「往くさ来さ君こそ見らめ」は、いったがように我我は珍しく、したがって見飽かないという心を腕曲にいったもので、さらに第二句と結句とで「真野の榛原」を繰り返して、その好景であることを誘え、その見飽かぬ心を強めたものである。すなわち「早く」と促すのを押し返し、遊覧を続けたい心を婉曲に訴えたものと取れる。これも黒人の歌とともに実用性の範囲の歌である。
 
     春日蔵首老《かすがのくらひとおゆ》の歌一首
 
【題意】 「老」は、巻一(五六)に出た。初めは僧であったが、大宝元年三月、勅命によりて還俗《けんぞく》した人である。
 
(70)282 つのさはふ 石村《いはれ》も過《す》ぎず 泊瀬山《はつせやま》 何時《いつ》かも越《こ》えむ 夜《よ》は深《ふ》げにつつ
    角障經 石村毛不過 泊瀬山 何時毛將超 夜者深去通都
 
【語釈】 ○つのさはふ石村も過ぎず 「つのさはふ」は、巻二(一三五)に出た。「石」にかかる枕詞。「石村《いはれ》」は、「磐余」の字も用いる。今は高市郡であるが、古は十市郡であった。桜井から香具山付近へかけての一帯の地の称。「石村も過ぎず」は、石村の地さえもまだ通り過ぎないというので、石村を歩いている際の心。○泊瀬山 この山は、石村から東の方の初瀬川の谷間を溯つて行った所の、その北方にある山で、天神山を山口とする山だと『講義』はいっている。○何時かも超えむ いつ越え得られようかで、泊瀬山を越えての彼方まで行こうとしての心。○夜は深けにつつ 「に」は完了。夜は更けてしまいつつ。
【釈】 まだ石村《いわれ》の地さえも通り過ぎない。泊瀬山はいつ越え得られるのであろうか。夜は更けてしまいつつ。
【評】 何らかの急用を帯びて、夜、泊瀬山を越しての彼方まで行こうと志して、現に歩いていての心である。藤原京から石村までは幾ほどもない間であるのに、その地にあって焦燥の感を起こし、途中の第一の難場である泊瀬山を越え終わる時をいつのことかと懸念し、夜の更けて行くのに関係させて焦燥を深めているのである。歌は心やりのためのもので、焦燥そのものを内容としている、あくまで実際に即したものである。迫真性の豊かな、特色のあるものである。
 
     高市連黒人の歌一首
 
283 墨吉《すみのえ》の 得名津《えなつ》に立《た》ちて 見渡《みわた》せば 武庫《むこ》の泊《とまり》ゆ 出《い》づる船人《ふなびと》
    墨吉乃 得名津尓立而 見渡者 六兒乃泊從 出流船人
 
【語釈】 ○墨吉の得名津に立ちて見渡せば 「墨吉」は、摂津国住吉郡住吉神社のある所。「得名津」は、今は明らかではない。『講義』は、『堺鑑』の説くところに基づき、今の堺市の北、住吉に近い地だろうといっている。「立ちて見渡せば」は、立って遠望をすればで、その地の海岸であることをあらわしている。○武庫の泊ゆ 「武庫の泊」は、摂津国の武庫郡と河辺郡の堺を流れる武庫川の河口で、古史に「務口水門《む二のみなと》」と呼ばれている所であろうという。「ゆ」は、より。『講義』は、得名津とされている地点から、武庫の泊までは海上三里で、中間は大阪湾で目を遮る物がないといっている。○出づる船人 漕ぎ出すところの船人よの意で、遠望する目に映る物は、もとより船であるが、船には船人が乗っているものとして言いかえた語。
(71)【釈】 墨吉の得名津の海辺から遠望をすると、今しも武庫の泊から漕ぎ出すところの船人よ。
【評】 墨吉の得名津から武庫の泊まで、海上三里を隔てて、当時の大きくない船の漕ぎ出すのが見えるというので、その時の空は晴れ、海の穏やかであったのが想像される。これはまさしく自然詠で、「船人」も大自然の中の一点景となって溶け入っている感のあるものである。しかしこの歌には一種の情趣があって、その情趣は対象そのものからくるのみではなく、作者の心の加わっているものと思える。作者の方からいうと、黒人は旅中の自然詠ばかりをしている人で、旅に対しての憧れをもっていた人と思える。当時の旅は大体船によるのを原則としている。そうした穏やかな海に船出をするのを見ると、心動かずにはいられなかったろう。船を「船人」と言いかえたのは、その船人を旅する人とし、それに対して羨望の情を寄せたがためではないかと取れる。この歌の情趣は、一半はその心の現われで、自然詠とは見えるが、人事詠の絡んでいるものと解される。
 
     春日蔵首老の歌一首
 
【題意】 歌で見ると、老《おゆ》が駿河国に定住していての作と思われる。それだと国司であったと見えるが、そのことは所見がない。老の詩の懐風藻にあるものに題して、「従五位下常陸介春日蔵老」とあるので、その東国に在ったことはわかる。
 
284 焼津辺《やきつべ》に 吾《わ》が去《ゆ》きしかば 駿河《するが》なる 阿倍《あべ》の市道《いちぢ》に あひし児《こ》らはも
    焼津邊 吾去鹿齒 駿河奈流 阿倍乃市道尓 相之兒等羽裳
 
【語釈】 ○焼津辺に吾が去きしかば 「焼津」は、駿河国|益頭《ましつ》郡にあり、日本武尊が賊のために火をもって囲まれたという名高い事蹟のあった地である。今の静岡よりは西南方三里を隔てた海岸の地である(現焼津市付近)。「辺に」は、方面に。「吾が去きしかば」は、わが行った時にの意。「ば」は、「ば」がこの場合のように已然形に接続する時には理由をあらわすものとはならず、去《ゆ》きし時にという意と異ならないものになるのは、当時の格である。上の(二五三)「行き過ぎかてに思へれば」の「ば」、また下の(三八八)「寝《い》の宿《ね》かてねば」の「ば」など、すべて同じである。○駿河なる阿倍の市道に 「駿河なる」は、駿河国にあるで、下の「阿倍の市道」の所在を示したもの。「阿倍」は、駿河国の郡名であるが、その郡に国府があり、また今の静岡は、明治維新までは府中といっていたので、国府所在地の地名ともなっていたと取れる。「市」は、毎月何回か、定めてある日に、定めてある場所に人々が集まり、物品を売買することの称。「市道」は、その市へ行く道にも、市そのものの中の道にも通じていう語。ここは、後の意のものと取れる。○あひし児らはも 「あひし」は、ここは見かけた。「児ら」の「児」は、若い女を親しんでの称。「ら」は複数を示したものではなく、単に添えていったもの。「はも」は、「は」と言いさし、それに「も」の詠歎を添えたもの。見かけたあの若い女はよという意。
(72)【釈】 焼津方面へわが行った時に、その途中、駿河国に立つ阿倍の市の、その市中《いちなか》の道で見かけた、あの若い女はよ。
【評】 一首の中心は、「あひし児らはも」で、老がたまたま路上で見かけた若い女の、その美しさを忘れ難くして、後より思い出してなつかしんでいることで、他はすべて、その女を見かけた事情をいっているものである。事情というのは、そういう事とは全然関係のない、おそらくは国司として公務を帯びて「焼津辺」に行こうとし、たまたま「阿倍の市道」を過ぎたということで、あくまでも実際に即したものであり、その即し方は特異なまでである。これは老の人柄よりくることかと思われる。しかし結果からいうと、そのために「焼津」「駿河」「阿倍」という三地名を取入れた、土地の色彩のきわめて濃厚なものとなっている。しかもそれは、「児らはも」に集中されるものとなっているので、一首としては、その土地に対する好感をあらわしたものとなっている。これは民謡に国讃めの歌の絡んだものといえることである。その中の「駿河なる」が「児ら」を重からしめる役をもっているのは、微細な技巧というべきである。
 
     丹比真人笠麿《たぢひのまひとかさまろ》、紀伊の国に往き、背《せ》の山を越ゆる時作れる歌一首
 
【題意】 「丹比真人笠麿」は、伝が知られない。丹比は氏、真人は姓、笠麿は名である。勢の山は、和歌山県伊都郡かつらぎ町の北にある山で、大和国より紀伊国へ越えるには必ず通るべき道筋にあたっている。古の紀関はここにあったろうといわれている。
 
285 栲領巾《たくひれ》の 懸《か》けまく欲《ほ》しき 妹《いも》の名《な》を この背《せ》の山《やま》に 懸《か》けば奈何《いか》にあらむ【一に云ふ、かへばいかにあらむ】
    栲領巾乃 懸卷欲寸 妹名乎 此勢能山尓 懸者奈何將有【一云、可倍波伊香尓安良牟】
 
【語釈】 ○栲領巾の懸けまく欲しき 「栲領巾の」は、栲すなわち楮《こうぞ》類の繊細をもって織った、女の、領《えり》より肩へ懸ける領巾で、「懸け」と続いて、その枕詞。「懸けまく」は、「懸けむ」に「く」を添えて名詞形としたもので、懸けようことの意。懸くは、心に懸ける意と、言《こと》に懸ける意とのある語で、ここは言の方で、言い及ぼすというにあたる語。「欲しき」は、ほしいところので、下へ続く。全体では、言《こと》に懸けて、すなわち包まずに口へ出して言い及ぼしたいところのの意。○妹の名を 妹という名を。○この背の山に懸けば奈何にあらむ 「この背の山に」は、いま現に越えつついるこの山に。「懸けば」は、言い及ぼしたならばで、妹という名を及ぼすのは、「背」を「妹」と喚びかえたならばの意。「奈何にあらむ」は、どんなものであろうかと、相談の意をもっていったもの。
【釈】 栲領布の懸けるというその言《こと》に懸けて、すなわち口に出して言い及ぼしたいところの妹という名を、この越えつついる背(73)の山に言い及ぼして、妹の山と喚びかえたならば、どんなものであろうか。
【評】 この歌に和える春日老の歌と合わせ見ると、二人は相伴って背の山を越えようとしていたことがわかる。打揃っての旅をしているところから見て、行幸の供奉をしていたのではないかといわれている。背の山は紀路の難路で、これを越すとまさしく旅という感がしたものと思われる。旅にはいわゆる旅愁が付き物で、それをもつのが普通とされていたとみえる。しかし親しい者同志が相対していう場合には、さすがにそれにも程度が必要であったとみえる。「栲領布の懸けまく欲しき妹」というのは、その程度を守っての言い方と取れる。妹と背とは相対して離し難いものであって、妹といえば必ず背は連想されてくる。しかるに今越えている山は、その背という名をもった「背の山」である。その妹をこの「背の山」に関係させることは、この場合しゃれたことであり、文芸的とも言いうることである。「妹の名をこの背の山に懸けば」はすなわちそれである。「奈何にあらむ」は、同感を求める心をもって相談した形のもので、親しい微笑の感じられる語である。歌を社交の具とし、良い意味の戯れをいおうとするのは伝統的のことで、この歌はその範囲のものである。
 
     春日蔵首老、即ち和《こた》ふる歌一首
 
【題意】 「即ち」は、即座にの意で、老が相伴っていたことを知りうる語である。
 
286 宜《よろ》しなへ 吾《わ》が背《せ》の君《きみ》が 負《お》ひ来《き》にし この背《せ》の山《やま》を 妹《いも》とは喚《よ》ばじ
    宜奈倍 吾背乃君之 負來尓之 此勢能山乎 妹者不喚
 
【語釈】 ○宜しなへ 巻一(五二)に出、他にも二か所に出ている。「宜し」は、ものの十分に好いこと。「なへ」は、「並べ」で並ぶ意。はなはだ結構なという意にあたる。○吾が背の君が負ひ来にしこの背の山を 「吾が背の君」は、男同志が深く親しんで呼ぶ称にもした語。ここは笠麿をさしている。「負ひ来にし」は、「に」は完了。負いもってきたところの。「この背の山を」は、いま現に越えている背の山をで、「背」は、「負ひ来にし」の続きとしては、妹に対しての背すなわち笠麿を意味させるとともに、山の名としての「背《せ》」をも意味させているものである。全体では、わが背の君が負いもってきたところの背というを名としているこの背の山をで、夫としての背と、山としての背とを一つにしているのである。それがすなわち「宜しなへ」と讃えるべきことなのである。○妹とは喚ばじ 我は妹とは喚ぶまいで、背《せ》の山で結構だの意。
【釈】 はなはだ結構にも、君の負いもってきているところの背ということを名としているこの背の山を、我は妹とは喚ぶまい。
【評】 老の和え歌は、作意としては、我は君のいわれようとする妹のことは思わない。同伴者に君があるので十分であるとい(74)うので、その心を和え歌の型として、笠麿の歌に関係させていっているのである。詠み方は、「この背の山に懸けば奈何にあらむ」に対し、「この背の山を妹とは喚ばじ」と反対したのである。これは、反対しなければ面白くないので、おのずからに決まっている型である。この反対には理由がなくてはならず、その理由は善意をもったものでなくてはならないことも、また型となっているものである。「宜しなへ吾が背の君が負ひ来にし」がすなわちそれである。笠麿のいわんとしたのは「懸けまく欲しき妹の名」で、老にも同感させようとしたのであるが、老は自身の妹のことには全然触れず、笠麿に対しても、その妹の夫であるという点だけを挙げ、そこに「宜しなへ」という喜びをあらわすにとどめている。これはしかし笠麿の心をうべなっているものである。即座に和《こた》えた歌としては、心のはっきりとした、相応に技巧のある歌というべきである。
 
     志賀に幸《みゆき》せる時、石上《いそのかみの》卿の作れる歌一首 名闕く
 
【題意】 「志賀」は近江国滋賀郡のことである。行幸は、何帝のいつのことともわからない。左注にも「行幸の年月を審にせず」といっているのである。思うに出典とした本の、この部分だけを抄出して、前後を顧みなかったのであろうという。『考』以来、諸注考証を重ねているが、『講義』は最も精細なる考証をしている。「石上卿」は「名闕く」とあるので誰ともわからないが、これにつぐ穂積朝臣老の歌は、この行幸の際同じく供奉して作ったものであるところから、老を手がかりとして考証を進め、さらに歌の排列順から年代を推測したものである。結論的にいうと、穂積朝臣老の史上に見えるのは、続日本紀、大宝三年より天平十六年までである。その頃石上氏にして卿と呼ばるべき人は、石上朝臣麿と乙麿と豊庭との三人で、そのうちのいずれかでなくてはならない。また、歌の排列順から見ると、この辺の歌は大体、藤原朝から奈良朝の初めのものとみえるが、その頃近江国へ行幸のあったのは、元正天皇の養老元年九月、美濃国当耆郡多度山の醴泉に行幸があり、その途次、「戊申(十二日)行(テ)至2近江国1観2望淡海1云々」の一事があるのみである。それだと石上卿は豊庭であろうというのである。
 
287 ここにして 家《いへ》やも何処《いづく》 白雲《しらくも》の 棚引《たなび》く山《やま》を 越《こ》えて来《き》にけり
    此間爲而 家八万何處 白雲乃 棚引山乎 超而來二家里
 
【語釈】 ○ここにして家やも何処 「ここにして」は、ここにありてで、ここは滋賀。「家」は「我が家」で、大和にある家。「やも」は、「や」の疑問に「も」の詠歎の添ったもの。「何処」は、どこにあるのか。○白雲の棚引く山を 「白雲」は、行幸は九月初句であるから、秋の雲。○越えて来にけり 「に」は、完了。打越えて来たことであるよ。
(75)【釈】 ここの滋賀にあって、大和のわが家はどこにあるのであろうか。あの秋の白雲の靡いている山を打越えて来たことであるよ。
【評】 旅にあってわが家を思う心のものであるが、風景に対する感が重く働いて、溶け合って、情趣となっているものである。淡く、品位のあるもので、奈良朝初期の貴族を思わせる歌である。漢詩の風韻に通うものがあって、その影響を思わせられる。親しさの足りない感を起こさせるのは、そのためではないかと思われる。
 
     穂積朝臣老の歌一首
 
【題意】 「穂積朝臣老」は、続日本紀でその伝が知られる。要は、大宝三年、正八位。和銅三年、正五位上大伴宿禰旅人が左将軍の時、従五位下でその副将軍。同六年従五位上。養老元年正五位下、式部少輔。同二年正五位上、式部大輔。同六年、「坐3指2斥乗輿1所2斬刑1。而依2皇太子奏1隆2死一等1配2流佐渡島1」ということがあり、天平十二年、大赦があって京に入るを許された。同十六年大蔵大輔となる。天平勝宝元年八月卒。歌は行幸に供奉して作ったもの。
 
288 吾《わ》が命《いのち》し 真幸《まさき》くあらば 亦《また》も見《み》む 志賀《しが》の大津《おほつ》に よする白浪《しらなみ》
    吾命之 眞幸有者 亦毛將見 志賀乃大津尓 縁流白浪
 
【語釈】 ○吾が命し真幸くあらば 「命し」の「し」は、強め。「真幸く」は、つつがなく。わが命が、もしつつがなくているならば。○亦も見む 再びこれを見よう。○志賀の大津によする白浪 「志賀の大津」は、天智天皇の大津宮のあった所。「よする白浪」は、寄せるところの白浪よの意。
【釈】 わが命が、もしつつがなくているならば、再びこれを見よう。志賀の大津へ向かって寄せるところの湖の白浪よ。
【評】 旅にあって絶景に逢うと、生きて再び見られるかどうかを危ぶむ心の起こるのは、人間の通有性である。老もそうした感を起こしたのである。絶景と感じたのは、「志賀の大津によする白浪」であるが、大和国の京に住んでいて、大湖を目にする機会がなかったとすれば、起こりうる感である。一首、沈痛な響があって、その感の真実を裏書している。この沈痛の度については、老の人柄が関係しているかとも思われる。
 
     右、今案ずるに、幸行の年月を審にせず。
(76)      右、今案、不v審2幸行年月1。
 
【解】 石上卿の誰であるかが不明であった所からの注である。「幸行」の文字は古書に例のあるものだと『略解』が注意している。
 
     間人《はしひとの》宿禰|大浦《おほうら》の初月《みかづき》の歌二首
 
【題意】 「間人宿禰」は、『新撰姓氏録』にあり、「間人宿禰、仲哀天皇皇子、誉屋別命之後也」とある。「大浦」については、何の記録もない。初月は、漢語の熟字で、月初の月の意であるが、この集には三日月の意で用いている。
 
289 天《あま》の原《はら》 ふりさけ見《み》れば 白真弓《しらまゆみ》 張《は》りて懸《か》けたり 夜路《よみち》は吉《よ》けむ
    天原 振離見者 白眞弓 張而懸有 夜路者將吉
 
【語釈】 ○天の原ふりさけ見れば 上にしばしば出た。大空を遠く仰ぐとの意。○白真弓 「白真弓」は、集中、「白檀」の字を用いてもいる。檀は上代、弓材として用いていた木で、黏《ねば》り強く、それに適した木であったとみえる。今、檀という木とは異なった木であろう。壇の弓は白木《しらき》のままで用いたところから、この称ができたとみえる。槻弓、梓弓などと同じく弓を添えるべきであるが、同音の重なる関係上、弓を略《はう》いたのである。○張りて懸けたり 「張りて」は、弦を張ってで、それをすると弓が彎曲するところから、その彎曲した形を三日月に譬えていったもの。「懸けたり」は、懸けてありで、空にかかっている意。○夜道は吉けむ 「吉けむ」は、「吉し」の未然形「吉け」に推量の「む」のついたもの「近けむ」「全《また》けむ」と同じ語格のもの。
【釈】 大空を遠く仰ぐと、白真弓に弦を張ってかけてある。これだと夜道をするにはよくあろう。
【評】 中心は、結句「夜路は吉けむ」にあるところから見て、遠い道の、急ぐべき道を歩いていて、夜にかけて歩き続けようと思っている際、空に三日月の現われているのを発見して、夜路には都合がよかろうと喜んだものと取れる。技巧は、「白真弓張りて懸けたり」の隠喩にある。上代、多少なりとも身分のある人が、長途の旅をする場合には、護身の具を携えるということは普通のことであったろう。三日月に対しての「白真弓」という連想は、そうした護身具からのものではないかと思われる。それだと三日月を身に引きつけうる感がしたことであろう。一首、生活に即して、その上の喜びを直接にいったもので、文芸的のものではないが、結果からいうと、「白真弓」の隠喩によって、その感の伴ったものとなっている。
 
(77)290 椋橋《くらはし》の 山《やま》を高《たか》みか 夜隠《よなばり》に 出《い》で来《く》る月《つき》の 光《ひかり》乏《とも》しき
    椋橋乃 山乎高可 夜隱尓 出來月乃 光乏寸
 
【語釈】 ○椋橋の山を高みか 「椋橋の山」は、大和国磯城郡多武蜂の東に連なり、宇陀郡に界している山で、今、音羽山と呼んでいる山だという。『講義』はこれを疑い、『大和志』『大和国町村誌集』には倉梯山《くらはしやま》と音羽山とは別となっており、また集中、倉梯山の山はしばしば出るが、音羽山というのは見えないので、古くは倉梯山は、音羽山をもこめての名ではなかったかといっている。「高みか」は、高きゆえにかで、「か」は疑問。○夜隠に出で来る月の 「夜隠」は、訓が定まらず、したがって解も定まらずにいたものである。訓は二様で、『童蒙抄』は、「よなばり」と訓み、地名とした。例は、「隠」を「なばり」と訓むのは、巻一(四三)「隠《なばり》の山」があり、また、巻二(二〇三)「吉隠《よなばり》の猪養《ゐかひ》の岡」もあって、それらを証としてである。『代匠記』以下諸注、それを認めず、一に「夜隠《よごもり》」と訓んでいる。「夜隠《よごもり》」は、暁の、まだ夜に隠《こも》って明けきらない意の名詞で、それ以外の意はない語である。下への続きは、「出で来る月」で、暁のまだ夜の闇を保っている時に出て来る月ということになる。これは二十日以後の月の状態で、題詞の「初月」によってあらわしている三日月とは明らかに矛盾するものである。したがって「夜隠《よごもり》」の意味を広くして、宵にも適用しうるとし、または誤字であるとの説も出てきている。『講義』は、『童蒙抄』と同じ訓とし、「夜隠」を上にいった「吉隠《よなばり》」すなわち現在は磯城郡初瀬町の大字《おおあざ》として残っている地だと解して、実地について精細なる討究をしている。「夜隱《よなばり》」は、初瀬町と宇陀郡榛原との中間にあり、伊賀国名張へ向かう道にあって、古の東国へ行く要路にあたっているというのである。また、そこは、三日月と方角の関係からいうと、西空低く現われる三日月が、西方の倉梯山に遮られる地点だともいうのである。これは『講義』によって初めて確められたものである。「出で来る月の」は、西空に現われる月ので、三日月の状態。○光乏しき 「乏し」は、集中、羨しの意にも用いられているが、ここは現在の用法と同じく、少しの意のもの。「乏しき」は連体形で、上の「か」の結。
【釈】 椋橋山が高いゆえなのか、この夜隠《よなばり》の、空に現われる月が遮られて、その光の少ないことであるよ。
【評】 前の歌と同じく、夕べ近く、三日月の現われる頃道を歩いていて、前途を急ぐところから、三日月の光を夜道の便りとしようとする心をもち、それの十分に行かないのをかこつ歌である。対象は三日月ではあるが、鑑賞の心はまじえていないものと取れる。道は東国への道である。前の歌とは連絡はないが、いずれも旅路としての夜道に、月光を利用しようとする心からのもので、その点では一致している。実際生活に即したものである。
 
     小田事《をだのつかふ》の背《せ》の山の歌一首
 
【題意】 「小田事」は、伝が全く知られない。小田という氏は、『新撰姓氏録』にも収められてはいない。「背の山」は(二八五)(78)に出た紀伊国の山。
 
291 真木《まき》の葉《は》の しなふ背《せ》の山《やま》 しのばずて 吾《わ》が越《こ》え去《ゆ》げは 木《こ》の葉《は》知《し》りけむ
    眞木葉乃 之奈布勢能山 之努波受而 吾超去者 木葉知家武
 
【語釈】 ○真木の葉のしなふ背の山 「真木」は、杉檜など代表的の木の称にもいい、また、槇《まき》にもいう。ここは槇であるという解に従う。「しなふ」は、ハ行四段活用の語で、若く撓《しな》やかな状態をあらわす語。巻十三(三二三四)「春山のしなひ盛《さか》えて」、巻二十(四四四一)「立ちしなふ君がすがたを」など、他にもある。「真木の葉のしなふ」は、槇の葉が若く撓やかであるで、下へ続く。「背の山」は、上の(二八五)に出た。大和と紀伊の国境をなす山で、大和から紀伊に行く者は、この山を越すと、その国を離れて旅に出たという感を強くし、また「背」という名の連想で、妹を思わせられる歌が集中に多い。この山は妹を思う山だということが、当時一つの常識となっていたものではないかと思われる。○しのばずて 「しのぶ」は、意味の広い語である。ここは忍び隠す意と取れる。「しのばずて」と、打消の「ず」からただちに「て」に続けるのは古格で、集中に少なくない。「ずして」の意である。すなわち、忍び隠さずして。妹を恋う心は、普通、人に見せまいとして忍び隠すのであるが、今は場所柄とてそれをせず、表面に露《あら》わしての意である。この句は上の「背の山」に直接に続いていて、背の山をしのばずしての意のもので、その間に飛躍がある。この飛躍は、背の山が旅愁を起こさせる山だということが認められていないと成立たないものである。いったがように、それが成立っており、これで通じ得たものと解される。○吾が超え去けば わが越えて行ったのでで、しのばずという状態を続けて歩を続けたのでの意がある。○木の葉知りけむ 槇の葉がわが心を知ったのであろうの意。樹木が人の心を感じる力をもっているということは、上代の信仰であったとみえる。巻二(一四五)山上憶良、「あまがけりあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ」は、結松《むすびまつ》に通う神霊を、松は人以上に知るというのであり、巻七(一三〇四)「天雲の棚引く山の隠《こも》りたる吾が下心《したごころ》木の葉知るらむ」は、これと心を同じくするものである。なお、古事記、神代の巻の、樹木を掌る神のあることも、この信仰につながりのあるものであろう。
【釈】 槇の木の若く撓《しな》やかなところの背の山を、ここを越すと妹を思わせられるというとおりに、吾も妹を思う心を起こし、場所柄とてそれを忍び隠さずに越えて行ったので、人の心を知る木の葉は、それと知ったのであろう。
【評】 歌因は明らかで、背の山を越えつつ、旅にある夫に通有な、妻恋しい心を起こしたということである。さらにいえば、槇の木の立ち続いている山路の、人の少ないところを歩いていてのことなので、その妻恋しい思いをはばかる必要がなく、それをほしいままに露《あら》わしたのであるが、心づくと、そこに立ち並んでいた槇の木の葉は、それを知ったことであろうと、恥ずかしい感を起こしたというのである。「真木の葉のしなふ」は「木の葉」に照応させたところのあるもので、槇は葉をもって代表させるよりほかないものだからと取れる。木が人の心を感知する神秘力をもっているとするのは、いわゆる詩情からのも(79)のではなく、当時そうした信仰が存していたためかと思われる。また、「勢の山しのばずて」の続きも、いったがごとき心理に依拠してのことと思われるが、いずれも疑問を残すべきである。
 
     角麿《つののまろ》の歌四首
 
【題意】 「角麿」は、ここよりほかには見えず、伝はわからない。角氏は『新撰姓氏録』に出ており、「角朝臣、紀朝臣同祖、紀角宿禰之後也、日本紀合」とある。日本書紀、雄路紀に、「角臣等初居2角国1而名2角臣1自v此始也」とある。角国は今の周防国|都濃《つの》郡で、天武天皇の御代に朝臣を賜わった。
 
292 久方《ひさかた》の 天《あま》の探女《さぐめ》が 石船《いはふね》の 泊《は》てし高津《たかつ》は 浅《あ》せにけるかも
    久方乃 天之探女之 石船乃 泊師高津者 淺尓家留香裳
 
【語釈】 ○久方の天の探女が 「久方の」は、天の枕詞。「天」は、高天原に属するものに、この国土のものと差別する意で添えていう語。「探女」は、女の名前で、この女のことは古事記にも日本書紀にもあり、天稚彦《あめわかひこ》の従者である。天稚彦は高天原より出雲国を平定すべき詔を承けて降らせられた三人目の御使であるが、これまた前の二人と同じく出雲の勢力に圧しられて、復奏しないこと八年に及んだ。高天原では事を促そうとして、鳴女《なきめ》という雉《きじ》を遣わすと、天の探女は天稚彦に勧めて、その鳴女を射させたということによって伝わっている女である。これは古事記も日本書紀も同様で、探女という意は、他人の心を探って、主人に知らせる女という意であろうという。○石船の泊てし高津は 「石船」は、天磐※[木+豫]樟船《あまのいわくすぶね》ともいっており、「石《いは》」は、船の堅固なことを讃えていった語。「泊てし」は、船が着いて止まることをあらわす語。「高津」は、仁徳天皇の難波高津宮のあった所で、現在の大阪城の辺りであろうといわれている。○浅せにけるかも 「浅す」は、浅くなる意。浅くなってしまったことであるよと、感慨をこめていったもの。
【釈】 天の探女が高天原から乗って来た堅固な船の、着いて止まった高津は、津くなってしまったことであるよ。
【評】 これは古事記、日本書紀とは全く異伝である。『代匠記』は、「或物に津国風土記を引て云、難波高津は天稚彦天降りし時、天稚彦に属《つき》て粁れる神天探女磐船に乗て此に到る。天磐船の泊る故に高津と号《なづ》く云々」といっている。その「或物」というは『続歌林良材集 上』であるが、これは地名の起源伝説であり、存在する可能性のあるものである。この歌は、そうした伝説の上に立ったものである。天稚彦をいわずに、天の探女の方をいっているのは、ある特殊な精神力をもった女に魅力を感じたがためで、時代性の影響があってのことかと思われる。
 
(80)293 塩干《しほひ》の 三津《みつ》の海人《あま》の くぐつ持《も》ち 玉藻《たまも》苅《か》るらむ いざ行《ゆ》きて見《み》む
    塩干乃 三津之海女乃 久具都持 玉藻將苅 率行見
 
【語釈】 ○塩干の三津の海人の 「塩干の」は、干潮のおりの。「三澤の海人の」は、「三澤」は難波の津で、「三」は御料の津であるゆえに尊んで添えたもの。「海人」は海人の女の意のもので、上にも出た。この初二句は、四六音である。○くぐつ持ち 「くぐつ」につき、『講義』は、諸注の考証を進めている。「くぐ」は海浜に生ずる草の名で、今もある物であり、それでつくった繩が現に用いているくぐ繩である。くぐ繩で編んだ籠がすなわちくぐつで、くぐつ籠の略であろうというのである。○玉藻苅るらむ 「玉藻」は、藻。「苅るらむ」は、くぐつに収めるために苅るので、苅るのをと下へ続く。○いざ行きて見む 「いざ」は、人を誘う意の語。
【釈】 干潮の時の三津の海人《あま》が、手にくぐつを持ち、藻を苅るであろうさまを、さあ、一緒に見物に行こう。
【評】 大和国に住んでいる人の、たまたま見る海珍しさの心のものである。海岸の海人の生活が珍しく、干潮時、くぐつを持って、食料のための藻を苅りに出る様を、すでに見て知っているにもかかわらず、また飽かずにまたも見ようとし、しかも人を誘っているのである。誘われる人も同感であったとみえる。生活に即した、実用性の歌である。
 
294 風《かぜ》を疾《はや》み 奥《おき》つ白浪《しらなみ》 高《たか》からし 海人《あま》の釣船《つりぶね》 浜《はま》にかへりぬ
    風乎疾 奥津白浪 高有之 海人釣船 濱眷奴
 
【語釈】 ○風を疾み 「疾み」は、旧訓「いたみ」で、爾来それが定訓のごとくなっていた。『講義』は、「疾」には「いたし」という意はなく、「はやし」と訓むほかはない字であると詳しく考証をしている。風が早くして。○奥つ白浪高からし 沖の白浪が高く立つのだろうで、「らし」は、眼前を証としての推測で、証は下の船の状態。○海人の釣船浜にかへりぬ 沖に見ていた海人の釣船が、危険を避けるために、浜に帰った。
【釈】 風が疾くして、沖の白浪が高く立つのであろう。海人の釣船が浜に帰った。
【評】 海岸にあっては平凡極まることで、いうにも足りないことであるが、前の歌と同じく、海の状態の珍しさから、わが心やりとして詠んでいるものである。わが生活に即して第三者は問題とせずに、心やりとして詠むということは、歌が集団から離れて、個人のものとなり、したがって文芸的なものとなると、当然に起こってくるべきことである。この人の歌にはその傾向が著しい。
 
(81)295 清江《すみのえ》の きしの松原《まつばら》 遠《とは》つ神《かみ》 我《わ》が大王《おほきみ》の 幸行処《いでましどころ》
    清江乃 木笑松原 遠神 我王之 幸行處
 
【語釈】 ○清江のきしの松原 「清江」は、今の住吉神社のあるところ。「きしの松原」は、海岸の松原で、そこは今も松原となっている。下に感歎の心がある。○遠つ神我が大王の 「遠つ神」は、下の「大王」を讃えた語で、天皇は神聖にして、人界よりは遠い神であるの意。「我が大王」は、天皇を親しんで申したもの。○幸行処 「幸行」は、前にも出た。行幸されたところの地の意で、熟語。
【釈】 清江の岸の松原よ、ここは遠つ神にますわが天皇の幸行処《いでましどころ》であるよ。
【評】 住吉の岸の松原の愛でたく清らかなのを目にし、そこは天皇の行幸地となっていることを思い合わせて、その地を讃えるとともに尊んだ心のものである。一首、名詞と助詞のみで、一つの動詞さえもない歌である。しかもいささかの不自然もなく、落着いた、清らかな趣をもった歌となっている。
 
     田口益人《たぐちのますひとの》大夫、上野国司に任ぜられし時、駿河国|浄見埼《きよみのさき》に至りて作れる歌二首
 
【題意】 「田口益人」のこの時のことは、続日本紀、和銅元年三月の条に、「従五位上田口朝臣益人為2上野守1」と出ている。また、同じく和銅二年十一月の条に、「従五位上田口朝臣益人為2右兵衛率1」と出ているので、国司であった期間も知られる。「田口氏」は、『新撰姓氏録』に、「田口朝臣、石川朝臣同祖、武内宿禰大臣之後也。蝙蝠《かはほり》臣豊御食炊屋姫天皇御世家2於大和国高市郡田口村1、仍号2田口臣1、日本紀漏」とある。「益人」の父祖は許かでない。「大夫」は、四位・五位の人の敬称。「駿河国浄見埼」は、清水市で、海岸に迫った地。今の興津の清見寺のある辺りで、その門前に関屋里というがあり、そこが昔関のあった所で、清見埼の通過地点であったろうと推定されている。なお、上野国は東山道に属しているので、本来は東山道を下るべきであるが、信濃国の道路が困難なため、東海道により、したがって駿河国を経過したのだろうとされている。これは例のあることである。
 
296 廬原《いほはら》の 清見《きよみ》の埼《さき》の 見穂《みほ》の浦《うら》の 寛《ゆた》けき見《み》つつ 物念《ものおも》ひもなし
    廬原乃 淨見乃埼乃 見穗之浦乃 寛見乍 物念毛奈信
 
【語釈】 ○廬原の清見の埼の見穂の浦の 「廬原の清見の埼の」は、上にいった。「見穂の浦」の「見穂」は、今の三保の松原の地である。ここは(82)今は清水市に属している。三保の埼は、清見が埼と南北に相対していて、西の方に湾入して清水港を抱いている。「見穂の浦」は、その入江を称したものと取れる。さて、「清見の埼の見穂の浦」という続け方は、三穂の浦が清見の埼に属しているがごとき続け方であるが、これは実地とは違っている。それにつき『講義』は、この続け方は他にも例のあるもので、巻十二(三一九二)「草陰《くさかげ》の荒藺《あらゐ》の埼の笠島を見つつか君が山|道《ぢ》越ゆらむ」とあるが、これも荒藺の崎のうちに笠島があるというのではなく、荒藺の崎から見渡すと、眼下に近く笠島が見えるというのであるらしく、ここの場合と同じだというのである。これに従う。○寛けき見つつ 「寛けき」は、寛かなるさまで、海の状態をいったもの。すなわち海の広く穏やかなさまを、総合的にいったもので、例のあるものである。「見つつ」は、継続。○物念ひもなし 「物念ひ」は、意味の広い語で、人として世に生きている以上、せずにはいられない嘆かわしい思いのすべてをあらわす語。「も」は、詠歎。一句、最上の幸福感をいったものである。
【釈】 廬原の清見の埼から、見穂の浦の寛《ゆた》かなさま、すなわち広く穏やかなさまを見い見いしていると、わが心はその佳景と一つになって、世の物念いとてはない。
【評】 赴任の途次、東海道の風景の中でも尤《ゆう》なるものとされている駿河湾の佳景に初めて接し、大和に在住する人の、海を珍しむ心も伴って、最上の快感を得たところからの歌である。その中心は、「物念ひもなし」ということで、これをもって最上の喜びとし、明らかに言いきっているところに、風景そのものを鑑賞する心も、実際生活からは遊離していなかったことをあらわしている。「廬原の清見の埼の見穂の浦の寛けき見つつ」は、駿河湾の大景を総合して客観化したものである。地名を三つまで重ねていることは、注意されることであるが、これはその土地を重んじる心からのもので、伝統となっている手法である。ここは重んじるというよりも、驚歎し愛でているもので、同時にそれが、間接ながら具象の効果を挙げている。「寛けき見つつ」はそれを総合しての具象である。一首、単純に、また素朴を極めたものであるが、その際の強い感動から生まれた調べによって、力あるものとなっている。
 
297 昼《ひる》見《み》れど 飽《あ》かぬ田児《たご》の浦《うら》 大王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 夜《よる》見《み》つるかも
    畫見騰 不飽田兒浦 大王之 命恐 夜見鶴鴨
 
【語釈】 ○昼見れど飽かぬ田児の浦 「昼見れど飽かぬ」は、昼の光で十分に見たけれども、それでも飽きることのないところの意で、「見れど飽かぬ」は、歎美の情をあらわす最上の語。「昼」は、下の「夜」と対照させたものである。「田児の浦」は、古くは廬原郡に属していた。森本治吉氏は、興津町の東方、薩※[土+垂]峠《さつたとうげ》から、現在の東海道線由比駅の辺りのようであるといっている。○大王の命恐み 「大王の命」は、ここでは、国司として京より任国へ着くまでの日数が、朝廷より定められている意。「恐み」は、謹み承《う》けまつってで、その日数は厳格に守っての意である。『講義』は、この当時の規程はわからないが、延喜式によると、上野国から山城の京に調物《みつぎもの》を貢する日数は、上り二十九日、下り十四日とある。大和(83)の京からの国司の日数は、この下りに一、二日を加えたものであろうが、同じく延喜式によると、武藏国までの下りは十五日であるので東海道によっての益人の行程は、よほどまで強行しなければならないものだったろうといっている。○夜見つるかも 「夜」は、夜にかけての旅をしていたことが、上よりの続きでわかる。「かも」は詠歎。残り惜しくも、夜見たことであるよの意。
【釈】 昼の光で見たけれどもなお飽くことのないところの田児の浦を、我は天皇の仰せたまえる規程を謹み承《う》けまつって、残り惜しくも、夜見たことであるよ。
【評】 前の歌に続いて詠んだものである。田児の浦は、清見の埼よりも東にあたっていて、いったがごとくやや広い地域である。田児の浦に沿っての海道を通る時にはすでに夜に入っており、行く行くも見て楽しもうとする海は見えなくなっていたのである。しかし規定の日数を思うと、心残りは忍ばなければならなかったのであるが、その心残りを、「大王の命恐み」という心によって一掃したのである。これは成句となっているきわめて重い心をもったもので、それによって、「昼見れど飽かぬ」に対照させている「夜見つるかも」は、単なる嘆きではなく、佳景に対する愛着の強さをあらわすものとなって、味わいをなしているのである。実際生活を重んじつつ、しかもつとめて佳景を楽しもうとする、この時代の人の心がうかがわれる。
 
     弁基の歌一首
 
【題意】 「弁基」は、巻一(五六)、それ以下にも出た、春日蔵首老の法師としての名である。弁基が勅命によって還俗《げんぞく》したのは、大宝元年三月である。この名によると、還俗以前の歌である。
 
298 亦打山《まつちやま》 暮越《ゆふこ》え行《ゆ》きて 廬前《いほさき》の 角太河原《すみだがはら》に 独《ひとり》かも宿《ね》む
    亦打山 暮越行而 廬前乃 角太河原尓 獨可毛將宿
 
【語釈】 ○亦打山暮越え行きて 「亦打山」は、奈良県五条市上野町から和歌山県橋本市隅田町真土に越える待乳峠。「暮越え行きて」は、夕暮れに越えて行ってで、下の続きから見ると、大和国から紀伊国へ向かって行くのである。○廬前の角太河原に 「廬前の」は、不明で、古くから問題とされている。下の「角太河原」への続きから見ると、枕詞か、または地名と取れるのであるが、枕詞としては認められず、また地名としてはその名の地は認められないからである。大体、角太河原を含んだ大名であって、後に忘れられたものと取れる。「角太河原」は、亦打山《まつちやま》を越えると隅田があり、紀の川がその地を通過しているところからの、その河原であろうという。○独かも宿む 「か」は、疑問、「も」は、詠歎。ただ独り宿ることであろうか。
(84)【釈】 真土山を夕暮れに越えて行って、廬前の角太河原に、ただ独りで宿ることであろうか。
【評】 大和から紀伊への旅をしようとして、その道を歩きながら、その夜の寝場所を思いやった心である。それを思ったのは、まだ大和の地域を歩いている時で、真土山を越すのは夕暮れ時で、紀伊の地域へ入ったら、廬前の角太河原で寝ようと思い、独りさびしく寝るのを思いやって感傷的になった心である。「廬前の角太河原に」と、地名を重ねて明らかにいっているのは、感傷の心の伴ってのことと取れるが、一つには、その地を知っていてのことと思われる。この当時の旅のそうした侘びしさは、すでに経験のある地ということによって軽くはならず、かえって深められたものと思われる。思いやりを素朴に詠んだものであるが、感のある歌である。
 
    右、或は云ふ、弁基は春日蔵首老の法師名なりと。
     右、或云、弁基者春日藏首老之法師名也。
 
【解】 このことは、題意でいった。
 
     大納言大伴卿の歌一首 未だ詳ならず
 
【題意】 「大納言大伴卿」は、大納言であるがゆえに、尊んで名を記さず、代わりに、三位以上の敬称とする卿をもってしたものである。大伴氏で大納言となった人は、前後五人ある。天武天皇の朝の大納言大伴望陀の連《むらじ》、文武天皇の朝の大納言大伴宿禰御行、大納言大伴安麿、聖武天皇の朝の大納言大伴旅人である。ここの大納言大伴卿はその中の誰かである。その誰であるかについては、沢瀉久孝氏の考証がある。要は、この巻の歌の排列は、大体年代順となっており、この前後の歌で年代の明らかなのは、上の田口益人の上野国司となったのは、和銅元年三月であり、後に続く柿本人麿は和銅二、三年に死んだと推定されているので、ここの大伴卿はその頃の人でなければならない。その点から見ると、大伴安麿の大納言となったのは、続日本紀、慶雲二年八月の条に、「為2大納言1」とあり、また、和銅七年五月の条に、「大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麿薨」とあるので、安麿と推定すべきだというのである。これは本巻の撰者には、問題とならなかったこととみえる。安麿のことは、巻二(一〇一)に出た。したがって、「未だ詳ならず」という注は、後人の加えたものとわかる。
 
299 奥山《おくやま》の 菅《すが》の葉《は》凌《しの》ぎ 零《ふ》る雪《ゆき》の 消《け》なば惜《を》しけむ 雨《あめ》な寄《ふ》りそね
(85)    奥山之 菅葉凌 零雪乃 消者將惜 雨莫零行年
 
【語釈】 ○奥山の菅の葉凌ぎ 「奥山の」は、奥山に生えている意。「菅」は、自生する草で、ここは奥山の物であるからいわゆる山菅と取れる。俗に竜がひげ、尉がひげとも呼んでいる。「凌ぎ」は、押し分ける意の語。菅の葉を押し分けて。○零る雪の消なば惜しけむ 「零る雪の」は、今降っているところの雪が。「消なば惜しけむ」は、「消なば」は、消え去ったならば。「惜しけむ」は、「惜し」の未然形に「む」のついたもの。○雨な零りそね 「雨」は、雪を消す物としていっている。「な」は、禁止。「な」のみでも、また「そ」を伴っても同様である。原文「行年」は、旧訓「こそ」、『槻落葉』は、本居宣長の語により、「行」は「所」の誤写であるとして、「そね」と改めている。「行年」という文字は集中四か所あり、いずれも「そね」と訓んで意の通ずるものであるが、「行」を何ゆえに「そ」と訓むかは不明であり、したがって諸説があって定まっていない。『代匠記』は、旧訓に従って「こそ」と訓み、「行年」は「去年」と同じ意で、その「こぞ」を清濁を通ずる意で「こそ」に当てたものとし、意は願望であるとしている。しかし「な」の禁止の後に願望の「こそ」の続く例は古典に例のないものとして斥けられている。『攷証』は、同じく「こそ」と訓み、「こ」は「来」、「そ」は禁止のそれであるとしている。『講義』は、この解は文法的には誤ったものではないが、用例の多い「そね」の妥当なのには及ばないとして、疑いを残して従っている。本居宣長の誤写説は、「行年」は集中五か所あり、皆同一であるから成立ち難いものとしての上のことである。しかし『講義』が挙げているように、巻七(一三六三)「言な絶え行年」、巻十三(三二七八)「犬な吠え行年」は、「行年」は、「そね」と訓むよりほかないものである。「行年」は、「行」を「そ」と訓むよりどころは不明のままに残し、「そ」は、上の「な」に連なっている禁止、「ね」は、他に対しての願望をあらわすものと見ることとする。
【釈】 奥山に生えている山菅の葉を押し分けて今降っている雪の、消え去ったならば惜しいことであろう。雨よ降って消すことはするな。
【評】 自然を詠んだ歌であるが、自然といううち、微細なる風景のもつ情趣を捉えたものであって、そこに特色がある。奥山の雪に興を催したとすれば、大景の捉えるべき物が幾らもあろうに、菅の葉に降る雪だけを捉えているのは、まさに作者の好みというべきである。時代的に見て、こうした対象を扱っているのは、珍しとすべきである。「菅の葉凌ぎ零る雪」というのは、そうした状態を眼前に見て、興を催したがゆえに初めていえることで、実際に即したものである。菅の葉に降る雪の印象的なのは、そこにはそれまで雪のなかったことを思わせ、「凌ぎ」は、その雪片の大きく、またかなりの降りであることを思わせ、また、消えるを惜しんで雨よ降るなというのは、その季節の厳冬でないことを思わせるものである。こうした余情は、実際に即しているがためにおのずからに添いくるものである。注意されることは、情趣の特殊なことである。情趣は「消なば惜しけむ」ということであるが、その情趣を抱かせた物は、山菅の青く鋭い葉を凌いで降っている白雪という、単一な、清浄なもので、それ以外のものではない。これは上代より伝わりきたっている好みと思われる。微細な自然を捉えての歌という意味では時代的に新しいが、盛ってあるものは伝統の情趣で、抒情味の勝った、すなわち古風を失わないものなのである。
 
(86)     長星王《ながやのおほきみ》、馬を寧楽山《ならやま》に駐《とど》めて作れる歌二首
 
【題意】 「長屋王」は、巻一(七五)に出た。「寧楽山」は、巻一(一七)に出た奈良の山で、奈良市の北方に横たわっている一帯の丘陵の称である。古、大和国から山城国方面へ出るには、ここを越えるのが順路で、その路は今、歌姫というを通るところから歌姫越と呼ばれている路である。歌はその歌姫越を越えようとして、その頂で作ったものである。
 
300 佐保《さほ》過《す》ぎて 寧楽《なら》の手祭《たむけ》に 置《お》く幣《ぬさ》は 妹《いも》を目《め》離《か》れず あひ見《み》しめとぞ
    佐保過而 寧樂乃手祭尓 置幣者 妹乎目不離 相見染跡衣
 
【語釈】 ○佐保過ぎて 「佐保」は、奈良市の西北に連なり、今、法蓮町から法華寺町にかけての地。「過ぎて」は、通り過ぎてで、奈良山に向かおうとして、その途中の地としていっているのである。長屋王は藤原京から来られたものと取れる。○寧楽の手祭に 「寧楽」は、上の奈良山。「手祭」は手向けの意で、神に物を捧げる意の動詞の、その名詞となった語。「祭《むけ》」は義をもって当てた字である。この語は転じて、旅をする際、道中の無事を祈るために、その神を祭る一定の場所の称となった。さらにいえば、この道の神は、平地だと路の岐《わか》れ目、山道だと登り切った所の、土地境、国境をなす所に祀られて、その土地または国を守るところの神である。したがって旅人としてその地へ入ってゆくには、道の神の許を乞い加護を乞わなければならなかったのである。ここの「手祭」は、その神の祀られている場所である。「手祭」はさらに転じて、道の神の祀られている土地のうち、最も印象的である山をあらわす語となって、峠となって、今では異なった意のものとなっている。○置く幣は 「置く」は、神に捧げる意をあらわす当時の語。「幣」は、神に捧げる物、または祓《はらい》として出す物の総称で、ここは神に捧げる物である。これは布、麻、糸、紙などで、あらかじめ用意していた物である。神に祈りをするための祭には、必ず幣を捧げることとなっていたので、「置く幣は」というのは、祈り申すことはということを具象的にいったものである。○妹を目離れずあひ見しめとぞ 「妹」は、家にある妻。「目離れず」は、「目」は見ること、「離れず」は絶えずの意。「あひ見しめ」は、「あひ」は、逢ひ。「しめ」は「しむ」の命令形で、下二段活用の命令形に、「よ」のないのは当時の語法である。「とぞ」は、とぞ祈るなるの意の略語となったもの。二句、家にいる妹を絶えずも見せさせたまえよという心であるの意。
【釈】 佐保を通り過ぎて、今、奈良山の手向に来て、大和国を離れて山城国に入ろうとするにあたり、ここに祀られた道の神に幣を捧げて祭る心は、わが新たに入り行く国での無事を祈るというのではなく、家にいる妻を、絶えずも見せさせたまえよと祈る心である。
【評】 旅中、その神を祭るのは、危険の起こりやすい旅の身の無事を祈るためのことである。この歌は、一身の無事を祈るという消極的の境を超え、夫婦生活の幸福に続いてゆくようにという積極的なものである。この態度は、心理的には妥当性のあ(87)るものである。それは、身はすでに旅に出ていて、いまや国境を越えようとする時であるから、自身の旅先を思うとともに、家に残してきた妻を顧みさせられる時である。夫婦生活に生活価値を認めていた時代とて、一身の無事ということは、おのずから妻に繋がって行き、妻との将来の幸福を祈ることになるのは当然だからである。しかし旅にあって道の神への祈りが、夫婦生活の将来へ及んだものであるということは、心の余裕のあって初めて思いうることで、これは、長屋王の御身分、また旅の性質などの関係していることと思える。一首、その際の実感で、文芸的のものではない。
 
301 磐《いは》がねの 凝《こご》しき山《やま》を 超《こ》えかねて 哭《ね》には泣《な》くとも 色《いろ》に出《い》でめやも
    磐金之 凝敷山乎 超不勝而 哭者泣友 色尓將出八方
 
【語釈】 ○磐がねの凝しき山を 「磐がね」は「岩が根」で、根は、地に固定する意で添えた語。「凝し」は、形容詞。ごつごつしている意。○超えかねて哭には泣くとも 「超えかねて」の「かね」は、堪えなくて。越えきれなくて。「哭には泣くとも」の「とも」は、仮定の事柄をあらわす助詞。声をたてて泣くことがあるとしてもで、初句よりこれまでは仮定の事柄としていっているものである。○色に出でめやも 「色に出づ」は、表面にあらわす意。「めや」は、已然形の「め」に、疑問の「や」の添って、反語をなしているもの。「も」は、詠歎。表面にあらわそうか、あらわしはしないで。「色に出づ」は、妹を恋う心をあらわす意のもの。
【釈】 岩のごつごつした歩きにくい山路を越えきれないで、その苦しさから声をたてて泣くことがあるとても、妹を恋う心を表面にあらわそうか、あらわしはしない。
【評】 前の歌と同じく奈良山での歌で、心も、国境の山を越えようとして家に残してある妹を思ってのものである。「磐がねの凝しき山を超えかねて哭には泣くとも」は、いったがように仮定の事柄で、「色に出でめやも」をいおうとする関係からいっているものである。仮定とはいっても、「寧楽の手祭」まで登るには、その状態に近い路を越え、「哭には泣」かないまでも、それに近い心も経験しているので、それを誇張していったものと取れる。この誇張は、「色に出でめやも」をいおうがためにしたものである。前の歌は、生活価値を夫婦生活に置いたものであるが、この歌はそれとは反対に、いかに妹を思おうとも、その思いを表面にあらわして、人に知られるようなことは断じてしまいとの心である。これはいわゆる丈夫《ますらお》の覚悟である。すなわち個人としては夫婦生活を命ともするが、公人としてはあくまでもそうしたさまは見せまいとするので、当時の位置ある人の心情の両面を示したものである。これは柿本人麿の歌にも際やかに現われているわけで、当時の通念であったと思われる。諸注、四句「哭には泣くとも」を、妹を思ってのことと解してきたのを、『講義』は、それでは結句と打合わないとし、四句は上三句(88)に続いて、山路の状態を仮定としていったものだと解している。文字どおりに読めばそう解すべきものであるので、それに従う。
 
     中納言|安倍広庭《あべのひろには》卿の歌一首
 
【題意】 「安倍広庭」は、右大臣安倍|御主人《みうし》の子。神亀四年、歴任して中納言に任ぜられ、続日本紀、天平四年二月の条に、「中納言従三位兼催造宮長官知河内和泉等国事阿倍朝臣広庭薨」と誌されている人である。年七十四。卿は敬称。
 
302 児《こ》らが家道《いへぢ》 差《やや》間遠《まどほ》きを 野干玉《ぬばたま》の 夜渡《よわた》る月《つき》に 競《きほ》ひ敢《あ》へむかも
    兒等之家道 差間遠焉 野干玉乃 夜渡月爾 競敢六鴨
 
【語釈】 ○児らが家道差間遠きを 「児らが家道」は、妹が家までの間の道。「差間遠きを」は、「差《やや》」は、用例のある字。現在も用いている、程度を示す副詞。「間遠し」は、当時用例の少なくない語で、これも現在も用いられている。「を」は、接続の意のもの。やや距離の遠いのを。○野干玉の夜渡る月に 「野干玉の」は、夜にかかる枕詞。「夜渡る月に」は、夜空を渡ってゆくところの月に。○競ひ敢へむかも 「競ひ」は、競争する意。「敢へ」は、堪える意。「か」は、疑問、「も」は、詠歎。競争しきれるであろうかの意。月の山に入る前に、自分は妹の家に行き着こうとして、道を急いでいるのを「競ふ」といい、その間に合うのを「敢へる」といっているのである。
【釈】 妹の家までの道は、やや距離が遠いのを、今、夜空を渡っている月の山に入る前に、行き着ききれるであろうか。
【評】 古くは、妹の家の遠い所にあるというのは、例の多いむしろ普通のことであった。ここもそれとみえる。また、夜、妹の家へ通うのに、月光にたよるのを便利としていたことは、察しやすいことである。ここもそれである。一首の中心としているところは、「競ひ敢へむかも」で、細かい思料の伴った、差迫った気分である。その点から見て、月夜、妹の家へ通って行こうとして、途中、傾いてきた月を望み、残っている道程を思って、心もとなさを感じての心と取れる。普通だと、月のあるうちに行き着きうるだろうかというところを、月を心あるもののごとく見、しかも大きな物として捉えて、「野干玉の夜渡る月に競ひ」という言い方をしているところに、この時代の心があり、また作者の心もある。途上の独語で、実際に即した歌である。
 
     柿本朝臣人麿、筑紫国《つくしのくに》に下《くだ》れる時、海路にて作れる歌二首
 
303 名《な》ぐはしき 稲見《いなみ》の海《うみ》の 奥《おき》つ浪《なみ》 千重《ちへ》に隠《かく》りぬ 山跡島根《やまとしまね》は
(89)    名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隱奴 山跡嶋根者
 
【語釈】 ○名ぐはしき 名の好いの意で、名高いというにあたる。稲見を讃えるために添えた語。○稲見の海の奥つ浪 「稲見の海」は、播磨国印南郡の海で、稲見は巻一(一四)にも、その後にも出た。難波より筑紫に向かう海路を、そこの海まで来ての眼前。「奥つ浪」は、沖の方の浪で、沖は、岸寄りの船中から、東、大和の方を望んでいっているもの。〇千重に隠りぬ 「千重」は、物の幾重にも限りなく重なっていることをあらわす語で、山、雲、浪などにいったものが多い。ここは、上よりは、「奥つ浪千重」と続いて、沖に立ち続いている浪の、その千重であるが、下への続きからいうと、実際は、大和を隠すものは浪ではなく、淡路島や、摂播国境の山などである。それで、心としては「千重」は遠くの意のものである。その関係からいえば、「名ぐはしき稲見の海の奥つ浪」は、「千重」の序詞で、遠くの意をいうためのものである。「隠りぬ」は、隠れてしまった。○山跡島根は 「山跡島」は、(二五五)に出た「倭島」と同じで、それに「根」の添ったもの。大和国の意のもので、恋しい妹のいる国ということを婉曲にあらわしたもの。
【釈】 名高い稲見の海の、沖の方の浪を望むと、その立ち続いている千重の、遠くも隠れてしまった。恋しい妻のいる大和国は。
【評】 稲見の海の、そこからは大和国の山も全く見えない所へ来て、東の方過ぎて来た海を顧みて、妻恋しい心を発しての歌である。妻恋しいとはいっても、今は妻より遠ざかってゆく時で、そして視覚的にはすでに遠ざかりつくした時でもあるので、心は静かで、細かく動いている。その心が語の上にさながらに現われている。
 初句より三句まではいったように序詞である。しかしこの序詞は、設けてのものではなく、眼前の実際である。そしてこの実際は、山跡島根の恋しさに導かれてのもので、それ以外のものではない。力点は山跡島根にある。この眼前と山跡島根とを綜合させ、微妙に繋いでいるものが「千重」である。実際であって、同時にそれを超えているのであるが、その超えた跡を見せない巧妙さと美しさとが、「千重」にある。この序詞は、形としては口承文学系統のものであるが、心としては、記載文学としても得難い充実したものをもっているというべきである。人麿の作としては、静かな、思い入った方面を元しているものである。
 
304 大王《おほきみ》の 遠《とほ》の朝庭《みかど》と あり通《がよ》ふ 島門《しまと》を見《み》れば 神代《かみよ》し念《おも》ほゆ
    大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
 
【語釈】 ○大王の遠の朝庭と 「大王の」は、天皇の。「遠の朝庭と」は、「遠の」は、京を中心として、そこより遠方にあるところの意。「朝庭」の「庭」は、廷と通じて用いていた字。「朝庭」は、御門《みかど》で、本来は皇居を、尊む意から距離を置いての称であるが、ここは国家の大政を執らせ(90)られる所としての称。「遠の朝庭」は、京より遠方にある政庁で、大宰府を初めとして、国々にある国庁の称。ここは、筑紫へ向かいつついる時の語なので、その方面の国庁である。「と」は、として。○あり通ふ 「あり」は、当時動詞の上に添えて用いた語で、あり経《ふ》る、あり待つなど例の多い語遣《ことばづか》いで、その下に続く動詞の、継続の意をあらわす語。引き続いて通《かよ》っているところの意。○島門を見れば 「島門」の「門」は、水門《みと》、迫門《せと》などの門《と》で、海の狭くなった所の称。「島門」は島と島との間の、海の狭くなった所である。島は、島嶼はもとより、前の歌の「山跡島根」のように、大和国の称ともなっていた。本来瀬戸内海の瀬戸は、迫門《せと》の意であるから、広い意味でいえば、いま航海している瀬戸内海は、すべて島門ともいえる。また、航路は、つとめて陸より離れないようにしていたのであるから、その陸と島嶼の間は、明らかに島門である。ここは広い範囲にわたっていっているものと取れる。「見れば」は、船中から、島門を見るとの意で、海上より見る水と陸との醸《かも》し出す光景の面白さをいっているものと取れる。○神代し念ほゆ 「神代」は、ここは、上よりの続きで、伊弉諾《いざなぎ》、伊井冉《いざなみ》の二神の国産みの事をいっているものと解される。「し」は、強め。「念ほゆ」は、思われる。
【釈】 天皇の、京よりは遠方にある政庁として、筑紫方面へ引き続いて通っているところの、この瀬戸内海の島門の光景の面白さを見ると、天皇の遠つ御祖《みおや》の伊弉諾、伊弉冉の神の、こうした光景の国土を産ませ給うた時のことが思われる。
【評】 前の歌と同じく、瀬戸内海においての作である。瀬戸内海の風景の面白さはいうまでもなく、ことに大和の京に住んでいた当時の宮人に取っては言い難いものであったろうと思われる。この歌の作因は、海上の穏やかで、航行の怖れのなかった日、瀬戸内海の風景の面白さをしみじみと感じ、そうした時に誰しも本能的に思わせられる、その光景の由ってきたるところに思い及ぼし、この国土を産ませられた伊弉諾、伊弉冉の二神を思って、それを「神代」という語をもってあらわしたものと思われる。その神代を思うと、天皇はこの二柱の神の御末であらせられ、現に自分は今、その天皇の「遠の朝廷」に御使として遣わされているのであり、しかも自分と同じことを、昔から継続して行なっていることまでも思わせられたのである。さら(91)にいえば、眼前の面白い風景と、それを貫いて、古より今に及んでいる皇室の長い歴史とを綜合して、風景の歎美と皇室の奉賀とを一つにした歌である。瀬戸内海はもとより、筑紫にある「遠の朝庭」へ通うだけの航路ではない。それを「神代」との関係において、単にそれだけのものであるがごとくにいっているのは、眼前の風景と長い歴史とを綜合しようとするところからいっているものである。一首、複雑している心を、単純に、静かにいっているもので、人麿の一面を遺憾なくあらわしているものである。巻七(一二四七)、人麿歌集の中の、「大穴牟遅《おほなむち》少御神《すくなみかみ》の作らしし妹背の山は見らくしよしも」と、心としては通うところのあるものである。
 
     高市連黒人の近江の旧都の歌一首
 
【題意】 「黒人」は、上の(二七〇)に出た。「近江の旧都」は、天智天皇の大津宮で、この当時は址のみとなっていたのである。
 
305 かく故《ゆゑ》に 見《み》じといふものを 楽浪《ささなみ》の 旧《ふる》き都《みやこ》を 見《み》せつつもとな
    如是故尓 不見跡云物乎 樂浪乃 舊都乎 令見乍本名
 
【語釈】 ○かく故に見じといふものを 「かく故に」は、このようであるがゆえにで、「かく」は、眼前の址もないまでに荒廃している悲しい有様をさしていったもの。「見じといふものを」は、見まいというものをで、見に行こうと誘われた時、断わっていった語を繰り返したもの。○楽浪の旧き都を 「楽浪」は、近江国滋賀郡の地名。「旧き都」は、以前の都で、天智天皇の大津宮のあった所。○見せつつもとな 「見せつつ」は、見せ見せしてで、誘って来た人の見せたことを、強めるため継続としたもの。「もとな」は、『講義』は、「本無《もとな》」で、理由なく、根拠なくの意の語で、ここは、よしなくというにあたるといっている。転置となっていて、「もとな見せつつ」の意で、よしなくも見せつつ悲しませるの意。
【釈】 このようであるがゆえに、見まいと断わっていうものを、強いて誘ってきて、楽浪の旧い都を、よしもなく見せ見せして悲しませることである。
【評】 人に誘われて近江の旧都の址に立ち、その址もなく荒廃しているのを見て感傷しての心である。綜合感を愚痴の形をもっていったもので、具象的には何もいわず、わずかに「楽浪の旧き都」という名詞と、「もとな」という副詞で、感傷を暗示しているだけであるが、その光景と、その際の心とが融け合って、十分に感のあるものとなっている。実際に即する態度と、作者の感性の鋭さとからきているものである。巻一(三二)(三三)「高市|古人《ふるひと》」と題するものと同系統のものと思われる。
 
(92)     右の歌、或本に曰はく、小辨の作なりと。いまだ此の小弁といふ者を審にせず。
      右謌、或本曰、小辨作也。未v審2此小弁者1也。
 
【解】 右の歌に対して、作者に異伝があるとの意で、ある本には小弁の作とあるが、その小弁なる者がわからないというのである。小弁につき『講義』は、この当時小弁という称をもちうるものは、太政官の左少弁、右少弁のいずれかであろう。「少」と「小」とは通用していたと考証している。この名においての歌は、巻九(一七三四)にもある。
 
     伊勢国に幸《みゆき》せる時、安貴壬《あきのおほきみ》の作れる歌一首
 
【題意】 この伊勢国への行幸につき、沢瀉久孝氏は、年代順に排列してある前後の歌から見て、続日本紀、元正天皇、養老二年、美濃国へ行幸のあった際のことではないかと考証している。これに従う。「安貴王」は、(二四三)春日王《かすがのおおきみ》の御子、(四一一)に出る。市原王の御父、天平元年従五位下、同十七年従五位上に叙せられた。
 
306 伊勢《いせ》の海《うみ》の 奥《おき》つ白浪《しらなみ》 花《はな》にもが つつみて妹《いも》が 家《いへ》づとにせむ
    伊勢海之 奧津白浪 花尓欲得 ※[果/衣]而妹之 家※[果/衣]爲
 
【語釈】 ○伊勢の海の奥つ白浪 伊勢の海の、沖に見える白浪はの意で、眺め入っての語。○花にもが 「花に」は、花にての意。「が」は、願望をあらわす助詞。花であってほしいの意。この場合のように、願望の「が」の上には、必ず「も」を添えるのが格となっていて、それのない例はない。なおこの形は古く、後世には「がも」となってきたものである。この願望は、沖の白浪が花のごとくに見えるところからのものである。○つつみて妹が家づとにせむ 「つつみて」は、本当の花であったならば、物に包んで。「妹が家づとにせむ」は、「妹」は京の家にいる妹。「家づと」は、土産物であるが、「つと」は物に包むことを定まりとするよりの称。
【釈】 伊勢の海の沖に見える白浪は、花であってほしい。それだと、物に包んで、京にいる妻に、旅の土産としよう。
【評】 大和の京に住む人の、海を珍しがり、ことに沖の白浪を面白がり、それに花を感じて、大和の妹に見せたい心を起こしたものである。大海の白浪に花を感じるというのは、優美を慕う心で、時代の移りを思わせるものである。しかし花とはいっても華麗なものではなく、淡泊な清浄なものであるのは、古きを伝えているといえる。
 
(93)     博通法師、紀伊国に往き、三徳《みほ》の石室《いはや》を見て作れる歌三首
 
【題意】 「博通法師」は、伝が全くわからない。紀伊国に往きといっているので、大和国の人とはわかる。「三穂の石室」は、『帝国地名辞典』に詳しい。和歌山県日高郡美浜町三尾、磯と呼ばれる地にある大岩窟である。窟は深さ十六間、帽五、六間、高さ七、八間より十二、三間、海上に南面して、大小の巌相重なっている。海に臨んでいるが、風濤《ふうとう》の患はないという。そこは、御坊町から日の御崎へ行く途中の海上である。
 
307 はたすすき 久米《くめ》の若子《わくご》が いましける【一に云ふ、けむ】 三穂《みほ》の石室《いはや》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも【一に云ふ、あれにけるかも】
    皮爲酢寸 久米能若子我 伊座家留【一云、家牟】 三穗乃石室者 雖見不飽鴨【一云々、安礼尓家留可毛】
 
【語釈】 ○はたすすき 旗薄で、薄の穂を出し、それが旗に似ているところからの称。集中、「穂」の枕詞とした例が多い。ここもそれで、四句「三穂」の枕詞としてのものだと『古事記伝』がいい、『古義』は第一句を第四句に言いかけた例として、巻十二(三一四〇)「愛《は》しきやししかる恋にもありしかも君に遺《おく》れて恋《こほ》しき念《も》へば」を挙げている。枕詞として特殊な用法である。○久米の君子が どういう人であるか明らかではない。語義としては、久米氏の若き人ということである。『代匠記』は、久米仙人ではないかといい、『古事記伝』は、日本書紀、顕宗紀の、天皇は更《また》の名を来目稚子《くめのわくご》と仰せられたのに関係がありはしないかといっているが、いずれも暗椎にすぎない。歌を通じて見ると、作者博通法師の深くも慕っていた人で、故人といっても、年代の距離のさして遠くない人に思える。個人的に何らかの関係のあった人ではなかったかとも思える。○いましける いらせられたところの。敬語をもっていうべき人であったとみえる。○一に云ふ、けむ 一本に、「いましけむ」ともあるというのである。いらせられたであろうところの。○三穂の石室は 題意にいった。○見れど飽かぬかも 幾ら見ても飽かないことであるよで、きわめて愛でたい風景、また人を歎美する意の成語。ここは、石室その物を歎美したのではなく、久米の若子の住んでいた所という関係において歎美しているのである。すなわち久米の若子をなつかしむ心を具象化するために石室を歎美しているものである。○ーに云ふ、あれにけるかも 荒れたことであるよと、石室の荒れたのを嘆いた心である。石室が荒れるということは不自然である。思うにこの歌が伝承され、石室に対して「見れど飽かぬかも」という語が適当でないとするところから、単なる懐古の歌として、このように改められたのであろう。
【釈】久米の若子がいらせられたところの(いらせられたであろうところの)はたすすき三穂の石室《いわや》は、懐かしくして幾ら見ても見飽かないことであるよ。(荒れてしまったことであるよ)
【評】 作者が三穂の石室を見て、そこに住んでいた久米の若子を深く思って詠んだという特殊な歌である。作者も久米の若子も、そのどういう人であるかがわからないので、作意である思慕の情の内容には触れることができない。第三者として感じ得(94)られるのは、懐古の情という、この歌としては主目的以外のものにすぎない。実感の表現を目的とした歌にあっては余儀ないことである。実際に即して詠むという作歌態度から、作者は久米の若子に対する思慕の情を、石室そのものを極力いうことによって具象化しようとしている。「見れど飽かぬかも」についてはすでにいった。地名の「三穂」に、「はたすすき」という枕詞を、特殊な用法をしてまでも添えようとしたのは、「三穂」を修飾しようとしたがためで、これも要するに石室を歎美し、「見れど飽かぬかも」を強めようがためである。この歌に異伝を生じたのは、伝承されたためであるが、何ゆえに伝承されたかはわからない。思うに、「久米の若子」「三穂の石室」に対して親しみを感ずる範囲において行なわれたことではなかろうか。
 
308 常磐《ときは》なす 石室《いはや》は今《いま》も ありけれど 住《す》みける人《ひと》ぞ 常《つね》なかりける
    常磐成 石室者今毛 安里家礼騰 住家類人曾 常無里家留
 
【語釈】 ○常磐なす 「常磐」は、恒久不変な岩で、代表的に不変な物。「なす」は、のごとく。○石室は今もありけれど 石室は今も変わらずにあったけれども。○住みける人ぞ その中に住んでいたところの人、すなわち久米の若子の方は。○常なかりける 「常」は、不変。不変ではなかったことであるよで、「ける」は「ぞ」の結。
【釈】 床岩のごとく石室は今も変わらずにあったけれども、その中に住んでいたところの人の方は、不変ではなかったことであるよ。
【評】 自然と人間とを対照して、人間の無常を観ずるという、知的に人生を大観する心を、眼前の石室とそこに住んだ人とに引きつけ、久米の若子を悲しんだものである。これは明らかに仏者の心で、当時仏教は弘く浸潤していたとはいえ、歌の上にはまだそれほどには現われていないので、この当時としては新しさのあるものである。久米の若子の世に亡いのを悲しんでいるこの心は、遠い故人に属してのものとは思われない。
 
309 石室戸《いはやと》に 立《た》てる松《まつ》の樹《き》 汝《な》を見《み》れば 昔《むかし》の人《ひと》を 相見《あひみ》る如《ごと》し
    石室戸尓 立在松樹 汝乎見者 昔人乎 相見如之
 
【語釈】 ○石室戸に立てる松の樹 「石室戸」の「戸」は、門《と》の意のもので、石室の出入り口。「立てる松の樹」は、立っている松の樹よで、親しんで呼びかけたもの。○汝を見れば お前を見ていればで、松の樹に話している形のもの。○昔の人を相見る如し 「昔の人」は、故人である久(95)米の若子。「相見る」は、「逢ひ見る」で、逢って目に見ている意。昔の人を、逢って見ているがようである。
【釈】 石室の出入り口に立っている松の樹よ、お前を見ていると、ここに住まわれていた昔の人を、逢って目に見ているがようである。
【評】 これは前の歌の知的なのとは異なって、純感情的な歌である。純感情的とはいっても、いわゆる詩的というのではなく、由る所のあるものに見える。それは伝統の久しい形見の思想で、その人に縁故の深い物を、死後、その人の形見として、その物によってその人を思うことである。石室ももとより形見となりうる物であるが、その石室の出入り口に立っている、生命ある松の樹は、形見として心を寄せるには恰好《かつこう》のものに思われる。作者の心には、思うにその伝統が影響して、形見とするとともに、命あるところに心が寄り、そこに久米の若子を現前せしめて、呼びかけ、話しかけているのである。冴えた調べは、高潮した心をあらわしている。
【評又】 この三首は、おのずから連作の趣をもっている。第一首は、おそらく初めて三穂の石室を目にして、深く慕っている久米の若子に対する情を、その石室をいうことによって具象化したもので、総叙ともいうべきものである。第二首は転じて、久米の若子の世に亡い悲しみを、知性を働かせることによって諦めようとしたもの。第三首は更に転じて、第一首の心にたちかえって、それを細叙したもので、その時はおのずから仏者の心から離れ、古来の伝統の精神の上に立ち、悲しみのうちに慰めを得ているのである。もとより、一首一首独立した歌ではあるが、一貫したものがあっておのずから連絡がつき、連作的な味わいももちうるものとなっているのである。すでに人麿は、意識的に連作をしている後であるから、この作者にその心があったとしても、怪しむには足りないことである。この法師の歌はこの三首よりしか伝わってはいない。多くあったことと思われる。
 
     門部王《かどべのおほきみ》、東《ひむかし》の市《いち》の樹を詠《なが》めて作れる歌一首 後に、姓大原真人の氏を腸ふ
 
【題意】 「門部王」は、御父は明らかにされていない。続日本紀、和銅三年正月、旡位門部王に従五位下を授けられるとあり、同、天平十七年四月に、「大蔵卿従四位上大原真人門部卒」とある。この大原真人という姓は、天平十一年四月、従四位上高安王らの上表して賜わったものなので、門部王もその同族と取れる。『新撰姓氏録』には、「大原真人出v自2謚敏達孫百済王1也、続日本紀合」とある。門部王は、続日本紀、養老三年に、「伊勢国守門部王」とあり、また、本巻(三七一)に「出雲守門部王」ともあるので、四年を任期とする国守を二回まで勤められたことがわかる。「東の市の樹」は、平城京には東西に市があって、東の市は左京にあり、今の辰市はその址であるといい、西の市は右京にあり、今の郡山市九条はその址だという。「詠めて」につき、『講義』は詳しく考証をしている。要は漢詩の詠史、詠物の詠で、対象としての意で、今の場合は、植木を対象として作った歌の意(96)だといっている。
 
310 東《ひむかし》の 市《いち》の植木《うゑき》の 木《こ》だるまで あはず久《ひさ》しみ うべ吾《われ》恋《こ》ひにけり
    東 市之殖木乃 木足左右 不相久美 宇倍吾戀尓家利
 
【語釈】 ○東の市の植木の 「東の市」は、上にいった。「植木」は、道に植える木で、巻二(一二五)「橘の蔭|履《ふ》む路の八衢《やちまた》に」に出た。ここもそれである。○木だるまで 「木だる」は、「木垂《こだ》る」で、「垂る」は古くは四段活用であった。木の枝の垂れる意で、これは、木が老いて初めてあらわすさまである。すなわち木の老いたことを具体的にいったもの。○あはず久しみ 「あはず」は、逢わず。対象となっている物は上の植木で、事としては見ずということであるが、国守となって地方にあって、京を恋うる心を植木に寄せていたところから、感傷の心をもって有情化していっているもの。「久しみ」は、久しくして。逢わないことが久しくして。○うべ吾恋ひにけり 「うべ」は、なるほどと、是認する意の副詞。「吾恋ひにけり」の「吾」は、『類聚古集』と紀州本にはないが、他はすべてある。これがあると九音という特殊なものになる。それにつき『講義』は、この九音の例は、巻三、四に多いところから見ると、この二巻の一つの傾向であろうといっている。その例は、上の(二八五)「妹の名をこの勢の山に懸けば奈何《いか》にあらむ」の末句、(四八〇)「大伴の名に負ふ靭《ゆき》帯ひて」の第二句、(六五九)「かくしあらばしゑや吾が背子奥も何如《いか》にあらめ」の末句である。これに従う。「吾恋ひにけり」は、吾は恋ったことであるよで、恋ったのは、上と同じく植木である。吾の恋ったのももっともなことであるよの意。
【釈】 この東の市の植木が、このように老いて枝の垂れるまでも、逢わないことが久しくて、吾のこの植木を恋ったことももっともなことであるよ。
【評】 四年を任期とする国守の任が解けて京へ帰って来、東の市の植木に対した時の感である。京の中でも人の繁く集まる「市道《いちぢ》」に植わっている、その当時は新味を保っていた橘の並木というものは、印象的な、魅力のある物で、京を恋うる心に浮かんで、最も恋しがらせていた物とみえる。今|目《ま》のあたりその植木を見て、しかも植木の老いて木垂れているさまを新たに発見して、地方にあって恋しがっていた心を改めて是認した心である。楽しさにいて悲しさを思い浮かべた複雑した心であるが、それが「東の市の植木」という単純な物に統一されて、静かな趣をもったものとなっている。東の市の植木と限っているのは、詩情だけではなく、何らかの実感の伴っていることであろうが、第三者には、詩情を強めるものとして受取られる。
 
     ※[木+安]作村主益人《くらつくりのすぐりますひと》、豊前国より京に上る時作れる歌一首
 
(97)【題意】 「※[木+安]作」は氏、「村主」は姓、「益人」は名。村主は、帰化人に賜わる姓の一つである。その「豊前国」に在ったのは、どういう関係であるかわからないが、国司としてであれば、その最下の目の程度であったろうと思われる。それは、巻六にこの人の歌が今一首(一〇〇四)あり、その注に、「内匠寮大属※[木+安]作村主益人」という官名があり、天平六年の詠であることがわかる関係からである。それ以外には伝はわからない。
 
311 梓弓《あづさゆみ》 引《ひ》き豊国《とよくに》の 鏡山《かがみやま》 見《み》ず久《ひさ》ならば 恋《こほ》しけむかも
    梓弓 引豐國之 鏡山 不見久有者 戀敷牟鴨
 
【語釈】 ○梓弓引き 梓弓引き響《とよ》ますと続く、その「響《とよ》」を、同音の「豊《とよ》」に転じて枕詞としたもの。弓弦《ゆずる》の音の高さをいった歌は集中に少なくない。○豊国の鏡山 「豊国」は、豊前、豊後二国の、二国に分かれなかった以前の称。ここは旧名でいっているので、題詞の豊前国。「鏡山」は、本巻(四一七)に、「豊前国鏡山」と出ている。今は、田川郡香春町鏡山にある山で、そこは小倉市から遠くない地である。○見ず久ならば恋しけむかも 「見ず久ならば」は、見ないことが久しくなったならばで、その地を去ろうとして、去っての後を思いやっての心。「恋しけむかも」は、「恋《こほ》し」は「恋《こひ》し」の古い形。「恋《こほ》しけむ」は、「恋し」の未然形「恋しけ」に推量の「む」のついたもの。「かも」は、「か」の疑問に、「も」の詠歎の添ったもの。
【釈】 梓弓を引きとよもす、そのとよを名にもった豊国の鏡山よ、今はここを去って見ない時が久しくなったならば、恋しく思うことであろうか。
【評】 豊前国を去らんとして、その地で久しく見馴れて来た鏡山に対して、名残りを惜しんでいる心である。鏡山に対する愛惜をいうに、重い呼び方をもってしようとし、その所在の「豊国」に、「梓弓引き」という新しく、またふさわしい序詞を添えているのは、伝統に従ってのことであるが、新意のあるものである。「見ず久ならば恋しけむかも」は、落着いた、余裕のあるもので、鏡山を単に風景として見てきた心の上に立ち、今別れようとし、別れた後のことを思うと、風景を超えたものになろうとする心を示しているもので、実感に即して個性的な面を拓いているところがある。調子は低いが、心理の微細をあらわしている歌である。
 
     式部卿藤原|宇合《うまかひ》卿、難波堵《なにはのみやこ》を改め造らしめらるる時、作れる歌一首
 
【題意】 「藤原宇合」は、巻一(七二)に出た。藤原不比等の第三子である。霊亀二年八月遣唐副使。養老三年七月按察使を置か(98)れた時、常陸守として安房、上総、下総を管す。神亀三年十月知造難波宮事。天平三年参議。同四年西海道節度使。同九年八月に薨じた。卿は三位以上に対する敬称。「難波堵」の堵は都に通じて用いた。巻一(三二)に既出。難波堵は、ここは孝徳天皇の長柄豊碕宮《ながらとよさきのみや》である。この宮は、天武天皇の朱鳥元年五月、火を失してほとんど全焼したが、応急の復興があったとみえ、その後、文武、元正、聖武三天皇の行幸があった。改造の事は、続日本紀、神亀三年に、「十月庚午以2式部卿従三位藤原宇合1為2知造難波宮事1」と出ており、同じく、天平四年三月、「知造難波宮事従三位藤原朝臣宇合等己下仕丁已上賜v物、各有v差」とあって、工事の進捗を賞せられている。題詠はすなわちこの間の事である。天平十六年二月には、難波遷都の事を宣せしめられているので、改造の規模は大きなものであったことが察しられる。またこの当時、難波は摂津職の治めていたところで、平城京の左右京職と同様の制度であったことも、その宮を思わせることである。摂津職とは、難波の都城の政治と、津すなわち要港のことを兼摂する意の称である。
 
312 昔者《むかし》こそ 難波居中《なにはゐなか》と いはれけめ 今者《いまは》京《みやこ》引《ひ》き 都《みやこ》びにけり
    昔者社 難波居中跡 所言奚米 今者京引 都備仁鷄里
 
【語釈】 ○昔者こそ 「昔者」は、中国の熟字で、「者」は助語。下の「今者」に対させたもので、宮の改造以前をさした語。○難波居中といはれけめ 難波居中の「居中」は、「田舎」の字も当てる。すなわち地方をさす意で用いたもので、下の「京《みやこ》」に対させてある。「けめ」は、上の「こそ」の結。難波の田舎といわれもしたろうの意。○今者京引き 原文「今者京引」、旧訓「今はみやひと」。『代匠記』の訓である。「今者」は、上の「昔者」に対させたもの。作意からいっても、自身主管として改造した宮を眼前に見て、躍る心をもっていっているのであるから、「今者」と急迫した言い方をしたものとみえる。「京引き」という語は、ここにあるのみで、他に所見のない語である。「引き」は、諸注、引き遷《うつ》しての意と解している。それに従う。これは事としてはなかったことであるが、改造された宮が壮麗で、まさしく皇城というべきであるということを、具象的にいおうとしての語と取れる。この心はなお下へ続く。○都びにけり 「び」も、ここよりほか所見のない語である。しかし「鄙び」という、これに対する語があるから、文献には見えないが、常用語としては存していたかと思われる。「び」は、そのさまをいう語で、「都び」は都めく意。「けり」は、詠歎。
【釈】 昔こそは、難波の田舎と人にいわれもしたことだろう。今はここに京《みやこ》を引き遷して、すでに都めいていることであるよ。
【評】 難波宮改造の命をこうむって、その事を主管していた宇合が、事が進捗して、大体ができあがったのを見て、喜びの心を詠んだものである。「難波居中」は、広い範囲の称で、「都びにけり」も、その広い範囲にわたってのことであるが、そのような変化を起こさせたのは、「京引き」という、改造された一皇城のためだとしているのは、単に自身の責務を果たし得ている(99)ことを喜ぶだけのものではなく、皇城をとおして皇威を賀する心をもったもので、そのために誇張もしているものと取れる。「京引き」という語は、明らかに誇張であるが、この語がなければこの歌は成立ち得ないものにみえる。一首、「昔者」と「今者」と対照させ、「居中」と「都び」と対照させたもので、知性の勝った歌である。また、「京引き」「都び」と、他に例のない語を用いているのも新味である。調べも明るくさわやかである。すぐれた歌ではないが、新風を追っているものとみえる。
 
     土理宣令《とりのせんりよう》の歌一首
 
【題意】 「土理宣令」は、父祖は知られない。続日本紀に、「養老五年正月庚午詔2従七位下刀利宣令等1退朝之後令v侍2東宮1焉」とある。東宮に侍するのは学問をもってである。また、懐風藻には、「正六位伊予椽刀利宣令」とあって、二首の詩があり、「年五十九」とある。また、経国集、巻第二十には、対策文二首がある。文学があって、姓のないところから、帰化人の子孫ではないかといわれている。
 
313 み吉野《よしの》の 滝《たぎ》の白浪《しらなみ》 知《し》らねども 語《かた》りしつげば 古《いにしへ》念《おも》ほゆ
    見吉野之 瀧乃白浪 雖不知 語之告者 古所念
 
【語釈】 ○み吉野の滝の白浪 「み吉野」は、吉野。「滝」は、吉野川の流れが岩に激して、たぎち流れる所の称で、名詞。「白浪」は、滝に湧くそれである。この滝は、巻一(三六)で、吉野宮のことを「滝《たぎ》のみやこ」と呼んでいるその滝で、初二句は、吉野宮のことを、そこの光景をいうことによって暗示しているものである。また、この初二句は、「白浪」の「白《しら》」を、第三句「知ら」へ、畳音の関係で続けているもので、その意味で「知ら」の序詞であって、二様の意味をもったものである。○知らねども 我は知らないけれどもで、知らないのは、結句の「古」のことである。○語りしつげば古念はゆ 「語りしつげば」は、「し」は強めで、人が語り継いで聞かせるのでで、その語ることも「古」のことである。「古念ほゆ」は、古の事がゆかしく思われる。
【釈】 み吉野の滝の白浪の愛でたい所、すなわち吉野宮のことは、知らないけれども、人が語り継いで聞かせるので、繁く行幸のあった古の事が、ゆかしく思われる。
【評】 一首、おおらかな詠み方をしているが、作意のあるところは明らかだ。「み吉野の滝の白浪」は、いったがように、いわゆる「滝《たぎ》のみやこ」をいっているもので、吉野川の中でも、吉野宮のある所が、最も滝の愛でたい所なので、光景をいうことによってそこをあらわしうるものである。「語りしつげば古念ほゆ」という、人が語りぐさとする古の事は、行幸の盛事で、(100)また語りうるところは、そうした際の応詔の詩歌の愛でたさである。その詩は、壊風藻に、歌は本集にとどまっている。時代はしだいに文芸的となり、また山水に対する好尚もしだいに深まってきたのであるから、文学の士である作者が、人の語るのを聞いて、その古の御代をゆかしく思うのは察しられることである。一首としては、淡泊な詠み方はしているが、初二句はいったがように複雑味をもったものである。それは吉野宮を、そこの風景の特色をいうことによって具象化するという文芸的なことをしているために、その延長として、同時に序詞ともなし得たのである。この時代の傾向を示しているものである。
 
     波多《はたの》朝臣|小足《をたり》の歌一首
 
【題意】 「波多小足」の伝は不明である。日本書紀、天武天皇十三年、「波多臣賜v姓曰2朝臣1」とあり、『新撰姓氏録』に、「八多朝臣、石川朝臣同祖、武内宿禰命之後也」とあるが、その他は知られない。
 
314 さざれ浪《なみ》 礒越道《いそこしぢ》なる 能登湍河《のとせがは》 音《おと》の清《さや》けさ たぎつ瀬毎《せごと》に
    小浪 礒越道有 能登湍河 音之清左 多藝通瀬毎尓
 
【語釈】 ○さざれ浪礒 「さざれ浪」は、小さな浪。「礒」は、海岸の石の多い所のさまであるが、この時代には、池、川などにもいった。これは下の「越《こし》」へ続き、小さな浪の礒を越しと続いて、その「越」を、地名の「越」へ転じ、その序詞としたもの。○越道なる能登浦河 「越道」は、ここは越へゆく道の意。「なる」は、にある。「能登湍河」は、滋賀県坂田郡近江町能登瀬を流れている天野川か。古くそう呼んだのであろう。○音の清けさ 音のさわやかであることよの意。○たぎつ瀬毎に 「たぎつ瀬」は、石に激してたぎる瀬のあるごとに。
【釈】 小さい浪が礒を越すという、その越すに因みのある越路にある能登湍川よ。水音のさわやかであることよ、川中の石に激《たぎ》つ瀬のあるごとに。
【評】 何らかの事情で越へゆくことがあって、能登湍河の流れの音に聞き入って、それを愛《め》でた心である。この歌は渓流の音に聞き入っているだけで、それ以外のものではないが、しかしその渓流の音に対して、深い興味を感じたことは、表現を通して明らかに見える。能登湍河をいうに、「越道なる」と所在をいっているのは普通であるとしても、その「越」をいうに「さざれ浪礒」という序詞を設け、その序詞も「音」に関係のあるものを選んでいるのは、渓流そのものを愛する心である。渓流の中心は、「音の清《さや》けさ」であるが、この「清けさ」は、さわやかな音で、要するに音の清浄さである。深く心を引かれたものの何であるかがわかる。「たぎつ瀬毎に」は、一か所のことではなく、異なった位置のものと取れ、したがって行く行く聞いた(101)ことがわかる。倒句とし、細かく、刻んであるのも、この歌にあっては、その心にきわめて適切なものである。自然の愛が、こうした微かな、し動的なものではあるが静かな趣をもったものに向かって来たということは、時代を思わせられる。
 
     暮春の月、芳野離宮に幸せる時、中納言大伴卿、勅を奉《うけたまは》りて作れる歌一首 【并に短歌、いまだ奏上を逕ざる歌】
 
【題意】 「暮春の月」は、春の三月。何年の三月とも知れない。聖武天皇の吉野宮への行幸は、続日本紀、神亀元年、「三月庚申幸2芳野宮1」とある、その年ではないかという。「中納言大伴卿」は、大伴旅人。旅人の中納言に任じられたのは、養老二年三月で、大納言に任じられたのは天平二年十月である。「いまだ奏上を逕ざる歌」の「逕」は経と通じて用いていた字で、これによって見ると、詔に応じるためにあらかじめ賀歌を作っていたのであるが、詔がなく、したがって献じなかった意と取れる。
 
315 み吉野《よしの》の 芳野《よしの》の宮《みや》は 山《やま》からし 貴《たふと》くあらし 水《かは》からし 清《さや》けくあらし 天地《あめつち》と 長《なが》く久《ひさ》しく 万代《よろづよ》に 改《かは》らずあらむ いでましの宮《みや》
    見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師 水可良思 清有師 天地与 長久 万代尓 不改將有 行幸之宮
 
【語釈】 ○み吉野の芳野の宮は 吉野にある吉野の宮はで、この宮のことは、巻一(二七)以来しばしば出た。その址はいま吉野郡吉野町宮滝にある。○山からし貴くあらし 「山から」の「から」は、ゆえという意で、巻二(二二〇)の「玉藻よし讃岐の国は、国柄《くにから》か見れども飽かぬ、神柄《かむから》かここだ貴き」とあった、その国柄、神柄の柄と同じで、本性よりしてという意である。「山から」は、吉野の宮を繞《めく》らしている山の本性よりして。「し」は、強め。「貴くあらし」の「あらし」は、「あるらし」と並び行なわれていた語で、意は同じである。「らし」は眼前を証としての推測をあらわす語で、証は山である。貴いのであろうで、二句、山の本性よりして、宮もそれと同じく貴いのであろうと、宮を讃えた語。○水からし清けくあらし 「水《かは》からし」は、『代匠記』の訓。「水」は「川」に当てて用いていた。ここは「山水」と対させたものであるから、水《かわ》と取れる。川は吉野川。「からし」は、上と同じ。「清けくあらし」は、「清け」は、ここは清らかな意で、「あらし」は上と同じ。水《かわ》の本性よりして、宮もそれと同じく清らかであろうの意。○天地と長く久しく 天地とともに長久に。○万代に改らずあらむいでましの宮 万代にわたって変わらずにいるであろうところの、この行宮《あんぐう》よの意で、離宮の永久を賀したもの。
【釈】 吉野にある芳野の宮は、宮を繞らしている山の本性よりして、宮もそれと同じく貴いのであろう。宮を綾らしている川の(102)本性よりして、宮もそれと同じく清らかなのであろう。天地とともに長久に、万年にわたって変わらずにいるであろうところの、この行宮よ。
【評】 吉野の宮の行幸に供奉することとなり、そうした際には、先例として賀歌を献じることになっているので、詔があったならば献じようとして、あらかじめ作っておいた歌とみえる。長歌の形式を選んだのも、そうした改まった際には、古風に、長歌形式をもってするのが先例となっているので、それにならってのこととみえる。いっていることは、吉野宮そのものの 「貴さ」「清けさ」を誘えて、そしてその永遠を賀するにとどまったものである。最高の尊敬より天皇を讃える場合、親近したかのごときことを申すのはかえって非礼であるとして、遠く距離を置いて申すのを常としているので、宮そのもののみを讃えて、天皇にまでは及ぼさないのは、当を得たことといえる。しかし、いっていることはあまりにも単純で、儀礼に近いもののごとくみえる。これは作者の歌が長歌には適さなかったためと思われる。宮の「貴さ」「清けさ」を、自然の関係において捉えているところはこの時代風で、歌の平静に、一種の気品のあるところは、作者の人柄である。
 
     反歌
 
316 昔《むかし》見《み》し 象《きさ》の小河《をがは》を 今《いま》見《み》れば いよよ清《さや》けく なりにけるかも
    昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓來鴨
 
【語釈】 ○昔見し象の小河を 「昔見し」は、以前に見たことのあったで、この「昔」は下の「今」に対させたもの。「象の小河」は、巻一(七〇)に「象《きさ》の中山《なかやま》」というのがあるが、それはいま喜佐山《きさやま》といい、その谷間を喜佐谷といっている。そこを小川が流れ下っているが、その小川と取れる。○今見れば 今また見れば。○いよよ清けくなりにけるかも ますます清らかなさまに変わってきたことであるよの意。
(103)【釈】 以前見たことのあった象《きさ》の小河を、今また見ると、ますます清らかなさまに変わってきたことであるよ。
【評】 吉野宮のほとりにある「象の小河」が、昔見た時よりもますますさやかになってきたと、強い詠歎をもっていっているのは、上の長歌を承けて、賀の心をもっていっているものである。すなわち「万代に改らずあらむいでましの宮」ということを立証して、本来の清らかさが変わらないのみならず、ますます発揮させているというので、長歌の「山」「水《かは》」によって賀したその「水」を延長させて、賀の心を徹底させたものである。
 長歌の一般的なのを個人的にし、自己の体験を通していう形にしているのは、人麿の好んで用いた手法で、反歌として要を得たものである。象の小河に対するこの感懐は、その物を眼にしないと捉え難いものかと思われる。それだと、この賀歌を作ったのは、吉野宮の行幸に供奉しており、その地で作ったものではないかと思われる。
 
     山部《やまべの》宿禰赤人、不尽山《ふじのやま》を望める歌一首 并に短歌
 
【題意】 「山部赤人」の伝は明らかでない。父祖も知られず、また行幸の供奉はしているが、官歴も身分も知られない。『新撰姓氏録』にも、宿禰《すくね》姓の山部氏は洩れている。知られていることは、日本書紀、天武天皇十三年、大伴連以下五十氏に宿禰姓を賜わった中に、山部連があるので、以前は連姓であったこと、また、山部連は、日本書紀によって、播磨の国司としての伊与来目部小楯が、顕宗仁賢の二天皇を見あらわし奉った功によって賜わったもので、祖先は久米氏であったことが知られるだけである。一方、身分については、行幸の供奉をして作歌している関係上、その生存時代の大体が知られる。年月の明らかなもので、最も古い歌は、巻六、「神亀元年冬十月、紀伊国に幸せる時」のもので、同二年五月の芳野離宮、同年十月の難波宮、同三年九月の播磨国印南野、天平六年三月の難波宮、最後は、同「八年夏六月芳野の離宮に幸せる時」と、相ついで行幸の供奉をして歌を作っているので、大体、聖武天皇の御代の初めの頃の人で、当時|舎人《とねり》ではなかったかと想像されている。この前後の歌もあろうが、年代はわからない。「不尽山を望みて」というのは、(四三一)に、「勝鹿《かつしか》の真間娘子《ままのをとめ》の墓を過ぎし時」と題する歌があり、勝鹿は下総国の葛飾であるから、官命を帯びて東国の旅をしたことは明らかである。したがって親しく目にしたのである。
 
317 天地《あめつち》の 分《わか》れし時《とき》ゆ 神《かむ》さびて 高《たか》く貴《たふと》き 駿河《するが》なる 布士《ふじ》の高嶺《たかね》を 天《あま》の原《はら》 振《ふ》り放《さ》け見《み》れば 渡《わた》る日《ひ》の 陰《かげ》も隠《かく》らひ 照《て》る月《つき》の 光《ひかり》も見《み》えず 白雲《しらくも》も い去《ゆ》きはばかり 時《とき》じくぞ 雪《ゆき》は落《ふ》りける 語《かた》り告《つ》ぎ 言《い》ひ継《つ》ぎ往《ゆ》かむ 不尽《ふじ》の高嶺《たかね》は
(104)    天地之 分時從 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 板政見者 度日之 陰毛隱比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曾 雪者落家留 語告 言繼將徃 不盡能高嶺者
 
【語釈】 ○天地の分れし時ゆ 「天地の分れし時」は、日本書紀に、「天地初(めて)剖《わかるる》時」とある時で、渾沌たる氣が割《わか》れて天となり地となった時、すなわち天地の開闢《かいびやく》の時で、この国土としては最古の時。「ゆ」は、より。これは、神とみての不尽山を、時間的方面からいったもの。○高く貴き 「高く」は、不尽山の目に映る状態をいつたものであるが、それを神の状態と見てのもの。「貴く」は、同じく不尽山の状態であるが、神として心に感ずるもの。○駿河なる布士の高嶺を 「駿河なる」は、駿河にある。「高嶺」の嶺は、峰の「ね」で、高い峰。○天の原振り放け見れば 「天の原」は、下への續きで、天の原にの意だと、『新考』がいっている。「振り放け」は、身を反《そ》らしてで、高く仰ぎ、また遠く望む意を具象化したもの。ここは仰ぎ見れば。○渡る日の陰も隠らひ 「渡る日」は、空を渡る日。「陰」は、光。「も」は下の「月」などと並べる意のもの。「隠らひ」は、「隠る」をハ行四段に再活用した語で、隠るの連続をあらわすもの。二句、空を東より西へ渡る日の光も、不尽山には隠れ続けの意。空を渡る日が、地上の物のために隠れ続けるということは、ありうべからざることである。それをあらしめるのは、不尽山の高いゆえであるが、その高いのは神としての姿なので、奇《あや》しき神の姿のために、超凡の事が起こっているとの意である。以下、この心を続けている。○照る月の光も見えず 空に照る月の光もまた、不尽山に遮られて見えないというので、心は上に同じ。○白雲もい去きはばかり 「白雲」は、白い雲で、雲の中でも最も軽く、自由に動く物である。「も」は、もまた。「い去き」の「い」は、接頭語。「はばかり」は、日本書紀、天智紀の童謡に、「赤駒のい行きはばかる真葛原《まくずはら》」、また、次の歌の反歌に、「天雲もい去《ゆ》きはばかり棚引くものを」とあり、実際の運動の阻まれる意をあらわす語。二句、最も軽く、自由に動くもので、また古くは霊気のあるものとして尊ばれてもいた雲であるが、その白雲もまた、不尽山のためには行くことを阻まれてで、意は上と同じ。○時じくぞ雪は落りける 「時じく」は、その時ではなくの意の古語で、不時、非時などの文字を当てている。その心を進めて、いつでも、すなわち常にの意にも用いる。ここはその時ではなく、すなわち冬ではなくの意のもの。神の威力をいおうとしたものだからである。「ける」は、上の「ぞ」の結。雪は降っていることであるよの意。これは、雪は消える物とし、いつも白く見えるのは、常に降っているゆえだと解しての語である。この二句の心は、上と同じで、神の奇《あや》しきさまの極まりをあらわしたこととしていっているのである。以上、第一段である。○語り告ぎ言ひ継ぎ往かむ不尽の高嶺は 「語り告ぎ」は、語って、後の代の人に伝えての意。上代、文字のなく、またあってもその通用の一部にすぎなかった時代には、記憶すべき事は語り伝えるよりほかはなかった。その記憶すべき事というのは、貴い神々の事蹟、皇室の由来、その家の祖先の事蹟などを主とし、日常生活の上で心得ておくべき事柄であった。これらの事は、誰しも語って伝えられ、また語って伝えることとしていたのである。ここは不尽山を、天地の分かれた時からいます、高く貴く、また奇しきさまをあらわしていられる神として、後の人に語って伝えようというのである。「言ひ継ぎ往かむ」は、上の「語り告ぎ」と意味は同じで、その心を強めようがために、語を換えて繰り返したものである。「不尽の高嶺は」は、心としては、上の二句と倒句になっているものである。神なる不尽の高峰はの意。
【釈】 天と地の分かれた時、すなわちこの国土の初めてできた時から、神にふさわしいさまをあらわして、高くもまた貴く、この駿河国にある不尽の高峰を、天の原に仰ぎ見ると、その神威の奇《あや》しさに、空を渡るところの日の光も、この山には隠れ続き、(105)空に照るところの月の光もまた、この山に遮られて見えない。そらを軽く自由に動く白雲もまた、山のために行くことを阻まれ、その時、すなわち冬ではなく、雪が降っていることではあるよ。後の代の人にも、語り継ぎ、言い継いで伝えてゆこう、この神にいます不尽の高峰のことは。
【評】 一首、心を尽くして富士の神性を讃えた歌である。赤人は、時代の影響と、自身の資質とによって、従来何びとも認め得なかったほど、わが国の自然の美しさと靜かさとを感じ取って、その方面を開拓した人であるが、大きな自然を対象とした歌は、この一首のみである。おそらくそうした自然に接する機会がなかったためであろう。この歌は赤人が、初めての経験として富士山に接しての感懐であるが、ここに見える赤人は、その平生の文芸性は全く失ってしまい、上代の信仰である、大海または高山を神それ自体として見る信仰に立ち帰らせられ、全くその心のみに終始する歌を作っているのである。「天地の分れし時ゆ、神さびて高く貴き」は、神としての富士を総括しての語である。神性の第一は、悠久の時を貫いて、その威力をあらわしていることである。「天地の分れし時ゆ」というのは、溯って想像する悠久の涯《はて》である。神性の第二は、その威力である。山をその姿としている神にあっては、「高く貴き」は神そのものの姿で、「神さびて」いることである。その「貴き」は威力でなくてはならない。「渡る日の陰も隠らひ」以下、「時じくぞ雪は落りける」までの二句|対《つい》二回の繰り返しは、総括していった「高く貴き」の内容を細叙したもので、一に神の威力を具象的にいおうとしたものである。叙景として見ると強いた跡のあるものとなるが、志はそこにはなく、極力、神性をいおうとしてのものなのである。第二段の「語り告ぎ言ひ継ぎ往かむ」は、上代より神々の事蹟を伝えるためにしてきていたことで、この当時も行なわれていたことと取れる。伝えるのは、讃えるためで、これを悠久の将来に及ぼそうがためのことである。一首、一貫して、神としての富士の山を讃えたもので、神に献じる心をもっての作と思われる。
 詠み方の上からいうと、情意を尽くして詠んでいるが、暢達《ちようたつ》の趣はなく、どちらかというと苦渋に近いところがあるといえる。これは赤人が、対象のために圧しられたがゆえであろう。しかしその情意は失われず、苦渋を通じて、詠歎の形となって現われているので、結果から見ると、短い語《ことば》をもって、立体感を盛り上がらせたものとなっている。そこにこの歌の味わいがある。このことは、次の反歌と対比すると明らかであり、さらにこれにつぐ長歌と対比するといっそう明らかである。
 
     反歌
 
318 田児《たご》の浦《うら》ゆ 打出《うちい》でて見《み》れば 真白《ましろ》にぞ 不尽《ふじ》の高嶺《たかね》に 雪《ゆき》は零《ふ》りける
    田兒之浦從 打出而見者 眞白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
 
(106)【語釈】 ○田児の浦ゆ打出でて見れば 「田児の浦」は、(二九七)「昼見れど飽かぬ田児の浦」でいった。「ゆ」は、ここは、移動の経路をあらわしているもので、を通っての意のもの。「打出でて」は、狭い所から広い所へ出て行くことをあらわす語である。この二句は、田児の浦を通って、狭い所から広い所へ出てみるとの意。森本治吉氏は実地踏査によって、赤人が西方から東方へ向かっての旅をして来ると、この場合は薩※[土+垂]峠《さつたとうげ》を越えて、山の中から田児の浦へかけての狭い所を通り、海岸へ出るとにわかに視界が展《ひら》け、駿河湾を隔てて初めて不尽の山が見えることになる。ここはそれをいったものであると説明している。従来この二句は諸注解し悩み、したがって諸説があるのであるが、この解は最も妥当なものに聞こえる。なお、以下の続きもこの解を支えるものとなっている。これに従う。○真白にぞ不尽の高嶺に雪は零りける 「ける」は、「ぞ」の結。まっ白に、不尽の高い峰に雪が降っていることであるよとの意をあらわしたもの。
【釈】 田児の浦を通って、狭い所から広い所へ出てみると、まつ白に、不尽の高い峰には雪が降っていることであるよ。
【評】 上の長歌の反歌としてのものであるが、この歌は不尽の山を初めて目にした時の感で、時間的にいうと、この方が先のものである。長歌と反歌との関係という上から見ると、人麿のものはきわめて緊密であるが、それに較べると、赤人のは間隙をもっているものが多い。この歌にもその趣がある。この歌を一首の短歌として見ると、赤人の短歌は、あくまで実際に即しつつ、表現は極度に単純にするのが風であって、したがってその結果は、含蓄の多いものとなっている。「田児の浦ゆ打出でて見れば」は、「ゆ」と「打出で」とによって、田児の浦も、またそこへ出るまでの地域も、狭い所であったことをあらわし、現在いる所の、それとは反対に広い所であることをあらわしている。これはむしろ含蓄にすぎるもので、難解はそこからきているのであるが、しかし「打出で」を森本氏のいうごとく、正当に解すれば、難解とは言い難いものとなる。また、「真白にぞ不尽の高嶺に雪は零りける」も、「真白に」をまずいい、「ぞ」と「ける」によって強めた言いあらわしは、強い感動をもってのものとわかる。その感動の第一は、「真白にぞ」によって、その雪が、雪の季節のものではなく、異常な時のものであることをあらわしている。第二に、その異常は、興味の対象としてのものではなく、神にます不尽の山の、その測り難い威力の顕われとしての異常であって、その意味においてこの事は長歌につながるのである。一見、平明なる叙景のごとく見えて、含蓄するところの多いものである。こうした心細かさをもつとともに、澄んだ強い調べをもっていて、訴えくる力のあるのは、赤人の手腕である。
 
     不尽山を詠める歌一首 并に短歌
 
【題意】 この歌は、作者の不明なものである。左注が添っていて、それに対しても論がある。本巻の歌はすべて作者の明らかなのばかりであるから、この歌は異例である。上の歌との関係において収録したものとみえる。
 
(107)319 なまよみの 甲斐《かひ》の国 《くに》打寄《うちよ》する 駿河《するが》の国《くに》と こちごちの 国《くに》のみ中《なか》ゆ 出《い》で立《た》てる 不尽《ふじ》の高嶺《たかね》は 天雲《あまぐも》も い去《ゆ》きはばかり 飛《と》ぶ鳥《とり》も 翔《と》びも上《のぼ》らず 燎《も》ゆる火《ひ》を 雪《ゆき》もて滅《け》ち 落《ふ》る雪《ゆき》を 火《ひ》もて消《け》ちつつ 言《ゝ》ひも得《え》ず 名《な》づけも知《し》らに 霊《くす》しくも 座《いま》す神《かみ》かも 石花《せ》の海《うみ》と 名付《なづ》けてあるも その山《やま》の つつめる海《うみ》ぞ 不尽河《ふじかは》と 人《ひと》の渡《わた》るも 其《そ》の山《やま》の 水《みづ》の当《たぎ》ちぞ 日本《ひのもと》の 山跡《やまと》の国《くに》の 鎮《しづ》めとも 座《いま》す祇《かみ》かも 宝《たから》とも 成《な》れる山《やま》かも 駿河《するが》なる 不尽《ふじ》の高嶺《たかね》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも
    奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中從 出立有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 靈母 座神香聞 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曾 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鏡十方 座祇可聞 寶十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞
 
【語釈】 ○なまよみの ここにだけ見える語で、「甲斐」の枕詞と取れるが、語義は明らかでない。諸説があるが、定説とはなり得ないもののみである。○甲斐の国 ここは七音になるべきところを、五音をもってしたもの。これは口承文学時代には例のあることである。○打寄する駿河の国と 「打寄する」は、「する」を「駿《する》」に畳音《じようおん》の関係で続けた枕詞。「駿河の国と」の「と」は、同様のものを並べて合わせていう場合には、その下のものにだけ「と」を添えて、上のものには省くのが、当時の風であった。すなわち、「甲斐の国と」の「と」が省かれている形である。○こちごちの国のみ中ゆ 「こちごちの」は、巻二(二一〇)に出た。そちこちの意。「み中」は、まん中。「ゆ」は、より。二句、そちこちの二つの国のまん中より。○出で立てる不尽の高嶺は 「出で立てる」は、現われ出でて聳ている意。「不尽の高嶺」は、山であるとともに神であるとしてのもので、そのことは続きにいっている。○天雲もい去きはばかり 上の歌に「白雲もいゆきはばかり」とあったのと心は同じで、「白雲」が「天雲」となっているのみである。「天雲」の「天」は、高さをいおうとする心のものである。○飛ぶ鳥も翔びも上らず 「飛ぶ鳥も」は、空高く飛ぶところの鳥もまた。「翔びも上らず」は、「も」は詠歎で、その山の高さまでは飛び上がらないの意。「天雲の」以下四句は、不尽山の高さを讃えたもので、その高さは、上の赤人の歌の「高く貴き」の「高く」と同じ心のものである。すなわち神の神性の現われとしての高さである。(108)○燎ゆる火を雪もて減ち 「燎ゆる火」は、富士山の火山として煙を噴いているところよりいっているもの。富士山の爆発して灰を降らしたことの記録に残っているものは、桓武天皇の天応元年、また延暦十九年、清和天皇の貞観六年などがある。都良香《みやこのよしか》の「富士山記」には、「其在v遠望者、常見2煙火1」とあるので、平常も薄い煙を噴いていたことがわかる。「雪もて滅ち」は、雪をもって消しで、噴煙のあるにもかかわらず、同時にいつも雪があるので、その対照の際やかさを怪しんで、神の威力のしからしめることとし、その心から想像しての語。○落る雪を火もて消ちつつ 降って来る雪を、燎える火をもって消し続けてで、上の二句を、逆にして繰り返したもので、神の威力を強くいおうとしたものである。「燎ゆる火を」以下四句は、赤人の歌の「高く貴き」の「貴き」と心を同じくするものである。○言ひも得ず名づけも知らに「言ひも得ず」は、「も」は、もまた。語《ことば》をもってはいいようもなく。「名づけも」は「名づけ」は語《ことば》をもって言いあらわすことの意。「も」は、もまた。「知らに」は、しばしば出た。「に」は、打消で、連用形。名づけることもまた知られないで。上の「言ひも得ず」の繰り返し。二句、下の「霊《くす》しくも」の程度の限りないことをいったもの。○霊《くす》しくも座《いま》す神かも 「霊しく」は、霊異にで、「天雲も」以下八句でいった神の威力を総括したもの。「も」は詠歎。「座す神」は、起首の「不尽の高嶺は」を言いかえたもの。「かも」は詠歎。以上、第一段。○石花の海と名付けてあるも 「石花」は、「せ」に当てた文字。石花は海中の石に生ずる植物に似た動物で、春、紫色の花をつける物で食料とした。今も「せい」と呼び、「かめのて」と呼んでいる。「海」は、ここは湖。「名付けてあるも」は、人が名づけているものもまた。この「石花《せ》の海」という名は、今は伝わってはいない。その伝わらないのは、地形の変化に伴って、名も異なったがためと取れる。『三代実録』貞観六年六月に、「甲斐国言、駿河国富士大山、忽有2暴火1焼2砕崗巒1草木焦焼、土礫石流、埋2八代郡|本栖《もとす》并※[戔+立刀]《せ》両水海1云々、両海以東亦有2水海1名曰2河口《かはぐち》海1云々」とあり、また、同じく貞観七年十二月には、「駿河国富士大山西峰、忽有2熾火1焼v砕v巌云々、雖v然異火之変于v今未v止、遣2使者1検察、埋2※[戔+立刀]《せ》海1千許町云々」とある。これによると、貞観六年以前は、河口、※[戔+立刀]、本栖と、三湖があり、その※[戔+立刀]の湖は千町ばかりを埋められたのである。現在は本栖、河口の両湖はあり、※[戔+立刀]の湖はなく、その代わりに西湖《せいこ》、精進湖《しようじこ》の二湖があるのである。すなわち※[戔+立刀]の湖が(109)両断されて、西湖、精進潮となったのである。なお「西《せい》」は「※[戔+立刀]《せ》」の名残りであり、精進村の地籍に「字石花湖」と記されているという。○その山のつつめる海ぞ「その山」は、富士山。「つつめる」は、土をもって大きな水を囲う意で、堤《つつみ》はそのつつむの体言となったものである。高山の上の海であるとして、そのあることを、神の威力の現われとしていったもの。○不尽河と人の渡るも 「不尽河」は、甲斐国に発し、駿河国蒲原で海に注ぐ名高い河で、また急流である。この河の支流の一つの釜無川は、甲斐国駒ケ岳より発し、また、笛吹川は、甲斐国徳輪山より発しているが、不尽河が富士山の背後を繞って河口に向かって流れているところから、富士山の水の集まりとしていたと取れる。「と」は、といって。「人の渡るも」は、「人」は、東海道方面を旅する人。「渡る」は、徒渉。「も」は、もまた。石花《せ》の海に対させたもので、それを渡ることのたやすからぬことを、同じく神の威力としたもので、これは言外にしてある。○其の山の水の当ちぞ 「其の山」は、富士山。「当ち」は、水の急流を泡立ち流れるのをたぎつという、その連用形の体言となったもの。以上、第二段。○日本の山跡の国の 「日本」は、日の出る所の意で、すなわち東方であり、わが国を讃えた称。これは古典に現われている日本《ひのもと》という称の最初の語である。「山跡の国」は、わが国の古名。○鎮めとも座す祇かも 「鎮め」は、安定させる意の名詞で、すなわち堅固ならしめること。「と」は、として。「も」は、詠歎。「座す祇かも」は、「祇」は、富士山。「かも」は、詠歎。○宝とも成れる山かも 「宝」は、上と同じく、山跡の国の宝。「成れる」は、生成した所の。以上、第三段。○駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも 「駿河なる」は、駿河にあるで、東海道方面より対していることをあらわしているもの。「見れど飽かぬかも」は、幾たびも見たが見飽かぬことであるよで、きわめて歎美したことをあらわす成語。
【釈】 なまよみの甲斐国と、打寄する駿河国との、そちこちの国のまん中から現われて聳えている富士の高嶺は、その神性の現われとしての高さのゆえに、天を行く雲も、その行くことを阻まれ、空を飛ぶ鳥も、そこまでは飛び上がらない。またその神性の現われとしての貴さは、その巓《いただき》に燃えている火を、降る雪をもって消し、反対に降り来る雪を、燃える火をもって消しつづけて、言いあらわすこともできず、名づけることも知られないまでに霊妙にまします神であることよ。石花《せ》の海と人が名づけている、高山の中の海という霊《くす》しい物も、その山の囲っている海であるぞ。不尽河といって、旅びとの悩んで徒渉するのもまた、その山から激《たぎ》ちくだる水であるぞ。日本《ひのもと》の山跡《やまと》の国の鎮めとしてまします神であることよ、宝として生成したところの山であることよ。駿河国にある富士の高嶺は、幾たびも見るけれども見飽かないことであるよ。
【評】 作意としては、上の赤人の歌と同じく、上代信仰である山を神であるとする信仰の上に立ち、不尽山を神として、その神威を極力讃えたもので、異なるところは、その讃える態度の上に、いささかの変わりのあることである。作意からいうと、一首を四句とし、整然とした構成をもたせて、讃えている。第一段は「霊しくも座す神かも」までで、神性の現われとして高く貴きことを讃えたもので、「天雲もい去きはばかり、飛ぶ鳥も翔びも上らず」はその高きこと、「燎ゆる火を雪もて滅ち、落る雪を火もて消ちつつ」はその貴きことである。「燎ゆる火」以下は、神の霊異を讃えるには絶好のもので、詩才を思わせるものである。第二段は、「その山の水の当ちぞ」までで、第一段を承けて、神としての威力を細叙した形のものである。第三段は、「宝とも成れる山かも」までで、この段は一転して、神である不尽山を、「日本の山跡の国」との関係において讃えたもので、(110)「神」として、また「山」として讃えたものである。第四段は結末の三句で、これは第三段を延長させて作者自身の讃え言としたものである。その一首を総括した心は、むしろ「山」としての方面に力点を置き、「見れど飽かぬかも」と歎美しているのである。
 讃える態度の上の異なりというのは、赤人の歌は、不尽山を神そのものとして、したがって近づき難く、まして親しみ難い物として、それにふさわしい遠望した態度を取って詠んでいるのに、この歌は、山を神としている態度は同様であるが、その神に近づき、神というよりも山として見ようとする態度を取っていることで、そこが異なっているのである。第一段の、「なまよみの甲斐の国、打寄する駿河の国と」と、不尽山の位置を風土記的に明らかにいっているところも、不尽山を山として、知性的に見ようとする心といえる。第二段の、「石花の海と名付けてあるも」「不尽河と人の渡るも」は、いっそう風土記的であり、したがって知性的であって、ここでは神である山と人との距離を縮めて、接近せしめているものである。第三段の、「鎮めとも座す祇」「宝とも成れる山」は、不尽山をわが国家との関係において見、また、「神」と「山」とに分けて見たもので、最も知性的なものである。結末の「見れど飽かぬかも」は、明らかに不尽山を山として見たものといえる。以上を総括すると、不尽山を神であるとともに山であるとする信仰の上に立ってはいるが、その信仰には知性がまじり、神とするよりも山と見る気分が、おおい難く現われてきているものである。
 この信仰より離れて知性的となろうとしている態度を端的にあらわしているものは、その作風である。売人の歌は信仰であるがゆえにしたがって詠歎となっているのに、この歌は知性をまじえている結果、自然説明的になろうとしているのである。一首の暢達の趣はそこからきているものであり、また才情の豊かさと、変化の味わいのあるにもかかわらず、全体として平面的な感じを起こさせているのも、同じくそこからきているのである。この信仰より知性への推移は、時代の下ったがためと思われる。何びとの作かはわからないが、赤人より知性的な人、または不尽山を見馴れて、驚異感の薄れている人の作だということは言い得られるものである。
 
     反歌
 
320 不尽《ふじ》の嶺《ね》に 零《ふ》り置《おく》雪《ゆき》は 六月《みなづき》の 十五日《もち》に消《き》ゆれば その夜《よ》ふりけり
    不盡嶺尓 零置雪者 六月 十五日消者 其夜布里家利
 
【語釈】 ○不尽の嶺に零り置雪は 「置《おく》雪《ゆき》」は旧訓。『考』以下「置ける雪」と改めているのを、『講義』は、それだと「在」「有」「流」などの文字を加えるべきで、それのないものは本巻にはないといい、意味としても「置《おく》」で不都合はなく、音数の上でもこの方が穏やかだというのである。(111)不尽山の雪は絶えず降っているものとしていることが歌の上で明らかであるから、「置ける」と時磨的にしない方が作意と思われる。○六月の十五日に消ゆれば 「十五日《もち》」は、「もち月」より出た義訓で、他にも例がある。これにつき仙覚の『万葉集註釈』に、「富士の山には雪のふりつもりてあるが、六月十五日にその雪のきえて、子の時よりしもには又ふりかはると駿河風土記に見えたり」とある。これによると、盛暑の頂点を具体化して、六月十五日としたものと思われる。原文「消者」は、旧訓「消《け》ぬれば」を、『代匠記』が改めたものである。消えると同時に降る雪をいったものであるから、「消ぬれば」と強める要のないものである。○その夜ふりけり その夜に降ることだと、詠歎をもっていったもの。
【釈】 不尽の峰に降って置いている雪は、盛暑の頂点である六月の十五日に消えると、すぐその夜に降ることだ。
【評】 仙覚の引いている風土記の伝統の上に立っての歌とみえる。これは、富士の峰には、盛暑でも雪があるということに驚異の心を寄せ、神の威力を讃えることを目的とすることよりも、雪はその本質として、盛暑には消えざるを得ないものだという知性的の伝説に心を引かれたもので、長歌の起首の、「燎ゆる火を」を繰り返したものではなく、結末の「見れど飽かぬ」に絡んだ心のものである。しかし才情を思わせる歌である。
 
321 布士《ふじ》の嶺《ね》を 高《たか》み恐《かしこ》み 天雲《あまぐも》も い去《ゆ》きはばかり たなびくものを
    布士能嶺乎 高見恐見 天雲毛 伊去羽斤 田菜引物緒
 
【語釈】 ○布士の嶺を高み恐み 「布士の嶺」は、下への続きで、山であるとともに神としてのものであることがわかる。「高み」は、高くしてで、神の姿として讃えていっているもの。「恐み」は、恐くしてで、上と同じく、神の威力としていっているもの。○天雲もい去きはばかり 天を行く雲も、行くことを阻まれて。○たなびくものを 「たなびく」は、「た」は、接頭語。「なびく」は、「靡く」で、山にかかっている形をいったもの。靡くは、従うという意をもった語なので、ここは上よりの続きで、越えかねて、威服するという意をもたせたものと取れる。「を」は、詠歎。
【釈】 神である富士の山の、その神性の現われとして、高くあり、恐くあるので、天《あめ》を行く雲も行くのを阻まれて、その山にかかって、従うものとなっているよ。
【評】 富士山を讃えた心である。一首、語《ことば》は単純で、調べも柔らかであるが、心は山であるとともに神である富士山の両面を融合させた複雑なものである。上の長歌と反歌は、口承文学の系統を引いたものであるが、この歌は、記載文学の色彩の濃厚なもので、作風を異にしているものである。
 
(112)     右の一首、高橋連虫麿の歌の中に出づ。類を以てここに載す。
      右一首、高橋連蟲麿之歌中出焉。以v類載v此。
 
【解】 これは撰者の添えた注である。高橋虫麿は、集中に七首の歌をとどめてい、またその歌はいずれも特色のあるものである。伝は明らかではないが、天平四年、藤原宇合が西海道の節度使となった時、餞けの歌を作っているので、その生存時代の大体は知れ、また、常陸の筑波山、下総の葛飾、摂津の葦屋などの歌を作っているので、その足跡の大体も知られる。また、高橋連虫麿歌集という物の存したことも、歌の左注によって知られる。右の一首の歌は、その集中にあるもので、富士山に関した歌であるから、ここに載せるというのである。「右の一首」につき、諸注、解が二つとなって、一定していない。一つは文字どおりに(三二一)の一首だけとするもの。他の一つは(三一九)の長歌以下三首を一括しての称とするものである。この「右の何首」という注は、本集に例の多いものである。『講義』はその全都を集めて調査し、「右の一首」とある場合は、必ず一首に限られていることを突き止め、三首一括という解を斥けている。三首一括して一首といっているという解は、(三一九)の長歌が、虫麿の作風に似ているとする解の上に立ったものであるが、今の場合、(三二一)は、いったがように他の二首とは作風を異にしていて、同一手に出たものとは認められないものである。
 
     山部宿禰赤人、伊予の温泉《ゆ》に至りて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「伊予の温泉《ゆ》」は、今の松山市道後温泉のことである。赤人がそこへ行った理由はわからない。歌は、伊予の温泉へ行き、そこにあった古の行幸啓の事を懐い、それを通して皇室への賀の心を詠んだものである。古の行幸啓の事は、釈日本紀に引いている伊予風土記によって知られるのであるが、風土記撰進までに前後五度あったのである。その第一度は、景行天皇と皇后との行幸啓、第二度は、仲哀天皇と神功皇后との行幸啓、第三度は、聖徳太子の行啓、第四度は、舒明天皇と皇后(皇極天皇)との行幸啓、第五度は、斉明天皇と、天智(皇子)、天武(皇子)の行幸啓である。景行、仲哀二朝の事は日本書紀には載っていない。聖徳太子の事も載っていないが、風土記には、その時太子は湯ノ岡の側に碑文を立てられた事を載せている。舒明天皇の行幸は日本書紀に載っていて、即位十一年十二月に行幸され、翌十二年四月に還幸になった。この時の事は、伊予風土記も、巻一(六)の左注も伝えている。斉明天皇の行幸は、日本書紀に載ってい、即位七年正月、西征の途次、熟田津石浜行宮《にぎたついわゆのあんぐう》に御船を泊《は》てさせられたのである。
 
(113)322 皇神祖《すめろぎ》の 神《かみ》の御言《みこと》の 敷《し》き座《いま》す 国《くに》の尽《ことごと》 湯《ゆ》はしも さはにあれども 島山《しまやま》の 宜《よろ》しき国《くに》と こごしかも 伊予《いよ》の高嶺《たかね》の 射狭庭《いさには》の 岡《をか》に立《た》たして 歌思《うたおも》ひ 辞思《ことおも》はしし み湯《ゆ》の上《うへ》の 樹《こ》むらを見《み》れば 臣《おみ》の木《き》も 生《お》ひ継《つ》ぎにけり 鳴《な》く烏《とり》の 音《こゑ》も更《かは》らず 遐《とほ》き代《よ》に 神《かむ》さび往《ゆ》かむ 行幸処《いでましどころ》
    皇神祀之 神乃御言乃 敷座 國之蓋 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宜國跡 極此疑 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 謌思辞思爲師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生繼尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備將徃 行幸處
 
【語釈】 ○皇神祖の神の御言の 「皇神祖」は、皇祖を申す称であるが、歴代の天皇にも及ぼして申した。ここはその後のものである。「神」は、天皇を古代信仰から申したもの。「御言」は、尊《みこと》に当てたもので、尊称。二句、天皇を尊んで申したもので、この二句は、下の「射狭庭の岡に立たして」に続いているところから、舒明天皇を申しているものと解される。○敷き座す国の尽 「敷き座す」の「敷き」は、御支配になる意。「座す」は、敬語とするために添えたもの。「国の尽」の「国」は、狭い意のもので、諸国。「尽」は、「尽く」の古語。○湯はしもさはにあれども 「湯」は、温泉を称する語で、古くから用いられ、今も用いている。「しも」は、「し」と「も」と合成した語で、物事を取立てて強くいう意の助詞。「さは」は、多くの意。 ○島山の宜しき国と 「島山」は、ここは島の中にある山の意で、「島」というのは、四国全体を海より見ての称と取れる。「宜しき」は、足り整っている意。「国と」は、国として。上の二句は、「湯」を主としていっているのに、ここでは「島山」を主としたこととなっている。続けると、「湯」のあるのに「島山」もまた宜しき国であるとしての意と取れる。○こごしかも伊予の高嶺の 「こごし」は、ごつごつとしている意で、形容詞。「かも」は、詠歎。険阻なことよの意。「伊予の高嶺」は、伊予を代表する高山の意で、それだと石槌山だとされている。この山は、周桑郡|千足山《せんぞくやま》村にあり、伊予のみならず、四国第一の高山で、高さ千九百メートルを超えている。道後温泉とはほぼ七里を距てているが、その間、山脈が連亙《れんこう》して、しだいに低くなって、温泉の辺まで来ている。この「高嶺」については異説があるが、上二句の「島山の宜しき国と」の続きとしていっているもので、同じく、「温泉《ゆ》」よりも「島山」の方を主としている関係上、石槌山と取れる。○射狭庭の岡に立たして 「射狭庭の岡」は、今はその名が伝わっていず、またその所も明らかではない。しかし下の続きの「み湯の上の樹むらを見れば」というのは、その「岡」においてのことであるから、「み湯の上」すなわち温泉のほとりの岡であることだけは知られる。また、「神名帳」によると、伊予国|温泉《ゆの》郡に四座の神があり、阿治美神社、出雲崗神社、湯神社、伊佐爾波神社とあるので、伊佐爾波神社は、射狭庭岡にあったものと思われる。「立たして」は、立つの敬語で、立たしたのは、起首、「皇神祖の神の御言」である。その舒明天皇にましますことは、下の続きで察しられる。(114)○歌思ひ辞息はしし 「歌思ひ」は、歌を作ろうと思い、「辞思はしし」は、「辞」は語《ことば》で、「歌」を言いかえたもの。「思はしし」は、敬語で、作ろうとお思いになられたの意。この事は下に譲る。○み湯の上の樹むらを見れば 「み湯」の「み」は、美称で、「湯」は、温泉。「上」は、辺りの意。「樹むら」は、木群で、木立の群がり。これも下に譲る。○臣の木も生ひ継ぎにけり 「臣の木」の「臣」は、樅《もみ》の古名だと古くからいわれている。「も」は、もまた。「生ひ継ぎ」は、生え継ぐで、前の木は樹齢が尽きて、次の木が生え継ぐ意。「けり」は、詠歎。○鳴く鳥の音も更らず 木の上に鳴いているところの鳥の声もまた、昔に変わらないの意。「射狭庭の岡」以下の事は、『仙覚抄』巻三に引いている。伊予風土記に出ており、また、本集巻一(六)の歌の左注にも出ている。風土記の文は、「以2岡本天皇并皇后二躯1為21。于時於2大殿戸1有2椹《むく》与|臣木《おみのき》1、於2其上1集3止2鵤《いかるが》与2此米鳥《しめのとり》1。天皇為2此鳥1、枝繋2稲穂等1養賜也」というのであり、巻一(六)の左注は、類聚歌林にあるもので、「一書に、この時に宮の前に二つの樹木あり、この二つの樹に斑鳩《いかるが》、比米《ひめ》、二つの鳥|大《いた》く集れり。時に勅して多く稲穂を懸けて之を養ひたまふ。すなはち作れる歌云々」というのである。これらによると、舒明天皇の行宮は、射狭庭《いさにわ》の岡の上にあり、宮の前に椹《むく》と樅の木があり、たまたま斑鳩と此米のその木に集まったのを、天皇が興じたまい、稲穂を与えて養われ、歌をもお作りになられたのである。舒明天皇は、赤人がこの歌を作った聖武天皇の御代からは十一代前、年としては約百年前のことである。赤人はこの行幸啓の時のことを心に置いていっているものと解される。すなわち、「射狭庭の岡」は、行宮のあった所。「立たして」は、宮の前に立たせられたこと。「歌思ひ云々」は、「乃ち作れる歌云々」とあるもの。「樹むら」は、椹《むく》と臣《おみ》の木、「生ひ継ぎ」は、十一代、約百年の経過を具象したもの。「鳴く鳥」は、斑鳩と此米にあたる鳥の鳴き声である。以上、一段。○遐き代に神さび往かむ行幸処 「遐き代」は、遠き代で、過去にも将来にもいう。ここは将来。「神さび往かむ」の「神さび」は、神としての振舞いをする意であるが、転じて、物の古びて神々しくなる意にもいう。ここはその後のもの。「行幸処」は、行幸のあった処の意で、ここは主として舒明天皇に対して申しているもの。三句は、賀の心で、一段をなしており、これが一首の力点である。
【釈】 すめろぎの神の尊が、御支配になられるもろもろの国のことごとくに、温泉こそは多くあるけれども、島の中にある山の姿の足り整っている面白い国であるとして、険阻なことである、この伊予の高嶺の、それに続く、射狭庭の岡にお立ちになって、歌をお作りになろうと思い、語《ことば》をお続けになろうと思わせられた、温泉の辺りの樹群を見ると、その古あった樅の木も、生え継いであることよ、その古に鳴いていた鳥の声もまた、変わってはいない。遠き後の代にも、引続いて神々しくなってゆくことであろう、この行幸《いでまし》の跡どころは。
【評】 赤人が伊予の道後の温泉に行き、行幸の跡どころである射狭庭の岡に立って、そこの風景に心を引かれるとともに、その風景を通して想い起こされてくる舒明天皇の行幸のおりのことを思い、古も今も変わらない自然に寄せて、その跡どころの永遠を祝ったものである。心としては皇室に対しまつっての賀であって、それが一首の中心となっている。
 この歌は、その表現を通して、その際の赤人の心の動きを、比較的明らかにうかがわせるものである。赤人の心は、自然の風光に引かれがちだ。「こごしかも伊予の高嶺の」は、それを石槌山とすることは、射狭庭《いさにわ》からは距離があり過ぎるので不自然だとし、問題となっているものである。これは赤人としては、第一に、射狭庭そのものの風景に心が引かれ、その風景をいう(115)には欠き難いものとして添えたものであろう。のみならず、この「伊予の高嶺」をいうために、すでに「島山の宜しき国と」と言っているのでもある。これはそれに先立つ「湯はしもさはにあれども」には、直接には続き難いものである。事実、伊予の温泉《ゆ》への行幸は、御目標が温泉にあったことは申すまでもなく、「島山」にあったのではない。それを「島山」そのものにあったがごとく申しているのは、赤人の臆測にすぎないもので、不自然はむしろそこにある。「伊予の高嶺」の不自然はその延長である。この不自然をあえてしているのは、赤人の自然の風光に引かれる心である。さらにまた、「臣の木も生ひ継ぎにけり、鳴く鳥の音も更らず」は、赤人が最も直接に心を動かしたものとみえる。行幸啓はいったがように五度あって、舒明天皇が特に際やかなことをなされたのではない。それを天皇に限って申しているのは、眼前の木立に小鳥の鳴いているのに心が引かれ、それによって風土記に伝えているところの木立と小鳥のことを想い起こしたのではないかと思われる。風土記には椹《むく》と臣《おみ》の木とがあるが、ここにいっているのは臣の木だけである。臣の木は樅とすると常磐木《ときわぎ》であるが、椹は落葉樹である。その木はなかったのか、またはあっても落葉していて印象的ではなかったというようなこともあろう。もし後の場合であったとすれば、赤人がいかに印象と実感を重んじたかを示すこととなる。臣の木に「生ひ継ぎ」という断わりを添え、「鳥の音」に斑鳩《いかるが》も此米《しめ》も関係させないことも、同じ態度を示しているものといえる。
 一首は、皇室に対する賀を力点としている。射狭庭の与える感は、単に風光としてだけのものではなく、「行幸処」ということが主になっていたろうから、これは当然のことである。賀の心をいうには、舒明天皇の伊予の温泉への行幸のことを申さなくてはならない。「皇神祖の神の御言の、敷き座す国の尽、湯はしもさはにあれども、島山の宜しき国と」がすなわちそれであるが、これは巻一(三六)柿木人麿の「吉野宮に幸しし時」の起首、「やすみしし吾が大王《おほきみ》の、聞《きこ》し食《め》す天の下に、国はしも多《さは》にあれども、山川《やまかは》の清き河内《かふち》と」を想わずにはいられないものである。この影響を受けたものと思われる。この部分は安易である。結末の「遐き代に神さび往かむ行幸処」は、むしろ成句に近いものである。赤人の特色は、若木の臣の木と、それに鳴く小鳥の声というささやかなものに、自然の悠久さを感じ、それを無窮なる皇室に繋いで、「行幸処」の永遠を賀したところにある。これは赤人に限られたものである。
 
     反歌
 
323 百《もも》しぎの 大宮人《おほみやびと》の 飽田津《にぎたづ》に 船乗《ふなの》りしけむ 年の知らなく
    百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乘將爲 年之不知久
 
【語釈】 ○百しきの大宮人の 「百しきの」は、大宮の枕詞。しばしば出た。「大宮人」は、大宮に奉仕する百官であるが、ここは行幸の供奉の廷(116)臣。○飽田津に 「飽田津《にぎたづ》」は旧訓。この訓は問題となっている。『攷証』は、「玉篇に饒飽也とありて相通ずれば、飽にてもにぎたづとよまんに何かあらん」といっている。日本書紀、斉明天皇七年の条に、「御船泊2于伊予国熟田津石湯行宮1」とあり、「熟田津此云2※[人偏+爾]枳陀豆1」という注があって、温泉に近い、船の発着地であったことは明らかである。この名は今は伝わっていない。「飽田津」はこの熟田津を基本にしての訓である。○船乗りしけむ年の知らなく 「船乗りしけむ」は、「船乗り」は、航海する意で、海路の旅をも言いうるが、ここは、長歌との関係上、舟遊びと取れる。「けむ」は、連体形。「年の知らなく」は、「年」は、その事のあった時。「なく」は、「な」の打消に、「く」を添えて名詞形としたもので、知られないことよの意。舒明天皇の行幸は、即位十一年十二月で明らかであるのを、辿り難い古のこととしていっているのは、そうすることを賀の心にかなうこととしてである。
【釈】 百しきの大宮人が、この飽田津に舟遊びをされたであろう時の、年古くして知られないことであるよ。
【評】 長歌は、天皇の射狭庭《いさにわ》の岡においての御遊のことをいっているのに対し、反歌は、供奉の大宮人の飽田津における舟遊びをいって、その楽しいさまを思いやったものである。「年の知らなく」は、長歌の「臣の木も生ひ継ぎにけり、鳴く鳥の音《こえ》も更《かは》らず」といっている、その遠い古のほうを承けてのもので、遠い古ということがすなわち祝賀の心である。
 
     神岳《かむをか》に登りて、山部宿禰赤人の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「神岳」は、雷岳のこともいい、また、三輪山にもこの字を当てている。ここは、反歌に明日香川のことをいっているところから、雷岳のことと取れる。明日香川は雷岳の裾を繞って流れているからである。雷岳は(二三五)に出た。高市郡明日香村字雷にある岳である。ここは飛鳥の故京に近く、したがって故京の辺りを展望するには絶好の場所である。「神岳に登りて」は、そこを、飛鳥の故京の展望台としてのことである。
 
324 三諸《みもろ》の 神《かむ》なび山《やま》に 五百枝《いほえ》刺《さ》し 繁《しじ》に生《お》ひたる 都賀《つが》の樹《き》の いや継《つ》ぎ嗣《つ》ぎに 玉葛《たまかづら》 絶《た》ゆることなく 在《あ》りつつも 止《や》まず通《かよ》はむ 明日香《あすか》の 旧《ふる》き京師《みやこ》は 山《やま》高《たか》み 河《かは》とほしろし 春《はる》の日《ひ》は 山《やま》し見《み》がほし 秋《あき》の夜《よ》は 河《かは》し清《さや》けし 旦雲《あさぐも》に たづは乱《みだ》れ 夕霧《ゆふぎり》に 河津《かはづ》は騒《さわ》く 見《み》る毎《ごと》に 哭《ね》のみし泣《な》かゆ 古《いにしへ》思《おも》へば
    三諸乃 神名備山尓 五百枝刺 繋生有 都賀乃樹乃 弥繼嗣尓 玉葛 絶事無 在管裳 不止將通(117) 明日香能 舊京師者 山高三 河登保志呂之 春日者 山四見容之 秋夜者 河四清之 旦雲二 多頭羽亂 夕霧丹 河津者驟 毎見 哭耳所泣 古思者
 
【語釈】 ○三諸の神なび山に 「三諸」は、御室で、「み」は美称、「室」は神を祭る室の意で、本来は普通名詞である。「神なび」は、神を祭る所の称で、『考』は、神の森の意で、「もり」が約《つつ》まって「み」となり、「び」に転じたものと解している。森は神の降ります所である。「神なび山」は、神を祭る所の山の意で、これまた普通名詞である。集中の用例によると、雷岳のことを、「三諸《みもろ》の神《かむ》なび山」〔巻十三(三二六八)〕、「神なびの三諸の山」〔巻十三(三二二七)〕、単に「神なび山」〔巻十三(三二六六)〕とも呼んでいる。ここは雷岳のことである。○五百枚刺し繁に生ひたる 「五百枝」は、多くの枝という意を、具象的にいったもの。「刺し」は、枝の生じている意。「繁に」は、繁くの意の古語。多くの枝が生じ、繁く枝が出ているで、同意のことを重ねていったもの。○都賀の樹のいや継ぎ嗣ぎに 「都賀」は、「刀賀《とが》」ともいっていた。今の栂《とが》。山地に自生する常緑の喬木。葉は樅に似ている。これは下の「継ぎ」に、同音の反覆でかかるものである。その点からいうと、「三諸の」以下五句は、「継ぎ」の序詞である。しかしこの五句は、単に序詞だけのものではなく、同時に神岳の叙景ともなっているもので、叙景を序詞の形でいったという複雑なものである。また、巻一(二九)人麿の歌の中に、「樛《つか》の木のいやつぎつぎに」というのがあって、これはその影響のあるものと見られる。「いや継ぎ嗣ぎに」は、いよいよ継ぎ継ぎにで、継ぎ継ぎには、引続いての意。これは赤人自身のことである。○玉葛絶ゆることなく 「玉葛」は、「玉」は美称、「葛」は蔓草の称で、意味で、「絶ゆる」にかかる枕詞。「絶ゆることなく」は、下の「通ふ」につづくもの。○在りつつも止まず通はむ 「在りつつも」は、「在り」は、生きている意。「つつ」は、継続、「も」は、詠歎。いつまでもという意でいっているもの。「止まず通はむ」は、止むことはなく通おうと思うところので、赤人自身のこと。「通はむ」は連体形。下へ続く。○明日香の旧き京師は 「明日香」は、ここでは浄見原宮をさしていると取れる。「旧き」といっているのは、赤人は神亀、天平の頃の人で、奈良宮の初頭の人だからである。浄見原宮は、天武天皇より持統天皇へ及ぼしての宮で、藤原宮へ遷られる以前の宮である。○山高み河とほしろし 「山高み」の「山」は、神岳の上より望んだものであるが、飛鳥の地を中心として、それを繞っている山を大観したもので、また風景としてのものてある。近く、東より南へかけて、倉橋、多武、細川、南淵、高取などの山々が連なっている。「高み」は、高くして。「河とほしろし」の「河」は、上の「山」に対させたもので、それに対する態度も同様である。これは飛鳥川である。「とほしろし」は、上代の文献としては、ただここにだけ見えている語である。解は二様となっている。その一つは『代匠記』の解で、「大きにゆたけき意なり。神武紀下云、集《つどふ》2大小之魚《とほしろくさきいをどもを》1、」といっている。いま一つは『玉の小琴』の解で、「とほしろくはあざやかなることなり。凡てあざやかなることをしろしと云。いちじろきも是也。云々」というのである。『講義』は、「とほしろし」は「くしき」活用の形容詞であるが、形容詞の語幹の三音以上のものは、単一の組織より成るものはなくて、多くは二個の語根または語幹の合成より成っている。これも「とほし」「通」の語幹あるいは「遠」の語幹と「しろし」(著)の語幹との合成したもので、そのために新たな観念を生じたものである。すなわち「遠く」「通る」の語幹としては深遠通達の意があり、「しろし」は顕著の義がある。ここは河の流れの遠く著しく通っている意だというのである。従うべきである。神岳の上から飛鳥川を遠望した感じである。○春の日は山し見がほし 「春の日は」は、次の「秋の日は」に対させたもので、一年を春秋をもって代表させたもの。「山し」の「し」は、強め。「見がほし」は、一つの用語。「見」は体(118)言で、「ほし」の主格。「ほし」は欲しで、見たいの意。○秋の夜は河し清けし 「河し」の「し」は、強め。「清けし」は、清くさわやかな意で、これは月に照らされた状態と取れる。○旦雲にたづは乱れ 「旦雲に」は、朝は雲の多い時としていったもので、次の「夕霧」に対させたもの。旦雲の中に。「たづ」は、鶴類。これは次の「驟《さわ》く」に対させたものであるから、声を主にしていつたものと取れる。乱れて鳴きの意。○夕霧に河津は驟く 「夕霧に」は、夕は霧の立つ時としていったもので、霧の最も立ちやすいのは川であるから、それを心に置いてのもの。夕霧の中に。「河津」につき、『講義』は考証して、この時代には「かへる」という語《ことば》はなかった。巻十(二一六一)以下五首は、題詞は「詠蝦」とあり、歌にはすべて「川津」の字を用いている。また、同、(二二六五)は、題詞は「寄蝦」とあり、歌にも「蝦」を用い、「かはづ」と訓んでいる。蝦は「かへる」に当てる文字である。これによると、「かへる」という語はなく、「かはづ」の一語のみであったことか知られる。「河津」の歌は、清流に住む、音の好いものとしていっているから、物としては後の河鹿《かじか》だと知られる。すなわち蝦《かえる》も河鹿も河津《かわず》と呼んでいたというのである。ここは今の河鹿である。「驟く」は、繁く鳴き立てる意。以上、一段である。○見る毎に哭のみし泣かゆ古思へば 「見る毎に」は、明日香の故京を見るたびごとにで、起首の「止まず通はむ」に照応させたもの。「哭のみし泣かゆ」は、「し」は強め、声を立ててばかり泣かれるで、感動のきわめて強いことをあらわす成語。この感動は、故京に対する悲しみではなく、その風光に対しての懐かしみである。それは上来いっているところから明らかである。「古《いにしへ》思へば」は、古、飛鳥の浄見原が京《みやこ》であった時を思えばの意で、愛でたい風光と、畏い京との一つになっていたことを思うとというので、限りなき懐かしさを余意とした語。
【釈】 三諸の神なび山すなわち雷岳に、多くの枝を生じ、繁く枝を生じている都賀《つが》の樹の、そのつがという、ますます継ぎ嗣ぎに、絶えるということのなく、いつまでもやまずも通おうと思う明日香の旧い京は、そこを繞らしている山々が高くあって、そこを流れている河が遙かにもあざやかに見える。春の昼は、その山々が眺めたいさまである。秋の夜は、その河が清らかにさわやかである。朝の雲の中には、鶴《たず》が乱れて鳴いており、夕べの霧の中には、河鹿が繁くも鳴き立てている。ここへ来て見るたび(119)ごとに、声を立ててばかり泣かれる。この愛でたい風光と京との一つになっていた古を思ふと、限りもなく懐かしくて。
【評】 「神岳に登りて」といっているが、歌は神岳そのものには直接触れるところのないもので、そこをもって、「明日香の旧き京師」を展望する高所としただけのものである。展望していっているところは、いわゆる故京に対しての感懐であるが、この歌はきわめて異色をもったものである。それは故京に対する感懐といへば、すべて人事の推移を悲しむもので、以前盛んであった京の衰え去ったのを悲しむ心に限られている。しかるにこの歌は、人事に触れるところがほとんどなく、推移を悲しむ心は全くないものである。故京に対しての感懐としては、それが故京であるがゆえの懐かしさにとどまるもので、そこを限りなく懐かしめているものは、風光の愛でたさなのである。赤人の心にはこの二つが融け合って一つとなっていたとみえるが、この人事の暗い面を見ず、風光の愛でたさのみを酷愛しているところは、故京を偲ぶ歌としてはまさに異色である。これは赤人の個性のしからしめるところといえる。個性とはいうが、赤人は奈良京初頭の人で、国運のきわめて興隆する中に生きていた人なので、時代的に見て、顧みて時代の推移を悲しむというような心はもてず、反対に時代を謳歌する心が、自然美の鑑賞という文芸性の方に発揮されていったものとみえる。すなわち時代の人だったのである。なお、赤人より見て故京といえば、当然藤原京であるべきなのに、それを越えて浄見原の京を慕っているのは、前者よりも後者の方が、自然美の上でいっそう心引かれるものがあったためではないかと思われる。それだと、そこにも赤人の個性が現われているといえる。
 この歌は二段より成っている。第一段は、結末に近い「河津《かはづ》は驟く」までである。この第一段の前半、起首より「在りつつも止まず通はむ」までの十句は、それに続く「明日香の旧き京師は」を修飾しているものである。これは修飾とはいうが、ほとんど独立した一つの意味をもったもので、明日香の旧き京師に対する限りなき思慕をいっているものである。しかしその思慕が何によって起こるかということは全くいっていず、「明日香の旧き京師は」と続けて、言い出してきている所は、そこの風光の愛でたさなのである。これによって見ると、明日香の旧き京師の懐かしさは、その「旧き京師」であるとともに、その風光の愛でたさであって、しかもその風光の愛でたさを描いた「山高み河とほしろし」以下、「河津は驟く」までの対句のみをもってする十句は、一首の中心を成しているのである。この旧き京師と風光の愛でたさを融かして一つとし、しかも風光の方に力点を置いているところに赤人の面目がある。
 第二段は、「見る毎に哭のみし泣かゆ、古思へば」の結末の三句である。「古思へば」は、心としては倒句になっているもので、第一段の前半の、明日香の旧き京師に対する思慕であり、「見る毎に哭のみし泣かゆ」は、第一段の後半の風光に対しての心で、「見る毎に」は、「止まず通はむ」といっているごとく、赤人はすでに幾たびとなく通って来て、そのたびごとにしていたことを、今また繰り返しているもので、現在に過去をこめて、総括していっているものである。第二段は、旧き京師と、そこの愛でたい風景とが一つになって、限りなく感動させたことの端的で、全体を総括しての繰り返しである。
 
(120)     反歌
 
325 明日香河《あすかがは》 川《かは》よど去《さ》らず 立《た》つ霧《きり》の 念《おも》ひ過《す》ぐべき こひにあらなくに
     明日香河 川余藤不去 立霧乃 念應過 孤悲尓不有國
 
【語釈】 ○明日香河 明日香河は、雷岳の裾を流れている川である。これによって神岳は雷岳であり、旧《ふる》き京師《みやこ》というのは、浄見原の京であることが明らかである。○川よど去らず立つ霧の 「川よど」は、川の流れの淀となっている所の称。「去らず」は、離れずで、川淀を離れずには、下の「立つ霧」の位置を示しているものである。川霧は、川の流れの上に立つ霧であるが、流れの早い所より、淀となっている所の方が立ちやすいものである。この一句は、心からいうと、川淀の所だけに限ってという意である。なお、川霧が川淀に限って立つのは、朝と夕の霧の多い時ではなく、昼の少ない時の状態と取れる。ここはその時刻をも暗示しているもので、言いかえると、現に眼前の状態として見ている昼の景である。「立つ霧の」の「の」は、のごとくの意のもので、立つ霧のごとくにで、譬喩。この譬喩は、霧を消えやすいものとしてである。○念ひ過ぐべき 「念ひ過ぐ」は一語で、念いが過ぎ去るで、上の譬喩からの続きは、なくなることを過ぎるというところから、霧の消えることを過ぐといったのである。念いが消えてなくなる、すなわち忘れ去る意。○こひにあらなくに 「こひ」は、恋で、ここは憧れで、旧き京師に対する思慕をいったもの。「なく」は、「な」の打消に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎。憧れではないことなのに。
【釈】 明日香河の川淀を離れずに、そこにのみ限って立っている霧の、その消え失せるかごとくに、わが旧き京師《みやこ》に対する憧れは、思いの消え失せる、すなわち忘れ去るようなものではないことであるのに。
【評】 長歌でいっている、明日香の旧き京すなわち浄見原の京に対するなつかしさと、風光の美しさに対する情を、総括して、繰り返しいっているものである。反歌としては一つの型となっているものである。しかしその情を「こひ」と言いかえて、現に今見ているのであるが、見ざるもののごとくにいっているのは、その情の限りなさを示しているもので、進展のあるものである。「明日香河川よど去らず立つ霧の」は譬喩であるが、これは明らかに眼前を捉えたものである。明日香河は、神岳の裾を流れている川であるのみならず、「川よど去らず立つ霧」は、微かな光景であって、眼前に見るのでなければ捉えられぬ物だからである。また、「川よど」を取り立てていっているのは、いったがように昼の光景だからであろうと思われる。詮ずるところは「念ひ過ぐ」の譬喩であるのに、このように自然の状態に食い入って細かくいうのは、赤人の特色である。ここにも面目があるといえる。抒情ではあるが、叙景と融合をもった、その作風を示しているものである。
 
     門郡王《かどべのおほきみ》、難波に在りて、漁父《あま》の燭光《ともしひ》を見て作れる歌一首 後に、姓大原真人の氏を賜ふ
 
(121)【題意】 「門部王」は、(三一〇)に出た。
 
326 見渡《みわた》せば 明石《あかし》の浦《うら》に ともす火《ひ》の ほにぞ出《い》でぬる 妹《いも》に恋《こ》ふらく
    見渡者 明石之浦尓 燒火乃 保尓曾出流 妹尓戀久
 
【語釈】 ○見渡せば明石の浦にともす火の 「見渡せば」は、難波の海べから彼方を見渡す意。「明石の浦」は、播磨で、難波の浦べからは遙かに見渡せる地。ここは、広く、そちらの海上という意を具体的にいおうとしてのものと取れる。「ともす火の」は、いわゆる漁火《いさりび》である。初句より三句までは、「ほ」に続けるためで、その関係は、※[火+陷の旁]《ほのほ》は火《ほ》の穂《ほ》で、「ほ」は火の尖端だからである。その「ほ」は意味を転じてあり、初句よりの三句は、「ほ」の序詞である。○ほにぞ出でぬる 「ほに出づ」は、内にあるものが表面に現われる意で、ここは、包みきれず表面に現われたことであるの意。「ぬる」は、「ぞ」の結。○妹に恋ふらく 「妹」は、男より女を親しんで呼ぶ称で、ここは傍らにいる女というほどの関係の者と取れる。「恋ふらく」は、「恋ふ」に「く」を添えて名詞形としたもので、恋うることはの意。
【釈】 見渡すと、明石の浦の方に、海人《あま》のともすいさり火が見えるが、その穂という、穂すなわち表面に出たことであるよ。わが妹に恋うることは。
【評】 門部王が難波へ旅をされて、そうした際身分のある人のする、傍らに女を侍らせることをしていたとみえる。夜、楽しみのために、海を望んでいられた時、難波より西の方、明石方面に見える漁火を眺めながら、その女に、軽い心をもって詠みかけられた懸想《けそう》の歌と取れる。初句より三句までは序詞で、これは謡い物の脈を引いたものである。興として眺めていられた眼前の景を捉えて序詞としたところに、心の動きが見え、また歌としての味わいもある。いわゆる座興という程度の戯れに近い心のものと思われる。歌の内容は恋であるが、難波に在りてということに力点を置き、※[羈の馬が奇]旅の歌として雑歌に入れたものと取れる。これは巻一の行幸の供奉の歌には例の多いことで、それにならってのことと思はれる。
 
     或|娘子等《をとめら》、※[果/衣]《つつ》める乾鰒《ほしあはび》を贈《おく》りて、戯《たはむ》れに通観《つうくわん》僧の咒願《じゆぐわん》を請ひし時、通観の作れる歌一首
 
【題意】「乾鰒」は、鰒の肉を乾した物で、当時、貴重な食物とした物、「※[果/衣]む」は「包む」で、乾鰒を保存するためにしていたこと。「咒願」は、仏教の語で、念仏誦号し、法語を唱えて、福利を願うことで、普通は、法会《ほうえ》の時、導師が施主の願に従い、死亡者の幸福を祈願する意である。「娘子」も、「通観」も、いかなる人とも知れない。戯れにというのと、また歌によって、娘子の請ったのは、乾鰒を蘇生させることであったとみえる。
 
(122)327 わたつみの 奥《おき》に持《も》ち行《ゆ》きて 放《はな》つとも うれむぞこれが 死還生《よみがへ》りなむ
    海若之 奧尓持行而 雖放 字礼牟曾此之 將死還生
 
【語釈】 ○わたつみの奥に持ち行きて放つとも 「わたつみ」は、本来は海の神の称であるが、転じて海そのものとなった。ここはそれである。「奥」は、沖。○うれむぞこれが 「うれむぞ」は、ここと、巻十一(二四八七)「平山《ならやま》の子松が末《うれ》のうれむぞは我が思ふ妹に逢はず止みなむ」との二か所にだけある語である。『代匠記』は、「語勢を以て推するに、なんぞ、いかんぞなど云に同じく聞ゆ」といっており、それ以外の解のない語である。そう解するよりほかはなくみえる。「これ」は、乾鰒。○死還生りなむ 「死還生」は、よみがえりに当てた文字。本来「よみ」は死後に行く国。「かへり」は、生きてこの世に還る意で、蘇生の意である。
【釈】 海の沖へ持って行って放そうとも、どうしてこれが蘇《よみが》えろうか。
【評】 当時仏教は、皇室の御保護、貴族の信仰によって、社会的には勢力のあるものであり、したがって僧の社会的位地も相応に高いものであった。しかし一般庶民に浸透した力はむしろ浅いもので、ことに年若い女子においては、いっそうであったとみえる。ここの娘子らのいっていることは、それを代表しているもので、法会で目にする咒願よりの連想として、乾鰒を生かしてみせよと、悪意なき揶揄《やゆ》を試みたものとみえる。戯れというのはその意であろう。それに対する僧の態度も、同じく戯れであったろう。怒らず、斥けず、また諭そうともせずに、歌とするにも及ばない心を、わざと歌としているのは、思うにその口唱を咒願に似せしめるためであったろう。歌としては、歌というものが当時一方ではどのように扱われていたかを示している程度のもので、一首は、当時の社会相を示しているものとして見るべきであろう。
 
     大宰少弐小野|老《おゆ》朝臣の歌一首
 
【題意】 「小野老」は、『新撰姓氏録』に、孝昭天皇の皇子天押帯彦押人命より出て、近江国滋賀郡小野村にいたところから小野を氏とした。官歴は、続日本紀に委しく、天平九年六月に、「大宰大弐従四位下小野朝臣老卒」とある。老が大宰大弐に任ぜられたことは史に見えないが、巻五、天平二年正月十三日大宰帥大伴卿宅梅花歌三十二首の中に、小弐小野大夫とあるは老のことと見えるので、その当時すでに少弐として大宰府にあったことが知られる。姓名の記し万は令に規定があって、「三位以上直称v姓、四位先v名後v姓、五位先v姓後v名」とあるが、ここの記し方は、その四位に相当するもので、したがってこの歌は老の従四位下時代のものである。
 
(123)328 青丹《あをに》よし 寧楽《なら》の京師《みやこ》は 咲《さ》く花《はな》の 薫《にほ》ふが如《ごと》く 今《いま》盛《さか》りなり
    青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
 
【語釈】 ○青丹よし寧楽の京師は 「青丹よし」は、奈良の枕詞で、巻一以来出た。老がこの歌を作った時は、奈良へ遷都後、約二十年を経た時である。○咲く花の薫ふが如く 「薫ふ」は、古くは、色についていった語で、例の多いものである。ここもそれで、咲いている花の色の艶やかなように。
【釈】 青丹よし奈良の京は、咲き出ている花の、その色の艶やかなように、今盛りなさまである。
【評】 奈良京を讃えた歌である。『代匠記』は、老が朝集使などで、大宰府から奈良京へ上って来た時の詠であろうといっている。奈良京を客観的に見、きわめて単純な語《ことば》に、溢れるがごとき感歎の情を盛り、しかも皇都に対する虔《つつ》しみより、落着いた調べをもって詠んでいるところは、まさにそうした事情の下に詠んだものだろうと思われる。当時の奈良京は、前古にかつてないものであったので、この感歎は実感であって、作歌態度もそれによって定められたことと取れる。
 
     防人司佑《ききもりのつかさのじすけ》大伴|四綱《よつな》の歌二首
 
【題意】 「防人司」は、大宰府に属している一官庁で、防人に関する事務の一切を掌るところである。長官は正《かみ》、次官は佑《すけ》、三等官は令史となっている。佑は正八位上の相当官である。「四綱」は、大伴氏ではあるが、父祖は明らかでない。ただ天平十年ごろ大和国の少掾であったことが「上階官人歴名」(大日本古文書廿四)によって明らかにされている。
 
329 安見知《やすみし》し 吾《わ》が王《おほきみ》の 敷《し》きませる 国《くに》の中《うち》には 京師《みやこ》し念《おも》ほゆ
    安見知之 吾王乃 敷座在 國中者 京師所念
 
【語釈】 ○安見知し吾が王の 巻一以来しばしば出た。「安見知し」は、王を讃える語で、枕詞となっているもの。「吾が」は、親しんで添えたもの。「王」は、天皇をさしまつる称。○敷きませる国の中には 「敷きませる」も、しばしば出た。御支配にならせられる。「国の中」は、「国」は、わが国全体。「中」は、外《そと》に対しての語で、国内にあってはの意。○京肺し念ほゆ 「京師」は、天皇のまします所で、ここは奈良。「念ほゆ」は、思われるで、恋しい意。
(124)【釈】 わが天皇の御支配にならせられる国のうちでは、京が最も恋しく思われる。
【評】 地方官として大宰府にあって、中央の京である奈良が、おのずからに思慕せられる心をいったもので、察しられる心である。しかしそうした心をいうにも、個人的の心だけのものとはしなかつたことは、その恋しい「京師」をいうに、「安見知し吾が王の敷きませる国の中には」は、五句の中の四句までを費やして、その恋しさは天皇のまします所だからという意を暗示しているので知られる。単純な心ではあるが、その意味で複雑味をもっている。これは当時の官人に共通の心だったのである。
 
330 藤浪《ふぢなみ》の 花《はな》は盛《さか》りに なりにけり 平城《なら》の京《みやこ》を 念《おも》ほすや君《きみ》
    藤浪之 花者盛尓 成來 平城京乎 御念八君
 
【語釈】 ○藤浪の花は盛りになりにけり 「藤浪」の「浪」は、靡《な》みの意で、藤そのものの状態をいった語。添えていったもので、藤の称である。古い語で、後世まで行なわれたもの。「花」に続けたのはそのためである。藤の花は花盛りになったことであるよの意で、大宰府にあっての感である。○平城の京を念ほすや君 「平城の京」は、ここは故郷としていっているのであるが、大伴家の邸は佐保にあった。春日山一帯は、今も藤の多い所であるが、当時も同様で、春日山に近い佐保のあたりは多かったとみえる。ここは、藤の花によって連想される故郷を、大君のいます平城の京と言いかえたものである。「念ほす」は、「念ふ」の敬語。「君」は、長官の旅人を呼びかけたものであることは、次の歌でわかる。
【釈】 ここの藤の花は、花盛りとなったことであるよ。この花によって連想される佐保の故郷、すなわち大君のいます平城の京を、恋しくお思いになられますか君は。
【評】 口頭の言葉を、歌としていったものである。同じく旅にある身で、郷愁を感じ合っていることは当然のこととして、それに対しての慰めをいったものであるが、旅に見る花によって、故郷の同じ花を連想するということは、実生活からはある遊離をもった、文芸的な方法である。聞く者もそれを喜ぼうとしていったもので、そこに慰めの一半があったのであろう。その故郷をいうに、大君を中心として、「平城の京」と言いかえているのは、前の歌と同じく、宮人としての意識をもっているがゆえで、そこに当時の心がある。この歌も、前の歌も、明るく、柔らかく、単純に似て複雑味をもっているところ、奈良宮時代を思わせる歌である。
 
     帥大伴卿の歌五首
 
(125)【題意】 「帥」は、大宰府の長官の称で、従三位相当官。大納言の下、皇太子傅、中務卿の上に位する官である。「大伴卿」の卿は、敬称である。大伴氏で大宰帥となったのは、大伴安麿と同じく旅人の二人である。歌の年代順排列によって、ここは旅人と知られる。旅人の大宰帥となったことは続日本紀には記されていないが、本集で明らかである。したがって、その任ぜられた時は不明であるが、本巻(四三八)以下三首に、「神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿、故人を思ひ恋ふる歌三首」とあるので、その頃はすでに大宰帥であったことがわかる。また巻十七巻首(三八九〇)に、「天平二年庚午冬十一月、大宰帥大伴卿、大納言に任《まけ》られ【帥を兼ぬること旧の如し】京に上りし時」とあるので、その時まで大宰府にいたのである。歌は大宰府でのものである。
 
331 吾《わ》が盛《さかり》 復《また》変《を》ちめやも 殆《ほとほと》に 寧楽《なら》の京師《みやこ》を 見《み》ずかなりなむ
    吾盛 復將變八万 殆 寧樂京乎 不見歟將成
 
【語釈】 ○吾が盛 「盛」は、齢《とし》の盛りの意で、他に用例のあるもの。○復変ちめやも 「復」は、再び。「変《を》ち」の訓は、本居宣長の加えたもの。例として、巻五(八四七)「吾が盛いたく降《くだ》ちぬ雲にとぶ薬はむともまた遠知《をち》めやも」、(八四八)「雲に飛ぶ薬はむよは都見ばいやしき吾《あ》が身また遠知《をち》ぬべし」を挙げている。『槻落葉』は、さらに用例を加えている。集中、「変若《をち》」の字を当ててもいる。意は、もとへ立ち復《かえ》る意である。「めやも」は、已然形「め」に、疑問の「や」の添って反語をなしているもの。一句、再び立ち復ることがあろうか、ありはしないの意。○殆に ほとんどの古語。副詞。○寧楽の京師を見ずかなりなむ 奈良の都を見なくて畢《おわ》ってしまうであろうかで、「か」は疑問。
【釈】 わが齢の盛りは再び立ち復つてくることがあろうか、ありはしない。この有様では、ほとんど奈良の都を見なくて畢ってしまうのであろうか。
【評】 旅人は天平二年に京へ帰って来、翌三年七月に薨じた。年齢は不明だが、相応な老齢であったと思はれる。神亀は五年で終わって、天平と改まったのであるから、この歌を詠んだ時にもすでに老齢であったと思われる。歌はこれを初め以下五首、すべて故郷に対する思慕の情を詠んだものである。高官とはいえ、筑紫の辺境に久しくとどまっていたので、思郷の心の起こるのは当然である。が、これらの歌は同じく思郷とはいえ、老齢者のそれであって、老齢ということが基本となっている特殊性のあるものである。旅人という人を、最も直接に、最も深刻にあらわしているものである。この歌は広く「寧楽の京師」を対象としたものである。前古に例のない文化の相をあらわしていた当時の奈良の都に対して、文化人である旅人が辺境にあって、第一に思慕の情を寄せたのは、もっともなことと思える。その情の強さは、身世を大観して詠んでいる態度からも、また二句までを一段とし、それ以下を一段とした間に、相応な飛躍を置いて詠んでいる昂奮した調べによっても感じられる。しか(126)し「殆に」と、それに程度をつけ、余裕をもっていっているの  は、その人柄を思わせるものである。
 
332 吾《わ》が命《いのち》も 常《つね》にあらぬか 昔《むかし》見《み》し 象《きさ》の小河《をがは》を 行《ゆ》きて見《み》む為《ため》
    吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見爲
 
【語釈】 ○吾が命も 「も」は、詠歎の助詞。○常にあらぬか 「常」は、永久、あるいは変わらずの意で、ここは変わらずにの意。「あらぬか」の「ぬ」は、打消「ず」の連体形で、「か」は、疑問、続けると、ないのか、あってくれよの意となり、反語をなすもの。これは用例の多い語である。○昔見し象の小河を 「象《ささ》の小河」は、上の(三一六)の旅人の歌に出た。吉野の「象《きさ》の中山」から流れ出す小川。二句は、(三一六)にある、芳野の離宮に行幸のあった時、旅人も供奉に加わっていて親しく目にした、その思い出と取れる。○行きて見む為 再び行って見ようがために。
【釈】 わが命は変わらずにいてくれないものか、いてくれよ。昔見た懐かしい象の小川を、再び行って見ようがために。
【評】 旅人が奈良京を思うと、強い思い出となって浮かんでくるものに、「昔見し象の小河」があったことがこの歌で知られる。その「昔見し」は、上の(三一六)の歌のことであろう。それだと聖武天皇の吉野宮行幸に供奉の一人として加わった時のことである。吉野宮への行幸は久しく絶えていたので、その行幸は珍しいものであり、それに供奉し得たことは、山水を好む旅人には面正しいことであるとともに深い歓びでもあって、齢の盛りの頃を思うと必ず思い出されてくることだったとみえる。この歌は、いま筑紫にあって、齢の末を意識している心に、また強く思い出されてのものである。注意されることは、芳野には佳景が多いのに、旅人はその中から、一小景にすぎない象の小川を選び出していることである。これは自然の中でも、狎れ親しみうる小さな物に心が寄っていっていたことを示すもので、旅人の人柄にもよるが、時代の好尚も伴っていることと思われる。
 
333 浅茅原《あさぢはら》 つばらつばらに 物《もの》念《おも》へば 故《ふ》りにし郷《さと》し 念《おも》ほゆるかも
    浅茅原 曲曲二 物念者 故郷之 所念可聞
 
【語釈】 ○浅茅原つばらつばらに 「浅茅原」は、丈の低い茅花《つばな》の原で、茅原《ちはら》が、その音の近いところから、畳音の関係で、「つばら」の枕詞となっているもの。「つばら」は、つまびらかの古語で、「つばらつばらに」は、それを強める意で音を畳んだ副詞。○物念へば ものを思えばであ(127)るが、広く「物」といっているのは、下の続きで見ると、身世を思う意である。○故りにし郷し念ほゆるかも 「故りにし郷」は、以前住んでいた里で、ここでは奈良の都のように見えるが、この歌に続く歌によって、それは明日香にある里ということがわかる。それは奈良の佐保に移る以前の大伴氏の住んでいた地で、巻六、「大納言大伴卿、寧楽の家に在りて故郷を思ふ歌二首」とある一首の(九六九)「神名備《かむなび》の淵《ふち》は浅《あ》せにて」とある所である。神名備は、飛鳥川の神名備岳、すなわち雷岳付近の淵である。「し」は、『古義』の訓で、強めの意の助詞。『講義』は「之」を「の」と訓むとすると、「の」より「思ほゆるかも」に続く例は、集中にはないと注意している。「念ほゆる」は、思われる。「かも」は、詠歎。
【釈】 つまびらかにわが身世を思うと、明日香の故里が取り分けても思われることであるよ。
【評】 しみじみと過去を思い続けると、最も強く心に浮かんでくるのは、最も古く住んでいた故里だというのである。最初に懐かしく思われたのは、「寧楽の京師《みやこ》」であったが、これは大君の座《いま》す京として、また文化を代表している地としてであった。これは旅人に残っている若い方面が思わせたことなのである。しかしさらに思い続けると、それよりも、古く住んだ明日香の故里の方が、いっそう懐かしく思われてきたというのである。すなわち若さを超え、知性を超えて、老齢の今にふさわしい感性のみの故里が恋しくなったのである。思うにそこに繋ぐ思い出は、幼年時から青年時のものであったろう。老齢に入って、他に待つところのない心は、ただちに幼年時青年時に立ち復《かえ》るのが常で、旅人も一面には、その状態に入っていたとみえる。「浅茅原」は枕詞であるが、「故りにし郷」につながるところのあるもので、おのずからにもち得た技巧と思われる。
 
334 萱草《わすれぐさ》 吾《わ》が紐《ひも》に付《つ》く 香具山《かぐやま》の 故《ふ》りにし里《さと》を 忘《わす》れむが為《ため》
    萱草 吾※[糸+刃]二付 香具山乃 故去之里乎 忘之爲
 
