(6)   萬葉葉 巻第五概説
 
 万葉集巻第五は、これを形式の上から観ると、『国歌大観』の番号の(七九三)より(九〇六)に至る百十四首を集めた巻である。歌体から観ると、長歌が十首、短歌が百首、その確実性の上には疑いがあるが、仏足石歌体の四首(八八八−八九一)を含んでいるものである。注意されることは、本巻は純粋な歌集ではなく、幾篇かの文章を含んでいることであって、純粋な文章が一篇、詩を含んだものが二篇、また、歌を含んだものが一篇あり、さらにまた、書翰にして歌を含んでいるものは七篇の多きに及んでいる。さらにまた、歌に序が添い、その序が題詞の程度にとどまらず、独立した文章に近く見られるものが六篇あって、全部では相応に多い量である。全体として見ると、もとより歌が中心となってはいるが、その雑然としている趣は他には類例のないものであって、これがやがて本巻の特色をなしているのである。
 次に、本巻で注意されることは、歌の部類分けのしてないことである。巻首に「雑歌」と記してあって、一見部立のそれのごとく見えるのであるが、この「雑歌」は他の巻のそれとは異なっており、この標目の中に、「相聞」も「挽歌」も含まれているのである。したがってこの「雑歌」は、部立の名称以前の、文字通りのくさぐさの歌の意なのである。これは撰者からいうと、その内容の雑然としているのに対して言ったものであって、撰者はただ資料として蒐集したのみにとどめ、まだ整理にまでは及ばなかったものと見られる。したがってこの巻の撰者は、撰者とはいえ実は資料蒐集者にすぎなかったのである。
 この巻の作品は、その製作時代が大体明らかである。それは代表作者である大伴旅人、山上憶良の作には、その製作年月が記してあり、他の作者も大体この二人に関係しての人であるところから、製作年代は同時だったろうと察しられるからである。その年月は、神亀五年から天平六年までの六、七年間のものである。これを万葉集から観ると、その中期にあたっており、天皇の御代からいうと、聖武天皇の聖代であり、仏教の隆盛とともに他の一切の文運も隆盛に向い、和歌もその一部として盛行した時期であって、従前の実用性を基底とした和歌は文芸性のほうに向い、したがって一般性を重んじていたのが個人性を樹てうるに至った時期である。本巻の歌の排列は、この年代順を追っているものである。
 
 本巻は、撰集の形式はとっているが、その実際を観ると、大伴旅人と山上憶良との私家集に近い趣を持ったものである。二人とも万葉集の代表的歌人であるが、旅人のほうは、その大半をなすところの歌が本巻の中にあり、憶良に至っては、さらに大きく、その大部分の歌が実に本巻の中にあって、かりに本巻を除いたとすれば、この二人の万葉集における位置は異なった(7)ものとならなければならぬ程である。
 二人とも本巻における歌はその晩年のものであり、中でも旅人の歌は、大宰帥として大宰府にあった時代だけのものであって、天平二年十二月、大納言に昇進して奈良京へ還ることとなり、足一たび大宰府を離れて途上の人となると同時に、その歌は巻三、巻六のものとなって、本巻には採録されてはいないのである。のみならず明らかに大宰府に在った時期の歌と見られる筑紫の九国二島巡察の際の歌(九六〇−九六一)は巻六にあり、その奈良京を恋うる歌五首(三三一−三三五)は巻三にあり、殊にその代表作の一つとも見られる「酒を讃《ほ》むる歌十三首」(三三八−三五〇)も同じく巻三にあるのである。本巻に採録されている旅人の歌は、大宰府にあった期間中の半ば以上のものというにすぎないのであるが、しかし本巻の歌は、旅人の面目を濃厚に発揮しているものであって、その文芸性をほしいままにした歌は、すべて本巻の中にあると言いうるのである。憶良の歌は、旅人とは趣を異にしていて、その大部分が本巻に採録されている。巻一、二、三、又巻六、八、九と、憶良の歌も散在はしているが、その面目に関係ある歌は、僅かにその中の二、三首にすぎず、他はすべて軽いものである。殊に憶良の特色をなすところの長歌は、すべて本巻に採録されているのである。
 この旅人と憶良の二人の歌は、本巻の特色をなすものであるとともに、おのおの万葉集の一面を代表して、その特色をなしているものなのである。加うるにこの二人の歌風は、この時代の歌界の趨勢を示すものであって、二人ともこの時代の所産であるとともに、この時代の要求を直感し、それを作品として現わすことによってこの時代を指導した人々であって、その意味では我が和歌史の一時期を劃してもいる人なのである。
 二人の歌風のいかなるものであるかについて概言すると、二人ともその根柢においては等しき物を持っていながら、その傾向においては対蹠的に異なっており、そしてその等しき面《めん》も異なる面も、いずれも時代によって与えられたものなのである。等しき面というのは、二人とも我が伝統の精神を鞏固にも保持している人で、いずれも我が国の歴史を絶対に信奉しており、殊に憶良は、上代よりの神祇に対する信仰を深く身に着けていて、新しい時代機運の中にあって微動だにしないのである。またいずれも現実を尊重し、あるいは現実遊離に憧れるかに見える旅人にあっても、それは表面のみのことであって、一歩胸臆に踏み入れば、遊離というようなことはいささかも思ってはいないのである。憶良に至っては、その現実尊重は、現実改善の実行を伴わしめずにはいられないまでの慨あるものであって、死に至るまでもその執着から離れずにいるのである。しかし二人を歌人という面《めん》から見ると、際やかにその傾向を異にしており、対蹠的とも見られるのである。旅人は我が国での名族大伴氏であり、しかも氏の上《かみ》である。貴族としての旅人の感情は、気品を重んずるところがあり、その鋭尖なる感性は、漢文学の教養としても文芸的な面に向い、実生活の面においても風流《みやび》の面に向って行き、その心は美しく清らかなる物と、物のあわれ(8)の深いものとに動いて行った。これが歌に現われると、ある程度現実を遊離した、いわゆる文芸的なものとなって来るのである。本来大伴氏は武をもって朝廷に奉仕し来たった氏であり、旅人の顕職にあるのも、近き父祖の功によるのである。政体は職の世襲を認めなくなっていたとはいえ、氏の上にして聡明なる旅人に、武人としての覚悟のなかったはずはない。旅人の文芸的な傾向は、一に時代の許すところがあったがゆえに持ち得たものだったのである。その意味では旅人は時代の児である。憶良は旅人とは異なって、聞えるところのない氏の出であり、その学問を認められることによって官に就き得た人である。このことは当時例が少なくなく、僧侶にしてその学才の為に還俗を命じられた者が往々あるので、憶良もその範囲の人だったのである。四十二にして無位であった憶良には、その処世の方針は一定させられていた。それは学問に専念し、これを実行に移し、廷臣として職務の上に実績を挙げて行くよりは外なかったのである。時代は新興の時代であり、これを推進させるものは唐の文化の摂取にあったので、憶良の所期は必ず酬いられるべきものでもあった。憶良はついに伯耆守より筑前守となり、その任期の延ばされたのも、良吏としての聞えがあった為であろうから、何ら外的の支持する物のない身としては、その志を遂げ得たというべきであろう。この間の消息の如何なるものであったかはわからないが、その作品である歌によると、久しく国守であった者が、解任後幾何もない時に、貧しさを嘆いていることに窺われる感がある。憶良の感懐には旅人の文芸的なものも風雅もなく、あるものは、その起居している家庭と、その担任している職務という現実のみであり、またそれに強い執着を持ち、それを進めてより善きものとしようとする一念のみであって、そこより起る感懐を、批評的に観、分解し、組織して、これを長歌という形式をもって詠み出すことだったのである。憶良にとってはその言わんとする所は、長歌といふ形式でなければ言えなかったとみえる。その作品は、当然生活と一如になったもので、その外には出られなかったのである。これは言い換えると個人性の現われである。この個人性ということは、優れた作者にあっては等しく持っているものであるが、従来の作者の持ったものと、憶良の持ったものとには逕庭がある。時代の進運は、この以前よりすでに個人性を認めつつあり、それに対して寛容になりつつあったとはいえ、和歌は本来集団のものであり、口唱のものであって、それを建前とし、性格としているものである。和歌が口唱より記載に移ったのは、かなり以前からだとはいえるが、伝統の口唱という性格は根深いものであり、それが依然として行なわれ、またその面において優秀なる作品の多くが蓄えられていたことは、民謡集である巻十三によっても窺い知られる。したがって個人性ということは、一方においてはそれが許されているが、同時に他方にはそれに条件が付せられていて、内容は記載的なものであるが、形式はあ口唱的なものでなければならないということが、実際としては要求されていたかと思われる。この間の消息は、この時代頃から、長歌という形式は儀礼の場合の作を外にすると著しく減り、反対(9)に短歌が盛行しているのであるが、これは長歌を作るにはその力が堪えないということよりも、内容の個性的なものが形式としては口唱に便な短歌を必要とし、新風の短歌はそれを充たしうるものであるということが暗黙の中に認められ、その結果として長歌は席を短歌に譲らざるを得なかった為と思われる。しかるに憶良の個性的な長歌はそうした雰囲気の間に、逆行的に現われたものだったのである。それが時代的に観て、どのように反映したかはわからないが、とにかく巻第五の撰者によって、大切なる物として扱われている跡を観ると、少なくとも有識階級には認められていたことと思われる。これは個性というものに対して著しく寛大になって来たことを示しているもので、憶良は旅人にも増して、まさしく時代の所産と見られるのである。
 旅人と憶良とは、作者としては傾向を異にしているが、この時代という一点においては共通なものを持っており、共に時代を超えて新生面を拓こうとして努力したのであった。それは歌によって物語の世界を生み出そうとすることである。説話に和歌を含ましめ、それを力点とするいわゆる歌物語系統のものは、すでに古事記、日本書紀、風土記にもあって、必ずしも新しいものではない。また贈答の歌を連ねることによっても、物語的な効果を収めることもいささかは行なわれていた。しかしそれらはすべて自然発生的のものと見えるのに、旅人と憶良の試みたものは意識的なものであって、文運の進展はあそれにつれて、複雑な散文の世界を要求していたのに、二人とも漢文学に長けており、それをもってすればこの事はたやすく遂げられるものであるにもかかわらず、二人とも等しく、これを心親しく、また柔らかな国語をもって現わそうとして、工夫し、労苦して、積極的にその試みをしているのである。旅人のその代表的なものは、「松浦河に遊ぶ序」と題するもので、(八五三)より(八六三)に至る十一首の短歌をもってそれをしようとしているのである。詳細は繁を厭って省くが、要を言うと、旅人が大宰帥として九国二島の巡察に出、その途次、肥前の国松浦において、古来神事としてその地に行なわれていた、初夏、女子の松浦河口においてする鮎釣を観て、それより構想したものである。その構想にあたって、旅人はその背後の土地の年中行事ということには全く触れず、偶然にも美女の群れにあって、怪訝の心より神仙かと惑い、その美女の群れに向って人柄を問うと、その群れもまた、土地の者とも、神仙ともはっきりしない曖昧なことをもって答え、美女の群れより恋情を発して来るという物語としたのである。旅人はこれらのことは漢文のやや長いものをもって序という形式において言っているが、全体としての力点は歌に置いており、歌をもって作意を開展させようとしているのであって、その点はまさしく歌物語である。本巻には旅人のこの系統の物が他にもあり、偶発的な興味からのものではなく、明らかに意図をもって行なっていると思わしめる物があるのである。憶良には旅人ほどにはこの類の物がないが、「貧窮問答歌」(八九二−八九三)はまさにそれであり、これは単に歌をもっての問答のみによって、劇的な効果さえ収めており、しかも憶良にとっては代表作の一つともなっているのである。憾良の(10)この歌も、単に興味よりの物ではなく、そうした形式をかりる必要があってのことと思われる節がある。それは当時国守の中には、私腹を肥やそうが為に甚しき苛斂誅求を行なう者があり、その管下の民はことごとく疲弊し困憊していたのである。その最も甚しい者は、以前はある身分を持ち、相応な教養をもっている者が、それが災いとなって極貧の底に陥るという状態であるのに、国司の最下僚である里長は、その職権を超えて、刑具を携えて誅求にあたるという状態でさえもあったのである。民政の実情には通じているが、位地低き憶良にあっては、ただこれを嘆き憂うるより外術がないところから、何びとかしかるべき高官の人に対して、きわめて腕曲にこの実情を訴えようとしたのがすなわち「貧窮問答歌」の作因と思われるのである。憶良にとっては文芸は、儒教的な、利用厚生の具だったのである。要するに、旅人と憶良とのこの方面においての試みは、時代の進運は和歌のみをもって足れりとせず、複雑な散文的な物を要求し、同時にそれも、我が民族の感性と情趣とを伝え得る国語をもってした物を要求していたのであるが、仮名文字のないところから国語の面においての要求は遂げられず、自然発生的な和歌入りの説話のあるのを参考とし、これを意識的に利用して、文芸的要求を遂げるものとしようとしたのである。これは全く時代の所産なのである。
 この巻の撰者が何びとであるかは不明であって、一切想像の範囲のことである。しかし本巻の資料はきわめて特色のあるもので、上に言ったがごとく旅人と憶良の私家集に近い感のある、甚しく偏ったものであり、また撰定の方法も、年代順に排列してあるというにとどまり、撰集としては重大なことである部立をさえ施していないので、それらを通して観ることによって、ある程度まで想像の範囲を縮小し得る可能はあるものである。
 何よりもまず明らかなことは、本巻の資料の大部分は、帥として大宰府に在った時期の旅人の身辺にあった物で、それ以外の物は数える程の少数にすぎないということである。例せば、本巻の代表作着である憶良の作にしても、天平二年、旅人が大宰府を離れる時までの作は、旅人に贈り、また旅人に示す為に記した物であることによっても、このことは明らかである。旅人に対する返翰の歌のごときは、これは問題とならず、旅人以外の人の許にはあるべくもないものなのである。それらに旅人の自作を加えると、ほぼ本巻の大部分を成しうるのであって、残る物は、旅人が大宰府を去った後の憶良の歌の在り場所が主であり、それに他の人の歌の少数が伴うにすぎないのである。それについで問題となることは、大宰府在官時期における旅人の歌も、旅人自身の手記すなわち手控にあった物ではなく、他の何びとかによって記録されていた物だということである。これは上にも言った如く、巻六(九六〇)「隼人の湍門の磐も」は、大宰帥として薩摩国へ巡察に行った際の歌であり、それにつぐ(九六一)「湯の原に鳴く葦鶴は」は、筑前国湯の原の温泉へ湯治に行った際の歌であるのに、それが本巻の資料にはなっていないところを観ると、これらの歌が後に伝わったのは、旅人の手控には記してあった為とは思われるが、その手搾を本巻の撰(11)者は見るを得なかったのであることを語っている。このことは、単にこの少数にとどまらず、巻三、四、六、八に、同じく大宰府在官当時の歌で、本巻の撰者の採録し得なかったものが、挙ぐるに堪えぬまでに多くあるのでも知られる。このことは、本巻の撰者と、旅人との個人的関係を暗示しているものと言うべきである。その個人的関係の上で察しられることは、大宰帥たる旅人と、本巻の撰者とは、その身分の隔りが甚しく、昵懇しうるまでには至れなかったからではないかと思われるのである。それを思わせられるのは、言やや穿ちに似て来るが、本巻の旅人の歌は、その風流の面の昂揚された、いわゆる純文芸性の物が多く、誰に示しても差支えのない物であるのに、他の巻に散在している歌は、日常の実感を述べた実用性の物が多く、殊に婁の死後の物は、哀音の切々たるものがあり、旅人としてはその対者以外の者には示したくなく思ったであろうと察しられる物が少なくないのである。巻三(三三八−三五〇)「酒を讃むる歌十三首」のごときも、事の死後、払い難き寂しさを遣る心の歌であって、一見思想的のものとも見えるのであるが、側近の者には、ただちにそれを詠んだ心情の感じられる性質のものであった為、旅人は本巻の撰者には見せなかったのではないかと思われる。旅人と水巻の撰者の身分の隔たりということは、これらの点から思わせられるのである。旅人に取って、そうした関係の人はどういう人かというと、これは旅人の私邸に抱えられ、身分はないがその学才によって用いられている記室の人、書記ではないかと思われるのである。旅人からいうとそうした人は、不断に邸内にいる側近者であるところから、用いるに便で記録の用を命じたろうと思われ、また命じられる記室の者からいうと、学才があるのでそうした物を重んじることは知り、大宰府を中心として、文芸の雰囲気の濃厚なもののあった時代とて、それに対する憧れの心ももって事に当ったものと思われる。本巻の撰者を、旅人私邸の人と思わせる最も有力なことは、旅人が天平二年十二月、大納言に昇進して京に還ることとなり、足一たび大宰府を離れると、その見送りの人との贈答の歌を初めとして、途次における感懐の歌も、本集の撰者とは全くかかわりのない物となっていることである。これは本集の撰者は、旅人の旅の随員ともなれず、旅人が大宰府の私邸を離れるとともに、旅人とも、その歌とも関係は絶えてしまった事を示しているのである。もし上の想像が許されるとすれば、本巻が歌集として必須なものである部立をしてない理由もおのずから解けるのである。本巻の撰者は、撰者とはいうが、その実は資料の蒐集者ですらもなく、単に旅人私邸の記室の人として、旅人に贈られる歌、書翰、したがって書翰に含まれている歌、また旅人の物としては、その歌の旅人より記録を命じられた物、旅人よりの書翰の下書、あるいは手控の類を、その職務として整理し、保存していたにすぎないので、それに部立を施すというようなことは、初めから想像すらしたことではなく、たといしようとしたからとてその事には堪えない人だったのである。作品が年代順に排列されている事は、その職務に丹念であった自然の成行きで、他意あってのことではなかったろうと思われる。(12)またその資料の雑然としているのも、職務の自然の成行きであって、この記室の人からいえば、奈良京よりの高位の人、学者の書翰のごときは、最も心引かれる物であったかも知れぬ。
 最後に残る問題は、旅人が大宰府を去った後、すなわち本巻の撰渚が本巻と手が切れた後の憶良の歌がどうして本巻に輯録されているかということである。これは明らかに上に言った本巻の撰者とは別な人でなければならない。この部分の憶良の歌の出所は、その大伴熊凝の歌は、それを贈った麻田陽春の手より、「貧窮問答歌」は、末尾の「山上憶良頓首謹上とある、それを上った、多分は高官の人より、「好去好来の歌」は、同じくそれを贈った多治比広成よりと知られるが、その他の物はわからない。そのわかった部分より推すと、直接に憶良の手より出たのではなく、何らかの経路を経て、異なったる撰者の手に入ったものと思われる。この異なったる撰者の誰であるかは、同じくわからないのであるが、本巻最終の、「男子名は古日を恋ふる歌」と題する歌の、長歌に添う二首の反歌の末に、左注として、「右の一首、作者いまだ詳ならず。但裁歌の体、山上の操に似たるを以てこの次に載す」とあるのが、大伴家持を想像させるのである。家持はこの種の注を折々しており、これもそれに似たものだからである。また、家持が憶良に傾倒していたことは、今は定説となっていることである。それらを手懸りとして想像すれば、家持はある年、父旅人の大宰府にとどめてあった本巻の天平二年十二月までの物を手にし、それに憶良の歌の、その時として手に入れうる限りの物を加えたのではないかと思われるのである。それはとにかく、家持が大宰府の旅人私邸にあった本巻の大部分を読み、それを通して憶良の歌に感心し、模倣をしていることについて『代匠記』は注意している。それは家持の、巻三(四七八)「安積皇子の薨じ給ひし時」と題する挽歌のうち、その結末の皇子の舎人の状態を叙して言っている「憑めりし皇子の御門の 五月蠅なす騒く舎人は 白栲に衣取り着て 常なりし 咲ひ振舞 いや日日に変らふ見れば 悲しきろかも」を、巻五(八〇四)憶良の「世間の住り難きを哀しめる歌」のうち、処女の老い易いことを嘆く一節の、「常なりし咲ひ眉引 咲く花の移ろひにけり」を模したものかと注意しているのである。憶良のこの歌は、作ったのは神亀五年、旅人に示した語の記してないものであるが、おそらくは示したのであろう。家持は大宰府にあった本巻の大部分によって初めて憶良のこの歌に接し、心引かれるところ多くして模倣したものと思われる。天平二年十二月以後の憾良の歌の蒐集者は、家持ではなかったという想像の主なる理由は、このことへの繋がりとしてである。家持を本巻の最終の部分の追加者とすれば、その性情より推して、これに部立を加えたい心を起すのは自然と思われるのに、それを試みないのみか、従前の体のままに、文章も歌も雑然と並べた物としているのは、おそらくは文章に対しての尊重が、従前よりも加わり来たっているものがあり、整理がし難いものに思われた為ではないかと察しられる。森本治吉氏は本巻が大体一字一音の仮名書きになっている点に注意し、集中それをしている巻は、家持の撰ということの明らかな巻に(13)限られていることであるから、この巻もその意味で家持の撰であろうと言われている。家持の撰した巻がすべて仮名書きになっているのではないから、何の時か、この巻の文字だけを仮名に書き換えたということは、その性情から推してありうることと思える。
 
 最後に、巻第五の代表歌人たる旅人と憶良との、作歌に対しての態度を、今少しく付言することとする。
 旅人の和歌に対する態度は、これを一と口にいうと、和歌というものを重視せず、いわゆる生活の余剰のこととして試みている趣がある。このことの端的を示しているものは、本巻とは巻を異にしているが、巻第六の(九五五―九五六)の二首である。それは大宰少弐石川足人と旅人との唱和のもので、足人は旅人が、老齢辺境の任にあって心侘びしさを感じており、京に還って閑寂の生活をしたいと願っていようと察して、歌をもって慰めの心を言いかけたのである。これは心親しい間であることを示していることである。歌は「さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君」というのである。佐保は旅人にとっては、父安麿以来の家のある地であり、そこにはまた大宮人の家も多くあったのである。足人のこの慰めは、多くの官人の等しく思っていたことであり、地位上旅人との関係の親しさを通して代弁したものと思われる。これは今日のわれわれから見ても同感の出来るものである。旅人はそれに対して同じく歌をもって和えている。歌は、「やすみししわが大王の食国は大和も此処も同じとぞ思ふ」というのである。その口気のいささかの亢奮もまじえず、淡々としているところ、また「同じとぞ思ふ」と何らの誇張も加えずに言っているところは、まさに旅人の平常の心を言ったものであろうと思われる。しかも足人は、閑寂なる私生活を慕っているのだろうと思い、佐保をいうに「佐保の山」という如き自然美を加えた言い方までしているのに、旅人はそうしたことは念とせず、一意公生活を思っており、辺境の大宰府に晏如としている事を言っているのである。これが旅人の性情であって、その和歌はこの性情より発しているものと思われるのである。旅人は稟性として文芸性の豊かなる物に恵まれており、その感性は鋭敏であり、綜合力もそれに伴って強いものを持っており、例せばこの歌のごとく、その言うところは時宜に適したものであるとともに、本心の流露であり、またこの歌を作る態度に見えるごとく、自身を事の全体の上に浮べて大観し、綜合して来る所の力の強いものを持っているので、きわめて易らかに、親しく気高い、魅力ある歌を詠み出して来るのである。旅人のこの文芸性の豊かさに引かれて、そのいかに歌を愛し重んじていたかを連想させられがちであるが、これを実績について見ると、旅人は自発的に歌を詠むことが少なく、大宰府にあっての歌の大方は、老齢にしてその妻に先立たれた寂寞の情の医す術がなくて詠んだ巻第三(三三八−三五〇)の「洒を讃むる歌」のごときを外にすると、この歌に見るがごとく、誘因があって、必要に駆られて詠んだ趣のあるもののみであると言える。旅人の文芸的表現の生涯を通じて最も高潮したのは、(14)その職務として九国二島の巡察の旅をした際、肥前国松浦で詠んだ、上に引いた「松浦河に遊ぶ序」、それについでは(八一三)「鎮懐石を詠める歌」の長歌、また、(八七一−八七五)の「領巾振嶺を詠める歌」の連作である。この時の作はまさしく自発的のものであるが、前の二つはいずれも神功皇后に関係ある事蹟であり、後のものは同族大伴狭手彦に関する事蹟であって、詠史の趣を持ったものなのであり、自発的とはいっても、旅人としては誘因のあったとも言えるものなのである。しかも旅人が対者によって余儀なくされることなく、また遣悶の情に駆られることもなく、すなわち何らの必要もなく作歌をしたのは、ただこの旅の時のみであって、おそらくは生涯を通通じてただ一度の経験であったろうと思われるものなのである。そしてこれが旅人の代表的の作ともなっているのである。詠めば必ず優秀な作を成す旅人であるにもかかわらず、自発的に作歌をすることのきわめて少なかったことは、やがて旅人の作歌ということに対しての態度を示していることと思われる。「松浦河に遊ぶ序」はさきに言ったがごとく偶然の機会からであり、また方面は異なるが妻の死後悲嘆の情のやる術がなくて、「酒を讃むる歌十三首」の連作を詠んで、いずれも新生面を拓くものとなったということは、したがって旅人としては予期しなかった成行きと見るべきである。
 憶良の作歌態度は、旅人とは対蹠的に異なっている。学識が国家の要求するところと合致し、偶然にも廷臣の末に列するを得た憶良は、その任務を通して国家に奉仕するのが無上の歓びであり、生命その物となったことと思われる。憶良には自身の生命と、国家奉仕と、国家とが一線となって繋がり、その他には何物もなくなって来ている。歌人としての憶良の感性は、旅人のごとく細かくなく、また鋭尖なものではなかったが、その心が常住、上の一線の上につながっているところから、おのずから鋭く働くものがあり、その一線に沿っての感想は、勢い特殊なものとなり、目立つものともなり、また豊かにも見えるものともなったのである。特殊というのは、憶良は、いかなる歌人も最も多くの数を詠んでいる恋の歌のないことである。妻に関しての歌は、その妻の死んだ後挽歌を詠んだものと、また妻を子の母として詠んでいる歌とがあるだけで、それを除くと全くないと言える。またその当時は新風として持て囃された自然の風光を対象とした歌も、七草の名を列挙したというごときものがあるだけで、これもまた全くない形である。憶良の歌は人間生活を対象としたもののみで、それがすなわち憶良の心だったのである。憶良の感性はその心の繋いでいる人間世界にのみ働いた。第一に問題にしているのは、自身の生に対する執着である。その生を愛し死を厭う心の強さは、我が国人としては異数なまでである。憶良は晩年固(病垂)疾に悩んだ人であるが、しかし七十四という高齢を保ち得た人である。その憶良が死とコ疾とを関連させ、その点よりコ疾を問題とし、これを不自然なるものとし、何らかの原因の結果であるとし、原因を探究すれば結果も除去出来るものとして、その探求に努めている執拗さは怪しまずにはいられないまでであり、結局死生は天命であるとの(15)諦念に達し得たのは、七十四で死ぬいささかの前であったと思われる。しかも死の直前には、その名を立てずして死ぬことを嘆く歌を詠み、それを辞世ともしているのである。これはまさに憶良の個性の現われである。自身の生の執着についで感じていたことは、子に対する愛である。万葉集には父として子に対する愛を詠んだ歌は全くなく、たまたま触れて言っているものは、妻の死後、幼い児を扱いかねる悩みくらいなものである。独り憶良は全心を傾けて子を愛しており、その面において代表作を残しているのである。これも憶良の個性の現われである。憶良は庶民生活を問題としており、巻五(八〇〇)「或情を反さしむる歌」、「貧窮問答歌」などの作があり、これが最も代表的なものとなっている。前者は道徳を問題としたものであり、後者は経済を問題としたものであるが、前者もその根本は経済にあり、経済とは要するに国司の苛斂誅求ということなのである。これが廷臣としての憶良の最大関心事だったのである。多年民政を職としていた憶良は、国司と庶民との実情に通じており、いかにかこれを匡正しようとし、単に諭ずるだけにとどめず、これを実行に移そうとして、その方法として詠んだのがこれらの歌なのである。しかもこれを問題とした根本は、庶民を天皇の民であると観、その点から、これを愛し重んじて問題としているのである。そうした歌は他の何びとにもなく、独り憶良にのみあるもので、これは憶良の特色中の特色である。庶民を天皇の民とするこの精神は、我が国を神国なりとする精神に繋がって行く。憶良は、この精神を、巻五(八九四)「好去好来の歌」において、何びとも示さなかったごとき具象的方法をもって、力強くも現わしているのである。それにつき注意されることは、憶良は仏典に通じていること博く、また尊崇の念も深く、前身あるいは僧侶ではなかったかと思わしめるまでであるが、帰するところそれは知識にとどまって信仰とはならず、信仰としては我が国の上代信仰を守り、これを極限までも深化せしめたのである。以上が憶良の感性の働いた範囲であって、狭くして、系統立ち、一線をなしているものなのである。これは言い換えると、憶良は天与の歌人ではなく、努力の歌人であったということである。この感性の最も直接に、また具体的に現われているのは、その長歌である。憶良の長歌の持つ美は、「貧窮問答歌」、(九〇四)「男子名は古日を恋ふる歌」に極まっており、いずれも事象を細かく分解し、それに体系を付けつつ展開させて行っているもので、それに熱意より来る具象化は伴わしめてあるが、要するに説明的、散文的のものの持つ美しさである。これは根本が観念的であり、対象を凝視し、理解しているところより来るもので、直覚により、綜合力によって、ただちに事象の中心を捉えるという行き方とは正反対なものである。綜合力は歌人にとってきわめて重要なる資質であって、旅人はそれを豊かに持っていることを言ったが、憶良は旅人に較べるとその点において劣っており、語るところ多くして、最後の感味のそれに伴わないもののあることを思わしめるのは、その綜合力の劣っているが為である。しかし結論的にこの二人を比較すると、天与の歌人旅人の後に影響するところのものは、(16)努力の歌人慣良に遠く及ばないものがあるのである。これは憶良が、あくまでも生に執着し、それな進展せしめようとするところから来る必然の要求として歌を詠み、さらに進めては、歌を利用厚生の具に供そうとさえする熱意の致すところであって、その成行きがおのずからにして巧拙を超えての力となっているがゆえである。したがって自身の作品に対しても、憶良は旅人とは異なってそれを尊重する心を持っており、その跡を歌中にとどめている。例せば(八九七)「老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦み」の長歌で、「たまきはる現の限は」といい、その「現」は作意としては幾何かの年月を意味しているかを注しているところ、その反歌の一首である(九〇三)「倭文手纏」は、この長歌を作った天平五年を溯ること七年前の神亀二年の旧作であるのに、「類を以ての故に更に茲に載す」と注して添えているところ、また(八〇五)「世間の住り難きを哀しめる歌」には、「嘉摩郡にて撰定す」と、その作をした場所まで断っているところなど、いずれも自歌に対する尊重の心を示しているものであり、したがってその歌の苦心して詠んだものであることをも示しているものなのである。しかしこれを、作の動機という上から観ると、旅人の拓いた新生面が、実用性、文芸性の高潮時においての作というだけで、他意あってのものではなかったと同様に、憶良もまた、自身の個性の要求するまにまに作歌したというにすぎず、歌としての価値ということは念頭になく、問題ともしなかったものと思われるが、それが結果から観ると、際やかなる新生面となったのである。
 以上が巻第五の代表歌人たる、旅人と憶良との作歌に対する態度の概観である。これを時代的に言うと、この二人が生存していた万葉集中期は、歌風が一転しようとしていた時代であり、従来は和歌を実用性の物であるとし、したがってあくまで実際に即することを本意とすべき物であるとしていたのに、この時代は、時代的に許された個性尊重の念と、諸方面の文化の向上した影響を受けることとによって、和歌は気分を主とした風流なる物とされ、それとともに実際を尊重する心は後退し、その結果として、作歌は安易が喜ばれ、古歌の踏襲が風をなして来たのである。これは巻第四ですでに明らかなことである。旅人と憶良との相共に試みた、和歌をもって散文の心を遂げようとする傾向は、この間にあって、いみじき継承者高橋虫麻呂によって完成され、民間説話を長歌とするという形式において渾然たる作品となったのである。しかし二人の作歌精神から見ると、旅人の文芸性は継承されたが、憶良の知性と観念をまじえたものは、独り憶良にとどまって継承者を得なかったのである。和歌が実用性ということを根本とし、性格としている限り、文化の向上は、実際生活に対して知性的の眼を向けるということも、当然のこととして許されるべきであり、憶良の実際を尊重する熱意は、その知性的のものを浴かして新しき歌となし得ているのであるが、それが再び起り来るには時を要したのである。
 
(17)萬葉集巻第五 目次
雑歌
 大宰帥大伴卿、凶間に報ふる歌一首
 筑前守山上臣憤良の挽歌一首井に短歌
 山上臣憶良、感情を反さしむる歌一首 井に短歌
 山上臣憶良、子等を恩ふ敬一首井に短歌
 山上臣憶良、世間の住り難きを哀しめる歌一首井に短歌
 大宰帥大伴卿の相聞の歌二首
 答ふる歌二宮
 帥大伴卿、梧桐の日本琴を中衛大将藤原卿に贈れる歌二首
 中衛大将藤原卿報ふる歌一首
 山上臣憾良、媒懐石を詠める歌一首井に短歌
 大宰帥大伴細の宅の宴の梅花の歌三十二首井に序
 故郷を思ふ歌二首
 後に追和せる梅花の歌四首
〔以下略〕
 
(20) 雜歌
 
【標目】「雑歌」は、すでに巻一と巻三とに出ており、それについては解をしたが、この巻のものは、名を同じゅうして実を異にしていることが注意される。本来雑歌は、相聞、挽歌と並んで、本集の三大都立の一つであり、一と口にいうと、相聞、挽歌以外の歌の称であるのに、本巻の「雑歌」は、相聞と挽歌も含んだものであり、さまざまの歌を総括した称となっているのである。すなわち分類以前の歌の称である。これは本巻の撰者は、巻一、巻二、巻三、巻四の撰者と、態度を異にしていることを示しているものである。
 
     大宰帥大伴卿、凶問に報《こた》ふる歌一首
 
【題意】 「大伴卿」は、大伴旅人を敬っての称。「凶問」は、弔問で、「報ふる」とは、それに対して返事をする意である。凶問 というのは、旅人の妻大伴郎女が大宰府において没したことに対してのもので、その事は巻四にしばしば出た。最も確かな記録は、巻八(一四七二)の左注で、「右、神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿之妻大伴郎女、遇レ病長逝焉。于レ時勅使式部大輔石上朝臣堅魚、遣2大宰府1弔レ喪并賜レ物也云々」というのである。月は、堅魚の歌に霍公鳥が詠まれているところから、四、五月の頃と推せられる。
 
     禍故|重《し》き畳《かさな》り、凶問|累《しきり》に集る。永に心を崩す悲を懐《うだ》き、独腸を断つ泣《なみだ》を流す。但《やだ》両君の大きなる助に依りて、傾ける命纔に継ぐ耳《のみ》。【筆言を尽さざるは、古今の歎く所なり。】
      禍故重疊、凶問累集。永懷2崩v心之悲1、獨流2断v腸之泣1。但依2兩君大助1、傾命纔繼耳。【筆不盡言。古今所歎。】
 
【語釈】○禍故重き畳り 「禍故」は、『文選』にある語で、わざわいの意。「重き畳り」は、重なる意で、妻の死の外にもわざわいがあったとみえるが、それは分らない。○凶問累に集る 弔問の人や使が累りに旅人の宅に集まって来る意。旅人の地位から見て、まさにそうであったろう。○永に心を崩す悲 永久に、心も崩れるような悲しみ。○独腸を断つ泣 独りで腸の断えるような悲しみの涙。○両君の大きなる助 「両君」は、(21)この返事を宛てた二人であるが、誰であるかは分らない。この返書から推すと、親しい目下の人であろうと思われる。「大いなる助」は、心よりの慰め。○傾ける命(ワズカ)に継ぐ 傾ける命は、老衰した命。纔に継ぐは、辛くも続く。○筆言を尽さず 文字や語では書き切れないの意。『易』に、「書不v尽v言、言不v尽v意」に依るもの。○古今の歎く所 古も今も等しく嘆いていることの意。
【解】 これは旅人からいえば、実用の書簡であって、歌に較べるとむしろ重いもので、歌はその一部にすぎないものである。しかし歌を主として見ると、歌は相聞の範囲の物であり、作者のその時の事情に即したものであるから、こうした特殊の事情の下に詠んだものである以上、それのわかる限り、添えるべきもので、その関係は中世の歌の詞書と同じである。加えてこの当時は、書簡を文芸として見る風が盛行していたので、一層分ち難い関係となっていたのである。この事は、以下にも続出している。
 
793 世《よ》の中《なか》は 空《むな》しきものと 知《し》る時《とき》し いよよますます 悲《かな》しかりけり
    余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
 
【語釈】 ○世の中は空しきものと 「世の中は」は、仏教思想でいっていて、現世はというにあたる。「空しき」は、同じく仏教思想でのもので、「空し」は実に対させた語で、実すなわち恒久性がなく、流転して息まないの意で、無常というに当る。「空しきものと」は、無常な物と。○知る時し 「知る時」は、妻の死に遭って、知識として知っていたことを事実として知る時の意。「し」は強意の助詞。○いよよますます 「いよよ」は、いよいよの約。「ますます」は、現在も用いている。いずれも「悲し」にかかる副詞で、重ねることによって強めたもの。知識としても悲しかったものが、体験によって限りなくも悲しくなった、その程度を現わしたもの。○悲しかりけり 「悲しかり」は、「悲しくあり」の約で、形容詞。「けり」は、詠歎の助動詞。
【釈】 現世は無常なものであるということを、体験によって知る時は、知識として悲しかったよりも、いよいよますます悲しいものであることよ。
(22)【評】 妻の死に遭っての悲しみを訴えたもので、老齢に入って地方の任地で妻に死なれた心中は察するに余りあるものであるが、さすがにその悲しみを大観し、綜合して、単純な形の中に、含蓄として、現わしている歌である。安らかな調べをもって気品ある詠み方をしているのは、その心がいかに徹していたかを示しているものである。知識として持っていた悲しみが、体験によって深く知られたことをいうに、「いよよますます」という副詞によって、感性的に具象しているのは、すぐれたる歌才というべきである。亡妻を悲しむ歌で、これ程の気品を持ったものは稀れである。
 
     神亀五年六月二十三日
 
【解】 日付は、書簡としてのものである。
【題意】 次の弔文と詩、それに続く長歌と反歌には、題詞がない。しかし最後に、「神亀五年七月二十一日、筑前国守山上憶良上」とあって、憶良がその作を他人に贈ったものであることは明らかである。贈られたのは大伴旅人で、旅人の手許に残っていたのを、本巻の編者がそのままに資料にしたのである。それについては後に言う。目録には、「筑前守山上臣憶良の挽歌一首并に短歌とあるが、これは後に加えたものである。
 
     蓋し聞かくは、四|生《さふ》の起滅することは、夢の皆空しきに方《なら》ひ、三界の漂ひ流るることは、環の息《や》まざるに喩ふ。この所以《ゆゑ》に椎摩大士《ゆゐまだいし》は方丈に在りて、染疾の患を懐くことあり、釈迦能仁《さかのうに》は双林に坐《いま》して、泥?《ないをん》の苦みを免るること無しといふ。故《かれ》知りぬ、二聖の至極なるも、力負の尋《と》め至るを払ふこと能はず、三千《さみぜん》の世界、誰か能く黒闇の捜り来るを逃れむ。二つの鼠競ひ走りて、目を度《わた》る鳥|旦《あした》に飛び、四つの蛇争ひ侵して、隙《ひま》を過ぐる駒夕に走る。嗟乎《ああ》痛ましき哉《かも》、紅顔は三従と長《とこしへ》に逝き、素質は四徳と永《とこしへ》に滅ぶ。何ぞ図らめや、偕老は要期に違ひ、独飛、半路に生きむとは。蘭室の屏風《へいふう》徒に張りて、腸を断つ哀《かな》しみ弥《いよよ》痛く、枕頭の明鏡空しく懸りて、染?《せんいん》の涙|逾《いよいよ》落つ。泉門一たび掩へば、再び見るに由無し。鳴呼哀しき哉。
      蓋聞、四生起滅、方2夢皆空1、三界漂流、喩2環不1v息。所以維摩大士在2乎方丈1、有v懷2染疾之患1、釋迦能仁坐2於雙林1、無v免2泥?之苦1。故知、二聖至極、不v能v拂2力負之尋至1、三千世(23)界、誰能逃2黒闇之捜來1。二鼠競走、而度v目之鳥旦飛、四蛇争侵、而過v隙之駒夕走。嗟乎痛哉、紅顔共2三從1長逝、素質与2四徳1永滅。何圖、偕老違2於要期1、獨飛、生2於半路1。蘭室屏風徒張、斷v腸之哀弥痛、枕頭明鏡空懸、染?之涕逾落。泉門一掩、無v由2再見1。嗚呼哀哉。
 
【語釈】 ○聞かくは 聞いていることには。〇四生の起滅することは、夢の皆宜しきに方ひ 「四生」は、倶舎論の語で、生物を生まれる形式から卵生、胎生、湿生、化生と四大別した語で、一切の生物の意。「起減」は、生死。「夢の皆空しきに方ひ」は、「方」は「たくらぶ」とも訓まれていて、夢のすべて空しいがようで。〇三界の漂ひ流るることは、環の息まざるに喩ふ 「三界」は、欲界、色界、無色界で、現実の世界を想像させるところの世界で、一切の世界。「漂ひ流るることは」は、生物の流転することは。「環の息まざる」は、「環」は輪状をなしている玉で、「息まざる」は、はてのないのにで、流転のさま。○維摩大士は方丈に在りて 「維摩」は維摩詰所説経にある人で、釈迦と同時代の長者。「大士」は敬称。「方丈」は四方一丈の室で、僧の正室。○染疾の息 病気にかかる悩み。その経にあること。○釈迦能仁は双林に坐して 「能仁」は釈迦という語の漢訳で、ここは敬称の忠で蒐ねたもの。「双林」は、沙羅双樹の林。○泥?の苦しみ 「泥?」は、梵語|涅槃《ねはん》の訛という。寂滅の意。〇二聖の至極なるも 「二聖」は維摩と釈迦。「至極なる」は、至り極まっている人でも。○力負の尋め至るを払ふこと能はず 「力負」は荘子大宗師篇にある語で、夜、人の心付かない間に、山をも負って走るという無限の力を持った人で、死ということを喩えたもの。死を脱することが出来ない。〇三千の世界 三千大千世界で、一切の世界。一の日月と一|須弥山《すみせん》のある世界の一千が、一小千世界。その千が一中千世界。その千が大千世界。その三千がすなわち三千大千世界という。○黒闇の捜り来るを逃れむ 「黒闇」は涅槃経にある語で、一醜女の名で、これも死ということを喩《たと》えたもの。〇二つの鼠競ひ走りて、目を度る鳥旦に飛び 「二つの鼠」は、次の「四つの蛇」と共に仏説譬喩経の中にある譬喩談のもの。要は、人が曠野で象に逐われて、逃げ勘所がないところから、そこにあった空井戸の中へ、樹の限のあるに縋って入って、身を隠した。すると井戸の中には黒白二匹の鼠がいて、その縋っている樹の根を噛み切ろうとする。また井戸の四辺には四つの蛇がいてその人を噛もうとしているというのである。注があって、黒白の二鼠は昼夜であり、四つの蛇は四大だというのである。四大とは地水火風で、これが万物を組織している要素である。「目を度る鳥旦に飛び」は、昼夜の過ぎ行くことの速かなのは、鳥の飛ぶがようだと喩えたもの。〇四つの蛇争ひ侵して、隙を過ぐる駒夕に走る 「四つの蛇」は、上に言った。「争ひ侵して」は、互いに兢って身を侵すで、肉体の死を急がしめる意。「隙を過ぐる駒夕に走る」は、『荘子』知北遊篇の、「人生2天地間1、若v過2白駒郤1忽然云々」より引いたもの。これも時の経過の速かな意。以上、人間世界の無常なことを力説したもの。以下、妻の若くして死んだ意。○紅顔は三従と長に逝き 「紅顔」は、顔の紅いににおう意で、顔の美しさを讃えたもの。「三従」は、婦人の道で、嫁せざる間は父に従い、嫁しては夫に従い、犬死しては子に従うこと。「長に逝き」は、永遠に過去のものとなって。妻の若くして死んだ意。○素質は四徳と永に滅ぶ 「素質」は、白い肌で、若き身の美しさ。「四徳」は、『礼記』に、「婦人先v嫁三月、教以2婦徳婦言婦容婦功1」とあり、婦人の徳。上を繰り返したもの。○偕老は要期に違ひ 「偕老」は、偕《とも》に老ゆる意、夫婦一緒に老年となること。「要期」は、誓い約す意で、期していた時というにあたる。○独飛、半路に生きむとは 「独飛」は、鳥がその伴に離れて、唯一羽飛ぶ意で、独身の譬喩。「半路」は、中途。○蘭室の屏風徒に張りて 「蘭室」は、『家語』に、善き人の室に入るは芝蘭の室に入るが如く、久しくしてその香を知らずというを取った語。ここは婦人の閨房(24)の意。「屏風」は、形を隔つる具としての物。「徒に張りて」は、人の居ないところに空しく立って。○枕頴の明鏡空しく懸り 「枕預の明鏡」は、妻の枕辺の鏡。「空しく懸り」は、それを用いる人のない意。○染?の涕逾落つ 「染?」は、「キン」は、竹の皮。キンを染むる涕は、『博物志』に、舜が南巡して帰らず、蒼梧の野に葬った。舜の二女の娥皇と女英とは後を追って間に合わず、洞庭の山で、涙を落して竹を染め、その皮を斑らにしたという故事から出た語。○泉門一たび掩へば 「泉門」は黄泉の門で、墓の入口。「一たび掩へば」は、一且葬られれば。
 
【解】 この文は、結尾の日付及び「憶良上」とあるので明らかなごとく、憶良が旅人に、その妻大伴郎女の死を痛んで贈った弔問の書簡文である。そのことは「嗟乎痛ましき哉」以下この文の主要部において、死んだ女性に対して許され得る限りの敬語をつらねている点でも明らかで、それはこの場合、郎女以外の女性には言えないことだからである。この文で最も力をつくしているのは、その大部分を費やして仏教の死生観を説いていることである。まず無常と流転の大綱をかかげ、維摩釈迦の二聖すらそれを脱れられないことを言い、ついで一般の人に及ぼして、博く諸経の語を引いて切々と説き、初めて弔問に入るという態度で、理路と構成とともに整然としたものである。第三者として見ると、弔問の書簡というよりも、伝説を借りて死生を諭している談理の文という趣の濃いものである。さらに言えば筑前守としての憶艮が、長官としての旅人を弔問する書簡としては時宜を失った、出過ぎたものであって、憶良自身、仏説によって死生を脱しようと努力している心情を、場合をも顧みず披露したごとき趣のあるものである。これがおそらく憶良の人柄で、この文はその反映として見られる。このことはなお以下にも続くものである。
 
     愛河の波浪は已に先滅び、苦海の煩悩亦結ばるること無し。従来この穢土《ゑど》を厭離《をんり》す。本願生をかの浄刹に託《よ》せむ。
      愛河波浪已先滅、苦海煩惱亦無v結。從來厭2離此穢土1。本願託2生彼淨刹1。
 
【語釈】 ○愛河の波浪 「愛河」は、愛は愛欲すなわち男女間の欲情で、その絶えないさまを河に譬えた語。「波浪」は、欲情の現われるさまの譬。○已に先滅び 波浪が已になくなってで、女性としての欲情がなくなる、すなわち命が絶えた意。○苦海の煩悩 「苦海」は、人間生活の苦しさを涯《はて》しなき海に譬えたもの。「煩悩」は、人間の五欲に伴っている悩みで、本能としての欲望を追求することはすなわち悩みであるとしての語。○亦結ぽるること無し 再び起ることがないで、命を煩悩という面から見、こちらに力点を置いて、死を善意に解したもの。以上起承。○従来この穢土を厭離す 「従来」は、これまで。「穢土」は、現世を五欲と煩悩の現われその物として、穢《けがら》わしき所と見ての語。「厭離す」は、厭《いと》って離れていたで、智者としての精神状態。○本願生をかの浄刹に託せむ 「本願」は、根本的な願。本願としての意。「生」は命。「浄刹」は、「刹」は国土で、浄らかなる国土すなわち浄土。「託せむ」は、寄託しようで、委ねよう。以上転結。
【解】 一首は、生きた身を離れない愛欲と煩悩のない状態となった。これまでもそうした生活をする穢土として現世を厭ってい(25)たが、今は本願としての浄土へ往こうというので、郎女がその死を喜んで迎えている心のものである。すなわち郎女に代わって作っている形のものである。郎女がそれであるとすると、旅人としては、自分の悲しみはとにかく、郎女を憐れむ心はなごめられることで、慰められたことになる訳である。
 
     日本挽歌一首
 
【題意】 「日本挽歌」は、上の詩を漢風の挽歌とし、それに対させての国風の挽歌の意である。すなわち形式は異なっているが、心としては同じ人に対する挽歌である。
 
794 大王《おほきみ》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》と しらぬひ 筑紫《つくし》の国《くに》に 泣《な》く子《こ》なす 慕《した》ひ来《き》まして 息《いき》だにも いまだ休《やす》めず 年月《としつき》も いまだあらねば 心《こころ》ゆも 思《おも》はぬ間《あひだ》に 打靡《うちなび》き 臥《こや》しぬれ 言《い》はむ術《すべ》 為《せ》む術《すべ》知《し》らに 石木《いはき》をも 問《と》ひ放《さ》け知《し》らず 家《いへ》ならば 形《かたち》はあらむを 恨《うら》めしき 妹《いも》の命《みこと》の 吾《あれ》をばも 如何《いか》にせよとか にほ鳥《どり》の ふたり並《なら》び居《ゐ》 語《かた》らひし 心《こころ》背《そむ》きて 家《いへ》離《さか》りいます
    大王能 等保乃朝庭等 斯良農比 筑紫國尓 泣子那須 斯多比枳摩斯提 伊企陀尓母 伊摩陀夜周米受 年月母 伊磨他阿良祢婆 許々呂由母 於母波奴阿比※[こざと+施の旁]尓 宇知那批枳 許夜斯努礼 伊波牟須弊 世武須弊斯良尓 石木乎母 刀比佐氣斯良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 字良賣斯企 伊毛乃美許等能 阿礼乎婆母 伊可尓世与等可 尓保鳥能 布多利那良※[田+比]爲 加多良比斯 許々呂曾牟企弖 伊弊社可利伊磨須
 
【語釈】 ○大王の遠の朝廷と 「遠の朝廷」は複合名詞で、京より遠方にある役所の意で、国庁の総称。ここは大宰府を指している。「と」は、として。○しらぬひ筑紫の国に 「しらぬひ」は、筑紫にかかる枕詞であるが、意味は不明。「筑紫」は九州地方又は特にその北方の称で、ここは筑前国の大宰府を広く言いかえたもの。○泣く子なす慕ひ来まして 「泣く子なす」は、泣く児の如くで、意味で「慕ひ」にかかる枕詞。「慕ひ来ま(26)して」は、慕っていらっしやつてで、「来まして」は敬語。郎女が旅人に添って来たことを言ったもので、男が女に対して敬語を用いるのは例が多く、当時の風だったのである。○息だにもいまだ休めず 「だに」は、軽きを挙げて、重きを言外に置く助詞で、「も」は詠歎。旅行の疲れの息を休めることさえもまだせずにで、着いて間もなくということを具象的に言ったもの。郎女の没した日はわからないが、続きから見ると誇張のあるものと思われる。○年月もいまだあらねば 「年月」は、時日ということを具象的に言ったもの。「ねば」は「ぬに」と同意。○心ゆも思はぬ間に 「心ゆも」は、巻四(四九〇)に既出。心の底から。「思はぬ間に」は、思い懸けない間にで、意外にも短い間に。○打靡き臥しぬれ 「打靡き」は「打」は接頭語で、「靡き」はなよなよとしてで、「こやし」の形容。「こやしぬれ」は、「こやし」は「こゆ」即ち、臥すの敬語で、横におなりになる。「ぬれ」は条件法で、「ぬれば」の意。脱いて横におなりになったのでで、これは下の続きで死ということを婉曲に現わしたものである。この婉曲は技巧よりのことではなく、儀礼として、死ということを直接に言うことを憚ってのことである。○言はむ術為む術知らに 何とも言いようもしようも知らずで、「に」は打消。驚愕放心ということを具象的に言ったもので、慣用句。○石木をも問ひ放け知らず 「石木」は石や木で非情の物として言っている。「をも」の「を」は、『代匠記』は「に」の意のものと解している。普通ならば「に」という場合に「を」を用いるのは古い用法で、例のあるものである。「問ひ放け」は、巻三(四六〇)に既出。物を言いかけて心を晴らす意。石や木のような物にものを言って心を晴らすことも知られずで、上に統いて、驚愕放心を具象的に言ったもの。○家ならば形はあらむを 「家ならば」は、家に妻がいるのならば。「形はあらむを」の「形」は亡骸で、身と魂とを別な物とし、魂の身を離れることを死とする上代の心から言っているもの。「を」は、ものを。○恨めしき妹の命の 「恨めしき」は恨むべき。「家離りいます」に対して言っているもの。「妹の命」は敬称で、例の少ないもの。○吾をばも如何にせよとか 「吾をばも」は、この吾をば。「も」は詠歎。「如何にせよとか」は、どのようにしろというのかで、葬送によって新たに加わり来る悲しみの遣る瀕なさを、自身を客にし、妹のはうを主にして言っているもので、相手のほうを言うことによって我を現わすのは敬意よりのことであり、型となっているもの。○にほ鳥のふたり並び居 「にほ鳥の」は、かいつぶりの如くで、雌雄常に並んでいるところから、意味で並びにかかる枕詞。「ふたり」は夫婦。○語らひし心背きて 「語らひし」は語るの継続「語らふ」の過去で、睦まじくして来たで、「心」につづく。「心背きて」は心に背いて。○家離りいます 「います」は往くの敬語で、家を離れて往かせられるで、葬地へ送られることを、死者自身の心として往くとして言っているもので、敬意よりの言い方。
【釈】 大王の遠方にある役所として、筑紫国へ、我を慕っていらして、旅行の為の苦しい息さえもまだ休ませず、時日もまだ経《た》たないので、思い懸けない間に、なよなよとして横におなりになったので、何とも言いようもしようも知られず、石《いわ》や木のような物にものを言い感けて心を晴らすことも知られない、家にいるならば魂なき形骸はあろうものを、恨めし妹の命は、この吾をどうしろというのか、二人並んでいて睦まじくして来た心に背いて、家を離れて往かせられる。
【評】 この挽歌が大伴郎女を対象としたものであることは、上の書簡に続いての漢詩に対して「日本挽歌」と題して、それらと一連であることを示していることで明らかである。さらにまた、歌の中の敬語もそれを示していると言える。「慕ひ来まして」という程度の敬語は、この時代には一般に慣用されていたものであるが、郎女の死を叙するに、「打靡き臥しぬれ」という(27)如き、きわめて間接な、また語を省いた叙し方をしているのは、尋常な敬意よりではなく、甚だ尊敬してのことである。また、葬送を叙するに、「妹の命の、家離りいます」という言い方も、例のない程のものではないが、相応に尊敬しての言い方で、この場合郎女以外の女性に対して言うべきことではなくみえるからである。さてこの歌を作る態度であるが、これは憶艮が旅人に代わって作っている形のものである。このことは、すでに上の漢詩が郎女に代わってのものであって、憶良としては問題にならなかったものとみえる。時代に多少の差はあるが、笠金村の作にも、大伴坂上郎女にも「誹《あつら》へらえて」と断わってそれをしているものがあって、そのことを怪しまない雰囲気があってのことと思われる。これは歌が実用性より文芸性のものに移って来れば、おのずから発生すべきことと言えるものである。次にこの歌で憶良が旅人に代わって言っていることは、憶良自身として書簡で言っていることとは甚しく距離のあるもので、そちらでは死の余儀なきことを、理法を旨として説いているのに、こちらでは旅人が悲しみを尽くし、ほとんど情痴に陥ろうとさえしていることを言っているのである。理と情とは一致しないのが普通であるから、理は心得ている旅人としても、情の悲しさには堪えられぬということも、当然のこととして言わしめたのであろう。さらに言えば、憶良の理を強調したのも情の激しさがさせたことで、彼としてはこの情痴に近い言を連ねずにはいられなかったのであろう。次にこの歌の出来ばえは、憶良の特色である、綜合力に富んでいるところから来る簡潔で、線の太く力強いところはなく、反対に平面的で、線が細く、感の薄いものとなっている。長歌であるのに句絶を設けず、しかも整った構成を付けず、「石木をも問ひ放け知らず」と言ひ、「吾をばも如何にせよとか」というごとき、細かい含蓄のある句を用いているが、そのわりに効果の少ないものとなっているのは、実感ではない作為の歌だからと思われる。
 
     反歌
 
795 家《いへ》に行《ゆ》きて 如何《いか》にか吾《あ》がせむ 枕《まくら》づく 嬬屋《つまや》さぶしく 念《おも》ほゆべしも
    伊弊尓由伎弖 伊可尓可阿我世武 摩久良豆久 都摩夜佐夫斯久 於母保由倍斯母
 
【語釈】 ○家に行きて如何にか吾がせむ 家に帰って行って、どのように吾はしたものであろうかで、嬬を墓所に葬り終って、家に帰ろうとした際の心。○枕づく嬬屋さぶしく 「枕づく」は枕を置いてあるで、説明の意で嬬屋にかかる枕詞。巻二(二一〇)に既出。「嬬屋」は嬬の住んでいる家。「さぶしく」は楽しくなく。○念ほゆべしも 思われようで、「も」は詠歎。
【釈】 家に帰って行ってどのように吾はしたものであろうか。妻のいない嬬屋は楽しくなく思われることであろう。
【評】 長歌の結末と時間的に緊密に関係させ、また長歌では嬬を主としているのに、これは自身を主としたもので、展開をも(28)たせたものである。墓所と嬬屋との間に低迷している心を言おうとしたもので、気分としては微妙なものであるが、調べが低く、感の現われていない歌である。
 
796 愛《は》しきよし かくのみからに 慕《した》ひ来《こ》し 妹《いも》が心《こころ》の 術《すべ》も術《すべ》なさ
    伴之伎与之 加久乃未可良尓 之多比己之 伊毛我己許呂乃 須別毛須別那左
 
【語釈】 ○愛しきよし 形容詞「愛しき」に感動の助詞「よし」を添えて一語としたもの。愛《かわ》ゆいことよで、独立句。○かくのみからに 「かく」は、このようにで、筑紫に来ると間もなく死んだ、その儚《はか》なさを総括して言ったもの。「のみ」は、ばかりで、「かく」を強める為のもの。「からに」は、故にであるが、現在の口語の「のに」にあたる。○慕ひ来し妹が心の 我を慕って筑紫まで来た心が。○術も術なさ 「術も」は、「術なさ」を強める為に重ねたもので、例が多い。「術なさ」は言いあらわす術がないで、何とも言いようもなくかわゆいことだの意。
【釈】 愛《かわ》ゆいことであるよ。こんな事になるばかりであるのに、我を慕って遠く来た妹が心が何とも言いようもない愛ゆいことである。
【評】 自身の悲しさをしばらく離れ、あわれな成行きとなった妻の上に心を移し、自分を慕って遠い旅へ来て儚なくなった心根《こころね》をたまらなくかわゆく思い、そのかわゆさだけを言った歌である。憶良の特色である大観して綜合する心の強い作である。「愛しきよし」と初句を独立句としているのは、それが一首を総括した心だからで、以下はその説明である。初句に独立句を据える形は以前には見えないもので、おそらく憶良の創めたものであるが、技巧としての試みではなく、彼としては実感に即しての言いあらわしで、必然性のあったものである。結句の「術も術なさ」は「愛しきよし」の繰り返しで、相応じうる言いあらわしである。反歌としてすぐれたものである。
 
797 悔《くや》しかも かく知《し》らませば あをによし 国内《くぬち》ことごと 見《み》せましものを
    久夜斯可毛 可久斯良摩世婆 阿乎尓与斯 久奴知許等其等 美世摩斯母乃乎
 
【語釈】 ○悔しかも 終止形「悔し」から「かも」に統くのは古格で、巻三(三二二)「凝《こご》しかも」と同じ。独立句。○かく知らませば 「かく」は死んだこと。「ませば」は助動詞「まし」の未然形に「ば」のついたもので、仮定の推量をあらわすものであり、巻二(一九七)「しがらみ渡し(29)塞《せ》かませば」と同じ。○あをによし国内ことごと 「あをによし」はしばしば出た語で、奈良へかかる枕詞であるが、ここは「国」へかかっている。讃美の意の語で、その可能があるとしてのことと取れる。「国内」は「くにうち」の約で、「国」は筑紫。風景の珍しく好い筑紫国の内を隈なく。○見せましものを 「まし」は、「ませば」と呼応した結。「を」は、感動詞。
【釈】 悔しいことであるよ。このようになると若し知ったならば、筑紫国の内を隈なく見せようものを。
【評】 この歌は、第一の反歌と同様に、旅人の心を想像して詠んだことの明らかな歌である。当時の上流婦人は、戸外へ出ることも極めて稀れであったことと、時代の風尚として風景の鑑賞が重んじられ、旅人はことにそれを好んでいたので、その上に立っての想像である。しかしこの場合の歌としてはやや余裕のありすぎるもので、したがって感の薄いものである。「悔しかも」と初句を独立句として、以下その内容を言っていることは前の歌と同様であるが、それにふさわしい緊張の持てなかったのは、同じく想像としても憶良自身をとおすところが少なかった為である。
 
798 妹《いも》が見《み》し 棟《あふち》の花《はな》は 散《ち》りぬべし 我《わ》が泣《な》く涙《なみだ》 いまだ干《ひ》なくに
    伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
 
【語釈】 ○妹が見し棟の花は 「妹が見し」は、妹が生前に見たところので、家に近くあったもの。「棟」は棟科の落葉裔木で、今は栴檀《せんだん》と呼んでいる多くある木。五月頃淡紫色の小花を開く。○散りぬべし 散るであろうで、心付いて見た形の言い方。○我が泣く涙いまだ干なくに 泣く涙は、死を悲しむ涙で、死の直後のもの。「干なくに」は干ないことであるのにで、「なく」は打消「ず」の名詞形。
【釈】 妹が生前見たところの棟の花は散るであろう。死を悲しんで我が泣く涙は、まだ干ないことであるのに。
【評】 悲しみにとざされて家の内に籠もっており、外も見ずにいた際、たまたま庭に咲いている棟の花の散りそうになっているのに目を着け、それを見た妹を強く思い出すとともに、自身のその時の涙のまだ干ないように泣き続けていることを思った心である。憶良の大観し綜合する心とともに、その感性の面も同時に働いて、力ある感の強い歌となっている。棟の花は郎女の死の時期を示すものともなっている。
 
799 大野山《おほのやま》 霧《きり》立《た》ちわたる 我《わ》が嘆《なげ》く おきその風《かぜ》に 霧《きり》立《た》ちわたる
    大野山 紀利多知和多流 和何那宜久 於伎蘇乃可是尓 紀利多知和多流
 
(30)【語釈】 ○大野山霧立ちわたる 「大野山」は、福岡県筑紫郡大野町大宰府都府楼址の背後の山。「霧立ちわたる」は、霧が立ちつづいている。○我が嘆くおきその風に 我が嘆いておきそをする風によって。「おきそ」は「息嘯《おきうそ》」だと本居宜長が解している。おきは息、嘯はうそぶくで、口をすぼめて息をすることで、嘆きを具象的に言ったもの。「風」は息の荒さを誇張したもので、拠りどころがある。日本書紀神代紀に「嘯之《ウソブク》時(ニ)迅風忽(チ)起(ル)」とあるなどである。「に」は、によって。○霧立ちわたる 二句の繰り返し。これも古事記神代の巻に「吹棄気吹之狭霧《フキウツルイブキサギリ》」によったもので、荒い息とともに出る務を誇張したもの。
【釈】 大野山に霧が立ちつづいている。我が嘆いてするはげしい気吹《いぶき》の風によって、霧が立ちつづいている。
【評】 旅人がその住んでゐる大宰府の背後の大野に一面にかかっている薄霧を見て、自分が山に対って漏らしている嘆きの大きな息が、それとともに立つ風に送られてあの霧になったとしている心で、憶良の想像よりの心である。時は初夏であるが、大野山には薄霧のかかることもあるので、それを根拠としての想像であろう。甚しく誇張した想像であるが、一首の形は、二句に句切れを置き、第二句を結句で繰り返すという最も原始的なものであるとともに、嘆きの息が風となり、また霧となるということは、当時の知識階級には親しみの深い記紀の中にあることなので、誇張とはいえ一種の妥当感のあるものだったろう。したがって一首、自然な、重量のある作となっているのである。反歌の結として適当なものである。
 
     神亀五年七月二十一日 筑前国守山上憶良|上《たてまつ》る
 
【解】 上の書簡に始まった一連の作の最後に添えた日付と姓名であって、書簡の型となっているものである。宛てたのは旅人にであって、大伴家に残っていたままの形でここに収めたのである。棟の花の咲いて散るのは最夏であるのに、七月下旬は太陰暦では盛夏であるから、ある時日な経て贈ったのである。
(31)【総評】 この作の対象となっている亡妻については、従来見解が一定せず、憶良自身の妻で、それについての作を文芸作品と見なして、同好の旅人に示したのではないかとの説があり、有力なものともなっていた。「日本挽歌」と題してある長歌と反歌だけを切り離して見ると、挽歌の性質として、境遇を同じくしている旅人と憶艮には、さしたる無理なく適用し得られるものなので、そうした解も出たのである。しかし上に言ったがように、書簡と漢詩を主体とし、「日本挽歌」をそれに付随した形のものと見ると、書簡は明らかに大伴郎女を対象としたものであることが知られ、またそれは文芸品としてのものではなく、社交上の儀礼としてのものであって、実用性のものだということが知られるのである。もっとも巻首の歌で、旅人自身「凶問累に集る」と言っているので、その中にはこの種のものもあったろうかと思われるが、それがこの外には一つも残っていないところを見ると、文芸作品として残すに足りるものがなかったからかとも思われる。それはとにかく、この一連は、これを凶問とするとじつに特殊な形を備えたもので、またその力を傾注してのものでもある。長扁の弔文と漢詩に、さらに長歌と五首の反収ということは、決して尋常な物ではなく、憶良以外の何びともおそらくは思い寄りもしないものであろう。まして対象の郎女は、当時のこととて夫以外の男性には決して顔を見せない人なので、このことは一段と特殊なことと言うべきである。これは一に憶良の人柄より発していることと思われる。彼の作品は彼自身の不幸または他の不幸を題材としていることが特色で、それが憶良の人柄を語っているのであるが、ことに死に対しての関心が深く、何らの直接の繋がりのない旅中の一青年、また漁夫などの死に対してさえ、強い感動をもって挽歌を作っているのである。大伴郎女に対してもそれと同じ感動を起こし、遠い旅をして筑紫まで来、間もなく没したことを知ると黙ってはいられなくなり、相手が相手ゆえ、この時代としては出来る限りの形体を備えた、このような弔問をしたことと思われる。しかしこれを憶良の作品中に並べて見ると、努力の程は思われるがすぐれた物ではない。実感の伴わない事柄を、想像によって作ったものだからであって、彼にはそれを超えることは出来なかったのである。
 
     或《まど》へる情《こころ》を反《かへ》さしむる歌 并に序
 
【題意】 作者の憶良であることは、(八〇五)の左注で明らかで、この歌以下それまでを一括して明らかにしている。「或へる情」は、「或」は「惑」に通じて用いていた字で、人の本性に背いた情で、くわしくは憶良自身「序」で説いている。「反さしむ」は、引き戻らしむである。「歌」は古くから長歌を指す称で、短歌はそれを断わっている。長歌は歌の主体であった時代を受けての称、この歌では短歌のはうは略して言わずにいる。「序」は、『代匠記』は孔安国尚書序の「序者所3以序2作者之意1」を引いて解としている。今の場合はそれで、作歌の理由を言っているのである。広くいえば題詞の範囲のものであるが、事が複雑で、思想問題(32)をも含んで、題詞とはし難いところから、独立させたものと見える。一方、漢詩文の影響もあるものと思われる。
 
     或るは人あり、父母を敬《ゐやま》ふことを知れども侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱履よりも軽みせり。みづから倍俗|先生《せむじやう》と称《なの》る。意気は青雲の上に揚れども、身体は猶は塵俗の中に在り、未だ修業して得通したる聖たる験《しるいし》あらず、蓋し是れ山沢に亡命する民ならむ。所以《かれ》三綱を指示し、更に五教を開き、遣るに歌を以ちてして、其の或《まとひ》を反さしむ。歌に曰はく、
      或有人、知v敬2父母1忘2於侍養1、不v顧2妻子1輕2於脱※[尸/徒]1自稱2倍俗先生1。意氣雖v揚2青雲之上1、身体猶在2塵俗之中1、未v驗2修行得道之聖1、蓋是亡2命山澤1之民。所以指2示三綱1、更開2五敦1、遣之以v歌、令v反2其或1。歌曰、
 
【語釈】 ○或るは人あり ともすると、こうした人があるで、わざと婉曲に言ったもの。○侍養を忘れ これが惑える情。○脱※[尸/徒]よりも軽みせり 「脱※[尸/徒]」は『淮南子』『史記』などにある語で、※[尸/徒]は履《くつ》と同じ。脱ぎすてた履で軽んずる譬。これも惑える情。○倍俗先生 「倍」は紀州本による。他は諸本「畏」。『代匠記』は「異」の誤写ではないかといっている。「倍」は背く意。「倍俗」は俗世にそむく意。「先生」は先覚の意。○意気は青雲の上に揚れども、身体は猶ほ塵俗の中に在り 意気は志。青雲は『文選』『史記』などにある語で天。青雲の上は、塵俗の中と対させてあり、下の続きでも、当時流行していた仙術で、実際に上天する意で言っているもの。○修行して得道したる聖たる験あらず 修行も神道も仏典の語。仙術を修行して、その道を身につけ得た仙人だという実証がない。○山沢に亡命する民ならむ 山沢は山や沢で、村閭に対させた語で、常民の住むべくもない地の意のもの。亡命は『史記』にある語で、命は名前、亡は無で、戸籍より名前を削られる意で、したがって民は浮浪民。〇三綱を指示し 『白虎通』の語。君臣父子夫婦の関係で、君は臣の綱、父は子の綱、夫は婦の綱の恵。生活秩序の基本。〇五教を開き 五教は『左伝』にあり、父は誠、母は慈、兄は友、弟は順、子は孝。○遣るに歌を以ちてし 遣るは贈る。歌をもって教訓しての意。
【解】 国守たる者は、その職分の一つとして、治下の民に、三綱五教を救うべきことが定められた。筑前守である憶良は、務めとしてそれを行なうべきであった。この歌を作った動機はそこにあったので、創作欲からではなく、義務の遂行の為だったとみえる。憶良が惑情《まとえるこころ》を持っているとした者は、自ら倍俗先生と称っている者で、その実は山沢に亡命する民だったのである。史家の言うところによると、当時の国司は堕落している者が多く、自身の為に甚しい苛斂誅求な敢えてしていて、庶民はその苦痛に堪えられず、郷里を棄てて亡命する者が多かったという。さらに一方には、老荘思想というよりはむしろ道教の、神仙思想に憧れる風が盛行していて、庶民の間にもそれをまねぶ者があったとみえる。我が国体を学ぷ念の極めて深く、また家庭愛の強さ(32)を示している憶良より見れば、それら個人本位の態度は、原因の如何にかかわらず、惑情《まとえるこころ》とみえたことと思われる。3三綱五教は、我が国風と通うところのあるものであり、またそれを教えることが職責の一部ともなっているので、その方便として歌としたのである。
 
800 父母《ちちはは》を 見《み》れば尊《たふと》し 妻子《めこ》見《み》れば めぐし愛《うつく》し 世《よ》の中《なか》は かくぞ道理《ことわり》 黐鳥《もちどり》の 拘泥《かからは》しもよ 行方《ゆくへ》知《し》らねば 穿沓《うけぐつ》を 脱《ぬ》ぎ棄《つ》る如《ごと》く 踏《ふ》み脱《ぬ》ぎて 行《ゆ》くちふ人《ひと》は 石木《いはき》より なりてし人《ひと》か 汝《な》が名《な》告《の》らさね 天《あめ》へ行《ゆ》かば 汝《な》がまにまに 地《つち》ならば 大王《おほきみ》います この照《て》らす 日月《ひつき》の下《した》は 天雲《あまぐも》の 向伏《むかぶ》す極《きはみ》 谷蟆《たにぐく》の さ渡《わた》る極《きはみ》 聞《きこ》し食《を》す 国《くに》のまほらぞ かにかくに 欲《ほ》しきまにまに 然《しか》にはあらじか
    父母乎 美礼婆多布斗斯 妻子美礼婆 米具新宇都久志 余能奈迦波 加久叙許等和理 母智騰利乃 可可良政志母与 由久弊斯良祢婆 字耽具都連 奴伎都流其等久 布美奴伎提 由久智布比等波 伊波紀欲利 奈利捉志比等迦 奈何名能良佐祢 阿米弊由迦婆 奈何麻尓麻尓 都智奈良婆 大王伊摩周 許能提羅周 日月能斯多波 阿麻久毛能 牟迦夫周伎波美 多余臭久能 佐和多流伎波莫 企許斯速周 久尓能腕保良叙 可尓迦久尓 保志伎麻尓麻尓 斯可尓波阿羅慈迦
 
【語釈】 ○父母を見れば尊し 人間の本能として実際に即し、極めて率直に言っている。○妻子見ればめぐし愛し 「めぐし」は、「心ぐし」と同系の語で、目が曇る意の形容詞、いとしいという意を、そうしたものを見る時の状態によって具象した語。「愛し」は、かわゆいで、上と同義語を重ねて強めたもの。○世の中はかくぞ道理 「世の中は」は、人の世すなわち人間生活は。「かくぞ」は、そうあるのがで、「ぞ」は係助詞。「道理《ことわり》」は筋道で、下に「ぞ」の結を略して、名詞止めにして、強く上を総括している。○黐鳥の拘泥しもよ 「黐鳥の」は黐にかかった小鳥の如くで、その離れ難い意から、拘泥しの枕詞としたもの。「拘泥し」は、動詞「懸《か》かる」の継続をあらわす「懸からふ」を形容詞としたもの。どうにも離れられないの意。「もよ」は詠嘆の助詞。○行方知らねば 遁れて行くべき所が知られないのでの意。以上九句で第一段。七七をもって結んで、独立した一篇のようにしているもので、特殊な一段である。○穿沓を脱ぎ棄る如く 「穿沓」は、疲れて穴のあいた沓。「脱ぎ棄る」の「棄る」は、「都流」の仮名に本居宣長の当てた字。日本書紀、神代紀に、「吹棄、此云2浮枳于都屡《ふきうつる》1」とあるに拠ったので、その「うつ」が「つ」に(34)転じたもの。穿沓は極めて値のないもので、それを脱ぎ棄てるように。○踏み脱ぎて行くちふ人は 「踏み脱ぎて」は、上の「脱ぎ棄《つ》る」を状態として重ねて言って強めたもの。「行くちふ人は」は、「行く」は、家を出て行く。「ちふ」は、というの転で、行くとかいう人はの意で、特別な人としての言い方。○石木よりなりてし人か 「石木」は、非情の物として言っている。「なり」は、本来は変化する意であるが、ここは生まれる意。「て」は完了の助動詞。石や木から生まれた人なのかと、咎め罵るのを抑えて、訝《いぶか》りの形にしたもの。○汝が名告らさね 「告らさね」は、告るの敬語、告らすに、他に対しての願望の「ね」を添えたもの。そなたの名を聞かせてくれと、畳みかけて訝ったもの。以上七句、七七で結んで、第二段。山沢に亡命する民の状態を言ったもの。○天へ行かば汝がまにまに 「天へ行かば」は、天上へ登って行くのならばで、飛行の仙術を言ったもの。「汝がまにまに」は、そなたの心まかせで、その不可能を婉曲に言ったもの。○地ならば大王います 「地ならば」は、地上にいるのならば。「大王います」は、支配者としての天皇がまします。○この照らす日月の下は 照らすところの日や月のある下はで、天下という意を上の「地《つち》」を受けて具体的に厳かに言ったもの。○天雲の向伏す極 天の雲が向って伏しているで、地の涯《はて》という意を具象的に言ったもので、祝詞祈年祭の中などに用いられている成句。○谷蟆のさ渡る極 「谷蟆《たにぐく》」はひきがえる。「さ渡る」は、「さ」は接頭語、「渡る」は遠くまで行く意で、ひきがえるは習性として如何なる所も潜って這いゆくところから、地上の如何なる隈々もという意を具象的に言ったもの。「極」は上と同じ。これも上の二句と同じく祈年祭に用いられている成句。何れも事を厳かにしようとの心から用いたもの。○聞し食す国のまほらぞ 「聞し食す」は既出。統治し領する意。「国のまほらぞ」の「まほら」は、「ま」は接頭語。「ほ」は、秀で、秀でた所。「ら」は接尾語で、国土を讃えた古語で、尊い国ということをあらわす心をもって用いたもの。○かにかくに欲しきまにまに あのようにもこのようにも、したいと思うままにするで、自由に勝手なことをするの意。○然にはあらじか 「然には」は、上を受けて総括して、そうしたものでは。「あらじか」の「か」は感動の助詞で、あるまいよの意。物柔らかに諭した言い方。以上十五句で、第三段。天皇の民であることを、言葉を極めて言ったもの。
【釈】 父母を見ると尊い。妻や子を見るといとしくかわゆい。世の中というものはそうあるのが道理で、黐にかかった鳥のようにどうにも離れられないものであるよ。その外に行く所が知られないので。
 穴のあいた破れ履を脱ぎ棄てるように、脱ぎ去ってその家を出て行くとかいう人は、石か木から生まれた人なのか。そなたの名を聞かせてもらいたいものだ。
 天上の国へ行くのなら、そなたの随意だ。地上にいるのなら、大王がいらせられる。この日月の照らしている下は、天雲の向い伏している涯まで、ひきがえるの這い渡る隈々まで、大王の御統治なさる尊い国であるぞ。あのようにもこのようにもしたいままにする、そうしたものではなかろうよ。
【評】 この歌は幾つかの問題を含んでいる。第一は憶良が何故にこのような教訓の歌を作ったかということである。歌は少し溯ると実用性のもので、日常生活の必要を充たすための物であったから、その必要がある限り、如何なる歌を作ろうともかまわなかった筈である。しかしこの時代には、実用性の時期は超えて、著しく文芸性のものとなっていたから、教訓を目的とした歌は特殊なものだったのである。それを敢えてしたのは、憶良としては作らずにはいられない必要を感じてのことと思われ(35)る。一つは彼の人柄からである。国家主義の儒教を奉じていた憶良から見ると、それとは反対な、個人の享楽を目的としている神仙道の如きは、極めて憎むべきもので、中央に盛行していたそれが、任国の筑前国に波及しているのを見ると、黙止することの出来ない衝動を受けたものと思われる。又それだけではなく、国守の職責の中には、管下の民を教導することが主なる一条として規定されているので、職務に忠実なる彼は、職責としてそうした者を善導しなくてはならないという心を抱き、それとこれと相俟って、こうした歌としては例のない教訓を目的とした作を思い立ったことと解される。
 第二は、この長歌の持つ形式である。言ったがごとくこの長歌は一首三段から成っているが、その各段はそれぞれ七七をもって結ばれ、完全に独立した形を備えているのである。したがってこれを三段と見るよりも、三首の短い長歌が、各々独立するとともに連絡を保ち、合して一首の長い長歌を成していると見られるものである。これは歴史的に見れば彼の人麿の長歌や短歌の上で行なっていた連作形式をさらに前進させたものであるが、憶良自身としてはそうしたことには関係なく、それを必要として取った形式であろう。必要というのは、目的は教訓にあって、それには明晰と単純とが第一条件なので、それを充たそうとすれば勢いこうした形を取らざるを得なかったろうと思われる。それは一句一句の上にも明らかである。例せば起首を見ても、「父母を見れば等し、妻子見ればめぐし愛し」とあるごとく、短い独立文を集合させて作っている点に、如何に明晰と単純を期していたかが窺われる。人麿の長篇の中に一句切れを置かず、一首一文としているのとはまさに対蹠的な態度を取っているのである。要するに教訓の歌という作因が表現形式を決定して、従前に例のなかった形式を生み出させているのである。ここに憶良の歌その物に対する態度、また作歌態度が窺われるのである。同時にこの形式がこの歌に始まりこの歌に終わっている理由も知られるのである。
 第三には、この歌に添っている序である。このように纏まった序が、一首の歌に添っているということは、本集にあってはこれが初めであって、特殊なものと称すべきである。歌との繋がりから見ると、この歌はこの序がなければ十分には解されないものなので、その必要は題詞と同じであって、性質としては長い題詞というにすぎないものである。即ち必要を充たす為に添えたもので、その点は、上の表現形式よりもさらに重大なものであって、決して興味よりの物ではないのである。これを歴史的に見れば、記紀の歌謡の前後に添っている物語と性質を同じゅうするもので、憶良の創意とは言えないものである。このことは、本巻でも旅人によって試みられて文芸的なものとして展開し、さらに家持などに継承されて、次の平安朝時代に入るといわゆる歌物語となったものである。展開は多くの原因も伴っていようから一概には言えないが、意図的に歌の作因を散文をもって説明している纏まったものという観点から見れば、この序はおそらくその最も古い、礎石的なものと言わるべきものであろう。
 
(36)801 ひさかたの 天路《まぢ》は遠《とほ》し なほなほに 家《いへ》に帰《かへ》りて 業《なり》をしまさに
    比佐迦多能 阿麻遅波等保斯 奈保々〃尓 伊弊尓可弊利提 奈利乎斯麻佐尓
 
【語釈】 ○ひさかたの天路は遠し 「ひさかたの」は、天あるいは天象にかかる枕詞。「天路」は天へ通う路の意にも、天その物の意にも用いる。ここは天その物で、そこを仙人の住むところとして言ったもの。「遠し」は、遠くして行き難いの意で、言いかえると、仙人となって天へ登ることは出来ないの意。○なほなほに 「なほ」は直で、すなおに。重ねて強めたもの。○業をしまさに 「業《なり》」は、本来は物を成らせる農業で、転じて広く生業をもさす。当時の庶民の生業はほとんど全部農業であった。「しまさに」は、「する」の敬語「します」に他への願望の助詞「ね」の転音「に」を添えたもの。
【釈】 仙人となって住む天上は、遠いことである。そのようなことに憧れるより、すなおに、その家へ帰って生業をなされよ。
【評】 長歌の心を集約して、繰り返して言ったものである。したがって、長歌に関連させて見て意味の徹する歌である。素朴に懇切に諭し訴える心の現われている歌である。
 
     子等を思ふ歌一首 并に序
 
【題意】 「子等」は子どもで、複数。童というべき年齢だったことが歌で知れる。任国筑前で作った歌で、子等は歌の上で、遠く離れていたことがわかるが、奈良京に残してあったのかと思われる。
 
     釈迦如来、金口《こんく》に正《まさ》しく説き給はく、等《ひと》しく衆生を思ふこと、羅※[人偏+候]羅《らごら》の如しといへり。又説き給はく、愛《うつくし》みは子に過ぎたるは無しといへり。至極《しごく》の大き聖すら、尚《なほ》子を愛《うつく》しむ心あり。況《ま》して世間の蒼生《あをひとぐさ》、誰か子を愛《うつく》しまざらめや。
      釈迦如來、金口正説、等思2衆生1、如2羅※[人偏+候]羅1。又説、愛無v過v子。至極大聖、尚有2愛v子之心1。況乎世間蒼生、誰不v愛v子乎。
 
【語釈】 ○金口 釈迦は金身であったので、その口を尊んで言ったもの。○衆生 仏典の語で、一切の生物。○羅※[人偏+候]羅 釈迦の在俗中の子。「等(37)しく」以下は、最勝王経粍に出ている語。○至極の大き聖 釈迦を尊んでの称。○蒼生 一般の人。
 
802 瓜《うり》食《は》めば 子等《こども》おもほゆ 栗《くり》食《は》めば まして偲《しぬ》はゆ 何処《いづく》より 来《きた》りしものぞ 眼交《まなかひ》に もとな懸《かか》りて 安寝《やすい》しなさぬ
    字利渡米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯提斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曾 麻奈迦比尓 母等奈可可利提 夜周伊斯奈佐農
 
【語釈】 ○瓜食めば子等おもはゆ 「瓜」は、今のまくわ瓜で、夏の物。「子等」は、複数。「おもほゆ」は、思われる。○栗食めばまして偲はゆ 「栗」は、秋のもの。「まして」は、瓜の時にもまさって。「偲はゆ」も、しみじみ思われる。○何処より来りしものぞ 何処《いづく》は、何処《いづく》の古語。何処から来たのだぞと怪しんだ語。夜、床にあって、ふと目の前に浮かんで来た面影に対して言ったもの。○眼交にもとな懸りて 「眼交」は眼間《マナコアイ》の約で目と目の間の意で、今の目の前《さき》にあたる。「もとな」は既出。由なくの意。「懸りて」は、ちらついていてにあたる。○安寝しなさぬ 「安寝」は一語で、安は安らかな、寝《い》は眠りで安眠。「し」は強め。「なさぬ」は、「なす」は寝るの敬語。「なす」に、打消の「ぬ」の添ったもので、他に対してすなわち子どもに対して用いているものである。我が子に対して敬語を用いている例はないが、妹に対してのものは相応に多い。妹に対してのものも慣用の意が多かろうから、子どもにも同じ意で慣用していたが、文字としてあらわす場合が少なかった為、文献に見えないのであろう。ここの子等は童であるから、かわゆいという点では繋りがある。
【釈】 まくわ瓜を食うと、好んで食う子等が思われる。栗を食うと、それにもましてしみじみ思われる。何処《どこ》から来たものであろうぞ、夜になると我が目のさきに由もなくちらついていて、安眠をなさらない。
【評】 集中を通じて、男親で子の愛《かな》しさを詠んでいる者は一人憶良があるだけで、他には例がない。他の人が家といい、国という時には、すべて妹であって、妹の代名詞のようになっているのに、憶良は反対に、妹をいうことはきわめて少なく、子のほうが遙かに多くて、子が家の中心をなしている趣がある。彼はこの時すでに老境に入っているのに、瓜、栗などによって連想される少年期の子等を持っていたということは、この当時としても異数なことであって、その為に愛情が特に深かったかも知れぬが、とにかく珍しい子煩悩だったのである。儒教の道徳もそれを支持していたかと思われる。この歌の後半など、愛《いつくし》みというよりもむしろ情痴ともいうべきもので、自身の安眠のできないのを、子が安眠しない為だとし、子を主に立てて尊んで言う上に、敬語までも用いているのである。この歌は形式からいうと九句で、一種の定型となっていた伝統的なものであり、したがって類の少なくないものである。しかしこの歌のように、短い独立文を用いて引締まった言い方をし、立体感を盛り上ら(38)せているものは、他にはない。これは憶良の強い綜合力が、感性によって生かされ、この定型と微妙に調和しているからである。完壁と称しうる作である。
 
     反歌
 
803 銀《しろがね》も 金《くがね》も玉《たま》も 何《なに》せむに まされる宝《たから》 子《こ》に如《し》かめやも
    銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母
 
【語釈】 ○銀も金も玉も 「金」は旧訓「こがね」、『攷証』が仮名書きによって改めた。同じ憶艮の歌で巻五(九〇四)には、「世の人の貴み願ふ七種《ななくさ》の宝も我は 何為むに」という似た句がある。七種の宝は仏典の中にあるもので、ここはその中の三種を挙げたものと見える。○何せむに この句は憶良の歌の二か所以外に三か所あって、それらは皆副詞句として下へ続いている。これはこの句で切れて続かない。「に」は感動の助詞とすべきで、何にかせむと同意である。○まされる王子に如かめやも 「まされる宝」は、上に言った三種の宝を語をかえて言ったもので、それらすぐれた宝も。「如かめやも」の「や」は反語。「も」は感動。
【釈】 銀も金も玉も我は何にしよう。そうしたすぐれた宝も、子に及ぼうか及びはしない。
【評】 長歌では子らを主として言っているのに対し、反歌は自身の心を言って照応させているので、その意味では体を得ているものである。しかし金銀珠玉を子に比較し、子のほがまさっていると、さながら発見のごとく力を籠めて言っているのは、今日からは解し難い感がある。それにつけ、陸奥国から初めて黄金を奉ったので、それを瑞相として勝宝と改元のあったことを思うと、それらの宝がいかに貴かったかが思われる。国守とはいえ憶良はある程度貧しかったらしいから、彼からいうとこれらの宝は、文字の上で知るのみの物であったかも知れぬ。それだと、たといいかなる宝でもということを具象的に言ったものとなって来て、緩和されるところのあるものとなって来る。
 
     世間《よのなか》の住《とどま》り難きを哀しめる歌一首 并に序
 
【題意】 「世間の住り雑き」は、人生の推移してやまない、すなわち常なきことであるが、ここは若き齢の老いることを言ったものである。
 
(39)     集り易く排《はら》ひ雑きは、八大辛苦、遂げ難く尽し易きは、百年の賞楽、古人の歎きし所、今又之に及《し》けり。この所以《ゆゑ》に因りて、一章の歌を作りて、二毛の歎を撥《はら》ふ。其の歌に曰はく、
      易v集難v排、八大辛苦、難v遂易v盡、首年賞楽、古人所v歎、今亦及v之。所以因、作2一章之謌1、以撥2二毛之歎1。其歌曰、
 
【語釈】 〇八大辛苦 生苦、老苦、病苦、死苦、恩愛別苦、怨憎会苦、所求不得苦、憂悲悩苦の八苦で、人間苦の全部を類別したもの。○百年 人間の寿命の最大限で、生涯の意。○章楽 章心楽事の意で、愉楽。○之に及けり その嘆きに及んでいる。〇二毛の歎 「二毛」は、『礼記』にある語。鬢髪斑白の意で、黒髪に白髪がまじって来ることで、老境の嘆き。憶良は天平五年七十四で死んだと見えるが、それだとこの謌を作った神亀五年は六十九である。
 
804 世間《よのなか》の 術《すべ》なきものは 年月《としつき》は 流《なが》るる如《ごとし》し 取《と》りつづき 迫《お》ひ来《く》るものは 百種《ももくさ》に 責《せ》めより来《きた》る 少女等《をとめら》が 少女《えおとめ》さびすと 唐玉《からたま》を 手本《たもと》に纏《ま》かし【或るはこの句あり、曰はく、白妙《しろたへ》の 袖《そで》振《ふ》りかはし 紅《くれなゐ》の 赤裳《あかも》裾引《すそひ》き よち児《こ》らと 手《て》携《たづさ》はりて 遊《あそ》びけむ 時《とき》の盛《さかり》を 止《とど》みかね 過《すぐ》し遣《や》りつれ 蜷《みな》の腸《わた》 か黒《ぐろ》き髪《かみ》に 何時《いつ》の間《ま》か 霜《しも》の降《ふ》りけむ 紅《くれなゐ》の【一に云ふ 丹《に》のほなす】 面《おもて》の上《うへ》に 何処《いづく》ゆか 皺《しは》かきたりし【一に云ふ、常《つね》なりし 笑《ゑ》まひ眉引《まよびき》 咲《さ》く花《はな》の 移《うつ》ろひにけり 世《よ》の中《なか》は かくのみならし】 大夫《ますらを》の 壮士《をとこ》さびすと 剣太刀《つるぎたち》 腰《こし》に取《と》り佩《は》き 猟弓《さつゆみ》を 手握《たにぎ》り持《も》ちて 赤駒《あかごま》に 倭文鞍《しづくら》うち置《お》き 匍《は》ひ乗《の》りて 遊《あそ》び歩《ある》きし 世間《よのなか》や 常《つね》にありける 少女等《をとめら》が さなす板戸《いたど》を 押《お》し開《ひら》き い辿《たど》り寄《よ》りて 真玉手《またまで》の 玉手《たまで》さし交《か》へ さ寝《ね》し夜《よ》の 幾許《いくだ》もあらねば 手束杖《たづかづゑ》 腰《こし》に束《たが》ねて 彼《か》行《ゆ》けば 人《ひと》に厭《いと》はえ 此《かく》行《ゆ》けば 人《ひと》に悪《にく》まえ およしをは 斯《か》くのみならし たまきはる 命《いのち》惜《お》しけど せむ術《すべ》もなし
(40)    世間能 周弊奈使物能波 年月波 奈何流々其等斯 等利都々伎 意比久留母能波 毛々久佐尓 勢米余利伎多流 遠等メ良何 遠等メ佐備周等 可羅多麻乎 多母等尓麻可志【或有此句云、之路多倍乃 袖布利可伴之 久礼奈為乃 阿可毛須蘇※[田+比]伎】 余知古良等 手多豆佐波利提 阿蘇比家武 等伎能佐迦利乎 等々尾迦祢 周具斯野利都礼 美奈乃和多 迦具漏伎可芙尓 伊都乃麻可 斯毛乃布利家武 久礼奈為能【一云、尓能保奈須】 意母提乃字倍尓 伊豆久由可 斯和何伎多利斯【一云、都祢奈利之 恵麻比欲※[田+比]伎 散久伴奈能  宇都呂比尓家里 余乃奈可伴 可久乃未奈良之】 麻周羅遠乃 遠刀古佐備周等 都流伎多智 許意尓刀利波枳 佐都由美乎 多尓伎利物知提 阿迦胡麻尓 志都久良宇知意伎 波此能利提 阿蘇比阿留伎斯 余乃奈迦野 都祢尓阿利家留 遠等※[口+羊]良何 佐那周伊多斗乎 意斯比良伎 伊多度利与利提 麻多麻提乃 多麻提佐斯迦閇 佐祢斯欲能 伊久陀母阿羅祢婆 多都可豆慧 許意尓多何祢提 可由既婆 此等尓伊等波延 可久由既婆 比等尓迩久麻延 意余斯遠波 迦久能尾奈良志 多摩枳波流 伊能知遠志家騰 世武周弊母奈斯
 
【語釈】 ○世間の術なきものは 人の世で致し方のないものは。○年月は流るる如し 「年月」は、時を具象的に言ったもの。「流るる如し」は、水の流れるがようであるで、その経過の速かなことを喩えて言ったもの。これは、上の「術なきもの」の第一である。○取りつづき追ひ来るものは 「取りつづき」の「取る」は接頭語。続いて、すなわち間断なく。「追ひ来るもの」は、起り来るもので、感性的に強めて言いかえたもの。○百種に責めより来る 「百種」は多くのさまざまの形で、八大辛苦。「責めより」は、身に迫って来る。以上第一段で、総論。以下各論で具体的に措いている。○少女等が少女をびすと 少女どもが、少女にふさわしい振舞をするとて。○唐玉を手本に稚かし 「唐玉」は、唐より舶来した玉。「手本」は、手を本末《もとすえ》に分け、手首のほうを末、肱のはうを本といった。「手本」は、肱の辺りと取れる。「纏かし」は、纏くの敬語。女性に対しての慣用。「少女等が」以下これまでは、『本朝月令』その他の書に五節の舞姫の起源を説いた条があり、そこに天武天皇の御製とも、又神女の歌ともして「少女《をとめ》ども少女《をとめ》さびすも唐玉を手本《たもと》に巻きて少女さびすも」というがあり、それに拠ったもの。○或るはこの句あり 或る本には、ここにこういう句があるというので、この巻の編者の言である。それは下の四句である。編者が見た或る本にはそれがあって、ここにはそれが削除してあるのである。或る本の物は、憶良がこの歌を旅人に示す前の物で、憶良からいうと初稿であり、それが原形のまま伝わった本である。○白妙の袖振りかはし 「白妙の」は袖の枕詞。「袖振りかはし」は、それぞれ袖を振って歩いているのが、振り交わしているごとく見える意。○紅の赤裳裾引き 「紅の」は枕詞.。「赤裳裾引き」は、歩くさまの美しさを言ったもので、いずれも平和な活動美である。○よち児らと手携はりて 「よち」は集中に何か所にも出ている語で、同年輩の意。「児ら」の「ら」は接尾語。同年輩の児と。「手携はり」は、睦ましい形。○遊びけむ時の盛を 「時の盛」は、盛んな時で、若い時。○止みかね過し遣りつれ 「止みかね」の「止み」は、「止む」の四段活用として用いたからの(41)もの。「かね」は得ぬ意。止め得ずに。「過し遣りつれ」の「つれ」は、已然条件法で、後世の「つれば」にあたるもの。○蜷の腸か黒き髪に 「蜷」は、現在になと称する淡水に住む一寸ばかりの貝で、食用とする。「蜷の腸」は、その黒さから、黒にかかる枕詞。「か黒き」の「か」は接頭語。○何時の間か霜の降りけむ 「か」は疑問の係助詞。「霜の降り」は白髪になった譬。何時の間に白髪になったことであろうかと、驚きと怪しみをもって嘆いたもの。○紅の 一に云ふ、丹のほなす 「紅」が一本には「丹のほなす」となっているという編者の注で、真赤な頬をしている意。○何処ゆか皺かきたりし 「何処ゆか」は、何処から来てで、「か」は疑問の係助詞。皺かきたりし。「かきたり」は掻き垂りで、「掻き」は接頭語で、「垂り」は寄って来る意で、何処から皺が寄って来たことであろうか。〇一に云ふ、常なりし笑まひ眉引 「常なりし」は何時もあった。「笑まひ」は、笑むの継続「笑まふ」の名詞形で、笑顔《えがお》。「眉引」は既出。黛をもって措いた眉の称で、上代の若い女のしていた風。○咲く花の移ろひにけり 「咲く花の」は、「移ろひ」にかかる枕詞。「移ろひにけり」は、「移ろふ」は、移るの継続。衰え、なくなる意。「に」は完了。「けり」は感動。衰えたことである。○世の中はかくのみならし 「かく」は上を総括したもので、「のみ」はその強め。「らし」は、推量。この一に云うの六句は、「蜷の腸」以下の八句にあたるもののようである。以上、女子の盛りの住《とどま》り難きを言ったもので、以下は男子である。○大夫の壮士さびすと 「壮士さびすと」は、「壮士」は若い男子の称で、上の「少女さびすと」に同じ。○剣太刀腰に取り佩き 「剣太刀」は剣。「取り」は接頭語。「佩き」は帯び。○猟弓を手揺握り持ちて 「猟弓」は、山幸《やまさち》を獲る弓で、即ち猟の弓。「手握り」は、手に握りで、弓を持つ状態。○赤駒に倭文鞍うち置き 「赤駒」は毛の赤褐色の駒で、即ち鹿毛《かげ》の駒。「倭文鞍」は、ここにあるだけの語である。倭文の布を張った鞍の恵。倭文は上代の織物の名で、緯糸《ぬきいと》を赤青などに染めて織った縞物で、珍重した物である。「うち置き」は「うち」は接頭語、「置き」は馬に鞍を着けること。○匍ひ乗りて遊び歩きし 「葡ひ乗り」は、馬に乗る状態。「遊び」は、意味の広い語で、本来は雅びたことをする意だが、ここは猟をする意。猟は男子に取っては代表的な楽しみで、結婚と対しうるものだったのである。「遊び歩きし」は、猟をして歩いたの意。○世間や常にありける 「や」は疑問の係助詞で反語をなすもの。「常」は、永久。上のような世の中が、永久に続いたことであったろうか、続きはしないの意。以上、若い女子に対させて、若い男の楽しさを叙したもので、一括して第二段。○少女等がさなす板戸を 「ら」は接尾語。「さなす」は、「さ」は接頭語。「なす」は、寐《ね》の敬語「なす」の連体形。女子に対して慣用した。「板戸」は閏の物。少女の寐ていられる閏の板戸をの意。○押し開きい辿り寄りて 「押し開き」は、当時の戸は開戸《ひらきど》であった為、その開き方を具体的に言ったもの。「い辿り寄り」は、「い」は接頭語、「辿り」は暗い中を捜り寄り。○真玉手の玉手さし交へ 「真玉手」は、「真」は接頭語、「玉」は、少女の手を讃えたもの。「玉手」は「真玉手」の感を強める為に重ねたもの。「さし交へ」は、さし交わしで、共妹をする状態を、少女のほうを主として言ったもの。この一句は、古事記神代の巻、沼河比売《ぬなかわひめ》の歌に、「真玉手玉手さし纏き」とあるのに拠ったものと取れる。また、「少女等が」以下は、日本書紀継体紀、勾大兄《まがりのおひね》皇子の御歌、「真木《まき》さく檜《ひ》の板戸を押し開き(中略)妹が手を我に纏《ま》かしめ我が手をば妹に纏かしめ云々」とあるに通うところがある。皇子の歌は上の沼河比売の歌に関係の深いものとみえ、またその歌は一般化されてもいたとみえるから、この部分はそれに拠ったものと取れる。○さ寝し夜の幾許もあらねば 「さ寝」の「さ」は接頭語。「あらねば」は、「あらぬに」と同意の古格で、並び行なわれていたもの。共寐をした夜は幾らもないのにの意。○手束杖腰に束ねて 「手束杖」は、「手」は手、「束」は「掴む」の語根で、手に掴む太さ、即ち掴みかげんの杖。「手束弓」という類語がある。「束ね」は、物と物とを一つに括る意で、「腰に束ね」は、腰と一つにする、すなわちあてがって。二句、杖に倚るということを具象的に言ったもの。○彼行けば人に厭はえ 「彼」
(42)は、原文「可久」とあるが、紀州本外五本とも「久」はない。下の「此《かく》」に対させたもの。彼方《あちら》へ行けば人から嫌われてで、老人が若い人から疎まれる意。○此行けば人に悪まえ 此方《こちら》へ行けば人から悪まれ。○およしをは斯くのみならし 「およしをは」は、他には見えない語で、語義が不明である。『代匠記』は「およし」は「凡そ」で、「を」は助詞だと解している。それに従い、凡そはと解する。「かくのみならし」は、上に出た。以上、第二段を受け、女子との関係をとおして、男子の老の嘆きを練り返して強めたもの。○たまきはる命惜しけど 「たまきはる」は、命、内などにかかる枕詞。巻一(四)に既出。「惜しけど」は後世の「惜しけれど」にあたる古格。命が惜しいけれどもで、この「命」は上を承けての老いての命で、死の迫っているものである。○せむ術もなし とどめるべき術もないで、「も」は感動の助辞。「たまきはる」以下三句は、それまでの全体を総括し、起首の「世間の術なきものは」に照応させて結んだもの。以上第三段。
【釈】 世の中の致し方のないことは、歳月は水の流れるがように速かである。ひっ切りなしに迫って来る辛苦は、百種と多く責め寄って来る。少女が少女にふさわしいさまをするとて、唐玉をその肱に巻き(或る本には、白妙の袖を各々振り交わし、紅の赤裳の裾を引いて)、同じ年頃の者と手を携《たずさ》え合って遊び歩いた、その昔盛りをとどめて置けずに過ごしてやると、其黒い髪には、いつの間に霜が降ったであろうか、紅の(其赤な頬をした)顔の上には、何処から皺が寄って来たのであろうか(一本には、何時でもあった笑顔《えがお》と黛で措いた眉引は、なくなってしまったことである。世の中はそのようなものでばかりあろう)。大夫《ますらお》が若い男にふさわしいことをするとて、剣《つるぎ》を腰に帯び、猟の弓を手に握り持って、鹿毛の駒に倭文《しず》を張った鞍を躍き、それに匍い乗って猟をして歩いた、そうした世の中が永久に続いていたろうか、続きはしない。少女の寝ていられる閨の板戸を押し開いて、暗い中を捜り寄って、その玉のような手を我が手とさし交して、共寝をした夜は幾らもないのに、手束杖を腰にあてがって、彼方《あちら》へ行けば若い者にいやがられ、此方《こちら》へ行けば若い者に悪まれて、大凡はそのようにばかりされることであろう。命は惜しくあるけれども、とどめるべき術とてはない。
【評】 題詞の如く世間の住《とどま》り難きを嘆いた歌で、これは言いかえると無常ということで、その中でも若い者が老いに移り、楽しさが侘びしさに変るという一事だけである。序には八大辛苦を説いているが、これはそのいずれでもない種のものであると共に、何びとにも共通している一般性を持ったものである。この歌はその一般性を一般性として叙しているもので、そこには作者の実感の直接な披瀝をまじえていない、知的な概念的な作である。老いを嘆くということは、広い意味で言えば生命を惜しむことで、この歌も結尾には、「たまきはる命惜しけどせむ術もなし」と明らかにそれを言っている。集中には老いを嘆く歌も、命を惜しむ歌もあるが、そのほとんど全部は、子が親の老いを嘆き、愛し合う夫妻が互いに相手の為にその命を惜しむ心のものであって、一般的に扱っているとはいえ、重点を老いたる男の立場に置いて、作者がそうした人であることを暗示しつつ極力老いを嘆いている歌は他には例のないものである。また作歌態度も、老いを嘆く心を一般的に捉えている為とはいえ、その方法は、一に若きと老いを対照して平面的に羅列しているにとどまり、散文の叙述と異ならぬものとなっている。これは(43)歌の散文化であって、この点でもこの歌は従前には例のないものである。良かれ悪しかれこの歌は特色のあるものである。
 この歌を作った神亀五年は憶良六十九の年であったと『代匠記』は考証している。普通の人であればその年齢となると、軽い心での呟きは漏らしても、若盛りの時と現在とを対照してはげしい嘆きをする人は少なかろうと思われるのに、生命に対する執着の珍しいまでに強かった憶良とて、老いを嘆く心も余程強いものがあり、それがこの歌の作因となったものと思われる。すなわち自身の実際に即する心が、おのずからに自身の老いを嘆くという新しい題材を選ばせたのである。また何故に自身の実感を披瀝することを避けたかというと、生命の執着の強い彼は、自身の老いを嘆くことを愧ずる心があって、それを抑えようとするとともに、物を大観して知的に批判しまた綜合することに長じていたので、その抑えた心をおのずからそちらに向わしめたのだろうと思われる。この歌は歌人としての憶良の長所と短所とをともに示している作である。
 この歌は後に「撰定」した日付がある。撰定とは未定稿に手を加えて定稿としたことと取れる。それは編者によって三か所に加えられている「或は」「一に云ふ」などが「撰定」以前の形だろうと思われるからである。現形とそれとを比較すると、撰定以前の物は現形よりさらに平面的で冗長である。以後のものは反対に立体的で簡潔で、したがって躍動を持っている。これによると彼自身その短所を心付いていたことが窺われる。また知的という上から言えば、一首の構成の緊密であること、若きと老いの状態の描写の簡潔で印象的であること、また調べに調子がありすぎる程にあって、若々しく老齢のにおいを滞びていない点など、さすがに非凡なる力量だと思わせる。
 
     反歌
 
805 常磐《ときは》なす 斯《か》くしもがもと 思《おも》へども 世《よ》の事《こと》なれば 留《とど》みかねつも
    等伎波奈周 迦久斯母何母等 意母閇騰母 余能許等奈礼婆 等登尾可祢都母
 
【語釈】 ○常磐なす斯くしもがもと 「常磐なす」は、巻三(三〇八)に既出。代表的に不変な物。「なす」は、の如く。このように。「し」は強めで、自身の命を言っているので、長歌の結尾の「命」を受けてのもの。「がも」は、願望の助詞。 ○世の事なれば 「世の事」は、無常を本体としている世の中のことなので。○留みかねつも 「留み」は生命の推移を留める。「かね」は得ぬ。「つ」は完了の助勒詞、「も」は感動の助詞で、留められないことよ。
【釈】 常磐の如くこのようにわが命もありたいものだと思うけれども、無常の世の中のことなので、留められないことであるよ。
(44)【評】 長歌の結尾の三句を繰り返した形のもので、反歌としては古風なものである。しかし「斯くしもがも」と言っているのは明らかに自身の命をさしているのであるから、長歌の一般的な命を前進させ、それによって長歌の心を徹底させているのである。反歌としては軽くないものである。
   
     神亀五年七月二十一日、嘉摩郡《かまのこほり》にて撰定す。筑前国守山上憶良
      神龜五年七月廿一日於2嘉摩郡1撰定 筑前國守山上憶良
 
【解】 日付は、上の「憶良上」とある挽歌と同一である。「嘉摩郡」は明治年間穂波郡と合併して今は嘉穂郡と呼ぶ、その東南部。福岡県、嘉穂郡、稲築《いなつき》町|鴨生《かもう》に郡家があったといわれている。「撰定す」は上に言ったように未定稿に加筆をして定稿とする意。国守として巡行中、その地でしたのである。この署名には「上」はないので、挽歌とは別の扱いをし、同時に旅人に示そうとして贈ったものとみえる。
【題意】 ここには題詞がないが、目録のほうには「大宰帥大伴卿の相聞の歌二宮。答ふる歌二首」とある。次の文は、その「相聞の歌二首」に添えた書翰という排列順になっているが、書翰その物は返翰であって、歌とは一致しないものである。この排列順に従って解すると、京人から来翰があり、それに対する返翰に二首の歌を添えて贈り、さらにその歌に対して京人から答える歌があったということになる。それでは特殊にすぎて妥当ではないとし、旅人の歌の次に置くべき京人の返翰が、何らかの事情で旅人の贈歌の前に置かれたのだと見る解と、上に言ったがごとく、旅人の返翰だと見る解との二つがある。前者は『代匠記』『略解』『古義』などあり、後者は『攷証』『全釈』などである。この巻の資料となった物は大宰府の大伴家にあった物とみえるから、その資料となった控に、この程度の排列の誤りがあっても不自然ではないと認め、返翰は京人の物との解に従う。書翰は署名が逸しているので、誰とも知れない。
 
     伏して来書を辱うし、具《つぶさ》に芳旨を承《う》く。忽ち漢を隔つる恋を成し、復《また》梁を抱く意《おもひ》を傷む。唯|羨《ねが》はくは去留|恙《つつみ》無く、遂に披雲を待たむ耳《のみ》。
      伏辱2來書1、具承2芳旨1。忽成2隔v漢之戀1、復傷2抱v梁之意1。唯羨去留無v恙、途待2披雲1耳。
 
【語釈】 ○「来書」は、旅人より受けた書翰。「漢を隔つる恋」は、「漢」は天漠で天《あま》の河。「隔つる恋」は牽牛織女が河を隔ててする恋。「梁を抱(45)く意」は、『荘子』盗セキ篇の中にある話で、尾生という男か、女と橋の下で会おうと約束して行って待っているが、女の来ないうちに水が増して来た為、染即ち橋柱を抱いて死んだという事を取ったもので、人を待っている苦しさの譬。「羨はくは」は、願くは。「去留恙無く」は、去ると留まるとで、行動の意。「恙《つつみ》無く」は障りなく。「披雲」は、『中諭』に、文王が大公望に遇った時のことを叙して、「如3披(きて)v雲見2白日1」とあるのに拠った語で、尊む人に逢う歓びで、その日をのみ待っている意。
 
     歌詞両首【大宰帥大伴卿】
 
806 竜《たつ》の馬《ま》も 今《いま》も得《え》てしか あをによし 奈良《なら》の都《みやこ》に 行《ゆ》きて来《こ》む為《ため》
    多都能馬母 伊麻勿愛弖之可 阿遠尓与志 奈良乃美夜古尓 由吉帝己牟丹米
 
【語釈】 ○歌詞両首 歌二首ということを、漢籍風に言いかえたもの。○竜の馬も 『周礼』に「凡馬八尺以上を竜と為す云々」とあり、中国でいう竜馬を訳した語。駿足の馬の意。「も」は感動の助詞。○今も得てしか 「今も」は今も亦。「得てしか」は、「しか」は、願望の助詞。今、得たいものであるよ。○行きて来む為 「行きて」は、忽ちに行って、忽ちに帰って来ようが為にで、公務に妨げのないことを背後にした語。
【釈】 竜馬を今も得たいものであるよ。奈良の都に忽ちに行って忽ちに帰って来ようが為に。
【評】 大宰帥としての責任感と、地方官として故郷である文化の京を恋うる心とを一つにして、おおらかに品位をもって詠んでいる。挨拶の歌ではあるが、旅人を思わせるに足りる。
 
807 現《うつつ》には 逢《あ》ふよしもなし ぬばたまの 夜《よる》の夢《いめ》にを 継《つ》ぎて見《み》えこそ
    字豆都仁波 安布余志勿奈子 奴婆多麻能 用流能伊昧仁越 都伎提美延許曾
 
【語釈】 ○現には逢ふよしもなし 「現」は、仮名では「うづつ」となっている。現実にはで、下の「夢」に対させたもの。「逢ふよしもなし」は、逢うべき方法とてもない。○夜の夢にを 「を」は感動の助詞。人を思うと自分が夢で逢いに行き、また夢で逢いにも来ることはしばしば出た。大体男女間のことであるが、ここは男同士の間で言っている。○継ぎて見えこそ 「継ぎて」は続けてで、続くのは思いの深さからである。「見え」は、我の人に見られる。「こそ」は願望。
(46)【釈】 現実では、逢うべき方法もない。夜の夢で続いて見えてもらいたい。
【評】 上の歌は公人ということを心に置いてのものであるが、これはそうした意識から離れ、単なる一私人として言っているものである。したがって「あをによし奈良の都」を棄てて、相手を一人の人とし、のみならず思う女でもあるごとき言い方をしている。歌として見ると、男女間では型となっている範囲のものであるが、旅人の歌とすると纏綿する趣のある、珍しいといえる詠み方のものである。彼の当時の気分を示しているものと言えよう。
 
     答ふる歌二首
 
【題意】 この歌と書翰の関係は上に言った。旅人の右の二首に答えたものである。
 
808 竜《たつ》の馬《ま》を 吾《あれ》は求《もと》めむ あをによし 奈良《なら》の都《みやこ》に 来《こ》む人《ひと》のたに
    多都乃麻乎 阿礼波毛等米牟 阿遠尓与志 奈良乃美夜古迩 許牟比等乃多仁
【語釈】○吾は求めむ 吾は捜し出そうで、旅人が「得てしか」と言っているのに対してのもの。○来む人のたに 「たに」は、為にで、為を「た」という語は、歌の上では仏足石歌碑に見えるだけであるが、他にも用例があり、この当時用いられていた語である。
【釈】 竜馬を吾は捜し出そう。奈良の都に来るであろう人の為に。
【評】 旅人の第一首に答えているものであるが、第二句をいささか変えているだけで鵜鵡返しである。歌才の乏しい人であったとみえる。儀礼としての答であるから、これでも事は足りたのである。
 
809 直《ただ》に逢《あ》はず あらくも多《おほ》く 敷妙《しきたへ》の 枕《まくら》離《さ》らずて 夢《いめ》にし見《み》えむ
    多陀尓阿波顔 阿良久毛於保久 志岐多閇乃 麻久良佐良受提 伊米尓之美延牟
 
【語釈】 ○直に並逢ずあらくも多く 「直に」は直接に。「逢はず」は、逢わずしての意で下へ続く。「あらく」は、「ある」の名詞形。「多く」はここでは長くの意。下に、恋うる心が深くの意を持たせたもの。○敷妙の枕離らずて 「敷妙の」は枕の枕詞。「離らずて」は、離れずして常に。○夢にし見えむ 「し」は強め。「見えむ」は、見られようで、君の夢に入ろうを、先方を主にして言ったもの。
(47)【釈】 直接に逢わずいることが長いので、深くも恋うている我は、君の夜の枕を離れずして、夢で見られよう。
【評】 旅人の後の歌に対しての答で、前の歌と同じく贈歌に取縋って、我もまたそうありたいと言ったものである。旅人の感傷を包んでの歌に較べると儀礼にすぎないものである。第三句は余意を持たせてというよりも、意を尽くせなかったというほうがあたる。
【題意】 ここには題はないが、目録にはあって、「帥大伴卿、梧桐の日本琴を中衛大将藤原卿に贈れる歌二首」とある。
 
     大伴|淡等《たびと》謹状
      梧桐《きり》の日本琴《やまとごと》一面【対馬|結石山《ゆふしやま》の孫枝《ひこえ》なり
 
     此の琴、夢に娘子《をとめ》に化《な》りて曰はく、余《われ》、根を遙《とほ》き島の崇《たか》き巒《みね》に託《よ》せ、※[朝の月が夸]《から》を九陽の休《よ》き光に※[日+希]《さら》す。長く煙霞を帯びて山川の阿《くま》に逍遙《あそ》び、遠く風波を望みて、鴈木の間に出で入りき。唯恐らくは、百年の後、空しく溝壑に朽ちなむことを。たまたま良き匠《たくみ》に遭ひて、削《けづ》りて小琴《をごと》に為《つく》らる。質|麁《あら》く音少きを顧みず。偏に君子《うまびと》の左琴とならむことを希《ねが》ふと。即ち歌ひて曰はく、
      此琴、夢化2娘子1曰、余、託2根遙嶋之崇巒1、※[日+希]2※[朝の月が夸]九陽之休光1。長帯2烟嘉霞1逍2遙山川之阿1、遠望2風波1、出2人鴈木之間1。唯恐、百季之後、空朽2溝壑1。偶遭2良匠1、※[昔+立刀]為2小琴1。不v願2質麁音少1。恒希2君子左琴1。即謌曰、
 
【語釈】 ○「淡等」は、「淡」は「旅」の「た」、「等」は「人」の「と」で仮名である。漢風に省こうとしてのものである。「謹状」は謹みて状《ふみ》すで、謹啓というに同じ。書翰の最初にこのように書くのは当時の風だったのである。「梧桐の日本琴」は、「梧桐」は琴の用材としてで、この字は現在あおぎりにあたるが、これは夏日紫の花を開く普通の桐である。桐には四種あって、琴の用材としては梧桐が最も良いとされていた。「日本琴」は倭琴の字を用いる。我が国固有の琴の発達した物で、長さ六尺前後、横六寸。七絃八絃の物もあったのが、後一定して六絃となった。「結石山」は、長崎県、上県郡、上対馬町河内、対馬の北島の北部にある山で、「孫枝」は本来は枝より出た枝であるが、琴の用材は、本幹を切ってその後に生じた枝を良材とする。また山地に自生した桐が、木目が細かくて良いとされる。大体次の琴に関してのことは、『文選』のケイ康の琴賦に倣って作ったものであり、その中に琴の用材としての孫枝のこともあるので、この注もその脈を引くものである。○此の琴夢に娘子に化りて曰はく 琴が(48)旅人に対って身の上話をする形で、その琴のすぐれた物であることを語るのである。人に物を贈る時は、その物の良いことあるいは心を籠めての物であることを言い添えるのが礼となっているので、これもその意のものである。○余、根を遠き島の崇き巒に託せ、※[朝の月が夸]を九腸の休き光に※[日+希]す 「遙き島」は対馬の北島。「崇き巒」は結石山。「託せ」は置く。「九陽」は太陽。「休き光」は「休き」は「美き」。「※[日+希]す」は乾かす。琴賦に「惟椅桐之所v生(ズル)今、託(シ)2峻岳之崇崗1」(「椅桐」は桐の一種で、琴の良材)とあり、又「吸(ヒ)2日月之休光(ヲ)1、(中略)旦(ニ)※[日+希](ス)2幹(ヲ)於九陽1」ともある。○長く煙霞を帯びて山川の阿に逍遙び 「長く」は、多年。「煙霞」は山気。「阿」は隈で、物の隅。○遠く風波を望みて雁木の聞に出で入りき 「風波を望み」は、結石山の上の桐の状態。「鴈木の間」は、『荘子』山木篇の中にある話より取った語で、一日荘子が山へ入ると、大木で樵夫が伐らない物があるので、訳を問うと大きすぎて用に適さないという。また山を出て懇意な人の家へ行くと、その人が喜んで鴈を烹ることを召使に命じた。召使は、鳴く雁と鳴き得ない雁とあるが、どちらにするかと尋ねると、その人は鳴き得ないのを烹ろと命じたというので、「鴈木」はその鴈と木の意で、用いられるか用いられないかの中間の意。「出で入り」はどっち付かず。○溝ガク 深い谷。○良き匠 琴を作る良い工匠。○君子の左琴 「左琴」は『古列女伝』の中の語で、「左琴右書、楽亦在(リ)2其中1矣」から出たもので、座側の琴。
 
810 如何《いか》にあらむ 日《ひ》の時《とき》にかも 声《こゑ》知《し》らむ 人《ひと》の膝《ひざ》の上《へ》 吾《わ》が枕《まくら》かむ
    伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武
 
【語釈】 ○如何にあらむ日の時にかも 「日の時にかも」は、いかなる日の、いかなる時にかで、「かも」は、疑問の係助詞。○声知らむ 音楽を解するで、『列子』の「伯牙善(ク)鼓(シ)v琴(ヲ)、鍾子期善(ク)聴(ク)」に拠るもの。音楽を解する人の少ない意で言ったもの。「声知らむ」は、琴の音色《ねいろ》をよく聞き知るであろうところの。○人の膝の上 琴は膝に載せて弾いたところから、人が弾こうとして膝の上に載せること。○吾が枕かむ 「枕かむ」は、枕という名詞を動詞化した「枕く」の未然形に推量の「む」の接したもの。枕にし得ようか。
【釈】 どういう日のどういう時にか、我は音楽をよく解する人の膝の上を枕することが出来るであろう。
【評】 この琴は元来、旅人自身の為に作らせたものであるのに、(49)琴は娘子と化して、「恒に君子《うまびと》の左琴とならむと希ふ」といい、さらに歌では、「声知らむ人の膝の上吾が枕かむ」といって、知己に逢い得ずにいる訴えをしているのである。すなわち旅人には身に過ぎる結構な琴だということを、琴自体をして言わしめているのである。贈物の良い物であることを言おうとする要求としては、じつに巧妙なものである。「如何にあらむ日の時にかも」という続けは、娘子がそのことをいかに強く望んでいるかを気分化し得ているもので、「膝の上吾が枕かむ」も、琴を弾く状態とともに娘子の媚態ともなっているもので、これまた巧みである。旅人の感性の鋭敏を思わせられる歌である。
 
     僕、報《こた》ふる詩詠《うた》に曰はく
 
【願意】 「詩詠」は、当時歌を漢風に言うことが、上流の知識階級に行なわれていたからで、他にも例がある。
 
811 言《こと》問《と》はぬ 木《き》にはありとも うるはしき 君《きみ》が手慣《たなれ》の 琴《こと》にしあるべし
    許等々波奴 樹尓波安里等母 字流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍志
 
【語釈】 ○言問はぬ木にはありとも 物を言わない木ではあろうともで、娘子の身の上話で言ったことを受けて言ったもの。○うるはしき君が手慣の 「うるはしき君」は立派な方の意で、娘子の望みの「君子《うまひと》」の意。「手慣」は、手馴らして親しむ意。○琴にしあるべし 「し」は強意の助詞。「べし」は、想像の助助詞で、琴になることであろうで、娘子の望みをかなえてやろうの意。
【釈】 物を言わない木ではあろうとも、望みの通り、立派な方の手慣らす琴となることだろう。
【評】 表面は娘子に対しての答で、娘子の身の上話に立って、「言問はぬ木にはありとも」と抑え、望みをかなえる意で、「うるはしき君が手慣の琴」と引受けたものであるが、同時にまた房前に対して、贈物に添える挨拶ということからも離れず、「うるはしき」以下にその心を婉曲に籠めているのである。「言問はぬ木」の二句は、その意味からは不用に似ているが、上の歌の「娘子と化りて」ということは、自身の特殊なことで、常にあることではないので、それとの関係上、言わずにはいられないこととしたと取れる。上の歌が心の鋭敏に働いている歌であるから、この歌にも言うような用意があったことと思われる。
 
     琴の娘子答へて曰はく。
     敬《つつ》みて徳音を奉《うけたま》はりぬ、幸甚幸甚といへり。片時《しまらく》にして覚《おどろき》きて即ち夢の言《こと》に感《かま》け、慨然《なげき》て黙止《もだ》を(50)ることを得ず。故《かれ》公使《おほやけのつかひ》に附けて、聊か以ちて進御《たてまつ》るのみ。 謹て状《ふみ》す。具《そなはら》らず。
      琴娘子答曰
      敬孝2徳音1、幸甚々々。片時覚即感2於夢事1、慨然不v得2黙止1。故附2公使1、聊進御耳。 謹状。不v具。
 
      天平元年十月七日、使に附けて進上《たてまつ》る。
     謹みて通はす、中衛|高明閣下《かうめいかふか》謹空。
 
【語釈】 ○敬みて徳育を奉はりぬ 「徳音」は、よき声。『詩経』の語。有難い旅人の娘子にした約束をいう。○幸甚幸甚 幸い甚しで、感謝の語。○感け 感じて。○慨然て黙止をることを得ず 「慨然て」は深く感動してのこと。「黙止」は、黙っている、すなわち棄てては置けず。○公使に附けて 「公使」は公の用を帯びての使で、大宰府より都へ上る者。房前の返翰で大宰大監とわかる。「附けて」は、託して。○進御る 奉る。○謹みて状す。具はらず 書翰の末尾に型として添えるもの。○謹みて通はす 書翰を贈る挨拶。○中衛高明閣下謹空 「中衛」は中衛府で、神亀五年初めて置かれた府で、後に右近衛となった府。近衛府の一半をなすものである。房前はその長官であった。「高明」は、相手の徳を讃えての尊称。「閣下」は閣下と同じ。「謹空」は書翰の終りに余白を残すことで、当時礼としていたもの。
【評】 この巻物は、旅人から房前に贈呈する日本琴に添えたものである。当時の風として人に物を贈る際には、その物には贈主の並々ならぬ心の籠もっていることを言い添えるのが礼となっており、それには普通一首の歌をもってしていた。旅人もそのようにするべきであるが、贈物は日本琴というやや特殊な物であって、一首の歌では言葉が足りないところから、一つの夢物語を構えて、琴を娘子にならせ、娘子の身の上話としてその琴の常凡でないことを説かせたのである。すなわち旅人自身の言うべきことを娘子に代弁させたのである。物語の大部分は琴材のすぐれたものであることの説明であるが、それはこの場合そうせざるを得ないからである。転じて娘子が歌をもって、「声知らむ人の膝の上」の物となりたいと言い、旅人がそれを承引して「うるはしき君が手慣の琴にしあるべし」と言っているのは、まさしく旅人自身の贈呈の際の挨拶の言葉で、これを贈呈する、幸いに受納し愛翫したまえということなのである。要するに、主旨としてはその際添えなくてはならない礼言であって、実用性の範囲の言葉なのである。この書翰はその実用性のものを、旅人房前らこの当時の上流社会の、しかも教養高い人人の日常生活の上につなぎ、高度な文芸性あるものに化したのである。この時代は外来音楽の隆盛だった反動として邦楽が復興しようとしていた時期だったので、日本琴の良器は自然熱望されていて、いわゆる心にくい贈物であったろうと思われる。(51)琴が娘子に化するということは、『遊仙窟』など神仙譚に倣ったものであり、またその語っている身の上話は、ケイ康の琴賦に倣ったもので、これらは彼らの等しく読んでいた書籍であるから、いささかもいや昧のない、ただ微笑を催させられる範囲のもので、これを受取った房前は、旅人の文芸的才能に感じたことであったろう。この書翰は言ったがごとく、実用性の歌を物語にまで展開させたものである、か、物語すなわち小説という角度から見ると、書翰体小説である。これをそれとして時代に関係させて見れば、たとい短小なものであっても珍しとするべきものであろう。文芸的な相貌をもったものとしているのは、旅人の頭脳の明敏と、その感性の織細なのと相俟って働いている為である。
【題意】 ここも題はないが、目録には、「中衛大将藤原卿報ふる歌一首」とある。右に対する房前の返翰である。
 
     跪きて芳音を承る。嘉懽|交《こもごも》深し。乃ち知りぬ、竜門の恩、復《また》蓬身の上に厚きことを。恋望の殊念、常心に百倍せり。謹みて白雲の什に和《こた》へて、以ちて野鄙の歌を奏《まを》す。房前《ふささき》謹みて状す。
      脆承2芳音1。嘉懽交深。乃知、龍門之恩、復厚2蓬身之上1。戀望殊念、常心百倍、謹和2白雲之什1、以奏2野鄙之謌1。房前謹状。
 
【語釈】 ○跪きて 敬いて。○嘉懽交深し 「嘉」は善美で、旅人の文に対したもの、「懽」は自身の悦びで、それがこもごも深い。○竜門の恩 『後漢書』李膺伝に、「膺独(リ)持(ス)2風裁(ヲ)1、以(チテ)2声名(ヲ)1自(ラ)高(ウス)。士有(レバ)d被(ルル)2其容接(セ)1者u、名(ケテ)為(ス)v登(ルト)2竜門(ニ)1。」とある。その注に、竜門は黄河の上流、緯州竜門県にある。水が急で魚属が上ることが出来ない。上り得れば竜となるとある。ここは旅人をそれに譬えて尊んだ称。○蓬身。蓬のごとく直からざる身で、卑下しての称。○常心 平生の心。○白雲の什 「白雲」は、『攷証』は『穆天子伝』の西王母の謡「白雲在(リ)v天(ニ)山陵自(ラ)出(ヅ)」から出た語といい、旅人の歌を尊んで譬えた語。「什」は、詩は十篇ずつを同じ巻に記すその巻で、ここは歌。
 
812 言《こと》問《と》はぬ 木《き》にもありとも 吾《わ》が背子《せこ》が 手慣《たなれ》の御琴《みこと》 地《つち》に置《お》かめやも
    許等騰波奴 紀尓茂安理等毛 和何世古我 多那礼乃美巨騰 都地尓意加米移母
 
【語釈】 ○言問はぬ木にもありとも 上の旅人の第二の歌の初二句をそのままに用いたもの。○吾が背子が手慣の御琴 「吾が背子」は、男同士でも特に親しい間では用いた称。ここもその意からである。「手慣の御琴」は、旅人が用い馴らした琴の意で、「御」は称美の接頭語。同じく第二首の「手慣の琴」に関係させてあるが、旅人の愛用の品としたほうが心が深いからである。○地に置かめやも 「地に置く」は、下に置くで、粗(52)末にする意。「や」は、反語。置こうか、置きはしない。
【釈】 物を言わない木ではあろうとも、吾が背子が手慣らし給うた御琴を、下に置こうか置きはしない。
【評】 旅人の第二首の歌に即して、礼として言っているにすぎない感のあるものである。しかし「吾が背子が手慣の御琴」は、相応に用意のある言い方である。旅人は贈物として作らせた琴だとは言っていないが、これは当然なことである。房前は無論そのことは知っていて、それを旅人の愛用品を贈与したように言い倣しているのである。そのほうが贈主の心が深く、受けるほうも悦びが深いからである。「吾が背子」という称にもその心がある。房前が夢物語については、文章でただ一語触れさせているだけにとどめているのは、旅人がそうした物を、構えた主旨を頷き、それ以上展開させるべき性質のものではないと解したからとも取れる。たといそうした心があったとしても、旅人の才には匹敵できないと知ったら、身分柄強いて試みようとしなかったであろう。したがって儀礼の言にすぎないとしても、相応な用意はもってのものと言える。
        十一月八日 還る使大監に付く。
     謹みて通ず 尊門 記室
 
【解】 「還る使」は、大宰府から公務を帯びて上京して還る使。「大監」は大伴百代。「尊門」は、先方を尊んでの称。「記室」は、書記で、今の侍史。書簡の型である。
【題意】 この歌にも題詞がないが、目録には「山上臣憶良、鎮懐石を詠める歌一首并に短歌」とあり、この目録が信じられて來たのである。しかるに近来この歌と同様に作者がなく、目録にのみある(八五三―八六三)の松浦河に遊ぶ歌が『代匠記』のくわしい考証によって旅人の作であることがほぼ確認され、目録の信じ難いものとなって來たところから、この歌もそれと同様に旅人の作ではないかとの説が出、有力なものとなっている。本巻の資料はしばしば言ったごとく大伴家に控の形をもって残っていた物と思われるから、署名のないものは大体主人旅人の作と見られる。これは推測であるから、いかようにも論じ得られることである。なお歌その物について言う。
 
     筑前《つくしのみちのくち》の国《くに》怡土《いと》の郡|深江《ふかえ》村|子負《こふの》原、海に臨める丘の上に二つの石あり。大きなるは長さ一尺二寸六分、囲《かくみ》一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小きは長さ一尺一寸、囲一尺八寸、重さ十六斤十両、並《とも》に皆楕円にして、状《かたち》鶏《とり》の子《こ》の如し。其の美好《うま》しきこと論《あげつ》らふに勝ふ可からず。所謂径尺の壁是(53)なり。【或るは云はく、此の二つの石は肥前の国|彼杵《そのき》の郡|平敷《ひらしき》の石、占《うら》に当りて取るといふ。】深江の駅家《うまや》を去ること二十許里、近く路頭に在り。公私の往来に、馬より下りて跪拝せずといふこと莫し。古老相伝へて曰はく、往昔《いにしへ》息長足日女《おきながたらしひめの》命、新羅国を征討《ことむ》けましし時、茲《こ》の両《ふた》つの石を用《も》ちて、御袖の中に挿《さしはさ》み著《つ》けて、鎮懐と為したまひき。【實は御裳の中なり】所以《ゆゑ》に行く人此の石を敬拝すといふ。乃ち歌を作りて曰はく、
    筑前國怡土郡深江村子負原、臨v海丘上有2二石1。大者長一尺二寸六分、圍一尺八寸六分、重十八斤五兩、少者長一尺一寸、圍一尺八寸、重十六斤十兩、並皆楕圓、?如2鷄子1。其美好者不v可v勝v論。所謂徑尺璧是也。【或云、此二石者肥前國彼杵郡平敷之石、當v占而取之。】去2深江驛家1二十許里、近在2路頭1。公私徃來、莫v不2下v馬跪拜1。古老相傳曰、徃者息長足日女命、征2討新羅國1之時、用2茲兩石1、挿2著御袖之中1、以爲2鎭懷1。【實此御裳中矣】所以行人敬2拜此石1。乃作v謌曰、
 
【語釈】 ○怡土郡 「怡土那」は明治年間志摩郡と合併し、今は糸島那の南部にあたる地域。○深江村子負原 この地名はどちらも今存している。二丈村。福岡と唐津の間の往還の、海辺の小駅である。○十八斤五両 二十四|銖《はち》を一両とし、十六両を一斤とする。一斤は約百八十匁。○鶏の子 鶏卵。○径尺の壁 直径一尺ある宝石。『淮南子』の語。○肥前の国彼杵の郡平教の石 「肥前の国」は、現在は長崎県。「彼杵」は、そのき。「平敷」は、所在不明。『古事記伝』は、ある人が長崎に近い浦上村平野宿で、今も白石赤石の美しい物が多く出るというを伝えている。○占に当りて取るといふ 神功皇后が鎮懐石とするに、占いをして、それにあたったがゆえに平敷の石を取ったという。 ○深江の駅家を去ること二十許里 昔の一里は六町であるから、「二十許里」は百二十町である。しかるに実際は、深江駅の西方五町である。伝聞の誤りからとみえる。○故老相伝へて曰はく 故老の相伝えての語りは、地方にあっては唯一の保存者による、権威あるもの。○息長足日女命 神功皇后の御名。○茲の両つの石を用ちて、御袖の中に挿み著けて、鎮懐と為したまひき 上代には石に神秘的な霊力を認めて信仰したので、これは現在も、ある神社には残っている。「鎮懐」は、懐《こころ》を鎮める意で、石に懐を寄せて鎮めるのである。魂と体とは別なもので、魂が身に宿って安定を保っていることがすなわち健全な状態だとしたのである。鎮魂は、上代にあってはきわめて強い信仰であった。○実は御裳の中なり 異例として言っているもの。 
 
813 懸《か》けまくは あやに畏《かしこ》し 帯比売《たらしひめ》 神《かみ》の命《みこと》 韓国《からくに》を 向《む》け平《たひら》げて 御心《みこころ》を 鎮《しづ》め給《たま》ふと い取《と》らして 斎《いは》ひ給《たま》ひし 真珠《またま》なす 二《ふた》つの石《いし》を 世《よ》の人《ひと》に 示《しめ》し給《たま》ひて 万代《よろづよ》に 言《い》ひ(54)継《つ》ぐがねと 海《わた》の底《そこ》 奥《おき》つ深江《ふかえ》の 海上《うなかみ》の 子負《こふ》の原《はら》に み手《て》づから 置《お》かし給《たま》ひて 神随《かむながら》 神《かむ》さび坐《いま》す 奇魂《くしみたま》 今《いま》の現《をつつ》に 尊《たふと》きろかむ
    可既麻久波 阿夜尓可斯故斯 多良志比※[口+羊] 可尾能弥許等 可良久尓遠 武氣多比良宜弖 弥許々呂遠 斯豆迷多麻布等 伊刀良斯弖 伊波比多麻比斯 麻多麻奈須 布多都能伊斯乎 世人尓 斯※[口+羊]斯多麻比弖 余呂豆余尓 伊比都具可祢等 和多能曾許 意枳都布可延乃 字奈可美乃 故布乃波良尓 美弖豆可良 意可志多麻比弖 可武奈何良 可武佐備伊麻須 久志美多麻 伊麻能遠都豆尓 多布刀伎呂可※[人偏+舞]
 
【語釈】 ○懸けまくはあやに具し 口にして申すことは甚だ恐れ多いと、神功皇后のことを言うに対して恐懼の情を言ったもの。しばしば出た。○帯比売神の命 「帯比売」は息長帯比売で、神功皇后の御名。「息長」は父王の近江国の領地の名。「帯」は足らしで、充足する意。讃え言。「神の命」は、尊んで神としての称。○韓国を向け平げて 「韓国」は、ここは新羅国を広く言いかえたもの。「向け」は、降伏させ。「平らげ」は、平定して。○御心を鎮め給ふと 散乱する御心を、体内にお鎮めになろうとして。○い取らして斎ひ給ひし 「い取らして」は、「い」は接頭語。「取らして」は、取りての敬語。御手にお取りになられて。「斎ひ給ひし」は、斎うは斎戒して災いから免れる行事のことで、ここは石を身に着けられたことで、お着けになられたところの。○真珠なす二つの石を 「真珠なす」は、「其」は美称。「なす」は、のごとき。○世の人に示し給ひて 征討を遂げさせた、鎮懐の霊力ある石を、あまねく世の人に示し給うて。石の霊力を示そうとされてのこと。○万代に言ひ継ぐがねと 「万代に」は永久に。「言ひ継ぐがね」の「がね」は巻三(三六四)に既出。将来を予想し希望する助詞で、語り伝えるようにと思って。○海の底奥つ深江の 「海の底奥つ」は、海の底の、陸から遠い所の奥で、その奥は深い意で、「深江」に続けた八音の序詞である。深江を重く言おうとしてのことである。○海上の子負の原に 「海上」は、海のほとり。下の子負の原の地勢を言い、これまた子負の原を重からしめようとしてのもの。○み手づから置かし給ひて 「置かし」は、置きの敬語。御自身の手をもってお置きになって。起首よりこれまでは、「帯比売神の命」が主格となって一と続きに続き、ここも「て」の助詞をもって下へ続いているのであるが、この「て」によって主格が変じ、以下は「奇魂」が主格になっているのである。この語法は平安朝にも及んでいるものである。○神随神さび坐す 「神随」は、神そのままにの意。「神さび坐す」は、神にふさわしいさまをしていらせられるで、下の「奇魂」を讃えた語。○奇魂今の現に 「寄魂」は、鎮懐石を言っているもの。奇魂というのは、『古事記伝』は、魂の力には二面あって、一面は荒魂《あらみたま》、他の一面は和魂《にぎみたま》であり、その和魂の中にさらに二面があって、一面は幸魂《さちみたま》、他の一面は奇魂であると言っている。これは魂の奇《くす》しき力を現わすのに対しての称である。この魂は、その霊妙なる力を持っている意味で神とされている。また神はその本賀として永遠に存在し、永遠にその力を現わすものである。本来信仰の対象であった石は、帯比売神の命の御身を通して、奇《くす》しき力を現わしたところから、(55)奇塊の神とされたのてある。上の「神随神さび坐す」は、この意味で言ったのである。「今の現《をつつ》に」は、「現《をつつ》」は、現《うつつ》と同じで現実。その遠い昔より、今の現実にわたってで、神の永遠性を言ったもの。○尊きろかむ 「ろ」は接尾語。「かむ」は「かも」と同じ。神に対しての讃え言。
【釈】 口にして申すのは甚だ恐れ多い。帯比売の神の命が、韓の国を降伏させ平定なされて、御心をお鎮めになろうとして、御手にお取りになって斎いをなされたところの真珠のような二つの石を、その霊力の奇《くす》しきことをあまねく世の人にお示しになって、また永遠に語り伝えるようにとお思いになって、海の底の遠い所のその深いという名を負うこの深江の、海のほとりの子負の原に、御手ずからお置きになって、神であるがままに神にふさわしいさまをしていらせられるこの奇魂《くしみたま》よ、その時より今の現在にわたって尊くもあることであるよ。
【評】 この歌の作意は、筑前国深江のほとりにある鎮懐石を、「奇魂」として崇める心をもって、その由来を叙し、また讃えたものである。この石の事は古事記日本書紀にもあり、また『筑前国風土記』『筑紫風土記』などにも出ていてあまねく知られていることであり、事新しく言うにも及ばない程のものであるが、左注によると、作者はその国の人で石を親しく眼にしている者から、そのことをくわしく聞かされると、今更のごとく深い感動を起こしてこの歌を作ろうとした心になったので、作因は明らかである。歌が叙事的なものとなっているのは、由来を明らかにすることがすなわち礼讃であって、それ以外には方法がないからである。これは『出雲国風土記』の国引きの条、あるいは祖先神を讃える詞などと軌を一にしたものである。作者は旅人であるとする説は従うほかのないものに思える。この時期には長歌の作者は多くはいず、大宰府を中心に見ればそれに堪えうる人は憶良で、旅人にして明らかに彼の作と知られるものは巻三(三一五)「芳野離宮に幸せる時勅を奉《うけたまは》りて作れる歌」と題する一首があるのみである。それでも旅人だと堪えられたことはたやすく想像される。この歌の作者の憶良でないことは歌そのものが明らかに語っている。彼の調べ強く、根太く、暢達の趣をもっているのとは正反対だからである。しかし旅人のおおらかに、物静かに、品位ある歌風にはなぞらえうるものが多分にある。平板なのは叙事を旨とした作であるから余儀ないこととして除外すると、言ったがごとく「て」の一助詞によ(56)って主格を変えているところ、深江に「海の底奥つ」という眼前を捉えての序詞を設けているところなど、繊細にして一種の含蓄とも称すべき趣をもたせたのは、おそらく彼を外にして何びとにも出来なかったことではないかと思われるからである。
 
814 天地《あめつち》の 共《とも》に久《ひおさ》しく 言《い》ひ継《つ》げと この奇魂《くしみたま》 しかしけらしも
    阿米都知能 等母尓此佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母
 
【語釈】 ○天地の共に久しく 「天地の共に」は、現在だと「天地と共に」というべきところで、「の」を同類の語を重ねる意の助詞とし、「共」を「天地」と同類としたと取れる。○言ひ継げと 言い継げよと言ってで、長歌の帯比売命を受けたもの。○この奇魂しかしけらしも 「この」は、眼前のものとして指示したもの。「しかし」は、敷かしで、敷くの敬語。「玉を敷く」というと同じく、置く意。「けらし」は、けるらしで、過去の推量の重いもの。
【釈】 天地と共に久しく言い伝えてゆけと帯比売神の命の思召されて、この奇魂《くしみたま》をここにお招きになったのであろう。
【評】 長歌の心を要約したものであるが、「けらしも」という詞は、帯比売神の命の仰せの通りに、現に眼前にある意を言っているもので、命と奇魂とに対する讃えの意を現わしたものであり、それが一首の中心となっているのである。
 
     右の事伝へ言へるは、那珂《なか》郡|伊知郷《いちのさと》簑島《みのじま》の人建部牛麿是なり。
      右事傳言、那珂郡伊知郷簑島人建部牛麿是也。
 
【解】「那珂郡」は、明治年間、今の筑紫郡の一部となった。福岡市の南方那珂川流域地帯。「伊知郷簑島」は、伊知はその名が伝わらない。簑島は国鉄筑肥線簑島駅付近。「牛麻呂」は、身分不明。この注は、「序」に言っていることの追記で、その伝の出所を確実にしようとする心よりのものである。
 
     梅花の歌三十二首 并に序
 
【題意】「梅花の歌」は、大宰府における旅人の宅の園梅が盛んに咲いた時、旅人が主人となり、筑紫の国司、大宰府の職員を客として招き、観梅の宴を開いた時に、主客の詠んだ歌で、事は「序」にくわしい。「三十二首」は、主客おのおの一首ずつを詠(57)んだ数で、主人旅人の外に歌を詠んだ客は三十一人だったのである。歌の性質は、この会は宴会だったので、酒に伴う歌が心あり、その歌は喜びの心をもって、眼前を捉えて当座に詠むものであることは定まりであった。この歌はすべてその範囲のものである。注意せられることは、取材は梅であるが、いずれもそれに寄せて、主人旅人に対する賀の心を間接に言っていることである。これは旅人の地位と、その日の心から見て当然のことで、それのないのは旅人の歌のみである。三十二首の歌は、一定の方針をもって席次を定めてあり、「大弐紀卿」を第一位に、少弐二人を続け、ついで「筑前守山上大夫」という風にし、「主人」は第八位に据えている。この席次は、宴会のそれを反映しているものであろうと思われる。この席次は合理的なもので、主人旅人の定めたものと思われる。「序」の作者は、憶良といい、旅人といって、説が分かれている。常識的に考えると旅人であって然るべきである。梅はしばしば言ったように中国より舶来したものであり、当時は新味をもっていたものであるが、必ずしも珍奇な物ではない。観梅を名として、筑紫の地において、このような風流の大会を催すということは、一に旅人の趣味よりのことであって、未聞の盛事である。この日のことは余程旅人を喜ばせたとみえ、後になってその日のことを思い出し、迫和の梅花の歌も詠んでいる程である。すでにこの日の歌を整理して一纏めにする以上、文事に長《た》けている旅人が、その歌に題詞を添える心をもって序を書くということは、自然な、また当然なことと思われるからである。ついで出る(八六四)の吉田宜の旅人に贈った返翰によると、旅人は、(八五三)以下の「松浦河に遊ぶ序」の自作とともに、この序を宜に贈って示しているが、それに対し宜は讃詞を呈している。またこの序には旅人を讃する一語もないこと、また文体の華麗なことなども、旅人の作とする上に有力な証といえる。
 
     天平に年正月十三日、帥《そち》の老《おきな》の宅《いへ》に萃《あつま》るは、宴会を申《の》ぶるなり。時に初春の令き月にして、気|淑《よ》く風|和《なご》やかに、梅は鏡の前の粉《しろきもの》を披《ひら》き、蘭《らん》は珮《おび》の後《しり》への香を薫る。加以《しかのみならず》曙の嶺に雲移り松|羅《うすもの》を掛けて蓋《きぬがさ》を傾《かたぶ》け、夕の岫《くき》に霧結び、鳥《とり》※[穀の禾が系]《となみ》に封《こ》められて林に迷《まと》ふ。庭には新しき蝶舞ひ、空には故《もと》つ鴈帰る。ここに天を蓋《やね》とし、地を坐《しきもの》にし、膝を促《ちかづ》け觴《さかづき》を飛ばす。一室《ひとま》の裏《うち》に言《こと》を忘れ、煙霞の外に衿《えり》を開き、淡然《あは》くして自《みづか》ら放《ほしきまま》に、快然《こころよ》くして自ら足る。若《けだ》し翰苑《ふみてのその》に非ずは、何を以ちてか情《こころ》を※[手偏+慮]《の》べむ。詩に落梅の篇を紀《しる》せり。古と今と夫れ何ぞ異ならめや。宜《うべ》園《その》の梅を賦みて聊か短詠《みじかうた》を成せ。
     天平二年正月十三日、萃2帥老之宅1、申2宴會1也。于v時初春令月、氣淑風和、梅披2鏡前之紛1。蘭薫2珮後之香1。加以、曙嶺移v雲、松掛v羅而傾v蓋、夕岫結v霧、鳥封v※[穀の禾が系]而迷v林。庭(58)舞2新蝶1、空帰2故雁1。於v是蓋v天、坐v地、促v膝飛v觴。忘v言2室之裏1、開v衿2煙霞之外1、淡然自放、快然自足。若非2翰苑1、何以※[手偏+慮]v情。詩紀2落梅之篇1。古今夫何異矣。宜賦2園梅1聊成2短詠1。
 
【語釈】 ○帥の老の家に萃るは 「帥の老」は旅人。「家」は官邸。「萃る」は集まる。○宴会を申ぶ 「申ぶ」は「舒ぶ」で、心をくつろがす。○初春の令き月 正月の善い月。○梅は鏡の前の粉を披き 「鏡の前の粉」は、美人が鏡の前で白粉を粧うのを、開いた梅の譬えとしたもの。○蘭は珮の後への香を薫る 「蘭」は、香草。「珮」は佩の字も用いる。大帯。「後への香」は、大帯の後ろに香木や麝香を入れた嚢を下げていたので、それを譬としたもの。○松は羅を掛けて蓋を傾け 「羅」は、絹の薄もので、霞を譬えたもの。「蓋」は既出。貴人にさし掛ける織物を張った長柄の傘。うす霞のかかった松の形容。○夕の岫に霧結び 「岫」は山にある穴。「結び」は吐き。○鳥※[穀の禾が系]に封められて林に迷ふ 「※[穀の禾が系]」は、細かい紗で出来た鳥網で、霧の譬。「封めらられて」は、取り込められて。○故つ雁 去年来た雁。○天を善とし、地を坐にし 『淮南子』に、「以v天為v室以v地為v輿」とあるより取る。○膝を促け傷(角偏)を飛ばす 「促」は、近く接しさせ。「觴」は盃。「飛ばす」は速かにめぐらせる。〇一室の裏に言を忘れ 忘言は『晋書』『荘子』にある語で、興の深い意。○煙霞の外に衿を開き 胸を披いて外の煙霞に向うで、打解けて風景を楽しむ意。○淡然くして自ら放に 心を淡泊にして自身を自由に扱い。○快然くして自ら足る 快くして自身を満足させる。○若し翰苑に非すは、何を以ちてか情を※[手偏+慮]べむ 「翰苑」は文筆。文筆以外には情を舒《の》べる方法がない。○詩に落梅の篇を紀せり 「詩」は漢詩。「落梅の篇」は、『攷証』は「楽府《がふ》、梅華落曲」と言っている。他にもあろう。○園の梅を賦みて聊か短詠を成せ 「園の梅」は、おりからの旅人の園の梅。「賦みて」は題材として。「短詠」は、短歌。
 
815 正月《むつき》立《た》ち 春《はる》の来《きた》らば かくしこそ 梅《うめ》を折《を》りつつ 楽しき竟《を》へめ 大弐紀卿
    武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曾 鳥梅乎乎利都々 多努之岐乎倍米 大貳紀卿
 
【語釈】 ○正月立ち春の来らば 「立ち」は、始まるで、正月が始まって、春が来たならば。○かくしこそ梅を折りつつ 「かく」は、このようにで、現在の状態。「し」は強意の助詞。「こそ」は係助詞。「梅を折りつつ」は梅の花の枝を折ることをいつの年もしてで、折るのは挿頭《かざし》にする為である。宴会の時にはその時の花を冠に挿すのが、公私を通じての風だったのである。○楽しき竟へめ 「楽しき」は、名詞形。「竟へ」は、極め尽くす意。「め」は「こそ」の結。助動詞「む」の連用形。
【釈】 正月が始まって春が来たならば、このように、梅の枝を折って挿頭にすることを繰り返して、楽しさを極めよう。
【評】 この歌は本歌がある。古歌で『琴歌諸』に載っているものに「新しき年の始めにかくしこそ千年《ちとせ》をかねて楽しき竟《を》へ(59)め」というのである。これを捉えてその場合に適するように替えたものである。今日の楽しさを将来の永い例にしようということは、主人に対して最上の挨拶ともなるものである。宴歌はその席に興を添えることを目的の大部分にしているものであるから、ただちに、本歌を思い合わせて興じたことと思われる。
【作者】 大弐紀卿。「大弐」は、大宰大弐で、帥に次ぐ官。「紀」は氏。名は敬って略してある。「卿」は三位以上に用いる字である。大弐は初め正五位相当官で、後に従四位とした職であるから、「卿」は特に尊んで用いたのである。漠風に模しての書き方である。
 
816 梅《うめ》の花《はな》 今《いま》咲《さ》ける如《ごと》 散《ち》り過《す》ぎず 我《わ》が家《へ》の苑《その》に ありこせぬかも 少弐小野大夫
    鳥梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 和我覇能曾能尓 阿利己世奴加毛 小貮小野大夫
 
【語釈】 ○梅の花今咲ける如 梅の花は今目の前に咲いているようにで、次の句を修飾する。○散り過ぎず 「過ぎ」は過ぎ去るで、散ってしまわずに。○我が家の苑にありこせぬかも 「家」は、いえの上略。「こせ」は希求助動詞で、巻二(一一九)に既出。「ぬかも」は、打消の反語で、希望をあらわす。あってくれないのかなあ。
【釈】 梅の花は、今咲いているように散ってはゆかずに、我が家の苑にあってはくれないのかなあ。
【評】 目の前に盛りに咲いている梅を讃える心のものであるが、その讃え方がひどく立ち入った、持って廻ったものである。第一に、いつまでも散ってしまわずにいさせたいと言い、ついで、自分の家の庭の物にしたいと言っているのである。宴歌としてその席に興を添えるものとしようとの念からこうした讃え方をしたものかと思われるが、それだといわゆる下手な洒落に類したものである。歌才の乏しかった人とみえる。
【作者】 少弐小野大夫。「少弐」は、大宰小弐で大弐に次ぐ官。「小野」は、氏。略されている名は「老」とわかる。○老の伝は、巻三(三二八)に出た。「大夫」は四位、五位に対しての敬称。
 
