(266) 萬葉葉 巻第十二概説
一
本巻は、巻第十一の概説でほぼいったごとく、その姉妹篇であって、そのことは、巻首に総目として掲げてある「古今の相聞往来の歌の類の下」とあるので明らかである。この「下」は、前巻の「上」に対させたものなのである。
収録されている歌数は、『国歌大観』の番号の(二八四一)より(三二二〇)に至る三八〇首である。
歌体はすべて短歌であって、他のものは一首もない。
作者は、「柿本朝臣人麿の歌集に出づ」と注してあるものが、全巻にわたって二七首あるだけで、他はすべて不明である。ただ(三〇九八)につき、左注で、「右一首は、伝へ云ふ」として、作者に触れているのが、例外といえばいわれるものである。
二
本巻は総目としては前巻と同じであるが、小部立の上ではある程度異なっている。それは彼にある小部立でこれには無いものがあるとともに、彼には無くてこれにはあるものがある。すなわち相聞往来の歌の主体をなす「正に心緒を述ぶる歌」と「物に寄せて思を陳ぶる歌」、及び「問答の歌」は、両巻共通で異ならないのであるが、彼にある「旋頭歌」と「譬喩歌」とは、これには無い。反対に、これにある「羈旅に思を発せる歌」と「別を悲める歌」とは、彼には無いものである。
本巻に新たに加えた「羈旅に」と「別を」の小部立は、本集の部立の根幹となっている雑歌、相聞、挽歌の三大部立を標準としていえば、巻第一にあっては、これらはいずれも雑歌の範囲に属させているものなのである。それは、これらはやや広くいえば羈旅の歌で、羈旅には別れが先行し、また羈旅には旅情が伴うもので、抒情の歌にあっては、それがすなわち羈旅だからである。
羈旅の内容を分析し、「羈旅に」「別を」と事新しく二小部立としたのは、本巻の編集者の、文芸意識の精緻を欲する性情より来たものであろうが、単にそれのみではなく、本巻を前巻の姉妹篇とするにとどめず、本巻には本巻独自の面目を保たせようとする意図があって、それに刺激されるところもあったろうと思われる。否、むしろそのほうが重いものではなかったかと思われる。そのことは、この両巻を通じての重要資料であった柿本朝臣人麿歌集の扱い方によって、明らかにうかがわれるからである。
三
本巻における柿本朝臣人麿歌集の歌は、すべてで二七首であることは前にいった。さらにいうと、「正に心緒を述ぶる歌に(267)一〇首、「物に寄せて思を陳ぶる歌」に一三首、「羈旅に思を発せる歌」に四首である。しかるに巻第十一には、「正に心緒を述ぶる歌」「物に寄せて思を陳ぶる歌」「問答の歌」にわたって、一四九首という多数に上っていて、まさに比較を超えたものである。本巻の二七首の歌は、これを前巻に取り入れても、何のさしつかえもないものである。それをこのように二つに分けたのは、巻第十一の編集者の粗漏よりのことか、または意図よりのことかのいずれかである。これは意図してのことと見るのが自然に思われる。
それというが、人麿の歌の扱い方を見ると、そう思わざるを得ないからである。近く本巻について見ても、人麿の歌に限って、他とは別格に、それだけを切り離し、その数の少ないにもかかわらず、編集者の意図にある一定の排列順に従って排列しているのである。これは編集者の彼に対しての尊敬の情よりのことであろうが、それとともに時代もそれを承認することだったからであろうと思われる。
このことは、本巻自体を標準としていえば、人麿の歌の有ると無いとは、一巻に軽重を起こさせることだったのである。編集者は、本巻を前巻の続篇とのみはせず、姉妹篇として、本巻には本巻独自の面目をあらしめようとし、その方法中の第一のものとして、柿本朝臣人麿之歌集を二つに分け、その数においてはいささかであるが、あらかじめ本巻の分を用意しての上の編集であったろうと思われる。
四
本巻の編集者は、巻第十一のそれと同人かあるいは別人かということも、問題となることである。
上述のことは、おのずからその同人であることを示しているものであるが、さらに、「物に寄せて思を陳ぶる」のその「物」の排列順は、両巻にわたって共通していて、その用意は、微細な点にまで及んでいる。これは同人であることを思わせる有力なことである。
五
「古今」の「今」の、いつ頃まで及んでいるかは、人麿以外はすべて作者不明であるから、明らかにはいえない。しかし歌風の上から見ると、大体奈良朝時代の、その当時新風としていたものが多い。唯一の手がかりは、最初にいった(三〇九八)の左注で、「右の一首は、平群文屋朝臣益人伝へて云ふ」とある、その益人の生存時代である。この人は正倉院文書(大日本古文書二の三九六)によると、天平十七年二月二十八日の民部省の解に署名があるので、その当時民部省に勤務していた人と知れるのである。時代を推測させる証となるものである。
(268)萬葉集巻第十二 目次
古今の相聞往来の歌の類の下 二六九
正に心緒を述ぶる歌一百十首(二八四一〜二八五〇) 二六九
(二八六四〜二九六三) 二八一
物に寄せて思を陳ぶる歌一百五十首(二八五一〜二八六三)二七四
(二九六四〜三〇〇)三二八
問答の歌三十六首(三一〇一〜三一二六) 三九九
(三二一一〜三二二〇) 四五二
羈旅に思を発せる歌五十三首(三一二七〜三一七九) 四一一
別を悲める歌三十一首(三一八〇〜三二一〇) 四三七
(269) 古今の相聞往来の歌の類の下
正《ただ》に心緒《おもひ》を述ぶ
【標目】 以下二十三首は、柿本朝臣人麿歌集所載のものである。巻第十一と同じく、その歌集のものだけを特別扱いしての部立である。
2841 我《わ》が背子《せこ》が 朝明《あさけ》の形《すがた》 よく見《み》ずて 今日《けふ》の間《あひだ》を 恋《こ》ひ暮《くら》すかも
我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨
【語釈】 ○朝明の形よく見ずて 夜明けに帰って行く時の姿をよく見ずして。○今日の間を 夜になれば来るものとして、昼の間の待つに長い意でいったもの。
【釈】 わが背子の夜明けに帰って行く時の姿をよく見なくて、昼の間を恋うて過ごしていることであるよ。
【評】 結婚後ほどもない頃の若い妻が、夫に贈った形の歌で、後世の後朝の歌の範囲のものである。「よく見ずて」「恋ひ暮す」と理屈をつけ、また推量としていうべきことを事実としていっているところに、若い女の心理が捉えられており、それが魅力となっている。豊かな、明るい歌である。人麿の想像に浮かんだ一情景であったろう。
2842 我《わ》が心《こころ》と 望《ねが》ひ念《おも》はば 新夜《あらたよ》の 一夜《ひとよ》もおちず 夢《いめ》に見《み》えこそ
我心等 望使念 新夜一夜不落 夢見与
【語釈】 ○我が心と望ひ念はば 「我が心」は、自分の心で、「と」は、として。自分の心からの意。「望ひ」は、『代匠記』の「のぞみし」と訓んだのを、『全註釈』の改めたもの。この時代には希望の意での「のぞみ」という語は用例がなく、一方『類聚名義抄』には「望」に「ねがふ」の訓(270)があるというのである。「念はば」は、旧訓「念へば」で、同じく『全註釈』の改めたもの。君の心から、進んでこの我をと願い思うならばで、女が男に対して、その求婚時代の懇請の反省を求めたもの。○新夜の一夜もおちず 「新夜の」は、新しく移って来る夜ので、時の移りを、夜をもっていっている語で、用例の少なくないもの。「一夜もおちず」は、一夜も漏れずにで、すなわちいつの夜も。○夢に見えこそ 「与」は、仙覚本には、次の歌の初句に属させてあったのを、『新訓』が誤りとしてこの歌に移したものである。後出の(三一二〇)にも、「あらた夜の全夜《ひとよ》も落ちず夢に見え欲《こそ》」とあり、慣用句となっていたものである。見えて下さいの意。先方がこちらを思うと、夢に見えるとしていたので、せめて心では思って下さいの意。
【釈】 君が心から我を懇望し思うならば、新たに移って来る夜の一夜も漏れずに夢に見えて下さい。
【評】 結婚後、男に疎遠にされている女の、男に恨んで訴えた歌である。通って来ることはせずとも、せめて心の中では思ってくれというので、「夢に見えこそ」は、思っていてくれれば、こちらの夢に見えて来るはずなのに、夢にも見られないと恨んでいるのである。強く、しかし婉曲な形での恨みである。上の歌とは異なった性格の女が、人麿の胸に映ってのものとみえる。
2843 愛《うるは》しと 我《わ》が念《おも》ふ妹《いも》を 人《ひと》皆《みな》の 去《ゆ》く如《ごと》見《み》めや 手に纏《ま》かずして
愛 我念妹 人皆 如去見耶 手不纏爲
【語釈】 ○人皆の去く如見めや 「人皆の」は、世間のすべての人ので、無関係な人々の。「去く如」は、道を行くように。「見めや」は、「や」は、反語。
【釈】 愛でたい人と我が思っている妹を、世間一般の人が路を歩いているように見ていられようかいられはしない。手に纏かないで。
【評】 男が求婚の心から女に贈ったものである。「人皆の去く如見めや」は、この歌の作因をなしているもので多くの人々の道を歩いているさまを見て、物思いを抱いている心から一種の寂寥を感じ、その実感を眼目にして訴えたものである。この心はおそらく教養をもっている者同士の間にだけ解せられる気分で、男も女もそうした人達であったろう。人麿自身、必要があって詠んだ歌と思われる。
2844 この頃《ごろ》の 寐《い》の寐《ね》らえぬは 敷細布《しきたへ》の 手枕《たまくら》纏《ま》きて 寐《ね》まく紛《ほ》れこそ
(271) 比日 寐之不寐 敷細布 手枕纏 寐欲
【語釈】 ○寐の寐らえぬは 「寐」は、眠りの名詞形で、眠ろうとして眠れないのは。○敷細布の手枕纏きて 「敷細布の」は、「枕」の枕詞で、「手枕」に転じたもの。○寐まく欲れこそ 「寐まく」は、寐むの名詞形。「欲れ」は、已然条件法。「こそ」は、下に「あれ」が省かれているもの。
【釈】 この頃の眠ろうとして眠れないのは、妹が手枕をして寐たいと思うからである。
【評】 旅にあって妻に贈った歌とみえる。久しく逢えぬからの恋しさはいっているが、いうことは嘆きではなく手枕を纏けない悩ましさだけで、またそれを率直にいっているからである。関係の深い夫婦間の実用の歌であって、文芸ということは念としなかったものとみえる。ありうる歌である。
2845 忘《わす》るやと 物語《ものがたり》して 意《こころ》遣《や》り 過《す》ぐせど過《す》ぎず 猶《なほ》恋《こ》ひにけり
忘哉 語 意遣 雖過不過 猶戀
【語釈】 ○忘るやと物語して 「忘るやと」は、旧訓「わすれめや」。『代匠記』の訓。紛れるであろうかと思ってで、「や」は、疑問の係。「物語して」は、話をしてで、ここは雑談である。纏まった話以外にも用いた語である。○過ぐせど過ぎず 過去のものとするが、そうはならずに。○猶恋ひにけり やはり恋しいことであった。
【釈】 紛れるであろうかと思って、人と雑談をして心をやって、過去のものとするがそうはならずに、やはり恋しいことであった。
【評】 上の歌の連続で、男が旅にあってその妻に贈ったものとすると、自然なものとなる。多分そうした歌であろう。妻恋しい心を紛らそうとして、紛らしかねているという一事を捉え、それだけを丹念にいうことによって気分化しているものである。素朴な詠み方で、その点では上の歌と異ならないものである。贈られた妻としては感銘の深いものであったろう。
2846 夜《よる》も寐《ね》ず 安《やす》くもあらず 白《しろ》たへの 衣《ころも》も脱《ぬ》がず 直《ただ》に逢《あ》ふまでに
(272) 夜不寐 安不有 白細布 衣不脱 及直相
【語釈】 ○白たへの衣も脱がず 「白たへの」は、衣の枕詞。「衣も脱がず」は、ここは寝ない意でいったもの。丸寝をする意にも用いるが、ここは初二句を繰り返して、具象的にいったもの。
【釈】 夜も寝ない。安らかな心もない。白たえの衣も脱がない。じかに逢うまでは。
【評】 これは明らかに旅にいて、妻に対する恋情の極まりを訴えて贈った歌である。この歌は文芸意識を全く棄て、昂奮した気分を凝集させて、一句で切り、二句で切り、四句で切って、結句で言い据えているという特殊な形の歌である。それでいて一首としては安定感をもち、軽くないものとなっているのは、気分で貫いているからである。手腕ある作というべきである。
2847 後《のち》も逢《あ》はむ 吾《われ》にな恋《こ》ひと 妹《いも》は云《い》へど 恋《こ》ふる間《あひだ》に 年《とし》は経《へ》につつ
後相 吾莫戀 妹雖云 戀間 年經乍
【語釈】 ○吾にな恋ひと 旧訓「われをこふなと」。『新訓』の訓。上代は、「君を恋ふ」というより「君に恋ふ」といった用例に従ったのである。
【釈】 後にも逢おう、われを恋うなと妹はいうけれど、恋うている間に、年は過ぎつついる。
【評】 この歌も多分、上の三首の歌の連続であろう。夫より上のごとき三首の歌を贈られた妻が、何ともする術がないので、「後も逢はむ吾にな恋ひ」と答えたのに対し、夫がさらに言い返した歌と取れる。女の思慮をもって落ちついているのに対し、男は感情に溺れ、「年は経につつ」とむしろ激情に酔っているのである。いずれも性情のいわせているものである。夫の駄々をこねているごとき態度も妻には魅力に感じられたのであろう。
2848 直《ただ》に逢《あ》はず 在《あ》るは諾《うぺ》なり 夢《いめ》にだに 何《なに》しか人《ひと》の 言《こと》の繁《しげ》けむ
直不相 有諾 夢谷 何人 事繁
【語釈】 ○直に逢はず在るは諾なり 「諾なり」は、承認する意で、じかに逢わずいるのは、もっともである。○夢にだに 夢に逢うだけでも。(273)○何しか人の言の繁けむ 「何しか」は、「し」は、強意、「か」は、疑問の係で、どうして。「人の言の繁けむ」は、他人の噂の多いことであろうか。
【釈】 じかに逢わずにいるのは、もっともである。夢に逢うだけでも、何だって他人の噂の多いことであろうか。
【評】 結婚後、ほどなく、男に疎遠にされている女の、その男に贈った歌である。初めはその疎遠にされるのを恨んでいたが、逢いもせぬのに人の噂の高いのを聞くと、男の来ないのをもっともに思い、そして男を夢に見るので、これは男が心の中では自分を思っているのだと慰め、男を恨む心を、噂をする人々に転じて、その心を男に言い贈ったのである。人の噂を憚って男が来ないのだという心は平凡であるが、「夢にだに」といって、それに男の来ない理由、噂をする人々の恨めしい理由を集中させているのは特殊で、それが一首の眼目である。男の来ないのに対し、善意をもって理由を求め、「夢にだに」によって一切を解決しているところに、若い女の心理がある。単純ではあるが、複雑味と屈折とをもった心で、巧みな表現である。
或本の歌に曰はく、現《うつつ》には うべも逢《あ》はなく 夢《いめ》にさへ
或本歌曰、寤者 諾毛不相 夢左倍
【解】 初句より三句までの別伝である。現実に逢えないのはもっともである。夢に逢うのでさえも、というのであって、本文の思い入っていっている抒情の調子を、平明な説明に変えたものである。伝承する人の、自身に親しいものに変えたので、歌としての価値は顧みないものである。
2849 ぬばたまの その夢《いめ》にだに 見《みつ》継ぎきや 袖《そで》乾《ふ》る日《ひ》なく 吾《わ》が恋《こ》ふらくを
烏玉 彼夢 見繼哉 袖乾日無 吾戀矣
【語釈】 ○ぬばたまのその夢にだに 「ぬばたまの」は、夜の枕詞を夜そのものの意に転じたもの。「その夢にだに」は、『代匠記』の訓。「その」は、相手を指したもので、あなたの夢にだけでも。○見継ぎきゃ 訓が定まらない。元暦校本の訓で、『全註釈』はそれに従い、「や」は、文末で、ここで切れる。これに接続するのは、終止形、已然形、命令形であるが、命令形は用例がなく、已然形だと反語になるから、ここは終止形より接続するものと見て、この訓に従うべきだといっている。続いて見えたか。○袖乾る日なく吾が恋ふらくを 「乾る」は、上二段活用で、連体形。「恋ふらく」は、「恋ふ」の名詞形。袖の乾く日もなくわが恋うていることよ。
【釈】 夜のあなたの夢にだけでも、私は見え続きましたか。涙に濡れる袖の乾く日もなく、私はあなたを恋うていることですよ。
(274)【評】 妻の、夫を恋いくらしている訴えである。恋しさをいっているだけで、悲しみのないところを見ると、夫が旅に出ているというような場合のものと思われる。こちらで思えば、相手の夢に見えるという信仰の上に立っての心である。細いながらに調べが張っていて、調べが気分となり、訴えとなっているものである。
2850 現《うつつ》には 直《ただ》に逢《あ》はなく 夢《いめ》にだに 逢《あ》ふと見《み》えこそ 我《わ》が恋《こ》ふらくに
現 直不相 夢谷 相見与 我戀國
【語釈】 ○現には直に逢はなく 「現には」は、現実にはで、下の「夢」に対させたもの。「直に逢はなく」は、直接には逢わないことだ。○夢にだに逢ふと見えこそ 夢でだけでも逢うと見えてくれよで、先方がこちらを思うと、夢に見えるとしていっているもの。○我が恋ふらくに 我は恋うていることだのに。
【釈】 現実には直接にお逢いできないことです。夢でだけでも逢うと見えて下さい。我は恋うていることだのに。
【評】 妻の、旅に在る夫に、恋情を訴えたものである。「現には直に逢はなく」は、逢うことは絶対にできないものと諦めての心で、「夢にだに」は、夫がこちらを思えば、当然夢に見えるはずであるのに、それが見えないとて、嘆いて訴えたもので、「我が恋ふらくに」と対照させて、相思の情を求めたので、それが中心となっている歌である。同じく旅へ贈った歌ではあるが、上の歌とは性格の異なったものである。
物に寄せて思を陳ぶ
【標目】 上の「正に心緒を述ぶ」と同じく、人麿歌集の歌十三首を特別に扱ってのものである。
2851 人《ひと》に見《み》ゆる 表《うへ》は結《むす》びて 人《ひと》の見《み》ぬ 裏紐《したひも》あけて 恋《こ》ふる日《ひ》ぞ多《おほ》き
人所見 表結 人不見 裏紐開 戀日太
【語釈】 ○人に見ゆる表は結びて 「表」は、衣の上紐で、紐は下の「裏紐」に譲ったもの。「結びて」は、普通の状態である。○人の見ぬ裏紐あ(275)けて 「裏紐」は、衣の下紐。「あけて」は、解いて。下紐のおのずから解けるのは、思う人に逢える前兆の一つと信じられていたので、ここは、それになぞらえて、逢えるまじないの心からするのである。
【釈】 人に見える上紐は結んで、人の見ない下紐を解いて、恋うている日の多いことであるよ。
【評】 女の、疎遠にしている夫に贈った形の歌である。中心は「人の見ぬ裏紐あけて」で、「人に見ゆる表は結びて」は、それを強めるための対照であり、情痴のさせるまじないである。健康で、露骨で、庶民的な歌である。謡い物を思わせる。以下四首、衣、紐に寄せての歌。
2852 人言《ひとごと》の 繁《しげ》かる時《とき》に 吾妹子《わぎもこ》し 衣《きぬ》にありせば 下《した》に著《き》ましを
人言 繁時 吾妹 衣有 裏服矣
【語釈】 略す。
【釈】 他人の噂のうるさく立っている時は、吾妹子がもし衣であったならば、下に着ていようものを。
【評】 「吾妹子し衣にありせば」という仮設は多いものである。上代人は身に着けるということは無上の親しいこととしたのと、「下に著まし」ということは思い寄りやすいものだったからである。心は一般的で、詠み方も平明で、謡い物として詠んだ歌と思わせるものである。しかし喰い入る力をもっている。
2853 真珠《またま》つく 遠《をち》をしかねて 念《おも》ふにぞ一重衣《ひとへごろも》を一人《ひとり》著《き》て寐《ぬ》る
眞珠服 遠兼 念 一重衣 一人服寐
【語釈】 ○真珠つく遠をしかねて 「真珠つく」は、真珠を付ける緒と続け、「を」の枕詞。「遠を」は、将来を。「し」は、強意の助詞。「かねて」は、兼ねてで、将来のことにもわたって。○念ふにぞ 『新考』の訓。考えるので。○一重衣を一人著て寐る 一重の薄い衣を、一人で着て寝るで、「寐る」は、「ぞ」の結。これは共寝に対させて、一人寝のさみしさを具象的にいったもの。
【釈】 将来にもわたって思っているので、一重の衣を一人で着て寝ていることである。
(276)【評】 女がその関係している男に贈った歌である。二人の関係が周囲の人々の噂にのぼったのに憚って、女は男との交渉を絶って一人寝をしているのであるが、それは二人の関係の秘密を守って、その関係を堅いものとしようがためだと思いつつも、さすがに侘びしいので、それを男に訴えたものである。それとともに、男も同じく侘びしい気がしていようと思い、女の心を誤解しないようにと願う心も伴っているものであろう。女性らしい警戒心と思慮の現われている歌である。「一重衣を一人著て寐る」は巧みな具象である。
2854 白綿布《しろたへ》の 我《わ》が紐《ひも》の緒《を》の 絶《た》えぬ間《ま》に 恋結《こひむす》びせむ 逢《あ》はむ日《ひ》までに
白細布 我紐緒 不絶間 戀結爲 及相日
【語釈】 ○白細布の我が紐の緒の 「白細布の」は、ここは、紐にかかる枕詞。「紐の緒」は、紐を強めていったもの。紐は下紐と取れる。○絶えぬ間に ちぎれてしまわないうちに。○恋結びせむ 「恋結び」は、ここに出ているのみで、ほかに用例の見えない語である。結びは、上代、深い信仰の伴っていた行事で、紐、木の枝、草の葉などを結び合わせ、思っていることの永続、再会などを祈ってすることである。恋結は、その中の一つの称で、ここは、下紐をまじなって結ぶことであったとみえる。心としては、下の続きで、再会を期してするのである。
【釈】 白細布のわが下紐の絶えないうちに、恋結びをしよう。逢うだろう日までに。
【評】 夫である男が旅へ出て、久しく逗留することになっている女の歌であろう。「絶えぬ間に」といっているのは、その下紐は、別れる時に男の結んで行ったもので、呪力とともに夫の心の籠もった、取りかえ難いものとしていっているのであろう。恋結びというのも、まじなって結ぶという意で、結び方が異なっているのではなかろう。すべて信仰の心よりのものである。当時にあっては魅力のある歌であったろう。
2855 新墾《にひはり》の 今《いま》作《つく》る路《みち》 さやかにも 開《き》きにけるかも 妹《いも》が上《うへ》の事《こと》を
新治 今作路 清 聞鴨 妹於事矣
【語釈】 ○新墾の今作る路 「新懇の」は、新たに切り懇《ひら》いたで、新開の。「今作る路」は、新たに作っている路で、「今作る」は、「新墾」を繰り返して強めたもの。その路のはっきりしている意で、「さやか」に続け、以上その序詞。○さやかにも聞きにけるかも はっきりと聞き得たことであるよ。○妹が上の事を 妹に関してのことを。
(277)【釈】 新墾の新しく作っている路のはっきりとしているように、はっきりと聞き得たことであるよ。妹に関する事を。
【評】 遠い地に関係した女をもっている男の、気にしながら女の様子がわからずにいたところ、図らずもそれを聞き得た歓喜をいったものである。遠方に妻をもつということは、上代では珍しからぬことであった。序詞に特色がある。眼前の実際を捉えているからであろう。路を新たに作るということは多分公の事業で、男は庸として徹されて働いていて、聞いたのも一緒に働いている人からでもあろう。一首の調べが張っており、その調べが感動の直接表現となっているものである。異色のある歌である。路に寄せての歌。
2856 山代《やましろ》の 石田《いはた》の杜《もり》に 心《こころ》鈍《おそ》く 手向《たむけ》したれや 妹《いも》に逢《あ》ひ難《がた》き
山代 石田社 心鈍 手向爲在 妹相難
【語釈】 ○山代の石田の杜に 京都市伏見区石田町にある天穂日命の社。「山科の石田の杜」ともある。○心鈍く手向したれや 「心鈍く」は、心の足らぬさまにで、副詞句。「手向したれや」は、手向したのであろうかで、「や」は、疑問の係。手向は、祭。
【釈】 山城の石田の社に、心足らぬさまに祭をしたゆえであろうか、妹に逢い難いことである。
【評】 神に祈をしてその験《しるし》のない時には、わが真心が足りなかったゆえであるとして、責を自身に帰するのは、上代にあっては常識であって、ここもそれである。一首の調べはつつましく静かで、その気分をあらわしている。神社に寄せての歌。
2857 菅《すが》の根《ね》の ねもころごろに 照《て》る日《ひ》にも 乾《ひ》めや吾《わ》が袖《そで》 妹《いも》に逢《あ》はずして
菅根之 惻隱々々 照日 乾哉吾袖 於妹不相爲
【語釈】 ○菅の根のねもころごろに 「菅の根の」は、同音で「ね」にかかる枕詞。「ねもころ」は、懇ろで、「ねもころごろ」は、意は同じく、語感を強めるために畳んだ語。○乾めや吾が袖 「乾めや」は、「や」は反語で、乾ようか、乾はしない。「吾が袖」は、恋の涙で濡れとおっている袖。
【釈】 あまねく照っている日にも、乾こうか乾きはしない、涙に濡れとおったわが袖は。妹に逢わなくては。
(278)【評】 一般的な心を、気分本位に詠んだものである。四、五句に巧みを示しているが、全体として特色の少ない歌である。謡い物系統の作である。日に寄せての歌。
2858 妹《いも》に恋《こ》ひ 寐《い》ねぬ朝《あした》に 吹《ふ》く風《かぜ》の 妹《いも》にし触《ふ》れば 吾《われ》さへに触《ふ》れ
妹戀 不寐朝 吹風 妹經者 吾与經
【語釈】 ○妹に恋ひ寐ねぬ朝に 妹を恋うて眠らなかった朝に。○妹にし触れば 諸注、訓がさまざまである。「触る」は、下二段活用で、四段活用は防人の歌に一例があるのみである。妹に触れるならば。○吾さへに触れ われにもともに触れよで、「触れ」は、命令形。
【釈】 妹を恋うて眠れなかった明け方に吹いている風が、妹の身に触れるのであったら、わが身にもともに触れよ。
【評】 上代人は、思う人の身に触れた物をわが身に触れさせることは、霊の交流のあることとして重んじた。ここは自由に吹きかよう風に、せめてそれに近い交流を得たいとしてのことで、当時の人にとっては実感だったのである。「妹に恋ひ寐ねぬ朝に」は、その実感を深化させているもので、当時はしみじみした哀感のある歌であったろうと思われる。今も調べをとおして気分が感じられる。
2859 飛鳥河《あすかがは》 高河《たかがは》避《よ》かし 越《こ》え来《こ》しを まこと今夜《こよひ》は 明《あ》けず行《ゆ》かめや
飛鳥河 高川避紫 越來 信今夜 不明行哉
【語釈】 ○高河避かし 「高河」は、水嵩の増した川が高くなっている時の称。「避かし」は、避くの敬語。○越え来しを 越えて来たものを。○まこと今夜は明けず行かめや 「まこと」は、ほんとに。「行かめや」は、「や」は、反語で、夜が明けずに帰って行けようか、行けないであろう。
【釈】 飛鳥河の水嵩の増した河をお避けになって、まわり道をして越して来たものを、ほんとに今夜は、夜が明けずに帰って行けましょうか、行けないでしょう。
【評】 男が女に、路の苦労をいって誠意を示すのは型となっているが、これはその反対に、女が男の苦労を察して、感謝している心である。ありうべきことであるが、歌としては新味あるものである。気分をあらわそうとして事をくわしく叔しているので、物語風の趣を帯びたものとなっている。想像に浮かんだ一場景という感のする歌である。以下二首、河に寄せての歌。
(279)2860 八釣河《やつりがは》 水底《みなそこ》絶《た》えず 行《ゆ》く水《みづ》の 続《つ》ぎてぞ恋《こ》ふる この年頃《としごろ》を
八釣河 水底不絶 行水 續戀 是比歳
【語釈】 ○八釣河 桜井市|高家《たいえ》に発し、高市郡明日香村八釣を流れる河。○水底絶えず行く水の 河底を絶えず流れ行く水ので、意味で「続ぎ」に続き、以上その序詞。○続ぎてぞ恋ふる 続いて恋うていることである。
【釈】 八釣河の河底を絶えずに流れ行く水のように、続いて妹を恋うていることである。この幾年を。
【評】 求婚の意を、初めて女に訴えた形の歌である。八釣河は男の眼前のもので、したがって、住所を暗示しているものである。
或本の歌に曰はく、水尾《みを》も絶《た》えせず
或本歌曰、水尾母不絶
【解】 第二句の別伝である。「水尾」は、水の流れる筋で、流れの絶えずというと同じである。応用されることの多そうな歌であるから、別伝を生じたとみえる。
2861 礒《いそ》の上《うへ》に 生《お》ふる小松《こまつ》の 名《な》を惜《をし》み 人《ひと》に知《し》らえず 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
礒上 生小松 名惜 人不知 戀渡鴨
【語釈】 ○礒の上に生ふる小松の 「礒」は、巌。「小松」は、「小」は、美称で、松。用例の少なくない語である。巌の上に立っている松は人目に立つもので、したがって名を付けられる意で、名と続き、以上その序詞。○名を惜み わが名の立つことを惜しんで。○人に知らえず恋ひ渡るかも 「人に知らえず」は、相手の人に知られずに、すなわち、打明けずに。「恋ひ渡るかも」は、恋い続けていることである。
【釈】 岩の上に立っている松の名のあるように、我も、名の立つのを惜しんで、思う人に知られずに恋い続けていることである。
【評】 恋と名との矛盾を嘆く歌は多く出た。男は大夫ということを唯一の目標としていたからである。これもその範囲のもの(280)である。「礒の上に生ふる小松の」という序詞は、新しいものである。眼前の実景を捉えてのもので、気分として「名を惜み」につながるものである。嘆きではあるが、さわやかな気分をもったもので、この類の歌としては珍しいものである。松に寄せての歌。
或本の歌に曰はく、巌《いは》の上《うへ》に 立《た》てる小松《こまつ》の 名《な》を惜《をし》み 人《ひと》には云はず 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
或本歌曰、巖上尓 立小松 名惜 人尓者不云 戀渡鴨
【解】 明らかに前の歌の別伝で、語の時代的にやや古さを感じる部分を新しくしたものである。親しさを求めての平明化で自然な変化といえる。本文の愛誦されたことを示している。
2862 山川《やまがは》の 水陰《みづかげ》に生《お》ふる 山草《やまくさ》の 止《や》まずも妹《いも》が 念《おも》ほゆるかも
山川 水陰生 山草 不止妹 所念鴨
【語釈】 ○水陰に生ふる山草の 「水陰」は、水辺の物陰で、巻十(二〇一三)「天の河水陰草の」とも出た。「山草」は、旧訓は山菅で、『古義』は「草」を菅の誤りだとしている。巻十一(二四五六)「黒髪山の山草に」の例もある。同音で「止ま」にかかり、以上その序詞。
【釈】 山川の水辺の物陰に生えている山菅というに因みある、やまずも妹の思われることであるよ。
【評】 類想の多い一般的な心をいったものであり、初句より三句までを同音反復の序詞に費やしているという謡い物風のものである上に、一首の調べも、嘆きをいっているものであるにかかわらず、明るいものである。謡い物風にという意図の下に詠んだ歌と思われる。以下二首、草に寄せての歌。
2863 浅葉野《あさはの》に 立《た》ち神《かむ》さぶる 菅《すが》の根《ね》の ねもころ誰《たれ》ゆゑ 吾《わ》が恋《こ》ひざらむ
淺葉野 立神古 菅根 惻隱誰故 吾不戀
【語釈】 ○浅葉野に立ち神さぶる 「浅葉野」は、所在不明。埼玉県入間郡坂戸町浅羽、静岡県磐田郡浅羽町、などがあげられている。巻十一(二(281)七六三)「紅の浅葉の野らに」と出た。「立ち神さぶる」は、『新考』の訓。「立神古」の「古」は、『代匠記』が訓み悩み誤写説を立てているものである。下の「菅の根」の状態としていっているもので、立って神さびているというので、繁って立っているさまを誇張していったものと取れる。○菅の根の 同音反復で、「ねもころ」の「ね」に続き、以上その序詞。○ねもころ誰ゆゑ 「ねもころ」は、心を尽くして。「誰ゆゑ」は、君以外の誰のゆえにもで、すなわち君の意。○吾が恋ひざらむ 旧訓。わが恋いずにいようか、恋うるで、反語を成すもの。
【釈】 浅葉野に立ち繁っている菅の根というに因む、ねんごろに心を尽くして、君以外の誰のゆえに、すなわち君に我は恋いずにいようか、恋うることだ。
【評】 女が男に、その恋情の強さを訴えた歌である。四、五句の「ねもころ誰ゆゑ吾が恋ひざらむ」は、熱意と強さのある表現である。序詞は、女の眼前の実景で、その恋情を気分としてあらわそうとしているものである。「立ち神さぶる」という特殊な言い方も、その気分よりの誇張と取れる。一首、珍しいまでに重量のある歌である。
或本の歌に曰はく、誰葉野《たがはの》に 立《た》ちしなひたる
或本歌曰、誰葉野尓 立志奈比垂
【解】 初二句の別伝である。「誰葉野」は、所在不明である。『古義』は豊前国田河郡の野かという。「立ちしなひ」は、立って撓《しな》っているで、栄えている状態。その地に伝承されて変えられたものとみえる。
右の二十三首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右廿三首、柿本朝臣人麿之歌集出。
正に心緒を述ぶ
【標目】 人麿歌集以外の、作者不明の歌を同じ部を立てて集めたもの。
2864 吾《わ》が背子《せこ》を 今《いま》か今《いま》かと 待《ま》ち居《を》るに 夜《よ》の深《ふ》けぬれば 嘆《なげ》きつるかも
吾背子乎 且今々々跡 待居尓 夜更深去者 嘆鶴鴨
(282)【語釈】 ○夜の深けぬれば 夜がふけて来たので、来なかろうと思って。
【釈】 わが背子を、今来るか、今来るかと思って待っているうちに、夜がふけて来たので、来なかろうと思って歎息したことである。
【評】 夫の通って来るのを待って、待ち得なかったことをいっただけのものである。上代の妻には日常のことであったろうが、しかし語にせずにはいられないものであったろう。夫を待つ気分の失望に終わるまでを精細に叙して、多くの妻の心を代弁したごとき歌である。取材そのものがおのずから柔らかい気分とならせているものである。
2865 玉《たま》くしろ まき宿《ぬ》る妹《いも》も あらばこそ 夜《よ》の長《なが》けくも 歓《うれ》しかるべき
玉釼 卷宿妹母 有者許増 夜之長毛 歡有倍吉
【語釈】 ○玉くしろまき宿る妹も 「玉くしろ」は、玉を着けてあるくしろで、釧の字も当て、ひじまきともいい、手に巻くところから「まき」の枕詞。「まき宿る妹」は、腕に抱いて寝る妹。○夜の長けくも 「よのながけくも」の旧訓と、「よるのながきも」の『新考』の採り上げた訓とがある。「長けく」は、長しの名詞形。○歓しかるべき 「べき」は、「こそ」の結で、連体形なのは古格である。しばしば出た。
【釈】 玉くしろのように、手に巻いて寝る妹があるならば、夜の長いこともうれしいことであろう。
【評】 秋の夜永にひとり寝をしている男の嘆きである。「玉くしろまき宿る妹」と、美しく想像しているところをはじめ、一首気分の歌である。奈良朝に入っての歌風である。
2866 人妻《ひとづま》に 言《い》ふは誰《た》が言《こと》 さ衣《ごろも》の この紐《ひも》解《と》けと 言《い》ふは誰《た》が言《こと》
人妻尓 言者誰事 酢衣乃 此紐解跡 言者孰言
【語釈】 ○人妻に言ふは誰が言 「人妻に」は、人妻である我に。「言ふは誰が言」は、そのようなことをいうのは、どういう人の言葉であるぞと、詰問したもの。「誰」は、相対している男を卑しめての称。○さ衣のこの紐解けと 「さ衣」の「さ」は、接頭語。「この」は、ここは強めの意で添えているもので、「紐解け」は、共寝をせよの意。○言ふは誰が言 第二句を繰り返してのもの。
【釈】 人妻である我にそのようなことをいうのは、どういう人の言葉であるぞ。わが衣のこの紐を解けというのは、どういう人の言葉であるぞ。
(283)【評】 初二句は、反撥的に、その内容に触れる余裕もなく一気に斥け、第三句以下、初めて内容に触れ、強く、繰り返して斥けたものである。妻とはいえ、夫と同棲はしていず、またその関係も秘密にしていたのであるから、ほかの男より挑まれるということは、自然ありうることであったろうと思われる。これはそうした場合の語であるが、単純な一語によって、心の全幅と、その場合の息づかいまでも髣髴させている歌である。短歌形式の長所を明らかに示している歌である。
2867 かくばかり 恋《こ》ひむものぞと 知《し》らませば その夜《よ》は寛《ゆた》に あらましものを
如是許 將戀物其跡 知者 其夜者由多尓 有益物乎
【語釈】 ○その夜は寛に 「その夜」は、今に対させたもので、女と逢った夜。「寛に」は、ゆっくりと。
【釈】 このようにまで恋うるものだと知っていたならば、あの夜はゆっくりとしていようものを。
【評】 女に逢って別れた後の心で、「その夜は」といっているので、少なくとも翌夜の心であろう。「寛に」は、関係を結んだばかりの女で、忍んで逢うのであるから、ゆっくりとはできなかったとみえる。この時代には一般的な嘆きであったろう。
2868 恋《こ》ひつつも 後《のち》に逢《あ》はむと 思《おも》へこそ 己《おの》が命《いのち》を 長《なが》く欲《ほ》りすれ
戀乍毛 後將相跡 思許増 己命乎 長欲爲礼
【語釈】 ○恋ひつつも後に逢はむと 「恋ひつつも」は、片恋をしながらも。「後に逢はむと」は、いつかは逢おうと。○己が命を長く欲りすれ 自分の命を長生きしたいと思うことだ。
【釈】 片恋をしながらも、いつかは逢おうと思えばこそ、自分の命を長生きしたいと思うことだ。
【評】 遂げ難い片恋をしている男の、命のあるうちにはと思い入っている心で、心としては深刻なものである。しかし歌は淡いもので、感傷の趣すらないものである。気分本位の詠風の弱所を示している歌といえる。
2869 今《いま》は吾《わ》は 死《し》なむよ吾妹《わぎも》 逢《あ》はずして 念《おも》ひ渡《わた》れば 安《やす》けくもなし
(284) 今者吾者 將死与吾妹 不相而 念渡者 安毛無
【語釈】 ○今は吾は死なむよ吾妹 この二句は、「妹」が「背」となって巻四(六八四)に出、また本巻(二九三六)にも出ていて、慣用句のごとくなっていたものとみえる。○逢はずして念ひ渡れば 逢えなくて、恋い続けておれば。○安けくもなし 「安けく」は、安しの名詞形で、心安らかさがない。これは心乱れると魂の身を離れるということを背後に置いてのもの。
【釈】 今はわれは死ぬであろうよ吾妹。このように逢えずに恋ひつづけていると、心の安さがない。
【評】 関係を結んでいる女の身辺に妨害が起こって、久しく逢えずにいる男の、嘆いて女に訴えたものである。初二句は多分慣用句で、三句以下はその説明であって、新意のないものである。一首の調べが比較的さわやかで、この類の陥りやすい厭味はないが、同時にそれが空疎の感を起こさせることにもなる。謡い物に近い歌である。
2870 我《わ》が背子《せこ》が 来《こ》むと語《かた》りし 夜《よ》は過《す》ぎぬ しゑやさらさら しこり来《こ》めやも
我背子之 將來跡語之 夜者過去 思咲八更々 思許理來目八面
【語釈】 ○しゑやさらさら 「しゑや」は、感歎をあらわす語で、どうでも好いという時に添える意のもので、ええ、もうというにあたる。「さらさら」は、さらにを畳んで強めた語で、決して決してというにあたる。○しこり来めやも 「しこり」は、語義に諸説があるが、『古義』は、失策(しそこない)の意だとしている。ここも、間違ってもの意で通じる。「や」は、反語。間違っても来ようか、来はしない。
【釈】 わが背子が、来ようと約束をした今夜も過ぎた。ええ、もう、決して決して、間違っても来ることであろうか、ありはしないことだ。
【評】 疎遠にしている夫の、たまたま来ようというので、待ち明かした女の、失望しての嘆きである。四、五句は昂奮しての激語で、気息をさながらにあらわしている感のあるものである。しかしその激しさは、同時に愛着の深さをあらわしているもので、それが眼目になっている歌である。気分の表現となっている歌である。
2871 人言《ひとごと》の 讒《よこ》すを聞《き》きて 玉桙《たまほこ》の 道《みち》にも逢《あ》はじと 云《い》へりし吾妹《わぎも》
人言之 讒乎聞而 玉桙之 道毛不相常 云吾妹
(285)【語釈】 ○人言の讒すを聞きて 「人言」は、他人の語。「讒す」は、事を枉げて言いこしらえる悪口で、曲事《よこしまごと》の曲と同系の語。日本書紀にも出、催馬楽の「葦垣」にも「誰かこの言《こと》を親にまうよこし申しし」とあり、やや後までも用いられた語である。四段活用の他動詞。○玉桙の道にも逢はじと 「玉桙の」は、道の枕詞。「道にも」は、道の上でさえも。○云へりし吾妹 『新訓』の訓。いっていた吾妹よで、呼びかけ。
【釈】 人の陰口として、言い拵えての悪口を聞いて、道の上でも逢うまいといっていた吾妹よ。
【評】 部落生活には、集団生活からかもし出される、この類の小葛藤が絶えなかったことであろう。『新訓』の訓に従い、結句を「云へりし吾妹」と、過去にし、呼びかけにすると、作意は著しく趣を増して来る。女はいわゆる水をさされて腹を立てたが、おのずからそれとわかって心が解け、縒りをもどして男と逢った時、男は諭すに近い心をもって女にいった歌となって来るのである。男女の性格の差も現われた、物語的な興味のある歌である。特殊な取材に似ているが、当時としては一般性をもった歌であったろう。
2872 逢《あ》はなくも 憂《う》しと念《おも》へば いやましに 人言《ひとごと》繁《しげ》く 聞《きこ》え来《く》るかも
不相毛 懈常念者 弥益二 人言繁 所聞來可聞
【語釈】 ○逢はなくも 女の逢わないことを。
【釈】 女の逢わないことを、つらいと思っていると、いよいよ増さって、人の噂が繁く聞こえて来ることである。
【評】 男の歌で、噂の立っている中でも逢っていたのであるが、強い警戒心から女が逢わなくなり、それをつらく思っていると、噂はますます高くなって来たというのである。自身の、つらい気分だけをいおうとしている歌である。しかし余意として、女の逢わないのをもっともだと是認せざるを得ないところがあり、それが趣となっている。
2873 里人《さとびと》も 語《かた》り継《つ》ぐがね よしゑやし 恋《こ》ひても死《し》なむ 誰《た》が名《な》ならめや
里人毛 謂告我祢 縱咲也思 戀而毛將死 誰名將有哉
【語釈】 ○里人も語り継ぐがね 「里人」は、男女の住んでいる里の人。「語り継ぐがね」は、「がね」は、巻三(三六四)、巻四(五二九)などに出ているが、ここは希望、予想をあらわす。言い伝えにすることだろう。○よしゑやし恋ひても死なむ 「よしゑやし」は、ここは、ままよとい(286)うにあたる。「恋ひても死なむ」は、妹を片恋して、その悩みに死のうで、「も」は、詠歎。○誰が名ならめや 「誰が名」は、妹以外の誰の評判で、「や」は、反語。妹以外の誰の評判であろうか、妹の評判であるの意。
【釈】 里人が言い伝えにすることであろう。ままよ、片恋の悩みに死のうよ。妹以外の誰の評判になろう、妹の評判になろう。
【評】 片恋をしている男の、最後的に女に訴えたものである。どちらも部落生活をしている者で、部落内の評判には強い関心をもっているのである。男はそれを利用して、我は片恋の悩みに死にそうだが、それをさせたら、結局、無情な女だという悪名を伝えられるのはあなたであろうというので、訴えではあるが、むしろ威嚇と称すべきものである。求婚の上での威嚇は珍しいものである。
2874 慥《たしか》なる 使《つかひ》を無《な》みと 情《こころ》をぞ 使《つかひ》に遣《や》りし 夢《いめ》に見《み》えきや
慥 使乎無跡 情乎曾 便尓遣之 夢所見哉
【語釈】 ○慥なる使を無みと たしかな使がないゆえにと思って。○情をぞ使に遣りし わが心を使にやったことだ。「し」は、「ぞ」の結で、連体形。詠嘆してのもの。○夢に見えきや その人を思うと、思われた人はこちらを夢に見るという信仰の上に立つてのもの。
【釈】 たしかな使がないゆえにと思って、わが心を使としてやったことだ。我が夢に見えたか。
【評】 男より女に贈ったものである。「情をぞ使に遣りし」は、相思の間では絶えず実行している平凡なことを新しい言い方であらわしたものである。この新しさの魅力がこの歌の魅力となっている。奈良朝初期を思わせるに足りる言い方である。
2875 天地《あめつち》に 少《すこ》し至《いた》らぬ 大夫《ますらを》と 思《おも》ひし吾《われ》や 雄心《をごころ》もなき
天地尓 小不至 大夫跡 思之吾耶 雄心毛無寸
【語釈】 ○天地に少し至らぬ大夫と 天地の広大なのに較べては、少しく足りない大夫だとの意で、上代の男子の信念をあらわした語。大夫は思慮あり活動力ある男子である。○思ひし吾や 思って来たところのわれで、「や」は、疑問の係助詞。○雄心もなき 雄々しい心のないことであるよ。
【釈】 天地の広大なのに較べては、少しく足りない大夫だと思って来たわれの、雄々しい心のないことであるよ。
(287)【評】 教養あり身分ある男が、恋の悩みを抱いていて、ある時はその状態を腑甲斐なく思うとともに、本来の男子としての矜持を取りもどして、その角度から現状を嘆いている心である。社会性を振い起こして本能性を克服しようとするこの類の歌はしばしば出たが、この歌はその中でも際やかなもので、「天地に少し至らぬ大夫」と自身をいい、恋には直接に触れず「雄心もなき」という一語で暗示するにとどめている。しかしこの歌には、語の大きさに匹敵するだけの調べの強さがない。流麗に詠んでいるという程度のもので、内蔵する響がないのである。これは作因の関係からで、語を大きくすることがその際の慰めであったからであろう。心やりのための独詠で、作者としては目的を果たしていようが、独立した一首の歌としては問題となることである。
2876 里《さと》近《ちか》く 家《いへ》や居《を》るべき この吾《わ》が目《め》 人目《ひとめ》をしつつ 恋《こひ》の繁《しげ》げく
里近 家哉應居 此吾目 人目乎爲乍 戀繁口
【語釈】 ○里近く家や居るべき 「里」は、下の続きで、妹の住む里。「家や居るべき」は、「家居る」は住まいする意の古語で、やや後まで行なわれた語。「や」は、反語。住むべきであろうか、無い。○人目をしつつ 「人目をす」という続きは、ほかに用例のないものであるところから問題とされ、『考』『略解』は誤写説を立てている。人目を忍ぶという語から推すと、忍ぶは行動にあらわしつつも、人目に付かないように隠す意で、「人目をす」は、その行動以前の心の、人目に付くことを憚る意と取れる。「しつつ」は、連続。○恋の繁けく 恋の繁きことよ。
【釈】 妹の里近く住まいをするべきであろうか、すべきではない。この自分の目が、人目を憚りつづけて、恋の繁きことであるよ。
【評】 細かい心理を扱った歌である。「この吾が目人目をしつつ」が一首の中心であるが、これは自分の目が、絶えず他人の目を追って、それと悟られはしないかと、いわゆる目顔を読んでいることである。一首前の「情をぞ使に遣りし」と同じく、自身の心理を見直して新しい言い方をしたものである。奈良朝初期の新しい傾向の一つといえよう。一首としては、その心づかいに捉えられて、恋が募るところから、離れた地で過ごしたいというのである。そこにも心理の新しさがある。
2877 何時《いつ》はなも 恋《こ》ひずありとは あらねども うたてこの頃《ごろ》 恋《こひ》し繁《しげ》しも
何時奈毛 不戀有登者 雖不有 得田直比來 戀之繁母
(288)【語釈】 ○何時はなも 「なも」は、強意の助詞で、係助詞。「なむ」の原形である。宣命に用例の多いものであるが、集中ここにあるのみの詞で、普通は「何時はしも」とあるところである。詠歎をあらわすもの。○うたてこの頃 「うたて」は、進んで甚しくの意の副詞。
【釈】 いつといって恋いずにいる時とてはないけれども、甚しくもこの頃は恋の繁きことであるよ。
【評】 夫婦間の歌で、妻より夫に贈ったものである。初句より三句までは慣用句で、「何時はしも」を「何時はなも」と変えているだけである。宣命に多いところから見て、この語のほうが口語に近かったのであろう。「この頃」は、春とか秋とかいうような、心さびしさを誘われる時であったろう。
2878 ぬばたまの 宿《ね》てし晩《ゆふべ》の 物念《ものおも》ひに 割《さ》けにし胸《むね》は 息《や》む時《とき》もなし
黒玉之 宿而之晩乃 物念尓 割西※[匈/月]者 息時裳無
【語釈】 ○ぬばたまの宿てし晩の 「ぬばたまの」は、晩の枕詞。「宿てし晩の」は、共寝をした昨夜の。○物念ひに 「物念ひ」は、普通嘆きの意に用いられているが、意味の広い語で、ここは強い感動の意である。「に」は、のゆえに。○割けにし胸は息む時もなし 「割けにし胸」は、割けてしまった胸で、感動の強さを、感覚的にいったもの。「息む時もなし」は、休まる時とてもないの意。
【釈】 共寝をした夜のはげしい感動で、割けてしまったわが胸は、休まる時もない。
【評】 女に逢った翌日、男から贈った歌で、いわゆる後朝の歌である。「物念ひに割けにし胸は」は、逢った際の歓びを具象化した語で、新しさを求めてのものではあるが、誇張が大きく、語そのものの興味に終わろうとしているものである。奈良朝初期の、京の知識人を思わせる歌である。
2879 み空《そら》行《ゆ》く 名《な》の惜《を》しけくも 吾《われ》はなし 達《あ》はぬ日《ひ》まねく 年《とし》の経《へ》ぬれば
三空去 名之惜毛 吾者無 不相日數多 年之經者
【語釈】 ○み空行く名の惜しけくも 「み空行く」は、「み」は、接頭語で、名を重んじた時代とて、名は、高く挙げるべきものとして、讃える意で、名に冠した枕詞。「名の惜しけく」は、名の惜しいこと。○逢はぬ日まねく 「まねく」は、多く。
(289)【釈】 大空を行くべき名も、惜しいことはわれはない。妹に逢わない日が多く、年も経たので。
【評】 独詠ともみえるが、妻に贈った歌であろう。大夫をもって任じて、名を重んじる心から、妻の許に通うことを憚り、年を越えるまでの久しい間を逢わずにいたが、さすがに恋情の切なるものを感じ、逢おうかという心を起こした歌である。妻には触れないのは、贈歌だからである。その心持のいかに真実なものであるかは、一首の調べが具象している。初句より三句まで一気に強くその心を披瀝し、四、五句はその説明として、ほとんど同意の句を畳んでいっているところ、少しも他意をまじえぬ純粋なものである。意気をもっていっているが、いささかの衒気もないので、おのずから品位がある。教養のしからしめるものと思える。
2880 現《うつつ》にも 今《いま》も見《み》てしか 夢《いめ》のみに 袂《たもと》纏《ま》き宿《ぬ》と 見《み》るは苦《くる》しも
得管二毛 今毛見壯鹿 夢耳 手本纏宿登 見者辛苦毛
【語釈】 ○現にも今も見てしか 「現に」は、現実にで、下の「夢」に対させたもの。「見てしか」は、逢いたいものだで、「てしか」は、顧望。○袂纏き宿と 妹の手を枕として寝たと。
【釈】 現実に今逢いたいものである。夢ばかりで、その手を枕として寝たと見るのは苦しいことである。
【評】 女に訴えた歌である。心としては類想の多いものであるが、この歌はそれを思わせない切実味をもっている。それは「現にも今も見てしか」が、「夢のみに」と対照されて実感を思わせる上に、一首の調べは重く迫ったもので、その気分を生かしているから、切実味は調べのもっているものである。「妹」ということをいわないのも贈歌のためであるが、かえって感を助けている。
或本の歌の発句に云はく、吾妹子《わぎもこ》を
或本歌發句云、吾妹兒乎
【解】 「発句」は、ここは初句の意で用いている。初句を「吾妹子を」としたのは、本文にそれのないのを足りずとして改めたのであろう。しかしそうすると、「現」と「夢」の対照が失われて、切実味の著しく減ったものとなる。平明のみを求めて感味を思わないものである。
(290)2881 立《た》ちて居《ゐ》て 術《すべ》のたどきも 今《いま》はなし 妹《いも》に逢《あ》はずて 月《つき》の経《へ》ぬれば
立而居 爲便乃田時毛 今者無 妹尓不相而 月之經去者
【語釈】 ○立ちて居て術のたどきも 「立ちて居て」は、立ったり坐ったりして。「術のたどき」は、「術」は、方法、「たどき」は、手段で、同意語を畳んで事を強めたもの。「も」は、さえも。
【釈】 立ったり坐ったりして、おちつけず方法も手段も今は無い。妹に逢わずに月が経たので。
【評】 妹恋しさに心を奪われて、茫然としている嘆きで、女に訴えた歌である。初句より三句までは、「立ちて居てたどきも知らに」という慣用に倣ったものである。四、五句も一首前の句のそれに類似したものであり、慣用に近いものである。しかし調べには、強さに近いものがあって、一般的な心を生かそうとしている。
或本の歌に曰はく、君《きみ》が目《め》見《み》ずて 月《つき》の経《へ》ぬれば
或本歌曰、君之目不見而 月之經去者
【解】 君が姿を見ずに月が経たのでの意で、これは女の歌である。一般的な心なので、男女、いずれにも通じ得られるからである。しかし女の歌とすると、初句より二句までが強すぎて、ふさわしくない。
2882 逢《あ》はずして 恋《こ》ひわたるとも 忘《わす》れめや いや日《ひ》にけには 思《おも》ひ益《ま》すとも
不相而 戀度等母 忘哉 弥日異者 思益等母
【語釈】 ○いや日にけには いよいよ日増しに。
【釈】 逢わなくて、恋い続けていようとも、忘れようか忘れはしない。いよいよ日増しに思いが募って行こうとも。
【評】 疎遠にしている妻から、忘れたのだろうと恨まれた男が、答歌として、それを打消した上に、真実な心をもっていることをいって、慰めた歌である。心細かくいってはいるが、調べが低く、切実味のないのはそのためである。
(291)2883 外目《よそめ》にも 君《きみ》が光儀《すがた》を 見《み》てばこそ 吾《わ》が恋《こひ》やまめ 命《いのち》死《し》なずは
外目毛 君之光儀乎 見而者社 吾戀山目 命不死者
【語釈】 ○外目にも せめてよそ目になりともで、直接には逢えないものとしての願望。○見てばこそ 見たならばこそ。○吾が恋やまめ わが恋はやもうで、「め」は、「こそ」の結。○命死なずは 命が絶えずにいたならばで、恋の心乱れのために、命が危いと思う心を背後に置いていっているもの。
【釈】 せめてよそ目になりとも、君の姿を見ることができたならば、わがこの恋は休まろう。命が絶えずにいたならば。
【評】 夫に遠ざかられた女の、その夫を思慕して、命も保つまいと思う頃の訴えである。「命死なずは」は、心乱れということは、やがて死を連想させることであったので、恋の悩みからその状態に陥っていての心で、今日より見ると感傷にすぎた、飛躍のありすぎる語であるが、当時は自然に感じられたものだったのである。恨みを超えた、心弱さのみの、哀れな訴えである。
一に云ふ、寿《いのち》に向《むか》ふ 吾《わ》が恋《こひ》止《や》まめ
一云、壽向 吾戀止目
【解】 四、五句の別伝である。「寿に向ふ」は、命に匹敵する、すなわち命がけのわが恋は休まろう。これは本文のもつ心弱さが失せ、単なる恨みとなって、全く色合いの異なったものとなっている。別伝という以上の変わり方である。
2884 恋《こ》ひつつも 今日《けふ》はあらめど 玉匣《たまくしげ》 明《あ》けなむ明日《あす》を 如何《いか》に暮《くら》さむ
戀管母 今日者在目杼 玉〓 將開明日 如何將暮
【語釈】 玉匣明けなむ明日を 「玉匣」は、「玉」は、美称で、「匣」は、櫛笥。蓋を開ける意で「明け」の枕詞。明けてゆくだろう明日の日をば。
【釈】 恋いながらも今日は居ようが、明けてゆくだろう明日の日を、どうして暮らそうか。
【評】 女が疎遠にしている夫に訴えた歌で、恋しさに一日一日が過ごしかねる心である。「玉笥」という枕詞が、女というこ(292)とを思わせる。「明けなむ明日を」は、夜の心で、おおらかに 気分をいってはいるが、細かい心が織り込まれている。
2885 さ夜《よ》ふけて 妹《いも》を念《おも》ひ出《で》 しきたへの 枕《まくら》もそよに 嘆《なげ》きつるかも
左夜深而 妹乎念出 布妙之 枕毛衣世二 歎鶴鴨
【語釈】 ○しきたへの枕もそよに 「しきたへの」は、枕の枕詞。「そよに」は、そよそよと音を立てるまでにの意。身悶えをするために立つ音である。
【釈】 夜更けて、妹を思い出し、している枕がそよそよと音を立てるまでに嘆きをしたことである。
【評】 恋の嘆きをいった歌であるが、気分本位の歌で、何ゆえの嘆きであるかは全然いっていない。それでいて気分的には実際に即していて、「さ夜ふけて妹を念ひ出」といっている。これはほかの時には忘れていて、夜ふけて心鎮まったために思い出した意で、特殊な言い方である。「枕もそよに」は、身悶えの具象化であるが、感覚的で清新なものである。要するに気分をとおして実際上の二点を捉え、それによって一つの境を浮かべている、趣深い歌である。気分本位に、気分をとおして実際に即するという傾向を、比較的早い時期において行なっている歌である。
2886 他言《ひとごと》は まこと言痛《こちた》く なりぬとも 彼処《そこ》に障《さは》らむ 吾《われ》にあらなくに
他言者 眞言痛 成友 彼所將障 吾尓不有國
【語釈】 ○他言はまこと言痛く 他人の評判は真に甚しく。○なりぬとも なって行こうとも。「ぬ」は、完了で、意を強めたもの。○彼処に障らむ その点で、妨げられるであろうところので、「む」は、連体形。○吾にあらなくに 我ではないことであるよ。
【釈】 他人の評判は、真に甚だ喧しいものになって行こうとも、それで妨げられる我ではないことよ。
【評】 男が女に、将来を誓う心をもって贈った歌である。女が人の評判の立って来そうなのを懸念し、男がそのために甚しく迷惑し、ひいては自分たちの将来も不安だといって来たのに対して、懇ろに女のいうことを打消したものと取れる。調べも張って、内容にふさわしいものである。一般性をもった歌である。
(293)2887 立《た》ちて居《ゐ》て たどきも知《し》らに 吾《わ》が意《こころ》 天《あま》つ空《そら》なり 土《つち》は践《ふ》めども
立居 田時毛不知 吾意 天津空有 土者践鞆
【語釈】 ○立ちて居てたどきた知らに 立ったり坐ったりして、おちつけず、すべも知られずに。○吾が意天つ空なり 「天つ空」は、空を強めていったもので、わが心は空に浮いている。上の空というにあたる。心が身を遊離している意で、当時としては危険状態だったのである。○土は践めども 土を踏んではいるけれども。
【釈】 立ったり坐ったりして、おちつけず、すべも知られない。わが心は身を離れて空に浮いている。土は踏んでいるけれども。
【評】 初二句は、慣用句で、用例の多いものである。上の(二八八一)と大差がなく、三句以下も、巻十一(二五四一)「心空なり土は踏めども」そのほかにもあり、同じく慣用句である。すなわち流行している慣用句二つをつなぎ合わせて一首としたものである。恋の悩みというごとき一般性をもった心を詠むには、この方法で詠めたのであり、それがまた謡い物には普通のことでもあったのである。ここに採録されている歌の中にはそうした歌が相応に多く、この歌はその一首で、成立の跡の際やかなものである。一首の歌として相応な作である。
2888 世間《よのなか》の 人《ひと》の辞《ことば》と 念《おも》ほすな 真《まこと》ぞ恋《こひ》し 逢《あ》はぬ日《ひ》を多《おほ》み
世間之 人辞常 所念莫 眞曾戀之 不相日乎多美
【語釈】 ○世間の人の辞と 「辞と」は、原文「辞常」とあり、「と」の助詞を添えているので、「辞」は、「ことば」と詠むほかはない。「こと」とのみいっているのに、「ことば」という語も存在したのである。世間一般の人のいうことばとは。○念ほすな 「念ほす」は、念うの敬語。お思いになりますな。○真ぞ恋し 真に恋しいことだで、「し」は、「ぞ」の結である。連体形で結ぶべきを、終止形で結んでいる。○逢はぬ日を多み 逢わない日が多いので。
【釈】 世間一般の人のことばとはお思いなさいますな。真に恋しい。逢わない日が多いので。
【評】 女の、足遠くしている男に、その恋しさを訴えたものである。一首の半ば以上を、「恋し」という語の注に費やしている特殊な歌である。実際に即する歌風は、事柄の実際より気分の実際へと移って行ったが、気分の実際には、例せばこの歌の「恋し」のように、語とすれば常凡極まるものであるから、勢い説明を加えざるを得なかったのである。しかし結果から見る(294)と、この説明がこの歌の味わいとなっているのである。この方法は、集中、ほかにも用いられており、後世にも継承されたものである。
2889 いで如何《いか》に 吾《わ》が幾許《ここだ》恋《こ》ふる 吾妹子《わぎもこ》が 逢《あ》はじと言《い》へる こともあらなくに
乞如何 吾幾許戀流 吾妹子之 不相跡言流 事毛有莫國
【語釈】 ○いで如何に さあ、どうして。「如何に」は、疑問の係。○吾が幾許恋ふる 我は甚しくも恋うるのであるかで、「恋ふる」は、「如何に」の結、連体形。
【釈】 さあ、どうして我は、甚しくも恋うることであろうか。吾妹子が、逢うまいといったこともないことだのに。
【評】 恋の飽くを知らない嘆きをいっている歌はある程度あるが、これはその飽くを知らない心に訝かりの目を向けて、なぜであろうかと知性的に解こうとしているのである。この傾向の歌は上にも二、三あった。こういう傾向が、知識階級の興味になりつつあつたとみえる。奈良朝へ入っての心である。
2890 ぬばたまの 夜《よ》を長《なが》みかも 吾《わ》が背子《せこ》が 夢《いめ》に夢《いめ》にし 見《み》え還《かへ》るらむ
夜干玉之 夜乎長鴨 吾背子之 夢尓夢西 所見還良武
【語釈】 ○ぬばたまの夜を長みかも 「ぬばたまの」は、夜の枕詞。「夜を長みかも」は、夢が長いからであろうか。「かも」は、疑問の係。○夢に夢にし 「夢に」を畳んで、その幾度もということを具体的にあらわしたもの。「し」は、強意の助詞。○見え還るらむ 「見え還る」は、立ち帰って見えるで、幾たびも見える意。「らむ」は、現在推量。
【釈】 ぬばたまの夜が長いせいで、わが夫が、夢に、また夢にと、立ち帰って幾たびも見えるのであろうか。
【評】 秋の一夜、妻が夫の夢を幾たびも見て、どうしてこういうことがあったろうかと訝かり、秋の夜が長いせいであろうかと思った心である。そしてそれ以上へはわたろうとしていないのである。当時の信仰として、夢は、先方がこちらを思うがゆえに見るのだと信じていた。今の場合は、妻が夫を見たのであるから、当然そう思うべきであるが、それには全然触れず、秋(295)の夜永のせいであろうとするのは、言いかえると自身の心のせいということであるが、それにさえも触れようとしていないのである。感情を除外した、著しく知性的な心である。この歌は、事情を言外にして、ただその瞬間の気分のみをいった歌で、その背後にあるものは、夫は疎遠にしてこちらを思わず、こちらでも夫を思うまいと諦めているのに、潜在している夫恋しい心は、秋の夜永に夢となって現われ、幾たびも繰り返してその夢を見たという、嘆きを包んでの心であろう。それにしても知性的であることには変わりはない。知識階級の歌とみえるが、女の歌としてこのような傾向のものが現われ、それが興味をもたれていたということは注意を引くことである。
2891 あらたまの 年《とし》の緒《を》長《なが》く かく恋《こ》ひば まこと吾《わ》が命《いのち》 全《また》からめやも
荒玉之 年緒長 如此戀者 信吾命 全有目八面
【語釈】 ○あらたまの年の緒長く 「あらたまの」は、年の枕詞。「年の緒」は、「緒」は、年の続く意で添えた語で、年の語感を強めるもの。○まこと吾が命全からめやも 「全からめやも」は、「全し」は、仮名書きのある語。安全でいる意。「や」は、反語。まことにわが命は安全でいられようか、いられないで、これは悩みのために心乱れると、魂が身を遊離することを危ぶむ意である。
【釈】 あらたまの年長く、このように恋うていたならば、まことにわが命は、安全でいられようか、いられはしない。
【評】 男に疎遠にされている女の訴えである。ひどく物思いをすると、そのために魂が遊離して、死に至るということは、当時のみならず平安朝時代にも信じられていたことで、これもそれである。平坦にいっているのは、一般的の信念で、多くいう要がなかったからで、「まこと」といって強めなければならなかったのも、そのためである。現在には間接な心である。
2892 思《おも》ひ遣《や》る すべのたどきも 吾《われ》はなし 逢《あ》はずて数多《まね》く 月《つき》の経《へ》ぬれば
思遣 爲便乃田時毛 吾者無 不相數多 月之經去者
【語釈】 ○思ひ遣るすべのたどきも 嘆きを無くする方法手段も。上に出た。○逢はずて数多く 「逢はずて」は、逢はないで、女の身辺の事情よりのこと。「数多く」は、多く。
【釈】 嘆きを無くならせる方法手段もわれはない。女に逢わないで、多くの月も経たので。
(296)【評】 上の(二八八一)に酷似している。きわめて一般性の多 いことで、したがって類似の歌が相並んで謡い物とされていたものとみえる。
2893 朝《あした》去《ゆ》きて 夕《ゆふべ》は来《き》ます 君《きみ》ゆゑに ゆゆしくも吾《われ》は 歎《なげ》きつるかも
朝去而 暮者來座 君故尓 忌々久毛吾者 歎鶴鴨
【語釈】 ○朝去きて夕は来ます君ゆゑに 朝は帰って行って、夕べには来たもう君なのに。「来ます」は、来るの敬語。「君」は、夫。○ゆゆしくも吾は歎きつるかも 忌むべきまでもわれは嘆きをしたことであった。「ゆゆしくも」は嘆きの形容で、甚しい嘆きは不吉なものとして、憚っていたのである。
【釈】 朝は帰って行って、夕べにはいらっしゃる君なのに、忌むべきまでもわれは嘆きをしたことである。
【評】 朝、夫を送り出した後の、妻の心である。別れる時に甚しくも嘆いたことを思い出し、ああいうことをするのは憚るべきことであるのに、つい嘆いてしまったと悔いた心である。「君ゆゑに」までは、自責の心よりいっているものである。甚しい嘆きを忌むことは、すでに多く出ていたことである。
2894 聞《き》きしより 物《もの》を念《おも》へば 我《わ》が胸《むね》は 破《わ》れて摧《くだ》けて 利心《とごころ》もなし
從聞 物乎念者 我※[匈/月]者 破而摧而 鋒心無
【語釈】 ○聞きしより物を念へば 女の噂を聞い時から、あこがれて嘆きをしているので。○我が胸は破れて摧けて 物思いに堪えられなくて、我が胸は破れて摧けてと、物思いの程度を誇張していったもの。○利心もなし しっかりした心もない。
【釈】 噂を聞いた時から物思いをしているので、我が胸は今は割れて摧けて、しっかりした心もない。
【評】 求婚の心をもって男の女に贈ったものである。奈良京の知識人の歌で、身分ある人であり、女もその階級の者であったろう。見ぬ恋にあこがれてのもので、その点、後の平安朝の貴族と異ならない。「我が胸は破れて摧けて」は漢詩の影響を思わせる続け方である。
(297)2895 人言《ひとごと》を 繁《しげ》み言痛《こちた》み 我妹子《わぎもこ》に 去《い》にし月《つき》より いまだ逢《あ》はぬかも
人言乎 繁三言痛三 我妹子二 去月從 未相可母
【語釈】 略す。
【釈】 他人の評判が繁くうるさいので、我妹子に、過ぎた月からまだ逢わないことだなあ。
【評】 「人言を繁み言痛み」は慣用句である。それに「去にし月より」といふ実情を言い添えて一首としたものである。謡い物として当座に作ったごとき歌である。
2896 うたがたも 言《い》ひつつもあるか 吾《われ》ならば 地《つち》には落《お》ちず 空《そら》に消《け》なまし
歌方毛 曰管毛有鹿 吾有者 地庭不落 空消生
【語釈】 ○うたがたも 古来難解な語となっており、諸注まちまちで、定解がない。『代匠記』は、決定せぬ意をあらわす詞で蓋しというと同じに聞こえるといい、その証として『遊仙窟』に、「未必《うたがたも》」と二か所あるのを引いて、「未必」の意だとしている。久松潜一氏は『総釈』で、正安二年書写の『遊仙窟』には、「未必」を「うつたへに」「うつたへにも」と訓んでいるといい、また、『類聚名義抄』にも、「未必」を、「うたがたも」「うつたへに」と二様に訓んでいるといい、「うたがた」と「うつたへ」とは同意語だとしている。『新考』は、「決して、きつと」の意だとしている。それだと、偏《ひとえ》に、一概にの意の副詞である。「うたがたも」は、集中に四か所あるが、この解で意が通じる。これに従う。○言ひつつもあるか 「か」は、感動の助詞で、言いつづけていることであるよと、相手のいっていることを歎息している意。○吾ならば地には落ちず 「地に落つ」は、巻六(一〇一〇)橘諸兄が橘姓を賜わった時、子の奈良麿が、「奥山の真木の葉凌ぎ零る雪の零りは益すとも地に落ちめやも」と詠んでいるのと同じく、雪を譬喩として名の損じることをいったものである。われがもしあなたならば、地には落ちずして。○空に消なまし 空にして消えようで、上を承けて身を雪に譬え、死ぬことを消えるに譬えて、そうなる前に死のうの意。
【釈】 一概に言いつづけていることであるよ。われがもしあなたであるならば、いわれるように地には落ちずに、空で消えよう。
【評】 関係を結んでいる男女間の歌で、女からいって来たことに対して、男が答として贈った歌である。女のいって来たことは、男のこの答で察しられる。二人の関係が周囲の噂に上って、名を損じそうであるといって来たとみえる。それに対して男は、自分の名を損じるということなど問題としない、命を懸けてのことであるといい、あなたもその気でいなさいとの励ましを、(298)言外に置いていっているのである。「地には落ちず」は、女がそのことをいって来た日は雪の日であったところから、眼前の景を捉えて譬喩としたので、男の「空に消なまし」も、それを承けての譬喩である。夫婦間の歌とて、その時の気分を語短くいえば当事者には足りたのであるが、第三者から見ると自然解し難くなって来る。奈良京の身分ある人達の間の歌である。
2897 如何《いか》ならむ 日《ひ》の時《とき》にかも 吾妹子《わぎもこ》が 裳引《もひき》の容儀《すがた》 朝《あさ》にけに見《み》む
何 日之時可毛 吾妹子之 裳引之容儀 朝尓食尓將見
【語釈】 ○如何ならむ日の時にかも いつの日、いつの時にかで、「かも」は、疑問の係。○裳引の容儀 裳の裾を後ろに引いて歩く姿で、その状態を魅力的なものとしていったもの。○朝にけに見む 「朝にけに」は、「朝に時に」で、常にということを具象的にいったもの。これは同棲する意である。
【釈】 いつの日いつの時になったなら、吾妹子の裳の裾を後ろに引いて歩く姿を、絶えず見るであろうか。
【評】 妻との同棲の日を心に思い、その愛すべき姿を眼に描いている歌である。裳の裾を引いて歩く後姿を、女の最も魅力的のものとするのはほかにもあるもので、当時の一般的好尚であったとみえる。
2898 独《ひとり》居《ゐ》て 恋《こ》ふるは苦《くる》し 玉《たま》だすき 懸《か》けず忘《わす》れむ ことはかりもが
獨居而 戀者辛苦 玉手次 不懸將忘 言量欲
【語釈】 ○玉だすき懸けず忘れむ 「玉だすき」は、「玉」は、美称で、襷。意味で「懸け」の枕詞。「懸けず」は、心に懸けずしてで、離れていて心に懸けることをせずに。「忘れむ」は、忘れていられようで、心に懸けずして忘れていられようということは、夫婦間では、同棲によって初めて得られることである。「む」は、連体形で、下へ続く。○ことはかりもが 「ことはかり」は、事計りで、計画。「もが」は、旧訓「せよ」。『代匠記』の訓。願望の助詞。計画をしたい。
【釈】 ひとりで居て、恋うていれば苦しい。心に懸けずに、忘れていられるよう計画をしたい。
【評】 上代の風習として、結婚と同棲とを同時に行なうのは、身分の高い人に限られたことで、普通はある期間別居生活を送った後に、初めて同棲したのである。この歌は、同棲生活を空想している心で、それも妻が気にいって、別居の苦しさに堪え(299)難くなったことが刺激で、むしろその苦しさを避けるためなのである。当時の実際に即した素朴な歌である。
2899 なかなかに 黙然《もだ》もあらましを あづきなく 相見始《あひみそ》めても 吾《われ》は恋《こ》ふるか
中々二 黙然毛有申尾 小豆無 相見始而毛 吾者戀香
【語釈】 ○なかなかに黙然もあらましを かえって、黙っていたほうが好かったろうものを。○あづきなく 詮なくも。○相見始めても吾は恋ふるか 「相見始めても」は、逢い始めて。「恋ふるか」は、「か」は、感動の助詞で、恋うることであるよ。
【釈】 かえって黙っていたほうが好かったものを。詮なくも、逢い始めてわれは恋うることであるよ。
【評】 女と関係をして、恋の苦しさを味わわされて、その事を悔いている心である。当時の結婚は、互いに相手に中心を置いて、自身は第二にしていたので、夫婦関係の価値を疑う心はなく、そうした歌はほとんど見えない。この歌は自身に中心を置いて、こうした嘆きをしているもので、その意味では珍しい歌である。自身の心情を批評的に見る、新傾向の歌である。一時の激語ではなく、思い入っての心であるから問題になるのである。
2900 吾妹子《わぎもこ》が 咲《ゑま》ひ眉引《まよびき》 面影《おもかげ》に かかりてもとな 念《おも》ほゆるかも
吾妹子之 咲眉引 面影 懸而本名 所念可毛
【語釈】 ○咲ひ眉引 「咲ひ」は、「笑む」の継続「笑まふ」の連用形で、名詞形。笑顔。「眉引」は、眉を黛《まゆずみ》で三日月形に描いた引眉。○面影にかかりてもとな念ほゆるかも 「もとな」は、よしなくの意。面影に現われて、よし無く思われることであるよ。
【釈】 吾妹子の笑顔や引眉が面影に現われて、よし無く思われることであるよ。
【評】 昼、妻と離れている間の思慕のやる瀬なさである。気分というよりも、それ以前の感覚的のもので、「咲ひ眉引」が生きている。明るくたのしい、いささかの悩みもない恋の心である。
2901 茜《あかね》さす 日《ひ》の暮《く》れぬれば 術《すべ》を無《な》み 千遍《ちたび》嘆《なげ》きて 恋《こ》ひつつぞ居《を》る
(300) 赤根指 日之暮去者 爲便乎無三 千遁嘆而 戀乍曾居
【語釈】 ○茜さす日の暮れめれば 「茜さす」は、赤色を発するで、形容の意で日にかかる枕詞。○術を無み やる瀬がないので。日が暮れると心さみしく、恋が募って来る意でいっている。
【釈】 日が暮れて行くと、やる瀬がないので、限りなく溜め息をついて、恋いつづけていることだ。
【評】 旅にあって妻に贈った歌かと思われる。一般的な心ではあるが、詠み方が古風で、心を籠めて重くいっているので、感味が重く、個人的の感をもったものとなっている。
2902 吾《わ》が恋《こひ》は 夜昼《よるひる》別《わ》かず 百重《ももへ》なす 情《こころ》し念《も》へば いたもすべ無《な》し
吾戀者 夜晝不別 百重成 情之念者 甚爲便無
【語釈】 ○夜昼別かず 夜昼の差別が付かずにで、「ず」は、連用形。○百重なす情し念へば 「百重なす」は、百重と重なっているごときで、心の働きの多様な意で、心を修飾したもの。「情し」の「し」は、強意の助詞。多様に働く心が思うので。○いたもすべ無し 「いたも」は、いたくもで、甚だ。「すべ無し」は、やる瀬がない。
【釈】 わが恋は、夜昼の差別も付かずに、多様に働く心に思うので、甚だやる瀬がない。
【評】 「吾が恋は」と、自身の恋の状態を説明したもので、これは知的というよりも、むしろ原始的な、素朴な詠み方のものである。古風な歌で、慣用句を用いて重くいっているので、形としては前の歌に似ているが、説明の歌なので感味は少ないものである。この形を踏襲して、初句を「吾が恋は」とした歌は後世にも多い。基本的な形だからであろう。
2903 いとのきて 薄《うす》き眉根《まよね》を いたづらに 掻《か》かしめつつも 逢《あ》はぬ人《ひと》かも
五十殿寸太 薄寸眉根乎 徒 令掻管 不相人可母
【語釈】 ○いとのきて薄き眉根を 「いとのきて」は、甚《いと》除《の》きての意で、取り分けて。巻五(八九二)に「いとのきて短き物を」と出た。「薄き眉根」は、老いて薄くなった眉。○いたづらに掻かしめつつも 甲斐なく掻かせつつで、眉のかゆいのは人に逢える前兆だとする意でいい、その前(301)兆の験《しるし》のないことをいったもの。○逢はぬ人かも 「人」は、それと期する人を指したもの。「かも」は、詠嘆。
【釈】 取り分け薄くなっているわが眉を、甲斐なく掻かせながらも、逢わない人であるよ。
【評】 やや年をした女の、その夫である男に訴えたものである。「いとのきて薄き眉根」というのは、老ということを具象的にいったものであるが、これは誇張をもってのものと取れる。上代より中世にかけては早婚であったが、やや年をした女は、その関係から早くより老をいったもので、ここもそれである。したがってこの言い方は、卑下であるとともに恨みでもあったのである。「いたづらに掻かしめつつも」も、事実ではなく、設けての訴えとも取れるものである。多分はそれであって、一首、疎遠にしている夫に訴える心より詠んだものと思われる。
2904 恋《こ》ひ恋《こ》ひて 後《のち》も逢《あ》はむと 慰《なぐさ》もる 心《こころ》しなくは 生《い》きてあらめやも
戀々而 後裳將相常 名草漏 心四無者 五十寸手有目八面
【語釈】 ○後も逢はむと 「も」は、感動の助詞で、後には逢おうと。○慰もる 自動詞で、みずから慰める。○生きてあらめやも 「や」は、反語。
【釈】 恋い恋うて、後には逢おうとみずから慰める心がなかったならば、我は生きて居られようか、居られはしない。
【評】 片恋を続けている男の、自身を慰めている歌である。説明的な詠み方である。感味の乏しいのは、そのために感動が伴いかねたからである。一般的な心で、平明なところは、謡い物かと思わせる。
2905 幾《いく》ばくも 生《い》けらじ命《いのち》を 恋《こ》ひつつぞ 吾《われ》は気衝《いきづ》く 人《ひと》に知《し》らえず
幾 不生有命乎 戀管曾 吾者氣衝 人尓不所知
【語釈】 ○幾ばくも生けらじ命を どれほども生きてはいなかろう命であるものを。○吾は気衝く われは溜め息をつくことである。「衝く」は、「ぞ」の結。○人に知らえず 相手に知られずに。
【釈】 どれほども生きてはいなかろう命であるものを。恋いつづけて、我は溜め息をついていることであるよ。相手の人には知(302)られずに。
【評】 相手に言い出さずに、片恋を続けている男の嘆きである。生命の短さに思い及ぼしているのは、恋の悩みから心が緊張させられているためでもあるが、現実を重んじる上代の心が主となっているものである。語としては仏教の影響である。知識階級の歌ではあるが、謡い物風のものである。
2906 他国《ひとぐに》に 結婚《よばひ》に行《ゆ》きて 大刀《たち》が緒《を》も 未《いま》だ解《と》かねば さ夜《よ》ぞ明《あ》けにける
他國尓 結婚尓行而 大刀之緒毛 未解者 左夜曾明家流
【語釈】 ○他国に結婚に行きて 「他国」は、他人の国であるが、上代の国は狭い範囲の称であって、ここでは自分の郷土よりやや離れた、やや広い土地の称。「結婚」は、求婚する意で、男が求婚の意で女を呼ぶ、その「呼ぶ」の継続、反復の「呼ばふ」が名詞となったものである。○大刀が緒も未だ解かねば 「大刀が緒」は、上代の大刀は緒をもって腰に吊っており、家に入るとまずその緒を解いたのである。「未だ解かねば」は、まだ解かないのにで、家へ入るとすぐに。打寛ぐために第一にすることもせぬにの意。○さ夜ぞ明けにける 「さ」は、接頭語。「ける」は、「ぞ」の結で、詠嘆してのもの。
【釈】 他国へ求婚に行って、大刀の緒もまだ解かないのに、夜が明けたことであるよ。
【評】 この歌は、古事記、神代の巻の、八千矛神が越の国の沼河比売をよばいに行かれた歌の、最初の歌の、冒頭を要約したものとみえる。八千矛神の歌物語は、弘く世間に拡がっていたものとみえ、その影響のみえる歌が、山上憶良の長歌、そのほかにもあって、人々の興味を引いていたものにみえる。この歌は明らかに謡い物で、これを謡うことによってその長歌を連想させたものとみえる。その意味では後世の本歌取の歌と心を同じゅうするものである。
2907 大夫《ますらを》の 聡《さと》き心《こころ》も 今《いま》は無《な》し 恋《こひ》の奴《やつこ》に 吾《われ》は死《し》ぬべし
大夫之 聰神毛 今者無 戀之奴尓 吾者可死
【語釈】 ○大夫の聡き心も 「聡き」は、聡明と熟する語で、理知分別のある意。「聡き心」は、大夫の一面を成すものである。○恋の奴に 「恋の奴」の「奴」は、奴隷であって、上代は物品と同じく売買された者であり、人の中の最も賤しまれた者である。「恋の奴」は、恋という奴の意(303)で、恋を賤しめて擬人したもの。巻十六(三八一六)「恋の奴の掴みかかりて」とあり、その賤しめていることは同一である。「に」は、のためにの意。○吾は死ぬべし 「死ぬべし」は、死ぬのであろうと、強く推量したもの。
【釈】 大夫たる者のもつ理知分別の心も、今は無くなっている。恋という賤しい奴のために、われは死ぬのであろう。
【評】 恋の悩みのために昏迷させられたようになっている男が、大夫をもって自任していた平常の心に立ち帰り、その状態を嘆いている心である。「恋の奴」という語は、奴隷を眼前に見ている時代にあっては、恋というものを賤しめ罵ろうとする心にはきわめて適切なものであったろう。あるべくもない、心外なこととする矛盾感が、この譬喩によって生かされている。
2908 常《つね》かくし 恋《こ》ふるは苦《くる》し 暫《しま》しくも 心《こころ》安《やす》めむ 事計《ことはかり》せよ
常如是 戀者辛苦 ※[斬/足]毛 心安目六 事計爲与
【語釈】 ○心安めむ事計せよ 「心安めむ」はわが心の安まるであろうで、「苦し」の反対。「事計せよ」は、計画をせよで、命令。
【釈】 いつもこのようにばかり恋うているのは苦しい。しばらくの間でも、心の安まるであろう計画をせよ。
【評】 男の、関係している女に贈ったものである。「かくし恋ふるは」というのは、二人の関係が女の親にも秘密になっていて、自由に逢えないからのことで、「暫しくも」は、その反対に、せめて親の承認を得たい心である。上の(二八九八)「独居て恋ふるは苦し」と著しく形も語も似ているが、そちらは同棲を計画したいとの心で、内容は全く違う。この歌はそれに倣って、異なる場合をいったものである。一般性をもった心で、謡い物であったろう。
2909 凡《おほ》ろかに 吾《われ》し念《おも》はば 人妻《ひとづま》に ありといふ妹《いも》に 恋《こ》ひつつあらめや
凡尓 吾之念者 人妻尓 有云妹尓 戀管有米也
【語釈】 ○凡ろかに 並み大抵に。
【釈】 並み大抵にわが思うのであったら、人妻だという妹に、恋いつづけていようか、いはしない。
(304)【評】 男の、人妻である女に対しての訴えである。夫婦別居して、しかもその関係を秘密にしていた時代とて、この類のことは少なくなかったようである。「人妻にありといふ」は、女が拒絶の心から男に打明けたのであろう。歌はその事に合わせては一とおりのもので、痛切味のないものである。当時にあっては格別のことではなかったとみえる。
2910 心《こころ》には 千重《ちへ》に百重《ももへ》に 思《おも》へれど 人目《ひとめ》を多《おほ》み 妹《いも》に逢《あ》はぬかも
心者 千重首重 思有杼 人目乎多見 妹尓不相可母
【語釈】 ○千重に百重に 幾重にもというのを、具象的に、畳んで強めたもの。
【釈】 心では、幾重にも限りなく思っているが、人目が多いので、妹に逢わないことである。
【評】 妹に贈った形の歌であるが、謡い物であったろう。
2911 人目《ひとめ》多《おほ》み 眼《め》こそ忍《しの》べれ 少《すくな》くも 心《こころ》の中《うち》に 吾《わ》が念《も》はなくに
人目多見 眼社忍礼 小毛 心中尓 吾念莫國
【語釈】 ○眼こそ忍べれ 「眼」は、見えの約で、逢うことの意。「忍べれ」は、「忍ぶ」は、集中の用例は上二段活用と四段活用とがあるが、ここは四段活用已然形に完了の助動詞「り」の添ったものとみる。「れ」は、「こそ」の結。○少くも 下に打消を伴う副詞で、これによって、修飾される内容を強くあらわす語法のもの。
【釈】 人目が多いので、逢うことは忍んでいる。少なく心の中に思っているのではないことなのに。
【評】 男の歌で、足遠にしている女の許へ、誤解をしないようにと思って贈った歌である。語続きが強くはっきりしており、調べもさわやかで、思慮ある男を思わせる歌である。
2912 人《ひと》の見《み》て 言咎《こととが》めせぬ 夢《いめ》に吾《われ》 今夜《こよひ》至《いた》らむ 屋戸《やど》閉《さ》すなゆめ
(305) 人見而 事害目不爲 夢尓吾 今夜將至 屋戸閇勿勤
【語釈】 ○人の見て言咎めせぬ 他人が見付けて、誰だと咎め立てをしないところので、下の「夢」の性質をいったもの。忍んで逢う間柄で、咎め立てをされていることを背後に置いてのもの。○屋戸閉すなゆめ 戸を閉ざすな、決してで、夢に入って行けるためのこと。
【釈】 他人が見付けて、咎め立てをしないところの夢になってわれは、今夜そちらへ行こう。屋の戸を閉ざすなよ、決して。
【評】 人目を忍んで逢う関係の男が、女に贈った形の歌で、想像の所産とみえる。『代匠記』は、『遊仙窟』の、「今夜莫v閉v戸、夢裏向2渠辺《きみが》1」より暗示を受けたものではないかといい、諸注がしたがっている。それとしては一応こなしきったものである。しかし最後の感味からいうと、遊離にすぎるものがあって、親しさを感じさせないところがある。とにかく奈良京の知識人の態度の窺われる作である。
2913 いつまでに 生《い》かむ命《いのち》ぞ 凡《おほよそ》は 恋《こ》ひつつあらずは 死《し》ぬる勝《まさ》れり
何時左右二 將生命曾 凡者 戀乍不有者 死上有
【語釈】 ○いつまでに生かむ命ぞ 「いつまでに」の「に」は、音調のためのもの。「生かむ」は、上代は、自動詞四段活用であった。「ぞ」は、指示の助詞。いつまで生きる命であろうぞ。○凡は 旧訓。集中に「おほよそ」の仮名は見えないが、『類聚名義抄』にあるもの。惣じて、大体は。○恋ひつつあらずは死ぬる勝れり 「恋ひつつあらずは」は、恋いつつ生きていずして。「死ぬる」は、旧訓。死ぬことのほうがまさっている。
【釈】 いつまで生きる命であろうぞ。惣じて、恋をつづけて生きていずして、死ぬことのほうがまさっている。
【評】 片恋の苦しさの永続から、死を思うという歌は相応に多くあって、これもそれであるが、この歌は趣の異なったものがある。多くの歌は、恋の悩みに圧しられた余り、感傷に陥って、気分としていっているのであるが、同じく感傷ではあるが、知性が加わって来て、生命そのものの価値を疑おうとするところがある。価値とはいっても、享楽を標準としての単純なものであるが、とにかく知性的にそこへ至っているのである。この知性の加わっているところが特色である。奈良京の知識人の心とみえる。一首の調べに、漢詩の調子の加わっていることも、奈良京を思わせる。
2914 愛《うつく》しと 念《おも》ふ吾妹《わぎも》を 夢《いめ》に見《み》て 起《おき》きて探《さぐ》るに 無《な》きがさぶしさ
(306) 愛等 念吾妹乎 夢見而 起而探尓 無之不怜
【語釈】 ○愛しと かわゆいと。○無きがさぶしさ 「さぶし」は、楽しくない意で、つまらないというにあたる。「さ」は、詠嘆してのもの。
【釈】 かわゆいと思う吾妹を夢に見て、起きて手探りにすると、居ないつまらなさよ。
【評】 『代匠記』を初めとして、『遊仙窟』の、「少時坐睡、則夢見2十娘1、驚覚攪v之、忽然空v手」に拠ったものであることをいっている。抒情の形にはなっているが、距離をもっての叙事で、事柄のみ際立っている歌である。翻案した歌と思われる。上の(二九二一)「人の見て」の歌とともに、大伴家持に踏襲されている〔巻四(七四一)(七四四)〕。魅力ある歌だったとみえる。
2915 妹《いも》といふは 無礼《なめ》し恐《かしこ》し しかすがに 懸《か》けまく欲《ほ》しき 言《こと》にあるかも
妹登曰者 無礼恐 然爲蟹 縣卷欲 言尓有鴨
【語釈】 ○妹といふは無礼し恐し 妹と呼ぶことは、無礼であり恐れ多い。○しかすがに しかしながら。○懸けまく欲しき言にあるかも 口に懸けて呼びたいと思う言葉であるよ。
【釈】 妹と呼ぶことは、失礼でありもったいない。しかしながら、口に懸けて呼びたい言葉であるよ。
【評】 身分の低い男が、その高い女に対して、求婚の心を示したものである。上代は身分の区別が厳重であったが、それは高貴の族と、賤しい極みの賤民に対してで、中間の者は、貧富と賢愚の関係から、相応に緩められていた。今の場合もその中間の範囲でのことで、甚しき差のある間ではなかったろうと思われる。したがってこの歌は、初めて求婚の意を示した際の儀礼の加わっているものであろう。その意味で実際に即した歌だったろうと思われる。求婚の歌としては異色のあるものである。
2916 玉勝間《たまかつま》 逢《あ》はむと云《い》ふは 誰《たれ》なるか 逢《あ》へる時《とき》さへ 面隠《おもがく》しする
玉勝間 相登云者 誰有香 相有時左倍 面隱爲
【語釈】 ○玉勝間逢はむと云ふは 「玉勝間」は、「玉」は美称。「勝間」は、「かたま」「かたみ」ともいい、籠の古名。その身と蓋と合う意から、(307)「あふ」にかかる枕詞。「逢はむと云ふは」は、我に逢おうというのは。○誰なるか 誰なのであろうかで、誰でもなく相手の人であるのを、戯れの心からわざと疑いの形にしていっているもの。「か」は、疑問の係。○逢へる時さへ面隠しする 逢っている時でさえも、逢うまいとするように面を隠していることであるよで、「する」は、「か」の結。
【釈】 我に逢おうというのは、誰であろうか。逢っている時でさえも、顔を隠していることであるよ。
【評】 夫である男が、相対している妻に戯れにいった語である。妻が年が若く、妻となつての日も浅いところから、夫に羞じらって顔を隠しているのを、夫は可憐に感じてからかったのである。明るくたのしい歌である。上流の教義ある階級から生まれた歌である。
2917 現《うつつ》にか 妹《いも》が来《き》ませる 夢《いめ》にかも 吾《われ》か惑《まと》へる 恋《こひ》の繁《しげ》きに
寤香 妹之來座有 夢可毛 吾香惑流 戀之繁尓
【語釈】 ○現にか妹が来ませる 現実に妹が来られたのであろうか。「か」は、疑問の係。「来ませる」は、来るの敬語。「現」は、下の「夢」に対させたもの。○夢にかも吾か惑へる 夢にわれが惑ってそのように思うのであろうか。「かも」は、疑問の係で、「吾か」の「か」も、同様である。疑問が二つ重なっている形で、破格である。「吾は」であるのが普通である。○恋の繁きに 恋が繁くあるので。
【釈】 現実に妹が来られたのであろうか。夢でわれが惑っているのであろうか。恋が繁くあるので。
【評】 夢に妹と逢ったと見て、覚めた瞬間の半信半疑の心をいったものである。事実のような気もし、夢のようにも思い、結局は恋の繁さに帰した心である。自身の感情を対象として、それに知性の眼を向けて物をいっているもので、少数ながら上に出た、新しい傾向のものである。
2918 大方《おほかた》は 何《なに》かも恋《こ》ひむ 言挙《ことあげ》せず 妹《いも》に寄《よ》り宿《ね》む 年《とし》は近《ちか》きを
大方者 何時將戀 言擧不爲 妹尓依宿牟 年者近綬
【語釈】 ○大方は何かも恋ひむ 大体としては、何の恋うることがあろうかで、「かも」は、疑問の係。○言挙せず 「言挙」は、思うことを言い立てることで、「せず」は、せずしてで、「ず」は、連用形。○妹に寄り宿む年は近きを 妹に添って寝るだろう年は近いのに。
(308)【釈】 大体としては何を恋うることがあろうか。言い立てをせずに、妹に添って寝るであろう年は近いことであるのに。
【評】 妹と共寝をする年の近づいて来たことを喜んだ心のもので、喜びをいっているだけで、その事情はいわず、「年は近きを」と触れているのみである。地方官として地方の国庁に、一定の任期を務めている人の、京に置いてある妻を思っての歌とすれば最も自然である。これだけの触れ方で心が通じるとしているところから見ると、そうした歌であろう。こうした喜びを自身歌にしているのは珍しい。
2919 二人《ふたり》して 結《むす》びし紐《ひも》を 一人《ひとり》して 吾《われ》は解《と》き見《み》じ 直《ただ》に逢《あ》ふまでは
二爲而 結之紐乎 一爲而 吾者解不見 直相及者
【語釈】 ○二人して結びし紐を 二人で結んだ紐を。男女逢って別れる時には、互いに衣の下紐を結んでやり合うのが風習で、そのことはしばしば出た。○一人して吾は解き見じ一人ではわれは解くまい。「見じ」は、「せじ」の意。下紐を解くのは、女と関係する意である。○直に逢ふまでは 直接に妻に逢うまでは。
【釈】 妻と二人で結んだ下紐を、一人ではわれは解いても見まい。直接に妻に逢うまでは。
【評】 旅にある夫の、妻に贈った歌である。下紐は、夫婦別れる時に結びかわし、逢った時に解きかわすことが風習になっており、それには信仰も伴っていたこととみえるので、ここにいっていることは、妻に誠実を告げる上では、当時では最も適切なものだったのである。単純な、いや味のない歌である。
2920 死《し》なむ命《いのち》 ここは念《おも》はず ただにしも 妹《いも》に逢《あ》はざる ことをしぞ念《おも》ふ
終命 此者不念 唯毛 妹尓不相 言乎之曾念
【語釈】 ○死なむ命ここは念はず 「死なむ命」は、死ぬべき命で、生命の本質をいっているもの。「ここは」は、そのことは思わない。○ただにしも 旧訓「ただしくも」。『考』は、「ただにしも」と訓んだが、『新考』は旧訓を支持し、上代は「唯」の意で「唯しく」という語が存在したとしており、『総釈』もその可能をいっている。『考』の訓に従う。「しも」は、強意の助詞。
【釈】 死ぬべき命、そのことは思わない。ただただ、妹に逢わないことだけを思っている。
(309)【評】 妹に逢えないことだけが心を占めていて、ほかは何事も
問題とならないというのである。「死なむ命ここは念はず」は、その何事も思わないことを具象するためのもので、知的な捉え方であり、ことに言い方は珍しいものである。仏典の語つづきに影響されているかにみえる。知識階級の歌である。
2921 幼婦《をとめご》は 同《おな》じ情《こころ》に 須臾《しましく》も 止《や》む時《とき》もなく 見《み》なむとぞ念《おも》ふ
幼婦者 同情 須臾 止時毛無久 將見等曾念
【語釈】 ○幼婦は 旧訓。○同じ情に 同じ心で。下の続きから見ると、その保護者と同じ心をもっての意。○須臾も止む時もなく しばらくの間も、間断なくで、語を畳んで、強くいったもの。○見なむとぞ念ふ 世話をしようと思うことである。
【釈】 幼婦は、あなたと同じ心で、しばらくの間も、間断なくも、世話をしようと思うことである。
【評】 これは夫である男が、その事で、幼い女の子をもっている女に贈った歌である。作意は、同棲して、その子を同じ心で世話をしようというのである。大体、秘密にしてある夫婦関係も、子を設けると披露したとみえるから、子がある程度生長した時には、同棲ということが当然問題になって来たことと思われる。この歌はその意のものと見ると、自然なものとなる。特殊な歌であるが、相聞の範囲のものである。
2922 夕去《ゆふさ》らば 君《きみ》に逢《あ》はむと 念《おも》へこそ 日《ひ》の晩《く》るらくも うれしかりけれ
夕去者 於君將相跡 念許増 日之晩毛 〓有家礼
【語釈】 略す。
【釈】 夜になったら、君に逢えようと思ったので、日の暮れるのもうれしいことであった。
【評】 この夜来ようと案内してあった夫が、案内どおりに来た時に、妻が喜んで迎えた挨拶の歌である。明るい気分が流れている。
(310)2923 直《ただ》今日《けふ》も 君《きみ》には逢《あ》はめど 人言《ひとごと》を 繁《しげ》み逢《あ》はずて 恋《こ》ひわたるかも
直今日毛 君尓波相目跡 人言乎 繋不相而 戀度鴨
【語釈】 ○直今日も君には逢はめど すぐに今日でも、君に逢おうと思うのだが。○人言を繁み逢はずて 人の口がうるさいので逢わずに。○恋ひわたるかも 恋い続けていることであるよ。
【釈】 すぐに今日でも、君に逢おうと思うのだが、人の口がうるさいので逢わずに恋いつづけていることであるよ。
【評】 女が男に、答歌として贈ったものであるが、いつになったら逢えるかといって来たのに対して、すぐにも逢いたいのだがと、違えない事情を訴えたのである。実用の歌で、その意味では心を尽くし得ているものである。実用にすぎる歌である。
2924 世《よ》のなかに 恋《こひ》繁《しげ》けむと 念《おも》はねば 君《きみ》が手本《たもと》を 枕《ま》かぬ夜《よ》もありき
世間尓 戀將繁跡 不念老 君之手本乎 不枕夜毛有寸
【語釈】 ○世のなかに この世の中にで、わが生涯にわたっての意。わが身にということを、広く大きく言いかえたもの。○君が手本を枕かぬ夜もありき 妹と共寝をしない夜もあったというのを、妹を「君」と敬称にし、「ありき」と過去にしているのは、妹が故人となったからのことである。
【釈】 この世の中に、恋が繁かろうと思わないので、君が手枕をしない夜もあった。
【評】 男が、故人となった妻を思慕する歌である。故人になると、生前には思わなかったまでに恋が募り、いつでも逢えると思う心から疎遠にしたこともあったのが、悔いとなるというのは、共通の人情である。この歌は、死ということには直接触れていないが、「世のなかに」「君」「夜もありき」などの語は、明らかに故人を対象としてのものである。巻十一(二五四七)「かくばかり恋ひむものぞと念はねば妹が枚を纏かぬ夜もありき」と、酷似した歌である。その歌より、時代的にやや後の知識人が、何らかの自身も同じ感想を抱かせられて、改作したものかもしれぬ。価値はとにかく、一首を気分的にし、語をある程度新しくしている。
2925 緑児《みどりこ》の 為《ため》こそ乳母《おも》は 求《もと》むと云《い》へ 乳飲《ちの》めや君《きみ》が 乳母《おも》求《もと》むらむ
(311) 緑兒之 爲社乳母者 求云 乳飲哉君之 於毛求覽
【語釈】 ○乳母は求むと云へ 「乳母」は、下に「おも」とあるによっての訓。「おも」は、母の称で、「乳母」は、「ちおも」と呼んでいたことが、日本書紀、『倭名類聚抄』にあるが、転じて「乳母」を「おも」と呼ぶようになったのである。「云へ」は、「こそ」の結で、「云へれ」とあるべきであるが、この言い方が慣用となっている。
【釈】 赤児のためにこそは乳母を求めるという。君は乳を飲むので、乳母を求めるのであろうか。
【評】 女が男から求婚をされた時、断わりの心をもって贈った答歌である。女は自分は年をして来て、妻にはふさわしくないと思い、卑下の心より断わっているのであるが、それを婉曲にするために、乳母にというのであるかと反問する形にしているのである。歌としては、口頭語のような気やすさをもっているが、おのずから哀愁がある。実用の歌としては、その場合にかなった、要を得たものである。連作として今一首続いている。
2926 悔《くや》しくも 老《お》いにけるかも 我《わ》が背子《せこ》が 求《もと》むる乳母《おも》に 行《ゆ》かましものを
悔毛 老尓來鴨 我背子之 求流乳母尓 行益物乎
【語釈】 ○行かましものを もし若かったならばという、省いてある仮説の帰結として、行こうものをと、嘆きをもっていったもの。
【釈】 悔しくも老いてしまったことであるよ。もし若かったならば、わが背子が求める乳母に行こうものを。
【評】 上の歌だけでは心足らずとして、その背後にあるものを直截に披瀝したものである。実用の歌であるから当然のことである。明らさまな嘆きと訴えである。
2927 うらぶれて 離《か》れにし袖《そで》を また纏《ま》かば 過《す》ぎにし恋《こひ》い 乱《みだ》れ来《こ》むかも
浦觸而 可例西袖〓 又卷者 過西戀以 乱今可聞
【語釈】 ○うらぶれて離れにし袖を 「うらぶれて」は、悲しみにしおれて。「離れにし袖を」は、別れてしまった人の袖をで、袖は手枕の意のもの。○また纏かば また枕としたならば。○過ぎにし恋い 過ぎ去った恋がで、「い」は、接尾語。○乱れ来むかも 乱れてわが身に立ち帰って(312)来ようかで、「かも」は、疑問。
【釈】 悲しみにしおれて離れてしまったその人の袖を、また枕としたならば、過ぎ去ってしまった恋が、乱れて立ち帰って来るであろうか。
【評】 男に疎遠にされ、恋の悩みに堪えられなくて別れた女が、その記憶がようやくうすれて来た頃、以前の男から縒りを戻して再び関係を結ぼうといわれて、思い悩んでいる心である。女としては、その男を思う心がないではないが、以前のことに懲りている心のほうが一段と強く、忘れかかったことを思い出して、思い悩んでいるのである。「うらぶれて離れにし袖」「乱れ来むかも」は、いずれも以前の恋の悩ましさである。ことに「乱れ来む」は心乱れのするまでの恋であったことの思い出で、心乱れは当時は死を意味するものであるから、それの再び来ることを惧れる心は深刻なものである。一首、気分の表現で、婉曲で、含蓄のある語が、この気分に深みを帯びさせているのである。気分の歌として、珍しいまで重い歌である。
2928 おのがじし 人死《ひとしに》すらし 妹《いも》に恋《こ》ひ 日《ひ》にけに痩《や》せぬ 人《ひと》に知《し》らえず
各寺師 人死爲良思 妹尓戀 日異羸沼 人丹不所知
【語釈】 ○おのがじし人死すらし 「おのがじし」は、集中他に用例の見えない語である。各々、銘々。「死《しに》す」は、死をするで、死すと同じ。○日にけに痩せぬ 日増しに痩せた。○人に知らえず 相手の人に知られずして。
【釈】 各々人は死ぬであろう。我は妹を恋うて日増しに痩せた。相手に知られずに。
【評】 相手に打明けない片恋の悩みに、衰えて死にそうな気がすると嘆いた心で、男の歌である。「おのがじし人死すらし」は、自身の死にそうな気分を、広く人間共通の運命につなぎ、諦めの心を暗示しているものである。ほかは慣用句を集めたものであるが、この二句の言い方には新味があり、この歌の眼目である。
2929 夕夕《よひよひ》に 吾《わ》が立《た》ち待《ま》つに 若《けだ》しくも 君《きみ》来《き》まさずは 苦《くる》しかるべし
夕々 吾立待尓 若雲 君不來益者 應辛苦
【語釈】 ○夕夕に吾が立ち待つに 「夕夕に」は、旧訓。「立ち待つに」は、門に立って待つに。○苦しくも もしも。用例の多い語である。
(313)【釈】 夕べごとにわれは門に立って待っているのに、もしも君がいらっしゃらなかったら、苦しいことであろう。
【評】 類想の多い歌である。幾夜を徒らに立って待ち、今もそれをしつつ、「苦しかるべし」というだけで、恨みに触れてゆかないところに特色がある。庶民階級の歌であるが、女の心弱くなって来ていることが思われる。
2930 生《い》ける代《よ》に 恋《こひ》といふ物《もの》を 相見《あひみ》ねば 恋《こひ》の中《うち》にも 吾《われ》ぞ苦《くる》しき
生代尓 戀云物乎 相不見者 戀中尓毛 吾曾苦寸
【語釈】 ○生ける代に恋といふ物を相見ねば 「生ける代に」は、わが生きてある代にで、生まれてこの方という意を強めていったもの。「恋といふ物」は、恋を観念的に捉え、それに憧れの心を寄せていっているもの。「相見ねば」は、「相」は、軽く添えた語で、「見ねば」は、知らないので。○恋の中にも吾ぞ苦しき 「恋の中にも」は、恋といわれている物の中でも。「吾ぞ苦しき」は、われが抱いている恋は苦しいものであるよで、「苦しき」は、「ぞ」の結。連体形で、詠嘆したもの。
【釈】 生まれてからこれまで、恋という物を知らないので、恋という物の中でも、我が抱いている恋は苦しいものである。
【評】 若くして妻となった女が、その夫に訴えた歌である。早婚時代のこととて、人妻となって初めて恋の目覚めをするということは、上流階級にはありうることであったろう。これもそれで、夫によって初めて恋という物を知りはじめ、覚えのないところから、自分のしている恋が世の中で最も苦しいもののような気がするというのである。幼稚ながら、自身の心に知性的な眼を向けようとする、新しい傾向の歌である。
2931 念《おも》ひつつ 坐《を》れば苦《くる》しも ぬばたまの 夜《よる》に至《いた》らば 吾《われ》こそ行《ゆ》かめ
念管 座者苦毛 夜干玉之 夜尓至者 吾社湯龜
【語釈】 ○夜に至らば 夜になったらば。この続きは、ほかに用例のないものである。しかし「霞立つ春に至れば」「露霜の秋に至れば」の用例があるので、ありうる続きだったのである。
【釈】 思いつづけていると苦しいことです。夜になったらば、私のほうから行きましょう。
【評】 夫を待っている女の歌で、毎夜、夫の来るのを待っている苦しさに堪えられなくなり、今日は夜になったら、自分のほ(314)うから出懸けて行こうかというのである。女が男のほうへ行くということは、そのほうが便利な場合にはしたことであるが、これは焦れてのことである。庶民階級の歌で、興味あるものにされていたのだろう。
2932 情《こころ》には 燃《も》えて念《おも》へど うつせみの 人目《ひとめ》を繁《しげ》み 妹《いも》に逢《あ》はぬかも
情庭 燎而念杼 虚蝉之 人目乎繋 妹尓不相鴨
【語釈】 ○情には燃えて念へど 心では燃えるように思うけれども。「燃えて」は、深く思うと胸の熱くなる意で、感覚的にいったもの。○うつせみの人目を繁み 「うつせみの」は、人の枕詞。「繁み」は、多いので。
【釈】 心の中では深く燃えるように思っているけれども、人目が多いので、妹に逢わないことである。
【評】 きわめて一般的なことを、「燃えて」「うつせみの」と、語感を強めた言い方をしたものである。謡い物とみえる。
2933 相念《あひおも》はず 公《きみ》は坐《いま》せど 片恋《かたこひ》に 吾《われ》はぞ恋《こ》ふる 君《きみ》が光儀《すがた》に
不相念 公者雖座 肩戀丹 吾者衣戀 君之光儀
【語釈】 ○相念はず公は坐せど 相思いはせずに君はいらっしゃるが。恨みの心から断定していったもの。○君が光儀に 「に」は、旧訓「を」。読み添えである。『新考』の訓。「恋ふ」には、「に」の助詞の伴うほうが一般の用例だからである。
【釈】 相思いをせずに君はいらっしゃるが、片恋に私は恋していることである。君の御姿に。
【評】 夫に贈った歌である。一首、男の姿に心引かれることの説明である。実際にはありうべくもない歌で、初めから謡い物として作った歌と思われる。
2934 あぢさはふ 目《め》には飽《あ》けども 携《たづさは》り 問《と》はれぬことも 苦《くる》しかりけり
味澤相 目者非不飽 携 不問事毛 苦勞有來
(315)【語釈】 ○あぢさはふ目には飽けども 「あぢさはふ」は、「目」にかかる枕詞ではあるが、語義は定説のないものである。「目には飽けども」は、見る目には飽いているがで、男女近い所かあるいは一つ家に住み、常に顔は見ていることをいったもの。○携り間はれぬことも 「携り」は、手を取って。「問はれぬことも」は、旧訓。言い寄られないことも。○苦しかりけり 「けり」は、詠嘆。
【釈】 目には飽くほどに見ているが、手を取って言い寄られないことも、苦しいことであるよ。
【評】 女の歌である。見馴れて親しみを覚えている男で、憎くもなく思っているが、懸想のさまを見せないのを、心さびしく思う気分である。男女の心の機微に触れている歌である。
2935 あらたまの 年《とし》の緒《を》永《なが》く 何時《いつ》までか 我《わ》が恋《こ》ひ居《を》らむ 寿《いのち》知《し》らずて
璞之 年緒永 何時左右鹿 我戀將居 壽不知而
【語釈】 ○寿知らずて 命のほども知らないで。
【釈】 何年と永く、いつまで我は片恋しているのであろうか。命のほども知らないで。
【評】 男の片恋の嘆きで、類想の多いことを、語を誇張していっているだけの歌である。謡い物とみえる。
2936 今《いま》は吾《わ》は 死《し》なむよ我《わ》が背《せ》 恋《こひ》すれば 一夜一日《ひとよひとひ》も 安《やす》けくもなし
今者吾者 指南与我兄 戀爲者 一夜一日毛 安毛無
【語釈】 略す。
【釈】 今はわれは死ぬであろうよ、わが背。君を恋うので、一夜一日の間も、心が安らかではない。
【評】 上の(二八六九)「今は吾は死なむよ吾妹逢はずして念ひ渡れば安けくもなし」と同形で、いささかを変えたものである。どちらも謡い物だったからであろう。
2937 白《しろ》たへの 袖《そで》折返《をりかへ》し 恋《こ》ふればか 妹《いも》が容儀《すがた》の 夢《いめ》にし見《み》ゆる
(316) 白細布之 袖折反 戀者香 妹之容儀乃 夢二四三湯流
【語釈】 ○白たへの袖折返し 「白たへの」は、袖の枕詞。「袖折返し」は、袖口を折り返して寝ると、思う人を夢に見るという信仰からのことで、既出。○恋ふればか 恋うているからかで、「か」は、疑問の係。
【釈】 白たえの袖口を折り返して、恋うているからか、妹の姿が夢に見えることである。
【評】 「恋ふればか」と、当時明らかな信仰となっていたことに、「か」の疑問を添えていっているのが目につく。人を夢に見るのは、その人がこちらを思っているからだという信仰も一方にはあったので、この歌はそのことも心にあって、そうしたことは頼み難いとして、その心から「か」の疑問を添えたものとみえる。「か」の一助詞が片恋ということをあらわしているのである。
2938 人言《ひとごと》を 繁《しげ》みこちたみ 我《わ》が背子《せこ》を 目《め》には見《み》れども 逢《あ》ふよしもなし
人言乎 繁三毛人髪三 我兄子乎 目者雖見 相因毛無
【語釈】 ○繁みこちたみ 繁くうるさいので。「こちたみ」は、原文「毛人髪三」。『代匠記』は、毛人は蝦夷であり、その髪が深くて、見る目ににうるさいゆえに当てた字だといっている。戯訓である。
【釈】 人の評判が繁くうるさいので、わが背子を、目には見ているけれども、逢う方法がない。
【評】 初二句は慣用句で、一首、部落生活ではきわめて普通なことである。部落の謡い物であったろう。
2939 恋《こひ》といへば 薄《うす》きことなり 然《しか》れども 我《われ》は忘《わす》れじ 恋《こ》ひは死《し》ぬとも
戀云者 薄事有 雖然 我者不忘 戀者死十方
【語釈】 ○恋といへば 訓がさまざまである。西本願寺本の訓で、『新訓』の取っているもの。巻十五(三七四三)「旅といへば言にぞ易き」の用例がある。○薄きことなり 蒔きは厚きに対した語で、軽きと同じ。軽いことである。○我は忘れじ 我は君を忘れまい。
(317)【釈】 恋というと、軽いことである。しかしながら、我は君を忘れまい。恋うて死んでも。
【評】 夫に疎遠にされて、恋の悩みをしている女の、自身の心に見入って、命に対しての恋の位置を掴んだ形の歌で、新傾向の歌である。恋を命に比較しては軽いものと認めながら、そのために命を棄てようと決心した心である。詠み方も知性的に、明晰に、力強くということを期したものである。男の作であろうか。
2940 なかなかに 死《し》なば安《やす》けむ 出《い》づる日《ひ》の 入《い》る別《わき》知《し》らぬ 吾《われ》し苦《くる》しも
中々二 死者安六 出日之 入別不知 吾四九流四毛
【語釈】 ○なかなかに死なば安けむ かえって死んだほうが安らかであろう。○出づる日の入る別知らぬ 東に出る日の、西に入る差別もわからないで、「ぬ」は、連体形。
【釈】 かえって死んだほうが安らかであろう。東に出る日の西に入る差別も知らないわれの苦しいことである。
【評】 片恋の苦しさに、昼夜の差別もわからないというのである。「出づる日の入る別知らぬ」には新しさがあるが、同時に知性的な匂いがあって、悩みの表現にはふさわしくない。
2941 念《おも》ひ遣《や》る たどきも我《われ》は 今《いま》はなし 妹《いも》に逢《あ》はずて 年《とし》の経行《へゆ》けば
念八流 跡状毛我者 今者無 妹二不相而 年之經行者
【語釈】 ○念ひ遣るたどきも我は 嘆きをなくならせる方法も我は。
【釈】 嘆きをなくならせる方法も我は今は無い。妹に逢わずして、年が経て来たので。
【評】 類想の多い歌で、詠み方も一般的なものである。謡い物であったとみえる。
2942 吾《わ》が背子《せこ》に 恋《こ》ふとにしあらし 小児《みどりこ》の 夜哭《よなき》をしつつ 宿《い》ねかてなくは
(318) 吾兄子尓 戀跡二四有四 小兒之 夜哭乎爲乍 宿不勝菅者
【語釈】 ○恋ふとにしあらし 「し」は、強意の助詞。「あらし」は、あるらしで、証を挙げての推量。○小児の夜哭をしつつ 「小児の」は、この夫婦の子で、女の現に養育しているもの。「夜哭」は、現在も用いていて、意も同様。「しつつ」は、しつづけて。○宿ねかてなくは 「かてなく」は巻七(一一二四)に既出、「かてぬ」の名詞形。眠り得ずにいるのは。
【釈】 わが背子が恋しいというのであろう。緑児が夜泣きをしつづけて眠り得ずにいるのは。
【評】 縁児をかかえている妻の、その子の父である夫に贈った歌である。緑児が夜泣きをして眠り得ずにいるのは、きっとあなたを恋しがっているのでしょうというので、足遠にしている夫に、来訪を求めようとしてのものである。婉曲に訴えようとしての思いつきとすれば、甚だ巧みなものである。あるいは緑児の夜泣きは、人を恋しがってのことだというような俗信があってのものかもしれぬ。それとしても巧みだといえる。淡くして心ある歌である。
2943 我《わ》が命《いのち》の 長《なが》く欲《ほ》しけく 偽《いつはり》を 好《よ》くする人《ひと》を 執《とら》ふばかりを
我命之 長欲家口 僞乎 好爲人乎 執許乎
【語釈】 ○我が命の長く欲しけく わが命が長くて欲しいと思うのは。「欲しけく」は、形容詞「欲し」の名詞形。○偽を好くする人を 偽を上手にいう人をで、夫がさも深切らしくいって聞かせたに似ず、足遠にすることを指していったもの。○執ふばかりを 掴まえて放さないようにしたいばかりよで、「を」は、感動の助詞。
【釈】 私の命が長くて欲しいと思うのは、嘘を上手にいう人を掴まえて放さないようにしたいばかりよ。
【評】 結婚して、ある時期を経た女が、その夫に訴えた歌である。求婚時代にはひどく深切のようにいった男が、結婚後はそれほどでなくなったのを、女は男とは反対に次第に情熱が増して来るところから、男のさまを「偽を好くする人」と見、どうかして初めの約束のようにさせようと思い、そのためには長生きをして遂げようと思い込んでいる心である。自由結婚のこととて、これはおそらくあらゆる夫婦に通じての心であったろう。男女間に共通の矛盾で、捉えては言い難いものを、やすらかに捉え、微笑をもっていっているごとき歌で、甚だ才の利いた作である。夫にも反応があったろうと思われる。
(319)2944 人言《ひとごと》を 繁《しげ》みと妹《いも》に 逢《あ》はずして 情《こころ》のうちに 恋《こ》ふるこの頃《ごろ》
人言 繁跡妹 不相 情裏 戀比日
【語釈】 略す。
【釈】 他人の評判がうるさいので、妹に逢わずに、心の中で恋うているこの頃であるよ。
【評】 類想の多い一般的な歌である。巻九(一七六八)は、四、五句が同一である。
2945 玉梓《たまづさ》の 君《きみ》が使《つかひ》を 待《ま》ちし夜《よ》の 名残《なごり》ぞ今《いま》も 宿《い》ねぬ夜《よ》の多《おほ》き
玉梓之 君之使平 待之夜乃 名凝其今毛 不宿夜乃大寸
【語釈】 ○玉梓の 使の枕詞。○君が使を待ちし夜の 男が来訪することを知らせる使を待った夜の。○名残ぞ今も宿ねぬ夜の多き 惰性で、今でも寝ない夜の多いことであるよで、「ぞ」は、係。「多き」は、結。
【釈】 君からの使を待った夜の名残りで、今でも寝ずにいる夜の多いことであるよ。
【評】 巻十一(二五八八)「夕されば公来まさむと待ちし夜の名残ぞ今も寐ねかてにする」が、こうした形と変えられたものにみえる。変えた理由は、本歌の庶民的なものを、貴族的な生活様式に合わせようとしたためと取れる。謡い物の流動は、いずれも理由のあるものと思えるが、多くの場合それが明らかでない。これはその明らかなものである。歌としては本歌のほうが勝さっている。
2946 玉桙《たまほこ》の 道《みち》に行《ゆ》き逢《あ》ひて 外目《よそめ》にも 見《み》ればよき子《こ》を 何時《いつ》とか待《ま》たむ
玉桙之 道尓行相而 外目耳毛 見者吉子乎 何時鹿將待
【語釈】 ○玉桙の 道の枕詞。○外目にも 「外目」は、現在も用いている。無関係で見る意。○何時とか待たむ いつわが物になろうと待つことであろうかで、待ち遠に感じる意。「か」は、疑問の係。
(320)【釈】 道で行き逢って、外目ながら見てもかわゆい女を、いつわが物になるかと待とう。
【評】 明るく、安らかな恋で、部落の庶民生活を思わせる歌である。謡い物として歌われたものであろう。
2947 念《おも》ふにし 余《あま》りにしかば 術《すべ》を無《な》み 吾《われ》は云《い》ひてき 忌《い》むべきものを
念西 餘西鹿齒 爲便乎無美 吾者五十日手寸 應忌鬼尾
【語釈】 ○念ふにし余りにしかば 思うに余ったので。○術を無み吾は云ひてき やる瀬なさに妹の名をいってしまった。○忌むべきものを 憚るべきことであるのに。夫婦互いに相手の名を他人にいってはならないことは、信仰の伴っていたことで、しばしば出た。
【釈】 妹を思うに余ったので、やる瀬なさに、我はその名を人にいってしまった。憚るべきことであるのに。
【評】 これは類想の歌の多いもので、巻十一(二四四一)(二七一九)などと酷似している。謡い物となっていたのである。なお「念ふにし余りにしかば」は、ことに魅力があったと見え、以下三首、それを初二句とした歌がある。
或本の歌に曰はく、門《かど》に出《い》でて 吾《わ》がこい伏《ふ》すを 人《ひと》見《み》けむかも
或本歌曰、門出而 吾反側乎 人見監可毛
【解】 三句以下である。門に出て、わがまろび伏しているのを、人が見たであろうか。これは烈しい悶情をいったもので、別伝ではなく別歌である。
一に云ふ、すべを無《な》み 出《い》でてぞ行《ゆ》きし 家《いへ》のあたり見《み》に
一云、無乏 出行 家當見
【解】 これは上の本とは別の本にあったものと取れる。やる瀬なさに、家を出かけて行ったことである。女の家を見に。これは第三句までは同じで、四、五句が異なっているのである。これも別歌である。別伝とする上では、巻十一(二五五一)に近いものである。
(321) 柿本朝臣人麿歌集に云ふ、にほ鳥《どり》の なづさひ来《こ》しを 人《ひと》見《み》けむかも
柿本朝臣人麿歌集云、尓保鳥之 奈津紫比來乎 人見鴨
【解】 これは、巻十一(二四九二)「念ふにし余りにしかば鳰鳥の足沾《なづさ》ひ来しを人見けむかも」と出ているものである。この歌が「念ふにし余りにしかば」の、源流ではなかったか。
2948 明日《あす》の日《ひ》は その門《かど》行《ゆ》かむ 出《し》でて見《み》よ 恋《こ》ひたる容儀《すがた》 数多《あまた》著《しる》けむ
明日者 其門將去 出所見与 戀有容儀 數知兼
【語釈】 ○その門行かむ あなたの門を通ろう。○恋ひたる容儀 恋をしているわが姿。○数多著けむ 「数多」は、甚だ。「著けむ」は、形容詞「著《しる》し」の未然形「著け」に、助動詞「む」の接したもの。著しかろう。
【釈】 明日の日はあなたの家の門を通ろう。出て見なさい。恋をしている私の姿は、甚だはっきりしていましょう。
【評】 男が、関係を結んでいる女に贈った歌である。女の身辺に妨害が起こって、男は逢えずに悩んでいるおりから、何らかの事情で、明日は女の門の道を通る都合になったので、悩みにやつれているわが姿を見よといってやったのである。心としては逢い難い悩みの訴えであるが、それとしては珍しい歌である。感傷に陥らず、直接の訴えはせず、地歩を占めて、それとなくそのことをしているのである。これは言いかえると、叙事をすることによって、抒情を遂げているものである。奈良京の知識人のおのずからに拓いた境といえる。
2949 うたて異《け》に 心おほほし 事計《ことはかり》 よくせ吾《わ》が背子《せこ》 逢《あ》へる時《とき》だに
得田價異 心欝悒 事計 吉爲吾兄子 相有時谷
【語釈】 ○うたて異に 「うたて」は、甚しくの意の副詞。「異に」は、ことにの意で、同じく副詞。○心おほほし 心がうっとうしい。○事計よくせ吾が育子 「事計」は ここは思案、工夫というにあたる。「よくせ」は、好くせよで、命令形。「吾が背子」は、呼びかけ。○逢へる時だに 逢っている時だけでも。
(322)【釈】 どうにもひどく心がうっとうしい。思案をよくなさいよ、あなた。逢っている時だけでも。
【評】 妻が相対している夫に訴えた愚痴である。夫の来るのを待って心結ぼれて過ごしていた妻が、たまたま夫を待ち得たが、期待していたようではなく、かえって心結ぼれるような気がして、これではやりきれないと思い、何とか好い思案を付けて下さい、せめて逢っている時だけでもと、訴えたのである。結婚後ある期間を過ぎた夫婦には、起こりがちな矛盾である。こうした機微な境を捉えて一首の歌とし、しかもいささかの混乱もないものにしている手腕は、すぐれたものである。上の歌と傾向を同じくしているものであるが、それよりも遥かに進んでいる。
2950 吾妹子《わぎもこ》が 夜戸出《よとで》の光儀《すがた》 見《み》てしより 情《こころ》空《そら》なり 地《つち》は蹈《ふ》めども
吾妹子之 夜戸出乃光儀 見而之從 情空有 地者雖踐
【語釈】 ○吾妹子が夜戸出の光儀 「吾妹子」は、愛称であるが、下の続きで、ただ懸想をしているだけの女である。「夜戸出の光儀」は、夜、外出している姿。○見てしより 見た時からで、「て」の完了で強めたもの。
【釈】 吾妹子の夜、外出している姿を見た時から、わが心は宙に浮んでいる。土は踏んでいるけれども。
【評】 女の夜の外出姿を見て、特に魅力を感じ、心も空に懸想しているというので、四、五句は慣用句である。女の夜目は美しいとは、現在もいうことで、ここもその意味でのものであろう。気分をいっている歌である。
2951 海石榴市《つばいち》の 八十《やそ》の衢《ちまた》に 立《た》ち平《なら》し 結《むす》びし紐《ひも》を 解《と》かまく惜《を》しも
海石榴市之 八十衢尓 立平之 結紐乎 解卷惜毛
【語釈】 ○海石榴市の 奈良県磯城郡大三輪町金屋の中にある地名。「市」は、官設の市場で、そのことは巻二(二〇七)「軽の市」についていった。ここは昔は繁華の地であったらしく、歌垣の行なわれていたことは、日本書紀、武烈紀に出ている。歌垣は男女相集まって、歌を懸け合いで歌い、通婚が伴っているもので、一種の神事であった。このことは諸国の名山でも、春秋に行なわれていたのである。○八十の衢に 「八十の」は、多くの。「衢」は、道の俣で、別れる所の称で、ここは多くの道の一つに合う所の意。衢は神霊を感じる所となっていた。○立ち平し 「立ち」は、接頭語。「平し」は、踏みならしで、ここは歌垣を行なった意。○結びし紐を これは歌垣の習いとして男と結婚をし、別れる時、男が(323)結んだ下紐を。○解かまく惜しも 「解かまく」は、「解かむ」の名詞形で、解くのは、さらにほかの男と婚する意。「惜しも」は、惜しさよ。
【釈】 椿市の、多くの別れ道の一つに落ち合う所を踏みならして歌垣をして、その時婚を通じた男の結んだ下紐を、ほかの人のために解くことの惜しさよ。
【評】 椿市の歌塩に連なった女の、定まった習いとしてその時男と婚し、その男の別れ際に結んだ下紐を、ほかの男のために解こうとして、前の男を思い、そのことを惜しむ心である。その当時にあっては、耳に聞けば同時に感じられるような親しさのあった歌と思われる。語続きがじつに洗煉をきわめていて、婉曲で美しく、事実は背後に隠れて、気分のみが表現されているごとくみえる。謡い物として永く伝わり、おのずから洗煉された結果であろう。特殊な歌である。
2952 吾《わ》が齢《よはひ》し 衰《おとろ》へぬれば 白《しろ》たへの 袖《そで》の狎《な》れにし 君《きみ》をしぞ念《おも》ふ
吾齒之 衰去者 白細布之 袖乃狎尓思 君乎母准其念
【語釈】 ○吾が齢し衰へめれば わが齢が老いて来たので。○白たへの袖の狎れにし 「白たへの袖の」は、自身の衣の袖で、着古して萎えた意で「穢れ」と続け、同音の「狎れ」に転じての序詞。「狎れにし」は、馴れて来たで、 「し」は、連体形。○君をしぞ念ふ 原文「君乎母准其念」。旧訓。『代匠記』は、「准」を衍字として除き「きみをもぞおもふ」。『古義』は「母」を衍字として「きみをしぞもふ」としている。「准」はほかに用例のない字で、訓には問題がある。「君」は、夫で、夫の思われることである。
【釈】 わが齢が老いて来たので、白たえの袖の穢れるというように、馴れ親しんで来た夫の思われることである。
【評】 年老いて来た妻の、年久しく馴れ親しんで来た夫の偏《ひとえ》に思われるというのである。老境に入って新たに拓けて来た心を、しみじみといったものである。落ちついた、品位のある歌である。
2953 君《きみ》に恋《こ》ひ 吾《わ》が哭《な》く涙《》 白妙《なみだしろたへ》の 袖《そで》さへひぢて せむ術《すべ》もなし
戀君 吾哭涕 白妙 袖兼所漬 爲便母奈之
【語釈】 略す。
(324)【釈】 君を恋うてわが泣く涙は、白たえの袖までも濡れとおって、何ともしようもない。
【評】 女の、夫である男に訴えたものである。訴えとしてはきわめて素朴な歌である。
2954 今《いま》よりは 逢《あ》はじとすれや 白妙《しろたへ》の 我《わ》が衣手《ころもで》の 干《ふ》る時《とき》もなき
從今者 不相跡爲也 白妙之 我衣袖之 干時毛奈吉
【語釈】 ○今よりは達はじとすれや 今よりは君が我に逢うまいとしているのであろうか、それではないのにで、「や」は、疑問の係助詞であるが、反語をなすもの。女が、推量としていっているもの。○干る時もなき 「干る」は、当時上二段活用。涙の乾く時もないことである。
【釈】 今よりは君が逢うまいとするのであろうか、それではないのに、わが袖は涙の乾く時もないことである。
【評】 夫に疎遠にされて恋いくらしている妻の、その夫に訴えた歌である。「今よりは逢はじとすれや」は、思い返して我と慰めた言葉であるが、じつは夫に対してひそかにもつている怖れで、それを巧みに言いあらわしたものである。訴えとしては効果的のものである。
2955 夢《いめ》かと 情《こころ》斑《まと》ひぬ 月《つき》数多《まね》く 離《か》れにし君《きみ》が 言《こと》の通《かよ》へば
夢可登 情班 月數多 干西君之 事之通者
【語釈】 ○夢かと情斑ひぬ 「夢かと」は、四音句。夢ではないかと。「情斑ひぬ」は、『古義』の訓。「班」は、「斑」の誤写とし、『字彙』に、「雑色曰v斑」とあるにより、斑雑の意であてた字だというのである。○月数多く 幾月も。○離れにし君が言の通へば 遠ざかっていた君の便りがあったので。
【釈】 夢ではないかと心は惑った。幾月も遠ざかってしまっていた君の便りがあったので。
【評】 「言の通へば」は、使が消息を届けて来たので、歌はその返事である。消息は、来訪しようという案内であったろう。喜びの心をいったものである。
(325)2956 あらたまの 年月《としつき》かねて ぬばたまの 夢《いめ》にぞ見《み》ゆる 君《きみ》が容儀《すがた》は
未玉之 年月兼而 烏玉乃 夢尓所見 君之容儀者
【語釈】 ○あらたまの年月かねて 「あらたまの」は、年の枕詞。「年月かねて」は、年月にわたって。○ぬばたまの夢にぞ見ゆる 「ぬばたまの」は、夜の枕詞の、夜の意になったもの。「夢」は、先方のこちらを思うとしてのもの。
【釈】 年月の長きにわたって、夜の夢に見えることであるよ。君の婆は。
【評】 女の歌である。「年月かねて」は、久しい間という意を力強くいったものである。「夢にぞ見ゆる」は、夫がこちらを思っていると信じての心で、夫は旅にいるものとみえる。一首の落ちついた調べも、そのことを思わせる。
2957 今《いま》よりは 恋《こ》ふとも妹《いも》に 逢《あ》はめやも 床《とこ》の辺《べ》離《さ》らず 夢《いめ》に見《み》えこそ
從今者 雖戀妹尓 將相哉母 床邊不離 夢尓所見乞
【語釈】 ○床の辺離らず夢に見えこそ 「床の辺」は、わが床のほとり。「こそ」は、願望の助詞。我を思えば夢に見える意で、我を思うてくれよの意。
【釈】 今からは、恋おうとも妹に逢えようか、逢えはしない。わが夜の床の辺りを離れず、いつも夢に見えてくれよ。
【評】 男が旅立つ前夜、その妻に訴えたものである。旅といわないのは、相対してのことだからである。「夢に見えこそ」は、我を思うてくれよの心で、全体に心細さを包んだ歌である。
2958 人《ひと》の見《み》て 言《こと》とがめせぬ 夢《いめ》にだに 止《や》まず見《み》えこそ 我《わ》が恋《こひ》息《や》まむ
人見而 言害目不爲 夢谷 不止見与 我戀將息
【語釈】 ○人の見て言とがめせぬ 他人が見付けて、言い各めないところの。○夢にだに止まず見えこそ 夢にだけでも絶えずに見えてくれよ。
(326)【釈】 他人が見付けて、言い咎めない夢にだけでも絶えず見えてくれよ。わが恋は休まろう。
【評】 女の、自身の身辺に妨害が起こり、逢えなくている男に贈ったもので、夢につないで夫の愛情を求め、自身の切情をも訴えたものである。常識的な歌である。
或本の歌の頭に云ふ、人目《ひとめ》多《おほ》み 直《ただ》には逢《あ》はず
或本歌頭云、人目多 直者不相
【解】 「頭」は頭句で、ここは初二句である。人目が多いので、直接には逢えない。本文を説明的にしたものである。謡い物とされていたためとみえる。
2959 現《うつつ》には 言《こと》も絶《た》えたり 夢《いめ》にだに 続《つ》ぎて見《み》えこそ 直《ただ》に逢《あ》ふまでに
現者 言絶有 夢谷 嗣而所見与 直相左右二
【語釈】 ○現には言も絶えたり 現実には、消息も絶えてしまっている。周囲の人目を憚ってのことである。
【釈】 現実には消息を交すことも絶えてしまっている。夢にだけでも、続いて見えてくれよ。直接に逢う時までを。