【語釈】 ○萱草 山野に自生する百合科の宿根草で、秋、黄赤色の花を開く。かんぞうと呼ぶ。中国では、憂えを忘れさせる草として詩経に出ている。わが国もそれにならったとみえるが、いったん忘れ草という名を得ると、名はそれに伴う神秘的の力をもつものとするわが信仰に支持されて、憂さを忘れさせる力をもつ草とされ、一般化するに至った。○吾が紐に付く 「紐」は、下紐。「付く」は、結びつける意。下紐につけるのは、身に触れさせるほど、その力が直接に強く伝わるとする信仰からである。○香具山の故りにし里を 「香具山の」は、香具山付近にあるで、前の歌でいった「神名備の淵」と同じ所である。広く、その里の付近にある風光の美しい所を捉えていったものと取れる。「故りにし里」は、「に」は完了、「し」は過去で、古くなってしまった里。○忘れむが為 忘れようがためにで、忘れようとするのは、忘れないと恋しさのために苦しいからである。
【釈】 萱草《わすれぐさ》をわが下紐に結びつける。香具山の付近にある、あの古くなってしまった里の恋しさに堪えられない、その苦しさを忘れようがために。
(128)【評】 前の歌に続いたもので、いうところの「故りにし里」に対する情痴をいったものである。「萱草」を用いた歌は集中に多いが、すべて恋の嘆きのする術のないものを忘れようがためである。この歌は故里に対してそれをしているが、心としては同じだとしてのものとみえる。故里に「香具山の」を添えているのは、地理的にいってその山に近いとするところもあろうが、それよりも、故里を美化しようとするのが主となっているものと取れる。前三首は、身世を大観するというところがあって、その意味で積極的の心も見えるものであるが、この歌はそうしたところはなく、したがって痛切な味はなく、情痴に陥っている趣のものである。旅人の老齢の面をあらわしているものといえる。
 
335 吾《わ》が行《ゆき》は 久《ひさ》にはあらじ 夢《いめ》のわだ 湍《せ》にはならずて 淵有毛《ふちにあらなも》
    吾行者 久者不有 夢乃和太 湍者不成而 淵有毛
 
【語釈】 ○吾が行は久にはあらじ 「行」は、旅行きの意で、ここは帰京のための行《ゆき》である。名詞。「久」は、長い期間で、ほど遠いことというにあたる。大宰帥は任期の定まっている官であるところからの推測。わが帰京のための旅行きは、ほど遠いことではあるまい。○夢のわだ 「わだ」は、淀で、「夢のわだ」は淀の名であるが、今はその名はとどまっていない。巻七(一一三二)「芳野作」「夢のわだ言《こと》にしありけり寤《うつつ》にも見て来しものを念《おも》ひし念へば」とあるので、芳野にあるものと知れる。また『玉の小琴』は、懐風藻に、吉田連宜従鶯吉野宮の詩に、夢淵と作っているのもそれであろうといっている。吉野宮に近い辺りで、吉野川の一部の称と知られる。鴻巣盛広氏は、宮瀧の下流、象《きさ》の小川の吉野川に注ぐ辺りを、土地の人は今も夢淵《ゆめふち》と呼んでいるから、そこであろうといっている。○湍にはならずて 「湍」は、瀬に通ずる字。水の浅い所の意のもので、下の「淵」に対させたもの。「なる」は、変わる意。「ならずて」は、ならずしての意の古格。淵が瀬には変わらずしてで、川は淵と瀬と変わりやすいものということの上に立っての言。○淵有毛 文字は諸本すべて同じで異なりがなく、これによって訓むほかはない。文字の少ないところから、訓が定めかねている。要するに一首の意から推して、合理的に訓むべきである。従来の訓はさまざまであるが、大別すると、疑問とするか、または希望とするかの二つである。疑問と見る訓は、『童蒙抄』は「淵にてあるも」と訓み、「も」は「かも」の意だとしている。これは強いた解というべきである。『略解』は「淵にあるかも」とし、『攷証』は「淵にてあるかも」として、「毛」は「毳」の略字だと説明している。『講義』は、『攷証』の訓はおちつかないものであり、その説明も確証はないが、しばらくこれに従うとしている。希望と見る訓は、『代匠記』、本居宣長、『古義』『新考』などであるが、これらは誤字説を立てての上のものである。『槻落葉』は「淵にてあれも」と訓み、「あれも」は「あれよ」の意だといっているが、『講義』は「あれ」の下に「も」を加えるごとき語法は古今にないとして斥けている。『新訓』は「淵にしあらも」と訓んでいる。これは推量とも希望とも取れるものである。吉沢義則氏は「淵にあらなも」と訓み、希望の意の「なも」は、巻一(一八)にもあって、その存在は確かであるが、「毛」の一字を「なも」と訓むことは、許されうることとは思うが用例のないものだとして、試訓だと断わっている。一首の意から見ると、ここは故里に期待をかけ、変わりやすい淵瀬に対して、しばらくその変わらないことを希望しているものと見られるので、以(129)前のまま、淵でいてほしいとする吉沢氏の訓が、比較してJ最も妥当なものに思われる。今はこれに従うこととする。
【釈】 わが帰京のための旅をするのは、ほど遠いことではあるまい。夢のわだよ、瀬には変わらずに、以前のままの淵であってくれよ。
【評】 この歌は、これまでの四首に較べて、最も積極的な、明るい心をもったものである。これまでの四首のうち、これに近い趣をもったものは、第二首、「吾が命も常にあらぬか」であったが、それよりも遙かに積極的である。「夢のわだ」を、象の小河の吉野川への落口だとすると、この歌はそれに連絡のあるもので、旅人の心は吉野を思うと若やいできたとみえる。奈良を思い故里を思うと、しみじみと懐かしむことのほかはないものとなるのであるが、吉野を思うと、にわかに期待をかける心となるのである。これは人生的の面には失望して、自然の風光に対して逃げ路を求めていた心がうかがわれることである。なお以上の五首は、意図しての連作とは見えないが、思郷ということで統一されている関係上、おのずから連作に近いところをもっている。地理的にいっても五首三か所に限られていて、その心をつないだ範囲を示しているものである。
 
     沙彌満誓《さみまんせい》、綿《わた》を詠める歌一首 造筑紫観音寺別当、俗姓笠朝臣麿なり
 
【題意】 「沙彌」は梵語《ぼんご》で、男子が出家して、十戒は受けたが、まだ修行の熟さない階級の者の通称である。「満誓」は、笠朝臣麿の出家しての名。麿は父祖は明らかでない。慶雲元年、従五位下に叙せられ、美濃守、尾張守に歴任し、養老四年右大弁に任ぜられ、続日本紀、養老五年五月の条に、「戊午石大弁従四位上笠朝臣麻呂請d奉2為太上天皇1出家入道u勅許之」とある。この時、元明天皇の御病が重かったので、浄行の男女一百人を入道せしめたが、麿は進んでその中に加わったのである。続日本紀、養老七年の条に、「二月丁酉勅遣2僧満誓1【俗名従四位上笠朝臣麻呂】於2筑紫1令v造2観世音寺1」とある。観世音寺は天智天皇御発願の寺であるが、当時まだ完成しなかったので、造営を監査せしめられたのである。「緜」は、この当時は、現在の木綿|綿《わた》はまだ伝来せず、現在の真綿のみであった。木綿綿はインドの原産で、初めてわが国に伝来したのは、日本後紀巻八に、延暦十八年秋七月、昆崙人(インド人)の参河国に漂着した者が、その種子を持っていて、各地に植えたとある時である。しかるにその時の木綿綿は拡まらずして中絶してしまったことがわかっている。
 
336 白縫《しらぬひ》 筑紫《つくし》の綿《わた》は 身《み》に著《つ》けて 未《いまだ》はきねど 暖《あたた》けく見《み》ゆ
    白縫 筑紫乃綿者 身著而 未者妓祢杼 暖所見
 
(130)【語釈】 ○白縫 筑紫にかかる枕詞であることは、他にも例があって明らかだが、意味はまだ知られていない。○筑紫の綿は 「筑紫」は、九州の総名としてのもの。「綿」は、上にいった。これについて『講義』は詳しく考証している。綿が古来九州の名産であったことは、続日本紀巻二十九、神護景雲三年三月の条に、「乙未(二十七日)始毎年運2大宰府綿廿万屯1以輸2京庫1」とあって、毎年|調物《みつぎもの》として京庫に納めていたことが知られる。屯は、唐令によると、「六両為v屯」とあり、令制によって十六両を一斤とするので、二十万屯は七万五千斤で、莫大な量である。後、この調物の量のしだいに減じた記事があるが、それは養蚕の利の乏しくなったためだろうという。なおその真綿であったことも、記事の上に明らかである。○身に著けて未はきねど わが身に著けては、まだ著ないけれどもで、満誓が着任した当座、初めてその地の綿を見た時のことと取れる。○暖けく見ゆ 「暖けく」は、仮名書きのない語である。古く「あたたけく」と「あたたかく」と行なわれていたことはわかる。「あたたけく」に従う。暖かそうに見られるの意で、強めて断定していったもの。暖かさの懐かしい頃であったとみえる。
【釈】 この筑紫の綿は、身につけてはまだ著ないけれども、いかにも暖かいものに見られる。
【評】 「白縫筑紫の綿は」は、眼前の綿を見ての語《ことば》であるが、「筑紫」を添え、さらにそれに「白縫」の枕詞を添えていっているのは、その綿を讃える心からである。音に聞いていた名産の綿の、眼前に豊かにあるのに対した心である。「身に著けて未はきねど暖けく見ゆ」は、観世音寺造営の監督として、着任|匆々《そうそう》の時であって、まだ身に著けたことのない時だったとみえる。「未は」と「は」を添えて強めているのが、その心を明らかにあらわしている。「暖けく見ゆ」は、その季節を思わせる語《ことば》である。一首、すなおに詠んではいるが、その時の実感に随順してのものであるところから、おのずから微細な心持までも現われている。全体として感覚的であるのが、何よりもそれを示している。
 
     山上憶良臣《やまのへのおくらのおみ》、宴《うたげ》を罷《まか》る歌一首
 
【題意】 「山上憶良」は巻一(六三)に出た。憶良は、和銅六年従五位下に叙せられ、霊亀二年伯耆守に任ぜられ、養老五年、退朝の後東宮に侍せしめられた。続日本紀には洩れているが、筑前守であったことは、巻五によって明らかであり、その任ぜられた時も、天平二年の歌に、「ひなに五年《いつとせ》すまひつつ」とあるので、神亀五年であったことが知られる。この歌は、前後がすべて、大宰府を中心としての歌であるところからみて、同じく筑前守時代のものであろうといわれている。題詞の「山上憶良臣」は、細井本と版本には「山上臣憶良」とある。姓《かばね》を名の下に書くのは、令制によると四位の人に対してのことであるが、筑前守は従五位下相当の官で、正しい書き方ではない。『講義』は、俗間では後世のごとく、五位に対してもこのように書いていたのではないかといっている。「宴より罷る」は、宴席より中座して退《さが》る意で、罷るというので、宴は大宰府においてのものと思われる。
 
337 憶良《おくら》らは 今《いま》は罷《まか》らむ 子《こ》哭《な》くらむ 其《その》彼(子《こ》)の母《はは》も 吾《わ》を待《ま》つらむぞ
    憶良等者 今者將罷 子將哭 其子母毛 吾平將待曾
 
【語釈】 ○憶良らは今は罷らむ 「憶良ら」の「ら」は、接尾語で、複数を示したものではない。「憶良らは」は、一人称で、憶良自身をいっているもの。「今は」は、題詞の、宴の状態に対していっているもので、宴としての一わたりのことはすんだ時と取れる。「罷る」は、尊い所より退く意で、宴の人々を敬っての言い方。○子哭くらむ わが子が泣いていようというのであるが、その泣くのは、結句で、父親の帰りを待っている意とわかる。○其彼(子)の母も 「彼」は「古葉略類聚鈔」には「子」となっているが、他の諸本は「彼」である。『槻落葉』は、「彼」に従い、「其《そも》彼《そ》の母《はは》も」と訓んでいる。『講義』はそれに従い、「彼」は「かの」に当てた例がなくはないが、この当時は「その」に当てたのだろうといい、しばらく従うといっている。一首の他の部分は、すべて線が太く、直截であるから、その関係上、ここも同様であろうと思われるから、「子」に従うこととする。「其子の母」とは、むろん妻であるが、それを妻といわず、子を主として、「子の母」と言いかえているところに、憶良の特色がある。家の中心を子に置き、妻はその子の母として見ているということは、他には例のないものだからである。「も」は、もまた。○吾を待つらむぞ 吾《われ》が帰るのを待っていようぞ。
【釈】 憶良は今は、お暇を乞って中座をしよう。家には子が、私を待って泣いていよう。その子の母もまた、私を待っていようぞ。
【評】 宴席に列なっていて、中座をしようとする時、挨拶として詠んだ歌である。「罷らむ」という語は敬語である。儀礼としていう場合もあろうが、筑前守としての憶良がいっているので、その宴は大宰府でのもので、席には目上の者もいた関係から、必要として用いたものではないかと取れる。それだとすると、「憶艮らは今は罷らむ」ということは、憶良の人柄、面目を、濃厚にあらわしている語《ことば》である。すなわち儀礼としての宴には列なるが、その儀礼の部分がほぼ終わって、個人的に歓を尽くそうとする部分に移ろうとする時には、憶良は躊躇《ちゆうちよ》なくそれを避けようとしたのである。これを大宰府における宴とすると、そうした事はまれなことであろうが、そうした場合にも、我を没してその雰囲気に同ずるということはしず、いつも自己を意識し、自己の意志に従って行動していたことが、この語《ことば》の中に現われているからである。「子|哭《な》くらむその子の母も吾を待つらむぞ」は、中座の理由で、結論を先にいい、理由を後から添える形のものである。これは、公の儀礼すなわち務めについで大切なものは、憶良にとっては家にある子であって、子が一家の中心になっていることを示していたものである。妻にも及んでいるが、それは妻としてではなく、子の母としてで、いったがようにこれは当時にあってはきわめて特殊な心持である。男が旅にあって故里をいう時には、故里は妹と同意語である。また近くいて「妹が家」という時には、その家には妹がいるだけで、子は関心外のものとなっている。概していうと夫妻は同居してはいず、したがって子に対する父としての関心は少なかったろうとは思われるが、父子の愛情は本能的のもので、無関心でいられるものではない。それにもかかわらず、父として子を対象としての歌のほとんどないのは、歌としてはそうしたものは必要のなかったためではないかと思われる。男が妻をのみ対(132)象とした歌を詠んでいるのは、別居生活をしている夫婦間にあっては、その関係を持続させてゆくには、歌は欠くべからざる必要品であるという伝統があり、それが歌の性格のようになってしまっていたのではないか。妻には子のあるのが当然で、子にはむろん愛情をもっているのであるが、この愛情は、歌をもってあらわす必要がなく、したがってそうした歌がなかったのではないかと思われる。それだとすると、憶良の子に関する歌は、従来はその必要の認められるところがなかった歌の素材としての子というものを、憶良の文芸性によって新たに捉えきたったものと取れる。これは時代が文芸的になってきたのと、憶良の人柄との相俟ってのもので、人柄という中には、憶良の儒教の影響を受けることの深かったことも関係していよう。「子哭くらむ」の「哭くらむ」は、「待つらむぞ」の意からのことであるが、これは明らかに誇張の感じられる語《ことば》で、ここに博良の子に対する溺愛《できあい》が現われている。憶良のこの堂々としていう理由を、その宴席の人々が、いかなる心をもって聞いたかは疑わしい。そうしたことは問題とせずしていっているところに憶良の面目がある。この宴を大宰府においてのものとすると、憶良は妻子を伴っていたことになるが、その辺の消息は解せられない。
 
     大宰帥大伴卿、酒を讃《ほ》むる歌十三首
 
【題意】 「大宰帥大伴卿」は、旅人である。旅人のことは(三三一)にいった。これらの歌は、任地大宰府にあって詠んだものと取れる。「酒を讃むる」は、酒の徳を讃える意で、酔中の趣を喜ぶ心である。わが国では古来、酒と歌とは離れない関係をもつものとなっていた。上代には酒は神に属したもので、人のものではなかった。人が酒を飲みうるのは、神事の際神より賜わる場合だけで、その時には神と人との間に立つ人が、歌をもって神酒を讃えた後に飲ましめたのである。時代が降り、酒が享楽のためのものとなった時にも、人が他に酒を勧める場合には、その時の心を歌をもって述べた後に盃を勧めることとなっていて、古い風が保たれていたのである。それらの歌は内容としては、酒を讃める歌とも言いうるものである。また、中国の詩文には酒を讃めるものが多く、したがって名作も少なくない。これはその国の政治状態に関係をもつもので、政治上の変化がはげしく、文芸の教養をもった人で、失意の境に陥った人が、世事を酒によって忘れようとする心のものが多い。また、酒を溺愛する人が、談理を好む心から、酔って没我の状態となるのを神仙の心に通うものだとして喜ぶものである。中国文学の教養の深かった旅人は、それらの影響を受けることも少なくなかったとみえる。この酒を讃むる歌十三首は、旅人としては力作であって、また代表的のものでもある。この歌で注意されることの第一は、十三首は連作であって、首尾一貫したものだということである。短歌の連作は、人麿によって際やかに高められたものであるが、人麿にも十三首という大きな連作はない。その大きいという上からいうと、この作は集中での代表作である。また連作は、すでに人麿についてもいったが、一つの事相を、時間的推移を追って詠むということを条件としていたもので、各首が独立しているとともに、全体が有機的組織をももっているということを条件とする。(133)この連作は、その条件を備えているが、事相はきわめて単純で、ただ飲酒ということであり、しかも独酌とみえるもので、事相そのものとしてはほとんどいうに足りないもので、その時間的推移は、飲酒によって起こされる気分の推移にすぎないものだということである。すなわち事相というよりも、気分を主としての連作なのである。これがこの連作の特色である。第二には、この時代の歌はすべて実際に即することを風としていたが、ことに連作はあくまでも実際に即さなければならない性質のものである。この連作にあっての実際は何かというと、歌そのものの上に暗示されているにとどまって、すべて背後に隠されているのである。その背後のものをある程度まで明らかにしないと、この連作は捉えられないのであるが、それは臆測するよりほかないものである。明らかなことは、この連作を詠んだ当時、旅人はいかんともし難い事柄により、紛らすべき方法もない鬱情《うつじよう》に捉えられており、この時初めて、酒によってその鬱情を紛らすことを発見したという事柄である。旅人はその時初めて酒の味を知ったのではなく、それ以前とてもむろん酒は飲んでいたろうが、それまでの酒は享楽のためのものであったのが、その時の酒は救いの手となったのであって、これは旅人にとって新たなる発見であり、またいうべくもなく有難いことだったのである。この連作は、ある時の飲酒により、初めて酒にそうした徳のあることを発見し有難がった心を、時間的推移を追って詠み続けたものである。このことは、この連作に対するには、あらかじめ心に置かなければならないことである。その鬱情の何よりきたったものであるかということは、直接には全然いっていないので、歌によって臆測するよりほかはない。臆測をいうと、巻五、巻首(七九三)「大宰帥大伴卿凶問に報《こた》ふる歌一首。禍故重畳し、凶問|累《しき》りに集る。永く崩心の悲を懐き、独断腸の泣《なんた》を流す。但《ただ》両君の大助に依りて、傾命|纔《わづか》に継ぐ耳《のみ》。筆言を尽さず、古今の歎く所なり。世の中を空《むな》しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり」という、老齢に入ってその妻に先立たれた際のことではないかと思われる。事は神亀五年六月である。
 
338 験《しるし》なき 物《もの》を念《おも》はずは一杯《ひとつき》の 濁《にご》れる酒《さけ》を 飲《の》むべくあるらし
    驗無 物乎不念者 一杯乃 濁酒乎 可飲有良師
 
【語釈】 ○験なき物を念はずは 「験なき」は、「験」は、「記す」の名詞化した語で、転じて効果、すなわち「かい」という意となったもの。かいのない。「念はずは」は、巻二(八六)「あらずは」と同じ意で、思わずにの意。この語は「まし」と相応じさせている場合が多い。「物を念ふ」は、嘆きをする意。甲斐のない嘆きをするよりは。○一杯の濁れる酒を 「一杯」は、「杯」は、「酒づき」のつきで、古代の物は土器、すなわち今の「かわらけ」であったところからの文字。一杯という意で、その量のいささかなのをあらわした語。「濁れる酒」は、濁酒で、清酒に対させたもので、それより劣った意でいっているもの。○飲むべくあるらし 「らし」は、眼前を証に挙げての推測をあらわす語で、今は証は、自身の酔って物念いのない状態である。
(134)【釈】 甲斐のなき嘆きをしないで、一杯の濁酒を飲むことのほうが、まさっているようではある。
【評】 甲斐のない嘆きに捉えられていた時、いささかの酒を飲んで、微酔の程度に入ると、その嘆きの薄らいでこようとするのを体験して、酒というものの力を初めて発見した心をいっているものである。「一杯の濁れる酒」は、いささかな粗末な物の意で、その力の偉大さをいおうとする用意をもつての語《ことば》である。洒そのものを愛する心からではなく、その偉力をいおうとしてのものなのである。結句の「らし」は含蓄をもった語で、この一語によってその体験であることをあらわしている。自身にとっては重大である嘆きを、「験なき物を念ふ」と軽んじていい、また、新たな発見を、「飲むべくあるらし」と婉曲な語《ことば》をもっていっているところ、旅人の人柄を思わせる。
 
339 酒《さけ》の名《な》を 聖《ひじり》と負《お》ほせし 古昔《いにしへ》の 大《おほ》き聖《ひじり》の 言《こと》の宜《よろ》しさ
    酒名乎 聖跡負師 古昔 大聖之 言乃宜左
 
【語釈】 ○酒の名を聖と負ほせし 「負ほせ」は、下二段活用の動詞。つけたところのの意。酒の名を、聖とつけたところので、下へ続く。これは中国の故事をいったもので、『魏書』に、「大祖禁v酒、而人竊飲。故難v言v酒。以2白酒1為2賢者1、以2清酒1為2聖人1」とあるによったのである。「聖《ひじり》」はその「聖人」で、清酒の隠語である。もとより隠語であるから、明らかな理由があるのではない。聖賢は中国にあっては、理想的人物の称で、清酒と濁酒とは極端にかけ離れたもので、それが隠語たりうるゆえんである。この隠語を作ったのは、当時の人で、もとより誰ともわからない。○大き聖の言の宜しさ 「大き聖」は、熟語。「大き」は讃える意の語で、聖の中でもすぐれた聖。「言」は、言葉。「宜し」は、讃える意の語で、意味の広いものである。ここは言葉そのものを讃えているので、ふさわしいというにあたる。「宜しき」は、ふさわしいことよ。
【釈】 酒の名を聖とつけた、昔の大いなる聖の、その言葉のふさわしいことよ。
【評】 これは前の歌の気分の延長で、微酔の境に入ると甲斐なき嘆きを忘れることを得たので、何らかの語で酒を讃えようとすると、知識人である旅人には、それに当てはまる中国の故事が浮かんできたので、それをもって代わりとしたのである。しかしそれをするには、その故事に対して、旅人自身の解釈を下したのであって、その解釈が一首の作意である。それは酒に対して、「賢者」「聖人」という隠語をつけたのは、隠語とはいえ漫然とつけたのではなく、理のある適《ふさ》わしいものである。それは酒は人をして没我の境に入らしめる物で、その没我ということはすなわち聖賢の心である。それで、酒にそうした隠語をつけた人は、聖賢の心を知りつくした人で、まさに大聖と称すべきであるというのである。隠語を造った魏の人は、ただその時の人というだけで、もとより誰ともわからない。期するところは人に気づかれないように、思いきって突飛な名をつけようと(135)いうことだけで、大聖などという者とは何のかかわりもないものである。それを「大き望」と定めたのは旅人の解釈で、現在の自身の心境を基としてそれを発展せしめたものである。一首、軽く見えるものではあるが、根柢のあり、また才情の見えるものである。
 
340 古《いにしへ》の 七《なな》の賢《さか》しき 人等《ひとたち》も 欲《ほ》りする物《もの》は 酒《さけ》にしあるらし
    古之 七賢 人等毛 欲爲物者 酒西有良師
 
【語釈】 ○古の七の貿しき人等も 「古」は、中国の晋の代。「七の賢しき」は、七人の賢いで、「賢」は旧訓「かしこき」で、『古義』の訓。古くは「かしこし」は恐懼の意で、賢しは「さかし」といったことが仮名書きによって明らかだからである。「人|等《たち》」の「等《たち》」は、敬いの意をもっての複数をあらわす語。「も」は、もまたで、並べる意のもの。その並べたのは、旅人自身にで、結句の「らし」と相応じさせている。三句、中国の故事をいったので、『晋書』『世説』などに出ている名高いものである。『世説』には、「陳留(ノ)阮籍、※[言+焦]国(ノ)※[(禾+尤)/山)]康、河内(ノ)山濤、三人年皆相比、康年少之。亜之預2此契1者、沛国(ノ)劉伶、陳留(ノ)阮咸、河内(ノ)向秀、琅邪(ノ)王戎。七人集2于竹林之下1、肆v意酣暢。故世謂2竹林(ノ)七賢1」とある。酣暢とは酒を飲んで楽しむことである。いわゆる晋の竹林の七賢人である。昔の七人の賢い人たちもまた。○欲りする物は 欲りするは、「欲る」に「す」が複合した、その連体形。後の欲するに同じ。欲しいとする物はで、賢者は物慾を超越した世界に住する者とし、それにかかわらず欲しいとする物はとの意でいっているもの。○酒にしあるらし 「し」は、強め。「らし」は、証を挙げての推量で、ここでは証となるものは、旅人自身の心境で、自身を竹林の七賢人に擬《なぞら》えての語。
【釈】 いうところの七人の賢い人たち、すなわち竹林の七賢人もまた、それだけは捨てられずに欲しいとしていた物は、確かに酒であったことだろう。
【評】 前の歌に続けて、酔って憂えを忘れた状態を喜んだ心である。前の歌に続いて旅人の心に浮かんだのは、名高い竹林の七賢人で、自身の心境を七賢人に擬したのである。それは「人たちも」の「も」と、「あるらし」の「らし」とによって明らかである。この当時にあっては、自身を七賢人に擬するということは、高い矜持であったろうと思われるが、それをあらわすにはきわめて婉曲な方法を取っているところに、その人柄がみえ、また文芸的感性の鋭さをも思わしめる。
 
341 賢《さか》しみと 物《もの》言《い》ふよりは 酒《さけ》飲《の》みて 酔哭《ゑひな》きするし 益《まさ》りてあるらし
(136)    賢跡 物言從者 酒飲而 醉哭爲師 益有良之
 
【語釈】 ○賢しみと物言ふよりは 「賢しみと」は、賢くありと思ってで、分別がありとしてというにあたる。「物言ふよりは」は、ものをいうのよりはで、下の「酒飲みて酔哭きする」に対させたもの。これは他人の事をいっているかのようにも見えるが、旅人自身のことをいっているものであることは、結句の「らし」で明らかである。○酒飲みて酔哭きするし 「酔哭き」は、いわゆる泣き上戸で、酔いが極まると、平生の自制力が衰えて、胸に停滞していた悲しみが、涙となって現われることである。これは熟酔ということを具象化したものと取れるが、十三首の中にこの語《ことば》は三回までも繰り返されているところから見て、旅人にはそうした性癖があったのではないかとも思われる。これは性癖としては稀れなもので、醜いとされているものである。ここもそれで、「賢しみと物言ふ」の賢しげなのに、醜いこととして対照したものである。「し」は、強め。酒を飲んで熱酔して酔哭きをすることのほうが。○益りてあるらし 「益りてある」は、まさっている。「らし」は上に出た。証を挙げての推量で、証は旅人自身の心境の変化である。
【釈】 悲しみを紛らそうとして、分別ありげにものをいっているその賢げなのよりも、酒を飲んで酔を極めて、醜い酔哭きをするほうが、効果の上では明らかにまさっているようである。
【評】 前の歌に続いた気分のもので、この歌は酔を極めて酔泣きをし、そのために悲しみの紛れたという体験の上に立って、顧みて、同じく悲しみを紛らそうとして、世の道理を口にして、それによって諦めようとしたことの劣っていたことをいったものである。「賢しみと物言ふ」と「酒飲みて酔哭きする」とを対させているのは、酔哭きを醜いとして避けようとしていた心をあらわしたものであり、また、すでに体験となっているにもかかわらず、「益りてあるらし」と推量の形でいっているのは、いずれも旅人の人柄をあらわしているものである。
 
342 言《い》はむすべ 為《せ》むすべ知《し》らず 極《きは》まりて 貴《たふと》き物《もの》は 酒《さけ》にしあるらし
    將言爲便 將爲便不知 極 貴物者 酒西有良之
 
【語釈】 ○言はむすべ為むすべ知らず 「言はむすべ」は、言うべき術《すべ》すなわち方法。「為むすべ」は、為《す》るべき方法。「知らず」は、知られずで、両方へかかっている。言いようもしようもなくで、言語に絶してというにあたる成句である。「為むすべ」は、語としては為《す》べき方法であるが、心としては、「言はむすべ」の語《ことば》を変えた繰り返しで、意を強めるためのものである。なお「知らず」は、本文は「不知」、旧訓「知らず」を、『代匠記』が「知らに」とも訓んで以来、それに従うものがある。佐伯梅友氏は、「知らに」とあるのは、下の述語に対して、上がその理由を示す場合にのみ限って用いられていると考証している。ここは一、二句は、「極まりて貴き」に対して副詞的修飾語であるから、氏の説に従って「知らず」に従う。○極まりて 「極まりて」は、この上もなく。『講義』は、この語は集中ここにあるのみだと注意している。○酒にしあるらし 上に出(137)た。【釈】 いおうようも、すべきようも知られないほどに、すなわち言語に絶して、この上もなく貴い物は、確かにこの酒というものであろう。
【評】 旅人自身、酔いの快さの頂点にいて、その快さをきたさしめた眼前の酒を讃えたものである。初句より四句までは、最大級の讃え語をもってしていながら、結句に至って「あるらし」という推量の語をもって結んでいるのは、その心の実際に即したものであることを示しているものである。いわゆる酒は百薬の長であるとし、天下の至宝であると信じつつ、それを強いない態度をもっていっているところに、旅人の人柄がみえる。一首、感情の満ちた、調べの豊かな作で、心は平凡であるが、魅力をもったものである。
 
343 中々《なかなか》に 人《ひと》とあらずは 酒壺《さかつぼ》に 成《な》りにてしかも 酒《さけ》に染《し》みなむ
    中々尓 人跡不有者 酒壺二 成而師鴨 酒二染甞
 
【語釈】 ○中々に人とあらずは 「中々に」は、なま中に。「人とあらずは」は、人としてあらずにで、(三三八)「思はずは」と同じ形のもの。○酒壺に成りにてしかも 「酒壺」は、酒を貯えて置く壺。「成りにてし」は、「成る」は変える意で、身をそれに変える意。「てしか」は願望の意。「も」は、詠歎。変わってしまいたいものであるよの意。この二句は中国の故事によったものである。これは呉の鄭泉のことで、その出典につき、『講義』は詳しい考証をしている。要は、鄭泉の事の載っている書は、『呉書』、『三国志』の「呉志」、小説である『※[王+周]玉集』の三書だけであるが、『呉書』は中国で早く佚し、「呉志」は旅人より以後に伝わった書であるから、『※[王+周]玉集』からであろう。『※[王+周]玉集』の記事は『呉書』から引いたもので、「鄭泉字文淵、陳郡人也。孫権時為2大中大夫1、為v性好v酒。(中略)臨v死之曰勅2其子1曰、我死可v埋2於窯之側1、数百年之後化而成v土、覬取為2酒瓶1獲2心願1矣。出2呉書1」と、いうのである。○酒に染みなむ 酒にひたって、しみていよう。
【釈】 なまなかに人としてあらずに、身を酒壺に変えてしまいたいものであるよ。そうなって、酒にひたり、しみていよう。
【評】 前の、酔つての快さから、酒を無上の宝と讃えた、その心の延長である。心としては、酔いの快さは限りがあって、覚める時があるとし、それのないことを希う心である。その心に連想として浮かんだのは、漢文学好きの旅人とて、鄭泉の故事であった。鄭泉が身を酒瓶となしたというのは、死後数百年の後のことであるが、旅人の願いは眼前のことである。鄭泉の理詰めにいっていることを、旅人は明るく、感としていっているもので、そこに国土の相違が認められる。したがって故事はただ、材料に藉《か》りたにすぎないものとなっている。
 
(138)344 あな醜《みにく》 賢《さか》しらをすと 酒《さけ》飲《の》まぬ 人《ひと》を熟《よ》く見《み》ば 猿《さる》にかも似《に》む
    痛醜 賢良乎爲跡 酒不飲 人乎※[就/火]見者 猿二鴨似
 
【語釈】 ○あな醜 「あな」は、感動詞、ああと同じ。「醜」は、見苦しいで、ああ見苦しいことよの意。この句は、第二句以下の、酒を飲まない人に対しての批判で、最初にそれを詠歎の形をもっていったものである。したがって、初句切れの形である。○賢しらをすと酒飲まぬ 「賢しら」は、「賢し」という形容詞に、「ら」の接尾語の添った一つの語で、副詞。賢立《かしこだ》てをする意。「すと」は、するとて。「酒飲まぬ」は、下へ続く。賢立てをするとて、そのために酒を飲まないところの意で、酒に酔ったさまを愚かしいものとして、それを避けようために飲まないところの意。○人を熟く見ば 「人」は、前後の歌との続きから見ると、他人をいっているのではなく、我とわれ自身をいっているものと取れる。さらにいうと、酔前の自分を酔後の自分から振り返って見て、別人のごとく感じていっているという特殊な用法のものである。上から続いて、「賢しらをすと酒飲まぬ人」は酔前の自分を、酔後に客観視し、否定している心のものである。「熟く見ば」は、『代匠記』の訓。よくよく見たならばで、酔前にはそれをよしとしていたが、酔後の心から、立ち入って見るとの意。○猿にかも似む 「かも」は、「か」の疑問に「も」の詠歎の添ったもの。「似む」は『代匠記』の訓。猿に似ているだろうかの意。「猿」はここでは、人真似《ひとまね》をするものとしていったもので、本来の心は愚かなのに、人真似をして賢そうな態《さま》をするものとし、「賢しらをすと酒飲まぬ」ということは、悲しみを紛らす上では拙い方法で、酔哭きするには及ばないものであるのに、その態《さま》の良さに欺かれて、それをのみ良しとするのは、猿に似ているとの意のものである。
【釈】 ああ見苦しいことであるよ。悲しみを紛らそうとしながらも、賢立てするとて、効果の上からいうと、それよりも遙かにまさった方法である酒を飲むということをしない人は、よく見て真相を捉えたならば、人真似をして賢そうにふるまっている猿に似ていることであろうか。
【評】 これは(三四一)の「賢しみと物言ふよりは」と同じ心のもので、異なるところは、前の感を強く言いかえただけである。なぜにそういうことをしたかというと、前の時には初めてその感を経験した時であったので、体験で確かめたものであったとはいえ、推量の形においていうという消極的の態度を取ったのであるが、今はきわめて明らかな事実となってきたので、それにふさわしい強い形をもって、いま一度同じ心を繰り返していったのである。この歌は一見、他人を評しているもののごとき感を起こさせるもので、その感は「賢しらをすと酒飲まぬ人」と客観的にいっているところにあるが、人目をはばかって酒を飲まなかったのは旅人自身で、第一首目の「験なき」がすでにその状態を背景としたものであり、それ以下も一に旅人自身のことで、他人は介在させていないので、連作の約束からいっても、ここに、にわかに他人を挟むということはないはずである。自身を客観視して、「人」という語であらわすことは、集中には例のないものであるが、他人のために歌を代作したもの(139)は相応にあり、また、民謡はすべて他人の作をわがものとしたもので、自他を通わして、我の中に他を見、他の中に我を見ることはむろん行なわれていたことである。旅人はこの連作中にも、漢語、仏語を和訳して用いているものはかなりに多い。我を客観視して「人」と目することは、この人としては怪しむに足りないことと思われる。
 
345 価《あたひ》なき 宝《たから》といふとも一坏《ひとつき》の 濁《にご》れる酒《さけ》に 豈《あに》まさめやも
    價無 寶跡言十方 一杯乃 濁酒尓 豈益目八方
 
【語釈】 ○価なき宝といふとも 「価なき宝」は、価を超越した、すなわち限りもなく貴い宝。法華経受記品に、「以2無価宝珠1繋2其衣裏1」という名高い句を初め、他にもある。それを訳したものとみえる。○一杯の濁れる酒 (三三八)に出た。いささかの粗末な酒。○豈まさめやも 「豈」は、否定、反語を導く副詞。「まさめや」の「め」は已然形で、「や」に続いて反語をなしている。何まさろうか、まさりはしない。
【釈】 価を超越した限りなくも貴い宝といっても、一杯の濁った酒の、いささかの粗末なものに、何まさろうか、まさりはしない。
【評】 紛らす方法のなかった悲しみを、十分に消し去った酒に対して、今更にその徳を感じて、褒め讃えた心で、前の歌に続く気分のものである。「価なき宝」と「濁れる酒」とを対照させているのは、単に語だけのものではなく、「価なき宝」は仏典だけのものではなく他にも用例のあるものであるが、ここは仏典を典拠とし、しかも仏教を暗示したもので、その尊い教も、酒としては劣ったものである「濁れる酒」にも及ばないとの心を寓したもので、これはすなわち極力酒を讃えたものである。知識人の旅人ではあるが、悲しみの極まった時には、思想はついに感覚に及ばないとしているので、語《ことば》としては単純であるが、心としては深いものをもった歌である。
 
346 夜《よる》光《ひか》る 玉《たま》といふとも 酒《さけ》飲《の》みて 情《こころ》を遣《や》るに 豈《あに》しかめやも
    夜光 玉跡言十方 酒飲而 情乎遣尓 豈若目八方
 
【語釈】 ○夜光る玉といふとも 「夜光る玉」は、中国の故事で、いわゆる夜光の玉である。『述異記』に、「南海有v珠、即鯨目、夜可2以鑿1、謂2之夜光1」とあって、天下の至宝としたものである。○酒飲みて情を遣るに 「心を遣る」は、心中の鬱情を散らすこと。○豈しかめやも 何、及ぼうか、及びはしない。
(140)【釈】 天下の至宝とする夜光の玉といっても、人に与える効験からいうと、酒を飲んで心中の鬱情を散じるそれに、何及ぼうか及びはしない。
【評】 前の歌の延長で、心も形も相通ったものである。「夜光る玉」は、訳語としてはいうほどのものでもないが、これまた旅人によって加えられた語彙《ごい》である。二首、酒を溺愛しての心の如く見えるが、事実としては、酒によって鬱情を散じ得た歓びの心よりのものであって、矯飾を思わせるような口気は、その歓びの現われである。酒に対しては旅人は、その酔態をはばかって、平生は親しまずにいた人ではないかとさえ思わせる歌があるのでも、このことは思われる。
 
347 世間《よのなか》の 遊《あそ》びの道《みち》に 冷者《さぶしくは》 酔哭《ゑひな》きするに あるべくあるらし
    世間之 遊道尓 冷者 酔泣爲尓 可有良師
 
【語釈】 ○世間の遊びの道に 「遊び」は、古くは、歌舞管絃より漁猟までを含めた称であった。人の楽しみの代表のものとしてである。「道」は、筋というにあたる。○冷者 旧訓「まじらはば」、『代匠記』は「おかしきは」、『童蒙抄』は「すさめるは」、『考』は「さぶしくは」、『玉の小琴』は「冷」は「怜」の誤りとして「たぬしきは」、『古義』は「洽」の誤りとして「あまねきは」、近く生田耕一氏(『万葉難語難訓攷』)は、「すずしきは」などがある。比較的妥当なのは『考』の「さぶしくは」である。今はこれに従う。それだと楽しくなくばの意である。上よりの続きは、人の楽しみの代表である遊びの道の上で、もし楽しくないならばで、これは人柄により、また年齢によってありうべきことである。○酔哭きするに 「酔哭き」は、上に出た。旅人はこれをもって、最も情《こころ》をやりうる方法としていたのである。これは「遊びの道」以外の、単なる飲酒をさしたもの。一句、酔哭きすることによって情《こころ》をやるにの意。○あるべくあるらし 「あるべくある」は、巻十五(三七三九)「妹をば見ずぞあるべくありける」とあり、当時の語づかいである。「らし」は、眼前に証を挙げての推量で、証は旅人自身の体験と取れる。あるがように思われるの意。
【釈】 世の中にあるさまざまの遊びの筋において、もし情をやることができなかったならば、飲酒によって得られる酔泣きすることによって、情をやるべきであるがように思われる。
【評】 酒を無上の宝とする前の二首に続く気分のもので、新たにその価値を発見した飲酒の楽しみを、従来楽しみの代表のものとしていた「遊びの道」の上に置き、その位置を確かめようとした心のものである。「遊び」は年齢により、またその時の心の状態によって、その価値の変わってくるものである。「遊び」の種類はいったがように、歌舞管絃より漁猟までも含めたものであった。老齢の旅人には、漁猟はおそらく興味とはなり得なかったと思われる。それだと残るものは歌舞管絃である。当時の大宰府には、それらのことに堪えるいわゆる遊行婦が少なくなく、また旅人に親しんでいたことは、旅人が大宰府を去る時、遊行婦の別れを悲しんで詠んだ歌によっても知られる。これらの「遊びの道」は、酒の伴っていたものであることは想(141)像しやすく、「遊び」と酒とは別なものではない。しかし酒より起こる「酔哭き」ということは、面目を重んじる旅人にあっては人前では許されないことであって、それのできるのは独酌の場合に限られたことであろうと思われる。歌は、人とともにするべき歌舞管絃の与える楽しみよりは、独酌によってする酔哭きのほうが、我にとってはまさった楽しみであるということである。これは深い悲しみを抱いていた当時の旅人にとっては、心理的にも自然なことであったろう。しかしそれをいうには、断定を避けて、「冷者」といい、「あるべくあるらし」と想像の形をもってしたのである。永い伝統をもった歌舞管絃に対しては、それより与えられる興味の少ないにもかかわらず、一概に斥けたことはいわず、自身の酔哭きの喜びに対しても、一歩を退けた言い方をしているのは、旅人の人柄よりくるものと取れる。
 
348 今代《このよ》にし 楽《たの》しくあらば 来生《こむよ》には 虫《むし》に鳥《とり》にも 吾《われ》はなりなむ
    今代尓之 樂有者 來生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武
 
【語釈】 ○今代にし 「今代」は、仏教でいう現世の意。仏教では、人は過去、現在、未来の三世にわたって流転するもので、現世は過去世の業の報いであり、また来世は、同じく現世の業の報いであるべきだとしている。したがって、来世は楽しみを得ようとすれば、現世で善業を積まなくてはならない。それにはまず五戒、十戒を守るべきだとしている。「今代」はそうした意をもっていっているものである。「し」は、強め。現世でさえというにあたる。○楽しくあらば 楽しかったならばで、この楽しさは世間的のものである。五戒、十戒は、善業を積むために、まず世間的の楽しみを禁じることで、飲酒の楽しみもその中に加えられている。この歌には、直接に酒のことはいってはいないが、旅人は酒をもって最上の楽しみとしているのであるから、「楽しくあらば」は飲酒の楽しみを得られればの意を間接にいっているものと取れる。○来生には 「来生」は、来世で、現世の報いの現われる世。○虫に鳥にも吾はなりなむ 「虫に鳥にも」は、虫にも鳥にもで、こうした場合、このものには「も」をいわないのが上代の語法である。虫、鳥は、いわゆる畜生である。「なりなむ」は、「なり」は変化する意。「なむ」は、未来の想像。これは、現世で悪業を積むと、その報いとして来世は畜生に生まれるという仏教の心よりのものである。
【釈】 現世でさえ楽しくあったならば、吾は来世では、畜生である虫にでも鳥にでも変わってしまおう。
【評】 上の「価なき宝といふとも」で、すでに間接ながら仏教に触れていたが、この歌に至ると、直接に、正面からそれを否定している。旅人の時代は仏教の興隆期で、当時としては空前の驚くべき盛行を示していた時代である。また当時の仏教は貴族社会より起こったものであり、さらにまたそれを理解するには知識を要したのである。旅人は当然仏教に関心をもち、また相応に深く理解し得ていたことだろうと思われる。悲しみの最も大きいものは生死であり、死別である。この作をした当時、旅人の抱いていた悲しみは、妻の死であったろうと思われるが、それでないにしても、それに近いほどのものであったろうと思(142)われる。「験なき物を念ふ」といい、「賢しみと物言ふ」といひ、「賢しらをすと酒飲まぬ」といっているのは、そうした悲しみより解脱《げだつ》しようとしての理《ことわり》を意味させているもので、またそうした際の理といえば、代表的のものは仏教で、おそらくはそれ以外にはなかったであろう。旅人の繰り返し「賢しら」といっているのは仏説であったろうと思われる。しかし結局旅人はそれによっては救われず、のみならず仏教の戒として禁じている今世《このよ》の楽しみである飲酒によって、初めて救いを体験したのである。温雅で、断定を避けようとする旅人ではあるが、明らかなる体験の前には躊躇することができず、「酔哭きするし益りてあるらし」より「猿にかも似む」としだいに心が高まってき、ついに最後には、「来世には虫に鳥にも吾はなりなむ」と、あからさまに仏教を排斥する態度を取るに至ったのである。この歌は一見、現世の享楽を讃えたがように見えるが、享楽というような余裕のあるものではなく、酒によって悲しみを克服しようという願いを抒《の》べたものである。思想によっての逃避を斥け、あくまで現実に生きようとするところは、伝統の国民性のいかに深く旅人の中に伝わっているかを示すものといえる。「楽しくあらば」は意味の広い語《ことば》で、この一首だけでは酒とは限れないものである。しかし今は連作として作っているので、前々よりの続きで、酒を暗示しうるものとしていっていることと取れる。事実、暗示し得ているのである。同時にまたこの語《ことば》は、語どおりに広がりをもっていて、酒以外の楽しみも連想させるものである。その意味では、仏教に対する不足の心を徹底させているといえる。
 
349 生《う》まるれば 遂《つひ》にも死《し》ぬる 物《もの》にあれば 今世《このよ》なる間《ま》は 楽《たの》しくをあらな
    生者 遂毛死 物尓有者 今在間者 樂乎有名
 
【語釈】○生まるれば遂にも死ぬる物にあれば 生まれてくれば、果てには死んで行くものであるのでで、人間の生命を大観した語。これは仏説の生者必滅を訳した語である。「遂にも」の「も」は詠歎の助詞で、「必」に当てたものであるが、具体化し得ているものである。○今世なる間は 「今世」は、上に出た。現世の意、三世ということを背後に置いての語。現世に生きている間は。○楽しくをあらな 「を」は、詠歎。「あらな」の「な」は、未然形を受けて、希望の助詞。ありたいの意。
【釈】 生まれてくれば、果てには死んでしまうものなので、現世に生きている間は、楽しくてありたい。
【評】 前の歌と、心としては全く同じもので、それを言い方を変えて繰り返したものである。繰り返したのは、この心は深いもので、そうせざるを得なかったためと取れる。注意されることは、繰り返していうこの歌では、取材の範囲が狭くなって、上の歌の「今代《このよ》にし楽しくあらば」だけとなり、「来世」ということは暗示にとどめ、あるいは捨て去っているともみえること(143)である。それでいて一首の歌としては、この方が感の深いものとなっているのである。この心は旅人の、酒を通して新たに至り得た最上の境である。
 
350 黙然《もだ》居《を》りて 賢《さか》しらするは 酒《さけ》飲《の》みて 酔泣《ゑひな》きするに 尚《なほ》如《し》かずけり
    黙然居而 賢良爲者 飲酒而 醉泣爲尓 尚不如來
 
【語釈】 ○黙然居りて賢しらするは 「黙然」は漢語で、訓は、巻十七(三九七六)「母太《もだ》もあらむ」の仮名書きによるもの。黙つての意で、ここは副詞。「黙然居りて」は、黙っていて。「賢しらするは」は、上に出た。賢げにするのはで、分別のありそうにしているのはの意。黙りつづけて、分別のあり顔にしているのはで、これは下の「酒飲みて酔泣きする」に対させたもので、それとは反対な状態である。これはこの連作の第一首目の「験なき物を念ふ」を、客観的に見ての語である。○酒飲みて酔泣きするに 上に出た。悲しみをやる第一の方法としてのもの。○尚如かずけり 「尚」は、やはり。「如かず」は及ばない。「けり」は、詠歎で、打消の「ず」よりただちに「けり」に続くのは、上代の語法で、後世のしかざりけりの意。
【釈】 悲しみに打克とうとして、黙りつづけて、分別のあり顔にしているのは、酒を飲んで酔泣きをするのに較べると、やはり及ばないことであるよ。
【評】 この歌は、この連作の結語として添えたもので、第一首目の「験なき物を念はずは」に応じさせたものである。「黙然居りて賢しらするは」は、第一首目の「濁れる酒」を飲む前の状態で、いったがように、おそらくは仏教の教理によって、直面していた悲しみに打克とうと努力していた時の状態を客観的にいったもの、「酒飲みて酔泣きする」は、試みに飲んだ「濁れる洒」によって、意外にもその悲しみを払い去ることができた新しい経験で、「尚如かずけり」は、それを対比すると、飲酒による救いの力のこの上もないものであることをいったものである。この二つの体験を比較して、その甲乙を定めるに、「尚」の語を用いて、熟思した上でという意をあらわしているのは、旅人のにわかには断定をしない、その温藉《おんしや》な人柄からくることと思われるが、しかし他にも理由があってのことかもしれぬ。この酒を讃むる心は、繰り返しいったがように、酒を享楽の対象として、その味わいを愛でるのではなく、酒を憂えを忘れしめる物として、酔泣きを導き出す力を讃めているのである。すなわち必要を充たしうる物としてである。その背後には大いなる悲しみがあったのであるが、旅人自身は直接には一言もそれに触れていず、ただ、暗示にとどめているのである。これは技法としてというがごときことではなく、旅人の作歌動因からきているものと思われる。それはこれらの歌は、旅人自身わが心をやろうがためのもので、他に示そうということは念頭になかったところから、その必要がないとして触れなかったものと思われるのである。これらの歌の背後にある悲しみは、題意でいったがよう(144)に、妻の死ではなかったかと思われる。それをほかにしては、これほどに深い悲しみは想像し難いものだからである。それだとすると、それに関連して思われることは、旅人は当時、仏教の教理に従って、故人のために飲酒戒を守って酒を断っていたのではなかったかということである。この連作によると、旅人はこの時初めて酒を飲んだがごときことをいっているのであるが、そうしたことは想像としても許されないことである。許されることは、仏教の戒を守って禁じていた酒を、悲しみのいかんともし難いところから破り、その破ったことによって怪しきまでに強い救いを得たので、その発見と感激に駆られて、この大連作は詠んだのである。「黙然居りて賢しらする」は、禁酒戒を守り、ひたすら仏教の教理によって悲しみより解脱しようと試みていたことで、そのことを綴り返しいっているのは、それに縋ろうとしたことの深かったがためで、また、やや突飛な形において仏説を斥ける心を詠み続けているのも、同じくその心からであろうと取れる。しかし、仏説のなお心に残るものがあり、一脈の払いつくし難いものがあって、それがこの最後の結語としての歌に、「尚」の語を用いさせたのではないかと思われる。
 
     沙彌満誓の歌一首
 
【題意】 「沙彌満誓」は、上の(三三六)に出た。
 
351 世間《よのなか》を 何《なに》に譬《たと》へむ 旦開《あさびらきこ》 榜《こ》ぎ去《い》にし船《ふね》の 跡《あと》なきが如《ごと》
    世間乎 何物尓將譬 旦開 榜去師船之 跡無如
 
【語釈】 ○世間を何に譬へむ 「世間を」は、世間を仏者のいう無常という面から捉えていっているもので、世間の無常さをの意。「何に譬へむ」は、何をもって譬えようかで、譬をかりてあらわそうとするのは、その無常のさまである。以上、一段落で、我と我に自問したものである。○旦開榜ぎ去にし船の 「旦開」は、朝、船出をすることをあらわす古語で、集中に例の多いもの。「榜ぎ去にし船」は、榜いで行ってしまった船で、二句は、夜の危険な時は船を港にとどめ、朝、安全な時になると漕ぎ出すという、航海の上ではきわめて普通なことをいったもの。○跡なきが如 「如」は、旧訓。『槻落葉』は、「如し」と改めている。巻二(一六八)「天見る如久《ごとく》」があり、本巻(三〇九)「相見る如之《ごとし》」があって、「久」「之」を記している例から見て、「如」は「ごと」の旧訓によるべきだと『講義』はいっている。意は、その船の後に残すもののないがごとくだの意。三句以下、初二句の自問に対して自答したもの。
【釈】 世間の無常さは、何をもって譬えたらあらわせようか。それよ、港から朝船出をして漕いで行ってしまった船の、後に残すもののないがごとくである。
(145)【評】 世間の無常ということを詠もうとしてのものである。そうした感を起こさせる何らかの刺激があったのかもしれぬが、直接その事には触れず、心持としていっているものである。歌は二段より成っており、初二句はいったがように自問したもので、三句以下はそれに対して自答した形のものである。これは旋頭歌など口唱文学期のものには少なくない形で、その伝統の上に立ったものである。「世間を何に譬へむ」は、無常の感が強く、譬うるにものもなく、惑った意のものである。「旦開榜ぎ去にし船の跡なきが如」は、思いつき得ていっている譬という形のものである。この譬は、当時満誓は大宰府に在って、自然、海に接することも多いところから、経験としていっているものと取れる。新意のあるものである。夜、港につないであった船が、朝、漕ぎ出した後には、何の痕跡もないということは、生存した人の死亡した後のさみしさをあらわすには、恰好な譬喩といえるものである。「如」と「如し」とは、意味としては異なるところはないが、「なきが如」「なき如し」と続けての上で見ると、「なきが如」は、「なき」ということを感を主としていったものとなり、「なき如し」は事を主として、感はそれに伴ってのものという差がある。ここは、自問に対する自答のもので、感を主としてのものであるから、「なきが如」のほうが、心としても妥当なものと思われる。
 
     若湯座王《わかゆゑのおほきみ》の歌一首
 
【題意】 「若湯座王」は、伝が明らかではなく、歌もここの一首が伝わるのみである。湯座は本来、尊き御子に産湯をつかわせまつる婦人の職名で、若湯座は、大湯座に対しての称であり、その事の補助をする職である。後、これが氏の名となった。この王の御名は、王の乳人の氏より得られたものだろうという。
 
352 葦辺《あしべ》には 鶴《たづ》が哭《ね》鳴《な》きて 湖風 《みなとかぜ》 寒《さむ》く吹《ふ》くらむ 津乎《つを》の埼《さき》はも
    葦邊波 鶴之哭鳴而 湖風 寒吹良武 津乎能埼羽毛
 
【語釈】 ○葦辺には鶴が哭鳴きて 「葦辺」は、葦の生えている辺りで、海岸の状態としていっているもの。これは例の多いもので、したがって当時の海岸には共通の光景であったとみえる。「鶴が哭鳴きて」は、「鶴」はその葦辺に棲んでいるものとしていったもの。棲んでいるのは餌としての小魚を獲る関係からである。その鶴が哭鳴くのは、清くさわやかな趣としていっているもの。○湖風寒く吹くらむ 「湖風《みなとかぜ》」は、仙覚の訓。この字は上の(二七四)に出た。港の風の意。「寒く吹くらむ」の「らむ」は、連体形で、下へ続く。これもまた、清くさわやかな趣をいったものである。○津乎の埼はも 「津乎の埼」は、『仙覚抄』は、「伊予国野間郡にありと見えたり」といっているが、それ以上には確かめられていない。不明なのは、この王が任地など特別な関係で知っていられた所で、有名になるべき土地ではなかったためである。「はも」は、「は」は上を承けて(146)いったもので、そこで言いさし、それに詠歎の「も」を続けたもので、ここは、その地以外の所に在って、その地を思い、嘆きの心を寄せている意のものである。
【釈】 葦の生えている辺りには、そこに棲む鶴が、清くさわやかに鳴き、また港の風が、同じく清くさわやかに、寒く吹いているだろうところの、あの津乎の埼はよ。
【評】 一首、津乎の埼という海岸の風景を思い浮かべて、懐かしみの情を寄せられたものである。ここにいわれている風景は、海岸とするときわめて常凡なもので、どこにでも見られる程度のものである。それを懐かしく感じられるということは、その地に特別な関係がなければあり得ないことであり、また風景としては常凡であるが、葦辺の鶴が音も、寒く吹く港風も、いつたがように清くさわやかなもので、そうした趣を捉えるということは、その地に馴染むこと久しくなければできないことである。その埼は王にとっては任地などという関係のあった所ではないかと思われる。さらにまた、海岸のこうした常凡の風景を懐かしむのは、現在は海を離れた所にいられるがためで、おそらく奈良《なら》京においての作ではないかと思われる。「湖風寒く吹くらむ」によると、この思い出をなされたのが、初冬頃の、風の肌寒く感じられる時であったろうと思われる。一見平凡に感じられるが、こもった味わいを持った歌である。こうした純粋に風景のみの、また他奇なき歌が詠まれ、選ばれるということは、時代が文芸的となったために初めてありうることで、この点もまた注意させられる。
 
     釈通観《しやくつうくわん》の歌一首
 
【題意】 「通観」は、上の(三二七)に出た。
 
353 み吉野《よしの》の 高城《たかき》の山《やま》に 白雲《しらくも》は 行《ゆ》き憚《はばか》りて 棚引《たなび》けり見《み》ゆ
    見吉野之 高城乃山尓 白雲者 行憚而 棚引所見
 
【語釈】 ○み吉野の高城の山に 「み吉野」は、しばしば出た。「高城の山」は、古典には所見のない山である。吉野郡の中であることは明らかだ。『大和志』には、「高城山、在2吉野山東1、中有2塁址1、有2古歌1」とあり、『大和志料』には、「高城山。吉野山ノ東ニアリ。山中ハ大塔宮ノ塁址アリ、因テ城山ト字ス」とある。高城という地名は諸所にあり、城《き》は敵を防ぐ城塞をいう語であるから、高城は土石を高く盛り繞らしたものの称と思われる。この山々もそれがあるところからの称であろう。○白雲は行き憚りて 上の(三一七)「山部宿禰赤人、不尽山を望める歌」に出ている語である。いったがように、雲は最も自由に動くものでもあり、また古くは霊気あるものとして尊ばれてもいたのであるが、その雲さえ、そこ(147)を過ぎ行くことを阻まれるというので、これは不尽の山の場合と同じく、山そのものが威霊ある神であるということをあらわしているもので、単に高山ということをあらわしたものではないと取れる。○棚引けり見ゆ 「棚引けり」は、旧訓「たなびきて」を、『古義』が改めたものである。それは、「見ゆ」の上にくる動詞あるいは助動詞は、終止形であるのが古格で、上の(二五六)「乱れ出づ見ゆ」、巻六(一〇〇三)「船出為利《ふなでせり》見ゆ」、巻十五(三六七二)「ともし安弊理《あへり》見ゆ」など、他にも例の多いものである。靡いているのが見られるの意。
【釈】 吉野の高城の山に、空を渡り霊気の畏い白雲が、その山を行き過ぎるのを阻まれて、靡いているのが見られる。
【評】 高城の山を目に仰ぎ見ての歌であるから、吉野の山中にあっての作とわかる。「高城の山」をいうに、「み吉野の」を冠しているのは、所在をことわる必要からのものではなく、山を讃える心よりのものである。「白雲は行き憚りて」は、山を威霊ある神なりとして、それを具象的にあらわしたもので、それ以外のものではなく取れる。赤人の歌にもあり、これに類似した語は他にもあるので、すでに以前より成語となっていたものかとも思われる。神霊の威力を具象するとしては、巧妙なる語というべきである。熱意をもって、単純に、一気に詠んでいるところも、讃えの心にふさわしくみえる。
 
     日置少老《へきのすくなおゆ》の歌一首
 
【題意】 「日置」は、諸国にある地名で、「ひおき」「ひき」とも訓んでいるが、古事記に、「是大山守命者、土形君、弊岐《へき》君、榛原君之祖也」とあるので、「へき」と訓むべきである。『新撰姓氏録』には、右京皇別に日置朝臣、蕃別に日置造があって、そのいずれともわからない。「少老」は、『考』が「すくなおゆ」と訓んでいる。『講義』は、日本書紀、巻二十八に、同じ人を「左味君宿那麻呂」とも、「佐味君|少《すくな》麻呂」とも書いていることを引いて、この訓を確かめている。この人、伝は不明である。
 
354 繩《なは》の浦《うら》に 塩《しほ》焼《や》く火気《けぶり》 夕《ゆふ》されば 行《ゆ》き過《す》ぎかねて 山《やま》に棚引《たなび》く
    繩乃浦尓 塩焼火氣 夕去者 行過不得而 山尓棚引
 
【語釈】 ○繩の浦に塩焼く火気 「繩の浦」は、その所在が明らかではない。『古義』は、土佐国安芸郡|那半《なわ》ではないか。そこは南に海を帯び、北東に山を負って、この歌詞にかなっているといっている。『檜嬬手』は、播磨国飾磨郡にあり、入江をなしている地で、その入江は五、六石積みの船までは泊れる港である、古、奈波のつぶら江といったのもここだろうといっている。『講義』はこれに検討を加え、そこは赤穂郡で、那波村(相生市那波)といい、古の山陽道の要路赤穂街道の分岐点で、今は山陽本線の那波駅である。海と山と迫っており、また製塩に名高い地だから、由ありと思われるといっている。「塩焼く火気」は、塩を製するために焚く火の煙。○夕されば行き過ぎかねて 「夕されば」は、夕べの移って(148)くれば、すなわち夕べとなるとで、夕べは、昼の中の太陽に暖められた空気の冷えてくる時で、したがって煙の圧えられて、立ち騰《のぼ》り難くする時である。「行き過ぎかねて」は、立ち騰った空を行き過ぎて、遠くへ行くことを得ずして。○山に棚引く 近くの山腹に靡いている。
【釈】 繩の浦の、塩を製するために焚く火の煙は、夕方となると、そこの空を行き過ぎて遠くへ行くことができなくなって、近くの山の腹に靡いている。
【評】 純粋な叙景の歌といううちでも、終日焚いている製塩の煙が、夕方になるとその状態を変えてくるという、特殊な、また微細なことに心を寄せた歌で、この当時としてはきわめて新意のあるものである。立ち騰り、靡き薄れて消えてゆく煙の状態は、本来魅力のあるもので、後世も歌の取材となっているものであるが、その多くは恋の譬喩としてである。この歌は煙そのものだけの歌であり、また、「夕されば行き過ぎかねて山に棚引く」は、あくまでも実際に即したもので、そこに興味がある。実際を重んずる心が、いかに強く働いていたかを思わせられる。
 
     生石村主真人《おほしのすぐりまひと》の歌一首
 
【題意】 「生石」は氏、「村主」は姓、「真人」は名である。続日本紀、天平勝宝二年正月の条に、正六位上から外従五位下を授けられている大石村主真人と同人であろう。生石氏は、坂上氏の系図に見えていて、坂上氏と同族だと『講義』はいっている。
 
355 大汝《おほなむち》 小彦名《すくなひこな》の 座《いま》しけむ 志都《しつ》の石室《いはや》は 幾代《いくよ》経《へ》ぬらむ
    大汝 小彦名乃 將座 志都乃石室者 幾代將經
 
【語釈】 ○大汝小彦名の 「大汝」は、またの名を大国主神ともいい、素戔嗚尊の孫にあたられ、天孫降臨に先立ち、この国土を経営して、天孫に譲られた神であり、神代を代表する神である。「小彦名」は、高皇産霊神の子とも神皇産霊神の子とも伝えられ、大汝神を助けて国土経営にあたられた昆虫である。この二神の功を、日本書紀は、「夫大己貴命与2少彦名命1戮v力一v心経2営天下1、復為2顕見《うつしき》蒼生及畜産1則定2其療v病之方1、又為v攘2鳥獣昆虫之災異1則定2其禁厭之法1。是以百姓至v今咸蒙2恩頼1」といい、古事記には、神産巣日神が、少彦名命に命じられた語として、「故汝与2葦原色許男命1(大汝)為2兄弟1而作2堅其国1」とあり、事としては、「故自v爾大穴牟遅与2少名毘古郡神1、二柱神相並作2堅此国1」とある。○座しけむ志都の石室は 「座しけむ」は、住ませられたであろうところの。「志都の石室」は、その所在について諸説がある。そのうち最も注意される説は、本居宣長の『玉勝間』巻九に載せているもので、要は、石見国邑智郡岩屋村(瑞穂町岩屋)に大きな岩窟があり、里人は「しづ岩屋」といっている。そこは出雲《いずも》と備後の境で、浜田より二十里ばかり、東方の山深い所である。高さ三十五、六間もある大岩星である。古、大穴牟遅(149)少彦名の二神のかくれ給いし岩屋と里人は語り伝えている。以前はやがて岩屋を祭っていたのに、中頃からその外に社を建てて祭っている、というのである。宣長はこの歌につき、真人が宮人としてこの国に在って、行って見たとすれば格別であるが、いかがなものであろうかと疑っている。とにかくその国は、他国の人の行くこと稀れな上に、そのような辺都な土地なので、後の人の構えていったこととも思われない。必ず深い由があろうといっている。真人が宮人としてその国に在って見たかもしれぬということは、疑うほどのことでもない。今はしばらくここと見るほかはなかろう。○幾代経ぬらむ どれほどの久しい代を経たことであろうかで、岩屋そのものに対していっているもの。
【釈】 大汝と小彦名の二柱の神が居られたであろうところのこの志都の岩屋は、その後どれほどの久しい間の代を経たことであろうか。
【評】 大汝、小彦名の二神の座した所だという伝説を信じ、その岩屋を目に見ての感である。この二柱の神が、わが国土を作り堅められたという言い伝えは、上代にあっては、広い範囲にわたり、深く信じられていたものであったことは、集中の他の歌によっても想像される。その神が神霊として仰がれていた時代に、山上にある大きな岩屋を見て、それを二神に結びつけ、何らかの関係を想像するということは、最も自然な、またありうることである。それはすなわち岩屋の起源伝説である。真人のいう「志都の石室」と石見国の「しづ岩屋」と、はたして同じ物であるかどうかは、もとよりわからないことで、今それを別個の物とし、二か所においてこの歌詞のような言い伝えがあったとしても、怪しむには足りないことである。この歌で、真人が力点を置いているのは、大汝、小彦名の二神ではなく、石室《いわや》であって、その経たる年月に対する感動であることは、注意されることである。
 
     上古麿《かみのふるまろ》の歌一首
 
【題意】 「上」は氏、「古麿」は、こまろとも訓んでいる。上氏は蕃別で、姓は三つに別れている。古麿は何姓かわからない。伝は不明である。
 
356 今日《けふ》もかも 明日香《あすか》の河《かは》の 夕離《ゆふさ》らず 川津《かはづ》鳴《な》く瀬《せ》の 清《さや》けかるらむ【或本の歌、発句に云ふ、明日香川今もかもとな】
    今日可聞 明日香河乃 夕不離 川津鳴瀬之 清有良武【或本歌、発句云、明日香川今毛可毛等奈】
 
【語釈】 ○今日もかも明日香の河の 「今日もかも」の「かも」は、「か」は疑問、「も」は詠歎の助詞。この「か」は、結句の「らむ」の連体形で結ばれている。「明日香の河」は、しばしば出た。○夕離らず川津鳴く瀬の 「夕離らず」は、夕ごとにの意の語で、巻七(一三七二)「み空ゆく(150)月読壮士夕不去《つくよみをとこゆふさらず》目には見れども因《よ》る縁《よし》もなし」、巻十(二二二二)「暮不去河蝦《ゆふさらずかはづ》鳴くなる三和河《みわがは》の清き瀬の音《と》を聞かくしよしも」など、いずれも夕ごとにの意と取れる。この語は「朝さらず」に対したものである。「川津鳴く瀬の」は、「川津」は今の河鹿で、上の(三二四)に出た。明日香川には河鹿が多く住んでいたのである。この二句の続きは、河鹿は昼も鳴くものであるが、夕方、辺りの物音がしずまった時には、ことにその声が耳につくところからいったもので、感じを主としての続けである。また、河鹿は、清い水でなければ棲まないものであるところから、下へ続けている。○清けかるらむ 「清けかる」は、「清けくある」の約《つづ》まったもの。瀬を形容したもので、水の清さ、その水の流れるに伴って立てる音をも含めての語であるが、ここは、河鹿の声をも含ませているものと取れる。初句の「かも」をここに移して解すべきもの。○或本歌云々 「今もかもとな」は、「今もか」は「今日もかも」の範囲を狭めたもので、「か」は結句の「らむ」の下に移して解すべきもの。「もとな」は巻二(二三〇)に既出。本来は理由なくの意であるが、意味の広い語で、ここはおぼつかなくという意で、「今もか」を強める意で用いているものと取れる。したがって、「か」の下に続けて解すべきもの。
【釈】 今日も、あの明日香川の、夕ごとに河鹿の鳴く瀬は、前のように清《さや》かであることだろうか。(あの明日香川は、今も、……清かであることだろうか、おぼつかない)
【評】 明日香の里に対して故里としての心をつないでい、そこの代表的の佳景である明日香川に対して思慕の情を起こしたものである。その情の中心となっているものは、明日香川の川瀬の清けさであって、そこに特色がある。また、その情を起こしたのは、河鹿の鳴きはじめる晩春初夏の頃であったろうと思われて、そこにも清けさがある。その清けさは、水の清さ、瀬の音の清けさ、河鹿の声の清けさの綜合されたもので、同時に細かい心も働いていて、それを感によって綜合したものである。山部赤人の歌風の起こる時には、それと撰を同じゅうする上の(三五四)の歌、この歌のようなものも行なわれていたことを思わせられる。「或本の歌」は、心は同じであるが、あまりに心を細かく働かせすぎたために、一首の姿が砕けて、思慕の情よりも不安の情のほうが勝ったものとなってしまっている。
 
     山部宿禰赤人の歌六首
 
357 繩《なは》の浦《うら》ゆ 背向《そがひ》に見《み》ゆる 奥《おき》つ島《しま》 榜《こ》ぎ廻《み》る舟《ふね》は 釣《つり》を為《す》らしも
    繩浦從 背向尓所見 奧嶋 榜廻舟者 釣爲良下
 
【語釈】 ○繩の浦ゆ 「繩の浦」は、上の(三五四)のそれと同じ所であろう。それだと播磨国赤穂郡の海岸である。赤人は西へ向かっての旅をしていたと取れるから、それだと当時の風に従って、船で瀬戸内海を航行し、今、繩の浦へ寄ろうとしているところで、そこを起点として、繩の浦(151)よりといっていると取れる。○背向に見ゆる奥つ島 「背向に見ゆる」は、「背向」は背中合わせで、すなわち後ろ。後ろに見えるというのは、振り返って見た場合にのみいうことであるから、ここも船を港に向けていて、船中から振り返って見て、後ろに見えるといっているのである。細かい言い方であるが、以下も同様で、不調和なものではない。「奥つ島」は、沖の島であるが、その沖は、距離の近い所であることが、続きでわかる。○榜ぎ廻る舟は 「廻る」は、めぐるで、漕ぎめぐっている舟は。○釣を為らしも これは旧訓である。『玉の小琴』は「釣為」を「釣せす」と改めた。「釣をす」という訓を、語感の上から厭《いと》ったのである。『古義』は、「為《せ》す」は敬語で、ここには当らないという理由で「釣し為《す》」と改めた。『講義』は、集中に多い例に従って、旧訓に復《かえ》している。旧訓の方が落着きを持っている。これに従う。「らし」は、証を挙げての推量で、ここは「榜ぎ廻る」という状態が証と取れる。「も」は詠歎。
【釈】 船が繩の浦へ入ろうとして、そこから振り返って見ると、後ろのほうに見える沖の島を漕ぎめぐっているところの舟は、釣をしているようであるよ。
【評】 穏やかな日、瀬戸内海を舟行していての興であるが、奈良京に住んでいる宮人の、海を珍しむ心の伴っているもので、いささかの事にも心の動いての作と取れる。「繩の浦ゆ背向に見ゆる」は、やや難解の感のある言い方であるが、上代の歌風で、そこの土地を主とし、それに自身のその時の状態を絡ませて、一緒にいおうとするところからきているものである。それは、いおうとする事は、その土地から離すを得ず、またそのいおうとする興は、自身のその時の状態もいわなければならないという必要からのもので、結果から見ると細かい言い方になっているのである。しかしこの細かさは、いわんとする興も淡くまた細かいもので、「榜ぎ廻る舟は釣を為らしも」ということであるので、一首全体の上からは調和をもち得たものなのである。手腕のみえる作で、歌としても湿おいをもち得ている。
 
358 武庫《むこ》の浦《うら》を 榜《こ》ぎ廻《み》る小舟《をぶね》 粟島《あはしま》を 背《そがひ》に見《み》つつ ともしき小舟《をぶね》
    武庫浦乎 榜轉小舟 粟嶋矣 背尓見乍 乏小舟
 
【語釈】 ○武庫の浦を 摂津国武庫郡の海辺を。現在の武庫郡は、古よりも以西の地域を含めたもので、古は河辺郡の西、菟原郡の東にあって、主として武庫川の流域であったと『講義』は注意している。すなわち今よりも三津浜に寄っていたのである。○榜ぎ廻る小舟 「榜ぎ廻る」は、前の歌に出た。榜ぎめぐる意で、上代の航海法は、できうる限り海岸を離れまいとしたので、海岸伝いという状態になったのである。「小舟」は、下に詠歎が含まれている形のもの。○粟島を 「粟島」は、所在が明らかでない。古事記に二か所出ており、摂津の海に接した所の島だということを暗示している。本集にも二か所出ており、その一か所は、巻四(五〇九)「丹比《たぢひの》真人笠麿、筑紫国に下れる時、作れる歌」であり、海路、船を寄せる島々を道行き風に並べてあるので、最も所在をあらわしている。その部分を引くと、「天放《あまさか》る夷《ひな》の国辺に、直《ただ》向ふ淡路を過ぎ、粟島を背向《そがひ》に(152)見つつ……稲日《いなび》づま浦|廻《み》を過ぎて」というのである。「稲日づま」は、いま播磨国加古川の川口にある高砂の地である。すなわち瀬戸内海を西に向かって行くと、第一に淡路島、第二に粟島、第三に「稲日づま」という順序になるのである。この歌における粟島は、単に風景として捉えているという偶然なものではなくて、笠麿の歌の場合と同じく、今、西へ向かっての旅をする赤人の船が、その島に向かっているのか、出たのか、いずれにしてもその島を念としていることをあらわしている島で、赤人にとっては必然の理由があっていっているものである。その粟島は、今はその名の島もなく、またどこともわからなくなっている。○背に見つつともしき小舟 「背《そがひ》に見る」は、前の歌に出た。「背に見つつ」は後ろに見つつ漕いでゆくところので、すなわち三津の浜へ向かって行く、言いかえると京に帰るところの意。「ともしき」は、羨ましきの意で、「小舟」は、二句の繰り返しで、小舟よの意のもの。
【釈】 武庫の海辺《うみべ》を、海辺伝いに漕ぎめぐって行くところの小舟よ。粟島を後ろに見つつ漕いで行くところの羨ましい小舟よ。
【評】 三津の浜から船出して、瀬戸内海を西に向かって航して行く赤人の、武庫の浦から遠くない辺りで、たまたま反対に、西より来て東の三津の浜へ向かって行く船と行きちがいになり、その船中の人を羨んだ心のものである。羨むのは、妹が待つ家に帰って行く人だからである。しかしそれをいうには、しだいに隔たり行くその人の船を武庫の浦に捉え、自身の船に近いところの粟島によって関係づけ、「武庫の浦を榜ぎ廻る小舟」と総括していい、「粟島を背に見つつともしき小舟」と、繰り返していうことによって自身と対比し、それによって感傷の全部をいっているところ、まさに典型的な単純化である。心が細かく、調べもしめやかで、一家の風格を発揮した作である。
 
359 阿倍《あべ》の島《しま》 うの住《す》む石《いそ》に よる浪《なみ》の 間《ま》なく比来《このごろ》 日本《やまと》し念《おも》ほゆ
    阿倍乃嶋 字乃任石尓 依浪 間無比來 日本師所念
 
【語釈】 ○阿倍の島 所在は不明である。赤人が船旅をしている途上、見かけた島である。○うの住む石による浪の 「う」は、鵜で、水中の魚を捕えて食餌とする鳥。「住む」は、そこを離れずにいるところからいったもの。「石」は、古くは「いそ」といったところからの用字。「浪の」の「の」は、ここは、のごとくの意のものと取れる。初句より三句までは、下の「間なく」の譬喩とも取れ、また序詞とも取れるものである。序詞は本来、口承文学時代、謡い物の上で愛用された修辞法で、その係る語、ここでいえば「間なく」との関係に、飛躍があり、唐突なものがあって、それが喜ばれたのである。ここの続きにはそれが少ないので、譬喩の心のものであろうと思われる。○間なく比来 絶え間もなく、すなわち絶えずこの頃はで、旅の日数のすでに重なっていることをあらわしたもの。○日本し念はゆ 「日本」は、倭で、わが家《や》すなわち妹ということを、おおまかにあらわした称。「し」は、強め。「念ほゆ」は、思われるで、恋しまれるの意。
【釈】 阿倍の島の、鵜の住んでいるところの磯に寄ってくる浪のごとくに、我は絶えずもこの頃は、家にいる妹が恋しまれる。
(153)【評】 舟旅の途上、磯に寄せる浪の絶え間のない状態を目にして、胸にある旅愁を刺激されての歌である。岸に寄せる浪の状態から間なくを連想することは、すでに常識化したもので、創意のあるものではない。また、「阿倍の島」というように地名を入れ、また妹のことを「日本」というように言うのも、常識となっていた。しかし、磯をいうに、「うの住む石」といっているのは新味のあるものである。鵜は京にあってはもとより、水辺にあってもどちらかというと少ない鳥であり、また印象的なさまをしたものであるから、旅愁をそそられること多いものと思える。一首、心細かく、湿おいを帯びていて、そのために常凡を新鮮に化しているところがある。
 
360 塩《しほ》干《ひ》なば 玉藻《たまも》苅蔵《かりをさ》め 家《いへ》の妹《いも》が 浜《はま》づと乞《こ》はば 何《なに》を示《しめ》さむ
    塩干去者 玉藻苅藏 家妹之 演※[果/衣]乞者 何矣示
 
【語釈】 ○塩干なば 潮が干ていつたならば、すなわち引潮になったならば。○玉藻苅蔵め 「玉藻」は、しばしば出た。「玉」は美称で、「藻」は海草の総称。「苅蔵」は、訓がさまざまで定まらない。旧訓「かりつめ」、近く『全釈』は「かりをさめ」と訓んだ。「蔵」を「をさむ」と訓んだ例は、集中に他に二か所あり、妥当なものである。これに従う。これは命令形で、ここで一段となっている。○家の妹が浜づと乞はば 「家の妹」は、家にいる妹。「浜づと」は、「家づと」、「山づと」などと同系の語で、浜の土産物。「乞はば」は、旅をすると土産を持って帰るのが風となっていたことを背景としての語。○何を示さむ 何物をそれとして示そうかで、そのほかには何もないということを、余情としての語。すなわち玉などはもとより、貝もない所としていっているもの。
【釈】 潮が引いて行ってしまったならば、人よ、玉藻を苅つて蔵《しま》って置けよ。家にいる妹が浜の土産物を乞ったならば、何物をこれだといって示そうか、ここにはそれよりほかの物はない。
【評】 海路の旅をして、帰路、家へ着くのも程もないといった時、港にあっての歌と思われる。家を思うと、浜づとのことが連想されてくるが、その海にはこれぞという物も見あたらず、また、そこを外にしては、そうした物を探す場所もないということを背後としての心であるということが、歌の上から感じられる。落着いた心をもって家を思う心、旅路のその時の状態など、相応に複雑したことを、その従者に命じる短かい用向きの語の中に、おのずからに含ませているのは、実際に即して詠んでいる結果ではあるが、非凡なる手腕というべきである。赤人の特色をもっている歌である。
 
361 秋風《あきかぜ》の 寒《さむ》き朝開《あさけ》を 佐農《さぬ》の岡《をか》 超《こ》ゆらむ公《きみ》に 衣借《きぬか》さましを
(154)    秋風乃 寒朝開乎 佐豊能岡 將超公余 衣借益矣
 
【語釈】 ○秋風の寒き朝開を 「朝開」は、朝明けの約。「を」につき、『講義』は詳しい説明をしている。この「を」は、長時継続する事項をもって説明しようとする時、その時間の継続していることをあらわすもので、その意味で普通の「を」とは異なっていると、多くの例を挙げて証明している。しかしその事項は、時間的継続を要する点では、一種の動的目標であると注意し、現在の「日をくらす」「夜をあかす」などと同例であるといっている。○佐農の岡 所在は明らかでない。上の(二六五)「神《みわ》の崎|狭野《さの》の渡」とあり、そこと同じではないかともいう。それだと紀伊国牟婁郡である。○超ゆらむ公に 原文「将超」は、「こゆらむ」とも「こえなむ」とも訓め、『略解』は「こえなむ」と訓んでいる。それだと、まだその地へ到らない以前に詠んだ歌となる。ここは現に越えようとしている事を推量しての意と取れるから、「こゆらむ」とすべきである。「公」は、男女間では、女より男に対しての称である。この称を用いている以上、作者は女で、少なくとも女の立場に立っての人でなくてはならない。○衣借さましを 衣を貸すということは、夫婦者にあっては、寒い時には、互いに下の衣を貸し合うのが上代の風であった。ここは、女より男に貸す場合である。「まし」は、事実としてはないことを、仮設していう意の助動詞。「を」は、詠歎の助詞で、できることならば、わが下の衣を貸そうものをの意。
【釈】 秋風の肌寒いこの明け方に、これから佐農の岡を越えて行こうとする君に、できることならばわが下の衣を貸そうものを。
【評】 この歌は女の歌で、少なくとも女の立場に立っての歌である。しかしこの巻の撰者は、赤人の歌と認めていたもので、それは題詞によって明らかである。認めるには証のあったことと思われる。それだと赤人が女のために代作をしたものと見なければならない。代作の歌は集中にある程度まではあり、またあからさまに断わってもあって、さして珍しいものではない。当時の歌は実用性の面が広く、歌は口頭の挨拶として詠まれる場合が多く、またそうしたものは、文芸上の価値を競うというところのないものでもあるから、必要な場合には当然のこととして代作をしたものと思われる。これを赤人の歌とすると、どういう必要があってのことか、少なくともあるいはどういう衝動があっての代作かということが問題となる。最も想像されやすいことは、佐農の岡を越える旅人を赤人自身とし、すでに旅愁のある上に、おりからの侘びしさも加わって、大和の家にいる妹を思わせられ、もし妹がここに居たとしたならば、我をいたわる心をもってこうもいうだろうと思い、それを歌として、我と我を慰めての作だろうということである。これは歌が著しく文芸性を高めてきた当時にあっては、ありうべきことと思われる。さらに立ち入って想像すると、当時の風に従って赤人も、旅愁を慰めるために、その土地の女と関係を結んだが、これはかりそめの関係で、別れれば再び逢うことは期し難い間である。別れようとする時、女がこのようなことをいったのを、赤人が代わって歌にしたということも、ないとは言えないことである。そう思うのは、普通の夫婦関係であれば、衣を貸すということは何でもないことである。しかるにこの女は、衣を貸そうとす
る心はあるが、それを実行はしていないことをいって言るので、(155)それは今いったごとき関係の間にあってのみありうることだからである。いずれにもせよ、歌は心細かく、調べがしめやかで、赤人の特色をもったものであって、赤人の作であるということは疑う余地のないものである。その心細かさは、事実に即するところからくるもので、したがって含蓄となってくるので、いうがごとき想像をさせることともなるのである。
 
362 美沙《みさご》ゐる 石転《いそみ》に生《お》ふる 名乗藻《なのりそ》の 名《な》は告《の》らしてよ 親《おや》は知《し》るとも
    美沙居 石轉尓生 名乘藻乃 名者告志弖余 親者知友
 
【語釈】 ○美沙ゐる石転に生ふる 「美沙」は、江辺、山中にいる鳥で、魚を餌としているもの。ここは江辺として下に続けている。「石転」は、磯回《いそみ》と同じで、磯のめぐりの意。○名乗藻の 「名乗藻」は、海藻の一種で、今、ほんだわらと呼んでいる物である。初句からこれまでの三句は、次の「名は告らし」の同語に畳むためのもので、序詞である。○名は告らしてよ 「名」は、女の名。「告らし」は、告白、すなわち知らせるの意の敬語。上代は、男は女に対して敬語を用いていて、その例は集中に限りなくある。原文の「弖」は諸本すべて「五」とあり、したがって訓み難くしていたのを、『考』が「弖《て》」の誤写だとし、爾来諸注の従っているものである。「て」は、「つ」の命令形。「よ」は、ここは、要求の意を強める助詞。名を知らせて下さいよの意。男が女にその名を知らせよというのは、求婚に応ぜよということであり、進んでは、信じて身を托せよということであって、ここもそれである。○親は知るとも 「親」は、上代では大体母である。それは子からいうと、父は母の家へ通って来る関係だけで、平生一緒にいるのは母で、したがって母の方が重かったためである。その結果、娘の結婚に干渉するのは、主として母であった。結婚は、娘の自由であって、あらかじめ母の承諾を受ける必要はなかったが、しかし干渉はされたのである。ここはそれを背後に置いての語《ことば》で、たとい母親はそのことを知ろうともで、知って干渉するめんどうはあろうとも、ということを余意としたものである。
【釈】 美沙のいる磯のぐるりに生えている名乗藻の、それの名を告って下さいよ。そのことを母が知って干渉するめんどうがあろうとも。
【評】 これは求婚の歌で、部立の上からいうと、相聞に属すべきものである。事としては「名は告らしてよ」という求婚の語《ことば》だけで、きわめて単純なものである。「美沙ゐる石転に生ふる名乗藻の」は序詞で、これはすでにいったように謡い物時代のもので、伝統的のものである。今は求婚の歌であるから、それが妥当のものとなっている。名を告る関係において名乗藻を捉えていることは、これもすでに伝統的となっているもので、新意のないものである。しかし名乗藻のあり場所を、「美沙ゐる石転に生ふる」と細かくいっているのは新意である。したがって、眼前の景を捉えてのものではないかと思わせるものである。また、「親は知るとも」は、娘が親の思わくをはばかって、躊躇《ちゆうちよ》することを心に置き、決意を促す意のもので、この事はむしろ普通とはなっていたにもせよ、この歌ではそこに力点を置いた形でいっているものであるところに、屈折と複雑とがあって、(156)ここにも細かさがある。赤人の歌風を思わせるものである。
 
     或本の歌に曰く
363 美沙《みさご》ゐる 荒磯《ありそ》に生《お》ふる 名乗藻《なのりそ》の よし名《な》は告《の》らせ 父母《おや》は知《し》るとも
    美沙居 荒磯尓生 名乘藻乃 吉名者告世 父母者知友
 
【語釈】 ○荒磯に生ふる 「荒磯」は、しばしば出た。海岸の、石の現われ続いている所。上の歌の「石転《いそみ》」の細かさを変えて粗《あら》くしたものである。○よし名は告らせ 原文「吉名」は、諸本すべて「告名」とある。旧訓「なのり」で、心が通り難いところから、諸注さまざまの訓を試みている。『略解』は「告」は吉の誤写として、「よしなは」と訓んでいる。これは誤写説であるが、この誤写はきわめてありやすいものであり、またそれだと心が安らかに通じるから、これに従う。「よし」は、ままよの意の副詞で、下への続きから見ると、女の決意を促すもので、自然に感じられる。上の歌の「名は告らしてよ」に較べると、その柔らかさを、剛《つよ》く変えたものである。○父母は知るとも 上の歌の「親」を「父母」に変えただけであるが、目に訴える歌としては、その方が意味が広くなるものとしてであろう。
【釈】 美沙のいる荒磯に生えている名乗藻の、ままよ、あなたの名を告って下さい。たとい父母は知ってめんどうなことはあろうとも。
【評】 上の歌は、その事柄からいって、きわめて一般性をもった歌なので、流布して広く謡われるものとなり、それに伴う現象として、細かい部分は粗く、柔らかい部分は剛く変えられ、いっそう一般性をもつものとされたとみえる。この「或本の歌」は、そうした変化を受けた時に、何びとかによって記録されたものと解される。
 
     笠朝臣金村《かさのあそみかなむら》、塩津山《しほつやま》にて作れる歌二首
 
【題意】 「笠朝臣金村」は、巻二(二三二)の左注に出た。笠氏は、孝霊天皇の皇子稚武彦命の孫鴨別命の後、朝臣の姓は、天武天皇の御代、臣であったのを、新たに賜わったものである。金村の伝は明らかではなく、本集の歌によって、その生存時代と行動の一部が知られるのみである。歌は、霊亀元年のものから、天平五年までのものが伝わっている。「塩津山」は、『和名抄』の、近江国浅井郡塩津郷とある地の山と取れるが、その郷は今は滋賀県伊香郡西浅井村塩津浜といい、山の名は伝わってはいない。そこは、琵琶湖の最北端にある地で、北陸の新道にあたる地である。大体は、大津より塩津までは水路、それより塩津越えをして、越前国敦賀へ出たのである。新道のことについては、『講義』が詳しく考証している。
 
(157)364 大夫《ますらを》の 弓上《ゆずゑ》振《ふ》り起《おこ》し 射《い》つる矢《や》を 後《のち》見《み》む人《ひと》は 語《かた》り継《つ》ぐがね
    大夫之 弓上振起 射都流矢乎 後將見人者 語繼金
 
【語釈】 ○大夫の弓上振り起し 「大夫の」は、大夫がで、大夫はしばしば出た、勇気ある男子の意で、ここは金村が自身をいっているもの。自身大夫をもって任じ、自称としていっているのは、集中に例が多く、ここもそれである。「弓上」は、弓を立てた形とし、その下の方を本《もと》といい、上の方を末《すえ》と呼んでいたことは、「梓弓末」という続きが集中にあるところから知られ、ここもそれで、弓の上の方のことである。「振り起し」は、横にして持っていた弓を縦に立てることで、矢を射ろうとする時の弓の形をいったもの。○射つる矢を 射たところの矢をで、「後見む」に続く。この矢は、何を目的として射るもので、また何にとどめて置こうとするものか、それに関しては何事もいっていない。いわないのは、当時はそれでわかったからであるが、今はわからないものとなっている。そうしたことが廃り、また忘れられてしまったからである。諸注、それぞれ異なった説を立てているが、『童蒙抄』は、「金村の意趣は知り難けれど、歌の意は聞えたる通の歌にて、古代は旅行などする時、山路深林などを通ふには、きはめて魑魅魍魎《ちみまうりやう》の気を退散せんがために、矢を発し、鳴弦などをせしこと也(略)」といっており、それが最も注意される。『講義』は、矢立の杉すなわち矢を射立ててある杉の諸所にあることを挙げ、『廻国雑記』の標注に、「神に上矢を奉らんとて射立る事なれば、矢立杉所々にある成べし」というを引き、「古くは旅行するものが、その旅中の安全を請ひ、又は卜するが為に、山路などにかゝる際、ある著しき杉などの樹に矢を射立つることのありしならむ」といっている。このことは民俗学の研究の対象の中に加えられ、しだいに明らかになりつついるが、現在のところ、大体上に引いた範囲のことのように思われる。○後見む人は語り継ぐがね 「後見む人は」は、我より後に、ここを通って、この矢を見るであろうところの人はの意。「語り継ぐ」は、言い伝えることで、上代にあっては、人の記憶すべき尊い事、または珍しいことを伝えるには、それが唯一の方法で、ここもその意のものである。「がね」は、『講義』は、「その源は、格助詞の『が』と冀望の終助詞『ね』の合成なりと見ゆれど、後を予期し冀ふ意の一つの体言の如くなれり」といつている。ありたきものよの意。
【釈】 大夫たる我が、弓末《ゆずえ》を振り起こして射たところのこの矢は、後にここを通ってこれを見るであろう人は、その弓勢《ゆんぜい》の強さを、後の世までも語り継いでもらいたいものよ。
【評】 塩津山を越えようとして、上に引いたがごとく、魑魅魍魎を退散せしむる心と、神に道中の安全を祈る心とをもって、そこの立木に矢を一筋射立てた後、我とわが弓勢の強さに誇りを感じて、その心を詠んだものである。大夫をもって任じたことは、武官に限らず文官も等しくもっていた心であり、またその上での名誉を尊んで、後世までも伝えようとしたのは、当時の人の一様にもっていたもので、これもその現われである。「弓上振り起し」と、自身のことを客観的に叙した、一見巧みな句をまじえているがごとくであるが、これは弓勢の強さを具象化しようがためのもので、一首、率直に、直線的な、強い調べをもったものであり、どちらかというと無骨な趣をもった歌である。この当時の、身分の高くない官人の気分を代弁している(158)歌と取れる。
 
365 塩津山《しほつやま》 打越《うちこ》え去《ゆ》けば 我《わ》が乗《の》れる 馬《うま》ぞ爪《つま》づく 家恋《いへこ》ふらしも
    塩津山 打越去者 我乘有 馬曾爪突 家戀良霜
 
【語釈】 ○塩津山打越え去けば 塩津山を越えて、越前の方へ向かって行けば。○我が乗れる馬ぞ爪づく 我が乗っている馬が、つまずくというので、山路としては、当然ありうる状態である。以上一段。○家恋ふらしも 「家恋ふ」は、家人の我を恋う意と思われる。「らし」は、眼前を証としての推量で、証は「馬ぞ爪づく」である。「も」は、詠歎。この一句の解は、定まっていない。『考』は、下の(四二六)「草枕旅のやどりに誰《た》が夫《つま》か国忘れたる家待真国《いへまたまくに》」を例として、「家」は「家に」の意で、家人を意味させたものと取っている。『攷証』は、「家」は文字どおり家で、馬が家を恋う意だと取っている。いずれにしても上の状態の理由としているもので、構成の上から見ると、『攷証』の解の方が自然にみえるものである。しかるに、これと同想の歌は他にもあって、巻七(二九一)「妹が門《かど》出で入りの河の瀬をはやみ吾が馬つまづく家思ふらしも」、同じく、(一一九二)「白妙ににほふ信士《まつち》の山川に吾が馬なづむ家恋ふらしも」などもあり、この事は当時一般に信じられていたいわゆる俗信であったと思われる。俗信という上よりいうと、馬がその家を恋うがゆえに行きなずみ、あるいはつまずくというのは合理的なことで、家人が旅にある者を気づかうと、その心が旅先に感応し、その当人よりも思慮のない物であるその乗馬の上に現われるということのほうが信仰的で、当時としてはかえって自然であったろうと思われる。自然というのは、魂の感応は、無意識状態でいる夢の中に現われることが多く、また神の畏い諭しは、幼児あるいは童に現われることが多いとしていたのと、同じ系統のものだろうと思われるからである。俗信となり得たのも、理を超えての信仰であったためであろう。「らし」もこれを支えるものである。『考』の解に従う。
【釈】 塩津山を越えて前方へ向かって行くと、わが乗っている馬がつまずいたことである。これは、家人が我を思っているからであろうよ。
【評】 「塩津山打越え去けば」は、この歌にあっては馬のつまずいた場所を示すものであるが、金村からいうと、そこは近江国を越えて越前国へ向かうことをあらわしていることで、いわゆる旅愁を刺激される時であったろうと思われる。おりから馬がつまずくということが起こったので、俗信を想い起こし、それをいうことによって自身の旅愁の当然なことをあらわそうとしたのである。「家恋ふらしも」が、飛躍をもった言い方になっているのは、当時としては誰も知っていることで、いう必要のなかったためと取れ、またいわんとしていることは自身の旅愁であるが、直接にはそれに触れた一語をも用いていないのは、当時としてはこの俗信をいうことによって十分にあらわしうるものとしたがためと取れる。
 
(159)     角鹿津《つのがのつ》にて船に乗る時、笠朝臣金村の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「角鹿」は、今の敦賀である。ここは日本海へ面した各国へ向かって、海路をとって行くとすると、その基点となっていた所である。当時の旅行は、海路による方が容易なところから、できうる限りはそれによっていた。金村の向かった方面は歌ではわからない。
 
366 越《こし》の海《うみ》の 角鹿《つのが》の浜《はま》ゆ 大舟《おほふね》に 真梶貫《まかぢぬ》き下《おろ》し 勇魚取《いさなとり》 海路《うみぢ》に出《い》でて あへきつつ 我《わ》が榜《こ》ぎ行《ゆ》けば 大夫《ますらを》の 手結《たゆひ》が浦《うら》に 海未通女《あまをとめ》 塩焼《しほや》く炎《けぶり》 草枕《くさまくら》 旅《たび》にしあれば 独《ひとり》して 見《み》るしるし無《な》み 綿津海《わたつみ》の 手《て》に巻《ま》かしたる 珠《たま》だすき 懸《か》けてしのひつ 日本島根《やまとしまね》を
    越海之 角鹿力濱從 大舟尓 眞梶貫下 勇魚取 海路尓出而 阿倍寸管 我榜行者 大夫乃 手結我浦尓 海未通女 塩焼炎 草枕 客之有者 獨爲而 見知師無美 綿津海乃 手二巻四而有 珠手次 懸而之努※[木+貴] 日本嶋根乎
 
【語釈】 ○越の海の角鹿の浜ゆ 「越の海」は、越に属せる海で、越は古くは、越前より越後へかけての総名であった。ここも広くさしていったもの。「角鹿の浜」は、敦賀の海辺の意で、「浜」はここは海辺の意のもので、港ということを広くいったもの。「ゆ」は、より。○大舟に真梶貫き下し 「大舟」は、大きな舟で、外洋に用いるもの。「其梶」の「真」は、十分の意をあらわす接頭語。「梶」は、舟を漕ぐ物で、今の艪《ろ》にあたるもの。舟の左右に取付ける梶のその全部の梶。「貫き下し」は、取り懸けの意。○勇魚取海路に出でて 「勇魚取」は、海にかかる枕詞。巻二(一三一)に出た。「海路《うみぢ》」は、旧訓。○あへきつつ我が榜ぎ行けば 「あへく」は、息をせわしくつかうことで、下の「ぼうぎ」を修飾したもの。力を尽くすことを具象的にいったもの。「我が榜ぎ」は、事実としては榜ぐのは舟子《かこ》であるが、その舟の主《あるじ》であるところから、自身のこととしていったもの。○大夫の手結が浦に 「大夫の」は、大夫の身に着ける物の意で、「手結」にかかる枕詞。「手結」は、たまきともいい、文字としては「手纏」を当て、「たゆひ」ともいったろうと考証されている。弓を射る時、手に巻く物で、後世の小手《こて》の類だという。枕詞よりの続きはこの手結で、それを同音の地名手結に転じたもの。「手結」は、越前国敦賀郡手結村(敦賀市田結)で、古く手結神社のあった地。「手結の浦」は、今の敦賀より北方一里足らずの海辺の地。○海未通女塩焼く炎 「海未通女」は、「海《あま》」は本来部族の称で、転じて海の業をする者の称となったもの。ここは転じての意のものと取れる。「未通女《をとめ》」は処女の意で、若い女の意で用いているものと取れる。「未通女」としているのは早少女《さおとめ》と同じく、その業に信仰を関係させ、少女のするべきこととしていたところからのものと取れる。「塩焼く炎《けぶり》」は、塩を製するために火を焚いて立てていると(160)ころの煙よの意。以上一段。○草枕旅にしあれば 「草枕」は、「旅」にかかる枕詞。しばしば出た。「旅にし」の「し」は、強め。旅にいるのでで、この旅は妹と別れて独りでする事としていっているもの。○独して見るしるし無み 「独して」は、ここは独りにての意のもの。「見るしるし無み」は、「しるし」は甲斐。「無み」はなくしての意で、浦に立つ塩を焼く煙を、珍しく、甚だ面白いものと見、その面白みを共に喜ぶ妹のいないことを、見る甲斐のないものとしての言。○締津海の手に巻かしたる 「綿澤海」は、海そのものの称でもあり、海をうしはく神の名でもある。二者一だからである。ここは神の名としてのもの。「巻かしたる」は、「巻く」の敬語「巻かす」の連用形に「たる」を続けたもので、巻いていらせられるの意。神あるいは尊い人が、手足に玉を巻いているのは上代の風俗で、海中にある玉を手玉と見ての言。この二句は、下の「珠だすき」という枕詞の、その「珠」の一語にかかる枕詞である。○珠だすき懸けてしのひつ 「珠だすき」は、玉を装飾とした襷《たすき》で、既出。襷の肩にかける物であるところから、下の「懸け」へ意味でかかる枕詞。「懸けてしのひつ」の「懸けて」は、心にかけて。「しのふ」は、思い慕う意。〇日本島根を 「日本」は、ここは大和に当てたもの。「島根」は、上の(二五五)の倭島と同じ意のもので、全体で大和国の意。これは大和の家にいる妹ということを、婉曲に言いかえたもので、型のごとくなっていた言い方である。
【釈】 越の海の敦賀の港から、大舟に左右の艪《ろ》のすべてを取り懸け、海路に出て、喘ぎ続けてわが榜いで行くと、大夫の身に着ける手纏《たゆい》というその手結《たゆい》の浦に、海未通女《あまおとめ》が塩を焼くとて立てている煙の珍しく面白さよ。今は旅にいることとて、われ独りで見て見る甲斐がなくして、海の神の手に巻いていらせられる玉という名をもった玉襷の、心にかけて共に見たいものよと思い慕った、大和島根の家にいる妹《いも》を。
【評】 長歌は本来、抒情の背景としての叙事をもしなければ、その抒情が徹底しない場合に作るもので、その必要があって用いる形式で、興味よりのものではない。この長歌は、越の海の手結の浦に立つ、塩焼く煙の面白さを中心とし、それに伴う連想として家郷の妻を思ったものである。それは平生大和国に住んでいる金村からいうと、珍しく、したがってはなはだ面白いものであったろうとは察しられるが、要するに取材としては単純なものである。そのことは、この長歌を繰り返した形の次の反歌で、ほぼ同じ心を言いつくしているのを見ても明らかにわかることである。その点からいうとこの長歌は、長歌という形式を用いるまでの必要のない場合に、興味によって用いたものといえる。この時代には長歌はすでに衰えつつあったので、金村の興味は、その衰えがたの長歌を作ることによって、文芸性を発揮しようとするところにあったものと見られる。技巧の上から見ると、この歌は二段から成っていて、第一段は、「大夫の手結が浦に海未通女塩焼く炎」までで、そこで切れている。起首から重く言い起こして言い続けているのは、結局これをいおうがためであるが、その捉えているところは、作者に同情して割引して見ても、平凡な、また単純な風景で、それまでにふさわしくない軽いものである。その「炎」に余情をもたせて言いきり、しかも飛躍して「草枕旅にしあれば」と転じさせているのは、その風景をきわめて重く扱おうとしていたことがわかる。風景のもつ趣が、独立して歌の対象となり得たのは、その起こりはやや古いにもせよ、大体この時代に高まってきたもので、(161)その点からいうと、金村の風景に対するこの態度は新味のあるもので、そこに文芸性があるといえるものである。また、「綿津海の手に巻かしたる珠だすき懸けて」は、いったがように枕詞に序詞を冠したもので、甚だ技巧的なものである。その序詞は海に関係させてのものであるから、その用意をもしたものと思われる。この技巧が作意にとって、はたして妥当なものかどうかは問題となりうるもので、必ずしも妥当とはいえないものである。とにかくここには極度に技巧を喜んだ跡が見えるのであって、これも文芸性を求めたものといえる。歌としての価値は高くはないが、作歌態度として時代の尖端を行こうとしたところの見えるものである。
 
     反歌
 
367 越《こし》の海《うみ》の 手結《たゆひ》の浦《うら》を 旅《たぴ》にして 見《み》れば乏《とも》しみ 日本《やまと》思《しの》ひつ
    越海乃 手結之浦矣 客爲而 見者乏見 日本思※[木+貴]
 
【語釈】 ○旅にして見れば乏しみ 「旅にして」は、ここは旅にありての意のもの。「乏しみ」は、「乏し」は、めずらしく愛すべきという意。「乏しみ」は、乏しくして。
【釈】 越の海の手結の浦を、旅にあって見ると、その風景のめずらしく愛すべくして、大和の家にある妹に見せたく思い、妹を思い慕った。
【評】 長歌の心を要約して繰り返した形のもので、反歌としては、人麿以前へ立ちかえった古風なものである。長歌では、手結の浦の「塩焼く炎《けぶり》」に力点を置いたのを、これは、「手結の浦」の中に取り入れているのがおもなる違いである。
 
     石上《いそのかみの》大夫の歌一首
 
368 大船《おほふね》に 真梶《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 大君《おほきみ》の 御命《みこと》恐《かしこ》み 礒廻《いそみ》するかも
(162)    大船二 眞梶繁貫 大王之 御命恐 礒廻爲鴨
 
【語釈】 ○大船に真梶繁貫き 「繁」を、「しじ」と訓んだのは『代匠記』である。この二句は成句となり、巻十五(三六一一)「於保夫祢尓麻可治之自奴伎《おほふねにまかぢしじぬき》」以下、同(三六二七)、巻二十(四三六八)にも、同様に仮名書きのものがある。大船に、左右の艪《ろ》の数多を取り懸けて。○大君の御命恐み この二句も成句となっているもので巻一(七九)に出たのを初めとして、集中に多いものである。天皇の仰せ言を謹み承っての意で、古来わが臣民の絶対のこととして行なっているところのものである。○礒廻するかも 「礒廻《いそみ》」は、旧訓「いさり」。『童蒙抄』の訓。「いそみ」という仮名書きの例は一つもないが、礒廻の類語としては、「浦廻」「礒回」「湾廻」「島回」「島廻」などがあり、一方、訓の方では「浦|箕《み》」「宇良未《うらみ》」というのがあり、これは「浦廻」と同じであると取れる。「回」「廻」はいずれもめぐりの意であり、上の(三六二)には「石転《いそみ》」ともあって「転」も同様である。礒廻は、事としては礒めぐりということで、形としては名詞である。意味としては、礒は荒磯の磯と同じく石であって、この場合、海岸に連なっている岩をいっているもので、海岸ということを、その場合の必要に応じるために具象的にいったものと取れる。また当時の航海は、海上の風波を避けるために、できうる限り海岸に沿って舟を進めていたことは集中の歌によって明らかなので、航海はその状態としては磯めぐりであったと取れる。「礒廻する」は、名詞「礒廻」に「す」を添えて動詞としたもの。「かも」は、詠歎。
【釈】 大船に左右の艪の数多あるのを取り懸け、天皇の仰せ言を謹んで承り、礒めぐりをすることであるよ。
【評】 どういう際の歌であるかは明らかではないが、次の「和《こた》ふる歌」によると、石上大夫が任地に在って、その任を行なうための航海をする際のものであったと取れる。また、歌から見ると、その任地は海に接しており、その海は、航行するには危惧《きぐ》の念を抱かせるものであったことが察しられる。また、任地は地方であり、地方官は国司であるが、国司はその任として国内を巡視しなければならないものである。さらにまた、当時の旅行は、陸路よりも水路の方が比較的安易なところから、できうる限り水路を取るのが普通であった。この歌は国司としての石上大夫が、その任である国内巡視をするために、海路を取っての旅をし、その海のやや危険な怖れのあるのに対して、自身の現在を強く意識し、大君の御言を恐むとともに、海路のたやすからぬを言いあらわしたものと解される。「大船に真梶繁貫き」は、国司としての旅の威厳と、海路の安全を信ずる心との一つになった、複雑した味わいのものに取れる。「礒廻するかも」には、いわざる嘆きがある。
 
     右、今案ずるに、石上朝臣乙麿越前の国守に任《ま》けらえき。盖この大夫か。
      右、今案、石上朝臣乙麿任2越前國守1。盖此大夫歟。
 
【解】 「石上朝臣乙麿」は、左大臣石上麿の子で、続日本紀によると神亀元年二月正六位下より従五位下を授けられたのを初めに、(163)天平勝宝元年七月中納言に任ぜられ、同二年九月に薨じ、記事には、「中納言従三位兼中務卿石上朝臣乙麿薨、左大臣贈従一位麿之子也云々」とある人である。その間、天平十一年には事によって土佐国に流され、同十八年には常陸守に任ぜられたことなどあるが、ここにある越前守に任ぜられたことは続日本紀には載っていない。この左注はよるところのあるもので、続日本紀には漏れたのだろうとされている。したがって歌は、越前守として在任した時のものと取れる。
 
     和《こた》ふる歌一首
 
369 物部《もののふ》の 臣《おみ》の壮士《をとこ》は 大王《おほきみ》の 任《よさし》の随意《まにま》 聞《き》くとふものぞ
    物部乃 臣之壯士者 大王之 任乃隨意 聞跡云物曾
 
【語釈】 ○物部の臣の壮士は 「物部」は、朝廷に仕えまつる文武百官の総称で、巻一(五〇)に出た。「臣の壮士」は、「臣の」は大君の臣としての意。「壮士」は齢《とし》の盛りの男の意。これは「臣《おみ》のをとめ」という語もあって、それに対しての語で、特殊な称ではない。○大王の任の随意 「大王の」は、天皇の。「任《よさし》」は、旧訓。『代匠記』は「まけ」と改めた。『古事記伝』は「まけ」につき、「まけ」は京より他国《よそくに》の官に令罷《まからする》意で、「御まからせ」を約《つづ》めて「まけ」というのだといっている。文字も『類聚名義抄』に「退給」を「まけたまへ」、本集、巻十三(三二九一)には、「遣《まけ》の万万《まにまに》」となっている。「任」は、巻二(一九九)に、「皇子ながら任《よさし》賜へば」とあり、御委任の意である。「任の随意」は、御委任のとおりにの意。○聞くとふものぞ 「聞くとふ」は、『考』の訓。ここの聞くは、諾《うべな》い従う意のもので、巻四(六六〇)「汝《な》をと吾《わ》を人ぞ離《さ》くなるいで吾君《あぎみ》人の中言《なかごと》聞きこすなゆめ」を初め、例のあるものである。
【釈】 物部《もののふ》の臣《おみ》の壮士《おとこ》たる者は、天皇の御委任のとおりに、いかなることをも諾い従うべきものであるぞ。
【評】 石上大夫の、「大王の命恐み」とはいっているが、「礒廻するかも」と嘆きをもっていってもいる、その心を汲み取って、激励する心を述べたものである。「任の随意」ということは、国司の立場からいうと、命じられている任務ということにあたるので、国司としての任務の一つである、領内の巡視ということではないかと思われる。「和ふる歌」というので、大夫と一つ所にいた人で、心の雄々しい人であったことはわかる。従者としてではなく、ほぼ対当に近い、親しい関係の人であったろうと思われる。それのいかなる人であったかは、左注に関係する。
 
     右は、作者いまだ審ならず。但笠朝臣金村の歌の中に出づ。
(164)      右、作者未v審。但笠朝臣金村之歌中出也。
 
【解】 『代匠記』は、「歌」の次に「集」の字が脱したのではないかといっている。正確を旨とする注であるから諾われることである。この注は右の歌一首についてのものであるが、「和ふる歌」は、それに先立つ「唱ふる歌」がなければ存在し難いものであるから、金村の歌集の中には、何らかの形で石上大夫の歌も載っていたのではないかと想像される。「大夫」という称もそれだとふさわしいものとなる。なお、上の金村の歌は敦賀においてのものであり、この二首もその次《なら》びにある関係上、金村の敦賀へ旅した時は、石上大夫の越前国司としての在任中であったのではないかと想像される。
 
     安倍広庭卿の歌一首
 
【題意】 「安倍広庭」は、上の(三〇二)に出た。
 
370 雨《あめ》零《ふ》らず との雲《ぐも》る夜《よ》の 潤《ぬ》れ湿《ひ》づと 恋《こ》ひつつ居《を》りき 君《きみ》待《ま》ちがてり
    雨不零 殿雲流夜之 潤濕跡 戀乍居寸 君待香光
 
【語釈】 ○雨零らずとの雲る夜の 「雨零らず」は、原文「雨不零」。旧訓「雨零らで」。『講義』の訓。この当時は「で」という打消は行なわれていなかったと思われるというのである。雨ふらずしての意。「との雲る」は、「たな曇る」ともいい、集中に例の多い語。全面的に曇る意である。「夜の」の「の」は、夜のこととての意。二句、雨は降らずして、全面的に曇っている夜のこととてで、今にも雨が降り出しそうな状態を叙していっているもの。○潤れ湿づと 旧訓「潤《ぬ》れ湿《ひ》でと」を、『代匠記』の改めたもの。「湿づ」は、浸《ひた》る意。濡れひたると思つての意。これは、もし雨が降り出したならば、当然そうなると思ったので、その濡れひたるのは、結句の「君待ちがてり」の「君」と呼ばれる人である。すなわちその人は、こちらに来ようとして、途中にいるものとしての言。○恋ひつつ居りき 「恋ふ」は、男女間だけではなく、親子友人など親しい者の間にもいった。ここは、「君」という人に対していっているので、雨に逢いはしないかと思って案じることをいったもの。 ○君待ちがてり 「がてり」は、一つの事をしながら、傍ら、他の事をも兼ねてする意の語で、現在の口語としての「がてら」と同じ。君の来られるのを待つ傍らの意。この「君」は、広庭の友人関係の人であると取れる。
【釈】 雨は降らないが、全面的に曇っている夜のこととて、降り出したら濡れひたることと思って、案じつづけていた。君の来るのを待つ傍ら。
【評】 広庭が、来訪を約束してある友を待ち得た時、その喜びをいった歌で、日常語をもってする挨拶の代わりに、歌をもっ(165)てしたものである。これは当時の貴族とすると、むしろ普通なことであったとみえる。歌の上からいうと、歌を実用性のものとして扱っていることである。一首の心は、単純なものであるが、歌としてはやや解しにくいものとなっているのは、実際に即そうとする心が強く働いているためである。実際というのは、友である人の訪問しようと約束してあった夜は、偶然にも雨もよいの空となり、しかも今にも降り出そうとしたのであるが、降らないうちに来たということで、初句句は、その天候の特殊さをいったもの。三、四句は、途中のほどを案じつづけたことを、「恋ひつつ」と強め、「き」と過去にして強めていい、結句において、それらを総括して来訪の喜びをいったものである。解し難い感のあるのは、つぶさに実際に即そうとしたためで、即すことはすなわち心を尽くすことだったのである。この微細は、時代を思わせるものである。また、この歌は、『考』の注意しているように、相聞の範囲に属すべきものである。
 
     出雲守|門部王《かどべのおほきみ》、京を思ふ歌一首 後に大原真人の氏を賜ふ
 
【題意】 「門部王」は、上の(三一〇)に出た。王の「出雲守」に任ぜられたことは、続日本紀には見えない。漏れたのである。
 
371 飫《おう》の海《うみ》の 河原《かはら》の千鳥《ちどり》 汝《な》が鳴《な》けば 吾《わ》が佐保河《さほがは》の 念《おも》ほゆらくに
    飫海乃 河原之乳鳥 汝鳴者 吾佐保河乃 所念國
 
【語釈】 ○飫の海の 「飫の海」は、巻四(五三六)に、同じく門部王の「飫宇《おう》の海の潮干の潟の片念《かたもひ》に」にある、その「飫宇」と同所であろうという。「飫」は「お」の仮名に用いている字なので、それだと「宇」が脱したのではないかと『槻落葉』はいっている。これを出雲国の地名とすると、出雲風土記の意宇郡にあたる。今は島根県能義郡と八束郡にわたる地で、そこは中の海および宍道湖《しんじこ》の南岸の地である。○河原の千鳥 「河原」は、上よりの続きから見て、「河」に接した所にあるもので、河の名をいわずとも、それとわかるものであったことが知られる。『講義』は、当時の国府すなわち守の居た地は、今の八束郡|出雲郷《あだかい》村|府敷《ぶしき》という所で、そこは中の海の西南隅に近い所だという。また、国府に近く、東を流れて中の海に注ぐ意宇川という川があるといっている。「河原」とは、その意宇川の河原と取れる。「千鳥」はすでに出た。呼びかけとなっている。○汝が鳴けば 上の(二六六)「淡海の海《うみ》夕浪千鳥汝が鳴けば情《こころ》もしのに古《いにしへ》念ほゆ」に出た。お前が鳴くので。○吾が佐保河の 「吾が」は、親しんで添えたもので、親しむのは、そこに王の邸があるためと取れる。「佐保河」は、今の奈良市の北にある佐保の地から発し、古の平城京の間を流れ、初瀬川と合して、大和川となる川。○念ほゆらくに 「念ほゆらく」は、「念ほゆる」に「く」の添って名詞形となったもの。「に」は、詠歎で、思われることであるをの意。
【釈】 飫宇《おう》の海に接している意宇川の河原に鳴いている千鳥よ。お前がそのように鳴くので、さまを同じくしている、わが家の(166)ある辺りの佐保川が思われることであるを。
【評】 出雲にあって千鳥の声を聞き、それに刺激されて旅愁を催し、故里である奈良の佐保川の千鳥を連想しきたるというので、その心はきわめて自然である。あらわし方も、「飫の海の河原の千鳥」とおおらかにいって、国府のほとりの意宇川の河原を明らかにあらわしているところ、また「吾が佐保河の」と、佐保河に「吾が」を添えるというおおらかな方法によって、故里を具象的にあらわしているところなど、手腕の認められるものである。一首、いわゆる景情の一つに溶け合った作である。この歌は、上に引いた「淡海の海夕浪千鳥」と通うところのあるもので、年代的に見てその影響を受けているものと思われる。今二首を較べると、「淡海の海」は大景に対して古の御世を思ったもの、これはおそらく聞きなれた千鳥の声を耳にして遠情を誘われ、それを故里につないだもので、大小の差はあるが、それを割引して見ても、前の歌の主観的に、線が太く、盛り上がってくるもののあるのに較べると、後のこの歌は、即物的に、線が細く、沁み入らんとするものをもっているという相違がある。このことは、この門部王の歌だけに限ったことではなく、時代的傾向と見られるものである。この歌は上にいった関係で、比較されやすく、したがって相違が目立つというにすぎないものである。
 
     山部宿禰赤人、春日野に登りて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 『童蒙抄』を初め『考』『槻落葉』など、「春日野に登りて」というを問題とし、「野」は「山」の誤りであろうといっている。『古義』はそれらに反対して、山上の野であるから登るといったのである、高円の岑上《おのえ》の宮とも、野上の宮ともいい、ことに二十巻の題詞には、「各壺酒を提げて、高円の野に登り、聊所心を述べて作れる歌」ともあるといっている。『講義』は古、春日野といったのは、今よりは広く、若草山あたりまでをこめていたのだろうといっている。
 
372 春日《はるひ》を 春日《かすが》の山《やま》の 高座《たかくら》の 御笠《みかさ》の山《やま》に 朝《あさ》離《さ》らず 雲居《くもゐ》たな引《び》き 容鳥《かほどり》の 間無《まな》く数鳴《しばな》く 雲居《くもゐ》なす 心《こころ》いさよひ その鳥《とり》の 片恋《かたこひ》のみに 昼《ひる》はも 日《ひ》の尽《ことごと》 夜《よる》はも 夜《よ》の尽《ことごと》 立《た》ちてゐて 念《おも》ひぞ吾《わ》がする あはぬ児《こ》故《ゆゑ》に
    春日乎 春日山乃 高座之 御笠乃山尓 朝不離 雲居多奈引 客鳥能 間無数鳴 雲居奈須 心射左欲比 其鳥乃 片戀耳二 晝者毛 日之盡 夜者毛 夜之盡 立而居而 念曾吾爲流 不相兒故荷
 
(167)【語釈】 ○春日を春日の山の 「春日を」の「を」は、詠歎の意のものであるが、「の」に近い意をもっているもの。春の日の霞むという意で、「春《かす》」に続き、それを地名に転じての枕詞。「春日の山」は、現在奈良市の東にある山で、峰を三つもっている山。○高座の御笠の山に 「高座」は、高く構えたところの座の称で、この語によって思われるのは、天皇の御即位の際、毎年の正月、群臣の朝賀を受けさせられる際などに用いさせられる高御座《たかみくら》である。これには、後ろより覆う御笠《みかさ》があるので、意味で御笠の枕詞としたものだといってきた。しかるに『講義』は、高御座を枕詞とするのは恐れ多いことであり、また一方、当時は僧が重んじられており、宮中で斎会《さいえ》が修せられる際は、講師、読師のために「高座」を設けたことが、『延喜式』の「図書寮式」、また「内匠寮式」に出ている。それにも「蓋」があった。その蓋も御笠と言いうるものである。「高座」はそれではないかと説を立てている。「御笠の山」は、春日山の西の蜂で、今、若草山をそれとするのはあたらない。上二句とこの二句の続きは、総じていうと春日の山で、その中に御笠の山も含まっているのである。○朝離らず雲居たな引き 「朝離らず」は、朝ごとにの意。「雲居」は、雲の居る所、すなわち空の意で用いられる語であるが、転じて、雲そのものの意でも用いられている。ここは雲の意のもの。「たな引き」は、靡き。○容鳥の間無く数鳴く 「容鳥」は、今の何鳥であるか明らかにされていない。集中に例が少なくなく、晩春頃から鳴く鳥で、数鳴《しばはな》く鳥とされている。『考』は、今のかっぽうどりで、喚子鳥《よぶこどり》ともいわれた鳥で、かぽうかぽうと鳴くところから容鳥《かおどり》と呼ばれたのであるという。この鳥は、下の続きでは、片恋する鳥だとされているが、かつぽうどりはその習性として、一つ所にとどまっていて、同じ調子を繰り返していつまでも鳴くので、「数鳴く」といい、「片恋」をするといわれるにふさわしい鳥である。また季節も、晩春に来て夏までいる鳥である。『考』の解に従うべきであろう。後世、閑古鳥というのも同じ鳥である。「間無く」は、絶え間なく。「数鳴く」は、「しば」はしばしばで、ここはしきりにの意。以上、一段。○雲居なす心いさよひ 「雲居なす」は、「雲居」は上を承けたもの。「なす」は、のごとくの意で、雲を動いてやまぬものとして、「心」の譬喩としたもの。「心いさよひ」は、「いさよひ」は進もうとしてためらう意で、心がそのようになっていての意。これは恋の上の煩悩をいったもの。○その鳥の片恋のみに 「その鳥の」は、「その」は上の容鳥をさしたもの。「の」は、「のごとく」の意のもの。「片恋のみに」は、「片恋」は上にいったように、その鳴く状態から連想してのことで、当時一般にいわれていたことと取れる。それには、鳥というものを、後世よりも重く見ていたことも伴っていることと思われる。「のみに」は、片恋という状態ばかりで。○昼はも日の尽 「昼はも」の「も」は、詠歎。「日の尽」は、一日じゅうすべてで、ただひたすらにという意を具象化したもの。○夜はも夜の尽 上と対句にして、強めたもの。○立ちてゐて念ひぞ吾がする 「立ちてゐて」は、立つたり坐ったりしての意で、懊悩して心の落着けない状態を具象化したもの。「念ひぞ吾がする」の「念ひ」は、嘆きで、嘆きばかりをしていることであるの意。○あはぬ児故に 「あはぬ」は、わが求婚に応じないところのの意。「児」は、女を親しんでの称。「故に」は、理由をいったもので、よっての意。
【釈】 春日を春日の山の中の、高座の御笠の山には、朝ごとに雲が靡《なび》いて、容鳥《かおどり》が絶え間なくしきりに鳴いている。その雲のさまのごとくに、わが心も進みかねてためらい、その容鳥のごとくに、我もまた片恋ばかりの状態で、昼は一日じゆう、夜は夜っぴて、立つたり坐ったりして、嘆きばかりをしていることであるよ。わが求婚に応じない愛すべき女によって。
【評】 求めて得られない恋の煩悩を、我と我にいう態度で作った歌である。この歌は二段から成っていて、第一段は、「数鳴(168)く」までである。起首よりそこまでは、純粋な叙景であって、抒情を意図してのものではない。結果から見ると、この段でいっている「雲居」と「容鳥」とは、第二段の抒情の譬喩となっているのであるが、それは結果であって、原因からいうと、成心なく風物に対しており、その風物の中に、特にわが心に通いくるものを認めうると、それを借りて心の具象化に向かうのであって、これは上代からの伝統となり、型のごとくにもなっていることである。ここもそれである。赤人が抒情を念とせず、風物を眺めようとする心のみをもって向かっていたことは、無意識に用いたと思われる語句の中にも見える。「朝離らず雲居たな引き」といっているのは下の「心いさよひ」の譬喩となり得たように、雲が、朝、山から離れようとして動いている時である。また「容鳥の間無く数鳴く」も、鳥類は容鳥に限らず、すべて朝の目覚めが早いものであるから、これも早朝のさまとして、一に即物の心をもって言い続けたものと取れる。第一段は純粋の叙景であるというのは、この意味からである。第二段の抒情は、第一段の風物の中で特に心に通いきたった「雲居」と「容鳥」によって、懊悩している心の具象化を志したのであるが、それは抒情のきっかけを得たにすぎないもので、いわんとする中心は、「立ちてゐて念ひぞ吾がするあはぬ児故に」で、風物とはつながりのないものとなっているのである。さらにこの歌を、一首全体として見ると、この歌のもっている事件は、「あはぬ児故に」というものだけで、事件とは称し難いものである。長歌という形式は、叙事をまじえることによって抒情を徹底させようという要求の下に用いられるものであって、この歌のごとき場合には、その要のないものである。「あはぬ児故に」というだけの嘆きであれば、短歌で事が足りるといえる。それにもかかわらず長歌形式を用いたのは、その好むところの叙景をしようとし、それをもって叙事に代えようとしたがためと思われる。その結果から見ると、赤人の長歌に往々にまじる、稀薄なものとなりおわったのである。
 
     反歌
 
373 高※[木+安]《たかくら》の 三笠《みかさ》の山《やま》に 鳴《な》く鳥《とり》の 止《や》めば継《つ》がるる 恋《こひ》もするかも
    高※[木+安]之 三笠乃山尓 鳴鳥之 止者繼流 戀哭爲鴨
 
【語釈】 ○高※[木+安]の三笠の山に鳴く鳥の 「鳴く鳥」は、長歌との関係においていっているもので、容鳥である。したがってその鳴くのは、片恋の苦しさの訴えである。「の」は、のごとくの意のもの。○止めば継がるる恋もするかも 「止めば」は、今まで鳴きつづけていた容鳥が、鳴きやめると。「継がるる」は、続けられるで、その事のおのずからに行なわれる恋。これは違体格で、次の「恋」につづいている。「恋」は、わが恋であるが、容鳥と緊密に関係させたもので、片恋である。「恋もするかも」は、「も」は詠歎で、そうした恋をも我はすることであるよの意。
(169)【釈】 高※[木+安]の三笠の山に片恋に鳴いている容鳥《かおどり》のごとく、それが鳴きやむと続けられるところのその片恋を、我のすることであるよ。
【評】 この反歌は、長歌との関係において成立ちうるもので、独立性のないものである。それは「鳴く鳥」が容鳥であり、「恋」がそれの片恋であることによって意味をなすものだからである。すなわち長歌の繰り返しという、人麿以前の古風なものなのである。しかしこの歌は、景と情との融合を極めたもので、その緊密な程度は異とすべきものである。それは「容鳥の」の「の」は、文字どおりに「止めば継がるる恋も」と続き、単に容鳥の上をいったものと見ればそうも見られ、その「恋も」にわが恋をこめ、「するかも」の詠歎によって言いおおせたとすれば、そう見られるのみならず、かえって含蓄の多い、広がりをもったものとなるのである。今は「の」を、のごとくの意と解したのであるが、それだと味わいの上では劣るが、心としては平明な解しやすいものとなってくるのである。こう解そうとしたのは、この歌を長歌の一部とせず、独立した一首の歌と見ようとするがためで、それがまた赤人の反歌の風でもあろうと思われるからである。こうした疑いを起こさせるのは、要するに赤人の景情の融合が緊密であるからで、この面における感性と表現力の卓越しているがためである。
 
     石上乙麿朝臣の歌一首
 
【題意】 「乙麿」のことは(三六八)左注に出た。「朝臣」とあるのは、乙麿は中納言従三位となったので、卿とすべきであるが、この歌を作った時は四位であったからであろうと『講義』は注意している。
 
374 雨《あめ》零《ふ》らば 着《き》むと念《おも》へる 笠《かさ》の山《やま》 人《ひと》にな着《き》しめ 宿《ぬ》れは漬《ひ》づとも
    雨零者 將盖跡念有 笠乃山 人尓莫令盖 霑者漬跡裳
 
【語釈】 ○雨零らば着むと念へる 「着む」は、下の「笠」についていつたもので、身に着ける意で、今だとかぶる意である。昔の笠は、その普通の物は着るといっていた。また、大笠という物もあって、それに柄がついており、これだけは「さす」といったが、それは三位以上に許されている特殊な物であった。二句、雨が降ったならば、着ようと思っているで、意味で、下の「笠」へ続くもの。○笠の山 『代匠記』は三笠山としている。『攷証』は、一説として、『大和志』に、城上郡笠村(桜井市笠)にあり、「巒峰如v笠」とあって、それによっての名だというが取らないといっている。『講義』はその捨てた説を取り、その村は、初瀬の北から石上へ通ずる路にあたっており、藤原不比等の創建という笠寺のある地である。おそらくはその山だろうといっている。それだと、笠の山が歌因であって、その山に対しての抒情である。しかし抒情は、山そのものに対してではなく、山の名の「笠」という一語に対してだけのものとなっている。「笠の山よ」と呼びかけたもの。○人にな着しめ 『古義』の訓。(170)「そ」にあたる字がないので、必ずしも「そ」を添えてよまなくてもいいのである。我以外の者には着させるなの意。○霑れは漬づとも 「霑れは漬づ」は、「は」は、強め。「漬づ」はすでに出た。たとい甚しく濡れて濡れそぼとうともの意。
【釈】 雨が降ったならば、わがかぶろうと思っている笠の、その笠という名をもった笠の山よ。我以外の者にはかぶらせるなよ、たとい濡れて濡れそぼっていようとも。
【評】 笠の山に呼びかけていっているのであるから、山に対しての抒情であることは明らかである。しかし抒情の因をなしているのは、「笠」という一語に対してであって、無理な感のないではないが、その山の形が笠に似ているところからのこととすると、緩和されるところがある。笠を女に譬え、その女をわがものとすることをわが笠にするという心の歌は、集中に少なくないもので、流布して常識となっていたものと取れる。その点からいうとこの歌は、譬喩歌に似たところがある。すでにそうした解もあるところから、『古義』は、これは譬喩歌ではなく、山の面白さを愛でていったものだとも注意している。いったがように「笠の山」と呼びかけていっているので、そう見るほかはない。大体、自然の風物に見入り、その刺激によって発してくる心を、その風物に絡ませて具象するというのが、この時代の建前である。この歌もそれで、笠の山の、その形の笠に似ているところに興をもち、その笠より連想されてくる、この時代の民謡的常識を詠んだものと取れる。すなわち実景に即しての連想であって、いうところの譬愉歌とは根本を異にしているものである。さらにいえば、譬愉以前の歌である。これは主として時代のさせていることである。
 
     湯原王《ゆはらのおほきみ》、芳野にて作れる歌一首
 
【題意】 「湯原王」は、天智天皇の御孫、施基《しき》親王の御子である。施基親王は、その御子の光仁天皇が御即位になった後、追尊して田原天皇と申したので、湯原王は田原天皇の御子弟である。また、光仁天皇は御兄弟を親王とされたので、ここに王というのは、光仁天皇御即位以前の称である。湯原王の歌は、この巻に三首、巻四に八首、巻六に三首、巻八に五首あり、すべてで十九首が伝わっている。
 
375 吉野《よしの》なる 夏実《なつみ》の河《かは》の 川《かは》よどに 鴨《かも》ぞ鳴《な》くなる 山影《やまかげ》にして
    吉野尓有 夏實之河乃 川余杼尓 鴨曾鳴成 山影尓之弖
 
【語釈】 ○吉野なる夏実の河の 「吉野なる」は、吉野にあるところの。「夏実の河」は、吉野川が菜摘の地を流れる間の称で、そこは吉野宮のあ(171)った宮滝よりは上流、東十町ばかりを溯った、今、吉野町菜摘の地である。この辺りで吉野川は彎曲し、半島状に一地域を繞っているが、菜摘はその尖端にあたっている。ここは吉野でも佳景とされ、集中に他にも歌があり、懐風藻の詩にも扱われている。○川よどに 「川よど」は、川の流れの澱《よど》んだところの称。これは河流の彎曲した所にできるものである。この澱は今もある。○鴨ぞ鳴くなる 鴨が鳴いていることであるの意。○山影にして 「影」は、陰に当てた字。「にして」は、ここは、においての意のもの。山陰においてというのは、作者の今いる所からは、山を隔てた、その陰にあたっての意。
【釈】 吉野にある夏実の河のその川澱に、鴨が鳴いていることである。ここからは山陰にあたって。
【評】 「吉野なる夏実の河の川よどに」と、大景より小景へと、しだいに狭められ、そこに「鴨ぞ鳴くなる」という形のない、いささかなものを据えられ、さらにそれを「山影にして」という間接なものにさえされた歌で、その取材の上にも、手法の上にも、特色のあるものである。鴨の鳴き声は、常識からいえば愛すべきものとは思われないが、この歌はそれを捉えて一首とされ、しかも抒情の一語をもまじえずして、感の通った、気分のあるものとされていることが注意される。鴨は渡り鳥で、冬季に来る鳥であるから、この歌を作られた時は冬である。静寂を極めた吉野の谿谷の、夏実の佳景において聞く鴨の鳴き声は、環境の力に引き立てられて印象的なものに感じられ、一種の気分を醸させたものと取れる。それにしても、鴨の声そのものを一首の歌にするということは、実際に即する心が強くなければできないことである。さらにまたこの歌で注意されることは、気分のおおらかに明るく、語《ことば》続きの順直を極めていることであるが、これはあくまでも実際に即そうとする態度からきているもので、「山影にして」ということは、その態度からでなければいわれないものである。感としてはさして際やかではないものが、十分に抒情味をもったものとなっているのは、この態度のためだといえる。描写そのものによって抒情を遂げるということは、文芸性の高上であって、この時代の新風である。
 
     湯原王、宴席の歌二首
 
376 秋津羽《あきづは》の 袖《そで》振《ふ》る妹《いも》を 玉《たま》くしげ 奥《おく》に念《おも》ふを 見賜《みたま》へ吾君《わぎみ》
    秋津羽之 袖振妹乎 珠匣 奧尓念乎 見賜吾君
 
【語釈】 ○秋津羽の袖振る妹を 「秋津羽」の「秋津」は、蜻蛉で、「羽」は、羽根。蜻蛉の羽根の意で、その薄く、軽く、美しいのを、それに似た羅《うすもの》の譬喩とし、進めて、直接に羅の意としたもの。類語として「蜻領巾《あきつひれ》」という語もある。「袖振る」は、舞を舞うことを具体的にいったもの。「妹」は、ここは、侍女を親しんでいっているものと取れる。羅の袖を振って舞う、わが女をの意で、宴席の興を添えさせようとして、侍女に舞(172)を舞わせたのをさしていっているもの。○玉くしげ奥に念ふを 「玉くしげ」は、巻二(九三)に出た。「玉」は、美称。「くしげ」は、櫛笥で、櫛を初め化粧用品を入れておく筥《はこ》の称。筥であるところから、奥と称すべきところもあるとして、奥と続けて、その枕詞としたもの。「奥に念ふ」は、「奥に」は、内外と対させていう、その内にあたる語で、『代匠記』は秘蔵の意だといっている。類語として「奥妻《おくづま》」「奥まへて吾が念《も》ふ君は」などがあり、意は同じである。二句、秘蔵に思っている者をで、上の二句を、角度を変えて繰り返していったもの。○見賜へ吾君 「見賜へ」は、見て興《きよう》とし給えよの意。「吾君」は、きわめて親しみ尊んでの呼びかけ。
【釈】 蜻蛉羽《あきづは》の羅《うすもの》の袖を振って舞を舞うわが女を、わが秘蔵に思っている者を、見て興とし給えよ、吾君《わぎみ》よ。
【評】 「吾君」と呼ぶ親しい客に、宴を設けてもてなした時、王の侍女と思わせる者に、宴席の興を添えるために舞わせた際の、王の挨拶として詠んだ歌である。人に物を贈る時に、その物の良い物であること、あるいはその物を得るに労苦したことをいうのは、上代の風であったのと同じく、ここも、今舞わせている女は、我にとっては軽くない者だというのが礼であって、その心をもって詠んだものである。それにしても歌に現われているところは、王がいかにその女を愛しているかを、あらわに、濃厚に出しているものである。初二句は女の愛すべきさまをいい、三、四句は女に対する王の心をいったもので、「玉くしげ」の枕詞のごときは、その上では妥当を極めたものである。女の美しさを重んじるのは時代の風で、こう言い、言わるることが、主客とも喜びであったろうと思われる。必要のあっての挨拶の歌で、実用性のものであるが、一首が柔らかく、神経がとおっていて、品位を保ち得ている作である。
 
377 青山《あをやま》の 嶺《みね》の白雲《しらくも》 朝《あさ》にけに 恒《つね》に見《み》れども めづらし吾君《わぎみ》
    青山之 嶺乃白雲 朝尓食尓 恒見杼毛 目頬四吾君
 
【語釈】 ○青山の嶺の白雲 「青山」は、樹木のために青く見える山。「嶺の白雲」は、山頂にかかっている白雲で、普通、雲の峰にかかるのは夜で、朝にまで及ぶ。○朝にけに 「け」は、日。「朝にけに」は、朝々にというに同じ。山の雲の最も印象的なのは朝であるから、ここもその意で、感覚的にいったもの。○恒に見れどもめづらし吾君 「恒に」は、ふだんにで、「朝にけに」を強める意で繰り返したもの。「めづらし」は、「愛《め》づらし」で、良いものは飽かせない意をもっていったもので、初句よりこれまでは、「吾君」に対する親愛の情をいうための譬喩。「吾君」は、呼びかけ。
【釈】 青山の頂にかかる白雲の、朝々に、ふだんに見ているけれども、それにもかかわらず飽かず愛ずらしい、そのごとき吾君《わぎみ》よ。
(173)【評】 初句より、結句の「めづらし」に至るまでは、すべて譬喩である。しかも譬喩であることをあらわす一語をも用いずにしているものである。譬喩についてはしばしばいったように、大体自然の風物から人事を連想し、その人事をあらわすに、見たところの風物を借りているものが多い。しかるにこの場合はそれとは反対に、「吾君」と称せらるる人に対しての平生の感をいおうとして、それにふさわしい自然現象を捉えきたったもので、まさしくも譬喩である。後世的に見れば普通なものであるが、当時としては新味をもったものである。しかしこの譬喩は平生見馴れている風物で、「朝にけに恒に見れども」は、あるいは「吾君」のことをいっているのではないかと思わせるまで、譬喩されるものと融け合ったものである。新味というのは、譬喩を扱う態度の上のことにすぎない。「青山の嶺の白雲朝に」という続きは、感覚的なみずみずしいものである。おおらかに、柔らかみをもち、自然現象を重んじて、それを言い尽くそうとされるところ、上の「吉野なる」と同様である。実用性の歌であるが、文芸性の高いものをもっている。
 
     山部宿禰赤人、故太政大臣藤原家の山池を詠める歌一首
 
【題意】 赤人から見て「故太政大臣藤原家」というと、藤原不比等のほかにはない。赤人は神亀から天平へかけての人で、不比等の薨じたのはそれに先立った養老四年八月で、藤原氏で太政大臣となった者はほかにはないからである。不比等は鎌足の二男で、薨じた時は正二位右大臣であったが、薨後正一位太政大臣を賜わったのである。「太政大臣」の上に「贈」とあるべきだが、当時の史書もこの集もそれのないところから、記さないのが当時の例であったろうという。「藤原家」は、諱《いみな》を書くのをはばかっての言い方で、尊称である。「山池」は、造り庭の築山と池の意である。
 
378 昔者《いにしへ》の 旧《ふる》き堤《つつみ》は 年《とし》深《ふか》み 池《いけ》のなぎさに 水草《みくさ》生《お》ひにけり
    昔者之 舊堤老 年深 池之瀲尓 水草生尓家里
 
【語釈】 ○昔者の旧き堤は 「昔者」は、字は中国の熟字で、慣用していたもの。(三一二)「昔者《むかし》こそ」、巻七、(一〇九六)「昔者《いにしへ》の事は」などある。誤字説があるが、諸本異同がない。「堤《つつみ》」は、池の堤の意で、池のことを言いかえた形のもの。古のもののこの旧い池はの意。○年深み 年が久しくしての意。この場合の「深み」は、久しいという意で、集中用例のあるものである。○池のなぎさに水草生ひにけり 「なぎさ」は、波の寄せかえす所で、岸寄りの部分。「水草」は、水辺に生える草の総称。「生ひにけり」は、「に」は完了。「けり」は、詠歎。
【釈】 古のもののこの旧い池は、年を経ること久しくして、池の渚に、水草《みずくさ》が生えたことである。
(174)【評】 藤原不比等の旧宅の、その造り庭を見て、その当時に較べて荒れてきているのに対しての感傷である。その荒れてきたことは、池の渚に水草が生えてきているという一事によって具象し、それによっていわんとする感傷を遂げさせているものである。「昔者の旧き堤は」といい、さらに「年深み」と続けているのは、くどきにすぎる感のするものである。しかし作意からいうと、必要のあったことと取れる。赤人の生存時代からいうと、不比等の薨はさして年月の遠いことではなく、赤人は当然不比等の盛んなさまを目にしていたと思える。不比等は位人臣を極め、病中、薨後の朝廷よりの殊遇は、前例のないまでのものであった。また、その後も栄えていた。その旧居の造り庭の荒れたのを見ると、時の推移の悲しみを強く感じ、それを具象的にあらわさずにはいられなくなり、「昔者の旧き堤」という言い方をしたものと思われる。次に、その悲しみをなぎさの水草に集中して具象しようとすると、その原因として、さらに「年深み」を繰り返さなくてはいられなかったとみえる。この繰り返しが、赤人の不比等に対してもった感傷の具象化なのである。直接に感傷をいうことを避け、また強い調べによってあらわすこともできず、静かに、精緻なる具象によってあらわそうとする赤人の手法は、おのずからここに至ったものとみえる。またこの手法は、赤人一人のものではなく、奈良遷都以後、人々に共通な歌風ともなっていたものである。
 
     大伴坂上郎女《おほとものさかのへのいらつめ》、祭神の歌一首 并に短歌
 
【題意】 「大伴坂上郎女」は、佐保大納言と呼ばれた大伴宿禰安麿の女で、旅人の妹である。坂上郎女というのは尊称で、「坂上」はその住んでいた地名、「郎女」は女に対する敬称である。坂上の里は大和国生駒郡三郷村立野の東北、大和川に沿って、今、さかねと呼ばれている地、あるいは奈良市法華寺町の北ともいわれている。郎女は初め、一品穂積親王に召されたが、皇子が薨じられた後、藤原朝臣麿に嫁し、麿も薨じたので、異母兄大伴宿禰宿奈麿に嫁して、二女を挙げた。長女坂上大嬢は、大伴家持の妻となり、次女坂上二嬢は、大伴駿河麿の妻となった。郎女は歌人としては、額田王と並んでこの集の女流歌人の代表者とされ、歌数も多い人である。「祭神」については左注がある。神というのは大伴氏の祖先神で、祭は、一年二回、定期に営んだ例祭であって、歌はその際に作ったものである。
 
379 久堅《ひさかた》の 天《あま》の原《はら》より 生《あ》れ来《き》たる 神《かみ》の命《みこと》 奥山《おくやま》の 賢木《さかき》の枝《えだ》に 白香《しらか》付《つ》く 木綿《ゆふ》取《と》り付《つ》けて 斎戸《いはひべ》を 忌《いは》ひ穿《ほ》り居《す》ゑ 竹玉《たかだま》を 繁《しじ》に貫《ぬ》き垂《た》り ししじ物《もの》 膝《ひざ》折《を》り伏《ふ》せ 手弱女《たわやめ》の 押日《おすひ》取《と》り懸《か》け かくだにも 吾《われ》は祈《こ》ひなむ 君《きみ》にあはじかも
(175)    久堅之 天原從 生來 神之命 奥山乃 賢木之枝尓 白香付 木綿取付而 齋戸乎 忌穿居 竹玉乎 繁尓貫垂 十六自物 膝折伏 手弱女之 押日取懸 如此谷裳 吾者祈奈牟 君尓不相可聞
 
【語釈】 ○久堅の天の原より 「久堅の」は、天、日、月などにかかる枕詞。意味は明らかでなく、諸説がある。瓠形《ひさごがた》の意だという解が穏やかに聞こえる。「天の原」は、高天原で、天上の国で、皇祖神を初め神々のまします国。○生れ来たる神の命 「生れ」は、現われる意で、巻一(二九)「生れましし神のことごと」のほか、用例のある語。「来たる」は、きいたるで、この国に来て、現在も存在している意。「神の命」の「神」は、ここは、大伴氏の祖先神である天忍日命《あめのおしひのみこと》で、「命」は、尊んで添えた語。「神の命」は、呼びかけの形である。以上の四句は、天孫降臨の際、天忍日命が供奉をしてこの国に来たり、その氏族より祀られて神として鎮まっていることをいったもので、それをいうことはすなわち、神を崇め讃えることである。なお氏族の祖先神は、その祖先神一柱だけで、また神は永遠に存在するものである。○奥山の賢木の枝に 「奥山」は、人の最も到らぬところで、したがって穢れのない所としてのもの。「賢木」は、下の続きによって、神に供えるべき幣《ぬさ》を、その枝に結びつけるための木。上代の風として、人に物を贈る時には、木の枝に結びつけることをした。この風は平安朝時代までも行なわれたものである。「賢木」は神に幣を供えるには必ず用いるべき木と定められていたもので、上の「奥山の」との関係で、清浄なる木として選ばれていたものと取れる。この木が現在の何の木であるかについては諸説があるが、最も有力なのは、これはもと、神境に植える木の総称で、すなわちひもろぎのことであり、後、一木の名となって、もっぱら祭神に用いられるものとなった。今の山茶花《さざんか》科の「さかき」だというのである。○白香付く木綿取り付けて 「白香《しらか》付《つ》く」は、『考』の訓。「白香」は、その何であるかが明らかではなく、諸説がある。本居太平は、白香は集中に三か所あって、皆この字を用いているから、白髪ではなく、白紙であろう。白髪《しらかみ》をしらがという例で、白紙《しらかみ》をしらがともいえる。当時白紙を切りかけにして、木綿《ゆう》に添え付けたのであろうといっている。近藤芳樹は、これにつき、当時は白紙をやがて木綿として取り付けたので、白紙と木綿は別物ではない。「白香付く」は木綿の枕詞であるといっている。『檜嬬手』は、白香は白い苧《お》であるとし、木綿はこの苧をもって取り付けたので、その意でいったものとしてゐる。『講義』は、古、髪置の式には白髪《しらか》というものがあったが、これは苧で、白髪に准ぜしめたものであるといっている。この苧を白髪に准ぜしめるのが、その形状の似ただけではなく、名も通うもので、苧を「しらが」ともいったがためであるとすると、『檜嬬手』のいうところに関係のつくこととなる。名の通うところから呪力を認めたろうという想像は、許されうべきものに思える。『檜嬬手』の解に比較的心が引かれる。「付く」は、終止形で、ここは枕詞であるから、その格として「付く」と訓むべきである。白い苧で付けるの意で、意味で木綿にかかる枕詞。「木綿《ゆふ》」は、穀の木の繊維で、しばしば出た。二句、白香で付ける木綿を取付けて。「白香付く」の枕詞を添えたのは、その事を鄭重《ていちよう》にいわんがためである。以上四句、木綿を供えることを具体的にいったもの。○斎戸を忌ひ穿り居ゑ 「斎戸」は、神に供える御酒《みき》を盛る瓶《かめ》のごとき物の称で、「斎《いは》ひ」は、穢れを忌んで、慎しみ清める意の語。「戸《へ》」は、土焼の瓶のごとき物で、形は相応大きく、底部は円くなっている物である。「忌ひ穿り居ゑ」は、「忌《いは》ひ」は、神に供えるべく斎って。「穿り居ゑ」は、底部の円いところから、土を掘って据えてで、二句、御酒《みき》を供えることを具体的にいったもの。○竹玉を繁に貫き垂り 「竹玉」は、いかなる玉か明らかではなく、したがって諸説がある。『仙覚抄』は、陰陽家の伝えにより、竹を玉のように刻んだものといい、賀茂真淵は、玉を篶竹《すずたけ》につけたところからの称といい、『攷証』は、古墳から出る玉で、色は緑で、長さは五、六分のものがあ(176)り、細い竹をふつうに切つたのに似ているから、それであろうといい、なお他にもあって定まらない。「繁《しじ》に」は、繁くで、副詞。「貫き垂り」は、「貫き」は緒に貫く意。「垂り」は、古くは四段活用で、垂らしの意。二句、竹玉を繁く緒に貫いて、垂らしで、何に垂らしたのかは明らかでない。祭の定まった式をいっているもので、当時としてはそれまでいう必要はなかったことである。神に供える物であるから、上の賢木《さかき》の枝と取れる。「奥山の」以下ここまでは、祭の式をつぶさにいったもので、神に品々を奉ることはすなわち神を崇め讃うる心をあらわすことであるから、つぶさに言いたてることは、その心を尽くすこととなるのである。○ししじ物膝折り伏せ 「ししじ物」は、巻二(一九九)に出た。「しし」は宍《しし》で、その肉を食料とする猪鹿の総称。それに「じ」を添えて猪鹿のごとしの意とし、さらに「物」を添えて熟語として、猪鹿のごときさまの意で、「膝折り伏せ」の枕詞としたもの。「膝折り伏せ」は、膝を折って身を伏させてで、平伏する意。これは上代の拝の形で、一般に行なわれたもの。○手弱女の押日取り懸け 「手弱女」は、「手」は接頭語。弱き者の女の意で、ここは自身をいったもの。「押日」は、上代は男女とも身につけた物とわかるが、後世には伝わらない物である。「大神宮儀式帳」に、「帛|意須比《おすひ》八端【長各二丈五尺弘二幅】」とあって、『講義』は、「止由気宮儀式帳」により、神官の女が、神に大御饌を奉る時の儀式の一条として、「天押日蒙而」とある文を引いている。『古事記伝』は、「幅《はたばり》の限《まま》にいと長き物なるを、後世の婦人の被衣《かつぎぎぬ》のごとく、頭より被て衣の上を覆ひ下は襴《すそ》まで垂ると見ゆ」といっている。「取り懸け」は、身に打ち懸ける意。以上四句は、神に折をしようとして、身の礼を尽くしていることをいっているもので、言いかえると、神を崇めている心を、具体的にいうことによって尽くそうとしているものである。○かくだにも吾は祈ひなむ 「かくだにも」の「だに」は、軽きをいって、重きを言外におく意の助詞。「も」は詠歎。これほどだけでもの意で、下の「祈ひなむ」ことの、控えめにしているものであることをあらわしているものである。それは神は、守護されるべきものは常にされているので、その神に対して多くを祈るということは、はばかるべきこととしていた、その心からのことと取れる。「祈ひなむ」の「なむ」は、『代匠記』は「祷《の》む」の意であるとしている。これを助動詞と見ると、将来を推測する意となって、現に祈っていることと矛盾するので、動詞と見るほかはないが、「なむ」を動詞として、ここに当たりうるものとするには、『代匠記』の解に從わざるを得ないとされている。○君にあはじかも 「君」は、男。「か」は疑問、「も」は詠歎。君に逢うことはできないだろうかというのに、「も」の詠歎を添えたもので、この「も」は強いて訳すと、どうでもというほどの意のものと取れる。これは、逢えずにいるという事がその頃の状態で、それを祖先神の加護によって、逢えるようにしていただきたいと思うのであるが、この状態が神意にかなうものであれば、余儀ないものであるという心をもち、その上に立っての哀訴の心をあらわしたものと取れる。上の「かくだにも」という語は、その意味でここに響いてきている。すなわちこの語は、祈《こ》いなむことその事であって、祈いなむことを終わっての後、その結果を危ぶんで、疑いをもって独語しているのではなく、現に祖先神に対して、祈っている語と取れる。
【釈】 久堅の高天原から、そこに現われて、今この国のここに来ていらせられる神の命よ。奥山の榊《さかき》の枝に、白き苧《お》をつける木綿《ゆう》を取付けて供え、また斎瓮《いわいべ》に御酒《みき》を盛って、清めては土を掘って据えて供え、また竹玉を繁く緒に貫いて垂らして供え、猪鹿《しし》のさまに膝を折って身を伏させ、女の物なる「おすひ」を身に被《かず》いて、これほどのことだけなりともと吾は祈り祈る。どうでも君には逢えないものであろうか。
(177)【評】 表現についてのことは、語釈でいった。第一に、祖先神を讃えて呼びかけ、第二には、祭の式を尽くしていること、第三には、自身の崇敬の情を尽くしていることを、その事に合わせては過ぎはしないかと思われるまでに懇ろに具体化していって、それによって祖先神に対する氏族としての情をあらわし尽くし、最後に自身の祈りをいっているのである。しかし肝腎の祈りは、神に対する礼として、控えめに、言葉少なに、どちらかというと、その意を捕捉しかねるかの感ある言い方をしているものである。その構成の整然としたものであることは、以上でもわかり、きわめて改まった態度のものであることが知られる。用語も比較的素朴で、したがって強く、語の続きも直線的で、弛みのないことは、上にいった態度を裏づけるものであって、これは言いかえると古風ということであって、新風を慕った郎女としては、特に意識しての風であったとみえる。したがって、この歌は坂上郎女にとっては、重大なものであったろうと思われる。転じて、これほどに心を尽くしてしている祈りの対象である「君」とは、大体誰であろうかと思うと、不可解なものとなってくる。それというのが、この歌には左注があり、この祭の行なわれた年月が記されているからである。「天平五年冬十一月」というと、郎女は相応な年齢であったと思われる。正確な年齢は徴すべきものがないが、兄の旅人は、天平三年、六十七をもって薨じているので、郎女の年齢も相応に高いものだったろうと思われる。夫の宿奈麿《すくなまろ》の没年は徴すべき資料がないが、天平五年頃には、すでに故人になっていたろうといわれている。それだとここにいう「君」とは、誰をさしているのだろうかと怪しまざるを得ないものとなる。女性として「君」といえば男性をさしたものであり、その男性に逢えぬ嘆きをするといえば、ただちに恋の嘆きを連想させられるのであるが、この歌には、恋の嘆きを思わせるようなところは微塵もない。また、祈るのは祖先神であり、その祈りはいったがように全心を打込んだものであるが、その祈ることはといえば、「君にあはじかも」ということである。この語《ことば》は、いったがように、近き過去にも、また現在にも、逢えずにいる人であることを暗示している語である。また、将来についても、神に対してのはばかりゆえに、控えめにいっているということを控除しても、必ず逢いたいという積極的の心をもってのものではなく、逢えないということの上に立って、神の加護によって、あるいは幸いにも逢いうることがありはしないかと、哀訴する程度のものと解される。中心の祈りの部分は語が隠約で、捕捉し難い感のあるものであるが、その隠約は、いうがような複雑さと屈折をもったことを、簡潔にいおうとするところからきているもので、この解は強いたものではなかろうと思われる。当時の郎女に、このような感を抱かせる「君」とは、はたして誰であったろうかと思わせる。氏族の中で神となりうる者は、その氏族の祖先神一柱だけで、他の故人は霊として存在しているにすぎないものである。そうした人は「君」と言いうる者である。郎女が今は霊となって存在している故人の何びとかに対して、思慕の情のやみ難いものをもち、せめて霊としての交通をもち得たいと願い続けていて、今、祖先神の祭という特別な場合に、神の加護を信じてその事を祈ったとすれば、こうした歌は成立ちうるものと想像される。この歌はそうした範囲のもので、おそらくは夫宿奈麿をさしているのではないかと思われる。疑問を残してし(178)ばらくそう解する。
 
     反歌
 
380 木綿畳《ゆふだた》み 手《て》に取《と》り持《も》ちて かくだにも 吾《われ》は乞《こ》ひなむ 君《きみ》にあはじかも
    木綿疊 手取持而 如此谷母 吾波乞甞 君尓不相鴨
 
【語釈】 ○木綿畳み手に取り持ちて 「木綿」は、上に出た。これは幣帛《にぎて》として神に手向けるもので、今はそれである。「畳み」は、畳んでで、その長いのを畳む意。「手に取り持ちて」は、神に手向ける状態で、その事を鄭重に行なっている意で細かくいったもの。
【釈】 幣帛としての木綿《ゆう》を畳んで、手に取り持って手向けて、せめてこの事のかなうようにと吾は神に祈り祈る。君に逢えないものであろうか。
【評】 長歌を要約して繰り返したもので、ことに三句以下は、長歌の結末をそのままに繰り返したものである。これは反歌としては最も古風なもので、この当時の反歌としては、むしろ珍しいものである。これも長歌と同じく、意識して古風に従ったものと取れる。
 
     右の歌は、天平五年冬十一月を以ちて、大伴氏神《おほとものうぢのかみ》を供祭する時、聊この歌を作る。故に祭神歌といふ。
      右歌者、以2天平五年冬十一月1、供2祭大伴氏神1之時、聊作2此謌1。故曰2祭神歌1。
 
【解】 氏神の祭については、『講義』が詳しく考証をしている。『類聚三代格』、寛平七年の太政官符、また、『神宮雑例集』には、一年二回、氏神祭をすべきこと、またしたことが記してある。さらに春日神社、大原野神社、平野神社は、それぞれ氏の神であるが、いずれも春二月、あるいは夏四月、冬十一月に祭をするべきことが規定されており、ことに冬十一月の方が重んじられていたとみえ、月が一定していた。ここの「十一月」もそれであろうという。大伴氏の氏神の社は、『延喜式』では山城国葛野郡にあるが、これは遷されたもので、その以前は河内国にあったのではないかという。神のことは上にいった。「故に祭神歌といふ」は、歌を作ったのが祭祀の際であったので、それにちなんでの称であって、作因は郎女自身の祈りのためのものである。
 
(179)     筑紫《つくし》の娘子《をとめ》、行旅に贈れる歌一首 娘子、字を児島といふ
 
【題意】 筑紫の娘子は、紀州本はじめ西本願寺本以下五本の下の注で、「娘子、字を児島といふ」とある。児島という女は、巻六(九六五)(九六六)にも出ている作者で、その歌は、天平二年、「冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上る時、娘子《をとめ》の作れる歌二首」とあるものである。なおその歌の左注で、この女は当時その地に住んでいた遊行女婦であることが知られる。「行旅」は旅びとの意で、誰ともわからない。
 
381 家《いへ》思《おも》ふと 情《こころ》進《すす》むな 風候《かぜまも》り 好《よ》くしていませ 荒《あら》き其《その》路《みち》
    思家登 情進莫 風候 好爲而伊麻世 荒其路
 
【語釈】 ○家思ふと情進むな 「家思ふと」は、その家を恋しく思うとての意で、旅人に共通の情をいったもの。「情進むな」の「進む」は、集中に「榜《こ》ぎの進みに」「去《ゆ》きの進みに」などの用例があって、いずれも逸《はや》るという意に用いてある。ここもそれで、心逸りたまうなで、すなわち、逸って危険を冒そうとはしたまうなの意。○風候り好くしていませ 「風|候《まも》り」は、「候」が「俟」になっていたのを、七本が「候」とあるので、『代匠記』が改め、訓を施したもの。「風」は、海上の風、「候り」は見守《まも》りで、見定める意。「行旅」というのは、たぶん大宰府から京へ上る人で、それだと路は、瀬戸内海を船でするものである。当時の船の風浪に堪える力の少ないものであったことは前にも出た。したがって「風候り」ということは、最も重大なことだったのである。この語は名詞。「好くしていませ」は、「好くして」は、十分にして。「いませ」は、ここは行けの敬語で、行きたまえの意。○荒き其路 荒い路であるのにの意で、下に詠歎を含んだもの。
【釈】 その家を恋しく思うとて、心|逸《はや》りたまうな。風の見定めを十分にして行きたまえよ。荒いその路であるのに。
【評】 常語をもってする挨拶に代えるに、歌をもってしたものである。すなわち実用性の歌である。一首を三段とし、重く、積み重ねていい、調べの美しさを捨てて詠んでいるのは、口語に近づけようとしているがためで、時宜に適したものである。作者の面目の感じられる歌である。
 
     筑波岳《つくばのたけ》に登りて、丹比真人国人《たぢひのまひとくにひと》の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「筑波岳」は、歌では筑波の山となっている。常陸国筑波郡にある山で、関東での名山。「丹比真人国人」は、続日本紀にしばしば出ている人である。「丹比」氏は、宣化天皇の皇子賀美恵波王より出ている。「真人」は姓で、天武天皇の御代に賜わ(180)ったもの。「国人」は、天平八年従五位下、十年民部少輔、天平勝宝三年従四位下、天平宝字元年摂津大夫、その年七月、橘奈良麿の謀反に関係して遠江守として伊豆に配流《はいる》された人である。
 
382 鶏《とり》が鳴《な》く 東《あづま》の国《くに》に 高山《たかやま》は さはにあれども 朋神《ふたがみ》の 貴《たふと》き山《やま》の 儕立《なみたち》の 見《み》がほし山《やま》と 神代《かみよ》より 人《ひと》の言《い》ひ嗣《つ》ぎ 国見《くにみ》する 筑波《つくば》の山《やま》を 冬木成《ふゆごもり》 時敷《ときじき》時《とき》と 見《み》ずて往《い》なば まして恋《こ》ほしみ 雪消《ゆきげ》する 山道《やまみち》すらを なづみぞ吾《わ》が来《け》る
    鷄之鳴 東國尓 高山者 佐波尓雖有 朋神之 貴山乃 儕立乃 見杲石山跡 神代從 人之言嗣 國見爲 築羽乃山矣 冬木成 時敷時跡 不見所徃者 益而戀石見 雪消爲 山道尚矣 名積叙吾來煎
 
【語釈】 ○鶏が鳴く東の国に 「鶏が鳴く」は、東にかかる枕詞で、巻二(一九九)に出た。定説はない。『古義』は、妻が朝、通って来る夫にいう語として、鶏が鳴く、起きよ吾夫《あずま》の意で、「あづま」に続くものだろうといっている。「東の国」は、坂東の国々をさしての称。安曇《あずみ》族の住んでいる地としての称であろうという説がある。○高山はさはにあれども 「高山」は、高い山。「さは」は、物の多い意で、上に出た。○朋神の貴き山の 原文「明」とあり、諸本みな一様で、「明神」は旧訓「あきつがみ」である。あきつ神は現《あき》つ神で、天皇御一方に申す称であるから、ここにはあたらない。『童蒙抄』は「明」は「朋」の誤りであるとして、「ともがみの」と改めた。『考』はさらに改めて「ふたがみの」とした。「ふた神」は二神《ふたがみ》で、男女二神の意である。上代は山そのものを神と崇めていたことは、上にしばしば出た。筑波山はその意味でことに崇められていた山である。この山は、男体女体の二峰が東西に相並んでいて、まさに「朋神《ふたがみ》」をなしている。誤字説に従うべきである。「貴き山の」は、「貴き」は、神として讃えていったもの。「の」は、同じ趣の語を重ねていう時に用いる助詞で、にしてというにあたる。すなわち次の二句は、この二句の繰り返しの形となっているからである。○儕立ちの見がほし山と 「儕立」は、旧訓「ともたち」。細井本に「なみたち」の訓があり、『考』もそう訓んでいる。「儕」は「※[藕の草がんむりなし]」であるから「並《な》み」の意があり、「なみたち」と訓みうるものである。この語はここよりほか例のないものであるが、巻七(一七五三)に「二並《ふたなみ》の筑波の山を」とあり、その「二並」と同じ意である。「朋神《たたがみ》」を具体的に言いかえたものである。「見がほし山」は、見ることのほしく思われる山の意。「ほし」という形容詞の語幹から、ただちに名詞「山」に続けることは、「くはし妻《め》」「かなし児」などと同じである。「と」は、といっての意。二句、男体女体の並び立っているところの、見ることのほしく思われる山といってで、上の「朋神の貴き山」の繰り返しとしてのものであるが、しかし内容には相応な距離がある。すなわち上二句は、筑波山の神としての方面だけをいったものであるのに、この二句は、風景としての方面を取入れ、しかもそちらを強調したものである。○神代より人の言ひ嗣ぎ 「神代」は、ここは遠き古人として、現在に対させていっているもの。「人の言ひ嗣ぎ」は、言い嗣ぐことにはおのずから範囲があって、貴いこと、名高いことでないとしなかった。ここもその意で、それを具体化していっているもの。○国見する筑波の山を 「国見」は、しばしば出た。高い所に登り、国の形勢、民の状態を見(181)ることであるが、転じて、展望を楽しむ意ともなった。ここは後者である。「国見する」は、上に対して、現在も人々の展望を楽しんでいるところのの意。○冬木成時敷時と 「冬木成」は、巻一(一六)に出た。月の終りを「月ごもり」というと同類の語て、冬の終りの意。この語は、集中の例から見ると、「春」にかかる枕詞となっているが、『考』はここは枕詞としてのものではなく、単に季節をあらわした語であるとしている。従うべきである。「時敷時《ときじきとき》」は、「時敷」を『代匠記』は「ときじく」の訓をよしとしたのを、『新考』が「ときじき」と改めた。理由は、「時じく」は動詞の四段活用ではなく、形容詞だから、その連体形として「時じき」と訓むべきだというのである。「時じく」は非時の意で、「時敷時」は、その時ではない時の意。「と」は、といって。二句、冬の終りの、その時ではない時だといっての意。この「時敷時」を、『考』は、高山に登るべきにあらずとの意だと解している。この解が要を得たものと思われる。高山に登るのは、春より秋までの期間て、冬は登る時ではないということは、古今を通じての常識である。山開きか盛夏のことであるのも、高山に登るには適当の時だということが主となっていよう。もっとも山開きのあるほとの山は、ことごとく神を祀ってあり、登山は参拝のためであるが、上代には山そのものが神であったから、登山の意は同様で、冬をその時ならずとするのは、その頃は危険が起こりやすく、起これば山を穢《けか》すことを怖れたからであろう。常陸風土記には、坂東諸国の男女が、春花、秋葉の際、相携えて登臨することがいってあり、また、本集巻九(一七五九)に、筑波嶺に※[女+燿の旁]歌会《かがい》をすることが作られているが、それらはすべて神を祭るための神事であったと解され、特別のことであり、平生にも登山は許されたものと取れる。登山の上は、神を拝してその事の許しを乞うのは当然のことである。○見ずて往なはまして恋ほしみ 「見ずて」の「見」は、上の「国見する」の国見と同じ意で、「見ずて往なば」は、登山して国見をせずしてこの地を去ったならば。これは国人《くにひと》か何らかの官命を帯びてたまたまこの地に来、去る時もわかっているところからの語。「まして恋ほしみ」は、「まして」は、この地に来ずして想望していた時よりも一段に。「恋ほしみ」は、「恋ほし」は「恋ひし」の古形。恋しくありとして。○雪消する山道すらを 「雪消する」は、雪解けのするで、春に近い頃を具体的にあらわしたもの。その頃は、道の一年じゅう最も歩き難い時である。「山道すらを」の「すら」は、一事を挙げて他を類推させる意の助詞。山道をさえ。○なづみぞ吾が来る 「なづみ」は、難渋する意。「来《け》る」の原文「来煎」は神田本「来並」、西本願寺本なとには「来前一」とあり、誤字説により「クル」あるいは「コシ」とされてきていたが、沢瀉博士の訓に従う。「ぞ」は係、「来る」はその結「来ある」の約言。難渋して来(182)たことであるよ。
【釈】 鶏が鳴く東《あずま》すなわち坂東の国には、高い山は数多くあるけれども、しかし男神女神の二神にます貴い山にして、相並んで立っている見ることをほしく思わせる山だといって、神代の昔から人が言い嗣いできて、今も人の登って展望を楽しんでいる筑波の山を、冬の終りの、登山にはその時ではない時だといって、この地まで来ていて、登ってその展望をせずに立ち去ったならば、遠く想望していた時よりも一段と恋しく思うによって、一年を通じて道の最も悪い時の、雪解の山道をさえ、難渋をして吾は来たことであるよ。
【評】 題詞には「筑波岳に登りて」とあるが、歌の上でいっているところは、登っての上の感懐ではなく、山上での国見に対して強い憧れを起こし、それを遂げようとして、登山の期ではない冬季に強行し、途中のある地点まで来たところで打切っているものである。すなわち一首の中心は、筑波登山の憧れそのもので、強行はその憧れを具象化したにすぎないものである。筑波山が貴い神であることは作者もいっているのであるが、歌はその神性に触れていおうとするところは全くなく、山上の風光に憧れるという、個人的興味にとどまっているものである。それがこの歌の特色で、したがって言っているところも、風光に対する憧れの心理のみである。起首から「国見する筑波の山を」までの前半は、憧れの対象としての筑波の山を叙したものである。ここにいっていることは、国人が京に在った時、すでに聞いて知っていたことで、今、何らかの官命をこうむってたまたまこの地に来、その山を眼前に見ることによって、さらに憧れの心を新たにさせられたことを一つにし、それを具体的にあらわそうとしての叙事である。「冬木成時敷時と」というより以下は、一転して憧れの心理を叙したものである。「見ずて往なばまして恋ほしみ」は、語は簡であるが、複雑した心理をいったもので、これが心理の眼目となっているものである。「冬木成」以下のこの四句は、風光というものがいかに当時の人の心を引くものであったかということ、一般の旅びとの心、その旅の事情などが暗示されているものであり、それとともに、作者がいかに実際に即した詠み方をしようとしたものであるかをも示しているものである。結末の「なづみぞ吾が来る」は、いったがように一首の作意が憧れそのものをいおうとするものであるところから、当然の打切り方と目すべきである。長歌としては短いものであるが、作者自身の心理に即して詠んでいるので、根本は抒情であるが、散文的な、淡いながらに複雑した味わいをもったものとなっている。奈良遷都以後の長歌という趣をもったものである。
 
     反歌
 
383 筑波根《つくばね》を よそのみ見《み》つつ ありかねて 雪消《ゆきげ》の道《みち》を なづみけるかも
(183)    築羽根矣 ※[冊をひっくり返したもの]耳見乍 有金手 雪消乃道矣 名積來有鴨
 
【語釈】 ○筑波根をよそのみ見つつ 「よそのみ」は、よそにばかりで、その内に入らずに、すなわち筑波の上に登らずに、離れてばかり。「見つつ」は、継続で、憧れの心を暗示するもの。○ありかねて あり得ずして。○雪消の道をなづみけるかも 「なづみ」は、上に出た。「ける」は、「来」と「あり」と熟合して、音の転じた動詞で、来たの意。過去をあらわす助動詞の「ける」ではない。難渋して来たことであるよの意。
【釈】 筑波山を、離れてよそにばかり見つづけてはあり得ずして、雪解けの道を難渋して来ていることであるよ。
【評】 この反歌は、長歌を要約して、繰り返していったものである。反歌としては古風なものであるが、登山に対する憧れということに集中して、他に渉《わた》るまいとしているところに、作者の心の見えるものである。
 