817 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》きたる苑《その》の 青柳《あをやぎ》は 蘰《かづら》にすべく なりにけらずや 少弐粟田大夫
    鳥梅能淡奈 佐吉多流僧能々 阿遠地疑波 可豆良尓須倍久 奈利尓家良受夜 小貮粟田大夫
 
【語釈】 ○青柳は 「柳」はしだり柳。庭前にあった物。○蘰にすべく 「蘰」は巻三(四二三)に既出。しだれ柳の枝は柔軟で、曲げて輪状にするに適したもの。本来は礼装としての物であったが、私の宴会にも用いるものとなった。ここはその日の物。「すべく」は、出来そうに。○なりにけらすや 「なり」は、ここは青く芽を出して来た意。「けら」は「けり」の未然形。「や」は反語。なって来たではないか。
(60)【釈】 梅の花の咲いているこの苑の青柳は、蘰に出来るようになったではないか。
【評】 四句までの続きは、梅の花を挿頭にすることはもとより、それとともにある青柳も、蘰に出来るようになっているというので、「けらずや」の強い反語が十分梅の花の挿頭のほうを暗示し得ている。宴歌としての心を上品な形において十分に果たし得ている歌である。歌才のある人だったとみえる。
【作者】 少弐粟田大夫。「粟田」は、氏。名は不明。続日本紀に栗田朝臣|人上《ひとがみ》があり、天平元年三月正五位上を授けられている。少弐は従五位の官なので、この人ではないかと言われている。
 
818 春《はる》されば 先《ま》づ咲《さ》く宿《やど》の 梅《うめ》の花《はな》 ひとり見《み》つつや 春日《はるひ》暮《く》らさむ 筑前守山上大夫
    波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都々夜 波流比久良佐武 箭守山上大夫
 
【語釈】 ○春されば先づ咲く宿の梅の花 「春されば」は、春が来ればで、既出。「先づ咲く」は、他の花に先立って咲くところの。「宿」は自身の家。「梅の花」は、呼びかけた形のもの。○ひとり見つつや 「ひとり」は、相手なく、ただ独りで。「見つつ」は、継続。「や」は疑問。○春日暮らさむ 「春日」は、春の日で、永いものとして言っている。暮らさむ」は、日を過ごす。
【釈】 春が来ると、他の花に先立って咲くところのこの家の梅の花よ。ただ独りで見つつして、永い春の日を過ごすであろうか。
【評】 「春されば先づ咲く宿の梅の花」は、広い言い方のものであるが、ここは今目前に見ている旅人の庭の物を指しているのである。「ひとり見つつや春日暮らさむ」は、旅人のこの宴を開くに先立つ幾日かの心を想像して言っているもので、「や」という疑間の一助詞によって、そうしているに忍びない旅人の心をあらわしているものである。すなわちそれが今日の梅花の宴の原因だとしているのである。好景を衆とともに楽しみたいというのは共通の人情であるが、いわゆる君子の徳ともしているので、ここはその心で言っているものである。宴歌とすると映えないものであるが、憶良の物を大観して言おうとする態度と、漢学者らしい気分との一つになった、渋い歌である。主人旅人を讃えた挨拶である。
【作者】 筑前守山上大夫。憶良である。
 
819 世《よ》の中《なか》は 恋《こひ》繁《しげ》しゑや かくしあらば 梅《うめ》の花《はな》にも ならましものを 豊後守大伴大夫
    余能奈可波 古飛斯宜志恵夜、加久之阿良婆 烏梅能汲奈尓母 奈良麻之勿能怨 豊後守大伴大夫
 
(61)【語釈】 ○世の中 は恋繁しゑや 「恋繁し」の「恋」は、広く世の中に対してのもので、憧れとも物慾とも言いかえられるもものである。「繁し」は、多し。「ゑや」は、感動の助詞。○かくしあらば 「かく」は上の二句を受けたもの。「し」は強意、「あらば」は仮説。そのようなものであるならば。○梅の花にもならましものを 「も」は感勤。「まし」は仮設の帰結。我は梅の花になろうものを。
【釈】 世の中は物慾の多いことであるよ。そうしたものであるとしたら、我は梅の花になろうものを。
【評】 平生の俗情が、今日見る梅の花で一掃された喜びを、思い入れ潔く全帽を傾けて言っているもので、旅人に対しての挨拶である。素朴な、立体感をもった歌で、「梅の花にもならまし」が言い据わったものとなっている。歌才ではなく人柄の歌である。
【作者】 豊後守大伴大夫。「大夫」を『代匠記』は大伴三依であろうと言っているが、『攷証』は今は天平二年で、三依の従五位下になったのは天平二十年であるから時代が合わないと言っている。未詳。
 
820 梅《うめ》の花《はな》 いま盛《さかり》なり 思《おも》ふどち 挿頭《かざし》にしてな 今《いま》さかりなり 筑後守|葛井《ふぢゐ》大夫
    鳥梅能波奈 伊麻佐可利奈理 意母布度知 加射之尓斯弖奈 伊麻佐可利奈理 筑後守葛井大夫
 
【語釈】 ○思ふどち 思う人同士で、その日集まっている人の全体を指したもの。○挿頭にしてな 「挿頭」は既出。「て」は完了の助助詞「つ」の未然形。「な」は自己の願望の助詞。
【釈】 梅の花は今が盛りである。思う同士は挿頭にしようよ。今が盛りである。
【評】 苑の梅の美観を讃え、思う人どちすべてがそれを挿頭にして、宴席の興を極めようというので、主人旅人に対する挨拶の心をもって、会衆すべてに呼びかけたものである。形は典型
 
(62)の的な謡い物で、二句と四句で切りヽ二句を結句で繰り返したもである。謡った歌かと思われる。  
【作者】 筑後守葛井大夫。葛井連|大成《おおなり》で、巻四(五七六)に出た。
 
821 青柳《あをやなぎ》 梅《うめ》との花《はな》を 折《を》りかざし 飲《の》みての後《のち》は 散《ち》りぬともよし 笠沙弥
    阿乎夜奈義 烏梅等能波奈乎 遠理可射之 能弥弖能々知波 知利奴得母與新 笠沙彌
 
【語釈】 ○青柳梅との花を 「梅と」の「と」は、付加する意の助詞で、後世だと「青柳と」と続けるのを、上の物のほうはないのが当時の語法であった。青柳の花は柳絮である。○折りかざし 折って挿頭として。○飲みての後は散りぬともよし 「飲み」は、酒を飲む意で、用例の多い言い方である。「散りぬともよし」は、「ぬ」は完了で、散ってもかまわない。「とも」は逆意の仮定。
【釈】 青柳と梅の花とを折って挿頭として、酒宴の興を尽くしての後は、散ってしまおうともかまわない。
【評】 三句「折りかざし」までは、「飲み」の状態として言っているもので、酒宴の興を尽くす意のものである。結句「散りぬともよし」は、一面には主人の心を汲んで代弁するがごとき心をもってのものであるが、それにしても甚だ強い言い方である。しかるに集中にはこれと同じ結句をもった歌が他にもある。巻六(一〇一一)、巻八(一六五六)、巻十(二三二八)がそれであり、いずれも梅の花に対してのものである。当時梅の花を主題とし、こうした結句を持った謡い物があり、人口に膾炙していたところから、それを捉えてこの場合に利用したのではないかと思われる。それだと甚だ気の利いたものとなり、強すぎるのも緩和される。作者は歌才の甚だ豊かな人であることも手伝っての推畳である。
【作者】 笠沙弥。沙弥満誓で、「笠」は在俗中の氏である。名を言わぬ例から、氏を用いてその人をあらわしたのである。満誓は当時、造観音寺別当として大宰府にいたので、そのことは巻三(三三六)に出た。
 
822 わが苑《その》に 梅《うめ》の花《はな》散《ち》る ひさかたの 天《あめ》より雪《ゆき》の 流《なが》れ来《く》るかも 主人
    和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 主人
 
【語釈】 ○ひさかたの天より雪の 「ひさかたの」は、天の枕詞。○流れ来るかも 「流れ」は、雨、雪、霙などの降る状態をあらわす語で、その継統としての「流らふ」も用いられている。また、風の吹く状態にも用いている。降り、吹く状態を感覚的に言いかえることによって、具象の度を高めようとしたものと取れる。「かも」は感動の助詞で疑問の意も含んでいるもの。
(63)【釈】 わが苑の梅の花が散る。あるいは天から雪の降るのであろうか。
【評】 旅人の歌で、主人であるところから他に対しての儀礼の心を働かせる要はなく、ただ梅花に対しての心だけを言っている。梅の花の散るのが降る雪のごとく見えるということは、この当時として新しいものではなかったろうと思われるが、一首の歌となっているのを見ると、歌柄が大きく、調べが高く、堂堂としたものとなり、旅人その人を思わせるものとなっている(梅の花の散ることを二句で力強く叙し、三句以下、それはあるいは雪の降るのかと言っているだけであるが、その雪は、「ひさかたの天より流れ来る」と、それとしてはきわめて大きな言い方をしているので、初二句には老齢を嘆く感、三句以下にはそれを天命として諦めようとしている感のごときものがおのずから感じられて来て、抒情の一語なき歌が、上品な力強い抒情の歌のごとき味わいを帯びて来るのである。味わいのある歌である。
【作者】 主人《あるじ》。旅人である。
 
823 梅《うめ》の花《はな》 散《ち》らくは何処《いづく》 しかすがに 此《こ》の城《き》の山《やま》に 雪《ゆき》は降《ふ》りつつ 大監《だいげん》伴氏|百代《ももよ》
    烏梅能波奈 知良久波伊豆久 志可須我尓 許能紀能夜麻尓 由企波布理都々 大監伴氏百代
 
【語釈】 ○梅の花散らくは何処 「散らく」は、「散る」の名詞形。「何処」は、どこぞと疑って言ったもの。○しかすがに 上を受けて、そうはいうもののと打返す意の副詞。○此の城の山に 「此の」は、眼前のものを指示する語。「城の山」は巻四(五七六)に出た。福岡県筑紫郡と佐賀県三養基郡との堺にある山で、筑後の国府から大宰府へ通う路にある山。大宰府からの距離は二里半で、遠望のできる山。大野山(七九九)とする説もある。○雪は降りつつ 「つつ」は継続で、雪が現に降りつついる意である。これは誇張と取れる。
【釈】 梅の花の散っているというのは、どこのことであろうか。我にはそうは見えない。そうはいうもののあの城の山には、冬の物の雪が降りつついる。
【評】 この歌は、他の人々は皆、それぞれ自分の立場に立って作歌しているのに、それとは異なって、旅人の右の歌に対する和《こた》え歌として詠んでいるものである。傍らの人の歌に対して和え歌を詠むのは、平常であれば当然のことになっているので、今もその心よりのことと取れる。「梅の花散らくは何処」は、旅人の「吾が苑に梅の花散る」を否定したもので、「しかすがに」は立ち返ってそれを柔らげて、「此の城の山に雪は降りつつ」と、その席より遠望される城の山に、雪が白く見えるのを誇張して、季節はまだ冬であると立証して言っているのである。このような和え歌を詠んだのは、作者百代は旅人に側近しているところから、上の旅人の歌を、言ったがごとく老齢を嘆く心と解し、梅の花が散るというそのようなことはない、そうは言われるものの、あの城の山には冬の物の雪が降っていて、まだそうした季節ではないと言って慰めた心のものと解される。それでない
 
(64)とこの歌の独立性は保てなくなるからてある。
【作者】 大監伴氏百代。「大監」は、大宰府の職で、巻三(三九二)に既出。「伴」は大伴。「百代」は、名。ここから名をもってしている。ここまでの人々は、大弐少弐など大宰府の職ながら位地の高い者、また国守、満誓のような特殊な位地の人までも、すべて名を記さず敬称をもってしていたのに、ここから名を記している。軽く扱う意である。こういう扱いをなしうる者は旅人だけで、他にはない訳である。
 
824 梅《うめ》の花《はな》 散《ち》らまく惜《を》しみ 吾《わ》が苑《その》の 竹《たけ》の林《はやし》に 鶯《うぐひす》鳴《な》くも 少監阿氏|奥島《おきしま》
    烏梅乃波奈 知良麻久怨之美 和我曾乃々 多気乃波也之尓 于具比須奈久母 小監阿氏奥嶋
 
【語釈】 ○梅の花散らまく惜しみ 「散らまく」は、「散らむ」の「む」の古形「ま」に、「く」の続いた名詞形。散りそうなのを。○吾が苑の竹の林に 作者の庭のさまで、竹が林をなしており、その側に梅が咲いている形で、実景。○鶯鳴くも 「も」は感動の助詞。
【釈】 梅の花の散りそうなのを惜しんで、私の苑の竹の林に鴛が鳴いていることよ。
【評】 苑の梅の盛りの花の散りそうになったのに対して、惜しんでいると、おりからその側の竹の林で鶯が鳴いたので、自身の感情を鶯に移入した形のものである。このことは、この梅花の歌ではすでに常識のごとく用いられていて、その時代のいかに文芸的になっていたかを思わせるのであるが、この歌はその方法の際立ったものである。しかし一方では、実景を忠実に言おうとする心も働いていたことが注意される。鶯をして梅の花の散ろうとしているのを惜しませるのは、主人に対する挨拶となるものである。
【作者】 少監阿氏奥島。「少監」は、大監の次官で、職掌は同様である。「阿氏」は阿部、阿曇《あつみ》などの一字を取ったもの。高官は氏を完全に記したのを、大監、少監からは上の一字のみにして、下は省略する記し方をしている。身分の上で差別をつけてのことである。「奥島」は、伝不明。
 
825 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》きたる苑《その》の 青柳《あをやぎ》を 蘰《かづら》にしつつ 遊《あそ》び暮《く》らさな 小監土氏百村
    烏梅能波奈 佐岐多流曾能々 阿遠夜疑遠 加豆良尓志都々 阿素※[田+比]久良佐奈 小監土氏百村
 
【語釈】 ○梅の花咲きたる苑の 三句の「青柳」の位置を説明している形のものであるが、それとともに苑全体の春景をあらわしているもので、結句の「遊び暮らさな」に照応させたもの。○青柳を蘰にしつつ 青柳の蘰は上に出た。「しつつ」は継続で、時間の長さをあらわしているもの。○遊び暮らさな 「な」は自己に対する願望。
(65)【釈】 梅の花の咲いている苑にある青柳を、今日の宴席の蘰にしつつ一日を遊び暮らそう。
【評】 宴席に列してよろこびを味わいつつ、そのよろこびの延長を願っている心である。おのずから挨拶の心ともなっている。感性の細かさを見せている歌である。
【作者】 小監土氏|百村《ももむら》。この人は、続日本紀に、「養老五年正月庚午、詔(中略)従五位下山上臣憶良、正七位上土師宿禰|百村等、退朝之後令v侍2東宮1焉」とある、その百村と取れる。したがって「土氏」は、土師氏《はにし》であり、学識のあった人と思われる。
 
826 うち靡《なび》く 春《はる》の柳《やなぎ》と 吾《わ》が宿《やど》の 梅《うめ》の花《はな》とを 如何《いか》にか分《わ》かむ 大典史氏大原
    有知奈※[田+比]久 波流能也奈宜等 和我夜度能 烏梅能波奈等遠 伊可尓可和可武 大典史氏大原
 
【語釈】 ○うち靡く春の柳と 「うち靡く」は、春の枕詞であるが、「柳」の状態ともなって、二様の働きをしている。「春の柳」は、春の若葉を出した柳で、これは旅人の苑内の物。○吾が宿の梅の花とを 「吾が宿」は、自分の家。○如何にか分かむ 「か」は疑問の助詞。「分かむ」は、判別をつけようで、いずれか優り劣っているのそれ。梅の花には劣る柳であるがそうは見えない意。
【釈】 靡いている春の柳の愛《め》でたさと、吾が家の梅の花の愛でたさと、いずれが優っていると判別をつけようか。
【評】 旅人の庭の春の初の愛でたさを讃えたもので、梅の花は言うまでもないとし、柳も、我が庭の梅の花よりも優っていると言って、全部を讃えているのである。心が細かく働いている為に、言い方が婉曲になっているが、挨拶の歌としての心は果たし得ているものである。作歌に孰している人である。
【作者】大典史氏大原。「大典」は大宰の大典。「史氏」は、史部《ふひとべ》氏。「大原」は、伝不明。
 
827 春《はる》されば 木末隠《こぬれがく》りて 鶯《うぐひす》ぞ 鳴《な》きていぬなる 梅《うめ》が下枝《しづゑ》に 少典山氏若麿
    波流佐礼婆 許奴礼我久利弖 宇具比須曾 奈蚊弖伊奴奈流 烏梅我志豆廷尓 小典山氏若麿
 
【語釈】 ○木末隠りて 「木末」は枝先で、葉の茂っているところ。「隠り」は、古くは四段活用。木ぬれに隠れてで、鶯の常磐木を木伝うさまを叙したもの。○鶯ぞ鳴きていぬなる 「ぞ」は係助詞。「いぬなる」は、行くことよで、「ぞ」の結。○梅が下枝に 「下枝」は幹の下のほうの枝。
【釈】 春が来ると、常磐木の枝先に隠れて、鶯が鳴いて飛び移ってゆくことであるよ、梅の下枝に。
(66)【評】 これはその折苑内で見かけた鶯の動作を捉えて詠んだものである。その鶯は常磐木の梢から現われて、鳴きながら梅の木の下枝に向かって飛んで行ったので、それをそのまま捉えた形である。しかし同時にいま一つの心の働きがあった。それはその鶯が、常磐木から現われたということで、これはいわゆる春になると鶯が幽谷を出て喬木に移るということを連想させるものであるから、ここでは常磐木をその喬木とし、さらに梅の枝に移って行くとして、そこに梅の花を讃える心をあらわそうとしたのである。初句に「春されば」というこの場合としては不用に見える句を置いているのは、その心からのことである。写生によって題詠の心を遂げている歌である。
【作者】 少典山氏若麿。「少典」は大典の次官。職掌は同じである。「山氏」は、山口氏。巻四(五六七)「少典山口忌寸若麿」とある人である。
 
828 人毎《ひとごと》に 折《を》り挿頭《かざ》しつつ 遊《あそ》べども いやめづらしき 梅《うめ》の花《はな》かも 大判事丹氏麿
    比等期等尓 乎理加射之都々 阿蘇倍等母 伊夜米豆良之岐 烏梅能波奈加母 大判事丹氏麿
 
【語釈】 ○いやめづらしき 「いや」はますます。「めづらし」は、動詞「めづ」より出た形容詞。愛ずらしの意にも、珍しの意にも用いている。これは前者である。
【釈】 人毎に、折って挿頭にしつつ遊んでいるけれども、ますます愛ずべくも見える梅の花であることよ。
【評】 宴会と梅の花とを、そのよろこびによって綜合したもので、体を得た歌である。
【作者】 大判事丹氏麿。「大判事」は大宰府の官人で、司法官。「丹氏」は不明。「舟氏」とある本もある。「暦」も不明。
 
829 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》きて散《ち》りなば さくら花《ばな》 継《つ》ぎて咲《さ》くべく なりにてあらずや 薬師《くすりし》張《ちやう》氏|福子《ふくし》
    烏梅能波奈 佐企弖知理奈波 佐久良婆奈 都伎弖佐久倍久 奈利尓阿良受也 藥師張氏福子
 
【語釈】 ○継ぎて咲くべく 続いて咲きそうに。○なりにてあらずや 「や」は反語。なっているではないか。
【釈】 梅の花が咲いて散ったならば、桜花が続いて咲きそうになっているではないか。
【評】 この歌は、題の梅花を離れようとしているものであるが心としては、花を通しての春のよろこびの尽きないことを言っているので、広い意味で繋がりがあると言える。気分はあるが、この場合のものとしては拙い。
(67)【作者】 薬師張民福子。「薬師」は、医師で、医療のことを司る大宰府の官人。「張氏」は職業柄、帰化人系統の人と思われる。氏名は字音に訓むべきだろう。伝不明。
 
830 万世《よろづよ》に 年《とし》は来経《きふ》とも 梅《うめ》の花《はな》 絶《た》ゆることなく 咲《わ》き渡《わた》るべし 筑前介佐氏|子首《こびと》
    萬世尓 得之波岐得母 烏梅能波奈 多由流己等奈久 佐吉和多流倍子 筑前介佐氏子首
 
【語釈】 ○万世に年は来経とも 「万世」は永久。「来経」は、来たり過ぎ去るで、来るというに異ならない。用例が少なくない。○咲き渡るべし 「渡る」は続く。「べし」は推量の助詞。
【釈】 永久に年は来るとも、梅の花は絶えることなく咲き続いて行くであろう。
【評】 旅人の庭の梅の花を対象にして、梅花その物の永遠性を言っているので、旅人に対する賀の挨拶となりうるものである。
【作者】 筑前介佐氏子首。「介」は守に次ぐ官。「佐氏」は佐伯の略であろう。
 
831 春《はる》なれば 宜《うべ》も咲《さ》きたる 梅《うめ》の花《はな》 君《きみ》を思《おも》ふと 夜寝《よい》も寝《ね》なくに 壱岐守板氏安麿
    波流奈例婆 字倍母佐枳多流 烏梅能波奈 岐美乎於母布得 用伊母祢奈久尓 壹岐守板氏安麿
 
【語釈】 ○春なれば宜も咲きたる 「春なれば」は、春にあればで、春なので。「宜」はもっともなど、諾《うべな》う意の副詞。「も」は、感動の助詞。○梅の花 呼び懸け。○君を思ふと 「君」は、上の梅の花を擬人して敬称を用いたもの。「思ふと」は、恋しく思うとて。○夜寝も寝なくに 「夜寝」は、夜の眠りで、熟語。「なくに」は、しばしば出た。
【釈】 春なので、もつともにも咲いている梅の花よ。君の上を思うとて我は、夜の眠りも出来ないことなのだ。
【評】 梅の花に対してきわめて深く傾倒している心である。「春なれば宜も咲きたる梅の花」と、眼前に咲いている梅の花を見て、その咲いていることを一度は訝り、思いかえして、春なので咲いていても不思議はないと諾った心である。この作者は壱肢を任地としているので、そこにも梅はあるが、花はまだ咲かなかったからのことてある「君を思ふと夜寝も寝なくに」は、作者の任地では梅の花の咲くを待って夜も眠れずにいることを言って、眼前の梅の花を一段と讃えたのである。梅の花に君という敬称を用いているのは、漢詩文の影響と、梅がまだ珍しいものであったこととの相俟ってのことと思われる。一首、(68)自身の体験を主としたものであるが、おちいるところ、旅人の苑の梅の花を讃えたもので、宴歌と言える。
【作者】 「板氏」は紀州本は「坂」、西本頗寺本は「榎」で、定め難い。不明である。「板氏」ならば、続日本紀、天平七年九月の条に出る大史従六位下板持安麻呂か。
 
832 梅《うめ》の花《はな》 折《を》りてかざせる 諸人《もろびと》は 今日《けふ》の間《あひだ》は 楽《たの》しくあるべし 神司《かむづかさ》荒氏|稲布《いなふ》
    烏梅能波奈 乎利弖加射世留 母呂比得波 家布能阿此太波 多努斯久阿流倍斯 神司荒氏稻布
 
【語釈】 ○諸人は その日の会衆全部の意で、作者もその中にいるのである。○今日の間は 今日の一日の間はで、その「今日」は、旅人の家の客となって観梅の宴につらなっているという、まことに稀有な日で、尊んで言っているもの。○楽しくあるべし 「べし」は推量の助動詞。
【釈】 梅の花を折って挿頭としているもろもろの人は、今日の一日のあいだは楽しいことであろう。
【評】 旅人の観梅の宴に列《つらな》るという稀有な歓びに対しての感謝の心を言ったものである。しかしそれを言うには、第三者ででもあるがごとき、相応に距離を置いての言い方をしている。それはこの作者だけではなく、官人としての位地の低い者には通じてのことで、意識してのこととみえる。この作者はそれを際やかにしてあらわしているのである。「今日の間は楽しくあるべし」というのは、深い感謝の心よりのものであるが、一読それとは響きかねるようなところのあるのは、控えめに言おうとする心よりのことである。
【作者】 神司荒氏稲布。「神司」は、大宰府の主神で、神事を司る職。「荒氏」「稲布」はいずれも不明。
 
833 年《とし》のはに 春《はる》の来《きた》らば かくしこそ 梅《うめ》を挿頭《かざ》して 楽《たの》しく飲《の》まめ 大令史《たいりやうし》野氏|宿奈麿《すくなまろ》
    得志能波尓 波流能伎多良婆 可久斯己曾 烏梅乎加射之弖 多努志久能麻米 大令史野氏宿奈麿
 
【語釈】 ○年のはに 毎年。○楽しく飲まめ 「飲まめ」は、酒を飲もうで、上に出た。「め」は上の「こそ」の結。
【釈】 毎年、春が来たならば、今日の通りに、梅の花を挿頭として、楽しく酒を飲もう。
【評】 楽しい遊びをして、また重ねてしようというのは常識で、いつの時にも言われていることである。最初に出た紀の卿の歌と構成が酷似している。同じく謡い物に拠ったものであろう。
【作者】 大令史野氏宿奈麿。「大令史」は大宰府の書記。「野(69)氏」は、小野、大野など多く、不明。「宿奈麿」も同じ。
 
834 梅《うめ》の花《はな》 今《いま》盛《さかり》なり 百鳥《ももとり》の 声《こゑ》の恋《こほ》しき 春《はる》来《きた》るらし 少令史田氏|肥人《ひびと》
    烏梅能波奈 伊麻佐加利奈利 毛々等利能 己惠能古保志枳 波流岐多流良斯 小令史田氏肥人
 
【語釈】 ○百鳥の声の恋しき 「百鳥」は、さまざまの鳥。「恋しき」は、恋しきの古語。鳴き声の恋しい。○春来るらし 「春」は小鳥の声の艶を帯びて好くなる時。「らし」は、限前を証としての推量の助動詞。証は梅の花である。
【釈】 梅の花が今盛りである。さまざまの小鳥の鳴き声の恋しくなる春が来ることであろう。
【評】 盛りに咲いている梅の花を見ると、それに続いて春の代表物として現われる百島の声の好さを想像して、春の整ひ来るのを待つ心である。眼前の梅の花を土台としている点では、宴会につながりをもち得ているが、この場合の歌としては適切なものだとは言えない。鳥の声を愛することはこの時代に入って箸しくなっていると思われるが、百島の声の恋《こお》しきという心は、作者の個性の強く働いているものである。
【作者】 少令史田氏肥人。「少令史」は上に出た。「田氏」は、「田」の字をもった氏は多いので、いずれとも定め難い。「肥人」も伝不明。
 
835 春《はる》さらば 逢《あ》はむと思《おも》ひし 梅《うめ》の花《はな》 今日《けふ》の遊《あそび》に あひ見《み》つるかも 薬師《くすりし》高《かう》氏|義通《ぎつう》
    波流佐良婆 阿波武等母比之 烏梅能波奈 家布能阿素※[田+比]尓 阿比美都流可母 藥師高氏義通
 
【語釈】 ○春さらば逢はむと思ひし 春が来たならば、逢おうと思っていたで、下の「梅の花」を擬人した言い方。○梅の花 呼びかけ。○今日の遊に 「遊」は、意味の広い語で、宴会、歌舞、奏楽などの称ともなっていた。これは中世にも及んでいる。ここは宴会の意。○あひ見つるかも 逢い見たことであるよと、二句の「逢はむと思《も》ひし」を繰り返した形のもの。「かも」は感動の助詞。
【釈】 春が来たならば逢おうと思っていたところの梅の花よ。今日の宴会に逢い見たことであるよ。
【評】 憧れていた梅の花を見ることの出来たのを、この宴会が機縁であったとして言ったもので、その場合にかなった歌というべきである。しかしそれを言う態度は、個人的な色彩の濃厚なもので、会衆とともに楽しんでいるという気分は稀薄である。梅の花を擬人している点は上の(八三一)と同じく漢詩文の影響の見えることで、その趣味に浸っている趣がある。
(70)【作者】 薬師高氏義通。「薬師」は、前にも出た。「高」という氏は続日本紀に見え、音で訓むもの。「義通」は、伝不明。これも音で訓むべきであろう。
 
836 梅《うめ》の花《はな》 手折《たを》りかざして 遊《あそ》べども 飽《あ》き足《た》らぬ日《ひ》は 今日《けふ》にしありけり 陰陽師《うらのし》礒《いそ》氏|法《のり》麿
    烏梅能波奈 多乎利加射志弖 阿蘇倍等母 阿岐太良奴比波 家布尓志阿利家利 陰陽師礒氏法麿
 
【語釈】 ○手折りかざして 「手」は接頭語。折って挿頭にして。○飽き足らぬ日は 満足できない日はで、楽しさが尽きないので心が残る意。○今日にしありけり 「し」は強意の助詞。
【釈】 梅の花を折って挿頭にして宴楽をしたけれども、飽き足りない日は、今日という日であるよ。
【評】 これは宴会の終りに近い頃、その日一日中の楽しさを思い返し、なお楽しさの尽きないことを言ったもので、感謝の心よりのものである。場合にふさわしい歌である。
【作者】 陰陽師礒氏法麿。「陰陽師」は大宰府の官人で、人筮相地をする職。「礒氏」は、礒部氏かという。「法麿」は伝不明。
 
837 春《はる》の野《の》に 鳴《な》くや鶯《うぐひす》 なつけむと 我《わ》が家《へ》の苑《その》に 梅《うめ》が花《はな》咲《さ》く ※[竹/卞]師《かぞへのし》志《し》氏大道
      波流能努尓 奈久夜汗隅比須 奈都氣牟得 和何弊能曾能尓 汗米何波奈佐久 ※[竹/卞]師志氏大道
 
【語釈】 ○鳴くや鶯 「や」は感動の助詞。鳴く鶯を。○なつけむと 「なつく」は、馴着くで、手なずける。「と」は、と思って。○我が家の苑に 「我が家《へ》」は、「我が家《いへ》」と並び行なわれている。○梅が花咲く 「が」は梅に重点を置いて熟語的にしたもの。擬人している。
【釈】 春の野に鳴いている鶯を手なずけようとして、我が家の庭に梅の花が咲いている。
【評】 鶯は梅の花の咲く頃に来る鳥であるのと、春第一に咲く梅とは、快感の上で調和するところから、二つを関係づけようとする心は、自然なものであるとともに、この時代の生活情調、文芸尊重の気分と相俟って行なわれていたことは、上の(八二七)でも窺われる。野に鳴く鶯に「や」の感動の助詞を添えて強調し、梅には「なつけむと」と擬人して人間に引き着けているが、しかし実景の上に立っているところがあり、その距離は大きいものではないことが注意される。この際のものとしては(71)個人的興味の濃厚なもので、適切とは言えないものである。
【作者】 ※[竹/卞]師志氏大道。「※[竹/卞]」は「算」と同じ。「※[竹/卞]師」は大宰府の官人で、計算係である。「志氏」は、その字のある氏が多く、いずれとも定められない。「大道《おおみち》は伝不明。
 
838 梅《うめ》の花《はな》 散《ち》り乱《まが》ひたる 岡《をか》びには 鶯《うぐひす》鳴《な》くも 春《はる》片設《かたま》けて 大隅目|榎《え》氏鉢麿
    烏梅能波奈 知利麻我比多流 乎加肥尓波 字具比須奈久母 波流加多麻氣弖 大隅目榎氏鉢麿
 
【語釈】 ○散り乱ひたる 「乱《まが》ふ」は、見定められない意。ここは乱れる意。散り乱れている。○岡び 「び」は辺《べ》と同じ。岡のあたり。○鳴くも 「も」は感動の助詞。○春片設けて 「片設く」は、解に諸説があって、一定しない語であるが、『攷証』のひとえに待ち設ける、すなわちひたすら待つという解に従う。
【釈】 梅の花の散り乱れている岡のあたりには、鴬が鳴いているよ。春をひたすら待って。
【評】 初句から四句までは、その折、旅人の庭に見た光景をそのままに詠んだものと思われる。鶯に重点があるが、梅の花も軽くなく扱ったものなので、題意から離れきったものではない。結句の「春片設けて」は、無条件な歌とするとないほうがよい不用なものに見えるが、作者は賀の心をもたせるべき場合だとして詠んでいるのであるから、その点から見ると、光景の説明であるとともに、主人の将来を婉曲に賀したものともなりうる言葉なので当然なくてはならない、それとしても程のよいものだと自信をもち得たものであろう。相当の作というべきである。
【作者】 大隅目榎氏鉢麿。「大隅目」は、国守の四等官で、国によってその員数は異なるが、大隅国は中国であるから、一人である。「榎氏」「鉢麿」はいずれも不明。
 
839 春《はる》の野《の》に 霧《きり》立《た》ち渡《わた》り 降《ふ》る雪《ゆき》と 人《ひと》の見《み》るまで 梅《うめ》の花《はな》散《ち》る 筑前目|田《た》氏真上
    波流能努尓 紀理多知和多利 布流由岐得 比得能美流麻堤 烏梅能波奈知流 筑前目田氏眞上
 
【語釈】 ○春の野に霧立ち渡り 「霧立ち渡り」は、霧が全面的に立ち続いていて。「霧」は霞である。○降る雪と人の見るまで 降る雪と思って人の見るまでに。 
【釈】 春の野のほうには霞が立ち続いていて、降る雪と人が見る程に、梅の花が散っている。
【評】 旅人の歌によると、その日の梅の花は散りぎわになり、 散ってもいたことが知られる。しかるにほとんどすべての人が(72)盛りだと讃えて散るに触れていないのは、梅の花に賀の心を寄せようとした為と思われる。この前の歌とこの歌とは実景に即して散ることを言っている。前の歌はそれでも賀の心をもたせているが、この歌にはほとんどそれがなく、実景で終始しているものである。実景としては、旅人の庭は野が見渡されるもので、遠景が野、前景が梅の木という形になっていて、おりから野にはうす霞が一面にかかっていたと見える。作者は梅の花のしきりに散るのに心を動かし、落花を雪に譬えることを連想してそれを雪とし、その関係から野の霞を「霧立ち渡り」と、雪の日の光景のごとく見做して、一首を構成したのである。春の霞を霧という用例はあって、無理な語ではなかったのである。無条件の歌とすると、これも相応な作である。
【作者】 筑前目田氏真上。「目」も「田氏」も前に出た。「真上」は伝不明。
 
840 春柳《はるやなぎ》 蘰《かづら》に折《を》りし 梅《うめ》の花《はな》 誰《たれ》か浮べし 酒盃《さかづき》の上《へ》に 壱岐目村氏|彼方《をちかた》
    波流楊那宜 可豆良尓乎利志 烏梅能波奈 多礼可有可倍志 佐加豆岐能倍尓 壹岐目村氏彼方
 
【語釈】 ○春柳蘰に折りし 春の柳は蘰として折ったで、「し」で終止させてあって、ここで句切。「し」は連体形で、上に「ぞやか」の係がなくて連体形で結ぶのは異例のように見えるが、集中少ないながら例のあるものである。巻三(四〇七)「春霞春日の里の殖子水葱《うゑこなぎ》苗なりと云ひし柄はさしにけむ」などがそれである。その日の宴会の例として、自分でしていたことを叙したもの。○梅の花誰か浮べし 梅の花は誰が浮かべたのだで、「か」は係助詞、「し」はその結。これもここで句切があって、その上で結句へ続けて、浮かべた場所を言っている。○酒盃の上に 「酒盃」は自分の前へ巡って来たもので、「上」は酒盃に盛った酒の上に。酒盃に梅花を浮かべることは風流なわざとして行なわれていたとみえ、この続きにも他にもある。
【釈】 春の柳は蘰として折って我がしていたが、梅の花は誰が浮かべたのだ。巡って来た洒盃の酒の上に。
【評】 風流の遊びの限りないことを讃えて、宴会の悦びを言ったものである。庭の春の柳を折って蘰にしていることがすでに風流なことであるのに、さらに巡って来た酒盃を見ると、酒の上に梅の花が浮かべてあるので、人のしたその風流に興じ入った心で、自他共に風流を尽くし合っていることを讃えたものである。初二句と三、四句とは対句の形になっているもので、短歌の謡い物傾向のものは、二句で切り四句で切るのが一つの型となっているのに拠ろうとしたものとみえるが、それをするとしては事象が複雑にすぎるので、おのずからある程度の無理がある。難解な歌となっているのはその為であるが、作者としてはその無理を遂げ得ているところに得意を感じたことであろう。
【作者】 壱肢目村氏彼方。「目」は壱肢国は小国で一人。「村氏」は不明。「彼方」も伝不明。
 
(73)841 鶯《うぐひす》の 声《おと》聞《き》くなへに 梅《うめ》の花《はな》 吾家《わぎへ》の苑《その》に 咲《さ》きて散《ち》る見《み》ゆ 対馬目高氏老
    于遇比須能 於登企久奈倍尓 烏梅能波奈 和企弊能曾能尓 佐伎弖知留美由 對馬目高氏|老《おゆ》
 
【語釈】 ○声聞くなへに 「声《おと》」は「こゑ」と並び用いられていた語である。「なへに」は、並べにの意で、同時に、につれて。○吾家の苑に 「吾家《わぎへ》」は、吾が家の約音。並び用いられていた。○咲きて散る見ゆ 「咲きて散る」は、後世だと単に散るとのみいう場合にいっている語で、「散る」に重点を置いて経過を示しているもの。用例が多い。「見ゆ」は、見える。
【釈】 鶯の鳴く声を聞くにつれて、梅の花の吾が家の庭に散るのが見える。
【評】 眼前に見た状景をそのままに叙した形の歌である。鶯の鳴く声がしたので、家の内にあって目をやって庭のほうを見やると、おりから庭の梅の花が散っていたというので、これも鶯の鳴くのを、散る梅を惜しんでのことという繋がりを感じたものとみえる。それには全然触れず、しかしその心を現わそうという心から、「見ゆ」という重い語をもって結んだのであろう。庭の梅の花の散るのを見たのに対しては、「見ゆ」という語は重すぎる不適当なものだからである。事としてではなく、気分を生かそうとしたものであろう。梅の花が主になってはいるが、個人的な興味にとどまるもので、この場合の歌としては適当とは言えない。一首の歌とすれば要を得ている。
【作者】 対馬目高氏老。対馬の小国であるから、目は一人である。「高氏」は、前にも出た。「老」は、不明。
 
842 我《わ》が宿《やど》の 梅《うめ》の下枝《しづえ》に 遊《あそ》びつつ 鶯《うぐひす》鳴《な》くも 散《ち》らまく惜《を》しみ 薩摩目高氏|海人《あま》
    和我夜度能 烏梅能之豆延尓 阿蘇此都々 宇具比須奈久毛 知良麻久乎之美 薩摩目高氏海人
 
【語釈】 ○我が宿の梅の下枝に遊びつつ 「宿」は屋外で、庭。「下枝」は上に出た。「遊び」は、人間の広く風流なことをするのを現わす語であるが、ここは常に用いている。鶯の梅の花に来て鳴いている上に、人間の遊びと同じ心を感じてのもの。「つつ」は継統。○鶯鳴くも 「も」は感動の助詞。上の「遊び」の説明。○散らまく惜しみ 散ることを惜しんで。
【釈】 わが庭の梅の下枝に遊びつつ、駕が鳴いているよ。散ることを惜しんで。
【評】 これも眼前に見ている梅と鶯とをそのままに叙し、「散らまく惜しみ」を添えることによって、主人に対する挨拶の心(74)を婉曲に現わしているものであって、上の(八二四)の竹の林に鳴く鴬と全く同工異曲である。こうした形がすでに一つの型となっていたかと思わせるものである。
【作者】 薩摩目高氏海人。「高氏海人」は、不明である。
 
843 梅《うめ》の花《はな》 折《を》りかざしつつ 諸人《もろびと》の 遊《あそ》ぶを見《み》れば 都《みやこ》しぞ思《も》ふ  土師氏御通《はにしみみち》
    宇梅能波奈 乎理加射之都々 毛呂比登能 阿蘇夫遠美礼婆 弥夜古之叙毛布 土師氏御通
 
【語釈】 ○都しぞ思ふ 「郡」は奈良の都。「し」は強意、「ぞ」は係助詞。「思ふ」は、「ぞ」の結で、連体形。
【釈】 梅の花を折って挿頭としいしいして、諸々の人の宴楽をしている有様を見ると、奈良の都が思われることであるよ。
【評】 この歌は客の一人として宴に列しながら、第三者のごとき立場に立って詠んでいるものである。当時の奈良は前代に見ない飛躍的文化の府であったので、地方の筑紫にあって諸人の風雅を尽くしているさまを、都を思わせるものだというのは、絶大の讃辞だったのである。「思ふ」は、普通だと「思ほゆ」というところであるのに、「思ふ」と係助詞を用いて強く言っているのは、その讃辞を力強く現わしているものである。
【作者】 土師氏御通。巻四(五五七)に出た土師宿禰水通と同人であろう。そのころ大宰府に下っていたものとみえる。官名を記さず、氏を略さずに記しているのは、何らかの理由のあったことと思われる。
 
844 妹《いも》が家《へ》に 雪《ゆき》かも降《ふ》ると 見《み》るまでに 許多《ここだ》もまがふ 梅《うめ》の花《はな》かも 小野氏|国堅《くにかた》
(75)    伊母我陛迩 由岐可付不流登 弥流麻堤尓 許々陀母麻我不 烏梅能波奈可毛 小野氏國堅
 
【語釈】 ○妹が家に雪かも降ると 「かも」は疑問。妹の家に雪が降っているのかと。○許多もまがふ 「許多」は多くであるが、ここはまがう程度で、甚しくも。「まがふ」は、ここは見紛ふ意。○梅の花かも 「かも」は感動。
【釈】 妹の家に雪が降っているのかと見る程に、甚しくも見紛う梅の花であることよ。
【評】 梅の落花を雪に譬えるのは、他にも例のあるものであるが、一首の調べは若々しく躍っていて、実感の現われと思えるものである。しかしこの宴での歌として見ると、何ら直接のつながりのないものである。宴席では一座のすべてに共通の興味のある歌を謡うことが一方では型となっており、大体は笑いを買いうる相聞の歌であった。この歌には笑いはないが、眼前の梅の花にはつながりのある、相聞の心を帯びた歌であるから、この場合、宴歌とするに足りる内容としたかとも思われる。
【作者】 小野氏国堅。伝が詳かでない。
 
845 鶯《うぐひす》の 待《ま》ちかてにせし 梅《うめ》が花《はな》 散《ち》らずありこそ 思《おも》ふ子《こ》が為《ため》 筑前掾|門《かど》氏|石足《いそたり》
    宇具比須能 麻知迦弖尓勢斯 宇米我波奈 知良須阿利許曾 意母布故我多米 筑前掾門氏石足
 
【語釈】 ○待ちかてにせし 「かてに」は、待ちきれずにしていたところの。○梅が花 呼びかけ。○散らずありこそ 「こそ」は、願望の助詞。○思ふ子が為 「子」は、愛しての称で、思う妹。「為」は、見せようが為に。
【釈】 鶯が咲くのを待ちきれずにしていた梅の花よ。散らずにいてくれよ。思う妹に見せようが為に。
【評】 この歌も上の歌と同じく、梅の花と思う妹とを主題としたもので、同じ性質のものである。しかしこの歌には上の歌のような謡い物風の趣がなく、非感性的である。「鶯の待ちかてにせし梅が花」は、今咲いている梅の花の愛でたさを言おうとして、咲かなかった前に溯って言ったもので、時間的な言い方のものである。「散らずありこそ」は将来へ対しての願望でこれまた時間的である。「思ふ子が為」も、それ自身省略をもった言い方である。要するに、余りにも多くを望んで、綜合が伴わず、感性的な趣のないものにしているのである。宴歌には不適当な詠み方の歌である。
【作者】 筑前掾門氏石足。「掾」は国司の三等官。巻四(五六八)に出た門部連石足である。席次が低くなっている理由はわからない。
 
(76)846 霞《かすみ》立《た》つ 長《なが》き春日《はるび》を 挿頭《かざ》せれど いやなつかしき 梅《うめ》の花《はな》かも 小野氏|淡理《たり》
    可須美多都 那我岐波流卑乎 可謝勢例杼 伊野那都可子岐 烏梅能波那可毛 小野氏淡埋
 
【語釈】 ○霞立つ長き春日を 「霞立つ」は、春にかかる枕詞。これは実景をあらわすものともなっている。○挿頭せれど 「挿頭す」に、助動詞「り」の已然形と助詞「ど」の接続したもので、条件法。挿頭しているけれども。
【釈】 霞の立つ長い春の日を、終日かざしているけれども、ますますなつかしい梅の花であるよ。
【評】 (八二八)に、心としては酷似したものである。異なるところは、そちらは人々の挿頭の梅を見ての感であるのに、これは自身の挿頭だけを対象としていることである。このほうが感の濃いものがある。
【作者】 小野氏淡理。伝不明である。
 
     員外故郷を恩ふ歌両首
 
【題意】 「員外」は、員《かず》の外《ほか》であり、員は定数で、上の三十二首の意であり、外《ほか》はそれ以外のものの意である。このように言うのは、三十二首は「梅花の歌」であり、これは「故郷を思ふ歌」で、その性質を異にしているからである。「故郷」は、ここでは筑紫にあって奈良の都をさしているのである。作者の名はないが、歌は明らかに旅人のものである。したがって作者名のないことは、序を初めこの全体を整理した人は旅人であることを示しているものである。
 
847 我《わ》が盛《さかり》 いたく降《くだ》ちぬ 雲《くも》に飛《と》ぶ 薬《くすり》食《は》むとも また変若《をち》ちめやも
    和我佐可理 伊多久々多知奴 久毛尓得夫 久須利波武等母 麻多遠知米也母
 
【語釈】 ○我が盛いたく降ちぬ 「盛」は、齢の盛りで盛時。「降ち」は、降《くだ》る意で、夜降《よくだち》という例は多くある。我が壮年期は甚しくも遠くなったの意。○雲に飛ぶ薬食むとも 「雲に飛ぶ」は、仙人となって昇天する意で、「薬」は、そうなりうる仙薬で、常人も仙薬を食めば仙人となりうるとしてのもの。その出所は『神仙伝』の淮南王劉安であり、彼は八公という仙薬を作る術を知っている者からその術を受け、それを喫して白日昇天をした。その仙薬の余りを舐めた鶏犬もまた昇天したというのである。「食む」は、喫する。○また変若ちめやも 「変若」は、巻三(三三二)に(77)出た。初めのほうへ立ちかえる意で、ここは若がえる意。「や」は、反語。「も」は、感動の助詞。再び若がえろうか若がえりはしない。仙人は不老不死のものとしているところよりの言。
【釈】 我が盛時は甚しくも遠ざかった。たとい雲に飛ぶ薬を食《は》もうとも、再び若がえることがあろうか、ありはしない。
【評】 題詞には「故郷を思ふ」と言っているが、内容は老いを嘆く心である。老衰しているがゆえに故郷が思われるのだとしたのであろう。総括しての生活感であるために、哥柄が大きく、おおらかで、老のさびも持っている歌である。「雲に飛ぶ薬」を捉えて言っているのは、この当時の神仙道よりのことで、旅人に限ってのことではない。彼自身も趣味としてそれを愛し.本巻にある文章にも、また『懐風藻』に収められている漢詩にも、濃厚にそのことを示しているが、本来は実際を重んじた人であるから、「薬食むともまた変若ちめやも」と粟て去っていて、結局、如何ともし難いことだというに過ぎないものである。
 
847 雲《くも》に飛《と》ぶ 薬《くすり》はむよは 都《みやこ》見《み》ば いやしき吾《あ》が身《み》 また変若《を》ちぬべし
    久毛尓得夫 久須利波牟用波 美也古弥婆 伊夜之吉阿何微 麻多越知奴倍之
 
【語釈】 ○はむよは 「よ」は「ゆ」と同じく、より。○いやしき吾が身 「いやしき」は、卑賤で、謙遜しての冨。他に対しての称であるから、宴に会している諸人に披露した歌と思われる。○また変若ちぬべし 再び若返るだろうで、上の歌の結句を受けて、それを翻したもの。
【釈】 雲に飛ぶ薬を食むよりも、奈良の都を見たならば、いやしい吾が身も若がえることであろう。
【評】 前の歌に続けての作で、前の歌では、老の如何ともし難い絶望を言ったのであるが、実際を重んじる旅人はただちに活路を見出して、奈良の都を見たならば、仙薬にも遥かにまして、若がえり得ようと言っているのである。老齢の知識人旅人が、文化の都を離れて、遠い地方にあっての心境の思われる歌である。
 
     後に追ひて和ふる梅の歌四首
 
【題意】 「後に」というのは、宴遊をした日の後で、「追ひて和ふる梅の歌」は、その日の題であった梅の歌に対して、追って唱和する意である。同じく作者名はないが旅人であることは、作風より察しられる。
 
849 残《のこ》りたる 雪《ゆき》にまじれる 梅《うめ》の花《はな》 早《はや》くな散《ち》りそ 雪《ゆき》は消《け》ぬとも
(78)    能許利多流 由棄仁未自例留 宇梅能半奈 半也久奈知利曾 由吉波氣奴等勿
 
【語釈】 ○残りたる雪にまじれる 消え残った雪の中にまじって咲いているところの。○梅の花 呼びかけ。
【釈】 消え残った雪の中にまじって咲いている梅の花よ。早くは散るな。雪のほうは消え去ろうとも。
 
【評】散り際になっている梅の花に対して、その散ることをおしんで、呼び懸けて禁止している強い言い方のものである。「雪にまじれる」は、その色の似て、紛らわしいものになっていることを暗示したもの、「早くな散りそ雪は消ぬとも」も、その色の似ているとこ」ろから、その成行きも同じように思えて、覚束なさを感じていることを現わしてゐるもので、細かに感性の現われている歌である。平俗には見えるが味わいがある。
 
850 雪《ゆき》の色《いろ》を 奪《うば》ひて咲《さ》ける 梅《うめ》の花《はな》 今《いま》盛《さかり》なり 見《み》む人《ひと》もがも
    由吉能伊呂遠 有婆比弖佐家流 有米能波奈 伊麻左加利奈利 弥牟必登母我聞
 
【語釈】 ○雪の色を奪ひて咲ける 「雪の色を奪ひて」は、梅の花の其白さを具象的に言ったもので、漢詩文の影響を受けた語である。上の歌と同じく雪中の梅で、比較して言ったものと取れるから、実景に即したものである。○今盛なり 「盛なり」は、そうした木もあったと見える。○見む人もがも 「がも」は願望の助詞。人に見せたいものだ。
【釈】 雪の色を奪って真白に咲いている梅の花は、今が盛りである。見る人がほしいものだ。
【評】 梅の花の美しさを独りで見ていて、独りで見ているのを飽き足らずとして、人にも見せたい感を発した心である。「雪の色を奪ひて」の強調は、「見む人もがも」に照応して、厚みのある歌となっている。この美しさを愛する心と.人に見せたいと思う心は、いわゆる風流《みやび》であるが、旅人にあってはそれが本質的なものだったとみえる。
 
851 我《わ》が宿《やど》に 盛《さかり》に咲《さ》ける 梅《うめ》の花《はな》 散《ち》るべくなりぬ 見《み》む人《ひと》もがも
    和我夜度尓 左加里尓散家留 宇梅能波奈 知流倍久奈里奴 美牟必登聞我母
 
【語釈】 ○我が宿に盛に咲ける梅の花 「宿」は、戸外で、庭。「梅の花」は、下に詠歎がある。○散るべくなりぬ 散りそうな状態となった。
(79)【釈】 我が庭に盛りに咲いていた梅の花よ。散りそうな状態になった。見る人がほしいものだ。
【評】 結句「見む人もがも」は上の歌と同じである。盛りであるから見せたいと思った梅の花を、散りそうであるからまた見せたいと思ったのである。愛惜の心の深さはこの歌のほうが深いと言える。風流の真髄に触れている歌である。以上三首、梅の花の時間的推移を迫って詠んでいるもので、おのずから連作の形となっているものである。旅人の歌には連作が多いが、その由って來たる所を示している歌と言える。
 
852 梅《うめ》の花《はな》 夢《いめ》に語《かた》らく 風流《みやび》たる 花《はな》と吾《あれ》思《も》ふ 酒《さけ》に浮《うけ》べこそ 【一に云ふ、いたづらに 吾《あれ》を散らすな 酒にうかべこそ】
    鳥梅能波奈 伊米尓加多良久 美也備多流 波奈等阿例母布 左氣尓于可倍許曾 【一云、伊多豆良尓 阿例乎知良須奈 左氣尓于可倍許曾】
 
【語釈】 ○梅の花夢に語らく 「語らく」は、「語る」の名詞形。語ることには。梅の花が人となって、我が夢に入って語ることには。これは(八一〇)の琴が娘子に化したと同系統のことである。○風流たる花と吾思ふ 「風流」は宮びで、高雅な意。高雅なる花であると、我は自身を思っている。○酒に浮べこそ 「酒」は、酒盃のもの。「こそ」は願望の助詞。我にふさわしく扱って、酒盃に浮かべてはしいの意。○一に云ふ、いたづらに吾を散らすな 甲斐なく我を散らしてしまうなで、これは三、四句にあたる部分である。
【釈】 梅の花が人と化して、我が夢に入って語ることには、風流な、高雅なる花であると我は自身を思っている。我にふさわしい扱いをして、酒盃に浮かべて下され。
【評】 梅の花を愛惜する心は、その愛惜すべき物であることを梅の花自体に言わしめることにまで展開したので、自然な心理過程である。神仙趣味を愛する旅人が、梅花に仙女を連想するのはきわめて自然である。前の日本琴、これにつぐ「松浦河」の歌も同系統のものである。「一に云ふ」のほうは、旅人自身の再案であろうと思われる。「風流たる花と吾思ふ」は、上の三首のしみじみと物静かな気分のものと並べると、若々しく花やかすぎて、いわゆる薬の利きすぎたものであるとし、平俗にしようとの心から「いたづらに吾を散らすな」と再案して、そのままにして置いたのであろう。前の三首に続く連作とすると、これを結とし、全体を総括して、あくまでも花を惜しみたいという意で繋がりがあるが、同時に、前の三首で連作は終わったとし、この一首は独立したものとも見られるので、それだとすると原案のはうが魅力あるものである。旅人自身取捨に迷ったのではないかと思わせる。
 
     松浦河《まつらがは》に遊ぶ序
 
(80)【題意】 松浦河は佐賀県東松浦郡七山村に発し、浜崎、玉島町で海に注ぐ河で、今は玉島川と呼んでいる。この地には名高い伝説があって、日本書紀神功皇后の巻と、古事記中巻とに載っている。それは皇后が新羅征討に向かわれる途中、この地の小河のほとりで食事をされた際、針を曲げて釣針とし、裳の糸を抽いて釣糸とし、飯粒を餌として河の中の石の上に立ち、針を河の中に投げ込んで、祈って、このたびの事が成るならば、川の魚この針を飲めと言われて竿を挙げると、細鱗の魚を獲られたというのである。爾来その国の女は、四月上旬には河の中へ立って年魚を釣ることをして、今に絶たない。男は釣っても獲られないというのである。旅人は大宰帥としての職務上、九州全部を巡視することになっているので、この地に行ったことがあり、たまたま松浦河でその地の若い女の何人かが年魚を釣っているのを見懸け、平常の神仙趣味から、その若い女に仙女の一団を連想して、それと歌を贈答することにして一篇の神仙譚を展開させたのである。上の藤原房前に日本琴を贈る際の仙女は、贈物に添えた歌という制約のあったものであるが、これは純粋に興味よりのものであり、無条件なものであるから、それとは性質を異にした純文芸性の物である。また量においても大きく、旅人のこの方面の代表的なものである。この歌の作者は、『代匠記』以前は山上憶良とされていたが、『代匠記』がその誤っていることを、六つの点からつぶさに立証して、今は旅人の作であるということが定説となっている。
 
     余《われ》以《すで》に暫《しまら》く松浦《まつら》の県《あがた》に往きて逍遙《あそ》び、聊玉島の潭《ふち》に臨みて遊覧《み》しに、忽ち魚を釣る女子《をとめ》等に値《あ》ひき。花容《はなのかほ》双び無く、光儀《てれるすがた》匹《たぐひ》無し。柳の葉を眉《まよ》の中に開き、桃の花を頬《ほ》の上に発《ひら》く。意気《こころざし》は雲を凌ぎ、風流《みやび》なることは世に絶《すぐ》れたり。僕《われ》問ひて曰く、誰が郷《さと》誰が家の児等ぞ、若疑《けだ》しくは神仙といふ者かといふ。娘《をとめ》等皆|咲《ゑ》みて答へて曰はく、児等は漁夫《あま》の舎《いへ》の児、草の庵の微《いや》しきもの、郷も無く家も無し。何《なに》ぞ称《なの》り云ふに足らめや。唯|性《さが》として水を便《たよ》り、復《また》心山を楽しむ。或るは洛浦《らくほ》を臨みて徒に王《おほ》き魚を羨み、乍《また》は巫峡《ふかふ》に臥して空しく烟霞《かすみ》を望む。今|以《すで》に邂逅《わくらば》に貴客《うまひと》に相遇《あ》ひ、感応《あはれとおもふこころ》に勝《た》へずして、輙《すなは》ち?曲《まこと》を陳ぶ。而今而後《いまゆのち》豈|偕老《いもせ》ならざる可しやといふ。下官《われ》対へて曰はく、唯々《をを》敬《つつし》みて芳命《おほせ》を奉《うけたまは》るといふ。時に日山の西に落《しづ》み、驪馬《くろうま》は去《い》なむとす。遂に懐抱《おもひ》を申《の》べ、因りて詠歌《うた》を贈りて曰はく、
      余以暫徃2松捕之縣1逍遙、聊2玉嶋潭1遊覽、忽値2釣v魚女子等1也。花容無v雙、光儀無v(81)匹。開2柳葉於眉中1、發2桃花於頬上1。意氣凌v雲、風流絶v世。僕問曰、誰郷誰家兒等、若疑神仙者乎。娘等皆咲答曰、兒等者漁夫之舎兒、草菴之微者、無v郷無v家。何足2稱云1。唯性便v水、復心樂v山。或臨2洛浦1而徒羨2王魚1、乍臥2巫峽1以空望2烟霞1。今以邂逅相2遇貴客1、不v勝2感應1、輙陳2?曲1。而今而後豈可v非2借老1哉。下官對曰、唯々敬奉2芳命1。于v時日落2山西1、驪馬将v去。遂申2懐抱1、因贈2詠謌1曰、
 
【語釈】 ○以 以は已に同じ。○松浦の県 肥前国の西北部の総称で、今は佐賀長崎の二県に分属している。「県」は地方の支配地の称。○逍遙び 遊びで、見物すること。○玉島の潭 松浦河の玉島の里にある部分の称。玉島川のことで、今松浦川というのは別の川である。○柳の葉を眉の中に開き 眉は柳の若葉のようでで、唐の女は青い黛で眉を描くので、その意で言っている。○桃の花を頬の上に発く 頬は桃の花のようだで、頬を紅で塗っている意。○意気は雲を凌ぎ 気ぐらいがきわめて高いの意で上の容姿に続けて、様子の甚だ気高いことを言ったもの。○風流なることは世に絶れたり 風流も上に続いて、みやびやかな梯子で、品のいいことの意。○誰が郷誰が家の児等ぞ 女に住所や素性を尋ねるのは、当時は求婚する意であったが、ここはそれではなく、尋常の人ではないと訝って尋ねているものであることが、続きでわかる。○若疑しくは神仙といふ者かといふ 多分神仙と言われているものなのかという。○唯性として水を便り、復心山を楽しむ 唯性分として水に親しみ山が好きだというので、人間界よりも自然界を好んでいる意。神仙ということを婉曲に骨定したもの。○洛浦を臨みて徒に王き魚を羨み 上の「水を便り」の説明。「洛浦」は『文選』の曹植の洛神賦に拠ってのそれで、洛水にいる神女のことを叙したものである。「王き魚を羨み」は、巨き魚の自由なさまをかいなく漠む意で、自身のその神女に近い者であることをほのめかしたもの。○巫峡に臥して空しく烟霞を望む 「巫峡」は同じく『文選』の宋王の高唐賦の、巫山の神女を叙したものに拠り、自身のその神女に近い者であることをほのめかしたものである。○邂逅に貴客に相遇ひ 偶然にも貴い旅びとに遇って。○感応に勝へずして、輙ち款曲を陳ぶ 立派なのに感動して、そのままにはいられず、ただちに真ごころを陳べたで、素性を打明けたのは求婚に応じた心からであると、そのことの心を説明したもの。「款曲」は其情。○豈偕老ならざる可しやといふ 「偕老」は夫婦で、夫婦になろうの意。○唯々 承諾をあらわす語。○麗(馬偏)馬は去なむとす 乗っている黒毛の馬は、家を恋うて帰ろうとする。
 
853 漁《あさ》りする 海人《あま》の児等《こども》と 人《ひと》はいへど 見《み》るに知《し》らえぬ 良人《うまびと》の子《こ》と
    阿佐里須流 阿末能古等母等 比得波伊倍騰 美流尓之良延奴 有麻必等能古等
 
【語釈】 ○海人の児等と人はいへど 「海人」は、しばしば出た。部族の名から海の業をする者の総称に転じた語。序の「漁夫の児」の意。「人」は少女等。○見るに知らえぬ 「見るに」は、そのさまを見るにで、尋常でないことを背後に置いてのもの。「知らえぬ」は、知られぬの古語。(82)○良人の子と 「良人《うまびと》」は、身分の高い人の意で、ここは上の「海人」に対させてあって、広く貴い人というにあたる。
【釈】 漁りを業とする海人の子どもであるとその人は言ったけれども、そのさまを見るに知られた、これは貴い人の子であると。
【評】 序の前半の、娘子らを尋常の者ではないと訝って、その素性を尋ねたのに対し、娘子らが「児等は漁夫の舎の児」と答えたところまでを、立ち返って一首としたものである。序の繰り返しであって、同じ事を歌をもって叙そうとしている趣をもったものである。抒情形式で叙事をしようとする無理があるので、中間的な、双方とも稀薄なものとなっている。しかし漢文の序では出せない、柔らかく纏まった趣をもっている。この趣を当時の人は、新たに意識して求めていたのかと思われる。
 
     答ふる詩《うた》に曰はく
 
【題意】 娘子の答えた歌で、歌に「詩」の字を当てるのは、他にも例のあるもので、この当時の好みである。
 
854 玉島《たましま》の この川上《かはかみ》に 家《いへ》はあれど 君《きみ》を恥《やさ》しみ 顕《あらは》さずありき
    多麻之末能 許能可波加美尓 伊返波阿礼騰 吉美乎夜佐之美 阿良波佐受阿利吉
 
【語釈】 ○玉島のこの川上に 「玉島の」は、上の神功皇后の巻の玉島の里。「この川上に」は、この上流に。○君を恥しみ 君が恥かしいので。旅人の尊さに対して身を恥じての意。○顕さすありき 「き」は過去の助動詞。前《さき》には打明けずにいたの意。
【釈】 玉島の里の、この川の上流に家はあるけれども、君を恥ずかしく思って、問われた時には打明けずにいた。
【評】 これは序の、娘子が「豈偕老ならざる可しや」と言った後の心である。この歌では、娘子は序とは異なった者で、仙女などではなく、玉島の里の娘で、素性を問われたのをただちに求婚と取り、躊躇なく応じる心をもったのであるが、男との身分の懸隔を恥ずかしく思って、すぐには応じる心が示せなかったのだというので、その躊躇していたことを弁解しているにすぎないのである。何故にこうした矛盾を事もなげにしているのかは解しかねるが、こうした女が本当は旅人の気にいっている者であった為に、おのずから序から飛躍してしまったのであろう。それだと旅人の神仙趣味は、趣味としても軽い扱いをされていたものと思われる。
 
     蓬客等の更に贈れる歌三首
 
(83)【題意】 「蓬客」は、旅客である自身を、蓬の実の風に吹かれて飛ぶに譬えた語で、所定めぬ旅人と、自身を卑下しての称。
 
855 松浦河《まつらがは》 河《かは》の瀬《せ》光《ひか》り 年魚《あゆ》釣《つ》ると 立《た》たせる妹《いも》が 裳《も》の裾《すそ》ぬれぬ
     都良河波 可波能世比可利 阿由都流等 多々勢流伊毛河 毛能須蘇奴例奴
 
【語釈】 ○松浦河河の瀬光り 「松浦河」は、玉島河を広く言ったもの。「河の瀬光り」は、「瀬」は水の流れの浅い所、「光り」は、水の浅い所は波が立ちやすいので、波が光っている意。娘の釣をしている位置の形容。○年魚釣ると立たせる妹が 「釣ると」は、釣るとて。「立たせ」は、立つの敬語。慣用よりのもの。「る」は完了の助助詞「り」の連体形。○裳の裾ぬれぬ このことは当時の男の、魅惑を感じたことと見え、例が少なくない。
【釈】 松浦河の河の瀬が波で光って、年魚を釣るとて立っていられる妹の其の裾がその故に濡れた。
【評】 この歌は事件とすると前の二首の歌とは直接のつながりのないものである。事件としては上の二首の贈答で一応纏まりが付いたので、それを展開させようとすると夫婦関係の上のものとなるが、旅人はそれは好まなかったと見え、最初の、「魚を釣る女子等に値ひき」の第一印象に立ち返って言っているのである。これは心理的に言えば、求婚という事件の峠を越した後、立ち返って娘の美しさを訴えるという形で、間接には繋がりをもっていると言えるものである。「裳の裾ぬれぬ」は人麿の歌などにもあって、新意のあるものではないが、「河の瀬光り」と微妙に解け合って、みずみずしい感性的なものとなっている。玉島河で年魚を釣ることは、神功畠后の伝説に支えられて一種の神事となっていたものだろうと思われるから、この歌の歌材は旅人の目撃したもので、実感であったろうと思われる。
 
856 松浦《まつら》なる 玉島河《たましまがは》に 年魚《あゆ》釣《つ》ると 立《た》たせる子等《こら》が 家路《いへぢ》知《し》らずも
     麻都良奈流 多麻之麻河波尓 阿由都流等 多々世流古良何 伊弊遅斯良受毛
 
【語釈】 ○松浦なる玉島河に 松浦にある玉島河と、わざと言葉を畳んで重くしたもの。見た形のもの。○家路知らずも 「家路」は、その家へ通じる路。「知らず」は、知られず。「も」は感動の助詞。娘の家に往きたいという憧れをあらわしたもの。
【釈】 松浦にある玉島河の河瀬に、年魚を釣るとて立っていられる少女らの家に、夫として往くべき路の知られないことよ。
(84)【評】 前の歌と心の統いているもので、娘の美しさに感動した延長として、関係を結びたいといふ憧れを起こしたことを、場合に即させて婉曲に、しかし力強く言ったもので、懸想の心である。序は甚しい飛躍をもっているが、歌のほうは進行が静かで、平面的である。一首の形としても結句が異なっているだけで、他はほとんど同じである。
 
857 遠《とほ》つ人《ひと》 松浦《まつら》の河《かは》に 若年魚《わかゆ》釣《つ》る 妹《いも》が袂《たもと》を 我《われ》こそ纏《ま》かめ
    等富都比等 末都良能加波尓 和可由都流 伊毛我多毛等乎 和礼許曾末加米
 
【語釈】 ○遠つ人 達方にいる人。すなわち旅にいる人で、家人が待つ意で、松にかかる枕詞。○若年魚釣る 若あゆの転。初夏の鮎をいう。日本書紀の神功皇后の巻の「四月の上旬」というにかなう。○妹が袂を我こそ纏かめ 「袂」は腕で、「纏かめ」は枕としようで、共寝をしようの意。
【釈】 松浦の河に若年魚を釣っている、妹が袂は我こそ枕としよう。
【評】 前の歌の続きで「家路知らずも」と嘆いた憧れの心を推し進め、積極的に「我こそ纏かめ」としているのである。心としては類想の多いものであるが、「若年魚釣る」と限って言っているので、上の歌で言った神事を行なう季節と合って来て.実際に即しての想像ということが確かめられる。
 
     娘子等《をとめら》の更に報《こた》ふる歌三首
 
858 若年魚《わかゆ》釣《つ》る 松浦《まつら》の河《かは》の 河《かは》なみの 並《なみ》にし思《も》はば 我《われ》恋《こ》ひめやも
    和可由都流 麻都良能可波能 可波奈美能 奈美迩之母波婆 和礼故飛米夜母
 
(85)【語釈】 ○若年魚釣る松浦の河の河なみの 「河なみ」は、河波すなわち河に立つ波のの語と、「河次」の字を当て、河の流れの意としているものと二義がある。上との続きから見て河次のほうが自然に感じられる。三句、下の「並」へ同音の関係でかかる序詞である。眼前を捉えての序詞で、働きのあるものである。○並にし思はば 「並」は、現在も口語に用いている語で、一とおり。「し」は強意の助詞。○我恋ひめやも 「や」は反語。「も」は感動助詞。
【釈】 若鮎を釣っている松浦の河の河次の、その次という並《なみ》一とおりに君を思うのであるならば、我は恋いようか恋いはしない。
【評】 前の三首の歌は、男は婚約以前の心に立ち返って、女に対する愛慕の情の強さを言っているもので、その態度自体がすでに余裕のあるものであり、また女の歓心をも買いうるものであるが、女は一旦婚約をすれば、そうした言葉にはほとんど関心をもたず、現在の思慕の情の強さと、将来に対しての渝《かわ》らぬ情を誓おうとしているのである。これはどちらも男女の性情の自然なる現われで、事件的に見るとこの三首ずつの贈報には連絡がなくみえるが、心理的に見れば必然な連絡のあるものである。老体の旅人は男女のこの間の消息をはっきりと掴んでいて、こうした構成をしたものと思われる。この歌は、心熱している女にふさわしい花やかさと、それにふさわしい一種の強い調べがあって、女に代わって作った歌とすると巧みな作である。序詞も心利いたものである。
 
859 春《はる》されば 我家《わぎへ》の里《さと》の 河門《かはと》には 年魚児《あゆこ》さ走《ばし》る 君《きみ》待《ま》ちがてに
    波流佐礼婆 和伎覇能佐刀能 加波度尓波 阿由故佐婆斯留 吉美麻知我弖尓
 
【語釈】 ○春されば 春が来れば。○河門には 「河門」は、巻四(五二八)に既出。河の両岸の迫って、河幅の狭くなっている所で、したがって水の深い所。○年魚児さ走る 「年魚児」は、「児」は親しんで添えた語。「さ走る」は、「さ」は接頭語、「走る」は、鮎の泳ぐ状態を、その敏捷なところから言ったもの。○君符ちがてに 「がてに」は本来「かてに」だが、混用されている。待ち得ずで、待ちきれずにというにあたる。
【釈】 春が来れば、我が家のある里の河の河門には、鮎が落ちつけずに忙しくも走る。君の来るのを待ちきれず。
【評】 女が婚約した男のその家に来ることを、鮎をかりて婉曲に、しかし同時に甚だ強く訴えている歌である。「我家の里の河門には年魚児さ走る」は、玉島の里の実態を敏感に捉えたもので、「君待ちがてに」はじつに巧妙な感情移入である。旅人は一方では高雅に平俗な歌を詠んでいるのであるが、同時に他方では、若い女に代わっての作をすると、若々しくみずみずしい作をする手腕をもっていたのである。事件としては構想が単調にすぎて、拙いというほかはないが、男女の心理の相違、若い女の心の把握などはじつに鋭敏で、物語的構成を思い立つのも偶然ではないと思わせる。
 
(86)860 松浦河《まつらがは》 七瀬《ななせ》の淀《よど》は 澱《よど》むとも 我《われ》はよどまず 君《きみ》をし待《ま》たむ
    麻都良我波 奈々勢能與騰波 与等武等毛 和礼波与騰麻受 吉美遠志麻多武
 
【語釈】 〇七瀬の淀は 「七瀬」の「七」は多くのという意を具象的に言ったもの。「瀬」は上に出た。「淀」は瀬の反対に水の滞って湛えている所の称。○澱むとも 澱んだままで流れずにいることがあろうともで、これはないことで、仮設条件法。○我はよどまず君をし待たむ 「よどまず」は、心が懈《たゆ》むことなくすなわち一途に。「君をし」の「し」は、強意の助詞。
【釈】 松浦河の多くの瀬にある淀の水が、たとい澱んで流れずにいることがあろうとも、我が心はよどむことがなく、一途に君を待とう。
【評】 前の歌と同じく、「君をし待たむ」と訴えたものである。その「よどまず」を言う為に、「七瀬の淀は澱むとも」と、同語にして異義のものを捉え、「よど」を三語まで畳み、しかも対照法を用いて、流麗でしかも変化のある歌としているのは、讃うべき才情である。この三首も、前の三首と同じく、時の推移を追った連作で、その上でも緊密なものである。
 
     後の人の追ひて和《こた》ふる詩《うた》三首 帥老《そちのおきな》
 
【題意】 「後の人」は、上の歌の作者よりも後の人で、無論作者以外の人である。しかるに下に「帥老」という、前の「梅花の歌」の序に用いている旅人の自称を注記として添えているのは、後の人とはいうが、じつは旅人であることを示しているもので、上の松浦河に遊ぶ一連の歌の延長であることを断わったものである。旅人自身が加えたとして不自然な感のないものである。
 
861 松浦河《まつらがは》 河《かは》の瀬《せ》早《はや》み 紅《くれなゐ》の 裳《も》の裾《すそ》ぬれて 年魚《あゆ》か釣《つ》るらむ
    麻都良河波 可波能世波夜美 久礼奈為能 母能頒蘇奴例弖 阿由可都流良武
 
【語釈】 ○河の瀬早み 河の水流が早くして。○年魚か釣るらむ 「か」は、疑問の係助詞。「らむ」は、現在を推量する助動詞。【釈】 松浦河の水流が早いので、少女らは、紅の裳の裾が濡れて、今も鮎を釣っているのであろうか。
(87)【評】 上の(八五五)「松浦河河の瀬光り」の歌の光景をなつかしんで、それに唱和するごとき形にはなっているが、実はその歌を離れ、一連の歌の作因をなしている、松浦河の初夏の若年魚釣りの神事を行なう、礼装した少女らを目撃した時の印象を、忘れ得ぬものとして反芻して、今もその事を繰り返していようかとなつかしんだのである。ここには物語的構想との関係はなく、単に目撃の印象のみの延長となっているのである。後よりの追想であるが為に、前の時のような若々しくみずみずしい趣は薄れて、平常の平俗に近いものとなっている。
 
862 人《ひと》皆《みな》の 見《み》らむ松浦《まつら》の 玉島《たましま》を 見《み》ずてや我《われ》は 恋《こ》ひつつ居《を》らむ
    比等未奈能 美良武麻都良能 多麻志末乎 美受弖夜和礼波 故飛都々遠良武
 
【語釈】 ○人皆の見らむ松浦の玉島を 「人皆の」は、すべての人がで、「人」は広い意味のもの。「見」は連用形。古くは上一段活用の場合の連用形から「らむ」に接続した。見るであろうところの。「松浦の玉島」は、松浦の玉島河のある土地で、釣をする少女らを含めたもの。○見ずてや我は恋ひつつ居らむ 「や」は、疑問の係助詞。「恋ひつつ」は、憧れ続けて。
【釈】 すべての人の見るであろうところの、松浦の玉島の里を、我は見ずして憧れつづけていることであろうか。
【評】 松浦河の行事をなつかしんで、心に反芻している歌である。全体の構成の上から添えたものである。
 
863 松浦河《まつらがは》 玉島《たましま》の浦《うら》に 若年魚《わかゆ》釣《つ》る 妹等《いもら》を見《み》らむ 人《ひと》のともしさ
    麻都良河波 多麻斯麻能有良尓 和可由都流 伊毛良遠美良牟 比等能等母斯佐
 
【語釈】 ○玉島の浦に 「玉島」は、玉島河。「浦」は、海や湖の陸地に入り込んだ所の称であるが、当時は川や池にも用いるのが風夙となっていたので、ここもそれである。○妹等を見らむ 「妹等」は文字通り複数で、神事を行なう里の娘らである。人のともしさ。「ともしさ」は、羨ましいことよの意。
【釈】 松浦の玉島河の浦となった所に、若年魚を釣っている少女らを、現に見ているだろう人の羨ましいことよ。
【評】 上の歌と連作の形になっているもので、玉島の地をなつかしんで、その見難いことを嘆いた心のものである。たまたま見得たのは職務上の関係からで、そうした機会がない限り、当時のこととてたやすくは行かれなかったろうから、これらは何(88)らの誇張もない実感で、物語の楷想とは全く繋がりのないものである。
【総評】 この松浦河に遊ぶ歌は、旅人の特色である空想的所産であって、その物語的構成をもった長大なものである点では、彼の代表作であることを題意で言ったが、この作はひとり旅人にとってそうしたものであるのみならず、我が文学史の上でも、その意味において最初の物であるという点で注意されるべきものである。
 序と歌とをもって物語を構成するというこの形式は決して新しいものではない。古事記日本蕃紀の歌謡のある個所はすべてそうなっており、それが古辞《ふるごと》の主体にもなっている程で、眼に熱している形式である。この巻でも上に出た憶良の長歌には長い序が付いており、またそれと同じ性質の題詞は歌ごとに付いているのである。それは理由のあることで、本来我が国のこの時代までの歌は、文芸的欲望から生まれたものではなく、日常生活の必要を充たす為に作られたものである。そのいかに必要であるかを語っているものが、古事記日本書紀の歌に添っている叙事なのである。憶良のものはやや趣を異にしているようにみえるが、彼自身の実情に即して歌作のやまれぬことを語っている点では同様で、実用性の範囲のものである。題詞に至ってはいうまでもない。しかるに旅人のこの作にはその日常生活の上の必要を充たすという実用性は全然なく、一に文芸的欲望を充たそうとして、空想を駆って一つの事件を構成しているもので、これは従来かつてなかったもので、彼によって初めて作られたものである。この点は文学史的に見て注意される。
 序と前後十一首の歌から構成された物語を、全体として見返すと、彼の空想にも構成にも限度があって、明らかに跡づけられるものである。玉島河の四月の若鮎釣の神事は、序では触れていないが、日本書紀によると、旅人時代には行なわれていたことが知られる。神事であるから良家の娘も無論加わっており、また当然礼装もしていて、その土地としては見る眼美しいものであったろうと想像される。管下を巡視する職分を負ってその地に行った旅人が、その光栄に接して甚しく心を引かれたことは想像しやすい。平生愛好している神仙趣味から迎えて見て、それを仙女の群れかと訝かったとしてもさして突飛なことでもない。その中の目立つ一人を「良人《うまびと》の子」と見て、訝りの心からその家や名を問うということは、その時の彼の位置としてはありうべきことであり、したのでもあろう。また、問われた娘も、彼の身分に対する畏敬から、躊躇しながらも問に対する答はしたろう。そこまでは多分事実であり、そしてそれが事実の全部であったろう。この間の消息は最初の贈答二首が語っているのである。
 旅人の空想は、この他意なく、自然な状態で行なわれた事実から、合理的に生まれたのである。男が女にその家と名を問うということは求婚ということであり、女がそれに答えたということは許諾ということである。旅人と娘とは無意識ながらそれを行なってしまったのである。たとい無意識にもせよ、行なってしまった以上はそれに対する責任がある筈であるが、事実はそれだけで終わり、残るものはそれと心付いた後の一種のへんな気分だけだったと見える。そのへんな気分の生んだ空想の羽ばたきが、この物語の中心をなす、男女の三首ずつの贈答歌なのである。男女の相聞の贈答はきわめて類の多いもので、この(89)こと自体には何らの創意もないものである。しかしこの空想を生むに至るまでの心理経過、また空想の世界で詠んでいる六首の歌の出来ばえは、旅人の物語的構成の手腕の非凡さを示しているもので、現在より見ても新鮮味のあるものと言える。「後の人の追ひて和ふる歌三首」は、旅人のこのことについての真実な感銘である。要するに旅行中の忘れ難い一事象にすぎないものだったのである。上のごとく歌を中心として見ると、序はそれとの繋がりの稀薄なものとなり、なくてもさして差支えのない、言いかえると独立したものとなって来る。しかし中心をなしているのは、上に言った思わぬ求婚と、誤解しての許諾という経路ということで、それを明瞭にする意味では役立っているものである。そのわりには言葉が多すぎて、序の為の序となっている。これは当時の一般の風だったのである。
【題意】 ここには題がないが、目録にはあり、「吉田連宜、梅花に和ふる歌一首」とある。宜は本来は僧で恵俊と呼んだが、続日本紀文武天皇四年、勅によって還俗させられ、姓吉田、名宜と改めさせられた人で、その芸を用いんが為なりとある人である。神亀元年従五位上となり、姓吉田連を賜わった。天平二年陰陽暦術、七曜頒暦などの廃闕を防ぐ為、他の七人の者と共に弟子を取って、その業を習わせることを命じられた。同五年図書頭、同十年正五位下典薬頭となった。『懐風藻』に「正五位下図書頭吉田連宜年七十」とあるので、この時は老齢だったのである。次の文は、旅人から都の宜へ梅花の其の歌と松浦河に遊ぶ歌を贈って示したのに対し、宜から旅人へ贈った返翰である。
 
     宜|啓《まを》さく、伏して四月六日の賜書を奉《うけたまは》る。脆きて封函を開き、拝みて芳藻を読むに、心神開朗にして、泰初《たいそ》が月を懐《うだ》くに似、鄙しき懐《こころ》除《のぞこ》り?《さ》りて、楽広《がくわう》が天を披くが若《ごと》し。辺城に羈旅し、古旧を懐ひて志を傷ましめ、年の矢は停らず、平生を憶ひて涙を落すが若《ごと》きに至りては、但《ただ》達人は排《うつ》るに安《やす》みし、君子は悶《いきどほり》無し。伏して冀はくは、朝に※[擢の旁]《きぎし》を懐《なつ》くる化を宜《の》べ、暮《ゆふべ》に亀を放つ術《みち》を存《のこ》し、張と趙とを百代に架《しの》ぎ、松と喬とを千齢に追はむのみ。兼ねて垂示を奉《うけたまは》るに、梅の苑の芳しき席に、群英藻を※[手偏+璃の旁]《の》べ、松浦の玉潭に、仙媛と贈り答へしは、杏壇各言の作に類《たぐ》ひ、衡皐に駕を税《おろ》す篇に疑《なぞ》ふ。※[身+耽の旁]読吟諷し、感謝歓憎す。宜が主に恋ふる誠、誠に犬と馬とに逾《こ》え、徳を仰ぐ心、心|葵※[草がんむり/霍]《きくわく》に同じ。而も碧海地を分ち、白雲天を隔て、徒に傾き延ぶることを積む、何《な》ぞも労緒を慰めむ。孟秋にして節に膺《あた》る。伏して願はくは、万祐日に新ならむことを。今|相撲部領使《すまひことりづかひ》に(90)因りて、謹みて片紙を付く。宜謹みて啓《まを》す。次《なみ》ならず。
      宜啓、伏奉2四月六日賜書1。跪開2封函1、拜讀2芳藻1、心神開朗、似v懐2泰初之月1、鄙懐除?、若v披2楽廣之天1。至v若d羈2旅邊城1、懐2古舊1而傷v志、年矢不v停、憶2平生1而落上v涙、但達人安v排、君子無v悶。伏冀朝宣2懐v※[擢の旁]之化1、暮存2放v龜之術1、架2張趙於百代1、追2松喬於千齡1耳。兼奉2垂示1、梅苑芳席、群英※[手偏+璃の旁]v藻、松浦玉潭、仙媛贈答、類2杏壇各言之作1、疑2衡皐税v駕之篇1。※[身+耽の旁]讀吟諷、感謝歡情。宜戀v主之誠、々逾2犬馬1、仰v徳之心、々同2葵※[草がんむり/霍]1。而碧海分v地、白雲隔v天、徒積2傾延1、何慰2勞緒1。孟秋膺v節。伏願萬祐日新。今因2相撲部領使1、謹付2片紙1。宜謹啓。不v次。
 
【語釈】 〇四月六日の賜暮 四月六日付で、旅人より賜った書翰。○封函を開き、拝みて芳藻を読むに 「封函」は書翰を入れる函。「芳藻」は芳しき文章。○心神開朗にして、泰初が月を懐くに似 「心神開朗」は、心が朗らかとなり、「奉初が月を懐く」は、『世説』に、時の人夏侯太初の容止を讃え、見ると、朗々として日月の懐に入るがごとしと言ったとある故事に拠る。○鄙しき懐除り?りて、樂広が天を披くが若し 「鄙しき憤除り?りて」は、いやしい思いが消えてで、「?」は払う意。「楽広が天を披く」は、『晋書』に、人が楽広を見て、雲霧を披いて青天を見るように朗らかになるといった故事に拠る。○辺城に羈旅し、古旧を懐ひて志を傷ましむ 「辺城」は辺土にある城で、ここは大宰府のこと。「羈旅し」は、地方の任を旅と見做した語。「古旧を懐ひて」は、亡き大伴郎女を追慕して。○年の矢は停らす、平生を憶ひて涙を落す 「年の矢は停らず」は、歳月の逝くことが速かで、「平生を憶ひて」は、「平生」は若い時。『論語』の語。「涙を落す」は、梅花の宴で旅人の詠んだ老を嘆く心。○達人は排るに安みし、君子は悶無し 「達人」は、知能の通達した人。「排るに安みし」は、推移に安んじで、『荘子』の語。「悶無し」は、煩悶がない。辺城以下旅人を慰め励ましたもの。○朝に※[擢の旁]を懐くる化を宜べ 「※[擢の旁]」は山雉。「化」は徳化。『後漢書』に、後漢の魯恭という人が、国を治めて徳化の実を挙げ、その国では雛を育てている雉子は、童子を信じて傍らに来ても逃げず、童子も、雉子の事情を知って捕えようとしなかったということに拠る。「宜べ」は、布き。○暮に亀を放つ術を存し 『晋書』に、孔愉という人が路を行くと、亀を捕えて籠にする者を見かけ、憐れんで買って谿流に放すと、亀は四度まで振返って去った。後、侯に封ぜられて侯印を鋳させると、その印紐の亀の頭が、三度鋳直させても振返って見る形になったので、愉は今日あるは亀の報恩の心よりのことだと悟ったという故事に拠るもの。そうした仁術を残せの意。○張と趙とを百代に架ぎ 「張と趙」は、張敝と趙広漢で、いずれも前漢の名臣であった人。百代の後にそれらの人を凌ぎ。架は凌。○松と喬とを千齢に追はむのみ 「千齢」は旅人が千歳になった後に。「松」は赤松子、「喬」は周の霊王の太子晋で、いずれも『列仙伝』に出ている仙人。追わむのみは、学び給えの意。伏して冀わくは以下、旅人に対する希望。○垂示を奉る 旅人より書翰をいただいている。○梅の苑の芳しき席に、群英藻を※[手偏+璃の旁]べ 旅(91)人の宅に開いた梅花の宴席。群らがる英才が歌を詠み。「藻」は文辞、「※[手偏+璃の旁]」は舒。○松浦の玉潭に、仙媛と贈り答へしは 「玉潭」は、玉のごとき潭に玉島河を絡ませたもの。仙媛は鮎を釣る少女を旅人のそれかと見たもの。○杏壇各言の作に類ひ 「杏壇」は『荘子』漁夫篇に、孔子が緇帷の林に遊び、杏壇の上に休んだ。弟子は詩を読み、孔子は琴を鼓したとあるに拠ったもので、杏壇は、杏樹のある壇。梅花の宴を開いた旅人の宅に譬えている。「各言」は、『論語』に顔淵と季路が孔子に侍していると、孔子が各々の志を言えとあるに拠るもので、客の各々が作った歌。○衡皐に駕を税す篇に疑ふ 「篇」は、『文選』の洛神賦にある語で、神女に逢うことを叙したのに拠る。「衡皐」は香草のある沢、「税」は舎で、止めること。旅人が松浦河の仙媛を曹子建の洛川の神女に擬した恋。○主に恋ふる誠、誠に犬と馬とに逾え、徳を仰ぐ心、心事瞿(草冠)に同じ 主は、旅人を尊んでの称。犬と馬と葵※[草がんむり/霍]は、『文選』の曹植の求v通2親親1表にある語で、犬馬の誠は人が動かせず、また葵※[草がんむり/霍]の葉は大陽の光を追って廻るものだというに拠ったもので、敬い慕心の深さの譬。葵※[草がんむり/霍]はひまわりのこと。○碧海地を分ち、白雪天を隔て、徒らに傾き延ぶることを積む 「傾き延ぶる」は、葵瞿(草冠)の葉が日に傾き、犬と馬が主人に首を延べることで、慕ふ心。「積む」は、積もらせている。○何ぞも労緒を慰めむ 「労緒」は、旅人の辛労で、慰める法のない嘆き。○孟秋にして節に膺る 「孟」は初で、初秋七月。「節」は、七月七日の節。○万祐 万の幸い。○相撲部領便に因りて 相撲をとる者を地方から集める事を扱う官吏が出張するのに托して。○次ならす 文の順序が整っていない意で、儀礼の語。
 
     諸人《もろびと》の梅の花の歌に和へ奉れる歌一首
 
【題意】 右の返翰に添えた吉田宜の歌で、以下も同じ。
 
864 後《おく》れ居《ゐ》て 長恋《ながこ》ひせずは み園生《そのふ》の 梅《うめ》の花《はな》にも ならましものを
    於久礼為天 那我古飛世殊汲 弥曾能不乃 于梅能波奈尓忘 奈良麻之母能乎
 
【語釈】 ○後れ居て長恋せずは 「後れ居て」は、後に残っていてで、共に居ずして。「長恋」は、長い思慕で、旅人に対しての心。「せずは」は、既出。○み園生の梅の花にも 「み園生」は大宰府の旅人の庭。○ならましものを 「ならまし」は、身を変えようで、「まし」は仮設法。
【釈】 後に残って長い思慕をしないで、君がお庭の梅の花にこの身をならせようものを。
【評】 旅人の梅花の宴で詠んだ梅の花の歌に唱和する心のもので、常に旅人とともに居たい心を言ったものである。何々にならましというのは型のごとくなっているものであるが、整って、落ちついた気品のある歌である。
 
松浦の仙媛の歌に和ふる一首
 
(92)865 君《きみ》を待《ま》つ 松浦《まつら》の浦《うら》の 少女等《をとめら》は 常世《とこよ》の国《くに》の 天少女《あまをとめかも》かも
    伎弥乎麻都 々々良乃于良能 越等賣良波 等己与能久尓能 阿麻越等賣可忘
 
【語釈】 ○君を待つ松浦の浦の少女等は 「君を待つ」は、松の枕詞であるが、これは優に叙事の働きをしている。「松浦の浦」は、松浦河の浦で、上に出たもの。○常世の国の天少女かも 「常世の国」は、既出。不老不死の仙郷。「天少女」は、天上を飛行する仙女。「かも」は感歎の助詞。
【釈】 君を待っている松浦河の浦の少女等は不老不死の国の仙女であろうか。
【評】 旅人が鮎を釣る少女等を仙女かと想像したのに対して、共感をあらわした心の歌である。仙郷思想は都がその源泉地であった上に、宜は学者でその方面も熟知していた人であるから、共感は当然である。型のごとき歌であるが用意深く詠んだと思わせるものである。
 
     君を思ふこと未だ尽きず。重ねて題《しる》せる二首
 
【題意】 以上を儀礼のものとし、自身の直接の心をいう意で言ったもの。
 
866 遙遙《はろばろ》に 思《おも》はゆるかも 白雲《しらくも》の 千重《ちへ》に隔《へだ》てる 筑紫《つくし》の国《くに》は
    波漏々々尓 於忘方由流可母 志良久毛能 知弊仁邊多天留 都久紫能君仁波
 
【語釈】 ○遙遙に思ほゆるかも 「遙遙」は、はるばるの古形。遠く遙かな所に。「思はゆ」は、思ほゆの古形。思われる意。「かも」は、詠歎。○白肇の千重に隔てる 「隔てる」は、「隔つ」に、助動詞「り」の連体形の接続したもの。隔てているの意。○筑紫の国は 大宰府の所在地で、旅人を言いかえたもの。
【釈】 遠く遥かな所に思われることであるよ。白雲が千重に重なって、隔てている筑紫の国は。
【評】 事は単純であるが、調べは上の二首に較べると著しく張っていて、その調べが思慕の情となっているものである。
 
(93)867 君《きみ》が行《ゆき》 けながくなりぬ 奈良路《ならぢ》なる しまの木立《こだち》も 神《かむ》さびにけり
    枳美可由侠 気那我久奈理奴 奈良遅那留 志滿乃己太知母 可牟佐飛仁家里
 
【語釈】 ○君が行けながくなりぬ 巻二の巻首に出た。「行」は旅行きで、名詞。「け」は、時。○奈良路なる 「奈良路」は、ここは奈良へ行く路の意のものと取れる。旅人の邸は佐保だからである。「なる」は、にある。○しまの木立も 「しま」は、巻三(四五二)「妹として二人《ふたり》作りし吾が山斎《しま》は」と出たそれで、庭園。○神さびにけり 物凄く茂った。
【釈】 君が旅行きは、時久しくもなった。奈良路にある君が庭の木立は、物凄くも茂ったことであるよ。
【評】 旅人の帰京を待ち望む心を、留守宅の庭園の木立の神さびたのに寄せて、それとなく言っているものである。見て思ったままを言っているにすぎない、何のあやもない歌であるが、上の三首に較べると、別手に出たかと思われるまでの魅力のあるものである。老成した深い心の直接な現われだからである。
 
     天平二年七月十日
 
【解】 書翰の最後の日付である。この後に宛名もあったのであろう。
【題意】 ここには題がないが、目録には「山上臣憶良、松浦の歌三首」とある。
 
     憶良、誠惶頓首、謹みて啓《まを》さく。
     憶良聞かくは、方南諸侯、都督刺史、並《みな》典法に依りて、部下を巡行《めぐ》りて、其の風俗を察《み》るといふ。意の内に端《はし》多く、口の外に出し難し。謹みて三首の鄙しき歌を以ちて、五蔵の欝結《むすぼり》を写《のぞ》く。其の歌に曰はく、
      憶良、誠悼頓首、謹啓。
      憶良聞、方岳諸侯、都督刺史、並依2典法1、巡2行部下1、察2其風俗1。意内多v端、口外難v出。(94)謹以2三首之鄙謌1、寫2五蔵之欝結1。其謌曰、
 
【語釈】 ○憶良、誠惶頓首、謹みて啓さく 書翰として定まった儀礼の語で鄭重を極めたものである。○方岳諸侯、都督刺史 「方岳」は、『尚書』の周官の記事から出た語。天子が天下を巡狩し、東西南北の四方の岳麓に、その方面の諸侯を参覲させたことから出た語で、「方岳諸侯」は、方岳に参覲する諸侯、すなわち全官吏ということを唐風に言ったもの。「都督」は、『晋書』に出ている官名で、筑紫でいえば大宰帥に相当する職の唐名。「刺史」は、同じく『晋書』に出ている官名で、筑紫でいえば国守に相当する職の唐名で、都督との関係上、大宰府の官人を指したもの。全体では、官吏たる大宰帥及び府の官人の意。○並典法に依りて、部下を巡行りて、其の風俗を察るといふ 典法に拠りては、職務上の法規に従って、「部下を巡行りて」は、管内を巡って、「其の風俗を察る」は、その民の実状を視察する。この典法は、国守はその任国、大宰帥は九州の全部と定まっていた。○意の内に端多く、口の外に出し難し 心の中に思うことが多端で言葉にはあらわし難い。これは下の続きや歌から見ると、憶良はその任国の筑紫以外には出られず、旅人の遊覧した松浦の辺りを見られなかった遺憾を、婉曲に嘆じたもの。〇五戒の鬱結を写く 「五蔵」は五臓で、「写」は除。ここは歌によって心の結ぼれを晴らすの意。
 
868 松浦《まつら》がた 佐用姫《さよひめ》の子《こ》が 領巾《ひれ》振《ふ》りし 山《やま》の名《な》のみや 聞《き》きつつ居《を》らむ
    麻都良我多 佐欲比賣能故何 比例布利斯 夜麻能名乃尾夜 伎々都々遠良武
 
【語釈】 ○松浦がた 「松浦がた」は、松浦県で、佐用姫の住地。唐津湾をかこむ地。○佐用姫の子が 「佐用姫」のことは、これに続く(八七一)に詳しい。「子」は愛称として添えたもの。○領巾振りし山の名のみや 「領巾」は婦人の頸へ縣けて左右に垂らした布。古くは魔を払う呪力のある物としてであったが、後には装飾品となっていた。「振り」は、それを高く掲げて振ることで、袖を振ると同じく、距離が遠く声の通じ難い所にいる相手に、心を示すしぐさである。ここは大伴狭手彦の遠ざかり行く船に向かってしたのである。「山の名」は領巾振山で、この山は佐賀県東松浦郡部浜崎町と唐津市にまたがる、今は鏡山という小高い丘で、頂上は東西五、六町、南北二、三町の細長い地形をしている。そこからは唐津湾が見渡せる。「や」は疑問の助詞。
【釈】 松浦県の佐用姫が領巾を振った、その山の名だけを聞きつづけていることであろうか。
【評】 旅人の管下巡行で松浦の辺を遊覧したことを聞いて、同行し難い身の憶艮は、第一に領巾振山を見たことを羨ましく思って、そのことの出来ないのを嘆いた心である。羨まれた旅人はその時はその山の歌は詠まず、松浦河に釣する少女に心を傾けていたのである。二人の気分の相異があらわれている。第一にこのような歌を作っているところを見ると、旅人は憶良には松浦河に遊ぷ歌を示さなかったのかとも思われる。思っていることを一気に言い放った調べで、文をもって言っていることと()調和するものである。
 
869 足比売《たらしひめ》 神《かみ》の命《みこと》の 魚《な》釣《つ》らすと 御立《みた》たしせりし 石《いし》を誰《たれ》見《み》き 【一に云ふ、あゆつると】
    多良志比賣 可尾能美許等能 奈都良須等 美多々志世利斯 伊志遠多礼美吉 【一云、阿由都流等】
 
【語釈】 ○足比売神の命の (八二二)に出た。○魚釣らすと 「な」は、魚の食料としての総称。「釣らす」は、釣るの敬語。○御立たしせりし 「御」は敬語の接頭語。「立たし」は、立つの敬語「立たす」の連用形で名詞。「せりし」は、していたで、連体形。○石を誰見き 「石」は(八五三)以下に出た松浦河の中の岩。「誰」は、我ならぬ誰がと、深みの心からわざと疑問の形にしたもの。旅人を指しての語。「き」は終止形で、「誰」の疑問を終止形で結んだ特別のもので、往々にある古格である。○一に云ふ、あゆつると 三句「魚釣らすと」の一案で、憶良が定めかねて記して置いたものとみえる。
【釈】 足比売神の命が、魚《な》をお釣りになるとて、お立ちになっていられた石を、我ならぬ誰が見たのか。
【評】 この歌は前の歌よりの、羨みの程度の深さを示しているものである。「誰見き」という語はその心を屈折を付けてあらわしたものである。事柄を綿密に言ったのは、神功皇后に対する敬意からそうすべきだとしてのことと思われる。「あゆつると」を別案として書き添えたのは、歌の姿として見ると、このほうが敬語が就かず、感もあざやかになるが、敬意をあらわす上では、細かく立り入りすぎるものとして避けたかった為ではないかと思われる。やはり原案のほうがまさっている。松浦河を思うと、憶良の心に第一に浮かぶのは由緒ある河中の岩だったということは、旅人が松浦河に遊ぷ歌を憶良に示さなかったことを有力に語っているものである。旅人がその歌を都の吉田宜に贈ったのは「四月六日」で、憶良のこの歌を旅人に贈った時は書尾の日付によって「七月十一日」である。旅人の詞友としての憶良に対する態度が思われる。
 
870 百日《ももか》しも 行《ゆ》かぬ松浦路《まつらぢ》 今日《けふ》行《ゆ》きて 明日《あす》は来《き》なむを 何《なに》か障《さや》れる
    毛々可斯母 由加奴麻都良遲 家布由伎弖 阿須波吉奈武遠 奈尓可佐夜礼留
 
【語釈】 ○百日しも行かぬ松浦路 「百日」は、多くの日数という意を具象的に言ったもの。「し」は強意の助詞。「松浦路」は、松浦辺りの意のもの。下に、詠歎が省かれている。○今日行きて明日は来なむを 今日行って、明日は帰って来られようものをで、距離の近さをいう慣用語のご(96)ときもの。筑前と肥前とは隣国である。○何か障れる 「か」は、疑問の係助詞。「障《さや》る」は、障《さわ》るの古語。何が障りになっているのであろうか。
【釈】 百日もかかって行くのではない松浦辺りよ。今日行って明日は帰って来られようものを。何が障りになっているのだろう。
【評】 「百日しも」と言い、「今日行きて明日は」と繰り返して「何か障れる」と訝りの形をもって言っているのは、愚痴というよりも強い嘆きというべきで、憶良の古蹟に対する憧れのいかに強かったかを示しているものである。「何か障れる」は理の立たない語である。国守は然るべき理由のない限り国境は越えられないことになっていたので、憶良の心のままに遊覧のてきないのは当然なことであるのに、かえってそれを訝って、一私人のごとき物言いをしているからである。良国守と許されていた彼ではあるが、一面にはこうした心情の、偽りならぬものがあったのである。
 
     天平l一年七月十一日 筑前国司山上憶良謹上
 
【題意】 ここには題はないが、目録には「領巾麾嶺《ひれふりのみね》を詠める歌一首」とあり、作者はない。作者は上よりの続きで旅人であることが明らかである。
 
     大伴|佐提此古郎子《さでひこのいらつこ》、特に朝命を被《かがふ》り、使を藩国《まがきのくに》に奉《うけたまは》る。艤棹《ふなよそひ》して言《ここ》に帰《ゆ》き、稍|蒼波《あをなみ》に赴く。妾《をみなめ》松浦【佐用ひめ》此の別るることの易きを嗟《なげ》き、彼《か》の会《あ》ふことの難きを歎《なげ》く。即ち高山《たかやま》の嶺《みね》に登りて、遙に離れ去《ゆ》く船を望み、悵然《うら》みて肝を断ち、黯然《いた》みて魂《こころ》を銷《け》つ。遂に領巾を脱ぎて麾《ふ》る。傍の者涕を流さざるは莫《なか》りき。因りて此の山を号《なづ》けて領巾麾《ひれふり》の嶺と曰ふ。乃ち歌を作りて曰はく、
      大伴佐掟比古郎子、特被2朝命1、奉2使藩國1。艤棹言歸、稍赴2蒼波1。妾也松浦【佐用嬪面】嗟2此別易1、歎2彼會難1。即登2高山之嶺1、遙望2離去之船1、悵然斷v肝、寂然銷v魂。逸脱2領巾1麾之。傍者莫v不v流v涕。因号2此山1曰2領巾麾之嶺1也。乃作v謌曰、
 
【語釈】 ○大伴佐提比古郎子 郎子は郎女に対してと同じく、敬愛しての称。狭手彦のことは、日本書紀に出ていて、宣化天皇の朝、新羅が任那を侵したので、大伴金村の子狭手彦を遣して事に当らせるとある。狭手彦は任那を鎮め、百済を救った。なお欽明天皇の朝に新羅が任那の宮家を滅ばした時にも、狭手彦は新羅を平げていて、上代の名高い将軍である。○使を藩国に奉る 「藩国」は藩屏国で、属国。「使を奉る」は、討伐の便を奉じる。○言に帰き 言は語調の為の字。松浦に宿泊して出向き。○松浦佐用ひめ 地名と愛称とを一つにした名。例の多いものである。(97)この伝脱は『肥前風土記』にむ載っている。○此の別るることの易きを嗟き、彼の会ふことの難きを歎く 『遊仙窟』に出ている語。○遂に領巾を脱ぎて麾る 恨みいたんでの最後のこととして領巾を振ったというので、たやすくはすべからざることをした意で言っているのである。上代は信仰として、領巾を振ると驚くべき威力をあらわすとしていたので、ここはその心をもって言っているのである。佐用ひめは狭手彦の船を引き戻そうとしたのである。○涕を流さざるは莫りき 信仰を同じくしている者が、その心を汲んで憐れんでのこと。
 
871 遠《とほ》つ人《ひと》 松浦佐用比売《まつらさよひめ》 夫恋《つまごひ》に 領巾《ひれ》振《ふ》りしより 負《お》へる山《やま》の名《な》
    得保都必等 麻通良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈
 
【語釈】 ○遠つ人 枕詞。既出。 ○夫恋に 「夫恋」は熟語。「に」は、ゆえに。○領巾頼りしより負へる山の名 領巾を振ったことより領巾麾という名をもっている山であるよ。
【釈】 松浦佐用姫が夫恋いのゆえに領巾を振ったことより、領巾振という名をもっている山であるよ。
【評】 領巾振山を見て、その名の由来を思うことによって、その事に感動した心であるが、感動は言外にしている。物の名の起源伝説が著しく重んじられていた時代であるから、この時代にはこれだけで十分に感をあらわしうることとしたのであろう。
 
     後の人の追ひて和ふる
 
【題意】 後の人が追って唱和した歌の意であるが、旅人自身の詠んだもので、これにつぐ三首も同様である。佐用姫の物語はあ(98)われ深いものであるが、事としては単純を極めたものなので、繰り返しの形で言うより外はないとしてのことと思われる。
 
872 山《やま》の名《な》と 言《い》ひ継《つ》げとかも 佐用比売《さよひめ》が この山《やま》の上《へ》に 領巾《ひれ》を振《ふ》りけむ
    夜麻能奈等 伊賓都夏等可母 佐用此賣何 許能野麻能閇仁 必例遠布利家牟
 
【語釈】 ○山の名と 「と」は、としての意のもので、我が事を山の名として。○言ひ継げとかも 「と」は、と思って。「かも」は疑問。○この山の上に 「この」は眼前をさしたもの。「上《へ》」は上《うえ》。
【釈】 我が一事を山の名として、永久に言い継げと思って、佐用姫はこの山の上で領巾を振ったのであったろうか。
【評】 この歌は一読無理なことを言っているが、再読するとその無理が自然になって来る、特別な歌である。「言ひ継げとかも領巾を振りけむ」は、明らかに無理な疑問である。佐用姫の領巾を振ったのは、夫恋しさの念のこらえきれぬあまりにしたことで、言い継ぐなどということは全く無関係なことである。すなわちこの疑問は疑問ともならぬものである。しかし事の成行きから見ると、この当時でもすでに遠い昔のものであるのに、言い継いで絶やしそうにもしていない。これは事のあわれさが忘れさせなくしているので、さながら佐用姫がそうさせているがごとくにも思われるのである。この点からいうと自然な疑問となって来る。一首、領巾振山に対して知性の勝った感傷をしているもので、旅人の作にふさわしいと思わせるものである。
 
      最《いと》後の人の追ひて和ふる
 
873 万代《よろづよ》に 語《かた》り継《つ》げとし この岳《たけ》に 領巾《ひれ》振《ふ》りけらし 松浦佐用比売《まつらさよひめ》
    余呂豆余尓 可多利都袈等之 許能多気仁 比例布利家良之 麻通雄佐用媛面
 
【語釈】 ○万代に語り継げとし 「万代に」は、永久に、「し」は強意の助詞。○この岳に領巾振りけらし 「この岳」は、眼前の領巾振山、「けらし」は、けるらしの約。○松浦佐用比売 一首の主格。
【釈】 永久に我が事を語り継げと思って、この岳の上に領巾を振ったのであろう、松浦佐用姫は。
【評】 上の歌と同意のものである。上の歌では、「山の名と言ひ継げとかも」と、疑いを問の形で言っているのを、これは「語(99)り継げとし領巾振りけらし」と強い推量として、一歩前進させた心である。恋のあわれさの忘れさせないことの立証である。
 
     最《いと》最《いと》後の人の追ひて和ふる二首
 
874 海原《うなばら》の 沖《おき》行《ゆ》く船《ふね》を 帰《かへ》れとか 領巾《ひれ》振《ふ》らしけむ 松浦佐用比売《まつらさよひめ》
    字奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 此礼布良斯家武 麻都良佐欲此賣
 
【語釈】 ○海原の沖行く船を 「沖行く船」は、港を離れて沖を行く船。「を」は、のに。○帰れとか領巾振らしけむ 「帰れと」は、引き返して帰って来よと思って。「か」は、疑問の係助詞。振らし」は、振りの敬語で、女に対しての慣用よりのもの。ここの領巾を振るのは、上代信仰のもので、『肥前風土記』のここを伝えた条は、「俗に伝へて云く、……乙第比売此の岳に登りて披(巾へん)を挙げて招ぐ」とある。「俗」とは土俗すなわち庶民で、古い信仰の保持者である。
【釈】 広い海の沖を行く船であるのに、その船を帰れと思って、領巾を振られたのであろうか、松浦佐用姫は。
【評】 この歌は上に全体的に言って来たのとは別に、佐用姫の領巾を振った瞬間の心持を推量して詠む行き方にしたものである。「帰れとか領巾振らしけむ」は、帰れと思ったことを危み疑って言っているものである。佐用姫は帰ると信じてしたことで、その信仰は旅人も認めて、上にその心より作った歌がある。
 しかるに最々後の人として、ここではその同じことを危み凝っているのである。これは最々後の人にはその信仰が衰えていることを示しているものである。信仰がなければこのことは単なる情痴のしぐさとなって来る。それにしてもあわれはあることである。ここは後の心よりのものである。信仰の両端をそれとなくあらわしている、これまた旅人にふさわしい歌である。
 
875 行《ゆ》く船《ふね》を 振《ふ》り留《とど》みかね いかばかり 恋《こほ》しくありけむ 松浦佐用比売《まつらさよひめ》
    由久布祢遠 布利等騰尾加祢 伊加婆加利 故保斯苦阿利家武 麻都良佐欲此賣
 
【語釈】 ○振り留みかね 「振り留み」は領巾を振って留め。「留《とど》み」は、留めとともに行なわれていた語で、上二段活用。とどめ得ずして。○恋しくありけむ 「こほし」は、「こひし」の古形。○松浦佐用比売 一首の主格。
(100)【釈】 進み行く船をとどめ得ずして、どんなに恋しいことであったろうか、松浦佐用比売は。
【評】 上の歌とこの歌とは、一つの事件の一点を捉えて言っているところから、さながら反歌のような形になっているものである。それにしても上の歌は独立性をもっているが、この歌はかなり脆弱なものである。しかし上の歌と緊密な関係をもった連作になっているので、その脆弱さは救われている。「行く船を振り留みかね」は、上の歌で危み凝った信仰は、ここでは明らかに、無力のものとし、領巾を振るのを単なる情痴のしぐさとしてもいる。
【総評】 以上五首の歌は、追いて和うる人を三人まで設けるという特殊な構想をしたものである。佐用比売の伝説は形が定まっていて、想像を加える余地のないものであるが、同時に事のあわれさの深いものであるから、これについてある纏まったことを言おうとすれば、そのあわれさを繰り返すより他のないものである。後の人、最々後の人と、そこに長い時を設け、時間的に繰り返させたのは、構想としては巧みなものである。無理のない自然な方法でもある。一首一首の上でも相応に用意深く詠んではいるが、これを全体として見ると、鎮懐石、松浦河に遊ぶなどのような心の躍動は伴っていず、やや強いて作った趣のあるものである。時間的に見ても最後の作と思われるから、自然気分の薄れていたということも関係しているかも知れぬ。
 
     書殿《ふみどの》にて餞酒《うまのはなむけ》せし日の倭歌《やまとうた》四首
 
【題意】 「書殿」は、図書を蔵して置く殿の名で、これは朝廷にはもとより、私人も身分ある人の家にはあった物である。旅人の邸のものである。今はそこを、下の「餞酒」の席に当てたのである。「餞酒」は旅立つ人の路の無事を祈る為にする宴である。「倭歌」は、他に漢詩もあったのに対してのもので、(七九四)の「日本挽歌」と同じ意である。「餞酒」される人は、歌によって旅人と知れる。旅人が大納言に昇進し、都へ還る時のことである。歌の作者は憶良であることは、以下七首の歌の書尾に、「筑前国司山上憶良謹上」とあるので知られ、その時も、同じく「天平二年十二月六日」とあるので知られる。
 
876 天飛《あまと》ぶや 鳥《とり》にもがもや 京《みやこ》まで 送《おく》り申《まを》して 飛《と》び帰《かへ》るもの
    阿麻等夫夜 等利尓母賀母夜 美夜故摩提 意久利磨遠志弖 等比可弊流母能
 
【語釈】 ○天偲ぶや鳥にもがもや 「天飛ぶ」は既出。空を飛ぶ。「や」は感動の助詞。「がも」は、願望既出。「や」は感動の肋詞。○京まで送り申して 「京」は奈良京。「申し」は敬語とする為に添えているもの。○飛び帰るもの 「もの」は、ものをの意。
(101)【釈】 空飛ぶ鳥でありたいことであるよ。京まで君をお送り申して帰って来るものを。
【評】 餞酒の際の歌は旅立つ人の無事を祝うのであるから、その範囲のことを言うにとどめ、自身の惜別の情は、不吉に陥りやすいところから避けるのを礼としていた。以下四首の歌はその範囲のものである。この歌も、憶良のいつもの自身の感懐を緊張をもって言う風から離れて、落ちついた物柔らかな詠み方をしているのはその為である。「鳥にもがもや飛び帰るもの」は、遠く離れている男女間にはしばしば用いられているものであるが、彼はそれをこの場合に捉え来たって、異なる意味に十分に詠み生かしているのである。憶良の思うのは、旅人をなつかしんで「送り申して」と思うのであるが、国守の職にある彼には、私用で国境を越えることなど思い寄りもされないので、この空想は許されうる最大限の合理性をもったものだったのである。譬喩としてはきわめて甘いものであるが、それがしみじみとしたものとなっているのは、その合理性のさせていることである。「京まで送り申して」は、この場合としてあやしきまで詠み生かされたものである。
 
877 ひともねの うらぶれ居《を》るに 立田山《たつたやま》 御馬《みま》近《ちか》づかば 忘《わす》らしなむか
    比等母祢能 字良夫禮遠留尓 多都多夜麻 美麻知可豆加婆 和周良志奈牟迦
 
【語釈】 ○ひともねのうらぶれ居るに 「ひともね」という語は、他に例のないもので、未詳の語である。『攷証』は人皆の地方語だろうと言っている。憶良は日常語を歌語とする風があり、例が多い。場合柄それだとすると、旅人にも親しい筑前辺の語であるからその心も伴ったものとして、これに従う。大宰帥の管下の官人全部。「うらぶれ居るに」は、憂えしおれているにで、旅人の発足後を想像しての言。○立田山御馬近づかば 「立田山」は、河内国と大和国の境の生駒山中の一峰。奈良県、生駒郡三郷村立野の西方の山。そこから奈良に行くには越えなければならない山で、そこまで行くと京の近い感をさせる山。「御馬」は旅人の乗馬で、「御」は尊んで添えたもの。○忘らしなむか 「忘らし」は、忘れの敬語。「か」は疑問の終助詞。
【釈】 ここに残されているすべての人は、心憂いてしおれているのに、立田山に御馬が近づいたならば、君はそれらの人をお忘れになられるであろうか。
【評】 旅人が道中無事で、京近くまで.行った時の楽しい心持を、想像で具象的に描き出したものである。それをするに、後に残される諸人の深いさみしさを絡ませて、やすらかに綜合させているのは、非凡な手腕というべきである。儀礼のもので、一種の題詠であるが、いささかもその匂いを見せていない。
 
(102)878 言《い》ひつつも 後《のち》こそ知《し》らめ とのしくも さぶしけめやも 君《きみ》坐《いま》さずして
    伊比都々母 能知許曾斯良米 等乃斯久母 佐夫志計米夜母 吉美伊麻佐受斯弖
 
【語釈】 ○言ひつつも後こそ知らめ 「言ひつつも」は、三、四句の反転をさせたものと照応させたもので、すなわちさぶしと言いつつも。帥の出立後はさぶしいと諸人が言いつつも。「後こそ知らめ」は、出立後はそのさぶしさのいかに深いかを思い知ろう。○とのしくも これもここにあるのみの語で、他に用例のなく、したがって未詳の語である。『代匠記』は「乏し」と同意の語で「とのしく」は少しくで、下の「さぷし」の程度をあらわしている形容詞だろうと言っている。『攷証』は地方語だろうという。上の「ひともね」と同じく筑前辺りの語で、わざとそうした語を用いた心も同じだとみえる。『代匠記』の解に従うこととする。○さぷしけめやも「さぷしけ」は形容詞で、助動詞「む」が接続し、「や」で反語になっているもので、さぷしいのであろうか、ないの意。上から続いて、大いにさぶしい。○君坐さずして 「君」は旅人、「坐さずして」はここにいらせられなくなってで、旅人の京へ上った後を想像してのもの。
【釈】 今もさびしいと言い言いしていても、後になってそれを痛切に知ることであろう。少しくさびしいという程度であろうか、ありはしない。君がここにいらせられないことになって。
【評】 大宰帥としての旅人が居なくなった後に感じる寂莫の感を思いやることによって、その徳望の高く温情の深かったことを讃えて言っている歌である。きわめて要を得た讃え方であるが、同時にきわめて、捉えて言い難い境でもある。それを、その事を感じ合っている官人の雰囲気をとおして言うという、実際に即しての詠み方をしているもので、きわめて手腕の現われている歌である。こうした場合の歌としては、じつに珍しいものである。
 
879 万代《よろづよ》に 坐《いま》し給《たま》ひて 天《あめ》の下《した》 まをしたまはね 朝廷《みかど》去《さ》らずて
    余呂豆余尓 伊麻志多麻比提 阿米能志多 麻乎志多麻波称 美加度佐良受弖
 
【語釈】 ○万代に坐し給ひて 「坐し給ひて」は、敬語の坐しに、敬語の補助動詞「給ひ」の接続したもの。○天の下まをしたまはね 「天の下まをし」は、天下の政事を奏上しで、政事を執る意の成語。「たまはね」は、敬語の助動詞に願望の助詞の接統したもの。○朝廷去らすて 朝廷を離れずに。
【釈】 万歳の齢をお保ちになられて、天下の政事をお執りくだされ、朝廷を離れずに。
(103)【評】 大納言に昇進して京に還る旅人に対し、事の全体を綜合しての賀の歌であり、この場合、結びとして言うべき性賀のものである。儀礼の言であるが、それとしては真情の籠もったものである。敬語が多いのはその位地の高さに対してである。
 
     敢へて私懐《おもひ》を布《の》ぶる歌三首
 
【題意】 餞酒の際の歌は儀礼としてのもので、自身の個人的の感情をまじえるべきものではない。それはそれとして以上の四首で尽くした上で、憶良はこの機会に自身の個人的の心持をも旅人に訴えようとして詠んだのが以下の三首である。「敢へて」と言っているのは、本来はさし控えるべきことをする意からである。
 
880 天《あま》ざかる 鄙《ひな》に五年《いつとせ》 住《すま》ひつつ 京《みやこ》の手《て》ぶり 忘《わす》らえにけり
    阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都々 美夜故能提夫利 和周良延尓家利
 
【語釈】 ○天ざかる 既出。枕詞。○鄙に五年住ひつつ 鄙はここは任地の筑前国。「五年」は、筑前守としてこの時までに務めていた年数。国司の年限は、この当時は四年であり、天平宝字二年に六年となったが、後また四年となった。その国が京より遠隔な地は年限を延ばされることもあったので、憶良はそれであったとみえる。「住ひつつ」は、住むの継続「住ひ」にさらに「つつ」の接続したもの。○京の手ぶり志らえにけり 「手ぶり」は風俗。「忘らえ」の「え」は受身の助動詞「ゆ」の連用形。
【釈】 鄙の国に五年を住みつづけて、京の風俗は、忘れさせられてしまいました。
【評】 これを初めとして、続く二首は連作となっており、京へ転任したいことを旅人に縋って頼んでいるのである。一貫して流れている気分は、京が恋しく地方が侘びしく、さながら旅のような気がして過ごしている訴えである。これは地方官に共通な気分で、憶良としても憚りなく言えるものであったとみえる。この歌はその初めのもので、「五年」ということを重点として言ったものである。筑前は大際府のある国で、たとい遠隔であるとしても不便な地ではないから、すでに五年になるという例外が、憶良としてはつらいものであったとみえる。憶良が良吏で代えることを惜しまれたのか、または縁を求めて運動することが拙なかった為かはわからないが、そのどちらもありうることに思える。
 
881 斯《か》くのみや 息衝《いきづ》きをらむ あらたまの 来経往《きへゆ》く年《とし》の 限《かぎり》知《し》らずて
(104)    加久能未夜 伊吉豆伎遠良牟 阿良多麻能 吉倍由久等志乃 可伎利斯良受提
 
【語釈】 ○斯くのみや息衝きをらむ 「斯くのみ」は、このようにばかりで、「や」は疑問の係助詞。「息衝き」は、溜息をついて。現在の状態に対する嘆き。○あらたまの来経往く年の 「あらたまの」は枕詞。「釆経往く」は、経過して行くで、時を具象的に強く言ったもので、年の修飾句。○限知らずて 「限」は、国守としての任の果て。「知らずて」は、知られずして。
【釈】 このようにばかり溜息をついていることであろうか。国守として過ごしてゆく年の果てが知られずに。
【評】 上の歌の五年を受けて、さらにこれが将来へも続くのだろうかと、心細さ嘆かわしさを披瀝して訴えたのである。「斯くのみや」と綜合し、「あらたまの来経往く」と年を強調しているところなど、要を得た歌である。憶良の気の勝った方面は隠れ、老の衰えのみ出ているあわれ深い作である。
 
882 吾《あ》が主《ぬし》の 御霊《みたま》賜《たま》ひて 春《はる》さらば 奈良《なら》の京《みやこ》に 召上《めさ》げ給《たま》はね
    阿我農斯能 美多麻々々比弖 波流佐良婆 奈良能美夜故尓 ※[口+羊]佐宜多麻波祢
 
【語釈】 ○吾が主の御霊賜ひて 「吾が主の」は、「吾が」は、親しんで添えたもの。「主」は大人《うし》と並び行なわれていた同意の敬称、これは現在も口語として残っている。しかし敬意は失われている。「御霊」は、先方の霊魂。「賜ひて」は我に賜わってで、御恩頼を蒙ってということを、先方を主として言った、上代よりの成語。○春さらば 春が来たならばで、春は次の時代と同じく、官人の任免の時期であったと取れる。○奈良の京に召上げ給はね 「召上げ」は、召し上げの約。「ね」は願望の助詞。奈良の京にお召上げ下されよ。
【釈】 我が君のお心計らいによって、春になったならば、奈良の京にお召上げ下され。
【評】 これが憶良の言おうとした眼目で、上の二首はこの歎願する為に理と情を尽くそうとしたものである。連作としての構成が緊密である。転任の歎願とはいえ、これはただ京へ帰りたいというだけのもので、他意あるむのではない。また旅人は大納言に昇任したのであるから、そうしたことに参与しうる人として歎願しているのであるから、この際は老下官としてそれをするのが礼であったかもしれぬ。とにかくいや味のない歎願である。旅人はこの月のうちに上京の途についている。
 
     天平二年十二月六日 筑前国司山上憶良謹上
 
【解】 「餞酒の歌」とこれとを総括しての日付である
 
(105)     三島王、後に追ひて和ふる松浦佐用姫の敬一首
 
【題意】 「三島王」は、舎人親王の御子で、養老七年に無位より従四位下を授けられている。
 
883 音《おと》に聞《き》き 目《め》には未《いま》だ見《み》ず 佐用比売《さよひめ》が 領巾《ひれ》振《ふ》りきとふ 君松浦山《きみまつらやま》
    於登尓吉岐 目尓波伊麻太見受 佐容比賣我 必礼布理伎等敷 吉民萬通良楊滿
 
【語釈】 ○音に聞き 評判に聞いて。○振りきとふ 「とふ」は、「といふ」の約。○君松浦山 「君」は、君を待つの意で、同音の「松」に続けた序詞の形のもの。古くからあるものである。「松浦山」は、松浦の領巾振山。
【釈】 評判には聞いて目にはまだ見ていない。佐用姫が領巾を振ったという、君を待つという松浦山は。
【評】 領巾振山の歌を読んで、その見ぬ山につないだ憧れの心である。「君松浦山」には多少の技巧が認められる。
 
     大伴君熊凝《おほとものきみくまごり》の歌二首 【大典|麻田陽春《あさだのやす》の作れる】
 
【題意】 「大伴君熊凝」のことは、次の憶良の歌の序に詳しい。「麻田陽春」は、巻四(五七〇)に出た。歌は、陽春が熊凝に代わってその心中を詠んだ辞世の歌である。
 
884 国《くに》遠《とほ》き 道《みち》の長手《ながて》を 鬱《おほほ》しく 今日《けふ》や過《す》ぎなむ 言問《ことど》ひもなく
    國遠伎 路乃長手遠 意保々斯久 計布夜須疑南 己等騰此母奈久
 
【語釈】 ○国遠き道の長手を 「国遠き」は、国は熊凝の生国で、生国から遠い。「道の長手」は、長い道中。「を」は、のに。○鬱しく今日や過ぎなむ 「鬱しく」は巻二(一七五)に既出。鬱々としてで、心晴れずに。「や」は疑問の係助詞。「過ぎ」は、経過するで、死ぬ意。今日は死ぬのであろうか。○言問ひもなく 物を言われること、すなわち慰問されることもなく。
【釈】 生国から遠い長い道中なのに、今日は死ぬのであろうか。慰問されることもなく。
(106)【評】 麻田陽春が大伴君熊凝という、他国の賤しい者の死に、何らかの関係をもっていて、その死をあわれんで詠んだものであるが、それをするにあたって、熊凝に代わっての辞世の歌という形にしたものである。この代作ということはこの時代になってしばしば出て来るもので、歌を一方では一つの文芸形式と見ていたことの現われである。死という中でも旅で死ぬということは、この時代にはきわめて悲しいことにしていたので、これはそれを中心として詠んだものである。第三者として詠んだ跡を見せている歌である。
 
885 朝霧《あさぎり》の 消《け》やすき我《わ》が身《み》 他国《ひとぐに》に 過《す》ぎかてぬかも 親《おや》の目《め》を欲《ほ》り
    朝霧乃 既夜須伎我身 比等國尓 須疑加弖奴可母 意夜能目遠保利
 
【語釈】 ○朝霧の消やすき我が身 「朝霧の」は意味で「消」にかかる枕詞。「消《け》やすき我が身」は、死に易い我が身で、二句仏説的である。○他国に過ぎかてぬかも 「他国」は、自分の生国以外の国の総称で、旅での意。「に」は、にて。「過ぎかてぬ」は、死に得ぬで、死ぬに死なれぬ。○親の目を欲り 親の顔を見たくて。
【釈】 もともと亡び易い身だが、他国では死にきれないことよ。親の顔を見たくて。
【評】 上の歌の連作で、同じく旅に死ぬ悲しさの繰り返しであるが、前進させて、「親の目を欲り」と具体的なものにしている。三句以下の徹底しているのに比して、一、二句は甚しく遊離している。やはり第三者ということを思わせる。
 
     敬《つつし》みて和《こた》ふる、熊凝の為に其の志を述ぶる歌六首 并に序   筑前国守山上憶良
 
【題意】 「敬みて和ふる」は、上の陽春の歌に対してである。署名の位置は他の例と異なっているが、巻四、笠朝臣金村の歌にも見えた形である。
 
     大伴君熊凝は、肥後の国|益城《ましき》の郡の人なり。年十八歳にして、天平三年六月十七日を以ちて、相撲使某の国の司官位姓名の従人《ともびと》と為り、京都《みやこ》に参向《まゐむか》ふ。天《あめ》なるかも、幸《さち》あらず、路にありて疾《やまひ》を獲、即ち安芸の国佐伯の郡|高庭《たかには》の駅家《うまや》にして身故《みまか》りぬ。臨終《みか》らむとする時、長き歎息《なげき》して曰はく、(107)伝へ聞く仮に合へるの身は滅《ほろ》び易く、泡沫《うたかた》の命は駐《とど》め難しといふ。この所以《ゆゑ》に千聖已に去り、百賢も留らず。況《ま》して凡愚の微《いや》しき者、何《な》ぞも能く逃れ避《さ》らむ。但《ただ》我が老いたる親、並に菴室に在《いま》す。我を待ち日を過したまひ、おのづから心を傷むる恨あり。我を望みて時に違はば、必ず明《あかり》を喪《うしな》ふ泣《なみだ》を致さむ。哀しきかも我が父、痛ましきかも我が母、一の身の死に向ふ途を患へず、唯二の親の世に在《いま》す苦を悲む。今日|長《とこしへ》に別れなば、何れの世にか覲《み》ることを得むといふ。乃ち歌六首を作つて死《みまか》りぬ。其歌に曰はく、
     大伴君熊凝者、肥後国益城郡人也。年十八歳、以2天平三年六月十七日1、爲2相撲俊某國司官位姓名從人1、參2向京都1。爲v天、不v幸、在v路獲v疾、即於2安藝國佐伯郡高座驛家1身故地。臨終之時、長歎息曰、傳聞仮合之身易v滅、泡沫之命難v駐。所以千聖已去、百賢不v留。況乎凡愚微者、何能逃避。但我老親、並在2奄室1。待v我過v日、自有2傷心之恨1。望v我違v時、必致2喪v明之泣1。哀哉我父、痛哉我母、不v患2一身向v死之途1、唯悲2二親在v生之苦1。今日長別、何世得v覲。乃作2謌六首1而死。其謌曰、
 
【語釈】 ○肥後の国益城の郡 今は熊本県で、上益城下益城の二郡に分かれている。○相撲使 相撲|部領使《ことりづかい》のことで、(八六四)の書翰に出た。○某の国の司官位姓名 この文の性質上、明らかにいう必要がないので、わざと略したもの。○天なるかも 天運なるかな。○安芸の国佐伯の郡高庭の駅家 広島県佐伯郡大野町で、高庭という地名は残らないが、厳島に対かった海辺に高畠という地があり、そこではないかという。○仮りに合へる身 仏説に、人身は地水火風の四大がかりに合ったものとするに拠るもの。○泡沫の命 経文の語。○我を望みて時に違はば 我が帰りを待って、その時期が違ったならばで、『戦国策』にある故事に拠ったもの。○必ず明を喪ふ泣を致さむ 目を泣きつぶす程に涙を流そうで、『礼記』に拠ったもの。この序は、初めの部分の「高庭の駅家にして身故《みまか》りぬ」までは、憤良はその伝聞したところをさながらに記したものと取れる。「長き歎息《なげき》して曰はく」より、結末の「覲ることを得むといふ」までの熊凝の語は、麻田陽春の歌よりの想像で、仏典や漢籍から語をかりて事を物語化そうとしたものである。「乃ち歌六首を作つて死りぬ」はその頂点で、これは旅人の「松浦河に遊ぶ歌」と構成を同じゅうするものである。これは時代的要求の伴ってのことと思われるが、少なくも双方の間に繋がりのあってのことと思われる。
 
(108)886 うち日《ひ》さす 宮《みや》へ上《のぼ》ると たらちしや 母《はは》が手《て》離《はな》れ 常《つね》知《し》らぬ 国《くに》の奥処《おくか》を 百重山《ももへやま》 越《こ》えて過《す》ぎ行《ゆ》き 何時《いつ》しかも 京師《みやこ》を見《み》むと 思《おも》ひつつ 語《かた》らひ居《を》れど 己《おの》が身《み》し いたはしければ 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》の隈《くま》みに 草《くさ》手折《たを》り 柴《しば》取《と》り敷《し》きて とこじもの うち臥伏《こいふ》して 思《おも》ひつつ 歎《なげ》き臥《ふ》せらく 国《くに》に在《あ》らば 父《ちち》取《と》り見《み》まし 家《いへ》に在《あ》らば 母《はは》取《と》り見《み》まし 世間《よのなか》は かくのみならし 狗《いぬ》じもの 道《みち》に臥《ふ》してや 命《いのち》過《す》ぎなむ 【一に云ふ、わが世《よ》過《す》ぎなむ】
    字知比佐受 宮弊能保留等 多羅知斯夜 波々何手波奈例 常斯良奴 國乃意久迦袁 百重山 越弖須疑由伎 伊都斯可母 京師乎美武等 意母比都々 迦多良比袁礼騰 意乃何身志 伊多波斯計礼婆 玉桙乃 道乃久麻尾尓 久佐太袁利 志婆刀利志伎提 等許自母能 字知許伊布志提 意母比都々 奈宜伎布勢良久 國尓阿良波 父刀利美麻之 家尓阿良婆 母刀利美麻志 世間波 迦久乃尾奈良志 伊奴時母能 道尓布斯弖夜 伊能知周疑南 【一云、和何余須疑奈牟】
 
【語釈】 ○うち日さす宮へ上ると 「うち日さす」は、巻三(四六〇)に出た。「宮」の枕詞。「宮」は朝廷。「へ」は「に」よりは広く漠然と言ったもので、敬意よりのこと。「上る」は、京を尊んでの言い方。○たらちしや母が手離れ 「たらちしや」は母の枕詞。「たらちねの」が普通で、これは稀れなものである。用例から見て古形と思われる。語義は諸説があって定まらない。「母が手離れ」は、母の許を去る意を、母を主として言ったもの。○常知らぬ国の奥地を 「常知らぬ」は、平生は知らないで、初めての。「国の奥処」は、「国」は、広く土地の意のもの。「奥処」は奥の処で、遠く離れた所。○百重山越えて過ぎ行き 「百重山」は、百重と多く重なっている山で、諸所にある山を総括して言ったもの。○何時しかも京師を見むと 「何時しかも」は、いつかに、「し」の強意の助詞が添って、いつになったら、すなわち早くの意となったもの。○思ひつつ語らひ居れど 「語らひ」は「語る」の継続で、同輩と語らうこと。「居れど」は、居たけれどもで、以上一段落。○己が身しいたはしければ 「身し」の「し」は強意の助詞。「いたはし」は労《いた》わしが原義で、病で苦しい意にも用いた。ここはそれで、病で苦しいので。○玉梓の道の隈みに 「王梓の」は、道の枕詞。既出。「隈」は、曲がり目で角。「み」は接尾語。○草手折り柴取り敷きて 「手折り」の「手」は接頭語。草を折って、柴を取って敷いてで、床を作ること。熊凝の病を得たのは高庭の駅家であるが、人家には入ることが出来ず、路傍に寝ていたのである。病者は嫌われたが為で、普通のことであった。○とこじものうち臥伏して 「とこじもの」は、「とこ」は原文「等計」で、諸本異同がない。それだと「解霜の」で、解けた霜のごとくに臥伏《こいふ》しと続くので、通じはするが、それだと死者を言っているようであり、時も六月であるから、ふさわしくない。(109)『代匠記』は計は許の誤写で、「床じもの」であろう、それでないと下への続きが心得難いと、言っている。『代匠記』の説に従うべきだと思われる。「うち臥伏して」は、「うち」は接頭語。「臥」は動詞「こゆ」の連用形。転びで、転び伏して。○思ひつつ歎き臥せらく 「思ひつつ」は、下の「国に在らば」以下のことで、それを繰り返し思う意。「歎き臥せらく」は、「歎き」は現状を嘆き、「臥せらく」は「臥せり」の名詞形で、臥していることには。○国に在らば父取り見まし 「国」は生国で、もし生国のことであったならば。「取り見る」は、熟語で、世話をする意。「まし」は、「在らば」の仮設の結。○世間はかくのみならし 日本挽歌に出ず。○狗じもの道に臥してや 「狗じもの」は、狗のごとくに。「臥してや」の「や」は疑問の係助詞。○命過ぎなむ 死ぬことであろうか。○一に云ふ、わが世過ぎなむ わが生涯が終わることであろうか。この「一に云ふ」について『新考』は、この一句は、次の第一の反歌の結尾にあるべきものが、紛れてここに移ったものだろうと言っている。
【釈】 都の大宮のほうへ上って行くとて母の手許を離れて、これまで知らない国の遠い所だのに、百重なる山を越して後にして、早く京を見たいと思いつづけ、同輩と話しつづけて来たが、わが身が病で苦しいので、往還の隅に、草を折り柴を取って敷いて床の形にして転び寝をして、このさまを思い思い嘆いて寝ていると、これがもし生国の中のことであったら、父が看護をしてくれよう、もし家に居てのことだったら、母が看誕をしてくれよう、世の中というものはこうしたものなのだろう、狗のように往還の上に寝て命が終わってゆくのであろうか。一に云う、この世を去るのであろうか。
【評】 この歌は、憶良としても力を籠めての作であることが、長歌と反歌五首という、その形の長大な点からも窺われる。熊凝は社会的にいうと相撲使の一従者で、十八の青年にすぎない、言うに足りない存在である。また旅びとが路傍で死ぬということは、上代の極度に穢を忌んだ習俗からいうと珍しからぬことで、集中にも数あるもので、事態としてもさして心を動かされるべきことではなかったのである。それを、旅人の妻大伴郎女に対して詠んだ挽歌とほとんど異ならない程の努力をもってこうした一種の挽歌を詠んでいるのは、甚だ強く憶良の心を動かすものがあったからであろう。生命に対する強い執着、庶民に対する深い愛など、憶良特有なものも伴っていたろうが、最も強く働いたのは、親が子を思う情と離し難い、子の親を思う情が麻田陽春の歌に現われているのに刺激されて、それと同じ情の、彼の倫理観に支えられているものが甚だ強く働いて、「敬みて和ふる」という形で、彼自身を熊凝の立場に立たせて物を言うという、物語的な境にまでたやすく展開して行ったものと思われる。それにつけて思われることは、本来この歌は挽歌の性質のものであるが、それとしては死者の代作ということは、その性質に裏切るところのあるものである。大伴郎女に対しての「日本挽歌」は旅人に代わってのものであるから割引されうるものであるが、これは死者が我と自身を慰めている形のもので、その点問題となることである。陽春も憶良も、死者をあわれむ心をこのように文芸的なものにしているのは、この時代にはすでに挽歌の精神は知識階級からは喪われていたのかと思われる。この歌はまずその事態があわれなものであるから、勢い事態の特殊さを言わねばならぬものであり、また想像で叙したものでもあるから、勢い第三者的な、丹念ではあるが生気の乏しいものとなって、憶良の作とすると見劣りのするものとなっ(110)ている。想像を挟みにくい材ではあるが、憶良の想像は狭く限られたものであったろうと思われる。それにまた憶良の序は、これを歌との関係から見ると、適当を失ったものである。序で抒情の部分までも言いつくしているので、歌の中心となるべきその方面は単なる繰り返しとなり、主客顛倒した形となっている。綜合力の強く働く彼であるのに、序と歌との上にはそれが足らず、ことにこの歌の場合にはそれが目立っている。
 
887 垂乳為《たらちし》の 母《はは》が目《め》見《み》ずて 鬱《おほほ》しく 何方《いづち》向《む》きてか 吾《あ》が別《わか》るらむ
    多良知子能 波々何目美受提 意保々斯久 伊豆知武伎提可 阿我和可留良武
 
【語釈】 ○垂乳為の母が目見ずて 「垂乳為の」は、長歌では「たらちしや」とある。それと「たらちねの」との中間的な形である。「母が目見ずて」は、母の顔を見ずして。○鬱しく (八八四)に既出。○何方向きてか どちらの方角に向かってかで、自身の生国の方角のわからない意。○吾が別るらむ 「別るらむ」は、母に別れをしたものであろう。
【釈】 母の顔を見なくて、心もとなくもどちらの方角へ向かって別れをするのであろうか。
【評】 単純ではあるが哀切の情をたたえている歌で、すぐれた作と称し得られるものである。陽春の第二首の「他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り」を前進して透徹させたものである。『新考』の言っている、長歌の結尾に添っている「一に云ふ、わが世過ぎなむ」は、ここに添うのではないかということは、頷きうるものに思える。この作は広く伝わって誤写を起こしたものとは思われぬから、「一に云ふ」というのは一応は作者の別案かと思われるが、これに続く四首が総てそれを持っているのである。この作は麻田陽春にも示したろうし、また京の旅人の許へも送ったものであるから、別案を添えてのこととは思われない。それだと仏足石歌体のごとく、結句をいささか語を換えて繰り返し謡わせようとの意図のもので、それが編者に誤解されて、原文にはなかった「一に云ふ」の語が添えられたのだろうと解される。反歌を謡い物の形式にしたということは、長歌はその内容から見て、一つの事件を謡い物風に扱ったとも見られるものなので、憶良としては謡い物に倣ってという意図をもっており、反歌には明らかにその意図を示したともみえるからである。編者がこの歌の繰り返しを長歌のほうへ移したのは、この歌にあっては結句は動かし難い適切さをもったものなので、結句に異伝別案があるはずがないと見たことも手伝っていよう。結句の繰り返しがこれと同じく異伝と誤読された例は、他にもあるものである。
 
888 常《つね》知《し》らぬ 道《みち》の長路《ながて》を くれぐれと 如何《いか》にか行《ゆ》かむ 糧《かりて》は無《な》しに 【一に云ふ、乾飯《かれひ》は無《な》しに】
(111)    都称斯良農 道乃長手袁 久礼々々等 伊可尓可由迦牟 可利弖波奈斯尓 【一云、可例比波奈之尓】
 
【語釈】 ○常知らぬ道の長路を 平生は知らないその遠い路をで、冥途。○くれぐれと如何にか行かむ 「くれぐれと」は、「くれ」は闇《くれ》で、それを重ねて副詞としたもので、覚束なく。「如何にか行かむ」は、どう行くのであろうか。○糧は無しに 「糧」は、糧《かて》の古語。当時の旅行では糧は途中では得難く、必要なだけを持って出懸けたので、冥途の遠い旅立にそれを案じた意。○一に云ふ、乾飯は無しに 「乾飯」は飯の乾した物で、携帯にたやすいところから用いた。
【釈】 平生知らない冥途の遠い路を、覚束なく、どのように行くのであろうか。道中の糧《かて》はなくて。一に云う、乾飯はなくて。
【評】 この歌は現在から見ると甚しく空想的な空疎なものに感じられるが、この当時には感を誘いうるものであったろう。上代の信仰では、死ということは、その居る界を異にするだけで、異なった状態において存在を続けることだとしていた。仏教が渡来してその行く界は冥途となったのであるが、これは従来の幽界の換名にすぎないもので、仏典でいう死は単なる知識で、身についたものではなかったとみえる。この歌でいう冥途はいわゆる十万億土ではあるが、やはり死んだ自身の存在している幽界で、したがってそこへ行くには現し世でしたと同じく糧《かりて》も乾飯《かれい》も要するとしたのであった。この糧のことを案じている心は、この当時にあってはあわれの深いこととして、読む人を頷かせたものであろうと思われる。
 
889 家《いへ》に在《あ》りて 母《はは》が取《と》り見《み》ば 慰《さぐさ》むる 心《こころ》はあらまし 死《し》なば死《し》ぬとも 【一に云ふ、後《のち》は死《し》ぬとも】
    家尓阿利弖 波々何刀利美婆 奈具佐牟流 許々呂波阿良麻志 斯奈婆斯農等母 【一云、能知波志奴等母】
 
【語釈】 ○家に在りて母が取り見ば もしも家に居て、母が看護をしてくれるのであったならば。○慰むる心はあらまし 「まし」は、在らばの仮説の結。心の慰むこともあろうの意の当時の言い方。○死なば死ぬとも 死ぬならば死のうとも。○一に云ふ、後は死ぬとも 「後」は、「取り見て」の後。
【釈】 もしも家に居て母が看護をしてくれるのであったら、心の慰みもあろう。死ぬならば死のうとも。一に云う、その後《あと》は死のうとも。
【評】 長歌の「家に在らば母取り見まし」と、「命過ぎなむ」とを綜合した心である。長歌では事の委曲を尽くそうとした為に分解的になったのであるが、短歌は綜合して単純な形として、遙かに感の深いものとしているのである。短歌の特色を見せて(112)いると言える。歌の続きとしては、死を思うとともに、冥途を思いやった心が、母を慕う心になって来たので、人間としての心理の実際に即したものである。父を言わず母を言っているのも実際的である。
 
890 出《い》でて行《ゆ》きし 日《ひ》を数《かぞ》へつつ 今日《けふ》今日《けふ》と 吾《あ》を待《ま》たすらむ 父母《ちちはは》らはも 【一に云ふ、母《はは》が悲《かな》しさ】
    出弖由伎斯 日乎可俗閇都々 家布々々等 阿袁麻多周良武 知々波々良波母 【一云、波々我迦奈斯佐】
 
【語釈】 ○出でて行きし日を数へつつ 「出でて行きし」は、親のほうを主に立てて親より見た自分を言ったもの。「日を数へつつ」は、予定した旅の日数を数えつつ。○今日今日と吾を待たす 「今日今日と」は、今日は今日はといって。「待たす」は、待つの敬語。○父母らはも 「ら」は接尾語。「はも」は詠歎の助詞。○一に云ふ、母が悲しさ 母の心の悲しいことよ。
【釈】 我が旅立った時からの日数を数え数えして、今日は、今日と言って、我が帰りを待っていられる父母よ。一に云う、母の悲しいことよ。
【評】 上を承けて、今は自身のことは思わず、父母をのみ思って憐れんでいる心で、進展させたものである。この心は、序では力説しているが、長歌にはない。「今日今日と吾を待たすらむ」は、すでに帰期となっている心で、事としては不合理であるが、心としてはあわれがある。結句「父母らはも」と言い、繰り返しにおいては、父を棄てて「母の悲しさ」と強く言っているところ、長歌の道義的なのとは異なって真情が現われており、憶良の感性に細かいもののあることを示している。
 
891 一世《ひとよ》には 二遍《ふたたび》見《み》えぬ 父母《ちちはは》を 置《お》きてや長《なが》く 吾《あ》が別《わか》れなむ 【一に云ふ、あひ別《わか》れなむ》
    一世尓波 二遍美延農 知々波々袁 意伎弖夜奈何久 阿我和加礼南 【一云、相別南】
 
【語釈】 ○一世には二遍見えぬ 「一世」は、一生涯。「は」は、強意の助詞。「見えぬ」は、見られぬで、逢えない。○置きてや長く 「置きて」は、後に残して。「や」は疑問の係助詞。「長く」は永久に。○吾が別れなむ 吾は別れるであろうか。○一に云ふ、あひ別れなむ 「あひ別れ」は、たがいに別れるの意。
【釈】 生涯に二度と見られない逢えない父母を後に置いて、永久に吾は別れるのであろうか。一に云う、別れるのだろう。
【評】 内容としては第一首の「何方向きてか吾が別るらむ」と 異ならないものである。そちらは死そのものに捉えられての感(113)傷であったのに、続いてはっきりと死を思い、またこまごまと父母を思っての後、再び別れを思うと、その心がすべてを綜合した深さのあるものとなり、「一世には二遍見えぬ」となり、「長く吾が別れなむ」と言いかえて繰り返すものとなって来たのである。五首の連作の最後のものとしての思い入れのあるものである。「一世には二遍見えぬ」がやや曖昧な言い方にみえるのは、この心を言おうとしてのことと取れる。「ひと」「ふた」と対照的になっているのも、そうならせる理由になっていよう。
 
     貧窮問答の歌一首 并に短歌
 
【題意】 「貧窮問答」は、、尋常の貧窮者と極度の貧窮者との一間一答するのを、第三者の立場に立って叙したもので 長歌形式をもってしたものである。問答という形は、相聞の歌にあっては普通のことで、最も有り触れたものであり、またそれを長歌をもってすることは、古事記神代の巻、八千矛神と沼名河比売《ぬなかはひめ》、また八千矛神と須勢理比売《すせりひめ》との間に行なわれたものを初めとして少なくはなく、またその歌謡はすでに一般化していたとみえるから、これまた創意あるものではない。しかし第三者の立場に立ってそれを叙するということは先例の見えないもので、これは憶良の創意と言える。ことに「貧窮」というものを題材としたことは、全く憶良の創意で、ここに憶良の面目がある。憶良は筑前守であり、その前は伯耆守でもあって、民政と民情に通じていたと思われる。当時の国司は概していうと私腹を肥やそうとする念が熾んで、したがって苛斂誅求を行ない、その結果として、国庫は匱乏《きぼう》を来たそうとし、庶民は堵に安んぜず、流離するという実情であったことを史は伝えている。憶良はそれを嘆きつつ、しかもいかんともすることの出来ずにいた人とみえる。この歌は形からいうと想像の世界のものであるが、根柢は当時の実情に即したものであろうと思われる。
 
892 風《かぜ》雑《まじ》り 雨《あめ》降《ふ》る夜《よ》の 雨《あめ》雑《まじ》り 雪《ゆき》降《》る夜《よ》は 術《すべ》もなく 寒《さむ》くしあれば 堅塩《かたしほ》を 取《と》りつづしろひ 糟湯酒《かすゆざけ》 うち啜《すす》ろひて 咳《しは》ぶかひ 鼻《はな》びしびしに しかとあらぬ 鬚《ひげ》かき撫《な》でて 吾《あれ》をおきて 人《ひと》はあらじと 誇《ほこ》ろへど 寒《さむ》くしあれば 麻衾《あさぶすま》 引《ひ》き被《かがふ》り 布肩衣《ぬのかたぎぬ》 有《あ》りの ことごと 服襲《きそ》へども 寒《さむ》き夜《よ》すらを 我《われ》よりも 貧《まづ》しき人《ひと》の 父母《ちちはは》は 飢《う》ゑ寒《さむ》からむ 妻子《めこ》どもは さくり泣《な》くらむ この時《とき》は 如何《いか》にしつつか 汝《な》が世《よ》は渡《わた》る
(114)天地《あめつち》は 広《ひろ》しといへど 吾《あ》が為《ため》は 狭《さ》くやなりぬる 日月《ひつき》は 明《あか》しといへど 吾《あ》が為《ため》は 照《て》りや給《たま》はぬ 人《ひと》皆《みな》か 吾《われ》のみや然《しか》る わくらばに 人《ひと》とはあるを 人竝《ひとなみ》に 吾《あれ》も作《つく》るを 綿《わた》もなき 布肩衣《ぬのかたぎぬ》の 海松《みる》の如《ごと》 わわけさがれる 繿褸《かかふ》のみ 肩《かた》に打懸《うちか》け 伏廬《ふせいほ》 の 曲廬《まげいほ》の内《うち》に 直土《ひたつち》に 藁《わら》解《と》き敷《し》きて 父母《ちちはは》は 枕《まくら》の方《かた》に 妻子《めこ》どもは 足《あと》の方《かた》に 囲《かく》み居《ゐ》て 憂《うれ》ひ吟《さまよ》ひ 竈《かまど》には 火気《けぶり》ふき立《た》てず 甑《こしき》には 蜘蛛《くも》の巣《す》かきて 飯《いひ》炊《かし》く 事《こと》も忘《わす》れて 奴延鳥《ぬえどり》の のどよひ居《を》るに いとのきて 短《みじか》き物《もの》を 端《はし》截《き》ると 云《い》へるが如《ごと》く 楚《しもと》取《と》る 里長《さとをさ》が声《こゑ》は 寝室戸《ねやど》まで 来立《きた》ち呼《よ》ばひぬ 斯《か》くばかり 術《すべ》なきものか 世間《よのなか》の道《みち》
    風雜 雨布流欲乃 雨雜 雪布流欲波 爲部母奈久 寒之安礼婆 堅塩乎 取都豆之呂比 糟湯酒 宇知須々呂比弖 之〓夫可比 鼻※[田+比]之※[田+比]之尓 志可登阿良農 比宜可伎撫而 安礼乎於伎弖 人者安良自等 富己呂倍騰 寒之安礼婆 麻被 引可賀布利 布可多衣 安里能許等其等 伎曾倍騰毛 寒夜須良乎 和礼欲利母 貧人乃 父母波 飢寒良牟 妻子等波 乞々泣良牟 此時者 伊可尓之都々可 汝代者和多流
    天地者 比呂之等伊倍杼 安我多米波 狭也奈農奴流 日月波 安可之等伊倍騰 安我多米波 照哉多麻波奴 人皆可 吾耳也之可流 和久良婆尓 比等々波安流乎 此等奈美尓 安礼母作乎 綿毛奈伎 布可多衣乃 美留乃其等 和々氣佐改札流 可々布能尾 肩尓打懸 布勢伊保能 麻宜伊保乃内尓 直土尓 藁解敷而 父母波 枕乃可多尓 妻子等母波 足乃方尓 圍居而 憂吟 可麻度柔播 火気布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提 奴延鳥乃 能杼与比居尓 伊等乃伎提 短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許惠波 寝良度麻※[人偏+弖] 來立呼此奴 可久婆(115)可里 須部奈伎物能可 世間乃道
 