【評】 上の歌と同じく、女の男に贈った歌で、これは消息を交わす方法もない状態にいる女である。「夢にだに」以下は、上の歌と同じく、男の愛の変わらないことを求め、自分の恋情を訴えた歌で、全く異ならないものである。いささか色合いの濃いという差はある。
2960 うつせみの うつし情《ごころ》も 吾《われ》はなし 妹《いも》を相見《あひみ》ずて 年《とし》の経《へ》ぬれば
虚蝉之 宇都思情毛 吾者無 妹乎不相見而 年之經去者
【語釈】 ○うつせみのうつし情も 「うつせみ」は、現しき身で、現実に生きている身。「うつし情」は、現しき心で、生きている心で、同意に近い語を畳んで、感を強めたもの。
(327)【釈】 生きている身の生きた心もわれは無い。妹を見ずに、年が経たので。
【評】 心としては、妨げが続いていて、妹に逢えずに年を過ごした悩みから、生きている心地もしないという嘆きであるが、調べは明るく暢びやかで、その心にふさわしくもないものである。きわめて一般的な心であるのと、初二句の畳語などから見て、謡い物であったと思われる。
2961 うつせみの 常《つね》の辞《ことば》と 念《おも》へども 続《つ》ぎてし聞《き》けば 心《こころ》惑《まと》ひぬ
虚蝉之 常辞登 雖念 繼而之聞者 心遮焉
【語釈】 ○うつせみの常の辞と 「うつせみの」は、現身ので、世に生きている人ので、世の中のという意でいっているもの。「常の辞」は、平常の辞で、通り一ぺんの辞。○続ぎてし聞けば 続けて幾たびも聞くと。○心惑ひぬ 上の(二九五五)に出た。『新訓』の訓。
【釈】 世の中の通り一ぺんの言葉だとは思うけれども、幾たびも聞くので、心が惑った。
【評】 男の求婚に対して、女の答えた歌と取れる。女の警戒心から、男の真実を危ぶみ、ある期間応じなくていたのであるが、男がそれにもかかわらず繰り返しいうのを聞くと、あるいは真実かと思う心が起こり、それをそのままに告げたのである。独詠に近い形であるが、このようにいってやることが、まだ幾分残っている不安に対して駄目を押すことで、聡明な心よりしていることと取れる。その意味で上手な歌である。
2962 白《しろ》たへの 袖《そで》数《な》めずて宿《ぬ》る ぬばたまの 今夜《こよひ》ははやも 明《あ》けば明《あ》けなむ
白細之 袖不數而宿 烏玉之 今夜者早毛 明者將開
【語釈】 ○袖数めずて宿る 旧訓「そでかへずしてぬる」。「不数而」を、語注問題とし、『代匠記』は巻一(四)「内の大野に馬数而」を例として、今のごとく訓んでいる。『古義』は、「離《か》れて」と訓んでおり、そう訓みうる字とも取れるが、作意からは上の訓のほうが適切に思われる。共寝ではなく独寝をする。
【釈】 白たえの袖を連ねずして寝ている、まっくらな今夜は、早く明けるならば明けてほしい。
(328)【評】 類想の多い歌である。「袖数めずて宿る」は、新味のある言い方である。
2963 白《しろ》たへの 袂《たもと》ゆたけく 人《ひと》の宿《ぬ》る 味宿《うまい》は寐《ね》ずや 恋《こ》ひわたりなむ
白細之 手本寛久 人之宿 味宿者不寐哉 戀將渡
【語釈】 ○白たへの袂ゆたけく 「白たへの袂」は、妹の手枕の意で、「白たへの」は、枕の枕詞であるが、叙述の意のもの。「ゆたけく」は、心ゆったりとしての意で、「宿る」につづく。妹の手枕をゆったりとして。○人の宿る味宿は寐ずや 世の男の眠る、その快い眠りはせずにで、「や」は疑問の係助詞。○恋ひわたりなむ 妹を憧れつづけるのであろうか。
【釈】 妹の手枕をゆったりとして、世の男が眠る、その快い眠りをせずに、我は妹に憧れつづけることであろうか。
【評】 妻が無くて、独寝をのみしている男が、世間の男の妹と共寝をしている快い眠りを想像して、それと自身のさまとを比較して嘆いている心である。「人の宿る昧宿は寐ずや」と、「寐」という語を三回まで重ねていっているのは、重点がそこにあるからである。妹という者に直接に触れず、他人の共寝のさまを羨むことによって暗示しているのは、そう呼ぶべき者がないからである。独身者の夜の床に妹というものを想像して憧れている気分を表現したもので、特色のある歌である。
物に寄せて思を陳ぶ
2964 かくのみに ありける君《きみ》を 衣《きぬ》にあらば 下《した》にも著《き》むと 吾《わ》が念《おも》へりける
如是耳 在家流君乎 衣尓有者 下毛將著跡 吾念有家留
【語釈】 ○かくのみにありける君を これほどまでにばかりあった君であるのにで、真実のなかったことを嘆いたもの。○衣にあらば下にも著むと 君が衣であるならば、わが上衣の下にも着ようと。人の衣を身に着けることは、男女が最上の親愛をあらわすことであった。○吾が念へりける 「ける」は、連体形で、詠嘆してのもの。
【釈】 これほどまでに真実のなかった君なのに、君が衣であったならば、上衣の下に着ようと思っていたことであった。
【評】 背き去った夫に対しての嘆きを、衣に寄せていったものである。例の多いことであったろう。巻十六(三八〇四)「かく(329)のみにありけるものを猪名川の沖を深めてわが念へりける」がある。謡い物となって広く謡われていたとみえる。以下九首、衣に寄せての歌。
2965 橡《つるばみ》の 袷《あはせ》の衣《ころも》 裏《うら》にせば 吾《われ》強《し》ひめやも 君《きみ》が来《き》まさぬ
橡之 袷衣 裏尓爲者 吾將強八方 君之不來座
【語釈】 ○橡の袷の衣 「橡」は、櫟《くぬぎ》の実である団栗の古名で、その笠の煮汁を黒色の染料に用いたところから、染料の名としたもの。服制で、踐者の服色と定められていたもの。「袷の衣」は、裏のある意で、「裏」と続け、以上その序詞。○裏にせば 「裏」は、表裏と対させての裏で、軽い意の譬喩。軽いものにするならば。○吾強ひめやも 前後の続きで、われは強いて関係を続けようか、続けないで、「や」は、反語。○君が来まさぬ 君のいらっしゃらないことであるで、「ぬ」は、連体形。詠嘆したもの。
【釈】 橡の袷の衣の裏というように、裏にするのであったら、われは強いて関係を続けようとしようか、しない。君のいらっしゃらないことであるよ。
【評】 男のよそよそしくいるのに対して、女の贈った歌である。「橡の袷の衣」は、自身を踐者に擬していっているもの、「君が来まさぬ」は、尊んでの言い方で、身分の差を念頭に置いてのものである。「裏にせば吾強ひめやも」は、あなたがそれほどでなかったら、私もたってとは思いません、というので、ある程度年をした女の、分別心をまじえていっているものである。嘆きを包んで、さりげなくいっているものではあるが、本心を偽ってのものではない。階級意識から来るあわれさのある歌である。例のないものではないが、珍しい範囲の歌である。
2966 紅《くれなゐ》の 薄染衣《うすぞめごろも》 浅《あさ》らかに 相見《あひみ》し人《ひと》に 恋《こ》ふる頃《ころ》かも
紅 薄染衣 淺尓 相見之人尓 戀比日可聞
【語釈】 ○紅の薄染衣 紅で薄く染めた衣で、譬喩で「浅らか」にかかる序詞。○浅らかに相見し人に 「浅らかに」は、「ら」は、接尾語で、明らか、清らかなどの「ら」と同系の語。あっさりと。「相見し人」は、関係を結んだ女。
【釈】 紅の薄く染めた衣のように、あっさりと関係した女に、恋うるこの頃であるよ。
(330)【評】 男の歌である。かりそめに関係した女が、いつか恋しくなって来たと訝かっていっている心で、当時の男女関係には珍しくないことであったろう。「紅の薄染衣」は、女の衣で、その女全体を暗示したものである。
2967 年《とし》の経《へ》ば 見《み》つつ偲《しの》へと 妹《いも》が言《い》ひし 衣《ころも》の縫目《ぬひめ》 見《み》れば哀《かな》しも
年之經者 見管偲登 妹之言思 衣乃縫目 見者哀裳
【語釈】 ○年の経ば見つつ偲へと妹が言ひし 年が立ったならば、この縫目を見つつも我を偲べと妹がいったで、妻が自身織って仕立てた衣を夫に贈る時に、儀礼として、労苦して作った衣であるとの意でいった語と取れる。夫が長い期間にわたっての旅へ出る時、妻のいった語。○衣の縫目見れば哀しも 「衣の縫目」は、妻の手の跡の最も現われているもので、心の籠もっているもの。
【釈】 年が立ったら、これを見つつ我を偲べと妹がいった、その衣の縫目を見ると、悲しいことだ。
【評】 自身の衣の縫目を見て、妻のいったことを思い出して悲しんだ心である。妻がその衣を贈る時、縫目ごとにわが心が籠もっているといった語を今さらのごとく思い出し、年久しく逢わないことを思い悲しんだ心である。針の縫目には、縫う人の魂が籠もるものだということは、一般に信じられていたことと見え、ほかにも例がある。ここもそれで、縫目に妻その人を感じての悲しみである。あわれのある歌である。
2968 橡《つるばみ》の 一重《ひとへ》の衣《ころも》 裏《うら》もなく あるらむ児《こ》ゆゑ 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
橡之 一重衣 裏毛無 將有兒故 戀渡可聞
【語釈】 ○橡の一重の衣 「一重の衣」は、裏のない意から、「裏もなく」に続く序詞。○裏もなくあるらむ児ゆゑ 「裏」は心で、何という心もなく。「あるらむ児ゆゑ」は、いるであろう児なのに。「児」は、女の愛称。
【釈】 橡染の一重衣のように裏もなく無心でいるだろう女なのに、恋い続けることである。
【評】 無心な、物思いも知らないような女に愛着をもっている男の、そのことを訝かるような心でいっているものである。「橡の一重の衣」でその女の身分を暗示しているものである。
(331)2969 解衣《ときぎぬ》の 念《おも》ひ乱《みだ》れて 恋《こ》ふれども 何《なに》の故《ゆゑ》ぞと 問《と》ふ人《ひと》もなき
解衣之 念乱而 雖戀 何之故其跡 問人毛無
【語釈】 ○解衣の念ひ乱れて 「解衣の」は、解いた衣のごとくで、意味で「乱れ」にかかる枕詞。「念ひ乱れて」は、嘆きに心が乱れてで、「乱れ」は死を思わせられる状態である。○問ふ人もなき 「問ふ人」は、気にして訊ねる人で、「人」は、夫。
【釈】 解衣のように思い乱れて恋をしているけれども、どうした嘆きだと、訊く人もないことだ。
【評】 夫をもっている女の歌である。「問ふ人」はその夫で、婉曲にいったものである。巻十一(二六二〇)「解衣の思ひ乱れて恋ふれども何ぞ汝が故と問ふ人もなき」があった。この歌の第四句を言い換えたものとみえる。謡い物となっていたのである。
2970 桃花褐《ももぞめ》の 浅《あさ》らの衣《ころも》 浅《あさ》らかに 念《おも》ひて妹《いも》に 逢《あ》はむものかも
桃花褐 淺等之衣 淺尓 念而妹尓 將相物香裳
【語釈】 ○桃花褐の浅らの衣 「桃花褐」は、「桃花」は色、「褐」は、粗布で、桃色に染めた布であるが、ここは染色の意でいっているもの。この染色につき、『代匠記』は、日本書紀、天智紀、『令義解』を引き、また、『延喜式』『衛門府式』を引いて考証している。衛士、兵士など身分の低い者の服色である。「浅らの衣」は、色の薄い衣で、同音の「浅ら」に続き、以上その序詞。○浅らかに念ひて妹に 心浅く思って妹に。○逢はむものかも 逢うのであろうか、それではないで、「かも」は、ここは反語となっている。
【釈】 桃染の色の浅い衣のように、心浅く思って妹に逢おうとするのであろうか、否そうではない。
【評】 男が初めて女と逢った時、その女に対して誠実を誓う心をもっていっているものである。「桃花褐の浅らの衣」は、身分の低い者の服色であって、男がその身分をあらわしているものであるが、譬喩の意が勝っていて、卑下の意のものとは見えない。個人的な歌である。
2971 大王《おほきみ》の 塩《しほ》焼《や》く海人《あま》の 藤衣《ふぢごろも》 なれはすれども いやめづらしも
(332) 大王之 塩焼海部乃 藤衣 穢者雖爲 弥希將見毛
【語釈】 ○大王の塩焼く海人の 天皇の御料の塩を焼く海人の。『代匠記』は、これは越前国敦賀の海の海人だといい、日本書紀、武烈紀の真鳥大臣が誅せられる時の記事を引いて、そのことを考証している。○藤衣 藤の皮の繊維の布で仕立てた粗服。古び萎える意で「穢れ」と続き、以上その序詞。○なれはすれどもいやめづらしも 原文「穢」の「穢る」を馴るに転じて、狎れ親しんではいるが、ますます可愛ゆいことだ。「も」は、詠嘆。男から見た女のさまで、狎れて来ると珍しさの失せるのが普通であるのに、その反対であるの意。
【釈】 天皇の御料の塩を焼く海人の藤衣の穢れているように、馴れ親しんではいるが、ますます可愛ゆく思われることだ。
【評】 男が馴染むにしたがってその妻の可愛ゆさが増すというので、心は一般的なものである。衣服の穢るを馴るの序とすること、また、「なれはすれどもいやめづらしも」は、いずれも慣用されているものである。「大王の填焼く海人の」は新しいものであるが、これは女の身分は低いが、しかしそれとしては由緒のある者だということを暗示しようとしてのものとみえる。設けていっているものである。
2972 赤帛《あかぎぬ》の 純裏《ひつら》の衣《ころも》 長《なが》く欲《ほ》り 我《わ》が念《おも》ふ君《きみ》が 見《み》えぬころかも
赤帛之 純裏衣 長欲 我念君之 不所見比者鴨
【語釈】 ○赤帛の純真の衣 「赤帛」は、赤く染めた織物で、「帛」は、織物の総称。「純裏」は、巻十六(三七九一)「木綿肩衣ひつらに縫ひ著」と、仮名書きのある語。純粋の裏で、表と同じ裏を付けた衣で、これは晴れの時に着る上等の衣で、長く仕立ててあるところから、「長く」と続け、以上その序詞。○長く欲り我が念ふ君が 長く関係していたいとわが思う君の。
【釈】 赤く染めた織物の、表と同じ裏を付けた衣の長いように、長く関係していたいとわが思っている君が、逢いに来ない頃であるよ。
【評】 長い関係をと願っている男の、足の遠くなっていることを懸念した女の心である。「赤帛の純裏の衣」は、その男の衣服を捉えての序詞で、身分のある、美しい男ということを暗示しているものである。
2973 真玉《またま》つく をちこちかねて 結《むす》びつる 吾《わ》が下紐《したひも》の 解《と》くる日《ひ》あらめや
(333) 眞玉就、越乞兼而 結鶴 言下紐之 所解日有米也
【語釈】 ○真玉つくをちこちかねて 「真玉つく」は、「真」は、美称。玉を付ける緒と続け、「を」の枕詞。「をちこち」は、遠方此方で、「をち」は、将来、「こち」は、現在で、「かねて」は、わたって。現在と将来とを好く考えて。○結びつる吾が下紐の 結んだところのわが下紐が。男女相逢って別れる時、互いに相手の下紐を結ぶことが風習であったところから、夫婦約束ということの譬喩としていっているもの。○解くる日あらめや 解ける時があろうか、ありはしないで、「や」は、反語。この約束を決して背かないの意。
【釈】 現在将来と思いわたって、君と結んだところのわが下紐の、解ける日があろうか、ありはしない。
【評】 女が男に、その貞節を誓った歌である。夫婦約束を、下紐を結ぶことによってあらわしているのは、男と初めて逢って別れる時、男が女の下紐を結んだのに対していったとすれば、自然なものに聞こえる。結ぶ、解くは、約束のほうを主としてのもので、それとしては、下紐は適切な譬喩になるから、そうした場合の歌として詠んだものであろう。以下五首、紐に寄せての歌。
2974 紫《むらさき》の 帯《おび》の結《むす》びも 解《と》きも見《み》ず もとなや妹《いも》に 恋《こ》ひ渡《わた》りなむ
紫 帶之結毛 解毛不見 本名也妹尓 戀度南
【語釈】 ○紫の帯の結びも 紫の帯の結び目も。「帯」は、紐と性質の同じところから言いかえたもので、この帯は下紐である。○解きも見ず 解きもせずに。解くのは男のすること。「見ず」は、為ずに。○もとなや妹に恋ひ渡りなむ 「もとな」は、由なく。「や」は、疑問の係。「恋ひ渡りなむ」は、恋い続けることであろうか。
【釈】 紫の下紐の結び目を解きもせずに、由なく妹に恋い続けているのであろうか。
【評】 何らかの事情で妻に逢い難くしている男の、独寝の床に妻を思っている心である。「紫の帯の結びも」は共寝をする時には、妻の下紐を解いてやる風習なので、共寝ということを気分としていっているものである。婉曲に、美しくなっているのはそのためで、これがまた妹に対する気分の暗示ともなっているのである。
2975 高麗錦《こまにしき》 紐《ひも》の結《むす》びも 解《と》き放《さ》けず 斎《いは》ひて待《ま》てど しるしなきかも
(334) 高麗錦 紐之結毛 解不放 齋而待杼 験無可聞
【語釈】 ○高麗錦紐の結びも 「高麗錦」は、高麗より渡来した錦で、貴しとした物。「紐」は、上の紐で、その結び目も。○解き放けず 解きやらずして。上紐は夜、寝る時には解くものなのに、それもせずに。○斎ひて待てど 潔斎して神に祈って待っているが。○しるしなきかも 甲斐のないことであるよで、夫の来ないのを嘆いたもの。
【釈】 高麗錦の上紐の結び目も解きやらずに、神に祈って待っているが、その甲斐のないことであるよ。
【評】 女のひた心にその夫の来るのを待っていることである。身を慎しんで、夜も帯を解かずに、神に祈って待つというのは、最後の手段である。それもしるしがないと嘆いているのである。高麗錦の紐は、女の身分をあらわしている。
2976 紫《むらさき》の 我《わ》が下紐《したひも》の 色《いろ》に出《い》でず 恋《こ》ひかも痩《や》せむ 逢《あ》ふよしを無《な》み
紫 我下紐乃 色尓不出 戀可毛將痩 相因乎無見
【語釈】 ○紫の我が下紐の 意味で「色」にかかる序詞。○色に出でず恋ひかも痩せむ 「色に出でず」は、表面にあらわさずして。「恋ひかも痩せむ」は、「かも」は、疑問の係。恋の悩みに痩せゆくことであろうか。○逢ふよしを無み 逢う方法が無さに。女の身辺に妨害が起こっているのである。
【釈】 紫のわが下紐のように、色には出さずに恋うるので、痩せることであろうか。逢う方法がなさに。
【評】 女の身に妨害が起こって男に逢えない嘆きで、類想の多いものである。「紫の我が下紐の」は、人に見えない物の意で「色に出でず」の序詞になっているものである。慣用に近いものになっていたとみえる。場合柄、自然だとはいえるが、自身のことをいったものなので、拡がりのないものとなっている。
2977 何故《なにゆゑ》か 思《おも》はずあらむ 紐《ひも》の緒《を》の 心《こころ》に入《い》りて 恋《こひ》しきものを
何故可 不思將有 紐緒之 心尓人而 戀布物乎
【語釈】 ○何故か思はずあらむ どうして思わずにいられようかで、「か」は、疑問の係。○紐の緒の心に入りて 「紐の緒の」は、紐で、「心」(335)にかかる枕詞。紐を結ぶには、一方の端を輪にして、他方の端をそれに差し入れて結ぶのであるが、その輪を心と呼んだ。これは平安朝時代にも用いられた称である。「心に入りて」は、身に沁みてというにあたる語。
【釈】 どうして思わずにいられようか。紐の緒のように心に入って、恋しいのに。
【評】 女の歌で、きわめて単純な歌である。「紐の緒の心に入りて」が、いかにも適切なために、若い心の全体を思わせ、「恋しきものを」の慣用句を生かし切っている。愛すべき歌である。
2978 まそ鏡《かがみ》 見《み》ませ吾《わ》が背子《せこ》 吾《わ》が形見《かたみ》 持《も》たらむ時《とき》に 逢《あ》はざらめやも
眞十鏡 見座吾背子 吾形見 將持辰尓 將不相哉
【語釈】 ○まそ鏡見ませ吾が背子 この澄んだ鏡を御覧なさい、わが背よ。○吾が形見持たらむ時に 「吾が形見」は、上の鏡を指したもので、形見は自身の身代わりとして贈る物で、その物にこちらの魂が宿っているとした物である。「持たらむ時に」は、所有しているであろう時にで、魂が離れずにいる限りは。○逢はざらめやも 逢わなかろうか、逢うだろうで、「や」は、反語。
【釈】 この澄んだ鏡を御覧なさい、わが背子よ。わが形見を所持しているだろう時に、逢わないということがあろうか、逢うだろう。
【評】 男が遠い旅へ立つ時、女がその最も大切にしている鏡に添えて贈った歌である。「見ませ吾が背子」と要求し、それをしてわが魂の受け入れられている限りは、必ず、また逢おうと説明して、自身の真実を誓ったのである。語は短いが心を尽くしており、調べも張っていて、第四句より結句への飛躍も自然にしている。特殊な歌である。以下四首、鏡に寄せての歌。
2979 まそ鏡《かがみ》 直目《ただめ》に君《きみ》を 見《み》てばこそ 命《いのち》に対《むか》ふ 吾《わ》が恋《》止《こひや》まめ
眞十鏡 直目尓君乎 見者許増 命對 吾戀止目
【語釈】 ○まそ鏡直目に君を見てばこそ 「まそ鏡」は、「見」にかかる枕詞。「直目」は、直接の目。「君」は、夫。「見てば」は、「て」は、助動詞「つ」の未然形で、見たらば。「こそ」は、係助詞。○命に対ふ吾が恋止まめ 「命に対ふ」は、命に匹敵するで、命懸けの意。「め」は、「こそ」の結。
(336)【釈】 直接に君の顔を見たらばこそ、命懸けのわが恋はやもう。【評】 妻が夫に贈った形の歌である。「直目に見てばこそ恋止まめ」と、昂奮をきわめた言い方で、訴えを超えたものである。謡い物として行なわれていたものであろう。
2980 まそ鏡《かがみ》 見飽《みあ》かぬ妹《いも》に 逢《あ》はずして 月《つき》の経《へ》ぬれば 生《い》けりともなし
犬馬鏡 見不飽妹尓 不相而 月之經去者 生友名師
【語釈】 ○まそ鏡見飽かぬ妹に 「まそ鏡」は、「見」の枕詞。「見飽かぬ妹」は、逢うことに飽かない妹で、逢いたい妹。○生けりともなし 生きているとも思われない。
【釈】 見飽かない妹に逢わずに、月が経たので、生きているとも思われない。
【評】 類想の多い歌である。一般的な心を、慣用句を用いていっているもので、謡い物系統の歌である。
2981 祝部等《はふりら》が 斎《いは》ふ三諸《みもろ》の まそ鏡《かがみ》 懸《か》けてぞ偲《しの》ふ あふ人《ひと》毎《ごと》に
祝部等之 齋三諸乃 犬馬鏡 懸而偲 相人毎
【語釈】 ○祝部等が斎ふ三諸のまそ鏡 「祝部」は、神主、祝部と、神職の階級をあらわす称であるが、ここは神職を総括しての称。「斎ふ三諸」は、大切に守っている神殿。「まそ鏡」は、そこに供えてある澄んだ鏡。鏡を物に懸けてある意で「懸け」と続け、以上その序詞。○懸けてぞ偲ふ 心に懸けて思い慕うで、対象は夫。○逢ふ人毎に 行き逢う男ごとに。
【釈】 神職等が大切に守っている神殿の真澄みの鏡の、物に懸けてあるように、我も心に懸けて思い慕っている。逢う男ごとに。
【評】 女の、夫である男を思っての歌である。序詞も「あふ人毎に」も、特殊である。祭礼の夜、社に参拝した女が、そこに集まっている男を見るごとに、自分の夫を連想して、思慕を募らせている心と取れる。それだと、平常は男を見る機会の少ない女として自然な心理である。祭礼の夜ということを、序詞の形にして「あふ人毎に」に繋がらせているのも、妥当といえる。特殊な境である。
(337)2982 針《はり》はあれど 妹《いも》しなければ 著《つ》けめやと 吾《われ》を煩《なやま》し 絶《た》ゆる紐《ひも》の緒《を》
針者有杼 妹之無者 將著哉跡 吾乎令煩 絶紐之緒
【語釈】 ○妹しなければ著けめやと 妹が居ないので付けられようか、付けられまいと。「し」は、強意、「や」は、反語の助詞。○吾を煩し絶ゆる紐の結 「吾を煩し」は、われを困らせてで、困るのは馴れぬ手業だからである。「絶ゆる紐の緒」は、ちぎれる衣の紐よ。
【釈】 針はあるが、妹が居ないので付けられようか、付けられまいと、われを困らせて、ちぎれる衣の紐よ。
【評】 旅に出て久しい男が、衣の紐のちぎれたのを見て、用意して持っていた針で繕おうとしたが、事に馴れぬために繕い悩みつつ、もし妹が居たならばと思った心である。それを、紐の緒その物に心があって、わざと意地悪のことをしているがごとくに言い做しているのは、それといわずに妻恋しい心をあらわそうがためである。実際に即した小味なものであるが、じつに巧妙な歌である。針に寄せての歌。
2983 高麗剣《こまつるぎ》 己《わ》がこころから 外《よそ》のみに 見《み》つつや君《きみ》を 恋《こ》ひ渡《わた》りなむ
高麗劔 己之景迹故 外耳 見乍哉君乎 戀渡奈牟
【語釈】 ○高麗剣己がこころから 「高麗剣」は、柄頭に環が付いているところから「わ」にかかる枕詞。「己がこころから」は、「こころ」は、原文「景迹」で、これを「こころ」と訓んだのは『代匠記』である。日太書紀、天武紀の十一年八月の条の詔の中に、「凡諸応2考選1者、能検2其族姓及景迹1」ことあり、景迹に「こころばせ」という訓があるによったのである。しかるに『古義』は、「考課令」の義解に、「景迹者、景像也、猶v言2状迹1也」とあるを引いている。これは行状の意である。『全註釈』はこれらに検討を加え、「景迹」は「こころ」ではなく「わざ」であるとし、この句を「おのが行(わざ)から」と改めている。また、「高麗剣」も「わざ」にかかる枕詞だと改めている。今は従来の解に従うこととする。わが心のゆえで。○外のみに見つつや君を恋ひ渡りなむ よそにばかり見つつ、君を恋い続けるのであろうか。「や」は、疑問の係。「君を恋ひ」は、用例のほとんど全部は「君に恋ひ」であるが、「君を」という用例もいささかはある。
【釈】 わが心のゆえで、よそにばかり見つつ、君を恋い続けることであろうか。
【評】 妻である女が、何らかの自身の事情から男を腹立たせることをして、男はそれきりで遠ざかってしまっていることを、嘆きをもっていっている歌である。関係が秘密になっていたので、一旦行きちがいが起こると、それきり橋のかからない場合(338)があったろう。女は自身に責任を感じているのだから、嘆きのほどが察しられる。気分をいっているだけだから事情はわからないが、理由をいわずに逢うことを避けたというようなことであったろう。以下二首、剣に寄せての歌。
2984 剣大刀《つるざたち》 名《な》の惜《を》しけくも 吾《われ》はなし このごろの間《ま》の 恋《こひ》の繁《しげ》きに
釼大刀 名之惜毛 吾者無 比來之間 戀之繁尓
【語釈】 ○剣大刀名の惜けくも 「剣大刀」は、名の枕詞。「惜しけく」は、惜しの名詞形。○このごろの間の 「間の」は、「このごろ」の語感を強めるために添えたもの。
【釈】 わが名の立つのも、われは惜しいことはない。この頃の恋の繁くあるので。
【評】 名を重んじる心から、妻の許へ通うことも憚っていた男が、恋の繁さに堪え難くなり、今は名も思うまいという心で、類想の多いものである。巻四(六一六)山口女王の「剣大刀名の惜しけくも吾はなし君にあはずて年の経ぬれば」に倣ってのものとみえる。
2985 梓弓《あづさゆみ》 末《すゑ》はし知《し》らず 然《しか》れども まさかは吾《われ》に 縁《よ》りにしものを
梓弓 末者師不知 雖然 眞坂者吾尓 縁西物乎
【語釈】 ○梓弓末はし知らず 「梓弓」は、弓を立てる時、その下方を本、上方を末というので、その意で「末」にかかる枕詞。「末はし知らず」は、将来は知られないで、「末」は、将来、「し」は、強意。○まさかは吾に縁りにしものを 「まさか」は、目前の事実はの意の古語で、用例の多いもの。「縁りにしものを」は、寄り添っているものを。
【釈】 梓弓、末のことは知られない。しかしながら目前はわれに寄り添っているものを。
【評】 男が可愛ゆい女をわが物となし得ているうれしい気分をいっているものである。可愛ゆければ将来の永続も自然願われるが、それはとにかく、目前の状態だけでも十二分にうれしいとする気分である。一脈の不安を伴ったうれしさで、生きた歌である。以下五首、弓に寄せての歌。
(339) 一本の歌に曰はく、梓弓《あづさゆみ》 末《すゑ》のたづきは 知《し》らねども 心《こころ》は君《きみ》に 縁《よ》りにしものを
一本歌曰、梓弓 末乃多頭吉波 雖不知 心者君尓 因之物乎
【解】 「末のたづき」は、将来の在り方。「心は君に縁りにしものを」は、わが心は君に寄ってしまっているものを。一首は、梓弓、末の在り方はわからないけれども、わが心は君に寄ってしまっているものを。これは別伝ではなく、女の歌で、独立した別の歌である。形に類似点が多いので、形に重点を置いて別伝として扱っているのである。男の心には、ある程度知性が働いているが、女の歌にはそれが全く無く、ただ打任せているのみである。上の歌が謡い物となっているところから生まれた歌であろう。
2986 梓弓《あづさゆみ》 引《ひ》きみゆるへみ 思《おも》ひ見《み》て 既《すで》に心《こころ》は 縁《よ》りにしものを
梓弓 引見縱見 思見而 既心齒 因尓思物乎
【語釈】 ○梓弓引きみゆるへみ 「ゆるへみ」は、旧訓「ゆるべみ」。『大系』の訓である。(四〇一五)に「由流布」と仮名書があり、清音に訓む語と注意しているのにしたがう。梓弓の弦を引いて見たり、ゆるめて見たりして。これは慣用句である。弓を試して見る意で、「思ひ見て」に続き、以上その序詞。○思ひ見て 考えて見てで、求婚に対して思案して。○既に心は縁りにしものを もはやわが心は君に縁っていたものを。
【釈】 梓弓の弦を引いて見たりゆるべて見たりして試して見るように、よく考えて見て、もはや、心は君に縁っていたものを。
【評】 女が男の求婚を承諾して、その男と初めて逢った夜、改めて心を告げたものである。「既に」というのがそのことを示している。序詞には思いあがった趣が見えるが、慣用句の襲用で、尋常のものと見るべきである。
2987 梓弓《あづさゆみ》 引《ひ》きてゆるへぬ 大夫《ますらを》や 恋《こひ》といふ物《もの》を 忍《しの》びかねてむ
梓弓 引而不縱 大夫哉 戀云物乎 忍不得牟
【語釈】 ○梓弓引きてゆるへぬ 弓を引き絞って、弛めずにいるところので、大夫の精神の緊張を具象化したもの。○大夫や 「や」は、疑問の係。○恋といふ物を忍びかねてむ 「恋といふ物」は、恋を客観的に見て、訝かしいもののごとくいったもの。軽しめる心よりである。「忍びかねてむ」は、堪え得ないのであろうか。「かねてむ」は、「かねむ」に、完了の助動詞「て」を添えて強めたもの。
(340)【釈】 弓を引き絞って弛めずいるような大夫が、恋というものを堪え得ないのであろうか。
【評】 大夫をもって任じている男の、恋の悩みに堪えかねるようになった時の心である。類歌の少なくないものであるが、この歌は大夫の抱負に縋らずに、自身の気分に即していっているので、一首が自然で、力あるものとなっている。調べも嘆きを帯びた強いものである。すぐれた歌といえる。
2988 梓弓《あづさゆみ》 末《すゑ》の中《なか》ごろ 不通《よど》めりし 君《きみ》には逢《あ》ひぬ 嘆《なげき》は息《や》まむ
梓弓 末中一伏三起 不通有之 君者會奴 嗟羽將息
【語釈】 ○梓弓末の中ごろ 「梓弓」は、「末」の枕詞。これは上に出た。「末の中ごろ」は、諸注解き悩んでいる語である。大体、夫婦関係の晩期の中頃の意と解されているが、『新考』は、そうした語はあるべくもないものである。梓弓の末(上方)に、「中」と称する部分があって、「梓弓末の」は、その「中」にかかる序詞で、「中ごろ」は、普通いうところの中途の意であろうという。現在では最もうなずきうる解として、これに随う。○不通めりし君には逢ひぬ 中絶していた君に逢ったで、関係が復活した意。○嘆は息まむ 従来の嘆きはやむだろう。
【釈】 梓弓の末の中の、その中頃は中絶していた君に、逢った。これまでの嘆きはやもう。
【評】 女の、中途で関係の絶えていた男と、関係が復活した喜びをいったものである。「嘆は息まむ」は、中絶期間の喚きが深かったので、「息まむ」は、それがすなわち喜びの表現である。落ちついた、渋味のある歌である。「梓弓末の中ごろ」は、問題のあるものであるが、一首の上から見て『新考』の解に随うと、穏当な調和あるものとなる。
2989 今更《いまさら》に 何《なに》しか念《おも》はむ 梓弓《あづさゆみ》 引《ひ》きみゆるへみ 縁《よ》りにしものを
今更 何牡鹿將念 梓弓 引見縱見 縁西鬼乎
【語釈】 ○引きみゆるへみ 弦を引いて見たり、弛めて見たりしてで、弓の本末が寄る意で、「縁り」にかかる序詞。
【釈】 今さらに何で物を思おうか。梓弓の弦を引いて見たり、弛めて見たりして、弓の本末が寄るように、君に縁ったものを。
【評】 男と関係を結んだ際の、女の安心感をいったものである。「今更に何しか念はむ」は、関係を結ぶ前の、さまざまに迷って(341)物思いをした時を思い出しての感で、今はそれもないというのが、喜びの一半である。序詞は慣用句で、表現には特殊なところはない。
2990 娘子《をとめ》らが 績麻《うみを》のたたり 打麻《うちそ》懸《か》け 績《う》む時《とき》なしに 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
※[女+感]嬬等之 績麻之多田有 打麻懸 績時無二 戀度鴨
【語釈】 ○娘子らが績麻のたたり 「娘子ら」の「ら」は、接尾語。「續麻」は、麻糸をつむぐことの称で、名詞。「たたり」は、台の上に柱を立てた道具で、麻をその柱に懸けて、糸に紡ぐのである。『延喜式』大神宮式に、「金銅多多利二基、高各一尺一寸六分、土居径三寸六分。銀銅多多利一基、高一尺一寸六分、土居径三寸五分」とあり、その形が知られる。娘子が麻つむぎをするたたりに。○打麻懸け 「打麻」は、茎を打って柔らげた麻で、紡ぎやすくするためのこと。「績む」と続けて、以上はその序詞。○績む時なしに恋ひ渡るかも 「績む」を、同音の「倦む」に転じて、倦む時もなしに恋い続けていることよ。
【釈】 娘子が、麻つむぎをするたたりに、打ち柔らげた麻を懸けて績むように、倦む時もなしに、我は恋い続けていることである。
【評】 男の恋の嘆きである。序詞に特色のある歌である。家族の衣服を作るのは女の責任で、糸を紡ぐことを初めとして、染め、織り、仕立てまで、一切その手業であった。また麻糸は、衣服の材料のほとんど全部を占めていた物であるから、績麻は各家庭でしていたのである。ここは男が女のその手業を見、それに刺激されて自身の心の状態を捉えた形で、気分そのものを序詞にしたごときものである。庶民生活の中から生まれた歌で、心の広さ、同音反復の序詞などから見て、謡い物であったろう。麻に寄せての歌。
2991 垂乳根《たらちね》の 母《はは》が養《か》ふ蚕《こ》の 繭隠《まよごも》り いぶせくもあるか 妹《いも》に逢《あ》はずて
垂乳根之 母我養蚕乃 眉隱 馬聲蜂音石花蜘〓荒鹿 異母二不相而
【語釈】 ○垂乳根の母が養ふ蚕の 「垂乳根の」は、母の枕詞。「養ふ蚕」は、今の蚕《かいこ》。古くは蚕《こ》とのみいった。○繭隠り 蚕が繭の中に籠もって。譬喩の意で「いぶせく」と続け、以上その序詞。この三句は巻十一(二四九五)また巻十三(三二五八)の長歌の中に出ていて、慣用句。○いぶ(342)せくもあるか 心結ぼれることよで、「か」は、感動で、「かな」と同じ。原文は、「馬声蜂音石花蜘〓荒鹿」で、代表的戯書である。「馬声」は、「い」、「蜂音」は、「ぶ」、「石花」は、「せ」で、石花貝は食料とした物。「蜘〓」は、「くも」。「荒鹿」の「あるか」も、この範囲のものといえる。○妹に逢はずて 妹に逢わずして。
【釈】 母が養っている蚕の、繭の中に籠もっているがように、心結ぼれていることであるよ。妹に逢わなくて。
【評】 この歌も序詞が特色となっているが、これはすでに成句となっていたものを捉えたにすぎないのである。本来成句は魅力あるゆえにそうなったもので、部落民にとっては、その実際に即している意味でことに魅力が多かったのであろう。この歌では十分に生かされている。これも前の歌と同じく、部落の謡い物であったろう。戯書は、この歌を耳で聞いて筆録した人の業であろう。繭に寄せての歌。
2992 玉襷《たまだすき》 懸《か》けねば苦《くる》し 懸《か》けたれば 続《つ》ぎて見《み》まくの ほしき君《きみ》かも
玉手次 不懸者辛苦 懸垂者 續手見卷之 欲寸君可毛
【語釈】 ○玉襷懸けねば苦し 「玉襷」は、「玉」は、美称。「襷」は、意味で「懸く」にかかる枕詞。「懸けねば苦し」は、心に懸けず、すなわち思わずにいれば苦しい。○懸けたれば 心に懸けて思っていれば。○続ぎて見まくのほしき君かも 続いて逢いたくなる君であるよ。「見まく」は、「見む」の名詞形、「君」は、男。
【釈】 心に懸けず、思わずにいれば苦しい。懸けて思っていれば、続いて逢いたくなるところの君ではあるよ。
【評】 女の歌である。思うまいとすれば苦しく、思っていると逢いたくなるというので、男を待っている女のやる瀬ない心である。心が広く、平明で、典型的な謡い物である。襷に寄せての歌。枕詞によっての分類である。
2993 紫《むらさき》の 綵色《しみいろ》の蘰《かづら》 花《はな》やかに 今日けふ《》見《み》る人《ひと》に 後《のち》恋《こ》ひむかも
紫 綵色之蘰 花八香尓 今日見人尓 後將戀鴨
【語釈】 ○紫の綵色の蘰 紫色に斑らに染めた布帛の蘰で、娘子が何らか特殊の日にしたものとみえる。以上、意味で「花やかに」にかかる序詞。○花やかに今日見る人に 花やかに、今日見ている娘子に。○後恋ひむかも 後になって恋うることであろうか。
(343)【釈】 紫色に斑らに染めた布帛の蘰のように、花やかに、今日見ている娘子に、後に恋うることであろうか。
【評】 「紫の綵色の蘰」は特殊なものであったろう。それをしている娘子が、その蘰に似合わしい美しさをもっていたというのであるから、平常は見ない娘子で、祭などの日に見かけたのであろう。叙述を序詞として、その娘子の忘れかねる心をいったのである。軽い気分の、個人的な歌である。以下二首、蘰に寄せての歌。
2994 玉蘰《たまかづら》 懸《か》けぬ時《とき》無《な》く 恋《こ》ふれども いかにか妹《いも》に 逢《あ》ふ時《とき》も無《な》き
玉蘰 不懸時無 戀友 何加妹尓 相時毛名寸
【語釈】 ○玉蘰懸けぬ時無く 「玉蘰」は、玉を緒に貫いて、頸へ懸けていた物の称で、女の装身具となっていた。譬喩として「懸け」の枕詞。「懸けぬ時無く」は、心に懸けない時はなくで、いつも心に懸けとおして。○いかにか妹に 「いかにか」は、どうしてであろうかで、「か」は、疑問の係。
【釈】 玉蘰を懸けるに因む、心に懸けて思わない時はなく恋うているけれども、どうして妹に逢う時もないのであろうか。
【評】 男の歌で、「玉蘰」の枕詞は、女を連想してのものである。「いかにか」は、こちらで思えば、その心が通じることとして、訝かる心からのものである。
2995 逢《あ》ふよしの 出《い》で来《く》るまでは 畳薦《たたみこも》 重《かさ》ね編《あ》む数《かず》 夢《いめ》にし見《み》えむ
相因之 出來左右者 疊薦 重編數 夢西將見
【語釈】 ○逢ふよしの出で来るまでは 逢える方法の出て来るまでは。○畳薦重ね編む数 「畳薦」は、畳に編む菰の称で、それを重ねて編んでゆく数で、数の限りなく多い譬喩。巻十一(二七七七)「畳蔦へだて編む数通はさば」とあり、慣用されていた譬喩とみえる。○夢にし見えむ 相手の人が、わが夢に見えるであろうで、その人がこちらを思っていることを信じての推量。「し」は、強意の助詞。
【釈】 逢える方法が出て来るまでは、畳菰を重ねて編んでいる数ほども、相手の人がわが夢に見えるだろう。
【評】 男の歌で、関係している女の身辺に妨害が起こって逢い難くしているのであるが、その妨害の無くなる時があり、それ(344)までは、女が限りなく夢に見えようと、すべて女を信じ切っていっているものである。妨害は、女の母親が男を喜ばないことで、それは女の計らいで円満に始末が付くとするのであろう。「畳薦重ね編む数」は慣用句であるが、男の実際生活に即しているものである。庶民間の歌である。畳薦に寄せての歌。
2996 白香《しらか》つく 木綿《ゆふ》は花物《はなもの》 言《こと》こそは 何時《いつ》の真枝《まえだ》も 常《つね》忘《わす》らえね
白番付 木綿者花物 事社者 何時之眞枝毛 常不所忘
【語釈】 ○白香つく木綿は花物 「白香」は、諸説があって詳らかでなかったが、『全釈』は白い苧だとした。『全註釈』は、麻楮などの繊維の裂いたものの称としている。それに随う。「白香つく」は、白香として付ける。「木綿は花物」は、「木綿」は、楮の繊維で、ここはそれが白香である。「花物」は、花のような物で、美しいが実のない物。○言こそは 言葉のほうこそはで、上の「木綿は」に対させたもの。○何時の真枝も 「真枝」は、「真」は、接頭語。「枝」は、木の枝で、消息は木の枝に付けるのが定まった風習になっており、その枝にはそれとともに白香も付けたのである。いつの消息もの意。○常志らえね 永久に忘れられないことだ。
【釈】 白香として付ける木綿のほうはあだな物である。言葉のほうこそは、いつの消息も、永久に忘れられぬことである。
【評】 女の歌であろう。男の消息のいつも真実に満ちていることを、限りなく喜んでいる心である。消息を木の枝に付けるのは普通のことであったろうが、白香を付けることも普通であったかどうかはわからない。一首、消息に対しての喜びの気分をいっているだけのもので、どういう事情の下においての消息かという点には触れていないので、一切わからない。奈良京の、ある身分ある人達の間のもので、個人的な歌である。木綿に寄せての歌。
2997 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の高橋《たかはし》 高高《たかだか》に 妹《いも》が待《ま》つらむ 夜《よ》ぞ深《ふ》けにける
石上 振之高橋 高々尓 妹之將待 夜曾深去家留
【語釈】 ○石上布留の高橋 「石上布留」は、いずれも地名で、大和国山辺郡(現、天理市)石上神宮の所在地。「高橋」は、高い岸より岸へ架けた橋の称で、本来は普通名詞であるが、ここは布留川の橋の称で、その名高いところから固有名詞となったものである。さらに転じてその地の名ともなった。同音で、「高」と続き、以上その序詞。○高高に妹が待つらむ 「高高に」は、心から待ち望んでいる意の副詞。「待つらむ」の「らむ」は、連体形。
(345)【釈】 石上布留の高橋のように、高々に妹が我を待っているだろう夜の更けてしまった。
【評】 「石上布留の高橋」は、女の家がその辺りにあるところから捉えていったもので、その地方で謡われていた物であろう。一首の心も、形も、調べも、謡い物的である。橋に寄せての歌。
2998 湊入《みなといり》の 葦別小船《あしわけをぶね》 障《さはり》多《おほ》み 今《いま》来《こ》む吾《われ》を よどむと念《おも》ふな
湊入之 葦別小船 障多 今來吾乎 不通跡念莫
【語釈】 ○湊入の葦別小船 湊入りをする、葦を分けて進む小船。「湊入」は、船を湊に着ける意の称。「葦別」は、湊は船が小さかった関係で、大体河口などが多く、そうした所は葦が繁っているので、それを分けて進む意。意味で「障多み」にかかる序詞。○障多み 逢いに行こうとすると、障りになる用が多いので。○今来む吾を おっつけ行こうとするわれを。「来む」は、行かむを、女のほうを主としていっているもの。○よどむと念ふな 絶えるのだとは思うな。
【釈】 湊入りをする葦別け小船のように、障りとなることが多いので、おっつけ行くであろうわれを、絶えるのだとは思うな。
【評】 女の許へ行こうと思いながら、差支えが多くて遅れている男が、厭って行かずにいるかと女が気を揉もうかと隣れんでの心である。この序詞は、巻十一(二七四五)にも用いられており、左注の歌にもあるもので、慣用されていたとみえる。ここは、その男が船に関係をもっているごとく見て、調和するものとなっている。一般性をもった歌で、湊のある地の謡い物であったろう。船に寄せての歌。
或本の歌に曰はく、湊入《みなといり》に 蘆別小船《あしわけをぶね》 障《さはり》多《おほ》み 君《きみ》に逢《あ》はずて 年《とし》ぞ経《へ》にける
或本歌曰、湊入尓 蘆別小船 障多 君尓不相而 年曾經來
【解】 「君に逢はずて」は、「君」は、男で、男に逢わずしてで、したがって「障」は女の身辺のものである。上の歌の別伝ではなく、別の歌である。この序詞をもった歌が謡い物となっており、その三句までを基本にして、謡い替えた替え歌である。
2999 水《みづ》を多《おほ》み 上《あげ》に種《たね》蒔《ま》き 稗《ひえ》を多《おほ》み 択擢《えら》えし業《なり》ぞ 吾《わ》が独《ひとり》宿《ぬ》る
(346) 水乎多 上尓種蒔 比要乎多 擇擢之業曾 吾獨宿
【語釈】 ○水を多み上に種蒔き 「上」は、高田で、土地の高い所にある田。日本書紀巻二に、高田(あげた)、下田(くぼた)の訓がある。水が多いゆえに、水の少ない高田のほうに稲種を蒔いて。この水は山寄りの地の、自然に湧いて溜まる水。○稗を多み 稲苗にまじって生える稗の苗が多いゆえに。○択擢えし業ぞ 「択擢えし」は、当てた文字通り、その稗の苗を見分けて抜き取られたで、稗は稲の生育を甚しく害うものだからである。「業」は、農業で、ここは農事。「ぞ」は、指示。以上譬喩で、女が男から、稗のごときつまらぬ者として棄てられた意。○吾が独宿る われは独寝をすることであると詠嘆したもの。
【釈】 田に溜まり水が多いので、高田に稲種を蒔いて、稗が多くまじって生えたので、見分けて抜き棄てられた農事である。われは独寝をすることだ。
【評】 庶民の女の、男に棄てられた嘆きである。初句より四句までは、田の稗のごとくに棄てられたという意の譬喩であるが、それをこのように精細にいっているのは、この譬喩は、事が特殊なので、精細にいう必要があったからであるが、今一つは、精細にいうほうが、嘆きの気分を強めるからで、それがむしろ主である。しかしこれは類歌として、巻十一(二四七六)「打つ田にも稗は数多にありといへど択えし我ぞ夜一人宿る」がある。多分これに倣っての歌である。以下二首、田に寄せての歌。
3000 魂《たま》合《あ》へば 相宿《あひね》むものを 小山田《をやまだ》の 鹿猪田《ししだ》禁《も》る如《ごと》 母《はは》し守《も》らすも
靈合者 相宿物乎 小山田之 鹿猪田禁如 母之守爲裳
【語釈】 ○魂合へば相宿むものを 心が合ったので、一緒に寝もしようものを。○小山田の鹿猪田禁る如 山の田の、鹿や猪の荒らす田を番をするように。「小山田」の「小」は、接頭語。「禁る」は、守るで、稲が熟す頃は、番小屋で寝ずの番をしたのである。○母し守らすも 「母」は、女の母。「守らすも」は、守るの敬語で、慣用のもの。母が番をなされることよ。
【釈】 心が合ったので、一緒に寝もしようものを。山の田の鹿や猪の荒らす田を番をするように、母が番をなさることよ。
【評】 男が関係を結んでいる女の家へ忍んで行ったところ、女の母が娘の番をしていて逢えないので、昂奮していっているのである。「鹿猪田禁る如」は、油断なく番をしている意の譬喩である。自分たちを主張し、母を恨んでいる、全体として相応に烈しいものである。
(347) 一に云ふ、母《はは》が守《も》らしし
一云、母之守之師
【解】 結句の別伝で、母が番をしていらしたで、「守らしし」は、「守りし」の敬語。全体を過去とし、思い出としたのである。本文の昂奮した気分が失せて、著しく不自然なものとなる。
3001 春日野《かすがの》に 照《て》れる夕日《ゆふひ》の 外《よそ》のみに 君《きみ》を相見《あひみ》て 今《いま》ぞ悔《くや》しき
春日野尓 照有暮日之 外耳 君乎相見而 今曾悔寸
【語釈】 ○春日野に照れる夕日の 春日野に照っている夕日ので、遠く見送る意で「外《よそ》」に続き、以上その序詞。○外のみに君を相見て よそにばかり君を見ていて。○今ぞ悔しき 今は残念なことである。
【釈】 春日野に照っている夕日のように、よそにばかり君を見ていて、今は残念なことである。
【評】 女の歌で、男から求婚された時、冷淡に扱って、関係を結ぶまでに至らなかったのを、後悔している心である。序詞は実景を捉えたもので、夕日を見送りつつ、さびしい気分をもって思っていることをあらわしている。「外のみに君を相見て」は、冷淡に扱って、無関係に終わったことを、気分を通していっているものである。日に寄せての歌。
3002 あしひきの 山《やま》より出《い》づる 月《つき》待《ま》つと 人《ひと》には言《い》ひて 妹《いも》待《ま》つ吾《われ》を
足日木乃 從山出流 月待登 人尓波言而 妹待吾乎
【語釈】 ○妹待つ吾を 「を」は、感動で、ここはわれよというに同じ。
【釈】 山から出る月を待っていると人にはいって、妹の来るのを待っている我よ。
【評】 男が、家を離れたところで、妹に逢おうと約束して、その来るのを待っている状態である。戸外の密会は珍しくないことだったのである。巻十三(三二七六)の長歌の結尾の五句は、「妹」が「君」となっているだけの相違で、ほかはすべて同一で(348)ある。女が男の来るのを戸外に待つ歌は少なくないが、男が待つのは、絶無ではないがきわめて稀れである。巻十三の歌は謡い物であるから、その結尾だけを独立させ、女を男に替えて謡っていたものと思われる。
3003 夕月夜《ゆふづくよ》 五更闇《あかときやみ》の おほほしく 見《み》し人《ひと》ゆゑに 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
夕月夜 五更闇之 不明 見之人故 戀渡鴨
【語釈】 ○夕月夜五更闇の 「夕月夜」は、夕日は早く没して暗い意で、暁闇にかかる枕詞。「五更闇」は、明け方の闇。意味で「おほほし」に続き、以上その序詞。○おほほしく見し人ゆゑに ほのかに見かけた人だのにで、「人」は、女。
【釈】 夕月の頃の夜の、明け方の闇のように、ほのかに見かけた女であるのに、恋いつづけていることである。
【評】 類歌の多いもので、心の広い歌である。序詞も用例のあるものである。謡い物であったろう。以下七首、月に寄せての歌。
3004 ひさかたの 天《あま》つみ空《そら》に 照《て》る月《つき》の 失《う》せなむ日《ひ》こそ 吾《わ》が恋《こひ》止《や》まめ
久堅之 天水虚尓 照月之 將失日社 吾戀止目
【語釈】 略す。
【釈】 天上に照っている月の、失せて無くなろう日にこそ、わが恋もやもう。
【評】 男が女に対して、自分の恋の真実を誓った歌と思われる。それとすると自然な、よい歌である。
3005 望《もち》の日《ひ》に 出《い》でにし月《つき》の 高高《たかだか》に 君《きみ》を坐《いま》せて 何《なに》をか念《おも》はむ
十五日 出之月乃 高々尓 君乎座而 何物乎加將念
【語釈】 ○望の日に出でにし月の 十五夜に出て来た月ので、その中天に高く上っている意で、「高高」と続け、以上その序詞。○高高に君を坐(349)せて 「高高に」は、ここは待ち望む意ではなく、貴いさまにの意。「坐せ」に続く。「君を坐せて」は、あなたをお据え申して。「坐せて」は、いさせての敬語。○何をか念はむ 何の思うことがあろうかで、甚しく満足の意。「か」は、疑問の係。
【釈】 望の夜に出て来た月のように、高々に君をお据え申して、何の思うことがありましょうか。
【評】 月の夜、宴を開いたような場合に、招きに応じて客として来た身分ある人を迎え得た時、主人がその客に対して挨拶として詠んだ歌とみえる。「望の日に出でにし月の」は、眼前のさまを捉えて序詞としたものであるが、その客に譬えたもので、一首、明るく、正しく、要を得た歌である。
3006 月夜《つくよ》よみ 門《かど》に出《い》で立《た》ち 足占《あうら》して 往《ゆ》く時《とき》さへや 妹《いも》に逢《あ》はざらむ
月夜好 門尓出立 足占爲而 徃時禁八 妹二不相有
【語釈】 ○月夜よみ 月夜が好いゆえに。○足占して往く時さへや 「足占」は、あらかじめ目標を定め、左右の足を吉と凶とに定めて歩み進み、どちらの足で行き着くかによって吉凶を占う法かとされている。ここはそれをして吉と出て。「往く時さへや」は、往く今夜でさえもで、「や」は、疑問の係。○妹に逢はざらむ 妹に逢わないのであろうか。
【釈】 月がよく晴れているので、門に出て、足占をして吉と出て、往く今夜でさえも妹に逢わないのであろうか。
【評】 妻の身辺に妨げが起こって、いつも逢えずにいる男が、月の好い夜、足占の吉をはりあいにして、妻の許へ行こうとする時の心である。「往く時さへや」は、いつも違えずにいることからの疑いで、気分をとおしての助詞で、複雑な事情をあらわしているものである。月にそそのかされる心、嘆きながら暗くない心など、奈良京の歌である。
3007 ぬばたまの 夜渡《よわた》る月《つき》の 清《さや》けくは よく見《み》てましを 君《きみ》が光儀《すがた》を
野干玉 夜渡月之 清者 吉見而申尾 君之光儀乎
【語釈】 略す。
【釈】 夜空を移ってゆく月が、清かに照っているならば、よく見たろうものを。君が姿を。
(350)【評】 夜、男に逢って別れた翌日などに、女から男に寄せた歌である。闇の中で逢って、顔の見られなかった心残りの訴えである。家人の目を忍ぶ関係であればもとより、それでなくても、照明の得難かった時代とて、屋内にあっても、わずかに月光をたよりにして顔を見合う程度で、その夜は、それも無かった嘆きである。
3008 あしひきの 山《やま》を木高《こだか》み 夕月《ゆふづき》を 何時《いつ》かと君《きみ》を 待《ま》つが苦《くる》しさ
足引之 山呼木高三 暮月乎 何時君乎 待之苦沙
【語釈】 ○山を木高み 「木高み」は、木が高いので。○夕月を何時かと 「夕月」は、月初めの弦月で、西空に出る月。夕月がいつ出るのかと思って。以上、「待つ」の譬喩。
【釈】 山の木が木高いので、それに遮られる夕月を、いつ出るかと待つように、君を待っている心苦しさよ。
【評】 妻の夕方夫の来るのを待っている気分である。「夕月を何時かと」までは譬喩で、譬喩に力点を置いている歌である。眼前を捉えてのもので、女の住地をあらわしているものであるが、それとともに、精細にいうことによって、待つ気分をもあらわそうとしているのであるが、気分そのものにはなりきらない、その意味では一歩手前のものである。
3009 橡《つるばみ》の 衣《きぬ》解《と》き洗《あら》ひ 真土山《まつちやま》 本《もと》つ人《ひと》には 猶《なほ》如《し》かずけり
橡之 衣解洗 又打山 古人尓者 猶不如家利
【語釈】 ○橡の衣解き洗ひ真土山 「橡の衣」は、どんぐりの実を染料として染めた黒色の庶民の衣。「解き洗ひ」は、解いて洗うで、衣の材料は麻で、洗うと硬ばるところから、砧でまた打つ意で、その約音の「まつち」に続け、初二句その序詞。「真土山」は、大和国より紀伊国へ越える要路にあたっている山で、巻一(五五)以下しばしば出た。真土を、音の類似している意で、「本つ」の序詞としたもので、以上三句はその序詞である。序詞の中に序詞があるのである。○本つ人には猶如かずけり 「本つ人」は、古くから関係していた女。「猶如かずけり」は、やはり及ばないことであったで、「けり」は、詠嘆を含んだ過去をあらわす助動詞。
【釈】 橡の衣を解いて洗ってまた打つという真土山というように、本つ人にはやはり及ばないことであった。
【評】 多妻時代とて、男は新しい妻をもったが、もって見ると、やはり古妻のほうがまさっていたと感じた心である。「橡の衣(351)解き洗ひ其土山」という序詞は、その女は真土山に近く住んでいる者で、橡の衣を着る身分賤しい者で、また解き洗いをするような若くもない者であることを暗示しているものである。この序詞は、その中にまた序詞をもっているという複雑したものである。またその序詞は二つとも、音の類似をもって下に続けるという古風なものである。すなわち形としては古いものであるが、その複雑さは、気分を暗示するためのもので、その意味では新風のものであって、古風を離れずに新風を行なっているという特殊なものである。さらに一首全体としても、一般性をもった心を、露骨を避けて気分的に詠んでいるのであって、要するに新風の範囲の歌である。技巧の達者な歌である。山に寄せての歌。
3010 佐保川《さほがは》の 川浪《かはなみ》立《た》たず 静《しづ》けくも 君《きみ》に副《たぐ》ひて 明日《あす》さへもがも
佐保川之 川浪不立 靜雲 君二副而 明日兼欲得
【語釈】 ○佐保川の川浪立たず 「佐保川」は、巻一(七九)以下しばしば出た。奈良京時代の貴族の住宅地で、そこの川。川浪が立たずしてで、意味で「静けく」と続き、以上その序詞。○静けくも君に副ひて 心静かに君に添うて。○明日さへもがも 今夜だけではなく、明日も過ごしたいものであるで、「もがも」は、所望。
【釈】 佐保川の河浪が立たずに静かなように、心静かに君に添うて、明日の日もいたいものであるよ。
【評】 妻が夜、通って来た夫に対して訴えている歌である。序詞は譬喩の心のもので、眼前を捉えたものである。物静かに、柔らかく、品位をもっていっている歌で、奈良京の身分ある階級を思わせるものである。以下十首、河に寄せての歌。
3011 吾妹子《わぎもこ》に 衣春日《ころもかすが》の 宜寸川《よしきがは》 よしもあらぬか 妹《いも》が目《め》を見《み》む
吾妹兒尓 衣借香之 宜寸川 因毛有額 妹之目乎將見
【語釈】 ○吾妹子に衣春日の 吾妹子に衣を借すを地名の春日の「かす」に転じたもので、「衣」までの八音は、「かす」の序詞。○宜寸川 春日山の北水屋峯から流れ出して、佐保川に合流する小川。同音で「よし」に続き、上三句序詞。○よしもあらぬか 「よし」は、方法。「あらぬか」は、無いのか、あってくれよで、願望。○妹が目を見む 妹の顔を見よう。
【釈】 吾妹子に衣を借すという、その春日の宜寸川のように、よしが無いのか、あってくれよ、妹の顔を見よう。
(352)【評】 妹の身辺に妨げが起こって、相逢う方法の絶えている男の嘆きである。「宜寸川」を捉えているのは、上の歌と同じく妹の往地と取れる。序詞の中に序詞を含ませている点、「吾妹子に衣」といって、妹との関係の深さを気分としてあらわしている点も、上の歌と同様で、同時期の歌を思わせる。四、五句を倒句としているのは、序詞よりの続きの関係上、そうせざるを得なかったためである。春日の地を重く扱っている点から見て、明らかに奈良京の歌である。この時代は、新風を慕うとともに、古風を復活させようとしていた時代であるから、このような歌風が起こったものと解される。
3012 との曇《ぐも》り 雨《あめ》ふる川《かは》の さざれ浪《なみ》 間《ま》なくも君《きみ》は 念《おも》ほゆるかも
登能雲入 雨零川之 左射礼浪 間無毛君者 所念鴨
【語釈】 ○との曇り雨ふる河の 「との曇り」は、空が一面に曇って。「雨ふる川」は、雨がふるを布留に転じたもので、「雨」までの七音はその序詞。「ふる川」は、上の(二九九七)の「石上布留の高橋」とあった布留川である。○さざれ浪 「さざれ」は、細かく、美しい意で、さざれ石のそれと同じ。意味で「間なく」と続き、初句よりこれまでその序詞。○間なくも君は念ほゆるかも 絶え間なくも君は思われることであるよ。
【釈】 空が一面に曇って、雨がふるというに因みある布留川に立っているさされ浪のように、絶え間なくも君の恋しく思われることであるよ。
【評】 女が男を恋うて贈った形の歌である。布留川は女の住地の辺りのもの、「との曇り雨」は、心の晴れぬ意で、「さざれ浪」とともに、気分として本義につながっているものである。作歌態度は、上の二首と同じである。
3013 吾妹子《わぎもこ》や 吾《あ》を忘《わす》らすな 石上《いそのかみ》 袖布留河《そでふるかは》の 絶《た》えむと念《おも》へや
(353) 吾妹兒哉 安乎忘爲莫 石上 袖振川之 將絶跡念倍也
【語釈】 ○吾妹子や吾を忘らすな 「吾妹子や」は、「や」は、「よ」と同じで、呼びかけ。「吾を忘らすな」は、「あ」は、吾の古語。「忘らす」は、「忘る」の敬語で、女に対しての慣用。○石上袖布留河の 石上布留川の水のごとくで、「袖」は、袖振るの意で、布留の序詞。○絶えむと念へや 中絶しようと思おうか思いはしないで、「や」は、反語。
【釈】 吾妹子よ、我を忘れて下さるな。石上の、袖を振るというその布留川の水のように、中絶しようと思おうか、思いはしない。
【評】 石上の布留川のほとりに住んでいる男の、同じ地の女に、自身の真実を誓う意でいうとともに、女にも真実を求めたものである。訴えの気分をもっていっているので、柔らかく、甘さを帯びたものである。謡い物の匂いの濃い歌で、その心をもって詠んだものと思われる。
3014 三輪山《みわやま》の 山下《やました》響《とよ》み 行《ゆ》く水《みづ》の 水脈《みを》し絶《た》えずは 後《のち》も吾《わ》が妻《つま》
神山之 山下響 逝水之 水尾不絶者 後毛吾妻
【語釈】 ○三輪山の山下響み 「三輪山」は、神を祀る山で、神山と書かれている。「山下響み」は、山下に鳴り響いて。○水脈し絶えずは 「水脈」は、三輪川の瀬の中心で、水の高まっている部分の称。「絶えずは」は、絶えなかったならばで、永久に有るまじきことを仮想していっているもの。○後も吾が妻 将来もわが妻であるよ。
【釈】 三輪山の山下に鳴り響いて流れて行く水の、流れが絶えなかったならば、将来もわが妻であるよ。
【評】 男が女に対して、永久に愛の変わらないことを誓った歌である。初句から四句までは、永久の譬喩である。「三輪山の(354)山下響み行く水の」は、男女の住地の川を捉えているもので、「三輪山」は、守護神に誓っての心を暗示しているものである。調べが張って、結句が名詞止になっているので、力あるものとなっている。
3015 神《かみ》の如《ごと》 聞《きこ》ゆる滝《たぎ》の 白浪《しらなみ》の 面《おも》知《し》る君《きみ》が 見《み》えぬこの頃《ごろ》
如神 所聞瀧之 白浪乃 面知君之 不所見比日
【語釈】 ○神の如聞ゆる滝の 雷鳴のように聞こえる激流の。「神」は、鳴る神で、雷。「滝」は、激流。○白浪の 「白」を下の「知る」に類音で懸けて、以上その序詞。○面知る君が見えぬこの頃 「面知る君が」は、顔を見知っている君の。「見えぬこの頃」は、見えないこの頃であるよで、詠嘆を含めたもの。この二句は、下の(三〇六八)に「水茎の岡の吉葉を吹きかへし面知る児らが見えぬ頃かも」があり、成句に近いものであったとみえる。
【釈】 雷鳴のように聞こえる激流の白浪の、それに因みある顔を知る君の、見えないこの頃であるよ。
【評】 女の歌で、「面知る君が見えぬこの頃」が作意である。無関係の人を「君」といっているので、敬意をもっている男で、その人の見られないのに関心をもって、嘆きをほのめかしているのである。ひそかに懸想しているのである。「神の如聞ゆる滝の」は山川で、その男女の住地であるとともに、「君」と呼ぶ男の名声をも暗示しているものである。そのことも女の気分に影響しているものとみえる。山村の生活であるから、面知るということは普通のことであったろう。「面知る君」というごとき、恋愛の上でいうといささかなことを捉えて、これを一首の歌としたということは、聞く者も同感し得たからのことで、時代がそういう傾向を喜んだがためと思われる。
3016 山川《やまがは》の 滝《たぎ》にまされる 恋《こひ》すとぞ 人《ひと》知《し》りにける 間《ま》なく念《おも》へば
山川之 瀧尓益流 戀爲登曾 人知尓來 無間念者
【語釈】 ○山川の滝にまされる 「山川」は、山の川で、渓流。「滝」は、激湍。烈しさの譬喩。
【釈】 山川の激湍にもまさる烈しい恋をしていると、人が知ってしまったことである。間断なく思っているので。
【評】 片恋の悩みをしている男の、相手の女に訴えた形の歌である。恋の相手はもとより、恋をしているということすら、秘(355)密にするのが上代の習いであったから、「人知りにける」は、軽からぬことだったのである。調べが張っていて訴えの力をもったものとなっている。
3017 あしひきの 山川水《やまがはみづ》の 音《おと》に出《い》でず 人《ひと》の子《こ》ゆゑに 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
足檜之 山川水之 音不出 人之子※[女+后] 戀渡青頭鷄
【語釈】 ○山川水の 山川の水のようにで、以上譬喩で「音」にかかる序詞。○音に出でず 口に出さずにで、言い寄らずに。○人の子ゆゑに 「人の子」は、女の愛称で、かわゆい女ゆゑに。○恋ひ渡るかも 「かも」につき『新考』は、その原文「音頭鶏」は、漢土の三国時代の魏で、鴨の俗称とした字だと考証している。戯書。
【釈】 あしひきの山川の水の音を立てる、そのように口にも出さずに、あの可愛ゆい女のために、われは恋いつづけていることであるよ。
【評】 片恋をしている男の嘆きで、類想の多いものである。序詞は眼前のものである。気分化のある歌である。
3018 高湍《こせ》にある 能登瀬《のとせ》の川《かは》の 後《のち》もあはむ 妹《いも》には吾《われ》は 今《いま》にあらずとも
高湍尓有 能登瀬乃川之 後將合 妹者吾者 今尓不有十方
【語釈】 ○高湍にある能登瀬の川の 「高湍」は、所在未詳。能登を類音の「後」につづけ、以上その序詞。
【釈】 高湍にある能登瀬川の名に因みある、後にも逢おう。妹にはわれは、今でなくても。
【評】 高湍に妻をもっている男の、逢おうとして通って来て、妹に障りがあって逢えずに帰る時、妻を慰めていった形の歌である。巻十一(二四三一)人麿歌集の歌に、「鴨川の後瀬静けみ後も逢はむ妹には我は今ならずとも」があった。その歌によって作ったものである。謡い物には普通のことだったのである。
3019 あらひ衣《ぎぬ》 取替河《とりかひがは》の 河《かは》よどの よどまむ心《こころ》 思《おも》ひかねつも
(356) 浣衣 取替河之 河余杼能 不通牟心 思兼都母
【語釈】 ○あらひ衣取替河の 「あらひ衣」は、汚れた衣を洗った衣に取替える意で、「取替」にかかる枕詞。「取替河」は、『倭名類聚抄』に大和国添下郡に鳥貝郷がある。また、『新考』は、摂津国の三島郡に鳥飼の地があり、「替」を「かひ」と訓むのは用例があるといっている。所在未詳。○河よどの 「河よと」は、河の澱。同音で「よどまむ」にかかり、以上その序詞。○よどまむ心思ひかねつも 中絶しようということは、思いも得られないことであるよで、「心思ひ」の続きは、思いの意の上代語法である。
【釈】 洗った衣に取替えて着るという名の取替河の河澱のように、中絶しようということは、思い得られないことであるよ。
【評】 男が、関係を結んだ女に、その真実を誓って詠んだ歌である。「あらひ衣取替河」は、男女ともに目に見ている河で、同時に間接に女を讃える気分をあらわしているものである。
3020 斑鳩《いかるが》の 因可《よるか》の池《いけ》の 宜《よろ》しくも 君《きみ》を 言《い》はねば 念《おも》ひぞ吾《わ》がする
斑鳩之 因可乃池之 宜毛 君乎不言者 念衣吾爲流
【語釈】 ○斑鳩の因可の池の 「斑鳩」は、生駒郡法隆寺村(現、斑鳩町)で、聖徳太子の斑鳩宮のあった地。「因可の池」は、今は残っていず、所在は不明で諸説がある。「因可」は、類音で次の「宜し」にかかり、以上その序詞。○宜しくも君を言はねば 我にとって良いように君のことをいわないので。これは男が、自分以外に女をもっているという噂を聞いた意である。○念ひぞ吾がする 物思いを我はすることである。
【釈】 斑鳩の因可の池というに因みある、良いように君のことを人がいわないので、物思いを我はすることである。
(357)【評】 女が夫である男に贈った形の歌である。男が他に女をもっていると聞いて、気を揉んでいる訴えであるが、それを「宜しくも君を言はねば」と婉曲にいっているのは、そのためと取れる。男女とも斑鳩の地に住んでいる者である。類の多いことで、謡い物であったろう。池に寄せての歌。
3021 隠沼《こもりぬ》の 下《した》ゆは恋《こ》ひむ いちしろく 人《ひと》の知《し》るべく 歎《なげき》せめやも
絶沼之 下從者將戀 市白久 人之可知 歎爲米也母
【語釈】 ○隠沼の下ゆは恋ひむ 「隠沼の」は、水の出口のない沼の水の、下をとおって流れ出す意で、「下」にかかる枕詞。「下ゆは恋ひむ」は、心の中をとおしてだけ、すなわち心の中で恋いよう。
【釈】 隠沼の水のように、心の中でだけ恋いよう。はっきりと、人の知るように恋いようか、恋いはしない。
【評】 表面に現われそうなのを、現わすまいと抑制している心で、類想のきわめて多い歌である。以下三首、沼に寄せての歌。
3022 行方《ゆくへ》無《な》み こもれる小沼《をぬ》の 下思《したもひ》に 吾《われ》ぞもの念《おも》ふ この頃《ごろ》の間《あひだ》
去方無三 隱有小沼乃 下思尓 吾曾物念 頃者之間
【語釈】 ○行方無みこもれる小沼の 流れてゆく方がないので籠もっている沼ので、隱沼を具体的にいったもの。意味で「下思」につづき、以上その序詞。「小」は、接頭語。○下思に 心中に思うことで、名詞。
【釈】 水が流れて行くべき方がなく、籠もっている沼のように、下思いに嘆きをしている。この頃の間を。
【評】 男の片恋の悩みを女に訴えたものである。「この頃の間」は、求婚以来の期間である。実際に即して、心を尽くしていおうとしているので、抒情味のある歌となっている。
3023 隠沼《こもりぬ》の 下《した》ゆ恋《こ》ひ余《あま》り 白浪《しらなみ》の いちしろく出《い》でぬ 人《ひと》の知《し》るべく
(358) 隱沼乃 下從戀餘 白浪之 灼然出 入之可知
【語釈】 ○下ゆ恋ひ余り 心中に恋うるには余ってで、包み切れずに。○白浪のいちしろく出でぬ 「白浪の」は、意味で「いちしろく」の枕詞。はっきりと表面に現われた。
【釈】 隠沼のように心中に恋うるのには余って、白浪のようにはっきりと表面に現われた。人の知るほどに。
【評】 二首前の「隠沼の下ゆは恋ひむ」の連作のごとき形になっている歌である。恋の相として、いずれも一般的なものだからである。
3024 妹《いも》が目《め》を 見《み》まくほり江《え》の さざれ浪《なみ》 重《し》きて恋《こ》ひつつ ありと《つ》告げこそ
妹目乎 見卷欲江之 小浪 敷而戀乍 有跡告乞
【語釈】 ○妹が目を見まくほり江のさざれ浪 「妹が目を見まくほり」は、妹の顔を見たいと思うで、「見まく」は、「見む」の名詞形。「ほり」は、堀江の堀に転じ、「見まく」までの八音は、その序詞。「堀江」は、難波の堀江で、「さざれ浪」は、そこに立つ小波。意味で「重く」にかかり、以上はその序詞。序詞の中に序詞のあるものである。○重きて恋ひつつありと告げこそ 「重きて」は、続いてで、しきりにで、しきりに恋いつづけていると告げてくれよ。「こそ」は、希望の助詞。
【釈】 妹の顔を見たいと思う、それに因む堀江に立つさざ波のように、しきりに恋いつづけていると、妹に告げてくれよ。
【評】 難波の堀江のほとりにいる人の、妻のいるほうへ行こうとしている者に、しきりに妻に逢いたがっていると伝えてくれよと、伝言を頼む歌である。気分のみをいおうとしている歌で、背後の事実には触れていないが、その人は奈良京の官人で、久しい旅をして難波まで帰り、従者ともいうべき人が、先立って奈良へ帰ろうとするのに対しての伝言と見れば、自然なものになる。「妹が目を見まくほり江のさざれ浪」は、序詞中に序詞をもった複雑なもので、その調べの美しいのと相俟って、一見技巧的なものにみえるが、心としては、一首の本義に必要なもので、本来叙述とすべきものを、簡潔にするために序詞にしたものである。直叙はせず、気分をとおして事実に触れているのであるが、その上では精細を期しているのである。この精細は気分化を目的としてのものである。奈良朝の新傾向に向かっての歌である。堀江に寄せての歌。
(359)3025 石走《いはばし》る 垂水《たるみ》の水《みづ》の はしきやし 君《きみ》に恋《こ》ふらく 吾《わ》が情《こころ》から
石走 垂水之水能 早敷八師 君尓戀良久 吾情柄
【語釈】 ○石走る垂水の水の 岩の上を走る滝の水の。「垂水」は、垂れ下る水で、後世の滝の古語。譬喩の意で「はしきやし」にかかり、以上その序詞。○はしきやし君に恋ふらく 「はしきやし」は、愛すべきで、既出。「恋ふらく」は、恋うるの名詞形で、詠嘆を含むもの。愛すべき君に恋うることよ。○吾が情から わが情ゆえに。
【釈】 岩の上を走る滝の水のように、愛すべき君を恋うることよ。わが情ゆえに。
【評】 女のひそかに男に心を寄せている歌である。「石走る垂水の水の」は、女がその男に対しての感じで、さわやかに、流動的で、粗野ではない感じをあらわし得ている。含蓄のあるものである。「吾が情から」は、相手に関係なく、自身の心だけで働きかけていることをあらわしているものである。教養あり、洗練された心から生まれている歌で、奈良朝の歌である。垂水に寄せての歌。
3026 君《きみ》は来《こ》ず 吾《われ》は故《ゆゑ》無《な》み 立《た》つ浪《なみ》の しくしくわびし かくて来《こ》じとや
君者不來 吾者故無 立浪之 數和備思 如此而不來跡也
【語釈】 ○吾は故無み われは理由もなく。○立つ浪のしくしくわびし 「立つ浪の」は、意味で、「しくしく」にかかる枕詞。「しくしくわびし」は、しきりに、心楽しくない。○かくて来じとや このようにして結局来まいとするのであろうか。「来じとや」は、下に「する」の省かれている形。
【釈】 君は来ない。われはいわれもなく、立つ浪のようにしきりにつまらない気がする。このようにして、結局来まいとするのであろうか。
【評】 女の歌で、自分達の夫婦関係に対する気分をいったものである。夫に対しては、「君は来ず、かくて来じとや」と感じ、自分に対しては、「しくしくわびし」とはいっているが、「故無み」と断わって、必ずしも夫の来ないがゆえではないといい、自分もどうでもよいという意をいっているのである。このようなことを捉えて一首の歌とするということは、生活にとって、(360)生活気分というものが、いかに重いものかということを、自他ともに認め合わなくてはできないことである。奈良朝の歌と思われるが、時代がいかに気分本位になって来ていたかを思わせられる。詠み方も、独語をそのままに、三つの短文を連ねて一首としているもので、内容に即さしめて、散文的にいっているものである。特殊な歌である。浪に寄せての歌。
3027 淡海《あふみ》の海《うみ》 辺《へた》は人《ひと》知《し》る 沖《おき》つ浪《なみ》 君《きみ》をおきては 知《し》る人《ひと》も無《な》し
淡海之海 邊多波人知 奧浪 君乎置者 知人毛無
【語釈】 ○辺は人知る 「辺は」は、日本書紀巻二、海辺に「うみべた」の訓がある。岸寄りのほうはで、「は」は、「奥」に対させたもの。○沖つ浪 沖の浪で、心の奥の譬喩。○君をおきては知る人も無し 君を除いては知る人もない。
【釈】 近江の海の、岸寄りのほうは人が知っている。沖の浪のほうは、君を除いては知っている人がない。
【評】 近江の湖辺に住んでいる女が、同じくその地に住んでいる男に対して、その真実を誓った歌である。「沖つ浪」を心の底の譬喩にするのは、最も思い寄りやすいものである。明らかに謡い物である。以下三首、海に寄せての歌。
3028 大海《おほうみ》の 底《そこ》を深《ふか》めて 結《むす》びてし 妹《いも》が心《こころ》は 疑《うたがひ》もなし
大海之 底乎深目而 結義之 妹心者 疑毛無
【語釈】 ○大海の底を深めて 「大海の底を」は、意味で「深」にかかり、八音はその序詞。「深めて」は、深くしてで、心の底から。○結びてし妹が心は 関係を結んだ妹の心は。「結びてし」は、「て」の完了の助動詞を添えて強めたもの。○疑もなし 不安なく信じられる。
【釈】 大海の底のように心を深くして関係を結んだ妹の心は、不安のないものである。
【評】 男女関係の成り立った時、女が真実を誓うことをいったのに対して、男がそれを喜んで答えた形の歌である。当時の夫婦関係は、不安と動揺の伴いやすい状態であったから、「疑もなし」という語は、深い信頼をあらわしたものだったのである。「大海の底を」という序詞は、譬喩の心よりのもので、この男女は海べに生活していたものであろう。
(361)3029 佐太《さだ》の浦《うら》に 寄《よ》する白浪《しらなみ》 間《あひだ》なく 思《おも》ふをいかに 妹《いも》に逢《あ》ひ難《がた》き
貞能※[さんずい+内]尓 依流白浪 無間 思乎如何 妹尓難相
【語釈】 ○佐大の浦に寄する白浪 「佐太の浦」は、所在が未詳である。「白浪」は、意味で「間なく」にかかり、以上その序詞。○間なく思ふをいかに 「間なく思ふを」は、絶え間なく恋うているものをで、「を」は、詠歎。「いかに」は、『新訓』の訓。諸注さまざまに訓んでいる。どうして。○妹に逢ひ難き 妹に逢い難いのであろうかで、「き」は、「いかに」の結。詠嘆してのもの。
【釈】 佐太の浦に寄せている白浪のように、絶え間なく恋うているものを、どうして妹に逢い難いことであろうか。
【評】 深く思っていると、必ず逢えるものという信念をもち、そのかなわないのを訝かって嘆いているものである。この信念は、一般性をもったもので、ほかにも出ているものである。その地方の謡い物であったろう。
3030 念《おも》ひ出《い》でて 術《すぺ》なき時《とき》は 天雲《あまぐも》の 奥処《おくか》も知《し》らに 恋《こ》ひつつぞ居《を》る
念出而 爲便無時者 天雲之 奧香裳不知 戀乍曾居
【語釈】 ○念ひ出でて術なき時は 妹を思い出して、やる瀬のない時には。○天雲の奥処も知らに 「天雲の」は、天雲のごとくの意で下へかかる枕詞。「奥処も知らに」は、果ても知られずにで限りなくも。○恋ひつつぞ居る 恋い続けていることである。
【釈】 妹を思い出して、やる瀬のない時は、天雲のように、果ても知らずに恋いつづけていることである。
【評】 男の逢い難くしている妻を恋うてのもので、妻に贈った形の歌である。「念ひ出でて術なき時は」は、あくまで実際に即した言い方であり、「天雲の奥処も知らに」の副詞句は、上の実際に引かれて、「天雲」が実景であるかのように思わせるものとなっている。古風な、素朴な歌で、歌柄が大きく、調べが強いので、それによって生かされているのである。古風のよさを示している歌である。以下三首、雲に寄せての歌。
3031 天雲《あまぐも》の たゆたひやすき 心《こころ》あらば 吾《われ》をな憑《たの》め 待《ま》てば苦《くる》しも
(362) 天雲乃 絶多比安 心有者 吾乎莫〓 待者苦毛
【語釈】 ○天雲のたゆたひやすき心あらば 「天雲の」は、譬喩の意で、「たゆたふ」にかかる枕詞。「たゆたひやすき心あらば」は、動揺しやすい心があるならば。○吾をな憑め われをして憑ましめるなで、「憑め」は、下二段活用の他動詞で、連用形。○待てば苦しも 来るかと待っていると苦しいことであるよで、「も」は、詠嘆したもの。
【釈】 天雲のように動揺しやすい心があるならば、われを憑ませるな。来るかと思って待っていると苦しいことであるよ。
【評】 男が来ると約束をして来なかった夜の恨みで、女より訴えて贈ったものである。「たゆたひやすき心あらば」は、急に気が変わって来なかったと解し、それがすなわち男の心だとしたものである。昂奮しての心で、心弱さを包んでの腹立ちである。例の多い事であったろう。
3032 君《きみ》があたり 見《み》つつも居《を》らむ 伊駒山《いこまやま》 雲《くも》なたなびき 雨《あめ》は零《ふ》るとも
君之當 見乍母將居 伊駒山 雲莫蒙 雨者雖零
【語釈】 ○伊駒山 奈良京の西にあたり、奈良県生駒郡と大阪府枚岡市との境をなす山。ここは男のいる方面を示す目じるしとしているのである。
【釈】 君のいる辺りを見つづけていよう。伊駒山は雲がかからないでくれ。たとえ雨は降ろうとも。
【評】 女の男のいる空を眺めやつて、男を思っている心である。伊駒山を目じるしにしているのは、奈良京にいて、難波の空を思っているのであろう。雲がかかるなというのはもっともであ(363)るが、たとえ、雨が降ってもというのは無理である。男を思う気分がいわせる希望で、情痴に近いものである。それがこの歌の魅力になっているのである。
3033 中中《なかなか》に 如何《いか》に知《し》りけむ 吾《わ》が山《やま》に 燃《も》ゆる火気《けぶり》の 外《よそ》に見《み》ましを
中々二 如何知兼 吾山尓 燒流火氣能 外見申尾
【語釈】 ○中中に如何に知りけむ かえって、どうして知ったことであったろうかで、知ったことを悔いたもの。○吾が山に燃ゆる火気の その人の住んでいる里に接した山で、耕作地としていた山と思われる。「燃ゆる火気の」は、山畑を耕作するために、そこの草に火を放って焼く、その煙とみえる。きわめて普通の物としていっているからである。譬喩の意で「外」に続き、二句その序詞。○外に見ましを 無関係な者に見ていようものを。
【釈】 かえって、どうしてその人を知ったことであったろうか、わが山に燃える煙のように、よそに見ていようものを。
【評】 山村に住んでいる男の、女と関係し、恋しさの悩みから、関係したことを悔いている心である。「吾が山に燃ゆる火気の」は、その男の生活に即しての序詞で、新しく味わいのあるものである。悩ましさよりの悔いではあるが、全体としては淡泊で、しかし相応に思い入れはあって、部落生活に伴う粗野な趣のないものである。京の人の作であるか、あるいは部落に溶け入っていた文化があったためかはわからない。特殊な歌といえるものである。煙に寄せての歌。
3034 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ひ術《すべ》無《な》かり 胸《むね》を熱《あつ》み 朝戸《あさと》開《あ》くれば 見《み》ゆる霧《きり》かも
吾妹兒尓 戀爲便名鴈 ※[匈/月]乎熱 旦戸開者 所見霧可聞
【語釈】 ○恋ひ術無かり 恋いて術なくありで、恋しいが、どうする方法もなくて。○胸を熱み朝戸開くれば 胸が思いに燃えて熱いので、朝の戸を開けると。眠れずに夜を明かしたことを背後にしたもの。○見ゆる霧かも 見える霧であるよで、「かも」は、感動。吐く息が霧となるということは古くからいわれていることで、ここも霧を自分の吐いた息の溜まっているものと見たのである。
【釈】 吾妹子に恋しいが方法がなく、胸が燃える思いに熱いので朝の戸を開けると、目に見えて立っている霧であるよ。
(364)【評】 妻に逢い難い悩みをして、男の、我とわが感傷に浸っている心である。「見ゆる霧かも」と、朝霧を自身の嘆き明かした息かと見ているのである。これは事としては、当時は自然に聞こえるものであったろうが、それにしても昂揚した烈しい嘆きに伴うものとしてのことであったろう。この歌は「恋ひ術無かり」と説明した上、一夜を嘆いて明かしたという時間的な言い方をした上のことなので、それをもっともに感じさせる烈しさがないのである。実際に即しての気分としようとして、しかねた感のあるものである。
3035 暁《あかとき》の 朝霧隠《あさぎりごも》り かへりしに 如何《いか》にか恋《こひ》の 色《いろ》に出《い》でにける
曉之 朝霧隱 反羽二 如何戀乃 色丹出尓家留
【語釈】 ○暁の朝霧隠り 暁の朝霧に隠れて。○かへりしに 原文「反羽二」。『考』は、「羽」は「詞」の誤写だとして今のごとく訓み、「帰りしに」の意としている。『古義』は、「詞」を「し」の仮字に用いた例はないといって「羽」は、「為」の草書の誤写として、意は『考』と同じだとしている。『全註釈』は文字通り「かへらはに」と訓み、巻十二(二八二三)「かへらまに君こそ吾に」の「かへらまに」と同意語で、反対にの意の副詞だとしている。これはほかに用例のない語で、『考』の解したように「帰りしに」とすれば、語続きも、一首の意も穏当なものになる。『古義』の誤写説に随う。○如何にか恋の色に出でにける どうしてわが恋の表面に現われたのであったろうかで、「か」と「ける」は、係り結び。人に知られたことに対しての訝かりである。
【釈】 暁の朝霧に紛れて女の許から帰って来たのに、どうしてわが恋の表面にあらわれたことであったろうか。
【評】 人に知られるはずのないことが、訝かしくも知られたという嘆きである。「如何にか恋の色に出でにける」は、事を気分的にいおうとしたもので、それだけが特色である。
3036 思《おも》ひ出《い》づる 時《とき》は術《すべ》無《な》み 佐保山《さほやま》に 立《た》つ雨霧《あまぎり》の 消《け》ぬべく念《おも》ほゆ
思出 時者爲便無 佐保山尓 立雨露乃 應消所念
【語釈】 ○佐保山に立つ雨霧の 「佐保山」は、奈良京の北方の山。「雨霧」は、雨の降る折の霧で、雨靄である。ほかに用例のない語である。意味で「消」と続き、二句その序詞。○消ぬべく念ほゆ 「消」は、死の意で、命が消えそうに思われる。
(365)【釈】 思い出す時には、恋しさがやる瀬なくて、佐保山に立つ雨露のように、命が消えそうに思われる。
【評】 女の歌で、類想の多いものである。「佐保山に立つ雨霧の」は、女の住地が佐保で、おりから雨の多い季節であることをあらわしたものである。実際に即することによって新味を見せているものである。
3037 殺目山《きりめやま》 往《ゆ》き反《かへ》る道《みち》の 朝霞《あさがすみ》 ほのかにだにや 妹《いも》に逢《あ》はざらむ
〓目山 徃反道之 朝霞 髣髴谷八 扶尓不相牟
【語釈】 ○殺目山往き反る道の朝霞 「殺目山」は、和歌山県日高郡切目村(現、印南町)にあり、狼畑山の北側で熊野街道にあたっている。「往き反る道」は、旧訓「ゆきかふみち」。『新考』の訓。その街道を往く時にも帰る時にも見る朝霞で、意味で「ほのか」と続け、以上その序詞。○ほのかにだにや妹に逢はざらむ 「ほのかにだに」は、ちょっとだけでもで、「や」は、疑問の係。
【釈】 殺目山を越えての往きにも帰りにも見る朝霞のように、ちょっとだけでも妹に逢えないのであろうか。
【評】 殺目山を泊りがけに往復する男の、その付近に妻をもっていて、ちょっとだけでも逢えなかろうかと思慕した心である。語がこなれ、調べも柔らかで美しい歌である。その地方の謡い物だったと思われる。霞に寄せての歌。
3038 かく恋《こ》ひむ ものと知《し》りせば 夕《ゆふべ》置《お》きて 朝《あした》は消《け》ぬる 露《つゆ》ならましを
如此將戀 物等知者 夕置而 旦者消流 露有申尾
【語釈】 ○朝は消ぬる 朝には消えて行ってしまう。
【釈】 このように恋い悩むものと知っていたならば、夕方に置いて、朝には消えて行ってしまう露であろうものを。
【評】 きわめて類歌の多いもので、繰り返し謡われていたものであろう。この歌は著しく気分的で、調べが細く清らかで、明らかに奈良朝時代の風である。そこに特色がある。以下五首、露に寄せての歌。
3039 夕《ゆふべ》置《お》きて 朝《あした》は消《け》ぬる 白露《しらつゆ》の 消《け》ぬべき恋《こひ》も 吾《われ》はするかも
(366) 暮置而 旦者消流 白露之 可消戀毛 吾者爲鴨
【語釈】 ○夕置きて朝は消ぬる白露の 意味で「消」にかかる序詞。○消ぬべき恋も 「消」は、死の意。
【釈】 夕べに置いて朝には消えてしまう白露のように、命の消え失せそうな恋を我はしていることであるよ。
【評】 これも上の歌と同想の歌である。やや客観的に詠んでいる点がちがうだけである。
3040 後《のち》つひに 妹《いも》に逢《あ》はむと 朝露《あさつゆ》の 命《いのち》は生《い》けり 恋《こひ》は繁《しげ》けど
後遂尓 妹將相跡 旦霧之 命者生有 戀者雖繁
【語釈】 ○後つひに妹に逢はむと 将来、最後には妹に逢おうと思って。○朝露の命は生けり 朝露のごとく危うくなった命も生きているで、「生けり」は、生きあり。○恋は繁けど 「恋は繁けれど」の古格。
【釈】 将来、最後には妹に逢おうと思って、朝露のように消えかかって危うくなった命も生きている。恋は繁くあるけれども。
【評】 片恋の執着を感傷をとおしていっているもので、「朝露の命は生けり」は強さのあるものである。前の歌と同系統のものである。
3041 朝《あさ》な朝《あさ》な 草《くさ》の上《うへ》白《しろ》く 置《お》く露《つゆ》の 消《け》なば共《とも》にと 云《い》ひし君《きみ》はも
朝旦 草上白 置露乃 消者共跡 云師君者毛
【語釈】 ○朝な朝な草の上白く置く露の 意味で「消」にかかる序詞。○消なば共にと云ひし君はも 死ぬならば諸共にといった、あの人はなあで、今は遠ざかってしまった人を思った意。
【釈】 朝々を草の上に白く置いている露のように、死ぬならば諸共にといった、あの人はなあ。
【評】 女の歌で、以前は死も共にといっていた男が、今は無関係になっていることを対照して思い入っている心で、取材がすでに歌である。類歌のないものではないが、事実としては例の多いものであったろう。序詞は用例の多いものであるが、この(367)場合、気分として本義につながりをもち得ているものである。一首の気分が統一され、語もこなれているので、あわれのある歌となっている。
3042 朝日《あさひ》さす 春日《かすが》の小野《をの》に 置《お》く露《つゆ》の 消《け》ぬべき吾《わ》が身《み》 惜《を》しけくもなし
朝日指 春日能小野尓 置露乃 可消吾身 悟雲無
【語釈】 ○朝日さす春日の小野に置く露の 「小」は、接頭語。眼前の景として捉えているもので、「消」にかかる序詞。○消ぬべき吾が身惜しけくもなし 「消ぬべき吾が身」は、死にそうになっているわが身は。「惜しけく」は、惜しの名詞形。
【釈】 朝日のさしている春日野に置いている露のように、消え失せそうになっているわが身は、惜しいこともない。
【評】 片恋の悩みが極まって、命も惜しくなくなったということを、純気分的にいったもので、「消ぬべき吾が身惜しけくもなし」は、その意味では巧みな語つづきである。序詞は反対に眼前を写した形のものであるが、「朝日さす」は露の消える時で、本義の「消ぬべき」に緊密に照応させているもので、ここにも細かい気分がある。個人的の歌で、謡い物ではない。
3043 露霜《つゆじも》の 消《け》やすき我《わ》が身《み》 老《お》いぬとも 又《また》若《を》ち返《かへ》り 君《きみ》をし待《ま》たむ
霧霜乃 消安我身 雖老 又若反 君乎思將待
【語釈】 ○露霜の 水霜のごとくにで、譬喩として「消」にかかる枕詞。
【釈】 水霜のように消えやすいわが身の、老い衰えようとも、また若返って君を待とう。
【評】 この歌は、巻十一(二六八九)の、初句が「朝露の」となっているのと全く同じである。その別伝と見るべきものである。露霜に寄せての歌。
3044 君《きみ》待《ま》つと 庭《には》のみ居《を》れば うち靡《なび》く 吾《わ》が黒髪《くろかみ》に 霜《しも》ぞ置《お》きにける
(368) 待君常 庭耳居者 打靡 吾黒髪尓 霜曾置尓家類
【語釈】 ○庭のみ居れば 原文「庭耳居者」。「庭のみ」の続きに疑いをもち、『古義』は誤写説を立てている。『代匠記』の訓。庭にのみ居たのでで、庭は、屋前。○うち靡く 「黒髪」の枕詞。
【釈】 君を待つとて庭にのみ居たので、靡いているわが黒髪に霜の置いたことであった。
【評】 男の通って来るのを待って、待ち得なかった嘆きを、「霜ぞ置きにける」によってあらわしているものである。古い伝統のある歌で、それを謡い伝えて来た形の歌である。以下二首、霜に寄せての歌。
或本の歌の尾句に云ふ、白細《しろたへ》の 吾《わ》が衣手《ころもで》に 露《つゆ》ぞ置《お》きにける
或本歌尾句云、白細之 吾衣手尓 露曾置尓家留
【解】 「尾句」は三句以下である。白たえのわが袖に、露が置いたことであった。別歌ともみえるほどの量が変わっているが、やはり別伝で、本文の歌の古風なのを、誇張にすぎるとして、実際に即した形に謡いかえた歌と思われる。このほうが自然である。
3045 朝霜《あさじも》の 消《け》ぬべくのみや 時無《ときな》しに 思《おも》ひ渡《わた》らむ 気《いき》の緒《を》にして
朝霜乃 可消耳也 時無二 思將度 氣之緒尓爲而
【語釈】 ○朝霜の消ぬべくのみや 「朝霜の」は、譬喩で「消」の枕詞。「消ぬべくのみや」は、命が死にそうにばかりで、「や」は、疑問の係助詞。○時無しに思ひ渡らむ 時の差別なしに、絶えず思いつづけることだろう。○気の緒にして 「気の緒」は、息の続くことで、すなわち命。「にして」は、状態をあらわす語で、命の限りを。
【釈】 命も死にそうにばかりして、絶えず思い続けることであろうか。命の限りを。
【評】 片恋の悩みを久しくしている男が、その忘れられないことを心を尽くしていって、相手の女に訴えたものである。粘り強い語つづきによって気分をあらわそうとしている歌である。古風と新風との中間的な歌である。
(369)3046 ささ浪《なみ》の 波《なみ》越《こ》すあざに 降《ふ》る小雨《こさめ》 間《あひだ》も置《お》きて 吾《わ》が念《も》はなくに
左佐浪之 波越安※[斬/足]仁 落小雨 間文置而 吾不念國
【語釈】 ○ささ浪の波越すあざに降る小雨 「ささ浪」は、『代匠記』以来、諸注小波の意としたのを、『新考』は、地名とした。古語では小波を「さざれ浪」「さざら浪」とのみいって、ささ浪といった例はないからだといっている。それだと近江国滋賀郡の旧名で、湖辺の地である。「波越すあざに」は、「波越す」は、湖水の波が寄せて来て越すところの。「あざ」は、ほかに用例のない語である。田のあぜの転音かといい、また巻十四(三五三九)「崩岸の上に駒を繋ぎて」とある、その「あず」と関係のある語かともいう。「あず」は、断崖である。いずれその範囲の語と思われるが、湖の波が越すというところから見ると、あずに近いものであろう。小雨の間断なく降るのを譬喩として、「間を置きて」にかかる序詞。これは結句によって間を置かないことになるので、かかり得たのである。○間も置きて吾が念はなくに 間を置いてわが思っているのではないことなのにで、この二句は慣用句である。
【釈】 ささ浪の、湖の波の越すあざに降っている小雨のように、間を置いてわが思っているのではないことだのに。
【評】 楽浪に住んでいる男が、懸想している女にその恋を訴えたものである。四、五句は、巻十一(二七二七)「菅島の夏身の浦に寄する浪間も置きて吾が念はなくに」とあり、これを主想として、その地その地に適した序詞を繋いで謡い物としたとみえる。この歌の序詞は、湖辺に田をもっている農夫の、波が高く、小雨の降る日、その田を気づかって見廻りをするという、実際生活に即したことを捉えてのものである。実際に即しているがゆえに、おのずから新味のあるものとなってい、それがこの歌の価値となっている。主想への続きのやや不自然になっているのは、上のような態度で作ったものだからであろう。雨に寄せての歌。
3047 神《かむ》さびて 巌《いはほ》に生《お》ふる 松《まつ》が根《ね》の 君《きみ》が心《こころ》は 忘《わす》れかねつも
神左備而 巖尓生 松枝之 君心者 忘不得毛
【語釈】 ○神さびて巌に生ふる松が根の 「神さびて」は、ここは老木の神々しさをいつたもの。「巌」は、大岩。「松が根」は、松で、「根」は、その物が地に立っている意から添えたもの。神々しく大岩の上に生えている松のようにの意で、きわめて堅固なことの譬喩として、「君が心」にかけた序詞。○君が心は忘れかねつも 君の心は忘れることができないことよ。「つ」は、完了の助動詞で、強めたもの。
(370)【釈】 神々しく大岩の上に生えている松のような君の心は、忘れることのできないことよ。
【評】 妻が夫の心の堅実なのに対して、感謝している心である。不安と動揺の伴いやすかった当時の夫婦関係にあっては、それがなくて過ごしうることは、妻として感謝に値することであったろうが、それを歌にしたものはほとんど見えない。その意味でこの歌は珍しいものである。以下二首、樹に寄せての歌。
3048 御猟《みかり》する 雁羽《かりは》の小野《をの》の 櫟柴《ならしば》の 馴《な》れは益《まさ》らず 恋《こひ》こそまされ
御※[獣偏+葛]爲 鴈弱之小野之 櫟柴之 奈礼波不益 戀社益
【語釈】 ○御猟する雁羽の小野の櫟柴の 「御猟する」は、天皇の御猟をなさる。「雁羽の小野」は、「小」は、接頭語で、雁羽の野は、所在不明である。越後国に刈羽郡刈羽村があるが、御猟野であるから京に近い地でなくてはならない。「櫟柴」は、櫟はナラの木、柴は枝や小樹の称で、ナラの小樹。「櫟」を、類音の「馴れ」にかけたもので、以上その序詞。○馴れは益らず恋こそまされ 馴れることの方は増さないで、恋の方が増して来ることだ。
【釈】 御猟をする雁羽の野に立っている櫟柴というに因みある、馴れることの方は増さずに、恋の方が増さって来ることである。
【評】 結婚後ほどもなく、足を遠くしている夫に対して、妻の嘆いて訴えた歌である。序詞はこの男女につながりのあるものであろう。女は雁羽野に近く住み、男は御猟に何らかの役目をもっているのであろう。それでないと唐突にすぎるものである。「御猟」「雁」「益らず」「まされ」と、声調に重きを置いている歌である。謡い物であったことを思わせる歌である。
3049 桜麻《さくらを》の 麻生《をふ》の下草《したくさ》 早《はや》く生《お》ひば 妹《いも》が下紐《したひも》 解《と》かざらましを
櫻麻之 麻原乃下草 早生者 妹之下紐 不解有申尾
【語釈】 ○桜麻の麻生の下草 「桜麻」は、麻の一種であろうが、その物は不明である。「麻生」は、麻は「を」ともいい、その生えているところで、麻畑。「下草」は、麻の下に生える草。草は生えやすい意で、譬喩として、「早く生ひ」につづき以上その序詞。巻十一(二六八七)「桜麻の麻生の下草露しあれば」と出て、慣用に近い句。○早く生ひば 早く生まれたならば。○妹が下紐解かざらましを 「妹が下紐解く」は、夫である男のすることで、それをしないであろうものを。
(371)【釈】 桜麻の麻畑の下草の、早く生えるように、我がもし早く生まれたならば、妹の下紐を解かなかろうものを。
【評】 夫婦関係を結んでいる男が、その関係に深い歓びを感じ、もし自分が早く生まれていたならば、こうした関係は結ぶことができなかったろうと、思い入っていっているものである。「早く生ひば」という仮想は、必ずしも特殊のものとはいえないが、しかしある程度、人間というものを客観視する心がないと思い得ないものともいえる。背後に仏教思想があるように思われる。「桜麻の麻生の下草」は用例のあるものであるが、「早く生ひば」と続けるのは、庶民でなくては思い寄り難いであろう。夫婦関係を、「妹が下紐解く」といっているのも庶民的である。部落民の謡い物であったろう。以下二十七首、草に寄せての歌。
3050 春日野《かすがの》に 浅茅《あさぢ》標《しめ》結《ゆ》ひ 断《た》えめやと 吾《わ》が念《おも》ふ人《ひと》は いや遠長《とほなが》に
春日野尓 淺茅標結 斷米也登 吾念人者 弥遠長尓
【語釈】 ○春日野に浅茅標結ひ 春日野の浅茅原に、わが物としての標繩を結いめぐらして。これは茅を刈り草としようとしてのことで、実際に即してのこと。標繩は他人の触れることのできない物で、したがって断えることのない意で、譬喩として「断えめや」に続き、以上その序詞。○斷えめやと吾が念ふ人は この関係が絶えようか、絶えはしないとわが思っている人はで、「人」は、女。○いや遠長に その関係をいや遠く長くあらせよで、下に「あれ」が省かれている。
【釈】 春日野の浅茅原に標繩を結いめぐらして、その繩のように、この関係は絶えようか絶えはしないとわが思っている人は、同じく、いや遠く長くあれよ。
【評】 男が初めて関係を結んだ女に、自分の永久に関係を断たないことを誓い、女にも同じ心でいることを要求した歌である。「春日野に浅茅標結ひ」の序詞は、女が春日野に住んでいる者であることと、わが物とした意とをあらわしているものである。庶民の歌であるが、美しく巧みな作である。
3051 あしひきの 山菅《やますが》の根《ね》の ねもころに 吾《われ》はぞ恋《こ》ふる 君《きみ》が光儀《すがた》に
足檜之 山菅根乃 懃 吾波曾戀流 君之光儀尓
【語釈】 ○あしひきの山菅の根の 「山菅」は、山中に生ずる菅で、「根」を「ね」に続けたもので、以上その序詞。○ねもころに吾はぞ恋ふる (372)心の底より我は恋うていることである。
【釈】 あしひきの山菅の根に因みある、懇ろに我は恋うていることであるよ。君が姿に。
【評】 妻である女が、男に来訪を求めて贈った歌である。きわめて丁寧に、婉曲にいっているので、したがって特色のないものとなっている。
或本の歌に曰はく、吾《わ》が念《おも》ふ人《ひと》を 見《み》むよしもがも
或本歌曰、吾念人乎 將見因毛我母
【解】 四、五句の別伝としている。わが思っている人を見る方法が欲しいものであるで、「もがも」は、願望。これは男が、逢い難くしている女に、どうかして逢いたいというので、別歌である。
3052 杜若《かきつばた》 佐紀沢《さきさは》に生《お》ふる 菅《すが》の根《ね》の 絶《た》ゆとや君《きみ》が 見《み》えぬこの頃《ごろ》
垣津旗 開澤生 菅根之 絶跡也君之 不所見頃者
【語釈】 ○杜若佐紀沢に生ふる菅の根の 「杜若」は、咲きの意で、佐紀の枕詞。巻十一(二八一八)などに出た。佐紀沢に生えている菅の根が。「佐紀」は、奈良京の北の佐紀の地で、そこにある沢の菅の根の、引けば切れる意で「絶ゆ」に続き、以上その序詞。○絶ゆとや君が見えぬこの頃 我と絶えようとするのか、君の来ないこの頃であるよ。「絶ゆとや」は、「や」は、疑問の係助詞で、下に「する」が省かれたもの。
【釈】 佐紀沢に生えている菅の根が、引けば絶えるように、我と絶えようとするのであろうか、君の来ないこの頃であるよ。
【評】 男が足を遠くしているのに対して、女が、我と絶えようとするのであろうかと嘆いている心である。当時の夫婦関係は、足を絶てばそれが絶えることだったのである。全体としても、心は嘆きであるが、現われた形は、ほとんどよそ事のようで、調べも柔らかく、嘆きが見えない。こうした例は多く、謡い物として謡われていたものとみえる。
3053 あしひきの 山菅《やますが》の根《ね》の ねもころに 止《や》まず思《おも》はば 妹《いも》に逢《あ》はむかも
(373) 足檜木之 山菅根之 懃 不止念者 於妹將相可聞
【語釈】 ○あしひきの山菅の根の 上の(三〇五一)と同じで、「ねもころ」の序詞。○ねもころに止まず思はば 心の底から絶えず思ったならば。○妹に逢はむかも 妹に逢うであろうか。
【釈】 あしひきの山菅の根に因みある、懇ろに絶えず思ったならば、妹に逢うであろうか。
【評】 妨害があって妻に逢えずにいる男の、思えば思われるということを頼みにしている心である。類想の歌はしばしば出、詠み方も平凡である。調べには哀しみがある。謡い物であったろう。
3054 あひ念《おも》はず あるものをかも 菅《すが》の根《ね》の ねもころごろに 吾《わ》が念《も》へるらむ
相不念 有物乎鴨 菅根乃 懃懇 吾念有良武
【語釈】 ○あひ念はずあるものをかも 相思いをしているのではない人をで、「かも」は、疑問の助詞に、詠嘆の添ったもの。○菅の根のねもころごろに 「菅の根の」は、「ね」の枕詞。「ねもころごろに」は、「ねもころ」を畳んで強めたもので、心を尽くして。○吾が念へるらむ われは思っているのであろうか。
【釈】 相思いをしているのではないだろう人を、心を尽くしてわれは思っているのであろうか。
【評】 遠ざかりがちにしている男に、初めて、疑いの目を向けた女の心で、かすかな動揺を一首にしたものである。これほどの気分であるが、善良な心持で生かされて、味わいのある歌となっている。新傾向の範囲のものである。
3055 山菅《やますげ》の 止《や》まずて公《きみ》を 念《おも》へかも 吾《わ》が心神《こころど》の この頃《ごろ》は無《な》き
山菅之 不止而公乎 念可母 吾心神之 頃者名寸
【語釈】 ○山菅の止まずて公を念へかも 「山菅の」は、同音で、「止ま」にかかる枕詞。「止まずて」は、やまずしてで、絶えず。「念へかも」は、念えばかもにあたる古格。「かも」は、疑問の係。やまずも君を思っているからであろうか。○吾が心神のこの頃は無き 「心神」は、「神」は、「利」と同じく、心の働き。「無き」は、「かも」の結で、連体形。詠嘆してのもの。巻三(四五七)、巻十一(二五二五)に出た。心の働きがな(374)く、ぼんやりしていることであるよ。これは魂の遊離しようとしている状態で、重大なことだったのである。
【釈】 やまずも君を思っているからであろうか。わが心の働きのこの頃は無いことであるよ。
【評】 夫に疎遠にされている女の嘆きである。自身を主としていっているのは、「心神の無き」ということが、当時の信仰としては生命の危ういことで、重大なことだったからである。しかし調べにはそれほどの哀切なものをもってはいない。謡い物であったからだろう。
3056 妹《いも》が門《かど》 去《ゆ》き過《す》ぎかねて 草《くさ》結《むす》ぶ 風《かぜ》吹《ふ》き解《と》くな 又《また》顧《かへり》みむ
妹門 去過不得而 草結 風吹解勿 又將顧
【語釈】 ○妹が門去き過ぎかねて 妹が家の門を、行き過ぎ難くして。○草結ぶ そこにある草を結び合わせる。木の枝や草を結び合わせることは、そこにわが魂を結び籠める呪いで、ここは、無事で将来再び逢おうとの心からのことである。○風吹き解くな 風よ、吹いてこの結びを解くなで、解けると、呪いの力が失せるとしてである。○又顧みむ 再び立ち帰って来て妹を見よう。
【釈】 妹の家の門を行き過ぎ難くして、我はそこにある草を結び合わせる。風よ、吹いてこの結び目を解くな。再び立ち帰って来て妹を見よう。
【評】 ある期間、妻には逢えないと思う男の、妻に別れてその家を出たが、離れ去り難い心残りからひそかにしたことである。「草結ぶ」は、信仰からすることで、軽からぬことだったのである。三句で切り、四句で切り、結句でさらに全体を繰り返し説明する形の歌で、形も、調べも、その心に調和したものである。心は古風なむのであるが、詠み方は鋭く細かくて新風である。特殊な歌といえる。
一に云ふ、直《ただ》に逢《あ》ふまでに
一云、直相麻※[氏/一]尓
【解】 結句の別伝である。直接に逢う時までにで、「風吹き解くな」と倒句になっている形のものである。本文の「又顧みむ」も説明ではあるが、事の全体に対してのもので、思い入った気分を強めることが主になっているのに、これは単に四句の事柄の説(375)明にすぎないものとなり、著しく味わいを削いでいる。謡い物として平明を求めたためであろう。
3057 浅茅原《あさぢはら》 茅生《ちふ》に足《あし》踏《ふ》み 心《こころ》ぐみ 吾《わ》が念《おも》ふ児《こ》らが 家《いへ》のあたり見《み》つ
淺茅原 茅生丹足蹈 意具美 吾念兒等之 家當見津
【語釈】 ○浅茅原茅生に足踏み 浅茅原の茅を足に踏んで。「浅茅」は、丈の低い茅。「茅生」は、茅の生えている所で、茅と同じ。「足踏み」を、類音の関係で「心ぐみ」に続け、以上その序詞。○心ぐみ 形容詞「心ぐし」の語幹に「み」を接しさせて動詞化させたもの。「心ぐし」は巻四(七三五)に出た。物思いのために心の晴れぬ意。○吾が念ふ児らが 「児ら」は、「ら」は、接尾語で、女の愛称。
【釈】 浅茅原の茅を足に踏みというに因みある、逢えなさに心ぐく思って、わがかわゆい女の家のあたりを見た。
【評】 女の身辺に妨害が起こって、逢えないところから心結ぼれている男が、心やりに女の家の辺りを眺めやった心である。「浅茅原茅生に足踏み」は、男のその時の実際を捉えたものであろう。また、茅原は歩みにくいものであるから、その際の男の気分につながりが無いとはいえないが、しかしそれは薄弱にすぎるものである。語としてのつながりはない。強いていえば「足踏み」と「心ぐみ」と、類音の関係があるのみである。謡い物としてはそれでも足りるとして序詞にしたものと思われる。序詞と本義とのつながりを気分的にする傾向を、音のほうに移したとも見られるものである。本義は、当時としては例の多いもので、一般性をもった気分だったろう。謡い物であったろうが、新しく、気の利いた歌である。
一に云ふ、妹《いも》が 家《いへ》のあたり見《み》つ
一云、妹之 家當見津
【解】 本文の第四句の「児ら」が、「妹」となっているという別伝である。
3058 うち日《ひ》さす 宮《みや》にはあれど 鴨頭草《つきくさ》の 移《うつ》ろふ情《こころ》 吾《わ》が思《も》はなくに
内日刺 宮庭有跡 鴨頭草乃 移情 吾思名國
(376)【語釈】 ○うち日さす宮にはあれど 「うち日さす」は、宮の枕詞。「宮」は、宮廷で、多くの廷臣のいる宮廷ではあるが。○鴨頭草の移ろふ情 「鴨頭草」は、今の露草。その花を染料として衣を摺ると、色が褪せやすい意で、「移ろふ」にかかる枕詞。「移ろふ情」は、ほかの男に移る心は。○吾が思はなくに 「思はなくに」は、上の「情」を承けて、情思うと続ける古い語法のもの。移ろうとは思わないことだで、「に」は、詠嘆。
【釈】 うち日さす宮の中にはいるけれども、つき草のようにほかに心移ろうとは思わないことだ。
【評】 宮中に女官として仕えている女が、その夫に対して貞実を誓ったものである。宮中は多くの男性のいるところで、女官として立ちまじっていると、おのずから問題の起こりやすい所だったからである。采女以外の女官は、夫に対してこうした誓いをする必要があったのである。
3059 百《もも》に千《ち》に 人《ひと》は言《い》ふとも 月草《つきくさ》の 移《うつ》ろふ情《》 吾《》持《》【こころわれも】ためやも
百尓千尓 人者雖言 月草之 移情 吾將持八方
【語釈】 ○百に千に人は言ふとも いかに多く人は言い寄ろうとも。
【釈】 いかに多く男は言い寄ろうとも、月草のようにほかに移る心を我はもとうか、もちはしない。
【評】 上の歌と同じく、妻である女がその男に貞実を誓った歌である。夫妻別居しており、その関係も秘密にしてあったので、有夫の女と知らずに、男の言い寄ることはあったのである。初二句はその意味のものである。
3060 わすれ草《ぐさ》 吾《わ》が紐《ひも》に著《つ》く 時《とき》となく 念《おも》ひ渡《わた》れば 生《い》けりともなし
(377) 萱草 吾紐尓著 時常無 念度者 生跡文奈思
【語釈】 ○わすれ草吾が紐に著く 巻三(三三四)に既出。「萱草」は、今の「かんぞう」で、身に着けていると、恋の悩みを忘れるものとされていた。漢土より伝わったことで、詩経に、これを食うと憂いを失わせる草としている。「紐」は、下紐。○時となく念ひ渡れば 時の差別なく、すなわち絶えず人を思い続けているので。○生けりともなし 生きている心地もしない。
【釈】 わすれ草をわが下紐に着ける。絶えずも人を恋い続けているので、生きている心地もしない。
【評】 わすれ草の歌は、奈良朝に入ると著しく多く、これもその時代のものであろう。中国の古い詩文を通してのもので、彼にあっては憂いであったのが、我は恋の悩みとし、また、それを身に着けるのを一つの呪いとしたのである。日本化である。「生けりともなし」は慣用句である。
3061 五更《あかとき》の 目《め》ざまし草《ぐさ》と これをだに 見《み》つつ坐《いま》して 吾《われ》と偲《しの》はせ
五更之 目不醉草跡 此乎谷 見乍座而 吾止偲爲
【語釈】 ○五更の目ざまし草と 「五更」は、漏刻の水が五度変わる時で、それが暁だったのである。「目ざまし草」は、目を覚まさせる材料。「と」は、として。○これをだに見つつ坐して こんな品でも見つついらして。「坐して」は、いるの敬語。○吾と偲はせ 「吾と」は、われと思ってお偲びくださいで、「偲はせ」は、偲への敬語。
【釈】 明け方の目ざましの料として、こんな物でも御覧になりつづけていらして、わたくしと思ってお偲びください。
(378)【評】 女が形見としての品を男に贈って、それに添えた歌である。「これをだに」と、贈る物を軽くいうのは例のないことだが、ここは「吾と偲はせ」とある形見の品であるから、もっともといえる。品は何であるかわからない。「目ざまし草」は、ほかに用例のない語である。一首の歌に敬語を二つ用いているのも珍しい。
3062 わすれ草《ぐさ》 垣《かき》もしみみに 植《う》ゑたれど 醜《しこ》の醜草《しこぐさ》 なほ恋《こ》ひにけり
萱草 垣毛繁森 雖殖有 鬼之志許草 猶戀尓家利
【語釈】 ○垣もしみみに植ゑたれど 垣添いに繁く植えたが。「しみみ」は、しみしみの略で、しみは繁くで、それを強めたもの。○醜の醜草 「醜」は、醜いことで、罵る意の語。つまらないともつまらない草で。○なほ恋ひにけり やはり恋うたことであった。
【釈】 わすれ草を、垣添いに一面に植えたが、つまらないともつまらない草で、やはり恋うたことであった。
【評】 恋の悩みを忘れさせるという萱草を、垣添いに一面に植えたが、効験がなかったと腹を立てている歌である。わすれ草、その延長としての忘れ貝の歌には、この意のものが多い。もともと知識人の間から起こったもので、根の浅いものだったろうと思われる。謡い物であったろうと思われるが、「醜の醜草」という誇張した、調子のよい語は、謡う者にユーモラスな感を起こさせるものではなかったろうか。
3063 浅茅原《あさぢはら》 小野《をの》に標《しめ》結《ゆ》ふ 空言《むなごと》も 逢《あ》はむと聞《き》こせ 恋《こひ》の慰《なぐさ》に
浅茅原 小野尓標結 空言毛 將相跡令聞 戀之名種尓
【語釈】 ○浅茅原小野に標結ふ 浅茅原の野に、わが物であるしるしの標繩を張るで、場所がら、効果がなく、空しいことの意で「空言」にかかる序詞。「小野」の「小」は、接頭語。○空言も 空しい、実のない言葉にもで、嘘にも。以上三句は巻十一(二四六六)人麿歌集の歌の「浅茅原小野に標結ふ空言をいかなりと云ひて公をし待たむ」によったものである。○逢はむと聞こせ 逢おうとおっしゃい。「聞こせ」は、聞くの敬語で、言い給えの意である。○恋の慰に 恋の慰めのために。
【釈】 浅茅原である野に標繩を結いめぐらす空しいことのようなそら言にも、逢おうとおっしゃい。恋の慰めのために。
(379)【評】 男が疎遠にしていて、逢おうとはいって来ないのを悲しんで、女が、嘘にでも逢おうといってくださいと、訴えて贈った形の歌である。上三句は人麿歌集のもので、魅力あるものとして愛誦されていたところから、ただちにそれを取って、下二句だけを換えたものである。「逢はむと聞こせ恋の慰に」は、心としては絶望しての訴えで哀切なものであるが、形から見ると絶望しての上の遊びに近い趣があって、少なくとも暗さの無いものである。奈良朝に入っての謡い物の要求している気分から生まれたものと思わせる。それとしては上三句と調和しうるものになっていて、人麿歌集の歌の重厚味はないが、軽快味をもち得たものとなっている。謡い物として洗練された結果であろう。
或本の歌に曰はく、来《こ》むと知《し》らせし 君《きみ》をし待《ま》たむ。また柿本朝臣人暦の歌集に見ゆ。然れども落句少しく異《ことな》れるのみ。
或本歌曰、將來知志 君矣志將待。又見2柿本朝臣人麿歌集1。然落句小異耳。
【解】 上の歌の四、五句の別伝である。来ようと知らせて来た君を待とう、というのである。別伝とはいうが、内容が全く異なっていて、独立した別の歌である。上の歌と同じく人麿歌集の上三句を取り、それに下二句を添えたのである。これは謡い物として、平明を目標とした歌である。上の歌のもつ才華のないものである。「また柿本朝臣人麿の歌集に見ゆ」は、上に引いた巻十一の歌を指したのである。「落句少しく異れるのみ」は、落句は漢詩の律詩では最後の二句、絶句では結句を指す称である。ここは第四句の「いかなりと云ひて」が、「来むと知らせし」となっていることをいっているのである。
3064 人《ひと》皆《みな》の 笠《かさ》に縫《ぬ》ふといふ 有間菅《ありますげ》 ありて後《のち》にも 逢《あ》はむとぞ念《おも》ふ
人皆之 笠尓縫云 有間菅 在而後尓毛 相等曾念
【語釈】 ○人皆の笠に縫ふといふ有間菅 人が皆笠に編むという有間の菅。「縫ふ」は、編むの古語。「有間」は、摂津国有馬郡有馬(神戸市、三田市)辺りで、当時有名な菅の産地。巻十一(二七五七)に出た。「有」を同音の「あり」に続け、以上その序詞。○ありて後にも逢はむとぞ念ふ 「あり」は、現在の状態を続ける意で、生きながらえての後も、今のように逢おうと思うことだ。
【釈】 すべての人が笠に編むという有間菅の名に因む、在りながらえての後も、今のように逢おうと思っていることだ。
(380)【評】 男が女にその真実を誓った歌である。序詞は、男女が有間の者であることと、また女が人々から愛でられている者であることとを暗示しているもので、それを特色とした歌である。有問地方の謡い物であったろう。
3065 み吉野《よしの》の 蜻蛉《あきづ》の小野《をの》に 刈《か》る草《かや》の 思《おも》ひ乱《みだ》れて 宿《ぬ》る夜《よ》しぞ多《おほ》き
三吉野之 蜻乃小野尓 苅草之 念乱而 宿夜四曾多
【語釈】 ○蜻蛉の小野に刈る草の 「蜻蛉の小野」は、「小」は、接頭語で、吉野離宮に接している野。「草」は、屋根を葺く材料としての草の総称。刈った草の乱れる意で、下の「乱れ」にかかり、以上その序詞。○思ひ乱れて宿る夜しぞ多き 「思ひ乱れて」は、恋しさの嘆きに心が乱れて。「し」は、強意。「多き」は、「ぞ」の結で、連体形。詠嘆したもの。
【釈】 吉野の蜻蛉の野に刈る草のように、妹恋しさに心が乱れて寝る夜の多いことであるよ。
【評】 男の片恋の嘆きで、類想の多い歌である。巻十一(二三六五)に、「うち日さす宮道に逢ひし人妻ゆえに玉の緒の念ひ乱れて宿る夜しぞ多き」があり、序詞を変えればこの歌になりうる。蜻蛉地方の謡い物であったろう。
3066 妹《いも》待《ま》つと 三笠《みかさ》の山《やま》の 山菅《やますげ》の 止《や》まずや恋《こ》ひむ 命《いのち》死《し》なずは
妹待跡 三笠乃山之 山菅之 不止八將戀 命不死者
【語釈】 ○妹待つと 妹の我に靡くのを待つとて。この意は下の続きで明らかである。○三笠の山の山菅の 「山」を、同音で「止ま」に続けたもので、この二句はその序詞。挿入句である。○止まずや恋ひむ 絶えず恋うることであろうかで、「や」は、疑問の係。○命死なずは 命が死なないならばで、死ぬまでの間をの意。
【釈】 妹の我に靡くのを待つとて、三笠の山の山菅というに因む、やまずに恋うることであろうか。命が死なないならば。
【評】 片恋をしている男の、自身の心情を説明している歌である。「妹待つと」と、突然に言い出しているところは、思い入った気分をいっているごとくであるが、「三笠の山の山菅の止まず」と、山という音を三つまで重ねているところは、反対に謡い物風である。「止まずや恋ひむ命死なずは」は慣用句ともいえるものである。語続きも、一首の気分も、統一感の弱い、力のない歌である。
(381)3067 谷《たに》狭《せば》み 峰辺《みねぺ》に延《は》へる 玉葛《たまかづら》 延《は》へてしあらば 年《とし》に来《こ》ずとも
谷迫 峯邊延有 玉葛 令蔓之有者 年二不來友
【語釈】 ○谷狭み峰辺に延へる玉葛 谷が狭いゆえに、峰の辺りまで蔓が延びている葛。「玉葛」は、「玉」は、美称で、「葛」は、蔓草の総称。同音と譬喩で下の「延へ」に続き、以上その序詞。○延へてしあらば年に来ずとも 心が続いているならば一年にわたって来なかろうともで、下に「よし」の意が略されている。「し」は、強意の助詞。
【釈】 谷が狭いので、峰の辺りに延びている蔓草のように、心が続いているのであったら、一年にわたって来なかろうとも。
【評】 夫に疎遠にされ、ほとんど絶縁同様に扱われている女の、夫に訴えた歌である。恨みをいう余地もないとして、きわめて控え目に、せめて情だけは失いつくさないでくれと頼んでいるのである。序詞は女の見ている実景で、蔓草の蔓の長く続いているのを羨ましく思い、「玉葛」と美しくいって、それを譬喩としているのである、この序詞は、当時の夫婦関係にあっては、魅力あるものであったと見え、ほかにも愛用されているものである。あわれのある歌で、謡い物としてよく歌われていたとみえる。
一に云ふ、石葛《いはづな》の 延《は》へてしあらば
一云、石葛 令蔓之有者
【解】 上の歌の三、四句の別伝である。異なっているのは、三句「玉葛」が「石葛の」になっているだけである。「石葛」は石に這う葛かという。巻六(一〇四六)「石綱のまた変若ちかへり」とあるによっての訓である。「玉葛」を実際的にしようとしてのものとみえる。
3068 水茎《みづぐき》の 岡《をか》の若葉《くずは》を 吹《ふ》きかへし 面《おも》知《し》る児《こ》らが 見《み》えぬ頃《ころ》かも
水莖之 岡乃田葛葉緒 吹變 面知兒等之 不見比鴨
(382)【語釈】 ○水茎の岡の葛葉を吹きかへし 「水茎の」は、水々しい茎の生えている意で、岡にかかる枕詞かという。岡の葛の葉を、風が吹きひるがえして。葛の葉は裏が銀白色で、印象的なところから、気分で「面」と続け、以上その序詞。○面知る児らが見えぬ頃かも 顔を見知っているかわゆい女の、見えないこの頃であるよ。「児ら」は、「ら」は、接尾語で、女の愛称。上の(三〇一五)に、「面知る君が見えぬこの頃」とあり、愛用された語とみえる。
【釈】 水々しい茎の生える岡の葛の葉を、風が吹きひるがえして、その印象的な面を見せるに因みある、顔を見知っているかわゆい女の見えないこの頃であるよ。
【評】 部落生活をしている庶民の歌である。信仰上の行事のようなことで、部落の若い男女の寄り合うことのあった時、若い男の目についていた女が見えないことがあった時の歌であったろうと思われるものである。「面知る児ら」は、無関係な第三者としての言い方で、歌では指すところのある一人の女であるが、これを謡い物とすると、誰にも適用のできる語となるから、そういう意味で謡われもしたろうと思われる。成句を綴り合わせたような歌であるが、心が広く、形が美しくて、奈良京の歌風を思わせる歌となっている。
3069 赤駒《あかごま》の い行《ゆ》きはばかる 真葛原《まくずはら》 何《なに》の伝言《つてごと》 直《ただ》にし吉《え》けむ
赤駒之 射去羽計 眞田葛原 何傳言 直將吉
【語釈】 ○赤駒のい行きはばかる真葛原 赤駒が行き難くしている意の原。「赤的」は、栗毛の駒。「い行き」は、「い」は、接頭語。「はばかる」は、葛の蔓が脚に搦まって歩み難い意で、以上、夫である男が甚だしくも疎遠にしていることを妻が恨んで、隠喩としていっているもので、ここへ来るには、そうした原があるようにしていて、の意。○何の伝言 何で伝言などするのかと妻が腹を立てて激しく詰問している意である。○直にし吉けむ 自身、直接に来たらよかろうで、「し」は、強意の助詞。「吉けむ」は、「よけむ」の古語。
【釈】 栗毛の駒が歩き難くする葛原があるようにしていて、何で伝言などするのか。自身直接に来たらよかろう。
【評】 上にいったように、疎遠にしている夫が、たまたま伝言をして来たのに対して、妻が腹を立てて激していったもので、形の簡潔に、強く、飛躍をもっているのはそのためである。上三句より四句への続きは、一見続き難く見えるものであるが、本来庶民間の謡い物で、甚だしい疎遠を隠喩したものとただちに感じられたものと思われる。これは日本書紀、天智紀の十年に出ている歌で、そちらでは、天皇の崩御についで、皇太子である後の弘文天皇と、前皇太子である大海人皇子との間に不穏(383)の空気が湧いて来た時、童謡として謡われた四首の歌の一首である。童謡は神がその守護する人々に諭すために、無心の幼童をして謡わせる歌で、暗示的な歌である。これも弘文天皇の臣下によって醸されている不穏の空気を、天皇が直接交渉によって一掃されたらよかろうとの意である。しかし歌自体は相聞のもので、その意で謡い伝えられていたのを、採録してあったものとみえる。
3070 木綿畳《ゆふだたみ》 田上山《たなかみやま》の さな葛《かづら》 在《あ》りさりてしも 今《いま》ならずとも
木綿疊 田上山之 狭名葛 在去之毛 今不有十方
【語釈】 ○木綿畳田上山のさな葛 「木綿畳」は、木綿は楮の繊維で、神に供える物で、手にして供える意で、「た」にかかる枕詞。「田上山」は、滋賀県栗太郡にある、宇治川上流瀬田川にそそぐ大戸川の南側に位する山。主峰、太神山。「さな葛」は、さね葛ともいい、今の、びなんかずらの古称。その蔓が長く続いている意で「在りさり」と続け、以上その序詞。○在りさりてしも今ならずとも このように在りつつ時を過ごしても。今でなくても。
【釈】 木綿を畳み、手にするという田上山のさな葛のように、このようにしつづけて時を過ごしても。今でなかろうとも。
【評】 身辺に妨げの起こっている女が、男に訴えたもので、四、五句の主想は例の多いものである。主観はほとんど共通のもので、それに土地に即しての序詞を添えたもので、これは田上山付近の謡い物である。四、五句は飛躍が自然に行なわれていて、巧みである。
3071 丹波道《たにはぢ》の 大江《おほえ》の山《やま》の 真玉葛《またまづら》 絶《た》えむの心《こころ》 我《わ》が思《おも》はなくに
丹波道之 大江乃山之 眞玉葛 絶牟乃心 我不思
【語釈】 ○丹波道の大江の山の真玉葛 「丹波道」は、山城国から丹波国へ行く街道で、山陰道の要路。「大江の山」は、山城と丹波の国境、京都市右京区大枝町の西北にある山で、日本書紀、天武紀に、八年、そこに関を置かれた記事かある。「真玉葛」は、「真」は、接頭語で、玉葛。意味で「絶え」と続け、以上その序詞。○絶えむの心 関係を絶とうとする心で、助動詞「む」に、接続の助詞「の」の接している形は初めて出たもので、巻十四に今一か所あるのみである。
(384)【釈】 丹波街道の大江山にある玉葛のように、絶えようとする心は、我はもっていないことであるよ。
【評】 男より女に答えた歌で、男の疎遠にするのを恨んで、関係を絶えようとするのかと嘆いたのに対して、それを否定していったものである。大江山付近の謡い物である。
3072 大埼《おほさき》の 荒磯《ありそ》の渡《わたり》 延《は》ふ葛《くず》の 行方《ゆくへ》も無《な》くや 恋《こ》ひ渡《わた》りなむ
大埼之 有礒乃渡 延久受乃 徃方無哉 戀渡南
【語釈】 ○大埼の荒磯の渡延ふ葛の 「大埼」は、和歌山県海草郡の南部下津町大崎。そこの荒磯にある、海への渡り場に這っている葛で、這ってゆく先がない意で「行方も無く」に続き、以上その序詞。○行方も無くや恋ひ渡りなむ 行く所が無く、すなわちどうする目あてもなく恋いつづけることであろうか。「や」は、疑問の係。
【釈】 大埼の荒磯にある渡し場に這っている葛のように、伸びる所のない、目あてにする所もない恋を続けることであろうか。
【評】 遂げられる見込みのない片恋を久しくもしている男の嘆きである。序詞は譬喩の意のものであるが、実景から捉えたもので、新味のあるものである。大埼に住んでいる者の歌で、謡い物であったろう。心細かく、しみじみとしていて、文芸的な匂いがある。
3073 木綿※[果/衣]《ゆふづつみ》【一に云ふ、畳《たたみ》】 白月山《しらつきやま》の さな葛《かづら》 後《のち》もかならず逢《あ》はむとぞ念《おも》ふ
木綿※[果/衣]【一云、疊】 白月山之 佐奈葛 後毛必 將相等曾念
【語釈】 ○木綿※[果/衣]白月山のさな葛 「木綿※[果/衣]」は、ここにあるのみで、ほかには見えない語である。木綿で包んだ物で、神に供える物を包んだのであろう。「木綿畳」は、上に出た。木綿の白色であるところから、「白」にかけた枕詞。「白月山のさな葛」は、「白月山」は、所在不明である。「さな葛」は、上に出た。さな葛の蔓は、分かれても後にまた逢う意で、後も逢うと続け、以上その序詞。○後もかならず逢はむとぞ念ふ 後にもきっと逢おうと思っていることだ。
【釈】 木綿※[果/衣](木綿畳)白月山のさな葛の蔓のように、後にも必ず逢おうと思っていることであるよ。
(385)【評】 男が初めて逢った女に、別れる時に後を誓った歌である。「白月山」という地名が新しいだけで、ほかはすべて慣用句である。その土地の謡い物である。
或本の歌に曰く、絶《た》えむと妹《いも》を 吾《わ》が念《おも》はなくに
或本歌曰、將絶跡妹乎 吾念莫久尓
【解】 絶えようと妹のことをわれは思わないことだ。これは関係の久しい間での心で、内容が別である。謡い物のことで、いかようにも変えて謡ったのである。
3074 唐棣花色《はねずいろ》の 移《うつ》ろひやすき 情《こころ》あれば 年《とし》をぞ来経《きふ》る 言《こと》は絶《た》えずて
唐棣花色之 移安 情有者 年乎曾寸經 事者不絶而
【語釈】 ○唐棣花色の移ろひやすき情あれば 「唐棣花色の」は、はねずは今の庭梅で、花はうす紅で、それを染料としたもの。色の褪せやすい意で、「移ろひ」にかかる枕詞。「移ろひやすき情あれば」は、移り気な心なので。○年をぞ来経る 年が来て過ぎていることであるで、逢わない間の久しいことをいったもの。○言は絶えずて たよりだけは絶えなくてで、「絶えずて」は、絶えずして。
【釈】 はねず色のような移り気な心なので、逢わずに年が来て過ぎて行くことである。たよりだけは絶えなくて。
【評】 女が男を恨んだ歌である。少なくとも一年以上も逢わなくているが、我を思わないのではない、移り気で、それからそれへと相手を替えているので、そのために自分のところへは来ないのだと、その性質を知って、その上に立って恨んでいるので、珍しい歌である。「唐棣花色の」は枕詞ではあるが、その男の美しさも暗示しているものとみえる。世間に往々ある型の男で、そうした男を思っている女もありうることである。物語的な匂いのある歌である。
3075 かくしてぞ 人《ひと》の死《し》ぬといふ 藤浪《ふぢなみ》の ただ一目《ひとめ》のみ 見《み》し人《ひと》ゆゑに
如此爲而曾 人之死云 藤浪乃 直一目耳 見之人故尓
(386)【語釈】 ○かくしてぞ人の死ぬといふ このような状態で、人の死ぬということであるよで、「云ふ」は、「ぞ」の結、連体形。詠嘆したもの。甚しい物思いのために放心状態になる意。○藤浪の 「藤浪」は、藤の花のなよやかに咲いている状態で、藤の花のような。これは下の「人」に譬喩としてかかる枕詞。○ただ一目のみ見し人ゆゑに ただ一目見ただけの人なのに。
【釈】 このような状態になって人の死ぬということであるよ。藤浪のような、ただ一目見ただけの人なのに。