     山部宿禰赤人の歌一首
 
384 吾《わ》が屋戸《やど》に 韓藍《からあゐ》種《ま》き生《おほ》し 干《か》れぬれど 懲《こ》りずて亦《また》も 蒔《ま》かむとぞ念《おも》ふ
    吾屋戸尓 韓藍種生之 雖干 不懲而亦毛 將蒔登曾念
 
【語釈】 ○吾が屋戸に 「屋戸」は、意味が広く、家の門《かど》、家の前、家そのものをいう称。ここは家の前と取れる。○韓藍種き生し 「韓藍《からあい》」は、鶏冠草といい、今の鶏頭花である。舶来の草で、当時は珍重したもの。「種《ま》き」の訓は、集中に例のあるもの。種蒔くより当てたものであろうという。「種き生し」は、蒔いて生やして。○干れぬれど 旧訓「かれぬとも」を、『考』の改めたもの。枯れたけれどもで、事実をいったもの。○懲りずて亦も蒔かむとぞ念ふ それに懲りずして、再び蒔こうと思うことであるよ。
【釈】 わが家の前に、鶏頭花を蒔いてはやして、それは枯れたけれども、懲りずして再び蒔こうと思うことである。
【評】 当時は珍しい物であった舶来の鶏頭花に対する愛着を詠んだものである。韓藍に関する歌は、集中他にもあるが、いずれも人事との関係において捉えているものであるのに、この歌は純粋に、その物に対する愛着を詠んだもので、そこに特色がある。微細な草花に対する愛着を、素朴に、心深く詠んでいるところに、赤人の面目がみえる。この歌を譬喩歌とみている解が少なくない。譬喩歌は前にもいったように、自然物の状態の上に、わが恋の心と通うものを認め、その自然をいうことによって心をあらわそうとするのが基本となっているものである。この歌についていえば、わが心に力点を置き、韓藍を従としている関係であれば、すなわち譬喩歌となるのである。この歌は、韓藍そのものに力点を置き、吾は従となっているものなので、(184)譬喩歌とは目すべきではなく、雑歌の範囲のものである。
 
     仙柘枝《やまびとつみのえ》の歌三首
 
【題意】 「仙柘枝」は、この歌の左注に、「柘枝仙媛」とあって、女の仙人で、柘枝と名づけられていた者であることがわかる。「仙」は「ひじり」とも「やまびと」とも訓んでいる。「やまびと」は『考』の訓である。仙人は、山に住み、仙草を食うことによって不老の身となり、また仙術によって空を飛行し、自由にその身の形を変じうる者とされていた。これは中国から渡来した思想であって、やや古い時代から行なわれており、流布もしていたものである。しかしわが国に喜ばれたのは、その仙人の中の仙女のほうで、仙女というよりもむしろ天女というべきものであった。仙人は地上の人の仙術を得た者で、畢竟《ひつきよう》人間であるが、天女は天の神の侍女で、中国で信ずる天の神、あるいは仏教の範囲のもので、本来天上のものである。わが国で最も喜ばれたのは天女のほうで、神の譴《とが》めをこうむって下界に下り、または自身の意志で、時あって下って来、さまざまな形において人間との交渉をもつという方面である。風土記にある天女、竹取物語のかぐや姫などがそれである。この柘枝もその範囲のものである。「柘枝」というのは、柘は山桑《やまくわ》であって、その枝の意である。第二首目の歌によると、この仙女は、柘枝すなわち山桑の硬と身を変えて、吉野川を流れ下り、その川に梁《やな》を打って鮎の漁をしていた美稲《うましね》という男の梁《やな》にかかり、本身をあらわして女に復《かえ》り、ついに美稲の妻となったという伝説のあったことが察しられる。この伝説は甚だ当時の人を喜ばせたものとみえ、この歌の左注によると「柘枝伝」という書のあったことがわかる。その書は古く佚《いつ》してしまって、遺す部分もないが、しかし懐風藻の詩には、この伝説に触れているものが何首かあり、さらにまた、続日本後記、嘉祥二年、仁明天皇四十の御賀に、興福寺大法師らが奉った長歌の賀歌の中にも、同じくこの事に触れているところのあるのを見ても、この伝説のいかに喜ばれたものであるかがわかる。この伝説の内容のどういうものであったろうかということについては、『講義』が精しく考証している。この題詞には、「柘枝の歌」とあるが、柘枝自身の作った歌ではなく、その伝説に関係しての歌という意のものである。
 
385 霰零《あられふ》り 吉志美《きしみ》が高嶺《たけ》を 険《さか》しみと 草《くさ》取《と》りかなわ 妹《いも》が手《て》を取《と》る
    霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取
 
【語釈】 ○霰零り吉志美が高嶺を 「霰零り」は、霰に打たれる物が、その強い力のためにきしむ音を立てる意で、吉志美の枕詞となったもの。「吉志美が高嶺」は、肥前国杵島郡白石町の杵島岳《きしまだけ》で、その「ま」が「み」に訛《なま》ったものと取れる。この事は後にいう。○険しみと 「険しみ」(185)は、険しくありとして。「と」は、意味の軽い助詞で、調べを主として添えたもの。○草取りかなわ 「かなわ」は、諸注、解を試みているが、十分には解せられない。解のよるところは、この歌は後にいう、『仙覚抄』が引くところの肥前国風土記の中にあるもので、その歌のこれにあたる句は、「草取りかねて」というので、きわめて明らかである。解は、それとこれとを関係づけようとするのであるが、つけかねているのである。おそらくはそれの訛ったものであろう。それだと、手力《たぢから》として草に縋ろうとするが縋り得ずしての意である。しばらくこの意のものと見ておく。○妹が手を取る 「妹」は、男より女を称する称で、意味の広いものである。ここもそれで、女というにあたる。女の手を取るのは、求婚の意をあらわすしぐさである。
【釈】 今登りつついる吉志美が高嶺《たけ》が険しいとして、手力としての草には縋り得ずして、代わりに妹の手を取る。
【評】 上にいった『仙覚抄』が引いている肥前国風土記の、今は逸文となっているものは次のようである。「杵島郡、県南二里有2一孤山1。従v坤指v艮三峰相連、是名曰2杵島1。坤者曰2比古神1、中者曰2比売神1、艮者曰2御子神1【一名軍神、動則兵興矣。】郷閭士女、提v酒抱v琴、毎v歳春秋、携v手登望、楽飲歌舞、曲尽而帰。歌詞曰、阿邏礼符縷《あられふる》 耆資熊《きしま》(麼《ま》)加多※[土+豈]塢《かたけを》 嵯峨紫弥占《さがしみと》 区瑳刀理我泥底《くさとりかねて》 伊母我提塢刀縷《いもがてをとる》【是杵島曲】」というのである。記事によって歌の心は明らかになる。杵島山はその名のごとく神であり、その土地の者が年々春秋に酒と琴とを携えて登るのは、定時の祭礼を行なうためと取れる。またその祭礼の時には、神事の一つとして、筑波山で行なわれると同様に歌垣が行なわれたものと取れる。歌垣はその初めにあっては性的開放の伴ったもので、それが神事でもあったと解せられる。歌はその歌垣のもので、男が女に求婚の意を示すために、上代の風に従って、歌をもってしているものである。この意志表示としての歌は強弁のもので、草を取りかねる際に、女の手が取れるということはありうべからざることである。柘枝の伝説が懐風藻の詩に取入れられた頃は、風土記が撰進された頃で、時の前後はないのであるが、この杵島曲のような機知をもった、また若い男の利用するに便利な民謡は、広い範囲に速かに広がって風土記に記録されない以前に、すでに大和国において謡われていたであろうということが想像される。問題の「かなわ」は、「きしま」が「きしみ」と訛ったと同様に、ある地方において訛ったものであろうと思われる。左注によると、この歌は「柘枝伝」の中にはないというが、それだと、知識人であるその伝の筆者には、この訛音《かおん》が承認できなかったという関係が伴っていたのではないかと思われる。さて、この杵島曲のここにある理由については、左注に、「或は云ふ、吉野の人味稲の柘枝仙媛に与へし歌なりと」と断わってあるので、その存在の理由だけはわかる。しかし美稲がどういう心をもって柘枝に与えたかは、これだけでは十分にはわからない。上代にはしばしばいったように、求婚の意志表示は歌の形式をもってしなければならなかった。しかしすべての男が、自身のために新たに作歌するということは不可能なところから、すでに存在しているその類の歌を記憶しておき、それを必要に応じて流用していたとみえる。美稲の柘枝に与えたのもその意味のもので、利用しようと志したのは「妹が手を取る」という一句で、そうしたしぐさをしようとするにあたって、民謡として人も謡い我も謡っていたところのものを利用したもの(186)と解せる。この歌が「柘枝伝」にはないといい、「或は云ふ」と断わってあるのも、伝説が庶民の間に広がるにあたり、その庶民に親しいものに変えられてゆくのは普通のことであるから、この歌は、ある地方において付け加えられたものかと思われる。なお、『玉の小琴』は、「かなわ」の考証のついでに、「本此歌は古事記に速総別王《はやぶさわけのおほきみ》の御歌に、はしたてのくらはし山をさかしみと岩かきかねて我手とらすもと云歌の転じたる物也」といっているが、これは仁徳天皇の御代の名高い物語の一つで、この御歌というのも杵島曲から出たものではないかと思われる。これによっても杵島曲が、いかに広く、またいかに親しまれていたかが知られ、御歌というものも、たまたまその事を傍証するものであるかのごとく見える。
 
     右一首、或は云ふ、吉野の人|味稲《うましね》の柘枝仙媛に与へし歌なりと。但、柘枝伝を見るに、この歌あることなし。
      右一首、或云、吉野人味稻与2柘枝仙媛1歌也。但、見2柘枝傳1無v有2此歌1。
 
【解】 撰者の注である。この注のことはすでに上にいったので省く。
 
386 この暮《ゆふべ》 柘《つみ》のさ枝《えだ》の 流《なが》れ来《こ》ば 梁《やな》は打《う》たずて 取《と》らずかもあらむ
    此暮 柘之左枝乃 流来者 ※[木+〓]者不打而 不取香聞將有
 
【語釈】○この暮柘のさ枝の流れ来ば 「この暮」は、この夕方。「柘のさ枝」は、「柘」は山桑。「さ」は、美称にも、小さい意にも用いる。ここは美称と取れる。柘の枝は、柘枝の伝説の、天女の身を変えてなったところの物。「流れ来ば」は、もし流れて来たならばで、仮想である。全体では、この夕方、昔、美稲《うましね》に起こったように、柘の枝が流れて来たとしたならば。○梁は打たずて 「染」は、今も地方によっては行なわれている川漁の設備で、その方法は、川の浅く、瀬の荒い所へ、流れを堰《せ》く形に杙を打並べて、上流から下る魚の道を止め、一部分だけをあけて、そこには竹簀を平面に張り、魚があいた口を通ろうとすると、いきおい竹簀の上にかかるようにするものである。「打つ」は、この設備をする特殊語で、今も行なわれている。「梁は打たずて」は、諸注、さまざまに解しているが、いずれも明瞭でないのを、『講義』が明瞭なものにした。それは、梁は打たずしてあればの意だというのである。○取らずかもあらむ 「かも」は、「か」の疑問に「も」の詠歎の添ったもの。取り得ぬことであろうかの意で、取るのは上の柘の枝で、かかるべき梁がないので、「取らずかも」といっているのである。「かもあらむ」の疑問は、上の「来ば」の仮想に応じさせたものである。
【釈】 この夕方、昔の美稲《うましね》に起こったように、もし柘の枝が流れて来たとしたならば、美稲の場合とはちがって、今は梁が打っ(187)てないので、それのかかる物がなく、したがって取り得ないことであろうか。
【評】 これは美稲の柘枝仙媛を得た伝説を事実として、それを羨み、自身もそうした幸いを得たいものだと憧れている後の人が、吉野川のほとりの、美稲の伝説のあった場所に立っての心を詠んだものである。中心をなしていることは、美稲はここに梁を打ってあったので、柘の枝を取ることができて、幸いな身となり得たのだ。しかるに自分はそれをしていないので、たといその時と同じように柘の枝が流れて来たとしても、取ることができないのではなかろうかと、その事の不可能を感じつつ、それを不安の形においていったものと解せられる。伝説を踏んでの歌なので、解し難いようにみえるが、事実に即する心をもったものなので、作意は明らかにとおるものである。
 
     右一首
 
387 古《いにしへ》に 梁《やな》打《う》つ人《ひと》の 無《な》かりせば 此間《ここ》もあらまし 柘《つみ》の枝《えだ》はも
    古尓 ※[木+〓]打人乃 無有世伐 此間毛有益 柘之枝羽裳
 
【語釈】 ○古に梁打つ人の無かりせば 昔に、梁を打って川漁をする人がなかったならばで、ここではその人を美稲《うましね》とし、その人は伝説では既存の人であるのを、もしその人がなかったならばと仮想しての語。○此間もあらまし 「此間《ここ》」の訓は、『略解』にある本居宣長の訓で、この訓は集中に例の少なくないものである。「此間」は、「此所」で、眼前をさしたもので、「古」に対させたものである。「まし」は上の「せば」に応じさせたもので、連体形で下に続くもの。○柘の枝はも 「柘の枝」は、伝説のそれで、天女の化した物。「はも」は、「は」は上を承けて、事を言いさしにし、それに「も」の詠歎を添えることによって、含蓄をもたせて終止させたもの。巻二(一七一)に出た。
【釈】 昔の世に、梁を打って川漁をした人、すなわち美稲《うましね》という人がもしなかったならば、したがってその人に取ってしまわれずして、ここにもあるであろうところのその柘の枝はよ。
【評】 前の歌と同じく、柘枝の伝説を事実と認め、美稲の幸いを羨み、仙媛であるところの柘枝を得たいと思ってそれに憧れる心のものである。異なるところは、前の歌では、再び柘枝の流れ来ることを想像するものであるのに、これは一たびよりほかはないものと諦めて、単なる羨みとしている点だけである。この時代は、前の時代よりの引続きとして、瑞祥を尊ぶ思想とともに、神仙を信じる思想が盛んになり、神仙といううち、ことに仙女に関する伝説が多くなって、風土記、日本霊異記の中に、幾つかの伝説が載っている。この柘枝の伝説も、その範囲のもので、浦島子の伝説を除いては、他のものは歌とされない(188)中にあって、間接ながら、たまたま歌とされているものである。
 
     右の一首は、若宮年魚《わかみやのあゆ》麿の作なり。
      右一首、若宮年魚麿作。
 
【解】 「若宮」は氏、「年魚麿」は名であるが、この氏は『新撰姓氏録』にはなく、年魚麿の名は、ここに作者としてあるほかは、集中に二か所、歌の伝誦者として載っているだけで、伝は不明である。
 
     ※[羈の馬が奇]旅の歌一首 并に短歌
 
【題意】 この「※[羈の馬が奇]旅」は、瀬戸内海を舟航するもので、西方より難波津へ向かい、一夜を淡路島に過ごし、翌日難波に向かって航する途中までを詠んだものである。
 
388 わたつみは 霊《あや》しきものか 淡路島《あはぢしま》 中《なか》に立《た》て置《お》きて 白浪《しらなみ》を 伊予《いよ》に廻《めぐ》らし 座待月《ゐまちづき》 あかしの門《と》ゆは 暮《ゆふ》されば 塩《しほ》を満《み》たしめ 明《あ》けされば 塩《しは》を干《ひ》しむ 潮《しほ》さゐの 浪《なみ》を恐《かしこ》み 淡路島《あはぢしま》 礒隠《いそがく》りゐて 何時《いつ》しかも 此《こ》の夜《よ》の明《あ》けむと 侍従《さもら》ふに 寝《い》の宿《ね》かてねば 滝《たぎ》の上《うへ》の 浅野《あさの》の雉《きぎし》 あけぬとし 立《た》ち動《さわ》くらし いざ児《こ》ども あへて榜《こ》ぎ出《で》む にはもしづけし
    海若者 靈寸物香 淡路嶋 中尓立置而 白浪乎 伊与尓廻之 座待月 開乃門従者 暮去者 塩乎令清 明去者 塩乎令干 塩左爲能 浪乎恐美 淡路嶋 礒隱居而 何時鴨 此夜乃將明跡 侍從尓 寐乃不勝宿者 瀧上乃 淺野之※[矢+鳥] 開去歳 立動良之 率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師
 
【語釈】 ○わたつみは霊しきものか 「わたつみ」は、渡《わた》の神の意で、ここは海神の意のもの。「霊《あや》し」は、驚きをあらわす「あや」を語幹とした語で、その力に対しての驚きを主としての語。「か」は、詠歎。海はその力の驚くべきものであるよの意。○淡路島中に立て置きて 「淡路島」は、(189)今の四国の淡路。「中」は、海における位置をいったもので、この島は、東は大阪湾、西は瀬戸内海、南は紀伊水道をとおして太平洋に臨み、北は明石海峡を隔てて播磨、摂津に向かっていて、これらの海のまん中にの意。「立て置きて」は、立たせて置いてで、その島のそこに立っているのは、海神の然《しか》せしめた意でいったもの。○白浪を伊予に廻らし 「白浪」は、ここは海水の満潮によって騒立《さわだ》ったものの意。「伊予」は、四国の伊予の国。「廻らし」は、廻らせてやる意で、廻らすのは海神である。この二句のいっていることは、一昼夜二回干満のある潮の、瀬戸内海の東部、
淡路島のあたりにおける状態は、太平洋の満潮が、紀伊水道を通って瀬戸内海に入って来ると、広い所より狭い所へ入った関係上、急激な流れとなり、淡路島で南北二つに岐《わか》れ、その南の流れは、鳴門海峡を経て、西の方伊予国まで流れて行ってやみ、北の流れは、明石海峡を経て、備中国まで行ってやむのである。この止まるのは、反対の備後海峡から入り来たる潮に堰《せ》かれるためで、止まった潮はそれぞれ以前の道を経て太平洋へ還るのだという。この事については『考』がいい、『講義』がさらに精しくしている。○座待月あかしの門ゆは 「座待月」は、『攷証』は、「座《ゐ》」は、「寝る」に対しての「居《を》る」という事で、寝ずして起き明かす意のもので、夜を居明かして待つ月の意であり、有明月のことであるといっている。意味で、明かすと続き、明石の枕詞としたもの。「あかしの門《と》ゆは」は、明石海峡よりは。○暮されば塩を満たしめ 「暮されば」は、夕方が来れば。「塩」は、潮。「満たしめ」は、満潮とならしめで、上と同じく海神のすることとしていったもの。○明けされば塩を干しむ 「明けされば」は、明け方が来ればで、「明け」は名詞形。「塩を干しむ」は、潮を退《ひ》かしめるで、同じく海神のすることとしてのもの。上の「暮《ゆふ》」とこの「明け」とは、大体をいったもので、広く朝夕というと同じである。それは潮の干満は、平均十二時二十五分ごとに行なわれるもので、日々移動があるからである。この干満は、淡路島の北を流れて、備中に向かう流れに即していっているものである。以上、海神の業《わざ》をいったもので、一段。○潮さゐの浪を恐み 「潮さゐ」は、潮のさして来る時に立つ音。「浪」は、潮さいに伴う浪で、それに向かうことは、小船にとっては危険なことである。「恐み」は、怖ろしいによって。○淡路島礒隠りゐて 「礒隠り」は、「礒」は、海べの岩。「隠り」は、舟をその蔭に隠すことで、浪を避けるためである。淡路島の海べの岩蔭に舟を隠して。○何時しかも此の夜の明けむと 「何時しかも」は、いつになったらばで、早くと思って待つ意。「此の夜の明けむと」は、この夜の明けようと思つての意。○侍従ふに寝の宿かてねば 「侍従」は、『玉の小琴』の試訓である。『攷証』は、巻十一(二五〇八)「皇祖《すめろき》の神の御門《みかど》を懼《かしこ》みと侍従《さもらふ》時《とき》に」を、その用例として、その訓を確かめている。意は、「さ」は、接頭語。「もらふ」は、「守《も》る」をハ行四段に再活用して、その継続をあらわす語としたもの。「侍従ふに」は、風と浪との様子を見守り続けるに。「寝の宿かてねば」は、「寝」は、「いぬる」ことの名詞形。「かてねば」は、「かて」は勝《た》えの意で、「ね」はその打消で、寝ても眠ることができずいればの意。○滝の上の浅野の雉 「滝の上の浅野」というのは、淡路島津名郡北淡町に浅野というがある。そこは淡路島の北端から西海岸二里ばかりの所で、その村の上方十町ばかりの所に浅野滝というがある。直下七丈四尺、幅一丈二尺あるという。「上」は、辺りの意で、全休では、滝のある辺りの浅野の意。ここは、船を岩隠れさせ、舟人の上陸していた所。○あけぬとし立ち動くらし 「あけぬとし」は、「し」は、強め。夜が明けたとして。「立ち動くらし」は、飛び立って騒ぐようである。「らし」は、眼前を証としての推量で、証は、夜のほのかに白んできたことと取れる。『講義』は、ここのごとく上に「し」を用いて、下を「らし」とするのは、集中に例が少なくないといい、(三四一)「酒飲みて酔哭《ゑひな》きするしまさりたるらし」、巻八(一五八五)「しぐれの雨し間《ま》なく零《ふ》るらし」などなお挙げている。以上、舟を繋いだ地での一夜の状態をいったもので、一段。○いざ児どもあへて榜ぎ出でむ 「いざ」は、人を誘う語。「児ども」は、目下の者を親しんで呼ぶ称。ここは、舟主《ふなあるじ》が舟子《かこ》に対してのもの。「あへて」は、押切ってとい(190)うにあたる。さあ皆の者、押切って榜ぎ出そう。○にはもしづけし 「には」は、陸上でも海上でも、労働を行なう場所を称する称。ここは海上の、船を榜ぐ路の称と取れる。「も」は、上の夜の明けたのに並べる意のもの。「しづけし」は、穏やかである。以上、一段。
【釈】 海神はその力の驚くべきものであることよ。淡路島を海のまん中に立てておいて、太平洋の満潮の、紀伊水道を経て瀬戸内海に白浪となって入り来るものを、その淡路島で南北の流れに裂き、その南の流れを伊予国に廻《めぐ》らしてやり、また、北の流れの通過するところの明石海峡からは、夕方が来れば潮を満たしめて来、明け方となってくるとその潮を干させる。潮さいに伴う浪が怖ろしいにより、淡路島の海べの岩蔭に船を隠していて、早くこの夜の明けよと思って、風と浪との様子の見守りを続けるので、寝ても眠ることができずにいれば、この居る所の浅野の滝の辺りの、浅野村の雉が、夜が明けたとて、飛び立って騒ぐようである。さあ皆の者、押切って榜ぎ出そう。榜ぎ行く路の方も穏やかである。
【評】 西方より瀬戸を経て大和国へ帰る途中、淡路島に一夜を過ごした時の感懐を詠んだものである。長歌形式を選んであるが、この歌には長歌を必要とするほどの事件はなく、事としては、航海としては普通な海面である時に、同じく普通の事として行なわれていた、夜は船を海べに繋留して、舟人はそれに近い陸上に宿ることをしたにすぎないものである。感懐の中心をなしているものは、瀬戸内海の潮の荒さである。これはいったがように、広い太平洋の干潮満潮に伴う潮の変化が、狭い内海に影響するところから起こるもので、淡路島はその関門にあたっているのに、船がそこまで来たおりから、夜に向かっていて、一夜をそこに過ごすべきことになったので、その際の感懐として、瀬戸内海の潮の恐るべきを捉えていっているという心のものである。第一段は、瀬戸内海の潮を総叙したものである。潮の恐るべきを一に海神の力の驚くべきものの現われであるとしているのは、上代の航海者にとっては当然の信仰である。これは後世までも持続されたものであるが、持続せざるを得ずしてのもので、当時にあっての強さはきわめて自然なことである。潮の叙述は簡単なものであるが、要を得たもので、今日の研究と相合うものとのことである。航海者の体験をとおしての知識であるがゆえに、こうした立体的な叙述はできたものと取れる。第二段は一転して、舟人の航路を見守りつつ一夜を明かすことをいったものであるが、これまた簡潔なもので、第一段と調和するものである。第三段は、夜明けと海上の静穏とを叙するとともに、それを出船命令としているもので、簡潔をきわめた明るいものである。一首、全体としては抒情であるが、実際に即しての抒情で、その実際は航海としては常態のものであるところから、散文的の味わいの比較的濃いものとなっている。その点から見て、この歌は作者はわからないが、奈良遷都以後のものと思われる。また、そうした点から見ると、この歌は巻二(二二〇)「讃岐の狭岑《さみねの》島に石中に死れる人を視て、柿本朝臣人麿の作れる歌」と題するものに通うところのあるものである。内容が航海中のできごとである点、構成が、国土を神として、その力を讃えることを主とし、それに事件を関係させたものであるからである。異なるところは、人麿の歌には際立った事件があるが、この歌にはそれのないことである。これは言いかえると、いったがように長歌形式を必要としない材ということで(191)ある。あるいは人麿の歌に影響されて、長歌を作ろうとの意識をもって作ったものではないかとも思われる。
 
     反歌
 
389 島伝《しまづた》ひ 敏馬《みぬめ》の埼《さき》を こぎ廻《み》れば 日本恋《やまとこ》ほしく 鶴《たづ》さはに鳴《な》く
    嶋傳 敏馬乃埼乎 許藝廻者 日本戀久 鶴左波尓鳴
 
【語釈】 ○島伝ひ敏馬の埼を 「島伝ひ」の「島」は、海中の孤島だけではなく、半島をも称したもの。ここは半島である。「島伝ひ」は、半島の岸を伝つてで、当時の航海法は、風浪を避けやすくするため、できうる限り海岸伝いに漕いだので、その状態を叙したもの。「敏馬」は、今の神戸市灘区。「埼」は、神戸港の東の岬ではないかという。○こぎ廻れば 漕ぎ廻《めく》って行けば。○日本恋ほしく鶴さはに鳴く 「日本」は、大和で、その家を言いかえたもの。家恋しい心をそそって鶴が多く鳴くの意。
【釈】 海岸伝いに敏馬の埼を漕ぎ廻って行くと、わが家恋しい心をそそって鶴が多く鳴く。
【評】 この反歌によって、航路の帰りであることがわかる。淡路島から明石海峡を横切り、それからいわゆる「島伝ひ」をしての航路であって、敏馬の埼まで来ると、最終の港である難波津が見えるのである。家に近づくに伴って家恋しい心の募ってくるおりから、その心をそそってしきりに鶴が鳴くというので、明るい心のものである。反歌は、長歌とは離れたもので、しかも航路の推移を示しているものである。これは反歌として新しい手法のものである。
 
     右の歌は、若宮年魚麿之を誦せり。但、いまだ作者を審にせず。
      右謌、若宮年魚麿誦v之。但、未v審2作者1。
 
【解】 「年魚麿」のことは、上の歌に出た。この注は撰者の加えたものとわかる。
 
 譬喩歌
 
【標目】 譬喩歌という部立は、ここに初めて出てきたものである。巻一、二の歌は、雑歌、相聞、挽歌と三つに部立をしている(192)のに、巻三、四の歌は、雑歌、譬喩歌、挽歌、相聞と四つに部立し、新たに譬喩歌という一部立を加えているのである。譬喩歌というのは、その意味からいうといわゆる譬え歌で、いおうとする心を物に寄せ、それをいうことによって心をあらわすもので、修辞上の方法の名である。雑歌、相聞、挽歌は、いずれも歌の本質に対しての名であるから、その中にこれを加えて一つの部立とするということは、本質と修辞法とを混同したことで、標準を異にしたものといわなければならない。また、譬喩歌をその名のとおりに、修辞法と解すると、これは雑歌、相聞、挽歌のいずれにもわたりうるものでなくてはならない。しかるに、集中の事実より見ると、譬喩歌は、相聞の中の一類に限られたものであって、さらに立ち入っていえば、恋の歌で響喩を用いた歌というにすぎないものである。またその譬喩の用い方も、大部分はいうところの隠喩法であるが、中に大部分は単に序詞として物を用いているという意味だけで、この部に入れているものもある。こうした部立の生まれてきた理由は、歌が実用性のものとしてよりは、文芸性のものとして見られる度が高まってき、したがって修辞上に、細かく深く注意するようになり、その結果譬喩ということが、作歌上の大きな問題となってきたのがその原因であろうと思われる。同時に一方には、恋の歌はこれを譬喩という観点から見ると、最も譬喩を用いたものの多いものである。それというが、恋の心は、感情としては強く激しいものであるにもかかわらず、これを捉えて言いあらわそうとすると、あらわしにくいものである。しかるに上代の人は、物に即していうことを建前とする歌風に従っているところから、眼前の事物風景の、その時のわが気分に通うところのものがあると、その事物風景をいうことによって、その心をあらわしたのである。そうした場合は、当時の夫婦別居の生活にあっては、いきおい味わわせられがちであった恋の懊悩の場合に多かったのである。恋の歌にいわゆる譬喩歌の多いのは、このためと思われる。そうしたことは、修辞上でいう譬喩の範囲のものであるが、意識的なものではなく、自然発生的な、譬喩法以前のものと感じられるところのあるものである。この事実が、歌を文芸性という面から見ようとし、譬喩を尊重する心に迎えられて、その結果、ついに譬喩歌という部を生ましむるまでに至ったことと思われる。譬喩とはいうが、直喩法のものがほとんどなく、大部分隠喩法であること、また、序までも譬喩の中に取入れたということは、上にいった事実よりきていることである。したがってこの部立は、漢詩を模倣したものではなく、わが自然発生的のものに、漢詩が比較され、その名目を襲用したという程度のものと解される。
 
     紀皇女《きのひめみこ》の御歌一首
 
【題意】 「紀皇女」は、巻二(一一九)に出た。天武天皇の皇女で、穂積皇子の同母妹。母は大〓《おおぬ》娘、蘇我赤兄の女である。巻十二(三〇九八)「おのれ故|罵《の》らえて居れば駿馬《あをうま》の面高ぶだに乗りて来べしや」の左注に、「右の一首は、平群文屋朝臣益人伝へ云ふ、昔聞けり、紀皇女|竊《ひそか》に高安王に嫁ぎて、責めらえし時にこの歌を作らす。但、高安王、左降して伊与国守に任ぜらる」とある。この事は、ここの歌にかかわりがあるかもしれぬ。
 
(193)390 軽《かる》の池《いけ》の ※[さんずい+内]廻《うらみ》往《ゆ》き転《み》る 鴨《かも》すらに 玉藻《たまも》のうへに 独《ひとり》宿《ね》なくに
    輕池之 ※[さんずい+内]廻徃轉留 鴨尚尓 玉藻乃於丹 獨宿名久二
 
【語釈】 ○軽の池の※[さんずい+内]廻往き転る 「軽の池」の「軽」は、橿原市大軽、見瀬、石川、五条の諸町一帯の地。「池」は応神天皇の御代に作ったものといわれている。広さ百五十|畝《せ》と『大和志』にある。「※[さんずい+内]廻《うらみ》」の「※[さんずい+内]」は「納」となっている本が多い。「※[さんずい+内]」は、西本願寺本のもの。訓は『槻落葉』のもの。浦廻で、浦のあたりの意。本来海の入江の称であるが、当時には池にも用いたもので、例の多いもの。「往き転る」は、泳いで廻っている意。○鴨すらに 鴨のようなものでさえも。○玉藻のうへに独宿なくに 「玉藻」は、藻を讃えていったもの。池の藻草。「宿なく」は、「く」を添えることによって名詞形としたもの。「に」は、詠歎。藻の上に夜は独りでは宿ないことであるのに、鴨は雌雄睦まじい鳥で、いつも離れずにいるものである。
【釈】 軽の池の浦廻を泳ぎ廻っている鴨でさえも、夜は藻草の上に独宿はしないことであるのに。
【評】 軽の池に雌雄睦まじく住んでいる鴨を御覧になると、それとは反対な御自身の現在の状態が比較されてきて、その嘆きをあらわすために、鴨の状態を嘆きをもっていわれたものである。作意からいうと御自身が主であるが、形の上からいうと鴨が主となって、御自身は背後のものとなっている。譬喩を用いたというのではなく、おのずから譬喩という結果になったものである。
 
     造筑紫観世音寺別当沙弥満誓の歌一首
 
【題意】 「筑紫観世音寺」は、大宰府にあったもので、日本三戒壇院の一、九州の僧の受戒するところと定められていた寺である。この寺は天智天皇が、斉明天皇の遺志を奉じて創建なされたものであるが、久しく造作が畢《おわ》らず、元正天皇の養老七年、僧満誓が勅をこうむってその事にあたった。「別当」というのは、奈良朝時代には、大寺の長官に限っての称であると『講義』が考証している。造筑紫観世音寺別当は職名である。満誓のことは(三三六)に出た。従四位上笠朝臣麿の出家しての名である。
 
391 鳥総《とぶさ》立《た》て 足柄山《あしがらやま》に 船木《ふなぎ》伐《き》り 樹《き》に伐《き》り帰《ゆ》きつ あたら船材《ふなぎ》を
    鳥總立 足柄山尓 船木伐 樹尓伐歸都 安多良船材乎
 
(194)【語釈】 ○鳥総立て 「鳥総」については、『講義』が精しく考証している。鳥総は朶《だ》の意の国語で、朶は木の上部の枝の小枝、葉のふさふさと付いている部分の称で、鳥総もそれであるという。「立て」というのは、それを地上に立てることである。本来、山の木は、山の神に属する物であるとして、それを伐り出す時には、その本末《もとすえ》、すなわち株と鳥総とを山神に供えることを古来より風としていた。この事は集中にも、巻十七(四〇二六)「とぶさたて船木《ふなき》きるといふ能登の島山」とあり、また、大殿祭の祝詞に、宮材を伐り出す時の式として記されており、その他にもある。○足柄山に船木伐り 「足柄山」は、相模国足柄上郡。「船木」は、船材。この当時は造船術がまだ進まなかったのて、船材には大木を選《えら》んでいた。この船木もその範囲の物である。○樹に伐り帰きつ 船材として伐って、運んで行ったの意。○あたら船材を 「あたら」は、惜しむべきの意で、今もあったら物などと用いている。「を」は、詠歎。
【釈】 鳥総《とぶさ》を立てて、木の本末を神に供える祭をして、足柄山の船木を伐って、船材として伐って運んで行った。惜しむべき船木であるものを。
【評】 船木を意中にある女に譬え、その女の他人のものとなったのを、嘆きをもっていった形のものである。嘆きは、「樹に伐り帰きつ」と繰り返していっているところにあらわれている上、さらに「あたら船材を」といったので、濃厚なものとなっている。この譬喩は、意識して用いているもので、文芸的なものである。四、五句は、譬喩としては濃厚な感のあるものであるが、しかしこの濃厚さは、表現上必要なものとしたのだろうと取れる。この歌は背後に何らかの事実があり、実感として作ったものではないかということが、作者が出家であるところから問題とされやすいところがある。そうした感を起こさせるのは、譬喩が現実味の強いものであり、また特殊なものであるところから、その連想よりのことと思われる。この譬喩は眼前のものではなく、作者の記憶の中より捉えたものであろうが、たとい譬喩とはいえ、親しく見聞したものを捉えて用いようとするのは当時の歌風であるから、その譬喩に、作者の社会上の身分を絡ませようとするのは無理である。またこの当時は、歌はすでに(195)かなりまで文芸的のものになっているので、この程度のものは、想像上の所産としてもありうるものである。かたがた、この歌の背後は問題とはならない。また、この歌の上から見ても、四、五句は嘆きではあるが、謡い物の趣のあるもので、形は嘆きであるが、心としてはむしろ軽いものである。この点も上のことに絡まりうるものである。
 
     大宰大監大伴宿禰|百代《ももよ》の梅の歌一首
 
【題意】 「大監」は、大宰府の判官で、二人あり、大弐小弐につづく官である。正六位下相当官である。職員令に「掌d糺2判府内1、審2署文案1、勾2稽失1、察c非違u云々」とある。「百代」は、父祖は明らかではない。続日本紀、天平十年外従五位下で、兵部少輔、十三年美作守。十五年筑紫鎮西府副将軍。十八年従五位下、豊前守。十九年正五位下とある。
 
392 烏珠《ぬばたま》の その夜《よ》の梅《うめ》を 手忘《たわす》れて 折《を》らず来《き》にけり 思《おも》ひしものを
    烏珠之 其夜乃梅乎 手忘而 不折來家里 思之物乎
 
【語釈】 ○烏珠のその夜の梅を 「烏珠の」は、しばしば出た。夜にかかる枕詞。「その夜」は、ある夜をさしたもので、後から思い出していっているもの。「梅」は、梅の花。下に「来にけり」とあるので、その梅は他の家のもので、何らかのことで他の家へ行き、夜そこで見た物。○手忘れて折らず来にけり 「手忘れ」は、ここよりほか見えない語であるが、動詞の接頭語として「た」を添えた「たなびく」「たもとほる」などの語があるところから、これもそれで、意味は忘れてというと同じで、その語感の強いものであろう。「折らず来にけり」は、折らずして帰って来てしまったことであるの意。○思ひしものを 折ろうと思っていたものをの意。
【釈】 その夜、あすこで見た梅の花を、忘れて、折らずに帰ってしまったことであるよ。折ろうと思っていたものを。
【評】 この当時は梅の花は、外来の、珍奇の感の失せないものであった。よそで梅の花を見て、それを愛で、帰りには折ってゆこうという感を起こすのは、自然なことである。しかるに帰りしなには、事に紛れて、それを忘れてしまい、家に帰って心残りに感ずるというのは、いっそう自然なことである。「手忘れて」というのは実際に即してのことで、ありうべきことであるのみならず、この歌にとっては重大なことである。「梅」を女に譬え、「折る」をわが物に譬えるということは、譬喩という上からはきわめて妥当なものであるが、その関係からいうと、「手忘れて」はきわめて不妥当なこととなり、あるべくもないこととなる。この歌は、作者からいうと譬喩歌ではないのではないか。それを撰者が、「梅」「折る」などの語に引かれて、迎えて解して譬喩歌の中に加えたものかと思われる。
 
(196)     満誓沙弥の月の歌一首
 
393 見《み》えずとも 孰《たれ》恋《こ》ひざらめ 山《やま》の末《は》に いさよふ月《つき》を 外《よそ》に見《み》てしか
    不所見十万 執不戀有米 山之末尓 射狭夜歴月乎 外見而思香
 
【語釈】 ○見えずとも孰恋ひざらめ 「見えずとも」は、たとい見えなかろうともで、いうのは、下の「山の末《は》にいさよふ月」である。「孰恋ひざらめ」は、誰が恋いずにいようか、皆恋っているの意で、ここのごとく反語としようとする場合、上に疑問の語を置き、下を已然形で結ぶ例は少なくない。巻二(一〇二)にも、これと同じく「誰《た》が恋ならめ」というがあった。○山の末にいさよふ月を 「山の末」は、山の端《は》で、「末《は》」を義をもって当てた字。月の出入りするところの意でいっているもの。「いさよふ月」は、滞りたゆたっている月で、月の山より出ようとする時にはそのように感じられるものなので、それを具象的にいったもの。○外に見てしか 「外《よそ》に」は、よそながらに、すなわち直接ではなくとも。「見てしか」は、見たいものであるよの意。「てしか」は(三四三)に出た。
【釈】 たとい見えなかろうとも、誰が恋いずにいようか。皆恋っている。出ようとして山の端《は》に滞りたゆたっている月を、よそながらも見たいものであるよ。
【評】 月を恋おしい女に譬え、その女のたやすくは見られない人であるという実際、およびその女に対する憧れの心をあらわそうとしたものである。「見えずとも孰恋ひざらめ」は、その女の万人の等しく憧れている人であることをいったもの。「山の末にいさよふ月」は、その女のそこにはあるとわかっているが、直接には見難い人であることをあらわしているものである。これはその女の身分高い人の娘とか、あるいは妻妾とかであるためであろう。作者の力点を置いているところは、「外に見てしか」であるが、これは譬喩としては破綻《はたん》を見せているものである。「いさよふ月」は、そのいさようのはしばらくの間で、当然山より出るものであり、出れば真正面に見られるものだからである。この歌だと、月は永久にいさよっているもののごとくである。これは、月を女に譬えた延長として、その女の、いつといって見る機会もない人であるという実際までも、月の譬喩であらわそうとしたがためである。すなわち譬喩として思想的に捉えた月を、当時の実際を重んじる歌風に従い、一方では月の実際に即そうとし、また他方ではその女の実際にも即そうとして、事が複雑になりすぎたがために、このような破綻をきたしたものとみえる。
 
     余明軍《よのみやうぐん》の歌一首
 
(197)【題意】 「余」は氏で、「明軍」は名である。「余」は、西本願寺本など、流布本系統のものには「金」とある。余氏も金氏も外来氏族で、当時共に存していた氏である。余氏は百済《くだら》王族の氏で、持統紀、五年正月に正広肆百済王余禅広の名が出るほか、続日本紀、天平宝字二年六月の条に、余益人、余東人ら四人に百済朝臣の姓を賜うことなどが見え、その他にも余氏に関する記事が少なくない。「金氏」は新羅《しらぎ》の王族の氏で、初めて史に見えるのは、続日本紀、大宝三年、「僧隆観還v俗、本姓金、名財云々」とあり、また元明天皇、和銅元年正月、金上元に従五位下を授け、同二年、「従五位下金上元為2伯耆守1」ともあり、これまた記事が少なくない。明軍は父祖はわからないが、下の(四五四)「大納言大伴卿の薨ぜし時の歌六首」と題する歌の五首の作者で、その左注によって、大伴旅人の資人《つかいびと》であったことがわかる。資人というのは、高位の人に公より給せられる者で、史に載っているものとしては、続日本紀、養老五年、中納言従三位大伴宿禰旅人に帯刀資人四人を給うとあるが、これは三位には資人六十人を給わる定めであるから、その中の四人が帯刀の資人だったということである。
 
394 印《しめ》結《ゆ》ひて 我《わ》が定《さだ》めてし 住吉《すみのえ》の 浜《はま》の小松《こまつ》は 後《のち》も吾《わ》が松《まつ》
    印結而 我定義之 住吉乃 濱乃小松者 後毛吾松
 
【語釈】 ○印結ひて我が定めてし 「印《しめ》」は、巻二(一一五)以下しばしば出た。大体、山野にある物などに対して、わが所有であることを示すために印《しるし》を付けることで、繩を結うことであろうが、転じて、路の目じるしなどにもいった。「印結ひて」は、印《しめ》を結わいつけて。原文「義之」の「義」は、「羲」の誤りで、訓は『玉の小琴』の施したものである。中国の王羲之の書が、当時わが国にも尊ばれており、書のことを「手」というところから、「羲之」を「手師《てし》」とし、「てし」に当てた戯書である。また、王羲之をその子の王献之に対させ、大王、小王とし、「大王」を「てし」に当てても用いている。「我が定めてし」は、わが所有と定めておいたの意。○住吉の浜の小松は 「住吉」は、しばしば出た。今の大阪市住吉。「小松」の「小」は、親しんで添えたもので、小さいという意ではないと取れる。巻四(五九三)「平山《ならやま》の小松が下に立ち嘆くかも」など、例がある。住吉の松原は、名高いものとなっていた。○後も吾が松 「後も」は、今すでにわが松であるが、後々もまた同じくの意。
【釈】 印《しめ》を結わえてわが所有の物だと定めておいたこの住吉《すみのえ》の浜の松は、後々もまた、今と同じくわが松であるよ。
【評】 「住吉の浜の小松」は、女の譬喩で、実際に即して詠もうとする歌風との関係上、女は住吉の者であったと取れる。「印結ひて我が定めてし」は、その女と契りを結んだことの譬喩で、「後も吾が松」は、将来も心|渝《かわ》るまいと女に誓った意である。この譬喩は、譬喩としてこなれきったもので、これを用いているために、誓の心を、美しく、綜合的に言い得たのである。
 
     笠女郎《かさのをとめ》、大伴宿禰家持に贈れる歌三首
 
(198)【題意】 「笠女郎」は、「笠」は氏、「女郎」は女の敬称で、名は他の多くの女と同じく伝わらず、父祖未詳。短歌二十九首を残した。笠氏は『新撰姓氏録』その他で、孝霊天皇の皇子稚武彦命の後である。同族に笠金村、満誓沙弥などがある。「大伴家持」の名は、ここに初めて出た。略伝を記すと、大伴旅人の嫡子。続日本紀、天平十七年正六位上より従五位下。十八年宮内少輔、また越中守。天平勝宝元年従五位上。六年兵部少輔、また山陰道巡察使。天平宝字元年兵部大輔。二年因幡守。六年信部(中務)大輔。八年薩摩守。慶雲元年大宰少式。宝亀元年民部少輔、また左中弁兼中務大輔、正五位下。二年従四位下。三年、兼式部員外大輔。五年相模守。また左京大夫兼上総守。六年衛門督。七年伊勢守。八年従四位上。九年正四位下。十一年参議、また右大弁。天応元年兼|春宮《とうぐう》大夫、正四位上、また左大弁、春宮大夫如v故、従三位。延暦元年氷上川継謀反の事に座して任を解かれたが、間もなく春宮大夫となり、兼陸奥按察使鎮守将軍。二年中納言、春宮大夫如v故。三年持節征東将軍。四年八月薨じる。薨後二十余日、大伴継人、竹良らが藤原種継を殺したことに座しているというので追除名され、子の永主らは配流となったが、日本後紀大同元年勅命によって本位に復せられた。年は不明であるが、七十前後であったろうという。
 
395 託馬野《たくまの》に 生《お》ふる紫《むらさき》 衣《きぬ》に染《そ》め 未《いま》だ服《き》ずして 色《いろ》に出《い》でにけり
    託馬野尓 生流紫 衣尓染 未服而 色尓出來
 
【語釈】 ○託馬野に 「託馬野」は、旧訓「つくまぬ」。「託」を「つく」に当てたのは、言託《ことづ》くと当てるその託《つく》であるとし、所としては近江国坂田郡米原町|筑摩《つくま》であるということが定説のごとくなっていた。しかるに『講義』はこれに疑いを挟み、考証して、新たなる提案をしている。要は、地名に当てる字は音を借りるのが例で、訓をもってしたものはない。「託」を「つく」に当てた例は、集中はもとより他の古典にもない。この字は、音としては「たく」「たか」のいずれかである。この字を当てうる地名を『和名抄』で検すると、肥後国の郡名として「託麻《たくま》」、讃岐国の郷名として「託間《たくま》」がある。他方、この野は、「紫」の産地としてであるが、『延喜式』の交易雑物の中の柴草の産地を見ると、国としては甲斐、相模、武蔵、下総、常陸、信濃、上野、下野、出雲、石見、大宰府があるが、近江国は加わっていない。これらにより「託馬野」は、肥後国託麻郡(熊本県飽託郡託麻村)の野で、上の大宰府の管轄内ではないかというのである。従うべきである。○生ふる紫 「生ふる紫」は、生えている紫草で、紫草は紫の染料。○衣に染め 「衣」は、自身の物。○未だ服ずして色に出でにけり 「色に出で」は、顔色に現われる意で、心に包んでいることの自然に表面に現われる意の慣用語。「に」は、完了。「けり」は、詠歎。
【釈】 託馬野に生えている柴草をもってわが衣を染め、まだ着ずにいるうちに表面に現われてしまったことであるよ。
【評】 「託馬野に生ふる紫」は、家持を譬えたものである。「託馬野」は「紫」の産地としていっているのであるが、単にそれだけではなく、自身に比しては家持の身分が高く、そのために逢い難いのを、紫の産地として最も遠隔な地をもって譬えたの(199)である。「紫」は、服色令の中の最高の色であるところから、家持に譬えたもので、この二句は、逢い難い尊い人という意を譬えたのである。「衣に染め」は、夫婦の約束をし、家持をわがものとした意の譬。「未だ服ずして」は、約束だけで、共寝をしたこともなくての意の譬。「色に出でにけり」は、すでに慣用語となっていて、譬というには足りないものであるが、「色」は「紫」に関係させた語である点からは、譬の心があるといえるものである。一首、心としては、単に夫婦の約束をしただけで、一方では他人にも知られてしまっているのに、共寝をしたこともないと訴えたものであるが、譬喩はいうがごとく複雑を極めたもので、しかも自然な、調和をもった、安らかなものとなし得ているもので、才情の思われる歌である。まさに譬喩歌と称すべきである。
 
396) 陸奥《みちのく》の 真野《まの》の草原《かやはら》 遠《とほ》けども 面影《おもかげ》にして 見《み》ゆとふものを
    陸奥之 眞野乃草原 雖遠 面影爲而 所見云物乎
 
【語釈】 ○陸奥の真野の草原 「陸奥」は、道の奥の約。今の奥羽地方の羽すなわち、羽前羽後を除いての総名。「真野」は、『和名抄』に、陸奥国行方郡真野とあり、行方郡は磐城国である。現在は、福島県相馬郡鹿島町真野にあたる。「草原《かやはら》」は、「草《かや》」は古くは屋根を葺《ふ》く料とする草の称である。「草原」の下に、詠歎が含まれている。○遠けども 仮名書きによっての訓。後の遠けれどもにあたる古格。○面影にして見ゆとふものを 「面影」は、本来は影の意であるが、転じて、眼前にない物の、あるがごとくに思われる意となった語。「して」は、動詞の代わりをしているもので、なってというにあたる。この語はなくても通じる続きである。「見ゆとふものは」は、「見ゆとふ」は、原文「所見云」。旧訓「見ゆといふ」。『考』の訓。「を」は、詠歎。見えると人がいうものをで、余意をもたせたもの。
【釈】 陸奥《みちのく》の真野の草原《かやはら》よ、遠く隔ててはいるけれども、それを思えば、面影になって見えると人がいっているものを。
【評】 「陸奥の真野の草原」は、家持に譬えたものである。「陸奥」という遠隔の地を譬えたのは、前の歌と同じく、家持に逢い難くしている心よりで、その点は同様である。いま一つは、当時の大和の京には、自然の風光の新しいものに憧れる心があったのであるが、その心より陸奥は、きわめて風光に富んだ、憧れの国となっていたので、その心をも絡ませて、家持を愛でたい、憧れの対象として捉えたものである。「面影にして見ゆとふ」は、他人のいうこととしていったものであるが、それに「ものを」の詠歎を添えて、まして我においてはの余意をもたせて、逢い見たさに堪えられない意の譬としたのである。譬喩が単純な上に、気分が透徹しているために、譬喩がただちに訴えとなっているがごとき感のあるものである。これは才情のきわめて豊かな上に、詠み方もきわめて新しく、譬喩歌の上乗なるものである。譬喩という名目は、この一女性によって拓《ひら》かれた(200)ものであるかの観さえある。
 
397 奥山《おくやま》の 磐本菅《いはもとすげ》を 根《ね》深《ふか》めて 結《むす》びし情《こころ》 忘《わす》れかねつも
    奧山之 磐本管乎 根深目手 結之情 忘不得裳
 
【語釈】 ○奥山の磐本菅を 「奥山の」は、草の生えている所をいおうとしてのもので、きわめて清浄なる所としたもの。「磐本菅」は、磐の本に生えている菅の意で、菅の一種としての山菅《やますげ》(やぶらんともいう)を具象的にいったもの。笠などにする菅は湿地に生えるもので、これは山地に生える別種のものである。この「菅」も、草としていっているものであるが、その最も清浄なものとして選んでのもの。○根深めて結びし情 「根深めて」の「根」は、上より続いて、「菅」の根の意。「深めて」は、深くして。根を深くしてで、下の「結びし」の状態をいったもの。すなわち菅の葉を結ぶ状態をいったのであるから、「根」は葉の根もとの意でなければならない。初句からの続きは、奥山の磐本菅の葉を、その根もとを深くして。「結びし情《こころ》」の「結びし」は、引き結んだ意。木の小枝、草の葉を結ぶことは、巻一(一〇)「岡の草根をいざ結びてな」、巻二(一四一)「磐代の浜松が枝《え》を引き結び」などあり、身の無事を祈る時の業《わざ》であり、また、巻十一(二四七七)「足引の名に負ふ山菅押し伏せて君し結ばばあはざらめやも」があり、これは相逢うことを祈る業《わざ》と取れる。いずれにもせよ「結びし」は祈りの業であり、今の場合も、その心をもって上から続けているのである。この祈りは、心深くしたものということを具象化しているものである。しかるにこの「結びし」は、下への続きから見ると、約束をしたの意の「結びし」となっている。下の(四八一)「玉の緒の絶えじい妹と、結びてし事は果さず」、その他例の少なくないものである。すなわちこの「結びし」は、同音異義で、葉を結ぶ意の結ぶを、約束をする結ぶに転じさせてあるもので、主となっているのは約束の意のほうである。その上から見て、初句から「根深めて」までは「結びし」の序詞である。「結びし情《こころ》」は、家持と夫婦関係を約束したわが心。○忘れかねつも 「かね」は、得られない意。「も」は、詠歎。忘れられないことであるよの意。
【釈】 奥山の磐本菅という、きわめて清浄な草を選んで、その根もとを深くして引き結んでする祈りのそれではないが、我の君と結び契った心は、忘れられないことであるよ。
【評】 家持に対する強い憧れを、控えめにして訴えたものである。「奥山の磐本菅を根深めて」は序詞であって、譬喩ではない。これを譬喩とすることは強いたものである。しかしこの序詞は、心深くということを具象的にいっているもので、女郎の気分に通うところのあるものである。その意味では、譬喩に近いものである。「根深めて」という語はことにそれをあらわしている。本来、序詞の中のあるものは譬喩に続いているもので、譬喩の延長と見られるものがある。この序詞もその範囲のものといえる。一首、気分だけをいったものであるが、技巧の力によって、軽くなりやすいものを重からしめているもので、才情を思わしめる歌である。
 
(201)     藤原朝臣|八束《やつか》の梅の歌二首 八束は、後の名は真楯、房前の第三子なり。
 
【題意】 「藤原八束」は、元正天皇、霊亀元年、藤原房前の第三子として生まれた人で、天平宝字四年、名を真楯《またて》と改めた。天平十二年従五位下。十三年右衛士督。十九年治部卿。二十年参議兼式部大輔。天平勝宝四年摂津大夫。天平宝字二年参議兼中務卿。四年大宰帥。六年中納言信部卿。天平神護二年大納言となり、その年薨じた。
 
398 妹《いも》が家《いへ》に 開《さ》きたる梅《うめ》の 何時《いつ》も何時《いつ》も 成《な》りなむ時《とき》に 事《こと》は定《さだ》めむ
    妹家尓 開有梅之 何時毛々々々 將成時尓 事者將定
 
【語釈】 ○妹が家に開きたる梅の 「妹が家」の「家」は、「いへ」「へ」と両様の仮名書きのあるものである。「開きたる梅」は、現に眼前に咲いている梅の花。○何時も何時も成りなむ時に 「何時も何時も」につき、『代匠記』は、巻四(四九一)「河の上のいつもの花の何時も何時も来ませ吾が背子時じけめやも」のように、絶えずという意のものと、巻十一(二七七〇)「道の辺の五柴原《いつしばはら》の何時も何時も人の縦《ゆる》さむ言《こと》をし待たむ」とように、いつにてもの意のものとあると注意している。ここはその後のものである。「成りなむ」は、実のなるであろうで、上の「開きたる梅」で花、この「成りなむ」で実ということを暗示している。巻二(一〇二)「玉葛花のみ咲きて成らざるは誰《た》が恋ならめ」とように、花を恋の上の美しい語、実を心の誠に譬えるのは古くからのことである。これらもそれである。○事は定めむ 「事」は、結婚。「定めむ」は、取定めよう。
【釈】 妹が家に今現に咲いている梅の花が、いつにても実のなるであろう時に、結婚は取定めよう。
【評】 当時はまだ珍しく、したがって珍重されていた梅を妹に譬え、さらにその花と実とを、恋の上の語《ことば》と誠とに譬えたものである。この譬は以前よりあるものであるが、語としてはあらわさずに、それと感じさせているのは、一つの技巧である。歌は実用性のものであるが、技巧を用い、余裕をもっていっているところ、文芸性のあるものである。
 
399 妹《いも》が家《いへ》に 開《さ》きたる花《はな》の 梅《うめ》の花《はな》 実《み》にし成《な》りなば かもかくもせむ
    妹家尓 開有花之 梅花 實之成名者 左右將爲
 
【語釈】 ○妹が家に開きたる花の梅の花 「花の」の「の」は、同じ趣の語を重ねていう時に用いる助詞で、すなわちというにあたる。「梅の花」の下には詠歎の心がある。妹が家に、今咲いている花の、すなわち梅の花よという意で、その花を讃える心をもっているもの。○実にし成りなば(202) 「し」は、強め。花が実になったならばで、誠実が認められたならばの意をいったもの。○かもかくもせむ 「かもかくも」は、「か」と「かく」と差別をつけ、相対させた語で、後世の「とにかくに」の古語。集中には「かにかくに」と「かもかくも」と二様の例がある。ここは思い入れをもっていった場合なので、「も」の方が作意と取れる。いずれかに定めようの意。
【釈】 妹が家に、今咲いている花のすなわち梅の花よ。この花が実となったならば、事をいずれとも定めよう。
【評】 「花」と「実」との譬喩は、上の歌と同様である。しかしこの「花」は、語《ことば》という意味はなく、妹そのものだけの譬喩となっており、しかも妹を讃える意のものとなっている。また、「実にし成りなば」も、当然、実となるものと定めて、それを期待している意のものである。「かもかくもせむ」は、「事は定めむ」と差のない言い方であるが、上との関係からいえば、いま少し積極的にいうべきものと取れる。歌は実用性のものであるから、八束は妹に対して、身分などの点から、地歩を占め、余裕をもった言い方をする必要があったためと取れる。この点は上の歌がすでにそれであった。二首、心が同じもののように見えるが、この歌のほうが積極的で、進展させてあって、実となることを促している趣のあるものである。これは形としては連作で、連作の自然発生的の面を見せているものである。
 
     大伴宿禰駿河麿の梅の歌一首
 
【題意】 「駿河麿」は、父祖を明らかにすることができない。続日本紀にも、「公卿補任」にもその点は見えないからである。巻四(六四九)大伴坂上郎女の歌の左注に、「右、坂上郎女は、佐保大納言卿の女なり。駿河麿はこれ高市大卿の孫なり。両卿兄弟の家、女孫姑姪の族、ここを以て、歌を題し送答し、起居を相問ふ」とあるのが唯一のより所となっている。すなわち駿河麿の祖父高市大卿は、郎女の父にして佐保大納言と称せられた大伴安麿と兄弟であったとはわかるが、高市大卿は尊称で、その誰であったかがわからないのである。駿河麿の官歴は、続日本紀、天平十五年従五位下。十八年越前守。天平宝字元年橘奈良麿の事変に座して弾劾されたが、宝亀元年五月には、従五位上、出雲守。同年十月正五位下。二年従四位下。三年陸奥按察使、ついで正四位下、四年兼陸奥国鎮守将軍。六年参議、正四位上、七年卒して従三位を贈られた。
 
400 梅《うめ》の花《はな》 開《さ》きて落《ち》りぬと 人《ひと》は云《い》へど 吾《わ》が標《しめ》結《ゆ》ひし 枝《えだ》ならめやも
    梅花 開而落去登 人者雖云 吾標結之 枝將有八方
 
【語釈】 ○梅の花開きて落りぬと人は云へど 梅の花が咲いて散ってしまったと人がいうけれども。○吾が標結ひし枝ならめやも 「標結ひし」(203)は、上の(三九四)に出た。わが所有の物として、その印《しるし》の標を結っておいたで、これは花の咲く以前のこととしていったもの。「枝ならめやも」は、疑問の「や」が、已然形の「め」を承けて反語となっているもの。その枝であろうか、その枝ではない。
【釈】 梅の花が咲いて散って行ったと人はいうけれども、それは自分が、わが所有として標《しめ》を結っておいた枝であろうか、その枝ではない。
【評】 「梅」を女に譬え、「開きて落りぬ」を、その物として事の終わった意、すなわち人の物と定まったことに譬え「吾が標結ひし枝」を、わが契った女に譬えたものである。標を結っておけば、梅は咲きも散りもしないかのようにいっているのは、事としては不自然であるが、その不自然が譬喩ということをあらわしているのである。人のいうことに不安を感じつつ、それを押し返そうとしているもので、心としては実際に即した、自然なものである。
 
     大伴坂上郎女、親族《うから》と宴《うたげ》する日|吟《うた》へる歌一首
 
【題意】 酒宴には必ず歌が付き物であったことは、宴は「うちあげ」の約で、うちあげは、一同が揃って手を拍《う》ち上げることで、これは歌に合わせてする手拍子である。「吟へる歌」というのは、酒宴の席で謡った歌である。「宴」は「うちあげする」と訓むべきであろうといい、『講義』は精しい考証をしている。今は「うたげ」に従っておく。
 
401 山守《やまもり》の ありける知《し》らに その山《やま》に 標《しめ》結《ゆ》ひ立《た》てて 結《ゆ》ひの辱《はぢ》しつ
    山守之 有家留不知尓 其山尓 標結立而 結之辱爲都
 
【語釈】 ○山守のありける知らに 「山守」は、山の番人で、その山をわが物として番をしている人。「ありける知らに」は、居たことを知らずして。「知らに」という語は、下の述語の理由を示す場合に用いられる語で、ここは「辱しつ」の理由を示すもの。○その山に標結ひ立てて 「結ひ立て」の「立て」は、その事を著しくする意の語だと『講義』は注意している。その山に、わが所有としての標を著しく結って。○結ひの辱しつ 「結ひ」は、動詞の連用形を体言化したもの。結う事をして辱をかいたの意。
【釈】 山番の番をしていたことを知らずして、その山に我が物の印《しるし》の標《しめ》を結って、結う事の辱をかいた。
【評】 この歌は、山を駿河麿に、「山守」をその通っているという女に、「標結ひて」を我が物とした、すなわち駿河麿を聟《むこ》にしたことに譬えたものである。この事は、これに続く駿河麿の歌で、その懸念を無用のものとしているので明らかである。この(204)歌を郎女が、親族《うから》の宴《うたげ》の日に吟《うた》ったというのは、郎女としてはその必要を感じてのことと思われる。歌は怨みとしていつているものであるが、親族の聞くところで吟ったのは、駿河麿をしてその事をやめしめ、またやめる上で親族をその立合人とし保証人としようとの心からのことと取れる。当時の大伴家の一族は、きわめて親しい間柄の者ばかりであり、また郎女は一族の長者の格でもあるから、そうした仕方をするのが、さして不自然なものではなかったろうと取れる。とにかく和え歌によると、駿河麿はこの譬喩をもって詠んだ歌をわが事とし、即座に、その懸念の無用なことをいっているのでも、その間の消息はわかる。さて駿河麿が郎女の聟であるという上で、どの娘の聟であるかということは、『講義』の考証によると不明なことになる。従来、田村大嬢《たむらのおおいらつめ》とされていたが、これは証とすべきことのないものであり、また、(四〇七)の題詞に、「大伴宿禰駿河麿、同じき坂上家の二嬢《おといらつめ》を娉《つまど》ふ歌」とあるが、これは田村大嬢ではなく、また坂上大嬢《さかのうえのおおいらつめ》でもない別な娘で、その娘は誰ともわからず、またこの題詞の歌以外には、駿河麿と郎女との聟姑関係に触れた歌も、記事もないのである。この歌は歌として見ると実用性のもので、譬喩は用いてあるといえ、それは用いざるを得ずしてのもので、文芸的の意味のものではない。心としては怨みを述べたものであるが、余裕をもち、洒脱の趣をももったもので、長者として、思うところあって詠んだ歌というにふさわしいものである。
 
     大伴宿禰駿河麿、即ち和《こた》ふる歌一首
 
【題意】 「即ち」は、立ちどころの意で、即座というにあたる。歌をもって物をいわれると、同じく歌をもって和えることは、上代からの風である。
 
402 山主《やまもり》は けだしありとも 吾妹子《わぎもこ》が 結《ゆ》ひけむ標《しめ》を 人《ひと》解《と》かめやも
    山主者 盖雖有 吾妹子之 將結標乎 人將解八方
 
【語釈】 ○山主はけだしありとも 「山主」は、贈歌をうけたもの。「けだし」は、巻二(一一二)に出た。今用いているよりも意味が広く、もしというに似ている。いわれるところの山番が、もしあるとしようとも。○吾妹子が結ひけむ標を 「吾妹子」は、男子より女子を親しんで呼ぶ称で、範囲の広いもの。ここは郎女。「結ひけむ標」は、上の歌と同じ。○人解かめやも 「解く」は、上の「結ひ」に対させたもので、取り去る意。他人が解こうか、解きはしない。
【釈】 いわれるところの山番が、もしあるとしようとも、あなたが結われたであろうところの標《しめ》を、他人が解いて取り去ること(205)をしようか、しはしない。
【評】 郎女の歌の心をまっすぐに受け入れてはいるが、しかしそれは軽く受け流して、懸念するには足りないことのようにし、力点を、郎女の威力を讃えるところに置いたものである。これがおそらく実状であったろうが、郎女の面目を立て、自身の面目も保ち得ている、時宜にかなったものである。それにしても駿河麿とすると、こういう以上、親族の集まっている席上で、一種の誓をした結果となるものである。二首を通じて見ると、こうした交渉が円滑に行なわれるのは、歌をもってするがゆえであって、実用性の歌が変わらずに続いて行った消息に触れているものである。
 
     大伴宿禰家持、同じき坂上家《さかのうへのいへ》の大嬢《おほいらつめ》に贈れる歌一首
 
【題意】 坂上家の大嬢は、巻四(七五九)の左注によって知られる。「右、田村大嬢と坂上大嬢と、并にこれ右大弁大伴|宿奈暦《すくなまろ》卿の女なり。卿は田村の里にあり、号を田村大嬢と曰へり。但妹坂上大嬢は、母坂上の里に居り、仍りて坂上大嬢と曰へり。云云」というのである。すなわち大嬢は、宿奈麿の次女として、郎女より生まれた人であり、母とともに坂上の家に住んでいたところから呼ばれた敬称である。この人は後、家持の妻となった。なお、宿奈麿は安麿の第三子なので、家持と大嬢とは従兄弟である。「坂上」は、(三七九)題詞に出た。
 
403 朝《あさ》にけに 見《み》まく欲《ほ》りする その玉《たま》を 如何《いか》にしてかも 手《て》ゆ離《か》れざらむ
    朝尓食尓 欲見 其玉乎 如何爲鴨 從手不離有牟
 
【語釈】 ○朝にけに見まく欲りする 「朝にけに」は、日々に、すなわち常に。「見まく欲りする」は、「見まく」は、「見む」に「く」を添えることによって名詞形にしたもの。見ることをの意。「欲りする」は、欲するで、したいの意。○その玉を 「その」は、さし示す意で、下の「玉」を他と差別して一つの玉としているもの。○如何にしてかも 「かも」は、疑問で、どのようにしてかで、術《すべ》がわからず、思い余った心をいったもの。○手ゆ離れざらむ わが手より離れないものにできようかで、上の「かも」は、ここへ移る意のもの。
【釈】 日々、常に見ることをしたいと思うその玉を、どのようにして、わが手から離れないものにできようか。
【評】 「玉」を大嬢に譬え、「手ゆ離れざらむ」を我が物にすることに譬えたものである。玉を思う人に譬えるのは、古くからの風で、これはそれにならったものである。娉《つまど》いの歌であるが、直接に相手に訴えることをせず、その願いをもって、ただ思い(206)余っている自身の状態をいっただけのものである。そうした態度を取るよりほかはなくての歌と思われる。ここに報《こた》え歌のないのは、なかったためかと思われる。大嬢は詠まずとも、母の郎女にうべなう心があれば、代作をした例もあるので、あればここに載っているだろうと思える。
 
     娘子《をとめ》、佐伯《さへきの》宿禰赤麿に報《こた》へて贈れる歌一首
 
【題意】 「娘子」は、誰ともわからない。「佐伯宿禰赤麿」は、伝が知られない。「佐伯氏」は大伴氏と同祖であり、したがって親しかったろうということが注意される。この歌は、赤麿からある娘子に娉《つまど》いの歌を贈ったのに対して、娘子の報えのもので、赤麿の贈った歌は伝えていないが、「譬喩歌」に入り得ないものであったからではないか。
 
404 ちはやぶる 神《かみ》の社《やしろ》し 無《な》かりせば 春日《かすが》の野《の》べに 粟《あは》種《ま》かましを
    千磐破 神之社四 無有世伐 春日之野邊 粟種益乎
 
【語釈】 ○ちはやぶる神の社し 「ちはやぶる」は、主として神にかかる枕詞。巻二(一〇一)その他にも出た。「社」は、屋代の意で、神の降りたまう屋の意。「し」は、強め。○無かりせば 無かったならばで、仮定。仮定にしたのは、これをいっている場所は、下の「春日の野べ」で、そこには現に神の社があったからである。○春日の野べに 春日の野は、春日の地にある野で、現在の奈良市の春日野で、今よりは広範囲にわたっての称。今は、上の「神の社」の所在地としていっている。この神は、現在の春日神社の四座の神であるかどうかということにつき、『代匠記』は疑いを挟んで考証し、『講義』はさらに詳しくしている。要は、現在の四座の神の勧請《かんじよう》は、称徳天皇の御宇であるから、今いっている神は、『延喜式』に名神大とある春日神社で、四座の神のほかであり、その地主社であろうというのである。○粟種かましを 「粟種く」は、春日の野は水田はなく陸田のみの地であるから、実際に即してのことと取れる。「まし」は、仮想で、上の「せば」に応じたもの。「を」は、詠歎。粟を蒔こうものをで、それができないのを嘆いての意。神の社に近い辺りは、清浄を穢すのをおそれて、作物を作らなかった上に立っての仮想。
【釈】 ちはやぶる神の社がもしなかったならば、ここの春日の野に、我は粟を蒔こうものを。
【評】 「神の社」は、赤麿のもっている妻に譬えたもの。「粟」は、逢う意の「逢は」を懸けて、その譬としたものである。「逢は」の譬のほうは、『仙覚抄』がいい、『代匠記』『槻落葉』の従っているものである。『講義』は、巻十四、東歌(三三六四)「足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるをあはなくもあやし」を挙げて支持している。「粟」と「逢は」は、文芸的にいえば掛詞であるが、上代の言霊《ことだま》信仰では、「逢は」と同音の「粟」には、逢うことをさせる力があるものとし、それによって譬とし(207)たものと取れる。娘子のいうのは、君に妻がなかったら、娉いに応じようものをといって、嘆きをもって拒んだものである。「春日の野べ」を捉えているのは、娘子の住所がそこで、「粟種かまし」も生活に関係のあることで、実際に即しての語《ことば》と取れる。したがって、形としては譬喩であるが、それを用いた娘子は、必要に駆られて、そうしたことは意識せずしていっているものと取れる。
 
     佐伯宿禰赤麿、更に贈れる歌一首
 
405 春日野《かすがの》に 粟《あは》種《ま》けりせば 鹿《しし》待《ま》ちに 継《つ》ぎて行《ゆ》かましを 社《やしろ》し留《とど》むる
    春日野尓 粟種有世伐 待鹿尓 繼而行益乎 社師留焉
 
【語釈】 ○春日野に粟種けりせば 「種けりせば」は、蒔きありとせばの意で、上の歌の四、五句を承けてのもの。○鹿待ちに 古点「待つしかに」であり、『代匠記』『考』『略解』はこれに従い、『代匠記』は、粟の熟するを待つ鹿とし、『考』は待つ鹿のごとくとし、『槻落葉』は、「待たすかに」と訓み、「かに」は、のごとくにの意と解している。『代匠記』の解は、下の「行かまし」の目的となり得ず、『槻落葉』の解は、何が何を待つか明らかでない。『古義』が今のごとく改めた。意は、「鹿《しし》」は、鹿、猪など、その宍《しし》を食用とする獣の総称で、用例の多い語である。「鹿待ち」は、鹿を待つことで、待つのは捕えて食用としようがためである。上よりの続きは、鹿は粟が熟すと、荒らそうとしてくるもので、その頃はその時節である。鹿待ちのためにの意。○継ぎて行かましを 「まし」は、上の歌に出た。続けてそこへ行こうものを。○社し留むる 「社し」は、上の歌に出た。「留焉」の訓は、『攷証』のものである。「焉」は漢文風の助辞で、これを用いた例は(208)集中に多く、これもそれである。「留」を「とどむる」と訓む例として、『講義』は、巻四(五三二)「打日さす宮に行く児を真悲《まかな》しみ留者《とむれば》苦し聴去者《やれば》すべなし」を挙げている。社が行くことを留《とと》めるの意。社は、穢れのうち、血の穢れを最も忌む所であるから、その辺りで、鹿待ちという出血に関係のあることをするのは、実際としてもすべきことではない。「留《とどむる》」は連体形であって、これで終止させるのは特殊なことで、詠歎の心をこめていう場合に限っている。集中に例の少なくないものである。
【釈】 春日野にもし粟が蒔いてあるとするならば、その実の熱する頃とて、荒らしに来る鹿《しし》を待つために、続けてそこに行こうものを。そうした穢れに近いことは、そこにいます神の禁じ留めることであるよ。
【評】 「粟種けりせば」は、上の歌と同じく「粟」を「逢は」の譬喩としたもので、娘子がもし我に逢おうとする心があるならばという意の譬。「社し留むる」の「社」は、上の歌では、娘子が赤麿の妻の譬喩としたものであるのに、ここでは、赤麿が娘子に夫のあることを想像し、それに譬えたものである。赤麿のこれらの譬喩は、娘子が自然発生的に用いたものを奪って、意識的に、技巧化して用いているものである。しかし「社し留むる」は、いったがように実際に即してのものである。
 
     娘子《をとめ》、復《また》報ふる歌一首
 
406 吾《わ》が祭《まつ》る 神《かみ》にはあらず 大夫《ますらを》に 認有《つなげる》神《かみ》ぞ 好《よ》く祀《まつ》るべき
    吾祭 神者不有 大夫尓 認有神曾 好應祀
 
【語釈】 ○吾が祭る神にはあらず 吾が祭っている神ではないで、「神には」の「は」で、それは他の神であるということを暗示しての言い方である。娘子《おとめ》の初めの歌に、「神の社しなかりせば」といって、その「神」を赤麿の妻に譬えていったのに、赤麿は前の歌で、娘子の夫を譬えていってきたので、娘子は立返って、初めの歌でいった神の説明をしているのである。吾が「神」といったのは、わが祭るべき神のことではないと断わったのである。○大夫に認有神ぞ 「大夫」は、赤麿を尊んでいったもの。「認有《つなげる》」は、旧訓「とめたる」。『考』の訓。「つなぎとどめて離れぬ神有といへり」と説いている。諸注、さまざまの訓を試みているが、『講義』は、「認」の用字例として、集中いま一か所ある巻十六(三八七四)「所射鹿《いゆしし》を認《つなぐ》河辺の和草《にこぐさ》の」を引き、さらに『類聚名義抄』の「認」字につき、つなぐの訓のあることを確かめている。その解については日本書紀、斉明紀の歌、「射ゆ鹿《しし》をつなぐ河辺の若草の若くありきと吾《あ》が思《も》はなくに」という、巻十六の歌に酷似した歌の「つなぐ」に対し、『稜威言別《いつのことわき》』の解を参考として引いている。要は、認《つな》ぐは狩猟の上の語で、獣のいる場所を心で標めておき、そこへ認《と》めてゆく意で、この語は江戸時代の猟師の間には生きて用いられていた。例せば、猪を一打ち射留めると、その猪は身が熱し喉が渇き、その辺りの河辺に水を飲みに行くが、疲れて逃げられず、必ずそこにいるものである。その射留めたこともつなぐといい、そのいる所へ覓《と》》めて行くのも、つなぐとも、跡をつなぐともいっているとい(209)うのである。『講義』はなお他の証となるものを引いている。これによって『考』の解に従うべきであろう。「神ぞ」は、下の続きで、神をぞの意のものと取れる。この二句は、大夫につないでいる神をこその意である。『講義』は、語格からいうと、「大夫を」とあるべきで、それが普通であるのに、「大夫に」とあるのは普通ではないとして疑っている。この「神」は、赤麿の妻の譬喩としてのものであるから、「神」とはいえ実体は無力なものであるから、その意をもっていっているものではないかと取れる。それだと作意としては不自然ではなくなる。○好く祀るべき 「べき」は、「ぞ」の結。心して祀るべきであるよの意。
【釈】 吾《われ》が神といったのは、わが祭っている神をいったのではない。その神は、大夫《ますらお》君に認《つな》いで、跡を覓《と》めている神のことで、君はその神をこそ心して祀るべきであるよ。
【評】 赤麿が娘子《おとめ》には夫がありはしないかと危ぶんで、「社し留《とど》むる」といってやったのに対し、娘子はそれには答えようとせず、最初に自分が「神の社」といった、その「神」の説明をする形において、赤麿にも劣らない態度で、危ぶみの情を強調していっているものである。事の全体の上からいうと、赤麿の娉《つまど》いに対して娘子は応じる心をもち、赤麿もそれは承知の上で、双方とも、他に関係者をもっているのではないかと危ぶんで、探り合っている範囲の歌である。一夫多妻の時代であり、夫妻は同棲すると定まっていない時代であったから、こうした危ぶみは双方もたざるを得なかったのである。歌はいずれも一見遊戯に似ているが、それは昏譬を用いているからで、この譬喩は、事の性質上、用いざるを得なかったものであり、心としては率直なものであったと取れる。「吾が祭る神」「大夫に認有神」と、譬喩としてのものではあるが、「神」を対立させていっているのは、当時の信仰状態を反映しているもので、技巧としてのものではない。それは当時の神は、その加護を垂れる範囲が厳しく限られていて、例せば一つの部落の神は、他の部落の者に力を及ぼさず、一つの氏の神は、他の氏人にはかかわりをもたなかったのである。これは現在にも伝わっていることであるが、大勢としては、後世になるに従って、神の加護の範囲は広がって、すべての神は民族の神となろうとしつついる。この当時の信仰状態としては、娘子のいっていることは当然のことだったのである。全体として見ると、男の態度には余裕があるが、女は一本気であり、従順なところがあると同時に、烈しいところをもっていて、三首の贈答を通して、歌物語の趣をあらわしているものである。
 
     大伴宿禰駿河麿、同じき坂上家《さかのうへのいへ》の二嬢《おといらつめ》を娉《つまど》ふ歌一首
 
【題意】 「同じき坂上家」という「同じき」は、(四〇一)の歌との関係においていっているものと取れる。「二嬢」は、中国風の言い方で、二人の娘とも、第二の娘とも解せられるものである。「嬢」は「娘」と通じて用いる語である。ここは事の性質上、第二の娘と解される。「坂上家」は、坂上郎女の住んでいた家で、そこに住んでいた宿奈麿の娘で、明らかにわかっているのは、(210)後に家持の妻となった坂上大嬢だけで、二壌というのはただここにあるだけで、それ以上にはわからない。このことは(四〇三)についていった。
 
407 春霞《はるがすみ》 春日《かすが》の里《さと》の 殖子水葱 《うゑこなぎ》 苗《なへ》なりと云《い》ひし 柄《え》はさしにけむ
    春霞 春日里之 殖子水葱 苗有跡云師 柄者指尓家牟
 
【語釈】○春霞春日の里の 「春霞」は、春の霞で、春を添えているのは、古くは秋の霧をも霞と称したからである。霞の「かす」を「春日」の「かす」に畳む関係で、春日の枕詞。「春日の里」は、古くは範囲が広く、東は春日山より西は率川《いざがわ》地方まで、南は大宅から北は佐保までにわたり、現在の奈良市の大部分にあたる地域であった。○殖子水葱 これにつき、『講義』は精しく考証している。食用とする一年生の水草で、集中、水葱《なぎ》と小水葱《こなぎ》と二種あるが、同種の物である。後世は水葵《みずあおい》といった。本来水沢に生ずるものであるが、好んで食用とするところから水田にも作った。葉は初め沢瀉《おもだか》に似、後には竹柏《なぎ》に似てくる。秋、穂を出し、青碧色または白色の小さい花をつける。生食し、また糟漬にもしたという。「殖」を添えているのは、植える、すなわち栽培したからで、これは「殖草」「殖竹」などに通じてのことだといっている。○苗なりと云ひし 「苗」は、発育しない物の意。「し」は、「き」の連体形で、それによって準体言としたもの。まだ苗であると以前にいわれた物はの意。○柄はさしにけむ 「柄」は、「枝」に当てたもの。小水葱は枝はないが、葉の繁るのをそう言いかえたもの。「さす」は、枝を出すこと。今は枝を出して来たことであろうで、苗の十分育ったことであろうの意。
【釈】 春霞春日の里に作っている殖子水葱《うえこなぎ》よ、以前まだ苗であるといわれたものは、今は育って枝を出してきたことであろう。
【評】 殖子水葱をもって二嬢《おといらつめ》に譬え、その成人しないことを「苗」に、成人を「柄はさし」に譬えたものである。植物を譬としようとするならば、他に美しい物もあったであろうに、食用とする小水葱を選んだのは、その「殖子水葱」であるからであろう。その作ってある場所を「春日の里」としたのは、少なくとも坂上家のその水田が春日の里にあったのでなくてはならず、その春日の里に「春霞」の枕詞を添えて、できうる限り事を鄭重にいっているのは、坂上家が春日の里にあったというほどに思わざるを得ないものである。しかるに坂上家のあった坂上は、(四〇二)でいっているように生駒郡の地であり、春日の里は添下郡であるから、それと見ると矛盾が起こり、わかり難いものとなるので、『講義』は特に問題としている。この事は、「苗なりと云ひし」に関係あるもので、やや早い頃には、二嬢の母郎女は春日の里に住んでい、後に坂上の里に移ったので、歌は溯つて、その春日の里にあった時に郎女の答えたことをいったものと見ると、無理のないものとなる。しかしこれは証すべき料のない推測である。この歌は実用性のものであるが、譬喩は文芸的にこなれきったもので、当時者間には明瞭に通じるが、第三者には題詞がないと解しかねるまでのものである。しかしこの譬喩は、技巧というよりは、必要のあって用いているもので(211)ある。一首、落着いていて、物言いが剋明《こくめい》で、その人の実体《じつてい》なのを思わせるものである。上の「春日の里」の推測も、この点からされるものである。
 
     大伴宿禰家持、同じき坂上家の大嬢《おほいらつめ》に贈れる歌一首
 
408 石竹《なでしこ》の その花《はな》にもが 朝旦《あさなさな》 手《て》に取《と》り持《も》ちて 恋《こ》ひぬ日《ひ》なけむ
    石竹之 其花尓毛我 朝旦 手取持而 不戀日將無
 
【語釈】 ○石竹のその花にもが 「石竹」は、今の撫子《なでしこ》で、集中にその名が多く、当時|愛翫《あいがん》されていたことが知られる。「その花」は、撫子の花で、「その」は強める意で用いたもの。「にもが」は「に」は、格助詞。「が」は、希望の、「も」は、詠歎の助詞である。この「に」が用いられている場合には、その下に動詞が略されているのが常規であると『講義』は注意している。撫子の花であって欲しいことよの意。○朝旦手に取り持ちて 「朝旦」は、あさなあさなの約。また「あさな」の「な」は、「に」の転音。「手に取り持ちて」は、愛すると、離れて見ているに堪えず、折り取って、手に持って見る意。○恋ひぬ日なけむ 「恋ふ」は、離れていて、眼に見ずに憧れる意と、眼前に見ながらも愛着する意とある。ここは後の意のもの。「なけむ」は、「なからむ」の意。形容詞「なし」の未然形「なけ」に推量の助動詞「む」のついたもの。
【釈】 撫子のその花であって欲しいことよ。それだと、朝に朝に、すなわち絶えずも、折り取って手に持って、愛着しない日はなくていよう。
【評】 撫子の花を大嬢に譬えたものであるが、これはおりから 若い心と、穏やかな人柄の思われるというだけの作である。その花の季節で、愛すべき花と一般にされていたがためである。
 
     大伴宿禰駿河麿の歌一首
 
409 一日《ひとひ》には 千重浪敷《ちへなみし》きに 念《おも》へども などその玉《たま》の 手《て》に巻《ま》き難《がた》き
    一日尓波 千重浪敷尓 雖念 奈何其玉之 手二卷難寸
 
【語釈】 ○一日には千重浪敷きに 「一日には」は、一日のうちには。「千重浪敷き」は、「千重浪」は、千重と続いて寄せて来る浪。「敷き」は、『講義』は、しげく行なわれるわざをいう語だと注意している。初句からの続きは、初句に「には」の助詞があるから、上の歌の場合と同じく、(212)「千重浪」の下に、寄するごとくの意が略されているものといっている。全体では、一日のうちには、千重浪の寄せるごとくで、「一日」の「一」と「千重」の「千」とは、意識して対させていると取れる。○念へども 念うのは、下の「玉」である。○などその玉の 「など」は、疑問。「なぞ」も集中にあり、共に行なわれていた。「なぞ」の「ぞ」は係助詞で、「など」の「ど」は、それの古い姿の一つだと『講義』はいっている。「その玉」は、「その」は指示する意で、上の「千重浪」の打寄せて来ることのある海中の玉、すなわち鰒玉《あわびだま》である。○手に巻き難き 「手に巻く」は、手玉として緒に貫《ぬ》いて手に巻くこと。
【釈】 一日のうちには、千重浪の寄せるがごとくにしげく思っているけれども、どうして海のその玉は、手玉とすることができないのであろうかよ。
【評】 「玉」を女に、「手に巻く」を、わが物とする、すなわち妻とすることに、念いを「千重浪」に譬えたものである。愛する人を玉に、一緒にいるのを、それを手に巻くに譬えるのは、古くからあるもので、またしげさを千重浪に譬えるのも、巻十三(三二五三)「百重《ももへ》波千重浪敷きに言《こと》あげす吾は」という古いものがある。この歌はそれらを一つに集めたものであるが、意図的に、多くを集めすぎたため、かえって心の弱められているものと思える。
 
     大伴坂上郎女の橘の歌一首
 
410 橘《たちはな》を 産前《やど》に植《う》ゑ生《お》ほし 立《た》ちて居《ゐ》て 後《のち》に悔《く》ゆとも 驗《しるし》あらめやも
    橘乎 屋前尓殖生 立而居而 後雖悔 験將有八方
 
【語釈】 ○橘を屋前に植ゑ生ほし 「橘」は、渡来した木で、当時珍重して鑑賞した木。「屋前《やど》」は、旧訓。「やど」は意味の広い語で、「屋戸《やど》」すなわち屋の戸の字を用い、庭の意としている例は、集中に甚だ多い。ここもそれである。「植ゑ生ほし」は、移し植えて育てての意。○立ちて居て後に悔ゆとも 「立ちて居て」は、(三七二)「立ちて居て念ひぞ吾がする」があった。思いが深く落着きかねる時の状態で、ここも思いの深いことを具象化したもの。「後に悔ゆとも」は、後になって悔をしようともで、悔いるのは上の橘を植え生おしたこと。○験あらめやも 「驗」は、甲斐。「めやも」は、「む」の已然形「め」に「やも」を続けて反語としたもの。甲斐があろうか、ありはしない。
【釈】 橘をわが庭に移し植えて育てた後に、その事を深く後悔することがあろうとも、その時になっては甲斐があろうか、ありはしない。
【評】 「橘」を娘の聟に譬え、「屋前に植ゑ生ほし」を、わが家に通わせることに譬えたものである。橘は珍重されていた庭木であるから、この譬喩はその意味では適当なものである。「立ちて居て後に悔ゆとも」は、譬喩を離れて、単に橘の上でいう(213)と、意味をなさないもので、譬喩のほうで、聟の娘に対する軽薄な心に対する不安と見て、初めて通るものである。譬喩歌は本義としても、譬喩としても通るものであるのが建前であるから、その意味でこの歌は十分なものとはいえない。しかしこの歌には、続いて和え歌があって、それによると聟となろうとしている人に贈ったもので、当事者だけの間の実用性の歌である。この類の不備な点のある歌の往々まじっているのは、撰者の計らいとしてのことと思われる。
 
     和ふる歌一首
 
【題意】 右の歌を郎女より贈られて、それに対して和えた歌である。歌をもってものをいわれれば、歌をもって和えるのは当然のことだったのである。作者は誰ともわからない。
 
411 吾妹児《わぎもこ》が 昼前《やど》の橘《たちばな》 甚近《いとちか》く 植《う》ゑてし故《ゆゑ》に 成《な》らずは止《や》まじ
    吾妹兒之 屋前之橘 甚近 殖而師故二 不成者不止
 
【語釈】 ○吾妹児が屋前の橘 「吾妹児」は、郎女。「屋前の橘」は、その庭にある橘。○甚近く植ゑてし故に 「甚近く」は、はなはだ近くで、近くというのは、下の「植ゑ」の位置をいったもので、この作者の家の近くである。「植ゑてし故に」は、「て」は、完了。移し植えることをしたがゆえに。○成らずは止まじ 「成る」は、実のなることで、橘は当時、葉も花も愛したが、ことに実の美しきを愛したので、その意でいっているもの。その実がならなければ、わが丹精はやめまいというので、どこまでも丹精して実をならせようの意である。
【釈】 吾妹児の庭の橘を、わが家の甚だ近い所に移し植えたがゆえに、この上は、その橘に、実がならなければわが丹精はやめまい。
【評】 この歌では、「橘」を郎女の娘に譬えてある。橘は賞美した木であるから、自身に譬えられたのを、相手の娘に代えたのは妥当なことである。「甚近く植ゑてし」は、郎女の娘との結婚交渉が進捗《しんちよく》してきていることを譬えたもの。「成らずは」は、結婚の交渉を「花」と「実」とに譬え、「花」を、なかば儀礼的に、言葉の上だけでの交渉時期に、「実」を、心の相合うこと、すなわちその成立に譬えることは、古くから慣用となっているもので、ここもそれである。郎女の贈った歌は、聟となるべき人の誠実の度を確かめようとしたものであるが、その人は、その事には答えようとせず、わが誠実をもって、必ず郎女の娘を動かそうということをいっているのである。当時の結婚は、大体当事者の間で定まるもので、親は多くの干渉をしないのが建前であった。往々、親が干渉して問題となる場合があったが、それは親としては承認のし難い相手であったためと取れる。ま(214)た、親とは母親であって、また、普通「親」という場合には母親に限っていたのである。これは夫妻同棲せず、子は母親にだけ監督されていたことの自然の成行きである。これらの歌も、その上に立ってのものである。
 
     市原王《いちはらのおほきみ》の歌一首
 
【題意】 「市原王」は、巻六(九八八)の題詞により、安貴《あき》王の子であることが知られる。安貴王は、(三〇六)の作者として出た方で、天智天皇の曾孫である。市原王は、天平十一年|写経司《しやきようし》の舎人《とねり》。同十五年従五位下。その頃より玄蕃頭となったが、玄蕃寮は治部省管下の一寮で、全国の仏寺僧尼の名籍と、供養斎食の事を管する役所である。天平勝宝元年東大寺大仏造営の功によって従五位上に、ついで正五位下に敍せられ、天平宝字七年摂津大夫、また、造東大寺長官に任ぜられた。また天平宝字二年の頃、治部大輔にも任ぜられている。大体、仏教に関する方面に歴任された。続日本紀、天応元年二月の条に、王の妻は、光仁天皇の皇女能登内親王であることが出ている。
 
412 いなだきに きすめる玉《たま》は 二《ふた》つなし かにもかくにも 君《きみ》がまにまに
    伊奈太吉尓 伎須賣流三者 無二 此方彼方毛 君之随意
 
【語釈】 ○いなだきに 「いなだき」は、頂《いただき》のことと取れる。『和名抄』は、「顛」に「いただき」の訓をしている。「な」と「だ」とは、相転じ合っている例が多いから、これもそれであろうといい、『講義』は多くの例を挙げている。○きすめる玉は二つなし 「きすめる」という語は、集中ここにあるだけで、他には用例がなく、したがって解し難いものである。諸注、解を試みているが、玉を緒をもって統べる意の「統《すま》る」に関係をつけ、用例として、日本書紀、神代紀、天照大神の御装の、「便以2八坂瓊五百箇|御統《みすまる》1纒2其髻鬘及腕1」と、「法華経」の安楽行品にある、仏説の無上の物であることの譬としての、転輪王の「髻中(ノ)明珠」とを引いているのである。しかるに、当時の男の髪は左右に分けて、角髪《みずら》に結っているのであるから、それを飾る玉としては「二つなし」では意味が通じなくなり、結局、「きすめる」と「統《すま》る」とは別語だということになる。しかるに『新考』は、「きすむ」という古語の例を見出している。それは、播磨風土記、賀毛郡の下に、「伎須美野《きすみの》」という野の地名伝説として、「右号2伎須美野1者、品太天皇之世、大伴連等請2此処1之時、喚2国造黒田別1而問2地状1。爾時対曰、縫(ヘル)衣(ヲ)如v蔵2櫃(ノ)底1、故曰2伎須美野1」というがある。これによると「蔵」は「きすめる」と訓むべきで、古くは、蔵《しま》つておくことを「きすむ」といっていたことがわかるのである。この語例は、この一つがあるのみであるが、これによると、「きすめる玉」は、蔵ってある玉である。それだと初句より続けると、「いなだき」はいわゆる髻中で、髻《もとどり》の中に蔵つてある玉ということになり、「髻中(ノ)明珠」を言いかえたものということが知られる。「二つなし」は、上を承けて、唯一の物で、無二、無三の貴い物の意とわかる。「髻中(ノ)明珠」は、仏説の無上であることの譬であるから、仏教を信ずる限り、誰でももっていると信じられるも(215)のである。ここは転輪王と同じく、わがいただきにもあるものとしての言である。以上のことは『講義』の考証しているところである。○かにもかくにも 「か」と「かく」と対させたもので、今の「とにもかくにも」にあたる古語。ああなりとも、こうなりともで、すなわち、いかようになりともの意。○君がまにまに 「君」は、一首の上から見ると、愛する女をさしてのものと取れる。男より女をいうには、一般に「妹」といっているが、稀れに君を用いている場合があって、これはそれと取れる。この「君」はその妻能登内親王であろうと思える。「まにまに」は、随意にで、下に、なろうの意の略されているものである。
【釈】 わが頂、すなわち髻《もとどり》の中に蔵ってある玉は、唯一にして、無二無三の貴い物である。君はそれのごとくに貴いので、ああなりとも、こうなりとも、すなわち、いかようになりとも、君の随意になろう。
【評】 仏説が取り入れられている歌は、集中に珍しくはない。仏教関係の事実よりも、むしろ思想の方が多く、その人生観、世界観を取り入れているものが少なくはない。これは思想ではなく事実のほうのもので、我ももっているとする「髻中(ノ)明珠」をもって、その愛する女の譬喩としたもので、仏教を主としていうと、それを修辞上に利用したという軽い扱い方のものである。王の官歴として仏教に親しむことが深く、その結果このように、日常生活の上に利用するまでに至ったものとみられる。しかし譬喩として見ると清新な、また含蓄をもったもので、すぐれたものといえる。
 
     大網公人主《おほあみのきみひとぬし》、宴《うたげ》に吟《うた》へる歌一首
 
【題意】 「大網」は氏、「公」は姓、「人主」は名である。『新撰姓氏録』(左京皇別)に、「大網公上毛野朝臣同祖、豊城入彦命六世孫、下毛野君奈良弟真若君之後也」とある。伝は不明である。宴に吟へるというのは、歌の出所をいったものである。そうした場合、自作も、また古歌も吟ったので、いずれとも定められない。
 
413 須磨《すま》の海人《あま》の 塩焼衣《しほやきぎぬ》の 藤服《ふぢごろも》 間遠《まとほ》くしあれば 未《いま》だ著穢《きな】れず
    須麻乃海人之 塩焼衣乃 藤服 間遠之有者 未著穢
 
【語釈】 ○須磨の海人の塩焼衣の 「須磨」は、今の神戸市の西にある須磨。「海人」は、ここは、海の業をする者の総称としてのもの。「塩焼衣」は、塩を煮る時に著る衣の意で、いわゆる労働服である。○藤服 藤の繊維をもって織った服《ころも》の意。「藤」は、現在の藤だけではなく、葛を「ふぢ」と訓ませているのでもわかるように、蔓をなしている草木の総称である。粗末な服としていっているもの。初句からこれまでの三句は、序詞である。○間遠くしあれば 「間遠」は、一語二義で、上よりの続きは、織目《おりめ》が粗《あら》い意で、聞遠と続き、承けるほうは、男の立場に立って、女の(216)家との距離が遠い意で、問遠と転じさせたものである。「し」は、強め。間遠であるのでの意で、「ば」は条件をあらわすもの。○未だ著穢れず 「著穢れず」は、「来馴れず」の意で、「来」は行く、すなわち通って行くことを、女のほうを主として「来」といっているものである。「馴れず」は、馴染がつかない意で、行くことが少なく、馴染が浅いといって嘆いた意である。上の句との続きから見れば、そう解するよりほかはなく、それでなければ心のとおらなくなるものである。
【釈】 須磨の海人の塩を煮る時に著る衣のその藤服《ふじごろも》。織目が間遠である、その間遠い所に妹の家があるので、我はまだ通って来馴れず、馴染が浅い。
【評】 この歌は、これを譬喩歌と見るには、「藤服」を、「間遠くしあれば」の譬喩と見なければならないが、これはいったがように、初句から「藤服」までは、「間遠」に一語二義でかかっている普通の譬喩であって、譬喩と称すべきものではない。撰者は、初句より三句までを序詞と認めず、「藤服」だけを女の譬喩とし、「間遠く」を単に、男と女の家の距離の遠い叙述とし、「未だ著穢れず」と文字どおりに取り、それを馴染の浅い譬喩と見て、そこに嘆きを認めたのであるかもしれない。それだと譬喩歌と取れ、心のとおるものとなるのである。しかしこれは、語《ことば》の続きからいうと、強いた無理なものといわなければならない。それにつき斟酌されることは、「吟《うた》へる歌」ということで、この歌を耳で聴くと、「未だ著穢れず」が強く響き、したがって「間遠くしあれば」とそれとの続きが閑却されるところがあったろうかと思われることである。それにしても、これを譬喩歌と見ることは無理というべきである。
 
     大伴宿禰家持の歌一首
 
414 あしひきの 石根《いはね》こごしみ 菅《すが》の根《ね》を 引《ひ》かは難《かた》みと 標《しめ》のみぞ結《ゆ》ふ
    足日木能 石根許其思美 菅根乎 引者難三等 標耳曾結焉
 
【語釈】 ○あしひきの石根こごしみ 「あしひきの」は、山にかかる枕詞であるが、これをただちに「山の」の意に用いたものである。これは奈良遷都後に起こった風であるらしく、他の例もある。「石根こごしみ」の「石根」は、磐の意で、「根」は添えたもの。しばしば出た。「こごしみ」は、ごつごつしているにより。○菅の根を 「菅」は、上との関係上、湿地に生じる普通の物ではなく、山地に生じる山菅で、「磐本管」(三九七)と呼ばれる物であり、したがって根が深く、引き抜けない物であることがわかる。○引かば難みと 「引かば」は、小松を引く、大根を引くというそれで、引き抜く、根こじにする意で、引き抜こうとしたならばの意。「難みと」は、困難であるゆえにと思って。○標のみぞ結ふ 「標」は、しばしば出た。わが物とする印《しるし》の物。原文の「焉」は、漢文風の助辞。標だけを結っておくの意。山菅はその物として標を結っておくという性質(217)の物ではない。したがってこの事は、心の中ですることということを暗示している語である。
【釈】 山の磐がごつごつしていて、そこに生えている山菅の根は、根こじにしようとすれば困難なゆえに、心の中で、わが物との印の標だけを結っておく。
【評】 「あしひきの石根こごしみ」は、得ようとする女の環境の譬喩、「菅の根」は女の譬喩、「引かば」はわが物とする意の譬喩である。「引く」は、女の心を誘い試みる意ももっている語であるが、ここではそれは縁語的の働きをしているだけである。「標のみぞ結ふ」は、全体を譬喩とする上では、やや不自然な趣のある語であるが、大体としては、複雑なる心を譬喩化し得ているものである。心穏やかな人が、丹念に、苦労して詠んだ歌ということを思わせるものである。
 
 挽歌
 
【標目】 挽歌は、巻二に出た。これは、巻三、四の両巻を一括し、それを四部に分かった一部としてのものである。
 
     上宮聖徳皇子《うへのみやのしやうとこのみこ》、竹原井《たかはらのゐ》に出遊《いでま》しし時、竜田山《たつたやま》の死人を見て悲傷《かなし》みて御作歌《つくりませるうた》一首【小墾田宮《をはりたのみや】に天の下知らしめしし天皇の代、墾田の宮に天の下知らしめししは、豊御食炊屋姫天皇なり。諱は額田、謚は推古】
 
【題意】 「上宮聖徳皇子」は、御名は厩戸|豊聡耳《とよとみみ》命、用明天皇の皇子、推古天皇の御宇、皇太子として摂政をされた御方で、あまねく熟知されている御方である。「上宮」は、当時の皇居の南に、上宮と称する宮があって、父天皇が皇子をそこに住ましめられたからの称で、皇子が後|斑鳩《いかるが》にお移りになっても、なおそれを称とされたものである。「聖徳皇子」は、御薨去の後に奉った謚号《しごう》である。「竹原井」は、『河内志』には、大県郡高井田村に在るとしているが、現在では、大阪府下柏原市高井田にあたる。そこは竜田山の西、大和川の沿岸である。本来、「竹原」は地名、「井」はここは井泉で、『河内志』に「有2石井1在2水涯1」といっているものであるが、それがやがて地名となったのである。そこは大和国から難波に出る古道にあたる地で、名所となっていたものとみえる。皇子よりは後のことであるが、そこには「竹原井頓宮」が営まれ、元正天皇養老年間より、光仁天皇宝亀年間にわたって、大体難波宮に行幸の御途次、その宮にも数回行幸になられたことが、続日本紀に出ている。「出遊」は遊覧のためと取れる。「竜田山」は、竹原井に出られるために越えるべき山、「死人」は、路に行倒れになった旅の人である。
 
(218)415 家《いへ》にあらば 妹《いも》が手《て》纒《ま》かむ 草枕《くさまくら》 旅《たび》に臥《こや》せる この旅人《たびと》あはれ
    家有者 妹之手將纏 草枕 客尓臥有 此旅人※[立心偏+可]怜
 
【語釈】 ○家にあらば妹が手纒かむ 「家にあらば」は、下の「旅」に対させての想像。「妹が手纏かむ」は、妻の手を枕とすることであろうで、これも下の「草枕」に対させたもの。○草枕旅に臥せる 「草枕」は、旅の枕詞。「臥せる」は、臥《ふ》すの古語「臥《こ》ゆ」の敬語「臥《こや》す」の已然形に、完了の「る」の添ったもので、連体形。臥《ね》ていられるところの。○この旅人あはれ 「旅人」は、たびひとの約。「あはれ」は、感歎をあらわす意味の広いもの。ここは憐れみである。
【釈】 その家にいるならば、妻の手を枕として臥ることであろう。草枕旅に臥ていられるところの旅人よ、あわれにも。
【評】 題詞のごとく、路上に行倒れとなっている旅人を悲傷されての歌である。実際に即するのが上代以来の歌風である上、こうした特殊な実際にあっては、いっそうそれに即せざるを得ないのである。この歌は大体としては実際に即している範囲のものであるが、その即し方はよほど間接なもので、むしろ抒情の勝ったものである。路上に行倒れになっているという悲惨なことをいうに、「草枕旅に臥せる」と漠然とした言い方をし、その「臥せる」を憐れむべきことであるとして、「家にあらば妹が手纏かむ」ということを添えて比較し、さらに「あはれ」と添えられているのである。すなわち悲傷すべき実際の状態を直写することを避け、感傷的な語を添えることによって、事の実際を暗示しようとしているもので、一見素朴なごとくであって、実は相応に技巧的なものである。しかしこの態度は、巻二(二二〇)「讃岐の狭岑島に石中に死れる人を視て」と題する人麿の歌と同様なものであって、事のあまりにも悲惨なために、憐れみの心より直写を避け、また死人を穢れとして、忌み怖れる心よりそれとなくあらわそうとしたとも言えるもので、技巧的なのは必要より出たこととも言えるのである。それにしてもこの歌には、全体として心の稀薄なものがあり、はたして皇子のお作であるかを危ぶましめるところがある。日本書紀、推古紀には、事も歌もこれと相似たものがある。それは太子が片岡に遊行《いで》ました時、飯に飢えて道のほとりに臥《ねむ》っている旅人を御覧になって憐れまれ、飲良を与え、衣裳《みけし》を脱いで覆われた後に詠ませられた歌として、「級照《しなて》る片岡山に 飯《いひ》に飢《ゑ》て臥《こや》せる その旅人《たぴと》あはれ 親なしに汝《なれ》成りけめや さす竹の君やはなき 飯に飢て臥せる その旅人あはれ」というのである。この二首の歌は相通うところが多く、一事二伝と思わざるを得ないものである。試みに二首の歌についてその関係を思うと、歌謡は上代にさかのぼるに従って長歌が多くて短歌が少なく、下るに従ってその反対となっている。これは時代の好尚の推移よりくる趨勢《すうせい》である。二首とも、謡い物の色彩の濃厚なものであるところから見て、推古紀の長歌が民衆によって謡い継がれているために、いつか短歌形式のものに変わったのではないかということは、最も想像されやすいことである。さらにまた、聖徳太子の(219)御事蹟は、仏教の隆盛となるにも助けられ、民衆の好んで語り継いだものであり、したがってそのお作もあまねく謡い継がれたことであろうから、長歌の短歌にまでも変わった歌を、同じく皇子のお作と伝え、したがって記録していたということもありうることと想像されるのである。この歌はそれから直接に受ける感じを基として思うと、あるいは言ったがごとき経路をもったものではないかと思われる。
 
     大津皇子|被死《みまか》らしめらえし時、磐余《いはれ》の池の般《つつみ》にて涕を流して御作歌《つくりませるうた》一首
 
【題意】 「大津皇子」は、巻二(一〇五)に出た。「被死《みまか》らしめらえし時」というのは、日本書紀、持統紀に、「朱鳥元年冬十月戊辰朔己巳、皇子大津謀反発覚、逮2捕皇子大津1。庚午賜2死皇子大津於|訳語田《をさだ》舎1。時年廿四」とある時の事である。「磐余の池」は、日本書紀、履中紀に、天皇、磐余に都せられ、「二年作2磐余池1」とある池である。宮地は、今の桜井市の西南、池の内付近といい、式内若桜神社がその址であるともいうから、池はその付近の地であろうと思われるが、今は涸《あ》せ果てて址をとどめていない。「般」は「つつみ」の意をもった字である。目録には「陂」とある。日本書紀には、訳語田舎とあるが、訳語田の名は伝わらず、所在も明らかでない。舎は皇子の邸である。その邸が磐余の池に近い所にあったことが思われる。
 
416 百伝《ももづた》ふ 磐余《いはれ》の池《いけ》に 鳴《な》く鴨《かも》を 今日《けふ》のみ見《み》てや 雲隠《くもがく》りなむ
    百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隱去牟
 
【語釈】 ○百伝ふ磐余の池に 「百伝ふ」は、『考』は、「こは百に数へ伝ふる五十」という意で、「い」の一音にかかる枕詞だといっている。「百足《ももた》らず五十日太《いかだ》」「百足らず八十《やそ》の」などの例もある。ここは、磐余の「い」にかかる。○鳴く鴨を 鳴くところの鴨をで、時は冬十月であるから、鴨の渡って来ている時である。○今日のみ見てや雲隠りなむ 「今日のみ見てや」は、「や」は疑問で、次の句に廻して解すべきもの。今日だけ見てで、今日を見収めとしての意。「雲隠りなむ」の「雲隠り」は、上代の信仰として、貴人は死ぬと、その魂は天に昇って目に見られぬものとなるとしていたから、そのことを具象的にいったもの。「なむ」は将来を推測していう語。
【釈】 百伝う磐余の池に鳴くところの鴨を、今日だけ見て、われは死んで雲に隠れてゆくのであろうか。
【評】 日本書紀はこの時の事を、比較的詳しく伝えている。時は御父天武天皇の崩御に続いての時で、捕えられるとたちまち死を賜わったので、皇子の妃も徒跣、髪を乱して走って来られて、殉死を遂げられた。謀反というのは皇位継承の範囲の事で、例の多いものである。英邁《えいまい》にして文事にも長《た》けられた二十四の皇子は、懐風藻にこの時の詩一絶をも遺されている。それは、(220)「金烏臨2西舎1、皷声催2短命1。泉路無2賓主1、此夕離v家向」というのである。歌はいわゆる辞世としてのものであるが、その際の眼前の実際に即して、死を明らかに意識しつつ、平生見馴れていられた磐余の池に時節柄として渡って来ている鴨の鳴き声に心を寄せられるという、世間を超越したもので、その趣は詩の「泉路無2賓主1」とあるに通うものである。しかもそれをいわれるには、心がこめられてい、「磐余の池」は「百伝ふ」という枕詞を添えて懇ろにいい、鴨は「鳴く鴨を」という、瞬間的な、また印象的な状態において捉えられ、それを「今日のみ見てや」のものとして、長い関係の最後であるとの心を明らかにされた上で、皇子の尊貴を意識された「雲隠りなむ」という語をもって結んでおられるのである。磐余の池の鴨という一小生物に、これほど心をこめていわれていることは、すなわち皇子のその際のいわざる哀感であって、その哀感はさらに直接に、一首を貫く強く身にしみる調べとなって現われているのである。また、「鳴く鴨の」という鳥の鳴き声に、当時ある神秘なものを感じ、魂の行方として「雲隠り」といっていることも、同じく信仰のなっているものと思われる。皇子がそれを意識されてのことかどうかはうかがい難いが、この歌としては明らかに陰影として感じられるところのものである。
 
     右は、藤原宮の朱鳥元年冬十月。
      右、藤原宮朱鳥元年冬十月。
 
【解】 この注につき『講義』は、藤原宮へ遷られたのは朱鳥八年のことであるから、持統天皇の御治世の意で注したものと見るべきであると注意している。
 
     河内王《かふちのおほきみ》を豊前国|鏡山《かがみやま》に葬《はふ》れる時、手持女王《たもちのおほきみ》の作れる歌三首
 
【題意】 「河内王」につき『講義』は、この名の王が日本書紀と続日本紀とに四人ある。第一は、日本書紀、持統天皇三年、大宰帥に任ぜられた河内王、第二は、続日本紀、和銅七年、従四位下に叙せられた河内王、第三は、天平九年無位より従五位下に叙せられた河内王、第四は、宝亀元年無位より従五位上に叙せられた河内王である。ここは歌の排列から見て奈良遷都以前と考えられるので、第一の河内王であろうという。この王の事は、日本書紀、天武紀に二回出、持統紀には三年閏八月に、「以2浄広肆河内王1為2筑紫大宰帥1授2兵仗1及賜v物」とあり、つづいて二回出たあと、八年四月には、「以2浄大肆1贈2筑紫大宰率河内王1并賜2賻物1」とあるので、薨去より贈位され賻《ふ》を賜わったことがわかる。御系統は明らかでないといっている。「豊前国鏡山」は、小倉市より遠くない田川郡香春町鏡山であり、王の墓は今も存在して、前方後円の瓢塚《ひようづか》の上に、一大|石槨《せつかく》が露出するに至ってい(221)るという。「手持女王」は、父祖も伝え知られないが、歌はその地で詠んだものと取れるから、伴われて任地に在った王の妻であろうと取れる。
 
417 王《おほきみ》の 親魄《むつたま》あへや 豊国《とよくに》の 鏡《かがみ》の山《やま》を 宮《みや》と定《さだ》むる
    王之 親魄相哉 豊國乃 鏡山乎 宮登定流
 
【語釈】 ○王の親魄あへや 「王」は、河内王。「親魄」は、ここに一か所あるだけの語である。祝詞《のりと》、大祓詞《おおはらいのことば》に「皇親《むつ》神漏岐神漏美乃命」とあり、同じことを祈年祭には、「皇陸《むつ》神漏岐命」とあって、「親」と「睦」とは同じ意で、睦まじさ、睦むの意と知られる。「魄」は、「たましひ」で、人の身に宿るもの。人の死後はそのものだけで存在するとされているもの。「親魄」は、睦む魂《たま》で、魂には和魂《にぎたま》、荒魂《あらたま》など、その作用を異にする面があるとされているので、親魄もその一面で、物に睦む魂の意と思われる。「あへや」は、「合へや」で、後世の「合へばにや」にあたる古格。「合ふ」は、巻十二(三〇〇〇)「霊《たま》合はば相|宿《ね》むものを」など例がある。現在も、心の合う、性の合うといっているのと同じである。「や」は、疑問。睦む魂が合ったのであろうかの意で、合うのは下の「鏡山」に対してである。○豊国の鏡の山を 上に出た。○宮と定むる 「宮」は、皇族としての王の邸宅の称としてのものであるが、ここは墓のことをいっているものである。神霊の籠もられる所としての意である。巻二(一九六)明日香皇女の木〓《きのえ》の殯宮、また(一九九)高市皇子等の城上《きのえ》の殯宮を、人麿は「常宮《とこみや》」といっているが、それと同じ意である。「定むる」は、王御自身が定めた意で、実は後の者が営んだのであるが、尊む意からいったものである。これは連体形で、上の「や」の結。
【釈】 王《おおきみ》の、物に睦む魂《たま》が、そこと合ったのであろうか、この豊の国の鏡の山を、常《とこ》しえの宮と定められたことであるよ。
【評】 作意は、王の御身をもって、京よりはきわめて遠い豊の国の鏡の山を、墓とされることに至ったことの嘆きをいったものである。「親魄」という語は愛でたい語であるのに、他に用いられていないところから見ると、古語として、やや特殊なものであったかと思われる。また、墓を「宮」ということは、人麿の歌によると、皇親という中でも特に尊い方に用いていたもので、河内王にはやや過ぎた語ではないかとの感があるが、これは作者としての女王の特別の尊敬よりいわれているものと思われる。一首、古風で、素朴で、重厚な味わいがあり、内に熱意を蔵しているのは、作者が女性であるためと思われる。しかし技巧としては熟したもので、自在で、さわやかさをもったものである。これは以下三首を通じて同様である。
 
418 豊国《とよくに》の 鏡《かがみ》の山《やま》の 石戸《いはと》立《た》て 隠《こも》りにけらし 待《ま》てど来《き》まさず
    豊國乃 鏡山之 石戸立 隱尓計良思 雖待不來座
 
(222)【語釈】 ○石戸立て 「石戸」は、岩をもって作った戸で、墓の入口に立て、内外を遮る戸である。墓は上にいったように、前方後円の瓢塚で、槨は後門の玄室の内に据え、入口の戸は、前方の羨道と称する、玄室に通ずる道の入口に立てたのである。「立て」は、現在もいう語で、戸を閉ざす意で、王自身がされたこととしていったもの。○隠りにけらし 「隠り」は、「籠り」で、現在もいう語。ここは墓の内に籠もる意。「らし」は、眼前を証としての推量をあらわす語。証は、下の「来まさず」である。籠もってしまったようだの意。これも上と同じく、王自身の心をもってされたこととしてのもの。上代の信仰として、死ということは、魂が身から離れ去った状態ということで、その魂は帰って来ることがあり、再び身に宿れば生きかえりうるものとしていた。高貴の御方の殯宮の事は、これに関係してのことと思われる。「隠りにけらし」は、この信仰の上に立っての事と取れる。○待てど来まさず 生きかえられ、帰って来られるかと待っているが、お帰りになられない。
【釈】 豊の国の鏡の山の御墓の入口の岩戸を、御自身で立て、籠もってしまったのであろう。待っているが、お帰りになられない。
【評】 前の歌は、王を葬った時のものであるが、これはその後、ある日数を経た時の歌である。「待てど来まさず」が中心で、その嘆きをいったものであるが、その「待てど」は、上にいったがごとき信仰があり、それによってのもので、こういう際に陥りやすい情痴よりのものではない。したがって「来まさず」に理由が求められるのであるが、それが初句より四句までである。「石戸立て隠りにけらし」は、いったがように、王自身の心をもってされたこととしたもので、これも信仰の上に立っての心である。「石戸」をいうに、「豊国の鏡の山の」を添えているのは、その石戸を重んじるがためのもので、王に対しての尊敬の心をあらわしているものである。一首、しっかりとした、強い心が、底を流れているものである。
 
419 石戸《いはと》破《わ》る 手力《たぢから》もがも 手弱《たよわ》き 女《め》にしあれば すべの知《し》らなく
    石戸破 手刀毛欲得 手弱寸 女有者 爲便乃不知苦
 
【語釈】 ○石戸破る手力もがも 「石戸破る」は、「石戸」は上の墓の石戸。「破《わ》る」は破るで、破るのは入口を設けるためである。石戸は立てかけてあるものなので、入口を設けるには、取り去るか破るかするよりほかはないものである。「手力もがも」は、「手力」は腕力。「もがも」は「が」は上に「も」を伴って希望をあらわす助詞。「がも」の「も」は、詠歎で、「が」を強めるための物である。「もが」「がも」は同系のもので、(三〇六)「花にもが」など、例の多いものである。二句、岩戸を破《わ》るほどの腕力もほしいものだの意。これは、天照大神の天窟戸の変の時の手力男神のことを思い寄せていっているものと思われる。○手弱き女にしあれば 「手弱き」は、「手」は接頭語で、四音一句。「女《め》にしあれば」は、「女」は『玉の小琴』の訓。「し」は強め。六音一句。この二句は、古事記上巻、須世理毘売《すせりひめの》命の御歌に、「吾《あ》はもよ女にしあれば」とある、その四六音の続きにならったものであろうという解があり、従うべきである。○すべの知らなく 「知らなく」は、「く」を添えて名詞形としたもの。知らぬ(223)ことよの意。
【釈】 石戸を破って墓の入口をあけるほどの腕力もほしいものであるよ。弱い女の身であるので、それをする方法の知られないことであるよ。
【評】 上の歌の「待てど来まさず」の嘆きに続いたもので、嘆きに堪えかねるところより積極的になり、「石戸立て隠りにけらし」と、王の心よりのこととしたそれに反抗し、石戸を破って王を引き出したいとまで思うが、省みるとそれもかなわないと思い、再び嘆きにかえる心である。天窟戸の故事、須世理毘売命の御歌と、一首の中に二か所までも神代の故事を絡ませているのは、女王の信仰心のさせることと見るべきであろう。歌材としてはいずれも際立ったものであるが、こなれきって目立たないものとなっているのは、手腕のすぐれているためである。三首おのずから連作の形となり、一つの嘆きの時間的推移をあらわした複雑味をもったものとなっている。古風を好むとみえ、また手腕をももっている女王のこととて、こうした心は長歌をもって詠もうとされるのが普通と思われるのに、短歌三首を連作の形にしてそれに当てられているのは、時代の影響からであろうと思われて、その点注意される。
 
     石田王《いはたのおほきみ》の卒せし時、丹生王《にふのおほきみ》の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「石田王」は、伝が不明である。「卒せし時」は、喪葬令に、「五位以上及皇親称v卒」とあるが、「卒」によって位階を知ることはできない。また、その時は、これにつぐ(四二三)に、この王を哀傷した山前王《やまくまのおほきみ》の歌があるが、山前王は養老七年に卒せられたので、その以前であることが知られるだけである。「丹生王」も伝は不明である。女王であろうと想像されるが、確かではない。
 
420 なゆ竹《たけ》の とをよる皇子《みこ》 さ丹《に》つらふ 吾《わ》が大王《おほきみ》は 隠《こも》りくの 始瀬《はつせ》の山《やま》に 神《かむ》さびに いつき坐《いま》すと 玉梓《たまづさ》の 人《ひと》ぞ言《い》ひつる およづれか 吾《わ》が聞《き》きつる 狂言《たはこと》か 我《わ》が聞《き》きつるも 天地《あめつち》に 悔《くや》しき事《こと》の 世間《よのなか》の 悔《くや》しきことは 天雲《あまぐも》の そくへの極《きは》み 天地《あめつち》の 至《いた》れるまでに 杖《つえ》策《つ》きも 衝《つ》かずも去《ゆ》きて 夕衢占《ゆふけ》問《と》ひ 石卜《いしうら》以《も》ちて 吾《わ》が屋戸《やど》に 御諸《みもろ》を 立《た》てて 枕辺《まくらぺ》に 斎戸《いはひべ》を据《す》ゑ 竹玉《たかだま》を 間無《まな》く貫《ぬ》き垂《た》り 木綿《ゆふ》だすき かひなに懸《か》けて (224)天《あめ》なる ささらの小野《をの》の 七相菅《ななふすげ》手《て》に取《と》り持《も》ちて 久堅《ひさかた》の 天《あめ》の川原《かはら》に 出《い》で立《た》ちて 潔身《みそ》ぎてましを 高山《たかやま》の 石《いは》ほの上《うへ》に 座《いま》せつるかも
    名湯竹乃 十縁皇子 狭丹頬相 吾大王者 隱久乃 始瀬乃山尓 神左備尓 伊都伎坐等 玉梓乃 人曾言鶴 於余頭礼可 吾聞都流 狂言加 我聞都流母 天地尓 悔事乃 世間乃 悔言者 天雲乃 曾久敝能極 天地乃 至流左右二 杖策毛 不衝毛去而 夕衢占問 石卜以而 吾屋戸尓 御諸乎立而 枕邊尓 齋戸乎居 竹玉乎 無間貫垂 木綿手次 可比奈尓懸而 天有 左佐羅能小野之 七相菅 手取特而 久堅乃 天川原尓 出立而 潔身而麻之乎 高山乃 石穗乃上尓 伊座都類香物
 
【語釈】 ○なゆ竹のとをよる皇子 「なゆ竹のとをよる」は、巻二(二一七)に出た。「なゆ竹」は、女竹《めだけ》。「とを」は、「たわ」と同じく撓《たわ》むの語幹。「よる」は、依《よ》るで、撓みよるすなわち嫋《しなや》かな状態を具象的にいったもの。「皇子」は、御子で、古くは王にも当てた字。二句、女竹のごとく嫋やかな状態をした王で、石田王の若やかな姿を讃えていったもの。上の巻二のものは、美人の采女《うねめ》を讃えて人麿のいったものであるが、ここは男王を讃えてのものである。しかしこれをいっている者は、下の「玉梓の人」すなわち王の臣下の使であり、承認して用いている者は丹生王であって、女性的の美というよりも、若やかということを主としていったものと取れる。これは次の二句も同様である。なお、「なゆ竹の」が枕詞として用いられていないことは、次の「さ丹つらふ」に対させたものである上からも明らかである。○さ丹つらふ吾が大王は 「さ丹つらふ」は、「さ」は、よきものの意。「丹」は赤色で、「さ丹」は用例の多い語である。「つらふ」は、『古義』は、「引く」を「引こづらふ」、「挙げ」を「挙げつらふ」というと同じく、その形容をいう詞《ことば》だといっている。『講義』は、赤色のつやのよく現われたのをいうのだろうといって補っている。用例は、紐、君、黄葉《もみじ》、色などに冠している。ここは色の実質をあらわしている語で、赤くつやよき顔をされたわが大王で、上と同じく、その若さを讃えたもの。○隠りくの始瀬の山に 「隠りくの」は、巻一(四五)に出た。始瀬の枕詞。「始瀬の山」は、大和国磯城郡、今の初瀬町の後方の山。当時はそこが墓地とされており、ここもそれである。○神さびにいつき坐すと 「神さびに」は、「神さび」は、神としての状態をあらわすことで、ここは皇親である王が卒して神霊となられたため、神としてふさわしきさまにすること。『講義』は、「神さび」は、神さぶるの連用形を準名詞とし、「に」を続けることによって、下の「いつく」の目的としたもので、神さぶるためにの意であるといっている。「いつき坐す」は、「いつき」は崇め祭る意。「坐す」は広い意味の敬語で、斎《いつ》き申すというほどの意である。上より続けると、「吾が大王《おほきみ》は……いつき坐す」となって、石田王自身がされていることとなって、意が通らなくなる。『攷証』はこれを問題として、訓を改めている。『講義』は、「いつき坐す」は、王のことを使が報告している語《ことば》であって、そのため敬語を用いるものであり、いつき給うの意であるといって、例を引いて確かめている。例は巻二(一九九)「高市皇子尊の城上《きのへ》の殯宮の時」と題する人麿の歌の、「言《こと》さへく百済《くだら》の原ゆ 神葬《かむはふ》り葬《はふ》りいまして」であって、これも皇太子の御葬りとして、宮(225)中で常ませられることであるために、「葬りいまして」も敬語をもっていっているのであって、心としては同じだというのである。「と」は、下の続きで、使の口上であることを示したもの。口上は初句よりこれまでである。○玉梓の人ぞ言ひつる 「玉梓の」は、使の枕詞として慣用されている語であるが、ここは使そのものとして用いたもの。「あしひきの」が山の意とされたと同様である。○およづれか吾が聞きつる 「およづれ」は、後世には伝わらなかった語で、下の「狂言《たはこと》」と対させて用いられている語である。日本書紀、天智紀、九年正月に、「禁2断|誣言妖偽《たはことおよづれ》1」を初めとし、妖言、逆言、妖偽などの文字を当てられている語である。妖言は妄言の意で、でたらめという現代語にあたるものと取れる。「か」は、疑問。でたらめを我は聞いたのであるか。○狂言か我が聞きつるも 「狂言《たはこと》」は、たわれたる言葉。「も」は、詠歎。以上、一段落。○天地に悔しき事の 「天地に」は、天地の間にの意で、世にということを強めていったもの。「事の」の「の」は、同じ趣の事を重ねていうことをあらわす意のもの。○世間の悔しきことは この世での悔しい事はの意。以上の四句は、悔しさの絶大であることをあらわしたもので、以下二十四句は、その悔しい事の内容をいったものである。その結末を、「潔身《みそ》ぎてましを」と、想定をあらわす「まし」を用いていっているので、二十四句を費やしていっていることは、仮定してのものであることが明らかである。すなわち、もしそれと知ったならばの意のもので、それを略してのものである。○天雲のそくへの極み 「天雲」は、天の雲。「そくへ」は、退《しりぞ》くの「そく」の、「方《へ》」に連なった「そき方《へ》」という語の、音の転じたもの。「そく」は四段活用の動詞で、その連体形。「極み」は、はて。天の雲の退いている所を地平線上として、そのはての所。○天地の至れるまでに 天と地との行きついてある所、すなわち地平線の所まで。以上四句は、地のはてということを、人の行きうるはての心をもって、強めていったもの。○杖策きも衝かずも去きて 「杖策」は、漢語で、「策」は名詞で杖。「杖」は動詞。「策」は、古くは旅行の際は持つ物とした。杖をついても、またつかなくても行つてで、どのようにしても行つての意。○夕衢占間ひ石卜以ちて 「夕衢占」も「石卜」も、上代に行なわれた民間の占法であって、「石卜」はここにあるのみであるが、「夕衢占」は集中に例の多いものである。いずれも未来の吉凶を知るためのことで、一定の方法をもって、神意の暗示を得る法である。その方法は、当時のものとしては伝わっていず、後世のものによって想像するにとどまる。「夕衢占」について最もくわしく説いているのは『講義』で、鳥羽崇徳頃の御代、三善為康の撰した『二中歴』に出ているものが最も古く、要は、夕べ、道に立ち、「ふなとさへ、ゆふけの神に物問はば、道行く人よ、うら正にせよ」という歌を三度誦し、堺を作って散米をし、櫛《くし》の歯を鳴らして、その後、その堺に入って来る人、または堺の中にいる人の言語によって、吉凶を判断するというのである。こうした信仰は、伝えを守って変えまいとするものであるから、大体古風を伝えていると見られよう。また、「石卜」は、古くは日本書紀、景行紀、十二年、土蜘蛛征討の時、天皇碩田国で、事の成否を占う為、祈誓《うけひ》をして野中の大石を蹴られると、その石が柏の葉のごとくに挙がったとあり、後のものでは『塵袋』、また「堀川百首」金葉集の歌などにより、神として祀ってある石が、その時その人に軽くて動くか、重くて動かないかに神意がありとして、吉凶を占ったものと思われる。「天雲の」以下これまでの八句をもって一つの事をいったもので、言いさしの形にしてあるものと解せられる。一つの事というのは、「夕衢占」と「石卜」とをもって、石田王の凶事を予知すべきであったというので、それをするには、いかなる所までもいかにしても行っての上でと強めたものと取れる。すなわち以上一小段である。○吾が屋戸に御諸を立てて 「吾が屋戸」は、吾が屋の戸の所すなわち庭。「御諸を立て」は、「御諸」は「御室《みむろ》」で、神の降って宿り給う所の総称。「立て」は、作る意。○枕辺に斎戸を据ゑ 「枕辺」につき『講義』は、御諸の内に神座を設けるが、その頭の辺の意であると解いている。これによって従来曖昧であったことが明らかになったといえる。「斎戸を据ゑ」は、(三七九)に出た。○竹(226)玉を間無く貫き重り 原文「無間」は「間無く」と訓みうる字である。『玉の小琴』は「しじに」と訓んでいる。用例によってのことであって、『講義』は、「間無く」は時の上のことで、ここは漢文流の用字であるから、義訳して「しじに」と訓むべきだとしているが、今は「間無く」と訓む。○木綿だすきかひなに懸けて 「木綿だすき」は、木綿は楮の繊維で、それをもって作った襷で、純白な物。神事の際に用いる物。「かひなに懸けて」は、襷は肩より腕《かいな》にかけるので、それをいったもの。「吾が屋戸に」以下これまでの八句は、神を祭るという一つの事をいったもので、前と同じく、言いさしの形をもって纏めたものである。祭は、石田王のつつがなきことを祈るためのものである。以上二小段。○天なるささらの小野の 「天なる」は、天にあるで、「天」は、高天原。「ささらの小野」は、「小」は美称で、野の名である。そうした名の野が高天原にあるとされていたことは、巻十六(三八八七)「天なるやささらの小野に茅草《ちかや》苅り」とあるのでも知られる。高天原には、山も川もあるので、野もあるとされていたのである。○七相菅手に取り持ちて 「七相菅」は、「相」は「ふ」に当てたもので、用例のあるもの。「ふ」は、畳、莚《むしろ》、席《むしろ》などの、編んだ緒をいう称で、「隔《へ》」ともいう。「七相菅」は一本の菅で七か所を編みうるものということである。『延喜式』の菅薦の広さは四尺であるから、「七相」もその範囲内の丈であり、菅の丈の高さを具体的にいおうとした称と取れる。「天なる」以下三句は、きわめて清浄なる菅ということをいおうとしたものである。ここの菅は、罪穢を祓うために禊《みそぎ》をする際、祓の具としていた菅であって、その事は大祓詞を初め、集中の歌にもある。「手に取り持ちて」は、祓の時の状態をいったもの。○久堅の天の川原に 「久堅の」は、天の枕詞。「天の川原」は、高天原にある河原で、安《やす》の河原ともいう。ここは禊をする場所としてのもの。○出で立ちて潔身ぎてましを 「潔身ぎ」は、神事としての行《わざ》で、身の罪穢を祓って清浄となるためにすることで、清浄になるのは、凶を去り吉を来たらしめるためである。古事記に伊邪那岐神のその事があって、重大な事柄である。「ましを」は、「まし」は想定をあらわす助動詞で、上の「天雲のそくへの極み」以下二十八句の事の、仮想であることを条件としての語である。「を」は詠歎。「天なる」以下の八句は、禊という一つの事をいっているもので、これは言いさしではなく、他の二つの事をも合わせて、総括して言い結んだものである。ささらの小野の菅を持って、天河原に禊をするというのは、禊ということを強めようとしてのもので、石田王のためには不可能の事をもあえてしようとの心からのものである。三小段である。○高山の石ほの上に 「高山」は、始瀬《はつせ》の山を言いかえたもの。「石ほの上」は、石田王の墓を具体的にいったもの。墓地は高燥な、地盤の堅固な所を選んだのである。○座せつるかも 「座せ」は、座さしめる意で、いまさしめたことであるよの意。これは、使の「神さびに」といったと同じく、卒去ということを、王を尊ぶ心から言いかえたもの。
【釈】 女竹の嫋《しなや》かなるがごとくに若やかなる皇子《みこ》にして、赤くつややかなる若々しい顔をされたわが大王《おおきみ》は、隠国《こもりく》の始瀬《はつせ》の山に、神にふさわしくあられるがために、臣下の者が崇めお祭り申していると、使の人が来ていったことである。でたらめ事を吾は聞いたのであろうか、たわけ言《ごと》を吾は聞いたのであろうか。天地《あめつち》の間での悔しいことで、世の中での悔しいことには、そのような凶事があろうと前もって吾が知っていたならば、天雲《あまぐも》の退いて下りている所のその地のはての、天《あめ》と地《つち》との行き極まっている果てまでも、枚をつこうともつかずともして行って、夕占《ゆうけ》も問い、石卜《いしうら》もして、王の身の不吉を知って、避ける術《すべ》もし、また、わが屋の庭に御諸《みもろ》を立てて、神座の頭辺《かしらべ》には斎瓮《いわいべ》を据え、竹玉を繁く貫き垂らし、木綿襷《ゆうだすき》を腕《かいな》にかけて祭を行ない、王の身に神の加護を祈り奉り、また、高天原にあるささらの野の七ふ菅の、そのきわめて清浄なる物を祓の具として、久堅の天の川原に出て(227)禊をして、王の身の罪穢を祓って、つつがなきようにもしたであろうものを、王の身の不吉を知らず、吾が何事もしなかったがために、王を高山《たかやま》の石おの上に座《ま》さしめることとなってしまったのであるよ。
【評】 題詞では、丹生王は石田王に対してどういう関係の方かわからないが、歌で見ると、妻という関係の方で、同棲はしていなかった方と思われる。それでなければ、このような深い嘆きはあるべきではないからである。また歌で見ると、石田王は若くして卒せられたとみえるから、丹生王も若かったことと思われる。この歌の著しい点は、丹生王が上代の信仰をきわめて深く身に体しておられ、死生ということは一に神意によるものとし、その死も、神意をうかがって、しかるべき祈りをすれば脱れうると信じていたことである。この歌は、そうした信仰をもっていた丹生王が、石田王のためにそれを行なうのは自身の当然の責任であるとし、それを行なわなかったがゆえに石田王は卒去されたとして、その悔しさを嘆いているのがこの歌である。歌は二段より成っており、第一段は、石田王の卒去を使より聞いたこと、第二段は、それとともに思われてくる、上にいった自身の責任と、それを果たすを得なかった悔しさの嘆きである。第二段は四小段より成っており、その中の三小段は、丹生王としてすべきであったことを、つぶさに思い浮かべたもので、一段八句ずつで、三つの事をいっている。第一は、夕占《ゆうけ》、石卜《いしうら》をもって、石田王に迫ってきている不吉を予知すべきであったこと、第二は、神に無事を祈るべきであったこと、第三は、禊をすべきであったことで、当時、禍を脱れうる方法とされていたことのすべてを思ったものである。ここで問題となることは、この三つの事は、事柄としては皆異なっているが、語《ことば》としては切れていず、言いさしの形をもって続けられているので、その区別が曖昧に感じられることである。これはしかし、後代から見るゆえに曖昧な感が起こるので、当時としては、これらのことは自明なことで、この形をもってして十分区別が感じられていたのではないかということである。加えてまた、これをいう時には、丹生王は激情に駆られていて、省略のあり、飛躍のある言い方をしているので、それも手伝っていることと思われる。ことにその感のあるのは、第一の、「夕衢占問ひ石卜以ちて」であって、それをするために、「天雲のそくへの極み、天地の至れるまでに」と、きわめて遠距離まで行くことを条件としているのであるが、なぜにそれが必要であるか解しかねる。第三の、「天の川原に潔身ぎてましを」によると、これもそれと同じく、激情より事を強調しているものとみえるが、それであるとすると、丹生王はたやすくは外出のできない身で、自身夕衢占、石卜というようなことは行なえないのに、それをもあえて行なおうとの心のものと解するよりほかはないものである。しばらくそう解しておく。一首、時代とその人に即しているところから、おのずから特色をもった歌となっているものである。
 
     反歌
 
(228)421 逆言《およづれ》の 狂言《たはこと》とかも 高山《たかやま》の 石《いは》ほの上《うへ》に 君《きみ》が臥《こや》せる
    逆言之 狂言等可聞 高山之 石穗乃上尓 君之臥有
 
【語釈】 ○狂言とかも 「と」は、としての意。「かも」は、「か」は疑問、「も」は詠歎。○君が臥せる 「臥せる」は、(四一五)に出た。「臥《こ》ゆ」の敬語。これは連体形で、上の「か」の結。
【釈】 でたらめ事のたわれ言として使はいうのであろうか、君は高山の上に臥していらせられるとのことであるよ。
【評】 長歌の第一段を繰り返したものである。最も感の強かった点を繰り返したので、古風な、順当な反語である。
 
422 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の山《やま》なる 杉群《すぎむら》の 思《おも》ひ過《す》ぐべき 君《きみ》にあらなくに
    石上 振乃山有 杉村乃 恩過倍吉 君尓有名國
 
【語釈】 ○石上布留の山なる杉群の 「石上」は、大和国山辺郡の地名で、石上神宮のある地。「振の山」は、石上の中にある山で、今は天理市布留の東にある山。「なる」は、にある。この三句は、下の「過ぐ」に、同音の繰り返しでかかる序詞。○思ひ過ぐべき君にあらなくに 「思ひ過ぐ」は、「思ひ」は嘆きで、「過ぐ」は、過ぎ去る意。嘆きが過去となるは、忘れる意である。「あらなく」は、打消の「な」に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎。
【釈】 石上の布留の山にある杉群の、その杉によって思われる思い過ぐ、すなわち嘆きが過ぎ去って忘れられるべき君ではないことであるを。
【評】 これは第二段の、石田王の卒去のことを認めた後の心である。序詞の布留の山の杉群は、古くより名高い石上神宮に対する崇敬、永久なものに見える杉群などの関係で捉えた、気分の伴ったものと思われる。長歌の余意をいったという上では展開があるが、序詞を用いた、古風の範囲のものである。
 
     同じき石田王の卒せし時、山前王《やまくまのおほきみ》の哀傷して作れる歌一首
 
【題意】 「山前王」は、続日本紀、天平宝字五年芽原王の罪あって多※[衣偏+陸の旁+丸]島に流された時の記事に、「芽原王者、三品忍壁親王之孫、(229)従四位下山前王之男」とあるので、天武天皇の御孫と知られる。この王については、続日本紀、慶雲二年、「旡位山前王授2従四位下1」とあり、また養老七年、「散位従四位下山前王卒」とある。また懐風藻には、「従四位下刑部卿山前王一首」とある。石田王の卒去が、養老七年以前であったことだけはこれによってわかる。
 
423 角障経《つのさはふ》 いはれの道《みち》を 朝離《あささ》らず 帰《ゆ》きけむ人《ひと》の 念《おも》ひつつ 通《かよ》ひけまくは 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》く五月《さつき》には 菖蒲《あやめぐさ》 花橘《はなたちばな》を 玉《たま》に貫《ぬ》き【一に云ふ、貫《ぬ》き交《まじ》へ】 蘰《かづら》にせむと 長月《ながつき》の しぐれの時《とき》は 黄葉《もみちば》を 折《を》り挿頭《かざ》さんと 延《は》ふ葛《くず》の いや遠永《とほなが》く【一に云ふ、田葛《くず》の根《ね》のいや遠長《とほなが》にお】 万世《よろづよ》に 絶《た》えじと念《おも》ひて【一に云ふ、大船《おほふね》の念《おも》ひ憑《たの》みて】 通《かよ》ひけむ 君《きみ》をば明日《あす》ゆ【一に云ふ、君《きみ》を明日《あす》ゆは】 外《よそ》にかも見《み》む
    角障經 石村之道乎 朝不離 將歸人乃 念乍 通計万口波 霍公鳥 鳴五月者 菖蒲 花橘乎 玉尓貫【一云、貫交】、蘰尓將爲登 九月能 四具礼能時者 黄葉乎 折插頭跡 延葛乃 弥遠永【一云、田葛根乃弥遠長尓】 万世尓 不絶等念而【一云、大舟之念憑而】 將通 君乎婆明日從【一云、君乎從明日者】 外尓可聞見牟
 
【語釈】 ○角障経いはれの道を 「角障経」は、巻二(一三五)に出た。蔦《つた》が這うの意で、「さ」は接頭語。石《いわ》にかかる枕詞。「いはれ」は、(二八二)(四一六)に出た。今の桜井市付近の地。「道」は、往還。○朝離らず帰きけむ人の 「朝離らず」は、(三七二)に出た。朝ごとにという意。「帰きけむ人」は、通ったであろう人で、その人は石田王である。路上における石田王をいっているのは、山前王の家が石村《いわれ》にあって、常に見かけたという関係からのことと取れる。○念ひつつ通ひけまくは 「念ひつつ」は、「つつ」は継続。念いながら、これは石田王の心中を想像していっているものであるが、その念う事は以下の事で、想像の許される性質のものである。「通ひけまく」は、「通ひけむ」に「く」を添えて名詞形としたもので、用例のあるものである。この「通ひけまく」は、上の「朝離らず帰きけむ」を繰り返したもので、作意としては力点を置いていっているものである。しかし通うのはどこかということには触れていない。通うことと一つにしていっている「念ひつつ」の内容は、以下にくわしくいっているが、その享楽的なものであることと、反歌は「泊瀬|越女《をとめ》」を関係しているものであることから見て、妻どいのために泊瀬へ通ったことをいっているものと思われる。○霍公鳥鳴く五月には ほととぎすの渡って来て鳴く五月には。○菖蒲花橘を 「菖蒲」は、今のしょうぶ。集中に多い物である。邪気を払う力のあるものとして、五月五日の節《せち》には重用されていた。「花橘」は、花の咲いている橘で、橘の花である。橘は当時代表的に愛された木である。○玉に貫き 玉として貫きで、菖蒲と橘の花とを、玉を貫く如くに緒をもって貫きの意。○一に云ふ、貫き交へ 一本には貫き交へとあるという。事を稍々くわしくいっただけの差である。○蘰にせむと 「蘰」は、頭髪の飾りとして用いたもので、上代よりの(230)風であったが、この当時は、儀式の際のみの物となっていた。菖蒲をもって作った蘰は菖蒲蘰と称し、五月五日の節に用うべきものとなっていた。続日本紀、天平十九年五月に、「太上天皇詔曰、昔者五日之節常用2菖蒲1為v蘰。比来已停2此事1。従v今而後非2菖蒲蘰1者、勿v入2宮中1」とあるので、その状態が知られる。「と」は、下の「念ひて」に続く。「霍公鳥」以下は、五月五日の節を、一年の上半期の楽しみを代表するものとして、その楽しみに逢おうとする意。○九月のしぐれの時は 「しぐれ」は、当時は秋の雨を称していて、その例が多い。九月のしぐれの降る時は。○黄葉を折り挿頭さんと 「挿頭す」は、挿頭《かざし》として冠へ挿すことで、上の蘰と同じく、儀式の時にはするべきこととしてしたもの。これは九月九日の節を指しているもので、一年の下半期の楽しみを代表するものとし、それに逢おうとする心。「と」は、上の「と」と共に、下の「念ひて」に続くもの。○延ふ葛のいや遠永く 「延ふ葛の」は、ここは、その蔓の状態を譬喩として、「遠永」の枕詞としたもの。「いや遠永く」は、ますます遠く永くで、時の上でいっているもの。○一に云ふ、田葛の根のいや遠長に 一本のもの。「田葛」の字につき『講義』は、これは漢語で、中国では葛を栽培したところからできた熟字だと考証している。用例の少なくないもの。「田葛の根の」は、根を捉えて譬喩として、枕詞としたもの。「根」という目に見えない部分に、新たに興味をもってのものといえる。○万世に絶えじと念ひて 「万世」は、万年で、永久の意。「絶えじと念ひて」は、絶えまいと思ってで、二句、上の「蘰」をし、挿頭《かざし》をしようとする楽しみは、永久に絶えることはなかろうと思つての意。○一に云ふ、大船の念ひ憑みて 一本のもの。「大船の」は、意味で、「憑み」にかかる枕詞。期待をしての意で、二句成句。○通ひけむ君をば明日ゆ 「通ひけむ」は、連体形で、「君」に続くもの。これは上の「念ひつつ通ひけまくは」に応じさせているもの。「明日ゆ」は、明日より。○一に云ふ、君を明日ゆは 一本のもの。○外にかも見む 「外」は、よそで、ここ以外の、関係の薄い地の意。今は泊瀬山をさしている。「かも」は、疑問と詠歎とのもの。よその者と見るであろうか。
【釈】 葛《つの》さ這う石村《いわれ》のここの道を、毎朝必ず通つたであろう人の、その心の中に思いながら通って行った事は、ほととぎすの渡って来て鳴く五月には、菖蒲《あやめぐさ》と橘の花とを玉として緒に貫《ぬ》いて(貫《ぬ》き交《まじ》えて)、菖蒲蘰《あやめかずら》を作り、それで頭髪を飾って五日の節の楽しみに逢おうと思い、九月のしぐれの雨の降る時には、黄葉を折って冠に挿して、九日の節の楽しみに逢おうと思い、その楽しみは這う葛のようにますます遠く永く(田葛《くず》の根のように遠く長いものと)将来に続き、永久に絶えることはなかろうと思って(期待して)、この道を通って行ったであろうところの君を、明日《あす》からは、よその者として見ることであろうか。
【評】 この歌は挽歌として作ったものであるが、それとすると、特殊な趣をもったものといえる。挽歌は、この世を去った人の霊の、明らかに存在しているものを慰めようとすることを目的としたもので、その心を遂げるには、わが全心を尽くし、その人の全体を対象として、誘うべきを讃え、死の悲しみを尽くすべきもので、人麿のその種の作はすべてこれである。しかるにこの歌は、山前王の石田王に対するやさしい思いやりと、軽い憐れみだけのもので、山前王としてはかなり余裕のあるものである。表現もそれに伴って、明るく、いわゆる気の利いたもので、挽歌としては特殊の趣のものといわざるを得ないものである。この歌をこの前の丹生王の、同時の作と比較してみると、この点は明らかである。この歌では石田王を、石村《いわれ》の路上において捉えている。これは王が、どこかへ通われる途上としてのもので、その通われる先は暗示にとどめたものである。その娉《つまど》(231)いのためであることは察しられるものである。それとともに、その時の王の心中をも想像して、「念ひつつ通ひけまくは」という形において、石田王の全体を綜合して捉えているものである。これは一面では実際に即した捉え方とみえるが、他面では明らかに想像を働かせたもので、気の利いた方法というべきである。「念ひつつ」の方面は、菖蒲蘰をし黄葉を挿頭《かざ》すことで、石田王が皇親とし、また廷臣として、当時の文化生活を享楽することで、これは想像とはいえ一般物の範囲のもので、合理的なものと思える。これらは言いかえると、恋の享楽と、文化生活の享楽ということであって、前の丹生王の歌でわかるように、石田王を年若い人とすると、その全体を捉えたといいうるものである。山前王がこうした捉え方をしているのは、たぶん王のほうが石田王より年長で、石田王のその行動と心とを承認し、同感するものがあったからのことと思われる。結末は、石田王のそれらの享楽生活に強い憧れをもっていたにもかかわらず、裏切られて終わってしまったことに対しての憐れみで、そこに挽歌の心をあらわしているものである。一首全体として見ると、これを実際から遊離しているものとはいえず、むしろ実際に即しているものではあるが、この当時の歌の基調をなしているところの、生活に対する執着と緊張とに伴う沈痛味の、挽歌であるにもかかわらず欠けているものである。その意味では、実際よりある遊離をもった、後世でいう文芸的のものとなっているもので、この当時としては新風だったのである。こうした傾向が、すでに萌していたことが注意される。
 
     右の一首は、或は云ふ、柿本朝臣人麿の作なりと。
      右一首、或云、柿本朝臣人麿作。
 
【解】 これは撰者として、当時の伝をいったものである。この伝について思われることは、この歌は異本があって、それによると、この底本としたものの歌とは、四か所までも異なった部分のあることである。しかるにその異なった部分は、意味では皆拙くなっているものである。これは広く伝承された結果としてのことと思われる。すなわちこの歌は、その当時愛されたものということがわかる。
 
     或本の反歌二首
 
【題意】 これは、「或本」には、反歌二首が添っているというのである。この時代の長歌は反歌の添っているのが普通であるから、「或本」にそれがある以上、原はあったものと思われる。
 
424 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》をとめが 手《て》に纒《ま》ける 玉《たま》は乱《みだ》れて ありといはずやも
(232)    隱口乃 泊瀬越女我 手二纒在 玉者乱而 有不言八方
 
【語釈】 ○隠口の泊瀬をとめが 「隠口の」は、(四二〇)に出た。「泊瀬をとめ」は、「泊瀬のをとめ」の意で、連ねる意の「の」を省《はぶ》いた語は、例の多いものである。長歌で、石田王の「通ひ」とのみいっているのを、それとの関係でいっているものと取れる。一人の女の意である。○手に纒ける玉は乱れて 「手に纒ける玉」は、手玉で、玉を緒で貫いて、腕に纒わしめているもので、巻二(一五〇)「玉ならば手に巻き持ちて」とあるものである。大切にした物である。「乱れて」は、玉が乱れてて、貫いている緒が断えて、手玉としての体を失ったことをいったもの。これは不時なことで、ここは王の卒去に譬えたものと取れる。○ありといはずやも 「やも」は、反語で、上に続けて、いると人が言うではないか、言っているの意。反語を用いることによって肯定の意を強くし、嘆きをあらわしたもの。
【釈】 隠口の泊瀬の少女が、手に纏わしめている手玉の緒は断えて、玉は乱れていると人が言うではないか、言っている。
【評】 長歌とは観点を変えて、長歌では石田王だけをいっていたのを、観点を移して、泊瀬|少女《おとめ》を対象とし、それをして悲しませることによって、挽歌につながりをもたせるものである。これは人麿の反歌に見る手法であるが、ここにも現われているものである。「泊瀬をとめが手に纏ける玉は乱れて」ということは、一人の女に起こったことでなくてはならず、また単にその事としてだけでは、いうにも足りない事柄であるのに、それを強くいうことによって、王の卒去、それに対する少女の悲しみを暗示するものとしているのは、技巧としては進歩したもので、長歌の技巧に調和するものである。
 
425 河風《かはかぜ》の 寒《さむ》き長谷《はつせ》を 歎《なげ》きつつ 公《きみ》があるくに 似《に》る人《ひと》も逢《あ》へや
    河風 寒長谷乎 歎乍 公之阿流久尓 似人母逢耶
 
(233)【語釈】 ○河風の 寒き長谷》を 「河風」は、長谷川の風である。この川は長谷の谿谷《けいこく》を流れ、国中《くんなか》で佐保川と合流して大和川となるので、石村《いわれ》から長谷へ行くには、この川に沿って溯るのである。「寒き長谷を」は、寒く吹く長谷を。「寒き」は、石田王の卒去の時が冬であったかもしれぬが、ここでは、妻である女が、通い来る男を見る時の環境としていっているもので、身に沁みるもののある時としてである。○歎きつつ公があるくに 「歎きつつ」は、嘆きながらで、その嘆きは恋の上のものである。すなわち逢い難い事情のある嘆き、別れを悲しんでの嘆きなどである。「公があるくに」は、「公」は女より見た男の称。「あるくに」は、歩いているのにで、これも上に続いて、女より見た男の状態で、女としては恋のあわれの最も深い状態である。○似る人も逢へや 「似る人も」は、似ている人にでも。「逢へや」は、「逢へ」の已然形に「や」が続いて反語となっているもの。逢おうか、逢いはしないの意。似ている人にでも逢えようか、逢えはしないで、少女の悲しみをいっているもの。
【釈】 河風の寒く吹いている長谷を、嘆きながら歩いている君すなわち石田王に、似ている人にも少女は逢えようか、逢えはしない。
【評】 これも前の歌に続いて、泊瀬少女を観点とし、その少女の石田王の卒去に対してもつ悲しみを想像し、それをいうことによって挽歌につながりを付けたものである。少女にとって石田王の最も印象的だったのは、王が河風の寒い頃、恋の嘆きをしながら長谷の道を歩いている時であったと想像し、少女がそうした状態の王を思い出して懐かしがり、それに似た人すらも見られないのを嘆いているとしたのである。この想像は文芸気分の濃厚なものであるが、挽歌としての悲しみをいうには間接なところがあり、したがって問題とされている歌である。前の歌とのつながりの緊密なものであり、共に長歌との調和をもっているものである。
 
     右の二首は、或は云ふ、紀皇女が薨じ給ひし後、山前王の、石田王に代りて作れるなりと。
      右二首者、或云、紀皇女薨後、山前王代2石田王1作之也。
 
【解】 これは、この二首は、上の長歌の反歌ではなく、紀皇女薨去の時の歌だという伝もあるので、撰者として添えたものである。「紀皇女」は(三九〇)に出た。伝の拠《よ》るところは全く知られないものである。
 
     柿本朝臣人麿、香具山の屍を見て、悲慟して作れる歌一首
 
【題意】 「香具山」はしばしば出た。人麿は藤原宮時代の人とされているから、香具山は皇居に近い所だったのである。「屍」は路上の行倒れである。これについては(四一五)にいった。その土地に由緒《ゆかり》のない旅人には起こりがちなことだったのである。「悲慟して」は悲しみてである。
 
(234)426 草枕《くさまくら》 旅《たび》の宿《やど》りに 誰《た》が嬬《つま》か 国《くに》忘《わす》れたる 家《いへ》待《ま》たまくに
    草枕 羈宿尓 誰嬬可 國忘有 家待眞國
 
【語釈】 ○草枕※[覊の馬が奇]の宿りに 「草枕」は、旅の枕詞。「旅の宿り」は、「宿り」は名詞で、宿るところ。旅人には宿りがなくてはならないとしていっているのであるが、この屍となっている旅人は、事実としては地上に横たわっているので、それがないのである。京の中のこととて、多少なりとも物資を携えていれば、身を容れる小屋もでき、人の家に宿ることもできる訳であるが、それのできない憐れな人だったとみえる。人麿はその死んで横たわっているのを、寝ている状態と見、寝ている所である関係から「宿り」と言いかえたものと取れる。すなわち旅びとを憐れんで、美しく言いかえたのである。○誰が嬬か 「嬬《つま》」は、「夫」に当てた字で、他にも例のあるもの。「か」は、疑問。○国忘れたる 「国」は、狭いもので、郷国。「忘れたる」は、旅びとはその郷国へ帰るべきものとし、それをしようとせずにいる状態を、「忘れ」といったので、ここも、死ということを美しく言いかえたものである。「たる」は連体形で、上の「か」の結。二句、誰の夫の、その郷国を忘れているのかというので、その屍の人に妻があると定め、妻の夫であるということに力点を置いていっているもの。○家待たまくに 「家」は、屍の人の家で、家の人すなわち妻の意。「待たまく」は、「待たむ」に「く」を添えることによって名詞形としたもの。「に」は、詠歎。家妻が帰りを待っていることであるのに。
【釈】 この旅の宿りに、誰の夫《つま》のその郷国へ帰るのを忘れているのであるか。その家の妻は、帰りを待っていることであろうのに。
【評】 藤原京の中の、香具山という小さい山に、貧しい旅びとの行倒れとなって死んでいるのを見て、悲しんで詠んだ歌である。死を穢《けがれ》として甚しく嫌った時代とて、「悲慟して」という中にすでに人麿の心があるといえるものである。死人に対してはその霊を慰めるべきであるが、人麿は自身の心としてはせずに、その死人には妻があるとし、その妻が夫の帰るのを待ち侘びているということによって、妻を悲しませることによって間接に悲しんでいるのである。生活価値を夫婦関係にありとしている人麿としては、これは当を得た方法で、巻二(二二〇)「讃岐の国|狭岑《さみねの》島に石中に死れる人を視て」の歌と同一なものである。この死人の実際の状態は、おそらく醜いものであったろうと思われるのに、人麿のそれをいう語の、いかに婉曲に、またいかに美しいものであるかはいった。これは技巧ではなく、憐れみの心の自然の発露であるが、単に形として見れば、人麿の豊かさの現われと見るべきである。一首、静かに、ゆるやかな調べをもっていっているが、沈痛な気分の漂ったものとなっているのは、人麿の心の直接の現われと見るべきである。
 
     田口広麿《たぐちのひろまろ》の死せし時、刑部垂麿《おさかべのたりまろ》の作れる歌一首
 
(235)【題意】 「田口広麿」は、伝が明らかでない。続日本紀、慶雲二年に、従五位下に叙せられた田口朝臣広麻呂があるが、それは朝臣の姓があり、また五位であるから、死ねば卒と書かれるべきであるから、別人であろう。「刑部垂麿」も伝は知られない。
 
427 百足《ももた》らず 八十隅坂《やそくまさか》に 手向《たむけ》せば 過《す》ぎにし人《ひと》に 盖《けだ》しあはむかも
    百不足 八十隅坂尓 手向爲者 過去人尓 盖相牟鴨
 
【語釈】 ○百足らず 百に足りない数の意で、八十にかかる枕詞。○八十隅坂に 「八十」は、多くということを具象的にあらわしたもの。巻二(一三一)「この道の八十隈《やそくま》毎に」、その他出た。「隅坂」は、旧訓「すみさか」。『考』が「坂」を「路」の誤りとして「隅路《くまぢ》」とした。『攷証』は、『広雅』に、「隅、隈也」とあるのにより、「隅《くま》」を確かめ、『講義』は、巻六(九四二)「往き隠る島の埼埼|隅《くま》も置かず憶《おも》ひぞ吾が来る」の用例を引いている。「隅坂《くまさか》」は、集中、ここにあるのみの語である。『講義』は、隈のある坂の意だとし、国境に多い名であるといい、自身通った地でも、信濃国と越後国の国境の国道筋、また加賀国と越前国の界にもあるといっている。隈は、川、道などの曲がり目の、内側の称であるから、隅坂は峠の頂上に近く、勾配が急で、歩行に困難な所は、それを緩和させるために、道の屈折を多くしてある所の称と取れる。山の頂点を貫く線をもって国境とするところから、この名の坂が国境に多いことになろうと思われる。また、いわゆる手向《たむけ》の神は、国の境に祀《まつ》られて、その国を護っていられる神であって、旅びととしてその国に入るには、この神に幣を奉って許を乞い、加護を祈らなければならない神である。この神は隅坂の辺りに祀ってあるので、「隅坂」とは手向の神を言いかえたものと解される。ここはその意のものである。○手向せば 幣を奉って祈ったならばの意で、祈るのは上にいった加護を祈る意である。○過ぎにし人に 世を去った人、すなわち死んだ人で、広麿。この人の死んだのは、上からの続きで見て、遠い旅に出て死んだので、その死んだのは、数多の国の界を守る神の加護を受け得ず、すなわち神罰の結果であると垂麿は解し、代わって手向をすることによって神意を和《なご》めようとする意。○盖しあはむかも 「盖し」は、もしに似て、疑い推測する意の副詞。「あはむ」は、逢はむ。「かも」は、「か」は疑問、「も」は詠歎。
【釈】 広麿の旅路として通って行った道の、八十《やそ》と多く祀られている隅坂《くまさか》の神に、我が代わって手向をして神意を和めたならば、死に去った広麿に、あるいは再び逢えるのであろうか。
【評】 人の死生は、一に神意によるものとする信仰の上に立っての心で、その心は、上の(四二〇)の「丹生王」の歌と同じである。当時の信仰からいうと、その住地以外の神の心は、測り難いものとしていたので、旅ということは、その意味においても危険なことだったのである。垂麿の心では、友広麿の旅での死は、必ず、その多くの神のいずれかの神の意に悖《もと》ったがためであるとし、自分が代わって、その通過した地の、界を守る神のすべての意を和めたならば、神罰が解けて、再び広麿に逢われようかと、嘆いて思ったのである。死の原因が明らかなので、その原因を失わせると、当然の結果が現われようと思いつ(236)つ、さすがに疑いをもっていっているものである。時代の隔りがこの歌を間接なものとしているが、当時にあっては直接な、解しやすいものであったろうと思われる。
 
     土形娘子《ひぢかたのをとめ》を泊瀬山に火葬せし時、柿本朝臣人暦の作れる歌一首
 
【題意】 「土形」は、地名としても、氏としても言いうるもので、どちらもある。地名としては、『和名抄』郷名、「遠江国城飼郡土形【比知加多】があり、氏としては古事記、応神の巻に、「是大山守命者、土形君、弊岐君、榛原君等之祖」とある。この氏は『新撰姓氏録』にはない。いずれともわからない。「火葬」は、文武天皇四年、僧道照をその遺言によって初めて行なったことであるが、大宝三年には、崩御された持統天皇を飛鳥岡で火葬し奉ったほどにも早くも弘まった風である。これは仏教の勢力のあったこと、道照の高名な僧であったことなどの関係しているためであろう。死者に対する観念の、上代より伝わりきたっているものに変化の起こったことで、精神的には大きなことであったと思われる。人麿在世時代としてはきわめて新しい風であった。
 
428 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山《やま》の 山《やま》の際《ま》に いさよふ雲《くも》は 妹《いも》にかもあらむ
    隱口能 泊瀬山之 山際尓 伊佐夜歴雲者 妹鴨有牟
 
【語釈】 ○隠口の泊瀬の山の (四二〇)に出た。墓地としていったもの。○山の際に 「際」は、間で、山と山との間。火葬は高所において行なったことと思われる。○いさよふ雲は妹にかもあらむ 「いさよふ雲」は、「いさよふ」は、たゆたっている、すなわち立ち騰《のば》りもせず、静まりもせずにいる意。「雲」は、火葬の煙を、その状態の似ているところから言いかえたもの。上代は雲を神秘的なものと見る心があった。また死ということは、魂が身より離れ去った状態としていた。ここはそれらの信仰の上に立って、雲に霊を感じた心のものと思われる。「妹にかもあらむ」は、「かも」は疑問の「か」と詠歎の「も」との連なったもので、妹すなわち娘子そのものであろうかの意。
【釈】 隠口の泊瀬の山の山の間に、今、たゆたっている白い雲は、土形娘子《ひじかたのおとめ》そのものなのであろうか。
【評】 土形娘子の火葬されるのを、遠くない距離から眺めての感である。死は魂の身から離れた状態だとはいつても、死者をある期間、生者と異ならない態度で扱う風のあったところから見て、遠く離れつくしたものとは見なかったことと思われる。火葬ということが目新しい時代にあっては、死者がみるみる煙と化するのを見ると、上代よりの信仰に支えられて、その煙を雲と見、雲に魂を感じるということは、自然な、ありうべきことと思える。この歌、初句から四句までを費やして雲を鄭重《ていちよう》にいい、結句、「妹にかもあらむ」と驚異の感をこめての言い方をしているところ、さらにまた、一首の調べのきわめて敬虔《けいけん》なもので(237)あるところから、雲に魂を感じての心のものと取れる。人麿が上代信仰の保持者であったということも関係していると思える。
 
     溺死《おぼれし》にし出雲娘子《いづものをとめ》を吉野に火葬せし時、柿本朝臣人麿の作れる歌二首
 
【題意】 「出雲娘子」の「出雲」は、上の歌と同じく、地名とも氏とも取れるものである。地名としては、出雲国はもとより、今の初瀬町の中に出雲と称する地がある。ここは古、大和国から伊勢国へ出る要路にあたっており、「出雲郷」として著名な地であった。「溺死にし」は吉野川においてのことと思われるから、「出雲郷」と見ると由縁《ゆかり》のなくはないことに思われる。氏としては、『新撰姓氏録』(左京神別)に、「出雲宿禰、天穂日命子、天夷鳥命後也」とある。その氏人とも見られなくはないものである。「吉野に火葬せし」は、その死所に近い高所で火葬した意である。歌によると、人麿はその死者を目にしているのであるが、なぜに吉野に在ったかはわからない。
 
429 山《やま》の際《ま》ゆ 出雲《いづも》の児《こ》らは 霧《きり》なれや 吉野《よしの》の山《やま》の 嶺《みね》にたなびく
    山際從 出等兒等者 霧有哉 吉野山 嶺霏※[雨+微]
 
【語釈】 ○山の際ゆ出雲の児らは 「山の際ゆ」は、「山の際」は、上に出た。山と山との間。「ゆ」は、より。山の際より「出づ」と続き、「出雲」の枕詞となっているもの。この枕詞は、土地としての出雲を讃える意で添えたものと思われる。「出雲の児」は、親しんでの称。「ら」は、調子のために添えたもので、複数をあらわすものではない。○霧なれや 「霧」は、火葬の煙の薄れて散ろうとする時の状態をいったもの。霧は、集中の歌、またその他でも、人の嘆きの形に現われたものとしている例が多い。それは嘆きは長息《ながいき》の約でありとし、寒い季節に長息をすると、霧となるという関係からいっているもので、霧は人の身についたものとしていたのである。この「霧」も「出雲娘子」の化したものとしてのそれで、前の歌の「雲」と同じく、それに魂を感じてのものと思われる。「なれや」は、後世の「なればにや」にあたる古格で、「や」は、疑問。霧であるからであろうか。○吉野の山の嶺にたなびく 「たなびく」は、「や」の結で、連体形。吉野の山の峰に、霧となって靡《なび》いていることであるよ。
【釈】 山の間《ま》を出ずという、それを地名にもった出雲の愛《かな》しい娘子《おとめ》は、霧であるからであろうか、今、吉野の山の峰に霧となって靡いていることであるよ。
【評】 出雲娘子の、吉野山の中のいずこかで火葬にされ、その煙が立ち騰《のぼ》って、薄れて霧のようになり、山の頂に靡いているに対しての心である。「出雲の児らは霧なれや」は、驚異の情の強いものをあらわした語《ことば》で、これは一つには、火葬ということの目新しさからきたものであろうが、いま一つは、いったがように魂を連想させる霧という状態に変化してゆくことに対し(238)てのものである。この歌で力点を置いているところは、その変化の状態の速かさであって、火葬の煙を「霧」といっていることがすでにそれであって、濃い時には雲と見えるのが、薄れて霧という状態になった時を捉えているのである。それを、「吉野の山の嶺にたなびく」と、常磐木《ときわぎ》の峰を背景として、「たなびく」という状態において捉えているのは、消え去ってしまおうとする寸前なのである。のみならず、初句「山の際ゆ」は、意味としては出雲の枕詞であるが、気分としては、火葬の煙の山の間から立ち騰ることに繋がりをもちうるもので、その時は雲と濃かったのが「嶺」に至って「霧」と薄れたことを暗示しているといえるものである。この枕詞はここにいかにも適切である上に、他には用例のないものであるから、人麿のこの際造ったものではないかとも思われる。同じく火葬に対しての驚異の情を詠んだものであるが、これを前の歌に較べると、内容が複雑で、心の躍ったものである。
 
430 八雲《やくも》刺《さ》す 出雲《いづも》の子《こ》らが 黒髪《くろかみ》は 吉野《よしの》の川《かは》の 奥《おき》になづさふ
    八雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奧名豆颯
 
【語釈】 ○八雲刺す 出雲へかかる枕詞。出雲の枕詞としては「八雲立つ」があり、それが古いものと思われる。しかるに一方には、古事記、景行の巻に、日本武尊の詠として、「やつめさす」がある。『講義』は、「八雲刺す」は「やつめさす」と同じく、「八雲立つ」の訛《なま》ったものであろうといっている。他にも説があるが、今はこれに従う。○奥になづさふ 「奥」は、沖の意で、本来海での称であるが、この時代には、湖、池、川などでも、岸より遠い所を称する称となっていた。例の多いものである。ここは川である。「なづさふ」は、本居宣長の解を、『講義』が進めてくわしく研究している。集中の例を綜合すると、水上に浮かぶか漂うかの意のようであるといっている。ここは浮かび漂っている意と取れる。
【釈】 八雲刺す出雲の愛《かな》しい娘子《おとめ》の黒髪は、吉野の川の沖に浮かび漂っている。
【評】 題詞の「溺死にし」という状態を、親しく目にした時の感である。溺死した少女の状態は、きわめてあわれなものと思われるのに、この歌はその死ということには直接には触れず、「黒髪は奥になづさふ」という、生者としては不自然な状態をいうことによって暗示し、あわれさというよりも、一種の艶《えん》を漂わしている。艶というのは、当時の女は、夜寝る時には、長い黒髪を床の上に靡かして置くのが風で、そのことは相聞の歌に愛すべき状態として詠まれてもいるところから連想されるものである。当時の、若い女を貴ぶ風の中にあって、ことにその心の強かった人麿は、そうした連想を絡ませて、夜の床の上と、「吉野の川の奥」というかけ離れた対照によって、一種の説明し難い艶《えん》を看取したのではないかと思われる。複雑した事柄をきわめて単純に捉え、あわれな事柄を一種の艶を漂わしたものとしている、特殊な歌である。
 
(239)     勝鹿《かつしか》の真間娘子《ままのをとめ》の墓を過ぎし時、山部宿禰赤人の作れる歌一首 井に短歌【東の俗語に云ふ、可豆思賀能麻末能弖胡《かづしかのままのてこ》】
 
【題意】 「勝鹿の真間」は、地名で、現在の千葉県市川市|宇《あざ》真間である。そこは国府台の高地の岬崖《こうがい》にあたり、其間川の岸である。舟が交通、運輸の代表的の機関であった関係上、川岸のこの地は、名高い所であったとみえる。「真間娘子」は、真間の者である娘子で、一人の女をさしたもの。この娘子は珍しい美人であった上に、土地柄が関係して、きわめて有名であったとみえて、これを対象とした歌が集中に多く、巻九(一八〇七−一八〇八)の高橋虫麿の歌を初めとし、巻十四(三三八四)以下四首の歌もある。この赤人の時、すでに古の人として、伝説の人物であり、ここではただ美人として詠まれているだけであるが、虫麿の歌では、多くの男から求婚されたにもかかわらず、誰にも嫁せずして、真間川に投身して死んだこととなっている。伝説そのものとしての流動をしていたとみえる。「過ぎし時」は、そこを通った時というので、他の目的をもっての旅をして、たまたま通過した時の意である。この旅は、(三一七)「不尽山を望める歌」の時の延長のものと思われる。
 
431 古昔《いにしへ》に ありけむ人《ひと》の 倭文幡《しづはた》の 帯《おび》解《と》き替《か》へて 廬屋《ふせや》立《た》て 妻《つま》どひしけむ 勝牡鹿《かつしか》の 真間《まま》の手児名《てこな》の 奥槨《おくつき》を こことは聞《き》けど 真木《まき》の葉《は》や 茂《しげ》りたるらむ 松《まつ》が根《ね》や 遠《とほ》く久《ひさ》しき 言《こと》のみも 名《な》のみも吾《われ》は 忘《わす》らえなくに
    古昔 有家武人之 倭文幡乃 帶解替而 廬屋立 妻問爲家武 勝壯鹿乃 眞間之手兒名之 奧榔乎 此間登波聞杼 眞木葉哉 茂有良武 松之根也 遠久寸 言耳毛 名耳母吾者 不所忘
 