【語釈】 ○風雜り雨降る夜の 「の」は、同形の語を重ねるための助詞。風が添って雨の降る夜で。○雨雑り雪降る夜は 雨がまじって雪の降る夜は。風が吹き添って霙の降る夜で、冬の最も寒い夜を強く感覚的に言ったもの。○術もなく寒くしあれば 防ぎようもなく寒いので。「し」は強意の助詞。○堅塩を取りつづしろひ 「堅塩」は塩の下等な物で、色の黒く固まっている物。「取りつづしろひ」は、「取り」は接頭語。「つづしろひ」は、「つづしる」の継続状態をあらわす語で、「つづしる」は少しずつ食う意。堅塩を少しずつ噛り噛りしてで、これは酒の肴の代わりとしてのことであって、その最も粗末な物。○糟湯酒うち啜ろひて 「糟湯酒」は、酒糟を湯に解いて酒の代わりとした物の称。貧しくて酒を得難い者の飲料。他にも用例があって一般的な物。「うち啜ろひて」は、「うち」は接朗語。「啜ろふ」は「啜る」の継続状態。以上四句、寒さ凌ぎに最下等の酒肴を口にすること。○咳ぶかひ鼻ぴしぴしに 「咳ぶかひ」は、原文「之可夫可比」。『考』は上の「可」は「波」の誤りだとして改めたが諸本異同なく、『定本』は「?」の誤りとした。「?」を「可」に誤ったと思われる例ははかにもあり、従うべきである。「咳ぶかひ」は、「咳ぶく」の継続状撥で、咳払《せきばら》いをしつつ。「鼻びしびしに」は、他に用例のない語であるが、「びし」という擬音を重ねたものと取れる。それだと鼻水をびしびしと鳴らしてで、二句、糟湯酒に温まって、得意になって來た状態。○しかとあらぬ鬚かき撫でて 「しかとあらぬ」は、有るかないかの。「鬚」は顎ひげ。「かき撫で」の「かき」は接頭語。一段と得意になった状態。○吾をおきて人はあらじと 我を除いては世間に人物はあるまいと思って。糟湯酒の酔のまわっての最も得意な状態。○誇ろへど寒くしあれば 「誇ろへど」は、「誇る」の継続「ほこらふ」の「ら」が「ろ」に転じた語。「寒くしあれば」は、やはり寒いのでで、「し」は強意の助詞。○麻衾引き被り 「麻衾」は、布で作った夜具。木綿のない時代とて、布は絹布か麻布で、麻布は貴族以外の常用物であった。「引き被り」は、引被《ひつかぶ》り。○布肩衣有りのことごと 「布肩衣」は、布で作った肩衣。「布」は麻またはそれに類較似の植物の繊維で織った粗末な物。「肩衣」は袖のない襦袢ようの物で、最近まであった袖なし絆纏《ばんてん》の類。「有りのことごと」は、「有り」は、名詞形。「ことごと」はことごとく。あるだけ総て。○服襲へども寒き夜すらを 「服襲ふ」は、着襲《きよそ》うの約。着重ねる意。「夜すら」の「すら」は、重きを指して、他を類推させる助詞。「を」は、のに。着重ねたけれども、それでもこれ程寒い夜だのに。○我よりも貧しき人の 我は別者で、飢えないだけの食物はあり、どうやら寒さをこらえるだけの衣類のある人。問者は貧窮ではあるが、他を思いやる余裕のある人。○父母は飢ゑ寒からむ その父母は飢えて寒かろうで、その人を措いて、まずその両親を思いやったもの。○妻子どもはさくり泣くらむ 「乞々」は、「吃々」で、泣きじゃくるの古語。飢えと寒さに泣きじやくっていよう。○この時は如何にしつつか汝が世は渡る 「汝」は「我よりも貧しき人」で呼び懸け。「世は渡る」は、生活を続けるのかで、生き継いで行くのかの意。以上問で、七七で結んで独立させたもの。 ○天地は広しといへど吾が為は狭くやなりぬる 天地は広いというが、我が為には狭くなったのかで、「や」は疑問の係助詞。我が身の置き所もない気がする意。○日月は明しといへど吾が為は照りや給はぬ 「明し」は、明るし。「照りや給はぬ」は、日月を神として言っているもの。○人皆か吾のみや然る 「人皆か」は、総ての人が同様なのか。「吾のみや然る」は、「や」は疑問の係助詞。それとも我一人のみがそのようであることなのか。以上十句、人間として持ちうる当然の権利の持てない憤りを、悲しみと訝りをもって言ったもの。○わくらばに人とはあるを 「わくらばに」は、たまたまに。「人とはあるを」は、「ある」は、生存する意。「を」は、のに。人としては生きているのに。仏説に、人身を享けることは(116)難い意で、人間としての自尊心。○人竝に吾も作るを 人並に我も耕作をしているのにで、当時の庶民はすべて農業をしており、生業の主体でもあったので、同じく自身の恥じなきことを言ったもの。○綿もなき布肩衣の 「綿」は、繭から作る真綿で、それを言っているのは寒気の凌げない意からのこと。○海松の如わわけさがれる 「梅松」は海草で、形が松に似た物。「わわけ下れる」は、破れてばらばらになって、垂れ下がっているで、下の「かかふ」の状態。○繿褸のみ肩に打懸け 繿褸《かかふ》は、ぼろの古語。ぼろきれ。「肩に打懸け」は、肩に懸けるで、着るとも言えない状態。以上六句、衣服の状態。○伏廬の曲廬の内に 「伏廬」は、低く伏したような小宅「の」、は、同形のものを重ねる助詞。「曲廬」は傾いて曲がった小屋。○直土に藁解き敷きて 「直土」は、地べたで、普通の床のない意。「藁解き敷きて」は、藁をほぐして敷いて。普通は菅や薦の織った物を働いた。以上四句、家の状態。○父母は枕の方に 「枕の方」は、上座。○妻子どもは足の方に 「足《あと》の方に」は、下座に。○囲み居て 憂ひ吟ひ 「囲《かく》み」は、囲《かこ》みの古語。主人を取り囲んで居て。「吟ひ」は、呻吟する意の古語で、苦しさに唸る患。○竃には火気ふき立てず 「竈」は釜所で、釜のある所。「火気ふき立てず」は火は焚かず。○甑には蜘蛛の巣かきて 「甑」は、今の蒸籠《せいろう》にあたる土器。古くは飯は蒸したのである。「巣かきて」は、巣を張って。「かき」は「かく」を四段活用に用いた語。飯を炊かないことを具体的に言ったもの。○餌炊く事も忘れて 以上六句、食物の絶無な状態。○奴延鳥ののどよひ居るに 「奴延鳥」は既出。今の虎つぐみ。「のどよひ」は、橋本進吉氏は、細々と力のない声を出すことだと考証している。○いとのきて短き物を端截ると云へるが如く 以下は租税の誅求。「いとのきて」は、甚《いと》除《の》きてで、特に取り分けて。「短き物を端截る」は、本来短い物を、さらにその端を載って短くする意。当時一般に言われていた諺で、後に出る同じ憶良の「沈ア自哀文」に、「諺曰、痛瘡灌v塩、短材載v端、此之謂也」とあり、弱い者いじめ、病み目に祟り目などの類椒。○楚取る里長が声は 「楚取る」は、楚は木の細枝で、ここは笞すなわち刑具で、それを手にしている。「里長」は原文「五十戸良」で、戸令に、九戸以上五十戸までを里とし、長一人を置くと定められていて、五十戸は里、良は長。職掌は、戸口の検校、農桑の課殖、非違の禁察、賦役の催駈である。「声」は未進の田粗賦役を催す声である。○寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ 「寝屋戸」は、寝屋の戸口。「来立ち」は、来て立って。「呼ばひぬ」は、「呼ぶ」の継続状態で、呼び続けたの意。〇斯くばかり術なきものか これ程にも致し方のないものだろうかで、「か」は詠歎の助詞。○世間の道 庶民として世に生きている道は。
【釈】 風が添って雨の降る夜で、雨にまじって雪の降る夜は、凌ぎようもなく寒いので、堅塩を噛りかじり、糟湯洒をちびちび啜りつづけて、咳払いをつづけ、鼻をびしびしと鳴らして、有りなしの顎ひげを撫ぜて、この我を除いては人物はなかろうと自慢をつづけるが、やはり寒いので、麻衾を引|被《かぶ》り、布肩衣の有りたけを着重ねたが、それでさえ寒い夜だのに、我よりも貧しい人は、その父母《ちちはは》は飢えて寒いことであろう、妻や子どもは泣きじゃくりをしていることであろう。こうした時はどのようにしつつあなたの生活を続けているのか。
天地《あめつち》は広いというけれども、我が為には狭くなったのであろうか。日や月は明るいというけれども、我が為は照っては下さらないのだろうか。これは総ての人が同様なのか、自分だけがこうなのか。たまたまに逢い難き人身を享けて生きているものを、人慨嘆も耕作をしているのに、綿も入ってはいない布碍衣の、海松のように破れてばらばらになって垂れ下がっている繿褸《ぼろ》ばかりを肩に懸け、低く伏した小屋で、傾いている小屋の内に、地べたに藁をほぐして敷いて、父母《ちちはは》は上座のほうに、妻や子ども(117)は下座のほうに、我を取り囲んで憂いうめいて、竈には火の煙が立たず、甑には蜘蛛が巣を張って、飯を炊ぐことも忘れて、細細と悲しい声を出していると、取り分けて短い物の端を截ると言っているように、笞を手にする里長の租税催促の声は、閨の戸口にまで来て、立って呼び続けた。これ程までに致し方のないものなのか、世の中の道は。
【評】 題意で、この当時の庶民すなわち農民は、国司の私腹を充たそうとしての苛斂誅求の為に、じつにあわれな状態に陥れられ、その郷土にもいられず流離する者があるまでだったことに触れて言った。低い身分から身を起こして、伯耆守、筑前守と歴任した憶良は、この間の消息を十二分に知悉しており、加えて弱者をあわれみ同情する性情から、見るに見かね、黙ってはいられない感を抱いていたと思われる。この歌は結尾に「山上憶良頓首謹上」と記してあり、誰に宛てたものかはわからないが、尊い人に贈った形となっており、官がないところから見ると筑前守を解かれて京へ帰っての後の作とみえる。すなわち在職中は言うに言えずして久しく胸に蔵していたところの、その庶民の窮状をあわれむ切情を、何びとか有力な為政者に、文藻の形をもって訴えたものではなかろうかと思われる。「頓首謹上」は儀礼の成語ではあるが、単に同好の人に文藻を示そうとしての語ではないごとく思われる。
 これを構成の上から見ると、この歌の中心は答者のほうにある。問者のほうは、その術なしと佗びているのは冬の一日酷寒の襲い来たって凌ぎ難い感のするということで、これは当時の生活状態からいえば万人共通のことで少しの特異もないものである。答者との関係においてこの人も貧窮者にしているが、食物には事欠かず、衣料もかつがつ有って、寒さ凌ぎに糟湯酒と堅塩を用いるという程度の不自由さであるが、日常生活として自身の為にすることであるから、貧窮という程度の人ではない。歌としては珍しいまでに状態描写をしているのは、「我よりも貧き人の」と、それを思いやるに至る心理過程を自然にあらわそうとするが為のもので、結局そうした人に向かって、「如何にしつつか汝が世は渡る」という、問題の中心に導こうとする為である。問者の生活状態の描写は、簡潔で印象的で、その魅力を持っている点では傑出したものである。
 答者の態度は、問者とは反対にいささかの余裕もないもので、ただ自身のみに捉えられているものである。のみならず、深刻沈痛なもので、現われているところは悲しみであるが、その底に流れているのは憤りと訝りであって、そしてそれは不合理より発しているものであることを、明らかに意識しているものである。第一に言っていることは、天地の間に日月に照らされて生きている人間として、当然もっているはずの権利を奪われている憤りと訝りである。次に言っていることは、人間の尊さを自覚し、世間並みに耕作の勤労に服しているのに、それに対しての所得で身に着く物は一物もなく、必需品の衣はないにひとしく、家もないに近く、肝腎の食は絶無の状態がつづいているのである。これはじつに不合理極まることで、人間として憤らずにはいられないことである。答者はこの不合理についてわざと言うを避けているが、その代わりに、このことを最も力強く説明するものとして、里長の納税を促す荒々しい声をもってしているのである。里長の行動は国司の命令によってのもので、これは言うに及ばない自明なことなのである。「斯くばかり術(118)なきものか世間の道」は、不合理の由って来たる経路を十分に知っている庶民の心の総括であって、一見悲しみの声に似ているが、不合理に対する憤りと訝りとを包んでいるもので、崩壊か爆発の一歩手前の声である。為政者の立場から見れば傾聴せざるを得ない声である。
 この歌の内容は憶良によって拓かれた新生面のごとく見えるが、元来純空想的の作はせず、実際に即しての感想を詠んでいる憶良である。この歌もそれであって、憶良としては上に言ったごとき要求を充たそうとして懸案としていたものであって、たまたま椒会を得たので、力を傾けて作ったものと思われる。文芸としての新生面は彼としては自然にそういう成行きとなったというにすぎないことと思われる。
 
893 世間《よのなか》を 憂《う》しと恥《やさ》しと 思《おも》へども 飛《と》び立《た》ちかねつ 鳥《とり》にしあらねば
    世間乎 字之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
 
【語釈】 ○世間を憂しと恥しと 「世間を」は、人生という意で、環境を主とした言い方。「憂しと」は、つらいと思い。「恥しと」は、はずかしいとで、極貧の状態にいることを、周囲を主として言ったもの。○飛び立ちかねつ 飛び立って、離れ去ることは出来ない。○鳥にしあらねば 「し」は、強意の助詞。我が身は鳥ではないので。
【釈】 人生をつらいと思い恥かしいと思うけれども、飛び立って離れ去ることは出来ない。我が身は鳥ではないので。
【評】 答者の歌に属した反歌である。「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」は、突飛な連想のように見えるが、(八〇〇)「或へる情を反さしむる歌」の反歌「ひさかたの天路《あまぢ》は遠しなほなほに家に帰りて業《なり》を為《し》まさに」と同想のもので、答者の生活態度を正しいものと見ているもので、憶良の重んじている態度である。長歌の結末を語を換えて繰り返したもの。
 
     山上憶良頓首謹上
 
【解】 作の年月がないが、前の熊凝の歌が天平三年六月であるから、それ以後のものとみえる。「頓首謹上」というのは、誰に対してのことか分らない。旅人は天平三年七月に没しているから、旅人に宛てたのではない。歌の性質から見て、為政者中の有力者に贈ったのではないかと想像される。
 
     好去好来《かうこかうらい》の歌一首 反歌二首
 
(119)【題意】 「好去好釆」は、「好去」は「さきく」また「まさきく」に当てて用いられている文字である。「好去好来」は意としては、さきくいまして、さきくかえりませで、旅行の往還の無事を祈る意である。左注によってこの歌は、天平五年の大唐大使に贈ったものであり、贈主は慣良であることが知られる。また大使は多治比真人広成《たじひのまひとひろなり》であることが明らかである。事は続日本紀にくわしく、天平四年遣唐大使を命じられ、五年四月難波津を進発、七年三月帰朝した。広成は左大臣島の第五子で十一年四月従三位で薨じた人である。
 
894 神代《かみよ》より 言伝《いひつ》てけらく そらみつ 大倭《やまと》の国《くに》は 皇神《すめかみ》の 厳《いつく》しき国《くに》 言霊《ことだま》の 幸《さき》はふ国《くに》と 語《かた》り継《つ》ぎ 言《い》ひ継《つ》がひけり 今《いま》の世《よ》の 人《ひと》も悉《ことごと》 目《め》の前《まへ》に 見《み》たり知《し》りたり 人《ひと》さはに 満《み》ちてはあれども 高光《たかひか》る 日《ひ》の朝廷《みかど》 神《かむ》ながら 愛《めで》の盛《さかり》に 天《あめ》の下《した》 奏《まを》し給《たま》ひし 家《いへ》の子《こ》と 択《えら》び給《たま》ひて 勅旨《おほみこと》【反して、大命《おほみこと》といふ】 戴《いただ》き持《も》ちて 唐《からくに》の遠《とほ》き境《さかひ》に 遣《つかは》され 罷《まか》り坐《いま》せ 海原《うなはら》の 辺《へ》にも奥《おき》にも 神留《かむづま》り 領《うしは》き坐《いま》す 諸《もろもろ》の 大御神等《おほみかみたち》 船《ふな》の舳《へ》に【反して、ふなのへにと云ふ】 導《みちび》き申《まを》し 天地《あめつち》の 大御神《おほみかみ》たち 倭《やまと》の 大国霊《オホクニタマ》 ひさかたの 天《あめ》のみ虚《そら》ゆ 天翔《あまがけり》り 見渡《みわた》し給《たま》ひ 事《こと》をはり 還《かへ》らむ日《ひ》には また更《さら》に 大御神等《おほみかみたち》 船《ふな》の舳《へ》に 御手《みて》うち懸《か》けて 墨繩《すみなは》を 延《は》へたる如《ごと》く あちかをし 値嘉《ちか》の岫《さき》より 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の浜辺《はまび》に 直泊《ただはて》に 御船《みふね》は泊《は》てむ 恙《つつみ》なく 幸《さき》く坐《いま》して 早《はや》帰《かへ》りませ
    神代欲理 云傳介良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言靈能 佐吉播布國等 加多利繼 伊比都賀此計理 今世能 人母許等期等 目前尓 見在知在 人佐播尓 滿弖播阿礼等母 高光 日御朝庭 神奈我良 愛能盛尓 天下 奏多麻比志 家子等 撰多麻比 勅旨【反云2大命1】 戴持弖 唐能 遠境尓 都加播佐礼 麻加利伊麻勢 字奈原能 邊尓母奥尓母 神豆麻利 字志播吉 伊麻須 諸能(120)大御神等 船舳尓【反云2布奈能閇尓1】 道引麻遠志 天地能 大御神等 倭 大國靈 久堅能 阿麻能見虚喩 阿麻賀氣利 見渡多麻比 事畢 還日者 又更 大御神等 船舳尓 御手打掛弖 墨繩袁 播倍多留期等久 阿遲可遠志 智可能岫欲利 大伴 御津濱備尓 多太泊尓 美船播將泊 都々美無久 佐伎久伊麻志弖 速歸坐勢
 
【語釈】 ○神代より言伝てけらく「言伝てけらく」の「け」は、寛永本などは「介《け》」、西本顕寺本、紀州本外三本は「久《く》」となっている。下の「けり」の結との関係上「介」にしたがう。「言伝て」は言い伝え。「けらく」は名詞形で、けること。神代から言い伝へて来たことには。○そらみつ大倭の国は 「そらみつ」は既出。枕詞。「大倭」は場合上国家の意。○皇神の厳しき国 「皇神」は、皇祖神の意にも、一般の神の意にも用いる。ここは、後の続きで見ると、海原の神々、天神地祇を総括して言っている。「厳しき」は厳然としているで、神威の盛んな意。○言霊の幸ふは国と 「言霊」は、言語の霊の意で、言語にはそれぞれ魂があって、よい事を言えばよい結果をあらわし、悪い事を言えば悪い結果をあらわすとしていた。「幸はふ」は、栄え行くで、活躍するというにあたる。賀歌はこの信仰から詠まれるので、今もそれである。○語り継ぎ言ひ継がひけり 「言ひ継がひ」の「継がひ」は「継ぐ」の継統。同意を練り返して、強く過去を言ったもの。○今の世の人も悉 皆の人のみならず今の世もことごとく。○目の前に見たり知りたり 眼前の事実として見もし知ってもいるで、神の力の永久不変なことを言って、さらに強めたもの。以上、第一段。○人さはに満ちてはあれども 人が多く満ちてはいるけれどもで、多くの中より一人を選抜するにいう成句。ここは天皇が廷臣を対象としての場合。○高光る日の朝廷 天皇及び皇子に対する尊称としての「高光る日の御子」はしばしば出た。これは「御子」を「朝廷」としたもの。「みかど」は本来御門であり、それを宮殿朝廷の意とし、後にさらに天皇の意に延長させた語である。ここは下の続きで見ると天皇の意のものである。○神ながら愛の盛に 神として御寵愛の盛んなままに。○天の下奏し給ひし (八七九)に出た。天下の政事をお執りになったで、広成の父島が左大臣であったことを言ったもの。○家の予と択び給ひて 家の子であるとしてお選びになって。「て」で主格が変わる。以上は「朝廷」であるが、以下は広成。○勅旨戴き持ちて 「勅旨」は、遣唐大使としての勅命。○反して 漢字の一字の音を示す反切の名を用いて、ここでは「勅旨」と当てた漢字の読み方を言っているもので、憶良の施した注である。○唐の遠き境に 「唐」は、旧訓もろこしを、『攷証』は「からくに」と改めている。当時の用例が多いからである。唐という遠い地に。○遣され罷り坐せ 「罷り」は尊い所より退去する意。「坐せ」は、後世の「坐せば」にあたる条件法で古格。以上、第二段。○海原の辺にも奥にも 「辺」は既出。海岸寄り。航路として可能な限り選ぶ所。「奥」は沖で遣唐使の船の通らざるを得ない所で、航路の全体。○神留り領き坐す 「神留り」は、神のとどまる意で、祝詞などに多い語。「領き坐す」は我がものとして領していらせられるで、天皇のこの国土を治しめすに対する語。○諸の大御神等 境を異にする海に領く神々がいられ、その神々は天皇に仕えていられるというのが、上代の信仰であって、したがって、その神々は勅使を保護されるのである。○船の舳に導き申し 「船の舳」は船首で、船の向かうほう。「申し」は敬語で、これは広成が勅使だからである。○反して船の舳を 「ふねのへ」と読まない為のもの。祝詞にある古語に従わせようとしてである。○天地の大御神たち あらゆる天神地祇で、その天皇に対しての関係は、上の海原の神と同様である。○倭(121)の大国霊 「倭」は大和国。「大国霊」は奈良県天理市新泉に坐す神で、大和神社の祭神で、皇室の特に尊信していられた神であり、大和の人である広成とも関係が深い神である。○ひさかたの天のみ虚ゆ 「ひさかたの」は、天の枕詞。「天のみ虚」は、神の常にいます所。「ゆ」は、より。○天翔り見渡し給ひ 「天翔り」は、神々が加護のためになさるとしていたこと。「見渡し」は、高きより広く見渡す意で、船の進行とともに天翔って見渡して、いつも船より離れず加護をなされ。○事をはり還らむ日には 遣唐大使のすべき事が終わって我が国へ還る時には。○船の舳に御手うち懸けて 上の「導き申し」を進展させ、船の進行を速かにする意。○墨繩を延へたる如く 「墨繩」は、大工が木材に直線のしるしを付ける際に用いる工具で、「延へ」は、繩を長く延ばす意。一直線にの譬喩。○あちかをし値嘉の岫より 「あちかをし」は、同音の関係で値嘉の枕詞としたものであるが、語義は不明である。「を」は感動、「し」は強意の助詞であるが、「あちか」は不明である。「値嘉」は肥前国松浦郁の海中の島で、唐への航路では、我が行く船には我が国最後、帰る船には最初の船着き場所であった。今の平戸五島だろうという。今北松浦郁に小値賀《おちか》島の名がある。岫は岬と同じ。○大伴の御津の浜辺に 「大伴」は今の大阪付近一帯の総地名。「御津の浜|辺《び》」は、既出。難波の港。○直泊に御船は泊てむ 「直泊」は直航して泊まるさま。「御船は泊てむ」は、御船は着こう。以上、第三段。○恙なく幸く坐して早帰りませ 「恙なく」は、凶事の物忌なく。「幸く坐して」は、無事に往かれて。「はや帰りませ」は、早くお帰りなされ。題詞に言っていることで、一首の中心。第四段。
【釈】 神代から言い伝えていたことには、我が日本の国は尊き神の儼然と威力を示している国で、言霊の活躍している国だと語り継ぎ言い継ぎ続けて来た。今の世の人もすべて、目の前にそのことを見ており知っている。人が多く満ちてはいるが、高光る日の朝廷《みかど》は、神として御寵愛の盛んなままに、国家の政事を執った家の子としてお選びになって、君は勅命を戴きもって、唐《もろこし》の遠い地に遣されて、我が国を退去なさるので、海原の海岸寄りにも沖にも、神留まり領していらっしゃる諸の大御神達は、船の舳先にいて御案内を申し、天地の大御神達や大和《やまと》の大国霊の神は、天上から天《あま》翔って、お見渡しになられ、事あらば加護をされようとし、大使としての事が終わって還られる日には、またさらに大御神達は、船の舳先に御手を腰けて助け、墨繩を引き延べたように、値嘉の岬から大伴の御津の浜へと、直航して御船は着くことであろう。無事に平安であらせられて、早く帰っていらっしやい。
(122)【評】 この歌は遣唐使関係の多くの歌の中でも特色の多いものであり、憶良の歌の中でも代表的なものの一首である。事としては題の「好去好来の歌」ということと、結尾の一句「恙なく幸く坐して早帰りませ」に尽きている、単なる祝いの心よりのものであるが、その祝いを強く重いものとしている構想に、憶良独自のものがあって、それがこの歌を特色づけているのである。
 起首で突然、「大倭の国は皇神の厳しき国」と言い、それと対立させて「言霊の幸はふ国」と言い、それを神代よりの信仰とし、「今の世の人も悉目の前に見たり知りたり」と、その信仰は実現しているものだと力強く言っている。一見国柄を讃美している言葉のごとく聞こえるが、作意はそこにはなく、遣唐使の難航路を守護する神威の力を、広成の乗る官船の上に招来しようとの心より言っているものである。遣唐使は無論勅使である。勅使に対しては我が国の神々は、天皇に奉仕する心をもって加護されるべきである。しかしその加謹は、言霊と微妙なる関係をもつものである。今その加護のさまを言葉として言いあらわせば、言霊の威力が加わって、加護はその言葉通りのものとなるとしたのである。この二つの信仰の浴け合って一つとなったものが、この歌の中心をなして、「諸の大御神等船の舳に導き申し」という事実になり、また、「大御神等船の舳に御手うち懸けて」という事実にもなり、さらに「天地の大御神たち倭の大国霊ひさかたの天のみ虚ゆ天翔り見渡し給ひ」という事実にもなるのである。これらの言葉は、儀礼に近いもののごとく思われるのであるが、この当時にあっては胸に根強く植えつけられていた信仰だったので、憶良のこのように解し、このように言っている言葉は、広成にとってはその場合柄、無上の祝いだったろうと思われる。すなわちこの祝いをしている主体は、最初に言っている「大倭の国」で、対象は遣唐使としての広成だからで、憶良は神意の現前を促しているにすぎないという強く重い祝いだからである。結尾の一句が、言霊の幸いを頼んで、初めて憶良自身の祝いとして言っているものである。
 
     反歌
 
895 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の松原《まつばら》 かき掃《は》きて 吾《われ》立《た》ち待《ま》たむ 早《はや》帰《かへ》りませ
    大伴 御津松原 可吉掃弖 和礼立待 速歸坐勢
 
【語釈】 ○御津の松原 巻一(六三)「御津の浜松待ち恋ひぬらむ」という憤良の歌がある。海岸の松原で、印象的なものだったと見える。○かき掃きて 「かき掃き」は、「かき」は接頭語、「掃き」は、掃き清めてで、憤良自身する意である。広成に対する敬意からの言い方である。○吾立ち待たむ 「立ち」は接頭語であるが、この場合、気分をあらわす働きをしている。
【釈】 大伴の御津の松原を掃き清めて準備をし、そこに吾は待っていよう。早く帰っていらっしゃい。
【評】 長歌の結句の「早帰りませ」を結句に据えて、練り返しの形にしたものである。しかしそれと同時に憶良自身の個人的な親しみも持たせて、反歌としての展開も付けたものである。
 
896 難波津《なにはづ》に 御船《みふね》泊《は》てぬと 聞《きこ》え来《こ》ば 紐《ひも》解《と》き放《さ》けて 立《た》ち走《ばし》りせむ
    難破津尓 美船泊農等 吉許延許婆 紐解佐氣弖 多知婆志利勢武
 
【語釈】 ○御船泊てぬと聞え来ば 「聞え来ば」は、奈良京へ伝わって来たならば。○紐解き放けて 「紐」は衣の紐。「解き放けて」は、解き放し。衣の紐は結んでいるのが礼で、また普通でもあるが、それをする間もなくということを、わざとするように誇張して言ったもの。○立ち走りせむ 「立ち走り」は一語で、「立ち」は接頭語。走って行って迎えよう。
【釈】 難波津に御船が着いたということが伝わって来たならば、衣の紐も結ばずに、走って行って迎えよう。
【評】 上の歌を進めて、無事に難波津に帰り着いたという、待望の頂点になってのことを想像して言っているものである。「解き放けて立ち走りせむ」はその歓喜の具象化で、昂奮と誇張をもって言っているもので、反歌の結とするに足りるものである。
 
     天平五年三月一日。良の宅に対面して、献れるは三日なり。山上憶良
     謹上 大唐大便卿記室
      天平五年三月一日。良宅封面、獻三日。山上憶良
(124)      謹上 大唐大使卿記室
 
【解】 「天平五年三月一日」は、憶良が「好去好来の歌」を作った日付。「良の宅に対面して、献れるは三日なり」は、広成が憶良の宅を訪問して、その際この歌を献ったので、その日は三日だという意味で、献る際憶良の書き添えたものと取れる。広成の憶良の家を訪問したのは、広成のほうが身分は高いが、憶良は早く渡唐をしたことのある経験者でもあり、また学者でもあったから、広成が何らか参考になることを訊ねようとしたことも不思議はない。なお身分が高いといっても、広成と憶良の差はさしたるものではなかった。「大唐大使卿」は広成、「記室」は書記で、いずれも敬っての宛名である。
 
     痾《やまひ》に沈みて自《みづから》哀《かなし》む文   山上憶良作
 
【題意】 憶良が高齢にして宿痾に悩まされているのを哀しんで作った文である。作の年月はないが、文中に「七十有四」という語がある。また氏名の上に官もないこと、次の歌が、「老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦《たしな》み」とあり、左注に「天平五年六月作れる」とあることも、この文の作られた時の参考となる。長文であるから、便宜上一部分ずつを解くこととする。
 
     窺《ひそか》に以《おもひみ》るに、朝夕山野に佃《かり》し食ふ者すら、猶ほ災害無くして世を度《わた》ることを得《う》。【謂ふこころは、常に弓箭を執り六斎を避けず、値《あ》ふ所の禽獣、大小と、孕めると孕まざるとを論ぜず、並に皆殺し食ひ、此を以ちて業とする者をいふ。】昼夜に河海に釣漁する者すら、尚慶福ありて俗を経ることを全くす。【謂ふこころは、漁夫潜女各勤むる所あり、男は手に竹竿を把《と》りて能く波浪の上に釣り、女は腰に鑿籠を帯びて深き潭の底に潜き採る者をいふ。】況や我|胎生《たいさう》より今日に至るまでみづから善を修むる志あり、曾て悪を作《な》すの心無し。【謂ふこころは諸悪作す莫れ、諸善奉行せよの教を聞くをいふ。】所以《ゆゑ》に三宝を礼拝して、日として勤めざるは無く、【毎日誦経し、発露し懺悔するなり。】百神を敬ひ重みして、夜として闕《か》くること有る鮮《な》し。【謂ふこころは、天地の諸神等を敬ひ拝むをいふ。】
     窺以、朝夕佃2食山野1者、猶無2災害1而得v度v世。【謂、常執2弓箭1、不v避2六齋1、所値禽獣不v論2大小、孕及1v不v孕並皆殺食、以v此爲v業者也。】晝夜釣2漁河海1者、尚有2慶福1而全v経v俗。【謂、漁夫潜女各有v所v勤、男者手把2竹竿1能釣波浪之上1、女者腰帯2鑿籠1潜採深潭之底1者也。】況乎我從2胎生l迄2于今日1、自有2修v善之志1、曾無2作v惡之心1。【謂、聞2諸惡莫v作諸善奉行之教1也。】所以礼2拜三寶1、無2日不1v勤、【毎日誦経、(125)発露懺悔也。】敬2重百神1、鮮2夜有1v闕。【謂、敬2拜天地諸神等1也。
 
【語釈】 ○佃し食ふ者 「佃」は猟で、猟を生業とする者。〇六斎を避けず 「六斎」は、「斎」は仏教により殺生を禁じることで、『令』には、毎月六日を禁じていたのである。「避けず」はその令をも守らない意。○俗を経ることを全くす 「俗」は仏教でいう一般の世間で、別条なく世に生きている。○潜女 海底に潜って漁りをする女。○鑿籠 鑿と籠。「鑿」は岩に付着している貝類を剥ぐ為の物。「籠」は貝類を入れる類の物。○胎生 母の胎中で発育して生まれること。○諸悪作す莫れ、請善奉行せよ 『法句経』述仏品の偈の文にあるもので、仏教の合倫理的の要領とされている語。〇三宝 仏法僧で、ほとけの意。如来と、その教えと、教えに入った者。○発露し懺悔するなり 我が罪咎を露《あら》わして俄悔する意で、仏法の行。○百神 我が天神地祇。以上、病を仏説の因果応報より思い、悪因なくしての感巣だと見て哀しんだもの。
 
     嗟乎|※[女+鬼]《はづか》しきかも、我何の罪を犯して、此の重き疾に遭へる。【謂ふこころは、いまだ過去に造れる罪か、若しくは是現前に犯せる過かを知らず。罪過を犯すことなくば何ぞ此の病を獲めや。】初め痾に沈みて已来《このかた》、年月稍多し。【謂ふこころは十余年を経るをいふ。】是の時に年|七十有四《ななそぢあまりよつ》、鬢髪|斑白《まだら》にして、筋力|〓羸《よわ》く、但《ただ》に年の老いたるのみにあらず、復《また》斯《こ》の病を加ふ。諺に曰はく、痛き瘡《きず》に塩を灌《そそ》き、短き材を端《はし》を截《き》るといふは、此の謂なり。四支《てあし》動かず、百節《ふしぶし》皆|疼《いた》み、身体|太《はなはだ》重く、猶|鈞石《おもり》を負へるが如し。【二十四|銖《しゆ》を一両と為し、十六両を一斤となし、三十斤を一|鈞《きん》となし、四鈞を一石となす、合せて一百二十斤なり。】布に懸りて立  たまく欲りすれは、翼折れたる鳥の如く、杖に倚りて歩まむとすれば、足|跛《な》へたる驢に比《たぐ》ふ。
      嗟乎※[女+鬼]哉、我犯2何罪1、遭2此重疾1。【謂、未v2過去所v造之罪、若是現前所v犯之過1。無v犯2罪過1、何獲2此痾1乎。】初沈v痾已來、年月稍多。【謂、經2十余年1也。】是時年七十有四、鬢髪斑白、筋力〓羸、不2但年老1。復加2斯病1。諺曰、痛瘡灌v塩、短材截v端、此之謂也。四支不v動、音節皆疼、身體太重、猶v負2鈞石1。【二十四銖爲2一兩1、十六兩爲2一斤1、三十斤爲一鈞1、四鈞爲2一石1、合一百二十斤。】懸v布欲v立、如2折v翼之鳥1、倚v杖且v歩、比2跛v足之驢1。
 
【語釈】 ○※[女+鬼] 愧に同じ。○現前 現在。仏語。○痛き瘡に塩を濯き 当時行なわれていた諺で、どちらも長歌に出たものである。老の苦しみの上にさらに病の苦しみの添う意で言っている。〇四支 両手両足。○百節 体の中の節々。○鈞石 甚だ重い意で、注の一斤は今の百八十匁、一鈞は四貫四百匁、一石はその四倍。○布に懸りて立たまく欲りすれば 天井から布を吊るし、それにつかまって立とうとするが。以上病苦の状態(126)を言ったもの。
 
     吾、身は已に俗に穿《つらぬ》き、心も亦塵に累《わづら》はさるるを以ちて、禍の伏すところ、祟の隠るるところを知らまく欲りして、亀卜の門、巫祝の室、往きて問はずといふこと無し。若しくは実、若しくは妄、その教ふる所に従ひ、幣帛を奉り、祈祷をせずといふこと無し。然れどもいよいよ苦しきを増すことあり、かつて減差《い》ゆることなし。
      吾以2身已穿v俗、心亦累1v塵、欲v知2禍之所v伏、祟之所1v隱、龜卜之門、巫祝之室、無v不2往問1。若實若妄、随2其所1v教奉2幣帛1、無v不2祈祷1。然而弥有v増v苦、曾無2減差1。
 
【語釈】 ○俗に穿き 俗世間に居て。○心も亦塵に累はさるるを以ちて 心が俗世間のことに煩わされて明らかではないので。○禍の伏すところ 病の潜んでいる所で、病源。○祟の隠るるところ 「巣」は鬼神の祟りで、病。○亀トの門 うらないをする者の家。○巫祝の室 巫祝は神がかりをする巫女神職で、病源を神によって知ろうとして。室は家。○若しくは実、若しくは妄 その教えることが、実のようでもあり、でたらめのようでもあるが。○幣帛を奉り、祈挿をせずといふこと無し 神事を行なってもらわないということはない。以上、神事の憑み難い嘆き。
 
     吾聞く、前の代に多《さは》に良き医《くすりし》有り。蒼生《たみくさ》の病息《やまひ》を救療《いや》しき。楡〓《ゆふ》、扁鵲《へんさく》、華他《けた》、秦の和《わ》、緩《くあん》、暮稚川《かつちせん》、陶隠居《たういんこ》、張仲景《ちやうちゆうけい》等の若《ごと》きに至りては、皆是れ世に在りし良き医、除き愈《いや》さずといふこと無しといへり。【扁鵲、姓は秦、字は越人、渤海の郡の人なり。胸を割き、心を採りて易《か》へて置き、投《い》るるに神薬を以てすれば、即ち寤《さ》めて平《つね》の如し。華他、字は元化、沛国の※[言+焦]の人なり。若し病の結積して沈重内に在る者あらむには、腸を刳りて病を取り、縫ひて復膏を摩《さす》り、四五日にして差《いや》す。】件の医を追ひ望むとも、敢て及《し》く所に非らじ。若し聖の医|神《くす》しき薬に逢はば、仰ぎ願くは五つの蔵を割刳し、百の病を抄探し、膏肓《かうくわう》の※[こざと+奥]《ふか》き処に尋ね達《いた》り、【膏は※[隔の旁]なり、心の下を膏と為す、攻《をさ》むるも可《よ》からず、達《はり》も及ばず、薬も至らざるなり。】二人《ふたり》の豎の逃れ匿るるを顕さまく欲りす。【謂ふこころは、晋の景公疾あり。秦の医緩視て還りしは、鬼に殺さる謂ふべし。】
      吾聞、前代多有2良医1。救2療蒼生病患1。至v若2楡〓、扁鵲、華他、秦和、緩、暮稚川、陶隱居、張仲景等1、皆是在v世良醫無v不2除愈1也。【扁鵲姓秦、字越人、渤海郡人。割v胸、採v心易而置之、投以2神藥1、即寤如v平也。華他字元化、沛国※[言+焦]人也。若有2病結積沈重在v内者1、(127)刳v腸取v病、縫復摩v膏、四五日差之。】追2望件醫1、非2敢所1v及。若逢2聖醫神藥1者、仰願割2刳五藏1、抄2探百病1、尋2達膏肓之※[こざと+奥]處1、【膏※[隔の旁]也、心下爲膏。攻之不v可、達之不及、藥不v至焉。】欲v顯2二豎之逃匿1。【謂、晋景公疾、秦醫緩視而還者、可v謂2爲v鬼所1v〓也。】
 
語釈】 ○楡〓 『周礼』に出ている。黄帝時代の良医。○扁鵲 『史記』に扁鵲伝がある。○秦の和緩 泰時代の和と緩と二人の良医。和のことは『国語晋書』に、綴のことは『左伝』成公十年の伝に出ている。その要は、晋景公が病んで、医を秦に求めると、秦伯は医緩を遣わした。まだ着かないうちに、景公の夢に病が二人の童子と化して話し合うには、一人は緩が来たら自分を傷つけようから逃げようと言うと、他の童子は、我は肓の上、膏の下にいるからどうすることも出来なかろうと言うと見た。緩が来て公を診察して、病は手の施しようがない。肓の上、膏の下にある。鍼も届かず薬も送り込めないと言ったというのである。下の注にこれが出る。○葛稚川 『晋書列伝』に出ている。○陶隠居 『梁書列伝』に出ている人。○張仲景 『漢書』に出ている人。〇五つの蔵を割刳し、百の病を抄探し 「五蔵」は、五臓。「抄探」は、探して匙ですくう意。○膏肓の奥(こざとへん)き他に尋ね遺り 「膏」は、心臓。「肓肯」は横隔膜。いずれも病の籠もる所で、良医の達すなわち鍼も届かず、薬もそこまでは行かない所。○二聖 「竪」は童子で、上の成公の所に出た。病を擬人した二童子。以上、良医に逢って、我が病源を突き止めたい願い。
 
     命根既に尽きて、其の天年を終るすら、尚哀しと為す。【聖人賢者の、一切の含霊《ごんらう》、誰か此の道を免れめや。】何《いか》に況《い》はめや生録《さうろく》いまだ半ならずして、鬼の為に枉殺せられ、顔色壮年にして病の為に横困《たしな》めらるるものをや。世に在る大きなる患、いづれか此より甚しからむ。
      命根既盡、終2其天年1、尚爲v哀。【聖人賢者一切含靈、誰2免2此道1乎。】何況生録未v半、爲v鬼枉〓、顔色壯年、爲v病横困者乎。在v世大患、孰甚2于此1。
 
【語釈】 ○一切の含霊 一切の霊を有する物すなわち命あるもの。○生録 生禄に同じ。寿命。○鬼の為に枉殺せられ 病の為に虐げられて死ぬ。○横困めらる 床に横たわって苦しめられる。以上転じて、中道にして死ぬ者のあわれさを言う。
 
     志恠記に云ふ、広平の前の大守北海の徐玄方が女、年十八歳にして死《みまか》りき。其の霊憑馬子に謂ひて曰はく、我が生録を案ふるに、当に寿八十余歳なるべし。今妖鬼に枉殺せられて、已に四年を経たり。此の憑馬子に遇ひて、乃ち更に活くる事を得たりといへる、是なり。内教に云ふ、瞻浮(128)州の人は寿百二十歳なりといふ。謹みて案ふるに此数必しも此を過ぐるを得ずといふに非ず。故《かれ》、寿延経に云ふ、比丘あり名を  難達と曰ふ。命終る時に臨みて、仏に詣《いた》りて寿を請《ねが》ひ、則ち十八年を延べたりといふ。但し善く為《をさ》むる者は天地と相|畢《を》ふ。其の寿夭は業報の招く所にして、其の脩短に随ひて半と為るなり。未だ斯の算に盈たずして※[しんにょう+湍の旁]《すみやか》に死去す。故に未だ半ならずと曰ふなり。任徴君曰はく、病は口|従《よ》り入る。故《かれ》君子は其の飲食を節すといふ。斯に由りて言へば、人の疾病に遇へるは、必しも妖鬼ならず。夫れ医方諸家の広き説、飲食禁忌の厚き訓、知り易く行ひ難き鈍き情、三つの着目に盈ち耳に満つること、由来久し。抱朴子曰はく、人但其の当に死すべき日を知らず、故《かれ》憂へざるのみ。若し誠に羽※[隔の旁+羽]して期を延ぶるを得べきことを知らば、必ず将に之を為むといふ。此を以ちて観れは、乃ち知りぬ、我が病は蓋しこれ飲食の招く所にして、みづからをさ治《をさ》むること能はざるものか。
      志恠記云、廣平前大守北海徐玄方之女、年十八歳而死。其靈謂2馮馬子1曰、案2我生録1、當2壽八十餘歳1。今爲2妖鬼1所2横〓1、已經2四年1。此遇2馮馬子1、乃得2更活1、是也。内教云、瞻浮州人壽百二十歳。謹案此數非2必不1v得v過v此。故、壽延經云、有2比丘1名曰2難達1。臨2命終時1、詣v佛請v壽、則延2十八年1。但善爲者天地相畢。其壽夭者業報所v招、隨2其脩短1而爲v半也。未v盈2斯※[竹/卞]1而※[しんにょう+端の旁]死去。故曰v未v半也。任徴君曰、病従v口入。故君子節2其飲食1。由v斯言之、人遇2疾病1、不2必妖鬼1。夫醫方諸家之廣説、飲食禁忌之厚訓、知易行難之鈍情、三者盈v目滿v耳、由來久矣。抱朴子曰、人但不v知2其當死之日1、故不v憂耳。若誠知2羽※[隔の旁+羽]可1v得v延v期者、必將爲v之。以v此而觀、乃知、我病蓋斯飲食所v招而、不v能2自治1者乎。
 
【語釈】この一段は小字の注であるが、便宜上大字とする。〇志恠記 『隋書経籍志』に載っている書であるが、伝わらない。○徐玄方が女  この話は『捜神後記』巻四、『法苑珠林』巻九十二、『太平広記』巻三百七十五にも載っている。(『攷証』)。○内教 仏道。ここは経典。○瞻浮州(129) 仏語で、人間の住んでいる世界。須弥山の南方、海中にあるという国。○寿延経 不明の経。○善く為むる者 十分に道を作める者。○天地と相畢ふ 天地とともに寿命を永遠にする。○寿夭は業報の招く所 長命と短命とは宿業の報いとしてみずから招くもの。○脩垣 長短と同じで、宿業の長短。○王微音 梁の玄坊、字は元昇のこと。徴君は尊称。○鈍き情 愚かなる心。〇三つの者 上の「広き説」「厚き訓」「鈍き情」を承けたもの。○抱朴子 上に出た。晋の葛稚川の著書。下のことは、その内篇勤求篇に出る。○羽※[隔の旁+羽] 羽化して、空中を飛ぶ意で、仙人となること。○期を延ぶ 寿命を延ばす。以上、命を延べた例と、病源を合理的に思索したこと。
 
     帛爵公の略説に曰はく、伏して思ひみづから励ますに、斯の長生を以ちてすといふ。生は貪倉るべく、死は畏るべし。天地の大徳を 生と曰ふ。故《かれ》、死《みまかれ》る人は生ける鼠に及かず。王侯たりとも一日気を絶たは、金《くがね》を積むこと山の如くなりとも、誰か富めりと為さめや 。威勢海の如くなりとも、誰か貴しと為さめや。遊仙窟に曰はく、九泉の下の人は、一銭にだに直《あたひ》せずといふ。孔子の曰はく、之を 天に受けて、変易すべからざる者は形なり。之を命に受けて、益を請ふべからざる者は寿なりといふ。【鬼谷先生の相人書に見えたり。】故《かれ》、生の極めて貴く、命の至りて重きことを知る。言はまく欲りして言窮まる。何を以ちてか之を言はむ。慮《おもひはか》らまく欲りして慮絶ゆ。何に由りてか之を慮らむ。
      帛公略説曰、伏思自勵、以2斯長生1。々可v貪也、死可v畏也。天地之大穂曰v生。故死人不v及2生鼠1。離v爲2王侯1一日絶v氣、積v金如v山、誰爲v富哉。威勢如v海、誰爲v貴哉。遊仙窟曰、九泉下人、一銭不v直。孔子曰、受2之於天1、不v可2變易1者形也。受2之於命1、不v可v請v益者壽也。【見2鬼谷先生相人書1。】故知2生之極貴、命之至重欲v言々窮。何以言v之。欲v慮々絶。何由慮v之。
 
【語釈】 ○帛公の略説 帛公は人名、略説はその著書の名と取れるが、いずれも不明。○一日気を絶たば 一旦死んだならば。○遊仙窟 唐の張文成の撰で、仙女に逢った物語。〇九泉の下の人 死者。○鬼谷先生の相人書 鬼谷先生は、戦国時代の論客蘇秦の師とした人で、仮托の人物かという。相人書は書名と思われるが、今は伝わらない。以上、生の貴さ。
 
     惟《ただ》以《おもひみ》れば人賢愚と無く、世古今と無く、咸悉《ことごと》に嗟歎す。歳月競ひ流れて、昼夜も息まず。【曾子の曰はく、(130)往きて反らざる者は年なりといふ。宣尼が川に臨める歎も亦是なり。】老疾相催して、朝夕に侵し動く。一代の歓楽未だ席前に尽きざるに、【魏文が時賢を惜める詩に曰はく、未だ西苑の夜を尽さず、劇《にはか》に北※[亡+おおざと]の塵と作《な》るといふ。】千年の愁苦更に座後に継ぐ。【古詩に曰はく、人生百に満たず、何ぞ千年の憂を懐かむといふ。】
      惟以人無2賢愚1、世無2古今1、咸悉嗟歎。歳月競流、晝夜不v息。【曾子曰、徃而不v反者年也。宣尼臨v川之歎亦是矣也。】老疾相催、朝夕侵動。一代懽樂未v盡2席前1、【魏文惜2時賢1詩曰、未v盡2西苑夜1、劇作2北※[亡+おおざと]塵1也。】千年愁苦更繼2坐後1。【古詩曰、人生不v滿v百、何懷2千年憂1矣。】
 
【語釈】 ○曾子 孔子の高弟の一人。○宜尼が川に臨める嘆 「宜尼」は孔子の諡号。「川に臨める」は、論語「子在2川上1曰、逝者如v斯夫、不v舎2晝夜1」を指したもの。○老疾相催して 老と疾とが相俟って。○席前 宴席の前。○魏文 魏の文帝のことかというが、下の詩とともに出典が明らかでない。○未だ西苑の夜を尽さす 西苑での観花の楽しみが尽きないのに、早くも身は葬られて北(ぼう)の土と化すの意で、北ぼうは漢以来の墓地で、後墓地の意となったもの。○人生百に満たず 『文選』『古詩源』などに載っている古詩。以上、人生の短さの嘆き。
 
     夫《か》の群生品類のごときは、皆尽くること有る身を以ちて、並に窮無き命を求めずといふこと莫し。この所以《ゆゑ》に道人方士、みづから丹 経を負ひ名山に入りて、薬を合すは、性を養ひ神を怡《よろこば》ばしめて、長生を求むるなり。抱朴子に曰はく、神農云ふ、百病愈えずは安《いか》にぞ長生を得むといふ。帛公は又曰はく、生は好き物なり、死は悪しき物なりといふ。若し幸あらずして長生を得ずは、猶生涯病患無きを以ちて、福大なりと為さむか。
      若2夫群生品類1、莫v不d皆以2有v盡之身1、並求c無v窮之命u。所以道人方士、自負2丹經1入2於名山1、而合v藥者、養v性怡v神、以求2長生1。抱朴子曰、神農云、百病不v愈、安得2長生1。帛公又曰、生好物也、死惡物也。若不v幸而不v得2長生1者、猪以d生涯無2病患1者u、爲2福大1哉。
 
【語釈】 ○群生品類 一切の有情の物。○道人力士 ともに仙術を学び得た人。○丹経 丹薬すなわち仙薬の製法を記した書。○神農 神話時代の皇帝で、人身牛首だと伝えている。初めて人に医薬を教えた人。○生は好き物なり、死は悪しき物なり 『左伝』に出ている。以上、長生と無(131)病の願い。
 
     今吾病に悩まされ、臥坐することを得ず。向東向西《かにかくに》せむ術を知ること莫し。福無きの至りて甚しき、すべて我に集まる。人願へば天従ふといふ。如《も》し実あらば、仰ぎ願はくは頓《にはか》に此の病を除き、頼《さきはひ》に平《つね》の如くなるを得む。鼠を以て喩と為すは、豈恥愧ぢざらめや。【已に上に見ゆ。】
      今吾爲v病見v惱、不v得2臥坐1。向東向西莫v知v所v爲。無v福至甚、惣集2于我1、人願天從。如有v實者、仰願頓除2此病1、頼得v如v平。以v鼠爲v喩、豈不v愧乎。【已見v上也。】
 
【語釈】 ○人願へば天従ふ 『尚書』、周書泰誓の語。○鼠を以て喩と為す 上の、死者を喩えて「生ける鼠に及《し》かず」を指したもの。以上、最後に、天にむかって訴えたもの。
【評】 このような詩も歌も含まない純粋の散文で本集の中に収められているのは、この一篇があるのみである。なぜにこうした全く形式の異なったものを編者が集中に収めたかはわからない。強いて憶測すると、本編は長篇ではあるが、内容は純抒情的なものであり、この前後に排列されている老を嘆く歌と内容を同じゅうしているものなので、そこに繋がりを認めて、資料として得られたままに収めたものではないかと思われる。とにかくこの一篇は億良という人の性情を濃厚にあらわしているもので、彼が意識せずに描いた自我像という感の強いものである。
 この篇のあらわしているものは、憶良がいかに死ぬことが厭やな人であったかということと、いかに解剖分析の好きな人であったかということとである。
 この篇の語っていることは、表面的に見れば憶良が病苦に悩み、どうかしてそれを癒したいと思った、その熱意を語っているものである。これは普通のことで、怪しむに足りないことである。憶良自身もそのつもりで書いているものと思われる。しかし一皮剥ぐと、憶良の思っていることは、単に病苦を癒したいという程度のものではなく、そうすることによって長命を得たいということであって、その心が絶えず纏わり着いており、それが主体となり熱意の源となっていることは、説明するまでもなく文字の上に明らかである。この点は憶良自身心付かずに書いていたのではないかと思われる。長命したいということも怪しむべき性質のものではないが、その時は憶良は、自身言っているごとく七十四の高齢だったのである。しかもその病苦は長い間の痼疾でもあったのである。常人であればその年齢でその状態に置かれていれば、無論死は苦痛より解放してくれる救いであって、その病苦を癒やし、さらに長命をしたいなどということは思いもしないことである。これはわが国民共通の性情で、可否を超えたものである。ひとり憶良は、死などいうことは思いも寄らず、極度にそれを厭い、それより遠ざかろうとし(132)てわれと心を励ましているのであるが、それをするにあたっての目標は、すべて漢籍の上にある文献上の人々で、漢土においても特殊な人とされている者ばかりである。漢土人の生命に対する執着の強さは、その仙術を重んじ、それを実行している人の多いのでも窺われるが、憶良はそれを普通人のごとく見、それに及ばざるを愧じる心をもって物を言い続けているのである。生命に対する執着の強さにおいては、憶良は日本人ばなれのしている、異常な特殊の人であったと思われる。
 他の一面は憶良のもつ分析探求構成など、言いかえると学究的な面である。本篇の中心をなしているものは長命をしたいという、人間の根本的な本能で、これを叙事的にあらわそうとすれば格別、抒情的に言おうとすれば短い言葉で尽くされてしまうべき性質のもので、長く言おうとすれば繰り返すよりほかに法もないものである。しかるに憶良はその捉えては言い難いものを捉えて一つの体系を付け、それに秩序を立てて構成を施して、このような長篇としているのである。そのことだけでも非凡な力量というべきである。しかもその一部一部はことごとく漢籍よりの引用で、その引用は、彼自身言わんと欲することを、古人の口をかりて権威をもって言っているという形のものである。現在より見ると煩わしく老獪にさえみえるのであるが、憶良自身はそうした感はもたず、それであればこそわが思うことは人間の真実だという確信をもってしていたことと思われる。その多読と、その自身に必要な部分を敏感に豊富に捉えている点だけでも、憶良の非凡さを思わない訳にはゆかない。全篇の秩序と構成については、一言ずつ触れているから省略する。
 以上がこの一篇によって思われる憶良の性情の輪郭である。これを要約すると、彼が日常生活の上で実感となって来たことに対し、彼独自の性情をとおして、一方ではそれを大観し綜合し、強い力をもった観念とするとともに、他方では同時にこれを細かく分析し、実証によって具象化することである。言いかえると感性と知性とが同時に強く明らかに働くということである。これを彼の歌の方面と対比すると、この文において行なっていることがやがて歌の上でも行なっていることであって、文のほうが歌よりもより多く明瞭にその状態を示しているのである。
 
     俗道の仮合は即ち離れ、去り易くして留り難きを悲み歎く詩一首 井に序
 
【語釈】 ○俗道 人間世界の道理。○仮合は即ち離れ 「仮合」は仏語で既出。地水火風の四大がかりに結合したものが人間で、それはまた当然分離するもので分離は死。○去り易くして留り難き 人間は死に易くて生きてい難いこと。
 
     竊に以《おもひ》みるに、釈慈の教を示すは、【謂ふこころは、釈氏慈氏をいふ。】先に三帰【謂ふこころは、仏法僧に帰依するをいふ。】五戒を開きて、法界を化し、【謂ふこころは、一に殺生せず、二に偸盗せず、三に邪淫せず、四に妄語せず、五に飲酒せざるをいふ。】周孔の訓を垂るるは、前に三綱、【謂ふこころは、君臣父子夫婦をいふ。】五教を張り、以ちて邦国を済《すく》ふ。【謂ふこころは、父は義、母は慈、兄は友、弟は順、子は孝なるをいふ。】故知る、引導は二つなれども、悟を得るは惟《これ》一(133)つなり。但おもひみるに 世に恒《つね》の質無し、所以《これゆゑ》に陵と谷と更変《かは》る。人に定まれる期《とき》無し、所以《これゆゑ》に寿と夭と同じからず。目を撃つ間、百齢已に尽き、臂を申《の》ぶる頃《あひだ》に、千代亦空し。旦《あした》に席上の主と作《な》れども、夕には泉下の客と為《な》る。白馬走り来るとも、黄泉には何《いか》にか及《し》かむ。隴上の青き松は、空しく信の剣を懸け、野中の白楊は、但悲しき風に吹かる。是《ここ》に知る、世俗|本《もと》隠遁の室無く、原野唯長夜の台有ることを。先聖已に去り、後賢も留らず。如《も》し贖ひて免るべきこと有らば、古人誰か価の金無からむや。未だ独り存《ながら》へて、遂に世の終を見たる者あるを聞かず。所以《これゆゑ》に維摩大士は、玉体を方丈に疾《や》ましめ、釈迦能仁は、金容を双樹に掩へり。内教に曰はく、黒闇の後に来るを欲《ほ》りせずは、徳天の先に至るに入ること莫れといへり。【徳天は生なり、黒闇は死なり。】故《かれ》知る、生るれは必ず死あることを。死若し欲りせずば、生れざるに如《し》かず。況はめや縦《よ》し始終の恒の数を覚《さと》るとも何ぞ存亡の大きなる期《とき》を慮らめや。
     俗の道の変化するは猶目を撃つが如く、人の事の経紀するは臂を申ぶるが如し。空しく浮べる雲と大虚を行き、心と力と共に尽きて寄《やど》る所なし。
      竊以、釋慈之示教、【謂、釈氏慈氏。】先開2三歸【謂、歸2依佛法僧1】五戒1、而化2法界1、【謂d一不2〓生1、二不2偸盗1、三不2邪淫1、四不2妄語1、五不c飲酒u也】周孔之垂v訓、前張2三綱【謂、君臣父子夫婦】五教1、以濟2邦國1。【謂、父義母慈兄友弟順子孝】故知、引導雖v二、得v悟唯一也。但以世無2恒質1、所以陵谷更變。人無2定期1、所以壽天不v同。撃v目之間、百齡已盡、申v臂之頃、千代亦空。且作2席上之主1、夕爲2泉下之客1。白馬走來、黄泉何及。隴上青松、基懸2信釼1、野中白楊、但吹2悲風1。是知、世俗本無2隱遁之室1、原野唯有2長夜之臺1。先聖已去、後賢不v留。如有2贖而可v免者1、古人誰無2價金1乎。未v聞d獨存、遂見2世終1者u。所以維摩大士、疾2玉體于方丈1、釋迦能仁、掩2金容乎雙樹1。内教曰、不v欲2黒闇之後來1、莫v入2徳天之先至1。【徳天者生也、黒闇者死也。】故知、生必有v死。々若不v欲不v如v不v生。況乎縱覺2始終之恒數1何慮2存亡之大期1(134)者也。
      俗道變化猶v撃v目、人事經紀如v申v臂。空与2浮雲1行2大虚1、心力共盡無v所v寄。
 
【語釈】 ○釈茲 「釈」は注に釈氏とあり、釈迦。「慈」は、同じく慈氏とあり、弥勒《みろく》。漢訳。○三帰 「帰」は拠りどころで、その注にある。〇五戒を開きて 「五戒」は注にある。五戒の道を開いて。○法界を化し 仏法の世界を指導し。○周孔 周公と孔子で、孺道。〇三綱、五教を張り 「張り」は、教を立てて。○邦国を済ふ 国を救っている。○引導は二つなれども 引導は人を導くことで指導と同じ。二は、仏教と儒教。以上、第一段。○世に恒の質無し 世界には恒久性がない。○陵と谷と更変る 岡と谷とが変わり合うで、詩経に、「高岸為v谷、深谷為v陵」に拠ったもの。○人に定まれる期無し 人には定まった生存期間がないで、寿命が定まらない。○寿と夭と同じからず 長生きの者と若死にの者とで一様でない。○目を撃つ間、百齢已に尽き 瞬きをする間に長い年齢が尽きてしまった。○臂を申る頃に 手を伸す間に。○席上の主 客を招いての席の主人。○泉下の客 墓中の人。○白馬走り来るとも、黄泉には何にか及かむ 白馬の走るごとき時も、死の国にはどうして行くことが出来ようかで、死ねば世とは無関係な甲斐なきさまとなる。○隴上の青き松は、宜しく信の剣を懸け 『史記』呉太伯世家に出ている故事で、季札が上国に使する時徐君を過ぎると、徐君は心に季札の剣を欲しいと思った。季札もそれと知ったが、場合柄知らぬさまをした。帰途の時には徐君はすでに故人となっていたので、季札はその剣を解いて、徐君の塚の樹に感けて去ったというので、「隴上」は塚。「信の剣」は、心の誠をあらわす剣。○野中の白楊は、但悲しき風に吹かる 『文選』の古詩に、「古墓犂為v田、松柏摧為v薪、白楊多2悲風1、肅(草冠)々愁2殺人1」から取ったもの。白楊は墓に植える木。○原野唯長夜の台有ることを 「長夜の台」は、長い夜を眠る家で、墓所。野原に墓所があるだけだ。○贖ひて免るべきこと有らば 代償の金を出して死から免れることができるのであったら。○玉体を方丈に疾ましめ 維摩のことで、玉体は維摩を尊んでの称。方丈は僧の正室。疾ましめは、維摩経の記事。○釈迦能亡は、金容を双樹に掩へり 「能仁」は釈迦の漢訳。「金容」は玉体と同じく尊んでの称。「双樹」は沙躍双樹で、「掩へり」は、身を隠したで、寂滅を婉曲にいったもの。維摩釈迦にしても無常をまぬかれない意。○内教 ここは涅槃経。○黒闇 徳天。注がある。○始終の恒の数を覚るとも何ぞ存亡の大きなる期を慮らめや 「始終の恒の数」は、一貫しての不変な点、すなわち人生の無常なことは悟っていようとも、存亡の大きなる期すなわち死の来る大切な時は思い知り得ようか。○俗の道の変化するは猶目を撃つが如く 世の中の道の変化するのは、瞬きをする間のように速かで。○人の事の経紀するは臂を伸ぶるが如し 「経紀」は経過と同じく変化の意で、人事の変化は手を伸ばす間のように速かであるというので、いずれも無常迅速なこと。○宜しく浮べる撃(?)と大虚を行き 空しく浮んでいる雲とともに、空漠なる空であるこの世に生きて行き。○心と力と共に尽きて寄る所なし 心力も体力もともに尽きて、何のたよる所とてもない。
【評】 これは上の文のもっていた生の執着を諦めさせられて、無常迅速の世界に身を投げ出し、虚無的なさみしい心を抱いて、成行きに任せようとした心のものである。憶良の最後に到達した心境というべきものである。注意されることは、憶良は儒道の書はもとより仏典にもよく通じていたと思われるが、儒道も仏道もその実践的な道徳方面を体得しているだけで、その奥に大きく存在しているはずの信仰の面には入り込まなかったとみえることである。死生の問題になると、儒道を離れて仏道を対(135)象として考えていたようであるが、捉えているところは無常ということで、この無常は、単に彼を悲しませるだけのものだったのである。詩の結句の、「心と力と共に尽きて寄る所なし」というのはその直接な表現である。このさみしい限界は、当時の儒道仏道の状態にもよろうが、憶良自身の性情の劃したものというほうが重かろうと思われる。すなわち飽くまでも現実的で、現実に即しての知識は貪り求めて豊富に蓄えているが、自身に対する執着があまりにも強かったため、精神方面には心が向けられなかったのではないかと思われる。
 
     老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦《たしな》み、及児等を恩ふ歌七首 【長一首短六首】
 
【題意】 この歌の最後に制作時を記して、「天平五年六月丙申朔三日戊戌作」とある。巻六、天平五年の部にある(九七八)「士《をのこ》やも空しかるべき」は辞世の歌のごとき形となっているが、それには制作の月日がないので、それのあるものとしてはこの歌は最後のものである。「児等」は歌で見ると幼い子どもである。「痾に沈みて自哀む文」に七十有四とあったので、年号との関係上、ふさわしからぬことである。筑前の国庁にあって偲んだ子どもも幼かったが、ここにある子は「五月蠅なす騒く児等」で、それらよりも一段と幼い者に思える。妻が年若いと老齢の人も児を設けることはありうることである。憶良もそのような状態ではなかったかと思われるが、もとより想像にすぎない。
 
897たまきはる 現《うち》の限《かぎり》は【謂ふこころは、瞻浮州の人寿一百二十年なるをいふ。】 平《たひら》らけく 安《やす》くもあらむを 事《こと》もなく 喪《も》もなくあらむを 世間《よのなか》の 憂《う》けく辛《つら》けく いとのきて 痛《いた》き瘡《きず》には 鹹塩《からしほ》を 灌《そそ》ぐちふが如《ごと》く ますますも 重《おも》き馬荷《うまに》に 表荷《うはに》打《う》つと 云《い》ふことの如《ごと》 老《お》いにてある 我《わ》が身《み》の上《うへ》に 病《やまひ》をと 加《くは》へてあれば 昼《ひる》はも 歎《なげ》かひ暮《く》らし 夜《よる》はも 息衝《いきづ》きあかし 年《とし》長《なが》く 病《や》みし渡《わた》れば 月《つき》累《かさ》ね 憂《うれ》ひ吟《さまよ》ひ ことごとは 死《し》ななと思《おも》へど 五月蠅《さばへ》なす 騒《さわ》く児等《こども》を 棄《う》つてては 死《しに》は知《し》らず 見《み》つつあれば 心《こころ》は燃《も》えぬ かにかくに 思《おも》ひわづらひ 哭《ね》のみし泣《な》かゆ
(136)    靈剋 内限者【謂、瞻浮州人壽一百二十年也。】 平氣久 安久母阿良牟遠 事母無 母裳无阿良牟遠 世間能 宇計久都良計久 伊等能伎提 痛伎瘡尓波 鹹塩遠 灌知布何其等久 益々母 重馬荷尓 表荷打等 伊布許等能其等 老尓弖阿留 我身上尓 病遠等 加弖阿礼婆 晝波母 歎加比久良志 夜波母 息豆伎阿可志 年長久 夜美志渡礼婆 月累 憂吟比 許等々々波 斯奈々等思騰 五月蠅奈周 佐和久兒等遠 宇都弖々波 死波不知 見乍阿礼婆 心波母延農 可尓可久尓 思和豆良比 祢能尾志奈可由
 
【語釈】 ○たまきはる現の限は 「たまきはる」は既出。枕詞。「現《うち》」は形容詞としては「うつし」となる。その語幹|現《うつ》の転音。現実に生きている、すなわち命。「限」は、間。生きている間は。○瞻浮州 上の「痾に沈みて」の文に既出。○平らけく安くもあらむを 平穏に、安穏にありたいのに。○事もなく喪もなくあらむを 「事」は何事。「喪」は、凶事で、用例が少なくない。○世間の憂けく辛けく 「憂けく」は、形容詞憂しの名詞形。憂いことの意。「辛けく」も同じく、辛いこと。○いとのきて痛き瘡には鹹塩を灌ぐちふが如く (八九二)および「痾に沈みて」の文にも出た、当時の諺。取り分けても痛い瘡に、鹹い塩を濺ぐと言っているごとくで、「ちふ」は、という。苦しい上にさらに苦しさの加わる意で、下の老体に加うるに病苦のあることの譬喩。○ますますも重き馬荷に表荷打つと云ふことの如 「ますますも」は、さらに一層にで、下の「打つ」にかかる。「表荷打つ」は、「表荷」は、荷の上にさらに積む荷で、「打つ」は、添える意。すでに重い馬の荷の上に、さらに一層に表荷を添えるということのようにで、これも当時の諺で、後世の重荷に小付《こづけ》と同じ意である。上の「いとのきて」と対句として、譬喩としての感を強めたもの。○老いにてある我が身の上に 「に」は、「ぬ」の連用形。老いてしまっている。○病をと加へてあれば 「と」は、後世だと単に「病を」というだけの場合であるが、上の「老いにて」と重ねる関係より添えていっているもので、当時の用法である。巻四(六六〇)「汝《な》をと吾《あ》を人ぞ離《さ》くなる」とあるのと同じで、他にも例がある。○年長く病みし渡れば 「年長く」は多年。「し」は、強意の助詞。「渡れば」は、継続しているのでで、(137)「痾に沈みて」でいっている「十余年」にわたっての病。○月累ね憂ひ吟ひ 「月累ね」は月の多くを累ねて。「憂ひ吟ひ」は、(八九二)に出た。憂い、坤吟し。○ことごとは死ななと思へど 「ことごと」は、巻十三(三三四六)に「ことさけば国にさけなむ」とあり、妻が夫に任地で死なれ、子供を連れて故里へ帰る途中での嘆きで、同じ放けるならば、故里で放けてもらいたいの意。事がこのようであるの意、すなわち同じことならばと取れる。「な」は、願望の助詞。事態がこのようであれば死にたいと思うが。〇五月蠅なす騒く児等を 「五月蠅なす」は、五月の蠅のごとくで、意味でかかる枕詞。「騒く児等」は、幼少の児で、「等《ども》」は必ずしも複数をあらわさないから、一人《ひとり》かそれ以上かはわからない。○棄つてては死は知らず 「棄《う》つ」は棄《す》つの古語。「棄《う》つてて」は、「打棄《うちう》てて」の約言。「打」は接頭語で、見棄てては。「死《しに》」は死ぬこと。「知らず」は、知られずで、出来ない。○見つつあれば心は燃えぬ 「見つつ」は、児等を。「心は燃え」は、心が熱くなるで、わが苦しみと児の愛《かな》しさからの心悶えを綜合し具象したもの。○かにかくに思ひわづらひ とやかくと気を揉んでで、上を繰り返したもの。○哭のみし泣かゆ はげしくも泣かれる。
【釈】 命のある間は、平穏に安穏にありたいのに何事も凶事もなくいたいのに、世の中の憂いこと辛いことには、取りわけて痛い瘡に鹹い塩を濺ぐというように、さらに一層に、重い馬の荷の上に、表荷を添えると言っているように、年老いてしまっているわが身の上に病が加わっているので、昼は嘆きつづけて日を暮らし、夜は溜息をつき明かし、多年の間を病み続けているので、幾月もの間を憂え呻いているので、同じことならば死にたいと思うけれども、騒いでいる幼い児を見棄てて死ぬことが出来ず、そのさまを見つづけていると、心が熱くなって来た。とやかくと思い煩って、はげしくも泣きに泣かれる。
【評】 七十四の憶良の、その死に先立つことさして久しくない頃の述懐であり、その後の歌として明らかなのは、短歌の一首があるだけであるから、憶良がその心の委曲を語った最後のものと思われる。ここに言っていることは、老齢に加うるに病苦の甚しいものがあり、おなじことならば死にたいと思うが、弁別のつかない幼い児を見ると、死ぬことも出来ないという嘆きである。この嘆きは無知な庶民のこうした際の嘆きといささかの異なりもないものである。その学問をもって起用され、国守としての官に久しくあり、七十四の老齢に至っている憶良であるから、その最後に持った心境は、何らかの特色があるのではないかと想像されるが、その実は全く常凡なもので、それらしいものも持ってはいないのである。それにまたこの歌の詠風は、素朴で率直でその点では他に例のないものであって、おのずから一種の歌品をなしているのは、これが憶良の心の生地《きじ》であったろうと思わせるものである。こうした常凡な、庶民と選ぶところのない心をもっている憶良が、上来、執拗に問題にしていた現世執着は、何らかの必要に駆られたものであって、そこにはこの歌で初めて出て来る幼い児も関係していたのではないかと思われる。その執着も老疾の自然の成行きとして心身ともに衰えて来ると、この歌ではいさぎよく見切りをつけて、一言も触れず、ただ悲しみを述べているだけになっているのは、学者たるに愧じないことと言える。幼い児にはそれを托すべき母があったろうと思われるが、それについては反歌を通じても触れていないのは、そこに何らかの理由があったのかも知れぬが、それも憶良の人柄を思わせることである。要するにこの歌は、憶良自身の心やりとして、無条件に、その平常の心を述べたも(138)ので、人としての憶良の生地をあらわしているものである。
 
     反歌
 
898 慰《なぐさ》むる 心《こころ》はなしに 雲隠《くもがく》り 鳴《な》き往《ゆ》く鳥《とり》の 哭《ね》のみし泣《な》かゆ
    奈具佐牟留 心波奈之尓 雲隱 鳴徃鳥乃 祢能尾志奈可由
 
【語釈】 ○慰むる心はなしに 後世だと、心慰むことはなしにと言うべき場合で、当時の言い方。例の多いものである。○雲隠り鳴き往く鳥の 雲に隠れつつ鳴いてゆく鳥のごとくの意で、鳥は音の高いものでなくてはならず、鶴《たづ》を思ってのことと取れる。「哭」にかかる序詞。
【釈】 心の慰むことはなくて、雲に隠れて鳴いてゆく鳥の音の、我も声を立てて泣きに泣かれる。
【評】 長歌の結末の「かにかくに」以下三句の心を、語を換えて繰り返したもので、反歌の古い型に従ったものである。他寄のない、長歌に依拠して存在する歌である。
 
899 術《すべ》もなく 苦《くる》しくあれば 出《い》で走《はし》り 去《い》ななと思《おも》へど 児等《こら》に障《さや》りぬ
    周弊母奈久 苦志久阿礼婆 出波之利 伊奈々等思騰 許良尓佐夜利奴
 
【語釈】 ○術もなく苦しくあれば すべき法もなく病が苦しいので。○出で走り去ななと思へど 家を出て走って行きたいと思うけれどもで、「な」は願望の助詞。長歌の「死ななと思へど」を語を換えて繰り返したもの。○児等に障りぬ 「障《さや》り」は、「障《さは》」りの古語で、遮られるの意。心が残って出来ないということを、上を承けて具象的にいったもの。
【釈】 する法もなく病が苦しいので、家を出て走って行きたいと思うけれども、幼い児等に遮られてしまう。
【評】 これも長歌に依拠して存在しうる歌であるが、上の歌とは距離をもった躍動した作である。三句以下技巧があるがごとくみえるが、激情がおのずからに綜合され、具象されたものである。力量の現われた歌である。
 
900 富人《とみびと》の 家《いへ》の子等《こども》の 著《き》る身《み》無《な》み 腐《くた》し棄《す》つらむ ※[糸+施の旁]錦《きぬわた》らはも
(139)    富人能 家能子等能 伎留身奈実 久多志須都良牟 ※[糸+施の旁]綿良波母
 
【語釈】 ○富人の家の子等の 「富人」は、当時は貨幣がまだ一般化せず、物資が主体であったから、下の「絹綿」など多く持った人。○著る身無み 「無み」は、なくして。着る体がなくしてで、これは物資の多い割合に、着る体の少ないことを、「無み」と誇張していっているもの。○廃し兼つらむ 「腐し」は、腐らせる意で、腐らせ棄てるであろうところの絹綿と続く。絹や綿は腐るべき物ではないのに、それをこのようにいっているのは、無用な物にしているということを、上に続けて誇張していったもの。○※[糸+施の旁]綿らはも 「※[糸+施の旁]」は、「あしぎぬ」すなわち悪しき絹また「ふとぎぬ」すなわち太絹とも訓み、一段劣った物で、富人の子の着る物としたのである。「綿」は、当時は木綿綿は産せず、綿といえば蚕より取った、今の真綿だったのである。これは巻三(三三六)「白縫筑紫の綿は身に著けて」に出た。ここもそれである。「※[糸+施の旁]綿らはも」は、「はも」は、詠歎。
【釈】 富人の家の子どもの、着る体がなくて、腐らせて棄ててしまうであろう絹や綿はなあ。
【評】 この歌は、長歌とは連絡のないものであるが、次の歌とは連作の形となっており、憶良の幼い児がその頃着る物に不自由を感じていたところから、児との繋がりにおいて言い出して来たものである。言っていることは、我が児を標準にして富人の子を羨んでいるごとくにみえるが、心としては羨みではなく「貧窮問答」の極貧者の心と同じく、一種の憤りを言ったものであろう。誇張を用い、鋭い調べで言っているところ、羨みなどと消極的のものではなく、積極的な憤りと感じられるものである。この歌は長歌とのつながりが稀薄なため独立した歌とも取れるものである。
 
901 麁妙《あらたへ》の 布衣《ぬのぎぬ》をだに 著《き》せがてに かくや歎《なげ》かむ せむ術《すべ》を無《な》み
    麁妙能 布衣遠陀尓 伎世難尓 可久夜歎敢 世牟周弊遠奈美
 
【語釈】 ○麁妙の布衣をだに 「麁妙」は、粗末な妙で、妙は、織物の総称。「布衣をだに」は、「布」は上の歌の絹に対させたもの。○著せがてに 「がてに」は本来清音「かてに」であったが、後に混用されるようになった。(八五九)に例があった。着せ得ず。○かくや歎かむ 「や」は疑問の係助詞で、詠歎をあらわすもの。このように嘆くのかなあ。○せむ術を無み 著せるべき法がなくて。
【釈】 麁い妙の布の衣だけでも着せることが出来ず、このように歎くのであろうかなあ。着せてやるべき法がなくて。
【評】 上の歌の連作で、関連をさせて見るべきものである。事の割合に嘆きの仰々しいのは、憶良の批評精神が加わっていて、それのさせていることと思われる。当時の国守は期が満ちて帰京すると富んでいるのが普通であった。憶良が甚だ貧しく、子(140)どもの布衣にも事欠くということは、彼としては衷心一種の矜りを感じていたことであろう。家庭の人となっていた憶良だが、公人としての心の消えないものがあったのだ。
 
902 水沫《みなわ》なす 微《いや》しき命《いのち》も 栲繩《たくなは》の 千尋《ちひろ》にもがと 願《ねが》ひ暮《くら》しつ
    水沫奈須 微命母 栲繩能 千尋尓母何等 慕久良志都
 
【語釈】 ○水沫なす微しき命も 「水沫」は、水の沫の転音。その消え易い意は、「命」の譬喩。人の命の脆さを仏典で、泡沫夢幻に譬えているその慣用のもの。「微しき」は謙辞。○栲繩の千尋にもがと 「栲繩」は、栲の椒維を縒り合わせて作った繩。「の」は、のごとく。その長い物が用いられていたところから、長さの譬喩としたもの。これは枕詞となっているものであるが、ここはそれではない。「千尋」は、「尋」は現在も用いている語。男が両手を伸ばした丈で、身の丈に匹敵する長さ。「千尋」はその千倍。「に」は、ここは状態を示すもので、のごとくというにあたる。「もが」は、願望の助詞。「と」は、と思って。○願ひ暮しつ 「暮し」は、終日を送る意で、続けるということを具象的に言ったもの。
【釈】 水の沫の消え易いような微しい命も、栲繩の千尋のごとくに長くあってくれよかしと、願い続けた。
【評】 この歌は、長歌でいっていることを、批評的に見て要約したもので、長歌を言いかえて操り返した形のものである。反歌としては典型的のものと言える。批評的というのは、水沫なす命だと理の上では知っているが、情としては長くもがもと願いくらしたというので、自身の思っていることを大観し、その矛盾していることを嘆きをもって言っているからである。「痾に沈みて」の文も、それにつぐ詩も、根本はここにあって、知と情の甚しく不一致なことを示していたが、その同じ心も、ここで長歌の反歌として見ると、それは老いて扶養の賛任をもっている幼い児どもが関係していたのだと知られるのである。憶良自身の執着と見えたものは、児どもに駆られてもたされた執着が大きく働きかけていたので、思想よりも余儀なさよりのものだったのである。平凡に見える歌であるが、憶良としては心の籠もったものである。
 
903 倭文手纏《しづたまき》 数《かず》にもあらぬ 身《み》にはあれど 千年《ちとせ》にもがと 思《おも》ほゆるかも 【去《い》にし神亀二年之を作りき。但し類を以ちての故に更に此《ここ》に載す。】
    倭文手纏 數母不在 身尓波在等 千年尓母何等 意母保由留加母 【去神龜二年作之。但以v類故更載2於茲1。】
 
(141)【語釈】 ○倭文手纏 「倭文」は、上代の布織物で、さまざまな染糸をもって縞に織ったもので、普通の布よりは貴ばれたもの。「手纏」は、腕に装飾として巻いたもので、良い物は金属をもって作ったので、倭文の手纏は値の低いものであった。ここは「数にもあらぬ」の譬喩。「いやしき」とも続けている。○数にもあらぬ 物の数にも入らないの意で、貴くないことを具象的に言ったもの。現在も用いられている。○千年にもがと 「千年」は、命の長さを誇張して言ったもの。「もが」は、願望の助詞。○注は自注で、本来関係のない歌であるが、心の通うものがあるゆえにここに載せるというのである。神亀二年は、天平五年より六年前である。
【釈】 倭文の手纏のごとく、物の数にも入らないつまらない我が身ではあるが、千年の長き命も欲しいものだと思われることであるよ。
【評】 長命を願う本能と、社会的地位とは何の関係もないものであるが、それをさも当然のことのように組合わせている歌である。この歌を作った時は、憶良はすでに相応な位地にいたのであるが、それを「数にもあらぬ」と言っているのは、自卑よりのことではなく、立身の念が熾んであったからのことである(この歌で見ると、歌意は実感であれば十分であって、その適不適は問おうとしない風があり、それがこの歌のような根本的に無理のあるものとなったと見られる。「類を以ちて」と言っているが、その類は長命のことで、ここに反歌の一首として加えるべきものではない。これは憶良の作歌態度を示しているだけのものである。
 
     天平五年六月丙申朔三日戊戌作
 
【解】 この日付については題意で言った。
 
     男子《おのこ》名は古日《ふるひ》といふを恋ふる歌三首 【長一首短二首】
 
【題意】 「男子」は、憶良の子で、幼くて死んだ子である。「名は古日」と子の名前を題詞に入れていることは、第三者を予想してのものではなく、挽歌である関係上、その子を重んじてのことと取れる。なおこの歌には左注がある。
 
904 世《よ》の人《ひと》の 貴《たふと》み願《ねが》ふ 七種《ななくさ》の 宝《たから》も我《われ》は 何《なに》為《せ》む 我《わ》が間《なか》の 生《うま》れ出《い》でたる 白玉《しらたま》の 吾《わ》が児《こ》古日《ふるひ》は 明星《あかぼし》の 明《あ》くる朝《あした》は 敷妙《しきたへ》の 床《とこ》の辺《べ》去《さ》らず 立《た》てれども 居《を》れども 共《とも》に(142)戯《たはぶ》れ 夕星《ゆふづつ》の 夕《ゆふべ》になれば いざ寝《ね》よと 手《て》を携《たづさは》はり 父母《ちちはは》も 上《うへ》はな離《さか》り 三枝《さきくさ》の 中《なか》にを寝《ね》むと 愛《うつく》しく 其《し》が語《かた》らへば 何時《いつ》しかも 人《ひと》と為《な》り出《い》でて 悪《あ》しけくも 善《よ》けくも見《み》むと 大船《おほふね》の 思《おも》ひ憑《たの》むに 思《おも》はぬに 横風《よこかぜ》の にふふかに 覆《おほ》ひ来《きた》れば せむ術《すべ》の たどきを知《し》らに 白妙《しろたへ》の 手襁《たすき》を掛《か》け 真十鏡《まそかがみ》 手《て》に取《と》り持《も》ちて 天《あま》つ神《かみ》 仰《あふ》ぎ乞《こ》ひ祷《の》み 地《くに》つ祇《かみ》 伏《ふ》して額《ぬか》づき かからずも かかりも 神《かみ》のまにまにと 立《た》ちあざり 我《わ》が乞《こ》ひ祷《の》めど しましくも 快《よ》けくは無《な》しに 漸漸《やくやく》に 容貌《かたち》つくほり 朝朝《あさなさな》 言《い》ふこと止《や》み たまきはる 命《いのち》絶《た》えぬれ 立《た》ちをどり 足《あし》摩《す》り叫《さけ》び 伏《ふ》し仰《あふ》ぎ 胸《むね》打《う》ち嘆《なげ》き 手《て》に持《も》てる 吾《あ》が児《こ》飛《と》ばしつ 世間《よのなか》の道《みち》
    世人之 貴慕 七種之 寶毛我波 何爲 和我中能 産礼出有 白玉之 吾子古日者 明星之 開朝者 敷多倍乃 登許能邊佐良受 立礼抒毛 居礼抒毛 登母尓戯礼 夕星乃 由布弊尓奈礼婆 伊射祢余登 手乎多豆佐波里 父母毛 表者奈佐我利 三枝之 中尓乎祢牟登 愛久 志我可多良倍婆 何時可毛 比等々奈理伊弖天 安志家口毛 与家久母見武登 大船乃 於毛比多能無尓 於毛波奴尓 横風乃 尓布敷可尓 覆来礼婆 世武須便乃 多抒佼乎之良尓 志路多倍乃 多須吉乎可氣 麻蘇鏡 弖尓登利毛知弖 天神 阿布藝許比乃美 地祇 布之弖額拜 可加良受毛 可賀利毛 神乃末尓麻尓等 立阿射里 我乞能米登 須臾毛 余家久波奈之尓 漸々 可多知都久保利 朝々 伊布許登夜美 靈剋 伊乃知多延奴礼 立乎抒利 足須里佐家婢 伏仰 武祢宇知奈氣吉 手尓持流 安我舌登婆之都 世間之道
 
【語釈】 ○世の人の貴み願ふ七種の宝も我は何為む 「貴み願ふ」は、尊重して得たいと願うところの。「七種の宝」は、仏典にいう七種の珍宝で、(143)その七種は一定していず、経典によって異なっている。阿弥陀経では金、銀、瑠璃、※[王+皮]璃、※[石+車]※[石+渠]、赤珠、※[石+馬]※[石+瑙の旁]であり、異なっても少異にすぎない。「何為む」は「為」の下に『略解』は、「に」を訓み添えて、「何せむに」としたが、古く「何せむ」と訓んだのに従うべきである。我は何にしようで、我にはそれより遥かに貴い物を持っているの意。これは(八〇三)「銀《しろがね》も金《くがね》も玉も何為むに」と、同じ意のものである。これは形から言うと、五七、五七、四で、これと同じ続きが以下に二か所あって、明らかに意図して用いているものである。以上で一段の形となっている。○我が間の生れ出でたる白玉の吾が児古日は 「我が間」は、我ら夫婦の間。「の」は、下への続きでいうと、「に」とあるのが普通にみえるが、「に」と続けると夫婦のほうを主とした形になるので、「の」として「古日」のほうを主としたのである。「白玉の吾が児古日」は白玉のは、白玉のごとく貴き古日で、白玉は、真珠をさしている場合が多いが、ここは貴い玉の意のもの。古日と特にその名を挙げているのは、愛し重んじた意である。愛子を掌中の珠という成語を心に置いての続け方である。○明星の明くる朝は 「明星」は、明けの明星で、今の金星。この星は宵には西に現われ、明け方は東に回る。同音の関係を兼ねて「明け」の枕詞。○敷妙の床の辺去らず 「敷妙の」は既出、枕詞。「床」は室の一部に敷妙というとおり妙を敷き、あるいは畳を敷いて、夜は寝所に、昼は座所とした。「床の辺去らず」は親の座所のあたりを離れずの意を具象的に言ったもの。○立てれども居れども共に戯れ 立っている時でも坐っている時でもで、いかなる時でも。これは親の行動。「共に戯れ」は、古日が戯むれで、甘えて纏わる意。以上三句は、五四七という形となっている。○夕星の夕になれば 「夕星」は、宵の明星で、「夕」の枕詞で、意を兼ねていることは「明ぼし」と同じ。○いざ寝よと手を携はり さあ寝ようと言って手を握って。古日の行動。○父母も上はな離り 父母も床の上のほうへ離れては寝るなで、古日を夫婦の裾のほうに寝かしていたと取れる。〇三枝の中にを寝むと 「三枝」は、植物の名で、枝が三つに分れているところから、中の枝の意で中の枕詞。その物については定解がない。意味で「中」にかかる枕詞と取れる。「中にを寝む」とは、両親の間に寝ようで、以上古日の言。「を」は、強意の助詞。○愛しく其が語らへば 「愛しく」は可愛ゆく。「其」は、上に出たものを受けて、それと指定する代名詞。「語らへば」は語るの継続。可愛ゆくもそれがいつも言っているので。○何時しかも人と為り出でて 「何時しかも」は、いつになったらばで、早くと待つ意の語。「人と為り出で」は、一人前の人となり立って。○悪しけくも善けくも見むと 「悪しけく」「着けく」は、いずれも名詞形。悪い者であろうとも善い者であろうとも見ようと。○大船の思ひ馮むに 「大船の」は憑むの枕詞。思い馮んでいるに。以上第二一段。○思はぬに横風の 「思はぬに」は意外にも。「横風」は、横様に吹く風で、暴風。病の突発したことの譬喩としたもの。横風は航海者の最も怖れる横浪を立てる横風と思われる。それだと上の「大船の思ひ馮むに」に繋がりをもったものとなる。○にふふかに これは『新訓』のものである。原文「尓母布敷可尓布数可尓」であるが、「母」は紀州本にはなく、また、終わりの「布敷可尓」は西本願寺本外三本には「四字古本無之」とあるのに従って削ったのである。『新訓』は、訓を施していない。仮名であるから、「にふふかに」と訓めるが、他に用例のない語である。『略解』は宣長の説として、「尓波可尓母」と改め、「にはかにも」だとしている。上よりの続きで想像しての説であるが、意としてはその範囲のことと思われる。憶良のしばしば試みる日常語かも知れぬ。○覆ひ来れば 「覆ひ」は、上の「横風」の状態で、吹きを強く言いかえたもの。○せむ術のたどきを知らに 何としたらよいか見当も知られず。○白妙の手(衣偏+強)を掛け 白い布の襷を掛けて。神祭りをする時の礼装。○真十鏡手に取り持ちて 「真十鏡」は真澄みの鏡。「手に取り持ちて」は、神霊をそれに下し申そうとしてのこと。○天つ神仰ぎ乞ひ祷み地つ祇伏して額づき 「祷み」は祷り、「額づき」は額を地につけるで、拝をし。○かからずもかかりも神のまにまにと このようでなく、病が本復しようとも、またこの通りで本復し(144)得ずともの意。「神のまにまにと」は、一切は神の御心次第であると思って。三句は、神は必ず加護を垂れ給うことと信じ、自身の望を言い立てることは非礼なことだとする上代からの信仰で、その上に立って神意を和めまつる祭事を祈る意。また、以上三句は、五四八である。○立ちあざり我が乞ひ祷めど 「立ちあざり」は、集中には他に例がないが、平安朝時代には少なくなく、「あざり」は乱れる意で、取り乱しにあたる。○しましくも快けくは無しに 「しましく」は、しばしの古形、「快けく」も、快しの名詞形。しばらくも快いことはなくて。○漸漸に容貌つくほり 「漸漸に」は、次第に。「つくほり」は、これも他に用例のない語で、解し難い。『代匠記』は痩せすぼる意かと言い、『古義』は、衰えて折れかがむようのさまかと言い、また、平安朝時代の「くづをれ」と関係のある語ではないかとも言っている。次の「言ふこと止み」と対させてある関係上、衰えるという範囲の語で、当時行なわれていたものと見える。これらの解に従う。○朝朝言ふこと止み 「朝朝《あさなさな》」は、日々を具象的にいったもの。「言ふこと止み」は、衰えの甚しいことを具象的にいったもの。○たまきはる命絶えぬれ 「たまきはる」は、上に出た。「命絶えぬれ」は、已然の条件法。絶えぬれば。以上、第三段。○立ちをどり足摩り叫び 躍り上り、地だんだを踏んで叫びで、極度に悲しむことを、具象的にいったもの。○伏し仰ぎ胸打ち嘆き 伏しつ仰ぎつ胸を打って。上の二句と同じ。○手に持てる吾が児飛ばしつ世間の道 「手に持てる」は、酷愛していることを具象的にいったもので、上に言った掌中の珠で、起首の「白玉の」と照応させてある。「飛ばしつ」は、たちまち喪った意、同じく具象的にいったもの。「世間の道」は、世の中を常なきもの、悲しきものとして言ったもので、「貧窮問答」の結尾と同一である。以上第四段。
【釈】 世間の人が貴んで得たがっているかの七種の宝も我は何にしよう。我ら夫婦の間に生まれて来た白玉のごとき我が子の古日は、夜の明けて来る朝は、室《へや》の内の床のあたりを離れず、親達が起った時でも坐った時でも、一しょにいて甘え纏わり、また夕方になると、さあ寝ようと親達の手を握って、父母《ちちはは》も上のほうへ離れては寝なさるな、我は其中に寝ようと、可愛くもそれが言い言いするので、早く一人前になり立って、悪い者であろうとも尊い者であろうとも見ようと思い頼んでいるに、意外にも横浪を立てる暴風がにわかに覆って来たので、どうしたらよいかの見当も付けられず、白布の襷を掛け、真十鏡を手に取り持って、天の神々を仰いで乞い祷り、地の神々を伏して拝み、この有様から脱れ得るのも、脱れ得ないのも、神の御心次第のことと思って、取乱してわが乞い祷るけれども、しばらくの間も快《よ》いことはなくて、次第次第に顔形がおとろえ、朝々に物を言うことも止み、命が絶えてしまったので、躍りあがり地だんだを踏んで喚《わめ》き、伏しつ仰ぎつ胸を打って溜息をつき、わが手に持っていたわが子を喪ってしまった。常なくも悲しい世の中の道理《ことわり》として。
【評】 この歌は内容から見ると死者を悲しんだ歌であり、反歌はその死者の安穏を願ったもので、性質からいうと明らかに挽歌である。挽歌は集中の例で見ると、臣下がその主人を悲しんだもの、夫がその事をあわれんだものが主題で、子が親を悲しんだものはなく、兄が弟を悲しんだものが一首あるだけで、家族の方面はじつにさみしいものである。この歌のごとく、親が子を悲しんだものはこの一首だけで、その意味でも珍しいものである。加えて憶良の歌としても、この歌のように感情そのもののみで終始させ、しかも無条件にその心を尽くしているのは、その全作品を通じてこの一首があるのみで、親の愛をとお(145)して子の状態をこまごまと叙し、それによってしみじみと悲歎を現わしている詠み方をしているのはこの一首があるだけで、歌人としての憶良を見る上では、この歌は「貧窮問答」と相並ぷ代表作と目すべきものである。
 この歌の詠み方で注意されることは、長歌の定型となっていた五七の連続を破って、いわゆる破調を用いている個所が、一首中に三か所もある。また、ただこの歌のみにある語として、「横風のにふふかに」「立ちあざり」「容貌つくほり」なども用いられている。憾良がなぜにそうしたことをこのようにまで試みたのかということは、彼の極度に実感を重んじる性情から見て、こうすることが自身の感をより適切に現わし得ることとして行なったごとで、他意あってのことではなかろう。これは文芸的に見れば、五七の連続の繰り返しの単調に陥るのを救ったこととなり、また新語の試用も、歌語の範囲を拡張することになるのであるが、それは憶良の思念以外のことで、事の成行きとしておのずからにそう見られることに立ち到ったのである。第一こうした性質の歌が他の人々から読まれ、文芸品として鑑賞されようと憶良自身思念したと想像することは、ての時代の歌界から見て困難なことと言わなくてはならない。
 この歌は制作年代が記してなく、したがっていつの作かは不明である。いま、制作年代の明記ぎれている上の歌とこの歌とを比較すると、作風の上にかなり際やかな相違が見られる。この歌は排列順は最後になっているが、制作したのはかなり以前であったろう。大体憶良の長歌は多弁にすぎるがごとく見られるが、それは取材が知性的のもので、説明を必要とする場合に限ってのことで、純感情を語る時には、反対に簡潔であり、また簡潔であらせようとして飛躍を用いている跡が明らかである。この歌はその純感情的なものであるにもかかわらず、甚しく平面的で、後年の作に見る簡潔と飛躍が認められない。また調べも、憶良の晩年の作に見られる太さと強さがなく、反対に細く低いものである。さらにまた破調、新語なども、晩年の作には憶良的常套が認められるのに、この歌には新味がむしろすぎるほど多く感ぜられているのである。それらの点からこの歌はかなり以前のものと思え、これと晩年の作とを並べて見て、憶良の作風の推移を示している珍しい料という感が起こる。
 この歌には憶良の歌文に出勝ちな仏教が、影もさしていない。場合柄ありそうに思えるのに、ないということは注意される。また詠み方が平面的ではあるが、要所要所に際やかな曲折を付け、さながら段を変えたごとくにしている。また語句の照応の上に意を用いていて、技巧上の注意を行き届かせている。これらは「語釈」で触れたから繰り返さない。
 
     反歌
 
905 稚《わか》ければ 道行《みちゆ》き知《し》らじ 幣《まひ》はせむ 黄泉《したべ》の使《つかひ》 負《お》ひて通《とほ》らせ
    和可家礼婆 道行之良士 末比波世武 之多敝乃使 於此弖登保良世
 
(146)【語釈】○稚ければ道行き知らじ 「稚し」は、古くは、幼い者をも籠めていう語であって、ここはそれである。「道行き」は一語で、死後行くべき冥途への道の行き方で、道案内を知るまい。○幣はせむ 「幣」は贈物で、人に物を頼む時にするものとなっていた。○黄泉の使 「葉泉」は下方で、古来死後に行く国は地下にありとしていた。使は冥途の神の使で、死者を連れに来た者の意で言ったもの。○負ひて通らせ 「負ひて」は、背に負ってで、歩くべきをいたわってすること。「通らせ」は、通れの敬語の命令形。【釈】 幼い者なので、冥途の途の案内を知るまい。贈物はしよう。冥途よりの迎いの使よ、わが子を背に負ってその道を通ってくだされよ。
【評】 熊凝の歌に出ていたように、死後も、現世とは異なった状態での生活があると信じていたので、その上に立っての心である。したがって、子を憐れむ心からの合理的な想像であって、情痴よりの空想とは言えないものである。一首の心細かさも、その憐れみの現われである。長歌と同じく、純粋に感情のみの言で、したがってあわれ深い歌である。
 
906 布施《ふせ》おきて 吾《われ》は乞《こ》ひ祷《の》む 欺《あざむ》かず 直《ただ》に率去《ゐゆ》きて 天路《あまぢ》知《し》らしめ
    布施於吉弖 吾波許此能武 阿射無加受 多太尓率去弖 阿麻治思良之米
 
【語釈】 ○布施おきて 「布施」は、仏語で、仏や僧に贈る品の称。○吾は乞ひ祷む 神に対していう語で、上に出た。○欺かす直に率去きて 「欺かず」は、路に迷わせず。「ず」は連用形で、迷わせずして。「直に率去きて」は、まっすぐに連れて行って。○天路知らしめ 「天路」は、天へ行く路にも、天そのものにもいう語。ここは天で、死後の霊のとどまる所として言っているもの。「知らしめ」は、命令形で、知らしめよの意。その霊の居るべき所を教えよの意である。
【釈】 布施を差出して我は天つ神に乞い祷む。路に迷わせずして、まっすぐに連れて行って、その居るべき天を知らしめよ。
【評】 この歌は作者が未詳だと編者が言っている。歌の内容は、死後の国に対してある混乱のあったことを示している。「布施」は仏語であるのに、「乞ひ祷む」のは天の神であって、その乞い祷む内容は、「欺かず直に率去きて天路知らしめ」であって、死後に行く国は天上であり、また連れ往くのは天の神である。つい前代までは、死後高天原に往かれるのは、そこを本土とするきわめて高貴の人々に限られていたのに、ここはそれとは見えない。「欺かず」といい、「率去き」と言っているのは、仏説の仏の国のにおいが高い。そうした時代の気分を反映したのだと思われる。達者に、強い調べでは言っているが、死者より身分重い人が半ば儀礼として言ったかの感のある歌である。
 
(147)     右の一首は、作者いまだ許ならず。但し歌を裁る体、山上の操に似たるを以ちて、此の次《ならび》に載す。
      右一首、作者未v詳。但以3裁謌之體、似2於山上之操1、載2此次1焉。
 
【語釈】 ○歌を裁る 歌を作る。○山上 山上憶良。○操 風調。○似たるを以ちて 編者の意見。
 
(150)   萬葉集 巻第六概説
 
 
 本巻は、『国歌大観』(九〇七)より(一〇六七)に至る百六十首を収めてあり、歌体としては、長歌二十七首、旋頭歌一首、短歌百三十二首であり、比較的長歌の多い巻である。
 部立としては、全巻雑歌であり、際立って多いのは、行幸の際の賀歌、それに準ずべき新京の讃歌、旧都に対しての哀感であり、ついで宴歌、羈旅の歌、惜別の歌、風物といううち月に対しての歌などであり、その他のものはいささかである。雑歌は範囲の広いものであるが、本巻に収められているものは、概していうと、面正しいものばかりである。
 
     二
 
 本巻の編輯は整備したものである。それは歌の排列がすべてその制作年代を逐っており、資料に記載のなかったものは、その事件を考証することによって推定し、左注の形をもって付け加えてあることと、作者もほとんど皆明らかで、これも疑いのある少数のものには、そのことを推定して、同じく左注に付け加えるという方法を取っていることである。
 さらに言えば、年代は、巻首の歌は、「養老七年癸亥夏五月、芳野離宮に幸せる時」に始まり、巻末は、「天平十六年」の歌につぐに田辺福暦歌集の歌をもってしているが、これはその歌に扱っている材料によって、年次を推定してのものである。すなわち奈良朝初期より中期にわたっての雑歌ということになる。
 また、雑歌としての前後の関係より見ると、巻第一は、奈良宮時代に入ると、僅に一首で終わっており、巻第三は、奈良朝初期の一部分にとどまり、巻第五は、全巻雑歌であるが、これは特殊なものであるから除外するとすれば、時代的には、あるいは重複はもっているが次第にその重点を置く時代を下降せしめて、この巻をもって、奈良朝中期までを、一応纏めた形となっているのである。なお、巻第八も、その一半は雑歌であるが、これは制作年次の代わりに、春夏秋冬の四季によって分類したものであり、その作者は、遠く溯って近江朝より奈良朝中期にわたっての人であって、特殊の分類法によって纏めたものであるから、巻第一を準拠とした本巻の排列法を本流と見れば、これはむしろ拾遺とも見做しうるものである。
 本巻の編纂者は、大伴家持であろうと推定されている。その根拠は(九五五−九七〇)に至る十六首は、大伴旅人を中心としての歌群で、旅人が大宰帥として大宰府に在任していた時期より、大納言に任ぜられて奈良の邸に帰ってまでの歌である。旅人の歌は他の巻にも分載されており、巻第五は特別のものと(151)して除外しても、なお巻第三、四、八にもあるが、本巻のものは主立ったものである。問題となるのは、旅人に対する称であって、ここでは旅人を、「帥大伴卿」「大納言大伴卿」の敬称をもってしているのである。この敬称は、本巻には節度使藤原宇合に対して用いている以外にはなく、格別と言いうるものなのである。そういうことをするのは、子の家持以外にはなかろうということを根拠として、編纂者は大伴家持だろうと推定されるのである。
 もっとも、この推定には条件が付いている。それは、天皇(聖武)の御製歌一首
  妹に恋ひ吾《あが》の松原見わたせば潮干の潟に鶴《たづ》鳴き渡る (一〇三〇)
       右の一首、今案ずるに、吾の松原は三重郡にあり。河口の行宮を去ること遠し。若し疑ふらくは朝明《あさけ》の行宮におはしましし時、製《つく》りませる御歌にて、伝ふる者之を誤れる歟。
の左注が問題となるのである。その故は、この御製は、その前の(一〇二九)の大伴家持の歌と同時のものとして扱われており、そちらに歌詞が添っていて、(天平)十二年冬十月、藤原広嗣が反を謀り、軍を発《おこ》したので、天皇は伊勢国に行幸せられ、家持は内舎人として供奉しており、河口の行宮で歌を作っているが、御製はそれに並べられているのである。本巻を家持の編纂とすれば、御製が何処で詠まれたものであるかは、明らかに知っているはずであるから、少なくとも見るがごとき左注は加えなかった訳である。したがってこの左注は、家持が一応の編纂を終わった後、何びとかによって追記されたものであろうと解さなければ、上の推定は成立たなくなるのであって、大体そのように解されているのである。
 転じて、本巻の編纂に先立って行なわれた、資料蒐集という点から観ると、内舎人であった大伴家持としては、これらの資料を得るに便宜があり、したがって容易だったろうと思われるもの、また、家持でなくては得がたかったろうと思われるものの多くがあって、そのことも家持編纂説を支持しうることと思われる。
 本巻の一半を占めているものは、行幸の供奉をして作った賀歌、またその際に感じた郷愁の歌である。行幸の際は賀歌を献ること、また献らないまでも作ること、またその際個人的に作る郷愁の歌などが、すべて記録されて一まとめのものとなり、宮中に保存されていたらしいことは、巻第一の歌より察しられる。元正、聖武両帝は行辛が少なくなく、本巻を見ても、吉野離宮、紀伊国、難波宮、播磨国印南郡、伊勢国、美濃国、多芸、不破、その他もあり、したがって歌の数も多い。内舎人であった家持が、それらの歌を見たいとの憧れを抱いていたならば、さして困難なく見られたことであろう。また巻中の聖武天皇の御製の歌、また応詔の歌のごときも、同様の経路より知ることを得たろう。さらにまた、田辺福麿の、奈良宮より久邇宮、久邇宮より難波宮へと遷都されるごとに作った讃歌、故京を悲しむ歌は、巻中でも目立つものであるが、その二十一首は、田辺(152)福麿の歌集より抄出したものである。福麿は、家持としては同時代の人であり、歌人としては尊まれていたが、身分は低かったとみえるから、人を介してその歌集を見ることは、困難ではなかったろうと思われる。
 大伴旅人を中心としての歌群は、家持としては我が家のものであった。また、大伴坂上郎女の歌は、本巻には多く、その中にはさしたる出来ばえでないものも混じっている。それらは家持以外の人には知り易くないものであったろう。
 以上は巻中でも目ぽしいものであって、家持が資料として入手した経路は、ほぼ辿り得らるるもののごとく思われる。編纂者家持説に対して、薄弱には似ているが、支持となりうるものと思われる。
 奈良朝初期より中期へかけての雑歌は、すでに巻第三、五に出ており、触れて言っているので、本巻ではいささかを言い添えることとする。
 本巻に多い、行幸の際の賀歌は、先例によってすべて長歌形式をもってしているが、それに盛っている思想感情は、これを前朝の柿本人麿のものに較べると、著しく異なっている。人麿のものの主体をなしているのはほとんど信仰と称すべきもので、天皇を遠く仰ぎ見るべきものとして、代えるに離宮をもってしている趣のものであった。しかるにこの朝に移ると、離宮を単に離宮その物となし、風景と融け合って、その中心をなすもののごとくなっている。山部赤人の賀歌の中には、賀の心を述べる長歌よりも、反歌として風景を讃えるもののほうが主のごとくなり、またその風景も、個人的観賞のものとさえなったものがある。信仰が後退し、風景が前進しているのであって、これは独り赤人だけにとどまらず、すべての人を通じての傾向となっているのである。この傾向は、久邇宮の新京を讃える歌には一段と明らかで、巻第一(五二)「藤原宮の御井の歌」に見られるごとき信仰は拭うがごとく失せている。時代の生活感情がそうならしめたものと思われる。
 しかし、個々人の日常生活に対しての信仰は衰えてはいない。(九七一)「藤原宇合卿の西海道節度使に遣さるる時、高橋連虫麿の作れる歌」は、宇合の旅の無事を祝って、情熱を傾けて作ったすぐれたものであり、また同じ時に、(九七三)「天皇(聖武)酒を節度使の卿等に賜へる御歌」は、同じく祝いの御心のものであって、これは集中でも注意される特殊のものである。(九八八)「市原王、宴に父安貴王を祷ぐ歌」は、寿を祝うもの、(九八九)「勝原王の打酒の歌」は、酒を清める心のもので、いずれも信仰の範囲のものであり、時代的に見て軽からぬ調べをもったものである。
 本巻は長歌が多く、その理由は、行幸の際の賀歌が多いからであることはすでに言ったが、そればかりではなく、他に今一つの理由がある。それは人々に、心の委曲を尽くして言おうとする要求が起こっていたからで、その事に堪える人は、進んでそれを試みようとしていたからであると思われる。これは巻第(153)五、大伴旅人の連作、山上憶良の長歌についてすでに言ったことであって、本巻でも、上に言った高橋虫麿の長歌、また、田辺福麿の(一〇四七)「寧楽の故郷を悲しみて作れる歌」などは、そのことを示しているものといえる。これらはいずれも、事に即しつつ、心というよりは、むしろ気分までも現わそうとしているような歌で、散文的表現の一歩手前のものと見られるものである。
 また本巻には月の歌が多い。風物として他の物はなく、月があるだけであるから、この当時新しい題材で、また流行したものかと思われる。従来も月の歌がなくはなく、中には美観として作ったものもあるが、多くは、女が男を待つ夜、時刻の移りを見るものとするか、夜道をする頼りのものとしての歌であった。それが本巻では、美観の対象としてのものとなりきっている。前代は早寝早起きが常となっており、必要なく夜更かしをすることはなかったと見えるのに、奈良朝中期には、夜を享楽の時として楽しく更かす風が起こって来たその反映と解される。また月を月読命として崇めることは、深くは浸潤しなかったかとも思われるが、本巻では、可隣な愛すべきものとし、(九八三)の注によると、月の別名を「ささらえ壮士《をとこ》」と称し、愛すべき少男に擬していたことが知られる。時代の生活感情によって歌風の移って来た跡を示していることである。
(一〇一九−一〇二三)は、石上乙麿が、宮中の女官を姦した罪で、土佐国に流された時のもので、長歌三首より成っており、前二首は、時の人の乙麿を隣れんだ心のものであり、後の一首は、乙麿が悲しみつつも罪を畏んだ心のものであって、三首で一つの物語を展開させているものである。伝統の久しい形式であるが、謡い物の匂いのあるもので、歌の散文的傾向を示している点で、時代の好尚に繋がりをもったものといえる。
 本巻の雑歌の感味を総括して言えば、前代の人々のもっていた、生活に対しての深い熱意ある欲求が衰え、単に眼に見る美観に心惹かれたものとなり、明るく軽い貴族的なものとなっている。さすがに生活から遊離させてはいないので、新たなる文芸的香気のあるものとはしている。これは屡述したように、時代の生活感情に従わせられてのことといえる。
 
(160) 雑歌
 
     養老七年癸亥夏五月、芳野|離宮《とつみや》に幸《いでま》せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
 
【題意】 続日本紀、元正紀に、この行幸のことは載っており、「養老七年夏五月癸酉(九日)行2幸芳野宮1。丁丑(十三日)車駕還v宮」とある。金村は行幸の供奉に加わっており、賀歌として作ったのである。金村は、巻二(二三二)左注を初めとしてしばしば出た。
 
907 滝《たぎ》の上《へ》の 御舟《みふね》の山《やま》に 水枝《みづえ》さし しじに生《お》ひたる 栂《つが》の樹《き》の いや継《つ》ぎ嗣《つ》ぎに 万代《よろづよ》に かくし知《し》らさむ 三芳野《みよしの》の 蜻蛉《あきづ》の宮《みや》は 神柄《かむから》か 貴《たふと》かるらむ 国柄《くにから》か 見《み》が欲《ほ》しからむ 山川《やまかは》を 清《きよ》み清《さや》けみ 諾《うべ》し神代《かみよ》ゆ 定《さだ》めけらしも
    瀧上之 御舟乃山尓 水枝指 四時尓生有 刀我乃樹能 弥繼嗣尓 萬代 如是二二知三 三芳野之 蜻蛉乃宮者 神柄香 貴將有 國柄鹿 見欲將有 山川乎 清々 諾之神代從 定家良思母
 
【語釈】 ○滝の上の御舟の山に 「滝」は、吉野川の一区域の名称で、巻一(三六)、人麿の「滝の宮処《みやこ》」と称している所である。事としては吉野川の流れが岩に激して、激流となっている所で、滝はそうした所の総称で、名詞。「上」は、ほとりの意のもの。「御舟の山」は、吉野郡吉野町中荘字樋口の東南、菜摘の東南方にある山。今もその名をとどめている。集中他にも、また『懐風藻』にも出ている。○水枝さししじに生ひたる 「水枝」は、「瑞枝」で、瑞はみずみずしく、生々《いきいき》としている意。瑞枝は瑞穂と同系の語。ここは題詞の「五月」の若葉した状態を讃えたもの。「さし」は、枝を出している意。「しじに」は、繁くで、ここは木立の多い意。○栂の樹のいや継ぎ嗣ぎに 「栂《とが》」は、栂《つが》とも呼んでいる常磐木で、巻一(二九)に出た。諸本異同がないので、この時代には転じて「とが」と呼んでいたとみえる。最初よりここまでは、離宮との関係において、栂の木の若々しくまた強い状態をいって、それをもって賀の心を暗示したものであるが、同時に他方では、「栂」と「継ぎ」とその音の近似しているところから、全体を「継ぎ」の序詞ともしているものである。音が近似しているとは言え、その程度が少なく、強いたところのあるものである。これは、「樛の木のいやつぎつぎに」は人麿の句であり、すでに名高く、成句のようになっていたので、それにより懸って、この強いたことをして(161)いるものと解される。「いや継ぎ嗣ぎに」は、ますます御代を重ね重ねしてで、将来をいったもの。○万代にかくし知らさむ 「万代」は、万年で、永久ということを具象的にいったもの。「かく」は、現在見るごとく。「二二知三」は、旧訓「ににしらみ」で、訓み難くしたのを、『代匠記』が今のごとく改めたもの。「二二」は、算数の九九からの戯書で、「四」すなわち「し」で、強めの助詞。これは「二五《とを》」「十六《しし》」「八十一《くく》」などと同系のものである。「知らさ」は、「知らす」の未然形。統治の意の「知る」の敬語。「三」も、上の「二二」の関係で用いた用字と取れる。〇三芳野の蜻蛉の宮は 「三」も、上に関係させた用字。「蜻蛉の宮」は、蜻蛉野にある宮の意で、離宮をその所在の地名によって呼んだもので、これは型となっていた呼び方である。「蜻蛉」は、巻一(三六)「花散らふ秋津の野辺に」と出、離宮のあった所の一帯の地名である。○神柄か貴かるらむ 「神柄」は、下の「国柄」と対させて言ったもので、同じ心の繰り返しとなっているものである。上代信仰として、この国土は神の生み給いし御子であって、国土であるとともに神であると信じていた。巻二(二二〇)で、人麿は讃岐国を讃え、「玉藻よし讃岐の国は 国柄か見れども飽かぬ 神柄かここだ貴き 天地日月と共に 満《た》りゆかむ神の御面《みおも》」と言っており、この事は他にもある。「神柄」は、吉野国であるところの神の意のもの。「柄」は、家柄、人柄と続けるその柄と同じ意で、ここは神に続けたもの。神の位というにあたる。「か」は、疑問。神の位が貴くある為であろうか。○国柄か見が欲しからむ 「国柄」の「国」は、古くは一劃の狭い土地をいうに用いた称で、ここはそれである。「見が欲し」は、見ることを欲しいで、見たいという意をあらわした語。土地が見たいと思わせるのであろうかで、上の二句と対句として、吉野という所を好い土地として、古の御代に離宮をお造りになられたことを、敬意からわざと疑問の形にして言ったもの。○山川を津み清けみ 「山川」は、山と川で、山は主として御舟の山。河は吉野川。「清み清けみ」は、原文「清々」。旧訓「さやけくすめり」。「すめり」で終止形にすることをあたらずとして、諸注改訓を試みている。『代匠記』は、「さやにさやけみ」または「すがすがしみ」かと言い、『童蒙抄』は、「きよくきよく」または「きよくさやかに」としている。『考』『略解』『古義』は、いずれも上の「滑」を誤字だとして、改めての上で訓を施しているが、文字は諸本異同のないものである。今の訓は『全釈』のものである。巻一(五)「むら肝の心を痛み」、(六)「山越しの風を時じみ」を初め、「……を……み」という形は集中に多いものである。ここもそれであり、山が清く河が清《さや》かなのでの意。これは、自身の感覚を通しての意。○諾し神代ゆ定めけらしも 「諾し」は、「諾」は、承認する意の副詞で、成程というにあたる。「し」は、強め。「神代」は、遠い古という意を具象化して言ったもの。離宮のことは、巻一(三六)で言った。その初めは明らかではなく、応神天皇の御代ではないかと想像されている。「ゆ」は「より」。「定め」は、離宮の位置を言ったもの。「らし」は、眼前を証としての強い推量で、離宮を目に見ていることをあらわしたもの。「も」は、詠歎。
【釈】 滝のあたりの御舟の山に、今、瑞枝《みづえ》を張って繁くも生い立っている栂《とが》の木の、その栂というにゆかりのある、ますますも御代を継ぎ嗣ぎに御統治になってゆくだろうところのみ芳野の蜻蛉の宮は、ここの土地であられるところの神の位が貴い為であろうか、神であるところの土地の位が見たく思わせる為であろうか、我が見ても山が清く、河が清《さや》かであるので、なるほど、遠い古の御代から、ここに離宮をかくお定めになったのであろうよ。
【評】 天皇に賀歌を献ずることは、詔があって歌を献ずる折はもとより、行幸など適当な機会があれば、その事に堪える臣下の進んでしていたこととみえる。天皇に献ずる賀歌については、巻一(三六)「吉野宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」に(162)ついて言ったが、わが国のものは中国のそれと明らかに異なっており、帝王の統治者としての徳を讃えるということは、恐れあり憚りあることとして避けて触れず、ただ御稜威の限りなさを讃えることに終始しているのである。上にいった人麿の歌にしても、場合柄、冒頭に吉野の風景の美をいい、結末に賀詞を添えているが、中心をなしているのは、大宮人、山の神、河の神の相競って天皇に奉仕していることを言っているのであって、それがすなわち御稜威の限りなさなのである。しかるにこの金村の賀歌は、その中心をなしているものは、「神柄か貴かるらむ 国柄か見が欲しからむ 山川を清み清けみ 諾し」というのであって、全く吉野の風景の讃美である。冒頭と結末とは相応じて、蜻蛉の宮の神代より定められたことを言っているものであるが、その定められたのは、中心をなしている吉野の風景の美の為だとしているのであって、全首風景の讃美なのである。人麿が持統天皇に賀歌を献じた時とこの時とは、年代としては幾何の距離もないのであるが、その短い間に、人麿が皇室に対してもった信仰は著しく後退し、ここには天皇の御稜威に対しては触れるところがなく、代わって風景の讃実のみとなって来たのである。この歌は金村の個人的のものではなく、改まっての賀歌であり、また人麿の歌の影響も思はせられるものであるのに、このように急角度に変わっているということは、時代の趨勢がこれでなくてはならなくなってゐた為と思われる。一首の詠風が平面的で、平静な感激のないものとなっているのは、その内容との関係からとはみられるが、同時に時代的好尚の反映であり、むしろそれが主であろうと思われる。
 
     反歌二首
 
【解】 「二首」は、寛永本にないが、元暦本、外四本にある。
 
(163)908 毎年《としのは》に かくも見《み》てしか み吉野《よしの》の 清《きよ》き河内《かふち》の たぎつ白波《しらなみ》
    毎年 如是裳見壯鹿 三吉野乃 清河内之 多藝津白波
 
【語釈】 ○毎年にかくも見てしか 「毎年に」は、年ごとにの意の語で、ここは自身に即して、末長くということを具体的に言ったもの。「かくも」は、「も」は、詠歎。このようにで、現に自分のしていることを、綜合的に言ったもの。「てしか」は、願望の助詞。巻五(八〇六)に出た。見たいものである。○み吉野の清き河内の 「河内」は、巻一(三九)「山川もよりて奉《つか》ふる神《かむ》ながらたぎつ河内に船出せすかも」について言った。通説としては、河の湾曲した所、河の行き繞っている所の称とされているが、その歌でも、またこの歌でも、河の流れそのものの内という意に解さないと意の通じないものとなる。ここは、下の「白波」の立つ場所として言っているからである。また「清き」という修飾の語も、流れそのものに対して言ったものと見て生きて来るもので、土地に対してのものと見ては、適当を欠いた語と見られるからである。「河内」は二義をもった語であったと解される。○たぎつ白波 沸きかえる白波よと、詠歎を籠めたもの。
【釈】 年ごとに、今のように見たいものである。み吉野の清い流れの内に沸き立っている白波よ。
【評】 「毎年にかくも見てしか」は、自分に即させながら離宮との永遠の繋がりにおいて言っているもので、賀の心のあるものである。「清き河内のたぎつ白波」は、「滝」を捉え、その美景を言うことによって吉野川の美を具象化したものである。一首、実際に即して、賀の心と吉野の美とを綜合的に言い得たもので、長歌の精神を圧搾していっている形のものである。長歌にないところの躍動と生趣とをもち得ている歌である。金村は優に長歌の作れる人であるが、しかし多くは上の歌のように平面的になり、あるいは散文的になって、その趣を発揮し得ているものは少ない。それに較べると短歌は、自在で、要を得ていて、出来ばえの好い物が少なくない。これはその好い物の一例となりうるものである。
 
909 山《やま》高《たか》み 白木綿花《しらゆふばな》に 落《お》ちたぎつ 滝《たぎ》の河内《かふち》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも
    山高三 白木綿花 落多藝追 瀧之河内者 雖見不飽香聞
 
【語釈】 ○山高み白木綿花に 「山高み」は、山が高いのでで、吉野川の流れている地盤の状態を言ったもの。それは、地盤が高いと、流れがおのずから滝となるので、滝の原因として言っているのである。「白木綿花」は、巻二(一九九)「木綿花の栄ゆる時に」に出た。「木綿」は、穀《かじ》すなわち杼栲で、その皮より取った繊維。その白いところから「白」を添えたのである。その繊維で造った花で、何に用いた物であるかは明らかでない。(164)後の平安朝に、男踏歌《おとことうか》の時、頭に綿を被《かず》いたことから推して、神事に用いられたものではないかという。「に」は、その状態をあらわす語で、「と」にあたり、のごとくの意である。○落ちたぎつ滝の河内は 「落ち」は、水が高きより流れ落つる意。「たぎつ」は、沸きかえるで、連体形で、下へ続く。「滝の河内」は、「河内」は上の歌と同じく、滝となっているその流れの内の意。「は」は、差別して取り立てた意。○見れど飽かぬかも いくら見ても飽かないことであるよで、当時、絶讃の意で用いられていた語。「かも」は、詠歎。
【釈】 河の地盤となっている山が高いので、白木綿花の状態に流れ落ちて沸きかえる、この滝の流れの所は、いくら見ても飽かないことであるよ。
【評】 上の歌の「たぎつ白波」だけを承けて、繰り返し讃えたものである。すなわち賀の心から離れて、風景に寄ってゆく心だけを高潮させたのである。「山高み」は、「落ちたぎつ」ことを強めようとしてのものであるが、一首の上からいうと、その状態の起こる理由を説明した跡を見せているものである。「白木綿花に」は、たぎつ状態の譬喩であるが、その為に強く具象化されているところがあり、これは効果的である。「見れど飽かぬかも」は、対象が動的なものであるが為に、妥当に感じられる。しかし、全体として見ると、この歌は、上の歌の持っているだけの綜合力が働いていず、その為説明的気分の伴ったものとなって、思い入った形をもって詠んではいるが、感の稀薄なものとなっている。散文的な気分が伴ったが為である。
 
     或本の反歌に曰く
 
【解】 或本には、反歌が全部異なっているので、それを挙げたのである。
 
910 神柄《かむから》か 見《み》が欲《ほ》しからむ み吉野《よしの》の 滝《たぎ》の河内《かふち》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも
    神柄加 見欲賀藍 三吉野乃 瀧乃河内者 雖見不飽鴨
 
【語釈】 ○神柄か見が欲しからむ 長歌の「神柄か貴かるらむ 国柄か見が欲しからむ」を繰り返したものであるが、「貴かるらむ」を捨てて「見が欲しからむ」を取っているのは、風景の美ということを高潮させようとしてのことである。この境となられている神の位の、かく見たく思わせるのであろうかというので、その境は、長歌では「国」であったのを、ここでは「滝の河内」としている。すなわちそこの佳景を神自体と見たのである。○滝の河内は 西本願寺本、寛永本「滝河内者」、元暦本、外六本、「滝」の下に「乃」または「之」がある。上の二首と同じく「河内」は、流れそのものである。
【釈】 ここの境となっていられる神の位の、かく見たいと思わせることであろうか。み吉野の、ここの滝の流れの内は、いくら(165)見ても飽かないことであるよ。
【評】 「神柄か見が欲しからむ」は、長歌との関係において自然になっている語であって、独立しての歌としては、おそらくは当時にあっても強いるところのあったものと思われる。その意味で、反歌としての条件を具えた語である。しかしこの語には賀の心はなく、結句の「見れど飽かぬかも」と照応して、「滝の河内」の光景を絶讃しただけのものである。すなわち反歌としては時代色の濃厚なものである。この歌は、躍動の味わいはもっていないが、思い入りの深さをもっているもので、綜合性の働いている、前の反歌の第一首目に対しうるものである。「或本」とはいうが、伝唱の結果、小異を生じたという性質のものではなく、金村が後になって、反歌だけを新たに詠み変えたので、「或本」のほうはそれが伝わっていたのかと思われる。このことは、以下の二首も同様である。
 
911 み吉野《よしの》の 秋津《あきづ》の川《かは》の 万世《よろづよ》に 絶《た》ゆること無《な》く また還《》かへり見《み》む
    三芳野之 秋津乃川之 万世尓 斷事無 又還將見
 
【語釈】 ○み吉野の秋津の川の 「秋津の川」は、「秋津」は上に出た「蜻蛉の宮」の所在地で秋津の野。「川」は、そこを流れている川で、すなわち吉野川。これは上に「み吉野」とあるがゆえに言いかえたものとも取れ、また、その土地の者は吉野川をそのように呼んでいたが為とも取れるのであるが、主なる意図は、吉野川をそう言いかえることによって、「滝」を暗示しようとした為と取れる。「の」は、のごとくの意のもの。○万世に絶ゆること無く 「万世」は、万年で、永久の意を具象したもの。「絶ゆること無く」は、中絶することなく。○また還り見む またまた立ち還って来て見ようで、その見ようとするものは、譬喩としている秋津の川である。
【釈】 み吉野の秋津の川のごとくにも、永久にわたって中絶することなく、我はまたまた立ち還ってこの川の佳景を見よう。
【評】 上の歌を承けて、吉野川の佳景を讃えたものである。形は単純であるが、その単純は、技巧を用いて複雑味を持たせたもので、それがこの歌の特色をなしている。「み吉野の秋津の川」は、「万世に断ゆること無く」の譬喩になっているのであるが、「又還り見む」との関係において、その対象となり、主語となっているものである。「万世に絶ゆること無く」は、自身のことを言っているもので、「万世に」という語は、誇張に過ぎた、妥当を欠いたものである。しかし「秋津の川の」に続いている関係上、川の流れを言っているもののごとく感じられ、それによって妥当感をもたせられもするものである。この際どい言い方をしているのは、秋津の川に対する強い憧れを、これによって具象しようが為である。「又還り見む」は、巻一(三七)「吉野宮に幸しし時」の人麿の賀歌の反歌の結句と同じである。人麿がそれを言っているのは離宮に対してであるのに、金村は吉(166)野川の風景に対して言っているので、これはまさしく時代の推移を示しているものである。吉野川を「秋津の川」と言い、それによって「滝」を暗示したのも技巧である。これらの技巧は、感性の細かさというよりも、むしろ細心な工夫によるもので、そこに時代の反映の見られるものである。
 
912 泊瀬女《はつせめ》の 造《つく》る木綿花《ゆふばな》 み吉野《よしの》の 滝《たぎ》の水沫《みなわ》に 開《さ》きにけらずや
    泊瀬女 造木綿花 三吉野 瀧乃水沫 開來受屋
 
【語釈】 ○泊瀬女の造る木綿花 「泊瀬女」は、泊瀬の女の意で、大和女《やまとめ》、河内女《こうちめ》など同系の語の多いものである。「造る木綿花」は、前に言った。木綿花は泊瀬女の手工品であったことが知られる。○滝の水沫に 「水沫に」の「に」は、(九〇九)の「白木綿花に」の「に」と同じく、その状態に。○開きにけらすや 旧訓「さききたらずや」。『代匠記』の訓。「けら」は、助動詞「けり」の未然形。「ず」は打消。「や」は反語。咲いているではないかの意。駕き怪しんで言った形のもの。
【釈】 泊瀬の女の造るところの木綿花が、吉野川の滝の水沫と咲いているではないか。
【評】 これも「滝の河内」を讃えたものであるが、これは「滝の水沫」の美しさの第一印象を言ったもので、長歌とは全然つながりをもたず、独立した趣のあるものである。「泊瀬女の造る木綿花」は、事としては「水沫」の譬喩であるが、詠み出した上では反対に、「水沫」のほうが「木綿花」となっているのである。しかもその「木綿花」は、「泊瀬女の造る」を添えていることによって印象の強いものとしているので、「開きにけらずや」という驚き怪しんだことが自然なものとなっている。一首、感性のみで終始させているので、誇張が自然なものとなり、調べが躍動して来て、以上五首中の傑出したものとなっている。
 
     車持朝臣|千年《ちとせ》の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「千年」は、統日本紀に見えず、伝不明である。
 
913 味織《うまごり》 あやにともしく 鳴神《なるかみ》の 音《おと》のみ聞《き》きし み吉野《よしの》の 真木《まき》立《た》つ山《やま》ゆ 見降《みおろ》せば 川《かは》の瀬《せ》毎《ごと》に 明来《あけく》れば 朝霧《あさぎり》立《た》ち 夕《ゆふ》されば かはづ鳴《な》くなへ 紐《ひも》解《と》かぬ 旅《たび》にしあれば (167)吾《あ》のみして 清《きよ》き川原《かはら》を 見《み》らくし惜《を》しも
    味凍 綾丹乏敷 鳴神乃 音耳聞師 三芳野之 眞木立山湯 見降者 川之瀬毎 開來者 朝霧立 夕去者 川津鳴奈拜 紐不解 客尓之有者 吾耳爲而 清川原乎 見良久之惜蒙
 
【語釈】 ○味織あやにともしく 巻二(一六二)に出た。「味織」は、立派な織物で、綾と続き、それを副詞の「あや」に転じて、その枕詞としたもの。「あやに」は、譬えようもなく。「ともしく」は、羨ましくで、ここは吉野の佳景に対しての憧れをあらわしたもので、なつかしくというにあたる。○鳴の音のみ聞きし 「鳴神の」は、雷神ので、意味で「音」にかかる枕詞。「音」は、評判で、同じく吉野の佳景に対してのもの。「のみ」は、ばかり。評判だけを聞いていた。○み吉野の真木立つ山ゆ 「み吉野」は、上の全部を修飾としてのもので、そのみ吉野の意のもの。「真木」は、「真」は美称で、立派な木の総称。その代表として檜を言っている例が多い。「山」は反歌で、「み船の山」とわかる。標高四八七米あり、その辺りの高山である。「ゆ」は、より。○見降せば川の瀬毎に 「川」は、吉野川。「瀬」は、淵に対してのもので、流れの早い所。「毎に」は、瀬のそれぞれにという意ではなく、高所より見降してのことであるから、流れの全体が目に入る、その全体という意をあらわそうとしてのものと取れる。すなわち強めの意のもの。○明来れば朝霧立ち 佳景として言ったもので、それとともに次の「夕されば」に対させたもの。○夕さればかはづ鳴くなへ 「夕されば」は、夕方が来ればで、物音の高く聞こえる時刻。「かはづ」は、河鹿で、初夏よりのもの。清流に棲んで鳴く。細く澄んだ声で、心に沁みるものがある。「鳴くなへ」は西本願寺本など流布本「鳴奈辨詳」。「辨」は、元暦本、外五本「拝」。「詳」は、元暦本、外五本はない。『新訓』は、「鳴奈拝」とし、今のごとく訓んでいる。「なへ」は、とともにというにあたり、二事が同時に行なわれることを示す副詞。ここは、「見降せば」「朝霧立ち」「かはづ鳴く」とともにの意である。○紐解かぬ旅にしあれば 「紐解かぬ」は、夜、寝るに、衣の紐を解かない意で、家に在って妻と寝る時の状態に対させたもの。油断をしない心よりのこと。「旅にし」の「し」は、強め。○吾のみして 「吾のみ」は、吾一人だけで、すなわち妻がいずに。「して」は、在りて。○清き川原を見らくし惜しも 「清き川原」は、吉野川を総括して言ったもの。「清き」は、朝霧、河鹿などを、清しと感じて言ったもの。「見らく」は、「見る」を名詞形としたもので、見ること。「し」は強め。「惜しも」の「惜し」は、妻に見せ聞かせないことに対しての心残り。「も」は、詠歎。
【釈】 何と言いようもなくなつかしく、ただ評判にだけ聞いていた吉野の、この真木の立っている山から見おろすと、吉野川の川瀬の全体にわたり、夜が明けて来れば朝霧が立ち、夕方になれば河鹿が鳴くので、それらを見たり聞いたりするとともに、衣の紐も解かずまろ寝をして、旅なので、吾一人だけいて、この清い河原を見るということは、残念なことであるよ。
【評】 吉野の風景に対して限りなき憧れをもってい、親しくそれを限にする機会を得ると、吉野川の清らかさに満足し、それとともに、その佳景を妻にも見せられないのを残念に思うというのてある。歌としては羈旅の範囲のものであるが、いわゆる旅愁には触れていず、それとしては楽観的なものであり、その楽観の原因が自然の佳景にあるという点は、この時代の特質で(168)ある。また、妻をいうに、きわめて婉曲であり、ほとんど暗示にとどめて、反歌によってやや明らかにしているのは、この歌の特色である。詠み方としては常凡であるが、真実性があって、それによって生かされているのは、作者の人柄である。この歌には左注があって、或本には前の歌と同じく養老七年行幸の際のものだと言っているのに、撰者はそれに疑いを残して作の年月は審《つまびら》かでないと言っている。行幸の供奉に加わっての歌とすると、賀の心のあるのが普通であろうが、それは供奉の者を代表して申すものであろうから、千年の歌名がそこまで至っていなければ、ないのも怪しむには足らず、また個人的のものとして詠めば、このような歌になったとしても、これまた怪しむには足りないことである。しかしこの歌の、「真木立つ山ゆ見降せば」というのは、歌柄から見て、展望をする為に山に登ったものとは定められず、また反歌で見ると、その山は高い「み船の山」であり、そこに逗留していたとみえるから、果たして行幸の供奉としてであったかどうかを疑わしめるところがある。何らかの官命を帯びて、み船の山に逗留していた時の作かも知れぬ。妻の上を言うのを憚るのも、身分が低く、官命を帯びての場合であれば、自然のことと言える。撰者の疑いを持つのも当然のことに思える。
 
     反歌一首
 
914 滝《たぎ》の上《うへ》の み船《ふね》の山《やま》は 畏《かしこ》けど 思《おも》ひ忘《わす》るる 時《とき》も日《ひ》もなし
    瀧上乃 三船之山者 雖畏 思忘 時毛日毛無
 
【語釈】 ○滝の上のみ船の山は 上の歌に出た。○畏けど 後世の「畏けれど」にあたる古格。これは上よりの続きで見れば、恐ろしいけれどもというので、山そのものに対しての感じを直写したものと取れる。山を神とする信仰は一般にあったので、その神に対しての感ということもありうるものであるが、ここはそれに触れてのものとは思えない。○思ひ忘るる時も日もなし 「思ひ忘るる」は、家にある妻に対しての心で、ここもまた省いてある。「時も日もなし」は、逗留の日のやや久しいことをあらわしている言い方。
【釈】 滝のあたりのこのみ船の山は恐ろしいけれども、我はそれにも紛れず、家にある妻を忘れる時とても日とてもない。
【評】 み船の山中に逗留していての感と取れる。山中が恐ろしいので、ますます妻を思わせられるのであるが、その恐ろしさ
に圧倒されないのを怪しむごとくに言い、それも妻を思う心の深さからだとしているので、人柄をあらわした作である。
 
     或本の反歌に曰く
 
(169)915 千鳥《ちどり》鳴《な》く み吉野川《よしのがは》の 川音《かはおと》の 止《や》む時《とき》なしに 思《おも》ほゆる公《きみ》
    千鳥鳴 三吉野川之 川音 止時梨二 所思公
 
【語釈】 ○千鳥鳴くみ吉野川の 「千鳥鳴く」は、長歌の「かはづ」を展開させたもの。み吉野川の修飾。○川音の 元暦本、西本願寺本など「音成」。金沢本、外三本、「音」の上に「川」があり、また成」は、金沢本、外一本にはない。「の」は、のごとくの意のもので 初句よりこれまでは止む時なし」の譬喩。○止む時なしに思ほゆる公 「公」は、長歌との関係から、妹を指しているものと取れる。妹を「君」と称するのは、古くはなく、この時代頃から稀れに見えるものである。これもそれである。下に詠歎が籠められている。
【釈】 千鳥の鳴く吉野川の川音のやまないごとく、我もやむ時もなく思われるところの妹よ。
【評】 その人柄のもつ感傷気分が、調べとなって現われ、訴へる力をもったものとなっている歌である。
 
916 茜《あかね》刺《さ》す 日《ひ》並《なら》べなくに 吾《わ》が恋《こひ》は 吉野《よしの》の川《かは》の 霧《きり》に立《たち》ちつつ
    茜刺 日不並二 吾戀 吉野之河乃 霧丹立乍
 
【語釈】 ○茜刺す日並べなくに 「茜刺す」は、赤色を発するで、意味で日にかかる枕詞。「日並べ」は、日を連ね。「なく」は、打消「ず」の名詞形。○吾が恋は 「恋」は、憧れで、ここは上よりの続きで、妻に対してのもの。○霧に立ちつつ 「霧に」は、「霧」は、憧れの苦しさから吐《つ》く溜息の、霧に似ているところから捉えたもの。用例の多いものである。「に」は、の状態に。「立ち」は、目の前に立つ意。「つつ」は、継続。
【釈】 旅の日を重ねているというのではないのに、妻に対する我が憧れの溜息は、吉野の川の霧の状態に立ち立ちして。
【評】 恋または嘆きの溜息を霧に譬えることは慣用されていたもので、すでに出た。ここではそれを、現在いる吉野川の川霧に較べたところに特色があると言える。この歌は、これまでのものと異なって、激しい恋を言っているのであり、調子も強いものであるが、一首の歌としてもつ力は、最も弱いものとなっている。類歌によるところが多い為である。新風を詠もうとしていた消息に触れうるものと言える。この二首は、前の反歌に較べると、技巧は加わっているが、味わいとしては劣ったものである。時を置いて新たに作った故と思われる。その点、上の金村と同じである。結果はとにかく、作者の歌に対する執着を示しているものである。
 
(170)     右、年月審かならず、但、歌の類を以つてこの次《ならび》に載す。
     或本に云ふ、養老七年五月、芳野離宮に幸せる時の作。
      右、年月不v審、但、以2謌類1載2於此次1焉。
      或本云、蕃老七年五月、幸2干芳野離宮1之時作。
 
【解】 撰者としての用意を語ったものである。この注によって、千年の歌も、「或本」というがごとく広く伝わっていたことが知られる。
 
     神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸せる時、山部宿禰赤人の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 続日本紀、聖武紀に、「神亀元年冬十月丁亥朔辛卯、天皇幸2紀伊国1。癸巳、行至2紀伊国那賀郡玉垣|勾《まがりの》頓官1。甲午、至2海部《あまべ》郡玉津島頓宮1。留十有余日。戊成、造2離宮於岡東1。壬寅。又詔曰、登v山望v海、此間最好。不v労2遠行1足2以遊覧1。故改2弱浜《わかのはまの》名1為2明光《あかてりの》浦1、宜下置2守戸1勿上v令2荒穢1。春秋二時、差2遣官人1|奠2祭《まつる》玉津島之神、明光浦之|霊《みたま》1。云々」とある。赤人のこの歌は、その行幸の供奉の中に加わっていて作ったものと思われる。この事については左注がある。
 
917 やすみしし わご大王《おほきみ》の 常宮《とこみや》と 仕《つか》へまつれる 雑賀野《さひがの》ゆ 背向《そがひ》に見《み》ゆる 奥《おき》つ島《しま》 清《きよ》き渚《なぎさ》に 風《かぜ》吹《ふ》けば 白浪《しらなみ》騒《さわ》き 潮《しほ》干《ひ》れば 玉藻《たまも》苅《か》りつつ 神代《かみよ》より しかぞ尊《たふと》き 玉津島山《たまつしまやま》
    安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背ヒ尓所見 奥嶋 清波瀲尓 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉藻苅管 神代從 然曾尊吉 玉津嶋夜麻
 
【語釈】 ○やすみししわご大王の 「やすみしし」は、天皇、次いでは皇太子、皇子に対する讃え詞。「わご」は、「わが」の転音で、既出。○常宮と仕へまつれる 「常宮」は、「常」は永久の意のもので、永久の宮。事実としてはしばらくの間の頓宮にすぎぬのであるが、尊んで申す称。「と」は、として。「仕へまつれる」は、御奉仕申し上げるで、意味の広い語である。大宮を御造営申すこともあらわしうる語であるが、ここは供奉としての日夜の奉仕である。○雑賀野ゆ背向に見ゆる 「雑賀野」は、「雑賀」という地名は残っており、和歌山市和歌浦町西北方にあたる地である。(171)「野」は、雑賀を籠めての野。「ゆ」は、より。ここに地名を言っているのは、大宮を申すには、その在る地をいうのがことを鄭重にすることで、礼であるとともに、以下言わんとしていることは、赤人自身のことであるから、宮を避けて言うべきでもあって、かたがた必要なものである。「背向」は、背向《そむか》いの転、背《そ》は背後《うしろ》である。頓宮より和歌浦は東南方にあたっているので、この「背向」は大宮を標準として、広い意味で言っているものと取れる。○奥つ島清き渚に 「奥つ島」は、沖の島で、下にいう玉津島である。今は玉津島は陸地続きとなっているが、当時は沖の島であって、地勢が変わったのである。「清き渚」は、奥つ島の渚で、今も海水のきわめて清らかである。○風吹けば白浪騒き 下の二句と対句となっており、「苅りつつ」の「つつ」がこれにも関係させてあって、永遠にわたって繰り返している状態として言っているもの。○潮干れば玉藻苅りつつ 「潮干れば」は、干潮の時刻が来れば。「玉藻」は、藻を讃えての称。「苅りつつ」は、「苅り」は、海人《あま》がその職業として苅っている意。「つつ」は、継続で、上に言ったように、永遠にわたって練り返して行なっていることとしてのもの。以上四句、赤人は眼前の状態となっている風に騒ぐ白浪、干潮の海人の藻苅りのさまに感動し、そのことの永遠性を感じたのである。○神代よりしかぞ尊き玉津鳥山 「神代」は、上を承けてのもので、遠い古という心だけではなく、神のこの地を産み給いし時の意で言っているもの。「しか」は、当時は、「かく」と通じて用いていた。これもそれで、このように。「尊き」は、風景に対して讃えた語であるが、その愛でたさの限りないのに、上の「神代」を絡ませ、「尊き」という語をもって讃えたのである。感性だけの語ではなく、信仰の伴ったものである。「尊き」は、上の「ぞ」の結で、連体形として下へ続く。「玉津島山」は、和歌山市和歌浦の玉津島神社のうしろにある奠供《てんぐ》山などの山々。「島山」は、島は陸より見ると山に見えるところから言い馴らしている語。下に詠歎が含められている。
【釈】 安らかに天下を御支配になられる我が大君の、永久の宮としてお仕え申しているところの、この雑賀野から背面に見られる、あの沖の島の清い渚には、風が吹くと白浪が騒ぎ、潮が干ると海人が玉藻を苅りつづけて、神代の昔からこのように尊いところのあの玉津島山よ。
【評】 この長歌は、その素材としては、玉津島の愛でたさを讃えることにあるが、その讃え方は、天臭を賀しまつる精神をもってしたもので、自然をとおして賀の心を徹底させたものであ(172)る。起首より「雑賀野ゆ背向に見ゆる」までは、一見作者の位置を言っているもののごとくみえるのであるが、その位置は、すべて大宮を標準としたもので、一語一語、緊密に大宮に関係させているのは、賀の精神からである。それを際立たないものにしているのは、赤人の歌才と用意とである。「奥つ島清き渚に」以下は、玉津島に即しての讃えであるが、その頂点としているのは、「神代よりしかぞ尊き」であり、それに先立ち、「風吹けば白浪騒き 潮干れば玉藻苅りつつ」をもってしているが、この対句は、眼前の光景に永遠性を看取してのもので、その永遠性の由って来たるのは「神代」である。これは我が国初の、二神国産みに対する信仰があって初めて言えるもので、それがなければ看取の出来ないものである。「風吹けば」「潮干れば」と、眼前の光景を叙し、「つつ」の一助詞によってただちに「神代」に繋ぎ行き、客観と主観と、平面と立体とを渾然一体としているところは、卓抜なものというべきである。これは人麿の歌に最も濃厚に現われている精神で、巻三(三〇四)「大王《おほきみ》の遠《とほ》の朝廷《みかど》とあり通ふ島門《しまと》を見れば神代し念ほゆ」はその適例であって、赤人のここの心もその範囲のものである。この歌は短いものではあるが、精神の緊張と、内容の充実と相俟ち、清純な調べをもって自然を生かして来ているところ、赤人の長歌方面を代表しうる一首である。
 
     反歌二首
 
918 奥《おき》つ島《しま》 荒磯《ありそ》の玉藻《たまも》 潮干《しほひ》満《み》ちて 隠《かく》ろひゆかば 思《おも》ほえむかも
    奥鴫 荒礒之玉藻 潮干滿※[人偏+弖] 隱去者 所念武香聞
 
【語釈】 ○奥つ島荒磯の玉藻 「奥つ島」は、上に出た。「荒磯」は、海岸の岩石の現われ連なっている所の称。「玉藻」は、呼び懸けてのもの。○潮干満ちて 「潮干」は、干潮。「満ちて」は、西本願寺本「満伊」。「伊」は、元暦本、外二本「※[人偏+弖]」となっている。旧訓は、「満」で切って「満ち」、「伊」は下へ続けて「いかくれゆかば」である。『新訓』は、元暦本などに従い、今のごとくに訓んでいる。「い隠れ」という例は、巻一(一七)「山の際《ま》に隠るまで」があるが、赤人のここの歌は、そうした古語を用いて屈折をもたせたものではなく、順直に、平明を期しているものとみえるから、『新訓』に従うべきである。「満ちて」は、満潮となって。○隠ろひゆかば思ほえむかも 「隠ろひ」は、「隠る」の継続を現わす語。「隠ろひゆかば」は、隠れ隠れして行ったならば。「思ほえむかも」は、恋しく思われるであろうよで、「かも」は詠歎。
【釈】 沖の島の荒磯に生えている玉藻よ。今の干潮が満潮となって、隠れ障れして行ったならば、恋しく思われることであろうよ。
【評】 干潮より満潮に移ろうとしている時に、沖の島である玉津島を見渡して、次第に潮に隠れ去ろうとする藻に対しての感である。見えているものが見えなくなり、有る物のなくなる時が、そのものに対する愛情の最も高まる時である。今は藻に対してそうした心を寄せているのである。海の光景は、奈良京の人の心を引くことの多いものであったから、それも伴っていよう。感傷にすぎるがごとくであって、自然に感じられるのはそれらの為である。この歌は反歌ではあるが、賀の心はなく、純粋の自然鑑賞である。しかし若の浦は天皇の酷愛し給う所であるから、そこの美を讃えるのは、賀の心につながりうるものとも言えよう。
 
919 若《わか》の浦《うら》に 潮《しほ》満《み》ち来《く》れば 潟《かた》を無《な》み 葦辺《あしべ》をさして 鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る
    若浦尓 塩滿來者 滷乎無実 葦邊乎指天 多頭鳴渡
 
【語釈】 ○潟を無み 「潟」は、干潟で、今は鶴の求食《あさ》っていた所としてのもの。「無み」は、ないゆえに。○葦辺をさして鶴鳴き渡る 「葦辺」は、海岸は葦の茂生しているのが普通で、これは海岸を具象的に言ったもの。「鳴き渡る」は、「渡る」は、広い範囲を一方から他方まで行くことで、鳴きながら飛び渡ってゆく意。これは玉津島より、他の海岸に向かってである。
【釈】 若の浦に潮が満ちて釆たので、今までの干潟がないゆえに、そこに求食《あさ》っていた鶴は、他の海岸の葦辺に向かって、鳴きながら飛び渡ってゆく。
【評】 前の歌に続いてのもので、これは満潮となって来た時の光景である。満潮で潟がなくなった為、そこにいた鶴が他へ飛んで行くというようなことは、当時の海岸には普通なことであったとみえ、それを詠んだ歌はかなりに多くある。この歌は、海の大景の上に鶴の行動だけを捉え、純客観的に、はっきりと言っている為におのずから画致があり、行動を言っているので動きがあるが、それを時間的に言っているので、落ちつきと静かさとがある上に、赤人の清純な調べによって十分に綜合し得ているので、それらが相俟って魅力をかもし出しているのである。歌品としてはむしろ前の歌のほうがまさっているが、一般性の多いゆえにこの歌のほうが人口に膾炙している。
 
     右、年月を記さず。但玉津島に従駕すと称《い》へり。因りて今、行幸の年月を検注して以つて之に載す。
      右、年月不v記。但※[人偏+稱の旁]v從2駕玉津嶋1也。因今檢2注行幸年月1以載v之焉。
 
(174)【解】 撰者の注で、題詞の年月は、資料とした原典にはないものであるが、作の内容から推して、撰者が加えたものだと断わったのである。
 
     神亀二年乙丑夏五月、芳野離宮に幸《いでま》せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
 
【題意】 この行幸の事は、続日本紀、聖武紀に載っていない。漏れたのである。
 
620 あしひきの み山《やま》も清《さや》に 落《お》ちたぎつ 吉野《よしの》の川《かは》の 河《かは》の瀬《せ》の 浄《きよ》きを見《み》れば 上辺《かみべ》には 千鳥《ちどり》数鳴《しばな》き 下辺《しもべ》には かはづ妻《つま》喚《よ》ぶ 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》も をちこちに しじにしあれば 見《み》る毎《ごと》に あやにともしみ 玉葛《たまづずら》 絶《た》ゆることなく 万代《よろづよ》に かくしもがもと 天地《あめつち》の 神《かみ》をぞ祷《いの》る 恐《かしこ》かれども
    足引之 御山毛清 落多藝都 芳野河之 河瀬乃 淨乎見者 上邊者 千鳥數鳴 下邊者 河津都麻喚 百礒城乃 大宮人毛 越乞尓 思自仁思有者 毎見 文丹乏 玉葛 絶事無 萬代尓 如是霜願跡 天地之 神乎曾祷 恐有等毛
 