【評】 男がただ一目見た女に懸想して、その悩みから死ぬのではないかという気がし、そのようにまで思い込んだ白身に訝かりを感じている心である。「藤浪の」は枕詞であるが、女の美貌とともに、そのことのあった季節もあらわしているものであろう。気分本位の、線の細い詠み方の歌で、奈良朝の歌である。
3076 住吉《すみのえ》の 敷津《しきつ》の浦《うら》の 名告藻《なのりそ》の 名《な》は告《の》りてしを 逢《あ》はなくも恠《あや》し
住吉之 敷津之浦乃 名告藻之 名者告而之乎 不相毛恠
【語釈】 ○敷津の浦の名告藻の 「敷津の浦」は、大阪府住吉区住吉神社の西南方南加賀屋町と北島町の一部に、旧敷津村の地があり、今もその名が残っている。「名告藻」は、ほんだわらの古名で、同音で、「名は告り」にかかり、以上その序詞。○名は告りてしを 名は告げたものをで、女が男に名を告げるのは求婚に応じたことである。「て」は、完了の助動詞で、強め。○逢はなくも恠し 逢わないことは訝かしい。「逢はなく」は、逢わぬの名詞形。
【釈】 住吉の敷津の浦の名告藻というように、女は我に名は告ったものを、逢わないことは訝かしい。
【評】 女が求婚に応じたので、男が忍んで逢いにゆくと、女は逢わなかったので、訝かしく思ったのである。結婚は母には秘密にすることなので、母との関係で逢えないということはありうることである。当時は普通のことだったのである。住吉に住む男女で、その地の謡い物である。名告藻を名を告るに関係させての歌は多い。慣用となっていたので、これもそれである。以下五首、藻に寄せての歌。
3077 雎鳩《みさご》居《ゐ》る 荒礒《ありそ》に生《お》ふる 名告藻《なのりそ》の よし名《な》は告《の》らじ 父母《おや》は知《し》るとも
三佐呉集 荒礒尓生流 勿謂藻乃 吉名者不告 父母者知等毛
(387)【語釈】 ○雎鳩居る荒礒に生ふる名告藻の 「みさご」は、鳶に似て、それより大きく、山に住んで、水辺の魚類を食う鳥。「名告藻の」は、「名は告らじ」にかかり、以上その序詞。○よし名は告らじ ままよ、君の名はいうまい。夫婦とも相手の名を口外することは、その関係を薄弱にすることとして怖れたのである。○父母は知るとも 父母がこの関係を知ろうとも。
【釈】 みさごの居る海べの岩に生えている名告藻というように、ままよ君の名は告げまい。父母がこの関係を知ろうとも。
【評】 女がその男に貞実を誓った歌である。「よし」という副詞が、女の思い入った心を生かしている。男女とも海べに住んでいる者である。巻三(三六二)山部赤人の歌に、「美沙ゐる石転《いそみ》に生ふる名乗藻の名は告らしてよ親は知るとも」の左注に、(三六三)或本の歌に曰く、「美沙ゐる荒磯に生ふる名乗藻のよし名は告らせ父母は知るとも」とある。『古義』はこの歌はその「或本の歌」というのであるとし、四句「不告」は、「告世」の誤写だとしている。それだと男の女に求婚する歌となって来る。謡い物であって、或本の歌をこのように変えたと見るべきである。この種の歌が広く行なわれていたのである。
3078 浪《なみ》の共《むた》 靡《なび》く玉藻《たまも》の 片念《かたもひ》に 吾《わ》が念《おも》ふ人《ひと》の 言《こと》の繋《しげ》けく
浪之共 靡玉藻乃 片念尓 吾念人之 言乃繁家口
【語釈】 ○浪の共靡く玉藻の 浪の寄せるままに靡いている藻ので、その片寄る意で、「片念」に続け、以上その序詞。○片念に吾が念ふ人の 「人」は、男が女を指していっているもの。距離を置いていっているのである。○言の繁けく 噂の多いことよで、「言」は、男女関係。「繁けく」は、繁しの名詞形で、詠嘆してのもの。
【択】 浪の寄るがままに靡いている藻の片寄っているように、片思いにわが思っている人の、ほかの男との噂の多いことよ。
【評】 片思いに思っている女が、ほかの男に関しての噂の多いという、男の焦燥と嫉妬を扱ったものである。当時は例の多いことであったろうが、歌としては珍しいものである。「浪の共靡く玉藻の」という序詞も珍しい。一首新味の多いもので、個人的の歌にみえるが、調べが低いために叙事的な感のする歌となっている。海辺での歌である。
3079 海若《わたつみ》の 奥《おき》つ玉藻《たまも》の 靡《なび》き寐《ね》む 早《はや》来《き》ませ君《きみ》 待《ま》てば苦《くる》しも
海若之 奥津玉藻之 靡將寐 早來座君 待者苦毛
(388)【語釈】 ○海若の奥つ玉藻の 海の沖の玉藻の靡いている意で、「靡き」に続き、以上その序詞。
【釈】 海の沖にある藻の靡いているように、靡き寄って寝よう。早くいらっしゃいませ君。待てば苦しいことよ。
【評】 妻としての訴えであるが、露骨な、強い詠み方である。謡 い物の条件を完全に備えた歌である。
3080 海若《わたつみ》の 沖《おき》に生《お》ひたる 繩海苔《なはのり》の 名《な》はかつて告《の》らじ 恋《こ》ひは死《し》ぬとも
海岩之 奧尓生有 繩乘乃 名者曾不告 戀者雖死
【語釈】 ○繩海苔の 繩のような長い形をした海苔の称。今、海そうめんという物かという。「繩」を同意で、「名は」にかけ、以上その序詞。○名はかつて告らじ 君の名は決していうまい。その意は(三〇七七)に出た。○恋ひは死ぬとも 恋いて死のうとも。
【釈】 海の沖に生えている繩海苔に因みある、君の名は決して人にはいうまい。恋いて死のうとも。
【評】 親に遮られて、男に逢い難くしている女の、男にその衷情を訴えたものである。恋の悩みに思い乱れて死のうとも、関係を稀薄にする、相手の名をいうことは、断じてしまいといっているのである。序詞は巧みである、海辺の謡い物。
3081 玉《たま》の緒《を》を 片緒《かたを》に搓《よ》りて 緒《を》を弱《よわ》み 乱《みだ》るる時《とき》に 恋《こ》ひざらめやも
玉緒乎 片緒尓搓而 緒乎弱弥 乱時尓 不戀有目八方
【語釈】 ○玉の緒を片緒に搓りて緒を弱み 「玉の緒」は、玉を貫く緒。「片緒に搓りて」は、片緒は片糸ともいい、ただ一筋の糸の称で、それに搓りを掛けて。「緒を弱み」は、玉の緒が弱いので。普通の緒は、幾筋かの糸を搓り合わせるので、それに対させて、特別の緒として細叙したもの。緒が切れて、玉が乱れる意で「乱るる」に続け、以上その序詞。○乱るる時に恋ひざらめやも 「乱るる時に」は、心乱れる時で、そうした時は死を思わせられる時だったのである。「恋ひざらめやも」は、恋いずにいられようか、いられないで、「や」は、反語、「も」は、詠嘆。
【釈】 玉の緒を、片糸で搓って、緒が弱いので、切れて乱れるように、わが心の乱れて命危うい時に、恋いずにいられようか、いられない。
【評】 夫に疎遠にされて、恋しさから心が乱れて、死ぬような気のされた時、強く夫が恋しい心で、その夫に訴えた歌である。(389)序詞は、玉の緒としては特別なこととして細叙してあるが、「片緒に搓りて」は、夫を片思いのみしていることの譬喩、「緒を弱み」は、夫婦関係の薄弱な譬喩である。さらに玉は霊魂の宿る物、玉の緒は生命の同意語となっているので、その意も添っているのである。すぐれた技巧をもった、美しい歌である。以下三首、玉の緒に寄せての歌。
3082 君《きみ》に逢《あ》はず 久《ひさ》しくなりぬ 玉《たま》の緒《を》の 長《なが》き命《いのち》の 惜《を》しけくもなし
君尓不相 久成宿 玉緒之 長命之 惜雲無
【語釈】 ○君に逢はず 君に逢わずして。「ず」は、連用形。○玉の緒の長き命の 「玉の緒の」は、ここは長いものとして「長き」にかかる枕詞。反対に「短き」にも懸けている。いずれともいえるものだからである。「長き命」は、将来の長い命。○惜しけくもなし 「惜しけく」は、惜しの名詞形。
【釈】 君に逢わないで、久しくなった。玉の緒のような将来長い命も、惜しいこともない。
【評】 疎遠にしている夫に、妻の訴えた歌である。詠み方が説明的であるために、気分の現われていない歌である。
3083 恋《こ》ふること 益《まさ》れる今《いま》は 玉《たま》の緒《を》の 絶《た》えて乱《みだ》れて 死《し》ぬべく念《おも》ほゆ
戀事 益今者 王緒之 絶而乱而 可死所念
【語釈】 ○玉の緒の絶えて乱れて 「玉の緒の絶えて」は、玉の緒が切れて乱れるようにで、「乱れ」にかかる序詞。「乱れて」は、心乱れて。○死ぬべく念ほゆ 死にそうに思われるで、心の乱れるのは死ぬことだったのである。
【釈】 恋うる事の増さって来ている今は、玉の緒の切れて玉が乱れるように、心が乱れて死にそうに思われる。
【評】 上の「玉の緒を片緒に」の歌と、作意は全く同じで、あらわし方が異なっているのみである。異なっている点は、上の歌は、気分の具象化として事を扱っているのに、この歌は、事をいうことによって抒情をしようとしていることである。すなわち歌風の相違で、上の歌は奈良朝時代の新風であるのに、これはそれ以前の古風なものである。新古の風とはいっても、詠んだ時は同時代であるかもしれず、その点は不明である。
(390)3084 海処女《あまをとめ》 潜《かづ》き取《と》るといふ 忘貝《わすれがひ》 世《よ》にも忘《わす》れじ 妹《いも》が光儀《すがた》は
海處女 潜取云 忘貝 代二毛不忘 妹之光儀者
【語釈】 ○海処女潜き取るといふ忘具 海人の処女が海に潜り入って取るという忘貝。忘貝は一種の貝の名で、その物については諸説があって定まらない。その名によって、物を忘れさせる力があるとしたのである。同音の「忘れ」に続け、以上その序詞。○世にも忘れじ 「世にも」は、この世においての意で、決しての意の副詞で、下に否定を伴って、決してしないとなる。決して忘れまい。
【釈】 海人の処女が海に潜り入って取るという忘貝というように、決して忘れまい。妹の姿は。
【評】一人の女の美貌を讃えた、単純な歌である。序詞は慣用句で、京でいっていることを示している。貝に寄せての歌。
3085 朝影《あさかげ》に 吾《わ》が身《み》はなりぬ 玉《たま》かぎる ほのかに見《み》えて 去《い》にし児《こ》ゆゑに
朝影尓 吾身者成奴 玉蜻 髣髴所見而 徃之兒故尓
【語釈】 略す。
【釈】 略す。
【評】 巻十一(二三九四)の人麿歌集の歌の重出である。そちらでは「正に心緒を述ぶ」の部に収めてある歌をここでは虫に寄せての歌としている。「玉かぎる」の原文「玉蜻」の「蜻」を「かぎろひ」という虫と見たのである。以下二首、虫に寄せての歌。
3086 中々《なかなか》に 人《ひと》とあらずは 桑子《くはこ》にも ならましものを 玉《たま》の緒《を》ばかり
中々二 人跡不在者 桑子尓毛 成益物乎 玉之緒許
【語釈】 ○中々に人とあらずは なまなかに人として生きていずして。○桑子にもならましものを 「桑子」は、蚕。桑で養われている可愛ゆい(391)ものの意で、「子」は、愛称。○玉の緒ばかり 「玉の緒」は、ここは玉を貫く緒その物で、玉を貫く緒は、強く、美しい物にしようとして、絹糸を搓って作ったものとみえる。その意で、せめて玉の緒だけにもなりたいの意。
【釈】 なまなかに人として生きていずに、桑子にもなろうものを。玉の緒になるだけでも。
【評】 部落の女で、自身養蚕をしている時の心である。蚕は弱い虫で、大切に扱わないと繭を作らない。また、繭から取る糸や真綿は貴い物で、自身用いられる物ではなく、大体貢物となって貴い人の物となったのである。それで蚕を飼いつつその虫を羨む心を起こしての述懐の歌と取れる。貴人の身に添うことを羨む意で、相聞の心があるという程度の歌である。
3087 其菅《ますげ》よし 宗我《そが》の河原《かはら》に 鳴《な》く千鳥《ちどり》 間《ま》なし吾《わ》が背子《せこ》 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
眞菅吉 宗我乃河原尓 鳴千鳥 間無吾背子 吾戀者
【語釈】 ○真菅よし宗我の河原に鳴く千鳥 「真菅よし」は、「真」は、接頭語、「よし」は、感動の助詞で、「菅」を類音の関係で「宗我」に冠した枕詞。「宗我の河原」は、奈良県高市郡の曾我川の河原。檜隈川の下流である。「鳴く千鳥」を、譬喩として「間なし」に懸け、以上その序詞。○間なし吾が背子 絶え間がない、わが背子よ。
【釈】 真菅よし宗我の河原に鳴いている千鳥のように、絶え間がない、わが背子よ。わが恋うることは。
【評】 妻の夫に贈った形の歌である。四、五句は慣用句で、それを基本にして、その地、その時の実際を序詞の形にして添え、謡い物としたもので、型となっていたものである。この歌は「其菅よし」の枕詞に新味があり、一首全体としても、重厚味があって、よく熟した歌である。謡い物として歌われているうちに磨かれたものであろう。宗我川のほとりの謡い物である。以下九首、鳥に寄せての歌。
3088 恋衣《こひごろも》 著奈良《きなら》の山《やま》に 鳴《な》く鳥《とり》の 間《ま》なく時《とき》なし 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
戀衣 著楢乃山尓 鳴鳥之 間無時無 吾戀良苦者
【語釈】 ○恋衣著奈良の山に鳴く鳥の 「恋衣」は、ここにのみある語である。恋を、身から離れない意で衣に譬えたのである。着馴らすの意で奈良に続け、「恋衣著」までを「奈良」の序詞としたもの。「奈良の山」は奈良山で、奈良京の北方の山。「鳴く鳥の」を「間なく」と続け、上三句(392)その序詞。
【釈】 恋衣を着馴らすというに因みある、この奈良山に鳴いている鳥のように、絶え間もなくいつという差別もない。わが恋うることは。
【評】 上の歌の宗我河の千鳥が、奈良山の鳥となっているだけで、作意は全く同じである。奈良山近く住んでいる人の歌である。「恋衣著奈良の山に」に特色がある。巻六(九五二)に「韓衣服楢」という続きがあるので、それと関係あるものと思われる。謡い物的技巧である。上の歌に較べると心が細かく、線が細くて、訴える力はかえって劣っている。
3089 遠《とほ》つ人《ひと》 猟道《かりぢ》の池《いけ》に 住《す》む鳥《とり》の 立《た》ちても居《ゐ》ても 君《きみ》をしぞ念《おも》ふ
遠津人 ※[獣偏+葛]道之池尓 住鳥之 立毛居毛 君乎之曾念
【語釈】 ○遠つ人猟道の池に住む鳥の 「遠つ人」は、遠方の人で、遠くから来る者の意で雁を修飾し、同意の「猟」に転じて、それに冠した枕詞。「猟道の池」は、奈良県桜井市鹿路の地かという。多武峯東南の山地、吉野上市への道にあたる。池は今は無い。「住む鳥の」は、住んでいる水鳥で、その飛び立つ意で「立ち」と続け、以上その序詞。○立ちても居ても 「立ちても居ても」は、行動の全部で、いつの時もという意を具象的にいったもの。
【釈】 遠方の人、雁という名の猟道の池に住んでいる水鳥のように、立っても坐っても、絶えず君を思っていることである。
【評】 これも妻のその夫に訴えたものである。序詞と本義との続きが新しい。女は猟道のあたりの者で、「遠つ人」の枕詞は、男のやや離れた地の者であることを暗示していよう。謡い物である。
3090 葦辺《あしべ》ゆく 鴨《かも》の羽音《はおと》の 声《おと》のみに 聞《き》きつつもとな 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
葦邊徃 鴨之羽音之 聲耳 聞管本名 戀度鴨
【語釈】 ○葦辺ゆく鴨の羽音の 海岸の葦の辺りを飛んでゆく鴨の羽音のようにで、同音の「声」に続け、以上その序詞。○声のみに聞きつつもとな 噂ばかりを聞きつつ、よしなくも。
(393)【釈】 葦辺を飛んでゆく鴨の、羽音のように、ほのかに噂にばかり聞きつつ、よしなくも恋い続けていることであるよ。
【評】 男の求婚の歌である。ある程度身分ある者で、男は女の顔を見ないと取れる。三句以下は慣用句ともいえるもので、「葦辺ゆく鴨の羽音の」の序詞が特色がある。同音でかかる上に、譬喩として「ほのかに」の意をも持たせてあるもので、そこに新味がある。京の官人の海辺の地に旅をしていての歌でもあろうか。
3091 鴨《かも》すらも 己《おの》が妻《つま》どち 求食《あさり》して 後《おく》るるほどに 恋《こ》ふといふものを
鴨尚毛 己之妻共 求食爲而 所遺間尓 戀云物乎
【語釈】 ○鴨すらも己が妻どち求食して 鴨でさえも、自分の妻と一緒に餌をあさって。「妻どち」は、「どち」は、「等」の意で複数をあらわす語。ここは一緒に。○後るるほどに恋ふといふものを 妻が遅れて、距離ができる時には、妻を恋うて鳴くというのに。
【釈】 鴨でさえも、自分の妻と一緒に餌をあさって、妻が後れている時には、恋うということだのに。
【評】 妻である女の歌で、自身を鴨の雌鳥に引き較べて、それにも及ばない扱いを夫から受けていると感じて、嘆く意でいっているものである。夫が官人で、地方官に任ぜられて、単身任地へ行った後の心ででもあろう。それだと自然なものになる。個人的な歌で、熟した歌である。
3092 白檀弓《しらまゆみ》 斐太《ひだ》の細江《ほそえ》の 菅鳥《すがどり》の 妹《いも》に恋《こ》ふれや 寐《い》を宿《ね》かねつる
白檀 斐太乃細江之 菅鳥乃 妹尓戀哉 寐宿金鶴
【語釈】 ○白檀弓斐太の 「白檀弓」は、檀の木で造った白木の弓。弓を引く意から、「斐」の一音にかけた枕詞。「斐太」は、所在が明らかではない。作意から見て飛騨国ではなく、大和国内と思われるが、大和にはその名をもった地が二か所(御所市古瀬※[木+威]田、橿原市飛驛)ある。橿原市の飛騨であろうというが、「細江」との関係で疑われている。江は本来海に属しての称であるが、集中では、池でも何でも、水の湾入した所の称として用いているから、ここもその意のものである。○菅鳥の 「菅鳥」は、その名が伝わらず、したがって不明である。菅鳥のごとくにで、菅鳥は妻恋いをする鳥としている。○妹に恋ふれや 「恋ふれや」は、恋うればにやにあたる古格で、「や」は、疑問の係。自身のこと。○寐を宿かねつる 熟睡のできないことだった。
(394)【釈】 斐太の細江に住んでいる菅鳥のごとくに、我は妹を恋うているのであろうか。熟睡ができないことだった。
【評】 斐太の地に旅人として宿った人の歌で、一夜を宿っただけとみえるから、官人の公務の旅であろう。「妹に恋ふれや寐を宿かねつる」は、特色のあるものである。妹に恋うて眠れないということはじつに多いが、眠られないことの理由を求めて、妹に恋うたがためであろうかというのは珍しい。譬喩の意の序詞を用いていっているので、明らかに妹に恋うたのであるのに、このように疑問を伴わせていっているのは、奈良朝に入っての新しい気分であったろう。
3093 小竹《しの》の上《うへ》に 来居《きゐ》て鳴《な》く鳥《とり》 目《め》を安《やす》み 人妻《ひとづま》ゆゑに 吾《われ》恋《こ》ひにけり
小竹之上尓 來居而鳴鳥 目乎安見 人妻※[女+后]尓 吾戀二來
【語釈】 ○小竹の上に来居て鳴く鳥 篠竹の上に来て居て鳴いている鳥で、譬喩として「目を安み」に続けている。○目を安み 見る目が安らかなので。「安み」は、美しいのでというのを、感覚よりも気分を重んじて言いかえたもの。○人妻ゆゑに吾恋ひにけり 人妻なのに、われは恋うてしまったことだ。
【釈】 篠竹の上に来て鳴いている鳥のように、見る目が安らかなので、人妻であるのに、われは恋うてしまったことだ。
【評】 人妻に恋をした心持を、多くの感動をせずに説明したような歌である。「小竹の上に来居て鳴く鳥」は、人妻のことをいふ「目を安み」の譬喩であるが、移りが早くて、譬喩ということを没したがごとき続け方である。「鳥」は多分鶯というような小鳥で、その様子も声も可愛らしいというべきもので、「目を安み」というのがあたっているもので、それがただちに人妻を連想させるものだったとみえる。この譬喩は実際から捉えた、新味あるもので、それによって生かされている歌である。当時は人妻に対する心持がかなり自由なもので、その上に立っての歌である。
3094 物《もの》念《おも》ふと 宿《い》ねず起《お》きたる 朝明《あさけ》には わびて鳴《な》くなり 鶏《にはつとり》さへ
物念常 不宿起有 旦開者 和備弖鳴成 鶏左倍
【語釈】 ○わびて鳴くなり 物悲しく鳴いているで、「なり」は、指定する助動詞。○鶏さへ 鶏までも。「にはつとり」は、庭つ鳥で、「かけ」の枕詞であったのが、「かけ」の名となったもの。
(395)【釈】 物思いをするとて、寐ずに起きているこの夜明けには、もの悲しく鳴いている。鶏までも。
【評】 わが心ゆえに、鶏も一緒に物悲しく鳴いているというので、きわめて素朴な詠み方である。鶏に寄せての歌ではない。
3095 朝烏《あさがらす》 早《はや》くな鳴《な》きそ 吾《わ》が背子《せこ》が 朝明《あさけ》の容儀《すがた》 見《み》れば悲《かな》しも
朝烏 早勿鳴 吾背子之 旦開之容儀 見者悲毛
【語釈】 略す。
【釈】 朝烏よ、早くは鳴くな。わが背子が、帰ってゆく夜明け方の姿を、見れば悲しい。
【評】 朝烏に呼びかけていっている歌で、これも寄せての歌ではない。一般性をもった心で、形も平明である。謡い物となっていたものであろう。
3096 馬柵越《うませご》しに 麦《むぎ》喰《は》む駒《こま》の 詈《の》らゆれど 猶《なほ》し恋《こひ》しく 思《おも》ひかねつも
※[木+巨]※[木+若]越尓 麥咋駒乃 雖詈 猶戀久 思不勝焉
【語釈】 ○馬柵越しに麦喰む駒の 「馬柵」は、原文の文字は欅の若木の意で、その用材より当てたもの。仮名書きがあり、馬塞きの略である。厩の周囲の柵の称であるが、現在は厩の出入口に、横に渡す棒の称として用いている。馬柵越しに口だけ出して、飼料の麦を盗み喰いする駒ので、飼主に叱られる意で、「詈らゆ」と続け、以上その序詞。○詈らゆれど 男と結んでいる関係を絶てと罵られるけれど。○猶し恋しく やはり男が恋しくて。○思ひかねつも 木下正俊氏の訓。嘆きに堪えられない意で、巻四(五〇三)に既出。
【釈】 馬柵越しに麦を喰う駒のように罵られるけれども、やはり恋しくて、嘆きに堪えられぬことだ。
【評】 関係を結んだ男が、親の気にいらずに、逢うことを妨げられ遮られる歌は多いが、これは関係を絶てと、責められ罵られているもので、烈しいものである。「馬柵越しに麦喰む駒の」という譬喩による序詞は、部落生活の実状に即したもので、一首のもつ烈しさと調和しているものである。この序詞は魅力のあったものと見え、巻十四(三五三七)或本の歌にも出ている。以下四首、獣に寄せての歌。
(396)3097 さ檜《ひ》の隈《くま》 檜《ひ》の隈川《くまがは》に 馬《うま》駐《とど》め 馬《うま》に水《みづ》飲《か》へ 吾《われ》外《よそ》に見《み》む
左檜隈 檜隈河尓 駐馬 々尓水令飲 吾外將見
【語釈】 ○さ檜の隈檜の隈川に 「さ檜の隈」は、「さ」は、接頭語。「檜の隈」は、奈良県高市郡旧坂合村の地、今、明日香村に入り、檜前(ひのくま)の名が残る。下の檜の隈川の位置を示すもので、同音を重ねて語調をつくる古代の修辞法よりのものである。枕詞以前の枕詞である。○馬駐め馬に水飲へ 乗馬を駐めて、馬に水を飲ませよ。「かへ」は、食餌を与える意の語。○吾外に見む われはよそながら君を見よう。
【釈】 檜の隈の檜の隈川で乗っている馬を駐めて、馬に水を飲ませなさい。よそながら君を見よう。
【評】 檜の隈に住んでいる女が、朝の別れに名残りを惜しんで、しばらくでも長く君を見ようとの心でいっているものである。初二句は檜の隈を重ね、三、四句は馬を重ねて、声調の好さをねらっているもので、心のきわめて一般的なのと相俟って、典型的な謡い物である。古今和歌集巻二十に、大歌所の歌としてある「ささのくま檜の隈川に駒とめてしばし水かへ影をだに見む」は、この歌の流伝したものである。
3098 おのれゆゑ 詈《の》らえて居《を》れば ※[馬+総の旁]馬《あをうま》の 面高夫駄《おもたかぶだ》に 乗《の》りて来《く》べしや
於能礼故 所詈而居者 ※[馬+総の旁]馬之 面高夫駄尓 乘而應來哉
【語釈】 ○おのれゆゑ詈らえて居れば そなたのゆえで詈られているのに。「おのれ」は、ここは二人称として用いられている。本来一人称であるのを、二人称に転用したのである。それにつき、神名の大己貴も、「己」は、「な」にあてたものであり、古今和歌集、俳諧歌の「足引の山田のそほづおのれさへ我をほしといふ憂はしきこと」の「おのれ」も二人称である。降っては、相手を卑しめて呼ぶ称となっている。ここにのみある語であるが、口語としては当時用いられていたものと思われる。「詈らえて」は、恋愛関係で咎められて。○※[馬+総の旁]馬の 『代匠記』および『新考』の訓。黒の青味を帯びた毛色の馬。○面高夫駄に 「面高」は、面を高くあげて歩む。「夫駄」は、荷を負わせる下品な馬だと解している。それだと人夫の使う駄馬で、この語もここにあるのみのものである。口語であったとみえる。○乗りて来べしや 乗って来るということがあろうか、そうしたはずはないで、「や」は、反語。
【釈】 そなたのゆえに罵られているのに、※[馬+総の旁]馬の、面を高く挙げて歩む人夫の駄馬に乗って来るということがあろうか。
(397)【評】 女が男との恋愛関係で、周囲の者からひどく非難されているおりから、それと知らぬ男は馬に乗って、平気で訪うて来たのを、心無いことだと腹を立てての激語である。「※[馬+総の旁]馬の面高夫駄」というのは、激しての誇張かと思われる。背後の事情は左注で知られる。
右の一首は、平群文屋朝臣益人伝へ云ふ、昔、聞きけり、紀皇女竊に高安王に嫁ぎて、責めらえし時に、この歌を作り給ふ。但し高安王は、左降して伊与国の守に任《ま》けらえき。
右一首、平群文屋朝臣益人傳云、昔聞、紀皇女竊嫁2高安王1、被v嘖之時、御2作此歌1。但高安王、左降任2之伊与國守1也。
【解】 「平群文屋朝臣益人」について『全註釈』は正倉院文書、天平十七年二月二十八日の民部省解に、この人の署名があるので、その頃民部省に勤めていたことが知られ、したがってこの左注の記事の作られた時代が、ほぼ限定されるというのである。「紀皇女」は、天武天皇の皇女で、巻二(一一九)にその名がある。しかし吉永登氏は「昔聞」の「聞」を「多」の誤りとし、多紀皇女ではないかという説を出している。「高安王」は、大原高安である。和銅六年従五位下、養老元年従五位上、同三年七月、伊予国守となり、阿波讃岐土佐の三国を管せしむとあるから、この事のあったのは、その養老三年である。
3099 紫草《むらさき》を 草《くさ》と別《わ》く別《わ》く 伏《ふ》す鹿《しか》の 野《の》は異《こと》にして 心《こころ》は同《おな》じ
紫草乎 事跡別々 伏鹿之 野者殊異爲而 心者同
【語釈】 ○紫草を草と別く別く 「紫草」は、巻一(二一)以後しばしば出た。山野に自生する草で、その根を、紫色の染料とする、草の中で最上の物である。「別く別く」は、ほかの草と見分けを付け付けしてで、連続。○伏す鹿の野は異にして その紫草の上に臥す鹿の、その伏す野は異なっていて。○心は同じ その最上の物を選んでいる心は同じである。
【釈】 紫草を他の草と見分け見分けして、その紫草の上に臥している鹿の、牡と牝と伏している野は異なって、その紫草を選ぶ心は同じである。
【評】 女がその夫に贈った歌である。鹿に寄せて思いを陳べている歌で、一首全部鹿のことをいっているだけで、直接には自(398)分たちのことに触れていないが、同時に、それが全部自分たちのことになっているのである。鹿は自分たちを譬えたもので、広く鹿とのみいっているが、牝鹿牡鹿である。その鹿が自分の身を伏させる所は、野の紫草の上で、ほかの草とは選り分けて、そこにのみ限らせているというのは、自分たちがほかの多くの人には心を寄せず、ただ一人の、最上の人を選んで関係を結んでいる譬で、またほかには心を移さずにいる皆である。伏す野は異なっているというのは、絶えず逢うことはできない譬、心は同じだというのは、自分たちの関係に満足している心は同じだという譬である。要するに、我は君を最上の人として、君を思うほかには思う人もない。君もまた、我と同じ心であると信じているというので、婉曲に、美しく、自分と同様の心を男に求めているのである。表面は鹿のことを安らかに叙した形であるが、心としては妻としての女のもつ心で、かなり複雑した感情を、十分に織り込み得ている歌である。物に寄せて思いを陳ぶる上では典型的な歌で、優に文芸品となっている、特殊な歌である。奈良朝時代の身分あり教養ある階級の歌である。
3100 想《おも》はぬを 想《おも》ふと云《い》はば 真鳥《まとり》住《す》む 卯名手《うなて》の社《もり》の 神《かみ》し知《し》らさむ
不想乎 想常云者 眞烏住 卯名手乃社之 神思將御知
【語釈】 ○想はぬを想ふと云はば 心より思っていない人を、思うと偽っていったならば。○真鳥住む卯名手の社の 「真鳥」は、「真」は、美称で、代表的の鳥。鷲、鷹などであろう。真木が檜をさすと同系の語。「社」を讃える意でかかる枕詞。「卯名手の社」は、巻七(一三四四)に既出。橿原市|雲梯《うなて》にある神社で、祭神は事代主神。三輪の祭神につぐ尊い神である。○神し知らさむ 神が御処理なさろう。
【釈】 思わぬ人を思うと偽ったならば、真鳥の住んでいる雲梯の社にいます神が御処理なさろう。
【評】 男が女に対して、その誠実を誓った歌である。男女とも雲梯の神の守護する土地の者だったのである。生活の一切は神慮に支配されるとしていたので、この誓は絶対なものだったのである。神に寄せての歌。
(399) 問答の歌
【標目】 ここには作者未詳の問答歌が二十六首あり、次に羈旅発思と悲別歌があって、また問答歌が十首ある。後の十首は羈旅の歌であるのが相違点である。そして筑紫の地名の入った歌が多い。
3101 紫《むらさき》は 灰《はい》指《さ》すものぞ 海石榴市《つばいち》の 八十《やそ》の衢《ちまた》に 逢《あ》ひし児《こ》や誰《たれ》
紫者 灰指物曾 海石榴市之 八十街尓 相兒哉誰
【語釈】 ○紫は灰指すものぞ 「紫」は、ここは紫草の根から取った紫色の染料で、「灰指すものぞ」は、紫草の根から取った汁は、それに灰を混ぜることによって、初めて染料となるのである。紫の染料は灰を混ぜて成り立たせるものぞで、その灰は、椿の木の灰を最上としていたところから、その意味で「海石榴市」に続けている。心としては序詞であるが、形としては意味で続けているものである。○海石榴市の八十の衢に 奈良県磯城郡大三輪町金屋。歌垣の場所としていっている。上の(二九五一)「海石榴市の八十の衢に立ち平し」と出た。○逢ひし児や誰 逢った可愛い女はどういう人ぞと、その名を尋ねたのである。女の名を問うのは、求婚である。
【釈】 紫の染料は、灰を混ぜて成り立たせるものぞ。その灰を取る椿に因みある、この海石榴市の八十とある衢で行き逢った、可愛い女の君は、何という人であるぞ。
【評】 椿市での歌垣の時、そこに集まっている男女の間で、一人の男が一人の女に目を着けて求婚した心のものである。歌垣には結婚が付き物になっていたので、これは一般性をもった、普通のことだったのである。「紫は灰指すものぞ」は、心としては序詞で、貴い紫色も、灰を混ぜて一体とすること(400)によって初めて成り立つものだと、男女関係を暗示しているものである。気分としては重くつながっているものである。一首、心としては単純であるが、形は豊かに、柔らかく、大きく、それが魅力を成しているものである。椿市の歌垣の謡い物として、古くから伝わり、次第に洗練を加えられて来たものであろう。
3102 たらちねの 母《はは》が召《よ》ぶ名《な》を 申《まを》さめど 路《みち》行《ゆ》く人《ひと》を 誰《たれ》と知《し》りてか
足千根乃 母之召名乎 雖白 路行人乎 孰跡知而可
【語釈】 ○たらちねの母が召ぶ名を申さめど 「たらちねの」は、母の枕詞。上代は子は母とのみ一緒に居たので、母は親の代表だったのである。「母が召ぶ名」は、母より外の者は知らない名で、処女であることをもあらわした語。「申さめど」は、「紫は云々」を承け入れて、求婚に応じもしようが。「申す」は、敬語。○路行く人を誰と知りてか 「路行く人」は、知らない人の意。「誰と知りてか」は、どういう人と知っていえようかで、「か」は、疑問の係で、下に「申さむ」が略されている。言いさしの形で拒絶した意。求婚をする時には、男がまず自身の誰であるかを告げてするのである。ここは場所がら、男がそれをしなくて女に問うたのであるから、一応の拒絶は当然なことなのである。
【釈】 たらちねの母が呼んでいる名を申しもしようが、路を行く人の君をどういう人だと知って申せましょうか。
【評】 女の答えた歌で、男に対してある程度卑下して、すなおに、言いさしの形で拒絶しているのである。求婚された時の女の挨拶として、型のごとくなっていたものであろう。全体としてその場合に適したもので、これも熟しきった歌である。
右二首
3103 逢《あ》はなくは 然《しか》もありなむ 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》をだにも 待《ま》ちやかねてむ
不相 然將有 玉梓之 使乎谷毛 待八金手六
【語釈】 ○逢はなくは然もありなむ 逢わないことは、そうした都合もあるだろう。「逢はなく」は、「逢はぬ」の名詞形。「は」は、「使」に対させたもの。「然も」は、それに相応したもっともなことも。○玉梓の使をだにも 「玉梓の」は、使の枕詞。せめては使だけでも。○待ちやかねてむ 待つことができないのだろうかで、「や」は、疑問の係。
(401)【釈】 逢わないことは、そうした都合もあるのだろう。使だけでも待ち受け得ないのであろうか。
【評】 男の疎遠を恨んでの訴えである。気を置いての言い方をしたものである。
3104 逢《あ》はむとは 千遍《ちたび》念《おも》へど 在《あ》り通《がよ》ふ 人目《ひとめ》を多《おほ》み 恋《こ》ひつつぞ居《を》る
將相者 千遍雖念 蟻通 人眼乎多 戀乍衣居
【語釈】 ○在り通ふ人目を多み 「在り通ふ」は、「在り」は、眼前の状態の継続をあらわす語で、続いて往来している。「人目を多み」は、人目が多いので。
【釈】 逢いに行こうとは幾たびとなく思うが、続いて往来している人目が多いので、恋いつついることである。
【評】 一とおりの挨拶を、語を少し丁寧にしただけの歌である。
右二首
3105 人目《ひとめ》多《おほ》み 直《ただ》に逢《あ》はずて 蓋《けだ》しくも 吾《わ》が恋《こ》ひ死《し》なば 誰《た》が名《な》ならむも
人目太 直不相而 蓋雲 吾戀死者 誰名將有裳
【語釈】 ○蓋しくも吾が恋ひ死なば 「蓋しくも」は、もしも。後世は「蓋し」の形のみとなり、おそらくの意と転じた語。「恋ひ死なば」は、深く物思いをすると、魂が身を離れると信じていたので、単なる感傷語ではない。○誰が名ならむも 誰の評判になろうか、誰でもなく君の評判になろう。
【釈】 人目が多くて、直接に逢わなくていて、もしも我の恋死にをしたならば、誰の評判になることであろうか、あなたの評判になろうよ。
【評】 女の人目を憚って、逢うことを避けるのに対して、男が堪えかねて威嚇した歌である。「誰が名ならむも」ということが威嚇するに足りたということは、恋死にをさせることは社会悪だと認められていたからとみえる。そうした死霊を怖れると(402)いう利害関係も伴っていたかもしれぬが、時代の生活気分を思 わせるものである。
3106 相見《あひみ》まく 欲《ほ》しみしすれば 君《きみ》よりも 吾《われ》ぞ益《まさ》りて いふかしみする
相見 欲爲者 從君毛 吾曾益而 伊布可思美爲也
【語釈】 ○欲しみしすれば 旧訓。諸注さまざまに訓んでいる。いずれとも訓める字である。「見まく」は、名詞形。逢いたいと思っているのでを、力強くいおうとしてのもの。○いふかしみする 「いふかし」は、心の晴れぬ意である。疑わしの意の形容詞に「み」を添えて活かせたもの。気がふさがっていることだ。
【釈】 逢いたいことだと思っているので、君よりも我のほうがまきって、気がふさいでいることだ。
【評】 男の威嚇をさりげなく聞き流し、静かになだめている歌である。女のほうが地歩を占め得ている。関係を結んでいくばくもない頃の心であろう。
右二首
3107 うつせみの 人目《ひとめ》を繁《しげ》み 逢《あ》はずして 年《とし》の経《へ》ぬれば 生《い》けりともなし
空蝉之 人目乎繁 不相而 年之經者 生跡毛奈思
【語釈】 ○うつせみの 「人」の枕詞。
【釈】 人目が繁くて、逢わなくて年を経たので、生きている心地もしない。
【評】 説明に終始しているために、感の薄い歌となっている。
3108 うつせみの 人目《ひとめ》繁《しげ》くは ぬば玉《たま》の 夜《よる》の夢《いめ》にを 継《つ》ぎて見《み》えこそ
空蝉之 人目繁者 夜干玉之 夜夢乎 次而所見欲
(403)【語釈】 ○夜の夢にを継ぎて見えこそ 「夢にを」の「を」は、感動の助詞。「継ぎて見えこそ」は、続いて見えてくださいで、「こそ」は、願望の助詞。逢ってくださいの意。
【釈】 人目が繁かったら、暗い夜の夢で、続いて逢ってください。
【評】 「夢にを継ぎて見えこそ」は、一般的信仰で、特殊なものではない。これも前の歌と同じく、女のほうが落ちついていて、静かになだめているものである。
右二首
3109 ねもころに 思《おも》ふ吾妹《わぎも》を 人言《ひとごと》の 繁《しげ》きによりて よどむ頃《ころ》かも
慇懃 憶吾妹子 人言之 繁尓因而 不通比日可聞
【語釈】 ○ねもころに思ふ吾妹を 心を尽くして思っている吾妹であるものを。○よどむ頃かも 逢わずにいるこの頃であるよ。
【釈】 心を尽くして思っている吾味であるものを。人の評判の高いために、逢わずにいるこの頃であるよ。
【評】 この歌も説明のみのものである。素朴には詠んであるが、感の薄いものである。
3110 人言《ひとごと》の 繁《しげ》くしあらば 君《きみ》も吾《われ》も 絶《た》えむと云《い》ひて 逢《あ》ひしものかも
人言之 繁思有者 君毛吾毛 將絶常云而 相之物鴨
【語釈】 ○繁くしあらば 「あらば」は、旧訓「あれば」。『代匠記』の訓。「絶えむ」との照応からである。○絶えむと云ひて逢ひしものかも 関係を絶とうといって逢ったのであるかで、「かも」は、疑問の助詞。
【釈】 人の評判が高く立ったら、君もわれも、関係を絶とうといって逢ったのであるか。
【評】 男の、評判を憚って疎遠にしているという弁解に対して、女はそうしたことは今は気にもしない心をもって言い返したのである。真向から非難する心を、語を柔らげていっているので、皮肉のごとくなっている。関係のやや久しい間だと、妻として(404)むしろ普通の心である。善意の上に立ってのものである。
右二首
3111 すべもなき 片恋《かたこひ》をすと このごろに 吾《わ》が死《し》ぬべきは 夢《いめ》に見《み》えきゃ
爲便毛無 片戀乎爲登 比日尓 吾可死者 夢所見哉
【語釈】 ○すべもなき片恋をすと するすべもない片恋をしていることとてで、女の疎遠にしている男に対しての訴え。○吾が死ぬべきは われが死にそうなのは。心乱れがすれば、死ぬと信じていたので、さしたる誇張ではない。○夢に見えきや 夢に見えましたかで、「や」は、疑問。男を思っているので、その夢に見えるのは当然としてのもの。
【釈】 するすべもない片恋をしていることとて、近いうちに我の死にそうなのは、夢に見えたか。
【評】 疎遠にしている男に、威嚇をまじえての訴えである。「片恋」「死ぬべき」「夢」と続けている語は、拠りどころのあるものではなく、感傷よりの誇張の伴っているもので、謡い物風の技巧である。
3112 夢《いめ》に見《み》て 衣《ころも》を取《と》り著《き》 装《よそ》ふ間《ま》に 妹《いも》が使《つかひ》ぞ 先《さき》だちにける
夢見而 衣乎取服 裝束間尓 妹之使曾 先尓來
【語釈】 略す。
【釈】 いわれる通りに夢に見て、逢いに行こうと衣を取って着て、支度を整えているうちに、妹の使が先に来たことであった。
【評】 女の「夢に見えきや」と鋭く迫るのを承け入れて、男のおとなしく降参している歌である。これには上の歌よりも一段と誇張がある。謡い物として懸け合いで歌うのを聞く第三者は笑いを催したことであろう。初めから謡い物として作った歌と思われる。
右二首
(405)3113 在《あ》り在《あ》りて 後《のち》も逢《あ》はむと 言《こと》のみを 堅《かた》くいひつつ 逢《あ》ふとはなしに
在有而 後毛將相登 言耳乎 堅要管 相者無尓
【語釈】 ○在り在りて後も逢はむと 「在り」は、現在の状態を続けて生きて行っての意で、生きに生きて、将来も逢おうと。○堅くいひつつ 「いひ」は、原文「要」。この字は、下の(三一一六)に「不相登要之」とある。約束する意に使っている字である。固く約束をしながら。
【釈】 生きに生きて、将来も逢おうと堅く約束しながら、逢うことはしないで。
【評】 女の、疎遠にしている男に、恨んで贈った歌である。思い入っていっている気分の見える歌である。
3114 極《きは》まりて 吾《われ》も逢《あ》はむと 思《おも》へども 人《ひと》の言《こと》こそ 繁《しげ》き君《きみ》にあれ
極而 吾毛相登 思友 人之言社 繁君尓有
【語釈】 ○極まりて吾も逢はむと 「極まりて」は、旧訓。巻三(三四二)「極まりて貴き物は酒にしあるらし」とある。甚だ。○人の言こそ繁き君にあれ 巻四(六四七)に既出。世間の人の評判が多い君ではあることだで、「君」は、女の敬称。ほかの男とのとかくの噂が高いの意。
【釈】 甚だしくわれも逢いたいと思っているが、世間の評判の多い君ではあることだ。
【評】 女の恨みに対して、男の恨み返したものである。恨みではあるが、語少なく、余意のある、しかるべき男を思わせる歌である。調べも強く、さっぱりしている。
右二首
3115 気《いき》の緒《を》に わが気《いき》づきし 妹《いも》すらを 人妻《ひとづま》なりと 聞《き》けば悲《かな》しも
氣緒尓 言氣築之 妹尚乎 人妻有跡 聞者悲毛
(406)【語釈】 ○気の緒にわが気づきし 「気の緒」は、ここは、命に懸けて。「気づきし」は、溜め息を吐いて来たで、恋の嘆きをきわめて深くして来た。○妹すらを 妹であるのに。挙げてほかを類推させる助詞。「を」は、詠嘆。○人妻なりと聞けば悲しも 人妻であると人から聞くと悲しい。
【釈】 命を懸け溜め息を吐いて来た妹であるのに、人妻だと聞くと、悲しいことだ。
【評】 人妻とは知らずに恋をしたということは、当時の夫婦生活の状態では当然起こりうることである。歌は、男が失望した余りに、せめてもの心やりに贈った形のものである。思い詰めて来た恋の経過と、失望させられた悲しみとが対照的に扱われて、真実の気分で貫かれている歌である。真実が魅力になっている作である。
3116 吾《わ》が故《ゆゑ》に いたくな侘《わ》びそ 後《のち》遂《つひ》に 逢《あ》はじといひし こともあらなくに
我故尓 痛勿和備曾 後遂 不相登要之 言毛不有尓
【語釈】 略す。
【釈】 われのために甚だしく悲しみはなさるな。将来最後まで逢うまいといったこともないことだのに。
【評】 この歌で見ると、女はそれまで人妻ということはいわず、男の求婚に対してなま返事ばかりしていたことが知られる。それだと、人妻でありながら、男の恋を弄んでいたのであり、男の最後的な訴えに対しても、なお思わせぶりなことをいっているのである。当時の人妻というものの立場を示している歌である。男の歌の真摯なものである対照として、そのように取れる。
右二首
3117 門《かど》立《た》てて 戸《と》も閉《さ》してあるを 何処《いづく》ゆか 妹《いも》が入《い》り来《き》て 夢《いめ》に見《み》えつる
門立而 戸毛閇而有乎 何處從鹿 妹之入來而 夢所見鶴
【語釈】 略す。
【釈】 門の扉を立てて、雨戸も締めてあるのに、どこをとおって妹は入って来て、夢に見えたのであったろうか。
(407)【評】 女の夢を見た翌日、男が戯れに女に贈ったものである。夢に見えたということは、女がこちらを思っているからのこととして、その喜びを背後に置いてのものである。
3118 門《かど》立《た》てて 戸《と》は閉《さ》したれど 盗人《ぬすびと》の 穿《ほ》れる穴《あな》より 入《い》りて見《み》えけむ
門立而 戸者雖闔 盗人之 穿穴從 人而所見牟
【語釈】 略す。
【釈】 門を立てて、戸は締めてあったが、盗人の穿った穴から入って行って、君の夢に見えたのであったろう。
【評】 男のいうことを承け入れて、「盗人の穿れる穴より」という諧謔をまじえて、笑い返したのである。若く親しい夫婦間の明るい戯れである。
右二首
3119 明日《あす》よりは 恋《こ》ひつつあらむ 今夕《こよひ》だに 速《はや》く初夜《よひ》より 紐《ひも》解《と》け我妹《わぎも》
從明日者 戀乍將在 今夕彈 速初夜從 綏解我妹
【語釈】 ○明日よりは恋ひつつあらむ 明日からは、妹を恋いつつ過ごすことであろうで、旅へ出る前夜の心。
【釈】 明日からは恋いつつ過ごすことであろう。せめて今夜だけでも、早く宵のうちから下紐を解け、我妹よ。
【評】 こうした場合のこうした心は、上代の常識となっていたものである。類想の多いものである。
3120 今更《いまさら》に 寐《ね》めや我《わ》が背子《せこ》 新夜《あらたよ》の 全夜《ひとよ》もおちず 夢《いめ》に見《み》えこそ
今更 將寐哉我背子 荒田夜之 全夜毛不落 夢所見欲
(408)【語釈】 ○今更に寐めや我が背子 今さらに共寝をしようか、すべきではない、わが背子よ。「や」は、反語。○新夜の全夜もおちず 「新夜」は、新しく来る夜で、これから先の夜。「全夜」は、まる一夜さ。「おちず」は、漏れずして。これから先新しく来る夜の、まる一夜さを漏れずに。これは上の(二八四二)に「新夜の一夜もおちず」とあって、慣用句に近いものだったとみえる。○夢に見えこそ 夢に見えて下さいで、「こそ」は、願望の助詞。
【釈】 今さらに共寝などしようか、すべきではない、わが背子よ。それよりも、これから先新しく来る夜の、まる一夜さを漏れずに、わが夢に見えて下さい。
【評】 男の昂奮しているのに対し、女は反対に思い入って、しみじみとして物をいっている。この対照の際やかさが、興味となって来る。遠い旅立ちをする前夜など、男は緊張するにともない、精神的であるとともに肉感的にもなって来るのは、心が広く、そうした振幅がもてるからである。しかし女は、心が狭いため、一途に精神的になって来て、固定して振幅がなくなって来るのは、これは男女の通性ともいえるものである。今の場合もそれで、問答として番わせることによって、おのずからやや広い意味の人生味を展開するものとなっているのである。この問答にはこの意味での興味がある。これは問答歌ではないと現われないもので、その中でもこれは、際やかに現われているものである。
右二首
3121 吾《わ》が背子《せこ》が 使《つかひ》を待《ま》つと 笠《かさ》も著《き》ず 出《い》でつつぞ見《み》し 雨《あめ》の零《ふ》らくに
吾勢子之 使乎待跡 笠不著 出乍曾見之 雨零尓
【解】 これは巻十一(二六八一)の重出歌である。
3122 心《こころ》なき 雨《あめ》にもあるか 人目《ひとめ》守《も》り 乏《とも》しき妹《いも》に 今日《けふ》だに逢《あ》はむを
無心 雨尓毛有鹿 人目守 乏妹尓 今日谷相乎
【語釈】 ○心なき雨にもあるか 心ない雨であることよで、「か」は、詠嘆。○人目守り乏しき妹に 人の見ない間をねらっていて、逢うことの(409)乏しい妹に。○今日だに逢はむを せめて今日でも逢おうものを。
【釈】 心ない雨であるよ。人目を窺っていて、逢うことの少ない妹に、せめて今日でも逢おうものを。
【評】 人目のない日だと思って、妹に逢おうと思うと、雨に妨げられて外出のできない嘆きである。防雨衣がない時代で、雨の日は外出ができなかったのである。女の歌は、人目などということにはかかわりのない、晴れた夫婦関係とみえるのに、これは「人目守り乏しき妹」で、状態が異なっている。問答歌にするために、関係のない歌を組合わせた跡の明らかな歌である。謡い物としてはありうることである。
右二首
3123 ただ独《ひとり》 宿《ぬ》れど寐《ね》かねて 白《しろ》たへの 袖《そで》を笠《かさ》に著《き》 ぬれつつぞ来《こ》し
直獨 宿杼宿不得而 白細 袖乎笠尓著 沾乍曾來
【語釈】 ○袖を笠に著 わが袖を頭の上に翳《かざ》して、笠を着たようにして。普通、途中で不意に雨に遭った時にすることである。ここは笠を着る間をも惜しんでの意。
【釈】 ただひとりで寝たが、眠りかねて、白たえの袖を笠にして濡れながら来たことであるよ。
【評】 男が女に逢って、その真実を示すために、途中の労をいうことは型となっている。これもその範囲のものであるが、これは恋情の深さを示そうとしたものである。真実を示す必要はなくなっている間である。言い方が率直で、庶民的である。謡い物であろう。
3124 雨《あめ》も零《ふ》り 夜《よ》も更《ふ》けにけり 今更《いまさら》に 君《きみ》行《い》なめやも 紐《ひも》解《と》き設《ま》けな
雨毛零 夜毛更深利 今更 君將行哉 紐解設名
【語釈】 ○君行なめやも 『古義』の訓。下の(三一九八)に、「印南の河」に「将行乃河」と当てているのを証としての訓である。君は帰って行くべきであろうか、行くべきではないと、強く引留めたもので、「や」は、反語。○紐解き設けな 紐を解いて、寝る準備をしようよ。
(410)【釈】 雨も降り、夜も更けたことであるよ。今さらに君は帰るということがあろうか、そんなことは無い。紐を解いて寝る準備をしようよ。
【評】 この歌は、女が酒の相手などしていて、雨が降り出し、夜も更けたといって、強いて男を泊まらせようとする歌である。そうした女は遊行婦などであろう。上の歌とは全然関係のない歌を、雨と女とがあるので、強いて組合わせたものとみえる。上の歌に和《こた》えて謡われたものであろう。
右二首
3125 ひさかたの 雨《あめ》の零《ふ》る日《ひ》を 我《わ》が門《かど》に 蓑笠《みのかさ》著《き》ずて 来《け》る人《ひと》や誰《たれ》
久堅乃 雨零日乎 我門尓 蓑笠不豪而 來有人哉誰
【語釈】 ○ひさかたの 天にかかるのを、雨に転じさせての枕詞。○来る人や誰 「ける」は、『略解』で、本居宣長の訓。「来たる」の古語である。巻三(三八二)に既出。来ている人は誰であろうかで、誰でもなく背子だの意でいっているもの。
【釈】 雨の降っている日に、蓑笠も着ずに、わが家の門に来ている人は、誰であろうか。
【評】 「来る人や誰」は、誰でもない夫だと知っていていう語で、昂奮していっているのである。昂奮は、雨の中を雨具もなく来た夫の姿を見出だし、その真実に感じてのものである。素朴な詠み方ではあるが、劇的な趣をもったものである。設けて詠んだ歌と思われる。
3126 纏向《まきむく》の 痛足《あなし》の山《やま》に 雲《くも》居《ゐ》つつ 雨《あめ》は零《ふ》れども ぬれつつぞ来《け》る
纏向之 病足乃山尓 雲居乍 雨者雖零 所沾乍焉來
【語釈】 ○纏向の痛足の山に 奈良県磯城郡大三輪町穴師(旧纏向村)東方の山で、纏向の山の中の一つの蜂。○雲居つつ 雲がかかっていて。○ぬれつつぞ来る 「来る」は、上の歌と一致させての訓。「ぞ」の結で、連体形。
(411)【釈】 纏向の山の中の痛足の山に雲がかかっていて、雨は降るけれども、濡れながら来たことだ。
【評】 「趨向の痛足の山」は、男の住所に近い山で、飛鳥地方の人であったろう。落ちついた、昂奮のない歌で、女の歌とは際やかに異なっている。これも男女の通性の差を思わせる歌である。
右二首
羈旅《たび》に思を発せる
【標目】 旅にあっての思いを詠んだ歌で、例外もまじるが、すべて相聞の歌である。五十三首ある。最初の四首は人麿歌集の歌であるが、他は作者未詳である。(三一四四)以下は、衣、山、川、海、船、貝、雲、草の順に、歌に関係ある物によって分類をしている。
3127 度会《わたらひ》の 大河《おはかは》の辺《べ》の 若久木《わかひさぎ》 吾《わ》が久《ひさ》ならば 妹《いも》恋《こ》ひむかも
度會 大河邊 若歴木 吾久在者 妹戀鴨
【語釈】 ○度会の大河の辺の若久木 「度会」は、伊勢国(三重県)度会郡で、伊勢神宮鎮座の地。「大河」は、大きな河の意で、宮川であろう。大台が原に発し、多気郡、度会郡を東流して、伊勢市で海に入る。五十鈴川とする説(『代匠記』など)もある。「若久木」は旧訓「わかくぬぎ」。『考』の訓。「歴」は、「歴年」の意で、「久」の義訓だとしてである。以上同音の「久」にかかる序詞。○吾が久ならば 「久ならば」は、「久」(412)は、「久し」の語幹で、旅が久しくなったならば。
【釈】 この度会の大河のほとりに立っている若い久木のように、わが旅が久しくなったならば、妹が恋うるであろうか。
【評】 この歌以下四首は、柿本人麿歌集のものである。序詞は眼前の景を捉えたもので、その身の旅にあることをあらわすとともに、「若久木」のみずみずしい気分を「妹」に絡ませているものである。調べが豊かで厚みがあり、美しい歌である。
3128 吾妹子《わぎもこ》を 夢《いめ》に見《み》え来《こ》と 倭路《やまとぢ》の 渡瀬《わたりせ》ごとに 手向《たむけ》吾《わ》がする
吾妹子 夢見來 倭路 度瀬別 手向吾爲
【語釈】 ○吾妹子を夢に見え来と 吾妹子が夢に見えて来よと思って。「手向する」に続くもので、夢に見え来るのは、無事で我を思っていてのこと、また自身も無事なことを含めた言い方である。○倭路の渡瀬ごとに 大和への路で、渡瀬のあるごとに。「渡瀬」は、河の徒渉地点。○手向吾がする 「手向」は、旅にあって、身に災害のないことを神に祈ってする祭。「する」は、連体形で、詠嘆したもの。
【釈】 吾妹子が夢に見えて来よと思って、大和へ向かっての路にある、河の渡瀬を徒渉するごとにわれは手向をすることである。
【評】 公務を帯びての旅をして、陸路、京へ帰る時の心である。渡瀬に手向をするのは特別のことではなく、無論自身に災害のないことを祈ってすることであるが、自身のこととせず、「吾妹子を夢に見え来」ということに転じてあらわしているのである。相手のことをいうことによって自身をあらわすのは、この時代には型のごとくなっていることであるが、これは渡瀬を渡る場合のことなので、それが自然な、よく利いたものとなり、また自身を含めたものの意で、複雑味をもったものとなっている。それが落ちついた、単純な形になっているので、味わいを醸し出している。また、時間的なものなので、厚味も添って来ている。これも豊かな、美しい歌である。
3129 桜花《さくらばな》 咲《さ》きかも散《ち》ると 見《み》るまでに 誰《たれ》かも此所《ここ》に 見《み》えて散《ち》り行《ゆ》く
櫻花 開哉散 及見 誰此 所見散行
【語釈】 ○桜花咲きかも散ると見るまでに 桜花が、咲いて散るのかと見るほどに。「かも」は、疑問の係。以上は下の譬喩。○誰かも此所に見えて散り行く どういう人であろうか、ここに見えては散って行くことだ。「かも」は、疑問の係。
(413)【釈】 桜花が咲いて散るのかと見るほどに、どういう人であろうか、ここに見えては散って行くことだ。
【評】 気分のみをいった作で、対象の何であるかはわからない。美しい多くの女が現われて、たちまちに見えなくなってゆく状態を目にして、その美しさに感激し、見えなくなるのに憧れを寄せている気分で、一首の形も調べも、明るく、奔放に、気分の躍動をさながらにあらわしているものである。若い人麿以外には詠めない歌である。「かも」を二回重ねているのも、この場合必要よりのことなのでうるさく感じさせない。若い女子によって営まれる、何らかの信仰的行事を、旅でゆくりなく目にしたというような場合の心ではなかろうか。とにかく気分の語をとおして、そのような幻影を描かせ得る歌である。
3130 豊州《とよくに》の 企玖《きく》の浜松《はままつ》 心《こころ》いたく 何《なに》しか妹《いも》に 相言《あひい》ひ始《そ》めけむ
豊洲 聞濱松 心哀 何妹 相云始
【語釈】 ○豊州の企玖の浜松 「豊州」は、豊前、豊後国(福岡、大分県)。「企玖の浜」は、企救郡で、小倉市(今の北九州市小倉区)の東方の浜。「浜松」は、浜に立っている松で、その海に臨んで危うげに見える意で、「心いたく」にかかる序詞。○心いたく何しか妹に相言ひ始めけむ 心をいためるように、何だって妹に語らいはじめたのであったろうか。「か」は、疑問の係。「けむ」は、結。
【釈】 豊国の企玖の浜の浜松の、見るからに心いたくなるように、何だって妹と語らいはじめたのであったろうか。
【評】 かりそめに女と関係を結んで、恋の悩ましさからそのことを悔いた心である。悔いるのは嘆きからのことで、それを恋の常としていったものである。「豊州の企玖の浜松」は、その地に在ってのことの意もあらわしているものである。巻十一(二四八八)「礒の上に立てる廻香樹心いたく何に深めて念ひ始めけむ」がある。
右の四首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右四首、柿本朝臣人麿歌集出。
3131 月《つき》易《か》へて 君《きみ》をば見《み》むと 念《おも》へかも 日《ひ》も易《か》へずして 恋《こひ》のしげけく
月易而 君乎婆見登 念鴨 日毛不易爲而 戀之重
(414)【語釈】 ○月易へて君をば見むと 月が改まって君に逢うのだろうで、夫が予定をもって旅へ出た際の妻の心。○念へかも 「かも」は、疑問の係。○日も易へずして恋のしげけく 「しげけく」は、『新考』の訓。旅立ったその日から、恋の繁きことよ。
【釈】 月が改まって君に逢えようと思うからだろうか、別れたその日も改まらないのに、恋の多いことであるよ。
【評】 月に跨《またが》っての旅に立った夫に対しての妻の心である。帰る日のわかっているということは、待ちやすいようでその実待ち遠い気のするものであろうから、「月易へて」「日も易へずして」が技巧の自然なものとなり、目立たないものとなっている。普通の歌である。
3132 な去《ゆ》きそと 帰《かへ》りも来《く》やと 顧《かへり》みに 往《ゆ》けど帰《かへ》らず 道《みち》の長手《ながて》を
莫去跡 變毛來哉常 顧尓 雖徃不歸 道之長手矣
【語釈】 ○な去きそと帰りも来やと 行くなといって、引き返して来るかと思って。別れを惜しんで見送りに来ていた女が、一旦は帰ったが、また引き返して留めに来るかと思っての意。○顧みに往けど帰らず 「顧みに」は、顧みをしてであるが、副詞形にして「往く」に続けたもの。「往けど帰らず」の「帰らず」は、元暦校本・類聚古集は原文「不満」で、飽かずに当てたものとする説がある。顧みをしてゆくけれども女は引き返して来ない。○道の長手を 「長手」は、長い道。
【釈】 行くなといって、女が引き返して来るかと思って、顧みをして行くが、女は引き返して来ない。この長い道を。
【評】 別れ難い女と別れて、路を行く男の心である。女は何ものともいっていない。見送りに来て、一旦別れて後、また引き返して来ることを期待させる女は、妻ではなく、旅で逢った遊行婦ででもあろう。男に期待はさせたが、女はそのようにはしないのに、男は諦めかねているというので、個人的の歌というよりは、謡い物の匂いのする作である。
3133 旅《たび》にして 妹《いも》を念《おも》ひ出《で》 いちしろく 人《ひと》の知《し》るべく 歎《なげき》せむかも
去家而 妹乎念出 灼然 人之應知 歎將爲鴨
【語釈】 ○旅にして妹を念ひ出 「旅」は、「去家」の義訓である。
(415)【釈】 旅にあって妹を思い出して、ありありと、同行者のそれと知りそうな嘆きをすることであろうか。
【評】 男が旅立とうとして、妻と別れを惜しみつつ贈った歌である。同行者があり、面目を重んじなければならない人で、下僚の官人ででもあったとみえる。想像の歌で、特色のないものである。
3134 里《さと》離《さか》り 遠《とほ》からなくに 草枕《くさまくら》 旅《たび》とし思《おも》へば なは恋《こ》ひにけり
里離 遠有莫國 草枕 旅登之思者 尚戀來
【語釈】 ○里離り遠からなくに 郷里を離れて、遠いことではないのに。○なほ恋ひにけり やはり恋しかったことであった。
【釈】 わが郷里を離れて、遠くはないことであるのに、ここも旅であると思うので、やはり郷里が恋しいことであった。
【評】 旅に発足した際の心を、感傷的な態度で説明したものである。郷里に対しての恋で、相聞とはいえないものである。
3135 近《ちか》くあれば 名《な》のみも聞《き》きて 慰《なぐさ》めつ 今夜《こよひ》ゆ恋《こひ》の いや益《まさ》りなむ
近有者 名耳毛聞而 名種目津 今夜從戀乃 益々南
【語釈】 ○近くあれば名のみも聞きて慰めつ 女の家の近くいれば、噂を聞くだけでも慰めになった。○今夜ゆ恋のいや益りなむ 今夜からは、恋がいよいよ増さることであろう。
【釈】 女の家に近くいれば、噂を聞くだけでも慰めになった。今夜からは恋がいよいよ増さることであろう。
【評】 妻に別れて旅に出た、第一夜の心である。上の歌と同じく説明的のものであるが、このほうは心が細かく、複雑で、その心を説明し尽くしているものである。
3136 旅《たび》にありて 恋《こ》ふるは苦《くる》し 何時《いつ》しかも 京《みやこ》に行《ゆ》きて 君《きみ》が目《め》を見《み》む
客在而 戀者辛苦 何時毛 京行而 君之目乎將見
(416)【語釈】 ○何時しかも京に行きて 早く京へ行って。○君が目を見む 君の顔を見よう。「君」は、妻の夫を指しての称と取れる。反対に女の称とすれば敬称である。
【釈】 旅にいて恋うていると苦しい。早く京へ行って、君の顔を見よう。
【評】 男女いずれの歌とも取れるものである。歌として見ると、女の歌と見れば最も自然である。「何時しかも京に行きて」は、女が臨時の用で京を離れてのものと思わせる。それだと「君」は絶えず京にいる人で、しかるべき身分の人であろう。男に贈った挨拶の歌と取れる。
3137 遠《とほ》くあれば 光儀《すがた》は見《み》えず 常《つね》の如《ごと》 妹《いも》がゑまひは 面影《おもかげ》にして
遠有者 光儀者不所見 如常 妹之咲者 面影爲而
【語釈】 ○常の如 平常見馴れていたように。
【釈】 遠く離れているので、実の姿は見えない。平常見馴れているように、妹の笑顔は幻影となって見えて。
【評】 旅にあって妻を思う心で、「妹がゑまひ」が中心になっている歌である。「遠くあれば光儀は見えず」は、この「ゑまひ」を印象的にしようとし、そのために対照としていっている跡の明らかに見えるものである。一種の説明である。これは上の(三一三三)「旅にして妹を念ひ出」以後の歌に一貫した手法である。奈良朝に入って起こって来た、分解説明を好む一つの歌風と思われるものである。平面描写であって、気分表現以前のものである。
3138 年《とし》も経《へ》ず かへり来《き》なむと 朝影《あさかげ》に 待《ま》つらむ妹《いも》し 面影《おもかげ》に見《み》ゆ
年毛不歴 反來嘗跡 朝影尓 將待妹之 面影所見
【語釈】 ○朝影に待つらむ妹し 「朝影に」は、朝の光に映じる物の影の細長いところから、身の痩せた譬喩としたもので、ここは、朝影のようになって。
【釈】 年も経ないで帰って来るだろうと思って、朝影のように痩せて待っているだろう妹の姿が、幻影となって見える。
(417)【評】 やや長い任期をもって旅にいる官人のその妻を思った歌である。何らかの刺激があって、突嗟《とつさ》に詠んだ歌とみえる。妻からの消息があって、「朝影に待つらむ妹し」というのは、妻の歌にあった語を取ったものであろう。平坦な歌で、「朝影」「面影」という類似した語もあるが、それとしては感のあるのは、反撥的に一気に詠んだ趣のあるため、おのずからある強さがあるからである。すぐれた歌とはいえない。
3139 玉桙《たまほこ》の 道《みち》に出《い》で立《た》ち 別《わか》れ来《こ》し 日《ひ》より念《おも》ふに 忘《わす》るる時《とき》なし
玉桙之 道尓出立 別來之 日從于念 忘時無
【語釈】 ○玉桙の道に出で立ち 「玉桙の」は、道の枕詞。「道」は、旅の路。○日より念ふに その日から妹を思うのに。○忘るる時なし 旧訓。『代匠記』は「忘る」と改めている。終止形より体言に続ける古格のものも、連体形のものも並び用いられていて、いずれとも訓めるものである。
【釈】 旅の道に立って別れて来た日から、妹を思うのに、忘れる時もない。
【評】 一般的な心を、最も説明的に詠んだものである。ほとんど慣用句のみで詠んだ歌である。
3140 愛《は》しきやし 然《しか》ある恋《こひ》にも ありしかも 君《きみ》におくれて 恋《こひ》しき念《おも》へば
波之寸八師 志賀在戀尓毛 有之鴨 君所遺而 戀敷念者
【語釈】 ○愛しきやし 「愛しき」は、形容詞「はし」の連体形。「やし」は、感動の助詞で、慣用の結果、独立句として用いられてもいるものである。これもそれで、なつかしいことよという意。○然ある恋にもありしかも 「しかある」は、旧訓。このようなる恋であったことであるよで、「かも」は、詠嘆。○君におくれて恋しき念へば 君に後に残されて、恋しいことを思うとで、夫が地方官として任地へ行った後と取れる。
【釈】 なつかしいことである。このような恋であったことであるよ。君に残されて、恋しいことを思うと。
【評】 夫が地方官に任ぜられて、旅に出た後の妻の心である。夫が近く住んでいる頃はさして思わなかったのに、遠く離れると急に恋しくなって来て、自身の恋のどういうものであったかを初めて意識した心である。「愛しきやし」と、夫に対する現在の気分を総括していい、「然ある恋にもありしかも」と、初めて意識した気分を綜合していい、「君におくれて」と事実を説明(418)したもので、その思い知った気分を、気分さながらに叙したもので、根本は知性的ではあるが、それを包む情熱が伴って、立体感をもった歌である。特殊な作である。
3141 草枕《くさまくら》 旅《たび》の悲《かな》しく あるなへに 妹《いも》を相見《あひみ》て 後《のち》恋《こ》ひむかも
草枕 客之悲 有苗尓 妹乎相見而 後將戀可聞
【語釈】 ○旅の悲しくあるなへに 旅が悲しくあるのにつれて。○後恋ひむかも 後になって、恋の悩みをもすることであろうかで、「かも」は、疑問。
【釈】 旅の悲しいのにつれて、妹に逢っての後は、恋の悩みをもすることであろうか。
【評】 旅で遊行婦など、その時だけの女と逢い、別れる時に詠んだ歌である。型となっている挨拶の歌である。
3142 国《くに》遠《とほ》み 直《ただ》には逢《あ》はず 夢《いめ》にだに 吾《われ》に見《み》えこそ 逢《あ》はむ日《ひ》までに
國遠 直不相 夢谷 吾尓所見社 相日左右二
【語釈】 ○国遠み直には逢はず 郷里が遠いので、直接には逢えない。○夢にだに吾に見えこそ 夢にだけでもわれに見えてください。「こそ」は、願望の助詞。思ってくれよの意。○逢はむ日までに 直接に逢うだろう日までを。
【釈】 郷里が遠いので、直接にはお逢いできない。夢にだけでもわれに見えてください。直接に逢うだろう日までを。
【評】 地方官などで、旅の一地方に住んでいる男の、郷里の妻に贈った歌である。巻十二(二八五〇)人麿歌集の「現には直に逢はなく夢にだに逢ふと見えこそ我が恋ふらくに」を模したものである。
3143 かく恋《こ》ひむ ものと知《し》りせば 吾妹子《わぎもこ》に 言《こと》問《と》はましを 今《いま》し悔《くや》しも
如是將戀 物跡知者 吾妹兒尓 言問麻思乎 今之悔毛
(419)【語釈】 ○吾妹子に言間はましを 吾妹子に物をいったろうものをで、旅立ち前、忙しさに紛れて、別居している妹に逢わずして来たことをいったもの。
【釈】 このように恋うるものだと知っていたら、吾妹子に物をいったろうものを。今となって残念であるよ。
【評】 これも上の歌と同じく、地方官などで旅に永くとどまっているべき人が、その妻に贈ったものである。旅立ち前の忙しさから、妻に逢えなかった嘆きは多かったと見え、類歌が少なくない。
3144 旅《たび》の夜《よ》の 久《ひさ》しくなれば さ丹《に》つらふ 紐《ひも》解《と》き離《さ》けず 恋《こ》ふるこのごろ
客夜之 久成者 左丹頬合 紐開不離 戀流比日
【語釈】 ○さ丹つらふ紐解き離けず 「さ丹つらふ」は、「さ」は、接頭語で、「丹つらふ」は、美しい色をしているで、紐の枕詞。「紐解き離けず」は、衣の紐を解き放たずして。ゆっくりとは寝ずにの意。○恋ふるこのごろ 妹を恋うているこの頃であるよ。
【釈】 旅の夜が久しくなったので、美しい衣の紐を解き放つこともしないで、妹を恋うているこの頃であるよ。
【評】 旅にあって妹に贈った歌である。旅の侘びしさをいうに夜をもってし、まろ寝をしているというのに、「さ丹つらふ」という男にはふさわしくない枕詞を用いているのは、妹に訴える気分からである。
3145 吾妹子《わぎもこ》し 吾《あ》を偲《しの》ふらし 草枕《くさまくら》 旅《たび》の丸寝《まろね》に 下紐《したひも》解《と》けぬ
吾妹兒之 阿乎偲良志 草枕 旅之丸寐尓 下紐解
【語釈】 ○吾妹子し吾を偲ふらし 吾妹子がわれを思っているらしいと、強く推量したもの。○旅の丸寝に下紐解けぬ 旅での丸寝をしているのに、下紐が解けたで、下紐の自然に解けるのは、人に思われているからだという俗信があり、それに立っての心である。
【釈】 家にある吾妹子が我を思っているらしい。旅での丸寝をしているのに、下紐がおのずと解けた。
【評】 上代の俗信の上に立つての心で、妹の心を直接に感じて 喜んだのである。現在では想像の世界のことである。
(420)3146 草枕《くさまくら》 旅《たび》の衣《ころも》の 紐《ひも》解《と》けて 念《おも》ほゆるかも この年頃《としごろ》は
草枕 旅之衣 紐解 所念鴨 此年比者
【語釈】 ○旅の衣の紐解けて 旅で着ている衣の紐が、おのずと解けてで、この「紐」は、上紐とみえる。心は上と同じく妻が自分を恋うている現われである。○念ほゆるかも 旧訓。我も妻が思われることであるよで、「かも」は、詠嘆。○この年頃は 「年頃」は、年から年に跨《またが》っての意で、必ずしも何年間というのではない。遠く離れていて逢えない年頃で、とにかく年から年へ跨っての間を。
【釈】 わが旅で着ている衣の紐が解けて、妻の我を思っていることを知るにつけ、我も妻の思われることである。この年から年に跨っての間は。
【評】 地方官などで、永らく妻と別れている人の妻を思う心である。衣の紐のおのずと解けるのは、妻の我を想うからであるという俗信の上に立ち、それを見るにつけ、我も妻が思われるというのであるが、その言いあらわしは、きわめて婉曲に、淡泊に、しかし深い心を籠め得ているもので、気品のあるものである。奈良朝の教養の高い人の言い方で、その身分も思わせられるものである。おのずから気分的な表現となっている。
3147 草枕《くさまくら》 旅《たび》の紐《ひも》解《と》く 家《いへ》の妹《いも》し 吾《わ》を待《ま》ちかねて 歎《なげき》すらしも
草枕 客之紐解 家之妹志 吾乎待不得而 歎良霜
【語釈】 ○旅の紐解く 旅の衣の紐が解ける。「解く」は、自動詞。下二段活用の終止形。自然と解ける意。○歎すらしも 嘆きをしているらしいことよで、「らし」は、強い推量。
【釈】 わが旅に着ている衣の、紐がおのずからに解ける。家にある妻が、わが帰りを待てなくて、嘆きをしているらしいことよ。
【評】 上の歌と同じ俗信の上に立っての心である。他奇なくいっているが、語は簡潔で、調べは静かで、気品をもっている。
3148 玉《たま》くしろ 纏《ま》き寝《ね》し妹《いも》を 月《つき》も経《へ》ず 置《お》きてや越《こ》えむ この山《やま》の岫《さき》
(421) 玉釼 卷寝意妹乎 月毛不經 置而八將越 此山岫
【語釈】 ○玉くしろ纏き寝し妹を 「玉くしろ」は、玉を付けた釧で、釧は腕輪。巻く物であるので「纏き」にかかる枕詞。「纏き寝し妹を」は、手に纏いて寝た妹を。○月も経ず置きてや越えむ 「月も経ず」は、関係して一と月も経ずしてで、「ず」は、連用形。「置きてや越えむ」は、後に残して越えるのであろうかで、「や」は、疑問の係。○この山の岫 「岫」は、「崎」と通じて用いた字。「山の岫」は、山の出鼻で、そこを越すと、自分の郷里の見えなくなる所と取れる。
【釈】 玉くしろのように手に纏いて寝た妹を、関係してから一と月も経ずに、後に残して、我は越えてゆくのであろうか。この山の崎を。
【評】 旅へ出ることになった人が、その任地の境をなしている山を越えようとして、新婚早々の妻を思う心である。そこを越すと住地が見えなくなるのであるから、感の起こし方が自然である。「玉くしろ纏き寝し妹を」という、妻の美しさを連想しての言い方が、思い出の境となっているので、感の深いものとなっている。事に合わせては線が細く、静かで、奈良朝を思わせる歌である。
3149 梓弓《あづさゆみ》 末《すゑ》は知《し》らねど 愛《うつく》しみ 君《きみ》に副《たぐ》ひて 山路《やまぢ》越《こ》え来《き》ぬ
梓弓 末者不知杼 愛美 君尓副而 山道越來奴
【語釈】 ○梓弓未は知らねど 「梓弓」は、弓は下を本、上を末と呼ぶので、「末」にかかる枕詞。将来どうなるかはわからないが。○愛しみ 愛すべきがゆえにで、心引かれるので。○君に副ひて山路越え来ぬ 夫に添って山路を越えて来た。
【釈】 身の将来がどうなるかわからないが、心引かれるので、君に添って山路を越えて来た。
【評】 地方官として任地へ行く夫などに連れられて旅へ出た、結婚後間もない女の心である。一脈の不安がないではないが、一切を夫に任せている心で、心境そのものがすでに抒情歌となっているものである。単純で、感の深い歌である。
3150 霞《かすみ》立《た》つ 春《はる》の長日《ながひ》を 奥《おく》かなく 知《し》らぬ山道《やまぢ》を 恋《こ》ひつつか来《こ》む
(422) 霞立 春長日乎 奧香無 不知山道乎 戀乍可將來
【語釈】 ○零立つ春の長日を 「霞立つ」は、春の枕詞。春の日永の日を。○奥かなく知らぬ山道を 「奥か」は、奥の所で、涯《はて》も知れない、遠い山路を。○恋ひつつか来む 人を恋いつつも行くのであろうか。「か」は、疑問の係。「来む」は、現在だと行かむという場合であるが、この集では、我を主としていう時には行く、対象を主としていう時には来るといっている。ここは人のほうを主としていっているのである。
【釈】 霞の立っている春の長い日を、涯しのない、知らない山道を、人を恋いつつ行くのであろうか。
【評】 遠くにいる思う人の許へ行こうとして、春の日、知らない山越えをしている人の歌である。『考』は夫の任地へ行く妻の歌であろうといっている。純気分の歌であるが、それをとおして情景の浮かび出る歌である。「霞立つ」という枕詞が、叙景となり、「奥かなく」の抒情と溶け合う趣が、一首全体にある。奈良朝の教養ある人の歌である。
3151 外《よそ》のみに 君《きみ》を相見《あひみ》て 木綿畳《ゆふだたみ》 手向《たむけ》の山《やま》を 明日《あす》か越《こ》え去《い》なむ
外耳 君乎相見而 木綿牒 手向乃山乎 明日香越將去
【語釈】 ○外のみに君を相見て よそにばかり君を見てで、君に遠ざかっての意。○木綿畳手向の山を 「木綿畳」は、「手向」の枕詞。木綿を畳んで手にして神に供える意でかかる。既出。「手向の山」は、ここは普通名詞で、手向をする神の祀ってある山。街道筋で、土地の堺をなす山々は、そうした山だったのである。○明日か越え去なむ 明日は越えて行くのだろうかで、「か」は、疑問の係。
【釈】 よそにばかり君を見て、木綿の畳んだのを手にして供える手向の山を、明日は越えて行くのであろうか。
【評】 旅立ちの前夜、女が夫である男に、別れを惜しんで贈った歌である。『考』は、地方官となって任地へ赴く父親に伴われて行く娘の歌であろうという。それだときわめて自然に聞こえる。教養人の、悲しみを言外にした歌である。
3152 玉勝間《たまかつま》 安倍島山《あべしまやま》の 夕露《ゆふつゆ》に 旅宿《たびね》は得《え》すや 長《なが》きこの夜《よ》を
玉勝間 安倍嶋山之 暮露尓 旅宿得爲也 長此夜乎
(423)【語釈】 ○玉勝間安倍島山の 「玉勝間」は、「玉」は、美称で、接頭語。「勝間」は、籠の古名。蓋と身と合う意で、「あ」にかかる枕詞。「安倍島山」は、所在が明らかでない。兵庫、和歌山、大阪、愛知などの諸県に当てる説がある。「島山」は、島にある山であるが、水に臨んだ山をも称したとみえる。ここは街道筋とみえるからである。○夕霧に旅宿は得すや 「旅宿は得すや」は、旧訓。旅宿をなし得られようか、と疑った意。この旅宿は、野宿だったのである。○長きこの夜を 長い秋の夜なのに。
【釈】 安倍の島山の夕露の中に、旅宿がなし得られようか。秋の長い夜だのに。
【評】 旅人として秋の夜を、安倍の島山に野宿をしている人の、夕露の冷たく置いて来るので、これで眠れるだろうかと危ぶんだ心である。「旅宿は得すや」と、あり通りを誇張なくいっているために生きている。あわれのある歌である。この歌には相聞の心は無い。
3153 み雪《ゆき》零《ふ》る 越《こし》の大山《おほやま》 行《ゆ》き過《す》ぎて 何《いづ》れの日《ひ》にか 我《わ》が里《さと》を見《み》む
三雪零 越乃大山 行過而 何日可 我里乎將見
【語釈】 ○み雪零る越の大山 「み雪寄る」は、「み」は、美称で、その地の特色として「越」にかかる枕詞。「越の大山」は、下の続きに「行き過ぎて」とあるので越の国と京とを通じる街道にある大きな山である。それだと、近江と越前国との国境にある愛発山《あらちやま》である。この道は要路で、愛発の関の在る所である。加賀の白山とする説もある。○行き過ぎて 通り過ぎてで、「行き」は京を主としての言い方。○我が里を見む わが京にある里を見ようか。
【釈】 雪の降る越の国の大きな山を通り過ぎて、いつの日に、京のわが里を見るであろうか。
【評】 地方官として越の国に住んでいる官人の、京に対しての憧れをいったものである。地方官の任期は普通は四年間であり、交替も春であったろうから、それらの上に立って、冬の日、雪に白い越の山々を望んでの歌であろうと思われる。侘びしさをいわずにあらわしている歌である。
3154 いで吾《わ》が駒《こま》 早《はや》く行《ゆ》きこそ 真土山《まつちやま》 待《ま》つらむ妹《いも》を 行《ゆ》きて早見《はやみ》む
乞吾駒 早去欲 亦打山 將待妹乎 去而速見牟
(424)【語釈】 ○いで吾が駒早く行きこそ さあ、わが乗る馬よ、早く歩いてくれよ。○真土山待つらむ妹を 「真土山」は、大和と紀伊との国境の山で、要路の山。巻一(五五)以下しばしば出た。現在そこにいる意で、叙述であるとともに、同音で「待つ」にかかる枕詞。「待つらむ妹」は、京に我を待っているだろう妹で、紀伊国からの帰途である。○行きて早見む 行って早く見ようで、「行きて」は自身のこと。
【釈】 さあ、わが駒よ、早く歩いてくれよ。この真土山というように、京に我を待っているだろう妹を、行って早く見よう。
【評】 紀伊国へ遣わされていた官人が、帰途、大和への国境の真土山を越えつつ、その乗っている駒を促していっている形の歌である。心は明るく、明晰で、調べはいかにも調子よく、謡い物として典型的なものである。次期の平安朝時代には催馬楽に加えられ、「我駒」として愛吟されたものである。
3155 悪木山《あしきやま》 木末《こぬれ》ことごと 明日《あす》よりは 靡《なび》きてありこそ 妹《いも》があたり見《み》む
惡木山 木末悉 明日従者 靡有社 妹之當將見
【語釈】 ○悪木山 福岡県筑紫郡筑紫野町阿志岐の山で、大宰府の東南にある山。宮地岳かという。「悪木」は、蘆城の駅家、蘆城野、蘆城河などのある地で、大宰府の官人の遊覧の地である。○靡きてありこそ 「こそ」は、願望の助詞。靡いていてくれよ。
【釈】 悪木山の木立の梢は、すべて、明日からは靡いていてくれよ。それを越して、妹の家の辺りを見よう。
【評】 大宰府の官人が蘆城の駅家に遊び、その地の遊行婦などを相手に酒宴の興を尽くして、帰りしなに詠んだ歌で、遊行婦への挨拶の心のものである。山の木立を視界を遮る物として、すべて靡けと希望するのは、人麿が同じ心から山に対して命じたのを割引したごとき感のあるものである。軽い心からのものである。
3156 鈴鹿河《すずかがは》 八十瀬《やそせ》渡《わた》りて 誰《たれ》ゆゑか 夜越《よごえ》に越《こ》えむ 妻《つま》もあらなくに
鈴鹿河 八十瀬渡而 誰故加 夜越尓將越 妻毛不在君
【語釈】 ○鈴鹿河八十瀬渡りて 「鈴鹿河」は、三重県鈴鹿山脈に発して、亀山市、鈴鹿市を流れ、四日市市南方三重郡楠町付近で海にそそぐ。「八十瀬渡りて」は、幾度となくその河の瀬を徒渉して。路が渓流に沿っている場合には、大岩などあると河岸を変える必要があるので、同じ河(425)を幾度も横切る必要が起こるのである。○誰ゆゑか夜越に越えむ 誰のために夜の山越えをするのであろうか、「夜越」は、夜、山越えをする意の語。山は鈴鹿山で、京へ向かっての路とみえる。○妻もあらなくに 妻がいるではないことなのに。
【釈】 鈴鹿川の河瀬を幾たびとなく渉って、誰のために、夜越えに山越えをするのであろうか。待っている妻も居ないことであるのに。
【評】 『考』は、男が伊勢への旅中にその妻が死に、今はその帰路の歌かといっている。路は鈴鹿河に沿って溯り、さらに鈴鹿山を越えて行くべき悪路で、昼の間に河に沿っての路を行き尽くして、夜鈴鹿山を越える時の心であろう。困難な旅に刺激され、帰っても、家には我を待っている妻も居ないことであるにと、悲しみを新たにしたのである。実際に即して、詠歎をまじえて詠んでいるが、心も調べも弱いものではない。
3157 吾妹子《わぎもこ》に またも近江《あふみ》の 野洲《やす》の河《かは》 安寐《やすい》も宿《ね》ずに 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
吾妹兒尓 又毛相海之 安河 安寐毛不宿尓 戀度鴨
【語釈】 ○吾妹子にまたも近江の野洲の河 「吾妹子にまたも」は、逢うと続け、それを国名としての近江に懸けて、以上その序詞。「安河」は、旧訓「やすかはの」。『略解』の訓。「近江の野洲の河」は、野洲郡にあり、守山町と野洲町の間を流れて湖に入る。同音で下の「安」にかかり、初句よりこれまではその序詞である。序中に序のあるものである。○安寐も宿ずに恋ひ渡るかも 安らかな眠りもせずに恋い続けていることであるよ。
【釈】 吾妹子にまたも逢うという近江の野洲の河のように、安らかな眠りもせずに、恋い続けていることであるよ。
【評】 旅人として野洲河のほとりに宿っている人の歌ともみえるが、序詞の謡い物風なところから見ると、野洲河のほとりに住んでいる男の歌とみえる。本義である四、五句は慣用句で、特色は序詞にある。それも、序中の序の「吾妹子にまたも」で、関係した女の身辺に、そのことのために妨害が起こって逢い難いという、きわめて例の多いことを、このような形にしていったもので、その結果は興味的にみえるものである。これは明らかに謡い物の技巧だからである。野洲の地の謡い物であったろう。
3158 旅《たび》にありて 物《もの》をぞ念《おも》ふ 白浪《しらなみ》の 辺《へ》にも沖《おき》にも 寄《よ》るとは無《な》しに
(426) 客尓有而 物乎曾念 白浪乃 邊毛奧毛 依者無尓
【語釈】 ○白浪の辺にも沖にも寄るとは無しに 立つ白浪が、岸のほうにも沖のほうにも寄るとはしないがごとくにの意で、物思いの状態の譬喩である。そうした浪は、岸に近く漕ぐ船の立てる浪で、それ以外のものとは思われない。「旅」というのは船旅である。
【釈】 旅にあって、嘆きをしていることである。立つ白浪が、岸のほうにも、沖のほうにも寄るとはしないのに似た状態で。
【評】 気分を主としての歌で、嘆きの状態だけをくわしくいっているだけで、その性質には触れていないものである。こうした状態の嘆きは、その欲望の対象となっているものが、得られるようにも、得られないようにも見え、それに引きずられてするもので、求婚している女の中途半端な態度を嘆いているのだと思われる。旅は、いったがごとく船旅で、船の立てている浪を捉えて譬喩としているのである。気分ではあるが、実際に即してのものである。
3159 湖廻《みなとみ》に 満《み》ち来《く》る潮《しほ》の いや増《ま》しに 恋《こひ》はまされど 忘《わす》らえぬかも
湖轉尓 滿來塩能 弥益二 戀者雖剰 不所忘鴨
【語釈】 ○湖廻に満ち来る潮の 「湖廻」は、「湖」は港に当てた当時の用字で、港はここは河口で、水な門の意である。「満ち来る潮」は、満潮時に海からさし込んで来る潮であって、以上二句、譬喩として「いや増し」にかかる序詞。○いや増しに恋はまされど いよいよ増さって恋は募って来るが。○忘らえぬかも 忘れることはできないことであるよ。四、五句の続きは特殊で、普通は「増りて」である。今のようだと五句は、それとは反対に忘れることのほうはできないと、初めから忘れることに重点を置き、その角度からいっているのである。
【釈】 港口に満潮でさし入って来る潮のようにいや増しに恋は増して来るが、忘れることはできないことであるよ。
【評】 旅にあって、妻のことは思うまいとするが、ますます思われる嘆きである。序詞は譬喩で、船旅をして、港に着いた時の実景を捉えたものである。四、五句に新味がある。実情を素朴にいっているところからもち得たものである。
3160 沖《おき》つ浪《なみ》 辺浪《へなみ》の来寄《きよ》る 左太《さだ》の浦《うら》の このさだ過《す》ぎて 後《のち》恋《こ》ひむかも
奧浪 邊浪之來依 貞浦乃 此左太過而 後將戀鴨
(427)【解】 巻十一(二七三二)の重出歌である。
3161 在干潟《ありちがた》 在《あ》り慰《なぐさ》めて 行《ゆ》かめども 家《いへ》なる妹《いも》い 欝悒《おほはし》みせむ
在千万 在名草目而 行目友 家有妹伊 將欝悒
【語釈】 ○在千潟在り慰めて 「在千潟」は、所在が不明である。同音で「在り」にかかる枕詞である。眼前を捉えたもので、意味で本義の「在り慰めて」につながるものとみえる。「在り慰めて」は、現在の状態を続けて、心を慰めてであるから、在千潟の風光に慰められて、である。すなわち本義として叙述すべきことを、枕詞の形にしたのである。○行かめども 旅の路を行こうが。○家なる妹い欝悒みせむ 「妹い」の「い」は、主格に付く接尾語で、家にいる妹は、心結ばれたさまで居よう。
【釈】 在千潟の名のように、在り慰めて旅を行こうが、家にいる妻は、心結ばれたさまでいよう。
【評】 旅の途上、在千潟という潟の佳景を見、心が慰められたのが刺激となり、家にいる妹は心結ぼれているだろうと憐れんだ心である。佳景に逢って親しい人に見せられないのを嘆く、一般的な心である。「在千潟」を枕詞としたのは巧みである。本義としても重いもので、当然叙述とすべきことを、「在り慰め」の枕詞としたので、「在り慰め」が心の広いものとなって、単に在千潟のみに限らないものとなって来る。それとともに「欝悒みせむ」の憐れみも、心が拡がって来るのである。実際に即しての感であるが、それを気分化して拡がりをもたせているものである。気分本位の奈良朝時代の詠風に向かって展開して行く経路を示している歌といえる。官人の歌とみえる。
3162 澪標《みをつくし》 心《こころ》尽《つく》して 思《おも》へかも 此処《ここ》にももとな 夢《いめ》にし見《み》ゆる
水咫衝石 心盡而 念鴨 此間毛本名 夢西所見
【語釈】 ○澪標 水脈《みを》つ串《くし》で、河や海の深くて、船の水路に適した所に立てる標で、今の水路標である。『延喜式』に、官命で難波の津のほとりに立てさせたことがあるので、難波の海の物であろう。同音で「尽し」にかかる枕詞。○思へかも 念えばかもの古格で、我を思うているからであろうか。「か」は、疑問の係。○此処にももとな夢にし見ゆる この旅先にも、由なくも、妻が夢に見えることである。
【釈】 澪標というように、妹は心を尽くして我を思っているからであろうか、旅先のここでも由なくも、妹が夢に見えることで(428)あるよ。
【評】 旅にある夫が、家にいる妻に贈った歌である。妻を夢に見るのは、妻が我を心を尽くして思っているからのことだろうかと思った心であるが、「此処にももとな」といって、こうした所で夢など見ると、いたずらに恋を募らせられるのみだとして、同時にそのことを嘆いているのである。知性的な心である。「澪標」は、同音でかかる枕詞ではあるが、その旅先が難波であることを思わせるもので、ここには細かい巧みがある。素朴にみえて、それには終わらない歌である。奈良朝の歌である。
3163 吾妹子《わぎもこ》に 触《ふ》るとは無《な》しに 荒礒廻《ありそみ》に 吾《わ》が衣手《ころもで》は ぬれにけるかも
吾味兒尓 觸者無二 荒礒廻尓 吾衣手者 所沾可母
【語釈】 ○荒礒廻に吾が衣手はぬれにけるかも 海岸の岩の辺りで、わが袖は濡れてしまったことであった。思わずも、浪でぐっしょり濡れてしまったというので、海岸寄りを漕ぐ船中にいて、岩に寄せる浪のしぶきに濡れたものと思われる。
【釈】 吾妹子の身に触れたのではなくて、その感激の涙ででもあるように、荒磯の辺りの浪のしぶきに、わが袖は濡れてしまったことであった。
【評】 妹に逢えば、それだけで涙も流れようとするごとき心を抱いて、海岸寄りを漕いでいる船中にいた人が、荒磯にぶつかる浪のしぶきに濡れた時の心である。気分として一気にいっているので、語は単純であるが、それにしては、深い心持をあらわしている歌である。
3164 室《むろ》の浦《うら》の 湍門《せと》の埼《さき》なる 鳴島《なきしま》の 礒《いそ》越《こ》す浪《なみ》に ぬれにけるかも
室之浦之 湍門之埼有 鳴嶋之 礒越浪尓 所沾可聞
【語釈】 ○室の浦の湍門の埼なる鳴島の 「室の浦」は、兵庫県揖保郡|御津《みつ》町室津、瀬戸内海の要津の一つ。「湍門」は、その浦の湾口。「埼なる」は、出鼻にある金が崎か。「鳴島」は、君島のことであろうという(荒木良雄氏)。○礒越す浪にぬれにけるかも 海辺の岩を越して打ち上げる浪に濡れたことであったよ。
(429)【釈】 室の浦の湾口の出鼻にある鳴島の、海辺の岩を越して打ち上げる渡に濡れたことではあったよ。
【評】 瀬戸内海を舟行している京の官人の、鳴島に上陸して、海を眺めていて、思わず浪に濡らされた感である。鳴島をいうに、その位置をつぶさにいっているのは海珍しい心からである。また礒越す浪に濡らされて、驚いているのも海珍しいからで、驚ろきはむしろ興であったろう。叙事が気分になっているといえる。相聞の歌ではない。
3165 霍公鳥《ほととぎす》 飛幡《とばた》の浦《うら》に しく浪《なみ》の しばしば君《きみ》を 見《み》むよしもがも
霍公鳥 飛幡之浦尓 敷浪之 屡君乎 將見因毛鴨
【語釈】 ○霍公鳥飛幡の浦にしく浪の 「霍公鳥」は、飛ぶと続く意で、「飛」にかかる枕詞。「飛幡の浦」は、筑前国遠賀戸畑市(現在の北九州市戸畑区)の浦。洞の海の湾口で、若松と相対している。「しく浪の」は、重なって寄り来る浪ので、以上譬喩で「しばしば」にかかる序詞。○しばしば君を見むよしもがも しばしば君に逢う方法が欲しいものだ。「もがも」は、願望。
【釈】 霍公鳥が飛ぶという、その飛幡の浦にしきりに寄る浪のように、しばしば君に逢う方法の欲しいものだ。
【評】 船着場の飛幡に住んでいる女の歌である。心は浅く軽く、形は派手で、明らかに謡い物である。遊行婦がその相手の男に歌ったものであろう。「霍公鳥」という枕詞は、季節との関係もあろうが、とっぴな興味をねらったものである。
3166 吾妹子《わぎもこ》を 外《よそ》のみや見《み》む 越《こし》の海《うみ》の 子難《こがた》の海《うみ》の 島《しま》ならなくに
吾妹兒乎 外耳哉將見 越懈乃 子難懈乃 嶋楢名君
【語釈】 ○吾妹子を外のみや見む 吾妹子を、遠くよそにばかり見ていることであろうかで、嘆いての心。○越の海の子難の海の 「越の海」は、今の越前越中の海へわたっての称。「子難の海」は、所在不明である。巻十六(三八七〇)に「紫の粉滷の海に」と出ている。○島ならなくに 島ではないことなのにで、「外」の譬喩。
【釈】 吾妹子を、遠くよそにばかり見ていることであろうか。越の海の子難の海にある島ではないことであるのに。
【評】 遠く別れている妻に贈った歌である。「外」の譬喩として、島を捉えているのは新意がある。実際に即してのことで、(430)新しさはそのためである。譬喩を序詞としないところにかえっ て味わいがある。
3167 浪《なみ》の間《ま》ゆ 雲居《くもゐ》に見《み》ゆる 粟島《あはしま》の 逢《あ》はぬものゆゑ 吾《わ》に寄《よ》する児《こ》ら
浪間從 雲位尓所見 粟嶋之 不相物故 吾尓所依兒等
【語釈】 ○浪の間ゆ雲居に見ゆる粟島の 浪の立ち重なる間をとおして、空に見えている粟島の。「雲居」は、空であるが、ここは水平線に接している空で、海上遠く。「粟島」は、諸説があるが、大阪湾から見えるそれではなく、香川県木田郡庵治村の海上にある大島のことではないかという。以上、同音で、下の「逢は」にかかる序詞。○逢はぬものゆゑ吾に寄する児ら 「逢はぬものゆゑ」は、関係しないのに。「吾に寄する児ら」は、人が言い寄せて、関係しているように噂する児よで、「児」は、女の愛称、「ら」は、接尾語。詠嘆を含めている。
【釈】 浪の間をとおして、遠く空に見える粟島のように、逢わない間であるのに、人が関係あるように言い寄せているかわゆい女よ。
【評】 男が世間から関係のあるごとくいわれる女に対し、そういわれることによって関心を深め、愛着を感じて来ることをいったもので、「児ら」という称が、その愛着をあらわしている。序詞は、逢わないことの譬喩の意をもったものである。男の心の幽かな動きをあらわし得ているが、それは一首の調べの熟していることによって成されている歌である。旅人の歌ではなく、その地方の謡い物であったろう。
3168 衣手《ころもで》の 真若《まわか》の浦《うら》の まなごぢの 間《ま》なく時《とき》なし 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
衣袖之 眞若之浦之 愛子地 間無時無 吾戀〓
【語釈】 ○衣手の真若の浦の 「衣手の」は、左右の袖を真袖という意で、「真」の枕詞。「真若の浦」は、「真」は、美称で、若の浦。和歌山市和歌の浦。○まなごぢの 「まなごぢ」は、「ま」は、接頭語で、細かい砂地。以上、同音で「間無」の序詞。○間なく時なし吾が恋ふらくは 「間なく時なし」は、絶え間なく、時の差別もない。
【釈】 和歌の浦の真なご地というに因む、絶える間なく、時の差別もない。わが恋うることは。
(431)【評】 「吾が恋ふらくは」は、男女いずれからもいえるので、意味のきわめて広いもので、序詞は、和歌の浦の風光を讃える心をもったものであり、その土地の謡い物の条件を典型的に備えているものである。「ま」の頭韻を三つまで用いるのは、意識しての技巧と思われる。謡い物としては細かい、特殊技巧である。上の歌と同じく、地名の入っているところからこの部立の中に採られているものである。
3169 能登《のと》の海《うみ》に 釣《つり》する海部《あま》の いざり火《び》の 光《ひかり》にい往《ゆ》く 月《つき》待《ま》ちがてり
能登海尓 釣爲海部之 射去火之 光尓伊徃 月待香光
【語釈】 ○いざり火の光にい往く 「光に」は、光を頼りにして。「い」は、接頭語。○月待ちがてり 月の出を待ちながら。「がてり」は、用言に接して、その事をする一方にはの意をあらわす接尾語。
【釈】 能登の海に夜釣りをする海人の、漁火の光を頼りにして夜道を行く。月の出を待ちながら。
【評】 京の官人の行程を急ぐ心から夜道をする心である。初句より四句までは、上の(三一六四)「室の浦の」のそれと同じく、大和国のたまたま見る夜の海の光景の珍しさに興じる心の伴っているもので、「月待ちがてり」がその本意なのである。実際生活を主として、そこに拾い得た興を楽しむ心のものである。相聞の心のない歌である。
3170 志珂《しか》の白水郎《あま》の 釣《つり》すと燭《とも》せる 漁火《いざりび》の 髣髴《ほのか》に妹《いも》を 見《み》むよしもがも
思香乃白水郎乃 釣爲燭有 射去火之 髣髴妹乎 將見因毛欲得
【語釈】 ○志珂の白水郎の釣すと燭せる 「志珂」は、博多湾頭の志珂の島(福岡県糟屋郡志賀町志賀島)で、既出。「釣すと燭せる」は、『代匠記』の訓。夜釣りをするとて燈している漁火の。その光のほのかな意で、以上、髣髴の序詞。○髣髴に妹を見むよしもがも ほのかにでも妹に逢える方法をほしいものであるよ。
【釈】 志珂の海人が夜釣をするとて燈している漁火のように、ほのかにでも、妹に逢う方法をほしいものであるよ。
【評】 京の官人の志珂の島での歌である。序詞が特色になっているものであるが、譬喩の心のもので、さしたるものではない。(432)一首の調べは軽くはなく、特色はむしろそこにある。
3171 難波潟《なにはがた》 こぎ出《で》し船《ふね》の はろばろに 別《わか》れ来《き》ぬれど 忘《わす》れかねつも
難波方 水手出船之 遙々 別來礼杼 忘金津毛
【語釈】 ○難波潟こぎ出し船の 「難波潟」は、難波津を広く言いかえたもの。「こぎでし」は、旧訓「こぎいづる」。『考』の訓。作者を船中の者としたのである。航路を遠く来た意で「はろばろ」と続け、以上その序詞。○はろばろに別れ来ぬれど 遙かに遠く別れて来たけれども。○忘れかねつも 忘れようとしても忘れ得られないことだ。
【釈】 難波潟をこぎ出した船の遠く行くように、遠く、別れて来たけれども、妻のことは忘れようとして忘れられないことだ。
【評】 京の官人の、船で瀬戸内海を航行している人の歌である。「難波潟こぎ出し船の」は自身の行動で、叙述としていうべきものであるのを、序詞の形にしたものである。序詞の本義へのつづきに変化の無いのはそのためであるが、しかしそうしたがために、一首を気分化する上に役立っている。「別れ来ぬれど忘れかねつも」も、心としては平凡であるが、対照によっての深みをもっている。語を平坦にして深みをもたせようとしている、知識人の作である。
3172 浦廻《うらみ》漕《こ》ぐ 熊野舟《くまのぶね》つき めづらしく 懸《か》けて思《おも》はぬ 月《つき》も日《ひ》もなし
浦廻榜 熊野舟附 目頬志久 懸不思 月毛日毛無
(433)【語釈】 ○浦廻漕ぐ熊野舟つき 浦のあたりを漕いでいる熊野舟が、港に着いて。「熊野舟」は、紀伊の熊野で造られる舟で、上古より特別の形をもつものとなっていた。これはほかの地にも行なわれていたことで、松浦舟、伊豆手舟なども同様だったのである。「つき」は、諸説のある語である。下の続きで、港へ着いた意。形の見馴れないところから珍しくと続け、以上その序詞。○めづらしく 承けた意は愛ずらしくで、妹がかわゆくて。○懸けて思はぬ月も日もなし 心に懸けて思わない日はないの意を、「月も日も」と長期にわたらせていったもの。
【釈】 浦あたりを漕いでいる熊野舟が港に着いて、その形が珍しいのに因みある、妹がかわゆくて、心に懸けて思わない月も日もない。
【評】 京の官人で、長期にわたって海近い土地にいる人が、その妻に贈った歌である。「浦廻漕ぐ熊野舟つき」の「めづらしく」に懸かる序詞は、そうした舟の来ることと、それを珍しく思うことから見て、難波に出張している官人かと思われる。この序詞は、京にいる妻も興味あるものだろうとして捉えたものと思われる。三句以下は常套的なものである。妻に贈る歌としては新味あるものである。
3173 松浦舟《まつらぶね》 乱《きわ》く堀江《ほりえ》の 水脈《みを》早《はや》み 輯《かぢ》取《と》る間《ま》なく 念《おも》ほゆるかも
松浦舟 乱穿江之 水尾早 ※[楫+戈]取間無 所念鴨
【語釈】 ○松浦舟乱く堀江の 「松浦舟」は、肥前国松浦で造った舟の称で、これも一見してそれと知れる型があったものとみえる。「乱く」は、音を立てる。「堀江」は、難波堀江。○水脈早み 「水脈」は、舟の通る深い所で、その流れの早いゆえに。○楫取る間なく 楫を便うに絶え間なくで、以上、「間なく」の譬喩。○念ほゆるかも 妹が思われることよで、妹は家郷にいるもの。
【釈】 松浦舟が音を立てる堀江の水脈が早いので、舟子が楫を使うに絶え間がないように、絶え間なく思われることであるよ。
【評】 難波に出張している京の官人の、妻に贈った歌である。本義は「間なく念ほゆるかも」だけで、ほかは間なくの譬喩である。松浦舟が堀江の流れに抗して、軋み声を立てて漕ぎのぼること、舟子が忙しく働くことなどが、官人自身によほど珍しく、京の妻にも無論珍しいところから、多くの語を費やしていっているものとみえる。相聞の歌であるから、当事者の心が足りればそれで十分で、歌として譬喩の語の多すぎることなどは問題にならなかったのであろう。一首の歌として見れば新味があるだけのものである。
(434)3174 漁《いざり》する 海人《あま》の楫《かぢ》の音《と》 ゆくらかに 妹《いも》は心《こころ》に 乗《の》りにけるかも
射去爲 海部之※[楫+戈]音 湯※[木+安]干 妹心 乘來鴨
【語釈】 ○海人の楫の音 仕事の性質上、楫の音がゆったりしている意で、「ゆくらか」に続き、以上、その序詞。○ゆくらかに ゆったりとの意の副詞で、ほかには用例のないもの。「大舟のゆくらゆくらに」とある、ゆくらである。○妹は心に乗りにけるかも 妹はわが心を占めてしまったことであるよ。
【釈】 漁りをする海人の楫の音がゆったりしているように、ゆったりと、妹はわが心を占めてしまったことであるよ。
【評】 海べの地に旅をしていて、妹に贈った形の歌である。四、五句は慣用句で、序詞を設けての「ゆくらかに」に新意のあるものである。序詞は眼前を捉えたものであるが、聴覚を主としたもので、「ゆくらかに」も、「乗り」の状態をいったものである。形は明らかであるが、心は幽かで、気分的な言い方である。調べもいかにも落ちついていて、謡い物を思わせる。謡い物の形をもった贈歌という趣のある特殊な歌である。
3175 若《わか》の浦《うら》に 袖《そで》さへぬれて 忘貝《わすれがひ》 拾《ひり》へど妹《いも》は 忘《わす》らえなくに
若乃浦尓 袖左倍沾而 忘貝 拾杼妹者 不所忘尓
【語釈】 略す。
【釈】 和歌の浦で、袖までも濡れて忘貝を拾ったけれども、妹は忘れられないことだ。
【評】 妹恋しい心を忘れるために忘具を拾うという歌は、奈良朝には多いものである。単純な抒情を、説明的に詠んだもので、技巧の無い点が目につくような歌である。
或本の歌の末の句に云ふ、忘《わす》れかねつ
或本歌末句云、忘可祢都母
(435)【解】 「忘れかねつも」は、忘れようとするが、忘れることができないことよで、意志的な趣をもたせようとしたものである。一首全体として見ると、かえって不調和になる。謡い物として謡う上で、屈折を欲してのこととみえる。
3176 草枕《くさまくら》 旅《たび》にし居《を》れば 刈薦《かりこも》の 乱《みだ》れて妹《いも》に 恋《こ》ひぬ日《ひ》はなし
草枕 羈西居者 苅薦之 擾妹尓 不戀日者無
【語釈】 略す。
【釈】 旅に来ていると、刈薦のように心が乱れて、妹を恋わない日はない。
【評】 説明に終始している歌である。枕詞を二つまで用い、「乱れて」という強い語を用いているが、抒情気分の現われていない歌である。
3177 志珂《しか》の海部《あま》の 礒《いそ》に刈《か》り干《ほ》す 名告藻《なのりそ》の 名《な》は告《の》りてしを いかにあひ難《がた》き
然海部之 礒尓苅干 名告藻之 名者告手師乎 如何相難寸
【語釈】 ○礒に刈り干す名告藻の 海岸の岩の上に刈って干してある名告藻ので、以上、同音で「名は告り」の序詞。○名は告りてしをいかにあひ難き 女が名を告げたのにどうして逢い難いのであろうかで、「いかに」は、疑問の係。
【釈】 志珂の海人が海岸の岩の上に刈って干している名告藻のように、我に名を告ったのに、どうして逢い難いのであろうか。
【評】 上の(三〇七六)に「住吉の敷津の浦の名告藻の名は告りてしを逢はなくも恠し」があり、名告藻を用いた同想の歌で、土地の異なるにつれて序詞だけを変えた歌が、諸国に行なわれていたのである。広く謡われていた謡い物だったのである。娘は求婚に応じたが、その家で逢うことはよほど困難であったとみえる。
3178 国《くに》遠《とほ》み 念《おも》ひな侘《わ》びそ 風《かぜ》の共《むた》 雲《くも》の行《ゆ》くなす 言《こと》は通《かよ》はむ
(436) 國遠見 念勿和備曾 風之共 雲之行如 言者將通
【語釈】 ○国遠み念ひな佗びそ 行く国が遠いゆえに、侘びしくは思うな。○風の共雲の行くなす 風とともに雲が移り行くごとくに。○言は通はむ 言葉は通おう。
【釈】 わが行く国が遠いゆえに、侘びしくは思うな。風とともに移りゆく雲のように、言葉は通うことだろう。
【評】 京の官人の地方官に任ぜられて、遠国へ旅立つ際、その妻に慰めとしていった歌である。「風の共雲の行くなす」という譬喩は、漢籍の風雲という、音信を通わす意の語から取ったものとみえるが、ここではその身分人柄を暗示するものとなっている。相聞の歌とすると、男らしい、さっぱりとした、趣の異なったものである。
3179 留《とま》りにし 人《ひと》を念《おも》ふに 蜻蛉野《あきづの》に 居《ゐ》る白雲《しらくも》の 止《や》む時《とき》もなし
留西 人乎念尓 〓野 居白雲 止時無
【語釈】 ○留りにし人を念ふに 「留りにし人」は、家に残ってとどまった人で、旅にあって妻を指したもの。○蜻蛉野に居る白雲の 「蜻蛉野」は、吉野離宮のある宮滝付近の野で、「居る白雲の」は、そこにかかりとおしになっている白雲のようにで、譬喩の意で、二句、「止む時もなし」にかかる序詞。○止む時もなし 上の「念ふに」に続くもので、恋うることがやむ時もない。
【釈】 家にとどまった人を思うのに、蜻蛉野にかかりとおしている白雲のように、やむ時も無い。
【評】 吉野離宮に赴いた人の、妻を思う心である。「蜻蛉野に居る白雲の」という序詞は眼前を捉えたもので、旅に来ている地と、恋に心の結ばれているさまをあらわしているものである。「留りにし人」という言い方は、相応に身分ある官人を思わせるものである。
別を悲める歌
【標目】 旅に行く人に対して別れを悲しむ歌、また旅立つ人の悲しむ歌三十一首を集めている。第二首目から、衣、鏡、山、原というように、取材としている物によって分類し、同じ物のある歌を一と所に集めている。
(437)3180 うらもなく 去《い》にし君《きみ》ゆゑ 朝《あさ》な旦《あさ》な もとなぞ恋《こ》ふる 逢《あ》ふとは無《な》けど
浦毛無 去之君故 朝旦 本名焉戀 相跡者無杼
【語釈】 ○うらもなく去にし君ゆゑ 「うらもなく」は、何心もなくで、別れを惜しむ心もなく。「去にし君ゆゑ」は、去ってしまった君であるのに。これは、旅立ちの朝、夫がそのことに心を奪われていたさまを、別れを悲しむ妻の立場から見ての感じ。○朝な旦なもとなぞ恋ふる 「朝な旦な」は、別れた時刻。「もとなぞ恋ふる」は、原文「本名烏恋」とある本も多く、したがって訓が定まらない。『考』は「曾」の誤字だとして今のごとくに訓んでいる。『注釈』は「焉」とし、「所沾乍焉来《ヌレツツゾコシ》」(三一二六)の例をあげてゾと訓んでよいことをいっている。『全註釈』は、句の中に「焉」の字を用いた例はないとして、「烏」を取り、「もとなを恋ひむ」と訓み、「を」を感動の助詞としている。○逢ふとは無けど 「無けど」は、なけれどもの古格。逢うということはないけれど。
【釈】 何心もなく去ってしまった君であるのに、その時刻である朝な朝な、よしなくも恋うていることである。逢うということは無いけれど。
【評】 夫が地方官などに任ぜられて赴任した後に、妻がその夫を恋うている心である。やや複雑した気分で、発足の朝は、夫は心慌しかったためか、名残りを惜しむような風もなく、素気なく別れて行ったのが、妻には恨めしかったのであるが、日が立つと、その別れて行った朝の時刻になるごとに夫が恋しく思われ、一方では、恋うたからとて逢える望みはなく、よしないことだとも思われるというのである。夫を思う純真な心はもっているが、一方には我儘で、実際的で、目前の事よりほかは思えない心の現われている歌である。一首の歌の中に、複雑な、屈折した気分の盛られている点で、きわめて特殊な歌である。説明的になっているのは、取材の関係上余儀ないことで、そのため感は強くはないが、手腕のある作である。奈良朝の身分ある階級の女の一面が思われる。
3181 白栲《しろたへ》の 君《きみ》が下紐《したひも》 吾《われ》さへに 今日《けふ》結《むす》びてな 逢《あ》はむ日《ひ》のため
白細之 君之下紐 吾左倍尓 今日結而名 將相曰之爲
【語釈】 ○白栲の君が下紐 「白栲の」は、紐の枕詞であるが、ここは叙述の意よりのもの。○吾さへに今日結びてな 「吾さへに」は、君だけでは結ばず、われも加わって。「今日結びてな」は、「今日」は、旅立つ前日。「結びてな」は、「な」は、自身に対しての願望の助詞で、結ぼうよ。(438)男女、逢って別れる時に、互いに相手の下紐を結びかわすのは、わが魂を相手に添わせて、一体とならせる呪いで、貞実を誓い合う心である。○逢はむ日のため また逢う日のために。
【釈】 白栲の君の下紐を、今日は私も手伝って結びましょうよ。また逢う日のために。
【評】 夫の旅立つ前に逢った時の女の歌で、男に貞実を誓う意をいっているものである。その事としては特別のことではないが、別れというので、改まって歌にしているのである。「吾さへに今日結びてな」は、女が進んでするのであるが、卑下の意をも含めての語で、誓いとしてのことではあるが、訴えの心ももっているのである。女の全体を暗示している。
3182 白栲《しろたへ》の 袖《そで》の別《わかれ》は 惜《を》しけども 思《おも》ひ乱《みだ》れて ゆるしつるかも
白妙之 袖之別者 雖惜 思乱而 赦鶴鴨
【語釈】 ○白栲の袖の別は 「白栲の」は、袖の枕詞。「袖の別」は、袖を別れさせることで、夜、衣と衣とを一つにして寝ているのを、それぞれの衣にする意で、「別」を具体的にいった語。○惜しけども 惜しけれどもの古格。惜しいけれども。○思ひ乱れてゆるしつるかも 「思ひ乱れて」は、嘆きに心が乱れてで、ぼんやりする意。「ゆるし」は、手を放して自由にさせる意で、別れさせてしまったことであった。
【釈】 白栲の袖を別れさせることは惜しいことであるが、嘆きに心が乱れてぼんやりして、放してしまったことであった。
【評】 夫を旅立たせる時の妻の心である。床を離れ難くしていたが、つい離れさせてしまったと、離れての後も悔しがっている心で、夫に訴えた形のものである。濃情の振舞いを、「白栲の袖の別」と、美しく気分化しているもので、一首としても細かい気分の表現である。気分化を遂げ得ている作である。
3183 京師辺《みやこべ》に 君《きみ》は去《い》にしを 誰《たれ》解《と》けか 我《わ》が紐《ひも》の緒《を》の 結《むす》ぶ手《て》懈《う》きも
京師邊 君者去之乎 孰解可 言紐緒乃 結手懈毛
【語釈】 ○京肺辺に君は去にしを 京のほうへ君は行ってしまったのに。○誰解けか 君ならぬ誰が解けばかで、「か」は、疑問の係。○我が紐の緒の結ぶ手懈きも 「紐の緒」は、紐を強めていったもので、下紐。「結ぶ手懈きも」は、『全註釈』の訓。『古義』は、「ゆふ手たゆきも」。『全註釈』は、「たゆし」は、用例の無い語であり、「懈」は、「海」(うみ)の仮字に用いている字だとして「う」と訓んだ。解けた下紐を結ぶ手が、(439)大儀なことであるよ。
【釈】 京のほうに君は行ってしまったのに。誰が解くのであるか、わが下紐は、結ぶ手が大儀なことであるよ。
【評】 これは京と地方とをつなぐ要路に、当時多くいた遊行婦の一人の歌と取れる。心を寄せていた官人が京へ帰った後、その人以外の多くの人に、心ならずも接している嘆きをいったものである。全体が気分を主とした詠み方をしているために、事実は婉曲に、語は美しくなっているが、しかし事実は隠れずに現われて、心を尽くしたものとなり、悲痛に近い匂いをも漂わせるものとなっている。遊行婦の歌としては珍しく深みのあるものである。「誰解けか」は、人の来る前兆としておのずから解ける意のもののごとくもみえて、それが味わいとなっている。
3184 草枕《くさまくら》 旅行《たびゆ》く君《きみ》を 人目《ひとめ》多《おほ》み 袖《そで》振《ふ》らずして 数多《あまた》悔《くや》しも
草枕 客去君乎 人目多 袖不振爲而 安萬田悔毛
【語釈】 ○人目多み袖振らずして 人目が多いゆえに、袖を振ることもしなくて。このような心づかいがあったのである。○数多悔しも 甚だ残念である。
【釈】 旅へ行く君であるものを。人目が多いので袖を振らなくて、甚だ残念であることよ。
【評】 素朴な詠み方をした歌である。詠歎の心を籠めて言い続けているので、感のあるものとなっている。
3185 まそ鏡《かがみ》 手《て》に取《と》り持《も》ちて 見《み》れど飽《あ》かぬ 君《きみ》におくれて 生《い》けりとも無《な》し
白銅鏡 手二取持而 見常不足 君尓所贈両 生跡文無
【語釈】 ○まそ鏡手に取り持ちて 「見」の序詞。○見れど飽かぬ君におくれて 「見れど飽かぬ」は、夫婦関係の上でいっているもので、永く相逢っているけれども飽くことのない。「おくれて」は、後に残されてで、夫の旅へ行ってしまったことをいっているもの。○生けりとも無し 生きている心地もしない。
【釈】 まそ鏡を手に取り持って見るように、永く関係しているが飽かない君に、後に残されて、生きている心地もしない。
(440)【評】 女の歌としては、きわめて一般的な心をいったもので、 語も慣用句のみのものである。
3186 陰夜《くもりよ》の たどきも知《し》らぬ 山《やま》越《こ》えて 往《い》ます君《きみ》をば 何時《いつ》とか待《ま》たむ
陰夜之 田時毛不知 山越而 徃座君乎者 何時將待
【語釈】 ○陰夜のたどきも知らぬ山越えて 「陰夜の」は、曇った夜のようにで、譬喩として「たどきも知らぬ」にかかる枕詞。「たどきも知らぬ」は、たより所、すなわち様子の知れないで、そうした山を越して。○往ます君をば 「往ます」は、行くの敬語。いらっしゃるあなたを。
【釈】 曇り夜のように様子の知れない山を越して、旅にいらっしゃるあなたを、いつ帰ることと待つのでしょうか。
【評】 夜、様子の知れない山越えをして、いつ帰るという当ての付かない旅へ出るということは、尋常なことではない。女は一途に男の困難を思いやり、自身の心細さに捉われているだけで、その事情には触れようともしていない。おのずから気分の歌となっているのである。相対しての歌であるから、こうした詠み方もありうるわけである。第三者には通じかねる境である。
3187 たたなづく 青垣山《あをがきやま》の 隔《へな》りなば しばしば君《きみ》を 言問《ことど》はじかも
立名付 青垣山之 隔者 數君乎 言不問可聞
【語釈】 ○たたなづく青垣山の 「たたなづく」は、畳わり付くで、物の重なり合っていることをあらわす語。「青垣山」は、青垣のごとき山で、青山が垣のごとく四方を繞らしている意。大和国を形容する語として、古くよりのもの。○隔りなば 「へなる」は、「へだつる」の古語で、集中に並用されている。「へなる」のほうが用例が多い。○しばしば君を言問はじかも しばしば君に音信が出来なかろうかで、「かも」は、疑問。「君を」は、原文「君乎」。「君を」と仮名書きのあるものは集中例の少ないことを『総釈』は注意している。なお「君を恋ふ」も、仮名書きのあるものは、上の(二九八三)「外のみに見つつや君を(君乎)恋ひ渡りなむ」の一例のみで、ほかはすべて「君に恋ふ」であるともいっている。
【釈】 重畳して青垣のような山が隔てたならば、おりおり君に音信もできなかろうか。
【評】 奈良京の官人の、地方官などになって赴任しようとする時に、妻が贈った歌である。別れを悲しむ心よりのものであるが、それには全然触れず、後でのさびしさ心細さを、それとなく漏らしているのである。人の旅立つ前には、不吉なことをい(441)つてはならないとする風習があった。言霊信仰よりのことと思われる。身分ある教養人のこととて、それを守ってのものと思われる。しかし実際としては珍しいものである。
3188 朝霞《あさがすみ》 たなびく山《やま》を 越《こ》えて去《い》なば 吾《われ》は恋《こ》ひむな 逢《あ》はむ日《ひ》までに
朝霞 蒙山乎 越而去者 吾波將戀奈 至于相日
【語釈】 略す。
【釈】 朝霞のたなびいている山を越えて君が往ったならば、われは恋うることであろうよ。また逢う日までは。
【評】 国境の山を越えて遠く往く夫の、早朝発足の際、その妻の贈った歌である。上三句は眼前を叙したものであるが、四、五句は慣用句である。
3189 あしひきの 山《やま》は百重《ももへ》に 隠《かく》すとも 妹《いも》は忘《わす》れじ 直《ただ》にあふまでに
足檜乃 山者百重 雖隱 妹者不忘 直相左右二
【語釈】 ○山は百重に隠すとも 山は幾重にもここを隔てて隠そうとも。旅に出る前の心。
【釈】 山は百重にここを隔てて隠そうとも、妹は忘れまい。直接に逢うまでは。
【評】 旅立つ時、夫が妻に対して、誠実を誓って慰めた歌である。上三句は大和の眼前を捉えたもの、四句はそれと対照しての自身の心持で、一応の技巧のあるものである。結句は慣用句である。
一に云ふ、隠《かく》せども 君《きみ》を思《しの》はく 止《や》む時《とき》もなし
一云、雖隱 君乎思苦 止時毛無
【解】 三句以下の別伝である。山は隠しているけれども、我の君を思慕することはやむ時もない。初二句が同じところから別伝(442)としているのである。「あしひきの山は百重に」は、大和の地勢上多く用いられて、慣用句である。それにこの歌は女の歌で、別な歌でもあるから、別伝とはいえない。
3190 雲居《くもゐ》なる 海山《うみやま》越《こ》えて い往《ゆ》きなば 吾《われ》は恋《こ》ひむな 後《のち》は逢《あ》ひぬとも
雲居有 海山超而 伊徃名者 吾者將戀名 後者相宿友
【語釈】 ○雲居なる海山越えて 「雲居」は、空の意であるのを、転じて、道かの意でいったもの。「海山」は、海や山で、夫の行く先。○い往きなば 「い」は、接頭語。○後は逢ひぬとも 後には逢おうともで、「ぬ」は、完了で、強めていう意のもの。
【釈】 遙かなる海や山を越して、君が旅に往ったならば、我は恋い思うことであろうよ。後には逢おうとも。
【評】 男の旅立ちを送っての女の歌である。「海山越えて」は、遠隔の地ということを具象的にいったもの。路はできるかぎり海路によったので、どこに対してでもいえるものだからである。四、五句は慣用句である。
3192 よしゑやし 恋《こ》ひじとすれど 木綿間山《ゆふまやま》 越《こ》えにし公《きみ》が 念《おも》ほゆらくに
不欲惠八師 不戀登爲杼 木綿間山 越去之公之 所念良國
【語釈】 ○よしゑやし よし、ままよの意。巻二(一三一)その他に既出。○木綿間山 所在未詳。下の続きで見ると、街道にあたっている山である。○念ほゆらくに 思われることであるよ。
【釈】 よし、ままよ、恋うまいと思うが、木綿間山を越えて行ってしまった公が、思われることであるよ。
【評】 作者は街道筋で、木綿間山と呼ぶ山の麓に住んでいる遊行婦であろうか。夜前、旅人である公と呼んでいる人に侍し、その人の発足した後に思いを残して、そのことを自分の身としては避くべきことだとしている心である。意識的に恋をしまいとしている心、その詠み方の巧みではあるが、あっさりとしているところは、相俟って特殊なものである。遊行婦だろうと思わせるのは、その意味においてである。
(443)3192 草蔭《くさかげ》の 荒藺《あらゐ》の埼《さき》の 笠島《かさしま》を 見《み》つつか君《きみ》が 山道《やまぢ》越《こ》ゆらむ
草陰之 荒藺之埼乃 笠嶋乎 見乍可君之 山道超良無
【語釈】 ○草蔭の荒藺の埼の 「草蔭の」は、草陰となっている荒れた地の意で、「荒」にかかる枕詞。「荒藺の埼」は、所在が明らかでない。新井という地名は諸所にあるが、下の続きから不明なのである。○笠島を これも所在が明らかでない。
【釈】 荒藺の埼にある笠島を見ながら、君は山道を越えているのであろうか。
【評】 女が男の旅路を思いやった心である。荒藺の埼の笠島を、山道から見下ろす景は、女も知っている路で、好景とされている所であったとみえる。四、五句は慣用句である。男の旅は遠いものではなく、また笠島は女の家からさして離れていないところであろうと思われる。一首、明るくたのしげなものだからである。
一に云ふ、み坂《さか》越《こ》ゆらむ
一云、三坂越良牟
【解】 結句の別伝である。「み坂」は、「み」は、接頭語で、坂は、山とすると神を祀ってある畏い所である。
3193 玉《たま》かつま 島熊山《しまくまやま》の 夕暮《ゆふぐれ》に ひとりか君《きみ》が 山道《やまぢ》越《こ》ゆらむ
玉勝間 嶋熊山之 夕晩 獨可君之 山道將越
【語釈】 ○玉かつま島熊山の 「玉かつま」は、「玉」は、美称、「かつま」は、籠の古名で、既出。良い籠は編み目がしまっているところから、「島」にかかる枕詞。「島熊山」は、所在不明。
【釈】 良い籠は目がしまっている、その島熊山の夕暮に、ひとりで君は山道を越しているのであろうか。
【評】 妻が夫の旅の行程を思い、夕暮にひとりで島熊山を越えているだろうと思って、そのさびしさを思いやったものである。四、五句は慣用句であるが、一首はよくこなれて、調べは哀調となっている。
(444) 一に云ふ、夕霧《ゆうぎり》に 長恋《ながこひ》しつつ いねかてぬかも
一云、暮霧尓 長戀爲乍 寐不勝可母
【解】 三句以下の別伝である。夕霧の中に、妹に対しての長い恋をしつづけて、眠り得ずにいることであるよで、これは島熊山に野宿をしている男の歌である。上の歌の別伝ではなく、さながら問答になっているような歌である。「長恋」は、用例のある語である。
3194 気《いき》の緒《を》に 吾《わ》が念《おも》ふ君《きみ》は 鶏《とり》が鳴《な》く 東方《あづま》の坂《さか》を 今日《けふ》か越《こ》ゆらむ
氣緒尓 吾念君者 鷄鳴 東方重坂乎 今日可越覽
【語釈】 ○気の緒に吾が念ふ君は 命懸けにわが思っている夫は。○鶏が鳴く東方の坂を 「鶏が鳴く」は、「あづま」にかかる枕詞。「東方の坂」は、「東方」は、京より東国全体をさしての称。「坂」は、普通名詞で、代表的の坂。東海道を取れば足柄峠でもあろうが、不明である。難所としていっている。
【釈】 命懸けにわが思っている君は、東方の坂を今日は越しているのであろうか。
【評】 京にとどまっている妻の、東国に旅をしている夫を思い、今頃は道中での難所である東方の坂を越しているのであろうかと思いやった心である。「気の緒に吾が念ふ君」と言い出して いるので、いたわりの気分がおのずから現われて来る。一本気に、思い詰めている気分が調べとなっている。
3195 磐城山《いはきやま》 直越《ただこ》え来《き》ませ 礒埼《いそざき》の 許奴美《こぬみ》の浜《はま》に 吾《われ》立《た》ち待《ま》たむ
磐城山 直越來益 礒埼 許奴美乃濱尓 吾立將待
【語釈】 ○磐城山直越え来ませ 「磐城山」は、静岡県清水市興津町と庵原郡由比町との間にある薩※[土+垂]峠の古名であるという。「直越え来ませ」は、まっすぐに越えていらっしゃいで、早くという意である。「来ませ」は、来よの敬語で、女より男にいっているもの。○礒埼の許奴美の浜に 「礒(445)埼」は、薩※[土+垂]峠の海に接しる所を、今、岫《くき》が崎と呼んでいて、そこであるという。「許奴美の浜」は、どことも知れぬ。その辺りの浜であろう。「浜」は、砂浜の称である。○吾立ち待たむ 私は待っていようで、「吾」は、女。
【釈】 磐城山をまっすぐに越えて早くいらっしゃい。礒埼の許奴美の浜で私は待っていましょう。
【評】 礒崎に近く住んでいる女が磐城山のかなたに住む、関係した男に、密会の場所を示してやった歌である。遠い土地の者と関係を結ぶのは普通のことだったのである。実用の歌とて、地名が多く、単純で明るい。謡い物であったろう。
3196 春日野《かすがの》の 浅茅《あさぢ》が原《はら》に おくれ居《ゐ》て 時《とき》ぞともなし 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
春日野之 淺浅茅之原尓 後居而 時其友無 吾戀良苦者
【語釈】 ○浅茅が原におくれ居て 「浅茅が原」は、丈の低い茅萱の生え続いている原で、ここは女の住地のさみしさをいったもの。「おくれ居て」は、旅に行った夫に、後に残されていて。○時ぞともなし吾が恋ふらくは 「時ぞ」の「ぞ」は、強め。いつという差別もなく絶え間か無い。「恋ふらくは」は、君を恋うることは。
【釈】 春日野の浅茅の原に、君に残されていて、いつという差別もなく絶え間が無い。君を恋うることは。
【評】 旅にある男に、思慕の切情を訴えて贈った歌である。「春日野の浅茅が原に」とその住地のさみしさをいうことによって、思慕の情を暗示している。説明的な歌ではあるが、抒情をとおして詠んでいるので、気分そのものの表現と異ならないものになっている。奈良朝時代の歌風である。
(446)3197 住吉《すみのえ》の 岸《きし》に向《むか》へる 淡路島《あはぢしま》 〓怜《あはれ》と君《きみ》を 言《い》はぬ日《ひ》はなし
住吉乃 崖尓向有 淡路嶋 〓怜登君乎 不言日者无
【語釈】 ○住吉の岸に向へる淡路島 大阪市の住吉の海岸に向かっている淡路島。以上、同音で「あは」の序詞。○〓怜と君を言はぬ日はなし 「〓怜」は、広い意味で感動をあらわす語で、「ああ」というにあたり、ここは男を賞美する意のもの。ああと君をいわない日はない。
【釈】 住吉の岸に向かっている淡路島の、その名に因みのある、あわれとあなたのことをいわない日とてはありません。
【評】 女の男に贈った形の歌である。このように手放した言い方は、普通の女のものではなく、住吉に多かった遊行婦などのものである。歌としては単純で、美しいものである。この単純は、洗練を経たがゆえの単純で、したがって細かさも含んだものである。美しさは、語つづきの垢ぬけがしているためである。「住吉の岸に向へる淡路島」は平明なものであるが、女の住地をあらわすとともに、美しい遠景に対するあこがれ気分があって、「〓怜」に響き合っている。「〓怜と君を」は、意味が広く、誰にでも適用のできるもので、むしろ老猾な言い方である。謡い物となっていたろう。
3198 明日《あす》よりは 印南《いなみ》の河《かは》の 出《い》でて去《い》なば 留《とま》れる吾《われ》は 恋《こ》ひつつやあらむ
明日從者 將行乃河之 出去者 留吾者 戀乍也將有
(447)【語釈】 ○明日よりは印南の河の 「印南」は、原文「将行」で、義訓である。「印南の河」は、兵庫県印南郡(現在の加古川市)にある河で、加古川である。「印南」を同音で「去なば」にかけ、以上その序詞。この序詞は本義を序詞の形としたもので、「明日よりは」は、「出で」の日であり、「印南」は、その出で立つべき場所である。○出でて去なば 男が旅立って行ったならば。○留れる吾は恋ひつつやあらむ 後にとどまっている我は恋いつづけて居ようか。「や」は、疑問の係であるが、詠嘆をもったもの。
【釈】 明日からは、ここの印南の河の名のように、出でて行ったならば、後にとどまっている我は恋いつづけることであろうか。
【評】 印南の河の辺りに住んでいる男女間の歌で、男が明日は旅立つという前夜、女が別後の心をいって訴えたものである。久しい関係で、互いに頼み合っている歌と思われる。この序詞は実際に即する心が主で、叙述を序詞の形にしたものである。心をいうというだけで気分にまではなれない歌である。
3199 海《わた》の底《そこ》 沖《おき》は恐《かしこ》し 磯廻《いそみ》より 漕《こ》ぎたみ往《ゆ》かせ 月《つき》は経《へ》ぬとも
海之底 奧者恐 礒廻從 水手運徃爲 月者雖經過
【語釈】 ○海の底沖は恐し 「海の底」は、底は、物の極まるところをいう古語で、深さにいうとともに遠さにもいった。ここは遠さで、同意語の沖の枕詞。「沖は恐し」は、沖は風波が荒くて危険だ。○磯廻より漕ぎたみ往かせ 海岸のほうから漕ぎめぐっていらっしゃい。「磯廻」は海岸で、普通の航路。「漕ぎたみ」は、沖の航路は直線的だが、海岸伝いだと曲線的になる意。「往かせ」は、往けの敬語。○月は経ぬとも 月は経過しようともで、時は多くかかろうとも。
【釈】 海の底の深いに因む、沖の航路は危険である。海岸伝いに漕ぎめぐっていらっしゃい。月はかかろうとも。
【評】 遠い航海をしようとする男に対して、女がいっている語である。航路を急いで危険を冒されずに、時日はかかろうとも、安全な路を選びたまえというのである。官人に対して、船着き場にいる、海の様子を知っている遊行婦のいっているものである。そうした地だと謡い物となりうるもので、そうしたものだったろう。
3200 飼飯《けひ》の浦《うら》に 寄《よ》する白浪《しらなみ》 しくしくに 妹《いも》が容儀《すがた》は 念《おも》ほゆるかも
飼飯乃浦尓 依流白浪 敷布二 妖之容儀者 所念香毛
(448)【語釈】 ○飼飯の浦に寄する白浪 「飼飯の浦」は、兵庫県三原郡西淡町松帆の慶野の海岸で淡路島の西岸、また福井県敦賀の気比が聞こえている。いずれとも知れぬ。ここは淡路であろうか。「寄する白浪」は、譬喩として「しく」にかかり、以上その序詞。○しくしくに 重ね重ねにで、しきりに。
【釈】 飼飯の浦に寄せている白浪のようにしきりに、家にある妹の姿が思い出されることであるよ。
【評】 難波から船出して、瀬戸内海を航行する官人が、寄港地の淡路の飼飯の浦での歌であろう。眼前を捉えたものと思われる。船出をして多分二日目くらいであるから、旅愁をそそられることが多かったのであろう。常套的な歌である。
3201 時《とき》つ風《かぜ》 吹飯《ふけひ》の浜《はま》に 出《い》で居《ゐ》つつ 贖《あが》ふ命《いのち》は 妹《いも》が為《ため》こそ