【語釈】 ○古昔にありけむ人の 昔、世にあったであろうところの人で、人は手児名に妻どいをした男としていったもの。○倭文幡の帯解き替へて 「倭文幡」は、倭文の幡の意で、「倭文」は、「しづおり」とも「しづり」ともいった織物の名で、栲《たえ》、麻、苧《からむし》などを青色、赤色に染めて、それを交織《まぜおり》に織る意である。これは、近世の縞織にあたる物である。上代の織物は白地であったから、これは進んだ織法で、したがって貴い物であった。集中に例の多いものである。「幡」は、機《はたご》で、織物をする器械の名であるが、転じて織った布の称ともなった。「倭文」の文字は、わが国で始めた文《あや》織物の意のもの。「帯」は、上の布の帯で、その物の貴いところから、用いる範囲は、紐、帯くらいであったとみえる。「解き替へて」は、解きかわしての意で、男女が閨に入る時の状態をいったもの。『童蒙抄』は、下の「廬屋立て」というための序詞だと解し、『講義』はそれを精しくして、上からは臥すと続け、その臥すを「廬屋」の「ふせ」に転じたものとしている。○廬屋立て妻どひしけむ 「廬屋」は、粗末の家の意で、屋根の地に伏しているがようなところからの称。ここは「妻どひ」に先立って立てるもので、それだと「つま屋」であって、つま屋をその状態か(240)ら言いかえたものである。上代は妻を迎えるには、あらかじめつま屋を立てるのが風であった。これは上代の建築法では、家の内が一と続きで、家人が同居していたから、その必要があったとみえる。この風は近世まで地方には残っていたものである。「立て」は、新たに営むことで、下の「妻どひ」にて立つ事としていっている。「妻どひしけむ」は、妻どいをしたであろうところので、上の「人」のすること。「妻どひ」は、求婚の意でも用いられ、すでに夫婦関係となっている上で、夫が妻の家へ通う意でも用いられている語である。ここは求婚の意のもの。二句、つま屋を立てた上で求婚をしたであろうところのの意である。大体、上代より中世へかけての結婚は、夫が妻の家へ通うのが普通で、その後に家に迎えることもあったのであるが、中には、初めから天の家に迎えることもあって、その文献に出ているものは貴族だけであるが、庶民の間にもありうることであったろう。ここは、夫の家へ迎えるほうであって、赤人の想像としていっているものである。○勝牡鹿の真間の手児名の 「手児名」は、娘子《おとめ》に対して一般の者のいっていた名である。巻十四(三三九八)「はにしなの伊思井《いしゐ》の手児《てこ》が言《こと》な絶えそね」があり、これは信濃国埴科の石井の手児を詠んだもので、「手児」の普通名詞であったことを示しているものである。『講義』は、この称は平安朝時代の落窪物語にも、鎌倉時代の日蓮の遺文にも用いていると考証し、『考』は、今も上総、下総では用いているともいっている。語意については、『槻落葉』は、集中の他の用例をも考え、「手児」は母の手を離れない処女の意、「名」は「背な」「妹なね」などいう「な」で、親しんで添える意のものであろうといっている。○奥槨をこことは聞けど 「奥槨」は、墓で、「奥」は奥まった所。「つ」は「の」の意の助詞。「き」は普通「城《き》」を当て、人の造った一郭の場所の称で、墓を具象的にいった語。「槨」は棺をおおう物の称で、意で当てた字である。「こことは聞けど」は、ここだと人から聞いたけれども。○真木の葉や茂りたるらむ 「真木」は、立派な木の意であるが、集中の例は檜をいっているとみえる場合が多い。ここは下の「松」に対させたもので、明らかに檜と取れる。「や」は、疑問。檜の葉が茂くなっているのであろうか。これは墓がその印《しるし》もなく、目にとまる物もないさみしい状態であるのを、そのさみしさをいうことを避けて、その見えないのは、檜の葉が茂って隠しているためであろうかと、婉曲にいって暗示しているものである。この暗示は、上の「聞けど」の「ど」で明らかにされている。「真木」は墓地にあるもので、老木であることが、この言い方でおのずからわかる。○松が根や遠く久しき 「松が根」は、松が老木になると根上がりになるものである。ここは見える物としていっているので、それである。「や」は、疑問。「松が根や」は、その根上がりとなっていて、遠い所まで及んでいることが見える意で、「遠く」へ続いているが、承けるほうの「遠く」は、時の上のものであるから、枕詞と見られるものである。しかし、眼前を捉えていっているので、譬喩の意の濃厚なものである。「遠く久しき」は、時が遠く久しくも経ているのであるかで、上二句と同じく、その墓の見えないことを、婉曲にいって暗示しているものである。この二句は、上の二句の繰り返しで、その上では対句であるが、「松が根や」が枕詞になっている点では、形のくずれたものである。○言のみも名のみも吾は 「言」は、話で、手児名の伝説。「のみも」は、だけでもで、その実在していた時に較べて、いささかのものとしていっているもの。「名のみも」は、名声だけでも。○忘らえなくに 「忘らえ」は、後の忘られ。「なく」は、「な」の打消に「く」の添った名詞形。「に」は詠歎。忘れられないことであるよ。
【釈】 昔、世にあったであろうところの男が、貴い倭文《しず》布の帯を解きかわして臥すという、その名の廬屋《ふせや》の嬬屋《つまや》を立てた上で、求婚をしたであろうところの勝牡鹿《かつしか》の真間の手児名の、その奥つ城《き》はここであると人から聞いたけれども、ここに老いて立っている檜の葉が、茂くなっているためであろうか、ここに立っている老松の、根上がりとなっている根の遠い所まで及んでいる、(241)その遠くも時がたち、久しくもなっているのであろうか、眼に止まるところの物とてはない。しかし、手児名の話だけでも、名声だけでも、我には忘れられないところのものであるよ。
【評】 この歌は、挽歌の心につながるものはあるが、旨とするところは、伝説を通して古の美人を懐かしむ情で、さらにいえば、伝説を歌にもたらしきたったものである。古の尊い神々、すぐれた人々、また珍しい事柄などが、物語として語り継ぎ言い継がれてきていたことはいうまでもないが、それが歌の素材とされるようになったのは、奈良遷都以前にあっては少なく、以後にわかに著しくなってきたことである。これは時代が盛運に向かってきたがために、人々はその時代の由ってきたるところを思おうとする心が強くなり、一方では生活も安易になってきたためのことと思われる。この歌はその一つで、それとしては比較的古いものである。この歌は全体として見ると、赤人の長歌の中にあっては心の躍ったもので、生趣の多いものであるが、技巧の上では、部分的には破綻《はたん》を見せているといわれるべきものである。「倭文幡の帯解き替へて」は、「廬屋」の序詞として捉えているもので、ここに序詞を用いたのは、手児名の生存時代をつとめて華やかなものとしようとしたためと思われる。そのことは、続いて墓のことをいう場合に、その墓のさみしいことをいうのを極力避けようとしているのでも察しられる。しかしこの序詞は、この場合としては、あまりにも実際に即しすぎていて、序詞のもつ変化の面白さという性格を忘れたがごときものである。諸注の解し悩んだのも当然といえる。また「廬屋」は、嬬屋《つまや》を言いかえたもので、具体的にしたという上からは意味があるが、この場合は華やかさを求めているのであるから、この言いかえは妥当だとはいえない。序詞に引かれての言いかえと思われる。さらに墓を叙している「真木の葉や茂りたるらむ 松が根や遠く久しき」は、実際に即してのもので、したがって生趣があり、その墓が高地ではなかったかとさえ思わせるものであるが、これは対句の形のもので、その上からいう(242)と、「真木の葉や」に対する「松が根や」は枕詞となっていて、妥当とはいえないものである。これらは破綻というはすぎるとしても、妥当を欠くとはいいうるものである。
 
     反歌
 
432 吾《われ》も見《み》つ 人《ひと》にも告《つ》げむ.勝牡鹿《かつしか》の 真間《まま》の手児名《てこな》が 奥《おく》つ城処《きどころ》
    吾毛見都 人尓毛將告 勝牡鹿之 間々能手兒名之 奧津城處
 
【語釈】 ○吾も見つ人にも告げむ 吾もまた目に見た。見ない人にも告げて知らせようで、文字の通用の範囲の狭く、交通の不便な時代の、見聞の重んじられたことを背後にしての心。○奥つ城処 墓のあり所の意で、墓所というにあたる。
【釈】 吾もまた目に見た。これを人にも告げ知らせよう。勝牡鹿の真間の手児名のこの墓所を。
【評】 手児名の伝説は以前から聞いて憧れていたのに、その墓を見たので、憧れの情がさらに深くなって、昂奮した心をもっていっているものである。その昂奮が端的に、一首の調べにあらわれている。反歌としても、長歌を展開させているものである。
 
433 勝牡鹿《かつしか》の 真間《まま》の入江《いりえ》に 打靡《うちなび》く 玉藻《たまも》苅《か》りけむ 手児名《てこな》し念《おも》ほゆ
    勝牡鹿乃 眞々乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手兒名志所念
 
【語釈】 ○真間の入江に 真間川の入江で、川は江戸川の支流である。「入江」は、本来海、湖などの水の、陸に入り込んでいるところの称であるが、川にも「奥《おき》」、池にも「磯」などといっている例は、集中に多いので、ここもそれらと同じく、真間川にいっているのである。こうした称は、海がなく、それに憧れている大和国の京人《みやこびと》の心から用いられたものという解があるが、それだとすると赤人には当然な語である。○打靡く玉藻苅りけむ 「打靡く」は、川の藻の波にゆらいでいる状態。「玉藻」は、「玉」は美称で、藻。「苅りけむ」は、手児名が身分がら当然したであろうとして推量したもの。連体形で、下へ続く。○手児名し念ほゆ 「し」は、強め。「念ほゆ」は、思われるで、ここは想像される意。
【釈】 勝牡鹿の真間川の入江に、川波に靡いている藻を見ると、これを苅ったであろうところの手児名が想像される。
【評】 眼前にある真間川の川藻を見、手児名が身分がらこの川藻を苅つたことであろうと連想して、過去の手児名を眼前のものとして懐かしんだ心の歌である。このように自然と人事を対照する場合には、自然の永久で、人事の倏忽《しゆくこつ》であることを対比(243)して、人生を悲しむものが多いが、この歌はそれではなく、眼前の自然に、過去の人事をよみがえらせてき、双方を一つにして懐かしむという、むしろ反対なものである。したがって一首が明るく軽いものとなっている。
【評又】 以上の長歌と反歌二首とを全体として見ると、巻一(二九)より(三一)にわたる「近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」を連想させるものがある。取材としては一は畏い皇居の址、一は庶民の一女子の墓であり、一は昔の盛時を思って悲しみを尽くしたものであり、一は伝説の美人に対して憧れを新たにしたものであって、すべてが対蹠的になっているものであるが、その構成の上にはかなり似通っているものがある。ことに二首の反歌の長歌に対してもつ関係は、赤人の他の場合のものとは異なって、人麿の態度に似たもののあることを感じる。これは、当時を通じてのことであり、またこの歌にのみ限ったことでもないが、人麿の影響の微妙さを思わせるものである。
 
     和銅四年辛亥、河辺宮人、姫島の松原に美人の屍を見て哀慟して作れる歌四首
 
【題意】 この題詞は、巻二(二二八)(二二九)二首のそれと、内容としては同じものである。しかるに歌は全く異なっているので、撰者はその理由でここに載せ、そのことを左注として断わっているものである。ここに載せたのは、年次がここに該当するからである。出所は一本からである。
 
434 かざはやの 美保《みほ》の浦廻《うらみ》の 白《しら》つつじ 見《み》れどもさぶし なき人《ひと》念《おも》へば【或は云ふ、見《み》れば悲《かな》しもなき人《ひと》思《おも》ふに】
    加麻※[白+番]夜能 美保乃浦廻之 白管仕 見十方不怜 無人念者【或云、見者悲霜無人思丹】
 
【語釈】 ○かざはやの美保の浦廻の 原文「加麻※[白+番]夜」の「麻」が、文字として問題となっている。それは、「風早《かざはや》の」という語が集中に二か所あり、ここもそれであろうと推測しての上に立ってのもので、「麻」を「ざ」と訓もうとしてのことである。『考』は「麻」は「あさ」の上略で、「さ」に当てたものとしているが、四字のうち、この一字だけを訓《よみ》とするのは妥当でないとして、『略解』は「座」を誤写してであろうとしている。『講義』は、諸本すべて「麻」で、「座」の誤写とする手がかりもないが、結局そう見るよりほかは解しようがないとしている。しばらくこれに従うべきであろう。次に「風早」の用例というのは、巻十五(三六一五)「風早のうらのおきべにきりたなびけり」と、巻七(一二二八)「風早の三穂の浦廻を榜ぐ舟の船人《ふなびと》動《さわ》く波立つらしも」というのであって、今の歌は、この歌と同じ地と思われる。巻十五の歌によると、「風早のうら」という続きから、「風早」は地名とも取れるが、巻七の歌によると、風の早いという意にも取れるもので、『代匠記』は風の早い意に解している。そのいずれであるかについて『講義』は精しく考証して、巻七の「風早の三穂の浦廻を」の歌は、その国々の歌を一団としたものの中にあるもので、この歌は紀伊国と播磨国との中間にある。一方、「美保」は、上の(三〇七)「紀伊国に往き、三穂の石屋《いはや》を見て」とあるその「三穂」と同じ地と見て、(244)紀伊国と見るべきであろう。また紀伊国には「風早」という地名はないから、『代匠記』の解のごとく、風の烈しいという意に解すべきであろうといっている。「浦廻」は、浦のあたり。○白つつじ 白色の躑躅《つつじ》の花で、呼びかけの心をもってのもの。○見れどもさぶしなき人念へば たのしかるべき花を見ているけれど、たのしくない、死んだ人を思っているのでの意。○或は云ふ、見れば悲しもなき人思ふに 見れば悲しいことよ、死んだ人を思うので。
【釈】 風の烈しいこの美保の浦の辺りに咲いている自躑躅《しろつつじ》の花よ、楽しかるべきものを見ているが楽しくはない、死んだ人を思っているので。あるいはいう、見ると悲しいことよ、死んだ人を思うので。
【評】 美保の浦で、近く死んだ人に対する悲しみに胸を占められながら、おりからそこに咲いている白躑躅の花に対しての心と取れる。白躑躅は眼前に咲いているもので、実際に即してのものと思われる。しかし、「風早の」という語で、その翻りつつ咲いていることが思われ、またその「白」というのが、多分は水死したであろうと思われる人を連想させる力をもっていて、特殊の感のあるものとなっている。しかしこれは作者としては意図したことではなかろうと思われる。題の事柄と、気分としてはつながりをもちうるものであるが、土地が全く無関係であるから、それは偶然のことといわなければならない。「或は云ふ」のほうは、死んだ人のことを忘れたがごとき心でいたのに、白躑躅の花を見ると、必然的にその人のことを思い出して、にわかに悲しくなるというので、こちらは死を水死であるとすると、直接にそれに即したものである。作意としては、本行のものよりも明らかである。
 
435 みつみつし 久米《くめ》の若子《わくご》が い触《ふ》れけむ 礒《いそ》の草根《くさね》の 干《か》れまく惜《を》しも
    見津見津四 久米能若子我 伊觸家武 礒之草根乃 干卷惜裳
 
【語釈】 ○みつみつし久米の若子が 「みつみつし」は、本集ではここにあるだけであるが、古事記、日本書紀には多い語である。「久米」の枕詞であるが、記紀では久米は兵の総称で、それを讃える意と取れるものである。諸説があるが、『古義』の勇武《かど》あることをいったものだという解が、比較的妥当に感じられる。『講義』は、「みつ」は武威という意で、それを重ねて形容詞の語幹としたものだといって、さらに明らかにしている。「久米の若子」は、(三〇七)に出た。それには、三穂の石屋《いわや》に住んでいた人としているが、ここもその人のことと取れる。○い触れけむ磯の草根の 「い触れけむ」は、「い」は接頭語。触れたであろうところのの意。触れたのは、自然にあったこととしてのもの。「礒の草根」は、「礒」は海岸の石。「草根」は「根」は岩根などのそれと同じく、意味はないもので、草。○干れまく惜しも 「干れまく」は、「干れむ」の名詞形。枯れてゆくことの惜しさよ。
【釈】 みつみつし久米の若子が、いつの時にか触れたことがあろうと思われるところのこの磯の草の、枯れてゆくことの惜しさ(245)よ。
【評】 三穂の石屋《いわや》を見て、そこに住んでいたという久米の若子を思う(三〇七)以下三首の歌と、何らかの繋がりをもった歌と取れる。それらの歌では、久米の若子は時を隔てた昔の人のようであるが、この歌では「草根の干れまく」とあって、近い時のこととしていっているように取れる。しかしこれは、眼前の草を古と同じ物と見ていったとすれば、許されうるものである。「干れまく」といっているので、今枯れんとしているのを見ての感とわかり、実際に即した、強い感傷を包んでのものとわかる。この歌も前の歌と同じく、題には関係のないものである。
 
436 人言《ひとごと》の 繁《しげ》きこのごろ 玉《たま》ならば 手《て》に巻《ま》きもちて 恋《こ》ひざらましを
    人言之 繋比日 玉有者 手尓卷以而 不戀有益雄
 
【語釈】 ○人言の繁きこのごろ 「人言」は、他人がとやかくと取沙汰をすること。「繁きこのごろ」は、はげしいこの頃で、男女関係が噂に立ち初めた当座のことと取れる。下に詠歎が含まれている。○玉ならば手に巻きもちて もし相手の人が玉であるならば、手玉として腕に巻いて持っていてで、手玉をするのは、集中の例で女のすることと取れるから、「玉」は夫である男を譬えたもの。○恋ひざらましを 恋いずにいようものをで、「まし」は「玉ならば」の仮定の結。
【釈】 他人の取沙汰のはげしいこの頃よ。もし君が玉であるならば、わが手に巻いて持って一緒にいて、恋いずにいようものを。
【評】 夫を通わせ初めた頃の女が、人言に当惑しての嘆きである。「人言の繁きこのごろ」は、その事が周囲の人々の興味となっていることを思わせるところから、事の初めと取れる。「恋ひざらましを」は、女が夫に憧れていて、人言にもかかわらず、繁く逢っていることを思わせるものである。「玉」というだけで夫をあらわしていることも注意される。これは明らかに相聞の歌で、題とは関係のないものである。
 
437 妹《いも》も吾《われ》も 清《きよみ》の河《かは》の 河岸《かはぎし》の 妹《いも》が悔《く》ゆべき 心《《こころ》は持も》たじ
    妹毛吾毛 清之河乃 河岸之 妖我可悔 心者不持
 
【語釈】 ○妹も吾も清の河の 「妹も吾も」は、心清く、すなわち純粋な心をもって契っていると続け、その清を河の名に転じたもので、ここは清(246)にかかる枕詞である。「清の河」は、『代匠記』は、飛鳥河の浄見原《きよみはら》の辺を流れる時の名であろうといっている。巻二(一六七)に、「飛ぶ鳥の浄《きよみ》の宮」ともあって、ありうる名である。○河岸の 河の岸で、ここは崩《く》えやすい所としていっているもので、下の句の「悔ゆべき」に、「崩ゆ」の意で続き、それを「悔《く》ゆ」に転じたものである。すなわち初句より三句までは、悔ゆの序詞である。○妹が悔ゆべき心は持たじ 妹が、この契りを結んだことを後悔するような心は、我はもつまいで、心の変わるようなことはしまいの意。
【釈】 妹も吾も心清くも契った、その清みを名としている清《きよみ》の河の河岸の、それは崩ゆるものではあるが、我はその悔ゆるようなことを妹にさせる心はもつまい。
【評】 飛鳥河を清《きよみ》の河と呼ばれる辺りに住んでいる男が、同じくその辺りの女と夫婦関係を結んだ時、男が女に対して誓の心をもって詠んだ歌である。「妹も吾も清の河の河岸の」と、その土地に即した序詞を設け、序詞の中に「妹も吾も」と、「清み」に続く枕詞を設けて、その枕詞にも一首と関係の深い心をもたせているという、心をこめた言い方をしたのである。こうした心は、いかなる夫婦の間にも適用のできるものであるから、民謡風にいわれ、謡いかえされていたものかと思われる。序詞を用いているところ、また「崩ゆ」と「悔ゆ」の一語二義は、他にも例のあるもので、民謡の匂いのある歌である。それとすると、繊細味があり、静かさがあって、進歩したものというべきである。これも相聞の歌で、題とは関係のないものである。
 
     右、案ずるに、年紀并に所処及び娘子の屍の作歌人名、已に上に見えたり。但歌辞相違し、是非別ち難し。因りて以て累《かさ》ねてこの次《ならび》に載す。
      右、案、年紀并所處及娘子屍作歌人名、已見レ上也。但謌辞相違、是非難v別。因以累載2於茲次1焉。
 
【解】 この事は題詞の所で大体をいった。この歌の題詞は、巻二(二二八)(二二九)の二首に対する題詞と、文字に多少の相違はあるが、意味は全く同じものである。しかるに歌は全然違っていて、いずれが是、いずれが非と別ち難い。それで年代順に従って、再びここに載せるというのである。これはこの三巻の撰者の、撰をするにあたって加えた注で、この四首の歌は、撰者の見た本にあったものであることは明らかである。撰者の本巻の資料に対し、また撰をするについての態度の、細心であったことを示している注である。この四首の歌の、題とは全く関係のないものであることは明らかであるが、なぜにこう成ったかは全くわからない。しかし単に歌として見ると、いずれもすぐれたものである。撰者のこれを捨てかねたのは、すぐれた歌であったためかと思われる。
 
(247)     神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿、故人を思ひ恋ふる歌三首
【題意】 「大伴卿」は、大伴旅人。「故人」は、故旧の意と物故した人の意とをもっている語であるが、ここは物故した人で、旅人の妻大伴郎女をさしている。郎女は旅人に伴われて大宰府に行っており、そこで逝去したのである。その事は、巻八(一四七二)の左注にあり、また朝廷より弔問の勅使石上朝臣堅魚を遣わされたこともいっている。また逝去の時は、巻五の巻頭、旅人の「凶問に報《こた》ふる歌」に添っている日付「神亀五年六月二十三日」により、それに先立つ、近い日のことであったとわかる。
 
438 愛《うつく》しき 人《ひと》の纒《ま》きてし 敷細《しきたへ》の 吾《わ》が手枕《たまくら》を 纒《ま》く人《ひと》あらめや
    愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人將有哉
 
【語釈】 ○愛しき人の纒きてし 「愛しき人」は、巻二十(四三九二)「うつくし母に」、また日本書紀、斉明紀、天皇の御製に、「うつくしき吾が稚き子を」などがあって、親愛する人の意で、妻の郎女をいっているものである。「纒きてし」は、「て」は、完了。枕としたところの。○敷細の吾が手枕を 「敷細の」は、「敷」は重波《しきなみ》などいう「しき」で、繁きの意の語。織目の細かさをいったもの。「細」の字を「たへ」に当てたのは、『講義』は「細布」の略だろうといっている。同じく織目の細かい意で、いずれも布の状態をいったもの。主として「衣」にかかる枕詞であるが、「枕」にも及ぼしたもので、ここは「手枕」の「枕」にかかっている。「吾が手枕」は、夫としての旅人の手枕。○纒く人あらめや 「あらめや」は、「め」の已然形に「や」の続いて反語をなしたもので、あろうか、ありはしないと強くいったもの。
【釈】 親愛した人の枕としたわが手枕を、他にまた枕とする人があろうか、ありはしない。
【評】 物故した妻を思った心で、その思う心の純粋さをあらわしたものである。一首、いかにも単純に、また率直に、他人の見ることなどは意に置かず、一にわが心を抒《の》べようとしているもので、したがっておおらかな、落着いた気品をもったものとなっている。この歌にあらわれているところのものが、やがて旅人という人であったろうと思わせるものである。感傷をいいながらも、おのずからに節度のあるのは、貴族であり、また教養をもっているところからきているものであろう。
 
     右の一首は、別れ去りて数旬を経て作れる歌。
      右一首、別去而経2數旬1作謌。
 
(248)【解】 「別れ去りて数旬」は、死別して三、四十日の意である。これについて注意されることは、「題意」でいったように、大伴郎女の逝去に伴っての歌は、「巻五」にも収められ、またこの巻にも収められていることである。すなわち、ほとんど同時の歌が二つに分けられ、巻を異にして扱われていることで、ことに「巻五」は特殊な巻であるところから、いっそうこの事が注意を引くのである。これは撰者が異なっていることを思わせる事柄である。
 
439 還《かへ》るべく 時《とき》はなりけり 京師《みやこ》にて 誰《た》が手本《たもと》をか 吾《わ》が枕《まくら》かむ
    應還 時者成來 京師尓而 誰手本乎可 吾將枕
 
【語釈】 ○還るべく時はなりけり 旧訓「還るべき時にはなりぬ」。『代匠記』の改訓。「還る」は、京へ還る意。「時はなりけり」は、時は移って来たことであるよというので、これは大宰帥としての任期が果てて、当然京へ還るべき時が近づいて来たことに対する感懐である。大宰帥の任期は四年で、宝亀十一年以後は五年に改まったが、この時はそれ以前である。旅人は天平二年十月に大納言を兼任することとなり、その十二月帰京の途に上ったのであるから、これはそれに近い時のことである。○京師にて誰が手本をか 「京師にて」は、帰って京に在って。「誰が手本を」の「手本」は、袂で、袖というも同じく、手を言いかえたもの。「か」は、疑問。○吾が枕かむ 「枕かむ」は、『代匠記』の訓てある。「枕」を動詞として四段活用に働かした「枕く」という語は、仮名書きのあるもので、それによってのものである。巻一(六六)「松が根を枕き宿《ぬ》れど」があった。枕としようかの意。
【釈】 京へ還るべく、時は移って来たことであるよ。京にあって、誰の手を吾は枕としようとするのか。
【評】 地方官としての任期が果てようとし、京へ帰るという楽しい時が近づくと、それとともに思われるのは住み馴れた家であり、家の中心であるところの妻であるのは、自然な心理である。この歌は、その心理に催されて今更のごとく亡妻を思い、京に還る張合いのなさをいったものである。二句に休止を置き、心理の推移を暗示しているところに、落着いた心と、しみじみした心が現われて、哀感をなしている。
 
440 京師《みやこ》なる 荒《あ》れたる家《いへ》に ひとり宿《ね》ば 旅《たび》にまさりて 辛苦《くる》しかるべし
    在京師 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦
 
【語釈】 ○京師なる荒れたる家に 「京師なる」は、奈良の都にある。「荒れたる家」は、四年間の留守中に、自然に荒れてきている家で、楽しか(249)るべき故里の家の、反対にさびしかるべきを思いやっての心。○ひとり宿ば 独寝をしたならばで、妻のないこととて、当然のこととしての思いやり。○旅にまさりて辛苦しかるべし 「旅」は、本来苦しいものとしていっている。「まさりて」は、楽しかるべき家の、妻のないのによって裏切られるので、甚しく苦しかるべき事を、旅と比較してのもの。「辛苦しかるべし」は、苦しくあるであろうと思いやったもの。
【釈】 京にある、留守中に荒れている家へ還って、妻のない身のひとり寝をしたならば、楽しかるべき家の、苦しかるべき旅にもまして、いっそう苦しく感じられることであろう。
【評】 旅より家に還ろうとするにあたり、楽しかるべき家と、苦しかるべき旅ということを心に置き、楽しかるべき所の楽しくないのは、苦しかるべき所の苦しいのよりもさらに苦しいであろうと思いやったのである。複雑した心理を、実際に即して、きわめて単純にいったもので、旅人の感性の鋭さと、頭脳の明らかさとを思わせる歌である。この歌は、前の歌と心の連なっているもので、前の歌でいって足りなかったものを補っていおうとした形のもので、連作というべきである。
 
     右の二首は、京に向ふ時に臨み近づきて作れる歌。
      右二首、臨2近向v京之時1作歌。
 
【解】 「京に向ふ時」は、天平二年で、前の歌の神亀五年とは年がちがい、その間に少なくとも一年以上の隔たりがある。それを「神亀五年」の題の下に纏めたのは、歌の性質を主としてのことと思われる。
 
     神亀六年己巳、左大臣長屋王に死を賜ひし後、倉橋部《くらはしべの》女王の作れる歌一首
 
【題意】 「長屋王」は、巻一(七五)に出た。天武天皇の御孫、高市皇子の御子で、神亀元年左大臣に任ぜられ、太政官の上位となっておられたが、神亀六年|讒《ざん》によってその邸において死を賜わった。年五十三。妃吉備内親王、御子膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王など皆殉死を遂げられた。事は続日本紀に載っている。「倉橋部女王」は、伝が明らかでない。
 
441 大皇《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 大荒城《おほあらき》の 時《とき》にはあらねど 雲隠《くもがく》ります
    大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隱座
 
【語釈】 ○大皇の命恐み 天皇の詔を恐《かしこ》んで承《う》けまつって。これは成句となっていて、用例の多いものである。○大荒城の時にはあらねど 「荒(250)城」は、「新城《あらき》」の意で、人の死後、葬送をするまでの間を、新たに営んだ屋に移して賓遇するのが風で、新城はその新たなる屋の称。これによってその事をあらわすものである。荒城に移すのは、死の穢《けが》れを避けることが目的であった。「大」は、王の荒城であるがゆえに、尊んで添えたもの。「時にはあらねど」は、その時ではないけれどもで、大荒城の時、すなわち御寿命ではないけれどもというので、死を賜わったことを婉曲にいったもの。これは天皇に対しまつり、また王に対しまつって、当然の礼として婉曲にいったのである。○雲隠リます 「雲隠る」は、(四一六)大津皇子の歌に出た。高貴の御方は、死ぬと魂が天上に帰るということを具象的にいったもの。「ます」は、敬語で、おかくれになられるの意。
【釈】 天皇の詔を恐《かしこ》んで承けまつって、大荒城のことを行なうべき時、すなわち御寿命としてではなく、君にはおかくれになられる。
【評】 事の中核をとらえて、感傷の語をまじえずして叙し、その悲しみをあらわそうとしているものである。倉橋部女王の長屋王に対する関係はわからないが、事があまりにも異常で重大であったので、その事柄だけで心がいっぱいになり、他の何事を思う余裕もなかったことが、その悲しみのあらわし方の上に見える。調べもまた、内容にふさわしく、直線的でありながら、重く鬱屈《うつくつ》した情を湛えたものである。
 
     膳部王《かしはでべのおほきみ》を悲傷《かなし》める歌一首
 
【題意】 「膳部王」は、上にいった膳夫王で、長屋王の子、御母は吉備内親王である。続日本紀、霊亀元年御母の尊貴なるゆえをもって皇子の列に入れて優遇するとの事があり、また神亀元年には従四位下を授けられた方である。
 
442 世間《よのなか》は 空《むな》しき物《もの》と あらむとぞ この照《て》る月《つき》は 満《み》ち闕《か》けしける
    世間者 空物跡 將有登曾 此照月者 満闕爲家流
 
【語釈】 ○世間は空しき物と 「世間」は、下の続きによると、仏説でいう現世の意である。「空しき」は、仏説でいう無常、すなわち常無きということを言いかえたもので、同じ意である。○あらむとぞ 「あらむと」は、あることを示そうとての意。○この照る月は満ち闕けしける 「この」は、眼前のものをさす語で、おりからの月に対してのことをあらわしたもの。「満ち闕け」は、一定の状態のない、すなわち無常である意。「ける」は、連体形で、上の「ぞ」の結。
【釈】 現世は無常な、すなわち空しいものであることを示そうとて、今見る空に照る月は、満ちつ欠けつしていることであるよ。
【評】 膳部王に何らかの特別の関係をもっていた人の、夜、王の死を悲しむ心を抱いて、おりからの月にその心を繋いでいっ(251)ているものである。この人の心は、王の死を悲しみつつも、それを諦めようとしているもので、諦めるには、当時盛行していた仏説に縋ってしようとし、今現に見ている月によって、その仏説を確かめ強めようとしているのである。直接には王に触れず、仏説のみをいっている形であるのは、力点が諦めに置かれているためである。前の歌の悲しみを主としているのに較べて、この歌の諦めを主としているのは、作者の身分が低く、事柄そのものを思うことさえも憚るような心をもっていたがためであろう。諦めようとすることに心を集中させ、それを強く深くいおうとしているところ、この作者は男ではないかと思わせる。
 
     右の一首は、作者いまだ詳ならず。
      右一首、作者未v詳。
 
【解】 この注の「詳ならず」というのは、作者の身分の低いことに関係してはいないかと思われる。
 
     天平元年己巳、摂津国|班田史生丈部竜麿《はんでんのししやうはせつかべのたつまろ》、自ら経死せし時、判官大伴宿禰|三中《みなか》の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「摂津国班田史生」は、班田は、孝徳天皇大化改新より始まった制度で、全国の公民に口分田《くぶんでん》を班《わか》ち与える事であり、その詳細は「田令」にある。大体は、六年日ごとにそのことを改め行なわれたが、これは公民に死亡する者、成人する者があるためである。その任にあたる者は、諸国では国司であったが、京および五畿内は特に班田使を任じて事にあたらしめた。摂津国はその範囲内の国である。史生は、国語では「ふみひと」といい、書記である。史生は、二官、八省を初めすべての官署にある職で、公文書を掌る者である。「丈部竜麿」は、伝はわからない。丈部氏は『新撰姓氏録』にあり、「天足彦国押人命孫、比古意祁豆命後也」とあり、姓《かばね》は造であるが、竜麿にはそれがないので、身分の低い者であろうとされている。なお竜麿は、歌によると、諸国の国司より、「軍防令」に従い、皇居の御門を衛《まも》ることを職とする衛士あるいは兵衛として貢した者の一人であることがわかる。衛士と兵衛は、兵衛のほうが位置が高く、諸国の郡司の子弟で、兵馬の事に堪える者を、一郡一人の割をもって簡抜した者である。また、兵衛は期が満つると、考試の上で、京の文武官に用い、地方の郡司ともした。竜麿は史生となっているところから、兵衛であったと思われる。「自ら経死せし」は、経死は絞れ死ぬことで、自殺をした意である。なぜにそういうことをしたかは、触れて言っているものがないのでわからない。「判官」は、第三等官で、国語で「まつりごとひと」といい、官署の事務の一切を処理する任にある人である。「三中」は、父祖は知られないが、官歴は、続日本紀に出ている。天平九年遣新羅使副使(252)として入京したことが出ている。副使従六位下で、その年に正六位上。十二年外従五位下。十五年兵部少輔。十六年山陽道巡察使。十七年大宰少式。十八年長門守。従五位下。十九年刑部大判事に任ぜられている。
 
443 天雲《あまぐも》の 向伏《むかふ》す国《くに》の 武士《もののふ》と 云《い》はえし人《ひと》は 皇祖《すめろぎ》の 神《かみ》の御門《みかど》に 外《と》の重《へ》に 立《た》ち候《さもら》ひ 内《うち》の重《へ》に 仕《つか》へ奉《まつ》り 玉葛《たまかづら》 いや遠長《とほなが》く 祖《おや》の名《な》も 継ぎゆくものと 母父《おもちち》に 妻《つま》に子等《こども》に 語《かた》らひて 立《た》ちにし日《ひ》より 帯乳根《たらちね》の 母《はは》の命《みこと》は 斎忌戸《いはひべ》を 前《まへ》に坐《す》ゑ置《お》きて 一手《かたて》には 木綿《ゆふ》取《と》り持《も》ち 一手《かたて》には 和綿布《にぎたへ》奉《まつ》り 平《たひ》らけく ま幸《さき》く座《ま》せと 天地《あめつち》の 神祇《かみ》を 乞《こ》ひ祷《の》み いかならむ 歳月日《としつきひ》にか 茵花《つつじばな》 香《にほ》へる君《きみ》が 牛留鳥《くろとり》の なづさひ来《こ》むと 立《た》ちて居《ゐ》て 待《ま》ちけむ人《ひと》は 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 押光《おして》る 難波《なには》の国《くに》に 荒玉《あらたま》の 年《とし》経《ふ》るまでに 白栲《しろたへ》の 衣《ころも》も干《ほ》さず 朝夕《あさよひ》に ありつる公《きみ》は いかさまに 念《おも》ひ座《いま》せか うつせみの 惜《を》しき此《この》世《よ》を 露霜《つゆしも》の 置《お》きて往《い》にけむ 時《とき》にあらずして
    天雲之 向伏國 武士登 所云人者 皇祖 神之御門尓 外重尓 立候 内重尓 仕奉 玉葛 弥遠長 祖名文 繼徃物与 母父尓 妻尓子等尓 語而 立西日從 帶乳根乃 母命者 齋忌戸乎 前坐置而 一手者 木綿取持 一手者 和綿布奉 平 間幸座与 天地乃 神祇乞禮 何在 歳月日香 茵花 香君之 牛留鳥 名津通來与 立居而 待監人者 王之 命恐 押光 難波國尓 荒玉之 年經左右二 白栲 衣不干 朝夕 在鶴公者 何方尓 念座可 欝蝉乃 惜此世乎 露霜 置而徃監 時尓不在之天
 
【語釈】 ○天雲の向伏す国の 「天雲」は、空の雲。「向伏す」は、見る者の方へ向かって伏しいる意で、雲の下《くだ》って地平線上に横たわっていることであり、地上のきわめて遠い所ということを具象的にあらわしている語である。遠いというのは、ここは京を中心としていっている事で、地方の諸国の意である。この語は成句となっているもので、『延喜式』の「祈年祭」にもあり、本集にもあるものてある。○武士と云はえし人は 「武(253)士《もののふ》」は、物部《もののべ》で、百官の称であるが、武官の称に転じたもの。すべて武を練っていたからのことである。「云はえし」は、『古義』の訓。いわれしで、讃える意で、称せられたこと。以上四句、地方の武士と称せられた者はで、竜麿の語《ことば》として、自分どもの階級をいっているもの。○皇祖の神の御門に 「皇祖」は、皇祖より現代の天皇にわたって申す称で、ここは現代の天皇。「神の御門」は、「神」は、天皇の御事。「御門」は、下の続きで、宮城の御門とわかる。二句、皇居の御門に。○外の重に立ち候ひ 「侯ひ」は、『代匠記』の訓。「外の重」は、「外《と》」は外郭、「重《へ》」は九重《ここのえ》という重である。「宮衛令」の『集解』に、皇居には、外門、中門、内門の三重の門のあることをいっているが、その外門である。「立ち候ひ」は、立って、御|衛《まも》りのことをしの意。この皇居の御門を衛る者は、衛士と兵衛とを通じてのことである。○内の重に仕へ奉り 「内の重」は、内門。「仕へ奉り」は、御衛りのことをお仕え申しで、二句、上の二句の対句で、御衛りのことを語を変えて繰り返しいったもの。繰り返すのは、その事の重大さをあらわすためである。○玉葛いや遠長く 「玉葛」は、「玉」は美称で、葛のこと。その遠く長く及んでいるところから、「遠長」の枕詞としたもの。譬喩の意のものである。「いや遠長く」は、ますます遠く長くと、時の上をいったもの。○祖の名も継ぎゆくものと 「祖の名も」は、祖先の名をも。「継ぎゆくもの」は、続けてゆくべきもの。「と」は、下の「語らひ」に続く。○母父に妻に子等に 「母父《おもちち》」は、仮名書きのあるもの。母を重んじた続け方をしているのは、上代は夫婦別居していたところから、子からいうと、母のほうが親しみが深かったためである。二句、家族全体に。○語らひて立ちにし日より 「語らひ」は、「語る」にハ行四段活用型の助動詞「ふ」をつけ、継続をあらわす。よくよく話して。「立ちにし日」は、「に」は、完了。京へ出立した日からの意。○帯乳根の母の命は 「帯乳根の」は、母にかかる枕詞であるが、定解のない語である。『古義』は、「たらち」は「足らし」の転で、物を充足せしめる意。「根」は親しみをあらわす語で、母を讃えての意だと解している。比較的穏やかな解である。「母の命」は、母を尊んでの称で、例のあるもの。○斎忌戸を前に坐ゑ置きて 「斎忌戸」は、(三七九)に出た。神に奉る御酒《みき》の甕。「前に坐《す》ゑ置きて」は、「前」は、神の御前。「坐ゑ置き」は、同じく(三七九)に出た。地上に、地を掘って据えて置く意。○一手には木綿取り持ち 「一手」は、旧訓「ひとて」。諸注、問題としないものであるが、『講義』は「かた手」と改めた。要は、両手を「左右手《まて》」「諸手《もろて》」というに対し、一方の手は「かた手」というべきで、「真帆」に対する「片帆」、「莫屋《まや》」(両下)に対する「片屋」、その他を挙げ、この語は平安朝時代にも及んでいるといっている。これに従う。「木綿取り持ち」は、「木綿」は、神を祭る時に奉るもの。「取り持ち」は、奉る状態。○一手には和綿布奉り「和綿布奉り」は、「木綿」と同じく、神に奉つてで、上二句と対句にして、事の鄭重なるをあらわしたもの。○平らけくま幸く座せと 「平らけく」は、平穏に。「ま幸く」は、「ま」は「真」で十分にで、十分無事に。「座せ」は、いよの意の敬語で、天皇に仕えまつる上で、子ながら貴んだ意のもの。○天地の神祇を乞ひ祷み 「神祇」は、旧訓「かみに」。『管見』が「に」を「を」とし、『講義』は「を」の例の多いことを考証したもの。「祷《の》む」は、日本書紀、崇神紀に、「叩頭此云2廼務1」と注のあるもので、本来は叩頭する意である。『講義』は、現在の「頼《たの》む」はこの「のむ」で、「た」は接頭語である。ここも煩むの意であり、その点からも、「を」の助詞の伴うのがよいといっている。○いかならむ歳月日にか 「歳月日」は、旧訓「歳の月日」。『代匠記』の訓である。いつの歳、月、また日にかの意。○茵花香へる君が 「茵花」は、躑躅《つつじ》の花で、ここは赤色のもの。譬喩として、下の「香へる」に、枕詞の形をもって続く。「香へる」は、ここは色の艶《つや》やかな意のもので、紅顔というにあたる。「君」は、竜麿。二句、丹躑躅の花のように、くれないの顔をしたところの君が。○牛留鳥のなづさひ来むと 「牛留鳥」は、旧訓「ひくあみ」。『略解補正』が「牛留鳥《くろとり》」と改め、木村正辞の『字音弁証』の賛しているものである。『講義』は、「留」を「ろ」に用いた例は、『古語拾遺』(254)の「皇親神留伎命」を初め他にもあるが、「牛」を「く」とは訓み難いので、確説とはし難いが、しばらくこれに従うといっている。「くろとり」は『和名抄』に、「※[主+鳥]、黒色水鳥名也、久呂止利」とあり、土佐日記にも出ているものである。上の「茵花」と対させてあり、また下の「なづさひ」への続きから見ても、作意は鳥としてであろうと思われる。下の「なづさひ」に、譬喩の意をもってかかる枕詞。「なづさひ」は、(四三〇)「奥《おき》になづさふ」に出た。水に浮かび、漂うの意である。「来むと」は、家に帰って来ようとの意。二句、黒鳥のごとくに海に浮かんで帰って来ようとで、舟に乗って来ることを譬えていったのである。当時の旅行は、舟の用いられる限りは用いたものであるから、竜麿の国の海に面したところからいったもの。○立ちて居て待ちけむ人は 「立ちて居て」は、落着けない状態。「待ちけむ」は、待っていたであろうところので、待つのは上の「母の命」。「人」は竜麿。○王の命恐み 既出。○押光る難波の国に 「押光る」は、難波にかかる枕詞であるが、語義は定解がない。巻十二(二六七九)「窓越しに月押照りて」その他の用例で、光の隈なく照る意と解される。「難波の国」は、難波宮を中心として、摂津国を言いかえたもの。○荒玉の年経るまでに 「荒玉の」は、年にかかる枕詞。語義は諸説があって定まらない。『歌袋』は、荒玉は『和名抄』の玉の磨かない物との解に従い、それを砥にかけて磨く意で、「と」に続くと解して、それを「年」に転じたものと解している。「年経るまでに」は、何年かを過ごすまで久しい間をの意。これにつき『講義』は、摂津国班田の事は、続日本紀に、「天平元年十一月癸巳任2京及畿内班田司1」とあり、また班田の事は、十一月より翌年の二月までの間に行なわれるのが定めであったから、竜麿の班田史生としての任にあったのは、二月以内にすぎない。「難波の国に年経る」というのは、他の官吏としてでなくてはならない。思うに摂津職の史生をしていて、班田使の史生に転じさせられたのであろう。左右京職にあっては、それが制度であったから、同様であったろうといっている。○白栲の衣も干さず 「白栲の衣」は、実際をいったものと取れる。「も」は、それさえも。「干さず」は、濡れたのを乾《ほ》さずで、精励ということを具体的にいったもの。○朝夕にありつる公は 「朝夕に」は、常にということを具体的にいったもの。「ありつる公」は、過ごしていたところの公《きみ》で、「公」は竜麿。○いかさまに念ひ座せか 「いかさまに」は、どのように。「念ひ座せか」は、「念へか」を敬語でいったもの。どのようにお思いになったのかで、その心の測り難いことをいったもの。敬語を用いたのは、竜麿が死んで霊となっているので、霊に対して敬っていったのである。○うつせみの惜しき此世を 「うつせみの」は、現身《うつしみ》の意で、世にかかる枕詞。「惜しき此世」は、惜しむべき此の世。○露霜の置きて往にけむ 「露霜の」は、「置き」にかかる枕詞。巻二(一三一)以下に出た。「置きて」は、後《あと》に残して。「往にけむ」は、あの世に往つたのだろうというので、死を、現し世から幽《かく》り世に去る意としていったもの。○時にあらずして その時すなわち定命ではなくして。(四四一)「大荒城の時にはあらわど」と同じ。
【釈】 天《あめ》の雲の地平線上に下《お》りて、こなたに向かって伏しているところの国、すなわち京より見て遙かなる地方の諸国の、勇武なる武士《もののふ》と称せられている限りの者は、衛士、兵衛として召されて、畏き天皇の宮城の御門の衛りに任じ、外門に立ってお仕え申し、内門にお仕え申して、玉葛のますます遠く長い後の世まで、先祖の名をも続けてゆくべきものであると、その母や父に、妻や子どもによくよく話して、京に向かって発足したその日から、君が母の命は、斎忌戸《いわいべ》を神の御前にと地を掘って据えて置き、また片手には神に捧げまつる木綿《ゆう》を取り持ち、またの片手には同じく和細布《にぎたえ》を捧げて、君の平穏に、まことに無事でいらせられよと、天地《あめつち》の神々に乞い頼み、いつの歳、月、また日にかは、丹躑躅《につつじ》のごとき顔いろをした君が、黒鳥のごとく海に舟を漂わし(255)て帰って釆ようと、立ちつ居つ落着き難くして待っていたであろうところのその君は、天皇の詔を畏まりお承け申して、この難波国に、何年にもわたる久しい間を、白栲《しろたえ》の衣の濡れたのも乾す暇がなく、常に精励していた君は、どのようにお思いになって、この惜しむべき現し世を後《あと》に残して、あの世へと移ってしまったのであろうか、定命ではなくして。
【評】 竜麿の自ら経死したのは、どういう理由によってであるかは、触れていっていないのでわからない。最も知りやすい関係にある三中も、「いかさまに念ひ座せか」といって、触れようとはしていない。もっともこの語《ことば》は、尊い方々の心中はうかがい知り難いものとして、儀礼として用いきたっている成句であるから、今の場合も、竜麿を霊として見、霊に対する尊敬をあらわす心で用いたものと見るべきで、実は知っていたのであろう。そう思われるのは、長歌という形式は大体改まってのもので、文芸意識から興味として作る場合は格別、今の挽歌のような場合は、これを用いなければならないとしたことは、言いかえれば、竜麿の死に対して深く心を動かし、その全貌《ぜんぼう》をいうことによって霊を慰めようとし、それには長歌でなくてはならないとしたからであろうと思われるからである。事実この歌は、竜麿の全貌を尽くしている。一首三段に分かれてい、第一段は、初句より「立ちにし日より」までで、ここは武士《もののふ》としての竜麿の覚悟をいっているものである。すなわち衛士、兵衛としてあくまでも天皇に仕えまつるべきこと、また仕うることによって、家の名をも持続させてゆくべきことをいっているもので、竜麿の面目を発揮せしめたものである、第二段は、「待ちけむ人は」までで、ここはその母の竜麿に対する慈愛をいったものである。父もあり妻子もある竜麿としていっているが、特に母だけを選んだのは、一つには、神を祭ることは家刀自《いえとじ》のすることという関係もあろうが、おもなることは、竜麿をその家につなぐ者は、その母であるとしているところに、武士《もののふ》の面目があるとする三中の心からであろう。このことは、反歌に至って初めてその妻に及んでいることからも思われる。第三段は、それより結末までであるが、その難波国における多年の精励をいっているのは、竜麿が兵衛として優れた者であり、その延長として史生となったことをいっているもので、竜麿の面目を発揮させているものである。ここはまたそれとともに、摂津国班田の判官として、史生竜麿を誄《るい》しているもので、一首の中心である。三中と竜麿とは位置が相応にちがっているので、その三中がこれほどまでに竜麿をいっているということは、格別なことで、心を尽くしたものというべきである。さらにまたこの歌は、表現手法の上で、客観的にしようと意図していることが注意される。例せば第一段では、「武士と云はえし人は」と、その中心となることを、この形において簡明に捉え、他はこれに絡ませつつ想像をもって自由に描いていることである。この「人」は竜麿自身ではなく、彼の属している武士《もののふ》の階級を総括したものではあるが、彼もその中の一人としていっているので、彼自身を意味させているといえるものである。ここに武士の覚悟をその家族に語らうということは、三中の想像であろう。第二段は、「立ちて居て待ちけむ人は」が中心で、他はその立ちて居て待つ状態の描写であるが、これまた第一段と同じく三中の想像であろう。第三段は、「朝夕にありつる公は」が中心で、他は想像と取れる。それは班田の判官としての三中と史生竜麿との交渉は、二月以内に(256)すぎず、したがって「年経るまでに」の竜麿の状態は、想像でなければならなかったからである。一首を三段より構成している上に、一段ごとに中心を捉え、その中心に絡みつつ、想像を駆使して状能描写をしているということは、作者としては意図して行なっていることとみえる。長歌が叙事的抒情であることは古くより行なわれていることであるが、その叙事の方面で、明らかに意図を示しつつ作っているということは新しいことで、ここに時代に影響されての動きがある思とわれ、この点が特に注意される。
 
     反歌
 
444 昨日《きのふ》こそ 公《きみ》はありしか 思《おも》はぬに 浜松《はままつ》の上《うへ》に 雲《くも》にたなびく
    昨日社 公者在然 不思尓 濱松之於 雲棚引
 
【語釈】 ○昨日こそ公はありしか 昨日という日まで、君はこの世にあった。「しか」は「こそ」の結。○思はぬに 旧訓「おもはずに」。『玉の小琴』の訓。『講義』は、ここは両様に訓め、またいずれでも意味は通じる。「思はずに」は、状態を主としていい、「思はぬに」は、思わぬ時に、あるいは、思わぬに加えての意で用いられていると例示し、ここは「思はぬに」で思いもよらぬにの意であろうといっている。○浜松の上に雲にたなびく 原文、流布本には「浜松之上於雲棚引」とあり、旧訓「浜松の上に雲と棚引く」であった。しかし類聚古集、紀州本などの古本には「上」の字がなく、それが正しい伝えのようでもある。「於」は「うへ」と訓めるので、「浜松之於」だけで「浜松の上に」と訓む。「浜松の上に」は、海岸の浜に立っている松の上にで、「雲に棚引く」は、雲となって靡くで、巻十九(四二三六)に用例がある。火葬の煙の立ち昇って行くのを、雲と見て、それを一首の旨としていったもの。
【釈】 昨日という日まで、君はこの世にあった。思いもよらずに今は、浜松の上に、雲となって靡いている。
【評】 竜麿を火葬にした際の心で、三中はそれを近くいて見た形の歌である。「雲にたなびく」は、電麿が雲に化して靡く意で、雲に霊を連想して、眼前に現《うつ》し身が霊となってゆくことをいったものである。「浜松の上に」は、そうした雲が、今現にある位置をいうものになり、動きつついる雲の瞬間的の位置ということを思わせる。「浜松の上の」とすると、同じく雲の位置ではあるが、それを修飾する形となり、雲が固定しているかの感のあるものとなる。作意は竜麿の身の変化の悲しみをいっているものであるから、「上の」とすると、その抒情の心が著しく薄らいでくる。反歌としては、長歌の境を進展させ、実際に即して細かいことをいい、三中の悲しみをいっているもので、新風のものである。
 
(257)445 いつしかと 待《ま》つらむ妹《いも》に 玉梓《たまづさ》の 事《こと》だに告《つ》げず 往《い》にし公《きみ》かも
    何時然跡 待牟妹尓 玉梓乃 事太尓不告 徃公鴨
 
【語釈】 ○いつしかと待つらむ妹に 「いつしかと」は、「し」は強めで、いつ帰るであろうかと思って。原文「待牟」は、旧訓「まつらむ」による。「妹」は、竜麿の国にある妻。○玉梓の事だに告げず 「玉梓の」は、使の枕詞から、使そのものに転じた語。「事」は、言。「だに」は、軽きを挙げていったもの。使の口上という程度のものをも知らせずに。○往にし公かも この世を去ってしまった君であるよ。
【釈】 いつになったら帰るであろうかと国に待っているであろうその妻に、使の口上という程度の事も知らせずに、この世を去ってしまった君であるよ。
【評】 三中が竜麿を尊みかつ憐れんだ心のものである。大夫《ますらお》たる者は、妻を思うという女らしい心をもつものではないということが、当時一般に信じられていたのは、他の歌で知られる。竜麿はそれを実行した者として尊んだのである。しかしそれは、強い義務観念からの自制であるとして、同時にそれを隣れみもしたのである。この場合は、覚悟しての経死であるから、その隣れみはいっそう深いわけである。長歌では妻を取立てず、最後にわずかにそれに触れているのは、作者としての用意よりのことと思われる。
 
     天平二年庚午冬十二月、大宰帥大伴卿、京に向ひて道に上りし時、作れる歌五首
 
【題意】 「大伴卿」は、旅人。天平二年十月一日大納言に任ぜられ、転任のため、十二月一日京へ向かった。なお妻大伴郎女は大宰府で没したので、一人、さみしく帰る形となったのである。
 
446 吾妹子《わぎもこ》が 見《み》し鞆浦《とものうら》の 天木香樹《むろのき》は 常世《とこよ》にあれど 見《み》し人《ひと》ぞなき
    吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曾奈吉
 
【語釈】 ○吾妹子が見し鞆浦の 「吾妹子」は、大伴郎女。「見し」は、赴任の途次に見たところのの意。「鞆浦」は、現在の広島県福山市鞆町の浦で、ここは古来瀬戸内海の航路の要津となっていて、名高い地である。また風光のきわめて好い地でもある。○天木香樹は この字は、この集にのみあるものである。それを「むろの木」に当てたものであることは、巻十六(三八三〇)に、題として「天木香」を、歌では「室《むろ》の木」と詠(258)んでいるので知られる。この文字を用いたにつき『講義』は、当時天木香という一種の香薬があり、人の知る物であって、それをこの木から製したものであろうという。また、その木については、『本草和名』『新撰字鏡』『和名抄』などで考証し、「ねずみさし」の一種「はひねず」と称する木であろうといっている。これは海浜に自生する常緑灌木で、幹に枝が密生し、地上に這う木である。室の木の樹脂から香薬を製したとすることは、『本草和名』にある。○常世にあれど見し人ぞなき 「常世」は、永久不変の世の意であるが、転じて永久不変の意にも用いた。ここはそれである。郎女のそれを見たのは、赴任の途次で四年前のことにすぎないが、郎女の死との比較において、その間をこういったのである。「見し人」は、上の吾妹子。「なき」は「ぞ」の結で、ないことであるよと詠歎をこめての語。
【釈】 吾妹子がかつて見たところの鞆浦の室の木は、このように永久不変なさまでいるけれども、これを見た人のほうは、世にないことであるよ。
【評】 この歌をはじめ続く二首も、鞆浦の室の木を見て、亡妻を思い出した感傷を詠んだものである。思うに赴任の途中、郎女がその室の木を見て、深くも愛でたことがあったので、それを思い出したのであろう。室の木は灌木だというから、そう目立つはずはない。鞆浦は、海岸は断崖《だんがい》で、幾つかの島を抱いた形になっているから、室の木はその断崖の上にあり、これを船中から眺めたので、印象的に感じたのであろう。郎女は身分柄、船旅というようなことはしなかったろうから、ことに感が深かったものと思われる。室の木にとっては、四年間の経過は何ほどのことでもないのを、「常世」という語を用いるのは、それによって郎女の死に対する悲しみをあらわそうとしたもので、旅人という人を思わせる用語である。
 
447 鞆浦《とものうら》の 礒《いそ》の室《むろ》の木《き》 見《み》む毎《ごと》に 相見《あひみ》し妹《いも》は 忘《わす》らえめやも
    鞆浦之 礒之室木 將見毎 相見之妹者 將所忘八方
 
(259)【語釈】 ○礒の室の木 「礒」は、本来石の古語で、ここは海岸の岩をいっている。室の木の生えている場所である。○見む毎に 将来、見るたびごとに。○相見し妹は 「相見し」は、二様の用例のある語で、一つは、男女相会った、すなわち夫婦関係になった意、いま一つは、共に眺めた意である。ここは後のものである。○忘らえめやも 「めや」は、反語で、忘れられようか忘れられないと強くいい、それに詠歎の「も」を添えたもの。
【釈】 鞆浦の海べの岩の上に生えているこの室の木よ。これを見るたびごとに、かつて一緒に眺めた妹が思い出され、その妹は忘られようか忘られない。
【評】 これは前の歌に連なる心のものである。郎女が室の木をいたくも愛でたであろうと思われるのは、これらにつぐ(四五二)に「妹として二人《ふたり》作りし吾が山斉《しま》は」とあり、それに次ぐ(四五三)には「吾妹子が植ゑし梅の樹」ともあって、郎女は造庭の趣味、樹木に対しての趣味も深かったろうと思われるのである。旅人からいうと、親しい者と相共に佳景に対するということは、人生の一快心事として漢詩に多いものであるから、漢文学の教養の高い旅人には、その意味においても感銘のあったものと思われ、かたがたその室の木に刺激されての旅人の哀感は深いものであったろうと思われる。今はその室の木を見て郎女を思い出したのであるが、その見たということをいうに、「見む毎に」と、将来をかけての言い方をし、また思い出したことを、「忘らえめやも」と、反語を用いて強くいい、上に照応させているのは、その際の哀感の深さをあらわしているものである。平明に似て複雑味のある歌である。
 
448 礒《いそ》の上《うへ》に 根《ね》はふ室《むろ》の木《き》 見《み》し人《ひと》を いづらと問《と》はば 語《かた》り告《つ》げむか
(260)    礒上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語將告可
 
【語釈】 ○礒の上に根はふ室の木 「根はふ」は、根の這っているで、室の木の状態。横に広くひろがっている老木を思わせる語である。○見し人をいづらと問はば 「見し人」は、かつて見たところの人で、郎女を室の木との関係においていった語で、室の木が、我を見たことのあった人として、郎女をさしているものである。原文「何在」は、旧訓「いかなり」。『考』の改めたものである。「いづら」は仮名書きの例のある語で、「いかなり」の例は集中にないと『講義』がいっている。何処《いずく》と同じで、どこにいるかの意である。二句、室の木が、前に一緒であった一人が見えないので、訝《いぶか》って問う意。○語り告げむか その居ない訳を話して知らせたものであろうか。
【釈】 磯の上に根を這わせている室の木よ。さきに一緒に我を見た一人のほうは、どこにいるのかともし尋ねたならば、我はその居ない訳を話して知らせたものであろうか。
【評】 前の歌に連なるもので、感傷が深まってきて、空想的となってきたものである。ここでは室の木を、さながら人と同じく心あるものとしているのであるが、この空想は旅人にとっては根拠のあったもので、根拠とは、郎女はこの室の木を見た時、きわめて深い愛をあらわし、それを旅人は目にしている関係上、室の木もそのことを喜んだものとして、「見し人をいづらと問はば」という空想を起こしてきたと思われるのである。そうした根拠あってのことであるが、しかし空想には限度をつけて、「問はば」とし、また「語り告げむか」と、控えめな、また静かな物言いとしているのである。「語り告げむか」は、室の木に妻のことを告げたい心をもっていて、その感傷を抑えていっているもので、躊躇の情をあらわしてのものではない。この一首、感傷より空想的となり、さすがにそれに限度を置くというところに、旅人の人柄の見えるもので、実感の素朴なる現われと取れる。
 
     右の三首は、鞆浦を過ぐる日作れる歌。
      右三首、過2鞆浦1日作謌。
 
【解】 注は、撰者のつけたものである。三首、室の木に即しての実感の推移を、緊密に連絡させての作で、連作である。連作という形式が意図的なものではなく、必要に駆られて生まれてきた跡を示しているといえる。
 
449 妹《いも》と来《こ》し 敏馬《みぬめ》の埼《さき》を 還《かへ》るさに 独《ひとり》して見《み》れば 涕《なみだ》ぐましも
(261)    与妹來之 敏馬能埼乎 還左尓 獨而見者 涕具末之毛
 
【語釈】 ○妹と来し敏馬の埼を 「妹と来し」は、妻とともに来たところので、敏馬へ続く。これは大宰府へ赴任する途次として通った意で、「来し」は大宰府を中心としての語。「敏馬」は、(二五〇)に出た。今の神戸港内の東のほうの崎で、古の碇泊地。○還るさに独して見れば 「還るさ」は、今の還りしな。「さ」は、今の「しな」の古語「さだ」と同じく、時の意であると『講義』はいっている。「独して」は、独りあって。○涕ぐましも 「涕ぐまし」は、涙を催す意で、現在口語に用いている。「ぐむ」の動詞が形容詞となったもの。「も」は、詠歎。
【釈】 妻とともに、赴任の際通って行ったところの敏馬の埼を、還りしなに、独りあって見ると、涙を催すことであるよ。
【評】 特に敏馬の埼を捉えていっているのは、そこは難波津に近い所とて、行きしなに、郎女が深く心を動かしたというような記憶があってのことと思われる。平明な歌であるが、沁み入らんとするものをもっている。
 
450 去《ゆ》くさには 二人《ふたり》吾《わ》が見《み》し この埼《さき》を 独《ひとり》過《す》ぐれば 情《こころ》悲《かな》しも【一に云ふ、見《み》もさかずきぬ】
    去左尓波 二吾見之 此埼乎 獨過者 情悲喪【一云、見毛左可受伎濃】
 
【語釈】 ○去くさには 「去くさ」は「来さ」と対した語。「さ」は、上の「還るさ」のそれと同じ。○二人吾が見しこの埼を 妻と吾が二人で見たこの敏馬の埼を。○独過ぐれば情悲しも 一人で過ぎて行くので、転変が思われて、心が悲しいで、「も」は詠歎。○一に云ふ、見もさかずきぬ 「見もさかず」は、見放《みさ》ける、すなわち遠く目を放って見ることもせずにで、悲しんでいる心の具象化。「きぬ」は、来ぬで、通り過ぎた意。
【釈】 行きしなには、妻と二人で見たこの崎を、帰りしなには一人で過ぎることになったので、転変が思われて、心悲しいことであるよ。また、目を放って見ることもせずに通り過ぎた。
【評】 前の歌と連なっていて、前の歌は敏馬の埼を目にした時の感、これはそこを過ぎて行った時の感である。京への還りしなの風物が、行きしなの記憶を新たにするものとなり、哀傷をよみがえらせるものとなったことが感じられる。「一に云ふ」は、心やりとして哀傷を直写しているこれらの歌にあっては、巧みさがあり、したがって間接になって、劣っている感がある。
 
     右の二首は、敏馬埼を過ぐる日作れる歌。
      右二首、過2敏馬埼1日作謌。
 
(262)     故郷の家に還り入りて、即ち作れる歌三首
 
【題意】 「故郷の家」は、所在は明らかでない。(四四〇)に「京師《みやこ》なる荒れたる家にひとり宿《ね》ば」とあるその家であろうから、奈良京の内にあったものと思われる。なお、巻六、「大納言大伴卿、寧楽の家に在りて故郷を思ふ歌二首」(九六九)(九七〇)によると、「神名火《かむなび》」と「栗栖《くるす》」の二か所をも「故郷」と呼んでいるのである。「神名火」は、幾か所かあるが、高市郡飛鳥の神名火であり、栗栖は忍海郡栗栖である。「即ち」は、即時にの意。
 
451 人《ひと》もなき 空《むな》しき家《いへ》は 草枕《くさまくら》 旅《らたび》にまさりて 辛苦《くる》しかりけり
    人毛奈吉 空家者 草枕 旋尓益而 辛苦有家里
 
【語釈】 ○人もなき 「人」は、意味の広い語で、「も」は、詠歎。「なき」は、ここはいない意。人のいないというのは、留守居の者、待ち迎える者のいない意ではなく、家刀自たる妻の意のもの。○空しき家は 空虚な家の意。
【釈】 家刀自のいない空虚な家は、わが家とはいえ、旅にもまさって苦しいものであることよ。
【評】 (四四〇)「京師《みやこ》なる荒れたる家にひとり宿《ね》ば旅にまさりて辛苦《くる》しかるべし」と、出発前大宰府にあって思いやって嘆いた、その思いやりのまさしく事実となった嘆きである。これは家というものを故郷の中心とし、最も安定を得らるべきところとして、それのないことを、最も侘びしいものである旅にもまさって苦しいとする心理を抒《の》べたものである。
 
452 妹《いも》として 二人《ふたり》作《つく》りし 吾《わ》が山斎《しま》は 木高《こだか》く繁《しげ》く 成《な》りにけるかも
    与妹爲而 二作之 吾山齋者 木高繁 成家留鴨
 
【語釈】 ○妹として二人作りし 「妹として」は、ここは妻と協力して。「二人作りし」は、二人で作ったところの。○吾が山斎は 「山斎」は、旧訓「やま」。『古義』が改めた。「しま」は巻二(一七〇)に出、作り庭に対する当時の称であり、ここも下の続きはそれに該当するものである。なお、巻二十(四五一一−三)までの三首は、題は、「山斎に属目して作れる歌」とあり、歌はすべて作り庭の状態をいったものであるところから、この字を「しま」に当てて用いていたことが知られる。「斎」は燕居の室の意をもった字で、山斎は山に作った燕室の義である。『古義』は作り庭の内に、そうした家の形も作ったからの称ではないかといっている。○木高く繁く成りにけるかも 「木高く」は、丈が高く。「繁く」は、枝葉の(263)繁く。「成り」は、変化。「に」は完了。「かも」は詠歎。
【釈】 妻と協力して、二人で作った吾が作り庭は、今還って来て見ると、庭の木立は丈が高く枝葉《えだは》が繁くも変わってしまっていることであるよ。
【評】 四年間見ずにいた吾が家の作り庭を、その間に故人となった妻と協力して作ったものという関係をとおして、打見た時の最初の感をいったものである。「妹として二人作りし吾が山斎は」と、「妹」と「山斎」とを一つにして見て、「木高く繁く成りにけるかも」と、綜合しての感を、強く太い調べをもっていい、作った人は世になく、作られた庭の木は、育って繁って来ていることに対する言いあらわし難い感を、その調べに托してあらわしたものである。旅人の心は、細くも太くも動くが、これはその太いもので、立体感の豊かなものである。庭木は、冬のことで、常磐木が多かったことと思われる。
 
453 吾妹子《わぎもこ》が 植《う》ゑし梅《うめ》の樹《き》 見《み》る毎《ごと》に 情《こころ》咽《む》せつつ 涕《なみだ》し流《なが》る
    吾妹子之 殖之梅樹 毎見 情咽都追 涕之流
 
【語釈】 ○吾妹子が埴ゑし梅の樹 郎女が、自身の好みとして庭に植えた梅の木の意で、当時梅は、外来の新味をもったものとして珍重された木である。○見る毎に 見るたびにというので、ある期間に渡っての語と取れる。題には「即ち」とあるが、この歌は必ずしもそれにあたっていない。『講義』は、『延喜式』の「主計式」によると、大宰府の行程は上二十七日、下十四日とあると注意している。旅人は十二月に発足したので、奈良京へ着いた時は一月に入り、梅の花の咲くに近かったことが思われる。この「見る毎に」は、その花に対してのことで、少なくとも蕾の目だつものであったと取れる。○情咽せつつ涕し流る 「咽す」は、食物の喉に塞《つま》る意で、今の口語の咽せかえると同じである。悲しみのはげしい時、胸が塞《せ》きあげてくることの譬喩として用い、転じてそうした悲しみそのものをあらわす語となったもので、用例の少なくないものである。『講義』は漢詩文より直訳したものだろうといっている。「涕し」の「し」は強め。
【釈】 妻が植えた梅の木よ、それを見るごとに、次第に花となって行こうとするので、感が迫って、胸が塞きあげてきて、涙が流れる。
【評】 「見る毎に涕し流る」という続きは、植えた人は世を去ったのに、植えられた木は春に逢って花となろうとしている、その対照に刺激されての悲しみである。飛躍のある言い方で、迎えて見なければ解しかねるまでであるが、これは旅人の心やりの作で、他の見ることを予期したものではないということも関係していることと思われる。鞆浦の室の木以下この歌までの八首は、「人もなき空しき家は」の一首を除くと、すべて自然と人間とを対照して、自然の悠久に対して人間のはかなさを嘆いた(264)ものばかりである。しかるにそれを詠み出すにあたって、旅人は知性を加えて対比するということは全然せず、感性のみをもって言っていることは、注意されることである。自然と人間との対照は、漢詩には多いもので、その方面の教養の高い旅人には、むしろ常識となっていたことと思われる。それを全然用いないということは、好まなかったがためと思うほかはない。この歌はその中でも、最も際立ったものである。
 
     天平三年辛未秋七月、大納言大伴卿の薨ぜし時の歌六首
 
【題意】 旅人の薨去のことは、続日本紀、天平三年の条に、「秋七月辛未大納言従二位大伴宿禰旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫、大納言贈従二位安麿之第一子也」とある。また『公卿補任』には、「七月廿五日薨」とある。「六首」は、初め五首は、資人《つかいびと》余明軍《よのみようぐん》のもの、後の一首は県犬養宿禰人上《あがたのいぬかいのすくねひとかみ》のもので、いずれも左注となっている。
 
454) 愛《はし》きやし 栄《さか》えし君《きみ》の いましせば 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 吾《あ》を召《め》さましを
    愛八師 榮之君乃 伊座勢婆 昨日毛今日毛 吾乎召麻之乎
 
【語釈】 ○愛きやし栄えし君の 「愛きやし」は、「愛き」は、愛すべきという意の古語で、「や」と「し」は、助詞。巻二(一三八)に出た。下の「君」を讃えるもの。「君」は主としての旅人で、親しみの意をもってのもので、「吾が背子」などの「吾が」に近いものである。「栄えし」は、世に栄えたの意で、これは尊んでのもの。○いましせば 「います」は「ゐる」の敬語で、「せば」は、仮設の意。いらせられたならばで、ここは、もし御存命であったならばの意。○昨日も今日も吾を召さましを 「吾」は、「わ」とも「あ」とも訓める。「あ」は『古義』の訓である。「あ」のほうが古く、したがって素朴で、この場合に適していよう。「召さましを」は、「召す」は、用を命じるため。「まし」は上の「せば」の帰結。「を」は、詠歎。お召しになろうものを。
【釈】 愛すべき、世に栄えていたところの君が、もし御存命であったならば、昨日も今日も、御生前のように手前をお召しになろうものを。
【評】 主としての旅人を、その薨後追慕しての心であるが、儀礼という意はいささかもなく、ひたすらに懐かしんだ心のものである。「昨日も今日も吾を召さましを」は、生前そうされることを嬉しく感じていての思い出である。資人の一人であるから、特に旅人に愛されていて、そうした扱いを受けたものと思われ、懐かしむのにも理由があったと取れる。「愛きやし」という語も、その意味で、一首の心にふさわしいものである。歌の詠み口が旅人に通うもののあるのも、その間の消息を示すも(265)のといえよう。
 
455 かくのみに ありけるものを 芽子《はぎ》の花《はな》 咲《さ》きてありやと 問《と》ひし君《きみ》はも
    如是耳 有家類物乎 芽子花 咲而有哉跡 問之君波母
 
【語釈】 ○かくのみにありけるものを 原文「如是耳」は、旧訓「かくしのみ」。『代匠記』の改めたもの。巻十六(三八〇四)に「如是耳尓」の例があり、また「かくのみ」の例もきわめて多いものである。「かく」は、かくも人の命ははかないの意を略していったもの。「のみに」は、それを強めたもの。「ありけるものを」は、「ものを」は詠歎で、あったものを。二句、このようにまでも人の命ははかなくあったものを。○芽子の花咲きてありやと 萩の花は咲いているかで、下の「問ひし」に続き、旅人が重病の床で明軍に尋ねた語《ことば》である。旅人の薨じたのは七月の末で、萩の花の咲く頃だったのである。○問ひし君はも 「君はも」は、「君は」と言いさして、それで終止とし、「も」の詠歎を添えて嘆きの意をあらわしたもので、余情をこめているものである。尋ねた君は、ああの意。
【釈】 これほどまでに人の命ははかなくあったものを。萩の花が咲いているかとお尋ねになられた君はよ。
【評】 これは旅人の薨去の直後、明軍が主の重病の床の上で尋ねた語《ことば》を思い出し、その語によって哀傷の心を抒べたものである。旅人の語は明軍には、きわめて感銘の深いものであったと思われる。重病の床にあって、その秋の萩の花に関心をもって尋ねるということは、明軍にはいかにも優しい心と思え、その意味でも感銘させられ、また、老体の重病のこととて、生死のほども測られない時に、そうしたことを尋ねられたので、事の対照の上から、いっそう感銘させられて、忘れ難い語であったろうと思われる。これはそれらの感銘を綜合して、薨去の直後、主の旅人を懐かしみ悲しんだ心のものと取れる。萩の花のことをいっているので、薨後のある時、おりからのそれを見ての思い出と取れなくはない趣もあるが、そうした余裕をもってのものではなく、深い悲哀の中にあっての思い出と解すべきであろう。その悲哀は、直接に調べとなって現われ、沁み入る力をもったものとなっている。この歌は事は単純であるが、明軍の心とは別に、旅人の人柄をも思わせるものがあって、拡がりをもった歌である。
 
456 君《きみ》に恋《こ》ひ 痛《いた》もすべなみ 蘆鶴《あしたづ》の 哭《ね》のみし泣《な》かゆ 朝夕《あさよひ》にして
    君尓戀 痛毛爲便奈美 蘆鶴之 哭耳所泣 朝夕四天
 
(266)【語釈】 ○君に恋ひ痛もすべなみ 「君に恋ひ」は、君を恋いであるが、それにつき『講義』は、上代は「君に」といい、「君を」といってはいない。「君に恋ひ」は、目標である「君」を静的に、恋う我を動的にいったもので、後世とは反対であると注意している。「痛も」は、仮名書きの例のある語で、形容詞「痛し」の語幹を副詞としたもので、甚しくの意。「すべなみ」は、術すなわちする術《すべ》がなくして。二句、君が恋しく、どうにもする術がなくしてで、追慕の情をいったもの。○蘆鶴の哭のみし泣かゆ 「蘆鶴」は、蘆辺にいるところからの称。「の」は、のごとくの意で、その高く鳴くのを譬喩としたもの。「哭のみし泣かゆ」は、「哭のみ」は、声を立ててばかり。「し」は、強め。「泣かゆ」は、泣かれるで、はげしくばかり泣かれる意。○朝夕にして 「朝夕」は、昼夜で、一日ということを具象的にいったもの。「して」は、ここはわたってにあたる。
【釈】 君が恋しく、どうにもする術《すべ》がなくして、蘆鶴のごとくにも、声を立ててばかり泣かれる。昼夜にわたって。
【評】 主旅人の薨去直後のはげしい悲しみを直写したものである。「朝夕にして」が一首の力点で、継続した時を綜合したもので、悲しみの中に浸って、いちずにいっているものである。
 
457 遠長《とほなが》く 仕《つか》へむものと 念《おも》へりし 君《きみ》座《いま》さねば 心神《こころど》もなし
    遠長 將仕物常 念有之 君不座者 心神毛奈思
 
【語釈】 ○遠長く 遠く長くで、時の上でいったもの。永遠にわたって。○念へりし 思っていた。○君座さねば 「座さねば」は、世にいまさぬので。○心神もなし 「心神」は、旧訓「たましひ」。『槻落葉』が「こころど」と改めた。この訓は、巻十七(三九七二)「出で立たむ力を無みとこもり居て君に恋ふるに許己呂度《こころど》もなし」、また巻十三(三二七五)「一《ひとり》眠《ぬ》る夜を数へむと思へども恋の茂きに情利《こころど》もなし」などとあるのによったものである。「心神」の文字は、巻十二(三〇五五)「吾が心神《こころど》の頃者《このごろ》はなき」にあり、また、下の(四七一)には、「家|離《さか》りいます吾妹を停《とど》め不得《かね》山隱りつれ情神《こころど》もなし」と、「情神」の文字もある。いずれも名詞である。意味は、『槻落葉』は、「心所」の意で、心臓をさしているのであろうといっているのを、『講義』は進めて、心のおちつき所をさしているのだろうといっている。魂の身に鎮まっている状態が生であり、離れた状態が死であると信じていたのであるから、それに準じて、心にもその所があるとしたことは、ありうることに思える。今はこの解に従う。「心神もなし」は、心が落ちつき所もない、すなわち心が身に添っていず、ぼんやりしている意と取れる。
【釈】 永遠にわたって仕えようと思っていた君が、この世にいまさずなったので、我は心の落ちつき所もなく、ぼんやりとしている。
【評】 これも主旅人の薨去の直後、はげしい悲しみのためにぼんやりとしている自身を反省し、その状態を全体として捉えていうことによって、悲しみをあらわそうとしたものである。「遠長く仕へむものと」と、主従関係をとおしての心であるが、懐かしむ心よりのものであることが、「心神《こころど》もなし」によって現われていて、それが趣をなしている歌である。
 
(267)458 若子《みどりご》の 匍匐《は》ひたもとほり 朝夕《あさよひ》に 哭《ね》のみぞ吾《わ》が泣《な》く 君《きみ》なしにして
    若子乃 匍匐多毛登保里 朝夕 哭耳曾吾泣 君無二四天
 
【語釈】 ○若子の匍匐ひたもとほり 「若子の」は、緑児のごとくで、下の譬喩。「匍匐ひたもとほり」は、「匍匐ひ」は、「這ひ」、「たもとほり」は、「た」は接頭語、「もとほり」は、同じ所をあちこち廻る意。「匍匐ひ」は、上代の拝礼の形で、今日の坐礼のごとく、手を突き、頭を下げたのである。巻二(一九九)「鶉なすいはひもとほり」以下、例の多いものである。これは上代の拝礼という中でも古風なもので、表面は禁じられていたのであるが、尊貴の殯宮の場合などには行なわれていたものである。ここも、旅人の喪中のことと取れる。すなわち敬った形である。「たもとほり」は、身を一所に置くことができず、居ざり廻る状態をいったもので、これは悲しみの状態である。二つの状態は、事としては続いているが、心は別だといえる。○朝夕に哭のみぞ吾が泣く 「朝夕」は、上に出た。昼夜。「哭のみぞ吾が泣く」は、声を立ててばかり泣くことであるよで、これは悲しみのみをいったものである。○君なしにして 君の世にない状態にあって。
【釈】 緑児のごとくにも、這って拝礼をして敬い、悲しんで居ざりまわり、昼夜にわたって吾は、声を立ててばかり泣いていることであるよ。君の世にない状態にあって。
【評】 主旅人の喪に服している間の状態を抒《の》べたものである。「若子の匍匐ひたもとほり」は、ひたすらに敬い悲しむ状態、「朝夕に哭のみぞ吾が泣く」は、ひたすらに悲しむ状態で、その際の状態の全部をいうことによって、悲しみを具象化したものである。喪ということはいってはいないが、その中にあっての状態をいっているので、それと感じられるものである。
 
     右の五首は、資人《つかひびと》余明軍《よのみやうぐん》が、犬馬《けんば》の慕《したひ》心中の感緒に勝《あ》へずして作れる歌。
      右五首、資人余明軍、不v勝2犬馬之慕心中感緒1作謌。
 
【解】 「資人」は、五位以上の官人に、防衛駈使のために朝廷より賜わる人で、その数は「軍防令」に規定されている。位に対しての者は位分資人といい、一位に一百人、以下しだいに減じ、従五位に二十人、また官に対しての者は職分資人といい太政大臣三百人、左右大臣二百人、大納言百人である。資人は六位以下の子、および庶人の貢人から選ぶ者で、式部省で扱う者であり、一定の身分の者は請願によっても許された。「余明軍」は、「余」が「金」となっている本もある。いずれの氏もあって、(三九四)題詞の条で触れたように、帰化人の末である。「明軍」の伝は不明である。「犬馬の慕」は、中国の熟語で、犬や馬がその主を慕う心で、譬喩。「心中の感緒」は、心中の感傷である。
 
(268)459 見《み》れど飽《あ》かず いましし君《きみ》が 黄葉《もみちば》の 移《うつ》りい去《ゆ》けば 悲《かなし》くもあるか
    見礼杼不飽 伊座之君我 黄葉乃 移伊去者 悲喪有香
 
【語釈】 ○見れど飽かずいましし君が 「見れど飽かず」は、幾度も見たけれども飽かないで、最も良いもの、人に対しての讃詞で、成語となっていたもの。「いましし君」は、「ある」の敬語「います」の過去で、いらせられた君の意。○黄葉の移りい去けば 「黄葉の」は、「過ぐ」の枕詞となっており、ここも事としてはその意のものであるところから、諸注枕詞としているのを、『講義』は、おりからの物を捉えて譬喩としたもので、黄葉のごとくの意だとしている。「移りい去けば」は、「い」は接頭語、「移り去けば」は、推移し去ればで、黄葉の散るのをもつて旅人の死に譬えたもの。○悲くもあるか 「か」は、詠歎。
【釈】 幾度も見るけれども飽くことなく愛でたくいらせられた君が、おりからの黄葉のごとく推移して行かれるので、悲しいことではあるよ。
【評】 左注によって作意の知れるごとく、大体儀礼としてのものであるが、しかし悲しみをもっていって、しめやかにいっているものであることは、一首の調べによって知られる。「黄葉の移りい去けば」は、いったがごとく枕詞を還元して、眼前の景色に絡ませたもので、技巧のあるものであり、したがって余裕を思わせるものでもある。しかし、一首に融け入っているもので、そのことを思わせないものである。
 
     右の一首は、内礼正県犬養宿禰人上《ないらいのかみあがたのいぬかひのすくねひとかみ》に勅して、卿の病を検護せしむ。而も医薬験無く、逝く水留らず。斯《これ》に因りて悲慟して、即ち此の歌を作れり。
      右一首、勅2内礼正縣犬養宿祢人上1。使v検2護卿病1。而〓薬無v験、逝水不v留。因v斯悲働、即作2此歌1。
 
【解】 「内礼正」は、内礼司の長官で、この司は、中務省の管するもので、宮内の礼儀および非違を禁察する所である。「正」は正六位下相当官である。「県犬養」は、『新撰姓氏録』にある氏で、「神魂命八世孫、阿居太都《あけたつ》命之後也」とある。「人上」の伝は知られない。「病を検護せしむ」は、『講義』の考証によって明らかになった。要は、五位以上の者の病患の時には、これを奏聞し、医を遣し薬を給うのが定めとなっていたので、人上は職務として、その事を検校し、病を看護したのだという。「逝水留ら(269)ず」は、死を譬えたもので、中国の成語である。
 
     七年乙亥、大伴坂上郎女、尼《あま》理願《りぐわん》の死去を悲嘆して作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「大伴坂上郎女」は、(三七九)に出た。「尼理願」は、新羅国より帰化した者で、大伴家をたよっていた者であるが、大伴家の刀自である石川郎女が、おりから摂津国有馬温泉へ湯治に行っていた留守中に寂したので、坂上郎女は報告の心をもって歌を作り、母の許へ贈ったのである。事は左注にくわしい。
 
460 栲角《たくつの》の 新羅《しらぎ》の国《くに》ゆ 人《ひと》ごとを よしと聞《き》こして 問《と》ひ放《さ》くる 親族兄弟《うからはらから》 無《な》き国《くに》に 渡《わた》り来《き》まして 大皇《おほきみ》の 敷《し》き座《ま》す国《くに》に 内日指《うちひさ》す 京《みやこ》しみみに 里家《さといへ》は さはにあれども いかさまに 念《おも》ひけめかも つれもなき 佐保《さほ》の山辺《やまべ》に 哭《な》く児《こ》なす 慕《した》ひ来座《きま》して 布細《しきたへ》の 宅《いへ》をも造《つく》り 荒玉《あらたま》の 年《とし》の緒《を》長《なが》く 住《すま》ひつつ 座《いま》ししものを 生《うま》るれば 死《し》ぬといふ事《こと》に 免《まぬか》れぬ 物《もの》にしあれば 憑《たの》めりし 人《ひと》の尽《ことごと》 草枕《くさまくら》 旅《たび》なるほどに 佐保河《さほがは》を 朝川渡《あさかはわた》り 春日野《かすがの》を 背向《そがひ》に見《み》つつ 足《あし》ひきの 山辺《やまべ》を指《さ》して 晩闇《ゆふやみ》と 隠《かく》りましぬれ 言《い》はむすべ 為《せ》むすべ知《し》らに 徘徊《たもとほ》り ただ独《ひとり》して 白栲《しろたへ》の 衣袖《ころもで》干《ほ》さず 嘆《なげ》きつつ 吾《わ》が泣《な》く涙《なみだ》 有間山《ありまやま》 雲居《くもゐ》たなびき 雨《あめ》に零《ふ》りきや
    梓角乃 新羅國從 人事乎 吉跡所聞而 問放流 親族兄弟 無國尓 渡來座而 大皇之 敷座國尓 内日指 京思美弥尓 里家者 左波尓雖在 何方尓 念鶏目鴨 都礼毛奈吉 佐保乃山邊尓 哭兒成 慕來座而 布細乃 宅乎毛造 荒玉乃 年緒長久 住乍 座之物乎 生者 死云事尓 不免 物尓之有者 憑有之 人乃盡 草枕 客有間尓 佐保河乎 朝河渡 春日野乎 背向尓見乍 足氷木乃 山邊乎指而 晩闇跡 隱益去礼 將言爲便 將爲須敝不知尓 徘徊 直獨而 白細之 衣袖不干 嘆乍 (270)吾泣涙 有間山 雲居輕引 雨尓零寸八
 
【語釈】 ○栲角の新羅の国ゆ 「栲角の」は、栲の繊維をもって造った綱《つな》の意で、その白いところから白《しら》と続き、新羅の枕詞となったもの。「角《つの》」は「綱」の転音である。同系のものに「栲衾《たくぶすま》」があり、同じく新羅にかかり、また「栲領巾《たくひれ》の」があって「白浜《しらはま》」にかかっている。「新羅の国ゆ」は、新羅の国よりで、新羅は理願の本国。この当時は新羅はわが国とほぼ対当の交りをしていた。○人ごとをよしと聞こして 「人ごと」は、人言《ひとごと》。他人のいうことで、噂というにあたる。「よしと」は、わが国を吉い国だとの意。尼という立場からであるから、仏教の盛んな国としてと取れる。「聞こして」は、原文「所聞而」。旧訓「きかれて」を、『代匠記』の改めたもの。当時は「る」という敬語はなかった。「きこす」は、「きく」の敬語「きかす」の転じたもので、集中に仮名書きの例の少なくないものである。○問ひ放くる親族兄弟 「問ひ放くる」は、「問ひ」は、人にものをいう意。「放くる」は、憂いを放ちやる、すなわち憂いを消す意。憂いを語って紛らす意。「親族《うから》」は、同族。「兄弟《はらから》」は、本来は同腹の兄弟であるが、ここはそれほどの意味はなく、親族兄弟と並べて、最も親しい者としていったもの。○無き国に渡り来まして 「無き国」は、上に続いて、そうした者のいない国、すなわち外国で、ここはわが国をさしている。「渡り来まして」は、「渡り」は、海を渡って。「来まして」は、「来て」の敬語。○大皇の敷き座す国に 天皇の御支配になられる国にで、わが国を尊んでいったもの。○内日指す京しみみに 「内日指す」は、宮にかかる枕詞で、解は諸説あるが、「うち」は接頭語で、あまねきという意があって、ここはそれであり、「日指す」は、日の射す意。宮は上代より、日光の好く射すことを条件として、その事をもって讃えているので、これもその意のものという解に従う。あまねく日の射すところの意で、宮につづく。「京《みやこ》」は、宮すなわち皇居のあるところ。「しみみに」は、「しみ」は繁くの意の古語で、巻一(五二)「しみさび立てり」とあったその「しみ」で、「しみみ」は、「しみしみ」を重ねて、第二の語の首音を略いたもの。このことは例の多いことである。○里家はさはにあれども 「里家」は、上の「京」の状態で、里や家は。里は厳格にいうと、京の坊にあたるもので、京の部分をいう語ではないが、当時の実際はそういってもさしつかえない状態で、古くからいっていたものと取れる。「さは」は、多くで、巻一(三六)「国はしも多にあれども」とあった。○いかさまに念ひけめかも 「いかさまに」は、どのようにで、巻一(二九)「いかさまに念ほしめせか」と出た。「念ひけめかも」は、「か」は疑問、「も」は詠歎、後世の「念ひけめばかも」というにあたる古格。念ったのであろうかで、理願の行動に対し、敬意をもっていったもの。○つれもなき佐保の山辺に 「つれもなき」は、縁故もない。「佐保の山辺」は、佐保山のほとりで、「佐保」は、奈良市の西北に連なっており、明治以後、法蓮町と法華寺町とを合わせての称となっている。そこに佐保山もある。大体古と同じ地域である。そこには当時、大官の邸があり、大伴安麿の邸もそこにあった。作者の郎女もその邸にいていっているので、「佐保の山辺」は、その邸を所在地によって言いかえたものである。○哭く児なす慕ひ来座して 「哭く児なす」は、泣く児のごとくで、泣きつつ親を慕う意で、「慕ふ」の譬喩。「慕ひ来座して」は、「慕ひ」は、上に続いて大伴家を。「来座して」は「来て」の敬語。○布細の宅をも造り 「布細の」は、しばしば出た。細かく織った栲の意で、衣、枕、床などにかかる枕詞。ここは、枕、床などを拡げて「宅」にかけているものである。「宅をも造り」は、佐保に住宅までも造って。○荒玉の年の緒長く 「荒玉の」は、(四四三)に出た。「年の緒」の「緒」は、年が続いて絶えないものであるところから添えていった語で、玉の緒、気《いき》の緒などと同類の語。年長く、すなわち多年の意。○住ひつつ座ししものを 「住まひ」は、「住む」に助動詞「ふ」をつけて、その継続をあらわした語。「つつ」は継(271)続、「座ししものを」は、「座す」は、「ゐる」の敬語。「ものを」は、詠嘆。住みつづけていられたものを。以上、理願の経歴を叙したもので、第一段。○生るれば死ぬといふ事に 生まれてきた者は、死んで行くということにで、これは仏説の「生者必滅」を訳した語《ことば》である。○免れぬ物にしあれば 「免れぬ物」は、従うほかはないもの。「し」は、強め。○憑めりし人の尽 「憑めりし人」は、憑んでいた人で、理願の頼みとしていた大伴家の人。「尽」は、家刀自である石川郎女と、その周囲の者のすべて。○草枕旅なるほどに 「草枕」は、旅の枕詞。「旅なるほど」は、旅に出ている間で、下の有馬温泉へ行っている留守中。○佐保河を朝川渡り 「佐保河」は、春日山の後ろを水源として、佐保の内を流れている河。朝川は、朝の間の川の意で、一つの語。巻一(三六)に出た。「渡り」は、徒渉し。これは理願の死去して、葬場へ送られる葬列を、理願自身のするがごとくに叙したもの。○春日野を背向に見つつ 「背向」は、後ろ。「見つつ」は、見るの継続で、上と同じく、理願が見つつ行くで、しだいに遠ざかる意。上に続いて、葬列の道行である。○足ひきの山辺を指して 「足ひきの」は、山の枕詞。「山辺」は、理願の葬地。「指して」は、向かって。○晩闇と隠りましぬれ 「と」は、のごとくの意のもので、晩闇の物の見えなくなるがごとくにで、「隠り」の譬喩。「隠りましぬれ」は、「隠り」は、見えなくなる意。「まし」は、「隠り」を敬語としたもの。「ぬれ」は、後世の「ぬれば」にあたる古格で、已然形だけで条件を示しているもの。「隠りましぬれ」は、山地へ入って行ってしまったので、郎女がその葬列を見送っていて、しだいに見えなくなったがようにいったもの。なお、上の「背向に見つつ」は、理願が名残りを惜しんで振り返りつつ行く形、これは見えなくなるまで見送る形で、いずれも主観的なものである。また、「朝川」と「晩闇」とも対させている。以上、理願の死去と葬送で、第一段。○言はむすべ為むすべ知らに いうべき方法もすべき方法も知られずにで、悲しみのため途方に暮れた形。成句で、巻二(二〇七)に出た。なお「知らに」は、「に」は打消であるが、これは下にいうことの理由をあらわす場合に用いる語で、ここは「泣く」の理由である。○徘徊りただ独して 「徘徊り」は、(四五八)に出た。ここは、うろうろしての意で、悲しみの状態を具象的にいったもの。「ただ独して」は、ただ独りあってで、留守居の郎女の心細い状態をいったもの。○白細の衣袖干さず 「白細の衣袖」は、ここは白の衣、すなわち喪服のその袖。「干さず」は、乾かさずで、涙で濡らし通して。○嘆きつつ吾が泣く涙 「嘆き」は、長息《ながいき》の約で、溜息。「つつ」は継続。嘆きながらわが泣く涙よの意。○有馬山雲居たなびき 「有馬山」は、神戸市兵庫区有馬町にある山で、ここは有馬温泉の所在地としてのもの。「雲居」は、ここは雲の意。「たなびき」は、「た」は接頭語。「なびき」は、靡き。この用字は意味より当てたもので、例の少なくないもの。有馬山に雲となって靡いての意。嘆きの溜息が雲となるとしたもの。○雨に零りきや また涙は雨になって降ったことであったかの意。この結末の五句は、古事記、上巻、八千矛神の須勢理比売《すせりひめ》に対しての御歌に、「汝《な》が泣かさまく朝雨《あさあめ》の狭霧に立たむぞ」とあり、溜息が霧となり、涙が雨となるということは、上代よりいっていることで、その御歌は一般に愛誦されていたらしいので、それに倣ったものと思われる。以上、理願に対しての悲しみで、一首の主意を成すもので、箪二段。
【釈】 新羅の国から、人の噂に吉《よ》い国であると聞かされて、憂いを語って忘れるべき同族や兄弟もないこの国に渡って来られて、天皇の御支配になられる国の京には、繁くも並びつづいて里も家もあるけれども、どのように思われたのであろうか、縁故もない佐保の山のほとりのわが家に、親を慕って泣く児のごとくにも慕ってこられて、その近くに家までも造って、多年の間を住みつづけていられたものを、生まれきた者は死んで行くという理《ことわり》には、免れず従うべきものであるので、頼みとしていた人のすべての、旅に出ている間に死去して、その人は、佐保河を朝の間に徒渉し、春日野を後ろにして振り返り見ながら、山辺の方へ向(272)かつて、夕闇に物の見えなくなるがごとくに隠れて行ってしまわれたので、悲しみのためにものをいうべき方法も、するべき方法もわからず、うろうろとただ独りでしていて、白妙の喪服の袖が乾かず濡れ通して、溜息を吐《つ》きつづけてわが泣いている涙よ、母上が今いられる有馬山に、その溜息は雲となって靡き、涙は雨になって降ったであろうか。
【評】 この歌は、形から見ると、佐保の邸の留守居をしている坂上郎女が、有馬温泉に湯治に行っている.母の石川郎女に、理願の死去を報告しているもので、消息という実用性の形のものである。しかし内容から見ると、理願の死を悲しんだ挽歌であり、しかも情の委曲を尽くしたものであって、ことにその死去の際、それに逢ったのは自分一人だけであったという感傷をとおしての悲しみは、まさに文芸性のものである。全体から見ると実用性ということは、作因をなしているにすぎないもので、文芸性をほしいままにしているものである。一首三段から成っており、第一段は理願の経歴を叙したものである。これは事としては、石川郎女は誰よりもよく知っていることなので、改めていうには及ばないものである。それを細叙しているのは、その死は理願の生涯を思わせるものなので、文芸としてはいわずにはいられぬ必然性のあるものである。そうした理由でいっているにもかかわらず、坂上郎女のいっていることは、理願のいかに心細い身の上であるか、またいかに大伴家をたよっていた隣れむべき人であったかということである。尼としての理願であるから、その上で尊んでいおうとしたならば、何事かがあったであろうが、それには全然触れようとしていないのは、その時の感傷がさせたことともいえ、また当時の仏教の実際に関係してもいたろうと思えるが、主となっているものは、若い女性のものの感じ方よりきているものと思える。第二段は、理願の死去と葬送である。「憑めりし人の尽草枕旅なるほどに」と、前段を承けて、理願の憫れむべき人であることを強調し、後段、自身の悲しみの伏線とした上で、理願の生涯の終りをいっているのである。その死をいうに、「生るれば死ぬといふ事に免れぬ物にしあれば」と、仏説を引いて、暗示の程度にとどめているのは、理願を尊んでの言い方で、用意をもってのものと取れる。「佐保河を朝川渡り」以下、いわゆる道行体を用いているのは、その事を具象的にいい、鄭重にいうことによって、悲しみを尽くそうとしてのもので、これは型となっていることで、大体としては技巧ではない。技巧は、その上に立っての言いあらわしにあって、いったがように、葬送される理願を、理願その人の心よりのことのごとくに扱い、「朝川渡り」「背向にしつつ」といい、また郎女も「隠りましぬれ」と、遙かに見送っているがごとき言い方をしているのである。「朝川」に「晩闇」を対させているところ、「晩闇と」の譬喩の新鮮味をもっているところなど、細緻でありながら自然で、郎女の才情を示しているものである。第三段は、理願の死に対する悲しみをいっているもので、一首の主旨である。ここは第一段、二段を綜合して、いかにその隣れみと悲しみの深いものであるかをいっているのであるが、注意されることは、それが理願その人に対してのものというよりも、むしろ母石川郎女に訴えるものとなっていることである。ここにいっている、我がただ独りで当惑したということは、その悲しみを深くさせられたという理由では挽歌につながるものであるが、これは明らかに母に対しての訴えとい(273)えるものである。挽歌は世を去った人の霊を慰めるものであるのに、それが稀薄になっているということは、時代の影響のあることで、上代よりの信仰が、仏教との関係において推移しつついたことを示すものかと思われる。「嘆きつつ吾が泣く涙」以下の結末は、飛躍の大きいものであるが、いったがように八千矛神の御歌の心を前進させたもので、その意味での技巧の優れたものであることを示しているものである。総括していうと、知性の明らかさと感性の細かさとが相俟って、余裕をもって一首を成しているところは、その才情を思わせるものであるが、それとともに平面的となり、散文的な趣を帯びてきて、歌の魅力をなすところの沈潜するもの、または盛り上がってくるものの乏しいものとなっている。これは一に作者の気魄の不足よりきたるものである。このことは、作者の女性であることと、時代の生活気分よりきているものと思われる。
 
     反歌
 
461 留《とど》め得《え》ぬ 寿《いのち》にしあれば 敷細《しきたへ》の 家《いへ》ゆは出《い》でて 雲隠《くもがく》りにき
    留不得 壽尓之在者 敷細乃 家從者出而 雲隱去寸
 
【語釈】 ○留め得ぬ寿にしあれば 「留め得ぬ」は、人の力をもってしては留め得られないところの。「寿」は、寿命。「し」は、強め。○家ゆは出でて 「家ゆ」は、家より。死者として墓地に移されること。○雲隠りにき 「雲隠る」は、(四一六)に出た。死ぬと魂か天に昇ることを具象的にいったものである。この語は、高天原より降られた尊貴の御方に対し、「神上《かむあが》り」と申すのに近い語で、身分の下《くだ》った者には用いなかったものとみえる。今は理願を尊んでいったものではあるが、妥当とはみえない。当時これを妥当としたのは、火葬ということが一般化し、死者の身が煙となって空に騰るところから、その煙を雲と見て、雲と化し去る意でいったのではないかと思われる。「き」は、過去で、ここでは過去の者となった意で、感を強めるものとしている。
【釈】 人力をもっては留め得られないところの寿命であるので、その家から出て、その人は雲に隠れてしまった。
【評】 長歌の第二段、三段を総括して繰り返したものである。ここには悲しみつつも静かな諦めがあって、反歌としての進展を示している。
 
     右、新羅の国の尼、名を理願と曰へり。遠く王徳に感じて聖朝に帰化せり。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄住し、既に数紀を逕たり。ここに天平七年乙亥を以て、忽に運病に沈《しづ》み、既《はや》く泉界に趣く。是《ここ》に大家《たいこ》石川命婦、餌薬の事に依りて有間の温泉に往きて、この喪に会はず。但《ただ》郎女独(274)留りて屍柩を葬り送ること既に訖《をは》りぬ。仍りて此歌を作りて温泉に贈り入る。
      右、新羅國尼、名曰2理願1也。遠感2王徳1歸2化聖朝1。於v時寄2住大納言大將軍大伴卿家1、既逕2數紀1焉。惟以2天平七年乙亥1、忽沈2運病1、既趣2泉界1。於v是大家石川命婦、依2餌薬事1往2有間温泉1而不v會2此喪1。但郎女獨留葬2送屍柩1既訖。仍作2此謌1贈2入温泉1。
 
【解】 「王徳」は、天皇の御徳。「聖朝」は、天皇の御国。「大納言大将軍大伴卿」は、大伴安麿で、旅人、郎女などの父。続日本紀に、「和銅七年五月丁亥朔、大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麿薨」とある。「数紀」は、一紀は十二年で、数紀は三、四紀である。「運病」は、天命としての病で、老病というべきものに取れる。「大家」は、婦人に対する尊称。「石川命婦」は、石川は氏、命婦は、後宮に仕える女官の役名である。この人は「石川朝臣」とも記されているが、朝臣は姓である。また「石川内命婦」とも記されているが、内命婦は五位以上の者の称である。また名を邑婆《おほば》ともいったとある。安麿の妻で、郎女の母である。「餌薬の事」は、病気療治の事で、湯治にあたる。
 
     十一年己卯夏六月、大伴宿禰家持、亡妾を悲傷して作れる歌一首
 
【題意】 「家持」は、(三九五)に出た。天平十一年の家持の年齢を『講義』は考証している。『公卿補任』によると、家持は宝亀十年に五十二歳、天平元年生まれとあるが、それだとこの時は十一歳で、題詞にふさわしくない。しかるに、巻十七(三九一一)以下三首、天平十三年の作の左注に、「右、四月三日内舎人大伴宿禰家持、久邇《くに》京より弟書持に報《こた》へ送る」とあって、その時には内舎人であったことがわかる。内舎人は「軍防令」に、「凡五位以上子孫年廿一以上、見(ニ)無2役任1者、毎年京国官司勘検知v実、限2十二月一日1并v身送2式部1、申2太政官1検2簡性識聡敏儀容可1v取、充2内舎人2三位以上(ノ)子不v在2簡(ノ)限1云々」とあって、家持は従二位大納言旅人の子でその資格があり、また年齢は、その時を初任としても二十一歳以上であったことが知られる。それだと此の年は、少なくとも十九歳だったのである。「亡妄」はいかなる身分の者とも知られない。大宝令によると、妾は公に認められ、戸籍に登録されることに規定されている。
 
462 今《いま》よりは 秋風《あきかぜ》寒《さむ》く 吹《ふ》きなむを 如何《いかに》か独《ひとり》 長《なが》き夜《よ》を宿《ね》む
    從今者 秋風寒 將吹焉 如何獨 長夜乎將宿
 
(275)【語釈】 ○今よりは 今より後はで、時は陰暦六月で、秋近き時であるから、秋を佗びしい時として思いやったもの。○秋風寒く吹きなむを 「吹きなむ」の「なむ」は、未来の想像をあらわす語。「を」は、ものを。○如何か独 「如何か」は、どのようにしてかで、「か」は疑問。「独」は、相手のない夜の床。○長き夜を宿む 「長き夜」は、秋の夜の長きを、肌寒さの長さとしていったもの。
【釈】 今よりは秋風が寒く吹こうものを。どのようにして、ただ一人で、その長い夜の肌寒さとさみしさに堪えていこうか。
【評】 妾の死を悲しんだものであるが、いっているところは、秋の夜床の肌寒さの思いやりで、旅愁と異ならないものであり、それも差迫ってのものではなく、将来のこととしてであって、余裕のあるものである。心は単純なものであるが、この歌は訴える力をもっている。それは家持の心の純粋なのと、抒情性の豊かなためであるが、それとともに、若々しいながら父旅人に似た一種の気品をもっているからで、このほうがむしろ主となっているためである。「如何か独」という句など、語《ことば》としては平凡であるが、情の充ちたものである。歌人としての素質を思わせるに足りる歌である。
 
     弟大伴宿禰|書持《ふみもち》、即ち和《こた》ふる歌一首
 
【題意】 「書持」は、家持の弟ということが知られるだけで、伝はわからない。巻十七、(三九五七〜三九五九)にその長逝を悲しむ家持の長歌と短歌があり、作った時は左注によって天平十八年秋九月二十五日、作った所は任国越中においてであるから、その頃に早世したのである。集中に歌は少なくない。「即ち」は、即時にの意。
 
463 長《なが》き夜《よ》を 独《ひとり》や宿《ね》むと 君《きみ》がいへば 過《す》ぎにし人《ひと》の 念《おも》ほゆらくに
    長夜乎 獨哉將宿跡 君之云者 過去人之 所念久尓
 
【語釈】 ○独や宿むと君がいへば 「独や」の「や」は、疑問。独りで寝るのだろうかと嘆いて君がいうのでの意。○過ぎにし人の この世を去ってしまった人ので、兄家持の妾。○念ほゆらくに 「念ほゆらく」は、「く」を添えることによって名詞形としたもの。「に」は詠歎。思われることであるよで、「念ほゆ」は嘆きの意のもの。
【釈】 長い夜を、独りで寝るのであろうかと、嘆いて君がいわれるので、我も世を去ってしまった人が悲しく思われることであるよ。
【評】 兄の嘆きをとおして、その妾であった人の死を悲しむという心のもので、兄を慰め、それにもまして死者を慰めている(276)という、時宜に叶った歌である。調べのさわやかさはないが、頭脳の明敏を思わせるもので、情の細かさは兄に勝っているものがあるといえる。
 
     又家持、砌《みぎり》の上の瞿麦《なでしこ》の花を見て作れる歌一首
 
【題意】 「又」は、上の歌と同じ心を、また作った意。「砌」は、軒下。「上」は、ほとり。「瞿麦」は、かわらなでしこで、今、山野に自生する物。
 
464 秋《あき》さらば 見《み》つつ思《しの》へと 妹《いも》が植《う》ゑし 屋前《やど》の石竹《なでしこ》 開《さ》きにけるかも
    秋去者 見乍思跡 妹之殖之 屋前乃石竹 開家流香聞
 
【語釈】 ○秋さらば見つつ思べと 「秋さらば」は、秋が移ってきたならばで、秋は石竹《なでしこ》の花の咲く時としてのもの。「見つつ」は、継続。「思ふ」は、眼前にない物を思う意と、眼前の物を深く愛ずる意とがある。ここは後のもの。「思へ」は、命令形で、深く愛でよ。「と」は、といって。○妹が植ゑし屋前の石竹 妹が植えたところの庭の石竹の、その花がの意。○開きにけるかも 咲いてきたことであるよ。
【釈】 秋が来たならば、見つづけて深くも愛でよといって、妹が植えたところの庭の石竹《なでしこ》の、その花、か咲いて来たことであるよ。
【評】 秋、砌の石竹の咲いてきたのを見て、それを植えた亡き妾を思い、深い感慨を発したものである。「秋さらば見つつ思へ」と予期をかけた人は命が尽き、予期をかけられた石竹は、命あるままにそのとおりに花となったのであるから、感慨の深いものがあったと思われる。それを「開きにけるかも」という詠歎にこめて、何事もいおうとはしていないものである。抒情性の強いもので、それが味わいとなっている作である。
 
     移朔して後、秋風を悲嘆して家持の作れる歌一首
 
【題意】 「移朔」は、漢語で、「朔」は月のはじめの日、「移」は移るで、月がかわっての意である。前よりの読きで、妾の死んだのは六月であるから、七月に入ってということである。「秋風」は、七月は陰暦では秋だからである。
 
465 虚蝉《うつせみ》の 代《よ》は常《つね》なしと 知《し》るものを 秋風《あきかぜ》寒《さむ》み しのひつるかも
(277)    虚蝉之 代者無常跡 知物乎 秋風寒 思努妣都流可聞
 
【語釈】 ○虚蝉の代は常なしと 「虚蝉」は、現身《うつしみ》の転じたもので、古くは幽《かく》り身《み》に対しての称であったのを、仏教が信じられることになって以来、現世の身となったもの。ここは仏教の意のもの。「代」は、上より続いて、現身として生きている代、すなわち現世。「常なし」は、恒久性がない、すなわち流転してやまないものの意。「と」は、ということは。二句、人生の無常なものであるということはの意。○秋風寒みしのひつるかも 「秋風寒み」は、秋風が寒くしてで、独寝の肌寒いのでの意。「しのひつる」は、眼前にいないものを恋しく思ったで、亡妾を慕う意。「かも」は、詠歎。
【釈】 現世は無常なものということは知っているものを、秋風が寒くて、ひとり寝の肌寒さに刺激されて、世にない人を恋しく思ったことであるよ。
【評】 人生の無常だということは、知性の上では覚悟しているが、現実の刺激によって乱されるといって嘆いたものである。(四六二)で、「今よりは秋風寒く」と思いやって嘆いた、それが事実となってきたものである。その時は感性のみであったのが、今は知性的となり、諦念の上に住そうと思い、同じく「秋風のことをいって、「秋風寒みしのひつる」と、肌寒さは余情とし、「しのびつる」と過去にして言っているのである。「しのひ」の対象をいわずにあらわしているとともに、連作の趣を発揮している作である。
 
     又、家持の作れる款一首 并に短歌
 
466 吾《わ》が屋前《やど》に 花《はな》ぞ咲《さ》きたる そを見《み》れど 情《こころ》も行《ゆ》かず 愛《は》しきやし 妹《いも》がありせば 水鴨《みかも》なす 二人《ふたり》双《なら》び居《ゐ》 手折《たを》りても 見《み》せましものを 打蝉《うつせみ》の 借《か》れる身《み》なれば 露霜《つゆしも》の 消去《けぬ》るが如《ごと》く 足《あし》ひきの 山道《やまぢ》を指《さ》して 入日《いりひ》なす 隠《かく》りにしかば そこ念《も》ふに 胸《むね》こそ痛《いた》き 言《い》ひも得《え》ず 名付《なづ》けも知《し》らに 跡《あと》もなき 世間《よのなか》にあれば 為《せ》むすべもなし
    吾産前尓 花曾咲有 其乎見杼 情毛不行 愛八師 妹之有世婆 水鴨成 二人雙居 手折而毛 令見麻思物乎 打蝉乃 借有身在者 露霜乃 消去之如久 足日木乃 山道乎指而 入日成 隱去可婆 曾許念尓 胸己所痛 言毛不得 名付毛不知 跡無 世間尓有者 將爲須辨毛奈思
 
(278)【語釈】 ○吾が屋前に花ぞ咲きたる 「屋前」は、庭の意のもの。「花」は、前よりの関係、また後の続きで、「石竹」の花と取れる。○そを見れど情も行かず 「情行く」という語は、集中には他に例のないもので、後世盛んに用いられる語である。心が満足する意である。「情も行かず」は「も」は詠歎で、心が満足もしない。○愛しきやし妹がありせば 「愛しきやし」は、愛しきで、しばしば出た。妹を形容したもの。「妹がありせば」の「せば」は、仮定で、もしも生きていたならば。○水鴨なす二人双び居 「水鴨」は、水にいる鴨で、鴨を具象的にいったもの。「なす」はのごとく。水上の鴨は雌雄並んで睦ましくしているのを捉えて譬喩としたもの。「二人双び居」は、夫妻の睦ましさを具象的にいったもの。○手折りても見せましものを 折って妹に見せようものをで、「まし」は「せば」の帰結。以上一段。○打蝉の借れる身なれば 「打蝉」は、上の歌に出た。意も同じ。「借れる身なれば」の「借れる」は、「借りある」の約で、かりに成っているの意。仏説では、人身は諸縁のかりに合っている状態だとしている、それに依ったもの。○露霜の消去るが如く 「露霜」は、巻二(一九九)「露霜の消《け》なば消《け》ぬべく」に出た語で、露や霜の意。意味で「消」に続く枕詞。「消去るが如く」は、消えてしまうがようにで、はかなくも死ぬ意の譬喩。上に引いた二句は人麿作中のもので、この二句はそれを摸したものと思われる。○足ひきの山道を指して 「山道」は、墓地としての山へ向う道。上の(四六〇)に「足ひきの山辺を指して」があった。坂上郎女の作中のもので、これはいうほどのものではないが、同じく影響を受けたものと思われる。○入日なす隠りにしかば 二句、巻二(二一〇)に出た。入日のごとく隠れてしまったのでの意で、葬られたこと。これは人麿の作中のもので、それを模したと思われる。○そこ念ふに胸こそ痛き 「そこ念ふに」は、その点すなわち死を思うに。「胸こそ痛き」は、悲しみのはげしいために、胸が痛いの意で、これは今もいう形容である。「こそ」を、連体形の「痛き」で結ぶのは、当時の古格である。○言ひも得ず名付けも知らに 二句、(三一九)「不尽の山を詠める歌」に出た。言いあらわすこともできず、名づけようも知られずにで、これもそれを模したものと思われる。○跡もなき世間にあれば 「跡もなき」は、死後に残す物もないで、常なきさまの甚しさをいったもの。(三五一)「世間《よのなか》を何に譬へむ旦開傍ぎ去にし船の跡なきが如」の影響を受けているものと思える。○為むすべもなし すべき方法もない。
【釈】 わが庭に花が咲いていることである。それを見るけれども、心は満足もしない。可愛ゆい妹がもし生きていたならば、水の上の鴨のごとくに睦ましく、吾も二人で双んでいて、折り取っても妹に見せようものを。現世のこの身は、衆縁のかりに合って成っているものであれば、露や霜の消えてしまうようにはかなくも死んで、その墓地のある山への路をさして、入日のごとく隠れてしまったので、その点を思うと、はげしい悲しみに胸の痛いことであるよ。言いあらわすこともできず、名づけるようも知られないまでに、後《あと》に残すものとてもない無常の世間《よのなか》なので、するべき方法とてもない。
【評】 この歌は、「砌《みぎり》の上の瞿麦《なでしこ》の花」といっている、前々より繰り返し作っているところの花に対して亡妻を思い出したことが作因で、主としていっていることは、その死は人生の大法の如何ともし難いものであるから、諦めるべきであるとして、諦めを強いているものである。すなわち感情を理知をもって抑えようとする複雑味をもったものである。一首の歌として見ると、この歌は、読後の感銘の薄い、不出来なものである。それは、一首の歌として最も大切である統一力が欠けているのと、また、「語釈」でいったように、故人または先輩の佳句を捉えきたって用いているものが多いので、それがおのずから不調和のものと(279)なり、流動の相をもち得ないためである。なぜに統一力が欠けたかは、一首の構成に無理があるためである。主としていわんとすることは、死生観というがごとき大規模なものであるのに、作因は砌に咲いている瞿麦の花という小さなものである。このいささかなる作因を、感傷をたよりに、強いて大問題へ展開させようとしたがために、感傷に圧倒されて混乱の形に陥り、統一がつけられなかったものとみえる。また、故人や先輩の句の多くを捉えきたったのは、その根本には、長歌を作るには力が足らず、人の影響を受けやすい人柄でもあったためと思われるが、今の場合としては、知性的なことをいうのは不得手である人が、感情をとおしてそれを言いきろうとするところから、平生佳句として記憶にあったところのものを拉しきたって、それによって力あらしめようとしたためではないかと思われる。この二つのことが合して不出来なものとしたのであるが、要するに、短歌は手に入った作をするまでに至っていたが、長歌は稽古時代で、手に余ったがためで、家持としての道程を示している作である。用いている枕詞が、譬喩からきたものの多いことも、同じ理由からと思える。しかしこれに続く長歌の安積皇子《あさかのみこ》に対しての二首は、その間に五年の隔たりはあるが、別手の観をもったものとなっている。
 
     反歌
 
467 時《とき》はしも 何時《いつ》もあらむを 情《こころ》哀《いた》く い去《ゆ》く吾妹《わぎも》か 若子《みどりご》を置《お》きて
    時者霜 何時毛將有乎 情哀 伊去吾味可 若子乎置而
 
【語釈】 ○時はしも何時もあらむを 「時はしも」の「時」は、下の「い去く」時で、すなわち死ぬ時。「しも」は、強め。「何時もあらむを」は、いつにてもあろうものをで、いつと限ったことではなかろうものを。○情哀く 「哀」は、『類聚名義抄』に「いたむ」の訓のある字。わが心を痛くしてで、悲しみの深い意。○い去く吾妹か 「い去《ゆ》く」は旧訓。『考」は「いぬる」、『槻落葉』は「いにし」と訓み、一定していない。「い」は、接頭語。「去《ゆ》く」は、死者となって家を出てゆく意で、死ぬこと。『講義』は、ここは「去」の字を主としたものだとの理由で旧訓を取っている。これに従う。「か」は、詠歎。死者は霊として存しているものと信じていたので、その点からも現在法を用いていることが不合理ではない。○若子を置きて「君子《みどりご》」は旧訓。『玉の小琴』は「わくご」、『槻落葉』は「わかきこ」と訓んでいる。巻二(二一〇)「若児《みどりご》の乞ひ泣くごとに」があり、それによっていようという解に従う。「置きて」は、後《あと》に残して。
【釈】 死ぬ時といえば、いつでもあろうものを、わが心を痛くして家を出てゆく妹であることよ。緑児を後に置いて。
【評】 妻の死を嘆いた心であるが、嘆きの中心は、後《あと》に残した緑児に対しての隣れみに置いているもので、その点では例の稀れなものである。上に挙げた巻二(二一〇)は、人麿の同じ状態において詠んだ歌であるが、それは乳のない当惑さを主としたものである。これはただ隣れみだけを主としたもので、その点では異なっているが、いずれも妻の死を子に結びつけたもの(280)で、その意味では稀れなものである。人麿の影響を受けたもの  かと思われるが、その受け方は家持的であるといえる。日常生活に即した歌である。
 
468 出《い》でて行《ゆ》く 道《みち》知《し》らませば 予《あらかじめ》 妹《いも》を留《とど》めむ 塞《せき》も置《お》かましを
    出行 道知末世波 豫 妹乎將留 塞毛置末思乎
 
【語釈】 ○出でて行く道知らませば 「出でて行く」は死者として家を出て、向かって行くで、下の「道」へ続く。「道」は、冥途の道。「知らませば」は、もし知っていたならばで、仮定。○予 旧訓「かねてより」。『考』は「あらかじめ」と改めた。この改訓は、『槻落葉』の支持し、『攷証』の反対しているもので、定まってはいない。「かねてより」も「あらかじめ」も、仮名書きの例のないものだからである。『講義』は、「かねてより」は、「かねて」を体言として「より」を添えたもので、源氏物語より以前にはない語であり、この場合も「より」の意は加えるべきではない。『類聚名義抄』には「予」に「あらかじめ」の訓はあるが、「かねてより」はないと理由を挙げて、『考』の改訓に従っている。○妹を留めむ塞も置かましを 「留めむ塞」は、行くのを引留める関で、当時、街道の要害の地には関を据えて、人の自由な往来を禁じていたので、それによっての想像。「置かましを」は、据えておこうものをで、「まし」は、上の「せば」の帰結。
【釈】 家を出て向かって行くところの冥途の道をもし知っていたならば、前もって、行く妹を引留めるところの関も据えておこうものを。
【評】 これは妹のみを対象としたものである。上代の信仰として、生者と死者との距離は近く、死者は霊として異なる所に存在しているものと信じられていた。死を「出でて行く」といい、また、「留めむ塞」といっているのも、この信仰が背後にあっての言で、感傷よりの空想とはいえないものである。したがってこうした心を詠んだ歌は少なくないのである。この歌はその範囲のものである。
 
469 妹《いも》が見《み》し 屋前《やど》に花《はな》咲《さ》き 時《とき》は経《へ》ぬ 吾《わ》が泣《な》く涙《なみだ》 いまだ干《ひ》なくに
    妹之見師 屋前尓花咲 時者經去 吾泣涙 未干尓
 
【語釈】 ○妹が見し屋前に 「屋前」は、庭の意のもので、(四六四)に出た。妹が世にあって見た庭に。○花咲き時は経ぬ 「花」は、同じく(四六四)の石竹《なてしこ》の花と取れる。「時は経ぬ」は、亡くなってから時が経過した意。○吾が泣く涙いまだ干なくに 「吾が泣く涙」は、妹の死を悲しん(281)での涙。「干なくに」は、干ないことであるのにの意。
【釈】 妹が世にあって見た庭に、石竹《なでしこ》の花が咲き、時は過ぎ去った。妹を悲しんでわが泣く涙は続いて、まだ乾かないことであるのに。
【評】 妹がその咲くのを見ようと楽しんだという石竹が、亡き後に咲いて、悲しみを新たにしての歌である。作意は実際に即したものである。しかし詠み方は、巻五(七九八)「妹が見しあふちの花は散りぬべし吾が泣く涙いまだ干なくに」に倣ったものであることは明らかである。この歌は山上憶良のもので、家持は尊むべき先輩として、その風に倣ったものが他にもあるので、これもそれと取れる。当時すでに歌の詠み方には型ともいうべきものがあって、稽古としてそれを学ぶのが普通で、家持もそれをしていたことを示しているものである。
 
     悲緒未だ息《や》まず、更に作れる歌五首
 
470 かくのみに ありけるものを 妹《いも》も吾《われ》も 千歳《ちとせ》の如《ごとく》 憑《たの》みたりける
    如是耳 有家留物乎 妹毛吾毛 如千歳 〓有來
 
【語釈】 ○かくのみにありけるものを 二句、(四五五)に出た。このようにばかり常なき世であるものを。○千歳の如憑みたりける 「千歳の如《ごとく》」は旧訓。『考』は「如《ごとも》」と訓んだ。『講義』は、「如《ごと》も」という例は、巻九(一八〇七)「昨日《きのふ》しも見けむがごとも念ほゆるかも」など仮名書きの例によると、下にただちに「かも」の接した場合に用いられているので、旧訓の方が当たっているといっている。「憑みたりける」の、「ける」は旧訓で、『童蒙抄』は、「けり」と訓んでいる。「ける」は連体形で、普通は上に「ぞ」「や」「か」「なも」の係助詞があって、その結となるものである。ここはその係助詞がないので、異例として問題としているものである。この例は他にもなくはなく、『講義』は、巻二十(四四九六)「うらめしく君はもあるかやどの梅の散り過ぐるまで見しめずありける」を引いている。この形は詠歎をこめたもので、頼んでいたことであるよの意となり、作意としてこの場合に適当なものとなるので、旧訓に従うべきであろう。
【釈】 このようにばかり常の無い世であるものを、妹も吾も、千年も生きられるもののごとくに頼んでいたことであるよ。
【評】 人間共通の人情で、痛感する者にとっては新たとなるものである。この歌も、その痛感した程度が、強い調べとなって現われており、形もそれに従って、素朴な、純粋なものとなっており、感のあるものである。
 
(282)471 家離《いへさか》り います吾妹《わぎも》を 停《とど》め不得《かね》 山隠《やまがく》りつれ 情神《こころど》もなし
    離家 伊麻須吾味乎 停不得 山隱都礼 情神毛奈思
 
【語釈】 ○家離りいます吾妹を 「家離り」は、家を離れてゆくことで、離れるのは下の「吾味」である。事は死者として葬られるのであるが、それを吾妹自身の心としていっているもので、これは死者を、霊としての存在とし、尊む心からである。「います」は、「離り」を敬語とするために添えたもの。家を離れられるところの妹を。○停め不得 「不得」は、「得ず」「得ぬ」とも訓ませ、「かね」と義訓としても用いている字である。ここはいずれに訓んでも意味は通じるが、「かね」と訓むほうが、事としていっているのではなくて、感傷としていっているものなので、語感として、「かね」に当てたと見るほうが作意であろうと思われる。○山隠りつれ 「山隠り」は、山に隠れる意で、事としては、葬地としての山に葬られる意である。それは妹自身隠れたこととしていっているのは、上の「離り」と同じ心からである。「つれ」は、後世の「つれば」にあたる古格。○情神もなし 「情神」は、(四五七)に出た。心の落ちつき所で、それもないというので、悲しみのため、心が身に添っていない意。
【釈】 家を離れられるところの吾妹を引留めることができず、山に隠れてしまったので、悲しみのために、心が身に添ってもいない。
【評】 葬送の時の悲しみを思い浮かべての悲しみである。生者と死者との距離は近いが、しかしそのための関は越え難いものとする心は、その関となった葬送の時が、限りなく深い悲しみとなって、いつまでも胸にまつわっていたものと思われる。その意味で、葬送の際の叙事は、ただちに悲しみの具象化となりうるものである。この歌はそう取れる。
 
472 世間《よのなか》し 常《つね》かくのみと かつ知《し》れど 痛《いた》き情《こころ》は 忍《しの》びかねつも
    世間之 常如此耳跡 可都知跡 痛情者 不忍都毛
 
【語釈】○世間し常かくのみと 「世間し」の「し」は強め。「常かくのみと」は、常に、このようにばかり無常のものであるという事は。○かつ知れど 「かつ」は、片方ではの意の副詞。「知れど」は、知っているけれども。○痛き情は忍びかねつも 「痛き情」は、旧訓「痛む情」。『童蒙抄』が「痛き」と改めた。「痛む」といえば時間が広くなり、「痛き」というと、狭く、現在のこととなって、感が強くなる。作意は「痛き」と取れる。悲しみのために痛い心。原文「不忍」は、諸注、「不得忍」の「得」の脱したものであろうというが、文字は諸本一様である。「不忍」を「しのびかね」と訓ませているのはこの一か所のみであるが、義訓とすべきである。「も」は、詠歎。堪えられないことであるよの意は、悲しみに乱されていることを綜合的にいったもの。
(283)【釈】 世間というものは、常にこのようにばかりある。すなわち無常なものであるということは、片方では知っているけれども、悲しみに痛む心は、その甲斐もなく、堪えられないことであるよ。
【評】 愛する者に死別した悲しみの、世間無常のことわりに従って諦めることのできない嘆きをいったもので、これまた、人間共通の心である。「かつ」と条件を付していい、「忍びかねつも」と綜合していっているところに、実際に即しての痛感であることを思わしめる。真率をもって貫いている。
 
473 佐保山《さほやま》に たなびく霞《かすみ》 見《み》る毎《ごと》に 妹《いも》を思《おも》ひ出《で》 泣《な》かぬ日《ひ》はなし
    佐保山尓 多奈引霞 毎見 妹乎思出 不泣日者無
 
【語釈】 ○佐保山にたなびく霞 「佐保山」は、次の歌によって、亡妾の墓のある山だとわかる。「たなびく霞」は、なびいている霧で、今は時は秋と取れるが、古くは霧をも霞と呼んでいたのである。これは用例の多いものである。○妹を思ひ出 「思ひ出」は、旧訓「思ひ出でて」。『童蒙抄』は「思ひ出《で》」、『考』は「思《も》ひ出《で》て」、『略解』は「思ひ出《で》て」で、定まらない。『講義』は、用例として、日本書紀、仁徳紀、「本辺《もとべ》は君をおもひで、末辺《すゑべ》は妹をおもひで」を引いて、『童蒙抄』の訓を支持している。
【釈】 佐保山に靡いている霧を見るたびごとに、そこに葬られている妹を思い出して、泣かない日とてはない。
【評】 妹を葬ってある佐保山に、ほの白く秋霧の靡いているのを見ると、それが刺激となって、妹を思い出して涙となるというのである。霧が刺激となるということには、何ら直接の理由があるのではなく、強いていえば、佐保山の状態が、平日とは異なったものに見えるがゆえに刺激となるのであり、またそれが秋霧という静かな、しめやかなものであるゆえに、悲しみに引き入れる刺激となるというにすぎないのである。要するに、事なき時であったならば、何の刺激ともならないものが、悲しみに敏感になっているがためになってくるという範囲のものである。歌因は主観的なものであるにかかわらず、広く同感を誘いうる客観性をもっているのは、その主観か偏ったものではないためと、具象化が適当なためとである。
 
474 昔《むかし》こそ 外《よそ》にも見《み》しか 吾妹子《わぎもこ》が 奥槨《おくつき》と念《も》へば はしき佐保山《さほやま》
    昔許曾 外尓毛見之加 吾妹子之 奧槨常念者 波之吉佐寶山
 
【語釈】 ○昔こそ外にも見しか 「昔」は、以前の意のもので、ここは佐保山が亡妾の墓地となる以前の意でいったもの。「外」は、関係のない所。(284)「しか」は、上の「こそ」の結。以前は関係のない所と見たの意。○吾妹子が奥槨と念へば 「奥槨」は、(四三一)に出た。奥つ城《き》で、墓の意。「念へば」は、「念《おも》へば」とも「念《も》へば」とも訓みうる。今は「念《も》へば」に従う。○はしき佐保山 「はしき」は、巻二(二二〇)「愛《は》しき妻らは」と出た、その愛《は》しきで、愛すべき。「佐保山」は、詠歎をこめてのもの。
【釈】 以前は関係のない所と見ていた。それを吾妹子が墓であると思うので、愛すべき佐保山よ。
【評】 亡妾に対してのはげしい悲哀が鎮まって、その墓のある佐保山をなつかしいものとして望むように移ってきた心である。時の経過がさせたものと取れる。「吾妹子が奥槨と念へばはしき佐保山」は、佐保山全体を妹が墓と感じる心で、誇張というよりも、心の余裕がなつかしみの範囲を押拡げさせたものである。この一連の歌は、こうした心境に到達し得た時のものであることを示している。
【評又】 この一連五首は、(四六二)以下、亡妻に関する何首かの歌とは、著しく面目を変えたものである。これまでの歌は、悲哀に圧倒されて心緒が纏まらず、亡妻の思い出の中、最も直接であった砌の石竹の花という一微物に取縋って、その感傷を繰り返しいっているにすぎないものであったのに、ここに至ると、亡妻その人の全体を捉え、広い人生の中の一人として扱ってきていて、態度が全然改まってきているといえるものである。これは、時の経過が、亡妻との間に距離を持たせ、したがって余裕をもたせて来て、初めて大観することを得せしめたためである。この五首は連作の趣をもち、最後の第五首の、「昔こそ外にも見しか」の歌は、この一連を作る時に家持の至り得た心境の高さを示しているものである。なおこの一群の作によって注意されることは、対象としては同一なものであるが、それを扱う作者の態度によって、いかに価値の異なった歌となるかという作歌の機微を、家持自身如実に示していることである。これ以前の作は、対象に支配されたものであるのに、これは十分に対象を支配し得ているもので、そこに至って初めて価値の高い歌となり得たということで、またそうなり得たことによって、家持の心は初めて充たされて、これを最後としてこの事に関する歌を打切ることも得たのである。ほとんど同一の内容を繰り返して詠んでいたのは、心充つるものが得られず、したがって悲哀から離れられなかったのであるが、一たび会心の作を得ると同時に、その悲哀を客観化し、処理しうるに至ったのである。「悲緒未だ息《や》まず、更に作る」という題詞は、この間の消息を示しているものと思われる。さらにまた、これらの歌は挽歌とはいえ、直接に死者の霊を慰めようとしたところは認められず、一に家持自身の悲哀をやることを念として作っているものとみえる。死者を悲しむことは、やがて死者を慰めることとはなるが、しかし挽歌本来の目的からいうと間接なものといわざるを得ない。これは家持と亡妻との身分上の関係も伴ってのこととは思えるが、主としては、実用性のものであった挽歌が、文芸性のものに移りつつあったことを示していることで、時代の推移のためであろうと思われる。挽歌という上よりいえば、この一連以前の歌は、ここに至る過程にすぎないもので、存せしめる要のないものであるのに、そのすべてをとどめているということは、文芸性の上に立ってのことと取れる。
 
(285)     十六年甲申春二月、安積皇子《あさかのみこ》の薨じ給ひし時、内舎人《うどねり》大伴宿禰家持の作れる歌六首
 
【題意】 「春二月」は、安積皇子の薨じられた時で、続日本紀には、「閏正月」となっている。日は「丁丑」で十三日である。家持が挽歌三首を作ったのは、左注によると「二月三日」であるから、薨去はその以前のことである。「閏正月」を「二月」というには、何らか当然の理由があったのであろう。「安積皇子」は、聖武天皇の皇子である。続日本紀にはこの時のことを、「乙亥、天皇行2幸難波宮1(中略)是日安積親王縁2脚病1従2桜井頓宮1還。丁丑薨。時年十七。(中略)親王、天皇之皇子也。母夫人正三位県犬養宿禰広刀自、従五位下|唐《もろこし》之女也」とある。桜井頓宮は、当時の河内国河内郡桜井郷にあったもので、今の六万寺はそのあった所だという。皇子は、皇太子にも立つべき御方であったが、皇太子はこの時より六年前の天平十年、阿倍内親王が御年二十一でお立ちになっていた。後の孝謙天皇である。これは御母が藤原氏であったためだという。「内舎人」は、職員令によると、「掌d帯刀宿衛(シ)、供2奉(シ)雑使(ニ)1、若(シ)駕行(アレバ)分c衛前後u」とある。定員は九十人、中務省に属していた。家持がこの職にあったのは、本集によると、天平十年より十六年に至る七年間である。「六首」は、前後二回にわたって、長歌に反歌二首の添ったものを作った、それを総括しての称であって、例のない書き方である。略しての称というよりも、歌そのものに力点を置いての書き方と取れる。
 
475 掛《か》けまくも、あやに恐《かしこ》し 言《い》はまくも ゆゆしきかも 吾《わ》が王《おほきみ》 御子《みこ》の命《みこと》 万代《よろづよ》に 食《め》し賜《たま》はまし 大日本《おほやまと》 久邇《くに》の京《みやこ》は 打靡《うちなび》く 春《はる》さりぬれば 山辺《やまべ》には 花《はな》咲《さ》(286)きををり 河湍《かはせ》には 年魚《あゆ》こさ走《ばし》り いや日《ひ》けに 栄《さか》ゆる時《とき》に 逆言《およづれ》の 狂言《たはごと》とかも 白細《しろたへ》に 舎人装束《とねりよそ》ひて 和豆香山《わづかやま》 御輿立《みこした》たして 久堅《ひさかた》の 天知《あめし》らしぬれ 展転《こいまろ》び ※[泥/土]《ひづ》ち泣《な》けども 為《せ》むすべもなし
    挂卷母 綾尓恐之 言卷毛 齋忌志伎可物 吾王 御子乃命 万代尓 食賜麻思 大日本 久迩乃京者 打靡 春去奴礼婆 山邊爾波 花咲乎爲里 河湍爾波 年魚小狹走 弥日異 榮時尓 逆言之 狂言登加聞 白細尓 舍人装束而 和豆香山 御輿立之而 久堅乃 天所知奴礼 展轉 ※[泥/土]打雖泣  將爲須便毛奈思
 
【語釈】 ○掛けまくもあやに恐し 「掛けまくも」は、掛けむを、「く」を添えて名詞形としたもの。掛ける事はの意。「掛く」は、わが心に及ぼし、またはわが言葉に及ぼすことで、ここは心の意のもの。「も」は、詠歎。「あやに」は、甚しくも。「恐し」は、恐れ多し。○言はまくもゆゆしきかも 「言はまくも」は、わが言葉としていおうことは。「ゆゆしきかも」は、「ゆゆしき」は忌み憚るべきことの意。「かも」は、詠歎。以上四句は、天皇または皇子など、きわめて尊貴なる御方は、人倫を超えられたものとしての讃え詞で、ここは安積皇子に対してのもの。○吾が王御子の命 いずれも安積皇子を称したもの。「御子の命」は公式には皇太子に対しての尊称で、その場合は、「命」は「尊」の字を用いることに定められていた。ここは、心としては同じ意の尊称。ほぼ同意の称を重ねているのは、尊んで鄭重にいったのである。○万代に食し賜はまし 「万代に」は、万年にわたって、すなわち永久に。「食《め》し」は、「食《を》し」に当てた用例もある字である。巻一(五〇)「食《を》す国《くに》を見《め》し賜はむと」を初め、こうした続きの場合は、「食《め》し」といっているので、ここもそれである。支配の意の「見《み》」を敬語として「見す」とし、それを転じたもの。「賜はまし」の「まし」は、連体形で下に続く。御支配になるであろうところの意。○大日本久邇の京は 「大日本」は、久邇の京の所在を示す語であるが、その京は山城国であるので、ここは文字どおりわが日本の意であり、「大」は讃詞である。「久邇の京」は、京都府相楽郡加茂、山城、木津町にわたる地に営まれた都であって、五年間の皇都であった。すなわち天平十二年、奈良の宮よりこの京へ遷都され、天平十六年二月には、さらに難波の宮へ遷都され、天平十七年には、また奈良の京へ遷られたのである。安積皇子の薨じられた天平十六年二月には、京は難波であって、久邇の宮は鈴鹿王が留守官となっておられ、安積皇子もこの宮にいられたのである。なお「大養徳恭仁《おほやまとくにの》大宮」という称は、そこが皇都であった時、勅命によって定められた号である。○打靡く春さりぬれば 「打靡く」は、春の木草の状態をいったもので、形容の意で春にかかる枕詞。「春さりぬれば」は、春がめぐってきたのでの意で、皇子薨去の際の季節をいったもの。○山辺には花咲きををり 「山辺」は、久邇の京の周囲をめぐらしている山のあたり。「花咲きををり」は、「花」は、下の反歌によると桜と取れる。「ををり」は、巻二(一九六)に出た。春の木の枝葉が茂って靡き、あるいは咲く花によって撓んでいる状態をいった古語。○河湍には年魚こさ走り 「河湍」は、川の瀬で、久邇の宮に近い川は、古の泉河、(287)今の木津河である。「年魚こ」は、鮎の子で、いわゆる若鮎。若鮎は春のものである。「さ走り」は、「さ」は接頭語。「走り」は鮎の川に泳ぐ状感の敏捷なのを叔したもの。○いや日けに栄ゆる時に 「いや」は、ますます。「日けに」は、「日にけに」を略した語。「け」は日の意で、この場合、上の「日」と大体同じ意で畳んでいったもの。「栄ゆる時に」は、意味としては上の「大日本久邇の京」に続き、京の栄えてゆく時であるが、それに上四句の春の風物の栄えをも絡ませたものである。久邇の京は安積皇子の食《め》し賜う所としていっているので、京の栄えはすなわち皇子の栄えであって、その心をもっていっているものである。○逆言の狂言とかも 二句、(四二一)に出た。「逆言《およづれ》」は、妄りなる語の意の古語。「狂言」は、たわれたる語。「と」は、として。「かも」は、「か」は疑問、「も」は詠歎。妄りなる語のたわれたる語をいうのであろうか、の意で、家持は難波の宮にあって皇子の薨去を聞き、あまりの意外さに真とできなかった心。○白細に舎人装束ひて 「白細」は、白き栲《たえ》で、喪服としての白の衣。「装束《よそ》ひて」は、装いをしてで、改めて着かえる意。○和豆香山御輿立たして 「和豆香山」は、皇子の墓を営んだ地で、今は京都府相楽郡湯船村、和束町付近の山。「御輿」は、皇子の葬送され給う乗物。「立たして」は、「立つ」の敬語で、御輿を立つは、停める意。そこを葬地として停めたのである。皇子御自身の意志をもってお停めになった意でいったもの。これは尊んだ意で、しばしば出たもの。○久堅の天知らしぬれ 「久堅の」は、「天」の枕詞。「天知らす」は、「天」は天上の国、「知らす」は御支配になる意で、天皇の崩御、高貴なる皇子の薨去は、天上の国を御支配になるためだというのは、上代よりの信念で、これもしばしば例が出た。「知らしぬれ」は、後世の知らしぬればにあたる語の古格で、これまたしばしば出た。御支配になられてしまったので。○展転び※[泥/土]ち泣けども 「展転《こいまろ》び」の「こい」は、仮名書きの例のある語で、上二段活用の語の連体形であり、「こい伏す」また「こい転ぶ」と熟語としている関係上、「まろぶ」に近い意をもった古語であり、「こい伏す」は、現在口語でいうと、どっと寝るというに近く、「こい転び」は倒れころがりというに近い意と取れる。「※[泥/土]《ひづ》ち泣く」は、涙で衣を汚《よご》して泣く意だと『講義』が考証している。○為むすべもなし 今はすべき方法もないの意。
【釈】 わが心に掛けることも甚だ恐れ多いことである。わが言葉にすることも忌み憚るべきことであるよ。わが王《おおきみ》安積皇子の命の、永遠にわたって御支配になるであろうところの大日本《おおやまと》久邇の京は、打靡く春がめぐってきたので、京をめぐらす山の辺りには、桜花が咲いて撓んで、泉河の河瀬には若鮎が勢よく走っており、それとともに京は、ますます日に日に栄えてゆく時に、妄り語《ごと》のたわれ語としていうのを聞いたのであろうか、白栲の喪服に舎人らは衣を改めて、皇子には和豆香山《わずかやま》の山路に、お召しの御輿をお停めになり、天上の国を御支配になってしまわれたというので、吾は驚きと悲しみで倒れ転がり、涙に衣を汚《よご》して泣くけれども、今はすべき方法もない。
【評】 安積皇子の薨去、その葬儀の事の終わった後に、家持は難波の宮にあってその顛末を聞き、悲しんで作った形のもので、皇子に対しての挽歌ではあるが、柩の前で読んだものではなく、個人として作ったものと思われる。尊貴の方に対しての挽歌は、言いうることの範囲が定まっていて、親しく仕え奉ったというごとき特別の事情のない限り、特に言いうることがなく、したがって作りにくいものに思われる。この歌はその作りにくい立場に立ったものであるが、乏しい素材を生かして、感のあるものとしている。これは家持の安積皇子に対する忠誠の心よりきていることといえる。例せば、起首、「掛けまくも」以下四句の(288)讃え詞は、最上級のもので、一皇子に対しては過ぎるものとも言いうるものである。「吾が王御子の命」も明らかに尊称である。皇子をいうにそのいらせられる宮をもってすることは当然であるが、久邇の京を皇子の京のごとくにいい、成語であったとはいえ、「大日本久邇の京」という称をもってしているのは、巧みな讃え方というべきである。また京を讃えるに、その季節の風物を絡ませ、「山辺には花咲きををり、河湍には年魚こさ走り」といって、十七歳の皇子の前途の限りなき愛でたさを暗示しているのは、その時代の作風の影響があるとしても、最も巧みなもので、忠誠の心の現われというべきである。また、葬儀の事をいうにも、悲しいながらにも言わなくてはならないことを最少限度にとどめ、葬送ということをあらわすために、「白細に舎人装束ひて」といい、皇子を葬り奉ることを、「和豆香山御輿立たして久堅の天知らしぬれ」という、これ以上婉曲に、また荘重には言い方のないと思われるものとしている。これは前半の皇子を讃えた部分にもまして巧みなものであるが、これも家持の忠誠の心から出た巧みである。全体として見ても調和をもち、一脈の美しさを漂わし得ているもので、家持の面目をあらわしているものといえる。
 
     反歌
 
476 吾《わ》が王《おほきみ》 天《あめ》知《し》らさむと 思《おも》はねば おほにぞ見《み》ける 和豆香《わづか》そま山《やま》
    吾王 天所知牟登 不思者 於保尓曾見谿流 和豆香蘇麻山
 
【語釈】 ○吾が王天知らさむと思はねば わが皇子の天上の国を御支配になろうとは思わないので。○おほにぞ見ける和豆香そま山 「おほ」は、おおよそにで、関係のないものということをいったもの。「和豆香そま山」の「そま山」は、杣山で、材木を伐り出す山。和豆香山の杣山よで、詠歎をこめていっているもの。
【釈】 わが皇子が天上の国を御支配になろうとは思わないので、関係のないものとしておおよそに見てきたところの和豆香山の杣山よ。
【評】 長歌の後半を繰り返した形のものであるが、この歌は御墓所としての和豆香山に心を寄せてのもので、また「そま山」ということによって、御墓所との対照を際立たせ、それによって悲哀をあらわしているものである。長歌を進展させ、余情をもたせ得たものである。
 
477 足《あし》ひきの 山《》やまさへ光《ひか》り 咲《さ》く花《はな》の 散《ち》り去《ぬ》る如《ごと》き 吾《わ》が王《おほきみ》かも
(289)    足檜木乃 山左倍光 咲花乃 散去如寸 吾王香聞
 
【語釈】 ○足ひきの山さへ光り 「足ひきの」は、「山」の枕詞。「山」は、長歌との関係で、久邇の京に近い山とわかる。「さへ」は、花のみではなく、山そのものまでもの意。「光り」は、原文「光」、旧訓「光《て》りて」。『槻落葉』が「光り」と改めた。両様に訓める字で、各々例がある。一字であるので、「光り」が作意と取れる。花のきわめて賑わしく咲いている形容。○咲く花の 咲いている花で、何の花とも限っていない。ここは譬喩としてのもので、皇子の年若く、花やかにいましたことと、その薨去の慌しい感をあらわすための花で、長歌に「咲きををり」といっているものであるから、その季節の桜の花と取れる。「花」と広くいっているのは、余情をあらしめようとしてであろう。○散り去る如き吾が王かも 「散り去る」は、原文「散去」、旧訓「散りゆく」。『槻落葉』が改めた。時間的にいわず、眼前のことのごとくにいって、感を強めようとするのが作意であろうから、従うべきである。散って行くがような。
【釈】 足ひきの山そのものまでも光ってはなやかに咲いている花の、見る見る散って行ったがようなわが皇子であることよ。
【評】 長歌の前半の心を、後半につなぐことによって一首としたもので、長歌を進展させたと言いうる歌である。実際を感性によって綜合的に捉え、華やかさと寂しさとを同時にもたせ得た、柄《がら》の大きい、感のとおった歌で、家持の面目を発揮した優れた歌といえる。「花」は桜と思われるが、単に「花」としたのは、抒情のほうを重んじたがためで、時代風ともいえるが、家持の歌風の傾向を示しているものといえるものである。
 
     右の三首は、二月三日に作れる歌。
      右三首、二月三日作詞。
 
【解】 「二月三日」につき『講義』は、薨去の日より二十一日目だと考証している。
 
478 掛《か》けまくも あやに恐《かしこ》し 吾《わ》が王《おほきみ》 皇子《みこ》の命《みこと》 物《もの》のふの 八十伴《やそとも》の男《を》を 召《め》し集聚《つど》へ 率《あとも》ひ賜《たま》ひ 朝猟《あさかり》に 鹿猪《しし》践《ふ》み起《おこ》し 暮猟《ゆふかり》に 鶉雉《とり》履《ふ》み立《た》て 大御馬《おほみま》の 口《くち》抑《おさ》へ駐《と》め 御心《みこころ》を 見《め》し明《あき》らめし 活道山《いくぢやま》 木立《こだち》の繁《しげ》に 咲《さ》く花《はな》も 移《うつ》ろひにけり 世間《よのなか》は かくのみならし 大夫《ますらを》の 心《こころ》振《ふ》り起《おこ》し 劔刀《つるぎたち》 腰《こし》に取《と》り佩《は》き 梓弓《あづさゆみ》 靫《ゆき》取《と》り負《お》ひて 天地《あめつち》と いや遠長《とほなが》に (290)万代《よろづよ》に かくしもがもと 憑《たの》めりし 皇子《みこ》の御門《みかと》の 五月蠅《さばへ》なす 驟騒《さわ》く舎人《とねり》は 白栲《しろたへ》に 衣《ころも》取《と》り著《き》て 常《つね》なりし 咲《ゑ》まひ振《ふる》まひ いや日《ひ》けに 更《かは》らふ見《み》れば 悲《かな》しきろかも
    桂卷毛 丈尓恐之 吾王 皇子之命 物乃負能 八十件男乎 召集聚 率比賜比 朝※[獣偏+葛]尓 鹿猪踐起 暮※[獣偏+葛]尓 鶉〓履立 大御馬之 口抑駐 御心乎 見爲明米之 活道山 木立之繁尓 咲花毛 移尓家里 世間者 如此耳奈良之 大夫之 心振起 劔刀 腰尓取佩 梓弓 靫取負而 天地与 弥遠長尓 万代尓 如此毛欲得跡 〓有之 皇子乃御門乃 五月蠅成 驟〓舎人者 白栲尓 服取著而 常有之 咲比振麻比 弥日異 更經見者 悲呂可聞
 
【語釈】 ○掛けまくもあやに恐し 心、言葉に及ぼすことも、甚だ恐れ多い。○吾が王皇子の命 前に出た。○物のふの八十伴の男を 「物のふ」の「ふ」は、部《べ》ともいい、朝廷に奉仕する多くの職の、その部属の称。「八十伴の男」の「八十」は、その部属の数の多数であることを具象的にいったもので、多くの意。「伴」は、その部属に属している人々で、輩《ともがら》の意。「男」は、普通「緒」の文字を当てる。長官の意で、その郡属を統率しつつ朝廷に仕えている人の称。全体では、朝廷に奉仕している多くの部属の長官で、さらにいえば、朝廷の百官。○召し集聚へ率ひ賜ひ 「集聚《つど》へ」は、旧訓「あつめ」。『代匠記』が改めた。文字は熟語で、家持の歌にはそれが多い。「あつめ」という語は集中には用例がなく、すべて「つどへ」である。「率《あども》ひ賜ひ」は、『考』の訓。巻二(一九九)に出た。率いることの古語。○朝猟に鹿猪践み起し 「朝猟に」は、朝の猟にはで、一日を感覚的にするために朝と暮とに分けたもので、次の「暮猟に」に対させたもの。「鹿猪《しし》」は、文字どおり、その宍《しし》を食用とする野獣の総称。「践み起し」は、草蔭などに伏しているししを、射て捕《と》るために、その草を践んで起たせる意。○暮猟に鶉雉履み立て 暮《ゆうべ》の猟には、野鳥の鶉雉を、同じく捕るために、その潜んでいる草を履んで飛び立たせの意。○大御馬の口抑へ駐め 「大御馬」は、皇子の乗馬を尊んでの称。「口抑へ駐め」は、馬の手綱の、口元近い所を捕えてで、歩みを留めることを具象的にいったもの。これは現在もしている方法である。○御心を見し明らめし 「御心を」は、皇子が御心を。「見《め》し明らめし」は、「見《め》し」は、「見る」を敬語とするためにサ行四段活用にし、「み」を「め」に転じさせたもの。「めし」の訓は、当時の用例の多きに従ったのである。「明らめし」は、明らかにしたで、心を晴らしたというにあたる語。これは連体形で、下へ続く。全体では、御心を、御覧になる事によって晴らされたところの意で、さらにいえば、心ゆくまで御眺望をなされたところの意。○活道山 この名は今は伝わっていず、所在が不明である。巻六(一〇四二)「同じき月(天平十六年甲申春正月)十一日、活道岡《いくぢのをか》に登り、一株の松の下に集ひて飲《うたげ》せる歌二首」とあって、そのおおよそが想像される、そこは久邇の宮の大宮人が、行楽をする場所となっており、また「岡」と称するにふさわしい山であったことがわかる。さらにまたこの歌の反歌に、「皇子《みこ》の命《みこと》のありがよひ見《め》しし活道」ともあって、安積皇子も常に行楽のために行かせられた、いわば皇子の形見の地とも称すべき所であったこともわかる。久邇の京からは距離の遠くない所と思われる。○木立の繁に(291) 「木立」は、下の続きで、「花」の咲く木で、その花は桜と取れる。「繁」は旧訓「しじ」。『槻落葉』が「しげ」と改めた。用例は、巻十八(四〇五一)同じく家持の歌に、「多胡《たこ》の埼木のくれ之気《しげ》に時鳥来鳴き響《とよ》めば」、その他がある。繁きことの意で、名詞。桜の木立の繁みにで、言いかえると、繁き桜木立にの意。○咲く花も移ろひにけり 「咲く花」は、桜と取れる。「も」は、もまた。「移ろひ」は、しばしば出た。「移る」にハ行四段活用型の助動詞「ふ」をつけ、継続をあらわす。「移る」は推移の意で、花の散ること、人の死ぬことをも含めうる語。ここはその双方にわたっている。「に」は、完了。「けり」は、詠歎。咲く花もまた移ろい去ったことであるよの意で、皇子の薨去につぐその時は、活道山に多い桜の花も散ってしまっていたのである。この歌の反歌によると、家持はその時活道山に登っているので、これは眼前の光景に対しての感である。○世間はかくのみならし 「世間」は、現世。「かく」は、上の移ろい。「のみ」は、はかりで、強め。「ならし」は、なるらしで、「らし」は、眼前を証としての推量で、証は、移ろい。この二句は、山上憶良の長歌の中にあるもので、それに倣ったものと思われる。このことは、ここだけではなく、他にもあるからである。以上、第一段である。○大夫の心振り起し 「大夫」は、しばしば出た。勇気ある男子の称で、ここは家持の矜りをもっての自称。その職を自任している武人の意でいっているもの。「振り起し」は、奮い立て。○劔刀腰に取り佩き 「劔刀」は、「劔」は鋭利な意で、そうした刀《たち》を。「佩き」は、腰に帯びる意。○梓弓靫取り負ひて 「梓弓」は、梓弓を手に執りの意。「靫」は、矢を容れる器で、背に負う物。○天地といや遠長に 「天地と」は、天地とともに。「いや遠長に」は、ますます遠く久しくで、永久にという意の成句。○万代にかくしもがもと 「万代に」は、万年にで、永久を具体的にいったもの。「かくしもがも」は、「かく」は、このように。「し」は、強め。「かも」は、上に「も」を伴って、希望の助詞。「と」は、と思って。「かくし」の後に略語のある形。このようにありたいものと思って。○憑めりし皇子の御門の 「憑めりし」は、憑みありしで、憑んで来たところの。家持が皇子にお仕え申そうと頼みにして来た意。「皇子の御門」は、皇子の宮殿。○五月蠅なす驟騒く舎人は 「五月蠅なす」は、五月の蠅のごとくにで、意味で「驟騒く」にかかる枕詞。「驟騒く」は、多数の舎人の賑わしくしているのを、誇張をまじえていったもの。「舎人」は、題詞でいった。『講義』は、(292)この皇子の品位は明らかでないが、かりに四品としても、百人の帳内《とねり》が奉仕した訳だといっている。○白栲に衣取り著て 白い栲の物に衣を着かえてで、定めの喪服となっての意。皇子の殯宮の期間は明らかではないが、一年間であったろうと『考』はいっている。その間は喪服だったので、これは皇子の宮の服喪のさまを叙したものである。○常なりし咲まひ振まひ 「常なりし」は、常にありしで、平常のものであった。「咲《ゑ》まひ」は、「咲む」の名詞形。「振まひ」は、振舞の字を当てる語。挙動の意。この語は集中ここのみで、これも名詞形。平常のものであった楽しげな笑い、楽しげな行動で、皇子御在世中の舎人の様子。この二句もまた、巻五(八〇四)山上憶良の歌の中にあるものである。○いや日けに更らふ見れば 「いや日けに」は、前に出た。ますます、日に日に。「更らふ」は、「更《かは》る」の継続をあらわす語。更り続けて行くのを見ればで、皇子の宮殿のしだいに寂びれて行く状態を、眼に見ていっているもの。殯宮の事が終われば、舎人は離散するべき定めであった。○悲しきろかも 「ろ」は、音調のために添えるもの。悲しきことかなの意。
【釈】 心に言葉に及ぼすことも甚だ恐れ多い。わが王皇子の命の、朝廷に仕えまつる八十と多くの臣を召し集え、お率いになって、朝の猟には草むらに伏す鹿猪《しし》を践《ふ》み起こして狩り、暮《ゆうべ》の猟には同じく草むらを塒《ねぐら》とする鶉雉《とり》を履んで飛び立たせて狩り、御乗馬の口づらを抑えて歩みを留めさせ、御心を御覧になることによってお霽らしになられたところの活道山《いくじやま》の、そこの桜木立の繁みに咲いていた花もまた、今は皇子とともに移ろい去ったことであるよ。現世というものはそのようにばかりあるものであろう。我も武人としての心を奮い立て、鋭利な刀《たち》を腰に佩き、梓弓を手に、靫を背に負って、天地《あめつち》とともにますます遠く久しく、永遠にわたってこのようにのみお仕え甲したいものだと頼んできたところの、その皇子の宮殿に、五月蠅《さばえ》のごとく賑わしく騒いでお仕えしていたところの舎人は、今は白い栲の喪服にと衣を改め着て、以前はそれが平常であった楽しげな笑い楽しげな挙動の、ますます、日に日にと変わって寂びれてゆくのを見ると、悲しいことではあるよ。
【評】 前の長歌は、家持が難波の宮にあって、安積皇子の御薨去を聞いて悲しんで作ったものであるが、この長歌は、皇子の宮である久邇の宮に参り、殯宮に侍することもした際に作ったもので、悲しみの心を尽くして作ったものである。一首二段より成っており、前段では、活道山へ登って皇子を悲しみ、後段では、久邇の宮に侍しての悲しみをいっているのである。
 前段で、家持が皇子を思う場所として活道山を選んだのは、その山は皇子の御生前最もお心を寄せられた所で、皇子の形見という上から見ると、久邇の宮についでの物と思ったからと取れる。生前心を寄せた物または所を、死後形見として見るということは、上代よりの風で、巻一(四五)日並皇子尊の薨後、御子軽皇子の安騎野へ行って宿らせられたごときはその例である。安積皇子と活道山との関係は、上に引いた「皇子の命のありがよひ見しし活遺」で窺われるが、家持に最も印象の深かったのは、この歌にある御狩場においての皇子のお心寄せで、「大御馬の口抑へ駐め 御心を見し明らめし 活道山」である。風景を愛好することをもって誇りとしたこの当時にあっては、行楽の場所である活道山をもって皇子の形見とするということは、適当とされたことと思われる。この活道山は、桜をもっても愛されていた所とみえる。「活道山木立の繁に咲く花」というの(293)は、そこの実際をいっている語で、尋常のものではなかったとみえる。上の(四七七)で、「あしひきの山さへ光り咲く花の」といっているのは、久邇の京を繞らしている山全体の意のものではなく、この活道山ではないかと思われる。それはとにかく、家持のこの一段においていっていることは、(四七七)のそれと同じく、桜の花の散り去ったのに托して皇子の御薨去を悲しんだのであるが、この一段はそれにはとどめず、桜の花の咲き場所としての活道山を、皇子に緊密に関係させ、まずその山を皇子の形見の山とし、その形見の山の桜の散り去ったこととして生面を拓いてきているのである。皇子と活道山との関係の付け方は、技巧としてはこの一段の中心で、皇子の盛時を具象化するものとして、当時の男子が代表的な遊興とした御猟を捉えきたり、その大規模な、華やかさを極めた状態の中で、卒然として「大御馬の口抑へ駐め」という、前に引いた一節を加え、そしてその活道山の桜は、皇子にとっては最も悲しいことである御薨去を象徴するものとして、華やかさと寂しさとを対照させて、自身の哀感を漂わしている技巧は、すぐれたものと言わざるを得ないものである。
 後段は、皇子の宮である久邇の宮の、御薨去後日に日に寂びれゆく哀感を叙したものである。宮にとどまる者は舎人であって、舎人は殯宮に奉仕するとともに御生前と同じく宮にも侍宿し、殯宮の儀が果てるのを期として離散することになっていたもので、このことは日並皇子尊の場合と同様である。したがって皇子の宮の哀感を具象するには、日に日に変化させられてゆく舎人の状態をあらわすことは、最も適当な方法で、この一段は、皇子の御生前と御薨後の舎人の状態を対照させることを中心とし、それによって簡潔に意図を遂げようとしているのである。この方法は前段と全く同一である。この段で注意されることは、家持自身の心であり、公なものとして作らせられたのではなく、私のものとして作ったこの挽歌にあっては、いきおい自身を強調せざるを得ないのである。「大夫の心振り起し」以下、「憑めりし」に至るまでの堂々たる十一句は、一に自身の心情を述べたもので、皇子に対する挽歌という上からは、度を超えたものというべきである。しかし家持は、「憑めりし皇子の御門の」と転じて、その長句は、「皇子の御門」を修飾するものという形にしているのである。これは最も要を得た方法で、すぐれた技巧とすべきである。一段の中心としている舎人の状態は、前段の「大御馬の口抑へ駐め」と同じく、実際の印象を描いたものなので、微細で、同時に簡潔である。御生前を、「五月蠅《さばへ》なす驟騒く舎人」といい、「常なりし咲まひ振まひ」といい、御薨後を、「いや日けに更らふ見れば」と、将来をかけて暗示している方法は、これまた要を得たものである。また全体を通じて、皇子の御生前の華やかに愛でたかったことに力点を置き、薨去の悲哀は、暗示にとどめようとしているところは、家持の皇子に対する忠誠心のさせていることと取れる。なおこの歌に、憶良の句を踏襲しているものの見えるのは、作歌上における当時の家持を語っているものと見られる。
 
     反歌
 
(294) はしきかも 皇子《みこ》の命《みこと》の ありがよひ 見《め》しし活道《いくぢ》の 路《みち》は荒《あ》れにけり
    波之吉可聞 皇子之命乃 安里我欲比 見之活道乃 路波荒尓鷄里
 
【語釈】 ○はしきかも 「はしき」は、「愛《は》しき」で、愛すべきことよの意。語としては切れていて、いわゆる一句切れであり、この集としては珍しいものである。しかし心としては、皇子を讃えたものと取れるので、無理のあるものである。○ありがよひ 「在り通ひ」で、継続して通いの意。○見しし活道の 「見しし」は、上に出た。「見し」の敬語で、御覧になった。○路は荒れにけり 「に」は、完了。「けり」は、詠歎。その路は荒れてしまったことよ。
【釈】 愛すべき皇子の命の、継続してお通いになった活道への路は、そのことが絶えたので、荒れてしまったことであるよ。
【評】 皇子の薨去を、間接な言い方をもって悲しんだもので、長歌に即しつつも進展させたものである。この歌によっても、家持が活道山へ行ったことは明らかである。この歌の一句切れは問題となりうるものである。一句切れの例としては、巻五(七九七)山上憶良の「悔《くや》しかも斯く知らませばあをによし国内《くぬち》ことごと見せましものを」がある。これにならったものと思われる。憶良の歌は一句切れとはいえ、二句以下の全部を包括しているもので、新生面を拓くとともに体を得ているものである。この歌は、語と心との間に罅隙《すき》のあるもので、憶良を学んで至り得なかった跡をとどめているものである。ここにも家持と憶良との関係を示している。
 
480 大伴《おほとも》の 名《な》に負《お》ふ靫《ゆき》帯《お》ひて 万代《よろづよ》に 憑《たの》みし心《こころ》 何所《いづく》か寄《よ》せむ
    大伴之 名負靫帶而 万代尓 〓之心 何所可將寄
 
【語釈】 ○大伴の名に負ふ靫帯ひて 「大伴」は、家持自身のことをいっているもので、その意味では氏の名であるが、その氏は、朝廷に奉仕する職としてつけたものであるから、その意味では衿りをもってのものである。「名に負ふ靫」は、名をもっているところの靫で、その靫は武人としての印の物である。大伴氏は天孫降臨の際、その祖天忍日命が、久米氏の祖天津久米命とともに、武装をして御前に立って奉仕した。爾来、この二氏の率いている軍を、大来目部、天靫負部《あめのゆげひべ》と号した。大化の改新後は、武職は大伴氏には限らなくなったが、久しい習慣で靫負《ゆげひ》という称は残されていたのである。この事については『講義』が詳しく考証している。「帯《お》ひて」は旧訓で、「帯」の字は、漢語で帯靫というところから、「負」に当てたもの。二句、大伴としての高い名をもっているところの靫を負つての意。○万代に憑み」心 永遠にお仕え申そうと籟んできたところのわが心。○何所か寄せむ 皇子なき今は、何所《いずこ》に寄せようか、その所もないと嘆いた心。
(295)【釈】 大伴としての高い名をもっているところの靫を負って、 永遠にお仕え申さうと頼んできたところのわが心は、今よりはどこへ寄せようか、その所もない。
【評】 長歌では背後に置いてあった心を、表面にもち出して、繰り返していったものである。「大伴の名に負ふ靫帯ひて」は、含蓄のある語である。自身のことを矜りをもっていったものであるが、その矜りは個人的のものではなく、部属として、朝廷に奉仕しきたった歴史の上に立ってのもので、忠誠に対する自信より出ているものである。「何所か寄せむ」は、嘆きの心よりのものであるが、皇太子でもない一皇子としての安積皇子に対し奉ってのものとすると、過ぎたるがごとく思われる。ここに家持の皇子に対する特別の心が見え、また時代の情勢も窺われる感がある。
 
     右の三首は、三月二十四日に作れる歌。
      右三首、三月廿四日作謌。
 
【解】 「三月二十四日」は、皇子薨後七十一日目にあたっていると『講義』がいっている。前の日付もこの日付も、歌そのものに取ってはほとんど必要のないもので、むしろ余分のものである。歌は安積皇子に対する挽歌であって、挽歌の本質からいうと、死者の霊を慰めるためのもので、その霊前において歌うのを本意とするものだからである。これらの日付は、個人的のもので、備忘にすぎないものであるのに、それを記すということは、挽歌そのものよりも、その制作のほうに力点を置いたことと取れる。これは題詞の「六首」という異例な言い方と同じ心からのもので、要するに挽歌が文芸性のものとなってきたことを示しているものである。この書き方は、家持がこの巻の撰者ではなかったかということに関係をもちうるものである。
 
     死せる妻を悲傷《かなし》みて、高橋朝臣の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「高橋朝臣」は、「朝臣」は姓で、名は著してない。その事は左注にいっている。
 
481 白細《しろたへ》の 袖《そで》指《さ》しかへて 靡《なび》き寝《ね》し 吾《わ》が黒髪《くろかみ》の 真白髪《ましらが》に なり極《きはま》りて 新世《あらたよ》に 共《とも》にあらむと 玉《たま》の緒《を》の 絶《た》えじい妹《いも》と 結《むす》びてし 事《こと》は果《はた》さず 思《おも》へりし 心《こころ》は遂《と》げず 白妙《しろたへ》の 手本《たもと》を別《わか》れ にきびにし 家《いへ》ゆも出《い》でて 緑児《みどりこ》の 哭《な》くをも置《お》きて 朝霧《あさぎり》の 髣髴《おほ》に(296)なりつつ 山代《やましろ》の 相楽山《さがらかやま》の 山《やま》の際《ま》に 往《ゆ》き過《す》ぎぬれば 云《い》はむすべ 為《せ》むすべ知《し》らに 吾妹子《わぎもこ》と さ宿《ね》し妻屋《つまや》に 朝《あした》には 出《い》で立《た》ち偲《しの》ひ 夕《ゆふべ》には 入《い》り居《ゐ》嘆《なげ》かひ 腋挟《わきばさ》む 児《こ》の泣《な》く毎《ごと》に 雄《をのこ》じもの 負《お》ひみ抱《うだ》きみ 朝鳥《あさとり》の 啼《ね》のみ哭《な》きつつ 恋《こ》ふれども 効《しるし》を無《な》みと 辞間《ことと》はぬ 物《もの》にはあれど 吾妹子《わぎもこ》が 入《し》りにし山《やま》を 因《よす》かとぞ念《おも》ふ
    白細之 袖指可倍弖 靡寐 吾黒髪乃 眞白髪尓 成極 新世尓 共將有跡 玉緒乃 不絶射妹跡 結而石 事者不果 思有之 心者不遂 白妙之 手本矣別 丹杵火尓之 家從裳出而 緑兒乃 哭乎毛置而 朝霧 髣髴爲乍 山代乃 相楽山乃 山際 徃過奴礼婆 將云爲便將爲便不知 吾妹子跡 左宿之妻屋尓 朝庭 出立偲 夕尓波 入居嘆會 腋挟 兒乃泣毎 雄自毛能 負見抱見 朝鳥之 啼耳哭管 雖戀 効矣無跡 辞不問 物尓波在跡 吾妹子之 入尓之山乎 因鹿跡叙念
 