【語釈】 ○あしひきのみ山も汁に 「あしひきの」は、山の枕詞。「み山」は、「み」は、美称。「山」は、吉野の山。「清に」は、ここは下の「たぎつ」につづく副詞で、音の状態。ここは、さやいでの意。○落ちたぎつ吉野の川の 「落ちたぎつ」は、「落ち」は、水が急傾斜をもって流れる意のもの。「たぎつ」は、沸き立つ意。離宮のある滝《たぎ》の辺りの景。○上辺には千鳥数鳴き 「上辺」は、上流。下の「下辺」と対させたもの。「数《しば》」は現在の屡《しばしば》で、屡はそれを畳んだ語。○百磯城の大宮人も 「百機城の」は、大宮の枕詞。「大宮人」は、今は供奉の廷臣全部の称。金村もその中の一人である。「も」は、もまたの意で、上の「千鳥」「かはづ」に並べた意のもの。○をちこちにしじにしあれば 「をちこち」は、遠近。「しじに」は、繁にで、その人数の多い意。「し」は、強め。○見る毎にあやにともしみ 「見る毎に」は、上の全体、すなわち吉野川の景と、供奉の人々を見るたびごとにで、自身を第三者の立場に立たせての言。「あやにともしみ」は、(九一三)に出た。譬えようもなくなつかしいので。○玉葛絶ゆることなく 巻三(三二四)に出た。「玉葛」は、「玉」は美称。「葛」は、その蔓の切れるところから「絶ゆ」につづく枕詞。「絶ゆることなく」は、上の状態の永続すること。○万代にかくしもがもと 「万代に」は、万年にで、永遠に。「かくしもがも」は、「かく」は、このように。「し」は、強め。「もが」は「も」を伴っての願望。「と」は、と思って。このようにのみあってくれよと思ってで、二句、上の二句を繰り返して(175)強めたもの。この四句は、離宮と、行幸の事に対しての賀で、上来、周囲を描くことによってそれらを暗示的に現わして、それに対して言っているものである。○天地の神をぞ祷る恐かれども 「天地の神」は、天神地祇で、あらゆる神々。「恐かれども」は、恐れ多いけれどもで、その神に対しての敬い。
【釈】 吉野のみ山もさやぐまでに音高く流れ落ちて沸き立つ吉野川の、その川瀬の清らかなのを見ると、上流には千鳥がしきりに鳴き、下流には河鹿が妻を喚んでいる。行幸の供奉の大宮人もまた、遠くまた近く多くの人々がいるので、それらすべてのさまを見るたびごとに、譬えようもなくなつかしく、このさまが中絶することなく、永遠にわたってこのようにのみあってくれよと思って、我は天地《あめつち》の神々を祷ることであるよ、恐れ多くはあるけれども。
【評】 金村のこの賀歌は、巻首の賀歌と同系列のもので、一に吉野の美を言っているものである。起首から、一首の半ば近い「かはづ妻喚ぷ」までは、吉野川の美観の描写である。行幸に関してのことは、「百磯城の大宮人も をちこちにしじにしあれば」だけであり、そしてそれは風景の美をたすける点景のごとき扱いを受けているのである。天皇につながる直接の賀の心は認められないものである。「見る毎にあやにともしみ」以下は、一見賀の心のもののごとくみえるが、実は絶景と多くの大宮人とのかもし出す愛でたさの永久を祈っているもので、そこに昭代を賀している心があるといえば言えもするが、しかしそれも間接なもので、要するに特殊な風景そのものの永続を願うにほかならぬものである。結末の「天地の神をぞ祷る恐かれども」に続き、それによって高揚させているのであるが、この語は、人麿ならば決して言わないものに思われる。天皇は神々を超えての絶対の尊い神にましますというのが古来の信仰であって、人麿は機会あるごとにそれを繰り返し言っているからである。この賀歌の精神の推移は、金村個人のことという面もあろうが、歌の上で見ると、自然の鑑賞という、歌としてはその文芸性の面を過重するところから、賀歌という実用性の面を過小にしたが為で、天皇を絶対の存在とする人麿の信仰とは距離の遠いものである。要するに時代が移るとともに信仰が薄れ、実用性のものであった賀歌が単に儀礼的なものとなり、それとともに文芸性のものに移ったのである。
 
     反歌二首
 
921 万代《よろづよ》に 見《み》とも飽《あ》かめや み吉野《みよしの》の たぎつ河内《かふち》の 大宮《おほみや》どころ
    萬代 見友將飽八 三芳野乃 多藝都河内之 大宮所
 
【語釈】 ○万代に見とも飽かめや 「万代に」は、永久に。「見とも」は、見ようとも。「とも」といふ助詞は、動詞、助動詞の終止形につづくの(176)が普通で、「見る」だけは例外である。「飽かめや」の「や」は、反語。飽こうか、飽きはしない。○たぎつ河内の大宮どころ 「たぎつ河内」は、沸き立つ流れの繞らしている内。「大宮どころ」は、大官すなわち皇居のある所の意であるが、大宮そのものをも言い、ここはそれである。
【釈】 永久にわたって見ていようとも、見飽きるということがあろうか、ありはしない。このみ吉野の、沸き立つ流れの繞らしている内の大宮は。
【評】 これは長歌の内容を要約して練り返しているもので、反歌としては典型的のものである。ここに至って初めて大宮どころを言って、賀歌の体にかなわしめたのである。短歌形式をもって言ったほうが、さわやかに、力強く心を現わせるところは、時代的である。反歌としてのみ存在しうる歌である。
 
922 人皆《ひとみな》の 寿《いのち》も吾《われ》も み吉野《よしの》の 滝《たぎ》の床磐《とこは》の 常《つね》ならぬかも
    人皆乃 寿毛吾母 三吉野乃 多吉能床磐乃 常有沼鴨
 
【語釈】 ○人皆の寿も吾も 「人皆」は、元暦本、外一本は「皆人」とあるが、集中「人皆」のほうが用例が多い。それに従う。「人皆」は、反歌として上の歌の意を承けたものである関係上、供奉の廷臣全部をさしたものと取れる。「寿」は、寿命。「吾も」は、我の寿命も。○滝の床磐の 「滝」は、離宮のある辺りの、吉野川の名称。そこはことに巨岩の多い所である。「床磐」は、巨きな岩の、上部が平らで、床に似た形のものの称。永久にあるものとして言っている。「の」は、のごとく。○常ならぬかも 「常」は、恒久不変の意。「ならぬかも」は、「ぬ」は打消、「か」は疑問、「も」は詠歎の、それぞれ助辞。あらぬものかと、嘆きをもって言い、あってくれよと、願望の意を現わしたもので、「あれかし」というと同意である。「あれかし」を強く言おうとして、屈折を付けて粘りをもたせたもの。集中、用例の少なくないものである。恒久であってくれよで、この願は、限りなくも行幸の供奉を仕えまつり、この愛でたいさまを目にしたいとの意で、賀の心よりのものである。
【釈】 供奉の人々の寿命も、我が寿命もまた、み吉野のこの滝の辺りの床砦のごとく、恒久であってくれよ。
【評】 前の歌を承けたもので、「見とも飽かめや」を延長させて、限りなく見たい心を言ったものである。個人的のことを言って いるごとくで、賀の心のものである。この歌は、反歌としてでなくては全く存在し難いものである。
 
     山部宿禰赤人の作れる歌二首 并に短歌
 
【題意】 年月がなく、撰者がそれを問題としていないところを見ると、前の歌と同時のものとみえる。なおこのことについては、(177)左注がある。
 
923 やすみしし わご大王《おほきみ》の 高知《たかし》らす 吉野《よしの》の宮《みや》は 畳《たたな》づく 青垣隠《あをがきごも》り 河次《かはなみ》の 清《きよ》き河内《かふち》ぞ 春《はる》べは 花《はな》咲《さ》き撓《をを》り 秋《あき》されば 霧《きり》立《た》ち渡《わた》る その山《やま》の いや益益《ますます》に この川《かは》の 絶《た》ゆること無《な》く 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》は 常《つね》に通《かよ》はむ
    八隅知之 和期大王乃 高知爲 芳野宮者 立名附 青垣隱 河次乃 清河内曾 春部者 花咲乎遠里 秋去者 霧立渡 其山之 弥益々尓 此河之 絶事無 百石木能 大宮人者 常將通
 
【語釈】 ○高知らす吉野の官は 「高知らす」は、「高」は、讃え詞。「知らす」は、知るの敬語で、御支配になる意。○畳づく青垣隠り 「畳づく」は、畳まり付くの意で、ここは、山の重畳している状態を言ったもの。「青垣」は、青い色の垣で、青山が垣のごとき状態をもって、四方を繞らしている意。「隠り」は、宮がその内に籠もっている意。神の宮は清浄なるべき所として、その周囲から隔離する為に垣を繞らすのが習いとなっているのであるが、吉野の官は、畳づく青山がその垣となっているというので、宮を讃えるには最もふさわしい語である。これは同意のものがすでに人麿にあった。○河次の清き河内ぞ 「何次」は、河の続いていることで、山並《やまなみ》に対する語。ここは河の流れで既出。「清き河内ぞ」は、清浄なる河内の地であるよの意で、「河次」も青山と同じく、宮のある河内を清浄ならしめているとして言ったもの。これも同意のものが人麿にある。四句、宮を中心として、青山が外郭の垣をなし、河次がさらに内部を繞っているとして、宮を讃えたもの。○春べは花咲き撓り 「春べ」は、春の頃。「撓《をを》り」は、撓《たわ》みの古語で、用例の多いもの。「咲き撓り」は、枝も撓むまで咲きで、山の状態。○秋されば霧立ち渡る 「秋されば」は、秋が来れば。「霧立ち渡る」は、霧が立ち続くで、これは河の状態。○その山のいや益益に 「その山の」は、畳づく山のごとく。「いや益益に」は、今を標準として、いよいよますますにといい、結句の「通はむ」に続けたもので、山の盛んなごとく、供奉の大宮人の数も加わっての意のもの。○この川の絶ゆること無く この川水のごとく、中絶することなく。○常に通はむ 恒久にわたって、供奉として京の大宮よりこの吉野の離宮に通おうで、天皇の御上は憚って申さず、臣下の行動によって行幸のことを暗示したもの。 
【釈】 やすみししわが大王《おおきみ》の御支配になられるところの吉野の宮は、周囲に重畳する山並《やまなみ》を御守りの青垣として、その内に籠もり、河の流れの行き繞る、その清き河内にあるものぞ。春の頃にはその山は、枝も撓むまでに花が咲き、秋が来るとその河には霧が立ち続く。その山のごとくにいよいよますます盛んに、この川のごとくに中絶することなく、大宮人は供奉として、京の大宮よりこの離宮《とつみや》にと通おう。
【評】 伝統の賀歌の精神を十分にもち、それにふさわしい緊張した態度をもって詠んだものである。その結果として、一首は(178)綜合が完全に、立体的な簡潔なものとなり、語の続きは緊密となって、感動よりも意力の見えるものとなっている。したがって全体に沈静なものとはなっているが、賀の心よりの風景の描写の美しさがあり、持ち味の清純な調べがある為に、窮屈な感は起こさせないものである。これを前の金村の歌と較べると、金村は時代の趨勢である新風に無自覚に乗っているのに、赤人は人麿を伝統として、倣って離れず、旧風を守っているのである。赤人も一方には新風を拓いているのであるが、歌の本質を解し、旧風を守るべき時には守っていたのである。これは個性というよりも識見の範囲のことである。(九一七)に並びうる作である。
 
     反歌二首
 
924 み吉野《よしの》の 象山《きさやま》の際《ま》の 木末《こぬれ》には 幾許《ここだ》も騒《さわ》く 鳥《とり》の声《こゑ》かも
    三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞
 
【語釈】 ○象山の際の木末には 「象山」は、吉野郡吉野町。吉野離宮址の前方に立ち、吉野群山の一山。「際《ま》」は、間、あるいは中。「木末」は、木のうれの約。○幾許も騒く 「幾許」は、甚だ多く。「も」は、詠歎。
【釈】 み吉野の象山の中の木立の末《うれ》には、甚だ多くも騒いでいる鳥の声であるよ。
【評】 長歌の反歌としてのものであるが、長歌の賀の精神に直接につながるところはないものである。しかし吉野の地の風景に感動するということは、間接にはつながりを持ちうるものと言える。こうしたものを反歌としたことには、時代の風があるというべきである。感動は、幽寂な境における諸島の鳴く聲の、京の平常とはちがって甚だ感を引くものであったということであるが、事は平凡であり、また単純でもあって、赤人の感性によって初めて強い感動となりうるものである。ここには個人性がある。この歌は自然の形象そのものだけに全感動を托して、主観の一語をも鋏まないものであるが、これは高市黒人の系統を引いて、赤人の開拓した境で、この歌はこれにつぐものとともに、その典型的なものと言える。「み吉野の象山の際の木末には」と、地名を二つまで重ねて重く言っていることは、「幾許も騒く鳥の声かも」という、語としては誇張のあるものを、自然な感のあるものと化していることで、これは構成上の用意と言えるが、同時にこの重い地名は、「鳥の声」にも重みを加えるものとなって、沈静の感を起こさせ、気分を深化させるものとなっているのである。また、一首のもつ澄んだ調べは、赤人の主観の直接な現われであって、これはこの歌に限ってのものではないが、この歌にあってはそれが取材と融け合って、魅力の大部分をなしているのである。
 
(179)925 ぬば玉《たま》の 夜《よ》の深《ふ》けぬれば 久木《ひさぎ》生《お》ふる 清《きよ》き河原《かはら》に 千鳥《ちどり》数鳴《しばな》く
    烏玉之 夜乃深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴
 
【語釈】 ○ぬば玉の夜の深けぬれば 「ぬば玉の」は、夜の枕詞。「深けぬれば」は、「ぬれ」は、完了。更けて来たのでで、物音の際立って聞こえる時として言ったもの。○久木生ふる清き河原に 「久木」は、今の「あかめかしわ」であろうというが、異説もある。山野に自生する落葉喬木。菓は大きさ三、四寸。先が尖り、三尖五尖となっている。夏、緑葉色の花を開く木。「久木生ふる」は、そうした久木が生えているところの。「清き河原に」は、清らかな吉野川の河原に。この二句の続きは、「清き」は、河原自体のもっているもので、「久木」はその河原の点景にすぎないものだということである。さらにいうと、「久木」は「清き」に必然的な関係はないことである。深夜、こうした光景の見えるのは、眼に見たからであって、月明とか、少なくとも強い星明りによらなければならないことである。○千鳥数鳴く 千鳥がしばしば鳴いているで、千鳥はその声の低く澄んだもので、それが瀬の音に紛れずに聞こえるのは、「夜の深けぬれば」の条件の為である。
【釈】 夜が深けて来たので、久木の生えている、清らかな河原に、千鳥がしばしば鳴く。
【評】 前の歌を承けたものである。昼の山に対して夜の河、木に遊ぶ諸鳥に対して河原に鳴く千鳥として同じく賀の心をもって吉野の景を讃たものである。讃えるのに、そこに棲む小鳥の鳴き声のみを選んでいるのは、赤人の心が特にそれに引かれたので、性情より発しているもので、すなわち反歌は個人的な所好を加えたのである。河原の千鳥を聞いた場所は、「久木生ふる」所で、これは供奉の者の詰める舎の辺りにあったものか、あるいは赤人が夜の河原を愛でてそうした所へ出て行っていたのかはわからない。とにかく夜目に見て言っているのであるから、月か星の明りで見たものと思われる。千鳥は夜も鳴く習性をもっている鳥であるから、その声は普通のものである。したがって「ぬば玉の夜の深けぬれば」と重く断わっているのは、それまでは河瀬の音に紛れて聞こえずにいた千鳥の声が、夜更けて次第に瀬の音が沈むと、その低い声だけが浮かび上がって聞こえて来るというので、その声によって吉野の夜の幽寂と清澄を極めていることをあらわしたものである。瀬音に触れず、「清き河原」と特に「清き」を添えて言っているのは、その心からである。綜合力の強く働いた、単純な形に微細を織り込み、強さを内に蔵して、沈静な趣を尽くした歌である。前の反歌と相並んで、赤人の面目を発揮しているものである。なおこの歌は、「夜の深けぬれば」を、「千鳥数鳴く」の環境と見ず、その原因と見れば、さらに遙かに複雑なものとなって来るのであるが、そう解すると全く個人的な感のものとなり、反歌としての賀の心を失なって来るので、上のごとくに解したのである。
 
926 やすみしし わご大王《おほきみ》は み吉野《よしの》の 蜻蛉《あきづ》の小野《をの》の 野《の》の上《へ》には 跡見《とみ》居《す》ゑ置《お》きて み山《やま》(180)には 射目《いめ》立《た》て渡《わた》し 朝猟《あさかり》に 鹿猪《しし》履《ふ》み起《おこ》し 夕狩《ゆふかり》に 鳥《とり》踏《ふ》み立《た》て 馬《うま》竝《な》めて 御猟《みかり》ぞ立《た》たす 春《はる》の茂野《しげの》に
    安見知之 和期大王波 見吉野乃 飽津之小野笶 野上者 跡見居置而 御山者 射目立渡 朝※[獣偏+葛]尓 十六履起之 夕狩尓 十里※[足+搨の旁]立 馬並而 御※[獣偏+葛]曾立爲 春之茂野尓
 
【語釈】○蜻蛉の小野の 「小」は、美称。蜻蛉野は、吉野離宮の周囲の野の称。○野の上には跡見居ゑ置きて 「野の上」の「上《へ》」は、上《うへ》の転音。野そのものを指して言ったもので、単に「野に」というと心は同じであり、感を強めたもの。「は」は、下の「山」に対させたもの。「跡見」は、狩猟に関する語で、獣の通った足跡を見て、その行方を尋ねることで、ここはその事を受持としている人々。「居ゑ置き」は、配置したというに当る。○み山には射目立て渡し 「み山には」は、「み」は、美称。山のほうには。「射目」は、狩猟の時、鳥獣を射るところ。上の「跡見」に対するもの。「立て渡し」は、広い範囲に設備して。○朝猟に鹿猪履み起し 「朝猟」は、朝する猟で、猟をするに好適な時間。同じ意昧で、下の「夕狩」に対させてある。「鹿猪」は、宍《しし》すなわち肉で、その肉を食用とする獣の総称であるが、「鹿猪」はその代表であるところから称となったもの。「履み起し」は、木草の中に寝てい、潜んでいるのを、履んで起こす意で、追い出すことを具体的に言ったもの。朝猟は獣を目的とする意。○夕狩に鳥踏み立て 「鳥踏み立て」は、同じく鳥を追い出すことを具体的に言ったもの。鳥は夕方早く塒につくので、夕狩の目的とするもの。以上四句は、狩猟の型となっていることを、対句の形で言ったもの。○馬竝めて御猟ぞ立たす 「居竝めて」は、乗馬を連ねてで、馬上の人は大宮人。「御猟」は、天皇の猟としての敬語。「立たす」は、猟を催すことを「立つ」と言っている。その敬語。これは上の「ぞ」を終止形で結んだもので、当時の語法。○春の茂野に 「茂野」は、草の茂っている野。猟は本来は、草の枯れた冬季を最適の時とするのであるが、ここは、行幸中の臨時の御催しとしてのことで、「茂野」という時期にさせられたのである。
【釈】 やすみししわご大王は、吉野の蜻蛉の野の、その野のほうには跡見を配置し、み山のほうには射目を広い範囲に設けて、朝猟には鹿猪《しし》を追い出し、夕狩には鳥を飛び立たせ、乗馬を連ねて御猟を催させられることであるよ、春の草の茂った野に。
【評】 狩猟は当時にあっては、男子最上の興味としていたものであるから、天皇には行幸中の御慰みの一つとして、離宮を繞らす蜻蛉野において御催しになり、赤人は陪観者の立場にあって詠んだものとみえる。赤人の詠む態度は、これを盛事として、讃えの心をもって詠もうとしたので、したがって御猟の規模の盛んなことを叙するにとどまり、猟の興味の頂点である、鳥獣の現われて来るところには及ぼうとしていないのである。大景を客観的に、落ちついて詠んでいるところにその特色は見えるが、歌としてはさしたる節《ふし》のないものである。
 
(181)     反歌一首
 
927 あしひきの 山《やま》にも野《の》にも 御猟人《みかりびと》 得物矢《さつや》手狭《たばさ》み 散動《さわ》きたり見ゆ
    足引之 山毛野毛 御※[獣偏+葛]人 得物矢手挾 散動而有所見
 
【語釈】 ○御猟人 跡見、射目、大宮人など、猟に関係している人の全部を言ったもの。天皇への奉仕として行なっているので、その意で敬って「御」を添えている。○得物矢手挟み 「得物矢」は、幸矢《さつや》に当てた字。「幸《さつ》」は、山|幸《さち》、海|幸《さち》など、獲物を幸《さち》として言ったので、「幸《さつ》」はその転音。「手狭み」は、「手」は、接頭語とも、指の意ともいう。指というに従う。指に挟んでで、矢を番《つが》えている状態。○散動きたり見ゆ 「散動」は、訓が定まっていない。旧訓「みだれ」。『代匠記』は「とよみ」。『攷証』、『古義』は、「さわぎ」。いずれにも訓みうる文字であるが、距離を置いて、盛んなさまが形として見えたものと取り、「さわき」に従う。「たり」は、下に「見ゆ」の続く場合は、動詞、助動詞の終止形をもってするのが、この時代の格である。
【釈】 山にも野にも、奉仕の御猟人は、幸矢《さつや》を弓に番えて、一面に乱れ立っているのが見える。
【評】 御猟場の、まさに獲物が現われて活動に移ろうとする直前の、緊張した状態を描いたもので、長歌の心を押し進めたものである。反歌として要を得たものである。静中動を含んだ、機微な空気をあらわしている。
 
     右、先後を審にせず。但便を以ての故に、この次に載す。
      右、不v審2先後1。但以v便故、載2於此次1。
 
【解】 「先後を審にせず」とは、上の長歌との先後である。上の歌は「五月」のものとなっており、これは「春の茂野」とあるので、この歌は果たしてこの年のものであるかも審かでないと言える。撰者の用意を示したものである。
 
     冬十月、難波宮に幸《いでま》せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 この行幸は、続日本紀、聖武紀に、「神亀二年冬十月庚申、天皇幸2難波宮1」とある時である。
 
928 押照《おして》る 難波《なには》の国《くに》は 葦垣《しがき》の 古《ふ》りにし郷《さと》と 人皆《ひとみな》の 念《おも》ひ息《やす》みて つれもなく ありし(182)間《あひだ》に うみをなす 長柄《ながら》の宮《みや》に 真木柱《まきばしら》 太高《ふとたか》しきて 食《を》す国《くに》を 治《をさ》め給《たま》へば 奥《おき》つ鳥《とり》 味経《あぢふ》の原《なら》に もののふの 八十伴《やそとも》の雄《を》は 廬《いほり》して 都《みやこ》なしたり 旅《たび》にはあれども
    忍照 難波乃國者 葦垣乃 古郷跡 人皆之 念息而 都礼母無 有之間尓 績麻成 長柄之宮尓 眞木柱 太高敷而 食國乎 治賜者 奥鳥 味經乃原尓 物部乃 八十伴雄者 廬爲而 都成有 旅者安礼十方
 
【語釈】 ○押照る難波の国は 「押照る」は、隈なく照る意で、難波が地勢の関係上、日光が隈なく照るので、讃えの意での枕詞という解に従う。「難波」は後の摂津。「国」は、古くは狭い一劃の地をも称した語で、既出の例が多い。ここもそれで、下の「郷《さと》」と同意語として用いているもの。○葦垣の古りにし郷と 「葦垣」は、葦を編んで造った垣で、垣としては粗末なもの。その古びやすいところから、「古り」にかかる枕詞。「古りにし郷と」は、「に」は、完了で、古くなってしまった里としてで、この「郷」は、下の「長柄」「味経」などである。古くなってというのは、長柄宮は古は皇居であったが、年経て衰えてしまっていた意で言っているもの。○人皆の念ひ息みて 「人皆」は、すべての人で、既出。「息みて」は、止《や》めてで、思ひ止《や》めては、問題とせずしての意。○つれもなくありし間に 「つれもなく」は、同情なくで、「も」は、詠歎。没交渉にしていた間にの意。○うみをなす長柄の宮に 「うみを」は、績《う》んだ麻《を》で、麻の皮の繊維をつむいで糸としたもので、当時の織物の主要材料。「なす」は、のごとくで、その丈の長いところから「長」にかかる枕詞。「長柄の宮」は、日本書紀、孝徳紀に、「元年冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷2都難波長柄豊碕1」とある宮で、旧く孝徳天皇の皇居であり、聖武天皇はそれを改築して離宮となされたのである。その他は明らかではないが、大阪城の付近(法円坂町一帯)とする説と、大淀区豊崎本圧という説とがある。高津宮の旧址に近い。○真木柱太高しきて 「真木柱」は、檜の柱。檜は建築用材の中で最も貴い物で、「真木柱」は、ここでは宮柱をあらわしているもの。「太」「高」は、いずれも讃える詞で、「しき」に続くもの。「しき」は、敷きで、大体支配の意に用いるが、意味の広い語で、ここは造営の意。真木柱をもって、太く高く御造営になってで、結局、結構に御造営になっての意。「太高」は、語感としては「真木柱」にも繋がりをもつ語である。これは事としては、古の長柄豐碕宮を御改築になったことである。○食す国を治め給へば 「食す国」は、御支配になる国で、わが国の全土。「治め給へば」は、御支配になれば。この二句は、難波宮へ御遷都のように聞えるが、天皇は行幸のしばらくの間も、その大宮において大権を行なわせられるので、行幸ということを、大権のほうを主として、尊んで言っている語。○奥つ鳥味経の原に 「奥つ鳥」は、沖の鳥で、その味鳧《あじかも》と続け、「味」の枕詞としたもの。「味経の原」は、日本書紀、孝徳紀に、「白雉元年春正月辛丑朔、車駕幸2味経宮1、観2賀正礼1」とあり、又、「二年十二月晦、於2味経宮」1,請2二千一首余僧尼1、使v読2一切経1」ともあって、ここに豐碕宮の別宮があったのである。今、大阪市天王寺区に味原町、下味原町があり、そこだという。聖武天皇はこの味経宮をも御改築になられた。○もののふの八十伴の雄は 「もののふ」は、物の部《ふ》で、部は朝廷へその職業をもって奉仕する集団の意。「八十伴」は、「八十」は、多くの数。「伴」は、集団。「雄」は、「緒」で、集団の長。全体では、物の部《ふ》である多くの奉仕集団の長で、廷臣の全部というこ(183)とを、その木質を言うことによって具体化した称。○廬して都なしたり 「廬して」は、廬を作っての意で、「廬」は、供奉としてそこにとどまる為の仮の家。「都なしたり」は、原文「都成有」。旧訓「みやことなせり」。『代匠記』は、「みやこなしたり」。『考』は「みやことなれり」と改めている。『新訓』は『代匠記』に同じ。これに従う。都の状態と変わらせているの意。供奉の廷臣が多く、そのさまの賑わしいということは、やがて天皇の御稜威の現われであるから、強く積極的であるほうが、賀の心にかなうと取れる。○旅にはあれども 「旅」は、その家を離れた地の総称であるが、ここは、その家のある都を主とし、行幸の供奉としている地の意で言ったもの。
【釈】 難波国は、今は古の郷であるとして、すべての人が問題とせず、没交渉にしていた間に、天皇は長柄宮に、真木柱で結構にも御改築を遊ばされ、御支配の全国土をここにお治めになる御状態にいらせられるので、味経の原には、供奉の廷臣のことごとくがそれぞれ廬を作って、そこを都と変らせている、行幸の供奉としての旅ではあるけれども。
【評】 難波宮に行幸のあった時、供奉の中に加わっていた金村が、その地で作った賀の歌である。構想は、賀の歌の本質として天皇の御稜威を讃えたもので、それをするに、難波宮の荒廃していたことと、それを御改築になり、今また行幸があったので、その荒廃していた処が、都の状態と一変したということを対照し、それによって讃えの心を現したもので、賀歌としては要を得たものである。対照の上からは、難波宮の古と今とを際やかにすることが大切であるが、事、天皇に関するので、尊敬の心より距離を置き、おおまかな言い方をしている。荒廃を言うに、「人皆の念ひ息みてつれもなくありし間に」と、直接目に見てのこととせず、また御改築を言うに、「真木柱太高しきて」というにとどめ、現在の行幸を言うには、「食す国を治め給へば」と、鄭重なる言い方をしているのは、すべてその用意からのことで、一首の中心たるべき旧観の一変ということは、供奉の者の舎のある「味経の原」に譲っているのは、すべてこの用意からと取れる。供奉の臣下のほうも、天皇との関係上おおまかにせざるを得ないが、此方はつとめて誇張を加え、「もののふの八十伴の雄」と、廷臣の全部を挙ってのことであるかの如く言い、また、自身等の舎をいうに、「味経の原」の「原」と関係させて「廬」と言い、それを「都なしたり」と誇張し、さらに「旅にはあれども」を言い添えてその感を強めているのである。これら総て自然を失うまいとしての続けではあるが、誇張して感を強めようとする意図の伴っているものであり、その意図がすなわち賀の心なのである。一首平面的に過ぎ、魄力の足らざるものがある。これは大体金村の人柄によることであるが、他の個人的な心を詠んだものよりも一層であるのは、歌の性質上、細心にならざるを得なかった為かと思われる。
 
     反歌二首
 
929 荒野《あらの》らに 里《さと》はあれども 大王《おほきみ》の しきます時《とき》は 都《みやこ》となりぬ
(184)    荒野等丹 里者雖有 大王之 敷座時者 京師跡成宿
 
【語釈】 ○荒野らに里はあれども 「荒野」は、人の立ち入ったことのない野。「ら」は、音調の為に添えたもの。「に」は、の状態にの意。「里」は、長歌の「難波の国」。○大王のしきます時は 「しきます」は、長歌にあったものと同意。宮を御造営になり、行幸なさったことを言っているもので、ここは行幸を主としたもの。○都となりぬ 「なりぬ」は、変わった。
【釈】 人跡のない野の状態で里はあったけれども、大君の行幸遊ばされる時は、賑わしい都と変わった。
【評】 長歌の意を要約して、天皇の御稜威を讃えたもので、反歌の型に従ってのものである。この心は天皇に対する賀歌の基本となっているもので、したがって類歌の少なくないものである。事の性質上、明るさはもっているが、さわやかさまでは至っていない。その点は長歌と同様である。
 
930 海未通女《あまをとめ》 棚無《たなな》し小舟《をぶね》 榜《こ》ぎ出《づ》らし 旅《たび》のやどりに 楫《かぢ》の音《と》聞《きこ》ゆ
    海未通女 棚無小舟 榜出良之 客乃屋取尓 梶音所聞
 
【語釈】 ○海未通女 海人《あま》の女の意。「海人《あま》」は、部族の名から、漁業をする者の総称に転じたもの。「未通女」は、女を愛する意から若い者として言いかえたもの。○棚無し小舟 巻一(五八)に出た。「棚」は、舟の側板の意で、それのない舟は一枚板で、それを舟底とも舷ともしたもの。「小舟」は、小さい舟。小さい舟を具体的に言ったもの。○榜ぎ出らし 「らし」は、眼前を証としての推量。証は下の「音」。○楫の音開ゆ 「楫」は、今の櫓。
【釈】 海人の女が、その業をするために、棚無し小舟を漕ぎ出すのであろう。我が旅の宿りに、櫓を使う音が聞こえる。
【評】 この歌は、反歌とはいうが、賀の心をもったものではなく、個人的興味だけのものである。奈良の宮人にとっては、海の景は、官命で旅をする時とか、海近い所へ行幸のあった際、供奉に加わるとかいう特別の場合以外には接しられず、したがって珍しく興味の多いことだったのである。歌としては平凡なものであるが、生活に即しての実感である。しかしこれを反歌として添えるということは、賀歌の精神の衰えと見なくてはならない。
 
     車持朝臣千年の作れる歌一首 并に短歌
 
(185)931 鯨魚《いさな》取《と》り 浜辺《はまべ》を清《きよ》み うち靡《なび》き 生《お》ふる玉藻《たまも》に 朝《あさ》なぎに 千重浪《ちへなみ》より 夕《ゆふ》なぎに 五百重波《いほへなみ》よる 辺《へ》つ浪《なみ》の 益《いや》しくしくに 月《つき》にけに 日《ひ》に日《ひ》に見《み》とも 今《いま》のみに あき足《た》らめやも しらなみの い開《さ》きめぐれる 住吉《すみのえ》の浜《はま》
    鯨魚取 濱邊乎清三 打靡 生玉藻尓 朝名寸二 千重浪縁 夕菜寸二 五百重波因 邊津浪之 益敷布尓 月二異二 日日雖見 今耳二 秋足目八方 四良名美乃 五十開廻有 住吉能濱
 
【語釈】 ○鯨魚取り浜辺を清み 「鯖魚取り」は、鯨を取るで、意味で海、あるいはその延長の浜へも続く。ここは浜。「浜」は、砂より成っている海岸で、岩より成っている磯に対させて用いている。「清み」は、清いので。○うち靡き生ふる玉藻に 「うち靡き」は、玉藻の状態。「玉藻」は、藻をたたえての称。○朝なぎに千重浪より 「朝なぎ」は、海の朝の凪。「千重浪」は、千重に続いて来る浪で、絶えざる浪を具象的に言ったもの。この語は多くの場合、激浪に対して言っているが、ここは、朝なぎの海のものとして言っているので、漣であり、またその漣は、上に続いて玉藻に寄せるものである。○夕なぎに五百重波よる 「五百重波」は、千重浪と心としては同じで、また成語でもある。語だけを変えたもの。二句、上の二句に対句としたもので、感を強める為に繰り返した意のもの。○辺つ浪の益しくしくに 「辺つ浪の」は、「辺」は、沖に対しての岸寄り。「の」は、のごとくで、岸寄りの浪のごとくに。この「浪」は、上の「千重浪」「五百重波」を承けたもの。「益しくしくに」は、「しく」は、繁くで、「しくしく」は、それを重ねて強めたもの。この上、限りなく繁くで、下の「見る」に続く。○月にけに日に日に見とも 「け」は、日。「見とも」は、未来の仮定。月に日に、日々に見ようともで、「あき足る」に続く。○今のみにあき足らめやも 「今のみ」は、現在だけ。「あき足らめやも」は、飽き足ろうか、飽き足りはしないで、「や」は、「む」の已然形「め」について反語をあらわす。「も」は、詠歎。○しらなみのい開きめぐれる住吉の浜 「しらなみ」は、上の浪を感覚的に言いかえたもの。「い開き」は、「い」は、接頭語。「開き」は、高まる意。日本書紀、神代紀に、「秀起浪穂《さきたてるなみほ》之|上《へに》云々」とあり、注に「秀起此云2左岐陀弖屡《さきたてる》1」とあって、「さき」はその「秀」である。「めぐれる」は、下の住吉の浜の周囲に隈なく立っているの意。「住吉の浜」は、今の大阪市住吉区一帯、住吉神社の浜で、下に詠歎が含まれている。
【釈】 浜辺が清いので、靡いて生えているところの藻に、朝凪には千重と続くさざ浪が寄って来、夕凪には五百重と続くさざ浪が寄って来る。その浪のごとくに、この上限りなく度《たび》を重ねて、月に日に、日々に見ようとも、現在だけで飽き足ろうか飽き足りはしない。白浪の高まって寄りめぐらしているところのこの住吉の浜よ。
【評】 歌で見ると、千年が初めて住吉の浜に立ち、そこの浜辺に生えている藻に、引続いてさざ彼の寄せている状態を見て、上の金村の反歌の二首目の心と同じく、海珍しい心から感興に堪えられず、その心を長歌形式をもって詠んだものである。自(186)然の可憐な光景というにすぎないものを、長歌形式をもって詠むということは、その事がすでに珍しいことである。長歌はこの時代には古い形式となり、行幸の賀など、儀礼の心をもって改まって対うべき際にその形式を用いたが、個人的のことになると、余程強い感動を起こした場合でないと用いてはいない。その意味でこの歌は、取材に合わせては形式が珍しいのであるが、これは千年が、その嘱目した光景から強い感動を受けたことをあらわしているものと言うべきであろう。この歌は、謡い物の脈を濃厚に引いているものである。「益しくしくに、見とも」と言っているところから見ると、千年は初めてその景を目にしたのであるが、それを叙するには、「朝なぎに千重浪より夕なぎに五百重波よる」と、すでに朝夕に見ているがごとき言い方をしている。これは対句というよりも、むしろ、古風な謡い物の型として用いている繰り返しを倣ったものと言える。またその「波」を承けて、「辺つ浪の」と譬喩として、抒情に転じてゆく敏活さにも、同じく謡い物の風がある。形式としてはそのように古いが、心としては、純叙景のみをもって一首としているところ、また感性の柔らかく細かいところも新しいものである。藻に寄せて来るさざ波の趣を眼目としているごときは、人麿にも見えたものであるが、その調べの柔らかく細かいのと相俟って、本質的のものと言える。すぐれた作とは言えないが、特色のあるものである。
時の窮まりなさを言ったもの。如く 「長き」
 
     反歌一首
 
932 白浪《しらなみ》の 千重《ちへ》に来寄《きよ》する 住吉《すみのえ》の 岸《きし》の黄土粉《はにふ》に にほひて行《ゆ》かな
    白浪之 干重來縁流 住吉能 岸乃黄土粉 二寶比天由香名
 
【語釈】 ○白浪の千重に来寄する 「来寄する」は、寄り来るの意の、上代の言い方で、一般的のもの。長歌を承けて言っている。○岸の黄土粉に 「黄土粉」は、埴生の文字に代えたものである。「埴」は、黄色また赤色の土に通じて用いる称で、「生」は、それの出る所の意であるが、合して埴その物の称としたものである。「はにふ」は、「黄土粉」の文字を当てているのは、住吉の開眼にある物の性質をあらわそうとしてである。○にほひて行かな 「にほふ」は、意味の広い語で、ここは染まる意。「行かな」は、「な」は自己に対しての願望。衣を染まらせて行こうよという意。旅衣をその途中の地のなつかしいものである花の汁、埴などで染めるのは当時の風で、例の多いものである。住吉の埴で染めることは、巻一(六九)「草枕旅行く君と知らませば岸の埴生《はにふ》ににほはさましを」があった。
【釈】白波が千重と続いて寄せて来るこの住吉の、岸の黄土粉《はにう》に我が旅衣を染まらせて行こうよ。
【評】 長歌で、「今のみにあき足らめやも」と言っているが、実際としてはそれは憧れにすぎず、一たび見ただけで千年はそこを立ち去らなければならなかった。反歌はその心残りを具象したものである。「白浜の千重に来寄する住吉」といって、白浪(187)のさまを住吉の修飾語としているのは、その心残りの対象物を、形を変えて今一度繰り返したのである。「岸の黄土粉ににほひて行かな」は、その白浪のさまを思い出させるものを、記念物として身に着けて立ち去ろうというので、同じく心残りを具象化したものである。反歌としての働きを十分に尽くし得ている歌である。したがって反歌として初めて存在しうるもので、長歌から離すとその魅力の大部分を失う歌である。
 
     山部宿禰赤人の作れる歌一首 井に短歌
 
933 天地《あめつち》の 遠《とほ》きが如《ごと》く 日月《ひつき》の 長《なが》きが如《ごと》く おし照《て》る 難波《なには》の宮《みや》に わご大王《おほきみ》 国《くに》知《し》らすらし 御食《みけ》つ国《くに》 日《ひ》の御調《みつき》と 淡路《》あはぢの 野島《のじま》の海人《あま》の 海《わた》の底《そこ》 奥《おき》ついくりに 鰒珠《あはびだま》 さはに潜《かづ》き出《で》 船《ふね》並《な》めて 仕《つか》へ奉《まつ》るし 貴《》たふとし見《み》れば
    天地之 遠我如 日月之 長我如 臨照 難波乃宮尓 和期大王 國所知良之 御食都國 日之御調等 淡路乃 野嶋之海子乃 海底 奧津伊久利二 鰒珠 左盤尓潜出 船並而 仕奉之 貴見礼者
 
【語釈】 ○天地の遠きが如く 「遠き」は、永遠の意で、時をあらわしたもの。天と地との永遠なるがごとくで、時の窮まりなさを言ったもの。○日月の長きが如く 「長き」は、長久で、日と月の照り続く時の窮まりのなさを言ったもので、上二旬と同じ心を語を換えていって強めたもの。○おし照る難波の宮に 上の(九二八)に出た。離宮としての官。○わご大王国知らすらし 「国」は、我が全国土。「知らす」は、知るの敬語で、
ここは御支配の意。この「知らす」は、(九二八)の場合と同じく、行幸としていらせられることな言ったもの。「らし」は、眼前を証としての推量で、その証は、結句の「資し見れば」である。我が大君は全国土を御支配になるらしい。○御食つ国日の御調と 「御食つ国」は、「御食」は、天皇の御膳の物。「つ」は、の。「国」は、一つの国。天皇の御謄の物を奉る国は定められていたもので、その意味で言った称である。『延喜式』に、「凡諸国貢2進御厨御贄1結番者、和泉国子巳、紀伊幽丑午酉、淡路国寅未戍、近江国卯、若狭国辰申亥。毎v当2件日1依v次貢進。預計2行程1莫v致2闕怠1」とある。すなわちここに挙げてある国が「御食つ国」である。「日の御調」は日は、貢進するべき日で、上に「結番」として定められている日である。「御調」は、国民一般の奉仕すべきこととなっていた租庸調の調であって、稲以外に、土地に従って、その手業《てわざ》として貢進すべき物で、ここは島国の淡路国の海人《あま》が、漁りの獲物としての魚介類である。「と」は、として。○淡路の野島の海人の 「野島」は、兵庫県津名郡岩屋の西部の漁村といい、また北淡町野島あたりともいう。○海の底奥ついくりに 「海の底」は、深さにおいても遠さにおいても、至り極まる所を「奥」というので、深さの意で「奥」に続けて、その枕詞としたもの。「奥ついくり」は、「奥」は、上の「奥」を、同音の「沖」に転じたもので、「奥つ」は沖の。「いくり」は、巻二(一三五)に出た。「い」は、接頭語。「くり」は、海中にある暗礁。「に」は、にある。○鰒珠さはに潜(188)き出 「鰒珠」は、鰒の貝の中にある珠で、真珠。ここは、御膳の物としての鰒の意で言っているが、鰒珠を尊んだところから、鰒そのものをもこのように呼んでいたとみえる。同じ意として美しい語を選んだものと思われる。「さはに」は、沢山に。「潜ぎ出」は、浪に潜《かず》き入って採り出して。○船並めて仕へ奉るし貴し見れば 「船並めて」は、その鰒を乗せた船を漕ぎ並べて。「仕へ奉る」は、奉仕をするで、すなわち貢進する。「し」は、強め。「貴し見れば」は、倒句になっていて、「見れば」は、上のさまを見れば。「貴し」は、大君は貴くましますの意で、庶民の労苦してお仕え申すことは、すなわち大君の貴さであるとしたもの。「御食つ国」以下これまでが、「国知らすらし」の「らし」の証となるものである。
【釈】 天と地との永遠なるがごとく、日と月との照りの長久なるがごとく、この難波の宮において、我が大君は全国土を御支配になられるらしい。それは、御膳の物を貢進する国と定められている国の、その定められた日の御調《みつき》として、淡路の国の野島の海人が、沖の暗礁にある鰒を浪を潜《かず》き入って採り出して.それを乗せた船を漕ぎつらねて貢進して来るさまに、大君の貴さを見れば。
【評】 天皇が難波の宮に行幸された際、その供奉の中に加わっていた赤人が、賀歌を奉るべき折として詠んだものである。賀歌は、その場合に即して、天皇の御稜威を讃えることを本質とするものである。赤人はその際目にしたところの、淡路国の野島の海人が、定められている御食の鰒を奉る船の打続くのをもって、この際の御稜威の現われとしては絶好のものとして、その一事を詠むことによって賀歌としようとしたのである。これを絶好のものとしたのは、しばしば言ったがように、平常を大和の奈良に過ごしている廷臣にとっては、海の景観はきわめて珍しいものであり、ことに貢物としての鰒を乗せた淡路の船が、日々に難波の海に入り来るのを見るのは、言い難い魅力あるものであったろうと察しられる。それをもって御稜威の現われとすることは、ひとり赤人の心だけのことではなく、廷臣全部のうべなうことであって、それを言うことはすなわち全部を代弁することとしたのであろう。しかしこれを歌とするに当っては、赤人を思わせる用意をもってしている。鰒の貢船の入り来るのは(189)、事としては言い難い興味であったろうが、その興味を制して御稜威そのものに代え、冒頭の、「天地の遠きが如く」より「国知らすらし」に至るまで、この場合としては荘重というよりも、むしろそれに過ぎる八句を据え、ついで中段には、その天皇の御稜威の具象的な現われとして、言わんとしている淡路の海人の鰒船のことを、十句をもって言っているのである。結尾は直接の賀詞で、「貴し見れば」の一句だけであるが、これは一方では冒頭に応じ、他方では中段に応じて、簡潔に力強く結び得ているものである。態度として興味的な材を御稜威に変えているのみならず、取材として平面的となるべきものを、立体的な深みあるものとし、簡潔にしながらも流動性を持ち得ているところは、すぐれた作と称すべきである。
 
     反歌一首  
 
934 朝《あさ》なぎに 楫《かぢ》の音《と》聞《きこ》ゆ 御食《みけ》つ国《くに》 野島《のじま》の海人《あま》の 船《ふね》にしあるらし
    朝名寸二 梶音所聞 三食津國 野嶋乃海子乃 船二四有良信
 
【語釈】 ○船にしあるらし 「らし」は、上の歌と同じであるが、これはその船の頻繁に通って来ることを証としてのことと取れる。
【釈】 朝風の海に櫓を漕ぐ音が聞こえる。それは、御食つ国である野島に住む海人の、御調《みつき》を貢進する船であるらしい。
【評】 長歌の眼に見る船に対させて、これは眼には見えず梶の音だけ聞こえる船をいうことによって、長歌の「船並めて」に拡がりをもたせた作であり、反歌としては長歌の繰り返しの系統のものである。朝凪の海であるとはいえ、梶の音が聞こえて船が見えないというのは、当時の航海はあくまでも海岸に接して漕いだのであるから、こうしたことは当然ありうることで、実際に即して言っているのである。
 
     三年丙寅秋九月十五日、播磨国|印南《いなみ》郡に幸せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「郡」は、西本願寺本「野」。紀州本、外三本「郡」とある。続日本紀、聖武紀、神亀三年秋九月壬寅(二十七日)、に「以2正四位上六人部王(中略)等二十七人1為2装束司1、以2従四位下門部王(中略)等一十八人1為2造頓宮司1、為v将v率2描磨国印南野1也」とあり、「冬十月辛亥(七日)行幸」とあり、「癸亥(十九日)行還至2難波宮1」とあり、この題詞とは符合しない。また日本紀略には、神亀三年「冬十月辛亥(七日)行2幸播磨国印南野1。」甲寅(十日)至2印南野|邑美《おふみ》頓宮1。」「癸亥(十九日)還至2難波宮1」とあって、これとも符合しない。しかし大体の時は異ならないので、行幸に関係しての官命で旅したこともあり得よう。
 
(190)932 名寸隅《なきずみ》の 船瀬《ふなせ》ゆ見《み》ゆる 淡路島《あはぢしま》 松帆《まつほ》の浦《うら》に 朝《あさ》なぎに 玉藻《たまも》苅《か》りつつ 暮《ゆふ》なぎに 藻塩《もしほ》焼《や》きつつ 海未通《あまをとめ》女 ありとは聞《き》けど 見《み》にゆかむ よしの無《な》ければ 大夫《ますらを》の 情《こころ》はなしに 手弱女《たわやめ》の 念《おも》ひたわみて 徘徊《たもとほ》り 吾《われ》はぞ恋《こ》ふる 船梶《ふなかぢ》をなみ
    名寸隅乃 船瀬從所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名藝尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩燒乍 海未通女 有跡者雖聞 見尓將去 餘四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 徘徊 吾者衣戀流 船梶雄名三
 
【語釈】○名寸隅の船瀬ゆ見ゆる 「名寸隅」は、播磨国明石郡の明石と加古河との間にある地で、現在の明石市北端の海浜地、魚住《うおずみ》町、大久保町辺といわれる。瀬戸内海の航路の重要な泊《とまり》の一つである。「船瀬」は、船が風波を避ける為に碇泊する所の称であるが、これは転じて地名となったもの。「ゆ見ゆる」は、より見られるで、播磨灘を越して見渡される意。○淡路島松帆の浦に 「松帆の浦」は、淡路の北端、津名郡、淡路町松屋崎の沿岸の称。○朝なぎに玉藻苅りつつ 朝の凪には藻を苅りつづけ。○暮なぎに藻塩焼きつつ 「藻塩焼き」は、上代の製塩法で、藻を乾かして簀の上に積み、それに汐水を汲みかけて沁ませ火に焼いた上で水を垂らして塩分を溶解させ、その上澄を釜で煮るのである。夕の凪にはそれをしつづけで、以上四句、海人《あま》の女の手業《てわざ》を言ったもの。○海未通女ありとは聞けど 「海未通女」は、(九三〇)に出た。「ありとは聞けど」は居るとは開いているが。○見にゆかむよしの無ければ 「よしの無ければ」は、方法がないのでで、結句の「船梶をなみ」ということであるが、たといそれがあろうとも、官命を帯びている際であるから、そうした行動の自由はないはずである。ここはそうしたことは忘れて言っている形のものである。○大夫の情はなしに 「大夫の情」は、思い立ったことはなし遂げる強い心。○手弱女の念ひたわみて 「手弱女」は、「手」は、接頭語。女は弱い者としての称。「念ひたわみ」は、心がくずおれ。○徘徊り吾はぞ恋ふる 「徘徊り」は、「た」は接城詰。「もとほり」は、往きつ戻りつする意。「恋ふる」は、憧れることで、連体形。「ぞ」の結。○船梶をなみ 船も、漕ぐ梶もないので。
【釈】 名寸隅の船瀬から見られる淡路の松帆の浦には、朝の凪ぎには藻を苅りつづけ、夕の凪ぎには藻塩を焼きつづけて、海人の女がいるとは聞いているが、それを見に行くべき方法がないので、強い男の雄ごころはなくて、弱い女のように思いくずおれて、うろうろとさ迷って我は憧れていることであるよ、行くべき船も梶もないので。
【評】 上に言ったがごとく、官命を帯びている際のことであるから、自身の自由なる遊覧などは許さるべくもない時である。それにもかかわらずこの歌は、そうしたことも全く忘れ去っているごとき態度で詠んでいるもので、海未通女《あまをとめ》に対する憧れの限りなさを言っているものである。海人《あま》の女のいかなる者であるかは、金村は知らぬはずはなく、またそうした者は松帆の浦(191)まで渡らずとも名寸隅の辺りにもいたことであろう。それを松帆の浦の海女に限って憧れ、この種のものとしては適《ふさ》わしくない長歌にまでしているのは、そこに何らかの理由があってであろう。強いていえば、当時知識階級に盛行していた神仙思想からの連想で、海を越しての彼方の島に住んでいるという海未通女が、仙女であるかのような想像を起こしたのではないか。それ程ではなくても、未見の女を、未見であるがゆえに空想化し、仙女をその空想の資料として、強い憧れを起こしたのではないかと想像される。こうした不自然な憧れが、本集の編者に承認されている点から見ても、時代との関係を思わせられるからである。「大夫の情はなしに、手弱女の念ひたわみて」という対句は新味のあるものであるが、全体としては力の足りない、その心を生かし得ていない作である。
 
     反歌二首
 
936 玉藻《たまも》苅《か》る 海未通女《あまをとめ》ども 見《み》に去《ゆ》かむ 船梶《ふなかぢ》もがも 浪《なみ》高《たか》くとも
    玉藻苅 海未通女等 見尓將去 船梶毛欲得 浪高友
 
【語釈】 ○船梶もがも 「もが」は、「も」を伴った願望の意のもの。船と梶とがほしい。○浪高くとも たとい浪は高かろうともで、危険を冒しても行こうの意。播磨灘は内海の航路中でも、難航の場所であるから、これは実際に即しての語である。
【釈】 玉藻を苅っている海未通女を見に行こう。その為の船と梶とがほしい。それだと、たとい浪が高くとも行こう。
【評】 長歌を要約して繰り返した形のものであるが、さらに積極的に進めて新意をもたせてある。「浪高くとも」は、そこに力点を置いてあり、また実際にも即したものであるから、憧れのいかに強いかを具象した形となっているものである。
 
(192)937 往《ゆ》きめぐり 見《み》とも飽《あ》かめや 名寸隅《なきずみ》の 船瀬《ふなせ》の浜《はま》に しきるしらなみ
    徃廻 雖見將飽八 名寸隅乃 船瀬之濱尓 四寸流思良名美
 
【語釈】 ○往きめぐり見とも飽かめや 「往きめぐり」は、往きつ来つして。「見とも」は、「見」の未然形から「とも」に続くのは、この時代の格。見るともの意。「や」は、已然形について反語をあらわす。飽こうか、飽きはしない。○しきるしらなみ 「しきる」は、頻《しき》るで、ここは頻りに寄せる。「しらなみ」は、白浪で、下に詠歎を含んでいる。
【釈】 往きつ来つして幾度見るとも、飽こうか、飽きはしない。この名寸隅の船瀬の浜に頻りに寄せるところの白浪よ。
【評】 「名寸隅の船瀬の浜に」と、地名を二つまで重ねて修飾し、「しきるしらなみ」と言っているので、「往きめぐり見とも飽かめや」の詠歎が十分に裏づけられて、その感動をあらわしている。一首の調べもそれにふさわしいものである。これは海に対する憧れの心からである。長歌とは、この憧れを通して繋がっているが、むしろ独立した歌という趣のほうが濃厚なものである。反歌としては綜合力の弱さを示している。
 
     山部宿禰赤人の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 上の歌と同じ時のものである。
 
938 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 神《かむ》ながら 高知《たかし》らせる 稲見野《いなみの》の 大海《おほみ》の原《はら》の 荒妙《あらたへ》の 藤井《ふぢゐ》の浦《うら》に 鮪《しび》釣《つ》ると 海人船《あまぶね》散動《さわ》き 塩《しほ》焼《や》くと 人《ひと》ぞさはなる 浦《うら》をよみ 諾《うべ》も釣《つり》はす 浜《はま》をよみ 諾《うべ》も塩《しほ》焼《や》く あり通《かよ》ひ みますもしるし 清《きよ》き白浜《しらはま》
    八隅知之 吾大王乃 神隨 高所知流 稻見野能 大海乃原笶 荒妙 藤井乃浦尓 鮪釣等 海人船散動 塩燒等 人曾左波尓有 浦乎吉美 宇倍毛釣者爲 濱乎吉美 諾毛塩燒 蟻牲来 御覽母知師 清白濱
 
(193)【語釈】 ○神ながら高知らせる 「神ながら」は、神そのままにで、上の「大王」を承け、神の神ながらと続いている。「高知らせる」は意味の広い語で、国を御支配になるの意にも、また宮を天高くお構えになる意にも用いている。ここは、国とすれば「稲見野の大海の原」を御支配になる意となるが、同時にその「大海の原」は、上の(九三五)の題詞で言った、「甲寅至2印南|邑美《おふみ》頓宮1」とあるその頓宮を意味させたもので、略して言っているものとも解せるのである。場合に即して頓宮をいっているものと解す。○稲見野の大海の原の 「稲見野」は、広範囲にわたっての大名。「大海の原」は、その一部の小名である。「大海」は、上に引いた「邑美」で、訓は、『和名抄』に、「明石郡邑美郷、訓於布美」とあり、高山寺本には「注於保見」とあって、「邑」を「おふ」とも「おほ」とも訓んだのである。頓宮はここにあったのである。現、明石市、魚住、岩岡付近。○荒妙の藤井の浦に 「荒妙の」は、藤にかかる枕詞。「荒」は、「和《にぎ》」に対する語で、繊維の荒い妙で、藤の繊維もそれに属するところから、意味でかかるもの。「藤井の浦」は、その名は今は伝わっていない。頓宮に近い浦であったとみえる。○鮪約ると海人船散動き 「散動」は、巻二(二二〇)人麿の歌、及び(九二七)赤人の歌に用例がある。鮪を釣るとて、海人の船がさかんに漁をしていて。○塩焼くと人ぞさはなる 「さはなる」は、旧訓「さはにある」。『考』の訓。塩を焼くとて、人が多くいることよの意。塩を焼くのは、浜でのことで、女の手業《てわざ》。したがって「人」は、海女《あま》。○浦をよみ諾も釣はす 「浦をよみ」は、浦が良いので。「諾も」は、「諾」は、承認する意で、なるほどというにあたる。「も」は、詠嘆。○あり通ひみますもしるし 「あり通ひ」は、熟語。「あり」は、継続しての意。用例の少なくない語。「みますも」は、大王の御覧になるのも。「しるし」は、著明の意で、明らかである。ここに継続して通って、この景を御覧になる大御心も明らかである。○清き白浜 「清き」は、白浜の持つ感。「白浜」は、砂の白い浜。下に詠歎がある。
【釈】 やすみしし吾が大王の、神とますままに、高くもお構えになられたところの、この稲見野の大海《おおみ》の原の大宮の、それに近い藤井の浦には、鮪を釣るとて海人《あま》の船がさかんに漁をしており、塩を焼くとて海人《あま》の女は多くもいることよ。浦が良いので、なるほど釣はするのである。浜が良いので、なるほど塩は焼くのである。吾が大王の継続してお通いになって、ここを御覧になる大御心も明らかである。清らかにも砂の白い浜であるよ。
【評】 稲見野の邑美の宮の行幸に供奉した赤人の奉賀の心より詠んだ歌であるが、天皇に献じるという改まったものでなかったことは、反歌の著しく個人的なものである点から察しられる。一首全体としては、邑美の頓宮に接している海と海辺の愛でたいことを讃えているのであるが、その一切を天皇を中心として、天皇との関係において讃えているのであって、そこには一点の個人的感情をまじえていないのである。すなわち奉賀の心をとおして風景を讃えているという、複雑な微妙な感情を、それとなく十分にあらわしているのである。ここにこの歌の特色がある。一首三段から成っており、一段は起首より「藤井の浦に」までの八句である。「やすみしし吾が大王の 神ながら高知らせる」は、「稲見野の大海の原」という土地の所在をいい、または支配関係をいったものとしては、荘重にすぎて不調和なものとなり、邑美の頓宮を讃えるものと見、宮を略しているのは、それに続く第二段が、海と浜辺の佳景を讃えるものであり、またそこに頓宮を営ませられたのも、その佳景を愛でられる為であって」中心は佳景にある関係から、わざと婉曲に言ったものと解せられるからである。第二段は「諾も塩煩く」までの八句(194)である。事象としては格別のものではないが、当時の奈良の京の人にはきわめて興味深いものであったことはすでにしばしば言った。この段で注意されることは、「浦をよみ諾も釣はす 浜をよみ諾も塩焼く」という赤人の感じ方である。これは海人のその職業にいそしんでいるのは、土地の好適な為であることを認めて、海人に対して喜んだ心で、廷臣の赤人としては、庶民の実際生活に触れ得ている、珍しいものである。そしてこの心は、第三段において特殊な展開をしているのである。第三段は「あり通ひ見ますもしるし清き白浜」の三句である。この三句は複雑味をもったもので、一方では第一段に緊密につながっていて、奉賀の心を十分にあらわしているものである。同時に他方では、第二段にも緊密につながって、天皇の御眼から見ると、海人の勤労生活は、海辺の浜の佳景に溶け入るものとなって、それあるが為にますます美観の加わるものとなって来ている。そしてこれは天皇より見られてのこととしているので、特殊なことであり、したがって奉賀の心ともなるのである。赤人の作風である。沈静と清澄とをもつとともに、単純の中に複雑味をもたせている作である。
 
     反歌三首
 
939 奥《おき》つ浪《なみ》 辺波《へなみ》安《しづ》けみ いざりすと 藤江《ふぢえ》の浦《うら》に 船《ふね》ぞ動《さわ》ける
    奥浪 邊波安実 射去爲登 藤江乃浦尓 船曾動流
 
【語釈】 ○奥つ浪辺波安けみ 「奥つ浪辺波」は沖の浪も、岸寄りの汲も。「安《しづ》けみ」は、静かなので。海の凪ぎ尽くした状態。○いざりすと 漁りをするとて。○藤江の浦に 長歌では「藤井の浦」と言っているが、巻三(二五二)では同じ所を「藤江の浦にすずき釣る」と言っており、二様に呼んでいたものと取れる。〇船ぞ動ける 「動ける」は、騒いでいるで、船人《ふなびと》の声を主として言ったもの。これは上の「安《しづ》けみ」と照応したもので、海上が静かなので、そのために声が聞こえて来る意である。ここに力点を置いた形である。
【釈】 沖の浪も岸寄りのほうの汲も、凪いで静かなので、海人《あま》が漁りをするとて、藤江の浦へ出た船が、騒いでいることである。
【評】 凪ぎ尽くした海へ海人が漁りに出ているさまを陸上から見て、船で騒いでいる声の聞こえるのに興味を感じた心である。長歌を繰り返した系統のものである。
 
940 いなみ野《の》の 浅茅《あさぢ》押靡《おしな》べ さ宿《ぬ》る夜《よ》の け長《なが》くしあれば 家《いへ》ししのはゆ
    不欲見野乃 淺茅押靡 左宿夜之 氣長在者 家之小篠生
 
(195)【語釈】 ○いなみ野の浅茅押靡べ 「いなみ野」は、原文「不欲見野」とあり、「不欲《いな》」は否の意で、義訓である。宮は大海《おおみ》の原にあり、その原は稲見野の一部であるから言いかえたものと取れる。「不欲見野」は野を見たくない意を示した用字で、そこに厭いたことを暗示している。「浅茅」は、疎らに生えた茅。「押靡べ」は、押して靡かせてで、野宿をする状態を具象的に言ったものである。○さ宿る夜のけ長くしあれば 「さ宿る」は、「さ」は接頭語。「け長く」は、「け」は日で、日が多くなったので。○家ししのはゆ 「家」は、妻のいる家で、それを婉曲に言ったもの。「し」は、強め。
【釈】 稲見野の浅茅を押靡かせて、その上に寝る夜が多くなったので、都の家が思いやられる。
【評】 この歌は、行幸の供奉ということを外にし、単なる旅のように、夜《よる》寝る時の状態だけを取り立てて、その侘びしさを強調したものである。赤人は身分の低い人であるが、「け長く」というように幾日にもわたってのことであるから、廬くらいは設けたのではないかと思われる。それだと「浅茅押靡べ」は誇張のあるものである。これは、全く私的の心のもので、長歌の賀とは繋がりのないものである。こうした反歌の添った歌は、改まっての賀歌とはなり得ないものである。
 
941 明石潟《あかしがた》 潮干《しほひ》の道《みち》を 明日《あす》よりは 下咲《したゑ》ましけむ 家《いへ》近《》ちかづけば
    明方 潮干乃道乎 從明日者 下咲異六 家近附者
 
【語釈】 ○明石潟潮干の道を 「潮干の道」は、潮干の時だけ通行の出来る道で、都への帰路としていっている。○明日よりは下咲ましけむ 「明日」は、還幸が明日と定まった日のもの。「下咲ましけむ」は、「下」は心中。「咲ましけむ」は、形容詞「笑まし」の未然形「笑ましけ」と推量の「む」で、心中に笑ましいことであろうの意。心うれしい意を具象的に言いかえた語。○家近づけば 恋しい都の家が近づくので。
【釈】 明石潟の潮干の時の道を明日からは心中に笑ましくして歩くことであろう。都の家が近づくので。
【評】 明日は都へ向って発足ができるとわかった日の心うれしさを言ったものである。漠然とした取りとめのないうれしさで、言葉ともなり難いものであるのに、赤人は静かに帰路を辿る自身を想像の中に浮かべ、路の中でも最も風景のよい明石渇の潮干の道を歩ませ、しかも一歩一歩家の近づくことを思って、心中ひそかに笑ましくしている自身を捉えているのである。実際に即してのこの心細かい想像力は、驚嘆に値するものである。この時代の心細かい歌風の先縦をなすもので、特色ある歌である。
 
     辛荷《からに》の島を過ぐる時、山部宿禰赤人の作れる歌一首 并に短歌
 
(196)【題意】 「辛荷の島」は、播磨国揖保部室津の港の南方一海里にある島で、三礁相連なって三山をなしている。『播磨風土記』には、昔韓人の船が難破して、その荷がこの島に漂着したがゆえに負った名だという、地名伝説を伝えている。
 
942 あぢさはふ 妹《いも》が目《め》かれて 敷妙《しきたへ》の 枕《まくら》もまかず 桜皮《かには》纏《ま》き 作《つく》れる舟《ふね》に 真梶《まかぢ》貫《ぬ》き 吾《わ》が榜《こ》ぎ来《く》れば 淡路《あはぢ》の 野島《のじま》も過《す》ぎ 印南都麻《いなみつま》 辛荷《からに》の島《しま》の 島《しま》の際《ま》ゆ 吾宅《わぎへ》を見《み》れば 青山《あをやま》の そことも見《み》えず 白雲《しらくも》も 干重《ちへ》になり來《き》ぬ こぎたむる 浦《うら》の尽《ことごと》 往《ゆ》き隠《かく》る 島《しま》の埼埼《さきざき》 隅《くま》も置《お》かず 憶《おも》ひぞ吾《わ》が来《く》る 旅《たび》の日《け》長《なが》み
    味澤相 妹目不數見而 敷細乃 枕毛不卷 櫻皮纏 作流舟二 眞梶貫 吾榜來者 淡路乃 野嶋毛過 伊奈美嬬 辛荷乃嶋之 嶋際從 吾宅乎見者 青山乃 曾許十方不見 白雲毛 千重尓成來沼 許伎多武流 浦乃盡 徃隱 嶋乃埼々 隈毛不置 憶曾吾來 客乃氣長弥
 
【語釈】 ○あぢさはふ妹が目かれて 「あぢさはふ」は、「あぢ」は味鳧《あぢじも》。「さは」は沢、「ふ」は経で、味が沢山に飛ぶ意で、その状態としての「群れ」の約「め」が同音の関係で目にかかる枕詞。「妹が目」は、妹の容姿の意。「かれて」は、旧訓「しば見ずて」。宣長の訓。離れてで 旅に来たことを現わしたもの。○敷妙の枕もまかず 「敷妙の」は、枕の枕詞。「まかず」は、枕をすることを纏くという、その打消で、妻と枕も交わさずの意。上二句を繰り返したもの。○桜皮纏き作れる舟に 「桜皮」は山樺とも、樺桜とも呼んだが、今は白樺と呼んでいる木の皮。その皮は質が強靱なところから、曲物《まげもの》などの器具を綴じるに用いている。「桜皮纏き作れる舟」というのは、主として板の継目のようなところを、桜皮で巻いて堅固にしたのであろうと思われるが、それ以上はわからない。○真梶貫き吾が榜ぎ来れば 「真梶」は、「真」は物の完備をあらわす語で、ここは、舟の左右に取付けた擢。そうした設備の舟は、大きい部類の舟である。「貫き」は、梶を取付けた状態を言ったもの。「吾が榜ぎ来れば」は、「吾が」は、榜ぐのは舟子《かこ》であるが、わが命令でさせていることなので、自身のこととして言ったもの。「来れば」は、往けばとは差別があり、向かっている目的地を重んじていう時の語。これは行幸の供奉ということを背後に置いたものである。○淡路の野島も過ぎ 難波津から瀬戸内海を西航する時、第一に寄港する主要な地。「も」は、並べる意のもので、諸所に寄港をしたことをあらわすもの。○印南都麻辛荷の島の 「印南都麻」は諸説あるが、播磨国加古川の河口にあった小島という解に従う。いわゆる高砂《たかさご》である。印南都麻と辛荷の島との意。○島の際ゆ吾宅を見れば 「際」は、間。「吾宅」は、「わがいへ」の約。島の間から、わが家のほうを顧みればで、顧みるのは遠ざかりゆくにつけ名残りを惜しむ意。○青山のそことも見えず 「青山の」は、下の続きで見ると、青山のうちのの意で、遠く青山が連亙していて、そのうちのいずれの意である。「そことも見えず」は、その何処《どこ》ということも見分けられずで、「も」は詠歎。○白雲も千重になり来ぬ 「白雲も」の「も」は、青山に並べたもの。(197)「千重」は、深いことを具象化したもの。「なり来ぬ」は、変わって来たで、重なって来たの意。○こぎたむる浦の尽 「こぎたむる」は、榜ぎめぐる意。これは、下二段活用の連体形である。巻三(三五七)同じく赤人の歌に、「奥つ島榜ぎ廻《み》る舟は」とあり、「たむ」も「みる」もおなじ意の語である。「浦の尽」は、「浦」は、海の陸に入り込んだ所で、浦という浦はことごとくで、上に続いて、当時の舟行のさまを言っているもの。それは風波の危険を避けるため、できる限り陸地より遠ざかるまいとするので、浦があればその地形に従って、榜ぎめぐる方法を取ったのである。○往き隠る島の埼埼 「往き隠る」は、榜いで行くと、船がその陰に隠れるさまとなるところの。「隠る」は、四段活用の連体形。「島の埼埼」は、島の岬という岬ごとに。○隅も置かず憶ひぞ吾が来る 「隅」は、隈で、曲がり角。曲がり角はそこを曲がってしまうと後ろが見えなくなるので、名残りを惜しむ情の高まる場所。「も」は、一隈さえもの意のもの。「置かず」は、残さず。「憶ひぞ吾が来る」は、家を恋しく思って来ることであるよ。○旅の日長み 旅に過ごす日数が多いので。
【釈】妹が姿から離れて、枕を交わすこともせずに桜皮《かには》を巻いて作った舟に、左右の櫂を取付けて、吾が榜いで来ると、淡路の野島も過ぎて、印南都麻と辛荷の島との間から、わが家を振返って見ると、遠く立ち続く青山のうちの、そのどことさえも見分けられず、白雲も千重と深くも重なって来た。榜ぎめぐつてゆく浦のことごとく、榜いでゆくと船が隠れる島の岬という岬ごとに、その一まがりも洩らさずに、家恋しい思いをして吾は行くことであるよ、旅の日数が重なるので。
【評】 この歌は船で難波津を発して、瀬戸内海を西に向かって航し、播磨国の辛荷の島へ着くまでの間の旅愁を詠んだものである。上来の赤人の長歌は綜合力が極度に働いており、事の全体を明らかに感じさせる趣をもっているのに、この歌は珍しくもその趣が稀薄で、起首から結尾まで強い感傷をもって旅愁そのもののみを漂わしている趣のものである。これがおそらくは赤人の本質で、綜合力の強く働くと見えるのは、意志力を奮い立ててしていたので、手放しで思うがままに心を言えば、こうした風になる人ではなかったかと思われる。しかしそのようにしながらも、同時に本質として持っている細心さは紛れず、この歌にあっても、部分をとおして全体を現わすことはほぼ十分にしており、おのずからに綜合を遂げているのである。そしてその点がこの歌の味わいをなしているのである。例せば、この歌には二か所まで「来る」という語「吾が榜ぎ来れば」「憶ひぞ吾が来る」を用いている。「来る」は当時は目的地に向かって行くことをあらわす語であった。また西航は辛荷の島をもって打切っているから、目的地は播磨国の大海が原の頓宮であったろうと思わせる。また、「桜皮纏き作れる舟に真梶貫き」といぅ船は、官位の低い赤人としては格別の場合でないと乗れるものではない。このことも行幸の供奉としてではないかと思わせる。次に、結尾の「旅の日長み」ということも注意される。行幸の日数はおおよそ限度がある。難波津から辛荷の島までの距離はいくばくもない。赤人の言うのは奈良京を離れてからの日数であるから、西航以前すでに難波宮に相応の間を奉仕していたのではないかと思わせる。「こぎたむる浦の尽、往き隠る島の埼埼」と、感傷をとおしてとはいえ、航海のさまを委《くわ》しくいう赤人が、このように旅愁を味わされているのであるから、しかるべき事情での長い日数があったと思わせられる。一篇の作(198)為としては単なる旅愁であって、格別なことのないものであるが、これら部分的なふしぶしが絡みつくことによって言うがごとく一篇の綜合を助け、同時に微細な味わいをかもし出しているのである。赤人の長歌としては特殊なものといえる作である。
 
     反歌三首
 
943 玉藻《たまも》苅《か》る 辛荷《からに》の島《しま》に 島廻《しまみ》する 鵜《う》にしもあれや 家《いへ》念《も》はざらむ
    玉藻苅 辛荷乃嶋尓 嶋廻爲流 水烏二四毛有哉 家不念有六
 
【語釈】 ○島廻する鵜にしもあれや 「島廻」は、旧訓「あさり」。『古義』の改めたもの。意は島めぐりで、下の「鵜《う》」が、餌としての魚を獲ようとして、小さい辛荷の島を飛びめぐつている意で、漁りということを具体的に言ったもの。「鵜」は原文「水烏」で義訓。「あれや」の「や」は、ここは反語で、鵜でもないので、の意。○家念はざらむ 家を恋しがらずにいられようか。
【釈】 人が藻を苅っているところの辛荷の島に、島を飛びめぐつて漁りをしているあの鵜でもないので、家を恋しがらずにいられようか。
【評】 辛荷の島に船を寄せているおりから、鵜の余念なく漁りをしているさまを見て、自身と対照させて羨んだ心である。初句より四句まで鵜のその業《わざ》を力強く言っているので、結句の「家念はざらむ」が重い響のあるものとなっている。長歌と緊密につながりつつ展開をもったもので、反歌の任を十分に尽くしたものである。綜合力の働いた反歌である。
 
944 島隠《しまがく》り 吾《わ》が榜《こ》ぎ来《く》れば ともしかも 倭《やまと》へ上《のぼ》る 真熊野《まくまの》の船《ふね》
    嶋隱 吾傍來者 乏毳 倭邊上 眞熊野之船
 
【語釈】 ○島隠り吾が榜ぎ来れば 「島隠り」は船が島に隠れる状態に。「来れば」は前に出た。島をめぐつて漕ぎ進んで行けばの意。○ともしかも 「ともし」は羨しの意。「かも」は詠歎。以下の事に対しての感。○倭へ上る真熊野の船 「倭へ上る」は倭の都へ向かって上るで、「上る」は都に対してのみの語。貢船と見ていっていると取れる。「真熊野の船」は、「真」は接頭語で、紀伊の熊野の船で、船の型からの称。同系の語に松浦《まつら》船、足柄小舟《あしがりおぶね》、伊豆手《いずて》船などがある。下に詠歎がある。
【釈】 辛荷の島がくれにわが船を漕ぎ進めて行くと、羨しいことであるよ、大和の都へ向かって行くところの熊野型の船よ。
(199)【評】 辛荷の島を過ぎて、そこを後ろにした状態となった時、おりから反対の航路を取って来る熊野型の船とすれちがった際の感傷である。「島隠り」という語、「倭へ上る」という語は、いずれも誇張をもった語であるが、それが自然なものに感じられるのは、上よりの旅愁が裏付けをしているのと、また一首の調べが強く張っているからである。「島隠り吾が榜ぎ来れば」と、感傷をもって事を叙して来て、一転、「ともしかも」と強く抒情をして言い切り、「倭へ上る真熊野の船」と、旅愁の全部をそれに投げ懸けて、名詞をもって結んだ形は、赤人としては珍しいまでの昂奮を表しているものである。しかし同時にその細かい感性が一語一語に沁みていて、昂奮と微細感とを調和させており、赤人の手腕を思わせるものとなっている。前の歌とも緊密に続いていて、反歌の趣を発揮している。
 
945 風《かぜ》吹《ふ》けば 浪《なみ》か立《た》たむと 伺候《さもらひ》に 都多《つた》の細江《ほそえ》に 浦隠《うらがく》り居《を》り
    風吹者 浪可將立跡 伺候尓 都太乃細江尓 浦隱居
 
【語釈】 ○風吹けば浪か立たむと 風が吹くので、浪が立って來ようかと思って。○伺候に 旧訓「まつほどに」。『代匠記』の訓。「伺候」は、動詞「侍《さむら》ふ」の連用形で名詞形。「侍ふ」は、臣下が君側に候《うかが》う意の語で、それを航海中の船の風浪に対しての意のものに転じさせた語。○都多の細江に浦隠り居り 「都多の細江」は地名で、現在も存している。姫路市の西南方、飾磨川《しかまがわ》の河口の地で、旧津田、柵江の二村付近、現在、姫路市飾磨区、今在家あたりを言ふ。「浦隠り居り」は、乗る船が、浦に隠れているで、隠れるのは風浪を避けるため。「浦」は場合上、河口よりある程度潮った安全な地帯にいたであろうから、実際は飾磨川であるが、川にも海の名称を用いる習いから浦と言ったもの。
【釈】 風が吹くので、浪が立とうかと危く思って、わが乗る船は、郡多の細江に浦隠れをしている。
【評】 この歌の言っていることは、航海中はきわめて普通なことで、事としては取り立てて言うほどのものではない。それをしみじみとした調べで言っているのは旅愁と航海の不安とが絡み合った気分をあらわそうとしたものだからである。『新考』は、「都多の細江」は、「辛荷の島」よりは東方の地なので、歌の順序が誤っていることを注意している。これらを独立した歌と見れば、そう見るべきであるが、上の二首は反歌として長歌と緊密に繋がっており、動かし難いものである。この一首は昂奮した長歌と反歌とを組合わせて一体としているという構成の面から見ると、反対に銷沈した心をあらわしたもので、直接のつながりのないものであり、したがってなきを妨げぬものであるが、しかし作者その人のほうからいえば、添えたいものであったろうと思われる。順序を変えてこのよぅな形にしてあるのはこのようにしている所に、作に中心を置くとともに、作者にも置こうとした跡が見え、そこに別種の興味が感じられる。
 
(200)     敏馬浦《みぬめのうら》を過ぐる時、山部宿禰赤人の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「敏馬浦」は、摂津国武庫郡灘村で、今の都賀浜以西小野にわたる海浜である。巻三(二五〇)「玉藻苅る敏馬を過ぎて夏草の野島が埼に船近づきぬ」に出ており、難波津より西に向かう海路の経過地点で、そこから淡路の野島に向かうのである。どういう用を帯びての航海かはわからない。なお左注がある。
 
946 御食《みけ》向《むか》ふ 淡路《あはぢ》の島《しま》に 真向《ただむか》ふ 敏馬《みぬめ》の浦《うら》の 奥《おき》べには 深海松《ふかみる》採《と》り 浦《うら》みには 名告藻《なのりそ》苅《か》る 深海松《ふかみる》の 見《み》まく欲《ほ》しけど 名告藻《なのりそ》の 己《おの》が名《な》惜《を》しみ 間使《まづかひ》も 遣《や》らずて吾《われ》は 生《い》けりともなし
    御食向 淡路乃嶋二 直向 三犬女乃浦能 奥部庭 深海松探 浦廻庭 名告藻苅 深見流乃 見卷欲跡 莫告藻之 己名惜三 間使裳 不遣而吾者 生友奈重二
 
【語釈】 ○御食向ふ淡路の島に 「御食」は、「御」は美称。「食」は、食物の総称で、御食として向かう粟と続く枕詞。○ま向ふ敏馬の浦の 「真向ふ」は真向かいに向かっているで、以上、敏馬の位置をいったもの。航路としての関係からである。神戸市灘区岩屋に式内|※[さんずい+文]売《みぬめ》神社がある。この付近か。○奥べには深海松採り 「奥べ」は沖のほう。「深海松」は海の深いところに生える海松の一種。「採り」は海人が食料として採る意。○浦みには名告藻苅る 「浦み」は浦の辺りで、海岸。「名告藻」は今、ほんだわらと呼ぶ海草。同じく海人が食料として刈り取るもの。○深海松の見まく欲しけど 「深海松の」はその「み」を「見」と畳音にしての枕詞。「見まく」は「見む」に「く」を添えて名詞形としたもの。見ること。「欲しけど」は、後世の「欲しかれど」にあたる当時の格。見たいことであるけれども。見たいのは反歌にある「君」で、妻。○名告藻の己が名惜しみ 「名告藻の」は、その「な」を「名」と畳音にしての枕詞。「己が名惜しみ」は、自分の名誉の傷つくのを惜しんで。廷臣で、大夫たる者は、妻のことなど念とすべきではないという古来よりの心からのもの。○間使も過らずて吾は 「間使」は双方の間に立って往復する使。「遣らずて」は、遣らずして。○生けりともなし 「生けり」の「り」は、時の助動詞。「とも」は、助詞。生きているともないで、生きている気もしないの意。
【釈】 淡路の島に真向かいに向かっているこの敏馬の浦の、沖のほうには海人が深海松を採り、浦の辺りには同じく名告藻を刈っている。その深海松に因みのある、妻を見ることを吾もしたいけれども、その名告藻に因みのある、大夫たる名を傷けることを惜しんで、使をさえも遣らなくて吾は、妻を思う心から生きている気もしない。
(201)【評】 難波津から船出をして、瀬戸内海を西航する旅に上り、まだいくばくも進まない敏馬の浦で、大夫たる面目を保とうと、妻に逢わずに発足した心残りを詠んだものである。二段とし、一段は「己が名惜しみ」までの十二句で、ここでは眼前の風物に寄せて妻に逢わずに来た理由をいい、第二段はそれ以下の三句で、中心たるその事の嘆きの深さをいっているのである。第一段で注意されることは、「深海松の」「名告藻の」の二つの枕詞である。名告藻を比喩としている歌は古から相応に多くあり、常套とさえなっているものであるが、これを枕詞として用いたのは新味のあることである。深海松を枕詞としたのはおそらく他に例がなく、一層の新味があるものである。この歌はその二つの枕詞を対句的に用いているもので、単に技巧として見れば非凡なものである。しかしこの技巧は、赤人としても容易に生んだものではなく、巻二(一三一)柿本人麿の「石見国より妻に別れて上り来し時の歌」を心に置き、起首よりそれまでの八句を費やして初めて生かし得ているものなのである。これを全体との振合いから見ると、第二段には特別なところがなく、一篇はこの二つの枕詞を生かすことが頂点となっているがごとき感のあるものである。恋情を自然の風物に托してあらわすことは古来よりの風で、奈良朝時代に入ると甚しく流行したものであるが、赤人もそれをするために過当の努力をしたことが知られる。この一篇はいわゆる技巧倒れとなった感のあるものである。
 
     反歌一首
 
947 須磨《すま》の海人《あま》の 塩焼衣《しほやきぎぬ》の なれなばか 一日《ひとひ》も君《きみ》を 忘《わす》れて念《おも》はむ
    爲間乃海人之 塩燒衣乃 奈礼名者香 一日母君乎 忘而將念
 
【語釈】 須磨の海人の塩焼衣の 「須磨」は、現神戸市須磨一帯の地、敏馬に接した地で、関係のあるところ。そこは製塩をする地として聞こえてもいた。「塩焼衣」は、塩を焼く時に着る衣で、仕事の性質上、粗末な物を用いたので、その意味で、萎《な》えすなわち古びてくたくたになった意の古語「なれ」に続けて、二句を「なれ」の序詞としたもの。○なれなばか 「なれ」は、上の意の「なれ」を、同音の「馴れ」に転じさせたもの。「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形。「ば」は仮定。「か」は疑問で、馴れたならばで、「か」は結句へ回したもの。「馴れ」は意味が広く、逢い見ることに馴れる意にも取れ、また別れていることに馴れる意にも取れる。ここは、航行をしている時であるから、別れていることに馴れる意と取れる。ことに長歌の結末「生けりともなし」を承けたものとすると、心理的にもそう取れる。○一日も君を忘れて念はむ 「一日も」は、せめて一日でも。「君」は、妻を指したもの。「妹」を「君」と呼ぶのはこの時代から始まった風で、ある程度例のあるもの。女性に対しては敬語を用いるのが習いとなっていたから、その延長のものと見られる。「忘れて念はむ」は、思い忘れむのこの当時の言い方。「か」は、これに続く。
【釈】 須磨の海人の塩を焼く時に着る衣《きぬ》の萎れている、それに因みある我も別れていることに馴れたならば、せめて一日でも妻(202)を思い忘れていられようか。
【評】 長歌の「生けりともなし」に緊密に続け、「なれなばか一日も君を忘れて念はむ」と、活路を求めようとしての嘆きであって、心としての展開をもったものである。また、「須磨の海人の」と、土地としても地続きの海浜としているので、その点でも展開がある。三句以下は、屈折の多い言葉続きで鬱結した情を吐き出している趣がある。一首、長歌にもまさって技巧的なものである。反歌としての心を尽くしながら、長歌よりもはるかに心の直接性をあらわしているものである。
 
     右、作歌の年月未だ詳ならず。但、類を以つての故にこの次に載す。
      右、作謌年月未v詳也。但、以v類故載2於此次1。
 
【解】 撰者の注である。問題としているところは、作の年月の明らかでないことだけである。
 
     四年丁卯春正月、諸王諸臣子等に勅して、授刀寮《じゆたうれう》に散禁せしむる時作れる歌一 首并に短歌
 
【題意】 題詞は、左注の要約ある。「諸王諸臣子等」は、いずれも「授刀寮」の職員で、「諸王」は長官である王達、「諸臣子」は、その部下の臣下である。「授刀寮」は、「授刀舎人寮」の略称で、天皇親衛の舎人を掌る所である。授刀寮のことは、続日本紀に出てをり、「慶雲四年七月丙辰、始置2授刀舎人寮1」とあり、また、「天平神護元年二月甲子、改2授刀衛1爲2近衛府1」とある。「散禁」は、刑罰の一種の名で、後の禁足というにあたる。歌はその散禁せられた中の一人の作ったものである。
 
948 真葛《まくず》はふ 春日《かすが》の山《やま》は 打靡《うちなび》く 春《はる》さりゆくと 山峡《やまかひ》に 霞《かすみ》たな引《び》き 高円《たかまと
》に 鶯《うぐひす》鳴《な》きぬ もののふの 八十《やそ》とものをは 雁《かり》が音《ね》の 来継《きつ》ぐこの頃《ごろ》 かく継《つ》ぎて 常《つね》にありせば 友《とも》なめて 遊《あそ》ばむものを 馬《うま》なめて 往《ゆ》かまし里《さと》を 待《ま》ち難《がて》に 吾《わ》がせし春《はる》を かけまくも あやに恐《かしこ》く 言《い》はまくも ゆゆしからむと 予《あらかじめ》 かねて知《し》りせば 千鳥《ちどり》鳴《な》く その佐保川《さほがは》に 石《いは》に生《お》ふる 菅《すが》の根《ね》取《と》りて しのふ草《ぐさ》 解除《はら》へてましを 往《ゆ》く水《みづ》に 禊《みそ》ぎてましを 天皇《おほきみ》の 御命《みこと》恐《かしこ》み 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》の 玉鉾《たまほこ》の 道《みち》にも出《い》でず 恋《こ》ふるこの頃《ごろ》
(203)    眞葛延 春日之山者 打靡 春去徃跡 山ヒ丹 霞田名引 高圓尓 鶯鳴沼 物部乃 八十友能壯者 折木四哭之 來繼比日 如此續 常丹有脊者 友名目而 遊物尾 馬名目而 徃益里乎 待難丹 吾爲春乎 决卷毛 綾尓恐 言卷毛 湯々敷有跡 豫 兼而知者 千鳥鳴 其佐保川丹 石二生 菅根取而 之努布草 解除而益乎 徃水丹 潔而益乎 天皇之 御命恐 百磯城之 大宮人之 玉鉾之 道毛不出 戀比日
 
【語釈】 ○真葛はふ春日の山は 「真葛」は「真」は美称。葛の這っているで、春日山の状態として言ったもの。○打靡く春さりゆくと 「打靡く」は、春の木草《きぐさ》の若く靡きやすい意で、春の枕詞。「春さりゆくと」は、「さり」は夕さればなどのそれと同じく動き来る意。「ゆく」は去るで、「さりゆく」は来て去る意である。これは今日から見ると、春が来てまた去る意と取れるが、この当時としてはそうではなく、春の眼前の時を言っているものである。時は来ると同時に移り去るものと認め、それをそのままに言おうとしてのもので、意味としては春さり来ればと異ならないものである。「と」は、とて。以上、授刀寮に正月以来散禁されている人の、春の闌《た》けて来るのを見ての心。○山峡に霞たな引き 「山峡」は諸本「山上」、元暦本のみ「上」は「ヒ」で、『新訓』はそれを取り、「ヒ」は「かひ」で「峡《かひ》」に当てたものとしている。これに従う。山の峡に霞が靡き。○高円に鶯鳴きぬ 「高円」は、山としても言い、野としても言っている。上と対させてある関係上、野と取れる。○もののふの八十とものをは 二句、上の(九二八)に出、そこでは文武百官の意であるが、ここは授刀舎人の総称で、「もののふ」は職掌としての武夫。「八十とものを」は多数の伴の男《お》の意と取れる。「を」に、「壮」の字を当てているのは、「男」の意であろう。すなわちこの語は同時代に二様の意に用いられていたのである。○雁が音の 原文「折木四哭之」で、「折木四」は「雁《かり》」に当てたものである。これは戯訓で、北村節信によって初めて明らかにされた訓である。これは西域から中国を通じて我が国に渡来した樗蒲《ちよぼ》(後世賭博の別名となる)という遊戯の具の采《さい》を、我が国では「かり」と呼んでおり、その采は小さい折木の四つであった所から、「折木四」、あるいは「切木四」と書いて「かり」と訓ませたのである。なおその采は杏仁を薄く削《へ》いだような物であり、表裏を白と黒で塗りつぶし、白いほうの二つには雉、黒いほうの二つには犢《こうし》を描いてあって、それを投げて模様の出工合によって勝負を決したのである。巻十に、「三伏一向」と書いて「つく」と訓ませ、巻十三に「一伏三向」と書いて「ころ」と訓ませているのは、その遊戯の上での名称だったのである。その流行の程が察しられる。「哭」は「ね」。「雁がね」はここは雁の意のもので、春のものであるから帰雁である。○来継ぐこの頃 「来継ぐ」は、帰雁が通り続ける意。「この頃」は、原文「皆」で、諸本異同がなく、したがって解し難くしていた。『考』は、「皆」は、「比日」の二字の一字となったものとし、『略解』はそれを承けて「このごろ」と訓んだ。これは用字も訓も例のあるものである。以上が、散禁されていて見た戸外の光景である。○かく継ぎて常にありせば 原文「如此」は諸本「石此」とあるが、『略解』の誤写説に従う。「かく継ぎて」は上の「来継ぐ」を承けて、このように帰雁が続いて。「常に」はいつも。「ありせば」は仮設。○友なめて遊ばむものを 「なめて」は「並《な》めて」で、連ねて。友を連ねて遊ぼうものを。○馬なめて往かまし里を 「馬」は乗馬。「往かまし」の「まし」は「ありせば」の帰(204)結。「里」は、都に対させての里で、今の郊外というにあたる。「を」は、詠歎で、ものを。乗馬を連ねて出懸けるであろうところの郊外であるものを。○待ち難に吾がせし春を 「難に」は「難」は可能をあらわす語。「に」は打消でしばしば出た。待ち得ずにわがしていた春の季節であるものをで、「かく継ぎて」以下の春に対しての憧れを総収したもの。○かけまくもあやに恐く 心に及ぼし思うことも、譬えようもなく畏くの意で、天皇皇子の上を言う時の成句。○言はまくもゆゆしからむと 「ゆゆし」は忌み憚るで恐れ多い意。言うことも恐れ多いことになろうとで、上の二句を繰り返していい、その事を重くしたもの。以上授刀舎人が、職務懈怠の咎めを蒙り、勅によって散禁を命じられたことを言っているもので、舎人からいうと久しく散禁させられている現状。○予かねて知りせば 「予」も「かねて」も、前もってで、畳んで強く言ったもの。「知りせば」は、知っていたならばで、仮設。○千鳥鳴くその佐保川に 「千鳥鳴く」は佐保川の修飾。「その」は、かのというに近く、意味の軽いもの。「佐保川」は、最寄りの川として言ったものであるが、下の続きから見ると、清らかな川として言っていると取れる。春日山から発して佐保の里を流れている渓流だからである。○石に生ふる菅の根取りて 「石に生ふる」は、岩間に生えているで、生え場所の清らかなことを言ったもの。「菅の根」は、「根」は添えて言っている語で、菅。岩を岩根、垣を垣根というと同系の語。菅は下の続きで祓えの具であることがわかる。○しのふ草解除へてましを 「しのふ草」は偲ぷ種《ぐさ》の字にあたるもので慕わしいものの意であり、その指していることは左注にある春日野へ行って打毬の遊びをしたいと思ったことである。すなわち遊楽を思う心ということを言いかえた語である。「解除へて」は祓えてで、身に着いている罪穢を祓え去る神事。「まし」は上の「知りせば」の帰結。「を」は詠歎で、ものを。遊楽を思う心を、罪穢と同じように祓え去ってしまおうものを。以上菅をもって懈怠の咎めを蒙る原因のものを祓い去ってしまおうものをと、後悔した心を言ったもの。菅の葉をもって祓えをすることは、大祓の祝詞に、「天つ菅曾《すがそ》を、本《もと》苅り断ち、宋苅り切りて、八針《やはり》に取辟《とりさ》きて、天つ祝詞の太祝詞|事《ごと》を宣《の》れ」とあって、定まった儀式となっていた祓えの具である。○往く水に禊ぎてましを 「往く水」は川の流れ。「禊ぎ」は身滌《みそそぎ》の約で、身に着いた罪穢を水で洗い去って流す神事。この祓えと禊とは相関係していることで、巻三(四二〇)「石田王の卒せし時」の歌に、「天《あめ》なるささらの小野《をの》の 七相《ななふ》菅手に取り持ちて 久堅の天の川原に 出で立ちて潔身《みそ》ぎてましを」とある。以上、後悔の情。○天皇の御命恐み 「天皇の御命」は、勅としての散禁の刑。「恐み」は、恐れて。○百磯城の大宮人の 「百磯城の」は宮の枕詞。「大宮人」は、朝廷の百官の称であるが、ここは授刀舎人の称としたもので、自尊の心からのもの。○玉鉾の道にも出でず 「玉鉾の」は、道の枕詞。巻一(七九)に出た。「道にも」は道にさえも。○恋ふるこの頃 戸外に憧れているこの頃であるよの意で、下に詠歎がある。「この頃」は春の闌けて遊楽の好季節であることを言ったもの。
【釈】 春日の山には、春が移って来たとて、その山峡《やまかい》には霞が靡いて、高円の野には鶯が鳴いた。武夫《もののふ》の多くの男の子は、帰る雁の空に来続けているこの頃、このように来続けていつもいるのであったら、友と連れ立って遊ぼうものを、乗馬を連ねて出懸けよう郊外であるものを、待って待ちきれずにわがしていた今の春であるものを。心に懸けて思うことも譬えようもなく畏く、口にして言うことも恐れ多いこうした事になろうと、前もって知ったならば、千鳥の鳴くあの佐保川に、岩の間に生えている菅を取って、遊楽を思う心を祓え去ってしまおうものを、流れる水に禊ぎをして、洗い去ろうものを。大君の勅を畏んで、大宮人ともある者が、道にさえも出ずに、戸外の春に憧れているこの頃であるよ。
(205)【評】 この歌の作因は左注で明らかにされている。大宮の警衛を任務としている授刀寮の人々が、正月、春日野へ行って打毬の遊びをしていると、おりから、にわかに天気が変わり雷を伴っての雨が降って来た。大宮に走せ参ずべき人々はそれが出来なかったため、職務懈怠の罪に問われて授刀寮内に禁足されて外出の許されない身となった。その期間が長く、戸外は春が深くなって来て、しきりに遊意をそそられるところから、戸外に対する憧れと、かりそめの遊戯の意外な成行きになった愚痴とを詠んだものである。出来上がった歌から見ると、起首から「待ち難に吾がせし春を」までの二十句は、戸外の春に対しての憧れで一段。「往く水に禊ぎてましを」までの十四句は、打毬の遊びをしたくなって制し得なかった悔で第二段、結尾までの七句は、恐懼と憧れとを一つに総収した第三段で、形の上からは立派に整ったものである。しかし読後の感からいうと、作因となっている事情は遠く背後に隠れて歌の上には直接に現われて来ず、あらわされているものは、耽美の情の充たされない愚痴が、調子低く縷々として述べられているにすぎないものとなっている。さらにいうと甘美に似た言葉はじつに多いが、他の胸に触れうる一般性の認められる情緒は全くなく、したがって味わいのきわめて稀薄なものなのである。本来長歌は叙事に抒情を伴わせたもので、叙事をすることによって抒情を徹せしめようとしているものである。本集の長歌はすべてその範囲のものである。しかるにこの歌は叙事を除外し、単に抒情のみを遊離させ、抒情の言葉を多くすることによってそれを徹せしめようとするという、長歌の本来より見ると跛行的なものであって、それがこの歌を無味なものとしているのである。これはしかしこの歌の作者だけのことではなく、時代を通じての傾向で、多少の差こそはあるが各作者の持っているもので、この歌の作者はその傾向が甚しいというだけのことである。時代が泰平になり、生活態度に緊張を要さなくなると、環境と自身とを綜合して考える精神が衰えてきた当然の成行きと見られる。
 
     反歌一首
 
949 梅柳《うめやなぎ》 過《す》ぐらく惜《を》しみ 佐保《さほ》の内《うち》に 遊《あそ》びしことを 宮《みや》もとどろに
    梅柳 過良久惜 佐保乃内尓 遊事乎 宮動々尓
 
【語釈】 ○梅柳過ぐらく惜しみ 「梅柳」は、梅の花と柳の若葉。「過ぐらく」は、「過ぐ」に「く」を添えて名詞形としたもので、過ぐること。盛りの過ぎる意。「惜しみ」は、惜しいので。○佐保の内に遊びしことを 「佐保の内」は佐保川と佐保山との間の地の称で、左注には「春日野」である。春日野の称はそこまで及ぼしていたとみえる。「遊びしこと」は上よりの続きでは、梅柳を見たことであるが、左注では打毬の遊びをしたのである。事実を枉げて、風流なことに言い做したものである。○宮もとどろに 「宮も」は大宮さえも。「とどろに」は、大きな音響をあらわ(206)す意の副詞で、ここは盛んに言い騒がれる意を言いさしにしたもの。
【釈】 梅の花と柳の若葉の盛りの過ぎることが惜しいので、佐保の内に遊んだことを、大宮もとどろくまでに言い騒がれた。
【評】 この反歌は明らかに事実を枉げて、春日野で打毬に耽っていたことを、風流な遊びに言い做したものである。これは風流ということが重んじられ、そのためとあれば大方のことは許される風となっていたので、それをかりて事を小さくし、その対照として「宮もとどろに」といって、結果の不釣合であることをいったものである。長歌の悔悟の情のみえるのとは反対な意のものである。当時の官人の、職責に対する覚悟の足りなかったことを明らかに示しているものである。
 
     右、神亀四年正月、数王子及び諸臣等、春日野に集ひて、打毬の楽を作《な》す。その日忽に天|陰《くも》り雨ふり雷電す。この時宮中に侍従及び侍衛無し。勅して刑罰に行ひ、皆授刀寮に散禁して、妄に道路に出づるを得ざらしむ。時に悒憤して即ちこの歌を作る。作者いまだ詳ならず。
      右、神龜四年正月、數王子及諸臣等、集2於春日野1而作2打毬之樂1。其日忽天陰雨雷電。此時宮中無2侍從及侍衛1。勅行2刑罰1、皆散2禁於授刀寮1、而妄不v得v出2道路1。于v時悒憤即作2斯謌1。作者未v詳
 
【解】 「打毬」は、毬を翫ぶ遊びとは知れるが、そのさまは明らかではない。『代匠記』は、和名抄では蹴鞠とは異なるといい、日本書紀では同じで明らかでないと言っている。「侍衛」はすなわち授刀舎人の任である。「悒憤」は、憂え憤る意。歌にはその趣は見えていない。
 
     五年戊辰、難波宮に幸せる時作れる歌四首
 
【題意】 「五年」は神亀五年である。目録には、この題詞に続けて、「車持朝臣千年」と作者名があるが、こちらではそれが左注となっている。目録は後よりのものと取れる。この行幸のことは、続日本紀には出ていない。また行幸の時の歌というが、歌は四首とも相聞であって、雑歌の範囲のものではない。このことはすでに往々あったことである。
 
950 大王《おほきみ》の 界《さかひ》賜《たま》ふと 山守《やまもり》居《す》ゑ 守《もる》る云《と》ふ山《やま》に 入《い》らずは止《や》まじ
(207)    大王之 界賜跡 山守居 守云山尓 不入者不止
 
【語釈】 ○大王の界賜ふと 「界」は境界の意で名詞。その界は、下の「山」についてのもの。「腸ふと」は、給うとてで、お立てになるとての意。大君が御領のゆえに境界をお立てになるとて。○山守居ゑ守る云ふ山に 「山守」は山を守る者すなわち山の警衛をする役人。「居ゑ」は、置いて。「守る云《と》ふ山」は原文「守云山」。旧訓「もるといふ山」。『考』の訓。守ると人が言っている山で、噂に聞く形のもの。○入らずは止まじ 「入る」は山守の目を掠《かす》め禁を犯して入る意で、すなわち盗伐。盗伐をしなくてはやむまい。
【釈】 大君の境界をお立てになり、山の警衛の役人を置いていると聞く山に、我は盗伐をしに入らずにはやむまい。
【評】 神聖なる山に対して、甚しく不敬な念を抱いた形であるが、これはすべて譬喩で、「大王」というのは、この作者よりいうと、それほどまでに思われる貴い身分の人、「山」というのは、その娘、「山守」というのは、娘の母あるいは侍女を譬えてあるので、「入る」は、その娘をひそかにわがものとする譬である。すなわち心は相聞の範囲のもので、体は完全な譬喩歌である。この昏喩は構想そのものが譬喩となっており、文芸性の多いもので、その意味では時代の先駆をなしているものである。しかし、譬喩が粗野で、荒さをもっている点では、古風を脱しないものである。行幸の供奉の際の歌としてあるが、行幸には何のかかわりもない相聞である。
 
951 見渡《みわた》せば 近《ちか》きものから 石隠《いそがく》り かがよふ珠《たま》を 取《と》らずはやまじ
    見渡者 近物可良 石隱 加我欲布珠乎 不取不已
 
【語釈】 ○見渡せば近きものから 「見渡せば」はここは海に対してである。「近きものから」は、距離は近くありながら。○石隠りかがよふ珠を 「石《いそ》」は石の古語。「隠り」は連用形。この石は下の「珠」の着いているもので、海中の岩。海中の岩に隠れて。「かがよふ」は輝く。「珠」は鰒珠で真珠。鰒珠は鰒の貝の中にあって、露出している物ではなく、したがって水中の物が水面まで輝やくというようなことはないことである。しかし名高い古伝説に、大きな鰒珠のそうした状態をあらわしていたということがあるので、そういうことを心に置いて言ったものと取れる。○取らすはやまじ 採ってわが物としなければやむまい。
【釈】 海の上を見渡すと、距離は近いながら、海中の岩に隠れて輝いているその鰒珠を、探ってわが物としなければやむまい。
【評】 「珠」は美しい女の譬喩で、珠を尊重する風習から、古くから用いるものである。しかし海中の鰒珠の大きな物が水面まで耀いているということは、古伝説にはあるが歌に捉えた例はないので、そこには新味がある。女の美しさとともに身分の貴(208)いことをあらわそうとしてのものと取れる。「石」はその女を保護している親の譬喩である。これも相聞の譬喩歌で、また譬愉は完全なものである。「石隠りかがよふ珠」という続けは、細かい心の働いたものである。調べに荒さはあるが、全体に美しく、当時としての新風の歌である。
 
952 韓衣《からころも》 服楢《きなら》の里《さと》の 島《しま》まつに 玉《たま》をし付《つ》けむ 好《よ》き人《ひと》もがも
    韓衣 服楢乃里之 嶋待尓 玉乎師付牟 好人欲得
 
【語釈】 ○韓衣服楢の里の 「韓衣」は、「韓」は「唐《から》」の字に当て、当時の外国の総称であるが、ここはその中でも重んじていた唐の意のもの。「韓衣」は、唐風に仕立てた衣。当時好んで着たとみえ、後には単に衣《ころも》の意で用いられる語ともなった。「服楢」は、着馴《きなら》らすと続けたもので、その「馴ら」を、京の奈良に転じたもので、「韓衣服」は、奈良の序詞。「楢の里」は、この歌の作者の住んでいる地としていっている。○島まつに 「島」は築庭《つきにわ》の当時の称。巻三(四五二)妹として二人《ふたり》作りし吾が山斎《しま》は」以下しばしば出た。「まつ」は松の木で、築庭の植木としての物。島まつは熟語。○玉をし付けむ好き人もがも 「玉をし付けむ」は、「玉」は美しく貴い物として言ったもの。「し」は、強め。「付けむ」は、結び着けようところのと下へ続く。わが愛している松の木に、愛でたい玉を結び着けて、ますます愛すべき木とするの意。これは当時、神に物を供える時を初めとし、人に物を贈り、また書状を贈る時には、滑らかな木の枝に結び着けることが一般の風習となっていたから、連想しやすいことだったのである。「好き人もがも」は「好き人」は教養あり、身分もある人を尊んでの称。「もが」は、「も」を伴った願望の意のもの。
【釈】 わが住む奈良の里の、この築庭の愛でたい松の木に、それに適《ふさ》わしい愛でたい玉を結び着けて、ますます愛でたい物とする好き人の欲しいことであるよ。
【評】 島は一時代前まではきわめて稀れなものであったと見え豪奢な蘇我入鹿が島を築いて住んでいたところから島大臣《しまのおとど》と呼ばれ、その邸が後天武天皇の離宮となり、皇太子日並皇子尊に賜わって、島宮と呼ばれていたことは前に出た。この時代には大伴旅人も山斎《しま》を持っているなど、やや一般化していたとみえる。この歌の作者も、「島まつ」を愛している人で、身分のある人とみえる。この「島まつ」は、作者の愛している娘の譬喩としたもの。「玉をし付けむ」は、「好き人」のその娘に心を寄せて、夫婦関係を結ぶことの譬喩である。一首、娘を待った親の、良縁を願っていることを譬喩をもってあらわしているので、譬喩が完全であり、したがって婉曲でもあるところから、その意のないものとしても受取られうるほどの歌である。しかし上の二首もすでにそうしたものであって、この歌は取材が新しく、また高雅でもあるところから、その感が一段と強いというにすぎないだけで、作意は譬喩歌と取れる。作者は、左注によると笠金村の歌集中のものであるから、大体金村の作と思われる。(209)金村の歌に通じてみえるところは、空想的で、憧れの情が強く、情熱があり、積極的でもあって、才分も豊かなものがあるから、想像を駆ってこうした歌を詠むということもありうることに思える。三首とも文芸性の多い、新味の豊かな作である。
 
953 さ牡鹿《をしか》の 鳴《な》くなる山《やま》を 越《こ》え去《ゆ》かむ 日《ひ》だにや君《きみ》に はた逢《あ》はざらむ
    竿牡鹿之 鳴奈流山乎 越將去 日谷八君 當不相將有
 
【語釈】 ○さ牡鹿の鳴くなる山を 「さ牡鹿」の「さ」は接頭語。牡鹿の鳴くのは、牝を恋うて喚ぶのであるとしていったもの。季節は秋である。これはあわれ深いこととして前代から歌にされていることである。○越え去かむ日だにや君に 「越え去かむ日」は、事としては、今居る地を離れて旅立とうとする日であって、そのことを具体的にいったもの。その地は、奈良京からであっても、また難波宮から奈良へ還るのであっても、いずれは山を越すのであるから、言いうることである。ここは難波宮からの時と取れる。「だにや」は、「だに」は、でもというにあたる。「や」は、疑問。「君」は妻とする女であって、この敬称は当時の新風習であった。○はた逢はざらむ 「はた」は、またという意に、詠歎歎を籠めての語。
【釈】 牡鹿が妻恋いをして、鳴いているあわれ深い山を越えてここから離れ去ろうとする日でも、やはりまた君に逢わないのであろうか。
【評】 「君」というのは妻に対しての称であるが、妻の範囲は広く、同棲している関係は稀れで、また親疎の程度もさまざまであるから、関係している女というだけでも称しうる語である。この歌の「君」はそうした女と取れる。「日だにや君にはた」といっているのは、同じ地にいる間も逢うことのなかったことを思わせる言い方だからである。また、「さ牡鹿の鳴くなる山」は、表面は単に山の状態としていっているものであるが、その「さ牡鹿」は作者自身を暗示しているもので、強い感傷と訴えとを托したものだからである。さらにまたこの歌は、一首の調べが細く澄んだもので、作者の感傷の直接の現われと思わせるのである。それらの点から見て、この歌は前の三首と繋がりをもっているもので、身分の高い女で、ただ憧れを寄せていただけの人に、よそながら別れ去る悲しみを詠んだものではないかと取れる。それだとこの四首は、やや散漫であるが、繋がりをもっていて、連作の関係になっているものと見られる。金村の歌として見て、優れたものと言えるものである。
 
     右、笠朝臣金村の歌の中に出づ。或は云ふ、車持朝臣千年作れり。
      右、笠朝臣金村之歌中出也。或云、車持朝臣千年作之也。
 
【解】 撰者の注で、諸本異同がない。『略解』は、「歌」の下に「集」の字のあったのが脱けたのではないかと言っている。これ(210)は他の例によってのことである。金村の歌であろうということは上に言った。千年の歌という伝は、この歌が当時注意されるものであったところから起こったものかと思われる。
 
       膳王《かしはでのおほきみ》の歌一首
 
【題意】 「膳王」は、巻三(四四二)に出た膳部王《かしわでのおおきみ》と同じであろうとされている。それだと長屋王の御子、御母は吉備内親王で、神亀元年二月従四位下、天平元年二月、父王の事に坐してともに自尽された人で、その事は続日本紀に詳しい。
 
954 朝《あした》には 海辺《うみべ》にあさりし 暮《ゆふ》されば 倭《やまと》へ越《こ》ゆる 雁《かり》しともしも
    朝波 海邊尓安左里爲 暮去者 倭部越 鴈四乏母
 
【語釈】 ○朝には海辺にあさりし 「海辺」は、海の辺りで、あさりをする水際。海を珍しく快い所としていったもの。○暮されば倭へ越ゆる 「倭へ」は倭へ向かってで、雁の飛ぶ方角であるが、大袈裟な言い方は、王自身京の恋しい心から、迎えていったのである。なほ倭は東の方角である。「越ゆる」は、山を飛び越える意で、山へ向かって飛んだのをこのようにいうのも、同じく迎えてである。○雁しともしも 「し」は強め。自身と比較しての強め。「ともし」は羨し。「も」は、詠歎。
【釈】 朝の中は珍しく快い海の水際であさりをして、夕べが来ると、倭へ向かって山を飛び越えてゆく雁は、羨しいことであるよ。
【評】 歌の上の場所は、倭に近い海辺であるから、難波であり、行幸の供奉ということが自然であろう。王自身、海の景色を喜びつつも、奈良の邸を恋しく思う心を、雁に寄せて言われているものである。単純な心をもって詠まれたものであるが、抒情の心が不足なく具象されているので、おのずから含蓄のあるものとなっている。
 
     右、作歌の年審ならず。但歌の類を以て便にこの次に載す。
      右、作歌之年不v審也。但、以2歌類1便載2此次1。
 
【解】 撰者の問題とした点は、作歌の年である。王を膳部王とし、その最終と思われる年に当てたものとみえる。
 
     大宰少弐石川朝臣|足人《たりひと》の歌一首
 
(211)【題意】 「石川足人」は、巻四(五四九)の題詞で、神亀五年任を遷されて都へ還ったことが出ている。ここも同じ年のことであるから、その遷任以前のことである。なお以下十四首は、旅人を中心とした大宰府の歌で、巻五の撰者の編集当時には収録し得なかったと思われるものである。
 
955 刺竹《さすたけ》の 大宮人《おほみやびと》の 家《いへ》と住《す》む 佐保《さほ》の山《やま》をば 思《おも》ふやも君《きみ》
    刺竹之 大宮人乃 家跡住 佐保能山乎者 思哉毛君
 
【語釈】○刺竹の大宮人の 「刺竹の」は、大宮、皇子、舎人壮《とねりおとこ》、葉隠《はごも》りなどにかかる枕詞であるが、意は諸説があって定まらない。「刺す」は瑞枝さすのそれと同じく、芽をふいて伸びる意で、若竹の勢よく、清々《すがすが》しいごとくと大宮を讃えたものという解が比較的穏やかに聞こえる。「竹の根の根足る宮」という古事記の歌謡の句もつながりがあると言えよう。大宮から他へ及んだもので、葉隠りは別である。ここは「大宮人」にかかる。○家と住む佐保の山をば 「家と住む」は、家として住んでいるで、「佐保」の特色をいったもの。「佐保」は、巻三(三〇〇)以下しばしば出た。現在の奈良市の西北部、法蓮町と法華寺町にわたる地。廷臣の邸宅が多く、大伴家の邸も古くからそこにあったのである。「佐保の山」は、佐保を山寄りの関係から広く言いかえたもので、邸よりも風光のほうを主としての言い方である。そのほうが婉曲で礼にもかない、またみやびてもいるからである。○思ふやも君 「思ふ」は、恋しく思う意。「やも」は「や」の疑問に、「も」の詠歎を続けたもの。「君」は旅人をさしての呼びかけ。
【釈】 大宮人が家として住んでいる所の都の佐保の山を恋しくお思いになりますか君。
【評】 老いたる旅人が、大宰帥として久しく辺境にとどまっていることをいたわって、慰めの心をもって問いかけたものである。少弐として同じ大宰府にいた足人が、歌をもって言っているのであるから、京へ遷任することになった喜びが旅人への同情となって、別れを予期しての作かと思われる。一首の柔らかな調べがそうした心を十分にあらわしているといえる。奈良京といわず、また佐保ともいわずに、「佐保の山」といっているのは、細かい用意の伴っていることである。
 
     帥大伴卿の和ふる歌一首
 
【題意】 「帥大伴拗」は、旅人に対しての最上の敬称である。本巻の撰者のしたものではないかといわれている。
 
956 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 食国《をすくに》は 大和《やまと》もここも 同《おや》じとぞ思《おも》ふ
(212)    八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曾念
 
【語釈】 ○やすみしし吾が大王の しばしば出た。○食国は 原文「御食国」。類聚古集外三本「御」がない。旧訓「みけくに」。『考』の訓。「食《を》す」は食うの敬語で、身に入れ給う国の意で、国を支配する意で慣用された語。御領国。○大和もここも同じとぞ思ふ 「大和」は、足人の「佐保の山」といったのを、大君を主として広く言いかえたもの。「ここ」は、筑紫の意。「同《おや》じ」は、同《おな》じの古語。
【釈】 やすみししわが大君の御支配になられる国は、大和でも、この筑紫でも、同じだと思っていることである。
【評】 足人は旅人の老齢にして辺境の任にあることをいたわり、私的生活の面に力点を置いていったのであるが、旅人はそれを斥け、公的生活の面に力点を置いて和《こた》えたのである。歌はいささかの昂奮も帯びず、淡如として平生の素懐を語っている趣のもので、そのことは「同じとぞ思ふ」ということを中心としていっているところに現われている。旅人の歌は、歌に遊ぼうとの意識をもってのものは別だが、その他のものは、率直に淡泊に実情を詠んでおり、これなどもその範囲のものである。人を動かす力のある歌である。
 
     冬十一月、大宰官人等、香椎廟《かしひのべう》を拝《をろが》み奉《まつ》り訖《を》へて退り還りし時、馬を香椎浦に駐《とど》めて、各《おのもおのも》懐《おもひ》を述べて作れる歌
 
【題意】 「冬十一月」は年号がないので、前よりの続きで、神亀五年と思われる。「香椎廟」は、香椎宮に仲哀天皇と神功皇后を合祀してあるところからの称。香椎は仲哀天皇の討(旁可)志比宮があったところで、崩御の地でもある。和名抄に、「筑前国糟屋郡香椎」とあり、今の福岡市香椎町で博多湾に面している。
 
     帥大伴卿の歌一首
 
957 いざ児等《こども》 香椎《かしひ》の潟《かた》に 白妙《しろたへ》の 袖《そで》さへ沾《ぬ》れて 朝菜《あさな》採《つ》みてむ
    去來兒等 香椎乃滷尓 白妙之 袖左倍所沾而 朝菜採手六
 
【語釈】 ○いざ児等香椎の潟に 「いざ」は誘う意。「児等」は部下の者を親しんでの称で、呼びかけ。「潟」は遠浅の干潟になっている所の称。そのおりから干潮で、干潟になっていたと取れる。○白妙の袖さへ沾れて 「白妙の」はここは枕詞ではなく、参拝の時の服色と取れる。「袖さへ」(213)は袖までも、袖の濡れるのもかまわずに、すなわち心一ばいに。○朝菜採みてむ 「菜」は副食物の総称であって、ここは食用に堪える海藻を意味させたもの。「朝菜」は、朝餉の副食物で、その時が朝餉以前であり、晨朝の参拝であったことに即した語と取れる。
【釈】 さあ皆の者よ。おりからの香椎の干潟で、その白妙の袖までも濡れて朝莱を摘もうよ。
【評】 朝菜を摘むというごとき、海人《あま》としては平凡極まることが、官人にとっては珍しい大きな慰みになっていたことは、行幸の供奉の歌に多いのでもわかる。それがすでに風流だったのである。この歌で、旅人が昂奮した口気をもっていっているのもその心からで、「いざ児等《こども》」と呼びかけ、「袖さへ沾れて」と刺激的にいっているのはそのためである。これは長官としては時宜に適した挨拶で、一行はその心を解して喜んだものと思われる。旅人の上品な明るい心の現われている歌である。
 
     大弐|小野老《をののおゆ》朝臣の歌一首
 
【題意】 「小野老」は、巻三(三二八)に「大宰少弐」とあり、天平二年正月旅人邸における梅花の宴の際も「少弐」とある(巻五〔八一六〕)ので、この時はまだ大弐ではなかったと思われる。後の官名を記したのであろう。
 
958 時《とき》つ風《かぜ》 吹《ふ》くべくなりぬ 香椎潟《かしひがた》 潮干《しほひ》の浦《うら》に 玉藻《たまも》苅《か》りてな
    時風 應吹成奴 香椎滷 潮干※[さんずい+内]尓 玉藻苅而名
 
【語釈】 ○時つ風吹くべくなりぬ 「時つ風」は満潮になる時に、それに伴って吹き起こる風の称。「吹くべくなりぬ」は吹きそうになって来たで、二句、満潮のけはいとなって来たの意。○香椎潟潮干の浦に 香椎潟の、今干潮となっている浦に。○玉藻苅りてな 「玉藻」は上の歌の「朝菜」と同じ物で、食用としての藻に、「玉」の美称を添えたもの。「苅りてな」の「な」は、自己に対しての願望で、未然形に続く。
【釈】 満潮に伴う時つ風が、吹き立ちそうなけはいとなって来た。香椎潟の今の干潮の浦に、我は玉藻を苅ろう。
【評】 上の旅人の歌に対して.一行を代表して歌をもって答えた形のものである。「時つ風吹くべくなりぬ」は、海の遊びをするのは今のうちだとの意で、旅人の勧めを強めたものである。以下も同じで、旅人の「香椎の潟に」といったのを、「香椎潟潮干の浦に」といい、「朝菜採みてむ」を、「玉藻苅りてな」といって応じたのである。要を得た、また重みをもった歌である。
 
     豊前守|宇努首男人《うののおびとをひと》の歌一首
 
(214)【題意】「字努」は氏、「首」は姓、「男人」は名。『姓氏録』大和国諸蕃に、百済君国の男、弥奈曾富弥《みなそほみ》の後とある。また『政治要略』二十三に、養老四年、大隅、日向の隼人が乱を起こした時、豊前守宇野首男人を将軍として征討させ、大勝をした事が載っている。養老四年からこの神亀五年までは九年間であり、国守の任期としては珍しくも長いことになる。
 
959 往《ゆ》き還《かへ》り 常《つね》に我《わ》が見《み》し 香椎潟《かしひがた》 明日《あす》ゆ後《のち》には 見《み》む縁《よし》もなし
    徃還 常尓我見之 香椎滷 從明日後尓波 見縁母奈思
 
【語釈】 ○往き選り常に我が見し 「往き還り」は、その任所である豐前の国庁と大宰府との間の往復。公務を帯びてのことである。「常に」はいつも。○香椎潟 上の「見し」に続くもので、呼びかけ。○明日ゆ後には見む緑もなし 「明日ゆ後には」は、明日より後にはで、現に香椎潟を見ていての感で、明日はそこを立ち去る意の言。「見む縁もなし」は見るべき縁《ゆかり》もないというので、永久に関係の絶えてしまう意でいっているもの。
【釈】 豊前の国庁と大宰府との往復に、いつも見たところの香椎潟よ。明日から後には見るべき縁《ゆかり》もない。
【評】 豊前守としての任が解けて京へ上る途中、香椎潟の見えるところに一日を過ごし、その風光を愛でる心から別れを惜しみ、その風光と自身との関係を大観しての嘆きである。作歌の手腕としてはむしろ平凡なむのであるが、対象となっているものは自然の佳景であり、永久の別れを意識しての嘆きなので、人の胸に沁みるものがある。
 
     帥大伴卿、遙に芳野離宮を思ひて作れる歌一首
 
960 隼人《はやひと》の 湍門《せと》の磐《いはほ》も 年魚《あゆ》走《はし》る 吉野《よしの》の滝《たぎ》に 尚《なほ》如《し》かずけり
    隼人乃 湍門乃磐母 年魚走 芳野之瀧尓 尚不及家里
 
【語釈】 ○隼人の湍門の磐も 「隼人の湍門」は、くわしくいうと隼人の国の薩摩の湍門で、「集人」は、古くは後の薩摩国の名であり、薩摩は一地方の名だったのである。ここは省いていった形のもの。「湍門」は、薩摩国|出水《いずみ》郡の黒瀬戸であり、現在は阿久根市と長島の間の海峡である。一説には関門海峡ともいう。「磐」は海中にある物。「も」は並べる意のもので、詠歎を含んでいる。隼人の国の歎門の磐も好くはあるがの意。これは遠く聞こえていた風景であって、巻三(二四八)「隼人《はやひと》の薩摩の迫門《せと》を雲居なす遠くも吾は今日見つるかも」によっても知られる。旅人のここ(215)を見たのは、大宰帥はその職務として筑紫の九国二島を巡察すべきことになっているので、その途次のこととしてである。○年魚走る吉野の滝に「吉野の滝」は吉野川の滝で、「滝」は離宮の辺りの激流になっている所の称である。そこは岩石の多いところなので、水と岩と相俟っている所という関係で、「湍門の磐」に比較したのである。○尚如かずけり 「尚」はやはり。「如かず」の「ず」は、ここは連用形であり、「けり」の詠歎に続いて、後の「如かざりけり」にあたる当時の格。及ばないことであるよの意。
【釈】 隼人の薩摩の湍門の磐も好くはあるが、これに似通うところのある、鮎が走り泳いでいる吉野川の滝には、やはり及ばないことであるよ。
【評】 隼人の湍門の磐と、吉野川の滝の巌とは、いずれも水によって趣をなしているもので、似通うところがある関係上、それを並べて評したもので、旅人でないと思い寄らないような歌である。吉野の滝のほうが優っているとするのは、あるいは故郷の恋しいというところも関係しているかもしれぬが、大体はそうした一般的な人情からではなく、旅人の素質からきているのではないかと思われる。それは、巻三(三一六)「昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよ清《さや》けくなりにけるかも」というのがあり、旅人は吉野の風景を酷愛していたとみえる。吉野の特色はその幽寂なところにある。今も比較の対象としている吉野川をいうに、年魚走るを添えているのも、その心からであろう。落ちついた、品のある歌である。
 
     帥大伴卿、次田《すきた》の湯泉《ゆ》に宿りて、鶴《たづ》の喧《な》くを聞きて作れる歌一首
 
【題意】 「次田の温泉」は、今は福岡県筑紫郡二日市町天神山の麓にあって、すい田《た》と呼んでいる(武蔵温泉)。大宰府からはいくばくの距離もない所である。歌で見るとこの時は、旅人は妻大伴郎女に死別していくばくもない時であったとみえる。
 
961 湯《ゆ》の原《はら》に 鳴《な》く蘆鶴《あしたづ》は 吾《わ》が如《ごと》く 妹《いも》に恋《こ》ふれや 時《とき》分《わ》かず鳴《な》く
    湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
 
【語釈】 ○湯の原に鳴く蘆鶴は 「湯の原」は今は名は残っていないが、温泉の湧き出す原の意で、そう呼ばれていたと取れる。「蘆鶴」は鶴で、歌語となっていたもの。○吾が如く妹に恋ふれや 「恋ふれや」は、後の「恋ふればや」にあたる古格で、「や」は疑問。○時分かす鳴く 鳴く時を分かたずに、すなわち絶えず鳴いている。
【釈】 湯の原に鳴いている鶴は、我のごとくにも、その事を恋うているのであって、あのように絶えず鳴いているのか。
(216)【評】 温泉に近い湯の原に、絶えず鳴いている鶴の声に心を寄せて、自分の亡き妹を恋うて泣いている心より迎えて、鶴にそうした事情があって鳴いているのかと思いやったのである。老体に入って、長い伴侶であった妻に旅で先立たれた寂莫の感が、こうした状態に陥らしめたのである。「鳴く」を繰り返しいっているところは旅人としても素朴な、むしろ荒さをもった歌である。
 
     天平二年庚午、勅して擢駿馬使大伴|道足《ちたり》宿禰を遣せる時の歌一首
 
【題意】「擢駿馬使」は、駿馬を抜擢するための使で、臨時に諸国に遣わされたものである。「大伴道足」は、その使を命じられて大宰府に下って来たのである。道足は、正四位下で、大伴氏一族の間にあっては旅人についでの高位の人である。歌は左注によって、この道足を歓待するために旅人の家で宴を張った際、葛井《ふじゐの》連広成の詠んだものである。
 
962 奥山《おくやま》の 磐《いは》に蘿《こけ》生《む》し 恐《かしこ》くも 問《と》ひ賜《たま》ふかも 念《おも》ひあへなくに
    奥山之 磐尓蘿生 恐毛 問賜鴨 念不堪國
 
【語釈】 ○奥山の磐に蘿生し 奥山の岩に苔が生えてで、見る目の恐ろしさから「恐く」と続け、その「恐く」の意を転じて序詞としたもの。○恐くも 「恐く」は下の続きで、尊い人に対すると恐れ多く感じる意のものである。上を承けての転じ方の少ないものである。以上は、巻七(一三三四)「奥山の石《いは》に蘿《こけ》生《む》し恐《かしこ》けど思ふ情《こころ》をいかにかもせむ」とある古歌を踏んだもの。「も」は詠歎。○問ひ賜ふかも 「問ひ賜ふ」は左注によって初めて意の明らかになるもので、宴席に集まっている人々が広成に、即座に歌を作れと言ったのに対して答えたもので、歌が作れたかと問われるの意。「かも」は詠歎。○念ひあへなくに 「念ひ」は、歌を思うで、作ろうとして考える意。「あへなく」は、「あへ」は能う意。「なく」は打消「ず」の未然形の「な」に「く」の添って名詞形となったもの。「に」は詠歎。詠めずにいることであるのに。
【釈】 奥山の岩に苔が生えて見る目の恐ろしい、それに因みのある恐れ多くも、歌を作れと問われることであるよ。詠めずにいることであるのに。
【評】 これは広成が、即座に歌を作れと人々から言われて、その出来ないことを断わった心のもので、断わりを言うのを歌の形式をもってし、しかも即座にしたので、その機才が喝采されて、その意味で伝えられたものである。しかしそうした事は、左注があるがゆえに初めてわかることで、この歌だけではわからないことである。すなわちこの歌は、一首の歌として見る資格のないものなのである。それが法外に喝采されたということは、歌と宴席との関係によってのことである。本来酒には歌は(217)離れられないもので、杯な勧めるにもまず歌がなければならず、また酒興を添えるにも歌でなくてはならなかった。この場合にも広成の要望された歌は、必ずしも歌として優れている必要はなく、ただその席上の人々の興を買いうれば十分だったので、歌が詠めないということを歌の形式をもって言った当意即妙さは、なまなかの歌よりもかえって喝采を博し得たのである。これが時代の趨勢で、歌はその量は増したが質は低下させることとなった。
 
     右、勅使大伴道足宿禰を帥の家に饗す。此の日会集の衆諸、駅使《はゆまづかひ》葛井連広成を相誘ひ、歌詞を作るべしと言ふ。登時《そのとき》広成声に応じて、即ち此の歌を吟《うた》へりき。
      右、勅使大伴道足宿祢饗2于帥家1。此日合集衆諸、相2誘驛使葛井連廣成1、言v須v作2謌詞1。登時廣成應v聲即吟2此謌1。
 
【解】 「駅使」は、公の文諸を送達する使で、葛井広成は、おりからその使となって京から大宰府に来合わせていたのである。「葛井連広成」は、神亀五年五月正六位上より外従五位下に進んだ人で、駅使としては身分の高い人である。何らかの事情の伴っての使であったかと思われる。
 
     冬十一月、大伴坂上郎女、帥の家を発して道に上りて、筑前国|宗形《むなかたの》郡|名児山《なごやま》を超ゆる時作れる歌一首
 
【題意】 「坂上郎女」は大宰府の旅人の家に来ていたのであるが、天平二年十二月旅人が京へ還るに先立って、「十一月」に発足したのである。「名児山」は『筑前統風土記』に、「宗像郡名児山、田島の西の山なり。勝浦の方より田島へ越す嶺なり。田島の方の東の麓を名児浦といふ。晋は勝浦潟より名児山を越え、田島より垂水越をして、内浦を通り、蘆屋へゆきしなり。これ昔の上方へ行く大道なり」とある(福岡県宗像郡津屋崎町勝浦と玄海町田島との間の山)。郎女の通った順路が知られる。
 
963 大汝《おほなむち》 少彦名《すくなひこな》の 神《かみ》こそは 名《な》づけそめけめ 名《な》のみを 名児山《なごやま》と負《お》ひて 吾《わ》が恋《こひ》の 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も なぐさめなくに
(218)    大汝 小彦名能 神社者 名著始鷄目 名耳乎 名兒山跡負而 吾戀之 千重之一重裳 奈具佐米七國
 
【語釈】 ○大汝少彦名の 「大汝」は大己貴神、すなわち大国主神。「少彦名」は神産巣日神の御子で、指の股から生まれ給うたという小さい神。この二神が相扶けて、最初わが国土を経営されたということは、上代に広く行き渡っていた伝えであった。○神こそは名づけそめけめ 「名づけ」は名をつけることであるが、名は物が存在するとともに付けられるもので、「名づけ」は意味の重いことである。ここは名の起源を想像しただけのもので、それほどの重さはないものである。この二神のことは集中にも出ており、巻三(三五五)「大汝小彦名の座しけむ志都《しつ》の石室《いはや》は幾代経ぬらむ」があり、また、巻七(一二四七)人麿歌集の歌として、「大穴牟遅少御神《おほなむちすくなみかみ》の作らしし妹背の山は見らくしよしも」がある。○名のみを名児山と負ひて 「名のみを」は単に名だけをで、実が伴わない意で下に続く。「名児山」は、「名児」が、「和《なご》む」に通うところから、その名によって和《なご》むことを求めたのである。和むは、下の「恋」の苦しさの和《なご》む意である。上代は名はその物の魂であり、その物にふさわしい力を持っているものとしてきわめて尊んでいたので、ここにいっていることはまじめな要求であって、決して軽い心よりのものではない。○吾が恋の千重の一重も 「吾が恋」は、わがなつかしく思う心で、大宰府に残して来た人すなわち兄の旅人に対しての心。「千重の一重」は千分の一で、いささかということを具象的にいったもの。○なぐさめなくに 慰めぬことであるのに。「名のみを」以下は、巻七(一二一三)名草山ことにしありけり吾が恋ふる千重の一重もなぐさめなくに」がある。
【釈】 大汝と少彦名の神こそは、この山の名を付けはじめられたのであろう。しかるに、単に名だけを名児山と持っているだけで、わがなつかしく思う心の苦しみの千分の一をも、和《なご》め慰めないことであるよ。
【評】 名児山は大宰府より遠くない所にある山であるが、それを越すと大宰府が視界から消えるので、それに刺激されて後に残して来た兄旅人が心許なく感じられるとともに、名児山という名に刺激されて、物の名に対する信仰心からこうした歌を詠んだものとみえる。物の名に対する信仰はきわめて古い時代より伝わって来ているもので、そうした借仰は主として女性によって保持されるものである上に、郎女は信仰心の深い人であったことが他の歌でも知られるのて,ここても名児山という名によって兄を案じる心の和められることを要求したのである。しかし詠んだ歌は古い歌の二首を綴り合わせた安易なものであり、結局は「なぐさめなくに」という失望をいっている軽いものなのである。信仰と、その信仰の必ずしも頼めるものではないことを同時に示している点が、この時代の実情で、それがまた周囲の人に親しく感じられたのであろう。
 
     同じき坂上郎女、京に向ふ海路に、浜の貝を見て作れる歌一首
 
964 吾《わ》が背子《せこ》に 恋《こ》ふれば苦《くる》し 暇《いとま》あらば 拾《ひり》ひて去《ゆ》かむ 恋忘貝《こひわすれがひ》
(219)    吾背子尓 戀者苦 暇有者 拾而將去 戀忘貝
 
【語釈】 ○吾が背子に恋ふれば苦し 「背」は女より男に対しての総称。「吾が」も「子」も親しんで添えたもので、これはその意の最高の称。兄の旅人。「恋ふれば苦し」は、なつかしく思うので、心が苦しい。○暇あらば拾ひて去かむ 「暇あらば」は海路は天候次第のもので、自由に出来ないところからのこと。「拾ひて」は下の「忘貝」。「去かむ」は持ち行かむで、身に着けていて、その力を受けようの意。○恋忘れ貝 「忘貝」は巻一(六八)に出た。物を忘れさせる霊力を持っている貝としていたので、名に対する上代信仰を承けての心である。上の歌の名児山と同じである。「恋」は恋を忘れさせる、すなわちその苦しみを失わせる意で添えた語。三句以下は、巻七(一一四七)「暇あらば拾ひに行かむ住吉《すみのえ》の岸に寄るとふ恋忘貝」によったもの。
【釈】 わが背子をなつかしく思うので心が苦しい。自由に出来る暇があったならば、拾って身に着けて持って行こう、恋忘貝を。
【評】 名の持つ力を信仰するところも、古歌を踏んで詠んでいるところも、前の歌と全く同じである。境と物は異なるが、心はいつも同じだということは、坂上郎女の人柄というよりもむしろ女性に共通した心と見るべきである。
 
     冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上る時、娘子《をとめ》の作れる敬二首
 
【題意】 題詞については、左注が詳しく補っている。
 
965 凡《おほ》ならば かもかもせむを 恐《かしこ》みと 振《ふ》りたき袖《そで》を 忍《しの》びてあるかも
    凡有者 左毛右毛將爲乎 恐跡 振痛袖乎 忍而有香聞
 
【語釈】 ○凡ならばかもかもせむを 「凡」はおおよそ、普通というにあたり、旅人の身分についていっているので、普通の身分の人であるならば。「かもかも」は原文「左毛右毛」。今の、とにもかくにもにあたる古語。別れを惜しんでその人の衣を摺り、旅中の用具を贈るなどしたので、それらを思ってのこと。「を」は詠歎。○恐みと 旧訓「かしこしと」。『古義』の訓。恐れ多いことだと。○振りたき袖を忍びてあるかも 「振りたき」は一語で、言痛《こちた》し、恋痛《こひた》し(巻二〔一三○〕「ゆくゆくと恋痛き吾弟」)と同型の語で、振ることを痛くしたい意と取れる。別れを惜しんで袖を振ることはしばしば出た。「忍びてある」は怺《こら》えているで、時間を含んでいる語。「かも」は詠歎。
【釈】 普通の人であるならば、ああもこうもしようものを。恐れ多いことだと、いたくも振りたい袖を、怺えていることであるよ。
(220)【評】 その心の赤裸々に現われている歌で、続く一首と相俟って娘子の全幅を髣髴させるものである。おそらく長く愛顧を蒙った帥との別れに臨み、その当時の風に従って記念になるべきことをああこうと思ったが、自身の身分を省みて一切を遠慮してさしひかえ、今見送りをすると路の上に立っても、きわめて普通にする袖を振ることも、したくて堪らないのをじっと怺えて、ただ帥を見詰めている心の躍動の現われである。言っている言葉そのものは一遊行婦としての心であるが、それを通して正直な、わきまえの十分にある、しかも情熱と感激に富んだ女の心の動きの跡が現われていて、可憐な面白さが見えてくる。
 
966 大和路《やまとぢ》は 雲隠《くもがく》りたり 然《しか》れども わが振《ふ》る袖《そで》を 無礼《なめし》と思《も》ふな
    倭道者 雲隱有 雖然 余振袖乎 無礼登母布奈
 
【語釈】 ○大和路は雲隠りたり 「大和路」は大和へ向かう道で、今旅人の行こうとしている路。「雲隠りたり」は、「隠り」はこの時代の四段活用。雲に連なって先が隠れて見えなくなっているというので、そのはるばると遠く続いていることを具象的にいったもの。○然れども 上の事を翻して、異なることを言う時にのみ用いる接続詞である。この場合、異なることは「わが振る袖」であるが、これは上二句とは何のつながりもないもので、接続し難い。強いて求めると上の歌の「振りたき袖を忍びてあるかも」で、それとならば緊密につながる。作意としてはそうしたものであろう。二首連作と見ればこれは許され難いことではなく、宴席に侍して即興の歌を詠み馴れていたと想像される娘子には、むしろ普通のことであったかとも思われる。○わが撮る袖を無礼と思ふな 「わが振る袖を」は、娘子は感に堪えられなくなってついに袖を振ったのであって、それをまた省みていったもの。「無礼」は巻十二(二九一五)に「妹登曰者 無礼恐」の用例があり、継体紀、安閑紀、欽明紀などに「軽」を「なめし」と訓んでいる。宜命に仮名書き例がある。「思ふな」は旅人に対しての訴え。
【釈】 君が行くべき大和往還は、はるばると続いて先が雲に隠れている。振るまいと怺えたけれども、その往還を望むと堪えられなくなって、わが振る袖を無礼とは思い給うな。
【評】 この歌は前の歌と同時のもので、連作の形となっているものである。前の歌で娘子は、身分のあまりなる懸隔に対して遠慮をし、何もせず何も言わず木石のように見送りをしていたが、感傷が高まって来て、その思慮を圧し、そのようにしている心中を弁明すると、そのために感傷はさらに高まり、帥が別れて去るべき道そのものさえも、遠く雲に紛れているのを見ると、ついに忍んでいた袖を振ることをせずにはいられなくなり、袖を振っての上にその弁明をしたのである。思慮を圧しつくして感傷に陥らしめたのは「大和路は雲隠りたり」という光景であるが、それと「わが振る袖」との間には飛躍がありすぎて続かないので、上の歌の「忍びてあるかも」を介入させて続けた形のものである。この続け方は当時の連作としては問題となる(221)ものであるが、作渚の娘子に力点を置いて見ると、大和路の光景が思慮を忘れさせたことを示していることで、その情熱の動きの自然さと敏活さを暗示によってあらわしていることで、味わいの深いものである。二首、実感に密接に即して、そのために味わいをなしている作で、この当時としては上代的な、庶民的な作である。
 
     右、大宰帥大伴卿、大納言に兼任して、京に向ひて道に上る。此の日馬を水城《みづき》に駐《とど》め、府家を顧み望む。時に卿を送る府吏の中に、遊行女婦《うかれめ》あり。其の字を児島《こじま》と曰ふ。ここに娘子、此の別れ易きを傷《いた》み、彼の会《あ》ひ雑きを嘆き、涕を拭ひ、自ら袖を振る歌を吟《うた》ひき。
      右、大牢帥大伴卿、兼2任大納言1、向v京上v道。此日馬駐2水城1、顧2望府家1。于v時送v卿府吏之中、有2遊行女婦1。其字曰2兒嶋1也。於v是娘子傷2此易1v別、嘆2彼難1v會拭v涕、自吟2振v袖之謌1。
 
【解】 「水城」は、濠を掘り水を湛えて城塞としたもので、敵に対しての防備のための物である。日本書紀天智紀に、「三年、於2対馬島、壱岐島、筑紫国等1置2防人与1v烽、又於2筑紫1築2大堤1貯v水、名曰2水城1」とある、その水城である。大宰府の西北十町福岡県筑紫郡大宰府町水城に御室川を中心に東西五百数十間の長堤の遺址がある。「府家」は、大宰府の庁。「遊行女婦」は和名抄に、「遊女、楊子漢語抄云、遊行女児和名宇加礼女又云阿曾比」とあり、巻一(六九)「清江娘子《すみのえのをとめ》」というがあって、同じ者である。貴族の出入りする地に住み、旅情を慰めた者であった。相応の教養をもっていたとみえる。「袖を振る歌を吟ふ」は、別れの歌を謡ったの意。
 
     大納言大伴卿の和《こた》ふる歌二首
 
967 日本道《やまとぢ》の 吉備《きび》の児島《こじま》を 過《す》ぎて行《ゆ》かば 筑紫《つくし》の児島《こじま》 念《おも》ほえむかも
    日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香裳
 
【語釈】 ○日本道の吉備の児島を 「日本道」は大和へ通う追で、ここは帰途の意。「児島」は備前国(今の岡山県児島市、玉野市、岡山市の一部にわたる地)にあり、今は半島となっているが、古くは島であって、海路としての経過地点。○過ぎて行かば 通って行く時には。○筑紫の児島(222)念ほえむかも 「筑紫の児島」は、「筑紫」は大宰府肝を上との関係で地理的にいったもの。「児島」は遊行婦の名で、これは親しんでの呼び方。「念ほえむかも」は、「かも」は詠歎で、思い出されることであろうよの意。
【釈】 大和への道の、吉備の児島をわが船の過ぎて行く時には、筑紫に住んでいる児島の思い出されることであろうよ。
【評】 歌をもって児島が別れを悲しんだので、それに対して旅人も歌をもって和えたので、その第一首に対してのものである。
心は我もそなたを忘れまいということであるが、それを具象化するに同名の関係で帰路の経過地点である児島を捉え、それに寄せているのは、それが永遠性をもっている土地であるがゆえに、おのずからいつまでも忘れまいという含蓄をもってくる。この具象化のために吉備の児島に対して「筑紫の児島」という称を設け、「念ほえむかも」とおおらかにいっているのは、旅人の人柄と詩情を思わせるものがある。
 
968 大夫《ますらを》と 念《おも》へる吾《われ》や 水茎《みづくき》の 水城《みづき》の上《うへ》に 泣《なみだ》拭《のご》はむ
    大夫跡 念在吾哉 水莖之 水城之上尓 泣將拭
 
【語釈】 ○大夫と念へる吾や 「大夫」は勇気あり教養ある男子の称で、したがって女々しい行ないはしないもの。既出。「念へる吾」は自任している我。「や」は疑問。○水茎の水城の上に 「水茎の」は畳音の関係で「水城の」の「水」にかかる枕詞。定解はないが、本居宜長の瑞々《みずみず》しい茎すなわち稚《わか》茎だと解しているのが注意される。食料を貴ぶ心から稚茎の美味を讃えたのだと取れるからで、また古くは今よりもはるかに多種類の草を食用としたとみえるからである。「上」は堤の上。○泣拭はむ 「泣」は涙に当てた字。大夫は涙など出すべきではないとするその涙である。「拭はむ」は、上の「や」が添って拭おうかで、哀感に堪えずそぞろに涙を出したことをいったもの。
(223)【釈】 大夫だと思っている我が、この水城の堤の上でそぞろなる涕を拭うのであろうか。
【評】 児島の第二首目に対する和えである。児島が大和路の雲隠れているのを見ると、思慮が保ちきれないというのに対し、旅人も、水城の上に立つと、大夫と思っている我も漠が出るが、それを拭おうかと、地歩を占めて応じているのである。事としては時宜に適させたものであるが、この歌は言外にじつに深い味わいをもっている。それはこの歌の調べで、豊かに清らかで、旅人その人の全幅を思わせるものがある。思うにこの際の旅人の心は、単に児島に限られたものではなく、大宰府在任期間の感がおのずからに綜合されてきて、それが、この歌に流れ込み、こうした調べをなしたのではないかと思われる。旅人の作を通じても代表的な一首である。
 
     三年辛未、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて故郷を思ふ歌二首
 
【題意】 「三年」は旅人が奈良に帰った翌年である。「寧楽の家」は、(九五五)の「佐保」にある旅人の家である。「故郷」は歌によると、「神名火《かむなび》」であり、そこは淵瀬の定まらない河のある所である。「神名火」は神の森の意の普通名詞であって、大和国でこの名をもって呼ばれた地は、三輪と飛鳥と葛城である。ここは河のある地であり、その河は淵瀬の定まらない河であるところから、飛鳥川と取れるので、飛鳥の里である。飛島に大伴家の故宅があったのである。なお、巻三(三三四)旅人の「萱草吾が紐に付く香具山の故《ふ》りにし里を忘れむが為」とあり、そこでは香具山といっているが、香具山は飛鳥と接しているので、同じ地と取れる。
 
969 須臾《しましく》も 去《ゆ》きて見《み》てしか 神名火《かむなび》の 淵《ふち》は浅《あ》せにて 瀬《せ》にかなるらむ
    須臾 去而見牡鹿 神名火乃 淵者淺而 瀬二香成良武
 
【語釈】 ○須臾も去きて見てしか 「須臾」はしばらくの間で、ちょっとの間《ま》。既出。「去きて」は下の神名火。「てしか」は願望。○神名火の淵は浅せにて 「神名火の淵」は飛鳥川の淵。「浅せにて」は原文「浅而」で、訓がさまざまで定まっていない。これは『古義』の訓で、今はこれに従う。「浅せ」は水が浅くなる意で、「に」は完了。浅くなって。○瀬にかなるらむ 「か」は、疑問。「らむ」は、現在の推畳。瀬に変わるであろうか。
【釈】 ちょっとの間でも、そこへ行って見たいものである。神名火の川は、淵は浅くなって、瀕に変わるのであろうか。
【評】 旅人は上に引いた歌でもわかるように、大宰府にいた時でも故宅のある飛鳥の里へ心を寄せていたのである。それが奈良へ帰って来て年を越えても近間の飛鳥へ行かず、「須臾も去きて見てしか」といっているのは、病弱の身となり、思うままに(224)は行動ができなかったためであろう。その事はこれに続く歌でも察しられる。行って親しく見たいと思う第一は、飛鳥川の淵瀬の変化で、現に想像していることも神名火の淵が瀬に変わっていようというはかないことで、これは古い記憶をなつかしむ以外の何ものでもない。老いて昔を思うのは人の通情であるが、旅人の思うのは自然の風物であるところにその人柄が出ている。
 
970 指進《さしずみの》の 栗栖《くるす》の小野《をの》の 萩《はぎ》の花《はな》 散《ち》らむ時《とき》にし 行《ゆ》きて手向《たむ》けむ
    指進乃 栗栖乃小野之 芽花 將落時尓之 行而手向六
 
【語釈】 ○指進の 『考』の訓である。福井久蔵氏は『枕詞の研究と釈義』で、これは大工の用いる墨斗《すみさし》であろう。それを繰って墨糸を出す意から、「繰る」と続け、同音で「栗《くる》」へ続けたのだろうと言っている。○栗栖の小野の 「小」は美称。「栗栖」という地名は和名抄に「大和国忍海郡栗栖」とあるが、忍海部は今の北葛城郡新庄町御所付近であって、飛鳥とは数里離れていてあたらない。一方栗栖という地名は諸所にあって、栗の木の多い地の名と思われるから、飛鳥の内にもその名の地があって、伝わらなかったと取れる。平群地方説もある。○萩の花 「萩」は原文「芽」で、集中用例のある字である。○散らむ時にし 「し」は強めで、散るであろう時にというのであるが、「し」によって、萩の花が過ぎてしまうまでにはの意でいったと取れる。○行きて手向けむ 「行きて」は栗栖へ行って。「手向けむ」は、神に物を供えようで、神祭りをしようの意。祭をする心は広いもので、限っては言えないが、故郷の栗栖野でしようとするので、その地に関係の深い神を祭ろうと思ったとみえる。
【釈】栗栖の野に咲く萩の花の散り過ぎる頃までには、行ってその地で祭をしよう。
【評】上の歌に続けて、飛鳥に心を寄せたものである。歌そのもののほうに力点を置いて見ると、四句までの栗栖野の萩の花と、結句の「行きて手向けむ」とに直接なつながりがあり、萩の花を手向の料にしようとするがごとくに見えるが、旅人のその際の心に力点を置くと、双方の関係は間接なものとなり、第一には、栗栖野の萩の花の散り過ぎないうちに、行ってそれを見たいということで、第二には、それとともに栗栖野の神の祭をしたいということで、双方とも旅人の心に懸かっていることなので、それらを同時にしたいという心をいったものと取れる〈これはやや久しい間の希望だったということは、巻三(四五五)余明軍の「かくのみにありけるものを芽子《はぎ》の花咲きてありやと問ひし君はも」から察しられる。すなわちこの歌を詠んだ時は旅人は病中で、歌でいっている希望は充たせなかったのである。「萩の花散らむ時にし」は、それまでの間には行きたいものだという心許なさを伴っての心なのである。そういう際に深く思っていた「手向」であるから、長い地方官を終えて無事に帰った報賽をするというような、軽くないものであったかと思われる。おのずからなるあわれを湛えた歌である。
 
(225)     四年壬申、藤原|宇合《うまかひ》卿の西海道|節度《せちど》使に出さるる時、高橋連虫麿の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】「四年壬申」は、続日本紀に「天平四年八月丁亥、従三位藤原朝臣宇合為2西海道節度使1」とある時である。「藤麻宇合」は、巻一(七二)に出た。藤原不比等の第三子である。「節度使」は、巻四(六二一)に出た。諸道に遣し、軍務等の事を検定せしめられる職で、天平四年に初めて置かれた職である。「高橋連虫麿」は、巻三(三ニー)に出た。伝は未詳であるが、奈良朝の初期、養老の頃、当時常陸守であった藤原宇合の下僚として、『常陸風土記』の編纂にあずかり、天平の頃は字合とともに奈良にあったと推察されている。虫麿の歌集というものがあり、それから長歌十三首、短歌十九首が本集に収められており、その長歌は民間の伝説を詠んだものが多く、これは虫麿によって拓かれた新生面で、その特色となっている。本集の代表的歌人の一人である。
 
971 白雲《しらくも》の 竜田《たつた》の山《やま》の 露霜《つゆじも》に 色《いろ》づく時《とき》に 打越《うちこ》えて 旅《たび》行《ゆ》く公《きみ》は 五百重山《いほへやま》 い行《ゆ》きさくみ 賊《あた》守《まも》る 筑紫《つくし》に至《いた》り 山《やま》のそき 野《の》のそき見《み》よと 伴《とも》の部《べ》を 班《あか》ち遣《つかは》し 山彦《やまびこ》の 応《こた》へむ極《きは》み 谷潜《たにぐく》の さ渡《わた》る極《きは》み 国方《くにがた》を 見《め》し給《たま》ひて 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》さり行《ゆ》かば 飛《と》ぶ鳥《とり》の 早《はや》く来《き》まさね 竜田道《たつたぢ》の 丘辺《をかべ》の路《みち》に 丹躑躅《につつじ》の 薫《にほ》はむ時《とき》の 桜花《さくらばな》 開《さ》きなむ時《とき》に 山《やま》たづの 迎《むか》へ参出《まゐで》む 公《きみ》が来《き》まさば
    白雲乃 龍田山乃 露霜尓 色附時丹 打超而 客行公者 五百隔山 伊去割見 賊守 筑紫尓至 山乃曾伎 野之衣寸見世常 伴部乎 班遣之 山彦乃 將應極 谷潜乃 狹渡極 國方乎 見之賜而 冬木成 春去行者 飛鳥乃 早御来 龍田道之 岳邊乃路尓 丹管士乃 將薫時能 櫻花 將開時尓 山多頭能 迎參出六 公之來益者
 