時風 吹飯乃濱尓 出居乍 贖命者 妹之爲社
【語釈】 ○時つ風吹飯の浜に 「時つ風」は、潮のさして来ようとする時、それに先立って吹く風の称で、吹く時の定まっている風。同音で、「吹け」の枕詞。「吹飯」は、大阪府泉南郡岬町|深日《ふけ》(旧|深日《ふけひ》村)で、そこの海浜。○贖ふ命は 禊祓《みそぎはらい》をして無事を祈る命は。「贖ふ」は、「あがなふ」の古語で、禊祓という宗教的行事を行なうことの代わりに、災害を除いていただく意。水辺に出て禊をすることは、一般に行なわれたことである。
【釈】 時つ風が吹くところの吹飯の浜に出ていつつ、禊をして無事を祈るわが命は、妹のためのことである。
【評】 男が旅に出ていて、吹飯の浜で禊をした時の心であるが、家の妻を恋うる心の強いおりからとて、わがためのことではない、妹のためのことだという気がしていっているのである。妹を思う歌である。妹に贈った歌と思われる、別れを悲しむ歌ではない。
3202 柔田津《にざたづ》に 舟乗《ふなの》りせむと 聞《き》きしなへ 何《なに》ぞも君《きみ》が 見《み》え来《こ》ざるらむ
柔田津尓 舟乘將爲跡 聞之苗 如何毛君之 所見不來將有
【語釈】 ○柔田津に舟乗りせむと 「柔田津」は、愛媛県松山市付近の港である。「舟乗りせむと」は、乗船をしようとしていると。以上二句、巻(449)一(八)に出た。○聞きしなへ 聞いたとともに。○何ぞも君が見え来ざるらむ どうして君が、わが家に来ないことであろうかで、「何」は、疑問の係。「見え来」は、同意語を重ねて強めたもの。
【釈】 柔田津で乗船をしようとしていると聞いたとともに、どうして君は、わが家に来ないのであろうか。
【評】 柔田津に住んでいる女が、その男が船旅をするという噂を聞き、それだと第一に自分のところへ別れに来そうなものなのにと思って、恨んで男に贈った歌である。遠い旅をする前の男の忙しさと、女の心細さとの矛盾を背後にした恨みで、例の多いものである。その意である程度の趣がある。
3203 雎鳩《みさご》ゐる 渚《す》にゐる舟《ふね》の 漕《こ》ぎ出《で》なば うら恋《こほ》しけむ 後《のち》は逢《あ》ひぬとも
三沙呉居 渚尓居舟之 榜出去者 裏戀監 後者會宿友
【語釈】 ○雎鳩ゐる渚にゐる舟の 「雎鳩ゐる」は、渚の状態としてかかる枕詞。海の魚を餌とする鳥で、荒磯の上に住んでいるのである。ここは渚にしたもの。「渚にゐる舟」は、渚の上に擱坐している船で、そこを安全地帯としてである。○うら恋しけむ 「こほし」は、「こひし」の古語。こころ恋しくあろう。○後は逢ひぬとも 後には逢おうともで、既出。
【釈】 雎鳩の住んでいる渚に擱坐している舟が漕ぎ出したならば、心恋しくあろう。後には逢おうとも。
【評】 船着き場の女の、男との別れを惜しむ歌である。「渚にゐる舟の漕ぎ出なば」は、男の船旅を広く、印象的に言いかえたもの。「うら恋しけむ」は淡い思慕で、「後は逢ひぬとも」は慣用句である。誰でも適用のできる、一とおりの歌である。遊行婦の歌か、土地の謡い物であったろう。
3204 玉葛《たまかづら》 さきく行《ゆ》かさね 山菅《やますげ》の 思《おも》ひ乱《みだ》れて 恋《こ》ひつつ待《ま》たむ
玉葛 無恙行核 山菅乃 思乱而 戀乍將待
【語釈】 ○玉葛さきく行かさね 「玉葛」は、「玉」は、美称。「葛」は、蔓物の総称であるが、ここは「くず」かという。花の咲く意で、「さき」にかかる枕詞。「行かさね」は、行くの敬語に「ね」の願望の接したもの。無事で旅行きをなされよ。○山菅の思ひ乱れて 「山菅の」は、その葉の乱れやすい意で「乱れ」の枕詞。「思ひ乱れて」は、甚しい嘆きをして。
(450)【釈】 玉葛の花の咲くに因む、さきくて旅行きをなさいましよ。山菅のように咲き乱れて、恋いながら待ちましょう。
【評】 前半は夫の旅行きを斎《いわ》ったもの。後半は、留守中の貞実を誓う心で、それぞれ枕詞を添えて美しくいっている。こうした際の型となっていたものとみえる。
3205 おくれ居《ゐ》て 恋《こ》ひつつあらずは 田子《たご》の浦《うら》の 海人《あま》ならましを 玉藻《たまも》刈《か》る刈《か》る
後居而 戀乍不有者 田籠之浦乃 海部有申尾 珠藻苅々
【語釈】 ○おくれ居て恋ひつつあらずは 旅に行く夫の後に残って、恋いつつ居ずに。○田子の浦の 静岡県庵原郡。巻三(三一八)に既出。○玉藻刈る刈る 美しい藻を刈り刈りするで、「刈る刈る」は連続。
【釈】 あとに残って、恋いつづけていずして、あの田子の浦の海人であろうものを。美しい藻を刈り刈りする。
【評】 田子の浦に近く住む、ある程度の身分ある妻が、心なげな海人を羨んだ心である。この歌の形は、巻十一(二七四三)「なかなかに君に恋ひずは比良の浦の白水郎ならましを玉藻刈りつつ」とあり、「或本の歌」として、四、五句「留牛馬の浦の海人にあらましを玉藻刈る刈る」とも出ていた。謡い物として広範囲に伝承され、その土地土地で、地名だけを変えて謡われていたのである。魅力ある歌だったのである。
3206 筑紫道《つくしぢ》の 荒礒《ありそ》の玉藻《たまも》 刈《か》るとかも 君《きみ》は久《ひさ》しく 待《ま》てど来《き》まさぬ
筑紫道之 荒礒乃玉藻 苅鴨 君久 待不來
【語釈】 ○筑紫道の 「筑紫道」は、京より筑紫へ往く道の称であるが、ここは反対に、筑紫より京へ向かう時に用いている。ほかにも例がある。○刈るとかも 「かも」は、疑問の係。路は海路であるとしてのこと。○待てど来まさぬ 「来まさぬ」は、来ぬの敬語で、詠嘆してのもの。
【釈】 筑紫からの帰り路の、海路の荒礒の藻を、刈っているというのであろうか。久しくも君は、待っているがお帰りにならないことだ。
【評】 官人である夫の筑紫方面からの帰着を、京で待ちかねている妻の心である。「荒礒の玉藻刈るとかも」という想像は大(451)和にのみ住んでいる女性には、ありうることとして本気に想像したことであったろう。しかしある程度の恨みを籠めてのものである。その点が当時にあっては味わいとなっていたろう。
3207 あらたまの 年《とし》の緒《を》永《なが》く 照《て》る月《つき》の 厭《あ》かざる君《きみ》や 明日《あす》別《わか》れなむ
荒玉乃 年緒永 照月 不※[厭のがんだれなし]君八 明日別南
【語釈】 ○あらたまの年の緒永く 「あらたまの」は、年の枕詞。「年の緒永く」は、年久しくで、夫婦関係の久しさをいったもの。「厭かざる」に続く。○照る月の厭かざる君や 「照る月の」は、譬喩として、「厭かざる」にかかる枕詞。「厭かざる君」は、ここはきわめて親しい夫。「や」は、疑問の係で、詠嘆したもの。
【釈】 あらたまの年久しい間を、照る月のように飽かずにいる君と、明日は別れることであろうか。
【評】 夫が遠い旅に立つ前夜、妻の贈った歌である。夫婦関係を時間的に見、枕詞を二つ用いてそれを強調しているのは、場合がら自然である。「照る月の厭かざる君」は、当時の夫婦関係としては適切な言い方で、時間的に見るのも、その同じ心からである。身分ある人の歌である。
3208 久《ひさ》にあらむ 君《きみ》を念《おも》ふに ひさかたの 清《きよ》き月夜《つくよ》も 闇《やみ》のみに見《み》ゆ
久將在 君念尓 久堅乃 清月夜毛 闇夜耳見
【語釈】 ○久にあらむ君を念ふに 旅に久しく居るであろうところの君を思うと。○闇のみに見ゆ 旧訓「やみにのみみゆ」。闇とばかり見えるで、「のみ」は、強め。
【釈】 久しく旅にいるであろうところの君を思うと、ひさかたの清く照っている今夜の月夜も、闇夜とばかり見える。
【評】 これも前の歌と同じく、旅立とうとする夫に、その前夜嘆いて贈った歌である。「久にあらむ君を念ふに」と、全体として胸に映っている夫をおおまかに言い、一転して、「清き月夜も闇のみに見ゆ」と、気分化してある飛躍は、要を得たものである。一首の調べも、昂奮した情を抑えた、強く澄んだものとなっていて、気分と調和している。すぐれた歌である。
(452)3209 春日《かすが》なる 三笠《みかさ》の山《やま》に 居《ゐ》る雲《くも》を 出《い》で見《み》る毎《ごと》に 君《きみ》をしぞ念《おも》ふ
春日在 三笠乃山尓 居雲乎 出見毎 君乎之曾念
【語釈】 ○居る雲を出で見る毎に かかっている雲を、家を出て見るたびごとに。
【釈】 春日にある三笠の山にかかっている雲を、家を出て見るたびごとに、君を思うことである。
【評】 奈良京に住んで、夫を遠い旅へ遣っている女の歌である。絶えず夫のことが気にかかっているところから、三笠山の雲を見ることがあると、それが刺激になって遠方の夫が思わせられるというのである。純気分の歌で、その気分はうなずき得られるものである。
3210 あしひきの 片山雉《かたやまきぎし》 立《た》ちゆかむ 君《きみ》におくれて 現《うつ》しけめやも
足檜乃 片山〓 立徃牟 君尓後而 打四鷄目八方
【語釈】 ○片山雉 「片山」は、一方は平地、他方は山になっている地形の称で、そこにいる雉。雉が飛び立つ意で、「立ち」と続け、以上その序詞。○立ちゆかむ君におくれて 旅立って行くであろう君に後に残されて。○現しけめやも 「現しけ」は、「現し」の未然形で、現実である意。「め」は、推量の助動詞、「やも」は、反語で、正気でいられようか、いられぬの意。
【釈】 この片山にいる雉の飛び立つように、旅立って行くであろう君に後に残されて、我は正気でいられようか、いられはしないことよ。
【評】 旅立つ男の見送りをして来た女の、別れ際に嘆いて詠んだ歌である。「あしひきの片山雉」は、男女の住地であるとともに、現に眼前に見た光景を捉えて序詞としたもので、女が片山となっている地点まで見送りしたことを暗示しているものである。「現しけめやも」は、思い乱れるということを、結果のほうからいっているものである。気分を主とした歌で、訴える力をもった歌である。
問答の歌
(453)3211 玉《たま》の緒《を》の 現《うつ》し心《ごころ》や 八十楫《やそか》懸《か》け 漕《こ》ぎ出《い》でむ船《ふね》に 後《おく》れて居《を》らむ
玉緒乃 徙心哉 八十梶懸 水手出牟船尓 後而將居
【語釈】 ○玉の緒の現し心や 「玉の緒の」は、「玉」は、ここは霊の意で、その連続することを生きていることとし、意味で「うつし心」にかかる枕詞。「現し心」は、正気な心。「や」は疑問の係助詞。正気の心でのことか。○八十揖懸け漕ぎ出でむ船に 「八十楫懸け」は、多くの楫を舷側に取り付けてで、官人の乗る大船。○後れて居らむ 後に残されているだろう。
【釈】 命ある正気な心で、多くの楫を取り付けて漕ぎ出して行くだろう船に、後に残されているのだろうか。
【評】 然るべき身分の夫が、地方官などに任ぜられて、難波津から発船をするのを見送りに来ている妻の、発船に先立ってその夫に訴えた歌である。「玉の緒の現し心や、後れて居らむ」は、嘆きの語としては大きいもので、官命を帯びて赴任する夫との別れには不似合なものである。「八十楫懸け」は慣用句で、これもこの際に必要かどうかの疑われるもので、全体が派手で、むしろ嘆きの心を圧して消している趣のあるものである。問答の歌は、一首を番わせると、おのずから叙事的気分のあらわれるもので、それが時代の興味となっていたものと思われる。この歌もその範囲のもので、初めから興味を主とした謡い物として作られたものだろうと思われる。
3212 八十楫《やそか》懸《か》け 島隠《しまがく》りなば 吾妹子《わぎもこ》が 留《とま》れと振《ふ》らむ 袖《そで》見《み》えじかも
八十梶懸 嶋隱去者 吾妹兒之 留登將振 袖不所見可聞
【語釈】 ○島隠りなば 「島隠り」は、「島」は、海上からは陸地をそう呼んでおり、また、船は海岸を離れずに漕いだのであるから、見送る人には船はすぐに見えなくなったのである。○袖見えじかも 船からは袖が見えなかろうかなあで、「かも」は、疑問と詠嘆。
【釈】 多くの楫を取り付けて、船が島隠れとなったならば、吾妹子が、留まれよと我に振る袖が、見えないであろうかなあ。
【評】 相対しての夫の答であるが、妻の嘆きには触れず、顧みて他をいっている形である。「吾妹子が留れと振らむ袖見えじかも」は、可憐な情趣を惜しむ意で、それも想像してのものであるから、むしろ甘いものである。松浦の佐用比売を連想させる言葉である。問に対して変化と甘美とを旨とした答である。
(454) 右二首
3213 十月《かむなづき》 時雨《しぐれ》の雨《あめ》に ぬれつつや 君《きみ》が行《ゆ》くらむ 宿《やど》か借《か》るらむ
十月 鍾礼乃雨丹 沾乍哉 君之行疑 宿可借疑
【語釈】 ○ぬれつつや君が行くらむ 「や」は、疑問の係。濡れながらも、君は路を行くのであろうか。「らむ」は、現在推量の助動詞。妻が今降り出した時雨に対して、夫を推量しているものである。
【釈】 十月のものであるこの時雨に、濡れながらも、君は路を行くのであろうか。それとも、宿を借りるのであろうか。
【評】 遠くない旅へ出ている夫の上を、その事がおりからの時雨につけて気づかっている心である。類想の多い歌である。線細く、調子低く、気分的にいっているのは、奈良朝の好みである。
3214 十月《かむなづき》 雨間《あまま》も置《お》かず 零《ふ》りにせば 誰《いづれ》の里《さと》の 宿《やど》か借《か》らまし
十月 雨間毛不置 零尓西者 誰里之 宿可借益
【語釈】 ○雨間も置かず 「雨間」は、雨と雨との間で、雨のやむ間の意と、雨の降っている間との二様の意に用いられている。ここは前者で、雨のやんでいる間も置かずで、晴れ間もなく。○零りにせば 「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。降ったのだったら。○誰の里の宿か借らまし 「誰の里の」は、『全註釈』の訓で、巻七(一一六七)「誰嶋の白水即か苅るらむ」の「誰嶋」を、類聚古集が「いづれの島の」と訓んでいるのに拠るといっている。「誰」を用いているのは、何人の住む里の意だともいっている。当時は知る人の家でないと宿ることはできなかったのである。「宿か借らまし」は、「か」は、疑問の係、「まし」は、仮設で、どういう人の里に宿を借りたものであろうかで、目あての付かない心。
【釈】 十月のことで、雨が晴れ間も置かずに降ったとしたならば、どういう人の里に宿を借りたものであろうか。
【評】 男の答であるが、この歌は、今は時雨は降っていないが、もしひどく降り続いたならば、どういう人をたよって宿を借りたものであろうかと、行く方面と、そちらでたよれそうな人の 早速は思い浮かべられずにいる心である。一首の独立した歌とすると、実際に即した、心の細かい、しみじみとした味わいのある歌である。しかしこれを問答とすると、問はすでに夫が家(455)を離れた後で、現に雨の降っている時の心、答は、雨は降らないが、いつ降るとも知れないことを思っている心で、連絡の付けられないものである。時雨によって強いて番わせたものと思わせる歌である。
右二首
3215 白栲《しろたへ》の 袖《そで》の別《わかれ》を 難《かた》みして 荒津《あらつ》の浜《はま》に やどりするかも
白妙乃 袖之別乎 難見爲而 荒津之濱 屋取爲鴨
【語釈】 ○白妙の袖の別を 上の(三一八二)に出た。○難みして 困難に思っての意で、男が女との別れをいっているもの。○荒津の浜にやどりするかも 「荒津の浜」は、筑前国筑紫郡で、荒戸町という。福岡市の西公園の海岸で、当時は船着き場であった。「やどりするかも」は、一夜を宿ることだ。
【釈】 白栲の袖の別れを困難に思って、荒津の浜で、一夜を宿ることだ。
【評】 荒津から船出をする男は、大宰府の官人であろう。女との別れを難くするのは、かりそめの旅ではなく、任が解けて京へ帰る旅であり、再会のあてのないことだからであろう。女は何者かはわからないが、大宰府辺りの者とみえる。事を叙して、それを詠嘆としているのは、その事がすでに感傷よりのものであったからである。大宰府関係の歌とすると、古風な、粗い調べをもった歌である。
3216 草枕《くさまくら》 旅《たび》行《ゆ》く君《きみ》を 荒津《あらつ》まで 送《おく》りぞ来《き》つる 飽《あ》き足《た》らねこそ
草枕 羈行君乎 荒津左右 送來 飽不足社
【語釈】 ○送りぞ来つる 諸注、訓がさまざまである。『新訓』の訓。用字に最も即しての訓である。「つる」は、「ぞ」の結。詠嘆してのもの。○飽き足らねこそ 『新訓』の訓。飽き足らねばこその古格で、下に「あれ」が略されている。
【釈】 旅に行く君を、荒津まで送って来たことであるよ。別れるのが飽き足らないからのことである。
【評】 男が「難みして」といっているのに対して、女は「飽き足らねこそ」といって、応じているが、この思い方は対当のも(456)ので、女の歌としては心の足りないものである。これは女が妻ではなく、遊行婦であったためと思われる。「問答」としては展開のないもので、また余りにも同じ手法で詠んであるところから見て、同じ人の作と思われる。
右二首
3217 荒津《あらつ》の海《うみ》 吾《われ》幣《ぬさ》奉《まつ》り 斎《いは》ひてむ 早《はや》還《かへ》りませ 面変《おもがは》りせず
荒津海 吾幣奉 將齋 早還座 面變不爲
【語釈】 ○荒津の海吾幣奉り斎ひてむ 荒津の海で、海の神に幣を供えて祭をし、われは斎戒して君の無事を祈っていよう。○早還りませ 早くここへ還って来たまえよで、「ませ」は、敬語。○面変りせず 面変わりをせずして。「面変り」は、慣用語で、様子が変わらずにの意。
【釈】 荒津の海で、海の神に幣を供えて祭をし、われは斎戒して君の無事を祈っていよう。早く還っていらっしゃいませ。面変わりをせずに。
【評】 荒津の海から船出をして、当分の旅をする夫を見送りに来た妻の歌である。男はこれも大宰府の官人で、旅は任務を帶びて京まで行く程度のものであろう。女のいうところは、海上の無事を祈るという型のごときものであるが、調べに重みと霑《うるお》いがあって、それが感を成している。
3218 旦《あさ》な旦《あさ》な 筑紫《つくし》の方《かた》を 出《い》で見《み》つつ 哭《ね》のみぞ吾《わ》が泣《な》く 甚《いた》も術《すべ》無《な》み
旦々 筑紫乃方乎 出見乍 哭耳吾泣 痛毛爲便無三
【語釈】 ○哭のみぞ吾が泣く 「哭に泣く」は、泣くことで、「のみ」は、強め。泣いてばかりいる。○甚も術無み 何とも仕方が無いので。
【釈】 毎朝、筑紫のほうを出て見ながら、泣いていることだ。何とも仕方が無いので。
【評】 上の歌は、大宰府にとどまっている妻が京へ贈って来たもので、これは京の夫がそれに答えて贈った形のものである。時間の距離があるので、問答という特別の感の少ないものである。夫の筑紫を恋うるのは妻を恋うることで、女よりも遥かに(457)濃情なものである。詠み方には特長はないが、手腕があって、語をこなしきって使っているので、厚みと艶のあるものとなっている。
右二首
3219 豊国《とよくに》の 企救《きく》の長浜《ながはま》 行《ゆ》き暮《く》らし 日《ひ》の昏《く》れぬれば 妹《いも》をしぞ念《おも》ふ
豊國乃 聞之長濱 去晩 日之昏去者 妹食序念
【語釈】 ○豊国の企政の長浜 「豊国」は、豊前国で、企救郡(北九州市小倉区)にある、長く続いている砂浜。○行き暮らし日の昏れぬれば 行くのに一日を暮らして、日が昏《くら》くなったので。○妹をしぞ念ふ 妹を思うことであるで、「念ふ」は、「ぞ」の結。「妹」は、次の歌でその土地の女である。
【釈】 豊国の企救の長い砂浜を一日中行き暮らして、日が昏くなったので、妹を思うことだ。
【評】 旅人として終日を歩き、暗くなって妹を思うという、常套的な心である。普通は野宿をするのであるから、妹というのは安らかに眠れる家というに近いものだからである。この歌は「豊国の企救の長浜」と地名を二つ重ねて旅の感を強くし、さらに「行き暮らし日の昏れぬれば」と、夜に入ろうとすることを、同じく語を重ねて漸層的に強めた上で、「妹をしぞ念ふ」とその主意に結び着けているのである、刺激的ではないが謡い物風の構成である。その土地の謡い物とした歌であろう。
3220 豊国《とよくに》の 企救《きく》の高浜《たかはま》 高高《たかだか》に 君《きみ》待《ま》つ夜《よ》らは さ夜《よ》ふけにけり
豊國能 聞乃高濱 高々二 君待夜等者 左夜深來
【語釈】 ○企故の高浜 「高浜」は、砂の高く盛り上がっている浜。「高」を同音の「高高」に続け、以上その序詞。○高高に君待つ夜らは 「高高に」は、熱心に、一途に。「夜ら」の「ら」は、接尾語。
【釈】 豊国の企救の高浜という、その高々と一途に君を待っている夜は、夜更けてしまったことだ。
【評】 この歌は、妻である女がその男の通って来るのをひたすらに待っているが、男は来ずに夜の更けて行った焦燥をいった(458)もので、これまた常套的なものである。謡い物として作ったものとみえる。上の男の歌とは直接のつながりのないもので、独立した歌である。しかし上の歌と同じく「豊国の企救の長浜」と地名があり、またその地の女の歌となっているので、その意味で関係づけて、強いて番わせたものである。歌風がよく似ているので、同じ作者の別な時に作った歌と思われる。
右二首
窪田空穂全集第十八巻萬葉集評釋Y、525頁、2000円、角川書店、1967.1.15
(6)萬葉集 巻第十三概説
本巻は長歌のみを集めて一巻としたものである。これは本集を通じて唯一のことで、本巻の特色である。
歌数は『国歌大観』の(三二二一)より(三三四七)にいたる一二七首で、内、長歌は五九首、反歌としての短歌四八首、おなじく旋頭歌一首がある。さらにまた別伝として「或本に云ふ」と断わって引いてある歌が、長歌七首、短歌一二首あって、それらの合計が一二七首になるのである。その中に人麿歌集の歌が二首ある。別伝の歌のこのように多いということは、他の巻にはないことで、これはやがて本巻の歌の性質を語ることでもある。
作者は、人麿歌集の歌二首を除くと、作者に触れて言っているものが二か所あるだけで、他はすべて不明である。その一か所は、(三三三九)の長歌と、その反歌としての短歌四首で、作者は「調便首《つきのおびと》」としてあるが、これは氏か、あるいは氏と姓かで、とにかく名は闕《か》いたもので、いかなる人とも知れぬ。今一か所は、長歌の反歌としての短歌(三二四一)で、「この短歌は、或書に云ふ、穂積朝臣|老《おゆ》佐渡に配さえし時作れる歌なり」という左注があって、そういう伝もあったことを示しているというのである。要するに大体不明で、明らかなもの、手がかりのあるものは、例外的に少ないのである。
二
本巻の歌の作られた時代は、その作者が不明であるがゆえに明らかには立証し難い。最も明らかな歌は、(三三二七)三野王《みののおおきみ》の薨去の時、何びとかが作った歌であって、王の薨去は和銅元年である。ついでは人麿歌集の歌で、これはいうまでもない。他はすべてその歌の取材、歌中の地名、その他のことによって推量するよりほかないものばかりである。
今試みに、目につく物の少数を拾って挙げると、(三二六三)泊瀬を生地とする男が、旅にあってその生地を思う歌は、左注にいっているように、古事記、允恭天皇の巻の木梨軽の太子の自ら死する際の歌と密接な関係をもっているものである。一と口にいうと、この歌が太子の歌物語に資料として取り入れられたのであろうと思われるものである。それとすると太子の歌物語が成立した以前のもので、相応に古い物とすべきである。取材、地名から見て、圧倒的に多いのは、飛鳥藤原時代のものである。地名より見ると、飛鳥の雷丘の神を守護神とする信仰の歌で、これは三諸の神南備山という普通名詞を、雷丘の代名詞として、固有名詞扱いをしているのでも知られる。また、大和の男で、近江の湖辺に妻を持っていて、そこへ通うことを道行き風に詠んだ歌が三首ある。遠方の地に妻を持つことは必ずし(7)も特殊なことではないが、この巻の歌は、近江朝時代に結ばれた夫婦関係の延長ではないかと思わせるものがある。巻一所収の、天武天皇の吉野で詠まれたという長歌の原形、持統天皇の行幸の際の歌かとされるもの、日並皇子尊の挽歌と思われるものなどを初めとして、その時代の作と思われるものが本巻の主体をなしている。
これについでは奈良朝時代の歌であるが、これは多くはない。
取材、地名の手がかりのないものは、歌風より推量するほかはないが、これは本文についていうべきで、概言はし難い。
以上を総括すると、本巻は大体飛鳥藤原時代の作が主体となっており、これにそれ以前の時代の少数と、奈良朝時代の、さらにそれよりも少数の作が加わっている巻である。
三
本巻に用いられた資料は、その歌数の割合には、本の数が実に多かったとみえる。すなわち同じ歌が、その本にもこの本にも記されており、そしてそれが幾らかの相違を持っていたのである。本巻の左注に、「或書」「或本」という語の頻出しているのがそのことを語っている。
しかし、そうした左注を持っている歌は、全部にわたってではなく、むしろ半数以下である。このことは本巻の歌の作られた事情に関係を持つことである。
本巻の長歌は、その時代時代の手腕ある作者が、必要に駆られ、また興に乗じて作ったもので、それらは作ると同時に記録され、したがって固定して、原形のままに残っていたものである。こうした歌は、かりに別伝があるとすれば、作者自身の別案か、あるいは伝写の際の誤写で、それ以外には無いのである。
それと並んで、別伝の多い歌は、すでに謡い物となっていた時期に、歌謡の愛好者によって記録されたものである。一度謡い物となった歌は、耳をとおして流布するので、同一の愛好者によって、ほとんど同時に記録されたとしても、土地の異なるために多少の流動を起こしているということもありうることであり、時期が異なれば一段とその傾向は加わるわけである。他方また、その愛好者の記録が仲介となって、流布の範囲を広めることもありうるわけである。「或書」「或本」の変化は、すべてこうした径路を経て起こったものである。
愛好よりの筆録者は、さして多くはなかったろうが、必ずしも少数ではなかったろう。それは本巻の歌の存在したろうと思われる地域の、相応に広いところから思われる。飛鳥藤原辺り、奈良京の辺りはもとより、大和は全円的にわたっているようである。また、近江、美濃、尾張など、京より遠くない地には及んでいるのである。
これに関連して思われることは、美濃、尾張などの歌は、それが明らかに歌謡と思われるにもかかわらず、別伝を持っていないことである。これはその国としては、土地と時代によってある程度の変化は起こしてもいたろうが、それに注意する人がなかったので、一たび筆録されると、そのまま固定して、ある作者によっての作品と同じ状態となったためである。
(8) 四
編集者は、これら二種類の歌の雑然と並んでいるものを整理しようとし、これに部立を与え、次に都より地方へと、地理的に排列順をつけたのである。
部立は、雑歌、相聞、問答の歌、譬喩歌、挽歌などであって、可能な限り細かく分類しようとしたのである。雑歌、相聞、挽歌の三部立は自然であるが、他は強いたものである。本来問答と譬喩は相聞に属すべきものであって、問答は相聞の自然の形であり、譬喩は自然な技巧である。飛鳥藤原時代を主体とした、相聞の長歌で、しかも謡い物の少なくないものに、こうした分類を与えようとすることは、編集者の文学意識と所好におもねった無理な企てといわざるを得ないものである。
本巻の歌を、その部立に従って見ると、じつに破綻が多く、一々挙げるに堪えないまでである。最も破綻のないはずの挽歌にあっても、その前半の、故人を慕う部分が相聞に入っていて、雑歌と相聞とは相応に入り乱れている。これらのことは本文に譲るほかはない。
五
長歌の多いことは本集の特色をなしていることであるが、しかし時代的に見ると、その長歌は一路後退の路をたどっている。長歌の代表作家である柿本人麿にしても、その若い頃の作品集である「柿本朝臣人麿の歌集」と断わられている物の中には、莫大な数の短歌と旋頭歌があるにもかかわらず、長歌はわずかに三首あるのみで、その二首が本巻に収められていることによっても、その大勢はうかがわれるのである。奈良朝時代に入っての長歌の隆盛は、復古を意識してのもので、自然の要求よりのものとは言い難いものである。
そうした長歌に対し、これを特に愛好し、蒐集していた人々があって、断片的な形において残していた物のあるのを資料とし、集大成してこの一巻としたということは、それらの人々の志を遂げしめるとともに、本集の一つの光輝である。本巻は集中にあっても興味深い存在である。
(9) 萬葉集巻第十三 目次
雑歌二十七首(三二二一−四七) 一〇
相聞歌五十七首(三二四八−三〇四) 三八
問答歌十八首(三三〇五−二二) 八七
譬喩歌一首(三三二三) 一〇一
挽歌二十四首(三三二四−四七) 一〇三
(10) 雑歌
3221 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》さり来《く》れば 朝《あした》には 白露《しらつゆ》置《お》き 夕《ゆふべ》には 霞《かすみ》たなびく 風《かぜ》の吹《ふ》く 木《こ》ぬれが下《した》に 鶯《うぐひす》鳴《な》くも
冬木成 春去來者 朝尓波 白露置 夕尓波 霞多奈妣久 汗湍能振 樹奴礼我之多尓 驚鳴母
【語釈】 ○冬ごもり春さり来れば 「冬ごもり」は、春の枕詞。巻一(一六)に既出。「春さり来れば」は、春と移って来れば。○風の吹く 原文「汗湍能振」。旧訓「あめのふる」。『代匠記』の訓。「汗」は、音、「湍」は、訓。「振」は、「振ふ」を古くは「ふく」といったところから当てた字としている。この訓については、その後も諸説があるが、いずれも誤写説を立ててのものである。○木ぬれが下に 「木ぬれ」は、木のうれすなわち末梢で、春の若枝で、若枝隠れに。
【釈】 冬が終わり春となって来ると、朝は白露が置き、夕は霞がたなびく。風の吹く若枝の下には、鶯が鳴くよ。
【評】 純叙景を長歌形式で詠んでいるもので、その意味で珍しいものである。対象として選んでいる風景も、随所に見られるきわめて一般的なもので、しかも早春の淡泊なものであって、何の特色もないものである。したがって叙景とはいうが、むしろ早春の快い気分をいうことを目的とした、気分本位の歌である。こうした傾向は奈良朝時代に入って起こったもので、本巻としては新時代のものである。「風の吹く木ぬれが下に」というごときは、感性の微細に働いたもので、写実ではあるが、気分をとおして捉えた光景であり、気分の表現とも言い得られるものである。形式も長歌とはいうが、九句の、型となっているものである。初二句「冬ごもり春さり来れば」に、結末の「風の吹く木ぬれが下に鶯鳴くも」を連ねると、短歌のごとき形となりうるもので、その中間に二句の対句を一つ挟んだ形のものである。すなわち長歌より短歌に移る一歩手前のもので、しかも平面描写なので、短歌とすべきものを、わざと長歌形式にしたかの感をも起こさせるものである。淡泊な気分をあらわそうとして、その表現技巧として長歌形式を選んだものとみえる。明るい、品のある歌である。
右一首
3222 三諸《みもろ》は 人《ひと》の守《も》る山《やま》 本辺《もとべ》は 馬酔木《あしび》花《はな》開《さ》き 末辺《すゑべ》は 椿《つばき》花《はな》開《さ》く うら麗《ぐは》し 山《やま》ぞ 泣《な》く(11)児《こ》守《も》る山《やま》
三諸者 人之守山 本邊者 馬醉木花開 末邊方 椿花開 浦妙 山曾 泣兒守山
【語釈】 ○三諸は人の守る山 「三諸」は、御室《みむろ》で、神社で、そのある山の称となっており、普通名詞であるが、ここは山の状態から推して、飛鳥の神南備山で、雷丘と取れる。「人の守る山」は、人が、その神聖を損じまいとして大切に見守る山であるの意。○本辺は馬酔木花開き末辺は椿花開く 「本辺は」は、麓のほうは。「末辺は」は、山頂のほうは。○うら麗し山ぞ 美しい山であるぞで、「ぞ」は、指示の助詞。○泣く児守る山 泣く児を保護するがごとく人の見守る山よで、上の「人の守る山」を、内容を変えて繰り返したもの。詠歎を含めている。
【釈】 三諸は、人の大切に見守っているところの山であるよ。山麓のほうは馬酔木の花が咲き、頂のほうには椿の花が咲いている。美しい山であるぞ、泣く児を保護するごとく人の見守っている山であるよ。
【評】 飛鳥地方の住民が、その守護神の三諸である雷丘を讃えた歌である。「三諸は人の守る山」といい、「泣く児守る山」と繰り返しいっているのがその主意である。「人の守る山」は、守護神に対する信仰をあらわしたものであるが、「泣く児守る山」は、むしろ親愛の情を主としたもので、簡潔な、含蓄をもった具象化である。馬酔木と椿の花とは、「うら麗し」をいうためのもので、それが「泣く児」に漸層的に展開するもので、親愛の情をいうには、このような自然美を借りるよりほかはなかったとみえる。感性をとおさなければいえなかったからであろう。短句は四音をもってするものが多く、結尾は、五・三・七音という、古風な形をもってしている点も、この歌の古く、また庶民の謡い物であったことを思わせる。馬酔木も椿も春季の花であることは、その季節の行事の謡い物ではなかったかと思わせる。
右一首
(12)3223 霹靂《かみとけ》の 日《ひ》かをる空《そら》の 九月《ながつき》の 時雨《しぐれ》の降《ふ》れば 雁《かりがね》も 未《いま》だ来鳴《きな》かず 甘南備《かむなぴ》の 清《きよ》き御田屋《みたや》の 垣内田《かきつだ》の 池《いけ》の堤《つつみ》の 百足《ももた》らず 斎槻《いつき》が枝《えだ》に 瑞枝《みづえ》さす 秋《あき》の赤葉《もみちば》 真割《まさ》き持《も》つ 小鈴《をすず》もゆらに 手弱女《たわやめ》に 吾《われ》はあれども 引《ひ》き擧《よ》ぢて 峯《みね》もとををに ふさ手折《たを》り 吾《わ》は 持《も》ちて行《ゆ》く 君《きみ》が挿頭《かざし》に
霹靂之 日香天之 九月乃 鐘礼乃落者 鴈音文 末來鳴 甘南備乃 清三田星乃 垣津田乃 池之堤之 百不足 五十槻枝丹 水枝指 秋赤葉 眞割持 小鈴文由良尓 手弱女尓 吾者有友 引攀而 峯文十遠仁 〓手折 吾者持而徃 公之頭刺荷
【語釈】○霹靂の日かをる空の 「霹靂」は、『倭名類聚鈔』に、「霹靂【加美止介】。霹析也、靂歴也。所歴皆破析也」とあり、雷の落ちる意で、その光る意で、「日」にかかる枕詞。「日かをる空の」は、日の曇っている空にで、「かをる」は、水蒸気が立って曇る意。巻二(一六二)「潮気のみかをれる国に」と出、他にも用例がある。○九月の時雨の降れば 「降れば」は、已然条件法で、「降るに」と同意語として並び用いられていた語である。巻五(八〇四)「さ寝し夜の幾許もあらねば、手束杖腰に束ねて」と同じ用法で、他にも用例がある。○雁も かりも。○甘南備の 神霊の降られる森で、普通名詞であるが、ここは飛鳥の神南備で、上の歌の雷丘と同じである。○清き御田屋の 「清き」は、清浄なるで「御田屋」の性質。「御田屋」は、「御」は、美称で、神田を経営するための屋。○垣内田の池の堤の 「垣内田」は、垣の内にある田で、「田」は、すなわち神田。「池」は、その御田の灌漑用の水を湛えているもの。○百足らず斎槻が枝に 「百足らず」は、百には足りないの意で、五十《い》、八十《やそ》などにかかる枕詞。「斎槻」は、原文諸本「三十槻」。旧訓「みそつき」。『考』は、「三十」は、「五十」の誤写とし、「いそ」としたのを、『略解』が「い」と改めたもの。枕詞との関係において、また、ここは特殊な場合でもないので、誤写説に随う。「槻」は、堤の地盤の壊れるのを防ぐために植えるもので、これはすべての池に対して施されていたことである。「斎槻」は、それを神に属する物として、尊んでの称。○瑞枝さす秋の赤葉 「瑞枝さす」は、若い枝を出しているで、槻の木が秋近い頃、春のごとくに幾らかの若枝を張ることは珍しくないことである。○真割き持つ小鈴もゆらに 「其割き持つ」は、『新訓』の訓。この語は、ここより他には見えないものである。「真」は、接頭語。「割き」は、鈴の口の裂け目。「持つ」は、それを有するで、裂け目のある。「鈴」にかかる枕詞。「小鈴」、の「小」は、接頭語。「鈴」は、手につけている物と取れる。「ゆらに」は、金や玉が触れ合って立てるさやかな音をあらわす語で、副詞。○手弱女に吾はあれども 弱い女のわれではあるが。○引き攀ぢて峯もとををに 「引き攀ぢて」は、引き寄せての古語。「峯もとををに」は、「とをを」は、「たわわ」と同意語で、峯も撓むまでにで、きわめて多量にの意の副詞句。『考』は、「峯」は、「延多」の二字の誤写かとしている。枝も撓むまでにで、一見合理的にはみえるが、それだと続きの「ふさ手折り」が利かなくなる感がある。慣用句になっていたものとして、原文に随う。○ふさ手折り 巻九(一六八三)に既出。ふさふさと手折って。
(13)【釈】 雷の落ちて光るに因みある、日の曇っている空に、九月の時雨の降るのに、雁はまだ来て鳴かない。神南備の清浄な御田屋のある、垣を繞らしている神田のための池の、その堤に立っている、百には足りない斎槻の、若枝を出しての秋の紅葉よ。裂け目を持っている鈴もよい音を立てて、弱い女のわれではあるが、引き寄せて、峯も撓むほどにふさふさと、折り取ってわれは持って行く。君の挿頭にするために。
【評】 反歌の添った歌で、そちらによると、この歌は、その夫である人に、槻の紅葉を贈るに添えた歌である。贈物に添える歌は、その物の珍しいこと、それを得るに労苦したことをいうのが礼で、この歌もそれである。「雁も未だ来鳴かず」までの六句は、木の葉は雁の来る頃に紅葉するものであり、まだ紅葉の季節ではないことをいったもので、下の概の紅葉の珍しさをいおうがためのものである。以上一段である。次は、「吾は持ちて行く」までの十六句で、これは清浄な地で、珍しい槻の紅葉を発見し、労苦して折って、持って行くというのである。槻はいわゆる土用芽と称する若枝を出すもので、その葉は後れて出る関係からか、紅葉するのが早く、また色も際立って良いものである。作者である女は、そうした季節以前の、珍しく、しかも良い物を発見したのである。しかもそれを発見した場所は、神南備の神田の、灌漑用の堤の境の槻の木においてである。これは神聖な場所で、そうした所に得る物は特に貴い意でいっていることと思われるが、しかしそうした所に自由に立ち入り、また自由に木の枝を折れる女は、神南備に何らかの特殊な関係をもっている人でなくてはならなかろうとも思われる。「真割き持つ小鈴もゆらに」という装身をしていることは、それにつながりのあってのことであり、当時はそれをいうだけで、その身分が感じられたのではないかと思われるが、今は不明で、推量にとどまらざるを得ない。以上第二段である。「君が挿頭に」は、一首の頂点で、第三段である。歌材から見て、飛鳥時代の歌と思われる。作意は、贈物に添える歌の、型となっている内容を出ないものではあるが、しかし詠み方はじつに大がかりで、当事者の間の儀礼のものではなく、第三者を予想して、客観的に描写したものであり、部分的にも、刺激的な誇張の多いものである。これは贈物に添える、実用を旨とする歌を、意識的に文芸作品としたもので、また文芸作品としても魅力的なものである。
反歌
3224 独《ひとり》のみ 見《み》れば恋《こほ》しみ 神名火《かむなび》の 山《やま》の黄葉《もみちば》 手折《たを》りけり君《きみ》
獨耳 見者戀染 神名火乃 山黄葉 手折來君
【語釈】 ○独のみ見れば恋しみ 我ひとりでだけ見ていると、君にも見せたく、恋しいゆえに。○神名火の山の黄葉 神霊の降りたもう森のある(14)山の黄葉を。○手折りけり君 折ったことであった、君よで、夫を呼びかけてのもの。
【釈】 独りでだけ見ていると、君にも見せたく恋しいので、神名火の山の黄葉を折ったことであった、君よ。
【評】 これは神名火の山の黄葉を見て、君にも見せたいと思って折って来たというので、黄葉に添えて贈った歌とすれば、きわめて、普通な挨拶である。詠み方も、事の性質上、説明的で、平坦で、調べも低いものである。上の歌の反歌としているが、連絡はあるが、黄葉のあり場所も、強いて迎えて解すれば格別、これは山の上の黄葉と取れて、異なっている。詠み方は、上の歌の華やかな、才走ったのとは反対に、常識的に、むしろ平凡である。後より組み合わせたものと思われる。
右二首
3225 天雲《あまぐも》の 影《かげ》さへ見《み》ゆる 隠口《こもりく》の 長谷《はつせ》の河《かは》は 浦《うら》無《な》みか 船《ふね》の寄《よ》り来《こ》ぬ 礒《いそ》無《な》みか 海人《あま》の釣《つり》せぬ よしゑやし 浦《うら》は無《な》くとも よしゑやし 磯《いそ》は無《な》くとも おきつ浪《なみ》 諍《きほ》ひ漕《こ》ぎ入来《りこ》 白水郎《あま》の釣船《つりぶね》
天雲之 影塞所見 隱來笶 長谷之河者 浦無蚊 船之依不來 礒無蚊 海部之釣不爲 吉咲八師 浦者無友 吉畫矢寺 礒者無友 奧津浪 諍傍入來 白水郎之釣船
【語釈】 ○天雲の影さへ見ゆる 天雲の影までも映って見えるで、水の清いことを具象的にいったもの。○隠口の長谷の河は 「隠口の」は、長谷の枕詞。「長谷の河」は、泊瀬河でしばしば出た。長谷は地形より当てた字。○浦無みか船の寄り来ぬ 「浦」は、海の水の湾入した所の称で、海に接する機会の少ない大和国の人は、憧れの心から池や河を海に擬して、このような称を用いたので、これもしばしば出た。漕がないゆえにか、船が寄って来ないことだで、「ぬ」は、「か」の結。○礒無みか海人の釣せぬ 「礒」は、海岸の岩より成った所。礒がないゆえか、海人が釣をしないことだ。○よしゑやし浦は無くとも 「よしゑやし」は、「よし」は、縦《ゆる》す意、「ゑやし」は、感動の助詞で、よし浦はないにしても。○おきつ浪諍ひ漕ぎ入来 「おきつ浪」は、沖の浪で、競って岸に寄せる意で、「諍ひ」の枕詞。「諍ひ」は、原文が定まらず、元暦校本は「浄」で、「きよく」。西本願寺本は「諍」であって、「きほひ」は、『代匠記』の訓。競って。この歌は『歌経標式』に載っており、仮名書きで、「きよくこぎりこ」となっているので、古くから「浄く」とも訓まれていたことが知られる。作意は「諍」のほうが妥当に思われるので、それに随う。「漕ぎ入来」は、漕ぎ入り来の約音で、命令形。
(15)【釈】 天雲の影までも映って見える、隠口の長谷の河は、浦がないゆえなのか、船の寄って来ないことであるよ。礒がないゆえなのか、海人が釣をしないことであるよ。よし、浦はないにしても、よし礒はないにしても、沖の浪のように漕ぎ入って来よ。海人の釣船よ。
【評】 泊瀬河の沿岸に住み、その河に深い親しみを抱いている人のもった空想である。大和国の人が海にあこがれを抱き、やや大きい水を見ると海に擬して空想をたのしむのは、古くから行なわれていることであり、また交通は極力船によっていたので、泊瀬河に船を連想することは、おのずから根柢のあることで、さして突飛なことではなかったのである。この空想はその範囲のものである。この歌で問題になるのは、「浦無みか」以下の八句である。これは巻二(一三一)人麿が石見国から、妻に別れて京に上る時の歌の起首の、「石見の海 角の浦廻を、浦なしと人こそ見らめ、潟なしと人こそ見らめ、よしゑやし浦はなくとも、よしゑやし潟はなくとも」と、明らかに関係を持ったものだからである。多分この部分を襲用したものであろう。しかしこの作者は、これらの句をこなしきって、「おきつ浪」以下、簡潔な、力あり、躍動ある句で結んでいるところ、その手腕を思わせるものがある。藤原朝時代の、教養あり、浪漫的 気分の豊かな人の作と思われる。
反歌
3226 さざれ浪《なみ》 浮《う》きて流《なが》るる 長谷河《はつせがは》 寄《よ》るべき礒《いそ》の 無《な》きがさぶしさ
沙邪礼浪 浮而流 長谷河 可依礒之 無蚊不怜也
(16)【語釈】 ○さざれ浪浮きて流るる 小さな浪が浮いて流れるところので、長谷河の状態をいったもの。これは渓流の常として、浪が一面に立ち続いているのを、一か所に立った浪が、そのままに流れてゆくごとくいったのである。これはその浪が「寄る」と続けるためにこういったので、初句より三句まで「寄る」の序詞。○寄るべき礒の無きがさぶしさ 「寄る」は、内容を転じ、長歌の「船の寄り来ぬ」の繰り返しとして、船の「寄るべき礒の無き」にしている。船の寄るべき礒のないことのさぶしさよで、「さぶしさ」は、面白くない意で、詠歎したもの。
【釈】 小さい浪の浮いて流れている長谷河の、その浪の寄るように、船の寄るべき礒のないことのさぶしさよ。
【評】 長歌の、「諍ひ漕ぎ入来白水郎の釣船」を承けてのもので、憧れてそのようにいったのを思いかえし、寄るべき礒がないことだと嘆いたのである。長歌のごとき憧れは抱くが、ただちに実際に即して思い返して来る曲折を示しているものである。形は単純であるが、情熱よりの憧れと、知性による反省との、同時的に交錯する趣は、複雑な、また含蓄のあるものである。
右二首
3227 葦原《あしはら》の 水穂《みづほ》の国《くに》に手向《たむけ》すと 天降《あも》りましけむ 五百万《いほよろづ》 千万神《ちよろづがみ》の 神代《かみよ》より 云《い》ひ続《つ》ぎ来《き》たる 甘南備《かむなび》の 三諸《みもろ》の山《やま》は 春《はる》されば 春霞《はるがすみ》立《た》ち 秋《あき》往《ゆ》けば 紅《くれなゐ》にほふ 甘南備《かむなび》の 三諸《みもろ》の神《かみ》の 帯《おび》にせる 明日香《あすか》の河《かは》の 水尾《みを》速《はや》み 生《お》ひため難《がた》き 石枕《いはまくら》 蘿《こけ》生《む》すまでに 新夜《あらたよ》の さきく通《かよ》はむ 事計《ことはかり》 夢《いめ》に見《み》せこそ 剣刀《つるぎたち》 斎《いは》ひ祭《まつ》れる 神《かみ》にし坐《ま》せば
葦原笶 水穗之國丹 手向爲跡 天降座兼 五百万 千万神之 神代從 云續來在 甘南備乃 三諸山者 春去者 春霞立 秋徃者 紅丹穂經 甘甞備乃 三諸乃神之 帶爲 明日香之河之 水尾速 生多米難 石枕 蘿生左右二 新夜乃 好去通牟 事計 夢尓令見社 釼刀 齋祭 神二師盛者
【語釈】 ○葦原の水穂の国に 日本の国を讃えての称。○手向すと天降りましけむ 「手向すと」は、手向をするとて、で、手向をする対象は水穂の国である。手向はしばしば出たごとく、神に幣を奉って祭をすることで、祭を具象的にいった語である。水穂の国は、皇祖の二神の生まれた国で、国であるとともに神であるということは上代の信仰で、ここはその意のものである。「天降りましけむ」は、高天原よりこの国に御降りになられたというで、「けむ」は、過去の事実を伝聞的にいう場合に用いる。連体形。○五吉万千万神の 多くの神々ということを具象的にいったもので、成句。○神代より云ひ続ぎ来たる その神々の代より言い伝えて来ている。○甘南備の三諸の山は 神なびである三諸の山はで、これは(17)飛鳥の雷丘である。○春されば春霞立ち秋往けば紅にほふ 春となれば霞が立ち、秋となれば紅葉が美しい。「春霞」は、古くは秋の霧をも霞と呼んだので、差別しての称。「秋往けば」は、秋自体を主としての言い方で、秋と移り往けばで、秋となれば。「にほふ」は、美しく染まる意。以上第一段で、甘南備の三諸の山を、悠久の古から、神威のあらたかな神として讃えたもので、祈願をするに先立って、その神を讃えるのは、定まった礼だった。○甘南備の三諸の神の 段を改めたので、「山」を「神」と言い換えて、新たに言い出したもの。この場合、「山」も「神」も同意語である。○帯にせる明日香の河の 「帯にせる」は、山を神とするところから、その裾をめぐっている飛鳥河を帯と見たので、これは慣用されている言い方である。○水尾速み生ひため難き 「水尾」は、水脈で、瀬筋で、「速み」は、早いゆえに。水勢が早いので。「生ひため難き」は、生い溜まり難くする。○石枕蘿生すまでに 「石枕」は、河の中にある石。このようにいっているのは、『代匠記』は、滝枕、瀬枕などと同系の語で、石に触れる水の高くあがる関係からいっている語だという。この語には誤写説の諸説がある。石枕に蘿の生えるまでにで、以上、将来永久にわたっての意のもの。○新夜のさきく通はむ 「新夜」は、つぎつぎに新しく来る夜。「さきく通はむ」は、障りなく通えるであろうで、男が関係を結んでいる女と、妨害なく逢えるであろうの意。○事計夢に見せこそ 「事計」は、計らいで、計画。「夢に見せこそ」は、夢でお見せくだされで、神意を夜の夢でお教えくだされの意。これはいわゆる夢告で、上代より信じられていたことである。「こそ」は、願望の助詞。以上第二段で、祈願の語。関係した女の身辺に妨害が起こって、男の逢い難いのを嘆いて、神意のお告げによって、逢う方法を得ようとしてのものである。○剣刀斎ひ祭れる神にし坐せば 剣の刀を神体として、潔斎して祭ってある、神であられるので。以上第三段で、さらに神を讃えたもの。
【釈】 葦原の水穂の国に奉仕するとて、天降られた多くの神々の、その神代から、言い伝えて来ている、神南備の三諸の山は、春が来ると霞が立ち、秋が来るとくれないに美しくなる。その神南備の三諸の神の、帯にしている飛鳥の河の、水勢が早いので生い溜まり難くしている、石枕に苔の生える、遠い将来までも、つぎつぎに来る新しい夜を、障りなく通って行かれるであろう計画を、夢によってお見せ下さい。尊い剣の刀を神体として、潔斉にして祭ってある神にあらせられるので。
【評】 飛鳥地方の、雷丘の神を守護神と頼んでいる男が、その関係を結んだ女の身辺に妨害が起こり、逢えず、逢う方法も考えられない苦しさから、その守護神に、逢える方法を夢告によって授け給えと祈願している歌である。事柄としては、この男の遭遇しているごときことはじつに多いもので、その意味では一般性を持っていたものと思われる。また、上代の信仰からいうと、「蜻蛉島日本の国は、神からと言挙せぬ国」(三二五〇)となっていた。飛鳥地方の住民にとっては、飛鳥の神南備山は守護神であって、その神に対してこのような祈願はするまでもなかったことなのである。しかるにこの歌は、その事の一般的な、単純なものであるにもかかわらず、じつに語を尽くして祈願しているのである。これは多分実際には行なわなかったことであるが、しかし実情としては抱かざるを得なかったもので、多くの人々の黙って抱いていた心に形を与えた、いわゆる代弁したものであろう。その意味で、集団的の謡い物である。中心となっていることは、第二段の結末「新夜のさきく通はむ事計夢に見せこそ」で、第一段も第三段も、甘南備の三諸の神に対する讃え詞である。謡い物ということからいえば、この誘え詞自体が、それとしての興味を十分に充たしうるものであったろう。謡い物として見ると、心が広く、構成が大きく、語は豊か(18)で、うるおいがあって、飛鳥時代を思わせるものである。この歌は「雑歌」とされているが「相聞」である。以下にもこの類のものがある。
反歌
3228 神名備《かむなび》の 三諸《みもろ》の山《やま》に 斎《いは》ふ杉《すぎ》 思《おも》ひ過《す》ぎめや 蘿《こけ》生《む》すまでに
神名備能 三諸之山丹 隱藏杉 思將過哉 蘿生左右
【語釈】 ○斎ふ杉 神の降り給う木すなわち神木として、清浄にしている杉。「杉」を、「過ぎ」に同音でかけ、以上その序詞。○思ひ過ぎめや 「思ひ過ぎ」は、思いが過ぎ去る意で、すなわち忘れること。「や」は、反語で、忘れようか忘れはしない。○蘿生すまでに 長歌の句を、そのままに繰り返したもので、意味も同様であり、永久にの心でいっているものである。上の歌の反歌と同じ手法のものである。
【釈】 神南備の三諸の山で、神聖にしている杉の、その我も心を過ぎさせる、すなわち忘れることをしようか、しはしない。この木に蘿の生す永久の後までも。
【評】 長歌を繰り返したもので、「蘿生すまでに」は、長歌を離れては意味の通じないもので、緊密な綴り返しである。序詞も、祈りのために神前にあることを暗示し得ているもので、ここにも長歌の展開が見られる。一首としては、いかに妨害があろうとも忘れられないというので、祈りの基礎になっている嘆きを強調させたものである。
3229 斎串《いぐし》立《た》て 神酒《みわ》坐《す》ゑ奉《まつ》る 神主部《かむぬし》の 髻華《うず》の玉蔭《たまかげ》 見《み》ればともしも
五十串立 神酒座奉 神主部之 雲聚玉蔭 見者乏文
【語釈】 ○斎串立て 「斎串」は、忌み清めた串で、賢木の枝に麻などを取りつけたもの。神霊の宿られるためのものである。○神酒坐ゑ奉る 「神酒《みわ》」は、みきの古名。「坐ゑ奉る」は、御酒を盛った瓶を、地を掘って据えてお供え申す。○神主部 本来、神霊の降り憑く人であるが、ここは神職の意でいっているもの。「部」は、その部族の意で添えたもの。○髻華の玉蔭見ればともしも 「髻華」は、儀礼の意で、頭髪に挿す時の木の枝あるいは花などの称。「玉蔭」は、「玉」は、美称で、「蔭」は、「ひかげのかずら」で、神事の際神職は、髻華としてそれをつけたのである。「ともしも」は、賞美する意で、立派である。
(19)【釈】 清浄なる串を地に立て、御酒の瓶を地を掘ってお据え申す神職の、髻華としている日かげのかずらを見ると、立派である。
【評】 これは神に詣でた者の、神職の神事を行なっているのを見て、特に髻華としている日かげのかずらのみごとさを讃えている歌である。上の歌の反歌ではない。その事は左注によっても知られる。とにかく、時代の色彩のある特殊な歌で、後世には見られないものである。
右三首。但し或書に、この短歌一首は之を載することある無し。
右三首。但或書、此短歌一首無v有v載v之也。
【解】 ある書には、右の短歌一首は無いというのである。それが原形で、本巻はその有るのに従ったのである。なおこの歌の載った書は、少なくとも二書あったのである。
3230 幣帛《みてぐら》を 奈良《なら》より出《い》でて 水蓼《みつたで》 穂積《ほづみ》に至《いた》り 鳥網《となみ》張《は》る 坂手《さかて》を過《す》ぎ 石走《いはばし》る 甘南備山《かむなびやま》に 朝宮《あさみや》に 仕《つか》へ奉《まつ》りて 吉野《よしの》へと 入《い》り坐《ま》す見《み》れば 古《いにしへ》念《おも》ほゆ
帛〓 楢從出而 水蓼 穂積至 鳥網張 坂手乎過 石走 甘南備山丹 朝宮 仕奉而 吉野部登 入座見者 古所念
【語釈】 ○幣帛を 神前に幣帛を並べる意で、奈良にかかる枕詞。幣帛は神に奉るものの総称。「を」は、感動の助詞。○奈良より出でて ここは行幸のことをいっているので、「奈良」は、奈良宮。○水蓼穂積に至り 「水蓼」は、水辺に自生する川蓼。穂を出す意で穂積の枕詞。穂積は山辺郡朝和村大字|新泉《にいずみ》(天理市新泉町)の付近。奈良市東九条町、磯城郡田原本町保津、説もある。○鳥網張る坂手を過ぎ 「鳥網」は、とりあみの約音。鳥網を張るには、鳥の捕れやすい場所として坂を選ぶので、坂の枕詞。「坂手」は、磯城郡田原本町坂手。○石走る甘南備山に 「石走る」は、飛鳥河の水の状態で、甘南備山の修飾。「甘南備山」は、飛鳥のそれで、雷丘である。ここには離宮のあったことが反歌で知られる。この離宮が、巻三(二三五)人麿の歌に歌われたと見られる。○朝宮に仕へ奉りて 「朝宮」は、ここは天皇の宮の朝の称。「仕へ奉りて」は、御用をお仕え申し上げて。○吉野へと入り坐す見れば古念ほゆ 離宮のある吉野の地へとおはいりになられるのを見ると、古の御代の行幸のことが思われる。
【釈】 幣帛を並べる、その「なら」に因む奈良京から出て行って、川蓼の穂に因む穂積に着き、鳥網を張るに因む坂手を通り、(20)河水の岩走っている甘南備山で、朝宮の御用をお仕え申し上げて、離宮のある吉野の地へとおはいりになられるのを見ると、古の御代が思われる。
【評】 奈良宮へお遷りになって後、さして久しくない頃の天皇が、吉野の離宮へ行幸のことのあった際、供奉をしていた官人の、個人的にその行幸を賀する心をもって、飛鳥の甘南備山の離宮を中心に、そこを御発輦になった行幸のさまに、古の藤原宮時代を思い出して詠んだものである。飛鳥の甘南備山からの朝の御発輦は、藤原宮を思い出させる刺激になったのである。賀の心よりの歌であるが、「古念ほゆ」が頂点となっているのは、その意味での刺激が強くて、個人的なものとなったのである。詠み方は道行きになっており、日本書紀の影媛のそれに酷似したものである。旅行をすることの少なかった時代とて、つぎつぎに現われて来る新しい里に対する興味が強く、一般的な好尚となっていたものとみえる。これは心理的に実際に即していることなので、後世へも永く伝わったものである。素朴ではあるが、土地の一々に対する枕詞は新味のあるもので、快い作である。
反歌
3231 月日《つきひ》は 行《ゆ》けども久《ひさ》に 流《なが》らふる 三諸《みもろ》の山《やま》の 離宮地《とつみやどころ》
月日 攝友久 流經 三諸之山 礪津宮地
【語釈】 ○月日は 時の意のもの。○行けども久に流らふる この二句の訓は、じつにさまざまである。三句「流らふる」は、原文「流経」は、天治本、元暦校本、類聚古集などによる。これを西本願寺本などの「経流」によって、「ふる」と訓んでいるものが多く、そのため、他の訓もさまざまとなって来ているのである。『新訓』は、「ゆけどもひさにながらふる」と文字どおりに訓んでいる。『全註釈』は、「摂」は、「代摂」の義によって「かはる」に当てたものであろうとして、「かはれどもひさに」と八音に訓んでいる。初句が四音である関係上、『新訓』の訓に随う。「流らふる」は、ながるの連続で、存在を続けている。○離宮地 離宮を、広く土地を主として言いかえたもの。詠歎を含んでいる。
【釈】 時は移って行ったが、久しく存在を続けている、三諸の山のこの離宮の地よ。
【評】 長歌の結末は、「古念ほゆ」という個人的の心のまじった賀歌であったが、ここでは立ちもどって、離宮の時を超えての恒久を讃えることによって、賀の心を徹しさせている。離宮を讃えるのは、臣下として天皇を讃える、ほとんど唯一の方法だったのである。「月日は行けども久に」は、京が藤原より奈良へ遷っていくばくもない頃だったので、実感の伴っていたもの(21)であったろう。
右二首。但し或本の歌に、故《ふる》き王都《みやこ》の とつ宮地《みやどころ》といへり。
右二首。但或本歌、曰2故王都跡津宮地1也。
【解】 「故き王都」は、藤原京である。事とすればまさにそうであるが、このようにいえば、吉野の離宮もその範囲のものとなり、適切ではなくなる。
3232 斧をの《》取《と》りて 丹生《にふ》の檜山《ひやま》の 木《き》折《こ》り来《き》て 筏《》に作《いかだつく》り 二梶《まかぢ》貫《ぬ》き 礒《いそ》漕《こ》ぎ廻《み》つつ 島伝《しまづた》ひ 見《み》れども飽《あ》かず み吉野《よしの》の 滝《たぎ》もとどろに 落《お》つる白浪《しらなみ》
斧取而 丹生檜山 木折來而 〓尓作 二梶貫 礒榜廻乍 嶋傳 雖見不飽 三吉野乃 瀧動々 落白浪
【語釈】 ○丹生の檜山の 「丹生」は、奈良県吉野郡、吉野川の上流の地で、現在の四郷村、小川村の地籍。「檜山」は、櫓の木山。○二梶貫き礒漕ぎ廻つつ 「二梶」の「二」は、左右両方の艫。「貫き」は、取り付け。「礒」は、河に対しても海と同様な称を用いたもので、岩つづきの河岸。「廻つつ」は、めぐりつつ。○島伝ひ見れども飽かず 「島」は、上と同じく、河に対して海と同様の称を用いたもので、航海の時、海上より見る陸を島と称していた。「島伝ひ」は、河岸を伝ってで、上の「礒漕ぎ廻」を、語を換え、繰り返したもの。「見れども飽かず」は、下の「白浪」を対象としたもの。○滝もとどろに落つる白浪 「滝」は、山河の激流。「とどろに」は、轟いて。「落つる白浪」は、流れ落ちる白浪は。
【釈】 斧を取って丹生の檜山の檜を伐って来て、筏に組んで、左右に艫を取り付けて、吉野川の岩つづきの河岸に沿って漕ぎめぐりつつ、陸伝いをしてみたが飽かない。吉野川の激流の轟いて落ちてゆくその白浪は。
【評】 京の人の吉野へ遊び、吉野川の流れに対して、限りなき興味を感じた心である。大体、上代の大和の人が水に対して持った興味はよほど深いもので、川、池、海の歌の多いことは本集の特色の一つである。この歌もそれで、さして大きくもない吉野川であるが、岸から眺めるだけでは満足できず、わざわざ筏を作って乗って、水上を漕ぎめぐって楽しんだのである。筏の用材からその設備までもいっているのは、精細にいうことが興味の具象だったのである。詠み方は古風であるが、淡泊な気(22)の利いたところがあって、一脈の新味がある。行幸の供奉をし た人の歌で、上の行幸の歌と同時のものと思われる。
反歌
3233 み吉野《よしの》の 滝《たぎ》もとどろに 落《お》つる白浪《しらなみ》 留《とま》りにし 妹《いも》に見《み》せまく 欲《ま》しき白浪《しらなみ》
三芳野 瀧動々 落白浪 留西 妹見西卷 欲白浪
【語釈】 ○留りにし妹に見せまく欲しき白浪 家にとどまった妹に、見せんことの望ましい白浪よ。
【釈】 吉野川の激流も轟くばかりに落ちる白浪よ。家にとどまった妹に見せてやりたいものと思う白浪よ。
【評】 長歌の結末の三句を繰り返し、さらに同じ形において、内容を展開させて繰り返した歌で、反歌とすると、発生的な自然さを持ったものである。反歌という上からいうと、旋頭歌形式になっている点が珍しいが、これは心理の自然が、そうした果結になったというにすぎないのである。したがって躍動の趣をもった歌ともなっている。
右二首
3234 やすみしし わご大皇《おほきみ》 高照《たかて》らす 日《ひ》の皇子《みこ》の 聞《き》こしをす 御食《みけ》つ国《くに》 神風《かむかぜ》の 伊勢《いせ》の国《くに》は 国《くに》見《み》ればしも 山《やま》見《み》れば 高《たか》く貴《たふと》し 河《かは》見《み》れば さやけく清《きよ》し 水門《みなと》なす 海《うみ》も広《ゆたけ》し 見渡《みわた》す 島《しま》も名高《なだか》し ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやに恐《かしこ》き 山辺《やまのべ》 五十師《いし》の原《はら》に 内日《うちひ》さす 大宮仕《おほみやづか》へ 朝日《あさひ》なす まぐはしも 暮日《ゆふひ》なす うらぐはしも 春山《はるやま》の しなひ栄《さか》えて 秋山《あきやま》の 色《いろ》なつかしき 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》は 天地《あめつち》 日月《ひつき》と共《とも》に 万代《よろづよ》にもが
八隅知之 和期大皇 高照 日之皇子之 聞食 御食都國 神風之 伊勢乃國者 國見者之毛 山見(23)者 高貴之 河見者 左夜氣久清之 水門成 海毛廣之 見渡 嶋名高之 己許乎志毛 間細美香母 挂卷毛 文尓恐 山邊乃 五十師乃原尓 内日刺 大宮都可倍 朝日奈須 目細毛 暮日奈須 浦細毛 春山之 四名比盛而 秋山之 色名付思吉 百礒城之 大宮人者 天地 与日月共 万代尓母我
【語釈】 ○やすみししわご大皇高照らす日の皇子の 天皇、主立った皇子たちに対しての讃詞で、既出。ここは天皇に対してのもの。○聞こしをす御食つ国 「聞こしをす」は、召し上がる。「御食つ国」は、天皇の御饌の料を貢物として献ずる特定の国で、伊勢国はその中に加わっていた。天皇に特別なつながりがある国としていっているもの。○神風の伊勢の国は 「神風の」は、伊勢の枕詞。○国見ればしも 「しも」は、強め。上を承けて、下を起こす形のもので、意としては通じるものであるが、五七連続の形を破って、五音の無いものである。ここに誤脱があるか、または衍文であろうとして、諸注問題としている。意が通じる上に、以下短文が多く、全体から見てさして不調和には感じられないので、原形と思われる。○山見れば高く貴し 「貴し」は、語源は、「た」は、接頭語で、「太し」の意だとされている。ここは、下の続きで見るとその意のもので、大きく豊かな意と取れる。○河見ればさやけく清し 「さやけく清し」は、近く見ての感である。○水門なす海も広し 「水門なす」は、港を作っているで、海の譬喩。伊勢湾である。○見渡す島も名高し 「島」は、海より見る陸の称でもあったので、ここもそれで、海を隔てて見渡す山々も名高い。以上第一段で、伊勢国の形勝を讃えたもの。○ここをしもまぐはしみかも 「ここをしも」は、その点をで、「しも」は、強意。「まぐはしみかも」は、「まぐはしみ」は、「ま」は、接頭語。「くはしみ」は、麗美であるとして。「かも」の「か」は、係助詞、「も」は、詠歎。○かけまくもあやに恐き 口にするのも甚だ恐れ多いで、離宮についていうのをはばかる意。○山辺の五十師の原に 本居宣長は『玉勝間』で、この地を伊勢国鈴鹿郡石薬師の地だとした。しかしその地は、海に遠く、山にも遠くて、この歌とは合わず、また古の神宮への通路でもない。『万葉集講義』は、巻一(八一)「山辺の御井」の条で、『御鎮座本記』の、豊受の大神が伊勢国に遷りました時の順路をいう条に、「次山辺行宮御一宿今号2壱志郡新家村1是也」とあるを引いて、その地であろうといい、なお壱志は「いし」で、五十師であるといっている。新家村は今の一志郡久居町(旧桃園村)新家。○内日さす大宮仕へ 「内日さす」は、大宮の枕詞。「大宮仕へ」は、大宮の御奉仕を申し上げてで、天皇が行幸になって、御奉仕申し上げての意。これは意味の広い成句で、行宮を御造営申し上げての意とも、以前から離宮があっての意とも取れるものであるが、ここはそのことを主としてはいないもの。○朝日なすまぐはしも 朝日のごとく麗美なことであるで、大宮を讃えたもの。「まぐはしも」は、「まぐはしみかも」の繰り返し。○暮日なすうらぐはしも 夕日のごとく麗美なことであるで、上の二句を語をかえて繰り返したもの。「朝日なす」「暮日なす」は、大宮を讃える成句で、「朝日の直さす国、夕日の日照る国」(古事記上巻)など、伝統を持ったものである。以上第二段で、大宮を讃えたもの。○春山のしなひ栄えて 「春山の」は、譬喩で、その木立のように、撓やかに賑わしくで、「大宮人」にかかるもの。「しなひ」は、巻十(二二八四)「秋芽子のしなひにあらむ妹がすがたを」などがあり、「栄えて」は、はなやかな意。○秋山の色なつかしき 「秋山の」は、同じく譬喩で、秋山のように、色のなつかしいで、「色」は、目に見るさま。○百磯城の大宮人は 「百磯城の」は、大宮の枕詞。「大宮人」は、男女を通じての称であるが、上の四句は女官を讃えたものと取れる。○天地日月と共に万代にもが 「もが」は、願望の助詞。永久に変わらずあれと賀する意の慣用句。大宮人を賀するのは、敬意よりわざと距離をつけて、天皇を賀しまつったのである。
(24)【釈】 安らかに天下を御支配になる天皇、天に照る日の皇子の、召し上がられる御饌を奉るところの神風の伊勢国は、その国を見ると、山を見ると高く豊かだ、河を見るとはっきりと清い、港を作っている海も広い、見渡すところの山々も名高い。この点を麗美だとしてであろうか、口にするのも甚だ恐れ多い山の辺の五十師の原に、うち日さす大宮の御奉仕を申し上げて、朝日のように麗美なことである、夕日のように麗美なことである。春山のように撓やかに栄え、秋山のように見る目のなつかしい、ももしきの大宮人は、天地、日月とともに、永久に変わらずにありたいことだ。
【評】 天皇が伊勢国へ行幸なされた時、従駕の中の一官人で、多分身分の低い人が、天皇を賀する心をもって、個人的に詠んだ歌である。本居宣長は『玉勝間』で、天皇は持統天皇で、天皇の六年三月、伊勢国へ行幸のことがあり、また大宝二年十月、三河国へ行幸のことがあったので、そのついでをもってのことではないかといっている。「春山の」以下四句の大宮人の美しさを讃えた語は、女官と見るほうがふさわしく、また女官の多いことは女帝として当然のことであるから、多分そうした際の歌であろう。行幸の際従駕の者の賀歌を詠むのは、当時は風となっていたが、これを天皇に献じるのは、地位高い人か、あるいは特に詔がなくては叶わないことで、この作者はそれのできないところから、自身の心を充たすために詠んだので、そのことは歌そのものが示している。第一段は、大宮より見渡した伊勢国の形勝の美で、これはその地へ行幸になられた理由としてのものである。第二段は大宮を讃えたもので、これは直接に天皇を誘えることは、はばかり多く許されないこととして、大宮を讃えることによって、間接にそのことをしているものである。第三段は大宮人の讃美で、これも心は大宮を讃えると同じ心よりのもので、したがって、「天地日月と共に万代にもが」という最大級の賀詞をもって結んでいるのである。この作者は作歌力はすぐれていない。したがって詠み方は、事を尽くして精細に述べることによって、その心を遂げようとしているものである。しかし、身分が低く、行幸の盛事を目にしているところから来る感動が胸に満ちているので、その気分が、精細な叙述にからみ合って現われ、素朴な、一種の魅力あるものとなっているのである。破調があり、五七の音数がくずれ、短文の積み重ねとなっているのは、その非力を示すことであるが、しかし全体として見ると、一貫した調べを持っているのは、長歌の謡い物の声調が身についたものとなっていたからのことであろう。これはその時代の雰國気のおのずからそうならせていたためと思われる。
反歌
3235 山辺《やまのべ》の 五十師《いし》の御井《みゐ》は おのづから 成《な》れる錦《にしき》を 張《は》れる山《やま》かも
(25) 山邊乃 五十師乃御井者 自然 成錦乎 張流山可母
【語釈】 〇五十師の御井は 「御井」は、行宮の御用の井である。自然の流水か、堀井か不明である。○おのづから成れる錦を 自然にできたところの錦で、春の花、秋の紅葉に通じての譬喩である。いずれともわからない。○張れる山かも 「張れる山」は、張り渡している山で、御井はそうした山の裾にあったので、山を御井の装飾と見て、御井を讃えたのである。
【釈】 山辺の五十師の御井は、自然に織り成された錦を、張り渡している山であるよ。
【評】 大宮にとって最も重大なものである御井によって、大宮を賀しているもので、巻一(五二)「藤原宮の御井の歌」の反歌と同工のものである。「御井は」「山かも」という続きは、飛躍のある言い方である。御井は、少なくとも山裾にあり、山と一体となっているところからの自然な言い方であろう。当時最も美麗で、また高貴な物であった錦を張り渡している御井という讃え方は、この場合、適切なものである。気分は張っているが、調べは平坦である。
右二首
3236 空《そら》みつ 倭の国《やまとくに》 あをによし 奈良山《ならやま》越《こ》えて 山代《やましろ》の 管木《つつき》の原《はら》 ちはやぶる 宇治《うぢ》の渡《わたり》 滝《たぎ》の屋《や》の 阿後尼《あごね》の原《はら》を 千歳《ちとせ》に 闕《お》つることなく 万歳《よろづよ》に 在《あ》り通《かよ》はむと 山科《やましな》の 石田《いはた》の社《もり》の 皇神《すめがみ》に 幣帛《ぬさ》取《と》り向《む》けて 吾《われ》は越《こ》え往《ゆ》く 相坂山《あふさかやま》
空見津 倭國 青丹吉 寧山越而 山代之 管木之原 血速舊 于遲乃渡 瀧屋之 阿後尼之原尾 千歳尓 闕事無 万歳尓 有通將得 山科之 石田之社之 須馬神尓 奴左取向而 吾者越徃 相坂山遠
【語釈】 ○空みつ倭の国あをによし奈良山越えて 「奈良山」は、歌姫越で、大和国より山城国へ出る街道の国境の山。 ○山代の管木の原 「管木の原」は、京都府綴喜郡の原。田辺町東南一帯の、大和国より近江国へ通ずる街道にあった原。○もはやぶる宇治の渡 既出。宇治川は橋がなく、渡船で越した。○滝の屋の阿後尼の原 「滝の星」は、広い範囲の地名で、「阿後尼の原」は、その中にあるものと取れる。これらの名は伝わっていないので、今は不明である。宇治河と逢坂山との間にあって、上の街道は、その原を大和国の最終の地籍としたものと思われる。さらにい(26)えば逢坂山の麓の地である。○千歳に闕つることなく 「千歳に」は、永久にわたって。「闕つることなく」は、絶える時なくであるが、これは下の続きで、妹の許に通う上でいっているものである。○万歳に在り通はむと 「万歳に」は、上の「千歳に」を語を変えて繰り返して強めたもの。「在り通はむと」は、現在を継続させて通おうと思って。○山科の石田の社の 「山科」は、山城国宇治郡で、古くは広い地籍であった。今は京都市東山区である。上の街道の通じている所。「石田」は、今は京都市伏見区石田町あたり。「社」は、神の降ります所。○皇神に幣帛取り向けて 「皇神」は、「皇」は、統べの意で、すべ給う神。大和より山城へわたっての道中を総括した上で、立ち帰って「山科の石田の社」をいっているところから見て、この神は、この街道の第一の神で、惣社という位地に立つ神と取れる。「幣帛取り向けて」は、幣を手向けしてで、道中の無事を祈る祭をして。○吾は越え往く相坂山を 「相坂山」は、山城国と近江国との国境の逢坂山で、異なる国の近江へと向かって往く意。
【釈】 空みつ倭の国のあおによし奈良山を越して、山城の管木の原、ちはやぶる宇治河の渡し、滝の屋の阿後尼が原を、永久に、絶えることなく、いや永久に、今のように継続して通おうと思って、山科の石田の森にまします皇神に、幣帛を手向けして道中の無事を祈る祭をして、われは越えて行く、相坂山を。
【評】 大和国に住んで近江国に妻を持っている人の、その妻の許に通う時の歌である。一夫多妻の時代とて、男が旅にあって、一時的の妻を持つということは、むしろ普通となっていたようであるが、これはそうした妻ではなく、深く頼んでいる妻と思われる。上代では遠隔の地に妻を持つ風があったとみえるが、これはあまりにも遠隔であるから、あるいは大津宮より清御原宮へと遷ったその過渡時代の歌で、謡い物として伝わって来ていたものではないかとも思われる。詠み方がいわゆる道行きで、古風なものである。地名にはそれぞれ枕詞を冠しているが、すべて既成のもので、新味のないものである。地名の列挙は、それが切情の具象化として行なわれているので、第三者を予想しての興味は持たせていないものである。また、この旅は妻問いのためのものであることは、「万歳に在り通はむと」とあるによって知られるが、第三者を予想すると、最も興味あるべきことを、このように暗示に止めていることは、この歌が作者自身のためのもので、あくまでも実際に即したものであることを示している。「石田の社の皇神」をいうに、山城より近江へ越えようとする、心のおのずから緊張させられる時においていっているのも、心理の実際に即していることである。一首全体に素朴で、実際に即して、充実した趣を持っている上から、上にいったように清御原朝の、本巻としては古い時代の歌と思われる。この歌も「雑歌」ではなく「相聞」である。
或本の歌に曰く
3237 緑青《あをに》よし 奈良山過《ならやます》ぎて もののふの 宇治川《うぢがは》渡《わた》り 未通女《をとめ》らに 相坂山《あふさかやま》に 手向草 《たむけぐさ》糸《いと》取《と》り置《お》きて 我妹子《わぎもこ》に 淡海《あふみ》の海《うみ》の 沖《おき》つ浪《なみ》 来寄《きよ》る浜辺《はまべ》を くれぐれと 独《ひとり》ぞ我《わ》が来《く》る(27) 妹《いも》が目《め》を欲《ほ》り
緑青吉 平山過而 物部之 氏川渡 未通女等尓 相坂山丹 手向草 絲取置而 我妹子尓 相海之海之 奥浪 來因濱邊乎 久礼々々登 獨曾我來 妹之目乎欲
【語釈】 ○もののふの宇治川渡り 「もののふの」は、物部の氏と続けての枕詞。○未通女らに相坂山に 「未通女らに」は、逢うの意でかかる枕詞。○手向草糸取り置きて 「手向草」は、手向の料の。「糸」は、幣の中の一種で、麻糸。「取り置きて」は、相坂山の峠の国境の神に供えてで、手向の祭をして。○我妹子に淡海の海の 「我妹子に」は、逢うの意でかかる枕詞。上の「未通女らに」よりは、意味を強めたもの。○くれぐれと独ぞ我が来る 「くれぐれと」は、暗れ暗れとで、心の暗く、心細い意。巻五(八八八)に既出。「来る」は、「ぞ」の結。「妹」のほうへ行くことを、妹を中心として「来る」といったもの。○妹が目を欲り 妹の姿を見たくて。
【釈】 あおによし奈良山を過ぎて、もののふの宇治川を渡り、おとめらに逢うと名にいう相坂山の神に、手向の料の糸を供えて祭をして、我妹子に逢うと名にいう近江の海の、沖の浪の寄せて来る浜辺を、心暗く独りで行くことであるよ。妹の姿を見たくて。
【評】 この歌は、前の歌の別伝として扱っているが、その相通うところは、大和国に住む男が近江国に妻を持っていて、そこへ通うという、境を同じゅうしているだけで、詠み方は全く異なっているものである。別伝ではなく、初めから別な歌である。これを別伝としたのは、編集時代には、大和より近江へ妻問いをするということは特別な、他に例のないことと感じたがためであろう。別歌というのは、二首は作因を異にしている。前の歌は、同じく妻問いの道行きではあるが、妹という一語もつけず、道行きの際の緊張を叙することによって、妻を思う切情を具象している、自身のための作である。この歌は、「妹が目を欲り」と作意を明らかにし、道の遠きをいうとともに、「未通女らに」「我妹子に」と妻に対するあこがれをいい、「くれぐれと独ぞ我が来る」と、場合柄、むしろ感傷にすぎることをいっているもので、一首全体として見ると、妻の愛情を求めるために、道の労苦を訴えようとする趣を持ったものにみえる。これは型となっていることである。詠み方も、こちらは、気分を主とし、その気分を具象するために叙述をしているもので、上の歌とは反対である。前の歌の古風に対して、これはまさしく新風である。この新風は次第に伸展して、奈良朝に入って盛んになった風である。
反歌
(28)3238 相坂《あふさか》を うち出《い》でて見《み》れば 淡海《あふみ》の海《うみ》 白木綿花《しらゆふばな》に 浪《なみ》立《た》ち渡《わた》る
相坂乎 打出而見者 淡海之海 白木綿花尓 浪立渡
【語釈】 ○相坂をうち出でて見れば 相坂山を出て見ると。○白木綿花に浪立ち渡る 白い楮の繊維で造った花のように、浪が立ちつづいている。
【釈】 相坂山を出て見ると、近江の海には、白い楮の繊維で造った花のように、浪が立ちつづいている。
【評】 相坂山の山路を離れて、近江の湖の白浪の立ち続いたさまを見た第一印象を詠んだものである。対象に助けられて、印象の鮮やかな歌で、手腕のある作者の作である。これは遊覧者の歌で、妻問いとは関係のない歌である。淡海の海によって強いて関係づけたものと思われる。
右三首
3239 近江《あふみ》の海《うみ》 泊《とまり》十《やそ》あり 八十島《やそしま》の 島《しま》の埼埼《さきざき》 在《あ》り立《た》てる 花橘《はなたちばな》を 末枝《ほつえ》に 黐《もち》鶉引《ひ》き懸《か》け 仲《なか》つ枝《え》に 斑鳩《いかるが》懸《か》け 下枝《しづえ》に 比米《ひめ》を懸《か》け 己《わ》が母《はは》を 取《と》らくを知《し》らに 己《わ》が父《ちち》を 取《と》らくを知《し》らに いそばひ居《を》るよ 斑鳩《いかるが》と比米《ひめ》と
近江之海 泊八十有 八十嶋之 嶋之埼邪伎 安利立有 花橘乎 末枝尓 毛知引懸 仲枝尓 伊加流我懸 下枝尓 比米乎懸 己之母乎 取久乎不知 己之父乎 取久乎思良尓 伊蘇婆比座与 伊可流我等比米登
【語釈】 ○近江の海泊八十あり 「泊」は、船の泊まる所の称で、港の完備した所。巻三(二七三)「近江の海八十の湊に」、巻七(一一六九)「近江の海湊は八十あり」とあって、成句に近いものである。「八十」は、多くというを具象的にいったもの。 ○八十島の島の埼埼 「八十島」は、「八十」は、上を承けてのもので、多くの。「島」は、水上より陸を望んでの称。「泊」は、陸の湾入した所であるから、その湾の両端の陸は、島というに最も適した形である。「島の埼埼」は、「島」は、上を承けたもの。「埼埼」は、岬ごとに。○在り立てる花橘を 「在り立てる」は、継続して立っているであるが、ここは「在り」は「立てる」を強める意で添えているもの。「花橘」は、橘で、その花を賞していう時の称。ここは花(29)を心に置いての橘である。「を」は、「のに」の意の助詞。○末枝に黐引き懸け 「末枝」は、最も先の枝。飛んで来る鳥のとまりやすい場所としていっている。「黐」は、鳥を捕るための物。もちの木の皮を製して造るもので、現在も用いられている。「引き懸け」は、塗りつける意であるが、下に「懸け」の語が畳用されている関係で用いられているもの。○仲つ枝に斑鳩懸け 「仲つ枝」は、中ほどの枝。「斑鳩」は、雀科。形は百舌鳥に似て、全身は灰色。頭は漆黒色で、帽をかぶったようである。一名、豆まわしという。「懸け」は、囮として籠に入れて懸けて。○下枝に比米を懸け 比米は、「しめ」ともいう。雀科。斑鳩に似て、体が肥え、全身茶褐色。頭と嘴だけが黒い。渡り鳥で、秋来て春去る冬鳥。「懸け」は、上と同じ。○己が母を取らくを知らに 「己」は、訓が定まらず、「な」「さ」「わ」「し」とある。「わ」に随う。自分の母を取ることだとも知らずに。○いそばひ居るよ斑鳩と比米と 「いそばひ」は、「い」は、接頭語。「そばひ」は、ふざける意。平安朝では「そばへ」といい、現在も地方により口語として用いられている。「斑鳩と比米と」は、それぞれ籠の中で。
【釈】 近江の海には、泊がたくさんある。たくさんの島のその島の埼ごとに、立ち続けている花咲く橘であるのに、上の枝には黐を塗りつけ、中の枝には囮として籠に入れた斑鳩を懸け、下の枝には同じく比米を懸けてあって、自分の母を捕ることであるとも知らずに、自分の父を捕ることであるとも知らずに、籠の中でふざけているよ、斑鳩と比米とは。
【評】 「近江の海泊八十あり、八十島の島の埼埼」という起首は、この歌の作者の立場を明らかに示しているものである。作者は近江の湖を総括して対象としているのであり、また陸地を、水上にあって呼ぶ称の島という語によっていっているのである。これは船に乗って、近江の湖の岸沿いを周航している者でなくてはいわない言い方である。また歌材としているものは、囮によって斑鳩と比米とを取ろうとすることであるが、この二種の鳥は渡り鳥であって、秋の季節に渡って来るのである。ここにいっているのは、その渡って来る際のことと取れるので、秋の頃である。作者はそうした好季節に、近江の湖を周覧した人とみえる。また、囮の設備は詳しくいっているが、設備だけにとどめて、それ以上にはいおうとしていないことも、周覧者にふさわしいことというべきである。この歌の力点は、囮籠の斑鳩と比米とを、渡り鳥として渡って来るそれらの群と、親子関係があるものと解し、囮籠の鳥がその事を全く知らずにいるものとして、憐れみの心を寄せている点にある。これは作者の主観である。今年来た霍公鳥を、去年のそれと同じ鳥だと解し、そこに親しみとあわれを感じる歌は、奈良期時代に入って起こって来た心で、この歌はそれに通うところのあるものであるが、鳥の上に親子の関係を認め、人間的な悲哀を感じるということは、本集としてはきわめて異色あるものといわなければならない。本集には親子の情を詠んだものがじつに少なく、たまたまあれば、それがすでに異色とみえるまでである。この歌はそれを鳥類につなぎ、誇張なく、不自然なく感ぜしめるものとしているので、本集にあっては全く異色とすべきである。詠み方は、起首より同語を畳んで展開させ、中間には「末枝」「仲つ枝」「下枝」を三段に並べる古風な法を取っているので、謡い物としての色彩の濃厚なものである。しかし謡い物として見れば、その第一条件である恋愛を全く離れて、しかも、きわめて特殊な主観を捉えたものであり、事の叙し方は精細に、調べは柔らか(30)なものであって、それとはむしろ正反対な詠み方である。要するに、謡い物の手法を取り入れた、個人的な抒情と見るべきである。また『古義』は、この歌を諷喩の作と見、斑鳩と比米とを、大津宮の弘文天皇の御代、天皇の壬申の事を謀り給う間、天武天皇の二皇子高市皇子、大津皇子のその事を悟らぬのに擬したものと解しているが、作者はいったがごとき立場にある人であり、歌風もそのように溯りうるものではなく、また諷喩とすると、事があまりにも精細に、あらわであって、その点からもふさわしくはなく、かたがた諾いかねる解である。奈良朝の知識人の、近江の海の遊覧者となっての感懐と見るべきであろう。
右一首
3240 大王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 見《み》れど飽《あ》かぬ 奈良山《ならやま》越《こ》えて 真木《まき》積《つ》む 泉《いづみ》の河《かは》の 速《はや》き瀬《せ》を 竿《さを》さし渡《わた》り ちはやぶる 宇治《うぢ》の渡《わたり》の たぎつ瀬《せ》を 見《み》つつ渡《わた》りて 近江路《あふみぢ》の 相坂山《あふさかやま》に 手向《たむけ》して 吾《わ》が越《こ》えゆけば 楽浪《ささなみ》の 滋賀《しが》の辛埼《からさき》 幸《さき》くあらば 又《また》還《かへ》り見《み》む 道《みち》の隈《くま》 八十隈毎《やそくま》《ごと》に 嗟《なげ》きつつ 吾《わ》が過《す》ぎ行《ゆ》けば いや遠《とほ》に 里《さと》離《さか》り来《き》ぬ いや高《たか》に 山《やま》も越《こ》え来《き》ぬ 剣刀《つるぎたち》 鞘《さや》ゆ抜《ぬ》き出《い》でて 伊香胡山《いかごやま》 如何《いか》に吾《わ》がせむ 行方《ゆくへ》知《し》らずて
王 命恐 雖見不飽 楢山越而 眞木積 泉河乃 速瀬 竿刺渡 千速振 氏渡乃 多企都瀬乎 見乍渡而 近江道乃 相坂山丹 手向爲 吾越徃者 楽浪乃 志我能韓埼 幸有者 又反見 道前 八十阿毎 嗟乍 吾過徃者 弥遠丹 里離來奴 弥高二 山文越來奴 釼刀 鞘從拔出而 伊香胡山 如何吾將爲 徃邊不知而
【語釈】 ○大王の命恐み 天皇の詔を恐んで。慣用句。この「命」は、以下の続きで見ると配流の命で、北陸方面へ護送されたのである。○真木積む泉の河の 「真木積む」は、良材を積み上げるで、泉河の性質をいったもの。泉河は山城国の今の木津川で、上流から水運によって流して来る材木を陸揚げする地点だったのである。○竿さし渡り 渡船で渡って。○ちはやぶる宇治の渡の 「ちはやぶる」は、宇治の枕詞。「宇治の渡」は、宇治川の渡船場所。○たぎつ瀬を 水の激している瀬を。○近江路の 近江国への街道の。○楽浪の滋賀の辛埼 「楽浪」は、琵琶湖の南方一帯の地の名。「滋賀の辛埼」は、琵琶湖の南岸の岬で、好景の地。道行きの地として叙述しているが、同時に下の「幸く」に同音で続け、序詞のよ(31)うにしている。この続けは、巻一(三〇)人麿の「楽浪の志賀の辛崎幸くあれど」から取ったもの。○幸くあらば又還り見む 無事でいたならば、また立ち帰って来て見ようで、生死のほどもおぼつかない意。以上、第一段。○道の隈八十隈毎に嗟きつつ吾が過ぎ行けば 道の曲がり目の、限りなくある曲がり目ごとに、通って来たほうの見えなくなるのを嘆きながらに通り過ぎて行くと。○いや遠に里離り来ぬいや高に山も越え来ぬ ますます遠く家郷を離れて来た。ますます高く山も越えて来た。以上、第二段で、家郷の遠ざかる悲しみ。「道の隈」以下八句は、巻二(一三一)人麿の「この道の八十隈海に、万たび顧みすれど、いや遠に里は放りぬ、いや高に山も越え来ぬ」を取ったもの。○剣刀鞘ゆ抜き出でて 剣の刀を鞘から抜き出して。厳《いか》しの意で、「伊香」にかかる序詞。○伊香胡山如何に吾がせむ 「伊香胡山」は、近江国と越前国との国境に近い山で、街道にあたっている山。滋賀県伊香郡木之本町|大音《おとう》(もと伊香村)、賤ケ岳南あたりの山といわれている。ここはその山を今越える叙述で、同音の「如何」に序詞風に続けている。上の「滋賀の辛埼幸く」と同様である。「如何に吾がせむ」は、どのように我はしたものであろうか。○行方知らずて 将来が知られずしてで、流人の身で、何の方途もつけられない心細さをいったもの。以上、第三段。
【釈】 天皇の詔を謹みお承けして、見れども飽かない奈良山を越え、良材を積み重ねてある泉河を、渡船で棹さして渡り、ちはやぶる宇治川の渡の、激している瀬を見ながら渡って、近江街道の相坂山で、道の神の祭をして越えて行くと、楽浪の滋賀の辛埼で、命が幸くあったならば、また立ち帰ってここを見よう。道の曲がり目の、限りなくある曲がり目ごとに、通って来た方の見えなくなるのを嘆きながら我が過ぎて行くと、ますます遠くもわが住み馴れた里は遠ざかった。ますます高く山も越えて来た。剣の大刀を鞘から抜き出してのいかめしさに因みある伊香胡山、そのいかに我はしたものであろうか、将来が知られずして。
【評】 この歌は、穂積老《ほづみのおゆ》が養老六年佐渡が島へ流された時の歌であろうと、諸注ひとしくいっている。それは次の反歌が、その際の老の歌であるとの伝えがあり、反歌と長歌とは別事から出たものとは見えないからの推量である。歌体は道行きという古いものであるが、詠み方は人麿の歌をあらわに取ったものであり、また巧緻の趣のあるところから見ても、奈良朝時代の知識人の歌と思える。事柄と思い合わせてこの推量は自然なものであろう。道行き体は、感傷の心を具象させるには最も適当の法として選んだもので、事実を主としたものではなく、気分を主としたものである。大和から山城、近江を経、越前に入るまでの、北陸街道に添ってのものであるが、滋賀の辛埼と伊香胡山とに頂点を置き、伊香胡山でうち切っている点が、すでに気分本位である。道々の叙述もすべて感傷のまつわっているものである。その一頂点をなしている「楽浪の滋賀の辛埼幸くあらば」は、人麿から取ったものであるが、「剣刀鞘ゆ抜き出でて、伊香胡山如何に吾がせむ」は、この作者の物である。国境の山を越える際の気分が暗示されていて、人麿より取ったものに比し、さして遜色があるともいえないものである。また第二段の「道の隈」以下八句も人麿より取ったものであるが、さして不自然なくこなしきって調和させている点も、作者の手腕を思わせることである。奈良朝の道行き体の歌としては、異色のあるものである。
(32) 反歌
3241 天地《あめつち》を 歎《なげ》き乞《こ》ひ祷《の》み 幸《さき》くあらば 又《また》還《かへ》り見《み》む 滋賀《しが》の辛埼《からさき》
天地乎 歎乞祷 幸有者 又反見 思我能韓埼
【語釈】 ○天地を歎き乞ひ祷み 「天地を」は、天つ神国つ神で、あらゆる神々を。「歎き」は、原文「難」。『考』が誤字として改めたものである。嘆いて。「乞ひ祷み」は、願い礼拝して。
【釈】 天神地祇を嘆いて願い礼拝して、無事であったならば、再び帰って見よう。滋賀の辛埼を。
【評】 命の心もとなさを意識しつつも、信仰に取り縋って生きようとし、生き得たならば、再び滋賀の辛埼の佳景を見ようというので、全心をうち込んでいっている形のものである。奈良朝時代の知識人を思わせる歌である。
右二首。但しこの短歌は、或書に云ふ、穂積朝臣|老《おゆ》佐渡に配《なが》さえし時作れる歌なりといへり。
右二首。但此短歌者、或書云、穂積朝臣老配2於佐渡1之時作歌者也。
【解】 「穂積朝臣老佐渡に配さえし時」は、続日本紀、元正紀、養老六年正月の条に「癸卯朔壬戌、正四位上多治比真人三宅麻呂、坐d誣2告謀反1、正五位上穂積朝臣老、指c斥乗輿u並処2斬刑1。而依2皇太子奏1、降2死一等1、配2流三宅麻呂於伊豆島、老於佐渡島1」とある。皇太子は後の聖武天皇である。老は十八年を経ての天平十二年六月、赦されて京へ還り、官に就き、天平勝宝元年八月に卒した。老の歌は、集中今一首あり、巻三(二八八)「吾が命し真幸くあらば亦も見む志賀の大津によする白浪」である。反歌に較べると、反歌の情熱あり、粗野な趣のあるものより、著しく穏やかな、洗煉をもったものである。いずれが真に近いかはわからないが、老を中心としていえば、あるいはこの長歌と反歌とが、真実に近いのかも知れぬ。
3242 百岐年《ももきね》 美濃《みの》の国《くに》の 高北《たかきた》の 泳《くくり》の宮《みや》に 日向《ひむかし》に 行《ゆ》きなむ宮《みや》を ありと聞《き》きて 吾《わ》が通路《かよひぢ》の 於吉蘇山《おきそやま》 美濃《みの》の山《やま》 靡《なび》けと 人《ひと》は踏《ふ》めども かく依《よ》れと 人《ひと》は衝《つ》けども 意《こころ》無《な》き 山《やま》の 於吉蘇山《おきそやま》 美濃《みの》の山《やま》
(33) 百岐年 三野之國之 高北之 八十一隣之宮尓 日向尓 行靡闕矣 有登聞而 吾通道之 奧十山 三野之山 靡得 人雖跡 如此依等 人雖衝 無意 山之 奧礒山 三野之山
【語釈】 ○百岐年美濃の国の 「百岐年」は、訓も語義も諸説があって定まらない。『総釈』で斎藤清衛氏は「ももきね」と訓み、百の木根すなわち多くの木立の意とし、野の状態としてかかる枕詞だとしている。ただし、「岐」の音は甲類、「木」は、乙類で音が異なる。「百小竹《ももしの》の」という枕詞もあるので、しばらく『総釈』の解に随う。○高北の泳の宮に 「高北」は、地名と思われるが、現在には伝わっていない。下の泳の宮の所在地の名であろう。「泳の宮」は、岐阜県可児郡久々利村(現在、可児町)で、その宮址がある。この宮は、日本書紀、景行紀四年二月の条に「天皇、(中略)居2于泳宮1泳宮此云2区玖利能弥揶1」とあるものである。「宮に」は、宮にてで、下の「聞きて」に続くもの。○日向に行きなむ宮を 「日向」は、『考』の訓。日に向かうは東方の意で当てた字。「行きなむ宮を」は、原文「行靡闕矣」。訓はさまざまである。『新訓』の訓。「闕」を宮と訓んだのは『考』で、宮闕の意からの字だとしている。「宮」は、国庁を天皇の遠の御門《みかど》と称していると同じく、天皇の宮としての称と取れる。東方にあたるだろう国庁がで、以上、国庁の位置をいったもの。○ありと聞きて吾が通路の あると聞き知ってわが通って行く路の。○於吉蘇山美濃の山 「於吉蘇山」については、三代実録、元慶三年九月の条に、「吉蘇、小吉蘇両村、是恵奈郡絵上郷之地也。和銅六年七月、以2美濃信濃両国之堺、径路険隘、往還甚難1、仍通2吉蘇路1」とある。「於吉蘇山」はこの吉蘇の山の美称、「美濃の山」は、その南方の山の総称である。以上、第一段。○靡けと人は踏めども 靡いて平らになれと思って人は踏むけれどで、吉蘇路となった山を越えつついる人の、その険しさを憎んでいっているもの。○かく依れと人は衝けども このように片寄れといって人は衝くけれども。上の二句を語を換えて繰り返したもの。○意無き山の於吉蘇山美濃の山 意ない山の於吉蘇山美濃の山だと、嘆いていったもの。
【釈】 木立多い美濃国の、高北の泳の宮で、東方に行くであろうところにある国庁のことを聞いて、わがとおって行く路にある於吉蘇山と美濃の山よ。靡いて平らになれといって人は踏むけれども、このように片寄って歩きよくせよといって人は衝くけれども、心ない山である於吉蘇山と美濃の山だ。
【評】 美濃国の、多分国庁であったろう泳の宮へ行き、その泳の宮で、そこから東方にあたって、於吉蘇山、美濃の山を越す吉蘇路を通って、信濃の国庁へ行くべき人の、その吉蘇路の難路に悩む心をいったものである。そうした用務を帯びての旅をする人は、多分京の官人であろう。歌から見ると、位置高い人とは思われない。時は吉蘇路の拓けた、少なくとも和銅六年以後のことである。泳の宮をいうに、地名を重ねていっているのは、天皇の国庁として貴んでのことで、また信濃方面の国庁を宮と呼んでいるのも、同じ心であろう。しかし信濃方面の国庁の位置を、教えられて知るというのは、位置あり、任務重い官人ではあるまい。構成は二段としてあるが、作意は後段の、吉蘇路の険難を嘆くところにあり、前段は、その吉蘇路を導き出す序説であって、二段としているのは技巧というより、自然な、必要よりのことといえる。地名の多いことも、作意より見て必要のもので、必要以上のものではない。「靡けと人は踏めども」は、人麿の名句巻二(一三一)「靡けこの山」を思わせるもので(34)あるが、吉蘇路の関係から人麿以後の作である。詠み方は、語つづきはおおまかで、調べは緩やかに、叙述がおのずから抒情となって、飛躍の多い言い方が、それに溶かされて、無理のない、豊かな立体感をなしている。この点がこの歌の魅力である。謡い物風の趣がある。吉蘇路の険難に悩む人によって歌われたものであろう。
右一首
3243 処女《をとめ》らが 麻笥《をけ》に垂《た》れたる 績麻《うみを》なす 長門《ながと》の浦《うら》に 朝《あさ》なぎに 満《み》ち来《く》る潮《しほ》の 夕《ゆふ》なぎに 依《よ》り来《く》る浪《なみ》の その潮《しほ》の いや益益《ますます》に その浪《なみ》の いや重重《しくしく》に 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ひつつ来《く》れば 阿胡《あご》の海《うみ》の 荒礒《ありそ》の上《うへ》に 浜菜《はまな》採《つ》む 海人処女《あまをとめ》ども 纓《うなが》せる 領巾《ひれ》も光《て》るがに 手《て》に巻《ま》ける 玉《たま》もゆららに 白栲《しろたへ》の 袖《そで》振《ふ》る見《み》えつ 相思《あひおも》ふらしも
處女等之 麻笥垂有 績麻成 長門之浦舟 朝奈祇尓 滿來塩之 夕奈祇尓 依來波乃 彼塩乃 伊夜益舛二 彼浪乃 伊夜敷布二 吾妹子尓 戀乍來者 阿胡乃海之 荒礒之於丹 濱菜採 海部處女等 纓有 領巾文光蟹 手二卷流 玉毛湯良羅尓 白栲乃 袖振所見津 相思羅霜
【語釈】 ○処女らが麻筒に垂れたる 「麻笥」は、紡いだ麻を入れる器。笥は筒形をした、普通薄い板を曲げて造った物。「垂れたる」は、紡ぎながら垂らしている。○績麻なす長門の浦に 「績麻」は、績《つむ》いだ麻の称で、麻を細く裂いて糸にしたもの。「なす」は、のようなで、その長いところから「長」とかけ、以上その序詞。「長門の浦」は、広島県安芸郡倉橋島の南にある本浦の旧名。○その潮のいや益益に その潮のようにいよいよますますに。○その浪のいや重重に その浪のようにいよいよしきりに。○吾妹子に恋ひつつ来れば 家にとどまっている妻を恋いながら来ると。○阿胡の海の荒礒の上に 「阿胡の海」は、所在が知れない。上よりの続きで、長門の浦に近い所と思われる。○浜菜採む海人処女ども 「浜菜」は、砂浜で得られる菜で、菜は副食品の総称。海藻であろう。○纓せる領巾も光るがに 「うながす」は、「うなぐ」の敬語。項《うなじ》に懸ける意の古語。「領巾」は、女の装身具の一つで、既出。「光るがに」は、照るほどにで、下の「袖振る」で、身を動かすので、領巾が揺らいで、照るように見える意。○手に巻ける玉もゆららに 手玉も好い音を立てて。○白栲の袖振る見えつ 「白栲の」は、実状の叙述。袖を振るのが見えた。袖を振るは、思う男と心を交わすしぐさ。「振る」は、「見えつ」に続く関係上、終止形。これら海人処女の状態は、間近な所で見たものであるから、作者は荒礒の下の船にいたことと思われる。○相思ふらしも 海人処女は、男と相思ってするのであるらしい。
(35)【釈】 処女らが麻笥に垂らしている、その績麻の長いような長門の浦に、朝凪に満ちて来る潮の、夕凪に寄って来るささ浪の、その潮のようにいよいよますます、その浪のようにいよいよしきりに、家に残している妻を恋いながら来ると、阿胡の海の荒礒の上で、浜菜を摘んでいるところの海人の処女どもは、項に懸けている領巾も照るほどに、手に巻いている玉も好い音に鳴って、白栲の袖を振るのが見えた。相思う相手があるのらしい。
【評】 作者は多分京の官人で、安芸国の海岸地方へ出張して、滞在の久しいところからしきりに京の妻恋しい心を抱いて、船に乗って外出すると、たまたま磯の上にいる何人かの海人の処女が、船上からは見えない相手の男に対して袖を振って心を通わしているさまを見かけて、さらに妻恋しい心をそそられたというのである。作意は妻恋しい気分を、気分そのものとしていおうとするものである。したがって詠み方は、前半は説明的となり、後半は心理の一動揺をいうという間接的なものとなって、語は多いが、集中統一の乏しい散浸なものとなっている。一と口にいうと、散文に近いものとなっているのである。これは奈良朝に入って次第に高まった気分本位の歌の、その弱所の面を濃厚に示している歌である。
反歌
3244 阿朗《あご》の海《うみ》の 荒礒《ありそ》の上《うへ》の さざれ浪《なみ》 吾《わ》が恋《こ》ふらくは 息《や》む時《とき》もなし
阿胡乃海之 荒礒之上之 少浪 吾戀者 息時毛無
【語釈】 ○阿胡の海の荒礒の上の 「海人処女ども」の居た場所で、その意で長歌を承けたもの。○さざれ浪 さざ波と同じ意味で「息む時もなし」にかかり、以上その序詞。○吾が恋ふらくは わが恋うることはで、長歌の「吾妹子」を承けてのもの。
【釈】 阿胡の海の荒礒の上に寄るさざ浪のように、わが妻を恋うることは、やむ時もない。
【評】 長歌の海人処女らは、それだけで棄て去り、長歌の全体を総括して、繰り返しいっている形である。これも気分を主としての詠み方である。安易な歌である。
右二首
3245 天橋《あまはし》も 長《なが》くもがも 高山《たかやま》も 高《たか》くもがも 月《つく》よみの 持《も》てる変若水《をちみづ》 い取《と》り来《き》て 公《きみ》に(36)奉《まつ》りて 変若《を》ち得《え》てしかも
天橋文 長雲鴨 高山文 高雲鴨 月夜見乃 持有越水 伊取來而 公奉而 越得之旱物
【語釈】 ○天橋も長くもがも 「天橋」は、天へ昇る階段で、想像上のもの。高天原とこの国土との交通には、天の浮橋があり、また天の橋立が天上への階段であったなどの信仰もあったので、想像ではあるが根拠のあるものである。「もがも」は、願望。○高山も高くもがも 「高く」は、さらに高くの意で、以上第一段。○月よみの持てる変若水 「月よみ」は、月読で、月を神としていっているもの。「持てる変若水」は、飲めば若返ると信じられていた霊水で、道教の神仙思想のものである。わが国でも奈良朝時代には広くいわれていたもので、巻四(六二七)「大夫は変水|定《しづ》め白髪生ひにたり」、そのほかにも少なくない。○い取り来て公に奉りて 「い取り来て」は、「い」は、接頭語で、酌み取って来て。「公」は、男の尊称で、男である作者の尊み親しんでいる、父ともいうべき人。「奉りて」は、捧げて。○変若ち得てしかも 訓はさまざまで一定しない。『代匠記』の訓。「てしか」は、願望、「も」は、感動をあらわす助詞。
【釈】 天上へ昇る階段も長くあって欲しい。高山もさらに高くあって欲しい。月読の神の持っている変若水を酌み取り来て、公に捧げて若返らせたいことであるよ。
【評】 「公」と呼ぶ、父あるいは格別の関係を持っている長上の、寿を祝う範囲の心であるが、そうした思想的、儀礼的の匂いはなく、老いたさまを若返らせたいという、感覚的、実際的の心である。しかもこれは贈歌というよりも、自身の抒情に重きを置いているものであって、かたがた特色のあるものである。変若水は、奈良朝時代に盛行したもので、庶民間にまで延長した思想で、中には、地上に実在する物であるがごとくに思っていた歌もあるくらいである。この作者は、初めから月中の物とし、取り得ない物として、その上に立って情を述べているので、この点は合理的で、実際的である。奈良朝時代の聡明な知識人を思わせる歌である。形は、一つの型となっていた九句の長歌で、素朴に、簡潔に、重量を持った詠み方である。異色ある歌である。
反歌
3246 天《あめ》なるや 月日《つきひ》の如《ごと》く 吾《わ》が思《おも》へる 公《きみ》が日《ひ》にけに 老《お》ゆらく惜《を》しも
天有哉 月日如 吾思有 公之日異 老落惜毛
(37)【語釈】 ○天なるや 天にあるで、「や」は、感動の助詞。○公が日にけに老ゆらく惜しも 公が日に日に老ゆることの惜しさよで、「老ゆらく」は、「老ゆ」の名詞形。
【釈】 天上にある月や日のごとくにわが思っている公が、日に日に老いてゆくことの惜しさよ。
【評】 長歌の背後にあって、その作意となっているものを、反歌として添えて、相俟って心を尽くしているものである。長歌と同じく、調べが張って、それが抒情となっているものである。
右二首
3247 浮名河《ぬながは》の 底《そこ》なる玉《たま》 求《もと》めて 得《え》まし玉《たま》かも 拾《ひり》ひて 得《え》まし玉《たま》かも 惜《あたら》しき 君《きみ》が 老《お》ゆらく惜《を》しも
沼名河之 底奈流玉 求而 得之玉可毛 拾而 得之玉可毛 安多良思吉 君之 老落惜毛
【語釈】 ○渟名河の底なる玉 「渟名河」は、高天原にあるとしていた河。「渟」は、瓊すなわち玉で、「な」は、接続助詞で、玉の河の意である。「底なる玉」は、その底にある玉。○求めて得まし玉かも 「得まし」は、訓がさまざまである。『代匠記』の訓。「まし」は、仮設の帰結で、得ようとしてついに得られない意をあらわすもの。求めて得られよう玉かで、「かも」は、疑問。○拾ひて得まし玉かも 拾って得られよう玉かで、上の繰り返し。以上第一段。○惜しき君が老ゆらく惜しも 惜しむべき君の、老ゆることの惜しさよ。この結末は、五三七で、古形である。
【釈】 渟名河の底にある玉は、求めて得られよう玉か、拾って得られよう玉か。惜しむべき君の、老いてゆくことの惜しさよ。
【評】 上の歌と同じ作者の、同じ心を詠んだものである。「渟名河の底なる玉」は、君の譬喩として、想像しうる限りの最も貴い物を想像し、「求めて」「拾ひて」といって、さらにそれを強めたものである。形は甚しい誇張であるが、結果から見ると、そうは感じさせないものがある。これは作者の心の真実のさせていることである。しかし、そればかりではなく、その真実を生かすにふさわしい、この素朴な、簡潔な、古風な詠み方の力も、同時に大きく働いているのである。その意味で、結末の五三七の古形も注意される。上の歌と同じく、九句の長歌である。
右一首
(38) 相聞
3248 敷島《しきしま》の 日本《やまと》の国《くに》に 人多《ひとさは》に 満《み》ちてあれども 藤浪《ふぢなみ》の 思《おも》ひ纏《まつ》はり 若草《わかくさ》の 思《おも》ひつきにし 君《きみ》が目《め》に 恋《こ》ひや明《あ》かさむ 長《なが》きこの夜《よ》を
式嶋之 山跡之土丹 人多 満而離有 藤浪乃 思纏 若草乃 思就西 君目二 戀八將明 長此夜乎
【語釈】 ○敷島の日本の国に 「敷島の」は、日本の枕詞。「日本」は、この国土ということを、気分としてつとめて広くいおうとしてのもの。○人多に満ちてあれども 人が多く、いっぱいになっているけれども。○藤浪の思ひ纏はり 「藤浪の」は、藤の花房の靡く意であるが、ここは藤の意に転じたもので、譬喩として「纏はり」にかかる枕詞。「思ひ纏はり」は、一語で、心が纏わりついて離れない意。○若草の思ひつきにし 「若草の」は、若草のごとくで、意味で「つき」にかかる枕詞。つきは、色が染みつく意。「思ひつきにし」は、同じく一語で、身に染みついてしまったで、「し」は、連体形。○君が目に恋ひや明かさむ 「君」は、女より男をさしての称。「目」は、顔の代表で、姿。「や」は、疑問の係助詞。○長きこの夜を 長い秋の夜であるのにで、「を」は、感動の助詞。
【釈】 敷島の日本の国に、人は多く、いっぱいにいるけれども、藤のように思い纏わって離れず、若草のようになつかしく、身に染みついてしまった君が姿を、恋うて明かすのであろうか。長い秋の夜であるのに。
【評】 女がその関係している男を、いかに深く思っているかを、説明している歌である。「敷島の日本の国に人多に満ちてあれ(39)ども」といい、以下その中のただ一人の人の恋しさをいっているのであるが、この四句は巻四(四八五)「神代より生れ継ぎ来れば、人多に国には満ちて、味むらの去来《いざ》とは行けど」を承けたもので、新しいとはいえない。しかし魅力ある語であるが、以下は常套的な説明句であるために、これを生かし得ていない。したがって、全体に低調ではあるが、他面、この歌は明るい色彩をもって塗りつぶしている感があるために、それによって成り立たされている。この明るさは、奈良朝時代のものである。
反歌
3249 敷島《しきしま》の 日本《やまと》の国《くに》に 人二人《ひとふたり》 ありとし念《おも》はば 何《なに》か嗟《なげ》かむ
式嶋乃 山跡乃土丹 人二 有年念者 難可將嗟
【語釈】 ○人二人ありとし念はば 「人二人」は、思う人が二人あると思うのならで、「し」は、強意の助詞。○何か嗟かむ 何でこのように嘆こうかで、「か」は、疑問の係。
【釈】 敷島の日本の国に、思う人が二人あると思うのなら、何でこのように嘆こうか。
【評】 長歌の全体を総括し、逆説的な言い方をすることによって変化を与え、心としては長歌よりも今一歩進めていったものである。反歌としては古い型のものであるが、それとしての上では、その緊密さにおいて徹底的なものである。形としても、長歌の起首二句を繰り返し、結句の「何か嗟かむ」は、長歌の結句を語を変えての繰り返しにしたものである。
右二首
3250 蜻蛉島《あきづしま》 日本《やまと》の国《くに》は 神《かむ》からと 言挙《ことあげ》せぬ国《くに》 然《しか》れども 吾《われ》は言挙《ことあげ》す 天地《あめつち》の 神も甚《かみはなはだ》 吾《わ》が念《おも》ふ 心《《こころ》知し》らずや 往《ゆ》く影《かげ》の 月《つき》も経往《へゆ》けば 玉《たま》かぎる 日《ひ》も累《かさな》り 念《おも》へかも 胸《むね》安《やす》からぬ 恋《こ》ふれかも 心《こころ》の痛《いた》き 末《すゑ》つひに 君《きみ》に逢《あ》はずは 吾《わ》が命《いのち》の 生《い》けらむ極《きはみ》 恋《こ》ひつつも 吾《われ》はわたらむ まそ鏡《かがみ》 正目《ただめ》に君《きみ》を 相見《あひみ》てはこそ 吾《わ》が恋止《こひや》まめ
(40) 蜻蛉嶋 倭之國者 神柄跡 言拳不爲國 雖然 吾者事上爲 天地之 神文甚 吾念 心不知哉 徃影乃 月文經牲者 玉限 日文累 念戸鴨 胸不安 戀烈鴨 心痛 未遂尓 君丹不會者 吾命乃 生極 戀乍文 書者將度 犬馬鏡 正目君乎 相見天者社 吾戀八鬼目
【語釈】 ○蜻蛉島日本の国は 「蜻蛉島」は、日本の枕詞。巻一(二)に既出。意は秋つ島で、秋は穀物の総称で、その豊かな島。瑞穂の国と同意である。「日本」は、わが国の全土。○神からと言挙世せ国 「神から」は、「から」は、ゆえで、神であるゆえとて。これはわが国土は神の産んだ国で、国であるとともに神であるとする上代信仰であった。「言挙せぬ国」は、住民は我を主張しない国であるの意。それは神が一切を照覧され、神意に悖らぬ限り、住民の総てを幸いにしようとしていられるので、我を主張するには及ばぬ国であるの意で、同じく上代の信仰であった。○然れども吾は言拳す それではあるが、われは言挙するというので、切情の堪えられぬものがあるの意。以上第一段。以下、言挙。○天地の神も甚吾が念ふ心知らずや 「天地の神も」は、天神地祇も。「甚」は、「知らずや」に続く。「吾が念ふ心知らずや」は、わが嘆いている心を知らないのであろうか、そういうことはないで、「や」は、反語。○往く影の月も経往けば 「往く影の」は、空を移り行く光ので、月の状態をいったもので、月の枕詞。「経往けば」は、経過して行けばで、時としての月の経過をいったもの。○玉かぎる日も累り 「玉かぎる」は、ここは日光の状態を形容したもので、日の枕詞。「日も累り」は、日も積もってで、時としての日。○念へかも胸安からぬ 「念へかも」は、念へばかもの古形で、「かも」は、疑問の係。「胸安からぬ」は、胸が安くはないことだで、上句を承けての結。○恋ふれかも心の痛き 恋うていればか、心の痛いことであると、上二句語を換えて繰。返して強めたもの。この四句は、当時は死を予覚される、重大なことだったのである。以上、第二段。○末つひに君に逢はずは 将来ついに君に逢わないのであったらで、「君」は、夫。○吾が命の生けらむ極恋ひつつも吾はわたらむ 「生けらむ」の「ら」は、完了の助動詞「り」の未然形、「む」は、推量の連体形。生きているだろうの意。「極」は、限り。「わたらむ」は、生き続けよう。以上、第三段。○まそ鏡正目に君を 「まそ鏡」は、「見」にかかる枕詞。「正目」は、直目《ただめ》で、直接に逢うこと。「まさ目」という用例は集中にはない。○相見てばこそ吾が恋止まめ 「相見てば」は、相見たらば。「恋ひ止む」は一語。結末は、五七七七の形になっている。以上、第四段。
【釈】 蜻蛉島日本の国は、神である国のゆえとて言挙をしない国である。けれどもわれは言挙をする。天つ神国つ祇も、甚だわが嘆く心を知らぬのであろうか、そういうことはない。空を移りゆく光の月が経過すると、玉と輝く日も累なって、嘆くがためであろうか、わが胸は安らかではないことである。恋するためであろうか、わが心の痛むことである。将来ついに君に逢わないのであれば、わが命の生きている限り、恋いながらもわれは生き続けることであろう。まそ鏡のように直接に君と相逢ったらばこそ、われは恋いやむことであろう。
【評】 夫に疎遠にされて、ほとんど逢う望みもないかに思える女が、恋情に堪えかねて、その嘆きを強烈に、能弁に訴えているものである。上代の夫婦関係にあっては、こうした嘆きはきわめて多い、一般的なものであって、事としては何ら特色のないものである。この歌の特色は、その嘆きを言挙という形においてしている点にある。第一段は、「日本の国は言挙せぬ国、然(41)れども吾は言挙す」という、古来よりの信仰に背いて、あえて 言挙をするという、実に堂々たるものである。以下はすべてその言挙であるが、第二段は現在逢えぬ苦痛、第三段はそれが将来に及びはせぬかという惧れ、第四段の結末にして同時に頂点となっているものは、「正目に君を相見てばこそ吾が恋止まめ」という、実に常凡なるものである。きわめて大きな構成をもって、一般的な、常凡な嘆きをいっているということは、嘆きを同じゅうしている人々の共感を予期してのものであろう。全体の語つづきの強烈で能弁であるのも、同じくその心からのことと思われる。この歌の歌品は低いもので、京人のものではなく、部落の庶民のものと思われる。結末の五七七七という形は、長い謡い物に例のあるものである。庶民間の謡い物であったろう。
反歌
3251 大舟《おほふね》の 思《おも》ひたのめる 君《きみ》ゆゑに 尽《つく》す心《こころ》は 惜《を》しけくもなし
大舟能 思憑 君故尓 盡心者 惜雲梨
【語釈】 ○大舟の思ひたのめる君ゆゑに 「大舟の」は、「思ひたのめる」の枕詞。「思ひたのめる君ゆゑに」は、深く頼みに思っている君のためには。○惜しけくもなし 「惜しけく」は、惜しいことで、名詞形。
【釈】 大舟のように、深く頼みに思っている君のためには、心を悩ますのも惜しいことはない。
【評】 長歌で嘆きを言い尽くすと、ある平静を持ち得て、自身の全体を思いかえし、慰めをもっていっている歌である。嘆きは愛着の現われであるから、一見飛躍がありすぎるようであるが、時間的推移を認めれば、不自然なものではない。
3252 ひさかたの 都《みやこ》を置《お》きて 草枕《くさまくら》 旅行《らたびゆ》く君《きみ》を 何時《いつ》か待《ま》たむ
久堅之 王都乎置而 草枕 覊徃君乎 何時可將待
【語釈】 ○ひさかたの都を置きて 「ひさかたの」は、天の枕詞であるが、ここは「都」にかけている。「都を置きて」は、京を後にして。○何時とか持たむ いつ帰るとして待とうかで、「か」は、疑問の係。
【釈】 ひさかたの京を後にして、草枕旅に出て行く君を、いつ帰るとして待とうか。
(42)【評】 これは旅の別れを惜しむ心のもので、長歌とは性質を異にしている歌である。長歌の嘆きを、夫が旅にあるがゆえのこととして関係づけ、強いて反歌として添えたのでもあろう。これは謡い物にはありやすいことである。
柿本朝臣人暦の歌集の歌に曰く
3253 葦原《あしはら》の 水穂《みづほ》の国《くに》は 神《かむ》ながら 言挙《ことあげ》せぬ国《くに》 然《しか》れど 言挙手《ことあげ》ぞ吾《わ》がする 言幸《ことさき》く 真福《まさき》く坐《ま》せと 恙《つつみ》なく 福《さき》く坐《いま》さば 荒磯浪《ありそなみ》 ありても見《み》むと 百重波《ももへなみ》 千重浪《ちへなみ》に敷《し》き 言挙《ことあげ》す吾《われ》は 言挙《ことあげ》す吾《われ》は
葦原 水穏國者 神在隨 事擧不爲國 雖然 辞擧叙吾爲 言幸 眞福座跡 恙無 宿座者 荒磯浪 有毛見登 百重波 千重浪尓數 言上爲吾 言上爲吾
【語釈】 ○葦原の水穂の国は わが国の美称。○神ながら言擧せぬ国 「神ながら」は、「な」は、接続助詞で、「の」と異ならない。「がら」の「が」は、連濁で、「から」であり、上の歌の「神から」と同じである。国は神であるがゆえに。「言挙せぬ国」は、上の歌と同じ。○然れども言挙ぞ吾がする 「する」は、「ぞ」の結、連体形。以上、第一段。○言幸く真福く坐せと 「言幸く」は、言語の霊力によってで、言語には霊力がこもっていて、口より発すると霊力を発揮すると信じていた。「真福く」は、「真」は、接頭語で、幸いを持っていらせられよと。「坐せ」は、「ゐよ」の敬語。「と」は、以上で一応言葉の切れたことを示すもの。○恙なく福く坐さば 「恙なく」は、凶事があって物忌みすることなく、すなわち幸いを持って栄えていらっしゃるならば。○荒礒浪ありても見むと 「荒礒浪」は、同音で「あり」にかかる枕詞。下にも「浪」をいっているところから見て、これは眼前の光景を捉えてのものと取れる。「ありても見むと」は、生きて、またも逢おうと。これによるとその人は、船に乗っての旅をする人で、旅に長くとどまるべき人とみえる。〇百重波千重浪に敷き 「百重波千重浪」は、続き重なって来る浪を、限りなくの譬喩としたもの。「に」は、上を副詞句として「敷き」に続けたもの。「敷き」は、重ねる意の動詞で、重ねて。○言挙す吾は言挙す吾は 言挙をする、われは。最後の小文字の繰り返しは元暦校本、天治本、類聚古集による。以上、第二段。
【釈】 葦原の水穂の国は、国が神であるがゆえに言挙をしない国である。しかしながら言挙をわれはすることである。わが発する言葉の霊力によって、幸いを持って栄えていらっしゃいと。凶事のために物忌みをすることなく、幸いを持って栄えていらしたなら、荒磯浪の在り永らえて、またも逢おうと、百重波千重波のごとくに、重ねても言挙をするわれは。言挙をするわれは。
【評】 この歌は、船で長い期間にわたっての、しかも危険な旅をする、身分ある人を、その船出の場所で送る歌である。遣唐(43)使としての誰かを難波津で送る歌だろうといわれているが、まさにそうした場合のものであろう。「言挙ぞ吾がする」までの一段は、国使としての遣唐使の、危険な船出を送る場合のこととて、きわめて妥当である。結末までの第二段は、言葉の霊力によって、ま幸く坐さばわれも永らえてまたも逢おうというので、言葉短く、情味深く、送別の言葉として無上のものである。
眼前を捉えての「荒礒浪」についでの「百垂波千重浪に敷き」の副詞句は、同じく眼前を捉えてのもので、絶妙である。結尾の「言挙す吾は」の繰り返しは、場合柄、口へ上せて謡ったものであることを思わせるもので、全体を生動させている。
反歌
3254 敷島《しきしま》の 日本《やまと》の国《くに》は 言霊《ことだま》の 佑《さき》はふ国《くに》ぞ ま福《さき》くありこそ
志貴嶋 倭國者 事靈之 所佑國叙 眞幅在与具
【語釈】 ○言霊の佑はふ国ぞ 「言霊」は、言語には霊力があって、その言葉どおりの状態を、いわれる人にあらわすという上代信仰のもので、既出。「佑はふ」は、『全註釈』のものである。原文は、諸本「所佐」で、「たすくる」と訓まれていたが、元暦校本は「所佑」であり、佑は啓開の義があって、言霊の活躍をいうのであるから、ここにあたる。この歌に影響された山上憶良の好去好来歌には「言霊の幸はふ国と」とあるから、「佑」で「さきはふ」の訓が原形だとするのである。随うべきである。言霊の栄える国であるで、長歌の「言幸く」を、語を換えて強く繰り返したものである。○ま福くありこそ 幸いを持って栄えてくだされよで、「こそ」は、願望の助詞。
【釈】 敷島の日本の国は、言霊の栄える国であるぞ。わが言挙の言葉の、言霊の幸によって、無事でいらっしてくだされよ。
【評】 初句より四句までは言霊の霊力を、この国の特殊なこととして説明し、結句において「ま福くありこそ」と祝ったのである。「言挙せぬ国」と、「言霊の佑はふ国」とは、矛盾しているが、二つながら、上代信仰だったので、角度を変えて祝ったのである。これも言葉短く、立体感を持った、さわやかな歌である。
右五首
【解】 前の長歌とこの長歌と、起首の形が似ているので、一類の歌として排列して、人麿歌集の歌であるにもかかわらず連ねたのである。この歌は性質が全く異なっており、これは「雑歌」に移されるべきものである。撰者の分類の標準と態度を思わせる。
(44)3255 古《いにしへ》ゆ 言《い》ひ続《つ》ぎけらく 恋《こひ》すれば 安《やす》からぬものと 玉《たま》の緒《を》の 継《つ》ぎては云《い》へど 処女《をとめ》らが 心《こころ》を知《し》らに そを知《し》らむ よしのなければ 夏麻引《なつそひ》く 命《いのち》かたまけ 刈薦《かりこも》の 心《こころ》もしのに 人《ひと》知《し》れず もとなぞ恋《こ》ふる 気《いき》の緒《を》にして
從古 言續來口 戀爲者 不安物登 玉緒之 繼而者雖云 處女等之 心乎胡粉 其將知 因之無者 夏麻引 命方貯 借薦之 心文小竹荷 人不知 本名曾戀流 氣之緒丹四天
【語釈】 ○古ゆ言ひ続ぎけらく 「けらく」は、「けり」の名詞形。○玉の緒の継ぎては云へど 「玉の緒の」は、意味で「継ぎ」の枕詞。「継ぎては云へど」は、上の「言ひ続ぎ」の繰り返しで、下の「もとなぞ恋ふる」に応じさせたもの。○処女らが心を知らに 「処女ら」の「ら」は、接尾語で、「処女」は、思っている女。「心を知らに」は、心を知らずして。「に」は、打消の助動詞「ず」の連用形。○そを知らむよしのなければ 心を知る方法がないので。○夏麻引く命かたまけ 「夏麻」は、魚《な》つ麻《そ》で、漁村によっては現在も、地びき網の繩をそう呼んでいるので、これもそれであろうという。地びき網の繩を曳く時には、身を傾けて曳く意で、「かたまけ」にかかる枕詞であろうという。この解に随う。「命かたまけ」は、命を傾けてで、命を懸けて。○刈薦の心もしのに 「刈薦」は、萎える意で、「しの」にかかる枕詞。「心もしのに」は、心もなえなえにで、巻三(二六六)に既出。慣用句。○人知れずもとなぞ恋ふる 「人知れず」は、相手の女に知られずに。「もとなぞ恋ふる」は、よしなくも恋うることである。○気の緒にして 息の続く限りを。
【釈】 昔から言い続けてきたことには、恋をすると安くないものだと、玉の緒のように続けていっているが、娘の心が知れずに、それを知る方法もないので、漁の網の繩を引くように命を傾けて、相手に知られずに由なくも恋うることであるよ。息の続く限りを。
【評】 男の片恋の悩みをいったものであるが、これはいわゆる言い出でぬ恋で、独りひそかに心を寄せての悩みである。実際にはこの種の恋も多かったろうと思われる。一般的な片恋の悩みを、しみじみと説明したもので、語も慣用されているものの連続にすぎぬものである。言いかえると、年若い男の共通に持たされる気分の詠歎である。まさしく謡い物で、その典型的なものといえる歌である。
反歌
(45)3256 しくしくに 思《おも》はず人《ひと》は あらめども 暫《しま》しも吾《われ》は 忘《わす》らえぬかも
數々丹 不思人〓 雖有 ※[斬/足]文吾者 忘枝沼鴨
【語釈】 ○しくしくに思はず人は 「しくしくに」は、重ね重ねにはで、しげしげとは。「思はず人はあらめども」は、我を思わずに相手の人はいようけれども。○暫しも吾は志らえぬかも しばらくの間もわれは忘れられないことであるよ。
【釈】 しげしげとは我を思わずに相手の人はいようけれど、しばらくの間も我は忘れられないことであるよ。
【評】 この歌は、長歌の言い出でぬ恋の悩みとは連絡のつかないもので、夫婦関係を結んでいる男の疎遠がちにしているのに対して、女の嘆いている心である。この長歌には反歌がなかったのを、謡い物とする関係上、強いて添えたものであろう。長歌の結句の「気の緒にして」と、「暫しも吾は忘らえぬかも」とが、形の上ではつながりを持たせうるとしてであろう。
3257 直《ただ》に来《こ》ず 此《こ》ゆ巨勢路《こせぢ》から 石橋《いはばし》踏《ふ》み なづみぞ吾《わ》が来《こ》し 恋《こ》ひて術《すべ》無《な》み
直不來 自此巨勢道柄 石椅跡 名積序吾來 戀天窮見
【語釈】 ○直に来ず此ゆ巨勢路から 「直に来ず此ゆ」は、直接には来ずに、こちらの路からで、表通りからは来ずに、こちらの裏通りからで、人目につくことを惧れての女の語。来せと続け、それを巨勢へ転じさせたもので、七音の序詞。「巨勢路から」は、巨勢街道から。これは大和から紀伊へ向かう街道である。奈良県御所市古瀬で、曾我川上流の地。○石橋踏みなづみぞ吾が来し 「石橋」は、川中に並べた踏み石で、川は能登瀬川であろう。「なづみぞ吾が来し」は、難渋をして来たことであった。○恋ひて術無み 恋しくてしかたがないので。
【釈】 直接に来ずこちらから来せという、その巨勢街道から、川の踏み石を踏んで、難渋して来たことだ。恋しくて仕方がないので。
【評】 大和から紀伊へ行く男が、途中の巨勢街道を通っている時、その地に以前から関係している女があるので、そこへ寄った時に、女に贈った歌である。無理をしてようやく来たというのは、そういう際のきまり文句で、これもそれである。魅力ある歌で、よく謡われたものとみえる。今の場合もそれで、長歌とは何の連絡もないのにかかわらず、反歌の形で謡われていたのである。そのことは左注にもある。
(46) 或本、この歌一首を以ちて、紀伊《き》の国の浜によるとふ鰒珠《あはびだま》拾ひにといひて往きし君何時来まさむ、といふ歌の反歌と為せり。具に下に見えたり。但し古き本に依りて亦累ねて茲に戟す。
或本、以2此歌一首1爲2之紀伊國之濱尓縁云鰒珠拾尓登謂而徃之君何時到來歌之反歌1也。具見v下也。但依2古本1亦累載v茲。
【解】 「紀伊の国の」は、下の(三三一八)の長歌で、その反歌としてこの歌は、多少の相違をもって載せてあることをいったのである。編集者として、ここにこの歌が反歌となっているのを恠《あや》しみながらも、「古き本」にはこのようになっているから、載せておくというのである。
右三首
3258 あら玉《たま》の 年《とし》は来去《きゆ》きて 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》の来《こ》ねば 霞《》立《かすみた》つ 長《なが》き春日《はるひ》を 天地《あめつち》に 思《おも》ひ足《た》らはし たらちねの 母《はは》が養《か》ふ蚕《こ》の 繭隠《まよごも》り 息《いき》づきわたり 吾《わ》が恋《こ》ふる 心《こころ》の中《うち》を 人《ひと》に言《い》ふ ものにしあらねば 松《まつ》が根《ね》の 待《ま》つこと遠《とほ》み 天伝《あまづた》ふ 日《ひ》の闇《く》れぬれば 白木綿《しろたへ》の 吾《わ》が衣手《ころもで》も とほりてぬれぬ
荒玉之 年者來去而 玉梓之 使之不來者 霞立 長春日乎 天地丹 思足椅 帶乳根笶 母之養蚕之 眉隱 氣衝渡 吾戀 心中少 人丹言 物西不有者 松根 松事遠 天傳 日之闇者 白木綿之 吾衣袖裳 通手沾沼
【語釈】 ○あら玉の年は来去きて 「あら玉の」は、年の枕詞。「来去きて」は、来たりまた去ってで、年の改まったことをいったもの。○玉梓の使の来ねば 「玉梓の」は、使の枕詞。「使」は、男よりのもの。○霞立つ長き春日を 「霞立つ」は、春の枕詞。「長き春日」は、一日の過ごし難い意でいっているもの。○天地に思ひ足らはし 広い天地を、思いでいっぱいにして。これは慣用句で、「思ひ足らはし」は、一語。○たらちねの母が養ふ蚕の繭隠り 「たらちねの」は、母の枕詞。母が養っている蚕の、繭にこもっているようにで、心の結ぼれることの譬喩。これも慣用句。(47)○息づきわたり 溜め息をつき続けて。○松が根の待つこと遠み 「松が根の」は、同音で「待つ」にかかる枕詞。「遠み」は、待ち遠なゆえに。○天伝ふ日の闇れぬれば 「天伝ふ」は、日の枕詞。「日の闇れぬれば」は、日が暮れて行ったのでで、心さみしく、人目のない時としていったもの。○白木綿の吾が衣手もとほりてぬれぬ 白栲のわが袖は、涙がしみ透って濡れた。
【釈】 あらたまの年は来て去って、君からの使が来ないので、霞の立つ長い春の日を、広い天地を思いでいっぱいにし、母が養っている蚕の繭にこもっているように心が結ぼれて、溜め息をつき続け、わが恋うる心の中は、人にはいうべきものではないので、君からの使の待ち遠さに、天を伝う日が暗くなると、白栲のわが袖は、涙が染みとおって濡れた。
【評】 男と関係を結んでいる若い女の、その男より疎遠にされている嘆きを、綿々と言い続けたものである。これは当時の女としては、ほとんど共通の嘆きともいえる、一般的なものだったのである。この歌はそれを代弁しているごときもので、何ら特殊なことは含まず、語も慣用句と、既成の枕詞を言い続けているにすぎないものである。多少の特色といえば、嘆きを発している時を、年が改まつての春の一日としている点であるが、これは時の意識の強く働く時で、したがって男よりの便りも待たれる時である上に、若い女の感傷をいうには、最もふさわしい時である。すなわちこうした気分をいうには、一年中最も適当な時なので、その意味で捉えたものであろう。語つづきが滑らかに細く、調べも弱いが、全体にわたって明るい色合いを持っていて、暗さを感じさせない。奈良朝に入っての謡い物と思われる。
反歌
3259 かくのみし 相思《あひおも》はざらば 天雲《あまぐも》の 外《よそ》にぞ君《きみ》は あるべくありける
如是耳師 相不思有者 天雲之 外衣君者 可有々來
【語釈】 ○かくのみし相思はざらば 「かくのみし」は、「のみ」も「し」も強意で、これほどまでに。「相思はざらば」は、思い合わないならば。○天雲の外にぞ君は 「天雲の」は、意味で「外」にかかる枕詞。「外」は、遠く、無関係に。