【語釈】 ○白細の袖指しかへて 「白細」は、夫婦とも平生着ている衣。「袖指しかへて」は、腕をさし交わしてで、共寝をする状態。○靡き寝し吾が黒髪の 「靡き寝し」は、「靡き」は、睦まじくという意を具象的にいったもの。ここは、夫としての自身のことをいったもの。「吾が黒髪」は、寝ている時の状態を、印象的にいったもので、それとともに、下に続けて、時の経過をあらわそうとしたもの。○真白髪になり極りて 「真白髪」は、「真」は、十分に。「白髪《しらが》」は、集中に仮名書きはなく、『新撰字鏡』によっての訓。裏白な髪に。「なり極りて」は、原文「成極」で、旧訓。「なり」は、変化すること。「極りて」は、はてとなって。真白い髪に変りきってで、下へ続く。○新世に共にあらむと 「新世」は、新しい世の意であるが、ここは御代の関係でいったものではなく、時は推移するものとしていったもので、続いてきたるべき後の世の意。すなわちいつの世までもというにあたる。「共にあらむと」は、一緒に生きていようといってで、「と」は、次の「結びてし」に続く。○玉の緒の絶えじい妹と 「玉の緒の」は、玉を貫く緒の意のもので、意味で「絶え」にかかる枕詞。「絶えじい」の「い」は、語調を強めるために添えた助詞。この契りは、絶えさせまい妹よとの意。○結びてし事は果さず 「結びてし」は、契りを結んでおいたで、約束をしてあった。「事は果さず」は、その長生の事は果たさずしてで、「果さず」は連用形。○思へりし心は遂げず 「思へりし」は、「思ひありし」で、思っていた。「心は遂げず」は、長生の心は遂げずしてで、「遂げず」も連用形。○白妙の手本を別れ 「白妙の手本」は、起首の「白細の袖」を語を変えていったもの。夫として共寝をする我をの意。「別れ」は、別離をして。○にきびにし家ゆも出でて 「にきびにし」は、睦び楽しくしたで、巻一(七九)に出た。「家ゆも出でて」は、家からまでも出て。以上四句、葬送されることであるが、しばしば出たように、霊を尊んで、死者自身の意志として行なっているようにいっ(297)たもの。○緑児の哭くをも置きて 緑児の乳を慕って泣くのを後《あと》に残してで、死んだ妻の年若かったことが知られる。○朝霧の髣髴になりつつ 「朝霧の」は、朝霧のごとくにで、意味で「髣髴《おほ》」にかかる枕詞。「髣髴に」は、『玉の小琴』の訓。巻四(五九九)「朝霧の鬱《おほ》に相見し」その他例のあるものである。ぼんやりとの意の語で、はっきりとの反対である。ぼんやりとした状態になりなりしてで、事としては、見送っている葬列の、遠ざかってゆく状態であるが、妻自身の後ろ姿のごとくいったもの。○山代の相楽山の 「山代」は、山城国。「相楽山」は、旧訓「さがらの山の」。『考』の改めたもの。『和名類聚抄』に、「相楽郷、佐加良加」とあるためである。相楽山は久邇の京のある相楽郡にある山で、広くいったもの。国名を冠したのは、事を鄭重にいうためのものである。○山の際に往き過ぎぬれば 「山の際《ま》」は、山の間で、葬地。「往き過ぎぬれば」は、行き去ってしまったので。「過ぎぬれば」は、ここは見えなくなってしまったのでの意である。事としては葬られたのであるが、死者を尊ぶ意から、その事は余情とした言い方をしたもの。○云はむすべ為むすべ知らに いうべき言葉、すべき方法も知られずで、悲しみに心顛倒したことの具象化。「知らに」は、下の事の理由をあらわすための言い方。○吾妹子とさ宿し妻屋に 「さ宿し」の「さ」は、接頭語。共寝をしたの意。「妻屋」は、閨《ねや》。○朝には出で立ち偲ひ 朝はその閨から外へ出て来て妻を思い。○夕には入り居嘆かひ 原文「嘆會」の「會」は、紀州本以外の諸本「舎」となっている。『考』が誤字として改めたもの。「嘆かひ」は、嘆く事の継続をあらわす。夕には閨に入っていて嘆き続け。○腋挟む児の泣く毎に 「腋挟む」は、児を抱く状態。巻二(二一〇)柿本人麿の歌に出た。「泣く毎に」の「毎」は、諸本「母」となっている。『考』が「毎」の誤写として改めた。子の泣くたびにで、泣くのは母の乳を恋ってである。○雄じもの負ひみ抱きみ 「雄じもの」は、男たる者がの意で、巻二(二一〇)に出た。「負ひみ抱きみ」は、「抱《うだ》き」は集中仮名書きの例がなく、日本霊異記に、「抱【宇田支】」とあるによったものである。ここの二つの「み」は、同じ趣のこと二つ以上を、対させて重ねていう時に用いる語法で、後世にも行なわれているものである。負ったり抱いたりしてで、すかそうとしてのしぐさ。○朝鳥の啼のみ哭きつつ 「朝鳥の」は、朝の鳥は鳴く音の耳につくものであるところから、意味で「哭き」にかかる枕詞。「啼のみ哭きつつ」は、声を立ててばかり泣き泣きして。○恋ふれども効を無みと 妻を恋うけれども今はその甲斐のないによってと思っての意。○辞間はぬ物にはあれど 「辞問はぬ物」は、ものはいわない物で、そうした物は慰めとならないものとしていい、それではあるけれどもの意。○吾妹子が入りにし山を 妻が入ってしまった山をで、葬地としての相楽山を。○因かとぞ念ふ 「因か」は、心を寄せる所の意で、慰めとなる物の意。形見というにあたる。形見と思っていることよの意。
【釈】 白妙の袖をさし交わして、睦まじく妻と共寝をした時のわが頭の黒髪の、真白い髪に変わり尽くして、後の新たに移りくる世に、一緒に生きていようといって、夫婦の契りは絶やすまいと約束をした、その事は果たさずに、その心は遂げずに、わが枕としてする白妙の袂から別れ、睦び楽しんでいた家からも出て、緑児の乳を乞って泣くのまでも後に残して、その行く後姿はしだいにぼんやりとなりなりして、山城国の相楽山《さがらかやま》の山の間に入って見えなくなってしまったので、悲しみに心顛倒し、口にする言葉も、身にする術《すべ》も知られずに、妻と共寝をした閨にいて、朝は外に出て立って妻を恋い、夕は閨に入って嗅きつづけ、腋に挟んでいる縁児の乳を乞って泣くたびに、男たるもの負ったり抱いたりしてすかし、我も声を出してばかり泣きつづけて恋うけれども、今はその甲斐もないによってと思って、ものもいわない、慰めのない物ではあるけれども、妻の入ってしまったとこ(298)ろの山を、心の寄せ所と思っていることであるよ。
【評】 この歌は、一緒に暮らしていた妻で、仲が睦まじく、緑児をもっているという若い妻に死なれた夫の、その妻に対する挽歌として作ったものである。死んだ妻ではあるが、死ということは直接にはいわず、家を出て山に入った者として、所を変えての存在として扱っているのは、悲傷の心より感じていることではあるが、死者を霊として存在しているものと意識して、尊んでのものの言い方と取れる。いっていることの最大部分は自身の悲傷であるが、これは妻の霊を慰めるゆえんのものであり、結末は、妻の追慕の永久であるべきことをもってしているのは、純粋にその霊を慰めようとしてのことであって、挽歌の本質に従い、古風な詠み方をしているものである。この古風ということは、家持の安積皇子に対する挽歌と較べて見ただけでもあきらかである。詠み方は平面的で、悲傷をあらわすに足りると思われることは、その一切を言い尽くそうとしているものである。それをいう上では、巻二(二一〇)(二一三)の人麿の「妻死りし後、泣血哀慟して作れる歌」を参考として、部分的にそれを模した所が少なくはない。なお巻十六、山上憶良の海人|荒雄《あらお》を悲しんだ歌の影響を受けていようと思われる所もある。しかしこれらのことは、やや事に堪えうる人の、挽歌は作らねばならぬものとして作る場合には、普通にしていたろうと思われることで、その上からいえば、この歌は上乗なるものと思われる。この作者には、この人としての特色がなくはない。起首、卒然として、「白細の袖指しかへて」と感覚的な物言いをし、「靡き寝し吾が黒髪の」と同じく感覚的な続け方をしつつ、それを「真白髪になり極りて」と、時の推移に転じて来る所は、粗野であるとともに心の鋭敏さを示しているもので、好い本質をもっているといえる。また、葬列の遠ざかるのを叙して、「朝霧の髣髴になりつつ 山代の相楽山の 山の際に往き過ぎぬれば」といっているのは、上の粗野とは反対に、感覚の繊細さを示しているものといえる。結末の、「吾妹子が入りにし山を 因《よす》かとぞ念ふ」は、憶良の影響を思わせるが、十分にこなれて、この作者のものとなっている趣がある。一首として、作者の面目をもち得ている作というべきである。
 
     反歌
 
482 うつせみの 世《よ》の事《こと》にあれば 外《よそ》に見《み》し 山《やま》をや今《いま》は 因《よす》かと思《おも》はむ
    打背見乃 世之事尓在者 外尓見之 山矣耶今者 因香跡思波牟
 
【語釈】 ○うつせみの世の事にあれば 「うつせみの」は、現し身、すなわち生者必滅の理より脱れられない身の。「世の事にあれば」は、この世においての事であれば。○外に見し山をや今は 無関係なものに見てきた山を、今となってはで、「や」は詠歎。○因かと思はむ 心の寄せ所と(299)思ってなつかしもうの意。
【釈】 現し身の生者必滅の脱れられない身の、この世においての事であれば、無関係のものに見てきた相楽山を、今よりは、心の寄せ所としてなつかしもう。
【評】 長歌の結末を繰り返したもので、反歌としては古風な型である。長歌のもつ熱意を失ったものであるが、しかし素朴な詠み口の中に、静かな悲しみを湛えているものである。
 
483 朝鳥《あさとり》の 啼《ね》のみし鳴《な》かむ 吾妹子《わぎもこ》に 今《いま》亦《また》更《さら》に 逢《あ》ふ由《よし》を無《な》み
    朝鳥之 啼耳鳴六 吾妹子尓 今亦更 逢因矣無
【語釈】 ○朝鳥の啼のみし鳴かむ 長歌の「朝鳥の啼《ね》のみ哭《な》きつつ」と同じである。「し」は強め。「鳴かむ」は、泣いていよう。○今亦更に逢ふ由を無み 今はまた更に逢う由が無いゆえに。
【釈】 声を立ててばかり泣いていよう。妻に今はまたさらに、逢う由が無いゆえに。
【評】 長歌でいった一事を、さらに継続させようというだけのもので、新意のないものである。この歌も、前の歌と同じ趣をもっている。
 
     右の三首は、七月二十日、高橋朝臣の作れる歌なり。名字未だ審ならず。但、奉膳の男子と云へり。
      右三首、七月廿日、高橋朝臣作謌也。名字未v審。但、云2奉膳之男子1焉。
 
【解】 「七月二十日」は、前の歌と同じく、年は天平十六年と取れる。前の六首の歌の日付は、同じ皇子の挽歌として作ったものであるが、所を異にしている関係から、その内容も異なることを断わる必要があったともいえるが、しかしそれはなくてもわかることであって、主となっているのは作者の好みであろうと思われる。この歌の日付も、歌を年代順に排列する上で、正確を期するためのものともいえるが、同じくそれほどの必要があるとは思われない。前の歌に引かれて記したものかもしれぬ。「高橋朝臣」は前にいった。作の日付を調べられるくらいなら、名は調べられたろうが、「審ならず」といっているのは解し難い。高橋氏は『新撰姓氏録』に出ており、孝元天皇の皇子大彦命の後であり、代々膳職にあった氏である。「奉膳」は、宮内省内膳司の長官の称で、職員令に、「奉膳二人、掌d惣2知御膳1進食先甞事u」とある。
 
(302)萬葉集 巻第四概説
 
     一
 
 
 本巻に収められている歌数は、三百九首であって、『国歌大観』の番号よりいえば、(四八四)より(七九二)までである。そのうち四首の重出歌がある。二首は巻第八、一首は巻第十四にもあるものであるが、残る一首すなわち(五一一)は、巻第一(四三)であって、明らかに本巻の撰者の責任となるべきものである。
 歌体は、長歌七首、旋頭歌一首、他はすべて短歌で、三百一首にのぼっている。
 部立は、相聞のみで、雑歌、挽歌は含んでいない。巻第三の概説でいったがように、巻第三、四は、巻第一、二にならって編纂《へんさん》したものであって、巻第三を、雑歌、譬喩歌、挽歌に当て、本巻を相聞に当てて、全体として呼応せしめているのである。もっとも巻第三の譬喩歌という部立は、新しい特殊なものであるが、これはその場合にいったがように、本質としては相聞であって、当然その部に含ましめるべきものであるのに、これに修辞的相異を求めて、強いて特殊なものとみなし、新しい一つの部立としたものである。その譬喩歌二十一首を、かりに本巻の三百九首に加えると、三百三十首という多数となる。巻第二に収められている相聞は、わずかに五十五首であるのを思うと、本巻の相聞のいかに著しくふえているかが注意される。
 
     二
 
 さらに以上の歌を、その制作年代からみると、巻首は、「難波天皇の妹、大和に在す皇兄に奉上れる御歌一首」に始まっている。これは巻第二の巻首「磐姫皇后、天皇を思ひたてまつる御作歌四首」にならって、さかのぼっての代の尊貴なる御方の歌をもってしようとした意図からのもので、特別なものとしてみるべきである。それについでは、飛鳥崗本朝、近江朝、藤原朝と、時代を追って降り、各時代の代表的歌人の作をもってして、最後に奈良朝に入って、聖武天皇久邇京時代、すなわち天平十二年十二月より同じく十六年二月難波遷都までの足かけ五年間の京時代の歌をもって終わっているのである。
 注意されることは、時代と歌数との割当率である。奈良朝以前の歌は、その時代の長いにかかわらず、わずかに約三十首ほどにすぎず、しかも重出歌は、この範囲のものである。本巻全体よりの率からいえば、一割前後なのである。奈良朝に入ると、初期のものは七十首、二割強で、中期のものは二百首、全体の七割を占めているのである。約言すれば、奈良朝以前のものは、巻第一、二の拾遺にすぎない程度のものであり、重点は奈良朝(303)中期にあったのである。これは、資料を得る難易ということも関連していたのではないかと、一応は思われることであるが、一概にそうはいえないことである。奈良朝以前の歌は、何びとかが蒐集《しゆうしゆう》し書写した本によったものであることは明らかであるが、それらの参考本には、本巻のごとき歌の数え難いまで多くのあったことを、本巻以後の巻が証明しているからである。その点からみると、本巻に奈良朝以前の歌の少ないことは、巻第一、二の体裁にならって、時代順を追っての排列をしようと意図し、また、編纂者の編纂時代に重点を置こうと意図したからのことであって、資料を得る難易ということは関係のなかったことが知られる。
 
     三
 
 本巻は、編纂者がその編纂時代に重点を置いた巻であることは、上にいった。その編纂時代、すなわち奈良朝中期久邇京時代において、編纂者はいかなる作者の歌に最も重点を置いているか、言いかえれば、誰の歌を最も多く取っているかということは、このことを具体的に示すことになる。
 第一に多く取っているのは、大伴家持で、六十余首である。奈良中期の相聞として二百首を取っている中でのこの数は、そこに特別な事情の伴っていたことを思わせずにはおかないものである。これらの歌は、ほとんど例外なくめざす相手があって贈ったもので、独り心をやるために詠んだものではない。したがってそこには、家持をめざして贈ってきた女性の歌があるわけである。この時代も深く相思う間でない限り、贈歌に対して必ず答歌があったのではなく、家持より贈っただけで答のないものがあるとともに、家持に贈っただけで、答を得られなかった女性もいるのであるが、とにかく、家持と関係した女性の歌は、著しく目につく。その代表的なものは笠女郎で、二十四首ある。大伴坂上郎女のものも十首ある。山口女王と中臣女郎とのおのおの五首、河内百枝娘子、巫部麻蘇娘子、粟田女娘子のおのおの二首、他に童女の歌もある。これらはすべて、今日からいえば消息文であり、しかも親展付きのものであって、家持以外の何びとも知ることのできない資料なのである。これら家持の直接関係のものを合すると百首となり、二百首の一半を占めることとなるのである。
 転じて、家持の直接関係以外の歌をみると、時の帝聖武天皇が、何らかのつながりある女性に賜わった御製、そうした女性の天皇に献った歌との少数を除くと、きわだって目につくのは、大伴氏一族の間の相聞である。そのおもなるものは、第一は、大伴旅人が大宰帥として在任中、その下僚の事に触れての相聞、また、大納言に任ぜられて上京する際の惜別の相聞などであって、これらはその当時記録されていたものが、嫡子としての家持の手に伝わったものと思われる。第二は、大伴坂上郎女の数多い相聞であるが、これらは、その愛する甥であり、また聟ともなった家持に、その歌稿を示したであろうという推量は、さして無理のないものであろう。その他の一族の歌は、大伴氏に(304)おける家持の地位と、その歌好きの性情とから、これを耳にし得ることが難くはなかったろうと思われる。また、大伴氏以外の歌は、何らかの機縁を通じて、これを耳にし記録し得たろうと想像するほかはないのであるが、本巻に取ってある歌が、必ずしも奈良朝中期の代表的のものばかりではなく、相応に偏ったものである点からみて、この想像は、強いたものではないと思われるのである。
 以上を要約すると、本巻の編纂者が、大伴家持であることは疑う余地のないことと思える。
 
       四
 
 最後に、本巻の歌風についていうべきであるが、奈良朝以前の歌はしばらくおき、編纂者が重点を置いている、奈良朝中期の歌についてだけ触れることとする。
 奈良朝中期の人々が、心には、奈良朝以前の歌を重んじ慕い、常に愛誦して口につくまでになっていたにもかかわらず、自身詠み出す歌は、それらとは異なった新しい面に向かわせられていた消息をうかがわせる、恰好の材料がある。それは、この期間の人々の相聞の歌には、巻第十一、十二の、「古今相聞往来の歌の類の上下」と注記ある巻の歌を捉え、それにいささか手を加えて、自作の代用にしているものが、少なからずある。これはそれらの人々が、いかに前代の歌に溺れていたかを示していることでなくてはならない。今、特に目につくものとして、二つの例を挙げる。それは奈良朝中期の代表的歌人である大伴坂上郎女と笠女郎とであって、いずれも捉えている歌は、巻第十一に収められている作者未詳の歌(巻十四−三四七〇によれば柿本人麿歌集の歌)なのである。大伴坂上郎女は、本巻(六八六)で、
  このごろに千歳や往きも過ぎぬると吾や然《しか》念《おも》ふ見まく欲《ほ》れかも
と詠んでいるが、これは巻第十一(二五三九)
  相見ては千歳や去ぬる否をかも我や然《しか》念《も》ふ君待ち難《がて》にによったものであることは明らかである。作者未詳の歌も、女が逢い難くしている男を慕っての訴えで、郎女としては、まさに現在のわが心を言いつくしているものとして、捉えて代用させたことと思われる。これをそのままには用いず、改作をせずにはいられなかったところに、作者未詳の歌と郎女との相異がある。作者未詳の歌は、女が恋情が昂まり、心が乱れて夢中になった時のものであるが、さすがに一脈の分別心は保ち得て、疑問の助詞を三つまで重ねて、そうした気分をさながらにあらわしているのである。詠み方として見れば、時を瞬間的に切り縮め、純主観的に詠んでいるのである。恋情の上からいえば、こうした気分は一般的なものであって、それであればこそ郎女も、深く心を惹かれていたのである。しかるに、それをわが心として用いようとすると、原作の瞬間的なのを、「此の頃は」とやや久しきにわたった時間とし、それ以下も、そのやや久しい時間における自身の気分を説明するものという方法をとってい(305)るのであって、純主観的のものを、むしろ客観的に扱っているのである。作者未詳のものとは、一見酷似してはいるが、作歌態度としては対蹠的なまでに異なっているのである。言いかえれば、抒情を叙事に、詠歎を説明に、詩を散文に向かわしめようとしているといえる。
 郎女は上の歌に続いて、次の歌を詠んでいる。
  青山を横ぎる雲のいちしろく吾と咲《ゑ》まして人に知らゆな
 夫婦関係を結んで間もない夫が、昼、多くの人中にいて、ふと自分のことを思って、思い出し笑いをして、人にそれと察しられるようなことがなかろうかと想像して、危ぶみ警めた心である。魅力ある歌で、郎女のものとしても勝れたものであるが、しかしこの想像そのものは、著しく客観的・物語的な匂いを帯びたものである。この二首を取ってみても、奈良朝中期の歌風が、奈良朝以前のそれに較べて、いかに異なった傾向を取っていたかがうかがわれる。
 笠女郎も同様なことをしているのである。女郎が大伴家持に贈った歌の中に、
  おもふにし死《しに》するものにあらませば千遍《ちたぴ》ぞ吾は死《し》にかへらまし(六〇三)
というがあるが、これも巻第十一、人麿歌集の、
  恋するに死《しに》するものにあらませば我が身は千遍《ちたび》死反《しにかへ》らまし(二三九〇)
 人麿歌集のものは、恋情の上でのきわめて一般的な嘆きであって、笠女郎もそれをさながらに受け入れ、自身を代弁するものとして、きわめていささかを変えてわが用を足さしめたのである。異なるところは、人麿歌集にあっては、恋の嘆きをする自身を大観し、人間そのものの嘆きを独語するがごとくに扱っており、したがってその調べは、太く緩やかに、力のこもったものとなっているのであるが、それをきわめていささか改めた女郎のものは、自身の恋の、急迫しての訴えとなり、感傷そのものとなっている。したがってその調べは、細く迫って、相手にまつわりつくものとなっている。人麿歌集の歌を深く慕いつつおのずからに距離のあるものとなっているのである。女郎はこの歌に続けて、
  皆人を寝よとの鐘は打ちつれど君をし念《も》へば寝《い》ねかてぬかも(六〇七)
と詠んでいる。鐘は当時、奈良|京《みやこ》にあった官設の時の鐘である。歌としては、恋の悩みをしている女の、珍しいまでに素朴な形をもって詠んでいる、魅力の多いものであるが、我と甘えて、相手に甘え寄ろうとするもので、その時の心の閃きという範囲にとどまり、したがって調べの細く低いものとなっている。これはその慕っている人麿歌集の歌風から離れて行き、眼前の刺激に引かれつつ、深く思い入ることなく詠んでいるもので、その代わりには、奈良朝以前には見られなかった、清新にしてみずみずしい境を拓いているものである。
 また、この時期には、歌の代作ということが、何のはばかるところもなく、おおっぴらに行なわれていたことが知られる。(五四三−五四五)に至る長歌と反歌とはその一例で、題は、(306)「神亀元年甲子冬十月、紀伊国に幸せる時、従駕の人に贈らむ為、娘子に誂《あとら》へらえて作れる歌一首井に短歌」で、作者は笠朝臣金村である。大意は、天皇の行幸の供奉に加わっているわが夫は、軽の路から畝火を見、真土山を越えて、紀伊国へ入り、おりからの黄葉の散るのを見るおもしろさに紛れて、しみじみとは我を思ってくれず、旅は好いものだと思いつついようと思うと、もっともだとは思うものの、さすがに妬ましくてじっとはしていられない。我も君の行った路を追って行こうと、何遍となく思うが、女子の旅行は許されていないので、関守に咎められたら、何と返事をしたものだろうかと思って、起ち上がっては見るがつまずいてしまう、というのである。作意は、行幸の供奉をした夫を、後に残っている妻の立場から思うという、常凡なことを物語的に構想し、中心は、旅のおもしろさに紛れて妻を忘れているだろうと思うと、嫉妬を感じて、じっとしてはいられないという恋情に伴う一種の心理に置いているもので、これはいちだんと物語的である。かうした微細な心理描写を眼目とすることは、中世の物語に至って起こってきたことなのに、金村はこの時代に、早くも歌において試みているのである。これは明らかに歌の散文化である。長歌はこの時代には、すでに古風な歌体となっていたのであるから、それを作る金村には、奈良朝以前の柿本人麿は、師表として厳存していたことと思われる。人麿も叙事はしているが、それは抒情を遂げさせようがためのものであって、ここに見るがような、物語的興味に乗っての叙事は、けっしてしてはいない。人麿とは作歌態度を異にして、全く新たなる方面へ向かったものである。
 笠金村の行なったこの代作ということは、問題を含んでいることである。男女間の相聞の歌の根本をなすものは、男女互いに誠実を誓い合う言葉を歌をもってしたものである。夫妻居を別にして生活し、また一夫多妻を咎めなかった時代にあっては、誠実を誓い合い、またおりおりそれを繰り返し確かめ合うことは、実際生活上必要なことだったのである。男女の相聞の歌は、この必要を充たすために、歌という重んじられていた表現形式を用いたのであって、文芸品として作るものではなかったのである。他人に誂えて代作してもらうということは、その重要な事を涜《けが》すわざで、忌むべきことであったのはいうまでもない。笠金村というこの時代の代表的歌人が、そうしたことをおおっぴらに行なっているということは、男女の相聞の歌に対する観念が変わって来たところから起こってきたこととみるほかはない。上に挙げた大伴坂上郎女、笠女郎の、人麿歌集の歌をやや改めてわが用に供したということも、その意味では相通うところのあるものといわなくてはならない。いかに変わったかというと、わが魂の表象として、重い責任を負わせていた実用の歌を、わが魂からはある遊離をもった、興味を主とした文芸に変えたのである。もしそこに実用の意があるとすれば、媚態を通し、あるいは感傷を通しての哀訴によって、その相手を動かすことである。それが真実から遠ざかる結果を生むのは当然である。このことは、古来、男女の相聞の歌にまつわっていた一種の信仰を切り離し、歌を興味よりのものとして、それをしてほ(307)しいままにふるまい得るものとしたことであな。
 歌風は、奈良朝以前と奈良朝とは変わり、奈良朝としても初期と中期とは変わっている。これは歌がそれ自体の力をもって変わったのではなく、時代の生活情調が変わらしめたのである。歌に限らず、一切の興味の対象となるものは、その時代の生活情調に調和し得て、親しさを感じさせうるものが存し、しからざるものは亡びてゆく。歌風ももとよりそれであって、一代の歌風はその時代の生活情調の造り出すもので、その反映である。有識階級の知識のほぼ一定していたと思われるこの時代にあっては、その反映としての歌風は、おのずから単一で、また強力でもある。奈良朝中期の生活情調は、これを奈良朝以前に較べると、はるかに安易な、むしろ惰容をもったものであったことは明らかである。そのことは、前代の、内には国家の統一力を伸張させねばならず、外には大陸に対する警戒もゆるがせにはできない必要に駆られ、有識階級は一団となって事に当たろうとしていたのが、この時代には、それらもひとまず安堵のできる情勢となり、代わっての問題は、皇室を繞っている旧来の豪族が、何らかの方法でその勢力を張ろうとすることに移っていた。また一方には、古来の信仰はしだいに衰えてきたが、新しい信仰は実際には力を帯びてこず、念とするところは、大陸文化の模倣で、その上で相競い合っているありさまであった。約言すれば、集団的だったものが個人的に、信仰的だったものが物質的になり、そこから醸し出されてくる生活情調が、歌にあっては、その好尚を変えさせ、歌風をも変えさせたのである。奈良朝中邦の歌風は、上にいったがごときものにならざるを得ずしてなったものだったのである。
 
     五
 
 歌風と直接のつながりをもったことではないが、しかし切り離し難いことで、問題とせずにはいられないことがある。それは、本巻というよりも、本巻の奈良朝中期の歌になると、編纂者は、同じ作者の歌の何首かを、ひとまとめとして採録しており、しかもその作者は、歌人として必ずしも有力者であることを目標としていない趣があって、このことは著しく目につくこととなっている。これは巻第三にもすでにその趣の見えていたことであるが、そちらはきわめて少数の選ばれた人に限られており、したがってその作品もすぐれているところから、おのずから自然に感じられたのであるが、本巻の中期の歌は、その時を撤して、自由に行なっている趣があらわなので、注意せずにはいられなくなっているのである。
 二、三の例を挙げると、(六三一−六四二)に至る十二首は湯原王と娘子との、ある期間にわたっての相聞の歌をひとまとめにしたものである。それは何らの事件も伴わない、平和な恋愛関係であって、強いて事件を求めれば、王が一度娘子をその家から連れ出して、よそで宿ったことがあるにすぎない。しかし十二首を通読すると、それを貫き流れている平和な気分が、一種の興味となって感じられてくる。これは一首一首の歌のもつ(308)興味とは別種なものである。いかなる興味かといえば、人間生活の時間的推移からくる興味で、言いかえれば物語的興味なのである。
 また、(五八七−六一〇)の二十四首は、笠女郎から大伴家持に、ある期間にわたって贈ってきた歌を、ひとまとめにしたものである。女郎は非凡なる歌才をもった人で、その一首一首がそれぞれ興味あるものではあるが、全部を通読すると、これまた別種の興味が添ってくる。それは女郎は家持と関係は結んだが、家持は疎遠にして、足を遠ざけがちである。女郎は懊悩し、家持の通って来よいようにと、奈良京の外にあった住まいを京の内に移し、深い媚を湛えての訴えを繰り返し贈るのであるが、家持は前どおり親しんでこない。最後には、家持の家の見える奈良山に登って、心やりに眺めもして、それを歌にして贈ったが、やはり反応がない。最後には怒りを発し、捨てぜりふに類した歌を贈って、その采邑《さいゆう》のあったかと思われる伊勢国へ去ったが、またそこから諦めきれない訴えをするまでの推移が、二十四首を通して、余情をもちつつも明らかに感じられてくる。これもまた湯原王の場合と同じく、歌をひとまとめにすることによって添ってくる物語的興味である。
 これらは代表的なものであるが、そのほかにも、大伴家持がその妻とした大伴坂上大嬢に贈った十五首、また娘子に贈った七首、大伴坂上郎女の七首ひとまとめのもの、また五首のもの、それ以下のものは、挙げるに堪えないまでである。
 これらすべては、歌によって物語的興味を充たそうとする要求から起こったもので、歌の散文化といえるものである。この事は奈良朝初期の大伴旅人、山上憶良などによって、すでに意図的に試みられていたことであるが、それが中期に至ると、家持によって継承され、ますます流行してきたものである。天平の無事泰平な代に生活していた人々は、周囲の人事も、自身のことも、時間的観点に立って、静かに眺め味わうことが興味となり、好尚ともなって、それがこうした、やや久しい期間にわたってのある人のある事件に対しての歌を、ひとまとめにして見る興味を誘致したことと思われる。大伴家持としては、これが後にその歌日記にまで進展したのであるといえる。
 
〔目次省略〕
 
(318) 相聞
 
【標目】 「相聞」は、巻二に出た。この巻は全部を相聞に当ててある。
 
     難波天皇《なにはのすめらみこと》の妹、《いろと》大和に在《いま》す皇兄《いろせ》に奉上《たてまつ》れる御歌一首
 
【題意】 「難波天皇」は、難波を京とし給える天皇で、難波宮御宇天皇の意である。そのことをなされた天皇は、仁徳、孝徳の二天皇であるが、ここは、これにつぐ舒明天皇の御製があるので、年次の関係上、仁徳天皇である。「妹」と「皇兄」とは、いずれも天皇を主としての称で、応神天皇の皇女皇子である。天皇には皇子皇女あわせて二十五王あるいは六王が在した。「妹」はどなたともわからないが、「皇兄」のほうは、応神紀によると、皇后の御姉高城入姫の生んだ額田大中彦皇子があられたので、この皇子であろう。御名の「額田」を地名よりのものとすると、『和名抄』郷名に、「大和国平群郡額田 奴加多」があるから、そこと取れ、それだと「大和」に関係もつくこととなる。
 
484 一日《ひとひ》こそ 人《ひと》も待《ま》ちよき 長《なが》きけを かくのみ待《ま》たば ありかつましじ
    一日社 人母待吉 長氣乎 如此耳待者 有不得勝
 
【語釈】 ○一日こそ人も待ちよき 原文「吉」は、元暦本をはじめ四本にあるものである。西本願寺本などは「告」で、旧訓「待ち告げ」。『代匠記』が、「吉」ならば、「待ち吉《よ》し」としたのを、『新訓』が「待ち吉き」と改めた。「よき」は連体形で、「こそ」の係の結。「こそ」を連体形で結ぶのは、古格である。一日だけの間ならば、誰も待ちよいことであるで、ここで段落。○長きけをかくのみ待たば 「長きけ」は、「長き」は、下の続きで、数多くということを具象化したものと取れる。「け」は、「日《カ》」の転音で、日《ひ》。「待たば」は、原文「所待者」、旧訓「待たるれば」。『玉の小琴』は、「所」を「耳」の誤写とし、「かくのみ待たば」と改めている。「所」は諸本異同のないものであるが、事としては未来の予想であり、結句の「ましじ」に応ずべきものでもあるので、今はこれに従う。このようにばかり待つのでは。○ありかつましじ 巻二(九四)に出た。「かつ」は、堪う、得の意。「ましじ」は、否定推量の助動詞。生きているに堪えられないであろう。
【釈】 一日だけの間ならば、誰も待ちよいことである。多くの日を、このようにのみ待つのでは、我は苦しさに生きているに堪(319)えられないであろう。
【評】 題詞に従えば、難波京に在らせらるべき額田大中彦皇子が、その采地である大和国の額田に往かれ、久しく還って来られないのを嘆いて、異母妹の伉儷《こうれい》関係になっていられる皇女の贈られた歌ということになる。一首の歌としては、心は常識的のものであり、形は素朴な、したがって重厚な趣をもったものであって、古風をもったものである。制作時代の上からいえば、巻二の巻首の磐姫皇后の御歌と同時代であって、相並んで集中の最古のものである。この歌は、歌としては、磐姫皇后の御歌とは異なって、制作年代を疑うべき理由のないものである。しかし作者としての皇女の御名の伝わっていないことは、ある曖昧さのあると見ざるを得ないことであり、また古風というだけで、何ら特殊のものをもっていないものなのである。古い一民謡で、作者はいわゆる起源伝説にょって守られてきたものでないともいえないものである。撰者としては、それらの点には触れようとせず、作者の高貴に、時代の古いことを幸いとして、巻二の巻首の磐姫皇后の御歌に匹敵しうるものとして、巻首に据えたものかと思われる。
 
     崗本天皇《をかもとのすめらみこと》の御製一首 并に短歌
 
【題意】 「崗本天皇」は、高市崗本宮御宇天皇で、舒明天皇を申す。天皇の御事は、巻一(二)に出た。この御製は、女性の立場に立ってのものとみえるので、おのずから問題を含むものである。その関係よりか、左注が添っている。
 
485 神代《かみよ》より 生《あ》れ継《つ》ぎ来《く》れば 人多《ひとさは》に 国《くに》には満《み》ちて 味《あぢ》むらの 去来《いざ》とは行《ゆ》けど 吾《あ》が恋《こ》ふる 君《きみ》にしあらねば 昼《ひる》は日《ひ》のくるるまで 夜《よる》は 夜《よ》の明《あ》くるきはみ 念《おも》ひつつ 寐《い》も宿難《ねが》てにと あかしつらくも 長《なが》き此《こ》の夜《よ》を
    神代從 生繼來者 人多 國尓波満而 味村乃 去來者行跡 吾戀流 君尓之不有者 晝波 日乃久流留麻弖 夜者 夜之明流寸食 念乍 麻宿難尓登 阿可思通良久茂 長此夜乎
 
【語釈】 ○神代より生れ継ぎ来れば 「神代より」は、天地開闢の時よりの意を、具象的にいったもの。「生れ継ぎ」は、「生れ」は、「生みあれ」の約で、「生み」も「あれ」も同義で、生まれる意。「継ぎ」は、継続。生まれ続けて。〇人多に国には満ちて 「人」は、住民。「多に」は、多くで、(320)「満ち」に続く副詞。「国」は、国土。「満ち」は、充満して。人が多く、この国土に満ちているけれども。これと類想のものが、民謡集である巻十三(三二四八)「敷島の日本《やまと》の国に、人さはに満ちてあれども」があり、それに続けて、「藤浪の思ひまつはり、若草の思ひつきにし、君が目に恋ひや明かさむ、長きこの夜を」とある。この二句はもとより、全体としても通うところのあるものである。○味むらの去来とは行けど 「味むら」は、味鴨《あじかも》の群れ。この鴨は渡り鳥で、冬季わが国に来るものである。巴鴨《ともえがも》ともいう。顔部に巴形の斑紋があるところからの名で、したがって印象的である。「の」は、のごとくの意のもの。群れをなしている習性のあるところから、それを誘《いざな》い合ってのことと見、誘う意の「いざ」に、譬喩の意をもって続け、また、騒がしく見えるところから「騒ぐ」にも続ける枕詞。ここは「いざ」に続けたもの。譬喩の意の枕詞であるから、譬喩とも見られるものである。「去来《いざ》とは行けど」は、「去来」は、旧訓。『仙覚抄』の訓である。巻十(二一〇三)「秋風は涼しくなりぬ馬|並《な》めて去来《いざ》野に行かな萩の花見に」の用例がある。「いざ」は、誘う意の感動詞。いざと誘っては往くけれどもで、人々の睦ましげに路を行く状態を、羨みの心をもっていったもの。○吾が恋ふる君にしあらねば 「吾が恋ふる」は、わが憧れている。「君」は、男女間にあっては、妻より夫を呼ぶ称で、ここもそれである。「し」は、強め。○昼は日のくるるまで 「日のくるるまで」は、終日という意を感覚的にいったもの。○夜は夜の明くるきはみ 「きはみ」は、極みで、果て。果てまでの意で、下へ続く。二句、上の二句と対句となっている。○念ひつつ寐も宿難てにと 「念ひつつ」は、嘆き続けて。「寐も宿難てに」は、「寐も宿」は、「寐」は眠る意。「も」は詠歎。「難て」は得《う》の意。「に」は打消「ぬ」の連用形で、下に意を含めたもの。「と」は、上をとりまとめて、下の修飾格としているもの。寐ても眠り得ない状態での意。○あかしつらくも長き此の夜を 「あかしつらく」は、「あかしつる」に「く」を添えて名詞形としたもの。「も」は、詠歎。明かしたことであるよ。「長き此の夜を」は、秋より冬へかけての夜の長い時をいったのであるが、長さは苦しさを含蓄としたもの。この結末は、七七七という形となっている。これは巻十六(三八八五)「乞食者《ほがひぴと》の詠《うた》」の結末が、七七七七七となっているのに近いもので、他には例のないものである。
【釈】 天地開闢の神代の昔から、生まれ続いてきているので、人が多くこの国土に充満していて、いざといって誘《いざな》って睦ましげに路を歩いているけれども、それらの人はわが憧れる背の君ではないので、吾は昼は日の暮れるまで終日を、夜は夜の明ける果てまでも嘆きを続けて、寐ても眠り得ない状態で、明かしたことであるよ。長いこの夜を。
【評】 この歌が、崗本天皇の御製歌であるということには、拠るべき伝えのあったことと思われる。しかしこの歌は、伝えそのものの上に疑いを挟みうるものをもっている。その第一は、この歌は明らかに女性の立場に立っての作で全体としての心も、その夫を待って待ち得ずにいる、久しい嘆きをいったものであり、ことに「君」という代名詞を用いているのは、そのことを確かめうるものである。その第二には、天皇の御製歌は、巻一(二)「天皇 香具山に登りて望国《くにみ》したまひし時の御製歌」があり、御心がおおらかに、明るく、御言葉は単純であるが、洗煉を極めた、含蓄のあるもので、御格調も悠揚迫らざるもので、尊貴なる御風格を偲ばせるものである。それに較べるとこの歌は、すべての点においてあまりにも趣を異にしていて、その一点においても相通うところのないものである。その第三には、この歌は民謡の匂いが濃厚である。起首の「人多に国には満ちて」は、いったがように巻十三の民謡、「敷島の日本の国に、人さはに満ちてあれども」と通うもので、民謡の成句という感の(321)おおい難いものである。その「人多に」をいうために、「神代より生れ継ぎ来れば」と知性的な説明を添えているのは、むしろ巻十三のものよりも後のものという感さえ起こさせる。また、結末の七七七という形も、いったがように謡い物に限った形である。「昼は日のくるるまで、夜は夜の明くるきはみ」という対句は、心としては用例の多いものであるが、この対句は庶民的な匂いを帯びたものといえる。さらにその第四には、舒明天皇時代の長歌には、二首の反歌を添えたというものはなく、一方民謡には比較的多くそれがあり、またその反歌は、長歌よりの飛躍が多く、その関係の曖味なものである。ことに反歌の第二のものは、この歌にあっては飛躍の多いものである。以上はおのずから問題となってくるもので、この歌を御製歌とする伝えに対して疑いを挟ましめるものである。この歌には左注があって、女性の歌ではないかとして疑っているがようであるが、それはおそらく撰者自身の添えたもので、撰者もある疑いをもったものと思われる。それにもかかわらずこの歌を採録したのは、この巻を重からしめるために、巻一(二)に准じて、崗本天皇御製歌という伝えのあるままに、第二首目に採録したのではないかと思われる。
 
     反歌
 
486 山《やま》のはに 味《あぢ》むら騒《さわ》き 去《ゆ》くなれど 吾《われ》はさぶしゑ 君《きみ》にしあらねば
    山羽尓 味村驂 去奈礼騰 吾者左夫思恵 君二四不在者
 
【語釈】 ○山のはに 山の端に向かって。味は水禽であるから、山またはその近い所の塒《ねぐら》に向かって飛ぶと取れる。時刻も夕方であろう。○味むら騒き去くなれど 「騒き」は、群れて飛ぶ羽音で、鳴き声もまじっていよう。○吾はさぶしゑ 「さぶし」は、楽しくない意。「ゑ」は、詠歎の助詞。○君にしあらねば 長歌に出た。味むらによって夫君を連想したもの。
【釈】 山の端に向かって、味の群れが騒がしく飛んで行くけれども、吾は楽しくはないことよ。それは夫君ではないので。
【評】 反歌は、長歌の「味むらの去来とは行けど、吾が恋ふる君にしあらねば」という主要な部分を操り返したものである。しかしこちらの「味むら」は、枕詞としてのものではなく、実景である。味は冬季の鳥であり、また、山の端へ群れて飛ぶのは、たぶん塒を求めるためであろうから、冬の夕方の最もさみしい時刻である。その群れて行くさまと、騒がしい音や声を聞くと、それが刺激になって、にわかにさみしい心を起こし、そのさみしさに引かれて、味むらと君とを比較するという、感性によってのみ起こる心をもったのである。これは明らかに飛躍であるが、心理的には肯けるものである。これを一首の歌として見ると、独立性のやや稀薄なもので、長歌の繰り返しとすることによって価値をもつものである。これは民謡に共通な事柄(322)である。この、知性が見えず、純感性的なものであることは、庶民的であり、民謡的であることを思わせる。
 
487 淡海路《あふみぢ》の 鳥籠《とこ》の山《やま》なる 不知哉川《いさやがは》 けのころごろは 恋《こ》ひつつもあらむ
    淡海路乃 鳥籠之山有 不知哉川 氣乃己呂其侶波 戀乍裳將有
 
【語釈】 ○淡海路の鳥籠の山なる不知哉川 「淡海路の」は、「淡海」は、国としての近江で、琵琶湖によっての名。「路」は、このように地名の下にただちに添ったものは、その土地へ通ずる街道の意と、土地そのものをあらわす意とに用いられている。ここは後のもので、近江の土地のの意。「鳥籠の山なる不知哉川」は、鳥籠の山にあるところの不知哉川の意で、鳥籠の山は、不知哉川の位置を示しているものである。不知哉川が鳥籠の山から発しているとも、その裾を流れているとも取れる。この山の名も川の名も、古くから忘れられてしまって伝わってはいず、したがって考証が重ねられている。どちらも、今の滋賀県犬上郡にあり、「不知哉川」は、今の大堀川(芹川ともいう)の旧名で、霊仙山の南西芹谷村から発し、西流して正法寺山(鳥籠山)の南西を流れ、彦根市の西に至って琵琶湖に注ぐというのである。鳥籠山を正法寺山とするについては異説があって定まっていない。この三句の解、すなわち下への続きは、諸注それぞれで、かなりに距離のあるものである。大別すると三様で、第一は、この三句を「け」の序詞と見るものである。それは原文「気」は、水の気《き》で、霧であり、その気《き》を気《け》とし、時の意に転じての序詞だというのである。『代匠記』、宣長、『古義』などがそれであり、『考』『新考』『新釈』など、『代匠記』とは異なっているが、序詞と見ていることは同様である。第二は、対手の人の近江へ行っているがゆえに、その人になぞらえてそこの土地をいったものとする解で、『攷証』がそれをいい、『新考』『新釈』なども、一方ではそれも取入れている。第三は、「いさや河といふ地名を、やがて女の情をいさ不知《しらず》といふにとりなし給へり」という『略解』の解である。これは、巻十一(二七一〇)「犬上の鳥籠の山なるいさや河|不知《いさ》とを聞《きこ》せ我名|告《の》らすな」があり、それを心に置いての解と取れる。「いさ」は「さあ」にあたる感動詞で、「さあ、知らない」の意の語であり、この歌は夫が妻に、わが名を包めと命じたものである。また巻十一は、やや古い時代の謡い物であるから、この歌も広く流布し、一般化していたものと思われる。この歌では「いさや河」は、畳音の関係で「不知《いさ》」にかかる序となっているもので、初句より三句までは明らかに序詞である。しかるにここの歌は、形としては酷似しているが、序詞として下へ続くものではなく、初句より三句までで一段をなしており、「不知哉川《いさやがは》」によって「不知《いさ》」ということを暗示させているものと取れる。地名に含蓄をもたせようとするのは伝統的なことである上に、巻十一の歌もあるので、これは自然なことに思える。『略解』の解があたっていると思われる。すなわち、近江の土地にある、鳥籠の山の麓を流れる不知哉川という名のごとく、我も君の心は知らないというのて、疎くなっている夫に対して、その妻のもつ不安をいったもの。○けのころごろは恋ひつつもあらむ 「けのころごろは」は、「け」は、日。「ころごろ」は、頃を重ねたもので、「ねもころ」を「ねもころごろ」といっている類である。この頃の間はの意。「恋ひつつもあらむ」は、憧れつづけていようで、「も」は詠歎。
【釈】 近江の土地の鳥籠の山にある不知哉川という名の、我も君の心を不知《いさ》と思うことよ。しかしこの頃の間は、憧れつづけてもいよう。
(323)【評】 これは疎くなってきた夫に対する妻の心で、一段では、夫の真実のほどの頼めないことの嘆きを、成句を借りて婉曲にいい、二段では、思い返して、今しばらくの間は、今までどおりに憧れつづけていようというのである。すなわち妻として動揺している心をいったものである。これは、当時の夫婦関係にあってはきわめて例の多い、一般性をもったものである。初句より三句までは、美しい言い方で、文芸的なものに感じられるが、これはすでに巻十一の歌があった後のもので、成句を借りたにすぎないものと思われる。したがって「不知哉川」にもたせている含蓄は、感性よりの飛躍であって、意識しての文芸性ではなく思われる。それは、これに続けるに、「けのころごろは」という、古風にして素朴な、一見不調和な句をもってしている点からも思われる。また、この四句は、民謡ということも思わせるものである。この反歌は、夫に対する不安という意味では、上の長歌と反歌とにつながりうるところがあるが、その遊離したものであることは一見明らかで、また独立しても存在しうる歌である。後より付加されたものと取れる。
 
     右、今案ずるに、高市崗本宮、後崗本宮、二代二帝各異なり。但崗本天皇と称《い》へる、いまだその指す所を審にせず。
      右、今案、高市崗本宮、後崗本宮、二代二帝各有v異焉。但※[人偏+稱の旁]2崗本天皇1、未v審2其指1。
 
【解】 「高市崗本宮」は、舒明天皇の皇居、「後崗本宮」は、天皇の皇后にして、後に即位された斉明天皇の皇居で、所は同じ崗本であるが、天皇はそのいずれにましますか審かでないとの注である。
 
     額田王《ぬかだのおほきみ》、近江天皇《あふみのすめらみこと》を思《しの》ひて作れる歌一首
 
【題意】 「額田王」は、巻一(七)を初め、しばしば出た。「近江天皇」は、近江の大津宮にましました天智天皇である。
 
488 君《きみ》待《ま》つと 吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》れば 我《わ》が屋戸《やど》の 簾《すだれ》動《うご》かし 秋《あき》の風《かぜ》吹《ふ》く
    君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
 
【語釈】 ○君待つと吾が恋ひ居れば 「君待つと」は、「君」は、天皇。「待つ」は、天皇の宮以外の屋に住み、お通いになるのを待つ意。「と」は、(324)として。「吾が恋ひ居れば」は、わが憧れていれば。○我が屋戸の簾動かし 「屋戸」は、ここは屋の戸で、下の簾の位置をいったもの。戸口のというにあたる。「簾動かし」は、「簾」は、竹で編んだ物。○秋の風吹く 「秋の風」は、そのおりの風である。
【釈】 君の通って来られるのを待つとして、わが憧れていれば、わが戸口に垂れてある簾を動かして、秋の風が吹く。
【評】 君が来られはしないかと心待ちにしているおりから、戸口の簾を動かすものがあるので、まさに君かと思って見ると、それは秋風であるというので、一瞬間の昂奮と失望との交錯した、捉えやすきに似て、実は捉えては言い難い気分である。この歌は、「君待つと吾が恋ひ居れば」という主観と、「我が屋戸の簾動かし秋の風吹く」という客観の状態とが微妙に融合して、その一瞬間の気分を、余すなくあらわしつくしている。これは、感動をもった自分を客観化したことではあるが、むしろ心情の具象化というべきもので、それとこれとが微妙に一致したものである。感動の大きい場合には比較的できることであるが、これほどの小さな感動によってするということは、選ばれた少数の高手の者によってのみなされることである。素朴に、平淡に詠んであり、しかも余裕さえ示しているものであるが、額田王の作歌の力量を示している歌の一首といえるものである。
 
     鏡王女《かがみのおほきみ》の作れる歌一首
 
【題意】 「鏡王女」は、巻二(九一)より(九三)にわたって出ている。藤原鎌足の嫡室となった人である。この歌は、上の歌に和《こた》えたものである。
 
489 風《かぜ》をだに 恋《こ》ふるは乏《とも》し 風《かぜ》をだに 来《こ》むとし待《ま》たば 何《なに》か嘆《なげ》かむ
    風乎太尓 戀流波乏之 風小谷 將來登時待者 何香將嘆
 
【語釈】 ○風をだに恋ふるは乏し 「風をだに」は、「だに」は軽きを挙げて、重きを言外に置く助詞で、風をだけでも。この風は簾を動かして、額田王を思い誤らしめたもの。「恋ふるは乏し」は、「恋(325)ふるは」は、額田王が、君が来ましたのかと思って、心を動かしたことをいったもの。「乏し」は、ここは、羨ましの意のもので、羨むのは、鏡王女である。風をだけでも、御身は君が来ましたのかと心を動かすので、我は羨ましい。○風をだに来むとし待たば 風をだけでも、君が来ますのだろうかと思って待つようであったらば。○何か嘆かむ 何を嘆こうかで、三句以下は鏡王女の嘆き。
【釈】 風をだけでも、君が来ましたのではないかと御身の心を動かすのは、我には羨ましい。その風をだけでも、我はもし、君が来ますのではなかろうかと思って待つようであったら、何を嘆こうか。
【評】 上の額田王の歌に対して和えたものである。人が歌を詠むと、傍らにある人はそれに対して和えるのが当時の風であったから、その時はたぶん一緒におられたものと思われる。また和え歌は、前の唱え歌の語に関係させるのが風習であるから、「秋の風吹く」を捉えて和えたのである。歌は、失望した額田王を慰める心のものであろうが、形としては、慰めより羨みが主となり、羨みよりも自身の嘆きの方が主となっているものである。「風をだに恋ふるは乏し」と、額田王のほうをいって一段とし、「風をだに来むとし待たば何か嘆かむ」と、同じく「風をだに」を繰り返して、今度は自身の嘆きをいい、相対させ、相比較しているところ、大体は女性の嫉妬の感情であるが、歌としての構成はきわめて知性的であり、また語に対する感性が鋭敏であって、額田王と異なる風格を示しているものである。近江朝時代の高貴の方々の文藻を思わせるものである。
 
     吹※[草がんむり/欠]刀自《ふぶきのとじ》の歌二首
 
【題意】 吹※[草がんむり/欠]刀自は、巻一(二二)に出た。「吹※[草がんむり/欠]」は氏、「刀自」は宮女、老女、また一般の女子にもいう称で、女性とみえるが、ここの第一の歌には「妹」という語があり、男性と取れる。もっとも第二の歌は女性のものである。『攷証』は、男性としているが、『略解』は女性の歌としている。後に譲る。
 
490 真野《まの》の浦《うら》の よどの継橋《つぎはし》 情《こころ》ゆも 思《おも》へや妹《いも》が いめにし見《み》ゆる
    眞野之浦乃 与騰乃繼橋 情由毛 思哉妹之 伊目尓之所見
 
【語釈】 ○真野の浦のよどの継橋 「真野の浦」は、真野の海の浦で、摂津国武庫郡。今の神戸市に属し、長田の南に接した所。「よど」は、水の澱んでいる所の称。「継橋」は、考証すべき記録がない。『代匠記』は、普通の橋とはちがい、水中に橋材を立て、水量の普通な時は、その上へ板を渡して渡り、水量の増した時は取りはずすようにしたものだろうという。巻十四(三三八七)「足音《あのおと》せず行かむ駒もが葛飾《かづしか》の真間《まま》の継橋|止《や》まず通はむ」は、そうした橋は当然のこととして、橋板が高く鳴るので、この解を支持するものとなる。この二句は、四句「思へや」へかかり、「継橋」(326)の「継ぎ」によって「継ぎて」ということを暗示させているものである。この関係は、上の(四八七)の「不知哉川《いさやがは》」の「不知」と同様である。またこの二句は、下の「妹」の家のあたりの物として捉えていると取れる。○情ゆも思へや妹が 「情ゆ」は心より。「思へや」は、後の「思へばや」にあたる古格。「妹が」は、心としては次の句に続く。意は、妹が、心より我を思うのであろうか、その妹がの意で、先方でこちらを思うと、こちらの夢に見えてくるという信仰の上に立つてのもの。○いめにし見ゆる 「いめ」は、夢。「し」は強め。「見ゆる」は、「妹が」の「が」の結で、連体形。
【釈】 真野の浦の澱にかかっている継橋の、継いで、妹が心より我を思っているのであろうか、その妹がわが夢に見えることであるよ。
【評】 これは男の歌である。諸注、誤字説、または男同志でも「妹」と言いうることを説きなどしているが、『略解』は、夫より吹※[草がんむり/欠]刀自に贈ったもので、次の歌は、刀自のこれに対しての和え歌であろうといっている。最も穏やかに聞こえる。歌としては、当時の夢の信仰の上に立ったものであるが、そうした心に伴いやすい感傷的なところがないのみならず、「真野の浦のよどの継橋」という序詞によって、おのずから客観化され、むしろ重厚味をもったものとなっている。またこの序詞は、序詞そのものの中に意味をこもらせた特殊なもので、しかもそれを意識的に行なっているものであるが、その語《ことば》に対する感性は、一首全体の上にも行なわれていて、語の続きが緊密であり、それが重厚味をかもし出す上にも大きく働いている。際立ったものではないが、快い歌である。
 
491 河《かは》の《へ》上の いつ藻《も》の花《はな》の 何時《いつ》も何時《いつ》も 来《き》ませ我《わ》が背子《せこ》 時《とき》じけめやも
   河上乃 伊都藻之花乃 何時々々 來益我背子 時自異目八方
 
【語釈】 ○河の上のいつ藻の花の 「河の上」は、河のほとりで、ほとりは中に対しての意。「いつ藻」は五百箇藻《いほつも》で、繁った藻の意であろうと『代匠記』がいい、諸注従っている。「厳橿《いつがし》」「いつ柴」など類語がある。二句、同音の関係で「何時も」にかかる序詞。○何時も何時も来ませ我が背子 「来ませ」は、来よの意の敬語。妻のわが家へ通って来たまえの意。「我が背子」は、「背」に、「我が」と「子」とを添えて、深い親愛をあらわした称で、これは呼びかけ。○時じけめやも 「時じけ」は、形容詞の未然形で、「時じく」は巻一(六)を初めしばしば出た。その時ではないの意。「め」は推量の助動詞「む」の已然形。「や」は、「め」を承けて反語をなしたもの。「も」は詠歎。その時でないという時があろうか、ないの意で、「何時も何時も」を語を換えて繰り返したもの。
【釈】 河のほとりのいつ藻の花の、そのいつもいつも通って来たまえよわが背子よ。その時ではないという時などあろうか、あ(327)りはしない。
【評】 吹※[草がんむり/欠]刀自から、その夫へ和えた歌である。この歌で見ると、夫の許から、通って行こうとするにつき、あらかじめ都合をたずねてきたのに対しての和えと取れる。心としては、夫に信頼しきったもので、形は明るく、柔らかく、謡い物の匂いをもったものである。この形は媚態を感じさせるべきものであるが、それほどに感じさせないのは、「河の上のいつ藻の花の」という序詞があるためで、この序詞は一首の上に大きく働いているものである。「いつ藻」を『代匠記』の解するごときものとすると、この序詞は刀自の作ったもので、たぶんその家のある地の河の藻に花の咲く、季節の実景を捉えたのであろう。巻一(二二)「河の上の斎つ巌群に草むさず」の作者とすると、これはたやすいことであったと思われる。
 
     田部忌寸櫟子《たべのいみきいちひこ》、大宰に任《まけ》らるる時の歌四首
 
【題意】 「田部忌寸櫟子」は、「田部」は氏、「忌寸」は姓、「櫟子」は名である。田部の氏は史上に見えるが『新撰姓氏録』には見えず、父祖も伝も不明である。「大宰に任らる」は、大宰府の官人に任ぜられたことであるが、記録の見えないところから、低い官であったと思われる。「四首」は、別れの際の歌を一括しての数で、半分は女の歌である。
 
492 衣手《ころもで》に 取《と》りとどこほり 哭《な》く児《こ》にも まされる吾《われ》を 置《お》きて如何《いか》にせむ 舎人吉年
    衣手尓 取等騰己保里 哭兒尓毛 益有吾乎 置而如何將爲 舎人吉年
 
【語釈】 ○衣手に取りとどこほり 「衣手」は、袖。当時は筒袖であり、やや長い物であったから、その袖口の部分。「取りとどこほり」は、「取り」は、取縋る意。「とどこほり」は、滞りで、絡んで離れない意。下の「哭く児」の状態をいったもので、「衣手」は母の物。○哭く児にも 「哭く児にも」は、「哭く」は、母を慕ってのことで、「児」は、幼児。「にも」は、よりも。○まされる吾を 「まされる」は、慕う程度のまさっているで、「吾」は、作者。○置きて如何にせむ 「置きて」は、後《あと》に残すことで、残すのは旅立つ人。「如何にせむ」は、どうしようとするのかで、どうにでもなれというのかの意。○舎人吉年 作者の氏名。これは寛永本にはないが、元暦本、類聚古集など五本にはあるものである。この人は巻二(一五二)に出ており、そこでは天智天皇の御代の後宮の一婦人である。今は櫟子の妻と見える。
【釈】 衣の袖口に取縋り絡みついて、母を慕って哭いている幼児にもまさって、君を慕っている我を後に残して、君は我をどうしようとするのであるか。
【評】 別れを惜しむというよりも、別れの悲しみに身も世もなくなっての訴えである。しかしこの悲しみは、歌を通して感じ(328)られるもので、主として「衣手に取りとどこほり哭く児にも」という譬喩の哀切さからき、ついでは、「置きて如何にせむ」のもつ含蓄からくるものである。この譬喩は適切なもので、「取りとどこほり」は味わいの多いものである。女性によって初めて捉えられる譬喩である。夫の官人であるということも、自身の官人の妻であるということも、全く念頭に上らない態度の歌であることが注意される。
 
493 置《お》きて行《ゆ》かば 妹《いも》恋《こ》ひむかも 敷妙《しきたへ》の 黒髪《くろかみ》しきて 長《なが》き此《こ》の夜《よ》を 田部忌寸櫟子
    置而行者 妹將戀可聞 敷細乃 黒髪布而 長此夜乎 田部忌寸櫟子
 
【語釈】 ○置きて行かば妹恋ひむかも 「置きて行かば」は、後に残してわが大宰府へ行ったならば。「妹恋ひむかも」は、妹が我を恋うであろうかで、「かも」は疑問。○敷妙の黒髪しきて 「敷妙の」は、ここは形としては枕詞とみえるが、それとしては、「黒髪」に続けるのは例のないものである。「敷妙」の「敷」は繁きの意で、繁きは織目の形容で、粗《あら》い物に対してその細かさを讃えた語である。その点から、転じて美しい意の具象語となり、「敷妙の子」「敷妙の宅《いへ》」などとも用いられている。ここも同じ意味で黒髪に続けていると取れる。これは『冠辞考』の解で、それだと冠辞すなわち枕詞と見るよりも、「黒髪」の形容語と見て、敷妙のごとく美しいと解すべきであろう。「黒髪しきて」は、女は、夜は髪を床の上に靡けて寐るのが普通で、「しきて」は布きてで、夫を来させるまじないとしてのこと。当時の信仰よりのことである。○長き此の夜を 「長き」は、その時は、秋の夜の頃であったとみえる。○田部忌寸櫟子 作者名で、西本願寺本、寛永本などにはなく、元暦本、細井本にあるもの。
【釈】 後《あと》に残して大宰府へ行ったならば、妹は我を恋うであろうか。美しい黒髪を布いて寐て、おりからの長い夜を。
【評】 上の歌に対しての和えである。この歌を詠んだのは、歌で見ると、早暁まだ夜の明けきらないうちに、赴任の旅に上ろうとしていて、その直前に詠んだものである。いおうとしている心は、妻と最後の夜を惜しむ暇のなかったのを悲しむ心であるが、型のごとく自分のことはいわず、妻を隣れむ心をいうことによってその心をあらわしているものである。一首の中心は「黒髪しきて」である。これは「袖折り反し」とともに、女が男の来るのを待つまじないであって、当時の信仰の一つであり、集中に例が多い。夫が妻のそうした状態を思い浮かべるというのは、妻の情愛を十二分に受け入れるとともに、その甲斐なさを隣れむことともなり、同時にまた、自身の妻に対しての愛惜の情と、その遂げられないのを嘆くことともなって、複雑な感情を具象的にあらわすものとなり得ている。含蓄の深い句である。
 
494 吾妹児《わぎもこ》を 相知《あひし》らしめし 人《ひと》をこそ 恋《こひ》のまされば 恨《うら》めしみ念《おも》へ
(329)    吾妹兒矣 相令知 人乎許曾 戀之益者 恨三念
 
【語釈】 ○吾妹児を相知らしめし人をこそ 「吾妹児」は、妹に対しての愛称。「相知らしめし」は、双方を知らせ合わせたで、下の「人」に続き、夫婦関係を結ばせた仲介者。「人をこそ」の「こそ」は、それだけを取立てる意の係助詞で、その人を何よりも第一に。○恋のまされば 恋が募ってきたのでで、別れて遠ざかるに伴い、反対に憧れが募ってくるという人情を背後においての心。すなわち京を離れた後の心。○恨めしみ念へ 「恨めしみ」は、形容詞の連用形で、意は恨めしく。「念へ」は、「こそ」の結びで、已然形。
【釈】 吾妹児と我とを相知らしめた人を何よりも、別れて恋が募ってくると、恨めしく思うことであるよ。
【評】 これは夫妻相別れた後、櫟子が旅路からその妻に贈ったものである。事の成行きが極まってくると、最初に立ち帰って、その成立ちを思わせられるのは、共通の人情である。櫟子は旅路にあってその思いをし、事の最初を仲介者にあるとしたのである。「恨めしみ念へ」とはいっているが、これは強い愛からの愚痴である。全体を大観しているところ、夫としての心があるといえるものである。
 
495 朝日影《あさひかげ》 にほへる山《やま》に 照《て》る月《つき》の 厭《あ》かざる君《きみ》を 山越《やまごし》に置《お》きて
    朝日影 尓保敞流山尓 照月乃 不厭君乎 山越尓置手
 
【語釈】 ○朝日影にほへる山に 「朝日影」は、朝日の光。「にほへる」は、色の美しさをあらわす詞で、朝日の光のさして、色美しく映えている山にで、下の「照る月」の位置を示している関係上、山は西の方角に立っているものと取れる。○照る月の 「の」は、のごとくの意のもの。照っている月のごとくに。この月はいわゆる在明の月で、朝日のさし初《そ》めても残っている月である。初句から続いて、西山にさす朝日の光の色と、その山の上の空に残っている月の光とを、世にも美しい物と見て、下の「厭かざる君」の譬喩としたもの。○厭かざる君を 「厭」は「飽」と同じで、「厭かざる」は、いくら見ても飽くことのないところの意。「見れど飽かず」ということは、当時は最上の讃美の語として慣用していたもので、ここもそれである。「君」は、夫婦間では妻が夫を呼ぶ称。ここもそれである。○山越に置きて 「山越」は、山を越した彼方の土地の意で、名詞。「置きて」は、ここは、巻二(八七)「吾が黒髪に霜の置くまでに」などのそれと同じ意のもの。山越の土地の、逢い見ることのかなわない所に置いて、と言いさして、悲しみを余情とした言い方。
【釈】 朝日の光のさして、色美しく映えている山の上に照っている月のごとくに、いくら見ても飽くことのない君を、山越の、逢い見ることのかなわない土地に置いて。
(330)【評】 上の櫟子の歌に対して、妻の吉年の和《こた》えた歌と取れる。心は旅路にある夫の懐かしさと、独りある侘びしさであるが、懐かしさのほうを主として、それに対して三句を費やした譬喩を用いているので、形から見ると豊かなものとなっている。その「朝日影にほへる山に照る月の」という譬喩は、この作者の初めて捉えたものと思われる。日と月の光をもって、世の最上の美しい物としている点に特色がある。しかも烈しいものではなく、いずれも幽かさをもった物である点に、いっそうそれがある。これは実景から捉えたものと思われる。懐かしさの譬喩に三句まで費やしているのであるが、結局としていわんとしていることは、侘びしさの訴えである。これは結句の一句だけであるが、きわめて懐かしいがゆえに侘びしいというので、心理的のつながりの緊密なものがあり、しかも言いさしにしているので、かえって拡がりをもって不足のないものとなっている。「にほへる山」の「山」と、「山越」の「山」ともつながりがあって、形の上でも同じことがいえる。この作者は、本集としては古い時代に属する人であるが、事実に即しつつ、気分を柔らかに豊かにあらわし得ている人で、そのことはここの二首でわかる。新風を詠んだ人ということである。注意に値する人である。
 
     柿本朝臣人麿の歌四首
 
496 み熊野《くまの》の 浦《うら》の浜木綿《はまゆふ》 百重《ももへ》なす 心《こころ》は念《も》へど ただにあはぬかも
    三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨
 
【語釈】 ○み熊野の浦の浜木綿 「み熊野」の「み」は、接頭語。「熊野」は、今の和歌山県牟婁郡の海岸の称。「浦の浜木綿」は、「浦」は、浜木綿の生えている所としていっているので、浦に接した地をいったもの。「浜木綿」は、今、浜おもとと呼んでいる。暖国の海浜の砂地に生じる常(331)緑多年生の草で、葉はおもとに似て、幾重にも重なっている。夏、茎の梢に白色の花が群がって咲く。○首重なす 「百重」は、葉の幾重にも重なっているのを、具象的にいったもの。「なす」は、(四六〇)の「哭《な》く児なす」などと同じく、のごとくの意。以上三句は「念へど」の譬喩。○心は念へど 心には思うけれどもで、「心は」は下の「ただに」に対させてある。○ただにあはぬかも 「ただに」は、直接には。
【釈】 熊野の浦寄りの地の浜木綿の、その葉の百重に重なっているがごとく、繁くも心には思っているけれども、直接には逢わないことであるよ。
【評】 浜木綿は、集中、ここにあるのみで、特殊な物である。またこの浜木綿は熊野の物としているが、ただそこにのみ限って生える物でもない。そうした特殊な物を、限った地において捉え、それを譬喩としているのであるから、これは人麿が何らかの事情の下に熊野に行き、浜木綿を眼にして、おりから抱いていた恋情を、その葉の状態に通わして、捉えて譬喩としたものと思われる。その抱いていた情は、念えども逢い難き嘆きで、人麿はただその一事をいっているだけで、妹とも子ともいっていないのである。一首一文で、句続きが引締っており、強い調べをもっているため、「み熊野の浦の浜木綿」というがごとき珍しくまた美しい句を使っているにもかかわらず、それが目立たないものとなっている。恋の歌として沈痛なものを蔵しているとみえるものである。
 
497 古《いにしへ》に ありけむ人《ひと》も 吾《わ》が加《ごと》か 妹《いも》に恋《こ》ひつつ いねかてずけむ
    古尓 有兼人毛 如吾歟 妹尓戀乍 宿不勝家牟
 
【語釈】 ○古にありけむ人も 古の世に生きていたであろうところの人もまた。○吾が如か妹に恋ひつつ 「吾が如か」の「か」は、疑問。以下全体にかかる。「妹に恋ひつつ」の「妹に」は後世だと「妹を」というところである。いささかの差別があり、「妹に」は妹を動的に見、「妹を」は静的に見たものだと考えられる。「恋ひつつ」は、恋い続けて。○いねかてずけむ 旧訓「いねかてにけむ」。『代匠記』の訓。後世だと「ざりけむ」というべき所を、打消の助動詞「ず」よりただちに「けむ」に続けるのは古格で、仮名書きの例のあるものである。「かて」は、堪える意。寐ても眠り得なかったであろうの意。
【釈】 古の世に生きていたであろうところの人もまた、今の吾のごとくに、妹を恋いして、寐ても眠り得なかったであろうか。
【評】 純抒情のわかりやすい歌であるが、人麿のもつ傾向を、比較的明らかに出している歌である。その一つは、人麿は恋の歌の多くを作っているが、その歌はほとんど皆苦悩を伴ってい、あるいは苦悩そのものでさえあって、恋という名によって連想される楽しさ明るさはもっていないものである。この歌は上の歌の続きで、求めて得難くしている恋であろうと思われるが、(332)それはとにかくに、恋を苦悩とし、その苦悩を永遠の人生の相《すがた》であるがごとくに感じているのは、人麿特有ともいえるものである。その二つは、人麿はものを感じるに、空間的に、感覚として感じるだけにとどまらず、時間的に、永遠の時の流れの上に泛《うか》べて感じる人で、これは多くの歌に現われていることである。この歌もそれであって、恋の苦悩をしている自身を永遠の人生の上に捉えているものである。心としては我を慰めようとしてのことであるが、その慰め方は、人生に徹することによって得ようとするもので、まさに沈痛と称すべきものである。
 
498 今《いま》のみの 行事《わざ》にはあらず 古《いにしへ》の 人《ひと》ぞまさりて 哭《ね》にさへ鳴《な》きし
    今耳之 行事庭不有 古 人曾益而 哭左倍鳴四
 
【語釈】 ○今のみの行事にはあらず 「今」は、「古」に対させてのもので、現在の自分。「行事」は、恋の苦しみを総括していったもので、寐ても眠れず、涙をこぼしなどすることの意。○古の人ぞまさりて哭にさへ鳴きし 「古の人ぞまきりて」は、古の人のほうが、今の我よりも苦しみがまさっていて。「哭にさへ鳴きし」は、「哭」は、泣き声。「さへ」は、あるが上にさらに添える意の助詞。「鳴きし」は、泣いたで、「し」は上の「ぞ」の結。泣き声を立てることまでもして泣いたで、自身の忍び泣きを背後に置いてのもの。
【釈】 今の世のこの我のみがしている恋の苦しみではない。古の世にあった人のほうが苦しみが多くて、泣き声を立てることまでもして泣いたことであるよ。
【評】 この歌は、上の歌に続けてのもので、いわゆる連作であり、人麿の率先して試みたふうのものである。上の歌は「古にありけむ人も」といい、「いねかてず」という程度であったのを、この歌は一歩を進めて、「古の人ぞまさりて」といい、「哭にさへ鳴きし」といって、人麿の忍び泣きをするに至ったことを背後にしているものである。連絡させつつも前進させたところに、連作の心がある。この歌は、作意としては上の歌と同じであるが、上の歌に依存するところのあるものである関係上、比較すると散漫の趣があって、魅力の劣ったものとなっている。
 
499 百重《ももへ》にも 来《き》しけかもと 念《おも》へかも 公《きみ》が使《つかひ》の 見《み》れど飽《あ》かざらむ
    百重二物 來及毳常 念鴨 公之使乃 雖見不飽有武
 
【語釈】 ○百重にも来しけかもと 「百重にも」は、上の(四九六)に出た。ここは百たびもで、数の多くもの意。「来しけかも」は、原文「来及(333)毳」旧訓「来及《きおよ》べかも」。『代匠記』の訓。及ぶという語は当時はなく、「及《し》く」に当てた例は、巻九(一七五四)「今日の日にいかにか及《し》かむ」を初め少なくないからである。「しく」は意味の広い語で、自動詞としても、及ぶ、頻《しき》る、重《かさ》なるの意をもっている。巻二(一一五)「おくれゐて恋ひつつあらずは追ひ及かむ」は、及ぶの意のもの。巻九(一七二九)「礒越す浪の頻《し》きてし念ほゆ」は、頻《しき》る意のもの。巻二十(四五一六)「今日降る雪のいや重け吉事《よごと》」は、重なるの意のものである。ここは重なるの意のものである。「来しけ」は、重なって来たれ。「かも」は、詠歎の助詞。百たびも重なってきよかしと。○念へかも 「かも」は、疑問。○公が使の見れど飽かざらむ 「公が使の」は、「公」は、君と同じ意で当てた字。女より男に対しての称。「使」は、この場合、求婚の意を伝える使い。「公が」は、公のほうを主としていったもの。「見れど飽かざらむ」は、すでに幾たびも見るけれども、なお飽かないのであろうで、女の、男の使いの来るのを喜ぶ心をいったもの。
【釈】 百たびも重なって来よかしと思っているせいでもあろうか、君が使いをすでに幾たびも見るが、我は飽かずにいるのであう。
【評】 これは、題詞では人麿の歌となっているが、「公が使」という語でも、明らかに女の歌とわかる。人麿が女に代わって詠むということも絶無のこととはいえないが、一首の調べのたどたどしく、洗煉のないところを見ても、明らかに他人の歌とみえる。思うに原本にこのように排列してあったのを、そのままに収録したのであろう。その想像からいうと、この歌は、上の三首の歌と繋がりをもったものではないかと思われる。さらにまたこの歌の「百重にも」という句は、「み熊野の浦の浜木綿百重なす」のその「百重」を取ったもので、その歌の返しではないかとも思われる。しかし上の三首は、歌として見ると、片恋の嘆きとはみえるが、我と心を遣るためのもので、女への贈歌とは見難いところのあるものである。またこの歌も、わが心やりを主とした、独詠の匂いの濃いものである。かりに「み熊野の」が贈歌であったとし、それに返したものとすると、男の求婚を心には喜びつつ、いつまでも応じまいとし、その事を弄んでいる心をあらわしたものとなって、甚しく不自然なものとなってくる。要するに上の三首の歌は連作とみえ、人麿が紀伊国の熊野にあってのものとみえるが、この歌はそれと繋がりがあるらしくみえつつ、辿り難いところをもったものということになる。
 
     碁檀越《ごのだむをち》の伊勢の国に往ける時、留《とどま》れる妻の作れる歌一首
 
【題意】 「碁檀越」は「碁」は氏、「檀越」は名であろうが、父祖も伝も不明である。『代匠記』は、檀越は梵語の旧訳で、新訳は檀那であり、いずれも布施の意だといっている。当時行なわれた仏語を取っての名である。「留れる」は、京に残っている意。
 
500 神風《かむかぜ》の 伊勢《いせ》の浜荻《はまをぎ》 折《を》り伏《ふ》せて 旅宿《たびね》やすらむ 荒《あら》き浜辺《はまべ》に
(334)    神風之 伊勢乃濱荻 折伏 客宿也將爲 荒濱邊尓
 
【語釈】 ○神風の伊勢の浜荻 「神風の」は、伊勢へかかる枕詞で、巻一(八一)「神風の伊勢|処女《をとめ》ども」に出た。「浜荻」は、浜に生えている荻で、特殊なものではない。荻は水辺原野に自生する物で、葉は薄より闊《ひろ》く、秋、花穂を出す。○折伏せて 折って伏せるで、下の「旅宿《たびね》」をするための床としようとしてである。当時の旅は、宿るべき屋がないところから、身分のある者は一夜一夜庵を結んで宿ったのであるが、一般の者は野宿をしたのである。その際は、身の危険を避けるために、広く、見とおしの利く場所を選んだ。ここもそれである。○旅宿やすらむ荒き浜辺に 「や」は疑問。「荒き」は、人げのない意。
【釈】 神風の伊勢の国の浜荻を折って伏せて夜床とし、わが背は旅寝をしていることであろうか。人げのない浜の辺りに。
【評】 伊勢に旅をしている夫を、京にあって、夜、床にいて思いやった心である。このことを「すらむ」と現在の想像としていっているのである。旅にある夫を思うと、その夜の床が思われるのは、妻にはほとんど共通になっている心である。「伊勢の浜荻」といっているところは、妻もそうした地を知っているのではないか。詠み方は謡い物風であるが、場景をはっきりと思い浮かべて詠んでいると思われるからである。
 
     柿本朝臣人麿の歌三首
 
501 未通女等《をとめら》が 袖《そで》振《ふ》る山《やま》の 水垣《みづがき》の 久《ひさ》しき時《とき》ゆ 憶《おも》ひき吾《われ》は
    未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時從 憶寸吾者
 
【語釈】 ○未通女等が袖振る山の 「未通女等が袖振る」は、巻二(335)(一三二)「わが振る袖を妹見つらむか」と同じく、男女を通じて、距離のやや遠く、声の通わし難い際、心を通じるしぐさである。ここは未通女《おとめ》のすることとしていっている。「振る」は同音の地名布留《ふる》に転じてあり、それが主となっているので、「未通女等が袖」までの七音は、布留の序詞となっている。「振る山の」は、現在の奈良県天理市布留にある山で、石上神宮の鎮座の地である。宮は布都御魂《ふつのみたま》を祀ってあり、崇神天皇の御代に今の地に遷されたので、古い社である。○水垣の 「水」は、瑞《みず》に当てた字で、瑞は若くみずみずしい意で、ここは神の関係上、垣の讃え詞としてのものである。この句は上より続いて、布留山の瑞垣の意で、これは皇居を御門《みかど》によってあらわすと同様に、布留山の社を、その外面の垣によってあらわしたものである。「の」は、のごとくの意のもので、初句からこれまでは、下の「久しき」の譬喩であり、その譬喩の中に序詞のあるものである。○久しき時ゆ 原文「久時従」、旧訓「久しきよより」。『代匠記』の訓。久しい時よりで、久しい以前からの意。○億ひき吾は 「き」は過去をあらわす助詞で、恋していた、吾はで、女に対して恋を打明けたもの。
【釈】 処女が袖を振るに因《ちな》みある布留山の瑞垣の古いがごとく、久しい以前より妹を思っていたことであるよ。
【評】 この歌は、主となっているのは、「久しき時ゆ憶ひき吾は」で、他の三句は、「久し」の譬喩であるが、この譬喩はそれだけにはとどまらず、その打明けに布留山の神を関係させている意味で、気分としては、誠実を誓った訴えである。なお布留の社は、上代にあっては広範囲にわたって、篤く信じられていたのであるから、それも考慮に入れるべきで、それがこの歌を美しく豊かなものとしている。また布留山の序詞として「未通女等が袖」を用いるのも、単に神に対してだけのものとすると唐突であり、不自然であるが、今は恋の訴えの関係でいっている神なので、間接ながら相手の未通女を讃えることとなり、そのために不自然を感じさせないものとなっている。譬喩が複雑な気分をもっているものであるが、結句が、「憶ひき吾は」という、屈折をもった、強い言い方のため、それに押される所がなく、渾然としたものになっている。一首を貫いて、調べに哀切なものがあり、迫り来るところのあるのは、人麿の主観の現われである。たぶん年若い頃の作であろうが、かけ離れた技巧をもったものである。
 
502 夏野《なつの》去《ゆ》く 小牡鹿《をじか》の角《つの》の 束《つか》の間《ま》も 妹《いも》が心《こころ》を 忘《わす》れて念《おも》へや
    夏野去 小社鹿之角乃 束間毛 妹之心乎 忘而念哉
 
【語釈】 ○夏野去く小牡鹿の角の 「小牡鹿」の「小」は、接頭語。「角の」の「の」は、のごとく。夏の野を歩いて行く鹿の角のごとくで、鹿は夏の初めに角を落とし、生えかわるので、夏はまだ短いところから、短い譬喩としたもの。○束の間も 巻二(一一〇)「束の間《あひた》も」が出た。「束」は、上代、物の長さの単位としたもので、拳を握って、指四本の並んだ幅で、短かい意。一|束《つか》の短かい間も。○妹が心を忘れて念へや 「妹が心を」は、妹の心を。「忘れて念へや」は、巻一(六八)に出た。「忘れて念ふ」は、当時の語法で、「念い忘る」というと同じである。「念へや」は、(336)「へ」の已然形に「や」の接して反語をなしているもの。思い忘れようか忘れはしないの意。
【釈】 夏の野を歩いて行く牡鹿の角のそれのごとく短かい間でも、妹の心を吾は思い忘れようか忘れはしない。
【評】 妹のことで心はいつもいっぱいであるというので、恋の誠実を誓った心のものである。「夏野去く小牡鹿の角の」という譬喩は淋しさのあるもので、それがこの心に融け合っている。鹿の少なくない時代のことなので、この度は実際に野で見かけたものと思わせるところがあり、したがって男と女との住所を暗示するという拡がりを感じさせる。また、「妹が心を」という語も拡がりをもったもので、それだけでこちらを思う心と感じさせるのは、調べの明るく、さわやかに、張っているからのことである。単純な歌であるが、前の歌と同じく、技巧のかけ離れたことを思わせる歌である。
 
503 珠衣《たまぎぬ》の さゐさゐ沈《しづ》め 家《いへ》の妹《いも》に 物語《ものい》はず来《き》て 思《おも》ひかねつも
    珠衣乃 狭藍左謂沈 家妹尓 物不語來而 思金津裳
 
【語釈】 ○珠衣の ここ一か所だけで、他にはない語である。『玉勝間』は、「玉裳」などいうと同じく、「珠」は衣を讃える意で添えたものと解している。『攷証』はさらに進めて、新しい衣を讃えたのだといっている。愛でたい衣の意と解する。これは、「さゐさゐ」へ枕詞としてかかっているもので、「さゐさゐ」は、その関係で衣《きぬ》ずれの擬声音と解される。○さゐさゐ沈め 「さゐさゐ」は、承けるほうは、『冠辞考』は妻の嘆きさやめくことだといっている。これも他に例のないものであるが、その範囲のことと取れる。『新考』は、「さゐ」は、「潮騒《しほさゐ》」の「さゐ」で、騒ぎの意だといい、『万葉辞典』は「さわ」だとしている。「ゐ」は「わ」の転音とし、騒ぎの語幹「さわ」としたと取れる。いずれも「騒」を強めるために重ねたものとしているのである。今はこれに従う。それだと、妻の騒立《さわだ》つ意で、名詞である。「沈め」は、旧訓「しづみ」で、『攷証』が「しづめ」としているほか、諸注すべて旧訓に従っている。『攷証』は「しづめ」と訓みうる文字だから、そう訓んで、定《しず》めしめの意とするほうが正しいとしている。すなわち他動詞と見るべきだというのである。これに従う。騒立ちを取鎮めての意。○家の妹に物語はず来て 「家の妹」は、家にある妹で、同棲している妹の意のものと取れる。「物語はず来て」は、話をしずに別れて来ての意である。これは別れの慌しいものであったこと、またその別れが、かりそめのものではないことを背後に置いての語《ことは》と取れる。○思ひかねつも 「思ひ」は、嘆きで、「思ひかねつ」は、嘆きに堪えられぬの意。「も」は詠歎。
【釈】 愛でたい衣の衣《きぬ》ずれのさいさいとする、そのさいさいと嘆き騒立《さわだ》つのを取鎮め、それに心を取られて、家にいる妹に話をしずに別れて来て、今は心残りに堪えられぬことよ。
【評】 この夫妻の別れのかりそめのものではないこと、またその別れの唐突のものであることは、集中の例によると防人以外(337)にはなく、またこれに類似の歌が防人の歌の中にありもするので、おのずからそれを連想させられる歌である。『新考』は防人の歌ではないかと凝っているが、事としては当然な疑いである。また語《ことば》としても、「珠衣のさゐさゐ沈め」は、他には例のないもので、少なくとも中央のものではなく、ことに洗煉を極めている人麿の用語としてはふさわしくないものに思える。また調べとしても鈍くして重いものであり、上の二首の歌の調べの暢達し透徹しているものとは比較にならないものである。『新考』のいうように、古い時代の防人の歌の一首が、何らかの経路で人麿歌集に記録されていたのではないかと思われる。その点からいうと、上の(四九九)の「百重にも来《き》しけかもと念へかも」の、人麿以外の女の歌であると同じ事情で、この歌も、原拠となった本に、今見るごとき排列をもって載っていたのを、そのままに採録したのではないかと思わせられる。この歌は巻十四(三四八一)にもいささかの異なりをもって載っていて、「ありぎぬのさゑさゑしづみいへの妹にものいはず来にて思ひぐるしも」とあり、左注として、「柿本人麿歌集の中に出づ」とある。すなわち注者は、この歌の転じたものと見たのである。この東歌の作者はこの歌を記憶していて、当時の風に従い、それをいささか換えて自分の抒情としたのであるが、それを知ったのは、直接、人麿歌集によってではなく、むしろ人麿と同じく、謡い物となっていたのを、耳を通して覚えたのではないかと思われる。なお雑歌として、同じく巻十四(三五二八)「水鳥の立たむよそひに妹のらに物言はず来にて思ひかねつも」がある。
 
     柿本朝臣人麿の妻の歌一首
 
【題意】 「人麿の妻」は、すでに歌に出ている者だけでも、軽娘子、羽易娘子、依羅娘子があった。なお他にもあったとする説、また無かったとする説もある。一夫多妻の時代であり、上の中二人は早世してもいるので、あったとしても問題とはならない。したがってこの妻の誰であるかはわからない。
 
504 君《きみ》が家《いへ》に わが住坂《すみさか》の 家道《いへぢ》をも 吾《われ》は忘《わす》れじ 命《いのち》死《し》なずは
    君家尓 吾住坂乃 家道乎毛 吾者不忘 命不死者
 
【語釈】 ○君が家にわが住坂の 「君が家にわが」は、「住」の序詞となっている。「君」は、夫婦間では妻より夫を呼ぶ称であるから、ここは人麿である。君が家に、わが住みと続いている。しばしば出たように、上代の夫婦は、夫が妻の家に通うのが普通で、後に夫の家へ迎えることもあったのである。これは中世までも続いたことである。ここは、妻が夫の家へ行って住むという特殊なことであったので、それにふさわしい言い方をしているのである。「住坂」は、墨坂という文字で、日本書紀の神武紀、崇神紀、天武紀に出ている地か。それは宇陀郡にある坂の名である。今、(338)墨坂という名は、宇陀郡榛原町の宇陀川の南岸に墨坂神社があって、そこが連想される。そこは大和から伊賀へ越える往還にあたっていて、古の墨坂と見るべきであろう。この二句は、君が家に吾が住んでいる、その住坂のの意で、「君が家にわが」は序詞ではあるが、単に音だけでかかるものではなく、事実を序詞の形にしていったものと解される。同音異義でかかる興味のものとすれば、この序詞は事が特殊で、興味よりのものとはいえず、事という上からは、下の続きから見ると、いわなくてはならない必要なことである。○家道をも吾は忘れじ 「家道」は、家へ通ずる道で、その家は、上よりの続きで人麿の家である。「をも」の「も」は、並べていう意のそれで、家はもとより、その家へ通ずる道をも。「吾は忘れじ」は、忘れまいと「吾」を添えて強くいったもので、誓いに近い意のものである。○命死なずは 死なない限りはで、生きている限りはという心を強めていったもの。
【釈】 君が家に吾は住んでいるその住坂の家の、家はもとより、この家へ通ずる道までも、吾は忘れまい。命の死なずにいる限りは。
【評】 この歌は、人麿の妻が、夫の住坂の家に同棲していることを深く喜んで、感謝の心をほとんど誓いに近い態度でいったものと思われる。「家道をも」といっているのは、夫の家へ移って来た時の記憶をいったものではないかと思われる。夫の家に同棲するということは特別なことであるから、その意味で家道が印象されていたとしても不自然には思われない。あるいはまた、人麿の家に同棲している妻の、その家を離れる事情が起こった時、その家をなつかしみ、家道をもなつかしんで、たとい離れても永久に忘れまいと、独詠として詠んだものとも取れなくはないが、一首として見ると、悲しみの心よりも、喜びの心のものと思われるから、前者であろう。素朴な、情に篤い人で、したがって強い心をもっていた人であるということが、歌から感じられる。
 
     安倍女郎《あべのいらつめ》の歌二首
 
【題意】 「安倍女郎」は、巻三(二六九)に出た「阿倍女郎」と同人であるとされている。「阿倍」「安倍」は通じて用いていた例があるからである。安倍氏の一族であることがわかるだけで、伝は不明である。この人の歌はなお後に出る。
 
505 今更《いまさら》に 何《なに》をか念《おも》はむ 打靡《うちなび》き 情《こころ》は君《きみ》に 縁《よ》りにしものを
    今更 何乎可將念 打靡 情者君尓 縁尓之物乎
 
【語釈】 ○今更に何をか念はむ 「今更に」は、今になって改めて。「何をか念はむ」は、何の思うことがあろうかで、何もないという心を強くい(339)ったもの。○打靡き 「打」は、接頭語、「靡き」は、従う状態で、下の「縁《よ》り」につづく。○情は君に縁りにしものを 「縁る」は、任せる意。「に」は、完了。心は君に任せてしまっているものを。
【釈】 今になって改めて何の思うことがあろうか。靡いて、わが心は早くから君に任せてしまっているものを。
【評】 この歌は、次の一首と同時のもので、女郎の夫に何らかの憂え事が起こり、その関係上、夫から身の去就を考えてもいいというような事を、いたわりの心をもっていわれた時の返事とみえる。「今更に何をか念はむ」は、自分を夫から切り離して、別な物として思おうなどとは、けっして思っていないの意。「情《こころ》は君に縁《よ》りにし」は、すでに君と同体となっているの意である。妻として夫に対して献身的な、言いかえると宗教的になっている心をいったもので、誓いの歌である。
 
506 吾《わ》が背子《せこ》は 物《もの》な念《おも》ほし 事《こと》しあらば 火《ひ》にも水《みづ》にも 吾《われ》なけなくに
    吾背子波 物莫念 事之有者 火尓毛水尓母 吾莫七國
 
【語釈】 ○吾が背子は物な念ほし 「吾が背于」は、夫に対する最も親しんだ称。「物な念ほし」は、巻一(七七)に出た。「な」は、禁止の助詞。このように用言の上に続く場合は、連用形で終止する。「念ほし」は、「念ひ」の敬語。物案じしたまうなの意。○事しあらば 「事」は、ここは事件の意のもの。「し」は、強め。事件が起こったならば。○火にも水にも 火の中にも、水の中にも入るの意で、命を捨てて何事をもする意を具象的にいったもの。言いさしの形にして、入るということをいわないのは、熱意よりの昂奮をあらわしているもの。○吾なけなくに 巻一(七七)に出た。「なけ」は、形容詞「無し」の未然形の古形。「なく」は、打消の助動詞「ず」の未然形「な」に、「く」の添って、名詞形となったもの。「に」は、詠歎。ないではないことであるものをで、すなわちあるものをというのを強めていったもの。
【釈】 わが背子は、物案じをしたまうな。もし事件が起こったならば、たとい火の中へでも水の中へでも入る吾という者が、ないではないことであるものを。
【評】 これは女郎のほうが、夫を慰め励ましたものである。「吾が背子は物な念ほし」と、卒然と言い出したのは、夫が何事か物案じをしているのを見て、見かねてのことで、現状に即してのものと取れる。続いて、妻としての献身的な心を、具象的にいっているのであるが、「火にも水にも」というごとき言いさしと、「吾なけなくに」というごとき、古く、屈折の多い語とを用いて、情熱を強く一気にいい、それによって渾然とした一首とならしめているのである。上の歌にも宗教的のものがあったが、これは一段と昂揚したもので、上代の女性の夫婦関係を宗教的に観じ、したがって積極的な態度をもっていたことが明らかに現われている歌である。その意味での典型的なものといえる。
 
(340)     駿河※[女+采]女《するがのうねめ》の歌一首
 
【題意】 「駿河※[女+采]女」は、駿河国より召された采女《うねめ》の、宮中における称である。采女のことは、巻一(五一)、巻二 (九五)に出た。「※[女+采]」は、采女を一つにしたわが国の造字である。伝はわからない。采女は婚を厳禁されていたので、この歌でいうがごときことは、任が解けての後でなければできないことである。解任の後、前官をもって呼んだものと取れる。
 
507 敷妙《しきたへ》の 枕《まくら》ゆくくる 涙《なみだ》にぞ 浮宿《うきね》をしける 恋《こひ》の繁《しげ》きに
    敷細乃 枕從久々流 涙二曾 浮宿乎思家類 戀乃繁尓
 
【語釈】 ○數妙の枕ゆくくる涙にぞ 「敷妙の」は、ここは枕にかかる枕詞。「枕ゆくくる」は、「ゆ」は、より。「くくる」は、潜《くぐ》るの意で、四段活用の語か。「ぞ」は、取立てていう意の助詞。夜の枕を潜って、床の上へ落ちる涙にの意。○浮宿をしける 「浮宿」は、舟にあって、水の上に浮かんで寐る意の語で、用例のあるもの。「ける」は、上の「ぞ」の結。浮寐をしたことであるよ。○恋の繁きに 「繁き」は恋の深さをいったもの。
【釈】 夜の枕を潜って床の上に落ちてたまる涙に、吾は浮寐をしたことであるよ。恋の繁さで。
【評】 通って来るのを待ったが、来なかったところの夫に訴えた歌と取れる。吾が恋しさに流す涙の上に浮寐をしたというのは、心としては訴えの情を強めようがためのもので、また語《ことば》としては例のないもので、当時にあっては新しいものである。しかし結果から見ると、実際から遊離したものとなって、かえって訴えの情を弱めてしまっている。夫婦間の歌で、実用を主とすべきものが、文芸的にしようとしたため、その本旨を失うに至ったものである。実際的ということを性格とし、文芸性ということには限度のあるのを、その限度を超えたもので、この傾向が後の平安朝に続くものとなっている。
 
     三方沙弥《みかたのさみ》の歌一首
 
【題意】 「三方沙弥」は、巻二(一二三)以下三首の歌の作者である。
 
508 衣手《ころもで》の 別《わか》る今夜《こよひ》ゆ 妹《いも》も吾《われ》も いたく恋《こ》ひむな あふよしをなみ
(341)    衣手乃 別今夜從 妹毛吾母 甚戀名 相因乎奈美
 
【語釈】 ○衣手の別る今夜ゆ 「衣手」は、袖の意。「別る」は、別れて遠ざかる意で、下二段活用の終止形。終止形から「今夜」という体言につづく語法である。「ゆ」は、より。袖と袖の別れて遠ざかる今夜よりはで、男女親しむ状態を、「袖|携《たづさは》り」、「手携り」などといっているのを背後に置き、別れるということを具象的にいったもの。○妹も吾もいたく恋ひむな 「恋ひむな」は、原文「恋名」、旧訓「こひしな」。『拾穂抄』の訓。「な」は、詠歎。妹も吾も甚しく恋することであろうよ。○あふよしをなみ 「あふよし」は、逢い見る方法。「なみ」は、無み。無いゆえにで、理由をあらわしたもの。
【釈】 袖と袖との別れて遠ざかるべき今夜よりは、妹も吾も、甚しく恋することであろうよ、逢い見る方法が無いゆえに。
【評】 何らかの事情で、夫婦遠く別れるべきことになった時、別れに先立って妻に与えた歌である。「衣手の別る今夜ゆ」という語《ことば》は、その場合とすると、実際に即しつつも、美しく落着いた言い方である。したがって一首全体に調和をもったものとなっている。おのずからにその人柄をあらわしている歌である。
 
     丹比真人笠麿《たぢひのまひとかさまろ》、筑紫国に下れる時、作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「丹比真人笠麿」は、巻三(二八五)に既出。「丹比」は氏、「真人」は姓、「笠麿」は名。真人の姓は、天武天皇の朝に賜わったもので、丹比氏は史上にあらわれており、同族の名は少なくないが、笠麿の伝は明らかでない。「筑紫に下れる」は、官命を帯びてのことと思われるが、その事はわからない。
 
509 臣女《たわやめ》の 匣《くしげ》に乗《の》れる 鏡《かがみ》なす 見津《みつ》の浜辺《はまべ》に さ丹《に》つらふ 紐《ひも》解《と》き離《さ》けず 吾妹児《わぎもこ》に 恋《こ》ひつつ居《を》れば 明晩《あけぐれ》の 旦霧《あさぎり》隠《がく》り 鳴《な》くたづの 哭《ね》のみし哭《な》かゆ 吾《わ》が恋《こ》ふる 千重《ちへ》の 一重《ひとへ》も なぐさもる 情《こころ》もありやと 家《いへ》のあたり 吾《わ》が立《た》ち見《み》れば 青旗《あをはた》の 葛木山《かづらきやま》に たな引《び》ける 白雲隠《しらくもがく》り 天《あま》さかる 夷《ひな》の国辺《くにべ》に 直向《ただむか》ふ 淡路《あはぢ》を過《す》ぎ 粟島《あはしま》を 背《そがひ》に見《み》つつ 朝《あさ》なぎに 水手《かこ》の音《こゑ》喚《よ》び 暮《ゆふ》なぎに 梶《かぢ》の音《と》しつつ 浪《なみ》の上《へ》を い行《ゆ》きさぐくみ 磐《いは》の間《ま》(342)を い往《ゆ》き廻《もとほ》り 稲日都麻《いなびつま》 浦《うら》みを過《す》ぎて 鳥《とり》じもの なづさひ去《ゆ》けば 家《いへ》の島《しま》 荒磯《ありそ》のうへに 打靡《うちなび》き しじに生《お》ひたる 莫告《なのりそ》が などかも妹《いも》に 告《の》らず来《き》にけむ
    臣女乃 匣尓乘有 鏡成 見津乃濱邊尓 狭丹頬相 紐解不離 吾味兒尓 戀乍居者 明晩乃 旦霧隱 鳴多頭乃 哭耳之所哭 吾戀流 千重乃一隅母 名草漏 情毛有哉跡 家當 吾立見者 青旗乃 葛木山尓 多奈引流 白雲隱 天佐我留 夷乃國邊尓 直向 淡路乎過 粟嶋乎 背尓見管 朝名寸二 水手之音喚 暮名寸二 梶之聲爲乍 浪上平 五十行左具久美 磐間乎 射徃廻 稻日都麻 浦箕乎過而 鳥自物 魚津左比去者 家乃嶋 荒磯之宇倍尓 打靡 四時二生有 莫告我 奈騰可聞妹尓 不告來二計謀
 
【語釈】 ○臣女の 「臣女」は、細井本以下三本、「臣」が「《め》巨」となっているが、他の諸本は異同がない。旧訓「まうとめの」であるが、意が通じない。『改訓抄』は、「おみのめの」と改め、『考』『古義』などこれに従っている。『古義』は古事記、雄略天皇の巻に「おみのをとめ」とあり、「臣《おみ》の子《こ》」「臣の壮子《おとこ》」などいうのと同例だといっている。『略解』は、「臣女」は「姫」の誤りで、「たをやめの」か、またはこのままで「みやびめの」と訓むべきだとしている。『攷証』は、「臣《おみ》の女」という語は他には見えず、ここはそうした言い方をするべき要のない所だ。また「たをやめ」は『和名抄』に初めて出る語で、古くは「たわやめ」であったとし、誤字であろうとして訓をつけずにいる。『新考』は、「臣女」はおそらく「姫」の字を戯れに二字に書いたものであろうとし、訓は「たわやめ」としている。『新訓』も「たわやめ」としている。義訓として、これに従うこととする。○匣に乗れる 「匣」は、巻二(九三)「玉匣」に出た。櫛笥で、笥は容器の意。櫛を主として、鏡、化粧品を入れる筥。「乗れる」は、乗っているで、下の「鏡」に続く。鏡を用いるため、櫛笥から出し、その上に載せてある状態。○鏡なす 「なす」は、のごとく。以上三句は、たわやめの櫛笥の上に載せてある鏡のごとくで、その見る物である意で、「見津」の「見」にかかる序詞である。○見津の浜辺に 「見津」の「見」は、「御」で「津」を尊んで添えた美称。「津」は難波の津で、朝廷の御料の所だからである。「浜辺」は、出帆を待ってとどまっている所としてのもの。○さ丹つらふ紐解き離けず 「さ丹つらふ」は、「さ」は、接頭語。「丹《に》」は、赤色。「つらふ」は、色の映発する意。枕詞としても用いるが、ここは下の「紐」の形容で、赤く匂うの意。「紐解き離けず」は、衣の紐を解きやらずの意で、巻九(一七八七)「紐解かず丸《まろ》寐をすれば吾が著たる衣《ころも》は穢《な》れぬ」、その他にもあるごとく、丸寐をする時の状態で、共寐をする時とは反対な状態であるところから、それを背後に置いての言い方。○菩妹児に恋ひつつ居れば 上より続いて、夜の床に妹を恋いつづけておれば。○明晩の旦霧障り鳴くたづの 「明晩」は、夜明け方のほの暗さ。「旦霧隠り」は、朝立つ霧に隠れてで、「隠り」は、隠れた状態となって。「鳴くたづ」は、鳴いている鶴で、鳥類は朝早く求食《あさり》を(343)するのが習性である。「の」は、のごとくで、「哭《な》かゆ」にかかる譬喩。○哭のみし哭かゆ 「哭のみ」は、声を立ててばかりで、泣き方の甚しい意。「し」は、強め。「哭かゆ」は、泣かれる。○吾が恋ふる千重の一重も わが恋っているその千分の一でもで、成句となっているもの。しばしば出た。○なぐさもる情もありやと 「なぐさもる」は、「慰むる」で、「む」が「も」に転じたもの。『代匠記』は、「三室《みむろ》」が「御諸《みもろ》」になっていると同類であるといっている。「情もありやと」は、「情」は上に続いて、なぐさもる情《こころ》で、情なぐさむという意の、当時の語法。「ありやと」は、あろうかと思って。○家のあたり吾が立ち見れば 「家のあたり」は、家の辺。家は大和の京にあるのであるから、家の方向というほどの意を、具体的にしようと狭くいったもの。「立ち見れば」の「立ち」は、感を強めることを主として慣用されているもので、意味は少ないもの。○青旗の葛木山に 「青旗の」は、巻二(一四八)に出た。山の木立の青いのを、旗に譬えたもので、青旗のごときの意。「葛木山」は、大和国の西部を劃っている連山で、難波の津からは大和国を隠している山。○たな引ける白雲隠り 靡いている白雲に隠れてで、白雲の靡くのは「葛木山」、隠れるのは「家のあたり」で、家のあたりが白雲に隠れているとの意である。「隠り」は、四段活用、連用形で、言いさした形となっており、以下は「天ざかる」に始まって海路のほうに転じている。この言いさしての転じ方は不自然のようにみえるが、「吾が恋ふる」以下の十句は、妹に心を残してということを具体的にいおうとしてのもので、単なる叙事ではないから、必ずしも不自然ではないものである。○天さかる夷の国辺に 「天さかる」は、都から遠ざかっている意で、夷にかかる枕詞。「夷」は、地方の総称。ここは筑紫をさしている。「国辺に」の「に」は、目標を示す意のもの。筑紫国のほうへと志しての意で、以下の海路を総叙したもの。○直向ふ淡路を過ぎ 「直向ふ」は、正面に向かうで、難波の津より淡路の真正面に見える意で、その形容句としたもの。「淡路を過ぎ」は、「淡路」は淡路島で、難波を出た船の第一に寄港する地。今は、そこを漕ぎ過ぎて。○粟島を背に見つつ 粟島は巻三(三五八)「粟島を背向に見つつ」があった。淡路島の付近の島と思われるが、今は不明となっている。「背に見つつ」は、「背《そがひ》」は、「背向《そがひ》」で、後ろの意。後ろにして漕ぎ遠ざかりつつ。○朝なぎに水手の音喚び 「朝なぎ」は、海上の、朝の凪ぎた時。「水手」は、船頭。「音喚び」は、「喚ぶ」は高声《たかごえ》を立てる意で、声は、梶の調子を合わせるためのかけ声。朝なぎには、船頭が梶を合わせるかけ声を高く立て。○暮なぎに梶の音しつつ 夕の凪ぎの時には、船を漕ぐ梶の音を立てつづけてで、二句、上の二句と対句。○浪の上をい行きさぐくみ 「い行き」の「い」は、接頭語。「さぐくみ」は、苦しんで進む意と取れるが、それ以上はわからない。○磐の間をい往き廻り 「磐の間」は、海岸に乱立する厳の間。当時の航海は、風波の危険を避けやすくするため、できうる限り海岸に接して漕いだことを後に置いての言。「廻り」は、あちこちと廻り。○稲日都麻浦みを過ぎて 「稲日都麻」は播磨風土記に出ている地名で、加古川の河口にある高砂《たかさご》で、古くは島となっていたのが、今は陸続きとなった地。集中、他に二か所出ている。「浦み」は、浦のあたり。○鳥じものなづさひ去けば 「鳥じもの」は、鳥のごときさまをした物の意の語で、類語はしばしば出た。この「鳥」は水鳥で、譬喩。水鳥のごときさまにの意。「なづさひ去けば」の「なづさひ」は、巻三(四〇三)に出た。浮き漂って漕ぎ行けば。○家の島荒礒のうへに 「家の島」は、播磨灘の中、姫路市飾磨港の西南にあたり、宝津港の南方七海里にある。家島群島の主島。「荒礒」は、海岸の水より現われた岩の続いている所。「上」は、あたり。○打靡きしじに生ひたる 「打靡き」は、「打」は接頭語。「靡き」は、下の莫告《なのりそ》の状態。「しじに生ひたる」は、繁く生えているところの。○莫告が 「莫告」は、今の、ほんだわらという藻。「が」は、ここは「の」と同じであるが、下の「などか」に続く関係上、それに引かれて畳音に近くしたものと取れる。「家の島」以下これまでの五句は、下の「告らず」に、畳語の関係でかかる序詞である。○などかも妹に告らず来にけむ 「などか」は、なぜにか。「も」は(344)詠歎。「告らず来にけむ」は、別れを告げずに来たのであることかで、「けむ」は、「などか」の「か」の結て、連体形。
【釈】 たおや女の櫛笥の上に載っている鏡のように、見るという言《こと》を名に負っているこの見津の浜辺に、我は赤く匂う衣《ころも》の紐も解きやらず、独り寐の丸寐をして、京に残して来た妹を恋いつづけていると、明け方のほの暗い時の朝霧の中に隠れて鳴いている鶴《たず》のごとくに、妹恋しさに声を立てての泣き方ばかりをさせられる。せめてわが恋っている心の千が一なりとも、心の慰むこともあろうかと思って、京のわが家のあるほうを立って見ると、青旗のような葛木山に靡いている白雲に遮られ隠れて見えずに、我は京を遠く離れた地方の国に向かって船出をし、難波津に其向に向かっている淡路島を漕ぎ過ぎ、粟島を後ろに見つつ遠ざかり、朝の凪には、船頭の梶の調子を合わせるかけ声を高く立て、夕の凪には、梶を使う音を続けて、浪の上を行き悩み、海岸に乱立する磐の間を行きめぐって、播磨灘の稲日都麻の浦のあたりを漕ぎ過ぎて、水鳥のごときさまに水に漂って進んで行くと、家の島の磐続きの岸辺のあたりに、打靡いて繁くも生えているところの莫告藻《なのりそ》のその名のごとくに、なぜに我もまた、この旅のことを妹に告《の》らずに来たことであろうか。
【評】 笠麿のこの筑紫への旅は、官命がにわかに下ってのことと思われる。あるいはまた、他に事情が伴っていたのかもしれぬが、とにかく、その妻に別れを告げる暇のない発足であったことは歌で知られる。この歌は、旅そのものについては何のいうこともなく、ただ妻への心残りだけをいっているもので、難波津で出帆の準備をしている間、また出帆して、播磨灘の家島へ行くまでの間、笠麿の心を占めていたものは、その心残りだったのである。この歌は、その心残りを中心としたもので、卒然として「見津の浜辺」から言い起こし、「家の島」を眼前に見る所で打切ってあるのも、その関係においてである。歌は意識して構成をつけたもので、「見津の浜辺」に一つの頂点をつけ、「家の島」にいま一つの頂点をつけて、前後二段とし、前段より(345)も後段のほうを重くして、統一をつけたものである。前段は起首から、「たな引ける白雲隠り」までである。その頂点は、「吾が恋ふる千重の一重も」以下「白雲隠り」までで、わが家の空を顧望して妹を偲ぶという、一般的な旅愁である。細部においても、技巧を用いている心が知られる。「臣女の匣に乗れる鏡なす」という序詞は、「見津」の「見」にかけたものであるが、この「見」は美称の「み」であって、序詞が讃えの心をもったものという点からは、妥当なものとは思われない。しかし、この際の笠麿のいおうとしていることは、妹を思う心であるから、その点からは序詞は、妹に繋がりをもち、効果的なものとなってくる。意識してのこととみえる。また、「哭のみし哭かゆ」ということは、たとえいかなる事情のもとにあったにもせよ、いわゆる大夫《ますらお》として感傷にすぎるものとも聞こえる。しかしこれは、「さ丹つらふ紐解き離けず、吾妹児に恋ひつつ居れば」という、終夜を眠り難くしたことを背後に置き、さらに、「明晩の旦霧隠り、鳴くたづの」という実景に刺激されてのことで、感傷が妥当のものになってくるところがある。したがって「明晩の」以下三句の譬喩は、技巧のないごとくにみえて効果の多いものである。これも意識してのものかと思われる。「白雲隠り」と言いさして一転して、事は海路に移っている。この移り目については、後にいう。後段としての海路の頂点は、結末の「などかも妹に告らず来にけむ」で、これが一首の頂点でもある。この「妹に告らず」ということは、特殊なことであって、笠麿の感傷はここから発しているのであるが、これを最後に置いたのは要を得たものである。この感を発したのも、卒然なものではなく、「家の島荒礒のうへに、打靡きしじに生ひたる、莫告」に刺激されてのこととしている。物の名そのものに神秘的な力があるという信仰をもっていた時代であるから、この五句の序詞は、序詞であるとともに、「などかも妹に告らず来にけむ」を合理化することをしているものである。さらにまた、この感傷には、播磨灘の航路の危険を背後に置いてもいる。淡路島、粟島までの航海は安易であるが、播磨灘へかかると、そこは聞こえた難航の海であるところから、その実際に即して、「朝なぎに」「暮なぎに」と対句を設けて、航路のたやすからぬことをいい、さらにまた、「稲日都麻」を過ぎて「家の島」へ向かうには、海岸を離れて、海を横切る路になるので、「鳥じものなづさひ去けば」といい、「家の島」を間近く見る所で感を発した形にしているのは、最後の感傷を合理化させる上では、妥当な場所というべきである。播磨灘に入って以後の実際への即し方は、全面的であって、前段よりもはるかに強く、また、前段と漸層的でもある。これは一首の構成上明らかに意識したことと思われる。次に一首の構成の上で、笠麿の最も注意した点は、陸と海とを対照させ、海によって統一をつけた点にある。この陸と海の対照は、巻二(一三一)より(一三七)にわたる、「柿本朝臣人麿、石見国より妻に別れて上り来る時の歌」に現われているものと揆を一にするものである。しかし時代的に見て、笠麿が人麿を学んだとは言い難いものである。溯ると、古事記、上巻神代の巻の、八千矛神に関する歌謡は、すべて海陸を対照させたものである。その歌謡は弘く流布して、この時代より後の山上憶良の歌にまでも影響している。その点から見ると、人麿も笠麿も、同じく八千矛神の歌謡の影響を受けていると見るべきであろう。この陸と海との対照は、際立たせず、自然の形で遂げようと思(346)ったことであろう。陸と海との移り目を、「たな引ける白雲隠り」という言いさしの形にしたのは、その心よりのことと思われる。これが成功したものかどうかは問題となる余地のあるものであるが、その意図は汲み取れる。大体として、やや放胆に、いわゆるあぶない詠口《よみくち》をする人とみえるから、そこに興味もあり、また危険もあるといえるものである。
 
     反歌
 
510 白細《しろたへ》の 袖《そで》解《と》き更《か》へて 還《かへ》り来《こ》む 月日《つきひ》を数《よ》みて 往《ゆ》きて来《こ》ましを
    白細乃 袖解更而 還來武 月日乎数而 往而來猿尾
 
【語釈】 ○白細の袖解き更へて 「白細の」は、ここは袖へかかる枕詞。「袖解き」は、袖を衣から解き離しての意。「更へて」は、取り換えての意。夫婦の袖を解き離し、取り換えて縫いつけてで、これは上代の信仰として、その人の身につけた物はその人の一部分であるとして、これを自身につけることは、その人とともにいることとした心よりのことである。これは上代でいう形見である。この二句は、結句の「往き」へ続く。○月日を数みて 「数」は旧訓「かぞへる」。『代匠記』の改めたもので、仮名書きもあり、用例も多いものである。数える意である。往復に費やす予定の月日を数えてで、吾も妹もまた逢う日を待つようにしての意のもの。○往きて来ましを 筑紫へ往つて来ようものをで、「まし」は、上に仮定があって、その帰結を示すもの。「を」は、詠歎。この「まし」は全体にかかるもので、もし逢うことができたなら、その上での意のもの。
【釈】 もし希望どおりにできるならば、二人の袖を解いてつけかえて形見とし、往復の日数を数えて、また逢う日を楽しみにして、その上で筑紫まで往って来ようものを。
【評】 長歌の結句の「などかも妹に告《の》らず来にけむ」の延長で、もし逢えたならば、告《の》るのみではなく、こうもしようと想像して嘆いているのである。この反歌で見ると、笠麿の筑紫に行くのは、短期間のもので、したがってにわかのことで、官命としても使という程度のことではなかったかと思われる。反歌は繰り返しの範囲のものではあるが、展開をもっている点で、新風のものといえる。
 
     伊勢国に幸せる時、当麻麿大夫の妻の作れる歌一首
 
511 吾《わ》が背子《せこ》は 何処《いづく》行《ゆ》くらむ おきつもの 隠《なばり》の山《やま》を 今日《けふ》か超《こ》ゆらむ
(347)    吾背子者 何處將行 己津物 隱之山乎 今日歟超良武
 
【釈】 この歌は、巻一(四三)に出ていて、これは重出したものである。
 
     草嬢の歌一首
 
【題意】 「草嬢」は、諸注、問題としている。『代匠記』は略して書いた女の名だろうといい、『考』は「草」の下に「香」を脱したので、「くさか」ではないかといい、『路解』がそれに従っている。『古義』は「輟※[田+井]録」に娼婦のことを草娘といっているので、これもそれであろうとして「うかれめ」と訓み、『新考』は草野の娘子すなわち村嬢という意であろうといい、『全釈』も田舎者を草人というので村娘の義であろうといっている。歌は農業をしている娘の心をいったものであるから、『新考』の解に従うべきであろう。
 
512 秋《あき》の田《た》の 穂田《ほだ》の刈《かり》ばか か縁《よ》りあはば そこもか人《ひと》の 吾《わ》を事《こと》なさむ
    秋田之 穗田乃苅婆加 香縁相者 彼所毛加人之 吾乎事將成
 
【語釈】 ○秋の田の穂田の刈ばか 「秋の田」は収穫期の田の意。「穂田」は、稲が穂を出して熟した時の田で、秋の田の繰り返し。「刈ばか」は、「刈」は、草や稲を刈り取る意。「はか」は、地域の広さをあらわす語で、その地域は、刈るという労働の上でのもの。「刈ばか」は熟語である。この「はか」は現在も用いられているが、意義はやや転じ、仕事の速度をあらわす語となり、捗《はか》がゆく、ゆかぬなどと用いられている。「刈ばか」は実際の上でいうと、「一はか」は一人一日の刈上げ区域というごときものであったろう。○か縁りあはば 「か」は、接頭語。「縁り合はば」は、寄り合ったならばで、事としては、女のはかと、男のはかとが相接していて、刈り上げの仕事が進んで行くと、自然に男女が相接近するような状態になることを心に置いていっているものと取れる。○そこもか人の 「そこ」は、後世の「その点」にあたる古語。「そこも」は、その点につけても。「か」は、疑問。「人の」は周囲の人々の。○吾を事なさむ 「事なす」は、「事」は事件で、ここは夫婦関係に因《ちな》んでのこと。「なす」は、拵え立てる意で、「事なさむ」は、夫婦関係に因んでの事を拵え立てていうであろうかの意。
【釈】 秋の田の穂田の刈ばかが接しているために、自然に男と接近するような状態になったならば、それにつけても周囲の人々は、心があってのこと、関係があってのことと拵え立てていうことであろうか。
【評】 上代の結婚は、ある期間は双方秘密にしていたので、したがって好奇の心から、噂の好題目になっていたものとみえる。(348)歌はその対象とされやすい年頃の娘の、その事についての嘆きである。ここにいっている「穂田の刈ばか」は、春先、耕作準備として野火をする時などと同じく、秋の稲刈が協同労作となっていたとみえ、そうした時は、部落の男女が一つに集まる時なので、それを背後に置き、そうした余儀ない時の、加えて刈ばかが相接しているという余儀ない場合にも、男に近寄るということがあれば、ただちにそれを種にして事を構えかねないことだと、怒りをもって嘆いた心である。実際生活に即してのものなので、語は単純であるが、心は複雑で、切実な味わいをもっている。
 
     志貴皇子の御歌一首
 
【題意】 「志貴皇子」は、巻一(五一)に出た。
 
513 大原《おほはら》の この市柴《いつしば》の 何時《いつ》しかと 吾《わ》が念《おも》ふ妹《いも》に 今夜《こよひ》あへるかも
    大原之 此市柴乃 何時鹿跡 吾念妹尓 今夜相有香裳
 
【語釈】 ○大原のこの市柴の 「大原」は、大和国高市郡、今の明日香村字小原の地であろうという。巻二(一〇三)「大原の古りにし里」とあった所と同所。「この市柴」は、「この」は、眼前の物を指示しての語。「市柴《いつしば》」は旧訓。「五柴」と書いた例が幾つもある。「市」の字を用いているについて『新考』は、転じて「いち柴」ともいったのではないかと疑っている。「いつ」は、「厳橿」「いつ藻」などのいつと同じく、繁っている意のもので、「柴」はそれとの関係上、木の柴ではないかという。これに従う。この二句は、下の「何時《いつ》」に畳音の関係でかかる序詞である。序詞ではあるが、眼前の物を捉えてのそれであることが注意される。○何時しかと吾が念ふ妹に 「何時しか」は、「し」は強め、「か」は疑問で、いつがその時かで、早くと待つ意をもった語。いつがその時か、早くと思っているところの妹に。○今夜あへるかも 「かも」は、詠歎。
【釈】 大原のこの市柴《いつしば》のいつという、そのいつがその時かと待ち思っていたところの妹に、今宵は逢っていることであるよ。
【評】 これは「妹」と呼ばれる人に与えられた歌である。「大原のこの市柴の」という序詞は、「何時しか」を強めるためのもので、強くも待ち望んでいたことをいうことによって、その逢い得たことを喜ぶ深さをあらわしたもので、逢い初めた夫婦間にあっては、普通のこととしていたものと思われる。この序詞の眼前を捉えたものであることは、「大原」という地名を用いていることにより、「この」という指示する語を用いていることによって明らかである。これは「妹」もその時見ているものなので、その意味でも感を強めるものとなるからである。山野などで男女が逢うのは、人目を避けようがためで、当時にあってはむしろ普通のことであったと思われる。巻二(一〇七)「あしひきの山のしづくに」は、大津皇子の山において女と逢おうと(349)されたもので、事としては同様である。
 
     阿倍女郎の歌一首
 
【題意】 「阿倍女郎」は(五〇五)に出た。
 
514 吾《わ》が背子《せこ》が けせる衣《ころも》の 針目《はりめ》落《お》ちず 入《い》りにけらしも 我《わ》が情《こころ》さへ
    吾背子之 蓋世流衣之 針目不落 入尓家良之 我情副
 
【語釈】 ○吾が背子がけせる衣の 「吾が背子」は、しばしば出た。「けせる」は、「けしある」の約《つづ》まった語。「けす」は着るの敬語で、着ていらせられるの意。○針目落ちず 「針目」は、針の縫目で、縫目と同じ。「落ちず」は、洩れずで、限りない縫目の、その一目も洩れずに。○入りにけらしも我が情さへ 「入りにけらしも」は、「に」は、完了。「入りに」は入ってしまったの意。「けらし」は、眼前を証としての推量をあらわすもので、証は下の「情《こころ》」である。「も」は、詠歎。「我が情さへ」の「さへ」は、重い上に軽きを添える意のもので、針目の上に我が情までも添っての意で、背の恋しさに放心した状態であるのを、巧みに言いかえたものである。
【釈】 わが背子が着ていらせられる衣の、その限りない縫目の一つも洩れず、縫糸とともに入って行ってしまったのであろう、わが心までが。
【評】 古くは夫の着物は、その一切が事の手で作られたもので、糸を得ることを初め、織り、染め、縫うことまでもしたのである。この歌は阿倍女郎が、その夫である人の衣を、当時の風に従ってみずから作り、たぶんはそれを夫の家に贈る時に、添えてやったものと思われる。歌の主旨は、夫の恋しさに心を奪われて、放心したような状態でいるということを訴えようとしてのものであるが、それをおりからの衣に関係させて、心が針目とともに衣の中に入ってしまって、わが身には添っていないと言いかえたのである。このことは女郎の創意ではなく、当時一般に信仰されていたことで、女郎はそれを応用したというにすぎないものではないかと思われる。この戦争以来、出征者が護身用として身につける千人針と称する物も、これと同じ信仰によってのものと思われ、その根柢の深さを思わせられるからである。この推測の当否にかかわらず、その贈った場合柄を思うと、才情の豊かな人であったことを思わせられる。
 
     中臣朝臣《なかとみのあそみ》東人、阿倍女郎に贈れる歌一首
 
(350)【題意】 「中臣朝臣東人」は、続日本紀、和銅四年、正七位上より従五位下。養老二年式部少輔。同四年右中弁。天平四年兵部大輔に任ぜられた人である。この歌と、次の歌によると、阿倍女郎と夫婦関係の人であったことが知られる。
 
515 独《ひとり》宿《ね》て 絶《た》えにし紐《ひも》を 忌《ゆゆ》しみと せむすべ知《し》らに 哭《ね》のみしぞ泣《な》く
    獨宿而 絶西紐緒 忌見跡 世武爲便不知 哭耳之曾泣
 
【語釈】 ○独宿て 独り寝をしてで、別居生活をしていることを、夫婦関係を通していったもの。○絶えにし紐を忌しみと 「絶えにし紐」は、切れてしまった紐で、「紐」は衣に縫いつけてある物。「忌しみと」は、「忌しみ」は形容詞の動詞化したものの連用形で、忌しくありの意。「忌し」は、甚だ忌むべきの意。「と」は、と思って。上代人は衣の紐に対して特殊な信仰をもっていたことが、集中の歌で知られる。夫が旅へ出る時には、妻は衣の紐を結んでやるのを風とし、また夫は、その紐を解くまいとしたのである。また紐の絶えることを甚しく忌んだが、これは夫婦関係の絶えることを暗示したものと解したようである。生活の一切は神意にありとし、それを暗示によって知る時代にあっては、生まれやすい信仰である。ここも、夫婦関係の絶えるものと解しての悲しみと取れる。○せむすべ知らに なすべき方法が知られずにで、「知らに」は、下の「泣く」の原因を示しているもの。これは、夫婦関係の絶えることを、神意の暗示と解しての狼狽である。○哭のみしぞ泣く 声を立ててばかり泣くで、「し」は強め。「泣く」は、「ぞ」の結、連体形。
【釈】 旅で独り寝をしていて、切れてしまった衣の紐を、甚だ忌むべきことであると思って、なすべき方法が知られずに、声を立ててばかり泣いていることであるよ。
【評】 東人が旅にあって、妻の女郎へと贈った歌である。心は旅愁という程度のものではなく、不安の訴えで、しかも哀切なものである。これは信仰の重圧の下にいたからのためであるが、それだけではなく、当時の夫婦関係というものが、同棲をしていないところから不安の伴いやすいものであったためと取れる。次の「答ふる歌」と合わせて見ると、この夫婦は、妻よりも夫のほうが多くの不安を感じていたものにみえ、この歌もそこから出ているものと取れる。歌としては実用性のもので、多くをいうべきものではない。
 
     阿倍女郎の答ふる歌一首
516 吾《わ》がもてる 三相《みつあひ》に搓《よ》れる 糸《いと》もちて 附《つ》けてましもの 今《いま》ぞ悔《くや》しき
(351)    吾以在 三相二搓流 絲用而 附手益物 今曾悔寸
 
【語釈】 ○吾がもてる 「もてる」は、「持つ」に完了の助動詞「り」の連体形のついたもの。持っているの意。○三相に搓れる糸もちて 「三相」は、三筋を搓り合わせたもの。普通の物は二筋を搓ったものなので、「三相」は丈夫なものの意。これは糸だけではなく、綱にもいっている称である。「糸もちて」は、糸をもって。○附けてましもの 「附け」は、紐を衣に縫いつける意。「て」は、完了「つ」の連用形。「まし」は、仮定の帰結をあらわすもの。それと知ったら、つけておいたであろうものをの意。○今ぞ悔しき 「悔しき」は、連体形。今となっては、それをしなかったのが残念なことであるよの意。
【釈】 吾が持っている三相の糸の丈夫な物をもって、それと知ったら縫いつけておいたであろうものを。今となってはそれをしなかったのが残念なことであるよ。
【評】 夫は衣の紐の絶えたのを、不吉極まることとして、途方に暮れた物言いをしているのに、妻の女郎は、紐の絶えたというのを、紐を衣に縫いつけてある糸の切れたこととし、それならば持合わせの三相《みつあい》の糸で縫いつけて置けばよかったものを、不注意で残念なことをしたと、紐の絶えたということには全く無関心な態度をもって、何というほどのこともない一些事としている。「今ぞ悔しき」と大きくいっているのも、単に自分の不注意に対しての詫びである。妻としての操持に絶対の信念をもって、そうした点には触れまいとしている態度よりのものであるが、全体に余裕をもち、ことに結句「今ぞ悔しき」は、贈歌の「哭《ね》のみしぞ泣く」に意識して通わせたような言い方をしたのではないかと思われるまでである。上代の女性の夫婦関係を信仰的に感じている面影とともに、才情の豊かさをも示しているものである。
 
     大納言兼大将軍大伴卿の歌一首
 
【題意】 この「大伴卿」は、大伴安麿である。巻三(二九九)に出た。続日本紀、和銅七年五月の条に、「大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麿薨、帝深悼之、詔贈従二位」とある。
 
517 神樹《かむき》にも 手《て》は触《ふ》るといふを うつたへに 人妻《ひとづま》といへば 触《ふ》れぬものかも
    神樹尓毛 手者觸云乎 打細丹 人妻跡云者 不觸物可聞
 
【語釈】 ○神樹にも手は触るといふを 「神樹」は、旧訓「さかき」。本居宣長が今のように改めた。ここは、神の下り給う樹として、清められている神聖な樹と取れるからである。「手は触るといふを」は、手を触れることもあると人がいうものをで、手を触れるのは汚すことで、あるべか(352)らざることであるが、そうした場合もあるというものをの意。(七一二)「味酒《うまさけ》を三輪の祝《はふり》が忌《いは》ふ杉手触れし罪か君に逢ひがたき」がある。○うつたへに ひとえにの意で、副詞。○人妻といへば触れぬものかも 人妻は、他人の妻。「触れぬ」は、関係をつけぬの意。「かも」は、「か」の疑問に、「も」の詠歎の添ったもの。
【釈】 神聖なものである神木にも、時としては手を触れることもあると人がいうものを、ひとえに、人妻というと触れないものであろうか。
【評】 この歌は独詠と取れる。人妻に関心をもち、その間の超ゆべからざることを思いつつ、忘れかねての独語であろう。神木に手を触れることの怖るべきことであるのは、上に引いた歌でもわかるように、一般にいわれていたこととみえる。「手は触るといふを」と「いふ」を添えていっているのは、時としてはそうした事もあると聞く意で、安麿の神木に対する信仰をあらわしているものである。その神木と人妻とを比較し、人妻のほうには「うつたへに」を添えていっているので、安麿の道義心と、「かも」の疑問との矛盾の強さが感じられる。この対比は、「触る」という語に導かれてのものであり、その「触る」は二義をもったもので、内容を異にしているのであるが、そこに語戯に近いものをすら感じさせないのは、この歌が全体としてもっている素朴と誠実の感のさせることである。
 
     石川郎女の歌一首 即ち、佐保大伴の大家なり
 
【題意】 「石川郎女」は、元暦本を初め八本に、小字で、「即佐保大伴大家也」と注がある。「佐保大伴」は、佐保に邸をもっている大伴氏で、安麿に対する敬称であり、「大家《たいこ》」は婦人の尊称であって、安麿の嫡妻の意である。集中に「石川郎女」と呼ばれる人は何人かあり、それが何びとであるかは問題となっている。「石川」は氏であり、「郎女」「女郎」は敬称であるから、石川氏の女性に通じて用いられるものだからである。この人は、巻三(四六一)の左注に、「大家石川命婦」とあり、また本巻、(六六七)の左注に、「大伴坂上郎女の母、石川|内命婦《うちのひめとね》」とある人である。「内命婦」は、後宮の女官で、五位以上の者に対する称である。また「石川朝臣」とも呼ばれている。「朝臣」は姓である。名を「邑婆《おおば》」といったこともわかる。
 
518 春日野《かすがの》の 山辺《やまべ》の道《みち》を おそりなく 通《かよ》ひし君《きみ》が 見《み》えぬ頃《ころ》かも
    春日野之 山邊道乎 於曾理無 通之君我 不所見許呂香裳
 
【語釈】 ○春日野の山辺の道を 「春日野」は、巻三(三七二)「山部赤人、春日野に登りて」の歌に出た。現在の奈良市の春日野よりは範囲が広(353)く、その中に「登りて」という山地をも含んでいたのである。「山辺の道」は、山のほとりの道で、その道は、郎女の家へ通ずるものである。○おそりなく 「おそり」は、原文「与曾理」とある本が多いが、元暦本は「与」が「於」となっている。それに従う。「おそり」は「恐り」で、上二段活用の連用形で、名詞形のものである。集中には用例がないが、土佐日記には、正月二十三日の条に、「このわたり海賊のおそりありといへば、神仏を祈る」とある。古くから行なわれていた語と思われる。○通ひし君が見えぬ頃かも 「通ひし君」は、郎女の家へ、通って来たところの君で、「君」は夫としての安麿と取れる。「見えぬ頃かも」は、打絶えて見えないこの夜頃であるよと、嘆いてのもの。
【釈】 春日野の山のほとりの道を、恐れることもなく通って来た君の、打絶えて見えないこの夜頃であるよ。
【評】 初句より四句までは、夫の真実を謝する心のものであり、結句は不安の情をいったものであるから、夫に訴えの心をもって贈るために詠んだものであろう。それにしては直接に訴えるところが稀薄なので、あるいは自身の心やりのために詠んだものではないかと思わせるまでである。本来は実用性の歌で、見るものは贈られた夫だけのものであるから、妻としての誠意と、そのつつましさが通じれば、それがすなわち訴えともなり得たので、これで事が足りたとすべきであろう。この文芸性の乏しいのは、時代の関係もあるが、それよりも、その人の歌才の少なかったことがおもになってのことと取れる。
 
     大伴女郎の歌一首 今城王の母なり、今城王、後に大原真人の氏を賜ふ
 
【題意】 「大伴女郎」は、題詞の下に、元暦本を初め六本には、小字をもって、「今城王之母也、今城王後賜大原真人氏也」という注がある。集中、「大伴郎女」と称されている人が二人あり、その一人は「大伴坂上郎女」であり、今一人は、この注のある人だと考証されている。この「女郎」(『考』は「郎女」の誤写かといっている)は、旅人の妻であるが、それ以前、「今城王」の父である人の妻となり、後に旅人の妻となった人である。今城王の父がどなたであったかは知れず、また郎女の家も知れない。郎女は、旅人の大宰帥となって任地に赴いた時伴われて行き、その地で没したことが、巻八(一四七二)石上堅魚の歌の左注で知れ、また旅人の歌によっても知られる。
 
519 雨障《あまつつみ》 常《つね》する公《きみ》は 久堅《ひさかた》の 昨夜《きそのよ》の雨《あめ》に 懲《こ》りにけむかも
    雨障 常爲公者 久堅乃 昨夜雨尓 將懲鴨
 
【語釈】 ○雨障常する公は 「雨障」は、雨を畏み慎しむ意で、その心から雨に妨げられて家にこもる意の名詞。心としては一種の信仰をもってのことと取れる。「常する公」は、平生しているところの公で、「公」は妻より夫をさしての称。○久堅の昨夜の雨に 「久堅の」は、「雨」にかか(354)る枕詞。「昨夜《きそのよ》」は、『新訓』の訓。巻二(一五〇)に仮名書きのものがある。昨夜の意で「きぞ」ともいっていた。「昨夜の雨」は、前夜、郎女の許へ通って来て、夜の明けないうちに帰って行った、その時の雨。○懲りにけむかも 「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「かも」は疑問。懲りてしまったことであろうか。
【釈】 雨障《あまつつみ》を平生しているところの君は、昨夜の帰り路の雨に懲りてしまったことであろうか。
【評】 通って来て、帰った夜の明けた後、挨拶の心をもって贈ったもので、平安朝時代の後朝《きぬぎぬ》の歌の範囲のものである。しかし訴える心のものではなく、雨に逢ったのを気の毒に感じて、いたわった心のものである。この雨は、帰りしなに不意に逢ったものかと思われる。帰ろうとする時からの雨ではなかろう。「懲りにけむかも」は、不安をもっての訴えといえるものであるが、明るい心を背後に置いてのもので、いたわりと見るほうがあたっているものである。おおらかで、優しさがあり、その階級を思わせる人柄である。
 
     後人《のちのひと》の追同《おひなぞら》ふる歌一首
 
【題意】 「後人」は、誰ともわからない。「追同」は、「同」は漢文では「和」と同じ意で用いていると『攷証』が考証している。古歌の境地を想像して感を催し、その延長として歌を詠むことが、奈良遷都前後から起こってきているが、これもそれである。当時、軽い興味として稀れに行なわれていた題詠の、文芸的になってきたものとみられるものである。
 
520 久堅《ひさかた》の 雨《あめ》も落《ふ》らぬか 雨《あま》つつみ 君《きみ》に副《たぐ》ひて この日《ひ》晩《く》らさむ
    久堅乃 雨毛落粳 雨乍見 於君副而 此日合晩
 
【語釈】 ○雨も落らぬか 「落らぬか」は、降らないのか、降ってくれよの意で、「ぬか」は願望をあらわすもの。「ぬか」は、上に「も」を伴って、それと相俟つているものである。巻三(三三二)「吾が命も常にあらぬか」と同じ。○雨つつみ 前の歌に出た。○君に副ひてこの日晩らさむ 「副ひ」は、添って一緒にいる意。君に添って一緒にいて、この一日を過ごそう。
【釈】 雨が降らぬか、降ってくれよ。それだと、雨《あま》つつみをする君に添って一緒にいて、この一日を過ごそう。
【評】 これは後の人が、上の歌の女郎の心を思いやり、女郎に代わって詠んだ形のものである。女郎の「公《きみ》」と呼ぶ夫の、夜明け方帰ろうとしている時は、まだ雨は降ってはいなかったが、雨催いの空であったと想像し、その「公」は雨に対しては、(355)「雨つつみ」をする人であると想像し、女郎はそれこれを一つにして、心の中でこのように思ったであろうと想像して詠んだのがこの歌である。上の歌のつつましやかな、人柄なのに較べると、この歌はただ媚態を示しているだけのものである。作者である「後人」は、歌としてはこのほうが優っているとしたことであろうが、上の歌はその人に即しての実用性のものであり、この歌はその人から遊離させたいわゆる文芸性のものであり、立場を異にしたものであって、優劣のいえないものである。女郎がもしこの歌を見たならば、斥けたであろうと思われる。女郎と「後人」とは、時としては幾何《いくばく》の隔たりもなかろうと思われるが、推移の際やかなものがある。
 
     藤原|宇合《うまかひの》大夫、任を遷されて京に上る時、常陸娘子《ひたちのをとめ》の贈れる歌一首
 
【題意】 「藤原宇合」は、巻一(七二)に出た。「大夫」は五位としての敬称である。「任を遷されて京に上る」は、地方官であった時のことであるが、続日本紀、養老三年に、「常陸国守正五位上藤原朝臣宇合、管安房、上総、下総三国云々」とあるので、その任が果てて、他の任で京へ上る時のことである。大体、養老七年頃であろうという。「常陸娘子」は、常陸にいる娘子の意で、遊行女婦であろうと思われる。
 
521 庭《には》に立《た》つ 麻手《あさで》刈《か》り干《ほ》し しき慕《しの》ふ 東女《あづまをみな》を 忘《わす》れたまふな
    庭立 麻手苅干 布慕 東女乎 忘賜名
 
【語釈】 ○庭に立つ麻手刈り干し 「庭に立つ」は、庭に立っているで、下の「麻手」に続く。「麻手」は麻のこと。「刈り干し」は、刈り取り、干しの意で、初二句は、「しき」の序詞となっている。続きは、「敷き」の意で、地面に敷くことで、これは干すためのことである。「干し」と「敷き」は、事として前後しているが、序詞とする関係上そうさせたものと取れる。○しき慕ふ 「しき」は、承けるほうは、繁く、ひまなくの意で、しきりにというにあたる。「慕《しの》ふ」は、ここは慕う意。しきりにも思うところの。○東女を忘れたまふな 「東女」は、東の女。「東」は東国の総称。ここは京に対して卑下の意をもっていったもの。「女」は、娘子自身のこと。「忘れたまふな」は、忘れてくれるなの意で、敬語をもっての訴え。宇合の任期中に愛されていたことを背後に置いての語。
【釈】 庭に立っている麻を刈り取って、干して地面に敷く、そのしくという語《ことば》のとおり、しきりにも君を慕うところの夷《ひな》の東《あずま》の女の我を忘れたまうな。
【評】 常陸の国府に住んでいる女の、たぶんは一遊行婦が、任期中自分を愛していた国守の、遷任して京へ上るに際し、別れ(356)を悲しみ、せめては我をお忘れ下さるなと訴えたものである。遊行婦ではないかと思われるのは、この歌は感情が濃厚で、あらわし方は露骨で、しかもかなりまで技巧的なものだからである。自身を「東女」という語であらわしているのは、国守に対しての卑下の心からのものであるが、要を得たもので、これが「庭に立つ麻手刈り干し」という序詞に連絡しているのである。この序詞は農民の生活を捉えていっているもので、作者である女の実生活よりのものではなく、「東女」との関係で、構えて設けたものと思われる。すなわち技巧で、知性を働かせたものである。この序詞と、「しき」との続きは、いったがように無理がある。しかしこれを音読すると、それを感じさせなくなるところがある。それは「刈り」「干し」と同じ尾韻を重ね、それを「しき」「しのふ」と頭韻に移して、さらに重ねているためであろう。これは技巧ではあるが意識してのものではなく、謡い物に馴れているところから、その影響でおのずからに得ているものと思われる。こういう技巧は特殊な女性でないと得られないものであろう。
 
     京職《みさとづかさのかみ》藤原大夫、大伴郎女に贈れる歌三首 卿は諱を麿といふ
 
【題意】 題詞は諸本異同がある。大矢本など三本には「京職」の下に「大夫」があり、また「贈」が「賜」、「郎」が「良」となっている。題詞の下、小字の注はない本もある。京職は、奈良京の政務の一切を掌《つかさど》るところで、地方の国庁と同様である。政務の事項は「職員令」に定められている。「大夫」は、その長官で、国庁における国守にあたる。「藤原大夫」は、藤原麿で、「大夫」は、四、五位の者に対する敬称である。麿は、藤原不比等の第四子で、続日本紀、養老元年、正六位下より従五位下、同五年従四位下となり、左右京大夫となった。歌はこの頃のものである。神亀三年正四位上、天平元年従三位、同三年参議、同九年兵部細。その年に薨じて、太政大臣を贈られた。麿の家を京家というのは、京職大夫であったためである。「大伴郎女」は、ここは、大伴坂上郎女を称したもので、郎女のことはしばしば出た。なおこれらの歌の後に左注として伝が添っている。二人は一時夫婦関係となっていたのである。
 
522 をとめ等《ら》が 殊篋《たまくしげ》なる 玉櫛《たまくし》の 神《かむ》さびけむも 妹《いも》にあはずあれば
    ※[女+感]嬬等之 珠篋有 玉櫛乃 神家武毛 妹尓阿波受有者
 
【語釈】 ○をとめ等が珠篋なる 「をとめ等」は、広く女をさしたものであるが、女を愛し重んじる意から、若い女の称を用いたもの。用例が少なくない。「珠篋」は、「珠」は、美称。「篋」は、櫛笥《くしげ》で、主として櫛を入れる筥。しばしば出た。「珠篋なる」は、櫛笥の中にあるの意。○玉櫛(357)の 「玉」は、上と同じく美称。「櫛の」の「の」は、のごとくの意のもので、初句よりこれまでは、下の「神さび」の譬喩。櫛は大切な物として、久しく用いるのを常としたとみえる歌があり、またそのものの性質として油じみて古びても見えるので、その古びた点を捉えてのもの。○神さびけむも 「神さぶ」は、本義は、神としての性質を発揮する意であるが、転じて、物の古びていることをあらわす語ともなっている。ここはそれである。古びてしまったことであろうで、「も」は詠歎。古びるという意は、下にその理由として「妹にあはずあれば」といっているように、妹に逢わずにいれば、そのために老人らしくなる意で、砕いていえば、爺むさくなってしまったことだろうの意。これは麿としては甚だ誇張した言で、その誇張は、郎女を婉曲に讃えることであり、またさみしさを訴えることでもある。
【釈】 おとめらの玉櫛笥の中にある玉櫛の古びているがごとくに、吾もまた爺むさくなってしまっていることであろう。このように妹に逢わずにいるので。
【評】 何らかの事情があって、麿が郎女の許へ通うことのできずにいる時に、その言いわけとしての歌である。それをするに、「神さびけむも」は、「語釈」でいつたがような理由で、自身の地歩を占めつつしている訴えで、当時者の間では要を得た言い方であったろうと思われる。「をとめ等が珠篋なる玉櫛の」という譬喩もまた、表面は一般的な物を捉えているがごとくであるが、心としては、郎女の身辺の物をいっているのであろうから、ここにも同じ心が働いているといえる。「珠」を重ねたのも、その意味では拙いとはいえないものである。
 
523 好《よ》く渡《わた》る 人《ひと》は年《とし》にも ありとふを 何時《いつ》の間《ま》にぞも 吾《わ》が恋《こ》ひにける
    好渡 人者年母 有云乎 何時間曾毛 吾戀尓來
 
【語釈】 ○好く渡る 「渡る」は、巻十三(三二六四)「年渡るまでにも人はありとふを何時《いつ》の間《まに》ぞも吾が恋ひにける」があり、一首全体としても、また語としても、それを取ったもので、経過するの意である。「好く渡る」は、好く経過するで、恋の上では、好く堪え忍びつづける意。○人は年にもありとふを 「年にも」の「年」は、一年間の意で、巻十一(二四九四)「ここだく恋し年にあらば如何に」、その他用例の多いものである。「年にも」は、一年間の久しきにわたっての意。「ありとふを」は、あるということであるものを。初句よりこれまでは、天上の彦星を心に置いてのもの。○何時の間にぞも吾が恋ひにける 「何時の間にぞも」は「ぞ」は疑問、「も」は詠歎で、いつというほどの間《ま》もないのに、いつかという意で、早くもという意を言いかえたもの。「恋ひにける」は、「ける」は上の「ぞ」の結で、恋しくなってしまったことであるよ。
【釈】 堪え忍ぶことをしつづける人は、一年間にもわたってそれをしているということであるものを、いつの間にか早くも吾は、恋しくなってしまったことであるよ。
(358)【評】 「語釈」でいったがように、巻十三の歌をいささか変えただけのものである。古歌を取って、わが用に当てるということは、古くから行なわれていたことで、恋、挽歌、賀など、心の範囲の広い歌は、それをしようと思えば、大体できたのである。これもそれである。巻十三は民謡集であるから、この歌は誰も知っていたもので、古歌を取るといううちでも最も容易なもので、また古歌とも言い難いほどのものでもあったろう。この古歌は、彦星と自身とを比較したもので、季節感をもったものである。麿がそれを取ったのは、おりから七夕の頃で、これが適切なものであったためかと思われる。麿という人は、本来創意を出し難い人でもあったろうが、この風は、一面時代の影響を受けたものと思われる。
 
524 烝被《むしぶすま》 なごやが下《した》に 臥《ふ》せれども 妹《いも》とし宿《ね》ねば 肌《はだ》し寒《さむ》しも
   蒸被 奈胡也我下丹 雖臥 与妹不宿者 肌之寒霜
 
【語釈】 ○蒸被なごやが下に 「蒸被」は、今も蒸し暑いというその蒸しで、暖かな意のもの。「被」は、寝具の中の着る物の称で、今の掛蒲団にあたる。暖かい掛蒲団で、熟語。「なごやが下に」は、「なごや」は、「柔《なご》やか」の意で、名詞形。柔やかな物の意。「下に」は、着た下にで、埋もってというにあたる。この二句は、古事記上巻、須勢理毘売《すせりひめ》命の歌に、「むしぶすまにこやがしたに」とあるのを取ったもので、成句である。「にこや」が「なごや」に変わっているのは、転じたのである。○臥せれども 寝たけれども。○妹とし宿ねば肌し寒しも 「肌し」の「し」は、強め。「も」は、詠歎。
【釈】 暖かい衾《ふすま》の、柔らかな物の下になって寝たけれども、妹と共寝をしないので、わが肌は寒いことであるよ。
【評】 独り寝の床の肌寒さを嘆くのは、古くからの常識となっていて、これもそれである。この歌は、「蒸被なごやが下に」といっているところに新味があるが、これは神代の物という伝えはあるだけで、当時広く伝承されていたものとみえ、山上憶良の歌にも引用されている。上の歌の巻十三のものと同じ心のものといえる。これも、季節感の伴った歌と取れる。
 
     大伴郎女の和ふる歌四首
 
525 狭穂河《さほがは》の 小石《こいし》践《ふ》み渡《わた》り ぬば玉《たま》の 黒馬《くろま》の来《く》る夜《よ》は 年《とし》にもあらぬか
    狭穏河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之來夜者 年尓母有粳
 
(359)【語釈】 ○狭穂河の小石践み渡り 「狭穂河」は、佐保川。春日山の鶯滝を水源とし、佐保村の南を流れ、大安寺を経て、大和川の上流となる川。郎女の家へ来る途中にあるもの。「小石」は、旧訓「さざれ」。『代匠記』が、さざれはささやかな意で、小石は「さざれし」とあるから、ここもさざれしと訓むべきかといい、爾来「さざれし」と「小石《こいし》」とが論となっている。今は「小石《こいし》」に従う。「践み渡り」は、橋がないので、川を徒渉する状態をいったもので、それをするのは下の「黒馬」である。○ぬば玉の黒馬の来る夜は 「ぬば玉の」はしばしば出た。「黒」にかかる枕詞。「黒馬」は、旧訓「こま」。『代匠記』が改めた。「くろうま」の約。麿の乗馬としてのもの。「来る夜」は、旧訓。麿の通って来ることを、乗馬によってあらわしたもの。○年にもあらぬか 「年に」は、上の(五二三)「好く渡る人は年にも」のそれと同じで、一年間にわたっての意。「もあらぬか」は、「ぬか」は、上の「も」を伴って、願望をあらわしているもの。上の(五二〇)「雨も落らぬか」に出た。一年間の久しきにわたらないのか、わたってくれよの意。
【釈】 佐保川の河原の小石を踏んで渡って、君が乗馬の黒馬の通って来る夜は、一年間の久しきにわたらないものか、わたってくれよ。
【評】 これは、「好く渡る人は年にも」に対する和え歌である。和え歌は、後世には、贈歌の語を取り、それに反対なことをいうのが型のようになったが、このことはこの当時のものでも、身分がほぼ対等である場合には行なわれていた。この歌もその範囲のものである。この歌は、贈歌の「年にもありとふを」を捉え、その「年にも」は、「好く渡る」であるのを、反対に、通って来ることの「年にも」にしている。それを結句として、他の四句は、通って来る状態としたので、要を得たものである。しかるにこの歌もまた、麿の贈歌と同じく、巻十三(三三一三)から取ったもので、それは、「川の瀬の石ふみわたりぬば玉の黒馬の来る夜は常にあらぬかも」である。この歌の「川の瀬の石」を、「狭穂河の小石」と変え、「常にあらぬかも」を、「年にもあらぬか」に変えたのである。巻十三はいったがごとく民謡集であるから、その歌は双方が知っているものである。相聞の実用性の歌とはいえ、双方が古歌を運用したものを贈り和えしているのであるから、文芸性のものとなったというよりも、む(360)しろ文芸的の遊戯をしているものというべきである。ここに見る郎女は、いかに運用の才に長《た》けていたかということで、要するに知性の範囲のものである。
 
526 千鳥《ちどり》鳴《な》く 佐保《さほ》の河瀬《かはせ》の 小浪《さざれなみ》 止《や》む時《とき》もなし 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
    千鳥鳴 佐保乃河瀬之 小波 止時毛無 吾戀者
 
【語釈】 ○千鳥鳴く佐保の河瀬の小浪 「千鳥鳴く」は、河千鳥が鳴いているところの。「佐保の河瀬」は、上の佐保川の、その流れの瀬をなしている所。「小浪」は、小さな浪で、水の流れる勢によって立つ浪で、したがって絶えず立っているもの。以上の三句は、下の「止む時もなし」の譬喩であるが、譬喩としては原始的なもので、そうした状態を眼にすることが刺激となって、心象としての「止む時もなし」を捉え得た形のもの。○止む時もなし吾が恋ふらくは 「止む時もなし」は、下の「恋」の状態。「恋ふらく」は、「恋ふ」に、「く」を添えることによって名詞形としたもので、わが恋うることはの意。
【釈】 河千鳥の鳴いている佐保川の河瀬に立ちつづいているさざ浪の、それと同じく、やむ時とてはない、君をわが恋うることは。
【評】 この歌も、巻十三(三二四四)「阿胡《あご》の海の荒磯《ありそ》の上のさざれ浪吾が恋ふらくは止む時もなし」によったものと思われる。「阿胡の海」は、長門国で、旅にあって、家を恋いつつ見ているものであるから、「荒磯の上のさざれ浪」が、「恋ふらくは止む時もなし」を思わせるのは自然である。それに較べると、「佐保の河瀬のさざれ浪」は、構えてのものという感を起こさせる。強いて自身の環境に引きつけた跡を見せているもので、成功の作とはいえない。これはおそらく前の歌と同時のもので、前だけでは足りずとして添えたものであろう。
 
527 来《こ》むといふも 来《こ》ぬ時《とき》あるを 来《こ》じといふを 来《こ》むとは待《ま》たじ 来《こ》じといふものを
    將來云毛 不來時有乎 不來云乎 將來常者不待 不來云物乎
 
【釈】 来ようといってさえ、来ない時があるものを、まして来まいといっているのを、来ようかとは待つまい。来まいといっているものを。
【評】 「来じといふを」というのは、麿の三首の歌のうち、第一にも第三にも言いうるものである。それはどちらも、「来む」と(361)まではいっていないので、それを強めていえば言いうるものだからである。この強めは恨みからである。結句の「来じといふものを」は、明らかに強いたもので、いわゆる拗ねての物言いである。五句とも頭韻を踏んだもので、文芸的遊戯の心をもったものである。やや古くは天武天皇の「淑き人の良しと吉く見て」(巻一[二七〕)の御製もあって、伝統のあるものであり、能才の人によって試みられてきたものとみえる。
 
528 千鳥《ちどり》鳴《な》く 佐保《さほ》の河門《かはと》の 瀬《せ》を広《ひろ》み 打橋《うちはし》渡《わた》す 汝《な》が来《く》と念《おも》へば
    千鳥鳴 佐保乃河門乃 瀬乎廣弥 打橋渡須 奈我來跡念者
 
【語釈】 ○佐保の河門の 「河門」は、河の両岸が近く迫って、川幅の狭くなっている所の称。ここは、橋の架け場所としていっている。○瀬を広み 流れの瀬が広いによって。○打橋渡す 「打橋」は、さして高くはない岸から岸へ、板を渡して橋とした物の称。○汝が来と念へば 「な」は、汝。あなたが来ると思うので。
【釈】 河千鳥の鳴いている佐保川の河門《かわと》の、そこの流れの瀬が広いので、我は打橋を架け渡す。あなたが来ると思うので。
【評】 この歌は、(五二三)「好く渡る人は年にもありとふを」に和えたものと思われる。その「人」というのは、一年に一度を妻との逢瀬としている天上の彦星であることはいった。七夕に関しての歌は、集中にきわめて多いが、その中の一首として、巻十(二〇六二)「機《はたもの》の※[足+搨の旁]木《ふみき》持ち往きて天の河打橋わたす公《きみ》が来む為」がある。巻十の歌は古いものであるところから、巻十三の歌と同じく、作歌の参考として読まれていて、同じく記憶にあったものと思われる。麿が古歌を台に、彦星を引合いにした歌を贈ってきたので、郎女も同じく古歌を台に、棚機を引合いに出し、棚機女が彦星のために、天の河でしたということを、自身は麿のために、佐保川でするというのである。この歌は古歌を変えた所がやや多く、関係が婉曲になっているが、作意は同一で、わざとらしさの際立ったもので、関係のあるものということは蔽い難いものである。まさに文芸的遊戯のものである。こう見てくると、郎女は「好く渡る人は」の歌に対して、三首を和えたことになる。
 
     右、郎女は、佐保大納言卿の女なり。初め一品穂積皇子に嫁し、寵せらるること儔《たぐひ》なし。皇子薨ぜし後、藤原麿大夫、この郎女を娉《つまど》へり。郎女、坂上の里に家す。よりて族氏|号《なづ》けて坂上郎女と曰へり。
(362)      右、郎女者、佐保大納言卿之女也。初嫁2一品穂積皇子1、被v寵無v儔。而皇子薨之後時、藤原麿大夫、婚2之郎女1焉。郎女、家2於坂上里1。仍族氏號曰2坂上郎女1也。
 
【解】 「佐保大納言卿」は、大伴泰麿。「穂積皇子」は、天武天皇の皇子で、巻二(一一四)(一一五)に出た。「坂上の里」は、明らかではない。生駒郡三郷村立野の東北、坂上《さかね》説があり、石井庄司氏は、磐姫皇后の陵を「平城坂上陵」と申しているので、奈良坂のほとり、佐保の西方の地ではないかという。「族氏」は、氏族。
 
    又、大伴坂上郎女の歌一首
529 佐保河《さほがは》の 岸《きし》のつかさの 柴《しば》な刈《か》りそね 在《あ》りつつも はるし来《きた》らば 立《た》ち隠《かく》るがね
    佐保河乃 涯之官能 少歴木莫苅焉 在乍毛 張之來者 立隱金
 
【語釈】 ○岸のつかさの 「岸」は、水際。「つかさ」は、地の小高い所の称。「小高かる市のつかさ」、「野山司《のやまつかさ》」「野司《のづかさ》」などの用例がある。○柴な刈りそね 原文「少歴木《しば》」は、『他覚抄』の訓。「歴木」は「くぬぎ」で用例のあるもの。それに「少」を添えて、木の柴に当てたもの。「な刈りそね」は、「な……そ」は、禁止。「ね」は、ねんごろに頼む意の助詞。○在りつつも 生き続けていてで、「も」は詠歎。○はるし来らば 「はる」は、春。「し」は、強め。春が来たならばで、柴の若葉が茂ったならばの心のもの。○立ち隠るがね 「立ち隠る」は、葉蔭に隠れる意で、「立ち」は、感を強めるために添えているもので、例の多いもの。隠れるのは、男女、人目を避けて逢う意。「がね」は、巻三(三六四)「語り継ぐがね」の場合と同じ。動詞、助動詞の連体形をうけて、の料にの意をあらわす助詞。隠れるための料に。
【釈】 佐保川の水岸の柴を、人よ、刈り取らずにくれ。我は生き続けて、春が来て若葉が茂ったならば、その蔭で、思う人と忍び逢うための料に。
【評】 この歌は旋頭歌である。旋頭歌は、短歌とは別個の途を辿って発達した歌体と思われる。短歌との先後は明らかではないが、むしろ古いものと思われる。本集中にはわずかに約六十首があるのみで、それも大体柿本朝臣人麿歌集のものであるから、一面保守的であった人麿によって関心をもたれ、作られもしたものとみえる。古いということは言いかえると民謡的だということである。この歌は、郎女が、擬古の心をもって、興味で作ったものとみえる。男女、野で密会するということは、上代では必ずしも特別なことではないが、きわめて人目を忍ぶ必要のあった者のすることであったと取れる。この歌は自身を、そうした必要のある女に擬し、恋の悩みに堪え難くしつつも、密会の可能のある春を待つ心をいったものである。「在りつつ(363)も」はその悩みを暗示し、「はるし来らば」は、若葉の茂ることを暗示しているもので、心は民謡的であるが、あらわし方は織細で、文芸的なものである。構えて作ったものだからである。
 
    天皇、海上女王《うながみのおほきみ》に賜へる御歌一首 寧楽宮に即位《あめのしたしら》しめしし天皇なり
 
【題意】 「天皇」は、聖武天皇。「海上女王」は、次の歌の題詞の注として、桂本を初め七本には、「志貴皇子の女なり」とある。志貴皇子は天智天皇の皇子である。女王は、続日本紀、養老七年従四位下、神亀元年従三位を授けられた記事がある。天皇の御后の一人であったとみえる。
 
530 赤駒《あかごま》の 越《こ》ゆる馬柵《うませ》の 緘《しめ》結《ゆ》ひし 妹《いも》が情《こころ》は 疑《うたがひ》もなし
    赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思
 
【語釈】 ○赤駒の越ゆる馬柵の 「赤駒」は、毛色の茶褐色の馬。最も多い毛色で、したがって誰にも印象されている毛色である。「馬柵《うませ》」は、馬塞《うませき》の意で、牧場の周囲の柵。厩の出入口の棒を「ませ棒」という称は、今も用いている。「越ゆる馬柵」は、越ゆるところの馬柵で、馬柵の性質をいうことを主としての語で、事としては、馬柵があれば、馬は越えては出られないのである。「の」は、のごとくの意のもので、下の「緘《しめ》結ひし」の譬喩。○緘結ひし 「緘」は、多く「標」の字を用いている。ここは、領有のしるしの物。しるしは大体繩である。「結ひし」とあるので、それと取れる。以上三句は、一、二句は「緘結ひし」を力強くいうための譬喩。また「緘結ひし」は、わがものとしたということを強くいうための具象化で、心は、堅くわがものとしたの意。○妹が情は疑もなし 「妹が情」は、妹の我に対する心で、その真実。「疑もなし」は、我は疑いをもたないで。「も」は詠歎。
【釈】 赤駒の越ゆるところの馬柵《ませ》のごとくにも標《しめ》を結いめぐらして、わがものとした妹の、我に対する真実については疑いをもたない。
【評】 この御製は、次の女王の和《こた》え奉る歌によって見ると、女王が何らかの事で皇居より遠い地へ行っていたおりに賜わったものと思われる。初句より三句までの譬喩は、地方色の濃いものであって、庶民の謡い物を思わせるものである。巻十二(三〇九六)「うませ越《ごし》に麦|喰《は》む駒の詈《の》らゆれど猶し恋しくしのひかてぬを」がある。適例ではないが、連想されるものである。女王の行かれた地が、こうした譬喩を用いるにふさわしい所であったためではないかと思われる。一首、女王に対しての寵をお示しになったものであるが、高く地歩を占めさせられ、おおらかに仰せになっているもので、高貴なる御歌風である。
 
(364)     右、今案ずるに、この歌は擬古の作なり。但時の当れるを以て、便《すなは》ちこの歌を賜へるか。
      右、今案、此謌擬古之作也。但以2時當1、便賜2斯歌1歟。
 
【解】 「擬古」については諸説がある。古風を摸したという意と思われる。古風というのは一、二句の譬喩で、この時代の御製としては、地方的であるとの意で、新風を慕う心よりいっているものと思われる。「時の当れるを以て」は、場合柄がふさわしいのでの意。
 
     海上女王の和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首 志貴皇子の女なり
 
531 梓弓《あづさゆみ》 爪引《つまひ》く夜音《よと》の 遠音《とほと》にも 君《きみ》が御事《みこと》を 聞《き》かくし好《よ》しも
    梓弓 爪引夜音之 遠音尓毛 君之御幸乎 聞之好毛
 
【語釈】 ○梓弓爪引く夜音の 「梓弓」は、下の続きで梓弓の弦を「爪で引く」ので、これは弦音《つるおと》を立てるため。「夜音」は、夜の音で、夜に限ってするものであることをあらわしている。これは宮中警固の随身《ずいじん》が、夜、その陣にあってする事と定められてしている行為である。弦音は邪神を斥ける力があると古くから信じられており、その意味で、警固のためにするのである。「の」は、のごときの意のもの。○遠音にも 「遠音」は、遠く離れていて聞く音。遠音であっても。○君が御事を 「御事」は、原文「御幸」で、諸本同様である。『考』は「幸」は「事」の誤写だと正した。それに従う。「事」は「言《こと》」に当てたもので、「御言」は、上の御製をさしてのもので、それでないと意が通じないからである。○聞かくし好しも 「聞かくし」は原文「聞之」。旧訓「聞くはし」。『代匠記』が改めた。「聞かく」は、「聞く」の未然形に「く」を添えて名詞形としたもの。聞くことの意。「し」は、強め。「好しも」の「も」は詠歎。
【釈】 梓弓の弦を爪引く夜の音のごとき遠音であっても、君が御言葉を聞きまつることの好さよ。
【評】 御製に和えて、喜びの心を申したものである。その喜びは、表面はおおらかに、ただ喜んでお受けをしたことを申しているだけであるが、部分的には細心な注意をして、その喜びの深さをあらわそうとしているものである。「梓弓爪引く夜音」は、「遠音」の譬喩としてのものであるが、「赤駒の越ゆる馬柵」に対させたものであり、この事の行なわれているのはおそらく皇居だけのことであり、ここは明らかに皇居をあらわして、天皇を慕いまつる心を暗示するものとしている。「聞かくし」という語も、力をこめてのものである。一首、高貴の面目を保ちつつ、心を尽くした趣のあるものである。
 
(365)     大伴|宿奈暦《すくなまろ》宿禰の歌二首 佐保大納言卿の第三子なり
 
【題意】「大伴宿奈麿宿禰」は、巻二(一二九)に出た。大伴安麿の第三子である。続日本紀、養老三年正五位下、養老三年備後国守として安芸、周防の按察使を兼ねた。神亀元年従四位下に昇った。その後は不明である。歌はその管国から、女を宮仕として出す時のものと思われる。
 
532 打日《うちひ》さす 宮《みや》に行《ゆ》く児《こ》を ま悲《かな》しみ 留《と》むれば苦《くる》し 聴去《や》ればすべなし
    打日指 宮尓行兒乎 眞悲見 留者苦 聽去者爲便無
 
【語釈】 ○打日さす宮に行く児を 「打日さす」は、宮、京にかかる枕詞。巻三(四六〇)に出た。あまねく日のさすという解に従う。「宮に行く児」は、「宮」は皇居。「児」は女を愛しての称で、宮仕に行くところの女。この女は後の続きで見ると、心を引かれる美しい女であるから、容貌の端麗ということを資格の一半とした、諸国より貢する采女《うねめ》であろうと思われる。それで国守としてその事務を行なう上で見たものと思われる。○ま悲しみ 「ま」は接頭語。「悲しみ」は、形容詞の動詞化したもので、ここは可愛ゆくして。○留むれば苦し 「留むれば」は、手許に引留めておけばで、そうしたい心からいっているもの。「苦し」は、公務にそむくことなので、苦しい意。○聴去ればすべなし 原文「聴去」は、聴《ゆる》して去《ゆ》かしむる意で、「遣《や》る」に当てたもの。「聴去《や》れば」は、京にやってしまえば。「すべなし」は、せんすべもないで、采女となれば手触れ難い制となっている意と取れる。
【釈】 この国より宮仕えにと京に上ってゆく女の可愛ゆくして、引留めて手許に置きたいが、それをすれば公務にそむくので苦しい。さりとてやってしまえば、どうしよう術《すべ》もない。
【評】 采女貢進の事を国守として行なう際、その女の美貌に心を動かし、私情の遂げ難い嘆きをいったものである。一首、実感を直截に訴えたもので、文芸性は顧慮に加えず、ただ強く情を抒べただけのものである。その抒情が心やりとなって、事柄を忘れさせようとしているものである。
 
533 難波潟《なにはがた》 塩干《しほひ》の名凝《なごり》 飽《あ》くまでに 人《ひと》の見《み》む児《こ》を 吾《われ》しともしも
    難波方 塩干之名凝 飽左右二 人之見兒乎 吾四乏毛
 
(366)【語釈】 ○難波潟塩千の名凝 「難波潟」は、ここは、風景の愛でたい所としていったもので、その愛でたさは、大和の京の人の海珍しさからの愛でたがりである。「塩千の名凝」は、「塩干」は、干潮。「名凝」は、二義があって、波が鎮まった後の余波の意と、潮が引いた後の溜り水の意とである。ここは塩干の際のことであるから、後の意のものである。以上二句、海の珍しく愛でたさから、見ても飽かず、名凝《なごり》までも見る意で、下の「飽くまで人の見む」の譬喩としてのもの。「難波潟」は、女の上京の路として、また佳景として連想されたもので、心としては譬喩であるが、形としては序詞に近いものである。これは技巧としてのことではなく、むしろその反対のものである。○人の見む児を 「人」は、京の人。「見む」は、眼をもって見愛でる意の想像。○吾しともしも 「し」は、強め。「ともし」は、羨ましい意のもの。「も」は詠歎。
【釈】 難波潟の珍しく愛でたさに、潮干の後の溜り水までも見るごとく、あくまでも京の人の見愛でるであろうところの女を、吾は見られず、羨ましいことであるよ。
【評】 前の歌に続いたもので、女を京に上らせた後の想像である。「難波潟」を捉えているのは、京の連想においてのもので、自身、風景としての難波潟に深い愛惜をもったことのあった記憶を、それに結びつけたものと思われる。序詞に譬喩の気分をもたせることは、すでに行なわれていたことで、これもその範囲のものとはいえるが、十分に成し得ずにいるもので、むしろ拙いものである。二首とも語の続きに飛躍があって、前の歌では三、四句の間に、この歌では結句にそれがあって、いずれも語を補わなければ通じかねる趣があるが、これは感性によって押切ろうとするところからのもので、技巧とはいえないものである。
 
     安貴王《あきのおほきみ》の歌一首 并に短歌
 
【題意】 「安貴玉」は、春日皇子の子、市原王の父で、続日本紀、天平元年従五位下、十七年従五位上になられた。この歌を作られた事情は、左注にまって明らかであり、因幡国|八上采女《やがみのうねめ》を娉《つまど》ったことが不敬罪とせられ、采女は本国へ還されたが、それを思っての歌である。
 
534 遠嬬《とほづま》の ここに在《あ》らねば 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》をた遠《とほ》み 思《おも》ふ空 《そら》安《やす》けなくに 嘆《なげ》くそら 安《やす》からぬものを み空《そら》往《ゆ》く 雲《くも》にもがも 高飛《たかと》ぶ 鳥《とり》にもがも 明日《あす》去《ゆ》きて 妹《いも》に言問《ことど》ひ 吾《わ》が為《ため》に 妹《いも》も事《こと》なく 妹《いも》が為《ため》 吾《われ》も事《こと》無《な》く 今《いま》も見《み》る如《ごと》 副《たぐ》ひてもがも
(367)    遠嬬 此間不在者 玉桙之 道乎多遠見 思空 安莫國 嘆虚 不安物乎 水空徃 雲尓毛欲成 高飛 鳥尓毛欲成 明日去而 於妹言問 爲吾 妹毛事無 爲妹 吾毛事無久 今裳見如 副而毛欲得
 
【語釈】 ○遠嬬のここに在らねば 「遠嬬」は、遠方に住んでいる妻。上代は妻の家の遠方にあることは稀れなことではなく、したがってこれは用例のある語。ここは、その本郷に還された八上采女を、京にあっていっているもの。「ここに在らねば」は、「ここ」は、京。「あらねば」は、「あらぬに」と、並び行なわれていた同意の語で、その古い形。この京にいないので。○玉桙の道をた遠み 「玉桙の」は、道にかかる枕詞。しばしば出た。「道をた遠み」は、「道」は、京と因幡との間の距離。「た遠み」の「た」は接頭語。「遠み」は、遠くして。○思ふ空安けなくに 「思ふ空」は、思う心地。「安けなくに」の「安け」は形容詞の未然形。「なく」は、否定の助動詞「ず」の未然形「な」に「く」の添って名詞形となったもの。「に」は、詠歎。○嘆くそら安からぬものを 「嘆くそら」は、嘆く心地。この二句は、上の二句の繰り返しで、対句。以上一段落。○み空往く雲にもがも 「み空往く」は、「み」は、美称。空を自由に行く、「雲にもがも」は「もがも」は顕望。身を雲に変えたい意。交通の不便だった上代の嘆きで、慣用されて成句となっているもの。○高飛ぶ鳥にもがも 「高飛ぶ」の「高」は、空の意の古語で、現在も用いている地方がある。二句、上の二句と対句となっており、同じく成句。○明日去きて妹に言問ひ 「明日去きて」は、すぐにも行ってというのを、「明日」と重く言いかえたもの。道が遠いという意からである。「妹に言問ひ」は、妹にものをいいであるが、「言問ひ」は、逢いを言いかえたもの。○吾が為に妹も事無く 「事なく」は、非常の事がなくで、すなわち無事にの意。二句、吾と妹とを一体として、妹の無事を願う意。○妹が為吾も事なく 上の二句と主格を変えて、一体という事を徹底させたもの。形は繰り返しであるが、意は異なっている。○今も見る如副ひてもがも 「今も見る如」は「今」は、上の「明日去ゆきて」の「明日」に照応させたもので、現在の意。「も」は詠歎。「見る如」は、見せているごとくで、王が眼前に面影として采女を見ている事をいったもの。「副ひてもがも」は「副ひ」は、相並ぶ意。「もがも」は、願望の助詞。二句、今眼前に面影として見ているごとくに、事実として相並んでいたいものであるよの意。
【釈】 遠妻のこの京にいないので、その間の路が遠くあって、思いやる心地が安くはないことであるよ、逢い難さを嘆く心地が安くはないことであるよ。わが身が空を飛ぶ鳥であってほしい、己が身が空を行く雲であってほしい。そして明日は行って、妻に逢ってものをいい、わがために妻も無事に、妻のために我も無事で、現に面影に見ているがごとくに、一緒にいたいものであるよ。
【評】 この歌の反歌によると、「年ぞ経にける」とあって、八上采女《やがみのうねめ》が不敬罪に問われて、因幡国に還されてから、少なくも年を越えていることがわかる。安貴王の思慕の情は、静かな、空想をまじえた気分になっていたことが、歌によって知られる。この歌はその気分にふさわしく、静かに、心細かにいおうとしたものである。大体としては謡い物の風に倣ったものである。謡い物は、そのものとしてすでに古風なものであるのに、この歌はことに古風なもので、この時代の長歌から見ると、時代後れのものである。しかし、さすがに新味をまじえてもいる。新味というのは、素朴に語《ことば》少ないところは古風だが、この静かな(368)調子は、謡い物ではなく、独詠の気分の明らかなものであるからである。また、語《ことば》は惜しんでいるが、それによって細かい気分をあらわそうとしているところも、新味というべきである。一首を二段とし、前段、「安からぬものを」までは、全体を総叙したことをいい、後段は、その上に立って細かい心をいっているのである。「吾が為に妹も事なく、妹が為吾も事無く」は、互いに無事でということであるが、ここでは心の生かされたものとなっている。反歌との関係上、見ぬことが年を経てのこととわかるので、その感はいっそうである。それにつぐ「今も見る如副ひてもがも」は、一首の頂点で、「今も見る如」の解は問題を含んでいるものであるが、相逢うことの想像に伴い、上を承けて、眼前に立ちきたる面影に対していっているものと解される。思う人の面影の立ちきたることは集中に例の多いものであるから、この場合それをいっているとしても怪しむには足りない。これは生趣の深いものである。一首、この時代としては特殊な形式を選んでいるがごとくにみえるが、必然性のあるもので、またその形式を生かし得ているものである。
 
     反歌
 
535 敷妙《しきたへ》の 手枕《たまくら》纏《ま》かず 間《あひだ》置《お》きて 年《とし》ぞ経《へ》にける あはなく念《おも》へば
    敷細乃 手枕不纏 間置而 年曾經來 不相念者
 
【語釈】 ○敷妙の手枕纏かず 「敷妙の」は、枕の枕詞。「手枕纏かず」は、手枕をせずで、共寐をせずにの意。下へ続く。○間置きて年ぞ経にける 「間置きて」は、絶え間を置いてで、「間」は時。「年ぞ経にける」は、年という永い日時を過ぎたことであるよ。○あはなく念へば 旧訓「あはぬおもひは」。『古義』の訓に従う。「あはなく」は、「あはず」の名詞形。逢わぬこと。
【釈】 手枕と枕としての共寐をせずに、絶え間を置いて年という永い時も過ぎたことであるよ。逢わないことを思うと。
【評】 長歌の、事より感傷を静かに展開させたのを承けて、反歌はその感傷をさらに展開させて、大観した形のものであり、構成をもった、要を得たものである。「間置きて年ぞ経にける」は、素朴で、細かい心があり、長歌と微妙に相通ずるものである。
 
     右、安貴王、因幡八上采女を娶りて、係念極めて甚しく、愛情尤盛なり。時に勅して不敬の罪に断じ、本郷に退却せしむ。ここに王の意、悼怛《たうだつ》して聊かこの歌を作れり。
      右、安貴王、娶2因幡八上采女1、係念極甚、愛情尤盛。於v時勒斷2不敬之罪1、退2却本郷1焉。(369)于v是王意、悼怛聊作2此歌1也。
 
【解】 「八上采女」は、八上郡より貢した采女。八上郡は今は鳥取県八頭郡に入る。「不敬の罪に断じ」は、采女が断ぜられたのである。「悼怛」は、いたみかなしむ意。
 
     門部王《かどべのおほきみ》の恋の歌一首
 
【題意】 「門部王」は、巻三(三一〇)に出た。左注によって出雲国守であったことが知られる。
 
536 飫宇《おう》の海《うみ》の 塩干《しほひ》の潟《かた》の 片念《かたもひ》に 思《おも》ひや去《ゆ》かむ 道《みち》の長手《ながて》を
    〓宇能海之 塩干乃鹵之 片念尓 思哉將去 道之永手呼
 