【語釈】○白雲の竜田の山の 「白雲の」は立つと続き、「竜」に転じての枕詞。「竜田の山」はしばしば出た。大和国と河内国との境にあり、生駒郡三郷村の西方。京から難波への往還にあたっている山。今は、歌で見ると、当時難波津から船で遠い旅に立つ人を、この山の麓まで見送り、帰る人を同じくここまで出迎えることとなっていたことが知られる。○露霜に色づく時に 「露霜」は今の水鮨。それによって秋の木の葉が色づ(226)くのであるが、それを竜田山そのものが色づくようにいっている。竜田山の紅葉は古来有名で、大観だったのである。虫麿は現在その山の麓にいて、嘱目としていっているのであるが、実は字合の行を壮んにする意からのものである。○打越えて旅行く公は 竜田山を越して旅に行く君はで、宇合を指していったもの。〇五百重山い行きさくみ 「五百重山」は多くの山ということを具象化していったもの。「い行きさくみ」は、「い」は接頭辞。「さくみ」は巻四(五〇九)に「い行きさぐくみ」と出たのと同じく、「さく」は裂くで、「裂くむ」と再活用した語で、裂き分ける意と取れる。この二句は、筑紫まで行く途中の勇敢なさまを想像していっているのであるが、難波津から筑紫までの路は船と定まっていて、事実とはちがったものである。行を壮んにしようとの心から、故意に誇張したものであるが、技巧としては眼前の竜田山につながりがあって、そのわりには突飛ではなく聞こえる。○賊守る筑紫に至り 「賊」はここは唐またはその関係のもので、外敵。「守る」は防備するで、上の「水城」「防人《さきもり》」などは、すべてそのためのもの。「筑紫」は題詞の「西海追」で、外敵に対する防禦地となっていた。○山のそき野のそき見よと 「そき」は、退きで、速い涯《はて》。「山のそき野のそき」は山の最終点、野の最終点で、筑紫全土隈なくということを具体的にいったもの。「見よと」は検分せよと言ってで、宇合が下す命令。○伴の部を班ち遣し 「伴」は人々。「部」は部族で、兵の各部族。「班ち」は分かちの古語。諸方面に分遣して。○山彦の応へむ極み 「山彦」は山にいる男性の霊で、声を発するものとした上代信仰よりの称。「応へむ極み」は、人の声に応えをするその限りの地までの意で、山の尽きる地点までということを具象的にいったもので、「山のそき」を繰り返して強めていったもの。○谷潜のさ渡る極み 「谷潜」は蟇《ひきがえる》。「さ渡る」は、「さ」は接頭語で、「渡る」は広い範囲にわたって行く意。蟇はいかなる行き難い場所をも行き尽くすものとしていったもの。「極み」は限り。蟇の行き尽くす限りは、いかなる行き難い場所をも隈なくという意で、「野のそき」を繰り返し具象的にいったもの。この二句は巻五(八〇〇)に出ており、祝詞祈年祭の語であり、上の二句と対句としたもの。○国方を見し給ひて 「国方《くにがた》」は、「国形《くにがた》」、「国体《くにがた》」の文字も当てており、国の情勢の意である。「見《め》し」は、「見」に、敬語の助動詞「す」を添えて敬語とし、転音の関係で、見《め》に転じたもの。「給ひて」はさらに敬語を添へて重くしたもの。これは節度使として検察することで、以上を総括したもの。○冬ごもり春さり行かば 「冬ごもり」は「春」の枕詞。既出。「春さり行かば」は、「さり」は移る意。「行かば」は、来ればと同じ意で用いていた当時の語法。春が来たならば。○飛ぶ鳥の早く来まさね 「飛ぶ鳥の」は「早く」の譬喩。飛ぶ鳥のごとくにも。「来まさね」は来るの敬語「来ます」に、他に対する願望の助詞「ね」の添ったもの。以上第一段。○竜田道の丘辺の路に 「竜田道」は竜田越えの道。「丘辺の路」は、丘となっている辺りの路で、虫麿が現在いる竜田山の麓の京寄りの方面の状態。○丹躑躅の薫む時の 「丹躑躅」は、花の赤い躑躅。「薫ふ」は色|艶《つや》の状態をいう語で、艶やかに咲くという意。「時の」の「の」は、同類の名詞を並べていうのに用いる助詞で、時にして、それとともにというにあたるもの。○桜花開きなむ時に 桜花も咲くであろう時に。以上四句、現在いる所の春の光景を想像していっているものであるが、出迎えに来る時を、それにふさわしい愛でたい季節としようとする心からの想像であって、単に美しく言おうとしてのものではない。なおこの想像は、現に見送りをしている竜田山の秋の「色づく時に」といっているのと、おのずからに対照をなしているものである。○山たづの迎へ参出む 「山たづの」は巻二(九〇)に出た。「山たづ」は接骨木《にわとこ》で、その葉の対生しているところから、向かいと続き「迎へ」の枕詞としたもの。「参出む」は、参り出むで、「参」は貴い所へ出る意の語であるから、現在用いている罷り越すの敬語である。○公が来まさば 「来ます」は来るの敬語。君がお還りになったならば。以上第二段。
【釈】 竜田山の、水霜によって色づいている愛でたい時に、この山を越して旅に行く君は、その行手に横たわっている五百重と(227)重なっている山を踏み裂きわけて、外敵の防禦なしている筑紫に行き着き、山の涯《はて》野の涯まで検視せよと命じて、兵の各部族を諸方面に分遣して山地は山彦が人声に応《こた》えをする限りのその尽きる所まで、またいかなる所にまでも這い行く蟇の行き尽くす限りまで、残る隈もなく筑紫の情勢を検視なされて、春が来たならば、飛ぶ鳥のごとくに早く還って下されよ。この竜田の山越え道の丘のあたりの路に、赤躑躅の艶やかに咲く時であって、それとともに桜の花も咲くであろう愛でたい時に、我はお出迎えにと参り出よう、君がお還りになられるならば。
【評】 宇合が節度使という重要な公務を帯びて筑紫へ発足した時、多年恩顧を蒙っている者として虫麿が、当時の習いとなっていたと思われる、大和国の国境の竜田山の麓まで見送りをし、こうした際の習いとなっていた賀の歌を贈ったのである。賀の歌はしばしば言ったように、言霊の力によって、賀する語《ことば》のごときことが賀せられる人の上に起こると信じてのもので、そうした信仰は容易には移るものではないから、この時代にも、賀する者賀される者の間には、そのことが明らかに意識されていたことと思われる。したがってこの歌は儀礼的な改まったものだったのである。この歌は一読文芸性の勝ったもののごとく見えるのであるが、それは虫麿の才情が、無意識の間におのずからにそうさせているのであって、彼が意識して行なおうとしていたことは、賀の歌の精神にかなわしめよう、実用性を遂げようとしていたところにあると思われる。最も文芸性の豊かに見えるのは、現に送別をしている竜田道の丘辺の路の秋の光景であり、またそこで歓迎しようと思っている想像に浮かぷ春の光景であるが、送別の際はあくまで縁起をよくし、不吉に類することは絶対に避けるのが礼となっているのであるから、送別の際、竜田山の全山が黄葉となっていたとしたら、それを捉えて行を壮んにする料に供するのは当然のことである。これは実用性よりのことで文芸性のためのものではない。歓迎の時を春としているのも、拠るところのあることで架空のものではなかろう。その時を楽しく美しいものに想像するのも、これまた同じ心からのことである。一席の中心は、宇合が重大なる責務を過漏なく果たすことであって、その上では言葉をつくした言い方をしている。まず部下をして山のそき野のそきまでも検せしめることをいい、それを十分に果たさせる上で山彦と谷潜とを捉えて対句としている。谷潜は用例のあるものであるが、それをこのように対句の形にしているのは虫麿の創意からのもので、才情の見えるものである。しかしこれも事を力強くしようとする必要からのもので、実用性の範囲のものである。これに続けて、「国方を見し給ひて」と、部下にさせた一切を宇合に総収せしめている敏活なる移りは、じつに巧妙である。なほ余事であるが、「山たづの」という枕詞は、巻二巻首の磐姫皇后の御歌にも用いられているもので、編集当時は誤読されていたものを、虫暦は正解して用いている。谷潜を自由に運用しているのとともに虫暦のその方面の教養を思わせられるものである。一篇全体として見ると、自在にして流麗であるが、同時に冗語がなく綜合が確かであり、古典を捉え来たって駆使しているが、同時にみずみずしく感覚的であって、柔らかに豊かな趣を湛えているところ、まさにこの時期の新風である。
 
(228)     反歌一首
 
972 千万《ちよろづ》の 軍《いくさ》なりとも 言挙《ことあ》せず 取《と》りて来《き》ぬべき 男《をのこ》とぞ念《おも》ふ
    千萬乃 軍奈利友 言擧不爲 取而可來 男常曾念
 
【語釈】 ○千万の軍なりとも 「千万の」は多数のということを具象的にいったもの。「軍」は兵で、ここは敵兵である。いかに多くの敵兵があろうとも。○首拳せす 「言挙」は範囲の広い語である。巻十三(三二五〇)「あきつ島倭の国は、神柄《かむから》と言挙せぬ国」とあるのは、この国は神の守護し給う国で、その神は一切を知り給うゆえに、一切を神に委《ゆだ》ねまつり、自身の願望は言い立てないとの意で、信仰のあらわれた形である。また、古事記、景行の巻、日本武尊伊吹山の条に、「白猪逢2于山辺1、其大如v牛。爾為2言挙1而詔云々」とあるのは、尊は信仰上、禁忌となっている言挙をなされたがために、その身に持たれている威力を減じられ、山神の化身である白猪に悩まされるに至り給うたことを言っているもので、これは一層信仰的である。ここの「言挙」は、実行に先立って、希望、抱負を揚言する意で、「言挙せず」は、それをしない意である。これは実行を重んじて、言説を賤しむ心である。「せず」は連用形で、下へ続く。○取りて来ぬべき男とぞ念ふ 「取り」は、殺す意。「来ぬ」の「ぬ」は完了の助動詞で、強めるために用いるもの。「男」は大丈夫。「念ふ」は「ぞ」の結で、連体形。
【釈】 たとい千万の敵兵があろうとも、言挙はせずに打殺して、還って来るべき大丈夫と思っていることである。
【評】 長歌の精神を総括し、それに展開を与えて繰り返したもので、反歌として典型的なものである。展開というのは、宇合の任務は節度使であるのに、この歌ではただちに外敵に赴く大将軍のごとき言い方をしているからである。しかし勇敢に責務を果たすようにと賀する精神からいえば、長歌と異ならないものである。言っている事柄はじつに誇張したものであるが、一首の調べは当然なことをいっているように落ちついた、自然な、したがって重厚味をもったもので、誇張を忘れさせようとするがごときものである。これは虫麿の真情の発露であるがためで、それ以外には説明のできないものである。優れた作である。
 
     右|補任《ふにん》の文を檢《かんが》ふるに、八月十七日、東山、山陰、西海節度使に任《よさ》しき。
      右、檢2補任文1、八月十七日、任2東山々陰西海節度使1。
 
【解】 「補任の文」というのは、後世には伝わらないが、当時、公卿補任の事を記したそうした書があって、それには日付があったとみえる。続日本紀、聖武紀に、「正三位藤原朝臣房前為2東海東山二道節度使1、従三位丹比真人県守爲2山陰道節度使1、従三位(229)藤原朝臣宇合為2西海道節度使1。」とある。
 
     天皇、酒を節度使の卿等に賜へる御歌一首 并に短歌
 
【題意】 「天皇」は聖武天皇。「節度使の卿等」は、上の歌の注に引いた藤原房前、同宇合、丹比県守の三人である。「酒を賜へる御歌」は、酒には歌が伴うことが習いとなっているので、大御酒を賜うにつけ、節度使を祝う大御心を詠まれたものである。すなわち「御歌」は、「酒を賜へる」御主旨をも示されているのである。
 
973 食国《をすくに》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》に 汝等《いましら》が かく退去《まか》りなば 平《たひら》けく 吾《われ》は遊《あそ》ばむ 手抱《たむだ》きて 我《われ》は御在《いま》さむ 天皇《すめら》朕《わ》が うづの御手《みて》もち 掻撫《かきなで》でぞ ねぎたまふ 打撫《うちなで》でぞ ねぎたまふ 還《かへ》り来《こ》む日《ひ》 相飲《あひの》まむ酒《き》ぞ この豊御酒《とよみき》は
    食國 遠乃御朝庭尓 汝等之 如是退去者 平久 吾者將遊 手抱而 我者將御在 天皇朕 宇頭乃御手以 掻撫曾 祢宜賜 打撫曾 祢宜賜 將還來日 相飲酒曾 此豊御酒者
 
【語釈】 ○食国の遠の朝廷に 「食国」はしばしば出た。天皇の御支配になる国で、「食す」は敬語。「遠の朝廷」は、巻三(三〇四)に出た。京より遠方にある、天皇の政事を行なう所の意で、国庁ということを具体的にいった称。○汝等がかく退去りなば 「汝等」は三人の卿《まへつぎみ》を呼び懸けられたもの。「かく」は、さしあたっての状態をさされたもの。「退去《まか》り」は、尊い所より去る意で、ここは京より地方へ行く意。○平けく吾は遊ばむ 「平けく」は平安と熱する語で、安らけくの意。「吾は遊ばむ」は安心しようということを最も具体的に仰せられたもの。○手抱きて我は御在さむ 「手抱き」は、「手」は御手。「抱き」の訓につき『古事記伝』は、「抱は書紀などに伊陀久とも宇陀久とも牟陀久とも訓るが中に、万葉十四に可伎武大伎とあれば、これに依て牟陀伎弖と訓べし」といっており、春日政治氏は、ムダクが最も古形であろうと考証している。抱《いだ》く意で、「手抱《たむだ》きて」は、手を拱《こまぬ》いてで、すべきことのないという意を、最も具体的にあらわしたもの。拱手という語より出たものと思われる。「御在《いま》さむ」は、敬語。天皇が自身のことを敬語をもって言われたので、これは皇位をきわめて尊貴なものとしてのことである。以上第一段。○天皇朕がうづの御手もち 「天皇《すめら》」はすめろぎ、すめらぎというと同じく、皇位にあられる方の御自称。「すめ」は統《す》め、「ら」は接尾語か。「うづ」は神代紀、祝詞に用例があり、尊貴の意の古語。「もち」は「もて」の意。この当時の語格。○掻撫でぞねぎたまふ 「掻撫で」は「掻」は接頭語。「撫で」は、愛撫して。「ねぎ」は労《ねぎら》うで、慰労して。○打撫でぞねぎたまふ 「打」は「掻」と同じく接頭語。上の二句の繰り返しである。以上第二段。○還り来む日相飲まむ酒ぞ 「還り來む日」は、節度使の責務を果たして、京へ還って来た日に。「相飲まむ酒《き》ぞ」は、「酒《き》」は旧訓「酒《さけ》」、(230)『略解』の訓で黒酒《くろき》白酒《しろき》などあり、酒の古語。「相飲まむ」は天皇と節度使とともどもに飲む酒であるぞで、その「酒《き》」は今は行を壮んにするために賜わっている物で、還って来た時には、喜びとして再び飲もうと仰せられるのである。これは「酒」をとおして節度使のその責務を果たすようにと祝わせられたのである。○この豐御酒は 「この」は、眼前の今賜わせられた酒。「豊」は、豊かな形容。「御酒」は現在も神に供える酒に用いている。以上第三段。
【釈】 わが御支配になる国土の、京より遠方の国庁に、そなたらがこのように罷るならば、吾は心安らかに遊んでいよう。我はすべき事なく手を拱《こまぬ》いていらせられよう。天皇《すめら》なる朕が、尊貴なる御手をもって、そなたらの身を撫でて労《いたわ》って下さるぞ。撫で労って下さるぞ。そなたらが責務を果たして還って来る日に、ともどもに飲むところの酒であるぞ、この豊御酒は。
【評】 この酒は、日常の興味を旨としての物とは異なり、祭礼の時神前で飲む物と、同じ性質の、賀のための物である。酒には歌が伴うべきものになっており、御歌も同じく賀の精神をいっているものである。第一段の「手抱きて我は御在さむ」までは、節度使を絶対に信頼されていることで、言いかえると激励されることである。第二段「打撫でぞねぎたまふ」までは、御力を授けられることで、防人《さきもり》に立つ子にその親のしているのと同じ心よりのことである。第三段の「この豊御酒は」までは、いわゆる待酒《まつざけ》で、古くより定まっている儀式で、これまた激励の心をもってのものである。言葉は簡潔であるが含蓄をもったもので、その含蓄は古くより伝わって来ている特殊の信仰で、説明を超えたものだったのである。なおこの歌に類したものが、巻十九(四二六四)にあり、それは遣唐便に賜わったものである。宣命などと同じく一つの型をなしていたものと思われる。
 
     反歌一首
 
974 大夫《ますらを》の 去《ゆ》くとふ道《みち》ぞ 凡《おほろ》かに 念《おも》ひて行《ゆ》くな 大夫《ますらを》の伴《とも》
    大夫之 去跡云道曾 凡可尓 念而行勿 大夫之伴
 
【語釈】 ○大夫の去くとふ道ぞ 「大夫」は既出。「去くとふ」は行くといわれている。「道」は道路の意ではなく、任務という意のもので、用例のある語。大夫のみの負いうるといわれている任務ぞの意で、節度使の任務の重大なものであることをいったもの。○凡かに念ひて行くな 「凡」は上に出た。普通のことと思って向かっては行くな。上二句を語を換えての繰り返し。○大夫の伴 「伴」は人々で、呼懸け。汝ら大夫の人々よ。
【釈】 大夫の負うという任務であるぞ。世の常のことと思って向かうな。大夫の人々よ。
【評】 長歌と同じく激励の意ではあるが、それを進展させて強く命令したものである。二句と四句とで切って、繰り返しに近(231)い言い方をした素朴なもので、それがすなわち力となっているものである。
 
     右の御歌は、或は云ふ、太上天皇の御製なりといふ。
      右御謌者、或云、太上天皇御製也。
 
【解】 「太上天皇」は元正天皇である。こうした異伝は、これに類した型の歌が以前から宮中にあったということに関係してのことである。
 
     中納言安倍広庭卿の歌一首
 
【題意】 「安倍広庭」は巻三(三〇二)に出た。右大臣|御主人《みうし》の子で、神亀四年中納言となり、天平四年七十四で没した。この歌はその年のものである。この巻の歌はすべて題詞が添って作歌事情を明らかにしているのに、この歌にはそれのないことにつき『代匠記』は、これは上の歌を承けたもので、広庭が勅使として節度使の宴に臨んだ時のものだろうと言っている。
 
975 かくしつつ 在《あ》らくを好《よ》みぞ たまきはる 短《みじか》き命《いのち》を 長《なが》く欲《ほ》りする
    如是爲管 在久乎好叙 靈剋 短命乎 長欲爲流
 
【語釈】 ○かくしつつ在らくを好みぞ 「かくしつつ」はこのようにすることを繰り返してで、現にしていることをさして、その永続を望んでいる意。「在らく」は「在る」に「く」を続けて名詞形としたもので、「在る」は生存していること。「好み」は好いので。「ぞ」は、係辞。○たまきはる短き命を 「たまきはる」は命にかかる枕詞。語解は定説がないが、「靈来経《たまきふ》る」の「経る」の転音となったもので、霊が身に宿って宿りつづけていることで、その状態が「息《い》」であるとしての続きかと思われる。靈と身を二元的に考え、霊の身を離れることを死とし、また息《いき》をすることを息吹《いぶ》きと言っているからである。「短き命」は人の命は短いものだとする意でいったもの。○長く欲りする 「欲りする」は動詞「欲り」と「する」と結合した語。連体形で、「ぞ」の結。
【釈】 このようにしつつ生存していることが好いので、短いものである人の命を、長く保たせたいと思うことであるよ。
【評】 『代匠記』の解に従えば、宴席における賀の歌で、それとするときわめて自然なものである。酒宴のたのしさを、人の命の短さを惜しむ心に結びつけているのは、七十四の中納言としては個人的にも妥当感のあることである。賀歌であるから、そ(232)の心が通じさえすればよいものである。事柄の関係から伝わったのであろう。
 
     五年葵酉、草香山《くさかやま》を越ゆる時、神社忌寸老麿《もりのいみきおゆまろ》の作れる歌二首
 
【題意】 「草香山」は、大和国と河内国との国境にある山で、生駒山の西麓である。今は枚岡市に日下《くさか》町の名がある。暗《くらがり》峠と呼び古くは大和京から難波に通ずる要路となっており、竜田越えよりは近路であったが、路が険岨なため通行が少なかった。「神社忌寸老麿」は、「忌寸」は姓。伝は未詳である。
 
976 難波潟《なにはがた》 潮干《しほひ》のなごり 委曲《つばら》に見《み》む 家《いへ》なる妹《いも》が 待《ま》ち問《と》はむため
    難波方 潮干乃奈凝 委曲見 在家妹之 待將多米
 
【語釈】 ○難波潟潮干のなごり 「なごり」は名残の字を当て、波の引いた跡に残る魚介海藻の総称である。ここは潮の干た跡である。○委曲に見む 「委曲に」はつまびらかに。「見む」は原文「見」で、「見む」は「将見」とあるのが例となっているから、「む」は訓添えである。それでないと通じないからのことである。『定本』の訓。○家なる妹が待ち問はむため 「家なる妹」は家にある妹。「待ち問はむため」は、わが帰りを待って、海への憧れから、その様子を尋ねるのに話して聞かせるために。
【釈】 難波潟の潮干のなごりの魚介海藻のさまをつまびらかに見よう。家にいる妹が、わが帰りを待って、海への憧れから、その様子を問うのに話して聞かせるために。
【評】 題詞によって草香山を越える時の作ということが知られるために、興味のもてる歌である。もし題詞がないと難波津での作とみえ、無味なものとなるからである。興味というのは、題詞があるために、老麿はその事を絶えず胸の中に抱いていること、またその妻は海に憧れを抱いて、それを老麿に語っていたことが背後にあって、老麿は今難波の海を遠望するとともに、それらが胸に閃めいてきたことが連想されることである。この歌は作者の心に極度にまで力点を置き、歌そのものはほとんど問題としていないような作で、時代的に見ると時代ばなれをしたものである。
 
977 直超《ただごえ》の この径《みち》にして 押照《おして》るや 難波《なには》の海《うみ》と 名附《なづ》けけらしも
    直超乃 此徑尓師弖 押照哉 難波乃海跡 名附家良思蒙
 
(233)【語釈】○直超のこの径にして 「直超」は真っ直ぐに越えることで、山路は普通まがりくねっているのに、草香山は反対に其っ直ぐだったのである。「この径にして」は、このわが歩いている細路において。○押照るや難波の海と 「押照るや」は難波の枕詞で、「押照る」とも用いていた。「や」は間投助詞である。語義はあまねく照っているで、難波の海を讃えた語であり、それが慣用された結果固定して枕詞となったものである。○名附けけらしも 「けらし」は、「けるらし」の約。「らし」は眼前を証としての推量で、「も」は詠歎。
【釈】 直超のこの草香山の細い山路にあって昔の人は、押照るや難波の海と名付けたのであったらしいことよ。
【評】 これは老麿が.草香山の頂上に立って、難波の海を遠望し、その一面に光り照っているところからこのような直感をしたのである。「この径にして名附けけらしも」というのは大胆な独断であるが、この時代は地名の起源伝説を豐富に含んでいる古事記や日本書紀の撰進された時からいくばくも離れていない時代であるから、こうした推量を好む雰囲気があり、その中にあってのこととてある得意を感じてしたものかと思われる。また古くは大和川がこの山の裾を流れていて、難波から淀川を溯って来る船はこの山の裾で碇泊したと考証されているので、草香山と難波とのつながりは密接に感じられ、それにも刺激されているところがあるかもしれぬ。歌としては常凡なものであるが、時代を思わせられる作である。
 
     山上臣憶良、痾《やまひ》に沈める時の歌一首
 
【題意】 「痾に沈める」は、重病を意味する語である。この年の憶良は、多分七十四であったろうと思われる。なおこの歌は、憶良の作にして年代の明らかなものの最後となっているもので、多分は辞世の歌であったろうとされてもいる。作をした事情は左注にある。
 
978 士《をのこ》やも 空《むな》しかるべき 万代《よろづよ》に 語《かた》り続《つ》ぐべき 名《な》は立《た》てずして
    土也母 空應有 萬代尓 語續可 名者不立之而
 
【語釈】 ○士やも空しかるべき 「士《をのこ》」は『代匠記』の訓。『攷証』は「士《をとこ》」としている。広く男子を指した称で、集中両様に用いられている。「をとこ」は、若盛りの意で用いられている例があるから、「をのこ」に従う。「や」は反語で、「空しかるべき」にかかる。「も」は詠歎。「空しかるべき」は「空し」はここは生き甲斐のない意で、国家に対して事功のない意でいっているもの。男子たるものが、国家に対して事功を立てずにいるべきであろうか、いるべきではないと強くいったもの。○万代に語り続ぐべき 「万代」は永久ということを具象的にいったもの。「語り続ぐ」は、上代にあっては事を伝えゆく唯一の方法であって、ここもその意。○名は立てずして 「名」は名声で、上を承けて功労者としてのそれ。「は」(234)はここは名を強めるためのもの。「立てずして」は、揚げぬ状態にあって。「万代」以下は「空し」の内容をいっているもので、憶良自身をいったもの。
【釈】 男子たる者が国家に対して生き甲斐もなくあるべきであろうか、ありはしない。永久に人の語り継いで行くだろう名を揚げずにいて。
【評】 憶良のこの歌を詠んだ時の事情は左注にくわしい。藤原八束の使として河辺東人が病気見舞に来た時に、進んで即座に詠んだものであって、平常胸中にあったものを刺激のあるままに吐露した歌で、憶良の全幅を示したものである。この時は天平五年で、巻五「痾に沈みて自|哀《かなし》む文」を作った年であるから、年は七十四、年来の痼疾の癒えず、再起の出来難いことを覚悟していたことと思われる。憶良の名というのは、国家に対しての実務上の功績であって、それ以外の何ものでもない。またこれは士《おのこ》たる者のすべてを通じて本懐とすべきことで、自明なことともしていたのである。学問によって微官から身を起こし、誠実と恪勤によって立身し、ついに大国の国守となったが、その本懐とするところはいささかも弛まず、最期の床にあってもなお強く自身を鞭打っているのである。じつに異常な執着である。この執着は個人的のものではなく、国家に対してのものなのである。一方憶良の身を置いている環境では、藤原氏はすでに氏族権力を獲得しようとして、策略によってそれを遂げているのみならず、進んで同族の中で個人的権力の争奪を行なおうとしていた時代であることを思うと、憶良の初一念を守って動かず、純粋を保って生涯を終始していたことは、尊敬を深めさせることである。一首のもつ沈痛な調べは、国家に対してもつ限りなき執着の具象化されたものであって、それ以外のものではなく、その調べに憶艮の面目があると言える。
 
     右の一首は、山上憶良臣病に沈みし時、藤原朝臣八束、河辺朝臣東人をして疾《や》む所の状《さま》を問はしめき。ここに憶良臣、報の語已に畢り、須《しまらく》ありて涕を拭ひ、悲み嘆きて、この歌を口吟《くちずさ》みき。
      右一首、山上憶良臣沈v痾之時、藤原朝臣八束、使2河邊朝臣東人1。令v問2所v疾之状1、於v是憶良臣、報語已畢、有v須拭v涕、悲嘆、口2吟此謌1。
 
【解】 「藤原朝臣八束」は、房前の第三子である。当時は無位の青年であったが、尊敬されていたとみえる。「河辺朝臣東人」は、称徳天皇の神誕景雲元年従五位下に進み、光仁天皇の宝亀元年石見守となった人。「疾む所の状を問はしめ」は、病気見舞。「報の語已に畢り」は、見舞に対する挨拶を終えて。「須《しまらく》ありて涕を拭ひ」は、歌に詠もうとする悲しみの情が胸に衝き上げて来て、それが歌になるまでの間のさまである。「涕を拭ひ」は歌を吟むためである。
 
(235)     大伴坂上郎女、姪《をひ》家持の佐保より西の宅《いへ》に還るに与ふる歌一首
 
【題意】 「姪」は古くは男女を通じて用いた語で、現在だと甥《おい》である。「佐保」は古くより大伴家の邸のあった地で、しばしば出た。今は郎女のいる邸として言っている。「西《にし》の宅」は、佐保の邸を中心としての称で、そこより西にある家の意の称であろう。家持の住んでいた所で、別宅と思われる。
 
979 吾《わ》が背子《せこ》が 著《け》る衣《きぬ》薄《うす》し 佐保風《さほかぜ》は いたくな吹《ふ》きそ 家《いへ》に至《いた》るまで
    吾背子我 著衣薄 佐保風者 疾莫吹 及家左右
 
【語釈】 ○吾が背子が著る衣耕し 「吾が背子」は女より男を指しての愛称で、しばしば出た。家持を指したもの。「著《け》る」は「著《き》る」の連用形「著《き》」に、完了の助動詞「り」が結合し、転音で「著《け》る」となったもので、著ている。「衣薄し」は、寒い季節で、還りは夜で寒さが加わって来たのを案じてのこと。○佐保風はいたくな吹きそ 「佐保風」は佐保の地に今吹いている風の称で、明日香風、泊瀬風など同系の語の多いもの。「いたくな吹きそ」は風に呼びかけて禁止したもの。○家に至るまで 西の宅《いえ》に行き着くまでの間を。
【釈】 わが背子が着ている衣は薄い。佐保風よ強くは吹くなよ。家に行き着くまでの間を。
【評】 寒い季節、本邸のほうへ来ていた家持が、夜、風の吹く中をその住まいの西の宅へ還ろうとする時に、叔母としての郎女の詠んだものである。線が細く、調べが柔らかで、事を言っているものではあるが、むしろ気分のほうを主としているごとき詠み方をしたものである。この時代の貴族の好尚から生まれた新風で、盛行して、次の平安朝時代にも及んだのである。
 
     安倍朝臣虫麿の月の歌一首
 
【題意】 「安倍虫麿」は巻四(六六五)に出た。天平九年外従五位下に進み、天平勝宝四年中務大輔従四位下で卒した。
 
980 雨隠《あまごも》り 三笠《みかさ》の山《やま》を 高《たか》みかも 月《つき》の出《い》で来《こ》ぬ 夜《よ》は更《くだ》ちつつ
    雨隱 三笠乃山乎 高御香裳 月乃不出來 夜者更降管
 
【語釈】 ○雨隠り三笠の山を 「雨隠り」は雨を防ぎ隠れるで、笠にかかる枕詞。「三笠の山」は、『新考』は藤原定家の『顕註密勘』により、春日山の別名で、連山中の主峯の名であり、今とは名が異なっていることをいい、それでないとこの歌は通じないと言っている。春自大杜背後の山。
 
(236) ○高みかも月の出で来ぬ 「高みかも」の「か」は係助詞。高いゆえであろうか。「月の出で来ぬ」は月が山に遮られて出て来ないで、「来ぬ」は連体形。出て来ないことであるよ。○夜は更ちつつ 「更つ」は下降するで、更けゆきつつ。
【釈】 三笠の山が高いゆえであろうか、月が出て来ないことであるよ。夜は更け行きつつ。
【評】 従前から月に関係した歌はかなりまであったが、大体、妹の家へ通う路を照らすもの、旅の夜を照らすもの、時刻を測るものというように、実生活に利用する上の月で、鑑賞の対象としての月ははとんどなかった。この歌をはじめとしてこれに続く月の歌はすべて鑑覚の月であって、家に居て楽しんで見ているものである。このことは時代的にいうと、奈良朝にはじまったことであって、それが次の平安朝時代に続くのである。一首の歌として見ても、巻一(四四)「吾妹子をいざみの山を高みかも大和《やまと》の見えぬ国遠みかも」に類似していて、それを踏襲したものと思われる。歌の時代関係を思わせられる。
 
     大伴坂上郎女の月の歌三首
 
981 ※[獣偏+葛]高《かりたか》の 高円山《たかまとやま》を 高《たか》みかも 出《い》で来《く》る月《つき》の 遅《おそ》く光《て》るらむ
    ※[獣偏+葛]高乃 高圓山乎 高弥鴨 出來月乃 遅將光
 
【語釈】 ○※[獣偏+葛]高の高円山を 「※[獣偏+葛]高の」は『代匠記』は、巻七(一〇七○)「ますらをの弓末《ゆずゑ》振り起し※[獣偏+葛]高《かりたか》の野辺《のべ》さへ清く照る月夜かも」により、高山を含んでいる地名であろうと言っている。それだと添上郡で、今の鹿野苑の辺りの名かとされている。「高円山」は、今の春日山の南に続いている山。○高みかも 上の歌と同じ。○出で来る月の遅く光るらむ 「出で来る月」は、高円山より出て来る月。「遅く照るらむ」は山に遮られて出が遅れて照ることであろうよの意で、「らむ」は、連体形。意味としては「光る」は「出る」と置き換えうる形のものである。
(237)【釈】 ※[獣偏+葛]高の高円山か高いゆえであろうか、その山から出て光る月が、高さに遮られて、遅くなって照ることであろうよ。
【評】 高円山を東に望む地にいての歌であるから、佐保の邸でのことかと思われる。第三句までは上の歌と地名は異なっているが形は同じである上に、作意も同じである。同じ席にいて同じ対象を座興的に詠み合ったものかも知れぬ。郎女のほうが巧みではあるが、言うほどの物ではない。
 
982 烏玉《ぬばたま》の 夜霧《よぎり》の立《た》ちて おほほしく 照《て》れる月夜《つくよ》の 見《み》れば悲《かな》しさ
    烏玉乃 夜霧立而 不清 照有月夜乃 見者悲沙
 
【語釈】 ○烏玉の夜霧の立ちて 「烏玉の」は夜の枕詞。「夜務の立ちて」は、夜霧が現われていて。○おほほしく照れる月夜の 「おほほしく」は、物のはっきりしない意で、ここは朧ろにというにあたる。「照れる月夜」は、「月夜」は文字通りにも、単に月の意味でも用いられているが、ここは文字通りの月夜。「の」は、下の「悲しさ」に続いている。○見れば悲しさ 「見れば」は、「悲しさ」の感じを強めるために加えた語で、事を気分化させようとしてのもの。「悲しさ」の「さ」は、詠歎で、悲しいことよ。
【釈】 夜霧が立って来て、そのために朧ろに照るものとなって来た月夜の、見ると、悲しいことであるよ。
【評】 霧は霞とは異なって、眼の前まで迫って来るものなので、そうした夜の月は、全面的にほの白く、あるいは青白く照って来て、きわめて物柔らかな感じを帯びて来るものである。そうした月夜の感じは、女性の郎女の心に言い難く親しい、むしろ涙ぐましいものであって、「見れば悲しさ」と言わせたものと取れる。気分の表現に向かっていた新風の歌として優れたものと言える。気分とはいうがこの歌は、初句から四句までは、眼前の叙述で、気分は結句だけであり、伝統としての素朴を失ってはいない。気分は結句だけで、「見れば」はそれを生かすためのもので、この歌としてはなくてはならないものである。
 
983 山《やま》のはの ささらえ壮子《をとこ》 天《あま》の原《はら》 門《と》渡《わた》る光《ひかり》 見《み》らくし好《よ》しも
    山葉 左佐良榎壯子 天原 門度光 見良久之好藻
 
【語釈】 ○山のはのささらえ壮子 「山のは」は山の端で、ここは月の出て来る位置。「ささらえ壮子」は、左注に、月の別名だといっている。「ささら」は巻三(四二〇)「天なるささらの小野」、今一か所出ていて、これは天にある野の名であるが、他方日本書紀允恭紀「ささらがた(細(238)綾形)錦の紐を解き放けて」、また巻十四(三四四六)「妹なろがつかふ河瀬のささら荻」などの用例があって細小の意のものもある。「え壮子」を修飾している語であるから、細小の意と解される。「え壮子」は、古事記神代の巻に、「あなにやしえ男を」とあり、愛男《えおとこ》の意である。「ささらえ壮子」は熟語で、小さく愛らしい男である。これは月を譬えた語である。○天の原門渡る光 「天の原」は広々した天。「門《と》度《わた》る」の「門」は地形が門のように両方から寄って来て狭くなった所の称。ここは天についていっているので、両方が山に劃らている空で、大和の空などはそれである。「渡る」は渡ってゆく。「光」は壮子の美しさを讃えたもの。○見らくし好しも 「見らく」は動詞「見る」の名詞形。「し」は強め。「好しも」の「も」は詠歎で、好さよ。
【釈】 山の端に現われたささらえ壮子の天の原の門《と》を渡って行く、かがやく美しさを見ることの好さよ。
【評】 これも月を鑑賞した作であるが、特殊な事情の添っての作である。左注によると、ある人が郎女に、月の別名をささらえ壮子というと話すと、郎女はその別名に興味をもち、それを詠み込む形で一首にしようとしたのがこの歌で、いわば一種の題詠ともいえるものである。興味というのは、月をその名のようなものと見ると、天の川を渡って織女に逢う彦星に近いものとなり、女性の即女として甚しく身近い栽親しいものに思えたのである。その興味の深かったことは、この歌の調べの甚だ張って冴えていることが、有力に立証している。「光」はささらえ壮子の美貌を讃えての語であるが、それが自然でこなれ切っているところも、おそらく昂揚した心からほとんど無意識に出たものだろうと思わせる。郎女の才情と手腕の偲ばれる作である。
 
     右の一首の歌は、或は云はく、月の別名をささらえをとこと曰ふ。此の辞に縁《よ》りて此の歌を作りき。
      右一首謌、或云、月別名曰2佐散良衣壯士1也。縁2此辭1作2此謌1。
 
【解】「或は云はく」は、ある人が作者に向かって言うことにはで、ささりら壮子といふ珍しい語を用いた次第を断わったものである。したがって作者である郎女自身の添えたものである。もし郎女以外のものとすると、側近者で、そうしたことに興味をもっていた家持でなくてはならない。
 
   豊前国の娘子《をとめ》の月の歌一首 【娘子|字《な》を大宅《おほやけ》といふ、姓氏いまだ詳ならず】
 
984 雲隠《くもがく》り 行方《ゆくへ》を無《な》みと 吾《わ》が恋《こ》ふる 月《つき》をや君《きみ》が 見《み》まく欲《ほ》りする
(239)    雲隱 去方無跡 吾戀 月哉君之 欲見爲流
 
【語釈】 ○雲隠り行方を無みと 「雲隠り」は雲に隠れてで、おりからの月の状態。「行方を無みと」は、行方がないとしてで、見えないということを言いかえたもの。○吾が恋ふる月をや君が 「月をや」の「や」は疑問の係助詞。「君」は男。○見まく欲りする 「見まく欲り」はしばしば出た。「する」は、「や」の結。見たいと思うことであるか。
【釈】 雲に障れて行方が知れないとして、わが見たいと憧れている月を、君も見たいことだと思うのか。
【評】 女より男に贈った形の歌である。離れてくらしている男女が、月を見て互いに相思い合うというのは、平安朝時代には常識化した心持で、この時代にもそれがあったとしても怪しむにたりない。そうした月が雲隠れをしたということは、相思う心を遮られたことで、そのために女は不安を感じ、男の心を確かめようとした心の歌と取れる。それだと譬喩歌であるが、譬喩の複雑したものは雑歌へ入れる例が上にもあったので、これもその扱いをしたものとみえる。なおこの譬喩は拡がりをもちうるもので、むかえて解すれば他の解も盛れる。豐前の娘子の歌が都へ伝わったのは、譬喩が婉曲でしたがって柔らかみのあるところが、都の新風に近いものとして迎えられたのであろう。
 
     湯原王の月の歌二首
 
【題意】 「湯原王」は巻三(三七五)以下しばしば出た。志貴皇子の王子である。
 
985 天《あめ》に坐《ま》す 月読壮士《つくよみをとこ》 幣《まひ》はせむ 今夜《こよひ》の長《なが》さ 五百夜《いほよ》継《つ》ぎこそ
    天尓座 月讀壯子 幣者將爲 今夜乃長者 五百夜繼許増
 
【語釈】 ○天に坐す月読壮士 「天に坐す」の「坐す」はいるの敬語。「月読壮士」の「壮士」は、若盛りの男子の称で、尊んでの称である。月が常に瑞々《みずみず》しく美しいところからいったものである。呼びかけ。○幣はせむ 「幣」は、巻五(九〇五)に出た。贈物の意で、事を頼む際にはそれをするのが礼となっていたのである。○今夜の長さ五百夜継ぎこそ 「五百夜」は限りなく多くの夜ということを具象的にいったもので、上を受けて長さの上でいったもの。「こそ」は願望の助詞。
【釈】 天上にまします月読壮士よ。贈物はしよう。今夜の長さを五百夜の長さほどにも続けて下され。
【評】 円かに照り渡っている月を愛でたのしんで、その点で夜の短さを思いやっている心である。月を愛でること、それをす(240)るに甚しく昂奮した気分をもってしていることは、いずれも時代風俗である。「天に坐す月読壮士」は、一見、月を尊んでいるようであるが、上代の月読尊として畏敬しての心ではなく、若い男と見て、その美観を讃えているものであって、「天に坐す」もその延長である。「幣はせむ」も、「五百夜」も、いずれも美観に溺れての昂奮の心よりのものである。詠み口のおおらかなのは当時の最高貴族に共通のもので、王の持ち味である。
 
986 愛《は》しきやし まぢかき里《さと》の 君《きみ》来《こ》むと 大能備《おほのび》にかも 月《つき》の照《て》りたる
    愛也思 不遠里乃 君來跡 大能備尓鴨 月之照有
 
【語釈】 ○愛しきやしまぢかき里の 「愛しきやし」は、愛しきすなわち愛すべきの意の形容詞に詠歎の助詞「やし」の結合したもので、既出。これは大体女を讃える場合に用いられている語で、またこれに体言の続くのが常道であるから、ここは「里」へ続くのである。「まぢかき里」は原文「不遠里」で、義訓とする解に従う。以上一、二句は、下の「君」を修飾している句である。○君来むと 「君」は男子に対する敬称であるが、この時期には女に対しても用いるようになり、少ないながらにその例の幾つかがある。ここも「愛しきやし」との関係からいえば女と取れる。「来むと」は、来ようとしてで、これは約束してのこととも取れ、また約束なく、先方のそぞろに思い立って来るのとも取れる。後の意のものと解す。○大熊備にかも月の照りたる 「大能備」は他に用例のない語で、語義にいろいろあって定まらない。『代匠記』は大きにのびやかにの意であろうと言っている。下の「照り」の状態をいう副詞と見るのが妥当に思われるからこれに従う。「かも」は疑問。「照りたる」は照っていることよ。
【釈】 可愛ゆい、あの間近い里の君が来ようとして、このように大きにのびやかに月が照っているのであるか。
【評】 甚しく気分を主にしての作であるので、容易げに見えて意味の捕捉し難いところがある。王は間近い里に女を持っていて、女のほうからおりおり王の許へ通って来るという関係になっていたとみえる。そうした関係は必ずしも珍しいものではなかったのである。作因は、王はいつも女の住む里を思慕の情をもって見やっていたのであるが、一夜月が大きくのぴやかに、すなわち広く柔らかく照っているので、こうした月夜には女が来はしないかと、女の里のほうを見やって心待ちにしたことを詠んだものと解される。そう見ると「愛しきやし」が「里」に続くことも、「君」が女であることも自然なものとなり、また、心としては相聞であるが、形としては月を中心としていることも自然となって来るからである。したがって全体としては雑歌の範囲のものである。気分を主とし、技巧に長《た》けている王の歌であるから、このように解する。
 
     藤原八束朝臣の月の歌一首
 
(241)987 待《ま》ち難《がて》に わがする月《つき》は 妹《いも》が着《き》る 三笠《みかさ》の山《やま》に 隠《かく》れてありけり
    待難尓 余爲月者 妹之着 三笠山尓 隱而有來
 
【語釈】 ○待ち難にわがする月は 「難に」は、「難」は可能の意の下二段の動詞。「に」は打消の助動詞「ず」の連用形。待って待ちきれなくする月は。○妹が著る三笠の山に 「著る」は古くは笠を被《かぶ》ることを言った。妹が被《かぶ》るで、「笠」の枕詞。○隠れてありけり 「けり」は詠歎。隠れていることであるよ。
【釈】 待って待ち切れずにわがしている月は、三笠の山に隠れていることであるよ。
【評】 月の出を待って、待ちきれない心である。月を美しいものとして憧れる心から、人間に引きつけ、気分化して、「妹が着る」という枕詞、「隠れてありけり」という擬人に近い言い方をしているのである。技巧として意識的にいっている匂いは少ないが、一歩手前まで迫っているものである。
 
     市原王、宴に父安貴王《あきのおほきみ》を祷《ほ》く歌一首
 
【題意】 「安貴王」は志貴皇子の子孫、春日王の子。「市原王」は巻三(四一二)に出た。独子であったことが、後の(一〇〇七)でわかる。「宴」は下の「祷く」ことをするためで、祷くのは父王の寿である。「祷く」の「く」は当時清音であった。
 
988 春草《はるくさ》は 後《のち》はうつろふ 巌《いはほ》なす 常磐《ときは》に坐《いま》せ 貴《たふと》き吾君《わぎみ》
    春草者 後波落易 巖成 常磐尓座 貴吾君
 
【語釈】 ○春草は後はうつろふ 「うつろふ」は原文「落易」の義訓。ここは衰え枯れる意。草を命の限られたものとして、「巌」に対させている。○巌なす常磐に坐せ 「巌なす」は巌のごとくに。「常磐」は本来は床岩で、上面の床のごとく平らかに大きい岩であるが、その永久性をもつところから永久の意に用いられていた詞で、祝詞に「堅磐《かきは》に常磐に斎《いは》ひ奉《まつ》り」というように例が多い。「坐せ」はいるの敬語で、命令形。○貴き吾君 「吾君」は尊み親しんでの称で、ここは父を指したもので、呼びかけ。
【釈】 春の草は後には枯れ易い。巌のごとく永久にいらせられよ。貴き父君よ。
(242)【評】 賀の歌は、その言う語の必ず効果のあることを信じて詠むもので、したがって、きわめて良心的であるべきものである。この歌もそれで、春草に対照させて巌の永久性を高調し、そのごとく長寿にいませと祷いだので、事としては何の技巧も用いていないが、それがすなわち本旨なのである。しかし調べとしては、二句で切り、四句で切り、「貴き吾君」と名詞をもって結んで、荘重なものとしているのである。実用性を徹底せしめた歌である。
 
     湯原王の打酒の歌一首
 
【題意】 「打洒」ということはここにあるだけで、他には見えないことである。その事柄は歌によって知られる。酒を打つとは、洒を飲むに先立って、それに宿っている悪い霊を、刀の刃をもって切り払うことの称で、定まっている呪法だったのであろう。
 
989 焼刀《やきたち》の かど打放《うちはな》ち 大夫《ますらを》の 祷《ほ》く豊御酒《とよみき》に 吾《われ》酔《ゑ》ひにけり
    燒刀之 加度打放 大夫之 祷豊御酒尓 吾醉尓家里
 
【語釈】 ○焼刀のかど打放ち 「焼刀」は鉄を火に焼いて鍛えて作った太刀で、そうした物は鋳た物よりは鋭利なので、鋭利な太刀ということを具象的にいったもの。「かど」は太刀の角となっている所で切尖の称。「打放ち」は「打」は接頭語で、「放ち」は鞘より抜き放つ意。○大夫の祷く豊御酒に 「大夫」はここは武勇なる男子。「祷く」は酒を打つしぐさをしたもの。「豊御酒」は(九七三)に出た。酒を讃えての称。○吾酔ひにけり 「けり」は詠歎で、吾は酔ったことであるよと酔いの喜びをいったもの。
【釈】 鋭利なる焼刀の切尖を抜き放って、大夫の打って祷いだ豊御酒に、吾はたのしく酔ったことであるよ。
【評】 洒を打つということは、後世では珍しいことであるが、この当時にあってはきわめて普通なことであったと思われるのに、それを捉えて重々しくいっているのは、「吾酔ひにけり」との関係において、そのことが大切であるとともに、見る目に快いことであったがためと思われる。酔いのたのしさを詠んだ歌は少ない。この意味でこの歌は珍しいものである。調べがさわやかに強く、感を十分に生かしきっている歌で、王の力量の帽を思わせる作である。
 
     紀朝臣|鹿人《かひと》、跡見《とみ》の茂岡《しげをか》の松の樹の歌一首
 
【題意】 「紀鹿人」は、続日本紀、聖武紀に、天平九年正六位上より外従五位下、十二年主殿頭「十二年外従五位上、十三年大炊(243)頭とある。「跡見の茂岡」は、西本願寺本「見茂岡」。紀州本外二本は「跡見」。「跡見」は、桜井市|外《とび》山(吉隠を中心とした一帯)、及び、磯城郡、富雄町地方など異説が多い。巻八(一五六〇)大伴坂上郎女の「跡見田庄にて作れる歌」があり、大伴家の領地であったと知られる。「茂岡」は地名。
 
990 茂岡《しげをか》に 神《かむ》さび立《た》ちて 栄《さか》えたる 千代松《ちよまつ》の樹《き》の 歳《とし》の知《し》らなく
    茂岡尓 神佐備立而 榮有 千代松樹乃 歳之不知久
 
【語釈】 ○茂岡に神さび立ちて 「神さび」は既出。神々しく。○千代松の樹の歳の知らなく 「千代松の樹」は、「千代」は千年で、松の樹齢とされている。その千年を待つ松の樹で、「松」は掛詞になっている。巻九(一七九五)に「嬬松の木」、(一〇四一)に「君松の樹」という語もこの時期には行なわれて、その延長した語。「知らなく」は既出。知られないことよ。
【釈】 茂岡に神々しく立って栄えている、千年という限りない齢を将来に待ち持っている松の樹の、現在の年のすでに知られないことよ。
【評】 老松を讃えたものであるが、老木に神格を認めて尊むことは伝統の久しいものであるから、この歌にもその心が絡んでいよう。「跡見」は巻八(一五六〇)で大伴家の領地であることが知られる。その関係からこの歌は、そこにある老松に寄せて大伴氏を祝ったものかとも思われる。この時期としては古風な歌である。
 
     同じき鹿人、泊瀬の河辺に至りて作れる歌一首
 
991 石走《いはばし》り たぎち流《なが》るる 泊瀬川《はつせがは》 絶《た》ゆることなく 亦《また》も来《き》て見《み》む
    石走 多藝千流留 泊瀬河 絶事無 亦毛來而將見
 
【語釈】 ○石走りたぎち流るる 「石走り」は、既出。石の上あるいは石の間を走って。旧訓「石《いし》走る」。『代匠記』は、枕詞としたのを、『古義』は、動詞とした。続く「たぎち」が助詞であるから、動詞と見るべきである。「たぎち流るる」ははげしく流れるところので、渓流のさま。○泊瀬川 大和川の上流で、泊瀬地方を流れる間の称。○絶ゆることなく亦も来て見む 「絶ゆることなく」は、上を承けてはその流れの絶えることのない意であるが、下の「亦も來て見む」への続きとしては、泊瀬川は見ても見飽かないので、この後も我は絶えることなくの意で、このほうを主としたものである。上三句は状態描写であるとともに序詞となっている。これは巻一(三七)「見れど飽かぬ吉野の河の常滑《とこなめ》の絶ゆる事なく復《また》(244)かへり見む」をはじめ類歌があって、それを踏襲したものである。
【釈】 岩の上を激して流れる泊瀬川よ、吾もこの流れの絶えることなくまたも来て見よう。
【評】 これは泊瀬川の谷川の渓流の面白さを讃えたもので、憧れの心を詠んだものである。上に引いた歌と形は似ているが、心は距離をもったものである。上の歌の「かへり見む」は吉野宮で、賀の心よりであるが、これは単に風景そのものにすぎないからである。古歌の風を慕う心が窺われる。
 
     大伴坂上郎女、元興寺《ぐわんごうじ》の里を詠める歌一首
 
【題意】 「元興寺」は、崇峻天皇の元年、蘇我馬子が、飛鳥の衣縫の造の祖|樹葉《このは》の家を壊して法興寺とした寺で、わが国最初の寺である。後に元興寺と改めた。奈良遷都とともに新京に遷すことになったが、実行したのは養老二年で、地は奈良左京五条七坊、今の芝新屋町である。しかし以前の元興寺も存せられて本元興寺と呼び、今では安居院と称している。ここは奈良の元興寺で新元興寺と呼び、その辺りを旧所在地に因んで飛鳥の里と呼んでいた。
 
992 古郷《ふるさと》の 飛鳥《あすか》はあれど 青丹《あをに》よし 平城《なら》の明日香《あすか》を 見《み》らくし好《よ》しも
    古郷之 飛鳥者雖有 青丹吉 平城之明日香乎 見樂思好裳
 
【語釈】 ○古郷の飛鳥はあれど 「古郷」は「平城《なら》」に対させての古都また旧住地。「飛鳥」は奈良との対照上広くいったもの。「あれど」は下の「好し」に関係させ「好し」をそちらへ譲った語法で例の少なくないもの。好くあれどの意。○青丹よし平城の明日香を 「青丹よし」は枕詞。「平城の明日香」は上にいった新元興寺のある辺りの当時の称。○見らくし好しも 「見らく」は動詞「見る」の名詞形。「し」は強め。「も」は詠歎。
【釈】 故郷の飛鳥は好いところであるが、平城《なら》も見るに好いところであるよ。
【評】 かなり強い感動を起こして詠んだと見え、言葉は単純であるが、調べが張っている。新元興寺に詣でた時の歌と思われるが、仏に関してのことは何もいわず、ただ寺のある土地のみを讃えているのは、新味讃美の一つの現われと見るべきであろう。これは当時の人の共通の心だからである。平城の飛鳥をいうに、故郷の飛鳥をいい、それにもまさっているという言い方は、郎女の心に郷愁の念の強いもののあったことを暗示していることで、そこに女性の心が窺われる。「飛鳥」という地名を二回いっているのも、それらの感のさせている、必然的なものにみえる。
 
(245)     同じき坂上郎女の初月《みかづき》の歌一首
 
993 月《つき》立《た》ちて ただ三日月《みかづき》の 眉根《まよね》掻《か》き け長《なが》く恋《こ》ひし 君《きみ》にあへるかも
    月立而 直三日月之 眉根掻 気長戀之 君尓相有鴨
 
【語釈】 ○月立ちてただ三日月の 「月立ちて」の「立ち」は、月の初めて現われる意で、太陰暦ではその日が一日である。朔《ついたち》は「月立つ」の連用形の名詞となったもの。「ただ」はわずかにで、月立ちてわずかに三日目の意で三日と続け、その三日を名詞「三日月」に転じているから、「月立ちてただ」は、「三日月」の序詞である。「三日月の」の「の」は、のごときで、下の眉の譬喩。三日月を女の眉の譬喩としたのは、当時唐風を模して、眉を三日月形に剃り、また黛《まゆずみ》で描くことが流行していたからである。漢詩の蛾盾である。○眉根撞き 「眉根」の「根」は岩根などのそれと同じく接尾語。「掻き」は、眉の痒くなるのは思う人に逢える前兆だと信じていたことで、既出。○け長く恋ひし君にあへるかも 「け長く」の「け」は、日で、長い間。「かも」は詠歎。
【釈】 三日月のごときわが眉を痒くて掻いて、果たして長い間を恋うていたところの君に逢っていることであるよ。
【評】 題詞は「初月の歌」とあるが、歌は妻である女が、久しく逢えずにいた夫である男に逢い得た喜びであって、まさしく相聞の歌である。思うに、これは「初月」という題での題詠で、これに統く家持の歌も同題で、これまた相聞の歌であり、さらにまた家持は、この年には十六歳であったろうと推定されているところから、伯母の郎女が年少の家持に短歌の作法を指導したのではないかと推測されている。もしそれだとすると、その指導したことは歌の上に明らかである。それは二つのことで、第一は初月は眼前の実物で、それを見ている態度で詠むのであるが、必ずしもそれに即そうとはせず、それによって連想される情趣的なことを詠むことである。第二には、その情趣は、自身の体験として得たもので、個人的なものであるが、それと同時に他人も体験しうる一般性をもったものだということである。これを歌そのものの上でいうと、郎女としては、初月を見ると、それを自身の眉根の形を連想させるものとしてその譬喩に用い、転じてその眉根が痒くて掻くという、自身のことであると同時に当時の人だと誰でも体験していることに展開させ、再転させてその前兆どおり、待ちこがれている夫に逢えたことにしたのである。これは当時の女性としては最も喜ばしい、一般性をもったことなのである。これは穿ちすぎた解のごとくであるが、この歌に続いている家持の歌は、男女の相違があるだけで、題の扱い方は全く同一であるのでも知られることであり、またこの歌のみとしても、郎女の平常の、柔らかく屈折はもちながらも、単純にして率直で、冴えを失っていないのにくらべて、この歌は技巧がありすぎ、一首としての綜合統一がたりず、したがって調べの冴えに遠いことも、全く作為のものであることを思わせるからである。この解があたっているとすれば、このことはやがてこの時期の歌の傾向を力強く語っているものである。(246)それは前代とはちがって実感より情趣に移ろうとしているこであって、それをするには実感よりある程度の遊離をもち、一般性のある情趣を詠もうとしていたことである。さらにいえば万葉集初期の、実感そのものを魄力によって綜合統一しようとした風と、平安朝時代の、実感は背後に押しやり、情趣のみを詠もうとする風の中間に立っていたということである。
 
     大伴宿繍家持の初月の歌一首
 
994 振仰《ふりさ》けて 若月《みかづき》見《み》れば 一目《ひとめ》見《み》し 人《ひと》の眉引《まよびき》 念《おも》ほゆるかも
    振仰而 若月見者 一目見之 人之眉引 所念可聞
 
【語釈】○振仰けて若月見れば 「振仰けて」は、「振」は接頭語。「仰け」は義訓で、放《さ》けすなわち身を反《そ》らして仰ぎ望む形で、見ればに続く。仰いで三日月を見れば。○一目見し人の眉引 「人」は女。「眉引」は黛を引いた眉で、眉の意。○念ほゆるかも なつかしく思われることであるよで、恋の心。
【釈】 身を反らして三日月を見ると、ただ一目見たことのあった女の眉引が思われて、なつかしいことであるよ。
【評】 上の歌でいったように、「初月」を、同じ態度同じ方法で詠んだものであり、異なるところは男としての体験を扱っていることだけである。家持の歌としては、年代の明らかなものでは最初の作だと推定されているもので、明るく暢びやかで品ももってはいるが、郎女の歌とくらべれば幼稚にして単純で、固くなって詠んでいる感のするものである。上の歌との関係は蔽うべくもなく明らかである。
 
     大伴坂上郎女、親族と宴《うたげ》せる歌一首
 
995 かくしつつ 遊《あそ》び飲《の》みこそ 草木《くさき》すら 春《はる》は生《お》ひつつ 秋《あき》は落《ち》り去《ゆ》く
    如是爲乍 遊飲與 草木尚 春者生管 秋者落去
 
【語釈】○かくしつつ遊び飲みこそ 「かくしつつ」は、「かく」は眼前の宴。「つつ」は継続。「遊び飲み」は、楽しく遊んで、酒を飲む意で、「飲む」だけで酒をあらわすことは他にも用例がある。「こそ」は、願望の助詞。○草木すら春は生ひつつ 「すら」は一事を挙げて他を類推させ(247)る意の助詞で、草木でも知れるように。「生ひつつ」は生命をもちつつで、「つつ」は上と同じ。○秋は落り去く 「落り」は、葉の散る意であるが、衰え死ぬことを具象的にいったもの。
【釈】 このようにしつつ、楽しく遊んで酒を飲みたいものであるよ。草木でも知れるように、春は新しく生命を得つつ秋には枯れて死んで行く。
【評】 大伴氏一族の者が集まって酒宴を催すことが恒例となっていたとみえる。天平三年、氏の上《かみ》であった旅人の没した後は、家持が跡を継ぐべきであるが、年若なので、郎女が家刀自としてその家を処理しており、恒例の宴席には、主人として酒を勧める歌を詠んだとみえる。「かくしつつ遊び飲みこそ」は、恒例の酒宴としてはその事を強く意識した言葉で、軽く明るい心のものではない。「草木すら」以下は、広い世界の上に、草木と人間とを同列に立たせ、草木の春秋の栄枯を人間に引き当てて比較した心のもので、人間の生命の短さを暗示したもので、全体としては生きている間をたのしく過ごしたいという心である。仏教的の心から生まれた享楽主義で、時代的な心であったことは、その言葉の単純で、暗示でたりた点かりも窺われるが、一首の調べに投げやりな棄てばちな匂いがあって、言っているごときたのしい気分ではなかったことが感じられる。あるいは廷臣としての豪族大伴氏の状態をも反映させている語であり、「親族」の者にはこの歌の心が黙会されたものではなかろうか。
 
     六年甲成、海《あまの》犬養宿禰岡麿、詔に応ずる歌一首
 
【題意】 「海犬養岡麿」は、伝未詳である。「詔に応ずる」は、天皇より歌を詠めという詔を蒙って、それに応ずる意である。天皇の御前に在って、即座に詠んだものと取れる。
 
996 御民《みたみ》吾《われ》 生《い》ける験《しるし》あり 天地《あめつち》の 栄《さか》ゆる時《とき》に あへらく念《おも》へば
    御民吾 生有驗在 天地之 榮時尓 相樂念者
 
【語釈】 ○御民吾生ける験あり 「御民」の「御」は美称で、天皇の民であるとして添えたもの。この称は(九七三)「天皇《すめら》朕《わ》が」に対するものである。この語は巻一(五〇)「藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌」に、「其を取るとさわぐみ民も」とあり、古来の成語である。「生ける験あり」は、「生ける」は、生きあるで生きている。「験」は甲斐で、生き甲斐があると強く言い切ったもの。○天地の栄ゆる時に 「天地」は国家を言いかえた成語で、具象的に荘重感をもたせたもの。「栄ゆる時」は御稜威の現われている時。○あへらく念へば 「あへらく」は、「あふ」を名詞形にして強めたもの。「念へば」は感を強めることを主として添える語で、用例の多いもの。
(248)【釈】 御民の吾は生き甲斐のあることである。天地が御稜威で栄えている御代に遭っていることを思うので。
【評】 岡麿の名はこの歌にあるのみで、他には見えず、また特に詔を蒙っていることから見ると、天皇の側近に仕えていた身分低い人と思われる。歌は平常心に抱いていたことを、たまたま機会を得たままに一気に詠み上げた趣のあるものである。心は天平時代を讃えたものであるが、その時代としては前古に例のない盛時だったので、これは当時の人に共通な感情で、岡麿に限ったものではなく、代弁したにすぎないものである。「御民吾生ける験あり」は、自身の生存価値を一に「み民」の上に認めていることで、個人的のごとき言葉であって実は没個人的なものである。そしてこれが身分低い者としての賀の心を徹底させているのである。この歌の調べのもつ雄渾荘重な響はやがて岡麿の感情そのもので、それが類いなき賀歌を成している。
 
     春三月、難波宮に幸《いでま》せる時の歌六首
 
【題意】 続日本紀、聖武紀に、天平六年「三月辛未、行2幸難波宮1。とあり、また「戊寅、車駕発v自2難波1宿2竹原井頓宮1。庚辰、車駕還v宮」とある。
 
997 住吉《すみのえ》の 粉浜《こはま》の四時美《しじみ》 開《あ》けも見《み》ず 隠《こも》りてのみや 恋《こ》ひわたりなむ
    住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隱耳哉 戀度南
 
【語釈】 ○住吉の粉浜の四時美 「住吉」はしばしば出た。今の大阪市住吉区住吉神社の辺りの海岸一帯の称。「粉浜」は住吉の西北方にその名が残っている。浜は磯に対しての称で、砂地の海岸の称。「四時美」は、蜆すなわち蜆貝で、諸書に出ており、今と同じである。蜆は水中にあっては殻を開《あ》けているところから「開け」と続け、それを心を打開ける意の「開け」に転じて序詞としたもの。元暦校本には、「四時美」が「四時華」となっており、「とこなつ」と義訓されて、それが後の『八雲御抄』『夫木抄』などに取られたところから、自然有力なものとなっている。しかし「華」は元暦校本一のみであり、「四時華《とこなつ》開《さ》く」は、当時「とこなつ」という称があったかどうか疑わしく、三月の行幸の季節に咲くことも疑わしいと考証されている。さらにまた「四時華《とこなつ》開《さ》く」とすると、初二句は序詞ではなく叙景となってきて、この際の歌としては特殊にすぎるものともなるので、今のように「美」の字に従う。○開けも見ず「開け」は心を打明ける意で、恋の上の訴え。「も」は詠歎。「見ず」は試えみずで、「ず」は連用形で下へ続く。○隠りてのみや恋ひわたりなむ 「隠りてのみ」は心に籠めてばかり。「や」は、疑問の係助詞。「恋ひわたりなむ」は恋い続けていることであろうか。
【釈】 住吉の粉浜にいる蜆の口を開けている、それに因みあるわが心を打明けることもせずに、思うことを心に籠めてばかり恋(249)いつづけていることであろうか。
【評】 住吉の浜へ御出遊になった時、御供をして詠んだものとみえる。硯をいうに地名を二つまで重ねていっているのは、食料としていた蜆ではあるが、それが水中に口を開けているのはよほど珍しく、それを捉えて序詞としたということは、作者はもとよりそこにいる人々の興を引いたことであろう。恋の相手はその土地の女で、三句以下は常套的なものである。歌としては相聞であるが、行幸の際の歌というので雑歌に入れたものである。
 
     右の一首は、作者いまだ詳ならず。
      右一首、作者未v詳。
 
【解】 作者を歌の後に記す書き方は、原本に従ったものと取れる。この歌は作者の名が逸せられたのである。
 
998 眉《まゆ》の如《ごと》 雲居《くもゐ》に見《み》ゆる 阿波《あは》の山《やま》 懸《か》けて榜《こ》ぐ舟《ふね》 泊《とまり》知《し》らずも
    如眉 雲居尓所見 阿波乃山 懸而榜舟 泊不知毛
 
【語釈】 ○眉の如雲居に見ゆる阿波の山 「眉の如」は描いた眉のような形にで、遠く海上に見える山の譬喩。漢詩文にある、遠山眉という語の影響があろう。「雲居に見ゆる」は「雲居」は遠天。ここは水と接している空。「阿波山」は、阿波国(徳島県)の山。○懸けて榜ぐ舟 「懸けて」は関係させてで、ここはそちらへ向かって。「榜ぐ舟」は榜いで行く舟で、当時の舟は小さい上に、遠く望んでのことであるから、きわめて小さく見える舟である。○泊知りずも 「泊」は、舟の行き着く所。「知らず」は知られず。「も」は、詠歎。これは舟の頼りなげに、さみしく見える心を、具象的に言いかえたもので、「も」の詠歎もその意よりのもの。
【釈】 眉のごとくに速い空に見えている阿波国の山よ。それを目懸けて榜いでゆく小さい舟の、泊る所の知られないことよ。
【評】 春の晴れ渡った日、難波の海を隔てて遠く眉のように見える阿波の山のほうに向かって当時の小さい舟の漕いでゆくのを大観して、その景のもたらす快くしてさみしい感情を、説明なしにあらわそうとしたものである。「泊知らずも」は説明に近い句であるが、広い海に島も見えないことをあらわしたともいえるものである。調べは落ちついているが弛んではいず、一種の品をもったもので、感にふさわしいものである。
 
(250)     右の一首は、船王の作。
      右一首、船王作。
 
【解】 「船王」は舎人親王の子、淳仁天皇の御兄である。続日本紀、聖武紀、神亀四年に無位より従四位下となり、淳仁紀、天平宝字二年には従三位、三年親王となり三品。四年信部卿(中務卿)。六年二品。称徳紀、天平宝字八年には諸王に下し、讃岐国に流された。なお王の事は続日本紀にくわしい。
 
999 千沼廻《ちぬみ》より 雨《あめ》ぞ零《ふ》り来《く》る 四極《しはつ》の白水郎《あま》 網手綱《あみたづな》乾《ほ》せり 沾《ぬ》れあへむかも
    從千沼廻 雨曾零來 四八津之白水郎 網手綱乾有 沾將堪香聞
 
【語釈】 ○千沼廻より雨ぞ零り来る 「千沼」は史上にも歌にもしばしば現われている地で、和泉より摂津へかけての海岸一帯(今の大阪市南部かり泉大津市にわたる)の称である。「廻」はあたり。「雨ぞ零り来る」は、左注によると、天皇住吉の浜を遊覧されての還御の途中、にわか雨にあったと取れる。〇四極の白水郎網手綱乾せり 「四極」は住吉から喜連町に行く間の地の名。「白水郎」は海人《あま》で、漢風の用字。泉郎とも書く。「網手綱」は旧訓「あみてなは」。『代匠記』の訓。網に付ける綱で、網引《あびき》をする時などに用いる物。直接に手に扱う物であるから「手」を添えた。網の手綱の意。「乾せり」は乾してあるので、網を朽ちさせないためにすること。晴天を利用してのことである。○沾れあへむかも 「あへ」は原文「堪」であるが、多くは「敢」の字を用い、意は堪える、あるいは事をなしきる窓。「沾れあへむ」は、沾れてしまおうの意。「かも」は詠歎。
【釈】 千沼のほうから雨が降って来ることであるよ。四極の海人は網の手綱を干してある。濡れてしまうことであろうよ。
【評】 左注によると、天皇還御の途が四極の地に懸かった時、天候がにわかに変わって雨が襲って来ようとした。天皇はそれを御覧になられ、供奉の守部王に、これを歌に詠めと詔があったので詠んだものである。矚目の景を捉えようとすれば幾らもあったろうと思われるのに、網手綱という軽い物を捉え、しかも干してあるのが濡れてしまおうという細かい心づかいをすることをもって一首としているのである。海人の生活状態はよほど目新しいものであって、それも関係していようが、実生活に即しての気分の動きというものに人々が興味をもっていたことを示しているものにみえる。これは伝統のあるものであるが、新しく細かくと展開してきていることは時代的といえる。
 
     右の一首は住吉の浜に遊覧して宮に還り給へる時、その道の上《ほとり》にて、守部王の詔に応じて作れる(251)歌。
      右一首、遊2覽住吉濱1還v宮之時、道上守部王應v詔作謌。
 
【解】 「守部王」は続日本紀、聖武紀に、天平十二年、無位守部王従四位下を授けるとあり、同年中に従四位上に進んでいる。
 
1000 児等《こら》があらば 二人《ふたり》聞《き》かむを 奥《おき》つ渚《す》に 鳴《な》くなる鶴《たづ》の 暁《あかとき》の声《こゑ》
    兒等之有者 二人將聞乎 奥渚尓 鳴成多頭乃 曉之聲
 
【語釈】 ○児等があらばこ人聞かむを 「児等」は家にある妻の愛称で、「等」は接尾語。「二人聞かむを」は二人でともに聞こうものをで、感探きものをただ一人で聞く嘆き。○奥つ渚に鳴くなる鶴の 「奥つ渚」は沖のほうにある洲で、鶴が小魚を漁りよい場所としている所。「鳴くなる」は、鳴いていると確かにいったもの。○暁の声 鳥類は、朝早く食を求める習性のもので、ここもそれであり、その声は哀切な響をもっている。下に詠歎が含まれている。
【釈】 妻がここにいるならば、二人で一し上に聞こうものを。沖のほうの洲に鳴いている鶴の、暁に鳴く声よ。
【評】 暁、沖のほうの洲から、鶴の哀切な声の聞こえて来るのを聞いて、妻に聞かせてやれないのを惜しんだ心である。佳景を見て、愛する者に見せてやりたいと思うのは共通の情で、しばしば出ているもので、これもその範囲のものである。この時代の歌には暁は最も妻の思われる時としており、今は旅であるから、一段とその感が深い時である。しかるにこの歌には自身のことは全くいわず、ただ妻にあわれ深い声を聞かせたいことをいっているだけであるが、強い思い詰めた調べをもってしているので、旅愁の十分に湛えられたものとなっている。王の打上がった態度と、すぐれた歌才を思わせるにたりる作である。
 
     右の一首は守部王の作。
      右一首、守部王作。
 
1001 大夫《ますらを》は 御※[獣偏+葛]《みかり》に立《た》たし 未通女等《をとめら》は 赤裳《あかも》すそ引《ひ》く 清《きよ》き浜《はま》びを
    大夫者 御※[獣偏+葛]尓立之 未通女等者 赤裳須素引 清濱備乎
 
(252)【語釈】 ○大夫は御※[獣偏+葛]に立たし 「大夫」は供奉の廷臣を尊んでの総称。「は」は「未通女等」に対させたもの。「御※[獣偏+葛]」の「御」は、天皇の御猟ゆえに尊んでのもの。「立たし」は「立つ」の敬語。「立つ」は、旅立つの立つなどと同じく、その事を行なう意。時は三月であるから、さして猟期に後れた時ではなかったので、男子の第一の遊興とする猟があったのである。○未通女等は赤裳すそ引く 「未通女等」は供奉の女官の総称。「赤裳」は赤色の裳で、当時女の一般に用いた色であるが、制の色でもあったと取れる。「すそ引く」は、裾を地に引いて歩む意で、逍遙していることを具体的にいったもの。○清き浜びを 「浜び」は浜べと同じ。住吉の清らかな浜の辺りを。
【釈】 大夫のほうは御猟にお仕え申し上げ、未通女《をとめ》のほうは赤裳の裾を引いて逍遙している。清らかな浜べを。
【評】 行幸の供奉の男女の臣の全部が、心長閑かに、楽しく日を過ごしていることを、眼に見る女官の状態を主としていっているもので、まさに賀の歌の形のものである。「赤裳すそ引く清き浜びを」に感性の冴えが見え、それがおのずかり賀の心をあらわしていると言える。間接ながら個性の際やかに現われた歌である。
 
     右の一首は、山部宿禰赤人の作。
      右一首、山部宿祢赤人作。
 
1002 馬《うま》の歩《あゆみ》 押《おさ》へ駐《とど》めよ 住吉《すみのえ》の 岸《きし》の黄土《はにふ》に にほひて行《ゆ》かむ
    馬之歩 抑止駐余 住吉之 岸乃黄土 余保比而將去
 
【語釈】 ○馬の歩押へ駐めよ 「馬の歩」はわが乗馬の歩。「抑止」は旧訓「おさへ」。『代匠記』は「おして」と改め押返すなどの押しと同意だとしている。いずれにしても進むのに反対の力を加える意で同じである。旧訓のおおまかなのに従う。「駐めよ」は自分の馬に添っている従者に命じた語とも、また馬をつらねている同輩に勧めた語とも取れる。従者に命じたものと解す。○住吉の岸の真土に これは、巻一(六九)以下しばしば出た。住吉の海岸には黄土粉があって、白い衣を染めるに適していたところから、たのしい旅の記念としてそれをしたのである。 ○にほひて行かむ 「にほふ」は色の艶やかなことをあらわす語で、「にほひて」は旅の衣を染めて艶やかにしての意。
【釈】 わが乗馬の歩みを押さえとどめよ。住吉の海岸の黄土にわが旅衣を染めて艶やかにして進もう。
【評】 これは従者に命じる用事を、歌をもっていっているものである。上代からあったことで、新しい風ではない。しかし上代のものは、改まった場合、日常語をもってしては不適当だとしての事であったとみえる。しかるにこの歌などはその必要のないものにみえる。それは歌が実用性より文芸性のものとなり、それとともに軽く扱われるようになったためとみえる。文芸と()いうことに重点を置いて見れば、この歌はその事例とともに、軽いながら一応の感をもったものとなっている。
 
     右の一首は、安倍朝臣|豊継《とよつぐ》の作。
      右一首、安倍朝臣豐継作。
 
【解】 「安倍豊継」は、続日本紀、聖武紀、天平九年外従五位下より従五位下を授くとある。
 
     筑後守外従五位下|葛井連大成《ふぢゐのむらじおほなり》、遙に海人《あま》の釣船を見て作れる歌一首
 
【題意】 「葛井大成」は、巻四(五七六)に出た。神亀五年正六位上より外従五位下。天平二年、大伴旅人邸の梅花の宴に、同じく「筑後守」として列している。なお「外」というのは中央の奉仕者以外に賜わる位である。
 
1003 海※[女+感]嬬《あまをとめ》 玉《たま》求《もと》むらし 奥《おき》つ浪《なみ》 恐《かしこ》き海《うみ》に 船出《ふなで》せり見ゆ
    海※[女+感]嬬 玉求良之 奥浪 恐海尓 船出爲利所見
 
【語釈】 ○海※[女+感]嬬玉求むらし 「海※[女+感]嬬」は海人の女。女を処女《をとめ》というのは、女を尊む習いからである。「玉」は鰒玉《あわびだま》。鰒は海底の物で、潜り入って取るのである。「らし」は眼前を証としての推量で、証は下の「船出せり」である。○奥つ浪恐き海に 「奥つ浪」は沖の浪。「恐き」は沖のほうは浪の高いのが普通であるところからいったもの。○船出せり見ゆ 「見ゆ」は動詞助助詞の終止形に接するのが当時の通則である。
【釈】 海人の処女《おとめ》が、海底の鰒玉を求めるのであろう。沖のほうの浪の高く恐ろしい海に、船出をしているのが見られる。
【評】 京よりの官人の、海人の沖遠く漁業をしているのを見て、驚嘆の心をもって詠んだものである。大成《おおなり》は旅人の大宰帥時代すでに筑後守であったのに、海を珍しくも恐ろしくも感ずる心をもっていて、海人としては普通の業を驚嘆して見たのである。題詞には「遙に海人の釣船を見て」とあるのに、「玉求むらし」といっているのは、美化してのことである。作因は驚嘆にあるので、それを具象化しようとの心からであろう。一首の調べは作因にふさわしいものである。
 
     ※[木+安]作村主益人《くらつくりのすぐりますひと》の歌一首
 
(254)【題意】 「※[木+安]作益人」は、伝は詳かではなく、左注によって、その内匠寮大属であったことだけが知られる。内匠寮は「うちのたくみのつかさ」といい、聖武天皇の神亀五年八月初めて置かれた役所で、中務省に属し、巧匠技巧の事を掌り、公事の舗設をも兼ね行なった。職制は、頭一人、助一人、大允一人、少允二人、大属一人、少属二人などである。益人はその大属であって、従八位以上といふ卑官である。頭は佐為王《さいのおおきみ》である。「村主」は姓。
 
1004 念《おも》ほえず 来《き》ましし君《きみ》を 佐保川《さほかがは》の 河蝦《かはづ》聞《き》かせず 還《かへ》しつるかも
    不所念 來座君乎 佐保川乃 河蝦不令聞 還都流香聞
 
【語釈】 ○念ほえす来ましし君を 「念ほえず」は思われずで、「ず」は連用形、下へ続く。思い懸けずもにあたる。左注によると、大属の益人が長官の佐為王を招いたので、王は益人の家を訪れたのであるが、益人はその事を身にすぎた光栄とし、「念ほえず」すなわち思い懸けずも来られたものといったのであって、卑下の心よりの言である。「来ましし」は、原文「来座」。旧訓「来ませる」。『新考』の訓。結句「還しつる」と時を合わせるためである。来たの敬語。「君」は佐為王。「を」は詠歎。○佐保川の河蝦聞かせず 「佐保川」は巻一(七九)に出た。春日山に発し、佐保の南を流れ、大安寺を経て、大和川に合流する川。益人の家はその流れに接していたことが、下の続きで知られる。「河蝦」は今の河鹿。清流に棲み、初夏より鳴き、その声が低く、澄んでいて、あわれが深い。「聞かせず」は、河鹿は夕暮になって鳴くものなので、その時にならずしてで、この「ず」も連用形。○還しつるかも 「かも」は詠歎。還してしまったことではあるよで、嘆いていっているもの。
【釈】 思い懸けずもいらして下さった尊い君であるものを、佐保川の河鹿の声を聞かせずして還してしまったことではあるよ。
【評】 この歌の作因と作意は、左注で知られる。卑官の益人が頭の佐為王の入来を甚しき光栄に感じ、唯一のもてなしものとして、家の内にいて聞かれる佐保川の河鹿の聲を聞かせようとしていたのに、王は河鹿の鳴き出す夕暮を待たずにして帰られたので、益人はそれを嘆いて読んたのである。歌は言うほどのものではないが、あるあわれのあるもので、詠み方の素朴なのも作意にかなったものである。
 
     右は、内匠大属※[木+安]作村主益人、聊飲饌を設け、長官佐為王を饗せしに、いまだ日の斜《くだ》つに及《いた》らずして、王既に還帰《かへ》りき。時に益人、厭かずして帰るを怜惜《かな》しみて、仍《よ》りてこの歌を作りき。
      右、内匠大屬※[木+安]作村主益人、聊設2飲饌1、以饗2長官佐爲王1、未v及2日斜1、王既還歸。於v時益人、怜2惜不v※[厭のがんだれなし]之歸1、仍作2此謌1。
 
(255)【解】 「佐為王」は葛城王(橘諸兄)の弟。続日本紀、元明紀、和銅七年、無位より従五位下、天平八年、兄葛城王とともに臣籍に下り、橘宿禰を賜わり、九年正四位下、中宮大夫兼右兵衛率をもって卒した。
 
     八年丙子夏六月、芳野離宮に幸せる時、山部宿禰赤人、詔に応じて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 続日本紀、聖武紀、天平八年に「六月乙亥行2幸于芳野離宮1。」秋七月「庚寅車駕還v官。」とある。
 
1005 八隅《やすみ》知《し》し 我《わ》が大王《おおきみ》の 見《め》し給《たま》ふ 吉野《よしの》の宮《みや》は 山《やま》高《たか》み 雲《くも》ぞ棚引《たなび》く 河《かは》速《はや》み 湍《せ》の声《と》ぞ清《きよ》き 神《かむ》さびて 見《み》れば貴《たふと》く 宜《よろ》しなへ 見《み》れば清《さや》けし この山《やま》の 尽《つ》きばのみこそ この河《かは》の 絶《た》えばのみこそ ももしきの 大宮所《おほみやどころ》 止《や》む時《とき》もあらめ
    八隅知之 我大王之 見給 芳野宮者 山高 雲曾輕引 河速弥 湍之聲曾清寸 神佐備而 見者貴久 宜名倍 見者清之 此山乃 盡者耳牡 此河乃 絶者耳社 百師紀能 大宮所 止時裳有目
 
【語釈】 〇八隅知し我が大王の 天皇の尊称で、しばしば出た。○見し給ふ吉野の宮は 「見《め》し」は見るの敬語「見《み》し」の転音で、それに「給ふ」の敬語が添ったもので、御支配になられるの意。○山高み雲ぞ棚引く 山が高いので、雲がたなびいていることであるで、高い山の状態。○河速み湍の声ぞ清き 河の流れが早いので、瀬の音が清いことであるで、山川の状態。以上吉野の離宮の地勢を讃えたもので、第一段。○神さびて見れば貴く 「神さびて」は神にふさわしいさまを発揮してで、山は神であるとする信仰から、上の「山」を受けてその神性を讃えたもの。「見れば」は、風景を神性とする繋ぎのもので、重いもの。「貴く」は神性の貴さ。○宜しなべ見れば清けし 「宜しなべ」は、宜しいことの並ぷ意で、宜しさが揃っての意の副詞。流れの速さと湍《せ》の声《と》の清さを讃えたもので河の神性を讃えたもの。「清けし」は、川を神としているのでそれを讃えたもの。以上山川の神性を讃えるもので、第二段。○この山の尽きばのみこそ 「この山の尽きば」は、この山がなくなったならばで、山が平地となるというあり得べからざることを仮想してのもの。「のみ」は強め。「こそ」は係助詞。○この河の絶えばのみこそ 「この河の絶えば」も、この河がなくなったならばで、上と同じく、あり得べからざることの仮想。○ももしきの大宮所 「ももしきの」は百磯城ので、既出。「大宮所」は大宮の意。○止む時もあらめ 「止む時」はなくなる時。「も」は詠歎。「あらめ」の「め」は已然形で、上の二つの「こそ」の結。なくなる時もあろうで、「この山の」以下、絶対にないことをいって、大宮の永遠を賀したもので、第三段。
【釈】 八隅知しわが大君の御支配になられるところの吉野の宮は、山が高いので雲が引いていることである。河の流れが速いの
で、瀬の音が清いことである。山である神は、神にふさわしきさまを発揮して、その有様は見ると貴く、河である神は、宜しき(256)ことを揃えていて、その有様を見ると清《さや》かである。この山がもしなくなる時があったならば、この河がもしなくなる時があったならば、その時こそは百磯城の大宮もなくなる時であろう。
【評】 天皇の吉野の離宮へ行幸になられた時、供奉の中に加わっていた赤人が、天皇の詔を蒙って献じた賀歌であって、賀歌という中でも最も改まってのものである。賀は天皇に対して申すものであるが、直接に天皇に触れて申すのは恐れ多しとして、間接に、吉野宮の永遠を賀することによって天皇を賀する態度は、すでに人麿が示していることで、これもそれに倣ったものである。吉野宮の永遠を賀するには、吉野の山と河とを引合いとし、それと永遠を等しくすることをいって賀するのが習いとなっているが、今はその山と川との神であることをいうことによって強化し、吉野宮は、その山の尽き川の絶える時に、失せようと、逆説を用いて賀しているのである。一首の構成は、歌の性質上きわめて単純であるが上に、さらに一段一段の進行が平板でもあるが、この平板は、赤人としては避け難いものだったのである。すなわち第一段の山と川は風景としてのそれであり、第二段の山と川は、神性の現われとしてのもので、一つの物に二つの面をもたせ、それを結び合わせて深化させようとしたがためである。
 第三段ではさらにまたその山と川とを総収して賀としたのであるから、これを形から見ると勢い平板とならざるを得なかったのである。しかしそれがために、風景は永遠性を持った神となり、それとともに大宮を擁護し、その永遠性を大宮とともにあるものとしたので、深化という上では極度までのものとしたのである。すなわち平板をそれと反対な深い立体的なものと化しているのである。これを目立たせずに遂げているのは赤人の老熟した手腕である。赤人の歌で作の年月の明らかなものとしてはこれが最後である。それとしてふさわしい作である。
 
     反歌一首
 
1006 神代《かみよ》より 吉野《よしの》の宮《みや》に あり通《かよ》ひ 高知《たかし》らせるは 山河《やまかは》をよみ
    自神代 芳野宮尓 蛾通 高所知者 山河乎吉三
 
【語釈】 ○神代より吉野の宮に 「神代」は吉野宮の初めて営まれた時としていったものであるが、これは古ということを具象的にいおうとしたもの。吉野宮は応神天皇より以前には溯れないものである。○あり通ひ高知らせるは 「あり通ひ」の「あり」は、このように継続の意をあらわすもので、用例がある。継続して通って。天皇の御事であるが、敬語は下へ譲ったもの。「高知らせる」は、「高」は讃え詞にも高大にの意にも用いており、「知らす」も意味広く、ここは御処分になるの意の敬語。高大にお構えになられるは。○山河をよみ 山と河が好いゆえで。
【釈】 神代のごとき古より、吉野宮に継続してお通いになり、宮殿を高くお構えになりらるのは、山と河が好いゆえである。
(257)【評】 吉野宮を、遠い古よりのものであるとするのは、長歌の将来に対して過去の遠さをいったので、賀の心の進展である。「山河をよみ」は、自然の風光の美しいがゆえだというので、長歌の心を引き下げて、この当時の好尚と同じにしたものである。長歌に即させて変化を付けてはいるが、長歌の持つ深い心のない、軽い憾みのあるものである。
 
     市原王、独子《ひとりご》を悲しめる歌一首
 
【題意】 「市原王」は、巻三(四一二)に出、また上の(九八八)にも出た。安貴王の子。天平宝字七年、造東大寺長官となられた。「独子」は、王自身のことで、兄弟がなかったのである。
 
1007 言《こと》問《と》はぬ 木《き》すら妹《いも》と背《せ》 あり云《と》ふを ただ独子《ひとりご》に あるが苦《くる》しさ
    不言問 木尚妹與兄 有云乎 直獨子尓 有之苦者
 
【語釈】 ○言問はぬ木すら妹と背 「言問はぬ」は物を言わないところので、下の「木」を人間に対させていったもの。非情ということを具象化していったもの。「すら」は、一事を挙げて他を類推させる助詞。「木すら」は木のような物でさえも。「妹と背」は、「妹」は男より女を指す総称。「背」は女より男を指す総称で、女と男の意。これは夫婦という意に慣用されているが、ここは男女の兄弟で、単に兄弟の意でいっているもの。木の兄弟というのは、同じ根より、一本以上の幹の生えている物で、二本松、二本杉などの称のあるものである。○あり云ふを 旧訓「ありといふを」。これは「ありてふ」「ありちふ」とも訓めるものである。『考』の訓。「を」は詠歎。あるということであるものを。○ただ独子にあるが苦しさ 「独子」は、兄弟のない一人子。これにつき『代匠記』は、市原王の子と解しているが、『新考』はそれを正し、王自身のことだといっている。従ふべきである。「苦しさ」は苦しいことよ。
【釈】 物も言わない非情の木でさえも、兄弟があるということであるものを、われはただ独子《ひとりご》であることの苦しさよ。
【評】 王が兄弟のなくただ独子であることを深く嘆き、「苦しさ」といわれたものである。王の造東大寺長官となられたのは、仏教に造詣潔いためであろうといい、上の(九八八)は父安貴王の寿を祈ったものであり、第三(四一二)は、妻である能登内親王を敬愛する心を詠まれたものであって、いずれも王の人柄の偲ばれるものである。この歌もおおらかに素朴に詠んで、感を十分にあらわされた歌である。
 
     忌部首《いみべのおびと》黒麿、友の※[貝+余の笠の下が示]《おそ》く来るを恨むる歌一首
 
(258)【題意】 「忌部黒麿」は、続日本紀、孝謙紀、宝字二年正六位より外従五位下、同三年連の姓を賜わり、同六年内史局(図書局)助となっている。「※[貝+余の笠の下が示]く来る」は、約束した時より遅くなって来る意。
 
1008 山《やま》のはに いさよふ月《つき》の 出《い》でむかと 我《わ》が待《ま》つ君《きみ》が 夜《よ》はくだちつつ
    山之葉尓 不知世輕月乃 將出香常 我待君之 夜者更降管
 
【語釈】 ○山のはにいさよふ月の 「山のは」は山の端で、月の出て来る所。「いさよふ」は躊躇する意で、月が出ようとして出ずにいる状態。月の出を待つ時の感。○出でむかと我が待つ君が 「出でむかと」は、月が出ようかと思って。「我が待つ」は、上に続いては月を待つのであるが、同時に下の「君」に続いて、待っている君となっている。この二句は、出ようかとわが待っているごとく来るのを待っている君がの意で、さらに下への続きから見ると、来ずしての意が略かれているものである。○夜はくだちつつ 「くだち」は更けてで、「つつ」は継続、下に「あり」の意が含まれている。
【釈】 山の端に、出ようとしてたゆたっている月が、出て来ようかと思って待っているごとくに、わが待っている君は来ずして、夜が更け更けして行く。
【評】 題詞のごとく友が来ようと約束して置いて、時刻が過ぎても来ない時に、促すために贈った歌とみえる。おりから月の出の遅い頃で、まだ出ずにいる時刻だったので、その月を待つに寄せて詠んだので、詠んだ人も贈られた人もそれを興としたのであろう。巻七はこの時代より古い時代の歌集で、この当時作歌の参考とされていたもののようであるが、その(一〇七一)に「山の末《は》にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居《を》るに夜ぞ降《くだ》ちける」があり、その歌を思い浮かべて「君」を絡《から》ませようとしたのであるが、手腕がたらぬために第四句のごとき無理のあるものとなったのである。後世の本歌取りの歌の初一歩のごとき趣をもった歌である。
 
     冬十一月、左大弁葛城王等に、姓|橘氏《たちばなうぢ》を賜へる時、御製歌一首
 
【題意】 この題詞のことは左注にくわしいので、そちらに譲る。要は、葛城王等が臣籍に下り、橘の氏を賜わった際、聖武天皇が橘に寄せての賀の御製歌を賜わったのである。
 
1009 橘《たちばな》は 実《み》さへ花《はな》さへ その葉《は》さへ 枝《え》に霜《しも》降《ふ》れど、いや常葉《とこは》の樹《き》
(259)    橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹
 
【語釈】 ○橘は来さへ花さへ 「橘」は当時きわめて賞美された木で、垂仁天皇の朝、田道間守が詔を蒙って常世の国から将来したという伝えをもった木である。「さへ」は、あるが上にさらに加わる意の助詞で、までというにあたる。「実さへ」は、木そのものを土台として、その実までも。橘の実は酒の肴としても珍重した。「花さへ」は花までも。花は五弁の小さい白花で初夏に咲き、香がよい。愛でて鬘に貫《ぬ》いたことが歌に多い。○その葉さへ その葉までも。葉は常緑で艶があり、これまた愛するに足りるものである。以上、橘の木の愛でたさを強くあらわそうとして、実、花、葉と分解し、その一つ一つに「さへ」を添えて、合理的な範囲で誇張したもの。○枝に霜降れど 「枝《え》」は旧訓「枝《えだ》」、『古義』の訓。「え」「えだ」は古くから並存しているが、「え」のほうが用例が多く、ここは音数の上からもそのほうが自然である。枝の上に霜が降ったけれどもで、眼前の状態をいったもの。題詞で時は十一月だったのである。○いや常葉の樹 「いや」はますます。「常葉の木」は常緑の木すなわち常磐木で、衰えを知らぬ木であるよの意で、「樹」の下に詠歎を含んだもの。「枝に」以下は橘の木を綜合して讃えたもの。
【釈】 橘の木は実までも、花までも、その葉までもことごとく愛でたく、枝に霜が降ったけれども、ますます常緑を発揮している衰えを知らぬ樹であるよ。
【評】 御製のあった事情は歌詞と左注によって委しく知られる。葛城王等一族に橘の氏を賜わった際、それを機会にこの一族を祝おうとして、橘の木そのものを讃えることによってその意をあらわされた御製である。上三句で分解し、下二句で綜合して、これ以上は言いようもないまでに事を尽くされたもので、調べも流麗に張りをもった明るいものにされている。賀の歌として力のあるものである。
 
     右、冬十一月九日、従三位葛城王、従四位上佐為王等、皇族の高名を辞して、外家の橘姓を賜ふこと已に訖《をは》りぬ。時に太上天皇、皇后、共に皇后宮にありて肆宴を為し、即ち橘を賀《ほ》く歌を作《よ》み給ひ、并《あは》せて御酒《みき》を宿禰等に賜ひき。或るは云ふ、この歌一首は太上天皇の御歌なり。但し天皇皇后の御歌各一首ありといへど、その歌遺落して未だ探り求むることを得ず。今案内を檢《かんが》ふるに八年十一月九日、葛城王等、橘宿禰の姓を願ひて表を上《たてまつ》る。十七日を以ちて、表の乞に依りて、橘宿禰を賜ひきといへり。
      右、冬十一月九日、從三位葛城王、從四位上佐爲王等、辭2皇族之高名1、賜2外家之橘姓1已(260)訖。於v時太上天皇、々后、共在2于皇后宮1以爲2肆宴1、而即御2製賀v橘之謌1、并賜2御酒宿祢等1也。或云、此謌一首太上天皇御哥。但天皇々后御謌各有2一首1者。其謌落未v得2探求1焉。今檢2案内1、八年十一月九日、葛城王等願2橘宿祢之姓1上v表。以2十七日1依2表乞1賜2橘宿祢1。
 
【解】 「葛城王」は敏達天皇の曾孫、栗隈《くりくまの》王の孫、美努《みの》王の子であり、「佐為王」は葛城王と同腹の弟で、母は県犬養三千代である。三千代は初め美努王に嫁して二王を生んだが、藤原不比等に嫁して光明皇后を生んだのである。二王は皇后には異父兄である。「葛城王」は橘諸兄として活躍した人で、作者としても後にしばしば出る。続日本紀、孝謙紀、天平勝宝元年左大臣で正一位となり、翌二年朝臣の姓を賜わり、同八年致仕、翌天平宝字元年に薨じた人で、「佐為王」は、聖武紀、天平九年正四位下中宮大夫兼右兵衛率として卒した人である。「外家の橘姓」は、外家は母方で三千代の家、橘姓は三千代が元明天皇の朝に橘宿禰の姓を賜わったのである。その顛末は、葛城の王の今回の願いの上表文の中に委しく、上表文は続日本紀、聖武紀に収められている。その三千代は故人となり、従一位を贈られてもいるので、葛城王は母の後を継ごうとして、先例に倣って臣籍降下を願ったのである。「案内」は、役所内にある記録で、事務上の控の称。
 
     橘宿禰奈良麿、詔に応ずる歌一首
 
【題意】 「橘奈良麿」は葛城王の長男。天平十二年に無位から従五位下に叙せられたのであるから、この時は無位で、随って弱冠であったと思われる。「詔に応ずる歌」は、上の御製歌に応じてお受けをする意の歌である。
 
1010 奥山《おくやま》の 真木《まき》の葉《は》凌《しの》ぎ 零《ふ》る雪《ゆき》の 零《ふ》りは益《ま》すとも 地《つち》に落《お》ちめやも
    奥山之 眞木葉凌 零雪乃 零者雖盆 地尓落目八方
 
【語釈】 ○奥山の真木の葉凌ぎ零る雪の 「真木」は杉檜など良材の総称で、その「葉」は葉の中の最も強いもの。「凌ぎ」は圧伏して。「零る雪の」は、現在降っている雪ので、十一月の眼前としていっているもの。「真木の葉」といっているのは、御製の橘に応じさせて、同じく橘をいおうとして、それとの対照として代表的に強い木を捉えたのであり、「葉」も同様である。また「雪」も、御製の霜に応じて、それを一段と強めたのである。○零年りは益すとも この雪が一段と降りまさることがあろうともで、降るのは「其木の葉」との対照で橘の葉であり、その葉は御製の(261)「葉」に応じさせたものである。○他に落ちめやも 「地に落ち」は、御製の「実」に応じさせてあって実であり、省いているのである。実は眼前の物だからである。「や」は上を反語とする助詞。「も」は詠歎で、実は他に落ちようか、落ちはしない。
【釈】 奥山の杉檜などの葉を圧伏して降っている雪が、橘の実の上にさらに降りまさろうとも、その実は土に落ちるようなことがあろうか、ありはしない。
【評】 御製は橘氏を橘の木に寄せて賀していられるので、応ずる歌も同じく、賀の言葉を身に受けて、それを必ず実際にあらわそうといって応じたのである。主格の橘に触れて直接にいった一語もないので、一首譬喩の形に見えるが、これはその場合に即させていっている自然の成行きであって、技巧としてのことではない。したがって独立させては解し難い歌ともなっているのである。しかし技巧に近い趣が自然に添って来ている。三、四句の続きの「零る雪の零りは益すとも」は、実際は繰り返しであるが、四句の「零り」に「古り」の意をもたせると、上三句はその序詞となり、「古りは益すとも」は、将来橘氏がいかに古くなってゆこうともの意のものとなって来るのである。それだと結句の「地に落ちめやも」は、零落しようか、決してしないの心のものとなって来る。またそれであるとしても応じる歌の心は通るのであり、一段と強い心のものになり得もするのであるから、年若い奈良麿の心にはそのような動きがあったのではないかと思われる。しかしこの歌は御製に即して応じたものと見るべきであるから、このことは自然に帯び得た拡がりと見るべきであろう。
 
     冬十二月十二日、歌※[人偏+舞]所《うたまひどころ》の諸王臣子等、葛井《ふぢゐの》連広成の家に集ひて宴せる歌二首
 
【題意】 「十二月十二日」は歳末に近い日で、歌に関係する日。「歌※[人偏+舞]所」は雅楽寮で、治部省に属した役所であり、文武の雅曲、正楽、雑楽に関する一切を掌る所である。「諸王臣子」は何人かの王と臣下で、歌※[人偏+舞]所に属している舞生である。「葛井広成」は、上の(九六二)に出た。文雅の人であったことは『懐風藻』の作者の一人であることでも知られる。富裕な人であった。
 
     此来《このごろ》古舞盛に興りて、古歳|漸《やや》に晩《く》れぬ。理宜しく共に古情を尽して、同《とも》に古歌を唱ふべし。故《かれ》此の趣に擬《なぞら》へて、輙《すなはち》古曲二節を献る。風流意気の士、儻《も》し此の集《つど》ひの中に在らば、争ひて念を発し、心々に古体に和《こた》へよ。
      比来古※[人偏+舞]感興、古歳漸晩。理宜d共盡2古情1、同唱c古謌u。故擬2此趣1輙獻2古曲二節1。風流意氣之士儻有2此集之中1、爭發v念心々和2古體1。
 
(262)【解】「古※[人偏+舞]」は、わが国の古来よりの舞で、倭舞、筑紫舞、諸県《もろがた》舞の類。「盛に興りて」は、一時外来の楽曲に圧倒されていたのが、盛んに復興してきたというので、天平六年天皇が朱雀門で歌垣を御覧になられ、十五年には後の孝謙天皇が五節の舞をされたことなど、その趨勢を語るものである。「古歳」は、十二月新歳に対させていっているので、逝かんとしている年。「漸に晩れぬ」は次第に押しつまってきた。「理」は、共通の人情としてで、下を指す。「古情を尽して」は、古を憶う心を尽くして。「古歌を唱ふべし」は、それにふさわしい古い歌を謡って、心をやるべきである。「故此の趣に擬へて」は、そうした理由から、この際の心を果たしうるものに擬して。「古曲二節を献る」は、古風な歌の二首を諸君に贈るで、歌は次のもの。「風流意気の士」は、風流を解し、意気を尚ぶ人。「儻し此の集ひの中に在らば」は、わざと逆説的にいって、そこにいる総ての人を刺激した言い方。「念を発し」は、古情を起こして。「古体に和へよ」は、わが古風な歌に和えて作れよ。
 
1011 我《わ》が屋戸《やど》の 梅《うめ》咲《さ》きたりと 告《つ》げやらば 来《こ》てふに似《に》たり 散《ち》りぬともよし
    我屋戸之 梅咲有跡 告遣者 來云似有 散去十方吉
 
【語釈】 ○我が屋戸の梅咲きたりと告げやらば 「屋戸」は、ここは庭前である。「咲きたり」は咲いている。「告げやらば」は、相手は親しく往復している、風流を解する人と取れる。○来てふに似たり 「来てふ」は旧訓。「来といふ」とも「来ちふ」とも訓めるが、古今集恋四「月夜よし夜よしと人に告げやらば来てふに似たり待たずしもあらず」があり、後のものながら謡い物としての型に従っての作と思われるから、これに従う。○散りぬともよし 散ってしまってもかまわない。
【釈】 わが庭前の梅が咲いていると知らせてやったならば、見に来よというのと同じである。その上は散ってしまってもかまわない。
【評】 この歌は序でいっている「風流意気の士」に贈ったもので、その士は、その日作者の家に集まっている人々なのである。この歌で問題になるのは、序でいっている「古曲」「古体」といっていることで、この歌はすなわちそうしたものなのであるが、これは広成が客に対して卑下していっている語だと解される。この時期は歌が著しく文芸的となり、人々が新を追って動いていた時だから、古は時代おくれの拙いといぅことを意味させた語と思われる。この序には、五十字(漢字)の中に六字までは古の字を用い、それを技巧としているのであるから、厳格な意味でいう新古と解するのは行き過ぎとすべきである。事実歌は新しいもので、この時期に著しく進展した自然鑑賞という中でも、愛づべき自然を捉えて生活の中に溶かし入れようとする点まで進んだので、次の平安朝時代と選ぶところのないまでのものである。また詠み方も、四句「来てふに似たり」と大きく飛(263)躍し、結句「散りぬともよし」とさらに大きく飛躍して、一首の心を暗示的にしたという巧妙なものである。多分漢詩の影響であろう。結句「散りぬともよし」は、巻五大伴旅人の梅花の宴で(八二一)笠沙弥が川じく結句に用いていたもので、もしそれを踏襲したとすれば、これまた一種の技巧である。
 
1012 春《はる》さらば ををりにををり 鶯《うぐひす》の 鳴《な》く吾《わ》が島《しま》ぞ 息《や》まず通《かよ》はせ
    春去者 乎呼理尓乎呼里 ※[(貝+貝)/鳥]之 鳴吾嶋曾 不息通爲
 
【語釈】 ○春さらば 春が来たならば。現在の十二月よりいったもの。○ををりにををり 「ををり」は、巻三(四七五)「山辺には花咲きををり」とあり、枝が撓む意である。ここはそれを重ね、一つを副詞的にして強めたもので、撓みに撓んで。撓むのは下の鴬が撓ませるのである。○鴬の鳴く吾が島ぞ 鴬の来るのは梅の花で、常識となっていた。「島」は庭の当時の称で、既出。「ぞ」は終助詞。鳴いているわが庭であるよ。○息まず通はせ 「通はせ」は通うの敬語で命令形。客一同に言っているもの。
【釈】 春が来たならば、梅の枝がその重さで撓に撓んで、鴬が鳴いているわが庭であるよ。絶えず見に通いたまえよ。
【評】 これは明らかに庭を対象として、客への振舞としていっているものである。二句より四句までの、梅の花は上の歌で打ち切り、鴬を中心として、感覚的にいっているところは、同じく巧みである。なお『代匠記』は、続日本紀、聖武紀、天平二十年八月に、天皇が広成の邸に行幸され、群臣を引いて宴飲され、その夜はその邸に宿られたことを引いている。広成の邸はそれに堪えるものだったのである。
 
     九年丁丑春正月、橘少卿并に諸大夫等、弾正|尹《かみ》門部《かどべの》王の家に集ひて宴せる歌二首
 
【題意】 「橘少卿」は、橘佐為の敬称。兄の諸兄を大卿と称したのに対させて称したのである。卿は三位以上に対しての敬称であるが、当時従四位上だった佐為にそれを用いたのは他にも例がある。「弾正尹」は、弾正台の長官。弾正台は風俗を粛清し、内外の非違を糺弾する役所。「門部王」は、巻三(三一〇)に出た。
 
1013 予《あらかじめ》 公《きみ》来《き》まさむと 知《し》らませば 門《かど》に屋戸《やど》にも 珠《たま》敷《し》かましを
    豫 公來座武跡 知麻世婆 門尓屋戸尓毛 珠敷益乎
 
(264)【語釈】 ○予公来まさむと知らませば 「公」は少卿。「ませ」は「まし」の未然形。○門に屋戸にも 「屋戸」は、屋の前。現在だと、門にも屋戸にもというのであるが、「も」を、下のものにだけ添えるのは当時の格で、用例の多いもの。○珠敷かましを 「珠」は玉石で、「珠敷く」は、「玉敷ける家」巻十一(二八二五)にもあり、結構なる家という意を具象的にいったもの。現在の盛砂《もりずな》をするということを連想させる語である。ここは、貴い客を迎えるにふさわしく、家を清らかにする意。「まし」は上の「ませば」の帰結。「を」は詠歎。
【釈】 前もって、公がお出でになろうと知ったならば、門《かど》にも屋の前にも、それにふさわしいように珠を敷いて置こうものを。
【評】 客に対して主人としての挨拶というにすぎない歌であり、現在だと取乱していてという挨拶の言葉を歌としたものである。そのほうが鄭重だとしてのことで、歌の実用性時代の脈を引いたものである。
 
     右の一首は、主人門部王 【後、姓大原真人氏を賜へり】
      右一首、主人門部王 後腸2姓大原真人氏1也
 
【解】 細注は、門部王は後に臣籍に下られた意であり、多分天平十一年四月だろうという。
 
1014 前日《をとつひ》も 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 見《み》つれども 明日《あす》さへ見《み》まく 欲《ほ》しき君《きみ》かも
    前日毛 昨日毛今日毛 雖見 明日左倍見卷 欲寸君香聞
 
【語釈】 ○前日も昨日も今日も 常にということを、具象的にいうことによって強めようとしたもので、古くから型となっていたもの。○見つれども 逢っているけれどもの意で、官人として顔の合う機会のあることをいったもの。○明日さへ見まく欲しき君かも 「さへ」はあるが上に添える意の助詞。「見まく欲しき」は、見んことの欲しきで、下の「君」を讃えたもの。「かも」は詠歎。初句より四句までは、「見れど飽かぬ」という、最上の讃え詞となっている成語を具体化した形のものである。
【釈】 前日《おとつい》も昨日も今日も、常に逢っては来たけれども、明日さえも逢いたいと思うところの君であるよ。
【評】 上の主人としての挨拶に答えて、不意に訪問した客を代表して、答礼としていったものである。不意の訪問は、一に君が懐かしくして、限りなく逢いたいと思うがためであるというので、この場合の答礼として要を得たものである。
 
     右の一首は、橘宿禰|文成《あやなり》 即ち少卿の子なり
(265)      右一首、橘宿祢文成 即少卿之子也
 
【解】 少卿の子文成が、客を代表して答礼を述べたのである。その座にいる年少の者が代表して歌を詠むことは、上の(一〇一〇)の場合にもあったことである。それが風となっていたかと思われる。
 
     榎井王《えのゐのおほきみ》、後に追和せる歌一首 志貴親王の子なり
 
【題意】 「榎井王」は、注にあるように志貴皇子の子とする以外には、文献に見えない。「後に追和」は、歌で見ると、佐為王に代わって答えの挨拶をしているもので、同座していたと見える。
 
1015 玉《たま》敷《し》きて 待《ま》たましよりは たけそかに 来《き》たる今夜《こよひ》し 楽《たの》しく念《おも》ほゆ
    玉敷而 得益欲利者 多鷄蘇香仁 來有今夜四 樂所念
 
【語釈】 ○玉敷きて待たましよりは 「玉敷きて」は、主人の門部王が、「珠敷かましを」といっているのを承けたもので、言われるように玉を敷いて待っていよう時よりはの意で、客として答えたもの。「まし」は仮想の助動詞。○たけそかに ここにあるのみで、他には用例の見えない語である。下の「来たる」に続く関係から、副詞とは取れるが、語義はわからない。したがって諸説があるが、前後の関係から、突然にという意の当時の口語であろうと思われる。挨拶の歌であるから、その場合に適切なものであれば口語であってもよい訳である。○来たる今夜し楽しく思ほゆ 「し」は強めで、そのほうがかえってというほどの意がある。
【釈】 玉を敷いて待たれていたろうよりも、突然に来ている今夜のほうが、かえって楽しく思われる。
【評】 これは宴をしている時の歌ではないかと思われる。答えの挨拶の心のものではないが、「今夜し楽しく念ほゆ」は、宴の楽しさを喜んだものと取れるからである。なお追和は、その事を聞いてゆかしむ心よりのものもあるが、この場合はそれほどのことではない。
 
     春二月、諸大夫等、左少弁巨勢宿奈麿朝臣の家に集ひて宴《うたげ》せる歌一首
 
【題意】 「巨勢宿奈麿」は、続日本紀、聖武紀、神亀五年正六位下より外従五位下、天平元年従五位下、五年従五位上となる。歌は左注に、「蓬莱仙媛」の作ったものとしている。宴席の興を添えようがためのことで、主人宿奈麿の作ったものと思われる。
 
(266)1016 海原《うなはら》の 遠《とほ》き渡《わたり》を 遊士《みやびを》の 遊《あそ》ぶを見《み》むと なづさひぞ来《こ》し
    海原之 遠渡乎 遊士之 遊乎將見登 莫津左比曾來之
 
【語釈】 ○海原の遠き渡を 「海原」は広い海。「遠き渡」の「渡」は、河でも海でも、渡り場所を指す意の名詞で、船でいえば、一定の航路というにあたる。広い海の、はるばると遠い海路をの意。これは、左注の「蓬莱仙媛」が、蓬莱の山よりこの国へ来るまでの海路を自身いっているもの。「蓬莱」は、「常世《とこよ》」ともいい、常住不変の国の山で、その国は、地名も方位も知られぬ海のかなたにある理想国。中国伝来の思想で、道教のものである。不老不死を願う本能と、その持つ文芸的色彩の魅力とによって、当時盛行したもので、巻五大伴旅人の歌にしばしば出た。○遜士の遊ぶを見むと 「遊士」は、本来は、宮びすなわち宮廷のさまをもった男の意で、粗野に対する都雅の人の意であるが、転じて風流人の意ともなっていた。ここは風流人。当時の上流の人の誇りをもっての総称。「遊ぶを見むと」は、遊楽するさまがゆかしく、見ようと思って。○なづさひぞ来し 「なづさひ」は水の抵抗を凌ぐ意の語で、水上を苦労して。「ぞ」は係助詞。「し」は「ぞ」の結で、連体形。
【釈】 広い海の、はるばると遠い海路を、この国の遊士《みやびお》の遊楽するさまのゆかしく、それを見ようと思って水上を辛苦して來たことであるよ。
【評】 これは蓬莱仙媛の歌である。蓬莱は当時の憧れの代表的なものであったが、そこに住むと想像される女性の仙媛は、一層憧れをそそる者であった。その仙媛が、こちらで憧れるにも劣らず、あちらもこちらに憧れ、その仙力によって遊士《みやびお》の遊ぶさまを見ようとして、なずさって来たということは、宴席に集《つど》ったいわゆる遊士を喜ばせるには十二分の機知である。上よりの歌で見ても、この頃には頻繁に酒宴が催され、古くは洒に伴うべきものとして欠き難かった賀の意味の歌が減り、酒興を添える歌のみとなってきた傾向が見えるが、この歌のごときは、その傾向の代表的なものといえる。この歌には左注が添い、歌を披霹した次第をいっている。
 
     右の一首は、白紙に書きて屋の壁に懸け着《つ》けたり。題《しる》して曰はく、蓬莱《とこよ》の仙媛《やまひめ》の化《な》れる嚢蘰《ふくろかづら》なり。風流秀才の士の為にす。これ凡客《たふぁびと》の望み見らえざらむかといふ。
      右一首、書2白紙1懸2着屋壁1也。題云、蓬莱仙媛所v化嚢蘰、爲2風流秀才之士1矣。斯凡客不v所2望見1哉。
 
【解】 「題して曰はく」は、歌を書いた白紙に記していうには。「蓬莱の仙媛」は蓬莱の山に住んでいる仙人の女。蓬莱山は本来(267)は中国の伝説で、東海の中にある山で、不老不死の仙人の住んでいる所。これを「とこよ」と訓むのは、永久不変の常世の国と結びついたのである。当時仙人にもまして仙媛が喜ばれていたのである。「化れる嚢蘰なり」は、仙媛か化して嚢蘰になって、ここに懸かっているというのである。仙人は神変力をもっていて、何にでも自在に身を変えることができるとされていたので、このことはたやすいことだったのである。嚢蘰は他に所見のない物で、どういう形の物かわからない。蘰は蔓性植物を輪にして、頭髪の上に載せる物で、儀式の意をもった酒宴の席に用いるものであって、女子の作る物であったとみえるから、この場合にはふさわしい物である。「風流秀才の士の為にす」は、すぐれた人にはその趣が解せるから、そうした人のために示すのだの意で、これはその嚢蘰なる物が平凡な物だったので、それを弁護するための洒落《しやれ》である。「凡客の望み見らえざらむか」は、上を強めるための繰り返しである。一切は宴席の興を添えるための洒落で、仙郷に憧れていた知識階級としては気の利いたものとはいえようが、この当時の廷臣の生活態度が、いかに弛緩し、いかに享楽的なものであったかを示しているものである。
 
     夏四月、大伴坂上郎女、賀茂神社を拝み奉りし時、便《すなは》ち相坂《あふさか》山を超え、近江の海を望み見て、晩頭に還り来て作れる歌一首
 
【題意】 「賀茂神社」は、現在京都市に鎮座する賀茂別雷神社と賀茂御祖神社の二社で、天武天皇の六年創建されたという。祭は四月である。「夏四月」は祭の時と思われる。「相坂山」は京都市と滋賀県大津市との堺をなす山。「近江の海」は琵琶湖。「晩頭」は夕暮。「遣り来て」は引き返して来て。
 
1017 木綿畳《ゆふだたみ》 手向《たむけ》の山《やま》を 今日《けふ》越《こ》えて 何《いづ》れの野辺《のべ》に 廬《いほり》せむ吾等《われ》
    木綿疊 手向乃山乎 今日越而 何野邊尓 廬將爲吾等
 
【語釈】 ○木綿畳手向の山を 「木綿畳」は、木綿を畳んだ物で、神に手向ける物。ここは「手」の枕詞。「手向の山」は相坂山の別名。土地堺の山は、すべて手向けをして越すところから、この名は諸所にあるが、相坂山は要路にあたる山であるから、特にこう呼ばれたとみえる。○今日越えて 長途の旅であるごとき感動をもっての言い方。ここで見ると、越えてさらに東方に進んだがようであるが、実は題詞の通りに引き返したのである。○何れの野辺に廬せむ吾等 旅では行く先々で野に廬を結んで宿るのが当時の風で、特別のことではない。「廬せむ」は宿らむの意。「吾等」を「われ」に当てるのは例のあることで、従者をも併せての意。
【釈】 手向の山を今日越えて、どこの野に今夜は宿るのであろうか、われは。
(268)【評】 題材によって見ると、相坂山から引き返して、夕暮、京都府の平野を望んで、そのどこに宿るのだろうかと心許なさを感じた折の心で、その境はわかる。しかし一首の歌として見ると、郎女の特色の出ていない、いわゆる羈旅の歌の型に倣って詠んだごとき作である。郎女にはその境が支配しきれなかったとみえる。第三句と題詞との間に矛盾のある点など如実にそのことを示している。
 
     十年戊寅、元興寺《ぐわんごうじ》の僧《ほうし》の自らを嘆く歌一首
 
【題意】 「元興寺」は、上の(九九二)に出た。奈良京の明日香の寺である。「僧」は左注によって、その寺にある多くの僧の中の一人と知られる。
 
1018 白珠《しらたま》は 人《ひと》に知《し》らえず 知《し》らずともよし 知《し》らずとも 吾《われ》し知《し》れらば 知《し》らずともよし
    白珠者 人尓不所知 不知友縱 雖不知 吾之知有者 不知友任意
 
【語釈】 ○白珠は人に知らえす 「白珠」は、当時は鰒玉の称としていたが、左注によると、僧が自身の仏法上の知に譬えたものであるから、広く美玉をさしたものと取れる。「知らえず」は、知られずで、認められずの意。白珠のごとく尊き、わが仏法の上の知は、人に認められない。○知らずともよし 「よし」は、ままよというにあたる。人が知らなかろうとも、ままよ。○知らずとも吾し知れらば 「知らずとも」は、人が知らなかろうとも。「知れらば」は、知れりすなわち知りありの動詞の未然形。知っていたならば。○知らずともよし 人が知らなかろうともままよ。
【釈】 白珠のごとく貴いわが仏法の上の知は、人に知られない。人が知らなかろうともままよ。人が知らなかろうとも、自身十分に知っていたならば、人が知らなかろうともままよ。
【評】 左注によって作因が知られるが、それがなくとも解せられる歌である。この僧は、元興寺の寺中の衆僧の中で、自分の仏法上の知は他を抜いていると信じているのに、それが認められぬのを憤り、我と我を慰めて詠んだ歌である。この不満は、いつの代いかなる方面の人も、その大部分は等しく抱いているもので、最も一般性のある心の一つである。しかし寺という所は一般社会とは異なって、本来情実というもののなかるべき所で、ここに高下があるとすれば、一に知能によって定めらるべき所であるのに、この僧は、そこにも情実があって、知能が公平に認められないとして憤っているので、一般社会よりはもっともなことと同感の出来るところがある。歌は珍しくも旋頸歌の形をもって詠んだものである。この形は短歌以前のもので、この集では人麿歌集のものが代表しており、この時代には坂上郎女がわずかに試みているにすぎないものである。この僧はそ(269)の古い形をもって、詠んでおり、しかも口唱時代の名残を濃厚にとどめて、同語の繰り返しを極度に用いている。その点から見ると、時流に従うことをいさぎよしとせず、異を樹てようとする風があるといえる。その繰り返しも、単に口唱風の技巧というのではなく、執拗に自身の心を述べようとする要求よりのもので、それと口唱風の繰り返しとを合致させているのである。要するに一癖ある僧と見え、その認められない憤りも、この一癖あることに関係をもっているのではないかと思われる。それはとにかく、歌の心の一般性をもっているところから、人口に膾炙している歌である。
 
     右の一首は、或るは云ふ、元興寺の僧、独覚めて智多けれども、未だ顕聞するところあらず。衆諸狎侮す。これによりて、僧この歌を作りて、みづから身の才を嘆くなり。
      右一首、或云、元興寺之僧、獨覺多v智、未v有2顯聞1、衆諸狎侮。因v此、僧作2此謌1、自嘆2身才1也。
 
     石上乙麿《いそのかみのおとまろ》卿の土佐国に配せられし時の歌三首 并に短歌
 
【題意】 「石上乙麿」は、巻三(三六八)に出た。左大臣石上麻呂の第三子で、神亀元年、正六位下となりさらに従五位下に進んだのを初めとして、天平十年には従四位下、左大弁と累進しており、才識に富んだ人である。しかるに続日本紀、聖武紀、天平十一年三月の条に「石上朝臣乙麻呂、坐v※[(女/女)+干]2久米連若売1、配2流土左国1、若売配2下総国1焉」という重譴を蒙ることとなった。これは若売は藤原字合の妻であり、贈右大臣百川の母という身分だったからである。宇合は天平九年に没しているからその後のことである。乙麿は天平十三年九月の大赦で許されたらしく、爾来官位が進んで、天平勝宝二年に中納言従三位兼中務榔として没した。土佐にあった間の詩集に『銜悲藻』二巻があるというが、これは伝わらない。『懐風藻』に四首収められている。
 
1019 石上《いそのかみ》 振《ふる》の尊《みこと》は 弱女《たわやめ》の 惑《まとひ》によりて 馬《うま》じ物《もの》 繩《なは》取附《とりつ》け 肉《しし》じ物《もの》 弓欠《ゆみや》囲《かく》みて 王《おほきみ》の命《みこと》恐《かしこ》み 天離《あまざか》る 夷《ひな》べに退《まか》る 古衣《ふるころも》 又打《まつち》の山《やま》ゆ 還《かへ》り来《こ》ぬかも
    石上 振乃尊者 弱女乃 或尓縁而 馬自物 繩取附 肉自物 弓笶圍而 王 命恐 天離 夷部尓退 古衣 又打山從 還來奴香聞
 
(270)【語釈】 ○石上振の尊は 石上乙麿を地名によって呼び換えた尊称。「石上」は、大和国山辺郡の地名で、今、石上神宮のある地。石上氏はもと物部氏で、代々この地に住んでいたところからの称。「振」は布留《ふる》とも書き、石上の内の小字である。石上氏には外に朴井《えい》氏もあり、これまた地名である。乙麿の本居が振にあったところから、区別する意で、「石上振」と呼んでいたものとみえる。人をその住地によって呼ぶのは尊んでのことである。「尊」は、至貴に対して用いる文字との定めがあるが、私的にはそれに拘わらなかった例が多い。乙麿を、こうした称をもって呼ぶ人は、身分低く関係の深い人でなくてはならない。○弱女の惑によりて 「弱女」は、既出。女の総称としてのもので、久米連若売をさしている。「惑」は、心惑いで、過ちというにあたる。弱女に対しての過ちによって。男女間の関係は、特別な事情が伴ったものでない限りは問題とはされなかった。この作者からいうと、世間にあり勝ちな軽いことだという心をもっていっているもの。○馬じ物繩取附け 「馬じもの」は既出。馬のごとくの意で、「繩」にかかる枕詞。「繩取附け」は、罪人を縛めること。これは庶民の罪人にすることで、四位の乙麿に対して行なったとは思われない。罪人としての意を誇張して、具象的にいったものと取れる。○肉じ物弓矢囲みて 「肉じ物」は、「肉」はその肉を食用とする獣の総称で、主として猪鹿。狩野の猪鹿のごとくの意で、下の枕詞。「弓矢囲みて」は、弓矢をもって囲んでで、上と同じく罪人として武士の警固することを誇張していったものと取れる。以上四句、上の罪の軽きに対し、咎の重きを対照的にいおうとしたもの。○王の命恐み 天皇の詔の恐いゆえにで、それを絶対なものとし、「弱女《たわやめ》の」以下の気分を一掃した形の続け。○天離る夷べに退る 「天離る」は既出。「夷」の枕詞。「夷べ」は夷のほうでここは土佐国。「退る」は、尊い所より去る意で、京より夷へ行く意。以上第一段。○古衣又打の山ゆ 「古衣」は、洗って砧で打つ意で、打つの転音「つち」へかかる枕詞。「又打の山」は、真土山とも書く。大和国と紀伊国との国境にある山で、要路にあたっている山。しばしば出た。乙麿の護送される路は、大和国から紀伊国に入り、そこから船だったのである。「ゆ」はより。○還り来ぬかも 「ぬかも」は、打消の詠歎で顔望の意をもつもの。用例の少なくないもの。還って來ぬかなあ。以上第二段。
【釈】 石上振の尊は、色の過ちによって、罪人として繩を取り付け、武士が弓矢を持って取囲んで、天皇の詔を恐んで、夷のほうへと退《まか》って行く。越えて行く又打《まつち》の山から還って来ないのかなあ。
【評】一首は、土佐国へ配流される乙麿を、その通路に立って見送っている人の作ったものにしている。作者は乙麿自身で、それ以外の人ではなかろう。この構想は乙麿にとっては甚だ有利なものである。それは事件としては、乙麿が藤原宇合の未亡人と関係を結んだというだけのことで、国家的の角度から見れば問題ともならないものであるが、それが時の権臣宇合の子の百川にとっては不利なことであり、また藤原氏の出である皇后にとっても好ましからぬことだというので、配流という重譴を蒙ることになったのである。乙麿としては心中穏かならぬものがあったろうと思われるが、勅勘という以上、恐懼して従うより他なき次第である。したがってこの際の乙麿の心は、自身では言われぬ性質のものである。しかし何らかの形で漏らしたいと思い、乙麿を「石上振の尊」という至貴に対する尊称をもって呼ぶ庶民の心としていっているのである。すなわち平凡な男女関係によって罪科に処せられたという以上は知らぬ者の口を通して言わせるという態度を取ったのである。そしてそれがまた真相でもあったのである。「弱女の惑によりて 馬じ物繩取り附け 肉じ物弓矢囲みて」は、乙麿の心の端的と思われる。(271)「馬じ物」以下の対句は、いったがごとく誇張したものでああろうが、そこに乙麿の実感があったといえる。「王の命恐み」と罪科を結び、「還り来ぬかも」と総収したのは、これまた乙麿の心をいわせているものである。さらにまたこの一首の形は、歌としては最も古い形である叙事的抒情の物語風のもので、この時代には広く庶民間に行なわれていたと思われる形式を択んでいる。これは庶民にはふさわしい形式であり、同時に事の全体をもあらわしうるものである。要するに一首の構想も形式も、乙麿としては述しく技巧的なものである。しかし現われているところは、語は素朴で、調べはゆるやかで、おのずから哀愁を漂わしているので、一見無技巧なものにみえるのであるが、これも無論甚しい技巧なのである。
 
1020・1021 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み さし並《なら》ぶ 国《くに》に出《い》でますや 吾《わ》が背《せ》の公《きみ》を 繋巻《かけま》くも ゆゆし恐《かしこ》し 住吉《すみのえ》の 荒人神《あらひとがみ》 船《ふな》の舳《へ》に うしはきたまひ 付《つ》きたまはむ 島《しま》の埼前《さきざき》 依《よ》りたまはむ 礒《いそ》の埼前《さきざき》 荒《あら》き浪《なみ》 風《かぜ》に遇《あ》はせず 草《くさ》つつみ 疾《やまひ》あらせず 急《すむやけ》く 還《かへ》したまはね 本《もと》の国《くに》べに
    王 命恐見 刺並 國尓出座耶 吾背乃公矣 繋卷裳 湯々石恐石 住吉乃 荒人神 船舳尓 牛吐賜 付賜將 嶋之埼前 依賜將 礒乃埼前 荒浪 風尓不令遇 草管見 身疾不有 急 令變賜根 本國部尓
 
【語釈】 ○王の命恐み 前の歌に出た。○さし並ぷ国に出でますや 「さし並ぶ」は、西本願寺本は「刺並之」であるが、元暦本外二本には「之」がない。『新訓』は「之」のないのに従い「さし並ぶ」と訓んでいる。これに従う。「さし並ぶ」は、並ぶ意で、「隣り」の枕詞。ここは隣の国の意で「国」へ懸っている。「国に出でますや」の「国」は土佐国。紀伊から海路土佐へ向かうのである。「出でます」は「出づ」の敬語。「や」は感動の助詞。この二句により、歌の作者は紀伊国の人か、あるいは、紀伊国で詠んだ形となっている。○吾が背の公を これは男同士でもきわめて親しい間では用いている例があるが、本来は妻の夫に対しての愛称である。ここは男かと思われる。それは「君」に「公」という尊い字をあてていることで、これは上の歌と同じく身分の低いことを意識しての用字だからである。なおここは、五七の定型を破って七音一句としている。『略解』によれば、本居宣長は、上の「出でますや」を「出でます」とし、「や」は「はしけやし」のそれであり、前後が脱落したものと見ている。不明なことであるから原文に従う。○繋巻くもゆゆし恐し 「繋巻くも」は既出。「ゆゆし」「恐し」はいずれも恐ろし。連体形の古形で「荒人神」を説明している。○住吉の荒人神 古事記に「底筒男命、中筒男命、上筒男命三柱神者、墨江之三前大神也」とあり、この神は専ら海路を守護し(272)給う神であることは、神功紀の新羅征討の条、また遣唐使奉幣祝詞でも、まずこの神を祈願することで明らかである。「荒人神」は現人神で、人として姿をあらわし給う神の意で、摂津風土記には、「昔息長足比売天皇世、住吉大神現出而巡2行天下1云々」とあり、そうしたことが語り継がれていたとみえる。○船の舳にうしはきたまひ 「舳」は舳先で、船の向かうほう。「うしはき」は天皇のわが全国土を、知らしめすに対し、神々のその分担される所を御支配になられる語で、ここは住吉大神が海路を御支配になられる意ある。その意で、大神が舶先に鎮座ましまして。○付きたまはむ島の埼前 「付きたまはむ」は、乙麿の乗る船のお着きになるであろうところの。「島の埼前」は、当時の航海は危険を避けるために、寄りうる陸には必ず寄ることにしていたので、島がある限り、その埼々に着けたのである。○依りたまはむ礒の埼前 「依りたまはむ」も上と同じく、船のお寄りになるであろうところの。「礒」は海岸の岩で、岩は船を避難させうる物である。岩ある海岸のその埼ごと。○荒き浪風に遇はせず 荒い浪にも、荒い風にも逢わせずで、すなわち危険の惧れなく。○草つつみ疾あらせず 「草つつみ」は原文「草管見」で、旧訓「くさつつみ」で、他に訓み方がない。この語は他に所見のないものである。「つつみ」は凶事で、恙なくであり、それだと通じやすい。本居宣長は『玉勝間』で「草」は「莫」の誤写で「つつみなく」だとしている。今は原文に従って不明としておく。航海の無事、病のないのは一に神意にあるとしていっているもの。○急く還したまはね 「急く」は、速《すみやか》にの古語で、仮名書きのあるもの。「還したまはね」は、「ね」は他に対しての願望をあらわす助詞。○本の国べに 以前の国のほうにで、すなわち大和の本国に。
【釈】 天皇の詔のかしこさに、この国と並んでいる土佐国にお出でになるわが背の君を、口にして申上げることも恐れ多い住吉の現人神よ、君の乗る船の舳先に鎮座ましまし、君の船のお着きになるであろう島の埼ごと、君の船のお寄りになるであろう礒の埼ごと、すなわち航路の中は、荒い浪にも荒い風にもお逢わせなさらず、また病もなく御加護になられ速かにお還し下されよ、本国の大和のほうに。
【評】 この歌は、陸路を紀伊国まで護送された乙麿が、そこから配所である土佐国まで海路を護送されようとして船出をする際に、その国の人で、乙麿を「公」という文字を用いて呼ぷ身分低い人が、航海中の無事を海の守護神である住吉の神に祈り、あわせて将来の病なきこと、早く赦免になることまでも祈った心のものである。この歌を一個の構成の上から見ると、一見何の技巧もないごとくみえるが、上の歌に劣らない用意をもってしているものである。紀伊国にいて乙麿をわが背の公と呼んでいる人は、その国の庶民でなくてはならない。そうした人に祈りをさせることは乙麿を高めることである。またこの歌では事件そのものには触れず、一に祈りに終始させていることは、京より遠い所とて事件の関心が少なく、単に乙麿に同情していることとなって、心理的に自然である上に、乙麿からいうと、歌として上の歌を進展させたことともなって来る。これは作者の乙麿であることを裏付けることである。次にこの歌の祈りの言葉には問題がある。それは巻十九(四二四五)「天平五年、入唐使に贈る歌」との関係である。ここに引くと、「(上略)遣はさる吾が背の君を 懸けまくのゆゆし恐き 住吉《すみのえ》の吾が大御神 船《ふな》のへにうしはき座し 船《ふな》どもに御《み》立ち座して さしよらむ礒の崎々 こぎはてむ泊々に 荒き風波に遇はせず 平けく率て(273)かへりませ もとの国家《みかど》に」というのであって、この歌のほうが年代が早いので、紀伊国の庶民はこれを模したことになる。入唐使に贈るという特殊な歌であるが、住吉の神に祈る言葉は、紀伊国の庶民が伝承していたとしても、歌のこの当時の伝承状態からいえば少しも不自然ではなく、さらにまた、この祈りの言葉は入唐使に対しては自然であるが、乙麿の紀伊より土佐までの航路には不自然なものである。それをも顧みず、ほとんどそのままに襲用しているのは、庶民としては自然なこととなって来る。詩才の豊かな乙麿であるから、そうした用意があったとしても不当ではなく思われる。要するにこの歌は技巧なきに似て相応に技巧をもった作である。
 この歌には、大きな問題がある。それは起首「王の命恐みさし並ぶ国に出でますや 吾が背の公を」の五句である。簡単にいうと、仙覚本はこれだけを独立した一首の短歌としており、『国歌大観』はそれを踏襲し、それ以下を別の歌としているのである。本居宣長がこれを一首の歌として続け、それ以来今のごとき形となったのである。(一〇二〇)(一〇二一)と二つの番号を付けてあるのはそのためである。
 
1022 父君《ちちぎみ》に 吾《われ》はまな子《ご》ぞ 妣刀自《ははとじ》に 吾《われ》は愛児《まなご》ぞ 参昇《まゐのぼ》る 八十氏人《やそうぢびと》の 手向《たむけ》する 恐《かしこ》の坂《さか》に 幣《ぬさ》奉《まつ》り 吾《われ》はぞ追《お》ふ 遠《とほ》き土佐道《とさぢ》を
    父公尓 吾者眞名子叙 妣刀自尓 吾者愛兒叙 參昇 八十氏人乃 手向爲 恐乃坂尓 幣奉 吾者叙追 遠杵土左道矣
 
【語釈】 ○父君に吾はまな予ぞ 「父君」は麻呂で、養老二年に没した。「吾」は乙麿自身。「まな子」は下の「愛児」で、愛する児。「ぞ」は終助詞。○妣刀自に吾は愛児ぞ 「妣」は故人に用いる字。「刀自」は主婦で、敬称。流人の身となって、父母を思慕したもの。以上一段。○参昇る八十氏人の 「参昇る」は、参り上るで、いずれも賤しい所より貴い所へ行くことをあらわす語。ここは夷より京へ上る意である。「八十氏人」は、「八十」は多数を具象的にいったもので、多くの氏の人で、さまざまの人々というにあたる。○手向する恐の坂に 「手向する」は、原文「手向為等」。「等」は、元暦本外二本はない。「手向する」は幣を捧げるで、道中の無事を祈ってのこと。「恐の坂」は地名であるが、一般性をもった名で、諸所にあったと思われる。「恐」は形容詞|恐《かしこ》しの語幹で名詞であり、下の「坂」の性質をいっているものである。峠の坂には神が祀られており、峠を越えて行こうとする人はその神に幣を捧げて守護を乞うことが常となっていたので、そうした坂を神威を讃える意で名付けた名と取れるからである。日本書紀、天武紀に、大和国と河内国の国境にある「懼坂《かしこのさか》」の名が出ている。ここは紀伊国である。 ○幣奉り吾はぞ追ふ 「幣奉り」は上の「手向する」と同じ。「ぞ」は係助詞。「追ふ」は次の駅、次の泊りをさして行くことをあらわす語。連体形。○遠き土佐道を 「遠き」は先の遠い。「土佐道」はここは土佐国へ行く道の意。「を」は、であるのに。
(274)【釈】 父君にとりては吾は愛子である。妣刀自にとっては吾は愛子である。京のほうへと参り上《のぼ》る多くの氏の人々が、手向をして越えて行く恐の坂に、幣を捧げて吾は、次の目ざす所へと行くことであるよ。先の遠い土佐街道であるのに。
【評】 これは乙麿白身の作であることを明らかに示しているものである。作った場所は「土佐路」すなわち土佐街道であるが、次の反歌は船で紀伊の小浜を過ぎる際のものであるから、土佐賂は紀伊国の中にあるものである。すなわち紀伊国から土佐国へ向かっての発船場所である地に護送されつつ詠んだものである。起首の四句は、亡き父母を思慕したもので、それで一段としている。次は「恐の坂」での抒情で、多くの人々は自分とは反対に、わが過ぎて来たほうすなわち京のほうへ向かって行くのに、自分だけ一人は、先の遠い土佐路を次の駅へと向かってゆくというのである。きわめて簡潔に、哀情を言わずして泌み出させている作である。上の二首とは全く趣の変わったもので、圧搾した形において沈痛な気分をあらわしているものである。
 
     反歌一首
 
1023 大埼《おほさき》の 神《かみ》の小浜《をばま》は 小《せま》けども 百船人《ももふなびと》も 過《す》ぐと云《い》はなくに
    大埼乃 神之小濱者 雖小 百船純毛 過迩云寞國
 
【語釈】 ○大埼の神の小浜は 「大埼」は和歌山県海草郡下津町大崎の地。土佐国への発船地となっていた。「神の小浜」は大埼の付近の地。○小けども 形容詞が、助詞「ど」「ども」へ接する場合には「け」より接するのが当時の通則。狭い所であるけれども。○百船人も過ぐと云はなくに 「百船人」は百と多くの、すなわちあらゆる。「船人」は船乗《ふなのり》で、あらゆる船乗も。「過ぐ」は空しく通り過ぎる、すなわち素通りする。「云はなくに」は、いわないことであるにで、「に」は詠歎。こうした場合の「云ふ」は意味が軽く、過ぐとせなくにと異ならない。
【釈】 大埼の神の小浜は狭い所であるけれども、あらゆる船乗が素通りをせずに、このように繁く集まって来ているのであるに。
【評】 大崎の神の小浜で陸路は尽きて、そこから海路に移ろうとする時に、狭い船着き場所に多くの船の集まっているのを見、その中にまじっている流人としての自身を強く意識させられて、悲痛な感をもっていっているものである。その感は言外に置いている。長歌とのつながりは、陸と海と境が異なるにつれて一つの感の新たに繰り返されるところにある。
【総評】 「土佐の国に配せられし時の歌三宮」と題して一つづきのものとしてあるが、この三首は明らかに連作であって、意識して構成したものであり、また効果をあげ得ているものでもある。構成というのは、配流ということと、それに伴う感情の全貌を、これら三首の長歌を連ねることによって現わそうと意図し、縦にはいわゆる道行きの形にし、横には境の異なるごと(275)に作話を変えて、変化と統一をもたせてその意図を遂げようとしていることである。第一首は大和、第二首は紀伊、第三首は紀伊から土佐へ向かっての海路として、次第に土地を展開させているのは、まさしく道行きである。この歌体は民謡の長歌集である巻十三には例の多いもので、また柿本人麿にも用いられていて、この時代としては親しみの深いものだったのである。また第一首と二首はその土地の庶民という第三者の作とし、第三首に至って初めて乙麿自身の作としているのは、許されうる限りの変化をもたせようとしてのことである。以上は要するに、連作によって物語りをしようとしているもので、歌を主とすれば歌の散文的展開であり、文芸という上から見れば、国語によっての散文を要求する心があって、その欠を補おうとする中間的な試みといえるものである。これはすでにいったがごとく、巻五の大伴旅人、山上憶良などによって試みられていたことであるが、石上乙麿はそれを一歩前進させたといえる。乙麿がこの方面に力を向けたならばさらに成果を収め得たことであろう。『懐風藻』に載っている乙麿の小伝を見ても、それに堪えうる人であったろうと思われる。
 
     秋八月二十日、右大臣橘家に宴《うたげ》せる歌四首
 
【題意】 「右大臣橘家」は、橘は橘諸兄を尊んでわざと名を略しての称。諸兄は葛城王の臣籍に下っての氏名。「右大臣」になったのは天平十年正月である。
 
1024 長門《ながと》なる 奥《おき》つ借島《かりしま》 奥《おく》まへて 吾《わ》が念《も》ふ君《きみ》は 千歳《ちとせ》にもがも
    長門有 奥津借嶋 奥眞經而 吾念君者 千歳尓母我毛
 
【語釈】 ○長門なる奥つ借島 「長門なる」は長門国にあるで、作者は長門守なので、その任地。「奥つ」は、沖ので下の借島の位置。「借島」は今はその名が伝わっていず、したがって明らかに知れない。推量より山口県阿武郡田万川町江崎の沖の加礼島、下関市西北海上の蓋井島、下関東方海上説、萩市鶴江台などの諸説がある。「奥」を三句の「奥」にかけての序詞。○奥まへて この語も今は伝わっていず、語義に諸説がある。「奥」は心の奥の意にも、時の奥としての将来という意味にも用いられている。新村出氏は、名詞「奥」を動詞とし、「奥ま」「奥み」とマ行四段に活かせた語があり、「奥む」は用例は見えないが、ありうる語であり、それを「踏む」を「踏まへて」とすると同様に「奥まへて」としたものではないかといっている。これに従って「奥」を心のそれとし、心深くの当時の語と解する。「君」は主人の諸兄をさしたもの。○千歳にもがも 「もがも」は願望の助詞。千年の齢をも保たれたいものだと、齢を賀したもの。
【釈】 長門国にある沖のほうの借島の、その沖に因みある奥まえてすなわち心深くも、吾が思っている君は千年という齢をも保
(276)たれたいもののである。
【評】 酒宴の席では、献杯をする際に歌をもって相手を賀するのは定まった儀式となっていたので、これもその心よりのものである。巻十一(二七二八)「淡海《あふみ》の海《み》奥つ鳥山奥まへて我が思《も》ふ妹が言《こと》の繁けく」がある。これにはなお類歌もあり、一つの型となっていたとみえる。こうした際の歌は古歌を襲する例が多いので、これもそれであろう。実用性の歌で、巧拙は多く思わなくてもよかったのである。この歌の序詞は任国の地名を捉えているが、それは当然のことだったのである。巧みとまではいえないものである。
 
     右の一首は、長門守|巨曾倍対馬《こそべのつしまの》朝臣。
      右一首、長門守巨曾倍對馬朝臣。
 
【解】 対馬は巻八には「津島」とあり、続日本紀、聖武紀、天平四年に、山陰道節度使判官巨曾倍津島に外従五位下を授くとある。
 
1025 奥《おく》まへて 吾《われ》を念《おも》へる 吾《わ》が背子《せこ》は 千年《ちとせ》五百歳《いほとせ》 ありこせぬかも
    奥眞經而 吾乎念流 吾背子者 千年五百歳 有巨勢奴香聞
 
【語釈】 ○奥まへて吾を念へる吾が背子は 「吾が背子」は、最も親しんでの称。心深く吾を思っているわが親しい君はで、特別な親近をあらわしての呼び方。○千年五百歳 いずれも長寿という意を具象化した語で、重ねることによって意を強めたもの。○ありこせぬかも 「あり」は生きている意。「こせ」は、希望の助助詞「こす」の未然形。くれるという意の古語。「ぬ」「かも」は打消によって願望をあらわす助詞。
【釈】 心深く我を思っているところの、わが親しい君は、限りなく長く生きていて貰いたいものだ。
【評】 右の対馬の歌に対して和えた歌で、温和な、情の深い、長者の風格を示している、品のある歌である。
 
     右の一首は、右大臣の和《こた》ふる歌。
      右一首、右大臣和哥。
 
1026 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》は 今日《けふ》もかも 暇《いとま》を無《な》みと 里《さと》に去《ゆ》かずあらむ
(277)    百磯城乃 大宮人者 今日毛鴨 暇无跡 里尓不去將有
 
【語釈】 ○百磯城の大宮人は 「百機城の」は宮の枕詞。既出。「大宮人」は宮廷に仕える男女を通じての称。○今日もかも暇を無みと 「も」はもまた。「かも」は疑問。「無み」はなきゆえに。「と」は、として。○里に去かずあらむ 「里」は大宮に対しての私宅の称。「去かず」は大宮を主として、私宅に行かずにで、退出せずに。
【釈】 大宮人である夫は、今日もまた、公務が忙しくて暇がないゆえにとて、私宅に退出しないことであろうか。
【評】 この歌は左注にある「故豊島采女」の作である。采女が宮中にいて、傍観者として詠んだ歌としても一首の心は通るが、それでは作因が薄弱にすぎ、したがって無味なものとなり、宴席の興とはなりかねるものとなる。采女は前《さきの》采女であり、大宮人の妻となって里住みをしており、連日夫の来なかったのを恨んでの歌と見るべきである。恨みが婉曲で、主人の右大臣の伝えるにふさわしい歌である。
 
     右の一首は、右大臣伝へ云ふ、故豊島采女《もとのとしまのうねめ》の歌。
      右一首、右大臣傳云、故豊嶋采女謌。
 
【解】 「豊島采女」は、大体この時代の采女であったろうと想像される以上にはわからない。諸兄がこの歌を何らかの経路で記憶していて、その宴席で語ったのを、他の歌と同じく記録する者があってとどまったものと思われる。記録したというのは、作者名を歌の後に記しているのは、記録の形に従ったものと解されるからである。
 
1027 橘《たちばな》の 本《もと》に道《みち》踏《ふ》み 八衢《やちまた》に ものをぞ思《おも》ふ 人《ひと》に知《し》らえず
    橘 本尓道履 八衢尓 物乎曾念 人尓不所知
 
【語釈】 ○橘の本に道踏み 「橘」は当時奈良の大路に、今日の都会の街路樹のごとく植わっていたもの。「本」は下。「道踏み」は、道を踏み歩いて。〇八衢にものをぞ恩ふ 「八」は多くの数の意のもの。「衢」は「道股《ちまた》」で道の岐れ目。「に」はのごとく。八衢のごとくに、さまざまに。「ものをぞ思ふ」は、嘆きをすることであるよで、嘆きは恋の上のもの。○人に知らえす 「人」は、恋の相手。「知らえず」は、「知られずして」で「ず」は、連用形。
【釈】 街路樹の橘の木下の道を踏み歩いて、その八衢のごとくにさまざまに嘆きをすることであるよ。相手には知られずして。
(278)【評】 この歌は、左注で撰者が正しているように、巻二(一二五)三方沙弥の「橘の蔭履む路の八衢に物をぞ思ふ妹にあはずて」が、伝承の成行きとして転靴したものである。伝承する人の都合の好いようにわざとされる場合もある。一、二句の転靴は、序詞が叙事になって悪化されたもの。結句は女の抒情に変えようとしたものである。転靴させたものは采女ではなかろう。
 
     右の一首は、右大弁高橋安麿卿語りて云ふ、故《もと》の豊島采女の作れると云ふ。但し或る本に云はく、三方沙弥の妻苑の臣を恋ひて作れる歌なりといふ。然らばすなはち、豊島の采女、当時当所にして此の歌を口吟《くちずさ》めるか。
      右一首、右大辨高橋安麿卿語云、故豊嶋采女之作也。但或本云、三方沙弥戀2妻苑臣1作歌。然則、豊嶋采女、當時當所口2吟此謌1歟。
 
【解】 「高橋安麿」は、養老二年従五位下となり、天平十年大宰大弐ともなった人。この歌は当日その宴に列していて、諸兄の上の歌によって思い出して語ったものとみえる。安麿はこの歌を豊島采女の作と思っていたのである。「但し」以下は、撰者の注である。「一本」というのは、本集か、あるいは本集の原本となったものか明らかでない。「当時当所にして」は、その時その所にあってで、そのような心を抱いていた時、歌にあるような場所での意。
 
     十一年己卯、天皇の高円野《たかまとのの》に遊※[獣偏+葛]し給ひし時、小き獣|都里《さと》の中に泄《に》げ走りき。ここに適勇士に値《あ》ひて生きながら獲《と》らえぬ。即ち此の獣を御在所《みあらか》に献《たてまつ》るに副へたる歌一首 【獣の名、俗に牟射佐妣《むざさび》と云う。】
 
【題意】 「天皇」は聖武天皇。「高円野」は、春日山の南に続く野にも山にもいう。ここに離宮があった。「都里」は山地に対しての称で、大伴氏の邸のあった佐保あたりか。「泄げ」は逃げで、御猟場から逃げ出す意。「俗」は漢語に対して邦語を称する語。「むざさび」は巻三(二六七)に出た。
 
1028 大夫《ますらを》の 高円山《たかまとやま》に 迫《せ》めたれば 里《さと》に下《お》りける ※[鼠+吾]鼠《むざさび》ぞこれ
    大夫之 高圓山尓 迫有者 里尓下來流 牟射佐※[田+比]曾此
 
(279)【語釈】 ○大夫の高円山に迫めたれば 「大夫」は御猟のことを仕える人々。「迫めたれば」は追い立てたので。○里に下りける※[鼠+吾]鼠ぞこれ 「ぞ」は終助詞で、指示するもの。「これ」は、指示を強めた意。
【釈】 御猟を仕うる勇士が高円山で追い立てたので、里に下りて来たところの※[鼠+吾]鼠でございます、これは。
【評】 人に物を贈る時には、その物の好い物であることか、苦労して得たものであるかを言い添えることが礼となっているので、※[鼠+吾]鼠を御覧に供するにつけ、その由緒と珍しさとを申上げようとしたものである。(鼠+吾)鼠は吉野の山中などでは今もさして珍しとはしない獣であるが、天皇には御覧になったことがなかろうとし、御猟の一興として献ろうとしたものとみえる。儀礼の歌にすぎないものであるが、それとしてはさわやかさを持っている。
 
     右の一首は、大伴坂上郎女の作れる。但し未だ奏を経ずして小き獣死に斃れぬ。これに因りて歌を献ることは停めき。
      右一首、大伴坂上郎女作之。但未v※[しんにょう+至]v奏而小獣死斃。因v此獻v謌停之。
 
     十二年庚辰冬十月、大宰少弐藤原朝臣広嗣、謀反して軍を発《おこ》せるによりて、伊勢国に幸《いでま》せる時、河口の行宮《かりみや》にて内舎人《うどねり》大伴宿禰家持の作れる歌一首
 
【題意】 「藤原朝臣広嗣、謀反して軍を発せる」は、続日本紀に委しい。要をいうと、この乱は藤原氏同族間の軋轢より起こったものである。藤原不比等の子四人は四家に分かれた。藤原氏としては根を張ったことであるが、同時に同族間の勢力争いを惹き起こす基ともなった。南家の豊城、仲麿、北家の永手らが、式家の嫡子広嗣を大宰府に遠ざけたのであるが、これには僧玄肪、吉備其傭が天皇の謀臣として参与していた。広嗣はそれを恨み、君側の茨を除かんことを上表したが、容れられなかったので、天平十二年五月、ついに反を起こしたのである。「伊勢国に幸せる時」は、その十月、征討の官軍が西に向かうとともに、天皇には十二月二十九日、東に向かって行幸され、まず伊勢国壱志郡河口の頓宮に到り、ついで鈴鹿郡赤坂の頓宮に到り、さらに桑名郡石占の頓宮に到り給うた。転じて美濃国不破の頓宮に到り、十二月十五日、山城国恭仁宮に到って、そこを京都とされた。この行幸は広嗣に呼応する者がありはしないかと思い、それを避けるためのことであった。広嗣は十一月一日誅に伏したのであるが、なお奈良へは還幸されなかったのである。「内舎人」は、雑役警衛にあたる職である。家持時に年二十三であった。
 
1029 河口《かはぐち》の 野辺《のべ》に廬《いほ》りて 夜《よ》の歴《ふ》れば 妹《いも》が袂《たもと》し 念《おも》ほゆるかも
(280)    河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨
 
【語釈】 ○河口の野辺に廬りて 「河口」は上に出た行宮の所在地。三重県一志郡白山町川口小字|御城《おんじよう》の医王寺付近とつたえられる。そこは山村で、古は大和国への通路を監視するための関のあった所で、宮を関宮とも称した。「廬りて」は廬を名詞にして「廬して」という訓もある。動詞と見る。廬を結んで夜の居所として。○夜の歴れば 天皇が河口の宮に停まられたのは十日間である。○妹が袂し念ほゆるかも 「袂」は手枕としての手を椀曲にいったもの。「し」は強め。「念ほゆるかも」は、恋しく思われることよ。
【釈】 河口の野に廬を結んで、そこに幾夜かを経たので、京である妹の手枕が恋しく思われることであるよ。
【評】 行幸の背後にある事件はその当時としては重いものであるが、歌は年若い家持の十一月の夜々の侘びしさの実感である。素直な心を一本気に詠んだもので、おのずからある品をもったものである。
 
     天皇の御製歌一首
 
1030 妹《いも》に恋《こ》ひ 吾乃松原《あがのまつばら》 見渡《みわた》せば 潮干《しほひ》の潟《かた》に たづ鳴《な》き渡《わた》る
    妹尓戀 吾乃松原 見渡者 潮干乃滷尓 多頭鳴渡
 
【語釈】 ○妹に恋ひ吾乃松原 「妹に恋ひ」は、妹に恋いてわれのいるの意で、われにかかる枕詞。意味よりかかる原始的なものであるが、他に用例のないものである。「吾乃松原」は今はその名が伝わっていない。したがって諸説があるが、定説となりうるものはない。問題になりうるのは『古義』が引いている天平年間の『大安寺伽藍縁起流記資財帳』に、「伊勢国三重郡赤松原百町」とあるその「赤松原」であり、「赤」と「吾」とを転靴と見て、三重郡にあった地名とすることである。これは左注にも関係させてのことである。伝わらなかったのは、それに値する地ではなかったからである。○潮干の潟にたづ鳴き渡る 潮干になった潟に向かって、あさりするために鶴が、こちらから鳴いて飛び渡ってゆく。
【釈】 吾乃松原を見渡すと、潮干の潟に向かって、鶴が鳴いて飛び渡ってゆく。
【評】 天皇の御在所《みあらか》からやや離れて、一方には松原があり、それに並ぶ形となって伊勢の海が展けているという大景であって、その松原を御覧になったおりから、そこから鶴が飛び立って海のほうへ鳴き渡って行ったのである。鶴は松原に住むかあるいは憩っているものであり、「潮干の潟」は親しく御覧になっているものではないが、鶴がそのようなさまを見せる時は、潮干の時であることを知られてのことである。大景を鶴に集め、「妹に恋ひ」という新しい枕詞を添えてもあるので、おおらかではあるが細かい味わいを伴っていて、品位のある御製である。
 
     右の一首は、今|案《かんが》ふるに、吾松原は三重郡にあり。河口の行宮を相去ること遠し。若し疑ふらくは、朝明《あさけ》の行宮におはしましし時、製《つく》りませる御歌にして、伝ふる者之を誤れる歟。
      右一首、今案、吾松原在2三重郡1。相2去河口行宮1遠矣。若疑、御2在朝明行宮1之時、所v製御謌、傳者誤v之歟。
 
【解】 「吾松原」は三重郡であるから、その都(ママ米田)にある「朝明の行宮」での御製であろうと、編者として疑ったのである。現在の「三重郡」は明治二十九年朝明郡と合併されたもので、その当時は四日市の付近で海に面していた。また続日本紀には「十一月丙午従2赤坂1発到2朝明郡1」ともあるのである。この案は編者の付けたものとみえるが、編者を家持とすると、自身供奉に加わっていたのであるから、そこに不自然がある。しかし行幸の際のこうした記録は、それを職とする者がいたので、その記録をこの巻の資料として、それを重んじて扱おうとすれば、自然このような作歌の場所の誤りも起こりうることである。誤りは記録係にあり、案は編者の慎重な態度からのことと解される。
 