【釈】 これほどまでに相思わないのであったら、天雲のように遠く無関係に、君はいるべきであったことだ。
【評】 長歌と緊密に関係させて、さらに強調させている歌で、 右二首
反歌の役を十分に果たしているものである。
(48)3260 小治田《をはりだ》の 愛智《あゆち》の水《みづ》を 間《ま》なくぞ 人《ひと》は〓《く》むとふ 時《とき》じくぞ 人《ひと》は飲《の》むとふ 〓拒《く》む人《ひと》の 間《ま》なきが如《ごと》 飲《の》む人《ひと》の 時《とき》じきが如《ごと》 吾妹子《わぎもこ》に 吾《わ》が恋《こ》ふらくは 已《や》む時《とき》もなし
小治田之 年魚道之水乎 間無曾 人者〓云 時自久曾 人者飲云 〓人之 無間之如 飲人之 不時之如 吾妹子尓 吾戀良久波 已時毛無
【語釈】 ○小治田の愛智の水を 本居宣長の説として、続日本紀、神護景雲二年十二月の条に、尾張国山田の郡の人、従六位下小治田連薬等八人に姓尾張宿禰を賜わるとあり、山田の郡は、大体今の東春日井郡で、愛知郡に接している。そこに当時小治田の地名があり、その中に愛智があったのである。愛智は日本書紀にしばしば出ている地名である。「水」は、飲用水で、名水であったとみえる。「小治田」を、飛鳥地方と見、「愛智」を、多武峰の北、阿由谷に当てる説もある。○間なくぞ人は〓むとふ 絶え間なく人は汲むという。○時じくぞ人は飲むとふ 「時じく」は、その季節でなくの意で、形容詞的に活用する語で、転じて断えずの意となっているもの。絶えず人は飲むという。○吾妹子に吾が恋ふらくは已む時もなし「恋ふらく」は、「恋ふ」の名詞形で、わが妻にわが恋うることはやむ時もない。
【釈】 小治田の愛智にある井の水を、絶え間なく人は汲むということである。断えず人は飲むということである。汲む人の絶え間のないがように、飲む人の断えないがように、わが妻にわが恋うることはやむ時もない。
【評】 小治田の愛智の名水の噂を聞いた人が、それに託して自身の恋情を詠んだ歌である。作者も、その噂をした人も、多分は大和の人であったろう。上代は良い飲用水が得難く、したがって話題にもなったので、ことに大和国ではそうだったらしい。この歌は一つの型となっていたものらしく、その代表的なものは、巻一(二五)天武天皇御製という、「み吉野の耳我の嶺に時なくぞ雪は降りける、間《ま》なくぞ雨は降りける、その雪の時なきが如、その雨の間なきが如、隈もおちず思ひつつぞ来る その山道を」であり、この歌とその形も、組立も、作意の運ばせ方も全く同一であり、作意がいささか異なっているだけである。巻一の歌はそれに並んで、早くも伝誦歌としての異伝を持っているのであるが、この歌はその型がさらに離れた土地の名物と結びついたのである。この歌の十三句という形も、謡い物として手頃なもので、それも魅力を成していたものと思われる。
反歌
3261 思《おも》ひ遣《や》る 術《すべ》のたづきも 今《いま》はなし 君《きみ》に逢《あ》はずて 年《とし》の歴《へ》ぬれば
(49) 思遣 爲便乃田付毛 今者無 於君不相而 年之歴去者
【語釈】 ○思ひ遣る術のたづきも今はなし 嘆きをなくならせる方法も今はないで、「術のたづき」は、同意語を畳んで強めたもの。
【釈】 恋の嘆きをなくならせる方法も今はない。君に逢わなくて、年が経たので。
【評】 これは、女が男の疎遠を嘆いた歌で、長歌の反歌ではなく独立した歌である。謡い物に通有なこととして後より結びつけたものである。なお独立歌の証としては巻十二(二九四一)「念ひ遣るたどきも我は今はなし妹に逢はずて年の経行けば」などがある。
今案ずるに、この反歌に、君にあはずと謂《い》へるは、理に合《かな》はず。宜しく妹にあはずといふべきなり。
今案、此反歌、謂2之於v君不1v相者、於v理不v合也。宜v言2於v妹不1v相也。
【解】 この注は、後より加えたものとみえる。「君」はあたらない、「妹」とあるべきだということは、あたっているとはいえない。妹を君の敬称で呼んでいる例は、必ずしも少なくはないからである。しかしこの歌は女の歌であろう。
或本の反歌に曰く
3262 ※[木+若]垣《みづがき》の 久《ひさ》しき時《とき》ゆ 恋《こひ》すれば 吾《わ》が帯《おび》緩《ゆる》ぶ 朝夕毎《あさよひごと》に
※[木+若]垣 久時從 戀爲者 吾帶綬 朝夕毎
【語釈】 ○※[木+若]垣の久しき時ゆ 「※[木+若]垣」の「※[木+若]」は、わが国の造字で、「瑞《みづ》」に当てたもの。瑞垣は神社の垣を讃えての称で、その物の久しい以前からある意で、「久」にかかる枕詞。「久しき時ゆ」は、久しい間を。○吾が帯緩ぶ 「緩」は思いに身が痩せて、帯が緩くなるで、『遊仙窟』に、「日々衣寛、朝々帯緩」とあるのに関係あるものと思える。○朝夕毎に 朝夕ごとに、目立つてで、甚しく誇張したもの。
【釈】 瑞垣のように久しい間を恋しているので、思いに身が痩せて、わが帯は緩くなる。朝夕ごとに目に立って。
【評】 これは著しく気分本位の歌で、反歌としてのつながりがないのみならず、詠み方までも両極端ほど距たっているもので(50)ある。長歌が愛誦された結果、さまざまの反歌が結びつけられたのである。この長歌のその当時の魅力を語っているものである。
右三首
3263 隠国《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の河《かは》の 上《かみ》つ瀬《せ》に い杭《くひ》を打《う》ち 下《しも》つ瀬《せ》に 真杭《まくひ》を打《う》ち い杭《くひ》には 鏡《かがみ》を懸《か》け 真杭《ま くひ》には 真玉《またま》を懸《か》け 真珠《またま》なす 我《わ》が念《も》ふ妹《いも》も 鏡《かがみ》なす 我《わ》が念《も》ふ妹《いも》も ありと いはばこそ 国《くに》にも 家《いへ》にも行《ゆ》かめ 誰《たが》故《ゆゑ》か行《ゆ》かむ
己母理久乃 泊瀬之河之 上瀬尓 伊杭乎打 下湍尓 眞杭乎挌 伊杭尓波 鏡乎懸 眞杭尓波 眞玉乎懸 眞珠奈須 我念妹毛 鏡成 我念妹毛 有跡 謂者社 國尓毛 家尓毛由可米 誰故可將行
【語釈】 ○隠国の泊瀬の河の 「隠国の」は、泊瀬の谿谷の地形をその枕詞としたもの。「泊瀬の河」は、既出。○上つ瀬にい杭を打ち 「上つ瀬」は、川上のほうの瀬。「い杭」は、斎杭で、斎み浄めた神聖な杭。「打ち」は、立て。○下つ瀬に真杭を打ち 「真杭」の「真」は、接頭語。○い杭には鏡を懸け 「鏡」は、神霊の宿る物として。○真杭には真玉を懸け 「真」は、接頭語で、「玉」も同じく神霊の宿る物。以上は泊瀬の国の祭のさまをいったものである。作者は泊瀬を郷土とする男で、久しく旅にいて、本郷を恋うる心を抱いていて、泊瀕を思うと、第一に思い出されて来るのは、その地の守護神の祭のさまだったのである。今はそれを、次の「真珠なす」の序詞としていっているのである。○真珠なす我が念ふ妹も 真珠のごとくにわが思っている妹が。○鏡なす我が念ふ妹も 鏡のごとくにもわが思っている妹が。○ありといはばこそ 「あり」は、存在している意で、ここは以前のさまでいるというならば。これは二句で、短長の組合わせとはなっているが、五七とは距離のあるものである。○国にも家にも行かめ 「国」は、泊瀬の国で、「家」は、生まれた家。国へも、家へも行こうで、「め」は、「こそ」の結。○誰故か行かむ 妹以外の誰のゆえにか帰ろう、帰りはしないで、「か」は、反語。
【釈】 隠国の泊瀬の河の、上のほうの瀬には斎杭を立て、下のほうの瀬には真杭を立て、斎杭には鏡を懸け、真杭には玉を懸けて神霊を招く、その真珠のような妹が、その鏡のようなわが妹が、以前のままでいるというのならばこそ、国へも、家にも帰ろう。妹以外の誰のために帰って行こうか、行きはしない。
【評】 作意は、泊瀬を故郷とする男が、旅にあって起こした郷愁である。その旅は、無期限なもので、帰ろうと思えばいつで(51)も帰りうるもので、作者が庶民である点から見て、生活苦に駆られて、本郷を流離したものと思われる。それは作者と本郷との間には何の連絡もなく、その最も知りたいと思う、妻であった女の消息さえも全く不明であるのでも察しられる。上代人のその生まれた土地に対する執着は強いもので、他郷人を余所《よそ》人といい、無関係の人の意味に用いていたほどで、この作者には、旅はきわめて哀れなものだったのである。作者に郷愁として第一に浮かんで来るものは、本郷の祭のさまで、ついで浮かぶのは妹で、そのほうがむしろ強いのであるが、その妹が以前のとおりでいるかどうか、全く消息がわからず、多分は以前のとおりではいまいと思うと、それだと本郷につながれる何物もないと思い、絶望に近い呻きを発したのがこの歌である。相聞の歌としては何らの明るさも含んでいない、類のない物である。こうした歌が伝えられていたところを見ると、同感した人が少なくなかったためと思われる。歌の形はきわめて古い物である。詠み方は、事をいうことによって心をあらわすもので、したがってきわめて大まかなものである。思い出の第一としての祭のさまを、ただちに妹の譬喩に繋ぎ、それを序詞同様に扱っているのは、最も古さを思わせる。また、五七の定形を、躊躇なく破っているのも、同じく古さを思わせる。しかしこの古さは、古い風の謡い物の脈を引いているためであって、作られた時代の古さとはなし難いものである。同時代の作でも、京の知識人と、地方の庶民との間には、著しく歌風の新古があるからである。しかし、相応に古いものとは思われるが、いつ頃まで溯れるかはたやすくはいえない。
古事記を検するに曰く、件の歌は、木梨の軽の太子のみづから身まかりし時作りし所なり。
検2古事記1曰、件歌者、木梨之輕太子自死之時所v作者也。
【解】 「木梨の軽の太子」とは、允恭天皇の皇太子で、同母妹|軽大郎女《かるのおおいらつめ》と通じられた罪により、伊予の湯に流され給うた。大郎女が慕ってその地に行かれると、太子はこの歌を詠み、相ともに自殺されたというので、この歌に関する条だけを、要を摘まんで注したものである。古事記の歌は結末がいささか異なり、「ありといはばこそよ、家にもゆかめ国をも偲はめ」とあって、細かい味わいを持ったものとなっている。この歌は上にいったがごときもので、一首の歌として独立しているものである。古事記のほうでは物語の一部とされているのである。この歌のほうが前に成ったものであろうとするよりほかはない。このことは、皇子の歌物語の成立時期の問題で、この歌の作られた時期の問題ではない。
反歌
3264 年《とし》わたる までにも人《ひと》は ありといふを 何時《いつ》の間《ほど》ぞも 吾《わ》が恋《こ》ひにける
(52) 年渡 麻弖尓毛人者 有云乎 何時之間曾母 吾戀尓來
【語釈】 ○年わたるまでにも人はありといふを 「年わたるまでにも」は、一年の久しきに渡つての間をも。「人はありといふを」は、「人」は、牽牛星を指したもので、「ありといふを」は、堪えているというのにで、「を」は、感動の助詞。○何時の間ぞも 相見ぬのはどれほどの間ぞ、久しくはないのにで、「ぞ」は、係。○吾が恋ひにける われは恋うてしまったことであったで、「る」は、結。
【釈】 一年の久しきにわたって、人は堪えているというのに、相見ぬのはどれほどの間というのか、われは恋うてしまったことであった。
【評】 一年に一度よりは妹に逢わない彦星を思って、自分の逢うていくぱくもないのに起こる恋ごころを嘆いているものである。これは独立しての相聞としても、知性的なもので、長歌とは何の繋がりもないものである。謡い物という関係から謡い添えられたものである。
或書の反歌に曰く
3265 世間《よのなか》を 倦《う》しと思《おも》ひて 家出《いへで》せし 吾《われ》や何《なに》にか 還《かへ》りて成《な》らむ
世間乎 倦迹思而 家出爲 吾哉難二加 還而將成
【語釈】 ○世間を倦しと思ひて家出せし 世の中を厭わしいと思って出家をした。○吾や何にか 「や」は、感動の助詞。「何にか」は、何者にかで、「か」は、疑問の係。○還りて成らむ 還俗してなろうとするのか。
【釈】 世の中を厭わしいと思って出家をした我が、いかなる者に還俗してなろうとするのか。
【評】 世間を厭って出家した人が、還俗しようかという念を起こして、さて還俗して何者になろうかと反省し、躊躇した心である。これも長歌とは何の繋がりもない歌である。この歌は奈良朝時代のものである。「家出せし」「還りて」などいう語から関係づけたのでもあろう。
右三首
3266 春《はる》されば 花《はな》咲《さ》きををり 秋《あき》づけば 丹《に》の穂《は》に黄色《もみ》つ 味酒《うまざけ》を 神名備山《かむなびやま》の 帯《おび》にせる(53) 明日香《あすか》の河《かは》の 速《はや》き瀬《せ》に 生《お》ふる玉藻《たまも》の 打靡《うちなび》き 情《こころ》はよりて 朝露《あさつゆ》の 消《け》なば消《け》ぬべく 恋《こ》ふらくも しるくも逢《あ》へる 隠妻《こもりづま》かも
春去者 花咲乎呼里 秋付者 丹之穏尓黄色 味酒乎 神名火山之 帶丹爲留 明日香之河乃 速瀬尓 生玉藻之 打靡 情者因而 朝露之 消者可消 戀久毛 知久毛相 隱都麻鴨
【語釈】 ○春されば花咲きををり 春が移り来れば、花が咲き撓み。○秋づけば丹の穂に黄色つ 「秋づけば」は、秋に入れば。「丹の穂」は、美しい紅で、真赤というにあたる。「黄色つ」は、四段活用の連体形。○味酒を神名備山の 「味酒を」は、「を」は感動。三輪山、三諸山に冠している延長として神名備山にも冠したものである。「神名備山」は、下の明日香河との関係で、雷丘。○生ふる玉藻の 「打靡き」に続き、以上十句はその序詞。○打靡き情はよりて 靡いて、わが心は妹に寄って。○朝露の消なば消ぬべく 「朝霞の」は、「消」の枕詞。「消なば消ぬべく」は、今にも消えそうにで、慣用語。○恋ふらくもしるくも逢へる 恋うることの効験が著しくて逢っているで、「しるく」は、上の神名備山との関係で、神の感応が著しくしての意のもの。○隠妻かも 「隠妻」は、他人には秘密にしている妻で、これは当時としては普通のことである。「かも」は、感動。
【釈】 春が来れば花が咲き撓み、秋に入れば真赤にもみじをする味酒神名備山の、その神の帯にしている明日香の河の速い瀬に、生えている藻のように、わが心も靡いて寄って行き、朝露のように今にも消えそうになって恋うることの効験が著しくて、逢っている隠妻であるよ。
【評】 恋いに恋うている妻に逢い得た喜びを、その事に向かって、このように逢えるようになったのは、神名備山の神の神慮よりのことであると、感謝の心をもっていっている歌である。初句より「生ふる玉藻の」までの十句は、男女ともその加護の下にある飛鳥の神名備山の自然美を、その神を讃える心をもっていっているもので、それを転じて自身の「打靡き情はよりて」につなぎ、さらにまたそれを結末の、「恋ふらくもしるくも」に照応させて、恋うることも、恋が叶って相逢うこともすべて神慮より出たことだとの意をいっているものである。これは一切の生活状態は神慮の下に営まれているものであるということを、背後に置いていっているのである。言い方はあらわではないが、徹底した信仰生活である。上の(三二二七)の神名備山の神への祈願の歌よりも、信仰生活の核心に触れることの深いものである。こうした歌が詠まれ、それが行なわれていたことは、この当時の庶民の信仰の状態を具体的に示していることである。
反歌
(54)3267 明日香河《あすかがは》 瀬瑞《せぜ》の珠藻《たまも》の 打靡《うちなび》き 情《こころ》は妹《いも》に よりにけるかも
明日香河 瀬湍之珠藻之 打靡 情者妹尓 因來鴨
【語釈】 略す。
【釈】 明日香河の瀬々の藻の靡いているように、わが心も靡いて妹に寄っていたことであるよ。
【評】 長歌の一節の操り返しで、これは立ち帰って、自身の心の誠実を妹に誓った形のものである。場合柄適当な反歌というべきである。
3268 三諸《みもろ》の 神奈備山《かむなびやす》ゆ との曇《くも》り 雨《あめ》は降《ふ》り来《き》ぬ 雨霧《あまぎ》らひ 風《かぜ》さへ吹《ふ》きぬ 大口《おほくち》の 真神《まがみ》の原《はら》ゆ 思《しの》ひつつ 還《かへ》りにし人《ひと》 家《いへ》に到《いた》りきや
三諸之 神奈備山從 登能陰 雨者落來奴 雨露相 風左倍吹奴 大口乃 眞神之原從 思管 還尓之人 家尓到伎也
【語釈】 ○三諸の神奈備山ゆ 『考』の訓。「三諸の神奈備山」は、下の続きで、飛鳥の雷丘で、「ゆ」は、そちらのほうから。○との曇り雨は降り来ぬ 「との曇り」は、たなぐもりともいう。空が全面的に曇って。○雨霧らひ 雨が霧になって、前が見えなくなる意。○大口の真神の原ゆ(55)「大口の」は、真神の枕詞。『代匠記』は、大和国風土記に、明日香に老狼が出て、多くの人を食ったので、土民が畏れて、その狼の住む所を大口の真神の原と呼んでからの称だといっている。「大口の」は、狼の状態で、「真神」は狼を尊んでの称で、これは明日香の真神が原ともいう。雷丘の南、飛鳥寺付近の平野。「ゆ」は、通って。女の家と男の家の間にあるもの。○思ひつつ還りにし人 別れた我を思いながら帰って行った人で、夫。○家に到りきや その家に着いたのであろうか。「や」は、疑問の助詞。
【釈】 三諸の神奈備山の方から、空が全面的に曇って雨が降って来た。雨が靄となって、風までも吹き添って来た。大口の真神の原をとおって、我を思いながら還って行った人は、家に着いたであろうか。
【評】 通って来た男を帰らせた後急激に天候が変わって雨風になったので、その帰り途の大口の真神の原を、どのようにしたであろうかと、安否のほどを気づかった歌である。そうした際にも、別れ際の感銘である「思ひつつ」を忘れ得ずにいっているのである。抒情がただちに叙事となって、実際生活の一断面を印象的にあらわし得ている作である。小味な作ではあるが、味わい深いものである。
反歌
3269 還《かへ》りにし 人《ひと》を念《おも》ふと ぬばたまの その夜《よ》は吾《われ》も(55)いも寝《ね》かねてき
還尓之 人乎念等 野干玉之 彼夜者吾毛 宿毛寐金手寸
【語釈】 ○その夜は吾も 「その夜」は、男の還った夜。「吾も」は、われもまた。○いも寝かねてき 寝ても眠りかねたことであった。
(56)【釈】 帰って行った人を案じて、その夜はわれもまた、寝ても眠りかねたことであった。
【評】 実際をさながらにいって、いささかの誇張も加えていない歌である。その点珍しいまでである。詠み方は、長歌とともに古風に属するものであるが、実際に即しているためにおのずからに清新な味わいを持って新風に通うものとなっている。二首、翌朝になって、男の許へ贈った形のものである。
右二首
3270 さし焼《や》かむ 小屋《をや》の醜屋《しこや》に かき棄《う》てむ 破薦《やれごも》を敷《し》きて うち折《を》らむ 醜《しこ》の醜手《しこて》を さし交《か》へて 宿《ぬ》らむ君《きみ》ゆゑ あかねさす 昼《ひる》はしみらに ぬばたまの 夜《よる》はすがらに この床《とこ》の ひしと鳴《な》るまで 嘆《なげ》きつるかも
刺將焼 小屋之四忌屋尓 掻將棄 破薦乎敷而 所挌將折 鬼之四忌手乎 指易而 將宿君故 赤根刺 晝者終尓 野干玉之 夜者須柄尓 此床乃 比師跡鳴左右 嘆鶴鴨
【語釈】○さし焼かむ小屋の醜屋に 「さし焼かむ」は、「さし」は、接頭語。「焼かむ」は、焼いてしまいたい。「小屋の醜屋に」は、小さい家の見るも厭わしい家に。夫の通っている女の家を賤しめたもの。○かき棄てむ破薦を敷きて 「かき棄てむ」は、「かき」は、接頭語。「棄て」は、「すて」の古語。棄ててしまいたい破れた薦を、床の敷物にして。同じく、女の床を賤しめたもの。○うち折らむ醜の醜手を 「うち折らむ」は、「うち」は、接頭語。「折らむ」は、折ってやりたいようなで、痩せて細い意。「醜の醜手を」は、醜は見るも厭わしいことで、醜いとも醜い手を。当時は痩せていることを醜いとしたのである。女その人を賤しめたもの。○さし交へて宿らむ君ゆゑ さし交わして寝ているであろう君なのに。○あかねさす昼はしみらに 「あかねさす」は、日にかかるのを、昼に転じさせた枕詞。「昼はしみらに」は、「しみら」は、「しみ」は、繁み、「ら」は、接尾語で、終日にで、副詞句。○ぬばたまの夜はすがらに 「ぬばたまの」は、夜の枕詞。「夜はすがらに」は、「すがら」は、「すが」は、「尽く」の古語「すがる」の語幹で、「ら」は、接尾語。夜は夜どおしにで、同じく副詞句。○この床のひしと鳴るまで嘆きつるかも 「この床」は、自身の床を指したもの。「ひしと鳴る」は、苦しさから身悶えをするために鳴る意。床がひしひしと鳴るまで嘆きをしたことであった。
【釈】 焼いてしまいたい小さい家の見るも厭わしい家に、粟ててしまいたい破れた薦を敷物にして、折ってやりたい、見るも厭わしいとも厭わしい手を、さし交わして寝ているであろうところの君なのに、あかねさす昼は昼中を、ぬばたまの夜は夜通しを、このわが床の、身悶えのためにひしと鳴るまでも嘆いたことであったよ。
(57)【評】 一夫多妻の当時とて、妻の立場にある者は、勢い嫉妬の情が起こりそうなものであるが、女の歌で、直接それをいっているものは全く見えず、触れていう場合にも、夫に疎まれる嘆きにしている。大体相聞の歌は贈答の形のもので、それに触れる機会がないという点もあるが、根本は、歌は善意をいうべきもので、悪意をいうものではないということが信条となっていたためと思われる。この歌はその嫉妬をいっている稀有のものである。それも男には触れず、男の相手にしている女に対しての憎悪軽蔑という形においてしているのである。そのいうところは、女の身分の賤しさと、容貌の醜さとに対して、事ごとに接頭語を用い、畳語を用いて激しい語気をもって憎悪軽蔑しているのである。これは嫉妬に値しないと認めてのものである。一方、「君」という男に対しては、何らの恨みも持ってはいず、むしろそうした女と関係しているということによって刺激されて熱情を募らせているのであって、「この床のひしと鳴るまで」という嘆きは、恋情のさせることである。こうした場合、直接には男を恨まないというのは、この作者に限ってのものではなく、むしろ女の共通性ともいえるものである。一首を独語の形としているのも、その心よりのことである。すぐれた歌とはいえないが、女の野性の面の躍動している、珍しい歌である。
反歌
3271 我《わ》が情《こころ》 焼《や》くも吾《われ》なり 愛《は》しきやし 君《きみ》に恋《こ》ふるも 我《わ》が心《こころ》から
我情 燒毛吾有 愛八師 君尓戀毛 我之心柄
【語釈】 ○我が情焼くも吾なり 「焼く」は、胸を燃やす意で、長歌にいっていることがそれである。○愛しきやし君に恋ふるも 愛すべき君に恋うるのもまた。○我が心から 「心から」は、心のゆえで、わが心のさせることだの意。
【釈】 わが心を焼くのもわれである。愛すべき君を恋うるのもまた、わが心のさせることである。
【評】 長歌でいったことに省察を加えて、すべては自身の心のゆえのことであるとし、責任を自身に持たせて、その嘆きから離れようとする心である。それは、畢竟は自身が男を恋うているがためで、それ以外の事ではないとするのであって、それによって男に対する恋情を浄化しようとする心である。長歌の結句を、「嘆きつるかも」と過去のことにし、この省察に移っているのであって、移り方が微妙である。反歌として適切なものである。
右二首
(58)3272 うち延《は》へて 思《おも》ひし小野《をの》は 遠《とほ》からぬ その里人《さとびと》の 標しめ《》結《ゆ》ふと 聞《き》きてし日《ひ》より 立《た》てらくの たづきも知《し》らに 居《を》らくの おくかも知《し》らに むつましき わが家《いへ》すらを 草枕《くさまくら》 旅宿《たびね》の如《ごと》く 思《おも》ふそら 安《やす》からぬものを 嗟《なげ》く空《そら》 過《すぐ》し得《え》ぬものを 天雲《あまぐも》の ゆくらゆくらに 蘆垣《あしがき》の 思《おも》ひ乱《みだ》れて、乱《みだ》れ麻《を》の 司《つかさ》を無《な》みと 吾《わ》が恋《こ》ふる 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も 人《ひと》知《し》れず もとなや恋《こ》ひむ 気《いき》の緒《を》にして
打延而 思之小野者 不遠 其里人之 標結等 聞手師日從 立良久乃 田付毛不知 居久乃 於久鴨不知 親々 己之家尚乎 草枕 客宿之如久 思空 不安物乎 嗟空 過之不得物乎 天雲之 行莫々 蘆垣乃 思乱而 乱麻乃 司乎無登 吾戀流 千重乃一重母 人不令知 本名也戀牟 氣之緒尓爲而
【語釈】 ○うち延へて思ひし小野は 「うち延へて」は、「うち」は、接頭語。「延へて」は、延ばし広げる意で、遠く心を及ぼして。「思ひし小野は」は、「小」は、美称。「野」は、わが物としている女を譬えたもので、用例の少なくないものである。深く思い込んでいるという関係とみえる。この譬喩は、男も女も一つづきの平野の中に点在している部落の者で、部落を異にしているところから、実景に即していっているものと取れる。○遠からぬその里人の 「遠からぬ」は、女の家から遠くはない所に住む。自身と比較してのもの。「その里人」は、女と同じ里の男が。○標結ふと聞きてし日より 「標結ふ」は、しばしば出た。わが物として領する意で、ここは妻としたの意。「小野に標結ふ」ということは成語のごとくなっていたものである。「聞きてし日より」は、噂に聞いた時からで、以下それについての抒情。○立てらくのたづきも知らに 「立てらく」は、「立てり」の名詞形で、立っていることの方法も知られずに、立ってもいられずの意。○居らくのおくかも知らに 「居らく」は、「居り」の名詞形で、坐っていること。「おくか」は奥処で、行く先。落ちつきどころの意。坐っていることの落ちつきも持てずで、以上四句、立ってもいられず、坐ってもいられずの意を、具象的にいって強めたもの。○むつましきわが家すらを 「むつましき」は、訓が定まらない。『代匠記』の訓。「わが家すらを」は、ほかならぬわが家であるのにで、「を」は、感動の助詞。○草枕旅宿の如く 「旅宿」は、落ちつけない意の譬喩。○思ふそら安からぬものを 思う心は安らかではないのに。慣用句。○嗟く空過し得ぬものを 嘆く心は無くならせられないのに。同じく慣用句。○天雲のゆくらゆくらに 「天雲の」は、「行く」の枕詞。「ゆくらゆくらに」は、原文「行莫々」。諸注、訓がさまざまである。『考』の訓。「莫々」は、「漠々」に通じ、雲の状態をいったもの。心が動揺して。○蘆垣の思ひ乱れて 「蘆垣の」は、意味で「乱れ」にかかる枕詞。「思ひ乱れて」は、嘆きに心(59)が乱れて。○乱れ麻の司を無みと 「乱れ麻」は、乱れた麻の繊維。「司」は、束ねる物。「無みと」は、無いからのようにで、心が乱れに乱れる譬喩。○吾が恋ふる千重の一重も わが恋うる心のその千分の一もの意で、慣用句。○人知れずもとなや恋ひむ 相手の女には知られずに、いたずらに恋うのであろうか。○気の緒にして 息の続く限りを。
【釈】 遠く心を及ぼして、思っていた小野は、そこから遠くないその里の男が、標を結ってわが物としたと聞いた日から、立っていることの方法も知られず、坐っていることの、落ちつきどころが知られずに、親しい、ほかならぬわが家であるのに、旅寝のように、思う心は安らかではないことだのに、嘆く心は無くならせられないことだのに、天雲のように心が動揺し、蘆垣のように思い乱れて、乱れ麻の束ねる物のないからのように、わが恋うているその千分の一も、思う相手には知られずに、いたずらに恋うのであろうか。息の続く限りを。
【評】 平野の部落の男が、同じ平野の他の部落の女に思いをかけ、関係をつける機会を得られずにいる中に、女が同じ部落の男の物となってしまったと聞いての嘆きである。恋としても、最も諦めかねる、未練の多いものであるが、それを強めるものとしての部落関係がある。上代は部落意識がきわめて強く、同部落の者は、ただそれだけの理由で親しみが深かったのであるが、他部落の者は反対に疎んじられて、初めからよそ人とされていたのである。この男の場合もそれで、未練の多いのに加えて失望の程度も強く、それが一つになってこのような愚痴をいわせているものと取れる。詠み方は、実際に触れているのは起首の六句で、それも婉曲な言い方で、他はすべて気分のみの、気分本意のものである。縷々と訴えてやまない形は気分本位のためである。語は慣用されているものばかりで、新しい物はない。調べも内容にふさわしい柔らかいものである。この歌の背後にある部落意識は、上代の部落には共通のものであったから、その意味でこの歌は一般性のあったもので、その形と相俟って、謡い物となっていたことと思われる。奈良朝時代の、京に近い辺りの歌であったろう。
反歌
3273 二《ふた》つなき 恋《こひ》をしすれば 常《つね》の帯《おび》を 三重《みへ》結《むす》ぶべく 我《わ》が身《み》はなりぬ
二無 戀乎思爲者 常帶乎 三重可結 我身者成
【語釈】 ○二つなき恋をしすれば ただ一つのみで、かけがえのない恋をしているので。「し」は、強意。○常の帯を三重結ぶべく 「常の帯」は、平常の帯。「三重結ぶべく」は、一重に結ぶのが普通で、それを、三重結ぶようにというので、甚しく痩せた意。○我が身はなりぬ わが身は変わった。
(60)【釈】 二つとかけ換えのない恋をしているので、平常の一重に結ぶ帯を三重に結ぶようにわが身は変わった。
【評】 男が恋の悩みを女に訴えた形の歌で、長歌とは直接のつながりのない歌である。独立した歌で、強いて一つにしたものである。「二つ」と「三重」とを意識的に技巧とした、軽い心の歌である。奈良京の知識人の『遊仙窟』から暗示を得ての作であろう。
右二首
3274 せむ術《すべ》の たづきを知《し》らに 石《いは》が根《ね》の こごしき道《みち》を 石床《いはどこ》の 根延《ねは》へる門《かど》を 朝《あした》には 出《い》で居《ゐ》て嘆《なげ》き 夕《ゆふべ》には 入《い》り居《ゐ》て思《しの》ひ 白栲《しろたへ》の 吾《わ》が衣手《ころもで》を 折《を》り返《かへ》し 独《ひとり》し寝《ぬ》れば ぬばたまの 黒髪《くろかみ》敷《し》きて 人《ひと》の寝《ぬ》る 味眠《うまい》は 睡《ね》ずて 大舟《おほふね》の ゆくらゆくらに 思《しの》ひつつ 吾《わ》が睡《ぬ》る夜《よ》らを 数《よ》みも敢《あ》へむかも
爲須部乃 田付〓不知 石根乃 興凝敷道乎 石床笶 根延門〓 朝庭 出居而嘆 夕庭 入居而思 白栲乃 吾衣袖〓 折反 獨之寐者 野干玉 黒髪布而 人寐 味眠不睡而 大舟乃 徃良行羅二 思乍 吾睡夜等呼 讀文將敢鴨
【語釈】 この歌は、甚しく錯乱しているもので、そのことは『代匠記』以来諸注の一致していることで、通説となっている。その第一は、起首より「入り居て思ひ」までの十句である。この部分は、本巻挽歌の部の(三三二九)の中部に出ているもので、ただ第十句目が、「入り坐恋ひつつ」となっている点が異なるだけである。しかし意味はほぼ同じである。意味は明らかに、女がその夫の新喪の時、墓に侍するものであって、「挽歌」の一部分である。その第二は、それに続く、「白栲の吾が衣手を折り返し独し寝れば」の四句で、これは意味は明らかに「相聞」のものである。しかしこれは、語脈上それ以下へは続き難いものであるから、ここも錯乱があると取れる。その第三は、それに続く「ぬばたまの」以下結末までで、これは意味は明らかに相聞のものである。しかるにこの「相聞」の部分が、同じ(三三二九)の「挽歌」の結末となっており、異なるのは、「味眠は睡ずて」が、「宿《ね》ずに」となっているだけである。すなわちこの歌は、(三三二九)の歌と互いに錯落し合い、この歌としては前半を失って(三三二九)の歌を取り入れ、(三三二九)の歌としては結末を失ってこの歌を取り入れているという関係のものである。この歌としての物は、第十一句「白栲の」以後である。挽歌の部分はそちらへ譲ることとする。○白栲の吾が衣手を折り返し独し寝れば 「白栲の」は、袖の枕詞。「独し」の(61)「し」は、強意。袖の先を折り返して寝れば、思う人を夢に見るという俗信があって、その呪い。既出。「独し」は、女で、来ない男を待っての独り寝。この四句は、意味としては上に続かないものではないが、「挽歌」のほうには無いものである。また、下へも必ずしも続かなくはないが、それとしては、調べの上で続かず、その点で遊離したものである。続きを自然にしようとして、他の歌より取り入れたものとみえる。○ぬばたまの黒髪敷きて 女が寝る時の状態の叙述。○人の寝る味眠は睡ずて 他の女子のする安眠はせずして。○大舟のゆくらゆくらに 「大舟の」は、その状態から、「ゆくら」の枕詞。「ゆくらゆくらに」は、ゆらゆらとで、落ちつかない状態。○思ひつつ吾が睡る夜らを 思慕しながらわが寝る夜を。「夜ら」の「ら」は、接尾語。○数みも敢へむかも 「数み」は、数えること。「あへ」は、なしうるで、「かも」の「か」は、反語。数え得られようか、得られないだろうで、数の多きをいったもの。
【釈】 白栲のわが袖を折り返して、夢になりとも見たいと思って、ただ独りで寝ていれば、ぬばたまの黒髪を敷いて、他の女子のする安眠はできずに、大舟のように心がゆらゆらと動揺して、思慕しながら寝ている夜は、幾度と数え得ようか、得られはしない。
【評】 略す。
反歌
3275 独《ひとり》眠《ぬ》る 夜《よ》を算《かぞ》へむと 思《おも》へども 恋《こひ》の繁《しげ》きに 情利《こころど》もなし
一眠 夜〓跡 雖思 戀茂二 情利文梨
【語釈】 ○恋の繁きに情利もなし 恋の繁さのために、しっかりした心がない。「情利」は、心のしっかりしたところ。
【釈】 独り寝をしている夜の数を数えようと思うが、恋の繁さのために、それをするだけのしっかりした心もない。
【評】 長歌の結句の「数みも敢へむかも」を承けて、さらに強めて繰り返したものである。説明的なのは反歌であるからで、長歌との繋がりは緊密である。
右二首
3276 百足《ももた》らず 山田《やまだ》の道《みち》を 浪雲《なみぐも》の 愛《うつく》し妻《づま》と 語《かた》らはず 別《わか》れし来《く》れば 速川《はやかは》の 行《ゆ》くも知《し》(62)らに 衣手《ころもで》の 反《かへ》るも知《し》らに 馬《うま》じもの 立《た》ちて爪《つま》づく せむ術《すべ》の たづきを知《し》らに 物部《もののふ》の 八十《やそ》の心《こころ》を 天地《あめつち》に 念《おも》ひ足《た》らはし 魂《たま》あはば 君《きみ》来《き》ますやと 吾《わ》が嗟《なげ》く 八尺《やさか》の嗟《なげき》 玉桙《たまほこ》の 道《みち》来《く》る人《ひと》の 立《た》ち留《とま》り いかにと問《と》はば 答《こた》へ遣《や》る たづきを知《し》らに さ丹《に》つらふ 君《きみ》が名《な》いはば 色《いろ》に出《い》でて 人《ひと》知《し》りぬべみ あしひきの 山《やま》より出《い》づる 月《つき》待《ま》つと 人《ひと》にはいひて 君《きみ》待《ま》つ吾《われ》を
百不足 山田道乎 浪雲乃 愛妻跡 不語 別之來者 速川之 徃文不知 衣袂笶 反裳不知 馬自物 立而爪衝 爲須部乃 田付乎白粉 物部乃 八十乃心〓 天地二 念足橋 玉相者 君來益八跡 吾嗟 八尺之嗟 玉桙乃 道來人之 立留 何常問者 答遣 田付乎不知 散釣相 君名曰者 色出 人可知 足日木能 山從出 月待跡 人者云而 君待吾乎
【語釈】 ○百足らず山田の道を 「百足らず」は、百の数には足らないで、「八」にかかる枕詞。「八十」にかかる例はあるが、「八」では妥当でないとして誤写説がある。転じ方としてはありうるものである。「山田の道を」は、「山田」は、諸所にある地名である。大和の磯城郡安倍村の大字山田(現在桜井市)だろうという。○浪雲の愛し妻と 「浪雲の」は、ここにのみある語で、浪のような形をした雲と取れる。譬喩で「美し」にかかる枕詞。「愛し妻」は、愛する妻であるが、この「妻」は、夫に当てた字であろうと、『全註釈』はいっている。下の(三三〇三)に、「汝恋愛妻者」とあり、その妻は夫であって、用例があるからというのである。それは、この歌の後半は、明らかに女の歌となっているので、「妻」を文字どおり妻とすれば、前半は男の歌となって、矛盾するからである。「妻」を夫とするとそれがなく、また前半も無理のないものになるのである。随うべきである。○語らはず別れし来れば 話をせずに別れて来ると、これは、男女一つ所に集まることがあって、顔は見合ったが、人目をはばかって話もできずに別れるということは、部落民として、何らかの信仰上の行事などには幾らもありうることで、ここもそうした範囲の日常事であろう。○速川の行くも知らに 「速川」は、流れの早い川で、傾斜地の川。「行くも知らに」は、原文「往文不知」。諸注、訓がさまざまである。『新訓』の訓。流れる水音も知らずで、夫に対しての心残りから放心していて、高い水音も耳に入らなかった意。○衣手の反るも知らに 袖の風に翻るのも心づかず。○馬じもの立ちて爪づく 「馬じもの」は、馬のごとくにで、譬喩として「爪づく」にかかる枕詞。「立ちて爪づく」は、路に立ってつまずくで、歩いて躓く意。以上第一段。○せむ術のたづきを知らに どうすればよいかの方法も知られずに。○物部の八十の心を 「物部の」は、朝廷の百官で、その多い意で「八十」の枕詞。「八十の心を」は、さまざまに思いめぐらす心を。○天地に念ひ足らはし 広い天地にいっぱいにしてで、「思ひ」は、溜め息となり、霧と立つものとしてである。慣用句。○魂あはば君来ますやと 「魂あはば」は、双方の魂が相(63)合わば。「君来ますやと」は、君がいらっしゃるだろうかと思って。○吾が嗟く八尺の嗟 わが嘆く大きな歎息で、「八尺」は、長い意。○玉桙の道来る人の 「玉桙の」は、道の枕詞。「道来る人の」は、女の立っている道をこちらへ来る人が。○立ち留りいかにと問はば わが前に立ち留まって何ゆえに立っているのだと問うたならば。○答へ遣るたづきを知らに 返事のしようがわからずに。○さ丹つらふ君が名いはば 「さ丹つらふ」は、「さ」は、接頭語、美しい紅顔をしているで、ここは君にかかる枕詞。男を待っているといったならば。○色に出でて人知りぬべみ 表面に顕われて、人が知るであろうゆえに。○あしひきの山より出づる月待つと人にはいひて 山から出る月を待っているのだと人には告げて。○君待つ吾を 君を待っているわれであるよで、「を」は、感動の助詞。「あしひきの」以下五句は、巻十二(三〇〇二)に、「君」が「妹」となって、独立した短歌として出ているものである。以下第二段。
【釈】 百足らず山田の道を、浪雲のような愛すべき夫と話もせずに別れて来たので、流れの早い川の流れの音も知られず、袖の風に翻るのも知られず、心呆けて馬のように立ってつまずく。どうすればよいかの方法も知られず、物部の数のような多くの思いを広い天地にいっぱいにし、双方の魂が相通ったら、君はいらせられることだろうかと思って、わが嘆いて吐く大きい溜め息よ。玉桙の道を来る人の、わが前に立ち留って、何ゆえに立っているかと問うたならば、返事のしようもわからず、美しい紅顔をしている君が名をいったならば、表面に顕われて人が知るであろうゆえに、山から出る月を待っているのだと人には告げて、君を待っている我であるよ。
【評】 この歌は、努めて原文に即して読んで行こうとすれば、上のごとく解されて、一応筋の立つ歌となる。すなわち部落の女が、昼、信仰上の行事などで人々が一つ所に集まる際、ひそかに関係を結んでいる男に逢ったが、人目があるので話もできずに別れ、放心状態で家路に向かったが、夕方、あとから男が追って来はしないかと思い、嘆きながらも路に立ち留まっていて、もしも知人が通りかかって、何をしているのだと訝かって問うたら、何と答えたものだろう、月の出を待っているとでも答えようと思ったというので、首尾一貫しているとはいえる。しかしこれにはある程度の不自然がつきまとっている。第一段の「馬じもの立ちて爪づく」は、上のごとく解すれば女の抒情となるが、これを男とし、関係している女の許に通って行ったが、女の身辺に障りが起こって、話もできずに帰る途中の抒情とすれば、きわめて普通の、日常ありがちなこととなって来るのである。また、それに続く第二段の前半「せむ術のたづきを知らに」以下「君が嗟く八尺の嗟」までの十句は、女の恋情の上の嘆きではあるが、男に疎遠にされ、懊悩を極めている嘆きであって、この場合、第一段とも調和せず、またそれに続く第二段の後半とも調和しないものである。心ばかりではなく、語つづきも明らかに古風で、その上での調和もないものである。「玉桙の道来る人の」以下結末までは、部落の若い女の、男と関係してほどもない頃の可隣な心で、語つづきも明らかに新しいものである。これを一と口にいえば、第一段を女の抒情とすると、事としては一応筋の立つものとなるのであるが、一首を貫くべき気分は、やはりちぐはぐの物で、無理に継ぎ合わせたものということが、蔽い難くあらわれている。大体この歌は謡い物と(64)して行なわれていたもので、それをある時期に筆録したものであろう。謡われていた時には、事として首尾一貫したものと認めて謡っていたのであろうから、その時には、上に解したように解していたのであろう。すなわち上の解が原形であったと思われる。この歌の持っているある程度の矛盾とちぐはぐは、これを一首の謡い物に組み立てた、集団の責任とすべきである。
反歌
3277 眠《い》をも睡《ね》ず 吾《わ》が思《おも》ふ君《きみ》は 何処《いづくへ》辺に 今身《このみ》誰《たれ》とか 待《ま》てど来《き》まさぬ
眠不睡 吾思君者 何處邊 今身誰与可 雖待不來
【語釈】 ○眠をも睡ず吾が思ふ君は 安眠もせずにわが思っている君はで、「ず」は、連用形。○何処辺に どこで。○今身誰とか 「今身《このみ》」は、旧訓。『考』は「身」を「夜」の誤写としている。古くは「そ」という指示代名詞が成立せず、「こ」であらわしていたことは、後の「そちこち」を「こちごち」といっていたのでも知られる。これはその古風の言い方で、「この身」はその身で、男の身を指したもの。「誰とか」は、どういう女とかで、「か」は、疑問の係助詞で、下に「寝らむ」の意が省かれている。男は誰と寝ているだろうか。○待てど来まさぬ 待っているがいらっしゃらない。
【釈】 寝ても眠れずにわが思っている君は、どこで、その身は誰と寝ているのであろうか。待っているが、いらっしゃらない。
【評】 長歌の終わりの、女の男を待つ心を承けての形のものである。しかし繋がりは待つということだけで、これは夜の床の中での心であって、距離がありすぎる。また長歌の女は、世馴れない若い女であるのに、これは世馴れていて、珍しくも嫉妬の情をいっているもので、直接の繋がりの認められないものである。反歌として強いて添えたものとみえる。謡い物としては、一般性がある上に、野趣があるので、その野趣が愛されたのであろう。歌風は新しいものである。
右二首
3278 赤駒《あかごま》の 厩《うまや》を立《た》て 黒駒《くろごま》の 厩《うまや》を立《た》てて 其《そ》を飼《か》ひ 吾《わ》が往《ゆ》くが如《ごと》 思《おも》ひ妻《づま》 心《こころ》に乗《の》りて 高山《たかやま》の 峯《みね》のたをりに 射目《いめ》立《た》てて 猪鹿《しし》待《ま》つが如《ごと》 床《とこ》敷《し》きて 吾《わ》が待《ま》つ公《きみ》を 犬《いぬ》な吠《ほ》えそね
(65) 赤駒 厩立 黒駒 厩立而 彼乎飼 吾徃如 思妻 心乘而 高山 峯之手折丹 射目立 十六待如 床敷而 吾待公 犬莫吠行年
【語釈】 ○赤駒の厩を立て黒駒の厩を立てて 実際に即していっているもの。○某を飼ひ吾が往くが如 「其」は、上の馬。「往くが如」は、乗ってゆくように。○思ひ妻心に乗りて 「思ひ妻」は、愛する妻。「心に乗りて」は、心いっぱいにかかってで、慣用句。以上は、京なら身分の相応に高い人、地方なら豪族の生活である。○高山の峯のたをりに 「峯のたをり」は、峯の撓んで折れ込んだ所、すなわち峠になっている所。今の鞍部。そこは山の獣の通路になるところである。○射目立てて猪鹿待つが如 「射目」は、射部で、集団となって狩猟をする時、狩立て方に対して射方となっている者の称。「立てて」は、立たせて。「猪鹿」は、その肉を食用とする物の総称。○床敷きて吾が待つ公を 床を敷いてわれが待っている公を。○犬な吠えそね 犬よ吠えることはしないでくれよで、「ね」は、願望の助詞。以上は猟師の妻の心である。
【釈】 赤駒の厩を立て、黒駒の厩を立てて、それを飼って、われが乗って行くように、愛すべき妻が心いっぱいにかかって、高山の峯の鞍部に、射方の者を立たせて猪鹿を待つように、床を敷いてわれが待っている君を、犬よ吠えることはせずにくれよ。
【評】 「思ひ妻心に乗りて」までは、明らかに男の歌である。乗馬として赤駒と黒駒を飼っているというのは、多分は土地の豪族であろう。「高山の」以下は無論女の歌で、「射目立てて」といい、「公」といっているので、猟師というよりも、大規模の狩猟を慰めとして行なう豪族に関係を結んでいる女かもしれぬ。前半と後半は紛う方なく男女で、一首の歌となり難いものであるが、男女を上のごとく関係づけると、一種の問答歌となって男女懸け合いに謡うことによって、形として一首を纏めるものにはなりうる。そうした歌が存在していたとしても、さして恠《あや》しむには足りなかろうと思われる。それにしても、前半は五七の形が破れているのに後半にはそれがない。これも謡い物としては問題にならなかったとも言い得られよう。簡単な歌で、これだけ明らかな矛盾を持っているのであるから、上のような想像をするほかないものとなる。
反歌
3279 葦垣《あしがき》の 末《すゑ》かき別《わ》けて 君《きみ》越《こ》ゆと 人《ひと》にな告《つ》げそ 事《こと》はたな知《し》れ
葦垣之 末掻別而 君越跡 人丹勿告 事者棚知
【語釈】 ○葦垣の末かき別けて 「末かき別けて」は、跨いで越す状態で、忍んでの所作である。○君越ゆと人にな告げそ 長歌の結句を承けて、吠えないばかりではなく、人にも告げるなよと犬に命じたもの。○事はたな知れ 「たな知らず」「たな知りて」などの用例があり、また「たな曇(66)り」の用例もあって、「たな」は、十分にの意の副詞で、十分に知っていろよと命じたもの。
【釈】 葦垣の末を掻き別けて君が越えてくると、人には告げるな、その事を十分に知れよ。
【評】 長歌に続けて、犬に命じたもので、結句にさらに駄目を押しているものである。心理は肯けるが、おのずから滑稽味のあるものとなっている。
右二首
3280 妾《わ》が背子《せこ》は 待《ま》てど来《き》まさず 天《あま》の原《はら》 ふり放《さ》け見《み》れば ぬばたまの 夜《よ》もふけにけり さ夜《よ》深《ふ》けて 嵐《あらし》の吹《ふ》けば 立《た》ち待《ま》てる 吾《わ》が衣手《ころもで》に ふる雪《ゆき》も 凍《こほ》り渡《わた》りぬ 今更《いまさら》に 君《きみ》来《き》まさめや さな葛《かづら》 後《のち》も逢《あ》はむと 慰《なぐさ》むる 心《こころ》を持ち《も》ちて ま袖《そで》もち 床《とこ》うち払《はら》ひ うつつには 君《きみ》には逢はず 夢《いめ》にだに 逢《あ》ふと見《み》えこそ 天《あめ》の足夜《たりよ》を
妾背兒者 雖待不來益 天原 振左氣見者 黒玉之 夜毛深去來 左夜深而 荒風乃吹者 立待留 吾袖尓 零雪者 凍渡奴 今更 公來座哉 左奈葛 後毛相得 名草武類 心乎持而 二袖持 床打拂 卯管庭 君尓波不相 夢谷 相跡所見社 天之足夜乎
【語釈】 ○立ち待てる吾が衣手に 原文は諸本「立留待吾袖尓」で異同はなく、「立ちとまり待つ吾が袖に」の訓が行なわれていたが、「留」と「待」の顛倒とみた『新校』の訓に従う。立って待っているわが袖にの意。○ふる雪は凍り渡りぬ 袖の上に降って来る雪は、全面的に凍って来た夜で、更けて寒気の募って来た意。○さな葛後も逢はむと 「さな葛」は、美男かずら。蔓が別れてもまた逢う意で、「逢ふ」の枕詞。「後も逢はむと」は、今夜ならずとも、後にも逢おうと思って。○慰むる心を持ちて 我と我を慰める心をもって。○ま袖もち床うち払ひ 巻十一(二六六七)に出た。「ま袖」の「ま」は、原文は諸本「三」で「み袖」とされていたが、「三」は、「二」の誤写とした佐竹昭広氏の説に従い「ま袖」と訓む。「ま袖」は、両袖の意。「床うち払ひ」は、床は尊む心から、寝る前に塵を払うのは習いとなっていた。○うつつには君には逢はず 現実には君に逢えない。○夢にだに逢ふと見えこそ 夢にだけでも逢うと見えてくれよで、「こそ」は、願望の助詞。○天の足夜を 神聖な、充実した夜であるのにで、夜を讃えた古くからの語である。本来は神事関係の語であろう。「を」は、感動の助詞。
(67)【釈】 わが夫は、待っているがいらっしゃらない。空を仰いで見ると、まっ暗い夜も更けてしまった。夜更けて嵐が吹くので、立ちどまって待っているわが袖に、降っている雪は凍り渡った。いまさらに君がいらっしゃろうか、いらっしゃらないだろう。さな葛の蔓のように後も逢おうと、我と我を慰める心を持って、わが袖をもって床の塵を払って、現実には君には逢わない、せめて夢になりとも逢うと見えてくれよ。この良い夜だのに。
【評】 妻が冬の寒夜、夫の来るのを待ったが来ないので、堪えかねて出迎えに出かけたが、嵐まじりに雪が降って来て、袖の上で氷となったので、こうした夜には来まいと諦めて、せめて夢に逢おうと、床を浄めて寝ようとしたというので、じつに没我を極めた心である。叙述が主になっているが、没我の気分をとおしてのものなので、叙事がただちに静かな抒情となっている歌である。夫に対してのこの没我の愛は、上代の女性には共通のものであったといえるが、しかし一概にはいえないもので、この歌に現われているごときものは、男性の理想だったのであろう。歌風は、気分本位の傾向のもので、奈良朝に入っての歌と思われる。奈良朝時代は、女性のこの没我の風は、時代的に次第に減退した時代ではなかったかと思われる。それだと奈良朝の男性には、女性のこうした態度はますます望ましいものであったろうから、この歌はそうした心を持った男性によって作られたものであるかもしれぬ。これを一首の歌として見ると、歌をとおして感じられる女性は愛すべき人であるが、歌としては特色の少ないもので、多くの類想歌を、きわめて巧みに綜合し按排したにすぎぬもので、歌才ある男性にはたやすく詠みうる程度のものだからである。この歌には別伝があって、謡い物として謡われていたことを示しているが、いったごとき意味において男性に愛唱されての結果であろう。
或本の歌に曰く
3281 吾《わ》が背子《せこ》は 待《ま》てど来《き》まさず 雁《かり》が音《ね》も とよみて寒《さむ》し ぬばたまの 夜《よ》もふけにけり さ夜《よ》深《ふ》くと 嵐《あらし》の吹《ふ》けば 立《た》ち待《ま》つに 吾《わ》が衣手《ころもで》に 置《お》く霜《しも》も 氷《ひ》に冴《さ》え渡《わた》り 落《ふ》る雪《ゆき》も 凍《こほ》り渡《わた》りぬ 今更《いまさら》に 君《きみ》来《き》まさめや さな葛《かづら》 後《のち》も逢《あ》はむと 大舟《おほふね》の 思《おも》ひたのめど 現《うつつ》には 君《きみ》には逢《あ》はず 夢《いめ》にだに 逢《あ》ふと見《み》えこそ 天《あめ》の足夜《たりよ》に
吾背子者 待跡不來 鴈音文 動而寒 烏玉乃 宵文深去來 左夜深跡 阿下乃吹者 立待尓 吾衣(68)袖尓 置霜文 氷丹左叡渡 落雪母 凍渡奴 今更 君來目八 左奈葛 後文將會常 大舟乃 思〓迹 現庭 君者不相 夢谷 相所見欲 天之足夜尓
【語釈】 ○雁が音もとよみて寒し 「雁が音」は、文字どおり「音」を主としたもの。「とよみて寒し」は、高く聞こえて寒い。○置く霜も氷に冴え渡り 置く霜が氷のごとくに冴え渡って。○大舟の思ひたのめど 「大舟の」は、譬喩として「たのむ」にかかる枕詞。「思ひたのめど」は、たのみに思うけれども。
【釈】 わが夫は待っているがいらっしゃらない。雁の音も高く響て寒い。夜も更けてしまったことである。夜が更けたとて、嵐が吹くので、路に立って待っていると、わが袖に置く霜も、氷のごとくに冴え渡って、降って来る雪も凍り渡った。いまさらに君がいらっしゃろうか、いらっしゃらない。さな葛のように後にも逢おうと、大舟のようにたのみに思うが、現実には君に逢わないので、せめて夢になりとも逢うと見えてくれよ。この良い夜に。
【評】 前の歌が伝誦されている中に、ある程度の流動を来たした形のものである。その流動は、事を多くして叙事的気分を濃厚にしたことであり、心としては、女の没我の情を多少後退させて、代わりに女自身を樹てる心を加えたものである。これがその時代の実相であって、前の歌の上代に対しての憧れを、眼前の実際に引き寄せたのである。時代がさせた流動といえる。一首の歌とすると、前の歌の純粋と単純とを喪ったものである。
反歌
3282 衣手《ころもで》に 嵐《あらし》の吹《ふ》きて 寒《さむ》き夜《よ》を 君《きみ》来《き》まさずは 独《ひとり》かも寝《ね》む
衣袖丹 山下吹而 寒夜乎 君不來者 獨鴨寐
【語釈】 略す。
【釈】 わが袖に嵐の吹いて寒い今夜を、君はいらっしゃらないなら、独りで寝ようか。
【評】 原歌には反歌がなく、これにのみあるものである。長歌はさすがに男を主と立てているものであるのに、これは、女自身を主としているもので、態度が異なっている。反歌として他の歌を捉えて来たものとみえる。
(69)3283 今更《いまさら》に 恋《こ》ふとも君《きみ》に 逢《あ》はめやも 眠《ぬ》る夜《よ》を闕《お》ちず 夢《いめ》に見《み》えこそ
今更 戀友君二 相目八毛 眠夜乎不落 夢所見欲
【語釈】 ○逢はめやも 「や」は、反語で、逢えないの意。○眠る夜を闕ちず 眠る夜ごとに漏れず。○夢に見えこそ 「見えこそ」は、「こそ」は、願望。
【釈】 いまさらに、恋おうとも君に逢うことがあろうか、ありはしない。寝る夜ごとに欠かさずに夢に見えてくだされ。
【評】 これは夫と関係の絶えた女の、その夫を恋うている心の歌で、長歌とは全く繋がりのないものである。明らかに他より捉えて来た歌である。
右四首
3284 菅《すが》の根《ね》の ねもころごろに 吾《わ》が念《おも》へる 妹《いも》によりては 言《こと》の禁《いみ》も なくありこそと 斎戸《いはひべ》を 斎《いは》ひ穿《ほ》り据《す》ゑ 竹珠《たかだま》を 間《ま》なく貫《ぬ》き垂《た》り 天地《あめつち》の 神祇《かみ》をぞ吾《わ》が祈《の》む 甚《いた》もすべ無《な》み
菅根之 根毛一伏三向凝呂尓 吾念有 妹尓縁而者 言之禁毛 無在乞常 齋戸乎 石相穿居 竹珠乎 無間貫垂 天地之 神祇乎曾吾祈 甚毛爲便無見
【語釈】 ○菅の根のねもころごろに 「菅の根の」は、畳音で「ね」にかかる枕詞。「ねもころごろ」は、「ねもころ」を畳んで強めたもので、きわめて懇ろに。○吾が念へる妹によりては わが思える妹については。「妹」は、左注で「君」の誤りだろうとしている。すなわち作者は女だというのである。○言の禁もなくありこそと 「言の禁」は、言霊の災で、人がわるい言を発すると、言霊の働きで、忌むべきことの起こる意。信仰上のことである。「なくありこそ」は、無くてくだされよと思って。「こそ」は、願望の助詞。○斎戸を斎ひ穿り据ゑ 「斎戸」は、忌み浄めた瓶で、神酒を入れた物。「斎ひ穿り据ゑ」は、さらに浄めて、地を掘って据えて。掘るのは、瓶の底が中高になっていて、ただでは据わらないため。神に供えるさま。○竹珠を間なく貫き垂り 「竹珠」は、青竹を管の形に切った物の称。「間なく貫き垂り」は、隙間なく多くを緒に貫き垂ら(70)してで、御酒と並んで神への供物。巻三(三七九)に「竹玉を繁に貫き垂り」とあるのと同意。○天地の神祇をぞ吾が祈む 天神地祇をわが祈ることであるよで、「祈む」は、「ぞ」の結。○甚もすべ無み 他には何とも方法が無いので。
【釈】 菅の根のきわめて懇ろにわが思っている妹については、言霊の災がなくてくだされと思って、斎戸をさらに浄めて、地を掘って据え、竹珠を隙なく緒に貫き垂らして供えて、天神地祇をわが祈ることであるよ。他には何とも方法が無いので。
【評】 左注にあるように、作者は男と関係を結んでほどもない女で、女性に共通の深い信仰から、夫に言の禁のないようにと祭をした時の歌である。「甚もすべ無み」は、その信仰の深さをあらわしている語である。
今案ずるに、妹に因りてはといふべからず。まさに君に因りてはといふべし。何ぞとならば、すなはち反歌に公《きみ》がまにまにといへり。
今案、不v可v言2之因v妹者1。應v謂2之緑1v君也。何則、反歌云2公之隨意1焉。
【解】 編集者の注である。「妹」は「公」とあるべきで、反歌に「公」とあるからだというのである。かりに反歌は別としても、言霊に対するこの深い信仰は、男よりも女のほうが自然である。原形には公とあったのを、伝誦する男が、「妹」とするほうが自身に都合が好かったために謡い変え、それが記録されて固定したということもありうることである。
反歌
3285 たらちねの 母《はは》にも謂《い》はず 包《つつ》めりし 心《こころ》はよしゑ 公《きみ》がまにまに
足千根乃 母尓毛不謂 ※[果/衣]有之 心者縱 公之隨意
【語釈】 ○たらちねの母にも謂はず 「母にも」は、母にさえもで、娘として母を、世に第一に親しい者としていったもの。○包めりし心は 秘して来た心はで、以上、何にも増して大切にしたものもの意。○よしゑ公がまにまに 「よしゑ」は、縦《ゆる》す意に、感動の助詞を添えたもので、どうなりとも。「公がまにまに」は、君の心のままにで、下に任せむを略したもの。
【釈】 たらちねの母にさえもいわずして包んで来たわが心は、どうなりとも君の心のままに任せよう。
(71)【評】 歌としては、女が男に身を任せる際、誓いの心をもっていった形のものである。巻十一(二五三七)「たらちねの母に知らえず吾が持てる心はよしゑ君がまにまに」のいささか異なったものである。独立した歌で、一般化していたものを、反歌として謡い添えたものであろう。
或本の歌に曰く
3286 玉襷《たまだすき》 懸《か》けぬ時《とき》なく 吾《わ》が念《おも》へる 君《きみ》に依《よ》りては 倭文幣《しづぬさ》を 手《て》に取《と》り持《も》ちて 竹珠《たかだま》を しじに貫《ぬ》き垂《た》り 天地《あめつち》の 神《かみ》をぞ吾《わ》が乞《こ》ふ 甚《いた》も術《すぺ》無《な》み
玉手次 不懸時無 吾念有 君尓依者 倭文幣乎 手取持而 竹珠〓 之自二貫垂 天地之 神〓曾 吾乞 痛毛須部奈見
【語釈】 ○玉襷懸けぬ時なく 「玉襷」は、「懸け」の枕詞。「懸けぬ時なく」は、心に懸けない時はなくで、思い通しに。○倭文幣を手に取り持ちて 「倭文幣」は、倭文織すなわち縞に織った布の幣。木綿に代えての物で、貴しとした物。○神をぞ吾が乞ふ 「乞ふ」は、神助を乞う意。
【釈】 玉襷心にかけない時もなくわが思っている君については、倭文織の幣を手に取り持って、竹珠を緒に繁く貫き垂らして供え、天地の神に神助を乞うことである。何とも、する方法のないゆえに。
【評】 天地の神に祈りをしたというこの種の歌は、事を綿密にいって心を尽くすのも自然であるが、このように省略しての言い方も必ずしも不自然だとはいえない。反歌を疑わなければ、祈りの目的は反歌でいっているからである。
反歌
3287 天地《あめつち》の 神《かみ》を祷《いの》りて 吾《わ》が恋《こ》ふる 公《きみ》い必《かなら》ず 逢《あ》はざらめやも
乾坤乃 神乎祷而 吾戀 公以必 不相在目八方
【語釈】 ○君い必ず 「い」は、間投助詞。語勢を強める。君に必ず。
(72)【釈】 天地の神を祷って、わが恋うる君に、必ず逢わなかろうか、逢えるだろう。
【評】 長歌の結末の「天地の神を」を繰り返して強め、「君い必ず」と熱意を持っての言い方をしているもので、明らかに反歌である。夫に疎んぜられている妻の祭をした際の歌である。
或本の歌に曰く
3288 大船《おほふね》の 思《おも》ひたのみて さなかづら いや遠長《とほなが》く 我《わ》が念《も》へる 君《きみ》に依《よ》りては 言《こと》の故《ゆゑ》も なくありこそと 木綿襷《ゆふだすき》 肩《かた》に取《と》り懸《か》け 忌戸《いはひべ》を 斎《いは》ひ掘《ほ》り据《す》ゑ 天地《あめつち》の 神祇《かみ》にぞ吾《わ》が祈《の》む 甚《いた》も術《すべ》無《な》み
大船之 思〓而 木妨己 弥遠長 我念有 君尓依而者 言之故毛 無有欲得 木綿手次 肩荷取懸 忌戸乎 齋穿居 玄黄之 神祇二衣吾祈 甚毛爲便無見
【語釈】 ○さなかづら 原文「木妨己」。古来訓み難くして、さまざまの訓や誤写説のあったものである。『新考』は、『新撰字鏡』に、「木防己、佐奈葛《さなかづら》」とあるに従い、今のごとくに改めたのである。その蔓の長い意で、「遠長」にかかる枕詞。○言の故も 「故」は、事故で、災であり、上の「言の禁《いみ》」と同意である。言霊の災。
【釈】 大舟のように頼みに思って、さな葛の蔓のようにますます末永くと思っている君については、言霊の災のなくあってくだされよと、木綿襷を肩に懸け、斎瓮《いわいべ》を浄めて地を掘って据えて、天地の神にわが祈ることである。何とも他に方法がないゆえに。
【評】 上の(三二八四)「菅の根の」の歌と同歌で、一定の型があって、それに随って詠んだものである。祈りの語は、一たび適切な語が用いられると、それから離れることができず、型となったとみえる。作者がすべて女であるのは、信仰が女性によって保たれていたことを示しているといえる。
右五首
3289 御佩《みはかし》を 剣《つるぎ》の池《いけ》の 蓮葉《はちすば》に 渟《たま》れる水《みづ》の 行方《ゆくへ》無《な》み 我《わ》がする時《とき》に 逢《あ》ふべしと 相《あひ》たる(73)君《きみ》を な寝《ね》そと 母《はは》きこせども 吾《わ》が情《こころ》 清隅《きよすみ》の池《いけ》の 池《いけ》の底《そこ》 吾《われ》は忍《しの》びず ただに逢《あ》ふまでに
御佩乎 釼池之 蓮葉尓 渟有水之 徃方無 我爲時尓 應相登 相有君乎 莫寐等 母寸巨勢友 吾情 清隅之池之 池底 吾者不忍 正相左右二
【語釈】 ○御佩を剣の池の 「御佩を」は、「御佩」は、佩くの敬語佩かすの名詞となったもの。「を」は、感動の助詞。御佩刀よで、意味で剣にかかる枕詞。「剣の池」は、大和国高市郡白檀村大字石川(奈良県橿原市石川町)にある孝元天皇の御陵の周囲の池。日本書紀、応神紀にその掘られたことが出ており、また、舒明紀、皇極紀にも一茎二花の瑞蓮の生じた事が出ていた。古くから蓮のあった池。○蓮葉に渟れる水の「渟れる水」は、宿っている雫。「の」は、のごとく。蓮の葉に宿っている雫のようにで、起首からこれまでの四句は、下の「行方無み」の譬喩。○行方無み我がする時に 「行方無み」は、「無み」は、無く。心を行かしめる所がなくで、このままにして居られず、さりとてどうもできずに。「我がする時に」は、わが居る時に。以上、関係を結んだ男が、母の気にいらず、一緒にいる母に隔てられて逢えずに過ごしている女の心。○逢ふべしと相たる君を 「逢ふ」は、男女関係しないと逢えないので、それと同意語。「逢ふべしと」は、どうでも夫婦になろうと思って。「相たる君を」は、「君」は、男への敬称。「を」は、感動の助詞。関係を結んだ君であるのに。○な寝そと 「な――そ」は禁止の助詞。共寝はするなで、夫婦関係を絶ての意。○母きこせども 「きこせ」は、「いふ」の敬語。母はおっしゃるけれども。○吾が情清隅の池の 「吾が情」は、男を思うわが心は。「清隅の池」は、大和国、添下郡五箇谷村大字高樋(現在、奈良市高樋町)。異説(大和郡山市の旧東大寺領清澄庄)もある。剣の池とはちがって水中に生える植物がなく、底までも見える意の池ということが、下の続きで知られる。○池の底吾は忍びず 「池の底」は、上の清隅の池のから続いて、深くしての譬喩。「吾は忍びず」は、母の言に随うには忍びない。○ただに逢ふまでに 「ただに」は、直接にで、ここははばからずに晴れて。「逢ふまでに」は、逢う時まではで、その時を待つ余意を籠めたもの。
【釈】 御佩刀よ剣の池の、そこの蓮の葉の上に宿っている雫のように、心の寄せ所なく途方にくれている時に、必ず夫婦になろうと思って、思いを遂げている夫君であるのに、共寝をするな、関係を絶てと母はおっしゃるが、夫君を思うわが心は、清隅の池の、池の底のように深くて、その言に従うには忍びない。晴れて逢える時までは。
【評】 作者に擬せられている女は、当時の風に従って、父とは別居し、母の許にいる者で、また当時の風に従って自由結婚をし、男を自分の家へ通わせていた女である。しかるにその男は母の気にいらず、逢うのを妨げられて懊悩していた。女は自分から進んで関係した男であるのに、母から改まって関係を絶てといわれると、心が一段と緊張し、わが心は深くして、それには忍びない。晴れて逢えるまでは堪え続けようと決心したのである。これと同じことが庶民階級には多かったと見え、そうし(74)た場合の女の悲哀を訴えた歌は相応に多い。しかし形式はいずれも短歌で、表現も粗野である。この歌は長歌であり、表現技巧が甚だ高度である。これが特色である。
「御佩を」以下、「行方無み我がする時に」までが一節であるが、卒然と言い起こした巧緻な譬喩を用いたこの第一節は、何のための懊悩か捕捉し難い趣のあるものである。「逢ふべしと」以下、「母きこせども」までの第二節は、第一節の背後を説いたものであるが、いかにも簡潔で、また、女の「逢ふべしと」の一句に、その心情と人柄を暗示しているところは、含蓄あるものである。「吾が情」以下、「吾は忍びず」までの第三節は、女の緊迫した情を述べたものであるが、語つづきもそれにふさわしくなっていて、表現技法の自在さを思わせる。しかもその中に「清隅の池の池の底」という剣の池と対照させながら趣のちがった池を譬喩として捉えていることは、一段と自在さを思わせる。結句「ただに逢ふまでに」は、一句独立した形のもので、結句とするに足りる力あるものである。取材は常凡でいうに足りないものであるが、一首簡潔に、平面感とともに立体感をもたせて、微細に感性を働かせてもいるところ、その作者が思わせられる。
反歌とあわせ読むと、飛鳥朝末期から奈良朝へかけての貴族で、教養高く、文芸にすぐれた人の、興に乗っての作と思われる。反歌を見ると一段とそのことが明らかである。謡い物の筆録であるから、これが謡われて、解せられ、たのしまれていたことも明らかである。
反歌
3290 古《いにしへ》の 神《かみ》の時《とき》より 逢《あ》ひけらし 今《いま》の心《こころ》も 常《つね》忘《わす》らえず
(75) 古之 神之時從 會計良思 今心文 常不所忘
【語釈】 ○古の神の時より逢ひけらし 古の神の時代から、夫婦として逢っていたのであったろうで、「けらし」は、過去推量。わが国では、霊魂は信じていたが、肉体としての更生ということは思ってはいなかった。これをいうのは仏教で、いわゆる三世に流転する、その前世としていっているものである。すなわち仏説をわが国に当てはめての言い方である。○今の心も常忘らえず 現在の心もいつも忘れられない。
【釈】 古の神の時代から、君とは夫婦として逢っていたのであったろう。現在の心にもいつも君のことが忘れられない。
【評】 男を思う心の尋常でないのに思い入って、これは現在だけの関係ではなく、宿命的なのであろうと感じ、それを仏説につなぎ、過去世をわが国最古の神代まで溯らせたものである。長歌とのつながりには飛躍があるが、初めから反歌としたものであったろう。
右二首
3291 み芳野《よしの》の 真木《まき》立《た》つ山《やま》に 青《あを》く生《お》ふる 山菅《やますが》の根《ね》の 慇懃《ねもころ》に 吾《わ》が念《おも》ふ君《きみ》は 天皇《おほきみ》の 遣《まけ》 のまにまに 【或本に云ふ、王《おほきみ》の命《みこと》恐《かしこ》み】 夷離《ひなさか》る 国《くに》治《をさ》めにと 【或本に云ふ、天《あま》ざかる夷《ひな》治《をさ》めにと】 群鳥《むらとり》の 朝立《あさた》ち行《ゆ》かば 後《おく》れたる 我《われ》か恋《こ》ひむな 旅《たび》なれば 君《きみ》か思《しの》はむ 言《い》はむ術《すべ》 せむ術《すべ》知《し》らに 【或書に、あしひきの山の木末《こずゑ》にの句あり】 延《は》ふ蔦《つた》の 帰《かへ》りし 【或本帰りしの句なし】 別《わかれ》の数多《あまた》 惜《を》しきものかも
三芳野之 眞木立山尓 青生 山菅之根乃 慇懃 吾念君者 天皇之 遣之万々【或本云、王命恐】 夷離 國治尓登【或本云、天疎夷治尓等】 群鳥之 朝立行者 後有 我可將戀奈 客有者 君可將思 言牟爲便 將爲須便不知【或書、有2足日木山之来末尓句1也】 延津田乃 歸之【或本、無2歸之句1也】 別之數 惜物可聞
【語釈】 ○み芳野の真木立つ山に青く生ふる山菅の根の 吉野の真木の立っている山に、青く生えている山菅の根ので、根を同音で、下の「ね」に続けて、以上その序詞。「真木」は、杉檜などの良材の称。「山菅」は、竜のひげ。○慇懃に吾が念ふ君は 心よりわが思っている夫は。○天皇の遣のまにまに 「遣」は、任(まけ)で、地方官に任じて差遣することで、「遣」は、義で当てた字。慣用句。○王の命恐み 慣用句。○夷離る(76)国治めにと 「夷離る」は、夷として離れている国を治めにと。夷は京以外の総称。慣用句。○天ざかる夷治めにと 「天ざかる」は、天のごとく離れている国を治めにと。慣用句。○群鳥の朝立ち行かば 「群鳥の」は、意味で「朝立ち」にかかる枕詞。「朝立ち」は、夫が朝旅立って。慣用句。○後れたる我か恋ひむな 後に残っている我は恋うることであろうかで、「か」は、疑問の係、「な」は、感動の助詞。以上、第一段。以下第二段。○あしひきの山の木末に これは本文にはなく、ある書の物としてであるが、起首の序詞と照応させたものと思われるから、本文に加えるべきものである。○延ふ蔦の帰りし 「延ふ蔦の」は、上の「木末」を承けて、それに這っていたものとすると、譬喩として「別れ」に続くもの。本文によると、同じく譬喩として「別」にかかる枕詞。「帰りし」は、注に、ある本にはこの句が無いとある。前後の続きから見て、無いほうが原形とみえる。これがあると、三音一句となり、結尾の五七七の形が崩れるからである。○別の数多惜しきものかも 別れが甚だ惜しいことであるよ。
【釈】 吉野の真木の立っている山に、青く生えている山菅の根に因む、ねんごろにわが思っている君は、大君の地方官に任じられるに随って(大君の詔を畏んで)、夷として離れている国を治めるとて(天のように離れている夷を治めにと)、群鳥のように朝旅立って行ったならば、後に残っている我は、君を恋うることであろうか。旅なので、君が我を偲ぶことであろうか。言うべき方法、するべき方法も知られずに、(あしひきの山の木の梢に)這っている蔦の蔓のように、別れの甚しくも惜しいことであるよ。
【評】 地方官として朝、夫が発足する時、その妻が別れを惜しんで、夫に贈ったものである。起首と、結末に近く、ある本のみにある序詞とは、女の住地が吉野山に近いことをあらわしたものと思われ、多少の新意が認められるが、他は慣用句の連続である。これは一首の心が一般的なもので、慣用句であらわせるものだからである。詠み方も説明的で、平坦に、平明に詠んだにすぎぬものである。異伝の多いのは、事情を同じゅうする人が多く、伝誦された結果であろう。結末の「あしひきの山の木末に」の二句の失われているのは、平地に住む人によってされたものと思われる。結尾の「帰りし」は、ある本には無いというのが原形であろう。あると、解し難いものとなるからである。奈良朝の歌であろう。
反歌
3292 うつせみの 命《いのち》を長《なが》く ありこそと 留《とま》れる吾《われ》は 斎《いは》ひて待《ま》たむ
打蝉之 命乎長 有社等 留吾者 五十羽旱將待
【語釈】 ○うつせみの命を長くありこそと 「うつせみ」は、現身。「ありこそと」は、あるようにしてくだされと。「こそ」は、願望の助詞。
(77)○留れる吾は斎ひて待たむ 後にとどまっているわれは、斎戒して神に祈って君の帰りを待とう。
【釈】 現身の命の長くあるようにしてくだされと後にとどまっているわれは、神に祈って待っていよう。
【評】 君の命を祈って待とうというので、地方官の任期は長いものであるところからの心である。実際に即した歌で、反歌の役を果たしているものである。
右二首
3293 み吉野《よしの》の 御金《みかね》の獄《たけ》に 間《ま》なくぞ 雨《あめ》は降《ふ》るとふ 時《とき》じくぞ 雪《ゆき》は降《ふ》るとふ その雨《あめ》の 間《ま》なきが如《ごと》 その雪《ゆき》の 時《とき》じきが如《ごと》 間《ま》も闕《お》ちず 吾《われ》はぞ恋《こ》ふる 妹《いも》が正香《ただか》に
三吉野之 御金高尓 間無序 雨者落云 不時曾 雪者落云 其雨 無間如 彼雪 不時如 間不落 吾者曾戀 妹之正香尓
【語釈】 ○み吉野の御金の嶽に 「御金の嶽」は、奈良県吉野郡吉野町の東南で、金峯神社のある山、大峰山。「みか」は、大きい意の古語。「ね」は、峰。○間なくぞ雨は降るとふ 絶え間なく雨が降るということである。○時じくぞ雪は降るとふ 「時じく」は、その時節でなく。すなわち、冬ではなく雪が降るということだ。○間も闕ちず 間を置かずにで、絶え間なく。○妹が正香に 「正香」は、実体。
【釈】 吉野の御金の嶽には、絶え間なく雨が降るということである。その時節ではなく雪が降るということである。その雨の絶え間のないように、その雪の時節のないがように、間も置かずに、絶え間なくわれは恋うていることである。妹が実体を。
【評】 この歌は、巻一(二五)天武天皇の御製という「み吉野の耳我の嶺に」と同じ系の歌であり、また、上の(三二六〇)「小治田の愛智の水を」も、その影響の濃厚なもので、その土地の謡い物として興味深く謡われ、他にも影響を及ぼしていたのである。平明で、テンポが緩く、謡い物には好適なものであったとみえる。
反歌
3294 み雪《ゆき》降《ふ》る 吉野《よしの》の岳《たけ》に 居《ゐ》る雲《くも》の 外《よそ》に見《み》し子《こ》に 恋《こ》ひわたるかも
(78) 三雪落 吉野之高二 居雲之 外丹見子尓 戀度可聞
【語釈】 ○み雪降る吉野の嶽に居る雲の 「居る雲の」は、かかっている雲のように。以上、譬喩として「外」にかかる序詞。○外に見し子に恋ひわたるかも 遠い関係に見ていた娘に恋いつづけることである。「子」は、女の愛称。
【釈】 雪の降る吉野の山にかかっている雲のように、遠くよそに見ていた可愛ゆい女に、恋い続けることである。
【評】 これは片恋の嘆きで、長歌とは繋がりのない歌である。序詞で関係づけたのであろうが、この序詞は冬の実景を捉えたものである。
右二首
3295 うち日《ひ》さつ 三宅《みやけ》の原《はら》ゆ 直土《ひたつち》に 足踏《あしふ》み貫《ぬ》き 夏草《なつくさ》を 腰《こし》になづみ 如何《いか》なるや 人《ひと》の子《こ》ゆゑぞ 通《かよ》はすも吾子《あご》 諾《うべ》な諾《うべ》な 母《はは》は知《し》らじ 諾《うぺ》な諾《うべ》な 父《ちち》は知《し》らじ 蜷《みな》の腸《わた》 か黒《ぐろ》き髪《かみ》に 真木綿《まゆふ》持《も》ち あざさ結《ゆ》ひ垂《た》り 大和《やまと》の 黄楊《つげ》の小櫛《をぐし》を 抑《おさ》へ挿《さ》す 刺細《さすたへ》の子《こ》は それぞ吾《わ》が妻《つま》
打久津 三宅乃原從 常土 足迩貫 夏草乎 腰尓魚積 如何有哉 人之子故曾 通簀文吾子 諾々名 母者不知 諾々名 父者不知 蜷腸 香黒髪丹 眞木綿持 阿邪左結垂 日本之 黄楊乃小櫛乎 抑刺 々相子 彼曾吾嬬
【語釈】 ○うち日さつ三宅の原ゆ 「うち日さつ」は、「うちひさす」と同じで、巻十四(三五〇五)「うち日さつみやの瀬川の」がある。宮にかかる枕詞。「三宅の原」は、奈良県磯城郡三宅村(いま、田原本町に入る)。「ゆ」は、そこを通って。 ○直土に足踏み貫き 「直土」は、地べた。「足踏み貫き」は、足を踏み込んで。○夏草を腰になづみ 「なづみ」は、難渋するで、夏草の丈の高いのを、腰で押し分けて歩く意。○如何なるや人の子ゆゑぞ どういう可愛ゆい女のゆゑに。「や」は、感動の助詞。「人の子」は、「人の」は、感を強めるために添えたもの。「子」は、女の愛称。○通はすも吾子 お通いになるのか、わが子よ。「通はす」は、「通ふ」の敬語で、親から子にいっているもので、珍しいものである。この場合、背後にいる娘に対して用いたものと取れる。以上第一段で、母より子に問うたもの。○諾な諾な母は知らじ 「諾な諾な」は、「諾」は、(79)うべなう意。「な」は、感動の助詞で、もっともだ、もっともだと繰り返して強めたもの。「母は知らじ」は、母は知るまいで、父より母を先にするのは、親疎の差があったからである。○蜷の腸か黒き髪に 「蜷の腸」は、蜷は貝の一種で、その腸は真黒なところから、譬喩で黒にかかる枕詞。食料としたのである。「か黒き」の「か」は、接頭語。○真木綿持ちあざさ結ひ垂り 「真木綿持ち」は「真」は、接頭語で、木綿をもって。木綿は繊維の総称。ここは麻か。「あざさ」は、諸説があり、明らかでない。『代匠記』は、『倭名類聚妙』に、「※[草冠/行]菜和名、阿佐々」とあるにより、それであろうとしている。※[草冠/行]菜は沼沢に生じ、「じゆんさい」に似た水草である。何らかの行事の時、その季節の木の枝、花などを髪にかざすことは、男女を通じての習いで、ここもそれであろう。「結ひ垂り」は、木綿をもってあざさを結び、それを髪に結い着けて、垂らしてで、一種の挿頭である。○大和の黄楊の小櫛を 大和で造った黄楊の櫛は、名高い物となっていたとみえる。「黄楊」は、櫛材としては最上の物。「小」は、美称。○抑へ挿す刺細の子は 「抑へ挿す」は、髪の毛の押えとして挿している。「刺細の子」という語は、ここにあるのみで、他に用例の無いものである。したがって語義が解せられず、諸説がある。斎藤清衛氏は『総釈』で、稲田に早苗を挿す田部の子の意であろうといっている。「蟻の腸」以下頭髪について言いつづけていることは、平常のさまではなく、特殊なさまである。稲の苗を挿すのは、後世でも若い女のすることと定まっていて、これは豊作の呪いとしてのことで、信仰の伴っていることである。また田植祭もしたのである。ここにいっている若い女の髪の装飾は、田植をする時の礼装とすると、自然なものとなる。親の言葉の「夏草を」によると、時は夏である。「あざさ」も、もし呪いの心の伴った夏の物とすると、『総釈』の解が自然となる。「刺細の子」は、この歌にとっては重要な位置を占めている語であるから、現在では斎藤清衛氏の解に随うべきであろう。「田部」は、皇室の田を作る集団の称であろう。○それぞ吾が妻 それがわが妻である。以上第二段で、子の答。
【釈】 三宅の原を通って、地べたを足で踏み込み、夏草を腰で押し分けて、どういう娘のゆえにお通いになるのであるか、わが子よ。もっともだ、もっともだ、母は知るまい、もっともだ、もっともだ、父は知るまい。蜷の腸のような黒い髪に、木綿をもってあざさを結んで垂らして、大和の黄楊の櫛を髪の押えに挿している、早苗を挿す田部の可愛ゆい娘は、それがわが妻であるよ。
【評】 この歌は謡い物であるのみならず、その典型的なものである。三宅の原付近の地方で、田植祭の時に謡われたものであろうと思われる。村落生活の健康に楽しい面を遺憾なく発揮している快い歌である。形は明らかに問答歌であるが、それを一首としているのは、一と続きに謡われているのを筆録したためでもあろう。一首の中心は、子がその女の髪飾りの美しさを言い立てている点である。これは女の可愛ゆさをいうためのものであるが、これはいったがごとく、若い娘が神事としての田植をする際の礼装であって、部落生活をしている者はひとしく見馴れていることであり、また部落生活にあっては、最も希望に充ちた楽しい時であるとともに、部落の娘の最も魅力的な折でもあったのである。部落の取材として、田植の際の娘と、恋情とを一つにしたものは、一般性のある、絶好なものである。この歌は、取材が、明るく豊かに詠み生かされているものである。
反歌
(80)3296 父母《ちちはは》に 知《し》らせぬ子《こ》ゆゑ 三宅道《みやけぢ》の 夏野《なつの》の草《くさ》を なづみ来《く》るかも
父母尓 不令知子故 三宅道乃 夏野草乎 菜積來鴨
【語釈】 ○三宅道の 三宅へ行く道の。○なづみ来るかも 女の許へ通って行く際の心。
【釈】 父母に知らせない女のゆえに、三宅往還の、夏野の草の中を、難渋してかよって行くことであるよ。
【評】 長歌の全体を時間的に展開させて、その後の、女の許へ通って行く時の心である。「なづみ来る」は、女を中心としての言い方である。反歌としての働きを十分にしている歌である。
右二首
3297 玉《たま》だすき 懸《か》けぬ時《とき》なく 吾《わ》が念《おも》ふ 妹《いも》にし逢《あ》はねば 茜《あかね》さす 昼《ひる》はしみらに ぬばたまの 夜《よる》はすがらに 眠《い》も睡《ね》ずに 妹《いも》に恋《こ》ふるに 生《い》けるすべなし
玉田次 不懸時無 吾念 妹西不會波 赤根刺 日者之弥良尓 鳥玉之 夜者酢辛二 眠不睡尓 妹戀丹 生流爲便無
【語釈】 ○玉だすき懸けぬ時なく 心に懸けない時はなくで、既出。○茜さす昼はしみらにぬばたまの夜はすがらに 上の(三二七〇)に出た。○眠も睡ずに 寝ても眠れずに。既出。○生けるすべなし 生きている道がない。
【釈】 玉だすき心にかけない時はなくわが思っている妹に、逢わないので、昼は終日、夜は終夜寝ても眠れずに妹に恋うているので、生きている道がない。
【評】 慣用句を続けて、自身の心を説明している歌である。理解に訴えたもので、感情に訴えたものではない。散文的な歌である。
反歌
(81)3298 よしゑやし 死《し》なむよ吾妹《わぎも》 生《い》けりとも かくのみこそ吾《わ》が 恋《こ》ひ渡《わた》りなめ
縱惠八師 二々火四吾味 生友 各鑿社吾 戀度七目
【語釈】 ○よしゑやし死なむよ吾妹 「よしゑやし」は、ままよ、というにあたる。「ゑやし」は、感動の助詞。死のうよ吾味よと、呼びかけたもの。○生けりとも 生きていようとも。○かくのみこそ吾が恋ひ渡りなめ このようにばかりわれは恋い続けることであろう。
【釈】 ままよ、死のうよ吾味よ。生きていようとも、このようにばかりわれは恋いつづけることであろう。
【評】 巻十二(二八六九)「今は吾《わ》は死なむよ吾妹逢はずして念ひ渡れば安けくもなし」、同(二九三六)「今は吾は死なむよ我が背恋すれば一夜一日も安けくもなし」があり、他にも類似のものがある。謡い物として行なわれていたものを、いささか形を変えて取り合わせたものである。
右二首
3299 見渡《みわたし》に 妹《いも》らは 立《た》たし この方《かた》に 吾《われ》は立《た》ちて 思《おも》ふ空《そら》 安《やす》からなくに 嘆《なげ》く空《そら》 安《やす》からなくに さ丹塗《にぬり》の 小舟《をぶね》もがも 玉纏《たままき》の 小楫《をかぢ》もがも 漕《こ》ぎ渡《わた》りつつも 相語《かたら》はましを
見渡尓 妹等者立志 是方尓 吾者立而 思虚 不安國 嗅虚 不安國 左丹〓之 小舟毛鴨 玉纏之 小※[楫+戈]毛鴨 榜渡乍毛 相語益遠
【語釈】 ○見渡に妹らは立たし 「見渡」は、やや遠く見る所の称で、ここは河の対岸をいっている。「妹ら」の「ら」は、接尾語。「立たし」は、立つの敬語で、女性に対しては慣用となっているもの。○思ふ空安からなくに嘆く空安からなくに 心の安くないことの慣用句。句切になる語を、副詞句のごとくに扱って下に続けている。○さ丹塗の小舟もがも 「さ丹塗」は、「さ」は、接頭語で、赤く塗った舟。「がも」は、願望の助詞。○王纏の小楫もがも 「玉纏」は、装飾として玉を取りつけたもの。「小」も、美称。○漕ぎ渡りつつも相語はましを 「漕ぎ渡りつつ」は、漕ぎ渡りつつ河を越しても。「相語はましを」は、原文、諸本「相語妻遠」であるが、「妻」は「益」の誤写とした『略解』の説による。語らおうものをの意。
(82)【釈】 見渡の向かう岸に妹はお立ちになり、こちらの岸にわれは立って、恋うる心は安くはないことであるよ、嘆く心は安くはないことであるよ。丹塗の舟のほしいことである、玉纏の楫のほしいことである。漕ぎ渡りつつ越して相語らおうものを。
【評】 彦星の心を詠んだ歌である。漢土の民間伝説のわが国に一般化したのは、夫婦が別居しており、また妨げが起こりやすかったわが風習に合致するところがあったがためで、この歌の「相聞」の中に加えられているのもそのためであろう。七夕の歌としては古風な単純なもので、結句の、八七であることも、古さを思わせる。
或本の歌の頭句に云ふ、こもりくの 泊瀬《はつせ》の河《かは》の 遠方《をちかた》に 妹《いも》らは立《た》たし この方《かた》に 吾《われ》は立《た》ちて
或本歌頭句云、己母理久乃 波都世乃加波乃 乎知可多尓 伊母良波多々志 己乃加多尓 和礼波多知弖
【解】 「頭句」は、ここは上の歌の初めの部分の意で、六句を指したもので、これだけが別伝となっているというのである。「語釈」は略す。上の歌が泊瀬地方で謡われている中に、天の河を泊瀬河に、また牽牛織女を、泊瀬河を隔てて住んでいる男女に謡いかえたもので、謡い物としてはきわめて起こりやすい、自然なものである。上の歌に「天の河」という語がないので、このことは一段とたやすかったとみえる。
右一首
3300 おし照《て》る 難波《なには》の埼《さき》に 引《ひ》き上《のぼ》る 赤《あけ》のそほ舟《ぶね》 そほ舟《ぶね》に 綱《つな》取《と》り繋《か》け 引《ひ》こづらひ ありなみすれど 言《い》ひづらひ ありなみすれど ありなみ得《え》ずぞ 言《い》はれにし我《わ》が身《み》
忍照 難波乃埼尓 引登 赤曾朋舟 曾朋舟尓 綱取繋 引豆良比 有雙雖爲 曰豆良賓 有雙雖爲 有雙不得叙 所言西我身
【語釈】 ○おし照る難波の埼に 「おし照る」は、難波の枕詞。「難波の埼」は、難波の海へ流入する淀川の河口の岬の称。「に」は、に向かって(83)で、海上を来た舟を、淀川に漕ぎ入れようとして。○引き上る赤のそほ舟 曳き舟として引き上るところの、赤色をした赤土で塗った舟。○そほ舟に綱取り繋け そのそほ舟に綱を取りつけてで、舟の状態を細叙したもの。以上「引こづらひ」に序詞となっている。○引こづらひありなみすれど 「引こづらひ」は、引くことを連続させる意の語で、用例は古事記、神代の巻、八千矛の神の沼河比売を娉いする歌に、その閨の開き戸の、開かないのを強いて引き開けようとして、「引こづらひ我が立たせれば」とある。なお、かかずらう、あげつらうなど同系の語の少なくないものである。上からの続きは、淀河の海に流入する水勢にさからって、曳き悩む意で続け、序詞を受けての関係で転義させているものである。転義したほうは、さからい続けての意であろうと思われる。それは次の二句はこれと対句で、繰り返しの形のものであり、その「言ひづらひ」とほぼ同意語の関係に立っているからである。「ありなみすれど」は、「ありなみ」は他に用例のない語である。本居宣長は、否み続ける意だとしている。「あり通ひ」「あり立たし」などと同系の語で、継続して無みする意だとするのである。二句、さからい続けて否み続けるけれどもで、男女関係の上で、女が男からしつこく求婚されて、そのつど否みつづけて来たけれどもの意。○言ひづらひありなみすれど 言いつづけて否み続けて来たけれども。○ありなみ得ずぞ言はれにし我が身 否みつづけることができないように、相手に言われてしまったわが身であるで、「ぞ」は、係助詞。「我が身」は、下に詠歎を含めたもの。
【釈】 おし照る難波の埼に向かって曳き上るところの赤色のそほ舟。そのそほ舟に綱を取りつけて、曳き悩みつづけるのに因みある、我もさからい続けて否み続けたが、言い続けて否みつづけたが、さからい続けることのできないように相手に言われてしまったわが身であるよ。
【評】 女が求婚されたが、相手が気に染まずに断わったが、男は諦めずしつこく繰り返して迫り、女も前の態度を変えずにいたが、ついに根負けがして否めなくなり、身を任せてしまっての嘆きである。これは例の多いことであったろう。序詞は特色のあるもので、曳き舟のさまを常に見ていなければいえないものである。淀川河口に行なわれていた謡い物であったろう。この歌は相応に古風なもので、物言いがおうようで、語つづきも大まかであるが、しかしこもっている情味は深くて、全体としては立体的で、含蓄があるという、古風の歌の趣を十分に持っているものである。結尾の七七八という形もそれを示している。反歌もないものである。特色ある歌である。
右一首
3301 神風《かむかぜ》の 伊勢《いせ》の海《うみ》の 朝《あさ》なぎに 来寄《き》る深海松《ふかみる》 夕《ゆふ》なぎに 来寄《きよ》る俣海松《またみる》 深海松《ふかみる》の 深《ふか》めし吾《われ》を 俣海松《またみる》の 復《また》往《ゆ》き反《かへ》り 妻《つま》と言《い》はじとかも 思《おも》ほせる君《きみ》
(84) 神風之 伊勢乃海之 朝奈伎尓 來依深海松 暮奈藝尓 來因俣海松 深海松乃 深目師吾乎 俣海松乃 復去反 都麻等不言登可聞 思保世流君
【語釈】 ○神風の 伊勢の枕詞。○朝なぎに来寄る深海松夕なぎに来寄る俣海松 「来寄る」は、寄り来る。「深海松」は、海の深い所に生ずる海松。「俣海松」も、枝が特に大きいところからの称。○深海松の深めし吾を 「深海松の」は、同音で深にかかる枕詞。「深めし吾を」は、心に深く思わしめたわれであるのにで、女の心深く思った意で、「を」は、感動の助詞。○俣海松の復往き反り 「俣海松の」は、上と同じく同音で、復にかかる枕詞。「復往き反り」は、再び往復して。○妻と言はじとかも思ほせる君 妻といおうとはお思いにならないか君よ。「かも」は、疑問の係。「思ほせる」は、敬語。結末は、「三、六、七」で、「三五七」の古形のくずれたものである。
【釈】 神風の伊勢の海に、朝凪には寄って来る深海松、夕凪には寄ってくる俣海松。その深海松の心深く思わせたわれであるのに、俣海松のまた往復して、妻といおうとはお思いにならぬか君よ。
【評】 男から絶縁された女が、夫を忘れ得ぬところから、復縁を訴えた歌である。当時の夫婦関係にあっては、絶縁も復縁もたやすいことで、こうした例は多いものである。「深海松の深めし吾を」以下の訴えは、要を得た、しかし心細かい、巧みな訴え方である。それに合わせては、前半六句は、一種の序詞ともいうべきもので、後半と気分のつながりはあるが、冗漫の感のあるもので、少なくとも後半の緊密な言い方とは調和しないものである。巻二(一三五)人麿の石見国から京へ上る時の歌の「つのさはふ石見の海の、言さへく韓の崎なる、いくりにぞ深海松生ふる、荒磯にぞ玉藁は生ふる、玉藻なす靡き寐し児を、深海松の深めて思へど」と関係あるものと思える。後半との不調和を思うと、人麿の歌の影響を受けたと見られるものである。結末の形は古いが、後半は奈良朝時代を思わせるものである。
右一首
3302 紀《き》の国《くに》の 室《むろ》の江《え》の《へ》辺に 千年《ちとせ》に 障《さは》ることなく 万世《よろづよ》に かくしあらむと 大舟《おほぶね》の 思《おも》ひたのみて 出立《いでたち》の 清《きよ》き渚《なぎさ》に 朝《あさ》なぎに 来寄《きよ》る深海松《ふかみる》 夕《ゆふ》なぎに 来寄《きよ》る繩苔《なはのり》 深海松《ふかみる》の 深《ふか》めし子《こ》らを 繩苔《なはのり》の 引《ひ》けば絶《た》ゆとや 里人《さとひと》の 行《ゆき》の集《つどひ》に 泣《な》く児《こ》なす 靫《ゆき》取《と》り さぐり 梓弓《あづさゆみ》 弓腹《ゆはら》振《ふ》り起《おこ》し 志乃岐羽《しのきは》を 二《ふた》つ手挟《たばさ》み 離《はな》ちけむ 人《ひと》し悔《くや》しも 恋《こ》ふら}(85)く思《おも》へば
紀伊國之 室之江邊尓 千年尓 障事無 万世尓 如是將在登 大舟乃 思恃而 出立之 清瀲尓 朝名寸二 來依深海松 夕難岐尓 來依繩法 深海松之 深目思子等遠 繩法之 引者絶登夜 散度人之 行之屯尓 鳴兒成 行取左具利 梓弓 々腹振起 志乃岐羽矣 二手挟 離兼 人斯悔 戀思者
【語釈】 ○室の江の辺に 「室の江」は、和歌山県の南方で、田辺湾全体の称。○千年に障ることなく 永久に妨害の起こることなく。○万世にかくしあらむと 永久にこのようにあろうとで、「し」は、強意。○大舟の思ひたのみて 大舟に乗ったように思い頼んでで、「深海松の深めし子ら」に続く。○出立の清き渚に 「出立の」は、家を出で立った所で、門前。「清き渚」は、上の室の江で、家の前面がただちに渚となっていたのである。田辺市元町の小字に「出立」の名があるので「出立」を地名とする説もある。○朝なぎに来寄る深海松夕なぎに来寄る繩苔 「繩苔」は、今、海素麺と呼ぶ海藻で、食用とする。赤紫色で柔らかい。以上六句序詞。○繩苔の引けば絶ゆとや 「繩苔の」は、譬喩の枕詞。女を自身のほうに引けば、我とは絶えると思ってかで、「や」は、疑問の係助詞で、下に「思ふ」が省かれている。○里人の行の集に 里人が行き集って。「里人」は、広い意のもの。「行の集」は熟語で、「行」も「集」も、名詞。○泣く児なす靫取りさぐり 「泣く児なす」は、泣く児のようにで、飢えて物を探す意で「さぐり」の枕詞。「靫取りさぐり」は、「靫」は、矢を入れる器で、用いる時は背に負う物。背の靫を手探りに探ってで、矢を求める意。○梓弓弓腹振り起し 梓弓の胴体をまっすぐに立ててで、弓を引く状態。○志乃岐羽を二つ手挟み 「志乃岐羽」は、矢の名で、羽によってつけた名と思われるが、そのものは不明である。「二つ手挟み」は、二筋を指に挟み持って。これは矢を射る時の状態。「里人の」以下八句は、矢を離す意の「離ち」に続く序詞である。○離ちけむ人し悔しも 「離ちけむ」は、序詞を受けての転義としては、女を我より離してしまったであろうで、過去の伝聞で、そうしたことをしたという人の残念に思われることだ。○恋ふらく思へば 我の女を恋うることを思うと。
【釈】 紀伊国の室の江の辺で、千年も妨害の起こることがなく、万年もこのようにいようと、大舟のように頼んで、その家の門前の清い渚へ、朝なぎに寄って来る深海松、夕なぎに寄って来る繩苔の、その深海松のように心深く思っていた愛すべき女を、繩苔のように、その人に引き寄せれば我と絶えると思ったのであろうか。その里の人が行き集って一団となっている所で、飢えて泣く児の乳を探すように、背に負う靫を手に探って、弓腹を起こして立てて、志乃岐矢を二筋指に挟み、その矢を引き放すそれのように、我より妹を引き離してしまった人が悔しいことだ。このように恋うることを思うと。
【評】 この歌は難解とされているものである。一首の作意は明らかで、男が室の江のほとりの女と関係を結び、双方深く思い合い、女の家でもその関係を承認しているので、何事もなかろうと思っていると、女はいつの間にか離間されてしまっていた。(86)男は、そうしたことが尋常ではあるべきはずがない、強いてしたことだとして、離間した人に怒りを起こしているのが作意である。難解とされるのは、女を男より離した、その「離ちけむ」の序として同音の矢を放つをいうために、「里人の」以下八句の長序を用いている、その序詞である。この歌にとっては、この八句の序は長きにすぎて不調和なものであり、離間そのことに何らか事件的つながりのあるものではないかと思わせる。また、「里人の行の集に」以下は、ただ矢を放つことをいうためとしては、特殊な場合と状態になっているために、一段とその感を強めさせもするのである。それにまた、「志乃岐羽」と称する矢が、当時はその名によってその事をあらわし得たろうが、今は不明であるために、さらにこの感を募らせるのである。しかし大体は、里人の集団となっているところで、一人の代表者が弓を射ることで、狩猟とか、信仰上の行事とかの範囲のもので、要するに表現技巧としてのもので、離すこととは事件的つながりのないものにみえる。そう解して、一首には不調和な、技巧にすぎる長序と見なす。難解とするのはこの一点だけである。詠み方は、抒情を主としたもので、むしろ気分本位のものである。前半の「出立の」以下六句の序詞は、慣用句といえるもので、謡い物系統のものである。後半の問題の長序もこれに誘われての興味本位のものと思える。謡い物として作った、奈良朝時代の新しい歌と思われる。
右一首
3303 里人《さとぴと》の 吾《われ》に告《つ》ぐらく 汝《な》が恋《こ》ふる 愛《うつく》し夫《づま》は 黄葉《もみちば》の 散《ち》り乱《みだ》れたる 神名火《かむなび》の この山辺《やまべ》から【或本に云ふ、彼《そ》の山辺《やまべ》 ぬばたまの 黒馬《くろま》に乗《の》りて 河《かは》の瀬《せ》を 七瀬《ななせ》渡《わた》りて うらぶれて 夫《つま》は 逢《あ》ひきと 人《ひと》ぞ告《つ》げつる
里人之 吾丹告樂 汝戀 愛妻者 黄葉之 散乱有 神名火之 此山邊柄【或本云、彼山辺】 烏玉之 黒馬尓乘而 河瀬乎 七滞渡而 裏觸而 妻者會登 人曾告鶴
【語釈】 ○里人の吾に告ぐらく 「告ぐらく」は、「告ぐ」の名詞形。告げることには。○汝が恋ふる愛し夫は 「夫」は、原文「妻」。反歌には「公」とあるので、夫に当てた字と取れる。例のあるものである。お前の恋うている愛する夫は。○黄葉の散り乱れたる 「散り乱れ」は、『新考』の訓。乱れ散っているの意。○神名火のこの山辺から 「神名火」は、そこに近く「河」のあるところから飛鳥の神名火すなわち雷丘である。「この」は、「その」と通じて用いていた。ここはそのの意である。「山辺から」は、山の辺を経ての意。神名火の山辺を通って。一本は「この」が、「その」となっている。○ぬばたまの黒馬に乗りて 真黒な黒馬に乗って。○河の瀬を七瀬渡りて 「河」は、飛鳥河と取れる。河の瀬を幾瀬も(87)渡って。○うらぶれて夫は逢ひきと 憂えしおれて、夫はわれに逢ったとで、憂えしおれている夫を見たの意を、夫のほうを主としての言い方である。以上が里人の語。○人ぞ告げつる 人が告げたことであるよと、詠歎してのもの。
【釈】 里人が我に告げることには、お前が恋うている愛する夫は、黄葉の乱れ散っているあの神名火の山辺をとおって(その山辺をとおって)、真黒な黒馬に乗って、飛鳥河の河瀬を幾瀬も渡って、憂えしおれて、我に逢ったと、人が告げたことであるよ。
【評】 『考』はこの歌を挽歌としているが、編集者はそうは認めずに、相聞の中に加えている。挽歌と見ると、すべて自然に感じられる歌である。上代の夫妻は別居して暮らしたのと、その間を秘密にしていたなどの関係から、そのいずれかが死んだ場合にも、ただちに通知しなかったことは、挽歌に多く見えていることで、この歌もそれである。また、死者を生者のごとくいっているのは、死者を怖れる心から尊んですることであって、これも特別のことではない。「河の瀬を七瀬渡りて」というのは、葬地への路以外の言い方ではない。里人というのは一人の人で、妻の特に親しくしていた人である。野辺送りを馬に乗せてしたということは、葬地は山で、遠方であるからの事と取れる。素朴を極めた歌であるが、魅力あるものである。
反歌
3304 聞《き》かずして 黙然《もだ》あらましを 何《なに》しかも 公《きみ》が正香《ただか》を 人《ひと》の告《つ》げつる
不聞而 黙然有益乎 何如文 公之正香乎 人之告鶴
【語釈】 ○聞かずして黙然あらましを われは聞かずに、黙ってしずかにいたかったものを。○何しかも 「し」は、強意の助詞。「かも」は、疑問。何だって。○公が正香を人の告げつる 君の実体を人の告げたことであろうか。
【釈】 われは聞かずに、黙ってしずかにいたかったものを。何だって、君の実体を、人の告げたことであろうか。
【評】 長歌を承けて、一歩を進めて、悲歎の情を述べたものである。明らかに挽歌である。総括しての気分で、語は単純であるが、含蓄を持っている。
右二首
問答
(88)3305 物《もの》念《おも》はず 道《みち》行《ゆ》く去《ゆ》くも 青山《あをやま》を ふり放《さ》け見《み》れば 躑躅花《つつじばな》 香未通女《にほえをとめ》 桜花《さくらばな》 盛未通女《さかえをとめ》 汝《なれ》をぞも 吾《われ》に寄《よ》すといふ 吾《われ》をもぞ 汝《な》に寄《よ》すといふ 荒山《あらやま》も 人《ひと》し寄《よ》すれば 寄《よ》そるとぞいふ 汝《な》が心《こころ》ゆめ
物不念 道行去毛 青山乎 振放見者 茵花 香未通女 櫻花 盛未通女 汝乎曾母 吾丹依云 吾〓毛曾 汝丹依云 荒山毛 人師依者 余所留跡序云 汝心勤
【語釈】 ○物念はず道行く去くも 何ごころなく道を行きながらも。「行く去くも」は、「行きなむも」と訓んでいたのを、『評釈万葉集』が改めたもの。○青山をふり放け見れば 青山を、身をそらせて望むと。○躑躅花香未通女 そこに咲く躑躅の花のように、色美しいおとめよ。「にほえ」は、次の人麿歌集にも出ている語で、そちらは仮名書きになっている。○桜花盛未通女 そこに咲く桜花のように盛りのおとめよ。以上、幼馴染の娘を見て呼びかけたもの。○汝をぞも吾に寄すといふ あなたを私に媒介するということだ。「ぞも」は、係助詞で、「寄する」で結ぶべきを、転じて「いふ」で結んでいる。「いふ」に続く場合は通則となっている。「寄す」は、一つにするで、媒介する意。○吾をもぞ汝に寄すといふ 上と同じ。○荒山も人し寄すれば 「荒山」は、人の出入りしなかった山の称で、手の着け難い物の譬喩。「人し寄すれば」は、人が引き寄せればで、「し」は、強意の助詞。○寄そるとぞいふ 「寄そる」は、寄せられる。寄せられるということであるで、当時行なわれていた諺とみえる。○汝が心ゆめ 「ゆめ」は、巻七(一三五六)などに出た。慎しめと強く命令したもの。あなたの心をその気になってしっかりさせろの意。
【釈】 何ごころなく道を行きながらも、青山を望むと、そこに咲く躑躅の花のように色美しいおとめよ、桜の花のように盛りのおとめよ。あなたを人が私に媒介するということだ、私をあなたに媒介するということだ。荒山でも人が引き寄せれば寄せられるという。あなたの心をしっかりさせなさい。
【評】 部落生活をしている若い男が、幼馴染の女に求婚する心である。じつに簡潔に、要をつくした歌で、また美しい歌である。「香未通女」「盛未通女」は、女を愛している心の表現で、こういう際の儀礼の語である。「寄すといふ」の繰り返しは、一種の求婚の申込みであり、「寄そるとぞいふ」は、このことはあなたも私も否も応もないことだというのである。それは部落生活としては鉄則だったからである。「汝が心ゆめ」は、飛躍があるがごとくでない、自然なものである。この歌で注意されるのは、男のほうは「青山をふり放け見れば」と、山に関係づけてあるのに、答のほうの女は、「この河の」と、河に関係づけていることである。このことは古事記神代の巻、八千矛の神が沼河比売を娉いする時の歌には、神は山と野を背後に、比売は海のほとりにいて問答し、また、神と須勢理比売の場合には、神は海のほとり比売は山を背後にして問答していて、それと通うものである点である。このことは次の人麿歌集の歌も同様である。
反歌
3306 いかにして 恋《こ》ひ止《や》むものぞ 天地《あめつち》の 神《かみ》を祷《いの》れど 吾《われ》は思《おも》ひ益《ま》す
何爲而 戀止物序 天地乃 神乎祷迹 吾八思益
【語釈】 ○いかにして恋ひ止むものぞ どのようにしたら、恋いやむものであろうぞで、「恋ひ止む」は、一語。
【釈】 どのようにしたら、恋いやむものであろうぞ。天地の神にその事を祷ったが、我は思いが募って来る。
【評】 反歌は片恋の苦しさに堪えないことの嘆きで、長歌とは繋がりのないものである。歌風も、長歌は古いのに、反歌は新しい。反歌のあることを便利として、後から添えたものである。
3307 然《しか》れこそ 歳《とし》の八歳《やとせ》を 切《き》る髪《かみ》の 吾同子《よちこ》を過《す》ぎ 橘《たちばな》の 末枝《ほつえ》を過《す》ぎて この河《かは》の 下《した》にも長《なが》く 汝《な》が情《こころ》待《ま》て
然有社 年乃八歳〓 鑽髪乃 吾同子〓過 橘 末枝乎過而 此河能 下文長 汝情待
【釈】 ○然れこそ歳の八歳を 「然れこそ」は、男の語を承けて、私もそのように思っていればこそ。「八歳を」は、多くの年をで、何年もの間(90)を。○切る髪の吾同子を過ぎ 「切る髪」は、髪の末を切り揃えるで、振り分け髪のこと。「吾同子」は、われと同じ年頃の子の意で、これは子供時代をだけいう語であるところから、ここは子供時代の意でいっているもの。振り分け髪の子供時代を過ぎ。○橘の末枝を過ぎて 「橘の末技」は、これをいう女の傍らにあったものとみえる。これは身長で、一人前の大きさとなつての意であるから、その橘は低い木でなくてはならない。○この河の下にも長く 「この河の」は、同じく傍らの河を捉えて、譬喩として「下」にかけた枕詞。「下」は、心の底。心の底で、長い間。○汝が情待て あなたの心のそのようになるのを待っていたことであるで、「待て」は、起首の「こそ」の結。
【釈】 私もそのように思っているので、何年もの間を、すなわち髪を切る振り分け髪の少女時代を過ぎ、身の丈の橘の先の枝を過ぎての今まで、この河の底に因む下心に、あなたの心のそうなることを待っていたことである。
【評】 男の求婚に対して、言下に応じたばかりではなく、すでに何年もの間、男からそのようにいわれるのを待ちかまえていたことだと、男よりも単純に、率直に、しかしつつましさをもって応じているものである。これは女の共通性といえる。注意されるのは、「橘の末枝を過ぎ」と、「この河の」という枕詞である。これは傍らにそういう実物がなければいえない形の言い方である。想像に訴えての言い方としても通じなくはないが、それとしてはやや無理な言い方である。その点からいうと、この歌はそうした装置を傍らにしての謡い物ではなかったか。男のほうには青山を思わせる装置があり、女のほうにはいうような装置があって、その前に立っての懸け合いの謡い物ではなかったかと思われるのである。それだと、身振りを伴っての舞台芸能である。とにかくその傾向の物として、問題になりうるものと思われる。
反歌
3308 天地《あめつち》の 神《かみ》をも吾《われ》は 祷《いの》りてき 恋《こひ》といふものは かつて止《や》まずけり
天地之 神尾母吾者 祷而寸 戀云物者 都不止來
【語釈】 ○かつて止まずけり 「かつて」は、全然。「止まずけり」は、止まざりけりの意の古格。止まないことであった。
【釈】 天地の神をも我は祷ったことであった。恋というものは、全くやまないものであった。
【評】 これも片恋の悩みで、男女いずれにも通じるものである。長歌とはつながりのないことも、それを添えた理由も、男の歌の場合と全く同一である。どちらの反歌も、強いて神につながりを持たせてあるのは、上にいった舞台が、神社に関係があったからではないのか。
(91) 柿本朝臣人麿の集の歌
3309 物《もの》念《も》はず 道《みち》行《ゆ》く去《ゆ》くも 青山《あをやま》を ふり放《さ》け見《み》れば つつじ花《ばな》 にほえをとめ さくら花《ばな》 さかえをとめ 汝《なれ》をぞも 吾《われ》に寄《よ》すといふ 吾《われ》をぞも 汝《なれ》に寄《よ》すといふ 汝《な》はいかに念《おも》ふ 念《おも》へこそ 歳《とし》の八年《やとせ》を 切《き》る髪《かみ》の よち子《こ》を過《す》ぐり 橘《たちばな》の 末枝《ほつえ》を過《す》ぐり この川《かは》の 下《した》にも長《なが》く 汝《な》が心《こころ》待《ま》て
物不念 路行去裳 青山乎 振酒見者 都追慈花 尓太遙越賣 作樂花 佐可遙越賣 汝乎叙母 吾 尓依云 吾乎叙物 汝尓依云 汝者如何念也 念社 歳八年乎 斬髪 与知子乎過 橘之 末枝乎須具里 此川之 下母長久 汝心待
【語釈】 ○汝はいかに念ふ 上の歌の「汝が心ゆめ」にあたる部分である。このほうが自然である。○念へこそ 上の歌の「然れこそ」にあたる部分である。このほうが問の承け方が緊密で、したがって自然である。○よち子を過ぐり 「過ぐり」は、下の「末枝を過ぐり」に仮名書きがあり、他には用例のない語である。四段活用の連用形と取れる。意は過ぎに同じ。
【釈】 略す。
【評】 この歌を上の歌と比較すると、この歌のほうが語つづきが自然であり、一首としての姿も渾然としている。これに較べると上の歌は、部分的の刺激を求めるために、一首の姿を犠牲にすることを避けなかったものである。この歌から上の歌は出るが、上の歌からこの歌は出ない。この歌のほうが原形である。またその点からいうと、この歌は問答を一首の中に盛ってあるが、これは近くは上の(三二九五)「うち日さつ三宅の原ゆ」の歌がそれであり、古くは旋頭歌には例が多く、自然な形である。上の歌はそれを問答二首に分け、不自然な反歌を添えたものである。それはいったがように神社で舞台上の物としようとして行なったことで、この歌を利用する上の計らいであったとみえる。さて、人麿歌集とこの歌との関係であるが、この歌は人麿がすでに行なわれていた歌を備忘のため筆録したものと想像もされるが、同時に人麿自身の作であろうとも想像しうるものである。人暦歌集の相聞歌の中には、若い時代の人麿が、明らかに想像で作ったと思われる歌がかなり多い。それは取材より見てのことである。この歌も、人麿が上の歌と同じ場合の用に供そうとして、興味より想像で作ったものとしても、さして恠《あや》し(92)むには足りないことである。このような想像をするのは、この歌の技巧は、じつに卓絶している。この簡潔と、情味の含蓄の豊かさと、ことにこのあく抜けのした、あっさりした趣とは、人麿の手腕を待たなければ不可能のものであろう。これを集団の合作より成る民謡と見るのは、あまりにも上代におもねったことと思われるからである。
右五首
3310 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の国《くに》に さ結婚《よばひ》に 吾《わ》が来《く》れば たな曇《ぐも》り 雪《ゆき》は降《ふ》り来《き》 さ曇《ぐも》り 雨《あめ》は降《ふ》り来《く》 野《の》つ鳥《とり》 雉《きぎし》はとよみ 家《いへ》つ鳥《とり》 鶏《かけ》も鳴《な》く さ夜《よ》は明《あ》け この夜《よ》は明《あ》けぬ 入《い》りて且《かつ》眠《ね》む この戸《と》開《ひら》かせ
隱口乃 泊瀬乃國尓 左結婚丹 吾來者 棚雲利 雪者零來 左雲理 雨者落來 野鳥 雉動 家鳥 可※[奚+隹]毛鳴 左夜者明 此夜者昶奴 入而且將眠 此戸開爲
【語釈】 ○隠口の泊瀬の国に 「国」は、泊瀬を一国としての称で、郡県制度以前の、政治的の意味を持たなかった時代の称。「吉野の国」ともいい、やや広い一地域を称した語である。○さ結婚に吾が来れば 「さ結婚」は、「さ」は、接頭語。「結婚」は、「妻どい」と同じ。○たな曇り雪は降り来 「たな曇り」は、空が一面に曇って。「降り来」は、『新訓』の訓。○さ曇り雨は降り来 「さ曇り」は、「さ」は、接頭語。「来」は、終止形。○野つ鳥雉はとよみ 「野つ鳥」は、野の鳥で、雉の枕詞。「雉はとよみ」は、雉が高く鳴き立てで、夜明けに第一に鳴くものとしてで、慣用句。○家つ鳥鶏も鳴く 「家つ鳥」は、(93)家に飼う鳥で、鶏の枕詞。「かけ」は、鶏の古名。○入りて且眠む 「入りて」は、家に入りてで、家は女の家。「且」は、事二つに渡らせることをあらわす語で、一方では。「眠む」は、共寝をしよう。○この戸開かせ 「開かせ」は、「開け」の敬語で、女に対しての慣用。命令形。
【釈】 隠口の泊瀬の国に、婚いにわが来ると、空一面に曇って雪が降って来、空が曇って雨が降って来る。野の鳥の雉は高く鳴き、家の鳥の鶏も鳴く。夜は明けて、この夜は明けた。妻よ、家の内に入って、そして共に寝よう。この戸をお開けなさい。
【評】 「隠口の泊瀬の国にさ結婚に吾が来れば」と事の輪郭を最も簡明に叙すると、ただちに寒夜、女の家の戸外に、夜明けまで立ちつくす叙述となり、この歌のほとんど全部にあたる十句を費やしている。すべて二句対句、現在法で、外界を精叙することによって、その侘びしさをあらわそうとしているもので、抒情の一語も用いていない。結末の「入りて且眠む」も命令語で、抒情ではない。明らかに古風な歌で、謡い物の形を持ったものである。泊瀬地方に保たれていた、相応に古い歌である。
反歌
3311 隠口《こもりく》の 泊瀬小国《はつせをぐに》に 妻《つま》しあれば 石《いし》は履《ふ》めども 猶《なほ》ぞ来《き》にける
隱來乃 泊瀬小國尓 妻有者 石者履友 猪來々
【語釈】○泊瀬小国に 「小」は、美称。○石は履めども「石」は、河原の石で、河は泊瀬河。道の悩ましさを女に訴えたもので、誠意を示す意。
【釈】 隠口の泊瀬の国に妻があるので、河原の石を踏む悩ましい路ではあるが、それでも来たことであるよ。
【評】 この反歌は、妻に逢って訴えた形のもので、長歌とは繋がりのつかないものである。妻の答から見ると、逢えずに終わっているから、事としても一段と不自然である。後より添えたものと思われる。歌風のやや新しいこともその事を思わせる。しかしそれは長歌に比較してのことで、歌そのものとすると古いほうのものである。
3312 隠口《こもりく》の 長谷小国《はつせをぐに》に よ《ごと》《おも》《ここだく》ばひせす 吾《わ》がすめろきよ 奥床《おくどこ》に 母《はは》は睡《ね》たり 外床《とどこ》に 父《ちち》は 寝《ね》たり 起《お》き立《た》たば 母《はは》知《し》りぬべし 出《い》で行《ゆ》かば 父《ちち》知《し》りぬべし ぬば玉《たま》の 夜《よ》は明《あ》けゆきぬ 幾許《ここだく》も 念《おも》ふ如《ごと》ならぬ 隠妻《こもりづま》かも
(94) 隱口乃 長谷小國 夜延爲 吾天皇寸与 奧床仁 母者睡有 外床丹 父者寐有 起立者 母可知 出行者 父可知 野干玉之 夜者昶去奴 幾許雲 不念如 隱※[女+麗]香聞
【語釈】 ○よばひせす吾がすめろきよ 「よばひせす」は、「よばひ」は、妻問い。「せす」は、「す」の敬語。「吾がすめろきよ」は、「吾が」は、親しみ尊んで添える語。「すめろき」は、広く天皇としての性質をいう語である。泊瀬との関係で、泊瀬朝倉宮の雄略天皇で、天皇にはこの種の伝説の多い方であったことは、古事記、日本書紀で知られる。○奥床に母は睡たり 「奥床」は、家の奥のほうにある床。下の続きで、女もその側に寝ているのである。○外床に父は寝たり 「外床」は、外側のほうの床で、奥床に対しての称。大体、きわめて狭い家を想像していっているものであるから、同室といえよう。○起き立たば母知りぬべ」 起き上がったならば、母が知ってしまうであろう。○出で行かば父知りぬべし 家の外に出て行ったら、父が知ってしまうであろう。○幾許も念ふ如ならぬ隠妻かも 「幾許も」は、甚しくも。「念ふ如ならぬ」は、思うようにはいかない。「隠妻」は、関係を秘密にしている妻の意で、ここは女が自身をいったもの。「かも」は、感動の助詞。
【釈】 隠口の長谷の国に妻問いをなされるわがすめろきよ。奥床には母が眠っている。外床には父が寝ている。起き上がったならば、母が知ってしまうであろう。外へ出て行ったならば、父が知ってしまうであろう。甚しくも、思うようにはできないところの隠妻であるよ。
【評】 この歌は、妻問いをしたまう天皇をそれと知りつつも、女は逢う方法がなく、逢えずに終わる嘆きをいっているものである。形としては、天皇に訴えてのものとなっているが、事としてはそれすら叶わなかったので、女の心に思っていたことを、客観的に叙したものである。すなわち、天皇が庶民の娘に妻問いをし給うたという伝説を捉え、それを歌としたものであることを、歌自体が示しているものなのである。上代の庶民の家は狭いものなので、娘は親に秘して持っている夫と、家の内で逢ぅことは困難で、戸外へ出て逢うのは珍しくはなかったが、この場合、戸外は冬の寒夜でそれもできない時なのである。詠み方は、男の歌と全く同じで、同じ作者の手に成ったものである。作者の意図としては、天皇は泊瀬朝倉宮の雄略天皇で、天皇にはこれに類した伝説があるところから、歌物語として作ったものであって、天皇も恋の上では不如意を味わわせられたことをいおうとしたのであろう。
反歌
3313 川《かは》の瀬《せ》の 石《いし》ふみ渡《わた》り ぬばたまの 黒馬《くろま》の来《く》る夜《よ》は 常《つね》にあらぬかも
(95) 川瀬之 石迹渡 野干玉之 黒馬之來夜者 常二有沼鴨
【語釈】 ○川の瀬の石ふみ渡り 「川」は、どこへでも適用のできるもので、ここは泊瀬河としてである。○ぬばたまの黒馬の来る夜は 黒馬は、男の乗馬で、男を言いかえたもの。○常にあらぬかも 「常にあらぬか」は、平常で、すなわち、頻繁であってくれぬかで、あってくれよの意。「ぬかも」は、願望。
【釈】 川の瀬の石を踏み渉って、真黒な君の黒馬の来る夜は、平常のことであってくれぬか、あってくれよ。
【評】 この歌は、夫の繁くかよって来ることを願う妻の心で、夫に対して訴えた形のものである。なおこの妻は、普通の関係のもので、隠妻というべき者ではない。長歌とは直接の繋がりのない歌である。歌風としてもやや新しいものである。「川」を泊瀬河とすると、長歌に繋ぎうるところから、反歌として添えたものとみえる。
右四首
3314 つぎねふ 山城道《やましろぢ》を 他夫《ひとづま》の 馬《うま》より行《ゆ》くに 己夫《おのづま》の 歩《かち》より行《ゆ》けば 見《み》る毎《ごと》に 哭《ね》のみし泣《な》かゆ そこ思《おも》ふに 心《こころ》し痛《いた》し たらちねの 母《はは》が形見《かたみ》と 吾《わ》が持《も》てる まそみ鏡《かがみ》に 蜻蛉領巾《あきつひれ》 負《お》ひ並《な》め持《も》ちて 馬《うま》替《か》へ吾《わ》が背《せ》
次嶺經 山背道乎 人都末乃 馬從行尓 己夫之 歩從行者 毎見 哭耳之所泣 曾許思尓 心之痛之 垂乳根乃 母之形見跡 吾持有 眞十見鏡尓 蜻領巾 負並持而 馬替吾背
【語釈】 ○つぎねふ山城道を 「つぎねふ」は、古事記、仁徳の巻の磐姫皇后の御歌に出ており、続きは今と同様で、山城にかかる枕詞。語義は諸説があるが定まらない。つぎつぎに嶺を経る意とする説(『考』)、「つぎね」を二人静の古名とし、それの生えている所の意とする説(福井久蔵氏)がある。「山城道」は、山城街道で、下に泉河を渡ることがあるので、奈良京からの道である。○他夫の馬より行くに 「他夫」は、ここは女よりいっているもので、他人の夫。「馬より」は、馬によっての意の古語。○己夫の歩より行けば 「己夫」は、自分の夫。「歩より行けば」は、徒歩によって行けばで、集団となって旅立つさまを見ると、行商を業とする人々だろうという。○見る毎に哭のみし泣かゆ 「見る毎に」は、その事の繰り返されていることがわかる。「哭のみし泣かゆ」は、泣かればかりするの意の成語。○そこ思ふに心し痛し その事を思うと心が痛い。「し」は強意。旅立ちを見送っての後の心。○たらもねの母が形見と 「形見と」は、ここは遺品としてで、その女としては無上の大切な物。○吾が持(96)てるまそみ鏡に 「まそみ鏡」は、真澄の鏡で、鏡を讃えての称。○蜻蛉領巾負ひ並め持ちて 「蜻蛉領巾」は、蜻蛉羽のように薄い、絹の領巾。「負ひ並め持ちて」は、並べて負うて持って行ってで、一緒に持って行って。○馬替へ吾が背 馬と交換せよ、わが背。奈良京に入って初めて貨幣制度となったが、行なわれたのは一小部分で、一般の者は喜ばず、従前のとおり物々交換であった。「替へ」は、その交換をせよである。『新考』は、「替へ」について、物価の考証をしている。略記すると、天平十年の駿河国正税帳によると、馬一匹は、米にして十二石五斗より二十二石五斗までにあたる。鏡や領巾の価はわからないが、いずれ価の低いもので、馬との交換はできなかったろうという。
【釈】 つぎねふ山城への街道を、他人の夫は馬に乗って行くのに、わが夫の徒歩で行くのを見ると、見るごとに泣かればかりする。その事を思うと胸が痛い。たらちねの母の形見としてわが持っているまそみ鏡に、蜻蛉領巾を一緒にして負うて持って行って、馬と交換なさい、わが夫よ。
【評】 貧しい生活をしている夫妻間で、夫が貧しさのために労苦しているのを見て、その妻の見るに忍びず、出来うる限りの犠牲心を発揮した、物語風の歌である。相思い合う仲にあっては、相手の楽しみを喜ぶ心よりも、苦しみを隣れむ心のほうが強いのは人間の通性である上に、これは他人の夫と自分の夫とを目に見て比較してのことであるから、その情の強く動くのは自然なことである。妻が母の形見の鏡と領巾とを提供しようというのは、この女としては唯一の、また最後の方法である。その品を貴んで「まそみ鏡」「蜻蛉領巾」と呼んでいるのももっともである。語が平明に、調べの静かなのも、その心にふさわしい。庶民生活を取材とした物語的な歌という意味で注意される歌である。物語的傾向を喜んだ奈良朝時代の作と思われる。物語歌として第三者の作ったものと思われる。
反歌
3315 泉河《いづみがは》 渡瀬《わたりせ》深《ふか》み 吾《わ》が背子《せこ》が 旅《たび》ゆき衣《ごろも》 ひづちなむかも
泉河 渡瀬深見 吾世古我 旅行衣 蒙沾鴨
【語釈】 ○泉河渡瀬深み 「泉河」は、京都府相楽郡を流れる、木津川の旧名。「渡瀬深み」は、徒渉地点の水が深いので。○ひづちなむかも 諸注訓がさまざまである。『新訓』の訓。濡れることであろうかなあ。
【釈】 泉河の渡瀬が深いので、わが背子の旅行き衣が濡れるのであろうかなあ。
【評】 家にとどまっている妻の、夫の最も悩む泉河の徒渉を想像しての心である。角度を変え、印象的な境を選んだものであ(97)る。長歌に較べると文芸味が勝ちすぎて、やや不調和の感のあるものである。普通の歌である。
或本の反歌に曰く
3316 まそ鏡《かがみ》 持《も》てれど吾《われ》は しるしなし 君《きみ》が歩行《かち》より なづみ行《ゆ》く見《み》れば
清鏡 雖持吾者 記無 君之歩行 名積去見者
【語釈】 ○しるしなし その甲斐がない。○なづみ行く見れば 難儀をして歩いて行くさまを見ると。
【釈】 まそ鏡を持っているが、われはその甲斐がない。君が徒歩で難儀をして歩き行くさまを見ると。
【評】 一本の反歌であるが、前の反歌よりもこのほうが、長歌との繋がりが緊密である。長歌の全体を総括し、一歩を進めて、事の動機をいったものだからである。しかし繰り返しの範囲を出ないものである。
3317 馬《うま》替《か》はば 妹《いも》歩行《かち》ならむ よしゑやし 石《いし》は履《ふ》むとも 吾《あ》は二人《ふたり》行《ゆ》かむ
馬替者 妹歩行將有 縱惠八子 石者雖履 吾二行
【語釈】 ○馬替はば妹歩行ならむ 「馬替はば」は、長歌を承けたもので、いわれるように馬と取り替えたならば。「替はば」は、「買はば」と同じく四段活用となっている。「妹歩行ならむ」は、われは馬に乗って行こうが、妹のほうは徒歩であろうで、妹も一緒に山城道を旅をすることとなる。しかし長歌にはこの事は全くなく、のみならず、「見る毎に哭のみし泣かゆ、そこ思ふに心し痛し」という中心的な語は、夫の旅立ちを見送り、後からその時の事を思う心をいったもので、妹は家に残っていることをあらわしているものである。これは事として矛盾しているものである。○よしゑやし よしや。○石は履むとも吾は二人行かむ 「石は履むとも」は、河原の石を踏む苦しさはあろうとも。「吾は二人行かむ」は、われは妹と二人共々に行こうで、泉河に関係させていっているとは取れる。
【釈】 馬と取り替えたならば、われは乗馬で行こうが妹のほうは徒歩であろう。よしや河原の石を踏む苦しさはあろうとも、われらは妹と二人で行こう。
【評】 この歌は、或本の反歌の一首であるが、反歌ではなく、男の答歌である。上の女の歌を「問答」の部に加えたのは、編(98)集者がこの或本の反歌の一首を答歌と認めてのことと思われる。しかしこの歌は、編集者に随って答歌と認めても、その体を成していないものである。この歌では、妻が旅へ同行することになっているが、問歌にはそうしたことは全然ない。「石は履むとも」は泉河のことで、問歌と関係づけていようが、問歌のそれは推量であるから、これまたつながりのないものである。本来この歌は、上の長歌を耳にして感動した別人が、男に代わって答歌として詠んだもので、女の歌を曲解して、女も同行したことと思い、また泉河も共に徒渉したこととして詠んだものであろう。それが或本に伝わり、その結果、女の歌も問歌となって、この部へ入れられたという成り行きであろう。女の歌がすでに第三者の歌かと思われるのに、これはまた別の第三者の歌なのである。
右四首
3318 紀《き》の国《くに》の 浜《はま》によるといふ 鰒珠《あはびだま》 拾《ひり》はむと云《い》ひて 妹《いも》の山《やま》 勢《せ》の山《やま》越《こ》えて 行《ゆ》きし君《きみ》 何時《いつ》来《き》まさむと 玉桙《たまほこ》の 道《みち》に出《い》で立《た》ち 夕卜《ゆふうら》を 吾《わ》が問《と》ひしかば 夕卜《ゆふうら》の 吾《われ》に告《の》らく 吾妹児《わぎもこ》や 汝《な》が待《ま》つ君《きみ》は 沖《おき》つ浪《なみ》 来寄《きよ》る白殊《しらたま》 辺《へ》つ浪《なみ》の 寄《よ》する白珠《しらたま》 求《もと》むとぞ 君《きみ》が 来《き》まさぬ 拾《ひり》ふとぞ 君《きみ》は来《き》まさぬ 久《ひさ》にあらば 今《いま》七日《なぬか》ばかり 早《はや》くあらば 今《いま》二日《ふつか》ばかり あらむとぞ 君《きみ》は聞《きこ》しし な恋《こ》ひそ吾妹《わぎも》
木國之 濱因云 鰒珠 將拾跡云而 妹乃山 勢能山越而 行之君 何時來座跡 玉桙之 道尓出立 夕卜乎 吾問之可婆 夕卜之 吾尓告良久 吾妹兒哉 汝待君者 奧浪 來因白珠 邊浪之 縁流白珠 求跡曾 君之不來益 拾登曾 公者不來益 久有 今七日許 早有者 今二日許 將有等曾 君者聞之二々 勿戀吾妹
【語釈】 ○鰒珠拾はむと云ひて 「鰒珠」は、鰒の貝の中にある今の真珠で、それを拾おうといって。男が海のある国へ行くと、妻への家苞として貝殻や海岸の美しい小石などを持って来るのが風習となっていて、ここも出立前、その意味でいったこと。○妹の山勢の山越えて 山はどちらも和歌山県伊都郡の紀の川を挟んでのもの。街道は右岸の勢の山を越すもので、妹の山には関係がない。女はよく知らないのである。○玉桙の道に(99)出で立ち夕卜を吾が問ひしかば 「玉桙の」は、道の枕詞。道に立って、夕卜をわが問うたところがで、このことはすでにしばしば出た。夕方、道に立って、道を行く人の何ごころなく語っている言葉を捉えて、それを専門の卜者に占ってもらうのである。この場合でいうと、道行く人の言葉と、紀伊国にいる夫の霊とは、無意識に相感応するものがあり、その内容が卜者には十分に理解できるとするのである。卜者には霊の感応以上に、神助があるとしたのであろうが、すべて信仰上のことで、それ以上は窺えない。○夕卜の吾に告らく 夕卜がわれに告げることにはで、「告らく」は名詞形。「夕卜」は、卜者の語ではあろうが、夕卜そのもので、神意としてのものである。しかし内容は卜であって、道行く人の語をとおして現われている夫の心である。以下、卜者の語。○あらむとぞ君は聞しし とどまっていようと、夫の君はおっしゃったことであったで、「聞しし」は、「言ひし」の敬語。以上、夫の心。○な恋ひそ吾妹 恋うるな、吾妹よで、これは卜者が妻を慰めて言い添えた語。
【釈】 紀伊国の浜に寄るという鰒珠を拾おうといって、妹の山と勢の山を越して行った君が、いつお帰りになろうかと、玉桙の道に出で立って、夕方の占をわが問うところが、夕方の占がわれに告げることには、吾妹子よ、あなたの待っている君は、沖の浪が寄せて来る白珠、岸の浪の寄せて来る白珠を、求めるとてお帰りにならぬことであるよ。拾うとてお帰りにならぬことであるよ。長くなると、今七日ばかり、早かったらば、今二日ばかりをとどまっているだろう、と君は仰せになったことであるよ。恋われるなよ、吾妹よ。
【評】 官人として紀伊国へ出張した夫の帰りを待ち侘びて、夕卜を問う若い女の問と、それに答える卜者の答とだけを連ねて一首の歌としている、珍しい形の歌である。叙事を目的としての作で、一種の歌物語である。四首の反歌が添っているところから見ると、謡い物となっていたとみえるが、その中の三首までは、明らかにこの歌とは関係のないものである。この歌そのものが問答となっているので、「問答」の部に加えたものとみえる。この歌で注意されることは、夕卜の内容にやや詳しく触れている点である。卜のことはすでに少なからず出ているが、当時にあってはきわめて普通のことであったので、その内容にまで触れていっているものはほとんどない。この歌は、「夕卜の吾に告らく」以下、「君は聞しし」まで、その一半を卜者の語としているので、ほぼその状態が窺われるのである。これで見ると、卜者は、占われる人と明瞭に霊の交流があって、その人の心を代弁するのである。またその言い方は、すべて二句対句の、歌謡的な調子で、語調のゆるやかなもので、敬語を用いているのである。また、卜者は、それとはいっていないが女性であったようで、結尾の「な恋ひそ吾妹」というごとく、個人的な慰めごとも言い添える人だったのである。
反歌
3319 杖《つゑ》衝《つ》きも 衝《つ》かずも吾《われ》は 行《ゆ》かめども 公《きみ》が来《き》まさむ 道《みち》の知《し》らなく
(100) 杖衝毛 不衝毛吾者 行目友 公之將來 道之不知苦
【語釈】 ○杖衝きも衝かずも吾は 杖をついて行く遠い所へでもつかなくても行かれる所へでもで、どんな所へでもの意。○行かめども 行こうけれどもで、行くのは出迎えのため。○公が来まさむ道の知らなく 君がいらっしゃるだろう道筋の知られないことよ。
【釈】 杖をついてもつかなくとも、どこへでもわれは行こうけれど、君のいらっしゃる道を知らないことであるよ。