【語釈】 ○飫宇の海の塩干の潟の 「飫宇の海」は、巻三(三七一)に出た。出雲国|意宇《おう》郡にある海の意で、今島根県八束郡の中《なか》の海だろうという。国庁がそのあたりにあったからである。「塩干の潟」は、干潮時の干潟《ひがた》で、この二句は、「潟」を同音の繰り返しで「片」の序詞としたものである。なおこの序詞は、単にそれだけのものではなく、下の「道」の在り場所であり、また「塩干」は、暮の干潮で、時刻をもあらわしているものと取れる。○片念に思ひや去かむ 「片念」は、相手は思わず、こちらだけが思う意。「や」は、詠歎。「去かむ」は、通って行こうで、訴えの心をもっていっているもの。○道の長手を 「長手」は、長い道の意で、遠い路をの意。女の家の遠さをいったのであるが、これまた訴えの心よりのもの。
【釈】 飫宇の海の潮干の潟という、その片思いに思って、我は通って行こうよ。その遠い路を。
【評】 作歌の事情は、左注で明らかである。管内の一娘子に関係し、中絶した後、再び通って行こうとした際のもので、この歌は、今夜娘子の家へ行こうとした日、あらかじめ使をもって贈った歌である。歌はその事情に即したもので、一面には国守として高く地歩を占めつつ、同時に一面には、細心な注意をもって娘子に訴えてい、その矛盾が技巧を生み、それがまた文芸的ともなっているものである。「飫宇の海の塩干の潟の」は、「片念」の「片」にかかる序詞で、「片念」を強くいおうとしてのものである。今は「片念」というべき関係ではなく、王自身その点は恃《たの》むところあってのことと思われるから、これは訴えである。またこれは、下の「道の長手」に響いているもので、道の労苦を強めていう意で、同じく訴えである。さらにまた「塩干」は、ここは夕暮の干潮であろうから、その意では今夜ということ、あるいは時刻までも暗示しているものである。すな(370)わち序詞に他の意味の複雑なものももたせたもので、これは技巧である。「思ひや去かむ」の「や」の詠歎にも、訴えの心があって、「道の長手を」と響き合っている。一首、心をこめたもので、こうした実用性の歌が、すでに文芸的となっていたことを示しているものである。
     右、門部王、出雲守に任ぜられし時、部内の娘子を娶れり。未だ幾時《いくばく》ならずして、既に往来を絶つ。月を累ねたる後、更に愛づる心を起す。仍《よ》りて此の歌を作りて娘子に贈り致す。
      右、門部王、任2出雲守1時、娶2部内娘子1也。未v有2幾時1、既絶2往來1。累v月之後、更起2愛心1。仍作2此謌1贈2致娘子1。
 
【解】 「出雲守に任ぜられし時」は、続日本紀には出ていず、この集によってのみ知られることである。「部内」は、管内で、「娘子」の何者であるかはわからない。
 
     高田女王の今城王《いまきのおほきみ》に贈れる歌六首
 
【題意】 「高田女王」は、天武天皇の皇子長皇子の曾孫。御父は高安王である。それ以外は知れない。「今城王」は、上の(五二八)の左注、大伴坂上郎女の伝に、初め穂積皇子に嫁したことがあり、また、(五一九)の題詞に添えて、元暦本その他には、「今城王之母也、今城王後賜2大厚真人氏1也」とあるところから、穂積皇子の御子で、母は大伴坂上郎女であろうかといわれている。大原真人今城は続日本紀にしばしば出ており、これを今城王の臣籍に下っての後とすると、天平宝字元年従五位下、治部少輔、同七年左少弁、また上野守、八年従五位上、宝亀二年兵部少輔、同三年駿河守となっている。
 
537 事《こと》清《きよ》く 甚《いた》もないひそ 一日《ひとひ》だに 君《きみ》いしなくば 痛寸取物
    事清 甚毛莫言 一日太尓 君伊之哭者 痛寸取物
 
【語釈】 ○事清く甚もないひそ 「事」は、言《こと》に当てたもので、王の女王に対しての物言い。「清く」は、明らかに、はっきりとしている意で、含みをもたない意。すなわち、言いきった言い方。「甚もないひそ」は、原文「甚毛莫言」で、『考』は「いともな言ひそ」と訓み、諸注が従ってい(371)る。文字どおり「いたもないひ」と訓む。「いた」は、はげしい意。「も」は、詠歎。「な」は、禁止。「な」のみで、「そ」の照応がなく、禁止の意をあらわすのは古風で、例の多いものである。以上一段。○一日だに君いしなくば 「一日だに」は、ただ一日の短かい間だけでも。「君いし」は、「い」は主格に添えていう助詞で、巻三(二三七)「志斐《しひ》いは奏《まを》せ」があった。「し」は、強め。「なくば」は、吾と関係を絶ったならばの意。○痛寸取物 旧訓、「いたききずぞも」。諸注、問題としている。『攷証』は、旧訓は意も解し難く、文字も当たらない。誤字があろうとして、解を省いている。『考』『古義』は、誤字説を立て、『古義』は「偲不敢物《しぬびあへぬもの》」の誤字としている。『新訓』はこれに従っている。『新考』は『古義』の上に立ち、「有不敢物《ありあへぬもの》」かといっている。「旧訓」以来すべて迎えての解である。『攷証』に従い、問題として残しておく。
【釈】【評】 ともに省く。
 
538 他辞《ひとごと》を 繁《しげ》み言痛《こちた》み あはざりき 心《こころ》ある如《ごと》 な思《おも》ひ吾《わ》が背子《せこ》
    他辞乎 繁言痛 不相有寸 心在如 莫思吾背子
 
【語釈】 ○他辞を繁み言痛み 巻二(一一六)に出た。他人の我に対していうことの繁くして、またはげしくしての意で、そうした例の多いところから、成句のごとくなっていたもの。○あはざりき 王の逢おうとするのを避けて逢わずにいたの意。○心ある如な思ひ吾が背子 「心ある如」は、あだし心があっての事のように。「な思ひ」は、旧訓「おもふな」。『代匠記』の訓。思い給うな。「吾が背子」は、呼びかけ。
【釈】 他人の物言いの繁くはげしくして、そのために逢わずにいた。あだし心があってのように思い給うなよ。わが背子よ。
【評】 王が通って来たのに、女王が避けて逢わなかった夜があり、それに対しての弁明である。次の歌で見ると、女王の周囲の者は、王との婚を喜ばず、妨げをしたものと取れる。「他辞」というのはそれである。それに対して、女王は押切ってゆくだけの心がもてず、また王には、女王のその態度があきたりないという関係ではなかったかと取れる。時代はすでに奈良朝に入っており、高貴な身分の方々であるから、事が複雑になり、感情は繊細になってきているのは、自然の成行きと見られる。歌はこの時代のものとすると、古風な、実用性のみのもので、文芸的なところのないものである。一意、哀訴している、素朴なものである。三句切に、名詞止という形であるが、古くも例のあるもので、新味があるとはいえないものである。
 
539 吾《わ》が背子《せこ》し 遂《と》げむと云《い》はば 人事《ひとごと》は 繁《しげ》くありとも 出《い》でてあはましを
    吾背子師 遂常云者 人事者 繋有登毛 出而相麻志乎
 
(372)【語釈】 ○吾が背子し遂げむと云はば 「背子し」の「し」は、強め。「遂げむと云はば」は、下の「出でてあはましを」の条件として仮想したもので、「遂げむ」はこの場合、逢うことを遂げる意で、どうでも逢おうというにあたる。もしそういったならば。○人事は繁くありとも 「人事」は、上の歌の「他辞」で、周囲の物言い。周囲の者が語《ことば》多くいおうとも。○出でてあはましを 「出でて」は、家を出でて、人目のない所で密会する意で、例の少なくないもの。「あはましを」の「まし」は、上の「云はば」の帰結。「を」は詠歎。
【釈】 わが背子が、もしどうでも逢おうといったならば、周囲の者の物言いは多かろうとも、吾は家を出て逢つたであろうものを。
【評】 この歌も、前の歌に続いて、逢わなかったことの弁明である。前の歌は、周囲の者に制せられたことをいって訴えたが、この歌は、それのみではなく、自身としても勇気がもてなかったが、それは君がもてるようにしむけてくれなかったがためであるといい、しかしその態度は恨みをいわずに訴えているものである。実情を吐露することのみを念としたもので、前の歌と同様なものである。この歌は心が前の歌に続いているから、同時のもので、おそらくその前の歌も同時で、三首を詠み続けて贈ったのであろう。三首、実際に即しているので、事の輪郭はおのずからにわかる。事としてはこの歌が根本で、通って来た王は、女王が快く逢わないので、不快を感じ、何もいわずして帰ってしまい、次に、前々首の歌で想像されるように、強い語をもって絶縁のことをいってきた。それに対して前の歌とこの歌との弁明と哀訴になったという順序であろう。
 
540 吾《わ》が背子《せこ》に 復《また》はあはじかと 思《おも》へばか 今朝《けさ》の別《わかれ》の すべなかりつる
    吾背子尓 復者不相香常 思墓 今朝別之 爲便無有都流
 
【語釈】 ○吾が背子に復はあはじかと思へばか 「復は」の「は」は、強めで、意味としては「復」で足りるものである。「あはじかと」は、逢わないのだろうかというので、「か」は疑問。「思へばか」は、思ったせいであろうかで、この「か」も疑問で、係。○今朝の別のすべなかりつる 「今朝の別」は、昨夜逢つての朝の別れで、後朝《きぬぎぬ》の別れ。「すべなかり」は、「すべなくあり」の約で、「すべなく」は、せん術《すべ》のなくで、どうすべきか全くわからずぼんやりとしていた意で、悲しみを具体的にいったもの。「つる」は、「か」の結で、連体形。
【釈】 わが背子に、また逢うことはないのではなかろうかと思ったせいか、その悲しみで、今朝の別れ際には、せん術もなく、ただぼんやりとしていたことであるよ。
【評】 この歌の場合は、前の三首の歌とは別の時で、前の弁明によって、いちおうの心は解け、一夜を相逢って別れた後に、女王より王に贈ったものである。歌は、相逢いはしたが、王の素振りには、女性の敏感によって、王の心の機微の察しられる(373)ものがあるが、女王にはそれを如何《いかん》ともすることができず、ただぼんやりとしているのみであったが、後になって、その自分の仕打ちがまた気になり、弁明をして訴えたものである。純真ではあるが、気が弱く、また気働きの少ない女王の面目の現われている歌で、あわれのあるものである。「すべなかりつる」という語は、実際をいっただけのものであるが、捉え方が適確で、味の多いものである。
 
541 現世《このよ》には 人事《ひとごと》繁《しげ》し 来世《こむよ》にも あはむ吾《わ》が背子《せこ》 今《いま》ならずとも
    現世尓波 人事繋 來生尓毛 將相吾背子 今不有十方
 
【語釈】 ○現世には人事繁し 「現世」は、下の「来世」に対させたもので、仏教の世界観として説くもの。人としての現在の世。「人事繁し」は、上に出た。現世は人の物言いの多い所であると、自身の現境を大観して嘆いての語。○来世にもあはむ吾が背子 「来世」は、現世を終わると、ただちに継いて来る世のあるとしてのもの。ここは、いわゆる生まれ替って来る世と取れる。来世においてもまた、現世のごとく相逢おう、わが背子よと呼びかけたもの。「あはむ」は、人言《ひとごと》なく、自由にということを含めたもの。○今ならずとも 逢うのは今でなくとも。
【釈】 現世で逢おうとすると、人の物言いが多い。来世でもまた同じように相逢おう、わが背よ。逢うのは今でなくとも。
【評】 当時は仏教が隆盛であったが、集中の歌で見ると、その影響を受けているものが少なく、ありとすると、思想として受け入れ、あるいは語句のおもしろさとして取り入れている程度で、生活気分に溶かしているものは幾何もないといえる。この歌は、その深浅は別として、生活気分に溶かしているものといえる。これは女性としての信心深さを伴っていようが、その気の弱さが根本をなしているものと思われる。王がこの信仰をどの程度まで肯《うべ》なったかは歌がないから知れない。
 
542 常《つね》止《や》まず 通《かよ》ひし君《きみ》が 使《つかひ》来《こ》ず 今《いま》はあはじと たゆたひぬらし
    常不止 通之君我 使不來 今者不相跡 絶多此奴良思
 
【語釈】 ○常止まず通ひし君が使来ず 「常止まず」は、旧訓「とことはに」。『玉の小琴』が今のように改めた。いつも絶えず。「通ひし君が使」は、王より女王の許へ通っていた使。○今はあはじとたゆたひぬらし 「今」は、過去に対させたもの。「たゆたひ」は、ためらう意。「ぬらし」は、「ぬ」は、完了を示し、「らし」は、眼前を証としての推量で、証は使の来ぬこと。
(374)【釈】 いつも絶えず通っていたところの君が使が来ない。これだと、今はもう逢うまいと、君の心はためらっているのであろう。
【評】 訴えの心のものであるが、その心が弱く、むしろ諦めを告げる口気をもったものである。「常止まず」というのを見ると、「人事繁し」というのは女王の解釈で、限度のあったものとみえる。古風な、真実をとおしての歌を詠まれているので、六首の歌によって、女王自身の面目を怪しきまでに描き出しているところがある。この事に関しての歌はこれで終わっているので、その後を思う由もない。
 
     神亀元年甲子冬十月、紀伊国に幸せる時、従駕の人に贈らむ為、娘子《をとめ》に誂《あとら》へらえて作れる歌一首并に短歌
                    笠朝臣金村
 
【題意】 「神亀元年」は、聖武天皇の最初の年号で、「紀伊国に幸せる時」は、続日本紀に出ており、「十月幸卯(五日)紀伊国に幸す」とあり、その七日、紀伊国那賀郡玉垣勾頓宮、八日には海部郡玉津島頓宮に至り、とどまり給うこと十余日。二十三日、和泉国を経て還幸あらせられた。「誂へらえ」は、集中、他にも用例のある字である。日本書紀、垂仁紀、履中紀に「あとらふ」の古訓がある。訓は確め難いものであるが、『攷証』は平安朝の仮名書きにより、「あつらへ」と訓んでいる。代作を頼まれたことである。「笠朝臣金村」は、西本願寺本以下、題詞の中の「誂へらえて」の下に入っているが、桂本その他には、題詞の下、あるいは別行に書いてある。今はそれに従う。金村は巻二(二三〇)以下、しばしば出た。
 
543 天皇《おほきみ》の 行幸《みゆき》のまにま 物部《もののふ》の 八十伴《やそとも》の雄《を》と 出《い》で去《ゆ》きし 愛《うつく》し夫《つま》は 天翔《あまと》ぶや 軽《かる》の 路《みち》より 玉《たま》だすき 畝火《うねび》を見《み》つつ 麻裳《あさも》よし 木道《きぢ》に《い》入り立《た》ち 真土山《まつちやま》 越《こ》ゆらむ君《きみ》は 黄葉《もみちば》の 散《ち》り飛《と》ぶ見《み》つつ 親《した》しくも 吾《われ》をば念《も》はず 草枕《くさまくら》 旅《たび》をよろしと 思《おも》ひつつ 君《きみ》はあらむと あそそには 且《かつ》は知《し》れども しかすがに 黙然《もだ》もえあらねば 吾《わ》が背子《せこ》が 往《ゆ》きのまにまに 追《お》はむとは 千遍《ちたび》念《おも》へど 手弱女《たわやめ》の 吾《わ》が身《み》にしあれば 道守《みちもり》の 問《と》はむ答《こたへ》を 言《い》ひやらむ すべを知《し》らにと 立《た》ちて爪《つま》づく
(375)    天皇之 行幸乃隨意 物部乃 八十伴雄与 出去之 愛夫者 天翔哉 輕路從 玉田次 畝火乎見管 麻裳吉 木道尓入立 眞土山 越良武公者 黄葉乃 散飛見乍 親 吾者不念 草枕 客乎便宜常 思乍 公將有跡 安蘇々二破 且者雖知 之加須我仁 黙然得不在者 吾背子之 徃乃万々 將追跡者 千遍雖念 手弱女 吾身之有者 道守之 將問答乎 言將遣 爲便乎不知跡 立而爪衝
 
【語釈】 ○天皇の行幸のまにま 「まにま」は、成行きに任せる意の副詞。同じ意味で、「まにまに」とも用い、用例が多い。○八十伴の雄と 「八十」は多数を具象的にいったもの。「伴」は朝廷に奉仕する団体。「雄」は、緒《お》で、その長官。朝廷に奉仕する多種の職業団体のその長官の意で、朝廷の百官という意を具象的にいった称。「と」は、とともに。○出で去きし愛し夫は 「出で去きし」は、従駕したところの。「愛し夫」は、「愛し」は讃えた意で、親子夫婦の間に限って用いられた語。ここは夫に対してのもの。○天翔ぶや軽の路より 「天翔ぶや軽」は、巻二(二〇七)に出た。空を飛ぶ雁《かり》で、雁を「軽」ともいったところから、地名の軽の枕詞となったもの。軽は巻三(三九〇)参照。畝傍山の東南にあたる。「より」は、そこを経過する意でいっているもの。ここは奈良京より紀伊国へ行く道筋をいおうとし、最も印象的な地の第一としていっているもの。○玉だすき畝火を見つつ 「玉だすき畝火」は、巻一(二九)に出た。「玉だすき」は、「玉」は、美称で、「たすき」は襷。項《うなじ》にかける意の「うなぐ」より「畝」に転じさせて畝火の枕詞としたもの。「畝火」は畝火山。「見つつ」は、眺めつつで、旅行をする状態を暗示したもの。○麻裳よし木道に入り立ち 「麻裳よし」は、巻一(五五)に出た。麻の裳を着と続き、着を国の紀に転じて、その枕詞としたもの。「木道《きぢ》」は、紀路で、紀伊国へ通じる往還の意にも、紀伊国そのものにも用いる。ここは前者である。「入り立ち」は、入る意で、「立ち」は、語感を強めるための慣用。○真土山越ゆらむ君は 「真土山」は、巻一(五五)参照。大和国と紀伊国との国境に立ち、紀州往還にあたっている。○黄葉の散り飛ぶ見つつ 「黄葉の散り飛ぶ」は、十月の光景としていっているもの。「飛ぶ」は、山風を思わせているものと取れる。「見つつ」は、上の「畝火を見つつ」と同じく、旅行の状態を暗示させているもの。○親しくも吾をば念はず 旧訓「むつまじくわれをばおもはじ」。「親」《したしくも》は『玉の小琴』の訓、「吾《われ》をば念《も》はず」は『考』の訓である。しみじみとは吾のことを思わずで、「も」は詠歎。○草枕旅をよろしと 「草枕」は旅の枕詞。「よろしと」は、旧訓「たよりと」。『略解』の改めたもの。「よろしと」はおもしろしとの意。○思ひつつ君はあらむと 「思ひつつ」は、「つつ」の継続によって、上の二か所の「見つつ」と同じ意をあらわしたもの。○あそそには且は知れども 「あそそには」は、ここの一か所よりほか用例のない語である。前後の関係より推して、うすうすはというほどの意の副詞であろうとされている。「且は知れども」は、「且は」は、一方では。一方では察しているけれども。起首よりここまでは、夫を中心としての想像で、以下は自身のことに転じている。以上で、第一段落の形である。○しかすがに黙然もえあらねば 「しかすがに」は、そうではあるものの。「黙然《もだ》」は黙っていることで、名詞。「えあらねば」は、いられないのでで、夫の状態に対して、一種の嫉妬を感じてきての意。○吾が背子が往きのまにまに 「吾が背子」は、上に「君」と二たびまで繰り返していっているのを、一転して最も親しい称に換えたもの。「往き」は従篤しての旅で、名詞。「まにまに」は、上の「まにま」と同じ。○追はむとは千遍念へど 「追はむとは」は、後を追って、一緒になろうとはの意で、夫の愛を取り返そうとはの心のもの。「千遍」は、幾度となくを具象(376)的にいったもの。これ以下はまた一転するので、以上、第二段落の形。○手弱女の吾が身にしあれば 「手弱女」は、「た」は、接頭語。「弱」は、弱い意で、女が男に較べて体力の劣っていることを意識して、卑下の心でいっている語であるが、ここは、下との関係上、女という意のもの。「吾が身にし」の「し」は、強め。二句、女の吾なのでで、旅行する上で、女は男よりも公の制限を受けることが多いということを思い浮かべての語《ことば》。○道守の間はむ答を 「道守」は、次の反歌では「関守」となっており、同じ心でいっているものである。以前から重要な往還には関があり、身分や、旅行の理由の明らかでない者は通さなかった。それを証明する物を過所《かそ》といい、後世の関所手形、すなわち旅行免状にあたる物であった。その事務を司っている者が「道守」あるいは「関守」である。今、娘子も旅をするならば、その過所がなくてはならないのであるが、その得られないことに思い及んだのである。「問はむ答」は、道守の事務として訊ねる身分や、旅行の理由に対しての答である。○言ひやらむすべを知らにと 「言ひやらむ」は、「言はむ」の意を、答の性質上、言ってのけるという意に言いかえたもの。「すべ」は、方法であるが、上よりの続きで、言いぐさというにあたる。「知らにと」は、巻二(二二三)に出た。「に」は否定の助動詞「ぬ」の連用形。「と」は、「言ひやらむ」以下を一纏めとし、下の理由をあらわす意のもの。言ってのける言いぐさを知らずして、そのゆえにというほどの意。○立ちて爪づく 「立ちて」は、今にも出かけようと立ち上がって。「爪づく」は、つまずくで、解は諸説があるが、『代匠記』の、心が上の空であるゆえだという解に従う。「道守」以下の反省が起こると、はたと当惑し、放心した状態になっているのを、具象化していったものである。立ち上がって、うろうろして、物につまずく意。
【釈】 大君の行幸の進みのまにまに、朝廷の百官とともに京を出て行った愛《うつく》しき夫は、天翔《あまと》ぶや軽の路を経て、玉だすき畝火山を見ながらに進み、麻裳よし紀州往還に入って、真土山を越えるであろうところの君は、おりからの山の黄葉の、山風に散って飛ぶのを見ながらに進み続け、それらのおもしろさに心を奪われて、しみじみとはわが上は思わず、草枕旅はおもしろいものだと思い続けて君はいることだろうとは、うすうすは一方では知っているけれども、そうは思うものの吾としては、黙ってそのままにしていることはできないので、わが背子の進み行くまにまに、後を追って一緒になり、その心を取り返そうとは幾たびとなく限りなく思うけれども、女のわが身のことであるので、途中にいる道守が、身分や旅行の理由を尋ねるであろうところのその答を、何と言ってのけたものか言いぐさを知らないので、立ち上がって、うろうろして、放心して物につまずく。
【評】 この歌は、歌そのものとしては、旅にある夫に、その妻が思慕の情を寄せるという実用性の範囲のものである。こうした歌は当事者の間だけのもので、第三者を考慮に入れるべきものではない。したがって歌という形式さえ備えておれば、巧拙は多くの問題とならない性質のものである。作歌の才の足りない者は、古歌を模したもので用を弁じてもいたのである。他人に代作をしてもらうということは、古歌を摸すのに脈を引いたものであるが、頼むということも、頼まれるとそれに応じて、苦労して長歌を作るということも、時代が文芸的となり、実用性ということを離れて、歌そのもののできを問題とするようになったがために起こってきたことと取れる。こうしたことは必ずしも少なくはなかったろうが、明らかな証のあるのは、大伴(377)家持がその妻のために代作をしたなど、わずかにすぎない。この歌はその例として、やや古く、また際立ったものでもある。歌は笠金村としても、代表的に文芸性を発揮したものである。その第一は長歌形式を選んだことである。この時代は、長歌はすでに短歌に席を譲り、儀礼としての改まった場合、または深く心を動かした特別の場合でない限り、短歌をもって事を足していた。長歌を好んだとみえる金村であるが、こうした心を代作するのに、長歌の、しかもやや長いものをもってしたということは、文芸性を発揮しようとの心の伴っていたこととみえる。第二に、歌そのものも、興に乗って作ったというものではなく、細心の用意をもち、構成をつけ、知性を働かせて作った跡を見せているものである。第一段は、起首より「あそそには且は知れども」までで、全体のなかば以上である。これは従駕の旅にある夫の、その状態と心理とを想像したものである。それは大体としては明かるく楽しいものであるが、このことは一に、自然の風景のおもしろさから醸し出されるものである。この当時、自然がいかに魅力あるものとなっていたかは、天皇の玉津島頓宮における十数日の御逗留は、和歌の浦の風光を愛でさせられたためであるというのでも明らかで、したがって金村のこの想像も特殊のものではなかったことが知られる。この歌での風光は、第一は軽より畝火へかけての辺、第二は真土山のおりからの散る黄葉である。それをいうに、中心を夫に置き、最初は、「出で去きし愛し夫は」と愛称をもってし、次には、「真土山越ゆらむ君は」と、改めていい、さらにまた、「旅をよろしと、思ひつつ君はあらむと」と漸層的にいっているのは、相応に知性を働かせての組立と思える。第二段は、上の「知れども」の「ども」で一転させ、夫を離れて娘子自身のことをいっている。そのいうことは、夫が風景のおもしろさに心を奪われ、自分を忘れているがごとくに感じられ、一種の嫉妬の情が燃え立ち、夫の傍らに添う者となって、その情を取り返そうというのである。こうした嫉妬がはたしてあるであろうか。これに似たものはあるとしても、はたしてこれほど強く起こるものであろうか。疑いなきを得ぬことである。これは風景の魅力を限りなきものとする上に立っての想像であって、実際とはある遊離をもったものに思える。この遊離を金村は文芸性と見、一首の眼目をここに置いたのである。ここでまた段を改めているのであるが、その改め方は前の場合と同じく、「千遍念へど」の「念へど」と転じさせているので、その方法は同一である。第三段は、第二段の延長で、改めているとも言えないかのようにみえるものであるが、娘子はここに至って初めて反省をもち、その事の実行難を感じたことにしているので、段を改めていると見るべきである。途中にいるべき「道守」を想像するのは、第一段の道行の照応するものであり、また「立ちて爪づく」の具象化は、細心に心を働かせたもので、一首の結末にふさわしいものである。さて一首を全体として見ると、細心に具象化はしているが、平面的であり、また説明的であって、長歌としてもつべき立体感の盛り上がって来るものが少なく、散文的の感の掩《おお》い難いものである。
 
     反歌
 
(378)544 後《おく》れ居《ゐ》て 恋《こ》ひつつあらずは 木《き》の国《くに》の 妹背《いもせ》の山《やま》に あらましものを
    後居而 戀乍不有者 木國乃 妹背乃山尓 有益物乎
 
【語釈】 ○後れ居て恋ひつつあらずは 巻二(一一五)に出た。後に残っていて、恋いつづけていずに。○木の国の妹背の山にあらましものを 「妹背の山」は、「背の山」は巻一(三五)参照。紀伊国伊都郡にあり、背山と妹山とが、紀ノ川を挟んで相対し立っている。本来は山に神格を信じての称であるが、ここは人間の妹背の連想からいっているもの。「あらまし」の「まし」は、上の「あらずは」の仮定の帰結としてのもの。
【釈】 後に残ってこのように恋い続けていずに、君のいる紀伊国にある妹山と背山とであろうものを。
【評】 一、二句は成句となっているものであり、「木の国の妹背の山」は、夫のいる紀伊国よりの連想で、妹背の山の離れずにいることを羨んだものである。明るく軽い歌で、謡い物の口気を帯びたものである。しかし紀伊の風景としての妹背山を捉えているので、反歌としての体は備えているものである。
 
545 吾《わ》が背子《せこ》が 跡《あと》履《ふ》み求《もと》め 追《お》ひ去《ゆ》かば 木《き》の関守《せきもり》い 留《とど》めなむかも
    吾背子之 跡履求 追去者 木乃関守伊 將留鴨
 
【語釈】 ○跡履み求め 足跡を踏んで、行先を求めての意。○木の関守い 紀伊国にある関のその関守。関はどこにあるともわからない。長歌の「道守」を言いかえたもので、想像からいっているもの。「い」は、名詞に添えていう助詞で、上の(五三七)に出た。○留めなむかも 「留めなむ」は、原文「将留」で、四句の「伊」を五句に移し、「旧訓」は「いとどめむ」。「伊」を四句へ属させたのは『童蒙抄』、訓は『玉の小琴』である。「かも」は「か」の疑問と「も」の詠歎。
【釈】 わが背子が足跡を踏んで行先を求めて行ったならば、その途の紀伊国にある関の関守は、女には許し難い旅であるとして、引留めて通さないことであろうか。
【評】 長歌の結句を繰り返したもので、反歌の古い型に従ったものである。しかし、「跡履み求め」と、細かい描写をし、「道守」を「関守」にかえて、新味を盛っているもので、前の歌に較べるとはるかに重い味わいをもったものである。
 
(379)     二年乙丑春三月、三香原離宮《みかのはらのとつみや》に幸せる時、娘子《をとめ》を得て作れる歌一首 并に短歌    笠朝臣金村
 
【題意】 「三香原離宮」は、巻三(四七五)より(四七九)にわたって出た。山城国(京都府)相楽郡の恭仁宮《くにのみや》である。神亀二年三月の行幸は、続日本紀には載っていない。漏れたものと思われる。「娘子を得て」は、娘子と婚しての意で、娘子の身分はわからない。歌で見ると、その地に住む遊行婦の類かと思われる。作者名は、元暦本、桂本など、右のように題詞の下にある。
 
546 三番《みか》の原《はら》 旅《たび》のやどりに 珠桙《たまぼこ》の 道《みち》の去《ゆ》きあひに 天雲《あまぐも》の 外《よそ》のみ見《み》つつ 言《こと》問《と》はむ 縁《よし》のなければ 情《こころ》のみ 咽《む》せつつあるに 天地《あめつち》の 神祇《かみ》辞《こと》よせて 敷妙《しきたへ》の 衣手《ころもで》かへて 自妻《おのづま》と 憑《たの》める今夜《こよひ》 秋《あき》の夜《よ》の 百夜《ももよ》の長《なが》さ ありこせぬかも
    三香乃原 客之屋取尓 珠桙乃 道能去相尓 天雲之 外耳見管 言將問 縁乃無者 情耳 咽乍有尓 天地 神祇辞因而 敷細乃 衣手易而 自妻跡 〓有今夜 秋夜之 百夜乃長 有与宿鴨
 
【語釈】 ○三香の原旅のやどりに 「旅」は、行幸の供奉をしての旅。「やどり」は、宿りで、旅舎。宿と並べ用いたもの。「やどりに」は、宿にあって。○珠桙の道の去きあひに 「珠桙の」は、「道」の枕詞で、しばしば出た。「道の去きあひに」は、道を歩いていて、偶然向かい合った状態で。○天雲の外のみ見つつ 「天雲の」は、天の雲の遠くかかわりのない意で、「外《よそ》」にかかる枕詞。「外のみ見つつ」は、よそにのみ見つつの意の当時の語法で、用例の多いもの。「外」は、関係のないものの意で、「のみ」は、その意を強めたもの。「見つつ」は、継続で、一見、深く心を動かしたことを具象化したもの。○言問はむ縁のなければ 「言問はむ」は、ものを言いかけようとする。「縁」は、つて。○情のみ咽せつつあるに 「情のみ」は、憧れる心だけが。「咽せつつ」は、「咽せ」は、憧れの感が強く、喘ぎの甚しい状態を、具象的にいったもの。「つつ」は、継続。○天地の神祇辞よせて 「天地の神祇」は、天つ神、国つ神の神々。「辞よせて」は、事寄せての意で、単に寄せてというと意は異ならない。引合わせてというにあたる。夫婦関係は、神意によって結ばれるものであるとする信仰を背後に置いてのもの。○敷妙の衣手かへて 「敷妙の」は、衣の枕詞で、しばしば出た。「衣手」は、袖。「かへて」は、交《か》えてで、さし交わしての意。共寝をすることを具象的にいったもの。○自妻と憑める今夜 「自妻《おのづま》」は旧訓「わがつま」。『代匠記』の訓。仮名書きのあり、用例の多い語。わが妻。「憑める」は、頼みあるで、信じて任せている意。○秋の夜の百夜の長さ 「秋の夜」は、夜の長い時として譬喩としていっているもの。時は三月で、その反対に夜の短かい時である。「百夜」は、多くの夜ということを具象的にいったもの。百夜を重ねたごとき長さ。○ありこせぬかも 原文「与」は『攷証』は、「乞」の意で用いている字で、集中に例が多く、漢籍に「与許也」とあるので、許せという意で、「乞」に代えたものだろうといっている。「ありこせぬか」は「ありこ(380)す」の未然形「ありこせ」に、打消の「ぬ」、疑問の「か」の続き、あってはくれぬか、あってくれよと願望をあらわしたもの。「も」は、詠歎。巻二(一一九)に出た。
【釈】 三香の原の旅舎にあって、道を歩いていて偶然に行き逢い、無関係の者とばかり見い見いし、ものを言いかけようつてもないので、心の中でだけ、咽せるがごとくに強く憧れていたのに、天つ神国つ神の引合わせ給いて、袖をさし交わして共寝をし、わが妻と頼んでいるこの夜よ。この春の短か夜が、秋の夜の百夜《ももよ》のごとく長くあってくれぬものか、あってくれよ。
【評】 旅の宿りで娘子を得ての歓喜を、長歌形式で、極度と思われる激情をもって詠んだもので、事と心のふさわしくない点に特色のあるという歌である。娘子は路上で見かけて、その美しさに魅せられおわったものであり、またたやすく夫婦関係の結ばれているものであるところから見て、少なくとも身分ある人ではなく、あるいは遊行婦ではないかという想像を抱かせるものである。それだとすると、当時の身分ある人が、旅のつれづれの慰めにそうした女を近づけるということは、むしろ常凡のことで、この歌のような言い方をするのは、常識以上のことといわなければならない。この歌は、結末は「秋の夜の百夜の長さありこせぬかも」という憧れであるが、それは恋の歓喜の延長としてのものであって、心は歓喜そのものである。多い恋の歌ではあるが、歓喜そのものを詠んだものはきわめて稀れで、ほとんど全部、訴えであり誓いであるともいえる。歓喜を詠んだものは、おそらく謡い物系統のもののみではないかと思われる。この歌はその謡い物系統の上に立った、当時としては古風なものであるが、一方では長歌であり、不自然なまでの激情として詠んでいるもので、その点、時代の過渡的な面を思わせている。「天地の神祇辞よせて」と、こうした個人的なことに、畏いことをいっているのも、同じく時代を思わせるところがある。一首の歌として見ると、語つづきがはでで、浮いていて、集中力の少ない、粗雑の感のあるものである。金村としても劣った(381)作とすべきである。
 
     反歌
 
547 天雲《あまぐも》の 外《よそ》に見《み》しより 吾妹児《わぎもこ》に 心《こころ》も身《み》さへ 縁《よ》りにしものを
    天雲之 外從見 吾味兒尓 心毛身副 縁西鬼尾
 
【語釈】 ○天雲の外に見しより 外に見た時からすでに。○吾妹児に 「吾妹児」は妻としての愛称。○心も身さへ 心も、また身さえもの意をあらわす当時の語法で、用例の多いものである。「さへ」は、物のある上に、さらに添える意の助詞で、心だけではなく、身までもの意。○縁りにしものを 「縁りにし」は、任せてしまっていたの意で、打込んでしまっていたというにあたる。「ものを」は、のであるにで、強い感歎。
【釈】 無関係な者として見た時からすでに、吾妹児に吾は、心だけではなく身までも打込んでしまっていたのであるに。
【評】 長歌の前半を繰り返していっているもので、「情《こころ》のみ咽せつつ」といったのを、「心も身さへ縁りにしものを」と変えたのであるが、「縁りにしものを」は、顧みてそういうことによって、現在の歓喜を言外にあらわし、そこに力点を置いたものなので、展開をつけているものといえる。一首、女への訴えである。長歌に較べると、はるかに巧緻である。
 
548 今夜《このよら》の 早《はや》く開《あ》けなば すべを無《な》み 秋《あき》の百夜《ももよ》を 願《ねが》ひつるかも
    今夜之 早開者 爲便乎無三 秋百夜乎 願鶴鴨
 
【語釈】 ○今夜の 旧訓で、『仙覚抄』の訓。「こよひの」を改めたものである。「ら」は、野を「野ら」、一人の子を「子ら」というと同じく、添えていう詞で、用例のあるものである。以下の流暢な調べとの関係上、五音に訓ませようとするのが作意と思われる。○早く開けなばすべを無み 「早く開けなば」は、夜が早く明けたならばで、春の短か夜であるから、当然の懸念である。「すべを無み」は、すべきようもなくしてで、明ければ別れなければならない意。○秋の百夜を願ひつるかも 「秋の百夜を」は、秋の夜の百夜の長さを。「願ひつる」の「つる」は、完了の助動詞「つ」の連体形。「かも」は、詠歎。願ったことであったよの意で、それにもかかわらず、ついに明けてしまった嘆きを言外に置き、そこを中心としていったもの。
【釈】 この楽しい夜の夜明けとなったならば、すべき方法もなくして、秋の夜の百夜の長さのあれよと願ったことであったよ。
(382)【評】 長歌の結未の「百夜の長さありこせぬかも」を承け、それを延長させて、それにもかかわらず夜明けとなった嘆きをいったものである。反歌としての展開をもち、中心の嘆きを言外に置いているところ、前の歌と同工であって、巧緻なものである。
 
     五年戊辰、大宰少弐石川|足人《たりひと》朝臣の遷任するに、筑前国|蘆城《あしきの》駅家に餞する歌三首
 
【題意】 「石川足人朝臣」は、石川は氏、足人は名、朝臣は姓である。父祖は明らかでない。続日本紀、和銅四年従五位下、神亀元年従五位上とあるのみで、大宰少式に任ぜられたことも漏れている。「遷任」の何であったかもわからない。「蘆城」は、大宰府の南方にあり、京への往還筋に当たっている。古の御笠郡、今は筑紫郡筑紫野町阿志岐の地域である。「餞す」は、行くを送るための宴をすることである。
 
549 天地《あめつち》の 神《かみ》も助《たす》けよ 草枕《くさまくら》 旅行《たぴゆ》く君《きみ》が 家《いへ》に至《いた》るまで
    天地之 神毛助与 草枕 羈行君之 至家左右
 
【語釈】 ○天地の神も助けよ 「天地の神」は、天つ神国つ神。「も」は、詠歎。「助けよ」は、呼びかけて助けを祈ったもの。「助け」は、道中の無事であるように祈る意。○草枕旅行く君が家に至るまで 「草枕」は、旅の枕詞。「旅行く」は、大宰府より京までの旅をする。「君」は、足人。「家」は、奈良京にあるその家。
【釈】 天つ神国つ神も無事であるように助け給えよ。大宰府より京までの旅をする君が、京のその家に至り着くまで。
【評】 足人の道中の無事を神々に祈ったものである。儀礼としても第一にいうべきものであって、実用性の範囲のものである。したがっていう者、いわるる者共に、歌としての巧拙を思わさないものである。
 
550 大船《おほふね》の 念《おも》ひ憑《たの》みし 君《きみ》が去《い》なば 吾《われ》は恋《こ》ひむな 直《ただ》にあふまでに
    大船之 念〓師 君之去者 吾者將戀名 直相左右二
 
【語釈】 ○大船の念ひ憑みし 「大船の」は、意味でさまざまの語にかかる枕詞で、ここは航海に頼もしい意味で、「憑み」にかかる。巻二(一六七)に出た。「思ひ憑みし」は、「憑み」が主になっている語で、後世の頼みに思うにあたる語。○君が去なば 「君」は、足人。「去なば」は、こ(383)こより去ったならばで、自分の感情を主としていっているもの。○吾は恋ひむな直にあふまでに 「恋ひむな」の「な」は、詠歎。「直に」は、まともに。「あふまでに」は、「あふまでは」の意で、並び行なわれていた。単にあうまでというのと意は異ならない。
【釈】 大船の頼みに思っていた君が、ここを去ったならば、吾は憧れることであろうよ、まともに逢う時までは。
【評】 この歌は、自身の感情のみをいっているもので、それも別れて後のなつかしさからの憧れのほどを思いやっているのである。それにも限度があって、「直にあふまでに」と思いうる人なのである。そういう人は、友人関係で、相当な位地のある人でなくてはならない。「大船の念ひ憑み」は成句で、今はそれを用いているのであるが、「念ひ憑み」は頼り縋るという意のものではなく、頼もしくしているという意のものと取れる。「直にあふまでに」と、実際に即したことをいっているので、複雑味をもったものとなっている。
 
551 山跡道《やまとぢ》の 島《しま》の浦廻《うらみ》に 縁《よ》する浪《なみ》 間《あひだ》もなけむ 吾《わ》が恋《こ》ひまくは
    山跡道之 嶋乃浦廻尓 縁浪 間無牟 吾戀卷者
 
【語釈】 ○山跡道の 「山跡」は、大和で、「山跡道」は、大和へ通ずる道である。大宰府からのこの道は、大体海路で、今もその意味で下へ続く。○島の浦廻に縁する浪 「島」は、当時の航海は、できうる限り陸より離れまいとするもので、また海より見る陸を島と称していたことは、「大和島」「大和島根」などで想像される。この「島」もその範囲のもので、ここは大和道の国々を、海から見る関係で総称しているものである。「浦廻」は、浦のあたりで、すなわち船の航路となっている所である。「縁する浪」は、寄せるところの浪で、その間断のない意から「間《あひだ》もなけむ」と続いている。しかるにこの「間もなけむ」は、下の続きからいうと、浪のことではなく恋うることで、意味(384)を転じさせている。その関係で、初句から三句までは「間もなけむ」の序詞である。○間もなけむ吾が恋ひまくは 「間もなけむ」は、絶え間がなかろう。「恋ひまく」は、「恋ひむ」へ、「く」を連ねることによって名詞形としたもので、恋うるだろうことの意。
【釈】 大和往還である海路の、船より見る国々の浦のあたりに寄せるところの浪の、間断もないことであろうが、その間断のないことであろう、吾の君を恋うるだろうことは。
【評】 大宰府より奈良京までの道である瀬戸内海の航路を思い、足人が幾日かを見るであろうところの浦みの浪の間断なさを捉え、それを自身の足人に対する憧れの心の状態としているもので、双方を一線上に繋いでいっているところがこの歌の技巧で、またその技巧をねらいとしている歌である。「山跡道の島の浦廻に縁する浪」は、「間もなけむ」に二義をもたせて、転じての義を主としている上からは、序詞と見るべきものである。しかしこの序詞は、語《ことば》の転ずることを眼目としているという一方的のものではなく、一首の上に相応重い意味をもたせてある上から見ると、足人の眼を通して見る眼前を捉えて譬喩とし、その譬喩にも感を託してあるといえるものである。すなわち譬喩というほうが当たるとも見えるものである。「縁する浪」は、旧訓であり、『童豪抄』は、「縁る浪の」と改めているが、理のあることといえる。またこれを序詞として、「間もなけむ」全部にかかるとするのは、長きにすぎるともいえる。しかし、譬喩の意を弱めて、「縁する浪」とここに句点を置くと、取材という上からいうと、「縁る浪の」というよりも、はるかに画致的となって、風景がはっきりと浮かんでくる。自然の風景のこの時代に魅力的なものとなっていたことはすでにしばしばいった。ここにもその心が働いていると思える。さらにまた調べの上からいうと、「縁する浪」と、ここに句点を置いたほうが、落着いた、重いものとなって、この場合の哀愁をいちだんと湛えうるものとなってくる。すなわち、意味としては譬喩であるが、それを露《あら》わにせず序詞的に扱うことによって、時代とし、また作者としての文芸慾を充たそうとしたものと取れるのである。以上の三首は三様の詠み方をしているが、この一首が傑出している。
 
     右の三首は、作者未だ詳ならず。
      右三首、作者未v詳。
 
【解】 餞の歌であるから、贈られた足人はその作者を記憶しているので記さなかったのが、そのままに撰者の資料の中に加わったのであろう。
 
     大伴宿禰|三依《みより》の歌一首
 
(385)【題意】 「大伴宿禰三依」は、父祖は明らかでない。続日本紀、天平二十年従五位下、天平勝宝六年主税頭。天平宝字元年参河守。三年仁部(民部)少輔、従五位上、遠江守。六年義部(刑部)大輔。天平神護元年正五位上。二年出雲守。宝亀元年従四位下。五年卒した。
 
552 吾《わ》が君《きみ》は 和気《わけ》をば死《し》ねと 念《おも》へかも あふ夜《よ》あはぬ夜《よ》 二走《ふたゆ》きぬらむ
    吾君者 和氣乎波死常 念可毛 相夜不相夜 二走良武
 
【語釈】 ○吾が君は和気をば死ねと 「吾が君」は、下の続きで見ると、三依がその妻に対しての称であり、下の「和気」の自称に対させてのものである。この二つの称はここに初めて出たもので、いずれも特殊なものである。第一に「吾が君」であるが、夫より妻を呼ぶ称としては、簡単にするには妹、最も親しんでは吾妹子であって、他にはない。君という称は、男同士では普通であるが、女より男を呼ぶ称としては、妻が夫を尊んで呼ぶ時だけのものである。しかるにここは、夫より妻を呼ぶ称に用い、しかも親しさを示す意の「吾が」をさえ添えたものである。「吾が君」は、一般の用例によると、臣として君に対しての称、あるいは奴《しもべ》としてその主に対する称であって、それ以外にもなくはないが、君主に準ずる心をもって他に対するという特別の場合よりほかは用いないものである。第二は「和気」は、本巻(七八〇)大伴家持より紀女郎に贈った歌、「黒樹《くろき》取り草も刈りつつ仕へめど勤《いそ》しき和気《わけ》と誉めむともあらず」があり、これは家持が、身を奴《しもべ》に擬していっているもので、戯れの心をもってのものである。また、巻八(一四六〇)紀女郎より家持に贈った歌、「戯奴《わけ》【変してわけといふ】がため吾が手もすまに春の野に抜ける茅花《つばな》ぞ食《め》して肥えませ」があり、この「戯奴」は、戯れての称であることを、注を添えて明らかにし、また他は敬語をもってしているのでも、その意は明らかである。すなわち和気は、奴《しもべ》という意で、日常語として用いられていたものであることが知られる。ここも、三依が、その妻を主君に擬し、自身を臣僕に擬していっているもので、それをしているのは、夫たる自分が、妻の意志次第にされていることをあらわそうがためで、恨みの心を戯れの形をもっていっているものである。○念へかも 「念へかも」は、後世の「念へばかも」にあたる古格。死ねよと思っているのであろうかで、疑っていっているもの。○あふ夜あはぬ夜二走きぬらむ 「あふ夜あはぬ夜」は、通《かよ》って行く我に、妻が逢う夜と、反対に逢わない夜との意。「二走きぬらむ」は、旧訓「ふたゆくならむ」。これは古点「よまぜなるらむ」を『仙覚抄』の改めたものである。『考』は、今のごとくに改めた。過去のことに対する推量だからである。「二走く」は用例の少なくない語で、本巻(七三三)「うつせみの世やも二行《ふたゆ》く何すとか妹にあはずて吾がひとり寝む」があり、「走く」は、経過する意で、二たび経過する意。「走」につき『攷証』は、義訓だといっている。『略解』で本居宣長は「去」の誤写だとしている。ここは、二様に経過させたのであろうの意で、二たびということは二様とも言いうることである。
【釈】 わが主君は、奴《しもべ》われに、死ねよと思っていたのであろうか。それで、逢う夜と逢わない夜と、我に二様に経過させたのであろう。
(386)【評】 三依が通って行った夜、その妻が逢わないことのあったのを恨んで贈った歌である。妻が夫に逢い難いという事情は、当時は女は神事にも関係していたので、自然ありうることである。それは三依も承認していたと思われる。しかし「あふ夜あはぬ夜」ということは、恋の上で最も苦痛とする、冷熱の間に漂わされるという形のことなので、「あはぬ夜」の侘びしさを誇張して、恨みの心をもって贈ったものである。しかし、さすがに正面よりはいうべくもないことなので、「吾が君」「和気」というごとき戯れの称をもって、妻次第で、夫の如何ともし難いことを、愚痴という形にしたものである。「二走《ふたゆ》く」という語は、仏説よりきたるもので、この歌も、上に引いた「うつせみの」の歌も、それを恋の享楽の上に利用しているものである。実用性の歌で、巧拙を念としているものではない。
 
     丹生女王《にふのおほきみ》、大宰帥大伴卿に贈れる歌二首
 
【題意】 「丹生女王」は、御系譜は明らかでない。続日本紀、天平十一年従四位下丹生女王に従四位上を授け、天平勝宝二年正四位を授ける事が見える。巻三(四二〇)の長歌の作者「丹生王」と同人かという。
 
553 天雲《あまぐも》の 遠隔《そくへ》の極《きは》み 遠《とほ》けども 情《こころ》し行《ゆ》けば 恋《こ》ふるものかも
    天雲乃 遠隔乃極 遠鶴跡裳 情志行者 戀流物可聞
 
【語釈】 ○天雲の遠隔の極み 「遠隔」は、「そくへ」とも「そきへ」とも訓みうる。いずれも集中にあるからである。退きたる方の意。天雲の退きたる方《かた》のその果てで、遠い所を具象的にいったもの。巻三(四二〇)に出た。○遠けども 後の「遠けれども」にあたる古格。巻三(三九六)に出た。○情し行けば 「し」は、強め。わが恋うる心がそちらへ行けばの意。上代は、心は身を離れてどこへでも行きうるものと信じていた、その心からのもの。○恋ふるものかも 「恋ふる」は、先方もこちらを恋うる意。「かも」は、詠歎。上代は、心と心とは互いに相感応するものと信じていた、これもその心よりのもの。
【釈】 天雲の退《そ》いている方のその果ての遠い所ではあるけれども、わが恋うる心のそちらへ行けば、そちらでもこちらを恋うるものであることよ。
【評】 この歌は、次の歌と連作になっており、次の歌によって歌因が知られる。それは大宰府の旅人が、何らかの便宜に託して、丹生女王に酒を贈り物としたのに対し、女王が喜びの心をもって詠んだものである。すなわち挨拶の歌である。「情し行(387)けば」の「情」は、続きの「恋ふる」によって、恋うる心であると知られる。女王の恋うる心が、京より筑紫に行き、旅人の心がそれに感応したというがごときことは、そういうことの実在を信じていた時代だけに、たやすく言いうることであり、したがって誇張もなしうることである。「天雲の云々」というのは、その誇張を合理化しようとのもので、誇張は感傷からではなく、知性からのものであるために、それがおのずから一首に、洒脱の趣を帯びさせている。この歌を受け取る旅人の、微笑を想像しての歌と思える。
 
554 古《いにしへ》の 人《ひと》の食《をさ》せる 吉備《きび》の酒《さけ》 病《や》めばすべなし 貫簀《ぬきす》賜《たば》らむ
    古 人乃令食有 吉備能酒 痛者爲便無 貫簀賜牟
 
【語釈】 ○古の人の食せる 「古の人」は古くより知っている人で、旅人をさしたもの。「食せる」は、ここは飲ませるの意。○吉備の酒 吉備国の酒という『代匠記』の解に従う。吉備は備前、備中、備後三国の総称。当時名酒があって、それを贈り物としたとみえる。黍の酒、すなわち黍をもって造った酒という解は、この人たちの間の贈り物としてはふさわしく感じられない。○病めばすべなし 「痛」は、「病」に通じる字。「病」は酔の覚めない意の字だと『攷証』が考証している。酔うとせんすべがないの意。○貫簀賜らむ 「貫簀」は、竹で編んだ小さい簀で、盥で手を洗う時、水の飛ばないようにその上に掛けておく物。ここは酔って嘔《は》く時の用意に用いる物としていっている。「賜《たば》らむ」は、『攷証』の訓。仮名書きの例のあるものである。いただこうの意。
【釈】 古い知合いの人の我に飲ませるところの吉備の酒よ。酔えばせんすべもない。嘔《は》く時の用意にと、貫簀をいただこう。
【評】 旅人は天平三年に薨じ、女王は天平十一年から続日本紀に出ているので、年齢の差が思われる。その旅人が女王に酒を贈ったということは、贈れば喜ぶということを知ってのことと思われる。しかし贈られた女王は、酒そのものに対しては迷惑そうにいい、「貫簀賜らむ」と、そうした物も用意がないかのような言い方をしている。皮肉な贈り物として、てれ隠しを言わねばいられないものがあったのではないかと思われる。甘えつつ突拍子もないことをわざといった趣があって、戯咲《ぎしよう》の範囲のものとなっている。しかし重苦しく、理に落ちたところのあるものである。
 
     大宰帥大伴卿、大弐|丹比県守《たぢひのあがたもり》卿の民部卿に遷任せらるるに贈れる歌一首
 
【題意】 「丹比県守」は、左大臣正二位島の第二子。続日本紀に官歴が詳しく出ているが、この題詞にある大宰大式になった時も、また民部卿に遷任したことも漏れている。官歴は、慶雲二年従六位上より従五位下を授けられたのを初めとし、最後は、天平九(388)年中納言正三位をもって薨じている。霊亀二年遣唐押使、同四年持節征夷将軍、天平三年参議、同四年中納言、山陰道節度使などを歴している。
 
555 君《きみ》が為《ため》 醸《か》みし待酒《まちざけ》 安《やす》の野《の》に 独《ひとり》や飲《の》まむ 友《とも》なしにして
    爲君 醸之待酒 安野尓 獨哉將飲 友無二思手
 
【語釈】 ○君が為醸みし待酒 「君が為」は、県守に飲ませるためにの意。「醸みし」は、醸むは、酒を造る意の古語。米を口に嚼《か》んで醗酵させたより起こった語。古事記中巻、応神の巻に、その所を浄め、神を祀りつつ酒を嚼むことが歌謡となっている。後の醸《かも》すは嚼《か》むより出た語。「待酒」は、他より来る人に飲ませようとする酒で、同じく古事記中巻に、息長帯日売命《おきながたらしひめのみこと》(神功皇后)が、越前より還らるる応神天皇のために待酒を造ったことが出ている。君に飲ませようとして、かねて醸しておいた待酒をの意で、県守が大弐より民部卿に遷任になる前、すでに大宰府にはおらず、他へ行っていたことがこの二句で知られる。他というのは京であって、召されて京へ上り、そこで遷任の勅をこうむり、大宰府へは還らなかったものと察せられる。○安の野に独や飲まむ 「安の野」は、筑前国(福岡県)朝倉郡夜須村にある野。大宰府の官人の野遊びをする所となっていて、今はその意でいっていると取れる。「独や飲まむ」は、「独」は、われ一人。「や」は、詠歎。「飲まむ」は、上の待酒。安の野でただ一人飲もうというので、時は春秋のいずれかであったとみえる。○友なしにして 友無しにての意で、上の「独」を繰り返して、嘆きの意を強めたもの。
【釈】 君に飲ませようがためにあらかじめ醸しておいた待酒を、今は安の野でただ一人飲もう。友のない状態で。
【評】 一人の友と頼んでいた県守に、思いがけずも別れるようになった心さびしさを訴えたものである。県守の京官となったのを喜ぶでもなく、自身の境涯を悲しむでもなく、ただ心合いの友のいなくなったさびしさをさびしむことだけを言っているところに、世事のすべてを見とおしている老齢の旅人の心境が現われていて、あわれを感じさせる。「醸みし待洒」といっているので、その事の意外であったこと、また、「友なしにして」といっているので、帥である旅人としては、大弐である県守をおいては、友と呼びうる者のなかったことが察しられる。「安の野に」といっているのは、知識人のみの解しうるいわゆる風流の心よりいっているものと取れる。県守は集中に歌を残してはいないが、遣唐押使ともなった人で、知識人であったと思え、旅人にとっては身辺にいるただ一人の話相手だったと見える。この歌は、大宰府より京へ贈ったものと解される。
 
     賀茂女王、大伴宿禰三依に贈れる歌一首 故左大臣長屋王の女なり
 
【題意】 「賀茂女王」は、元暦本ほか六本には、題詞の下に、「故左大臣長屋王之女也」と注がある。また巻八(一六一三)の注(389)に、「長屋王之女。母曰2阿倍朝臣1也」ともある。「三依」は、上の(五五二)に出た。歌によると、三依と夫妻関係となっており、三依が筑紫へ旅をする前の歌であることが知られる。
 
556 筑紫船《つくしぶね》 未《いまだ》も来《こ》ねば 予《あらかじめ》 あらぶる君《きみ》を 見《み》るが悲《かな》しさ
    筑紫船 未毛不來者 豫 荒振公乎 見之悲左
 
【語釈】 ○筑紫船 集中、「松浦船《まつらぶね》」「熊野船《くまのぶね》」など同系の語がある。これらは松浦で造った船、熊野で造った船の意である。それによると筑紫船も、筑紫で造った船の意と取れるが、ここは事の性質上、それではなく取れる。三依の筑紫へ行くのは、大体大宰府へであろうが、官命をこうむってのことで、したがってその船は官船である。その船が筑紫で造った船に限られている理由はなく、またそういうことを問題とする要もない。それでここは意味の広いもので、筑紫へ向かって行く船の意で用いているものと解される。○未も来ねば 「末も」の「も」は、詠歎。「来ねば」は「来ぬに」と意味を同じくし、並び用いられていた語法で、巻三(二八四)「焼津辺《やきつへ》に吾が行きしかば駿河なる阿倍の市道《いちぢ》にあひし児らはも」、その他例が少なくない。ここも「来ぬに」の意。「来ぬに」は、今の語でいえば、行かぬにの意にあたるものである。「来る」と「行く」とは、同じく二つの地点の間の動きをあらわす語であるが、そのどちらを主とするかによって用い方を異にさせているのが上代の語法である。巻一(七〇)「大和には鳴きてか来らむ呼子鳥《よぶこどり》象《きさ》の中山呼びぞ越ゆなる」は、吉野宮にあって、藤原宮のほうへ飛んで行く呼子鳥を、「来らむ」といっているので、これは藤原宮を主としていることをあらわしている用い方である。ここも、筑紫と京とを対させ、京のほうを主として、今だと「行かぬに」というところを「来ぬに」といったものである。上より続いて、筑紫へ向かう船がまだ出て行かぬにの意。出るのは難波の津であるが、そこを奈良京と等しなみに扱っての言。○予あらぶる君を 「予」は、前もって。すなわち出ぬ前から。「あらぶる」は、疎く遠くなる意で、巻二(一七二)「放ち鳥荒びな行きそ君まさずとも」など例がある。「君」は、三依。
【釈】 筑紫へ向かう船は、まだ出て行かないのに、それ以前からすでに、吾に疎く遠くなる君を見ることの悲しさよ。
【評】 妻としての女王からいうと、遠い別れをするのが悲しいのに、おりから三依が通って来ないので、ますます悲しんで訴えたものである。三依としては旅の準備のために多忙だということもあろうが、それには触れず、また官命としての旅も、「あらぶる」事として悲しんでいるもので、一に妻としての情愛をいっているものである。「筑紫船未も来ねば」は、出船ということを具象化していったもので、巧みな語である。「あらぶる」嘆きが一首の中心である。
 
     土師《はにし》宿禰|水通《みみち》、筑紫より京に上る海路にて作れる歌二首
 
(390)【題意】 「土師宿禰水通」は、伝未詳。巻五(八四三)に土師氏御通とあり、大宰府における大伴旅人邸の梅花の宴に列席している。また巻十六(三八四五)の注などにより、大舎人であったこと、字を志婢《しび》麿といったことだけがわかっている。
 
557 大船《おはふね》を 榜《こ》ぎの進《すす》みに 磐《いは》に触《ふ》れ 覆《かへ》らば覆《かへ》れ 妹《いも》に因《よ》りては
    大船乎 榜乃進尓 磐尓觸 覆者覆 妹尓因而者
 
【語釈】 ○大船を榜ぎの進みに 「大船」は、実際をいったもの。官船と取れる。「榜ぎ」も、「進み」も、共に名詞形。榜ぎ進めることの意。○磐に触れ覆らば覆れ 「磐に触れ」は、「磐」は、海岸にあるもの。当時の漕法として、風波を避けやすくするために海岸寄りを榜いだからである。「覆らば覆れ」は、覆《くつが》えるならば覆えれよで、順風などで、船の進行の速かな時には、磐に触れそうにすることもあつたとみえ、その際の心である。○妹に因りては 妹のためにはの意で、例の多いもの。妹は京にいる者で、早く逢いたいと思う心から、そのためには、たとい危険は伴おうとも、船脚《ふなあし》の早いことを望んでいっているもの。
【釈】 わが大船を漕ぎ進めることについて、磐に触れて覆えるようなことがあるならば、それもかまわない覆えれよ。早く妹に逢うためには。
【評】 順風などで船脚が早く、漕ぎ方に調子づいて、あわや海岸の磐にぶつかろうとするような時があって、そうした際に突発的にもった心である。結句の「妹に因りては」は一首の中心であって、初句より四句まではその関係において言っているもののごとく見えるが、事実は、そうした船の状態は、水通の心とは関係なく起こっていることで、水通の心はその状態によってもたされたものだからである。それを強いて関係づけたことが作者としての興味であり、したがって結句はかなりな飛躍をもったものである。語《ことば》そのものは沈痛なものであるが、心は洒落《しや》れたものである。
 
558 ちはやぶる 神《かみ》の社《やしろ》に 我《わ》が掛《か》けし 幣《ぬさ》は賜《たば》らむ 妹《いも》にあはなくに
    千磐破 神之社尓 我挂師 幣者將賜 妹尓不相國
 
【語釈】 ○ちはやぶる神の社に 「ちはやぶる」は、神にかかる枕詞。「社」は屋代《やしろ》の意で、天より降りたまう神の屋の意。ここでは、神は常に社にましますようにいっている。これは信仰の推移を示していることである。○我が掛けし幣は賜らむ 「掛けし」は、捧げたの意で、幣を捧げる(391)ことを、「奉《まつ》る」とも「置く」とも、また「掛く」ともいったのである。「置く」「掛く」、共に奉る状態をいったもの。「幣」は、神に捧げる物の総称。「賜らむ」は、訓は上の(五五四)に出た。返していただきたいの意。「む」は、意志。○妹にあはなくに 「なく」は、しばしば出た。打消「ず」の未然形に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎。妹に逢えぬことであるものを。
【釈】 ちはやぶる神の社に、速かに妹に逢わせたまえと祈ってわが捧げた幣は、返していただきたい。妹に逢えぬことであるものを。
【評】 瀬戸内海の航路の日数を要するのを、妹逢いたさに駆られている心にもどかしく感じての呟きと取れる。『代匠記』は、天候のために繋留を余儀なくされた際の心と解しているが、一首の上にそうした深刻味は感じられず、もつと軽いものに思える。「幣は賜らむ」ということは、信仰の推移の甚しさを示しているものである。巻三(三〇〇)「佐保過ぎて寧楽の手祭《たむけ》に置く幣は妹を目|離《か》れず相見しめとぞ」の長屋王の歌が、すでにこの推移を示しているのに、これはさらにその甚しいものである。しかしおそらくこれは例外なもので、その例外なことをいおうとするのが、やがて歌因ではなかったかと思われる。水通の歌にはそうした傾向が認められるからである。
 
     大宰|大監《だいげん》大伴宿禰|百代《ももよ》の恋の歌四首
 
【題意】 「百代」は、巻三(三九二)に出た。「大監」は、大宰府の判官。誰に贈った歌かはわからない。これについで坂上郎女の歌があるところから、兄旅人に伴われて当時大宰府にあった郎女に贈ったものではないかと想像されている。
 
559 事《こと》もなく 生《い》き来《こ》しものを 老《おい》なみに かかる恋《こひ》にも 吾《われ》はあへるかも
    事毛無 生來之物乎 老奈美尓 如是戀于毛 吾者遇流香聞
 
【語釈】 ○事もなく生き来しものを 「事もなく」は、「事」は、不幸な事件の意。「も」は、詠歎。不幸な事件にも逢わずに、すなわち安穏に。「生き来し」は、旧訓「ありこし」。『代匠記』は「あれこし」、『新訓』は「生ひ来し」と訓んでいる。下の「老なみ」に対させたものであるから、「生き来し」という訓に従う。過ごして来たものをと、過去を懐かしんでいったもの。○老なみに 「老なみ」は、老次《おいなみ》で、しだいに老いる頃に。○かかる恋にも吾はあへるかも 「かかる恋」は、こうした恋で、上との対照で苦しさを暗示した語。「かも」は、詠歎。
【釈】 不幸な事件にも逢わず、安穏に過ごしてきたものを、しだいに老いる頃に、こうした苦しい恋に吾は逢っていることであ(392)るよ。
【評】 身、老境に入り初めて、生涯に初めての苦しい思いをする恋に出逢ったことだと、思い入れをもって訴えたものである。しかしこの歌は、苦しみそのものをあらわすことができず、その輪郭をいっているにすぎないので、訴える力の足りないものとなっている。以下の歌で見ても、百代は歌才の少ない人だったとみえる。しかしこの程のことをいうには、歌をもってせざるを得ない時代だったので、その心得をもとうとし、労苦して作ったものと思われる。
 
560 こひ死《し》なむ 後《のち》は何《なに》せむ 生《い》ける日《ひ》の 為《ため》こそ妹《いも》を 見《み》まく欲《ほ》りすれ
    孤悲死牟 後者何爲牟 生日之 爲社妹乎 欲見爲礼
 
【語釈】 ○こひ死なむ後は何せむ 恋い死にに死んだ後には、憐れんでもらったとて何の役に立とうで、「死なむ」の「む」は連体形で、「後」に続く。○生ける日の為こそ妹を 生きている日のためにこそ、妹を。○見まく欲りすれ 「見まく」は、見ることをで、名詞形。「欲りすれ」は、欲しいのだで、願うにあたる。サ変動詞「欲りす」の已然形で、「こそ」の結。
【釈】 恋い死にに死んだ後には、隣れんでもらったとて何の役に立とう。生きている日のためにこそ、妹を見ることをしたいと願うのだ。
【評】 歌は焦れ死にをしそうな状態に陥っている男が、その衷情を意中の女に訴えたものである。前の歌で「老なみ」といっている百代としてはふさわしくない感のするものであるが、これは心境の通うところのあるという理由で、古歌をいささか変えたにすぎないものである。古歌というのは巻十一の歌で、そのことはこの歌だけではなく後にも及ぼしていることである。巻十一は、標題に「古今の相聞往来の歌の類の上」とあり、巻十二はその「下」としたもので、作者の不明な歌の集であり、また民謡的な色彩の濃いもので、一般に口誦されていたとみえるものである。古歌を取ってわが用に当てるということは、作歌の才のない者にはむしろ普通に行なわれていたことで、百代も今それをしているのである。その歌は(二五九二)「恋ひ死なむ後は何せむ吾が命生ける日にこそ見まく欲りすれ」というのであって、その三句以下の切迫した心を、わが状態にふさわしいものとしようとしてやや緩和させたものである。しかし「生ける日の為こそ」という変え方は、浅薄なものといわざるを得ない。
 
561 念《おも》はぬを 思《おも》ふと云《ゝ》はば 大野《おほの》なる 三笠《みかさ》の社《もり》の 神《かみ》し知《し》らさむ
(393)    不念乎 思常云者 大野有 三笠社之 神思知三
 
【語釈】 ○大野なる三笠の社の 「大野」は、『和名抄』には筑前国御笠郡大野とあり、今は福岡県筑紫郡大野町である。「なる」は、「にある」の約。「三笠の社《もり》」は、「三笠」は社の名。「社」は、神の降ります所としていっているもの。○神し知らさむ 「神」は、何神ともわからぬ。「し」は、強め。「知らさむ」は、知らむの敬語で、神は何事をも見とおして知り、嘗罰を厳にする意でいっているもの。
【釈】 思いもしないのを、思うと偽っていったならば、大野にある三笠の森に降られる神が知っていて、必ず罰し給おう。
【評】 男より女にその真実を誓ったもので、女の疑いに対していったものである。これも古歌によったもので、巻十二(三一〇〇)「想はぬを想ふと云はば真鳥住《まとりす》む卯名手《うなで》の社の神し知らさむ」を、神の社だけを変えたものである。「其鳥住む卯名手の社」は、真鳥はたぶん鷲で、それの住むは、社の状態。卯名手は大和国高市郡雲梯《うなで》で、祭神は、出雲系の代表的の神|事代主命《ことしろぬしのみこと》である。この神は奈良遷都以前は京に近い大社であり、一般の深く崇敬していた神である。百代はそれを、大宰府に近い「大野なる三笠の社」に変えたのである。今は恋の訴えをする上で、あらかじめ真実を誓った形のものとしている。歌としては、巧拙をいうべきほどのものではない。
 
562 畷《いとま》なく 人《ひと》の眉根《まよね》を 徒《いたづら》に 掻《か》かしめつつも あはぬ妹《いも》かも
    無暇 人之眉根乎 徒 令掻乍 不相妹可聞
 
(394)【語釈】 ○暇なく人の眉根を 「暇なく」は、間断なくで、下の「掻かしめ」に続くもの。「人の眉根」は、「人」は、我で、下の「妹」に対させていったもの。「眉根」は、眉で、根は添えていった語。○徒に掻かしめつつも 「徒に」は、甲斐なく、無駄に。「掻かしめ」は、眉のかゆいのは、恋しい人に逢える前兆だという信仰があって、その意でいっているもの。「つつ」は、継続。「も」は、詠歎。○あはぬ妹かも 「かも」は、詠歎。
【釈】 間断なくわが眉を、甲斐なく無駄に掻かせ続けながらも、逢わないところの妹であるよ。
【評】 これも古歌によったものである。巻十二(二九〇三)「いとのきて薄き眉根《まよね》を徒に掻かしめにつつ逢はぬ人かも」を変えたもので、妹の逢わない嘆きを訴えたものである。古歌のほうは、「いとのきて」は甚しくもの意で、眉根の状態をいったもの。「掻かしめにつつ」の「に」は完了で、同じく嘆いての訴えであるが、細かい味わいと、こもった味わいとをもったものである。百代はそれを変えて、それらの味わいのない、騒がしく、浮いたものとしてしまっている。これは明らかに拙いものである。以上四首、拙いながらに採ってあるもので、歌よりも人によってのことと思われ、撰者との関係を思わせるものである。
 
    大伴坂上郎女の歌二首
 
563 黒髪《くろかみ》に 白髪《しろかみ》交《まじ》り 老《お》ゆるまで かかる恋《こひ》には 未《いま》だあはなくに
    黒髪二 白髪交 至耆 如是有戀庭 未相尓
 
【語釈】 ○黒髪に白髪交り老ゆるまで 「黒髪に白髪交り」は、「老ゆる」の状態としていったもの。女のことであるから、髪を問題としていっているのは、きわめて適切である上に、感覚的の力強さももったものである。○かかる恋には未だあはなくに 「かかる恋」は、下の続きで、その苦しさを暗示したもので、(五五九)と同様である。「あはなくに」は、遇わぬことよの意のもの。
【釈】 黒髪に白髪がまじって、身の老いてくるまで、このような苦しい恋には、我はまだ遇わぬことであるよ。
【評】 余裕をもって、やすらかに詠み下している点は、郎女としては普通のことであるが、「黒髪に白髪交り」という状態描写は、清新な意味で注意されるものである。郎女が兄旅人に伴われて大宰府へ行っていた頃の年齢は明らかにすることはできないが、少なくも「白髪交り」という年齢でなかったことは確かなようである。その点から、これは誇張というよりも、ためにするところあっての架空の言であると思われる。また、一首の心は、郎女が独詠的に恋の嘆きをいっている形のものであるが、そうした事実も認められないので、その上からも架空の言と取れる。さらにまた、歌の排列順から見て、上の百代の歌に続い(395)ているところから、百代の歌と関係がありはしないかともいわれている。その点から見ると、百代の最初の「事もなく生き来しものを老なみにかかる恋にも吾はあへるかも」と、その心は全く同一で、異なるところは、それを改作して、優ったものにしているということである。したがって関係がありとすれば、百代の自作の一首だけに対して、加筆をしたということになって、一種の揶揄《やゆ》ともみられるものである。これに続く歌が、揶揄の心をもってしたものであることからも、この事は思われる。
 
564 山菅《やますげ》の 実《み》ならぬ事《こと》を 吾《われ》に依《よ》せ 言《い》はれし君《きみ》は 誰《たれ》とか宿《ぬ》らむ
    山菅之 實不成事乎 吾尓所依 言礼師君者 与孰可宿良牟
 
【語釈】 ○山菅の実ならぬ事を 「山菅」は、竜のひげと称する山草で、冬、繁く実のなるところから、実と続けてその枕詞としたもの。「実ならぬ」の「実」は、恋の上で、「花」に対させた語で、本来は譬喩であるが、その意の薄くなったもの。「花」は、口頭のみの交渉、「実」は、関係の成立ったことをあらわす語で、事実というにあたる。「実ならぬ事」は、事実ではない事、すなわち噂のみの意である。○吾に依せ言はれし君は 「吾」は、郎女。「吾に依せ」は、吾に言寄せての意で、わがためにというと異ならない。「言はれし君」は、人から言われたところの君で、「君」は、歌を贈られる男。○誰とか宿らむ 「か」は、疑問。今、どういう女と共寝をしているだろうかの意。
【釈】 事実でもない事を、わがために人から言われてきたところの君は、現在いかなる女と共寝をしていることであろうか。
【評】 恋に関係した範囲の歌ではあるが、自身の恋は少しも含んでいないものである。相手の男を、「山菅の実ならぬ事を吾に依せ言はれし君」といっているが、これはただそうした事実をいっているだけで、感情の動きはない。「誰とか宿らむ」も、そこに羨みも嘆きも認められないものである。こうした心は、郎女自身としてはいう必要のないもので、それを言っているのは、その場合上、そのようなことを言わなければならない必要に駆られていわされたものと取れる。こういう事をいえる相手は、平生ある程度の親しみをもっている間柄でなければならぬ。また、「吾に依せ言はれし君」という男は、郎女にふさわしい相手と思わせる地位の者でなくてはならぬ。それこれより見て、前の歌の作者大監百代だろうという推測は当たっているものと思われる。それだと百代の、第二首目の「こひ死なむ」以下三首の、古歌を摸して詠んだ三首の歌に対してのもので、それらの歌をしらじらしいものと見、それには和《こた》えようとせず、顧みて他をいった形のもので、他とは上品な皮肉である。世故に長《た》けた、聡明な女性が、地歩を占めての歌で、文芸性という上からはいうべき何物もないものであるが、当時者間の実用性の歌としてみると、歌という形式をもってしているがゆえに初めて言い得られるという、きわめて適切なものである。これは歌のもつ一面である。
 
(396)     賀茂女王の歌一首
 
565 大伴《おほとも》の 見《み》つとは云《い》はじ あかねさし 照《て》れる月夜《つくよ》に 直《ただ》にあへりとも
    大伴乃 見津跡者不云 赤根指 照有月夜尓 直相在登聞
 
【語釈】 ○大伴の見つとは云はじ 「大伴」は、摂津国の難波津のある辺りの大名。「御津」、すなわち難波津を、御料の津であるがゆえに尊んでいう御津と続け、それを同音の「見つ」に転じて、その枕詞としたもの。特殊な枕詞で、女王の創意のものかと思われる。「見つとは云はじ」は、「見つ」は、相逢った意であるが、男女相関係した意をあらわす語。ここもそれである。「云はじ」は、人にいうまいで、女王としてはその周囲の者にも隠しておこうの意。○あかねさし照れる月夜に 「あかねさし」は、「あかね」は、ここは赤色。「さし」は、光線の照り光る意という解に従う。赤く照りさすで、下の「月」の状態をいったもの。「月夜」は、ここは月の夜。○直にあへりとも 「直に」は、直接に。「あへりとも」は、逢ったということもで、いうまいを省いた言い方。
【釈】 大伴の御津の、その見つということも、周囲の者には隠していうまい。いや、それどころではなく、赤く照りさす月の夜に、直接に君に逢ったということさえもいうまい。
【評】 女王は上の(五五六)によって、大伴三依の妻であったことがわかり、またその三依は筑紫へ旅立とうとしていることも知られる。「大伴の御津の浜」という続きは、例の多いものであるが、「大伴の」を「見つ」の枕詞としたのは特殊なものである。その点から思うと、三依が筑紫へ向かって出帆するに先立ち、女王は別れを惜しむ意で御津まで行かれ、一夜三依と戸外でひそかに逢われたことがあって、その夜の別れに、女王の喜びの心から詠まれたものかと思われる。一、二句は、ひそかに逢い得た喜びを、綜合していわれたもの。三句以下は、その喜びに堪えずして、さらに繰り返していったものであるが、三、四句は逢った場所の情景、結句は二句「見つとは云はじ」をさらに強めて、「直にあへりとも」と言いかえたもので、整然たる構成をもたせ、流るるがように詠んだものである。女王の歌才を思わせる歌である。
 
     大宰|大監《だいげん》大伴宿禰百代等、駅使《はゆまつかひ》に贈れる歌二首
 
【題意】 「駅使」は、官道の駅々に、官用のために飼っている馬に乗り継いでの使の称で、急を要する公の使の称である。後世の早打《はやうち》にあたる。この際のことは左注にくわしい。
 
(397)566 草枕《くさまくら》 旅行《たびゆ》く君《きみ》を 愛《うるは》しみ 副《たぐ》ひてぞ来《こ》し 志可《しか》の浜辺《はまべ》を
    草枕 羈行君乎 愛見 副而曾來四 鹿乃濱邊乎
 
【語釈】 ○草枕旅行く君を 「草枕」は、旅の枕詞。「旅行く君」は、京へ還るところの君で、題詞の駅使をさしたもの。○愛しみ 原文「愛見」。旧訓「うつくしみ」。『代匠記』は、三様の訓を試みているが、その一つに「うるはしみ」がある。「うつくしみ」とも「うるはしみ」とも訓みうる字であるが、「うつくしみ」は、いとおしさに、あるいは恋しさにと訳してあたる語で、親子、夫婦の間に限って用いられているものである。「うるはしみ」は、美しいので、あるいはいとしいのでというにあたる語であるが、ここは作者|百代《ももよ》が京恋しい心を抱いているところから、そちらへ還る人に心を引かれる意でいっているもので、懐かしいのでというに近く思える。○副ひてぞ来し志可の浜辺を 「副ひて」は、連れ立って。「来し」の「し」は、「ぞ」の結。「志可の浜辺」は、筑前国(福岡県)糟屋郡志賀町で、今の博多湾の沿岸。京への往還筋である。
【釈】 旅に行く君が懐かしいので、別れかねて連れ立って来たことであるよ。この志可の浜辺を。
【評】 いっているところは、作者百代の京恋しく、したがって京びとの懐かしくて、別れ難い心の訴えである。官命を果たして京へ還る人を、「草枕旅行く君」といっているのは、大宰府を中心としてのことで、自身に執しての言い方である。「愛しみ」もいったがように、自身を主としての語である。「志可の浜辺」まで送ったのは、儀礼としての心もあることであろうが、それをわが心よりの事のごとくいっているのは、最もその心をあらわしたものである。歌としてはもどかしさのあるものであるが、自身に即しての抒情は間接ながらしつくしているものである。
 
     右の一首は、大監《だいげん》大伴宿禰百代
      右一首、大監大伴宿祢百代
 
567 周防《すは》なる 磐国山《いはくにやま》を 越《こ》えむ日《ひ》は 手向《やむけ》好《よ》くせよ 荒《あら》きその道《みち》
    周防在 磐國山乎 將超日者 手向好爲与 荒其道
 
【語釈】 ○周防なる磐国山を 「周防なる」は、周防国にある。「磐国山」は、山口県岩国市から玖珂町にいたる間の山。安芸国から周防国へ入る駅路にあたっており、大宰府から京へ陸路を取ると、必ず越えねばならぬ山である。○越えむ日は 越える日にはで、前途を思いやってのもの。(398)○手向好くせよ 「手向」は、神に奉る幣を言いかえた語。磐国山の頂に祀られている神に、その神の領《うしは》く道の間の無事を祈って奉るのである。「好くせよ」は、ねんごろにせよで、手向をねんごろにするのは、祈りを鄭重にすることである。○荒きその道 荒く危険なそこの道であるよの意。
【釈】 周防国にある磐国山を越える日には、その山の頂にいます神に、手向をねんごろにして、鄭重に祈りたまえよ。荒く危険なそこの道であるよ。
【評】 遠い旅をする人に対して、道中の無事を祈る歌を贈るのは、当然の儀礼となっていたことで、この歌はその意のものである。そうした場合に、古くは、送る者がその無事を神に祈り、あるいは単に祈りの心を詠んだのであるが、降ってのこの頃は、この歌のように、自身神に祈れと注意をするようになってきたとみえる。遠い前途を思いやって、特に磐国山をいっているのは、作者自身の経験より来ているのではないかと思える。一首、素朴に真率の情の現われているものである。
 
     右の一首は、少典山口|忌寸《いみき》若麿
      右一首、少典山口忌寸若磨
 
【解】 「少典」は、「すくなふみひと」と訓む。大宰府の四等官の最下位の役で、正八位相当官。事を受け上抄し、文案を勘署し、稽失を検出し、公文を読申することを掌る職。「山口忌寸若麿」の「忌寸」は、姓。伝は明らかでない。『新撰姓氏録』によると、山口氏は帰化人の末である。
 
     さきに天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽ち瘡を脚に生じ、枕席に疾苦す。これによりて駅を馳せて上奏し、望むらくは、庶弟|稲公《いなきみ》、姪《をひ》胡麿《こまろ》を請ひて遺言を語らまく欲《ほ》りすといへれば、右兵庫助大伴宿禰稲公、治部少丞大伴宿禰胡麿両人に勅して、駅を給ひ発遣し、卿の病を省《み》しむ。而して数旬を逕《へ》て、幸に平復することを得たり。時に稲公等病の既に癒えたるを以て、府を癸して京に上る。ここに大監大伴宿禰百代、少典山口忌寸若麿、及び卿の男家持等、駅使を相送りて、共に夷守《ひなもり》の駅家に到り、聊か飲みて別を悲しみ、すなはちこの歌を作る。
      以前天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽生2瘡脚1、疾2苦枕席1。因v此馳v驛上奏、望、請2庶(399)弟稻公、姪胡麿1、欲v語2遺言1者、勅2右兵庫助大伴宿祢稲公、治部少丞大伴宿禰胡麿兩人1、給v驛發遣、令v省2卿病1。而逕2數旬1、幸得2平復1。于v時稻公等以2病既療1、發v府上v京。於v是大監大伴宿祢百代、少典山口忌寸若麿、及卿男家持等、相2送驛使1、共到2夷守驛家1、聊飲悲v別、乃作2此謌1。
 
【解】 「駅を馳せて」は、駅馬に乗って走らせるところの急使をもって。「庶弟」は、兄弟の中、一人を嫡子とし、他は庶子とした。稲公は安麿の男で、旅人、坂上郎女には弟である。「稲公」は、その官歴は続日本紀に詳しい。天平十三年従五位下、因幡守。同十五年従五位上。天平勝宝元年正五位下、兵部大輔。同六年上総守。天平宝字元年正五位上、続いて従四位下。同二年大和守などである。「姪」は、兄弟の子の称で、男女にかかわらず用いた。「胡麿」は田主あるいは宿奈麿の男であろうという。官歴は、続日本紀によると、天平十七年従五位下、天平勝宝元年左少弁、同二年遣唐副使。同三年従五位上、同四年従四位上。同六年左大弁、正四位下。天平宝字元年陸奥鎮守府将軍、陸奥按察使。その年橘奈良麿の乱に与したとのゆえをもって囚えられて獄死した。「右兵庫助」と「治部少丞」のことは続日本紀には載っていない。「数旬」は、「旬」は十日間の称。「夷守」は、古く筑紫国頸城郡の宿とあるが、今は所在が明らかでない。福岡市多多羅かという。戍を置いて夷を守るところからの称と取れる。「駅家」は、駅馬、伝馬を備えておく所の称。
 
     大等帥大伴卿、大納言に任《ま》けらえて京に入らむとする時に臨み、府の官人等、卿を筑前国|足城《あしき》駅家に餞する歌四首
 
【題意】 「大納言に任けらえて」は、続日本紀にはその時が漏れているが、「公卿補任」には、「天平二年十月一日」とある。「蘆城駅家」は、上の(五四九)に出た。
 
568 み埼廻《さきみ》の 荒磯《ありそ》によする 五百重浪《いほへなみ》 立《た》ちても居《ゐ》ても 我《わ》が念《も》へる君《きみ》
    三埼廻之 荒磯尓縁 五百重浪 立毛居毛 我念流吉美
 
【語釈】 ○み埼廻の荒礒によする 「み埼廻」は、「廻」は旧訓「わ」、『古義』の改めたもの。「み埼」は、海に突出した地の鼻。「廻」は、あたり。(400)「荒磯」は、岩石の水上に現われている海岸の称で、しばしば出た。○五百重浪 「五百重」は、絶えず寄せる浪を具体的にいったもの。初句よりこれまでは、浪の「立つ」の意で下へ続き、その「立つ」を「起つ」に転じて、序詞としたもの。○立ちても居ても 起ってもまた坐ってもで、それを終日の行動の全部とし、絶えずという意を具象化したもの。○我が念へる君 「念《も》へる」は、旧訓「おもへる」。『考』の訓。我が慕っているところの君よの意で、「君」は旅人。
【釈】 海中へ突出した地の鼻の、その辺りの海岸の岩石に、五百重と限りなく寄せる浪の、寄せては立つ、その我が起つにつけても、また坐るにつけても、絶えずも慕っているところの君よ。
【評】 旅人との別れを惜しみ、その平生限りなくも敬慕していることをいうことによって、別れかねる心を訴えたものである。「み埼廻の荒磯によする五百重浪」は、「立つ」の序詞であるが、それだけのものにとどめず、その間断なき状態をいうことによって、「立ちても居ても」に照応させ、それをいっそう強く具象化させているものである。これは序詞に譬喩の意ももたせることであって、文芸化である。この風は当時すでに行なわれていたもので、事としては創意あるものではないが、その土地も海に遠い所ではなく、旅人の路も海路と定まっていたとみえるから、場合がらきわめて適切なものといえる。下官の餞《はなむけ》の歌としては、その態度も穏当に、手腕もすぐれたものである。
 
     右の一首は、筑前掾|門部《かどべの》連|右足《いそたり》
      右一首、筑前掾門部連右足
 
【解】 「掾」は、国司の三等官で、上国は大掾少掾とあった。筑前国は上国である。「門部」は氏。『新撰姓氏録』には、「牟須比命《むすびのみこと》児、安《やす》牟須比命之後也」とある。「石足」の父祖は知られない。
 
569 辛人《からひと》の 衣《ころも》染《そ》むとふ 紫《むらさき》の 情《こころ》に染《し》みて 念《おも》ほゆるかも
    辛人之 衣染云 紫之 情尓染而 所念鴨
 
【語釈】 ○辛人の 「辛」は、韓《から》あるいは唐《から》など用いているのと同じ意の字で、それぞれ用例のあるものである。ここは唐である。唐の人のの意。○衣染むとふ 原文「衣染云」、旧訓「ころもそむといふ」。『考』の訓。衣を染めるというの意。○紫の 紫は、ここは、染料としてのもの。「の」は、のごとく。古くは染料としての紫は紫草《むらさき》の根から穫たので、双方に通じていった。初句よりこれまでは、染料としての紫が、物に染《し》み(401)る意で、下の「染《し》み」の譬喩としたもの。○情に染みて念ほゆるかも 「情に染みて」は、現在も用いている語で、「染む」は深くも感ずる意を具象化した語。「念ほゆるかも」は、思われることよで、旅人との別れの悲しさを背後に置いているもの。これは相対していっている場合だからである。
【釈】 唐《から》の人が衣を染めるという染料の紫のごとく、心に染みて、この別れの悲しくも思われることであるよ。
【評】 旅人と相対して、別れの悲しさを訴えたのである。譬喩として染料の紫を捉えてあるのは、この染料のよく物に染みるという意ではなく、色としての紫が高貴なものとされていた関係からと思われる。『代匠記』はこの点に注意し、当時位階によって服色は定められていたから、紫は高位の人に限られた色となっていた。旅人は正三位大納言であるから、朝服の紫の今ひとしお濃くなることを寄せていっているかと解している。『攷証』はさらに「衣服令」を引き、「三位以上浅紫色」とあることをいっている。それだと『代匠記』の解はいっそう適切となってくる。また、「辛人の」について、『攷証』は、わが「衣服令」は唐令にならったものと思われるが、その唐令は残っていないから明らかでない。しかしよるところがあろうといっている。この「辛人」をいっているのは、当時は先進国として唐を重んじていたのであり、加えて旅人は漢文学の教養の高い人であったのに、この歌の作者|陽春《やす》も同じくそうした人であったところから、互いに黙会するものがあっていっている語と思える。歌は旅人一人を対象とした実用性のものであるから、そうしたことはありうることである。すなわちこの譬喩は、悲しみの意味の「情《こころ》に染《し》みて」を強める形のものであるが、その中に旅人に対する賀の心、その特殊の趣味をも充たそうと意図した複雑なもので、それをさりげなく、安らかに、また美しくいっているところに、作者の歌才を見せているものである。
 
570 大和《やまと》へ 君《きみ》が立《た》つ日《ひ》の 近《ちか》づけば 野《の》に立《た》つ鹿《しか》も 動《とよ》みてぞ鳴《な》く
    山跡邊 君之立日乃 近付者 野立鹿毛 動而曾鳴
 
【語釈】 ○大和へ君が立つ日の 「大和へ」は、大和国の奈良京にということを、広く言いかえたもの。それによって路の遠さをも感じさせうるとともに、下の「野」にも照応しうるものとしている。「君が立つ日」は、十二月であることは知られている。○野に立つ鹿も 「野」は、広範囲にわたってのもの。大宰帥としての旅人に対してのものだからである。「立つ」は、鹿の状態としていったものであるが、「君が立つ」の「立つ」には照応させてもいる。「鹿も」の「も」は、同類の一つを挙げる意のもので、主人として人を背後に置いてのもの。鹿もまた人と同じく。○動みてぞ鳴く 騒いで鳴いていることであるよ。
【釈】 大和へ向かって君の旅立つ日が近づいてきたので、別れを悲しんで、野に立っている鹿もまた、人と同じく騒がしく鳴い(402)ていることであるよ。
【評】 この歌は、大宰帥としての旅人との別れを悲しむ者は、ひとり人間ばかりではなく、野に立つ非情の鹿もまた同じく甚しくも鳴いているとの意である。為政者が仁政を施いたために、非情の禽獣までもそれを感じるに至ったということは、中国の歴史には往々に出ていることなので、それを心に置いていっているものである。『代匠記』は、旅人の旅立った時は十二月で、鹿の騒がしく鳴く季節ではないことをいっているが、これは譬喩の心をもっているものである。巻三(二三九)「長皇子、猟路池《かりぢのいけ》に遊び給へる時、柿本朝臣人麿の作れる歌」には、野に棲む禽獣も、皇土に生くるものとして、人間とひとしなみに、皇子に奉仕することを喜びとして身を捧げる心をいっている。今の歌はその精神と直接のつながりはないが、間接にはつながりうるもので、皇土のものとして、禽獣も人間と等しき心をもっているとしたもので、中国の故事によっただけのものではないと思われる。この歌も前の歌と同じく、別れの悲しみをいったものではないが、旅人の徳を讃える心、その中国趣味を充たさせようとするところのあるもので、同巧異曲のものである。表現の単純な点、安らかに美しさをもった点もまた同様である。
 
     右の二首は、大典|麻田連陽春《あさだのむらじやす》
      右二首、大典麻田連陽春
 
【解】 「大典」は、上の(五六七)に「少典」のことが出た。大宰府の四等官で、輔、弐、監、典という順序である。「麻田連陽春」は、続日本紀、神亀元年、正八位上答本陽春に麻田連の姓を賜わることが出ており、旧くは答本氏である。『代匠記』はその氏から推して、帰化人の末ではないかという。天平十一年正六位上よりほか従五位下に進み、懐風藻により石見守となったことが知られる。
 
571 月夜《つくよ》よし 河音《かはと》清《さや》けし いざここに 行《ゆ》くも去《ゆ》かぬも 遊《あそ》びて帰《ゆ》かむ
    月夜吉 河音清之 率此間 行毛不去毛 遊而將歸
 
【語釈】 ○月夜よし「月夜」は、単に月、月光の意でも用いた。ここは、下の「河音」と並べているので、月の意と取れる。○河音清けし 旧訓「かはおときよし」。『童蒙抄』の改めたもの。「かはと」も「さやけし」も用例のあるものである。「河」は蘆城川であろうという。「清けし」は、十二月という季節に関係した讃え方と取れる。○いざここに 「いざ」は、他を誘って呼びかける語。「ここ」は、川のほとり。○行くも去かぬも(403)「行く」は、京へ向かう旅人の一行。「去《ゆ》かぬ」は、大宰府へとどまる官人。○遊びて帰かむ 「遊びて」は、別れを惜しみ、またそれを楽しくしようとしてのこと。「帰《ゆ》かむ」は、別れ行かむの意と取れる。「帰」の字は義訓で、それぞれ帰るべき所へ向かう意で、すなわち別れる意。
【釈】 月がよい。河瀬の音がさわやかだ。さあここで、京へ行く者も、行かずして大宰府にとどまる者も、名残りを惜しんで、楽しく遊んで別れて行こう。
【評】 歌は、まだ夜の明けぬ頃、旅人一行の発足を見送ってきた大宰府の官人として、全体に向かって呼びかけた心のもので、言葉をもってしても足りることを歌とし、高らかに歌いかけたものと取れる。しばらくでも名残りを惜しみたいということを、「月夜」と「河音」という自然に託し、「遊びて帰かむ」といっているのは、自然愛好の念の強くなった時代気分を反映したもので、時宜に適した言い方である。また形から見ても、「月夜よし河音清けし」と、句を切って同韻を畳み、「行くも去かぬも遊びて帰かむ」と「行く」を三回までも畳んでいるところは、口承文学の系統を際やかに引いたもので、これまた時宜に適したものである。
 
     右の一首は、防人佑《さきもりのすけ》大伴四綱
      右一首、防人佑大伴四綱
 
【解】 「防人佑」は、大宰府に属する防人司の次官。「大伴四綱」は、巻三(三二九)に既出。伝未詳。
 
     大宰帥大伴卿の京に上りし後、沙弥満誓《さみのまんせい》の卿に贈れる歌二首
 
572 真十鏡《まそかがみ》 見飽《みあ》かぬ君《きみ》に おくれてや 旦夕《あしたゆふべ》に さびつつ居《を》らむ
    眞十鏡 見不飽君尓 所贈哉 旦夕尓 左備乍將居
 
【語釈】 ○真十鏡見飽かぬ君に 「真十鏡」は、真澄鏡の意で、意味で「見」にかかる枕詞。「見飽かぬ君」は、いくら見ても飽かぬ君で、見れど飽かぬは、古くは最上の讃え言葉であって、しばしば出た。○おくれてや 「おくれ」は、後れで、あとに遺《のこ》された意。「や」は、疑問。○旦夕にさびつつ居らむ 「旦夕に」は、旦に夕べにの意で、終日、すなわち絶えずということを具体的にいったもの。「さび」は、「不楽」「不怜」の字も当ててもおり、侘びしむ意。「つつ」は、継続。「らむ」は、現在の想像。
(404)【釈】 見れども飽くことのないところの君に、あとに遺されて、旦に夕べに絶えずも、佗びしみ続けていることであろうか。
【評】 筑紫観世音寺の別当として、長官旅人に遠く思慕の情を寄せたものである。身分の隔てを意識し、限度を超えまいとした上で、そのもつ思慕の情を尽くそうとしたものである。すなわち普通の心を、調べをもって深化したもので、一首しみじみとした哀調を帯びたものとしている。頭脳と感情の深さを思わせられる。
 
573 ぬば玉《たま》の 黒髪《くろかみ》変《かは》り 白髪《しらけ》ても 痛《いた》き恋《こひ》には あふ時《とき》ありけり
    野干玉之 黒髪變 白髪手裳 痛戀庭 相時有來
 
【語釈】 ○ぬば玉の黒髪変り 「ぬば玉の」は、意味で「黒」にかかる枕詞。感を強めるものとしてである。「黒髪変り」は、わが黒髪の色が変わって。○白髪ても 旧訓。『古義』は用例として、巻九(一七四〇)「水江浦島の子を詠める歌」の、「黒かりし髪も白けぬ」を引いている。「白け」は、白くなる意で、現在も用いている。「も」は、もまたの意。初句よりこれまでは、老境に入ってもということを具体的にいったもので、心は、老境に入ると心が淡くなって、恋などということは思わなくなる意をあらわそうとしたもの。○痛き恋には 「痛き」は、心痛きで、甚しいの意。「恋」は、広い意のもので、憧れというにあたる。「は」は、強め。旅人に対する深い思慕を、具体的に言いかえたもの。○あふ時ありけり 「けり」は、詠歎。
【釈】 ぬば玉のわが黒髪の色が変わって白くなって、今は恋などということはないと思っていてもまた、心痛いまでの憧れをもつ時はあることであるよ。
【評】 旅人に対する深い思慕の情を訴えたものである。その訴えをするに、君によってということは全然いわず、ただ自身の意外なる心象を吐露する形としているのは、上の歌と同じく、旅人に対する身分の隔たりを意識してのゆえと取れる。しかしそれをしての上では、心を尽くした物言いをしている。初句より三句までの老境の具象化、四、五句のわが心象としての具象化は、心深さの現われであって、同じくしみじみとした味わいをもったものである。この歌にも哀調がある。
 
     大納言大伴卿の和ふる歌二首
 
574 此所《ここ》に在《あ》りて 筑紫《つくし》や何処《いづく》 白雲《しらくも》の たな引《び》く山《やま》の 方《かた》にしあるらし
(405)    此間在而 筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思
 
【語釈】 ○此所に在りて ここに来てはの意。「此所」につき『攷証』は、次の歌との関係上、同じく「草香江《くさかえ》」の辺りであろうといっている。草香江は河内国で、難波より奈良京への往還にあたっている。それだと帰京の途中、満誓よりの歌を受け取って、即座に和え歌を詠んだと取れる。○筑紫や何処 「や」は、疑問。筑紫はどちらであろうかで、筑紫は満誓のいる所としてのもの。「何処」はどちらともわからず、したがっておぼつかなく、懐かしい心を託したもの。○白雲のたな引く山の方にしあるらし 「白雲のたな引く山」は、眼に続いて見える光景として叙したもの。「方」は、方角。「らし」は、眼前を証としての推量をあらわす助動詞であるから、証は、旅人が現に通過してきた方面にある山でなくてはならない。その意と取れる。
【釈】 ここに来て懐かしく思う、君のいる筑紫はどの方角であろうか。現に我が通過してきた、あの白雲の靡いている山の方角であろう。
【評】 この歌は、自問自答した形のもので、独詠と見れば見られるものである。心としては、筑紫へ対しての懐かしさの情をいっているもので、心の広いものである。しかし実際は、満誓に対しての和え歌である。高く地歩を占め、おおらかに、のびやかに情を抒《の》べて、しかも和え歌としての心を保ち得ているところに、旅人の人柄がある。多くの官人から、心から慕われている旅人の面影が見える。巻三(二八七)石上卿の「ここにして家やも何処《いづく》白雲のたなびく山を越えて来にけり」に酷似していることを諸注いっている。二首を較べると、石上卿の歌は、心は、事に合わせては明かるく、浅く、形は謡い物風であるのに、旅人のものは、心暗さを含み、隠約であるがために含蓄をもち、形は文芸的のものとなって、明らかに優れたものとなっている。古歌を踏襲することは、当時にあっては普通なこととなっていた。それを進展させ生面を拓いているので、面目のあるものとすべきである。
 
575 草香江《くさかえ》の 入江《いりえ》に求食《あさ》る 蘆鶴《あしたづ》の あなたづたづし 友《とも》無《な》しにして
    草香江之 入江二求食 蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天
 
【語釈】 ○草香江の入江に求食る 「草香江」は、河内国中河内郡、今の杖岡市|日下《くさか》町にあった江で、生駒山の西麓の地である。古くは、大和川がここを流れて江をなしており、その淀川に合流する関係から、難波から舟で淀川を溯り、ここまで来たものかといわれている。「入江に求食る」は、入江となっている所に求食っている。○蘆鶴の 鶴の好んで蘆のある水岸にいるところからの称。初句よりこれまでは、「鶴《たづ》」を畳音の関係で、下の「たづたづし」に続けて、その序詞としたもの。○あなたつたづし 「あな」は、感動詞。「たづたづし」は、おぼつかなし、たよりなしの意(406)で、後のたどたどしの古い形。○友無しにして 友のない状態にあっての意。(五五五)に既出。
【釈】 革香江の入江に求食《あさ》っている蘆鶴の、その「たづ」ではないが、ああ「たづたづし」く頼りないことではある。友のない状態にあって。
【評】 初句より三句までの序詞は、『攷証』のいうがごとく、帰京の途中草香江にあって、おりからそうした光景を眼にした関係で捉えたものとみえる。地名を用いて細かい光景をいうことは、当時は空想ではしなかったからである。それだとこの蘆鶴は、冬の寒い江の枯蘆の中に求食《あさ》っていたもので、さみしく頼りなげな感を誘うものであったとみえる。すなわち形は序詞にしてあるが、心は譬喩であって、それを婉曲なものにしようがために、意識して序詞の形にしたものと思え、そこに旅人の文芸意識が感じられる。「友無しにして」の「友」は、満誓をさしているもので、この友は知己の意のものである。上の歌は心の広いものであったが、この歌は直情を訴えたもので、惻々として迫りくるところのあるものである。これも旅人の一面で、おおらかではあるが、内に熱意を含み、その熱意はただちに流露してくるという風の人柄であったとみえる。
 
     大宰帥大伴卿の京に上りし後、筑後守|葛井《ふぢゐ》連大成、悲嘆して作れる歌一首
 
【題意】 「葛井連大成」は、続日本紀、養老四年、白猪史《しらゐのふびと》の氏を改めて葛井連姓を賜わるとあり、また神亀五年正六位上より外従五位下を授けられたことが見えるだけで、父祖は知られない。
 
576 今《いま》よりは 城《き》の山道《やまみち》は 不楽《さぶ》しけむ 吾《わ》が通《かよ》はむと 念《おも》ひしものを
    從今者 城山道者 不樂牟 吾將通常 念之物乎
 
【語釈】 ○今よりは 「今」は、旅人の大宰府にいなくなった時をさしたもの。○城の山道は 「城の山」は、筑後国(福岡県)筑紫郡と肥前国(佐賀県)三養基郡とに跨《また》がっている山で、肥前、筑後方面から大宰府に出るには、越さねばならぬ山となっている。「山道」は、その山越えの道で、大成が筑後の国守としてその要路をいっているもの。○不楽しけむ 侘びしいことであろうで、これはその山道の本来の相である。今までは旅人に逢うのを楽しみに、そこの侘びしさを感じなかったことを背後に置いての言。○吾が通はむと念ひしものを 吾は繁くも通おうと思っていたものをで、これも旅人に逢う楽しみを背後に置いての言。
【釈】 君が大宰府にいまさずなった今後は、城の山越えの路は、その本来の相に立ちかえって、佗びしい所となることであろう。(407)君にまみえる楽しみに駆られて、吾は繁くも往来しようと思っていたものを。
【評】 体験しているところを、率直に、素朴に訴えたものである。感傷の言を漏らしていないところにかえってあわれがある。国守として長官なる旅人に、その全幅を披瀝した歌といえる。
 
     大納言大伴卿、新しき袍《うへのきぬ》を摂津大夫高安王に贈れる歌一首
 
【題意】 「袍」は、地は綾で、色は紫。単《ひとえ》の盤領《あげくぴ》で、袖の長い物である。「摂津大夫」は、摂津職の長官。「高安王」は、長親王の孫、川内王の子。続日本紀、和銅六年従五位下。養老元年従五位上。同三年伊予守として阿波、讃岐、土佐三国の按察使。同五年正五位下。神亀元年正五位上。同四年従四位下。同十一年大原真人の姓を賜わって臣籍に下り、同十二年正四位下。同十四年に卒した。
 
577 吾《わ》が衣《ころも》 人《ひと》にな著《き》せそ 網引《あびき》する 難波壮士《なにはをとこ》の 手《て》には触《ふ》るとも
    吾衣 人莫著曾 網引爲 難波壮士乃 手尓者雖觸
 
【語釈】 ○吾が衣人にな著せそ 「吾が衣」は、吾が贈るところのこの袖は。「人にな著せそ」は、君以外の人には著せたまうなで、わが心をこめた品であるから、気には入らずとも、他に与えることはしたまうなの心をもっていっている言。○網引する難波壮士の 「網引する」は、巻三(二三八)に出た。漁《すなど》りをするための網を引き上げる手業《てわざ》で、海人《あま》のする業《わざ》。「難波壮士」は、難波の浦に住んでいる男で、ここは上に続いて、海人《あま》の意。賎しい者としていっているのである。「難波」と限っているのは、高安王が摂津大夫である関係からで、上より続けて、周囲の賎しい者ということを具体的にいったもの。○手には触るとも 将来、手に触れるようなことになろうともで、高安王がその袖が気に入らず、着ずに棄てておく、その自然の成行きとして、賎しい海人《あま》の手に渡るようなことがあろうともの意。
【釈】 わが贈り参らせるこの衣を、君以外の人には着せ給うなよ。たとひ末々、綱引きをする難波壮士の卑しい者の手に渡るようなことがあろうとも。
【評】 人に物を贈る時には、古くは礼として、その物の心をこめた物であることを言い添えるのが風となっていた。これもそれで、心をこめた物であるから、しかるべく扱っていただきたいということを、婉曲にいったものである。「新しき袍」であるのに「吾が衣」と、自身の身に着けていた物のごとくいっているのも、心をこめた意であり、「人にな著せそ」も、たとい気(408)には入らずとも、他人には与え給うなと、同じく心をこめたのにふさわしい扱い方をしたまえと要求したのである。「網引する」以下は、その気に入らずともという斟酌の延長で、それに王の現にいられる地である難波を関係させ、自然の成行きとして賤しい者の手に渡るということを「手には触るとも」と婉曲にいったものである。心細かい言い方をしているためにやや解し難いものとなっており、諸注解を異にしているが、贈り物に添えた挨拶代わりの歌であるから、親しい間柄だと、自然立入っての物言いも許されるはずである。これは旅人が筑紫の土産《つと》代わりに贈ったものと思われる。
 
    大伴宿禰三依の別を悲しめる歌一首
 
578 天地《あめつち》と 共《とも》に久《ひさ》しく 住《す》まはむと 念《おも》ひてありし 家《いへ》の庭《には》はも
    天地与 共久 住波牟等 念而有師 家之庭羽裳
 
【語釈】 ○天地と共に久しく住まはむと 「天地と共に久しく」は、「天地」を最も永久のものとし、その意で譬えにしたもので、最も永久なる天地とともに、我も久しく。「住まは」は「住まふ」の継続をあらわした語。「む」は意志を示す。住みつづけよう。○念ひてありし家の庭はも 「念ひてありし」は、これまで思っていた。「家の庭」は、「家」は、そうした思いをつないできた家であるから、住み馴れた京の家である。「庭」は、庭園で、当時しだいに行なわれてきた林泉で、まだ新奇の念もあり、したがって愛着の念も深かったものと取れる。この歌はその庭を中心としたものである。「はも」は、「は」といって言いさし、それに詠歎の「も」を添えたもので、その詠歎によって、眼前にはないものを思慕する場合に用いられる語となっていた。ここもそれで、「家の庭」に別れ来たって、心中に思い浮かべた意である。
【釈】 永久な天地とともに、久しくも住み続けようと思っていた家の、その懐かしい庭はよ。
【評】 三依が筑紫へ旅立とうとしていたことは、上の(五五六)に出ている。この歌は、任地筑紫へ向かって発足した途中、遺して来た奈良京の家の庭を思って詠んだものと取れる。庭を思慕の中心としていることは、時代気分を反映したものである。「天地と」という極度の譬喩を用いていっていることがそれを思わせる。歌は相聞ではなく雑歌の範囲のものである。
 
     余明軍《よのみやうぐん》、大伴宿禰家持に与ふる歌二首 明軍は大納言卿の資人なり
 
【題意】 「余明軍」は、巻三(三九四)その他に出た。旅人の公より賜わっていた資人《つかいぴと》である。「与ふる」は、高きより低きに対しての語で、ここにはあたらないことを『考』も『攷証』もいっている。『攷証』は、当時「贈」と「与」と差別なく用いてい(409)たことを注意している。
 
579 見奉《みまつ》りて 未《いまだ》時《とき》だに 更《かは》らねば 年月《としつき》の如《ごと》 念《おも》ほゆる君《きみ》
    奉見而 未時太尓 不更者 如年月 所念君
 
【語釈】 ○見奉りて未時だに 「見奉りて」は、お見上げ申しての意で、仕えている主人の男に対しての敬語。「時だに」は、「時」は、時刻。「だに」は、一事を挙げて、他はいうに及ばぬ意の助詞。一時刻だけでも。○更らねば 「ねば」は、「ぬに」と異ならないもので、並び用いられていた語。改まらないのに。○年月の如念ほゆる君 「年月の如」は、年月の久しい問見ないがごとく。「念ほゆる君」は、恋しく思われる君よ、の意。
【釈】 お見上げ申してから、まだ一時刻だけでも改まってはいないのに、年月の久しい間見ないがごとく恋しくも思われる君よ。
【評】 純粋な、人思いの心を、細く、澄んだ調べに託したものである。明軍の歌は概してこれで、風格をなしているものである。人柄より発しているものであろうが、旅人と通うところがあり、その影響を受けているものかと思われる。
 
580 足引《あしひき》の 山《やま》に生《お》ひたる 菅《すが》の根《ね》の ねもころ見《み》まく 欲《ほ》しき君《きみ》かも
    足引乃 山尓生有 菅根乃 懃見卷 欲君可聞
 
【語釈】 ○足引の山に生ひたる菅の根の 「足引の」は、山の枕詞。「山に生ひたる菅」は、山菅。これは根のことに深いものである。以上三句は根を、畳音で「ねもころ」の「ね」に続けて、序詞としたもの。○ねもころ見まく 「ねもころ」は、ねんごろに。「見まく」は「見む」に「く」を添えて名詞形としたもので、見んことの。○欲しき君かも 「欲しき」は、口語の「ほし」と同じ意の語。
【釈】 足引の山に生えている菅の根の、そのねんごろにも見まつることのほしい君ではあるよ。
【評】 前の歌に続けたもので、「見奉りて」といったそれがしばらくのことで、飽き足りないことを思って、ねんごろにも見まつることのほしさよと訴えた歌である。三句を費やしての序詞は、物としては山菅の根のということであるが、それをこのように言うことによって、その特色である深いということを強く思わせ、感の上で、「ねもころ」に響くものとしてあるのは、意図をもってのことと取れる。上の歌と同じく、その人柄を思わせるものである。二首、これほどの事をいって、言い据えて、いわゆる姿をもたせていることは、注意されることである。
 
(410)    大伴|坂上家《さかのうへのいへ》の大娘《おほいらつめ》、大伴宿禰家持に報《こた》へ贈れる歌四首
 
【題意】 「大伴坂上大娘」は、巻三(四〇三)に出た。大伴宿奈麿の娘。母は坂上郎女で、家持とは母の関係で従兄弟にあたり、その妻となった人。「大娘」は、「大嬢」と同じで「娘」とあるはここのみである。
 
581 生《い》きてあらば 見《み》まくも知《し》らに 何《なに》しかも 死《し》なむよ妹《いも》と 夢に見《いめみ》えつる
    生而有者 見卷毛不知 何如毛 將死与妹常 夢所見鶴
 
【語釈】 ○生きてあらば 下の「死なむ」に対させたもの。○見まくも知らに 「見まく」は、見るであろうことで、夫婦として相逢う意。「も」は、詠歎で、現在見難いことを背後に置いての言。「知らに」は、旧訓「しらず」。『考』の訓。知らないで。○何しかも 「し」は、強め。「かも」は、疑問。何だって。○死なむよ妹と夢に見えつる 「死なむよ妹」は、死んでの上で逢おう、妹よの意で、夢に家持のいった語。「夢に見えつる」は、そういう君が、わが夢に見えてきたことであるよで、「つる」は、上の「か」の結で、連体形。夢は、その人の魂が通って来て見えるものという、当時の信仰の上に立っての言。
【釈】 生きていたならば、相逢えるであろうことも知らずに、何だって死んで相逢おう妹よと、君はわが夢に見えてきたのであろうか。
【評】 夢を魂の交流とし、夢に見えることはその人の魂の現われだと信じる心の上に立ってのものである。家持と大娘との関係は、何らかの理由で、家持には叔母、大娘には母である坂上郎女の喜ばないものであって、逢瀬を妨げられていた期間があり、思うに任せぬものであったらしい。この歌はその期間のもので、一夜大娘の夢に、家持がその逢い難いのを嘆き、これだと、死んで相逢ったほうがまさっていると訴えたのである。それによって家持の心を感じた大娘は、家持を慰めたのであるが、慰めというよりはむしろ、それを短慮であるとして諌めたものである。若い女としてはどちらかというと知性的な、したがって強い所のあった人だということが歌から感じられる。
 
582 大夫《ますらを》も かく恋《こ》ひけるを 幼婦《たわやめ》の 恋《こ》ふる情《こころ》に 比《たぐ》ひあらめやも
    大夫毛 如此戀家流乎 幼婦之 戀情尓 比有目八方
 
(411)【語釈】 ○大夫もかく恋ひけるを 「大夫」は、下の「幼婦」に対させたもので、強い男子の意で、家持をさしたもの。「も」は、同煩の一事をあげて強めたもの。「かく恋ひける」は、「かく」は、「しか」と同じに用いたもので、家持の夢でいったこと。「恋ひけるを」は、恋っていたことであるものをで、「を」は詠歎。○幼婦の恋ふる情に 「幼婦」は、弱い女の意で、「幼婦」は義訓。大娘自身をいっているもの。「恋ふる情」は、家持に対してのもの。○比ひあらめやも 「比ひあらめ」は、旧訓「ならべらめ」。『考』の訓。「比《たぐ》ふ」は、立ち並ぶ意。「め」は、推量の已然形、「やも」は反語。立ち並ぶことができようか、できはしないの意。
【釈】 心強い大夫の君でも、そのように恋うていることであるものを。しかし、弱い女の我が君を恋うている心には、立ち並ぶことができようか、できはしない。
【評】 この歌は、前の歌と同時のものである。前の歌は先方を主として、諌める態度でいってあるのに対し、これは自分を主として慰めの心をいっているものであり、二首相俟って慰めの心を徹底させているものである。慰めというのはこちらの心の、事情の如何にかかわらず真実であることをあらわしている意においてである。いわば一種の誓いである。真意は訴えであるが、知性的なところと強いところとがあって、訴えの直接さを失っているところがある。その点前の歌と同様である。
 
583 月草《つきくさ》の 徒《うつ》ろひ安《やす》く 念《おも》へかも 我《わ》が念《おも》ふ人《ひと》の 事《こと》も告《つ》げ来《こ》ぬ
    月草之 徙安久 念可母 我念人之 事毛告不來
 
【語釈】 ○月草の徙ろひ安く 「月草」は、今の露草。その花をもって衣を摺ると、いくぱくもなく褪《あ》せるところから、意味で「移ろふ」にかかる枕詞。「徒ろひ安く」の「徒」は「移」である。「徒ろひ」は、「移る」の継続をあらわしている語。「移る」は推移すなわち変化である。ここは変わるというにあたる。「徒ろひ安く」は、変わりやすいで、女より見た男の心の状態をいったもの。○念へかも 後世の「念へばかも」にあたる古格。「かも」は、疑問。我に対して思っているのであろうかの意。○我が念ふ人の事も告げ来ぬ 「我が念ふ人」は、我が思っている人で、夫としての家持であるが、背とか君とかいうのを、場合上客観的に言いかえたもの。「事も」は、「言も」で、便りさえもの意。「告げ来ぬ」は、便りをする使も来ぬの意。
【釈】 月草の変わりやすい心を我に対してもっているのであろうか。我が思っている人は、便りをさえもして来ない。
【評】 家持より便りのなかった時、恨んで訴えたもので、類歌の多いものである。家持に贈るために詠んだものであるが、独詠と見れば見られる訴えの色の薄さをもったものである。上の二首と同系のものである。
 
(412)584 春日山《かすがやま》 朝《あさ》立《た》つ雲《くも》の 居《ゐ》ぬ日《ひ》なく 見《み》まくの欲《ほ》しき 君《きみ》にもあるかも
    春日山 朝立雲之 不居日無 見卷之欲寸 君毛有鴨
 
【語釈】 ○春日山 奈良市の春日山で、大娘の邸のある坂上から見える山としていっていると取れる。○朝立つ雲の居ぬ日なく 「朝立つ雲」は、雲は夜は山に降り、朝は立ち現われるものとしていったもので、雲の常態である。「居ぬ日なく」の「居」は、山にかかっている意。かからない日とてはなくで、これは梅雨期のような曇天続きの特殊な光景である。眼前を捉えていっているのである。初句よりこれまでは、春日山に、朝は立ち現われる雲の、そのままにかかっていない日とてはなくで、春日山が連日雲に隠れている意で、したがってその雲は必ず「見」る意で、下の「見」に続き、初句より三句まで「見」の序詞としているもの。この序詞は、譬喩に近いもので、したがって序詞としては説明の語を添えないと通じ難い曖昧さのあるものである。○見まくの欲しき 「見まく」は、動詞「見む」に「く」を添えて名詞化したもので、見んことの。「欲しき」は、現在も用いている語で、連体形で、「君」に続く。○君にもあるかも 「も」も、「かも」も、詠歎。
【釈】 春日山に朝立ち現われる雲の、かからない日とてはなく、したがってその雲は必ず見る、その逢い見ることをしたいところの君であることよ。
【評】 この歌は、純粋な訴えであって、以上の三首とは趣を異にしているものである。豊かさはないが、才気を思わせるものである。連日春日山に雲がかかって見えないというのは、ある特別な季節のことで、実景を捉えたものと思われる。その実景を、心としては譬喩であるが、形は序詞として、柔らかく、含蓄のあるものとしているのは、巧みだといえる。上の三首と同(413)じく恋の上の訴えであるが、ひとたび風景に託してくると、打上がった、品のあるものとなるというこのことは、やや降《くだ》っての時代の人が、実用的の歌を文芸的なものにしようとの意図から、好んで風物に託しての歌を詠み出した機微を示しているものといえよう。
 
     大伴坂上郎女の歌一首
585 出《ゝ》でて去《い》なむ 時《とき》しはあらむを ことさらに 妻恋《つまごひ》しつつ 立《た》ちて去《い》ぬべしや
    出而將去 時之波將有乎 故 妻戀爲乍 立而可去哉
 
【語釈】 ○出でて去なむ時しはあらむを 「出でて去なむ」は、郎女の許から出て行く意で、一首の上からいうと、夫として夜通って来る宿奈麿の、帰ってゆくことと取れる。「去なむ」は、「時」につづく。「時しはあらむを」は、「し」は、強め、「を」は、詠歎で、適当な時があろうものをの意。「時」は、意味の広い語で、広く時期とも取れ、狭く時刻とも取れる。ここは一首の上から見て、狭い意の時刻と解される。○ことさらに妻恋しつつ 「ことさらに」は、現在も用いている語で、わざとというにあたる。「妻恋」は、熟語で、妻を恋うる心、またはしぐさで、ここはしぐさと取れる。「しつつ」は、継続。わざと妻を恋うしぐさをしつつで、これは範囲の広く、したがって内容の漠然とした語である。夫妻相対していての語であるから、当事者にはこれで十分通じたものと思われる。最も想像されやすいことは、妻の立場からいうと、夫として通って来た以上、一夜を妻の許にいるのが普通であるが、夫の立場からいうと、妻に実意を示すために通っては来たものの、都合上からすぐに帰らねばならぬということもありうることである。すなわち顔だけを見せて立ち帰るということである。これを妻の立場から、恨みをもって誇張していうと、「ことさらに妻恋しつつ」といえるのである。やや穿《うが》った解に似ているが、歌は実用性のもので、実際に即してのもので、第三者を予想してのものではないから、こうしたこともありうることである。ここはそれと取れる。○立ちて去ぬべしや 「立ちて」は、立っていて。「や」は、反語で、立っていて去るべきであろうか、去るべきではないで、初句を語を換え、強めて繰り返したもので、恨みの心からのものである。
【釈】 わが許より出て行かれる適当な時刻はあろうものを。わざと妻恋のしぐさをしつつも、立ち去るということがあるべきだろうか、あるべきではない。
【評】 この歌の解は、『代匠記』初稿本に、「これは夫君の旅にゆく時などによめるにや。出てゆかむ時もこそあらめ。われをこふるといふ時しも、わざとたちてゆくべき物か。実はこふといふはことばにて、さもあらねばこそ立て行らめとなり」と解しており、精撰本のほうには語をやわらげている。諸注すべて初稿本の解に従っている。事としてはそのほうが一般性があり、またおもしろくあるごとく感じられるが、それだと「出でて去なむ時しはあらむを」は筋の立たないこととなる。官人の旅は(414)公務を帯びてのもので、夫妻関係よりとかくのことは言えないものである。したがって「ことさらに妻恋しつつ」は、郎女が情痴に陥って、非常識なことをいうことにもなる。「ことさらに妻恋しつつ」は、夫の実意は認めながらも、恨みの心から、わざと認めないさまを装い、夫のしぐさを不自然なこととして非難するものとすると、郎女の他の歌とも通いうる巧みな物言いともなってくるともいえる。
 
     大伴宿禰|稲公《いなきみ》、田村大嬢《たむらのおほいらつめ》に贈れる歌一首 大伴宿奈麿卿の女なり
 
【題意】 「大伴宿禰稲公」は、(五六七)の左注に出た。坂上郎女の弟である。「田村大嬢」は、大伴宿奈麿の娘で、坂上郎女が嫁する前の、前妻の出であろうとされている。その前妻は誰とも明らかではない。父宿奈暦とともに田村の邸に住んでいたところから、田村大嬢と称せられた。この人は稲公の妻となった。
 
586 相見《あひみ》ずは 恋《こ》ひざらましを 妹《いも》を見《み》て もとなかくのみ 恋《こ》ひば奈何《いか》にせむ
    不相見者 不戀有益乎 妹乎見而 本名如此耳 戀者奈何將爲
 
【語釈】 ○相見ずは恋ひざらましを 「相見ずは」は、夫婦関係を結ばなかったならば。「恋ひざらましを」は、「まし」は上の仮設の結。「を」は詠歎。恋いずにいようものをで、すでに夫婦関係となっている上で、さかのぼって仮設としていっているもの。○妹を見て 妻として逢ってで、現在の関係をいったもの。○もとなかくのみ恋ひば奈何にせむ 「もとな」は、ここは、みだりにというにあたる。巻二(二三〇)に出た。「かくのみ」は、このようにばかりで、その程度の甚しさをいっているもの。「恋ひば奈何にせむ」は、恋しく思ったならばどうしようで、その堪え難さをいったもの。
【釈】 夫婦として相逢うことがなかったならば、恋うることもなかろうものを。妻として逢っての今を、みだりに、このようにばかり恋しく思ったならば、どうしたものであろうか。
【評】 夫婦関係を結んだ当座、妻恋しさに堪えられない心からの訴えである。当座というのは、関係のなかった以前と、現在とを比較して、それを一首の中心としているもので、こうした心はおそらくはその当座であるか、あるいは事の終わった後かでなければ思わないものだからである。類歌の多いもので、女によって抱かれやすい感である。
     右の一首は、姉坂上郎女の作。
(415)      右一首、姉坂上郎女作。
 
【解】 「姉」というのは、稲公との関係をいったものである。それだと郎女が弟のために代作したものである。こうした事の行なわれていたことはすでにしばしば出た。題詞は事を主としたもの、注は作者を没しまいとしたもので、歌がその両方に跨がっていたものであることを示していることである。
 
     笠女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌廿四首
 
【題意】 「笠女郎」は、巻三(三九五)に出た。
 
587 吾《わ》が形見《かたみ》 見《み》つつしのはせ 荒珠《あらたま》の 年《とし》の緒《を》長《なが》く 吾《われ》もしのはむ
    吾形見 々管之努波世 荒珠 年之緒長 吾毛將思
 
【語釈】 ○吾が形見見つつしのはせ 「形見」は、亡き人、あるいは遠く離れている人の身代わりとして見る品。ここは、女郎が自身の代わりとして家持に贈った品。「見つつしのはせ」は、「見つつ」は継続して見るで、絶えず見る意。「しのはせ」は、偲びたまえよと敬語をもってした命令形。「しのふ」は、その人を思う意。○荒珠の年の緒長く 「荒珠の」は、「年」にかかる枕詞。「年の緒」の「緒」は、年とともに長く続いている物であるところから、語感を強める意で添えたもので、熟語。○吾もしのはむ 吾もまた君を偲ぼう。
【釈】 わが贈るわが形見を絶えず見て、吾を思いたまえよ。年長く、いつまでも、吾もまた君を偲ぼう。
【評】 笠女郎は、その歌に現われているところから見ると、知性のもつ強さと、感性のもつ柔らかさを兼ね備えている人で、それが融け合って一つとなり、しかも互いに陰影となり合っているという趣をもった人である。同時に歌才の豊かな人で、充実し、緊張した感を、余裕をもって細かくあらわしうる人で、歌人として集中でも傑出した一人である。この歌は、形見として贈った品に添えたもので、挨拶にすぎないものであるが、さっぱりした中に訴えの心を含ませ、落着いていて弛みのないものであって、その凡ならざるを示しているものである。形見は今日でいえば記念品であるが、上代は物と心との間に区別を立てず、物を離れては心がないとする信仰をもっていたので、その信仰が背後にあって、軽からざる歌としているのである。
 
(416)588 白鳥《しらとり》の 飛羽山松《とばやままつ》の 待《ま》ちつつぞ 吾《わ》が恋《こ》ひ渡《わた》る 比《こ》の月《つき》ごろを
    白鳥能 飛羽山松之 待乍曾 吾戀度 此月比乎
 
【語釈】 ○白鳥の飛羽山松の 「白鳥の」は、羽根の白い鳥の総称としてのもので、「飛ぶ」と続けて「飛羽」の枕詞としたもの。「飛羽山松」は、飛羽山の松の意。「飛羽山」は、所在不明である。この人は遠方の地名も捉えて用いる風があるので、山城国の鳥羽山ではないかという解もある。しかし一首の作意から見ると、家持の奈良京から通って行かれる地に住んでいての歌であるから、その地の山であったと取れる。広くいえば大和国内にある山で、その山が名高くならなかったから、名が伝わらなかったと取れる。初二句は、「松」を畳音の関係で「待ち」に続けて、その序詞としたもの。○待ちつつぞ吾が恋ひ渡る 「待ちつつ」の「つつ」は、継続。「渡る」も、同じく継続で、君の通って来るのを待ちつづけて、吾は恋い続けているの意。○此の月ごろを 「月ごろ」は、幾月かの意。「を」は、助詞。
【釈】 白鳥の飛羽山の松の、その待つことを続けて、吾は君を恋い続けている。この幾月の間を。
【評】 「待ちつつぞ吾が恋ひ渡る比の月ごろを」というので、その空しく待っているをいったもので、哀切な訴えである。その「待ち」を強めるために、「白鳥の飛羽山松の」という序詞を設けたのであるが、「白鳥の」という枕詞は、たぶん女郎の、「飛羽」という眼前の山を捉えていおうとして工夫したものではないかと思われる。序詞とはいっても、「松」と「待つ」とを畳音としたという単純なものであるのに、その序詞のなかばを枕詞としたという、きわめて軽い序詞である。しかし、鳥と松とは、来るもの、来るを待つものという関係があり、白鳥の「白」と「松」とは色彩の対照をもつもので、その意味からはこの序詞は、陰影の多いものとなり、三句以下の強い調べを助けるものとなっている。優れた技巧というべきである。一首、冴えた、さわやかな歌である。
 
589 衣手《ころもで》を 打廻《うちみ》の里《さと》に ある吾《われ》を 知《し》らずぞ人《ひと》は 待《ま》てど来《こ》ずける
    衣手乎 打廻乃里尓 有吾乎 不知曾人者 待跡不來家留
 
【語釈】 ○衣手を 「衣手」は、袖で、袖をもって衣を代表させたものと取れる。衣を砧《きぬた》で打つの意で、「うち」の枕詞となっているもの。これは異説の多いものである。○打廻の里に 「打廻《うちみ》」は、巻十一(二七一五)「神名火《かむなぴ》の打廻《うちみ》の前《さき》の石淵《いはふち》の」ともあり、用例のあるもので、この神名火は明日香の雷の丘ととれるので、その付近の地名であろうが、正確な所在は不明である。女郎の住んでいる地としていっているもので、上の「飛(417)羽山」のある地と同じ所と思われる。○ある吾を いるところの我を。○知らすぞ人は待てど来ずける 「知らずぞ」は、それと知らずしてで、家持が知らなくての意である。これは事としてはあるまじきことで、家持はむろん知っているのであるが、そのあまりにも疎遠にするので、恨んで、誇張していったもの。「人は」は、夫としての家持をさしているのであるが、恨みの心からわざと距離を置いていったもの。「来ずける」は、後世の「来ざりける」にあたる古格の言い方。「ける」は、「ぞ」の結で、連体形。
【釈】 衣手を打ちというその打廻の里に、現にこうしている吾を、それとも知らずして人は、待っているけれども来ないことであるよ。
【評】 この歌は、上の一首とおそらく同時のもので、待つにもかかわらず、幾月にもわたって家持の通って来ないのを恨んでのもので、上の歌の哀切な訴えとは異なって、「知らずぞ人は」と皮肉にいって、満腔の恨みを抒べたものである。その際にも「衣手を」という枕詞を設け、「衣手を打ち」に女性としての手業《てわざ》を関係させてもある。前の歌とは地名を変えているのも、意図してのことかとも思われ、同じく異色をもった歌である。
 
590 荒玉《あらたま》の 年《とし》の経去《へぬ》れば 今《いま》しはと ゆめよ吾《わ》が背子《せこ》 吾《わ》が名《な》告《の》らすな
    荒玉 年之經去者 今師波登 勤与吾背子 吾名告爲莫
 
【語釈】 ○荒玉の年の経去れば 「荒玉の」は、年の枕詞。「年の経去れば」は、何年も経てしまったのでで、逢いそめて以来ということを背後に置いての言。○今しはと 「し」は、強め。「と」は、と思って。今はもう障りのないことと思って。○ゆめよ吾が背子吾が名告らすな 「ゆめ」は、強く命令する意の副詞。「よ」は、詠歎。「告らすな」に続く。「吾が背子」は、呼びかけ。「吾が名告らすな」は、「告らす」は、「告る」の敬語。「な」は、禁止。妻としてのわが名を、他人に言いたもうなで、上代の信仰として、夫婦は互いに相手の名を絶対に秘密にすべきものとし、それを漏らすことを厳に禁じ合っていた。これは、名にはその人の魂が宿っていて、名とともにこちらの身についている相手の魂が、他に漏らすことによって遊離し、夫婦関係が薄弱になると信じていたからである。この信仰をあらわした歌は、集中に多く、これもそれである。
【釈】 逢いそめてからすでに何年も経てしまっているので、今はもう障りがないと思って、ゆめゆめわが背子よ、わが名を他人に漏らすことはしたもうな。
【評】 この歌の背後にある信仰は、夫婦別居して、互いにある不安を抱き合っていた時代には、一般的な、また重大なものであったとみえる。妻はこの信仰を守りやすかったが、夫のほうは軽い興味から、ともすればそれを破るということもあったと思われる。この歌は、女郎の立場から、家持の疎遠にするのに対して、あるいはという疑いをもったことに関係していようと(418)思われるが、直接の刺激は、この次の歌の、夢見の悪かったことであろうと取れる。歌は訴えであるが、年下の者を諭すがごとき口吻の明らかに見えるものである。
 
591 吾《わ》が念《おもひ》を 人《ひと》に知《し》らせや 玉匣《たまくしげ》 開《ひら》きあけつと 夢《いめ》にし見《み》ゆる
    吾念乎 人尓令知哉 玉匣 開阿氣津跡 夢西所見
 
【語釈】 ○吾が念を人に知らせや 「吾が念」は、われが君を恋い思うこと。「人に知らせや」は、後世の「人に知らすればにや」にあたる古格。他人に知らせたのであろうかで、「や」は、疑問で、係。○玉匣開きあけつと 「玉匣」は、しばしば出た。「玉」は美称。「匣」は櫛笥で、化粧の具を容れる箱。「開きあけつと」は、その蓋を開きあけたとで、「開きあけ」は、同じ事を強めるために語を重ねたもの。○夢にし見ゆる 「し」は、強め。「見ゆる」は、上の「や」の結。連体形。見えることであるよと、強めるために現在法を用いたもの。
【釈】 われが君を恋い思うことを、君が他人に知らせたのであろうか、櫛笥の蓋をあけたとわが夢に見えることであるよ。
【評】 夢を神秘なものとし、神の意志の暗示とし、また人と人の魂の交流とする信仰は、上代にはきわめて強かったもので、現在でもなお保たれているものである。女性はことにこの信仰が深かった。これもそれで、櫛笥の蓋をあける夢は、秘密にしていた恋を打明けたことの兆《しるし》だと信じられてい、今その夢を見たので、夫の家持がそれにあたることをし、魂の交流によって吾に見えたのだと取ったのである。その事は、秘密にすべき相手の名を漏らすということにもただちにつながるものである。女郎も夢に対する信仰の強いものをもっていたので、その頃の夫婦の状態と関連させて甚しく懸念し、上の歌とこれとの二首にして贈ったものと取れる。この歌も当時としては自明なことを綿密にいっているところに、上の歌と同じく、諭すごとき態度が見える。
 
592 闇《やみ》の夜《よ》に 鳴《な》くなる鶴《たづ》の 外《よそ》のみに 聞《き》きつつかあらむ あふとはなしに
    闇夜尓 鳴奈流鶴之 外耳 聞乍可將有 相跡羽奈之尓
 
【語釈】 ○闇の夜に鳴くなる鶴の 「闇の夜」は、旧訓「くらきよ」。『攷証』が仮名書きによって改めたもの。闇の夜に鳴いている鶴のごとくで、「の」は、のごとくの意のもの。声だけ聞こえて姿は見えない意で、下の譬喩としたもの。○外のみに聞きつつかあらむ 「外のみに」は、「外」はよそで、その住む土地以外の所の意であるが、ここは直接でない意となったもの。「のみ」は、ばかりで、強め。「聞きつつかあらむ」は、「聞(419)きつつ」は、家持の噂を聞きつづけて。「か」は、疑問。「あらむ」は、現在の推量。○あふとはなしに 逢うということはない状態で。
【釈】 闇の夜に鳴いている鶴のごとくに、間接にばかり噂を聞きつづけているのであろうか。直接に逢うということはない状態で。
【評】 家持の疎遠にするのを嘆いて訴えたものであるが、しっかりとした調べの中に、訴えの心を漂わさせているもので、その人柄のみならず年齢をも想像させるところがある。「闇の夜に鳴くなる鶴の」という譬喩は、当時は鶴が少なからずいたとみえるから、取材としては平凡なものであるが、気分をあらわす上では適切なものである。ものを思わせられている夜の高い声の鶴は、女郎より見ると貴公子としての家持をさながらに思わせるに足るものであり、また遠情を誘うものでもあったろうと察せられる。単純な形に複雑した気分を織り込んでいる譬喩といえる。この一首は、上の二首とは別な時に詠んで贈ったものと思われる。
 
593 君《きみ》に恋《こ》ひ いたもすべ無《な》み 楢山《ならやま》の 小松《こまつ》が下《した》に 立《た》ち嘆《なげ》くかも
    君尓戀 痛毛爲便無見 楢山之 小松下尓 立嘆鴨
 
【語釈】 ○君に恋ひいたもすべ無み 「君に恋ひ」は、後世だと「君を恋ひ」というところである。「君に」は、君を動的なものに見ている差があると『講義』が注意している。「いたも」は、甚しくもの意。「いたし」の語幹に、詠軟の「も」の添ったもの。「いとも」と同じ。「すべ無み」は、せん術《すべ》無くして。君が恋しく、どうにもしようもなくして。○楢山の 奈良山である。奈良市の北方に長く連なっている丘陵の称で、しばしば出た。家持の邸が奈良山の中の佐保山にあったことが集中の歌によって知られる。それをよそながら見ようとしてのことと取れる。○小松が下に 「小松」は、小さい松であるが、下にとあるので、相応に大きな松をも称した言と思われる。山松《やままつ》は高いものを標準としていっている語であるから、それとの関係から、相応な大きさの物も小松と呼んだとみえる。「下《した》」は旧訓。○立ち嘆くかも 「立ち嘆く」は、嘆くを主とした語。「嘆く」は、ここはため息をつく意。「かも」は、詠歎。
【釈】 君が恋しく、どうにもしよう術《すべ》もなくして、君の邸の見える奈良山の小松の下に立って、ため息をつくことであるよ。
【評】 家持に嘆いて訴えたものであるが、形の上からは独詠に近いものである。この歌は、心も事もきわめて単純であって、単純を風とした上代の歌にあっても最も単純なものである。しかるにこの歌は、女郎の全幅をあらわしつくしている感を起こさせるもので、これを読むと、女郎のその時の状態、その時の心の全部が一体となって、躍如として現われている感を起こさせる。「小松が下に」という語は、この歌では微妙な働きをして、それでなければならないものとなっている。このために、嘆き衰えている女郎の姿が現われているように感じられる。これは自身を客観化したというよりも、心情の具象化というべき(420)で、双方が微妙に調和したものであり、抒情の骨髄を掴んでいる心から、おのずからに発露したものというべきである。
 
594 吾《わ》が屋戸《やど》の 暮陰草《ゆふかげぐさ》の 白露《しらつゆ》の 消《け》ぬがにもとな 念《おも》ほゆるかも
    吾屋戸之 暮陰草乃 白露之 消蟹本名 所念鴨
 
【語釈】 ○吾が屋戸の暮陰草の 「屋戸」は、宿。「暮陰草」は、暮の陰草で、「暮」は、夕べに見るで、「陰草」は、物蔭に生える草で、用例のある語である。ここは、下の「露」の置く物として捉えているので、「暮」は霞の置く時刻。「陰草」は、露の置きやすいものとしていったもの。○白露の 露を印象的にいった語。初句よりこれまでは、露を消えるものとして「消《け》」に続け、「消」の内容を転義させてあるので、「消」の序詞。○消ぬがにもとな念ほゆるかも 「消ぬがに」は、「消」は、命の死ぬ意に用いていた語で、用例の多いものである。「ぬ」は、完了の助動詞。「がに」は、ばかりにの意の助詞。巻二(一九九)に既出。命の死んでしまいそうなばかりに。「もとな」は、ここは、みだりにというにあたる。巻二(二三〇)に既出。「念ほゆるかも」は、「かも」は、詠歎で、思われることよ。
【釈】 わが宿の、夕べに見る物蔭に生える草の葉に置いている白露の、その消えるというように、吾も消え、すなわち命が死んでしまいそうなばかりに、みだりにも思われることであるよ。
【評】 上の歌と同じく、夫としての家持から疎遠にされ、絶望的になってきた際の感傷で、それの状態をいって訴えとしたものである。「消ぬがにもとな念ほゆる」は、極度の感傷状態であるが、その「消」のために設けた「吾が屋戸の暮陰草の白露の」は、巧緻なものである。これは序詞ではあるが、譬喩の心の濃厚なものであって、しかも「暮陰草の白露」は、知性と感性との鋭敏に働いているものである。一首、ほとんど取乱した心の表現であるが、表現に際しては十分の客観性をもたせているもので、この矛盾の統一は、一に歌才のいたすところである。上の歌とこの二首とは、同一心境のもので、二首同時のものではないかと思われる。
 
595 吾《わ》が命《いのち》の 全《また》けむ限《かぎり》 忘《わす》れめや いや日《ひ》にけには 念《おも》ひ益《ま》すとも
    吾命之 將全牟限 忘目八 弥日異者 念益十方
 
【語釈】 ○吾が命の全けむ限 「全けむ」は、諸本「将全幸」とあるが、元暦本のみ「幸」が「牟」となっている。『略解』は、「幸」の誤りを指摘している。「全けむ」は、古事記、倭建命の御歌に、「命の麻多祁牟《またけむ》人は」と仮名書きの例のある語で、「全くあらむ」の約。「全けむ限」は、読(421)くであろう間は。○忘れめや 「めや」は、推量の「む」の已然形に「や」の疑問の添って、反語となっているもの。忘れようか忘れはしない。○いや日にけには念ひ益すとも 「いや日にけに」は「いや」は、いやが上に。「けに」は、日に。「益すとも」は、増していこうともと、未来を推量したもの。
【釈】 わが命の続いていこう間は、君を忘れようか忘れはしない。なおこの上に、日に日に思いが増していこうとも。
【評】 この歌は、前の二首と同じく絶望的な心境に住しつつも、その諦めかねる心を強調して、その意味で積極的になってき、それを訴えとしたものである。女性として特殊な心境ではないが、しかし心の強さのない者にはもてないものである。この強さと、それに伴う烈しさは、女郎としては恋の昂奮よりのものではなく、本質としての性格からきているものと思われる。家持が女郎を避けようとしたのは、何のゆえであるかはもとよりわからないが、むしろ気弱く、おおらかで、貴族的であった家持には、女郎のこの性格は圧迫となり、重苦しいものに感じられて、堪えられなかったのではないかと思われる。
 
596 八百日《やほか》往《ゆ》く 浜《はま》の沙《まなご》も 吾《わ》が恋《こひ》に 豈《あに》益《まさ》らじか 奥《おき》つ島守《しまもり》
    八百日徃 濱之沙毛 吾戀二 豈不在歟 奧嶋守
 
【語釈】 ○八百日往く 「八百日」は、甚だ多くの日数ということを具象的に言いかえたもの。「往く」は、行程というにあたる語。甚だ多くの日数を費やして行く長さのあるで、下の「浜」の状態をいったもの。○浜の沙も 「浜」は、砂地の海岸の称。「沙」は、旧訓「まさご」。『攷証』が仮名書きの例によって改めたもの。「も」は、さえもの意のもの。ここは砂の数多さをいっている。○吾が恋に 「恋に」は、上の「沙」と応じて、恋の繁さをいっている。○豈益らじか 旧訓「あにまさらめや」を、『代匠記』が今のように改めた。「豈」は、何、何ぞの意の副詞で、それに否定の語が続き、それと応じる語である。その否定は、多くは反語をもってしてのもので、巻三(三四五)「濁れる酒に豈まさめやも」。(三四六)「情《こころ》を遣《や》るに豈しかめやも」のごときである。しかるにここのごとく、否定ではあるが反語をもってせずに応じているものがあって、一類をなしている。本居宣長は『歴朝詔詞解』四巻で、ここのものをも例としてそれに触れているが、それを『新考』は引いている。要を摘むと、第二十八詔に、「豈障るべきものにはあらず」とある、ここと同じ「豈」の用法についての解で、宣長は例として、第三十八詔、「豈敢へて(云々)事は無しと」、日本書紀、仁徳紀、大后の御歌の「豈|好《よ》くもあらず」それにここの「豈益らじか」を引き、賀茂真淵は、巻十六(三七九九)「豈もあらず」につき、「何の論もあらず」といっているとおり、ここも「何《な》でふことかあらむ、さはることはあらじ」というのだと解している。『新考』は、これらの「豈」はいずれも「おそらくは」と訳して通じるに似ているといっている。「豈」に応ずるものとして反語を用いない否定のものは、反語を用いるものの慣用された結果、「豈」の一語の中にそれを暗示させ、その補足として、単なる否定の語を続けるように転じてきた語法ではないかと思われる。「豈益らじか」は、何ぞ益《まさ》ろう、益らないのではなかろうかで、この場合「か」は疑問で、特別なものである。こう解して、上の諸(422)例は通じるようである。○奥つ島守 「島守」は、島の番人。沖の島の島番よと、呼びかけたもの。
【釈】 甚だ多くの日数を費やすべき行程の、この長い浜にある砂《まさご》の数さえも、わが恋の繁さに較べては、何で益《まさ》ろう、益らないのではなかろうか。いかに思う沖の島の島番よ。
【評】 これは恋の嘆きをいったものではあるが、実感より遊離させ、奔放に空想を用いて、文芸的に情景を描き出したものである。沖の島に行き、八百日往くに値する長い砂浜を見渡すと、そこに限りなくある砂の数と、わが恋の繁さとを比較し、わが繁さのほうが必ず益《まさ》っていると思い、それを緩和させて疑問にして、そこにいる島守に尋ねた形のものである。島守に尋ねるということは不合理なことであるが、合理不合理などということは超えてのものである。調べもその気分に伴った強いものであるために、その不合理を忘れさせようとするところがある。この歌は前の歌に一脈の続きがあって、感傷の極の弱い心を押し返して、それなりに強いものとすると、それとともに新たなる熱意の湧き来たるものがあり、泣きつつもほほえんだ、そのほほえみを笑いとし、その笑いを具象化して歌としたものといえる。非凡な歌才というべきである。上の歌とともに、絶望の境にあっても諦めないという強さにおいて相通うものである。二首同時のものかと思える。
 
597 うつせみの 人目《ひとめ》を繁《しげ》み 石走《いはばしる》 間近《まぢか》き君《きみ》に 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
    宇都蝉之 人目乎繁見 石走 間近君尓 戀度可聞
 
【語釈】 ○うつせみの人目を繁み 「うつせみの」は、現身ので、「人」にかかる枕詞。「人目を繁み」は、人目が繁くしての意。「人目」は、現在も用いる語で、周囲の人の見え、すなわち目にとまること。○石走間近き君に 「石走」は、訓が定まらない。「いはばしる」「いははしの」「いははしり」などある。集中に仮名書きで「伊波婆之流多伎毛登抒呂尓《イハバシルタキモトドロニ》」(巻十五、三六一七)があるから「いはばしる」の訓に従う。巻一(二九)に出た。「間」に続く意は未詳である。「間近き君に」は、間近に住む君すなわち家持にで、「間近」は、現在も用いている語である。後の歌で見ると、女郎は故郷があって、この頃は京に出て来ていたのであり、京は旅であり、したがって転居もたやすかったと見える。また続きの歌には、「皆人を寝よとの鐘は打ちつれど」とあり、京の鐘の音の聞こえる所にいたことがわかるから、上の「打廻《うちみ》の里」よりも、いっそう家持の邸に近い所へ移って来ていたのではないかとも思われる。○恋ひ渡るかも 恋い続けていることよ。
【釈】 周囲の人目が繁くして、それを憚るために、間近に住む君に恋い続けていることよ。
【評】 この歌は、きわめて普通な夫婦関係にある妻の嘆きと異ならないもので、女郎のもつ尋常な女性としての面を示しているものである。これを上の歌に較べると、心機一転しているがごとくにみえる。思うに前の歌とこの歌との間には、家持の娉(423)いがあり、女郎の心はすっかり和められたものとみえる。上の歌の激情は濃情の半面で、そのあまりにも充たされぬところから発しているものであるから、この変化は当然な、自然なものと思われる。
 
598 恋《こひ》にもぞ 人《ひと》は死《しに》する 水無瀬河《みなせがは》 下《した》ゆ吾《われ》痩《や》す 月《つき》に日《ひ》にけに
    戀尓毛曾 人者死爲 水無瀬河 下從吾痩 月日異
 
【語釈】 ○恋にもぞ人は死する 「恋にもぞ」の「も」は、もまた。「ぞ」は、係。「人は死する」の「死《しに》」は、名詞。「する」は「ぞ」の結。○水無瀬河下ゆ吾痩す 「水無瀬河」は、巻十一(二七一二)「水無河《みなしがは》絶ゆといふ事を」があり、水が地下を流れる川の称で、普通名詞である。意味で、「下」にかかる枕詞。「下ゆ」の「下」は、心。「ゆ」は、より。心よりで、恋の悩みよりの意。「吾痩す」は、死に近づく意。○月に日にけに 「けに」は、日にの意。月に日に日にで、しだいにということを具象的にいったもの。
【釈】 恋のためにもまた、人は死ぬということをするものである。心の悩みより吾は痩せる。月に日に日に。
【評】 恋の悩みを訴えたものである。この一群の歌はすべてそれであるが、この歌は、これに先立つ歌とは明らかにその趣を異にしているかにみえる。それは以前の歌は、同じく恋の悩みとはいうものの、その恋は距離を置いていることから起こる憧れであり、その悩みは、その距離の撤そうとすればたやすくも徹せられるものと思うにもかかわらず、事実としてはたやすくないところからくる懊悩であった。すなわち家持を夢として抱いての上の悩みという趣のものである。しかるにこれに先立つ歌より以後のものは、距離を徹して身を間近に置き、憧れの明るく軽いものの代わりに、情愛の質実なるものを求めようとして、そこにまた異なる意味の距離を感じての悩みなのである。昂奮が失せて沈潜した情となっているのはそのためと思われる。この歌も訴えの心をもってのものであるが、訴えて動かそうとする意図は少なく、純なる訴えとなり、重厚味の添ったものとなっているのは、歌因の異なるがためである。この心はこの歌だけではなく後にも続く。
 
599 朝霧《あさぎり》の 欝《おほ》にあひ見《み》し 人《ひと》故《ゆゑ》に 命《いのち》死《し》ぬべく 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
    朝霧之 欝相見之 人故尓 命可死 戀渡鴨
 
【語釈】 ○朝霧の欝にあひ見し 「朝霧の」は、物を隔ててぼんやりさせる意で、「欝《おほ》」にかかる枕詞。「欝に」は、旧訓「ほのに」。『玉の小琴』が改めた。用例の多い語。ぼんやりと。「あひ見し」は、夫婦関係を結んだ意。○人故に 「人」は、家持。「故に」は、今の用法と同じ。○命死(424)ぬべく恋ひ渡るかも 「命死ぬべく」は、命も絶えそうに。
【釈】 ぼんやりとした状態で夫婦関係を結んだ君のゆえに、吾は命も絶えそうにして恋いつづけていることであるよ。
【評】 恋の訴えで、単純な形のものであるが、この一群の中に置いて見ると、複雑な心をもったものとなってくる。女郎は今初めて自身の悩んでいる恋を大観し、批評しようとする心に立ち至っている。女郎の恋は「欝にあひ見し」ということに始まったもので、その事がなければ知らなかったものである。それがあったがために、今は「命死ぬべく恋ひ渡る」という状態に陥っているのである。それは楽しいものではなく苦しいもので、しかも脱れられなくなっているものなのである。歌はその心の訴えで、これは妻として夫に訴えるものというよりも、人間として人間に訴える域に迫っているものである。家持を「人」という語で呼んでいるのも適当に感じられる心である。
 
600 伊勢《いせ》の海《うみ》の 磯《いそ》もとどろに よする浪《なみ》 恐《かしこ》き人《ひと》に 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
    伊勢海之 礒毛動尓 因流浪 恐人尓 戀渡鴨
 
【語釈】 ○伊勢の海の磯もとどろに 「伊勢の海」は、その国の名高く、したがって人の知っているゆえに捉えたのか、あるいは女郎に何らかの関係があってのゆえかはわからない。女郎は遠方の地名を、後世の名所風に捉える風があるから、前者かもしれぬ。「磯もとどろに」は、「磯」は、岩石より成る海岸。「も」は、までもの意のもの。「とどろ」は、轟く意。下の浪の状態。○よする浪 寄せて来る浪で、その力の測り難く恐ろしい意で、「恐《かしこ》き」に続き、初句よりこれまでを序詞としたもの。○恐き人に恋ひ渡るかも 「恐き人」の「恐き」は、やや意味の広い語で、神、尊貴な人に対して恐れ多いという意味にも用い、またその力の測り難い意で、山や海に対して恐ろしいという意でも用いている。同じ心から人に対しても、その心のうかがい難い意で用いている例がある。恐れ多いの意ではなかろうと『代匠記』は注意しているが、ここは、その心の測り難い意でいう恐ろしいの意のものと取れる。日本書紀、仁徳紀、天皇が八田《やたの》皇女を宮中へ納れようとされた時、磐之姫皇后が拒んで、「衣《ころも》こそ二重《ふたへ》もよき狭夜床《さよどこ》を並べむ君はかしこきろかも」と詠まれたのと似ている。すなわち女郎は、家持の愛を十分に獲られようと想像したのに、事実はその反対となってきたので、その心の測り難いものに見えてきたのを嘆いていっているのである。ここの意は、心恐ろしい人を恋いつづけていることよ。
【釈】 伊勢の海の岩石の海岸に轟いて寄せて来る浪の力の測り難く恐ろしい、その測り難い心の、恐ろしく思われる人に、我は恋いつづけていることであるよ。
【評】 女郎の心情の全部を披瀝して訴えた歌である。全部というのは、家持を「恐き人」と呼んでいることである。女郎からいうと、初めは家持を思うままにわが物とできると思ったのであろうが、案外にもつれない人であって、その意味では絶望を(425)感じさせられた。しかし全然つれないばかりではなく、時にはある程度の温情を示すこともあるので、諦めるには諦めきれない状態であったとみえる。本来勝気な、情熱も理知もある女性であるから、自尊心も伴って、どうにかできようという気もし、またどうにもならない気もして、動揺していたとみえる。これはどうにもなりそうもない気の勝ってきた時の心で、家持が心に余る、捉えきれない者に見えてきた時の心情であって、その全部を「恐き人」という一言に託しているものである。この一群の中に置いて見ると、心理の陰影を微妙にもあらわし得た、含蓄のある優れた歌である。
 
601 情《こころ》ゆも 吾《あ》は念《も》はざりき 山河《やまかは》も 隔《へだた》らなくに かく恋《こ》ひむとは
    從情毛 吾者不念寸 山河毛 隔莫國 如是戀常羽
 
【語釈】 ○情ゆも吾は念はざりき 「情ゆも」は、「ゆ」は、よりで、心を思いの発する場所としていっているもの。後世の「に」にあたる。「も」は、詠歎。「吾は念はざりき」は、旧訓「吾《われ》は念《おも》はず」。『代匠記』の訓。思ひもしなかった。○山河も隔らなくに 「山河も」は、山も河もで、路の妨げとなるもの。「なく」は、打消「ず」の名詞形。「に」は、詠歎。隔てていないことであるのに。○かく恋ひむとは 「かく」は、このようにで、甚しさを暗示したもの。「恋ひむ」は、憧れんというにあたる。
【釈】 心にも吾は思わなかった。路妨げとなる山も河も隔ててはいないことであるのに、このように憧れようとは。
【評】 (五九七)以下一と続きのものである。家持の娉いをしないのは、路の遠いためであろうとして、いったように近間へ移ってきたとみえるが、その疎くするのは以前と同様なので、案外なこととして嘆いて言っているのである。昂奮をもって詩情を働かせるところがなく、思い入つて、愚痴をいっている形のもので、女郎の心の振幅の広さを思わせる歌である。
 
602 暮《ゆふ》されば 物念《ものも》ひ益《まさ》る 見《み》し人《ひと》の 言問《ことど》ふすがた 面影《おもかげ》にして
    暮去者 物念益 見之人乃 言問爲形 而景爲而
 
【語釈】 ○暮されば物念ひ益る 「暮されば」は、夕方が来ればで、しばしば出た。「物念ひ益る」は、「物念ひ」は嘆きで、ここは恋の悩み。「益る」は、募ってくる。夕方はさみしい時刻であるとともに、夫の嫂いをする時刻で、今はそれがないことを背後に置いてのもの。○見し人の言問ふすがた 「見し人」は、夫婦として相逢った人で、すなわち家持。「言問ふすがた」は、旧訓「こととひしさま」。『代匠記』が今のごとく改めた。「為形」は、用例のある訓。ものをいう姿。○面影にして 「面影」は、幻影。「にして」は、ここは、に立って。
(426)【釈】 夕方になると、いっそう嘆きが募ってくる。相逢った人のものをいう姿が面影に立ってきて。
【評】 嘆きをもっての訴えである。「暮されば物念ひ益る」は、これを取り離して一首の歌とすると、説明に過ぎる語のように見えるが、これを一群の中に置いて見ると、終日を嘆き暮らして、娉いの時刻である夕暮になると、その事のないがためにいっそう嘆きが募ってくるという、時間的叙事を含んでの訴えとなっているからである。「見し人の言問ふすがた面影にして」も、上の関係において、単に懐かしむ意味で言っているものではなく、家持の娉いがありはしないかと期待しているところからの連想で、それがやがて「物念ひ」になってくるものである。旧訓の「言問ひしさま」という過去の思い出にした訓は、その意味でこの場合にはあたらないものである。一首、訴えのために詠んだものであるが、そうしたことを離れての独詠とも見られるものであり、またそれとしても、単純に、感覚的で、印象の鮮やかな、魅力のある歌となる。これは女郎の歌才のいたすところである。
 
603 念《おも》ふにし 死《しに》するものに あらませば 千遍《ちたび》ぞ吾《われ》は 死《し》にかへらまし
    念西 死爲物尓 有麻世波 千遍曾吾者 死變益
 
【語釈】 ○念ふにし死するものにあらませば 「念ふにし」は、「念ふ」は、嘆き。「し」は、強め。「死するものに」は、死ということをするもので。「あらませば」は、仮設。○千遍ぞ吾は死にかへらまし 「死にかへらまし」は、「かへる」は、反復の意。「まし」は、上の仮設の帰結。
【釈】 嘆きをするので、死ぬということをするものでもしあるならば、千遍も吾は、死を繰り返していることであろう。
【評】 この歌は、巻十一(二三九〇)人麿集「恋ひするに死《しに》するものにあらませば吾が身は千遍《ちたぴ》死にかへらまし」をいささか換えたものである。古歌をわが作に代えて用いるということは、当時は普通のこととなっていた。これは自作の困難なためばかりではなく、古歌をわが心とすることに一種のあわれを感じてのことであったとみえ、聞く人も同じくそれを感じてのことと思われる。きらずば女郎のごとき稀有《けう》な歌才をもった人によってされるはずはないことである。それだと後世の本歌取とその心を同じゅうしていることで、本歌取の一過程を示しているといえる。
 
604 剣大刀《つるぎたち》 身《み》に取《と》り副《そ》ふと 夢《いめ》に見《み》つ 何《なに》のしるしぞも 君《きみ》にあはむ為《ため》
    釼大刀 身尓取副常 夢見津 何如之怪曾毛 君尓相爲
 
(427)【語釈】 ○剣大刀身に取り副ふと夢に見つ 「剣大刀」は、剣の太刀で、諸刃《もろは》の称。「身に取り副ふと」は、「身に」は、わが身に。「取り副ふ」は、「取り」は、接頭語に近い軽いもの。「副ふ」は、添う意。「と」は、ということを。○何のしるしぞも 「しるし」は、原文「怪」、旧訓「さとし」。『代匠記』は、旧訓に従っているが、日本書紀には「怪」を「しるし」と訓んでいると注意している。『攷証』は、「しるし」と訓み、用例として、日本書紀、垂仁紀の初めに、「因2夢祥1以立為2皇太子1」とあり、また同五年の紀に、天皇が夢を見て、寤《さ》めて皇后に詳しく語られ、「是何祥也」と問われる条があり、「祥」はいずれも「さが」と訓んでいる。しかるに、古事記には、その同じ夢のことを、「如v是之夢、是有2何表1也」と、「祥」を「表」をもって記している。この「表」は、巻十九(四二一二)「をとめらが後の表《しるし》」とあり、「しるし」と訓んでいる。これによると「夢祥」は「いめのしるし」と訓むべきである。一方、『荘子庚梁楚篇釈文』に、「祥怪也」とあるから、「怪」は「祥」の心をもって用いたのだといっている。『古義』も「しるし」と訓み、さらに用例を加えている。これに従う。「怪《しるし》」は、ここは夢の前表で、神意の夢に現われる意で、意味からいえばさとしである。これは上代の信仰で、例の多いものである。したがってこの「しるし」は、判断によってそれにこもる神意を知るべきものであった。「何のしるしぞも」は、「ぞ」は、問をあらわす意のもの。「も」は、詠歎で、夢判断をしようと自問したもの。○君にあはむ為 君すなわち家持に逢わんということを知らせるためのものの意。『代匠記』は、剣太刀は男の具であるから、それが身に添うということから判じたのであろうといっている。
【釈】 剣太刀がわが身に添うということを夢に見た。どういうことのある前表であろうか。君に逢うだろうということを知らせるためであるよ。
【評】 夢の信仰の深かつた時代であり、特にその保持者である女性にとっては、この夢はきわめて嬉しいものであったとみえる。家持と自分との関係は神意にかなったもので、神の加護の加わっているものと思ったからである。これを歌として贈ったのは、家持にもこの神意を思わせ、それに背くようなことはさせまいと思ったので、他意のあったのではなかろうと取れる。この夢は、動揺し、行詰まった気分になっていた女郎には、一種の救いであったろうと思われる。これに続く歌も、積極的なものとなってきている。
 
605 天地《あめつち》の 神《かみ》し理《ことわり》 なくばこそ 吾《わ》が念《も》ふ君《きみ》に あはず死《しに》せめ
    天地之 神理 無者社 吾念君尓 不相死爲目
 
【語釈】 ○天地の神し理なくばこそ 「天地の神」は、天つ神|地《くに》つ祇で、あらゆる神々。「し」は、強め。「理《ことわり》」は、広くいえば筋路で、地上のすべての物に絶対の力をもって臨まれ、正しきを加護し、正しからざるを罰せられることである。この理《ことわり》は、必ず人々の上に現われるものである。「なくばこそ」は、なかったならばで、「こそ」は係。これは絶対にないことを、強くいうために逆説的にいったもの。○吾が念ふ君にあはず死(428)せめ 「吾が念ふ君」は、家持。「あはず死《しに》せめ」は、逢わずに死にもしようで、「め」は「こそ」の結で、已然形。これは上に応じて、絶対にないとしていっていることで、その反対の、逢い得て幸いでありうると信じていっているものである。
【釈】 天つ神|地《くに》つ祇のあらゆる神々に、筋路というものがないことであったならば、わが思う君に、逢わずに死ぬということもあろう。
【評】 女郎が自身の家持に対する真心、またその真心からの祈りは、天つ神地つ祇の憐憫《れんびん》を垂れ、加護したまうものと信じ、さらにまた神々の理《ことわり》は、必ずや人々の上に顕われるものとの強い信念の上に立っての訴えである。これはきわめて積極的な心である。これは長い動揺の果てに至りついた境で、この歌によっても知られるとおり、神々への祈りはしていたのであるが、初めて語として発しうるに至ったものである。「理《ことわり》なくばこそ」と逆説的にいい、「あはず死せめ」と「死」をまでもいっているのは、熱意の集中しきたっていわせたものと取れる。
 
606) 吾《われ》も念《おも》ふ 人《ひと》もな忘《わす》れ 多奈和丹《おほなわに》 浦《うら》吹《ふ》く風《かぜ》の 止《や》む時《とき》なかれ
    吾毛念 人毛莫忘 多奈和丹 浦吹風之 止時無有
 
【語釈】 ○吾も念ふ人もな忘れ 「吾も念ふ」は、吾もまた君を思うで、「も」は同類を並べる意のもの。「君もな忘れ」は、君もまた吾を忘るなで、「な」は、禁止。下に「そ」を伴わないのは古格である。○多奈和丹 この語は、この一か所にあるだけのもので、意味が解せないものである。誤写説があり、また『管見抄』には「ねんごろなる心也」と解を下しているが、いずれも拠《よ》り所のないものである。不明としておくよりほかはない。○浦吹く風の止む時なかれ 「浦吹く風の」は、「浦」は海や湖の入江となっている所の称で、そうした所は絶えず風の吹いているものであるから、譬喩として捉えたもの。「の」は、のごとく。「止む時なかれ」は、絶えずそのようであれで、二句の「な忘れ」を強くしたもの。
【釈】 吾もまた君を思う。君もまた吾を忘れるな。浦に吹く風のごとく、絶えずも吾を思えよ。
【評】 三句が不明であるが、省いても大意が捉えられなくはない。訴えではあるが、上の歌と同じく積極的の態度のもので、自身と家持とを対等に扱い、一句二句と切り、三句以下は二句を強めたもので、訴えというよりは要求に近い形のものである。「浦吹く風の」という譬喩は、当時としては唐突の感のあるものである。それは譬喩は、眼前の物で、相手もそれを知っている物を捉えるのが普通となっていた。これは奈良京での歌で、浦とは関係のない地であるからである。女郎の胸には海が深く印象されていたためではないかと思われる。それだと上の「伊勢の海の」といっているのとつながりがあるかもしれぬ。
 
(429)607 皆人《みなひと》を 宿《ね》よとの鐘《かね》は 打《う》ちつれど 君《きみ》をし念《も》へば 寐《い》ねかてぬかも
    皆人乎 宿与殿金者 打礼杼 君乎之念者 寐不勝鴨
 
【語釈】 ○皆人を宿よとの鐘は 「皆人」は、熟語。ここは京の人全体をさすもの。「を」は、後世だと「に」というところである。「君を恋ひ」の場合と同じく、しばしば出た。「宿よとの鐘」は、今は寝よと命じるところの鐘で、当時奈良京には、鐘をもって時刻を知らせることが定めとなっていた。『代匠記』は詳しく説明している。それは『延喜式』第十六「陰陽寮」に、「諸時(ニ)撃(ツコト)v鼓(ヲ)。」として「子午(ニハ)各九下、丑未(ニハ)八下、庚申(ニハ)七下、卯酉(ニハ)六下、辰戌(ニハ)五下、巳亥(ニハ)四下、並《トモニ》平声、鐘依(レ)2》刻数(ニ)1也」というのである。また、日本書紀、天武紀十三年に、「逮《オヨビテ》2于|人定《ヰノトキニ》1大|地震《ナヰフル》」とあり、「人定」とは人の寝て定《しず》まる意であり、その時が亥の時だったのである。これは今の午後十時である。○打ちつれど 原文「打礼杼」旧訓「うつなれど」『考』の訓である。打ったけれども。打ったのは、陰陽寮のその係の人。○君をし念へば寐ねかてぬかも 「君をし」は、「君」は、家持。「し」は、強め。「寐ねかてぬ」は、「寐ね」は、眠る意。「かてぬ」は、巻二(九五)に出た。「かて」は、下二段の動詞で、連用形。堪えの意。「ぬ」は、打消の助動詞。堪えないで、あたわぬというに近い。「かも」は、詠歎。
【釈】 京のすべての人に、寝よと命じるところの鐘は打ったけれども、君を思っているので、眠ることができずにいることよ。
【評】 家持に対する思慕の心を詠んで訴えた歌である。訴えとはいうが、この歌には、家持の娉いを促そうとする直接の要求はもっていず、ただ思慕そのものをあらわそうとしたもので、その意味では独詠に近いものである。いっているところは、眠るべき時刻ではあるが、思慕の情が動いて眠らせないというだけのことで、「皆人を宿よとの鐘」を捉えていっているのも、周囲へ随順しようとする心のもので、全体としても静かな、柔らかい心をあらわしているものである。上の歌までの数首の積極的な、働きかけようとするものが消えている歌である。一首の歌とすると、単純に、感覚的に、清新な趣があって、女郎の歌才を思わせるものである。
 
608 相念《あひおも》はぬ 人《ひと》を思《おも》ふは 大寺《おほでら》の 餓鬼《がき》の後《しりへ》に 額《ぬか》づく如《ごと》し
    不相念 人乎思者 大寺之 餘鬼之後尓 額衝如
 
【語釈】 ○相念はぬ人を思ふは 思ひ合はないところの人を思うのは。○大寺の餓鬼の後に 「大寺」は、大きな寺。「餓鬼」は、ここは餓鬼の像。当時、大寺に餓鬼の像の据えてあったことは、巻十六(三八四〇)「寺々《てらでら》の女餓鬼申さく」とあるので知られる。「餓鬼」は、慳貪《けんどん》の報いとして陥る三悪道の一つの餓鬼道の中に悩んでいるもので、皮と骨ばかりに痩せ、常に餓に苦しんでいるさまをあらわしたものである。これを据えたのは、(430)悪業の報いを示すためで、礼拝《らいはい》させるためではない。「後に」は、後方にで、下の「額づく」位置で、それをするには効果のない所。○額づく如し 「額づく」は、額を地につけることで、礼拝を具体的にいったもの。「如し」は、原文「如」。旧訓は「がごと」。『古義』が改めた。意味としては同じであるが、調べの上で「如し」のほうが強く、一首に調和がある。それが作意であろう。
【釈】 思い合わない人を思うのは、大寺に示しのために据えてある餓鬼の像の、礼拝しても何の効果もない物を、しかもその後方にあって礼拝するがようである。
【評】 この歌は以上とは全く面目の変わったもので、家持に対しての恨みである。家持には何らの愛もないことをようやくに認めて、見きりをつけて故郷へ帰ろうとし、それに先立って贈ったものである。愚痴も恨みも限りもなくあったろうが、愚痴はいわず、恨みは、「大寺の餓鬼の後に額づく如し」という譬喩に託したのであるが、きわめて適切な、したがって新しい、類を絶した譬喩というべきである。思うに一種の昂奮状態にあって捉えたもので、その状態に入ると、女郎は心が冴えて自在となり、奔放を極めたことも言い得たとみえる。稀有な歌才である。
 
609 情《こころ》ゆも 我《わ》は念《も》はざりき 又《また》更《さら》に 吾《わ》が故郷《ふるさと》に 還《かへ》り来《こ》むとは
    從情毛 我者不念寸 又更 吾故郷尓 將還來者
 
【語釈】 ○情ゆも我は念はざりき (六〇一)に出た。○又更に吾が故郷に また重ねて、自身の郷国にで、「故郷」は、ここでは、自身の郷国の意のもので、その郷国は領地となっていた所であろう。その地のいずれであるかはわからない。
【釈】 心にも我は思わないことであった。また重ねてわが地に還って来ようとは。
(431)【評】 左注によって、故郷より贈った歌とわかり、二首の中のその一首である。故郷へ還つての最初の感慨ともいうべきもので、家持に対して抱いている長い間の恨みを総括して、これを言外に置いての言い方をしたものである。言外にしたのはすなわち訴えで、家持の心には響くものであったろう。また艶も失ってはいないのもそのためで、この女郎にふさわしいものである。
 
610 近《ちか》くあらば 見《み》ずとも在《あ》るを いや遠《とほ》く 君《きみ》が座《いま》せば ありかつましじ
    近有者 雖不見在乎 弥遠 君之伊座者 有不勝自
 
【語釈】 ○近くあらば見ずとも在るを 「近くあらば」は、近い所に君が居たならばで、下の「遠く座せば」に対させた仮設。「見ずとも在るを」は、たとい相逢わずとも我は生きていられるものを。○いや遠く君が座せば 「いや遠く」は、「いや」は、いとどの意。「遠く」は、女郎の故郷と京との距離。「君が座せば」は、「君」は、家持。「座せば」は、居ればの敬語。○ありかつましじ 「あり」は、生きて。「かつ」は、堪える意。「ましじ」は、後世の「まじ」にあたる古形。打消推量の助動詞。生きるに堪えられないであろう。巻二(九四)に出た。
【釈】 近い所に君が居るのであったならば、たとい相逢わずとも我は生きていられようものを、いとど遠い所に君が居られるので、我は生きているに堪えられないことであろう。
【評】 上の歌についで起こった心である。家持の居る土地から遠く離れようと覚悟して離れて来た故郷であるが、離れおわると新たにさみしさを感じてき、それを綿密にいったものである。いちおう見きりはつけたが、それとともに遠ざかろうということは、十分には覚悟がついていなかったがためで、当然な心理というべきである。
 
     右の二首は、相別れて後更に来贈《おく》れるなり。
      右二首、相別後更來贈。
 
【解】 「来贈れる」は、『考』は「来贈」二字を「おくれり」と訓み、『古義』は「おくれる」と訓んでいる。これらに従う。
 
     大伴宿禰家持の和ふる歌二首
 
611 今更《いまさら》に 妹《いも》にあはめやと 念《おも》へかも ここだ吾《わ》が胸《むね》 欝悒《おぼほ》しからむ
(432)    今更 妹尓將相八跡 念可聞 幾許吾胸 欝悒將有
 