     丹比屋主真人《たぢひのまひとやぬし》の歌一首
 
【題意】 「丹比屋主」は、天平十八年従五位上で備前守。天平勝宝元年左犬舎人頭になった。神亀元年正六位から従五位下、従駕の一人で、それについては左注がある。
 
1031 後《おく》れにし 人《ひと》を思《しの》はく 四泥《しで》の埼《さき》 木綿《ゆふ》取《と》り垂《し》でて 好住《さきく》とぞ念《おも》ふ
    後尓之 人乎思久 四泥能埼 木綿取之泥而 好住跡其念
 
【語釈】 ○後れにし人を思はく 「後れにし人」は我に後れている人で、旅にあって家に残っている妻をさしたもの。「思はく」は「思《しの》ふ」に「く」の接して名詞形となったもの。〇四泥の埼 『延喜式』に「伊勢国朝明郡志※[氏/一]〔二字傍点〕神社」とあり、今は三重郡。今の四日市北方大字羽津の海岸。これは次の句の「垂で」へ同音でかかる枕詞。眼前の物を捉えて序詞とし、意義と語調と二つの用をたらせることは、この時期に入って少なからず行なわれていることで、これは枕詞の上にそれを行なっているものである。○木綿取り垂でて 「木綿」は祈りをする時神に捧げる物。「取り垂で」は、「取り」は接碩語。「垂で」は垂らすの古語で、木の枝に結びつけて垂らすのが定めである。祈ることを具象的にいったもの。○好住とぞ念ふ(282)「好住」は西本朗寺本は「将住」。「将」は元暦本外四本は「好」。巻五(八九四)「好去好来の歌」と同じく、妻の無事でいることを「さきく」あることとして「好住」の字を当てたのである。「ぞ」は係助詞。
【釈】 我におくれて家にある事について思いやることは、四泥の埼で、その四泥というように木綿を垂でて無事であれよと祈ることである。
【評】 旅にあって家にいる妻を思う心であるが、妻恋しいというようなことは言わず、妻の無事を祈っているだけで、その場合にふさわしい態度である。妻をいうに「後れにし人」と、婉曲な呼び方をしているのも、その態度にふさわしい。「四泥の埼」を捉えて、そこの神を暗示するとともに、形の上では「垂で」の枕詞としているのも、時様に即した技巧で、歌才を示しているものである。複雑な、屈折をもった詠み方で、老熟した歌である。
 
     右は案ふるに、この歌はこの行の作にあらざるか。然いふ所以は、大夫に勅して、河口の行宮より京に還らしめ、従駕せしむることなし。何ぞ思泥埼《しでのさき》を詠《なが》めて歌を作ることあらめや。
      右案、此謌者、不v有2此行之作1乎。所2以然言1、勅2大夫1從2河口行宮1還v京、勿v令2從駕1焉。何有d詠2思泥埼1作uv謌哉。
 
【解】 「この行」はこの際の行幸である。「大夫」は屋主の敬称。この左注につき『代匠記』と『古義』とは多くの考証をしている。確信をもっていっている注であるから、上のものと同じく編者の加えたものと解し、責は資料にあるものと認める。
 
     狭残《さざ》の行宮にて大伴宿禰家持の作れる歌二首
 
【題意】 「狭残」という地名は続日本紀、聖武紀に載っていないので、不明である。次の歌で見ると海岸に近い所なので、河口より壱志郡、鈴鹿郡、朝明郡、桑名郡と経て、美濃の国当伎郡に到り給うまでのいずれかの海岸の地と思う他はない。一志郡松ケ崎村(現松阪市)、鈴鹿市土師町、多気郡三和町大淀、という諸説がある。
 
1032 天皇《おほきみ》の 行幸《みゆき》の随《まにま》 吾妹子《わぎもこ》が 手枕《たまくら》巻《ま》かず 月《つき》ぞ歴《へ》にける
    天皇之 行幸之隨 吾妹子之 手枕不卷 月曾歴去家留
 
(283)【語釈】 ○天皇の行幸の随 「天皇」は旧訓「すめろぎ」。荒木田久老の『槻の落葉』での改訓。当代の天皇皇太子の称。「行幸《みゆき》」は旧訓。「随」は旧訓「ままに」、『略解』は「まに」であるが、縦中の用例は「まにま」が多く、「まに」と訓む証はない。ままに任せて。○手枕巻かず 「巻かず」は枕とせず。○月ぞ歴にける 十月に発して十一月に入っていたのである。
【釈】 天皇の行幸のままに任せて従駕をし、妻の手枕をせずに月を経たことであるよ。
【評】 自分の職を順直に受け入れて、他意なく、一本気で物をいっているさまが、調べの上に現われている。しかし歌としては輪郭的なもので、手腕が見えない。
 
1033 御食《みけ》つ国《くに》 志摩《しま》の海部《あま》ならし 真熊野《まくまの》の 小船《をぶね》に乗《の》りて 奥《おき》べ榜《こ》ぐ見《み》ゆ
    御食國 志麻乃海部有之 眞熊野之 小船尓乘而 奥部榜所見
 
【語釈】 ○御食つ国志摩の海部ならし 「御食つ国」は上の(九三四)に「御食つ国|野島《のじま》の海人《あま》」と出た。天皇の御饌として、特に定められている品を、貢として献ずる国。志摩国は古事記に「島之速贄《しまのはやにへ》」という語があって、神代より海の物を献じていた国である。「ならし」は「なるらし」の転、眼前を証としての推量。○真熊野の小船に乗りて 「真熊野の小船」は、「真」は美称、「熊野」は紀伊国の熊野で、「小船」に続けているのは、熊野で造る型の小船の意。○典べ榜ぐ見ゆ 「榜ぐ」は終止形。「見ゆ」は終止形から続くのが本集の通則だからである。
【釈】 天皇の御食膳に海の物を献じて奉仕する国の、志摩の海人であるらしい。熊野で造る型の小船に乗って、沖をこいでいるのが見える。
【評】 上の(九三四)の赤人の歌に負うところの多い歌である。臣民の奉仕のさまをいうことは天皇に対して賀となることで、これもその心よりのものである。家持にふさわしい歌である。一首印象的であり、調べにも強さと豊かさが添っていて、従前の家持の歌とくらべると相応な飛躍を遂げている。古歌のすぐれたものを摂取して自身を進歩させようとする心の現われが見える。
 
     美濃国|多芸《たぎ》の行宮《かりみや》にて大伴宿禰|東人《あづまひと》の作れる歌一首
 
【題意】 「美濃国多芸の行宮」は、「多芸」は郡名で、今は養老郡である養老町に多岐《たぎ》の名の大字を残している。この行宮に行幸になったことは、続日本紀に天平十二年十一月「己酉、到2美濃国|当伎《たぎ》郡1」とあり、停られたのは五日間である。「大伴東人」(284)は天平宝字五年に従五位下として武部(兵部)少輔となり、七年少納言。宝亀元年周防守、五年弾正弼となった。
 
1034 古《いにしへ》ゆ 人《ひと》の言《い》ひける 老人《おいひと》の 変若《を》つ云《と》ふ水《みづ》ぞ 名《な》に負《お》ふ滝《たぎ》の瀬《せ》
    從古 人之言來流 老人之 變若云水曾 名尓負瀧之瀬
 
【語釈】 ○古ゆ人の言ひける 昔から人の言っているで、下へ続く。○老人の変若つ云ふ水ぞ 「変若つ」は巻三(三三一)を初めとしてしばしば出た。元へ立ちかえることで、若がえる意に用いている。「云ふ」は、「と云ふ」「ちふ」とも訓み得られる。「ぞ」は、指示の助詞。年寄の若がえるという水であるぞ。以上の事は、続日本紀、元正妃、養老元年十一月の天皇の詔にくわしい。要は、天皇が九月美濃の不破の行宮に幸され、数日をとどまって多度山の美泉を覧られた。その水で手や面を洗うと滑らかになり、また痛む処はすべて癒えた。またこの水に浴みする者は、白髪が黒くなり、脱けた髪も生え、見えない眼も見えるようになり、その他何の病も平癒する。瑞書《ずいしよ》にいう醴泉で、老を養うにあたり、大瑞であるゆえに、霊亀を改めて養老とするというのである。○名に負ふ滝の瀬 「滝の瀬」は、激流をなしている浅い流れで、眼前に見ての言。
【釈】 以前から人の言っていた、年寄も若がえるという水であるぞ。その評判をもっている滝の瀬であるぞこれは。
【評】 評判にだけ聞いてなつかしがっていた滝を、行幸の供奉で見ることを得ての感激しての心である。旅行の困難な時代とて類歌の多いものである。心の躍った跡を相応にあらわしている。
 
     大伴宿禰家持の作れる歌一首
 
1035 田跡河《たどかは》の 滝《たき》を清《きよ》みか 古《いにしへ》ゆ 宮仕《みやづか》へけむ 多芸《たぎ》の野《の》の上《へ》に
    田跡河之 瀧乎清美香 從古 宮仕兼 多藝乃野之上尓
 
【語釈】 ○田跡河の滝を清みか 「多跡河」は、養老の滝に発して、養老町西部(もと上多度村)、海津郡、南濃町北部(もと下多度村)を流れ揖斐川に入る河の称。今は養老川という。「清みか」は、清きゆえにかで、「か」は疑問の係助詞。家持は霊泉ということには触れず、単に風景としていっているのである。○古ゆ宮仕へけむ 「宮仕へ」は日常の奉仕にも、大宮を造営することにもいった。ここは造営で、古の元正天皇の御代から行宮を営まされたことであろうか。「けむ」と推量にしているのは、敬意からのことである。○多芸の野の上に 「多芸」は当時の郡の名としてのもの。「上」は、感を強めるために添えたもの。
【釈】 田跡河の激流が清いゆえに、それを愛で給うとて、古から大宮を御営ませになったことであろうか。この多芸の野に。
(285)【評】 多芸宮を讃えたもので、行幸の際天皇に献る賀の歌の型に従ったものである。祥瑞を信ずる思想の盛行していた中にあって、それを濃厚にあらわはしている多芸宮な讃えるに、吉野宮などと同様に単に風景のみをいっているのは、いかがである。言うを好まなかったのか、言い悩んだのかのいずれかであろう。平凡ではあるが一首の姿が清らかで、家持を思わせる歌である。
 
     不破《ふは》の行宮にて大伴宿禰家持の作れる歌一首
 
【題意】 「不破の行宮」への行幸は、続日本紀に「十二月癸丑朔、到2不破郡不破頓宮1」とあって、上の多芸の宮の行幸に続いてのことである。所在は不明である。古の国府のあった地の、今の不破郡垂井町府中・宮代かという。
 
1036 関《せき》なくは 還《かへ》りにだにも うち行《ゆ》きて 妹《いも》が手枕《たまくら》 巻《ま》きて宿《ね》ましを
    關無者 還尓谷藻 打行而 妹之手枕 卷手宿益乎
 
【語釈】 ○関なくは 「関」は、不破の関で、これはいわゆる三関の一であり、『軍防令義解』に「三関者、謂2伊勢鈴鹿、美濃不破、越前|愛発《あらち》1是也」とある。その関のさまを、巻二十(四三七二)の防人歌で、「荒男《あらしを》も立しやはばかる不破の関|越《く》えて吾はゆく」といっている。○還りにだにも 「還り」は名詞で、『代匠記』は俗に立ち帰りという詞だといって考証している。立ち帰りは現在も語として存し、志す所へ行き、立ったまま用を弁じて帰る意である。立ち帰りにだけでも。○うち行きて 「うち」は接頭語。
【釈】 不破の関がなかったなりば、立ち帰りにだけでも行って、妹が手枕をして共寢をしようものを。
【評】 行幸の供奉をしている場合でも、家の妹を思うことは憚らずいっている歌が多く、むしろ普通のことになっていたとみえる。この歌はそうしたものの中でも一本気なもので、形の上では余裕がありげに見えるが、気分の上ではせっば詰まったものがあって、不破の関を眼にしたために感傷を高められ、それが実感となって詠んでいる趣のあるものである。家持の人柄を思わせる歌である。
 
     十五年癸未秋八月十六日、内舎人大伴宿禰家持、久邇京《くにのみやこ》を讃《ほ》めて作れる歌一首
 
【題意】 「久邇京」は、巻三(四七五)に出た。京都府相楽郡加茂、木津、山城の諸町にわたり、木津川(泉川)が、東西に貫流する地域、すなわち瓶原《みかのはら》盆地である。皇居址は、小字立川の京城芝の地といわれる。奈良京よりここへ遷都になったのは続日本(286)紀、聖武紀に天平十二年十二月「丁卯、皇帝在v前、幸2恭仁宮1、姶作2京都1矣。太上天皇皇后在v後而至。」またつづいて「十三年春正月癸未朔、天皇始御2恭仁宮1受v朝」とある。諸所の行宮へ行幸になられた後、奈良には還幸されずにただちに久邇の宮へ幸せられたのである。これは広嗣に気脈を通ずる不平分子の奈良にあることを惧れて、それを避けようとされてのことかと思われる。しかし十六年には難波京に遷られ、その年のうちに再び久邇京に、さらに紫香楽《しがらき》京に遷られ、十七年には三たび久邇京に遷られて、その年のうちに遂に奈良京に遷られるというように、頻々と遷都のことが行なわれたのである。以下、新京を讃える歌と旧都の荒廃を悲しむ歌の続出するのは、一に政治上の不安定が背後にあってのことである。
 
1037 今《いま》造《つく》る 久邇《くに》の王都《みやこ》は 山河《やまかは》の 清《さや》けき見《み》れば うべ知《し》らすらし
    今造 久迩乃王都者 山河之 清見者 字倍所知良之
 
【語釈】 ○今造る久邇の王都は 「今造る」は、新たに御造営になる。今は新来《いまき》、新参《いままいり》など用例の多い語である。「久邇の王都」は、「王都」は、宮所で大宮を主としての語。大宮の造営は天平十二年十二月に着手したので、今は三年目であるが、まだ完成はせず、工事中だったのである。○山河の清けき見れば 山と河の清かなのを見れば。山は高きをいうのが普通であるが、河をいう清けさの中に籠めたもの。○うべ知らすらし 「知らす」は、天下を御支配になる意で、天皇としては当然なことなので、お住まわせになるというをこのように言ったもの。ここで知ろしめされるのは御もっともなことであろう。
【釈】 新たに造営している久邇の都は、山と河の清らかなのを見れば、ここで知ろしめされるのは御もっともなことであろう。
【評】 都を賀するにその四国の風景の美しさを讃えることによってするのは、定まった型となっていたことである。これもそれで、「山河の清けき見れば」といってしている。実際は、何事か事件の起こった時には山河に拠った不便な地のほうが便利だろうと慮ってのことで、家持はむろん承知していたことなのである。それをこのように言い做すところに賀の心があるとしたのであろう。儀礼だけのものではない調べをもった歌である。
 
     高丘河内連《たかをかのかふちのむらじ》の歌二首
 
【題意】 「高丘河内」は、祖先は百済の公族で帰化人である。初は楽浪《ささなみ》河内といったが、神瓶元年高丘連を賜わった。和銅五年、播磨の国大司として功績を賞せられ、養老五年退朝の後東宮に侍することを命ぜられ、天平三年、外従五位下、勝宝六年正五位下、後宿禰を賜わった。
 
(287)1038 故郷《ふるさと》は 遠《とほ》くもあらず 一重山《ひとへやま》 越《こ》ゆるがからに 念《おも》ひぞ吾《わ》がせし
    故郷者 遠毛不有 一重山 越我可良尓 念曾吾世思
 
【語釈】 ○故郷は遠くもあらず 「故郷」は久邇京に遷ったので、奈良をいっているのである。「遠くもあらず」は、新京は山城国の中でも最も大和国に近くいくばくの距離もない。○一重山越ゆるがからに 「一重山」は、八重山、五百重山などに対する語で、ただ一重の山。峠一つというにあたる。「越ゆるがからに」は、越えて行く地であるがゆえに。○念ひぞ吾がせし 「念ひ」は、嘆き。「ぞ」は係助詞で、嘆きを吾はしたことであった。これは、奈良に家族を残してあって、公務を終えての後に家族に逢いに行って帰った困難を思っての愚痴である。
【釈】 故里は遠い所ではない。山を一つ越して往復する所であるがゆえに、吾は嘆きをしたことであった。
【評】 廷臣は遷都とともに新京に移らなければならないが、身分の高くない者は住宅が間に合わず、家族は旧京にとどめて置くのが普通であつた。この人もそれで、公務の余暇に奈良山を越えて旧都の妻に逢いに行った、その道の苦労であった愚痴を漏らしたものである。親しい間で漏らし合う性質の事柄である。この次の歌とともに家持に示したものであろう。軽い、何というほどのことでもない心で、詠み方もそれにふさわしいものであるが、情理が備わっていて、小味ながらに味わいのある、上手な歌である。
 
1039 吾《わ》が背子《せこ》と 二人《ふたり》し居《を》れば 山《やま》高《たか》み 里《さと》には月《つき》は 照《て》らずともよし
    吾背子與 二人之居者 山高 里尓者月波 不曜十方余思
 
【語釈】 ○吾が背子と二人し居れば 「吾が背子」は、男の友を最も親しんで呼んだ称。「し」は強意の助詞。○山高み 山が高いので。久邇は山間の盆地であるが、月の出を遮るのは東方の和束《わづか》山などであろう。○里には月は照らずともよし 「里」は、廷臣が宮中に対して私宅の称ともしているが、ここは住んでいる村里であろう。「よし」は、ままよの意。
【釈】 親しい君と、二人で居れば、山が高いので、この里には月が出なかろうとも、構いはしない。
【評】 心合いの友と対座していて、おりから月の夜頃なので、その出るのも待ちながらも、東の山裾で出の遅いことを思い、そのもどかしさを言い紛らしたものである。日常生活に即したきわめて淡い心のもので、何びともほとんど歌材とはしまいと思われる物を捉えて対座の喜びをあらわすものとしているのである。上の歌と同じく、その手腕によって詠み生かして味わい(288)あるものとしているのである。目立たない歌ではあるが、老手と思わせるものである。
 
     安積親王《あさかのみこ》、左少弁藤原|八束《やつか》の朝臣の家に宴《うたげ》し給ひし日、内舎人《うどねり》大伴宿禰家持の作れる歌一首
 
【題意】 「安積の親王」は、巻三(四七五)の題詞に出た。聖武天皇の皇子で、天平十六年二月、十七歳をもって薨じた。これはその前年である。「藤原八束」は、上の(九七八)の左注に出た。この時は二十八歳であった。家持は二十六歳である。
 
1040 久堅《ひさかた》の 雨《あめ》はふりしけ 念《おも》ふ子《こ》が 屋戸《やど》に今夜《こよひ》は 明《あか》して去《ゆ》かむ
    久堅乃 雨者零敷 念子之 屋戸尓今夜者 明而將去
 
【語釈】 ○久堅の雨はふりしけ 「久堅の」は、天の枕詞で、ここは「雨」に転じたもの。「ふりしけ」は、しくは物の重なり続く意で、「しけ」は命令形。雨よふり続け。○念ふ子が 「念ふ」は慕う意、「子」は、広く人に対して用いる愛称で慕わしい人のである。ここは誰を指しているのかが間題となっている。『代匠記』は、主人の八束であるとし、『攷証』はそれに従って、男同士も子と呼んだと考証している。一方、『略解』は、相聞の古歌ではないかといい、『新考』は、接待に出た侍女を指していったのではないかと疑っている。主人の八束を指しているものと取れる。○屋戸に今夜は明かして去かむ 「屋戸」は、宿の意のもの。この宿に今夜は明かして帰ろう。
【釈】 雨よ降り続いてくれ。そしたら慕っている人の家に、今夜は明かして帰ろう。
【評】 八束が、安積親王を主客としてその家で宴をした時に、家持がそうした場合の常として、宴の楽しいことを主人に対して述べるのが礼となっているので、その心よりいったものである。しかし宴は改まってのものではなく、また主客とも年若い人であったから、改まった形の挨拶とするのをふさわしくないとし、砕けた、気の利いたものとし、それを興にもしようと思ったとみえる。おりからの雨を捉えて「ふりしけ」といい、それにかこつけて「明して去かむ」といっているのは、しゃれた礼の述べ方といえる。主人を「念ふ子」といっているのも、同じくしゃれた言い方をしようとしてのことと取れる。男性に対しても通じるが、女性のほうが一層適切だという呼び方は、そこにしゃれがあるとしたものと思われる。大体家持は気の利いた詠み方は出来ない人で、この歌もそれとしては決して巧みなものではないが、作意はそこにあったのであろう。
 
     十六年甲申春正月五日、諸卿大夫、安倍蟲麿朝臣の家に集ひて宴せる歌一首作者審らかならず
 
【題意】 「諸卿大夫」は、卿は官参議以上、位三位以上。大夫は四、五位に用いる敬称。「安倍蟲麿」は、巻四(六六五)に出た。(289)天平十三年外從五位下、播磨守となった人で、天平勝宝四年、中務大輔従四位下で卒した。
 
1041 吾《わ》が屋戸《やど》の 君《きみ》松《まつ》の樹《き》に ふる雪《ゆき》の 行《ゆ》きには去《ゆ》かじ 待《ま》ちにし待《ま》たむ
    吾屋戸乃 君松樹尓 零雪乃 行者不去 待西將待
 
【語釈】 ○吾が屋戸の君松の樹に 「屋戸」は、庭の意のもの。「君松の樹」は、君を待つ松の樹で、「松」を掛詞にしたもの。「君|松浦《まつら》山」「千代松の樹」「嬬《つま》松の樹」など例の多いもの。○ふる雪の 今降っている雪の意で、時は正月五日で、眼前の景を捉えたと思われるもの。初句よりこれまでは、「雪」を同音の「行き」に続けての序詞。○行きには去かじ 「行き」は名詞。行くということのほうはで、「去かじ」を強くいうために繰り返したもの。家から出てゆくことは決してしまい。○待ちにし待たむ 待ちに待とうで、家にあって待とうを強くいったもの。
【釈】 わが庭の君を待つというに因みある松の樹に今降っている雪の、その行きということは決してすまい、ひたすらに来られるのを待とう。
【評】 これは、その家で宴を催すことになって諸卿大夫の集うのを待っていた主人役の安倍蟲麿が、その日あいにくにも雪が降り出して来て、これでは来られるかどうかと危ぶまれた時の心を詠んだものと取れる。初句より三句までは、懸念の対象となった雪を、庭前の松の樹によって具象化し、それに「君」というほとんど成語となっているものを添えて、さらに自身の心持をも具象化した、心としては複雑なものであるが、それを形の上では「行き」の序詞にするという技巧を用いたものである。「行き」は、雪によって宴が危まれた所から、迎えに行こうかと思った意のものであるが、それを「去かじ」を強めるための料とし、さらに「待ちにし待たむ」と、反対なことを強めていうことによって、必ず来られようと思い定めたのである。これは客の諸卿大夫が、雪を愛でて、かえって喜んで来られようと思う心を背後に置いての心と取れる。したがって、「雪」と「行き」のかかりも空疎ではない。また四、五句は、巻二 (八五)磐姫皇后の「君が行け長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ」を連想させるもので、この形はやや久しきにわたって行なわれていた謡い物の形で、これまた技巧のあるものである。一首独立した歌として見ると、言うにたりない作であるが、時宜に適した歌としようとし、複雑した条件の下に詠んだ、いわゆる実用性の歌として見ると、技巧に長けた歌というべきである。その日の会衆を喜ばせ得たものであろう。歌詞の下の細字をもって記してある「作者審らかならず」という注は、主人蟲麿の作ということを認め難かったためのものと思われる。
 
     同じ月十一日、活道岡《いくぢのをか》に登り、一株の松の下に集ひて飲《うたげ》せる歌二首
 
(290)【題意】 「活道岡」は、巻三(四七八)に、「活道山木立の繁《しげ》に」と出た。久邇京の東、西和束町字白栖東方にある、丘陵付近といわれる。また、恭仁大橋上方の王廟山とする説もある。大樹の下で酒宴をするのは古くより行なわれた風である。正月十二日という厳寒の季節であることが注意される。
 
1042 一《ひと》つ松《まつ》 幾代《いくよ》か歴《へ》ぬる 吹《ふ》く風《かぜ》の 声《おと》の清《きよ》きは 年《とし》深《ふか》みかも
    一松 幾代可歴流 吹風乃 聲之清者 年深香聞
 
【語釈】○一つ松幾代か歴ぬる 「一つ松」は一|本《ぽん》松の意で、古くから用例のある語。「幾代か」は、どれほどの代で、いかに多くの代を。○吹く風の声の清きは 松を吹く風の音の澄んでいるのはで、松風の音が澄んで聞こえるのは。「清き」は、旧訓「すめる」であったのを、『新考』が改めたもので、新村出氏は『総釈』で、集中「清」はすべて「きよし」で、「すむ」と訓んでいるのはこの一か所のみだと注意している。「すむ」という例はなかったのである。○年深みかも 「年深み」は年が績もったゆえ。「か」は疑問。【釈】 この一本松はどれほどの代を経たのであろうか。松風の音の澄んでいるのは、年の積もったゆえなのであろうか。
【評】 その下に集まって宴をしながら、頭上の老松を讃えて詠んだ歌で、情景が明らかである。まず松の老いた愛でたさを讃え、ついで松風の澄んでいる愛でたさを讃えているのであるが、それがおおらかな、ゆとりのある調べによって生かされて、感動の細かいものまでも讃え織り込んだ趣のある歌となっている。鳥の声、水の音などを詠んで生趣あるものとして来るのはこの時代の特色の一つであるが、この歌は松風の音を微妙に生かしている感がある。魅力の多い作である。正月の宴歌であるから、賀の心も籠めてのものであろう。
 
     右の一首は、市原王の作。
      右一首、市原王作。
 
【解】 市原王は、巻三(四一二)及び(九八八)に既出。
 
1043 たまきはる 寿《いのち》は知《し》らず 松《まつ》が枝《え》を 結《むす》ぶ情《こころ》は 長《なが》くとぞ念《おも》ふ
    靈剋 壽者不知 松之枝 結情者 長等曾念
 
(291)【語釈】 ○たまきはる寿は知らず 「たまきはる」は、巻一(四)「たまきはる内大野」以下にしばしば出た。「命」「うち」の枕詞。「寿は知らず」は、わが寿命のほどは知れないで、生命というものを意識しての心。○松が枝を結ぶ情は 松の枝を結ぶことは巻二(一四一)に出た。また、草を結ぶことは巻一(一〇)を初め少なからずある。いずれも魂を結び合せることによって、命を固め、離れまいとし、再会を期しうるという上代信仰よりのこと。○長くとぞ念ふ 命長かれと思ってのことである。
【釈】 わが寿命のほどは知られない。今松の枝を結ぶ心は、命長かれと思ってのことである。
【評】 われとわが寿を祈る心で、一つの松の枝を結んで詠んだ歌である。正月の宴席でのことであるから、心理の自然はあることといえる。上代の信仰に従ってのことであるから、その信仰を力強くあらわすための説明ならば、格別、弁明めいたことをいうのはいかがである。その信仰を疑うかのように聞こえるからである。「たまきはる寿は知らず」は、そうした感を起こさせずにはやまないものである。そこにこの時代の気分と、家持の人柄とが窺える。市原王には遠く及ばない作である。
 
     右の一首は、大伴宿禰家持の作。
      右一首、大伴宿祢家持作。
 
     寧楽の京《みやこ》の荒れたる墟《あと》を傷み惜みて作れる歌三首 作者審らかならず
 
【題意】 奈良京は天平十二年に遷都されて以後、ただ荒れゆくばかりであったと見える。大宮人はすべて新京に移った後に、たまたま残って住んでいる人があって、懐旧の念に堪えずに詠んだものである。作者の明らかでないのは、その作を伝え聞くほどの人が皆同感し、伝え伝えて行く中にその名を失ったためか、あるいはまたあらわすを憚ったためであろう。
 
1044 くれなゐに 深《ふか》く染《し》みにし 情《こころ》かも 寧楽《なら》の京師《みやこ》に 年《とし》の歴《へ》ぬべき
    紅尓 深染西 情可母 寧樂乃京師尓 年之歴去倍吉
 
【語釈】 ○くれなゐに 「くれなゐ」は、紅花《べにばな》で、菊科の二年生草木。その花冠から採った紅色の染料で、当時一般に用いられていた物。くれないの色に。○深く染みにし情かも くれないは濃くあざやかに、また持久的に染み着くので、そのように染み着いたわが心であろうかと、わが心の状態を譬喩をもっていったもの。「かも」は疑問の係助詞。○寧楽の京師に年の歴ぬべき 奈良京を離れられずして、ここでいつまでも過ごしてゆきそうなことよで、「べき」は係の結。
(292)【釈】 くれないの色に深くも染み着いているわが心なのであろうか。我は奈良京が離れられず、ここでいつまでも過ごしてゆきそうであることよ。
【評】 故京の奈良にとどまっている人の作だということを明らかに示している歌である。「くれなゐに深く染みにし」という譬喩は、いかにも巧妙なものである。今は荒墟となっている奈良の古都に、古の華やかさなつかしさを捉えて、その何とも忘れ難い意を、綜合的に捉えて、さらに感性的に具象した譬喩で、思い付きの器用さなどとは性質を異にしたものである。しかし安易に余裕をもっていっているもので、豊かなる資質から流れ出したものという趣をも持っている。またそれと「寧楽の京師に年の歴ぬべき」との、一見距離のあるごとくにみえて緊密に溶け合っているところも、綜合力のいかに巧みに働いているかを示している。「くれなゐ」の染料を用いているところは、古都にとどまりがちであった女性を連想させて、作者は女性ではなかったかと思わせるが、それだとこの綜合感立体感は女性には珍しいまでなのである。
 
1045 世間《よのなか》を 常《つね》なきものと 今《いま》ぞ知《し》る 平城《なら》の京師《みやこ》の 移《うつ》ろふ見れば
    世間乎 常無物跡 今曾知 平城京師之 移徙見者
 
【語釈】 ○世間を常なきものと 世間を恒久性のなく、絶えず変化し流転するものとしての意で、仏説。○今ぞ知る 今こそ知ったことだの意で、体験として悟った意。○平城の京師の移ろふ見れば 「移ろふ」は、移る、すなわち推移するで、盛んであったものの衰えてゆくのを見ると。
【釈】 世間は無常なものであるということを、今こそ知ることであるよ。奈良京が衰えてゆくのを見ると。
【評】 奈良京の繁栄は、前古に比類のないもので、当時の人の最大の誇りであったので、その都が古都となって衰えてゆくのを眼に見ることは、正反対に言い難い驚きであり悲しみであったことがたやすく察しられる。この大きな対象と大きい感を言うのに、単に知識としてもっていた仏設の無常観が、眼に見る事実となって現われたといってあらわしているのは適切で、綜合力と感性とのある作である。
 
1046 石綱《いはづな》の また変若《を》ちかへり あをによし 奈良《なら》の都《みやこ》を またも見《み》むかも
    石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又將見鴨
 
【語釈】○石綱のまた変若ちかへり 「石綱」は、石に這う蔦で、「綱」は「蔦」の古語であり、日本書紀、顕宗紀「室寿の詞」にも、また祝詞に(293)も、「蔦」に「綱」の字を用いている。蔦類は這い伸びてまた元へ返る物であるところから、意味で変若《を》ちへかかる枕詞。「変若ち」は、若返る意で、五巻(八四七)(八四八)に出た。○あをによし奈良の都を しばしば出た。○またも見むかも 「か」は、疑問助詞。
【釈】 石綱のように我はまた若返って、盛んな奈良の都をまたも見られようか。
【評】 荒墟となっている奈良の都を眼にし続けている人の、再びこれが以前の都のようになることはあるまいと、嘆きをもって諦めている心である。我も「また」若がえることは出来ず、あおによし奈良の都は「またも」見られようかと、「また」によって出来難いことを並列し、さらに「あをによし」によって古の栄えた奈良を暗示するなど、心細かい技巧を用いている歌である。切実を求めての用意が、かえってこの感を反対なものにしている趣がある。
 
     寧楽の故郷を悲みて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 故郷はいわゆる故里で、廷臣として都を中心としていえば故京であって、ここはそれである。
 
1047 八隅《やすみ》知《し》し 吾《わ》が大王《おほきみ》の 高敷《たかしか》かす 日本《やまと》の国《くに》は 皇祖《すめろぎ》の 神《かみ》の御代《みよ》より 敷《し》きませる 国《くに》にしあれば 生《あ》れまさむ 御子《みこ》の嗣《つ》ぎ継《つ》ぎ 天《あめ》の下《した》 知《し》らしいませと 八百万《やほよろづ》 千年《ちとせ》を兼《か》ねて 定《さだ》めけむ 平城《なら》の京師《みやこ》は 炎《かぎろひ》の 春《はる》にしなれば 春日山《かすがやま》 三笠《みかさ》の野辺《のべ》に 桜花《さくらばな》 木《こ》の晩《くれ》がくり 貌鳥《かほどり》は 間《ま》なく数鳴《しばな》く 露霜《つゆしも》の 秋《あき》さり来《く》れば 射駒山《いこまやま》 飛《と》ぶ火《ひ》が※[山+鬼]《たけ》に 萩《はぎ》の枝《え》を しがらみ散《ち》らし さを鹿《しか》は 妻《つま》呼《よ》び動《とよ》む 山《やま》見《み》れば 山《やま》も見《み》がほし 里《さと》見《み》れば 里《さと》も住《す》みよし 物《もの》のふの 八十伴《やそとも》の緒《を》の 打《うち》はへて 思《おも》へりしくは 天地《あめつち》の 依《よ》りあひの限《かぎり》 万世《よろづよ》に 栄《さか》えゆかむと 思《おも》へりし 大宮《おほみや》すらを 恃《たの》めりし ならの京《みやこ》を 新世《あらたよ》の 事《こと》にしあれば 皇《おほきみ》の 引《ひき》のまにまに 春花《はるはな》の うつろひ易《かは》り 群鳥《むらとり》の 旦立《あさだ》ち往《ゆ》けば さす竹《たけ》の 大宮人《おほみやびと》の 踏《ふ》み平《なら》し 通《かよ》ひし道《みち》は 馬《うま》も行《ゆ》かず 人《ひと》も往《ゆ》かねば 荒《あ》れにけるかも
(294)    八隅知之 吾大王乃 高敷爲 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼將座 御子之嗣繼 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 桜花 木晩※[穴/牛] ※[白/ハ]鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去來者 射駒山 飛火賀※[山+鬼]丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狹男牡鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見※[白/ハ]石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思煎敷者 天地乃 依合限 萬世丹 榮將徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃眞尓眞荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞
 
【語釈】〇八隅知し吾が大王の 既出。○高敷かす日本の国は 「高」は高大にの意の形容詞。「敷かす」は、敷くの敬語で、御支配になる。「日本」は、大和に当てた字。○皇祖の神の御代より 皇祖の神の御代以来であるが、事としては、神武天皇以来。○敷きませる国にしあれば ここにあって御支配なされる国なので。「し」は強意の助詞。○生れまさむ御子の嗣ぎ継ぎ 御誕生になられるだろう御子が相継いで。「生《あ》れ」は生まれる子のほうを主に立てての語。○天の下知らしいませと 「天の下」は、国家を具象的にいったもの。「知らしいませ」は、知るの敬語に、いるの敬語「いませ」を接続させて鄭重にいったもの。「いませ」は命令形で、御支配になられよと仰せになって。〇八百万千年を兼ねて 八百万千年の将来へも及ぼして。この数は永遠ということを具象的にいったもの。○定めけむ平城の京師は ここにしも定められたであろうところの奈良の都は。「定めけむ」は、推量。敬意よりのもの。○炎の春にしなれば 「炎の」は春の枕詞。春の季節と移って来ればで、「し」は強意の助詞。以上奈良の風光の美を、春秋に別け、それぞれ山野にからませていっている。○春日山三笠の野辺に 奈良京の第一の遊覧地。○桜花木の晩がくり 「木の晩」は、木が茂って小暗くなっている所で、「がくり」はそこに隠れて。桜花が満開して茂っている中に隠れての意。「隠る」は古くは四段活、既出。巻三(二五七)「桜花|木《こ》の晩《くれ》茂《しげ》に」と出た。○貌鳥は間なく数鳴く 「貌鳥」は巻三(三七二)に既出。『考』は後の呼子鳥で、今の郭公鳥だという。春の鳥で、鳴き続ける習性をもった鳥の意である。「間なく数鳴く」は、間断なく頻りに鳴く。○露霜の秋さり来れば 「露霜」は、露の霜のごとく凍った意とも、露と霜との意ともいい、定まらない。意味で秋にかかる枕詞。「秋さり来れば」は、秋と移って来れば。○射駒山飛ぷ火が(山+鬼)に「射駒山」は「生駒山」で、大和国と河内国の国境の山。奈良京からは、春日山は東、生駒山は西である。「飛ぶ火」は、烽火で、異変のある際、警報として挙げたものである。この飛ぶ火の事は、続日本紀、元明紀に、「和銅五年春正月壬辰、廃2河内国高安烽1、始置2高見烽及大倭国春日烽1、以通2平城1也」とあって、その高見の烽は晴峠の北方で、すなわち生駒の烽である。○萩の枝をしがらみ散らし 「しがらみ」は、搦みで、さお鹿が萩の茂っている間を押分けて歩く状態を具象的にいったもの。「散らし」は、枝に咲く花を散らし。○さを鹿は妻呼び動む 「さを鹿」は、「さ」は接頭語で、牡鹿が妻を呼んで啼きとよもす。○山見れば山も見がほし 「山」は上の春日山、射駒山も籠めた意味の広いもので、大和国を繞らす山。「見がほし」は、見ることの望ましい、その好さを讃えたもの。○里見れば里も住みよし 「里」は奈良の大宮(295)を中心として京の中をいっているもので、「住みよし」は、住み心地が好いと、里を讃えたもの。以上、第一段。○物のふの八十伴の緒の 巻三(四七八)に既出。文武百官を具体的にいった称。○打はへて思へりしくは 「打はへて」は、「打」は接頭語、「はへて」は、延《は》えてで、心いっぱいというにあたる。心に思いつめていることに「下延へ」という語があり、「はへ」は同じである。「思へりしく」は、「思へりし」の名詞形で.以前に思っていたことには。○天地の依りあひの限 巻二(一六七)に既出。天と地とがより合って、初めの一つに復る最後までで、永遠ということを想像によって具象的にいった語。○万世に栄えゆかむと 永遠に栄えてゆくだろうと。○思へりし大宮すらを 「すら」は一を挙げて他を類推させる助詞。「を」は詠歎の助詞で、思って来た大宮でさえあるのに。○恃めりしならの京を 頼みして来た奈良京であるのに。○新世の事にしあれば 「新世」は、新しき時代の意で、面目の新たになる時代のことなので。「し」は強意の助詞。○皇の引のまにまに 天皇の導き給うままにで、遷都のこと。○春花のうつろひ易り 「春花の」は、春花のごとくで、その移ろい易い意で移ろいの枕詞。「うつろひ易り」は、移り変わりで、移ろいの意味を変えて受けている。○群鳥の旦立ち往けば 「群島の」は、群鳥のごとくで、鳥は朝々一しょに塒を立つ意で、旦立ちへかかる枕詞。「旦立ち往けば」は朝、奈良を発足して新京へ向かって行ったので。○さす竹の大宮人の 上の(九五五)に出た。○踏み平し通ひし道は 「踏み平し」は、踏んで、歩くことによって平らにする意で、繁くという意を具象化したもの。「通ひし道」は大宮へ通った道。○馬も行かす人も往かねば 「馬」は大宮人の乗馬。○荒れにけるかも 「に」は完了。荒れたことであるよ。
【釈】 安らかに御支配になられるわが大君の、高大に御支配になられる大和国は、皇祖の神の御代から、ここで御支配になっている国なので、御生誕になられるであろう御子の代々も、同じくここで天下を御支配になられよと、永遠の後をも兼ねて定められたであろうこの平城京は、春の季節がめぐつて来れば、春日山の三笠の野には、桜花が満開して小暗い茂った中に籠もって、貌鳥は絶え間なく頻りに鳴く。秋の季節がめぐつて来ると、生駒山の飛ぶ火が岳には、萩の枝を押分けると身に絡ませて花を散らして、牡鹿は妻を呼ぶ声を響かせる。山を見れば、山は景色が好さに見たい。里を見れば、里も住み好い。大宮の文武百官が、心一ばいに思っていたことには、天地のあらん限り、永遠に栄えて行くだろうと思っていた大宮でさえあるのに、頼んで来たところの奈良京であるのに、新時代の事であるので、天皇の導くに従ってこの京から移って、朝早く新しい京へ向かって行ったので、これまで大宮人の踏み平《な》らして通った大宮への路は、乗馬も行かず、人も行かないので、荒れてしまったことであるよ。
【評】 福麿はこの時期を代表する歌人の一人で、ことに長歌のほうにその手腕を示している人である。この歌はその題材から見ても、またその用意から見ても、彼の力作と見られるもので、したがってその歌風の特色の窺われるものである。一と口にいうと、福麿の長歌は散文的の傾向が著しい。これはひとり彼だけのことではなく、歌によって散文的要求を充たそうとすることは、すでに旅人や憶良などの試みて来たことであって、序を設けての上で、短歌の連作によっての問答をさせ、さらに長歌によっての問答をさせるなども、意識してのことかどうかは知らず、一にその要求に駆られてのことと思われる。福麿は同じ系統の上に立ち、問答体という伝統的の手法を避け、自身の直接の抒情という形において、散文的要求を充たそうとしている(296)のである。こうした態度を取れば、心としては抒情であるが、方法としては叙事となってゆき、対象と自身との間に相応の距離を置き、感性のみならず知性をも相応にまじえ働かせるようになるのは当然であって、それでなければその心が遂げられないのである。この歌はすなわちそれであって、その一首の構成の上に、また部分部分の描写の上に、知性を働かせている跡は歴然たるものであるが、その結果において、どれほどまで抒情味を徹底させ得ているかということになると、その点は明らかに問題になるのである。抒情味の徹底が最後の問題であることは言うまでもないことである。
 今簡単に構成の上の用意を見ると、前古無比の奈良京が忽ちにして荒廃に帰したということは、当時の人としてはじつに駭目傷心のことであるだろうと察しられる。それをいうに、奈良京の繁栄と荒廃とを対照させる形にし、前段の繁栄を叙するに力を傾けて、こちらに多くの言葉を用い、後段の荒廃のほうは、大宮へ通う大路が荒れて、そこに隻影も見えない寂寞さを眼に見たこととしているのは、要を得たものである。さらに前段について見ても、第一に京としての奈良の地が歴史的にいかに貴い地であるかを、元明天皇の奈良の遷都の勅によっていい、ついでその地がいかに自然の景観にすぐれているかを極力叙しているのである。これは古来型となっていることに倣ったにすぎないとはいえ、春日野の春の貌鳥の啼く音と、飛ぶ火が岳の秋の牡鹿の鳴く声を、その景観の頂点に置いているということは、物の音に時代の好尚が傾いていた時ではあるが、それを捉えて進展させている福麿の感覚の添ったものと思われる。最後に奈良京そのものをいうにも、大宮を避けて、宮人の住宅の心地よいことをいっているのも、要を得ているものといえる。後段一転して奈良京の荒廃を叙して、傷心の中心に入っているのである。ここで初めて大宮に触れ、「物のふの八十伴の緒の」以下、言葉の限りを尽くして大宮を讃えて、その「大宮すらを」と続けているところはじつに巧妙であるが、「新世の事にしあれば春花のうつろひ易り」と事の全体を解釈した言葉に接しると、高潮させられて来た感がにわかに(足+質)かせられたような感になる。「新世」とはこの当時の政治上の不安を避けるための遷都ということで、事実としてはまさにその通りで、またこれは人々の周知のことであったろう。これは事件の真を伝えることを目的としての文であれば、言わざるを得ないことであるが、今はそれとは直接のつながりはなく、それによって起こされた遷都の悲しみを言おうとするものであり、その悲しみを強調するための方便として叙事をすればするという場合である。この言葉は叙事を超えて論議の圏内にも入り込みかねない態度のものである。何のこだわりもなく淡々として説明しているこの言葉は、言葉としては美しいが、前後に不釣合な冷静なもので、しかもそれが眼目をなすごとき重大なものであるために、索然とした感を起こさせる。結尾の、大宮大路の荒れたさまを、眼をとおして直接に見た印象として叙しているのは、要を得た巧みなものというべきである。
 いったがように一首の構成も、部分部分の叙事も、その一部を除いての他はすべて巧妙であるが、「新世の事にしあれば」の一部に見せているあまりにも知性的な態度が、やがてこの歌全体の感味を暗示するものとなり、これがまた福麿の弱所をも語るものとなるのである。すなわち一方には抒情味が豊かであ(297)るが、同特に他方には知性的な面があり、それが強く働くために、対象と自身との間に距離が付きすぎ、結局、抒情的に綴った散文のごとき趣を帯びて来るのである。構成の整然として一糸乱れないごときところもその知性のためであり、また一首全体が平面的となり、語句の変化は豊かだが、感情の躍動の跡の見えないのも同じく知性のためであるといえる。要するに福麿の拓き得た散文化の面は、散文化にすぎるものとなり、散文の一歩手前のごとき弱点を持ったものとなったのである。
 
     反歌二首
 
1048 立《た》ち易《かは》り 古《ふる》き京《みやこ》と なりぬれば 道《みち》のしば草《くさ》 長《なが》く生《お》ひにけり
    立易 古京跡 成者 道之志婆草 長生尓異煎
 
【語釈】 ○立ち易り 「立ち」は接頭語。「易り」は、変わりで、京が変わる意。○古き京となりぬれば 「古き京」は以前の京で、奈良が古き京。「なり」は、変わる意。○道のしば草長く生ひにけり 「しば」は雑草の総称で、今いう芝もその中に含んだもの。【釈】京が変わって、奈良は以前の京となってしまったので、道に生える雑草が、踏む人もないがままに、長く生えたことであるよ。
【評】 長歌の結末の、「踏み平し通ひし道は、馬も行かず人も往かねば、荒れにけるかも」を受けて、繰り返しの形で前進させ細かくいったもので、反歌としては古い型のものである。大宮へ通う大路に「しば草長く生ひ」ということは異常なことで、「古き京となりぬれば」という大きな事柄を十分支えうるものである。栄えた跡に草が生えるということは感の深いことで、したがって類想のあるものであるが、この歌はその種の中にあっても優れたものである。長歌とは異なって、悲哀に浸っていて、それをただちに訴えた形のものである。
 
1049 なつきにし 奈良《なら》の京《みやこ》の 荒《あ》れ行《ゆ》けば 出《い》で立《た》つ毎《ごと》に 嘆《なげ》しまさる
    名付西 奈良乃京之 荒行者 出立毎尓 嘆思益
 
【語釈】 ○なつきにし奈良の京の 「なつき」は、馴れ着きで、現在も口語に用いられている。○荒れ行けば 荒廃に向かって行くので。○出で立つ毎に嘆しまさる 「出で立つ」は、家を出て外に立つごとに。「嘆し」の「し」は、強意の助詞。「まさる」は、増して行くで、荒廃の目に立(298)って深くなることを暗示している語。
【釈】 馴染んできた奈良京が荒廃に向かって行くので、家を出て外に立ち、そのさまを目に見るたびごとに嘆きが加わってゆくことであるよ。
【評】 これは、前の歌の「道」を離れて、広い範囲にわたって、同じく荒廃を悲しんだ心である。「出で立つ毎に」と、直接目に見る印象としていっているので、「荒れ行けば」も「嘆しまさる」も生動している。前の歌と同じく、悲哀に浸りつつ詠み出したもので、感性の細かさと手腕とを示しているものである。
 
     久邇の新京を讃《ほ》むる歌二首并に短歌
 
【題意】 「久邇宮」は、上の(一〇三七)に出た。大宮の造営は天平十二年十二月に始まり、同十六年二月には難波宮に遷られたのであった。この地は現在の京都府相楽郡木津町の東北一里の地で、大宮は今の木津川(泉川)の北岸に臨み、東には布当川《ふたぎがわ》(和束《わづか》川)が流れている。鹿背《しかせ》山は南の方を劃っていて、その向こうにやや遠く奈良山を望む地勢である。続日本紀、天平十三年九月に、「従2賀世山西道1以東為2左京1、以西為2右京1」とあって、京と鹿背山との関係が知られる。
 
1050 明《あき》つ神《かみ》 吾《わ》が皇《おほきみ》の 天《あめ》の下《した》 八島《やしま》の中《なか》に 国《くに》はしも 多《おほ》くあれども 里《さと》はしも 沢《さは》にあれども 山並《やまなみ》の 宜《よろ》しき国《くに》と 川次《かはなみ》の 立《た》ち合《あ》ふ郷《さと》と 山代《やましろ》の 鹿背山《かせやま》の際《ま》に 宮柱《みやばしら》 太敷《ふとし》き奉《まつ》り 高知《たかし》らす 布当《ふたぎ》の宮《みや》は 河《かは》近《ちか》み 湍《せ》の音《と》ぞ清《きよ》き 山《やま》近《ちか》み 鳥《とり》が音《ね》慟《とよ》む 秋《あき》されば 山《やま》もとどろに さを鹿《しか》は 妻《つま》喚《よ》びとよめ 春《はる》されば 岡辺《をかべ》も繁《しじ》に 厳《いはほ》には 花《はな》さきををり あな怜怜《おもしろ》 布当《ふたぎ》の原《はら》 いと貴《たふと》 大宮《おほ》どころ 諾《うべ》しこそ 吾《わ》が大王《おほきみ》は 君《きみ》ながら 聞《き》かしたまひて 刺竹《さすたけ》の 大宮《おほみや》ここと 定《さだ》めけらしも
    明津神 吾皇之 天下 八嶋之中尓 國者霜 多雖有 里者霜 澤尓雖有 山並之 宜國跡 川次之 立合郷跡 山代乃 鹿脊山際尓 宮柱 太敷奉 高知爲 布當乃宮者 河近見 湍音叙清 山近見 (299)鳥賀鳴慟 秋去者 山裳動響尓 左男鹿者 妻呼令響 春去者 岡邊裳繁尓 巖者 花開乎呼理 痛※[立心偏+可]怜 布當乃原 甚貴 大宮處 諾己曾 吾大王者 君之隨 所聞賜而 刺竹乃 大宮此跡 定異等霜
 
【語釈】 ○明つ神吾が皇の 「明つ」は、現つで、現実にます神の意。これは神は幽世《かくりよ》にましますのに対しての語で、天皇を申す称であり、日本書紀、孝徳紀を初め、出雲国造神賀詞、公式令詔書式などに出ていて、古くよりの称である。下の「吾が皇」と同意語である。○天の下八島の中に 「天の下」は国土の全体を具象的にいったもの。「八島」は、わが国を大八洲というその八島で、「天の下」と同意語である。なお「八」は、多くのという意を具象的にいった語である。○国はしも多くあれども 「国」は、狭い意の国。「し」と「も」は強意の助詞。○里はしも沢にあれども 「里」は、郷にあたるもの。「しも」は、上と同じ。○山並の宜しき国と 「山並」は、山の並び立っていること。「宜しき」は、状態の好いの意で、形勝の意。「と」は、とて。○川次の立ち合ふ郷と 「川次」は、川のさまで、流れというに異ならない。山並に対させての語。「立ち合ふ郷」は、「立ち」は接頭語、「合ふ」は合流する意。「郷」は里。「と」は、とて。久邇の里は、泉川、沢田川、和束《わづか》川などの合流地点の近くにある。これも上の「山」に対する「川」を、形勝としていっているものである。○山代の鹿背山の際に 「山代」は山城国。「鹿背山の際」は、鹿背山の間《あいだ》。木津町の東北方、木津川の南岸の山。○官柱大敷き奉り 「宮柱」は大宮の柱。「太敷き」は太く建てで、「奉り」は、天皇のなさることに対しての敬語。○高知らす布当の宮は 「高知らす」は既出。しろしめす。「布当の宮」は、地名によっての宮号。○河近み湍の音ぞ清き 河が近いので瀬の晋が清く聞こえることよ。河は泉川。○山近み鳥がさ慟む 山は鹿背山。「慟」は動と同じ。○秋されば山もとどろにさを鹿は妻喚びとよめ 既出。○暮されば岡辺も繁に 「繁に」は、繁く一面にの意の古語で、副詞。○巌には花さきををり 厳には花が咲いて撓んでおりで、これは躑躅の花の状態と思われる。○あな※[立心偏+可]怜布当の原 「※[立心偏+可]怜」は訓が定まらず、諸説がある。集中の例では、「おもしろ」と「あはれ」とに当ててある。新村出氏は『総釈』で、「※[立心偏+可]怜《あはれ》」と訓むのはしめやかに哀感を含んだ場合で、「※[立心偏+可]怜《おもしろ》」と訓むのは晴々しく、風趣のある場合である。ここは「※[立心偏+可]怜《おもしろ》」と訓むべきだろうといっている。「布当の原」は、久邇の宮のある周囲の野。下に詠歎の意がある。○いと貴大宮どころ 「いと貴」は、甚だ貴しであるが、この「貴」は、風景を讃めていっているもの。「大宮どころ」は、大宮のある所で、上の布当の宮を言いかえたもの。いずれも下に詠歎の意がある。○諾しこそ吾が大王は 「諾」はなるほどにあたる語でしばしば出た。「し」は、強意の助詞。○君ながら開かしたまひて 「君ながら」は、他に用例のない語である。「君」は上の「大王」を承けて繰り返したもの。「ながら」、皇子随、神随などと同じ形のもので、「之」は「な」に当てたものと解される。「から」はゆえで、君であるゆえに。「聞かしたまひて」は聞くの敬語聞かすに、敬語の助動詞を接続させたもの。廷臣の奏上するのをお聞き入れになられて。○刺竹の大宮ここと定めけらしも 「刺竹の」は既出。「定めけらしも」は、「らし」は「こそ」の結であるが、終止形である。集中の例は、「こそ」の係を連体形「らしき」で結んでいるのが多く、それがこの時代の格であるのに、ここは終止形であることが注意される。
【釈】 現つ神にましますわが大君の、天下の島々の中には、国という国は多くあるけれども、里という里は多くあるけれども、(300)山の並んださまの勝れた国であるとして、川の流れの落ち合う好い里であるとして、この山城国の鹿背山の間に、宮柱を太くお据えになって知ろしめす布当の宮は、河が近いので瀬の音が清いことである、山が近いので鳥の音が高いことである。秋が来ると、山も轟くまでに牡鹿が妻恋いの声を響かせ、春が来ると、岡の辺りに繁く一面に、厳には花が咲き撓んで、あわれおもしろい布当の原よ。まことに風景の貴い大宮処よ。なるほどわが大君は、君であるがゆえに廷臣のここをと奏上するのをお聞き入れなされて、大宮をここと定められたのであろうよ。
【評】「久邇の新京を讃むる歌」と題してあって、題のごとく布当の宮を中心としてその周囲の山川の景観を讃えたものである。景観とはいっても、川では瀬の音、山では鳥の声という、この時代の好尚である聴覚をとおしてのものであり、さらに山に重点を置いてその春秋の形勝をいっているのであるが、秋の「山もとどろにさを鹿は妻喚びとよめ」は明らかに誇張であって、これまた聴覚のものである。直接視覚をとおしていっているかと思われるものは、春の「岡辺も繁に厳には花さきををり」だけであるが、これも多分は躑躅の花だったろうと想像させる程度の気分化した言い方である。そしてそれが「あな※[立心偏+可]怜」「いと貴」とまでいわせるおもなる刺激となったのかともみえる言い方である。要するに、この歌の中心をなしている景観の讃美は、福麿個人の気分をとおしてのものであって、それがやがて、「諾しこそ吾が大君は君ながら聞かしたまひて」というように、時代全般の気分でもあり、また天皇の御気分でもあるとしているのである。この歌の本来の作因は賀の心よりのものであり、遷都を機として天皇を賀そうとしたものである。この歌の起首と結末はそのことを明らかに見せている。しかるに出来上がった歌から見ると、さながら天皇が久邇の地に遊覧でもされた折のもののように見え、賀の心はほとんど現われていない。人麿の賀の歌とははるかに遠く、赤人、金村の行幸の際の賀の歌の、景観讃美の傾向の加わったものにくらべても、さらにその度の高まったものである。賀という実用性の精神が隠れて、文芸性(301)のみが高まって来た跡を明瞭に示している歌で、その点が注意される。
 
     反歌二首
 
1051 三日《みか》の原《はら》 布当《ふたぎ》の野辺《のべ》を 清《きよ》みこそ 大宮処《おほみやどころ》【一に云ふ、此《ここ》と標《しめ》刺《さ》し】 定《さだ》めけらしも
    三日原 布當乃野邊 清見社 大宮處【一云此跡標刺】 定異等霜
 
【語釈】 〇三日の原布当の野辺を 「三日の原」は、広範囲の称。「布当の野辺」は、三日の原の一部で大宮のある辺りの称。今の加茂町、法花寺野を中心とする地名といわれる。○清みこそ 清いがゆえにで、長歌の「※[立心偏+可]怜」「貴」を綜合しての語。清しは上代以来最も貴んだものである。「こそ」は係助詞。○大宮処定めけらしも 長歌の結末と同じ。〇一に云ふ、此と標刺し この一句は細井本、寛永本にはないが、元暦本外七本には四句の下にある。「標」は占有のしるしとしての物、「刺し」は木などを立てる意で、意味としては定めると異ならない。
【釈】 三日の原の、この布当の野辺が清らかであるがゆえに、大宮処をここと定めたのであろう。
【評】 長歌の意を要約して繰り返したもので、反歌としては古い型のものである。四句の「ここと標刺し」のほうは、長歌の結句といささか形を変えようと試みて、捨てたのが残っていたものではなかろうかと思われる。全体と不調和になるものである。
 
1052 山《やま》高《たか》く 川《かは》の湍《せ》清《きよ》し 百世《ももよ》まで 神《かみ》しみ往《ゆ》かむ 大宮所《おほみやどころ》
    山高來 川乃湍清石 百世左右 神之味將往 大宮所
 
(302)【語釈】 ○山高く川の湍清し 「山」は、諸本原文「弓」となっており、異同がなく、訓は「やま」となっているものである。『考』が「山」の誤りだとして改めているに従う。長歌との関係で鹿背山であり、「川」は、同じく布当川である。○百世まで神しみ往かむ 「百世」は、百代の後までも続いて。「神しみ」は、他に用例のない語である。『代匠記』は神さぶと同意の語だとしている。その意以外の語ではなかろう。神々しくなってゆくだろうところの意で下へ続く。○大宮所 大宮の所在地の意で、詠歎を含んでいる。
【釈】 山が高く川の瀬の音が清い。百代に続いて神々しくなってゆくことだろう大宮所よ。
【評】 以上の長歌も反歌も大宮の風景を讃えるのみで、賀の心はなかったが、この歌は、その山と川とを堅固な、また清らかなものとし、めでたい地相と見做し、「百世まで神しみ往かむ大宮所」と、明らかに賀の心のものとしている。調べもそれにふさわしい澄んだ所がある。さすがに賀の心から離れきってはいなかったのである。
 
1053 吾《わ》が皇《おほきみ》 神《かみ》の命《みこと》の 高知《たかし》らす 布当《ふたぎ》の宮《みや》は 百樹成《ももきな》す 山《やま》は木高《こだか》し 落《お》ちたぎつ 湍《せ》の音《と》も清《きよ》し 鶯《うぐひす》の 来鳴《きな》く春《はる》べは 巌《いはほ》には 山下《やました》耀《ひか》り 錦《にしき》なす 花《はな》咲《さ》きををり さを鹿《しか》の 妻《つま》呼《よ》ぶ秋《あき》は 天霧《あまぎら》ふ しぐれを疾《いた》み さ丹《に》つらふ 黄葉《もみち》散《ち》りつつ 八千年《やちとせ》に あれつがしつつ 天《あめ》の下《した》 知《し》ろしめさむと 百代《ももよ》にも 易《かは》るましじき 大宮処《おほみやどころ》
    吾皇 神乃命乃 高所知 布當乃宮者 百樹成 山者木高之 落多藝都 湍音毛清之 鶯乃 來鳴春部者 巖者 山下耀 錦成 花咲乎呼里 左壯鹿乃 妻呼秋者 天霧合 之具礼乎疾 狹丹頬歴 黄葉散乍 八千年尓 安礼衝之乍 天下 所知食跡 百代尓母 不可易 大宮處
 
【語釈】 ○吾が鬼神の命の わが大君にして神の命ので、「みこと」は尊称。○高知らす布当の宮は 「高知らす」は既出。しろしめすで、ここは住ませられる。○百樹成す山は木高し 「成」は、旧訓「なす」。この訓は諸説があって定まらない。「なる」(元暦本)、盛の略字として「もる」(古義)、「もり」(新考)である。『新訓』の『なす」に従う。下の「山」の状態をいったもので、百樹を生じているの意と取れる。巻十三(三二三四)「水門《みなと》成す海も広し」と同じ続け方である。○落ちたぎつ湍の音も清し 「落ちたぎつ」は既出。流れ下って泡立つで、激流のさま。○巌には山下耀り 「山下」は、山を木立ごと一緒にして見て、山膚に近い所の称。「耀り」は、木や草の赤く色づいた物の形容で、山下耀りは集中の用例からいうと、秋の紅葉を形容する語であるが、ここは春の花に対して用いている。○錦なす花咲きををり 「錦なす」は、錦のようにで、花(303)にかかる枕詞。「花咲さををり」は、花が咲き撓んでおり。○さを鹿の妻呼ぶ秋は 壯鹿がその妻を恋うて呼ぷ時の秋は。○天霧ふしぐれを疾み 「霧ふ」は動詞|霧《き》るの連族状態で、「天霧ふ」は、空が霧に籠もって。「しぐれを疾《いた》み」は、「疾み」は、時雨が激しいので。○さ丹つらふ黄葉散りつつ 「さ丹つらふ」は、「さ」は接頭語、「丹つらふ」は赤く色に現われるで、「黄葉」の形容。「黄」は当てた字で、黄とは限らない。〇八千年にあれつがしつつ 「八千年」は、永久という意を具象的にいったもの。「あれつがしつつ」は、「生れ継ぐ」は、巻一(五三)「藤原の大宮つかへあれつぐや」と出た。「生れ」は生誕。「継がし」は継ぐの敬語。生誕をお続けになられつつで、限りなく御代を重ねて。○百代にも易るましじき大宮処 「ましじ」は打消推量の助動詞。百代も変わるべくもない大宮処であるよ。
【釈】 わが大君にして神の命のしろしめされる布当の宮は、百樹の生じている山は、木立が老いて高い。流れ下って泡立つ川瀬の音も清い。鴬がおとない来て鳴く春の頃には、厳には、山膚を光らせて錦のような花が咲き撓み、牡鹿が妻を呼び立てる秋には、空を霧に籠め時雨が激しく降るので、赤い色になった黄葉が散りつづけていて、八千年にわたって生誕をお続けになられつつ天下をお治めになろうと、百代の限りなきにわたって、変わるべくもない大宮処であるよ。
【評】 この歌も上の歌と同じく恭仁京を讃えたもので、その讃え方も山と川、さらに山の春と秋との景観を讃えることによって京を讃えている点は全く同一である。方法は同一であるが、その訴える精神態度は著しく異なっている。上の歌は賀の精神は言ったごとくきわめて稀薄で、景観そのものを讃えることを眼目としたものであったが、この歌は景観を讃えてはいるが、それは天皇を賀する心をとおして讃ているのである。さらにいえば、山の春秋の美しい景観を、その永遠性という観点より捉え、その永遠性を皇室につないで讃えているのである。この賀歌の態度は、人麿などの取っていたものと全く同一のもので、それ以後の人々からは次第に捨てられていたものであり、福麿は上の歌にあってはことに際立って捨てていたのであるが、この歌では一躍最も古い態度に立ちかえって詠んでいるのである。起首の「吾が皇神の命の」という尊称が、すでに天皇を目標とした賀歌であることを示している。単純な尊称であるが、伝統と変遷をもった含蓄ある称である。結末の「八千年にあれつがしつつ天の下知ろしめさむと」はこれに照応するもので、首尾一貫、古風な賀歌の態度である。中心をなしている山の春秋の景観は、各六句ずつを費やしている対句形式のものであるが、ここでは上の歌では主体とした、聴覚より来る「鴬」と「さを鹿」とを、「鴬の来鳴く春べは」「さを鹿の妻呼ぶ秋は」と、単に季節の修飾をするのみの軽いものとし、中心は「錦なす花咲きををり」「さ丹つらふ黄葉散りつつ」と花やかないつの年も変わらぬものとし、ことに、「黄集散りつつ」の継続からただちに「八千年にあれつがしつつ」の継跳に接続させて、それとこれと不離な一体なものとしていっている辺りなど、福麿の意図していたところを明らかに示しているものである。そしにもまして意図を示しているのは、この歌は上の歌の平面的なのを避け、立体的に簡潔に詠んでいる点であるが、これは景観を避け、抒情を旨としたところからのおのずからの成行きで、初めからもっていた意図のさせたものである。語句が絢爛なため、意図が蔽われようとする傾きがあるが、福麿とすると力作で、注意さ(304)れるべきものである。
 
     反歌五首
 
1054 泉《いづみがは》川 往《ゆ》く瀬《せ》の水《みづ》の 絶《た》えばこそ 大宮処《おほみやどころ》 遷《うつ》ろひ往《ゆ》かめ
    泉川 徃瀬乃水之 絶者許曾 大宮地 遷徃目
 
【語釈】 ○泉川往く瀬の水の絶えばこそ 「往く瀬」は、流れゆく瀬で、流れを具象的にいったもの。泉川(木津川)の流るる水の絶えることがあったならばで、絶無のことを譬としたもの。○大宮処遷ろひ往かめ 「大者処」は、大宮の所在地。「還ろひ」は、遷るの連続で、易《かは》る意。「め」は「こそ」の結。
【釈】 この泉川の流れる水が絶えることがあったならば、大宮所も推移することがあろう。
【評】 長歌の結末を繰り返した常套的なものであるが、眼前の泉川を捉えることによって強化している。しかしこの譬喩は類の多いものである。
 
1055 布当山《ふたぎやま》 山並《やまなみ》見《み》れば 百代《ももよ》にも 易《かは》るましじき 大宮処《おほみやどころ》
    布當山 々並見者 百代尓毛 不可易 大宮處
 
【語釈】 ○布当山山並見れば 「布当山」は、布当にある山の称と取れる。
(305)【釈】 布当山の山の並びの動ぎないさまを見ると、百代にわたって変易のあるべくもない大宮処であるよ。
【評】 長歌の最初の部分の山と結末の部分とを結び合わせて、長歌よりも一段とあらわに賀の心をいったものである。平凡には似ているが、反歌の働きをつくしている歌である。
 
1056 ※[女+感]嬬《をとめ》らが 続麻《うみを》繋《か》くとふ 鹿背《かせ》の山《やま》 時《とき》の往《ゆ》ければ 京師《みやこ》となりぬ
    ※[女+感]嬬等之 続麻繋云 鹿脊之山 時之徃者 京師跡成宿
 
【語釈】 ○※[女+感]嬬らが続麻繁くとふ 「続麻」は、続んだ麻糸で、続むというは鹿の皮をなしている繊維を糸とすること。「繋くとふ」は、懸けるというで、懸けるのは糸を整理するために※[手偏+(上/下)]《かせ》という道具にかけるのである。二句、序詞。○鹿背の山 「鹿背」は、上からの続きは※[手偏+(上/下)]《かせ》]である。※[手偏+(上/下)]は続麻を巻きつける道具で、『皇大神宮儀式帳』にも載っている上古よりあった退具である。これを山の名の鹿背に転じている。○時の往ければ 時の動きを、時のほうを主としていったもので、時節が移って釆たので。
【釈】 おとめらが続麻を懸けるという(手偏+上/下)に因みある鹿背の山よ。時節が移って来たので京と変わった。
【評】 京である久邇の地を、立ち帰り批評的に見て、山間の盆地の京となったことに驚異の感を起こしたことをいったものである。僻地が京となることは古くはしばしばあったことなので類歌があり、陥るところは皇威を讃えることになるのである。この歌もその心よりのものである。「※[女+感]嬬らが続麻繋くとふ」は、麻は大体山地の物であり、また続麻は庶民の女の一般にしていたことであるから山間の僻地ということを具象化しているもので、序詞であるとともに土地の描写ともなっているものである。
 
1057 鹿背《かせ》の山《やま》 樹立《こだち》を繁《しげ》み 朝《あさ》さらず 来鳴《きな》きとよもす 鶯《うぐひす》の音《こゑ》
    鹿脊之山 樹立矣繁三 朝不去 寸鳴響爲 ※[(貝+貝)/鳥]之音
 
【語釈】 ○鹿背の山樹立を繁み 庇背の山は樹立が繁くあるので。○朝さらす来鳴きとよもす 「朝さらず」は、毎朝漏れなくで、巻三(三七二)「朝離らず雲居たな引き」に既出。「とよもす」は、響かせるところので、そこの静寂を背後にしてのもの。○鴬の音 詠歎を含めている。
【釈】 鹿背の山は樹立が繁くあるので、朝々漏れなく来ては鳴き響かせている鷲の声よ。
【評】 反歌としては繋がりの少ないものであるが、長歌に「山は木高し」とあり、「鴛の来鳴く春べ」ともあるので、それを延(306)長させて、京の景観のめでたさを讃えた歌といえるものである。「来鳴きとよもす」は、辺りの静寂を暗示している感がある。
 
1058 狛山《こまやま》に 鳴《な》く零公鳥《ほととぎす》 泉河《いづみがは》 渡《わたり》を遠《とほ》み ここに通《かよ》はず【一に云ふ、渡《わたり》遠《とほ》みや 通《かよ》はざるらむ】
    狛山尓 鳴霍公鳥 泉河 渡乎遠見 此間尓不通【一云、渡遠哉不通有武】
 
【語釈】 ○狛山に鳴く霍公鳥 「狛山」は、久邇京の西方、山城町|上狛《かみこま》、泉川の北岸に、川に臨んでいる山(神童寺山)。「霍公鳥」は、詠歎を合めていっているもの。○泉河渡を遠み 「渡」は渡瀬で、橋がなく、徒渉をする一定の場所。「遠み」は、遠いゆえに。泉川の渡瀬が遠いゆえにで、作者は河を隔てて、狛山と反対の側、すなわち南岸にいるのである。○ここに通はず 「ここ」は、作者の現にいる南岸。「通はず」は、霍公鳥が通って来ないで、霍公鳥を擬人していったもの。霍公鳥の声の遠いのを恨んでいっているのである。○一は云ふ、渡遠みや通はざるらむ 「や」は、疑問の係助詞。渡瀬が遠いゆえにここまでは通《かよ》って来ないであろうかで、四、五句にあたるものである。
【釈】 狛山に鳴いている霍公鳥よ、泉河の渡瀬が遠いので、ここまでは通《かよ》って来ない。一は云う、ここまでは通って来ないのであろうか。
【評】 作者が泉川の徒渉地点の辺り、狛山とは対岸の地にいて、狛山に鳴く霍公鳥の遠音を聞いて、飽き足りぬ心から詠んだものと思われる。「渡を遠み」は場所柄からの思いつきで、軽い機知のものである。反歌としては繋がりのないもので、上の鴬との関係から加えたものであろう。一は云うは、福麿自身の別案であろう。鴬と霍公鳥の歌は、全体の上から見るとないほうがよいものである。
 
     春の日、三香原の荒れたる墟を悲み傷みて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 久邇宮が荒墟になるまでの推移は続日本紀にくわしい。久邇が京となったのは天平十二年十二月で、同十五年には紫香楽《しがらき》の宮を造営した。これは近江の国甲賀郡で、久邇からは遠くない処である。その翌十六年には、難波宮を京とする勅が下ったが、そこもしばらくの間で、翌十七年正月には、紫香楽の新京に遷られ、その五月には久邇宮に還られて、ついで平城京に行幸されたので遷都より遷都と続いていたのである。久邇宮が荒墟となっての春というのは、十六年難波宮に遷られた後のことと思われる。
 
1059 三香《みか》の原《はら》 久邇《くに》の京師《みやこ》は 山《やま》高《たか》み 河《かは》の瀬《せ》清《きよ》み 住《す》みよしと 人《ひと》は云《い》へども 在《あ》りよしと (307)吾《われ》は念《おも》へど 古《ふ》りにし 里《さと》にしあれは 国《くに》見《み》れど 人《ひと》も通《かよ》はず 里《さと》見《み》れば 家《いへ》も荒《あ》れたり 愛《は》しけやし かくありけるか 三諸《みむろ》つく 鹿背山《かせやま》の際《ま》に さく花《はな》の 色《いろ》めづらしく 百鳥《ももとり》の 声《こゑ》なつかしく 在《あ》りが欲《ほ》し 往《す》みよし里《さと》の 荒《あ》るらく惜《を》しも
    三香原 久迩乃京師者 山高 河之瀬清 住吉迹 人者雖云 在吉跡 吾者雖念 故去之 里尓四有者 國見跡 人毛不通 里見者 家裳荒有 波之異耶 如此在家留可 三諸着 鹿脊山際尓 開花之 色目列敷 百鳥之 音名束敷 在杲石 住吉里乃 荒樂苦惜哭
 
【語釈】 〇三香の原久邇の京師は 京師を貴ぶ心から「三香の原」を冠して鄭重に重くいったもの。○山高み河の瀬清み 「清み」は原文「清」、旧訓は「きよし」であったのを、『代匠記』の改めたもの。山が高いので、河が清いのでで、下の「住みよし」の理由をいったもの。○住みよしと人は云へども 住み好い所と人は言っているけれど。○在りよしと吾は念へど 「在り」は居りで、住みと同意。居り好いと吾は思っているけれども。○古りにし里にしあれば 「古りにし里」は、故里で、古京。「し」は強意の助詞。○国見れど人も通はず 「国」は一区劃をなしている、やや広い土地の意のもので、ここは古京をさしたもの。「人」は、廷臣。○里見れば家も荒れたり 「里」は、廷臣の住宅地。「家」は住宅で、「荒れたり」は、空屋となっている。○愛しけやしかくありけるか 「愛しけやし」は、「愛しき」に、「やし」の詠歎の助詞の接続したもの。愛すべきの意で名詞に接続するのが普通であったが、やや以前から独立しても用いられ、巻五(七九六)「愛しけやしかくのみからに」の例がある。『代匠記』は惜しいかなの意だと解している。広い意味の詠歎をあらわす語と取れる。あわれというに近い。「かくありけるか」は、このようであったのかと、眼前の荒廃したさまを綜合して、驚きと怪しみの感をいったもの。〇三諸つく鹿背山の際に 「三諸」は神の社、「つく」は齊《いつ》くで、御室を設けて神を斎いていると。鹿背山の状態をいって枕詞としたもの。「際」は間。○さく花の色めづらしく 「さく花」は、現にそこに咲いている花。「の」は、のごとくの意のもの。「めづらしく」は愛《め》ずらしくで、愛すべくで、全体では、現に咲いている花の色のごとくに愛すべしという意で、下の「里」を讃えているもの。○百鳥の声なつかしく 諸々の鳥の声のごとくなつかしくで、意は上と同じ。○在りが欲し住みよし里の 「在りがほし」は、そこに居ることを欲《ほ》しいで、「在り」は名詞形。「欲し」は連体形。居りたいことだと思う。「住みよし里の」は、「よし」は原文「吉」で、「よき」とも訓めるが、意図的に同音を畳んでいる歌であるから「よし」の訓みに従う。住みよいところの里の。○荒るらく惜しも 「荒るらく」は、「荒る」を名詞形としたもの。荒廃することの惜しさよ。
【釈】 三香の原の久邇京は、山が高いので、河が清いので、住み好い処だと人は言っているけれども、居りたい処だと我は思っているけれども、故里となった里であるので、広く京を見渡すけれども、廷臣も通わず、住宅地を見ると家は荒れている。ああこのようになっていたのであるのか。お社のある鹿背山の間に、今咲いている花の色のようにも愛すべく、鳴いている諸々の鳥(308)の声のようにもなつかしい、居つきたいことに思う住みよい里の、荒れることの惜しさよ。
【評】 上の新京としての久邇を讃えた歌と、古京としての久邇を悲しみ傷む歌とをくらべると、福麿の精神態度の著しく異なっている点が注意を引く。異なるというのは、同じ地の同じ自然が全く異なった面貌を持ったものになっていることである。上の歌では山と川、山の春秋の景観は、その清くおもしろいさまを永遠に保ち繰り返して、新京を象徴するものとなっていたのに、一たび古京となり、思い出の地となると、山と川は「在りよし」と思わせる、生活上の一付属物となり、またおりから咲いている花も鳴いている百鳥も、「在りが欲し住みよし」と思わせる同じ意味のものにすぎなくなっていることである。これが当時の人の本心で、新京を讃える気分は憧れにすぎないものであり、実際の心は、頻繁につづく遷都で安定感がもてず、ひたすら安定を欲していたのであったろうと思われる。この点については続日本紀、天平十六年閏正月の条に、久邇京と難波京とのいずれがよいかということで、詔をもって廷臣の全部に問われ、また市についても問われ、久邇京のほうがよいと答える者のほうが多かったことを委しく伝えているのでも窺われる。久邇京を「在りよし」とする心は、この時代の心で、福麿はそれを代弁するにすぎないものであったと見える。さらに言えば時代は、日常生活の安定を求めるにすぎないという消極的のものだったのである。
 憧れより離れて実感を言おうとすると、福麿の歌風は一変して、その歌風のごとく見えていた絢爛一方の歌は、素朴な平淡なものとなっている。この歌は明らかに謡い物の系統のものである。語は平易に、句は短く、対句を用いて繰り返しつつ、平明にその心を尽くそうとしているのである。これを表現技巧として見れば、むしろこのほうが手腕の見えるものではあるが、その勝れているのは実感に即したものだからと思われる。才分の豊かな、帽の広い福麿の、絢爛と同時に持ち得ていた素朴な面を見せた作である。
 
     反歌二首
 
1060 三香《みか》の原《はら》 久邇《くに》の京《みやこ》は 荒《あ》れにけり 大宮人《おほみやびと》の 遷《うつ》ろひぬれば
    三香原 久迩乃京者 荒去家里 大宮人乃 遷去礼者
 
【語釈】 ○遷ろひぬれば 「遷ろひ」は遷るの連続で、ここは遷都とともに移転をしたので。
【釈】三香の原の久邇京は荒廃してしまったことである。遷都とともに百官が移転したので。
【評】長歌とは趣を変えて、大宮を中心に、荒廃した久邇京を 全体として捉え、その荒廃の理由をいい、詠歎の情を調べに托(309)してそれを基調としているものである。単純平明な歌ではあるが、味わいをもった作である。
 
1061 咲《さ》く花《はな》の 色《いろ》は易《かは》らず 百石城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》ぞ 立《た》ち易《かは》りける
    咲花乃 色者不易 百石城乃 大宮人叙 立易奚流
 
【語釈】 ○咲く花の色は易らす 咲いている花の色は、以前に変わっていないで、題詞の「春の日」によって、眼前に咲いている春の花である。○百石城の大宮人ぞ立ち易りける 「立ち易り」は、上に出た、「立ち」は、接頭語。「易り」は、居た者が居なくなった、すなわち移り去ったこと。「ける」は、上の「ぞ」の結。
【釈】 咲いている花の色は以前に変わらない。しかしそこに居た大宮人は、易わって、居なくなってしまったことであるよ。
【評】 上の歌の心を前進させ、大宮そのもののみをいっているものである。開落の速かな花の咲いているのと、居なくなった大宮人との対照は、常套のものとはいえ、眼前の印象としていっているものなので、感のあるものとなっている。深くはないが常凡のものではない。
 
     難波の宮にて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 難波宮はしばしば出た。孝徳天皇の長柄豊碕《ながらとよさき》の宮で、また地名によって味生《あじふ》の宮とも呼び、離宮となっていた宮である。天平十六年閏正月、天皇は久邇官から行幸され、二月には京と定められたが、その月の中に紫香楽の宮に行幸され、七月、難波宮に遮幸されたが、天平十七年正月元日には紫香楽の新京に遷られたのであった。難波宮が帝都となったのはしばらくの間にすぎなかったのである。
 
1062 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 在《あ》り通《がよ》ふ なにはの宮《みや》は いさなとり 海《うみ》片就《かたつ》きて 玉《たま》拾《ひり》ふ 浜辺《はまべ》を近《ちか》み 朝《あさ》はふる 浪《なみ》の声《と》さわき 夕《ゆふ》なぎに 櫂《かぢ》の声《と》きこゆ 暁《あかとき》の 寝覚《ねざめ》に聞《き》けば 海石《いくり》の 潮干《しほひ》の共《むた》 ※[さんずい+内]渚《うらす》には 千鳥《ちどり》妻《つま》呼《よ》び 葭《あし》べには 鶴《たづ》が音《ね》動《とよ》む 視《み》る人の 語《かたり》にすれば 聞《き》く人《ひと》の 視《み》まく欲《ほ》りする 御食《みけ》向《むか》ふ 味原《あぢふ》の宮《みや》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも
(310)    安見知之 吾大王乃 在通 名庭乃宮者 不知魚取 海片就而 玉拾 濱邊乎近見 朝羽振 浪之聲※[足+參] 夕薙丹 櫂合之聲所聆 曉之 寐覺尓聞者 海石之 塩干乃共 ※[さんずい+内]渚尓波 千鳥妻呼 葭部尓波 鶴鳴動 視人乃 語丹爲者 聞人之 視卷欲爲 御食向 味原宮者 雖見不飽香聞
 
【語釈】 ○在り通ふなにはの宮は 「あり通ふ」は既出。継続して通うで、離宮としての行幸はしばしばあった。○いさなとり海片就きて 「いさなとり」は海の枕詞。「海片就きて」は、海に一方が就いていてで、一方が海に面していること。「山かたつきて」「谷かたつきて」の用例がある。○玉拾ふ浜辺を近み 「玉拾ふ」は、「玉」はここは、海中の小石、貝など、玉の材料となる物。「浜」は礒に対する称で、砂より成る海岸。「近み」は、近いゆえに。○朝はふる浪の声さわき 「朝はふる」は、「朝」は時刻。「はふる」は羽振るで、鳥が羽根を振って翔ることで、勢のいい浪の形容。○夕なぎに櫂の声きこゆ 「夕なぎ」は、上の「朝はふる」に、時刻とともに浪の動静を対させたもの。「櫂」は原文「櫂合」。「かぢ」は『考』の訓である、『攷証』は、「合」の字は、当時は櫂を幾つか取りつけてあり、それを漕ぎ合わせて船を進めたので、「合」は義で添えた字だとしている。以上、第一段。○暁の寝覚に聞けば 「暁の寝覚」は、早起きが風となっていた時代なので、朝の目覚めと同じ。○海石の潮干の共 「海石」は、海中の石。「共」は、ともに。海石が潮干とともに現われるので、下の(さんずい+内)渚の形容。○(さんずい+内)渚には千鳥妻呼び 「(さんずい+内)渚」は、(さんずい+内)は捕で、入江になっている所にある洲。「千鳥妻呼び」は、千鳥が習性として鳴きかわすのを、声のやさしさから、そのように聞き做したもの。○葭べには鶴が音動む 「薩べ」は、海岸を具象的にいったもの。「鶴が音動む」は、鶴の鳴く声が高く響くで、いずれも潮干によって獲られる食餌をあさって鳴く声。以上、第二段。○視る人の語にすれば 「視る人」は、以上の情景を眼に見る人で、「語にすれば」は、話とすれば。どちらも山間の京に住む人々。○聞く人の視まく欲りする 「聞く人」は、上の「語」を聞く人。「見まく」は、見るの名詞形。見たいことにするで、どちらも山国の京に住んでいる、海珍しい人々。○御食向ふ味原の宮は 「御食向ふ」は、御食物として向かうで、味の枕詞。「味原の宮」は小範囲の地方で呼ぶ、難波の宮別名。○見れど飽かぬかも 最上の讃え詞としての成語。
【釈】 安らかに天下をしろしめすわが大君の、継続して行幸なさる難波宮は、一方は海に面していて、玉を拾う砂浜が近いので、朝は勢よく寄せる浪の音が高く、夕べの凪には櫂の音が聞こえる。暁の目覚めに聞くと、海の中の石が、潮干とともに現われるし、浦の洲には、千鳥がその妻を呼んでおり、海岸の葦の辺りには、鶴が高音《たかね》を響かせている。これを見る人が話にすると、聞く人が見たいことにする、この味原の宮は見ても見ても見飽かぬことであるよ。
【評】 これは難波へ遷都の後、新京として讃える心をもって詠んだ歌ではなく、古来よりの離宮としての難波宮へ行幸の際、たまたま供奉の中に加わってその地を見るを得た時の歌と思われる。「在り通ふなにはの宮」といい、「視る人の語にすれば聞く人の視まく欲りする」という言い方は、その宮その地に心の距離を置いての語で、新京というごとき親しいつながりを感じてのものではないからである。いうところは難波の景観だけであるが、その景観は海だけで、しかも海のもつ特殊な音や声(311)だけである。朝の浪の音、夕べの櫂の音、また暁の千鳥の声、鶴の声だけで、その他には何もない。海を珍しいものにし、物の声や音をなつかしいものにする、福麿の個人的興味のみのものである。渕干の浦洲の千鳥の描写は、特に心を引かれたものであると見え、生彩をもった言い方をしている。無条件で詠んでいるために、安らかに暢びやかで、楽しい気分を漂わしている。
 
     反歌二首
 
1063 在《あ》り通《がよ》ふ 難波《なには》の宮《みや》は 海《うみ》近《ちか》み 漁童女《あまをとめ》らが 乗《の》れる船《ふね》見《み》ゆ
    有通 難波乃宮者 海近見 漁童女等之 乘船所見
 
【語釈】 ○在り通ふ 主格は天皇で、長歌を受けて省いている。○漁童女 海女をおとめと呼ぶのは、慣用である。信仰の伴っての称と取れる。
【釈】 継続して行幸になられる難波宮は、海が近いゆえに、海人《あま》のおとめらの乗っている船が大宮より見られる。
【評】 長歌の「櫂の声《と》きこゆ」を、視覚のものとして繰り返したものである。大宮から海人おとめの乗っている船の見えるということは、海珍しい心には印象的である。類想の多いものである。
 
1064 潮《しほ》干《ふ》れば 葦辺《あしべ》にさわく 白鶴《あしたづ》の 妻《つま》呼《よ》ぷ声《こゑ》は 宮《みや》もとどろに
    塩干者 葦邊尓※[足+參] 白鶴乃 妻呼音者 宮毛動響二
 
【語釈】 ○白鶴 「白」の字は、義をもって添えたものと取れる。「鶴」は名詞としての場合はすべて「たづ」であり、「あしたづ」は「たづ」と同意話になっており、また「白鶴」という用字は他にはないものだからである。○宮もとどろに 「とどろに」は副詞で、とどろくまでに聞こえるの意を言いさしにしたもの。
【釈】 潮が干ると、餌を獲ようとして海邊の葦の辺りに鳴きさわぐ鶴の高音《たかね》は、大宮も轟くばかりに聞こえる。
【評】 長歌の、「葭べには鶴が音|動《とよ》む」を展開させ、それを大宮の内にあって聞き、妻呼ぶ声と想像したものである。類歌の少なくないものであるが、調べが張って暢びやかでもあるので、新しい感のあるものとなっている。福麿としては珍しいというよりも駕異に近いまでの、内部的のつながりのあるものだったのであろう。
 
(312)     敏敏浦《みぬめのうら》を過ぐる時作れる歌一首并に短歌
 
【題意】 「敏馬浦」は、上の(九四六)に出た。
 
1065 八千桙《やちほこ》の 神《かみ》の御世《みよ》より 百船《ももふね》の 泊《は》つる停《とまり》と 八島国《やしまぐに》 百船人《ももふなびと》の 定《さだ》めてし みぬめの浦《うら》は 朝風《あさかぜ》に 浦浪《うらなみ》さわき 夕浪《ゆふなみ》に 玉藻《たまも》は来《き》よる 白沙《しらまなご》 清《きよ》き浜《はま》べは 去《ゆ》き還《かへ》り 見《み》れども飽《あ》かず 諾《うべ》しこそ 見《み》る人《ひと》毎《ごと》に 語《かた》りつぎ 偲《しの》ひけらしき 百世《ももよ》経《へ》て 偲《しの》はえ往《ゆ》かむ 清《きよ》き白浜《しらはま》
    八千桙之 神之御世自 百船之 泊停跡 八嶋國 百船純乃 定而師 三犬女乃浦者 朝風尓 浦浪 左和寸 夕浪尓 玉藻者來依 白沙 清濱部者 去還 雖見不飽 諾石社 見人毎尓 語嗣 偲家良思吉 百世歴而 所偲將牲 清白濱
 
【語釈】 〇八千桙の神の御世より 「八千桙の神」は上の(九六三)に、「大汝《おほなむち》少彦名の神」とあったその大汝の神の一名で大国主の神を初めとして名が五つあったその一つである。この名で呼ばれるのは初めてである。二句、国初よりということを、具体的にいったもの。○百船の泊つる停と 「百船」は、あらゆる船。「泊つる停と」は、ここを、行き着いて碇泊する所として。〇八島国百船人の 「八島国」は、わが全国、「百船人」は、あらゆる船人。○定めてしみぬめの浦は 難波津を発して瀬戸内海を航行する船の、第一夜を泊まる所と定めてあった。○夕浪に玉藻は来よる 夕風に立つ浦浪に、沖の玉藻が寄せられて来る。以上、第一段。○白沙清き浜べは 白い砂の清らかな浜辺は。「まなご」は、砂の古語。「浜」は砂浜。○去き還り見れども飽かず 「去き」は、難波津より西南への航路。「還り」は、その反対。以上、第二段。○諾しこそ見る人毎に 「諾しこそ」は、既出。「諾」は、なるほどと承認する意。「し」は、強意。「こそ」は係の助詞。「見る人毎」は、船にいる総ての人が。○語りつぎ偲ひけらしき 「語りつぎ」は、敏馬の浦の美観を話し継ぎ。「偲ひけらしき」は、「偲ふ」は、賞美して思慕する意。「けらしき」は、けるらしきで、連体形で、「こそ」の結。○百世経て偲はえ往かむ 「百世経て」は、百代の後もで、永久に。「偲はえ往かむ」は、人々に偲ばれて行くであろう。○清き白浜 清らかな、砂白きこの浜よの意で、美観を綜合しての繰り返し。
【釈】 八千桙の神の御世以来、ここを過ぐるあらゆる船の、行き着いて碇泊する所として、全国のあらゆる船人の定めて来ていたこの敏馬の浦は、朝風には浦浪が騒ぎ、夕風には沖の玉藻が寄って来る。白い砂の清らかなここの浜辺は、往きにも還りにも(313)見るけれども見飽かない。なるほど見人ごとに話し継いで、賞美し、思慕したことであろう。この後も永久に賞美し思慕されよう。この清らかな砂白い浜よ。
【評】 瀬戸内海を航行する者にとっては、敏馬の浦は第一日の航程であって、格別な注意をつなぐ地ではない。しかるに福麿はここを頂点としているごとく、また「白沙清き浜べ」を敏馬の浦の頂点として捉え、「去き還り見れども飽かず」と言って、「清き白浜」を操り返し讃えているのである。そのほかに捉えているのは朝風に立つ浦浪と、夕風に寄る玉藻という、海としてはきわめて常凡なものであるのに、それらに対して最大級の讃歎をしているのである。多分海珍しい心から、遊覧者として敏馬の浦まで行った時の感を詠んだものであろう。浜べの白砂の清らかさに特に心を引かれた点が生きている。
 
     反歌二首
 
1066 まそ鏡《かがみ》 みぬめの浦《うら》は 百船《ももふね》の 過《す》ぎて往《ゆ》くべき 浜《はま》ならなくに
    眞十鏡 見宿女乃浦者 百船 過而可徃 濱有七國
 
【語釈】 ○まそ鏡みぬめの浦は 「まそ鏡」は、真澄鏡の転音で、見の枕詞。「浦」を重くいおうとしてのもの。○百船の過ぎて往くべき 「過ぎて」は、見過ぐしてすなわち立ち寄らずに。「行くべき」は行かれるようなの意。
【釈】 敏馬の浦は、船という船の限りの、寄らずに行かれるような浜ではないことよ。
【評】 長歌の結末の「清き白浜」を受けて、それを繰り返し進展させようとしたものである。しかし讃歎に我と溺れて、当然もたなければならないはずの客観性までも失い、敏馬を碇泊地とするのは、浜の美観のためのごとき歌となって、進展がその甲斐のないものとなっている。
 
1067 浜《はま》清《きよ》み 浦《うら》愛《うる》はしみ 神世《かみよ》より 千船《ちふね》の湊《はつ》る 大和田《おほわだのはま》の浜《はま》
    濱清 浦愛見 神世自 千船湊 大和太乃濱
 
【語釈】 ○浜清み浦愛はしみ 浜が清いゆえに、また浦が美しいゆえに。○神世より千船の湊る 「神世」は、長歌の「八千桙の神の御世」を言いかえたもの。「千船」は、長歌の、「百船」を同じ意で、進めていったもの。「湊る」は、旧訓「とまる」。『考』の訓。長歌の「泊《は》つる停《とまり》」の「泊(314)つる」を、文字を換えての義訓である。○大和田の浜 「大和田」は、本来は大曲で、海の大きく湾曲した所の称で、巻一(三一)「志賀の大わだ淀むとも」と出たそれである。ここは地名で、現在その名の伝わっているのは、神戸市兵庫区の海岸の南端、和田の岬である。下に詠歎がある。
【釈】 その浜が清いゆえに、その浦が美しいゆえに、遠い国初の時から、ここを過ぐる船という船のことごとくが、行き着き場所としている大和田の浜よ。
【評】 これは心としては前の歌を承けて一歩進め、形としては長歌の起首の、「八千桙の神の御世より百船の泊つる停《とまり》」を繰り返していっているものである。敏馬の浦の、白砂の浜の清らかさに、いかに心を引かれたかが、その調べの張って躍っていることによって感じられる。
 
     右の二十一首は、田辺福麿の歌集の中に出づ。
      右廿一首、田邊福麿之謌集中出也。
 
【解】 田辺福麿は伝が詳かでない。天平二十年の春、左大臣橘家の使者として、造酒司令史の福麿が、越中国の国庁に守大伴家持を訪れたことが、記録として最も明らかなものである。歌集は伝わらないが、以上の二十一首は明らかに同一手から出たものであるから、自作のみの集であったろうと思われる。
 
    萬葉集評釋 巻第七
 
(316) 萬葉集 巻第七概説
 
 本巻は、三五〇首をもって一巻としたものである。『国家大観』の番号をもっていえば、(一〇六八)より(一四一七)に至るものである。
 三五〇首中、その二六首が旋頭歌で、他はすべて短歌である。長歌は一首も含んでいない。
 作者は、その最も明らかなるものは、「右の七首は藤原卿の作、いまだ年月を審にせず」と注記した七首、それにつぐものは、「右は柿本朝臣人麿の歌集に出づ」と、同じく注記してあるもので、その他はすべて不明である。不明という事を建前としているのは、編集当時、誰と明らかであったと思われる「藤原卿」をさえ、左注の形をもってしているのでも窺われる。
 分類は、「雑歌」「譬喩歌」「挽歌」と、本集の三部立のすべてを網羅している。「譬喩歌」は、巻第三に出たものと同じ意味のもので、「相聞」の中の恋の歌の、修辞上譬喩を用いているものの称であり、歌の性質と修辞法とを同一視して、修辞のほうに力点を置いたものである。
 この分類と歌数との割当は、「雑歌」は二二九首、「譬喩歌」は一〇八首、「挽歌」は一三首である。さらにその各々について言えば、「雑歌」は賀の歌が著しく少なく、自然鑑賞の歌が最大部分を占めている。船旅の歌が相応に多いのであるが、その内容は、羈旅とはいえ、その侘びしさを言ったものはほとんどなく、新たなる風光に対しての喜び憧れのものであって、自然鑑賞の歌と言いかえ得られるものである。次に「譬喩歌」は、恋の歌はその本質として、語としては言い現わしかねる憧れの情の、ある自然現象に刺激され、それによって初めて具象しうる傾向のあるものなので、譬喩歌と称しうるもののあることは当然のことである。しかし部立としての譬喩歌は、その本質に名付けたものではなく、文芸として、修辞の上でいう譬喩であって、本巻の「譬喩歌」もその意味でのものである。本巻の譬喩歌も、巻第三の場合と同じく、文芸的に意識して用いている歌は、奈良京、もしくはそれに近い時代の歌と思われる少数にとどまり、多くは無意識に用いているものとみえる。中には、単に序詞の中に自然現象を用いているにすぎないものもあって、名と実と伴わない趣のあるものである。
 本巻の資料となっている歌の出所は、左注として注記あるものと、しからざるものとの二種である。注記あるものは、上に言った「柿本朝臣人麿の歌集」と、「古歌集」と称するもので、その他のものは出所不明のものである。
 「柿本朝臣人麿の歌集」は、人麿の歌に対しての備忘録であって、自身の歌と、他人の歌で記憶に存しさせようと思うものとを、差別を設けずに記録したものであって、したがって人麿の歌かどうか明らかでないということが定説となっていて、厳密に言えばそのように言うより他ないものであるが、実際は、他(317)人の作かどうかの疑われる歌は、数える程の少数であって、本巻に収められているものは、全部人麿の作と思われる。人麿以外の何びとにも作れない歌だと明らかに感じられるからである。一方、巻一・二では、「柿本朝臣人麿の作れる歌」と明記しているのに、この巻のごとく「歌集に出づ」と、単に出所をいうにとどめているのは、そこに何らかの差別があったろうかという疑いを起こさせる。
 例せば、巻一・二の皇室に関しての挽歌のごときは、それぞれその邸に伝えられていたものとも取れるが、自身の妻、知人の妻、あるいは路上に倒れ死していた人に対しての挽歌に至っては、その歌集によった歌と思うより他ないものである。
 すなわち資料とした書は同一だったのである。同一の書から採録しながらこのように差別を付けているのは、一に編集者の態度の相違からである。「人麿歌集に出づ」ということは、作者の問題よりも編集者の問題となるべきものと思われる。
 次に「古歌集」あるいは「古集」は、集中の注記にその名をとどめているのみの書で、何びとかが蒐集してあった書を資料に当てたのである。内容はそれより取られている歌によって想像するより他ない。今本巻の歌について見ると、「古歌集に出づ」と注記ある歌の最も古いものは、近江朝の作かと思われるものであって、それ以上には溯れない。近江朝というのも近江の海を取材としていることからの推量であって、巻一・二のその時代のものとすると新味のあるものである。これは「古歌集」に採録されるまでの間に、すでに変化されていたからのことと取れる。最も新しいものは、奈良京の歌とほとんど差別の認められないものであって、溯らせて見ても、遷都直前を限度とすべきものである。「古歌集」という名は、遷都已往の歌ということで、新を逐うてやまぬ時代の人の命名と思われる。
 注記のない歌は、いかなる本から取ったものであるかわからない。この部分で特に目立つことは、謡い物の色彩の濃厚なものの多いことである。謡い物とみえる歌は、概して取材の庶民的であり、表現も実際に即して叙事的に、調べも直線的に太いものであって、本巻としては最も古風なものである。謡い物の蒐集は、好んでされていたとみえる例があるので、こうした書は少なくなく、編集者はそれらの多くを資料としたとみえる。
 本巻の編集者が何びとであるかということは、他巻と同じく不明である。しかしその編集態度は甚しく謙虚で、必要以上に用心深く、また分類を好む傾向の著しいもののあることは編集者を臆測せしめる手懸りとなる。
 最も注意されるのは、(一一九五)の左注に、「右の七首は藤原卿の作、いまだ年月を審にせず」とあるものである。歌は七首とも同時のもので、聖武天皇が神亀元年十月、紀伊の和歌の浦に行幸された際従駕した時のもので、都にある妻の許に贈ったものである。藤原卿は『代匠記』は藤原房前であろうと言っているが、『全註釈』は藤原麻呂であろうと言い、贈られたのは大伴坂上郎女であろうと言っている。それだとすると、そうした他聞を憚る歌を資料として用いうる者は、大伴家持以外にはなかったであろぅ。また、これ程には有力なものではないが、(318)(一一二九)「倭琴に寄する」と題する一首は、歌そのものから見て、大伴旅人以外の人の作ではなかろうと思わせるものである。これも世に流布すべき性質の歌ではないから、それを資料となし得たのは同じく家持のみではないかと思わせる。本巻は大体作者不明の作を集めたものであるから、それに引かれてわざと不明にしたのかとも取れるが、しかし作者の明らかな歌をもそのような扱いをしているということは、編集者の特殊な態度と目されることで、少なくともそこに甚しい謙虚と用心深さが認められ、他の場合に見られる大伴家持の態度を連想させて来る。
 これらとはやや趣を異にするが、本巻の編集者は、柿本人麿の作に対しては格別な敬意を払った扱い方をしている。譬喩歌の最初に人麿歌集の歌を据えるのは当然であるが、その扱い方は特別であって、例せば「衣に寄する」「玉に零する」など人麿の歌のみを一まとめにした上で、他人の歌はまた「衣に寄する」「玉に寄する」と題を設けて排列しているのである。これは編集態度としては明らかに異常なものである。これは甚しく謙虚であることと繋がりのあるものである。
 相聞の歌を修辞の上から区別して、譬喩歌という部立を設けたことは、巻第三に始まっていることで、それをしたのは大伴家持だろうということはその時いった。本巻には雑歌挽歌があり、それに並ぶべき相聞はなく、相聞はすべて譬喩歌で終始させており、一〇八首という多数を蒐集している。これは家持がその所好に従ってのことと思う他はないことである。
 また旋頭歌は、従前の編集法では、これを短歌の中に加えて、それと異ならない扱いをしている。本巻ではそれを一つの標目として、重い扱いをしている。これも不当に分類を好む家持の態度に繋がりをもってのものであろう。
 なお、丹念に題によっての分類整理をしつつ、同時に他方では、同一作者の歌と知れた歌は、題の異なるにもかかわらず、その並びに載せ、また、全く別の歌であるのに、その二句が同一なために異伝として載せるなど、他の場合でも時として行なっていることを本巻でも繰り返している点なども、家持を連想させるものである。
 以上の諸点から、本巻の編集者は大伴家持だろうと思わせられる。
 最後に、本巻の特色について簡単に触れる。
 本巻の歌として特に注意される点は、雑歌の部に、国民的意識を詠んだ歌の絶無ともいうべきことと、自然現象を鑑貨的態度で詠んだものの著しく多いことである。これは奈良朝時代の好みを反映しているものである。人麿歌集の歌が甚だ多く取られているにもかかわらず、そのような感を与えるものとなっているのは、編集者の責任とすべきであろう。また本集の大きい特色である相聞の歌が、譬喩歌のみとなって、間接な微温的なものとなっていることも、奈良朝時代の好みを反映したもので、これまた編集者の責任とすべきである。挽歌は著しく少数である。その少数の挽歌さえも、挽歌本来の立場に立って、故人の霊を慰めようとするものではなく、後に遺された者の悲しみを(319)言うことが目的となっているもので、その点平安判吋代の哀傷歌とほとんど異ならないものとなっている。これは旧来の信仰が後退したがためで、全く時代の責任である。わずかに人麿の作の中に、信仰を持続しているものがあるが、本巻としては例外のごとくみえるものとなっている。
 ただ一つ注意されるのは、人麿の旋頭歌である。本集の旋頭歌は、その衰退期を示しているもので、その数においてもすでに少なく、旧風の長歌、新風の短歌とは匹敵が出来ず、その中間的存在として命脈を保っているにすぎないものである。その命脈を保たせているのは人麿で、彼の旋頭歌の一半をなす二三首が本巻に一括されて出ていて、それとしての面目を発揮しているのである。
 人麿の旋頭歌のいかなるものであるかということは、彼以後の人のたまたま詠んでいるそれと比較すると、一目瞭然たるものである。彼以後の人の旋頭歌は、概していうと、その内容は短歌一首よりもむしろ少なく、形容としては、短歌よりも七言句の一句多いことを利として、緩く暢びやかに、謡い物としての調子を発揮させているものである。言いかえると極度に抒情的である。人麿の旋頭歌はそれとは正反対で、叙事を主体とし、叙事によって抒情を遂行しようとしているのである。これは長歌の詠み方と同一なものである。すなわち人麿の旋頭歌は短い長歌であって、かなりに複雑した事象の中核に躍り入り、単純な形をもってそれを詠み生かしているのである。彼の旋頭歌こそ時代的に見て長歌と短歌との中間にあって、その任務を果たし得ているものである。編集者か人麿尊重の心より 奈良朝時代からいうと完全に古風なものとなった旋頭歌の多くを採録したことは、偶然にも本巻に一魅力を加えうることとなったのである。
 
(324) 雑歌
 
     天《あめ》を詠める
 
1068 天《あめ》の海《うみ》に 雲《くも》の波《なみ》立《た》ち 月《つき》の船《ふね》 星《ほし》の林《はやし》に 榜《こ》ぎ隠《かく》る見《み》ゆ
    天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隱所見
 
【語釈】 ○天の海に雲の波立ち 「天の海」は、天の蒼くして広いことの、海を連想させるところからいっているもの。「雲の波立ち」は、白雲《しらくも》が湧いてきたのを、その白さと、動く状態とから、海の波を連想していっているもの。航海の上では、海にいささかでも波が立てば、船はその最寄りの陸の、風波を凌ぎうる所へ避けるのがきまりとなっている。ここもその心でいっているもの。○月の船 天を渡る月に、海を渡る船を連想してのもの。当時の船は、造船術の幼稚であったため、概して小さく、細長い形のものであった。この船を連想させる月は、弦月である。ここの月もそれである。○星の林に榜ぎ隠る見ゆ 「星の林」は、星の多くて、月を紛らすさまを、実際の航海の時、船はできる限り陸に沿って漕ぐところから、海岸にある林を連想してのものである。月があって同時に星が繁くあるというのはいかがのようであるが、月は弦月であるから、さして不自然ではない。
【釈】 天の海に、白雲の波が立ってきて、航路が危険になってきたので、月の船はそれを避けようとして、今、星の林に榜ぎ隠れてゆくのが見える。
【評】 この歌は、左注によって人麿歌集のものであり、人麿の作と思われる。「天《あめ》」は古くは空とは差別しており、高天原の
(325)在る所である。また月は、月読命であって、いすれも神聖なものである。それがここでは文芸的のものとされており、しかも作者は、上代信仰を代表的に濃厚にもっていた人麿であることが注意される。これは思うに人麿の若い頃の作で、一方では現実に即する心が強く、あくまでも現実的であると同時に、他方では浪漫的な心を強くもっていた人麿は、おのずからこの種の文芸的な歌を詠んでおり、それが必ずしも少なくはなく、これもその一つなのである。『代匠記』は、『懐風藻』の文武天皇御製の月の詩の、「月舟移2霧渚1、楓※[楫+戈]泛2霞浜1」を引いている。こうした心は人麿のみのものではなく、当時の漢文学の影響として、相応に広くもたれていたものとみえる。作因は、弦月が星の繁くある廻りにかかっているおりから、白雲も動いているのを、航海のさまを連想したところにあり、さすがに働きは見えるが、これを人麿の歌として見ると、取材に縋るところが多く、したがって平面的なものとなり、魄力の足りないものである。人麿としては作歌経路を表している程度のものである。
 
     右の一首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
      右一首、柿本朝臣人麿之謌集出。
 
【解】 柿本朝臣人麿歌集は、本集にはしばしば出てくる名で、本巻にも続いて出ている。名のごとく人麿の作歌集の名であるが、純粋に人麿の作歌のみではなく、中には他人の作で、備忘のために記入したものもまじっているということが定説となっている。しかしその歌はほとんど全部人麿の作であろうと思われるものである。このことは文献的には証明し難いことであるが、その歌風から見て、人麿の独得の歌風にして、他とは紛るべくもないものをもっているところからである。「柿本朝臣人麿の作れる歌」と明記したものと、ここのごとく「柿本朝臣人麿の歌集に出づ」に左注としたものの間に、差別があるらしくみえるのは、一に撰者の態度いかんによって起こってきているものである。「作れる歌」と明記しているものは、それに関連する史実があり、あるいは史実的なものがあって、疑う余地のないものであるが、個人的なものは、疑えば疑い得られるところから、極度に正確を期する心をもって「歌集の中に出づ」としていると思われる。これは巻第六、田辺福麿の歌の総てに対し、「田辺福麿の歌集の中に出づ」と、撰者家持とは同時代の人であり、ある程度の交渉ももった間柄であるにもかかわらず、明徴のないということの理由で、作者を注記の形にしているのと、揆を一にしたことと思われる。
 
     月を詠める
 
1069 常《つね》は曾《かつ》て 念《おも》はぬものを 此《こ》の月《つき》の 過《す》ぎ匿《かく》れまく 惜《を》しき夕《よひ》かも
(326)    常者曾 不念物乎 此月之 過匿卷 惜夕香裳
 
【語釈】 ○常は曾て念はぬものを 「曾」は、『代匠記』の訓。「さね」と訓む説もある。意味は同じ。已往を総括していう副詞で、打消で受けるのが例となっている○平常は決して思わないのに。○此の月の過ぎ匿れまく 「此の月の」は、今、眼の前に見ている月。「過ぎ」は、空を移り過ぎ。「匿れまく」は「匿る」の名詞形。匿れることので、山に入る意。○惜しき夕かも 「夕」は、夜の意。「かも」は詠歎。
【釈】 平常は、決して思わないのに、今は、この月の空を移り過ぎ、山に匿れることの惜しい夜であるよ。
【評】 月下で楽しい宴を張っていて、興の尽きないのに月は傾いてきた頃、その席の主人である人が客に対して挨拶として詠んだ歌と思われる。「常は曾て念はぬものを」は明らかに誇張であるが、それによって挨拶の心を徹底させているのであるから、一概に非難はできない。三句以下も、月は面白いものとしていってはいるが、燈火の少ない時代で、月は同時に照明の用をしているのであるから、それが隠れると宴は続け難くなる関係もあって、一首実用性の気分のかなり濃厚に絡んでいる歌である。それとして見ると、素朴な、おおらかな、品のある歌である。
 
1070 大夫《ますらを》の 弓上《ゆずゑ》振《ふ》り起《おこ》し ※[獣偏+葛]高《かりたか》の 野辺《のべ》さへ清《きよ》く 照《て》る月夜《つくよ》かも
    大夫之 弓上振起 ※[獣偏+葛]高之 野邊副清 原月夜可聞
 
【語釈】 ○大夫の弓上振り起し 「大夫の」は、ここは、下の猟《かり》をする者としていっているもので、男子。仮名書きの例のある訓。「弓上」は、弓を立てて、その下方を本、上方を末としての称で、弓の上方。「振り起し」は、「振り」は接頭語。「起し」は、立てる意で、弓を射る時の構え。「猟」と続き、それを地名としての「借」に転じたもので、初二句序詞。○※[獣偏+葛]高の野辺さへ清く 「※[獣偏+葛]高」は、巻六(九八一)に出た。大和国添上那、今の鹿野苑の辺りかという。「さへ」は、一つのものに他を添える意の助詞。作者の立っている所はもとより、遠く※[獣偏+葛]高のほうの野辺までもの意。○照る月夜かも 「月夜」は、月とも取れるが、文字通り月夜とも取れる。ここは月夜のほうが作意と思われる。
【釈】 男子が弓未を起こして猟りをするのに因みある名の※[獣偏+葛]高のほうの野までも、清くも照っている月夜であるよ。
【評】 『新考』は、巻六(九八一)「※[獣偏+葛]高の高円山を高みかも」により、高円山の上に立って、ここもとのみならず、遙かに※[獣偏+葛]高の野辺さえもといっているのだと解している。「さへ」の助詞が一首に拡がりをもたせたので、そのようにも解せる。それだとその辺りは狩猟もできる地であったろうから、「大夫の弓上振り起し」という序詞は、一首の作意のさわやかさを愛でての心と気分のつながりをもちうるものとなって、歌柄が大きく強く、働きのあるものとなる。この山地の月の清らかさをあら(327)わし得ている歌である。
 
1071 山《やま》の末《は》に いさよふ月《つき》を 出《い》でむかと 待《ま》ちつつ居《を》るに 夜《よ》ぞ降《くだ》ちける
    山末尓 不知夜歴月乎 將出香登 待乍居尓 夜曾降家類
 
【語釈】 ○山の末にいさよふ月を 「山の末」は、月が山より離れようとしている部分。「いさよふ」は、躊躇しているで、月の出を待つ心よりの感。○出でむかと待ちつつ居るに 出るだろうかと思って待ち待ちしているうちに。○夜ぞ降ちける 「降ち」は『考』の訓。夜が深くなったことであるよ。
【釈】 山の端に、出ようとして躊躇している月を、もう出るだろうかと待ち待ちしているうちに、夜が深くなったことであるよ。
【評】 この歌は、月の出を鑑賞の心より待っているのではなく、妻の許へ通おうとして、夜道を照らすものとして待っている心のものであることは、「待ちつつ居るに夜ぞ降ちける」という、焦燥と感傷との心より感じられる。月が出ようとしていさよっている間に、夜が降《くだ》つということは、普通の心ではなく感傷の心であり、また「待ちつつ居るに」も、同じくこの場合普通の心のものではなく、焦燥の心の言わせるものである。歌としては相聞の範囲のものである。詠み方は、技巧のないごとくであって有るものと言えるのであるが、この技巧は実際に即しているところから、おのずからそのように見えるものであって、当時の生活にあっては、意識して用いたものではなかろうと思われる。厭味のない、感のある歌である。
 
1072 明日《あす》の夕《よひ》 照《て》らむ月夜《つくよ》は 片《かた》よりに 今夜《こよひ》によりて 夜長《よなが》からなむ
    明日之夕 將照月夜者 片因尓 今夜尓因而 夜長有
 
【語釈】 ○明日の夕照らむ月夜は 「月夜」は、月。明日の夜、今夜のように照るであろう月は。○片よりに今夜によりて 「片より」は、偏りで、現在の口語と同じ。偏りに今夜に寄って来てで、したがって明夜の分も今夜に加わって。○夜長からなむ 夜長くあらなむで、今夜の夜が長くあって欲しい。「あらなむ」は、他に対しての希望。
【釈】 明日の夜、今夜のように照るであろう月は、偏りに今夜へ寄って一しょになって、今夜が長くあって欲しい。
【評】 月下で楽しい宴をして、奥の尽くることをしらない喜びで、上の(一〇六九)と心を同じゅうするものである。上の歌(328)を主人《あるじ》の挨拶とすれば、これは客の和《こた》え歌のごとき形のものである。もとより独立してありうる歌である。連想の少なくない歌で、その場合に触れていっていないのは、謡い物の系統のものだからである。その点は上の歌も同様である。
 
1073 玉垂《たまだれ》の 小簾《をす》の間《ま》通《とほ》し 独《ひとり》居《ゐ》て 見《み》る験《しるし》なき 暮月夜《ゆふづくよ》かも
    玉垂之 小簾之間通 獨居而 見驗無 暮月夜鴨
 
【語釈】 ○玉垂の小簾の間道し 「玉垂の」は、玉を緒をもって貫き垂らしているものだろうと想像されるだけで、未詳であった。『全註釈』は「玉」は「竹玉《たけたま》」のそれと同じく、竹を小さく切って緒で貫いたもので、上代の簾はそれを並べて垂らした物であったと解している。意味で「緒」と続き「小」の枕詞。「小」は美称。「簾」は、簾だれ。「通し」は、透間を通してで、下の「見る」に続く。簾は、家の出入口に垂れていたのである。○独居て 「独」は妻である女が、夫を対象としていっているものと取れる。○見る験なき碁月夜かも 「験」は、甲斐。「碁月夜」は、夕月であるよの意で、「かも」は詠歎。簾だれ越しに見る夕月をあわれ深いものとして、ともに見る人のいないのを飽き足らず思う心である。
【釈】 家の簾だれの透間を通して、ただ一人でいて見ると、見る甲斐のない思いをする、あわれ深い夕月であるよ。
【評】 夫の通《かよ》って来ようとする頃、おりからの夕月の簾だれ越しのほのかな光に対し、そのあわれさと夫を待つ心とから、夫の一しょにいて見ないのを惜しむ心である。おだやかな、あわれ深い、魅力のある歌である。この魅力は純粋な心をもって実感に即していっているところからのもので、技巧とはかかわりのないものである。
 
1074 春日山《かすがやま》 押《お》して照《て》らせる 此《こ》の月《つき》は 妹《いも》が庭《には》にも 清《さや》けかりけり
    春日山 押而照有 此月者 妹之庭母 清有家里
 
【語釈】 ○春日山押して照らせる 「押して」は、『代匠記』の訓。強く限なくの意。春日山を隈なく照らしている月は。○此の月は この今宵の月は。○妹が庭にも清けかりけり 「妹が庭にも」は、妹が家の前庭にもまたで、この妹が家は、春日山の裾、春日野のほうにあり、春日山が出ると、一つづきに照らされる位置にあることが知られる。「清けかりけり」は、「けり」は、詠歎。
【釈】 春日山を強く照らしている今夜の月は、妹が家の前庭にもまた、清《さや》かに照らしていることであるよ。
【評】 東のほうの春日山に月が昇って、山の全面を清かに照らしている頃、それを愛でつつも、春日野のほうにある妻の家へ(329)通《かよ》って来ると、その月は、その家の前庭にも同じように照らしているのを見て、そこの月光を中心にして讃えた心のものである。妻の家の所まで来て、その庭を照らしている月の第一印象をいったものである。おおらかな詠み方をしながらも、おのずからに微細な感をも織り込み得ていて、平面感に終わっていない歌である。この味わいは実感に即するところからのもので、技巧からのものではない。
 
1075 海原《うなばら》の 道《みち》遠《とほ》みかも 月読《つくよみ》の 光《ひかり》すくなき 夜《よ》は更《くだ》ちつつ
    海原之 道遠鴨 月讀 明少 夜者更下乍
 
【語釈】 ○海原の道遠みかも 「海原の道」は、月は海のもので、海の上の遠い道を渡ってこの国土に来るものとしていっている。これは上代よりの信仰である。「遠みかも」は「遠み」は、遠いゆえ。「かも」は、疑問。○月読の光すくなき 「月読」は、本来は神としての月読尊であるが、転じて月の意となったもの。「光すくなき」は月の光の少ないことなのかで、「すくなき」は連体形で係の結。出たばかりの月の、光の少ないのをいったもの。○夜は更ちつつ 「更ち」は、『考』の訓。「つつ」は継続。夜は深くなりつついるに。
【釈】 遠い海の空を渡ってこの国土まで来る、その道が遠いがゆえに、月の光はこのように少ないことなのか。冴えるべく夜は深みつついるに。
【評】 海上の月に対して、その冴えてくるべき夜更けであるにもかかわらず、光の少ないのを見て、訝かった心を詠んでいるものである。雲をいわず、曇りをいってもいないので、その光の少ないのは潮気のためと取れる。これは海の月としては有りがちな、むしろ普通のことであるのに、それを訝かっているのは、大和国のような高原地帯の澄んだ月をのみ見馴れている人の、たまたま海上の月を見たために起こったことと思われる。「光すくなき」の理由として「海原の道遠みかも」と感じたのは、信仰としてもっていたものが、今感覚をとおして思い出されてきたもので、素朴な連想と取れる。海というものを知ることの少ない大和の人を思わせる歌である。
 
1076 百《もも》しきの 大宮人《おほみやびと》の 退《まか》り出《い》でて 遊《あそ》ぶ今夜《こよひ》の 月の清けさ
    百師木之 大宮人之 退出而 遊今夜之 月清左
 
【語釈】 ○百しきの大宮人の退り出でて 「百しきの」は枕詞で、既出。「大宮人」は、既出。大宮人自身も、朝廷を尊ぶ心よりいい、庶民は無論(330)いった。ここは庶民ではなく、大宮人のいったものと思われる。「退り出でて」は、貴い所より賤しい所へ行くことをいう語で、ここは大宮を退出して。○遊ぷ今夜の月の清けさ 「遊ぶ」は、歌舞音楽、文筆などに興ずることをいう、意味の広い語。ここは酒宴と取れる。
【釈】 百しきの大宮人が退出して、集い遊んでいる今夜の月の清かなことよ。
【評】 大宮人が、夜、月下に集まって酒宴をしている際、その大宮人の一人が、月に寄せてそこにいる大宮人の全体を賀する心で詠んだもので、謡い物として謡った歌と思われる。月に力点を置いていっているため、賀の語がおのずから画致を帯びてきて、情景を兼ねあらわした快く明るいものとなっている。
 
1077 ぬば玉《たま》の 夜渡《よわた》る月《つき》を 留《とど》めむに 西《にし》の山辺《やまべ》に 塞《せき》もあらぬかも
    夜干玉之 夜渡月乎 將留尓 西山邊尓 塞毛有粳毛
 
【語釈】○ぬば玉の夜渡る月を 「ぬば玉の」は、夜の枕詞。「夜渡る月を」は、夜空を渡って行く月を。○留めむに 留めむためにの意。月を愛でて、その隠れゆくのを惜しむ心からのこと。○西の山辺に塞もあらぬかも 「西の山辺」は、月の隠れゆく山。「塞」は、関で後世のものと同じく、重要な路に設けて、行政上、濫りに人の通行を許さぬようにした役所。ここは月を愛でる心から、その通行志禁じる心でいっているもの。「も」は、詠歎。「あらぬかも」は、打消の詠歎で、願望をあらわすもの。ないのかなあ、あってくれよの意。
【釈】 夜空を渡ってゆく月の、この愛でたいものを引き留めようがために、その隠れてゆく西の山辺に、関がないものであろうかなあ、あってくれよ。
【評】 上の歌と同じく月下で宴を張っており、興は尽きないのに月は傾いてきた頃、その中の一人が、謡い物として謡ったものと取れる。「西の山辺に塞もあらぬかも」は、月に親しむあまり、機知を働かせていっているものである。明るく軽く気の利いている点が喜ばれて、伝唱されるにいたったものであろう。上にもいったように、月はその場合必要なものであったので、この心には実感が伴っていて、そのために厭味のないものとなっている。
 
1078 此《こ》の月《つき》の 此間《ここ》に来《きた》れば 今《いま》とかも 妹《いも》が出《い》で立《た》ち 待《ま》ちつつあらむ
    此月之 此間來者 且今跡香毛 妹之出立 待乍將有
 
(331)【語釈】 ○此の月の此間に来れば 「此の月」は、現に眼に見ている月。「此間《ここ》に来れば」は、原文「此間来者」。旧訓は「このまに来れば」。『略解』の訓。諸注さまぎまの訓を試みている。ここまで移って来たのでというので、「此間」は、目じるしになつている場所。たとえば一本の立木のようなもので、月がそれへ懸かると、それによって時刻を測定するのである。これは現在でも行なわれていることで、古くはよほど鋭敏に感じられたことと思われる。○今とかも 「今と」は、今は夫の来る時だとて。「かも」は疑問。○妹が出で立ち待ちつつあらむ 「出で立ち」は、家より外に出て立って。「待ちつつ」は、我を待ち待ちして。
【釈】 この月が、ここへ廻ってきたので、今は夫の来る時刻だと思って、妹は家の外へ出て立って、我を待ち待ちしていようか。
【評】 月のある夜、妻の許へ通って行く夫の、途中で妻の状態を思いやっての心である。自身のことには触れず、一に妻のほうばかりをいっているのは、愛情のさせる自然な言い方で、この時代の歌の型ともいえるものであるが、同時に表現法としても効果的なものである。当時の夫婦生活にあっては一般性のある魅力のあるものであったろうと思われる。これは明らかに相聞の歌である。
 
1079 まそ鏡《かがみ》 照《て》るべき月《つき》を 白妙《しろたへ》の 雲《くも》か隠《かく》せる 天《あま》つ霧《きり》かも
    眞十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隱流 天津霧鴨
 
【語釈】 ○まそ鏡照るべき月を 「まそ鏡」は、譬喩の意で「照る」の枕詞。「照るべき月を」は、「を」は、ものを。○白妙の空か隠せる 「白妙の」は、白い栲の布の意で、転じて白の意にも用いているもの。「雲か隠せる」は、「か」は疑問の係助詞。「る」はその結。○天つ霧かも 「天つ」は、天ので、霧を地上のものとして、それに対させたもの。天に立つ霧の隠していることなのか。【釈】 照るべき月であるのに、白い霧が隠している今であろうか。それとも天に立つ霧が隠しているのだろうか。
【評】 月の出ている時、空に薄い白雲の、霧かとも見えるものが懸かっていて、その月を蔽って見せないのに対して、憧れの心をもっていっているものである。月の形は見えているが、白く蔽うものがあって、光を発しさせないのに対して、そのものを雲か霧かと惑わされることはありうることである。「まそ鏡」は、枕詞ではあるが譬喩に近く、「白妙の」は、譬喩ではあるが枕詞に近いものであって、いずれも慣用されているものを畳んで用いているのは、心としては月の美しさと、それに対する憧れであるが、言い方は一般性をもっていて、謡い物の匂いの濃いものである。
 
1080 久方《ひさかた》の 天照《あまて》る月《つき》は 神代《かみよ》にか 出《い》で反《かへ》るらむ 年《とし》は経《へ》につつ
(332)    久方乃 天照月者 神代尓加 出反等六 年者經去乍
 
【語釈】 ○久方の天照る月は 「久方の」は、天の枕詞。「天照る月」は、天に照っている月で、現に仰いで見ているもの。○神代にか出で反るらむ 「神代にか」は、「神代」は一切の物が初めて生まれ出でた時としていっているもので、例せば月は、伊弉諾尊の右手に持ち給う白銅鏡《ますみのかがみ》から、月弓《つくゆみ》尊として生まれ給うたというがごときである。「か」は係助詞。「出で反《かへ》るらむ」は、立ち反《かえ》って出るのであろうかの意で、思い忘れるを、「忘れて念ふ」というなど、当時の言い方と同じ言い方のものである。その初めに立ち帰るというのは、新しく瑞々《みずみず》しくなることである。○年は経につつ 月の天にある年は、限りなく経過を続けていて。
【釈】 天に照っている月は、その初めて生まれた神代に立ち帰って出てくるのであろうか。年を経過し続けていて。
【評】 月の山を離れて出て来た時の、その新しく瑞々しい光を讃えたものである。物を讃える時、その起源の遠さによってその尊さを感じることは型となっていたことであるが、これはそれを延長させて、尊さを清らかさにしているのである。そこに時代の移りがある。今からみると簡潔にすぎ、飛躍がありすぎる感があるが、この当時の神代に対する信仰は、これで不足を感ぜしめなかったろうと思われる。
 
1081 烏玉《ぬばたま》の 夜渡《よわた》る月《つき》を ※[立心偏+可]怜《おもしろ》み 吾《わ》が居《を》る袖《そで》に 露《つゆ》ぞ置《お》きにける
    烏玉之 夜渡月乎 ※[立心偏+可]怜 吾居袖尓 露曾置尓鷄類
 
【語釈】 ○烏玉の夜渡る月を (一〇七七)に出た。○※[立心偏+可]怜み 『代匠記』の訓。面白いので。○吾が居る袖に露ぞ置きにける 「吾が居る」は、吾が眺めている。「袖」は、衣を代表させたもの。「露」は、秋のもの。「ぞ」は係助詞で、「ける」はその結。
【釈】 夜空を渡ってゆく月が面白いので、眺めて立っているわが衣の袖に、秋の夜露が置いたことである。
【評】 女がかよって来る夫を待ちかねて、月夜屋外に立っている歌としては、これと類想のものが少なくない。この歌は完全に自然観賞のもので、その意味で新味のあるものとなっている。詠み方が素朴で、大柄でもあるので、四、五句は相応の味わいのあるものとなっている。
 
1082 水底《みなそこ》の 玉《たま》さへ清《さや》に 見《み》つべくも 照《て》る月夜《つくよ》かも 夜《よ》の深《ふ》けぬれば
(333)    水底之 玉障清 可見裳 照月夜鴨 夜之深去者
 
【語釈】 ○水底の玉さへ清に見つべくも 「水底」はここは川の水底。「玉」は、小石。「さへ」は、そうした見難いものまでも。「清に」は『代匠記』の訓で、はっきりとの意。「見つべくも」は、「つ」は完了、「べく」は可能の助動詞。見えそうなほどに。○照る月夜かも夜の深けぬれば 「月夜」は、月。「夜の深け」は、月光の澄みまさる時刻としてのもの。
【釈】 川の水底の小石までも、はっきりと見られそうに澄んでいる月であるよ。夜が更けてきたので。
【評】 秋の夜更けての月の清らかさを讃えたものである。「水底の玉さへ」というのは、大和のような高原の、渓流の趣をもった浅い流れに対していえることで、したがって、空気の澄んだ高原の月ということを思わせるものである。しかしこれは、作者は意識せず、ただ実感としていっているものである。結句は、月光の澄んできたのを暗示するとともに、作者の月に陶酔したさまをも暗示し得ていて、働きのある句である。調べが強く張っていて、作者の感動を直接に伝えている歌である。
 
1083 霜《しも》ぐもり 為《す》とにかありむ 久堅《ひさかた》の 夜渡《よわた》る月《つき》の 見《み》えぬ念《おも》へば
    霜雲入 爲登尓可將有 久堅之 夜渡月乃 不見念者
 
【語釈】 ○霜ぐもり為とにかあらむ 「霜ぐもり」は、霜のふる前に、水蒸気が空に漲って曇る意。「為とにかあらむ」は、するというのであろうか。○久堅の夜渡る月の見えぬ念へば 「見えぬ念へば」は、「念へば」は、意味は軽く、感を強めることを主としたもの。
【釈】 霜ぐもりがするというのであろうか。夜空を渡っている月の、見えないのを思うと。
【評】 月の見えないのを、霜ぐもりがしようとしてのことだろうかと解しただけの歌である。霜は普通晴れた寒い夜のもので、明け方霜の下りる時には、靄が一面にかかってくるのを現在でも霜ぐもりと呼んでいる。この歌の霜ぐもりも大体それと同じものとすると、夜は澄んでいた月の低くなったのが、明け方見えなくなり、同時に地面には薄靄が立ちはじめているので、それとこれとを結び着けた心持である。月光をたよりに妻の許へかよって行った男が、明け方帰ろうとした際の発見とすれば、ありうべきこととなる。取材があまりにも単純なので、何らかの背景がなければ歌とするほどのことでもなく、また人も伝えなかったろうと思われるから、多分そのような一般性のある背景があってのものであろう。それとしても淡い歌である。
 
1084 山《やま》の末《は》に いさよふ月《つき》を 何時《いつ》とかも 吾《わ》が待《ま》ちをらむ 夜《よ》は深《ふ》けにつつ
(334)    山末尓 不知夜經月乎 何時母 吾待將座 夜者深去乍
 
【語釈】 ○何時とかも吾が待ちをらむ 「何時と」は、いつ出るものとて。「かも」は、疑問。「吾が待ちをらむ」は、吾はこのように待ち続けているのであろうか。○夜は深けにつつ 夜は更け更けして行く。
【釈】 山の端に、出ようとして躊躇している月を、いつ出るものとして、吾はこのように待っているのであろうか。その間《ま》にも夜は更け更けしてゆく。
【評】 上の(一〇七一)の歌と、心としても、境としても同じものである。異なるところは、この歌のほうが焦燥の感が強いことである。妻の許へ行こうとする男が、月が出なくては路が歩けないのに、月の出の遅い填で、あせる心には夜はみるみる更けるのに、待つ月は出そうで出ない。それを「何時とかも吾が待ちをらむ」とじれているのが、実感ゆえに語は単純だが生きて含蓄のあるものとなっているのである。これも同じく相聞の範囲の歌である。
 
1085 妹《いも》があたり 吾《わ》が袖《そで》振《ふ》らむ 木《こ》の間《ま》より 出《い》で来《く》る月《つき》に 雲《くも》なたなびき
    妹之當 吾袖將振 木間從 出來月尓 雲莫棚引
 
【語釈】 ○妹があたり吾が袖振らむ 妹が家の辺りに向かって、我は袖を振ろうで、遠く居て、心を示すためのしぐさとしてである。○木の間より出で来る月に 木と木の間から出て来る月にで、この木立は月の出る所にあるものであるから、山の上のものでなくてはならない。実際は山の木立を離れて出て来る月に。○雲なたなびき 「な」は禁止の助詞であるが、それをこのようにいっているのは、人麿の歌を踏襲しているためである。それは評の部分でいう。既出。雲よ靡くなで、これはわが袖を振るのを妹に見せようがためである。
【釈】 妹が家の辺りへ向かって、吾は袖を振ろう。山の木立を離れて出て来る月に、雲よ靡くな。
【評】 月の出る頃は、夫が妻の許へ通う時刻であるが、男は何らかの差支えがあって通えないので、せめて妻に向かって懐かしい心だけでも示そうとして、袖を振ろうとするおりから、山の木立を、離れて月が出てきたのである。そこで妻にわが振る袖を見せようと思って、雲よ月に懸かって暗くはするなと希望したのである。この歌は、巻二(一三二)人麿の、「石見のや高角山《たかつのやま》の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか」を連想させる。『古義』はこのことをいい、思い合わすべしといっている。この歌の三句「木の間より」は、いったがごとくある程度の強いたところのあるものであるが、上に引いた人麿の歌が一般化したところから、後世の本歌取のごとき心をもってわざとこのようにいったものと思われる。謡い物の匂いの濃厚な歌である。
 
(335)1086 靭《ゆき》懸《か》くる 伴《とも》の雄《を》広《ひろ》き 大伴《おほとも》に 国《くに》栄《さか》えむと 月《つき》は照《て》るらし
    靭懸流 件雄廣伎 大伴尓 國將榮常 月者照良思
 
【語釈】 ○靭懸くる伴の雄広き 「靭」は、矢を盛る器。「懸くる」は、「靭取負ふ」とも、「帯ぶ」ともいっているのと同じく、背に負う意で、「靭懸くる」は、武装をしているの意。朝廷奉仕の武官としての武装である。「伴の雄」は、「伴」は部族、「雄」は「緒」で、長の意であったのが、後には単に男の意となった。ここはそれで、六月祓の祝詞に、「朝廷《すめらみかど》に仕へ奉《まつ》る領巾《ひれ》懸《か》くる伴男《とものを》、手襁《たすき》懸くる伴男、靭負ふ伴男、剣《たち》佩く伴男、伴男の八十伴男」とあるそれである。「広き」は、その数の多い意。○大伴に 「大伴」は、大伴氏の意であるが、ここは皇室に対しての職務の面からいっているもの。大伴によって。○国栄えむと 「国」は天皇のしろしめす国で、国家。国家が栄えるであろうとて。○月は照るらし 「月」は、そのおりから天上に照っていたもので、初句より四句までのことを示して照っているのであろうで、「らし」は強く推量する意の助動詞。この月は少なくとも満月に近いものと取れる。
【釈】 靭を負っている部属の男の多い大伴によって、わが国は栄えて行こうとて、月は照っているのであろう。
【評】 大伴氏の一族が相会して、月の明らかに照っている夜、酒宴を張っていた席上で、その中の中心になっている人が、大伴氏の遠祖道臣命が、武臣として皇孫を守護して忠勤を尽くしてよりこの方のことを思い、その関係をとおして国家の将来を賀した歌である。この月は単なる風物ではなく、天上にある永遠のものとし、また国初以来の一切のことを知っているものとして見ているもので、すなわち神と異ならないものとしてである。この歌は歌柄から見ると大伴氏の歌ともいうべきものであるが、作者の知られないのは訝しい。作風はさして古いものとはみえないからである。
 大伴氏は時代関係によって次第に勢力が衰え、壬申の際の功労によって勢力を盛り返したが、これも一時的のものであったから、勢い一族のまとまりが好く、また大伴氏としての意識も強くされていたとみえるから、宴席でこうした歌の謡われることも多かったろうと思われる。
 
     雲を詠める
 
1087 痛足河《あなしがは》 河浪《かはなみ》立《た》ちぬ 巻目《まきもく》の 由槻《ゆつき》が嶽《たけ》に 雲居《くもゐ》立《た》てるらし
    痛足河 々浪立奴 卷目之 由槻我高仁 雲居立有良志
 
【語釈】 ○痛足河 奈良県桜井市大三輪町穴師を流れる川。巻目山から出て、三輪の北を流れて初瀬川に注ぐ小沢である。○河浪立ちぬ 「河浪」(336)は河の浪。にわかに一陣の風が吹き起こつて浪の立った状態。○巻目の由槻が嶽に 「巻目山」は、三輪山の東に続いている連山の称で、由槻が嶽はその中の高峰、標高五六五メートルである。○雫居立てるらし 「雲居」は、空の意のものと、雲の意のものとある。雲の意のものは、「居」は雲の状態をあらわすもの。「立てるらし」は、烈風によって立っているらしい。
【釈】 痛足河ににわかに河浪が立った。巻目の由槻が嶽には雲が立っているらしい。
【評】 次の歌とともに人麿歌集のものである。人麿はこの辺りに妻があったとみえ、痛足、巻向、三輪などを詠んだ歌が多い。ここの二首もそれで、たまたま痛足河のほとりに居て、にわかに吹き起こった風に河浪の高くなったのに眼を注ぎ、それとともにその辺りの高峰の由槻が嶽に雲の立つさまを想像した心である。一切の原因である風には触れず、それによって起こされた眼に見る河浪の状態、見ない高峰の雲の状態と、変化させられての動きのほうに心を向けているのである。それも興味的に軽く見たり思ったりしているのではなく、ある驚きをもって全心を向けてのことであるのは、その調べの張ってゐる上に直接に現われている。人麿の日常の心の動きのさまをさながらに示しているような作である。
 
1088 足引《あしひき》の 山河《やまがは》の瀬《せ》の 響《な》るなへに 弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に 雲《くも》立《た》ち渡《わた》る
    足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡
 
【語釈】 ○足引の山河の瀬の響るなへに 「足引の」は、山の枕詞。「山河」は、山の河で、上の歌の痛足河。「響る」は、鳴るで、「河浪立ちぬ」(337)と眼に見ていていったのを、今はそこを離れて、その河浪を音として聞いていることをあらわしたもの。「なへに」は、並べにで、同時に、あるいは伴っての意。○弓月が嶽に雲立ち渡る 「立ち渡る」は、一面に立ち広がってくるで、上の歌で想像していた弓月が嶽を、今は限に見ていっているもの。
【釈】 足引の山河の河瀬が音高く響くのに伴って、弓月が嶽には一面に雲が立ち続いてくる。
【評】 上の歌と連作となっているもので、作者の位置としては痛足河より離れて弓月が嶽に近く、その見える所に来、時間としては、嵐の活動が一層激しくなった時である。この歌は、作者としての態度方法は上の歌と同様であるが、嵐の威力が加わるとともに感動も高まり、その状景の中に没入し、一体となりつつも、同時に他方ではその状景とある距離をもち、十分な具象化を遂げているのである。取材が日常的なものであるために、人麿の作歌の消息を上の歌とともに明らかにみせている。籠もった味わいのある魅力多い作である。
 
     右の二首は、柿本朝臣人麿歌集に出づ。
      右二首、柿本朝臣人麿之謌集出。
 
1089 大海《おほうみ》に 島《しま》もあらなくに 海原《うなばら》の たゆたふ浪《なみ》に 立《た》てる白雲《しらくも》
    大海尓 嶋毛不在尓 海原 絶塔浪尓 立有白雲
 
【語釈】 ○大海に島もあらなくに 「も」は詠歎。「なく」は打消「ず」の名詞形。「に」は、詠歎。大海に島もないことよ。○海原のたゆたふ浪に 「たゆたふ浪」は、動揺だけしている浪。○立てる白雲 立ち昇っている白雲よで、下に詠歎がある。
【釈】 大海の上に島もないことよ。広い海原の動揺している浪の上に立ち昇っている白雲よ。
【評】 素朴な詠み方をした歌であるが、怪しいまでに印象のはっきりした歌である。作者の驚異の感が伝わって来るためである。「大海に島もあらなくに」は、大和国にばかり住んでいて、雲といえば山に立つものと思っていた人の最初の驚異である。「海原のたゆたふ浪に」と、さらに海を見直して、その拠りどころのないことを思って、「立てる白雲」と驚異しているのは、その作者としては実感そのままの直写である。作者のその心に引かれて、その光栄が強く印象づけられる結果となるのである。
 
     右一首、伊勢の従駕に作れる。
(338)      右一首、伊勢従駕作。
 
【解】 伊勢への行幸は『代匠記』は藤原時代から奈良時代へかけて、持統天皇の六年、聖武天皇の天平十二年の二度であると考証し、持統天皇の際のものだろうといっている。その間にもあったが、この巻は天平十二年までは下らないようにみえ、作風としてもやや古い風とみえるのである。
 
     雨を詠める
 
1090 吾妹子《わぎもこ》が 赤裳《あかも》の裾《すそ》の 染《し》み※[泥/土]《ひ》ぢむ 今日《けふ》の※[雨/(月+永)]※[雨/沐]《こさめ》に 吾《われ》さへ沾《ぬ》れな
       吾妹子之 赤袈裙之 將染※[泥/土] 今日之※[雨/(月+永)]※[雨/沐]尓 吾共所沾名
 
【語釈】○染み※[泥/土]ぢむ 訓は諸注さまざまであるが、『代匠記』に従う。「染み」は、雨がしみ込み、「※[泥/土]ぢ」は漬かりで、雨にぐしょ濡れになるで、同意語を畳んだもの。○今日の※[雨/(月+永)]※[雨/沐]に 「※[雨/(月+永)]※[雨/沐]」は、和名抄に「こさめ」と出ている字で、詩経などにも出ている字である。○吾さへ沾れな 「吾さへ」は吾までもで、夫である男が自身屋内にいての想像。「な」は自身に対しての希望。
【釈】 わが妻の赤裳の裾にしみ込んでぐしょ濡れになるであろう今日の小雨に、こうして屋内にいる自分までも濡れたい。
【評】 小雨の降りつづいている日に、夫である男が、離れて住んでいる妻を思いやっての心である。一首、謡い物の匂いをもったものであるから、想像の中心になっている「赤裳の裾の染み※[泥/土]ぢむ」は、何らかの事があって外出を余儀なくされていることを知っていての思いやりではなく、日常生活の上でありうべきこととしての思いやりと取れる。「赤裳の裾」という感覚的のことを思いやっていること自体がそのことを思わせる。「吾さへ沾れな」は可愛ゆさといたわり心とのまじったものて、健康ないや味のない心よりのものである。一般性の多い歌である。
 
1091 徹《とほ》るべく 雨《あめ》はな零《ふ》りそ、吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》の服《ころも》 吾《われ》下《した》に着《け》り
    可融 雨者莫零 吾妹子之 形見之服 吾下尓着有
 
【語釈】 ○徹るべく雨はな零りそ 「徹るべく」は、『考』の訓。濡れとおりそうなまでに雨は降るなと、雨に命じたもの。○形見の服 「形見」(339)は、離れている人の身代わりとするものの総称で、ここは女の「服」である。肌寒い頃は、朝の別れに女の下の衣を借りて着て帰ることが普通なくらいになっていて、ここもそれである。○吾下に着り 「下に」は、衣の下にで、下着として。「着り」は、『略解』の訓。動詞「着」に、助動詞詞「り」の接続した語で、仮名書きの例のあるもの。
【釈】 濡れとおりそうなまでには雨は降るなよ。妻の身代わりのものとしての衣を、吾は下着として着ている。
【評】 「吾下に着り」は、旅に出ているおりなど、長期にわたってもありうることであるが、この歌はそうした暗く重い場合ではなく、明るく軽い心のもので、朝の別れに妻の衣を借りて帰る途中、小雨に遭った際のものである。それだと珍しくない普通のことで、一般性のあることである。謡い物となっていたものと思われる。
 
     山を詠める
 
1092 鳴《な》る神《かみ》の 音《おと》のみ聞《き》きし 巻向《まきむく》の 檜原《ひばら》の山《やま》を 今日《けふ》見《み》つるかも
    動神之 音耳聞 卷向之 檜原山乎 今日見鶴鴨
 
【語釈】 ○鳴る神の音のみ聞きし 「鳴る神」は、雷。その威力を讃えての称。音の枕詞。「音のみ聞きし」は、『考』の訓。評判。評判にばかり聞いていた。 ○巻向の檜原の山を 「巻向」は、(一〇八七)に「巻目」とあったのと同じで、二様に称えていたとみえる。「檜原の山」は、巻向山の南を檜原の山と呼び、それが三輪山に連なっているところから三輪の檜原とも呼ばれていた。○今日見つるかも 「かも」は、詠歎。今日初めて見たことであるよ。
【釈】 評判ばかりを聞いていた巻向の檜原の山を、今日はじめて見たことであるよ。
(340)【評】 巻向の檜原の山をはじめて見た時の感動で、その感動のいかに強いものであったかは、一首の調べの緊張していることが直接にあらわしている。そのものとしては、巻向の櫓原は三輪の檜原ともいい、泊瀬の檜原ともいって、名のごとく、檜の大森林であったと思われる。しかしこの感動は、単に大森林というだけではなく、森林は神の降るところで、神座そのものでもあったので、信仰心の強い人麿は、その心も伴っての感動であったろうと思われる。この心は下の二首にもつながっている。
 
1093 みもろの 其《そ》の山なみに 児《こ》らが手《て》を 巻向山《まきむくやま》は 継《つぎ》の宜《よろ》しも
    三毛侶之 其山奈美尓 兒等手乎 卷向山者 繼之宜霜
 
【語釈】 ○みもろの其の山なみに 「みもろ」は、御室で、神座であり、普通名詞である。集中では、飛鳥の雷岳(神岳《かみおか》)のことも、三輪山のことも「みもろ」と呼んでいる。ここは三輪山である。四音一句。「山なみ」は、山並で、山続きで、眺めての姿についての称。北に続いているのである。○児らが手を巻向山は 「児ら」は「ら」は接尾語で、妻の愛称。「手を巻く」は手を枕とするで、その「巻く」を地名に転じての枕詞。○継の宜しも 「継の」は『考』の訓。「継」は、名詞で、続きの好いことよ。「も」は詠歎。
【釈】 みむろ山のその山続きにある、思う女の手を巻くというに因みある巻向山は、山続きの好いことであるよ。
【評】 上の歌の檜原の山に続けて、その主体である巻向山を讃えたものである。その讃え方は、山そのものをいうのではなく、山の位置の三諸山《みもろやま》に続いていることを讃えているのである。三輪の神は、大和国に斎く神々のうち、皇室の守護神としてもっとも尊崇されていた神である。その神の鎮座される三輪山に接していることをもって巻向山を讃えていることは、信仰心の深かった人麿としては自然なことである。しかし人麿はそれだけにはとどめず、巻向山をいうに「児らが手を」という枕詞を添えていっている。この枕詞は巻十にも用例があるが、多分人麿の創意より成るものと思われる。信仰と同時に夫婦関係をも合わせ言うということは、まさに人麿的であって、他人のしないことといえる。個性的な讃え方というべきでもある。
 
1094 我《わ》が衣《ころも》 色服《いろぎぬ》に染《し》めむ 味酒《うまさけ》 三室《みむろ》の山《やま》は 黄葉《もみち》せりけり
    我衣 色服染 味酒 三室山 黄葉爲在
 
【語釈】 ○我が衣色服に染めむ 「色服染」は、原文は諸本異同のないものであるが、訓は諸注それぞれである。この訓は『新訓』のものである。「色服」は染色した衣で、白色の衣に対させての語である。「染めむ」は、染めようと、その美しさを慕ってのもの。○味酒三室の山は 「味酒」(341)は、神に供える酒をみわというのて、同意語でその枕詞となっているのを、さらに三輪と同意語の三室冠したもの。○黄葉せりけり 『新訓』の訓。「けり」は既定のことに対しての感歎で、黄葉していることであったで、その黄葉を白色の衣に摺って、その色に染めようの意。
【釈】 我が白い衣を美しい色の衣に染めよう。三室の山は黄葉をしていることであった。
【評】 巻向の檜原の山、巻向山、三室の山の黄葉と一つづきの地を、次第に中心を変えて詠んでいるので、同時に作った一種の連作と取れる。「黄葉せりけり」は、初めて見ての語とはいえないが、少なくともある期間を見ずにいての新しい発見ということを示している語であるから、その意でも最初の歌とつながりうるものである。この歌にあっては、「味酒三室の山は」は、重い響をもったもので、単に風景としての軽いものではなく、信仰の対象としての文字通り三室の山である。その尊い山の黄葉の色を我が衣に染めつけるということは、美しさを慕うとともに信仰心を充たすことで、その意味では上の「巻向山」につながりのあるものである。この歌も人麿の個人的な心の強く働いているもので、調べもそれにふさわしく緊張している。
 
     右の三首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
      右三首、柿本朝臣人麿之謌集出。
 
1095 三諸《みもろ》つく 三輪山《みわやま》見《み》れば 隠口《こもりく》の 始瀬《はつせ》の檜原《ひばら》 念《おも》ほゆるかも
    三諸就 三輪山見者 隱口乃 始瀬之檜原 所念鴨
 
【語釈】 〇三諸つく三輪山見れば 「三諸つく」は、「三諸」は上に出た神の御室。「つく」は、斎《いつ》くで、三室のあるの意であるが、神のほうを主としていったもの。○隠口の始瀬の檜原 「隠口の」は、始瀬の枕詞。巻一(四五)に出た。「始瀬の檜原」は、三輪山の後方に続いている檜原で、それを初瀬方面から見ての称。○念ほゆるかも 連想されることであるよで、「かも」は詠歎。
(342)【釈】 御室のある三輪山を見ると、それに関連して、その後方の初瀬の檜原が思われてくることであるよ。
【評】 大和国全体の守護神である三輪の大神の御室のある三輪を見ると、神の降られるところとしての初瀬の檜原が連想されるというのは、上の人麿の歌と同じく信仰心よりの連想である。初瀬の檜原は、その見る方面によって名を異にし、巻向の檜原とも、三輪の檜原とも呼んでいるのを、特に初瀬の檜原と呼んでいるのは、初瀬方面の人の心である。部落精神の強かった時代とて、こうした言い方が必然的なものであり、それを聞く人にも特殊な親しみがあったことと思われる。
 
1096 昔者《いにしへ》の 事《こと》は知《し》らぬを 我《われ》見《み》ても 久《ひさ》しくなりぬ 天《あめ》の香具山《かぐやま》
    昔者之 事波不知乎 我見而毛 久成奴 天之香具山
 
【語釈】 ○昔者の事は知らぬを 「昔者の事」は、下の香具山に古の代にあったこと。「知らぬを」は知り得ないが。○我見ても久しくなりぬ 我が見た間も、すでに久しくなったで、その久しさを実証的にいったもの。○天の香具山 「天の」は、神聖な山として、添えて呼ぶことになっていたもの。下に詠歎がある。
【釈】 古のことは知らないが、我が見てからも久しくなった。天の香具山よ。
【評】 天の香具山の辺りに住んでいる人の讃え歌である。香具山は神聖な山とされ、山そのものにも信仰よりの伝説があり、神事との関係も深いところから、他の山とは比較を超えた尊くも親しい山となっていたのである。それをいうに、一に時間的にいっているのは、それがやがて信仰に繋がりゆくことだったのである。その時代にはきわめて一般性のある歌だったろうと思われる。おおらかな詠み方をしているのは、それで十分に通じたからである。
 
1097 吾《わ》が勢子《せこ》を こち巨勢山《こせやま》と 人《ひと》は云《い》へど 君《きみ》も来《き》まさず 山《やま》の名《な》にあらし
    吾勢子乎 乞許世山登 人者雖云 君毛不來益 山之名尓有之
 
【語釈】 ○吾が勢子をこち巨勢山と 「吾が勢子をこち」は、「巨勢」へかかる七音の序詞。「こち」は、こちらで、妻のいる方。「こせ」は動詞「来す」の命令形で、いらっしやい。吾が背子にこちらへいらっしやいというので、その「こせ」を地名の巨勢に転じさせたもの。この序詞は、形は序詞であるが、内容は実際である。「巨勢山」は、巻一(五四)に出た。大和国から紀伊国への通路の山。○人は云へど 世間の人はいって(343)いるが。○君も来まさず 「君」は、吾が勢子。「来まさず」は敬語。○山の名にあらし 我には関係がなく、ただ山の名なのであろう。
【釈】 わが背子にこちらへいらっしやいと言っている巨勢山だと人は言うけれども、君はいらっしやらない。我にはただ山の名なのであろう。
【評】 巨勢山の辺りに住んでいる人妻である女が、その夫の疎遠にして通って来ないのを嘆いた心のものである。この嘆きは当時の夫婦生活にあってはありがちなもので、一般性をもったものである。また当時は、物の名に対して深い信仰をもち、物の名は名のごとき力を蔵しているものだと信じており、「名にこそありけれ」「言にしありけり」など、名に実の伴わないことを嘆いた歌が少なくない。これもその範囲のもので、この作者は「巨勢山」というその住地の山の名によって、その山は、「吾が勢子をこち巨勢」という力を蔵しているものと頼んでいるものであるが、「君も来まさず」という状態なので、「山の名にあらし」と、失望に近い嘆きをしているのである。「吾が勢子をこち巨勢」は、技巧にはかかわりのない生活実感である。「来せ」を「巨勢」に掛詞にしているのは技巧に似ているが、これは謡い物の上では普通のことになっていた序詞と同じ形のものであるから、言い馴れている形であって、意識しての技巧とはいえないものである。この歌は、巨勢地方に民謡として謡われていたものではないかと思われる。相聞の歌であって、一般性をもったものでもあり、語の機知があり、調べが明るくて、民謡としての条件を備えているものだからである。
 