【評】 男の来るのを待ちきれず、こちらから迎えに行こうという、焦燥気分をあらわしている歌である。独立性の乏しい、反歌と思われる歌である。長歌とは直接のつながりがない。長歌は年若い、おとなしい無知な妻であり、迎いになど出る女ではなく、また道もわかっていて、こうした烈しい気分も、事情も持ってはいないのである。事柄の上に繋がりをつけて、反歌としたものであろう。
3320 直《ただ》に行《ゆ》かず 此《こ》ゆ巨勢路《こせぢ》から 石瀬《いはせ》踏《ふ》み 求《もと》めぞ吾《わ》が来《こ》し 恋《こ》ひてすべなみ
直不徃 此從巨勢道柄 石瀬蹈 求曾吾來 戀而爲便奈見
【語釈】 ○直に行かず此ゆ巨勢路から 上の(三二五七)に類似の句が出た。○岩瀬踏み 川底の岩である川瀬を踏み渡って。○求めぞ吾が来し 「求め」は、無い道を求めて。「来し」は、来たで、『考』の訓。「し」は、「ぞ」の結。○恋ひてすべなみ 恋しくてやるせないので。
【釈】 直接の道すなわち本筋は来ずして、人目を避けてこちらのまわり道から来よというに因む巨勢街道から、岩床の川瀬を踏み渡って、無い道を求めて悩んで来たことであるよ。恋しくてやるせないので。
【評】 男が女の家へ行き、逢ってその衷情を訴えた心の歌で、型となっているものである。上の(三二五七)の、「直に来ず此《こ》ゆ巨勢|路《ぢ》から石橋踏みなづみぞ吾が来し恋ひて術無み」と明らかに同歌で、いささか変えたのみのものである。この歌は男が女と直接相対して詠んだ歌なので、「妹」という語がないのと、「巨勢道」は、大和から紀伊への要路の一部でもあるところから関係づけて、強いて反歌としたものである。無関係な歌である。
3321 さ夜《よ》ふけて 今《いま》は明《あ》けぬと 戸《と》を開《あ》けて 紀《き》へ行《ゆ》く君《きみ》を 何時《いつ》とか待《ま》たむ
左夜深而 今者明奴登 開戸手 木部行君乎 何時可將待
(101)【語釈】 ○さ夜ふけて今は明けぬと 夜更けて、今は夜が明けたといって。夜を朝にして、早く旅立つ意。○紀へ行く君を 「紀」は、紀伊の古名。紀伊方面へ旅立つ君を。
【釈】 夜更けて、今は夜が明けたといって、戸を開けて、紀伊方面へ旅立つ君を、いつ帰るとして待とうか。
【評】 妻の許から旅立つ夫へ贈った歌である。旅立つ状態をくわしくいっているのは、別れを惜しむ心をあらわすためで、「何時とか待たむ」は、それを承けてさみしさをあらわしているものである。長歌の夫はある程度身分のある人を思わせるが、これは身分軽い人らしく、別人である。
3322 門《かど》に坐《ゐ》る 娘子《をとめ》は内《うち》に 至《いた》るとも いたくし恋《こ》ひば 今《いま》還《かへ》り来《こ》む
門座 娘子内尓 雖至 痛之戀者 今還金
【語釈】 ○門に坐る娘子は内に至るとも 門に立って、われを見送っている娘子は、家の内に入ろうとも。「娘子」は、原文「郎子」。郎子は男に対して用いる字であるから、「郎」は、「娘」の誤字でもあろうと『考』はいっている。○いたくし恋ひば今還り来む 甚しくわれを恋うるのならば、すぐ還って来よう。
【釈】 門に立ってわれを見送っていた妹は、内へ入ろうとも、甚しく恋うるのならば、すぐ還って来よう。
【評】 上の歌に答えた男の歌である。上の三句は男の目に見た状態、下の二句は、今贈られた歌に対しての心で、きわめて実際に即したものである。贈答二首とも、心の静かな、気分の細かく働いたもので、奈良朝の歌である。
右五首
譬喩歌
3323 級立《しなた》つ 筑摩左野方《つくまさのかた》 息長《おきなが》の 遠智《をち》の小菅《こすげ》 編《あ》まなくに い刈《か》り持《も》ち来《き》 敷《し》かなくに い刈《か》り持《も》ち来《き》て 置《お》きて 吾《われ》を偲《しの》はす 息長《おきなが》の 遠智《をち》の小菅《こすげ》
(102) 師名立 都久麻左野方 息長之 遠智能小菅 不連尓 伊苅持來 不敷尓 伊苅持來而 置而 吾乎 令偲 息長之 遠智能子菅
【語釈】 ○級立つ筑摩左野方 「級立つ」は、下の筑摩へかかる枕詞とみえるが、語義は諸説があって明らかでない。「筑摩」は、滋賀県坂田郡入江村(現米原町)で、今も字として朝妻・筑摩の名が残っている。琵琶湖の東岸。「左野方」は、地名で、筑摩郷の中の一部と取れる。この地名は、下の続きから見ると、そこに住んでいる人の譬喩で、人をその住地の名で呼んだものと取れる。これは例の多いことである。また下の続きから見ると、この二句は主格となっているもので、左野方はの意のものと取れる。○息長の遠智の小菅 「息長」は、同じく坂田郡の息長村(現在、近江町)。息長河、今の姉川のある地。「遠智」は、息長の中にある地名と取れるが、その名は伝わっていない。「小菅」は、小さい菅で、菅は女の譬喩に慣用されているもので、ここもそれである。「小菅」は、成女以前の女の譬喩と取れる。これは上の続きで、目的格となっているもので、小菅を。○縮まなくにい刈り持ち来 「編まなくに」は、編まないことだのにで、菅を女に譬える関係上、編むを妻とすることに譬えるのも、慣用となっている。「い刈り持ち来」は、「い」は、接頭語。刈って持って来てで、女を連れて来ての譬喩。○敷かなくにい刈り持ち来て 「敷かなくに」は、敷物としないことだのにで、「敷かなく」は、「編まなく」を進めたもので、菅薦に編んで敷くの意。これは妻として親しまない譬喩。○置きて吾を偲はす 「置きて」は、そのままにして置いてで、編まず敷かずに置いて。「吾を偲はす」は、我をして思い恋わしめるで、「偲はす」はここは、その育った地の息長の遠智、すなわち親の家を思い恋わしめる意と取れる。○息長の遠智の小菅 小菅われよの意。
【釈】 級立つ筑摩左野方の人は、息長の遠智の小菅のわれを、編んで妻としないことだのに、刈って連れて来て、敷いて妻として親しまないことだのに、刈って連れて来て、そのまま捨て置いて、われをして育った地を思い恋わしむる。息長の遠智の小菅われよ。
【評】 譬喩歌とは称しても、その多くは、部分的に譬喩を用いているにすぎないものである。この歌は、比較的に譬喩が多いが、「菅」を女に、「編む」「敷く」を結婚に譬えるのは慣用となっていることで、しかもそれが中心ともなっている歌である。新味のあるものは、「級立つ筑摩左野方」によって男をあらわしていることであるが、これも必ずしも新しいとはいえないものである。最も大きいものは、「置きて吾を偲はす」の内容である。「置きて」は、女が「小菅」であるところから見て、婚期に達しない女で、したがって「い刈り持ち来て」は、女が他の男の物となるのを危んで引き取ったと取れる。これはありうることで、それを思わせる歌もある。それだと、「置きて」は、男からいうと当然のことなのである。しかし女は、男がわれを思わぬことと解して、それならば家に帰りたいと思ったと取れる。女の歌で、このことは女としては本能的な要求だからである。譬喩を主体とした歌で、特殊なことは譬喩にはならないのと、その他の譬喩との釣合いの上からも、この意であろうと思われる。この歌は謡い物で、古風なものである。心は単純で、形は簡潔で、語はおおまかで、助動詞、助詞などが少なく、全体に厚みのあることは、明らかにそれを思わせる。結尾の三、七、五、六という形は特にそれを思わせるものである。
(103) 右一首
挽歌
3324 かけまくも あやに恐《かしこ》し 藤原《ふぢはら》の 都《みやこ》しみみに 人《ひと》はしも 満《み》ちてあれども 君《きみ》はしも 多《おほ》く坐《いま》せど 往《ゆ》き向《むか》ふ 年《とし》の緒《を》長《なが》く 仕《つか》へ来《こ》し 君《きみ》が御門《みかど》を 天《あめ》の如《ごと》 仰《あふ》ぎて見《み》つつ 畏《かしこ》けど 思《おも》ひたのみて 何時《いつ》しかも 日足《ひた》らしまして 十五《もちづき》 満《たた》はしけむと 吾《わ》が思《おも》ふ 皇子《みこ》の命《みこと》は 春《はる》されば 植槻《うゑつき》が上《うへ》の 遠《とほ》《みぎり》つ人《ひと》 松《まつ》の下道《したぢ》ゆ 登《のぼ》らして 国見《くにみ》 遊《あそ》ばし 九月《ながつき》 しぐれの秋《あき》は 大殿《おほとの》の 砌《みぎり》しみみに 露《つゆ》負《ゆお》ひて 靡《なび》ける 芽子《はぎ》を 玉《たま》だすき 懸《か》けて偲《しの》はし み雪《ゆき》ふる 冬《ふゆ》の朝《あした》は 刺楊《さしやなぎ》 根張梓《ねばりあづさ》を 御手《おほみて》に 取《と》らしたまひて 遊《あそ》ばしし 吾《わ》が王《おほきみ》を 烟《かすみ》立《た》つ 春《はる》の日暮《ひぐらし》 まそ鏡《かがみ》 見《み》れど飽《あ》かねば 万歳《よろづよ》に かくしもがもと 大船《おほふね》の たのめる時《とき》に 妖言《およづれ》か 目《め》かも迷《まと》へる 大殿《おほとの》を ふり放《さ》け見《み》れば 白細布《しろたへ》に 飾《かざ》り奉《まつ》りて 内日《うちひ》さす 宮《みや》の 舎人《とねり》も【一に云ふ、は】 栲《たへ》の穂《ほ》に 麻衣《あさぎぬ》著《け》るは 夢《いめ》かも 現《うつつ》かもと くもり夜《よ》の 迷《まと》へる間《ほど》に 朝裳《あさも》よし 城上《きのへ》の道《みち》ゆ つのさはふ 石村《いはれ》を 見《み》つつ 神葬《かむはふ》り 葬《はふ》り奉《まつ》れば 往《ゆ》く道《みち》の たづきを知《し》らに 思《おも》へども しるしを無《な》み 嘆《なげ》けども 奥処《おくか》を無《な》み 御袖《おほみそで》 行《ゆ》き触《ふ》れし松《まつ》を 言問《ことと》はぬ 木《き》にはあれども あら玉《たま》の 立《た》つ月毎《つきごと》に 天《あま》の原《はら》 ふり放《さ》け見《み》つつ 玉《たま》だすき 懸《か》けて 思《しの》はな 恐《かしこ》かれども
挂纏毛 文恐 藤原 王都志弥美尓 人下 滿雖有 君下 大座常 徃向 年緒長 仕來 君之御門(104)乎 如天 仰而見乍 雖畏 思〓而 何時可聞 日足座而 十五月之 多田波思家武登 吾思 皇子命者 春避者 殖槻於之 遠人 待之下道湯 登之而 國見所遊 九月之 四具礼之秋者 大殿之 砌志美弥尓 露負而 靡芽子乎 殊手次 懸同所偲 三雪零 冬朝者 刺楊 根張梓矣 御手二 所取賜而 所遊 我王矣 烟立 春日暮 喚犬追馬鏡 雖見不飽者 万歳 如是霜欲得常 大船之 〓有時尓 妖言 目鴨迷 大殿矣 振放見者 白細布 餝奉而 内日刺 宮舎人方【一云、者】 雪穂 麻衣服者 夢鴨 現前鴨跡 雲入夜之 迷間 朝裳吉 城於道從 角障經 石村乎見乍 神葬 々奉者 徃道之 田付〓不知 雖思 印乎無見 雖歎 奧香乎無見 御袖 徃觸之松矣 言不問 木雖在 荒玉之 立月毎 天原 振放見管 殊手次 懸所思名 雖恐有
【語釈】 ○かけまくもあやに恐し 口にかけていうのも甚だ恐れ多いで、天皇、あるいは天皇に準ずる尊貴の方についていう時に用いる成語。「恐し」は、終止形で、以下全体に対してのもの。○藤原の都しみみに 「藤原の都」は、持統天皇の八年十二月より、文武を経、元明の和銅三年奈良宮へ遷られるまでの間の京。奈良県橿原市高殿に、宮址がある。「しみみに」は、「繁《し》み」を畳んで強めた副詞で、「しみ」は、繁茂の意で、ここは人の甚だ多い意。○人はしも満ちてあれども 「人」は、ここは官人を指したもの。「しも」は、強意で、官人はいっぱいにいるけれども。○君はしも多く坐せど 「君」は、敬称で、主君の意。皇子を指したもの。「坐せど」は、「居れど」の敬語。○往き向ふ年の緒長く 「往き向ふ」は、こちらから向かって行く年の意で、年の枕詞。「年の緒」は、「緒」は、年の永続するものとして添えた語で、語感を強めるためのもの。○仕へ来し君が御門を 仕えて来た君の御殿を。「君」は、皇子。「御門」は、御殿を代表させてのもの。○天の如仰ぎて見つつ 天を見るごとく尊く仰ぎ見つつ。○畏けど思ひたのみて 「畏けど」は、畏けれどにあたる古格。恐れ多いが頼みに思って。○何時しかも日足らしまして 「何時しかも」は、早くで、「かも」は、疑問の係助詞。「日足らしまして」は、日を充足おさせになってで、御成人なされての意。「まして」は、「いまして」で、「居る」の敬語。○十五月の満はしけむと 「十五月の」は、満月のごとくで、譬喩として「満はし」にかかる枕詞。「満はしけ」まで形容詞の未然形で、「む」は、推量の助動詞。満ち足りた状になろうかとで、「む」は、「かも」の結。○吾が思ふ皇子の命は 「命」は、尊称。○春されば植槻が上の 「植槻」は、地名。奈良県大和郡山市にこの名の字が残り、殖槻八幡宮がある。「上の」は、高台の。 ○遠つ人松の下道ゆ 「遠つ人」は、遠方にいる人で、待つの意で、「松」にかかる枕詞。「松の下道ゆ」は、松の下路を通って。○登りして国見遊ばし お登りになって、国見をなされて。「国見」は、高所に登って展望を楽しむこと。「遊ばし」は、「遊ぶ」の敬語。○九月のしぐれの秋は 「しぐれの秋」は、時雨を秋の特質としていったもの。○大殿の砌しみみに 御殿のみぎりに繁くで、「砌」は、軒下の敷石。「しみみに」は、繁く。○露負ひて靡ける芽子を 露を帯びて靡いている萩を。○玉だすき懸けて偲はし 「玉だすき」は、「懸け」の枕詞。「懸けて偲はし」は、心にかけて御賞美になりで、「偲はし」は、「偲ふ」の敬語。○み雪ふる冬の朝は 「み雪ふる」は、冬の枕詞。○刺楊根張梓を 「刺楊根張」は、楊は挿木にして根を張ら(105)せてふやす物で、その「張」を張梓の張に転じさせて、「根」までの六音をその序詞としたもの。「張梓」は、弦を張った梓の弓。○御手に取らしたまひて 「御手に」は、三音一句。○遊ばしし吾が王を 「遊ばしし」は、狩猟をなされた。○烟立つ春の日暮 「烟立つ」は、「烟」は、霞と同意語として用いていたもので、春の枕詞。「春の日暮」は、春の終日で、日の永い意。○まそ鏡見れど飽かねば 「まそ鏡」は、見の枕詞。「見れど飽かねば」は、見ても飽かないのでで、きわめて愛でたい意の成語。○万歳にかくしもがもと 「万歳に」は、永久に。「かくしもがも」は、「しも」は、強意。「がも」は、願望の助詞で、永久にこのようにありたいものと。○大船のたのめる時に 「大船の」は、「たのむ」の枕詞。○妖言か目かも迷へる 「妖」は、原文諸本「涙」。『考』は「妖」の誤字とし、「およづれ」と訓んでいる。それでないと訓み難く、意が通じないからで、『新訓』も従っている。まどわし言の意。「か」は、読み添え。「目かも迷へる」は、わが目が惑って、そう見えたのであろうかで、「かも」は、疑問の係。○大殿をふり放け見れば 御殿を仰ぎ望むと。○白細布に飾り奉りて 白い栲をもってお飾り申してで、これは御殿を殯宮としたことで、定まった式だったのである。○内日さす宮の舎人も 「内日さす」は、宮の枕詞。「宮の舎人」は、皇子の御殿に仕えている舎人で、舎人は天皇皇族付きの近侍雑使の官吏。○栲の穂に麻衣著るは 「栲の穂」は、「栲」は、ここは白い物の意。「穂」はそのすぐれたもので、真白に。「麻衣著るは」は、麻衣を着ているのはで、白い衣は、喪服で、「ける」は、「きる」の古形。「白細布に」以下これまでは、巻二(一九九)人麿の高市皇子尊の殯宮の歌に酷似している。○夢かも現かもとくもり夜の迷へる間に 「くもり夜の」は、物の見にくい意で、「まとへる」の枕詞。夢なのか、それとも現実なのかと、惑っている中に。○朝裳よし城上の道ゆ 「朝裳よし」は、「著」の意で、「き」の枕詞。「城上」は奈良県北葛城郡馬見村(現、広陵町)の地で、「道ゆ」は、道を通って。皇子の御殿は城上にあって、霊枢が御殿を発しての意。○つのさはふ石村を見つつ 「つのさはふ」は、石の枕詞。「石村」は、高市郡より磯城郡の南部へわたっての地名。「見つつ」は、見ながら。○神葬り葬り奉れば 「神葬り」は、高貴の方を神であるとし、神として葬る意。御葬りにお葬り申せばで、葬儀のことを鄭重にいったもの。反歌によるとこの葬儀は火葬である。○往く道のたづきを知らに 歩いて往く道の見当も知られずで、嘆きに心が乱れている意。○思へどもしるしを無み 嘆くけれども、甲斐がないので。○嘆けども奥処を無み 嘆くけれども際限がないので。「奥処」は、行き着く果て。○御袖行き触れし松を 御袖が、道を行くにおのずからに触れたことのあった松をで、この上の「松の下道ゆ」の松に照応させたもの。上代はその人の身に直接な関係のあった物を、その人の形見と見て、それによってその人を偲ぶのが常であった。皇子の薨去後は、その御殿は穢ある物として荒廃に委ねられたので、形見として永く残るものは、手馴らされた身辺の品か、あるいは永久の命ある物の「松」などより他にはなかったのである。作者は皇子の遺品は問題とはし難い身なので、「松」を捉えたのである。○言問はぬ木にはあれども 物をいわない木ではあるけれどもで、形見のはかなさをいったもの。○あら玉の立つ月毎に 「あら玉の」は、ここは月にかかる枕詞。「立つ月毎に」は、新たに始まる月ごとにで、永久という意を、月によっていったもの。○天の原ふり放け見つつ 「天の原」は、「ふり放け見つつ」に譬喩としてかかる枕詞。天の原のように仰ぎ見つつで、見るのは松。○玉だすき懸けて思はな恐かれども 「懸けて」は、わが心にかけて。「思はな」は、皇子を思慕したいで、「な」は、願望の助詞、「恐かれども」は、恐れ多いけれどもで、皇子を敬つての意。
【釈】 口にして申すのも甚だ恐れ多い。藤原の都に繁く、官人はいっぱいいるけれども、主君は多くいらせられるけれども、迎えては向かう年の長い間を、お仕え申して来た君の御殿を、天のように尊み仰ぎ見つつ、恐れ多くはあるが頼みに思って、早く(106)も日が充足して、満月のように満ち足りた状になれよとわが思っている皇子の命は、春が来ると、植槻の高台の、松の下路を通って、高きにお登りになって国見をなされ、九月の時雨のふる秋には、御殿の軒下の敷石に繁く露を帯びて靡いている萩の花を、お心にかけて賞美なされ、雪のふる冬の朝は、刺楊根張るに因む弦を張った梓弓をお取りになって狩をなされたわが大君を、霞立つ春の終日、まそ鏡見ても飽かないので、永久にこのようにありたいものだと、大船のように頼みにしている時に、まどわし言にわが目が惑ったのであろうか、御殿を仰いで見ると、白い栲にお飾り申して、うち日さす宮に仕える舎人も、真白に麻衣を着ているのは、夢なのか、それとも現実であるかと、曇り夜のように惑っている間に、朝裳よし城上の道を通って、つのさはふ石村を見ながら、神葬りにお葬り申したので、歩いている路の見当も知られず、思うけれども甲斐がないので、嘆くけれども際限がないので、御袖が、そこを行くにおのずと触れたことのあった松を、物もいわない木であるけれども、新たに始まる月ごとに、天の原のように仰ぎ見つつ、玉だすき心にかけて思慕したい。恐れ多いことではあるが。
【評】 ある皇子の薨去に対して、その皇子に舎人として仕えていた、ある一人の詠んだ挽歌である。この皇子は、どういう系統の方であるか不明である。歌の上で、「何時しかも日足らしまして、十五月の満はしけむと」とあるので、年少で薨去になった人と知られる。また、反歌によると火葬としたのであるが、火葬は文武天皇の四年に初めて行なわれたのであるから、それ以後の、元明天皇の奈良遷都までの間に薨去されたのである。また、宮が城上にあったことも知られる。しかるに続日本紀には、そうした年少の皇子の薨去された記録はないので、どういう皇子か全然知れないのである。年少であるがゆえに記録されなかったと思うほかはない。歌は平常皇子に側近していた舎人としての情を尽くしたものである。一篇一文で、段落はないが節はあって、第一節は、年少の宮に仕えて成人となられる日を頼んでいたこと、第二節は、春、秋、冬の皇子の遊楽のさま、第三節は、葬儀、第四節は追慕で、整然とした構成を持ったものである。詠み方は、事を叙することによって情をあらわそうとしているもので、平面描写風に皇子に関する全体を綿々と叙述しているのであるが、いささかの渋滞もなく、むしろ余裕をもって詠んでいる。しかし悲歎より来る心の昂揚は示していない歌である。のみならず、細心な、巧緻を思わせる部分が少なくない。その目立つものは、皇子の形見として松の木を捉えているもので、「御袖行き触れし松を」といっているが、この松は、皇子が春の行楽として、「春されば植槻が上の、遠つ人松の下道ゆ」といっているその松なのである。そしてその松に対して、「天の原ふり放け見つつ」「思はな」といっているのであるが、この「天の原」は、皇子の霊が天の原のものである気分をからませての枕詞で、細心巧緻といわざるを得ないものである。なお、年少の皇子に「年の緒長く」仕えて来たことをいう、その年の枕詞に「往き向ふ」という、将来を思う気分をからませたものを選み、梓弓をいうに、「刺楊根張梓」といっているなど、同じく細心巧緻というべきであり、手腕のほどを思わせる。この歌はその形が、巻二(一九九)人麿の高市皇子尊の殯宮の時の歌に似ているところがある点から、同じく人麿の作ではないかといわれている。形は似ているが、詠み方の上ではかなり著(107)しい距離があって、人麿の作とは思われない。それは詠み方は、人柄の決定するもので、たとい手法は酷似していようとも、詠み方が異なっていれば、別人だと見ざるを得ないからである。人麿の歌を通じて現われている第一のものは、情熱の豊かに烈しいことで、これがいつも主体となっている。したがって、その時の感情の委曲を尽くそうとして事を細叙する場合にも、その情熱によって統一されて、語は簡潔に、語をとおしての情感は盛り上がって来て、おのずから立体感をもったものとなっている。その結果、叙事は抒情となって来るのである。この歌は、よく纏って、一見統一感のあるものに見えるが、その統一は事の按排より来る統一感であって、情熱そのものより来る統一感ではなく、したがって立体感とはなって来ず、読み終わっての感は平面的で、抒情的な散文に近いものがあるといえる。詠み方の相違とはこの意味である。この歌だけを取り離して見ると、まさにすぐれた物であるが、これを人麿の作に較べると、明らかに距離を持っているもので、別人の作と思われる。この歌の作られた時代は、人麿の在世時代であるから、相影響し合う点は自然多かったろう。同時代の長歌の秀作としては、藤原宮の※[人偏+殳]に立つ民の歌、藤原宮の御井の歌があり、いずれも作者の名は伝わっていない。この歌もそれに次ぎうるもので、その時代の全体を思わせるものである。なおこの歌は別伝があって、「舎人も」が、一本には「舎人は」となっていたことも注意される。別伝のあったのは、注意された作であったからで、またこうした長い歌の別伝が、一助詞の相違にすぎなかったことも、注意深く扱われていたことを示すものである。
反歌
3325 つのさはふ 石村《いはれ》の山《やま》に 白栲《しろたへ》に 懸《かか》れる雲《くも》は 吾《わ》が王《おほきみ》かも
角障經 石村山丹 白栲 懸有雲者 皇可聞
【語釈】 ○白栲に懸れる雲は 「白栲に」は、白い栲であるが、ここは白色の意。「懸れる雲は」は、火葬の煙を雲と見なしてのもの。
【釈】 つのさはふ石村の山に、白栲のごとくにかかっている雲は、わが大王であろうか。
【評】 立ち帰って悲歎の頂点をなしている火葬の煙を捉え、「吾が王かも」と言い難い情をいっているもので、反歌として要を得た、力あるものである。
右二首
(109)3326 磯城島《しきしま》の 日本《やまと》の国《くに》に 何方《いかさま》に 念《おもほ》しめせか つれもなき 城上《きのへ》の宮《みや》に 大殿《おほとの》を 仕《つか》へ奉《まつ》りて 殿隠《とのごも》り 隠《こも》り在《いま》せば 朝《あした》には 召《め》して使《つか》ひ 夕《ゆふぺ》には 召《め》して使《つか》ひ つかはしし 舎人《とねり》の子《こ》らは 行《ゆ》く鳥《とり》の 群《むら》がりて待《ま》ち 在《あ》り待《ま》てど 召《め》し賜《たま》はねば 剣刀《つるぎたち》 磨《と》ぎし心《こころ》を 天雲《あまぐも》に 念《おも》ひ散《はふ》らし 展転《こいまろ》び ひづち哭《な》けども 飽《あ》き足《た》らぬかも
磯城嶋之 日本國尓 何方 御念食可 津礼毛無 城上宮尓 大殿乎 都可倍奉而 殿隱 々座者 朝者 召而使 夕者 召而使 遣之 舎人之子等者 行鳥之 群而待 有雖待 不召賜者 釼刀 磨之心乎 天雲尓 念散之 展轉 土打哭杼母 飽不足可聞
【語釈】 ○磯城島の日本の国に 「磯城島の」は、「やまと」の枕詞。「日本の国に」は、幽界に対する現実世界の意でいっているもの。○何方に念しめせか どのようにお思いになられてかで、尊貴な方のお心は測り難いものだの意で、尊んでいう慣用句。ここは皇子の薨去は、自身の意志よりのこととしてである。已然条件法で、「か」は、疑問の係。○つれもなき城上の宮に 無関係な城上の宮に。城上は草壁皇子、高市皇子などの墓のある地。「宮」は、皇子のいられる所として尊んでいうので、地の意。○大殿を仕へ奉りて 「大殿」は、ここは殯宮。「仕へ奉りて」は、御造営申し上げて。殯宮は、一定の期間遺骸を収めて置く所。○殿隠り隠り在せば 「殿隠り」は、殿の内に引籠もってで、薨去後の状態。殯宮の期間は、全くの死者とは見なさず、特別の状態と見なしていた。ここもその意でいっているもの。「隠り在せば」は、繰り返して鄭重にいったもの。「在せ」は、「ゐる」の敬語。○つかはしし舎人の子らは お使いになられた舎人共は。「子ら」は、愛称であるが、ここは皇子の立場からいっているもの。○行く鳥の群がりて待ち 「行く鳥の」は、意味で「群がり」にかかる枕詞。「群がりて待ち」は、殯宮の期間は舎人は交替に、昼夜奉仕していたのである。○在り待てど召し賜はねば 継続して待っているがお召しがないので。○剣刀磨ぎし心を 「剣刀」は、「磨ぎ」の枕詞。「磨ぎし心」は、緊張した心。○天雲に念ひ散らし 天雲のごとくに散らしてで、張合いのなさに心のくずおれる譬喩。○展転びひづち哭けども 「こい」は、転がる意の古語で、転がりまわって、涙に濡れて泣くけれども。○飽き足らぬかも 嘆きが飽き足らないことであるよ。
【釈】 磯城島の大和国で、どのようにお思いなされてのことであろうか、無関係な城上の地に、御殿を御造営申し上げて、御殿の内に引籠もりに籠もっていらせられるので、朝には召して使い、夕べには召して使い、お使いになられた舎人どもは、行く鳥のように群がって待ち、引き続いて待っているが、お召しがないので、剣の刀のように緊張した心を、天曇のように散らして、転げまわり涙に濡れて泣くけれども嘆き足らぬことであるよ。
(109)【評】 城上の殯宮に在つての舎人の心を詠んだものである。墓所が城上であるのと、殯宮の儀の厳めしい点から見て、草壁皇子か高市皇子の際のものであろう。歌は悲しみを尽くそうとしていっているものであるが、表現が伴いかねる、あるたどたどしさのあるものである。こうした際の歌は長歌形式が本道であろうが、それによっているものは少ない。この歌はとにかく長歌をもってしているものである。
右一首
3327 百小竹《ももしの》の 三野《みの》の王《おほきみ》 西《にし》の厩《うまや》 立《た》てて飼《か》ふ駒《こま》 東《ひむかし》の厩《うまや》 立《た》てて飼《か》ふ駒《こま》 草《くさ》こそは 取《と》て飼《か》ふがに 水《みづ》こそは ※[手偏+邑]《く》みて飼《か》ふがに 何《なに》しかも 真青《まさを》の馬《うま》の 嘶《いば》え立《た》ちつる
百小竹之 三野王 金厩 立而飼駒 角厩 立而飼駒 草社者 取而飼旱 水社者 ※[手偏+邑]而飼旱 何然 大分青馬之 鳴立鶴
【語釈】 ○百小竹の三野の王 「百小竹」は、多くの小竹の意で、野にかかる枕詞。「三野の王」は、和銅元年五月、従四位下治部卿として卒した美努の王で、敏達天皇の系統、粟隈の王の子で、橘諸兄の父である。○西の厩 「西」は、原文「金」。五行の木金火水を東西南北に当てての用字。○東の馬 「東」は、原文「角」。五声の角商徴羽を東西南北に当てての用字。○草こそは取りて飼ふがに 草は取って与えているほどに。「がに」は、「程に」という意の助詞。「飼ふ」は連体形で、「こそ」を、連体形で結んだ形である。これは稀れに用例のある古格である。○水こそは※[手偏+邑]みて飼ふがに 水は汲んで飲ませているほどにで、以上四句、それ以上の要求はないわけなのにの意で下へ続く。○何しかも真育の馬の 「何しかも」は、「し」は、強意、「かも」は、疑問の係。「真青の馬」は諸説がある。当時は馬は白を好んだと見え、白馬は青く見えるので、あお馬と呼んだのである。巻十二(三〇九八)「※[馬+総の旁]馬の面高夫駄」、巻二十(四四九四)「水鳥の鴨の羽の色の青馬を」など、用例が少なくない。字は義訓として当てたものである。○嘶え立ちつる 嘶《いなな》き立てたことであるかで、「つる」は結。
【釈】 百小竹の三野の王の、西の厩を立てて飼っている駒、東の厩を立てて飼っている駒、草は取って与えているほどに、水は汲んで与えてあるほどに、どうして、真青の馬の高く嘶き立てたことであろうか。
【評】 三野の王の卒去の際、王の邸の厩番をしている者が、厩の馬の高く嘶《いば》えるのを聞いて、草も与え、水も与えたのに、何だって嘶えるのだろう。厩の馬はそうした物を求める時のほかには嘶えなどはしないものだのにといったので、非情の馬も、王の卒去を感じて悲しんでいるようだということを言外にしたものである。「大分青馬」というのは、当時黒馬を愛していた(110)からのことで、単に馬というのと異ならない意と取れる。挽歌としては庶民的な、風の変わったものである。詠み方は、対句を用いて、謡い物風に詠んだものであり、平明で、素朴でもある。謡い物としてのものではなく、そうした詠み方が、この作者には親しかったためであろうと思われる。注意される作である。
反歌
3328 衣手《ころもで》を 真青《まさを》の馬《うま》の 嘶《いば》え声《こゑ》 情《こころ》あれかも 常《つね》ゆ異《け》に鳴《な》く
衣袖 大分青馬之 嘶音 情有鳧 常從異鳴
【語釈】 ○衣手を真青の馬の 「衣手を」は、普通の衣は麻で、青みを帯びている意で、真青にかかる枕詞。○嘶え声 「嘶え」は、下二段活用の連用形。いななく声。○常ゆ異に鳴く 平常よりは変に鳴くで、「鳴く」は、「かも」の結。
【釈】 衣の袖の青いのに因む真青の馬の嘶え声が、彼も情があってのことか、平常よりは変に鳴くことである。
【評】 長歌の心を一歩前進させて、その心を明らかにしているものである。実際に即して、「情あれかも」と疑問としていっている態度を取っているので、かえって感のあるものとなっている。
右二首
3329 白雲《しらくも》の たなびく国《くに》の 青雲《あをぐも》の 向伏《むかぶ》す国《くに》の 天雲《あまぐも》の 下《した》なる人《ひと》は 妾《あ》のみかも 君《きみ》に恋《こ》ふらむ 吾《あ》のみかも 夫君《きみ》に恋《こ》ふれば 天地《あめつち》に 満《み》ち足《た》らはして 恋《こ》ふれかも 胸《むね》の病《や》みたる 念《おも》へかも 意《こころ》の痛《いた》き 妾《あ》が恋《こひ》ぞ 日《ひ》にけに益《まさ》る 何時《いつ》はしも 恋《こ》ひぬ時《とき》とは あらねども この九月《ながつき》を 吾《わ》が背子《せこ》が 偲《しの》ひにせよと 千世《ちよ》にも 偲《しの》ひ渡《わた》れと 万代《よろづよ》に 語《かた》りつがへと 始《はじ》めてし この九月《なかつき》の 過《す》ぎまくを 甚《いた》も 術《すべ》なみ あらたまの 月《つき》の易《かは》れば (111)為《せ》む術《すべ》の たどきを知《し》らに 石《いは》が根《ね》の 凝《こご》しき道《みち》の 石床《いはどこ》の 根延《ねは》へる門《かど》に 朝《あした》には 出《い》で居《ゐ》て嘆《なげ》き 夕《ゆふべ》には 入《い》り坐《ゐ》恋《こ》ひつつ ぬばたまの 黒髪《くろかみ》敷《し》きて 人《ひと》の寝《ぬ》る 味寝《うまい》は宿《ね》ずに 大船《おほふね》の ゆくらゆくらに 偲《しの》ひつつ 吾《わ》が寐《ぬ》る夜《よ》らは 数《よ》みも敢《あ》へぬかも
白雲之 棚曳國之 青雲之 向伏國乃 天雲 下有人者 妾耳鴨 君尓戀濫 吾耳鴨 夫君尓戀札薄 天地 満言 戀鴨 智之病有 念鴨 意之痛 妾戀叙 曰尓異尓益 何時橋物 不戀時等者 不有友 是九月乎 吾背子之 偲丹爲与得 千世尓物 偲渡登 万代尓 語都我部等 始而之 此九月之 過莫呼 伊多母爲便無見 荒玉之 月乃易者 將爲須部乃 田度伎乎不知 石根之 許凝敷道之 石床之 根延門尓 朝庭 出座而嘆 夕庭 入座額戀乍 鳥玉之 黒髪敷而 人寐 味寐者不宿尓 大船之 行良行良尓 思乍 吾寐夜等者 敷物不敢鴨
【語釈】 ○白雲のたなびく国の青雲の向伏す国の天雲の下なる人は 白雲のたなびいている国で、青雲の地に向かって伏している国で、すなわち天雲の下にいる人は。「国の」の「の」は、同意の句を重ねる際、接続をあらわす助詞。「青雲」は、青く晴れた空のさまを、雲と見なしての称。天の下にいる人という人は、の意を強めていったもの。○妾のみかも君に恋ふらむ われだけが君に恋うることであろうかで、「かも」は、疑問の係。○吾のみかも夫君に恋ふれば わたしだけが夫君に恋うるのでかで、この二句は、上の八句を、この句以下へ接続させるために、繰り返しの形で挿入したものであり、したがって浮動している。○天地に満ち足らはして 「満ち足らはし」は、原文「満言」。『略解』で本居宣長は、「言」は、「足」の誤写として改めている。それだと、天地にいっぱいに足らしめてで、下の「恋ふれ」の状態になる。これは上の(三二五八)「天地に思ひ足らはし」と同じ心である。『新訓』は原文どおりに、「言を満てて」と訓んでいるが、それでは意が通じ難くなるので、誤写説に随う。○恋ふれかも胸の病みたる 恋うるのでか胸の悩ましいことであるで、「病みたる」の「たる」は、「かも」の結。○念へかも意の痛き 思うのでか心の痛いことであるで、上の二句の繰り返し。○妾が恋ぞ日にけに益る 妾が恋は日に日に増さることであるで、下を起こすためのもの。○何時はしも恋ひぬ時とはあらねどもこの九月を いつといって恋いない時はないけれども、この九月を。「しも」は、強意。「九月」は、夫である人の死んだ月。○吾が背子が偲ひにせよと わが背子が、思慕の時にせよとで、「偲ひ」は、名詞。「せよ」は、命令。○千世にも偲ひ渡れと万代に語りつがへと 永久に思慕し続けよと、永久に語りつづけよと。「つがへ」は、「継げ」の継続で、続けよ。○始めてしこの九月の 思慕を始めた、その九月ので、夫は九月に死んだのである。○過ぎまくを甚も術なみ 過ぎようとするのが、何とも致し方なく。「過ぎまく」は、「過ぎむ」の名詞形。○あらたまの月の易れば為む術のたどきを知らに 「あらたまの」は、ここは月の枕詞。月がかわって十月となると、どうする方法も知られず。以下は、上の「相聞」の(三二七四)に出た。
(112)【釈】 白雲のたなびいている国で、青雲が地に向かって伏している国で、天雲の下にいる人は、ただ私だけが君に恋うるのであろうか。ただ私だけが君に恋うているのでか、天地にいっぱいに足らしめて恋うるのでか、胸の悩ましいことである。思っているのでか、心の痛いことである。私の恋は日に日に増さって来る。いつといって恋いない時とてはないけれども、この九月を、わが背子が思慕の時にせよと、永久に思慕し続けよと、永久に語り続けよと命じられ、そのことを始めたこの九月の過ぎようとすることを何とも致し方なく、この月がかわると、すべき方法も知られず、岩石のけわしい道を、床のような岩の張っている門口を、朝は出ていて嘆き、夕べは入っていて恋いつづけ、ぬばたまの黒髪を敷いて女の人の寝るその快い眠りはせずに、大船のように落ちつかずに、思慕しながらも私の寝る夜の数は数え切れないことであるよ。
【評】 この歌は、相聞の(三二七四)についていったように、相聞と挽歌との交錯しているものである。起首より「妾のみかも君に恋ふらむ」の八句は、相聞の歌と見るべきものである。また結末の、「ぬばたまの黒髪敷きて」以下の九句も、同じく相聞の歌と見るべきである。中間の「吾のみかも夫君に恋ふれば」以下「夕には入り坐恋ひつつ」までの三十六句は、明らかに挽歌である。すなわち挽歌としては前後を失い、相聞としては中間を失ったものである。しかし現在のままで見ても、意味の通じないほどのものではなく、ある程度の不自然を感じるにすぎないものである。こうした歌の成り立ったのは、この歌の原形であった物が、謡い物として謡われている中に、それがあまりにも長かったために、この歌の純粋に挽歌である部分だけが記録され、他は忘れられてしまったので、おのずから不自然を感じる形となったため、それとは無関係な相聞の歌で、一般的な心をいってある部分だけを持って来て、前後に加えたのである。起首への付け足しは困難であったと見え、「妾のみかも君に恋ふらむ」の次に、「吾のみかも夫君に恋ふれば」を、新たに設けて足したのであるが、これはすぐ下の「恋ふれかも」と重複するという不束さを見せるものとなったのである。結末も、「石床の根延へる門に」は、横穴式の墓の入口で、「入り坐恋ひつつ」いる場合に、「人の寝る味寝」を恋うる気分は起こるべくもないことである。厳密にいうと、不調和の跡は歴然として蔽い難い。しかし起首の相聞の部分、また挽歌の部分は、その物としては特色のある物である。
右一首
3330 隠口《こもりく》の 長谷《はつせ》の川《かは》の 上《かみ》つ瀬《せ》に 鵜《う》を八頭潜《かづ》け 下《しも》つ瀬《せ》に 鵜《う》を八頭《やつ》潜《かづ》け 上《かみ》つ瀬《せ》の 年魚を咋はしめ 下《しも》つ瀬《せ》の 鮎《あゆ》を咋《く》はしめ 麗《くは》し妹《いも》に 鮎《な》ををしみ 投《な》ぐる箭《さ》の 遠離《とほざか》り居《ゐ》て 思《おも》ふ空《そら》 安《やす》からなくに 嘆《なげ》く空《そら》 安《やす》からなくに 衣《きぬ》こそは それ破《や》れぬれば 継《つ》ぎつ(113)つも 又《また》もあふといへ 玉《たま》こそは 緒《を》の絶《た》えぬれば 括《くく》りつつ 又《また》もあふといへ 又《また》も逢《あ》はぬものは ※[女+麗]《つま》にしありけり
隱來之 長谷之川之 上瀬尓 鵜矣八頭漬 下瀬尓 鵜矣八頭漬 上瀬之 年魚矣令咋 下瀬之 鮎矣令咋 麗妹尓 鮎遠惜 投左乃 遠離居而 思空 不安國 嘆空 不安國 衣社薄 其破者 相乍物 又母相登言 玉社者 緒之絶薄 八十一里喚鶴 又物逢登曰 又毛不相物者 ※[女+麗]尓志有來
【語釈】 ○上つ瀬に鵜を八頭潜け 「八頭」は、八羽。八つは多くという意で慣用されている数。「潜け」は、水を潜らせて鮎を咬えさせるためである。○下つ瀬の鮎を咋はしめ 初句よりこれまでの十句は、同音で「麗し」にかかる序詞。○麗し妹に鮎ををしみ 「麗し妹」は、美しい妻。「鮎ををしみ」は、原文「鮎遠惜」。この句は訓がさまざまで定まらず、誤写説が出ている。『新訓』は文字に即して、「あゆををしみ」と訓んでいる。『全註釈』は「あゆをあたら」と訓んでいる。これは続きの「投ぐる箭の遠離り居て」の理由となるもので、どちらの訓も続き難いものである。上の「年魚」は序詞の中のもので、それとしての用を果たしているものであるから、ここへ再び関係させることは不自然で、その点から見ても「鮎」は、「あゆ」ではなかろうと思われる。一首の作意から迎えて見ると、ここは「名を惜しみ」で、「名」に「魚」(な)を当て、上の序詞の関係で、「魚」を「鮎」にしたのではないかと思われる。「魚」を「な」に当てた用例は集中九例を数えられるので、慣用されていた字であり、その代わりとして「鮎」を用いたことも、この場合ありうべからざる当て字だとは思われない。この歌はすぐれた作であり、また「鮎」は諸本異同のないものであるから、一首にとって中心となるこの字が不可解なものである理由はないとして、「名」に当てた字だと解する。自身の名を惜しんで。なお元暦校本、天治本、類聚古集によれば、この句の下に「麗妹尓鮎矣惜」の二句がある。同じ二句の繰り返しであるので誤入として底本に従う。○投ぐる箭の遠離り居て 「投ぐる箭の」は、下の(三三四五)「公が佩《お》ばしし投箭《なぐや》し思ほゆ」、巻十九(四一六四)「投矢《なぐや》以ち千尋射渡し」などの投矢で、「さ」は、矢の古名。物を投げ合って戦った時代の語の襲用と思われる。「遠離り」に譬喩としてかかる枕詞。「遠離り居て」は、遠く離れて逢わずにいてで、「名を惜しみ」の結果。○思ふ空安からなくに嘆く空安からなくに 思う心は安らかではないことよ、嘆く心は安らかではないことよ。以上、第一段。○衣こそはそれ破れぬれば 衣は、それが破れてしまえば。○継ぎつつも又もあふといへ 継ぎ合わせつつまたも以前のように一つになるという。「いへ」は、「こそ」の結。○玉こそは緒の絶えめれば括りつつ又もあふといへ 玉は、それを貫いている緒が切れれば、玉を括り合わせてまたも以前のように一つになるという。○又も逢はぬものは※[女+麗]にしありけり 絶えると、またも逢わないものは、※[女+麗]であったことだ。「し」は、強意の助詞。
【釈】 隠口の長谷の川の、上流に鵜を多く潜らせ、下流に鵜を多く潜らせ、上流の鮎を咋わしめ、下流の鮎を咋わせる、それに因む美しい妻に、わが名を惜しんで、投げる箭のように遠ざかっていて、思う心の安くないことであるよ。嘆く心の安くないことであるよ。衣は、それが破れてしまえば、継ぎ合わせてまたも一つに逢うという。玉は、緒が切れてしまえば、括りつつまた(114)も一つに逢うという。別れるとまたも逢わないものは、※[女+麗]であったことだ。
【評】 この歌は古風な詠み方であり、また長谷川で大規模な鵜飼をすることを序詞としている点から見て、多分藤原朝時代の歌だろうと思われる。作者はある程度の身分あり知識ある京の人であったろう。一首二段より成っていて、前段は「嘆く空安からなくに」までであり、以下後段である。前段は「麗し妹」を得たが、自身の名を惜しむ心から、遠ざかって逢うことをせずに、嘆きを続けていたことで、後段は一転して、そのようにしているうちに、※[女+麗]はいかにしても再び逢い難い状態になってしまったと嘆いているので、死を暗示的にいっているものである。事としては、単純なことを大まかに、暗示的に、また飛躍を持って扱っているのであるが、言い方は著しく謡い物的で、前段「麗し妹」をいうに十句の長序を用い、「思ふ空」「嘆く空」の対句を続け、後段も、「衣こそは」「玉こそは」と四句対を用いているという特殊なものである。語から見ると謡い物として作ったもののごとく見えるが、このような隠約な言い方の歌は、謡い物には不適当だろうと思われる。作者の興味としてこのような形を選んだものだろうと思われる。結句の三六八という形も注意される。
3331 隠口《こもりく》の 長谷《はつせ》の山《やま》 青幡《あをはた》の 忍坂《おさか》の山《やま》は 走出《はしりで》の 宜《よろ》しき山《やま》の 出立《いでたち》の 妙《くは》しき山《やま》ぞ 惜《あたら》しき 山《やま》の 荒《あ》れまく惜《を》しも
隱來之 長谷之山 青幡之 忍坂山者 走出之 宜山之 出立之 妙山叙 惜 山之 荒卷惜毛
【語釈】 ○隠口の長谷の山 「長谷の山」は、長谷の渓谷から仰げる山の総称。○青幡の忍坂の山は 「青幡の」は、青い旗のごときで、譬喩として山にかかる枕詞。「忍坂の山」は、磯城郡城島村大字忍坂(現在、桜井市、忍坂《おつさか》)の東方にある山で、長谷の山の山口を成す山。共同の墓地となっていた山である。○走出の宜しき山の 「走出」は、山の走り出で、連山の起こり始めた所の称。「宜しき」は、その物を十分に賞美する意の形容詞。「の」は、同意の名詞を続けていうことをあらわす助詞で、「にして」。○出立の妙しき山ぞ 「出立」は、山の立っている姿。「妙しき」は、宜しきと同意語。○惜しき山の荒れまく惜しも 「惜しき山の」は、惜しむべき山のであるが、下の「荒れまく」の続きから見て、風景としていっているのではなく、墓地としていっているのである。風景としては荒れまくという事はないことだからである。「荒れまく惜しも」は、荒れんことの惜しさよで、「荒れまく」は、「荒れむ」の名詞形。結末は、五三七の古形である。
【釈】 隠口の長谷の山の中の忍坂の山は、連山の起こり始めとして見事な山で、立った姿の見事な山であるぞ。墓地のある惜しむべき山の、荒れようことの惜しさよ。
(115)【評】 当時、共同墓地となっていた長谷の忍坂の山に、多分はその妻を葬った人が、その山を望み、故人をなつかしむ思いからその姿の美しさを讃え、ついで時の経過をとおして、その墓地の荒れてゆくだろうことを思いやって惜しんだ心である。「惜しき山の」の「山」は、懐かしい者の墓所を言いかえたものである。飛躍のある言いかえではあるが、当時はこれで無理なくとおったものと思われる。それはこの歌は挽歌として扱われているが、「山」を墓所と見なければ、挽歌の心のないものとなるからである。なおこの歌の類歌が、日本書紀、雄略紀に御製歌として収められている。それは「隠口の長谷の山は、出立の宜しき山、わしり出の宜しき山の、隠口の長谷の山は、あやにうらぐはし、あやにうらぐはし」というのである。この形の歌が謡い物として行なわれていたのである。
3332 高山《たかやま》と 海《うみ》こそは 山《やま》ながら かくも現《うつ》しく 海《うみ》ながら 然《しか》真《まこと》ならめ 人《ひと》は花物《はなもの》ぞ うつせみの世人《よひと》
高山与 海社者 山隨 如此毛現 海隨 然眞有目 人者花物曾 空蝉与人
【語釈】 ○高山と海こそは 高山と海とこそはで、「は」は、下の「人」に対させたもの。○山ながらかくも現しく 「山ながら」は、山であるゆえに。「かくも現しく」は、このように現実にあって。「現しく」は、現実にある意の形容詞。○海ながら然真ならめ 「然真ならめ」は、そのように真実なのであろう。「真」は、仮に対しての語で、実在というにあたる。「め」は、「こそ」の結。○人は花物ぞ 「人は」の「は」は、上の山と海に対させたもの。「花物ぞ」は、花のような物ぞで、一時的な脆い物の意。(二九九六)に用例のあった語。○うつせみの世人 「うつせみの」は、世の枕詞。「世人は」は、この世の人間はの意。
【釈】 高山と海とは、山であるゆえにこのように現実にあり、海であるがゆえに、そのように真実なのであろう。人は花のように脆い物であるぞ。死ぬべき現し身であるよ、人は。
【評】 自然界といううち、山と海の恒久なのに対して人間の無常を嘆いた、仏典の影響の著しい概念歌であるが、簡潔に、思い入って強くいっているので、結果から見ると強い抒情歌となっている。上の歌とともに優れた、特色のある歌である。
右三首
【解】 上の三首を一連のものとして扱ったとみえるが、それぞれ独立していた歌で、連作関係は認められない。資料がそのよう(116)になっていたのか、編集者がこうしたのかわからない。
3333 王《おほきみ》の 御命《みこと》恐《かしこ》み 秋津島《あきづしま》 大和《やまと》を過《す》ぎて 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の浜《はま》べゆ 大舟《おほぶね》に 真梶《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 朝《あさ》なぎに 水手《かこ》の音《こゑ》しつつ 夕《ゆふ》なぎに 楫《かぢ》の音《と》しつつ 行《ゆ》きし君《きみ》 何時《いつ》来《き》まさむと 卜《うら》置《お》きて 斎《いは》ひ渡《わた》るに 狂言《たはごと》や 人《ひと》のいひつる 我《わ》が心《こころ》 筑紫《つくし》の山《やま》の 黄葉《もみちは》の 散《ち》り過《す》ぎにきと 公《きみ》が正香《ただか》を
王之 御命恐 秋津嶋 倭雄過而 大伴之 御津之渡邊從 大舟尓 眞梶繋貫 且名伎尓 水手之音 爲乍 夕名寸尓 梶音爲乍 行師君 何時來座登 大卜置而 齋度尓 狂言哉 人之言釣 我心 盡之山之 黄葉之 散過去常 公之正香乎
【語釈】 ○秋津島大和を過ぎて 「秋津島」は、大和の枕詞。「大和を過ぎて」は、大和国を通り過ぎて。大和京から発足するのであるが、勅命の旅を主として、言いかえたもの。○大伴の御津の浜べゆ 「大伴」は、難波国の、御津のある地方一帯の大名。「御津」は、難波の津を、その官用の物であるところから尊んでの称。「ゆ」は、より。○大舟に真梶繁貫き 「真梶」は、取り揃った艪で、船の左右に取りつける物としていう語。「繁貫き」は、繁く取りつけ。○朝なぎに水手の音しつつ 「水手の音」は、『古義』の訓。水夫の艪をこぐかけ声。「しつつ」は、し続け。○夕なぎに楫の音しつつ 「音」は、『考』の訓。上二句の、語を換えての繰り返しで、「大伴の」以下は慣用句となっているもの。○行きし君何時来まさむと 旅に行った夫、君がいつお帰りになろうかと。○卜置きて斎ひ渡るに 原文「大卜」は、卜占で、用字はそれを尊んでのもの。「置きて」は、占をする時には、神に幣を供えてするので、幣を置く意の語。占をしたの意である。「斎ひ渡るに」は、物忌みを続けているにで、物忌みは祭の時のことで、神に祈り続けているにの意。○狂言や人のいひつる たわけた言を人がいったのであろうか。「や」は、疑問の係。○我が心筑紫の山の黄葉の散り過ぎにきと 「我が心」は、尽くしの意で、筑紫の枕詞。筑紫は九州の北部の称で、夫の行っている地。「黄葉の」は、譬喩として「過ぎ」の枕詞であるが、ここは「我が心」以下これまで、譬喩として、「散り過ぎ」の序詞。「散り過ぎにきと」は、散ってこの世を去ってしまったとで、死に去ったという。○公が正香を 「正香」は、実体で、公の実体を。
【釈】 天皇の勅を恐んで、秋津島大和国を旅と通り過ぎて、大伴の御津の浜辺から、大船に楫をいっぱいに付け、朝凪には楫を漕ぐ水手の声を立てつつ、夕凪には楫の音をさせつつ、旅に行った君がいつお帰りになろうかと、占を幣を置いてさせ、物忌みをして神を祈り続けていると、たわけた言を人がいったのであろうか、わが心を尽くしている筑紫の山の、黄葉のように散って(117)世を去ってしまったという。君の実体を。
【評】 勅命で筑紫へ遣わされた官人の妻が、その夫が、黄葉の散る頃、任地で死んだという報告を、使の者から聞いた際の心である。この種の歌としては知性的で、感情の細かいもので、したがって新味も持ったものである。起首の旅行のさまは、慣用句を連ねたものであるが、これは勅命の旅というので、その勅命を重んずる心から精細にいったもので、合理的である。「秋津島大和を過ぎて」が、その心をよくあらわしている。「卜置きて斎ひ渡るに」は多少の新味がある。「狂言や人のいひつる」は慣用句であるが、「我が心筑紫の山の黄葉の」という序詞は、相応に巧みなものである。結句の「公が正香を」は、「卜置きて斎ひ渡るに」と照応しうるものであり、日頃の夢なども連想させうるもので、巧妙といえるものである。
反歌
3334 狂言《たはごと》や 人《ひと》のいひつる 玉《たま》の緒《を》の 長《なが》くと君《きみ》は 言《い》ひてしものを
狂言哉 人之云鶴 玉緒乃 長登君者 言手師物乎
【語釈】 ○狂言や人のいひつる 長歌の中心をなしている二句を、そのままに繰り返したもの。○玉の緒の長くと君は 「玉の緒の」は、ここは「長く」の枕詞。「長くと君は」は、命長くあれと君は。○言ひてしものを いったことであったのに。
【釈】 たわけた言を人がいったのであろうか。玉の緒の、命長くあれと君はいったのであったのに。
【評】 別れの際、長く生きて再び逢おうといった語を思い出して、死の報告と対照させたもので、場合柄、要を得た、力ある反歌である。上二句の長歌の繰り返しがよく利いている。
右二首
3335 玉桙《たまほこ》の 道《みち》行《ゆ》く人《ひと》は あしひきの 山《やま》行《ゆ》き野《の》往《ゆ》き 直海《ただうみ》の 川《かは》往《ゆ》き渡《わた》り いさなとり 海《うみ》道《ぢ》に出《い》でて 惶《かしこ》きや 神《かみ》の渡《わたり》は 吹《ふ》く風《かぜ》も 和《のど》には吹《ふ》かず 立《た》つ浪《なみ》も 疎《おほ》には立《た》たず 跡座浪《とゐなみ》の 立《た》ち塞《さ》ふ道《みち》を 誰《た》が心《こころ》 いたはしとかも 直渡《ただわた》りけむ 直《ただ》渡《わた》りけむ
(118) 玉桙之 道去人者 足檜木之 山行野徃 直海 川徃渡 不知魚取 海道荷出而 惶八 神之渡者 吹風母 和者不吹 立浪母 踈不立 跡座浪之 立塞道麻 誰心 労跡鴨 直渡異六 直渡異六
【語釈】 ○玉桙の道行く人は 「道行く人」は、旅の道を行く人で、旅人。○あしひきの山行き野往き 山の道を行き、また野の道を行って。○直海の川往き渡り 「直海の」は、訓はさまざまで定まらず、誤写説も出ている。『新訓』は「ただうみに」と訓み、『全註釈』は「ただうみの」と訓んで、枕詞としている。ここは、上二つ、下一つ、いずれも枕詞が添っているから、枕詞と見るべきであろう。義は、さながら海のごときで、状態として川にかかる枕詞。○いさなとり海道に出でて 「海道」は、海上の道で、海路に出て。○惶きや神の渡は 「惶きや」は、「や」は、感動の助詞で、畏い。「神の渡」は、神霊のいます渡海場所は。○吹く風も和には吹かず 「和には」は、穏やかには。○立つ浪も疎には立たず 「疎には」は、尋常には。○跡座浪の立ち塞ふ道を 「跡座浪」は、巻二(二二〇)人麿の讃岐の狭岑島の歌に、「沖見ればとゐ浪立ち」とあり、そこで述べたように、うねり撓み立つ浪の意。「立ち塞ふ道を」は、立ちふさぐ道であるのに。○誰が心いたはしとかも 誰の心を憐れと思ってかで、「かも」は、疑問の係。「誰」は、家に待っている人を推量してのもので、大体、妻の意である。○直渡りけむ ひたむきに渡ったのであろうか。
【釈】 玉桙の道を行く旅人は、あしひきの山を行き、野を行き、さながら海のような川を渡って行き、いさなとり海路に出て来て、畏い神霊のいます渡海場所は、吹く風も穏やかには吹かず、立つ浪も尋常には立たず、高くうねり立つ浪の立ち塞ぐ道であるのに、誰の心を憐れに思って、ひたむきに渡ったのであろうか。ひたむきに渡ったのであろうか。
【評】 この歌は、次の歌と連作になっているもので、二首を連ねて見るべきものである。作意は、作者自身旅人として、「惶きや神の渡」といっている、海路での一つの難所となっている所を渡ろうとする際、そこの海岸で、同じ旅人の溺死体を発見して、身につまされて、甚だ隣れに思い、しみじみと自身にも思い入って詠んだものである。前半は、陸路を歩いて来て、この海路に出たのであろうとの推量で、それを目に見た事実を叙するようにいっているのは、自身の歩いて来た跡を思ってのものであろう。後半の神の渡の叙述は、自身そこに立って眺めてのものである。結末の「誰が心いたはしとかも」は、自身も家に帰りを待っている妻のあるのを思っての推量である。素朴に、自身の実際を連ねての同感なので、巧みさはないが、しみじみした味わいのあるものとなっている。
3336 鳥《とり》が音《ね》の 聞《きこ》ゆる海《うみ》に 高山《たかやま》を 障《へだて》になして 沖《おき》つ藻《も》を 枕《まくら》になし 蛾羽《ひむしは》の 衣《きぬ》だに著《き》ずに いさなとり 海《うみ》の浜辺《はまべ》に うらもなく い宿《ね》たる人《ひと》は 母父《おもちち》に 愛子《まなご》にかあらむ 若草《わかくさ》の 妻《つま》かありけむ 思《おも》ほしき 言伝《ことつ》てむやと 家《いへ》問《と》へば 家《いへ》をも告《の》らず 名《な》を問《と》へど (119)名《な》だにも告《の》らず 哭《な》く児《こ》なす 言《こと》だに語《と》はず 思《おも》へども 悲《かな》しきものは 世間《よのなか》なりけり 世間《よのなか》なりけり
鳥音之 所聞海尓 高山麻 障所爲而 奧藻麻 枕所爲 蛾葉之 衣谷不服尓 不知魚取 海之濱邊尓 浦裳無 所宿有人者 母父尓 眞名子尓可有六 若蒭之 妻香有異六 思布 言傳八跡 家問者 家乎母不告 名問跡 名谷母不告 哭兒如 言谷不語 思鞆 悲物者 世間有 世間有
【語釈】 ○鳥が音の聞ゆる海に 作者の実景としていっているものである。○高山を障になして 高山を閨の障て物となしての意。○沖つ藻を枕になし 沖から寄って来る藻を枕になし。○蛾羽の衣だに著ずに 「蛾羽の」は、蛾の羽のようなで、薄い物の譬喩で、そうした物さえも着ずにで、裸体の意。○うらもなくい宿たる人は 無心に寝ている人は。以上、死者を生者の眠っているように扱っているもの。○母父に愛子にかあらむ 「母父」は、「母父」と母を先にする言い方は古来の定まりである。両親の愛子であろうか。○若草の妻かありけむ 「若草の」は、妻の枕詞。妻があったろうかで、妻のほうはあるなしが不定であるから、「けむ」と、過去推量にしたもの。○思ほしき言伝てむやと 家族に言いたいと思う事を、言伝てをしようかと思って。○家問へば家をも告らず 家の所在を問うけれどもいわず。○名を問へど名だにも告らず 名を問うが名さえもいわず。○哭く児なす言だに語はず 「哭く児なす」は、泣く児のようにで、「語はず」の枕詞。○思へども悲しきものは世間なりけり 「思へども」は、死ということは脱れられないことだと思うけれどもの意で、上よりの続きで、その死ということをわざと避けていっているもの。「世間なりけり」は、原文「世間有」で、諸注、訓が定まらない。『新訓』は、「よのなかにあり」と訓み、『全註釈』は、「よのなかなりけり」と「けり」を読み添えている。死に対しての詠歎で、全体が素朴な詠み方なので、『全註釈』の訓がうなずかれる。世の中なのである。
【釈】 鳥の声の聞こえる海に、高山を隔ての物として、沖の藻を枕にし、蛾の羽ほどの薄い衣さえも身に着ずに、いさなとり海の浜べに、無心に寝ている人は、父母にはかわゆい子であろうか。若草の妻もあったことだろうか。言いたいと思う事があるならば、言伝てをしようかと思って、家を問うけれど、家もいわない、名を問うけれど、名さえもいわない、泣いている児のように言葉さえもいわない。死ということは脱れられないと思うけれども、悲しいものは世の中なのである。世の中なのである。
【評】 上の歌を承けて、その中心に入って、死者の状態を精細にいっている。死者をただちに死者と見ず、ある期間生者と見なして扱うのは古来死者に対しての礼であって、すべての挽歌の背後にあるものである。庶民ならば新喪の間がそれであり、高貴の人だと殯宮の間がそれである。ここも、溺死者のいる場所を、生者の閨として、死者を生者の寝ているさまとして扱おうとしている。不自然な浅ましい場所と様とを、努めて自然な言い方にしようとしているのは、死者と知りつつも生者と見なそうとする矛盾のさせていることである。技巧ではなく、一種の実感なのである。さまざまに物を問うて、答えないという経(120)路を経て、初めて死者と認めることになり、死ということに対しての詠歎を発するのであるが、その場合でさえも、死の脱れないことを我も思うけれどもという意を、死を口にするをはばかって避け、ただ「思へども」という暗示的な語によってあらわしているのである。この作者にとっては、この取材は、上の歌よりは扱いにくいものであったと見え、言い方が一般的なものになってしまっているが、それとしても実感の匂いを湛えているものである。
反歌
3337 母父《おもちち》も 妻《つま》も子等《こども》も 高高《たかだか》に 来《こ》むと待《ま》ちけむ 人《ひと》の悲《かな》しさ
母父毛 妻毛子等毛 高々二來跡待異六 人之悲紗
【語釈】 ○高高に来むと待ちけむ 「高高に」は、伸び上がって待つ意の副詞。「待ちけむ」は、待っていたであろうで、「けむ」は、連体形。
【釈】 父母も、妻も子供も高々と伸び上がって待っていたであろう人の、この悲しいことよ。
【評】 長歌の中心を繰り返した、古風な反歌である。
3338 あしひきの 山道《やまぢ》は行《ゆ》かむ 風《かぜ》吹《ふ》けば 浪《なみ》の塞《さは》れる 海道《うみぢ》は行《ゆ》かじ
蘆檜木乃 山道者將行 風吹者 浪之塞 海道者不行
【語釈】 ○あしひきの山道は行かむ 我は山道のほうをば行こう。○風吹けば浪の塞れる海道は行かじ 風が吹くと、浪の立ち塞ぐ海道のほうは行くまい。
【釈】 あしひきの山道のほうをばわれは行こう。風が吹くと、浪の立ち塞がる海道のほうは行くまい。
【評】 当時の陸路は困難で、時日も多くかかるところから、できうる限り海路によったのであるが、溺死者を見て恐怖し、反省しての心である。この作者の最後の反歌としてふさわしいものである。
或本の歌
(121) 備後の国神島の浜にて、調便首《つきのおびと》の屍を見て作れる歌一首 井に短歌
【題意】 「備後の国神島」は、瀬戸内海の航路にあたっている地で、岡山県小田郡笠岡町(今笠岡市)の海上にある。『延喜式』神名帳に備中国小田郡神島神社とある所である。その南の高島説もある。「調使首」は、「調」は、氏。「使首」は、姓で、名は伝わっていない。
3339 玉梓《たまほこ》の 道《みち》に出《い》で立《た》ち あしひきの 野《の》行《ゆ》き山《やま》行《ゆ》き 潦《にはたづみ》 川《かは》往《ゆ》き渉《わた》り いさなとり 海路《うみぢ》に出《い》でて 吹《ふ》く風《かぜ》も のどには吹《ふ》かず 立《た》つ浪《なみ》も のどには立《た》たず 恐《かしこ》きや 神《かみ》の渡《わたり》の 重浪《しきなみ》の 寄《よ》する浜辺《はまべ》に 高山《たかやま》を 隔《へだて》に置《お》きて ※[さんずい+内]潭《うらぶち》を 枕《まくら》に纏《ま》きて うらもなく 偃《こや》せる 君《きみ》は 母父《おもちち》の 愛子《まなご》にもあらむ 稚草《わかくさ》の 妻《つま》もあるらむ 家《いへ》問《と》へど 家道《いへぢ》もいはず 名《な》を 問《と》へど 名《な》だにも告《の》らず 誰《た》が言《こと》を いたはしみかも 腫浪《とゐなみ》の 恐《かしこ》き海《うみ》を 直渉《ただわた》りけむ
玉桙之 道尓出立 葦引乃 野行山行 潦 川徃渉 鯨名取 海路丹出而 吹風裳 笠跡丹者不吹 立浪裳 箆跡丹者不起 恐耶 神之渡乃 敷浪乃 寄濱邊丹 高山矣 部立丹置而 ※[さんずい+内]潭矣 枕丹卷而 占裳無 偃爲公者 母父之 愛子丹裳在將 稚草之 妻裳將有等 家問跡 家道裳不云 名矣問跡 名谷裳不告 誰之言矣 勞鴨 腫浪能 恐海矣 直渉異將
【語釈】 ○潦川往き渉り 「潦」は、降雨の際、にわかに現われて流れる水で、ここは川へ修飾としてかかる枕詞。○※[さんずい+内]潭を枕に纏きて 「※[さんずい+内]潭」は、訓がさまざまである。『新訓』の訓。「※[さんずい+内]」は浦で、水の湾形となった所。「潭」は、淵で、入江にある淵。「枕に纏きて」は、枕として身に巻いてで、溺死体となって漂着した状態を言いかえたもの。○偃せる君は 「偃せる」は、「臥す」の古語「偃す」の敬語。臥していられるで、死者に対する礼としての敬語。○誰が言を 誰のいうことをで、妻にいわれたこと。○腫浪の 木下正俊氏の訓に従う。「とゐ浪」は、前の(三三三五)に出た。「腫」は、はれる義の字で、浪の高まる意で当てたもの。
【釈】 玉桙の旅の道に発足し、あしひきの野を行き、山を行き、潦のような激しい河を徒渉し、いさなとり海路へ出て、吹く風(122)も穏やかには吹かず、立つ浪ものどかには立たない、恐るべき神霊のいます渡海所の、重なり来る浪の寄せる浜べに、高山を隔てに置いて、浦の淵を枕として身に巻いて、無心に臥していられる君は、父母にはかわゆい子でもあろう。若草の妻もあるだろう。家を問うが、家への道もいわず、名を問うが、名さえもいわない。誰のいったことをいとしく思って、高浪の立つ恐るべき海を、ひたむきに渡ったのであろうか。
【評】 この歌は題詞にあるように、調使首某が、旅人として瀬戸内海を航海中、備後国神島の浜で溺死体を見た時の挽歌である。溺死体のあった場所は、山の海に迫った所で、その下は浦淵となった水の静かな浜だったので、一見、溺死体となって漂着したことが知れたのであろう。自身も同じく旅人で、また同じ所を渡ろうとしている際であるから、感傷し、哀悼して挽歌をと思ったのは自然である。その際使首の胸に浮かんだのは、上の二首連作となっている形の歌で、事情もすっかり同じなところから大体それにより、部分的に取捨を加えて、この場合に適用させたものとみえる。この法は当時にあってはむしろ普通のことで、ことにこの場合は自然でさえもあったのである。上の歌を適用させたというのは、上の歌は個人的の哀感が深く、したがって取材が細かく、調べも深く湿っていて、全体として実感の強さを思わせるものである。この歌はそれに較べると、儀礼の心の勝ったもので、取材も粗く、調べも平坦なものである。起首の「玉桙の道に出で立ち」は、儀礼的なこの歌としてはいかにも唐突で、「あしひきの野行き山行き」の続きも粗雑で、この辺りは、上の歌を記憶で辿った跡の明瞭なものである。上の歌からこの歌は出るが、反対に、この歌から上の歌は出ずべくもないものだからである。
反歌
3340 母父《おもちち》も 妻《つま》も子等《こども》も 高高《たかだか》に 来《こ》むと待《ま》つらむ 人《ひと》の悲《かな》しさ
母父裳 妻裳子等裳 高々丹 來將跡待 人乃悲
【解】 上の(三三三七)と同じで、ただ四句の「待ちけむ」が、「待つらむ」と現在になっているだけである。
3341 家人《いへびと》の 待《ま》つらむものを つれもなく 荒磯《ありそ》を纏《ま》きて 偃《ふ》せる公《きみ》かも
家人乃 將待物矣 津煎裳無 荒礒矣卷而 偃有公鴨
(123)【語釈】 ○荒礒を纏きて 「荒礒」は、しばしば出たように、海岸に現われている岩である。「※[さんずい+内]潭」の地形に即してのものとみえる。
【釈】 家人が待って居るだろうのに、思いやりなく、海べの岩を枕に纏いて臥している君であるよ。
【評】 上の歌に続けて、家人を中心として、死者を恨むごとくいっているものである。
3342 ※[さんずい+内]潭《うらぶち》に 偃《こや》せる公《きみ》を 今日今日《けふけふ》と 来《こ》むと待《ま》つらむ 妻《つま》しかなしも
※[さんずい+内]潭 偃爲公矣 今日々々跡 將來跡將待 妻之可奈思母
【語釈】 略す。
【釈】 浦の淵に臥していられる君を、今日は今日はと帰るだろう日を待っているだろう妻の憐れなことよ。
【評】 これは、明らかに妻を中心として隣れんでいるものである。以上三首、旅人としての使首の心を反映させての憐れみである。
3343 ※[さんずい+内]浪《うらなみ》の 来寄《きよ》する浜《はま》に つれもなく 偃《こや》せる公《きみ》が 家道《いへぢ》知《し》らずも
※[さんずい+内]浪 來依濱丹 津煎裳無 偃有公賀 家道不知裳
【語釈】 略す。
【釈】 浦浪の寄せて来る浜に、無心にも臥している君の、家への道も知られないことよ。
【評】 最後に、死者に立ち帰っているが、それも死者とその家人をつなぐ関係においてのものである。以上四首、長歌の繰り返しを出ないもので、連作の繋がりも認められないものである。
右九首
3344 この月《つき》は 君《きみ》来《き》まさむと 大舟《おほふね》の 思《おも》ひたのみて 何時《いつ》しかと 吾《わ》が待《ま》ち居《を》れば 黄葉《もみちば》の(124)過《す》ぎて行《ゆ》きぬと 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》の云《い》へば 螢《ほたる》なす ほのかに聞《き》きて 大土《おほつち》を 炎《ほのほ》と踏《ふ》みて 立《た》ちて居《ゐ》て 行方《ゆくへ》も知《し》らに 朝霧《あさぎり》の 思《おも》ひ惑《まと》ひて 杖足《つゑた》らず 八尺《やさか》の嘆《なげき》 嘆《なげ》けども しるしを無《な》みと 何所《いづく》にか 君《きみ》が坐《ま》さむと 天雲《あまぐも》の 行《ゆ》きのまにまに 射《い》ゆ猪鹿《しし》の 行《ゆ》きも死《し》なむと 思《おも》へども 道《みち》の知《し》らねば 独《ひとり》居《ゐ》て 君《きみ》に恋《こ》ふるに 哭《ね》のみし泣《な》かゆ
此月者 君將來跡 大舟之 思憑而 何時可登 吾待居者 黄葉之 過行跡 玉梓之 使之云者 螢成 髣髴聞而 大土乎 火穗跡而 立居而 去方毛不知 朝霧乃 思或而 杖不足 八尺乃嘆 々友 記乎無見跡 何所鹿 君之將座跡 天雲乃 行之隨尓 所射宍乃 行文將死跡 思友 道之不知者 獨居而 君尓戀尓 哭耳思所泣
【語釈】 ○この月は君来まさむと 「この月は」は、その旅にあることの長期であったことと、その公務のためであることを示している語。「君来まさむと」は、夫がお帰りになろうと。○何時しかと吾が待ち居れば 「何時しかと」は、早くと思って。○黄葉の過ぎて行きぬと 「黄葉の」は、「過ぎ」の枕詞。「過ぎて行きぬと」は、現し世を去って行ったと。○螢なすほのかに聞きて 「螢なす」は、螢の光のごとくで、譬喩で「ほのか」にかかる枕詞。他に用例の見えないものである。○大土を炎と踏みて 大地を炎のごとくに踏んでで、驚きと悲しみのために、あるにあられぬ心を具象化したもので、きわめて新味のあるものである。○立ちて居て行方も知らに 立っても坐っても行くべき当てが知られずに、どうにも途方にくれての意で、慣用句。○朝霧の思ひ惑ひて 「朝霧の」は、譬喩で、「惑ひ」にかかる枕詞。「思ひ惑ひて」は、嘆きに心が乱れてで、上の「知らに」を進めていったもの。○杖足らず八尺の嘆 「杖足らず」は、「杖」は、上代の丈の称で、十尺すなわち一丈をあらわす語。それには足りない意で、八尺にかかる枕詞。「八尺の嘆」は、きわめて長い溜め息。○嘆けどもしるしを無みと 嘆くけれども甲斐がないので。○何所にか君が坐さむと いずくにか君はいらせられるだろうと思って。死んだ気がしない意でいっているので、死が実感とならないこと。○天雲の行きのまにまに 天雲のごとく足に任せて行く意。「天雲の」は、枕詞として慣用されているが、ここはその本来の譬喩に還したもの。○射ゆ猪鹿の行きも死なむと 「射ゆ猪鹿の」は、射られた猪鹿のごとくで、「行きも死なむ」の枕詞。古くから慣用されている句である。「射ゆ」は、終止形で、終止形から体言へつづく古形のもの。「行きも死なむと」は、捜しに行って死のうとで、死ぬまで捜そうの意。
【釈】 この月は君が帰っていらっしゃろうと、大舟のように頼んで、早くとわが待っていると、黄葉のように世を去って行ったと、玉梓の使がいうが、螢火のようにほのかに聞いて、大地を炎のように踏み、立っても居ても心のつなぎ所が知られず、朝霧のように思い乱れて、一丈に足りない八尺もの長い溜め息をついて、嘆くけれども甲斐がないので、いずくにか君はいらっしゃ(125)ることだろうと思い、天雲のように行くに任せて、射られた猪鹿のように行き斃れになろうと、思うけれども道を知らないので、独りいて君を恋うて、泣きばかりされる。
【評】 多分地方官となって、地方に行っている人で、任期が満ちて帰る日も定まっていた人の妻が、突然夫の死の報告を使から聞き、そうした際の共通の心として、それが真実のこととは思えず、夫はまだどこかに生きているような気がし、自分で捜しに行こう、行き倒れになるまでもと思ったが、当時のこととて全く行く道の見当もつかず、ただ泣かれるばかりだという、死の報告を受けた直後の、激しい動揺を叙したものである。この妻は情熱の高い、歌才の豊かな人で、一首情熱の動くままに叙した、むしろ性急にすぎる感のある詠み方であるが、歌才はそれに統一を与え、抑揚緩急を持たせて、特色ある歌としている。部分的に見ても、「螢なす」という枕詞、「大土を炎と踏みて」の二句のごとき、他に例のない創意のものである。「天雲の行きのまにまに、射ゆ猪鹿の行きも死なむと」と高揚して来るところなど、手腕を思わせるものである。挽歌の範囲のものであるが、儀礼としての挽歌以前の、自身の激情のみをいっているもので、それがこの歌の魅力となっているのである。やや古い時代の歌である。
反歌
3345 葦辺《あしべ》ゆく 雁《かり》の翅《つばさ》を 見《み》るごとに 公《きみ》が佩《お》ばしし 投箭《なぐや》し思《おも》ほゆ
葦邊徃 鴈之翅乎 見別 公之佩具之 投箭之所思
【語釈】 ○葦辺ゆく雁の翅を 「翅」は、下の投箭の羽を連想されるもの。○公が佩ばしし 「佩ばしし」は、「佩びし」の敬語。背に負っていた意。当時の旅行には、身分の高い者以外は、護身用として弓矢を(126)帯していたものである。○投箭し思ほゆ 「投箭」は、上に「投ぐる箭」とあったもので、ここも普通の箭の称である。
【釈】 水辺の葦の辺りを飛び行く雁の翅を見るごとに、旅立つ時に君がお負いになった投箭が思われる。
【評】 長歌と繋がりを持ちつつ、展開をつけている反歌である。沈静に還っての心である。取材が特殊で、調べも強さがあって、さわやかに快い歌である。
右二首。但し或は云ふ、この短歌は、防人の妻の作りし所なりといへり。然らばすなはち、応《まさ》に長歌もまたこれと同じく作りしことを知るべし。
右二首。但或云、此短歌者、防人之妻所v作也。然則應v知2長歌亦此同作1焉。
【解】 この反歌の伝えについての編集者の注である。長歌と反歌とが同一手に出ていることを認めている点はうなずかれる。伝えは、おそらく「投箭」より来ているものであろうが、あたらないものである。防人でなくても弓矢は持ったのである。
3346 見欲《みほ》しきは 雲居《くもゐ》に見《み》ゆる 愛《うつく》しき 十羽《とば》の松原《まつばら》 小子《わらは》ども いざわ出《い》で見《み》む こと避《さ》けば 国《くに》に避《さ》けなむ こと避《さ》けば 家《いへ》に離《さ》けなむ 乾坤《あめつち》の 神《かみ》し恨《うら》めし 草枕《くさまくら》 この旅《たぴ》のけに 妻《つま》離《さ》くべしや
欲見者 雲居所見 愛 十羽能松原 小子等 率和出將見 琴酒者 國丹放甞 別避者 宅仁離南 乾坤之 神志恨之 草枕 此羈之氣尓 妻應離哉
【語釈】 ○見欲しきは雲居に見ゆる 「見欲しきは」は、見たいものはで、「雲居に見ゆる」は、遥かに見える。○愛しき十羽の松原 愛すべき十羽の松原よ。「十羽」は地名であるが、どことも詳かではない。諸国にある地名だからである。ここは、旅からその家に帰って来る途中で望見しているもので、その家の近くにあるものである。○小子どもいざわ出で見む 「小子ども」は、幼い者どもよで、父親がその子供に呼びかけていっているもの。「いざわ」は、「いざや」と同じで、誘う意の語。古形である。他にも用例のある語である。「出で見む」は、ここまで出て見ようで、夜前宿った所から出るものと取れる。○こと避けば国に避けなむ 「こと避けば」は、巻七(一四〇二)に既出。「こと避け」は一語で、同じ遠ざけをさせるならば。ここはその妻を死なせたことを指している。「国に避けなむ」は、郷国で別れさせてもらいたい。「なむ」は、未然形に接(127)しての希望の終助詞。○こと避けば家に離けなむ 上の「国」を「家」に変えての繰り返し。○乾坤の神し恨めし 天神地祇が恨めしいで、「し」は、強意。人の生死は、一に神意によるものとする信仰よりの言。○草枕この旅のけに妻離くべしや 「旅のけに」は、旅にある間にで、地方官などで、妻子を連れて任地へ行っていたとみえる。「や」は、反語で、妻を死なさせるべきであろうか、そうではないの意。
【釈】 見たいものは、遥かにも見える愛すべき十羽の松原よ。幼い者どもよ、さあ出て見よう。同じ別れさせることなら、郷国で別れさせてほしい。同じ別れさせることなら、家で別れさせてほしい。天地の神が恨めしい。この旅の間に妻を別れさせるべきであろうか、ありはしない。
【評】 地方官などで長く任地へ行っていた人が、妻子を連れて行っていて、任地で妻に死なれ、任期が満ちて家に帰る途中の感である。その人は前夜、旅の宿りで夜を明かし、朝空に遠望すると、その家のある地の目標となっている十羽の松原が遠く認められたので、なつかしさに駆られて子供たちを呼び出して見せるとともに、自身は家に帰つても妻のないことを思うと、妻に対する愚痴が一時に湧いて来て、いわずにはいられなくなった心である。抒情と叙事と一つになったもので、心は自然で、形は簡潔で、趣の深い作である。素朴な、古風な作で、やや古い時代のものである。
反歌
3347 草枕《くさまくら》 この旅《たび》のけに 妻《つま》放《さか》り 家道《いへぢ》思《おも》ふに 生《い》ける術《すべ》なし
草枕 此羈之氣尓 妻放 家道思 生爲便無
【語釈】 ○妻放り 妻に別れてであるが、死別しての意。○家道思ふに生ける術なし 家への道を思うと。「生ける術」は、熟語。ここは、生きている気の意。
【釈】 草枕のこの旅の間に妻と死別して、家へ向かう道を思うと、生きている気もしない。
【評】 長歌の心を前進させたものである。「家道思ふに」は、家へ帰っても、妻がいず、空しい家であることを含めているもので、長歌にふさわしい反歌である。
或る本の歌に曰く、旅のけにして
或本歌曰、羈乃氣二爲而
(130) 萬葉葉 巻第十四概説
一
本巻は、『国歌大観』の番号の(三三四八)より(三五七七)に至る二三〇首を収録した巻である。歌体は短歌のみで、他のものは一首もない。
本巻の歌はきわめて特殊なもので、集中他に類例のないものである。それは一と口にいうと、東国の庶民の間に謡われていたものだということである。その中の数首は、柿本人麿歌集の中にあるものに似ており、または人麿の作だという伝えを持っているのであるが、他はすべて作者不明のものである。その中の少数は、京の人の東国に下っていて詠んだものかと思われるのであるが、そうした物を除外しての最大部分は、東国人がその郷土にあって詠んだもので、東国の農地より生まれた歌である。そのことは、歌のほとんど全部が、その土地の地方語をまじえていることにょって明らかである。
歌は編集者によって細かく部類分けされて、相聞、雑歌、防人の歌、譬喩歌、挽歌とされているが、雑歌はきわめて少なく、譬喩歌は相聞であり、挽歌も夫婦感情を主としたもので、相聞の範囲に属させうるものである。それにこれは例外的に数が少ないのである。要するに、いささかの雑歌の混じている相聞歌集と見られるものである。
二
本巻の資料とされた歌は、以前から京にあった物で、編集者はそれに整理を加えたにすぎないことは、問題とならぬことである。
また、それら資料となった物が、東歌という名称をもって呼ばれていたことも、明らかに察しられる。それは本巻の歌はすべて東歌であるにもかかわらず、巻首の五首の歌に限って、特に「東歌」という都立を設けて特別扱いをしていることである。何ゆえにこうした扱いをしたかということについて、編集者は何事もいっていない。編集者は他の歌については、できうる限りくわしい考証をしているのに、このことについては触れて言っているところのないのを見ると、いうを要さない自明のことと見なしたがためであろう。これについて連想されるのは、古今和歌集の「東歌」である。それは大歌所に伝わっていたものである。古今和歌集の撰者は本集を模範としたことも思い合わせると、「東歌」と題してある五首の歌は、当時の雅楽寮の歌詞として採録されていたもので、「東歌」という名称も、同じく雅楽寮において呼ばれていたものであることが知られる。
これら五首の東歌は、その土地からいうと、上総、下総、常陸、信濃であって、東国という中でも京より遠隔な地域である。また歌の素材からいうと、おおらかな、一般性を持った、一と(131)口にいうと上品なものである。
これらの歌が雅楽寮に採用された経路は、何らかの方法で、直接にその地域より得たか、または、すでに京にあった同類の歌の中より、雅楽寮の歌びとが、その所用に適する物として選んで取ったか、その二つの中のいずれかでなくてはならない。本巻にとってはこれは問題となるべきことである。
三
東歌という名称は、雅楽寮の歌びとの付けたものであろうと思われるが、とにかく京の人が、京を主として付けたものであることは明らかである。京の人が、東国の広範囲の地域にわたっての民謡を蒐集したのは、どういう動機よりのことであったろうか。興味よりであったろうか。または必要に駆られてのことであったろうか。
その興味よりのことでなかったことは、察しやすい。京の知識人は東国に対して異国情調を感じ、見ぬ風景にあこがれていたことは、大伴家持らの歌によってもうかがえるから、民謡に対してもある程度の好奇心を持っていたろうとは察しられる。しかし広範囲の地域にわたっての民謡を蒐集するということは、単に興味だけでできるごとき軽いことではない。これは現在にあっても容易にできようとは想像し難いことである。この当時にあっては問題とならない難事業であったことは明らかである。
必要があってのこととすると、どういう必要が感じられてのことであったろう。
この点について、最も注意を引くことは、本巻の東歌を蒐集されている東国と、巻第二十所収の、防人を出している国とは、完全に一致していて、いささかの出入りもないということである。すなわち東海道では遠江、駿河、相模、武蔵、上総、下総、常陸の七か国、東山道では信濃、上野、下野、陸奥の四か国で、東歌の蒐集も、防人を出すのも以上の十一か国に限られているということである。このことは、東歌と防人の歌との間には、切り離し難い関係のあったことを示しているものと見られる。
防人の歌がいかなる性質のものであったかは、巻第二十でいうべきであるが、ここで概言すると、その本来は、勅によって、歌をもって、防人に朝廷に対する忠誠を誓わしめたものである。防人の中のやや主立った者は、その心の歌を詠んでいるが、多くは歪められて、親や妻に対する惜別の情、さらに妻の惜別の歌にまでもくずれて来たのであるが、本来はそうしたものではなかったのである。国境の要衝を守らせる重い責任を負わせる防人である上に、朝廷から見ると、その剛勇は頼もしいが、心情については十分に信じ難かった東国人であるから、彼らに誓言を要求し、歌という当時にあっては改まった形式であるものをもって、誓言を要求したことは、必要欠くべからざる要求だったのである。それら防人の歌を取りまとめて兵部省に奉るのは、防人を難波まで引率して、兵部省に引き渡す責任を持っていた、各国庁の主立った官人で、これは、負わされていた公務の一つだったのである。
国庁に命じて、各防人にそのようなことをさせていた朝廷が、(132)防人を出している国々の、民情を実際に把握する方法とし、その国々に行なわれている民謡を、同じく国庁に命じて蒐集させたものと思われる。それだと、このようなその当時としては大規模の蒐集も可能性があるが、それをほかにしては、不可能のことに思われるからである。民情把握の方法としてこのようなことを選んだのは、当時は漢文学の盛行していたことであるから、同じ心よりのものである漢土の詩経の例にならうということは快いことであったろうし、わが国としても風土記撰進のことが行なわれて、その中にその土地土地の口碑伝説までも取り入れさせていたことであるから、庶民の日常謡っている歌をと思い寄ることは、最も自然なことといえる。
四
資料としての東歌の保存されていた場所は、上述の関係から、宮廷内であったと思われる。
それが本巻編集者の手に入った時には、その保存方法の不十分であったために、かなり混乱していたのである。それは、国庁より朝廷に奉った時には、無論国分けがはっきりしていたはずであるのに、それらが一つにされていたために不明になり、東国の地名で、その所在の国の調べうる手がかりのあるものは、国分けができたが、手がかりのないものは手のつけようがなく、「未勘国」として一群とせざるを得なかったのである。その数の多いところから見て、混乱の度の甚しかったことが思われる。
また、東歌の中に、防人の歌のまじっていることも注意される。防人の歌は、歌としては東歌とは全く別種のもので、同一に扱わるべきものではない。たとい少数であっても、そのまじっていることは不自然である。
ある国の防人の歌が、かりにその国の民謡の中に加わったということも、必ずしもありうべからざることではないが、この混同はそうした経路よりのことではなく、双方宮廷内に保存されているうちに、不注意よりおのずから混同を来たしたものであろうと思われる。このことは本巻(三四八一)の防人の歌「あり衣のさゑさゑ鎮み家の妹に物言はず来にて思ひ苦しも」と、巻四(五〇三)人麿歌集の歌「珠衣のさゐさゐ沈め家の妹に物|語《い》はず来て思ひかねつも」の関係においても思われることである。
五
本巻の資料が、いかにして編集者の手に入ったかは明らかでない。しかし、巻第二十の防人の歌が、大伴家持の手に入った経路を思うと、ほぼそれと同様ではなかったかと思われる。
防人の歌は、東国の国庁の官人の、その引率した防人を兵部省の手に引渡す際、それとともに朝廷に献じた防人の歌を、当時兵部少輔であった大伴家持が兵部省の官人としてその事務を取扱ったため、偶然にも防人の歌を内見する機を得て、それを抄録し得たためである。それは彼の興味よりのことであった。本巻の東歌も、家持は内舎人として多年宮廷にあったために、そこに保存されながらも閑却されていた東歌を、おのずから目(133)にする機会を得、同じく興味より書写したものであろうと思われる。その入手の経路をいっていないのは、たとい閑却されていようとも、すでに宮廷の庫に収められ、不出の物とされていた物であるから、触れては言えないというごとき関係からではなかろうか。
六
本巻の東歌は、巻第二十の防人の歌とともに、上代の東国の庶民が、いかに高い文芸的感性を持っていたかを示しているものである。その当時としては、為政者の民情を知るためのものであったと思われるが、現在から見ると、文化程度の知られるものとなって、異なる意味において一段と価値あるものとなっているのである。これらの歌はすべて合作で、基本となった物は京の歌であるが、それは目によって文字をとおして知ったのではなく、耳により声をとおして知ったのである。現在より推して、その感性の鋭敏さの思われることである。また、これらの歌は大体、労働に合わせての謡い物であったと思われるが、歌体の短歌形式に限られていることは、短歌形式が謡い物としていかに好適な物であったかをも語っていることである。
東歌には地方語が多い。防人の歌も同様ではあるが、それよりも量が多いのである。これは歌そのものの性質の異なるためで、防人の歌は朝廷に献じる公的のものであるのに、東歌は彼らの定住している土地の謡い物で、したがって彼らの常用する地方語をもってするほうが、より親しかったためである。しかしここに収められている歌は、集録の際ある程度の選択は加えられたろうから、一般に謡われていた歌は、地方語が、さらに多く、内容もさらに深刻なものであったろう。
歌の性質は、大体相聞であることは上にいった。当時の労働は大体共同であり、集団的であったから、そういう際に謡われる歌が、最も一般性の多い相聞であったことは当然である。それにつけ注意されることは、神に対する信仰の心に触れた歌のきわめて稀れなことである。これは敬神の心は労働歌の範囲以外のこととしたためでもあろうか。
相聞の歌は、あくまで実際に即しているために、勢い赤裸々で、粗野な露骨なものが少なくない。また現実的で、目前を全体としている心が際やかである。精神と肉体とは一元で、そこに何の差別もないと信じていたのであるから、熱意の現われは当然赤裸々な形となったのである。
それにつけ注意されることは、そうした歌ではあるが、そこに軽い興味的な気分の全く混じていないことである。そのことは、往々まじっている防人の歌の、沈痛味を持ったものと、それら赤裸々な歌との間に、感味の上でほとんど差別の認められないまでである。この点は後世の歌と著しく異なっているのである。
本巻の万葉集における位置は、和歌史的に見て甚だ高いものであるが、歌そのものとして見ても、本巻に限られた特殊な味わいがあって、その意味でも尊重されるべきものである。
(136) 東歌
【解】 『古義』はここに部立として「雑歌」とあったのが脱したとしている。歌数はわずか五首で、中には相聞と見られるものもあるが、大体雑歌として集めたものとみえるから、以下の分類との振合いからいっても、あるほうが合理的である。しかし諸本異同がないので、雑歌に対しては、このような扱いをする風があったかとも見られる。不明とするほかはない。
3348 なつそびく 海上潟《うなかみがた》の 沖《おき》つ洲《す》に 船《ふね》はとどめむ 小夜《さよ》ふけにけり
奈都素妣久 宇奈加美我多能 於伎都渚尓 布祢波等杼米牟 佐欲布氣尓家里
【語釈】 ○なつそびく海上潟の 「なつそびく」は、「な」は、魚。「つ」は、助詞。「そ」は、麻で、現在も漁村によっては、麻繩のことを「そ」と呼んでいるというので、ここはその意のもの。「びく」は、引くで、漁業用の網に着けた麻繩を陸上で引き寄せる意で、現在の地曳き網の引綱に類するもの。それを引くには頸(うな)げるので、同音の海に続き、また、息を切って引くので、息の古語「い」に続き、命の枕詞ともなっているものと取れる。「海上潟」は、現在千葉県市原郡三和町に海上村の旧名があり、また利根川の河口に近い所にも海上郡の地名がある。もと海上は広い地域にわたっての称で、後に国分けされたものとみえるので、そのいずれとも定められない。○沖つ洲に 沖のほうにある洲に。船を留める場所としてはやや特殊である。
【釈】 魚つ麻を頸げて引くに因みある海上潟の沖の洲に、わが船は留めよう。夜がふけてしまったことである。
【評】 類想の多い歌である。「沖つ洲に船はとどめむ」というので、夜を船中に過ごそうとしていることとみえる。さして身分ある舟行者の歌ではなかろう。詠み方は京風で、どちらかといえば沈静の趣を持っており、結句に抒情味をたたえているあたり、歌作に熟した人の作である。しかしこうした歌が、最初から京の人の作であったか、または地方の歌で、たまたま京で謡われて洗煉されたものであるかどうかは、にわかには定められない。それは巻七(一一七六)「夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず」との関係を想像しても思われることである。
右の一首は、上総国の歌。
右一首、上總國歌。
(137)【解】 この国名は、歌の中にある地名によって推定したものである。中には誤解しているものもまじっていて、すべて確実だとは言い難いものである。
3349 葛飾《かづしか》の 真間《まま》の浦廻《うらみ》を 漕《こ》ぐ船《ふね》の 船人《ふなびと》騒《さわ》く 浪《なみ》立《た》つらしも
可豆思加乃 麻萬能宇良未乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母
【語釈】 ○葛飾の真間の浦廻を 「葛飾」は、現在でも千葉県東葛飾郡、埼玉県北葛飾郡、東京都葛飾区にその名をとどめており、江戸川を挟んで武蔵国と下総国へまたがる広汎な地域である。「真間の浦廻」は、「真間」は、現在は市川市の真間川沿いの地の称となっているが、古くは江戸川の河口に臨み、東京湾に面した広い地域の称であって、現在の真間は移転したものだという。「浦廻」は、浦で、「廻」は、あたり、めぐり。○漕ぐ船の 当時は物資の運送も、旅行も、できうる限りは船によったのである。
【釈】 葛飾の真間の浦を漕ぐ船の、船人が騒いでいる。きっと浪が立っているらしい。
【評】 真間の浦近く住み、平常船に関心を持っている人の、いつになく船人の騒ぐ声の高いのを聞き、きっと浪が高く立って来たからであろうと推量しての不安の感である。ただ騒ぐ声だけが聞こえて来る距離においての心である。巻七(一二二八)「風早の三穂の浦廻を榜ぐ舟の船人|動《さわ》く浪立つらしも」という紀伊国の歌がある。海岸生活の共通の不安として、同型の歌が横に広くひろがったさまが思われる。
右の一首は、下総国の歌。
右一首、下總國歌。
3350 筑波嶺《つくばね》の 新桑繭《にひぐはまよ》の 衣《きぬ》はあれど 君《きみ》が御衣《みけし》し あやに著欲《きほ》しも
筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母
【語釈】 ○新桑繭の衣はあれど 「桑繭」は、一語で、桑で飼育した蚕の繭の称。これは桑以外の物、例せば櫟の葉で飼育する蚕に対させての称と取れる。「新桑繭の衣」は、新しく拵えた桑繭の衣で、絹の衣は、当時の庶民にとってはきわめて貴い物だったのである。○君が御衣し 「御衣」(138)は、「著る」の古語「ける」の敬語「けす」の名詞形で、御衣は男の身分の高いことをあらわしたもの。○あやに著欲しも 「あやに」は、甚しくも。「著欲し」は、着たいで、「著」の動詞に、「欲し」の形容詞が、「ま」「が」の助詞を間にはさむことなしに直接に続いた形のものである。女が男の衣を着るのは、結婚しての状態で、結婚ということを婉曲にいったもの。
【釈】 筑波山の桑繭で拵えた新しい衣はあるけれども、君のお召物の甚しくも着たいことよ。
【評】 筑波山の山中か、あるいは山裾のあたりに住んでいる娘が、その地で見かけうる身分ある男にひそかにあこがれの心を抱き、我とその思いを漏らした歌である。「新桑繭の衣」と「御衣」とでつながりは付けているが、きわめて婉曲で、最初から距離を認めてのものである。したがって、あこがれの明るさ華やかさで終始しており、おのずから客観的にもなっている。まさに謡い物の条件を備えた歌である。別伝の二種まであるところから見て、広く謡われたものとみえる。
或本の歌に曰く、たらちねの。又云ふ、数多《あまた》着欲《きほ》しも
或本歌曰、多良知祢能。又云、安麻多伎保思母
【解】 一本には、初句が「たらちねの」となっているという。母の枕詞であるが、ここは母そのものとしている。例のないものである。筑波嶺以外の地の改作で、語続きが不自然である。「数多着欲しも」は、結句の別伝で、「あやに」を上品にすぎるとしたのであろう。露骨で、一首に不調和である。
3351 筑波嶺《つくばね》に 雪《ゆき》かも降《ふ》らる 否《いな》をかも 愛《かな》しき児《こ》ろが 布《にの》乾《ほ》さるかも
(139) 筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母
【語釈】 ○雪かも降らる 「かも」は、疑問の係。「降らる」は、「降れる」の東語。筑波山に雪が降ったのであろうか。○否をかも 「否」は、上を承けて打消したもの。「を」は、感動の助詞、「かも」は、疑問で、いや、そうではないのか。○愛しき児ろが布乾さるかも 「愛しき児ろ」は、かわゆいあの女で、「児ろ」は、「児ら」の東語。「児」は、女の愛称。「ろ」は、接尾語。「にぬ」は、「ぬの」、「乾さる」は、「乾せる」のいずれも東語。「かも」は、疑問。布を乾してあるのか。
【釈】 筑波山に雪が降ったのだろうか。いや、そうではないのか。かわゆいあの女の布を乾してあるのか。
【評】 筑波山の上に女の家のある男が、その山をやや遠くから望み、その少し白くなっているのに目を留めて、季節柄、雪かと思ったが、女の布を織っていることを連想して、あの布を乾してあるのだろうかと思い返した心である。布乾せるという連想が男の喜びだったので、素朴な、庶民的な喜びである。巻十一(二五三九)「相見ては千歳や去ぬる否をかも我やしか念ふ君待ちがてに」と、その形が酷似しており、関係のあるものにみえる。この歌が常陸国まで伝誦され、その影響を受けたものと思われる。当時の地方民が、中央の魅力ある歌に対していかに敏感であったかが思わせられる。
右の二首は、常陸国の歌。
右二首、常陸國歌。
3352 信濃《しなの》なる 須賀《すが》の荒野《あらの》に ほととぎす 鳴《な》く声《こゑ》聞《き》けば 時《とき》過《す》ぎにけり
信濃奈流 須我能安良能尓 保登等藝須 奈久許惠伎氣婆 登伎須疑尓家里
【語釈】 ○須賀の荒野に 「須賀」は、『略解』は、『倭名類聚鈔』に「筑摩郡|苧賀《そが》郷曾加」とある地だとしている。『大日本地名辞書』は、楢井(ならい)川と梓川の中間にある地だといっている。現在その名を持っている地は、東筑摩郡和田村字蘇我であるが、これは近く江戸末期の命名で、古くは和田荒井と称した地である。現在は荒井の名は伝わっていない。○時過ぎにけり 時が推移し去ったことである、と時の推移を渡り鳥のほととぎすの声で痛感した心である。
【釈】 信濃の須賀の荒野で、ほととぎすの鳴く声を聞くと、時が推移し去ったことである。
【評】 須賀の荒野に住んでいる庶民の、渡り鳥のほととぎすの声によって、時の推移を感じた心である。山の雪の消え方、渡(140)り鳥などで、農耕の時期を知るのは、庶民には普通のことで、これもそれと思われる。詠み方は素朴で、また、地名を重くいうのは、上代の人の郷土意識と、したがって郷土愛の濃厚なところから発するもので、共通のことである。京の官人を連想するほどの歌ではない。
右の一首は、信濃国の歌。
右一首、信濃國歌。
相聞
3353 あらたまの 伎倍《きへ》の林《はやし》に 汝《な》を立《た》てて 行《ゆ》きかつましじ 寝《い》を先立《さきだ》たね
阿良多麻能 伎倍乃波也之尓 奈乎多弖天 由伎可都麻思自 移乎佐伎太多尼
【語釈】 ○あらたまの伎倍の林に この二句は現在諸説があって、難解なものとなっている。左注に、「遠江の国の歌」とあるのと、また、地方の民謡には、最初に地名を挙げるのが型のごとくなっているところとから『代匠記』と『考』とは、「あらたまの」は、「麁玉の」で、遠江国の郡名と解し、「伎倍」は、城柵で、蝦夷人の侵入を防ぐ者のこもる城柵であるとし、下の「林」に続く関係から地名と解したのである。しかし「あらたまの」を郡名とする解には、本居宣長、『古義』が反対している。それは麁玉郡に「きへ」という地名の存したことは、文献上証すべきものがないとし、これを枕詞としたのである。これは巻五(八八一)「あらたまの来経往く年の」を例としてのものである。『全註釈』は、上代の用字法から、この歌の「伎」、また巻十一(二五三〇)「あらたまの寸戸が竹垣」の「寸」は、いずれも甲類の音で、城柵の「き」は、乙類の音であるから、城柵の意は成り立たないとして地名にしている。これらの解によると、「伎倍」は、土地の名となり、したがって遠江の国の歌ということは拠り所のないものとなる。最近尾関栄一郎氏は、『略解』が「貴平」の地を指摘しているのについて考査し、この地名は浜名郡豊西村(現在浜松市に入る)の字名として存続している。また、天竜川に沿うていた旧麁玉郡は、磐田、引佐、浜名の三郡に分属したところから考えて、麁玉郡に伎倍の地名のあったことが、一応想定されるといわれている。「伎倍」は、後にも出るが、今はこの地名説に従う。○汝を立てて 「汝」は、女に対しての称。あなたを立たせて置いて。○行きかつましじ 行き得られまいで、「かつ」は、堪える。「ましじ」は、否定推量の助動詞。○寝を先立たね 「寝」は、寝ることで名詞。「ね」は、願望の助詞。共寝を、別れに先立たせて下さい。
【釈】 あらたまの伎倍の林に、あなたを立たせて置いて、別れて行くことはできまい。寝ることを先立たせて下さい。
【評】 男が旅立つ時、妻である女が送って、伎倍の林まで来、いよいよ別れようとする時に、男のいった語である。上代の庶(141)民の生活がうかがわれる歌である。しかしこの歌にいわれている心は、現在も潜在しているものといえよう。
3354 伎倍人《きへひと》の 斑衾《まだらぶすま》に 綿《わた》さはだ 入《い》りなましもの 妹《いも》が小床《をどこ》に
伎倍比等乃 萬太良夫須麻尓 和多佐波太 伊利奈麻之母乃 伊毛我乎杼許尓
【語釈】 ○倍倍人の斑衾に 「伎倍人」は、伎倍に属している人。「斑衾」は、斑に染めた衾。これは当時としてはわが国にはない特殊な物て、したがって印象的な物だったとみえる。○綿さはだ 綿を多量に。「綿」は、当時は絹綿で、庶民としては貴重なものであった。「さはだ」は、多量の意の「さは」に「だ」の添った語で、用例のあるもの。これは特殊に加うるに贅沢なもので、伎倍人というのは、在来のわが国人とは異なった人で、また一般に富んでいた人であったとみえる。この歌によると、伎倍人を、伎倍という地名を持った地の住民とは解せられない。城柵にこもる土地の壮丁の意でないことも明らかである。「へ」は、部で、職業集団を意味する語ではないか。それだと「き」は、黒酒、白酒、また御酒などの酒《き》で、酒部《さかべ》と同意語の酒部《きへ》ではないかと思われる。酒を醸造する人は帰化人であったことが、古事記、応神天皇の巻に出ており、職業を世襲する関係から異民族であったことが知られる。また酒は、上代は神に供えることを目的としたもので、それについでは朝廷の節会に用いるもので、一般人の享楽のためのものではなかった。したがって地方にも、神社、官庁用の酒を醸造する一種の官人の集団が住んでいたろうとも推量される。
また、酒を醸造するには、酒そのものの性質上、清浄な場所を必要とし、それにあたる人も斎戒して事を行なったので、巻十一(二五三〇)「あらたまの寸戸が竹垣編目ゆも妹し見えなば吾恋ひめやも」というごとき歌も生まれたのではないかと想像される。以上、「入り」に意味でかかる序詞。○入りなましもの 「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形で、入ったらばよかったのに。○妹が小床に 「小」は、愛称で、妹の床に。
【釈】 伎倍人の用いる斑染めの衾に、絹綿の多量に入っている、そのように入ればよかったのに。妹の床に。
【評】 伎倍人の特殊な衾の、甚だ暖かそうなのを見た男の、自分の妻の床を連想し、前夜、独寝をしたことを思って呟いた心である。前の歌と同じく、古い形で素朴ではあるが、屈折があって巧みであり、肉感的な点は共通である。同じ土地の、同じ頃の歌とみえる。
右の二首は、遠江国の歌。
右二首、遠江國歌。
3355 天《あま》の原《はら》 富士《ふじ》の柴山《しばやま》 このくれの 時《とき》ゆつりなば 逢《あ》はずかもあらむ
(142) 安麻乃波良 不自能之婆夜麻 己能久礼能 等伎由都利奈波 阿波受可母安良牟
【語釈】 ○天の原富士の柴山 「天の原」は、富士の所在を形容しているもので、天の原の。「富士の柴山」は、「柴山」は、木の茂った山の称。富士の山麓の森林地帯。そこは、木陰がいつも薄暗いので、その意をあらわす木《こ》の暗《くれ》と続き、以上その序詞。○このくれの時ゆつりなば 「このくれ」は、上よりの木の暗を、この暮れすなわち今日の夕暮れの意に転じたもの。「時ゆつりなは」は、「時」は、妹に逢えるべき時間。「ゆつり」は、移りと同意語で、巻四(六二三)「松の葉に月はゆつりぬ」と用例がある。「ゆつりなば」は、移って、過ぎたならばで、言いかえると、ほどよい時を失ったならば。○逢はずかもあらむ 「かも」は、疑問の係。逢われずなることであろうか。
【釈】 天の原に聳えている富士の柴山の木《こ》の昏《くれ》に因みある、この暮れの時刻が移ったならば、逢われずなることであろうか。
【評】 妹の許に行くのに、あまり遅くなったら逢えなくなろうと、気を揉んでいる男の歌である。初二句の序詞は、眼前を捉えたものであるが、おのずからおおらかで、「このくれの」への転義も自然である。実際に即しつつも、豊かに、上品で、謡い物としてはすぐれたものである。
3356 不尽《ふじ》の嶺《ね》の いや遠長《とほなが》き 山路《やまぢ》をも 妹許《いもがり》とへば けによはず来《き》ぬ
不盡能祢乃 伊夜等保奈我伎 夜麻治乎毛 伊母我理登倍婆 氣尓餘波受吉奴
【語釈】 ○不尽の嶺のいや遠長き山路をも 不尽の嶺のいよいよ遠く長い山路をも。○妹許とへば 「とへば」は、といえばの約。というので。○けによはず来ぬ 諸説のある語である。『考』は、「け」は、「気」で、息。「によはず」は、呻吟せずしての意とし、『古義』が継承している。呻き声も立てずに来たの意。
【釈】 富士の根の、いよいよ遠く長い山路をも、妹の許へというので、呻き声も立てずに来た。
【評】 上代の風で、遠い地に妻を持つのは珍しいことではなか(143)った。この男もそれで、富士の山麓の遠い路を妻の許へ通って来、自分の誠意を訴える心でいったものである。素朴で、健康で、こうした心でいう歌に伴いがちな厭味のない歌である。
3357 霞《かすみ》ゐる 富士《ふじ》の山《やま》びに 我《わ》が来《き》なば 何方《いづち》向《む》きてか 妹《いも》が嘆《なげ》かむ
可須美爲流 布時能夜麻備尓 和我伎奈婆 伊豆知武吉弖加 伊毛我奈氣可牟
【語釈】 ○霞ゐる富士の山びに 「霞ゐる」は、霞がかかっているで、霞は名詞。「富士の山びに」は、富士の山の辺りに。○我が来なば 私が行ったならば。「来なば」は、今だと、行かばという場合であるが、上代は目的地に中心を置いて、そちらへ行くのを来るといったのである。ここは目的地は、富士の裾を通り過ぎてのかなたなのである。○何方向きてか妹が嘆かむ どちらへ向いて妹は嘆くのであろうかで、行く方は富士の方とは知っていても、霞で見当がつかなかろうと、憐れんでいっているのである。「か」は、疑問の係助詞。
【釈】 霞のかかっている富士の山辺りに我が行ったならば、どちらへ向いて妹は嘆くであろうか。
【評】 富士の裾をとおって、遠くかなたへ旅をしようとする男が、その妻と別れる際、妻を隣れんで詠んでいる歌である。おりから、霞が深く籠めて、富士も見えなくなっているので、あの富士の辺りに我が行った時には、妻は我を思う目じるしもなくなって、どちらへ向いて嘆くだろうかと憐れんでいるのである。自身にはいささかも触れず、若い感傷の心より、いちずに妻を憐れんで、我が行く方角の目じるしの見えないのまで隣れんでいるのである。民謡とみえるが、気分本位の作で、方言はまじらず、雅馴な歌である。比較的新しいものにみえる。
3358 さ宿《ぬ》らくは 玉《たま》の緒《を》ばかり 恋《こ》ふらくは 富士《ふじ》の高嶺《たかね》の 鳴沢《なるさは》の加《ごと》
佐奴良久波 多麻乃緒婆可里 古布良久波 布自能多可祢乃 奈流佐波能其登
【語釈】 ○さ宿らくは 「さ」は、接頭語。「宿らく」は、「宿る」の名詞形で、共寝をすること。「玉の緒ばかり」は、「玉の緒」は、玉を貫いた緒で、玉は本来それに呪力を信じて身に着ける物であり、緒も、玉を連続させる物として、同じく呪力を信じているものであって、集中の用例も直接間接にその意味のものであるが、これは呪力を離れての玉の緒そのもので、短い譬喩として用いているものと思われる。単に短い物という上では玉の緒に限らないのであるが、ここは「さ宿らく」の譬喩としてであって、身に着ける意できわめて適切なところから捉えているのであって、その感覚的な点を重く扱っているものと思われる。「ばかり」は、ほどでで、ほどに短くて。○恋ふらくは 逢えずに恋うることは。○富士の高(144)嶺の鳴沢の如 「富士の高嶺」は、富士の高い頂の。「鳴沢」は、鳴動する渓谷で、火山としての活動状態を続けている噴火口で、それのように深く烈しい。また、鳴沢は西北の谷、大沢だともいわれ、石が落下して立てる轟鳴と見る説もある。
【釈】 共寝をすることは玉の緒ほど短く、逢えずに恋うることは、富士の高い頂の鳴沢のように深く烈しい。
【評】 富士の山麓を繞っている地方に住んでいる若い男の、恋の不如意を嘆いた心で、きわめて一般性を持った心を、対照を用いて、説明的にわかりやすく詠んだものである。「玉の緒」と、「富士の高嶺の鳴沢」とは、謡う人にとってはきわめて魅力的なものであったろうと思われる。玉の緒は当時の地方の人には目馴れているものであり、鳴沢は富士を仰ぐとともに連想されるものであって、同時に、どちらも語そのものに信仰の絡んでいる重い響のあるものだからである。以下の替歌はそのことを示している。
或本の歌に曰く、ま愛《かな》しみ 宿《ぬ》らくはしけらく さ鳴《な》らくは 伊《いづ》豆の高嶺《たかね》の 鳴沢《なるさは》なすよ
或本歌日、麻可奈思美 奴良久波思家良久 佐奈良久波 伊豆能多可祢能 奈流佐波奈須与
【語釈】 ○ま愛しみ 「ま」は、接頭語。「愛しみ」は、かわゆいゆえに。○宿らくはしけらく 「宿らくは」は、寝ることは。「しけらく」は、「しける」の名詞形。したことだが。○さ鳴らくは 「さ」は、接頭語。「鳴らく」は、「鳴る」の名詞形。作意から見て、評判の高いことはの意。これは他に用例のない語である。○伊豆の高嶺の 不明であるが、地理的に見て天城山を指しているとみえる。○鳴沢なすよ 「鳴沢」は、ここは音の高い渓流である。「なす」は、のごとく。「よ」は、感動の助詞。
【釈】 かわゆいゆえに寝ることはしたことだが、評判の高いことは、伊豆の高嶺の音高い渓流のようであるよ。
【評】 上の歌の別伝としているが、これは伊豆地方に行なわれた独立した歌で、内容も全く異なっている。別伝とするのは、構成が上の歌に拠っているからのことであって、これは謡い物としては共通なことである。分類の標準が形式本位であることを示しているものである。「らく」を三回まで畳んでいるのは、謡い物としての声調からのことである。
一本の歌に曰く、逢《あ》へらくは 玉《たま》の緒《を》しけや 恋《こ》ふらくは 富士《ふじ》の高嶺《たかね》に 降《ふ》る雪《ゆき》なすも
一本歌曰、阿敞良久波 多麻能乎思家也 古布良久波 布自乃多可祢尓 布流由伎奈須毛
【語釈】 ○逢へらくは玉の緒しけや 「逢へらく」は、「逢へり」の名詞形。「玉の緒」は、短い譬喩。「しけや」は、「しけ」は、四段活用の動詞(145)で、巻五(八〇三)「まされる宝子に如かめやも」のそれと同じく、及ぶ意。「や」は、疑問の係助詞で、「しけや」は、後世の「しけばにや」にあたる古格。逢っていることは、玉の緒ほど短いせいであろうか。○降る雪なすも 降る雪のように多いことであるよ。
【釈】 逢っていることは玉の緒のように短いせいであろうか、恋うることは、富士の高嶺に降る雪のように多いことであるよ。
【評】 この歌も、別伝として扱われてはいるが、別な歌である。形は酷似していて、「玉の緒」と「富士」とを譬喩として捉え、対照させて扱っているが、この歌の作意は、逢うことが少ないがゆえに、かえって恋が繁くなるという、恋の心理の説明に重点を置いたものだからである。原歌の純感情的なのに対して、ある程度知性的なものであり、時代も下ってのものとみえる。品位は劣っている。
3359 駿河《するが》の海《うみ》 おし辺《べ》に生《お》ふる 浜《はま》つづら 汝《いまし》を憑《たの》み 母《はは》に違《たが》ひぬ
駿河能宇美 於思敞尓於布流 波麻都豆良 伊麻思乎多能美 波播尓多我此奴
【語釈】 ○おし辺に生ふる 「おし辺」は、「磯辺」の東語だとされている。磯は海岸の岩石の称で、海岸の砂浜に対させての称である。○浜つづら 浜に生える蔓草の総称。以上、蔓草のまつわるがようにの意で、「憑み」にかかる序詞。○汝を憑み母に違ひぬ あなたを頼みにして、母の心に背いた。
【釈】 駿河の海の磯べに生えている浜つづらの蔓のように、あなたを頼みにして、母の心に背いた。
【評】 女が男に、その衷情を披瀝して、全身を委ねることを誓った歌である。衷情というのは、娘からいえば、親とはいっても父は同居しないので親しみが薄く、母が親のほとんど全部であった。その母に背くということはきわめて重大なことで、したがってこれは男に対しての誓ともなりうることだったのである。「駿河の海おし辺に生ふる浜つづら」は、譬喩として「憑み」にかかる序詞であるが、しかしその繋がりは、気分よりのもので、間接な感じのあるもので、表面的に見ると相応に飛躍を持っているものである。これは後世的なものである。一首の調べも落ちついた、むしろ静かなもので、後世的である。比較的新しい歌と思われる。
一に云ふ、親に違ひぬ
一云、於夜尓多我比奴
(146)【解】 結句の別伝で、当時は親といえば母を意味したのである。意味の上では変わりがない。
右の五首は、駿河國の歌。
右五首、駿河國歌。
3360 伊豆《いづ》の海《うみ》に 立《た》つ白波《しらなみ》の 在《あ》りつつも 継《つ》ぎなむものを 乱《みだ》れしめめや
伊豆乃宇美尓 多都思良奈美能 安里都追毛 都藝奈牟毛能乎 美太礼志米梅楊
【語釈】 ○伊豆の海に立つ白波の 以上、譬喩として「継ぎ」にかかる序詞。○在りつつも継ぎなむものを 「在りつつも」は、世に長らえつづけつつも。「継ぎなむものを」は、関係を続けてゆこうと思っているのに。○乱れしめめや 「乱れ」は、夫婦関係の乱れで、あだし心を起こす意。「しめ」は、「そめ」の東語。「や」は、反語で、この関係を乱れはじめさせようか、させはしない。
【釈】 伊豆の海に立つ白浪のように、長らえつつもこの関係を続けて行こうと思っているのに、乱れはじめなどしようか、しはしない。
【評】 男が女に対して、その誠実を誓った歌である。別居生活をしていた当時の夫婦間には、折々こうしたことを繰り返す必要があったのである。これも女にその誠実を疑われての際のものである。
或本の歌に曰く、白雲《しらくも》の 絶《た》えつつも 継《つ》がむともへや 乱《みだ》れそめけむ
或本歌曰、之良久毛能 多延都追母 都我牟等母倍也 美太礼曾米家武
【語釈】 ○白雲の 第二句「白波の」以下の別伝である。以上譬喩。○絶えつつも継がむともへや 絶えながらもまた継ごうと思うのかで、「もへや」は、思えやで、「や」は、疑問の係助詞。反語ではない。○乱れそめけむ 関係が乱れはじめたのであったろうと、回顧した心。
【釈】 伊豆の海に立つ白雲のように、絶えながらもまた継ごうと思って、関係が乱れはじめたのであったろうか。
【評】 この歌は上の歌の別伝ではなく、明らかに内容を異にしている別の歌である。しかし二首緊密な繋がりを持ったもので、無関係なものとは見難い。それにつき折口信夫氏は『総釈』でこの歌は女が男に贈ったもの、上の歌は、これに対して男が答(147)えたもので、贈答だと解していられる。これはうなずかれる解である。結婚後は男はその当座の情が薄らぎ、女は反対に濃くなるのは普通である。男の足遠になっているのを、女は、男に他の女ができたためと解していたところへ男が通って来たので、さすがに自分とも絶える気はないのだと思い、恨みを含めてこの歌を詠んだのである。それに対して男は、断じて他意なきことをいって打消したのが上の歌だというのである。「白波」を「白雲」と変えただけで、他は同じ語を用いて異なった心としている点など、贈答の約束に叶ったものである。贈答と解すると、どちらも無理のない自然な歌となる。従うべきである。
右の一首は、伊豆国の歌。
右一首、伊豆國歌。
3361 足柄《あしがら》の 彼面此面《をてもこのも》に 刺《さ》す羂《わな》の かなる間《ま》しづみ 児《こ》ろ我《あれ》紐《ひも》解《と》く
安思我良能 乎弖毛許乃母尓 佐須和奈乃 可奈流麻之豆美 許呂安礼比毛等久
【語釈】 ○足柄の彼面此面に 「足柄」は、足柄山。静岡県と神奈川県の境に立つ山。「彼面此面」は、おちおも、こちおもで、あちらの面、こちらの面。山についていっている例の多い語である。○刺す羂の 「刺す」は、鳥網を張り、わなをしかけるなどに広く用いる語。しかける羂ので、羂は鳥獣を捕えるため。以上、次の句へかかる序詞。○かなる間しづみ 「かなる間」は、諸説のある語である。『古義』は、かしましく鳴る間と解し、「しづみ」は、静かになってと解している。この句は巻二十(四四三〇)「い小箭《をさ》手挟み向ひ立ちかなる間しづみ」という用例もある。序詞からは罠の音、承けるほうは、家人の立ち動く物音が鎮まって。○児ろ我紐解く 「児ろ」は、女の愛称で、女と我と下紐を解く。
【釈】 足柄の山のあちらの面こちらの面にしかける罠のかしましく鳴るように、家人の物音を立てる間が静かになって、かわゆい女と我とは紐を解く。
【評】 足柄の山中に住み、狩猟を業としているかに思われる男の、その妻と家人の目を忍んで逢う夜の心である。序詞に特色がある。この序詞はその土地としては、日常生活の実際を捉えたものであろうが、興味を感じて扱っているもので、その興味が主文に影響し、家人に知られずに共寝をするということに、別種の興味を感じていることを思わせるものである。これは地方の民謡でなくては見られないものである。特殊な歌といえる。
3362 相模嶺《さがむね》の 小峯《をみね》見《み》そくし 忘《わす》れ来《く》る 妹《いも》が名《な》呼《よ》びて 吾《わ》を哭《ね》し泣《な》くな
(148) 相模祢乃 乎美祢見所久思 和須礼久流 伊毛我名欲妣弖 吾乎祢之奈久奈
【語釈】 ○相模嶺の小峯見そくし 「相模嶺の」は、相模の代表的の山で、大山であろう。「さがむ」は、「さがみ」の古名。「小峯」は、「小」は、愛称で、「峯」は、頂。「見そくし」は、「見過ぐし」の東語としている。異説もある。「見過ぐし」は、見ることを経過してで、見えなくなってで、距離が遠くなった意。○忘れ来る妹が名呼びて 「忘れ来る」は、「妹」に続き、次第に紛れて忘れて来る。「妹が名呼びて」は、妹の名を傍らの人が呼んでと取れる。それだとその人は同行者で、妹のことを知っている人でなくてはならず、飛躍のある言い方になる。○吾を哭し泣くな 「哭し泣く」は、泣くの意の慣用語「哭泣く」に、「し」の強意の助詞の添ったもの。この「泣く」は、「吾を」との関係で、下二段活用の他動詞で、終止形である。吾を泣かせる。「な」は、感動の助詞。
【釈】 相模の山のそのなつかしい峯が見えなくなって、忘れて来ている妹の名を、傍らの人が呼んで、我を泣かせることであるよ。
【評】 この歌の解には諸説があって定まらない。今は上のように、相模の男が、同行者とともに遠い旅へ出、なつかしい郷国の目標である大山の頂も見えなくなり、妹のことも次第に紛れて忘れて来ている時、ふと同行者が妹の名をいったので、一時に恋しくなって泣かせられたという意に解する。時の経過に伴う心の推移を、実際に即して捉えている、一首の短歌としては複雑な内容である。第四句の無理もそこから出ているものと取れる。
或本の歌に曰く、武蔵峯《むさしね》の 小峯《をみね》見《み》かくし 忘《わす》れ行《ゆ》く 君《きみ》が名《な》かけて 吾《あ》を哭《ね》し泣《な》くる
或本歌曰、武蔵祢能 乎見祢見可久思 和須礼遊久 伎美我名可氣弖 安乎祢思奈久流
【語釈】 ○武蔵峯の小峯見かくし 「武蔵峯の小峯」は、上の歌と同じく、武蔵国の第一に高い山で、秩父御嶽かという。「むざし」は、「むさし」の古名。「見かくし」は、見るのを隠してで、山のほうを主とし、山自体が隠れるようにいったもの。これは例の多い言い方である。○忘れ行く君が名かけて 「忘れ行く」は、次第に忘れてゆく。「君が名かけて」は、君の名を傍らの人が口に出して。「君」は、男より女に対しての敬称と取れる。○吾を哭し泣くる われを泣かせることよ。「泣くる」は、上の歌と同じく下二段活用で、連体形である。係のない連体形で、詠歎をこめたものである。
【釈】 武蔵国の山のそのなつかしい峯を見えなくして、次第に忘れて来る君の名を、傍らの人が口に出して、我を泣かせることであるよ。
【評】 上の歌と作意は全く同じで、地名が異なり、部分的に小異があるだけである。この歌もよくこなれきっていて、上の歌(149)の模倣とは言い難いものである。どちらが先かもわからない歌である。
3363 吾《わ》が背子《せこ》を 大和《やまと》へ遣《や》りて まつしたす 足柄山《あしがらやま》の 杉《すぎ》の木《こ》の間《ま》か
和我世古乎 夜麻登敞夜利弖 麻都之太須 安思我良夜麻乃 須疑乃木能末可
【語釈】 ○大和へ遣りて 衛士などで、大和の宮廷へ徹されたのか。それだと長期の旅である。○まつしたす この句は難句で、諸注、それぞれに字を当てている。『新訓』は「松し立す」、他はすべて「まつ」を「待つ」としたものである。長期の旅であり、一首落ちついての心のものであるから、直接に「待つ」とせず、「松」とした点に心引かれる。「し」は、強意の助詞。「立す」は「立つ」の東語と取れる。○杉の木の間か 「か」は、感動の助詞。
【釈】 わが背子を大和へ遣って、松を立てる、足柄山の杉の木の間であるよ。
【評】 「まつしたす」が一首の眼目であるが、解しかねる。しかし作意は、夫の無事を祈っての呪法であり、その呪法の形式が後に伝わらないために不解になったもので、当時にあっては一般的のものであったろうと思われる。呪法の一つの形式であったろうということは、筆者は幼少の頃、信濃にあって、これに類したことを目撃しているからである。推量としては言いうることもあるが、今は略す。
3364 足柄《あしがら》の 箱根《はこね》の山《やま》に 粟《あは》蒔《ま》きて 実《み》とはなれるを 逢《あ》はなくも怪《あや》し
安思我良能 波〓祢乃夜麻尓 安波麻吉弖 實登波奈礼留乎 阿波奈久宅安夜思
【語釈】 ○足柄の箱根の山に 「足柄」は、広範囲の称で、箱根の山はその一部。○実とはなれるを 蒔いた粟が実となったのに。○逢はなくも恠し 逢わないことは、恠しい。
【釈】 足柄の箱根の山に粟を蒔いて、実とまでなったのに、逢わないことは恠しい。
【評】 上代は言霊信仰の延長として、物の名はその名に匹敵する力を持っているものだと信じていた。これは文献の上に立証できることである。この歌はその意で、「粟」と「逢はなく」とを関係させたものである。今日から見ると戯咲歌に類しているが、当時の山間の庶民にはそうした歌ではなかったろう。
(150) 或本の歌の末句に曰く、蔓《は》ふ葛《くず》の 引《ひ》かは寄《よ》り來《こ》ね 下《した》なほなほに
或本歌末句曰、波布久受能 比可波与利己祢 思多奈保那保尓
【解】 三句以下の別伝だとしているので、這う葛のように、わが誘い引いたならば、靡き寄ってくれよ。心すなおに。
【評】 別伝としてあるが、地名が同じなだけで、内容は全然異なった別な歌である。これは身許を知り合っている間柄で、男からした求婚の歌である。地方の部落生活をしていると、当然このような言い方をしようが、それとしては歌が洗煉されていて、地方色がない。京の歌が伝誦され、地名だけを取り替えたものであろう。
3365 鎌倉《かまくら》の 見越《みごし》の埼《さき》の 岩崩《いはくえ》の 君《きみ》が悔《く》ゆべき 心《こころ》は持《も》たじ
可麻久良乃 美胡之能佐吉能 伊波久叡乃 伎美我久由倍伎 己許呂波母多自
【語釈】 ○鎌倉の見越の埼の 「鎌倉」は、今の鎌倉市。「見越の埼」は、現在御輿が嶽とも見越が嶽とも呼んでいる山の出鼻だという。山は稲瀬川の東に聳えている。稲村が崎の古名とする説もある。○岩崩の 「岩崩」は、岩くずれ。類音で、「悔ゆ」に続き、以上その序詞。○君が悔ゆべき心は持たじ 「君」は、女より男を指しての称。「悔ゆべき」は、残念かるようなで、男がその女と夫婦関係を結んだことを、後になって残念がるようなで、これは男に対して不信な事をする意である。「心は持たじ」は、そうした心は我は持つまいというのである。
【釈】 鎌倉の見越の埼の岩崩れのように、君が後悔するような心は持ちますまい。
【評】 妻が夫に貞実を誓った歌である。序詞は、男女とも見馴(151)れている景を捉えたもので、これには拠りどころがある。巻三(四三七)「妹も吾も清《きよみ》の河の河岸の妹が悔ゆべき心は持たじ」が伝誦されていて、それに拠ったのであろう。しかしこの歌のほうが、調べが強くさわやかで、地方人を思わせる。
3366 ま愛《かな》しみ さ寝《ね》に吾《わ》は行《ゆ》く 鎌倉《かまくら》の 美奈《みな》の瀬川《せがは》に 潮《しほ》満《み》つなむか
麻可奈思美 佐祢尓和波由久 可麻久良能 美奈能瀬河伯尓 思保美都奈武賀
【語釈】 ○ま愛しみさ寝に吾は行く 「ま愛しみ」は、「ま」は、接頭語。「愛しみ」は、かわゆさに。「さ寝」は、共寝をあらわす慣用語。○美奈の瀬川に 今の稲瀬川の旧名で、鎌倉市深沢に発し長谷を通って海に入る潮入り川で、満潮の時には潮のさし入って来る川である。○潮満つなむか 「なむ」は、「らむ」の東語、「か」は、疑問の助詞で、潮が満ちるであろうか。女の家へ行くには徒渉する川である。
【釈】 かわゆさに、共寝をしにとわれは行く。鎌倉の美奈の瀬川に、今頃は夕潮がいっぱいであろうか。
【評】 この歌は、男が美奈の瀬川を越したところにある女の許に通ってゆく途中、ふと、あの川は今頃は、夕潮がいっぱいにさしているのではなかろうかと想像した心である。「ま愛しみさ寝に吾は行く」は自身の説明で、三句以下の美奈の瀬川は、忘れたようになっていたことを、時刻の関係からふと思い出した程度のもので、一首の作意にいくぱくの関係のあるというものでもない。抒情の上からいうと、ほとんど無意味に近いものである。詠み方からいうと、この歌は、抒情的ではなく叙事的で、むしろ自身を第三者の立場から見て描き出したような詠み方のものである。その意味で珍しい歌である。何ということのない歌でありながら、一種の魅力のあるのは、この客観的な詠み方のためと思われる。
3367 百《もも》つ島《しま》 足柄小船《あしがらをぶね》 歩《ある》き多《おほ》み 目《め》こそ離《か》るらめ 心《こころ》は思《も》へど
母毛豆思麻 安之我良乎夫祢 安流吉於保美 目許曾可流良米 己許呂波毛倍杼
【語釈】 ○百つ島足柄小船 「百つ島」は、百と多くある島で、「つ」は、数詞の語尾。「島」は、船付き場の意。百の島を伝うで、船の性質をいったもの。「足柄小船」は、「小」は、愛称で、足柄でできた船。形や用材に何らかの特色があっての称とみえる。以上、譬喩として「歩き多み」にかかる序詞。○歩き多み 行く先が多いのでで、女の多い意。○目こそ離るらめ 「目」は、逢うことで、我に逢うことは絶えていよう。○心は思へど 心では思っているが。
(152)【釈】 多くの島を伝う足柄船のように、通って行く女が多いので、私に逢うのは絶えているのであろう。心では思っているのであるが。
【評】 男に疎遠にされている女が、疎遠にする男のほうに理屈をつけ、それにしても、心の中では我を思っているのであろうと、思い慰めている歌である。序詞は特色のあるものであるが、男女とも海岸の者で、船に親しんでいるところから捉えたのである。一夫多妻時代で、別居もしていたのであるから、実際としては女は嫉妬はしきれなかったろうから、こうした女を聡明としたのであろう。またこうした歌は、男の愛唱したものでもあったろう。
3368 足柄《あしがり》の 刀比《とひ》の河内《かふち》に 出《い》づる湯《ゆ》の 世《よ》にもたよらに 児《こ》ろが言《い》はなくに
阿之我利能 刀比能可布知尓 伊豆流湯能 余尓母多欲良尓 故呂河伊波奈久尓
【語釈】 ○足柄の刀比の河内に 「足がり」は、足柄の方言的発音。「刀比の河内に」は、刀比川の河内にで、「河内」は、河川を中心としている一帯の地の称。今の湯河原渓谷と取れる。○出づる湯の 湧出する湯のようにで、温泉の湧くさまの讐喩で、以上序詞。○世にもたよらに 「世にも」は、真実にもの意の副詞で、下の「言はなくに」を強調するもの。「たよらに」は、下に「たゆらに」とあるのと同意で、漂って定まらない意の副詞。真実、心漂った気の定まらないさまには。○児ろが言はなくに 「児ろ」は、女の愛称。「言はなくに」は、言わぬことであるよ。
【釈】 足柄の刀比川を中心の一地帝に湧き出す温泉のように、真実、心漂った、気の定まらないさまには、あのかわゆい女はいわないことであるよ。
【評】 求婚に対して、女が女性に通有な、あやふやな返事をせず、はっきりと応じたのを、その直後、男が思い返して喜んでいる心である。四、五句に特色がある。しかしこの四、五句は、下の(三三九二)「筑波根の石もとどろに落つる水世にもたゆらに我が念はなくに」があり、謡い物として広く拡がっていたもので、それをおのおの郷土の自然に結びつけたものである。一首としてよくこなれており、調べも明るく柔らかで、快い歌である。愛唱されたものと思われる。
3369 足柄《あしがり》の 麻万《まま》の小菅《こすげ》の 菅枕《すがまくら》 何《あぜ》か纏《ま》かさむ 児《こ》ろせ手枕《たまくら》
阿之我利乃 麻萬能古須氣乃 須我麻久良 安是加麻可左武 許呂勢多麻久良
【語釈】 ○麻万の小菅の 「麻万」は、『略解』は、足柄の竹の下の下で、酒匂川の上にあるといい、『大日本地名辞書』も、酒匂川の上流の右岸福(153)沢村(現在、南足柄町)に〓下(まました)があるといっている。本来は断崖の称で、地名同様になったものであり、諸所にある名である。「小菅」は、「小」は、美称。○菅枕 菅をもって造った枕で、薦枕などと同じく、民間の普通の物であった。○何か纏かさむ 「何《あぜ》」は、などの東語で、広く行なわれていたものである。「纏かさむ」は、「纏かむ」の敬語で、何でお纏きになることがあろうかと、女が菅枕をしようとするのを、咎めるようにいったもの。女に対しての敬語は、風習である。○児ろせ手枕 「児ろ」は、上の歌と同じく、呼びかけ。「せ」は、命令形で、せよ。「手枕」は、わが手枕を。
【釈】 足柄の麻万の菅の菅枕を、何だって枕になさろうとするのですか。かわゆい人よ、なさいよ、わが手枕を。
【評】 閨中にあって、男が女にいったもので、女の恥じらっているのを取りなそうとしている心である。心としては一般的な、何の特色もないものである。しかし形は、謡い物の条件を十分に備えているもので、初めから謡い物として作ったと思わせる歌である。句の続きが調子よく、句々充実しており、全体として明るく、むしろ華やかで、閨中のことはいっているが厭味がない。これらは初めから構えてかかったことで、全体として客観味のあるようにとねらったものと思われる。上手な歌である。
3370 足柄《あしがり》の 箱根《はこね》の嶺《ね》ろの 和草《にこぐさ》の 花妻《はなづま》なれや 紐《ひも》解《と》かず寝《ね》む
安思我里乃 波故祢能祢呂乃 尓古具佐能 波奈都豆麻奈礼也 比母登可受祢牟
【語釈】 ○和草の 一名をはこねしだという。山地、ことに急崖に這う常緑多年生の草本で、開扇状の小さな葉を多数密着させる羊歯。「花」とかかり、以上その序詞。○花妻なれや 「花妻」は、原文「はなつづま」。「つ」は、衍字だろうという説に従う。字余りにする必要のない場合だからである。結婚初夜の妻の意。「はな」は、巻十九(四二一七)「始水(みづはな)逝き縁る木糞(こづみ)なす」の「はな」と同じく、現在も行なわれている。「なれや」は、「や」は、疑問の係助詞で、已然条件法。花妻なので。○紐解かず寝む 紐を解かずに寝るのだろうかで、情事を避ける意。