【語釈】 ○今更に妹にあはめやと 「今更に」は、今は重ねて。「あはめや」は、推量の助動詞「む」の已然形「め」に、疑問の「や」の続いて、反語。逢おうか、逢わない。○念へかも 後世の「念へばかも」にあたる古格。「かも」は、「か」の疑問に、「も」の詠歎の添ったもの。○ここだ吾が胸欝悒しからむ 「ここだ」は、甚しく。「欝悒」は、旧訓「いぶかし」。『代匠記』は「いぶせく」。これは用例のあるものである。『玉の小琴』は「おぼほし」と改めた。これも用例のあるもので、いずれも心の霽《は》れやらぬ状態をいう形容詞である。しかし「おぼほし」のほうが緩やかさがある。これに従う。
【釈】 今は重ねて妹に逢うことがあろうか、ありはしないと思うからであろうか。このように、甚しくもわが胸の霽れやらずいることであろう。
【評】 儀礼として和えたという程度の歌で、感動の認められないものである。語つづきに粘りのあるのは、家持の歌風である。
 
612 中々《なかなか》に 黙《もだ》もあらましを 何《なに》すとか 相見《あひみ》そめけむ 遂《と》げざらまくに
    中々者 黙毛有益乎 何爲跡香 相見始兼 不遂尓
 
【語釈】 ○中々に黙もあらましを 「中々に」は、なまなかにというにあたり、下への続きから見ると、求婚のことをいわずしてという仮設の意をこめたもの。「然も」は、「黙」は、黙っていることで、上の仮定に応じさせて、それを明らかにしたもの。「も」は、詠歎。「あらまし」は、仮設の帰結。「を」は、詠歎。なまなかに求婚のことを言い出さずに、黙っていたほうが好かったものをの意。○何すとか相見そめけむ 「何すとか」は、「か」は、疑問で、何だとてというにあたる。「相見そめけむ」は、夫婦関係を結び始めたのであろうかで、「か」は上の句のもの。○遂げざらまくに 遂げないであろうことなのに、の意。
【釈】 なまなかに求婚のことを言い出さずに、黙っているべきであったものを、何だとて夫婦関係を結び始めたのであろうか。末遂げないであろうものを。
【評】 これも儀礼の心から嘆きのごとくいっているが、一切を過去のこととしてしまい、それに対して悔みの心をいっているのが、嘆きのごとく聞こえるというにすぎないものである。実用性の歌ではあるが、低調というべきものである。
 
    山口女王、大伴宿禰家持に贈れる歌五首
 
(433)【題意】 「山口女王」は、伝が明らかでない。
 
613 物《もの》念《おも》ふと 人《ひと》に見《み》えじと なま強《じひ》に 常《つね》に念《おも》へり 在《あ》りぞかねつる
    物念跡 人尓不所見常 奈麻強尓 常念弊利 在曾金津流
 
【語釈】 ○物念ふと人に見えじと 「物念ふ」は、「物」は添えていう語。「念ふ」は、嘆きで、嘆きは恋の上のもの。「と」は、ということを。「人に見えじと」は、周囲の人に見られまいと思って。 ○なま強に常に念へり 「なま強」は、「なま」は生《なま》で、熟に対した語。中途半端の意。「強」は強いてすることで、熟語。十分にできないことを強いての意の語。「常に念へり」は、絶えず用心している。○在りぞかねつる 「在り」は、生きていること。「かね」は、難い意。「つる」は、上の「ぞ」の結。
【釈】 嘆きをしているということを、周囲の人には見られまいと思って、できないことを強いて、絶えず用心をしている。これでは生きてい難いことであるよ。
【評】 家持に疎遠にされている嘆きを訴えたものである。実際に即して、つぶさにいうことによって嘆きをあらわそうとし、「なま強に」という副詞を用いているところ、また四句で結んで、飛躍をつけて結句を据えているところなど、すべて時代の歌風である。しかし一首全体とすると、作歌に馴れず、生硬の跡の蔽い難いものである。
 
614 相念《あひおも》はぬ 人《ひと》をやもとな 白細《しろたへ》の 袖《そで》漬《ひ》づまでに 哭《ね》のみし泣《な》くも
    不相念 人乎也本名 白細之 袖漬左右二 哭耳四泣裳
 
【語釈】 ○相念はぬ人をやもとな 「想念はぬ人を」は、思い合わないところの人をで、家持をさしたもの。「や」は、ここは詠歎。「もとな」は、ここは、筋も立たずというにあたる。○白細の袖漬づまでに 「白細の」は、「袖」の枕詞。「袖漬づまでに」は、袖が、拭う涙で濡れ通るまでに。○哭のみし泣くも 「哭のみ」は、声を立ててばかり。「し」は、強め。「泣くも」は旧訓。『代匠記』は「泣かも」と改めている。旧訓に従う。
【釈】 思い合わないところの人を、筋も立たず、わが袖の涙で濡れ通るまでに、声のみ立てて泣くことよ。
【評】 一般的の恋の心をいっているがごとくであるが、これは実際に即した歌と取れる。それは「もとな」の一副詞が強く働いていて、悲しみに溺れて泣き濡れている中途、自身のその状態を反省する心が起こったことをあらわしているものだからで(434)ある。「相念はぬ人をや」は、ついでそれを合理化しようとしてのものと取れる。すなわち感性ばかりでなく、知性も働いている歌である。一首として見ると、「もとな」があるために、単なる訴えにとどまらず、恨みをもまじえた、複雑なものとなってきているのである。詠み口は巧みではないが、実感であるところからくる力のある歌である。
 
615 吾《わ》が背子《せこ》は 相念《あひも》はずとも 敷細《しきたへ》の 君《きみ》が枕《まくら》は 夢《いめ》に見《み》えこそ
    吾背子者 不相念跡裳 敷細乃 君之枕者 夢所見乞
 
【語釈】 ○吾が背子は相念はずとも 「吾が背子」は、夫に対して最も親しんでの称。「相念はずとも」は、思い合わなかろうとも。○敷細の君が枕は 「敷細の」は、ここは「枕」にかかる枕詞。「君が枕」は、家持の用いている枕の方はで、「枕」をいっているのは、下の「夢」との関係においてである。夢は、人が我を思うと、その心が通って夢に現われてくるというのが、上代の信仰であって、ここもそれを背後に置き、君は思わぬので夢には見えるはずがないが、君の夜の身に最も近い物であって、思う思わぬの圏外の物である枕の意でいっているのである。○夢に見えこそ 「こそ」は、願望をあらわす助詞。夢に見えてくれよの意。
【釈】 わが背子は、我と思い合わずにいようとも、君の夜の身に添っている枕のほうは、わが夢に見えてくれよ。
【評】 思慕の情を訴えた歌である。「君が枕」を捉えているのは、実際的であるとともに、知性の働きもあるもので、静かな、しみじみした味わいをもったものである。最も女王の人柄を思わせる歌である。
 
616 剣大刀《つるぎたち》 名《な》の惜《を》しけくも 吾《われ》はなし 君《きみ》にあはずて 年《とし》の経《へ》ぬれば
    釼大刀 名惜雲 吾者無 君尓不相而 年之經去礼者
 
【語釈】 ○剣大刀名の惜しけくも 「剣大刀」は、剣の太刀で、ここは「名」の枕詞としてのもの。そのかかる理由は諸説があるが、『古義』の解が最も自然に聞こえる。「な」は刃の意の古語とみえ、刃物の名には「な」の音が多い。刀は片刃《かたな》、鉋《かな》、鉈《なた》の「な」もそれであろう。動詞「薙《な》ぐ」もそれであろうといい、なお挙げている。これに従う。「名の惜しけくも」は、「名」は、「刃《な》」を同音異義で転じたもので、名誉。「惜しけく」は、形容詞「惜し」に「く」を添えて名詞形としたもの。惜しいこと。「も」は、詠歎。夫のあるということは不名誉のこととしていたとみえる。強くいっているところから見ると、女王の身分に関係することかと思える。○吾はなし 言いきった、強いもの。○君にあはずて年の経ぬれば 「あはずて」は、「あはずして」。
(435)【釈】 剣太刀などいうその名の惜しいことも我は今はない。君に逢わなくて年を経て来たので。
【評】 思慕の訴えではあるが、沈静な趣をもった強いもので、同じく知性的な人柄を思わせるものである。あるいは家持から、名ということについていった歌があって、それに対してのものではないかとも思われる。
 
617 蘆辺《あしべ》より 満《み》ち来《く》る潮《しほ》の いや益《ま》しに 念《おも》へか君《きみ》が 忘《わす》れかねつる
    從蘆邊 滿來塩乃 弥益荷 念歟君之 忘金鶴
 
【語釈】 ○蘆辺より満ち来る潮の 「蘆辺」は、蘆の生えている辺りで、海岸を具象的にいったもの。「より」は、下の「潮」の進行する位置をあらわしたもので、「に」というにあたる。「満ち来る潮」は、しだいに満ち来る潮、すなわち満潮となろうとする状態。「の」は、のごとくの意のもので、下の「いや益し」の譬喩。○いや益しに念へか君が 「いや益しに」は、いよいよまさって。「念へか」は、旧訓「おもふか」。『代匠記』が改めた。後世の「念へばか」にあたる古格で、思うせいであろうか。「君が」は、君を主格としての言い方。○忘れかねつる 「忘れ」は、忘られの意。「かね」は、得ずの意。
【釈】 蘆辺にしだいに満ちて来る潮のごとく、いよいよまさって思うせいであろうか、君のことが忘れ得ぬことであるよ。
【評】 「君が忘れかねつる」は、家持の態度を見ると、女王は忘れなくてはならないことを背後に置いての言である。しかし女王の実際は、それができないというので、知性の命じるところに感情は従いかねていることをいったものである。のみならず女王は、「いや益しに念へか」と、疑いを添えていう状態にさえなっているので、その「いや益し」は、譬喩を借りて力強くいおうとするものともなっているのである。これは家持に疎んぜられると、反対にますます思慕が募ってくるという、心理の機微を含んだものである。知性の伴った、静かではあるが相応に強みをもった人柄が現われている歌である。
 
     大神《おほみわの》女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌一首
 
【題意】 「大神女郎」は、伝が明らかではない。大神氏は、続日本紀に散見しており、『新撰姓氏録』によると大国主命の後であり、姓は朝臣である。
 
(436)618 さ夜中《よなか》に 友《とも》喚《よ》ぶ千鳥《ちどり》 物念《ものも》ふと わび居《を》る時《とき》に 鳴《な》きつつもとな
    狭夜中尓 友喚千鳥 物念跡 和備居時二 鳴乍本名
 
【語釈】 ○さ夜中に友喚ぶ千鳥 「さ夜中」は、夜中。「友喚ぶ」は、鳴き声の群れているのを、その声のさみしさから、友を喚ぶと聞きなしての言。「千鳥」は、呼びかけに近いもの。○物念ふとわび居る時に 「物念ふ」は嘆きであるが、ここはそれを緩やかにして、文字どおり、ものを思う意。「と」は、とて。「わび居《を》る時に」は、悲しく思っている時に。○鳴きつつもとな 「鳴きつつ」は、「つつ」は継続で、鳴き鳴きして。「もとな」は、ここは、由もなくで、さらに我を悲しませるという意を含めたもの。
【釈】 夜中に、その友を喚ぶ千鳥よ。ものを思うとて、わが悲しく思っている時に、鳴き鳴きして、由もなくさらに我を悲しませる。
【評】 家持に恋の上の訴えをしようとの心で詠んだものであるが、いうところは、ある夜中における女郎の哀感を、環境としての自然の千鳥に絡ませて、独詠の形をもって詠んだものである。「物念ふとわび居る」は、恋の上のもので、家持に訴えようとするものであるが、表面はやや心を広く、間接なものにし、その哀感を強めしめる千鳥の声のほうを、むしろ主としたものである。心情を自然化させようとしているもので、実用性の歌を文芸性のものにしようとしているのである。しかし詠み方は、あくまで実際に即し、心細かく、しみじみと詠んでいるものであって、その文芸性は、実用性という上から見てもかえって効果的なものである。
 
     大伴坂上郎女、怨恨の歌一首 井に短歌
 
【題意】 「怨恨」は、夫の不信に対してのものである。郎女は前後三人の夫をもち、初めは穂積皇子に召され、皇子薨後、藤原麿に逢い、最後に大伴宿奈麿の後妻となって坂上大嬢を生んだのである。歌から見て、この怨恨は藤原麿に対してのものではないかと想像されている。
 
619 押照《おして》る 難波《なには》の菅《すげ》の ねもころに 君《きみ》が聞《き》こして 年《とし》深《ふか》く 長《なが》くし云《い》へば 真《ま》そ鏡《かがみ》 磨《と》ぎし情《こころ》を 縦《ゆる》してし その日《ひ》の極《きは》み 浪《なみ》の共《むた》 靡《なび》く玉藻《たまも》の かにかくに 意《こころ》は持《も》たず 大船《おほふね》(437)の 憑《たの》める時《とき》に ちはやぶる 神《かみ》や離《さ》けけむ うつせみの 人《ひと》か禁《さ》ふらむ 通《かよ》はしし 君《きみ》も来《き》まさず 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》も見《み》えず なりぬれば いたもすべなみ ぬば玉《たま》の 夜《よる》はすがらに 赤《あか》らひく 日《ひ》も闇《く》るるまで 嘆《なげ》けども しるしを無《な》み 念《おも》へども たづきをしらに 幼婦《たわやめ》と 言《い》はくもしるく た小童《わらは》の 哭《ね》のみ泣《な》きつつ たもとほり 君《きみ》が使《つかひ》を 待《ま》ちやかねてむ
    押照 難波乃菅之 根毛許呂尓 君之聞四手 年深 長四云者 眞十鏡 磨師情乎 縱手師 其日之極 浪之共 靡珠藻乃 云々 意者不持 大船乃 〓有時丹 千磐破 神哉將離 空蝉乃 人歟禁良武 通爲 君毛不來座 玉梓之 使母不所見 成奴礼婆 痛毛爲便無三 夜干玉乃 夜者須我良尓 赤羅引 日母至闇 雖嘆 知師乎無三 雖念 田付乎白二 幼婦常 言雲知久 手小童之 哭耳泣管 俳〓 君之使乎 待八兼手六
 
【語釈】 ○押照る難波の菅の 「押照る」は、いちめんに照る意で、「難波」の枕詞。かかる理由は諸説があるが、『管見抄』の、潮照りで、讃める意でかかるというに従う。「難波の菅」は、難波の海岸に生える菅で、蓆《むしろ》、笠などを主として、日用品を造る大切な材料であった。この二句は、下の「根」に続き、その「根」を「ねもころ」の「ね」に転じて、その序詞としたもの。○ねもころに君が聞こして 「ねもころに」は、ねんごろにで、懇切にというにあたる。「君」は、夫に対していっているもので、麿であろう。「聞こし」は、「言ふ」の敬語で、仰せになりというにあたる語。巻十一(二七一〇)「不知《いさ》とを聞《きこ》せわが名告らすな」がある。○年深く長くし云へば 「年深く」は、年多くで、何年にもわたっての意。巻三(三七八)「いにしへの旧《ふる》き堤は年深み」、その他ある。「長くし云へば」は、「し」は強め。長い間いったのでで、夫婦関係を結ぶに至るまでの、長い交渉期間をいったもの。初句よりこれまでは、夫の真実を信ずるに至った経路をいったもの。○真そ鏡磨ぎし情を 「真そ鏡」は、真澄鏡で、意味で、「磨ぎ」にかかる枕詞。「磨ぎし情」は、磨ぎすましていた心で、緊張していた心の意。この心は男女関係の上でのものであるから、郎女がこうした心をもったのは、たぶん穂積皇子薨後のことと思われる。○縦してしその日の極み 「縦してし」は、「て」は完了。許してしまったで、妻となった意。「その日の極み」は、その日を限りとしてで、それ以来の余意をもったもの。○浪の共靡く玉藻の 「浪の共」は、浪とともに。巻二(一三一)に出た。「玉藻」は、「玉」は、美称。二句、靡く状態として、「かにかくに」と続け、その「かにかくに」を意の状態に転義して、その序詞としたもの。譬喩に近いものであるが、序詞と取れる。「かにかく」の譬喩。○かにかくに意は持たず 「かにかくに」は、どうこ(438)うにの意で、副詞。下に思うという動詞の省かれているもの。「意は持たず」は、「持たず」は、連用形で、上に続いて、二句、心一筋にという意を強めていったもの。○大船の憑める時に 「大船の」は、意味で「憑む」にかかる枕詞。既出。「憑める時に」は、夫を頼みとしている時に。○ちはやぶる神や離けけむ 「ちはやぶる」は、「神」にかかる枕詞。「神や離けけむ」は、「や」は、疑問。「離け」は、我より引離す。「けむ」は、過去の推量。神が君を引離してしまったのであろうか。○うつせみの人か禁ふらむ 「うつせみの」は、現身ので、「人」の枕詞。既出。「か」は、疑問。「禁ふ」は、「障《さ》ふ」で、遮る、すなわち邪魔をする。「らむ」は、現在の推量。世間の人が君を遮っているのであろうか。○通はしし君も来まさず 「通はし」は、「通ふ」の敬語。夫として妻の許に通う意。「し」は、過去。「君も」の「も」は、下の「使」と並べてのもの。「来まさず」は、「来ず」の敬語。○玉梓の使も見えず 「玉梓の」は、「使」にかかる枕詞。巻二(二〇七)に出た。「使も」の「も」は、「君も」に並べたもの。「見えず」は、連用形で、下へ続く。○なりぬればいたもすべなみ 「なりぬれば」は、「なり」は、変化する意。「ぬれ」は、完了。変わってしまったので。「いたもすべなみ」は、「いたも」は、いたくもと同じく、甚しくも。「すべなみ」は、せん術《すべ》なくして。○ぬば玉の夜はすがらに 「ぬば玉の」は、「夜」にかかる枕詞。既出。「夜はすがらに」は、「すがら」は、尽《すが》るるまでにで、夜は夜の明けるまでに。「夜は」は、下の「日も」に対させたものであるが、夜のほうを主としたことをあらわしているもので、実際に即した言い方である。○赤らひく日も闇るるまで 「赤らひく」は、ここは、「日」にかかる枕詞。解は諸説があって定まらない。「日も闇るるまで」は、日もまた暮れるまでで、日も終日。○嘆けどもしるしを無み 「しるしを無み」は、その甲斐なくしての意。○念へどもたづきをしらに 「念へども」は、嘆けどもというに同じ。「たづき」は、手段。「しらに」は、「知らに」で、「に」は打消。知らずの意であるが、下の事の原因をあらわす際に用いる語。○幼婦と言はくもしるく 「幼婦《たわやめ》」は、義訓。たわやかなる女で、弱い女の意。「言はく」は、「言ふ」の未然形に「く」を続けて名詞形としたもの。人に言われること。「も」は、詠歎。「しるく」は、著くで、いちじるく。○た小童の哭のみ泣きつつ 「た小童」は、「た」は接頭語で、童《わらわ》。「の」は、のごとく。「哭のみ泣きつつ」は、声を立ててばかり泣きながら。○たもとほり君が使を待ちやかねてむ 「たもとほり」は、「た」は接頭語。「もとほり」は、あちこちとうろうろしての意で、下の「待ち」の状態。「君が使を」は、夫よりの使で、せめてもの便《たよ》りをの意でいっているもの。「待ちやかねてむ」は、「や」は、疑問。「かね」は、得ぬ意。「て」は、完了で、強めているもの。待って待ち得ないのであろうか。
【釈】 押照る難波の菅の根という、そのねんごろさをもって、君は我に仰せになって、何年にもわたって長い間をいうので、真そ鏡|磨《と》ぎすました緊張していた心を君に許した、その日を限りとしてそれ以来は、浪とともに靡く玉藻の、どうこうと思って動揺する心をもたず、ただ君を頼みとしている時に、神が君を引き離してしまったのであろうか、世間の人が遮って邪魔をしているのであろうか、通っていらした君もお越しにはなられずに、君の使もまた見えないさまに変わってしまったので、甚しくもせん術《すべ》がなくして、夜は夜の尽きるまでに、昼も暮れてゆくまでに、たえず嘆いているけれどもその甲斐はなくして、物思いをしているけれどもすべき手段を知られずに、弱い女と人にいわれていることのとおりに、童のごとくに声を立ててばかり泣きながら、あちこちとうろうろして、せめてはと思う君よりの使を、待って待ち得ないのであろうか。
【評】 一首、怨恨とはいうが、夫の不実を嘆く心のもので、当時の夫婦生活にあってはきわめてありがちな、むしろ一般的な(439)ものである。これは短歌としても言いうる性質のもので、またその類も多いものである。長歌にしたのは、郎女が心の委曲を尽くさずにはいられない要求に駆られてのことと思われる。構成もしたがって単純で、前半、「大船の憑める時に」までは、結婚前の成行き、結婚直後の真実心で、後半は、その心の理由なく裏切られた嘆きであって、これを対照的に扱ったものであり、短歌によくある構成と異ならないものである。しかし技巧についていうと、深い用意がしてあって、その並々ならぬものを示している。第一に注意されることは、この歌は相応な長さをもっているのに、一首一句で、句の切れをもっていないことである。これは人麿系統のもので、余裕をもって詠みこなす手腕をもたない限りできないことであるが、それをしきっていることである。第二は、調べの上での読点《とうてん》の切り方であって、四句一読点、六句一読点を、自然な状態で錯落させてあって、平板と単調とを巧みに避けていることである。第三は、対句の用い方であって、前半の軽いほうには全く用いず、後半の重いほうに移ると、二句対を連続して用いて、それによって感を強めていることである。第四は、「押照る難波の菅の」と「浪の共靡く玉藻の」という二つの序詞は、前半にのみ用いて、後半には一つも用いていないことである。その海に関した物のみであることも、奈良京にあってのことだから想像のもので、文芸性よりのものである。以上、全体にわたってのことで、さらに細部についていえば、前半の読点は、「長くし言へば」まで六句、「その日の極み」まで四句、「憑める時に」まで六句である。「磨ぎ」の枕詞「真そ鏡」も、男子ならば「剣太刀」とあるを用うべきで、用意がある。次に後半は、「人か禁ふらむ」まで四句、これは二句対で当然である。「いたもすべなみ」まで六句、これは二句対に、繋ぎの二句の添ってのものである。「日も闇るるまで」まで二句対を二回、「たづきをしらに」まで同じく二句対二回、「哭のみ泣きつつ」まで四句、二句対に近いもの。ついで結末の三句である。注意されるのは、「神や離けけむ、人か禁ふらむ」と助動詞に時の変化をもたせていることであるが、これは無意識のこととは思われない。また、「夜はすがらに、日も闇るるまで」と、助詞の用法で夜を主とし、日を従としていることをあらわしているのは、明らかに意識してのことと思われる。結末の「たもとほり君が使を待ちやかねてむ」は、「たもとほり」と生動する句を用いながら、「待ちやかねてむ」とおおらかな句をもって応じさせているところに、用意がみえる。要するに、いうところは一般的なことであるが、心を尽くそうとして尽くしきっており、技巧としては適切をもっており、心細かに、洗煉よりくる品位と余裕とのあるもので、郎女の手腕を示しているものである。全体としては平板で、立体感の乏しい、したがって魅力の少ないものであるが、これは取材そのもののためといえる。この当時としては優れたものといわなくてはならない。
 
     反歌
 
620 元《はじめ》より 長《なが》く謂《い》ひつつ 恃《たの》めずは かかる念《おも》ひに あはましものか
(440)    從元 長謂管 不令恃者 如是念二 相益物歟
 
【語釈】 ○元より長く謂ひつつ 「元より」の「より」は、事の進行の時を示しているもので、「に」にあたるもの。「長く謂ひつつ」は、長い期間にわたって交渉を続けつつで、長歌の「年深く長くし云へば」の繰り返し。○恃めずは 「令」の字、金沢本、紀州本のほかは「念」とあり、『代匠記』は、「念」は「令」の誤りといっている。頼ませなかったならばで、事実とは反対な仮設。○かかる念ひにあはましものか 「かかる念ひ」は、こうした甚しい嘆き。「あはましものか」は、出逢おうものかで、「まし」は、仮設の帰結。これは長歌の後半の繰り返し。
【釈】 初めに、長期にわたっての交渉を続けて、我をして額ましめなかったならば、今日こうした嘆きに出逢おうものか。
【評】 長歌の意を要約したもので、反歌としてはむしろ古い詠み方である。怨恨の心が沁みていて、独立した歌と見ても感のあるものである。
 
     西海道節度使判官佐伯宿禰|東人《あづまひと》の妻、夫君に贈れる歌一首
 
【題意】 「節度使」は、天平四年初めて置かれた官であり、職掌は諸道に遣わして、軍務などの事を検定せしめられることであった。「判官」は、四等官の中の三等官で、いわゆる「じょう」であり、四人あった。「佐伯宿禰東人」は、続日本紀、天平四年八月この官をもって外従五位下を授けられている。佐伯氏は、『新撰姓氏録』に、大伴氏と同祖、道臣命七世の孫である室屋大連公の後だとある。
 
621 間《あひだ》無《な》く 恋《こ》ふれにかあらむ 草枕《くさまくら》 旅《たぴ》なる公《きみ》が 夢《いめ》にし見《み》ゆる
    無間 戀尓可有牟 草枕 客有公之 夢尓之所見
 
【語釈】 ○間無く恋ふれにかあらむ 「問」は、旧訓「ひまも」。『代匠記』の訓。両様に訓み得られるが、「あひだ」のほうが、下の続きに適切に見える。これは絶え間の意。「恋ふれにかあらむ」は、「か」は、疑問。我を恋うているのであろうかと推量したので、その推量は、「夢にし見ゆる」との関係においてである。人が我を思うと、その人がわが夢に見えるという信仰の上に立つてのことで、これは上の(六一五)にも出ている。○草枕旅なる公が 「草枕」は、「旅」の枕詞。「旅なる公」は、旅にある公で、「公」は、夫に対しての称。○夢にし見ゆる 「し」は、強め。「見ゆる」は、「公が」の「が」の結。連体形。
【釈】 絶え間なく君は我を恋うているのであろうか。旅にある君が、わが夢に見えることであるよ。
(441)【評】 旅にある夫に贈ったもので、夫に対する思慕の情をいうのを目的としたものであるが、直接には何事もいわず、当時の夢に対する信仰によって、夫が自分を絶え間なく恋うていてくれるだろうことを確かめ、それを喜ぶことによって、間接にあらわしているものである。遠隔の地にある夫に贈る歌を、こうした間接なもので満足していたということは、夫婦関係がきわめて円満で、双方信じ尽くしているからこそありうることである。人柄を思わせられる歌である。
 
     佐伯宿禰東人の和ふる歌一首
 
622 草枕《くさまくら》 旅《たび》に久《ひさ》しく なりぬれば 汝《な》をこそ念《おも》へ な恋《こ》ひそ吾妹《わぎも》
    草枕 客尓久 成宿者 汝乎社念 莫戀吾味
 
【語釈】 ○草枕旅に久しくなりぬれば 旅にあることも久しくなってしまったので。○汝をこそ念へ 他の事はとにかく、汝のことをだけ思っているで、ここで段落である。○な恋ひそ吾妹 「な……そ」は、禁止。「吾妹」は、呼びかけ。我を恋うことはするな、妻よで、妻の物思いをすることを、憐れんで制した心である。
【釈】 旅にいることが久しくなってしまったので、他のことはとにかく、汝だけが恋しいことであるよ。しかし汝は、我を恋うことはするな、妻よ。
【評】 初句より四句までは、妻のいってきたことを、そのとおりだと承認し、確かめてやったもの。結句は一転して、我はそうだが、しかし汝は我を恋うなよと、妻を隣れんでいい、それを中心としたのである。結句のことは、妻はそれとはいっていないが、察していっているものである。妻にふさわしい夫である。
 
     池辺王《いけべのおほきみ》の宴《うたげ》に誦《とな》へし歌一首
 
【題意】 「池辺王」は、続日本紀、神亀四年従五位下を授けられ、天平九年内匠頭となった記事がある。また、延暦四年七月「庚戌(十七日)刑部卿従四位下因幡守|淡海真人三船《あふみのまひとみふね》卒。三船、大友親王之曾孫也。祖、吉野王正四位上式部卿。父、池辺王従五位上内匠頭」とあるので、弘文天皇の孫である。「宴に誦へし歌」は、宴席で短歌を誦うことは風をなしていたことで、集中その例が多い。古歌をもってし、あるいは自歌をもってもした。本来は、宴席には歌は欠き難いものであって、儀礼のものとなっていたのであるが、後には興のものとなってきた。ここは興としてのものと取れる。
 
(442)623 松《まつ》の葉《は》に 月《つき》はゆつりぬ 黄葉《もみちば》の 過《す》ぎぬや君《きみ》が あはぬ夜《よ》多《おほ》き
    松之葉尓 月者由移去 黄葉乃 過哉君之 不相夜多焉
 
【語釈】 ○松の葉に月はゆつりぬ 「ゆつり」は、集中、「移り」と並び用いられている語で、移りの意。松の葉のところに、月が移ってきたで、上代、夜の時刻の移りを月によって知るのは普通のことであり、集中に例が多く、これもそれである。下の続きで見ると、女が夜、夫としての「君」の通って来るのを、その家にいて待っていてのことで、「松」は女の家の辺りのもの。「月」がそこまで移ったのは、時刻の遅過ぎることをあらわしたもの。段落。○黄葉の過ぎぬや君が 「黄葉の」は、「過ぎ」にかかる枕詞。巻一(四七)「黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し」に出た。この「黄葉の過ぎ」は、木の葉の黄変するのは、その推移であるとし、推移は経過であるとして、経過の意の「過ぎ」に続けてその枕詞としたものである。「過ぎ」の中の最も重大なものは人の死で、現世から幽界へ過ぎることであるから、その意で用いられているものが多いのであるが、「過ぎ」は意味の広い語で、ここの「過ぎ」は夫の愛の盛りが過ぎた意に用いられてあり、「過ぎぬや」は、「ぬ」は、完了、「や」は、疑問で、愛の盛りが過ぎてしまったであろうかの意。「君が」は、この一文の主格で、上の(六一七)の四、五句「念《おも》へか君が忘れかねつる」と同じである。○あはぬ夜多き 「多き」は、旧訓「おほみ」。『攷証』の改めたもの。我に逢わない夜、すなわち通って来ない夜の多いことであるよで、「多き」は連体形、上の「や」の結。
【釈】 松の葉に月が移って来て、君が通って来るとしては遅くなりすぎて、待つ甲斐がなくなった。愛の盛りは過ぎたのであろうか、君の通って来ず、逢わない夜の多いことであるよ。
【評】 歌は、妻がある夜、夫の通って来るのを待って待ち得ず、またそうしたことが連夜に及んでいるので、夫の愛を危んだ嘆きで、当時としては例の多い、一般性をもったものである。宴席の興にふさわしい歌である。問題は、これは古歌か、王の自歌かという点である。歌は一見素朴であり、また重厚味ももっているので、古歌ではないかと思わせるものである。当時は新風を慕った時代であるから、これを聞く人は古歌の感を起こしたことであろう。また歌は明らかに女の心であるから、これもその感を援けることである。しかし宴席で誦《うた》ったものとすると、これらはすべてその興を高めることであって、また興を高める上からいえば、古風も、女の心も、作為しうるものであるから、一概のことはいえないことである。今、作為という上から見れば、この歌は素朴に似て用意があり、重厚味に似たものも醸し出したものであって、男の歌と見えるところがある。「松の葉に月はゆつりぬ」は、下との関係においてきわめて巧妙なものである。これで一段としているところ、「ゆつり」という古語を用いているところも古風を思わせるが、この捉え万は民謡には例の少なくないものである。問題は、「黄葉の過ぎぬや君が」にある。「黄葉の過ぎぬや」は、これを形から見ると「松の葉に月はゆつりぬ」に酷似していて、対句として繰り返したがごと(443)き形のものである。それが感としては古風を感じさせもするのであるが、意味としてはかなりな飛躍をもって進展させているものである。またこの二句は、上に引いた「黄葉の過ぎにし君が」を連想させるものであるが、それは人麿の歌で、名高いものであるから、当時の人口にもあって、同じく連想させたものであろう。人麿の歌は死の意であるのに、これは愛の衰えであるから、その距離が聞く人を微笑させたものと思われる。これは明らかに作為であり、また知性的なものでもある。「君が」の用法も、例に引いたように、この当時にあるものであり、その他にも類似のものがあって、当時の好みにあったものとみえる。大体、一首全体が気分であって、形象化に心を用いたものであることは明らかであるが、初二句より三句以下への飛躍は大き過ぎるもので、それを遂げているのは、男性の知性がさせているものと思われる。要するにこの歌は池辺王の自歌であって、古歌ではなく、古風を摸したもので、女性の心をいってはいるが、当時の風に従って、気分を知性的に具象化した跡の明らかなるものといえる。また歌としては、おおらかで、品はあるが、さして歌才の豊かなものとは見えないものである。
 
     天皇、酒人女王《さかひとのおほきみ》を思《しの》ひ給ふ御製歌《おほみうた》一首 女王は穂積皇子の孫女なり
 
【題意】 「天皇」は、聖武天皇。「酒人女王」は、元暦本などの題詞の下に小字で、「女王者穂積皇子之孫女也」とあるほか、史上には見えない方である。
 
624 道《みち》にあひて 咲《ゑ》まししからに 零《ふ》る雪《ゆき》の 消《け》なば消《け》ぬがに 恋《こ》ふとふ吾妹《わぎも》
    道相而 咲之柄尓 零雪乃 消者消香二 戀云吾味
 
【語釈】 ○道にあひて咲まししからに 「道にあひて」は、女王が往還で、人に逢っての意。その人は、男性で、身分の知れている人とはみえるが、誰ともわからない。「咲ましし」は、原文「咲之」。旧訓「ゑみせし」。『考』の訓。「咲みし」の敬語。女性に対しては敬語を用いる風があったので、それに従われてのものと思われる。「からに」は、ゆえに。女王が笑顔をなされたがゆえにで、これは敬意を表されたがために、答礼としてのことと取れる。○零る雪の消なば消ぬがに 「零る雪の」は、消えの意で、その約の「消」にかかる枕詞。「消《け》消なば消ぬがに」は、「消《け》」は、命消えの意で、死の意に用いていた語。「がに」は、ごとくにの意。死ぬならば死んでしまえというがごとくにで、下の「恋ふ」の状態。恋が甚しく、その苦しさに、生きているにもいられぬ意。○恋ふとふ吾妹 「恋ふとふ」は、旧訓「こふてふ」。『略解』の訓である。両様に訓みうるもので、意味も同じである。「とふ」のほうが語感が柔らかで、全体に調和があるので、これに従う。恋うと、その人がいっているところの我妹よで、「吾妹」は女王を親しんで呼びかけ給うたもの。
(444)【釈】 往還で逢って、笑みをなされたがゆえに、その人は、死ぬならば死んでしまえというごとくにも恋うているという噂のある吾味よ。
【評】 何らかのおりに、御製のような噂をお聞きになられ、興をお感じになったところから、それを歌として女王に賜わったもので、他の意はないものに思われる。きわめておおらかに、また品位の高い、皇室にのみあって、臣民の間には全く見られない風をもった歌柄である。これは歴代の伝統となっている風である。
 
     高安王、※[果/衣]《つつ》める鮒を娘子《をとめ》に贈れる歌妹一首 高安王は後に姓大原真人の氏を賜へり
 
【題意】 「高安王」は、上の(五七七)に出た。「※[果/衣のなべぶたなし]める鮒」は、物に包むのは、贈り物をする時の定まりである。鮒は生きていないもの。なお鮒は淡水魚で、大きい物は尺にも余る。「娘子」は、誰とも知れぬ。
 
625 奥《おき》へ往《ゆ》き 辺《へ》に去《ゆ》き今《いま》や 妹《いも》が為《ため》 吾《わ》が漁《すなど》れる 藻臥束鮒《もふしつかぶな》
    奧弊徃 邊去伊麻夜 爲妹 吾漁有 藻臥束鮒
 
【語釈】 ○奥へ往き辺に去き今や 「奥」は、沖で、普通海についていう称であるが、上代では池、川などにも用いた。ここは鮒の居場所としてであるから淡水である。広い沖のほうへ行き。「辺に去き」は、「辺」は、奥に対して、陸寄りの所をいう称。「辺に去き」は、岸寄りのほうに行きで、上より続いて、さまざまに労苦してという意を具体的にいったもの。「今や」は、「や」は、詠歎。今ようやくにというほどの意。○妹が為吾が漁れる 「妹が為」は、妹に贈ろうがために。「吾が漁れる」は、わが漁り得たところの。○藻臥束鮒 「藻臥」は、藻の中に臥しているで、鮒の藻に潜んでいるのを、その長く横たわっている恰好から臥していると見たので、感覚化した言い方。「束鮒」は、一束の鮒で、束は上代の尺度の単位。指四本を並べた長さで、二寸余。下に詠歎の心がこめられている。
【釈】 沖のほうへ行き、また岸寄りのほうへ行きなど、さまざま労苦して、今ようやくに、妹がためにわが漁り得たところの藻に臥している束ばかりの鮒であるよ。
【評】 人に物を贈るおりには、その贈り物は贈り主の心のこもっている物であることを言い添えるのが上代の礼になっていた。これもその範囲のものであるが、この歌では、その物に合わせては言い方が大げさで、また巧みでもあって、挨拶という境を超え、独立した、明るく楽しい歌となっているものである。鮒は、その棲む所で得ようとすればたやすく得られるものである(445)のに、初句より四句までは、甚しくも得難いものであるがごとくいい、それを妹がために辛くして得たようにいっているのはあまりにも見え透いている誇張で、自他共に微笑するような言である。しかもそれは束鮒というがごとき小さな物なのである。「藻臥束鮒」は、きわめて巧妙な造語である。複雑した事柄を、感性によって綜合して簡潔なものとし、しかも語感の柔らかなものとしている。鮒に対する感のこもっているもので、それが魅力をなしている。これはこの場合にも適切なものであるが、さらに拡がりをもちうる語である。
 
     八代女王《やしろのおほきみ》、天皇に献れる歌一首
 
【題意】 「八代女王」は、父祖が考え難い。続日本紀、天平九年無位から正五位下を授けられ、また天平宝字二年「毀2従四位下矢代女王位記1、以d被v幸2先帝1而改uv志也」とある。先帝というのは聖武天皇である。
 
626 君《きみ》に因《よ》り 言《こと》の繁《しげ》きを 古郷《ふるさと》の 明日香《あすか》の河《かは》に みそぎしに去《ゆ》く【一の尾に云ふ、竜田《たつた》越《こ》え三津《みつ》の浜辺《はまべ》にみそぎしにゆく】
    君尓因 言之繁乎 古郷之 明日香乃河尓 潔身爲尓去【一尾云、龍田越 三津之濱邊尓 潔身四二由久】
 
【語釈】 ○君に因り言の繁きを 「君に因り」は、「君」は天皇で、天皇によってわが上に。「言の繁きを」の「言」は、ここは噂という程度のものではなく、下の「みそぎ」を必要とする深刻なものである。これは嫉み恨みなと、要するに憎んでの詛《のろ》いにまで及んでいるものとみえる。女王が天皇より幸いせられることが背後にあり、後宮の人々よりされるものと取れる。人より詛われると、その影響で詛われた人(446)の身が衰えるということは、上代の信仰で、後までも続いたものである。ここもその意である。「繁き」は、多き。○古郷の明日香の河に 「古郷」は、故京で、奈良京以前の飛鳥地方。「明日香の河」は、飛鳥川で、飛鳥の代表的の川。○みそぎしに去く 「みそぎ」は、「身滌《みそそぎ》」の約で、水で身を滌ぐこと。一定の法でそれをすると、身に積もっている罪穢を祓いうるということは、上代の信仰の中でも重いもので、後までも続いているものである。○一の尾に云ふ 一本には、一首の「尾」、すなわち三句以下が異なって、次のようにいっている。○竜田越え三津の浜辺に 「竜田越え」は、竜田山を越えてで、大和より難波へ行く通路。大和国生駒郡、今の三郷村で、そこの西嶺がすなわちそれである。「三津」は、難波の津で、下のみそぎをする場所としてのもの。
【釈】 陛下によって、人より忌まわしい言葉の多くをいわれているわが身の穢を祓うために、故京の飛鳥川へ禊《みそぎ》をしに行く。また、竜田山を越えて、三津の浜辺へ行く。
【評】 上にいったがように、女王が天皇より幸いせられた後、競争と嫉妬のはげしい後宮の人々から忌まわしい言葉を盛んにいわれ、当時の信仰でその身に及ぼす穢を怖れて、同じく当時の信仰から明日香河へ禊に行こうとした際の歌で、天皇に献ったのは、訴えと報告の心よりである。一本の伝えは、三津の浜辺が同じく禊の場所とされていたところから起こったものである。原形は、女王のそうした場合のものとして、「明日香の河」であったろうと思われ、異伝の起こったのは、「三津の浜辺」のほうが一般的であったためかと思われる。歌としては、その時の実際に即しての物で、特殊なものではない。
 
     娘子《をとめ》、佐伯宿禰赤麿に報《こた》へ贈れる歌一首
 
【題意】 娘子は、誰とも知れない。「赤麿」は、巻三(四〇四)以下に出て、娘子と贈答した歌をとどめている。ここの贈答も同じ娘子とのものと思われる。
 
627 吾《わ》が手本《たもと》 巻《ま》かむと念《おも》はむ 大夫《ますらを》は 変水《をちみづ》定《しづ》め 白髪《しらが》生《お》ひにたり
    吾手本 將卷跡念牟 大夫者 變水定 白髪生二有
 
【語釈】 ○吾が手本巻かむと念はむ 「吾が手本」は、「吾」は、娘子。「手本」は、文字どおり手の本であるが、転じて袂の意となったもの。しかし事実は手で、それを婉曲にあらわしたものである。「巻かむ」は、纒《ま》かむで、枕としようとする意。わが手を枕としようと思うであろうところの意で、下へ続く。○大夫は 「大夫」は、赤麿を尊んでいったもの。初句よりこれまで一段落で、「大夫」は主格、意としては初句の上にあるべきもの。○変水定め 旧訓「なみだにしづみ」。原文「變」は諸本「戀」。元暦本に「變」とあるのによる。それだと巻十三(三二四五)「月よみ(447)の持たる変若水い取り来て」とある「変若水」の略で、「をち水」である。『新訓』はこれを取っている。「恋水」を「涙」の義訓とするのは迎えての訓で、『新訓』に従うべきである。「定」を、『新訓』は「求」を当て、元暦本によると注しているが、『校本万葉集』では「定」は諸本異同がない。旧訓の「しづみ」につき『代匠記』は、「定は人のねたるを人定《しづまる》といふ。沈静とかきてしめやかとよみ、又沈静とつゞくる心、まことにしづかといふも、しづむとおなじ心なり」と注している。さらにまた、鎮定と熟する語もあるので、その定と見、鎮めすなわち落ち着かせる意と解することも可能と思える。それだとこの一句は、飲めば若変わるという変水《おちみず》を得ようと騒立《さわだ》つ心を定《しず》めて、すなわちそのことを諦めての意となる。今はそう解する。これは娘子自身のことで、上の「大夫は」に対させたもので、「吾は」を省いた形のものである。○白髪生ひにたり 「に」は、完了。白髪が生えてしまっている。
【釈】 わが手を枕として共寝をしようと思っていよう、君は。その我は変水《おちみず》を求めることを諦めて、今は白髪が生えてしまっている。
【評】 娘子は題意でいったように、巻三に出た人であろうと思われるが、その後赤麿と関係が結ばれ、また忘れられた状態で過ごしていたものと思われる。歌は、赤麿が再び逢おうといってきたのに対して、我は今は、白髪の生えている者で、そうしたことにはふさわぬ者だと断わったのである。作意は相応に皮肉なもので、また詠み方も、赤麿と自身とを対照させ、飛躍をもって言って、知的なものであるのに、その間に「変水」を取入れているのは、変水という常世《とこよ》関係の思想が、当時いかに一般化されていたかを示しているものである。それは、ここは、心としては単に老いてということをいうにすぎないのに、後世から見るときわめて特殊なことをもって具象化しているからである。歌は娘子の人柄の尋常でないことを思わせるものである。
 
     佐伯宿禰赤麿の和ふる歌一首
 
628 白髪《しらが》生《お》ふる ことは念《おも》はず 変水《をちみづ》は かにもかくにも 求《もと》めて行《ゆ》かむ
    白髪生流 事者不念 變水者 鹿※[者/火]藻闕二毛 求而將行
 
【語釈】 ○白髪生ふることは念はず 「ことは」は、下の「変水は」に対させたものである。白髪の生えることのほうは問題とせずで、娘子の歌の結句を承けたものである。○変水は 変水のほうはで、娘子が「変水|定《しづ》め」と、諦めてしまっているのを取上げたもの。○かにもかくにも求めて行かむ 「かにもかくにも」は、後世の「とにもかくにも」にあたる古語。ここは、娘子は諦めたというが、我は諦めず、得られるにもせよ、得られぬにもせよの意。「求めて行かむ」は、我はそれを求めて、そちらへ行こうの意で、我は行って捜し直そうの意である。作意としては、御身の所へ行こうという意をあらわしたもの。
(448)【釈】 白髪が生えているといわれるが、そのことは問題とはしない。しかし諦めたという変水のほうは問題として、得られる得られないにかかわらず、我はそれを捜し直しに行こう。
【評】 白髪が生えていてもかまわない、逢おうというので、その逢おうを、娘子の変水に絡ませて巧みに、また婉曲にいっているものである。娘子の歌にくらべると、機知もあり、教養もあるものである。この歌は根本は実用性の歌であるが、できうる限り文芸性を加えようとして、その結果婉曲をきわめて、本意を曖昧にならせようとするところまで至っているものである。平安朝のこの種の歌に近いところまで迫っているものといえる。
 
     大伴四綱《よつな》、宴席《うたげ》の歌一首
 
【題意】 「大伴四綱」は、巻三(三二九)に出た。旅人の大宰帥であった時、防人司佑を務めていた人。
 
629 何《なに》すとか 使《つかひ》の来《き》つる 君《きみ》をこそ かにもかくにも 待《ま》ちかてにすれ
    奈何鹿 使之來流 君乎社 左右裳 待難爲礼
 
【語釈】 ○何すとか使の来つる 「何すとか」は、旧訓「なにしにか」。『考』の訓である。何をしようとてかで、「か」は、疑問。「使の来つる」は、「使」は宴席に来るはずになっている人の使。「来つる」の「つる」は、上の「か」の結。○君をこそ 「君」は、来るはずの人。「こそ」は、使と比較してのもの。○かにもかくにも 後世の「とにもかくにも」にあたる古語。ここは、どうあれこうあれ、強《し》いても来よと思っての意。○待ちかてにすれ 「かてに」は、「かて」は得る意。「に」は打消「ず」の連用形。待って待ち切れずにの意。「すれ」は、「こそ」の結。
【釈】 何をしようとて使が来たことであろうか。君のほうをこそ、どうあれこうあれ、強いても来よと思って、待って待ち切れずにいることよ。
【評】 宴席に来るはずの人で、その遅いのを待ちかねていた時、その人よりの使の来たのを見た瞬間の心持である。使は、都合で来られない断わりをいいに来たとみえ、四綱はむろんそれを聞いたのであるが、わざとそれには触れず、使を見た瞬間の心持だけをいい、強いても来よと促したもので、その使に持ち帰らせた形の歌である。その場合柄として、要を得た、また機知の働いた歌である。この風は、歌垣の場合にも、また平時でも、歌をもって問答する場合には行なわれてきたもので、歌のもつ一面として重んじられ喜ばれていたものである。実際に即して、複雑した、微細な気分を、安らかにあらわし得ている歌で(449)ある。
 
     佐伯宿禰赤麿の歌一首
 
630 初花《はつはな》の 散《ち》るべきものを 人《ひと》ごとの 繁《しげ》きによりて よどむころかも
    初花之 可散物乎 人事乃 繁尓因而 止息比者鴨
 
【語釈】 ○初花の散るべきものを 「初花」は、その季節に最初に咲く花で、ここは処女の、夫をもち得られそうになったものを譬喩としていっているもの。「散るべき」は、上よりの続きは、花の散ってゆくべきで、譬喩としては、他の男の有《もの》となるべきの意。「ものを」は、強い詠歎。○人ごとの繁きによりて 「人ごと」は、他人の噂。「繁きによりて」は、多いために。○よどむころかも 原文「止息」は、旧訓「とまる」。『玉の小琴』の訓。躊躇している意。「かも」は、詠歎。
【釈】 初花の散るがように、わが思う処女は他人の有《もの》となってゆくべきものを。人の噂の多いために、躊躇して、交渉せずにいるこの頃ではあるよ。
【評】 「初花の散るべきものを」という譬喩が、作者も、また伝聞する者も、共に喜んだものかと思われる。一人の処女を、二人以上の男が得ようと競うことは、事としては少なくないことであり、またそうした歌も多いのであるが、この譬喩は、恋を遊戯視している心のあらわに感じられるものである。恋の上では、男の態度は女に較べては真剣味を欠くものであるが、これほどまでに遊戯的な感を起こさせるものは稀れである。これは歌というものが文芸性のものとなってきた結果、譬喩の美しさということが過大に評価され、従来としては言うべからざることとしていたことが、安んじていわれるようになったためと思われる。赤麿の人柄にもよることであるが、他面、時代のさせていることと見られる。
 
     湯原王《ゆはらのおほきみ》、娘子《をとめ》に贈れる歌二首 志貴皇子の子なり
 
【題意】 「湯原王」は、巻三(三七五)に出た。天智天皇の御孫、志貴皇子の御子である。「娘子」は、何者ともわからない。
 
631 うはへなき ものかも人《ひと》は 然《しか》ばかり 遠《とほ》き家路《いへぢ》を 還《かへ》す念《おも》へば
(450)    宇波弊無 物可聞人者 然許 遠家路乎 令還念者
 
【語釈】 ○うはへなき 『代匠記』は、表辺なきの意、宣長は、あいそのなきの意、『攷証』は、追従《ついしよう》のない意と解している。いずれも同じ意で、心は信じているが、取繕うことをしない意である。○ものかも人は 「ものかも」は、上に続き、「かも」は詠歎。「人は」は、娘子をさしたもの。○然ばかり遠き家路を 「然ばかり」は、あれほどの意で、遠さを具象的に強めたもの。「家路」は、王の家へ向かっての路で、娘子の家を基としてのもの。○還す念へば 「還す」は、宿らせずして、空しく還す意。「念へば」は、意味は軽く、語調を主として添えていう語であるが、今の場合も、これが添っているために心が柔らかになっている。
【釈】 あいそのないことであるよ、そなたは。あれほどに遠いわが家への路を、空しく還らせることを思うと。
【評】 娘子はどういう身分の者かわからないが、王と心を通わしているにもかかわらず、周囲との関係で、自由に逢うことのできない身であったとみえる。この歌はそれを背後に置いてのもので、一夜、王が通って行かれたのを、空しく帰らせた後に、王から恨みの心をもって贈ったものである。しかしその逢えない事情は、王も十分承認しているので、恨みとはいっても、「うはへなきものかも」と嘆かれる程度のもので、その世馴れないのを憐れむ心を、愚痴の形においていわれたものである。王の心はおおらかであるとともに、歌風もまた、おおらかで、品位の伴っているもののあることを思わせる。
 
632 目《め》には見《み》て 手《て》には取《と》らえぬ 月《つき》の内《うち》の 楓《かつら》の如《ごと》き 妹《いも》をいかにせむ
    目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責
 
【語釈】 ○目には見て手には取らえぬ 目にはそれと見ていて、手には折り取ることのできないで、下の「月の内の楓」の状態をいったもの。心としては「妹」に対する嘆きをいったもので、その上では、姿は目には見ているが、わが手中の物とはできない、すなわち添寝はできないところのの意。○月の内の楓の如き 月中の桂樹のごときで、これは牽牛織女などと同じく中国の伝えである。『攷証』はその出所を挙げ、『初学記』、『酉陽』、仏書にもあるといって引いている。『詞林采葉抄』は、『兼名宛』にあるものを引いているが、それは「月中有v河、河上有v桂、桂高五百丈」というので、諸書、部分的には伝えを異にしている。「楓」は、わが国では「桂」を「をかづら」、「楓」を「めかづら」と称するところから、「桂」に当てた字である。○妹をいかにせむ 「妹」は、上に続いて、通って行つても逢えない娘子で、「いかにせむ」は、どうしたら好いのであろうかと、当惑しての嘆き。
【釈】 目にはそれと見ていて、わが手中の物とはできないところの、月の中にある桂のような妹を、どうすればよいのであろうか。
(451)【評】 前の歌のごとき状態についての嘆きで、二首、同時のものと思われる。この歌は、娘子に贈ったものではあるが、独詠の趣の濃厚なものである。月の内の楓の譬喩は、「目には見て手には取らえぬ」という、前の歌の状態よりの連想で、心理的には妥当なものであるが、高度の文芸性のものである。当時は漢詩文が一般化してきたといううち、ことにこの譬喩のような、神仙的な趣をもったものは酷愛されていたらしいので、この譬喩は娘子が解しうるものとして用いられたものと思われる。それにしてもこの譬喩は清新なものである。それを尋常の事のように安らかにこなしきっているのは、王の歌才というべきである。
 
     娘子の報へ贈れる歌二首
 
633 ここだくに 思《おも》ひけめかも 敷細《しきたへ》の 枕《まくら》片去《かたさ》る 夢《いめ》に見《み》え来《こ》し
    幾許 思異目鴨 敷細之 枕片去 夢所見來之
 
【語釈】 ○ここだくに思ひけめかも ひどく我を思ったのであったろうかで、「けめかも」は、後世の「けめばかも」で、「かも」は、疑問と詠歎を続けたもの。娘子が王の心を推察していっているので、推察したのは、王が娘子の夢に入ってきたからで、夢は、先方がこちらを思うがゆえに見るものだという信仰の上に立ってのことである。○敷細の枕片去る 「敷細の」は、「枕」にかかる枕詞で、既出。「枕片去る」は、旧訓「枕片|去《さ》り」であるが、『代匠記』は「片去る」とも訓み、『略解』『古義』も同様である。意味は、『代匠記』は、巻十八(四一〇一)「ぬば玉の夜床片|左《さ》(古《こ》)り」を証として、妻が独り寝をする時には、夜床の片方に去って、夫のために、今一方を空《あ》けておくのが風となっていたとみえるから、ここもそれと同じく、枕の片っ方を夫に分けておいて寝る夜のという意で、下の「夢」に続いていると解している。作意は、「枕片去る夢」と続けて、「枕片去る」は共寝をする時の状態とし、共寝ということを具象的にいったものと解される。○夢に見え来し 「夢に」は、夢に君はの意。「来し」は、二句の「かも」の「か」の結で、見えてきたことであるよ。
【釈】 ひどく君は我を思ったのであったろうか、その心が通って、枕を片去って寝る、共寝の夢に君は見えてきたことであるよ。
【評】 王との関係が結ばれた後の歌と取れる。夢を信仰する心は女性にことに強いもので、これもその上に立ってのものであるが、若い女性の素直な、溺れきった心が、さながらに現われている歌である。
 
634 家《いへ》にして 見《み》れど飽《あ》かぬを 草枕《くさまくら》 旅《たび》にも夫《つま》と あるがともしさ
(452)    家二四手 雖見不飽乎 草枕 客毛妻与 有之乏左
 
【語釈】 ○家にして見れど飽かぬを 「家にして」は、家にあって。「見れど飽かぬ」は、いくら見ても見飽かないで、きわめて愛でたい意を具象的にいったもの。「を」は、詠歎。○草枕旅にも夫と 「草枕」は、「旅」の枕詞。「旅にも」は、旅にまでもで、「も」は、家に並べたもの。原文「妻」は、前後の関係から、夫《つま》に当てた文字と解される。娘子より王をさしたもの。「と」は、とともに。○あるがともしさ 「ともし」は、意味の広い語で、ここは、愛すべく慕わしいの意と取れる。「ともしさ」は、ともしいことよの意。
【釈】 家にあって、いくら見ても見飽かずに愛でたいのに、旅にまでもその夫《つま》と共にいるという、このうれしく慕わしいことよ。
【評】 王は、娘子の周囲の者の許しは得たが、なおその煩わしさを避けようとする心から、娘子を旅に連れ出したとみえ、娘子はそのことを喜んでの歌と解せる。すなわち相対していてのものである。若い女性の単純な、偏えごころの現われた歌である。
 
     湯原王、亦贈れる歌二首
 
635 草枕《くさまくら》 旅《たび》には嬬《つま》は 率《ゐ》たれども 匣《くしげ》の内《うち》の 珠《たま》とこそ念《おも》へ
    草枕 客者嬬者 雖率有 匣内之 珠社所念
 
【語釈】 ○草枕旅には嬬は率たれども 「嬬」は、娘子。「率」は、連れる意。旅に妻は連れて来ているけれども。○匣の内の珠とこそ念へ 「匣の内」は、旧訓「はこの内なる」。『代匠記』が、読添えが多すぎるとして改めたもの。「匣」は、櫛笥で、しばしば出た。「珠」は、美しく貴い物の意で、ここは娘子の譬喩としている。珠を櫛笥の中に蔵すということは、不自然なごとく聞こえるが、櫛笥は、貴重な鏡も入れておく物であるから、不自然とはいえない。「こそ念へ」は、「こそ」は、その物だけを取立てていう意のものであるから、上を承けて、珠だとばかり思っていることであるよの意。
【釈】 旅というかりそめな所に妻は連れて来ているけれども、わが心では、妻は匣《くしげ》の中に蔵している貴重な珠だとばかり思っていることであるよ。
【評】 娘子の上の歌に和えたものである。心は、娘子の喜びをそのままに承け入れたものであるが、王のほうは心の視野が広く、娘子の喜ぶ旅を「匣の内」と対させ、「旅には」「嬬は」と、「は」によってそれをあらわして、微細な陰影を帯びさせている。
 
(453)636 吾《わ》が衣《ころも》 形見《かたみ》に奉《まつ》る 布細《しきたへ》の 枕《まくら》を離《さ》けず 巻《ま》きてさ宿《ね》ませ
    余衣 形見尓奉 布細之 枕不離 卷而左宿座
 
【語釈】 ○吾が衣形見に奉る 「形見」は、その人の身代わりとして見る物で、その人に関係の深い物をもってした。今は衣をもってしたのである。「奉《まつ》る」は、「奉《たてまつ》る」の古い形で、贈るということを敬語をもってしたのである。男は女に対しては敬語を用いるのが風となっていた。○布細の枕を離けず 「布細の」は、「枕」の枕詞。「離けず」は、離さずで、身に近いものとしての意。○巻きてさ宿ませ 「巻きて」は、「纒《ま》きて」の字も用いる。意は同じである。纒《まと》って。「さ宿《ね》ませ」は、寝よを、これも「ませ」の敬語を添えていったもの。
【釈】 わが衣を、形見として差上げる。これは夜の枕から離さず、身に纏って寝たまえ。
【評】 贈り物には歌を添えるという、型に従ってのものであるが、その物が形見であるので、改まって、敬語の多くを用い、またその物の扱い方をも要望しているという、特殊のものである。三句以下は、その扱い方としては当然のことで、いうを要さないことであるが、それを力を入れていっていることは、夫婦間の誓いを、実行に移させようとして要求しているものである。結句の、上を承けて漸層的に力を入れていっているのは、そのためであるが、娘子に教え諭す心をもこめたものである。この旅とはいってもかりそめのもので、娘子をその家に帰らせようとする際のものと思われる。
 
     娘子、復《また》報へ贈れる歌一首
 
637 吾《わ》が背子《せこ》が 形見《かたみ》の衣《ころも》 嬬問《つまどひ》に わが身《み》は離《さ》けじ 言問《ことと》はずとも
    吾背子之 形見之衣 嬬問尓 余身者不離 事不問友
 
【語釈】 ○吾が背子が形見の衣 「吾が背子」は、王を最上の親しみをもって呼んだもの。「形見の衣」は、下に詠歎を含めたもの。○嬬問に 「嬬問」は、名詞。ここは、夫がその妻の許へ通って来る意。「に」は、巻一(七九)「栲《たへ》の穂に」の「に」と同じく、のさまにの意のもの。夫が通って来ているさまに、すなわちその時と同じように。○わが身は離けじ わが身より離すことはしまいで、共寝をしている夫のごとく扱おうの意。○言問はずとも ものは言わなかろうともで、夫との相違をいったもの。
【釈】 わが背の君の形見として賜わった衣よ。わが許に通って来た夫を扱うさまに、わが身より離すことはしまい。これはもの(454)をいわない物であろうとも。
【評】 上の王の歌に和えたものである。王の歌は形見の精神を、その扱い方を通して徹底させようとするものであるのに、娘子は単に扱い方としてのみ受け入れ、「言問はずとも」とさえいっているのである。人間味の距離の大きさを思わせられることで、したがって物語的興味をももたせられることである。
 
     湯原王、亦贈れる歌一首
 
638 ただ一夜《ひとよ》 隔《へだ》てしからに 荒玉《あらたま》の 月《つき》か経《へ》ぬると 心《こころ》は遮《まと》ふ
    直一夜 隔之可良尓 荒玉乃 月歟經去跡 心遮
 
【語釈】 ○ただ一夜隔てしからに ただ一夜を隔てていたゆえにで、「から」は、ゆえ。○荒玉の月か経ぬると 「荒玉の」は、ここは時としての「月」にかかる枕詞。「月か経ぬると」は、月が経て行つたかと思つてで、長く感じる意。○心は遮ふ 旧訓「おもほゆるかも」。この訓は理由のないものとして、諸注改訓を試みている。『代匠記』は、巻十二(二九六一)「空蝉の常の辞《ことば》と念《おも》へども継ぎてし聞けは心遮焉《こ二ろはなぎぬ》」の「心遮焉」を例として、「遮」は遮りやる意で、義をもって「和《な》ぐ」に当てたものとし、ここはその反対で、「遮」の上に「不」のあって脱したものかとし、「和《な》がず」すなわち慰まずの意かとした。『略解』は「ながず」という詞はないといって斥けた。『古義』は、『代匠記』の引いた歌の「心遮焉」を「心まどひぬ」と改訓し、ここも同じく「心|遮《まど》ひぬ」かといっている。「遮」は、義をもってすれば「惑《まど》ふ」と訓み難い字ではない。『新訓』は、「心はまどふ」と訓んでいる。上よりの続きでいえば、「まどふ」の範囲のことをいったものと思われ、上とも調和しうる訓であるから、疑いを残して『新訓』の訓に従う。「まとふ」の「と」は、古くは清音であったと考えられている。
【釈】 ただ一夜を隔てたがゆえに、逢わずに一と月も過ぎて行ったのかと心が惑う。
【評】 心は一般的のもので、類歌も多いものであるが、この歌は切実な感が、おおらかな調べに溶けて、沁み入る力のあるものとなっている。排列順から見て、上の旅の直後のものではないかと思われる。
 
     娘子、復《また》報へ贈れる歌一首
 
639 吾《わ》が背子《せこ》が かく恋《こ》ふれこそ ぬば玉《たま》の 夢《いめ》に見《み》えつつ 寐《い》ねらえずけれ
(455)    吾背子我 如是戀礼許曾 夜干玉能 夢所見管 寐不所宿家礼
 
【語釈】 ○吾が背子がかく恋ふれこそ 「かく」は、後世だと「然《しか》」というところを、通じていっていた。古形である。上の王の歌を承けたもの。「恋ふれこそ」は、後世だと「恋ふればこそ」というところで、古格で、例の多いもの。先方の恋うるのが、こちらの夢の原因となるとしてのもの。○ぬば玉の夢に見えつつ 「ぬば玉の」は、ここは「夢」の枕詞。夜の延長として夢にもかけた。「見えつつ」は、見え続けてで、上の「恋ふ」の結果。○寐ねらえずけれ 「寐ねらえず」は、寝ても眠れない。「ず」の終止形から「けれ」に続くのは古格で、後世だとその間に「あり」の入るべきところである。「けれ」は、「こそ」の結。
【釈】 わが背子が、そのように我を恋うたので、そのために我には背子の夢が見られ続けて、寝ても眠られなかったことであるよ。
【評】 王の歌に和《こた》えたもので、夢の信仰の上に立ったものである。
 
     湯原王、亦贈れる歌一首
 
640 はしけやし ま近《ぢか》き里《さと》を 雲居《くもゐ》にや 恋《こ》ひつつ居《を》らむ 月《つき》も経《へ》なくに
    波之家也思 不遠里乎 雲居尓也 戀管將居 月毛不經國
 
【語釈】 ○はしけやしま近き里を 「はしけやし」は、巻二(一三八)(一九六)に「はしきやし」と出た、それと同じ。「愛《は》しけ」に、「やし」の詠歎の助詞の添ったもの。ここは意味で、下の「里」にかかる枕詞。「ま近き里」は、娘子の家のある里で、里はその家を広く言いかえたもの。○雲居にや恋ひつつ居らむ 「雲居」は、雲の居る所で、きわめて遠い所の意。「に」は、のごとくの意のもの。「や」は、疑問。「恋ひつつ」は、恋の継続。○月も経なくに 「月も」は、その月をも。「経なく」は、経ぬの意の名詞形。「に」は、詠歎。
【釈】 愛すべき、間近にあるその里を、きわめて遠い所のごとくにも、恋い続けていることであろうか。別れてから月も越えないことであるのに。
【評】 一と月足らずの間、娘子の家へ通えずにいた頃の歌である。これも類歌の多いものであるが、調べのためにおのずから品位あるものとなっている。
 
     娘子、復報へ贈れる歌一首
 
(456)641 絶《た》ゆと云《い》はば わびしみせむと 焼大刀《やきたち》の へつかふことは 幸《よけ》くや吾君《わぎみ》
    絶常云者 和備染責跡 焼大刀乃 隔付經事者 幸也吾君
 
【語釈】 ○絶ゆと云はばわびしみせむと 「絶ゆと云はば」は、夫婦関係が絶えるといったならばで、王より娘子にいおうとしていることと想像してのもの。「わびしみせむ」は、わびしいすなわち心細い思いをしようかで、王が娘子を憐れんでの心。「と」は、と思って。○焼大刀のへつかふことは 「焼大刀の」は、「焼大刀」は大刀は銕《てつ》を焼いて鍛えたところからの語で、大刀というと同じ。これは、「へ」にかかる枕詞と取れる。「へ」は、隔つ、隔《へ》なるの語幹で、隔ての意の名詞。大刀は鞘《さや》に蔵《おさ》めておくものであるから、その鞘を「へ」といったのではないかと思われる。「焼大刀の」は、「へ」にかかる枕詞。「へつかふ」は、巻七(一四〇二)「湊より辺附《へっ》かふ時に放《さ》くべきものか」、他にも用例があって、「辺附かふ」は、「辺」は沖に対しての岸で、「附かふ」は、「附く」に助動詞「ふ」をつけて、その継続をあらわす語。一語で、船が岸につく時の状態をあらわす語である。船は岸にはさっそくはつけられず、つきつ離れつ、いわゆるたゆたう状態をするので、それを恋の上へも転じ、中途半端の状態を、「へつかふ」という語であらわしていたとみえる。ここはそれである。二句、中途半端のことをしているのはで、王の通って来ることの間を置くようになったのを、娘子の恨んていつているもの。○幸くや吾君 「幸くや」は、「幸」の字は諸本異同がない。旧訓「よしや」。『考』が「よけくや」と改めた。「幸《よけ》く」は、「よく」を、名詞形としたもので、よいこと。「や」は、疑問。「吾君」は、親しんでの称。呼びかけ。よいことであろうか、君よ。
【釈】 関係が絶えるといったならば、わが心細い思いをすることであろうと思って、それとはいわないが、事としてはそれと同様に、中途半端なさまを示しているのは、よいことであろうか君よ。
【評】 王の娘子の許に通うことが間遠くなった頃、娘子の恨んで訴えたものである。王にどういう事情があったかはわからないが、娘子はそうしたことは問題とせず、王の心が疎くなったことと解して、「へつかふこと」としたのである。しかしその恨みは柔らかいもので、語としては「幸《よけ》くや」と疑問の助詞を添えていっているだけで、王の人柄を信じ、王を立てて、「絶ゆと云はばわびしみせむと」といっているのである。娘子の歌としては、初めて分別を働かせていっているものであるが、恨みを思う場合にも、善意に満ちたものである。
 
     湯原王の歌一首
 
642 吾妹児《わぎもこ》に 恋《こ》ひて乱《みだ》れり くるべきに 懸《か》けて縁《よ》せむと わが恋《こ》ひ始《そ》めし
(457)    吾妹兒尓 戀而乱在 久流部寸二 懸而縁与 余戀始
 
【語釈】 ○吾妹児に恋ひて乱れり 「吾妹児」は、上の娘子と取れる。「恋ひて乱れり」は、旧訓「恋ひて乱るる」。『代匠記』の訓。「乱れり」は、乱れありで、乱れているの意。以上、一段落。○くるべきに懸けて縁せむと 「くるべき」は、蟠車の字を当てている。糸を繰るに用いる具で、大体、台の上に短かい竿を立て、その上に木匡《わく》があって、廻るようになっている物。糸を縒《よ》り合わせるには、糸を木匡に巻いておき、糸を引くとともに木匡が廻って解けるように拵えた物。「懸けて縁せむ」は、「懸けて」は、くるべきに糸を巻いておいて。「縁せむと」は、縒り合わせむとで、二筋の片糸を一筋の糸に合わせる意。○わが恋ひ始めし 我は恋い初めたことであるよで、「し」は、「が」の結。連体形。
【釈】 我妹子に恋うて、思うに任せぬためにわが心は乱れている。その始めを思うと、我と我妹子とを、片糸のそれのごとくくるべきにかけて、たやすくも縒り合わせて一筋にしようと思って恋い初めたことであるよ。
【評】 この歌は、以上の歌の娘子と贈り報えたものであるのとは別に、王の独詠としてのものである。歌は娘子との関係の結ばれる以前のもので、求婚の交渉を始められた時は、おそらくは身分の関係上、事はきわめてたやすく進捗するものと予想されたのに、実際はそれとは反対に、甚だ困難だったので、それに感を発してのものである。「吾妹児に恋ひて乱れり」は、事が停滞しているために、心が乱れるまでに至っている現在をいったもの。「くるべきに懸けて縁せむとわが恋ひ始めし」は、予想の甚だ容易なものであったことをいったもので、これとそれとを対照させていったものである。片糸を縒り合わせて一筋とすることをもって、夫婦関係の結ばれることの譬喩にすることは、想像しやすいことであるが、それについて「くるべき」を捉えきたっていることは、やや特殊のことで、またこの歌にあっては、それが軽い物とは見えない。思うに、当時「くるべき」という具は、まだ一般的な物とはなっていず、特に便利な具であるとして注意されていたところから、交渉の容易に纏まるものという意をあらわすために用いたものと思われる。したがって三句「くるべきに」以下の譬喩は、複雑した心を単純に具象化したという意味で、創意に富み、才気の現われていたものであったろうと解される。
【評又】 以上十二首の歌は一連のものであって、おのずからに湯原王と娘子との恋愛事件の、その成立と、経過との時間的推移をあらわしている上に、王と娘子の個性をも濃厚に示していて、まさに一篇の歌物語をなしているものである。この風は従前からあったものであるが、奈良時代に入ると著しく進んできており、この一連のごときは、一つの代表的なものともなっているのである。国語をもってする物語の要求の高まりきたっていたことを示す一つの例とも見られるものである。
 
     紀女郎《きのいらつめ》の怨恨の歌三首 鹿人大夫の女、名を小鹿といふ、安貴王の妻なり
 
【題意】 題の下の小字の注は、元暦本をはじめ六本にあるものである。「鹿人」は、続日本紀、天平九年九月正六位上紀朝臣鹿(458)人に外従五位下を授け、同十二月主殿頭となすとあり、同十二年外従五位上を授く、同十三年大炊頭となすとある。安貴王は、巻三(三〇六)と(五三四)に出た。「怨恨」は、夫に離別されたためのものであることが歌で知られる。
 
643 世間《よのなか》の 女《をみな》にしあらば 吾《わ》が渡《わた》る 痛背《あなせ》の河《かは》を 渡《わた》りかねめや
    世間之 女尓思有者 吾渡 痛背乃河乎 渡金目八
 
【語釈】 ○世間の女にしあらば 「世間の女」は、この世に生きている女の限りはの意で、「し」は、強め。○吾が渡る痛背の河を 「吾が渡る」は、現に吾の今渡っているの意で、下の痛背の河を徒渉しつついる際の状態。河に橋がなく、越えようとすれば徒渉するのが、当時にあっては、路が小路である限りは普通のことであった。「痛背《あなせ》の河」は、集中に「痛足《あなし》の河」とあるのと同じ川で、「せ」と「し」と通じて言っていたろうとされている。それだと、奈良県磯城郡纒向村大字穴師(現、大三輪町穴師)を流れている川(現在の巻向川)で、初瀬川の一支流をなしている小流である。○渡りかねめや 「かね」は、得ずの意で、現在も用いている。「めや」は、推量の助動詞「む」の已然形「め」に疑問の「や」の続いているもので、反語。渡りかねようか、渡りかねはしないで、必ず渡るの意を強くいったもの。
【釈】 この世に生きている女である限りは、今吾が渡っている痛背の河を渡るということをしかねようか、しかねはしない。
【評】 歌は女郎が、痛背の河を渡りながら発した感慨で、一方ではその事の尋常でないのを思いつつ、同時に他方では、これは当然なことである、これは吾のみのすることではなく、この世に生きている女である限り、誰しもせずにはいられないことであると、そのことを押返して肯定した心のものである。痛背の河を渡るのを尋常でないとするのは、この河は女郎とその夫の家との間にあるもので、平常だとその河を渡るのは夫であるのに、今は妻の女郎がしているので、尋常ではないとするものと解される。この尋常でないことをあえてするのは、夫が女郎を疎遠にし、関係を絶とうとしているので、それに昂奮しての(459)行動と見なければ、この歌は解せないものとなる。歌そのものも、題詞も、その事をかなりまで明らかに示しているといえる。強い感情と理性との溶け合っている歌といえる。
 
644 今《いま》は吾《わ》は わびぞしにける 気《いき》の緒《を》に 念《おも》ひし君《きみ》を 縦《ゆる》さく思《おも》へば
    今者吾羽 和備曾四二結類 氣乃緒尓 念師君乎 縱左久思者
 
【語釈】 ○今は吾はわびぞしにける 「今は」は、それまでに対させていっているもので、事の成行きの最後を、時間的にいったもの。「わびぞしにける」は、「わび」はここは物悲しい意で、物悲しくなってしまっていることよの意。○気の緒に念ひし君を 「気の緒」は、「気」は息《いき》すなわち気息で、息をすることを生きていることとしての語。「緒」は文字どおり緒で、長く続く物としていう語。「気の緒」は息の続いてゆくこと、すなわち命の意で、用例の多い語である。「に」は、のごとくの意。「気の緒に念ひし」は、わが命のごとくに思ってきたで、命がけに思ってきたという意。「君」は、夫。○縦さく思へば 「縦さく」は、原文「従左」。元暦本、他の二本に「左」の下に「久」がある。これに従う。「縦す」は、許すで、夫婦関係の上のことで、許して自由にさせる意で、手放すこと。「縦さく」は、「縦す」に「く」を添えて名詞形としたもので、手放すこと。「思へば」は、思っているので。
【釈】 今は吾は物悲しい心となってしまっていることであるよ。命にかけて思ってきたところの君を、手放すことと思うので。
【評】 女郎が、夫との関係が全く絶望的なものとなってしまった時に、嘆いて詠んだものである。「今は吾はわびぞしにける」と、まず嘆きをいい、それ以下をもって事をいっている形は、その嘆きの強く、生々《なまなま》しいことをあらわしているもので、事の絶望に終わった直後の心である。前の歌と時間的に連絡をもちうるものである。二首、感情の強さは同様で、人柄とともに歌才をも思わしめるものである。
 
645 白細《しろたへ》の 袖《そで》別《わか》るべき 日《ひ》を近《ちか》み 心《こころ》に咽《むせ》ひ 哭《ね》のみし泣《な》かゆ
    白細乃 袖可別 日乎近見 心尓咽飯 哭耳四所泣
 
【語釈】 ○白細の袖別るべき日を近み 「白細の」は、「袖」にかかる枕詞。「袖別るべき」は、袖の別れなければならないの意で、「袖別る」は、夫婦の相睦んでいることを、「袖さしかへ」「袖携はり」など具象的にいっているのの反対で、夫婦の遠ざかる意をあらわしているもの。用例の多い語である。「べき」は、それをしなくてはならない意をあらわしたもので、離別の心をもって言っているものである。「日を近み」は、その日が(460)近くして。以上、夫の疎遠にするところから、関係の絶えるべき成行きを予想しての言と取れる。○心に咽ひ哭のみし泣かゆ 「心に咽ひ」は、心が、悲しみに咽《む》せかえって。「哭のみし泣かゆ」は声を立ててばかり泣かれるで、「し」は強め。「咽ひ」の「ひ」は清音であったらしい。
【釈】 相携わってきた袖が別れなければならない日が近いので、その悲しみに心が咽せかえって、声を立ててばかり泣かれる。
【評】 この歌は、前の二首に較べると心が柔らかで、近づき来たる悲しみを予想して嘆いているのみで、昂奮を帯びていないものである。その意味で、上の二首より後のものではなく、前のものであろうと思われる。すなわち夫より疎遠にされるので、その成行きとして絶縁の日の近づき来たることを予想し、悲しみに浸っていた頃のこととみえる。この心の行詰まりが前の二首の歌となったのであろう。『新考』もそういう解をしている。激情となった時の歌ほどには面目を発揮していないものである。
 
     大伴宿禰駿河麿の歌一首
 
【題意】 「駿河麿」は、巻三(四〇〇)に出た。また(六四九)の左注にも出ている。大伴宿禰御行の孫で、父は誰であるか明らかではない。坂上郎女には姪《おい》にあたり、坂上家の二嬢《おといらつめ》を妻とした人である。
 
646 大夫《ますらを》の 思《おも》ひわびつつ たびまねく 嘆《なげ》く嘆《なげき》を 負《お》はぬものかも
    大夫之 思和備乍 遍多 嘆久嘆乎 不負物可聞
 
【語釈】 ○大夫の思ひわびつつ 「大夫」は、健き男子の意で、ここは嘆きなどはしないものとしていったもの。「思ひわび」は、熟語で、思い悲しむ意。「つつ」は、継続。○たびまねく嘆く嘆を 「たびまねく」は、「たび」は、度《たひ》で、数の意。「まねく」は、「多く」の古語。「たびまねく」はたびたびの意。「嘆く嘆」は、嘆いてする歎息。○負はぬものかも 「負ふ」は、上より続いて、嘆きを負うで、「負ふ」は、語としては負いもつことであるが、崇《たたり》を受けるという、その受けるにあたる語で、人に嘆きをさせると、その報いを身に受けて禍をこうむる意でいっているもの。「かも」は、「か」の疑問に、「も」の詠款の添ったもの。一句、身に受けないものであろうかというので、必ず受けるものだということを、婉曲にいったもの。
【釈】 大夫たる我が、思い悲しんで、たびたびも嘆いてする歎息を、それをさせる御身が、報いとして身に受けないものであろうか。
【評】 この歌で見ると、駿河麿が求婚をしている女に贈ったもののごとく見えるが、左注によると、以下三首の歌とともに、(461)坂上郎女と贈報したものであることがわかる。またこれらの歌の性質も、姑《おば》姪《おい》の間で起居を相問うたものであると断わっているので、その左注を信ずるよりほかはない。思うに左注は、この歌に対して人が誤解を抱きはしないかと危ぶんで添えたものであろうが、まさにその要のある歌と言うべきである。巻三(四〇七)によると、駿河麿は坂上家の二嬢《おといらつめ》の、まだ婚期には達しかねる娘を娉《よば》っている。この歌で見ると、その娉《つまど》いは成立ち、夫婦関係が結ばれたが、二嬢は郎女の保護の下にあり、駿河麿としては思うままには逢いかねる状態であったので、それを嘆いて二嬢に贈ったものではないかと思われる。報《こた》え歌は、郎女が二嬢に代わって詠んだもので、これは坂上大嬢の家持に贈る歌を、母の郎女が代わって詠んでいる例もあって、当時としてはさして特別のことではなかったと言える。以上は想像で、拠り所をもたないものであるが、そう解さなければ歌そのものが解しかねるからである。今はこう解しておく。
 
     大伴坂上郎女の歌一首
 
647 心《こころ》には 忘《わす》るる日《ひ》なく 念《おも》へども 人《ひと》のことこそ 繋《しげ》ぎ君《きみ》にあれ
    心者 忘日無久 雖念 人之事故 繁君尓阿礼
 
【語釈】 ○心には志るる日なく 「心には」の「は」は、事実に対させたもので、その事実は言外に置いている。○人のことこそ繁き君にあれ 「人のこと」は、「こと」は言、人の噂で、女性に関しての風評。
【釈】 心では、忘れる日とてもなく思っているけれども、他の女性に関しての風評の多い君ではあることよ。
【評】 「人のこと」を問題とし、それゆえに、心には思っているけれども逢わないと、婉曲に断わっている歌で、これは夫婦関係の間でないと言うべくもないことである。これは上に言ったように、郎女自身の心ではなく、二嬢《おといらつめ》に代わってのものと思われる。言い方は穏やかなものであるが、高く地歩を占めて言っているものである。
 
     大伴宿禰駿河麿の歌一首
 
648 相見《あひみ》ずて け長《なが》くなりぬ この日《ごろ》は いかに好去《さき》くや いぶかし吾妹《わぎも》
    不相見而 氣長久成奴 比日者 奈何好去哉 言借吾味
 
(462)【語釈】 ○相見ずてけ長くなりぬ 「相見ずて」は、夫婦として相逢わずして。「け長く」の「け」は、「日《か》」の転で、時の意。時久しく。○いかに好去くや 「いかに」は、いかにありやで、安否を疑う意。「好去《さき》くや」は、原文「好去哉」。旧訓「よしゆきや」。諸注さまざまに訓んでいる。問題となるのは、『考』の「よけくや」、『攷証』の「さききや」、『古義』の「さきくや」である。巻九(一七九〇)「吾が思ふ吾子《わこ》真好去《まさきく》有《あ》りこそ」をはじめ、多くの例に従って『古義』に従う。「好去」は漢語で、「好」は吉《よ》く、「去」は行くで、時の過ぎ行く意。無事なりやの意。○いぶかし吾妹 「いぶかし」は、訝しく不審に思うよ。「吾味」は、「妹」だけだと、女子に対しての称であるから、郎女にも言いうる称であるが、「吾」を添えて特に親しみの意をあらわしているので、妻すなわち二嬢《おといらつめ》と取れる。呼びかけである。
【釈】 相逢わずして時久しくなった。どのような様子であるか、無事なのであるか、不審に思うよ、吾味よ。
【評】 これは久しく逢わずにいる妻に対しての心とすると淡泊なもので、親族の長上としての郎女に対してのものとも見られるものである。駿河麿としては、こういう言い方をする必要のあってのことと思われる。妻が郎女の意志次第の者であり、相聞の歌が郎女の眼を経るものであるとすれば、立ち入ってのことは言うまいとしたのかもしれぬ。その時の事情に即した実用性の歌であるから、それ以上は知られない。
 
     大伴坂上郎女の歌一首
         
649 夏葛《なつくず》の 絶《た》えぬ使《つかひ》の よどめれば ことしもある如《ごと》 念《おも》ひつるかも
    夏葛之 不絶使乃 不通有者 言下有如 念鶴鴨
 
【語釈】 ○夏葛の絶えぬ便の 「夏葛の」は、夏の葛の蔓の、伸びて続いている意で、「絶えぬ」にかかる枕詞。「絶えぬ使」使は、間断なき使で、使は駿河麿の消息をもたらすもの。○よどめれば 旧訓「かよはねば」。『略解』の訓。通うことが淀むで、絶えているので。○ことしもある如念ひつるかも 「こと」は、事で、異変。「しも」は、強め。きっと何か異変があるように思ったことであるよ。
【釈】 君よりの間断なき使が、この頃は絶えているので、きっと何か異変があるように思ったことですよ。
【評】 これは上の歌の報《こた》えではなく、郎女のほうから贈ったものである。しばらく使が来ないと、こちらから積極的に使をやるという状態であったことを示しているものである。これも二嬢《おといらつめ》に代わってのものと取れる。
 
     右、坂上郎女は、佐保大納言卿の女なり。駿河麿は、これ高市大卿の孫なり。両卿兄弟の家、女(463)孫姑姪の族、ここを以ちて、歌を題し送答し、起居を相問ふ。
      右、坂上郎女者、佐保大納言卿之女也。駿河麿、此高市大卿之孫也。両卿兄弟之家、女孫姑姪之族、是以、題v謌送答、相2問起居1。
 
【解】 「佐保大納言卿」は、大伴安麿。「高市《たけち》大卿」は、『代匠記』が、大伴|御行《みゆき》かといい、爾来定説のごとくなっていたが、御行であることを証する文献はない。『講義』は、安麿は長徳《ながとこ》の六男であって、兄弟が多いから、その誰の称であるか不明であるとしている。従うべきである。したがって駿河麿の父の誰であるかも明らかにし難い。「女孫」は、安麿兄弟を基としていっているもので、一方は女《むすめ》、一方は孫という関係を言ったもの。「姑姪」は、郎女と駿河麿とを基としての関係で、「姑」は「をば」で、郎女は駿河麿にとっては、親の従兄弟姉妹であるところから、「をば分《ぶん》」であり、「姪」は「をひ」で、兄弟の子は、男女を通じてこの文字を用いたのである。「歌を題し送答し、起居を相問ふ」は、歌をもって互いに安否を問い合ったの意であるが、後の二首は強いて言えばそうも言えようが、前の二首はそうは取り難いものである。安否を問い合うにも、恋愛的の言い方をする風は歌の上にはあることであるが、それにしても甚しく度を超えたものである。この注を添えた撰者は、実用性の歌も文芸性のものとしたい意図があって、その意図から添えたものではないかと思われる。
 
     大伴宿禰三依、離《わか》れて復《また》相《あ》へるを歓ぶ歌一首
 
【題意】 「三依」は、(五五二)に出た。
 
650 吾妹児《わぎもこ》は 常世《とこよ》の国《くに》に 住《す》みけらし 昔《むかし》見《み》しより 変若《をち》ましにけり
    吾味兒者 常世國尓 住家良思 昔見從 變若益尓家利
 
【語釈】 ○常世の国に住みけらし 「常世の国」は、黄泉国の意でもいうが、また不老不死の国の意でもいう。ここはその後の意のものである。これは中国の道教のいうところのもので、伝来して喜ばれ、当時甚しく喜ばれていたものである。想像上の国である。「住みけらし」の「らし」は、眼前を証としての推量。その証は、下の「変若《をち》」である。○昔見しより変若ましにけり 「昔見し」は、以前に関係をもって逢っていた時。「変若」は、旧訓「わかへ」。『攷証』の訓である。「変若」は、若返る意の動詞で、集中に例の多いものである。「まし」は、敬語とするための助動詞。(464)「に」は、完了。「けり」は、詠歎。若返られたことであるよで、女性に敬語を用いるのは普通となっていた。常世の国の草を食うと若返り、また月の中には、飲むと若返る水があるなどということが信じられていたのである。
【釈】 吾妹子はきっと常世の国に住んでいたのであろう。以前逢っていた時よりは若返られたことであるよ。
【評】 若さを喜ぶ情の最も強い女性に、以前より若返ったというのは、明らかに世辞と取れるが、常世の国の信仰が一般化していた雰囲気の中において言っているものであるから、割引をしなくてはならないものであろう。それにしても誇張の加わっているものであることは明らかである。明るく軽い歌である。
 
     大伴坂上郎女の歌二首
                           
651 久堅《ひさかた》の 天《あめ》の露霜《つゆじも》 置《お》きにけり 宅《いへ》なる人《ひと》も 待《ま》ち恋《こ》ひぬらむ
    久堅乃 天露霜 置二家里 宅有人毛 待戀奴濫
 
【語釈】 ○久堅の天の露霜 「久堅の」は、「天」の枕詞。「天の」は、天の物のの意。「露霜」は、熟語。晩秋初冬のもので、今いう水霜《みすじも》。○置きにけり 「に」は、完了。「けり」は、詠歎。○宅なる人も 家にある人もまたの意で、郎女が家を離れて旅にいたことを示している。夫とは家を異にしているので、その家にある者は娘である。「も」は、もまたで、我と同じくの意をもって下へ続く。○待ち恋ひぬらむ 我に逢うことをいたく待ちこがれていることであろう。
【釈】 今朝見ると、天《あめ》の露霜が地に置いていることであるよ。家にいる者もまた我と同じく、逢い見ることをいたく待ちこがれていることであろう。
【評】 旅愁をいったものであるが、それを感じさせる者は「宅なる人」すなわち娘であって、男の旅愁とは異なっている。加えて、我を主とせず、我は、「も」の一助詞によって暗示するにとどめ、「宅なる人」のほうを主としているのである。これは型のごとくになっていたことである。旅での日の重なっていることを、朝に見た露霜であらわし、「天の」を添えることによってその感を重からしめている点、また、日のつもりだけではなく、季節のもたらすさみしさも暗示している点など、一首の調べの張ったのと一つになって、事は常凡であるが、力のある歌となっている。
 
652 玉主《たまぬし》に 珠《たま》は授《さづ》けて かつがつも 枕《まくら》と吾《われ》は いざ二人《ふたり》宿《ね》む
(465)    玉主尓 珠者授而 勝且毛 枕与吾者 率二將宿
 
【語釈】 ○玉主に珠は授けて 「玉主」は、「玉」は下の続きで、わが愛娘の譬喩と知れる。掌中の珠ともいってい、熟した譬喩である。したがって玉主は、娘の夫の譬喩である。「珠は授けて」は、娘は与えての意で、すなわち婚を許しての譬喩。「授けて」という言い方は、親という地位を示しているもの。○かつがつも 「かつがつ」は、「かつ」の畳語で、物の十分でない意をあらわす副詞。口語の、まずまずというにあたる。○枕と吾はいざ二人宿む 「枕」は、わが夜の枕。ここは、共に寝る相手としていっているもので、娘の代わりとした物。「いざ」は、誘う意の感動詞で、ここは我と我を誘う意のもの。「二人」は、枕を擬人しての語であるが、それをしたのは、娘の代わりとしたからである。「宿む」は、夜、寝ようとする際であることをあらわしたもの。
【釈】 その玉の持主となってゆくべき者すなわち聟に、わが珠として身を離さずにいた娘を授けたので、夜を寝るにも相手のない我は、まずまずわが枕で我慢をして、この枕と二人で、さあ、これから寝よう。
【評】 娘を結婚させてその夫の物としてしまった母親のもつ一種の寂寥感を詠んだもので、結婚させた夜、自身寝ようとして、これまでは娘と枕を並べて寝たのとはちがって、自分ひとりきりで寝て、辺りのさみしさを痛切に感じさせられた時を捉えて詠んでいるものである。一首、複雑した気分を単純に具象してあって、手腕を思わせるものである。「王主に珠は授けて」は、娘というものは、いったん夫をもたせると、全く夫のものとなってしまうものであることを、十分意識しての言い方で、単純な譬喩の中に、この意識を託し得ているものである。譬喩ではあるが、それでなければ心のあらわせない必要をもったものである。「かつがつも」という語も、娘に代わって、夜を身に添う物はわが枕よりしかないと思う、そのさみしさを託した語で、その枕と吾とを「二人」という語で徹底させて、その心を明らかにしている。いざという語も、寝ようという気にもなれないのを、我と励ましてその気にならせようとする語で、複雑した気分を託している。三句以下、枕を擬人した形でいっているが、この擬人も、これをすることによって初めてその心のあらわせる、必要なものである。娘を結婚させた後の親の心は、古来あらゆる親の体験しているものであるが、歌となっているものはきわめて少なく、これはその代表的のものである。この歌は母性愛を詠んだ独詠であって、相聞の範囲のものではないが、結婚に関係しているものとして、ここに加えたのであろう。
 
     大伴宿禰駿河麿の歌三首
 
653 情《こころ》には 忘《わす》れぬものを たまさかに 見《み》ぬ日《ひ》さ数多《まね》く 月《つき》ぞ経《へ》にける
(466)    情者 不忘物乎 儻 不見日数多 月曾經去來
 
【語釈】 ○情には忘れぬものを 「情には」は、心と行とを対させていっているもの。○たまさかに 原文「儻」、旧訓「たまたまも」で、義訓である。『攷証』は「たまさかに」と改め、巻十一(二三九六)「玉坂《たまさか》に吾が見し人を」を例とし、この字は中古の字書には、「たまさか」とも「たまたま」とも訓ませてあり、二様の訓があるが、「たまたま」という語は中古以来のことで、古くは上の例のように「たまさか」といっていたと考証している。これに従う。意味はどちらも同じで、ここは口語の、時たまにというにあたる。○見ぬ日さ数多く 「さ数多く」は旧訓「数多《かずおほ》く」。『略解』の訓である。「さ」は、接頭語、「まねし」は多しで、用例の多い語である。逢わない日が数多く。○月ぞ経にける 月も経て行ったことであるよ。
【釈】 心では常に忘れずにいるものを。それとしては時たまのこととして、逢わない日が数多くなって、月も経て行ったことであるよ。
【評】 足遠くしていることの弁解で、実用性のものである。落着いているというよりも、むしろ気乗りのしていない口気のもので、儀礼ということを思わせる歌である。
 
654 相見《あひみ》ては 月《つき》も経《へ》なくに 恋《こ》ふといはば をそろと吾《われ》を おもほさむかも
    相見者 月毛不經尓 戀云者 乎曾呂登吾乎 於毛保寒毳
 
【語釈】 ○相見ては月も経なくに 「相見ては」は、相逢ってからは。「月も経なくに」は、「月」は、一か月。「経なく」は、「経」を打消して名詞形としたもので、経ないことであるに。○をそろと吾をおもほさむかも 「をそろ」は、「をそ」は、『仙覚抄』および『奥儀抄』を引用した『代匠記』以来嘘の古語とされてきたが、『全註釈』は軽率、周章の意と推察し、『古典大系』補注にも軽はずみ、軽率の意としている。従うべきである。「ろ」は、接尾語。巻十四(三五二一)「烏とふ大をそ鳥の」とあり、烏という大あわて鳥の意。「おもほさむかも」は、思われるであろうかで、敬語。「かも」は、疑問。
【釈】 相違ってからは、まだ一月も経ないことであるのに、恋うているといったならば、軽はずみだと我を思われることであろうか。
【評】 前の歌と同時のものと思われる。夫婦間で、一月足らずも逢わずにいて、逢いたいということをいうのに、遠慮がいり、躊躇があったということは、むしろ自然である。誰に贈った歌かはわからないが、こうした夫婦関係は特殊なもので、その点(467)から、坂上家の二嬢《おといらつめ》に贈ったものではないかと思わせる。
 
655 念《おも》はぬを 思《おも》ふと云《い》はば 天地《あめつち》の 神祇《かみ》も知《し》らさむ 邑礼左変
    不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左變
 
【語釈】 ○念はぬを思ふと云はば 偽をいったならばの意で、それを夫婦関係の上に及ぼしてのもの。これは神は偽を咎められるものとして、神を対象としての言である。○天地の神祇も知らさむ 天神も地祇も、すなわち、あらゆる神々がお知りになられようで、神は一切を見とおし給うとしていったもの。○邑礼左変 旧訓「さとれさかはり」で、意をなさない。諸注、訓を試みているが、すべて迎えて解した上で、誤写説を立て、文字を改めるものばかりである。問題としてこのままにしておく。
【釈】 略す。
【評】 初句より四句まで続いて句絶をもち一段落をなすので、四句まではわかる。夫より妻に対して、誠実を誓った心のもので、例の多いものである。結句はたぶん、上を承けて、その誓いを強めようとしたものであろう。
 
     大伴坂上郎女の歌六首
 
656 吾《われ》のみぞ 君《きみ》には恋《こ》ふる 吾《わ》が背子《せこ》が 恋《こ》ふといふことは 言《こと》のなぐさぞ
    吾耳曾 君尓者戀流 吾背子之 戀云事波 言乃名具左曾
 
【語釈】 ○吾のみぞ君には恋ふる 我だけが君に恋うていることであるよ。○吾が背子が恋ふといふことは 「吾が背子」は、最も愛しての称で、夫に対してのもの。「恋ふといふことは」は、我を恋うているということは。○言のなぐさぞ 「言」は、言葉としての。「なぐさ」は、慰めの語幹で、意は慰め。言葉としての慰めで、口さきだけの上手というにあたる。
【釈】 我だけが君を恋うていることであるよ。わが背子が我を恋うているというのは、我に対しての口さきだけの上手言、慰め言であるよ。
【評】 我を恋うていると夫よりいわれたのに対しての報《こた》えである。相手の誰であるかは、題詞がないので明らかではない。し(468)かし、前の(六四六)より(六四九)にわたる四首の、駿河麿と郎女との贈答の歌と同系統のものではないかと思われる。それは坂上家の二嬢《おといらつめ》に代わってのものであろうと言ったが、これも同じくそれであろうと思われる。いうところは別居している夫婦間の普通の人情にすぎないものであるが、聡明な、世故に通じた人が、媚態を失わない程度の態度を保ち、余裕をもって品よくいっているもので、それが、一首の語続きの清らかなのと相俟って魅力をなしているものである。
 
657 念《おも》はじと いひてしものを 翼酢色《はねずいろ》の 変《うつ》ろひやすき 吾《わ》が意《こころ》かも
    不念常 曰手師物乎 翼酢色之 變安寸 吾意可聞
 
【語釈】 ○念はじといひてしものを 「念はじと」は、君のことは思うまいで、夫を恨むことのあった時の言。「いひてし」の、「て」は完了。いったものをで、強めたもの。○翼酢色の 「翼酢」は、唐棣花とも書き、その物は不明で、したがって諸説がある。巻八(一四八五)「夏まけて咲きたる唐棣花《はねず》」とあって、初夏に花が咲き、また巻十一(二七八六)「唐棣色の赤裳のすがた」により、その色が紅の物とは知れる。ここは下の続きで、その花の色の褪《あ》せやすいところから、変わりやすいことの譬喩としてあるもので、「の」は、のごとくの意のものである。褪せやすいのは、たぶん染料として用いてのことと思われる。○変ろひやすき吾が意かも 「変ろふ」は、「変る」の継続をあらわす語。変《うつ》るは移るで、変化する意である。「変ろひやすき」は、変わってゆきやすい意で、そのことは、「念はじ」といったのが変わって、今は君を思わせられている意である。「かも」は、詠歎。
【釈】 君の恨めしさに、今よりは君を思うまいと言ったものを、翼酢色のごとくにも変わってゆきやすく、今は君を思わせられているわが心ではあるよ。
【評】 これは前の歌とは別の時のもので、訴えの心をもって妻より夫に贈ったものである。言わんとするところは、君の恋しく思われるということで、通って来ることを求めているものであるが、「変ろひやすき吾が意かも」といって、「念はじと」の照応によって思うことを暗示しているという間接な言い方をしているものである。その「変ろひやすき」の譬喩として捉えている「翼酢色の」は、染料として女性に関係のある物として捉えたもので、したがって翼酢の咲く初夏のことという関係もあり、かたがた適切なものと思える。淡泊な言い方の中に濃情を包み、心高さ、心細かさももっている歌である。
 
658 念《おも》へども しるしもなしと 知《し》るものを いかにここだく 吾《わ》が恋《こ》ひ渡《わた》る
(469)    雖念 知僧裳無跡 知物乎 奈何幾許 吾戀渡
 
【語釈】 ○念へどもしるしもなしと 「しるし」は、験《げん》で、「甲斐」というにあたる。夫を思ったけれども、その甲斐のないということを。○いかにここだく 旧訓「なぞかくばかり」。諸注、さまざまの訓を試みている。「奈何」を「いかに」と訓んだのは、『新訓』である。これに従う。「幾許」を「ここだく」と訓んだのは、『攷証』である。何《なに》なればかく数多く、すなわち繁くも。○吾が恋ひ渡る わが恋い続けるのであろうかで、「か」は、上の「いかに」のもっているもの。
【釈】 君を思ったけれども、何の甲斐もないことはすでに知っているものを。何なればかく繁くも、吾は恋い続けることであろうかよ。
【評】 これは上の歌とは、また別の時のもので、夫が足遠くして通って来ない時に、強くも訴えようとしてのものである。しかし詠み方は、この歌もまた独詠のような態度を取ったものである。いかなる場合にも、ある程度の優越感は失うまいとしていたとみえる。
 
659 予《あらかじめ》 人《ひと》ごと繁《しげ》し かくしあらば しゑや吾《わ》が背子《せこ》 奥《おく》も何加《いか》にあらめ
    豫 人事繁 如是有者 四惠也吾背子 奧裳何如荒海藻
 
【語釈】 ○予人ごと繁し 「予」は、以前からで、下の「奥」に対させたもの。「人ごと」は、人言で、ここは自分ども夫婦関係に対して、他人の言うこと。人言の範囲は広く、単に興味よりの噂もあるが、悪意よりする中傷もある。次の歌では、同じ事を「中言《なかごと》」といっているので、悪意のものと取れる。○かくしあらば 「し」は、強め。このようであったならばで、結句に続く。○しゑや吾が育子 「しゑや」は、間投詞。『代匠記』は「よしや」の意であるといっているが、本居宣長は歎息の声だと解している。宣長に従う。「吾が背子」は、呼びかけたもの。○奥も何如にあらめ 「奥」は、時の上に移して、末の意にも用いてい、その例は多い。ここは末。「も」はもまたで、「予」と並べたもの。「何如にあらめ」は、「何如に」は、どのようにで、「人ごと」を対象としたもの。「あらめ」は、原文「荒海藻」、旧訓「あらも」、『攷証』が「あらめ」と改めたものである。『和名抄』に、「滑海藻、阿良米。俗用2荒布1」とあって、その義訓だというのである。「め」は、未来の助動詞「む」の已然形。上に疑問の語「いかに」「誰」などがある時に用いている。
【釈】 以前から、我らの間については、他人の中傷の言葉が多い。このようであったならば、ああわが背子よ、末はどのような人言《ひとごと》をされることであろうか。
【評】 前の歌とは別の時のもので、自分どもの夫婦関係について、他人の中傷の言のあることを聞き、それが自分のほうにい(470)っそう不利なもので、夫が聞いたならばどのような気がしようと憂えられるものであったとみえる。いったん夫婦関係が結ばれた以上、妻のほうがいかに心高くあろうとも、実際は弱者とされてくるのが普通である。この歌はそれらの事を背後に置いて、夫に婉曲に注意を求め、また当惑の情を訴えたものである。線は細いが、真率の気の貫いた、感のある歌である。
 
660 汝《な》をと吾《わ》を 人《ひと》ぞ離《さ》くなる いで吾《わ》が君《きみ》 人《ひと》の中言《なかごと》 聞《き》きこすなゆめ
    汝乎与吾乎 人曾離奈流 乞吾君 人之中言 聞起名湯目
 
【語釈】 ○汝をと吾を 汝と吾とをの意で、物を二つ並べる場合、下の物に「と」を添えないのは古格である。「汝を」の「を」は、他に例のないものである。『代匠記』は助語なりといい、『攷証』『古義』も同様であるが、『新考』は衍字《えんじ》ではないかと疑っている。諸本異同がない。○人ぞ離くなる 他人が離間しようとしていることであるよ。○いで吾が君 「いで」は、感動詞。ここは呼びかけのために用いているもの。「吾が君」は、上の「汝を」で、改まっての称で、呼びかけ。○人の中言聞きこすなゆめ 「人の中言」は、他人の中傷の言で、上の離《さ》けようとしてのもの。「聞きこすな」は、原文「聞起名」、旧訓「聞き起《た》つな」。『考』は、「起」は「越」の誤りかとしている。しかし、「越す」の「こ」は甲類で、「起す」の「こ」は乙類でこれは認められない。『略解』に「おこすのおを略きて仮字に用たり」とあるのにより、「おこす」の「お」を略した借訓とすべきであろう。「こす」は希求の意の語である。「聞きこすな」は、聞いてくれるな。「ゆめ」は、強い禁止の語。
【釈】 汝《な》れと吾とを、他人が離間しようとしていることであるよ。いでわが君よ、他人の中傷の言葉を聞いてくれるなよ、けっして。
【評】 これは心としては前の歌に続いているもので、一歩進めていっているものである。たぶん同時のもので、事を重大なりとし、明らかにいい、強く訴えようとしたものと思われる。この歌はそうした際の女性の強さをあらわしているものである。
 
661 恋《こ》ひ恋《こ》ひて あへる時《とき》だに 愛《うつく》しき こと尽《つく》してよ 長《なが》くと念《おも》はば
    戀々而 相有時谷 愛寸 事盡手四 長常念者
 
【語釈】 ○恋ひ恋ひてあへる時だに 「恋ひ恋ひて」は、恋いに恋うてで、自身の恋の久しいことをいったもの。「あへる時だに」は、たまたま逢った時だけなりとも。○愛しきこと尽してよ 「愛《うつく》しき」は、旧訓。「うるはしき」とも訓みうる文字である。可愛ゆいという意で、ここはやさしいというにあたる。「こと尽してよ」は、「こと」は、言。「尽し」は、ここは十分にいう意。「よ」は、ここは要求の意を強めた助詞。やさしい言(471)葉を十分に給えよの意。○長くと念はば 夫婦関係を永く続けようと思うならば。
【釈】 恋いに恋うて、たまたま逢った時だけなりとも、やさしい言葉を十分に給えよ。この関係を永く続けようと思うならば。
【評】 これは相逢った夜の訴えである。居を別にしていた夫妻の気分の、おのずからに濃厚に出ている歌である。初句より四句までもそれであるが、ことに結句「長くと念はば」はその極まったもので、妻の立場からいうと、関係の永続は希《ねが》っているが、最後の一線の如何《いかん》ともし難いものを、常に意識にのぼせていなければならなかったことを示しているものである。今日からみると、夫婦関係がじつに自由で、妻からいうと常に不安の伴ったものだったのである。
【評又】 以上六首の歌は、(六五六)にいったがように、坂上家の二嬢《おといらつめ》から夫駿河麿に贈りまた報《こた》える歌を、郎女が代作したものではないかと思われるのである。その拠り所はすでにいったが、さらにまた、歌の排列順もその事を思わせる。この排列をしたものは大伴家持であろうが、家持はその間の事情を知っていてのことと思われるからである。他の何よりもその事を思わせるのは、この六首のうち、他よりの中傷言を問題とした(六五九−六六〇)の二首を除いた四首は、いったがごとく巧妙ではあるが、実感の少ない、余裕をもったもので、題詠に近い趣をもった歌で、郎女自身のことをいっているものとは思われ難いからである。加えて、(六五六−六五八)までの三首は、そのいうところは妻としての訴えであるが、ある地歩を占めての上でするという趣をもっているものである。これは郎女が二嬢を擁護しようとする心から出ているもので、二嬢としてはなし得ないことであり、また郎女自身のものとするとおそらくしないことだろうと思われるからである。この六首を続けて見ると、初めの三首はいうがごとく地歩を占めてのものであるが、後の三首は対等の態度のものであり、ことに最後の一首は心弱い訴えとなっていて、時とともに心の推移してゆく跡が、おのずからに歌物語をなしている。これはその時々の実際に即したものであることの自然の成行きであって、作者の意図以外のものである。
 
     市原王の歌一首
 
【題意】 「市原王」は、巻三(四一二)に出た。
 
662 網児《あご》の山《やま》 五百重《いほへ》隠《かく》せる 佐堤《さで》の埼《さき》 さではへし子《こ》が 夢《いめ》にし見《み》ゆる
    網兒之山 五百重隱有 佐堤乃埼 左手蠅師子之 夢二四所見
 
(472)【語釈】 ○網児の山 「網児」は、巻一(四〇)に出た。志摩国|英虞《あご》郡(現、三重県志摩郡の一部)で、古の国府のあった辺り。網児にある山。○五百重隠せる佐堤の埼 「五百重」は、幾重にもという意を具象的にいったもの。「隠せる」は、隠しているで、事としては繞らしているのであるが、山が心あってしているごとく言いかえたもの。「佐堤の埼」は、所在不明。諸説があるが一定しない。○さではへし子が 「さで」は、小網《さで》と当ててもいる。漁具で、現在も用いている。「はへ」は、「延《は》へ」の意。小網を使うことは、さすというが、そのさまを具象的にいった語。「子」は、女を親しんでの称で、ここは海人《あま》である。○夢にし見ゆる 「し」は、強め。「見ゆる」は、連体形で、詠歎を含めているもの。
【釈】 網児の山の幾重にも隠しているところの佐堤の埼よ、そこで小網《さで》をさし延ばして漁りをしていた海人の女が、夜の夢に見えることであるよ。
【評】 大和に住んでいられる王には、たまたま見る網児の海が、珍しく心引かれるものであったとみえる。またそこに小網を使って漁りをしている海人の女も、同じく珍しく心引かれるものであったとみえる。その昼見た印象が夜の夢となり、時の距離の関係で一体に溶け合って、新たに珍しく心引くものとなってきたのである。この複雑した気分を、抒情の一語もまじえず、純客観的に言うことによってあらわしているのがこの歌である。初句より三句まで、地名を重ねて力強くいうことによって、風景をあらわし、四句人事をあらわし、結句はそれを承ける形で、全体に対する憧れをあらわしたもので、はなはだ要を得た扱い方である。心細かさ、静かさがそれに伴って、一首を生かしている。赤人を代表とする自然観照を進展させ、人事を加えきたったもので、後の平安朝時代に及んでゆく風である。この歌は、「さではへし子」が中心となっているので相聞に加えたものと思われるが、羈旅の歌である。
 
     安都《あと》宿禰|年足《としたり》の歌一首
 
【題意】 「安都」は、元暦本以外の諸本には安部とあるが、目録には安都とある。『代匠記』は安倍氏は姓は朝臣で、安都氏は宿禰であるから、安都の誤りだとして正している。続日本紀、文武紀、慶雲元年従五位上|村主百済《すぐりくだら》に阿刀連《あとのむらじ》を賜わり、元正紀、養老三年正八位下阿刀連人足らに宿禰の姓を賜うとある。「年足」の伝は未詳である。
 
663 佐穂《さほ》渡《わた》り 吾家《わぎへ》の上《うへ》に 鳴《な》く鳥《とり》の 声《こゑ》なつかしき 愛《は》しき妻《つま》の児《こ》
    佐穗度 吾家之上二 鳴鳥之 音夏可思吉 愛妻之兒
 
(473)【語釈】 ○佐穂渡り 「佐穂」は、佐保の字を用いたものが多い。奈良市の西北の地で、既出。「渡り」は、諸注、解が異なり、『代匠記』は辺《あた》り、『古義』は佐保河を渡りと解している。『新考』は下の鳥の飛び渡る意と解し、一句、佐保の里を飛び渡って来てとしている。下の続きからこの解に従う。○吾家の上に鳴く鳥の 「吾家《わぎへ》」は、わが家の約で、例の多いもの。「鳥の」の「の」は、のごとくの意のもので、わが家の上に鳴いている鳥のごとく。○声なつかしき愛しき妻の児 「声なつかしき」は、ものいう声のなつかしく。「愛しき妻の児」は、「愛しき」は可愛ゆき。「妻の児」の「児」は、親しんで添えた語で、妻。下に詠歎の含まっている形のもの。
【釈】 佐保の里を飛び渡って来て、今わが家の上に鳴いている鳥のごとくにも、ものいう声のなつかしく、可愛ゆいわが妻よ。
【評】 歌で見ると、年足の家は佐保に接した地にあったものとみえる。「佐穂渡り吾家の上に鳴く鳥」というのは、佐保は佐保山に沿った地で小鳥の多い所で、そちらから年足の家のほうへ飛んで来て鳴いている鳥であるが、家の内にいて鳥の飛んで来た方面の知れるのは、高く鳴きつつ飛んで来るものでなくてはならない。それだとほととぎすで、したがって聞いたのは夜である。ほととぎすの愛すべき声を聞くと、それによって妻の声のなつかしさが連想され、「愛しき妻の児」と思慕の情を寄せたのである。初句より三句までの譬喩は眼前を捉えているもので、それが一首の生命をなしている。妻のものいう声のなつかしさを讃えるということは、あってしかるべきものであるにもかかわらず、例の少ないもので、その意味でこの歌は珍しいものである。しかし作者としては実際に即していっているだけで、他意あるわけではない。
 
     大伴宿禰|像見《かたみ》の歌一首
 
【題意】 「像見」は『全註釈』によって、天平勝宝二年四月、正六位上で摂津職の少進であったことが明らかにされた。続日本紀、天平宝字八年正六位上より従五位下、神護景雲三年左大舎人助、宝亀三年従五位上となったことがわかる。
 
664 石上《いそのかみ》 零《ふ》るとも雨《あめ》に さはらめや 妹《いも》にあはむと いひてしものを
    石上 零十方雨二 將関哉 妹似相武登 言義之鬼尾
 
【語釈】 ○石上零るとも雨にさはらめや 「石上」は、大和国山辺郡(奈良県天理市石上)の地名、巻三(四二二)に既出、その内に布留《ふる》の地があるので、布留と続け、零《ふ》る、古るに転じてその枕詞としたもの。「零るとも雨にさはらめや」は、たとい降ろうとも、雨のために妨げられようか、妨げられないで、「や」は反語。○妹にあはむといひてしものを 妹に逢おうと約束をしてしまっているものをで、「てし」の「て」は完了。
(474)【釈】 たとい降ろうとも、雨のために妨げられようか、妨げられはしない。妹に逢おうと約束をしてしまってあるものを。
【評】 妹の家へ出かけようとする際、雨模様になってきたのを見て、気づかいつつも我と心を励ました心である。
 
     安倍朝臣虫麿の歌一首
 
【題意】 「虫麿」は、続日本紀、聖武紀、天平九年正七位上より外従五位下となり、皇后宮亮、中務少輔、播磨守、紫微大忠を経て、孝謙紀、天平勝宝四年中務大輔、従四位下で卒している。作歌の事情は(六六七)の左注にある。
 
665 向《むか》ひゐて 見《み》れども飽《あ》かぬ 吾妹子《わぎもこ》に 立《た》ち離《わか》れ往《ゆ》かむ たづき知《し》らずも
    向座而 雖見不飽 吾妹子二 立離徃六 田付不知毛
 
【語釈】 ○向ひゐて見れども飽かぬ 「向ひゐて」は、さし向かっていて。「見れども飽かぬ」は、長く見たけれども見飽かないで、物を鑑賞する意の成語。○吾妹子に 「吾妹子」は、左注によって坂上郎女とわかる。これは女性を最も親しんで呼ぶ称で、妻に対して用いている。虫麿と郎女とは親族の親しい間というにすぎないのであるが、わざと夫婦関係であるがごとくいったものである。「に」は、現在だと「を」という場合である。『講義』は、「に」と「を」の差別を注し、「に」は相手を動的に見、「を」は静的に見たものだといっている。○立ち離れ往かむ 「立ち離れ往かむ」は、「立ち」は感を強めるために添えて言う語。一句、遠い別れをすることに慣用されている言い方である。今は事としては、虫麿が郎女の家を訪れていて、その家に帰ることである。これもわざと言っているのである。○たづき知らずも 「たづき」は、たよりで、今、きっかけというにあたる。「知らずも」は、知られぬことよで、「も」は詠歎。
【釈】 さし向かっていて、長く見たけれども見飽かないところの吾妹子に、立ち別れて行こうにも、そのきっかけの知られないことであるよ。
【評】 夫がその酷愛している妻に別れて、遠い旅へ立とうとして、名残りの惜しさに立つに立ちかねている心である。親族としてのかりそめの訪問で、帰らなければならない際に、なかば戯れの心をもって詠んだものである。普通の人情を誇張して恋愛的にいう傾向は、抒情の歌にはありうるものである。また、真実を基本とする歌に、明るい戯咲《ぎしよう》を伴わせようとする風も、すでに以前からあったものである。この歌のようなもののあったことは怪しむに足りないことといえる。
 
(475)     大伴坂上郎女の歌二首
 
666 相見《あひみ》ぬは 幾久《いくひさ》さにも あらなくに 幾許《ここだく》吾《われ》は 恋《こ》ひつつもあるか
    不相見者 幾久毛 不有國 幾許吾者 戀乍裳荒鹿
 
【語釈】 ○相見ぬは 相逢わぬはで、夫婦関係としていっているもの。○幾久さにも 古本の訓、で甚しく久しいことにも。「ひささ」は「ひさひさ」の約言。○あらなくに 「なく」は打消して名詞形としたもの。ないことなのに。○幾許吾は 「幾許《ここだく》」は、旧訓「ここばく」。紀州本は「ここだく」と訓んでいる。「ここだ」も「ここば」も、集中に仮名書きの例のあるもので、ここはいずれとも定め難いが、「ここだ」のほうが例が多く、また大祓詞には「ここだく」が用いられてもいるので、「ここだく」に従う。『新訓』は「ここだく」と訓んでいる。意はここは、甚しくである。○恋ひつつもあるか 「か」は、詠歎。夫婦関係の心である。
【釈】 相逢わないことは、甚しく久しいことでもないことなのに、甚しくも我は恋いつづけていることであるよ。
【評】 上の歌に報《こた》えた形のもので、恋の心をもって言っているものであるが、そのいうことは概念的なもので、虫麿よりも控えめなものである。「幾久さにも」と「幾許吾」と対させて、わざと語を厳めしくしているのも、戯れの心よりのことで、技巧を弄んだものである。
 
667 恋《こ》ひ恋《こ》ひて あひたるものを 月《つき》しあれば 夜《よ》は隠《こも》るらむ 須臾《しまし》はあり待《ま》て
    戀々而 相有物乎 月四有者 夜波隱良武 須臾羽蟻待
 
【語釈】 ○恋ひ恋ひてあひたるものを 恋いに恋うた果てに、ようやく逢っている今であるものをで、夫婦関係としていっているもの。○月しあれば夜は隠るらむ 「月しあれば」は、「し」は強め。夜の物である月が、あのように照っているので。「夜は隠る」は、夜が深い意で、夜が昼のほうへ移って行かずに、こもっている意と取れる。○須臾はあり待て 「須臾」は、「暫《しば》し」の古語。「あり待て」の「あり」は、動詞の上に添えられる時は、下の動詞の意の継続をあらわすもので、「あり立たし」などの例がある。「あり待て」は、待ち続けよで、命令形。
【釈】 恋いに恋うてようやく逢った今夜であるものを。月の光があのようにあるので、夜はまだ深いことであろう。しばらく夜明けまで待ち続けよ。
(476)【評】 夫婦関係の間で、たまたま通って来た夫との別れを惜しむ心のものである。いうところは一般性のものであるが、郎女にふさわしく、神経の通った、細かい心をもったものである。戯れの心をもって詠んだものであることは、前の歌と同じである。
 
     右、大伴坂上郎女の母石川内命婦と、安倍朝臣|虫満《むしまろ》の母|安曇《あづみの》外命婦と、同居の姉妹同気の親《しん》なり。これによりて郎女と虫満と、相見ること疎からず、相談《あひかたら》ふこと既に密なり。聊か戯歌を作りて以て問答を為せり。
      右、大伴坂上部女之母石川内命婦、与2安倍朝臣蟲滿之母安曇外命婦1、同居姉妹同氣之親焉。縁v此郎女蟲滿、相見不v踈、相談既密。聊作2戯哥1以爲2問答1也。
 
【解】 「石川内命婦」は、石川は氏、命婦は後宮の女官の名で、内命婦は、五位以上の者の称、「うちのひめとね」といった。安麿の妻で、旅人、郎女の母。諱《いみな》を邑婆《おおば》といったことが知られている。「虫満」の「満」は、麿と通じて用いた。安曇外命婦は、安曇は氏、外命婦は、五位以上の者の事の称で、「とのひめとね」といった。父祖は詳かでない。この左注は、虫麿と郎女の歌は夫婦関係のごとく見えるが、その戯れのものであることを断わり、誤解を避けしめようとしたものである。
 
     厚見王《あつみのおほきみ》の歌一首
 
【題意】 「厚見王」は、父祖は明らかではない。続日本紀、聖武紀、天平勝宝元年従五位下を授けられ、同七年少納言として伊勢神宮に幣帛を奉り、同、孝謙紀、天平宝字元年従五位上を授けられている。
 
668 朝《あさ》に日《け》に 色《いろ》づく山《やま》の 白雲《しらくも》の 思《おも》ひ過《す》ぐべき 君《きみ》にあらなくに
    朝尓日尓 色付山乃 白雲之 可思過 君尓不有國
 
【語釈】 ○朝に日に色づく山の 「朝に日に」は、「日《け》」は旧訓「ひ」、『略解』が改めた。いずれにも訓める。今は『略解』に従う。意は同じてある。朝見るごとに、日ごとにの意で、下へ続く。「色づく山」は、「色づく」は、青葉が黄葉する意。○白雲の 上の山にかかる白雲て、おりか(477)ら雲の多い時である。初句からこれまでは、下の「過ぐ」へ、雲の動き去る意で続き、その「過ぐ」の意を転じることによって序詞としたもの。○思ひ過ぐべき君にあらなくに 「思ひ過ぐ」は、思いが過ぎ去る意で、過ぎ去るとなくなる意の語で、忘れるということを具体的にいっているもの。忘れるべき。「君」は、女より男をさしていう称で、きわめて稀れにその反対の場合もある。男同志だと普通である。ここはそのいずれであるともわからない。「なく」は、打消「ず」の未然形に「く」を添えて名詞形としたもの。
【釈】 朝見るごとに、日ごとに、黄葉に色づいてゆく山にかかる白雲の、やがて過ぎてゆく、その思い過ぎ、すなわち忘れることのできるべき君ではないことであるものを。
【評】 この四、五句は、巻三(四二二)「石上布留《いそのかみふる》の山なる杉|群《むら》の思ひ過ぐべき君にあらなくに」と同じで、成句に近いものであったと思われる。新意は、「朝に日に色づく山の白雲の」という序詞である。この序詞は眼前を捉えたもので、季節感の細かく出ているものである。「朝に日に」は、「日にけに」というと同意で、「朝」を物の印象の鮮やかな時として言いかえたものと思われる。「色づく山」も、静かなる推移をあらわしたものであり、「白雲」も、おりから雲の多い時であり、また、「色づく」と「白」とは色彩の対照もあって、眼前でなくてはいえず、また心をこめなければいえないものである。この歌の「君」は、「語釈」でいったように、男性である王が女性に対して言ったとしてはふさわしくなく、同じく男性に対してのものと思われる。それだと上の引歌が連想されるが、その歌は、丹生王《にふのおほき》が石田《いはた》王の卒去を悲しんだ際の歌である。この歌も挽歌であり、「思ひ過ぐ」が恋の上でも通じうる語であるところから、撰者がこの部に加えたものではないかと思われる。これは往々あることで、必ずしも珍しいことではない。それだとすると序詞の、「山」を心深く扱っているのは、その山に「君」という人の墓があるという関係のためではないかと思われる。
 
     春日王の歌一首 志貴皇子の子、母は多紀皇女といふ
 
【題意】 この題詞の下の注は、元暦本以下七本にある。文字に多少の異同があるが、意は異ならない。この春日王は、続日本紀、元正紀、養老七年無位より従四位下に叙せられ、同、聖武紀、天平三年従四位上、同十五年正四位下同十七年散位正四位下で卒している。集中、今一|方《かた》の春日王があり、系統未詳。文武天皇三年浄大肆をもって卒している。
 
669 足引《あしひき》の 山橘《やまたちばな》の 色《いろ》に出《い》でよ 語《かた》らひ継《つ》ぎて あふこともあらむ
    足引之 山橘乃 色丹出与 語言繼而 相事毛將有
 
(478)【語釈】 ○足引の山橘の 「足引の」は、「山」の枕詞。「山橘」は、今の薮柑子。山地に自生する小灌木で、夏、青白い小花を開き、秋、小球果を真赤に熟させる。ここは、その果をいっているもの。「の」は、のごとくの意のもの。○色に出でよ 「よ」は、仙覚本系統の諸本は多く「而」とあり、旧訓「て」であるが、元暦本、他二本には「与」とある。これに従う。「色に出でよ」は、心を表面にあらわせよで、心は恋のそれである。命令形で、他に向かっていったものと解せる。○語らひ継ぎて 「語らひ」は、「語る」の継続をあらわす語。「継ぎて」も、継続。「語る」は、恋の上の心をあらわす意で、心を通わすということを具象的にいったものといえる。○あふこともあらむ 「あふ」は、「逢ふ」で、男女関係。「も」は、現在に並べて、将来もまた。「あらむ」は、推量。
【釈】 足引の山橘の果のごとく、色に出て、すなわちその心を表面にあらわせよ。それだと、わが心を通わし続けて、後にもまた逢うこともあろう。
【評】 王がある女と相対していられて、その女に贈ったもので、その場合に即させて詠んだ、実用性の歌と取れる。「足引の山橘の色に出でよ」は、女は王に心を許してはいるが、その心を表面にあらわすことをせず、王としては親しみをもち難い状態であるので、女のその態度をやめさせようとして言ったものと取れる。それだと女は、初めて王に逢った者で、たぶん、身分の隔りから甚しく遠慮してのことと解される。「語らひ継ぎて」は、現在相逢っていての上のことで、女が態度を改めないと、そのこともできにくいからのことであり、「あふこともあらむ」は、親しんでの上の成行きとしてのもので、将来のことである。この句は上にいった身分の隔りということをあらわしているものと言える。解しやすきに似て、解し難いところのある歌で、誤字説の起こっているのもそのためであろう。解し難さは、実際に即したもので、その実際の明らかでないがためである。一首、おおらかな、高貴の面影をもったものである。
 
     湯原王の歌一首
 
【題意】 「湯原王」は、上の(六三一)以下、(六四二)にわたって、娘子と贈報した人。これもその続きと思われる。
 
670 月読《つくよみ》の 光《ひかり》に来《き》ませ 足疾《あしひき》の 山《やま》き隔《へな》りて 遠《とほ》からなくに
    月讀之 光二來益 足疾乃 山寸隔而 不遠國
 
【語釈】 ○月読の光に来ませ 「月読」は、神代紀に出ており、月神の御名。ここは、転じて月そのものの称となったもの。「光に」は、光を頼りとして。「来ませ」は、敬語。わが方に来たまえで、次の歌で、女に贈ったものと知れ、女に対しての慣用のものと知れる。○足疾の山き隔りて(479) 「足疾の」は、「山」の枕詞。「山き隔りて」の「山き」は元暦本、類聚古集、紀州本のほかは「山乎」とあり、それだと穏当のようであるが、巻十七(三九六九)に「あしひきの夜麻伎敝奈里※[氏/一]……」、同巻(三九八一)にも「あしひきの夜麻伎敝奈里※[氏/一]」の例があり、元暦本などの伝えが正しいと考えられる。しかし「き」の意は明瞭でなく、「来」の意か(全註釈)、距離の意か(古典大系)、ものをわかつ意か(注釈)などといわれている。意味は「を」としてもほとんど異ならない。「隔りて」は旧訓「へだてて」。『略解』が「へなりて」と改めた。いずれにも訓める字である。「月読」との関係で、「へなる」の古きに従う。意は隔ててで、山を隔てとしての意で、下の「遠からなく」の状態をいったもの。○遠からなくに 「なく」は、しばしば出た。遠くはないことであるに。
【釈】 月の光を頼りにしてこちらへ来たまえ。山を隔てとしていての遠い路というではないものを。
【評】 王のほうより女に、こちらへ来いと誘ってやった実用性の歌である。温藉《おんしや》な、高貴な風のおのずからに備わった歌である。
 
     和ふる歌一首 作者を審らかにせず
 
【題意】 題詞の下の細注は元暦本、他の五本に付されている。(六三三)の「娘子」とある女と思われるが、それも審らかではないというのであろう。
 
671 月読《つくよみ》の 光《ひかり》は清《きよ》く 照《て》らせれど 惑《まと》へる情《こころ》 堪《た》へず念《おも》ほゆ
    月讀之 光者清 雖照有 惑情 不堪念
 
【語釈】 ○月読の光は清く 「月読の光」は、贈歌を承けたもの。「は」は、下の「惑へる情」に対させたもの。「清く」は、「光」を進めていったもの。○照らせれど 照らしているけれどもで、上の「清く」を承けたもの。○惑へる情 惑っている心で、「惑ふ」は、ここは、恋のために乱れている心で、行く路の弁別もなくなっている心という意でいっているもの。○堪へず念ほゆ 原文「不堪念」。旧訓。堪えられずと思わるの意で、堪えられずは、贈歌の「来ませ」を承けて、路を辿りかねる意。
【釈】 月の光は清く照らしているけれども、わが恋のために乱れている心は弁別が失せ、路を辿るに堪えられないと思われる。
【評】 表面は王の召しを拒んだ形であるが、その拒むのは、惑える情《こころ》を訴えようがためで、中心はそこにある。惑える情というのは、王より疎遠にされていると感ずる悲しみで、それが事実であったかどうかはわからない。男女間のことであるから、ある期間を過ぎると、男はおのずから冷淡になり、女は反対に熱意が加わるのか普通で、疎遠というのも、その開きより起こ(480)る感ではないかと思われる。女はこうした歌をもって和えたが、事実は王の召しに応じたのではないかと思われる。
 
     安倍朝臣虫麿の歌一首
 
672 倭文手纒《しづたまき》 数《かず》にもあらぬ 寿《いのち》もち いかに幾許《ここだく》 吾《わ》が恋《こ》ひ渡《わた》る
    倭文手纏 數二毛不有 壽持 奈何幾許 吾戀渡
 
【語釈】 ○倭文手纒 倭文をもって作った手纒の意。これは上代の織物で、色の異なる糸をもって交織《まぜおり》にしたもので、後世の縞物。「手纒」は、腕輪で、腕頸に巻く物。「数にもあらぬ」、「いやしき」に続けて、その枕詞としている。解は諸説があり、「倭文」はそれを織るに苧環《おだまき》の数を要するところから数を続くといい、また、同じ意で、弥重《いやし》きの意で、いやしきに続くといい、まだ定説となりうるものがない。問題として残すべきである。○数にもあらぬ寿もち 「数にもあらぬ」は、物の数にも入るべくもなく価値の少ないの意で、賎しい意。ここは、身分の低い意と取れる。「寿《いのち》」は、旧訓。『考』は、「身」の誤り、『略解』は、「吾身」の誤りというが、諸本異同がない。「命」に義をもって当てた字で、命はすなわち身で、旧訓で通じる。○いかに幾許 「いかに」は、旧訓「なぞ」。『代匠記』は「なにか」と改め、『新訓』は「いかに」と改めている。いずれにも訓めるものである。なんとの意で、疑いの意をもった副詞。「幾許《ここだく》」は、上の(六六六)に出た。甚しく。○吾が恋ひ渡る 吾は恋い続けるのであるかよで、「いかに」と照応させたもの。以上の二句、上の(六五八)に出た。
【釈】 物の数でもない賤しい身分の身をもって、なんと甚しくも吾は、恋い続けているのであるかよ。
【評】 身分の隔たりを意識させられる高い階級の女性に対し、長い間片恋をしてきて、ある時、その事柄を反省した心である。独詠である。事を大観したところからおのずから宗教的になり、身を「寿《いのち》」に言いかえたものと取れる。恋の上で身の階級を意識させられる歌は、集中に少なくはない。虫麿は相応に高い身分をもってそれをしているので注意されるが、これは相手次第のことである。
 
     大伴坂上郎女の歌二首
 
673 真《ま》そ鏡《かがみ》 磨《と》ぎし心《こころ》を ゆるしてば 後《のち》に云《い》ふとも 験《しるし》あらめやも
    眞十鏡 磨師心乎 縱者 後尓雖云 驗將在八方
 
(481)【語釈】 ○真そ鏡磨ぎし心を 「真そ鏡」は、真澄鏡の約。巻三(二三九)にも出た。鏡は光を発せしめるために磨ぐと続け、その枕詞としたもの。「磨ぎし心」は、磨いで澄ましめた心で、これは女として、男を警戒することの強い心をいったもの。すなわち、たやすくは男に許さない心である。○ゆるしてば 「ゆるし」は、許す、すなわち身を任せること。「て」は、完了で、許してしまったならば。○後に云ふとも 「後に」は、後後になってで、妻となつての後。「云ふとも」は、とやかく言おうともで、「云ふ」は悔ゆともを、一歩手前でいった形のものと取れる。我に対していうのである。○験あらめやも 「験」は、「甲斐」。「や」は、反語。甲斐があろうか、ない。
【釈】 真そ鏡を磨いで澄ましめた心を守りつくさず、いったん男に身を任せてしまったならば、後になって我ととやかく言おうとも、その甲斐があろうか、ありはしない。
【評】 初句より三句までは、上の(六一九)同じ人の「怨恨の歌」と題する長歌に、「まそ鏡磨ぎし情《こころ》を許してし」とあって、その一歩手前の心である。男女関係が自由で緩かったこの時代に、結婚を前にした聡明な女性は、緊張した心をもって将来を思う必要があったので、こうした心をもたざるを得なかったものと察しられる。階級の高い、聡明な郎女にあっては、ことにこの感が強かったものと思われる。「後に云ふとも」という語は、さすがにつつましいものである。
 
674 真玉《またま》つく をちこち兼《か》ねて 言《こと》はいへど あひて後《のち》こそ 悔《くい》にはありといへ
    眞玉付 彼此兼手 言齒五十戸常 相而後社 悔二破有跡五十戸
 
【語釈】 ○真玉つくをちこち兼ねて 「真玉つく」は、「真」は、美称。「玉つく」は、玉を身に着ける意で、玉を身に着けるには、緒に貫《ぬ》いての上のことなので、「緒《を》」と続け、「をち」の「を」に転じての枕詞。「をちこち」は、義訓。これは場所の上で、あちら、こちらという意をあらわす語であるが、転じて時の上に移し、行末、今の意にも用いた。用例は他にもある。「兼ねて」は、わたって。○言はいへど 「言」は、旧訓「いひは」。『考』が改めた。言葉としては言うけれどもで、「言《こと》」は、約束としてはの意。○あひて後こそ 夫婦として相逢っての後こそで、「こそ」は一点を取立てる意。○悔にはありといへ 「悔には」は、原文「悔二破」。諸本異同がない。『略解』は、「二」は衍字だとしている。意としては「悔」で、「悔に」は用例のないものであるが、原文に従い、悔の状態にの意に解しておく。「ありといへ」は、「いへ」は、「こそ」の結。悔があると、人がいっているの意。
【釈】 我を娉《よば》う人は、行末、今にわたって、約束としては心|渝《かわ》らないと言っているけれども、いったん夫婦として相逢った後の実際としては、後悔の状態にあるものだと世間の人が言っていることであるよ。
【評】 前の歌の延長で、一歩前進した心を、繰り返して言っているものである。前の歌の強さはないが、代わりに心細かさが(482)あって躊躇している心境をよくあらわしている。「悔にはありといへ」は、前の歌と同じくつつましさをもったもので、「悔に」という語は用いているが、わが心よりのものとせず、「ありといへ」と、世間の人の語としているのである。この二首は、前の歌に引いた「怨恨の歌」につながりをもったものではないかと思われる。
 
     中臣女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌五首
 
【題意】 「中臣女郎」は、中臣氏の娘ということがわかるだけで、他はすべて考え難い。
 
675 をみなへし 咲《さ》く沢《さは》に生《お》ふる 花《はな》がつみ かつても知《し》らぬ 恋《こひ》もするかも
    娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺香聞
 
【語釈】 ○をみなへし咲く沢に生ふる 「をみなへし」は、今の女郎花。「咲《さ》く沢《さは》」は、旧訓。咲くところの沢の意である。『代匠記』は、これを「咲沢《さきさは》」と改め、佐紀の地にある沢の意かとした。諸注これに従っている。佐紀は、奈良市佐紀町。『攷証』のみはそれを疑い、旧訓に復し、地名ではないとして、巻十(一九〇五)「をみなへし咲《さ》く野《の》に生ふる白つつじ」、同、(二一〇七)「をみなへし咲《さ》く野《の》の芽子《はぎ》に」。また、巻十二(三〇五二)「かきつばた開沢《さくさは》に生ふる菅の根の」、巻七(一三四六)「をみなへし生ふる沢辺の真葛原」などを例として、「開沢」「咲野」の地名ではないことを考証している。従うべきである。○花がつみ 諸説があってきめがたい。白井光太郎の研究によれば、野生の花菖蒲の一種で、日光地方では「赤沼あやめ」と称している物だという。初句よりこれまでは、「かつみ」を、畳音の関係で下の「かつて」の序詞としたものである。○かつても知らぬ恋もするかも 「かつて」は、前かたには。「も」は、詠歎。「恋も」の「も」「かも」は、いずれも詠歎。
【釈】 女郎花の咲く沢に生えているところの花がつみのかつという、そのかつても知らなかった恋を、我は君によってすることであるよ。
【評】 初句より三句までの序詞は、これを形の上から見ると、「かつて」に畳音の関係で続いているもので、同音異義の興味をねらう謡い物系統のものとみえるものであるが、作意からいうとそれだけのものではなく、心をこめたものである。この歌にあっては、「かつても知らぬ」ということが訴えの中心をなしているもので、きわめて重いものである。序詞はその「かつて」を強めるためのもので、これがあって初めて思い入れのあるものとなるのである。心理的にいうと、「女郎花咲く沢に生ふる花がつみ」を見ることによって、その音の連想から、「かつても知らぬ」という哀切な情を、辛くも語《ことば》となし得たという趣をも(483)っているのである。音の連想よりという点には新意があるが、本来としては、外界の刺激によりてわが心を捉えるという、古風なものである。相応な教養をもった、そのいうところから見て、やや年をした女性を思わしめる歌である。
 
676 海《わた》の底《そこ》 奥《おき》を深《ふか》めて 吾《わ》が念《も》へる 君《きみ》にはあはむ 年《とし》は経《へ》ぬとも
    海底 奧乎深目手 吾念有 君二波將相 年者經十方
 
【語釈】 ○海の底奥を深めて 「海の底」は、「底」は古くは、現在用いている、物を垂直に見ての最低部の称だけではなく、距離の上にも用いて遠近と対させるその遠の意にも用いた。ここは、海の陸よりは遠い所の意のもので、意味で「奥《おき》」にかかる枕詞。「奥を深めて」は、本来は文字どおり奥《おく》であって、沖に転じたものという解に従う。上よりの続きは沖で、海の底はすなわち沖であって、同意を畳んだものである。「奥」は、心という意にも用いたとみえる。それは心の所在を身の奥にあるものとして、心というものを感覚的に具象化しようとしたところから起こったものと思える。ここは、その意のもの。「深めて」は、深くしてで、他動詞。一句、心を深くしてで、心深くというにあたり、その強いものである。○吾が念へる君にはあはむ 「吾が念へる君に」は、我が思っている家持。「は」は、強め。「あはむ」は、「逢はむ」で、妻として逢おうの意。○年は経ぬとも 「ぬ」は、完了で、強めのためのもの。たとい何年も逢えずに過ぎて行こうとも。
【釈】 心を深くして我が思っているところの君には、妻として逢おう。たとい何年も空しく過ぎて行こうとも。
【評】 初めて人を思った女性の、純粋な、強い感情の現われている歌である。いうところは一般的のものであるが、素朴で、立体感があって、時代的にいうと古風に属する歌風である。
 
677 春日山《かすがやま》 朝《あさ》居《ゐ》る雲《くも》の 欝《おほほ》しく 知《し》らぬ人《ひと》にも 恋《こ》ふるものかも
    春日山 朝居雲乃 欝 不知人尓毛 戀物香聞
 
【語釈】 ○春日山朝居る雲の 「春日山」は、しばしば出た。「朝居る雲」は朝、山にかかっている雲で、夜に降《くだ》っていた雲を、朝見ての称。「の」は、のごとく。○欝しく はっきりせず、おぼつかない意。しばしば出た。「恋ふる」に続く。○知らぬ人にも恋ふるものかも 「知らぬ人に」は、見たことのない人をで、家持をさしたもの。女郎は家持を見たことがなく、人を中間にしての交渉だったのである。「も」「かも」は、詠歎。
【釈】 春日山に朝かかっている雲のごとくにもおぼつかなくも、我は見たことのない人を恋うていることであるよ。
(484)【評】 「知らぬ人にも恋ふる」というおぼつかなさを、嘆いて訴えたものである。「春日山朝居る雲」は、そのおぼつかなさが恋の状態の刺激となり、哀しく感じさせた形のものである。贈歌である関係から、この春日山は、女郎の家より遠くないものであったと取れる。
 
678 直《ただ》にあひて 見《み》てばのみこそ たまきはる 命《いのち》に向《むか》ふ 吾《わ》が恋《こひ》止《や》まめ
    直相而 見而者耳社 靈剋 命向 吾戀止眼
 
【語釈】 ○直にあひて見てばのみこそ 「直にあひて」は、直接に相逢って。「見てばのみこそ」は、「見てば」は、「て」は完了で、強めのためのもの。見ることをしたならばで、「見」は、上の「あひ」の繰り返し。「のみ」は、ばかりの意で、「こそ」は、取立てての意。一句、見るということをしたならば、そのことだけがの意。○たまきはる命に向ふ 「たまきはる」は、「命」「内」その他にかかる枕詞であるが、意味は諸説があって定まらない。「たま」は「魂《たま》」で、身すなわち肉体と対立するもの。「きはる」は、「来経《きふ》る」の転で、魂が外部より身の内にきて経るすなわち宿っている意で、そうした状態がすなわち命だとして、意味で「命」にかかり、同じ心より「幾世」にもかかり、命の内の意で「内」にかかり、また、山上は神の霊《たま》の来経る所として「吾が山の上」にもかかるのではないかと思われる。「命に向ふ」は、「向ふ」はここは匹敵する意で、命と対等のの意。命がけ、命とかけがえというにあたる。○吾が恋止まめ わが憧れはやもうで、「止まめ」の「め」は已然形、「こそ」の結。
【釈】 直接に相逢って、見るということをしたならば、そのことによってだけ、命とかけがえのわがこの憧れはやもう。
【評】 見ぬ恋の憧れの昂まり極まってきた心を言いあらわして訴えたものである。情熱が心を気分に化さしめていて、一、二句の執拗《しつよう》な繰り返し、三、四句の重い思い入れとなって、重厚味のあるものとさせている。この歌も古風の好さの注意されるものである。
 
679 不欲《いな》と云《い》はば 強《し》ひめや吾《わ》が背《せ》 菅《すが》の根《ね》の 念《おも》ひ乱《みだ》れて 恋《こ》ひつつもあらむ
    不欲常云者 將強哉吾背 菅根之 念乱而 戀管母將有
 
【語釈】 ○不欲と云はば強ひめや吾が背 「不欲」は、「否」に当てた字で、諾《うべ》なわぬ意。今の、いやだというにあたる。相逢うことに対しての言。「強ひめや」の「や」は、反語。強いようか、強いはしない。「吾が背」は、家持を親しんでの称で、呼びかけ。○菅の根の念ひ乱れて 「菅の根の」は、「菅」は今の菅《すげ》。その根の入り乱れているところから、意味で「乱れ」の枕詞となっているもの。「思ひ乱れ」は、恋の嘆きに心の乱れ(485)る意。○恋ひつつもあらむ 「恋ひつつ」は、継続。「も」は、詠歎。
【釈】 相逢うことはいやだというならば、強いようか強いはしない、わが背よ。我は一人、嘆き乱れて恋い続けてもいよう。
【評】 「不欲と云はば」は、女郎の訴えにもかかわらず、家持は逢おうとしないところから、心中を察しての言と取れる。女郎はそう察しるとともに、「強ひめや吾が背」と、親しみをもって潔く諦め、怨みがましいことは言おうとしていない。加えて「念ひ乱れて恋ひつつもあらむ」と言い添えてもいる。これは女郎の人柄よりのことであるが、人柄というよりもむしろ古風というべきで、やや溯った時代の女性の、等しなみにもっていた心である。「不欲と云はば強ひめや吾が背」は、女郎としては自然に、必然なこととして言っているものと思えるが、捉えては言いやすくないもので、この歌を魅力あるものとしている句である。
【評又】 女郎の歌があるのみで、家持のものはないところから、前後の事情は全くわからない。この五首の歌だけで見ると、女郎は相応に高い教養をもった、時代的にいうと、新時代の風に染まず、古風を保持していた、純良な、頼もしい女性であったことが知られる。家持を「知らぬ人」と言いつつも、熱意をもって訴えをしているところから見ると、家持は人を介して娉いをしたものとみえる。それにもかかわらずその後の家持は、冷淡な態度を取り、また取り続けてしまったのではないかと思われる。笠女郎といい、中臣女郎といい、歌風が実際に即するものであった自然の成行きとして、おのおの無意識のうちに個性を発揮し、その結果として、後世の物語中の人物に見るがごとくその面目をとどめている。おのずからなる歌物語というべきである。
 
     大伴宿禰家持、交遊と別るる歌三首
 
【題意】 「交遊」は、「遊」は「友」と通じて用いる字で、交友すなわち友というと同じである。『代匠記』は、目録には「別」の下に「久」の字があるので、ここは落ちたのであろうといい、「久しく別るる」の意だといっている。しかし諸本このとおりで、異同はない。「別るる」は、交を絶つ意と取れる。交遊というのは誰ともわからない。
 
680 けだしくも 人《ひと》の中言《なかごと》 聞《き》こせかも 幾許《ここだく》待《ま》てど 君《きみ》が来《き》まさぬ
    盖毛 人之中言 聞可毛 幾許雖待 君之不來益
 
【語釈】 ○けだしくも 「けだしくも」は、おそらくはと推量する意の語で、副詞。「けだし」とも「けだしく」とも「けだしくも」ともいい、意味としては同じである。類例には、「もし」、「もしくは」がある。○人の中言聞こせかも 「人の中言」は、他人の、間にあっての中傷の言。「聞(486)こせ」は「聞く」の敬語、「かも」は、疑問。お聞きになったからか。○幾許待てど 「幾許」は、甚しく。○君が来まさめ 「来まさ」は、「来」に、敬語「ます」を添えたもの。
【釈】 おそらくは、他人の中間にあっての中傷の言をお聞きになったからであろうか。いたくも待ったけれども、君はわが方にお出でにならない。
【評】 自身を信じ、交友を信じて、そうした間にあってはあるべくもない疎遠なしうちを疑い、他人の中傷を聞いたためではないかとし、それを率直に言い贈ったものである。しかも「聞こせ」「来まさぬ」と敬語をも用いている。これは、中傷を解こうとする心よりのもので、家持の善良なる人柄を示しているものである。宮中を繞って幾つもの大氏族が、暗黙の間に勢力を争っていた雰囲気に触れている歌であり、その間に立っての家持の人柄も示している意味で注意される。報《こた》え歌がないので、事の結果はわからない。
 
681 なかなかに 絶《た》つとし云《い》はば かくばかり 気《いき》の緒《を》にして 吾《われ》恋《こ》ひめやも
    中々尓 絶年云者 如此許 氣緒尓四而 吾將戀八方
 
【語釈】 ○なかなかに絶つとし云はば 「なかなかに」は、ここは、むしろというにあたる。「絶つとし」は、原文「絶年」、旧訓「たえねとし」。先方のことをいっているのであるから、「ね」を訓み添えた旧訓はあたらない。諸注それぞれ改訓を試みている。『新訓』は「絶つ」。先方のすることであるから、事としては「絶つ」と言いうることであり、こちらは訴えの心をもって言っているのであるから、事の露《あら》わで、強いほうが効果的であるから、「絶つ」が妥当に感じられる。「絶《た》つとし」は、「し」は強め。交りを絶つといったならば。○かくばかり気の緒にして 「かくばかり」は、これほどで、自身の状態を総括していったもの。「気の緒にして」は、「気の緒」は、息の永く続くことの意で、命ということを具象化した語。「にして」は、上を承けて、という状態にの意。今の一所懸命という語にあたるものである。○吾恋ひめやも 「や」は、反語。吾は君を恋いようか恋いはしない。
【釈】 むしろ交りを絶つと君がいったならば、我はこれほどに一所懸命に君を恋いようか恋いはしない。
【評】 前の歌と同時のもので、一歩を進めたものである。いうところは、先方の友情が疑わしく危まれると、それとは反対に、こちらの友情はますます深まってきて、気《いき》の緒にして恋うるという状態となっているというので、先方の態度の曖昧なのに対しては、いささかの恨みをまじえているが、根本の友情に対しては動《ゆる》ぎのないことを訴えているのである。友情とはいえ、恋情に近い趣をもったものである。家持という人の思われる歌である。
 
(487)682 念《おも》ふらむ 人《ひと》にあらなくに ねもころに 情《こころ》尽《つく》して 恋《こ》ふる吾《われ》かも
    將念 人尓有莫國 懃 情盡而 戀流吾毳
 
【語釈】 ○念ふらむ 旧訓「念ひなむ」。『古義』の訓。「なむ」は未来の推量であるから、現在の「らむ」とすべきである。我を思っているだろうところの。○人にあらなくに 「人」は、交遊。距離をつけて客観的に言いかえたもの。「なく」は、しばしば出た。「に」は、詠歎。○ねもころに 今のねんごろに。○情尽して恋ふる吾かも 「情尽して」は、全心を傾けて。「吾かも」の「かも」は、詠歎。
【釈】 我を現に思っているところの人ではないことなのに、ねんごろに、全心を傾けて我は恋うていることであるよ。
【評】 これも同時のものである。友は我を思うまいが、我はその友を思って惜しまないというので、この歌にはすでに疑いも恨みもなく、ただ独りある境地のものである。贈歌ではあるが、独詠の趣をもっている。三首を連《つら》ねると、若い頃の家持の面目が、全面的に現われている感がある。
 
     大伴坂上郎女の歌七首
 
683 いふ言《こと》の 恐《かしこ》き国《くに》ぞ 紅《くれなゐ》の 色《いろ》にな出《い》でそ 念《おも》ひ死《し》ぬとも
    謂言之 恐國曾 紅之 色莫出曾 念死友
 
【語釈】 ○いふ言の恐き国ぞ 「いふ言」は、人のいう言葉で、噂というにあたる。他人のことを興味の対象としていうことで、上流社会にあってはもとより、下級社会でも、その機構が緊密であったために、噂を立てられる者は甚しく迷惑をした。「いふ言」は、ここでは男女関係を意味させたもので、噂話の代表的なもの。「恐き」は、旧訓「さがなき」。『代匠記』が改めた。恐るべき。「国」は、古くは一郷一郡の狭い範囲の称で、郡県制度以後、広範囲の称となった。ここはその古い言い方で、わが住んでいる土地というほどの、狭く、漠然とした意のもの。「ぞ」は、指示。○紅の色にな出でそ 「紅の」は、紅花《べにばな》のごとくで、その色の鮮かなところから譬喩としたもの。「色にな出でそ」は、「色」は、顔いろ。「な……そ」は、禁止。顔いろには出すなで、ここは男女関係が結ばれていて、それが素振りに出やすいもの、出れば噂の種になるとして禁止したもの。○念ひ死ぬとも 「念ひ死ぬ」は、嘆き死ぬ意で、たとい、人目をはばかるために逢えずにいて、そのようなことがあろうともの意。
【釈】 人の立てる噂の恐るべき土地であるぞ。紅花のごとく鮮やかに顔いろに出すことはするな。たとい嘆き死ぬことがあろうとも。
(488)【評】 すでに夫婦関係は結ばれていたが、まだ秘密にしておくべき時期に、夫である人に対して贈ったもので、その秘密を他人に悟られて、噂の種になることはけっしてするなと、堅く禁じた心である。禁じるのは、その関係を重んじるためで、したがって歓びを背後に置いてのものである。この秘密の厳守は、必要のあってのことではあるが、女性の特性も伴ってのものと見られる。調べが張って、強さを含んでいるために、誇張が自然なものとなり、全体として美しいものとなっている。冴えた美しさである。これは郎女の特色で、この七首は最もよくそれをあらわしている。
 
684 今《いま》は吾《あ》は 死《し》なむよ吾《わ》が背《せ》 生《い》けりとも 吾《われ》に縁《よ》るべしと 言《い》ふと云《い》はなくに
    今者吾波 將死与吾背 生十方 吾二可縁跡 言跡云莫苦荷
 
【語釈】 ○今は吾は死なむよ吾が背 「今は吾は」は、「吾《あ》」は旧訓「われ」を、『考』の改めたもの。「今は」は、過去に対させたもの。「吾は」は、夫に対させたもので、過去は頼みにしてきたが、今となっては、君は知らず我はで、思い詰めた形のもの。「死なむよ吾が背」は、死んでしまいますよわが背よで、二句とも呼びかけ。○生けりとも 「生けり」は、生きありで、たとい生きていようとも。○吾に縁るべしと言ふと云はなくに 「吾に縁るべしと」は、君が我を縁りどころとしようとはで、「縁る」は、寄って一つとなる、すなわち心よりの妻とする意。「言ふと云はなくに」は、「言ふ」は、上を承けて、君がいうと。「いはなくに」は、夫と郎女の間に立って事を運んだ側近の者のことで、その者が、我にいわないことであるものをの意。
【釈】 今の状態では我としては、死んでしまいますよわが背よ。たとい生きていようとも、君は我を縁りどころとしようというとは、事を知っている者が我にいわないことであるものを。
【評】 とどまるところを知らない恋情から、その夫に甘えて、わざと拗《す》ねていっている心のものである。媚態の具象化であって、それにふさわしく、細かく屈折をもった言い方である。「吾」という語を三回まで繰り返しているのも、その現われである。この言い方は先蹤《せんしよう》のあるもので、郎女はそれによったとみえる。「今は吾は死なむよ吾が背」は、巻十二(二八六九)「今は吾《わ》は死なむよ吾妹逢はずして念ひわたれば安けくもなし」があり、「吾に縁るべしと言ふと云はなくに」は、巻十一(二三五五)「うつくしと吾が念《も》ふ妹は早も死なぬか、生けりとも吾に依るべしと人の言はなくに」があるからである。しかし郎女の歌は、細かい感性をもって二首を一丸とし、渾然としたものとしているので、新たなる展開を与えたものといえる。このことはまたこの時代の歌風でもあったものである。
 
(489)685 人言《ひとごと》を 繁《しげ》みや君《きみ》を 二鞘《ふたさや》の 家《いへ》を隔《へだ》てて 恋《こ》ひつつをらむ
    人事 繁哉君乎 二鞘之 家乎隔而 戀乍將座
 
【語釈】 ○人言を繁みや君を 「人言」は、他人のする噂。「繁みや」は、「繁み」は、繁くして。「や」は、疑問。五句へかかる。○二鞘の 「二鞘」は、どういう鞘であるかわからず、したがって諸説がある。『代匠記』は詳しく考証しているが、一説として、一つの鞘で、幾つもの刀身を蔵《おさ》めるようにできたものではないかと言っている。『新考』は、現存の正倉院の御物の中に、一幹三室、すなわち鞘は一つで、刀身の三口を蔵められるように作ったものがあるといって、図示している。鞘は本を太く、末を細く作ってあり、刀の柄《つか》の色の異なるところから見ると、用いるところも異なるのであろうと言っている。これは鞘とはいうが、太刀を佩く際の物ではなく、家に蔵する際の物である。『新考』のこの解は最も妥当に聞こえるものである。鞘は漢語では刀室といい、室は古く「さや」とも訓ませていた。「の」は、のごとくの意のもので、下の譬喩。○家を隔てて 郎女とその夫とは、家を隔てて、すなわち家を異にしてで、一幹二刀室に酷似した状態なのである。なおこの譬喩から見ると、双方の家は近かったと思われる。○恋ひつつをらむ 恋い続けているのであろうか。
【釈】 人の噂が多いので、我は君を、二鞘の太刀のごとくに、家を隔てた状態で恋い続けているのであろうか。
【評】 実際の状態に即しての嘆きで、したがって静かな歌である。「二鞘」は『新考』の解に従うと、適切な譬喩である。太刀はこの当時とても貴い物であり、ことに武臣をもって任ずる大伴家としてはいっそうであったろう。この歌を贈った相手が宿奈麿であるとすると、さらにいっそうと言うべきである。
 
686 このごろに 千歳《ちとせ》や往《ゆ》きも 過《す》ぎぬると 吾《われ》や然《しか》念《おも》ふ 見《み》まく欲《ほ》れかも
    比者 千歳八徃裳 過与 吾哉然念 欲見鴨
 
【語釈】 ○このごろに 旧訓。この頃のうちに。○千歳や往きも過ぎぬると 「や」は、疑問。「ぬる」は、「や」の結。千年の久しさが経過したことであるかと。○吾や然念ふ 「や」は、詠歎。我はそのように思う。○見まく欲れかも 旧訓「見まくほりかも」。『略解』の訓。「見まく」は、「見む」の名詞形。君に逢うこと。「欲れかも」は、後世の欲ればかもにあたる古格。「かも」は、疑問。欲するからなのか。
【釈】 この頃のうちに、千年の久しきが経過したことであるかと、我はそのように思う。君に逢うことを欲するからなのか。
【評】 巻十一(二五三九)「相見ては千歳や去ぬる否をかも我や然念ふ君待ち難《かて》に」がある。明らかにこれによった歌であるが、(490)本歌の迫真は薄らいでいるが、代わりに明るさと美しさのある  ものとなっている。時代の好尚の推移が影響してのことである。
 
687 愛《うつく》しと 吾《わ》が念《も》ふ情《こころ》 速河《はやかは》の 塞《せ》きに塞《せ》くとも 猶《なほ》や崩《くづ》れむ
    愛常 吾念情 速河之 雖塞々友 猶哉將崩
 
【語釈】 ○愛しと吾が念ふ情 「愛しと」は、旧訓。「うつくし」「うるはし」と両様に訓め、また双方用例も多いものである。旧訓に従う。「うつくし」は、親子、夫婦間に限っていっている語で、いとしいというにあたる。「情《こころ》」で小休止となり、詠歎が含まっている形。○速河の塞きに塞くとも 「速河」は、水の流れの早い川。「の」は、のごとく。「塞きに塞く」は、「塞き」は、堰《せ》きとめる意。堰きに堰くで、あくまで堰く意。○猶や崩れむ 「や」は、詠歎。「崩れむ」は、堰の崩れる意。やはり崩れよう。
【釈】 君をいとしいとわが思う心よ、早川の流れのように、いかに塞きに塞いても、やはり崩れてゆこう。
【評】 妻としての情を、訴えの心をもって言っているものであるが、それとしては余裕があって、夫の愛する妻に対しての物言いのようである。誇張は伴っていても、大体実際に即しての歌であるから、郎女の夫婦関係の実情に触れているものであろう。これは郎女が、女としては相応な年輩に達していたからの心で、その人柄に関係のあるものではないと思われる。安らかに恋に浸っている気分の具象されている歌である。
 
688 青山《あをやま》を 横《よこ》ざる雲《くも》の いちしろく 吾《われ》と咲《ゑ》まして 人《ひと》に知《し》らゆな
    青山乎 横〓雲之 灼然 吾共咲爲而 人二所知名
 
【語釈】 ○青山を横ぎる雲の 「横ぎる」は、「ぎる」は切るの意。横に切るで、細く一筋に靡いている状態。「雲」は、下の続きで、白雲とわかる。「の」は、のごとくで、一、二句は譬喩。○いちしろく 今の、著しくの古語。○吾と咲まして 「吾と」の「と」は、同趣の語を並べてつなぐ意のもので、その同趣の語は、同じく「吾」で、それは省かれている。すなわち我と我自身に。「咲まして」は、「咲む」に、敬語「ます」を添えて敬語としたもの。「咲まして」は、微笑《ほほえ》ましてである。「吾と咲まして」は、吾と吾にすなわち独りで、思い出し笑いをなされて。この解は『攷証』に従ったものである。この思い出し笑いは、男女関係の上で歓びをもっている者のしやすいことであり、すれば他人にそれと感づかれるものである。○人に知らゆな 「人に」は、他人に。「知らゆな」は、知られるなで、上にいったことを感づかれるなの意。
(491)【釈】 青山を横切る白雲のごとくに著しくも、我と我に微笑まれることをして、他人にそれと感づかれたもうなよ。
【評】 郎女よりその夫に、夫婦関係の秘密を保たせようとして贈った歌である。「吾と咲まして」の「吾」を郎女とする解が多いが、相対しての咲《え》みであれば、歌として贈る必要もなく、また事としても、歌にするに値しない些事であるから、そうした解は成立ち難いものである。この思い出し笑いは一般性をもったもので、現在でもただちに人をうなずかせるものであろうが、しかし女性でなくては捉えてはいわないものと思える。郎女としてもおそらく、自身の体験よりいっているものであり、また歓びをもっていっているものであろう。「青山を横ぎる雲の」という譬喩は特色のあるもので、一首、歌才のほどを思わせるものである。
 
689 海山《うみやま》も 隔《へだ》たらなくに なにしかも 目言《めごと》をだにも 幾許《ここだ》乏《とも》しき
    海山毛 隔莫國 奈何鴨 目言乎谷裳 幾許乏寸
 
【語釈】 ○海山も隔たらなくに 海も山も隔てているのではないことなのに。○なにしかも 「し」は、強め。「かも」は、疑問。何なれば。○目言をだにも 「目」は、眼に見ること。「言」は、言葉を交わすこと。「だに」は、軽きをいい、重きを言外に置いたもの。顔を見、ものを言うくらいなことさえも。○幾許乏しき 「幾許」は、甚しく。「乏しき」は、少ない意。三旬目の「か」の結びで連体形。詠歎を含ませている。
【釈】 海や山を隔てているというではないことであるのに。何なればこのように、顔を見、ものを言うくらいなことさえも、甚しくも少ないことであるのかよ。
【評】 夫と近く住んでいながら、人の噂を怖れて逢い難くしていることを背後に置いての嘆きで、対照を用いて誇張していっているものである。「なにしかも」が中心で、ある程度の含蓄をもっている。
 
     大伴宿禰三依、別を悲しめる歌一首
 
【題意】 「三依」は、(五五二)(五七八)に出た。
 
690 照《て》れる日《ひ》を 闇《やみ》に見《み》なして 哭《な》く涙《なみだ》 衣《ころも》沾《ぬ》らしつ 干《ほ》す人《ひと》なしに
(492)    照日乎 闇尓見成而 哭涙 衣沾津 干人無二
 
【語釈】 ○照れる日を闇に見なして 「見なし」の「なし」は、変化させる意で、「見なして」は、見えを変わらせて、すなわち見えなくしてで、下の「涙」の多い状態を形容したもの。○衣沾らしつ 「衣」は、衣全体で、普通は涙の濡らすのは袖であるのに、誇張していったもの。○干す人なしに 「干す人」は、濡れた衣を干して、着るに堪えるようにする人で、妻のすることである。ここもその意で、妻。「に」は、詠歎。
【釈】 空に照っている日を、闇に変わらせ.てわが泣く涙が、わが着ている衣を濡らした。今はそれを干す人すなわち妻はいないものを。
【評】 妻に別れて遠い旅へ立った際、別れて間もない頃に詠んだ歌と思われる。極度に誇張した歌である。誇張は気分が伴っておれば自然なものとなるが、この歌はそれが少ないため、事柄だけが孤立して、著しく感ぜしめるものとなっている。したがって結果としては実際から遊離した趣のものとなっている。
 
     大伴宿禰家持、娘子に贈れる歌二首
 
691 百礒城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》は 多《おほ》かれど 情《こころ》に乗《の》りて 念《おも》ほゆる妹《いも》
    百礒城之 大宮人者 雖多有 情尓乘而 所念妹
 
【語釈】 ○百礒城の大宮人は 「百礒城の」は、百と多くの礒《いし》の城のあるの意で、宮の讃詞で枕詞。「大宮人」は、朝廷に奉仕する男女百官の総称。ここは女官の総称としたもの。○多かれど 大勢あるけれども。○情に乗りて念ほゆる妹 「情に乗りて」は、気にかかるというと同じ心で、その強いもの。心を占めることを具象化した語。「念ほゆる妹」は、思われるところの妹かなの意で、「妹」は男より女を呼ぶ普通の称。
【釈】 百礒城の大宮人としての女官は大勢あるけれども、わが心にかかって恋しく思われる妹ではあるよ。
【評】 采女は容姿の端麗ということを資格の一つとしたところから見て、大宮の女官は同じく端麗であったと思われる。その中でも第一の者に思われるということは、効果的な推讃である。軽い心の娉《つまど》いと見え、一とおりの歌というにすぎないものである。
 
692 うはへなき 妹《いも》にもあるかも かくばかり 人《ひと》の情《こころ》を 尽《つく》せる念《も》へば
(493)    得羽重無 妹二毛有鴨 如此許 人情乎 令盡念者
 
【語釈】 ○うはへなき妹にもあるかも 「うはへなき」は、(六三一)に出た。あいそのないというにあたる。「妹にもあるかも」は、「も」も、「かも」も詠歎で、嘆きをもっていっているもの。初句から続いて、上の歌に対して報《こた》えをしないのを嘆いての語と取れる。○かくばかり これほどまでにで、下の「尽せる」にかかるもの。○人の情を尽せる念へば 「人の」は、我ので、客観的にいったもの。人は他人の思いに対しては、適当な態度を取るべきものだということを背後に置いての言いかえ。「尽せる」は、旧訓「つくすと」。『古義』の訓である。尽くしていることをの意。
【釈】 あいそのない妹ではあることよ。これほどまでに、他人が心を尽くして思っていることを思うと。
【評】 女が相手にならなかったのを恨んで、押返して訴えたものであるが、恨むには理をまじえている。それは、人は人よりの思いに対して、適当な態度を取るべきものであるのに、それをしないということであるが、これは道徳的な意味でいうのではなく、当時、信仰として、そうしないと、祟りがあるとされていたとみえる。言い方の婉曲なのは、訴えのほうが主となっているからである。実際に即しての歌で、微温的とならざるを得ない性質のものである。
 
     大伴宿禰|千室《ちむろ》の歌一首 未だ詳らかならず
 
【題意】 「千室」は、父祖は考え難い。巻二十(四二九八)「(天平勝宝)六年正月四日、氏族の人等少納言大伴宿禰家持の宅に集り宴《うたげ》飲せる歌三首」の中に、「左兵衛督大伴宿禰千室」とある。また、続日本紀、天平五年正六位上大伴宿禰小室に外従五位下を授け、同十月外従五位下大伴宿禰小室を摂津亮とするとある。この小室は同人ではないかと『攷証』はいっている。
 
693 かくのみに 恋《こ》ひや渡《わた》らむ 秋津野《あきつの》に たな引《び》く雲《くも》の 過《す》ぐとはなしに
    如此耳 戀哉將度 秋津野尓 多奈引雲能 過跡者無二
 
【語釈】 ○かくのみに 旧訓「かくしのみ」。『攷証』の訓。このようにばかり。○恋ひや渡らむ 「恋ひ」は、家にある妻に対してのもの。「や」は、疑問。「渡る」は、続ける。○秋津野にたな引く雲の 「秋津野」は、奈良県吉野郡吉野町、吉野離宮のあった地一帯の称。「たな引く雲の」は、靡いている雲のごとく。二句、高地のこととて雲が常に降りているところから、それを捉えての譬喩。○過ぐとはなしに 「過ぐ」は、雲は移り去りまた消え去るものなので、その意で「過ぐ」といい、感情もまた、過ぎ去るもので、過ぎ去れば忘れるところから、忘れる意でいったも(494)の。すなわち忘れることの具象化である。忘れられようとはせずに。
【釈】 このようにばかり、家にある妻を恋いつづけていることであろうか。ここの秋津野に常に靡いている雲のごとく、過ぎ去り、忘れゆくということはなしに。
【評】 何らかの公務を帯びて秋津野に滞在しており、家恋しい心を抱いていて、場所柄として絶えず雲が降りて、霽れずにいるのを眺めると、その状態が、家恋しい思いの紛れる時のないのに通うのを感じての歌である。「秋津野にたな引く雲の」は譬喩ではあるが、心を誘導した趣のあるもので、譬喩以上のものである。風景と心とを一つにし、心のほうは婉曲にいおうとする傾向を見せている歌である。
 
     広河女王《ひろかはのおほきみ》の歌二首 穂積皇子の孫女、上道王の女なり
 
【題意】 題詞の下の注は元暦本以下五本にある。続日本紀、天平宝字七年無位広河王に従五位下を授くとある。『代匠記』は、この紀は内親王、女王の列に入っているところから見て、「王」は「女王」の女を脱したものであろうと言っている。
 
694 恋草《こひぐさ》を 力車《ちからぐるま》に 七草《ななくるま》 積《つ》みて恋《こ》ふらく 吾《わ》が心《こころ》から
    戀草呼 力車二 七車 積而戀良苦 吾心柄
 
【語釈】 ○恋草を 恋の思いを、草に譬えたもの。恋は草の生えるがように現われ、また草のように繁くもなるので、心理的に不自然ではない。また集中には、「手向草」「目ざまし草」「語らひ草」などの語があり、その草は料の意であるが、語感としても熟したものである。○力車に七車 「力車」は、「力」は力人《ちからびと》すなわち労働者の意で、平安朝の物語には多い語である。「力車」は、労働者の輓《ひ》く車で、当時物を運ぶに用いていたものとみえる。江戸時代の大八車、今の荷車にあたる物である。ここは刈草を運ぶ上でいっている。「七車」の「七」は、数の多い意で、幾車。○積みて恋ふらく 「積みて」は、運ぶために積んで。「恋ふらく」は、「恋ふ」に「く」を添えて名詞形としたもので、恋うることの意である。下に詠歎の含まっている形。積んで恋うていることよ。○吾が心から 「から」は、ゆえで、わが心ゆえの事としての意。
【釈】 恋草を、力人《ちからびと》の引く車に幾車となく多く積んで、我は恋うていることよ。わが心ゆえに。
【評】 初句より四句までは、恋の苦しみの堪え難いものを抱いて生きている状態の譬喩である。譬喩としてはとっぴな感のあるものであるが、当時の庶民の状態として、刈草を力車に積んで、喘ぎつつ引いているということは、時節によっては珍しか(495)らぬことであったろうと思われる。それを見た女王が、その状態に、わが恋を連想したということはありうることで、不自然とはいえないものである。この時代には、寄物陳思の歌がすでに意識的なものとなっており、つとめて優美な物を捉えているのに、女王はそれ以前に引戻し、譬喩としてではあるが庶民の労働状態を捉えたのであって、これはとっぴというよりもむしろ、実際に即そうとする心の強く働いたものというべきである。しかしこの歌は、同時に半面には、諧謔の心をまじえていることは明らかである。これはたぶん、女王は相応の年齢であって、自身を批評的に見、客観的に見ることができたため、そこから発したものと思われる。本来恋に陥っている時には、そうした心の強く働くものであるから、それも伴っているのであろう。一首全体とすると、謡い物のもつ直線的な、太く、明るい調べをもっており、素朴で、庶民的である。四句「積みて恋ふらく」は、「積みて」は引くためで、喘いで引くことがすなわち恋うる状態であるから、この語続きには飛躍がある。この飛躍は技巧と称しうるもので、感情の細かさをもっているといえる。
 
695 恋《こひ》は今《いま》は あらじと吾《われ》は 念《おも》へるを 何処《いづく》の恋《こひ》ぞ つかみかかれる
    戀者今葉 不有常吾羽 念乎 何處戀其 附見繋有
 