1098 紀道《きぢ》にこそ 妹山《いもやま》ありと云《い》へ み櫛上《くしげ》の 二上山《ふたがみやま》も 妹《いも》こそありけれ
    木道尓社 妹山在云 三櫛上 二上山母 妹許曾有來
 
【語釈】 ○紀道にこそ妹山ありと云へ 「紀道」は、紀伊国そのものをも、紀伊国へ行く路にも用いている。ここは後のもの。「妹山」は、古くはその名のない山で、紀伊国伊都郡の西端の紀の川の南岸に背山のあるのに対して、設けた名であるともいい、また、背山と相対して、紀の川の北岸にあったろうともいって、明らかではない。山に妹背のあるということは上代にあっては広範囲にわたってあったことで、後より設けていったとしても、遅速の問題だけで、さしたることではない。とにかくここは、そうした山があると聞いて、信じていっているものである。 ○み櫛上の二上山も 「み櫛上の」は、「み」にあたる原文のない本が多い。大矢本、京都大学本の「三ィ」とあるに従う。『考』は「三」は「玉」の誤りかとしている。「み」は、美称。「櫛上」は櫛匣《くしげ》で、櫛を入れておく箱。螺鈿などで装飾したものもあった。その蓋《ふた》を「二《ふた》」に転じての枕詞。「二上山」は、巻二(一六五)「二上山を弟世《なせ》と吾が見む」に出た。大和国北葛城都、西葛城山脈中の一嶺。峰が二つ並び、男岳女岳となっている。○妹こそありけれ 「妹」は、その女岳。
(344)【釈】 紀州往還にこそ妹山があると人が言っているが、現に眼に見る二上山も、妹山があることである。
【評】 耳に聞く話としても、目に見る事としても、山にも妹があると、力を籠めていっているものである。妹というのに憧れる心を、山に寄せてあらわしているものである。妹を求めている若い人の謡い物であったろう。「こそ」を二つ用いている点など、素朴を極めたものである。
 
     岳《をか》を詠める
 
1099 片岡《かたをか》の この向《むか》つ峰《を》に 椎《しひ》蒔《ま》かば 今年《ことし》の夏《なつ》の 陰《かげ》に比《そ》へむか
    片岡之 此向峯 椎蒔者 今年夏之 陰尓將比疑
 
【語釈】 ○片岡のこの向つ峰に 「この」は、後世の「かの」にあたる古格。「片岡」は、地名。奈良県北葛城郡、今の王寺町、香芝町、上牧村辺の地であろうという。「向つ峰」は、向いの、すなわち正面にある峰で「峰」は高い稜線。○椎蒔かば 椎の実を蒔いたならばで、蒔こうとするのは、下の続きで春である。○今年の夏の陰に比へむか 「今年の夏の陰」は、今年の夏、山の木立が繁って作るところの緑蔭。「比へむか」は、定本の訓。「比へ」は、擬すの意で、巻八(一六四二)たなぎらひ雪もふらぬか梅の花咲かぬが代《しろ》にそへてだに見む」がある。「か」は疑問。椎が生い立って、今年の夏の緑蔭に擬せられるものとなろうか。
【釈】 片岡の、あの真向いの峰に椎の実を蒔いたならば、今年の夏、緑蔭に擬せられるものとなるであろうか。
【評】 椎の実を蒔いて、育って緑蔭を作るものとなることを想像するのは、可能性のある当然のことであるが、春蒔く実がその夏に緑蔭に擬せられるものとなるということは不可能なことである。急の間《ま》に合うことは不可能であるが、本来可能性のあるという上に立ってそのことを想像するのはいわゆる憧れで、欲望としては不自然なものではない。そうした憧れは、老いたる者が幼い者に対してもち、男女間では一層もっている。この歌はそうした心を譬喩としていったもので、庶民生活に即して具象したものと思われる。
 
     河を詠める
 
1100 巻向《まきむく》の 痛足《あなし》の川《かは》ゆ 往《ゆ》く水《みづ》の 絶《た》ゆることなく 又《また》反《かへ》り見《み》む
(345)    卷向之 病足之川由 徃水之 絶事無 又反將見
 
【語釈】 ○巻向の痛足の川ゆ往く水の 「痛足の川」は、(一〇八七)に出た。「ゆ」は、移動の経路を示すもので、間を通って。「往く水の」は、往く水のごとく断絶することなくで、譬喩。○又反り見む またも立ち帰ってここを見よう。
【釈】 巻向の痛足の川をとおって往く水のように、我は将来も絶えることなく、また立ち帰って見よう。
【評】 巻一(三七)「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなく復かへり見む」に酷似した形をもった歌である。しかし心からいうと、この歌は吉野宮へ行幸になった際の賀歌で、「かへり見む」というのは吉野宮であるが、今の痛足の川の歌は主格となるものが明らかではない。「巻向の痛足の川ゆ往く水の」は、「絶ゆることなく」に譬喩として序詞の形をもって続いているものだからである。しかし一首の調べは緊張したもので、熱意をもって詠んでいるものであることを直接に示している。言葉の上から見ると、主格となっているものは痛足の川そのもので、その光景に感動していることとなるのであるが、それとしては飽き足りない感がある。前後の歌から見ると、人麿はこれらの歌を作った当時、痛足川のほとりに新たに通い初めた妻があったらしいので、この歌はその妻に対してのものと思われる。妻に対しての夫の歌は、将来の誠実を誓うことが建前になっている。誓言とすれば、妻の家の辺りの痛足川の水の永遠を譬とすることはきわめて自然なことで、また相対しての歌であるから、主格を省いた詠み方をすることも自然である。もとより第三者の見ることなどは予想しない歌で、相手に通じさえすればよいものなのである。この歌はそうした条件の下での作と思われる。
 
1101 黒玉《ぬばたま》の 夜《よる》さり来《く》れば 巻向《まきむく》の 川音《かはと》高《たか》しも あらしかも疾《と》き
    黒玉之 夜去來者 卷向之 川音高之母 荒足鴨疾
 
【語釈】 ○黒玉の夜さり来れば 「黒玉の」は、夜の枕詞。「夜さり来れば」は、夜と移って来れば。○巻向の川音高しも 「巻向の川音」は、痛足川の瀬の音。○あらしかも疾き 「かも」は疑問。あらしの風が激しいからであろうか。
【釈】 夜と時が移って来れば、巻向にある川の瀬の音が高いことである。あらしが激しいためなのであろうか。
【評】 巻向山の山中に宿って、夜が更けて物音が絶えるに伴って、痛足川の瀬の音の高まってきたのに感動した心である。川の瀬の音に対して心を動かすということは一般性のものであるが、この歌のもつ感動はかなり強いもので、それが特色をなしているものである。痛足川の瀬の音を、「巻向の川音」と言いかえると、その感が大きくなる。これはそれを意識してのもの(346)と思われる。「あらしかも疾き」は、実際にあらしが激しく吹いていれば、当然川瀬の音を圧するものとなろうから、こうした言い方をすべきではなかろうから、これは「かも」を添えていっているのでも明らかなよぅに、瀬の音の高さをあらわすためのものと思われる。「黒玉の夜」の中に「川音高しも」を置き、その高さを誇張をもっていっているのは、単なる興趣ではなく、自然の威力を感じ、それをあらわそうとしたものと思われる。この歌は一読それを感じさせるものである。
 
     右の二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
      右二首、柿本朝臣人麿之謌集出。
 
1102 大王《おほきみ》の 御笠《みかさ》の山《やま》の 帯《おび》にせる 細谷川《ほそたにがは》の 音《おと》の清《さや》けさ
    大王之 御笠山之 帶尓爲流 細谷川之 音乃清也
 
【語釈】 ○大王の御笠の山の 「大王の」は、御料としての御笠と続け、それを山の名に転じての枕詞。枕詞より続く「御笠」は、高貴の方の、後《うしろ》より差し翳させる絹傘である。「御笠の山」は、春日の三笠山で、既出。○帯にせる 「帯」は、下の「細谷川」が山の腰を繞っている状態を譬えていったもの。上代には、山はすなわち神だと信仰していたのであるから、この譬喩はその信仰につながっているもので、したがって連想し易く、類例も少なくないものである。○細谷川の音の清けさ 「細谷川」は、細き谷川。巻十(一八六一)「能登川の水底さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも」があり、能登川と取れる。春日山に発し、西流して大安寺にて岩井川と合し、佐保川にそそぐ。「清けさ」は、「さ」は、詠歎。谷川であるから、実際に即しての感である。
【釈】 大君の御笠というに因みあるこの三笠の山が、帯として腰に繞らしている細い谷川の、その瀬の音の清《さや》かなことよ。
【評】 細谷川の音の清かなのを讃えたものではあるが、単に興趣としてだけではなく、三笠山に上代信仰よりの神性を感じ、賀の心も伴わせたものと思われる。「大王の」という枕詞も、それに繋りをもってのものと取れる。
 
1103 今《いま》しくは 見《み》めやと念《おも》ひし み芳野《よしの》の 大川《おほかは》よどを 今日《けふ》見《み》つるかも
    今敷者 見目屋跡念之 三芳野之 大川余杼乎 今日見鶴鴨
 
【語釈】 ○今しくは見めやと念ひし 「今しく」は、旧訓。続日本紀の天平宝字八年の宜命に、「今之紀乃間方《いましきのまは》、念見定牟仁《おもひみさだめむに》」とあり、今という意の(347)古語である。体言を形容詞風に活用させたものの名詞形で、同形の語が他にもある。「見めや」は反語。○み芳野の大川よどを 「大川よど」は、大きな川|澱《よど》で、あとに出る六田の淀であろう。澱のできるところは川の流れに変化のある、したがって面白い所である。
【釈】 今は年老いたので、見られようか見られはしまいと思っていた吉野川の大きな川澱を、今日見たことであるよ。
【評】 旅行はたやすくなかった時代とて、吉野の風景にあこがれつつも見るを得ずに老いた人が、思いがけずもそれのかなった喜びで、心は明らかである。歌は洗練されており、繊細味をもったもので、当時としては新味をもったものである。
 
1104 馬《うま》並《な》めて み芳野川《よしのがは》を 見《み》まく欲《ほ》り 打越《うちこえ》え来《き》てぞ 滝《たぎ》に遊《あそ》びつる
    馬並而 三芳野河乎 欲見 打越來而曾 瀧尓遊鶴
 
【語釈】 ○馬並めて 「馬並めて」は、乗馬を連ねてで、友と連れ立っての意で、大宮人の状態である。○打越え来てぞ 「打」は接頭語。「越え」は、山を越える意で、山というのは、巻一(七五)「宇治間山《うぢまやま》朝風寒し」とあるその宇治間山と取れる。山は吉野郡吉野町千股にあり、飛鳥地方から吉野上市へ出る路にあるもの。○滝《たぎ》に遊びつる 「滝」は、早瀬の称であるが、その代表的のものは吉野離宮に近くあるもので、ここもそれと取れる。「つる」は「ぞ」の結。
【釈】 乗馬を連ねて友とともに吉野川を遊覧したいことだと思って、今日は思いのごとく、宇治間山を越えて来て、名高い滝に遊んだことであるよ。
【評】 前の歌と同系統のもので、異なるところはこの作者は老いてはいないことである。したがってその喜びも、明るく軽いところがある。それぞれの生活に即しているといえる。
 
1105 音《おと》に聞《き》き 目《め》には未《いま》だ見《み》ぬ 吉野川《よしのがは》 六田《むつた》のよどを 今日《けふ》見《み》つるかも
    音聞 目者未見 吉野川 六田之与杼乎 今日見鶴鴨
 
【語釈】 ○音に聞き目には未だ見ぬ 評判には聞いているが、眼にはまだ見ないところので、「ぬ」は、連体形。○吉野川六田のよどを 「六田のよど」は、上市の下流で、吉野川の川幅が広くなり、川淀をなしている所の称。吉野町六田(南岸)、大淀町北六田(北岸)がある。上の「み芳野の大川よど」もここを指しているかと思われる。ここは後世も名所となった所である。
(348)【釈】 評判には聞いていて、目にはまだ見ない吉野川の六田の澱を、今日は見たことであるよ。
【評】 憧れていた吉野川の名所の一つである六田の淀を見得た喜びである。上の二首、この歌、これに続く一首は、取材も心も通うところのあるものであり、歌風も似ているので、上の歌に「馬並めて」とある一行で、同じ時に詠んだものではないかと思われる。
 
1106 かはづ鳴《な》く 清《きよ》き河原《かはら》を 今日《けふ》見《み》ては 何時《いつ》か越《こ》え来《き》て 見《み》つつ偲《しの》はむ
    川豆鳴 清川原乎 今日見而者 何時可越來而 見乍偲食
 
【語釈】 ○かはづ鳴く清き河原を 「かはづ」は、河鹿。この二句は、吉野川を具体的にいったものと思われるが、それは下の「越え来て」によってのことで、それがないと察し難い言い方である。○今日見ては 「は」は、下の「見つつ」に対させたもの。○何時か越え来て いつまた山を越えて来てかで、この「越え来て」は、上の「打越え来て」と同じ意のものと取れる。○見つつ偲はむ 「見つつ」は、「つつ」は継続で、久しく見る意。「偲はむ」は、賞美をしよう。
【釈】 河鹿の鳴いているこの清い河原をこのように見て、この見飽かない光景を、いつの時にまた宇治間山を越えて来て、見つつ賞美することであろうか。
【評】 「かはづ鳴く清き河原」で吉野川を鑑貸し、「何時か越え来て見つつ偲はむ」と感じているのであるが、この感はこの場合としては突飛なものである。こうした感を起こすのは、この遊覧は一人のことではなく、上の歌の「馬並めて」という状態で何人か同行してのことで、そのことが興味の一半をなしていたところから、こうした状態での遊覧を再びするのはむずかしいと思っての感であろう。それだとその日の喜びを詠んだものとなり、自然なものとなる。その心よりのものであろう。
 
1107 泊瀬川《はつせがは》 白木綿花《しらゆふばな》に おちたぎつ 瀬《せ》を清《さや》けみと 見《み》に来《こ》し吾《われ》を
    泊瀬川 白木綿花尓 墮多藝都 瀬清跡 見尓來之吾乎
 
【語釈】 ○泊瀬川白木綿花に 「泊瀬川」は、巻一、(七九)に出た。桜井市、旧上郷村地域に発し、泊瀬の渓谷を流れ、三輪山の南方を過ぎて平野に出る川である。この川は、渓谷の川である。「白木綿花」は、巻六(九〇九)に出た。木綿で造った白い造花。巻六(九一二)「泊瀬女の造る木(349)綿花」と出、泊瀬には関係のある物でもある。「に」は、の状態にの意で、ごとくというにあたる。○おちたぎつ瀬を清けみと 「おちたぎつ」は、しばしば出た。落ちて、泡立ち流れる意で、山川の状態をいったもの。「清けみと」は、「清けみ」は、清けきゆえにで、清かだから。「と」は、と思って。○見に来し吾を 「を」は詠歎。見に来た吾よで、あくまでも見ようとの心でいっているもの。
【釈】 泊瀬川の、白木綿花のごとくにも流れ落ちて泡立つ瀬の、清《さや》かであると思って、見に来た吾よ。
【評】 渓流の清けさに強く心を引かれたと見え、それをいっている歌が多いが、この気分は表現し難いもので、状態をとおして気分まで言い得た歌は少ない。この歌は、四句までは状態をいい、結句「見に来し吾を」によって気分をあらわそうとしているものである。さらにいうと、初句から四句までは、あこがれていた状態の現前していることをいい、結句は、この状態はあこがれてわざわざ見に来たものであるから、あくまでも見ようということを暗示的にいったもので、それによって景のもつ清けさを自身の気分として現わそうとしたのである。結句は一見わざとらしい感のあるものであるが、作者としてはここに力点を置いてあって、このようにいうより他になかったものと思われる。熱意の籠もった、素朴な、ある重量をもった歌である。
 
1108 泊瀬川《はつせがは》 流《なが》るる水尾《みを》の 湍《せ》を早《はや》み 井提《ゐで》越《こ》す浪《なみ》の 音《おと》の清《きよ》けく
    泊瀬川 流水尾之 湍乎早 井提越浪之 音之清久
 
【語釈】 ○流るる水尾の湍を早み 「水尾」は、水脈とも書く。水路で、水のやや高くなって流れるところの称。「早み」は、早いので。○井提越す浪の 「井提」は、現在の井堰《いせき》。これは傾斜をもって流れて落ちてゆく水を、分けて他へ導くために一応湛えさせようとして、流れを瀬切らせる設備。泊瀬川の流れが早いので、水の大部分は井堰を越して浪となって落ちるのである。○音の清けく 形容詞「きよけ」に「く」が接続して名詞形となったもの。滑きことよ。
【釈】 泊瀬川の水脈が早いので、流れを瀬切って構えてある井堰を越えて落ちる浪の音の清いことよ。
【評】 滝《たぎ》の音、川瀬の音など、川水の音のさわやかなことを讃えた歌は多い。これは井堪を越して落ちる水の音で、快さの範囲は同じであるが、種類の異なったものである。大体変化のない、深い音である。音の起こる状態を委しく描いているのは、その音のもつ特殊な快さを、具象的にあらわそうとしてのもので、文芸的なものである。上の歌と同系統である。
 
1109 さ檜《ひ》の隈《くま》 檜《ひ》の隈川《くまがは》の 瀬《せ》を早《はや》み 君《きみ》が手《て》取《と》らば 縁《よ》らむ言《こと》かも
(350)    佐檜乃熊 檜隈川之 瀬乎早 君之手取者 將縁言毳
 
【語釈】○さ檜の隈檜の隈川の 「さ檜の隈」は、「さ」は接頭語、「檜の隈」は、巻一(一七五)に出た。高市郡、今の真弓村の南、野口、栗原、平田にわたる地名。「檜の隈川」は、高取山に発し、檜前《ひのくま》、真弓、見瀬を経て、畝傍山の西を流れ、曾我川に合流する川。○瀬を早み 瀬が早いゆえに。これは、檜の隈川は橋がなく、越すには徒渉することになっており、今もそれをしようと、河瀬の中に立っていての心である。作者は女で、女として瀬が早いので、危うさを感じての心である。この徒渉ということは、上代にはむしろ普通のことで、一般性のあり、説明を要さないことだったのである。○君が手取らば 「君」は、作者である女と一しょに徒渉をしている男を指したもの。「手取らば」は、危うさを脱れようがために、力ぐさとして男の手を取ったならばの意。○縁らむ言かも 訓は諸注さまざまであるが、『新訓』に従う。「縁らむ言」は、言縁らむを、言の方を主にしていったもので、噂が集まろうかの意。
【釈】 檜の隈の檜の隈川の徒渉地点の河瀬が早いゆえに、力ぐさに君が手を取ったならば、さまざまな噂が集まって来るのであろうか。
【評】 この歌は、作者は女となっているが、取材となっている事柄も、それに対する女の危惧と不安も、当時としては一般性をもっていたもので、女の生活を代弁している一首と思われる。「さ檜の隈檜の隈川の」は謡い物的であり、以下もそれに準じうる平明なものである点から見て、檜の隈地方に謡われていた謡い物であったろう。これは明らかに相聞の歌である。
 
1110 斎種《ゆだね》蒔《ま》く 新墾《あらき》の小田《をだ》を 求《もと》めむと 足結《あゆひ》出《い》で沾《ぬ》れぬ この川《かは》の湍《せ》に
    湯種蒔 荒木之小田矣 求跡 足結出所沾 此水之湍尓
 
【語釈】 ○湯種蒔く新墾の小田を 「斎種」は、斎み浄めた稲の種の意である。上代は食料を得る上には、さまざまの信仰が伴っていて、農作物の上にもその多くがあり、その中の一部は現在にも伝わっている。稲についても、種その物、種蒔、苗植、水口祭、害虫除けと、つぎつぎに神事が続いていた。斎種もその一つで、種その物を斎い浄めて豊年を期したのである。「新墾の小田」は、「小田」は、「小」は美称で、田。新墾の田である。斎撞を蒔いて早苗とするには、新墾の田によるべきだとしていた信仰のあったことが知られる。○求めむと 探し求めようとして。新墾すべき早苗田の場所は、その求むべき方角は、神意によって定められていたかと思われ、また必要上、水利の便のよい所でなくてはならない。これらのことを頭に入れてのことである。○足結出で沾れぬ 「足結」は、上代の袴をくくし上げて、膝頭の下で紐で結わえることの称。労働に便なためにするのである。「出で」は、語の続きがやや唐突なところから、誤写説もあり、訓も定まっていないが、文字は諸本異同がなく、訓は『新訓』の「出で」が最も自然であるから従う。足結をして家を出ての意である。「沾れぬ」は、その足結が濡れたで、濡らしたのは下の川である。(351)○この川の湍に この川の瀬を徒渉したためにで、場所を探すのに流れに沿ってしていることを示しているものである。濡れた所を足結としているのは、浅くない流れを渉ったことを具象的にあらわしているものである。
【釈】 斎種を蒔く新墾すべき早苗田を探そうとして、足結をして家を出て、その足結を濡らした。この川を渉るがために。
【評】 早苗田の場所の選定ということは、農民に取ってはその年の仕事の最初のもので、また最も緊張して向かった仕事であったことは察しやすい。当時の国民は、きわめて一少部分を除いてはすべて農業をしており、他の勤労をしている者でも、農業を全くしなかった者はなかろうから、この歌にいっていることは、代表的に一般性をもったことであったろう。また当時の農業は、一に守護神の神意に従ってのものであるから、型がきまっていて、ここにいっていることは何らの説明も要さなかったことと思われる。この歌は純粋な農業労働の歌で、その意味で珍しいものである。全体として重苦しいものではなく、どちらかというと明るさのあるもので、気の利いたところもある。また求める小田は、求めつついる道程のもので、求められたのではなく、その労働は明日に続くべきものとなっている。歌柄から見て、謡い物として行なわれていたものであろうと思われるが、その意味でこの歌は、この当時の農民の生活気分を代弁しているものと解される。
 
1111 古《いにしへ》も かく聞《き》きつつや 偲《しの》ひけむ この古河《ふるかは》の 清《きよ》き瀬《せ》の音《と》を
    古毛 如此聞乍哉 偲兼 此古河之 清瀬之音矣
 
【語釈】 ○古も 「古」は、広く古の時代をさしているもので、古の人々もまた。○かく聞きつつや偲ひけむ 「や」は、疑問の係助詞。「偲ふ」は、ここは眼前のものを賞美する意のもの。○この古河の 「この」は、眼前を指したもの。「古河」は、初瀬にもあり、石上《いそのかみ》にもあつて、巻十二(三〇一三)「石上袖振《いそのかみそでふる》河の」とある。ここは石上と思われる。山辺郡の今の天理市|布留《ふる》で、石上神宮の東にあたる。
(352)【釈】 古の人もまた、このように聞き入りつつも賞美したことであろうか。この古河の清い瀬の音を。
【評】 河瀬の音の清らかなのに聞き入って賞美している心である。作者は賞美のあまり、これは自身だけのことではなく、古人も同様にしたことだろうと、不変な人間性を悠久なものにつないだのである。この瀬の音は清いばかりではなく、静かなものでもあったろうが、それを酷愛する心、また歴史的に感じようとする心は、我が国の特色といえるものである。歌としては、文芸性の多い、新風のものである。
 
1112 はね蘰《かづら》 今《いま》する妹《いも》を うら若《わか》み いざいざ河《かは》の 音《おと》の清《さや》けさ
    波祢蘰 今爲妹乎 浦若三 去來率去河之 音之清左
 
【語釈】 ○はね蘰今する妹を 「はね蘰」は、巻四(七〇五)に出た。少女が年ごろに達した時に用いる髪飾だろうと想像されているだけある。大体かずらは、植物で輪を造り、頭髪の上に戴くもので、これもその範囲のものであろう。「今する」は、あらたに、すなわち初めて用いているという意で、「妹」がようやく年ごろに達したことを具象化していったもの。○うら若み 「うら」は心で、うぶなのでというにあたる。これは男女間についていっているもの。○いざいざ河の音の清けさ 上の「いざ」は、上を承けて、男がいざと、情事関係に誘う意のもので、この「いざ」を「いざ河」の「いざ」へ畳音の関係でかけたものである。すなわち初句より「いざ」までは、序詞である。「いざ河」は、率河と書き、春日山より発し、猿沢他の南をめぐって柏木池の近くで佐保川へ注ぐ川。
【釈】 はねかずらを初めて用いる妹がうぷなゆえに、事を知らないので、いざと情事に誘う、そのいざに因みある名の率河の瀬の音の清かであることよ。
【評】 「はね蘰今する妹」という言葉は、早婚な当時のこととて、男の目にはきわめて印象的に見えることであったらしく、用例の少なくないものである。これもそれを三句以上まで言い続け、しかも「いざ」といういわゆる際どいことへまでもっていった上で、「いざ河の音の清けさ」という、きわめてかけ離れたものと結びつけているのである。この序詞の用い方、対照の際やかさは、まさに典型的な謡い物である。それでいてこの歌には統一された味わいがあって、一首全体としてみると、「はね蘰今する妹」の可憐にして清純なのと、小渓流のいざ河の瀬の音の、低くして清らかなのとは、溶合して侵し合わないものがある。さらにいうと、調和しそうもない人事と自然とが、生き生きとした状態において微妙に調和しているのである。奈良京の人の歌と思われるが、この歌を謡う人も聞く人も、人事と自然を渾融させようとし、またさせていた気分が窺われるのである。その意味で注意を引く歌である。
 
(353)1113 この小川《をがは》 白気《きり》ぞ結《むす》べる 流《なが》れゆく 八信井《はしりゐ》の上《うへ》に 言挙《ことあげ》せねども
    此小川 白氣結 流至 八信井上尓 事上不爲友
 
【語釈】 ○この小川白気ぞ結べる 「白気」を「きり」と訓んだのは、仙覚以来である。二句より四句までの訓は定まらず、語注さまざまである。この歌の訓は、『略解』の訓に従ったものである。この小川の上に霧が結んでいることであると、訝かった心である。冬の寒い頃は、川の上にだけ霧の立つことは普通のことであるのに、それを訝かっているのは、そこに意外を感じたのである。○流れゆく八信井の上に 「井」は上代は、広く飲用水を汲む場所の称で、川の水を飲料にしている地では、水汲み場所を定めて、そこを井と称していたのである。「八信井」は、走り井で、流れゆく水を飲料としている所での称である。「流れゆく走り井」は、上の「小川」の一部が、すなわちそれである。「上に」は、ほとりに。○言挙せねども 「言挙」は、言葉に出して自身の意見を主張し、または議論をすること。これは古来禁忌としていることで、我が国では自身を主張せずとも、神々は照覧し、しかるべく守護しているとする信仰につながりをもってのことである。この歌では、小川に霧の結ぶということは、そこで言拳をした場合のことであるとし、それをしないのだけれども霧が立っていると訝かった形になっている。嘆きをすると霧が立つという歌は集中に少なくはない。その霧は荒い息の冷たい外気のために凝ったものであろうから、言挙によっても同じく霧は立ちうるはずである。ここは、霧は言挙より立つものとし、今はそれをしないのに立っていると訝かっているのである。
【釈】 この小川に霧が結んでいることである。流れてゆく走り井のほとりで、我は言拳をしないけれども。
【評】 この歌は言ったように二句から四句までの訓が定まらないので、はっきりとはいえないが、しかし大意は上にいったものとさしてかけ離れたものではなかろぅと思う。しかしその大意の背後にあるもので、同時に大意の内容をなしているものはわからない。窺えることは、走り井のある小川に霧の立つということは、その井のほとりで言拳をした時に起こりうることだとすること、その部落の共有の水汲み場所は、言挙といぅ禁忌になっていることは特にすべからざる場所だということ、あるいはまた、水を汲むのは若い女子のすることで、男子である作者がそこで言挙をするということは甚しく避くべきことであるというような信仰があって、そうしたものがこの歌の背後にあるのではないかと思われる。こうした歌の存在しているのは、伝唱を通してのことであるか、または記録によってのことであるかはわからないが、とにかく一股性のある歌として存在したことは確かである。明らかにされるのを待つ他はない。
 
1114 吾《わ》が紐《ひも》を 妹《いも》が手《て》もちて 結八川《ゆふやがは》 又《また》還《かへ》り見《み》む 万代《よろづよ》までに
    吾紐乎 妹手以而 結八川 又還見 万代左右荷
 
(354)【語釈】 ○吾が紐を妹が手もちて 我が衣の紐を、妹が手をもって結うと続け、その「結ふ」を地名としての「結」にかけた序詞。夫の衣の紐を妻が結ぶことは集中の用例が多く、夫婦相逢って別れる時には、そうすることが習わしとなっていたのである。それをするのは、妻の魂を夫に添えて離れなくするという信仰よりのことであったのは、夫がその紐を解くことを甚しく忌んでいた歌のあるので知られる。○結八川 所在が不明である。『代匠記』は、前後の歌は大和国でのものであるから、続きの部分も国別としてある関係上、大和の国内の川と思われるが、不明だといっている。ようするに有名になるべき条件を備えていないためと思われる。○又還り見む万代までに またも立ち帰って来て見よう、永久にというので、結八川に対しての愛着をいっている形であるが、それとしては言いかたが事々しい。「妹」を関係させていっているものと取れる。
【釈】 我が衣の紐を妹の手をもって結うに因みある結八川よ。またも立ち帰って見よう、永久に。
【評】 この歌の詠み方は、上の(一一〇〇)人麻呂歌集の「巻向の痛足の川ゆ往く水の」と全く同じである。裏面は結八川に対する愛着であるが、心はその川のほとりに住んでいる妹に対してのものであろう。「吾が紐を妹が手もちて」は、実瞭のことで、それを序詞の形でいったものと取れる。さらにいうと、そうした状態で別れをする時、男が女に対して自身の真実を誓った歌である。それであればこそ「万代までに」と言わなければならなかったのである。またこのことが一般性をもったものなので、伝唱もされたものと解せる。
 
1115 妹《いも》が紐《ひも》 結八河内《ゆふやかふち》を 古《いにしへ》の 人《ひと》さへ見《み》きと こを誰《たれ》か知《し》る
    妹之紐 結八河内乎 古之 并人見等 此乎誰知
 
【語釈】 ○妹が日も結八河内を 「妹が紐」は、結うと続け、「結」の枕詞としたもの。妹の衣の紐を夫が結う意で、心は前の歌と同じく信仰よりのことである。「結八河内」は、結八河の河内で、河内は河岸に立って見渡せる範囲の称。○古の人さへ見きと 「人さへ」は、『古義』の訓。我が今見るばかりでなく、古の人までも見たと。○こを誰か知る 「こを」は、後世のそをで、上の四句を指したもの。「誰か知る」は、誰が知ろう、知る者はなく、我のみが知っている。
【釈】 妹が紐を結うに因みあるこの結八河の河内を、今の我のみではなく古の人までも見た、そのことを誰が知ろう、我が知っているだけである。
【評】 前の歌と同じ作者で、同じ時、妹と別れて、妹が住んでいる結八川の河内を眺めて、しみじみと妹の可愛ゆい心から詠んだものである。今我がもっている妹を可愛ゆく思う心は、古人も同じくもっていたもので、この結八川の河内の地を、我と同じ心をもって見たに相違ない。そのことは今のわが心からはっきりと知られることで、人には知られなくても我には知られるというのである。さらに言えば、自分の体験をとおして、見ぬ古人のこともはっきりと知られるという、静かに思い入った深い心の歌である。この歌の詠み方には著しく特色がある。語づかいの簡潔で、しかも含蓄の多いことはほとんど類のないものだからである。三句以下などことにそうである。これは明らかに漢詩の影響を受けたもので、それを十分に摂取し消化したためと思われる。当時の知識人の歌であることは疑いがない。なお上の歌と同時のものということは、「妹が紐結八河内」という枕詞で、これは「吾が紐を妹が手もちて」に照応させたもので、いずれもこの作者の創意よりのものである。この自在な歌才から推すと「結八川」という所在不明の川は、あるいは作者の設けた想像の名であるかも知れぬ。二首相聞である。
 
     露を詠める
 
1116 烏玉《ぬばたま》の 吾《わ》が黒髪《くろかみ》に ふりなづむ 天《あめ》の露霜《つゆじも》 取《と》れば消《け》につつ
    烏玉之 吾黒髪尓 落名積 天之露霜 取者消乍
 
【語釈】 ○烏玉の吾が黒髪に 「烏玉の」は、枕詞。女がその髪の毛を愛でる心で、いっているもの。○ふりなづむ天の露霜 「ふりなづむ」は、「なづむ」は、滞るで、ここは溜まるというにあたる。降って来て溜まる意。「天の露霜」は、「天の」は、天上より来るものとして添えた語、「露箱」は、水霜。○取れば消につつ 「取れば消につつ」は、手に取れば、消え消えする。
【釈】 吾が黒髪の上に、降って来ては溜まる水霜を、手に取れば消え消えする。
【評】 若い女が寒い夜の夜更けに戸外に立って、通《かよ》って来る夫を待って立ち続けている心である。叙事の勝った古風な、重量感をもった歌なので、謡い物として適したものである。相聞である。
 
     花を詠める
 
1117 島廻《しまみ》すと 礒《いそ》に見《み》し花《はな》 風《かぜ》吹《ふ》きて 波《なみ》はよるとも 取《と》らずは止《や》まじ
    島廻爲等 礒尓見之花 風吹而 波者雖縁 不取不止
 
【語釈】 ○島廻すと礒に見し花 「島廻る」は、島そのものもいい、島めぐりをもいう語である。ここは島めぐり。「礒に見し花」は、「礒」は、岩の海岸。「見し花」は、見かけた花で、「花」は、女を譬えたもの。○風吹きて波はよるとも 風が吹いて波が立ち、船が寄せ難かろうともの意で、(356)花である女の得難い意を譬えたもの。○取らずは止まじ 「取らずは」は、花を取るに、女を得ることを譬えたもの。
【釈】 島めぐりをするとて、磯の上にわが見かけた花よ。風が吹いて波が立ち、船が寄せ難かろうとも、手折らずにはやむまい。
【評】 相聞の範囲の歌で、譬喩歌である。譬愉歌であるために拡がりをもちうるもので、謡い物として謡われていたものと思われる。
 
     葉を詠める
 
1118 古《いにしへ》に ありけむ人《ひと》も 吾等《わ》が如《ごと》か 三輪《みわ》の檜原《ひばら》に 挿頭《かざし》折《を》りけむ
    古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃檜原尓 挿折兼
 
【語釈】 ○古にありけむ人も 古の代にいたであろう人もまた。○吾等が如か 吾がするがごとくに。「か」は、疑問の係助詞。〇三輪の檜原に挿頭折りけむ 「三輪の檜原」は既出。「挿頭」は、髪さしで、古くは草木の花、または木の枝を髪に挿したのである。これは信仰である。挿頭を折るのは信仰よりのことで、三輪の檜原といっているのは、三輪の神を守護神と仰ぐ心からである。
【釈】 古に生きていたであろう人も、今吾がするごとく、三輪の檜原で挿頭を折ったことであったろうか。
【評】 痛足川のほとりの女の許へかよって行っていた折、守護神である三輪の社へ女とともに詣でるようなことがあって、そういう際の礼として三輪の檜原の檜の枝を揺頭に折った時の感である。三輪の神は建国当時からの皇室の守護神であるから、皇室の臣民の守護神であることはいうまでもない。信仰心のことに深かった人麿は、挿頭としての檜の枝を折るとともに、そのことは三輪の神を中心として古代の人のすべての人のしたことだと感じ、その人々と自身と一体であるごとき深き繋がりを感じたのである。これは信仰を通してのみ感じ得られる深い人生味である。「吾」を「吾等」という複数の文字であらわしているのは、一緒にいたのは痛足川の女ではないかと思わせ、それだとこの場合、最も自然であり、また情味深いことである。単純な形での抒情ではあるが、人麿の信仰心の具象的な現われで、したがって拡がりのある、味わい深い作である。
 
1119 往《ゆ》く川《かは》の 過《す》ぎにし人《ひと》の 手折《たを》らねば うらぶれ立《た》てり 三輪《みわ》の檜原《ひはら》は
    徃川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之檜原者
 
(357)【語釈】 ○往く川の過ぎにし人の 「往く川の」は、その水の過ぎることから、「過ぎ」の枕詞。「過ぎにし人」は、この世を去った人で、すなわち古の人。○手折らねば 挿頸として今はその枝を折らないので。○うらぶれ立てり三輪の椅原は 「うらぶれ」は、憂えしおれる。「立てり」は檜原の状態。
【釈】 今は世を去った人が、挿頭としてその枝を折らないので、しおれて立っている。この三輪の檜原は。
【評】 上の歌との連作である。「往く川の過ぎにし人の手折らねば」は、一見、妙な言葉である。死んだ人が手折らないのは当然にすぎることだからである。人麿の心は、古の人は挿頭としたが、今の人はしない。したがって今は挿頭とする人が居ないということを、このように言っているのである。婉曲な言い方ではあるが、しかし重々しい言い方をしているので、その心持は十分に現われている。「うらぶれ立てり」は、人々の信仰の衰えて来たことを、挿頭とされてきた三輪の檜原の檜が悲しんでいる心をいっているものである。檜は、同じ常磐木の松杉などにくらべると、木のさまがさぴしげであるから、視覚的にいえば妥当性のあるものである。この歌は上の歌とは異なって複雑した心を気分化して詠んでいるものであるが、しかし言葉つづきは直線的で、沈痛な気分の籠もっているものである。人麿の信仰心を濃厚に示している歌である。
 
     右二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
      右二首、柿本朝臣人麿謌集出。
 
     蘿《こけ》を詠める
 
1120 み芳野《よしの》の 青根《あをね》が峰《みね》の 蘿席《こけむしろ》 誰《たれ》か織《お》りけむ 経緯《たてぬき》なしに
    三芳野之 青根我峯之 蘿席 誰將織 經緯無二
 
【語釈】 ○青根が峰 離宮のあった宮滝から南方に見える山で、吉野山中の最高峰、金峯山の東北につづく山。標高八五八メートル。○蘿席 「蘿」は蘚苔類、地衣類の総称。「席」は敷物の総称で、集中にも綾席(綾で造った席)、稲席(藁で織った席)などがある。羅席はそれらに擬して、地に生えている蘿を席と見立てた称で、熟語。○誰か織りけむ 席は人の織るものなので、その心から訝かった形にして、驚嘆の情をいったもの。○経緯なしに 経糸も緯糸もない緻密なありさまにの意で、当時の布の織方は粗く、経緯の差別のありありとしていたのに較べての賞讃。
【釈】 み吉野の青根が峰の蘿席は、誰がこのように織ったのであろうか。経糸も緯糸もない緻密なありさまに。
(358)【評】 吉野山には仙女が住んでいるということは、神仙思想の流行から、飛鳥時代以来信ぜられていたことである。この歌は青根が峰の蘿を讃めたのであるが、その讃め方は、蘿の美についてではなく、実用品の席を連想した上で、その織り方の尋常でないことを怪しみをもって讃めたものである。仙女もその女であるゆえに物を織ることをいっている詩歌があり、所も吉野であるから、この歌も仙女を背後に置いていっているものと思われる。巻八(一五一二)大津皇子の「経《たて》もなく緯《ぬき》も定めず未通女等《をとめらが》が織れる黄葉《もみち》に霜な零《ふ》りそね」があり、この歌と同系統のもので関係のあるものにみえる。皇子の歌に較べるとこの歌は、取材としては素朴であり、実際に即する度も強いものであるが、詠み方としてはかえって巧緻で、皇子の歌の影響を受けたものかと思われる。
 
     草を詠める
 
1121 妹等許《いもらがり》 我《わ》が通《かよ》ひ路《ぢ》の 細竹《しの》すすき 我《われ》し通《かよ》はば 靡《なび》け細竹原《しのはら》
    妹等所 我通路 細竹爲酢寸 我通 靡細竹原
【語釈】 ○妹等許 「等」は接尾語で、「許」は、妹のもと。○細竹すすき 「細竹」は文字通り小竹。「すすき」は、禾本科の一種である今の薄の称でもあるが、また、草の叢生したものの称でもある。ここはその後のもので、小竹の叢がりで、一語。『古義』は今|篠芒《しのがや》と称している物だという。呼懸け。○我し通はば靡け細竹原 「し」は読添え。強者の助詞。「靡け」は、靡けよと命じた形で、歩く妨げをするなの意。「細竹原」は、「細竹すすき」を語をかえての繰り返しで、呼懸け。
【釈】 妹のもとへと我が通って行く路にある篠芒よ。我がかよって行ったならば、靡いて妨げをするな、細竹原よ。
【評】 妹を思う心の延長として、その妨げになるものに対して無理な注文をするのは、一般性をもった心で、人麿の「靡けこの山」はその代表的なものである。この歌もその系統のもので、何びとをも微笑させるものであったろう。平明で、華やかで、調子がよく典型的な謡い物である。広く謡われたものと思われる。
 
     鳥を詠める
 
1122 山《やま》の際《ま》に 渡《わた》る秋沙《あきさ》の 行《ゆ》きて居《ゐ》む その河《かは》の瀬《せ》に 浪《なみ》立《た》つなゆめ
    山際尓 渡秋沙乃 行將居 其河瀬尓 浪立勿湯目
 
(359)【語釈】 ○山の際に渡る秋沙の 「山の際」は、山の間。「に」は、後世の「を」にあたるもの。「渡る」は、飛び渡ってゆく。「秋沙」は、今あいさといい、秋来て春去る渡り鳥。小鴨に似ている。○行きて居むその河の瀬に そこまで行って、下りているだろうところの河瀬にで、河瀬は、食餌としての小魚をあさる目的地。○浪立つなゆめ 浪よ立つな、決してと、強く禁止した語で、秋沙を憐れむ心からいっているもの。
【釈】 山の間を飛び渡って行く秋沙の、行って下りているだろうその河の瀬に、浪よ立つな、決して。
【評】 「山の際に渡る秋沙の」と、秋沙としてはやや特殊な言い方をしているのは、渡り鳥である秋沙の、秋、初めて渡って来たのを見懸けて、その山の間を渡るのに、遠く来たことを思いやって隣れむ心からいっているものである。この時代の歌には鳥に関係したものが多く、鳥の種類も多い。秋沙なども後世の歌には見られないものである。
 
1123 佐保河《さほがは》の 清《きよ》き河原《かはら》に 鳴《な》く千鳥《ちどり》 河津《かはづ》と二《ふた》つ 忘《わす》れかねつも
    佐保河之 清河原尓 鳴知鳥 河津跡二 忘金都毛
 
【語釈】 ○鳴く千鳥河津と二つ 「河津」は、河鹿で、しばしば出た。「千鳥と河津と」の意を、上の「と」は用いずに、下にだけ添えるのは、当時の語格で、例の多いもの。○忘れかねつも 「かね」は、得ずの意で、現在の口語にも用いている。「も」は、詠歎。
【釈】 佐保河の清い河原に鳴くところの千鳥の声と、河鹿の声との二つが、なつかしくて忘れ得ないものであるよ。
【評】 佐保川の辺りに住んでいる人の、旅にあって京を思った心である。風光を思うと、その中でも生き物の鳴き声が思われ、ことにその声の幽かにして憐れむべきものが思われてくるということは、奈良京時代の一つの特色ともいえるものである。この歌もそれである。詠み方もその心にふさわしく平明なものである。
 
1124 佐保川《さほがは》に 小驟《さをど》る千鳥《ちどり》 夜更《よくだ》ちて 汝《な》が声《こゑ》聞《き》けば 宿《い》ねかてなくに
    佐保川尓 小驟千鳥 夜三更而 尓音聞者 宿不難尓
 
【語釈】 ○小驟る千鳥 「小驟」は訓が定まらない。字書に「少(シ)疾(キヲ)曰(フ)v驟(ト)」とあり、馬の疾走する状態をいう字である。「さをどる」「さばしる」など訓まれている。いずれも千鳥の状態をいう語としては用例のないものである。「さをどる」に従う。「さ」は接頭語。千鳥は呼懸け。○夜更ちて汝が声聞けば 「夜更ちて」は、『考』の訓。「汝」は、『代匠記』の訓。○宿ねかてなくに 『考』の訓。「かて」は、可能。「なく」は打消「ず」(360)の名詞形。「に」は、詠歎。
【釈】 佐保川に躍って遊んでいる千鳥よ。夜更けて汝れが鳴くと、我は眠ることが出来ないことであるよ。
【評】 佐保川の辺りに住み、昼は千鳥の躍って遊んでいるのを見て親しんでいる人が、夜はその細くあわれな、感傷を誘う声に催されて、物思いをして眠られない歎きをいっているものである。物思いとはいえ、独り寝の床に人を思う甘いものであることは、千鳥の声との関係で察しられる。天平期の歌である。
 
     故郷《ふるさと》を思《しの》ふ
 
1125 清《きよ》き湍《せ》に 千鳥《ちどり》妻《つま》喚《よ》び 山《やま》の際《ま》に 霞《かすみ》立《た》つらむ かむなびの里《さと》
    清湍尓 千鳥妻喚 山際尓 霞立良武 甘南備乃里
 
【語釈】 ○清き湍に千鳥妻喚び 「清き湍」は、飛鳥についていっているので、飛鳥川の清き瀬。「妻喚び」は『代匠記』の訓。千鳥の鳴き声を、妻を喚んでのものと想像するのは、その声のあわれさからで、慣用に近いものであるが、ここは実感としていっているもの。○山の際に霞立つらむ 「山の際《ま》」は、山の問で、飛鳥には山が多いので、いずれの山ともわからない。「際」は、霞の濃く見えるところである。○かむなびの里 「かむなび」は、神の杜の称で、普通名詞。「神なびの里」は、飛鳥も竜田もそう呼んでいる。ここは故郷すなわち故京としてで、飛鳥である。
【釈】 その清い河瀬には、千鳥が声やさしく妻を喚び、山の間には霞が立っているであろう、神なびの里は。
【評】 奈良京にいて、故京となった飛鳥の里をなつかしく思って想像した心である。時は春の初めで、想像に浮かんでくるものは、近景としては千鳥の鳴き声、遠景としては、山の間にだけ目立って見える霞という、可憐なほのかな、平穏な光景である。これが奈良京の人の好みだったのである。
 
1126 年月《としつき》も 未《いま》だ経《へ》なくに 明日香川《あすかがは》 湍瀬《せぜ》ゆ渡《わた》りし 石走《いはばし》も無《な》し
    年月毛 未經尓 明日香川 湍瀬由渡之 石走無
 
【語釈】 ○年月も未だ経なくに 年月《としつき》というほどはまだ経過しないことであるのにで、飛鳥からの遷都を背後に置いてのもの。○湍瀬ゆ渡りし (361)「湍瀬」は、幾つかの瀬。「ゆ」は、経過の地点を示すもので、を通って。「渡りし」は、渡って行った。○石走も無し 「石走」は、「いはばし」「いはばしり」と両様の訓がある。ここは後のもので、石橋であり、川の瀬に飛び石を並べて、それを踏んで渡るもの。既出。
【釈】 遷都の後、年月もまだ経ないことであるのに、明日香川の湍瀬をそれによって渡った石橋もない。
【評】 飛鳥の故京となるとたちまちに荒れてしまったことを、その地に行って見て悲しんだ心である。飛鳥川は湍瀬の定まらない流れの変化のはげしい川であるから、したがって石橋の変化もはげしかったとみえる。故京となるとともになくなったのは自然である。
 
     井を詠める
 
1127 落《お》ちたぎつ 走《はし》り井《ゐ》の水《みづ》の 清《きよ》くあれば 廃《お》きては吾《われ》は 去《ゆ》きかてぬかも
    隕田寸津 走井水之 清有者 癈者吾者 去不勝可聞
 
【語釈】 ○落ちたぎつ走り井の水の 「落ちたぎつ」は、流れ落ちて泡立つところの。「走り井」は、湧く水でも川の水でも、その流れるところに井すなわち飲用水の汲み場所として設備してあるところの称。○清くあれば 『略解』の訓。○廃きては吾は あとに残してはで、そこを立ち離れようとする際の心。○去きかてぬかも 立ち去ることが困難であるよで、「かてぬ」は既出。「かも」は詠歎。
【釈】 流れ落ち泡立っているところの走り井の水の清くあるので、その好もしさから、あとに残して吾はここを立ち去り難いことであるよ。
【評】 「落ちたぎつ走り井」というのは、山寄りなど、傾斜をもった地盤にある湧き水かまたは小川で、その水の飲用に適したものの称である。飲用水は生活上の基本のものであるが、上代の大和国にあっては得やすくなかったことが、集中の歌によって知られる。したがって大和国の人にとっては、ここにあるような井は貴くも好もしく、わが物人の物の差別も思わせないものであったろう。この歌の作者は、その走り井のある土地の人か、通りがかりの余所の人かはわからないが、大和国の人である限り、こうした感は平等にもったろうと思われ、したがって一般性をもった歌で、謡い物となりうる歌である。
 
1128 あしびなす 栄《さか》えし君《きみ》が 穿《ほ》りし井《ゐ》の 石井《いはゐ》の水《みづ》は 飲《の》めど飽《あ》かぬかも
(362)    安志妣成 榮之君之 穿之井之 石井之水者 雖飲不飽鴨
 
【語釈】○あしぴなす栄えし君が 「あしび」は、馬酔木の字を当ている。ここはその花を意味させたもの。大和地方には多い木で、白い壺状の小さい花が房をなして春咲く。「なす」は、のごとく。そのごとく栄えし君が。花そのものとしては華やかとは言い難いものであるのに、それを栄えの譬喩に捉えているのは、井のほとりには水を保護するものとして必ず木を育てていたので、このあしびはそうした関係のものであったろう。「栄えし君」は、物の豊かに、賑わしく暮らした君で、この作者には尊ぶべき人で、今は故人となっている人。○穿りし井の石井の水は 「穿りし井」は、掘り井戸で、今、井戸といっているもの。「石井」は、石で組立てた井の総称。○飲めど飽かぬかも 見れど飽かぬと同じく、絶讃した語。
【釈】 あしぴの花のごとくにも栄えていた君が掘った井の、この石井の水は、幾ら飲んでも飽かないことであるよ。
【評】 上代の井は大体流れ川の一部であり、また部落の共同のものであったから、この穿りし井の石井というのは、「栄えし君」の個人的のものであったかと思われる。作者は井のほとりのあしびが花の咲いている晩春の頃、たまたまその井の水を飲むことがあって、それとともに知合いであった「栄えし君」という故人を思い出してなつかしんだ心である。情景ともにそなえている、清らかな感をもった歌である。
 
     倭琴《やまとごと》を詠める
 
【解】 「倭琴」は日本在来の六絃の琴である。巻五(八一〇)に出た。上代としても古風な物だったのである。
 
1129 琴《こと》取《と》れば 嘆《なげ》き先立《さきだ》つ 蓋《けだ》しくも 琴《こと》の下樋《したひ》に 嬬《つま》も匿《こも》れる
    琴取者 嘆先立 蓋毛 琴之下樋尓 嬬哉匿有
 
【語釈】 ○琴取れば嘆き先立つ 「琴取れば」は、琴を弾こうとして、手に取れば。「嘆き先立つ」は、琴を弾くと、その音に催されて嘆きが起こるるものとし、その嘆きが、弾かない前から起こる意をいったもの。○蓋しくも 推量の意をあらわす副詞「けだし」に、「く」の接続した詞。おそらくは。○琴の下樋に嬬や匿れる 「下樋」は、琴の表板の間のうつろとなっているところの称。「嬬」は、ここは故人となっている人。「や」は、疑問の係助詞。「匿れる」は、嬬の魂の籠もっているかと思っていっているのであるが、これはもののうつろとなったところには神霊が籠もるという上代信仰に立っての感。
【釈】 琴を弾こうと手に取ると、嘆きが先立って起こってくる。おそらくは琴の下樋に亡き嬬の魂が隠れているのであろうか。
(363)【評】 嬬を喪った嘆きをもっている人が、心をまぎらすために琴を弾こうとして膝に載せると、琴によって事を思い出すことがあって、新たに嘆きが起こってきた。その嘆きを、琴に隠れている嬬の魂のさせるものかと、上代信仰よりの連想でいっているのである。心理が自然で、詠み方が甚だ老熟しており、老境の人の思われる作である。品が高く味わいのある歌である。
 
     芳野にて作れる
 
1130 神《かむ》さぶる 磐根《いはね》こごしき 三芳野《みよしの》の 水分山《みくまりやま》を 見《み》れば悲《かな》しも
    神左振 磐根己凝敷 三芳野之 水分山乎 見者悲毛
 
【語釈】 ○神さぶる磐披こごしき 「神さぶる」は、神の威力をあらわしているで、神々しい。「磐根」は、磐で、「根」は接尾語。「こごしき」は、凝固しているで、峻しい意。水分山につづく。〇三芳野の水分山を 「水分山」は、水分神社のあるところから、山の名となったもの。神社は一目干本の上方にある。水分の神は水を配分する神で水神である。祈年祭の祝詞に出ている神で、今は子守神社という。○見れば悲しも 「悲し」は、意味の広い語で、悲しい意、恋しい意、賞美の意にも用いる。ここは賞美で、感歎するにあたる。
【釈】 神々しい磐の凝り固まって険しいところの、このみ芳野の水分山は、見ると感歎されるよ。
【評】 水分山を見て、その岩石の重畳しているさまの神々しさを感歎した心である。上代の巨石は神霊の宿るものとし、神そのものとして信仰したのであった。ここも磐根に神性を感じていっているもので、風景としてではない。これは古くは説明を要さないことだったのである。古風な歌である。
 
1131 皆人《みなひと》の 恋《こ》ふるみ芳野《よしの》 今日《けふ》見《み》れば 諾《うべ》も恋《こ》ひけり 山川《やまかは》清《きよ》み
    皆人之 戀三芳野 今日見者 諾母戀來 山川清見
 
【語釈】 ○皆人の恋ふるみ芳野 知っているすべての人が、見たがって憧れている吉野を。○今日見れば諾も恋ひけり 今日我も来て見ると、その恋うているのももっともであった。○山川清み 山も川も清いので。
【釈】 皆人の憧れているみ吉野を今日我も来て見ると、その憧れるのはもっともであったよ。山も川も清らかなので。
【評】 実感をいっているものであるが、口頭で言うのを歌の形にした程度のものである。輪郭を言っているにすぎないもので(364)あるが、素朴に、正しい形でいっている。
 
1132 夢《いめ》のわだ 言《こと》にしありけり うつつにも 見《み》てけるものを 念《おも》ひし念《おも》へば
    夢乃和太 事西在來 嬉毛 見而來物乎 念四念者
 
【語釈】 ○夢のわだ言にしありけり 「夢のわだ」は、巻三(三三五)に出た。吉野川の、離宮の所在地にある淵の名。「わだ」は湾形を成している淵の称。下市町新住説、丹生川上流説もある。「言」は、ここは名の意。「し」は、強意の助詞。夢のわだというのは、ただ名だけのことなのであったで、名は実の伴うべきものであるのに、名だけのものであったというのである。○うつつにも見てけるものを 「うつつ」は現前で、夢に対させたもの。「見てけるものを」は、見てしまったのに。○念ひし念へば 念いに念っていればで、念いを強くいったもの。
【釈】 夢のわだというのは、ただ名だけのものなのであった。我は夢とは反対の現前に見てしまったのに。見たいと思いに思っていれば。
【評】 吉野の名所の一つである夢のわだを見ての感である。上代は物の名には、その名に伴う実があるとする信仰があったので、夢のわだと、夢という名をもったわだは夢でなくては見られないものとしていたのに、現前に見てしまったので、不可能を遂げ得たがごとき喜びを感じたのである。もっともそれには「念ひし念へば」という条件を伴わせているのである。信仰を背後に置いての実感であって、技巧はまじえていないものである。「し」の強めを重ね、屈折と粘りをもっていっているのは、実感の強さをあらわそうがためである。
 
1133 皇祖神《すめろぎ》の 神《かみ》の宮人《みやびと》 冬薯蕷葛《ところづら》 いや常《とこ》しくに 吾《われ》かへり見《み》む
    皇祖神之 神宮人 冬薯蕷葛 弥常敷尓 吾反將見
 
【語釈】 ○皇祖神の宮人 「皇祖神」は、皇祖に限っての称と、皇祖以来を継承された天皇を申す称で、現代まで及ぼしている。ここは後者で、現代の天皇を申しているもの。「神の宮人」は、神の宮に仕える人で、宮人自身その職を尊んでの自称である。○冬薯蕷葛 本居宣長の訓。今は野老という。葉も根も山の芋に似た蔓草。根を食用とする。同音で「常」にかかる枕詞。○いや常しくに吾かヘリ見む 「いや」は、いよいよ。「常しく」は、名詞「常」を形容詞風に活用させた語で、永久に。「吾」は、神の宮人。「かへり見む」は、立ち帰ってここを見ようで、対象は吉野官である。
(365)【釈】 皇祖の神の宮人なる吾は、いや常しえに行幸の供奉をして、この宮を立ち帰って見よう。
【評】 行幸の供奉をして、吉野離宮へ参っている宮人が、自身の位地を通して宮を賀した歌である。天皇には直接に触れず「皇祖神の神の宮人」という自身の職をあらわす語をとおして、間接に、しかし荘重にあらわし、また、行幸の永久に続くことを賀するに、「冬薯蕷葛いや常しくに」と、これまた重くいっているのは、要を得た賀歌である。風景に触れないのは古風で、老成者の風がある。
 
1134 吉野川《よしのがは》 石迹柏《いはとかしは》と ときはなす 吾《われ》は通《かよ》はむ 万世《よろづよ》までに
    能野川 石迹柏等 時齒成 吾者通 万世左右二
 
【語釈】 ○吉野川石迹拍と 「石迹柏と」は、諸説があって定まらない。『代匠記』は「石迹《いはと》」は石門《いはと》で、石のある川門《かはと》。「柏」は、「磐」だといい、本居宣長は、「迹柏」は、「常磐《とこしは》」の転音で、「石《いは》の常磐」と重ねたものだといい、『略解』『古義』はこれに従っている。『新考』は「石迹」は、石門で、吉野川の南岸には岩が連なっているのをいったもの、「柏と」は堅磐門《かしはと》で、同じ物を語を換えて重ねたもので、初二句は三句「常磐」の序詞であろうといっている。この句は、吉野離宮との関係においていっているものであるから、滝の辺りの実景に即したものであり、また語《ことば》としても平明を期したものであろうと思われる。「石迹」は、『代匠記』『新考』のいうごとく「石門《いはと》」と思われるが、意は、吉野川の両岸の岩と岩とが相迫り、川幅を狭くしていて、川門と同じく岩門というべき状態になっているのを称したのではないかと思われる。「柏」は、「堅磐《かたしは》」で、そうなっているところの磐は堅磐と称すべきものであるから、その約として「柏《かしは》」といっているもので、岩門の堅磐の意であろうと思われる。「と」は、並ぶ意の助詞で、ともにの意。○ときはなす 常磐のごとくで、永久にの意。○吾は通はむ万世までに 宮人の吾は供奉としてここに通おう、万代の後までと、供奉ということを通しての賀の心を述べたもので、その点上の歌と同じである。
【釈】 吉野川の、離宮に近い滝《たぎ》の辺りの、石門《いわと》と堅磐《かしわ》との永久であるごとくに、吾もまた供奉をしてここに通おう。万年と限りない後まで。
【評】 前の歌と同じく、吉野離宮の行事に供奉をしての賀歌である。第二句は語義に疑いのあるもので明らかではないが、永久の譬として岩を捉えていっていることだけは明らかである。これは常套的なことで、人麿の賀歌にもあったことである。この当時の人には問題にならなかったことなので、いずれ明らかにされることと思われる。
 
     山背にて作れる
 
(366)1135 宇治河《うぢがは》は よど瀬《せ》無《な》からし あじろ人《びと》 舟《ふね》呼《よ》ばふ声《こゑ》 をちこち聞《きこ》ゆ
    氏河齒 与杼湍無之 阿自呂人 舟召音 越乞所聞
 
【語釈】 ○宇治河はよど瀬無からし 「よど瀬」は、水の淀んでいる瀬で、静かな瀬で、それがないのだろう。あれば徒渉が出来るの意でいうもの。○あじろ人 網代人で、網代を構えて氷漁《ひお》を掬《すく》い取ることをしている人。氷漁を掬うのは大体九月から十二月までで、氷漁が琵琶湖から宇治川を下る季節である。方法は、夜、篝を焚いて、氷漁を寄せ集めて採ったのである。○舟呼ばふ声をちこち聞ゆ 「呼ばふ」は、呼ぶの継続。「をちころ」は、そちこちで、網代人が家に帰ろうとしてのためで、夜のことである。
【釈】 宇治川には、徒渉のできる淀んだ瀬がないのだろう。網代人が夜家へ帰ろうとして、川の中の網代から、舟を呼び続ける声がそちこちに聞こえる。
【評】 旅人の第一印象として、視覚を働かせることの出来ない闇の夜、浪音の荒い宇治川の川の上から起こってくる網代人の舟を呼び立てる声々によって、その川の流れのいかに荒いものであるかを想像した心のものである。事としてみるときわめて自然であるが、一首の歌としてみると、闇の中より起こる声がおのずから甚だ効果的なものとなって、魅力の多い歌となっている。「よど瀬無からし」という推量は、むしろ蛇足の感がある。
 
1136 宇治河《うぢがは》に 生《お》ふる菅藻《すがも》を 河《かは》早《はや》み 取《と》らず来《き》にけり ※[果/衣]《つと》に為《せ》ましを
    氏河尓 生菅藻乎 河早 不取來尓家里 ※[果/衣]爲益緒
 
【語釈】 ○生ふる菅藻を 「菅藻」は、河に生ずる藻で、葉は菅に似て(367)いて、食用とする物だという。○河早み取らず来にけり 「河早み」は、河の流れが早いゆえに。「取らず来にけり」は、採らずに来てしまったことだ。○※[果/衣]に為ましを 「※[果/衣]」は家苞《いえづと》で、家苞にしようものをで、「まし」は仮設。「を」は詠歎。
【釈】 宇治川に生えている菅藻を、川の流れの早いゆえに、採らずに来てしまった。採れたら家苞にしようものを。
【評】 旅人として宇治川を舟で渡った人が、流れの中に菅藻を見かけて、家苞として採りたいと思い、流れの早さのゆえにそれの出来なかったことを、あとになっても残念に思っている心である。庶民的なところに特色があるが、さしたる歌ではない。
 
1137 うぢ人《びと》の 譬《たとへ》のあじろ 吾《われ》ならば 今《いま》は生《な》らまし 木積《こづみ》ならずとも
    氏人之 譬乃足白 吾在者 今齒生良増 木積不成友
 
【語釈】 ○うぢ人の譬のあじろ 「うぢ人」は、宇治の人。「譬のあじろ」は、「あじろ」は網代で、譬としている網代よと、詠歎を含めてのもの。その譬は、当時一般に知られていたものとみえるが、伝わらないので、まったくわからない。下の続きによって想像すると、網代へ、木積すなわち木屑《きくず》が寄って来たということを土台とした伝説ではなかったかと思われる。もしそうしたものであったとすれば、巻三(三八五−三八七)の柘《つみ》の枝《え》の伝説が連想される。それは昔吉野の味稲《うましね》という男が、吉野川で梁《やな》をかけて漁りをしていると、柘(桑)が流れて来てかかった。家へ持ち帰ると、枝は美女と変じ、味稲と同棲して、後彼を伴って仙宮へ飛遷したというのである。この神仙譚はひろく民間に伝わったらしいので、宇治へも伝わり、それとともに形も変わって、柘の枝は宇治川に多く流れて来る木積となって、架空な恋愛譚となっていたのではないかと想像される。「うぢ人の譬」といえば通じたということは、この種の譚でなくてはならない。今はかりにそうしたものとする。○吾ならば 譚の主人公柘の枝のごとき者を自身に擬して、それがもし自分であるとすればで、女性であろう。○今は生らまし 「生」は、『古葉類聚砂』のものである。諸本さまざまになっているが、これが最も古い形である。「生」は「香青生《カアヲナル》」など「なる」に用いているから、今のごとく訓む。「今は」は、以前に対させたもので、以前よりも心の昂じてきている今は。「ならまし」は、「なる」は変える意で、「まし」は「吾ならば」の仮説の帰結。○木積ならずとも 「木積」は、木の屑。宇治川に臨んだ田上山《たなかみやま》(巻一〔五〇〕に出る)は有名な製材所であったから、宇治川に流れ下る物が多かったとみえる。木積は「譬」の主人公の化身しての形で、吾はその木積ではなくても。原文「不成」は諸本「不来」であるが、『考』の誤写説に従う。
【釈】 宇治の人の網代に寄せての譚《はなし》よ。その譬の主人公がもし吾であるとしたならば、今は吾も身を変えて男に靡こう。その主人公のように木屑にはならなくても。
【評】 一首の作因となっている「網代の譬」が不明なので、強いて設けた譚によっての解で、架空のものである。しかしおそらくはこれと甚しくは異ならないもので、ある男にひそかに心を寄せている女が、「譬」を身に引き当てて、吾もそのようにし(368)たいとの心をいったものと取れる。そうした心は聞く男からは好まれるものなので、民謡として謡われていて、それが採録されたのではないかと思われる。
 
1138 うぢ河《がは》を 船《ふね》渡《わた》せをと 喚《よ》ばへども 聞《きこ》えざるらし ※[楫+戈]《かぢ》の音《おと》もせず
    氏河乎 船令渡呼跡 雖喚 不所聞有之 ※[楫+戈]音毛不爲
 
【語釈】 ○船渡せをと喚ばへども 「船渡せを」は、「を」は詠歎。「船」は、橋がないための渡船。「喚ばへども」は、上に出た。喚び続けるけれども。○※[楫+戈]の音もせす ※[楫+戈]は、今の艫櫂の類。「も」は、詠歎。
【釈】 宇治河を、船を渡せよと我が喚び続けるけれども、舟子には聞こえないのであるらしい。※[楫+戈]の音も聞こえない。
【評】 旅人として宇治川を越えようとする人の心である。「喚ばへども聞えざるらし」は、宇治川の瀬の音が高く、喚び声がそれに紛らされてしまうためで、行動をとおしてそのことを自然に具象化させているのである。そのために情景ともに生かされて、深みのあるものとなっている。古風な歌である。
 
1139 ちはや人《びと》 うぢ川浪《かはなみ》を 清《きよ》みかも 旅《たび》去《ゆ》く人《ひと》の 立《た》ちかてにする
    千早人 氏川浪乎 清可毛 旅去人之 立難爲
 
【語釈】 ○ちはや人うぢ川浪を 「ちはや人」は、「ち」は靈力、「はや」は男猛で、心猛き人。氏々にそうした人が多い意で、氏の枕詞。「うぢ川浪」は、宇治川の川浪。○清みかも 「清み」は、清いゆえ。「かも」は、疑問。○立ちかてにする 「かてに」は、「かて」は、可能の意、「に」は、打消「ず」の連用形。立ち去り難くしている。
【釈】 宇治川の川浪が清いゆえにか、旅する人の心引かれるとみえて立ち去り難くしていることよ。
【評】 この歌は、宇治川を興趣の対象として見た唯一のものであるが、それも旅人の状態をとおして第三者の推量としていっている間接なものである。「ちはや人」という枕詞は「うぢ川浪」の荒くして清いのに調和するものがあり、興趣とはいっても時代的特色のあるものである。
 
(369)     摂津にて作れる
 
1140 しなが鳥《どり》 猪名野《ゐなの》を来《く》れば 有間山《ありまやま》 夕霧《ゆふぎり》立《た》ちぬ 宿《やど》はなくして
    志長鳥 居名野乎來者 有間山 夕霧立 宿者無而
 
【語釈】 ○しなが鳥猪名野を来れば 「しなが鳥」は、名が伝わっていず、何鳥の称であったかわからない。諸説があるが定められない。枕詞とみえる。それだと「ゐ」にかかるのであろう。「猪名野」は、猪名川両岸一帯の野、摂津国河辺郡、旧園田村の辺りの野。今、尼崎市に入る。伊丹の南、神崎の北にあたっている。「来れば」は、京より西下する途中で、西方に目的地を置いての言い方。○有間山 神戸市兵庫区有馬町、有馬温泉付近の山、猪名野より西方にあたる。
【釈】 しなが鳥猪名野を行くと、有馬山には暮れようとして夕霧が立った。宿るべき所はないのに。
【評】 上代の旅行としては普通な状態で、特殊なものではない。地名を二つまであげているのは、宿るべき家がなく野宿を予想するところから、旅情のわびしさが高められたがためで、それが効果をあげている。調べの簡古に力強いために生かされている歌である。
 
     一本に云ふ、猪名《ゐな》の浦廻《うらみ》を榜《こ》ぎ来《く》れば
      一本云、猪名乃浦廻乎、榜來者
 
【語釈】 ○猪名の浦廻 猪名川の河口付近の称。「廻」は湾曲している所の称。これは第二、三句で、海上での歌である。当時の航海法は、陸に寄って漕ぎ、夜は上陸して寝ることになっていたので、一首の心として無理のないものである。
【評】 この一本の歌は、上の歌の別伝ではなく、他の作者によって作られたものである。作因は、この歌にある通り海上を漕いで出て、夕暮、その夜を寝るべき上陸地点を求めようとしている時の心である。その時この歌の作者は、上の歌を記憶していて、それに縋りつつ自身のその際の心をいったので、このことは集中に例の少なくないことである。上の歌の適切さがない。
 
1141 武庫河《むこがは》の 水脈《みを》を急《はや》みか 赤駒《あかごま》の 足《あ》がく激《たぎ》ちに 沾《ぬ》れにけるかも
    武庫河 水尾急嘉 赤駒 足何久激 沾祁流鴨
 
(370)【語釈】 ○武庫河の水脈を急みか 「武庫河」は、兵庫県三田市北部に発し、宝塚市を経て、南流して尼崎市と西宮市との境界をなして海に注ぐ。「水脈」は川の中流の、水の盛りあがって流れる所。「急みか」は、旧訓「はやみか」。『新訓』は、類聚古集、外二本には原文に「嘉」が無いのに従い、「急」を「はやけみ」と訓んでいる。自身、事の原因を推量しての助詞であり、「何を何み」に「か」の接続する例もあるので、「嘉」の有無にかかわらず、一首全体の上から今のごとく訓む。水脈が早いゆえか。○赤駒の足がく激ちに 「赤駒」は、作者の乗っている馬。馬で渉るのである。「激ち」は、駒の足掻きによって起こる水の騒ぎで、名詞。○沾れにけるかも 我が身は濡れてしまったことであるよ。
【釈】 武庫河の水脈が早いゆえなのか、我が乗って渉る赤駒の足掻きによって起こる水の騒ぎで、わが身は濡れてしまったことであるよ。
【評】 これも上の歌と同じ系統のもので、当時の旅行としてはきわめて普通のことである。旅中、着ている衣服の濡れるということは、その世話をする妻のいないという関係から、旅情を刺激されることであったとみえ、そうした歌が多い。この歌はそこまではいっていないが、その範囲のもので、一般性の多いものである。歌柄も一脈の明るさをもっているので、謡い物として謡われていたと思われる。
 
1142 命《いのち》を 幸《さき》く吉《よ》けむと 石流《いはそそ》く 垂水《たるみ》の水《みづ》を むすびて飲《の》みつ
    命 幸久吉 石流 垂水々乎 結飲都
 
【語釈】 ○命を幸く吉けむと 訓はさまざまである。『新訓』の訓。「命を」の「を」は、詠歎。「幸く吉けむと」は、無事で好くあるだろうと思って。○石流く垂水の水を 「石流く」は、岩にそそぐところので、垂水の状態。「垂水」は、垂れ落ちる水で、現在の滝と同意の語。摂津国豊能郡垂水村に垂水神社があり、そこにある滝としてここに収めてあるが、下の続きからみると普通名詞としても通じ、そのほうが妥当性が多い。美水を飲むと長寿を保ちうるとすることは神仙思想の影響のあるものであるが、奈良遷都後はそれが一般の信仰となり、その意の歌が多い。これもそれである。○むすぴて飲みつ 手に掬《むす》んで飲んだ。
【釈】 我が命の無事で好くあるだろうと思って、岩にそそぐ垂水の水を、手に掬んで飲んだ。
【評】 小さい垂水だと、山寄りの土地だと必ずしも稀れなものではないが、この作者はそれを珍しく思い、また美水だとしているのは、京の中に住んでいる人であったろう。美水を飲めば、そのために命の無事長久が得られると信じていた心が、澄んだ静かな調べと、繊細味をもった詠み方をとおして現われている。奈良時代の歌と思われる。摂津の垂水の歌としたのは編者の解ではないかと疑われる。
 
(371)1143 さ夜《よ》更《ふ》けて 堀江《ほりえ》こぐなる 松浦船《まつらぶね》 梶《かぢ》の音《と》高《たか》し 水脈《みを》早《はや》みかも
    作夜深而 穿江水手鳴 松浦船 梶音高之 水尾早見鴨
 
【語釈】 ○さ夜更けて堀江こぐなる 「堀江」は、難波堀江であり、日本書紀、仁徳紀十一年に、「冬十月、掘2宮北之郊原1引2南水1以入2西海1。因以号2其水1曰2掘江1」とあるものである。淀川の下流天満川がそれで、海上の船の溯れるようにしたものである。「なる」は、上の動詞をしかと定めるの助動詞。○松浦船 肥前国松浦で造る船で、船の型に特色があるところからの称と取れる。○梶の音高し水脈早みかも 梶の音が高い。水脈が早くなっているゆえであろうかと疑ったもの。早いのは満潮で海水が堀江に逆流するなど、臨時のことである。
【釈】 夜更けて堀江を漕いでいる松浦船の梶の音が高い。堀江の水脈が早くなって、それに逆らって漕ぐゆえであろうか。
【評】 堀江に近い辺りに夜を居て、松浦船の梶の音の高いのに耳を傾けての心である。土地の人にとっては注意をも引かないほどの平凡なことであるのに、強く訝かっていっているのは、堀江や松浦船を珍しく感じる難波宮に仕えている人であろう。
 
1144 悔《くや》しくも 満《み》ちぬる潮《しほ》か 住江《すみのえ》の 岸《きし》の浦廻《うらみ》ゆ 行《ゆ》かましものを
    悔毛 滿奴流塩鹿 墨江之 岸乃浦廻從 行益物乎
 
【語釈】 ○満ちぬる潮か 残念にも満潮になったことよで、「か」は詠歎。○岸の浦廻ゆ 「浦廻」は、浦の湾曲した所で、「ゆ」は、「を」にあたるもの。岸の浦伝いをしての意。○行かましものを 「まし」は、仮設の帰結。「ものを」は、詠歎で、行こうと思っていたのに。
【釈】 残念にも満潮となってきたことであるよ。住江の海岸の浦伝いをして行こうと思っていたのに。
【評】 住吉の海を初めて見、その海の珍しいのと、風景の愛《め》でたいのとに心引かれ、海岸を浦伝いをして行けるならば、見物しようと思っていた人が、満潮となって出来なくなったのを残念がった心である。これは明らかに奈良の宮人の難波に下った時の作である。詠み方に力はないが、細かい心をあらわしているもので、これが新風だったのである。
 
1145 妹《いも》が為《ため》 貝《かひ》を拾《ひり》ふと 陳奴《ちぬ》の海《うみ》に 沾《ぬ》れにし袖《そで》は 乾《ほ》せど干《かは》かず
    爲妹 貝乎拾等 陳奴乃海尓 所沾之袖者 雖涼常不干
 
(372)【語釈】 ○妹が為貝を拾ふと 「妹が為」は、京に置いてきた妹に、家苞とするために。「貝」は、波打際にある物をいっている。「と」は、として。○陳奴の海に 以前は河内国であったが、霊亀二年和泉国とした。住吉の南方の海。○沾れにし袖は乾せど干かず 波に濡れた袖は、乾したけれどもかわかないで、「涼」は曝す意の字で、乾すに当てたもの。乾せばかわくはずであるのに、このようにいっているのは、嬬を思う感傷の心より誇張していっているのである。平常、濡れた衣を乾すのは妻のすることであるのに、妻がしないのでかわかない意である。
【釈】 京にいる妻のために、貝を拾うとて、陳奴の海の浪に濡らしたわが衣の袖は、乾すけれどもかわかない。
【評】 旅にあってその事を恋うる心を詠んだもので構想のきわめて多いものである。それとしては一首明るい心のもので、「乾せど干かず」に、妻恋しい心を托しているのは細かい技巧である。奈良京の人の歌である。
 
1146 めづらしき 人《ひと》を吾家《わぎへ》に 住吉《すみのえ》の 岸《きし》の黄土《はにふ》を 見《み》む因《よし》もがも
    目頼敷 人乎吾家尓 住吉之 岸乃黄土 將見因毛欲得
 
【語釈】 ○めづらしき人を吾家に 「めづらしき人を」は、愛すべき人をの意で、これは男女いずれからもいえる語であるが、ここは女より男を指していっているもの。「吾家《わぎへ》」は、「わがいへ」の約音で、吾家に住みと続き、初二句は住みの序詞。当時の結婚は男が女の家に通うのであるが、その結婚状態を住むといっていたのである。○住吉の岸の黄土を 巻一(六九)に出た。住吉の海岸に、黄土の粘土が大きく露われており、珍しい物として、それをもって白い衣を染めるところから、一つの名所となっていた。○見む因もがも 「因」は、方法。「もがも」は、願望。見る方法がほしいことであるよの意で、見る機会の得られそうもない人の憧れの心をいったものである。これは旅行をし難いものにしていた女の心と取れ、序詞と照応をもっているものである。
【釈】 愛すべき人をわが家に通い住まわせるという、その住むに因みある住吉の岸の黄土を、見る方法のほしいものであるよ。
【評】 住吉の岸の黄士に対する女の憧れであるが、その憧れを強く起こしたのは、「めづらしき人を吾家に住み」といっているところの夫が難波へ行っているために、それに刺激されてのことと思われる。初二句の序詞は唐突な感のあるものであるが、妻である女が、その時の実感に即してのものとみれば、自然なものである。歌才ある妻が、細かい心を織り込んで、実際に即しつつも、文芸的な結果を生み得た歌と取れる。これは摂津での歌ではなく、奈良京で詠んだもので、住吉の地名のある関係からそちらの歌としたものである。
 
1147 暇《いとま》あらば 拾《ひり》ひに往《ゆ》かむ 住吉《すみのえ》の 岸《きし》によるとふ 恋忘貝《こひわすれがひ》
(373)    暇有者 拾尓將徃 住吉之 岸因云 戀忘貝
 
【語釈】 ○暇あらば拾ひに往かむ 難波宮に供奉している宮人の、公務にとらわれていての心。○住吉の岸によるとふ 住吉の海岸に、浪に運ばれて寄るというところの。○恋志貝 「忘貝」は、巻一(六八)「大伴の御浄の浜なる忘貝」に出た。貝の名で、物の名に神秘性を感じる信仰から、それを身に着けていると物思いを忘れると信仰されていた貝。ここはそれに「恋」を冠したもので、恋を忘れさせる貝としていっているのである。物思いのおもなるものは恋であるから、説明を加えた程度の名である。
【釈】 もし暇があるならば、我は拾いに行こう。住吉の海岸に寄っているというところの恋を忘れさせる忘貝を。
【評】 「暇あらば拾ひに往かむ」は、公務が忙しくて、近い住吉までも行く暇のない人であり、拾おうとする物は恋忘貝で、旅にあって家の妻の恋しいために、その苦しみを忘れようとしているのである。こうした人は、臨時の事として難波宮に仕えている人で、行幸の従駕の人であろう。あくまで実際に即した言い方である。しかし旅愁をいうに、直接に強く訴えることをせず、恋忘貝に寄せて間接にあらわしているのは、信仰の伴ってのこととはいえ、余裕をもった心である。これは奈良京に住む人の心である。
 
1148 馬《うま》双《な》めて 今日《けふ》吾《わ》が見《み》つる 住吉《すみのえ》の 岸《きし》の黄土《はにふ》を 万世《よろづよ》に見《み》む
    馬雙而 今日吾見鶴 住吉之 岸之黄土 於万世見
 
【語釈】 ○馬双めて 馬を連ねてで、同輩とともどもにの意で、難波宮から行ったことと取れる。○今日吾が見つる 今日吾が見たところの意で、初めてということを余意としたもの。
【釈】 同輩と馬を連ねて行って、今日初めて見たところの住吉の岸の黄土を、永久に見よう。
【評】 住吉の岸の黄土に対して限りなき興味を感じた心である。奈良の宮人の、京以外の土地を知らなかったことは、平安朝時代の宮人と異ならなかったとみえる。さすがに明るく、好奇心の強い点が異なっているといえよう。
 
1149 住吉《すみのえ》に 往《ゆ》くといふ道《みち》に 昨日《きのふ》見《み》し 恋忘貝《こひわすれがひ》 言《こと》にしありけり
    住吉尓 徃云道尓 昨日見之 戀忘貝 事二四有家里
 
(374)【語釈】 ○往くといふ道に 往く道にということを、わざとよそよそしくいったもの。それは結句の「言にしありけり」に照応させるためである。○昨日見し恋忘貝 昨日見て拾った恋忘貝はで、これも単に「見し」だけにとどめているのは、その甲斐のなかったところから、わざとよそよそしくいったもの。○言にしありけり 「し」は、強め。「けり」は、詠歎、単に言葉だけのもので、その実のないものであるよで、この句は成句である。
【釈】 住吉に行く道だという道で、昨日見たところの恋忘貝は、あれは単に言葉だけのものであったことよ。
【評】 昨日恋忘貝を見たが、それにつづく今日は、現に恋の苦しみをしているといった歌である。忘貝に対する従来の呪力信仰を疑うところ、それをいうにあくまでも細かい言い方をしているところは、奈良の宮人の態度である。
 
1150 住吉《すみのえ》の 岸《きし》に家《いへ》もが 奥《おき》に辺《へ》に よする白浪《しらなみ》 見《み》つつ思《しの》はむ
    墨吉之 岸尓家欲得 奥尓邊尓 縁白浪 見乍將思
 
【語釈】 ○住吉の岸に家もが 「家もが」は、自分の家をほしいで、「もが」は願望。○奥に辺に 沖のほうに、岸のほうに。○見つつ恩はむ 「思はむ」は『新訓』の訓。賞美しようの意。
【釈】 住吉のこの海ぎしに、わが住む家がほしい。沖のほうに、岸のほうに寄せて来る白浪を、見つつ賞美しよう。
【評】 海を珍しむ心である。落ちついて、おおらかな態度で全体を捉え、柔らかい調べで詠んでいる。態度としては古風であるが、調べの柔らかさは新風である。
 
1151 大伴《おほとも》の み津《つ》の浜辺《はまべ》を 打曝《うちさら》し より来《く》る浪《なみ》の 行方《ゆくへ》知《し》らずも
    大伴之 三津之濱邊乎 打曝 因來浪之 逝方不知毛
 
【語釈】 ○大伴のみ津の浜辺を 「大伴」は、大阪市の東部から南方へかけての、一帯の広い地の名。大伴氏の領地であったところからの名であろう。「み津」は、難波の津を尊んでの称。「浜」は、砂の海岸。地名を二つ重ねて、浜辺を重くいったもの。○打曝し 「打」は、接頭語。「曝し」は、洗いというに同じく、浪の砂浜に寄せる状態を具象的にいったもの。○より来る浪の行方知らずも 「行方知らずも」は、成行きが知られないで、浪の消えることをいったもの。「も」は詠歎。
【釈】 大伴のみ津の浜を洗って、沖から寄って来る浪の、その成行きの知られないことよ。
(375)【評】 沖より浜へ寄せて来る浪の、引いて消える変化に、怪しみの心を寄せ、それをいうに地名を二つ重ねて重くいい、また「打曝し」と、力強い具象化を伴わせて感を深めたものである。興趣ではあるが、海珍しさよりの軽いものではなく、眺め入っての深さをもったものである。作歌精神の緊張を反映して、歌柄が大きく、調べがさわやかで、美しさをもった歌である。巻三(二六四)の人麿の「物の部の八十氏河のあじろ木に」の歌の影響を受けたものかと思われるが、こちらは明るく広くて、趣が異なっている。
 
1152 梶《かぢ》の音《おと》ぞ ほのかにすなる 海未通女《あまをとめ》 奥《おき》つ藻《も》苅《か》りに 舟出《ふなで》すらしも
    梶之音曾 髣髴爲鳴 海未通女 奥藻苅尓 舟出爲等思母
 
【語釈】 ○梶の音ぞほのかにすなる 「すなる」は、しているで、「なる」は、指定の助動詞。○奥つ藻苅りに 「奥つ藻」は、沖の藻で、藻は食料とする海草の総称。○舟出すらしも 「らし」は、強い推量。「も」は、詠歎。
【釈】 梶の音がほのかにしている。海人の娘が、沖のほうの藻を苅りに、舟出をするのであろうよ。
【評】 梶の音のほのかにするのを耳にして、海上の状態を想像している歌である。時は明け方で、作者は家の内にい、海は朝凪の時と思われる。物の音によって、その状態を想像することは、上にもしばしば出たことで、奈良京の人の好みである。海珍しい心が、耳をとおして現われている。
 
     一に云ふ、夕されば 梶《かぢ》の音《おと》すなり
      一云、暮去者 梶之音爲奈利
 
【釈】 夕暮になると梶の音がしている、で、初二句がこのようになっている一本があったのである。
【評】 夕暮に藻苅り船を出すということは、事として不合理である。宴席などで、その処と時とにふさわしい歌を謡うというような必要から、不合理も顧みずに謡ったのが、たまたま記録されたという経路をもった歌であろう。
 
1155 住吉《すみのえ》の 名児《なご》の浜辺《はまべ》に 馬《うま》立《た》てて 玉《たま》拾《ひり》ひしく 常《つね》忘《わす》らえず
(376)    住吉之 名兒之濱邊尓 馬立而 玉拾之久 常不所忘
 
【語釈】 ○住吉の名児の浜辺に 「名児」は、今の大阪市道頓掘の南、今宮、木津、難波の辺の総名であろうというが、明らかではない。○馬立てて玉袷ひしく 「馬立てて」は、乗馬の歩みを留めて。「玉」は、海より打ち上げられた見や小石。「拾ひしく」は、「拾ひし」に「く」を接続させて名詞形としたもので、同系統の語が多い。○常忘らえす 「常」は、いつもで、永く。「忘らえず」は、忘れられないで、その楽しさを思い出した意。
【釈】 住吉の名児の砂浜の辺りに乗馬の歩みを留めて、海より打ち上げられている美しい貝や小石を拾ったことは、いつになっても忘れられない。
【評】 奈良京の人の、住吉の海岸に遊んだ時の楽しさを、あとになっても思い出していることをいったものである。海岸の美しい小石を玉と称し、それを拾うことをいっている歌は他にもあって、この興味は一般的なものだったとみえる。官人として大和国に住んではいるが、その海に対しての憧れと愛着とは、本能的な強いものであったとみえる。印象も調べもさわやかで、快い作である。これは摂津での歌ではない。
 
1154 雨《あめ》は零《ふ》る 假廬《かりほ》は作る いつのまに 吾児《あご》の潮干《しほひ》に 玉《たま》は拾《ひり》はむ
    雨者零 借廬者作 何暇尓 吾兒之塩干尓 玉者將拾
 
【語釈】 ○雨は零る假廬は作る 「雨は零る」は、現に雨が降っている意。「假廬は作る」は、「假廬」は、仮初の廬、すなわち仮小屋で、宮人とはいえ身分の低い者は、その寝起きする小屋は自身作ったのである。以上、きわめて忙しいことを具象的にいったもの。○いつのまに いつの暇《いとま》にかと、疑いをもっていったもの。○吾児の潮干に 「吾児」は、「吾」は、諸本異同のないもので、「あ」と訓むより他はない字である。『新訓』は「阿胡」の字を当てて「あご」と訓んでいる。吾児は所在不明である。『新訓』にしたがう。○玉は拾はむ 「玉」は、前に出た海辺の小石。玉は拾おうかで、予期している楽しみの出来ない意のもの。
【釈】 雨は降っている。今宵寝る仮小屋を作ることはする。この忙しさでは、いつの暇に吾児の海の潮干に行って、楽しみにしていた玉は拾おうか。
【評】 実際に即しての感をいっている歌ではあるが、古風な歌は、同じくそうした態度を取りつつも、その実際を綜合しての感をいおうとし、細かい部分は、その感を生かすためにいっているのである。この歌は、その綜合が少なく、実際を分解し、(377)細叙することによって感をあらわそうとしている。これは奈良京に移っての新風であり、この歌はその傾向の甚しいものである。これは広くいえば、散文を要求する心に、歌が副《そ》おうとするからのことであって、時代の要求の反映といえることである。
 
1155 奈呉《なご》の海《うみ》の 朝開《あさけ》のなごり 今日《けふ》もかも 礒《いそ》の浦廻《うらみ》に 乱《みだ》れてあらむ
    奈呉乃海之 朝開之奈凝 今日毛鴨 礒之浦廻尓 乱而將有
 
【語釈】 ○奈呉の海の朝開のなごり 「奈呉」は、名児に同じ。「朝開」は、朝明《あさあけ》の約。朝の明け方。明け方は干潮の時で、ここは、その意でのもの。「なごり」は波残で、潮の引いた跡に海水の残っている称で、その場には潮の引くのに置き残された藻や貝類や小魚などが多く、それも籠めての称。事が終わって面影だけの残っている意。名残りは、転じてのものである。下に詠歎の意がある。○今日もかも 「か」は、疑問の係助詞。「も」の詠歎の接したもの。今日もまた。○礒の浦廻に乱れてあらむ 「礒」は、岩石の海岸。「浦廻」は、浦の辺り。「乱れて」は、上にいった海草や貝類などの状態。
【釈】 奈呉の海の明け方の波残よ。今日もまたかつて見た時のように、礒の浦の辺りにはさまざまの海の物が散乱していることであろうか。
【評】 海に遠い人には、明け方の干潮の時、満潮の時には見られない海中のさまざまの物の浦べに散乱しているさまがきわめて珍しく面白いものである。この作者は一度そうした光景を目にしたことが忘れられなく、ある日の明け方、今朝もまたあのようだろうかと思いやってゆかしんでいる心である。奈良の京宮人の、難波宮へ従駕した人の歌である。思い出の歌としては、気分の生かされているものである。奈良での作。
 
1156 住吉《すみのえ》の 遠里小野《とほざとをの》の 真榛《まはり》もち すれる衣《ころも》の 盛《さかり》過《す》ぎゆく
    住吉之 遠里小野之 眞榛以 須礼流衣乃 盛過去
 
【語釈】 ○住吉の遠里小野の 「遠里小野」は、住吉の南方の平地。中世|瓜生野《うりゆうの》といい、今は大阪市住吉区と堺市とに遠里小野《おりおの》町という町名となっている。瓜生野と、遠里小野《おりおの》と音に転じたものの転靴かという。○真榛もち 「榛」は、榛《はん》の木とも萩とも解される語である。榛《はん》の木は染めるための染料としたもので、また染めると褪せ難いものでもあるから、下の「すれる」「盛過ぎゆく」から見て萩の花である。「真」は、ものの十分であることをあらわす語であるから、ここは盛りの萩の花の意。「もち」は、後世の「もて」にあたる古格。○すれる衣の盛過ぎゆく 「すれる」は、
(378) 摺れるで、花摺りとした意。白い衣を摺ったのである。「盛過ぎゆく」は、色の美しさの褪せてゆく。
【釈】 住吉の遠里小野の咲き盛った萩の花をもって摺ったわが衣の、その色の美しさの褪せてゆく。
【評】 難波宮への行幸に従駕した宮人が住吉に遊び、遠里小野の萩を見て、その面白さの記念に、当時の風として、旅衣を萩の花で摺ったのであるが、摺衣のこととて早くも褪色するのを見て惜しんだ心である。事がすべて自然であるために、気分が生きていて、美しさとあわれのある歌となっている。奈良京での作である。
 
1157 時《とき》つ風《かぜ》 吹《ふ》かまく知《し》らに 阿胡《あご》の海《うみ》の 朝明《あさけ》の潮《しほ》に 玉藻《たまも》苅《か》りてな
    時風 吹麻久不知 阿胡乃海之 朝明之塩尓 玉藻苅奈
 
【語釈】 ○時つ風吹かまく知らに 「時つ風」は、時を定めて吹く風で、湖の干満に先立つ風。「吹かまく」は、「吹かむ」の名詞形。「知らに」の「に」は、打消「ず」の連用形。吹くかもしれない。○阿胡の海の朝明の潮に 「阿胡の海」は、上に出た。「朝明の潮」は、明け方の干潮に。○玉藻苅りてな 「な」は、誘う意。
【釈】 時つ風が吹いてくるかもしれない、さあ阿胡の海の明け方のこの干潮に、海の玉藻を苅ろう。
【評】 明け方の干潮時、追って満潮に先立つ時つ風が吹いて来て、危険になるかもしれないという限られた気ぜわしい時に、海めずらしい心に駆り立てられて、干潮の間に玉藻を苅りたい昂奮している心である。昂奮している気分が強くあらわれてといて、そうしたいささかな、言うにも足りないぼどのことを、もっともなものとしている。相応に手腕のある作といえる。
 
1158 住吉《すみのえ》の 奥《おき》つ白浪《しらなみ》 風《かぜ》吹《ふ》けば 来《き》よする浜《はま》を 見《み》れば浄《きよ》しも
    住吉之 奥津白浪 風吹者 來依留濱乎 見者淨霜
 
【語釈】 ○来よする浜を 「来よする」は、寄り来るの意の当時の言い方。「浜」は、砂浜。
【釈】 住吉の沖の白浪が、風が吹くと吹き送られて寄って来るところの浜の、見れば清らかなことであるよ。
【評】 住吉の浜に風によって寄せて来る白浪の大景を「浄しも」と感じて詠んでいるもので、その心も、また落ちついて詠(379)んでいる態度もうなずけるものである。しかし平面的で、画のようになりすぎ、躍動の趣は捉え得られなかった歌である。奈良時代のともすると魄力の弱さをあらわすことのある例を示している歌である。
 
1159 住吉《すみのえ》の 岸《きし》の松《まつ》が根《ね》 うち曝《さら》し より来《く》る浪《なみ》の 音《おと》の清《きよ》らに
    住吉之 岸之松根 打曝 縁來浪之 音之清羅
 
【語釈】 ○松が根うち曝し 「松が根」は、根を主としての言い方。住吉には古より波打際に松があったのである。「うち曝し」は、前に出た。洗って。○音の清らに 「滑らに」は、原文「清羅」で、諸注それぞれの訓を試み、誤写説を出している。「清らに」は『新訓』の訓みで、「に」は読添えである。清らにありの意で、これは用例のあるもので、最も自然な訓である。
【釈】 住吉の岸の老松の根を洗って、寄って来る浪の音の清らである。
【評】 前の歌と同じく住吉の浜を讃えたものであるが、この歌は、松が根を洗う浪の音によってその心を具象化したもので、視覚と聴覚とを一つにした、細かく複雑な味をもったものである。調べが自然に順直で、その複雑なものを統一させている。「清らに」の言いさしが、調べの力で効果的のものとなっている。
 
1160 難波潟《なにはがた》 潮干《しほひ》に立《た》ちて 見渡《みわた》せば 淡路《あはぢ》の島《しま》に たづ渡《わた》る見《み》ゆ
    難波方 塩干丹立而 見渡者 淡路嶋尓 多豆渡所見
 
【語釈】 ○難波潟 大阪湾の一部。淀川川口近辺の海。○淡路の島 淡路国。難波からは西方。
【釈】 難波潟の干潮の海に立って見渡すと、淡路島に向かって鶴の飛んで行くのが見られる。
【評】 京の宮人の、海めずらしさから干潮の潟に立った時の嘱目の光景である。海上にも海上の空にも、眼を引く他の一物もなく、ただ一羽の鶴が翔《か》けているだけであって、それが「渡る見ゆ」と言うごとくすでにかなり遠ざかって、かすかになっでおり、おのずからに見送られるのであるが、その向こうに、はるかに遠く淡路の島が横たわっているのである。それを見た通りに、「淡路の島にたづ渡る見ゆ」と言ったのである。しかるにこの淡路の島を捉えていったがために、それと対照されての鶴の、遠ざかり小さくなろうとしつつある姿が怪しいまでに生動するものとなり、一首きわめて魅力ある歌となっているのであ(380)る。素朴な、率直に詠んだ歌で、その意味では古風な歌であるが、細かい味わいをもっていて、その意味では新風の歌である。
 
     羈旅《たび》にて作れる
 
【解】 以上、吉野、山背、摂津と土地の明らかな歌についで、土地の分類をしない歌九十首を集めたものである。中には土地の明らかなもの、また地名のないものもある。明らかな中では紀伊国の歌が最も多い。また旅の追憶もある。羈旅とはいっても、旅情のわびしさのみではない点が後世とは異なる。
 
1161 家《いへ》離《さか》り 旅《たび》にしあれば 秋風《あきかぜ》の 寒《さむ》き暮《ゆふべ》に 雁《かり》鳴《な》き渡《わた》る
    離家 旅西在者 秋風 寒暮丹 鴈喧度
 
【語釈】 ○旅にしあれば 「し」は、強意。○雁 来る雁。
【釈】 家を離れて、旅に過ごしていると、秋風の寒いこの夕べに、雁が鳴いて渡って行く。
【評】 旅にあって、秋風の肌寒い夕べに雁を聞いて、旅情を刺激された心である。旅情については直接にはいわず、環境を描くことによって暗示しているのがこの歌の趣である。暗示というのは、「秋風の寒き暮」は独寝の肌寒さを感じて、妻恋しさの情の募る時とされており、また「雁鳴き渡る」は、いわゆる雁信を連想させられることで、妻の消息の気になるものである。それらの風物をきわめて自然な状態で描き、感傷にすぎない程度のしみじみした調べをもっていっているので、調べに生かされて暗示が直接なものになってきているのである。古風な、品のある歌で、奈良時代以前の歌と思われる。
 
1162 円方《まとかた》の 湊《みなと》の渚鳥《すどり》 浪《なみ》立《た》てや 妻《つま》呼《よ》び立《た》てて 辺《へ》に近《ちか》づくも
(381)    圓方之 湊之渚鳥 浪立也 妻唱立而 邊近着毛
 
【語釈】 ○円方の湊の渚鳥 「円方」は、巻一(六一)に出た。伊勢国の、松阪の東方黒部の地であろうといい、早くから陸地になったのである。「湊の渚鳥」は、湊にある渚すなわち海の水の浅い所に棲んでいる鳥の総称。そのような所は食餌としての小魚などの獲やすいため、鶴、千鳥などの類が棲みついたのである。○浪立てや 「立てや」の「や」は、疑問で、後世の立てばにやにあたる古格。○妻呼び立てて辺に近づくも 「妻」は雌鳥で、雄鳥が喚び催して、岸に近づいて来るよで、「も」は詠歎。
【釈】 円方の港の洲に棲んでいる鳥は、浪が立って来たのであろうか、その雌鳥を喚び催して、岸へ近づいて来るよ。
【評】 湊の渚鳥が鳴きながら小さな移動をするのを見て、雄鳥が雌鳥に対して、浪の立つのを避けさせようとして警《いまし》めてするのだろうと感じたのは、特殊な解である。作者は海に馴れない旅人で、また旅にあるがために妻をしのぶ心が切実であるところから発した感と思われる。庶民的な生活気分の現われている歌である。
 
1163 年魚市《あゆち》がた 潮《しほ》干《ひ》にけらし 知多《ちた》の浦《うら》に 朝《あさ》榜《こ》ぐ舟《ふね》も 沖《おき》による見《み》ゆ
    年魚市方 塩干家良思 知多乃浦尓 朝榜舟毛 奥尓依所見
 
【語釈】 ○年魚市がた潮干にけらし 「年魚市がた」は、尾張国の今の熱田港で、名古屋市熱田区の南方の低地帯である。
「潮干」は、ここは朝の干潮。○知多の浦に朝榜ぐ舟も 「知多」は、知多半島。「浦」はその西海岸の北部、知多郡上野町、横須賀町、知多町にかけての海。○沖による見ゆ 普通の漕法で、岸寄りを漕いでいた舟が、沖のほうへ寄って行くさまが見えるで、これは干潮で陸寄りは漕げなくなるためである。
【釈】 年魚市潟は干潮になったのであろう。知多の浦で、朝を漕いでいる舟も、沖のほうに漕ぎ寄るのが見られる。
【評】 旅人として知多半島にいる人が、朝の海を眺めていての心である。当時の旅行は、船によるのが最も便利だったので、この旅人もその意味で船に強い関心をもっていたところから、こうしたことに注意したのだろう。したがってこの歌の心は、旅をする人は共感のあったものと思われる。実感の歌で、興味よりのものではない。現在からはある距離のある心である。
 
1164 潮《しほ》干《ふ》れば 共《とも》に潟《かた》に出《い》で 鳴《な》く鶴《たづ》の 声《こゑ》遠《とほ》ざかる 礒廻《いそみ》すらしも
    塩干者 共滷尓出 鳴鶴之 音遠放 礒廻爲等霜
 
(382)【語釈】 ○潮干れば共に潟に出で 潮が干ると干潟には食餌の小魚が獲られるので、友とともに出て。○鳴く鶴の 鳴いている鶴の。○声遠ざかる 鳴き声が遠ざかって行くで、眼に見る景を耳に転じさせてのもの。○礒廻すらしも 「礒廻」は、礒めぐり。これは鶴が食餌を追ってすることである。
【釈】 潮が干ると友とともに干潟に出て鳴いている鶴の、その声が今は遠ざかってゆく。礒めぐりをするのであろう。
【評】 鶴の生活状態に興味をもっている旅人の歌である。鶴の干潟に出る心も、礒廻をする心も解している点は庶民の心であるが、他方には「声遠ざかる」と、海上を遠ざかりゆく鶴の声に興味を感じ、それを重く扱っているところはある程度の身分ある人の心である。単純な歌であるが、作者を反映しているところに別種の趣がある。
 
1165 暮《ゆふ》なぎに あさりする鶴《たづ》 潮《しほ》満《み》てば 沖浪《おきなみ》高《たか》み 己妻《おのづま》喚《よ》ばふ
    暮名寸尓 求食爲鶴 塩滿者 奥浪高三 己妻喚
 
【語釈】 ○暮なぎにあさりする鶴 「暮なぎ」は、夕凪の海で、下の続きで干潮時の静かな海と知れる。○潮満てば沖浪高み 満潮となってくると、沖の浪が高いゆえに。○己妻喚ばふ 「己妻」は、おのがつまで、仮名書きがある。「喚ばふ」は、喚ぶの連続。
【釈】 干潮の夕凪の海に求食《あさり》をしている鶴が、満潮となって沖の浪が高いので、己が妻を警めて喚びつづけている。
【評】 上の「円方の渚鳥」と同じ心の歌である。このほうが事が細かく、詠み方も巧みにはでになっているところからみると、上の歌を進展させたものではないかと思われる。よく行なわれたことだからである。一首としての感はこのほうが薄い。
 
1166 古《いにしへ》に ありけむ人《ひと》の ※[不/見]《もと》めつつ 衣《きぬ》に摺《す》りけむ 真野《まの》の榛原《はりはら》
    古尓 有監人之 ※[不/見]乍 衣丹※[手偏+皆]牟 眞野之榛原
 
【語釈】 ○古にありけむ人の 古の人の。広くいったもので指す人はない。○※[不/見]めつつ衣に摺りけむ 「※[不/見]めつつ」は、探し探ししてで、探すのは好いものをと思ってである。「けむ」は連体形。○真野の榛原 巻三(二八〇)に出た。今は神戸市に属し、長田区東尻池町、酉尻池町、真野町一帯。詠歎を含めたもの。
【釈】 古の人が、好い色をと探しつつ衣に摺ったであろう、この真野の萩原よ。
(383)【評】 真野の榛原に立ち、その萩の花の美しさを讃めた心である。物を讃めるには、今だけのことではなく、由緒の久しいものであることをいうのが型となっている。今もそれで、美しさの上に、深いゆかしみを添えているのである。美しいと見ると身に着けずにはいられなかったのは、上代の心である。
 
1167 あさりすと 礒《いそ》に吾《わ》が見《み》し 莫告藻《なのりそ》を いづれの島《しま》の 白水郎《あま》か苅《か》るらむ
    朝入爲等 礒尓吾見之 莫告藻乎 誰嶋之 白水郎可將苅
 
【語釈】 ○あさりすと礒に吾が見し 「あさり」は、食を求めることで、主として鳥獣の上でいい、人にあっては漁《すなど》りの意でいう。ここは、漁りの意のもの。舟で漁りをするとて、岩にわが見懸けたところの。○莫告藻を 「莫告藻」はほんだわらで、食料とするもの。○いづれの島の白水郎か苅るらむ いずれの島の白水郎が苅り取るのだろうかで、「らむ」は、現在の推畳。「苅る」は、わが物とする意の譬。
【釈】 漁りをするとて、舟の上から我が見懸けたことのあった、岩に着いている莫告藻を、どこの島の白水郎《あま》が苅ってわが物としているであろうか。
【評】 「莫告藻」を女に譬えていることは、海人を「白水郎」とわざと男をあらわす文字にしているので知られる。それだとこれは相聞の歌で、譬喩歌である。きわめて単純で、平明なところから見て、海岸地方で謡い物とされていたものかと思われる。
 
1168 今日《けふ》もかも 沖《おき》つ玉藻《たまも》は 白浪《しらなみ》の 八重《やへ》折《を》るがうへに 乱《みだ》れてあらむ
    今日毛可母 奥津玉藻者 白浪之 八重折之於丹 乱而將有
 
【語釈】 ○今日もかも 「かも」は疑問で、今日もまた前のように。結句「乱れてあらむ」に続く。○沖つ玉藻 沖の藻で、作者がさきに見た物。○白浪の八重折るがうへに 「八重《やへ》折《を》る」は、白浪が幾重にも、折れるがごとく崩れる意。○乱れてあらむ 「む」は、推量で、乱れていよう。
【釈】 今日もまた沖の藻は、白浪の幾重にも折れて崩れる上に、乱れているのであろうか。
【評】 沖のほうへ出て、白浪の上に乱れ漂っている青い藻のさまを、美観として眺めた人が、のちにその美観を反芻し、眼の前に描いて憧れている心である。これは海を珍しみ、美しと見る京びとの心である。広く清らかな海の上に、白浪に漂う青い藻だけを捉えて、その美観を楽しむ心は、洗練をもった感性で、奈良京の人の好い方面を示している歌といえる。調べも豊かで(384)ある。
 
1169 近江《あふみ》の海《うみ》 湊《みなと》は八十《やそ》あり いづくにか 君《きみ》が舟《ふね》泊《は》て 草《くさ》結《むす》びけむ
    近江之海 湖者八十 何尓加 公之舟泊 草結兼
 
【語釈】 ○近江の海湊は八十あり 「湊は八十あり」は、類聚古集、外七本は「湖者八十」。「湖」を、「みなと」に当てた例は巻三(二五三)に出た。「八十」の訓は、諸注さまざまである。「八十あり」と「あり」を読添えたのは『新訓』である。「天《あま》の川|河門《かはと》八十あり」(二〇八二)、「近江の海|泊《とまり》八十あり」(三二三九)などの例により、それに従う。「湊」は、水が門のごとく陸に入り込んだ所で、舟を寄せる所である。舟の大小にはかかわりがない。琶琶湖の舟は、漁業と通運とのもので、大津宮時代には舟も多く湊も多かったので、これは湖岸の実際である。○いづくにか君が舟|泊《は》て 「いづくにか」は、いずれの港にかで、「か」は疑問の係助詞。「君」は、妻より夫を指したもの。「泊て」は、既出。船が目的地へ着く意。○草結びけむ 草を結ぶのは、身の無事を祈るまじないで、旅中では、無事で再びここに帰って来られるようにとの意ですることである。この場合も、船から上がると、その心で誰もすることとしてしたのである。
【釈】 近江の海は、港は八十と多くある。いずれの港で君の舟路は終わって、安泰を祈っての草結びをしたであろうか。
【評】 「近江の海」と言い出しているところからみて、琵琶湖のほとりに住んでいた夫妻とみえる。当時の旅は利用のかなう限りは船によろうとしたのであるから、旅をする夫が湖水を越えるに舟をもってしたのは普通のことである。土地の関係から、近江朝時代の歌ではないかと思われる。「湊《みなと》は八十あり」という訓は、訓としては多少の疑いのあるものであるが、夫の旅を気づかっている妻の、路の様子を全く知らない心からの想像とすれば、「あり」を読み添えた、概念として知っていることをいう形のものが、最も実際に即したものとなろう。「草結びけむ」は、近江朝時代だと、その上代信仰が濃厚だったと思われるから、きわめて自然なものとなる。実際生活に即しての心やりの歌で、文芸としてのものではない。調べはおおらかで、太く緩やかに波打っている。
 
1170 ささなみの 連庫山《なみくらやま》に 雲《くも》居《ゐ》れば 雨《あめ》ぞ零《ふ》るちふ かへり来《こ》わが背
    佐佐浪乃 連庫山尓 雲居者 雨曾零智否 反來吾背
 
【語釈】 ○ささなみの連庫山に 「ささなみ」は、既出。近江国(滋賀県)滋賀郡の旧号。「連庫山」は、その名が伝わらない。『大日本地名辞書』(385)は、狭々波山《ささなみやま》の一峰で、志賀の大渡《おおわだ》の山であろうという。○雲居れば 雲が懸かっていれば。○雨ぞ零るちふ 「ちふ」は、「といふ」の転。山近い土地に住む人の、山に懸かる雲の様子で天気の変化を予測することは今もしていることであり、ここもそれである。○かへり来わが背 帰り来たまえわが夫よで、命令と呼懸け。夫が他へ出懸けた後の、妻の心。
【釈】 楽浪《ささなみ》の連庫山に雲が懸かっていると、雨が降るということである。帰って来たまえわが夫よ。
【評】 これは明らかにその地に行なわれていた謡い物と思われる。この種《しゆ》の民謡は今も少なくないものである。
 
1171 大御舟《おほみふね》 泊《は》ててさもらふ 高島《たかしま》の 三尾《みを》の勝野《かちの》の なぎさし思《おも》ほゆ
    大御舟 竟而佐守布 高嶋之 三尾勝野之 奈伎左思所念
 
【語釈】 ○大御舟泊ててさもらふ 「大御舟」は、天皇の御乗船を尊んでの称。「泊てて」は、二首前に出た。「さもらふ」は、ここは乗船を待っている意。連体形で、下へ続く。○高島の三尾の勝野の 「高島」は、今の高島郡で、琵琶湖の西岸。「三尾」は、今の高島町、安曇川町付近、「勝野」は、その南部で、沼沢地。○なぎさし思ほゆ 「なぎさ」は、渚。「し」は強め。「思ほゆ」は、思われる。
【釈】 大御舟が目的地として着いて、御乗船を待っている高島の三尾の勝野の渚が、ゆかしく思われる。
【評】 この歌は、大津宮にまします天皇が、高島の三尾の勝野を目的地としての船での遊覧があり、宮人の一部の者が供奉をして船出をした後、供奉に漏れて宮にとどまっている人が、ゆかしんで思いやった心である。「大御舟泊ててさもらふ」と臣下のことのみをいって天皇には触れず、また「高島の三尾の勝野のなぎさし」と、地名を三つまでも重ねて渚を重くいっているのは、すべて敬意よりのことである。明らかに近江朝時代の歌である。臣下を対象としていっているので、重みはないが、品のある歌である。
 
1172 何処《いづく》にか 舟乘《ふなのり》しけむ 高島《たかしま》の 香取《かとり》の浦《うら》ゆ こぎ出《で》来《こ》し船
    何處可 舟乘爲家牟 高嶋之 香取之浦從 己藝出來船
 
【語釈】 ○何処にか舟乗しけむ 「舟乗」は、乗船の意で、名詞。何処から船を漕ぎ出して来たのであろうか。○高島の香取の浦ゆ 「高島」は上に出た。「香取の浦」は、高島に属している浦。「ゆ」は、を通って。
(386)【釈】 何処から漕ぎ出して来たのであろうか。今高島の香取の浦を通って漕ぎ出して来た船は。
【評】 琵琶湖の湖辺に住んで、湖上を往来する船に興味と関心をもっている人の、岸沿いを漕ぐ船の、物に遮られて見えなかった船が香取の浦から漕ぎ出してはじめて視野に入ったのに対して、なつかしく眺めた心である。湖辺に住み着いている人にのみ感じられる事柄で、その地の者には親しみの感じられる歌であったろう。
 
1173 斐太人《ひだびと》の 真木《まき》流《なが》すとふ にふの河《かは》 言《こと》は通《かよ》へど 船《ふね》ぞ通《かよ》はぬ
    斐太人之 眞木流云 尓布乃河 事者雖通 船曾不通
 
【語釈】 ○斐太人の真木流すとふ 「斐大人」は、飛騨国の人の意で、転じて工匠、杣人の総称となったもの。「賦役令」に「斐陀《ヒダ》国庸調倶(ニ)免(ジテ)、毎(ニ)v里点(ズ)2匠丁十人(ヲ)1云々」その他があるので知られる。ここは、杣人の意である。「真木」は、檜杉などの良材の称で、ここは吉野山から伐り出すもの。「流す」は運搬の方法としてする事で、今も行なわれている。○にふの河 丹生河で、吉野川の上流とする説と、岐阜県丹生川村の川とする説がある。○言は通へど船ぞ通はぬ 「通へど」は丹生河は山川のこととて川幅が狭く、岸と岸とで言葉が通じるけれども。「船ぞ通はぬ」は、「通ふ」は下流から上のここまで溯る意で、上の通うと同語であるが、内容はことにしている。「ぞ」は係助詞。
【釈】 杣人が真木を流すという丹生河は、岸と岸で言葉は通うけれど、船は通わないことだ。
【評】 四、五句が中心である。言と船というかけ離れているものを、「通ふ」という、同語異義のもので繋ぎ合わせて、それに興じているものである。明らかに謡い物である。初句から三句までは実際に即したものであるから、丹生地方で謡われていたものであろう。羈旅の歌というよりも、旅人が興味を覚えて採録したという関係のものだろう。
 
1174 霰《あられ》零《ふ》り 鹿島《かしま》の崎《さき》を 浪《なみ》高《たか》み 過《す》ぎてや行《ゆ》かむ 恋《こひ》しきものを
    霰零 鹿嶋之埼乎 浪高 過而夜將行 戀敷物乎
 
【語釈】 ○霰零り鹿島の崎を 「霞零り」は、その音のかしましと続く意で、「かしま」にかかる枕詞。「鹿島の崎」は、常陸国(茨城県)鹿島郡の南端にあり、建御雷神を祀る地。○浪高み過ぎてや行かむ 「浪高み」は、海の浪が高いゆえに。「過ぎてや行かむ」は、寄らずに通り過ぎて行くのだろうかと、遺憾に思う心。「や」は疑問の係助詞。○恋しきものを 恋しいところであるのに。
(387)【釈】 鹿島の崎に、漁が高いので船が寄せられず、通り過ぎて行くのであろうか。恋しいところであるのに。
【評】 京より公務を帯びて東国に下り、当時の風として行路は船により、鹿島の海を船で渡る時の歌である。鹿島の崎に上陸し、鹿島の神に奉斎をしようと志していたのが、浪のために出来ない嘆きである。調べに思い詰めた屈折したものがあって、その気分をあらわしている。
 
1175 足柄《あしがら》の 筥根《はこね》飛《と》び超《こ》え 行《ゆ》く鶴《たづ》の ともしき見《み》れば 大和《やまと》し念《おも》ほゆ
    足柄乃 筥根飛超 行鶴乃 乏見者 日本之所念
 
【語釈】 ○足柄の筥根飛び超え 「足柄の」は、相模国(神奈川県)足柄上下の郡。「筥根」は、箱根の山。「飛び超え」は、筥根は険山で、自身悩んで越したことを心に置いていっているもの。○行く鶴の 京のほうへ行く鶴の。○ともしき見れば大和し念ほゆ 「ともしき」は、「ともし」は乏しい意と、羨しい意とある語。ここは羨しい意のもので、その連体形。羨しいものを見ると。「大和」は、その家のある京。「し」は、強意の助詞。「念ほゆ」は、恋しく思われる。
【釈】 足柄の箱根の山の峰を飛び越えて西のほうへ行く鶴の、その羨しいものを見ると、大和が恋しく思われる。
【評】 旅にあって、恋しい家のほうへ自由に飛んで行く鳥を見て羨やむことは、上代にあっては最も普通のことで、したがって類想の歌が多い。この歌もそれであるが、「足柄の筥根飛び超え」には、その山の越え難い険山であるために自然さがあって、生きた歌となっている。
 
1176 夏麻《なつそ》引《ひ》く 海上潟《うなかみがた》の 沖《おき》つ洲《す》に 鳥《とり》はすだけど 君《きみ》は音《おと》もせず
    夏麻引 海上滷乃 奧洲尓 鳥者簀竹跡 君者音文不爲
 
【語釈】 ○夏麻引く海上潟の 「夏麻」の「麻」は、巻二(一五七)「山辺真蘇木綿《やまべまそゆふ》」など麻《あさ》のこともいい、また民俗学の研究によると、麻をもって作った綱の称ともされ、現在も漁業をする人々の間に、地方的には行なわれているという。それによると「夏麻」は、魚《な》つ麻《そ》に当てた字で、魚を獲《と》る時に用いる綱、すなわち網引《あびき》をする時などの綱と思われる。意味で、海の意の「う」にかかる枕詞。あるいは麻は苧《お》に績《う》む意により「う」にかかるともいう。「海上潟」は、下総国に名が残っており(千葉県海上郡)、上総国にもあったので(千葉県市原郡)、古くは両国に跨がった地(388)名だったのである。○沖つ洲に 沖のほうにある洲に。○鳥はすだけど君は音もせす 「鳥」は、水鳥で、小魚を餌とする鳥。「すだく」は、多く集まる意。「君」は、妻より夫を指してのもの。「音もせず」は、便りすらもしないの意。
【釈】 この海上潟の沖のほうの洲に、水鳥のほうは多く集まって騒いでいるけれど、君のほうは便りすらもしない。
【評】 海上潟に住んで漁業をしている女の、その潟の沖の洲に、水鳥の鳴き騒いでいるのを見て、それが刺激となって、夫である男の、足を遠くしているのみならず、便りもしないことを悲しんで詠んだ歌である。上代の夫婦関係にあっては、このようなことは最も多く、一般性をもったものである。歌もその土地に即して、自然に平明にいってある上に、語もこなれきっている。調べも静かさがあって、その心を生かしているものである。謡い物の条件を備えているもので、海上地方に謡われていた謡い物と思われる。
 
1177 若狭《わかさ》なる 三方《みかた》の海《うみ》の 浜《はま》清《きよ》み い往《ゆ》きかへらひ 見《み》れど飽《あ》かぬかも
    若狹在 三方之海之 濱清美 伊徃變良比 見跡不飽可聞
 
【語釈】 ○若狭なる三方の海の 「三方の海」は、福井県三万郡、三方駅の西北にある三方湖。○浜清み 砂浜が清いので。○い往きかへらひ 「い」は接頭語。「かへらひ」は、還るの継続。
【釈】 若狭国にある三方の湖の砂浜が清いので、往きつ還りつしつづけて見るが、見飽かないことであるよ。
【評】 京の人の公務を滞びて若狭に下り、はじめて三方湖を見ての感である。「い往きかへらひ」は、この歌にあっては働きをもった語である。
 
1178 印南野《いなみの》は 往《ゆ》き過《す》ぎぬらし 天伝《あまづた》ふ 日笠《ひがさ》の浦《うら》に 波《なみ》立《た》てり見《み》ゆ
    印南野者 徃過奴良之 天傳 日笠浦 波立見
 
【語釈】 ○印南野は往き過ぎぬらし 「印南野」は、播磨国(兵庫県)印南郡の野。巻一(一四)以下しばしば出た。「往き過ぎぬらし」は、通過したのであろう。これは、瀬戸内海を舟行している人の、海路よりの推量である。○天伝ふ日笠の浦に 「天伝ふ」は、意味で「日」にかかる枕詞。「日笠の浦」は、今はその名が伝わっていない。『代匠記』は、日本書紀推古紀の十一年、征新羅将軍当麻皇子につき、「麻当皇子到2播磨1時、従(389)妻《つま》舎人姫王薨2於赤石1。仍葬2于赤石|檜笠《ひがさ》岡上1云々」とあるを引き、明石郡明石の辺りだとしている。それだと印南野よりも難波に近い地であり、この舟行は瀬戸内海を西より東に、すなわち、京に向かって還る途上ということになる。○波立てり見ゆ 「見ゆ」は、終止形に描統するのが当時の語格である。
【釈】 印南野は通過してしまったのであろう。日笠の涌に波の立っているのが見える。
【評】 公務を帯びて西南に遣されていた官人が、その事が終わっての帰途で、船が難波津へ近づこうとする時の感であろう。いつの間にか印南野が過ぎたといい、日笠の浦の浪が見えるというのも、事よりも気分のほうが主になっているもので、大きくはないが躍動が見えるからである。新風の歌といえるものである。
 
     一に云ふ、飾磨江《しかまえ》は こぎ過ぎぬらし
      一云、思賀麻江者 許藝須疑奴良思
 
【語釈】 ○飾磨江 飾磨川の河口にある江。この河は巻十五(三六〇五)「わたつみの海に出でたる飾磨川」とあり。海上からも見える川だったのである。この川の位置も、印南野と同じ関係である。別伝とみえる。
 
1179 家《いへ》にして 吾《われ》は恋《こ》ひむな 印南野《いなみの》の 浅茅《あさぢ》が上《うへ》に 照《て》りし月夜《つくよ》を
    家尓之弖 吾者將戀名 印南野乃 淺茅之上尓 照之月夜乎
 
【語釈】 ○家にして吾は恋ひむな 「家にして」は、わが家にあってで、今旅にいて、家に帰った後に。「吾は恋ひむな」は、「な」は感動の助詞。恋うることであろうよと、忘れ難い心をいったもの。○印南野の浅茅が上に 「浅茅」は、低く生え続いている茅草。○照りし月夜を 「照りし」は、今照っている月を、あとより思い出しての意でいうために、過去としたもの。「月夜」は、月。
【釈】 わが家に帰って、我は忘れ難く恋うことであろうよ。印南野の浅茅の上に照っていたこの月を。
【評】 陸路の旅をして、夜を印南野で過ごした場合の心である。旅にあって旅愁をいわず、風景という中でも、浅茅の上に照っている月という、静かに清らかなものに深くも心を動かして、家に帰った後にも忘れ難いことだろうというのは、自然に対する感受力と、個性に即する強さとを示しているものである。奈良時代の、好い方面をあらわしている歌である。
 
(390)1180 荒礒《ありそ》超《こ》す 浪《なみ》を恐《かしこ》み 淡路島《あはぢしま》 見《み》ずや過《す》ぎなむ 幾許《ここだ》近《ちか》きを
    荒礒超 浪乎恐見 淡路嶋 不見哉將過去 幾許近乎
 
【語釈】○荒穣超す浪を恐み 「荒磯」は、岩より成る海岸。「恐み」は、恐ろしさに。これは舟行していて、船を岸に寄せるには、浪が高いと危険が伴うからである。○淡路島見ずや過ぎなむ 「淡路島」は、瀬戸内海の航路として、敏馬と明石の間の寄港地となっていた。西下東上いずれにしても、海を横切って寄港するのである。「見ずや過ぎなむ」は、寄らずに行き過ぎることであろうか。○幾許近きを 「幾許」は、甚しく。「を」は、詠歎。
【釈】岩石の海岸を乗り越す浪の恐ろしさに、船を着け得ず、淡路島を上陸してみずに通り過ぎることであろうか。船との間は甚しく近いのに。
【評】 明石海峡は浪の高い所で、淋戸内海の航行者には難路とされていた。この歌はそのことは覚悟していたとみえ、淡路島に上陸の出来ない遺憾さだけをいっている。当時の瀬戸内海航行者には共感を喚びうる歌であったろう。
 
1181 朝霞《あさがすみ》 止《や》まずたなびく 竜田山《たつたやま》 船出《ふなで》せむ日《ひ》は 吾《われ》恋《こ》ひむかも
    朝霞 不止輕引 龍田山 船出將爲日者 吾將戀香聞
 
【語釈】○朝霞止まずたなびく 「朝霞止まず」は、霞を朝立つものとし、それがいつまでも消えずに懸かっているで、霞の懸かっているさまを、朝より後の時間にみていっているもの。春のことと取れる。○竜田山 大和国と河内国との国境の山で、大和国(奈良県)生駒郡、今の三郷村にある。上代、大和国より難波に出る要路にあたっていた。作者は今そこを越えようとしているのである。下に詠歎が含まれている。○船出せむ日は吾恋ひむかも 「船出せむ日」は、難波津から船出をするだろう日にはで、遠い海路を予想していっているもの。「恋ひむかも」は、恋うるのは、山。「かも」は詠歎。
【釈】朝霞がいつまでも懸かっている竜田山よ。難波津から船出をする日には、我はこの山を恋うることであろうなあ。
【評】 作者は今、大和京から難波津へと、海路の旅をしようとして竜田山を越えているのである。当時の人には、海路の旅は不安の伴ったものであり、またそうした旅は大体遠方を志すものでもあるので、緊張した心をもっていたと思われる。霞の軽くかかっている竜田山の佳景をなつかしく思うとともに、いよいよ海路に出る日には、この今見る竜田山を恋しく思うだろう(391)かと、感傷を籠めて眺めやっているのである。上の「家にして吾は恋ひむな」と、形は異なっているが、眼前の佳景に深く心を動かして、将来も忘れられまいとする心は同じである。
 
1182 海人小船《あまをぶね》 帆《ほ》かも張《は》れると 見《み》るまでに 鞆《とも》の浦廻《うらみ》に 浪《なみ》立《た》てり見《み》ゆ
    海人小船 帆毳張流登 見左右荷 鞆之浦廻二 浪立有所見
 
【語釈】 ○海人小船帆かも張れると 海人の乗っている小船が、白い帆を張っているのかと。○鞆の浦廻に浪立てり見ゆ 「鞆の浦廻に」は、備後国沼隈郡、今の広島県、福山市鞆町の海浜。「浦廻」の廻は接尾語。「浪立てり」は、終止形で、「見ゆ」に接続する。浪の立っているのが見える。
【釈】 海人の小船が白い帆を張っているのかと見るほどに、鞆の浦に白浪の立っているのが見える。
【評】 鞆の浦は、輔戸内海の航路の中でも、風景の好い所として聞こえた地である。この歌は航海者として鞆にあり、陸から海上を眺め渡しての感である。「海人小船帆かも張れる」というのは、譬喩というよりは、その一歩手前の連想であって、そのために素朴であり、感としては、かえって深いものとなっている。
 
1183 好去《まさき》くて 亦《また》還《かへ》り見《み》む ますらをの 手《て》に巻《ま》き持《も》てる 鞆《とも》の浦廻《うらみ》を
    好去而 亦還見六 大夫乃 手二卷持在 鞆之浦廻乎
 
【語釈】 ○好去くて 諸注、訓がさまざまである。『略解』の訓。巻九(一七九〇)に「其好去有欲得《マサキクアリコソ》」などの例がある。無事であって。○亦還り見む また立ち還って見よう。○ますらをの手に巻き持てる 男子の、弓を射る時に手に巻いて持っているで、鞆と続く。「鞆」は、巻一(七六)に出た。弓を射る時、左の臂に結びつけ、弦の臂に触れるのを防ぎ、あわせてそれに弦の触れる音で敵を威《おど》す具で、皮で作った円形の物。二句、「鞆」にかかる序詞。鞆の浦は地形が鞆に似たところからの名かという。○浦廻 「廻」はあたり。
【釈】 無事であって、また無事に立ち還って見よう。男子の弓を射る時、手に巻いて持っているところの鞆に因む名のこの鞆の浦のあたりを。
【評】 京の官人が何らかの公務を帯びて、船で西下する途中、柄の浦の佳景をはじめて目にした時の感である。佳景に刺激さ(392)れ、再び見ようとの心から生命感に触れて、我とわが生命を賀し、また鞆の浦をいうに「ますらをの云々」の序詞を設けているが、これは自身持っていたもので、親しくいさぎよく感じていたものであろうから、これもまた自然である。一首の調べに緊張よりくるさわやかさがあって、それが感じを生かしている。
 
1184 鳥《とり》じもの 海《うみ》に浮《う》き居《ゐ》て 沖《おき》つ浪《なみ》 さわくを聞《き》けば あまた悲《かな》しも
    鳥自物 海二浮居而 奥浪 驂乎聞者 數悲哭
 
【語釈】 ○鳥じもの海に浮き居て 「鳥じもの」は、巻二(二一〇)以下既出。鳥であるようにで、枕詞ではあるが譬喩の意の勝ったものである。「海に浮き居て」は、船に乗っていて。○沖つ浪さわくを聞けば 沖のほうの浪の騒ぐ音を聞くとで、荒れ模様の不安をいったもの。○あまた悲しも 「あまた」は、数の多いことであるが、転じて甚しくの意にも用いたもの。「も」は詠歎。
【釈】 鳥であるように海に浮いて居て、沖のほうの浪の立ち騒ぐ音を聞くと、甚しくも悲しいことであるよ。
【評】 造船法が幼稚で風波を凌ぎ難いところから、当時の航海は、よくよく天候を見定めての上でなければ発船しなかった。「沖つ浪さわくを聞けば」は予測しなかったのである。不安に襲われて、自身を客観視しての心細さがよく現われている。「鳥じもの海に浮き居て」は適切な表現である。
 
1185 朝《あさ》なぎに 真梶《まかぢ》榜《こ》ぎ出《い》でて 見《み》つつ来《こ》し み津《つ》の松原《まつばら》 浪越《なみご》しに見ゆ
    朝菜寸二 眞梶榜出而 見乍來之 三津乃松原 浪越似所見
 
【語釈】 ○朝なぎに真梶榜ぎ出でて 「朝なぎ」は、朝凪。「真梶」は、船の両舷に十分に艪櫂を着けて。○見つつ来し 振り返って見つつ目的に向かったで、「見し」は過去の思い出。「し」は連体形。○み津の松原 「み津」は、難波津を尊んでの称。「松原」は、み津の浜辺のもので、既出。○浪越しに見ゆ 浪を越した彼方に見えるで、帰航の喜び。
【釈】 朝凪に真梶を用いて漕ぎ出して、名残りを惜しんで振り返り見つつも目的地に向かって行った、あのみ津の松原が、今浪越しに見える。
【評】 み津の浜松は、発船する者にも着船する者にも目標となるもので、悲喜の情を寄せる対象物となっていた。この歌は着()船の喜びの対象である。み津が眼前のものとなってきた時の感で、喜びとはいっても、安心して落ちついた上でのもので、静かに明るいものである。「見つつ来しみ津」などいう続きも、その感にふさわしい。
 
1186 あさりする 海未通女《あまをとめ》らが 袖《そで》とほり 沾《ぬ》れにし衣《ころも》 干《ほ》せど乾《かは》かず
    朝入爲流 海未通女等之 袖通 沾西衣 雖干跡不乾
 
【語釈】 ○あさりする 「あさり」は、上に出た。ここは、藻を刈るなどで、漁獲以外のことと取れる。○抽とほり沾れにし衣 海上の手業のために、海水が袖をとおしてぐしょ濡れにした衣。
【釈】 藻刈などをする海人《あま》の娘らの、海水が袖をとおしてぐしょ濡れにした衣は、干すけれども乾かない。
【評】 海岸生活にあってはきわめて普通なことであるが、それを見た人にとっては見馴れないことであるのと、女を憐れむ心からいっているもので、京の人の海辺の旅をしての心である。
 
1187 網引《あびき》する 海子《あま》とや見《み》らむ 飽浦《あくうら》の 清《きよ》き荒礒《ありそ》を 見《み》にこし吾《われ》を
    網引爲 海子哉見 飽浦 清荒礒 見來吾
 
【語釈】 ○繩引する海子とや見らむ 「網引」は、巻三(二三八)に出た。漁りのための大きい網を海に張り、陸で大勢で協力してその網を引くこと。「や」は、疑問の係助詞。「見らむ」は、人が我を見ていることだろう。○飽浦の 訓が定まらない。『新考』の訓。本居宜長は、『玉勝間』で、巻十一(二七九五)「紀の国の飽等の浜の忘れ貝」とあるにより、その飽等であろうとし、海士《あま》郡|賀田《かた》の浦の南方に田倉崎という所があり(和歌山市加太町田倉崎)、そこの称だと里人は伝えているといっている。○見に来し吾を 「を」は詠歎の助詞で、吾であるのに。
【釈】 網引をする海子《あま》と、人は我を見ていることであろうか。飽浦の清い荒礒を見に来た我であるのに。
【評】 人麿歌集の歌で、人麿には、巻三(二五二)「荒栲の藤江の浦にすずき釣る泉郎《あま》とか見らむ旅|去《ゆ》く吾を」があり、境は異なっているが心は通っている。海子の群れにまじっていて、自己を意識し、第三者の見る眼を推量したものである。宮人としての矜りをいったもので、京の人に共通の感情だったとみえ、他にも類想の歌がある。
 
(394)     右の一首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
      右一首、柿本朝臣人麿之謌集出。
 
1188 山《やま》越《こ》えて 遠津《とほつ》の浜《はま》の 石《いは》つつじ 吾《わ》が来《く》るまでに 含《ふく》みてあり待《ま》て
    山超而 遠津之濱之 石管自 迄吾來 含而有待
 
【語釈】 ○山越えて遠津の浜の 「山越えて」は、遠いの意で、遠の枕詞。「遠津の浜」は、巻十一(二七二九)「霰降り遠津大浦に寄する浪」とあると同所かという。所在は不明で、和歌山市新在家里神、滋賀県伊香郡西浅井村大浦、高知市種崎等、諸説がある。○石つつじ 岩間に咲くつつじ。○吾が来るまでに含みてあり待て 「吾が来るまでに」は、訓は定まらない。仮名書きの例による。立ち帰って来る時まで。「含みて」は、蕾んでで、今は蕾の固い時。「あり待て」は、存在して待っていよで、命令。
【釈】 山を越えて遠く行くに因みある遠津の浜の石つつじは、吾がここへ立ち帰って来るまで、蕾のままで吾を待っていよ。
【評】 遠津の浜を往路として幾日かの旅をし、また帰路としてそこを通る予定の旅人が、この浜で見懸けた蕾の石つつじを見て、愛惜する心である。花に対していった心のものである。「吾が来るまでに含みて」は、感傷の心よりの希望とも、可能のこととも取れるが、後者と取れる。「山越えて」も、形は枕詞であるが、実感を托したものである。一首素朴ではあるが、細かい心があって、奈良京の官人の公務を帯びての旅先の歌と思われる。
 
1189 大海《おほうみ》に 嵐《あらし》な吹《ふ》きそ しなが鳥《どり》 猪名《ゐな》の湊《みなと》に 舟《ふね》泊《は》つるまで
    大海尓 荒莫吹 四長鳥 居名之湖尓 舟泊左右手
 
【語釈】 ○嵐な吹きそ 「嵐」は、航海者の最も怖れるもの。○しなが鳥猪名の湊に 「しなが鳥猪名」は、上の(二四〇)に出た。猪名川の河口で、尼ケ崎市東方、神崎から長洲あたりかという。
【釈】 大海に大風よ吹くな。猪名の港に、我が船が泊まるまで。
【評】 猪名の港は、難波津から発した船の泊《は》てる所としていっている。「大海」は難波の海で、「嵐」を怖れるところから強めていっているもので、「嵐」もその心よりのものであり、航海中最もおそるべきものだからである。今は、嵐を想像して、港に(395)着くまでの平穏を願った心であって、祈りの意に近いものである。
 
1190 舟《ふね》泊《は》てて かし振《ふ》り立《た》てて 廬《いほり》せむ 名子江《なこえ》の浜辺《はまべ》 過《す》ぎかてぬかも
    舟盡 可志振立而 廬利爲 名子江乃濱邉 過不勝鳧
 
【語釈】 ○舟泊ててかし振り立てて 「舟泊てて」は、上の歌に出た。「かし」は、和名抄に出ており、舟を岸に繋ぎ留めるための杙の称である。船に載せていた。「振り立て」は、杙を打つことをあらわしている語。かしを振るは、今も舟人の日常語になっていると『略解』は注している。○廬せむ 廬を結んで入る意。○名子江の浜辺過ぎかてぬかも 「名子江」は、所在不明である。「過ぎかてぬかも」は、通り過ぎは出来ないことよで、「かてぬ」は既出、不能の意。佳景に対しての心。
【釈】 舟を泊まらせて、かしを振り立てて繋いで、今夜の廬を結ぼう。この名子江の浜辺の景色は通り過ぎの出来ないことであるよ。
【評】 京の官人の、船での旅をしていて、途中佳景に逢った時の心である。初句より三句までは、舟人のすることを自身の口をとおして委しくいっているものである。そのことに興味をもってのことであろうが、一首の歌としては、あまりにも興味をもちすぎ、そのため散文的なものにし、効果を薄くしている。これは奈良時代の一つの傾向である。
 
1191 妹《いも》が門《かど》 出入《いでいり》の河《かは》の 瀬《せ》を早《はや》み 吾《わ》が馬《うま》つまづく 家《いへ》思《も》ふらしも
    妹門 出入乃河之 瀬速見 吾馬爪衝 家思良下
 
【語釈】 ○妹が門出入の河の 「妹が門出」は、出で入りする意で「入」に続け、地名としての「入の河」の「入」の序詞としたものと取れる。巻九(一六九五)人麿歌集の歌に、「妹が門入り出づみ川の常滑に」とあり、「妹が門入り」は「出づ」の序詞であり、その型のものと取れるからである。「入の河」は所在が明らかでない。山城国にはこの名の野がある(京都府乙訓郡大原野村上羽の入野神社のほとりの善峯川かという)が、諸所にありうる名であり、歌の排列順の大体定まっている上からも、それとは定め難い。○瀬を早み 瀬が早いので。○吾が馬つまづく わが乗馬が躓く。○家思ふらしも 家の妻が我を思っているのであろうで、「も」は詠歎。旅にいる夫の乗馬の躓くのは、家にいる妻が夫を思う心の通じてのこととする俗信があってのものである。家の妻が我を思うことを、このような語続きでいうのが、型となっていたのである。
(396)【釈】 妹が門を出で入りするに因みある入の河を渉って行くと、河の瀬が早いので、わが乗馬が躓く。家の妻が我を思っているのであろうよ。
【評】 家の妻が旅にいる夫を案じると、その心が通って、夫の乗馬が躓き、あるいは行き悩むということは、広く行なわれていた信仰であったとみえ、それに触れている歌が少なくない。この歌はその一首で、巧みな歌である。「妹が門出入の河」は、夫より妻を思ったものであるが、それは第二にし、「馬つまづく家思ふらしも」に重点を置いているもので、旅愁を上品に婉曲にいったものである。しかしこの歌の「家思ふらしも」には問題がある。「瀬を早み」を、理由をいったものではなく、状態をいったもので、瀬が早くしてであると解しても、陥るところ、「馬ぞつまづく」の理由である。それだと「家思ふらしも」と矛盾する。一つのことに二つの理由があることになるからである。迎えていえば、古くからの信仰が、それ自体だけでは立ち難い状態となり、何らかの理由を求めていたのが、無意識に影響しているのではないかと思われる。それであるとすれば、時代の推移を示していることになる。この歌、巧みではあるが感が乏しく、どこか誘い物ということを思わせるものである。
 
1192 白栲《しろたへ》に にほふ信士《まつち》の 山川《やまがは》に 吾《わ》が馬《うま》なづむ 家《いへ》恋《こ》ふらしも
    白栲尓 丹保布信士之 山川尓 吾馬難 家戀良下
 
【語釈】 ○白栲ににほふ信士の 「白栲」は、白色の意のもの。「にほふ」は、艶《つや》を発している意で、白色の艶を出すことは、其土の特色であるところから真土と続け、それを待乳山に転じたもので、初句から「にほふ」まで八音は待乳の序詞。実景を序詞の形でいったものと思われる。待乳山は京より紀伊国へ出る要路にある山で、既出。○山川に 「山川」は山の川で、今の落合川と思われる。○吾が馬なづむ 乗馬が渉り悩むで、山川で急流なため。○家恋ふらしも 家の妻が我を恋うているのであろうよ。
【釈】 白色に艶を発している真土に因む名の待乳山の、その山の川を渉とて、我が乗っている馬は行き悩んでいる。家の妻が我を恋うているのであろうよ。
【評】 上の歌と作意はまったく同じで、境が異なっているだけである。しかしこの歌のほうが事も心も自然なので感が深い。待乳山の実景を序詞とした点、「信士の山川」は名高い道なので、名をいわない点、また得乳山は国境の山なので、それを越した時は旅愁も際やかで、「家恋ふらしも」も自然である点など、すべてがよく纏まっている。奈良時代の歌である。
 
1193 背《せ》の山《やま》に 直《ただ》に向《むか》へる 妹《いも》の山《やま》 こと聴《ゆる》せやも 打橋《うちはし》渡《わた》す
(397)    勢能山尓 直向 妹之山 事聽屋毛 打橋渡
 
【語釈】 ○背の山に直に向へる妹の山 「背の山」は、巻一(三五)に出た。和歌山県伊都郡かつらぎ町の西端にあり、紀の川の北岸の山。大和国から紀伊国へ下る要路にあたり、越えて行くべき山である。「直に向へる」は、直接に向かっているで、相対している意。「妹の山」は、現在は、伊都郡かつらぎ町西渋田、紀の川の南岸に、背山と川を隔てて立っている山の称であるが、本居宣長は『玉勝間』九巻でこれを疑い、妹山は実際にはなく、背山に対かってかりに設けた名であるといい、『新考』は、それを進めて、妹山は背山と並んでいるちょっとした山であり、京の人の興味より名付けた名であって、土地の人とはかかわりがなかったため伝わらなかったのであろうといっている。この続きの歌によってみても、一つづきの山であったと思われる。○こと聴せやも打橋渡す 「こと」は、言で、「聴す」は求婚を承諾する意。「や」は疑問の係助詞。「も」は、詠歎。背山の求婚を妹山が承諾をしたのであろうか。「打橋」は、一枚板で、低い岸から岸へ渡す橋で、架けはずしの出来るかりそめの橋。「渡す」は、妹山が背山の通いやすいように渡すで、二つの山の間の谷川へ架かった橋に対しての作者の解。
【釈】 背の山に直接に向かっているところの妹山は、背山の求婚を承諾したのであろうか、背山の通いやすいようにと間の川に打橋を渡したことである。
【評】 山に神格を認めた上代信仰の延長とし、山を人格視し、男女、親子とすることは、全国的に拡がっていた信仰である。背山と妹山とはそれであって、作者の興味をもったのはその点ではなく、二つの山の問にある谷川に架かっている打橋だったのである。それをしたのは妹山だとしたのは、男性には一般性のある興味で、ことにその路を通る旅人にあってはもちやすい興味であったろう。
 
1208 妹《いも》に恋《こ》ひ わが越《こ》えゆけば 背《せ》の山《やま》の 妹《いも》に恋《こ》ひずて あるがともしさ
    妹尓戀 余越去者 勢能山之 妹尓不戀而 有之乏左
 
【解】 上の(一一九四)以下、(一二〇七)「粟島に」までの十四首は、元暦本、西本願寺本、外四本は、寛永本とは排列の順序が異なっている。本書もそれに従う。歌の番号だけは、便宜上『国歌大鶴』に従う。
【語釈】 ○妹に恋ひわが越えゆけば 「妹」は、京にいる者。「越え行けば」は、妹を目的として行くので、京へ向かって背の山を越して行くことで、紀伊より京への帰路。○背の山の妹に恋ひすて 「背の山」は、その名によって我に擬したもの。「妹」
は、妹山で、京の妹に擬してのもの。「恋ひずて」は、後世の恋いずしてにあたる古格。憧れずしての意で、それをしないのは、相並んで一緒にいるからである。○あるがともしさ 「ともしさ」は、形容詞に「さ」が着いて体言としたもの。いるのが羨ましいことよ。
(398)【釈】 妹にあこがれて我が越えて行くと、この背の山は妹山と並んでわがごとくあこがれをせずにいることの羨ましいことよ。
【評】 背山妹山は上にいった信仰の伴った名であるから、その意味で実感を誘うものがあったのであろう。この作者は紀伊より京への帰路で、背の山を越すと大和に入るのであるから、妻恋しい心の一段と高まっていたおりである。軽い興味だけでいっているものではなかったろうと思われる。
 
1209 人《ひと》ならば 母《はは》の最愛子《まなご》ぞ 麻《あさ》もよし 紀《き》の川《かは》の辺《へ》の 妹《いも》と背《せ》の山《やま》
    人在者 母之最愛子曾 麻毛吉 木川邊之 妹与背之山
 
【語釈】 ○人ならば母の最愛子ぞ 「人ならば」は、下の「妹と背の山」に対する仮想。「最愛子」は、用字のごとく、最愛の子の意で、他にも用例のあるもの。親といわず「母」といっているのは、夫妻同居せず、子は母といるだけであったことを背後にしてのもの。○麻もよし紀の川の辺の 「麻もよし」は、「麻裳」に「よし」の詠歎を続けたもの。着と続け、紀に転じての枕詞。「紀の川」は、吉野川の紀伊へ入っての名。○妹と背の山 「妹」と「背」は、広く妹は女、背は男の称で、夫婦間でもいい、兄妹間でもいった。ここは兄妹の意である。ことにここは同腹の兄妹で、親しい間柄である。
【釈】 これがもし人であったならば、母親の最愛の子である。紀の川のほとりに並んでいるこの妹と背の山は。
【評】 旅人としてはじめて妹山と背山とを見た人の心である。この人は夫妻を連想せずに、若い兄妹を連想したのである。親の子に対する歌は比較的少ないので、その意味で特色のあるものである。一首、美しく明るく、奈良京の人の歌とみえる。愛する子どもをもっており、心に懸かっているところからの連想であろう。
 
1210 吾妹子《わぎもこ》に 吾《わ》が恋《こ》ひ行《ゆ》けば ともしくも 並《なら》び居《を》るかも 妹《いも》と背《せ》の山《やま》
    吾妹子迹 吾戀行者 乏雲 並居鴨 妹与勢能山
 
【語釈】 ○吾が恋ひ行けば 京にいる妹を恋うて、そちらへ向かって行けば。○妹と背の山 夫妻としての山。
【釈】 京の妻を恋うてそちらへ向かってゆくと、羨ましくもーしょに並んでいることであるよ。妹と背の山は。
【評】 (一二〇八)と全く同想である。この歌のほうが、詠み方が率直で、おおまかで、謡い物に近いところがある。この道を(399)通る京の人は、誰しも似た感を起こしたので、謡い物として謡ったのであろう。
 
1211 妹《いも》があたり 今《いま》ぞ吾《わ》が行《ゆ》く 目《め》のみだに 吾《われ》に見《み》えこそ こと問《と》はずとも
    妹當 今曾吾行 目耳谷 音耳見乞 事不問侶
 
【語釈】 ○妹があたり今ぞ吾が行く 妹が家の辺りを、今我は行くことであるで、「行く」は「ぞ」の結。○目のみだに吾に見えこそ 「目のみだに」は、旧訓「目にだにも」。『代匠記』の訓。「目」は、顔というのを、その最も印象的な目に代表させていっている語。「のみだに」は、だけでもせめて。「こそ」は願望で、せめて顔だけでも見せてくれよ。○こと問はずとも ものはいわなかろうとも。
【釈】 妹の家の辺りを、今我は過ぎて行くことである。せめて顔だけなりとも我に見せてくれよ。ものはいわなかろうとも。
【評】 男が昼、夫婦関係を結んでいる女の家の辺りを過ぎる時の感である。女はその事を、母にも秘密にしており、男もそれを知っていての心である。こうした夫婦関係は、上代にあっては普通なことで、母に打明けるというのは時を経た後のことだったのである。これは相聞の歌で、羈旅には関係のない歌である。関係をつければ、男は急に旅立ちをすることになり、女に暇乞いをする余裕のなかった時のことである。
 
1212 足代《あて》過《す》ぎて 糸鹿《いとか》の山《やま》の 桜花《さくらばな》 散《ち》らずあらなむ 還《かへ》り来《く》るまで
    足代過而 絲鹿乃山之 櫻花 不散在南 還來万代
 
【語釈】 ○足代過ぎて 「足代」は、宜長の訓。紀伊国|在田《ありた》郡(現、有田市)にある地。『日本後紀』大同元年に「改2紀伊国|安諦《アテノ》郡1為2在田郡1。以3詞渉2天皇(ノ)諱(ニ)1也」とある。平城天皇の諱が安殿であったからのことである。○糸鹿の山の桜花 「糸鹿の山」は、有田市糸我町の南にある山。湯浅町との境に糸我峠がある。○散らずあらなむ 「なむ」は願望の助詞。○還り来るまで 『古義』の訓。旅をして還って来るまで。
【釈】 足代を過ぎてのこの糸鹿の山の桜花は、散らずにいてくれ。旅を終えて還って来るまで。
【評】 旅はどの程度のものかわからないが、桜花は散り易いものであるから、おそらくは愛惜の心から、不可能なことを望んでいるものであろう。「足代過ぎて糸鹿の山」という続きは、いわゆる道行《みちゆき》風の言い方である。一首、明るく軽く、暢びやかで、謡い物風である。
 
(400)1213 名草山《なぐさやま》 ことにしありけり 吾《わ》が恋《こ》ふる 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も なぐさめなくに
    名草山 事西在來 吾戀 千重一重 名草目名國
 
【語釈】 ○名草山ことにしありけり 「名草山」は、和歌山市、中腹に紀三井寺のある山。「ことにしありけり」は、既出。ただに名だけのことで、実が伴わないものであったと、已往の詠歎を添えて強くいったもの。○吾が恋ふる千重の一重も 吾の家を恋うる心の、その千分の一をもで、これも既出。○なぐさめなくに 慰めないことであるよ
【釈】 名草山というのは、ただに名だけのことであった。吾が家を恋うる心の千分の一をも慰めないことであるよ。
【評】 紀伊国に旅をして、家恋しい心をもっている人が、名草山を見て、物の名には神秘性があって、名のごとき実をあらわすものだという信仰から、名草山にその旅愁を慰める実のないことを嘆いたものである。信仰があるゆえの喚きであって、上代では実感だったのである。類歌の少なくないものであるが、そのことがこの信仰の一般性を示しているのである。
 
1214 安太《あだ》へ行く 小為手《をすて》の山《やま》の 真木《まき》の葉《は》も 久《ひさ》しく見《み》ねば 蘿《こけ》生《む》しにけり
    安太部去 小爲手乃山之 眞木葉毛 久不見者 蘿生尓家里
 
【語釈】 ○安太へ行く小為手の山の 「安太」は、和名抄に、「紀伊国在田郡英多」とある地。和歌山県有田郡吉備町北部から、有田市東北部にかけての地という。「小為手の山」は、本居宣長は、在田郡に推手《おして》村(現在、有田郡清水町押手。もと安諦《あだ》村)というがあり、そこかといっている。(401)この村は伊都郡の堺で、山奥である。路順は、伊都郡のほうから在田郡の方へ向かって行くのである。○真木の葉も 「真木」は、檜、杉など。○久しく見ねば羅生しにけり 「羅」は、さがりごけで、木の枝にさがる物。久しい間見ないので、その間にさがりごけが生えたで、「けり」は詠歎。
【釈】 安太へ行く途中のこの小為手の山の檜の葉も、久しく見ないので、さがりごけが生えたことであった。
【評】 羈旅の歌というが、これはその地方の人の、たまたま小為手の山越しの道を通り、以前|通《とお》った時には見なかった羅が、檜に生えているのを見て、感を発したのである。実際に即してのもので、こうしたことは、山村の者でないと心づかない性質のものである。「安太へ行く小為手の山」は、上の「足代過ぎて」と同じく道行きの心で、そうした興味の一般化していたことを示すものである。
 
1215 玉津島《たまつしま》 よく見《み》ていませ 青丹《あをに》よし 平城《なら》なる人《ひと》の 待《ま》ち問《と》はば如何《いか》に
    玉津嶋 能見而伊座 青丹吉 平城有人之 待問者如何
 
【語釈】 ○玉津島よく見ていませ 「玉津島」は、巻六(九一七)に出た。和歌山市和歌浦、今の玉津島神社の東の奠供山という山である。「いませ」は、行けの敬語。○青丹よし平城なる人の 「青丹よし」は、奈良の枕語。「平城なる人」は、奈良京にある人で、今ものを言い懸けられている人の妻で、その人を尊む意から、枕詞を添えて鄭重に婉曲にいったもの。○待ち問はば如何に 君の帰りを待って、ここのさまを尋ねたらば、いかに語り給うかの意。
【釈】 玉津島をよく見てお帰りなさい。奈良京にいる人が、君のお帰りを待って、ここのさまを尋ねたならば、どうお話しなさいます。
【評】 奈良京から玉津島へ来た身分ある人の、帰りを急ごうとしているのに対し、引留める心で言っているものである。引留める人は、帰りを急ぐのは家を思う心からであろうとし、その対象となっている家の人は、帰ればここの風景の美を聞こうとするだろうといって、それを口実としているのである。作者は女性で、遊行婦の類であろう。おおらかな明るい物言いに、女性らしい細かい感性を織り込んでいる。
 
1216 潮《しほ》満《み》たば 如何《いか》にせむとか 方便海《わたつみ》の 神《かみ》が手《て》渡《わた》る 海部未通女《あまをとめ》ども
(402)    塩滿者 如何將爲跡香 方便海之 神我手渡 海部未通女等
 