【釈】 足柄の箱根の山の和草の花に因みある、結婚初夜の妻なのか、そうではないのに、下紐を解かずに寝ようとするのか。
【評】 男が閨中で女に向かっていっている語である。すでに関係の結ばれている仲であるが、女は男に何か恨むところがあるかして、同衾はしているが、下紐は解かないのに対していっているものである。これでは結婚初夜の差じらって固くなっていた花妻のようだといい、花妻をいうに美しい序を設けてもいっているので、女をなだめる語としては最も適切なものである。いわゆる閨中の口説である。
(154)3371 足柄《あしがら》の み坂《さか》かしこみ 陰夜《くもりよ》の 吾《あ》が下延《したば》へを 言出《こちで》つるかも
安思我良乃 美佐可加思古美 久毛利欲能 阿我志多婆倍乎 許知弖都流可毛
【語釈】 ○足柄のみ坂かしこみ 「足柄のみ坂」は、足柄峠の坂で、相模国から駿河国へ越える峠であり、足柄上郡南足柄町の矢倉沢から西静岡県駿東郡小山町竹の下へ越えるのである。「み坂」は、敬称で、そこに神霊が鎮まっているとし、坂をただちに神霊と感じたのである。「かしこみ」は、恐ろしいので。足柄峠は山の難所として聞こえたところで、難所は山に限らず海でも、暴威を振う神が鎮まっているとし、供え物をして神意をやわらげなければ通れない心があった。これは例の多いことである。○陰夜の吾が下延へを 「陰夜の」は、暗くて見えない意で、「下延へ」の枕詞。「下延へ」は、心中に包んで思いめぐらしていること。ここは妻の名で、妻の名は口外すると、関係が稀薄になるとして、絶対に秘密にしていたのである。○言出つるかも 「言出」は、「言出で」の約で、口外すること。「つる」は、現在完了で、「かも」は、感動。口外してしまったことであるよで、神に対して、自身の最も尊しとするものを犠牲にした意。
【釈】 足柄のみ坂の神が恐ろしいので、陰夜のように隠して心中に包んで思いめぐらしていたことを、口外してしまったことであるよ。
【評】 足柄のみ坂の神の恐ろしさに、越えようとし越えられない心も、妻の名を絶対に秘密にして、口外するのは他に与えることのごとく思う心も、すべて当時の信仰で、当時にあっては直接に強く響くものであったが、現在からは距離のあるものである。推量して感じるよりほかはない。一首の調べがしめやかで、感傷味が流れている。
3372 相模路《さがむぢ》の 淘綾《よろぎ》の浜《はま》の 真砂《まなご》なす 児《こ》らは愛《かな》しく 思《おも》はるるかも
相模治乃 余呂伎能波麻乃 麻奈胡奈須 兒良波可奈之久 於毛波流留可毛
【語釈】 ○相模路の淘綾の浜の 「相模路」は、相模国の意のもの。「淘綾の浜」は、今の国府津辺から東方二宮、大磯にかけての海岸で、「浜」は、砂浜。○真砂なす 真砂のようなで、「児ら」の譬喩。絶えず波に洗われている、細かく清らかな点を捉えていっているのである。○児らは愛しく思はるるかも 「児ら」は、女の愛称。「愛しく思はるるかも」は、かわゆく思われることよ。「思はるる」は、すべて「思はゆ、思ほゆ」で、用例としては集中唯一のものである。
【釈】 相模国の淘綾の浜の真砂のように、あの女はかわゆく思われることであるよ。
(155)【評】 淘綾の浜の真砂の、細かく清らかなのを見て、思う女を連想し思慕する心である。「真砂なす児らは」と、「こ」の音によって続けている点は、上三句を序詞と見させるが、三句は、四、五句の感を起こさせた原因であり、それによって一首は成立ったものであって、明らかに譬喩と見るべきである。浜辺の砂をこれほどまでに感じるのは、相模の人ではなく、海そのものを珍しいものにする京の人の心であろう。一首としても詠み方に余裕があり、おのずからなる洗煉もあって、作歌に馴れている官人を思わせる。
右の十二首は、相模国の歌。
右十二首、相模國歌。
3373 多麻河《たまがは》に 曝《さら》す手作《てづくり》 さらさらに 何《なに》ぞこの児《こ》の ここだ愛《かな》しき
多麻河伯尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曾許能兒乃 己許太可奈之伎
【語釈】 ○多麻河に曝す手作 「多麻河」は、東京都の多摩川。「曝す」は、布を白くするためで、水も日光も用いた。「手作」は、手織の布の意で、材料はすべて麻である。武蔵国は調《みつぎ》として布を貢物とするように定められていた国の一つで、多摩地方はそれにあたっていたとみえる。これはいわゆる調布で、今は地名となっている。曝すは同音で「さらさらに」に続き、以上その序詞。○さらさらに さらにさらにの意の副詞で、見るたびごとにで、「愛しき」に続く。○何ぞこの児のここだ愛しき どうしてこの女はひどくかわゆいことであろうか。「児」は、女の愛称。「ここだ」は、ひどく。「愛しき」は、「ぞ」の結。
【釈】 多摩川に曝している手織の布の、その曝すに因みある、見るたびごとにいまさらさらに、どうしてこの女はひどくかわゆいことであろうか。
【評】 妻としている女が、時を経るにつれてますます可愛ゆくなり、たまらぬまでに思われるのを、男自身訝かっている心である。男女関係は時を経ると興味が薄れてゆく暗い人々があるとともに、こうした明るい人々もあって、これはその代表的なものである。序詞は庶民の女の明るい戸外生活を捉えたもので、語つづきもそれにふさわしく明るく快い。主文は、きわめて明るい心の表現であるが、語つづきは、それとしても明るく、滑らかすぎるほどのものである。しかしこれは謡い物の条件にかなっていることで、耳に聞く歌にはこれが効果的であったろう。謡い物としてすぐれた一首である。
(156)3374 武蔵野《むざしの》に 占《うら》へかた灼《や》き まさでにも 告《の》らぬ君《きみ》が名《な》 卜《うら》に出《で》にけり
武蔵野尓 宇良敞可多也伎 麻左弖尓毛 乃良奴伎美我名 宇良尓〓尓家里
【語釈】 ○武蔵野に占へかた灼き 「占へ」は、占いをする意の動詞で、下二段活用。占いをし。「かた灼き」は、鹿の肩の骨を焼き、それに水を注いで、現われるひびの形によって判断する占法である。これは山野地帯のことで、海岸地帯では亀の甲を用いて行なった。○まさでにも告らぬ君が名 「まさで」は、まさにで、明らかにの意の副詞で、用例のあるもの。「告らぬ君が名」は、いわない君の名で、「告る」は、改まって言い立てる意の語。○卜に出にけり 占いに出てしまった、ことであった。
【釈】 武蔵野で占いをし、鹿の肩の骨を灼く占いによって、明らかにいわない君の名が、占いに現われてしまったことであった。
【評】 娘の関係している男を母が知ろうとするが、娘は男の名は口外してはならぬものとの信仰心からいわず、ついに「占へかた灼き」ということになり、それによって現われてしまったという嘆きである。占いはもとより神意の現われである。いかに信仰が生活の基本になっていたかを思わせられる。詠み方も、素朴に、一本気で、その気分にふさわしい。
3375 武蔵野《むざしの》の 小岫《をぐき》が雉《きぎし》 立《た》ち別《わか》れ 往《い》にし宵《よひ》より 夫《せ》ろに逢《あ》はなふよ
武蔵野乃 乎具奇我吉藝志 多知和可礼 伊尓之与比欲利 世呂尓安波奈布与
【語釈】 ○武蔵野の小岫が雉 「小岫」は、「小」は、接頭語。「岫」は、漢語では山の石門であるが、国語では、両岸が迫って狭くなった地の称である。「きぎし」は、きじ。飛び立つ意で、「立ち」と続き、以上その序詞。○立ち別れ往にし宵より 立ち別れて往ってしまった夜から。「宵」は、夜と同意語で、明け方早くと取れる。○夫ろに逢はなふよ 「夫ろ」の「ろ」は、「ら」と同意の接尾語で、東語。「逢はなふ」の「なふ」は、否定の助動詞「ぬ」の東語で、四段に活用して、「なは、なひ、なふ、なへ」の形となっている。しかし「なひ」の活用形は文献に見えない。「よ」は、感動の助詞。
【釈】 武蔵野の峡にいる雉のように、立ち別れて往ってしまった夜から、夫に逢わないことであるよ。
【評】 夫と別れて日を経た女の、その別れをした夜の悲しさを思い浮かべ、それから今日までの月日を、その悲しさで統一している嘆きである。哀感をもって統一しているので、語は少ないが心のこもっているものである。「武蔵野の小岫が雉」という序詞は、暁深く別れをした折の矚目を思わせ、また雉の飛び立つ慌しさ、その声の哀切なことまでも連想させる力のあるも(157)ので、気分としての絡みもあるものである。この序詞のために 一首が具象化されている。
3376 恋《こひ》しけば 袖《そで》も振《ふ》らむを 武蔵野《むざしの》の 朮《うけら》が花《はな》の 色《いろ》に出《づ》なゆめ
古非思家波 素弖毛布良武乎 牟射志野乃 宇家良我波奈乃 伊呂尓豆奈由米
【語釈】 ○恋しけば袖も振らむを 「恋しけば」は、形容詞の未然形「恋しけ」に助詞の「ば」が接続したもので、未然条件法。恋しいならば。女が自分の心として男にいっているもの。「袖も振らむを」は、袖を振ろうものをで、やや遠く離れていて、心を通じる方法である。野に労働していてのことである。○武蔵野の朮が花の 「朮」は、今はおけらという。菊科の宿根草本で、薊に似ており、山野に自生する。花は白花と紅花とがあるが、武蔵野のものは大体紅花である。以上二句「色」にかかる序詞。○色に出なゆめ 表面にあらわすな決してで、三句以下、男に注意したもの。
【釈】 恋しいならば、私は袖も振ろうものを。武蔵野の朮が花のように、君も表面にあらわすな、決して。
【評】 武蔵野に耕している若い男女間の歌で、歌は女より男に寄せたものである。女は警戒心の強いところから、男が恋しくなると、男の耕しているほうに向いて袖を振って慰めているのに、男は多分それほどの警戒心がなく、あらわな素振りをして、傍らの人に恠《あや》しまれはしないかと、心許なさから注意しているのである。「武蔵野の朮が花の」という序詞が、男女農耕の場所を具象する役をして、一首を生かしている。可憐という程度の歌である。
或本の歌に曰く、いかにして 恋《こ》ひばか妹《いも》に 武蔵野《むざしの》の 朮《うけら》が花《はな》の 色《いろ》に出《で》ずあらむ
或本歌曰、伊可尓思弖 古非波可伊毛尓 武蔵野乃 宇家良我波奈乃 伊呂尓〓受安良牟
【語釈】 ○いかにして恋ひばか妹に 「いかにして」は、どのような心をもって。「恋ひばか妹に」は、妹に恋うたならばで、倒置したもの。「か」は、疑問の係助詞。
【釈】 どのような心をもって妹に恋うたならば、武蔵野の朮が花のように表面にあらわさずにいられようか。
【評】 上の歌の別伝となっているが、これは明らかに上の女の歌に対しての男の答歌である。女の「色に出なゆめ」と制したのに対して、「色に出ずあらむ」と、我にはそのようなことはできそうもないと答えたのである。これは男女としての性格のい(158)わせるものである。謡い物とする時には懸け合いにして謡った ものである。歌としてはこのほうが屈折があって面白い。
3377 武蔵野《むざしの》の 草《くさ》は諸向《もろむ》き かもかくも 君《きみ》がまにまに 吾《わ》は寄《よ》りにしを
武蔵野乃 久佐波母呂武吉 可毛可久母 伎美我麻尓末尓 吾者余利尓思乎
【語釈】 ○草は諸向き 「諸向き」は、諸方へ向いていてで、片向きに対した語。以上、譬喩として、「かもかくも」にかかる序詞。○かもかくも君がまにまに どうなりともこうなりとも、あなたの心どおりに。○吾は寄りにしを 私は従って来ていたのに。
【釈】 武蔵野の草は、あちらにもこちらにも向いているように、どのようになりともあなたの心のままに従って来ましたのに。
【評】 女の歌で、男の行動なり心持なりが、女には無理に感じられ、恨めしく思うのを、語少なく、しかも抽象的な言い方で訴えているのである。「武蔵野の草は諸向き」の序詞は、広い草野を見渡しつついっていることを思わせるもので、訴えている女を具象化する働きをしているものである。
3378 入間路《いりまぢ》の 大家《おほや》が原《はら》の いはゐ蔓《つら》 引《ひ》かばぬるぬる 吾《わ》にな絶《た》えそね
伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波爲都良 比可婆奴流々々 和尓奈多要曾祢
【語釈】 ○入間路の大家が原の 「大家が原」は、従来所在不明であったが、最近になって明らかにされた。それは「読売新聞」埼玉版(昭和二四・七・二七)において、埼玉県飯能町の郷土研究家で代議士でもある細田栄蔵氏らの研究発表によってである。「大家が原」は、現在入間郡越生町字大谷だというのである。それだと「入間路」は、入間への路ではなく、入間の地である。○いはゐ蔓 これも従来不明で、諸説があった。参考になるのは、下の(三四一六)の「上野国の歌」の中に「上毛野可保夜が沼のいはゐ蔓引かばぬれつつ吾をな絶えそね」で、武蔵と上野は隣国でもあるから、「いはゐ蔓」は同物と思われる。上野では沼に生えている物であるから、武蔵でも同様であったと思われる。現在越生町大谷の山林中には、高砂池、大亀池と称する二つの池があり、合計約一町歩ばかりで、二つの池には蓴菜が密生しており、土地の人はその柔らかい葉を味噌汁の実や三杯酢にして酒の肴にしているというのである。以上が発表された要旨であるが、一応明らかにされたものといえる。譬喩として「引かば」にかかる序詞。○引かばぬるぬる 「引かば」は、男が女を誘う意の語。「ぬるぬる」は、滑らかに靡いて。○吾にな絶えそね われとの関係を絶えないでくれよ。
【釈】 入間の地の大谷が原にある蓴菜の蔓のように、引いたならば滑らかに靡いて、われとの関係を絶えないでくれよ。
(159)【評】 大谷の原の周囲の、蓴莱を摘んで食料にしていた男女間の謡い物で、男が蓴菜の蔓を手繰りつつ、同じくそれをしている女に謡いかけた形の歌である。「ぬるぬる」といい「絶えそね」という、感覚的な語は、その手業をしながらいっているものと思われるからである。蔓草を引くのを「引く」の序詞に用いるのは伝統的なもので、それにならってのものである。
3379 我《わ》が背子《せこ》を あどかもいはむ 武蔵野《むざしの》の 朮《うけら》が花《はな》の 時《とき》無《な》きものを
和我世故乎 安杼可母伊波武 牟射志野乃 宇家良我波奈乃 登吉奈伎母能乎
【語釈】 ○我が背子をあどかもいはむ 「あど」は、「何ど」の東語。「か」は、疑問の係で、何といったものであろうかで、男のなつかしさが語に余っていえない意。○朮が花の 「朮」は(三三七六)に既出。朮は秋咲くが、長く咲いているので、二句、譬喩として「時無き」にかかる序詞。○時無きものを 「時無き」は、いつという時がなく、絶え間がなく、なつかしいものを。
【釈】 わが背子を何といったものであろうか。この武蔵野の朮の花のように、いつという時がなく、絶え間なくなつかしいものを。
【評】 結婚後ほどもない女の、恋に酔っている気分を、そのままにいっているもので、「あどかもいはむ」がその全部である。気分に即した適当な表現である。「武蔵野の朮が花の」という序詞が、一方では男女の生活環境をあらわすものとなって、一首に客観味を与えている。
3380 埼玉《さきたま》の 津《つ》に居《を》る船《ふね》の 風《かぜ》をいたみ 綱《つな》は絶《た》ゆとも 言《こと》な絶《た》えそね
(160) 佐吉多萬能 津尓乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曾祢
【語釈】 ○埼玉の津に居る船の 「埼玉」は、下の「津」の所在をあらわすものである関係上、北埼玉郡埼玉村(現在の行田市)付近で、利根川の旧水路にあった地点であろうとされている。「津」は、船の発着場の称で、大体は海のものであるが、川にもいった。「船」は、運搬、交通に用いる船。「居る」は、繋留されている。○風をいたみ綱は絶ゆとも 「風をいたみ」は、風が強くして。「綱は絶ゆとも」は、船を繋いであるもので、それが絶えることがあろうともで、めったにはないことの仮想。○言な絶えそね あなたの言葉は絶えないで下さいで、「ね」は、願望の助詞。
【釈】 埼玉の津に繋がれている船が、風が強くて、その綱が切れることがあろうとも、あなたの言葉は絶えないで下さい。
【評】 女がその男に対しての訴えである。譬喩が四句までを占めているが、これは特殊な事柄を捉えているので余儀ないものである。また、特殊にはみえるが、女にとってはそれは平常見馴れていることで、「綱は絶ゆとも」は、絶無ではないまでもめったにはないこととして、その心でいっているものである。地方色の濃い、心に強さを含んだ歌である。
3381 なつそ引《び》く 宇奈比《うなひ》を指《さ》して 飛《と》ぶ鳥《とり》の 到《いた》らむとぞよ 吾《あ》が下延《したば》へし
奈都蘇妣久 宇奈比乎左之弖 等夫登利乃 伊多良武等曾与 阿我之多波倍思
【語釈】 ○なつそ引く宇奈比を指して 「なつそ引く」は、枕詞。(三三四八)に既出。「宇奈比」は、海の辺で、海岸地帯の称。これは地名ではなく、普通名詞と解される。○飛ぶ鳥の 飛んで行く鳥のごとくで、鳥は何鳥とも知れないが、海辺の魚を食餌とする鳥である。○到らむとぞよ(161) 「到らむとぞ」は、あなたの許へ行こうとで、「ぞ」は、係助詞。「よ」は、感動の助詞。○吾が下延へし 「下延へ」は、心の中で思いめぐらすで、「し」は、「ぞ」の結、連体形。
【釈】 魚網の綱を曳いている海辺のほうを指して飛んでゆく鳥のように、われも行こうと思って、心の中で思いめぐらしていることであるよ。
【評】 男より女の許へ寄せた歌である。初句より三句までの譬喩は、男女とも海岸地帯の者で、適切に響きうるものとして捉えたのであろう。全体に躍動を持った、いきいきした歌である。「宇奈比」という地名は、武蔵には存していない。小範囲でだけ通じる地名として存在していたとしても、そうした地名が編集者の心にあったとも思われない。それだと、この歌を武蔵の国の歌とする根拠が疑われるが、多分原本にこうなっていたのであろう。
右の九首は、武蔵国の歌。
右九首、武蔵國歌。
3382 馬来田《うまぐた》の 嶺《ね》ろの篠葉《ささば》の 露霜《つゆしも》の 濡《ぬ》れてわきなば 汝《な》は恋《こ》ふばぞも
宇麻具多能 祢呂乃佐左葉能 都由思母能 奴礼弖和伎奈婆 汝者故布婆曾母
【語釈】 ○馬来田の嶺ろの篠葉の 「馬来田」は、『倭名類聚鈔』に「上総国望陀末宇太」とある所で、明治時代まで郡名として存し、今は君津郡に属して、馬来田村となっている。この村名も新しいものである(現在、富来田《ふくだ》町)。「嶺ろ」は、その周辺の山で「ろ」は、接尾語。○露霜の 水霜のようにで、以上、次の「濡れ」の譬喩として郷里の目前を捉えたもの。○濡れてわきなば 「濡れて」は、涙に濡れて。「わきなば」は、諸説がある。「吾来なば」で、「来」は、目的地を主として、そちらへ行くのを来るといったので、用例の多いものである。わが旅立って行ったならば。『全註釈』は、「別きなば」とし、後世は別るは下二段活用であるが、上代は四段活用で、これはその連用形だとしている。今は「別きなば」に従う。初句より三句までを序詞と見たのも、その解に従ってである。それだと、「濡れて」は、涙に濡れてで、転義したものである。○汝は恋ふばぞも 「恋ふば」は、他に用例のない語である。上の句との関係で、『代匠記』は、「恋ひむ」の意であろうといっている。上と、時の関係上そう見ざるを得ない語である。「恋ひむ」の東語であろう。「ぞも」は、感動の助詞。
【釈】 馬来田の山の篠葉に置く水霜のように、泣き濡れてわが旅立って別れて行ったならば、あなたは恋うであろうよ。
【評】 「濡れてわきなば」といっているので、男が防人、京の衛士などになって遠い旅へ立つ別れにと来た時の心である。これ(162)は別れを惜しみつつ、男が別れて後の女の心を思いやって憐れんでいるものである。自身の嘆きをいわず、相手を主にしていっているのは、上代に共通のことで、特別なことではない。今は旅立ちの前であるから、不吉めいたことはいうべきではない場合である。心やさしい歌である。
3383 馬来田《うまぐた》の 嶺《ね》ろに隠《かく》り居《ゐ》 かくだにも 国《くに》の遠《とほ》かば 汝《な》が目《め》欲《ほ》りせむ
宇麻具多能 祢呂尓可久里爲 可久太尓毛 久尓乃登保可婆 奈我目保里勢牟
【語釈】 ○馬来田の嶺ろに隠り居 馬来田の嶺に隠れていてで、「隠り居」は、下の「汝が目」である。嶺が隠したのであるが、妹のほうを主として妹が隠れてといったのである。○かくだにも これほどまでに恋しいのにで、「恋しい」を言いさしにして略したもの。○国の遠かば汝が目欲りせむ 「遠かば」は、遠けばの東語で、郷国が遠くなったならば。「汝が目欲りせむ」は、あなたの顔を見たいことであろう。
【釈】 馬来田の山に妹が隠れていて、これほどまでに恋しいのに、この郷国が遠くなったならば、あなたの顔を見たいことであろう。
【評】 上の歌と連作の形になっているものである。上の歌を別れの挨拶とし、妹の家を離れてやや遠く来、顧みるとその家はすでにかくれ、馬来田の山のみが高く見える時に、強く哀感を起こした心である。三句「かくだにも」と言いさしにし、一転、将来を思いやった心は、躍動をあらわし得ているもので、語には東語があるが、素朴などとはいえないものである。
右の二首は、上総国の歌。
右二首、上總國歌。
3384 葛飾《かづしか》の 真間《まま》の手児奈《てこな》を まことかも 吾《われ》に寄《よ》すとふ 真間《まま》の手児奈《てこな》を
可都思加能 麻末能手兒奈乎 麻許登可聞 和礼尓余須等布 麻末乃弖胡奈乎
【語釈】 ○葛飾の真間の手児奈を 「葛飾の真間」は、(三三四九)に出た。「手児奈」は、「手児」は、東語で、娘の総称であり、「奈」は、背ななどのそれと同じく、親愛しての接尾語で、本来は、普通名詞であるのを、固有名詞とされたものである。手児奈は、山部赤人のその墓を訪うての歌に上代の女といっている人で、伝説の人物である。○まことかも吾に寄すとふ 「まことかも」は、ほんとうなのかと疑ったのであるが、下の(163)続きで、この疑いは、あまりにもわが身にすぎたものとして、狂喜してのものである。「吾に寄すとふ」は、「寄す」は、取り持って男女関係を結ばせることで、人が取り持ちをするという。○真間の手児奈を あの真間の手児奈を。
【釈】 葛飾の真間の手児奈を、ほんとうなのだろうか、このわれに人が取り持つという。あの真間の手児奈を。
【評】 伝説の手児奈を対象としての男の歌で、無論後世のものである。若い男が、美女にあこがれ、夢想するのは、一般性を持った心であり、またいつの代にも比較的美しい女で、今手児奈と呼ばれるような女は存在したろうから、こうした歌の生まれる地盤はあったといえよう。この歌は謡い物としてありうるものである。空想の所産とすると、具象化がいかにも巧みで、文芸味の豊かなものである。本巻としては新しい時代の歌である。「寄す」は、心の広い語で、ここは男女間を取り持つという意のものである。狂喜して耳を疑う心が、「まことかも」によっていかにもよく生かされている。
3385 葛飾《かづしか》の 真間《まま》の手児奈《てこな》が ありしはか 真間《まま》のおすひに 波《なみ》もとどろに
可豆思賀能 麻萬能手兒奈我 安里之婆可 麻末乃於須比尓 奈美毛登杼呂尓
【語釈】 ○ありしはか 「はか」は、細井本、寛永本には「可婆」となっていて、そのほうが通じやすい。「はか」の語続きは珍しいものである。それだと、世にあった日にはに、「か」の疑問の係助詞の接した意である。○真間のおすひに 「おすひ」は、「磯べ」の東語で、他には用例のないものである。駿河国の歌には「おしべ」がある。○波もとどろに 「とどろ」は、音響の大きいことを形容する副詞で、下に、寄せけむの意が略されている。
【釈】 葛飾の真間の手児奈が世にあった日には、真間の磯辺に、波までもとどろと寄せたであろうか。
【評】 伝説となっている古の手児奈を思慕した心である。手児奈にきわめて強い思慕を寄せているのみならず、真間という地にも強い愛着を持っている歌で、その地で生まれた歌である。東語もまじっているが、一首の詠み方は京風の、奈良朝時代の歌と異ならないもので、京の官人の歌ではないかと思わせるまでのものである。しかし一首の姿は謡い物の色彩の濃いもので、明らかに真間の地のものである。
3386 鳰鳥《にほどり》の 葛飾早稲《かづしかわせ》を 饗《にへ》すとも その愛《かな》しきを 外《と》に立《た》てめやも
尓保杼里能 可豆思加和世乎 尓倍須登毛 曾能可奈之伎乎 刀尓多弖米也母
(164)【語釈】 ○鳰鳥の葛飾早稲を 「鳰鳥の」は、今のかいつぶりで、におともいっている。魚を獲るために水を潜《かず》く意で、同音の「葛飾」の枕詞。「葛飾早稲を」は、葛飾地方で収穫する早稲の米。葛飾は今も早場米の産地となっている。○饗すとも 「饗」は、神に捧げる神饌の総称で、一切の食物に通じていう。「饗す」は、その事をする意で、ここは「早稲」との関係上、新穀を供える祭である。この神事を行なう時には、神の来給うところとしてその家を清浄にし、また、神に仕える者として選ばれた女一人だけを家にとどめ、男は部落の男全体とともに、集合して同じく神事を行なうこととなっていた。したがってその神事を行なう夜は、いかに親しい者でもその家に入れることを禁じていた。この事は常陸国風土記に出ており、東国全般の風だったのである。「とも」は、仮想。○その愛しきを 「その」は、「かの」に通じて用いられていて、あの愛すべき人をで、「愛しき」は、名詞形。○外に立てめやも 「外」は、戸外で、忍んで来ている所。「立てめやも」は、「や」は、反語で、立たせて置こうか、置きはしないで、厳粛な禁をも破ろうとの意。
【釈】 鳰鳥の葛飾の早稲を、神饌として供える祭事の夜であろうとも、あの愛すべき人を、戸外に立たせて置こうか、置きはしないことだ。
【評】 恋の絶対を強調しようとして女の詠んだ歌である。女の身として、生涯を通じて最も厳粛な心を持つべきは、新甞の夜、祭事を行なう時である。この歌はそれを仮想として捉え、たといそうした時であろうとも、愛する男が来れば断じて戸外には立たせて置かないというのである。恋を生命そのものとしている女の、情熱に燃えての心である。一首真率に直截に言いつづけており、調べも強いので、魅力ある歌となっている。なお、この歌と取材を同じゅうして、心の反対な歌が、下の(三四六〇)にある。
3387 足《あ》の音《おと》せず 行《ゆ》かむ駒《こま》もが 葛飾《かづしか》の 真間《まま》の継橋《つぎはし》 やまず通《かよ》はむ
安能於登世受 由可牟古馬母我 可豆思加乃 麻末乃都藝波思 夜麻受可欲波牟
【語釈】 ○足の音せず行かむ駒もが 「足の音せず」は、「足」は、あし。熟語を造る時の用法。蹄の音を立てずして。「行かむ絢もが」は、行くであろう乗馬を欲しい。「もが」は、願望の助詞。○真間の継橋 「真間」は、真間の沼沢地帯を指してのもの。「継橋」は、川幅の広い所へ板を何枚も縦に続けて架ける橋。○やまず通はむ 絶えず通おう。
【釈】 蹄の音を立てずに行くであろう乗馬がほしい。葛飾の真間の継橋を絶えず通おう。
【評】 人目に着かずに、自由に女の許へ通いたいと思う男の空想である。蹄の音を立てない馬は絶無なものである。やまず通ったならば、人目に着かずにはいないだろう。継橋の状態は知れないが、渡れば音を立てる橋であったろう。それだといずれ(165)もできない相談である。それを承知の上で並べ立てているので、戯咲歌に近いものである。調べも明るく、軽さがあって、取材にふさわしい。女に逢いがたい悩みは多くの人がしていたのであるから、その意味で心やりになる謡い物であったろう。
右の四首は、下総国の歌。
右四首、下總國歌。
3388 筑波嶺《つくばね》の 嶺《ね》ろに霞《かすみ》居《ゐ》 過《す》ぎかてに 息《いき》づく君《きみ》を 率寝《ゐね》てやらさね
筑波祢乃 祢呂尓可須美爲 須宜可提尓 伊伎豆久伎美乎 爲祢弖夜良佐祢
【語釈】 ○嶺ろに霞居 「嶺ろ」は、「ろ」は、接尾語。「霞居」は、霞がかかっていてで、霞は名詞。霞は消える意で「過ぎ」と続き、以上その序詞。○過ぎかてに 女の家の辺りを通り過ぎがたくして。○息づく君を 溜め息をついて嘆いているあの君を。○率寝てやらさね 「率寝て」は、家の内へ入れて共寝をして。「やらさね」は、「遣る」の敬語「遣らす」に、願望の「ね」の添ったもので、ここを通しておやりなさい。
【釈】 筑波山の嶺に霞がかかって、消えがたくしているように、ここを通り過ぎがたくして、溜め息をついているあの方を、家へ入れて共寝をして通らせておやりなさい。
【評】 筑波根の山の裾にある女の家の辺りへ、女と関係を結んでいる男が来て、家の中へ入りがたくしているのを、女の傍らにいる身分低い女が認めて、女にいった形の歌である。単純な会話の語をとおして、複雑な状態をあらわしている、特殊な詠み方の歌である。この類の歌が下の(三四四〇)にもあって、抒情の形で叙事をしようとする一つの傾向のもので、意図的の詠み方と思われる。女のいっていることも特殊なもので、年少の女に、年長の女が情事の指導をしていたことを思わせるもの(166)である。謡い物として存在していた歌とみえるから、こうしたことが一般性を持っていたとみえるからである。「過ぎかてに」「やらさね」という言い方も、わざと婉曲にいったものと取れる。
3389 妹《いも》が門《かど》 いや遠《とほ》ぞきぬ 筑波山《つくばやま》 隠《かく》れぬ程《ほど》に 袖《そで》は振《ふ》りてな
伊毛我可度 伊夜等保曾吉奴、都久波夜麻 可久礼奴保刀尓 蘇提婆布利弖奈
【語釈】 ○いや遠ぞきぬ いよいよ遠ざかったで、「ぞき」は、退き。自身の遠ざかるのを、妹の門を主としていったもの。○筑波山 これは下へは直接には続かない。独立句として介入している形である。一首の作意からいうと、きわめて必要なので、その意味で据えているといえる。○隠れぬ程に 妹の門が隠れないうちにで、隠れるのは、遠ざかって、紛れる意で、山に隠れるのではない。筑波山につながりがあるとすれば、筑波山だけになって、門の紛れないうちにで、気分の上のつながりである。○袖は振りてな わが袖を振りたいものだで、「て」は、完了、「な」は、自身に対する希望の助詞。袖を振るのは妹に愛情を通わすことで、それを強くいったもの。
【釈】 妹の門はいよいよ遠のいて行った。その筑波山よ。妹の門の隠れない間に、わが袖は振りたいものだ。
【評】 筑波山に近く住む男が、遠い旅に向かって旅立った日、筑波山の山裾にある妹の門を顧みつつ遠ざかって来て、その門が紛れて見えなくなろうとした時、最後のこととして袖を振る心である。袖を振るのは、古くは一つの呪法であったことが、領巾振山の故事などでも知られる。この歌は袖振をいおうとして、重くいっている関係上、その意のものと思われる。
3390 筑波根《つくばね》に かか鳴《な》く鷲《わし》の 音《ね》のみをか 泣《な》き渡《わた》りなむ 逢《あ》ふとはなしに
筑波祢尓 可加奈久和之能 祢乃未乎可 奈伎和多里南牟 安布登波奈思尓
【語釈】 ○筑波根にかか鳴く鷲の 「かか鳴く」は、かかと音を立てて鳴くで、「かか」は、擬声音。以上「音」と続けて、その序詞。○音のみをか泣き渡りなむ 「音のみ泣く」は、熟語で、泣きに泣く意。「か」は、疑問の係。「渡り」は、続けで、泣きに泣き続けるのであろうか。○逢ふとはなしに 相逢うということはなくて。
【釈】 筑波山にかかと鳴く鷲のように、泣きに泣き続けるのであろうか。逢うということはなくて。
【評】 男の遠い旅へ立つ前、女が将来の恋しさを思いやって詠んだ歌である。序詞に特色がある。眼前を捉えてのものであろ(167)うが、その捉えたということの中に、女の情熱の烈しさ、気性の強さの見えるものである。地方色の濃い歌である。
3391 筑波根《つくばね》に 背向《そがひ》に見《み》ゆる 葦穂山《あしほやま》 悪《あ》しかる咎《とが》も 実《さね》見《み》えなくに
筑波祢尓 曾我比尓美由流 安之保夜麻 安志可流登我毛 左祢見延奈久尓
【語釈】 ○筑波根に背向に見ゆる葦種山 「筑波根に」の「に」は、筑波根を主に立てての言い方。「背向に見ゆる」は、背面に見えるで、「葦穂山」の位置をいっているものである。その山は筑波山の北方に連なる足尾山で、南を表とし、北を背としていっているのである。「葦」を同音の「悪し」に続け、以上、その序詞。○悪しかる咎も 悪いと思う欠点も。○実見えなくに 「実」は、真実で、ここは副詞。真に見えないことよ。
【釈】 筑波根の背面に見える葦穂山、その悪しくあると思う欠点も、真に見えないことであるよ。
【評】 男がその妻を、長い期間にわたって見て来て、全面的に肯定している心である。夫婦関係の明るい面を詠んでいる歌で、その類のものが少なくないが、これはその中でも目につく歌である。この歌の良さは、一半は調べのしみじみしている点にある。平坦に静かに言い続けているのが、おのずから厭味のない、しみじみした調べとなっているのである。序詞は、女の住地につながりを持つもので、筑波根を主に立てていっているのは、信仰も絡んでのものであろう。
3392 筑波根《つくばね》の 石《いは》もとどろに 落《お》つる水《みづ》 世《よ》にもたゆらに 我《わ》が念《おも》はなくに
筑波祢乃 伊波毛等杼呂尓 於都流美豆 代尓毛多由良尓 和我於毛波奈久尓
(168)【語釈】 ○筑波根の石もとどろに落つる水 筑波根の岩もとどろくほどに落つる水。男女川《みなのがわ》の水で、男体女体の峯の間から南へ流れ下る水で、自身の心の譬喩。○世にもたゆらに我が念はなくに 「世にも」は、「念はなく」を強調する意の副詞。「たゆらに」は、中途半端にで、同じく副詞。けっして中途半端に思ってはいないことだで、上を補足しての説明。
【釈】 筑波山の岩をとどろかして落ちる水のように、けっして中途半端にわれは思ってはいないことだ。
【評】 男が自身の熱意のほどを、女に訴えたものである。「石もとどろに」という水が筑波山にあったかどうかは訝かしいが、上代の木立の多かった時には、有り得たことかも知れぬ。誇張があってもおかしくはない場合である。上の(三三六八)「足柄の刀比の河内に出づる湯の世にもたよらに児ろが言はなくに」と四、五句は関係がある。この四、五句が愛用され、それぞれの土地の自然に結びつけられたのである。謡い物の性質である。
3393 筑波根《つくばね》の 彼面此面《をてもこのも》に 守部《もりべ》居《す》ゑ 母《はは》い守《も》れども 魂《たま》ぞ合《あ》ひにける
筑波祢乃 乎弖毛許能母尓 毛利敞須惠 波播已毛礼杼母 多麻曾阿比尓家留
【語釈】 ○彼面此面に守郡居ゑ 「彼面此面」は、あちらの面、こちらの面の東語。「守部」は、番をすることを職とする者の総称で、ここは山林の盗伐を監視する山番。「居ゑ」は、居らしめて。譬喩として「守れ」にかかり、以上その序詞。○母い守れども 「母い」の「い」は、主として主格、その他にも付き、その語の内容を提示する序詞。母は番をするけれども。○魂ぞ合ひにける 「魂合ふ」は、霊魂が一緒になるで、愛する心の一致する意。気が合う、性が合うというに通じる語。愛する心が一致してしまったことであるで、すでに関係を結んでいる意。
【釈】 筑波根のあちらの面こちらの面に番人を居らせるように、母は番をしているが、愛する心は一致してしまったことであるよ。
【評】 その母が厳重に監督している娘と、ひそかに関係を結んだ男の、勝ち誇ったような気分でいっているものである。娘にある期間、男女関係を結ばせまいとするのは、一般の風であって、これはそれに背いたのであるが、背くのは、「魂ぞ合ひにける」ということによってである。魂が合うということは、神意の加わっていることと信じていたと思われる。一首、得意の気分はあるが、軽い興味よりの言ではない。序詞は、母の監督の厳重な譬喩で、それを超ゆる力としての魂の合うことを強調しているのである。若い男の心を代弁する謡い物である。
3394 さ衣《ごろも》の 小筑波嶺《をづくはね》ろの 山《やま》の埼《さき》 忘《わす》ら来《こ》ばこそ 汝《な》を懸《か》けなはめ
(169) 左其呂毛能 乎豆久波祢呂能 夜麻乃佐吉 和須良許婆古曾 那乎可家奈波賣
【語釈】 ○さ衣の小筑波嶺ろの 「さ衣の」は、「さ」は、接頭語。衣に付いている緒と続き、同音の「小」にかかる枕詞。「小筑波」の「小」は、愛称。○山の埼 山の岬角。これは下の続きで、妹の家のあるところである。○忘ら来ばこそ 「忘ら」は「忘れ」の東語。忘れる時が来たならばで、「こそ」は、係助詞。○汝を懸けなはめ 「汝を」は、妹を指したもの。「懸け」は、心に懸けで、思う。「なは」は、打消の助動詞「なふ」の未然形で、「め」は、「こそ」の結。あなたを思わずにいられよう。
【釈】 さ衣の小筑波山の山の埼よ。それを忘れる時が来たならば、あなたを思わずにいられよう。
【評】 筑波山の辺りの男が、遠い旅にあって、故郷に残して来た妹が忘れられずに、恋い続けていることを、言い贈った形の歌である。「さ衣の小筑波嶺ろの山の埼」は、妹の家のあるところで、常に恋うて眺めていた関係で、眼にしみて忘れられないところから、妹と同様に扱っていっているのである。枕詞を添えて美しく重くいっているのは、その気分からである。ここは、それを恋しいものとしていっているのではなく、それは超えて、どうにも忘れられないものとしていっているのである。旅にあってその家を思う以外には、こうした言い方はしなかろう。「汝」は、相対しての称とも取れるが、上の関係で、眼前に浮かばせている妹で、それを「山の埼」と同意に用いているもので、山の埼は妹の家でなくてはならない。一首、心は単純で、語も美しく柔らかいものであるが、純抒情気分よりいっているものなので、おのずから感じが拡がって、迎えればいかようにも解せるものとなっている。
3395 小筑波《をづくは》の 嶺《ね》ろに月《つく》立《た》し 間夜《あひだよ》は さはだなりのを また寝《ね》てむかも
乎豆久波乃 祢呂尓都久多思 安比太欲波 佐波太奈利努乎 萬多祢天武可聞
【語釈】 ○小筑波の嶺ろに月立し「小筑波」は、上に出た。「月立し」は、「立し」は、「立ち」の東語で、「月立ち」は、月が新たに現われる意で、月の改まること。眼前の景としていっている。○間夜は 『略解』の訓。中間の夜で、逢わずにいた夜。○さはだなりのを 「さはだ」は、数多で、上の(三三五四)「斑衾に綿さはだ」と出た。「なりのを」の「の」は、「ぬ」の転訛、なったのに。○また寝てむかも 「寝てむ」は、「て」は、完了で、ここは希望をあらわしている。また共寝ができようかな、の意。
【釈】 筑波の山に月が新たに現われて、中間の夜は数多になったので、また共寝ができようかなあ。
【評】 中心は、「また寝てむかも」という直截な感情であるが、粗野な感のない、素朴な愛すべきものとなっている。「小筑波(170)の嶺ろに月立し」という、現に月を見て、それによって時の経過を思うという、実際に即した心によって支持されているためである。この実際に即していることが、おのずから一首を新味あるものとしている。
3396 小筑波《をつくば》の 繁《しげ》き木《こ》の間《ま》よ 立《た》つ鳥《とり》の 目《め》ゆか汝《な》を見《み》む さ寐《ね》ざらなくに
乎都久波乃 之氣吉許能麻欲 多都登利能 目由可汝乎見牟 左祢射良奈久尓
【語釈】 ○繁き木の間よ立つ鳥の 繁った木の間から飛び立つ鳥ので、その群れの意で、「群れ」の約言「目」にかかる序詞。○目ゆか汝を見む 目をとおして汝を見るのであろうかで、「目ゆ見る」は、距離を置いて見る意で、目でだけというにあたる。「汝」は、妹。「か」は、疑問の係助詞。○さ寐ざらなくに 「さ」は、接頭語で、共寝をしないのではないことであるのにで、関係を結んでいる間だのにの意。
【釈】 筑波山の繁った木立の間から飛び立つ鳥の群れのように、目をとおして、間接にあなたを見るのであろうか。共寝をしないではないことだのに。
【評】 近く住んでいる女に関係を結んだ男が、その女に訴えた歌である。近いがゆえにかえって人目をはばからなければならないのに、顔を見る機会は多いところからの嘆きである。部落生活の実際に即した歌である。序詞は、眼前を捉えたもので、目には見るが、どうすることもできないの意で、気分としてのつながりも持っているものである。複雑した、したがって屈折を持った、味わいのある歌である。
3397 常陸《ひたち》なる 浪逆《なさか》の海《うみ》の 玉藻《たまも》こそ 引《ひ》けば絶《た》えすれ 何《あ》どか絶《た》えせむ
比多知奈流 奈左可能宇美乃 多麻毛許曾 比氣波多延須礼 阿杼可多延世武
【語釈】 ○浪逆の海 茨城県鹿島郡で、今の北浦の南方、与田浦の東で、利根川の河口に近い所である。古くは、深く入り海になっていて、海の浪が溯るところからの称という。○何どか絶えせむ 「何どか」は、「などか」の東語で、何とて。「か」は、疑問の係で、反語をなしているもの。「絶えせむ」は、夫婦関係。
【釈】 常陸国の浪速の海の玉藻こそは、引けば絶えもする。我は何とて絶えようか、絶えはしない。
【評】 女が男に対して真実を誓った歌である。初句より四句までは譬喩で、「常陸なる浪速の海の」と大がかりにいっているの(171)は、誓言のためのものとて重くいおうとしたからである。男女等しく見ている郷土の景でもある。類型的な、重みのない歌である。
右の十首は、常陸国の歌。
右十首、常陸國歌。
3398 人皆《ひとみな》の 言《こと》は絶《た》ゆとも 埴科《はにしな》の 石井《いしゐ》の手児《てこ》が 言《こと》な絶《た》えそね
比等未奈乃 許等波多由登毛 波尓思奈能 伊思井乃手兒我 許登奈多延曾祢
【語釈】 ○人皆の言は絶ゆとも 「人皆の」は、下の石井の部落全体の人の。「言は絶ゆとも」は、「言」は、言葉を交わすことで、交わり。「絶ゆとも」は、絶えようともで、仮想。石井の部落全体から絶交されようともで、部落生活における最大の苦痛。○埴科の石井の手児が 「埴科」は、長野県埴科郡。信濃の東北部の小さい郡。「石井」は、部落の名であろうが、今はその名は伝わっていない。「手児」は、真間の手児奈のそれと同じく、娘の称で、ここは石井の手児として、いわゆる評判娘の称となっていたもの。○言な絶えそね 言葉を交わすことは絶えてくれるなで、「ね」は、願望の助詞。
【釈】 部落全体の人から絶交されようとも、埴科の石井の手児と言葉を交わすことは、絶えてくれるな。
【評】 石井の手児という評判娘と関係を結び得た男が、その手児に訴えた形の歌である。「埴科の石井の手児」と大がかりな呼び方をしているのは、手児を重んじてのことである。「人皆の言は絶ゆとも」という仮想は、部落全体の者から嫉妬され、憎まれてのこととして、ありうべきことと仮想してのものである。現在よりやや溯っての時代には、郷土意識がきわめて強く、その延長として、郷土の誇りとなるような娘は、さながら共通物のごとき感を持ち、独占する者があれば甚しく憎んだからである。実情に即した仮想だったのである。歌は個人的なものとなっているが、こうした感は、そうした娘のある部落では、若い者のすべてがあこがれとして持っていたもので、したがって謡い物の条件を備えている心である。
3399 信濃道《しなのぢ》は 今《いま》の墾道《はりみち》 刈株《かりばね》に 足《あし》踏《ふ》ましなむ 履《くつ》著《は》け我《わ》が背《せ》
信漁道者 伊麻能波里美知 可里婆祢尓 安思布麻之奈牟 久都波氣和我世
(172)【語釈】 ○信濃道は今の墾道 「信濃道」は、信濃の国府へ通う路で、信濃の内外へわたっての称である。ここは国内と取れる。「今の墾道」は、新たに開通した路で、「墾る」は、開墾する意。このことは続日本紀、和銅六年七月の条に「戊辰、美濃信濃二国之堺、径道険阻、往還艱難、仍通2吉蘇路1」とある。その吉蘇(木曾)路すなわち中仙道である。○刈株に 木や竹などの切株で、切った後に残る株である。○足踏ましなむ 「踏まし」は、「踏む」の敬語で、足にお踏みになさいましょうで、踏みぬきをして怪我をなさいますなの意をこめていったもの。○履著け我が背 履をはきなさい、わが背よ。
【釈】 信濃路は新たに切り開いた新道だ。刈株に足をお踏みなさいましょう。履をはけ、わが背よ。
【評】 女の許へ通って来た男の帰ろうとする時に、女のいった言葉である。「履著け」といっているのは、裸足で歩くのを普通としている男で、庶民である。道路そのものを重く扱い、それに絡ませての抒情としているのは、特殊な取材である。道路の開穿工事の継続している中の謡い物ではなかったかと思わせる。この歌にも上の常陸国の歌(三三八八)の「筑波嶺の嶺ろに霞居」と同じく、対話によってやや複雑な叙事をする傾向がみえる。巻中、作の年代のほぼ知られる上では唯一の歌である。
3400 信濃《しなの》なる 筑摩《ちくま》の河《かは》の 細石《さざれし》も 君《きみ》し踏《ふ》みてば 玉《たま》と拾《ひろ》はむ
信濃奈流 知具麻能河伯能 左射礼思母 伎弥之布美弖婆 多麻等比呂波牟
【語釈】 ○筑摩の河の 今は千曲川と書く。長野県の佐久郡に発し、善光寺平に入り、川中島で犀川と合し、越後に入って信濃川となる川。○細石も さざれ石の約で、河原の小石。それさえも。○若し踏みてば 「君し」は、女より男を指しての称。「し」は、強意の助詞。「踏みてば」は、「て」は、現在完了で、希望の意を含んでおり、踏んでくれたならばの意。河原の小石を踏むというのは、男が女の許へ通うために、川を徒渉することを婉曲にいったもので、君がわが許に通うならば。○玉と拾はむ 玉として拾おう。「拾ふ」は、集中すべて「ひりふ」で、「ひろふ」は、唯一の用例である。
【釈】 信濃国の千曲の川の小石をも、君が踏んだならば、我は玉として拾おう。
【評】 女より男に贈った歌で、男に懸想をし、婚を求めた形のものである。物言いはきわめて婉曲で、上品であり、用語も、語つづきも洗煉を極めていて、大和京の歌を思わせるものである。信濃国の歌四首は、大体京の歌に近いものであるが、この歌は際立って京風のものである。こうした歌がどうして信濃で生まれたかを疑わしめ、したがって京の官人の作かと思わしめるが、しかし作者は女であり、いうところは、女より男に働きかけているもので、その点で躓《つまず》きの起こる歌である。信濃の女の作と見るより他はなかろう。特色ある歌である。
(173)3401 中麻奈《なかまな》に 浮《う》きをる船《ふね》の 漕《こ》ぎ出《で》なば 逢《あ》ふこと難《かた》し 今日《けふ》にしあらずは
中麻奈尓 宇伎乎流布祢能 許藝弖奈婆 安布許等可多思 家布尓思安良受波
【語釈】 ○中麻奈に浮きをる船の 「中麻奈」は、未詳の語である。漕ぎ出そうとする船の浮いている所の称であるから、川についての名称と取れる。信濃の川はすべて渓流の趣をもっており、したがって流れの幅が狭いので、「中」という名を冠している点から見ても、中流の意ではないかと思われる。中麻奈に浮かんで、漕ぎ出そうとしている船の。○逢ふこと難し 相手は遠い旅に出る人で、別れれば逢うことが難い。○今日にしあらずは 今日でなければで、「し」は、強意の助詞。
【釈】 発船しようとして中麻奈に浮いている船が漕ぎ出したならば逢うことは難いことだ。今日という日でなかったならば。
【評】 川船によって、遠い旅へ出ようとする男との別れを惜しんで、見送りに来た女の、男の乗る船を眼前に見つつ、発船までのしばらくの時を意識的に惜しんでいる心である。感傷を意志化した言い方の歌である。信濃で、旅客として川船の利用できる河は、上の歌に出た犀川などもその一つで、明治時代、昔国府のあった信濃の中央部の松本市から、北信濃までの間を下っていた。山越えの労を省くためであった。これもその類のものであろう。
右の四首は、信濃国の歌。
右四首、信濃國歌。
3402 日《ひ》の暮《ぐれ》に 碓氷《うすひ》の山《やま》を 越《こ》ゆる日《ひ》は 背《せ》なのが袖《そで》も さやに振《ふ》らしつ
比能具礼尓 宇須比乃夜麻乎 古由流日波 勢奈能我素〓毛 佐夜尓布良思都
【語釈】 ○日の暮に碓氷の山を越ゆる日は 「日の暮に」は、賀茂真淵は枕詞と解し、他は実景と解している。実景とすると、下の続きで、日の暮れに碓氷の山を越えることになるのであるが、これは実際としてありうべからざることである。この歌は、遠い旅とみえるが、中心は妻が夫との別れをいっているもので、夜、山越えをするという格別の旅ではないからである。枕詞との解に従うべきである。薄日の意で維氷にかかるのである。「碓氷の山」は、上野と信濃の国境をなす大きな山である。それを越えるのは、信濃に入り、中仙道を通って西へ向かう旅であろう。「越ゆる日は」は、越えるべき旅立ちの日には。○背なのが袖もさやに振らしつ 「背なの」は、「な」も「の」も愛称で、夫の袖もまた。「さやに振らし(174)つ」は、はっきりとお振りになったで、「振らし」は、「振り」の敬語。「つ」は、現在完了。
【釈】 日の暮れの薄日に因みある碓氷の山を越えるべき旅をする日には、愛する夫が袖も、はっきりとお振りになった。
【評】 どういう旅かはわからないが、国境をなす碓氷の山を越しての旅は、夫はもとより妻にとっても、容易ならぬ旅であったとみえる。防人とか、京の衛士とかいう類の旅ではなかったか。旅立の際は、行く者送る者共に言忌みをして、不吉な言は発しないのが信仰となっていた。この場合もそれで、妻は夫を送った後、夫が心をこめて袖を振った、その袖振のさまに、夫の心の一切を汲み、それを胸に印して、それだけを語としているのである。「袖も」と、夫を主にしていって、自身の心もこめているのである。語短く、心の深い作である。
3403 吾《あ》が恋《こひ》は 現前《まさか》もかなし 草枕《くさまくら》 多胡《たご》の入野《いりの》の おくもかなしも
安我古非波 麻左香毛可奈思 久佐麻久良 多胡能伊利野乃 於久母可奈思母
【語釈】 ○吾が恋は現前もかなし 「現前」は、目前。「かなし」は、かわゆい。○草枕多胡の入野の 「草枕」は、旅にかかる枕詞を、「多」の一音にかけたもので、集中唯一の例である。「多胡」は、群馬県多野郡の一部で、村名となっている(現在、吉井町大字多胡)。「入野」は、街道筋から深く入り込んだ所の称で、「人」は、「口」に対する称で、野としての奥である。「入」と同意語の「奥」に続けて、三、四句その序詞。○おくもかなしも 「おく」は、将来で、将来もかわゆい。
【釈】 わが恋は、現在もかわゆい。草枕多胡の入野に因む、将来もかわゆいことよ。
(175)【評】 男がその関係している女に、自身の愛の現在も深く、将来も深く、けっして渝《かわ》らないことを誓ったものである。「吾が恋は」と説明的に言い出し、「現前も」「おくも」と、分解し、対させて、同じく説明的にいっているもので、知性的な歌である。しかしこの歌にあっては、その心をあらわす上で、説明的なのが必要な、したがって自然なものとなっていて、「現前」に対しての「おく」も漸層的になっているのが効果を挙げている。「草枕多胡の入野の」という序詞は、男女の住地がその野に近い所にあって、入野を旅のごとく感じる辺りであることを示しているものである。当事者間にあっては、感のある序詞であったろう。この歌の詠み方は、創意よりのものではなく、例のあるものである。さわやかな歌で、特色あるものである。
3404 上毛野《かみつけの》 安蘇《あそ》の真麻《まそ》むら 掻《か》き抱《むだ》き 寝《ぬ》れど飽《あ》かぬを 何《あ》どか吾《あ》がせむ
可美都氣努 安蘇能麻素武良 可伎武太伎 奴礼杼安加奴乎 安杼加安我世牟
【語釈】 ○上毛野安蘇の真麻むら 「上毛野」は、上野の古名。なお古くは、毛野の国と呼び、それを上下に分けたのである。「安蘇」は、下野国にもある地名で、したがって説のあるものである。安蘇郡の佐野町、犬伏町、旗河村など(現、佐野市)一帯の地の称であった。「真麻むら」は、「真」は、接頭語で、純粋の意。「そ」は、あさ。「むら」は、群れで、麻の群生している状態。麻を取り入れるには、抱えて抜き取ったので、その意で以上、「掻き抱き」の序詞。○掻き抱き 「掻き」は、接頭語。「むだき」は、いだきの古語。○寝れど飽かぬを 共寝をしているが、かわゆさが余って満足しないものを。○何どか吾がせむ 「何ど」は、「何と」の東語。われはどうしたらばよいのであろうか。当惑する意。
【釈】 上野の安蘇の麻むらを抜き取ろうとして抱くように、抱いて共寝をしているが、かわゆさに満足しないのを、我はどうし(176)たならばよいのであろうか。
【評】 相手の女のかわゆくてたまらないのを、我と持て余している心である。言いやすいようで言い難い感情を、素朴に、健康に、厭味なくあらわしている。「上毛野安蘇の真麻むら」という序詞は、庶民の労働の文芸化で、郷土色の濃いものである。「何どか吾がせむ」という綜合は、魅力のあるものである。一首、一般性を持ち、躍動しつつも平明で、典型的な謡い物である。愛唱されたものと思われる。
3405 上毛野《かみつけの》 乎度《をど》の多杼里《たどり》が 川路《かはぢ》にも 児《こ》らは逢《あ》はなも一人《ひとり》のみして
可美都氣努 乎度能多杼里我 可波治尓毛 兒良波安波奈毛 比等理能未思弖
【語釈】 ○乎度の多杼里が川路にも 「乎度」は、一本のほうには「乎野」となっている。乎野は小野で、『代匠記』は、上野には、甘楽郡、群馬郡、緑野郡に小野郷がある、そのいずれかであろうといい、吉田東伍は、緑野郡のそれで、鮎川、鏑川、烏川の交会する地だろうとしている。「多杼里が川路」は、『代匠記』は、多杼里は川の名だろうとしている。これは語つづきから見てそう取れるもので、多杼里の川添いの路と取れる。心としては、そこを寂しい、人目のない所としていっているのである。○児らは逢はなも 「児ら」は、関係している女の愛称。「なも」は、「なむ」の東語で、願望の終助詞。あの女に逢いたいものだ。○一人のみして ただ一人であって。
【釈】 上野の小野の、多杼里の川の川添い路で、あの女に逢いたいものだ。ただ一人であって。
【評】 小野の多杼里の川の川添い路を歩いている男が、そこの寂しく人目のないのに誘われて、関係しているかわゆい女が、ひょっと、ただ一人でここへ来合わせたらと空想した心である。若い、恋に悩んでいる男には、自然な心理で、野外で密会することを普通としている心も手伝っているものである。自身の歩いている道を大がかりにいっているのは、郷土愛の自然な現われで、型のごとくなっているものである。
或本の歌に曰く、上毛野《かみつけの》 小野《をの》の多杼里《たどり》が 安波路《あはぢ》にも 背《せ》なは逢《あ》はなも 見《み》る人《ひと》なしに
或本歌曰、可美都氣乃 乎野乃多杼里我 安波治尓母 世奈波安波奈母 美流比登奈思尓
【語釈】 ○安波路にも 他に用例のない語である。『総釈』は、「危ふ」の東語の活用として「あほかども」「あやはども」などの用例があり、それと同系の語で、危道の意かとしている。
(177)【釈】 上野の小野の多杼里のこの安波路で、夫に逢いたいものだ。見る人はなくて。
【評】 上の歌の替歌で、男の心に同感しての女の歌として作ったものである。謡い物には例の多いことである。場所は同じ所であるから、「小野」はこちらが原形であったろう。「安波路」を『総釈』の解のごとく見れば、ここでは細かくいい、「見る人なしに」は、反対に露骨にしたものである。上の歌が自然である。
3406 上毛野《かみつけの》 佐野《さの》の茎立《くくたち》 折《を》りはやし 吾《あれ》は待《ま》たむゑ 今年《ことし》来《こ》ずとも
可美都氣野 左野乃九久多知 乎里波夜志 安礼波麻多牟惠 許登之許受登母
【語釈】 ○佐野の茎立 「佐野」は、群馬県高崎市東南郊の地。「茎立」は、『倭名類聚鈔』にも出ていて、野菜の一種である。早春、雪の中から茎を立てて花が咲く。○折りはやし 折り取って、はやして。「はやし」は、栄えあらしめで、その物を調理して食べられるようにする意。○吾は待たむゑ 「ゑ」は、感動の助詞。○今年来ずとも 今年は来なかろうともで、男が遠い旅に出ていて、帰期の不明な意である。飛躍のありすぎる続き方であるが、京の衛士などに召されているとすれば、ありうることである。
【釈】 上野の佐野の茎立を、折って調理をして、われは待っていようよ。今年は帰って来なかろうとも。
【評】 早春の茎立を見て、夫の好物であることを思い、折って塩漬にして、夫を待とうとしての心である。「今年来ずとも」は、それにつけての最後の反省とすると、不自然ではない。妻にふさわしい心で、また女でなくては持てない心である。愛すべき野趣である。
3407 上毛野《かみつけの》 まぐはしまどに 朝日《あさひ》さし まぎらはしもな 在《あ》りつつ見《み》れば
可美都氣努 麻具波思麻度尓 安佐日左指 麻伎良波之母奈 安利都追見礼婆
【語釈】 ○まぐはしまどに 難解の句で、諸説がある。『代匠記』は、まぐはし窓と解したが、『考』は、真桑島門と解し、真桑島の門とした。上よりの続きで、地名でなくてはならないとしてである。しかし真桑島という村名は文献にないものなので、その所在を求めての諸説がある。橋本直秀は『上野歌解』で、目妙しき島戸で、『倭名類聚鈔』にある群馬郡島名郷であるとしている。「名」が「ど」に転訛したものと見なければならないが、比較的根拠のある解である。それに従うと、「まぐはし島ど」の約で、美しい島どの意で、特に島どの地を讃えたものとなる。島どは、水を帯びた地形よりの称と思われる。○朝日さし 「まぎらはしも」に譬喩としてかかり、以上その序詞。○まぎらはしもな 「まぎらはし」は、見(178)る目がきらきらする意で、眩しい。「な」は、感動の助詞。○在りつつ見れば 続けて見ているとで、慣用句。
【釈】 上野の美しい島どに朝日がさしたがように、見る目の眩しいことであるよ。続けて見ていると。
【評】 島どの近くに住んでいる妻の許で夜を明かした男が、朝日に見る妻の美しさを讃えたもので、永く見馴れて来ているが、いつ見ても美しいといっているのである。序詞の持つ気分にはっきりしかねる所があるが、大体は感じられる。心としては自然で華やかさのある歌である。地方歌の趣のない歌で、ある程度の身分ある男の歌と思われる。
3408 新田山《にひたやま》 嶺《ね》には著《つ》かなな 吾《わ》によそり 間《はし》なる児《こ》らし あやに愛《かな》しも
尓比多夜麻 祢尓波都可奈那 和尓余曾利 波之奈流兒良師 安夜尓可奈思母
【語釈】 ○新田山 群馬県太田市の北方にある山で、今は金山という。その近くにある広沢山塊から離れて、孤立している山。○嶺には著かなな「嶺」は、広沢山塊の連嶺。「著かなな」は、上の「な」は、打消の助動詞の未然形。この助動詞は四段に活用したと思われる。下の「な」は、助詞「に」と同じ東語であるらしく、「なな」は、「ずに」にあたる。他の山にはつかずにの意。○吾によそり われに人が寄せてで、取り持って。○間なる児らし 「間なる」は、中間にいて、事のきまらないで、まだ直接の関係は結ばない意。「児らし」は、「児ら」は、女の愛称。「し」は、強意の助詞。○あやに愛しも ひどくもかわゆいことだ。
【釈】 新田山が、他の山には着かずにひとり立っているように、われに取り持たれて、まだ中途半端でいるあの娘が、ひどくもかわゆいことだ。
【評】 仲介をする女があって、娘を取り持たれたが、そうした場合に、娘の決心がつきかねて、事が進捗せずにいる間の男の心である。新田山の姿を目にして、娘のうえをしのんだ心で、比較的複雑な心が、単純にあらわされた、愛すべき歌である。
3409 伊香保《いかほ》ろに 雨雲《あまくも》い継《つ》ぎ かぬまづく 人《ひと》とおたはふ いざ寝《ね》しめとら
伊香保呂尓 安麻久母伊都藝 可奴麻豆久 比等登於多波布 伊射祢志米刀羅
【語釈】 ○伊香保ろに雨雲い継ぎ 「伊香保」は、厳秀で、厳めしく秀でている意の語で、群馬県渋川市西方の榛名山を主峰としての山の名。「ろ」は接尾語。「雨雲い継ぎ」は、「い」は、接頭語で、雨雲が継いで起こってで、驟雨の来ようとする状態。○かぬまづく人とおたはふ 丁かぬまづ(179)く」は、この歌の他は、(三五一八)に出ているだけで、他には用例のない東語である。『総釈』は、この語はおそらく副詞で、「く」は、形容詞語尾であろう。姦(かた)ましく、かまびすしくに近い語といえるといっている。現在のところでは最も妥当性のある解である。「人と」は、(三五一八)の類歌のほうは、「人ぞ」となっている。そのほうが原形と思われる。「おたはふ」は、『略解』は、「おらぶ」の東語だとし、『総釈』はその継続だとしている。これは従いやすい解である。二句、かしましく人が騒ぎ立てていることだの意で、この歌の作者の男女関係について、部落が盛んな取沙汰をしている意で、したがって初二句はその譬喩となる。○いざ寝しめとら 「とら」という語は、通じ難い語である。『略解』は、「刀」は、「己」の誤写で、こら、すなわち児らであろうとしている。類歌のほうも同様である。謡い物を筆録する際「こ」を「と」と聴き取ったものと推量するほかはない。作意としては児らであったろう。
【釈】 伊香保の山に雨雲が継いで起こる時のように、かしましくも人々は騒ぎ立てていることだ。さあ、共寝をさせよ、かわゆい女よ。
【評】 不明の個所が多いのであるが、大体上のような作意であろうと思われる。地方色の濃厚な歌で、ありうべき作意と思われるだけである。
3410 伊香保《いかほ》ろの 傍《そひ》の榛原《はりはら》 ねもころに 奥《おく》をな兼《か》ねそ 現前《まさか》しよかば
伊香保呂能 蘇比乃波里波良 祢毛己呂尓 於久乎奈加祢曾 麻左可思余加婆
【語釈】 ○傍の榛原 続いている萩原で、「根」と続き、以上「ねもころ」の序詞。○ねもころに奥をな兼ねそ 心深く、将来をあらかじめ思うな。○現前しよかば 現在さえよかつたらば。「よか」は、形容詞「よし」の未然形。
【釈】 伊香保の山に続いている萩原のように、心深く将来のことまであらかじめ思うな。現在さえよかつたらば。
【評】 男の求婚に対して、女は永続性があるかどうかを気にして躊躇すると、男が押返していっている語である。男女の共通の性情をあらわしている歌で、謡い物の条件にかなっているものである。「伊香保ろの傍の榛原」は、根の序詞としている点は慣用的であるが、この場合、その時男女のいた場所を暗示しているものである。
3411 多胡《たご》の嶺《ね》に 寄綱《よせづな》延《は》へて 寄《よ》すれども 豈《あに》来《く》やしつし その顔《かほ》よきに
多胡能祢尓 与西都奈波倍弖 与須礼騰毛 阿尓久夜斯豆之 曾能可抱与吉尓
(180)【語釈】 ○多胡の嶺に 群馬県多野郡多胡の地の山で、どの山とも明らかではない。譬喩としていっているのであるから、作者のいる土地に最も間近い山である。○寄綱延へて寄すれども 「寄綱」は、重い物を引いて寄せる綱の称。「延へて」は、伸ばして掛けて。「寄すれども」は、引き寄せたけれども。○豈来やしづし 「豈来や」は、何で寄って来ようか、来はしない。「や」は、反語。「しづし」は、解しがたい語とされている。「静し」で、「静けし」の方言と見るべきであろう。山がじっとして動かない意である。以上、譬喩である。○その顔よきに あの、顔のよいことによってで、女が自身の美貌を恃んで、相手にならない意。
【釈】 多胡の山に、寄綱を伸ばして掛けて引き寄せたけれども、何で来ようか、来ないで、じっとしている。あの顔のよいことによって。
【評】 多胡のいずれかの山に近く住む男が、その辺りで美貌の聞こえある女に、無理と思いながらも言い寄ったが、女はてんで相手にせず、微動だにしなかったことを、当然だと感じつつ、苦笑していっている心である。初句より四句までは譬喩である。土地に綱を掛けて引き寄せることは、祈年祭の祝詞に「遠き国は八十綱うち懸けて引き寄することの如く」とあり、また出雲風土記には叙事としてあるものであって、突飛な想像ではなかったのである。こうした事柄は、実際に多いことであって、その意味で謡い物となり得たのであろう。風の変わった、手腕のある歌である。
3412 上毛野《かみつけの》 久路保《くろほ》の嶺《ね》ろの 葛葉《くずは》がた かなしけ児《こ》らに
いや離《ざか》り来《く》も
賀美都家野 久路保乃祢呂乃 久受葉我多 可奈師家兒良尓 伊夜射可里久母
【語釈】 ○久路保の嶺ろの 今、最高峰を「黒檜岳」という赤城山の古名であろうという。「久路」は、巌の古語で、吉野山中の大峰辺りでは現在も用いられているという。「保」は、秀で、巌の高く聳えている山の意である。「の」は、同意の名詞を畳んでいう際、接続として用いる助詞。○葛葉がた 葛の葉の蔓のことで、葛葉の蔓が別れ離れてゆくようにの意、下の「離り来も」にかかる。○かなしけ児らに 「かなしけ」は、かなしきの東語。かわゆいあの女に。○いや離り来も いよいよ遠ざかって行くことだで、「来」は、目的地を主としての語。
【釈】 久路保の山の、葛葉の蔓のように、かわゆいあの女に、いよいよ遠ざかって行くことだ。
【評】 赤城の山を神として祭っている男の、愛する女を後に、防人などで、信濃路のほうへ向かって行き、途中、赤城の山を顧みて、その遠ざかって来たことによって、別離の感を新たにした心である。調べが張って、感の深さをあらわしている。
3413 利根河《とねがは》の 河瀬《かはせ》も知《し》らず ただ渉《わた》り 浪《なみ》に遇《あ》ふのす 逢《あ》へる君《きみ》かも
(181) 刀祢河泊乃 可波世毛思良受 多太和多里 奈美尓安布能須 安敞流伎美可母
【語釈】 ○利根河の河瀬も知らず 「利根河」は、群馬県利根の郡から発する河である。この歌はその上流地域である。「河瀬も知らず」は、徒渉地点も弁えずにで、初めての土地へ向かって渉る場合である。○ただ渉り ひたすらに、すなわちむやみに渉って。○浪に遇ふのす逢へる君かも 「浪に遇ふのす」は、「のす」は、「なす」の東語。だしぬけに波に遇ったがようにで、思いがけずもの意の譬喩。「逢へる君かも」は、かく逢っている君であるよで、「君」は、男より女を指しての敬称。
【釈】 利根川の徒渉地点も弁えずに、むやみに渡って、だしぬけに波に遇ったように、思いがけずも逢っているあなたであるよ。
【評】 男が初めて女の許へ通って行き、その思いがけずも結ばれた関係を喜んでいる心の歌である。初句より四句までは、思いがけずの譬喩である。これは女に逢う直前の自身の経験で、極度に実際に即したものである。一首、実際に即してきわめて素朴にいっているので、気分の躍動をあらわしうるものとなって、新味が豊かである。
3414 伊香保《いかほ》ろの 八尺《やさか》の堰塞《ゐで》に 立《た》つ虹《のじ》の 顕《あらは》ろまでも さ寝《ね》をさ寝《ね》てば
伊香保呂能 夜左可能爲提尓 多都努自能 安良波路萬代母 佐祢乎佐祢弖婆
【語釈】 ○八尺の堰塞に立つ虹の 「八尺」は、尺は寸位の単位で、多くの尺の意。堰塞についていっているので、水深と取れる。「堰塞」は、伊香保の沼すなわち榛名湖の水を、田地の灌漑用水として引くために設けた堰ぜきで、現在のダムである。「立つ虹」は、堰塞の上にまたがって立った虹で、「のじ」は、「にじ」の東語。そのあらわな意で、「顕ろ」にかかり、以上その序詞。○顕ろまでも 「顕ろ」は、「顕る」の東語。家人に顕(182)われるまでにもで、親の目を盗んでその家で逢っている不本意をいったもの。○さ寝をさ寝てば 「さ寝」は、「さ」は、接頭語。上の「さ寝」は、名詞、下のは動詞で、寝に寝たならば、の意。「てば」は、下に、「うれしからむ」の意が略されている。
【釈】 伊香保の山の、八尺の堰塞の上に立っている虹のように、我も家人に顕われるまでに、寝に寝たならば、うれしかろう。
【評】 女の家の者の目を忍んで逢うので、深夜寝しずまっている短い時間しか女の家にいられない男の嘆きで、別れしなに女に訴えた形のものである。同じ状態の人々を代弁している心である。「八尺の堰塞に立つ虹の」という序詞は清新である。虹を材料に捉えた、集中唯一の例である。「さ寝をさ寝てば」の言いさしも巧みである。調べが柔軟で、派手で、魅力のある歌である。好個の謡い物である。
3415 上毛野《かみつけの》 伊香保《いかほ》の沼《ぬま》に 植子水葱《うゑこなぎ》 かく恋《こ》ひむとや 種《たね》求《もと》めけむ
可美都氣努 伊可保乃奴麻尓 宇惠古奈宜 可久古非牟等夜 多祢物得米家武
【語釈】 ○伊香保の沼に植子水葱 「伊香保の沼」は、榛名湖で、そこに植えてある子水葱。「子水葱」は、水葵といい、水田や水沢に自生する一年生の草木で、葉は長い柄を持った心臓形。花は紫色で、夏開き、染料にする。ここは自分の愛している女の譬喩である。○かく恋ひむとや種求めけむ このように恋いようとて、種を求めたのであったろうかで、「や」は、疑問の係。
【釈】 上野の伊香保の沼に植えてある子水葱。このように恋いようとて種を求めたのであったろうか。
【評】 女と関係を結んだ男の、そのために恋の悩みをさせられて、後悔に近い心を持っていることをいったものである。「植子水葱」は女の譬喩であるが、子水葱その物は必ずしも珍しい物ではなく、水のある所には自生するものなのに、信仰の対象となっている伊香保の沼に関係させていっているのは、その女がある身分を持っていることを暗示したものと思われる。自生(183)する子水葱を「植子水葱」といい、「種求めけむ」といっているのも、その意からと思われる。譬喩が主になっていて、わずかに「かく恋ひむとや」で本義をあらわしている言い方も、同じくその心からと思われる。地方歌の匂いのないものである。
3416 上毛野《かみつけの》 可保夜《かほや》が沼《ぬま》の いはゐ蔓《つら》 引《ひ》かばぬれつつ 吾《あ》をな絶《た》えそね
可美都氣努 可保夜我奴麻能 伊波爲都良 比可波紋礼都追 安乎奈多要曾祢
【語釈】 ○可保夜が沼 所在不明である。○いはゐ蔓 上の(三三七八)「入間路の大家が原のいはゐ蔓」と出、それでいった。蓴菜のその土地での称である。○引かばぬれつつ 引いたならば、ぬるぬるとして。○吾をな絶えそね 私には絶えてくれるな。
【釈】 上野の可保夜が沼の蓴莱のように、引いたならばぬるぬるとして、私には絶えてくれるな。
【評】 上の(三三七八)の歌と、取材も作意も全く同じで、ただ地名が異なっているのみである。謡い物として伝誦され、その地の地名とさし替えて謡ったものである。
3417 上毛野《かみつけの》 伊奈良《いなら》の沼《ぬま》の 大藺草《おほゐぐさ》 よそに見《み》しよは 今《いま》こそまされ
可美都氣努 伊奈良能奴麻乃 於保爲具左 与曾尓見之欲波 伊麻許曾麻左礼
【語釈】 ○伊奈良の沼の 邑楽郡にある板倉沼の古名と推定されている。現在は沼の西辺に、その古名を復活させての伊奈良村(現在、板倉町に合併)がある。館林市の多々良沼説もある。○大藺草 現在の太藺で、莎草《かやつりぐさ》科の宿根草。水辺に生じ、一根に叢生する。その茎を織って、がまむしろを織る。ここは女の譬喩としてある。○よそに見しよは 無関係で見た時よりは。「よ」は、「より」。沼にあったのを見た時よりはの意。○今こそまされ 「今」は、「よそ」に対させた語で、関係を結んで、わが物とした意で、大藺草をわが物とするのは、その物としては蓆に織ったのをわが敷物とする意で、女としてはわが妻とする意。
【釈】 上野の伊奈良の沼の大藺草よ、無関係に見ていた時よりは、今のほうがまさっていることだ。
【評】 全部が譬喩で、その譬喩も複雑なことをきわめて単純にいってあって、その結果、相聞の心もすぐにはそれと感じられないまでである。四、五句、対照を用いて、結婚の前と後とをあらわしている点などまさにそれである。初句より三句までは、女が伊奈良の沼の地方の者であることをあらわしているものである。一首としての感の強弱は、取材によって決定されること(184)で、感は強くはないが、手腕のある歌である。
柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
柿本朝臣人麿歌集出也。
【解】 編集者の注である。人麿の作とみえる。若い日の人麿が上野の地へ来たことがあって、そこで詠んだ歌が、その土地に伝わったと見られるものである。作意としては格別のものでないが、「伊奈良の沼の大藺草」は、想像で詠んだものとは思い難いものだからである。人麿の歌としては平凡にすぎるが、しかしその技倆は、人麿としても恥ずかしからぬものである。
3418 上毛野《かみつけの》 佐野田《さのだ》の苗《なへ》の むらなへに 事《こと》は定《さだ》めつ 今《いま》は如何《いか》にせも
可美都氣努 佐野田能奈倍能 武良奈倍尓 許登波佐太米都 伊麻波伊可尓世母
【語釈】 ○佐野田の苗の 「佐野田」は、佐野の田で、佐野は群馬県、高崎市東南郊で、上の(三四〇六)「佐野の茎立」と出た所、また下の(三四二〇)「佐野の船橋」とある佐野である。「佐野田」は、佐野の部落にある田ので、広範囲の田をさしたもの。「苗の」は、それに植える苗の。○むらなへに 「むらなへ」は、群苗で、一団としての苗。これはそれぞれの田に割り当てた苗の意で、「むらなへに」は、そうした苗のさまにで、下の「定め」の譬喩。○事は定めつ 「事」は、結婚のこと。「定めつ」は、すでに定めた。○今は如何にせも 「せも」は、「せむ」の東語で、用例のあるもの。
【釈】 上野の佐野の田へ植える苗の、それぞれの田へ割り当てた一団の苗のように、結婚のことはもはや定まりました。今は何としましょう。
【評】 これは田植の時、共同労作で、平常は接近する機会のない部落の若い男女の落ち合った時、男から求婚をされた女が、それを断わった意の歌である。初句より三句までの譬喩は、眼前を捉えていっているもので、語としては省略のある通じ難い感のあるものであるが、そうした労作に馴れている農民には、普通の言い方で、十分に通じたものと思われる。田植という仕事は時期を大切にすることで、現在でも共同労作をしているのである。またそうした折は、若い男が求婚の意志をあらわすに好機会であったろうと察しられる。
3419 伊可保《いかほ》世 欲奈可《よなか》中|吹下《ふきおろし》おもひどろ くまこそ之都等《しつと》 わすれせなふも
(185) 伊可保世 欲奈可中吹下 於毛此度路 久麻許曾之都等 和須礼西奈布母
【語釈】 ○伊可保世欲奈可中吹下 古来訓みがたくしている。「伊可保」の下に、「か」にあたる字を脱したのではないかと『新考』はいう。「欲奈可」は、「欲」は上の句へ属していたのを、『新考』が二句へ移して今のごとく訓み、『新訓』も従っているものである。「中」は、衍字だろうという。「吹下」は、「吹」は、大方の写本「次」となっているが、『元暦校本』『類聚古集』『古葉略類聚鈔』は、「吹」となっているので、『新訓』が従ったものである。「吹下」は、本巻の一字一音の用法とは異なったものであるが、ありうる誤りとして『新訓』の訓んでいるものである。○おもひどろくまこそ之都等 用例のない語の連続で、古来解しがたくしている。『論究』と『総釈』とは、一応の解を下しているが、なお将来を待つべきものとして、略す。○わすれせなふも 「なふ」は、打消の助動詞。
【釈】 下し難い。
【評】 略す。
3420 上毛野《かみつけの》 佐野《さの》の船橋《ふなはし》 取《と》り放《はな》し 親《おや》は放《さ》くれど 吾《わ》は放《さか》るがへ
可美都氣努 佐野乃布奈波之 登里波奈之 於也波左久礼騰 和波左可流賀倍
【語釈】 ○佐野の船橋 「佐野」は、(三四〇六)に既出。船橋のある川は烏川で、「船橋」は、川に船を連ねて、その上に板を渡して橋の代用としたものの称。○取り放し 取りはずして、出水の時には船を保護するためにすること。以上、「放くれど」の譬喩。○親は放くれど 「親」は、母で、母は男との間を裂くけれど。○吾は放るがへ 「がへ」は、「かは」にあたる東語で、反語。私は切れようか、切れはしない。
【釈】 上野の佐野の船橋を取りはずすように、母はわれと男との間を割くけれども、私は切れようか、切れはしない。
(186)【評】 女が男に真実を誓った歌で、類の多いものである。多くの娘を代弁したような歌である。佐野の船橋はその地として最も適切な譬喩で、印象的なものであったろう。謡い物の条件を備えた歌である。
3421 伊香保嶺《いかほね》に 雷《かみ》な鳴《な》りそね 吾《わ》が上《へ》には 故《ゆゑ》は無《な》けども 児《こ》らによりてぞ
伊香保祢尓 可未奈那里曾祢 和我倍尓波 由惠波奈家杼母 兒良尓与里弖曾
【語釈】 ○伊香保嶺に雷な鳴りそね 「伊香保嶺」は榛名山。「雷」は、鳴る神で、測りがたい偉力を持った神だったのである。「ね」は、願望の助詞。鳴って下さるな。○吾が上には故は無けども 「吾が上には」は、われに関しては。「故」は、子細。「なけ」は、形容詞「なし」の已然形。○児らによりてぞ 「児ら」は女の愛称。「よりてぞ」は、よってのことである。
【釈】 伊香保の山に雷が鳴って下さるな。我に関しては子細はないが、かわゆい妹によってのことである。
【評】 榛名山に雷の鳴る日、雷神に鳴らないで下されと祈っている心である。「吾が上には故は無けども」と断わっているのは、雷神に対して祈りをするのであるから、真実をいい、心を尽くしてするべきものとしてのことと見える。当然の儀礼としたのであろう。棒名山は現在も雷鳴の多い地である。
3422 伊香保風《いかほかぜ》 吹《ふ》く日《ひ》吹《ふ》かぬ日《ひ》 ありといへど 吾《あ》が恋《こひ》のみし 時《とき》無《な》かりけり
伊可保可是 布久日布加奴日 安里登伊倍杼 安我古非能未思 等伎奈可里家利
【語釈】 ○伊香保風 榛名山より吹き下ろす風の称で、転じて、その地方に吹く風の総称ともなったのであろう。ここは風の総称とみえる。○吾が恋のみし時無かりけり わが恋のほうは、いつという差別もないことであるで、「のみ」と「し」は、強意の助詞。「けり」は、感動の助詞。
【釈】 伊香保風は、吹く日と吹かない日とあるというが、わが恋のほうは、いつという時もなく続くことであるよ。
【評】 自身の恋を説明したものである。この説明には実感の伴うものが少なく、ほとんど概念的にいっているので、感の乏しいものになっている。実感を重んじる地方歌に、それとは反対な概念的な歌が、すでに一方には起こり、しかも謡い物にまでなっていたのである。地方歌の生まれた時期の幅の広さを思わせる。
(187)かみつけのいかほねふよきゆすいもいへ
3423 上毛野 伊香保の嶺ろに 降ろ雪の 行き過ぎかてぬ 妹が家のあたり
可美都氣努 伊可抱乃祢呂尓 布路与伎能 遊吉須宜可提奴 伊毛賀伊敞乃安多里
【語釈】○降ろ雪の「降ろ」は、「降る」の、「よき」は、「雪」の東語。類音の関係で、下の「行き」にかかり、以上その序詞。○行き過ぎかてぬ 通り過ぎることがてきぬで、恋しさに心引かれてのためである。
【釈】 上野の伊香保の山に降っている雪に因みある、行き過ぎることができない。妹の家の辺りは。
【評】 妹の家の辺りを行き過ぎかねるという、一般性の心を、序詞を添えることによって生かそうとしている歌である。序詞が気分的に重く働いて、作者が雪の中を歩いているような感を起こさせる、それがこの歌の技巧である。これは新しい技巧で、この歌の生まれた時代をも語っているものである。東語はまじっているが、調べも京風である。
右の二十二首は、上野国の歌。
右廿二首、上野國歌。
3424 下毛野《しもつけの》 三鴨《みかも》の山《やま》の 木楢《こなら》のす まぐはし児《こ》ろは 誰《た》が笥《け》か持《も》たむ
之母都家野 美可母乃夜麻能 許奈良能須 麻具波思兒呂波 多賀家可母多牟
【語釈】 三鴨の山の 「三鴨」は、『倭名類聚鈔』に、「下野国都賀郡三鴨」とある地で、今の下都賀郡藤岡町大田和(旧、三鴨村)辺り一帯の広い地域で、「山」は、三毳山、俗に大田和山と称している。佐野市と岩舟村との間にある。○木楢のす 「木楢」は、楢であろう。「のす」(188)は、「なす」の古語。下の「まぐはし」の譬喩となっているので、若葉の楢と取れる。○まぐはし児ろは 「まぐはし」は、「ま」は、接頭語、「くはし」は、美しいで、終止形で体言に続くもの。「児ろ」は、女の愛称。○誰が笥か持たむ 誰の食器を扱うのであろうか。「笥」は、ここは食器で、食事を代表させての語。「か」は、疑問の係。男の食事の世話をするのは女の役であるところから、誰の妻になるだろうかということを、生活の実際に即して具象したもの。
【釈】 下野の三鴨の山の楢の木のようなあの美しい女は、誰の食器の世話をする者になるだろうか。
【評】 「まぐはし児ろ」に心を寄せている男の、自分以外にも同じく心を寄せている何人かの男のあることを思って、競争意識を持っていっている歌である。少なくとも自分を圏外の者として、妬み心よりいっているものではない。明るく楽しい気分のある歌だからである。「三鴨の山の木楢のす」は、山をおおっている若葉の楢が、その辺で代表的に美しいものだからの譬喩とみえる。妻ということを、笥を持つという語であらわしているのも、実際生活に即している言い方で、一首おのずから素朴な地方色を湛えている。愛すべき、魅力ある歌である。
3425 下毛野《しもつけの》 阿蘇《あそ》の川原《かはら》よ 石《いし》踏《ふ》まず 空《そら》ゆと来《き》ぬよ 汝《な》が心《こころ》告《の》れ
志母都家努 安素乃河泊良欲 伊之布麻受 蘇良由登伎奴与 奈我己許呂能礼
【語釈】 ○阿蘇の川原よ 「阿蘇の川原」は、「阿蘇」は、古くは上野下野へ跨った地であったが、今は下野の安蘇郡に属している。秋山川といい、郡内の主水脈で、渡良瀬川に合流する。「川原よ」は、河原を通って。○石踏まず空ゆと来ぬよ 石を踏む意識もなく、空を通るようにして来たことであるよで、夢中で来たの意。「空ゆと」は、空を通るかごとくに。「よ」は、感動の助詞。○汝が心告れ あなたの心をはっきりといえ。「心」は、求婚に対しての諾否の心。「告れ」は、「いへ」を重くいう語で、改まって、しっかり言えの意。
【釈】 下野の安蘇の川の川原を通って、石を踏む気もせずに、空を通って来るがようにして来たことであるよ。あなたの心をはっきりといいなさい。
【評】 初句より四句までは、その家より女の家まで来る途中を、情熱のために昂奮して夢中で来たことをいっているものである。これは労苦の訴えではなく、誠意のほどを具象的にいっているものである。結句も訴えを含んではいない。赤裸々に、全面を披瀝しての心で、その情熱と素朴と一本気とは、求婚の歌として珍しいものである。地方歌の特色のある歌である。
右の二首は、下野国の歌。
右二首、下野國歌。
3426 会津嶺《あひづね》の 国《くに》をさ遠《どほ》み 逢《あ》はなはば 偲《しの》ひにせもと 紐《ひも》結《むす》ばさね
安比豆祢能 久尓乎佐杼抱美 安波奈波婆 斯努比尓勢毛等 比毛牟須婆左祢
【語釈】○会津嶺の国をさ遠み 「会津嶺」は、福島県の会津地方の北方にある磐梯山の古名。「国」は、郷土。「さ遠み」は、「さ」は、接頭語、「遠み」は、遠くして。会津嶺のある国が遠くて。○逢はなはば 「なは」は、打消の助動詞「ぬ」の東語「なふ」の未然形。逢わないならば。○偲ひにせもと 「偲ひ」は、思慕。「せも」は、「せむ」の東語。「と」は、と思うのでの意で、以上を承けたもの。○紐結ばさね「紐」は、下紐。「結ばさね」は、「結ぶ」の敬語「結ばす」に、願望の助詞「ね」の添ったもので、結んでくださいで、妻にいったもの。
【釈】 会津嶺のある国が遠くて、逢わないならば、思慕の種にしようと思うので、わが下紐を結んでください。
【評】 男が遠い国へ旅立とうとして、妻の家に一夜を明かし、別れしなに妻に向かっていった語である。夫婦が逢って別れる時には、互いに下紐を結びかわすのは普通のことで、特に言い立てるべきことではないが、今は場合柄としてそれを語にしているのである。それにまたこれは、長い旅路の間を、下紐を解くまいということを示しもするもので、その点では、妻に誠実を誓うことにもなるのである。「偲ひにせもと」がそれを示している。樸実な心の満ちた歌である。
3427 筑紫《つくし》なる にほふ児《こ》故《ゆゑ》に 陸奥《みちのく》の 可刀利娘子《かとりをとめ》の 結《ゆ》ひし紐《ひも》解《と》く
(190) 筑紫奈留 尓抱布兒由惠尓 美知能久乃 可刀利乎登女乃 由比思比毛等久
【語釈】 ○筑紫なるにほふ児故に 「筑紫」は、北九州。陸奥の男がそこへ行っているのは、防人としてと取れる。「にほふ」は、色の美しく出る意で、「児」は、女の愛称。一語で、色美しい女のゆえに。○陸奥の可刀利娘子の 「陸奥」は、奥羽地方の総称であるが、奈良朝時代、防人の徴されたのは、その入口の部分だったのである。「可刀利娘子」は、可刀利の地の女で、この男の妻。可刀利は所在が不明である。香取の神の御霊を祀ってあるところから負うた地名で、伝わらなかったのか。○結ひし紐解く 「結ひし紐」は、上の歌と同じ意味のもの。「解く」は、共寝をしようとしてのこと。
【釈】 筑紫の色美しい女のゆえに、陸奥の可刀利娘子の結んだ下紐を解く。
【評】 旅先の女の美しさに魅せられて、関係を結ぼうとする際、その郷国の妻を思い浮かべて、心を咎めさせられた歌である。しかし歌の形は明るく華やかで、暗い影のないものである。こうした心理は一般性を持ったものなので、第三者が防人の心理を想像して、謡い物として詠んだものと思われる。奈良朝時代の歌人には、この事は多いからである。陸奥人の歌というだけで、その地に即してのものでもない。
3428 安達太良《あだたら》の 嶺《ね》に臥《ふ》す鹿猪《しし》の 在《あ》りつつも 吾《あれ》は到《いた》らむ 寝所《ねど》な去《さ》りそね
安太多良乃 祢尓布須思之能 安里都々毛 安礼波伊多良牟 祢度奈佐利曾祢
【語釈】 ○安達太良の嶺に臥す鹿猪の 「安達太良の嶺」は、岩代国安達郡の山で、今の福島県二本松市西方の安達太良山。「臥す鹿猪の」は、そこを臥所としている鹿猪で、猪鹿は一たび臥所と定めたところは、けっして他に移さない習性を持っているところから、譬喩として「在りつつ」にかかり、以上その序詞。○在りつつも吾は到らむ 「在りつつも」は、現在の状態を持続しつつもで、いつまでもの意。「吾は到らむ」は、我は通って行こう。○寝所な去りそね 寝所を去らないでいてくれ。
【釈】 安達太良の山に臥している猪鹿のように、いつまでも、我は通って行こう。寝所を変えないでくれよ。
【評】 男が女に対して、自分の渝《かわ》らぬ愛を誓い、女にもそれを求めている歌である。序詞は、狩猟に親しみのある人々の間のもので、そうしたことを生業としている者の歌であろう。樸実な趣を持った歌である。
右の三首は、陸奥国の歌。
(191) 右三首、陸奧國歌。
譬喩歌
【解】 「譬喩歌」の標目は、巻三を初めとして、巻七、十、十一、十三にもあるものである。編集者の文学意識より立てたものである。東歌はすべて恋歌で、譬喩によって一首に纏めたものが多く、譬喩は序詞の形になっているのである。譬喩歌は、譬喩の分量の比較的多いものを取り出して、分類しての称である。
3429 遠江《とほつあふみ》 引佐細江《いなさほそえ》の 澪標《みをつくし》 吾《あれ》をたのめて あさましものを
等保都安布美 伊奈佐保曾江乃 水乎都久思 安礼乎多能米弖 安佐麻之物能乎
【語釈】 ○遠江引佐細江の 「遠江」は、遠つ淡海の意で、淡海は湖の古名。琵琶湖の近つ淡海に対させた浜名湖の称で、それが国名にもなったのである。ここは浜名湖の意。「引佐細江」は、引佐の細江で、引佐は浜名湖の奥一帯にわたっての称で、細江は、静岡県引佐郡細江町気賀の付近で細く入り込んでいる所の称である。○澪標 「みを」は、水脈で、水路。「つ」は、助詞。「くし」は、棒で、水路の目標として立てる棒の称である。これは港や湖などで船の往復の頻繁な所で水の浅い所へ立てる物である。○吾をたのめて われに頼みにさせてで、「吾」は、女。○あさましものを 「あさまし」は、水の浅くなる意の動詞「あす」に助動詞「まし」が接続したもので、浅いであろうの意。「を」は、感動の助詞で、浅くあるでしょうのに。
【釈】 遠つ淡海の引佐の細江に立っている澪標のように、わ(192)れに頼みにさせて。心が浅くあるでしょうのに。
【評】 浜名湖のほとりに住んでいる女の、男が、さも頼みになるように思い込ませて、その実それほどでもないことを知った折の恨みである。「澪標」は、「頼めて」の譬喩であるが、序詞と異ならないものである。船人のそれを目標とする関係で、場所がら適切なものである。なお、澪標は、「身を尽くし」に通う語であり、「浅まし」は、澪標の立っている場所にもつながりがあって、この譬喩は細かい陰影を持っているものである。一首全体として、京の歌に異ならないのみならず、その引締まってすっきりしている点、調べのさわやかな点など、京の歌としてもすぐれた部である。
右の一首は、遠江国の歌。
右一首、遠江國歌。
3430 志太《しだ》の浦《うら》を 朝《あさ》漕《こ》ぐ船《ふね》は よし無《な》しに 漕《こ》ぐらめかもよ よしこさるらめ
斯太能宇良乎 阿佐許求布祢波 与志奈之尓 許求良米可母与 余志許佐流良米
【語釈】 ○志太の浦を朝漕ぐ船は 「志太の浦」は、静岡県志太郡大井川町一帯の海で、駿河の南端で、遠江に接している。「朝漕ぐ船」は、朝早く漕いでいる船で、海岸の者は、陸上のいささかの用足しにも船を用いたので、ここもその意のをの。○よし無しに漕ぐらめかもよ 「よし無しに」は、理由無しに。「漕ぐらめかもよ」は、「らめ」は、助動詞「らむ」の已然形で、それに疑問の「かも」が接して反語となっているもの。「もよ」は、感動の助詞。理由なしに漕いでいようか、そういうことはあるまいことよ。○よしこさるらめ 「よし」は、上の繰り返しで、理由。「こさる」は、「こそある」の約音で、理由があってのことであろう。
【釈】 志太の浦を朝漕いでいる船は、理由なしに漕ぐことがあろうか、そういうはずはあるまい。その理由があることだろう。
【評】 志太の浦に朝早く船を漕いでいる者のあるのを陸上から見て、ただちに男女関係を想像し、きっと女の許よりの帰りであろうと想像した心である。集中の例で見ても、上代は他人の男女関係に甚しく敏感で、そうした秘密を保たなければならない男女を深く惧れしめたほどである。この歌もその範囲のもので、作者は大発見でもしたかのごとくいっているのである。しかしそれがすなわち部落民の心だったのである。語つづきの執拗なのは、そうした発見に対する興味の具象である。
右の一首は、駿河国の歌。
(193) 右一首、駿河國歌。
3431 足柄《あしがり》の 安伎奈《あきな》の山《やま》に 引《ひ》こ船《ふね》の 後引《しりひ》かしもよ ここばこがたに
阿之我里乃 安伎奈乃夜麻尓 比古布祢乃 斯利比可志母与 許己波故賀多尓
【語釈】 ○足柄の安伎奈の山に 「足がり」は、足柄。「安伎奈の山」は、足柄山中の一峰とは知れるが、名が伝わらないので、今の何山かわからない。下の続きで、船木があるところから、船を造る山となっていたのである。○引こ船の 「引こ」は、引くの東語で、船は丸木舟で、船材のある地で刳《く》って船とした上で、引き下ろしたのである。下の「引かし」に譬喩として続き、以上その序詞。○後引かしもよ 「後」は、船の後部。「引かし」は、動詞「引く」を形容詞にしたもので、引く状態にある意。「もよ」は、感動の助詞。後部を引く状態にあることよ。上よりの続きは、船を山から引き下ろす際は、滑りすぎないように、綱を着けて後方へも引いたとみえる。それを転じて、人と別れようとして、心が後ろへ引かれる意としたもの。いわゆる後ろ髪を引かれる意である。○ここばこがたに 「ここば」は、ここだの東語で、甚しく。(三五一七)に「許多悲しけ」ともある。「こがたに」は、従来「来難に」の意に解していたのを、『全註釈』は、「故」は、上代用字法では甲類で、「来」は、乙類であるから、「来」とするのは不適当だとし、「こ」を「児」としている。その関係上「た」を、為の古語としている。巻五(八〇八)「奈良の都に来む人のたに」、仏足石歌碑に「法の為《た》のよすがとなれ。」を証としている。児がためにで、児は別れようとしている妹としているのである。それだと無理なく筋がとおるので、従う。
【釈】 足柄の安伎奈の山で引き下ろしている船のように、後ろに引くことであるよ。甚しくもかわゆい女のために。
【評】 女の許から、別れて立ち出でた男の、心が残って、ひどく歩み難くしている心である。譬喩が目新しいもので、特色をなしている。そうした状態を見馴れている者の間の歌である。山中での工事なので、男はあるいはそれに関係している者かもしれぬ。実際に即しているために新しいのである。
3432 足柄《あしがり》の 和乎可鶏山《わをかけやま》の かづの木《き》の 吾《わ》をかづさねも かづさかずとも
阿之賀利乃 和乎可鷄夜麻能 可頭乃木能 和乎可豆佐祢母 可豆佐可受等母
【語釈】 ○和乎可鶏山の 足柄山中の一蜂と知れるだけで、不明である。名が伝わらないためである。「和乎」は、「吾を」で「懸け」と続く序詞だと、『代匠記』『古義』はいっている。下の続きから見て従えるものに思える。また可鶏山は、今の矢倉嶽だとする説もある。○かづの木の ぬ(194)るでの木の、相模での称だと、伴信友が『比古婆衣』でいっている。類音で、「かづす」にかかり、以上その序詞。○吾をかづさねも 「かづさね」は、ここにあるのみの語で、他に用例はない。『考』は、「かづさ」は、動詞「かづす」の未然形で、「かづす」は、中世語の「かどふ」、また、巻十八(四〇八一)「人かたはむかも」の「かたはむ」と同語で、盗み出す意だとしている。「ね」は願望、「も」は感動の助詞。われを盗み出して下さい。○かづさかずとも 「かづさかず」は、上の「かづす」から出た語で、その関係は、「かどはす」が「かどはかす」となると同じ。「ず」は、「す」と清音であるべきところである。われを盗み出すともで、下に「よし」が略されて、上の句を繰り返したもの。
【釈】 足柄の、わを懸けるという可鶏山の「かづの木」に因みある、我を盗み出して下さい。盗み出そうともかまわぬ。
【評】 女が男に、自分を盗み出してくれと頼んでいる歌である。これは娘の夫婦関係を結んだ男を、母が厭って仲を裂こうとする時にのみ起こることである。それを最も苦痛に感じるのは女で、今は女のほうからそのことを訴えているのである。このことは相応に多かったと見え、中世はもとより近世では駈け落ちという名において行なわれていた。このことに対しては親も、また周囲も寛大だったのである。上代の掠奪結婚の遺風であろう。この歌は複雑した背後には触れず、序詞を設けて「吾をかづさねも」といい、それを繰り返しているだけのもので、心深く語少ないものである。多くの同感者があって、謡い物とされていたものであろう。謡い物の条件を具備している詠み方である。
3433 薪《たきぎ》樵《こ》る 鎌倉山《かまくらやま》の 木垂《こだ》る木《き》を まつと汝《な》が言《い》はば 恋《こ》ひつつや在《あ》らむ
多伎木許流 可麻久良夜麻能 許太流木乎 麻都等奈我伊波婆 古非都追夜安良牟
【語釈】 ○薪樵る鎌倉山の 「薪樵る」は、それに用いる鎌の意で、鎌倉山の枕詞。「鎌倉山」は、鎌倉の周辺の山。○木垂る木を 「木垂る」は、熟語で、木が老いて枝を垂らす意。その木を「松」と続けて、以上「まつ」の序詞。○まつと汝が言はば 「まつ」を、「待つ」に転じて、待っているとあなたがいうならば。○恋ひつつや在らむ われも逢える時を恋いつついようで、「や」は、感動の間投詞。
【釈】 薪樵る鎌という鎌倉の山に、老いて枝を垂らしている松の木を、その名に因んで、我を待つとあなたがいうならば、我もその時を恋いつついよう。
【評】 男がある期間にわたっての別れをする時、女に向かっていった歌である。中心の四、五句が持って廻った言い方になっているのは、女を主に立てて、女の心任せのことで、強いた言い方はしまいとする用意からのもので、儀礼となり、風習となっていたからである。しかし序詞も、序詞よりの続きも、巧緻なもので、したがって重きにすぎるものとなっている。
(195) 右の三首は、相模国の歌。
右三首、相模國歌。
3434 上毛野《かみつけの》 安蘇山《あそやま》つづら 野《の》を広《ひろ》み 延《は》ひにしものを 何《あぜ》か絶《た》えせむ
可美都家野 安蘇夜麻都豆良 野乎比呂美 波比尓思物能乎 安是加多延世武
【語釈】 ○上毛野安蘇山つづら 「安蘇」は、(三四〇四)に出ている。ここは、上野国に属している方面の山。「つづら」は、蔓性植物。○野を広み 裾野が広いので。○延ひにしものを 十分に這ってしまっているのに。○何か絶えせむ 何で絶えようかで、「か」は、反語。
【釈】 上野の安蘇山のつづらの、裾野が広いので、十分に這ってしまっているのに、何で絶えようか。
【評】 女が男に絶えるなというようなことをいわれた時、それに応じて言い返した形のもので、誓いの歌である。「つづら」を「絶え」の譬喩にすることは慣用されているが、この歌では、それを大がかりに、精細にいっているので、心そのものの表現となっている。調べにも力がある。眼前の物としていっている形である。
3435 伊香保《いかほ》ろの 傍《そひ》の榛原《はりはら》 我《わ》が衣《きぬ》に 著《つ》きよらしもよ 純栲《ひたへ》と思《おも》へば
伊可保呂乃 蘇比乃波里波良 和我吉奴尓 都伎与良之母与 比多敞登於毛敞婆
【語釈】 ○伊香保ろの傍の榛原 上の(三四一〇)に出た。○我が衣に著きよらしもよ 「よらし」は、「宜し」の東語。わが衣に、摺られて着く色のよいことよで、「もよ」は、感動の助詞。萩の花を衣に摺るのは、一般的のことであった。○純栲と思へば 「純栲」は、純粋な、すなわち他のまぜ物なしに、栲の繊維で織った白布。「ひた」を冠した語は、直土、ひた照り、ひつら(純裏)などある。「思へば」は、「ので」という意をあらわす慣用語で、ここもそれである。
【釈】 榛名の山に添っている萩原の花の、わが衣に摺られて着く色のよいことよ。純粋な栲の布なので。
【評】 「榛原」と「衣」とは男女の譬喩で、どちらをどちらにしても意は通じるが、この歌は作者は男で、「榛原」を女に、自身を衣に譬えたものと取れる。作意は、女が我によく親しんで、楽しい仲となっているが、それはわが心が真実だからだと、女を誘えつつも、自身の真実を婉曲に誓い直している心と取れるからである。取材としては野趣のあるものであるが、美しく拡(196)がりをもった歌である。
3436 しらとほふ 小新田山《をにひたやま》の 守《も》る山《やま》の 末枯《うらが》れせなな 常葉《とこは》にもがも
志良登保布 乎尓比多夜麻乃 毛流夜麻能 宇良賀礼勢奈那 登許波尓毛我母
【語釈】 ○しらとほふ小新田山の 「しらとほふ」は、枕詞と取れるが、意義は不明である。常陸国風土記に、「風俗諺曰、白遠新治之国」とあり、「新」にかかる枕詞かというが、その意は不明である。「小新田山」は、「小」は、美称。「新田山」は、上の(三四〇八)に出た。「の」は、同意の名詞を重ねる際の接続語で、にしてまたの意のもの。○守る山の 守部を据えて守らせている山。「の」は、のごとく。○末枯れせなな 「末枯れ」は、秋、木の末枯れること。「なな」は、上の(三四〇八)に既出。東語で、上の「な」は、打消の助動詞。下の「な」は、助詞「に」と同じで、末枯れをせずに。○常葉にもがも 「常葉」は、常緑の葉。「もがも」は、願望。
【釈】 小新田山の、番人のいる山のように、末枯れをせずに、常緑でありたいことだ。
【評】 新田山の、守る山となっている常磐木の山の、いつも常緑でいるのを望んで、あのようでありたいものだと願っている心である。相聞の歌とすれば、夫婦関係に対しての願いで、男女いずれの歌とも定められない。心の広い歌なので、親に対し、子女に対してもいえるもので、それだと賀の歌となる。歌柄は、心細かく、気品があって、むしろ賀の歌と思わせるものである。
右の三首は、上野国の歌。
右三首、上野國歌。
3437 陸奥《みちのく》の 安太多良真弓《あだたらまゆみ》 弾《はじ》き置《お》きて 撥《せ》らしめ来《き》なば 弦《つら》著《は》かめかも
美知乃久能 安太多良末由美 波自伎於伎弖 西良思馬伎那婆 都良波可馬可毛
【語釈】 ○安大多良真弓 安達太良山の檀《まゆみ》をもって作った弓で、貢物となっていた、名ある物。○弾き置きて 弦をはずしておいて。弓は平常は弦をはずしておき、用いるに先立って張るのである。これは弓材の弾力を衰えさせないためである。○撥らしめ来なば 弓幹を反らしめて来たならば。上の句を、語を変えて繰り返したもので、その事を強くいおうがためである。○弦著かめかも 「つら」は、「つる」の古言。「著く」は、弦を懸ける意の古語で、巻二(九九)「梓弓つら絃(を)取りはけ」、その他にも用例がある。「かも」は、反語。弦が張れようか、張れはしない(197)で、弓幹の弾力が強くなりすぎ、たやすくは弦の張れなくなることを、誇張していったもの。
【釈】 陸奥の安達太良山の真弓は、弦をはずしておいて、弓幹を反らせて来たならば、弦が張れようか、張れはしないことだ。
【評】 男から甚しく疎遠にされている女が、自身を安太多良真弓に譬えて、このように捨ておいては、弓が弓ではなくなるだろうと、強く恨んで訴えたものである。全体に古風な歌である。安達太良真弓を譬喩にしている点で、陸奥国の歌となっているが、貢物ともなっていたので、古く、大和の京で詠まれた歌かもしれぬ。
右の一首は、陸奥国の歌。
右一首、陸奧國歌。
雑歌
3438 都武賀野《つむがの》に 鈴《すず》が音《おと》聞《きこ》ゆ 上志太《かむしだ》の 殿《との》の仲子《なかち》し 鳥狩《とがり》すらしも
都武賀野尓 須受我於等伎許由 可牟思太能 等能乃奈可知師 登我里須良思母
【語釈】 ○都武賀野に鈴が音聞ゆ 「都武賀野」は、下の「上志太」の中の野と取れる。「鈴が音」は、下の「鳥狩」に伴ってのもので、「鳥狩」は鷹狩で、「鈴」は、鷹に取り付けたものである。これは、鷹の逃げ去るのを防ぎ止めるためのものである。日本書紀、仁徳紀に、百済の酒君が、鳥狩をする鷹を天皇に献上したが、その鷹は馴らしてあり、足に韋緡(おしかわのあしお)を結び、尾に鈴をつけ、腕上に据えていたという記事がある。鳥狩は貴族の代表的な遊びの一つとなっていたものである。その鈴の音が聞こえて来る。○上志太の殿の伸子し 「上志太」は、地名と取れるが、未詳。「殿」は、貴族の住宅の称で、床を高く造った家の称であるが、転じて貴族その人の敬称となったもの。ここは上志太の郡領と思われる。「仲子」は、長男と末子との間の子で、敬称。「し」は、強意。○鳥狩すらしも 「鳥狩」は、鳥を狩ることの名詞。「らし」は、強い推量で、「も」は、感動の助詞。
【釈】 都武賀野で鈴の音が聞こえる。上志太の領主の仲子が、鳥狩をしているらしいよ。
【評】 庶民の立場より、領主の子の鳥狩をするのを見ており、今も野よりする鈴の音を聞いて、例の遊びをされているのだと推量しての心である。明るい心をもってなつかしみを寄せている歌で、他意あるものではない。情景を思わせる歌である。
(198) 或本の歌に曰く、みつが野《の》に、又曰く、わく子《ご》し
或本歌曰、美都我野尓、又曰、和久胡思
【解】 「みつが野に」は、第一句の別伝である。「わく子し」は、第四句の別伝で、少年の意である。謡い伝えられての別伝である。
3439 鈴《すず》が音《ね》の 早馬駅家《はゆまうまや》の 堤井《つつみゐ》の 水《みづ》を賜《たま》へな 妹《いも》が直手《ただて》よ
須受我祢乃 波由馬宇馬夜能 都追美井乃 美都乎多麻倍奈 伊毛我多太手欲
【語釈】 ○鈴が音の早馬駅家の 「鈴が音の」は、「早馬」の枕詞。鈴は駅鈴で、公用の時は、それを駅馬に付けたのである。「早馬駅家」は、早馬の備えのある駅家の意で、熟語。「早馬」は、はやうまの約音で、疾駆させる馬。公用のものである。「駅家」は、厩で、その官馬を飼う所である。京より地方の国府に通ずる街道には、普通五里の間隔で駅を設けた。またその厩のある地には駅舎を設けて、旅行者を宿泊させ、食事もさせて、大体旅舎と同じだったのである。この制は大化二年に定められたものである。○堤井の 堤で囲ってある井で、駅舎の飲用水。○水を賜へな 「賜へ」は、下二段活用の未然形。「な」は、願望の助詞。○妹が直手よ 「妹」は、女の総称としてのもので、駅舎に働いている女とみえる。「直手」は、その手でじかに。「よ」は、より。容器を用いず、両手に掬んで飲ませてもらいたいの意。
【釈】 鈴の音のする早馬のいる駅家の堤井の水を賜わりたい。妹が手に掬んで、じかに手から。
【評】 街道を旅する旅人が、駅家の堤井の水を飲もうとして立ち寄り、そこに水汲みに来ていた駅舎の女に、戯れ半分にいった形の歌である。明るく軽い気分の歌で、快いものである。客観的な詠み方をしているのは、謡い物だったからである。どこの駅家にも適用のできる歌である。
3440 この河《かは》に 朝菜《あさな》洗《あら》ふ児《こ》 汝《なれ》も吾《あれ》も よちをぞ持《も》てる いで児《こ》賜《たば》りに
許乃河伯尓 安佐莱安良布兒 奈礼毛安礼毛 余知乎曾母弖流 伊〓兒多婆里尓
【語釈】 ○この河に朝菜洗ふ児 「この河」は、目の前の川を指したもの。「朝菜」は、朝の副食物の意であるが、ここは文字どおり菜と取れる。(199)「児」は、ここは娘に対しての愛称。○汝も吾も 「汝」は、娘の親に対して、「吾」という息子の親のいっているもの。○よちをぞ持てる 「よち」は、「よち子」ともいっており、集中数か所に出ている。巻五(八〇四)「よち児らと手携はりて」などあり、年若く、同じ年頃の若い者の称。ここは娘を持っている親に対して、息子を持っている親が、お互いに似合いの子を持っていることだといったもの。○いで児賜りに 「いで」は、さあ、と相手を促す意。「児」は、上の「朝菜洗ふ児」。「賜りに」は、「に」は、「ね」の転訛した願望の助詞で、中央でも用いたもの。いただかせてくださいな。
【釈】 この河に朝菜を洗っているかわゆいあの娘よ。あなたも私も若く似合わしい子を持っていることです。さあ、あの児をいただかせて下さいな。
【評】 子どもを手許に置いて育てるのは、普通母親であるから、ここもそれで、男の子を持っている母親が、門川で朝葉を洗っている娘を見かけて、その母親に、伜と似合わしい年頃だ、あの娘を伜の妻にください、と申込みをしている歌である。相応に複雑している事実を、単純な対話によってあらわそうとする詠み方は、人麿歌集の旋頭歌に多く、これはその系統のもので、往々にして見える一類である。短歌形式でこうした複雑なことをいうのは無理であるが、この形式が一般化しているところから、それによっていおうとして、無理をしているものである。したがって省略にすぎ、飛躍にすぎるこうした歌も現われたのである。結婚は子女の自由に任せてはあったが、一方にはこうした結婚法のあったことも、母親の立場からいえば自然である。心としては情味が豊かで、形は、素朴であるが躍動があって、愛すべく、特色のある歌である。
一に云ふ、ましもあれも
一云、麻之毛安礼母
【解】 第三句の別伝である。「まし」は、「いまし」の東語。あなたも私も。
3441 間遠《まとほ》くの 雲居《くもゐ》に見《み》ゆる 妹《いも》が家《へ》に いつか到《いた》らむ 歩《あゆ》め吾《あ》が駒《こま》
麻等保久能 久毛爲尓見由流 伊毛我敞尓 伊都可伊多良武 安由賣安我古麻
【語釈】 ○間遠くの雲居に見ゆる 「間遠くの」は、「間」は、接頭語。「遠く」は、名詞形。「雲居」は、遠空。遠くの空に見える。○妹が家に 「へ」は、家。○いつか到らむ いつになったら着けようかで、早く着きたいの意。○歩め吾が駒 歩めよわが駒よと、乗馬への命令。
(200)【釈】 遠くの空に見えている妹の家へ、早く着きたい。歩めよわが駒よ。
【評】 左注にあるように人麿歌集の歌で、その部分的に誤っているものである。東国へ伝わって謡われていたのを採録したのである。東国人の感性と、人麿の魅力とを示しているものである。
柿本朝臣人麿歌集に曰く、遠《とほ》くして、又曰く、歩《あゆ》め黒駒《くろこま》
柿本朝臣人麿歌集曰、等保久之弖、又曰、安由賣久路古麻
【解】 編集者の注である。この歌は巻七(一二七一)に出ており、それは「遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黒駒」で、注に誤りがある。
3442 東路《あづまぢ》の 手児《てこ》の呼坂《よびさか》 越《こ》えがねて 山《やま》にか宿《ね》むも 宿《やどり》は無《な》しに
安豆麻治乃 手兒乃欲妣左賀 古要我祢弖 夜麻尓可祢牟毛 夜杼里波奈之尓
【語釈】 ○東路の手児の呼坂 「東路」は、ここは東国へ行く路。「手児の呼坂」は、駿河風土記、逸文(続歌林良材抄上所引)に出ている地名で、所在については、清水市興津町薩※[土+垂]峠の古名とする説があるが、『大日本地名辞書』は、東海道線蒲原駅の東方にある庵原郡蒲原町の七難坂などの古名であろうといっている。東海道の中、山岳がただちに海に接している難所である。○越えがねて 越え得ずしてで、日のある間を標準としてのこと。○山にか宿むも 「か」は、疑問の係助詞。山中に寝るのであろうか。○宿は無しに 宿るべき家はなくて。
【釈】 東国へ行く路の手児の呼坂を、日のある中に越えることができずに、山中に寝るのであろうか。宿るべき家はなくて。
【評】 東路へ向かって旅立とうとする人の、東海道での難所で、また特殊の伝説のある手児の呼坂を思いやって、その旅の労苦のほどを訴えているものである。この坂のことは駿河風土記、逸文に出ており、男に逢う娘が鬼に食われ、助けを求めて呼んだ坂だというのである。これは諸所にある伝説であるが、こうしたことがこの旅人の心にあったのであろう。地名の関係で東国の歌となっているが、東国で生まれた歌ではなかろう。
3443 うらもなく わが行《ゆ》く路《みち》に 青柳《あをやぎ》の 張《は》りて立《た》てれば もの思《も》ひ出《づ》つも
(201) 宇良毛奈久 和我由久美知尓 安乎夜宜乃 波里弖多弖礼波 物能毛比豆都母
【語釈】 ○うらもなく 何心なく。○張りて立てれば 芽ぶいて立っているので。○もの思ひ出つも 「づつ」は、「出つ」の方言であろう。「も」は、詠歎。
【釈】 何心なくわが行く路に、柳が芽ぶいて立っているので、物思いをはじめたことよ。
【評】 無心で歩いていて、ふと柳の青く芽ぶいているのを見ると、それが刺激となって、物思いをし出したというので、敏感な、気分本位の歌である。この敏感は恋する心のものと思わせる。少なくとも、奈良京の時代の歌である。こうした近代的抒情の歌が、東国で謡い物となっていたということ自体が、注意されることである。
3444 伎波都久《きはつく》の 岡《をか》の茎韮《くくみら》 我《われ》摘《つ》めど 籠《こ》にもみたなふ 背《せ》なと摘《つ》まさね
伎波都久乃 乎加能久君美良 和礼都賣杼 故尓毛美多奈布 西奈等都麻佐祢
【語釈】 ○伎波都久の岡の茎韮 「伎波都久」は、仙覚の『万葉集註釈』に、常陸風土記に、真壁郡にあるといっている。現存の風土記は略本で、真壁郡の部分は略されている。「茎韮」は、茎に立つ韮である。古くより食用とした物。○籠にもみたなふ 「みたなふ」の「美」は、諸本「乃」。『考』は、「美」の誤写としている。前後の続きから見て、そうした意味であることは明らかだから、従うべきであろう。「なふ」は、打消の助動詞「ぬ」の東語。○背なと摘まさね 「背な」は、夫の親称で、「摘まさね」は、「摘みね」の敬語で、「ね」は、願望の助詞。背なとともにお摘みなさい。
【釈】 伎波都久の岡の茎韮を、わが摘むけれども、籠に満たない。背なとともにお摘みなさい。
【評】 伎波都久の岡に、女二人で茎韮を摘みに行っていて、二人で一つの籠に摘みためているが、容易にいっぱいにならない時に、一人の女が他の女に、あなたの背なと一緒にお摘みなさいといった形のものである。茎韮は山野に自生する物で、そう多くはないものなので、男手を借りなければ無理だとの意と取れるが、それでは一首の歌として、あまりにもあっけない気がするので、「背なと摘まさね」に、他の何らかの意味があるのではないかという気がする。茎韮摘みが、若菜摘みなどのように女の一つの行事になっていて、男は手出しのできないこととなっており、「背なと」といわれているほうの女には、秘密にしている背ながあって、それを揶揄するために、わざと明るく意地悪いことをいっているというような関係のものではなかろうか。それだと一般性のあるものとなり、謡い物となりうる可能性のある歌となって来る。不明な歌とするほかはない。
(202)3445 水門《みなと》の 葦《あし》がなかなる 玉小菅《たまこすげ》 刈《か》り来《こ》吾《わ》が背子《せこ》 床《とこ》の隔《へだし》に
美奈刀能 安之我奈可那流 多麻古須氣 可利己和我西古 等許乃敞太思尓
【語釈】 ○水門の葦がなかなる 「水門」は、河口、江口などで、舟荷の陸揚げ、風波の避難などする所の称。「葦がなかなる」は、そうした所には葦が生えていて、その中にある。○玉小菅 「玉」は、美称。「小菅」は、菅と同じで、わざと美しくいったもの。○刈り来吾が背子 刈って来よあなた。○床の隔に 「床」は、女自身の寝所。「へだし」は、へだてに同じ。上代の家は一と続きの間で、室として仕切るべき設けがなかったので、男と共寝すべき床を、家の者から隔てる意。
【釈】 水門の葦の中にある美しい菅を、刈って来よあなた、床の隔てに。
【評】 女が自分の床を、家の者から隔てある物にしようとの心で男にいっている歌である。これは共寝の床を設けようということで、関係を結ぼうというのと同じ意のことである。あるいは結んだ関係をさらに深くしようとの意でもあろう。床の隔てに用いる菅を、「水門の葦がなかなる玉小菅」と、特別な、愛すべき物のように言いかえているのが、やがてその時の女の心である。実際に即しつつも、上品に、また上手にいっている歌である。
3446 妹《いも》なろが つかふ河津《かはづ》の ささら荻《をぎ》 あしと一言《ひとごと》 語《かた》りよらしも
伊毛奈呂我 都可布河伯豆乃 佐左良乎疑 安志等比登其等 加多里与良斯毛
【語釈】 ○妹なろが 「妹なろ」は、ここに見えるだけの語である。「な」は、「背な」などのそれで、愛称としての接尾語。「ろ」は、「児ろ」のそれと同じ。「児な」という用例はある。関係を結んでいる女に称しての称と取れる。○つかふ河津のささら荻 「つかふ」は、使用する意。「河津」は、河の舟着き場の称で、川幅が広く、荻などの生える所。「ささら荻」は、小さく、美しい荻の称。これは月の異名を「ささらえ男」というと同じく、「ささら」は、細小繊細の意の美称で、荻をたたえての称。以上、妹が使用する、河津に生える細く美しい荻の意。女がどういう場合に荻を使用したかは、本集には見えないが、『愚案抄』は、平安朝時代、宮中での試楽の際には、人長が枯荻を手草にして舞を舞ったことを記録している。時代は異なるが、神事の儀式は変化の少ないものであるから、女が神楽を奉仕する際、同じく手草として使ったかと推量される。本集でも、「ささ」の音に「神楽声」の字を当てている例は少なくないから、神楽の囃子に小竹を用いるのはむしろ見馴れていることで、小竹と同じく荻を用いることもありうると推量される。「つかふ」は、この意味のことと思われる。以上、荻と酷似している意で、または荻を葦と区別なく呼んだ意で「あし」にかかる序詞。○あしと一言 「あし」は、悪しで、この場合、相手のいうことを否定する意で、意味の広い語。「一言」は、集中には(203)他に用例のない語だが、妹一言主の神など神名ともなっていて、ありうる語である。いけないと、一言。○語りよらしも 「よらし」は、寄らすで、「し」は、助動詞「す」の東語で、「寄る」の敬語。女の行動だからである。語り寄るは熟語で、寄って来ていう意。「も」は、感動の助詞。
【釈】 妹が使う、河津に生えているささら荻に因みある、悪しと一言を、我に寄って来ていわれることよ。
【評】 四、五句が中心で、女が関係ある男に対して、情事関係の上で、人目をはばかって、いけないと否定の一語だけを、近く寄って来ていうのを聞いた時の男の心である。自身には直接に触れず、女を主と立てて、女の行動を叙することによって自身をあらわすのは、型ともいうべき言い方で、これもそれである。男の心としては、「も」の一感動助詞があるのみであるが、それで男の抒情となりうるとしているものである。序詞は特殊なものであるが、これは当時にあっては見馴れている事柄で、むしろ普通のことであったろうと思われる。こうした序詞を設けているのは、それが眼前の事象で、女はその時、神事としての舞を奉仕しょうとしていた場合で、男もそこに居合わせたものと思われる。それだと、「あし」という意味の漠然とした語も、その場合柄にふさわしく、無理のない語となって来る。東語がまじっているので、東国での歌ではあるが、地名の無いもので、謡い物となっていたのを採録したのであろう。この歌は難解な一首で、諸注、解がすべて異なっている。以上の解も試案である。
3447 草蔭《くさかげ》の 安努《あの》な行《ゆ》かむと 墾《は》りし道《みち》 阿努《あの》は行《ゆ》かずて 荒草立《あらくさだ》ちぬ
久佐可氣乃 安努奈由可武等 波里之美知 阿努波由加受弖 阿良久佐太知奴
【語釈】 ○草蔭の安努な行かむと 「草蔭の」は、畦(あぜ)の古語「あ」に、意味でかかる枕詞。「安努な」は、「な」は、「へ」の意の東語。安努の野の意と取れる。「安努」は、地名であるが、所在が明らかでない。『皇大神宮儀式帳』の倭姫の廻国された条に、「草蔭阿濃国」とあり、それだと伊勢国安濃郡であるが、伊勢は東国には入れていないので、疑われている。『大日本地名辞書』には、駿河国阿野の庄を挙げている。そこは、駿東郡浮島村(今、原町)大字井出付近の古称だという。「行かむと」は、下の続きで、通じさせようとて。○墾りし道 新たに開発した道。○阿努は行かずて 阿努へは通ぜずして。道が通じ切らなかったのか、あるいは通じても、何らかの事情で交通が絶えたのかもわからない。○荒草立ちぬ 雑草が伸び立った。
【釈】 草蔭の阿努野へ通じさせようとして、新たに開拓した道は、阿努野へは通ぜずして、道に雑草が伸び立った。
【評】 歌で見ると、ある土地から阿努に向かって新道開発の工事をはじめ、何らかの事情で中絶になった後の、そのある土地の人の歎息である。新道開発は平地であっても大工事であるから、そうした事情もありうることである。その土地の人の心を(204)代弁した歌で、謡い物となりうる事件である。予定と実際と喰 いちがった意味では、一般性もある心である。
3448 花《はな》散《ち》らふ この向《むか》つ峰《を》の 乎那《をな》の峰《を》の 洲《ひじ》につくまで 君《きみ》が齢《よ》もがも
波奈治良布 己能牟可都乎乃 乎那能乎能 比自尓都久麻提 伎美我与母賀母
【語釈】 ○花散らふこの向つ峰の 「花散らふ」は、「散らふ」は、散るの連続で花が、散りつづけているで、向つ峰の修飾。「この向つ蜂の」は、あの向かいの峰の。○乎那の峰の 「乎那」は、山の名であるが、所在不明。静岡県引佐郡三か日町上尾奈の板築《ほうづき》山をさすという説がある。○洲につくまで 「洲」は、『代匠記』は大隅国風土記を引き、海中の洲の称だといっている。「つくまで」は、峰が平地となり、さらに海の洲となるまでで、以上、永久ということの譬喩として眼前を捉えていったもの。○君が齢もがも 「よ」は、齢。「もがも」は、願望で、君が齢をあらせたい。
【釈】 花が散りつづけているあの向かいの峰の乎那の山が、洲に着く時まで、君の齢をあらせたい。
【評】 「君」という人の齢を祝った歌である。言霊信仰を保っていた時代であるから、祝う者にも祝われる者にも実感の伴っていたことと思われる。「乎那の峰」の所在は不明だが、眼前としていっているものなので、「洲」も同じく地続きの土地であろう。譬喩は同類のものはあるが、心の利いた、美しいものである。
3449 しろたへの 衣《ころも》の袖《そで》を 麻久良我《まくらが》よ 海人《あま》漕《こ》ぎ来《く》見《み》ゆ 浪《なみ》立《た》つなゆめ
思路多倍乃 許呂母能素〓乎 麻久良我欲 安麻許伎久見由 奈美多都奈由米
【語釈】 ○しろたへの衣の袖を 袖を纏くと続けて、以上、「麻久良我」の序詞。○麻久良我よ 下の(三五五五)に「真久良我の許我の渡の唐楫の」とあり、「許我」を現在の下総国古河とすれば、古河を含む広い地域の名である。異説もあって、定められぬ。「よ」は、より。○海人漕ぎ来見ゆ 「漕ぎ来見ゆ」は、こちらへ漕いで来るのが見えるで、「来」は、終止形。○浪立つなゆめ 浪よ立つな、けっしてで、「浪」は、古河とすれば渡良瀬川の川浪である。
【釈】 しろたえの衣の袖を枕とするに因みある麻久良我から、海人がこちらへ漕いで来るのが見える。浪よ立つな、けっして。
【評】 水上を漕いで来る海人の舟を望んでその平安を祈った心の歌で、善意ある、明るい心のものである。海上より川のほうが自然に感じられる。
(205)3450 乎久佐壮丁《をくさを》と 乎具佐助丁《をぐさずけを》と 湖舟《しほふね》の 並《なら》べて見《み》れば 乎具佐《をぐさ》勝《か》ちめり
乎久佐乎等 乎具佐受家乎等 斯抱布祢乃 那良敞弖美礼婆 乎具佐可知馬利
【語釈】 ○乎久佐壮丁と乎具佐助丁と 「乎久佐壮丁」は、乎久佐の地の壮丁で、乎久佐の所在は不明である。「壮丁」は、二十一歳以上の者の称であることが、防人の歌で知られる。「乎具佐助丁」は、乎具佐は、同じく地名で、所在不明。「助丁」は、二十歳以下の者の称。○潮舟の並べて見れば 「湖舟の」は、海上の舟で、「並べ」の枕詞。「並べて見れば」は、比較して見ると。○乎具佐勝ちめり 「めり」は、他に用例のない語である。平安朝時代には終止形に接する推量の助動詞であるが、ここは連用形に接している。勝るようだ。
【釈】 乎久佐の壮丁と、乎具佐の助丁とを、潮舟のように並べて見ると、乎具佐のほうが勝るようだ。
【評】 若い男二人を比較して優劣を定めようとし、より若いほうを勝っているという心である。こうした心は、若い女で、しかも男馴れている者の持つ興味であり、口にもするものであろう。謡い物にはなりうる性質のものである。
3451 佐奈都良《さなつら》の 岡《をか》に粟《あは》蒔《ま》き かなしきが 駒《こま》はたぐとも 吾《わ》はそともはじ
左奈都良能 乎可尓安波麻伎 可奈之伎我 古麻波多具等毛 和波素登毛波自
【語釈】 ○左奈都良の岡に粟蒔き 「左奈都良」は、地名と取れるが、所在は不明である。小地域の称と思われる。「岡」は、その地の岡。○かなしきが駒はたぐとも 「かなしき」は、いとしき人で、名詞形。女より男を指したもの。「たぐ」は、巻二(二二一)「妻もあらば採みてたげまし」とあり、食うこと。「たぐとも」は、たとい食おうとも。○吾はそともはじ 「そ」は、集中真そ鏡に、「喚犬追馬鏡」と当てている用例があり、馬を追う声で、「もはじ」は、「も追はじ」が、「も」の尾韻に「お」が摂取された転音で、「追はじ」である。これは『略解』にある本居大平の解である。
【釈】 さなつらの岡に粟を蒔いて、いとしい人の駒がたとい喰おうとも、しっといって追うことはしまい。
【評】 女がその部落の山地に粟を蒔きながら、近い辺りに住むなつかしい男を思い、あの人の駒がこの粟を喰うようなことがあろうとも追うまいと空想した心である。労働をしながらも、事ごとに男を連想している心で、情痴の現われの素朴さが、おのずから詼諧《かいかい》となっているものである。戯咲歌の本質に触れ得ているものである。好個な謡い物であったろうと思われる。この歌の解は異説のあるものである。
(206)3452 おもしろき 野《の》をばな焼《や》きそ 古草《ふるくさ》に 新草《にひくさ》まじり 生《お》ひば生《お》ふるがに
於毛思路伎 野乎婆奈夜吉曾 布流久左尓 仁比久佐麻自利 於非波於布流我尓
【語釈】 ○おもしろき野をばな焼きそ 趣のある野を焼くことはするなと、野を焼いている者に対して禁止したもの。野を焼くのは、焼畑(やきばた)を作ることで、一年間休ませて、草を十分伸び立たせた畑を焼いて、その灰を肥料として物を作る方法で、これは現在も、ある土地には行なわれていることである。また、単に新しい草を伸び立たせるためにも行なう。ここは耕人の必要として行なっていることに対し、冬の野を趣味の角度から見ている人の言である。○生ひば生ふるがに 「がに」は、「がね」の訛ったもので、「がね」は巻三(三六四)以下しばしば出た。生えるならば生えるように。
【釈】 面白い野を焼くことはするな。冬枯れの古草に、春の若草がまじって、生えるなら生えるように。
【評】 耕人の冬枯れの野を焼いて焼畑を作っているのを、耕人以外の人が、趣味の角度から冬野を惜しんでいる心である。京の人の歌で、東国の地名もないものである。東国で採録されたものであろう。こうした歌も謡い物となっていたとみえる。
3453 風《かぜ》の音《と》の 遠《とほ》き吾妹《わぎも》が 著《き》せし衣《きぬ》 手本《たもと》のくだり 紕《まよ》ひ来《き》にけり
可是能等能 登抱吉和伎母賀 吉西斯伎奴 多母登乃久太利 麻欲比伎尓家利
【語釈】 ○風の音の遠き吾妹が 「風の音の」は、遠く聞こえる意で、「遠き」へかかる枕詞。「遠き吾妹」は、遠い故郷にいる妹。○手本のくだり 「手本」は、腕。筒袖の腕のあたり。○紕ひ来にけり 「紕ひ」は、縦や横の糸が片寄って、隙間ができる意で、ほつれる意。巻七(一二六五)に既出。「に」は完了の助動詞で、ほつれて来たことである。
【釈】 風の音のように遠くにいる妹が着せた衣は、袖口のあたりの糸がほつれて来たことである。
【評】 旅に久しくいる男が、着ている衣の腕のあたりのほつれに目を着けて、その衣を着せた妻を思った心である。妻を思う心が中心とはなっているが、広い意味での旅愁をしみじみと感じ、感傷を抑えていっているもので、こもった味わいのある歌である。「風の音の」という枕詞もよく利いている。京の官人の東国で詠んだ歌で、その地に伝えられていたものであろう。東歌の風もなく、また地名もないものだからである。
3454 庭《には》に立《た》つ 麻布小衾《あさでこぶすま》 今夜《こよひ》だに 夫《つま》よしこせね 麻布小衾《あさでこぶすま》
尓波尓多都 安佐提古夫須麻 許余比太尓 都麻余之許西祢 安佐提古夫須麻
【語釈】 ○庭に立つ麻布小衾 「庭に立つ」は、庭に生い立つで、「麻」にかかる枕詞。「あさで」は、麻の織物の称。「小衾」の「小」は、美称で、麻布の衾で、呼びかけ。○今夜だに 今夜だけでも。幾夜かをいたずらに待ったことを背後に置いてのもの。○夫よしこせね 「よし」は、寄しで、「寄す」は、古くは四段活用で、これはその連用形。「こせ」は、願望。「ね」も、願望。わが許に寄せてくだされよと、祈る意。巻九(一六七九)「妻の社妻寄し来せね」と出た。○麻布小衾 第二句を繰り返して強めたもの。
【釈】 庭に立つ麻の、その麻の織物で造った衾よ。せめて今夜は、わが夫を寄せてくだされよ。麻の織物の衾よ。
【評】 幾夜も夫を待って待ち得なかった妻が、一夜、共寝の床の衾に対していっている歌である。小衾を対象として強く願望をいっているところから見て、このようにいうことが呪いであったろうと思われる。「今夜だに」が利いており、「庭に立つ」が地方色をあらわしている。
相聞
3455 恋《こひ》しけば 来《き》ませ吾《わ》が背子《せこ》 垣内楊《かきつやぎ》 うれ摘《つ》み枯《か》らし 我《》立《われた》ち待《ま》たむ
古非思家婆 伎麻世和我勢古 可伎都楊疑 宇札都美可良思 和礼多知麻多牟
【語釈】 ○恋しけば来ませ吾が背子 「恋しけば」は、「恋しけ」は、形容詞「恋し」の未然形。恋しかったらばの意。「来ませ」は、「来」の敬語で、いらっしゃいよ、わが背子よ。○垣内楊 「垣内」は、垣の内で、熟語。「楊」は、河楊で、垣の内側に植えつらねてあるもの。○うれ摘み枯らし 「うれ」は、末端。「摘み枯らし」は、成語で、折って、枯らして。忍んで垣を越えて来る男の、越えやすいためのこと。
【釈】 恋しかったらば、いらっしゃいよ、わが背子よ。垣の内の楊の梢を折って枯らして、立って待っていよう。
【評】 男から恋しいといって来たのに対して、答えた形の歌である。「垣内楊」云々は、事としてはその必要のないことで、明らかに誇張とみえる。一首の調べが明るく軽くて、謡い物ということを思わせるものである。男に好まれそうな謡い物である。
(208)3456 うつせみの 八十言《やそこと》のへは 繁《しげ》くとも 争《あらそ》ひかねて 吾《あ》をことなすな
宇都世美能 夜蘇許登乃敞波 思氣久等母 安良蘇比可祢弖 安乎許登奈須那
【語釈】 ○うつせみの八十言のへは 「うつせみ」は、世間。「八十」は、多くという意。「言のへ」の「へ」の解には諸説がある。下への続きから見て「重」の意とする解に従う。八重、百重などのそれで、重なりの意。人のさまざまな噂の重なりは。○繁くとも 繁かろうとも。○争ひかねて 噂を打消すことができなくて。○吾をことなすな 「ことなす」は、言成すで、言葉とするで、私のことをいうな。
【釈】 世間の、多くの噂の重なりが繁かろうとも、打消すことができずに、私のことを口にはするな。
【評】 男に対して女が、たといいかに噂が多かろうとも、私達の関係を口外するなと警めたもので、類想の多いものである。「うつせみの八十言のへ」は改まった語つづきであるが、一首の調べが沈静で、それを調和あるものとしている。東歌の匂いのない歌であるが、夫婦関係の秘密を保つことは信仰的なものであったから、こうした性質の歌は、京と地方との差別がなかったろうとも思われる。
3457 うち日《ひ》さす 宮《みや》の吾《わ》が背《せ》は 大和女《やまとめ》の 膝《ひざ》枕《ま》く毎《ごと》に 吾《あ》を忘《わす》らすな
宇知日佐須 美夜能和我世波 夜麻登女乃 比射麻久其登尓 安乎和須良須奈