【語釈】 ○恋は今は 「恋は」は、恋というものはで、これは擬人したものである。四句の「恋」も同様である。この擬人は拠《よ》り所のあるものである。巻十六(三八一六)「家にありし櫃《ひつ》に※[金+巣]《かぎ》さし蔵《をさ》めてし恋の奴《やつこ》のつかみかかりて」がすなわちそれで、この歌の左注に、「右の歌一首は、穂積親王、宴飲《うたげ》の日、酒酣なる時、好みて斯《こ》の歌を誦《ず》して、以て恒《つね》の賞と為し給ひき」とある。穂積親王は、女王には祖父にあたられるので、女王の心にこの歌があって、それに拠られたと思われる。「今は」は、今となってはで、恋をするにはふさわしくない年齢との意のものである。○あらじと吾は念へるを 「あらじと」は、わが身にはあるまいと。「吾は念へるを」は、我としては思っていたものを。○何処の恋ぞ どこにいた恋かで、「ぞ」は係。○つかみかかれる 「つかみかかる」は掴みかかるで、不意に現われてわが身に掴みつく意で、この語は今も口語に用いているものである。「かかれる」は連体形で、「ぞ」の結。したがって下に詠歎を含んでいるもの。四、五句は上に引いた歌の影響を濃厚に受けたものである。
【釈】 恋というものは、今となってはわが身にはないものであろうと我は思っていたものを。どこにいた恋か、不意に現われてわが身に掴みかかっていることであるよ。
【評】 女王が恋などということには縁遠い年齢になられた時、はからずも恋の心を抱き、そのことの思いがけなさを怪しむとともに、そのことに対して嘆きをもって詠んだ歌である。詠み方は前の歌と同じく、自身を批評的に見、客観的に見ての上のものである。注意されることは、原拠となっている穂積親王の誦された歌との関係である。その歌は、恋を「奴《やつこ》」といい、櫃(496)に蔵めて出すまいとしているもので、恋の厄介な、苦い面を強調しているものであるが、要するに戯咲歌の範囲のもので、聞く者の笑いをうかがったものである。この歌も、恋を厄介物としている点は同じであるが、根本をなしているものは嘆きであって、ここには笑いはない。すなわち一般的なものを個人的とし、笑いを嘆きとしている点で、原拠の歌を進展させたものといえる。この進展は、口承が記載となったことである。
 
     石川朝臣|広成《ひろなり》の歌一首 後に、姓高円朝臣の氏を賜ふ
 
【題意】 「石川朝臣広成」は、続日本紀、天平宝字二年従六位上より従五位下、四年|高円《たかまとの》朝臣の姓を賜わり、文部少輔となり、この後は名を広世と改めている。同五年摂津亮、ついで尾張守、同六年山背守、同八年従五位上、播磨守、神護景雲二年周防守、三年伊予守、宝亀元年正五位下を授けられた。ここに広成とあるので、この巻が天平宝字四年以前に撰せられたことが知れると『攷証』はいっている。
 
696 家人《いへびと》に 恋《こひ》過《す》ぎめやも かはづ鳴《な》く 泉《いづみ》の里《さと》に 年《とし》の歴《へ》ぬれば
    家人尓 戀過目八方 川津鳴 泉之里尓 年之歴去者
 
【語釈】 ○家人に 「家人」は、家にいる人全体の意にも用い、その中心をなす妻を婉曲にあらわす語にも用いている。ここは後者である。○恋過ぎめやも 「恋」は、ここは名詞で、恋うることの意。「過ぐ」は、上の(六九三)の「過ぐとはなしに」のそれと同じく、経過し、過去のものとなる意で、忘れるを具体的にいった語。「や」は、反語。恋うることを忘れようか、忘れはしないの意で、絶えず恋うている意。○かはづ鳴く泉の里に 「かはづ」は、今の河鹿。「かはづ鳴く」は、泉の里の形容。「泉の里」は、京都府相楽郡泉川のほとりの里で、恭仁《くにの》宮の付近。広成は妻を奈良京に置いて、そこに住んでいたことがこの歌で知られる。恭仁宮に関しての公務を帯びてのことか、または他の公務のためであるかはわからない。○年の歴ぬれば 年が経てしまったのでで、滞留の久しきを、嘆きをもって強めていっているもの。「年」は一年とも、また何年かとも取れる語である。感傷をもっていっているので、年を越した、すなわち二年にまたがっている意のものと思われる。
【釈】 妻を恋うることが忘られようか忘られはしない。河鹿の鳴くこの泉の里に、年をまたがるまでの久しい間を過ごしてしまったので。
【評】 旅にあって妻を恋う心で、類歌の多いものであるが、「かはづ鳴く泉の里」と地名を用いて言っているので、そのために(497)気分となし得ているものである。しみじみとした趣がある。
 
     大伴宿禰|像見《かたみ》の歌三首
 
【題意】 「像見」は、(六六四)に出た。
 
697 吾《わ》が聞《きき》に 繋《か》けてな言《い》ひそ 刈薦《かりこも》の 乱《みだ》れて念《おも》ふ 君《きみ》が直香《ただか》ぞ
    吾聞尓 繋莫言 苅薦之 乱而念 君之直香曾
 
【語釈】 ○吾が聞に 旧訓。「聞」は、名詞で、聞くことの意。用例のあるものである。○繋けてな言ひそ 「繋けて」は、関係させて、あるいは及ぼしての意。「な言ひそ」は、言うなと禁止したもの。初句から続けると、我の聞《きき》に及ぼして言うなで、他人の我に向かって話すことを制した語《ことば》で、さらにいえば、そのようなことを我に聞かせるなの意。その聞かせた事柄は、結句の「君が直香」で、聞かせた人は、像見と、その思い人の中間に立って、使の役をしている者と取れる。○刈薦の乱れて念ふ 「刈薦の」は、刈った薦のごとくで、その乱れやすいところから、「乱れ」の枕詞となっているもの。「乱れて念ふ」は、心乱れて思っているところので、「君」を修飾しているもの。これは、思い人の上に障りがあって、逢いやすくなかったためで、第三首目の歌がそれをあらわしている。○君が直香ぞ 「君」は、女をさしているものと取れる。男より女をいうには妹が普通であって、「君」というのは例外の珍しいものである。しかしここは、第三人称として言っているものであり、その中間の者と女との関係が、そういう称を用いるのが適当な関係であったがためかもしれぬ。この時代には、少ないながら例のあるものである。「直香」は、ここは有様というにあたる。
【釈】 我に聞かせて、そのようなことは言いうな。心乱れ(498)て思っているところの君の有様であるぞ。
【評】 像見は仲介者を通じて女に求婚の交渉をし、女もそれを否んでいるのではないが、周囲にさしつかえがあるため事が進捗せず、懊悩をしていたとみえる。それがこの歌の背後にあるもので、事は複雑しているごとくであるが、当時の結婚にあってはこうしたことは、むしろ普通のことであったとみえる。歌は、その仲介者が像見の許へ来て、女の有様を伝えた時のもので、像見としてはそれを聞くことがつらく、そうしたことは聞かないほうが幸いだとして制した心のものである。複雑したことを、一断面を言うことによってあらわそうとしたものである。極度に実際に即した歌で、そのために解し難くもなっているが、その断面は一般性をもっているものなので、同時に解しうるものでもある。断面の捉え方は、無意識なものであろうが、結果から見ると巧みだとすべきものである。
 
698 春日野《かすがの》に 朝《あさ》居《ゐ》る雲《くも》の しくしくに 吾《あ》は恋《こ》ひ益《ま》さる 月《つき》に日《ひ》にけに
    春日野尓 朝居雲之 敷布二 吾者戀益 月二日二異二
 
【語釈】 ○春日野に 「春日野」は、現在の奈良市のそれであるが、巻三(三七二)「春日野に登りて」とあり山地をも含めた広範囲のものであったことが知られる。ここも雲のいる所としてであるから、高地をさしているとみえる。○朝居る雲の 山に夜|降《くだ》る雲を、朝に見ての言。初句より続き、雲の重なっている意で、「重《し》く」と続き、それを「しくしく」に転じての序詞。○しくしくに 引きもきらずの意で、副詞。○吾は恋ひ益さる 旧訓「吾《われ》は恋ひ益す」。『古義』の訓。吾は恋い募ってゆく。○月に日にけに 月ごとに、日ごとにで、絶えずを具象化した語。
【釈】 春日野に朝かかっている雲の打重なっているが、わが心も引きもきらず恋い募って行く。月ごとに、日ごと日ごとに。
【評】 障りがあるために、かえって恋が募って行く心で、一般性のものである。一、二句の序詞は、心としては譬喩であるが、それに序詞の形をもたせたもので、その間の距離の少ないものである。像見の家が春日野に近い辺りにあり、朝々に見る実景で、それを捉えてのものと取れる。
 
699 一瀬《ひとせ》には 千遍《ちたび》障《さは》らひ 逝《ゆ》く水《みづ》の 後《のち》にもあはむ 今《いま》ならずとも
    一瀬二波 千遍障良比 逝水之 後毛將相 今尓不有十方
 
(499)【語釈】 ○一瀬には千遍障らひ 「一瀬」の「瀬」は、川の流れの浅い所で、淵に対しての称。「一瀬」は、淵と淵との間。「千遍」は、千度で、数の多い意。「障らひ」は、「障る」の継続をあらわした語。障り続けて。障るのは岩石に対して。○逝く水の 「逝く水」は、流れゆく水で、川水。「の」は、のごとくで、水の分かれることを捉えて譬喩としたもの。○後にもあはむ 旧訓「後《のち》も相《あ》はなむ」。これは古点で、『代匠記』の改めたもの。「も」は、詠歎。後になって逢おう。○今ならずとも 今でなくても。
【釈】 一瀬の間でも、千たびと多く岩石に障り続けて、分かれては流れてゆく水のごとくに、我も後には妹と逢おう、今でなくても。
【評】 山地の大和国のこととて、渓流を恋の譬喩に捉えたものは少なくない。この歌の先蹤をなすものに、巻十一(二四三一)「鴨川の後瀬静けく後も逢はむ妹には我は今ならずとも」。巻十二(三〇一八)「巨勢にある能登瀬の河の後も逢はむ妹には吾は今ならずとも」などがある。これは謡い物と思われるが、その影響を受けつつ、謡い物的なところを消そうとした歌である。
 
     大伴宿禰家持、娘子の門に到りて作れる歌一首
 
700 かくしてや 猶《なほ》や退《まか》らむ 近《ちか》からぬ 道《みち》の間《あひだ》を 煩《なづ》み参来《まゐき》て
    如此爲而哉 猶八將退 不近 道之間乎 煩參來而
 
【語釈】 ○かくしてや猶や退らむ 「かくして」は、このようにしてで、その事は三句以下にいっていること。「や」は、疑問。「猶や」は、「猶」は、それでも。「や」は、詠歎。「退《まか》る」は、帰る意であるが、先方へ対して敬意を表しての語である。引下がるというにあたる。これは女に対しては敬語を用いる風に従ってのもの。下の「参来」と対させてあって、それも同様である。○近からめ道の間を 近くはない道をで、遠い路を婉曲にいったもの。○煩み参来て 「煩み」は、難渋して。「参来て」は、伺ってというにあたる。
【釈】 このようにして来て、それでも引下がるのであろうか。近くはない道のりを、難渋して伺って。
【評】 娘子に娉《つまど》いをしたが、逢おうとしないので、訴えの心をもって詠んだものである。そうした際道の労苦をいうのは、型ともなっているもので、真情のある証としたものである。これもそれである。
 
     河内百枝娘子《かふちのももえをとめ》、大伴宿禰家持に贈れる歌二首
 
(500)【題意】 「河内百枝娘子」は、伝は全く知れない。「河内」は、氏、「百枝」は名であろう。
 
701 はつはつに 人《ひと》をあひ見《み》て いかならむ 何《いづ》れの日《ひ》にか 又《また》外《よそ》に見《み》む
    波都波都尓 人乎相見而 何將有 何日二箇 又外二將見
 
【語釈】 ○はつはつに人をあひ見て 「はつはつに」は、わずかに。「人」は、家持をさしたもの。敬意から距離をつけていっている語。「あひ見て」は、「逢ひ見て」で、男女関係をあらわしたもの。○いかならむ何れの日にか 「いかならむ」は、「日」にかかる。どういう機会の日というほどの意。「何れの日」は、いつの日。○又外に見む 「外に」は、関係のない状態において。「見む」は、単に目に見るで、見かける意。
【釈】 ほんのちょっと、人と相関係して、どういう機会の、いつの日に、またよそながらも見かけられるであろうか。
【評】 自身と家持との間に、甚しく身分の隔たりのあることを意識し、一たびは関係したが、それだけの仲で、再びはあい難いものとしつつ、その事をもって訴えとしたのである。純粋な、つつましい心の現われている歌である。
 
702 ぬば玉《たま》の その夜《よ》の月夜《つくよ》 今日《けふ》までに 吾《われ》は忘《わす》れず 間《ま》なくし念《も》へば
    夜干玉之 其夜乃月夜 至于今日 吾者不忘 無間苦思念者
 
【語釈】 ○ぬば玉のその夜の月夜 「ぬば玉の」は、「夜」の枕詞。「その夜」は、「その」は相逢ったことをさしたもの。「月夜」は、月。○今日までに吾は忘れず 今日に至るまで忘れない。○間なくし念へば 「間なく」は絶え間なく。「し」は、強め。「念へば」は、思っているので。
【釈】 相逢った夜の月は、今日に至るまで吾は忘れない。絶え間なく思っているので。
【評】 家持と逢ったのは、月下であったとみえる。これは当時としては特別なことではなかったのである。家持を思う心を、その夜見た月に転じて、月を忘れないということによってあらわしているものである。人と風物とを一体としていうことは、この時代にはすでに一般化しようとしていたものと思われる。この歌はその範囲のもので、文芸的意図をもってのものではなく、自然に、純粋な心をもっていっているものと取れる。
 
     巫部麻蘇娘子《かむなぎべのまそをとめ》の歌二首
 
(501)【題意】 「巫部麻蘇娘子」は、父祖は知れない。巫部は氏で、『新撰姓氏録』に、「巫部宿禰、神饒速日命六世之孫、伊香我色雄命之後也」とあり、また「巫部連、饒速日命十世之孫、伊己布都乃連公之後也」ともある。「麻蘇」は名と取れる。
 
703 吾《わ》が背子《せこ》を あひ見《み》しその日《ひ》 今日《けふ》までに 吾《わ》が衣手《ころもで》は 乾《ふ》る時《とき》もなし
    吾背子乎 相見之其日 至于今日 吾衣手者 乾時毛奈志
 
【語釈】 ○あひ見しその日 相逢ったその日よりの意。○吾が衣手は乾る時もなし わが袖は、恋うての涙を拭うのに濡れて、乾く時がないで、「も」は詠歎。
【釈】 わが背子に相逢ったその日から今日に至るまでを、わが袖は、恋うての涙を拭うのに濡れとおして、乾く時もない。
【評】 恋の苦しさの訴えであるが、歌としては水準以下のものというべきである。
 
704 栲繩《たくなは》の 永《なが》き命《いのち》を 欲《ほ》りしくは 絶《た》えずて人《ひと》を 見《み》まく欲《ほ》れこそ
    栲繩之 永命乎 欲苦波 不紹而人乎 欲見社
 
【語釈】 ○栲繩の永き命を 「栲繩の」は、栲《こうぞ》をもって綯《な》った繩で、意味で「永く」の枕詞。「永き命」は、長い寿命。○欲りしくは 「欲りしく」の、「し」は過去の助動詞、「く」を添えて名詞形としたもの。欲しいと思ったことはの意。○絶えずて人を 「絶えずて」は、「見まく」にかかる。絶えずにの意。「人」は、家持。○見まく欲れこそ 旧訓「見まく欲りこそ」。『新考』の訓。「見まく」は、「見む」の名詞形。見る、すなわち逢うこと。「欲れこそ」は、後の欲ればこそにあたる古格。「こそ」は、係辞で、「あれ」の結の省かれた形。逢いたいと思うためでこそあるの意。
【釈】 長い寿命を欲しいと思ったことは、他のためではなく、絶えずに君と逢いたいことのためでこそある。
【評】 前の歌の心を積極的にした訴えであるが、心の在り方を説明した程度のもので、この時代としてはむしろ拙いものである。
 
     大伴宿禰家持、童女《をとめ》に贈れる歌一首
 
(502)705 葉根蘰《はねかづら》 今《いま》する妹《いも》を 夢《いめ》に見《み》て 情《こころ》の内《うち》に 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
    葉根蘰 今爲妹乎 夢見而 情内二 戀渡鴨
 
【語釈】 ○葉根蘰 不明な語である。その物は残らず、記録もないからである。「蘰」とあるので、頭髪に施した物と思われ、また集中、葉根蘰に関係をもった歌が四首あるが、いずれも童女の物としてあるので、童女に限つての物と思われる。また、童女とはいうが、それらの歌は男女関係を絡ませたものであるところから、成女に近い年齢の者が、ある時期にしていた物とみえる。蘰は本来儀式に関係のある物であるが、後には装飾の物ともなったであろうことは、玉、化粧などによっても想像される。大体、成女となった儀式としての物と解される。○今する妹を 「今」は現在で、それをするべき年齢、時期をあらわしたもの。「する」は、頭髪に施す意。「妹」は、女に対する一般の称。○夢に見て 「夢」は、魂の感応より見るものとされていた。先方がこちらを思っている時には、それがこちらの魂に感応して夢に見えるというのが土台で、反対に、こちらが先方を思っている時にも、それと同じ結果を生むとされていたものに見える。ここはその後の場合で、こちらの思いが先方の魂に感応しての夢と取れる。○情の内に恋ひ渡るかも わが心の中に恋いつづけていることであるよ。
【釈】 葉根蘰を現在しているところの妹を夢に見て、我は心の中に恋い続けていることであるよ。
【評】 「葉根蘰今する妹」というのは、家持がその童女を眼に見て言っているのではなく、想像のものであることが、次の童女の歌で知られる。「夢に見て」は、「語釈」でいったように、先方は意識せずとも、魂のつながりのあることを背後に置いてのものと取れる。それでないと「恋ひ渡る」が意をなさないからである。「情の内に」というのは、童女であるのに対しての斟酌である。淡い心をもっての訴えであるが、歌は細心な用意をしたものである。
 
     童女の来報《こた》ふる歌一首
 
706 葉根蘰《はねかづら》 今《いま》する妹《いも》は なかりしを 何《いづ》れの妹《いも》ぞ 幾許《ここだ》恋《こ》ひたる
    葉根蘰 今爲妹者 無四呼 何妹其 幾許戀多類
 
【語釈】 ○葉根蘰今する妹は 贈歌の語をそのまま取ったもの。「妹は」は、妹にはの意でいっている。○なかりしを なかったものをで、我はおりから、そうしたことはしていなかったものをの意。○何れの妹ぞ どういう妹をぞで、「ぞ」は係。我以外のどういう女をの意。○幾許恋ひたる 甚しくも恋うていることであるかで、「幾許恋ひ」は、「夢に見」に対させたもの。「たる」は、「ぞ」の結で、詠歎を含めたもの。
(503)【釈】 葉根蘰を現にしている妹では我はなかったものを、どういう妹を君は、そのように甚しくも恋うていることであるぞ。
【評】 この歌で見ると、葉根蘰というものは、それをするにはある期間のあるものであって、男から見ると、その期間との関係において印象的なものではなかったかと思われる。この歌は、いわゆるませた物言いというよりも、むしろ童女らしい正直な物言いと解すべきであろう。それは、夢に対しての信仰は、当時は常識となっていたもので、成女に近いほどの女なら誰でも知っていることであり、この歌はその上に立ってのものだからである。二首、いうべきほどの歌ではないが、その事柄のやや特殊なものであることに興味をもって撰んだものと思われる。
 
     粟田女娘子《あはだめのをとめ》、大伴宿禰家持に贈れる歌二首
 
【題意】 「粟田女」の「女」は、西本願寺本以後の諸本にはなく、元暦本、他二本にあるものである。「粟田女」は、氏ではなく、一方、「何女」と称する名の多かったところから、これも名と思われる。伝は知れない。元暦本には、本文の下に小字で、「注士※[土+完]之中」とあり、古葉略類聚鈔、紀州本、京都大学本も、「士」が「云」となっているだけで、同じ注がある。「士」も「云」も「土」の誤りであり、「土※[土+完]」は歌にある「※[土+完]《もひ》」であって、この歌は士※[土+完]の中に書いてあったものとの意である。
 
707 思《おも》ひ遣《や》る すべの知《し》らねば 片士※[土+完]《かたもひ》の 底《そこ》にぞ吾《われ》は 恋《こひ》なりにける 土士※[土+完]の中に注せり。
    思遣 爲便乃不知者 片士※[土+完]之 底曾吾者 戀成尓家類 注2土士※[土+完]之中1
 
【語釈】 ○思ひ遣るすべの知らねば 思いをはらす方法を知らないのでで、恋の悩みは夫に逢うことによって去るのであるが、それができないのでの意で、家持の疎遠にする恨みを控えめにいったもの。○片士※[土+完]の 「士※[土+完]《もひ》」は士※[土+宛]に通じる字で、土器の食器の称で、片士※[土+完]はその一種である。『代匠記』は、『延喜式』巻一に、「供2神今食料1、土片|椀《もひ》廿口」、同三十二に、「松尾神祭雑給料、片士※[土+完]八十七口、大原野祭雑給料、片士※[土+完]四十八口」とあるを証として引いている。神事には上代の風を伝えるべきとして、後世にも用いていたのである。『攷証』はさらに、「言計式」に「有蓋椀二十口」とあるより推して、片士※[土+完]は蓋の無い士※[土+完]の意で、片盤《かたさら》、片※[土+下]《かたつき》などいうも、同類の物であろう。また、「もひ」は飲用水の称でもあるが、これはその容器士※[土+完]より出たところの称で、士※[土+完]は飲用水を容れる器であるともいっている。「片士※[土+完]」は、恋の上の「片思《かたもひ》」と同音であるところから、ここはその意で用い、それを片※[土+完]の中に書いたのである。○底にぞ吾は 「底」は、片士※[土+完]の「底」であるが、この語は、物の限りという意にも用いていて、巻十二(三〇二八)「大海の底を深めて結びてし」などがあり、ここもその意に用い、上から続いて、「片思」の極限としたもの。○恋なりにける 「恋」は、恋を名詞として用いたものと取れる。「なり」は、変わる意。「に」は、完了。「ける」は、「ぞ」の結。恋がなってしまったことである(504)よで、疎遠にされる恨みをいわず、その状態の苦しさをいったもの。
【釈】 思いをはらすべき方法を知らないので、片思《かたもい》の底までわが恋はなってしまったことであるよ。
【評】 疎遠にされる悲しみを訴えたものである。こうした場合は普通、恨みをいうか、あるいは恋の堪え難きをいうのであるが、この歌はその積極性がなく、消極的に自身の苦しみの状態を言うだけにとどめているものである。これは家持と自分との身分の隔たりを意識して、わざと控えめにしたものと思われる。この歌を片※[土+完]《かたもい》の底に書いて贈ったのも、そうすることが先方に興味がありうることとし、訴えを効果的にしようとしてのことと思われる。同音異義が興味あることとして喜ばれたのは、古事記、日本書紀のいわゆる起源伝説をはじめ、枕詞、序詞の上にも甚だ多く現われていることであるから、この歌のしていることは、この当時にあっては自然な、また興味あることとされたであろうと思われる。歌を物に着けて贈ることは、巻二(一一三)、弓削皇子が額田王に、松が枝に着けて贈った例がある。後には普通のこととなり、型とさえなったのであるから、当時も行なわれていたことかもしれぬ。片※[土+完]の中に書くというのは特別のことではあるが、当時の風に、つながりのあったことかと思われる。
 
708 復《また》もあはむ よしもあらぬか 白細《しろたへ》の 我《わ》が衣手《ころもで》に 斎《いは》ひ留《とど》めむ
    復毛將相 因毛有奴可 白細之 我衣手二 齋留目六
 
【語釈】 ○復もあはむよしもあらぬか 「復もあはむよしも」は、重ねて相逢ふ因《ちな》みで、「も」は、二つとも詠歎。「あらぬか」は、ないものか、あってくれよの意の語。○白細の我が衣手に 「白細の」は、「衣」の枕詞。「衣手に」は、袖に。○斎ひ留めむ 「斎ひ」は、本来は潔斎することであるが、これは神霊に仕える態度であるところから、祭る意にも、斎《いつ》く意にも用いられている。ここは斎くま。「留めむ」は、魂を留めようの意と取れる。魂に対しても、神霊と同じ態度をとっていた。上より続いて、わが袖に、斎いて君の魂を留めようというのである。これに類した事を詠んだ歌に、巻十五(三七七八)、京にある狭野弟上娘子《さののおとがみのおとめ》が、越前国に流された中臣朝臣|宅守《やかもり》に贈った歌に、「白妙のわが衣手を取り持ちて斎《いは》へ我が背子|直《ただ》に逢ふまでに」がある。これは形見に贈ったわが袖を斎うことによって、相手が身の無事を得るとする信仰の上に立っての言である。形見の品にはその人の魂が宿っており、魂は斎うことによってその神秘力を発揮すると信じていたものとみえる。この歌はそれとは趣が異なっているが、心は同じで、娘子の袖に家持の身が触れたので、その魂が宿っているものとし、その魂は斎《いつ》き守ることによってそこに留まるものとし、魂が留まっていれば、家持の身もそれに引かれて来るものとして言っているのではないかと思われる。上代よりの信仰の上に立っての言で、この範囲のことと思われる。
(505)【釈】 重ねて相逢う因《ちな》みはないか、あってくれよ。白細《しろたえ》のわが袖の上に、君が魂を斉き守って留めておいて、その因みとしよう。
【評】 「斎ひ留めむ」ということがはっきりしないが、上のように解するとその心は通る。家持とまた逢うことは、わが力には及ばずとして、信仰の力を借りようとするもので、心深い訴えではあるが、その控えめであることは前の歌と同様である。前の歌の「片※[土+完]《かたもひ》」は、平安朝では神事に限ったもののごとくなっており、また、この歌の「斎ひ」も、類似の歌はあるが、詠んでいる者は同じく女である。この娘子は、女性に共通であるところの伝統の信仰の保持者であり、また身分の低いらしいことが、信仰保持心の強いことともなって、この二首のような歌を詠ませているのではないかと思われる。また二首とも、自意識をもった、つつましい人柄であることを思わせるものである。
 
     豊前国の娘子《をとめ》大宅女《おほやけめ》の歌一首 未だ姓氏を審らかにせず
 
【題意】 「大宅女」は、名。「女」の添った名前が多いからである。題詞の下の小字の注は元暦本ほか五本にある。
 
709 夕闇《ゆふやみ》は 路《みち》たづたづし 月《つき》待《ま》ちて 行《ゆ》かせ吾《わ》が背子《せこ》 その間《ま》にも見《み》む
    夕闇者 路多豆多頭四 待月而 行吾背子 其間尓母將見
 
【語釈】 ○夕闇は路たづたづし 「路」は、下の「背子」のその家へ帰る路と取れる。「たづたづし」は、おぼつかなしで、歩きにくい意。○月待ちて行かせ吾が背子 「月待ちて」は、月の出を待ってで、月の出の早い頃の実際に即してのもの。「行かせ」は、原文「行」、旧訓「ゆかむ」。『代匠記』の訓。「行く」の敬語。命令形。「吾が背子」は、呼びかけ。○その間にも見む 「その間」は、月の出るまでの間。「も」は、それ以前の時を背後に置いたもの。「見む」は、共にいようの意。
【釈】 夕闇は路がおぼつかない。月の出を待って行きたまえよわが背子よ、その間も共にいよう。
【評】 何らかの事情で昼通って来て、夕方帰ろうとする夫に、名残りを惜しんでの歌である。女の細かい心をもって、実際に即して、素朴にいっているので、事が気分になり得て、それが魅力となっている歌である。豊前国の身分のない女の歌であるが、魅力のあるところから京に伝わるに至ったものとみえる。
 
     安都扉娘子《あとのとびらをとめ》の歌一首
 
(506)【題意】 「安都扉」は、安都は氏、扉は名と思われる。(六六三)安都宿禰年足があった。同族とみえる。
 
710 み空《そら》ゆく 月《つき》の光《ひかり》に ただ一目《ひとめ》 相見《あひみ》し人《ひと》の 夢《いめ》にし見《み》ゆる
    三空去 月之光二 直一目 相三師人之 夢西所見
 
【語釈】 ○み空ゆく月の光に 「み空」の「み」は、美称。空を渡ってゆく月の光によって。○ただ一目相見し人の ただ一目、互いに見かわした人のというので、道行きずりに逢った人とみえる。○夢にし見ゆる 「夢」は、魂の通うものがあっての意のもの。「し」は、強め。「見ゆる」は、連体形で、終止形であるべきところを、感動をあらわすために連体形を用いるのは、この当時の格で、例のあるものである。
【釈】 空を渡ってゆく月の光に、ただ一目見かわし合った人が、夢に見えることであるよ。
【評】 夢は魂の感応によるものだとする信仰の上に立って、路上に一目見ただけの人とのつながりに思い入つた心である。この夢は、上の (七〇五)の、家持の童女《おとめ》に贈った歌の夢と同系のものに思われる。調べに、静かではあるが強いものがあって、それが魅力をなしている。「み空ゆく」は、語としては月の修飾にすぎないものであるが、これあるがために、「相見し」という境の広さを連想させ、さらにまた「相見し」の瞬間的であったことをも響かせきたるものがあって、この歌としては重い働きをしている。しかし作者としてはそれと意識して用いたものではないかもしれぬ。
 
     丹波大女娘子《たにはのおほめをとめ》の歌三首
 
【題意】 「丹波」は『代匠記』は、下に「国」の字がなく、またこの氏は『新撰姓氏録』にあるので、氏であるとしている。そこには、「丹波史、後漢霊帝八世孫、孝日王之後也」とあるもので、帰化人である。「大女」の「女」は、元暦本以下四本にあるもので、大女は名と取れる。『代匠記』は、丹波が氏であることは、第二首は、大和国での作であることでも知られるといっている。『攷証』は、「国」の字はなくても、「河内百枝娘子」のごとくその国の者であることをあらわしている用例は多いといって反対している。『代匠記』に従う。伝は知り難い。
 
711 鴨鳥《かもとり》の 遊《あそ》ぶこの池《いけ》に 木《こ》の葉《は》落《お》ちて 浮《うか》べる心《こころ》 君《わ》が念《おも》はなくに
    鴨鳥之 遊此池尓 木葉落而 浮心 吾不念國
 
(507)【語釈】 ○鴨鳥の遊ぶこの池に 「鴨鳥」は、鴨。渡り鳥で、雁におくれて来、またおくれて帰る。すなわち落葉の季節である。「この池」は、眼前をさしている。○木の葉落ちて 「落ち」は、枯れて落ちる意。初句からこれまでは眼前の光景で、その木の葉が水に浮かぶ意で続き、それを転義して序詞としたもの。○浮べる心 軽く漂う心で、実《じつ》があって動かない心に対させたもの。男女関係の上での心である。○吾が念はなくに 「念ふ」は「心」に続き、心念うの意。心をもつの意をあらわす古語で、用例の多いもの。「なくに」は、しばしば出た。「なく」は、打消して名詞形としたもの。「に」は、詠歎。
【釈】 鴨が泳いで遊んでいるこの池に、秋の木の葉が散り落ちて浮かんでいる、その浮かぶ、すなわち軽く漂う心は、我はもっていないことであるものを。
【評】 夫婦関係の上で夫より疎くされ、貞実について疑われていることを背後にしての歌と取れる。初句より三句までは、形としては「浮べる」にかかる序詞であるが、文芸的に構えて捉えたものではなく、「この池に」で明らかなように、眼前の光景である。さらにいえば、「木の葉落ちて浮べる」という光景を見て、その「浮べる」を我に引きあてたものである。すなわち譬喩よりさらに緊密に心につながったものである。これは最も古い表現法で、その心を具象しうる対象を認めたことによって、初めて表現の心を起こすという範囲のものである。この歌はその範囲のものである。
 
712 味酒《うまさけ》を 三輪《みわ》の祝《はふり》が 忌《い》はふ杉《すぎ》 手《て》触《ふ》れし罪《つみ》か 君《きみ》に遇《あ》ひ難《がた》き
    味酒呼 三輪之祝我 忌杉 手觸之罪歟 君二遇難寸
 
【語釈】 ○味酒を 「味酒を」は、「味酒」は、うまき酒。「を」は、詠歎で、ここは「三輪」にかかる枕詞。「三輪」は、上代の神酒の称で、同意の語を重ねる関係で続け、その三輪を地名に転じたもの。○三輪の祝が 「三輪」は、奈良県大三輪町の大神《おおみわ》神社。「祝」は、神職の一つの階級の称。神主につぐ位であるが、神主をさすことがある。(508)○忌はふ杉 「忌はふ」は、「斎《いは》ふ」で、意味の広い語である。ここは斎《いつ》き守る意で、下の「杉」に対することで、斎き守っているところの杉の意。この杉は社の境内に立つ木で、神の御霊《みたま》の降られる木として、それにふさわしく清浄を保たせ、穢に触れさせなくしているもの。○手触れし罪か 手を触れて穢したことのあった神罰か。○君に遇ひ難き 「君」は、夫。「難き」は、連体形で、「か」の結。遇い難きことよの意。
【釈】 味酒よ三輪の大神《おおみわ》神社の祝が斎《いつ》き守っているところの杉よ、それにわが手を触れて穢した神罰で、君に逢い難いことであるのかよ。
【評】 夫に疎まれている理由が発見できず、人事の一切は神意によるものとする信仰から、その住む大和国の神である三輪の神の神意によってのこととし、さらに神意を思って、神木の杉に手を触れたことのあったのに思いあたっての心である。女性の信仰心の強さのあらわれている歌である。
 
713 垣穂《かきほ》なす 人辞《ひとご》聞《き》きて 吾《わ》が背子《せこ》が 情《こころ》たゆたひ あはぬこの頃《ごろ》
    垣穗成 人辞聞而 吾背子之 情多由多比 不合頃者
 
【語釈】 ○垣穂なす人辞聞きて 「垣穂」は、垣の秀《ほ》の意と取れる。垣は柴などで作ったので、その秀は多いわけである。「なす」は、のごとくの意で、垣の秀のごとくで、多くの意。「人辞」は、他人の噂で、夫婦関係の秘密にしてあるものに対して、他人の興味よりする噂。○吾が背子が情たゆたひ 「たゆたひ」は、躊躇してで、するのは人言を怖れる意からのこと。○あはぬこの頃 「あはぬ」は、「逢はぬ」で、通って来ない意。「この頃」は、下に詠歎を含んでいる形のもの。
【釈】 垣の秀《ほ》のごとくにも多き人の噂を聞いて、わが背子の、それを怖れて躊躇して、通って来て逢わないこの頃であるよ。
【評】 夫婦関係が秘密なものであり、それゆえに人言があり、あれば怖れて足を遠くするというのは、きわめて一般的なことであった。これもその範囲のもので、嘆いての訴えである。三首、夫に疎くされての嘆きは一貫しているが、異なる時のもので、連絡のあるものではない。
 
     大伴宿禰家持、娘子《をとめ》に贈れる歌七首
 
714 情《こころ》には 思《おも》ひ渡《わた》れど 縁《よし》を無《な》み 外《よそ》にのみして 嘆《なげき》ぞ吾《わ》がする
(509)    情尓者 思渡跡 縁乎無三 外耳爲而 嘆曾吾爲
 
【語釈】 ○情には思ひ渡れど 「情には」は、「外にのみ」に対させたもの。「思ひ渡る」は、「渡る」は、遠く及ぶ意で、思い続けていたけれども。○縁を無み 逢う手がかりがなくして。○外にのみして嘆ぞ吾がする 「外」は、余所《よそ》は、住む地域を異にする意から出て、無関係の意となった語。「外にのみして」は、無関係のみの状態。「嘆ぞ吾がする」は、我は嘆きをしていることであるよ。
【釈】 心の中には長く思い続けているけれども、逢うべき手がかりがなくて、無関係のみの状態で、我は嘆きをしていることであるよ。
【評】 いうところはきわめて普通のものである。詠み方もそれにふさわしいものであるが、正直で、語の続きにある粘りをもっていて、その人を思わせるものである。それが特色である。
 
715 千鳥《ちどり》鳴《な》く 佐保《さほ》の河門《かはと》の 清《きよ》き瀬《せ》を 馬《うま》打《うち》わたし 何時《いつ》か通《かよ》はむ
    千鳥鳴 佐保乃河門之 清瀬乎 馬打和多思 何時將通
 
【語釈】 ○千鳥鳴く佐保の河門の この二句(五二八)に既出。「千鳥鳴く」は、佐保川の修飾。「佐保の河門」は、佐保川の渡り場で、橋がなくて徒渉したのである。○清き瀬を 清い川瀬をで、「通はむ」につづく。○馬打わたし何時か通はむ 「馬」は、自身の乗馬。「打わたし」は、「打」は、接頭語。「わたし」は、渡らせ。「何時か通はむ」は、いつになれば娘子の許へ通えようか。
【釈】 千鳥の鳴いているところの佐保川の渡り場の、その清らかな川瀬を、わが乗る馬を渡らせて、いつになれば妹が許へ通えようか。
【評】 家持の家より娘子の家へ行くには、佐保川を渡ることになっていたのである。一首の中心は「何時か通はむ」で、娘子に対する予想で、実現するともしないともわからないものであるが、その予想をすると、美しい佐保川を、乗馬で楽しく渡る状態が浮かんできて、それが憧れの対象であるかのようになってきたのである。美しい想像に溺れてゆく家持を思わせる歌である。その美しさを風景の上に求めているところも家持を思わせる。
 
716 夜昼《よるひる》と 云《い》ふ別《わき》知《し》らに 吾《わ》が恋《こ》ふる 情《こころ》はけだし 夢《いめ》に見《み》えきや
(510)    夜晝 云別不知 吾戀 情盖 夢所見寸八
 
【語釈】 ○夜昼と云ふ別知らに 「夜昼と云ふ別」は、夜か昼かという差別で、下の「恋ふる情」の状態。「知らに」は、「に」は打消で、知らずの意。「知らに」は、下に続くことの理由をあらわす際に用いられている。ここでは「夢に見え」の理由である。○吾が恋ふる情はけだし 「けだし」は、「若し」で、あるいはと疑うにあたる。こちらで恋うる情が、先方の魂に感応して、こちらを夢に見るものだという信仰の上に立っての言。○夢に見えきや 「き」は、過去。「や」は、疑問。
【釈】 夜といい昼という差別もわからずにわが恋うている心は、あるいは妹が魂に感応して、我を夢に見たことがあったろうか。
【評】 夢はこちらの魂の先方の魂に感応するところから見るものだという信仰の上に立っての訴えである。見ればこちらを思うべきであり、見ねば恨みを受けるべきであるから、訴えとしては効果的なものである。見たいといわれたい予期をもっての訴えである。
 
717 つれもなく あるらむ人《ひと》を 独念《かたもひ》に 吾《われ》は念《おも》へば 惑《わぴ》しくもあるか
    都礼毛無 將有人乎 獨念尓 吾念者 惑毛安流香
 
【語釈】 ○つれもなくあるらむ人を 「つれもなく」は、つれなくは、思いやりなくで、現在も用いている。「も」は、詠歎。「あるらむ人」は、現にその状態でいよう人で、娘子を恨んでの語。○独念に 「独念」は「片念」の義訓で、用例のある字。我のみ思う意。○吾は念へば惑しくもあるか 「吾は念へば」は、我のほうは思っているので。「惑」は、旧訓「まとひ」。『代匠記』の訓。『攷証』も、巻九(一八〇一)「惑者《わびびと》は啼《ね》にも哭《な》きつつ」、巻十(二三〇二)「惑者《わびびと》のあな情《こころ》なと念《おも》ふらむ」を引き、『説文』に「惑乱也」とあるのでおのずからその意があるといっている。ここは悲しいというにあたる。「か」は詠歎。
【釈】 思いやりもなくているだろうところの人を、片思いに我は思っているので、悲しいことではあるよ。
【評】 正直に、語に粘りをもたせていう、家持風の歌というにすぎないものである。
 
718 念《おも》はぬに 妹《いも》が咲《ゑ》まひを 夢《いめ》に見《み》て 心《こころ》の中《うち》に 燎《も》えつつぞをる
    不念尓 妹之咲※[人偏+舞]乎 夢見而 心中二 燎管曾乎留
 
(511)【語釈】 ○念はぬに妹が咲まひを 「念はぬに」は、思いがけずにというにあたる。「咲まひ」は、「咲む」の継続をあらわした語の名詞形。笑んでいる姿というにあたる。○燎えつつぞをる 「燎え」は、甚しくものを思うと、胸が熱く感じるのを、強調しての語。ここは、甚しく憧れる意を具象化したもの。「つつ」は、継続。
【釈】 思いがけずに、妹が笑んでいる姿を夢に見て、妹の心の感応と思い、心の中に甚しくも憧れつづけていることであるよ。
【評】 家持の空想的な面をあらわした歌である。実際に即していう時には、丹念に、むしろくどくも言わなくてはいられない家持であるが、空想的になると、明るく、軽く、飛ぶ小鳥のようになってくる。これはその範囲のものである。力量はとにかく、詩情を思わせる歌である。
 
719 大夫《ますらを》と 念《おも》へる吾《われ》を かくばかり みつれにみつれ 片思《かたもひ》をせむ
    大夫跡 念流吾乎 如此許 三礼二見津札 片念男責
 
【語釈】 ○大夫と念へる吾を 強き男子だと思っている我であるものをで、「を」は詠歎。男子の矜《ほこ》りをいう、当時の成句。以上、段落。○かくばかりみつれにみつれ 「かくばかり」は、このようにで、以下を総括していったもの。「みつれ」は、巻十(一九六七)「香《か》ぐはしき花橘を玉に貫《ぬ》き送らむ妹はみつれてもあるか」という例もある。語意は『代匠記』は、日本書紀に「羸」を「あつれ」と点じているところがあり、古の片仮名は「ア」も「ミ」も同字であるから、あるいは「ミツレ」であるかもしれぬ。いずれにもせよ「みつれ」は思いにやつるる意だとしている。『攷証』は、その日本書紀というは顕宗紀元年で、「羸弱」を「アツシレ」と訓んでいるもので、この語とは別で、結局解し難い語だといっている。『大言海』は、「身やつる」の約だとしている。「身」と「三」の「み」は上代仮名づかいの上で異なり、疑点はあるが、やつれる意というに従う。「みつれにみつれ」は、やつれにやつれで、そのことの甚しい意。○片思をせむ 片思いをしようかで、「か」は「かくばかり」の照応よりのもの。
【釈】 強い男子と思っている我であるものを。このように、やつれにやつれて片思いをしようか。
【評】 甲斐なき恋に悩んでいる自身の状態に反省を加え、嘆き憤った心のもので、独詠の形をもって訴えとしたものである。事の性質として誇張はあろうが、真情の認められるものである。
 
720 むらきもの 情《こころ》推《くだ》けて かくばかり 吾《わ》が恋《こ》ふらくを 知《し》らずかあるらむ
    村肝之 情推而 如此許 余戀良苦乎 不知香安類良武
 
(512)【語釈】 ○むらきもの情摧けて 「むらきもの」は、「心」の枕詞。巻一(五)に出た。「情摧けて」は、甚しく苦しむことを具象的にいったもの。○吾が恋ふらくを 「恋ふらく」は、「恋ふ」の名詞化。恋うていること。○知らずかあるらむ 「か」は、疑問。「らむ」は、現在の推量。
【釈】 わが心が甚しい苦しみに砕けて、このようにまで恋うていることを、妹は知らずにいるであろうか。
【評】 片思いの嘆きに、恨みをまじえて訴えたものである。
【評又】 「娘子」という人はいかなる人であるか全然わからず、(六九一、六九二)の「娘子」と同人であるかまたは別人であるかさえもわからないのである。とにかく、こうした七首の訴えをされたにもかかわらず、この恋はついに成立たなかったものとみえる。娘子の報え歌があれば、たぶんここに並べ載せ得たことと思われるが、それのないところを見ると、報えなかったものと思われる。多くの女性に取囲まれて、そうした方面は自由な時代だったとはいえ、むしろ放縦な生活をしていた家持も、この娘子にはかつて経験しない苦《にが》さを味わわされたのである。歌の排列順から見ると、この苦いことのあった後まもなく、家持は数年間を中絶していた大伴坂上大嬢との関係を復活し、それを機会としたかのごとく以前の生活を打ちきってしまっているのである。その推移と変化とは、おのずから物語をなしているものとみえる。またこの時代の家持の歌は、概していうと幼稚であって、後年の美を発揮し得ないものであり、この七首のうち、(七一五)と(七一八)の平和な心境を叙した二首は、さすがにその素質の凡ならざるを示しているが、他の五首は、単なる常識を、正面から正直に、語を尽くして言っているにすぎないものであり、強いていえば、その語続きの直線的で粘りのある点に特色があると言えるが、これはまだ余裕がもてず、苦渋して詠んでいる結果だともいいうるものである。要するにこの五首は、家持としては、その人柄の堪え難くする苦《にが》さに出逢い、もち馴らされていた青年貴族の誇りを奪われて、それを取戻そうとする心からの歌で、五首を一貫している執拗と執着はそこから発しているものと思われる。すなわち家持の最も弱所を示している歌なのである。このこともまた物語的であって、相俟って物語の趣を成しているといえる。
 
     天皇に献《たてまつ》れる歌【大伴坂上郎女、佐保宅にありて作る】
 
【題意】 題詞の下の注は、元暦本以下五本にあるものである。すなわち坂上郎女が、佐保の宅で作って、天皇に献ったもので、それだと天皇は聖武天皇であられる。
 
721 足引《あしひき》の 山《やま》にし居《を》れば 風流《みやび》なみ 吾《わ》がするわざを とがめたまふな
    足引乃 山二四居者 風流無三 吾爲類和射乎 害目賜名
 
(513)(513)【語釈】 ○足引の山にし居れば 「足引の」は、「山」の枕詞。「山」は、佐保を称したもの。「佐保」は佐保山の麓で、山寄りの地というにすぎないのであるが、それを山中のごとくいっているのは、大宮に対して、卑下の心をもっていったがためである。「し」は、強めで、「山にし」は、山中にのみというほどの意。○風流なみ 「風流《みやび》」は、「宮び」で、大宮ぶりの意。大宮を都雅の代表的なところとし、地方の粗野に対させていったもの。「風流」は都雅の文化的方面を強調しての語。「なみ」は、なくして。○吾がするわざを 「わざ」は、業《わざ》で、ここは手業《てわざ》としてした何物にか対して、おおらかにいった語。思うに農産物の珍しい物、あるいは山野で得られる茸、果物というごとき物に対しての言で、それを得たのはわが手業であるとしていったものと取れる。○とがめたまふな 「とがめ」は咎めで、失礼な品だとして咎める意。
【釈】 足引の山にのみ暮らしておりますので、風流《みやび》がなくて、手前がいたしますこの事を、お咎め下さいますな。
【評】 坂上郎女が天皇に、佐保において産した自然物の何物かを献上した際、その物に添えた歌と思われる。その土地に産するいわゆる土産《みやげ》を天皇に献ずるということは、民の務めとして古来より行なっていることであって、吉野山中の国栖人《くずびと》は、上代より後世に至るまで変わらずにしていたことである。郎女のしたこともその風にならってのことである。しかしその心としては、貢《みつぎ》としての物ではなく、その季節の珍しく好い物を御覧に入れようとしてのことである。歌は儀礼として添えたものである。本来こうした歌は、その物の好さをいい、我がそれを得るための労をいうのが型となっているが、これは天皇に対する臣下としての礼をいっているものである。
 
     大伴宿禰家持の歌一首
 
722 かくばかり 恋《こ》ひつつあらずは 石木《いはき》にも ならましものを 物思《ものも》はずして
    如是許 戀乍不有者 石木二毛 成益物乎 物不思四手
 
【語釈】 ○かくばかり恋ひつつあらずは このように憧れつづけていずにで、二句、巻二(八六)に既出。成句に近いもの。○石木にもならましものを 「石木」は、非情のもの、また劣ったものとして言っている。「も」は、詠歎。「ならまし」は、変わろうで、「まし」は仮想。○物思はずして 「物思ふ」は、嘆きで、「恋」の上のもの。
【釈】 このように憧れつづけていずに、非情の劣ったものである石や木にも身を変えようものを。恋の嘆きをせずして。
【評】 恋の上の嘆きであるが、一般的な言い方で、誰に対してのものかわからないものである。凡作である。
 
(514)     大伴坂上郎女、跡見庄《とみのたどころ》より、宅《いへ》に留《とど》まれる女子《むすめ》の大嬢《おほいらつめ》に賜《たま》へる歌一首井に短歌
 
【題意】 「跡見」は、奈良県桜井市|外山《とび》にあったと思われる。「庄」は田所《たどころ》で、そこに大伴家の領地があったとみえる。「宅」は、坂上の邸で、「大嬢」は、坂上大嬢。左注によって、歌は大嬢よりの便りに対し、報えの心をもって詠んだものとわかる。
 
723 常世《とこよ》にと 吾《わ》が行《ゆ》かなくに 小金門《をかなど》に 物悲《ものかな》しらに 念《おも》へりし 吾《わ》が児《こ》の刀自《とじ》を ぬば玉《たま》の 夜昼《よるひる》といはず 念《おも》ふにし 吾《わ》が身《み》は痩《や》せぬ 嘆《なげ》くにし 袖《そで》さへ沾《ぬ》れぬ かくばかり もとなし恋《こ》ひば 古郷《ふるさと》に この月《つき》ごろも ありかつましじ
    常呼二跡 吾行莫國 小金門尓 物悲良尓 念有之 吾兒乃刀自緒 野干玉之 夜晝跡不言 念二思 吾身者痩奴 嘆丹師 袖左倍沾奴 如是許 本名四戀者 古郷尓 此月期呂毛 有勝益士
 
【語釈】 ○常世にと吾が行かなくに 「常世」は、常住不変の国で、方位も離れず、遠い海の向こうにあるとされていた国。転じて、不老不死の仙郷の意にも用いられたが、ここはその初めの意のもの。「行かなくに」は、行かぬことであるものをの意で、しばしば出た。○小金門に物悲しらに 「小金門」は、「小」は、接頭語。「金門」は、集中の用例によると、門《かど》と同意に用いられている。金を用いて作った門の意ともされ、また疑われてもいて、語源は明らかでない。「物悲しらに」は、「ら」は、接尾語。この「ら」に、さらに「に」を添え、形容詞を副詞にしたもので、悲しそうにの意。○念へりし吾が児の刀自を 「念へりし」は、思っていたところの。「刀自」は、主婦の総称で、老若高下にかかわらず用いた。○ぬば玉の夜昼といはず 「ぬば玉の」は、「夜」の枕詞。「いはず」は、という差別の立たずの意で、ぬば玉の夜といい、また昼という差別の立たず。○念ふにし吾が身は痩せぬ 「念ふにし」の、「し」は強め。思うによって。○嘆くにし袖さへ沾れぬ 「嘆くにし」は、「念ふにし」と同じ意で、繰り返し。「袖さへ」は、袖までもで、上の「痩せ」に加えての意。「沾れぬ」は、涙に濡れた。○かくばかりもとなし恋ひば 「もとな」は、巻二(二三〇)に出た。ここは濫りにというにあたる。「し」は、強め。「恋ひば」は、恋うならば。○古郷にこの月ごろも 「古郷」は、以前住んでいたところの称で、ここは跡見庄をさしているもの。古くからの別荘がある意でいっているものと取れる。「この月ごろ」は、さしあたっての月頃で、当分の間というにあたる。やや長い期間を標準としていっているもの。「も」は、さえもの意。○ありかつましじ 「かつ」は、堪えうる意。「ましじ」は、後の「まじ」にあたる古語。打消推量の助動詞。あるに堪えられまいの意。巻二(九四)、(四八四)、(六一〇)に出た。
(515)【釈】 どちらとも知れない遠い常世の国にとわが行くことではないものを、見送りに門に立って悲しそうに思っていたわが児の刀自を、夜といい昼という差別も立たずに思っているので、わが身は痩せた、嘆いているので、袖までも涙に濡れた。このようにばかり濫《みだ》りに恋うているのであれば、ここの故郷に、当分の間だけでもとどまっているには堪えられまい。
【評】 跡見庄にいて、坂上の宅にいる娘を恋うる心であるが、それをいうのに、旅立った日、見送りをするとて門に立ち、物悲しそうにしていた娘の状態を捉えて、それに絡ませて言っているものである。母と娘との間では、それが実際であったろうと思われるが、歌という上からも、その単純に、また感覚的に捉えていることが、一首に生気をあらしめ、また落着いたものとならせていて、要を得たものとなっているのである。詠み方も、同じく憧れの情とはいえ、男女間のものとはちがって、激情をまじえない、落着いた静かなもので、母と娘との間にふさわしいものである。句は、二句ずつで休止を置いた単調なもので、他の句はまじえていず、また組立も、二段ではあるが、ほとんど一段のような簡潔なものにし、立体感をもたせようとしているもので、いずれも作意に添ったものである。短歌形式では、この落着きと静かさとはもち難かろうと思われ、長歌形式を選んだことの必然さの思われる歌である。
 
     反歌
 
724 朝髪《あさがみ》の 念《おも》ひ乱《みだ》れて かくばかり なねが恋《こ》ふれぞ 夢《いめ》に見《み》えける
    朝髪之 念乱而 如是許 名姉之戀曾 夢尓所見家留
 
【語釈】 ○朝髪の念ひ乱れて 「朝髪の」は、その乱れやすい意味で、「乱れ」にかかる枕詞。「念ひ乱れて」は、心乱れて思う意。○かくばかりなねが恋ふれぞ 「かくばかり」は、このようにばかりで、さすところがあって言っているもの。そのさすのは大嬢より郎女に寄せた歌と取れる。「なね」は、「汝《な》」に、親称の「ね」の添った語。「恋ふれぞ」は、先方がこちらを恋うと、夢に見えるという意のもので、下の「夢」の原因。○夢に見えける 大嬢が夢に見えた意。「ける」は、「ぞ」の結。
【釈】 朝髪の心乱れて、このようにまでお前が我を恋うので、それでわが夢に見えたことであるよ。
【評】 長歌は、母として甚しくも娘を恋うことであるが、反歌は、反対に、娘が母を恋うことをいい、それを夢見によって実証したもので、展開があり照応があって、緊密に関連させたものである。要を得た反歌というべきである。
 
(516)     右の歌は、大嬢の進《たてまつ》れる歌に報《こた》へ賜へるなり。
      右謌、報2賜大嬢進謌1也。
 
【解】 寛永本は、「嬢」の下が一部分空白となっているが、元暦本その他五本には、「進」の字がある。すなわち「進れる歌」である。  
 
     天皇に献れる歌二首 【大伴坂上郎女、春日里にありて作る】
 
【題意】 題詞の下の注は、寛永本にはないが元暦本他五本にあるものである。天皇は聖武天聖であられる。
 
725 にほ鳥《どり》の 潜《かづ》く池水《いけみづ》 情《こころ》あらば 君《きみ》に吾《わ》が恋《こ》ふる 情《こころ》示《しめ》さね
    二寶鳥乃 潜池水 情有者 君尓吾戀 情示左祢
 
【語釈】 ○にほ鳥の潜く池水 「にほ鳥」は、かいつぶり。「潜く」は、潜《くぐ》るで、くぐるのは小魚を捕えるためである。「池水」は、池の水よと呼びかけたもの。この池は、次の歌で見ると、「君が家の池」とあるものである。○情あらば 非情である池水に、もし情があるならばと仮想していっている。○君に吾が恋ふる情示さね 「君に吾が恋ふる情」は、「恋ふ」は、意味の広い語で、ここは慕う意と取れる。「示さね」は、「ね」は、他に対しての希望の助詞。示してくれよの意。
【釈】 にほ鳥の潜り入る池の水よ。もしも情《こころ》があるならば、君を我が慕っている心を示してくれよ。
【評】 天皇を慕う心を申したものである。直接、慕うとはいわず、天皇の御覧になる池水に呼びかけ、池水がもし情があるならば示してくれと頼んだもので、間接という範囲でも、その極度のものである。非情の物を擬人しようとしたならば、他に物もあろうに、常識ではすべくもない池水を擬人しているのは、わざと縁遠い物を選んだのであって、縁遠いということは、天皇と臣下としての自身との間にできるだけ距離をつけたもので、この距離はすなわち敬意である。「にほ鳥の潜く池水」は、その水の深いことを具象的にいったもので、深さということを暗示したものと思われるが、これは単なる光景とも見られるものである。その曖昧にしてあることも、深さということを婉曲にしたものである。また、「情あらば」「吾が恋ふる情」と、「情」(517)を重ねているのも、事を鄭重《ていちよう》にいおうがためである。郎女としては、その平常の才情を抑え、素朴をきわめた詠み方をしたものであるが、その素朴は、深く心してのものであって、わざと素朴にしたものである。これは天皇に対しまつる臣下としての礼よりである。
 
726 外《よそ》に居《ゐ》て 恋《こ》ひつつあらずは 君《きみ》が家《いへ》の 池《いけ》に住《す》む云《と》ふ 鴨《かも》にあらましを
    外居而 戀乍不有者 君之家乃 池尓住云 鴨二有益雄
 
【語釈】 ○外に居て恋ひつつあらずは 「外」は、大宮を標準にしての言で、よそにあって大宮を恋いつづけていずに。○君が家の池に住む云ふ 「君が家」の「家」は、大宮のことでなくてはならないが、それとしては適当せぬ語であるとして、これにより、題詞が誤まっているのではないかと疑う注がある。しかし題詞は諸本異同のないものである。『攷証』はこの点につき、二首ともに、天皇がまだ皇太子でいらせられた時に奉ったものであろうといっている。これは問題として残しておくべきである。「池に住む云《と》ふ」は、下の「鴨」のことをいったもので、伝聞した形をもっているものである。渡り鳥の鴨のことであるから、その来る季節はわかることで、すでにその季節に入っていることを知っての言であるから、「住むらむ」といっても誤りのないことである。それをこのように言っているのは、用意して距離をつけていっているもので、その距離はすなわち敬意である。○鴨にあらましを 「鴨」は、雁におくれて渡って来る鳥で、その来るのは晩秋初冬である。「まし」は、「あらずは」の帰結。「を」は、詠歎で、できるならばその鴨であろうものをで、劣った物である鴨を羨むのは、それが大宮の内にいるからのことで、それによって天皇をお慕い申す心をあらわしたのである。
【釈】 よそにいて、恋いつづけていずに、できることならば、君が家の池に住んでいると聞く鴨でありたいものを。
【評】 この歌も前の歌と同じく、天皇をお慕い申す心をあらわしたものである。卑下の心をもち、用意をもっていっていることは、池の鴨を羨むという作意の上にも、「君が家の池に住む云ふ」という言い方の上にも現われている。前の歌と同じく才情を抑えて一般的のことをいっているものであるが、しかし、一つの池を捉え、同じく水鳥を捉えつつ、その角度を変えるのは、前の歌だけでは心足らずとして、繰り返していう形をとったのであるが、それだけではなく、心としても一歩前進せしめた趣をもったものである。その意味でこの二首は同時のものと思われる。
 
     大伴宿禰家持、坂上家の大嬢に贈れる歌二首 【数年を離り絶えて復会ひて相聞往来す】
 
【題意】 「離り絶え」については、いかなる理由があってのことか、その間の消息には全く触れて言っていないのでわからない。(518)想像されやすいことは、娘の結婚については、当時の風として、その母が絶対の権力をもっていたのであるから、坂上郎女が関係していたのではないかということである。その触れていわないのは、郎女は大嬢には母、家持には叔母である関係上、いうを好まず、またいうを得なかったのではないかということである。
 
727 萱草《わすれぐさ》 吾《わ》が下紐《したひも》に 著《つ》けたれど 鬼《しこ》のしこ草《くさ》 事《こと》にしありけり
    萱草 吾下紐尓 著有跡 鬼乃志許草 事二思安利家理
 
【語釈】 ○萱草 現在の萱草《かんぞう》の古名。秋、百合《ゆり》に似た花を開く。野生する物で、栽培もした。漢籍には、これを食うと憂いを忘れるとあり、それが我が国に伝わって、この草を身に着けているとものを忘れさせるという信仰の伴うものとなり、忘れ草という名を負うに至ったと見える。集中の例によると、恋の苦しみを忘れることにのみいわれている。○吾が下紐に著けたれど 「下紐」は、下裳《したも》、下袴の紐。下紐にも信仰が伴っていて、人に恋いされるとおのずから解けるとしていた。「著け」は、結びつける意。○鬼のしこ草 「鬼」は、醜の略字で、古くから用いていた。ものを罵る意の語。それを重ねることによって強めたもので、つまらぬともつまらぬ草の意で、呼びかけ。○事にしありけり 「事」は「言《こと》」に当てたもの。「し」は、強め。「けり」は、詠歎。ただ名前だけで、実《じつ》の伴わないものであることよ。
【釈】 忘れ草をわが下紐に結びつけていたけれども、つまらぬともつまらぬ草よ、ただ名前だけで実の伴わないものであることよ。
【評】 大嬢を深くも思うが、思うのみで逢い難い苦しみを、一般信仰である忘れ草を下紐につけることによって忘れようとしたが、その苦しみに対しては何の甲斐もなかったということを、忘れ草を罵ることによってあらわしたもので、長い間の恋の苦しみの訴えである。事としては、はかないものであるが、当時としては信仰の伴っていたものであり、また調べも、熱意よりくる強さがあって、その心を具象し得ているものである。
 
728 人《ひと》も無《な》き 国《くに》もあらぬか 吾妹児《わぎもこ》と 携《たづさ》ひ行《ゆ》きて 副《たぐ》ひてをらむ
    人毛無 國母有粳 吾妹兒与 携行而 副而將座
 
【語釈】 ○人も無き国もあらぬか 「国」は、ここは狭い範囲で用いていた例によるもので、所というにあたる。「あらぬか」は、上に「も」を伴った形のもので、ないか、あってくれよの意で、希う意。○携ひ行きて 共に行く意。○副ひてをらむ 並んでいようで、一緒にいる意。
(519)【釈】 人のいない所がないものであろうか、あってほしいことよ。吾妹子とともに行って、並んで一緒にいよう。
【評】 心を通わしている男女が、周囲の妨げのために自由に逢えないのを嘆いての訴えで、一般的な心である。数年を隔ててまた逢うようになったとはいうが、その逢い方は自由なものではなかったのである。歌は、他の女性に対した時よりは熱意をもったものであることが、その調べの張りを帯びていることによって感じられる。二首、正直で、単純な、一本気の性分を思わせる歌である。
 
     大伴坂上大嬢、大伴宿禰家持に贈れる歌三首
 
729 玉《たま》ならば 手《て》にも巻《ま》かむを うつせみの 世《よ》の人《ひと》なれば 手《て》に巻《ま》き難《がた》し
    玉有者 手二母將卷乎 欝瞻乃 世人有者 手二卷難石
 
【語釈】 ○玉ならば手にも巻かむを 「玉ならば」は、君がもし玉であるならばで、巻二(一五〇)に同じ心のものが出た。女のしやすい連想である。「手《て》にも巻かむを」は、手玉として、手に巻こうものをで、「も」は詠歎。○うつせみの世の人なれば 「うつせみ」は、現身《うつしみ》の転で、現世に生きている身。現実の身をもっているこの世の人であるので。この二句も、上の引歌に出た。○手に巻き難し 手玉としては巻き難いで、二句を繰り返して強めたもの。
【釈】 君がもし玉であるならば、手玉としてわが手にも巻こうものを、現実の身をもっているこの世の人であるので、手には巻き難い。
【評】 当時の常識となっていたものを、一首にまとめた程度のものである。この時代は、古歌の学習に努めた時代であるから、この歌はその範囲内のもので、自他ともに当然のこととしていたと思われる。
 
730 あはむ夜《よ》は 何時《いつ》もあらむを 何《なに》すとか 彼《そ》の夕《よひ》あひて 事《こと》の繁《しげ》しも
    將相夜者 何時將有乎 何如爲常香 彼夕相而 事之繋裳
 
【語釈】 ○あはむ夜は何時もあらむを 「あはむ夜は」は、相逢おう夜は。「何時も」は、旧訓「いつしか」。『代匠記』の訓。「何時もあらむを」(520)は、いつでも他にもあろうものをの意で、その夜には限らないのにの意。「を」は、ものを。○何すとか彼の夕あひて 「何すとか」は、何の必要があってかで、後世の、「何とて」にあたる語。「彼《そ》の夕《よひ》」は、旧訓「かのよに」。『考』の訓。「あひて」は、上の「か」を連体形「あふ」で結ぶべきを、下への続きで、連用形「あひ」に解消させたもの。○事の繁しも 「事」は言《こと》。「繁しも」は「も」は、詠歎。大嬢の、周囲の者から言いたてられる嘆き。
【釈】 相逢おう夜は、いつでもあろうものを、何だってあの夜に逢ったろうか、人言《ひとごと》の多いことよ。
【評】 「言の繁しも」を、家持に知らせかつ訴える心のものである。夫としての家持であるが、その通って来たことは言いたてられる事柄であったとみえる。言いたてる者は、大嬢の身分であるから、その周囲の者であったとみえる。実際に即したものなので、おのずから切実味のある歌となっている。
 
731 吾《わ》が名《な》はも 千名《ちな》の五百名《いほな》に 立《た》ちぬとも 君《きみ》が名《な》立《た》たば 惜《を》しみこそ泣《な》け
    吾名者毛 千名之五百名尓 雖立 君之名立者 惜社泣
 
【語釈】 ○吾が名はも 「名」は、評判。ここは、家持との関係。「も」は、詠歎。○千名の五百名に 「千」も、「五百」も、たび繁くということを、具体的にいおうとしたもの。○立ちぬとも 「ぬ」は、完了。立ったとしてもで、下に、それはかまわないがの意を省いた言い方。○君が名立たば惜しみこそ泣け 「君が名立たば」は、君の評判が立ったならばと思っての意。「惜しみこそ泣け」は、名の評判が立ったならばと思って、その疵つくことのそれだけを惜しんで泣いているの意。
【釈】 わが評判は、甚だ繋き評判に立ったとしても、それはかまわないが、もしも君の評判が立ったならばと思って、その名の疵つくことだけを惜しんで泣いている。
【評】 この歌の「名」は、夫婦関係を保全するために、その立つことを惜しむ名ではなく、その関係の世間にひろがることを怖れてのものと取れる。すなわち家持の世間に対しての面目としての名で、それは大嬢も共同のものとみえる。二人が夫婦関係を結ぶことは、面目を失うことになる理由があったものとみえる。歌は大嬢が、夫としての家持のためには、進んでいさぎよく犠牲となろうとする精神をあらわしているもので、上代以来、わが国の妻がもっている美風を示しているものである。「千名の五百名」という語は、ありうべき語ではあるが、他には見えないところからいうと、あるいは大嬢の造語であったのかもしれぬ。とにかく、そうした語を用いて、こなしきった用い方をしている点からいっても、また沈痛な趣をもった調べからいっても、上の歌とはちがって、すぐれた歌と言いうるものである。
 
(521)     又、大伴宿禰家持の和《こた》ふる歌三首
 
732 今《いま》しはし 名《な》の惜《を》しけくも 吾《われ》はなし 妹《いも》によりては 千遍《ちたび》立《た》つとも
    今時者四 名之惜等 吾者無 妹丹因者 千遍立十方
 
【語釈】 ○今しはし 「し」は、二つとも強め。今という今は、というほどの意。○名の惜しけくも吾はなし 「惜しけく」は、「惜し」の未然形に、「く」を添えて名詞形とした語。惜しいこと。評判の惜しいということも我はない。○妹によりては千遍立つとも 「妹によりては」は、妹がためには。「千遍」は、大嬢の「千名」と言ったのに対させてのもので、意は同じく、繁き評判。
【釈】 今という今は、評判の惜しいということは我にはない。妹がためには、たとい繁き評判が立とうとも。
【評】 大嬢の「吾が名はも」の歌に和《こた》えたものである。大嬢のわが名は「千名の五百名」に立とうとも、かりにも君の名が立ってはといったのに対させて、わが上にその「千名」が立とうともというのを、「千遍」と言いかえたのである。熱意をもっていっていることは、一首の調べのさわやかに強い上に現われている。初句「今しはし」と言い出し、三句で言いきっているのも、この場合適切である。和《こた》え歌ではあるが、誓のごとき趣をもったものである。
 
733 空蝉《うつせみ》の 代《よ》やも二行《ふたゆ》く 何《なに》すとか 妹《いも》にあはずて 吾《わ》が独《ひとり》宿《ね》む
    空蝉乃 代也毛二行 何爲跡鹿 妹尓不相而 吾獨將宿
 
【語釈】 ○空蝉の代やも二行く 「空蝉の代」は、上の(七二九)に出た。「やも」は、「や」の反語に「も」の詠歎の添った語。「二行く」は、巻七(一四一〇)「世間《よのなか》はまこと二代《ふたよ》は行かざらし過ぎにし妹に逢はなく念へば」の用例があり、一度行くだけのものの意で、世の中を時の運行の上から見ていっているもの。現世は一度だけのもので、二度とあろうか、ありはしない。○何すとか 大嬢の(七三〇)「あはむ夜は」に和《こた》えたもので、意は、何とて。言いかえて、反対の心をあらわしたもの。○妹にあはずて吾が独宿む 「あはずて」は、後世の逢わずしてにあたる古語。「宿む」の「む」は、「か」の結。
【釈】 現身として生きているこの世は、二度と立ち帰り運行するものであろうか、ありはしない。何とて、妹に逢わずに、我が独りで寝ることをしようか。
(522)【評】 「空蝉の代やも二行く」という意識は、生活を永久の歴史の上に泛《う》かべてみようとする人麿の意識とは対蹠的なもので、仏説に影響されて、この当時に行なわれていたものとみえる。この意識を、男女間の事に限ってのみもっているのは、それによって享楽気分を肯定しようとするのであって、これは時代の影響である。家持のいっているのもその範囲のもので、これを唯一の真と信じ、「あはむ夜は何時もあらむを」の大嬢の分別を否定し、押返して、逢う歓びのためには一切を棄て去ろうというのである。それが気分にまでなっていたことは、一首の調べの強くさわやかなものであるので知られる。これは前の「あはむ夜は」に当てたもので、それをすることによって誓の心を強めた趣のあるものである。
 
734 吾《わ》が念《おもひ》 かくてあらずは 玉《たま》にもが 真《まこと》も妹《いも》が 手《て》に纏《ま》かれむを
    吾念 如此而不有者 玉二毛我 眞毛妹之 手二所纏乎
 
【語釈】 ○吾が念かくてあらずは 「かくて」は、「念」の状態で、総括しての感をいったもの。下の続きで、「念」は、逢い難い嘆き。「かくて」は、その悩みの強さを暗示したもの。「あらずは」は、あらずに。○玉にもが 「も」は、詠歎。「が」は、願望。わが身が玉であってほしいの意で、「玉」は、大嬢の(七二九)の歌に対させたもの。○真も妹が手に纒かれむを 「真も」は、まことにもで、「手に纒かれむを」は、手玉として手に巻かれようにで、「手にも巻かむを」に対させたもの。たえず一緒にいようという心をあらわしたもの。
【釈】 わが逢い見難い嘆きのこのように強いものをもっていずに、わが身が玉であってほしい。いわれるとおりまことにも、妹が手に巻かれて、たえず一緒にいように。
【評】 (七二九)「玉ならば」に和《こた》えたものである。贈歌に較べると、際やかに男性的なものであり、また積極的なものである。与えられた材が感傷となりやすいものであるが、その趣を見せていないのは、家持のその時の精神状態のためである。
 
     同じき坂上大旗、家持に贈れる歌一首
 
735 春日山《かすがやま》 霞《かすみ》たなびき 情《こころ》ぐく 照《て》れる月夜《つくよ》に 独《ひとり》かもねむ
    春日山 霞多奈引 情具久 照月夜尓 獨鴨念
 
【語釈】 ○春日山霞たなびき 「春日山」は、大嬢の坂上の家より近く、眼に見ているもの。「霞たなびき」は、霞が靡いていて。○情ぐく 「情(523)ぐく」は、解が定まっていない。形容詞「情ぐし」の連用形で、下の「照れる」に続いている。「情ぐし」の用例は、集中に四か所あり、いずれもこの当時のものである。その一つは本巻(七八九)「情《こころ》ぐく念《おも》ほゆるかも春霞たなびく時にことの通へば」。その二は、巻八(一四五〇)「情《こころ》ぐきものにぞありける春霞たなびく時に恋の繁きは」。その三は、巻十七(三九七三)の長歌の結びの、「こころぐしいざ見に行かなことはたなゆひ」で、いま一つはこの歌である。語意は、『代匠記』は、心苦しくであるといい、『略解』は、くぐもるで、おぼつかないことにいっていると解している。語源は『代匠記』のようであろうが、ここはおぼつかなくの意と取れ、他の例もそれで意が通じる。心の状態をあらわす語が、そうした心を起こさせる物の状態をあらわす語に転じたものと思われる。下の「照れる」に続き、おぼつかなくも照っているとなり、後世の朧月夜《おばろづくよ》というと、同じ意と取れる。○照れる月夜に 上から続いて、おぼつかなくも、すなわち朧ろに月の照っている夜に。そうした夜は、人恋しい心をそそられる夜としていっているものである。○独かもねむ 「かも」は、疑問。独りで寝ることであろうかと嘆いたもの。
【釈】 春日山に霞がたなびいて、おぼつかなくも月の照っているこの快い夜に、我は独りで寝ることであろうか。
【評】 初句より四句までは、自然の風光の快いことをいい、結句は、その快い風光にふさわしい心的状態をもちたいと願っているが、それが得られない嘆きを訴えているものである。その時々の自然の状態の、その中にいる人の心に影響してくることは、古くからいっているものであるが、その無意識的であったのを意識的にし、またそれを詩情とすることは、この時代に至って高まってきたことで、この歌はその範囲のものである。大嬢の歌としては優れたものである。
 
     又、家持、坂上大嬢に和ふる歌一首
 
736 月夜《つくよ》には 門《かど》に出《い》で立《た》ち 夕占《ゆふけ》問《と》ひ 足卜《あうら》をぞせし 行《ゆ》かまくを欲《ほ》り
    月夜尓波 門尓出立 夕占問 足卜乎曾爲之 行乎欲焉
 
【語釈】 ○月夜には 「は」は、取立てての意をあらわしているもので、上の歌に対させて、月夜には我も同じ心を起こしての余意をもたせたもの。○門に出で立ち 「立ち」は、感を強めるために添えていったもの。○夕占間ひ 「夕占」は、夕方、路に立ち、道を行く人のいっている語によって、わが吉凶を占うことで、当時一般に行なわれていたもの。巻十一(二五〇六)「言霊《ことだま》の八十《やそ》の衢に夕占問ふ占《うら》正に謂《の》る妹はあひ依らむ」とある。後世の辻占にあたる。「夕占問ひ」は、夕占によってわが吉凶を問いの意。○足卜をぞせし 「足卜」は、その法が明らかにはわからない。伴信友は『正卜考』で、現在、民間の童子のしているものがその遺風であろう。それは路に立ち、あらかじめ目標を定め、吉凶の語と歩調とを合わせて目標に向かって進み、その達して踏みとどまった時の吉凶の語をもって占とするもので、それに類したものだろうといっている。吉とは、妨げなく逢えること。凶はその反対である。「足卜をぞせし」は、足卜をしたことであるよ。○行かまくを欲り 「行かまく」は「行かむ」の名詞形。「欲り」は、欲《ほつ》してで、逢いたく思つての意。連用形。
(524)【釈】 月夜には我も同じく、門に出て夕占に問うたり、足卜をもしたことであるよ。逢ひたく思って。
【評】 前の歌に和えたもので、初句より四句までは、月夜には我も同じ心を起こし、夕占、足卜をしたと、その事実をいったものである。占の結果をいっていないのは、いずれも凶で、行っても妨げがあって逢えないと出たので、思いとどまったというのである。これは二人の事情は、まさにそういうことをする必要があったのである。結句「行かまくを欲り」は、その月夜に限らない平常の心で、「月夜には」と対照的にいっているものである。
 
     同じき大嬢、家持に贈れる歌二首
 
737 云々《かにかく》に 人《ひと》は《い》云ふとも 若狭道《わかさぢ》の 後瀬《のちせ》の山《やま》の 後《のち》も会《あ》はむ君《きみ》
    云々 人者雖云 若狭道乃 後瀬山之 後毛將會君
 
【語釈】 ○云々に人は云ふとも 「云々に」は、後世の、とやかくというにあたる古語。「人は云ふとも」は、周囲の人はいおうともで、家持との関係について、それを妨げしていおうともの意。○若狭道の後瀬の山の 「若狭道」は、ここは若狭国の意のもの。「後瀬の山」は、福井県小浜市の南方にある小山。この二句は、後瀬の後を、次の「後」に畳音でかけるための序詞。○後も会はむ君 「会」は原文「念」で、諸本同じである。『代匠記』は「合」、『考』は「会」の誤写であろうという。『考』に従う。後にも逢おう君よと呼びかけたもの。
【釈】 とやかくと周囲の人は相逢うことを妨げていおうとも、若狭国にある後瀬の山の、その後にも相逢おう君よ。
【評】 大嬢の周囲には、家持との関係を喜ばず、これを妨げる人があり、その力は大嬢には抗し難いところからの訴えである。「若狭道の後瀬の山の」という序詞は、畳音の関係で「後」にかかるもので、序詞としても形の単純なものである。また大嬢がそうした山を見ているはずもないので、心を働かして捉えたものである。したがってこれは文芸性のものとみえるが、心として、「後」ということを強くいおうとし、その語感を重からしめるために添えたものであり、さらにまた、そのために語を費やしたものであり、後瀬という名には、後の時という意味もあるので、語の神秘力を信ずる心より、その力を頼もうとする心もあったためのものと思われる。文芸性はその要求に付随してのものと思われる。この歌のもつ苦衷は大嬢のみのものであり、また家持に対しては多くをいうを好まなかったものであることは、次の歌で察しられる。
 
738 世間《よのなか》し 苦《くる》しきものに ありけらく 恋《こひ》に堪《た》へずて 死《し》ぬべき念《も》へば
(525)    世間之 苦物尓 有家良久 戀二不勝而 可死念者
 
【語釈】 ○世間し 旧訓「世のなかの」。『攷証』の訓。「し」は、強め。○苦しきものにありけらく 「けらく」は、助動詞「ける」を名詞形にするために、その未然形に「く」を添えたもの。したがって、下に詠歎を含んでいる。「ありけらく」は、あったことよ。○恋に堪へずて 「堪へずて」は、後世の堪えずしての意の古語。○死ぬべき念へば 旧訓「死ぬべくおもへば」。『古義』の訓。死にそうなのを思うと。
【釈】 世の中というものは、苦しいものであったことよ。恋の苦しさに堪えられずして、命も死にそうなのを思うと。
【評】 「恋」というのは憧れで、憧れは逢おうとして逢い難いところから起こり、その逢い難いのは、上の歌のごとき事情の下にあるからである。「後もあはむ君」と、忍耐しようとして、消極的なことはいったが、それだけではおさまりかねる心があって、その苦しさの端的を訴えたものである。「苦しきものにありけらく」と総括した言い方をしているのは、過去をも含めてのものであって、長きにわたっての大嬢のその苦衷を暗示しているものであり、含蓄のある言い方である。二首相俟って大嬢の、落着いて、語《ことば》少なく、心労に堪えてゆく人柄を示しているものである。
 
     又、家持、坂上大嬢に和ふる歌二首
 
739 後湍山《のちせやま》 後《のち》もあはむと 念《おも》へこそ 死《し》ぬべきものを 今日《けふ》までも生《い》けれ
    後湍山 後毛將相常 念社 可死物乎 至今日毛生有
 
【語釈】 ○後湍山後もあはむと 「後湍山」は、大嬢の語を取って、同じく「後」の枕詞としたもの。「後もあはむと」は、後にも逢おうとで、この「後」は、大嬢と語は同じだが、内容を異にしており、大嬢は現在よりも後、すなわち将来という意の普通のものであるが、家持は、数年を隔たっていたという、その数年以前の時期すなわち過去を標準として、それに対させて現在を「後」といっているのである。それは下の「今日まで」で明らかである。○念へこそ 旧訓「念ふこそ」。『代匠記』の訓。思ったのでで、隔たっていた以前、すなわち過去のこと。○死ぬべきものを今日までも生けれ 「死ぬべきものを」は、恋の苦しさに堪えずして死にそうな命であったものをで、これも過去のことをいったもの。「今日までも生けれ」は、「生けれ」は、旧訓「あれ」。『代匠記』の訓。現在まで生きていたのであるで、「生けれ」は、「こそ」の結。
【釈】 いわれるところの後湍山のその後にも逢おうと思ったればこそ、すでに疾《と》くに死んでしまうべき命であったものを、現在まで生きていたのであるよ。
(526)【評】 大嬢の二首の歌を一つにして和えたのである。大嬢の初めの歌の、「後も会はむ君」というのを含んで、その「後」をと思って待ち得た今である。待つのは今までで十分であるといい、また、それをいうに大嬢の後の歌の「死ぬべき」を用い、大嬢の過去より現在のこととしているのを、全く過去のこととしているのである。すなわち「後」も「死ぬべき」も、意味を変えて、全体として反対なこととしたのである。これはこうした贈答の歌の型となっているもので、後世になるほど際やかになったものである。家持の情熱の現われている歌である。
 
740 事《こと》のみを 後《のち》もあはむと 懃《ねもころ》に 吾《われ》を憑《たの》めて あはざらむかも
    事耳乎 後毛相跡 懃 吾乎令〓而 不相可聞
 
【語釈】 ○事のみを 「事」は、言。「を」は、詠歎。言にのみの意。○懃に吾を憑めて 「懃に」は、ねんごろにで、心深く。「憑めて」は、頼ましめて。○あはざらむかも 旧訓「あはざらめかも」。元暦本他二本の訓に「あはざらむ(ん)かも」とある。『新訓』も同じである。これに従う。「かも」は、疑問の「か」に、詠歎の「も」の添ったもので、逢わないのであろうかと、疑いをもって推量したもの。
【釈】 語《ことば》にのみ後にも逢おうといって、心深くも吾を頼ませておいて、その実は逢わずにいようとするのであろうか。
【評】 この歌は、初めの「後もあはむ君」に対して報えた形のものである。後の「世間し」の歌の哀切な訴えはよそにして、ただ気をまわし、わがままを言っているがごとき心のものである。人としては家持のほうがはるかに単純で、むしろ幼なくさえ見える。
 
     更に大伴宿禰家持、坂上大嬢に贈れる歌十五首
 
741 夢《いめ》のあひは 苦《くる》しかりけり 覚《おどろ》きて 掻《か》き探《さぐ》れども 手《て》にも触《ふ》れねば
    夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者
 
【語釈】 ○夢のあひは苦しかりけり 「夢のあひ」は、「あひ」は、「逢ひ」で、名詞形。夢の中に相逢うこと。「は」は、現《うつつ》の逢いに対させる意のもの。「苦しかりけり」は、「けり」は詠歎。苦しいことであるよ。現《うつつ》に相逢うのとは反対にの意。○覚きて掻き探れども 「覚きて」は、目ざめてで、後世にも用いられた語。「掻き探る」は夢に見た人が傍らにいる気がして、闇の中で、手で掻き探る意。○手にも触れねば 手にさえも触(527)れないので、それがすなわち「苦し」である。
【釈】 夢の中で相逢うことは、苦しいものであるよ。眼が覚めて、現《うつつ》のような気がして、闇の中の床の上を掻き探るけれども、手にさえも触れないので。
【評】 思う人を夢に見た後の心で、その失望を、「苦しかりけり」といい、三句以下は、そうした感を起こす理由を具象的に描き出したものである。事としては自然なものであるが、『代匠記』は拠《よ》る所のあるものだとして、くわしくいっている。第一は『遊仙窟』で、ここにあたる部分は、「少時坐睡《シバラクマドロメルニ》、則(チ)夢(ニ)見(ル)2十娘(ヲ)1、驚覚(メテ)攪《カキサグルニ》v之(ヲ)、忽然(トシテ)空(シウス)v手(ヲ)。心中(ニ)悵怏(シ)、復(タ)何(カ)可(キ)v論(フ)、余因(テ)乃詠(ジテ)曰(ク)、夢(ノ)中(ニハ)疑(フ)2是(レ)実(カト)1、覚(メテ)後忽(ニ)非(ズ)v真(ニ)》」とある。巻五、山上憶良の「痾に沈みて自《みづから》哀《かなし》ぶ文」の中に『遊仙窟』を引いているのを見ると、この当時は渡来しており、把翫していたとみえるというのである。なお、『文選』長門賦、同じく楽府にも、これに類似の部分があるといって引いている。家持の拠ったのは『遊仙窟』ではないかと思われる。当時は神仙思想の盛んに行なわれていた時代であるから、それとつながりのある『遊仙窟』の愛読されたことは想像されやすいことだからである。それだとすると、これは単に『遊仙窟』の文句によったというだけではなく、自身をその作中の主人公に擬するがごとき心をもって詠んだものと思われる。それは平安朝初期の題詠は、作者自身をその題の中にあるものと想像して詠むのが風となっているので、当時すでに同じ傾向の心が萌していたろうと想像される。これは歌をもって散文的展開をさせようとする歌物語と、その傾向を同じゅうするものである。『遊仙窟』に関係させたと思われる歌は、この一群中、他にもある。
 
742 一重《ひとへ》のみ 妹《いも》が結《むす》ばむ 帯《おび》をすら 三重《みへ》結《むす》ぶべく 吾《わ》が身《み》はなりぬ
    一重耳 妹之將結 帶乎尚 三重可結 吾身者成
 
【語釈】 ○一重のみ 「一重」は、帯を結んだ状態で、一まわり廻すというにあたる。「のみ」は、ばかりの意で、強めの意のもの。ただ一まわりにだけ。○妹が結ばむ帯をすら 妹が結ぶであろうところの帯をさえで、「すら」は軽きを挙げて、重きを余意とする語。これは女の体をか細いものとし、したがって帯も短いものとして言っているもの。○三重結ぶべく吾が身はなりぬ 「三重結ぶべく」は、三まわりにも結べるように。「吾が身はなりぬ」は、「なりぬ」は、変わったの意で、変わったのは痩せた意である。
【釈】 ただ一まわりにだけ妹が結ぶであろうところの帯を、三まわりに結ぶようにわが身は変わってしまった。
【評】 恋の物思いのために、身が衰えて痩せたということを、細かく具象化していったものである。帯の丈は大体きまってい(528)るのであるから、一まわりの物が三まわりになるということは、身の痩せたことを具象化するとしては、甚しい誇張ではあるが、際やかな方法である。加えて、一まわりを女に、三まわりを我に配しているのは、感覚化も伴っているものでもある。『代匠記』は『遊仙窟』のこれにあたる部分を引いているが、それは、「日日衣|寛《ユルビ》、朝朝帯緩(ブ)」というので、『文選』の古詩にも「衣帯
 
日(ニ)日(ニ)緩(ブ)」ともあるが、これはそれらに較べると、はるかに進んだものである。拠《よ》ったというよりも進展させたというべきものである。この具象化は人に喜ばれたものとみえ、集中に用例の多いものである。これをしたのが家持であるかどうかはわからないので、この場合の家持と『遊仙窟』との関係は、あるいは間接なものであるかもしれない。
 
743 吾《わ》が恋《こひ》は 千引《ちびき》の石《いは》を 七《なな》ばかり 頸《くび》に繋《か》けむも 神《かみ》の諸伏《もろぶし》
    吾戀者 千引乃石乎 七許 頚二將繋母 神之諸伏
 
【語釈】 ○吾が恋は 自分の恋はと取立てて、以下にその状態をいったもの。○千引の石を七ばかり 「千引」は、千人で引いて運ぶ意で、下の石の重さをいったもの。「七ばかり」は、「七」は、幾つかということを具体化したもの。○頸に繋けむも 「も」は、詠歎で、首に掛けでもしたようであるの意。○神の諸伏 他に用例のない語で、意味が明らかでない。字面からいうと、神がもろともに臥し給うの意かと取れる。それだと、臥すということが神意によってさせられていることで、絶対に起きられないという意で、全く身動きができないという意をあらわすために用いられていた語かと思われる。大体その範囲の語であったとみえ、それで一首の心は通じる。
【釈】 わが恋は、千人で引いて運ぶ重い岩を、七つほども首に掛けたがようである。神の諸伏であるよ。
【評】 「恋」とは憧れで、それが遂げられず、憧れそのものである状態をいったものである。「千引の石を七ばかり頸に繋けむも」は、その憧れが遂げられず、停滞し、欝屈《うつくつ》している苦しい状態を、譬喩をもって具象したものである。「神の諸伏」も同じ心を、異なった譬喩によって具象したものと取れる。どちらも成語となっているものを捉えていっているものと思われる。双方の関係の有無はわからないが、無いものではないかと思われる。大嬢には時代の関係上、直接に響き得たものであったろう。
 
744 暮《ゆふ》さらば 屋戸《やど》開《あ》け設《ま》けて 吾《われ》待《ま》たむ 夢《いめ》にあひ見《み》に 来《こ》む云《と》ふひとを
    暮去者 屋戸開設而 吾將待 夢尓相見二 將來云比登乎
 
【語釈】 ○暮さらば屋戸開け設けて 「暮さらば」は、夕方になったならば。「屋戸」は、家の戸。「開け設けて」は、あけて準備をしての意。○夢(529)にあひ見に来む云ふひとを 「夢にあひ見に来む」は、大嬢の消息の語。「人」は、大嬢を客観的にいったもの。
【釈】 夕方になったならば、わが屋の戸をあけて準備をして我は待とう。夢で、逢い見に来ようというその人を。
【評】 夢は先方がこちらを思う時に、魂の感応して見るものだという信仰があった。ここは、思い思われている間であるから、夢は自由に見られるわけである。夢を神秘的なものにし、その人自体のごとく思う心は、後世までも保たれた信仰である。この歌は、これらのことを背後に置いてのもので、文芸性によっての空想と誇張とからのものとは見えない。『代匠記』は、この歌も『遊仙窟』によるところのもので、「今宵|莫《ナカレ》v閉《サスコト》v戸(ヲ)、夢(ノ)裏《ウチニ》向(ハム)2渠辺《キミガアタリニ》1」がそれであるといっている。(七四一)によれば、自身を作中の人物に擬しているところがあると思われる。それだと文芸性の明らかに働いているものと言わなくてはならない。伝説の信仰の上に立ち、それに外来文芸を取入れたものと取れるが、その取入れた程度は、一首の調べに余裕があり、緊張味を滅ぜしめている点に感じるよりほかはない。歌としては特にいうを要さないものであるが、以上の意味で注意されるものである。
 
745 朝夕《あさよひ》に 見《み》む時《とき》さへや 吾妹《わぎもこ》が 見《み》れど見《み》ぬ如《ごと》 なほ恋《こほ》しけむ
    朝夕二 將見時左倍也 吾妹之 雖見如不見 由戀四家武
 
【語釈】 ○朝夕に見む時さへや 「朝夕」は、旧訓「あさゆふ」。『代匠記』の初稿本の訓。一日中ということを具象化したもの。「見む時」は、逢っていられよう時で、以上は同棲を期して、そうなり得た時の意。「さへ」は、現在の状態に他のものの加わった意をあらわすもので、現在を標準にして、そうなった時さえ。「や」は、詠歎を含んだ疑問の係。一日中一緒にいられるようになった時さえの意。○吾妹が 大嬢ので、「恋し」へ続く。○見れど見ぬ如 「見れど」は、旧訓。逢っているけれども、逢っていないがようにで、飽き足ることを知らない恋の心を、具象的にいったもの。○なほ恋しけむ 原文「由」は「猶」に通じる字で、やはり。「恋しけむ」は、恋しくあらむの意。「む」は結。
【釈】 朝夕に、すなわち一日中逢っていられよう時でさえも、吾妹子は、逢っているけれども逢っていないがように、やはり恋しく思われることであろうか。
【評】 恋の習いとして、絶えず一緒にいても、飽き足るということを知らないものであることをいい、それによって、現在の逢えずにいる苦しさを、余情の形であらわして訴えたものである。その余情は、「見む時さへ」の「さへ」の助詞によってあらわし、「や」の詠歎を添えることによって強めたのである。実情を丹念に直写することによって、他の影響を受けて文芸的のも(530)のとしたものよりは、はるかに効果的のものとしているのである。
 
746 生《い》ける代《よ》に 吾《あ》はいまだ見《み》ず 事《こと》絶《た》えて かくおもしろく 縫《ぬ》へる嚢《ふくろ》は
    生有代尓 吾者未見 事絶而 如是※[立心偏+可]怜 縫流嚢者
 
【語釈】 ○生ける代に吾はいまだ見ず 「生ける代に」は、わが生きている世で、この世というにあたる。「吾《あ》はいまだ見ず」は、旧訓「われはまだ見ず」。『略解』の訓。改訓のほうが語が柔らかく、この場合、作意に近いものに思える。○事絶えてかくおもしろく 「事絶えて」は、「事」は言《こと》。「絶えて」は、言語に絶して。「おもしろく」は、原文「※[立心偏+可]怜」、旧訓「あはれげに」。『代匠記』の訓。この字は、集中、「あはれ」あるいは「おもしろし」に当ててあり、いずれも義訓である。「おもしろし」はきわめて古い語で、意は今と同じである。○縫へる嚢は 大嬢の縫って贈った嚢で、嚢は古く用途の多いものであった。これは何に用いる物であったかわからない。
【釈】 この世の中で吾はまだ見たこともない。口で言いようもなく、このように趣深く縫った嚢という物は。
【評】 これは大嬢から嚢を贈られた時、それを喜んで詠んで贈った歌である。嚢そのものを甚だしく讃えたのは、それがすなわち喜びをあらわしたことで、その喜び方は童にも似ているといえる。
 
747 吾妹児《わぎもこ》が 形見《かたみ》の衣《ころも》 下《した》に着《き》て 直《ただ》にあふまでは 吾《われ》脱《ぬ》がめやも
    吾味兒之 形見乃服 下着而 直相左右者 吾將脱八方
 
【語釈】 ○形見の衣 「形見」は、しばしば出た。その人の身代わりとしての衣を。○下に着て わが衣の下に着てで、肌につけて着ての意。○直にあふまでは 直接に逢う時までは。○吾脱がめやも 「やも」は、反語。脱ごうか、脱ぎはしない。
【釈】 吾妹児が身代わりとしての衣を肌につけて着て、直接に逢う時までは、吾は脱ごうか、脱ぎはしない。
【評】 大嬢より形見としてその衣を贈られたのに対しての歌である。夫婦関係の者が別れている時に、形見として衣を贈ること、贈られた衣を下に着ることは、上代では普通のことで、特別な歌ではない。
 
748 恋《こ》ひ死《し》なむ 其《そこ》も同《おな》じぞ なにせむに 人目他言《ひとめひとごと》 辞痛《こちた》み吾《わ》がせむ
(531)    戀死六 其毛同曾 奈何爲二 人目他言 辞痛吾將爲
 
【語釈】 ○恋ひ死なむ其も同じぞ 「恋ひ死なむ」は、恋の苦しみで死んでしまおうとすることで、ここは熟語。下の「其《そこ》」と並べたもので、恋い死なむ事もの意でいっているもの。家持としては現状から推しての将来のこと。「其《そこ》」は、旧訓「其《それ》」、『攷証』の訓。その点、あるいはその事で、さすところあってのもの。「も」は、並べる意の助詞。「同じぞ」は、同然であるよの意。恋い死にをするのと同然の「其《そこ》」は、生きて逢えずにいることで、これは現状をいったもの。恋い死にをするのも、逢えずにいるのも、その苦しさは同然であるよの意。○なにせむに何のためにの意で、「吾がせむ」にかかる。○人目他言辞痛み吾がせむ 「人目」は、人の見る目で、現在も用いている。「他言」は、他人のする噂で、いずれも逢うことの妨げをなしているもの。「辞痛み」は、うるさくありとの意のもの。「吾がせむ」は、「なにせむに」に続き、我がしようかの意。
【釈】 恋い死にをしようとすることも、生きて逢えずにいることも、同然であるよ。何のために、人目や他言《ひとごと》がうるさくあるとして我のいられようぞ。
【評】 逢い難い苦しみの訴えで、現状から推して新たなる決意を生むに至ったことをいっているのである。「恋ひ死なむ其も同じぞ」は、逢えずにいる現状は、恋い死にをしてしまったのも同然である。差迫っている恋い死にを思うと、人目他言などいうものは何の意味もないものである。何のために周囲をはばかりなどしようかというので、そうしたものを無視しようとする決意である。思い迫っての実情であることは、語が欝屈し、調べも烈しいものとなっているので知られる。家持の面目の上からいうと、人目他言がたやすからぬものであったと思われる。
 
749 夢《いめ》にだに 見《み》えばこそあらめ かくばかり 見《み》えずしあるは 恋《こ》ひて死《し》ねとか
    夢二谷 所見者社有 如此許 不所見有者 戀而死跡香
 
【語釈】 ○夢にだに見えばこそあらめ 「夢にだに」は、夢にだけなりともで、逢い見ることを標準としてのこと。夢は、先方がこちらを思うゆえに見えるとしてのもの。「見えばこそあらめ」の「あらめ」は、「め」は「こそ」の結。「ある」は生存する意で、生きてもいられようの意。○見えずしあるは 旧訓「見えずてあるは」。『略解』の訓。「し」は、強め。○恋ひて死ねとか恋うて死ねと思うのかで、先方のこちらを思わないのを恨んでの言。
【釈】 せめて夢にだけなりとも見えたならば、生きてもいられよう。このように見えずにいるのは、こちらを思わないからのことで、恋うて死ねと思うのか。
(532)【評】 夢は先方がこちらを思うがゆえに見えるものという信仰を背後に置いての言で、その見えないのは思わないがゆえであるとしての恨みと訴えである。「夢にだに」と、その見たいことの限りなさをいい、「かくばかり見えずし」と、綜合して強めていっているが、こうした歌の陥りやすい感傷よりの誇張という風が少なく、実感をいっているものであることは、その調べの迫るもののあることが示している。
 
750 念《おも》ひ絶《た》え わびにしもの、を 中々《なかなか》に 何《なに》か苦《くる》しく 相見始《あひみそ》めけむ
    念絶 和備西物尾 中々荷 奈何辛苦 相見始兼
 
【語釈】 ○念ひ絶えわびにしものを 「念ひ絶え」は、思い切ってにあたる。一時関係はしたが、妨げがあって逢い難くし、諦めていた意。「わびにし」は、「に」は、完了。「わび」は「侘び」で、ここは悲しく思うというにあたる。○中々に なまなかにで、「相見」に続く。○何か苦しく相見始めけむ 原文「奈何」は、いかなればの意で、疑問。「苦しく」は、現在の、逢いたくして逢い難い状態をいったもの。「相見始めけむ」は、相逢い始めたのであろうかで、疑問は、上の「何か」の「か」。
【釈】 夫婦関係を思い切って、悲しいものにしていたのであったものを、なまなかに、何だってこのように苦しい状態で、相逢い始めたのであったろうか。
【評】 周囲からの妨げがあって、夫婦関係を諦めていたのを、後ふたたび旧に戻したが、その妨げは依然としていて、逢い難く苦しいところから、その関係を戻したことに疑いを抱き、全面的に否定し、悔いようとしている一歩前の心である。これは恨み、訴えという範囲を超えた、愚痴ともいうべきもので、大嬢にきわめて親しい心をもっていっているものである。家持の心細さを示しているものといえる。
 
751 相見《あひみ》ては 幾日《いくか》も経《へ》ぬを 幾許《ここだ》くも くるひにくるひ 念《おも》ほゆるかも
    相見而者 幾日毛不經乎 幾許毛 久流比尓久流必 所念鴨
 
【語釈】 ○相見ては幾日も経ぬを 「を」は、詠歎で、「経ぬを」は、経ないものを。相逢ってから、幾日も経ないので、恋わずにいられるはずであるものをの意。○幾許くもくるひにくるひ 「幾許《ここだ》く」は、旧訓「ここばく」。『攷証』の訓。数の多い意で、ここは、量に転じたもので、甚しくの意。「も」は、詠歎。「くるひにくるひ」は、「くるひ」は「狂ひ」で、物が憑《つ》いて、静かにさせて置かない状態をいう語。物狂おしいという(533)にあたる。○念ほゆるかも 思われることであるよ。
【釈】 相逢ってからは、まだ幾日も立たないので、そうしたはずはないと思うものを、甚しくも、狂おしくも狂おしいほどに思われることであるよ。
【評】 逢えないがゆえに恋しく、相逢ったがゆえに心が募って、さらにも恋しいという、共通の人情をいって訴えたものである。「幾許くもくるひにくるひ念ほゆるかも」は、自身だけの体験のごとく言っているものであるが、そう感じたのが実際で、またこう言っているがゆえに訴えともなっているのである。
 
752 かくばかり 面影《おもかげ》にのみ 念《おも》ほえば いかにかもせむ 人目《ひとめ》繁《しげ》くて
    如是許 面影耳 所念者 何如將爲 人目繁而
 
【語釈】 ○かくばかり面影にのみ 「かくばかり」は、このようにばかりで、下の二、三句へ続く。「面影にのみ」は、「面影に」は、「面影に立つ」と続け、その人の全貌が眼に浮かんでくるのを、幻となって眼前に立ち現われるごとく、具象化していったもの。「のみ」は、だけというにあたり、直接に見ることに対させていることをあらわしたもの。全体では、単に面影に立って見えるだけでの意。○念ほえば 「念ひ」は、嘆きの意のもので、嘆きをさせられるならば。○いかにかもせむ 「かも」は、疑問。どうしたらよいのであろうかで、堪えられないの意でいっているもの。○人目繁くて 人目が繁くしてで、直接に逢えないことを、その理由のほうからいったもの。
【釈】 このように、単に面影に立って見えるだけの嘆きをさせられているのであれば、どうしたらよいのであろうか。人目が繁く、直接には違えずして。
【評】 この歌も、前の歌と同じく、一般性をもった人情を、自身のみの体験のごとく感じていったものである。「面影にのみ念ほえば」の続きは、その間の消息を語っているもので、心を尽くしていったものと取れる。四句までで言いきり、事の理由を結句に据えているのは、格となっていることではあるが、心の落着きをもっているといえる。
 
753 相見《あひみ》ては しましく恋《こひ》は なぎむかと 念《おも》へどいよよ 恋《こ》ひまさりけり
    相見者 須臾戀者 奈木六香登 雖念弥 戀益來
 
(534)【語釈】 ○相見てはしましく恋は 「相見ては」は、逢い見たのでの意。原文「須叟」は、旧訓「しばしも」。『新訓』の訓。「しまし」は、「しばし」の古語で、「く」を添えて名詞形としたもの。「恋」は、憧れの意。○なぎむかと念へどいよよ恋ひまさりけり 「なぎむ」は、和ぎむで、乱れの鎮まる意。「いよよ」は、いよいよ。「けり」は、詠歎。
【釈】 逢ひ見たので、しばらくの間は、憧れ心が鎮まろうかと思ったが、反対に、いよいよ憧れがまさってきたことであるよ。
【評】 上の(七五一)と、心としては全く同一のもので、それを言い方を変えているにすぎないものである。しかし前の歌は、その事実を訝《いぶか》るごとき心であったのを、この歌では、同じ事実を嘆きをもって見ているという違いがあり、したがって言い方も違っているのである。時の推移のさせていることといえる。
 
754 夜《よ》のほどろ 吾《わ》が出《い》でて来《く》れば 吾妹子《わぎもこ》が 念《おも》へりしくし 面影《おもかげ》に見《み》ゆ
    夜之穗杼呂 吾出而來者 吾妹子之 念有四九四 面影二三湯
 
【語釈】 ○夜のほどろ 夜のほのぼのと明けるころ。「ほどろ」は解が定まらず、諸説がある。「ろ」は、接尾語。○吾が出でて来れば 大嬢の許へ通ってゆき、そこを出て来ればで、来るのは自分の家へである。○吾妹子が念へりしくし 「念へりしくし」は、原文「念有四九四」、旧訓「おもへりしくよ」。『代匠記』の訓。「念へりしく」は、「念へりし」に「く」を添えて名詞形としたもので、「し」は、過去の助動詞。巻七(一一五三)「玉拾ひしく」、巻七(一四一二)「背向《そがひ》に宿《ね》しく」と語型の同じもの。下の「し」は、強め。「念ふ」は、嘆きの意のもので、心の中に嘆いていたそれが。○面影に見ゆ 「面影に」は、上の(七五二)のそれと同じ。面影に立って見える。
【釈】 人目に着くのをおそれて、夜のほのぼのと明けるころ我がその家を出てわが家に帰って来たので、吾妹子が本意《ほい》ないことにして嘆いていたそれが、面影に立って見える。
【評】 大嬢の許へ通って行った家持が、人目を忍ぶ必要から夜深く帰るのを、大嬢が嘆いた容子を隣れんで、それが面影に見えるといって、慰めの心をもって贈ったものである。独詠であるかのごとく客観的に詠んでいるのは、家持のその時の心が鎮まって、余裕をもち得ていたためと思われる。実際に即しているものであるために、おのずからに含蓄をもち、味わいのある歌となっている。
 
755 夜《よ》のほどろ 出《い》でつつ来《く》らく 遍《たび》まねく なれば吾《わ》が胸《むね》 裁《た》ち焼《や》く如《ごと》し
(535)    夜之穗杼呂 出都追來良久 遍多数 成者吾胸 截燒如
 
【語釈】 ○出でつつ来らく 「出でつつ」は、「つつ」は継続。「来らく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、来ること。○遍まねく 旧訓「あまたたび」。『略解』の訓。「遍」は、度《たぴ》。「まねく」は、多くの古語で、用例の多いもの。あまたたびと。○なれば吾が胸裁ち焼く如し 「なれば」は、なるので。「截ち焼く」は、切ったり、焼いたりの意で、『遊仙窟』の、「未2曾飲1v炭、腹熱如v焼、不v憶v呑v刃、腸穿似v割」を取ったもの。
【釈】 人目をはばかって、夜のほのぼのと明けるころにその家を出で出でして帰って来ることが、度《たぴ》重なったので、その本意《ほい》なさに、わが胸は切られたり焼かれたりするがようである。
【評】 上の歌は大嬢を憐れんだのであるが、これは同じことに対して自身を隣れみ、嘆いたものである。この歌も余裕をもち得ているもので、この一連の最初の(七四一)と同じく、『遊仙窟』の語を引くことを喜びとしている。この中国の小説を重んずるのは一般の風であったとみえるが、家持は、父旅人についで、ことにその念が深かったことと思える。
 
     大伴|田村家大嬢《たむらのいへのおほいらつめ》、妹坂上大嬢に贈れる歌四首
 
【題意】 左注に詳しい。
 
756 外《よそ》に居《ゐ》て 恋《こ》ふるは苦《くる》し 吾妹子《わぎもこ》を 次《つ》ぎて相見《あひみ》む 事計《ことはかり》せよ
    外居而 戀者苦 吾妹子乎 次相見六 事計爲与
 
【語釈】 ○外に居て恋ふるは苦し 「外」は、郷土を主とし、それ以外の地を無関係の所としていう称。ここは、家を別にしている意。「恋ふるは」は、旧訓「恋ふれば」。『略解補正』の訓。「恋ふ」は憬《あこが》れで、兄弟としてなつかしく思う意。○吾妹子を次ぎて相見む 「吾妹子」は、女同士も用いた。ここは、まさしく妹でもある。「次ぎて」は、続きてで、絶えず。「相見む」は、相逢う。「見む」は連体形で、下へ続く。○事計せよ 「事計」は、熟語。事の計らい、すなわち計画。「せよ」は、命令。
【釈】 家を別にしていて、恋うている事は苦しい。吾妹子と絶えず相逢うことのできるように計画をしたまえよ。
【評】 邸を別にしている異腹の姉より、妹に贈った歌である。異腹ということは、当時にあっては普通のことであった。「事(536)計」というのは、続きの歌で見ると、坂上家にいる妹に、田村家への出入りを勧めたものとみえる。実用性の歌で、歌をもって用を弁じようとしているものである。
 
757 遠《とほ》くあらば わびてもあらむを 里《さと》近《ちか》く ありと聞《き》きつつ 見《み》ぬがすべなさ
    遠有者 和備而毛有乎 里近 有常聞乍 不見之爲便奈沙
 
【語釈】 ○遠くあらばわびてもあらむを 「遠くあらば」は、下の「里近く」に対させたもの。「わび」は、ここはさびしく思う意。○里近くありと聞きつつ 「里近く」は、田村の里に近く坂上の里がある意。「ありと聞きつつ」は、住んでいると聞き聞きしながら。○見ぬがすべなさ 「すべなさ」は、やるせなさというにあたる。異腹の兄弟は、母同士は競争者であるので、その延長として、他人とさして異ならない仲であるのが普通であった。
【釈】 遠く隔てているのであれば、さびしく思ってもいようものを、この田村の里に近く住んでいると聞き聞きしながら、見ずにいることのやるせなさよ。
【評】 前の歌に続いてのものである。姉妹でありながら、相見る機会のない嘆きをいったものである。異腹とはいえ、女兄弟であり、特に田村大嬢は母がなかったので、坂上郎女は継母であるが、なおかつ、ある隔てはあったろうと思われる。これらの歌は、真心よりのもので、儀礼を含んだものではないことが、その真率な、しみじみとしたものであるところから感じられる。
 
758 白雲《しらくも》の たなびく山《やま》の 高々《たかだか》に 吾《わ》が念《おも》ふ妹《いも》を 見《み》むよしもがも
    白雲之 多奈引山之 高々二 吾念妹乎 將見因毛我母
 
【語釈】 ○白雲のたなびく山の 白雲の靡いている山ので、高と続き、その高を転義することによって、序詞としたもの。○高々に 集中に多い語で、九か所に用いられているが、その七か所までは「待つ」に続き、ここの「念ふ」に続くのと、巻十二(三〇〇五)が、「高々に君を座《いま》せて何をか念はむ」と、「座せ」に続いているのが例外である。本来、仰ぎ望む意で、待つ状態を具象的にいった語であり、ひたすらに待つ意に用いられ、転じて、その語だけで待つ意をもあらわす語となったとみえる。○吾が念ふ妹を 「念ふ」は、『新考』は上の意で、待ち念うの意だといっている。「妹」は、坂上大嬢。○見むよしもがも 「がも」は、上に「も」を伴って願望をあらわすもの。
【釈】 白雲の靡いている山の高い、その高々に、すなわち、ひたすらに我が見たいと待ち思っている妹を、直接に見るてだてが(537)ほしいものであるよ。
【評】 上の歌に続けて、その心を押進めたものである。「高々に」という語は古くからあるもので、序詞はそれによって設けられたものである。序詞はそのところの実際に即したものかと思われる。
 
759 いかならむ 時《とき》にか妹《いも》を むぐらふの きたなき屋戸《やど》に 入《い》り座《いま》せなむ
    何 時尓加妹乎 牟具良布能 穢屋戸尓 入將座
 
【語釈】 ○いかならむ時にか妹を 「いかならむ時に」は、どういう時にで、いつの時に。「か」は、疑問で、結句へかかる。○むぐらふのきたなき屋戸に 「むぐらふ」は、葎生で、「葎」は、路傍、藪《やぷ》などに茂る雑草で、「生」は、生える所。「屋戸」は、ここは、家の意。○入り座せなむ 「座せ」は、旧訓「まさしめむ」。『古義』の訓。「入り」を敬語とするために添えたもの。入れ奉ることができようかの意。
【釈】 いつの時に妹を、葎《むぐら》の生えているところのこのきたない家へ、入れまつることができようか。
【評】 上の歌に続き、第一首目に照応させたものであり、この四首は連作で、その中心をなしているものである。上にいったがごとく、坂上大嬢に来訪を勧めることを目的としたもので、実用性の歌で、古くから例のあるものである。坂上郎女の歌風に似たもので、才情の遠く及ばないものである。
 
     右、田村大嬢と坂上大嬢と、井にこれ右大弁大伴|宿奈麿《すくなまろ》卿の女なり。卿は田村の里に居り、号を田村大嬢と曰へり。但、妹坂上大嬢は、母は坂上の里に居り、仍りて坂上大嬢と曰へり。時に姉妹諮問し、歌を以て贈答す。
      右、田村大嬢坂上大嬢、並是右大辨大伴宿奈麿卿之女也。卿居2田村里1。號曰2田村大嬢1。但、妹坂上大嬢者、母居2坂上里1、仍曰2坂上大嬢1。于v時姉妹諮問、以v詔贈答。
 
【解】 「田村の里」と「坂上の里」の位置につき、石井庄司氏は考証を進めている(「文学」第一巻第六号)。要は、佐保川の支流に菰川というがあり、法華寺の東から流れ出している。これが、生駒郡都跡村の地籍で、暗峠《くらがりとうげ》道と交叉しているが、そこの南方、左岸の所に、約三町歩ばかりの広さをもつ「田村川」と称する地区がある。思うにこの田村川は、菰川の古名であろう。そ(538)れだと「田村の里」は、菰川の上流、今の法華寺の辺りに求めることが可能であろうというのである。また、「坂上の里」は、磐姫皇后の御陵を平城坂上陵と申すにより、奈良坂のほとりである。すなわちこの二つの里は、佐保の西と考えられるというのである。「諮問」は、二字とも問うの意をもつ語。
 
     大伴坂上郎女、竹田庄《たけだのたどころ》より女子《むすめ》の大嬢に贈《おく》れる歌二首
 
【題意】 「竹田庄」は、今、橿原市東竹田の地であろうという。「東」は、磯城郡田原本町西竹田に対しての称である。「庄」は、領地。大伴家の領地の一つであったとみえる。「女子」は、坂上大嬢。
 
760 打渡《うちわた》す 竹田《たけだ》の原《はら》に 鳴《な》く鶴《たづ》の 間《ま》なく時《とき》なし 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
    打渡 竹田之原尓 鳴鶴之 間無時無 吾戀良久波
 
【語釈】 ○打渡す竹田の原に 「打渡す」は、見渡すの意で、広い地形をいう語。「竹田の原」は、竹田にある原。○鳴く鶴の 「の」は、のごとくの意で、鶴の鳴くことの絶えないのを捉えて譬喩としたもの。○間なく時なし吾が恋ふらくは 「間なく」は、絶え間なく。「時なし」は、定まった時がないで、不断の意。「間なく」を繰り返して強めたもの。「恋ふらく」は、「恋ふ」を、「く」を添えて名詞形としたもので、恋うることの意。
【釈】 遠く見渡すこの竹田の原に鳴いている鶴のごとくに、我も絶え間もなく、不断である。そなたを恋うことは。
【評】 巻十二(三〇八八)「恋衣き奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし吾が恋ふらくは」と四、五句が全く同一で、そうしたものが同巻にいま一首ある。すなわち四、五句は、古くからの成句を襲用したのである。これはこの当時行なわれていたことで、消息として娘に贈る歌にあっては、それで十分だとしていたこととみえる。しかし初句より三句までは実景で、それに刺激されて強められた感を、成句に続けることによって言いおおせたという、古い形のものである。
 
761 早河《はやかは》の 湍《せ》にゐる鳥《とり》の 縁《よし》を無《な》み 念《おも》ひてありし 吾《わ》が児《こ》はもあはれ
    早河之 湍尓居鳥之 縁乎奈弥 念而有師 吾兒羽裳※[立心偏+可]怜
 
(539)【語釈】 ○早河の湍にゐる鳥の 「早河」は、流れの早い河。「湍」は、瀬で、上との関係で早瀬。「鳥の」の「の」は、のごとく。早川の瀬の上を飛んでいる水鳥の、その縋るべき物のない意で、下の「縁を無み」の譬喩としたもの。○縁を無み 「縁」は、よりどころ。「無み」は、なくして。大嬢が、母の郎女が家を離れるので、留守中、頼る人がない状態をいったもの。○念ひてありし吾が児はもあはれ 「念ひて」は、嘆いて。「ありし」は、過去で、別れた時の状態を思い出してのもの。「あはれ」は、詠歎で、ああに同じ。
【釈】 流れの早い川の、その瀬の上を飛んでいる水鳥の縋るべき物のないごとく、母がいなくなるというので、頼る物がなくて、嘆いていたところのわが児のあわれさ。
【評】 竹田庄へ来ようとした時、大嬢が留守中を心細がって、嘆いていたさまが、郎女に深く印象されていて、それを思い出して憐れんだ心である。前の歌と同じく娘に贈ったものであるが、この歌のほうは、別れた際の大嬢を全面的に思い浮かべて、それを写しているという客観的な面をもったもので、その意味では独詠に近いものである。これは郎女のもつ文芸性がさせたことである。前の歌とは、古風と新風とが対蹠的になっている。
 
     紀女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌二首 【女郎、名を小鹿と云ふ】
 
【題意》 「紀女郎」は、(六四三)に出た。紀鹿人の女。
 
762 神《かむ》さぶと いなにはあらず やや多《おほ》や かくして後《のち》に さぶしけむかも
    神左夫跡 不欲者不有 八也多八 如是爲而後二 佐夫之家牟可聞
 
【語釈】 ○神さぶといなにはあらず 「神さぶ」は、老いて形の衰えた状態を古びたとして、同意の「神さぶ」に転じた語で、老いを具象的にいったもの。「と」は、とて。「いなにはあらず」は、旧訓「いなとにはあらず」。『代匠記』の訓。「いな」は、否で、拒む意。○やや多や 原文「八也多八」。旧訓「ややおほは」。『管見抄』の訓である。他に用例のない語で、解が定まっていない。『管見抄』は、「やや」は稍々、「多」は、多く、「や」は、詠歎としている。『略解』は、本居宣長の解に従っている。それは、この一句は「八多也八多」の誤写で、「はたやはた」であるとし、巻十六にその語例あり、「はた」を強めたものだというのである。諸本、文字に異同はないので、『管見抄』に従う。「多や」は、たいていはというにあたり、それに「やや」を添えて、「多」の程度を緩和させたものと見る。緩和は、事を言い確かめるのが目的ではなく、訴えが目的なので、その心をもってしたものと取れる。○かくして後に 「かく」は、家持の懸想の心をいったのを承け入れたことをいったもの。『新考』は、逢ってはいないので、「然《しか》」の心のものだといっている。通じて用いている例があるからである。○さぶしけむかも 「さぶしけむ」は「さぶし」の未然(540)形「さぶし」に「む」のついたもの。さぶしくあらむで、事が永続せず、終わりがおもしろくなかろうの意。「かも」は、疑問。
【釈】 いたく老いているとて、その事を拒もうとするのではない。しかしたいていはと言ってもいいほど、いわれるようにした後に、おもしろくなく終わることであろうか。
【評】 求婚に対しての答である。その事を喜ぶ心をもちつつ、男の誠実を危ぶむという、ほとんど型のごとくなっているものであるが、この歌は年長者としての思慮をまじえ、余裕をもち、しかも相応の地歩を占めていっているもので、その点が特色である。
 
763 玉《たま》の緒《を》を 沫緒《あわを》に搓《よ》りて 結《むす》べれば 在《あ》りて後《のち》にも あはざらめやも
    玉緒乎 沫緒二搓而 結有者 在手後二毛 不相在目八方
 
【語釈】 ○玉の緒を 玉を貫く緒を。○沫緒に搓りて 「沫緒」は、他に用例のない語で、したがって解し難いものである。緒の一種の状態で、搓り方の称であったことは、「搓りて」によって明らかである。どういう物であるかは、実物は残らず、記録もないので不明である。黒川春村は『碩鼠漫筆』で、沫緒は今の打紐という物のごとく、中を虚《うつろ》に搓り合わせたものであろう。丸打紐の中が虚でふくれ上がる形となっているところから、沫緒と呼んだのであろうと言っている。想像説であるが、比較的穏やかなもので、今はこれに従っておくほかはない。下の続きで見ると、沫緒は、他の遣り方の緒に較べれば、強いものであったとわかる。○結べれば 結んだのでというので、結んだ物は上の玉の緒である。玉の緒は、その末と末とを結び合わせるものであるから、ここもそれである。結ぶということは、上代の信仰として、身の無事を祈ってすることで、松の枝、茅の葉を結んでそれをしたことはすでに出ている。ここは玉の緒をもってそれをしているのである。玉の緒は、玉は魂《たま》に通い、緒は連続した長い物であるから、言霊信仰の関係から命《いのち》を意味させるものとなっていた。ここもそれで、命の長かるべき呪いを、ことに強い緒をもってしたの意と思われる。○在りて後にもあはざらめやも 「在りて」は、生きていての意。「後にも」は、さきざきもまた。「あはざらめやも」は、「や」は、反語。「も」は、詠歎。逢わなかろうか、逢おうと強くいったもの。
【釈】 玉の緒を、沫緒に搓った強い物をもってして、その末と末とを結んで、身の無事を祈る呪いをしたので、生きていてさきざきにもまた、逢わなかろうか、逢おう。
【評】 前の歌は、応じる心をもちつつ将来を懸念したものであったが、この歌はその懸念を打消し、積極的な、強い心になってのものである。帰するところは結句の「あはざらめやも」で、家持の申込みに対して承諾を与えたものであるが、それに条件をつけて、あくまでも逢い遂げようというので、初句より四句までは、そのあくまでを具体化したものである。その具体化を(541)するにあたって、前の歌の「神さぶと」を関係させ、我は長命の祈りをしてといっているので、気分としては複雑なものである。しかし「玉の緒を云々」ということは、当時にあっては普通のことであって、その事としては単純なものであったろうと思われる。一首、老は意識しているが、それは引け目とせず、祈りによって長命をしようといって蔽い去り、強い心をもって訴えたもので、若い家持としては、圧倒されずにはいられないような心である。
 
     大伴宿禰家持の和ふる歌一首
 
764 百年《ももとせ》に 老舌《おいじた》出《い》でて よよむとも 吾《われ》は厭《いと》はじ 恋《こひ》は益《ま》すとも
    百年尓 老舌出而 与余牟友 吾者不※[厭のがんだれなし] 戀者益友
 
【語釈】 ○百年に 「百年」は、百という齢。「に」は、になって。○老舌出でてよよむとも 「老舌」は、老いての舌。「出でて」は、歯が脱け落ちるため、自然に舌が口の外に出ること。「よよむ」は、言語の不明瞭のこととされてきたが、山田孝雄氏『万葉集考叢』の「身体不随意の状態」あるいは「身心癒えて意の如く活かし得ざる」状態であろうとする説に従う。○吾は厭はじ恋は益すとも 我は老によっては厭うまい、反対に恋は益そうとも。
【釈】 百という齢になって、老いの舌が口外に出て、物言いが不明になろうとも、我はそのためには厭うまい。反対に恋は益そうとも。
【評】 「神さぶと」の歌に和えて、将来の真実を誓ったものである。「百年に云々」は、「神さびて」という不安を忘れさせようために、それを強調していったもの。「吾は厭はじ云々」は、「さぷしけむかも」を忘れさせようとしてのものである。「とも」を重ねて言っているのはそのためである。郎女の歌に較べると、単純をきわめたものである。
 
     久邇京《くにのみやこ》に在りて、寧樂《なら》の宅《いへ》に留《とど》まれる坂上大嬢を思ひて、大伴宿禰家持の作れる歌一首
 
【題意】 「久邇京」は、巻三(四七五)に出た。天平十二年十二月から同十七年五月まで帝都であった。「寧楽の宅に留まれる」は、新京にはまだ宅ができず、婦女子は故宅に留まっていた意である。
 
765 一隔山《ひとへやま》 重《へ》なれるものを 月夜《つくよ》好《よ》み 門《かと》に出《い》で立《た》ち 妹《いも》か待《ま》つらむ
(542)    一隔山 重成物乎 月夜好見 門尓出立 妹可將待
 
【語釈】 ○一隔山重なれるものを 「一隔山」は、久邇京と奈良の故京との間には奈良山が横たわっている、それをいったもの。一重《ひとえ》の山の意。「重なれる」は、隔たれるの古語。(六七〇)に出た。隔ててあるの意。○月夜好み「月夜」は、月のことをもいった。ここはその意のものと取れる。「好み」は、好いゆえに。○門に出で立ち妹か待つらむ 門に出て、妹が我の行くのを現に待っているだろうかで、月の好さに堪えられず、共に観ようとして来るだろうかと思って待っていようと推量したもの。
【釈】 一重《ひとえ》の山の隔てていて、行き難くあるものを。今宵の月が好いゆえに、こうした月には必ず来ようと思って、門に出て、妹は我を待っていようか。
【評】 「月夜好み」という夜、久邇京にいた家持が、月に対して大嬢を思い、大嬢もまた、同じく我を思っていようとする心から、双方を一つにし、さらに自然とも一つにして、一首としたものである。自然の風光の好さによって恋ごころを募らせられるとするこの心は、古くからあったものではあるが、意識的な、際やかなものとなったのは、奈良遷都後のことであって、この歌の心は当時の新風である。この風は、後にしだいに大をなしたものである。
 
     藤原郎女、これを聞きて即ち和ふる歌一首
 
【題意】 「藤原郎女」は、父祖が知れない。久邇宮の官女の一人であったろうと思われる。
 
766 路《みち》遠《とほ》み 来《こ》じとは知《し》れる ものからに 然《しか》ぞ待《ま》つらむ 君《きみ》が目《め》を欲《ほ》り
(543)    路遠 不來常波知有 物可良尓 然曾將待 君之目乎保利
【語釈】 ○路遠み 路が遠いゆえにで、路は久邇京と奈良京との間。○来じとは知れるものからに 「ものから」は、ものながらにあたる語。来まいとは知っているものながらに。○然ぞ待つらむ 「然」は、家持の「門に出で立ち」をさしたもの。そのようにして待っていることであろうよの意。○君が目を欲り 「君が目」は、君が見えで、君が姿の意。「欲り」は、現代語の欲しくしてにあたる。君にお目にかかりたくての意。成句と言いうるもの。
【釈】 路が遠いゆえに、来まいとは知っているものながら、いわれるがように待っていることであろうよ。君にお目にかかりたくて。
【評】 人が歌をもってその心をいう時には、傍らにある人は、自身に関係のないことであっても、同じく歌をもって応じるというのは古来の風となっていたことで、ここもそれと取れる。家持は一切を「月夜好み」の刺激としているのに、郎女はそれには触れず、一に大嬢の心よりのこととしているのである。これは特に心あってしたことではなく、女性の立場に立ってのことで、自然にしていることと思われる、これは男女の差というばかりではなく、第三者としての礼も伴っていよう。
 
     大伴宿禰家持、更に大嬢に贈れる歌二首
 
【題意】 「更に」は、前の歌を承けていっているものと思われる。それだと前の歌も、大嬢に贈ったこととなる。
 
767 都路《みやこぢ》を 遠《とほ》みや妹《いも》が 比来《このごろ》は うけひて宿《ぬ》れど 夢《いめ》に見《み》え来《こ》ぬ
    都路乎 遠哉妹之 比來者 得飼飯而雖宿 夢尓不所見來
 
【語釈】 ○都路を遠みや妹が 「都路」は、ここは、都への路の意のもので、都は久邇京。奈良から久邇京までの路。「遠みや」は、「や」は、疑問。遠くあるゆえにか。「妹」は、奈良にある大嬢。○うけひて宿れど 「うけひ」は、祈誓の字を当てている。祈る意にも、誓う意にも、転じては狙う意にも用いる語。ここは祈る意のもの。祈って寝るけれどもで、祈るのは、下の続きで、妹を夢に見ようとする意。○夢に見え来ぬ 「来ぬ」の「ぬ」は、上の「や」の結、連体形。夢に見えてこないことであるよ。
【釈】 奈良よりこの久邇京までの路が遠いゆえなのか、妹がこの頃は、わが祈って寝るけれども、夢に見えてこないことであるよ。
(544)【評】 しばしば出たように、夢は先方がこちらを思うと、その魂が通ってきて夢に見えるということが一般に信じられていた。この歌もそれを背後に置いてのものである。夢に見たいと祈りをして寝るが、それにもかかわらず見えてこないことが、「比来」というほど長く続くとすれば、普通だと先方の不信のためだとして恨むべきであるが、それを「都路を遠みや」と解しているのである。この語も単なる感傷のものではなく、夢はその人の魂の通ってくるのであるから、路の距離というものは関係するものだとしてのことである。一首、訴えではあるが、大嬢を十二分に信じている心からのものである。
 
768 今《いま》知《し》らす 久邇《く に》の京《みやこ》に 妹《いも》にあはず 久《ひさ》しくなりぬ 行《ゆ》きて早《はや》見《《みな
    今所知 久迩乃京尓 妹二不相 久成 行而早見奈
 
【語釈】 ○今知らす久邇の京に 「今知らす」は、旧訓「今ぞ知る」。『代匠記』の訓。「今」は、新たに。「知らす」は、「知る」の敬語。天下をしろしめす意。新たにここで天下をしろしめす久邇京にあっての意。○妹にあはず久しくなりぬ 妹に逢わずに久しくもなったで、「あはず」は連用形。○行きて早見な 「行きて」は、奈良の故京へ行って。「見な」の「な」は、願望の助詞。
【釈】 新たにここで天下をしろしめす久邇京にあって、妹に逢わないことが久しくもなった。奈良へ行って、早く妹を見たいものである。
【評】 妹に対する思慕であるが、廷臣としての覚悟をもっての上のもので、したがって落着いた心のものである。それは前の歌にも見えるものである。
 
     大伴宿禰家持、紀女郎に報《こた》へ贈れる歌一首
 
769 久方《ひさかた》の 雨《あめ》の落《ふ》る日《ひ》を ただ独《ひとり》 山辺《やまべ》にをれば いぶせかりけり
    久堅之 雨之落日乎 直獨 山邊尓居者 欝有來
 
【語釈】 ○久堅の雨の落る日を 「久堅の」は、「雨」の枕詞。○ただ独山辺にをれば 「山辺」は、久邇京における家持の宅の在り場所で、何の山ともわからない。山に繞らされている京だからである。○いぶせかりけり 「いぶせし」は、心の愁えに結ぼれている状態。「けり」は、詠歎。
(545)【釈】 雨の降る日を、ただ一人で山辺の宅《いえ》にいるので、心が愁えに結ぼれていることであるよ。
【評】 「報へ」というので、返しである。贈歌は、家持の消息を問うという範囲のものであったとみえる。眼前の状態だけを捉え、落着いた心をもって言っているもので、要を得た、品のあるものとなっている。
 
     大伴宿禰家持、久邇京より坂上大嬢に贈れる歌五首
 
770 人眼《ひとめ》多《おほ》み あはなくのみぞ 情《こころ》さへ 妹《いも》を忘《わす》れて 吾《わ》が念《おも》はなくに
    人眼多見 不相耳曾 情左倍 妹乎忘而 吾念莫國
 
【語釈】 ○人眼多みあはなくのみぞ 「人眼多み」は、人目が多くして。「あはなく」は、旧訓「あはざる」。『古義』の訓。「あはなく」は、「な」は、打消。「く」は、名詞形とするためのもの。逢わないことをしているの意で、意としては旧訓と同じであるが、このほうが訴えの気分をあらわすものがあり、作意と取れる。○情さへ 心までで、逢わないのに加えての意のもの。○妹を忘れて吾が念はなくに 「忘れて念ふ」の語つづきはしばしば出た。思い忘れる意の当時の言い方。「念はなく」は、上の「あはなく」と同じく、「念はぬ」を名詞形にしたもの。「に」は、詠歎。
【釈】 人目が多くして、それにはばかって逢うことをせずにいるだけであるぞ。心までも、妹を思い忘れてはいないことであるぞ。
【評】 家持としてはいうを要さない当然のことを、熱意をもって、諭す態度でいっているものである。題詞にはないが、大嬢(546)から逢い得ぬ恨みをいってきたのに対して報えたもので、その必要があったのであろう。家持の単純に、正直な面をよくあらわしている歌である。
 
771 偽《いつはり》も 似《に》つきてぞする うつしくも まこと吾妹児《わぎもこ》 吾《われ》に恋《こ》ひめや
    僞毛 似付而曾爲流 打布裳 眞吾妹兒 吾尓戀目八
 
【語釈】 ○偽も似つきてぞする 偽をいうにも、似つかわしい言い方をするものであるよの意。巻十一(二五七二)「偽も似つきてぞするいつよりか見ぬ人恋ふに人の死にせし」とあり、それによったものと取れる。○うつしくも 旧訓「うちしきも」。『代匠記』の訓。「うつしく」は、現しくで、事実としての意の形容詞。「も」は、詠歎。○まこと吾妹児吾に恋ひめや 「まこと」は、上の「うつしくも」を繰り返したもの。「恋ひめや」は、反語で、恋いようか、恋いはしない。
【釈】 偽をいうにも、似つかわしい言い方をするものであるよ。事実として、まことに我妹子が、我を恋いていようか、恋いはしない。
【評】 この歌も、大嬢が恋うているといってきたのに対して報《こた》えたものと取れる。「偽も似つきてぞする」と、古歌の語を取って、大嬢の恋うということを全面的に否定しているのであるが、巻十一の歌の、相手の見えすいた誇張を嘲ったのとはちがって、悪意をもってのものではない。事実、夫婦間にあっては、相信じ合った仲でないとこうしたことは言えないものである。相手を信じ、恋慕の限りない情を内に潜ましていっているものと思える。
 
772 夢《いめ》にだに 見《み》えむと吾《われ》は ほどけども あはずし思《も》へば うべ見《み》えざらむ
    夢尓谷 將所見常吾者 保杼毛友 不相忘思者 諾不所見有武
 
【語釈】 ○夢にだに見えむと吾は 「夢にだに」は、せめて夢になりとも。「見えむと」は、見られようと思ってで、家持が大嬢の夢に入る意。○ほどけども 『童蒙抄』は、「ほどく」は、紐などを解く意の語として、口語に行なわれているそれであろうといい、それだと下紐についていっているのであろうと解している。『考』『略解』など、それに従っている。それだと上より続いて、我の人の夢に入ろうとする時にする咒《まじな》いで、当時信じ行なわれていたものと取れ、したがって語が足らなくても解せたものと思われる。それだと、上の(七六七)の「うけひ」と相対するものである。○あはずし思へば 旧訓「あひしおもはねば」。『代匠記』「あはぬしおもへば」。『新訓』は「あはずし思《も》へば」と改めている。これに従(547)う。「あはずし」は、「し」は、強め。逢うまいと、思っているのでで、大嬢が夢に見ようとの心をもっていないでの意。○うべ見えざらむ 「うべ」は、諾《うべな》う意で、なるほどというにあたる。見えないのはもっともであるの意。
【釈】 せめて夢でだけなりとも見られようと思って、我は夜、下紐をほどいているのであるけれども、妹は見ようとは思っていないので、なるほど見えないのであろう。
【評】 大嬢よりの贈歌に、家持が夜の夢に見えないといって嘆いたものがあり、それに対しての報え歌と取れる。家持としては毎夜下紐をほどいて、大嬢の夢に入るようにと咒いをしているのに、それにもかかわらず見えないというのは、大嬢が見ようとしないからだと、反対に恨み返したものである。一本気に、恨みを含めていっているのは夢に対する信仰の上に立っているからのことである。
 
773 言《こと》問《と》はぬ 木《き》すらあぢさゐ 諸茅等《もろちら》が 練《ねり》の村戸《むらと》に 詐《あざむ》かえけり
    事不問 木尚味狹藍 諸茅等之 練乃村戸二 所詐來
 
【語釈】 ○言問はぬ木すらあぢさゐ 「言問はぬ」は、ものもいわないところの。「木すら」は、「すら」は、軽きをいい、重きを言外に置くもの。「あぢさゐ」は、紫陽花。全体では、ものをいうこともしない木の紫陽花ですらの意で、偽く、偽かれるというようなことには、全くかかわりのない物ですらの意。これは下の「詐かえ」に続く。○諸茅等が練の村戸に 「諸茅」の「茅」は、桂本ほか二本は、「弟」となっている。この二句は、諸注解し難くしている。『代匠記』は、諸茅は人の名で、紫陽花を誑《たぶら》かした物語などがあって、それに拠っているのかといっている。「諸茅等」は、上の「言問はぬ」に対させてあり、また、次の歌には、「諸茅等が練の言葉《ことば》」とあるので、ものをいう物、すなわち人と思われる。「練」は、「練の言葉」によると、熟練の練で、口上手という意かと思われる。「村戸」は、不明である。当時、あまねく知られている物語があり、それによったものと思われるが、物語が忘れられてしまったので、不明となったのである。○詐かえけり 「詐かえ」は、詐かれ。「けり」は、詠歎。
【釈】 省く。
【評】 釈ができないので、評もできないのであるが、作意は想像されなくはない。それは、愚かなる物の紫陽花は、諸茅らが、口上手な語《ことば》に詐かれたことであるよと、紫陽花を憐れみ、諸茅らを強く憎んだ心で、紫陽花を自身に、諸茅らを大嬢に譬えたものと思われる。紫陽花の特色は、花の色の幾たびか変わるところにあるから、物語はたぶんその点に触れたもので、紫陽花は心が善良で、諸茅らが口上手にいうままに、その色を変えたという範囲のものではないかと思われる。
 
(548)774 百千遍《ももちたび》 恋《こ》ふと云《い》ふとも 諸茅等《もろちら》が 練《ねり》の言葉《ことば》は 吾《われ》は信《たの》まじ
    百千遍 戀跡云友 諸茅等之 練乃言羽者 吾波不信
 
【語釈】 ○百千遍恋ふと云ふとも 「百千遍」は、いかに多くという意を、具体的にいったもの。「恋ふと云ふとも」は、我を恋うと言おうともで、未来をかけていっているもの。○諸茅等が練の言葉は 諸茅らが口上手な言葉はで、これは大嬢に譬えたもの。○吾は信まじ 「信まじ」は、原文「不信」、旧訓「たのまず」。『代匠記』の訓。上の「云ふとも」に照応させたもので、我は信じまい。
【釈】 省く。
【評】 前の歌と同時のもので、前の歌に注を加えた形のものである。家持は自身を物語の中のものに擬することを好む風があり、上の(七四一)以下の一連には、『遊仙窟』中の人物としようとした跡がある。この二首の背後にある物語は、わが民族の中のものと思われ、また自身を愚かなる紫陽花に擬しているもので、性質はちがっているが、物語を好むという上では共通なものである。
 
     大伴宿禰家持、紀女郎に贈れる歌一首
 
775 鶉《うづら》鳴《な》く 故《ふ》りにし郷《さと》ゆ 念《おも》へども 何《なに》ぞも妹《いも》に あふよしもなき
    鶉鳴 故郷從 念友 何如裳妹尓 相縁毛無寸
 
【語釈】 ○鶉鳴く故りにし郷ゆ 「鶉鳴く」は、鶉は、人気《ひとげ》のない荒れた草原に棲むものなので、その荒れたのを古くなったとし、「古」の枕詞となったもの。「故りにし郷」は、今は京は久邇であるところから、奈良をさしていっているもの。「ゆ」は、より。これは、家持が久邇京に住んでいて、以前奈良京に住んでいた頃よりの意でいっているもので、「故りにし郷ゆ」は、遠い以前からということを具象化していった、特別なものである。こういう言い方をしたのは、紀女郎も、この歌を贈った頃は、奈良より久邇へ移って来ていたがゆえで、そのことは、続く歌でわかる。○念へども 恋うているけれども。○何ぞも妹にあふよしもなき 「何ぞ」は、疑問の意の副詞。「も」は、詠歎。何ゆえに。「ぞ」は、係となっている。「あふよし」は、逢う手だて。「なき」は、「ぞ」の結。
【釈】 今は旧《ふ》りし都にあった時代から恋うているけれども、何ゆえに妹に逢う手だてのないことであろうか。
(549)【評】 紀女郎が久邇京へ移り住む事情になったので、同じくその京にいた家持が、直接の関係を結ぼうとする心をもって贈ったものとみえる。淡い言い方をしているのは、関係の浅い事情と、家持の人柄が正直で、誇張したことは言えなかったためと思われる。実際に即することの多い歌で、それに制されたものとみえる。
 
     紀女郎、家持に報へ贈れる歌一首
 
776 言出《ことで》しは 誰《た》がことなるか 小山田《をやまだ》の 苗代水《なはしろみづ》の 中《なか》よどにして
    事出之者 誰言尓有鹿 小山田之 苗代水乃 中与杼尓四手
 
【語釈】 ○言出しは誰がことなるか 「言出し」は、求婚を言い出したで、それは当然男のすることで、家持のしたこととしてのもの。「誰がことなるか」の「こと」につき、『新考』は、たが上の意で、誰に対しての事であるのかの意だといっている。女郎に対してのことであるが、それをしたままに、忘れたごとくにしているのを恨んでいっているのである。○小山田の苗代水の 「小山田」は、「小」は接頭語で、山の田。「苗代水」は、苗代田へ引くところの水。山の田へ引く水であるから、流れの早いものであるが、苗代田へ引き入れる水は、温めるために澱ませるので、「中よど」の「よど」へ続けて、その序詞としたもの。○中よどにして 「よど」は、上の(六四九)「絶えぬ使のよどめれば」とあり、たゆむ意で、「中よど」は、中途でたゆむ意の名詞。「にして」は、「し」は強めで、「にて」。上を承けて、の状態にての意。
【釈】 君が求婚を言い出したのは、誰に対してのことであるのか。山田の苗代水を澱ませる、その中よどの状態にして。
【評】 家持の訴えに対しては、直接には触れてはいわず、奈良にあって求婚をして以来、忘れたがごとき状態で過ごしてきたのに対して、恨みというよりも、むしろ非難をして報えたものである。「小山田の苗代水の」という序詞は特殊なものである。これは眼前を捉えたものとみえる。女郎の宅が山田に近く、また季節が苗代田を作る時であったためと思われる。
 
     大伴宿禰家持、更に紀女郎に贈れる歌五首
 
777 吾妹子《わぎもこ》が 屋戸《やど》の籬《まがき》を 見《み》に往《ゆ》かば けだし門《かど》より 返《かへ》しなむかも
    吾妹子之 屋戸乃籬乎 見尓徃者 蓋從門 將返却可聞
 
(550)【語釈】 ○屋戸の籬を見に往かば 「屋戸」は、家。「籬」は寛永本には「笆」とあるが、元暦本はじめ九本に「籬」となっている。家の籬を見に行ったならばで、これは、その時女郎の新京の宅が造られつつあったからである。このことは続いての歌にも出ていて明らかである。○けだし門より返しなむかも 「けだし」は、たぶんという意で、推定する時に用いる副詞。「返しなむ」は、旧訓「かへしてむ」。『略解』の訓。「かも」は、疑問。たぶん家へは上げず、門より帰すのであろうかで、女郎が我に靡くまでの心はもっていないのではなかろうかと危ぶんだ意。これは求婚の時期にあっては、むしろ普通のことだったのである。
【釈】 吾妹子の今造っているという家の籬のさまを見に行ったならば、たぶん、家へは上げず、門《かど》から帰らせることであろうか。
【評】 女郎の今造っている宅を見に行こうというのは、上代は家の建築のある時には、その家主に何らかの関係をもつ者は、材料、労力を提供するなど、応分の助力をするのが一般の風となっていたので、ここもその心からいっているもので、単に見に行こうというのではない。このことは続きの歌にも出ている。家といわず、籬といっているのは、家の内部まで見ようというのは遠慮して、外部にとどめようとする心からで、女郎との関係の深くないことを背後に置いての言である。「返しなむかも」は、上の歌の女郎の恨み、非難を心に置いてのもので、その心の解けないのに対しての遠慮であるが、訴えの心をもっていっているものである。実際に即した歌で、家持の善良な、控えめの風を見せているものである。
 
778 うつたへに 前垣《まがき》のすがた 見《み》まく欲《ほ》り 行《ゆ》かむと云《い》へや 君《きみ》を見《み》にこそ
    打妙尓 前垣乃酢堅 欲見 將行常云哉 君乎見尓許曾
 
【語釈】 ○うつたへに ひたすらに。(五一七)に既出。○前垣のすがた見まく欲り 「すがた」は、さま。「見まく欲り」は、見ることをしたくの意で、見たいことというにあたる語。しばしば出た。○行かむと云へや 「云へや」は、「云へ」の已然形に、「や」の添ったもので、反語。行こうといおうか、そういうのではない。○君を見にこそ 「君」は、女郎をさしたもの。「君」は、男女間にあっては、女より男をさす称と定まっていたのであるが、奈良京以後はそれが移って、ここのように男より女を呼ぶ称ともなった。しかし例の少ないもので、これはその少ない中の一つである。「こそ」は、その一つを取立てていう語。下に「行け」が省かれている。
【釈】 ひたすらに籬の形を見たいことにして行こうというのであろうか、そうではない。君をこそ見ようと思ってである。
【評】 前の歌に続けたもので、際立った連作である。前の歌では控えめに、消極的にいったのを、この歌ではそれを押切って、積極的にいったものである。その結果、おのずから前の歌の注解のごとき形となったのである。これは家持の好んですることで、歌風ともいぅべきものである。
 
(551779 板葺《いたぶき》の 黒木《くろき》の屋根《やね》は 山《やま》近《ちか》し 明日《あすのひ》取《と》りて 持《も》ち参《まゐ》り来《こ》む
    板盖之 黒木乃屋根者 山近之 明日取而 持將參來
 
【語釈】 ○板葺の黒木の屋根は 屋根につき『攷証』は考証している。「板葺」は、屋根の葺き方の一種の称。続日本紀、神亀元年以前は、一般には瓦葺というものはなく、それ以前の屋根は、檜皮葺《ひわだぷき》を最上の物とした。これは檜の木を剥《は》いで、厚く重ねて葺いたのである。板屋はそれについだもので、檜以外の木の、大きな板をもって葺いたのである。板葦はそれについだもので、これは板とはせず、丸木を短く切って、並べて葺いたのである。草葺は、さらにこれにつぐものである。神亀元年以後は、宮殿はもとより、貴族、庶民も富んだ者は瓦葺としたのであるが、久邇京は新京で、邸宅もかりそめの物だったので、紀女郎の宅は板葺だったのである。「黒木」は、白木に対しての称で、白木は木材の皮を剥いだもの。黒木はその剥がないものである。「黒木の屋根」は、黒木をもって葺く屋根。○山近し 我が家は山が近いというので、家持の家の位置をいったもの。「山」は、木材のあり場所としてのもの。○明日取りて持ち参り来む 「明日取りて」は、旧訓「あすもとりては」。『古義』の訓。「取りて」は、山より伐り取りての意。「持ち参り来む」は、「持ち」は、旧訓「もて」。『古義』の訓。当時の語法に従ったもの。持って。「参り」は、先方を尊んでの語。「来む」は、現在だと「往かむ」というところであるが、先方を中心としての言い方で、しばしば出たもの。
【釈】 板葺の、その黒木の屋根の材料は、わが家は山が近くて、得る便宜がある、明日は伐り取って、持って伺おう。
【評】 板葺の屋根の材料としての黒木を提供しようということは、前にもいったように上代にあっては、家の建築をする場合、その主人の関係者は、当然の義務として行なっていたことで、格別の好意というほどのものではなかった。ここもそれで、家持が明るい心をもって、まっすぐに言っているのは、その心からである。「山近し」というのは、黒木の提供をするには、幸い便宜があるとの心をもっていっているもので、その事を軽くする意のもの。「明日《あすのひ》」と続けて迫った言い方をしているのも、事のたやすさをいおうがためのもので、心は同様である。実用性の歌で、可否を超えたものである。
 
780 果樹《くろき》取《と》り 草《くさ》も刈《か》りつつ 仕《つか》へめど 勤《いそ》しきわけと 誉《ほ》めむともあらず 【一に云ふ、仕ふとも】
    黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤和氣登 將譽十万不有 一云、仕登毛
 
【語釈】 ○草も刈りつつ 「草」は、旧訓「かや」。『古義』が「くさ」と改めた。集中、「草」を「かや」と訓ませるのは、それを屋根を葺く料とした時の称で、その料は薄《すすき》が多い関係から、薄を「かや」とも訓んでいる。ここの「草」は、屋根は板葺であるから、その料ではなく、蔀《しとみ》、ある(552)いは壁代《かべしろ》としての物であろう。それだと草であるといっている。巻十一(二三五一)「新室《にひむろ》の壁草《かべくさ》苅りにいまし給はね」とあるのはそれである。「つつ」は、継続。○仕へめど 仕えようけれども。「ど」は、「ども」と同じく、既定の事実を条件としての助詞で、「と」「とも」と相対するものである。結末の「一に云ふ、仕ふとも」の「とも」はすなわちそれで、それだと未定の仮想としてである。この歌は、上の歌と連作になっており、事としては「仕ふとも」のほうがあたっているが、感情の上で誇張して「ども」といったと取れる。そのいずれであるかによって、結句「あらず」の訓が異なってくる性質のものである。○勤しきわけと 原文は諸本「勤知気登」、旧訓「ゆめしりにきと」。諸注、さまざまに訓を試みているが、『考』は、「知」は「和」の誤写として、今のように訓んでいる。文字は諸本異同はないが、旧訓では意が通じないので、『考』に従うべきである。「勤しき」は、勤勉なるの意で、用例のある語。「和気」は、上の(五五二)に、「吾が君はわけをば死ねと念へかも」とあり、謙《へりくだ》っての自称にも用い、また、同じく対称にも用いた。ここは対称である。奴《しもべ》の意の、当時の用語と思われる。○誉めむともあらず 「あらず」は、原文「不有」、旧訓。三句、「仕へめど」と本行に従うと、「あらず」と訓むべきである。誉めようともしないの意で、既定のこととしていっているもの。『攷証』は、「不有」を、「あらじ」と改訓している。これは三句を、「一に云ふ、仕ふとも」に従うとすれば、そう訓むべきものである。○一に云ふ、仕ふとも 仕えようともで、仮想としていったもの。これは家持の再案と思われるが、上の歌との関係より見ると、このほうが穏やかで、まさっているといえる。
【釈】 黒木を伐り取り、草を刈り続けて、我は仕えようけれども、勤勉な奴よと誉めようともしない。あるいは、仕えようとも、誉めようともしまい。
【評】 これは前の歌と連作になっているものであるが、上の籬の歌の場合とは反対に、前の歌では積極的に、一意、協力しようといったのを承け、これは消極的に、いかに協力しようとも、おそらくは喜んでくれなかろうと、控えめの心をもち、それを戯れをまじえた口気をもっていっているものである。この控えめになるのは、女郎と直接には逢っていず、求婚時期の状態にいるので、必要のこととしたものと取れる。戯れの口気をもってしてはいるが、心としては、他意なきを示しているものである。
 
781 ぬば玉《たま》の 昨夜《きぞ》は還《かへ》しつ 今夜《こよひ》さへ 吾《われ》を還《かへ》すな 路《みち》の長手《ながて》を
    野干玉能 昨夜者令還 今夜左倍 吾乎還莫 路之長手呼
 
【語釈】 ○ぬば玉の昨夜は還しつ 「ぬば玉の」は、「夜」の枕詞。「昨夜は還しつ」は、旧訓「よふべはかへる」。『略解』の訓。「昨夜」は、古くは「きぞの夜」といい、「きぞ」とも用いるに至った語。「は」は、下の「今夜」に対させた意のもの。「還しつ」は、逢わずに還した意。○今夜さへ吾を還すな 「今夜さへ」は、今夜までも。「還すな」は、上と同じくいたずらにの意でのもの。○路の長手を 「長手」は、長い路すなわち(553)遠路。「を」は、詠歎。
【釈】 昨夜は、いたずらに還した。今夜までも、いたずらには還すな。路は遠くあるものを。
【評】 これは別れの時の歌である。女郎が逢おうとせず、いたずらに還らした翌日、その夜も行こうとして、あらかじめ使をもって訴えた歌である。いたずらに還すというのは、求婚時期には普通のことであったが、心としてはすでに承諾を示している仲であるから、家持はその誠を試みられ、試みに応じていたことを見せている歌である。
 
     紀女郎、物を※[果/衣]《つつ》みて友に贈れる歌一首 【女郎、名を小鹿といふ】
 
782 風《かぜ》高《たか》く 辺《へ》には吹《ふ》けども 妹《いも》が為《ため》 袖《そで》さへ沾《ぬ》れて 刈《か》れる玉藻《たまも》ぞ
    風高 邊者雖吹 爲妹 袖左倍所沾而 苅流玉藻焉
 
【語釈】 ○風高く辺には吹けども 「高く」は、風の激しいことを具象的にいったもの。「辺」は、海岸。○妹が為袖さへ沾れて 「妹」は、女に対しての称で、題詞に「友」とあるもの。「袖さへ」は、裾を標準として、裾はもとより袖までもの意。「沾れて」は、波に沾れるので、波は、「風高み」により、波も共に高いことを暗示したもの。○刈れる玉藻ぞ 「玉」は、美称。「藻」は、海草の総称としてのもので、ここは和布《わかめ》などと取れる。「ぞ」は、指示したもの。この結尾は、寛永本には「玉藻烏」とあり、旧訓「たまもを」である。「烏」は、元暦本ほか八本「焉」とあり、助字であり、『考』もそのことをいっている。「ぞ」は訓み添えたものである。
【釈】 風が激しく海岸に吹いていたけれども、妹に贈ろうがために、風とともに立つ高い波に、衣の袖までも濡れて、我が刈ったところのこの藻であるぞ。
【評】 「物に※[果/衣]みて」というのは和布の類で、人に物を贈る時、それを物に包むとともに、その贈る物は、わが労苦して得た物だということをいう、上代よりの風に従っての歌である。言っていることは、歌の性質として普通のことであるが、風をいうことによって波を暗示し、袖をいうことによって裾を暗示するなど、技巧をもったもので、その点が特色をなしている。
 
     大伴宿禰家持、娘子《をとめ》に贈れる歌三首
 
(554)783 前年《をととし》の 先《さき》つ年《とし》より 今年《ことし》まで 恋《こ》ふれど何《な》ぞも 妹《いも》にあひ難《がた》き
    前年之 先年從 至今年 戀跡奈何毛 妹尓相難
 
【語釈】 ○前年の先つ年より 「前年《をととし》」は、一昨年で、昨日の前日を「をとつひ」というは、仮名書きのあるもの。「先つ年」は、その先の年で、一昨々年の意。○今年まで 初句よりこれまでは、甚だ永い間ということを具体化して強くいおうとしたもの。○恋ふれど何ぞも妹にあひ難き 「恋ふれど」は、恋うてきたけれども。「何ぞも」は、どうしたわけかと疑った意。「ぞ」は係。「難き」は、「ぞ」の結。あい難いことであるのかと、詠歎を含めたもの。
【釈】 一昨年のその前の年から、今年までという甚だ永い間を恋うているけれども、どういうわけで妹に逢い難いことであろうか。
【評】 永い間を恋うていると、魂が感応して、相手も心を動かすという信仰があり、その上に立っての歌ではないかと思われる。「何ぞも」という疑いがこのことを思わせる。ありうる信仰である。単純なる訴えである。
 
784 うつつには 更《さら》にもえ言《い》はじ 夢《いめ》にだに 妹《いも》がたもとを 纒《ま》き宿《ぬ》とし見《み》ば
    打乍二波 更毛不得言 夢谷 妹之手本乎 纏宿常思見者
 
【語釈】 ○うつつには更にもえ言はじ 「うつつ」は、現で、事実として共寝をしたならばで、その嬉しさということを余情としたもの。「更にも」は、ことさらにで、「も」は、詠歎。「え言はじ」は、言うこともできないであろう。○夢にだに 「夢」は、「うつつ」に対させたもの。せめて夢にでも。○妹がたもとを纒き宿とし見ば 「たもと」は、袂で、手を言いかえたもの。「纒き宿」は、枕として寝る意。「見ば」は、見たならばで、それだけでも嬉しかろうの意を含めて言いさしにしたもの。
【釈】 事実として共寝をしたならば、その嬉しさは、ことさらに言うこともできないであろう。せめて夢にでも、妹が袂を枕として寝たと見たならば、それだけでも嬉しいことであろう。
【評】 夢は、しばしば出たように、先方がこちらを思うゆえに見えるものだという信仰の上に立ち、わが恋は実現ができなくても、せめて先方がこちらを思う心があれば、それだけでも嬉しいということを、具体的にいおうとしての歌である。余情の(555)多い言い方をしているのは、技巧としてではなく、事柄が双方にわかっているものなので、略いた言い方でも通じうるところからのことである。訴えの心の濃厚なものである。
 
785 吾《わ》が屋戸《やど》の 草《くさ》の上《うへ》白《しろ》く 置《お》く露《つゆ》の 寿《いのち》も惜《を》しからず 妹《いも》にあはざれば
    吾屋戸之 草上白久 置露乃 壽母不有惜 妹尓不相有者
 
【語釈】 ○吾が屋戸の草の上白く 「屋戸」は、庭の意のもの。○置く露の 「露の」の「の」は、のごとくの意のもので、その消えやすい意で、寿の譬喩としたもの。○寿も惜しからず 「寿も」の「も」は、詠歎。
【釈】 わが庭の草の上に白く置いている露のごときわが命も、我は惜しくはない。妹に逢えずにいるので。
【評】 恋の不如意から起こる感情をいって、その相手に訴えたものである。命を脆いものとして露に譬えるのは、仏説からきているものであるが、すでに常識となっていたものと思われる。その意味では知性的なものであるが、それを眼前の光景によって具象化し、「草の上白く」と感覚化しているので、生趣のあるものとなっている。一首、感傷が調べとなり、したがって単純なものとなっているので、比較的力のあるものとなっている。これは家持の持味である。
 
     大伴宿禰家持、藤原朝臣|久須麿《くすまろ》に報へ贈れる歌三首
 
【題意】 「久須麿」は、左大臣藤原朝臣武智麿の孫、藤原恵美朝臣押勝の二男である。続日本紀、孝謙紀に、天平宝字二年正六位下より従五位下、同三年美濃守、従四位下、同五年大和守、同六年参議、同七年兼丹波守となる。同八年大師藤原恵美朝臣押勝の謀反が漏れ、天皇には、少納言山村王を遣わして、中宮院の鈴印を収めしめさせると、押勝はそれを聞いて、男|訓儒《くす》麿らをして邀《むか》えてそれを奪わしめた。天皇は、授刀少尉坂上苅田麿、将曹牡鹿島足らをして射て殺させられたとある。久須麿の年齢はわからないが、『代匠記』は、この巻の歌は天平十二、三年に終わっており、一方久須麿は、権臣の子であるのに、天平宝字二年に正六位下であるところから見ると、ここに出ている時は、まだ若年であったろうといっている。歌は、ここの三首をはじめ、それ以下すべて、まだ世づかぬ一少女を中心として、家持と久須麿の詠んだものである。その少女のどういう身分の者であるかは明らかでなく、諸注さまざまの解をしている。『攷証』は家持の女であろうと解している。比較的妥当なものに思われるので、今はこれに従う。
 
(556)786 春《はる》の雨《あめ》は いやしき落《ふ》るに 梅《うめ》の花《はな》 いまだ咲《さ》かなく いと若《わか》みかも
    春之雨者 弥布落尓 梅花 未咲久 伊等若美可聞
 
【語釈】 ○春の雨はいやしき落るに 「春の雨」は、花の咲くのを促すものとしていったもの。「は」は、下の「梅の花」に対させたもの。「いやしき落る」は、「いや」は、いよいよ。「しき」は、しきりにの語幹で、ここは続いての意。○梅の花いまだ咲かなく 「梅の花」は、当時は外来の物として、珍重されていたもの。「咲かなく」は、「な」は、打消「ず」の未然形。「く」は名詞形とするために添えたもので、「いまだ咲かなく」は、まだ咲かないことよの意。○いと若みかも 「いと」は、甚だ。「若み」は、ここは若いゆえの意で、これは木の状態をいったもの。「かも」は、疑問。
【釈】 花を催す春の雨のほうは、いよいよ続いて降っているのに、梅の花のほうは、まだ咲かないことであるよ。木が甚だ若いゆえなのであろうか。
【評】 事としては、「春の雨はいやしき落るに」は、男よりしきりに求婚されること、「梅の花いまだ咲かなく」は、女の世ごころのつかず、それに応じるに至らないこと、「いと若みかも」は、その木の若いゆえであるかとして、女に同情して、その理由をつけるとともに、男の面目をも立てようとするものであるが、歌として見ると、全部が完全に隠喩となっており、単に若木の梅を詠んだものとして見ても、その心の通じうるものである。これは譬喩としてはきわめて高度なものである。この当時は、一方にはまだ発生的の譬喩が残っており、それは漠然たる感情の、まとめて語となし難いものをもっている時、たまたま自然の風物が刺激となり、それに心を絡ませることによって初めて言いあらわせるようになったと称すべきもので、これは結果から見ると譬喩と見られるものなのであるが、実はそれ以前のものなのである。そうしたものも行なわれていた時代に、こうした、一首全体を隠喩とした譬喩は、それを生み出す態度から見ると、高度の文芸性のものというべきである。家持も久須麿も、それに堪えたのである。しかしこうした態度を取ったのは、実用性の意味合いもあったものと思われる。久須麿は当時の権臣の二男であり、将来を嘱望されている青年でもあるから、その人から家持の娘が求婚をされたとすると、家持としては心して扱わなくてはならなかったろうと思われる。娘としては自身何をいう心も力もないとすると、家持が代わっていうよりほかはない。しかしいうべき事はないわけである。娘を梅の花に擬したということは、自身の珍重の情をあらわすとともに、相手を重んずることにもなりうることで、大伴坂上郎女がその娘を橘に擬したと同じく、季節に関係させると、妥当な擬し方と思える。一方、貴族間にあっては、自然の風物を愛好する風が高まり、またそれを誇りともしていた時代であるから、その雰囲気に支持されてのこととも思える。一首隠喩ではあるが、細心な注意をもって事実に即させており、ことに「いと若みかも」(557)は、上にいったがごとく用意の深いものである。少女が家持の娘であろうということは想像にすぎないものであるが、歌の上から見ると、少なくともそれに近い程度の近親な者でない限り、家持として、このような態度は取らなかったろうと思われる。娘と解すべきであろう。
 
787 夢《いめ》の如《ごと》 念《おも》ほゆるかも 愛《は》しきやし 君《きみ》が使《つかひ》の まねく通《かよ》へば
    如夢 所念鴨 愛八師 君之使乃 麻祢久通者
 
【語釈】 ○夢の如念ほゆるかも 「夢の如」は、夢を現に対させて意外なことを見るものとして、その意外を具象化したもの。意外は嬉しい範囲のものである。「かも」は、詠歎。○愛しきやし君が使の 「愛しきやし」は、巻二(一三八)に既出。「愛しき」は、愛すべきで、「やし」は、詠歎。「青によし」の「よし」と同じ。「君」を讃えたもの。「君」は、久須麿。「使」は、求婚の消息をもたらす使。○まねく通へば 「まねく」は、たびたび、度数多く。「通へば」は、家持の家へ通って来るので。
【釈】 夢かと思うように嬉しく思われていることであるよ。愛すべき君が遣わされる使の、しばしばわが家に通って来るので。
【評】 娘が、敬愛する久須麿から、熱心に求婚されていることに対して、親としての歓喜をいっているものと取れる。久須麿に対する親愛の情に浸っていっているものであることは、全体を貫く柔らかい気分、一句一句の上にも現われていて、親以外の者の心ではなかろうと思わせるものである。
 
788 うら若《わか》み 花《はな》咲《さ》き難《がた》き 梅《うめ》を植《う》ゑて 人《ひと》のことしげみ 念《おも》ひぞ吾《わ》がする
    浦若見 花咲難寸 梅乎殖而 人之事重三 念曾吾爲類
 
【語釈】 ○うら若み花咲き難き 「うら若み」は、「うら」は、接頭語。「若み」は、若くしてで、下の「梅」の状態。「花咲き難き」は、花が咲き難いところので、下へ続く。全体では、木が若くして、花が咲き難いところので、(七八六)と同じ心でいっているもの。○梅を植ゑて 梅の木を庭に植えてで、植えるのは鍾愛しようがためで、これは上に続いて、娘の隠喩。○人のことしげみ 「こと」は、言。「しげみ」は、繁くしてで、人の噂が繁くして。これは、上からの続きは、他人もその梅の花を愛でようとして、咲いたかどうかを関心事としてしきりに噂をする意であるが、心としては、「人」は、久須麿。「こと」は、求婚。「しげみ」は、上の歌の「君が使のまねく通へば」で、久須麿の求婚のしきりなことであって、その隠喩。○念ひぞ吾がする 「念ひ」は、ここは嘆き。嘆きをわがすることであるよで、上からの続きは、人がそのようにいえば、我も早く咲(558)けよと嘆かれることであるよの急であるが、心としては、久須麿の心に応じさせたいが、それができないのでいたずらに気を揉んでいるということを隠喩としたもの。
【釈】 木が若くして、まだ花の咲き難い梅をわが庭に植えて、他人が花が咲いたかどうかとしきりに噂にするので、聞く我も、早く咲けよと嘆きをすることであるよ。
【評】 これも、(七八六)と同じく、全部隠喩から成立っている歌で、表面は単に梅の花の、木が若木であるために花の遅いのに対しての心で、前の歌は、花の咲かない事実だけをいったのに対し、これはその事のために、人に対して嘆きをすると、進展させていっているものである。三首連作で同時のもので、この歌はその心の頂点を示しているものである。一首の眼目は、「人のことしげみ念ひぞ吾がする」で、これは全部の眼目ともなっているのである。意味は上にいったがようで、久須麿の求婚を十二分に歓び、共々にその事を実現させたいと思っているが、いかんとも術《すべ》がないと、娘をかばいつつ、久須麿の面目を立てているものである。三首、単純な抒情の語によって、複雑な事情と心持とをあらわしているものであり、またこれは連作の形式によらなければあらわし難いものであって、まさにその必要のあるものである。この歌の技巧は、(七八六)よりもまさっているものであるが、しかしそれは、連作であるがゆえにもちうるものであり、一首としてはいえないものである。
 
     又、家持、藤原朝臣久須麿に贈れる歌二首
 
789 情《こころ》ぐく 念《おも》ほゆるかも 春霞《はるがすみ》 たなびく時《とき》に ことの通《かよ》へば
    情八十一 所念可聞 春霞 輕引時二 事之通者
 
【語釈】 ○情ぐく念ほゆるかも 「心ぐく」は、(七三五)に出た。心が曇って不安に感じられる意の語で、心苦しくというにあたる。「かも」は、詠歎。○春霞たなびく時に 「春霞」は、「秋霞」に対しての語で、今の霞。「たなびく」は、靡く。これは眼前の風光で、上の「情ぐく」の心象と通うところのあるものとして捉えていっているもの。上の(七三五)坂上大嬢の「春日山霞たなびき情《こころ》ぐく照れる月《つく》夜に独かも宿《ね》む」と心の通うもの。○ことの通へば 「こと」は、言で、久須麿よりの使のもたらす求婚のもの。「通へば」は、通って来るので。
【釈】 心苦しくも思われることであるよ。おりから、霞がたなびいて、外界もそれと同じさまをしている時に、君の使が通って来るので。
【評】 娘の許へ久須麿から使の来るのを見て、それを歓びつつも、その事の遂げられないことを知っている家持の、絶えず気(559)がかりになるので、久須麿を諷する心をもって訴えたものである。「春霞たなびく時に」というのは、自然の状態によって生活気分の動くのを新風とし、貴族の一種の誇りともしていたので、その心で取入れたものであるが、今の場合としては、諷する心を婉曲にする効果を覘つてのものであって、単なる技巧ではない。一首、見かねて、黙ってはいられず、それとなく注意するという性質のものである。
 
790 春風《はるかぜ》の 声《おと》にし出《で》なば ありさりて 今《いま》ならずとも 君《きみ》がまにまに
    春風之 聲尓四出名者 有去而 不有今友 君之随意
 
【語釈】 ○春風の声にし出なば 「春風の」は、音を立てる意で、その枕詞としたもの。眼前のものを捉えたのである。「声《おと》」は、上よりの続きは音であるが、転じさせて言《こと》の意にしたもので、言に出ずという言と同じ。「し」は強め。「出なば」は、出したならば。全体では、言葉として出したならばで、出すのは下の「君」で、言いかえると、久須麿が婚を結ぼうといわれたならばの意。○ありさりて 「あり」は、生きていての意。「さり」は、春さればなどのそれと同じく、移っての意で、生きて、時が移ってで、言いかえると、このままに過ごして行って。○今ならずとも 今ではなくてもで、「ありさりて」を繰り返したもの。○君がまにまに 「君」は、久須麿。「まにまに」は、心次第にで、「出なば」に応じさせて、なろうの意を含めたも。
【釈】 君が求婚のことをいわれるならば、このままに過ごして行って、今ではなくとも、時期が来たならば、君の心次第になることであろう。
【評】 君に求婚の心があるならば、娘が世づきさえすれば、異存などあろうはずはない。時を待ちたまえと、あくまでも久須麿を重んじ、顔を立てていったものである。「春風の声にし出なば」は、季節の快いものを捉えて枕詞とし、将来のこととして、婉曲に美しくいったもの。「君がまにまに」も、成句ではあるが、卑下して、絶対に従おうとの心をあらわしたもので、心をこめてのものである。
 
     藤原朝臣久須麿の来報《こた》ふる歌二首
 
【題意】 「来報ふ」は、(七〇六)にも出た。報えてよこした歌のことで、以上の歌に対して報えた意。
 
791 奥山《おくやま》の 磐影《いはかげ》に生《お》ふる 菅《すが》の根《ね》の ねもころ吾《われ》も 相念《あひおも》はざれや
(560)    奧山之 磐影尓生流 菅根乃 慇吾毛 不相念有哉
 
【語釈】 ○奥山の磐影に生ふる菅の根の 奥山の、磐の蔭に生えているところの菅の、その根のの意で、この菅は山菅で、根の深い物である。この三句は、「根」を「ねもころ」の「ね」に畳音でかける序詞で、ねもころを力強くいおうとしてのものである。○ねもころ吾も 「ねもころ」は、ねんごろにで、心深く。「吾も」は、吾も亦で、家持が娘に代わって、久須麿を他意なく思っていることをいっているので、それに対して吾も同じくの意でいっているもの。○相念はざれや 「や」は、反語で、相思わずにあろうか、ありはしないと、強くいったもの。
【釈】 奥山の磐の影に生えている山菅の、その深い根の、ねもころに我もまた、相思わずにあろうか、ありはしない。
【評】 君と同じく、我もまた深くも思おうということを、堅く誓った形の歌である。さしあたっては婚を結べない少女を中にして、将来を誓ったものであるが、直接には少女に触れず、心の広いものなので、単なる誓のごとくに聞こえるものである。家持の何首かの歌に対して、総括して報えている形であるから、自然なことといえるところがある。長い、またほとんど成句に近い序詞を用いているところは古風であるが、この歌の性質としては、これまた自然だといえる。
 
792 春雨《はるさめ》を 待《ま》つとにしあらし 吾《わ》が屋戸《やと》の 若木《わかき》の梅《うめ》も いまだ含《ふふ》めり
    春雨乎 待常二師有四 吾屋戸之 若木乃梅毛 未含有
 
【語釈】 ○春雨を待つとにしあらし 「し」は、強め。「らし」は、眼前を証としての推量。その証は、庭前にある若木の梅。ここで段落で、主格は「若木の梅」であり、それは四句に譲っているのである。○吾が屋戸の若木の梅も 久須麿の家の庭の若木の梅もまたで、家持の庭の物と対比させたもの。○いまだ含めり 「含《ふふ》む」は、つぼむ意で、仮名書きのあるもの、まだつぼんでいる。
【釈】 あなたの家の若木の梅は、春雨の催すのを待っているというのであろう。わが家の庭の若木の梅もまた、同じく、まだつぼんでいる。
【評】 この歌は、家持が(七八六)で「梅の花いまだ咲かなく」といい、(七八八)で、「花咲き難き梅」といっている梅を、「春雨を待つとにしあらし」とうべない、「吾が屋戸の若木の梅もいまだ含めり」と、強く承認した心のものである。この梅は、上の二首の歌に対して報えた意のもので、家持の隠喩をうべない、梅を娘その人と認めてのものである。意の通じる程度にすぎない歌であるのは、報え歌であるためと、力量の足りないためと取れる。しかし微旨をあらわし得ているもので、感性の鋭さと細かさはもっているといえるものである。