【語釈】 ○潮満たば如何にせむとか 潮が満ちて来たならば、どうしようとするのであろうかと、干潮の沖へ出て、海人《あま》の娘たちのその生業をしているさまを見やって危ぶんでいったもの。○方便海の神が手渡る 「方便海」を「わたつみ」と訓んでいるのは旧訓であるが、他に用例のない用字であるところから、諸注問題にしている。『代匠記』は心得難い字であるといい、経典によって解を試みている。「神が手は」は、「神」は海を支配する神で、「手」は譬喩である。巻七(一三〇一)「海神《わたつみ》の手に纏き持てる玉」があり、これは海中の岩礁に着いている鮑の玉である。ここもそれと同じく海中の岩礁を譬えたもの。「渡る」は、その上を行動しているので、そうするのは同じく鮑貝を獲るためである。○海部未通女ども 海人の娘たち。
【釈】 潮が満ちて来たならば、どうしようとするのだろうか。海の神の手の上で行動している海人の娘たちは。
【評】 京の海を見馴れない人が、海人の娘たちが干潮の時を窺って、沖のほうの岩礁に着いている鮑を採っているのを眺め、海の怖ろしさからその岩礁を海神の手と見て、もし満潮となってきたならばどうするだろうかと危ぶんでいる心である。海人としては日常の生業であるのを、怖れをもって見るのは京の人の心である。今日からいうと、「方便海の神の手渡る」という言い方は奇抜なものに感じられるが、海にわたつみの神を感じるのは、海の変化の測り難く怖ろしいのと、舟運に待つことが今日よりも多く、したがって関係が密接であったところから、おそらく最後まで残った信仰であったろう。また海に立っている岩礁に、神の手を連想することも、一切を具象的に、また感覚的に感じる習性をもっていた時代とて、今日想像するほどかけ離れたものではなかったろう。一たびこうした言葉が出来ると、それに倣う者のあったことは、上に引いた用例でも察しられる。この言葉は時代が生んだものだったのである。一首の歌として、時代の相違よりする距離はあるが、印象の鮮明な歌である。
 
1217 玉津島《たまつしま》 見《み》てし善《よ》けくも 吾《われ》は無《な》し 京《みやこ》に往《ゆ》きて 恋《こ》ひまく思《おも》へば
    玉津嶋 見之善雲 吾無 京徃而 戀幕思者
 
【語釈】 ○見てし善けくも吾は無し 「見てし」の「し」は、強め。「善けく」は、「善し」を名詞形としたもの。善いこと。○恋ひまく思へば 「恋ひまく」は、恋ひむの名詞形。
【釈】 玉津島をこのように見て、善いことも我はない。京に帰って、ここを恋うだろうことを思うと。
【評】 風景に対する愛と憧れが、負担になることをいっているものである。心象を批評的にみ、分解をしようとするところは、奈良の人の心であろう。
 
1218 黒牛《くろうし》の海《うみ》 紅《くれなゐ》にほふ 百礒城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》し あさりすらしも
    黒牛乃海 紅丹穗經 百礒城乃 大宮人四 朝入爲良霜
 
【語釈】 ○黒牛の海紅にほふ 「黒牛の海」は、海南市、黒江の海で、今の黒江湾紀三井寺の南。「紅」は、下の「大宮人」の裳の色で、「にほふ」は、色の映発する意。熊牛の海が紅の色で映えている。○百礒城の大宮人し 「大宮人」は、上の紅の関係で大宮に仕える女官。「し」は、強め。○あさりすらしも 「あさり」は、ここは漁りで、海珍しい女官が慰みとして藻や貝を採集すること。【釈】 黒牛の海が紅の色に映えている。従駕の女官が、漁りをしているのであろう。
【評】 行幸に従駕した多くの女官が、紅の裳を着けて、海岸に出て、興味として藻を引き貝を拾っているさまを、距離を置いて眺めやっている心である。「黒牛の海紅にほふ」は、全景を色で総合し対照してあらわしているものである。黒牛は地名であるが、文字とすればそうした感じを起こさせるもので、作者は意識してのことである。七音の初句を用いていることもそのことを示しているものである。三句以下はその分解と説明である。平凡ではあるが必要なものである。この歌以下七首は、左注によって藤原卿の歌である。また歌より見て紀伊国へ従駕した時の作である。それについては左注でいう。
 
1219 若《わか》の浦《うら》に 白浪《しらなみ》立《た》ちて 沖《おき》つ風《かぜ》 寒《さむ》き暮《ゆふべ》は 大和《やまと》し念《おも》ほゆ
(404)    若浦尓 白浪立而 奥風 寒暮者 山跡之所念
 
【語釈】 ○若の浦に 「若の浦」は、和歌山市の和歌浦。そこへ行幸のあったのは、聖武天皇で、神亀元年十月で、巻六(九一七)山部赤人の賀歌を作った時である。○沖つ風寒き暮は 「沖つ風」は、海上を吹く風。「寒き暮」は、十月のことと思える。○大和し念ほゆ 「大和」は、平城。「し」は強意。「念ほゆ」は、思われるで、思うのは妹である。
【釈】 和歌の浦に白浪が立って、沖から吹く風の寒い夕方は、大和が恋しく思われる。
【評】 旅愁を妹に訴えようとした歌と思える。巻一(六四)志貴皇子の「葦辺行く鴨の羽がひに霜ふりて寒き暮夕は大和し念ほゆ」と、四、五句は同じである。意識してのものであろう。
 
1220 妹《いも》が為《ため》 玉《たま》を拾《ひり》ふと 紀《き》の国《くに》の 由良《ゆら》の岬《みさき》に この日《ひ》暮《く》らしつ
    爲妹 玉乎拾跡 木國之 湯等乃三埼二 此日鞍四通
 
【語釈】 ○妹が為玉を拾ふと 「妹」は、奈良京にいる妻。「為」は土産にするため。「玉」は、海より打上げられる浜辺の貝や小石。○由良の岬 日高郡の由良の港の北側の突角(下山の鼻)。
【釈】 京にいる妹が苞にするために、紀伊国の由良の岬で、今日の一日を暮らした。
【評】 「妹が為玉を拾ふ」ということは、実に類想の多いことで、この歌は「紀の国の由良の岬」という地名によって救われているものである。消息の歌というにすぎないものである。しかしこの歌には明るく暢びやかに打上がったところがあり、貸族ら(405)しい風格を示している。
 
1221 吾《わ》が舟《ふね》の 梶《かぢ》はな引《ひ》きそ 大和《やまと》より 恋《こ》ひ来《こ》し心《こころ》 いまだ飽《あ》かなくに
    吾舟乃 梶者莫引 自山跡 戀來之心 未飽九二
 
【語釈】 ○梶はな引きそ 「梶」は、今の船櫂で、今の艪にあたる。「引く」は、舟を漕ぐには、艪を押しつ引きつするところから、漕ぐことを具象的にいった語。「な引きそ」は、漕ぐなで、舟を留めていよの意。
【釈】 我が舟の艪を引かずにここに留めていよ。大和から憧れて来たここの風景に、まだ心は満足しないことであるのに。
【評】 舟で浦伝いをしつつ、風光の好い所に舟を留めて賞美しているおりの心で、舟子に命じた言葉としてのものである。「大和より恋ひ来し心」は、風光に対する強い憧れ心で、舟子に説明する形でいっているものである。歌才の相応にあったことを思わせる作である。
 
1222 玉津島《たまつしま》 見《み》れども飽《あ》かず いかにして つつみ持《も》ち去《ゆ》かむ 見《み》ぬ人《ひと》の為《ため》
    玉津嶋 雖見不飽 何爲而 ※[果/衣]持將去 不見人之爲
 
【語釈】 ○玉津島見れども飽かす 玉津島は幾ら見ていても飽かない佳い景色である。○いかにしてつつみ持ち去かむ どのような方法で、物に包んで持って行こうか。○見ぬ人の為 「見ぬ人」は、京にいる妻で、「為」は、見せるために。
【釈】 玉津島は幾ら見ていても飽かない佳景である。どういう方法で物に包んで持って行こうか。これを見ずにいる京の妻に見せるために。
【評】 珍しい風景に接すると、親しい人に見せてやりたいと思い、どうかして持ってゆきたいということは、一般性のあるもので、したがって類歌が少なくない。しかしこの歌の場合は、物は玉津島であり、調べは熱意よりの躍動のないものなのであるから、その心が生かされていない。妻に対しての情を示そうとする歌とみえる。
 
1194 紀《き》の国《くに》の 狭日鹿《さひか》の浦《うら》に 出《い》で見《み》れば 海人《あま》の燈火《ともしび》 浪《なみ》の間《ま》ゆ見《み》ゆ
(406)    木國之 狹日鹿乃浦尓 出見者 海人之燎火 浪間從所見
 
【語釈】 ○狭日鹿の浦に これは巻六(九一七)に「雑賀野《さいかの》」と出ており、その野は聖武天皇行幸のおり、頓宮の建てられた所で、「浦」はその野につづく海である。和歌浦の西北。和歌山市雑賀崎。○浪の間ゆ見ゆ 波間をとおして見える。
【釈】 紀伊国の狭日鹿の浦に出て見ると、夜の漁りをする海人の舟に燃す火が、浪の間をとおして見える。
【評】 海上の夜の漁火は、そのものとしても印象的のものであるが、海珍しい心に捉えられ、さらに地名を二つ重ねた旅情の表現に、相応に趣のあるものとなっている。「浪の間ゆ見ゆ」は成句であるが、燈火の遠く隠見するさまをあらわしている。
 
1195 麻衣《あさごろも》 着《け》ればなつかし 紀《き》の国《くに》の 妹背《いもせ》の山《やま》に 麻《あさ》蒔《ま》け吾妹《わぎも》
    麻衣 著者夏樫 木國之 妹背之山二 麻蒔吾妹
 
【語釈】 ○麻衣着ればなつかし 「麻衣」は、上代はもとより、庶民は近世までも四季を通じて常用服とした。「着れ」は「着あり」の約、己然形。着ていると。「なつかし」は、その麻衣が。○紀の国の妹背の山に 前出。○麻蒔け吾妹 「麻蒔け」は、訓は諸注さまざまであるが、要するに「まけ」と「まく」である。旧訓は「麻まけ」で命令形。この歌も前の六首と同時のもので、紀伊の行幸地から京の妹の許に寄せたものと思われる。それだと時は十月で、春、種を蒔く麻としては実際と離れたものとなり、心持を譬喩をもっていったものとなる。その関係から三、四句の「紀の国の妹背の山に」も、同じく事実ではなく譬喩で、名前の示しているように夫婦間をいう意味のものと取れる。
【釈】 麻衣を着ていると、その庶民的な点がなつかしい。紀伊国の妹背の山に、すなわち我ら夫婦の間に、このなつかしさの種()になる麻の種を蒔けよ、我妹。
【評】 この歌は譬喩歌であるが、技巧上の要求からのそれではなく、相手は気がねをするところから、率直にいうことを憚って、必要から譬喩の形を選んだものと思われる。藤原卿から見ると、京にいる妹は、心が打上がっていて、貴族的で、打解けたところが足りないのが不甘心であった。それを矯めたいところから、おりから紀伊国にいるので、その国の枕詞となっている「麻裳よし」を「麻衣」とし、それを庶民的ななつかしさのあるところから、男女打解けたところから生まれるなつかしさの譬喩とし、また同じく紀伊国にある妹背の山を、夫妻の譬喩とし、夫妻の間になつかしさの生まれるように、その穫すなわち麻衣となる麻の種を蒔けよと望んだのである。言葉としては複雑なものになるが、相互間ではただちに感じ合える性質のものであったろう。なお、こうした歌を贈られる妹の位置、教養なども思わせられるものである。
 
     右の七作は、藤原卿の作。いまだ年月を審にせず。
      右七首者、藤原卿作。未v審2年月1。
 
【解】 「藤原卿」は、誰ともわからない。.『代匠記』は、大職冠ならば内大臣藤原卿というべきだから、それではない。その他では南卿と北卿とだが、南卿の武智麿は作歌が不得意だったとみえ、集中に一首もない。北卿の房前だろうといっている。また『全註釈』は本巻が大伴氏と関係深いので、坂上郎女の夫であった、麻呂ではないかといっているが、これらは推測で問題を残している。「年月を審にせず」といっているが、七首中の歌によって、紀伊の和歌の浦の行幸に従駕した時の作であることは明らかで、それは聖武天皇神亀元年十月のことである。本巻の編者にとってそれは最近のことで、おそらくは作者も年月も知っていることで、何らかの心からわざとこのようにいったのではないかと思われる。また、これら七首の歌を贈られた妹と呼ばれている女性は、最後の歌で見ると、身分あり教養の高い人であったと思われる。そうした人が夫妻間のこうした歌を他に漏らしたということは、編者と何らかのつながりのある人と思われる。その人の名もいっていないのである。これらのことも藤原卿の何びとであったかを暗示するものといえよう。
 
1196 ※[果/衣]《つと》もがと 乞《こ》はば取《と》らせむ 貝《かひ》拾《ひり》ふ 吾《われ》を沾《ぬ》らすな 沖《おき》つ白浪《しらなみ》
    欲得※[果/衣]登 乞者令取 貝拾 吾乎沾莫 奥津白浪
 
【語釈】 ○※[果/衣]もがと 『略解』の訓。「もが」は、願望の助詞。苞を下さいと。○乞はば取らせむ 「乞はば」は、家妻が乞うたならば。「取らせ(408) む」は、与えむ。○沖つ白浪 沖の白浪よで、呼懸け。
【釈】 海べのみやげをほしいと、家の妻が乞うたならば与えようと思う貝を拾っている我を、寄せ来て濡らすな、沖の白浪よ。
【評】 干潮の海べに出て、妻のために貝を拾っている旅人の、沖に見える白浪に怖れをもち、妻を思う心に同感を求めているものである。平明で、暢びやかで、謡い物を思わせる歌である。
 
1197 手《て》に取《と》るが からに忘《わす》ると 礒人《あま》のいひし 恋忘貝《こひわすれがひ》 言《こと》にしありけり
    手取之 柄二忘跡 礒人之曰師 戀忘貝 言二師有來
 
【語釈】 ○手に取るがからに忘ると 手に取ると、そのゆえに忘れるとで、手に取っただけで物思いを忘れると。物思いは下の「恋」。旅にあって家妻を恋うる心。○言にしありけり ただ言葉だけで、実の伴わないことであることよで、前出。
【釈】 手に取るだけで物思いは忘れると海人《あま》のいったこの恋忘貝は、ただ言葉だけで実の伴わないものであった。
【評】 同想の歌のすでに何首もあったものである。この歌は海人の言葉をそのままに繰り返し、それに対しての失望をいうという、単純な率直なものであるために、おのずから作者の善良さが現われて、それが味となっているもので、そこに特色がある。
 
1198 求食《あさり》すと 礒《いそ》に住《す》む鶴《たづ》 あけゆけば 浜風《はまかぜ》寒《さむ》み 自妻《おのづま》喚《よ》ぶも
    求食爲跡 礒二住鶴 曉去者 濱風寒弥 自妻喚毛
 
【語釈】 ○求食すと礒に住む鶴 「礒」は、岩。「住む」は、居着いている。○浜風寒み自妻喚ぶも 「浜風」は、沖から浜に向かって吹いて来る風。「寒み」は、寒いので。「自妻喚ぶも」は、「自妻」は、熟語として、用例の少なくないもの。「も」は詠歎。
【釈】 求食《あさり》をするとて岩の上に住み着いている鶴が、夜が明けて行くと、浜風が寒いので、自分の妻を喚び立てることよ。
【評】 上の(一一六五)「夕なぎにあさりする鶴潮満てば沖浪高み己妻喚ばふ」と、その心も形も似ていて、暮れを朝にしただけのものである。「あけゆけば浜風寒み自妻喚ぶも」は、当時の生活実感を濃厚に反映させているもので、秋より冬へかけての寒い頃は、夕ぐれの風と明け方の風の肌寒さは特に妻を思う刺激となったのである。鶴に寄せての心であるが、一首理詰め(409)で、一般性をもったものである点から、浜べに行なわれていた謡い物であったろうと思わせるものである。
 
1199 藻苅舟《もかりぶね》 沖《おき》榜《こ》ぎ来《く》らし 妹《いも》が島《しま》 形見《かたみ》の浦《うら》に 鶴《たづ》翔《か》ける見《み》ゆ
    藻苅舟 奥榜來良之 妹之嶋 形見之浦尓 鶴翔所見
 
【語釈】 ○藻苅舟沖榜ぎ来らし 藻苅舟が、沖より漕いで来るのであろう。○妹が鳥形見の浦に 「妹が島」は、未詳。和歌山市|加太《かだ》の沖に浮かぷ今の友島の旧称かという。田辺市説もある。「形見の浦」も未詳。妹が島を友島とすれば、今の加太町の海岸の称で、近く接してはいるが、別の所である。この続きは、「形見の浦」を主に、「妹が島」はそれに添えた形である。心としてはやや遠く離れて二つの地を見渡していっているものであるから、二つの地が一線となって重なって見えれば、妹が島につづく形見の浦にという関係ともなりうる。○鶴翔ける見ゆ 浜にいた鶴が、舟の近づくのに驚いて舞い立ったらしく、ここから見える意。
【釈】 藻苅舟が沖のほうからそこへ漕ぎ寄って来るのであろう。妹が島に因みある名の形見の浦に、その舟に驚いて、鶴の翔けているのが見える。
【評】 浜辺に住んでいる者の軽い興味より詠んだ歌である。興味は、事としては今まで見えなかった鶴が、にわかに海の空に舞い立ったにすぎないが、そこが「形見の浦」であるところから、その近くの「妹が島」を捉え、二つを繋ぎ合わせることに興味をもち、そのほうを主としていっているものである。明るく軽く、調子のよい歌である。その土地の謡い物であったろう。
 
1200 吾《わ》が舟《ふね》は 沖《おき》ゆな離《さか》り 向《むか》へ舟《ぶね》 片待《かたまち》ちがてり 浦《うら》ゆ榜《こ》ぎ会《あ》はむ
    吾舟者 從奥莫離 向舟 片待香光 從浦榜將會
 
【語釈】 ○沖ゆな離り 「沖ゆ」は、沖を通過して。「な離り」は、海岸より遠ざかるなで、わが舟は沖のほうへ離れては行くなの意。○向へ舟 こちらへ向かって来る舟。○片待ちがてり 「片待つ」は、片は片設《かたま》く、片付くなどの片と同義で、偏る意で、ひたすら待つ。「がてり」は、一方をしながら、同時に地方をも兼ねる意で、がてらと同じ。片待つかたわら。○浦ゆ榜ぎ会はむ 「浦ゆ」は、浦を通過してで、上の「沖ゆ」に対させたもの。
【釈】 わが舟は沖へは遠ざかるな。向かって来る舟をひたすら待ちながら、浦を漕いで行って行き逢おう。
(410)【評】 京の人が、船で浦伝いをして遊覧していての心である。海に親しみのない心は、船上の人となると海が新しい世界のような感がし、海上でたまたま見かける未知の人にも一種の親しみを覚えるのは、察しやすいことである。この歌の心はそれである。舟人に命令する形でいっているのは、例の多いことである。
 
1201 大海《おほうみ》の 水底《みなそこ》とよみ 立《た》つ浪《なみ》の よらむと思《おも》へる 礒《いそ》の清《さや》けさ
    大海之 水底豊三 立浪之 將依思有 礒之清左
 
【語釈】 ○水底とよみ立つ浪の 大海の水底まで響いて立つ浪ので、底鳴りのする大浪。○よらむと思へる 寄ろうとしているで、「思へる」は、「忘れむや」を「忘れて思へや」というなどと同じく、語感を強めるために添えているもの。○礒の清けさ 「礒」は、岩石の海岸。「清けさ」は、清けきことよ。
【釈】 大海の水底までも響いて立つ大浪の、寄ろうとしている礒のさやかなことよ。
【評】 海の大浪の壮大美をいっているものである。本来捉えて言い難いものであるのに、実状に即していうことによって生かしている。作者の立っているのは礒の上で、大浪はその礒に向かって進行しつついるので、作者は将来に礒にぶつかって砕けるのを予想しているのである。そしてその様を「清けさ」と感じたのである。調べも、その壮大な形にふさわしく、清々しく重く、立体感をもったものである。
 
1202 荒礒《ありそ》ゆも 益《ま》して思《おも》へや 玉《たま》の浦《うら》 離《はな》れ小島《こじま》の 夢《いめ》にし見ゆる
    自荒礒毛 益而思哉 玉之裏 離小嶋 夢石見
 
【語釈】 ○荒礒ゆも 「荒礒」は、岩石の高く現われた海岸で、「ゆも」は、よりも。○益して思へや 「思へや」は、思えばにやで、「や」は疑問の係助詞。まさって思っているのであろうか。○玉の浦離れ小島の 「玉の浦」は、本居宜長は『玉勝間』巻九で、那智の下の粉白浦(東牟凝郡那智勝浦町|粉白《このしろ》)から、十町ばかり西南にある海だといい、「離れ小島」は、その玉の浦の南の海中に、ちりぢりに岩のあるのを言ったものであろうといっている。○夢にし見ゆる 「し」は、強め。「見ゆる」は、「や」の結。
【釈】 荒礒の面白さよりも、まさって思っているからであろうか。玉の浦の離れ小島が、夜の夢に見えることであるよ。
(411)【評】 荒礒を面白く思っている人の、離れ小島を夢に見たので、そちらのほうを一層面白く思っていたのであろうかと訝かった心である。夢というものを深く信じていた時代であるから、「夢にし見ゆる」ということは軽からぬことだったのである。荒礒を風景として面白く感じるというのは、京の人の心である。また荒礒は、いったがごとく岩石であるから、離れ小島をちりぢりの岩だとすれば、その比校は合理的なものとなってくる。目に見てはいずれを面白いとも定めかねたのに、夢に出たことによって、離れ小島のほうを一段と思っていたことを知ったというのは、眼前に明らかに見たものよりも、遠くかすかに見えたもののほうに一段と心が引かれていたということで、浪曼的な心といえるものである。新傾向の歌というべきである。
 
1203 礒《いそ》の上《うへ》に 爪木《つまき》折《を》り焚《た》き 汝《な》が為《ため》と 吾《わ》が潜《かづ》き来《こ》し 沖《おき》つ白玉《しらたま》
    礒上尓 爪木折燒 爲汝等 吾潜來之 奥津白玉
 
【語釈】 ○礒の上に爪木折り焚き 「爪木」は、爪折った木で、細い木の枝。「折り焚き」は折って焚く時の状態を細叙したもの。これは海人が海中にくぐっての身の冷えを暖めることで、その労苦を具象的にいったものである。これは下の続きでみると、海人のことではなく、作者自身のしたことである。○汝が為と吾が潜き来し 「汝」は、下の「白玉」を与える人を指したのであるが、親しんでの称であるから、妻と取れる。「吾が潜き来し」は、吾が海水を潜いて採って来た。○沖つ白玉 「沖」は、海の奥、すなわち海底の。「白玉」は、鰒玉で、すなわち真珠であるぞよ。
【釈】 礒の上で、冷えた体を爪木を折って焚いて暖めて、汝のためにと、吾が海の水に潜って取って来た海底の真珠であるぞよ。
【評】 これは海べに旅をした夫が家に帰って、海の苞として真珠をその妻に贈る時に、贈物に添える歌として詠んだものである。贈物に添える歌は、その物は自身労苦して得たものだということを詠むのが型となっている。この歌で、汝がためと思って自身海人と同じ苦しい思いをしたといっているのは、型に従ってのことである。また、真珠は女子の最も愛好したものであった。作為の歌としては気の利いたものである。
 
1204 浜《はま》清《きよ》み 礒《いそ》に吾《わ》が居《を》れば 見《み》む者《ひと》は 白水郎《あま》とか見《み》らむ 釣《つり》もせなくに
    濱清美 礒尓吾居者 見者 白水郎可將見 釣不爲尓
 
【語釈】 ○浜清み礒に吾が居れば 「浜清み」は、浜が清いゆえにの意で、それを愛でて、ということを余意としたもの。○見む者は 原文「見者」。『略解』の訓であるが、「見」の下に「人」が脱したかとしている。『新訓』は「者」を「ひと」に当てたものとし、「は」を読み添えている。(412) ○釣もせなくに 釣もしないことだのに。
【釈】 浜が清いゆえに、愛でて、礒の上に吾が居るので、見る人は、海人と見ることであろうか。釣もしないことだのに。
【評】 海辺に来た京人の心で、京人としての自尊心よりいっているものである。類想が少なくなく、前にも出た。
 
1205 沖《おき》つ梶《かぢ》 やくやく渋《し》ぶを 見《み》まくほり 吾《わ》がする里《さと》の 隠《かく》らく惜《を》しも
    奥津梶 漸々志夫乎 欲見 吾爲里乃 隱久惜毛
 
【語釈】 ○沖つ梶 沖に漕ぎ出ての梶、すなわち艪櫂で、その船の水にある位置を冠しての称。巻二(一五三)「沖つかいいたくなはねそ」に同じ。沖で押している艪。○やくやく渋ぶを 「やくやく」は、巻五(九〇四)「漸漸《やくやく》に容貌《かたち》つくほり」とあり、漸次に。「渋ぶを」は、原文、諸本異同がない。「渋ぶ」は、『代匠記』精撰本の当てた字で、押しくたびれて渋る意だとしている。用例のない動詞なので、語注異説を立てているが、いずれも誤写だとして文字を改めてのものである。『新訓』は渋ぶに従っている。沖に漕ぎ出ての艪櫂は、風も波も高いので漕ぐに困難で渋るのに。○見まくほり吾がする里の 吾が見まく欲りする里のの当時の言い方で、吾が見たいと思う里の。この里は別れて来た里で、心の残る里。○隠らく惜しも 「隠らく」は、隠るの名詞形。「も」は詠歎。
【釈】 沖に漕ぎ出しての艪櫂は、波風の強さに漸次漕ぎ渋るのに、吾は見たいと思う里の、隠れてゆくことの惜しさよ。
【評】 京の官人の、海近い里の、心の残る里に別れて、海路を取って他に移動する際の心である。「沖つ梶やくやく渋ぶを」は、特色のある句である。海路でただちに沖に向かって漕ぎ出すのは、地形の関係で余儀ないことであったとみえるが、特別なことである。「やくやく渋ぶを」は、その海路の困難を具象的にいっているもので、心細かい描写であり、事も言葉も異色のあるものである。京の官人と思わせる理由である。「見まくほり吾がする里」も、旅でのこととすると、何らか特別の関係のある里と思われるが、それ以上はわからない。あくまで個性的な、主観の勝った歌で、客観味の足りない歌であるが、それでいて部分的には細かい描写をしているのである。羈旅の歌には詠歎の勝った謡い物風のものが多いのに、この歌は対蹠的にその反対なものである。
 
1206 沖《おき》つ波《なみ》 辺《へ》つ藻《も》纏《ま》き持《も》ち 依《よ》り来《く》とも 君《きみ》に益《まさ》れる 玉《たま》寄《よ》らめやも
    奥津波 部都藻纏持 依來十方 君尓益有 玉將緑八方
 
(413)【語釈】 ○沖つ波辺つ藻纏き持ち 「辺つ藻」は、海岸寄りに生えている藻。沖から来る波が、辺に生えている藻を巻き込んで、持って。○依り来とも 寄って来ようとも。○君に益れる玉寄らめやも 「君に益れる玉」は、「君」は、女より男を指したもの。「玉」は、藻の中には、稀れに鰒玉がまじっていることがあるので、それを君の譬にしたもの。「寄らめやも」は、「や」は、反語で、寄って来ようか来はしないで、「も」は、詠歎。
【釈】 沖から来る浪が、海岸寄りに生えている藻を巻き込んで寄って来ようとも、君にまさる玉が藻とともに寄って来ることなどあろうか、ありはしない。
【評】 玉の譬喩が唐突である。こうした言い方は特別の場合にすることで、その場合には面白かったところから伝えられたのであろう。京の身分ある人が海べで遊びをしている際、その土地の遊行婦ともいうべき者が、眼前の海の状態よりの連想として詠んだというようなことであれば、自然なものとなってくる。そうした範囲の歌かと思われる。
 
     一に云ふ、沖《おき》つ浪《なみ》 辺浪《へなみ》しくしく 寄《よ》り来《く》とも
      一云、奥津浪 邊浪布敷 縁來登母
 
【解】 沖よりの浪と、岸寄りの浪とが、重ねに重ねて寄って来ようともで、初二句だけが異なっているのである。上の歌のほうが作意にかなっている。
 
1207 粟島《あはしま》に こぎ渡《わた》らむと 思《おも》へども 明石《あかし》の門浪《となみ》 いまだ騒《さわ》けり
(414)    粟嶋尓 許枳將渡等 思鞆 赤石門浪 未佐和來
 
【語釈】 ○粟島にこぎ渡らむと 「粟島」は、巻三(三五八)その他にも出た。今はその名は残っていない。「こぎ渡らむ」は、明石方面よりである。○明石の門浪 「門浪」は、海峡の浪で、浪の荒い所である。○いまだ騒けり 「いまだ」に打消の続かないもので、他にも例がある。
【釈】 粟島に漕ぎ渡ろうと思っているが、明石の海峡の浪はまだ騒いでいる。
【評】 日和の見定めがつかない限り、発船の出来なかった時代に、浪の鎮まりかねるのを、もどかしく待ち遠しくしている心で、「いまだ騒けり」がよく利いている。当時の航海者には共感を喚びうる歌であったろうと思われる。
 
1225 わたの底《そこ》 沖《おき》こぐ舟《ふね》を 辺《へ》によせむ 風《かぜ》も吹《ふ》かぬか 波《なみ》立《た》てずして
    綿之底 奥己具舟乎 於邊將因 風毛吹額 波不立而
 
【語釈】 ○わたの底沖こぐ舟を 「わたの底」は、海の底の深いところを沖とも称したので、畳語の関係で「沖」にかけた枕詞。巻一(八三)「海の底沖つ白浪」その他にも出た。「沖こぐ舟」は、沖を漕いでいる舟。○辺によせむ風も吹かぬか 「辺」すなわち岸寄りに吹き寄せる風が吹かないかなあで、「ぬか」は、「ぬ」は打消の助動詞、「か」は疑問の助詞で、願望。既出。○波立てずして 波を立てないで。
【釈】 沖を漕いでいるわが船を、岸寄りに吹き寄せる風が吹かないのかなあ。波は立てないで。
【評】 この歌は、岸にいて沖を漕ぐ船を見ている人の心とも取れるが、自身、沖を漕ぐ船にいる人の心である。一首切実の感のあるものだからである。当時の航海はしばしばいったように出来るだけ岸に寄って漕いだもので、沖を漕ぐのは特別な余儀ない場合に限られたことで、今もそれである。「わたの底沖こぐ船」と、沖に恐怖感のある枕詞を冠しているのはそのためである。「辺によせむ風も吹かぬか」は、辺という安全地帯を慕ってのことで、心よりの願望である。「波立てずして」と重くいっているのは、風には波が伴うが、波が高いと危険で岸には寄れない。船が岩にぶつかって破壊する怖れがあるからで、航海者の最も注意を要することだったのである。一首の心は、航海者にとっては一般性をもっていたが、切実なものだったのである。舟人の謡い物ではなかったかと思われる。
 
1224 大葉山《おほばやま》 霞《かすみ》たなびき さ夜《よ》ふけて 吾《わ》が船《ふね》泊《は》てむ とまり知《し》らずも
(415)    大葉山 霞蒙 狹夜深而 吾船將泊 伴不知文
 
【語釈】 ○大葉山霞たなびき 「大業山」は、所在が知れない。和歌山県説、滋賀県脱がある。「霞」は、霧をも称した。ここは夜霧。「たなびき」は、原文「蒙」。旧訓「たなびき」。この歌は、巻九(一七三二)に重出し、そちらでは、二句「霞棚引」となっているので、それに拠る。夜霧を全面的に被っていてで、はっきりと見えない意。夜更けの状態として下へ続く。○吾が船泊てむとまり知らずも わが船の碇泊他の知られないことよで、「も」は詠歎。
【釈】 大業山に、夜霧がたなびいて、夜《よる》が更けて、わが船は碇泊地の知られないことであるよ。
【評】 何らかの必要に駆られて夜も航海している際の歌である。大葉山に夜霧が懸かって夜更けたことが知られるが、今夜の碇泊地の予定も立てられないというので、そこの海路に熟している船人の歌と思われる。歌としては平明で、暢びやかで、謡い物を思わせるものであるが、それとしては調べにしめやかさがある。新風の謡い物であろう。
 
1225 さ夜《よ》ふけて 夜中《よなか》の潟《かた》に 鬱《おほほ》しく 呼《よ》びし舟人《ふなびと》 泊《は》てにけむかも
    狹夜深而 夜中乃方尓 欝之苦 呼之舟人 泊兼鴨
 
【語釈】 ○さ夜ふけて夜中の潟に 「夜中」は、諸本文字の異同はないから、誤写説は従えない。楠守部は、『山彦冊子』巻一で近江国高島の東方に「夜中」という地名があるから、そこの潟であろうといっている。地名とすると最も妥当であるが、近江の湖に潟というのはどうであろう。上を承けて真暗い潟と繰り返して強めたものと解する。○鬱しく呼びし舟人 「欝しく」は、よくは解らない意で、はっきりしないように。「呼びし舟人」は、助けを求めた舟人。○泊てにけむかも 碇泊し得たことであったろうか。
【釈】 夜がふけて、夜中の真暗な潟で、はっきりしないように助けを呼んでいた舟人は、碇泊することを得たであろうか。
【評】 海辺に住んでいる人が、深夜、真暗い潟のほうで、はっきりしない声で助けを呼ぶのを聞いて、気の毒には思うが、舟人ならぬ身でどうすることも出来ずにいたが、その声も聞こえなくなった後、どうしたのであろう、岸に着けたのだろうかと、無事を願う心から想像したものである。夜の暗の海上からの救いをもとめる声は、惻々と人を打つものがある。海岸生活の深刻な一断面で、時代の新古を超えたものである。
 
1226 神《みわ》が崎《さき》 荒石《ありそ》も見《み》えず 浪《なみ》立《た》ちぬ 何処《いづく》ゆ行《ゆ》かむ よき道《ぢ》は無《な》しに
(416)    神前 荒石毛不所見 波立奴 從何處將行 与奇道者無荷
 
【語釈】 ○神が崎荒石も見えず浪立ちぬ 「神が崎」は、巻三(二六五)に出た。新宮市三輪崎の地か。「荒石」は、岩石の海岸の称。「見えず浪立ちぬ」は、岩石を越して、それも見えないまでに浪が高く立った。○何処ゆ行かむ いずこを通って向こうへ行ったものであろうか。○よき道は無しに 「よき道」は、避《よ》け路で、避《よ》けるという語は、現在も口語として存している。避け道はないのに。
【釈】 神が崎は荒磯も隠されて見えないまでに、浪が高く立った。いずこを通って行ったものであろうか。避ける路はないのに。
【評】 山裾と海との間の一本道を行き、浪がそ道てある荒磯に打上げて来るのに当惑しての心である。これも海辺生活の実際に即したもので、文芸性を念としたものではない。しかし一首の歌としての感の上からいうと、文芸性を志した歌よりもかえって感の強いものがある。ここにわが和歌の性格の一面がある。前の歌この歌など、その通例に数えられる。
 
1227 礒《いそ》に立《た》ち 沖《おき》べを見《み》れば 海藻苅舟《めかりぶね》 海人《あま》榜《こ》ぎ出《い》づらし 鴨《かも》翔《か》ける見《み》ゆ
    礒立 奥邊乎見者 海藻苅舟 海人榜出良之 鴨翔所見
 
【語釈】 ○海藻苅舟海人榜ぎ出づらし 「海藻」は、和布、荒布など海藻の総称。それを苅るのは女子の業であった。
【釈】 礒に立って沖のほうを見ると、海女が海藻苅舟を漕ぎ出すのであろう。それに驚いて鴨の飛び立って翔けるのが見られる。
【評】 上の(一一九九)の、「藻苅船、鶴翔ける見ゆ」とは、境と鳥が異なっているが、心は全く同じである。実際に即した歌の常として、いずこの地にも適用が出来るので、こうした替歌が生まれるのである。
 
1228 風早《かざはや》の 三穂《みほ》の浦廻《うらみ》を 榜《こ》ぐ舟《ふね》の 船人《ふなびと》動《さわ》く 浪《なみ》立《た》つらしも
    風早之 三穗乃浦廻乎 榜舟之 船人動 浪立良下
 
【語釈】 ○風早の三穂の浦廻を 巻三(四三四)に「かざはやの美保の浦廻の白つつじ」と出た。「風早の」は、実状を枕詞としたもの。「三穂」は和歌山県日高郡美浜町日の御崎の東北にあって、今は三尾という。「浦廻」の「廻」は、接尾語。○船人動く 「動く」は、旧訓。立ち騒ぐ意。○浪立つらしも 「らし」は、「動く」を証としての推量。「も」は、詠歎。
(417)【釈】 風早の三穂の浦を漕いでいる舟の、船人が騒いでいる。風が立ってきたのであろうよ。
【評】 当時の航海の実際に即したもので、海辺河辺では随所にあった現象と思われる。陸上にいて船人の騒ぎを聞いての感で、その人は「らし」と推量することであるから、風はまだあらわなものではなかったのである。しかしこの推量は、「も」の詠歎を添えていうべきものだったのである。船人と作者の気分との一つになっているものである。海辺に生まれた歌ではあるが、調べは美しく躍動したものである。取材の一般性によって謡い物となり、謡われつつ磨かれたのであろう。この歌は、下総国まで伝わり、巻十四(三三四九)「葛飾《かつしか》の真間《まま》の浦廻をこぐ舟の船人さわく浪立つらしも」となっている。
 
1229 吾《わ》が舟《ふね》は 明石《あかし》の湖《みなと》に 榜《こ》ぎ泊《は》てむ 沖《おき》へな放《さか》り さ夜《よ》ふけにけり
    吾舟者 明旦石之湖尓 榜泊牟 奥方莫放 狹夜深去來
 
【語釈】 ○明石の湖に 「湖」は、訓がさまざまである。『童蒙抄』は、「みなと」かとしている。巻三(二五三)「一に云う、湖《みなと》見ゆ」とあり、その後にも出た。例のある訓である。これは明石川の河口で、風波を避けるに便利な場所であったとみえる。
【釈】 わが船は、明石の港に榜ぎつけて泊まろう。沖のほうへは離れるな。夜がふけてしまったことであるよ。
【評】 巻三(二七四)「吾が船は枚の湖《みなと》に榜ぎ泊てむ奥へなさかりさ夜ふけにけり」があって、地名が異なっているのみである。これは高市黒人の歌で、それが謡い物として伝わったものである。
 
1230 ちはやぶる 金《かね》のみ崎《さき》を 過《す》ぐるとも 吾《われ》は忘《わす》れじ 志珂《しか》の皇神《すめがみ》
    千磐破 金之三崎乎 過鞆 吾者不忘 壯鹿之須賣神
 
【語釈】 ○ちはやぷる金のみ崎を 「ちはやぶる」は、神威を激しくあらわす意で、枕詞としてしばしば出たが、ここは枕詞ではなく、「金のみ崎」の状態としていったもの。「金のみ崎」は、筑前国宗像郡田島の北端の岬角で(福岡県宗像郡玄海町鐘崎)、玄海灘に面している。この灘は航路の上では聞こえた難所で、それは金のみ崎に祀られている神が荒ぶる神で、その威力を振るうがゆえだと信じられていた。○過ぐるとも 過ぎて行こうともで、航海者が金のみ崎のほうへ向かって行こうとも。○吾は忘れじ志珂の皇神 「志珂」は、福岡県糟屋郡志賀町で、博多湾の西方に突出した半島。「皇神」は、尊い神で、そこに祀ってある海神社の三座の神。祭神は住吉の神と同じく水を掌る神である。航海者は今その神を祭っているのである。
(418)【釈】 神威を激しくあらわす金のみ崎のうしはく荒海を越えて行こうとも、吾は忘れまい、この志珂の皇神の御庇護を。
【評】 航海者の海神に対する信仰はきわめて深いものであることは、現在の進んだ造船術航海法をもった時代でも讃岐の金刀比薙神社に対する信仰の盛んなのを見ても知られる。この当時のさまは思いやられる。この歌は遠い航海をしようとする船人が、博多湾の志珂の海神の庇護を蒙ろうと祭をした時の心で、これより向かって行こうとしている、金のみ崎の神のうしはく玄海灘の難所を越える時も、吾は一に志珂の神の庇護を信じ頼もう、との心をいっているものである。大事を前にして静かに心を整えているという範囲の歌で、航海者には強く共感されたものであろう。
 
1231 天霧《あまぎら》ひ 日方《ひかた》吹《ふ》くらし 水茎《みづぐき》の 岡《をか》の水門《みなと》に 波《なみ》立《た》ち渡《わた》る
    天霧相 日方吹羅之 水莖之 岡水門尓 波立渡
 
【語釈】 ○天霧ひ日方吹くらし 「天霧ひ」の「霧ひ」は、動詞霧るの連続動作をあらわす語で、天が曇ってきて。「日方」は、風位を示す称。古くは東南風の称といい、今も大体あたっているという。○水茎の岡の水門に 「水茎の」は、瑞々しい茎ので、それの生えている意で岡の枕詞。「岡の水門」は、福岡県|遠賀《おんが》郡蘆屋町、遠賀川の河口の港。上代史に関係の多い港で、大きな港であった。今は底が浅くなっている。○波立ち渡る 波は日方によって立ったもの。
【釈】 空が曇ってきて、日方が吹くのであろう。岡の港に波が盛んに立ちつづいている。
【評】 陸上にいて、やや遠く港のほうを見渡した心である。陸上ではそれとも心付かないが、風に敏感な海は早くも波の立っ(419)ているのを見て、空の曇りに伴っての日方が吹くのだろうと推量したのである。これは岡の港と日方との方位の関係を心に置いてのことである。この歌は風景として愛でていっているものではなく、航海者としての関心からいっているものと解される。当時の岡は要津であって、海辺の者はいずれもこうした注意をしていたので、その意味でこの歌は一般性をもち、謡い物として行なわれていたものだろうと思われる。形としては、その地の人にとっては平明なものであり、調べはきわめてさわやかな、快いものだからである。現在から見ると風景の歌とみえ、その意味での魅力のあのものであるが、これはその土地の実生活の生んだものと思われる。
 
1232 大海《おほうみ》の 波《なみ》は畏《かしこ》し 然《しか》れども 神《かみ》を斎祀《まつ》りて 船出《ふなで》せば如何《いか》に
    大海之 波者畏 然有十方 神乎齋祀而 船出爲者如何
 
【語釈】 大海の波は長し 「畏し」はおそろしい。○神を斎祀りて 神を祭って、無事を祈って。○船出せば如何に 「如何に」は、いかにあらんの意で、人に相談した形のものである。乗船者の楫取などに対しての語であろう。
【釈】 大海の波はおそろしい。しかし、神を祭って無事を祈っての上で船出をしたならばどうであろう。
【評】 船を傭って出そうとする人の、その船の楫取などとの問答の一節である。航海の実情を知悉しているところから、天候に懸念する楫取と、その知識はなく、信仰にたよろうとする人の、事を急ぐ心をもっての問答で、複雑した事を単純にいっているものとみえる。当時の実際生活に即した歌で、一般性をもったものである。
 
1235 未通女《をとめら》らが 織《お》る機《はた》の上《うへ》を 真櫛《まぐし》もち かかげ栲島《たくしま》 波《なみ》の間《ま》ゆ見《み》ゆ
    未通女等之 織機上乎 眞櫛用 掻上栲鳴 渡間從所見
 
【語釈】 ○織る機の上を 機にかかっている糸はたて糸であるから、それをいったもの。○真櫛もち 「其」は接頭語。櫛をもって。○かかげ栲島 「かかげ」は、掻き上げる。「たく」は意味の広い語で、集中にも用例が多い。ここは取り上げる意で、上の「かかげ」を語をかえて繰り返したものと取れる。機を織るのは、用具は時代によって異なるが、基本は一定していて今と異ならない。たて糸の乱れを整理するためにすることと取れるが、細かいことはわからない。ここはその「たく」を島の名の「栲」に転じたもので、「かかげ」までは栲の序詞である。すなわち四句の半ばまでを序詞としたのである。○栲為 所在は不明である。『新考』は肥前国平戸の北方にある度島ではないかといっている。島根県八束郡八束村(420)の大根島かともいう。○波の間ゆ見ゆ 波間をとおして見える。
【釈】 娘たちがその織っている機の上を、櫛をもって掻き上げ、たくことをする、それを名とした栲島が、波間をとおして見える。
【評】 航海中、遠く波間に見えてきた小さな可憐を島を、栲島だと知った乗船の人が、それの可憐なさまから、娘たちが機を織る時の「かかげたく」ことを連想して、その興味からこうした長序を設けたものと思われる。口唱時代の古い序詞は、その大半は語戯で、懸かるほうと懸けられるほうとの変化を際やかなものとし、その際やかさに興じたものである。この序詞は際やかなものではなく、さりとて理詰めのものでもなく、可憐を旨とした事細かな繊細なものである。序詞としては明らかに新風である。舟人の歌ではなく、作歌に熟した乗客の歌と思われる。軽い興味よりのものであるが心引かれる。
 
1234 潮《しほ》早《はや》み 礒廻《いそみ》に居《を》れば あさりする 海人《あま》とや見《み》らむ 旅《たび》ゆくわれを
    塩早三 礒廻荷居者 入潮爲 海人鳥屋見濫 多比由久和礼乎
 
【語釈】 ○潮早み礒廻に居れば 潮が早いゆえに船出がされずに礒に居れば。「廻」は接尾語。○あさりする 原文「入潮為」は、義で当てている文字。漁りをする。
【釈】 潮が早いゆえに船出がされず礒にいるので、漁りをする海人だと人は見るであろうか。旅をする我であるのに。
【評】 類想の歌がすでに何首も出た。もっともこの歌は、風光を珍がってとどまっているのではなく、必要に制せられてのものである。
 
1235 浪《なみ》高《たか》し いかに梶取《かぢとり》 水鳥《みづとり》の 浮寝《うきね》やすべき 猶《なほ》や榜《こ》ぐべき
    浪高之 奈何梶執 水鳥之 浮宿也應為 猶哉可榜
 
【語釈】 ○いかに梶取 「いかに」は、いかにせんと問い懸けたもの。「梶取」は、艪を取る者で、舟子の頭。呼び懸け。○水鳥の浮寢やすきべき 「水鳥の」は、譬喩の意で浮へかかる枕詞。「浮寝」は、水上に浮かんで寝ることで、水路でも夜は陸に上がって寝ることになっていたが、この場合は、浪が高いので危険で、船を岸に寄せられないのである。船中に寝るべきであろうか。○猶や榜ぐべき もっと漕ぎ続けるべきであろうか。
【釈】 浪が高い。どうするのか梶取よ。今夜は水鳥のように浮寝をするべきであろうか。それともなお漕ぎ続けるべきであろう(421)か。
【評】 普通ならば上陸すべき時刻に、梶取はそれをしようとせず、浪の高い海を漕ぎつづけているので、乗船者は不安を感じ、船の主権をもっている梶取に、これからどうするのかと尋ねた形の歌である。こうしたさし迫った事を、歌で相談する形でいうのは例の多いもので、これもそれである。一句で切り、二句で切り、また四句で切って、短文を連ねてあるのみならず、同型の句の繰り返しもしているもので、この類のものとしても特殊なものである。これは言いかえると歌を口語的発想とし、極度に散文化したのであるが、歌を実際生活に即したものとする以上、当然生まれるべき傾向である。これを一首の歌としてみると、口頭の語をもっていっているよりも一段と明晰でまた単純でもあって、効果的である。またそれは調べが張っているがためにそうなったのであるが、それは同時に他方では、乗客のその時の不安な感の具象ともなっているのであって、散文では遂げられないことを遂げているのである。問題となりうる歌である。
 
1236 夢《いめ》のみに 継《つ》ぎて見《み》えつつ 小竹島《しのしま》の 礒《いそ》越《こ》す波《なみ》の しくしく念《おも》ほゆ
    夢耳 繼而所見 小竹嶋之 越礒波之 敷布所念
 
【語釈】 ○夢のみに 旧訓「いめにのみ」、『代匠記』の訓。これは仮名薔きの例に従ってのものである。夢ばかりに。○継ぎて見えつつ 原文、諸本異同がない。これでは音数が足りないので、三句の小をこちらへ取り入れ、さらに「小」を誤写として、いろいろの訓を試みている。『新訓』は「つつ」を読み添えている。『古義』は、「小」を「乍」の誤写であろうとして、その参考として巻九(一七二九)「暁の夢所見乍《いめにみえつつ》梶島の石《いそ》越す浪のしきてし念ほゆ」を引き、その上で「つつ」と訓んでいるのを、『新訓』は、それを調べの上の一つの型と見て、それによって読み添えたのであろう。これに従う。○小竹島の礒越す波の 「小竹島」は、所在不明。愛知県知多郡南知多町篠島説がある。また「小」を誤字とみて「竹島」とし、滋賀県高島郡とする説もある。結句「しく」へかかる序詞で、眼前の景を捉えてのもの。○しくしく念ほゆ 「しくしく」は、重なる意の動詞「しく」を重ねて副詞としたもの。しきりに思われるで、対象は家の妹。
【釈】 夢ばかりに続いて見え見えして、小竹島の礒を越して寄せる波のように、しきりに家の妹が思われる。
【評】 小竹島の所在は不明であるが、続きの歌の排列から見て、近江の湖辺と思われる。旅にあって家の妻を思うという類歌の多いもので、夢に見えるのは妻の我を思うためで、我も同じくしきりに思われる心を、眼前を序としていっているのである。妹を暗示にとどめていわずにいるのが注意される。全体に心細かく、調べにしめやかな点のあるのが新風を思わせる。
 
(422)1237 静《しづ》けくも 岸《きし》には波《なみ》は よりけるか これの屋《や》通《とほ》し 聞《き》きつつ居《を》れば
    靜母 岸者波者 縁家留香 此屋通 聞乍居者
 
【語釈】 ○静けくも岸には波は 「静けくも」は、旧訓「しづかにも」。『考』の訓。形容詞「しつけし」の副詞形。「岸には」の「は」、「波は」の「は」は、いずれも強め。○よりけるか 「ける」は、「来ある」の約で、来ている。「か」は感動の助詞。○これの屋通し 屋内にいて、家越しの波の音を。
【釈】 静かにも、岸には波が寄って来ていることであるよ。この家を通して聞きつついると。
【評】 前後が近江国の歌であるから、この歌もそれで、「岸」も「波」も琵琶湖のものであろう。作者は旅人として、水辺の家に居て、あるかないかの波が岸に寄せて来て」低く立てる音に、聞き入っている心である。取材としてはじつに平凡きわまるものであり、詠み方も素朴に自然にいってあるだけで何の奇もないのであるが、この歌はじつに魅力をもったものである。京の人で、湖のそうした波の音は珍しくなつかしいものに思う心と、前後を截断して、卒然とその心を捉えたものに集中してゆく態度とが、その波の音を生かしきっているからである。時代を超えうる作である。
 
1238 竹島《たかしま》の 阿渡白波《あとしらなみ》は 騒《さわ》けども 吾《われ》は家《いへ》思《おも》ふ いほり悲《かな》しみ
    竹嶋乃 阿戸白波者 動友 吾家思 五百入※[金+施の旁]染
 
【語釈】 ○竹島の阿渡白波は 「竹島」は、近江国高嶋郡。「阿渡白波」は、「阿渡」は、阿渡川で、今の安曇《あど》川(滋賀県高島郡安曇川町船木あたり)という。その川の白波。○騒けども 川の波が騒がしいけれども。○いほり悲しみ 「いほり」は旅人の夜寝るために設けた仮小屋。「悲しみ」は、悲しいので。侘びしさを強くいったもの。
【釈】 高島の阿渡川の白波は騒がしいけれども、我はそれに紛れず家を恋しく思っている。夜の小屋が悲しいので。
【評】 旅人としての高島の阿渡川のぽとりに小屋を掛けて宿っての心である。この歌は、巻九(一六九〇)「高島の阿度川波は騒けども吾は家思ふ宿悲しみ」となって出ている。巻二(一三三)人麿の「小竹の葉はみ山もさやにさやげども吾は妹思ふ別れ来ぬれば」の影響をうけたものである。
 
(423)1239 大海《おほうみ》の 礒《いそ》もとゆすり 立《た》つ波《なみ》の よらむと念《おも》へる 浜《はま》の浄《きよ》けく
    大海之 礒本由須理 立波之 將依念有 濱之淨奚久
 
【語釈】 ○大海の礒もとゆすり 「礒」は、岩で、「もと」は、その根もと。大海の岸近く立っている岩の根もとを揺り動かして。○よらむと念へる浜の浄けく 「浄けく」は、浄くあることよで、体言。
【釈】 大海の中に立っている岩の根もとを揺すり動かして立つ波の、寄ろうとしている浜の清らかさであることよ。
【評】 (一二〇一)「大海の水底《みなそこ》とよみ立つ浪の寄らむと思へる礒の清《さや》けさ」が伝唱されて拡がったものである。この歌の謡われた地は、海中に大岩が立ち、海岸が砂浜となっているところから、その地形に適切なものにしようとして改めたものと取れる。優れた歌の伝播力をもっていたことを明らかに思わせる歌である。
 
1240 珠《たま》くしげ 見諸戸山《みもろとやま》を 行《ゆ》きしかば 面白《おもしろ》くして 古昔《いにしへ》念《おも》ほゆ
    殊匣 見諸戸山矣 行之鹿齒 面白四手 古昔所念
 
【語釈】 ○珠くしげ見諸戸山を 「珠くしげ」は美しい櫛笥で、その筥の身と続く意で、「見」の枕詞。「見諸戸山」は、山城国字治市にあって、今三宝戸寺のある山だという。三輪山説もあり、明らかではない。○行きしかば 行ったところ。○面白くして古普念ほゆ 「面白くして」は、広く感興の深い意。「古昔念ほゆ」は、そこの古のことが思われる。
【釈】 見諸戸山を踏み歩いたところ、興が深くて、そこの古のことが思われる。
【評】 「面白くして古昔念ほゆ」は、おおらかな綜合感で、その心の通じくるものである。「面白くして」は直接に佳景をいっているものではなく、佳景の与える快さであろうが、それが自然その地に関係のある伝説で、平常は忘れていることを思い出させる誘因となるのは、一般性のあることである。
 
1241 黒玉《ぬばたま》の 黒髪山《くろかみやま》を 朝《あさ》越《こ》えて 山下露《やましたつゆ》に ぬれにけるかも
    黒玉之 玄髪山乎 朝越而 山下露尓 沾來鴨
 
(424)【語釈】 ○黒玉の黒髪山を 「黒玉の」は、「黒」にかかる枕詞。黒髪山の名は今も残っている。奈良市法蓮町の北、大和国より山城国へ越える山で、佐保より行く間道にあたっているとのことである。○朝越えて 旅立をして行くものと取れる。○山下露にぬれにけるかも 「山下露」は、山の木の下露。「ぬれにけるかも」は、ぬれたことだなあと、強く詠歎したもの。
【釈】 黒髪山を朝越えて、我は山の木の下露に濡れたことであったなあ。
【評】 黒髪山を朝越えて来て、木の下露に濡れたことを強い感傷をもっていっているから、しかるべき事情の伴ってのことであろうが、それには触れていない。国境の山で、朝越えたのであるから、遠い旅立であったかも知れぬ。調べの張っているのが、その感傷の程度を示している。「黒髪山」という名、「山下露」という語は一脈のなまめかしさがあり、迎えれば、妻の許よりの帰路ということも思わせる。印象の鮮明な、調べの美しい歌であるから、謡い物として謡われたものかとも思われる。
 
1242 足引《あしひき》の 山《やま》行《ゆ》き暮《く》らし 宿《やど》借《か》らば 妹《いも》立《た》ち待《ま》ちて 宿《やど》貸《か》さむかも
    足引之 山行暮 宿借者 妹立待而 宿將借鴨
 
【語釈】 ○足引の山行き暮らし 「足引の」は、山の枕詞。「山行き暮らし」は、「山」は漠然といったもので、それと指すところのないもの。「行き暮らし」は、目的を定めずに一日を歩き暮らして。○宿借らば 「宿」は、その夜の宿りで、見懸けた家で、一宿を頼んだならば。○妹立ち待ちて宿貸さむかも 「妹」は、ここは愛人の意であるが、下の続きで未知の女。「立ち待ちて」は、門に立って我が行くを待っていてで、これは普通としてはあり得べからざることである。「宿貸さむかも」は、「かも」は疑問の助詞で、我に宿を貸すであろうか。
【釈】 山を一日歩き暮らして、そこにある家に一宿を頼んだならば、妹が門に立って待ち構えていて、宿を貸すであろうか。
【評】 これはこの作者の、心中に描いた空想像であって、架空なものであるが、しかし全然根拠のないものではない。根拠というのは、藤原時代から神仙思想が瀰漫していて、山中には仙女が住んでいて、人界の男と婚を通じるという噂が拡がっていたのである。この種のことに繋がりのある歌が集中に少なくなく、この歌もその一片である。奈良時代にあってはこうした歌は、ある程度まで一般性をもっていたのである。
 
1243 見渡《みわた》せば 近《ちか》き里廻《さとみ》を たもとほり 今《いま》ぞ吾《わ》が来《く》る 礼巾《ひれ》振《ふ》りし野《の》に
    視渡者 近里廻乎 田本欲 今衣吾來 礼巾振之野尓
 
(425)【語釈】 ○見渡せば近き里廻を 「見渡せば」は、見渡しにすれば、直線的にすればの意。「近き里廻を」は、「近き」は、上を承けて、それだと近いの意。「里廻」は、「廻」はあたり、里であるのに。里は妻の家のある里。○たもとほり今ぞ吾が来る 「たもとほり」は、「た」は接頭語。「もとほり」は、廻り路をしてで、その里の中を通るまいと避けてのこと。「今ぞ吾が来る」は、「ぞ」は係助詞で、今ようやくその野まで来たことである。○礼巾振りし野に ひれは古くは儀礼の物であったから、「礼巾」の字を当てたのである。別れの時に、妻が送って来て、領巾を振ったことのあった野に。
【釈】 直線的に見渡すと近い里であるのに、廻り路をして、今ようやく来たことである。妻が別れを惜しんで領巾を振った野に。
【評】 実際に即した歌なので、心は単純であるが、事情が複雑している。「今ぞ吾が来る礼巾振りし野に」は、女をなつかしがっての行動であるが、その言い方からみて、礼巾を振ったのは普通の別れの際のことではなく、男が旅に立つ別れの時で、「今ぞ吾が来る」も、旅を終えてのことと思われる。「近き里廻をたもとほり」も、妻は隠し妻で、人目に着くことを怖れてのことと取れる。ことに「たもとほり」は、志す野は里のあちらがわにあるので、里の中を通っては行けないからのことと取れる。このように解さないと、一首に筋が立たなくなるからである。
 
1244 未通女等《をとめらが》が 放《はな》りの髪《かみ》を 木綿《ゆふ》の山《やま》 雲《くも》なたなびき 家《いへ》のあたり見《み》む
    未通女等之 放髪乎 木綿山 雲莫蒙 家當將見
 
【語釈】 ○未通女等が放りの髪を 「放りの髪」は、童女の時は髪を垂らしているのが風であって、それを放りといった。現在のお下げである。一人前になると、それを上げて結ったので「結《ゆ》ふ」と続けている。この結うは、男童であれば成年式に匹敵する少女の成女式で、男より見れば印象的のことだったのである。初二句は結うと同音の「木綿」の序詞。○木綿の山 大分県速見郡掲布院町、今の由布岳で、別府温泉の西方に立っている。 ○雲なたなびき 上の(一二二四)「大葉山霞たなびき」と同じ。雲よ懸かるな。○家のあたり見む わが家の辺(426)りを見ようで、家は木綿の山の山裾にあったものとみえる。
【釈】 未通女らが放りにしている髪を結う、その結うに因みある木綿の山に雲よ懸かるな。わが家のあたりを見よう。
【評】 木綿の山の山裾に家をもっている男が、旅立をして、遠くは行かない頃に、家恋しさからそちらを振り返って見ると、山に雲が腰かっていて、それに妨げられて見えない嘆きである。「未通女等が放りの髪を」の序調は、気分の上で家につながりをもっているものかと思える。それだとその里には若妻があって、恋しさをそそっていることとなる。旅情の範囲のものであるが、序詞によって明るいものにされている。謡い物ではなかったかと思われる。
 
1245 志珂《しか》の白水郎《あま》の 釣船《つりぶね》の綱《つな》 堪《あ》へなくに 情《こころ》に念《おも》ひて 出《い》でて来《き》にけり
    四可能白水郎乃 釣船之※[糸+弗] 不堪 情念而 出而來家里
 
【語釈】 ○志珂の白水郎の釣船の綱 「志珂」は既出。博多湾頭の志珂の島。「白水郎」は、その地は古来、海人をもって聞こえていた。「釣船の綱」は、釣船を一と所に繋いでおくための綱。その強くない意で「堪へなく」の序詞。○堪へなくに情に念ひて 「堪へなくに」は、『新訓』の訓。「堪《あ》へ」は、「敢へ」で、堪える、出来るの意で、「堪へ」という仮名書きは集中には見えないのである。「堪へなく」は、「堪へず」の名詞形で、「に」を続けて副詞形としたもの。上よりの続きは、綱が強くなく浪に堪えない意で、受けるほうは、それを悲しみに堪えない意に転じているのである。「念ひて」に続く。悲しみに堪えなく心に思って。○出でて来にけり 家を出て釆たことであった。
【釈】 志珂の海人が釣船をつなぐに用いる綱の浪に堪えない、その堪えない悲しみを心に思って、家を出て来たことであった。
【評】 古風の歌のよさを示している歌である。詠み方は、「志珂の白水郎の」と眼前を捉えているが、その続け方をはじめ総てがおおらかで、露骨的ではなく、綜合感立体感のあるものである。調べもしめやかさがある。京の官人の志珂の地へ来ての歌と取れる。それだと「出でて来にけり」は京のわが家で、故郷を思った心である。
 
1246 志珂《しか》の白水郎《あま》の 塩《しほ》焼《や》く煙《けぶり》 風《かぜ》を疾《いた》み 立《た》ちは上《のぼ》らず 山《やま》にたなびく
    之加乃白水郎之 燒塩煙 風乎疾 立者不上 山尓輕引
 
【語釈】 ○塩焼く煙 「塩焼く」は、製塩業として藻塩を焼く意。○風を疾み立ちは上らす 風が烈しいゆえに、空には立ち上らずして。
(427)【釈】 志珂の海人の塩を焼くところの煙は、風が烈しいので、空には立ち上らずして、山に靡いている。
【評】 その土地の人から見ると、あまりにも平凡で、何の注意にも値しない光景を、このように純客観的に詠んでいるのは、こうした光景を目新しく感じる京の人でなくてはならない。作意はそれだけのものであったろう。しかし一首の歌として見ると、印象が鮮明であり、調べが品があって、心を引かれるところから、その光景に人事を連想し、煙を力弱い女性、風を環境とし、一首を隠喩と見る解が起こったのである。しかしそれは後のことで、この時代には羈旅の歌とみて、編者もその扱いをしているのである。すぐれた歌である。
 
     右の件《くだり》の歌は、古集の中に出づ。
      右件謌者、古集中出。
 
【解】 「右の件の歌」というのは、何の歌よりか明らかでない。上に「藤原卿作れる」の後を受けての注とすると、三十六首である。古集というのはどういう集か不明である。他に古歌集と称するものもある。同一のものであろう。
 
1247 大穴道《おほなむち》 少御神《すくなみかみ》の 作《つく》らしし 妹背《いもせ》の山《やま》は 見《み》らくし吉《よ》しも
    大穴道 少御紳 作 妹勢能山 見吉
 
【語釈】 ○大穴道少御神の 「大穴道」は、大国主神の一名。素盞嗚尊の末で、出雲国中興の神。「少御神」は、少彦名神で、大穴道神を援け、相共にわが国土を経営して、基礎を固めた神。巻三(三五五)、巻六(九六三)などに既出。○作らしし 『考』の訓。敬語であるべきで、過去のことだからである。作者は人麿で、当時こうした信仰が一般に行なわれていたのである。 ○妹背の山は 妹山背山で、既出。○見らくし吉しも 「見らく」は、見るの名詞形。「し」は、強め。「吉し」は 意味の広い語で、ここは上よりの続きで、楽しい。
【釈】 大穴道と少御神の二柱の神がお作りになったこの妹山と背山とは、見る眼に楽しいことだ。
【評】 紀伊国へ旅した時、眼に見て詠んだものとみえる。妹背の山を讃えたのは、風景としてではなく、その妹背という関係を讃えたもので、「見らくし善しも」と力強くいっているのは、その睦ましげな状態をいったものである。神代に対しての信仰の深さでは、代表的な人である人麿が、このようにいっているのは、当時出雲族の伝説が大和京でも根を張って、一般の常識となっていたがためであろう。その意味で、この歌は注意される。一首の姿が安らかで、艶を帯びて美しい。心も姿も人麿で(428)ある。
 
1248 吾妹子《わぎもこ》と 見《み》つつ偲《しの》はむ 沖《おき》つ藻《も》の 花《はな》咲《さ》きたらば 吾《われ》に告《つ》げこそ
    吾妹子 見偲 奥藻 花開在 我告与
 
【語釈】 ○我妹子と見つつ偲はむ 「吾妹子と」の「と」は読み添え。「見つつ」は継続で、あくまで見る意。「偲はむ」は、ここは賞美しよう。○沖つ藻の花咲きたらば 「沖つ藻は、沖のほうにある藻。○吾に告げこそ 「告げこそ」は、原文「告与」の「与」を乞に当てたので、用例がある。願望の助詞。
【釈】 吾妹子とともに見つつ賞美しよう。沖の藻の花が咲いたならば、吾に告げてくれよ。
【評】 「吾妹子」というのは、海べに住んでいる女で、上の歌と排列上で関係があるとすれば、紀伊国の女ではなかろうか。とにかく海べへ旅をして、かりそめに関係した女に、後より贈ったものとみえる。歌もそれにふさわしい平明なものである。その種《しゆ》の関係は、当時にあっては普通のことだったのである。
 
1249 君《きみ》が為《ため》 浮沼《うきぬ》の池《いけ》の 菱《ひし》採《つ》むと 我《わ》わが染《し》めし袖《そで》 沾《ぬ》れにけるかも
    君爲 浮沼池 菱探 我染袖 沾在哉
 
【語釈】 ○君が為 「君」は、女より男に対しての称。奈良京時代に近い頃から、往々男より女に対しても用いたが、人麿時代には例が見えない。○浮沼の池の 池の名と取れるが、所在不明。「浮沼」の「うき」は、泥の意の古語で、「ぬ」は沼の古語で、現在も伝わっている。泥沼の池の意で、狭い地域での称であったろう。○菱採むと 「菱」は、菱科の水生植物で、泥沼に生ずる。夏白色四弁の花を着け、菱形の実を結ぶ。その実の肉は白色で食料となる。○我が染めし袖 花汁で染めた袖。○沾れにけるかも 濡れてしまったことであるよで、濡れると花汁で染めた色は褪せてしまうからの詠歎。
【釈】 君に食べさせようがためにと浮沼の池で菱の実を採むとて、我が花汁で染めた袖が、濡れてしまったことであるよ。
【評】 人に物を贈り、また与える時には、その物を得るために労苦したことをいうのが、情愛を示すこととなっていた。ここもそれで、女が夫としている男に詠みかけたものである。平明な歌であるが、調べが暢びやかに美しく、謡い物のごとき匂い(429)のあるものである。人麿が女に代わって詠んだものではないかと思われる。
 
1250 妹《いも》が為《ため》 菅《すが》の実《み》採《と》りに 行《ゆ》きし吾《われ》 山路《やまぢ》に惑《まど》ひ この日《ひ》暮《くら》しつ
    妹爲 菅實採 行吾 山路惑 此日暮
 
【語釈】 ○妹が為菅の実採りに 「菅の実」は、山菅の実で、瑠璃の小球。夏季に熟す。女子の装飾にして愛した物とみえる。○山路に惑ひこの日暮しつ 「山路に惑ひ」は、『古義』の訓。山中で迷い歩いて。
【釈】 妹のために菅の実を採りに行った我は、山の中で迷い歩いて、今日の日を暮らしてしまった。
【評】 上の歌と同じく、妹に菅の実を与えようとして、その労苦を訴えることによって情愛を示したものである。熟した歌である。
 
     右の四首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
      右四首、柿本朝臣人麿之歌集出。
 
【解】 日常生活の歌で、羈旅には関係なくみえるが、こうしたことは旅先でもありうることであるから、何らかの拠り所があってここに加えたのであろう。
 
 問答
 
【標目】 問答は、間の歌と答の歌とを一組にしたものの称で、一首独立した歌を標準とし、特殊な形であるとして区別して題としたものである。巻十、十一、十二、十三、十四にもあるものである。相聞の歌は本来実用性のもので、贈と答とあるべきものであり、雑欲の範囲のものにも自然ありうるものである。ここにあるものは、相聞の贈答を文芸的に発展させた趣のあるものである。なほ以下十七首の歌は、左注に「古歌集に出づ」とあるもので、この題も古歌集にすでにあったものと思われる。
 
1251 佐保河《さほがは》に 鳴《な》くなる千鳥《ちどり》 何《なに》しかも 川原《かはら》をしのひ いや河《かは》のぼる
(430)   佐保河尓 鳴成智鳥 何師鴨 川原乎思努比 益河上
 
【語釈】 ○佐保河に鳴くなる千鳥 「佐保河」は、しばしば出た。「鳴くなる千鳥」は、「なる」は上のことを確かに指定する助動詞。「千鳥」は呼び懸け。鳴いている千鳥よ。○何しかも 「し」は、強意。「かも」は、疑問の係助詞。「も」は詠歎。○川原をしのひ 「しのひ」は、思慕して。○いや河のぽる ますます河を上ってゆくのかで、「のぼる」は連体形。
【釈】 佐保河に鳴いている千鳥よ。何だって川原を思慕して、ますます上流へ上って行くのか。
【評】 答歌と相俟って心が明らかになる。千鳥は男、川原は女で、いずれも譬喩である。この譬喩は、女が佐保河のほとりに住んでいるからのことで、女に懸想してしきりに言い寄って来る男に、訝かりの心をもって問いかけた形のもので、心としてはきわめて自然である。完全な譬喩で、文芸性の多いものである。古歌集とはいうが、時代的にみ、古いものではないことを思わせられる歌風である。
 
1252 人《ひと》こそは 凡《おほ》にも言《い》はめ 我《わ》が幾許《ここだ》 しのふ川原《かはら》を 標《しめ》結《ゆ》ふなゆめ
    人社者 意保尓毛言目 我幾許 師努布川原乎 標結勿勤
 
【語釈】 ○人こそは凡にも言はめ 「人」は、千鳥の立場で言ったもので、女を指す意をもつ。「凡」は、おおよそで、深く思わない意。「も」は、詠歎。「いはめ」は、河原に対して。○我が幾許しのふ川原を 「幾許」は、数の多い意にもいい、程度の甚しい意にもいう語。ここは後のもので、助詞「を」は、詠歎で、のに。我は甚しくなつかしく思う川原であるのに。○標ふなゆめ 「標結ふ」は、領有の標《しるし》として、繩などを張り渡すことで、それのある物は犯すことが出来なかった。ここはそれで、川原に標を結って、立ち入れなくする意。「な」は打消、「ゆめ」は、決して。
【釈】 人はおおよそに言うであろうが、我が甚しく思慕している川原であるのに、標を結って立ち入れないようにはするな、決して。
【評】 川原である女が、千鳥である男に対して「何しかもしのふ」と訝かったのに対し、千鳥である男は、そのようになおざりなことをいわれるが、我は甚しく「しのふ川原」であるのにと訴え、標を結うようなことは決してするなと、繰り返して訴えているのである。女が自身を川原に譬えているのに、「人」と底を割った言い方をしているのは、思い詰めての訴えであることを示し、また「標結ふな」と、人に対してでないと言えないことを言うのに照応させるためである。余裕のない歌であるが、拙いとはいえないものである。
 
(431)     右の二首は、鳥を詠める。
      右二首、詠v鳥。
 
1253 ささなみの 志賀津《しがつ》の白水郎《あま》は 吾《われ》無《な》しに 潜《かづき》はなせそ 浪《なみ》立《た》たずとも
    神樂浪之 思我津乃白水郎者 吾無二 潜者莫爲 浪雖不立
 
【語釈】 ○ささなみの志賀津の白水郎は 「ささなみ」は、琵琶湖南一帯の地名。「志賀津」は、志賀の津。「白水郎」は、ここは琵琶湖の漁者。○吾無しに潜はなせそ 「吾無しに」は、我の一しょにいない時に。「潜はなせそ」は、潜はするなと命令したもの。○浪立たすとも 浪の立たない日は、潜をするに適当な日で、そうした日であろうとも。
【釈】 ささなみの志賀の津の海人は、吾が一しょにいない時には、潜はするなよ。たといそれをするに適当した浪の立たない日であろうとも。
【評】 「吾」というのは女で、「白水郎」は夫である男、「潜」は、男が他の女と関係することを譬えたものと取れる。一夫多妻の時代で、しかも妻は同棲してはいなかったのであるから、男は自由をもっていて、「浪立たず」という状態で漁色も出来たのである。女より男に訴えたものであろう。志賀の津は近江宮のあった地であるから、宮人ということを暗示したものであろう。
 
1254 大船《おほふね》に 梶《かぢ》しもあらなむ 君なしに 潛《かづき》せめやも 波《なみ》立《た》たずとも
    大船尓 梶之母有奈牟 君無尓 潜爲八方 波雖不起
 
(432)【語釈】○大船に梶しもあらなむ 大船に梶すなわち艪櫂も添ってあってほしい。○君なしに潜せめやも 「君」は、女を指したもの。この称は問題となるものである。「潛せめやも」は、「や」は反語で、潜をしようか、しない。
【釈】 大船に艪櫂も添っていてほしい。それであれば、君がいなくて、潛きをすることなどがあろうかありはしない。たとい波は立たなくても。
【評】 「大船に梶しもあらなむ」は独立した文で、女から白水郎に譬えられた男が、我と自身を譬えて言っているものである。どういうことを譬えたのかについては、諸注さまざまの解を下しているが、その解は大体複雑な内容のもので、肯きかねるというよりはむしろ解し難いものである。女の訴えは、中心が「吾無しに」であって、それが「潜」の原因となっているのである。男もそれを中心として、君とともにいれば、「潛せめやも」という状態になるといっているのである。「大船に梶しもあらなむ」は家に夫婦同棲してゐる状態を漁りの関係から譬えていったもので、そうした状態になり得たら、「君なしに潛きせめやも波立たずとも」という状態になりうるので、潛をするのは独り住みをしているわびしさのことだと訴え返しているのである。夫婦関係は結んでいるが、晴れて同棲するのは、身分の関係、その他の事情から必ずしも自由ではなかったのである。女を君と称するのは、溯った時代にはなかったことであるのに、この歌でそれを用いているのは、後より変えたものともいえるが、女の身分が高くて、同棲が困難だということを暗示しているものともみられる。一首として、男のほうが下手《しもて》に出ていっている趣のあるものである。その点も上の解を支えるものである。
 
     右の二首は白水郎を詠める。
      右二首、詠2白水郎1。
 
       時に臨める
 
【標目】 一つの標目で、集中ここにあるだけのもので、古歌集にあったものと思われる。時にあたっての意で、後世の、折に触れてというのに似たものであるが、以下十二首は相聞の歌である。すなわち、折に触れて発した相聞の情を詠んだものである。
 
1255 月草《つきぐさ》に 衣《ころも》ぞ染《し》むる 君《きみ》が為《ため》 綵色衣《しみいろごろも》 摺《す》らむと念《も》ひて
    月草尓 衣曾染流 君之爲 綵色衣 將摺跡念而
 
(433)【語釈】 ○月草に衣ぞ染むる 「月草」は、今の露草の古名。夏、藍色の花が咲き、色が美しく、布に什き易いところから上代は衣を擢る料に用いた。「衣」は、下の「君」の衣。「染《し》むる」は、「染《そ》む」の古語。下二段活用。○綵色衣 訓が定まらない。『新訓』は『代匠記』『考』と同じく、「いろどりごろも」と訓んでいる。『全註釈』は、綵は色に染めた糸をいう字で、日本書紀に「しみ」と訓んでいるといい、今のごとく訓んでいるのに従う。
【釈】 露草で衣を染める。君のために色美しい衣を摺ろうと思って。
【評】 上代は身分のある女も、夫の衣はすべて自身で織り、仕立て、また染めもしたので、露草の季節に美しい藍色に摺るということは、妻としての喜びだったのである。「月草に衣ぞ染むる」と力を籠めて言い出しているのは、その喜びの表現である。「君が為綵色衣」と繰り返しているのは、その美しい色の夫にふさわしいことを思ってのことで、それが喜びの中心である。独詠であって贈歌ではない。
 
1256 春霞《はるがすみ》 井《ゐ》の上《うへ》ゆ直《ただ》に 道《みち》はあれど 君《きみ》にあはむと たもとほり来《く》も
    春霞 井上從直尓 道者雖有 君尓將相登 他廻來毛
 
【語釈】 ○春霞井の上ゆ直に 「春霞」は、懸かって居るの意で、「ゐ」にかかる枕詞。「井の上」は、「井」は飲用水で、井戸をも流れ川をもいった。大体部落共同のものであった。「上」は、ほとり。「ゆ」は、より。「直に」は、じかにで、下の「道」に続く。○君にあはむとたもとほり来も 「君」は、女より男を指しての称。「たもとほり」は、既出。迂回してで、廻り道をして。「来」は、自分の家へ向かって行く意。
【釈】 井の辺《ほと》りから、じかに家に帰る道はあるけれども、君に逢おうと思って、まわり道をして帰って来ることよ。
【評】 上代は飲用水を汲むのは娘の役と定まっていたので、この作者もそれをしているのである。歌は、水を汲んで家へ帰る途中の心で、井から家へまっすぐに道は続いているのであるが、その娘は同じ部落の中に言い交わしている男があるので、ひょっと顔が見られようかと頼んで、わざと男の家のあるほうの道へと、まわり道をして行くというのである。外出の自由でなかった若い女としてはきわめて自然な、可憐な心である。「春霞」という枕詞は、季節に関係をもったものであるが、気分としての繋がりをもちうるものであり、また「来」という動詞も働きのあるものである。一般性のある、魅力ある歌で、謡い物としての資格の十分あるものである。
 
1257 道《みち》の辺《べ》の 草深百合《くさふかゆり》の 花咲《はなゑみ》に 咲《ゑ》まししからに 妻《つま》と云《い》ふべしや
(434)    道邊之 草深由利乃 花咲尓 咲之柄二 妻常可云也
 
【語釈】○道の辺の草深百合の 「草深」は、草の丈の高い意。券二(四)「その草深野《くさふかの》」と出た。草の高い中にある百合の意で、上代の簡潔な言い方である。○花咲に 「花咲」は花の蕾のわれて咲く意で、「に」は、のごとく。以上三句は譬喩。○咲まししからに 「咲ましし」は、『略解』の訓。「咲ます」は、咲むの敬語。下の「し」は時の助動詞。女に対しては敬語を用いる習慣よりのもの。「から」は、ゆえに。○妻と云ふべしや 「や」は、反語。わが妻となるといえようかいえはしないの意。
【釈】 道のほとりの丈高い草の中にまじって咲いている百合の花のように、我を見て咲みを見せられたがゆえに、わが妻となるといえようかいえはしない。
【評】 男が路の上でふと女に行き逢った時、女が男に対してにこやかな咲みを見せたのを思って、あのようだと求婚したならば妻となるだろうかと思い、いや、あれだけではそうも思えないと、思いかえしている男の心である。「道の辺の草深百合の花咲に」は、女と逢った道の実境を捉えて譬喩としたものであるが、自然で含蓄があり、語としても美しく簡潔で、「妻と云ふべしや」という反語を用いての強い否定を、消そうとする力をもっている。その微妙な関係が一首の味わいをなしている。古歌集の歌であるが、このような清新と細緻とは後世の歌にも見やすくないものである。
 
1258 黙然《もだ》あらじと ことのなぐさに 云《い》ふ言《こと》を 聞《き》き知《し》れらくは あしくはありけり
    黙然不有跡 事之名種尓 云言乎 聞知良久波 少可者有來
 
【語釈】○黙然あらじと 「黙然」は、黙っていることで、黙ってはいられまいと思って。女が、男の求婚に対して、余りすげなくも出来まいと思って。○ことのなぐさに云ふ言を 「ことのなぐさ」は、言《こと》の慰《なぐさ》で、口先だけの気やすめ。「云ふ言を」は、我にいう語《ことば》を。○聞き知れらくは 「知れらく」は、名詞形で、聞き知っていることはで、それと見抜いていることは。○あしくはありけり 原文の文字は、諸本異同のないものであるが、「少可」の訓はさまざまであり、誤写説が出、「奇《あやし》」でありとし、「苛《からく》」でありとしている。『全註釈』は、準十一(二五八四)「かくばかり恋せしむるは小可者在来《アシクハアリケリ》」の用例があり、「少可」は不可と同じだとして今のごとく訓んでいる。これに従う。よくないことであった、面白くないことであったで、思い出しての男の心。
【釈】 黙ってはいられまいと思って、女が口先だけの気やすめにいっている言葉を、それと見抜いていたことは、面白くないことであった。
(435)【評】 男が女に求婚して、女からほどよく婉曲に断わられて、それと察して別れて来た後に、その時のことを思い出しての心である。男女間には例の多いことであるが、こうした実相に深く喰い入って、それをありのままに誇張なくあらわしている歌は、実に稀れであり、例の求め難いものである。上の「道の辺の草深百合の」に並びうる作である。着実の相はたやすく時代を超える例となりうる歌である。
 
1259 佐伯山《さへきやま》 卯《う》の花《はな》もてる かなしきが 手《て》をし取《と》りてば 花《はな》は散《ち》るとも
    佐伯山 于花以之 哀我 手鴛取而者 花散鞆
 
【語釈】 ○佐伯山。所在不詳。広島県説、大阪府説がある。○卯の花もてるかなしきが 原文の文字は、諸本異同がなく、訓はさまざまで、『代匠記』初稿本は「もちし」と訓んでいるが、このように訓むと、下の続きに無理を生じて、問題となる。『大系』が「之」は連体格を示す助辞とみて、「もてる」と訓んだのに従う。「かなしき」は、愛すべきの意の形容詞で、名詞形。愛すべき子が。○手をし取りてば 原文は諸本「子鴛取而者」。『代匠記』は、「子」は「手」の誤とし、今のごとくに改めた。この誤写説は、証はないが、一首の心から、また文字の類似の上から認めなければならないものに思える。「取りてば」は、「取らば」を強めるために、その連用形に、完了の助動詞「て」を接しさせたもので、手を取ったならばで、ここで言いさしにした形。○花は散るとも 「花」は、手に持つ卯の花。「散るとも」は、散ろうともで、かまわぬの余意をもったもの。
【釈】 佐伯山に卯の花を持っている可憐な女の、その手を取ったならば、持っている花は散ろうともままよ。
【評】 佐伯山の麓で、山の卯の花を折って手にしている可憐な女を見懸け、その土地の男の烈しい愛情を抱いた心のものである。「佐伯山」の所在の不明なのは、その地方的の山であるためで、また一首全体も、単純で、露骨であって、その土地の謡い物ということを濃厚に思わせるものである。結句に重く据えている「花は散るとも」も、意味としては重くはなく、二句「卯の花もちし」の、その可憐さを繰り返していったにすぎないもので、ことに謡い物的である。
 
1260 時《とき》ならぬ 斑《まだら》の衣《ころも》 服《き》ほしきか 島《しま》の榛原《はりはら》 時《とき》にあらねども
    不時 斑衣 服欲香 嶋針原 時二不有鞆
 
【語釈】 ○時ならぬ斑の衣 「時ならぬ」は、その季節ではないで、下の「斑の衣」の修飾句。「斑の衣」は、濃淡の一様でない衣で、花汁で斑に摺った衣。○服ほしきか 「か」は、詠歎。着たいことよ。○島の榛原 「島」はしばしば出た。高市郡明日香村島の庄。「榛原」は、萩原。○時(436)にあらねども 萩の花の咲く季節ではないけれどもで、萩の花をもって衣を摺る関係からいっているもの。
【釈】 その季節ではない花摺の斑の衣を着たいことであるよ。島の萩原の萩は、花の季節ではなく、したがって摺り難くはあるけれども。
【評】 島の里の辺りに住んでいる男の心である。「島の榛原時ならねども」というのは、島の娘で、まだ婚期には達していない者を隠喩したもの。「斑の衣」は、美しい衣として我が身に着ける意で、妻の隠喩である。早婚時代のこととて、こうした感を起こす男が多くあったと思える。心も形も平明で、まさしく謡い物風である。謡われていたものかと思える。上の「佐伯山」の歌に較べると、同じ範囲の歌ではあるが、こちらは婉曲で、大和国の歌と思わせるところがある。譬喩歌としては上乗のものである。
 
1261 山守《やまもり》の 里《さと》へ通《かよ》ひし 山道《やまみち》ぞ 茂《しげ》くなりける 忘《わす》れけらしも
    山守之 里邊通 山道曾 茂成來 忘來下
 
【語釈】 ○山守の里へ通ひし山道ぞ 「山守」は、山番で、他人に盗伐などされぬよう守っている者。「里へ通ひし」は、里に妻をもって、その許へ通っていた。職としては里へ下れないのを通うというので、妻の許ということを暗示したもの。○茂くなりける 草が茂く生えてきたことであるよで、これは通わなくなったことを暗示している。○忘れけらしも 「忘れ」は、その事を忘れた意。「らし」は、「茂く」を証としての推量。「も」は、詠歎。
【釈】 山守の里へ通っていた山道は、草が茂く生えて来たことであるよ。妻を忘れてしまったのであろう。
【評】 これは山守が、里に妻をもって、足繁く通っているのを見ていたその里の人が、山守の足の絶えたことを具象的にいったものである。第三者としてこういうごとに深い興味をもち、噂話にしていたのを歌にした形のもので、当時としては一般性をもった歌である。「忘れけらしも」と、「も」の詠歎を添えていっているので、その里の妻に同情を寄せている形にはなっているが、要するに興味としての噂話である。それにしても、婉曲な言い方をして興味を露骨には示すまいとしているところに、部落生活の善良さの現われているものである。
 
1262 あしひきの 山椿《やまつばき》さく 八《や》つ峰《を》越《こ》え 鹿《しし》待《ま》つ君《きみ》が いはひ嬬《づま》かも
(437)    足柄之 山海石榴開 八峯越 鹿待君之 伊波比嬬可聞
 
【語釈】 ○あしひきの山椿さく八つ峰越え 「あしひきの」は、山の枕詞。「山椿」は、山にある椿の称。「さく」は、椿の花は一年の間、夏を除けばいつも咲く花であるが、下の続きの猟の関係から、秋冬の頃である。「八つ峰」は、多くの峰で、「越え」は、山奥に入っての意。○鹿待つ君が 「鹿」は、猪鹿に通じての称。「待つ君」は、それを獲ようとして待ち構えている君で、その人は猟人であり、「君」と呼んでいるのは、妻としてである。○いはひ嬬かも 「いはひ」は、斎いで、猟の幸運を神に祈願するために斎戒し、妻との同衾を禁じることが猟人には行なわれており、その扱いを受けている妻である。この語はここにあるのみである。「かも」は詠歎。
【釈】 山椿の咲いている多くの峰を越えて猪鹿を獲ようと待ち構えている君の、我はその斎い妻であることよ。
【評】 上代の猟の位置は、今よりもはるかに重く、それを職業としている人も多かった。海上での業と同じく危険が多く、また幸不幸も多い職業であるところから、信仰の伴っていたことは当然である。また部落の年々に行なう春秋の祭にも、直接神事に携わる者は、ある期間妻を遠ざけ、食事も別火《べつび》を用いていたのであるから、斎い嬬ということは格別のことではなかったのである。歌は猟人の妻が、その夫の出猟中、緊張して信仰生活を続けている心を詠んだものである。「あしひきの山椿さく八つ峰越え」と、その事に合わせてはきわめて美しい言い方をし、「鹿待つ君」と、これまた美しさを失わない言い方をしているのは、その夫を思う情の具象である。この歌は案外拡がりをもっていたものではないかと思われる。一夫多妻時代とて、斎い嬬ならぬ斎い嬬は幾らもあったろうと思われるからである。この歌は心が単純で、形が美しいところから見て、まさしく謡い物とされ、猟人の集団に謡われ、上の意味で他の方面にも拡がっていたものではなかったか。
 
1263 暁《あかとき》と 夜烏《よがらす》鳴《な》けど この山上《をか》の 木末《こぬれ》のうへは いまだ静《しづ》けし
    曉跡 夜烏雖鳴 此山上之 木末之於者 未靜之
 
【語釈】 ○暁と夜烏鳴けど 暁となったとて、夜烏は鳴いているけれども。烏は夜明けに早く鳴く鳥。○この山上の木末のうへは 「山上」は女の家のある所。「木末」は、梢。「うへ」は、今は、諸島の鳴くところとして、特に細かくいったもの。○いまだ静けし まだ静かであるで、諸鳥が目を覚まして鳴かない意。
【釈】 暁がきたとて夜烏は鳴くけれども、この岡の梢の上は、諸鳥が目覚まさず、まだ静かである。
【評】 夜かよって来た夫の、夜の明けきらない中に帰ろうとするに対して、妻が別れを惜しんで、まだ早いからとて留めてい(438)る心の歌で、閨にあっての語を歌とした形のものである。閨にあって時刻を鳥の鳴き声によって感じるというのは、上代にあっては普通のことであったが、「木末のうへはいまだ静けし」というのは、その家の実際に即したもので、小鳥のいかに多いかをも暗示している、味わいのある句である。
 
1264 西《にし》の市《いち》に ただ独《ひとり》出《い》でて 眼《め》並《なら》べず 買《か》ひにし絹《きぬ》の 商《あき》じこりかも
    西市尓 但独出而 眼不並 買師絹之 商自許里鴨
 
【語釈】 ○西の市にただ独出でて 奈良京は、東西の市があって、「東の市」は、巻三(三一〇)「東の市の植木の」とあった。「東の市」は左京で、今の奈良市辰市。「西の市」は右京で、今の郡山市九条の市田付近だという。○眼並べず 眼を並べずで、わが眼だけで、他人の眼をも並べて十分に見ずにの意。○買ひにし絹の商じこりかも 「買ひにし絹」は、買って来た網。「商じこり」は、「商」は商いの意の古語。「じ」は、「鳥じ物」などの場合の「じ」と同じく、「の」にあたるもの。「こり」は懲りで、名詞。仕損いの意。一語で、商いの仕損い。商いは、物々交換時代とて、交換の仕損いで、損をする意。他に用例のない語。「かも」は、詠歎。【釈】 西の市へ、自分独りで出て行って、他人の眼をも並べてよく見ずに買った絹は、商いの仕損いであったことだ。
【評】 西の市で買った絹を後から見て、思ったより悪い品であることに心付き、一しょに居る者がなくて、独りでした目利きが間違って、買い損いのようであったと悔いた心である。絹を買う人は、当時としては貧しい人ではないが、しかし庶民階級の人で、その日常生活に即しての歌である。後世だと狂歌の範囲に属するものであるが、古くは歌の本道に立ってのものとして詠みもし、また味われもしていたものである。
 
1265 今年《ことし》行《ゆ》く 新島守《にひしまもり》の 麻衣《あさごろも》 肩《かた》のまよひは 誰《たれ》か取《と》り見《み》む
    今年去 新嶋守之 麻衣 肩乃問乱者 誰取見
 
【語釈】 ○今年行く新島守の 「今年行く」は、今年交替として出て行くで、下の島守のこと。防人《さきもり》は三年交替で、ここもその意のものである。「新島守」は、新規の防人で、防人は壱岐対馬をはじめ、辺海の防備にあたる者の称である。防人は後には東国の者のみに限られたが、ここもそれとみえる。○麻衣 これは防人に限らず、一般の常服であった。○肩のまよひは誰か取り見む 「まよひ」は、※[糸+比]い。経緯の糸が乱れ片寄る意で、織り目の損われること。「肩のまよひ」は、肩の辺りがことに目立つ意でいっているのである。「取り見る」は、熟語で、世話する意。「誰か(439)取り見む」は、誰が世話をするのであろうかと、その母妻などの、その人のないのを憐れんでの心。
【釈】 今年行く新規の防人の麻衣の、その肩の辺りのほつれは、誰が繕うのであろうか。
【評】 防人、または防人の家族の詠んだ歌は、その国の国司の手に取纏め、兵部省を経て朝廷へ献ずるもので、本来他へ漏れるべき性質のものではなかった。この歌はなんらかの経路で、その途中で漏れ、その心のあわれさから伝唱されて、記録されるに至ったものとみえる。京の歌と異ならないのは、伝唱される中に京の風に改められたものと思われる。防人は命を賭しての任であったが、母などはただ麻衣のまよいを気にしているので、第三者から見ると、そこに言い難いあわれがあったのである。
 
1266 大舟《おほぶね》を 荒海《あるみ》に榜《こ》ぎ出《い》で 弥船《やふね》たけ 吾《わ》が見《み》し児《こ》らが 目見《まみ》はしるしも
    大舟乎 荒海尓榜出 八船多氣 吾見之兒等之 目見者知之母
 
【語釈】 ○大舟を荒海に榜ぎ出で 「荒海《あるみ》」は、あらうみの約音。船人としてきわめて困難なさまをいったもの。○弥船たけ 「弥」は、いやで、いよいよ。「たけ」は船を漕ぎ煽る意で、後世にも行なわれた語。いよいよ船を漕ぎ煽ってで、以上、甚しい困難をしての意の譬喩。○吾が見し児らが目見はしるしも 「児ら」は、「ら」は接尾語で、児は愛する女を親しんでの称。「目見」は、目に見るで、顔かたちを感覚的にいった語。他には用例のないものである。「しるしも」は、著しもで、はっきりと眼に浮かぷの意。「も」は詠歎。
【釈】 大船を荒海に漕ぎ出して、いよいよ船を漕ぎ煽るごとき苦労をして、我が逢って来た可愛ゆい女の顔は、はっきりと眼に浮かぶことよ。
【評】 三句を費やしてのこの譬喩は、事に合わせては特色のあるものであるが、作者は平常体験としてもっているもので、親しく適切に感じたものと思われる。すなわち航海を業としている人である。「目見はしるしも」も、特色のある語で、これもまたそれを親しく適切とするところからのものである。一首、航海者のその生活をとおして生んだ歌で、その荒く率直なところが、同業者には魅力となったものであろう。謡い物であったとみえる。
 
       所に就《つ》きて思を発《おこ》す 旋頭歌
 
【標目】 「所に就きて」は、上の「時に臨める」と並びうるもので、「時」と「所」とを区別したものである。「旋頭歌」は、既出。
 
(440)1267 ももしきの 大宮人《おほみやびと》の 踏《ふ》みし跡所《あとどころ》 沖《おき》つ波《なみ》 来《き》よらざりせば 失《う》せざらましを
    百師木乃 大宮人之 踏跡所 奥波 來不依有勢婆 不失有麻思乎
 
【語釈】 ○踏みし跡所 踏んだ跡のある所よで、詠歎がある。続きで見れば、そこは砂浜である。○沖つ波来よらざりせば 「来よる」は、寄せて来る。沖の波がもしもここに寄せて来なかったならばと仮想していっているもので、満潮の時には沖の波の必ず寄せて来る所。○失せざらましを 「失せ」は、上の「踏みし跡」で、砂の上の足跡。「まし」は、上の「せば」の帰結。「を」は、ものを。
【釈】 百しきの大宮人が、踏んだ跡のある所よ。沖の波がもしも寄せて来なかったならば、その跡の失せずにいようものを。
【評】 海辺の地に行幸のことのあった後、その土地に住んでいる民の詠んだ形のものである。土地はいずこともわからないが、紀伊国の和歌の浦のような所であろう。とにかくそこの民は行幸のあったことを甚しく忝く感じ、その形見を保存したいと願い、大宮人の海べの砂の上に残した足跡をまで形見と思い、沖から寄せて来る波の妨ぐ術もないものに、それの消されることを嘆いた心のものである。大宮人に対する限りもなき尊敬よりいっているものである。謡い物ということを強く思わせる形のものである。
 
     右の十七首は、古歌集に出づ。
      右十七首、古謌集出。
 
【解】 資料としての古歌集は、他の巻にも出ているが、以上を見てもそのいかに注意すべきものであるかが思われる。十七首中の一首、「西の市に」は、明らかに奈良時代のものと知られるが、他はわからない。問答の「白水郎を詠める」は、大津宮時代のものかとも思われるが、明らかではない。詠み方の幅が広く、一方にはおおらかに稚拙で、古風を思わせるものがあると思う、他方には微細に繊細で、新風を思わせるものがある。また明らかに庶民の歌もあって、わずかに十七首であるが変化に富んでいる。最も注意されることは、際立った秀歌のまじっていることである。心を引かれる資料である。
 
1268 児《こ》らが手《て》を 巻向山《まきむくやま》は 常《つね》にあれど 過《す》ぎにし人《ひと》に 行《ゆ》き纏《ま》かめやも
    兒等手乎 卷向山者 常在常 過徃人尓 徃卷目八方
 
(441)【語釈】 ○児らが手を巻向山は 「児らが手を」は、巻の枕詞で、既出。この枕詞は結句へ照応しているものである。「巻向山」も既出。三輪山の東方に続いた山。その麓の穴師河のほとりに人麿の妻の住んでいたことは上に出た。○常にあれど 永遠に存在しているが。○過ぎにし人に行き纏かめやも 「過ぎにし人に」は、世を去ってしまった人には。「行き纏かめやも」は、行ってその手を枕とされようか、されないで、「や」は反語。
【釈】 その子の手を枕とするに因みある巻向山は永遠に存在しているが、世を去ってしまった人には、行って手枕をすることが出来ようか、出来はしない。
【評】 巻向山の麓の穴師河のほとりに住んでいた妻が早世してしまった後の哀しみである。追慕の情からその地へ行っての作である。巻向山の何の異なるところなく立っているのを見ると、その麓にあって早くも世を去った人と対照されて、それが新たに哀しみを刺激するものとなり、人間の無常を感じさせるものとなったのであるが、その無常をいうに、「過ぎにし人に行き纏かめやも」と言っているのは、人麿独自のものである。心としては自明なことであるが、それを感覚的に具象化していい、しかも初句の枕詞をも溶かし込んで、その心を徹しさせているところは、他の人には出来ないものである。一首の調べも引締まって、一種の沈痛味をかもし出している。
 
1269 巻向《まきむく》の 山辺《やまべ》響《とよ》みて 往《ゆ》く水《みづ》の 水沫《みなわ》の如《ごと》し 世《よ》の人《ひと》吾等《われ》は
    卷向之 山辺響而 徃水之 三名沫如 世人吾等者
 
【語釈】 ○山辺響みて往く水の 「響み」は鳴り響いて。「往く水」は、上の(一一〇〇)に出た「痛足《あなし》の河」である。○水沫の如し 水の泡のようだというので、その脆く消えやすいことを生命に喩えたのであるが、仏典の語を捉えたものである。○世の人吾等は 「世の人」は、現世の人。(442)「吾等」は、「等」を添えて複数としているのは、その意でいっているのである。
【釈】 巻向の山を鳴り響かして流れて行く川の、その流れに浮かぶ水泡のごとくである、現世に生きている我らの命は。
【評】 地理の関係から見て、上の歌の連作で、亡き妹をとおして人間の生命そのものを痛感した心である。事には直接に触れず、調べの強さをもってその時の感を具象しているものである。
 
     右の二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
      右二首、柿本朝臣人麿之謌集出。
 
       物に寄せて思を発《おこ》す
 
【標目】 きわめて普通のことで、とくに断わるほどのものではない。古歌集にこのようにあったことと思われる。
 
1270 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山《やま》に 照《て》る月《つき》は 盈※[日/仄]《みちかけ》しけり 人《ひと》の常《つね》なき
    隱口乃 泊瀬之山丹 照月者 盈※[呉の口が日]爲焉 人之常無
 
【語釈】 ○隠口の泊瀬の山に 「隠ロの」は枕詞。「泊瀬の山」は、上代共同墓地とされていた。ここは月の在り場所としてであるが、そのことも関係させてあるとみえる。○照る月は盈※[日/仄]しけり 満ちつ欠けつしたことであったで、現在照っている月に変転を感じてのもの。○人の常なき 人間には永遠性がないことである。
【釈】 泊瀬山に今照っている月は、満ち欠けをしたことであった。人間には永遠性のないことだ。
【評】 泊瀬山に照っている月を見て、思い入って人の生死を感じた心であるから、共同墓地という感の伴っているものと思われる。その当時にあっては墓地ということは言わずとも当然感じ得られるものとしたのであろう。感想にすぎないものであるが、深い思い入れが引締った調べによって生かされていて、一種のさびた感のあるものとなっている。
 
     右の一首は、古歌集に出づ。
      右一首、古歌集出。
 
(443)     行路
 
【標目】 羈旅の歌で、上の「所に就きて」の範囲のものである。人麿歌集の歌であるから、それにあった題であろう。
 
1271 遠《とほ》くありて 雲居《くもゐ》に見《み》ゆる 妹《いも》が家《いへ》に 早《はや》く至《いた》らむ 歩《あゆ》め黒駒《くろこま》
    遠有而 雲居尓所見 妹家尓 早將至 歩黒駒
 
【語釈】 ○遠くありて雲居に見ゆる 遠く離れていて、空にあるともみえる妹の家に。「見ゆる」は、思われるという意を感覚的にいったもの。○歩め黒駒 歩めよ、黒駒よと、その乗馬に命じたもの。
【釈】 遠く離れていて空にあるともみえる妹の家に、早くも着こう。歩めよ、わが乗る熊駒よ。
【評】「行路」と題してあるので、旅にあって妻どいをした時の歌と取れる。妻を遠方にもっていることは、上代にあっては珍しくないことであるから、この妹も遠方にいたものであろう。しかし「雲居に見ゆる」という描写は、事実そのものとみるべきではなく、憧れの心理の多分にまじっているものとすべきで、「見ゆる」という語はそれを示しているのである。人麿の一面の華やかさの現われている歌である。巻十四(三四四一)に、同じ人麿の作として、「間遠くの雲居に見ゆる妹が家にいつか到らむ歩めわが駒」がある。
 
     右の一首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
      右一首、柿本朝臣人麿之謌集出。
 
       旋頭歌
 
【標目】 旋頭歌は、歌体の名であるが、ここと、巻十、十一では、分類上の標目としている。以下二十四首のうち二十三首までは人麿歌集のもので、人麿のこの方面のものとしては代表的に多く集められているのである。旋頭歌は歴史的にいうと短歌より一時代前のもので、後より興った短歌に圧倒されて衰運に向かった歌体である。さらにいうと、歌が集団の謡い物であった時代には、好適な歌体とされていたのであるが、徐々に個人的の読み物となってくると、新興の短歌のほうがより好適な歌体とされて、それに席を譲らなければならなかったのである。人麿時代には旋頭歌はすでに時代遅れな古風なものとなって廃っていて、人麿(444)はその最後の作者だったかの観がある。人麻呂は一面には保守的な人であり、謡い物風な詠み方を愛していた人なので、旋頭歌という古風な歌体に愛着を感じているとともに、短歌にくらべては暢びやかで、したがって謡い物の調子の多いこの歌体そのものをも愛好していたのだろうと思われる。この推測は、以下二十三首の作によってのもので、人麿の旋頭歌は、その短歌の自身の実際に即したものであるのとは趣を異にし、実際からはある程度の遊離をもち、さまざまな人の、さまざまな立場に立っての歌となっているのである。一と口にいえば、想像で題詠をしているような形のものである。人麿は一面浪曼的で、想像力の豊かな人であるから、その方面を旋頭歌の形に托し、作歌興味より詠んだものと思われるのである。しかし人麿ならでは出来ない独自の味わいのある、他の歌体のものに見劣りのしないものとしているのである。
 
1272 劔大刀《つるぎたち》 鞘《さや》ゆ納野《いりの》に 葛《くず》引《ひ》く吾妹《わぎも》 真袖《まそで》もち 着《き》せてむとかも 夏草《なつくさ》苅《か》るも
    劔 從鞘納野迩 葛引吾妹 眞袖以 着點等鴨 夏草苅母
 
【語釈】 ○劔大刀鞘ゆ納野に 「劔大刀」は、元暦校本は「剱従」とあるが、仙覚本は「従」を「後」とし、「剱後《たちのしり》」と訓んでいる。『全註釈』が原形に返しているのに従う。剱の太刀を鞘をとおして収める意で入りと続け、地名としての「納」の序詞としたもので、八音の序詞。「納野」は、「入り」という地名は、往還より横へ入り込んだ所の称で、諸所にある。どことも知れない。○葛引く吾妹 「葛」は、その蔓の繊維を織物の材料とするためのもの。「引く」は、蔓を取る状態。「吾妹」は、女の愛称。下に詠歎がある。○真袖もち着せてむとかも 「真袖」の「真」は、物の揃っていることをあらわす語で、「真袖」もちは、両手を使ってということを美しく言いかえたもの。当時の窄袖は長くて、掌を蔽うほどの物であったから、そのように見えもするのである。下の「苅るも」にかかる。「着せてむとかも」は、「て」は、完了、「かも」は疑問で、我に衣として、着せようと思ってか。○夏草苅るも 原文は諸本異同がないが、訓はさまざまである。旋頭歌の一つの型として、第六句は第三句の繰り返しとなっている場合が多く、これもそれで、「葛引く」の繰り返しで、「葛」を「夏草」に、「引く」を「苅る」と語をかえたものである。
【釈】 剱大刀を鞘をとおして入れるに因みあるこの納野に、葛を引いている吾味よ。両手をもって、わが衣として着せようと思ってか、夏草を苅っていることよ。
【評】 妻が夫のために麻や葛から繊維を取り、織って仕立てて着せるということは、庶民の世界にあっては普通のことであった。これは納野の辺りに住んでいる妻が、夏の日そのことをしているさまを夫が見懸けて、うれしくも可愛ゆくも思って見やっている心である。「剱大刀鞘ゆ」という序詞は、当時としては見馴れていたことで格別なことではなく、妹が働いている夏の日の納野には、気分に繋がりのあるものである。「真袖もち」は、可憐な手をもって、荒い業をしているのを隣れむ心からの語で、見る目の印象としても自然なものである。才気の溢れた作である。
 
1273 住吉《すみのえ》の 波豆麻《はづま》の公《きみ》が 馬乗衣《うまのりごろも》 さひづらふ 漢女《あやめ》を坐《ま》せて 縫《ぬ》へる衣《ころも》ぞ
    住吉 波豆麻公之 馬乘衣 雜豆臈 漠女乎座而 縫衣叙
 
【語釈】 ○住吉の波豆麻の公が 「波豆麻」は、不明である。文字は諸本異同のないものである。上よりの続きから見て、「公」を重くいうために地名を二つ重ねたとみると自然であるが、そういう地名は伝わっていず、結局不明である。地名と見ておく。「公」は男の敬称で、その地の領主ともいうべき人であろう。○馬乗衣 『新訓』の訓。馬に乗る時の衣。下の続きで特別の仕立て方のものと知れる。大陸風を摸した、当時としては新しい物であったとみえる。下に詠歎がある。○さひづらふ漠女を坐せて 「さひづらふ」は、鳴るの連続状態。漢女の言語の解し難さの形容。「漢女」は、漢国より渡来した女の称で、上代我が国の機織裁縫の幼稚だった時代、それらの手芸の進歩していた中国から聘した女で、事は彼の朝廷と我が朝廷との間で行なわれたのである。これは人麿時代より遥か以前の事である。人麿時代には「漢女」は、そうした事を職業とする女の称となっていたことと思われる。ここはその意もので、「さひづらふ漢女」で、専門に裁縫をする、すなわちその業の上手な女の意と取れる。「坐せて」は、居させてで、雇って。○縫へる衣ぞ 「ぞ」は、他に対して指示する意。
【釈】 住吉の波豆麻の公の馬乗衣であるよ。専門職の漢女を雇って縫った衣であるぞ。
【評】 「公」と呼ばれる人に属して、側近している者が、「公」とは無関係な者が、馬乗衣を見て、その見知らない物であるところから、これはどういう衣だと訊かれたのに対し、誇りをもって説明した言葉である。前後もなく簡単な言葉をもって、一つの特殊な生活状態を、具体的にあらわし得ている歌で、人麿の自由な才を思わせる作である。謡い物の旋頭歌が、ここでは叙事歌になっている。
 
1274 住吉《すみのえ》の 出見《いでも》の浜《はま》の 柴《しば》な苅《か》りそね 未通女等《をとめらが》が 赤裳《あかも》のすその ぬれて往《ゆ》かむ見《み》む
    住吉 出見濱 柴莫苅曾尼 未通女等 赤裳下 閏將徃見
 
【語釈】 ○住吉の出見の浜の 「出見の浜」は、『大日本地名辞書』は、住吉の森の西の松林のあたりを、出見の浜と呼ぶといっている。この名は今も残っているが、住吉ではなく、住吉の地続きである。○柴な苅りそね 「柴」は、雑草、小灌木の総称。ここは雑草と取れる。「な苅りそね」は、「ね」は、他に対しての願望。苅るなよの意。○赤裳のすその 裳は女子の下半身に着ける衣裳。赤色が普通である。○ぬれて往かむ見む 「ぬれて往かむ」は、柴のある所を路として、その露に濡れながら行くだろうさまをの意。
【釈】 住吉の出見の浜の柴を、そのように苅るなよ。ここを通る未通女等の赤裳の裾の、その柴の露に濡れながら行くさまを我(446)は見よう。
【評】 出見の浜で柴を苅っている男に言いかけた形のものであるが、こうしたことは実際には出来るものではなく、そう思ったというにすぎないもので、興味よりのものである。「赤裳のすそのぬれて往かむ見む」は、感覚的の興味で、人麿に限ったものではないが、かなり強くもっていたとみえ、他でもいってるものである。限られたことのごとくで、その実拡がりをもちうる取材である。この歌の調べは暢びやかで、かなり謡い物風である。
 
1275 住吉《すみのえ》の 小田《をだ》を苅《か》らす子《こ》 賤《やつこ》かもなき 奴《やつこ》あれど 妹《いも》が御為《みため》と 私田《わたくしだ》苅《か》る
    住吉 小田苅為子 賤鴨無 奴雖在 妹御爲 私田苅
 
【語釈】 ○住吉の小田を苅らす子 「苅らす子」は、原文「苅為子」。「苅らす」は、苅るの敬語。「子」は、年若い者にたいしての愛称で、呼び懸け。○賤かもなき 「賤」は、続きの「奴」と同じ、家《や》つ子《こ》の意で、その家に隷属している下部《しもべ》。奴隷の場合もあるが、それでない場合もあって、意の広い語。「か」は、疑問の係助詞。○奴あれど妹が御為と 「妹が御為と」は、旧訓「為に」。「と」も「に」も、訓み添えである。『童蒙抄』の訓。「妹」は、家が別であり、したがって経済も別である。「御為」の「御」は、敬語。女に対してはする風習にしたがってである。○弘田苅る 「私田」は、『代匠記』の訓。「私田」は、口分田、位田、職田以外の墾田の称である。これは公の許を得て開墾した田は、一定の期間その人の私有になっていたのであり、そのことをするに堪えるのは有力者だったのである。「苅る」は、上代は関係の深い者同士は、田畑の労働は相助け合うのが普通となっており、その事は地方的には現在も続いていて、「結《ゆひ》」という名であらわされている。ここもそれで、夫が妹の家のために労働するというのである。奴を使わずに自身するのは、そのことを鄭重にすることで、妹を思う心からのことである。
【釈】 住吉の田を苅っていらせられる若い君よ、そうしたことをさせる奴がなくてのことなのか。いや、奴はあるが、妹の家のおためと思って、その私田を苅っているのだ。
【評】 秋の日の畔を通りかかった年取った人が、見知り越しの身分ある若い人が稲苅をしているのを見て、訝かって問うた片歌《かたうた》と、その答として、これは妹の家のおためと思ってわざと奴を使わず、自身しているのだと朗らかに答えた若い人との片歌を組み合わせて、その問答を一首としたものである。一首の中心は、奴を使わずに、特に自身でしているという点にあって、そこに年を取った人と、若い人との心の距離が現われて、興味をなしているのである。片歌の問答を組み合わせて旋頭歌としたこの形は、旋頭歌の発生を示していることで、これはその一つの例ともなるものである。なお、それに関連したことは、第二首目よりこの歌に至るまでの三首は、すべて二人の人が相対していて、前の二首は、その一人のいうことが歌となっている(447)ことである。言いかえると、片歌をもっていうことの、その繰り返しの二首分が旋頭歌となっているということである。これは後にも続くことである。
 
1276 池《いけ》の辺《べ》の 小槻《をつき》が下《もと》の 細竹《しの》な苅《か》りそね 其《それ》をだに 君《きみ》が形見《かたみ》に 見《み》つつ偲《しの》はむ
    池邊 小槻下 細竹苅嫌 其谷 公形見尓 監乍將偲
 
【語釈】 ○池の辺の小槻が下の 「池」は感慨用の貯水池と思われる。「小槻」の「小」は披頭語。堤には槻の木を植えた例が他にもある。○細竹な苅りそね 原文の「嫌」は、「そね」に義をもって当てた字で、上に「莫」があって脱したものかと『代匠記』はいっている。次の歌もそうなっているからである。「な、そね」は、禁止に願望の添ったもの。これは、細竹を苅っている人に、女が頼む形のものである。○其をだに君が形見に 「其」は、それだけでも。「君が形見に」は、「君」は、女より夫としての男を指したもの。「形見」は、現在、近く居ない人の、身代わりとして見るものの総称。「に」は、になして。池の辺の細竹を形見にするというのは、そこを人目を避ける所として、夫婦として密会したことの記念の意。これは上代にあっては珍しくはない風だったのである。「其をだに」より続いて、男はまったく疎くなったのか、遠く去ったのか、あるいは死んだのかはわからないが、とにかくまったく縁のないものとなった意。○見つつ偲はむ 「偲はむ」は、ここは懐かしく思おう。
【釈】 池の辺りの槻の木の下の細竹を、そのようには苅り取るなよ。それだけでもせめて君の形見にして、見つつ懐かしもう。
【評】 これは細竹を苅る男に、直接に呼び懸けてのものではなく、女のその心をもって思ったことをいったものである。「池の辺の小槻が下の細竹」というのは、そこをそうした場所として選ぶのは、村落としては一般性をもったことであったろう。「形見に」といっているのは、おそらく疎くなったことで、これもまた一般性をもったことといえる。謡い物としての色彩をおびた歌である。
 
1277 天《あめ》なる ひめ菅原《すがはら》の 草《くさ》な苅《か》りそね みなのわた か黒《ぐろ》き髪《かみ》に あくたし付《つ》くも
    天在 日賣菅原 草莫苅嫌 弥那綿 香烏髪 飽田志付勿
 
【語釈】 ○天なるひめ菅原の 「天なる」は、天に在るで、「日」にかか枕詞。「ひめ菅原」は、下の続きから見ると、姫菅の原である。姫菅はどういう菅かわからない。地名としても、実状から名づけられたものである。○草な苅りそね 上に出た。草は苅らないでくれ。○みなのわたか黒き髪に 「みなのわた」は、蜷《みな》の腸《わた》で、蜷は今の「にな」。食料で、その黒さより「黒」の枕詞。巻五(八〇四)に出た。「か黒き」は、「か」は接(448)頭語。髪の黒さを讃えたもので、若い娘の髪を讃えたもの。○あくたし付くも 「あくた」は、芥。「し」は、強意。「付くも」の「も」は、原文「勿」。「勿《もつ》」の下略。草にまじっている芥が付くことであるよ。
【釈】 天にある日に因む、この姫菅原の草は苅らないでくれ。その美しい黒髪にごみが付くことであるよ。
【評】 姫菅原というのは、男女の住んでいる土地のもので、女がそこで草を苅っているのを、通りかかった男が認めて声をかけた形のものである。同じ部落の者同士としてであろう。男のいっていることは、「か黒き髪にあくたし付くも」で、草のごみで美しい髪のよごれるのをいたわっていることである。これは実際に即して黒髪の美を讃えていることで、さらにいうと婉曲に懸想の心をほのめかしたものである。姫菅原は草の苅場所にすぎない。庶民生活における若い男の心理を敏感に捉えている作で、人麿の幅が思わせられる。
 
1278 夏影《なつかげ》の 房《つまや》の下《した》に 衣《きぬ》裁《た》つ吾妹《わぎも》 うら設《ま》けて 吾《わ》が為《ため》裁《た》たば やや大《おほ》に裁《た》て
    夏影 房之下迩 衣裁吾妹 裏儲 吾爲裁者 差大裁
 
【語釈】 ○夏影の房の下に 「夏影」は、夏の木蔭で、暑いころの涼しい所。「房《つまや》」は、夫婦の寝室で、「下に」は、夏蔭を中心にして、その下にある房の意。夏蔭の下になっている涼しい房で。○衣裁つ吾妹 衣を仕立てようとして裁っている吾妹よ、と呼び懸けたもの。○うら設けて吾が為裁たば 「うら設けて」は、「うら」は心で、心設けをしてで、腹づもりをして。「吾が為裁たば」は、吾が着るために裁つならば。○やや大に裁て 「やや大に」は、少し大型に。「裁て」は命今形。早婚時代であったので、結締後、体が発育した意でいっているものと取れる。
【釈】 夏蔭となっている下の涼しい嬬屋で衣を裁っている吾妹よ。腹づもりをして、吾がために裁つのならば、少し大型に裁てよ。【評】 この夫婦は、初めから同棲しているものとしてであろう。やや身分の高い者はそうもしたのである。呼び懸けていう語を歌としたもので、中心となっているのは「やや大に裁て」ということである。呼び感けの語を純客観的のものとして細かい描写をし、若い夫婦間の情愛を漂わしているもので、美しく魅力ある歌である。こうした技巧は人麿以外にはもてなかったと思わせる。
 
1279 梓弓《あづさゆみ》 引津《ひきつ》の辺《べ》なる 莫告藻《なのりそ》の花《はな》 採《つ》むまでに 逢《あ》はざらめやも 莫告藻《なのりそ》の花《はな》
    梓弓 引津邊在 莫謂花 及採 不相有目八方 勿謂花
 
(449)【語釈】 ○梓弓引津の辺なる 「梓弓」は、引くと続いて、その枕詞。「引津」は、福岡県糸島郡志摩村、船越から岐志にかけての海岸で、韓国に渡る船の泊まり処として聞こえていた所だという。「辺なる」は、辺りにある。○莫告藻の花 「莫告藻」は今のほんだわらで、食用とする。海の深所に生える藻であるが、花は咲かない。したがって「花」は空想上の物で、あてのないものである。○採むまでに逢はざらめやも 「採むまでに」は、上の「花」を承けたもので、ありうべからざることで、いつの日にかはという意の譬喩である。実物としていったもの。「逢はざらめやも」は、「や」は、反語で、逢わないことがあろうか、逢うと強くいったもの。○莫告藻の花 第三句を繰り返したもので、旋頭の古い型である。
【釈】 この引津のあたりにある莫告藻の花よ。その花を採むまで、すなわちいつの日にかは、また逢う時がなかろうか、必ずある。その莫告藻の花よ。
【評】 引津の賑わしい船着き港で、旅人としてその土地の女と関係を結んだ男が、女と別れる際、別れかねる心をもっていったものである。「莫告藻の花」は、含蓄をもった巧妙な譬喩である。一見平凡にみえるが、すぐれた歌才を示しているものである。明らかに謡い物の型に従っての詠み方である。
 
1280 うち日《ひ》刺《さ》す 宮路《みやぢ》を行《ゆ》くに 吾《わ》が裳《も》は破《や》れぬ 玉《たま》の緒《を》の 念《おも》ひ委《しな》えて 家《いへ》に在《あ》らましを
    撃日刺 宮路行丹 吾裳破 玉緒 念委 家在矣
 
【語釈】 ○うち日刺す宮路を行くに 「うち日刺す」は、宮の枕詞。既出。「宮路」は、皇居への通路で、大宮人の皇居へ出入りする路。「行くに」は、歩くにつけて。○吾が裳は破れぬ 上を承けて、限りなくも歩いたことを具象的にいったもの。一つの路を限りなく歩くということは尋常なことではなく、またその甲斐のないことを示しているもので、これは恋以外にはないことである。男に憧れる女を暗示している。○玉の緒の念ひ委えて 「玉の緒」は玉を貫く緒で、下の「委え」にかかる枕詞。「念ひ委えて」は、諸注「委」の訓を異にしてさまざまである。『考』は「委」は「萎」に通じる文字だとして今のごとく訓み、『全註釈』も同様である。これに従う。思いしおれて。○家に在らましを 家にいようものを。
【釈】 大宮への通い路を限りなく歩くので、わが裳は破れた。これだと、思いしおれて家に居ようものを。
【評】 大宮人と関係した女が、男の疎遠にするのを恋うての心で、当時としてはあり勝ちなことであり、したがって扱い方も普通なものであるが、一首の調べに力があって、沈痛に近い感を起こさせる作である。この調べは、人麿のこの取材に対する気分の現われである。興味に発して真実に至っている作である。
 
1281 君《きみ》が為《ため》 手力《たぢから》労《つか》れ 織《お》れる衣服《ころも》ぞ 春《はる》さらば いかにかいかに 摺《す》りてば吉《よ》けむ
(450)    公爲 手力勞 織在衣服叙 春去 何々 摺者吉
 
【語釈】 ○手力労れ 「手力」は、腕ぢから。○春さらばいかにかいかに 「春さらば」は、春を染料となる花の咲く時としてである。「いかにかいかに」は、旧訓「いかにいかに」。どういう色にと、いろいろ選択する意。○摺りてば吉けむ 「摺りてば」は、摺らばを強めていったもの。「吉けむ」は、好いであろうか。
【釈】 君のためにとわが腕ぢからが労《つか》れて織り上げた衣であるよ。春が来て花が咲いたならば、どういう色に摺ったらば好いであろうか。
【評】 若い妻が夫のために機を織り上げた時の感である。夫の衣を織るのは妻の責任になっていたので、「手力労れ」は、労苦をいうのが目的ではなく、喜んで労苦した愛情をいおうとしたもので、「春さらばいかにかいかに」はさらに楽しい予想である。この心には、離れて起居している夫であることも関係している。時を超えて生きうる心である。
 
1282 橋立《はしだて》の 倉椅山《くらはしやま》に 立《た》てる白雲《しらくも》 見《み》まく欲《ほ》り 我《わ》がするなべに 立《た》てる白雲《しらくも》
    橋立 倉椅山 立白雲 見欲 我爲苗 立白雲
 
【語釈】 ○橋立の倉椅山に 「橋立」は、「橋」は、梯子《はしご》の古語。「立」は、立てることで、熟語の名詞。上代の倉は床が高く、出入りするには梯子を立ててしたので、意味で「倉」にかかる枕詞。「倉椅山」は、桜井市、多武峰の東に連なり、宇陀郡との境に立っている今の音羽山の古名であろうという。○立てる白雲 立ち昇っている白雲よの意で、呼び懸け。○見まく欲り吾がするなべに 「見まく欲り」は、見たい(451)と思ってで、既出。「なへ」は、と同時に。上を承けて、見たいと思うと同時に。
【釈】 倉椅山の上に立ち昇っている白雲よ。見たいと我が思うと同時に立ち昇っている白雲よ。
【評】 形としてはきわめて単純な歌であるが、心としてはきわめて特色のあるものである。「橋立の倉椅山に立てる白雲」は、眼前に見た光景である。「見まく欲り我がするなべに立てる白雲」は、語を変えて繰り返した形のものであるが、それをするにあたって、「見まく欲り我がするなべに」といふ説明を付けたのであるが、この説明がきわめて特色のあるものなのである。語を追って読めば、にわかに忽然と立ち昇った白雲のようであるが、事実はそうではなく、上三句でいっているようにすでに立ち昇っているところの白雲で、それにこのような説明をしたのである。基本的な事実は、人麿が倉椅山の近くへ来た時に、その山の上に立ち昇る白雲を見たいとの心をおこし、見ると思いどおりに白雲の立ち昇っていたのを、このような言い方をしたのである。さらにこれを人麿の心理からいうと、その胸に希望した自然現象が、希望そのままに眼前に展開しているのを認めた時の感動である。言いかえると、我と自然と一体になり得た瞬間の深い感動で、それをこのように具象化したのである。したがってこの歌は、一面においては甚しく主観的なものであると同時に、他面には客観的であった人麿の人柄を、典型的にあらわしている歌なのである。人麿その人を赤裸々にして投げ出したような作である。
 
1283 橋立《はしだて》の 倉椅川《くらはしがは》の 石走《いはばしり》はも 壮子時《をざかりに》に 我《わ》が渡《わた》りてし 石走《いはばしり》はも
    橋立 倉椅川 石走者裳 壯子時 我度爲 石走者裳
 
【語釈】 ○倉椅川の 多武峰から北流し、桜井市倉橋を過ぎる川。○石走はも 「石走」は、川の上に踏石のように石を据え、橋としたもの.「は」は事物を強く指定する係助詞。「も」は詠歎の助詞。「はも」は、ここでは回想の意をもつ。○壮子時に我が渡りてし 「壮子時」は、若盛りの時。「渡りてし」は、「て」は完了の助勒詞で、渡ったことのあった。
【釈】 倉椅川のあの踏石よ。若盛りの時に我が渡ったことのあった踏石よ。
【評】 倉椅川の瀬に、橋代に据えてある踏石を見て、若い時、それを踏み渡ったことのあったのを思い出しての詠歎である。「壮子時に」と特に断わっているのは、恋愛関係からのことであったろう。詠歎の勝った歌で、形も古いものである。
 
1284 橋立《はしだて》の 倉椅川《くらはしがは》の 河《かは》の静菅《しづすげ》 わが苅《か》りて 笠《かさ》にも編《あ》まず 川《かは》の静菅《しづすげ》
(452)    橋立 倉椅川 河靜菅 余苅 笠裳不編 川靜菅
 
【語釈】 ○河の静菅 「河の」は、上を承けて、河のほとりのの意でいっているもの。「静菅」は、下の続きで、菅の一種とはわかるが、どういう特色のある物の称かはわからない。眼前にある物で、呼び懸けの形。○わが苅りて笠にも編まず 我は苅って笠にも編まなかった。この二句は譬喩で、菅は女、笠は自身の妻にする意で、この譬喩は例の多い、一般性をもったものである。
【釈】 倉椅川の川のほとり生えている静菅よ。我は苅って、身に着ける笠にも編まなかった。川の静菅よ。
【評】 倉橋川の川ほとりの静菅を見て、以前、この土地の女で、妻としようと思った女を、そのままにしてしまったことせ思い出し、謡い物にもしていた菅と笠との譬喩に托していったものである。愛情を籠めた言い方はしているが、要するに思い出で、さっばりした心の上に立ってのものである。
 
1285 春日《はるひ》すら 田《た》に立《た》ち疲《つか》る 公《きみ》は哀《かな》しも 若草《わかくさ》の ※[女+麗]《つま》なき公《きみ》が 田《た》に立《た》ち疲《つか》る
    春日尚 田立羸 公哀 若草 ※[女+麗]無公 田立羸
 
【語釈】 ○春日すら たのしい春の日でさえもなお。○田に立ち疲る公は哀しも 「田に立ち疲る」は、耕作のために田に立って、疲れたさまをしている。「疲る」は終止形で「公」に続いている上代の語格のもの。「公」は、知人をさしていると取れる。下の関係からである。「哀しも」は、疲れているさまに対してのあわれみ。疲れたさまにたいしてのことである。○若草の※[女+麗]なき公が 「若草の」は、※[女+麗]の枕詞。「※[女+麗]なき公」は、妻をもっていない人だということを作者は知っていていっているのである。当時の生活では、知人でない限り妻の有無は知れなかったからである。○田に立ち疲る 第二句を繰り返したもので、一首の眼目である。
【釈】 たのしい春の日でさえもなお、田に立ち働いて、疲れたさまをしている公は哀れであるよ。妻のいない公が、田に立ち働いて、疲れたさまをしている。
【評】 知人である男が、春日の労働をしているのを見、その懶げに疲れたさまをしているのを見て憐れみ、そうしたさまをしているのは、妻がないので、働く張りもないからだと解したのである。当時の夫婦関係は、人には秘密にしていたので、いったがように妻の有る無しは他人にはわからないことであるのに、明らかに「※[女+麗]なき」といっているので、「公」は知人であり、さらにまたそれを「疲る」の理由とし、「哀しも」と嘆いているのであるから、この「※[女+麗]」は、近く故人となったような事情の人であったかと思われる。当時の生活では相応な人でも自身耕作をし、また夫婦は同棲していないのであるから、独りで耕作し(453)ていることは疲れの理由とはならないのである。一首の中心である「※[女+麗]なき公が田に立ち疲る」は、かなり主観的な、同情しての解で、個性的なものである。一首、平明に似て、解しやすくない感のあるのは、個性的なものである関係からである。
 
1286 山城《やましろ》の 久世《くせ》の社《やしろ》の 草《くさ》な手折《たを》りそ わが時《とき》と 立《た》ち栄《さか》ゆとも 草《くさ》な手折《たを》りそ
    開木代 來背社 草勿手折 己時 立雖榮 草勿手折
 
【語釈】 ○山城の久世の牡の 京都府久世郡城陽町久世にある神社。○草な手折りそ 「草」は、社の境内に生えているもの。「な手折りそ」は、折ってわがものとするな。草は軽い物ではあるが、神に属した物として憚かって、自由にはするなの意で、神に奉仕している女を隠喩したものと取れる。大きな社には巫女などが奉仕していたので、そうした範囲の者であろう。○わが時と立ち栄ゆとも わが盛りの時として。草についていったものであるが、隠喩のほかでは、女の若盛りとして。「立ち栄ゆとも」は、たとい美しく栄えていようとも。
【釈】 山城の久世の社の境内の草は折り取るなよ。その草が、今を盛りとして美しく栄えていようとも、その草を折り取るなよ。
【評】 草を神に属した巫女の譬喩と取るほかはない歌である。一首の作意は、作者自身、久世の社に奉仕する女を見て心を動かしたが、神に対する畏みからそれを制した形のもので、前半は、その神に属する者であることをいって戒め、後半は、「わが時と立ち栄ゆとも」と、心を動かせられた直接原因をいって、繰り返して警めたのである。他奇のない平明な作で、謡い物系統のものである。
 
1287 青《あを》みづら 依網《よさみ》の原《はら》に 人《ひと》もあはぬかも 石走《いはばし》る 淡海県《あふみあがた》の 物語《ものがたり》せむ
    青角髮 依網原 人相鴨 石走 淡海縣 物語爲
 
【語釈】 ○青みづら依網の原に 「青みづら」は、語義に諸説がある。「つら」は蔓の古語で、青い蔓で、そのはびこつたさまが網に似ているところから、よい網の意の依網にかかる枕詞とする解に従う。「依網の原」は、この地名は諸所にあるから定め難い。『考』は河内国|丹比《たじひ》郡|依網《よさみ》の池のあるあたりの原かとしている。下の「淡海県」との関係から比較的妥当性のあるものに思える。三河説、摂津説もある。○人もあはぬかも 「あはぬかも」は、逢はぬか、逢ってくれよと願望する意で、しばしば出た。原を一人で歩いていて、さびしさからの心である。○石走る淡海県の 「石走る」は淡海の枕詞。「淡海県」は、近江地方。○物語せむ 話をしようで、近江国へ旅をした人か、またそこに住んでいた人かで、今依網の原む歩きつつしきりに近江国のことを思い出しているのである。
(454)【釈】 この依網の原で、誰か人に逢えぬかなあ、逢いたいものだ。それだと見て来た近江地方の話をしよう。
【評】 依網の原を歩きつつ、近江地方で見て来たことで胸が一ばいになっている男の、おのずから漏らした独語の形のものである。前後を截断し去っての一独語で、何とも解し難い形のものであるが、一首、怪しいまでに印象が強く魅力的であるために、何事かを連想せずにはいられないような歌である。人麿は巻一(二九)で近江大津宮の址に立って感慨深い歌を詠んでおり、その他にもすぐれた歌がある。また、他の人も近江の荒都の歌は詠んでいて、この時代にあっては淡海県の話は一般性をもっていたものである。ここの「淡海県の物語せむ」もその意味のものと思われる。作中の男はもとより仮想のものであるから、依網の原も同じく仮想のもので、ただ近江国へ旅をして帰って来た男の、通り路ということを暗示しうれば足りるとしたのであろう。すぐれた手腕を示している歌である。
 
1288 水門《みなと》の 葦《あし》の末葉《うらば》を 誰《たれ》か手折《たを》りし 吾《わ》が背子《せこ》が 振《ふ》る手《て》を見《み》むと 我《われ》ぞ手折《たを》りし
    水門 葦末葉 誰手折 吾背子 振手見 我手折
 
【語釈】 ○水門の葦の末葉を 「水門」は港で、海はもとより河口もそれとしていた。舟が小さいので、したがって港も小さくて足りたのである。この港は小さいものである。葦は水辺に多いもので、ここもそれであり、末葉はその先のほうの葉である。○誰か手折りし 誰が折ったのかで、訝かって問うたもの。「か」は疑問の係助詞。これはその港にいる一人が、他の人々に問うた形のもの。○吾が常背子が振る手を見むと 「吾が背子」は、夫の愛称で、舟子《かこ》を夫としている女の言。「振る手を」は、他に用例はないが、袖振るということから類推して、別れに臨んでするしぐさと取れる。「見むと」は、見ようと思ってで、舟出をする際、名残りを惜しんでするしぐさを十分に見ようと思って。
【釈】 港の葦の末葉を、誰がこのように折ったのか。吾が背子の舟出をする時、名残りを惜しんで手を振るのを見ようと思って、我が折ったのだ。
【評】 上の(一二七五)「住吉の小田を」と同じく問答体のもので、旋頭歌の原始形態である。内容は港である限りいずこにも通用のできる一般性をもったもので、民謡の条件を備えたものである。葦の末葉を手折りつくすということは、たとい小さな港であっても不可能なことで、誇張をしたものである。その誇張がこの歌の興味の中心で、それがまた民謡の条件なのである。巧みな歌である。
 
1289 垣《かき》越《こ》ゆる 犬《いぬ》呼《よ》び越《こ》して 鳥猟《とがり》する公《きみ》 青山《あおやま》の 茂《しげ》き山辺《やまべ》に 馬《うま》休《やす》め君《きみ》
    垣越 犬召越 鳥※[獣偏+葛]爲公 青山 菓茂山邊 馬安公
 
【語釈】 ○壇越ゆる犬呼び越して 「垣越ゆる」は、垣を潜って越すで、犬の習性。「呼び越して」は、呼び寄せて。猟犬を連れての意。○鳥猟する公 「鳥猟」は、鷹狩をすることで、網、弓矢、鷺など用いてした。相応の身分ある人の慰みとしてのことである。「公」は、妻より夫を指してのもので、呼び懸け。○青山の茂き山辺に 木立の茂った山の辺りに。○馬体め君 「馬」は、乗馬。「休め」は、休ましめよで、命令形。「公」は呼び懸け。過労をしたもうなの意。
【釈】 垣を潜って越す犬を喚び寄せて、鷹狩に出たもう君よ。青山の木立の茂っているあの山辺で馬を休ませたまえよ君よ。
【評】 相応に身分ある夫婦で、同棲をしている間柄とみえる。夫が遊びとしてする鷹狩に逸り立って出かける際、その逸っているのに不安を感じて、休み休み、ゆるゆるとし給えという心をもっていったものである。歌としては淡い心のもので、日常生活の上で、口頭で言うべきことを、歌の形としていったもので、叙事的効果を挙げているものである。
 
1290 海《わた》の底《そこ》 沖《おき》つ玉藻《たまも》の 名告藻《なのりそ》の花《はな》 妹《いも》と吾《われ》 此《ここ》に何《いか》にありと 莫告藻《なのりそ》の花《はな》
    海底 奥玉藻之 名乘曾花 妹与吾 此何有跡 莫語之花
 
【語釈】 ○海の底沖つ玉藻の 「海の底」は「沖」の枕詞。既出。「沖つ玉藻の」は、沖に生える玉藻の。○名告藻の花 「花」は語調として添えたただけのもので、意味はない。なのりそには花のないことは上にいった。呼び懸け。○妹と音吾此に何にありと 「此に何にありと」は、『新訓』の訓。ここにどのようなさまでいるかということで、密会している意。○莫合藻の花 なのりそは、告るな、すなわち秘密にせよの意を懸け、その意でいっているもので、呼び懸け。
【釈】 沖の玉韻のなのりその花よ。妹と吾とここにいかなるさまでいるかということを、人に言うなという名の花よ。
【評】 男女人目を避けて海辺で密会をしている時の男の歌という形のものである。上代の男女生活にあっては、こうした方法での密会は稀れなことではなく、むしろ一般的なものであった。また海草のなのりそに、な告りそ、すなわち秘密にせよの意を懸けることも一般化されていた。この歌はそれらの上に立ってのもので、そして詠み方も平明なものであるから、謡い物としての典型的なものである。詠み方は平明なばかりでなく、同時に美しく婉曲で、謡い物の率直と露骨を好む傾向とは距離のあるものである。言いかえると謡い物の文芸化されたものである。その意味において注意される歌である。
 
(456)1291 この岡《をか》に 草《くさ》苅《か》る小子《わらは》 然《しか》な苅《か》りそね 在《あ》りつつも 君《きみ》が来《き》まさむ 御馬草《みまくさ》にせむ
    此岡 草苅小子 勿然苅 有乍 公來座 御馬草爲
 
【語釈】 ○然な苅りそね そのように苅るなよで、「ね」は、他人への願望の助詞。〇在りつつも 「在り」は、存在の意。「つつ」は継続で、そのままにして置いての意。○君が来まさむ御馬草にせむ 君が来ます時の御乗馬のまぐさにしよう。
【釈】 この岡に草を苅る童よ、そのように苅り取るなよ。その草はそのままにして置いて、君が来ます時の御乗馬のまぐさにしよう。
【評】 女がその家のあたりの岡の草を苅っている童に、呼び懸けていっている形のものである。単純、平明で、また類歌もある。謡い物系統の歌である。
 
1292 江林《えばやし》に 宿《やど》る猪鹿《しし》やも 求《もと》むるによき 白栲《しろたえ》の 袖《そで》纏《ま》き上《あ》げて 猪鹿《しし》待《ま》つ我《わ》が背《せ》
    江林 次宍也物 來吉 白栲 袖纏上 宍待我背
 
【語釈】 ○江林に ここのほかには用例のない語であるが、続きから見て、江に臨んだ林ととれる。江は入江と同じく、本来海の陸に湾入した所の称であるが、上代は湖にも言っている。一方は水になって、越えることの出来ない林。○宿る猪鹿やも求むるによき 「宿る」は、夜を寝ていること。「猪鹿」は、その肉を食用とする野獣の総称で、猪鹿の類。「や」は疑問の助詞で、「も」は詠歎。「求むる」は、獲るで、獲りやすいのであろうか。○白栲の袖纏き上げて 「白栲」は、白い栲の布の意。「袖纏き上げて」は、まくり手をしてで、力業をする時の身構え。○猪鹿待つ我が背 猪鹿の出て来るのを待っている我が夫よ。
【釈】 入江沿いの林に夜を寝ている猪鹿は、逃げ路が限られているが、獲りやすいのであろうか。白栲の袖をまくり手にして身構え、猪鹿の出て来るのを待っているわが夫よ。
【評】 猟夫の妻の、その夫の猟をしている後ろ姿を見やって、その勇ましいさまを讃えているものである。江林に宿っている猪鹿の出て来るのを待つというので、暁の早い時刻、待っている場所は、江とは反対側である。妻のいる所は、夫の後方やや距離のある所であろう。遁げ路のない猪鹿は、猟夫のいる方面を突破するよりほかないので、猛り立って向かって来るのを、猟夫はもとより妻も承知していて、それをする夫の後ろ姿を見やり、「白栲の袖纏き上げ」ているさまを頼もしく感じて、見守(457)っている心である。すなわち妻の眼を通して猟夫の勇ましさを讃えている歌で、他には類例のないものである。庶民の労働生活を同情をもって捉え、妻の抒情を通して叙事的にあらわすという新生面を拓いたものである。人麿の振幅を思わせられる。
 
1293 霰《あられ》降《ふ》り 遠江《とほつあふみ》の 阿跡川楊《あとかはやなぎ》 苅《か》れども 亦《また》も生《お》ふと云《い》ふ 阿跡川楊《あとかはやなぎ》
    丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊
 
【語釈】 ○霰降り遠江の 「霰降り」は、音をたてる意で、「音《と》」にかかる枕詞。「遠江」は続きの阿跡川のある地で、近江国高島郡である。『新考』は、そこは琵琶湖の東方にあって、近江の中では、奈良よりは遠い地であるから、遠つ淡海といったのであろうといっている。○阿跡川楊 阿跡川(安曇川)の川楊で、川辺に生えるもので、しだれた柳ではない。○苅れども亦も生ふと云ふ 苅るけれども、苅杙からまた新芽を出してくると人がいうで、これは楊には共通のことである。
【釈】 遠い近江の阿跡川の川楊よ。苅り取るけれども、苅杙からまた生えてくると人の言う、阿跡川の川楊よ。
【評】 これは実感を直写した歌である。人麿はなんらかの用を帯びて阿跡川のあたりに行き、川楊についてここにいっている事柄を聞き、深い感動を起こして詠んだ歌と取れる。楊が苅杙から新芽を出すということは、きわめて平凡な事柄で、刺激になどなることではない。それに対して感動したということは、生命に対して強い執着をもっていることの反映である。その点は多くの挽歌の上に十分現われている。前半は阿跡川楊を讃え、後半の繰り返しの形において、「苅れども亦も生ふと云ふ」と言っているのに余情深く現われている。単純にして拡がりをもった、多くの人の胸にしみ入る作である。
 
1294 朝《あさ》づく日《ひ》 向《むか》ひの山《やま》に 月《つき》立《た》てり見《み》ゆ 遠妻《とほづま》を 持《も》ちたる人《ひと》は 看《み》つつ偲《しの》はむ
    朝月日 向山 月立所見 速妻 持在人 看乍偲
 
【語釈】 ○朝づく日向ひの山に 「朝づく日」は、朝になってくる日で、人が等しく向かい見る意で、向かいの枕詞。「向ひの山」は、前面の山。○月立てり見ゆ 月の現われたのが見える。○遠妻を持ちたる人は 「遠妻」は、遠方に住んでいる妻。上代にはむしろ普通のことであった。「持ちたる人は」は、もっている人は。○看つつ偲はむ 月を見つつ、妻をなつかしみ思おうで、月に対して人を連想することは、共通の人情である。
【釈】 前面の山に月の出ているのが見える。遠妻をもっている人は、この月を見つつ、その人を懐かしく思おう。
 
(458)【評】 月に対して親しい人を思うというのは、後には一種の常識ともなり、題詠の題ともなったものである。この歌は、実際に即していっているもので、真実味があるため、清新さをも感じさせるものである。遠妻をもっている人の多かった上代には、一般性をもった歌であったろう。人麿もその一人で、自身の実感を客観化したものでもあろうか。印象が鮮明であるが、しみじみした哀調がある。
 
     右の二十三首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
      右廿三首、柿本朝臣人麿之謌集出。
 
1295 春日《かすが》なる 三笠《みかさ》の山《やま》に 月《つき》の船《ふね》出《い》づ 遊士《みやびを》の 飲《の》む酒杯《さかづき》に かげに見《み》えつつ
    春日在 三笠乃山二 月船出 遊士之 飲酒坏尓 陰尓所見管
 
【語釈】 ○春日なる三笠の山に 既出。京の東にあって、月の出る山。○月の船出づ 「月の船」は、月の形の船に似ているところからの語で、弦月に対しての称。空を海とする心を背後においてのもの。○遜士の飲む酒杯に 「遊士」は、風雅を解する人で、文化人を讃えての称。「飲む酒杯」は、酒を飲んでいる杯。○かげに見えつつ 光を見せ続けている。
【釈】 春日にある三笠の山に、月が船のごとくに出る。風雅な人の酒を飲んでいる杯の中に光を見せ続けていて。
【評】 これは奈良時代の作で、この時期のものとしてこの一首があるのみである。上の人麿の作歌態度とは著しく異なってきて、人麿の実生活に即していたものが、ここでは遊離したものとなり、庶民的な態度が貸族的になってきている。月を風雅の対象とするのは新風であるが、その風雅も月を盃中のものとすることに興味を感じて、細かく幽かに扱うという傾向やものである。時代の推移を思わせられる。
 
 譬喩歌
 
【標目】 この標目は巻三に出ていて、説明をした。本巻の外、巻十、十一、十三、十四の諸巻にも出ている。相聞の歌を修辞上(459)から、譬喩を用いているもの、いないものと分類し、その用いるものに対しての名である。ここには人麿歌集のもの十五首その他のもの九十二首を集めてある。
 
     衣《ころも》に寄する
 
【標目】 衣を材料として、それに全面的に相聞の心を寄せて詠んだものの称である。部分的に用いているものは類別して「寄物陳思」と称している。以下十五首は人麿歌集の歌である。
 
1296 今《いま》つくる 斑衣《まだらごろも》は 面就《おもづ》きて 吾《われ》に念《おも》ほゆ 未《いま》だ服《き》ねども
    今造 斑衣服 面就 吾尓所念 未服友
 
【語釈】 ○今つくる斑衣は 「今つくる」は、新しく拵えている。「斑衣」は、上の(一二六〇)に出た。花で摺った衣で、斑になるよりの称。美しい物としていっている。○面就きて 旧訓「めにつきて」。『略解』にある宜長の訓。「面」は体を代表させたもの。「就きて」は親しみなずくで、似合うというにあたる。わが似合うものとして。○吾に念ほゆ 吾には思われるで、「吾に」は、後世だと、「面」の上にあるべきもの。○未だ服ねども まだ身につけては着ないけれども。
【釈】 新しく拵えている斑衣は、わが身に似合うものと思われる。まだ身につけては着ないけれども。
【評】 「今つくる斑衣」は、懸想中の美しい女によそえたもの。「未だ服ねども」は、まだわが妻としないけれどもの譬喩である。「面就きて吾に念ほゆ」は庶民的な、健康や心構えで、これが一首の魅力をなしている。豊かな、安らかな感をもった作である。
 
1297 紅《くれなゐ》に 衣《ころも》染《し》めまく 欲《ほ》しけども 著《しる》くにほはばや 人《しと》の知《し》るべき
    紅 衣染 雖欲 著丹穗哉 人可知
 
【語釈】 ○紅に衣染めまく欲しけども 「紅」は、べに花を染料とした色で、華やかな派手な色。「染めまく」は、染めむの名詞形。「欲しけども」は、欲しけれどもの古格で、しばしば出た。紅色に衣を染めたいものだと思うけれども。○著くにほはばや人の知るべき 「着くにほはば」は、あまりはっきりと色が現われたならば。「や」は疑問の係助詞。「人の知るべき」は、人目につくことであろうか。
(460)【釈】 紅色に衣を染めたいものと思うけれども、あまりはっき牡と色が現われたならば、人目につくことであろうか。
【評】 派手な美しい色に衣を染めたいと思うが、人目について変ではなかろうかと躊躇している心持で、服色が身分をあらわしていた時代とて、自然な懸念である。「紅」は美しい女、「衣」は妻の譬喩で、「人の知るべき」は、夫婦関係は人には秘密にしていた時代なので、いずれも無理のない、しっくりした譬喩である。若々しい心で、形も美しく艶がある。
 
1298 かにかくに 人《ひと》は云《い》ふとも 織《お》り次《つ》がむ わがはた物《もの》の 白麻衣《しろあさごろも》
    干各 人雖云 織次 我廿物 白麻衣
 
【語釈】 ○かにかくに人は云ふとも 「かにかくに」は原文「千各」で、「千」は諸本同じなのを、『古義』が「干」の誤写としたもので、『新訓』の訓。とやかくと。「人は云ふとも」は、周囲の人が批評しようともで、女が織った麻衣に対していうのである。家族の衣服の料の布は、女が織ることになっていたので、部落生活をしている女にとっては、それが恰好な話題で、好んでよしあしの批評をしたのである。○織り次がむ 織り続けて行こう。○我がはた物の白麻衣 「はた物」は、機に懸けてある物。「白麻衣」は、麻布で、特に「衣」を添えたもの。譬喩の心からである。
【釈】 とやかくと周囲の人は見て批評するとも、かまわずに織り続けよう。わが機に懸けてあるこの白麻の衣は。
【評】 庶民の若い女が、機を織りつつ思った心を言った形のもので、部落生活にあってはきわめて自然なものである。「かにかくに人は云ふとも」は、女がもった男に対して、母親をはじめ周囲の者が好感を寄せずに非難することの譬喩である。「織り次がむ」は、関係を持続しようの譬喩、「白麻衣」は男の譬喩で、「衣」には特に身につける物の意が寄せてある。はじめて男をもった女の、利害を問題としない一本気が、やや昂奮をおびた、張った調べであらわされている。
 
     玉に寄する
 
1299 あぢむらの とをよる海《うみ》に 船《ふね》浮《う》けて 白玉《しらたま》採《と》ると 人《ひと》に知《し》らゆな
    安治村 十依海 船浮 白玉採 人所知勿
 
【語釈】 ○あぢむらのとをよる海に 「あぢむら」は、小鴨の類で、「むら」は群棲するものであるからで、熟語。「とをよる」は、旧訓「なをよる」、『仙覚抄』が改めている。誤写ととれる。巻三(四二〇)「なゆ竹のとをよる皇子」と出た。撓み寄るの意で、ここはあじむらが一列に、撓ん(461)だ形になって陸に向かって寄って来る状態をいったもの。○船浮けて 船を浮かべてで、「船」は漁船。○白玉採ると人に知らゆな 「白玉」は、鰻玉で、「採る」は、海人が海底に潜り入って採るのである。「人に知らゆな」は、『略解』の訓。他人に知られるなで、自身に対しての禁止。
【釈】 あじ群が一列となって撓み寄る形で寄って来る海に船を浮かべて、我は海底の白玉を採っているということを他人には知られるな。
【評】 「あぢむらのとをよる海」は多くの人々の立ち働いている里、「白玉採る」は、美しく貴い女の許へかよっていること、「人に知らゆな」は、人々に悟られるなの、それぞれ譬喩である。この歌は海人の立場に立っていっている形のものであるが、作意としては、海人にそうしたことをさせて、陸上から見ている身分ある人の心としてのものである。海を見渡している態度での言い方であり、「とをよる」ともいっているからである。譬喩は一応その任を尽くしてはいるが、間接な感のあるのは、事を主とせず、気分を通して捉えた譬喩という趣のものだからである。したがって一首おおらかで、上品で、貴族的な匂いのあるものとなっている。詠み方を自然に変化させている点が注意される。
 
1300 遠近《をちこち》の 礒《いそ》の中《なか》なる 白玉《しらたま》を 人《ひと》に知《し》らえず 見《み》むよしもがも
    遠近 礒中在 白玉 人不知 見依鴨
【語釈】 ○遠近の礒の中なる 「遠近」は、あちらこちらの意に用いた古語。「礒」は、石の古語で、海辺のもの。「中なる」は、中にあるで、下の「白玉」の所在。○白玉を 美しい小石の意のもの。○人に知らえず見むよしもがも 「人に知らえず」は、『略解』の訓。他人に知られずして。「見むよし」は、同じく『略解』の訓。「もがも」は、願望。見る方法のほしいものだなあ。
【釈】 あちこちの海辺の石の中にある美しい玉を、他人に知られずして見る方法のほしいものだなあ。
【評】 上代の人の玉に対する憧れはその特色とも言うべきもので、大和の山国の人が、海の白玉に対して抱いていた愛好の情の格別であったのも自然である。この歌の心は大和にあっては何の無理もない心である。「遠江の礒の中なる白玉」は、白玉は美しく貴い女、「遠近の礒」は、その白玉を厳重に保護している貴い人々の譬喩で、一首は、眼にする方法はないが、たしかにあると想像される貴い家の娘に対して、いわゆる見ぬ恋の心をいったものである。男が身分高い女に憧れたのは、上代は一般性のあったことである。
 
1301 海神《わたつみ》の 手《て》に纏《ま》き持《も》てる 玉《たま》ゆゑに 礒《いそ》の浦廻《うらみ》に 潜《かづき》するかも
(462)    海神 手纏持在 玉故 石浦廻 潜爲鴨
 
【語釈】 ○海神の手に纏き持てる 「海神」は、海を領有する神。「手に纏き持てる」は、手玉として腕に巻いて持っている。○玉ゆゑに 「玉」は、鰒玉で、海中の岩などに着いているのを、手玉の位置になぞらえたもの。玉を得たいために。○礒の浦廻に 「礒」は、岩石の海岸。鰒の着いている所。「浦廻」は、浦のあたり。○潜するかも 「潜」は、鰒を獲るために水に潜ることで 名詞。「かも」藤井詠歎。
【釈】 海の神が手