【語釈】 ○うち日さす宮の吾が背は 「うち日さす」は、「宮」の枕詞。「宮」は、大宮すなわち皇居で、枕詞を冠してのこの語は成語である。「宮の吾が背は」は、宮に奉仕している吾が夫はで、東国から召された衛士などであろう。それだときわめて軽い職であるが、宮を尊む意からこのような言い方もできることである。○大和女の膝枕く毎に 「大和女」は、大宮の在る大和国の女で、都女というにあたる。「膝枕く毎に」は、膝を枕とするごとにで、女に親しむ状態。○吾を忘らすな 「忘らす」は、「忘る」の敬語。「な」は、禁止の助詞。
【釈】 うち日さす大宮に奉仕しているわが背は、大和女の膝を枕とするごとに、われをお忘れなさいますな。
【評】 衛士などで召されて行く男に、その妻の別れに詠んだ訴えと見られる。衛士だと一定の期間を奉仕しなくてはならない職であるから、夫はその間当然他の女と関係するものと認め、それにしてもわれを忘れたまうなと訴えているのである。大和女に対して自身の低劣を意識しての物言いである。庶民としてはやや身分ある者とも思われるが、それにしても儀礼的なところのある歌である。男性にのみ喜ばれた歌であろう。
(209)3458 汝夫《なせ》の子《こ》や 等里《とり》の岡路《をかぢ》し 中《なか》だをれ 吾《あ》を哭《ね》し泣《な》くよ 息衝《いくづ》くまでに
奈勢能古夜 等里乃乎加耻志 奈可太乎礼 安乎祢思奈久与 伊久豆君麻弖尓
【語釈】 ○汝夫の子や 「汝夫」は、夫に対する親愛の心をもって呼ぶ称で、古事記、日本書紀に用例のあるもの。わが背というと同じく、「汝」は親称。「子」も、愛称。「や」は、感動の助詞。○等里の岡路し中だをれ 「等里」は、地名であるが、所在不明である。「岡路」は、岡に付いている路で、「し」は、強意の助詞。「中だをれ」は、他に用例のない語である。「中」は、中間。「だをれ」は、山の頂上部が、中間でくぼんで、いわゆる鞍部をなしている所を、「たを」といい、また「たをり」ともいっている、その動詞で、中間でくぼんでの意と思われる。それだと上の句から続けて、等里の岡越えの路が中間でくぼんでいるで、その地形の実際を、夫婦間の譬喩にしたものと取れる。譬喩とすると、下への続きが語不足になるが、眼前の景を捉えて、それをただちに抒情にしようとする風は、東歌に多いものであり、今この歌は昂奮した気分をもって詠んでいるものでもあるから、そう解して不自然には見えないものである。○吾を哭し泣くよ 上の(三三六二)に出た。「泣く」は、下二段活用で、他が原因となって、わが泣かれる意で、われを泣きに泣かせるよで、「よ」は、感動の序詞。○息衝くまでに 溜め息をつくまでにで、上の句にかかる副詞句。
【釈】 汝夫の子よ、等里の岡越えの路のように中だるみをして、われを泣きに泣かせることであるよ。溜め息をつくまでに。
【評】 男が今までとはちがって、足遠にしようとするのに対して、女が訴えた歌である。男女間にあっては、ある時期に男がそのようになり、また女がこのように反対に情熱の加わって来るのは、一般性を持ったものである。この歌は、女の熱し嘆いている気分を、躍動をもってあらわしている点に特色がある。「汝夫の子や」と、やや特殊な称をもって呼びかけ、「等里の岡路し中だをれ」と多分男の通い路になっている路の地形をいうことによってそれを抒情し、「吾を哭し泣くよ」と続けているところ、東歌でないと見られない生気のあるものである。特色の濃い歌である。
3459 稲《いね》舂《つ》げば 皸《かか》る吾《あ》が手《て》を 今宵《こよひ》もか 殿《との》の若子《わくご》が 取《と》りて嘆《なげ》かむ
伊祢都氣波 可加流安我手乎 許余比毛可 等能乃和久胡我 等里弖奈氣可武
【語釈】 ○稲舂けば皸る吾が手を 「稲舂けば」は、上代は米を保存するに、稲穂のままで置き、必要な部分だけを舂いて白米とした。舂くのは臼で、立杵をもってした。これをするのは女と定まっていて、身分ある人の家では下婢がするのであった。「皸る」は、ひび割れのする意の古語で、稲舂きは荒い仕事である上に、稲は皮膚をあらすものでもある。○今宵もか 「も」は、感動の助詞。「か」は、疑問の係助詞。○殿の若子が取りて嘆かむ 「殿」は、支配階級の人の家の敬称で、お邸。「若子」は、若様。「取りて嘆かむ」は、その手に取って嘆くであろうか。
(210)【釈】 稲を舂くので、ひび割れのするわが手を、今夜など、お邸の若様が取って嘆くだろうか。
【評】 奴婢階級の者と、主人の若い男の子との間には、こうした関係が起こりがちなものだったとみえる。奴婢の一些事についての単純な抒情が、事の全円を髣髴《ほうふつ》させて、叙事的な味を醸し出している。純情な男女をあらわし得ている、手腕ある作である。初めから謡い物として作られた歌ではないかと思わせる。
3460 誰《たれ》ぞこの 屋《や》の戸《と》押《お》そぶる 新甞《にふなみ》に 吾《わ》が背《せ》をやりて 斎《いは》ふこの戸《と》を
多礼曾許能 屋能戸於曾夫流 尓布奈未尓 和我世乎夜里弖 伊波布許能戸乎
【語釈】 ○誰ぞこの屋の戸押そぶる 「誰ぞ」は、誰なるぞと訝かり咎めたもの。「この」は、そので、下の戸。「屋の戸」は、わが家の戸。「押そぶる」は、四段活用の動詞で、押し動かし続ける意。連体形で上の「ぞ」の結。上代の戸は、開き戸だったのである。○新甞に吾が背をやりて「新甞」は、上の(三三八六)で説明した。新穀を神に供える祭。「吾が背をやりて」は、男は部落の男全体と集合して神事を行なったのである。○斎ふこの戸を 新甞祭の夜は、女はその家で神事を行なったので、神の降り給う所として、その家を清浄なものにしたのである。忌み浄めているわが家の戸をで、戸は第二句に説明を加えての繰り返し。
【釈】 誰であるぞ、そのわが家の戸を押し動かし続けているものは。新甞祭に、わが夫を遣って、われもそれを行なうために、忌み浄めているところの戸を。
【評】 新甞の神事は、部落としては、部落の男は一つ所に集合して行なうとともに、家としては、妻が一人で行なったのである。平常その妻に懸想している男が、その夜をよい機会として妻の許に来たのを、妻の烈しく非難している歌である。新甞の神事は感謝祭で、農耕人としては神聖なまた重大な祭であったが、同時に一方には、こうしたこともあったと思われる。謡い物として存在していたことがそのことを思わせる。上の(三三八六)の妻は、「その愛しきを外に立てめやも」と、神事よりも恋愛のほうが重かったのであるが、この歌の妻は反対に厳然たる態度を取っている。女性は男性よりも信仰心の強いのが普通であるから、この歌の妻のほうが実状に即したものであったろう。
3461 何《あぜ》と云《い》へか さ宿《ね》に逢《あ》はなくに 真日《まひ》暮《く》れて 宵《よひ》なは来《こ》なに 明《あ》けぬ時《しだ》来《く》る
安是登伊敞可 佐宿尓安波奈久尓 眞日久礼弖 与比奈波許奈尓 安家奴思太久流
(211)【語釈】 ○何と云へか 「あぜと」は、何との東語。どういう訳だというのかで、「か」は、疑問の係。○さ宿に逢はなくに 「さ宿に」は、「さ」は、接頭語で、「宿」は、寝で、寝には。「逢はなくに」は、逢わないことだで、二句で切れる。寝には来ないことだの意。○真日暮れて宵なは来なに 「真日暮れて」は、「真」は、接頭語で、日が暮れて。「宵なは来なに」は、「宵なは」の「な」は、接尾語で、宵には。「来なに」は、「な」は、打消の助動詞「ず」の東語で、宵には来ずに。○明けぬ時来る 「明けぬ時」は、「明けぬる時」の意で「ぬ」の終止形から体言「時」に続けたもの。「しだ」は、時の古語。明けぬる時で、夜の明けた時に来る。
【釈】 どういうわけで、共寝には来ないことなのだ。日が暮れての宵には来ずに、夜の明けた時に来る。
【評】 女が男の様子を訝かって、恨みをもっていっている歌である。男が宵に泊まりに来ずに、夜が明けてに来るというのは、男としては女の顔さえ見れば満足する気分になっていたからであろうが、その気分は女には解せられない訝かしいものにみえたのである。関係の久しい仲で、女も男が他に心を交わす相手のあろうとは想像せず、ますます解し難くしていたとみえる。男女ともそれぞれもちうる心である。詠み方はまさしく謡い物で、共感する者があるために謡われていたとみえる。男女の気分の相違を、面白く具象し得ている歌で、東歌でなければ見られないものである。
3462 あしひきの 山沢人《やまさはびと》の 人《ひと》沢《さは》に まなといふ児《こ》が あやに愛《かな》しさ
安志比奇乃 夜末佐波妣登乃 比登佐波尓 麻奈登伊布兒我 安夜尓可奈思佐
【語釈】 ○山沢人の 山沢に住んでいる人で、山沢は、山の谷間の沢をなしている地。上代はそうした地を住地とすることが多かったのである。○人沢に 多くの人が。○まなといふ児が 「まな」は、まな児と熟する語で、かわゆいの意。かわゆいといっている女が。○あやに愛しさ 「あやに」は、むしょうにの意の副詞。「愛しさ」は、かわゆいことよで、名詞形。
【釈】 あしひきの山沢の部落に住む人の、多くの人が、かわゆいといっている女が、我にもむしょうにかわゆいことであるよ。
【評】 山沢の部落以外に住んでいる男が、山沢の女に心を寄せ、その部落の多くの人が、同じくその女をかわゆがっているのを気にしている心である。部落が部落人の意志を間接直接に圧していた部落民のみの持つ気分で、当時にあっては共感を起こさせた歌であったろう。
3463 ま遠《とほ》くの 野《の》にも逢《あ》はなむ 心《こころ》なく 里《さと》の真中《みなか》に 逢《あ》へる背《せ》なかも
(212) 麻等保久能 野尓毛安波奈牟 己許呂奈久 佐刀乃美奈可尓 安敞流世奈可母
【語釈】 ○ま遠くの野にも逢はなむ 「ま遠くの」は、「ま」は、接頭語で、遠方の。「逢はなむ」の「なむ」は、未然形に接して、願望をあらわす助詞。○心なく 察し心なく。○里の真中に逢へる背なかも 「里」は、人目の多いところ。「真中に」の「真」は、接頭語で、里の真ん中で、逢った背なであるよ。
【釈】 遠方の野ででも逢いたいものである。察し心もなく、里の真ん中で逢った夫ではあるよ。
【評】 女が、関係を秘密にしている男と、偶然にも里の真ん中で行き逢っての心である。女は嬉しく思うとともに、これが人目のない野ででもあればよいのにという愚痴が出て、それを男が「心なく」したことと、わざと誇張していっているのである。甘えて、拗《す》ねた心で、それが一首の中心となっている。いかにも謡い物らしい歌である。
3464 人言《ひとごと》の 繁《しげ》きによりて 真小薦《まをごも》の 同《おや》じ枕《まくら》は 吾《わ》は纏《ま》かじやも
比登其登乃 之氣吉尓余里弖 麻乎其母能 於夜自麻久良波 和波麻可自夜毛
【語釈】 ○人言の繁きによりて 他人の噂の多いがために。○真小薦の同じ枕は 「真小薦の」は、「真」も「小」も接頭語で、薦の。薦は庶民の枕の材料である。「同じ枕は」は、「おやじ」は、同じ。「同じ枕」は、一つ枕で、当時の枕は丈が長く、男女一つ枕をしたのである。○纏かじやも 「や」は、反語で、枕かなかろうか、枕く。
【釈】 人の噂の多いがために、薦の一つ枕を、枕かなかろうか、枕く。
【評】 男の歌で、女との関係が部落の盛んな噂になって、女がそのためにひどく気を揉んでいる際、女を慰める心をもって贈った歌である。部落生活をしている者が、部落の噂を無視するということは重大なことであるが、敢然としてそれを行なおうというのである。「真小薦の同じ枕は」は、女と共寝をした枕で、二人にとって印象深いものである。それに一切をつないでいっているもので、巧みな表現である。
3465 高麗錦《こまにしき》 紐《ひも》解《と》き放《さ》けて 寝《ぬ》るが上《へ》に 何《あ》どせろとかも あやに愛《かな》しき
巨麻尓思吉 比毛登伎佐氣弖 奴流我倍尓 安杼世呂登可母 安夜尓可奈之伎
(213)【語釈】 ○高麗錦紐解き放けて 「高麗錦」は、高麗国から渡来した錦で、後にはそれにならっての織物の称となったとみえる。衣の紐としたところから「紐」の枕詞。「紐解き放けて」は、衣の紐を解き放して。○寝るが上に 共寝をしている以上に。○何どせろとかも 「何どせろ」は、何とせよの東語で、どうしろというのかと、心の要求のあらわし方のないのに当惑した心。「か」は、疑問の係。○あやに愛しき むしょうにかわゆいことだで、「愛しき」は、結。
【釈】 高麗錦に因む衣の紐を解き放して共寝をしている以上に、どうしたらよいというのか、むしゃうにかわゆいことである。
【評】 限りないかわゆさを我と持て余し、当惑した心で、上の(三四〇四)「上毛野安蘇の真麻むら掻き抱き」と、全く同じ心である。健康で、あこがれ心が強く、露骨で、謡い物として好適なものである。この歌のほうが地域の制限がないので、広く謡われたものであろう。「高麗錦」は枕詞としてのものであろう。
3466 ま愛《かな》しみ 寝《ぬ》れば言《こと》に出《づ》 さ寝《ね》なへば 心《こころ》の緒《を》ろに 乗《の》りてかなしも
麻可奈思美 奴礼婆許登尓豆 佐祢奈敞波 己許呂乃緒呂尓 能里弖可奈思母
【語釈】 ○ま愛しみ寝れば言に出 「ま愛しみ」は、「ま」は、接頭語で、かわゆいゆえに。「寝れば言に出」は、共寝をすれば評判に立つ。○さ寝なへば 「さ」は、接頭語。「なへ」は、打消の助動詞「なふ」の已然形で、共寝をせずにいれば。○心の緒ろに乗りてかなしも 「心の緒ろ」は、「緒ろ」は、心の働きは連続するものとして添えた語で、「ろ」は、接尾語。「乗りて」は、かかる意の語。「かなしき」は、愛しきで、連体形。詠歎したもの。
【釈】 かわゆさから、共寝をすれば、人の評判に立つ。共寝をせずにいれば、心にかかってかわゆいことだ。
【評】 当時の夫婦関係にあっては、共通に抱かせられていた感情を、説明的にいったものである。夫婦関係を秘密にし、別居もしていたので、絶えず恋ごころを持たせられて、誰しもこのような嘆きをしていたのである。この歌はそれを代弁しているものである。形も平明で、まさに絶好の謡い物である。「心の緒ろに乗りて」は巧みである。
3467 奥山《おくやま》の 真木《まき》の板戸《いたど》を とどとして 我《わ》が開《ひら》かむに 入《い》り来《き》て寝《な》さね
於久夜麻能 眞木乃伊多度乎 等杼登之弖 和我比良可武尓 伊利伎弖奈左祢
(214)【語釈】 ○奥山の真木の板戸を 「奥山の」は、「真木」の枕詞。所在地としてである。「真木」は、良材の総称で、主として檜をいっている。「板戸」は、板をもって作った戸で、家の出入口の物としていっている。○とどとして我が開かむに 「とど」は、高い音の形容で、とどと鳴らして。「我が開かむに」は、わが開こうにで、「我」は、女。○入り来て寝さね 「入り来て」は、わが家に入り来て。「寝さね」は、「なす」は、寝るの敬語で、「ね」は、顕望の助詞。おやすみなさい。
【釈】 奥山の真木の板戸を、とどと高く鳴らしてわが開こうに、家に入っておやすみなさい。
【評】 女より男に贈ったものである。一見、わざとらしい言い方にみえるが、これは娘が、それまでは秘密にしていた男との関係を、母に打明けて承認を得たことを、男に報告する意をもって贈っているものと思われる。それだと、「とどとして」が、それまでの忍んで逢った期間との対照になって、自然なものになる。調べも躍動的で、その気分をあらわし得ている。この歌の心は、当時の男女には羨ましくなつかしいものであったところから、謡い物となったとみえる。
3468 山鳥《やまどり》の をろのはつをに 鏡《かがみ》懸《か》け となふべみこそ 汝《な》に寄《よ》そりけめ
夜麻杼里乃 乎呂能波都乎尓 可賀美可家 刀奈布倍美許曾 奈尓与曾利鷄米
【語釈】 ○山鳥のをろのはつをに この歌の解は、従来代表的に難解な一首として、諸説まちまちで、帰着するところも見えないさまであった。『全註釈』の解は、比較して最も妥当に思われるので、今はそれに従う。「山鳥」のは、その尾の長いことが特色となっている意で、尾と続き、苧(を)にかかる枕詞。「をろ」は、苧ろで、「ろ」は、接尾語。「苧」は、麻の一名。上代の麻は、衣類はもとより、職業用具としての網などにする物で、食物についで、生活上の主要必需品だったのである。ここはその意の物。「はつを」は、初苧で、初めて収穫した物の称。○鏡懸け 鏡を懸けたのは、祭をする時の第一の準備で、神霊を招くためのものである。これは祭をすることを具象的にいったもの。初苧を感謝の意で神に捧げる祭で、新穀の新甞にあたるものだとするのである。○となふべみこそ 唱うべき状態のゆえにで、「こそ」は、係助詞。これは神を祭る詞があって唱えたので、その祭の時には、部落の者が一つ所に集まって、共同で行なったとみえる。○汝に寄そりけめ 「汝に寄そり」は、あなたに靡き従ったで、「けめ」は、過去推量で、「こそ」の結。その時を機会に、あなたに靡き従うことになったのであろうと、関係の結ばれた動機を、思い出としていったもの。「汝」は、男の代名詞で、女の歌。
【釈】 山鳥の尾に因みある、苧の初苧に鏡を懸けて、感謝の詞を唱えるべき状態であったがゆえに、あなたに靡き従うことになったのであったろう。
【評】 以上は『全註釈』の解に従ってのものである。初苧の感謝祭ということは、文献的には証のないものであるが、信仰深(215)い上代生活にあっては、ありうるものと思われるもので、証のないのは、それが普通のことであり、また新甞ほど重大には扱われなかったので、記載される機会がなかったがためで、そうした例は他にも多かろうと思われる。この歌は、山間あるいは山麓の、山鳥などを目にする機会のある部落の女が、部落共同で行なう初苧祭の夜、男と一緒になったということが機縁となって、後に関係が結ばれることになったので、関係の結ばれた後、その関係の成立ちをしみじみと追想し、喜びをもって男にいっている歌である。女の心理として自然なものである。
3469 夕占《ゆふけ》にも 今夜《こよひ》と告《の》らろ 我《わ》が夫《せ》なは 何《あぜ》ぞも今夜《こよひ》 寄《よ》しろ来《き》まさぬ
由布氣尓毛 許余比登乃良路 和賀西奈波 阿是曾母許与比 与斯呂伎麻左奴
【語釈】 ○夕占にも今夜と告らろ 「夕占」は、夕方、路に立って、人の無心にいう語によってする占い。「告らろ」は、「告らる」の東語で、夕占で、今夜は来ると仰せられた。○何ぞも今夜 「あぜ」は、「なぜ」の東語。なぜぞも今夜で、「ぞ」は、係助詞。○寄しろ来まさぬ 「寄しろ」は、「寄し」は、寄りの意の古語で、「ろ」は、接尾語。「来まさぬ」は、「来ぬ」の敬語。「ぬ」は、打消の助動詞、「ぞ」の結で連体形。寄っていらっしゃらないのだ。
【釈】 夕占で、今夜はと仰せになられた。わが夫なは、なぜに今夜寄っていらっしゃらないのだ。
【評】 類想のきわめて多い歌であるが、夕占を絶対に信じているところに特色があり、それが作因となってもいる。四、五句が生きている。
3470 あひ見《み》ては 千年《ちとせ》や去《い》ぬる 否《いな》をかも 我《あれ》や然《しか》思《も》ふ 君《きみ》待《ま》ちがてに
安比見弖波 千等世夜伊奴流 伊奈乎加母 安礼也思加毛布 伎美未知我弖尓
【解】 この歌は巻十一(二五三九)に重出している。すべてそちらへ譲る。
柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
柿本朝臣人麿哥集出也。
(216)【解】 この注は、巻十一にはなく、作者未詳の歌として扱ってあり、ここで初めて出所をいっているものである。編集者の注としては不注意の嫌いのあるものであるが、しかし編集者の注と見るべきものであろう。それだと拠り所ある注と見るべきである。
3471 しまらくは 寝《ね》つつもあらむを 夢《いめ》のみに もとな見《み》えつつ 吾《あ》を哭《ね》し泣《な》くる
思麻良久波 祢都追母安良牟乎 伊米能未尓 母登奈見要都追 安乎祢思奈久流
【語釈】 ○しまらくは寝つつもあらむを しばらくの間は、眠り続けてもいようのに。○夢のみにもとな見えつつ 夢にばかり由なくも見えつづけて。○吾を哭し泣くる 上の(三三六三)の「或本の歌」に出た。われを泣かせることだ。
【釈】 しばらくの間は、眠りつづけてもいようのに、夢にばかり由なくも見え見えして、われを泣かせることだ。
【評】 女の歌である。説明的に、広い言い方をしているものである。事の割合には抒情味の少ないのはそのためである。謡い物の特性である。
3472 人妻《ひとづま》と 何《あぜ》か其《そ》を云《い》はむ 然《しか》らばか 隣《となり》の衣《きぬ》を 借《か》りて著《き》なはも
比登豆麻等 安是可曾乎伊波牟 志可良婆加 刀奈里乃伎奴乎 可里弖伎奈波毛
【語釈】 ○人妻と何か其を云はむ 「人妻と」は、人妻だというが。「何か其を云はむ」は、「何か」は、なぜにかの東語で、「か」は、疑問の係。「其を」は、「人妻と」を承けたもので、何だってそれをいおうか。○然らばか それならば。「か」は、疑問の係で、反語。○隣の衣を借りて著なはも 「なは」は、打消の助動詞「なふ」の未然形。「も」は、推量の助動詞「む」の訛。隣の衣を借りて着なかろうか、着ているではないか。
【釈】 人妻だというが、何だってそれをいおうか。それならば、隣の衣を借りて着なかろうか、着ているではないか。
【評】 人妻に言い寄った男が、女から人妻だといって断わられたのに対して、押し返していった歌と取れる。相手の語を執拗に否定しようとする言い方が、そうした場合のものと思われる。「人妻」と「隣の衣」との対照は、甚しい強弁で、その強弁が興味となって謡い物にされていたのだろう。「人妻」とはいっても、夫とは別居しており、その関係も普通は秘密になっていたので、こうした対照をする余地もあったのである。
(217)3473 佐野山《さのやま》に 打《う》つや斧音《をのと》の 遠《とほ》かども 寝《ね》もとか子《こ》ろが おもに見《み》えつる
左努夜麻尓 宇都也乎能登乃 等抱可騰母 祢母等可兒呂賀 於母尓美要都留
【語釈】 ○佐野山に打つや斧音の 「佐野山」は、佐野という地名は諸国にあるものである。上の「上野国の歌」にしばしば出ている名であるが、それに加えないのは、確かではないためであろう。「打つや」の「や」は、間投詞。「斧音」は、斧の音の融合したもの。その音の遠く聞こえる意で、「遠」に続け、以上その序詞。○遠かども 遠けどもの東語。後世の遠けれどもにあたる古格。○寝もとか子ろが 「寝も」は、「寝む」の東語。「とか」は、と思うのかで、「か」は、疑問の係。我と共寝をしようと思うのか。「子ろ」は、女の愛称。○おもに見えつる 「おも」の「も」は、原文諸本「由」。『考』は、「母」の誤写としている。「おゆ」では意が通ぜず、また、「由」と「母」は字形の関係上、誤写もありうべきものであるから従う。「おも」は、面で、面影。「つる」は、上の「か」の結、連体形。面影に立って見えたことである。人がこちらを思うと、その人が夢となって見えるというのは、根深い信仰である。「おもに見え」も、その範囲のことと取れる。これは目覚めていてのことである。
【釈】 佐野山に木を伐っている斧の音のように、遠く隔たっているけれども、我と共寝をしようと思うのか、かわゆい女の面影に見えたことである。
【評】 人がこちらを思うと、夢に見えて来るというのは例の多いものであるが、「おもに見え」というのは、例のないものである。夢は先方の魂がこちらへ交流するために見えるものと信じていたので、面影に立って見えるということも、その信仰の範囲のもので、ありうることと思える。作意はその意味のものと取れる。恋する人に、相手の面影が見えるということは一般性のあるもので、それに信仰によって「寝もとか」の解を加えたのである。「佐野山に打つや斧音の」という序詞は、この場合遠くいる子ろに気分的なつながりのあるもので、抒情性を持ったものである。
3474 植竹《うゑだけ》の 本《もと》さへ響《とよ》み 出《い》でて去《い》なば 何方《いづし》向《む》きてか 妹《いも》が嘆《なげ》かむ
宇惠太氣能 毛登左倍登与美 伊〓弖伊奈婆 伊豆思牟伎弖可 伊毛我奈氣可牟
【語釈】 ○植竹の本さへ響み 「植竹」は、植えた竹で、野の竹に対させた語で、門辺にある竹の意。「本さへ響み」は、幹までも高く音を立てさせてで、大騒ぎをしてということを具象したものである。○出でて去なば 自分が家を出て行ったならばで、旅立とうとする直前の意。○何方向きてか妹が嘆かむ 「いづし」は、「いづち」の東語で、どちらへ向いて妹は嘆くであろうかで、「か」は、疑問の係。途方に暮れて嘆こうと、憐れんだ心である。この二句は、上の駿河国の歌の(三三五七)と同じである。
(218)【釈】 植竹の幹までも高く鳴る大騒ぎをして、自分が家を出て行ったならば、どちらへ向いて妹は嘆くであろうか。
【評】 この歌は明らかに防人の旅立ちの日の歌とみえる。防人としての命令が国府から下るのは、だしぬけのことで、また発足の日も、余裕のない差迫ったものであった。また、事の性質上、部落の者はこぞって見送りをしたことが、防人の歌によって知られる。ここもそれで、「植竹の本さへ響み出でて去なば」は、発足の日、部落の者がその家に集まって見送りをしようとする状態をいったものである。四、五句は、他に用例もあり、成句ともいえるものである。この防人は、自身の心持については一言も触れず、自分の旅立った後の妻の嘆きを思いやって憐れんでいるもので、妻に対していっている形のものである。妻は同棲していたようにみえる。防人の歌であるから東歌としたものかと思われる。
3475 恋《こ》ひつつも 居《を》らむとすれど 木綿間山《ゆふまやま》 隠《かく》れし君《きみ》を 思《おも》ひかねつも
古非都追母 乎良牟等須礼杼 遊布麻夜万 可久礼之伎美乎 於母比可祢都母
【語釈】 ○恋ひつつも居らむとすれど 恋いつづけながらもこのようにして居ようと思うけれども。長い時を心に置いての言い方である。○木綿間山隠れし君を 「木綿間山」は、所在不明である。巻十二(三一九一)「木綿間山越えにし公が念ほゆらくに」とある。「隠れし君を」は、その山に隠れたところの君をで、「君」は、妻よりその夫を指しての称。「隠れし」は、その山を越えて去って、見えなくなった意と取れる。○思ひかねつも 思うと堪え得られないことだ。
【釈】 恋いつつもこうしていようとは思うけれども、木綿間山に隠れた君を、思うと堪え得られないことだ。
【評】 夫を長期の旅に出した妻の心で、恋いつつも静かにいようと思うが、木綿間山を越して見えなくなった時の君を思うと、堪えられないの意と取れる。気分本位の詠み方をした歌である上に、「木綿間山隠れし君を」が、死者として葬られたことにも取れば取れるので、問題となりうる歌である。旅人として隠れ去った時の印象と見るほうが、一首全体から見て自然に思われる。「木綿間山」の所在が不明である上に、詠み方も東歌の匂いの見えないものである。はたして東歌であるかも疑わしい。
3476 諾《うべ》児《こ》なは 吾《わぬ》に恋《こ》ふなも 立《た》と月《つく》の のがなへ行《ゆ》けば 恋《こふ》しかるなも
宇倍兒奈波 和奴尓故布奈毛 多刀都久能 努賀奈敞由家婆 故布思可流奈母
(219)【語釈】 ○諾児なは吾に恋ふなも 「諾」は、うべなう意の副詞。「児な」の「な」は、「ら」の東語であろう。東歌に多い語だからである。「わぬ」は、「われ」の東語。「なも」は、「らむ」の東語。ほんにあの女は我を恋うているだろう。○立と月ののがなへ行けば 「立と月」は、立つ月の東語で、「立と」は、新たに現われる意で、月初めの月であり、月そのものとしてのものではなく、暦日の意のもの。「のがなへ」は、「ながらへ」の東語で、永らえの意。永らえ行けばは、月が重なって行くので。○恋しかるなも 「こふし」は、恋ほしの東語。「こほし」は、「こひし」の古語である。「なも」は、上と同じく東語。我を恋しく思っていることであろうで、第二句の語を換えての繰り返し。
【釈】 ほんにあの女は、我を恋うているであろう。改まる月が重なって行くので、恋しく思っているだろう。
【評】 恋しいといって女が訴えて来たのに対して、答える心の歌である。即座に、ほんにもっともなことだとうべない、「立と月ののがなへ行けば」と月が改まって、逢わない月が重なって来たことを思って、さらにうべなった心である。善良な心そのものの流れ出している歌で、ただそういっているだけで、後も先もない心である。東語の多いことが似合わしい心である。
或本の歌の末句に曰く、のがなへ行けど わぬがゆのへば
或本歌末句曰、努我奈敞由家杼 和奴賀由乃敞波
【解】 四、五句の別伝である。「のがなへ行けど」は、永らえて行くがで、本行の第四句の「のがなへ行けば」と「ば」が、「ど」に変わっているだけである。「わぬがゆのへば」は、「わぬ」は、我。「のへば」は、「のへ」は、東語の打消の助動詞「なふ」の已然形「なへ」の転音と思える。我が、……しないので、であろうが、「がゆ」は、不明である。本居宣長は『略解』である人の説として、原文「賀由」は、上下顛倒したもので「由賀」で、「ゆかのへば」は、行かないのでであろうとしている。ありうる誤写として諸注従っている。それだと、「改まる月が重なって行くが、我が行かないので」となり、本行よりは筋の立ったものとなって来る。本行の歌を、善良な心の抒情のみで、飽き足りないとしての改作かと思われる。
3477 東路《あづまぢ》の 手児《てこ》の呼坂《よぴさか》 越《こ》えて去《い》なば 我《あれ》は恋《こ》ひむな 後《のち》は逢《あ》ひぬとも
安都麻道乃 手兒乃欲婢佐可 古要弖伊奈婆 安礼波古非牟奈 能知波安比奴登母
【語釈】 ○東路の手児の呼坂 上の(三四四二)に出た。○越えて去なば 越えて、東国の奥深く行ったならば。○我は恋ひむな 「我」は、京にとどまっている妻。「な」は、感動の助詞。○後は逢ひぬとも 「後」は、京へ帰って来た時。
(220)【釈】 東国の手児の呼坂を越えて奥深く行ったならば、我は恋うることであろうよ。後にはまた相逢おうとも。
【評】 これは上の(三四四二)と贈答になっているもので、上の歌は大和の京から東国へ旅をする際、その事に旅の侘びしさを嘆いたもので、これはそれに対して妻の、後に残っての恋しさを嘆いたものである。「手児の呼坂」を東国地域への入口のごとく感じ、それを越すと全く状態の異なった、甚しく佗びしい地域と思っていたことがうかがえる歌である。東国の地名のあるために、東歌に入れられているものである。
3478 遠《とほ》しとふ 古奈《こな》の白嶺《しらね》に 逢《あ》ほ時《しだ》も 逢《あ》はのへ時《しだ》も 汝《な》にこそよされ
等保斯等布 故奈乃思良祢尓 阿抱思太毛 安波乃敞思太毛 奈尓己曾与佐礼
【語釈】 ○遠しとふ古奈の白嶺に 「遠しとふ」は、遠いというで、耳に聞いているだけの意。「古奈の白嶺に」は、「古奈」は、地名。「白嶺」は、その地にある山の名であろうが、所在は不明である。この初二句の、下への続きは解しやすくないもので、したがって諸説がある。『総釈』は、「白嶺」の「しら」を、類音の関係で「しだ」にかけての序詞と解している。比較的無理のない解である。一首は女が男に贈ったもので、この地名は男に密接な関係のあるものでなくてはならない。白嶺は男の住地の目標となっているもので、序詞としてもその気分を絡ませているものであるが、ここはその程度のものではなく、ただちに男の代名詞としていっているものではなかろうか。下に男の代名詞としての「汝」があるが、それと同じ意で、遠く恋ごころを寄せている意で、「白嶺」と言いかえたものかと思われる。感性で捉えていっているもので、ありうべきことと思われる。○逢ほ時も 「逢ほ」は、「逢ふ」の東語。「しだ」は、時。○逢はのへ時も 「のへ」は、東語の打消の助動詞「なふ」の已然形「なへ」の転音で、これは上の(三四七六)でも触れた。体言「時」に続く関係上、連体形「なふ」とあるべきだが、已然形となっている。これは用例のある形である。逢わない時も。○汝にこそよされ 「汝」は、男の代名詞。「よされ」は、「寄さる」の已然形で、係の結。寄せられていることだ。
【釈】 遠いという古奈の白嶺の汝に、逢う時も、逢わない時も、われは汝に従っていることだ。
【評】 女の歌で、男に対してその真実を誓う心のものである。初二句は不安のあるものであるが、女としては、その男を思うとともに思われて来る地名であって、それが男の代名詞となっているものと思われる。今はそう解する。自身の誓言ではあるが、男のほうを主と立てての言い方をしているもので、これは型のごとくなっていることである。
3479 安可見出《あかみやま》 草根《くさね》刈《か》り除《そ》け 逢《あ》はすがへ 争《あらそ》ふ妹《いも》し あやに愛《かな》しも
(221) 安可見夜麻 久左祢可利曾氣 安波須賀倍 安良蘇布伊毛之 安夜尓可奈之毛
【語釈】 ○安可見山草根刈り除け 「安可見山」は、『新考』は、下野国安蘇郡に赤見郷というがある(現在、佐野市赤見町)。そこの山かといっている。「草根」は、「根」は、接尾語で、草。「刈りそけ」は、刈り除いてで、その時の寝所を設ける意。○逢はすがへ 「逢はす」は、逢うの敬語。女に対しての慣用。「がへ」は、「がうへ」の略で、(三四六五)に既出。お逢いになっている上に。○争ふ妹し 拒もうと争う妹ので、「し」は、強意の助詞。○あやに愛しも むしょうにかわゆいことだ。
【釈】 安可見山の草を刈り除いて、逢っている上に、拒んで争う妹の、むしょうにかわゆいことだ。
【評】 安可見山は、多分部落共有の草刈り場所で、この男女はそれぞれ草刈りを目的としてそこへ行き、偶然に落ち合ったものとみえる。互いに心を許し合っていた仲で、人目のないのを幸いとして合意の上で関係を結ぼうとしたのである。しかし女は、全く情事に無経験なので、甚しく羞恥を感じ、本能的に拒もうとするのを、男はそれと知って、その拒むのをひどくかわゆく感じたのである。妹に対しての愛をいっている歌で、野合そのものの興味をいっているものではないので、この種の取材に伴いやすい厭味の認められないものである。健康な、明るい庶民生活の一断面である。
3480 大君《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 愛《かな》し妹《いも》が 手枕《たまくら》離《はな》れ 夜立《よだ》ち来《き》のかも
於保伎美乃 美己等可思古美 可奈之伊毛我 多麻久良波奈礼 欲太知伎努可母
【語釈】 ○大君の命かしこみ 大君の仰せを承って。成句で、集中例の多いものである。○愛し妹が手枕離れ 「愛し妹」は、愛しき妹で、終止形から体言に続く成語。「手枕離れ」は、別れということを具象的にいったもの。○夜立ち来のかも 「夜立ち」は、夜の中に旅立ちをする意で、現在も用いられている語。「来の」は、「来ぬ」の訛。夜立ちをして来たことであるよ。
【釈】 大君の仰せを承って、かわゆい妹の手枕を離れて、夜立ちをして来たことであるよ。
【評】 官命をこうむって旅立ちをした男の、途中での心である。防人などなのか、一年十日間を、貢ぎとして労役に服する庸などなのか、不明である。「愛し妹が手枕離れ」と、最愛の者にもいさぎよく別れて来た心が、一首の調べを貫いている。
3481 あり衣《ぎぬ》の さゑさゑ鎮《しづ》み 家《いへ》の妹《いも》に 物《もの》言《い》はず来《き》にて 思《おも》ひ苦《ぐる》しも
(222) 安利伎奴乃 佐惠々々之豆美 伊敞能伊母尓 毛乃伊波受伎尓弖 於毛比具流之母
【語釈】 ○あり衣の 「あり衣」は、集中に枕詞として二か所用いられており、また、古事記、下巻にも出ている語であるが、語義は諸説のあるものである。本居宣長は『玉勝間』で、鮮やかな衣で、「あり」は、鮮やかな意だと、委しく考証している。ここは、夫が旅立ちをする日の妻の衣の状態である。「あり衣」は、絹の衣とする説(『大系』)、また枕詞とする説(『注釈』)もある。○さゑさゑ鎮み 「さゑさゑ」は、衣摺れの音の意で、擬声音。「鎮み」は、鎮まって。以上は、にわかな旅立ちで、妻はその準備のために、晴れの衣の衣摺れの音を立てて働いていたが、準備もすんで、ようやく落ちついての意を、描写としていったもの。○家の妹に物言はず来にて 「家の妹」は、同棲している妻。「物言はず来にて」は、別れの語もいわずに来てしまって。「に」は、完了。○思ひ苦しも 心苦しいことだ。
【釈】 鮮やかな衣の衣摺れの音も鎮まって、物をいう隙もあったのに、家の妻に物をいわずに来てしまって、心苦しいことである。
【評】 これは左注にもあるように人麿の歌で、それが東国に伝誦されていたものである。この歌を適用するような状態が東国人にも少なからずあったからのことであろう。防人の場合だと、前にもいったように、命令の下る時と出発の時との間に、ほとんど余裕がなかったので、まさにこの歌のような状態であったろう。
柿本朝臣人麿歌集の中に出づ。上に見ゆること已《すで》に訖《をは》りぬ。
柿本朝臣人麿歌集中出。見v上已訖也。
【解】 編集者の注で、「人麿歌集に出ている。上に見えていることは、すでに見たとおりである」の意で、上というのは、巻四(五〇三)「珠衣のさゐさゐ沈め家の妹に物語はず来て思ひかねつも」を指しているのである。巻四の歌には「柿本朝臣人麿の歌」と題してある。そうした題詞のものも、人麿歌集より取ったものであることを語っていることである。伝誦の結果、句々小異を生じている。
3482 韓衣《からころも》 襴《すそ》のうち交《か》へ あはねども 異《け》しき心《こころ》を 我《あ》が思《も》はなくに
可良許呂毛 須蘇乃宇知可倍 安波祢杼毛 家思吉己許呂乎 安我毛波奈久尓
【語釈】 ○韓衣襴のうち交へ 「韓衣」は、韓風の衣。韓は、中国朝鮮の総称で、韓衣は新たに渡来した風俗であった。「襴のうち交へ」は、裾の(223)合わせ目。巻十一(二六一九)に既出。中国風の衣服は裾があわなかった。その意味で「あはね」に続き、初二句その序詞。○あはねども 逢わないけれども。○異しき心を我が思はなくに 変わった心は持たないことだで、二句慣用句。
【釈】 韓衣の裾の合わせ目のように逢わないけれども、変わった心は我は持たないことだ。
【評】 男が長期にわたっての旅に出る時、妻が誓言としていった歌である。「韓衣」は防人も着たものであるから、あるいは防人としての夫にいったものであるかも知れぬ。
或本の歌に曰く、韓衣《からころも》 襴《すそ》のうち交《か》ひ あはなへば 寝《ね》なへの故《から》に 言痛《ことた》かりつも
或本歌曰、可良己呂母 須素能宇知可比 阿波奈敞婆 祢奈敞乃可良尓 許等多可利都母
【語釈】 ○うち交ひ 「うち交へ」と同じ。このほうが標準語である。○あはなへば 「なへ」は、東語の打消の助動詞「なふ」の已然形。逢わないので。○寝なへの故に 「寝なへ」は、「寝」は、共寝。「なへ」は、上と同じ。「寝なへ」は、名詞形である。名詞とするには、已然形「なへ」よりは、連用形「なひ」であるべきであるから、「なへ」は、「なひ」の転音かと思われる。○言痛かりつも 「ことた」は、「こちた」の東語。「つ」は、現在完了で、人の物言いの甚しいことだ。
【釈】 韓衣の裾の合わせ目のように逢わないので、共寝もしないのに、人の物言いの甚しいことであった。
【評】 初句より三句までの形が似ているので、上の歌の別伝としているが、これは男の歌で、作意は全く異なっており、別歌である。序詞は新味のあるところから、流行したのであろう。これを別伝としたのは、編集者の分類の標準が形式主義であったことが知られる。
3483 昼《ひる》解《と》けば 解《と》けなへ紐《ひも》の 我《わ》が夫《せ》なに あひ寄《よ》るとかも 夜《よる》解《と》けやすけ
比流等家波 等家奈敞比毛乃 和賀西奈尓 阿比与流等可毛 欲流等家也須家
【語釈】 ○解けなへ紐の 「解けなへ」は、東語の打消の助動詞「なふ」の已然形。連体形「なふ」とあるべきで、その転音。上の(三四七八)にも出た。「紐」は、衣の紐。○あひ寄るとかも 寄るというのであろうかで、「寄る」は、身が寄る意。「かも」は、疑問の係。夫が来る前兆を紐に感じて、疑問を添えていっているもの。○夜解けやすけ 「やすけ」は、「やすき」の東語としての転音であるが、「はしきやし」の「はしけやし」になるなど、中央語にもあるもの。
(224)【釈】 昼解けば解けない衣の紐が、わが夫に寄り添う前兆というのであろうか、夜は解けやすいことである。
【評】 女が夜、寝ようとして衣の紐を解くと、たやすく解けたので、昼は解けなかったのにと思い、これは夫が今夜来るという前兆だろうかと思った心である。信仰心の背後にあっての心である。軽い口すさびであるが、謡い物となりうる性質の歌である。
3484 麻苧《あさを》らを 麻笥《をけ》に多《ふすさ》に 績《う》まずとも 明日《あす》著《き》せさめや いざせ小床《をどこ》に
安左乎良乎 遠家尓布須左尓 宇麻受登毛 安須伎西佐米也 伊射西乎騰許尓
【語釈】 ○麻苧らを麻笥に多に 「麻苧」は、麻の苧で、苧は麻の皮の繊維の長い物の称。「ら」は、接尾語。「麻笥」は、績んだ麻を入れる器の称で、小桶。「多に」は、たくさんに。○績まずとも 「績む」は、麻の茎から、その繊維をつむぐことで、そのように紡がずとも。○明日著せさめや 「著せさめや」は、諸説がある。「著せす」は、「著る」の敬語で、お着になる意。これは女性に対しての慣用敬語である。「や」は、反語。○いざせ小床に 「いざせ」は、「いざ」は、人を誘う意の副詞。「せ」は、進行を促す意の意味の広い語で、ここは、来よというにあたる。「小床に」は、「小」は、接頭語で、寝所に。
【釈】 麻の苧を、麻笥にそのようにたくさんにつむがなくても、明日お着になろうというのではないでしょう、さあいらっしゃいよ寝所へ。
【評】 夫妻同棲している、ある程度年をしている庶民の歌である。夜、夫は寝所へ入って寝たくなったが、妻は夜なべに麻つむぎをし、すでに麻笥に随分たまっているのであるが、一心に手わざを続けていて、やめそうにもないのを見て、もうやめて一緒に寝ようと促した心である。「明日著せさめや」という挿入句が、上の「多に」と相俟って、同衾を促すという心だけのものとはならず、妻の勤労をいたわる心の多分に働くものとなって、幅と厚みのあるものとなっている。夫妻間の情愛の素朴に現われているとともに、自然に気の利いたところのある、豊かさのある歌である。心を引かれる歌だ。
3485 剣刀《つるぎたち》 身《み》に副《そ》ふ妹《いも》を 取《と》り見《み》がね 哭《ね》をぞ泣《な》きつる 手児《てこ》にあらなくに
都流伎多知 身尓素布伊母乎 等里見我祢 哭乎曾奈伎都流 手兒尓安良奈久尓
(225)【語釈】 ○剣刀身に副ふ妹を 「剣刀」は、意味で「身に副ふ」にかかる枕詞。「身に副ふ妹」は、わが身に添っている妹。○取り見がね 「取り見る」は、熟語で、世話をする、保護をする意。「がね」は、「かね」の転。得ずして。○哭をぞ泣きつる 泣きを泣いたで、泣きに泣く意。○手児にあらなくに 「手児」は、娘をも、幼童をも指す称。ここは幼童で、それではないことであるを。
【釈】 剣刀のようにわが身に添っている妹を保護ができずに、泣きに泣いたことであった。幼童ではないことだのに。
【評】 防人などに立った男が、家を離れて後、妻との別れに幼童のように泣いたことを思い浮かべての心である。「剣刀」の枕詞は、自身の状態よりの連想として用いているもの。「取り見がね」という語は、そのおりの心をいったものとしては、男らしく潔いものである。「手児にあらなくに」という反省もさっぱりしている。情熱的なしかしさっぱりした男を思わせる歌である。防人の歌と思われる。
3486 愛《かな》し妹《いも》を 弓束《ゆづか》並《な》べ巻《ま》き 如己男《もころを》の 事《こと》とし云《い》はば いや勝《か》たましに
可奈思伊毛乎 由豆加奈倍麻伎 母許呂乎乃 許登等思伊波婆 伊夜可多麻斯尓
【語釈】 ○愛し妹を 「愛し妹」は、上に出た。かわゆいあの女を。○弓束並べ巻き 「弓束」は、弓の中央部の、弓を握る部分の称。今は握りと呼んでいる。「並べ巻き」は、弓の握りは、緒または草で巻くことに定まっている。それは弓を射る時、握る手が滑らず、力がこもるようにするためで、「並べ巻き」は用材を並べて巻いてで、一句、その用材の同様なものであるところから「如己男」の譬喩としたもの、眼前を捉えたものである。○如己男の事とし云はば 「如己男」は、自分と同輩の者の称で、巻九(一八〇九)「如己男に負けてはあらじと」その他にも出た。「事とし云はば」は、上を承けて、情事だというならばで、「し」は、強意の助詞。○いや勝たましに 「いや」は、いよいよ、甚しくで、意味が広く、ここは断じてというに近い。「まし」は、上の「云はば」の仮想の帰結。「に」は、「を」の東語で、断じて勝ったであろうものを。
【釈】 かわゆいあの女を、弓束を並べて巻いてある物のように、同輩との情事だというのであったら、断じて勝ったであろうものを。
【評】 階級制度の厳しく保たれている部落生活をしている青年が、深く心を寄せて来た女が、階級の高い男のものとなったと聞いた際の嘆きである。相手が同輩であれば断じて負けてはいない、必ず勝ったであろうが、階級の高い人とあってはいかんともし難いと、諦めようとする直前の心である。「如己男の事とし云はば」という語で、事情の一切をあらわしているのであるが、当時の社会ではこれで十分通じたのである。「弓束並べ巻き」という譬喩は、弓矢は護身のため、また狩猟のため、男子としては必ず所有した物であるから、親しく、適切な譬喩だったのである。「いや勝たましに」も、弓に照応する言い方で、(226)働きのあるものである。
3487 梓弓《あづさゆみ》 末《すゑ》に玉《たま》纏《ま》き かく為為《すす》ぞ 寝《ね》なななりにし 奥《おく》をかぬかぬ
安豆左由美 須惠尓多麻末吉 可久須酒曾 宿莫奈那里尓思 於久乎可奴加奴
【語釈】 ○梓弓末に玉纏き 「末」は、本末と対させての称で、弓を立てての上部。「玉纏き」は、装飾として玉を着けて。「梓弓」を男自身の、「玉」を女の譬喩として、女をわが物にした意。○かく為為ぞ 「為為」は、動詞「す」を重ねて、そのことの連続を示した語で、「しし」の東語。このようにしいしいして。上からの続きは、ああこうと心を使って。承けるほうは、女をわが物とするために苦労を重ねて。「ぞ」は、係助詞。○寝なななりにし 「寝なな」の「なな」は、上の(三四〇八)(三四三六)に既出。「なりにし」の「し」は、「ぞ」の結で、共寝をせずにしまったことだ。○奥をかぬかぬ 「奥」は、将来。「かぬかぬ」の、「かぬ」の「ぬ」は、「ね」の転音で、「かね」は、慮《おもんばか》って。慮り慮りして。
【釈】 梓弓の末に玉を纏くように、女をわが物にして、このようにしいしいして、共寝せずにしまったことだ。将来を慮り慮りして。
【評】 女の合意を得てわが物とはしたが、将来を考慮して、共寝をせずに過ごして来たという述懐である。「奥をかぬかぬ」は、反省を加え加えしての意で、諦めたのではなく、反対に楽しみにしての意で、東歌としては珍しくも知性的な心である。譬喩も美しく、「為為」「かぬかぬ」も、細かい気分をそのままにあらわそうとする意図のみえるもので、新風の歌に近づこうとする傾向のあるものである。その意味で注意される歌である。調べは謡い物的である。
3488 生《お》ふ〓《しもと》 この本山《もとやま》の ましばにも 告《の》らぬ妹《いも》が名《な》 象《かた》に出《い》でむかも
於布之毛等 許乃母登夜麻乃 麻之波尓毛 能良奴伊毛我名 可多尓伊弖牟可母
【語釈】 ○生ふ〓 「〓」は、若木で、ここは枝の意。生うる枝で、「生ふ」は、終止形から体言に続く古形。「本」は、幹の意で、「この木」にかかる枕詞。○この本山の 「本山」は、長野県東筑摩郡、旧中山道の入口にある地名で、他にもあろう。「この」は、指示する意の語と思われるが不明である。山には柴が生える意で、「ましば」に続き、以上その序詞。○ましばにも告らぬ妹が名 「ましば」は、「ま」は、接頭語。「しば」は、しばしばのそれで、しばしばは、「しば」を重ねた語。しばしばは口外しない妹の名が。○象に出でむかも 「象」は、卜占の象で、上の(三三七四)「武蔵野に占へかた灼き」のそれである。「出でむかも」は、現われるであろうかで、「かも」は疑問。
(227)【釈】 若枝の出るこの本山の真柴に因みある、しばしばは口外しない妹の名が、卜占の象に現われるのであろうか。
【評】 秘密にしていた女の名が、卜占の象に出はしないかと危惧する男の心である。卜占の象を絶対のものとしている心がある。「生ふ〓この本山の」は、女と関係のある地として捉えているものと思われる。
3489 梓弓《あづさゆみ》 欲良《よら》の山辺《やまぺ》の 繁《しげ》かくに 妹《いも》ろを立《た》てて さ寝処《ねど》払《はら》ふも
安豆左由美 欲良能夜麻邊能 之牙可久尓 伊毛呂乎多弖天 左祢度波良布母
【語釈】 ○梓弓欲良の山辺の 「梓弓」は、引くと本末が寄る意で、「欲艮」の枕詞。「欲良の山」は、所在不明。○繁かくに 「か」は、「け」の転音で、「繁し」の名詞形。繁ったところに。○妹ろを立てて 「ろ」は、接尾語。妹を立たせておいて。○さ寝処払ふも 「さ寝処」は、「さ」は、接頭語で、寝る所。「払ふ」は、掃除をするで、清らかにする意。
【釈】 欲良の山辺の木立の繁っている所に、妹を立たせて置いて、寝る所を清らかにすることだ。
【評】 歌垣の折などはもとより、平常でもこうした密会は行なわれていて、一般性のあったことだったのである。昂奮の情をまじえず、落ちついて楽しげに叙しているのはそのためである。その土地で愛された謡い物だったろうと思われる。
3490 梓弓《あづさゆみ》 末《すゑ》はより寝《ね》む 正香《まさか》こそ 人目《ひとめ》を多《おほ》み 汝《な》を間《はし》に置《お》けれ
安都佐由美 須惠波余里祢牟 麻左可許曾 比等目乎於保美 奈乎波思尓於家礼
【語釈】 ○梓弓末はより寝む 「梓弓」は、本末の意で、「末」の枕詞。「末はより寝む」は、「末」は、将来で、将来は寄って寝よう。○正香こそ人目を多み 「正香」は、現前。「人目を多み」は、人目が多いゆえに。○汝を間に置けれ 「汝」は、女より男を指したもの。「間」は、中間の意で、中途半端というにあたる。「置けれ」は、「置けり」の已然形で、「こそ」の結。
【釈】 梓弓の末に因む、将来は寄って共寝をしよう。現在は、人目が多いので、あなたを中途半端にして置くことだ。
【評】 女から男に贈った歌で、類想の多いものである。実用のための歌で、巧拙を念としない性質のものである。
柿本朝臣人麿歌集に出づ。
(228) 柿本朝臣人麿歌集出也。
【解】 人麿歌集にある歌だというが、この歌は集中には無いものである。これは人麿歌集の歌の全部が、本集に採録されているのではなく、選択されていることを、無意識に示していることである。人麿歌集の歌としては平凡であるが、東国へ伝誦はされていたのである。
3491 楊《やなぎ》こそ 伐《き》れば生《は》えすれ 世《よ》の人《ひと》の 恋《こひ》に死《し》なむを 如何《いか》にせよとぞ
楊奈疑許曾 伎礼婆伴要須礼 余能比等乃 古非尓思奈武乎 伊可尓世余等曾
【語釈】 ○楊こそ伐れば生えすれ 楊は、伐ると代わりが生えもしようで、次のことの前提としていっているもの。「生え」は、名詞形で、それに動詞の接したもの。○世の人の 世の中の人ので、楊に対させて人を広くいったもので、心としては我のの意。○恋に死なむを如何にせよとぞ 恋の悩みのために死のうとするのを、どうしろというのかで、下に「言ふ」が略されている形。
【釈】 楊は伐れば代わりが生えるものだ。人間の恋のために死のうとするのを、どうしろというのであるか。
【評】 女に求婚の心より訴えたものである。楊と人間との対比は知性的のもので、訴えとしては理の勝ったものである。したがって調べも固く、一首が理詰めである。楊は川堤や灌漑用の池の堤に、その崩壊を防ぐために植えた木であるから、最も親しみある木で、その意味では適当なものであったろうが、それとしても理の勝ったものである。比較的後の、奈良京に入っての歌と思われる。
3492 小山田《をやまだ》の 池《いけ》の堤《つつみ》に 刺《さ》す楊《やなぎ》 なりもならずも 汝《な》と二人《ふたり》はも
乎夜麻田乃 伊氣能都追美尓 左須楊奈疑 奈里毛奈良受毛 奈等布多里波母
【語釈】 ○小山田の池の堤に 「小山田」は、「小」は、美称。「山田」は、山の傾斜地に設けてある田の総称。「池」は、その山田に灌漑するための貯水池で、山田には必要なもの。○刺す楊 挿木にする楊ので、楊は枝を挿木にしてふやす木である。楊は上にいったように堤を保護もし、用途も多く、また信仰も伴っている木であった。その枝が根を張るかどうかの意で「なりもならずも」に続き、以上その序詞。○なりもならずも 「なり」は、本来実のなる意の語で、それを恋の成立のなるに懸けている語であるが、ここは根の張る意に転用している。関係が成り立つにして(229)も、成り立たないにしてもで、下の続きで見ると、周囲の妨げがなく、円満に成り立つかどうかの意でいっているのである。この句は慣用句となっているもので、それをそのまま用いているところからの無理である。○汝と二人はも あなたと二人の間は、なあ、というので、「はも」は、余意を持った語であるから、渝《かわ》るまいとの意を言外にしたものである。
【釈】 山田の池の堤に刺す楊の、根を張るかどうかと思われるように、この関係が妨げなく成り立つにしても、しないにしても、あなたと二人の間は、渝るまい。
【評】 山村の男が女に贈った歌で、二人の関係は成り立っているが、女の親が妨げをしている折、その女の心を動揺させまいとして、堅く将来を誓う心から贈ったものである。きわめて例の多い場合のものである。序詞は実際生活に即したものである。謡い物であったことは、「なりもならずも」によっても知られる。
3493 遅早《おそはや》も 汝《な》をこそ待《ま》ため 向《むか》つ峰《を》の 椎《しひ》の小枝《こやで》の 逢《あ》ひは違《たが》はじ
於曾波夜母 奈乎許曾麻多賣 牟可都乎能 四比乃故夜提能 安比波多我波自
【語釈】 ○遅早も汝をこそ待ため 「遅早も」は、遅くても早くてもの意で、熟語で、早晩というにあたる。ここは遅い意でいっているもの。「汝」は、女から男を指したもので、あなたを待っていようで、「め」は、「こそ」の結。「汝」は、本来は三人称でいうべきもので、その意のもの。○向つ峰の椎の小枝の 「向つ蜂」は、向かいの山で、女の現在いる所からのもの。「小やで」は、小枝の東語で、或本のほうは「さえだ」となっている。椎の小枝は密生しているところから、譬喩の意で「合ふ」に続け、三、四句はその序詞。○逢ひは違はじ 「逢ひ」は、「逢ふ」の名詞形で、逢うという約束の意である。
【釈】 遅かろうとも早かろうとも、あの人を待っていよう。向かいの山の椎の木の小枝の、相合っているように相逢う約束は違えまい。
【評】 女が男と山裾の地で密会しようと約束をして、先に行って男の来るのを待っている心である。男の来るのが遅いが、約束を違えることはあるまいと信じて待っていることを中心としている。「向つ峰の椎の小枝の」という「逢ひ」の序詞は、その時の眼前を捉えているものであるが、そうした場合でなければ注意に上りそうにもない限られた範囲のものである。したがって実際感が強く、女のその時の状態をもおのずからに思わせるものである。「逢ひは違はじ」も、男が違えじの意であるが、わざと広い言い方をしているもので、男を主と立てた心の見えるものである。序詞と相俟って生趣を添えるものとなっている。女の人柄をも思わせる歌である。
(230) 或本の歌に曰く、遅早《おそはや》も 君《きみ》をし待《ま》たむ 向《むか》つ峰《を》の 椎《しひ》の小枝《さえだ》の 時《とき》は過《す》ぐとも
或本歌曰、於曾波夜毛 伎美乎思麻多武 牟可都乎能 思比乃佐要太能 登吉波須具登母
【語釈】 ○君をし待たむ 「君」は、女より男を指したもの。「し」は、強意。○椎の小枝の 「小枝」は、上の歌の「小やて」にあたるもの。椎が小枝を出すのは春季で、時期の意で、以上二句「時」にかかる序詞。○時は過ぐとも 「時」は、時刻で、約束の時刻は過ぎようとも。
【釈】 略す。
【評】 このほうは東語がなく、また序詞の下へのかかり方は普通のものとなり、特殊さのないものとなっている。上の歌が謡い物となったため、特色が消されたとみえる。
3494 児毛知山《こもちやま》 若《わか》かへるでの もみつまで 宿《ね》もと吾《わ》は思《も》ふ 汝《な》は何《あ》どか思《も》ふ
兒毛知夜麻 和可加敞流弖能 毛美都麻弖 宿毛等和波毛布 汝波安杼可毛布
【語釈】 ○児毛知山 群馬県渋川市北方の子持山だという。榛名山と対して、吾妻峡谷を隔てて立っている山。○若かへるでのもみつまで 「かへるで」は、鶏冠木で、今のかえで。「若かへるで」は、若いかえでで、普通若木のかえでの称である。しかし下の「もみつ」に対させていっている関係上、葉のほうを主としていっているもので、若葉のかえでと取れる。「もみつまで」は、紅葉するまで。「もみつ」は、四段活用の連体形。この語は下二段にも活用した。「つ」は、古くは清音であったことが仮名書きで知られる。○宿もと吾は思ふ 「宿も」は、「宿む」の東語。共寝をしようとわれは思う。○汝は何どか思ふ 「何ど」は、「など」の東語。あなたはとう思うか。
【釈】 児毛知山の若葉のかえでの紅葉するまで、共寝をしようと私は思う。あなたはどう思うか。
【評】 児毛知山の若葉のかえでの陰で、女と密会している男の、(231)女に問いかけた形の歌である。「若かへるでのもみつまで」は、いつまでもということを、眼前の物を譬喩に捉えていっているもので、甚しい誇張のものである。「吾は思ふ」といい、さらに「汝は何どか思ふ」というのも、その誇張を多少とも妥当化しようとの心と取れる。「若かへるで」を文字どおり若木のかえでとし、若い年齢の譬喩とすると、語としては妥当であるが、その延長として「もみつ」を老年の譬喩とすると、かえでは若木でも同じく紅葉するので、かえって無理なものとなる。謡い物に伴いやすい誇張と見るべきであろう。
3495 伊波保《いはほ》ろの 傍《そひ》の若松《わかまつ》 かぎりとや 君《きみ》が来《き》まさぬ うらもとなくも
伊波保呂乃 蘇比能和可麻都 可藝里登也 伎美我伎麻左奴 宇良毛等奈久文
【語釈】 ○伊波保ろの傍の若松 「伊波保ろの」は、「伊波保」は、岩石で、「ろ」は、接尾語。「傍」は、傍らで、「若松」は、若木の松。若松が岩石に限られて生えられない意で「かぎり」にかかり、以上その序詞。○かぎりとや君が来まさぬ 「かぎりとや」は、関係は終わりだというのであろうかで、「や」は、疑問の係。「君が来まさぬ」は、「来まさぬ」は、「来ぬ」の敬語で、君がいらっしゃらないことだ。○うらもとなくも 「うら」は、心で、心もとなくも。
【釈】 岩石の傍らの若松の、そこを限りとしているように、関係の限りとするのであろうか、あの方がいらっしゃらないことだ。心もとなくも。
【評】 やや年をした女が、自分よりも年下な男と関係し、双方半ば遊戯気分で逢っている状態での女の心かとも思われる。「かぎりとや君が来まさぬ」といい、そうした気分に対して「うらもとなくも」といっているのは、東国の女の真剣に一本気なのにくらべて、いかにも余裕のあるものだからである。「伊波保ろの傍の若松」という序詞も、「伊波保」を自身に、「若松」を男にからませた繋がりをもったものだろうと思われる。とにかくこうした歌が、多分謡い物として存在していたことを思うと、東国の部落状態として上にいったような男女関係が、それとただちに感じられるものであってのことと思われる。少なくとも個性的な歌としての面白さから存在していたものではなかろう。心は平明であるが、背後の解しにくいところのある歌である。
3496 橘《たちばな》の 古婆《こば》のはなりが 思《おも》ふなむ 心《こころ》愛《うつく》し いで吾《あれ》は行《い》かな
(232) 多知婆奈乃 古婆乃波奈里我 於毛布奈牟 己許呂宇都久思 伊弖安礼波伊可奈
【語釈】 ○橘の古婆のはなりが 「橘」は、地名と取れる。東国にあるこの名を持った地名として、武蔵国橘樹郡、常陸国茨城郡の立花郷、また、東鑑にある下総国香取郡の橘庄などが挙げられている。「古婆」は、橘の中の小名と取れる。「はなり」は、放髪の字を当て、元服前の童女の髪形で、髪を四方へ垂らしている形の称で、少女の意である。○思ふなむ心愛し 「思ふなむ」は、「なむ」は、「らむ」の東語で、連体形。「心愛し」は、心がかわゆい。○いで吾は行かな 「いで」は、我と我を誘う語。「行かな」は、「な」は、我に対しての希望で、行こうよ。
【釈】 橘の古婆の放髪少女の、我を思っているらしい心がかわゆい。さあ、われは行こうよ。
【評】 男が放髪の少女と関係しての心である。放髪は一人前の女以前の髪の形であるが、実際は一人前の女となっても、ある期間はしていたこととみえる。それは放髪を上げて、一人前の女の髪の形にするのは、夫となった男のすることだったからである。また当時は、一人前以前の女と関係することは信仰上禁忌ともなっていたからでもある。当時は早婚時代であったから、放髪で男との関係を結んでいた者も少なくなかったとみえ、その意味での男の歌が少なくはない。この男は、放髪の女と関係していることを不自然に感じていたとみえ、「心愛し」と、その女の許へ行くことに理由をつけ、また、「いで吾は行かな」と、我と自身を誘う心をもいっているのである。これは普通の関係の女に対してはいわないことで、不自然とまでは感じないにもせよ、少なくとも無意識ではいられなかったのである。一首の味わいはその点にかかっている。
3497 河上《かはかみ》の 根白高草《ねじろたかがや》 あやにあやに さ寝《ね》さ寝《ね》てこそ 言《こと》に出《で》にしか
可波加美能 祢自路多可我夜 安也尓阿夜尓 左宿左寐弖許曾 己登尓弓尓思可
【語釈】 ○河上の根白高草 「河上の」は、河の上で、上流の。「根白高草」は、根の白くあらわれている、丈高い草で、根の白いのは水に洗われるため。「草」は、屋根を葺く料になる草の総称で、萱とは限らない。その根の色のあざやかな意で、「あやに」とかかり、以上その序詞。○あやにあやに 「あやに」は、驚歎の意をあらわす副詞で、ここはそれを重ねて強めたもの。ほんにほんに。○さ寝さ寝てこそ 「さ寝」は、「さ」は、接頭語。寝に寝てこそで、ここは、共寝。○言に出にしか 「言に出」は、自身の秘密を口に出す意にもいうが、ここは世間の評判に立つ意のもの。「に」は、完了、「しか」は、過去の助動詞「き」の已然形で、「こそ」の結。世間の評判に立ったことだ。
【釈】 河の上流の、根の白くあらわれている丈高い草のように、ほんに、ほんに、共に寝に寝て来て、世間の評判に立ったことだ。
【評】 男が、自分の男女関係の世間の評判になったのを知り、一たびはその事を驚いたが、ただちに反省して、ほんにもっと(233)もなことだ、相応に久しい関係だからと意識したことを、気分を本位としていっている心である。序詞を設けて「あやにあやに」といっているのは、それまでは女に没頭して、世間をはばかることも忘れてしまっていたことを背後にしていっているもので、その驚きが一首の作因となっているのである。「さ寝さ寝てこそ」と謡い物的な派手な言い方をしているが、外因をなしている気分はむしろ個人的なもので、個人的な気分を謡い物的に表現している歌である。「河上の根白高草」という序詞は、感性より捉えた気分的な、清新なもので、一首の心にふさわしいものである。奈良朝に入っての新しい新風のもので、手腕も非凡である。東歌とはなっているが、東国で生まれたものだろうかと訝からせるところがある。
3498 海原《うなはら》の ねやはら小菅《こすげ》 あまたあれば 君《きみ》は忘《わす》らす 吾《われ》忘《わす》るれや
宇奈波良乃 根夜波良古須氣 安麻多安礼婆 伎美波和須良酒 和礼和須流礼夜
【語釈】 ○海原のねやはら小菅 「海原の」は、ここは下の小菅の生えている所なので、海面では通じない。したがって諸説がある。大和国では、池や川に対して海の名称を用いていることは例の多いものである。ここもそれであろう。東歌であるから不自然にみえるが、東歌は大和の歌の影響の多いものであるから、これもその範囲のものであろう。「ねやはら小菅」は、「ねやはら」は、根柔らで、「小菅」は、「小」は、美称で、菅。根つきのしなやかな菅で、水中に生えている管を感性的にいったもの。これは男の関係している女の譬喩である。○君は忘らす 「忘らす」は、忘るの敬語。君はお忘れになる。○吾忘るれや 「忘るれ」は、忘るの下二段の已然形。「や」は、已然形を受けての反語。われは忘れようか、忘れはしない。
【釈】 水中に生えている、根つきのしなやかな菅のような人が多くあるので、君はわれをお忘れになる。われは君を忘れようか、忘れはしない。
【評】 女が自分を疎遠にしている男に贈った歌である。初句から四句までは男を恨んでの訴えであるが、「君は忘らす」に理屈をつけて、男の忘れるのをもっともとしているのである。婉曲を極めた恨み方である。「吾忘るれや」がその上に立っての訴えで、要を得たものである。「海原のねやはら小菅」は、男女とも目に見ている光景であろう。「ねやはら小菅」は、語そのものとしても巧妙なものである。上の歌と同系統の歌で、こうした歌が東国で生まれたのだろうかと、訝からずにはいられないものである。「海原の」という用語によっても、大和国での歌が何らかの経路で東歌の中に入ったのではなかろうか。
3499 岡《をか》に寄《よ》せ 我《わ》が刈《か》る草《かや》の さね草《かや》の まこと柔《なごや》は 寝《ね》ろとへなかも
(234) 乎可尓与西 和我可流加夜能 左祢加夜能 麻許等奈其夜波 祢呂等敞奈香母
【語釈】 ○岡に寄せ 岡の傾斜に立っている茅を、刈りやすいように岡のほうに押し靡かせて。○さね草の 「さね草」は、他に用例のないもの。「さねかずら」の名もあるので、それと同じに真茅の意で、茅の一種と思われる。以上「寝ろ」の寝にかかる序詞。○まこと柔は 「まこと」は、ほんにで、副詞。「柔は」は、やさしくはで。すなおには。○寝ろとへなかも 「寝ろ」は、寝よ、の東語。「とへな」は、「といはぬ」の東語で、「とへ」は、「といは」が転じたものと取れる。「な」は、打消し「ぬ」の東語で、これは用例のあるものである。「かも」は、詠歎で、寝よといわないことだなあ。
【釈】 岡のほうへ寄せてわれが刈っているさね茅のように、あの女はほんにすなおに、寝よとはいわないことだなあ。
【評】 男が岡に生えているさね茅を刈りながら、くどいても応じない女のことを思い出して歎息している形の歌である。刈っている茅の靡きやすいところからの連想で、心理的のつながりがある。草刈歌の範囲のもので、労働歌として謡われたものであろう。この種の歌としては、心細かい、語のこなれた、すぐれたものである。
3500 紫草《むらさき》は 根《ね》をかも竟《を》ふる 人《ひと》の児《こ》の うらがなしけを 寝《ね》を竟《を》へなくに
牟良佐伎波 根乎可母乎布流 比等乃兒能 宇良我奈之家乎 祢乎遠敞奈久尓
【語釈】 ○紫草は根をかも竟ふる 「紫草」は、紫草科の多年草本で、その根から紫色の染料を採る。「根をかも竟ふる」は、「かも」は、疑問の係助詞。「竟ふ」は、事を果たす意で、その根の用を果たすことであろうか。以上、五句の「寝を竟へ」に同音でかかる序詞。○人の児のうらがなしけを 「人の児」は、「児」は、女の愛称で、「人の」は、児を強調するために冠したもの。「うらがなしけ」は、「け」は、「き」の東語で、「うら」は心の意で、接頭語化そうとしているもの。「かなしけ」は、かわゆい者。「を」は、感動の助詞で、ものを。○寝を竟へなくに 「寝」は、共寝の意で、名詞形。「竟へなくに」は、果たさないことよ。
【釈】 紫草は、その根の用を果たすことであろうか。我はあの女のかわゆいものを、共寝が果たせないことであるよ。
【評】 懸想している女を、わが物にできずにいる嘆きである。「紫草は根をかも竟ふる」は、序詞の形にはなっているが、心は対比である。紫草は染料中の最も貴い物になっていたので、おのずから「人の児」の美しさ貴さを暗示するものとなって、含蓄あるものとなっている。したがってこの序詞は、一首を単純化し、気分化している、巧妙なものである。序詞から見て、東国の歌とは取れるが、上品で、気が利いていて、奈良朝時代を思わせる歌である。
(235)3501 安波《あは》をろの をろ田《た》に生《お》はる 多波美蔓《たはみづら》 引《ひ》かばぬるぬる 吾《あ》を言《こと》な絶《た》え
安波乎呂能 乎呂田尓於波流 多波美豆良 比可婆奴流奴留 安乎許等奈多延
【語釈】 ○安波をろのをろ田に生はる 「安波をろ」は、「安波」は、安房か。安房国(千葉県)安房郡があるので、そこであろうか。「を」は、「尾」で、山、丘などの称。「ろ」は、接尾語。「をろ田」は、「をろ」は、上の繰り返しで、尾にある田で、山田あるいは岡田である。○多波美蔓 一種の蔓草の名であろうが、そのものは不明である。以上、「引かば」にかかる序詞。○引かばぬるぬる吾を言な絶え 我が誘ったならば、柔らかにぬるぬるとして、我に交渉を絶つなで、上の(三三七八)(三四一六)にほとんど同形で出ており、慣用句。
【釈】 安波の岡の岡田に生えているたわみずらのように、我が引いたならば、ぬるぬるとしてすなおに寄って来て、われと物言いを絶つな。
【評】 上にいったごとく、第三句以下は型となっており、初二句をその郷土の名として、諸所で謡っていた謡い物である。最も一般性のある心だったのである。
3502 我《わ》がめづま 人《ひと》は放《さ》くれど 朝顔《あさがほ》の 年《とし》さへこごと 吾《わ》は散《さ》かるがへ
和我目豆麻 比等波左久礼杼 安佐我保能 等思佐倍己其登 和波佐可流我倍
【語釈】 ○我がめづま人は放くれど 「めづま」は、ここにあるのみで、他に用例のない語である。愛づ妻の約で、愛づ子と同系の語と取れる。「人は放くれど」は、他人は割くけれどもで、「人」は、女の母であろう。○朝顔の年さへこごと 「朝顔の」は、今の桔梗の花の古名であることを、巻八(一五三八)でいった。朝顔のように。「年さへ」は、年までもで、「年」は、時の意のもの。「こごと」は、他に用例のない語で、不明であり、したがって諸説がある。『略解』は、「ここだ」(許多)の東語としている。「た」が「と」に転音したものと解すると取れる。今はこれに従う。朝顔のように、年さえも多いことだで、桔梗の宿根草であることを捉え、その多年にわたっての関係であることをいったもの。桔梗の美しさを妹に絡ませている意味もある。○吾は放かるがへ 「がへ」は、「かは」の意の東語で、反語。既出。われは割かれようか、割かれはしない。
【釈】 わがかわゆい妻を、人は割くけれども、美しい、宿根草の桔梗のように、年までも数多になる仲である。われは割かれようか、割かれはしない。
【評】 女の母親が、男との仲を割こうとし、女が悩んでいる際に、男が贈ってやった歌で、男自身の決心をいうことによって、(236)女を動揺させまいと思って、励ます意の歌である。「朝顔の年さへこごと」が難解であるが、上のごとく解す。心の張った歌で、三、四句を上のごとく解すと、そこに味わいのある歌である。
3503 安斉可潟《あせかがた》 潮干《しほひ》のゆたに 思《おも》へらば 朮《うけら》が花《はな》の 色《いろ》に出《で》めやも
安齊可我多 志保悲乃由多尓 於毛敞良婆 宇家良我波奈乃 伊呂尓弖米也母
【語釈】 ○安斉可潟 所在不明である。○潮干のゆたに思へらば 「潮干の」は、潮干のために広くみえる意で、「ゆたに」に続け、以上九音は「ゆたに」の序詞である。「ゆたに」は、心持ののんびりしている意の副詞で、恋の上で余裕のある意。「思へらば」は、思っているならば。○朮が花の (三三七六)に既出。「色に出」の譬喩。○色に出めやも 「や」は、反語で、表面にあらわそうか、あらわしはしない。
【釈】 安斉可潟の潮干の時の広々としているように、ゆったりと思っているならば、朮の花のように表面にあらわそうか、あらわしはしない。
【評】 男が女から、素振りがあらわだと非難されたのに対して、弁解としていった歌と取れる。心にゆとりなく思いとおしにしているので、自然にそうなるのだと、咎められたのを機会に訴えた心である。安斉可潟は男女の住地、朮が花も眼前のものであろう。咎められると即時に謡った形のものである。
3504 春《はる》べ咲《さ》く 藤《ふぢ》の末葉《うらは》の うら安《やす》に さ寝《ぬ》る夜《よ》ぞなき 子《こ》ろをし思《も》へば
波流敞左久 布治能宇良葉乃 宇良夜須尓 左奴流夜曾奈伎 兒呂乎之毛倍婆
(237)【語釈】 ○春べ咲く藤の末葉の 春の頃に花の咲く藤の、蔓の先のほうの葉の。「末」を、同音の「うら」にかけ、以上その序詞。○うら安に 心安らかに。○さ寝る夜ぞなき 「さ」は、接頭語、「ぞ」は、係助詞で、眠る夜はないことである。○子ろをし思へば 「子ろ」は、かわゆい女。「ろ」は、接尾語、「し」は、強意。かわゆい女を思うので。
【釈】 春の頃に花の咲く藤の末葉に因む、うら安く眠る夜のないことだ。かわゆい女を思うので。
【評】 初夏の頃、逢いがたくしている女の許へ贈った男の歌である。「子ろ」という東語はあるが、語少なく、上品にあっさりといった訴えで、大和の京の歌とほとんど異なるところのないものである。奈良朝に入っての新しい歌である。
3505 うち日《ひ》さつ 宮《みや》の瀬川《せがは》の 貌花《かほばな》の 恋《こ》ひてか寝《ぬ》らむ 昨夜《きぞ》も今夜《こよひ》も
宇知比佐都 美夜能瀬河伯能 可保婆奈能 孤悲天香眠良武 伎曾母許余比毛
【語釈】 ○うち日さつ宮の瀬川の 「うち日さつ」は、「うち日さす」の転音で、巻十三(三二九五)「うち日さつ三宅の原ゆ」と出、大和でも行なわれていたものである。「宮」の枕詞。「宮の瀬川」は、所在不明である。○貌花の 「貌花」は、諸説があるが、大体今の昼顔の花である。昼咲いて夜しぼむ意で、譬喩として「恋ひてか寝らむ」にかかり、以上その序詞。○恋ひてか寝らむ 妻は我を恋うて寝るであろうかで、「か」は、疑問の係。○昨夜も今夜も 昨夜も今夜もで、男は昨日旅立ちをして、今夜も旅にいるのである。
【釈】 うち日さつ宮の瀬川の河原に咲いているこの昼顔の花のように、妻は我を恋うて寝るであろうか。昨夜も今夜も。
【評】 男が旅先の宮の瀬川で、河原に咲いている昼顔の花を見て、その花の夜はしぼむことから、自分の居なくなった後の、妻の自分を恋うてしおれるさまを連想し、昨夜も今夜もそのようにしていようと思ったのである。自身の旅のわびしさはいわず、妻のほうのみを思うのは型といえるが、昼顔の花と夜の妻のさまとの繋ぎは、いかにも心細かいものである。合歓の花に、恋する者の夜のさまを連想する歌があったが、それよりもむしろ感性が勝っている。宮の瀬川の所在は知れぬが、それが東国である関係上、東歌となっているもので、作者は京の人かとも思われるが、それにしては男の旅は、二日目であるから、京から来たこととしては時間がなさすぎる。とにかく奈良朝の歌である。
3506 新室《にひむろ》の 言寿《ことき》に到《いた》れば はだ薄《すすき》 穂《ほ》に出《で》し君《きみ》が 見《み》えぬこのごろ
尓比牟路能 許騰伎尓伊多礼婆 波太須酒伎 穗尓弖之伎美我 見延奴己能許呂
(238)【語釈】 ○新室の言寿に到れば 「新室」は、新しく造った家の称で、「室」は、最古の家は室《むろ》であったところから、その称を守ってのもの。新室は臨時にも作るものであったが、ここは住宅の意のものと取れる。庶民の家だと、部落が協力して作ったのである。「言寿」は、「言ほぎ」の約で、祝儀である。家あるじは客を招いて酒宴をし、客は祝言を述べるのであるが、祝言は大体歌で、歌には舞も伴っていたのである。身分ある人の室ほぎの宴は、日本書紀、顕宗紀に詳しく出ている。今の場合は庶民のものとみえる。「到れば」は、行ってみると。これは女で、祝宴のために働こうとしてその新室へ行ったのである。○はだ薄穂に出し君が 「はだ薄」は、穂を旗のように出した薄で、「穂」にかかる枕詞。「穂に出し君が」は、女に対しての懸想を表面に顕わした君が。「君」は、男で、同じく部落民として招かれていた人。○見えぬこのごろ 姿の見えないこの頃であるよで、詠歎を含んでいる。
【釈】 新室の祝儀に行ってみると、われに懸想したことを表面に顕わした君が、姿を見せないこの頃であるよ。
【評】 女の歌で、女も、「君」と呼ばれる男も同部落の者で、顔見知りの間であるが、新室の祝儀で偶然一緒になったのを機会に、男は女に対して懸想心を打明けたのであった。女も憎からず思って、気にかけていたが、その後、どうしたのであるか、男の姿が見えないので、女は心にかかっているというのである。男女一座するという機会は稀れな生活をしていた時代とて、そうしたことも、それにつけての心も、きわめて自然なものに思える。「穂に出し」は、ただそれだけで、それ以上の進展はなく、また「見えぬこのごろ」は、新室ほぎの済んで後のことである。「このごろ」は、庶民の新室ほぎの連続とは思われない語である。
3507 谷《たに》狭《せば》み 峰《みね》にはひたる 玉葛《たまかづら》 絶《た》えむの心《こころ》 吾《わ》が思《も》はなくに
多尓世婆美 弥年尓波比多流 多麻可豆良 多延武能己許呂 和我母波奈久尓
【語釈】 ○谷狭み峰にはひたる 「谷狭み」は、谷が狭いゆえに。「蜂にはひたる」は、谷より山の頂上まではいのぼっている。○玉葛 蔦の名で、玉のような実のなるところからの称であろう。場合柄、玉は美称ではなかろう。引けば絶える意で「絶え」と続き、以上その序詞。○絶えむの心吾が思はなくに 関係を絶とうとする心は、われは持っていないことだで、慣用句である。
【釈】 谷が狭いので峰にはい上がっている玉葛の、引けば絶えるように、関係を絶とうとする心は、われは持っていないことだ。
【評】 女が男に対して貞実を誓ったもので、序詞も主文も慣用句となっているものである。主文は一般性をもったものであり、序詞も、こうした地形は比較的多いからである。
3508 芝付《しばつき》の 美宇艮埼《みうらさき》なる ねつこ草 《ぐさ》あひ見《み》ずあらば 吾《あれ》恋《こ》ひめやも
(239) 芝付乃 御宇良佐伎奈流 根都古具佐 安比見受安良婆 安礼古非米夜母
【語釈】 ○芝付の美宇良埼なる 「芝付」は、大名、「美宇良埼」は、小名で、どちらも地名であるのが、一首の形からいって自然である。「美宇良埼」は、『倭名類聚鈔』に「相模国御浦美宇良郡御埼美佐木」とある地で、今の三浦半島の岬かという。○ねつこ草 草の名であろうが、不明である。「ね」を寝すなわち共寝の意とし、同意の「相見」にかけたもので、以上その序詞。○あひ見ずあらば吾恋ひめやも 「あひ見」は、男女共寝をする意を婉曲にいった語で、用例の少なくないもので、共寝をしなかったならば、我は恋いようか、恋いはしないで、「や」は、反語。
【釈】 芝付の美宇良埼に生えているねつこ草の、その寝に因む共寝をすることがなかったならば、我は恋いようか、恋いはしない。
【評】 疎遠にしている男に対して、女が恨んで贈った歌である。恨みではあるが、消極的な訴えではなく、積極的に、恋うるのは当然であるとして、疎遠にしている男を咎める態度のもので、そこに特色がある。美宇艮埼の所在は明らかとはいえないにもせよ、とにかく漁村の女であることは明らかで、その地にあっては一般性をもった心だったのである。その地の謡い物であったろう。東歌の趣が濃厚である。
3509 栲衾《たくぶすま》 白山風《しらやまかぜ》の 宿《ね》なへども 子《こ》ろが襲著《おそき》の あろこそ善《え》しも
多久夫須麻 之良夜麻可是能 宿奈敞杼母 古呂賀於曾伎能 安路許曾要志母
【語釈】 ○栲衾白山風の 「栲衾」は、栲で作った衾で、栲の白いところから、「白」の枕詞。「白山風」のは、白山から吹き下ろして来る風の意で、ここはその風の甚しく寒い意でいっているから、白山は加賀国の白山であろう。東歌として地理的に不自然であるが、そう見るほかはないようである。○宿なへども 「なへ」は、東語の打消の助動詞「なふ」の已然形で、寝ないけれども。この「宿なへ」は、一首の作意は、共寝をしているのであるから、眠らないけれどもの意でいっていると取れる。この句は、上の句との続きが無理である。白山風の寒さにと、語を補わなければ続かない。飛躍のありすぎるものであるが、迎えてそのように解する。○子ろが襲著のあろこそ善しも 「子ろ」は、女の愛称。「襲著」は、「襲ひ著」の約で、上衣の意である。古く襲(おすひ)と称して、男女を通じて頭部までも覆うた衣の名を伝えたものである。「あろ」は、「有る」の東語。「善し」は、形容詞の終止形で、上の「こそ」の結である。已然形で結ばずに、終止形で結んだのは古格である。かわゆい女の上衣のあるのでよいの意で、寒い日の早朝、男が女の許から帰る時、関係ある男女間の習慣として、女の上衣を借りて着ていることをいったもので、ここにも飛躍がある。
【釈】 栲衾に因みある白山風が寒いので、眠らなかったけれども、かわゆい女の上衣の借りたのがあるのでよい。
(240)【評】 迎えて解さないと、解せないところのある歌である。上の意のものと解する。一首の作意は、類想の歌もあるもので、特殊のものではないが、白山を加賀の白山とすると、それがどうして東歌の中に入っているのか解せられない。しかし語には東語がまじっているので、東国の男が加賀国へ旅をした際作った歌かもしれぬ。それだと東国の防人が、東国以外の地で作った歌の東歌の中に入っていると同じである。とにかく東国において採録された歌だったろう。
3510 み空《そら》行《ゆ》く 雲《くも》にもがもな 今日《けふ》行《ゆ》きて 妹《いも》に言問《ことど》ひ 明日《あす》帰《かへ》り来《こ》む
美蘇良由久 君母尓毛我母奈 家布由伎弖 伊母尓許等杼比 安須可敞里許武
【語釈】 ○み空行く雲にもがもな 「み」は、接頭語。「行く」は、進行する。「雲にもがもな」は、雲でわが身があってほしいことよ。○妹に言問ひ 「言問ひ」は、物を言いで、逢っての意。
【釈】 空を進行する雲でわが身があってほしいことよ。今日行って、妹に逢い、明日は帰って来よう。
【評】 地方官として東国の任地に長くいる人の心である。「今日行きて」「明日」といっているのは、公務を心に置いての言である。雲を羨む心は、交通の困難な実情からで、例の多いものである。奈良朝の歌である。以下「雲」に寄せての歌が十一首続く。
3511 青嶺《あをね》ろに たなびく雲《くも》の いさよひに 物《もの》をぞ思《おも》ふ 年《とし》のこの頃《ごろ》
安乎祢呂尓 多奈婢久君母能 伊佐欲比尓 物能乎曾於毛布 等思乃許能己呂
【語釈】 ○青嶺ろにたなびく雲の 「青嶺」は、樹木のために一様に青く見える山で、「ろ」は、接尾語。「たなびく雲の」は、たなびいている雲のようにで、その動揺する意で、譬喩として「いさよひ」にかかる枕詞。○いさよひに物をぞ思ふ 「いさよひに」は、落ちつかずに。「物をぞ思ふ」は、物思いをしていることだで、下の続きで、旅にあって家恋しい嘆きをしている意。○年のこの頃 一年に及ぶ長い間の日頃を。
【釈】 青嶺にたなびいている雲のように、心落ちつかずに物思いをしていることだ。一年に及ぶ長い間の日頃を。
【評】 上の歌と同じく、東国の任地に来ている京の宮人の、着任以来、一年に及ぶ頃の心をいったものである。「いさよひに物をぞ思ふ」は、家のことが思われて、心の落ちつかないことを婉曲にいったもので、「年の」はその境涯に即しての言である。(241)気分に重点を置き、事を大まかに、調べを柔らかくして、抒情的にしようとしているもので、奈良朝歌風のものである。
3512 一嶺《ひとね》ろに いはるものから 青嶺《あをね》ろに いさよふ雲《くも》の よそり妻《づま》はも
比登祢呂尓 伊波流毛能可良 安乎祢呂尓 伊佐欲布久母能 余曾里都麻波母
【語釈】 ○一嶺ろにいはるものから 「一嶺ろ」は、ここにあるのみで、他に用例のない語で、一つの峰で、孤立した峰。「ろ」は、接尾語。これは、下の「雲」の在り場所としていっているもの。「いはるものから」は、いわれるものながらで、「いはる」は、終止形から体言に連なる古格。一つの峰に在るものだといわれるものながらで、これは結句の「よそり妻」の物言いを、雲を譬喩としていっているものである。○青嶺ろにいさよふ雲の 「青嶺ろに」は、樹木の繁っているために青い峰で、「ろ」は、接尾語。「一嶺ろ」に対させた他の峰で、近く立っているものである。「いさよふ雲」は、動こうとして、動かずに躊躇している雲で、「の」は、のごときの意のもの。○よそり妻はも 「よそり妻」は、ここにあるのみの語で「よそり」は、他人が寄せようと仲介している意の語で、複合名詞。他人の仲介しているところのわが妻は、なあの意。
【釈】 一つの峰に在るものといわれているものながら、他の青嶺のほうへ移ろうとして移らずにためらっている雲のような、仲介されているところのあのわが妻は、なあ。
【評】 女を仲介されようとしている男の、その女を思う歌である。女は娘で、そういう際の娘の共通の状態として、仲介者に対して拒んでいるのである。しかし男から見ると、娘は口では拒んでいるが、心では応じようとするところがあって、ただ踏み切りがつけられずに躊躇しているので、それを思うと、男は娘がかわゆく、すでにわが妻のような気がし、条件をつけて「よそり妻」といっているのである。「はも」はよそり妻に対してのかわゆさの表現である。「雲」はその娘の心の譬喩で、「一嶺ろ」を、その親、あるいはその処女性を持った心に譬え、「青嶺ろ」を、男に譬えているのであって、娘のやや複雑した気分を、男の立場からいっているので、難解のごとくみえるが、いっている心そのものは特殊のものではない。この歌は難解なものとなっていて、解は諸注それぞれ異なっている。今は上のごとく解する。東歌の趣の濃い歌である。
3513 夕《ゆふ》されば み山《やま》を去《さ》らぬ 布雲《にのぐも》の 何《あぜ》か絶《た》えむと 言《い》ひし児《こ》ろはも
由布佐礼婆 美夜麻乎左良奴 尓努具母能 安是可多要牟等 伊比之兒呂婆母
【語釈】 ○夕さればみ山を去らぬ 夕方になると、山を離れずにいるで、「み」は、接頭語。○布雲の 「にの」は、「ぬの」の東語で、布のごと(242)く横に靡いている雲。譬喩として「絶え」にかかり、以上その序詞。○何か絶えむと言ひし児ろはも 「何か」は、などかの東語。何で絶えようかといった、あのかわゆい女は、なあ。
【釈】 夕方になると山に沈んで離れずにいる布雲の切れないように、何であなたと切れなどしようかといったあの女は、なあ。
【評】 君とけっして絶えまいと誓った女の、誓いを裏切って絶えたのを思う心である。ただそれだけで、それ以上の心の動きは見せてはいないもので、そこに余意があり、一脈の味わいをなしている。「布雲」を捉えているのは新味がある。類の多いことであったろう。すぐれてはいないが、空疎ならぬ抒情味がある。
3514 高《たか》き峰《ね》に 雲《くも》の著《つ》くのす 我《われ》さへに 君《きみ》に著《つ》きなな 高峰《たかね》と思《も》ひて
多可伎祢尓 久毛能都久能須 和礼左倍尓 伎美尓都吉奈那 多可称等毛比弖
【語釈】 ○雲の著くのす 「のす」は、「なす」の東語で、のごとく。雲の着くように。○我さへに君に著きなな 「我さへに」は、我までも。「君に著きなな」の「なな」は、上の「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形で、下の「な」は、希望の助詞。着いてみたいなあの意。○高峰と思ひて 君を高蜂のように思ってで、これは身分の隔たりの意のものではない。
【釈】 高い峰に雲が着いているように、我までも君に着いていたいなあ。君を高い峰のように思って。
【評】 女が、高い峰に雲がいつも着いているのを見て、自分もあの雲のようにいつも君に着いていたいと思った心である。夫婦関係は結んでいるが、別居している生活を飽き足らず感じ、同棲したい心をいっているものと取れる。これは望みうることであったから、妻として当然起こる希望であったと思われる。しかし歌としては例の少ない心である。詠み方は素朴を極めたものである。
3515 我《あ》が面《おも》の 忘《わす》れむ時《しだ》は 国《くに》はふり 嶺《ね》に立《た》つ雲《くも》を 見《み》つつ偲《しの》はせ
阿我於毛乃 和須礼牟之太波 久尓波布利 祢尓多都久毛乎 見都追之努波西
【語釈】 ○我が面の忘れむ時は わが顔を思い忘れるだろう時には。「しだ」は、時の東語。○国はふり 「国」は、狭い一劃の地域の称のもので、ここはこの男女の郷土の意のもの。「はふり」は、溢れてで、雲の上昇する作用を、溢れてのことと感じての語。○嶺に立つ雲を見つつ偲はせ (243)「嶺に立つ」は、山の峰に現われる。「偲はせ」は、偲ふの敬語の命令形で、お思いなさい。
【釈】 わが顔を忘れるであろう時には、この国に溢れて、山の峰に現われる雲を見つつ、我をお偲びなさい。
【評】 この歌は、男が多分防人とされて旅立つ時に、その妻の贈った歌である。「我が面の忘れむ時は」は、心としては、我を思う時にはで、それを別れている期間の長いことに関係させていっている語である。下の(三五二〇)に、「面形の忘れむ時は」とあり、巻二十(四三六七)に「あが面《もて》の忘れも時《しだ》は」とあって、慣用句となっていたことが知られ、特別のものではなかったのである。また、「国はふり嶺に立つ雲を」は、いわゆる形見であって、雲にわが魂が宿っているとしてのものである。わが魂ということは、「国はふり」の「国」が示している。雲そのものに特別の意があるのではなく、雲は遠隔の地にあっても見られるものであり、また山の峰の雲は不断にもあるものだから、最も適当なものとしていっているのである。歌の形から見ると、何らかの神秘感のこもっているもののごとくみえるが、作意としては尋常のものである。雲そのものに霊を感じていたとみえるが、今の場合は、そうしたことは関係させてはいない。
3516 対馬《つしま》の嶺《ね》は 下雲《したぐも》あらなふ 上《かむ》の嶺《ね》に たなびく雲《くも》を 見《み》つつ偲《しの》はも
對馬能祢波 之多具毛安良南敷 可牟能祢尓 多奈婢久君毛乎 見都追思努波毛
【語釈】 ○対馬の嶺は 「対馬」は、対馬国。「嶺」は、総称としていっている語で、眼前に見ている山をいっているものと取れる。厳原西方の有明山か。○下雲あらなふ 「下雲」は、ここにのみある語である。下方の雲すなわち低い雲で、上方の高い雲に対させての称。「あらなふ」は、「なふ」は、東語の打消の助動詞の終止形。○上の嶺に 上方に聳えている峯に。○見つつ偲はも 「偲はも」は、「偲はむ」の東語で、妹を思おう。
【釈】 対馬国の山には下雲がかからない。上方に聳えている峯にたなびいている雲を見つつ、妹を偲ぼう。
【評】 これは防人として対馬にいる東国の男の歌である。作意から見て、上の歌に対する答の形をなしているものである。すなわち「嶺に立つ雲を見つつ偲はせ」に対し「上の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも」といっているのである。時の距離が大きいが、別れの時の妻の歌を思い出して、それに答えたのである。
3517 白雲《しらくも》の 絶《た》えにし妹《いも》を 何《あぜ》せろと 心《こころ》に乗《の》りて 許多《ここば》悲《かな》しけ
思良久毛能 多要尓之伊毛乎 阿是西呂等 許己呂尓能里弖 許己婆可那之家
(244)【語釈】 ○白雲の絶えにし妹を 「白雲の」は、雲がちぎれる意で、「絶え」の枕詞。「絶えにし妹」は、関係の絶えてしまった妹で、「にし」は、過去完了。○何せろと 「何」は、いかに。「せろ」は、せよの東語で、「と」は、というのかで、我とわが心を訝かって自問しているもの。○許多悲しけ 「許多」は、「ここだ」と同じ、甚しく。「悲しけ」の「け」は、「き」の古形、連体形で、「何」の結。
【釈】 白雲のように絶えてしまった妹を、どうしろというのか、心にかかって甚しくも悲しいことである。
【評】 すでに関係の絶えてしまった女のことが思われ、悲しい気までする男が、我とわが心の働きを訝かって、自問している歌である。これは一般性のある心である。この歌では「何せろと」が一首の眼目となっている。後世の歌だと、この場合のこうした語は、洒落に近いものであるが、この時代にあっては、心の働きは、わが心ながらも他の大きな力が働きかけて、思わせているものと信じていたので、問題となるものだったのである。大きな力とは神に対する信仰よりのもので、すなわち神意の加わっての思いだとしたのである。当時にあっては誰にも直接に響く歌であったろうと思われる。
3518 岩《いは》の上《へ》に い懸《かか》る雲《くも》の かのまづく 人《ひと》ぞおたはふ いざ寝《ね》しめとら
伊波能倍尓 伊可賀流久毛能 可努麻豆久 比等曾於多波布 伊射祢之賣刀良
【解】 上の(三四〇九)「伊香保ろに雨雲い継ぎかぬまづく人とおたはふいざ寝しめとら」の別伝である。「かのまづく」は「かぬまづく」と同じ。初句「岩の上に」は、伊香保地方以外の地に伝誦されての変化である。二句も小異がある。「語釈」「釈」「評」ともに上の歌に譲る。
3519 汝《な》が母《はは》に 嘖《こ》られ吾《あ》は行《ゆ》く 青雲《あをくも》の いで来《こ》吾妹子《わぎもこ》 あひ見《み》て行《ゆ》かむ
奈我波伴尓 己良例安波由久 安乎久毛能 伊弖來和伎母兒 安必見而由可武
【語釈】 ○汝が母に嘖られ吾は行く 「汝」は、男がその女を呼びかけてのもの。「嘖られ」は、叱られて。懲らされてより転じた語。あなたの母に叱られて、われは帰って行く。男が女の家へ忍んで行き、女の母に見出されての状態。○青雲のいで来吾妹子 「青雲」は、『全註釈』は、うす黒い雲だという。雲の名で、多い雲でなくてはならない。黒色の青みがかった馬を、青馬というので、この解に従う。「いで」にかかる枕詞。「いで来吾妹子」は、家を出て来い、吾妹子よ。○あひ見て行かむ 逢って帰って行こう。
【釈】 あなたの母に叱られて、我は帰って行く。青雲のように出ていらっしゃい、吾妹子よ。逢って帰って行こう。
(245)【評】 夫婦関係を女の母に妨げられる歌は多いが、これはその状況を会話によって具象化している、珍しい歌である。庶民間にはこうした露骨な妨げ方が多く、したがって多くの男はこれと同じ体験をもたされていたのである。歌は、事に合わせては明るいもので、男は平然としているのみならず、女を戸外へ呼び出しさえしているのである。その意味で「青雲の」の枕詞は利いている。謡い物で、体験をもっている男は、一種の興味をもって謡ったろうと思われる。
3520 面形《おもかた》の 忘《わす》れむ時《しだ》は 大野《おほの》ろに たなびく雲《くも》を 見《み》つつ偲《しの》はむ
於毛可多能 和須礼牟之太波 於抱野呂尓 多奈婢久君母乎 見都追思努波牟
【語釈】 ○面形の忘れむ時は 「面形」は、顔の形で、顔の形を忘れそうな時は。○大野ろにたなびく雲を 大野にたなびく雲をで、「大野」は、普通名詞。「ろ」は、接尾語。
【釈】 君の面形を忘れるだろう時には、大野にたなびいている雲を見つつ、君を偲ぼう。
【評】 この歌は、防人として旅立つ夫に対して、その妻の贈った歌である。上の(三五一五)の「我が面の忘れむ時は国はふり嶺に立つ雲を見つつ偲はせ」と、酷似した形である。しかし心としては、上の歌は夫を主と立てていっているものであるのに、この歌は自身に重点を置いていっているものである。同じく夫を思う心ではあるが、こうした際はあくまでも相手を主と立てるべきで、平常の場合でもそうするのが礼であり、型ともなっていたのである。その意味では破格に近い歌である。この歌の雲も、「大野ら」は男女の住地で、雲は不断にたなびいているものであるから、男の親しんで見ているものの意で、形見とはなるものである。しかしその意の稀薄なものである。自身のこととしての「面形の忘れむ時」は妥当ではない。慣用句に縋っての不用意の歌というべきである。
3521 鴉《からす》とふ 大《おほ》をそ鳥《どり》の まさでにも 来《き》まさぬ君《きみ》を 子《こ》ろ来《く》とぞ鳴《な》く
可良須等布 於保乎曾杼里能 麻左〓尓毛 伎麻左奴佼美乎 許呂久等曾奈久
【語釈】 ○鴉とふ大をそ鳥の 「とふ」は、「といふ」の約。鴉を疎む意で、わざと距離をつけての呼び方。「大をそ鳥」は、「をそ」は、嘘の東語とされていたが、『全註釈』は軽率の意とした。巻四(六五四)「恋ふといはばをそろ(軽率)と吾をおもはさむかも」の用例によってである。大あわて者の鳥がの意。○まさでにも 正しくもで、東語。○来まさぬ君を子ろ束とぞ鳴く 「来まさぬ」は、来ぬの敬語。「子ろ来」は、「子ろ」(246)は、男より女の愛称として用いている称であるが、ここは男の愛称としたもの。「来」は、来るの意。これは鵜の鳴き声をそのように聞き取った意である。鳥の鳴き声で吉凶を占うことは、古くから行なわれていたことで、巻二(一九二)日並皇子尊の殯宮の時の舎人の歌にもある。これもその範囲のものである。「子ろ来」は、男に対しては適切なものではないが、鴉の鳴き声とし、また占いの語とすれば、十分なものであったろう。「鳴く」は、「ぞ」の結。
【釈】 鴉という大あわて者の鳥が、まさしくもいらっしゃらない君を、子ろ来と鳴くことであるよ。
【評】 男の来るのを待ちわびている女の、鳥占の信仰から、鴉の鳴き声を「子ろ来」と聞きなしていて、最後に怒りを発しての罵りである。今日では諧謔のように感じるが、当時はそうしたものではなかったろう。取材の新しいのと、一首が明るいのとで、情景の浮かんで来る面白い歌である。以下動物に寄せての歌である。
3522 昨夜《きぞ》こそは 児《こ》ろとさ宿《ね》しか 雲《くも》の上《うへ》ゆ 鳴《な》きゆく鶴《たづ》の 間遠《まとほ》く思《おも》ほゆ
伎曾許曾波 兒呂等左宿之香 久毛能宇倍由 奈伎由久多豆乃 麻登保久於毛保由
【語釈】 ○昨夜こそは児ろとさ宿しか 「きぞ」は、昨夜。前日、あるいは最近の幾日かの意であるが、転じて昨夜の意となったもの。「児ろとさ宿しか」は、かわゆい女と共寝をしたことだで、「さ」は、接頭語、「しか」は、過去の助動詞「き」の已然形で、「こそ」の結。前提法となっている。○雲の上ゆ鳴きゆく鶴の 雲の上をとおって鳴いてゆく鶴ので、距離の遠い意で譬喩として「間遠」の序詞。○間遠く思ほゆ 遠い以前に思われる。
【釈】 昨夜、かわゆい妻と共寝をしたのだ。それだのに、雲の上をとおって鳴いて行く鶴のように、遠い以前のことに思われる。
【評】 昨夜、共寝をしたことが、今日は遠い以前のような気がするというので、飽くことを知らない恋の心をいったものである。京の歌とさして異ならない詠み方をしているのは、事の性質上、よるところの歌があったためであろう。
3523 坂《さか》越《こ》えて 安倍《あぺ》の田《た》の面《も》に ゐる鶴《たづ》の ともしき君《きみ》は 明日《あす》さへもがも
佐可故要弖 阿倍乃田能毛尓 爲流多豆乃 等毛思吉伎美波 安須左倍母我毛
【語釈】 ○坂越えて安倍の田の面に 「坂越えて」は、三句の「ゐる」へ続くもの。「安倍」は、諸所にある地名だが、東国では、巻三(二八四)(247)「駿河なる阿倍の市道に」とある地で、静岡市の安倍川河口付近の地であろう。○ゐる鶴の 舞い下りている鶴ので、その珍しい意で「ともしき」にかかり、以上その序詞。○ともしき君は明日さへもがも 「ともしき君は」は、愛すべく慕わしい君はの意。「ともし」は、意味の広い語である。「明日さへ」は、今日を基本とし、それに明日を加えている意で、明日もまた。「もがも」は、願望で、明日もまた逢いたいものだなあの意。
【釈】 坂を越して、安倍の田の上に来て、舞い下りている鶴の珍しいように、愛すべく慕わしい君は、明日もまた逢いたいものだなあ。
【評】 安倍に住んでいる女が、通って来た男の朝帰るのを見送るおり、たまたまその田圃に下りている鶴を見て、その鶴に男をなぞらえ、君は明日もまた来て欲しいものだと、男に詠みかけた歌である。「坂越えて安倍の田の面に」という序詞は、鶴を海べにいる鳥だとしていっているもので、「坂」はその海べのほうへ行く路にあるものとして、海べのほうから来たものの意をあらわしているのである。同時にその坂は、男の住地のある方面をもあらわすものとしてもいるのである。「明日さへもがも」という、おおまかな言い方は、直接男に対していっているものだからである。実際に即しつつ、心細かく、調べ柔らかに詠んだ歌で、東国風と素朴さを失わない歌である。
3524 真小薦《まをごも》の 節《ふ》の間《ま》近《ちか》くて 逢《あ》はなへば 沖《おき》つ真鴨《まかも》の 嘆《なげき》ぞ吾《あ》がする
麻乎其母能 布能末知可久弖 安波奈敞波 於吉都麻可母能 奈氣伎曾安我須流
【語釈】 ○真小薦の節の間近くて 「真小薦」は、上の(三四六四)に出た。「節の」は、節と節との間で、譬喩として、「間近く」にかかり、以上七音はその序詞。「間近くて」は、家と家との距離が近くて。○逢はなへば 「なへ」は、東語の打消の助動詞「なふ」の已然形。逢わずにいるのでで、周囲の人目の多い意からである。○沖つ真鴨の嘆ぞ吾がする 「沖つ真鴨の」は、沖に住む真鴨ので、「真鴨」は、鴨の種名。鴨は水中に潜っている時間が長く、したがって浮かび上ると長い息をつく意で、長息の約「嘆き」にかかる序詞。「嘆ぞ吾がする」は、「する」は、「ぞ」の結。
【釈】 真薦の節と節との間の近いように、女との家の距離が近くて違えずいるので、沖に住む真鴨のように、われは嘆きをすることである。
【評】 家が近いが逢えず、そのために深い嘆きをするというのは、部落生活の実際に即した心である。「真小薦の節の」と「沖の其鴨の」と、いずれも水に関した譬喩の意の序詞を設けて、対照的に扱う上に、「真」の同音までも用いているところは、用意をもっての技巧である。結果から見ると、それがかえって実感をそこねているのであるが、謡い物としてはその点が喜ばれたのであろう。一種の野趣である。
(248)3525 水久君野《みくくの》に 鴨《かも》の匍《は》ほのす 児《こ》ろが上《うへ》に 言《こと》をろ延《は》へて 未《いま》だ寝《ね》なふも
水久君野尓 可母能波抱能須 兒呂我宇倍尓 許等乎目波敞而 伊麻太宿奈布母
【語釈】 ○水久君野に鴨の匍ほのす 「水久君野」は、地名であろう。「くく」は、潜る意の動詞で、巻十七(三九六九)「春の野の繁み飛びくく鶯の」の用例がある。水を潜る野で、いつも水の溜まっている野で、それが地名となったものと取れる。「鴨の匍ほのす」は、「匍ほ」は、「匍ふ」、「のす」は、「なす」の東語で、匍うごとくに。これは水鳥である鴨が浅い水を渉り歩く格好で、「言をろ延へて」の譬喩。○児ろが上に言をろ延へて 「児ろ」は、女の愛称。「言をろ延へて」は、「ろ」は、接尾語で、言葉を通わしてで、求婚して、承諾を得ての意。「延へて」は、用例の少なくない語である。○未だ寝なふも 「なふ」は、東語の打消の助動詞。
【釈】 水久君野に鴨が匍っているがようにして、あのかわゆい女に言葉を通わして、まだ共寝をしないことだ。
【評】 女に求婚をして承諾を得た男の、事はそれにとどまって、逢いがたくしている嘆きである。「水久君野に鴨の匍ほのす」は、「言をろ延へて」の譬喩で、言を通わすまでに、道も遠く、話の成立もたどたどしくて、容易でなかった心をこめていっているもので、それがすなわち「未だ寝なふも」の嘆きを深めているのである。奇抜な譬喩であるが、男はその住地で見馴れている事柄で、実感を適切に示しているものとして捉えたものであって、それが同時に周囲に承認されて謡い物ともなったのである。実感が新味とも、強味ともなっている歌で、典型的に東歌の特色を見せている歌である。
3526) 沼《ぬま》二《ふた》つ 通《かよ》は鳥《とり》が巣《す》 吾《あ》が心《こころ》 二行《ふたゆ》くなもと 勿《な》よ思《も》はりそね
奴麻布多都 可欲波等里我栖 安我己許呂 布多由久奈母等 奈与母波里曾祢
【語釈】 ○通は鳥が巣 「通は」は、通う。「鳥が巣」は、水禽の巣で、巣は、寝る所の意でいっているもの。以上譬喩として「二行く」にかかる序詞。○二行くなもと 「なも」は、「らむ」。二方へ行く、すなわち二人の女の所へ通うだろうと。「二行く」は、中央の語として用例がある。○勿よ思はりそね 「勿よ」は、禁止の助詞「な」に、感動の助詞「よ」の添ったもの。「勿よ」は、他に例のない語。「思はり」は、「思う」の意、思うなよ。
【釈】 沼の二つへ通う水禽の巣のように、わたしの心が二方へ行っているだろうとは思いなさるなよ。
【評】 男が女から、自分以外にも心を通わしている女があるだろうと疑われた時に、そんなことを思っていてはくれるなと弁(249)解した心である。「沼二つ通は鳥が巣」は、そうした状態を見ることの多い、特殊な地に住む男女の間にのみ適切に感じられる皆喩で、「巣」は寝どころで、これによって生かされている。「勿よ思はりそね」という言い方も、頼む形のもので、特色がある。東語の多い歌で、その土地に限られての謡い物である。
3527 沖《おき》に住《す》も 小鴨《をかも》のもころ 八尺鳥《やさかどり》 息《いき》づく妹《いも》を 置《お》きて来《き》のかも
於吉尓須毛 乎加母乃毛己呂 也左可杼利 伊伎豆久伊毛乎 於伎弖伎努可母
【語釈】 ○沖に住も小鴨のもころ 「住も」は、「住む」の東語。「小鴨」の「小」は、美称。「もころ」は、ごとしという意の語で、体言と取れる。沖に住んでいる鴨のようにで、鴨は上にも出たように水に潜っている時間が長く、したがって息づく時間も長いとされている鳥である。○八尺鳥息づく妹を 「八尺鳥」は、ここにあるのみの語で、他に用例がなく、語義は諸説がある。「八尺」は、長いという意の慣用語で、巻十三(三二七六)「吾が嗟く八尺の嗟」の用例がある。この長い意は、下の「息づく」へ枕詞としてかかる関係上、鳥そのものの形をいうのではなく、息づくことの長い意である。したがって「八尺鳥」は長い息づきをする鳥である。この語はそうした鳥の総称と取れる。長い息づきをする鳥ので、「息づく」にかかる枕詞。「息づく妹を」は、嘆きをする妹を。○置きて来のかも 「来の」は、「来ぬ」の東語。後に残して来たことであるよ。
【釈】 沖に住んでいる鴨のように、長い息づきをする鳥のように嘆きをする妻を、後に残して来たことである。
【評】 海岸地帯に住んでいる男の、防人に召されて、旅路に上って、途中、別れて来た妻を思い出しての心である。妻を思うと、その溜め息をついていたさまが思い出され、平常見馴れている「沖に住も小鴨のもころ」と思ったのであるが、さらに小鴨を強調するために、そうした鳥の総称の「八尺鳥」を冠して、その息づきを思ったのである。妹を憐れむ心からは「八尺鳥」を添えなくてはいられなかったのである。自身には触れず、妻の上のみを思っている歌で、それは型となっていることである。
3528 水鳥《みづとり》の 立《た》たむよそひに 妹《いも》のらに 物《もの》言《い》はず来《き》にて 思《おも》ひかねつも
水都等利乃 多々武与曾比尓 伊母能良尓 毛乃伊波受伎尓弖 於毛比可祢都毛
【語釈】 ○水鳥の立たむよそひに 「水鳥の」は、舞い立つ意で、「立たむ」にかかる枕詞。「立たむよそひ」は、旅立とうとする支度にで、忙しい時としていったもの。○妹のらに物言はず来にて 「妹のら」は、「妹なろ」と同じく、妻の愛称。「物言はず来にて」は、物もいわずに来てしまってで、「に」は、完了。○思ひかねつも 嘆きに堪えないことだ。
(250)【釈】 水鳥のように、旅立とうとする支度で、かわゆい妹に物をいう隙もなく来てしまって、嘆きに堪えられないことだ。
【評】 上の歌と同じく、防人として旅路に出て、途中妻を思った心である。防人は命令の下るのと発足との間に時間の余裕がなかったので、きわめて忙しかったのである。その状態は、巻四(五〇三)人麿作の「珠衣のさゐさゐ沈め家の妹に物語はず来て思ひかねつも」、巻二十(四三三七)「水鳥の立ちのいそぎに父母にもの云《は》ず来《け》にていまぞくやしき」などがあり、型ができていて、それによって詠んだ形のものである。
3529 等夜《とや》の野《の》に 兎《をさぎ》窺《ねら》はり をさをさも 寝《ね》なへ児《こ》ゆゑに 母《はは》にころはえ
等夜乃野尓 乎佐藝祢良波里 乎佐乎左毛 祢奈敞古由惠尓 波伴尓許呂波要
【語釈】 ○等夜の野に兎窺はり 「等夜」は、地名であろうが、所在不明。「をさぎ」は、兎の東語。「窺はり」は、類語として上の(三五二六)に「勿よ思はり」があり、「窺はり」「もはり」は、ねらい、思いの東語と取れる。兎をうかがって。「をさぎ」を同音で「をさをさ」にかけ、以上その序詞。○をさをさも寝なへ児ゆゑに 「をさをさ」は、はかばかしくもの意の副詞で、大体下に否定の述語が続く。「寝なへ」の「なへ」は、東語の打消の助動詞「なふ」の、さらに訛ったもので、連体形。「児ゆゑに」は、女のために。○母にころはえ 「母」は、娘の母。「ころはえ」は、叱り罵られる意。「ころふ」の受身。連用形。女の家へ忍んで行って、その母に発見されて追われた意。
【釈】 等夜の野で、「をさざ」を捕ろうとねらうのに因みのある、おさおさ共寝をしない女のために、その女の母に、叱り罵られて。
【評】 女の家へ忍んで行き、その母に発見されて追われた男の愚痴である。愚痴ではあるが程度があって、強いものではないことが、「をさをさも」という副詞と、「ころはえ」という連用形で結んだところに現われている。また、「等夜の野に兎窺はり」も、気分として、うかがい損ねてとの意でからんでいて、一段とその意を明らかにしている。要するに、むしろ軽い愚痴である。それがこの男の実感で、同時にこうした部落の男の一般感情であったろう。野趣の濃厚な歌である。
3530 さを鹿《しか》の 伏《ふ》すや叢《くさむら》 見《み》えずとも 児《こ》ろが金門《かなと》よ 行《ゆ》かくし善《え》しも
左乎思鹿能 布須也久草無良 見要受等母 兒呂我可奈門欲 由可久之要思母
(251)【語釈】 ○さを鹿の伏すや叢 「を」は、牡の場合と、「小」が、美称で、単に鹿の場合とのあることを『新考』がいっている。ここなど鹿の意のほうが自然である。「伏すや」は、「や」は、感動の助詞で、伏している。その姿の見えない意で、「見えず」にかかり、以上その序詞。○見えずとも 妹の姿は見えなかろうとも。○児ろが金門よ 「金門」は、門。「よ」は、「ゆ」と同じく、を通って。○行かくし善しも 行くことのよさよ。
【釈】 鹿の叢に伏しているように、その姿は見えなかろうとも、妹の家の門口を通って行くことのよさよ。
【評】 昼、女の家の門口を通って行く時の男の、人知れぬ一種のたのしさをいったもので、明るい歌である。「さを鹿の伏すや叢」は、その住地の実際を捉えたものであるが、女の臥所を連想してのもので、気分のつながりを持ったものである。
3531 妹《いも》をこそ あひ見《み》に来《こ》しか 眉曳《まよびき》の 横山辺《よこやまへ》ろの 猪鹿《しし》なす思《おも》へる
伊母乎許曾 安比美尓許思可 麻欲婢吉能 与許夜麻敞呂能 思之奈須於母敞流
【語釈】 ○妹をこそあひ見に来しか 「あひ見に」は、逢いに。「しか」は、「こそ」の結で、来たのだ。○眉曳の横山辺ろの 「眉曳の」は、女が顔料で眉を描くことの称で、青く三日月形に描く。意味で「横」の枕詞。「横山辺ろの」は、「横山」は、低く横に連なっている山の称で、「辺ろ」は、「ろ」は、接尾語で、辺りにいる。○猪鹿なす思へる 「猪鹿」は、その肉を食用とする野獣の総称。田畑を荒らす憎むべき物としていた。「なす」は、ごとく。「思へる」は、思っているで、思っているのは、妹の母である。「妹をこそ」に対させてあるので、母ということを略した形のもの。
【釈】 妹にこそ逢いに来たのだ。それを女の母は、眉曳の横山のあたりにいる猪鹿のようにわれを思っている。
【評】 二首前の歌の場合と同じく、女の母に発見されて追われた時の歌である。前の男は、苦笑して愚痴をこぼしているのであるが、この男は眉をあげて怒っている点がちがう。前の男は兎をうかがうごとき態度で女の許に行ったのであるが、この男は、夫婦あい見るのは当然な権利だとしているので、それを追った母は、我を田畑を荒らす猪鹿扱いにしたのだと見なしているのである。夫婦というものに対する意識の相違の現われである。前の歌にも類想のものが少なくなく、この歌にも同じく少なくない。二つの意識が並び存していたのである。「寝」といわずに「見」と言い、追われることを「猪鹿なす」といって現わし、母という語を略しているなど、この男は知性的で、それが語のはしばしにまで現われている。東歌ではあるが、新しい時代のものと思われる。
3532 春《はる》の野《の》に 草《くさ》食《は》む駒《こま》の 口《くち》息《や》まず 吾《あ》を偲《しの》ふらむ 家《いへ》の児《こ》ろはも
(252) 波流能野尓 久佐波牟古麻能 久知夜麻受 安乎思努布良武 伊敞乃兒呂波母
【語釈】 ○春の野に草食む駒の 「春の野に」は、放牧されている野に。「草」は、若草。譬喩として「口息まず」にかかり、以上その序詞。○口息まず 口が休まずにで、言い続けに。○吾を偲ふらむ われを思っているだろうで、「らむ」は、連体形。○家の児ろはも 家にいるかわゆい女はなあ。「家」は、男の家で、「児ろ」は、同棲している妻。
【釈】 春の野に若草を貪り食んでいる駒のように、口が息まずに、われを思って言い読けているであろう、家にいるかわゆい女はなあ。
【評】 男が旅に出て、家の妻を思う心である。旅は尋常のものではなくみえるから、防人などであるかもしれぬ。また、旅立っての直後で、日数を経てのことではなくみえる。いっていることは、旅のわびしさでもなく、妻の恋しさでもなく、それ以前の、妻のかわゆさのみであって、じつに明るく、健康な心である。序詞は、この男の日常生活の状態につながるもので、譬喩として捉えているので、その生活状態も、部落民の間にまじっている妻のさまも、全面的に現われて来るものである。
3533 人《ひと》の児《こ》の 愛《かな》しけしだは 浜渚鳥《はますどり》 足悩《あなゆ》む駒《こま》の 愛《を》しけくもなし
比登乃兒乃 可奈思家之太波 々麻渚杼里 安奈由牟古麻能 乎之家口母奈思
【語釈】 ○人の児の愛しけしだは 「人の児」は、「人の」は、「児」を強調する意で冠した語。「児」は、女の愛称。「かなしけ」は、愛しきの古形で、「しだ」は、時。かわゆい女のかわゆい時には。○浜渚鳥足悩む駒の 「浜渚鳥」は、浜の洲に住んでいる鳥で、浜は砂浜。洲は水上に浅く現われた地で、そうした所に住む鳥は水禽で、したがって陸上を歩む時には無格好な歩み方をする意で、「足悩む」にかかる枕詞。「足悩む駒の」は、「足悩む」は、足の工合を悪くしている意で、馬には最も起こりがちなこと。「駒」は、飼馬。○愛しけくもなし 「愛しけく」は、形容詞「愛し」の名詞形。かわいそうなこともないで、乗馬としようとする意。
【釈】 かわゆい女の、かわゆい時には、浜や洲にいる水鳥のように、歩き悩んでいる飼馬も、乗るのをかわいそうなことに思えない。
【評】 急いで女の許へ行こうとする男の、馬でなくてはいけないと思い、おりからその飼馬は足の工合を悪くしていて、乗るのはふびんであるが、今はそれを思ってはいられないと、その飼馬に対して言いわけをしているような歌である。極度に実際に即した詠み方であるが、しかし抒情をとおしているものである。「人の児の愛しけしだは」は、何らかの特別な事情のあるこ(253)とを思わせる語である。「浜渚鳥足悩む駒の」以下は、この男の生活にとって駒が重大なものであることを暗示している語である。「足悩む」は例の多いことであり、「浜渚鳥」は住地につながりのある語で、この場合、譬喩として面白いものである。細かい気分を、実際に即しつついおうとするので、勢い抒情的になっている歌である。あくまで実際に即する点は古く、気分本位に、いささかの気分を捉えていっている点は新しく、その中間的なものである。東歌の展開の、一段階を示しているような歌である。
3534 赤駒《あかごま》が 門出《かどで》をしつつ 出《い》でかてに せしを見立《みた》てし 家《いへ》の児《こ》らはも
安可胡麻我 可度弖乎思都々 伊弖可天尓 世之乎見多弖思 伊敞能兒良波母
【語釈】 ○赤駒が門出をしつつ 赤駒が門出をしながら。作者である男が赤駒に乗っていたのであり、赤駒は飼馬である。「門出」は、防人などに徴されてのことであろう。庶民が駒に乗って門出をするのは特別なことだからである。ある地点までの乗馬である。○出でかてにせしを見立てし 「出でかてにせしを」は、赤駒が出かけかねるさまにしたのを。農馬は、家を出渋る習性を持っているものであるから、これは実際である。しかし乗っている男は、駒が男の心を汲んでのような心をもっていっているのである。「見立てし」は、旅立つのを見る意で、見送りをすること。この語は現在も地方では用いられている。○家の児らはも 家の妻はなあ。
【釈】 わが乗っていた赤駒が、門出をしながらも、出渋るようにしたのを、見送りをしていた、家の妻はなあ。
【評】 防人に立った男の、家を離れてある程度時がたち、妻との別れの時を思いかえした心である。最も強く思い出されて来たのは、家を出る際、乗っていた飼馬の赤駒が、家を出渋るさまをしたことで、男は、赤駒が自分の心を汲んでのことと思おうとし、妻もまた同じように思ったと見えて、双方、赤駒のさまを通して心を交わし会ったことだったのである。そうしたことは駒の習性だということを知っているので、立ち入ってのことはいっていないのであるが、場合柄とて心あってのことのごとく思い、そして「見立てし児ら」に憐れみを感じていっている歌である。細かい微かなことを捉えた歌で、気分本位である。しかし表現はあくまで実際に即して、感傷を起こし得る材であるにもかかわらず、それをしていないまでである。この詠み方は、上の歌と全く同じである。
3535 己《おの》が命《を》を おほにな思《おも》ひそ 庭《には》に立《た》ち 笑《ゑ》ますが故《から》に 駒《こま》に逢《あ》ふものを
(254) 於能我乎遠 於保尓奈於毛比曾 尓波尓多知 恵麻須我可良尓 古麻尓安布毛能乎
【語釈】 ○己が命をおほにな思ひそ 「己が命を」は、語義が諸注それぞれ異なっている。『総釈』は、古事記、崇神天皇の巻に、「己が命を盗み弑せむ」の歌詞により、己が命の意としている。これに従う。自分の生命を。「おほにな思ひそ」は、おろそかには思うなと禁止したもの。これは作者は女で、自身に対していったものと解す。それまでは、これとは反対に、深い悲哀から、己が生命を無用のものと思って来たのが、以下のことで、心機一転したことを示しているものである。○庭に立ち笑ますが故に 「庭に立ち」は、「庭」は屋前で、家への通路。そこに立って。「笑ますが故に」は「笑ます」は、「笑む」の敬語で、作者よりいうと敬語をもっていうべき人である。微笑をなされるがゆえに。これは作者である女の、夫の行動と取れる。○駒に逢ふものを 「駒」は、夫の乗馬。「逢ふ」は、以前から知っていて、また見る意でいっている語。「ものを」は感動の助詞。
【釈】 自分の生命をおろそかには思うなよ。君がわが家の庭に立って微笑をなされるゆえに、その乗馬にも、また逢うことだのに。
【評】 女が夫から甚しく疎遠にされ、その悲しみから命もいらないように思っていたところ、ある日突然、夫が馬で訪ねて来、屋前に立って微笑しているのを見、女はうれしさから、すぐには夫に物もいえず、目を逸らしてその見覚えのある馬に向けて、馬までもなつかしく感じた、という心と解される。悲しみやすく、喜びやすい女で、加えて気の弱い、はにかみやすい女には、ありうる情景であるとして、このように解した。この歌は難解な歌で、諸注すべて解を異にしている。純気分の歌で、語の続きに飛躍がありすぎるので、したがって、さまざまの解が盛れるのである。この語の続きは京の風ではない。しかし東歌とすると類廃的な気分のもので、一種特殊な歌である。
3536 赤駒《あかごま》を 打《う》ちてさ緒牽《をび》き 心引《こころび》き いかなる背《せ》なか 我《わ》がり来《こ》むといふ
安加胡麻乎 宇知弖左乎妣吉 己許呂妣吉 伊可奈流勢奈可 和我理許武等伊布
【語釈】 ○赤駒を打ちてさ緒牽き 「打ちて」は、鞭打って。「さ緒牽き」は、「さ」は、接頭語で、「緒」は、ここは駒の手綱。「牽き」は、引き絞ることで、「打ち」とともに駒の歩みを速める方法。「引き」を下の「心引き」へかけて、以上その序詞。○心引き 心を引き寄せてで、男が、女の心を自分のほうに引き寄せ、である。男の求婚時期の交渉は、すべて女の心を引き寄せるためのことであるから、それを指しての語である。○いかなる背なか どのような背ながで、「か」は、疑問の係。「背な」は、男の愛称。○我がり来むといふ 私の許へ来ようというのだろうか。
【釈】 赤駒を鞭打ち、手綱を引き絞って歩みを急がせるに因みある、わが心を自分に引き寄せて、どのような背なが、私の許へ(255)来ようというのだろうか。
【評】 女が男から求婚され、男に心の動くように、さまざまに仕向けられて、承諾しようとする直前の心情である。「赤駒を打ちてさ緒牽き」は、いずれも駒の歩みを急がせる方法で、ここは男が事を早く運ばせようと、いろいろにしている意で、「心引き」につながっているものである。「いかなる背なか」は、男の住地が多少なりとも離れていれば、平常交渉のないのが普通であるから、特別の意味のあるものではない。一首、要するに、求婚された男に応じようとし、一体どんな男だろうかと想像している心で、喜びと不安の中間の心持である。捉えて明らかにはいえない一種の気分をあらわそうとしている歌で、一般性をもった心持ではあるが、歌としては珍しい、特殊なものである。
3537 くへ越《ご》しに 麦《むぎ》食《は》む小馬《こうま》の はつはつに あひ見《み》し児《こ》らし あやに愛《かな》しも
久敞胡之尓 武藝波武古宇馬能 波都々々尓 安比見之兒良之 安夜尓可奈思母
【語釈】 ○くへ越しに麦食む小馬の 「くへ」は、不明の語であるが、次の或本の歌には「馬せ」となっていて、それと同じものとみえる。「馬せ」は現在信濃国では、厩の出入口に横たえてある柵代わりの 桟を、「ません棒」と呼んでいる。「馬せ」は、それと同じ性質の物と思われる。「くへ」は、それと同じ物で、地域を異にしている所の称ではなかろうか。「くへ越しに」は、厩の中から、頸を伸ばして、柵代わりの棒の間を越して。「麦食む」の「麦」は、畑に作ってある麦ではなく、駒の飼ばとして近く置いてある穀物としての姿であろう。「食む」は、盗み食いをする意。幾らも食むことができない意で、「はつはつ」にかかり、以上その序詞。「小馬」の「小」は、愛称。○はつはつにあひ見し児らし 「はつはつに」は、わずかに。「あひ見し児ら」は、関係した女で、「児ら」は、女の愛称。「し」は、強意の助詞。○あやに愛しも やたらにかわゆいことだ。
【釈】 厩のくへ越しに、頸を伸ばして麦を盗み食いする駒のように、わずかに関係をした女が、やたらにかわゆいことだ。
【評】 四、五句が重点であるが、これは慣用句となっていて、広く謡われていたものとみえる。「はつはつに」は、それであるがゆえに愛着の深い意のもので、一首の作意の上からは重いものである。「くへ越しに麦食む小馬の」は、「はつはつに」を生かすためのもので、新意がある。この序詞は、生活状態に即するとともに、「あひ見し」に気分としてのつながりの深いもので、この歌の魅力となっているものである。
或本の歌に曰く、、馬柵越《うませご》し 麦《むぎ》食《は》む駒《こま》の はつはつに 新膚《にひはだ》触《ふ》れし 児《こ》ろし愛《かな》しも
或本歌曰、宇麻勢胡之 牟伎波武古麻能 波都々々尓 仁必波太布礼思 古呂之可奈思母
(256)【語釈】 ○馬柵越し 「馬柵」は、上にいった。「せ」は、塞の意であろう。○新膚触れし 「新膚」は、初めて男に接しる女の膚の称で、それに触れたの意。
【釈】 略す。
【評】 上の歌の流動してのものである。「はつはつに新膚触れし」という続きは、事としても無理である。刺激的にしようとして換えたものと取れる。
3538 広橋《ひろはし》を 馬うま《》越《こ》しがねて 心《こころ》のみ 妹《いも》がり遣《や》りて 吾《わ》はここにして
比呂波之乎 宇馬古思我祢弖 己許呂能未 伊母我理夜里弖 和波己許尓思天
【語釈】 ○広橋を馬越しがねて 「広橋」は、幅の広い橋で、普通名詞。「馬越しがねて」は、馬が渡り得ずして。これはあるべくもないことで、渡れないのは、その馬に乗っている人である。多分人目をはばかるために越せないのを、馬に嫁した言い方である。○心のみ妹がり遣りて 心だけを妹の許にやって。これは夢に対する信仰と同じ性質のもので、可能を信じられていたことである。感傷よりの語ではなく、信仰としていっているものである。○吾はここにして わが身はここにいて。
【釈】 広橋をわが馬は越すことができないので、心だけを妹の許へやって、わが身はここにいて。
【評】 女に贈った歌で、疎遠にしている言いわけである。極度に説明的な歌で、二句、四句、結句と、それぞれ「て」の助詞を据えている形のものである。口頭語をそのまま歌の形にしたものである。明晰のみを旨としたこうした形も存在しうるもので、実際には相応に多く、この歌はたまたま採録されて残ったものではなかろうか。このことは別伝があることによっても思わせられる。
或本の歌の発句に曰く、小林《をはやし》に 駒《こま》をはささげ
或本歌發句曰、乎波夜之尓 古麻乎波左佐氣
【解】 「発句」は、ここでは一、二句である。「小林」は、「小」は美称で、林。「駒をはささげ」は、下の(三五四二)に、「駒を馳させて」とあり、それと同意で、馳せさせての意の東語と取れる。林の中で駒を馳せさせてで、進行が自由にならない意の譬喩である。「広橋」のある地とは異なった地で謡い替えたものであろう。こちらのほうが理詰めで、刺激的である。
(257)3539 崩岸《あず》の上《うへ》に 駒《こま》を繋《つな》ぎて 危《あや》ほかど 人妻《ひとづま》児《こ》ろを 息《いき》に我《わ》がする
安受乃宇敞尓 古馬乎都奈伎弖 安夜抱可等 比登豆麻古呂乎 伊吉尓和我須流
【語釈】 ○崩岸の上に 「崩岸」は、崖崩れの意の古語で、「くづれ」ともいい、広い範囲での語。○駒を繋ぎて 駒をつなぎ留めて。譬喩として「危ほか」に続き、以上その序詞。○危ほかど 「危ふけど」の東語。危ういけれどもで、人妻に対する恋。○人妻児ろを 人妻であるかわゆい女を。「児ろ」は、愛称。○息に我がする 「息に」は、わが命のごとくに。「我がする」は、わが常に思っているで、「する」は、連体形。「息の緒に念ふ」という慣用句と同意である。
【釈】 崖くずれの上に駒を繋いでいるように危険であるけれども、人妻であるかわゆい女を、わが命のように絶えず思っていることだ。
【評】 人妻に思いを寄せる歌は少なくないものである。この歌は、「危ほかど」が中心になっていて、素朴なものである。「崩岸の上に駒を繋ぎて」は、日常生活から捉えた、感覚的な鋭いものであるが、一首全体が思い詰めた、粘り強い言い方のものなので、調和して、目立たないものとなっている。「息に我がする」も力のある句である。
3540) 佐和多里《さわたり》の 手児《てこ》にい往《ゆ》き逢《あ》ひ 赤駒《あかごま》が 足掻《あがき》を速《はや》み 言《こと》問《と》はず来《き》ぬ
左和多里能 手兒尓伊由伎安比 安可故麻我 安我伎乎波夜美 辞等登波受伎奴
【語釈】 ○佐和多里の手児にい往き逢ひ 「佐和多里」は、地名。沢渡で、地形からの称かという。「手児」は、美貌の女の愛称で、しばしば出た。「い」は、接頭語。○赤駒が足掻を速み 「赤駒」は、乗っている駒。「足掻」は、馬の歩み。「速み」は、速いので。○言問はず来ぬ 物をいわずに来たで、その隙のなかったのを残念に感じての意。
【釈】 佐和多里の手児に行き逢って、赤駒の歩みが速いので、物をいわずに来た。
【評】 手児に関係をもっている男の心残りの歌である。叙事的な歌なので、淡いながらもその際の情景を浮かばせる歌である。こうした些事を詠んだ歌が、広く謡われていたということは、健康で、明るく、日常生活をたのしんでいたことを示していることである。
(258)3541 崩岸方《あずへ》から 駒《こま》の行《ゆ》このす 危《あや》はども 人妻《ひとづま》児《こ》ろを ま行《ゆ》かせらふも
安受倍可良 古麻能由胡能須 安也波刀文 比登豆麻古呂乎 麻由可西良布母
【語釈】 ○崩岸方から 崖崩れのほうの道を通って。「から」は、経過の地点を示すもの。○駒の行このす 「行こ」は、「行く」の、「のす」は、「なす」の東語。駒の行くように。○危はども 「危は」は、「危ふ」で、前々歌の「危ほかど」と同意の語と思われる。危ういけれども。○ま行かせらふも 「ま」は、接頭語。「行かせらふ」は、「行かせり」の継続をあらわしている語で、行かせつついるの意。この語の語義は、諸説があって、定まらない。
【釈】 崖崩れのほうを通って、駒を行かせるように危険であるが、人妻であるかわゆい女を、行かせつついることだ。
【評】 結句が不明で、問題として残る歌であるが、大体上の意のものであろう。すなわち人妻に懸想している男が、その女を誘い出して、甚しく人目を惧れつつも、どこかへ連れて行く途中の心持である。人妻とはいえ、大体夫婦同棲してはいなかったので、女が応じさえすれば、このようなことはあり得たことだったのである。この歌は前々歌と密接な関係をもっているものである。人妻への懸想を、崩岸の上の駒に譬えることが、日常生活の実際から見て適切なところから魅力あるものに感じ、それにならっての歌で、無論謡い物として謡うためのものであったろう。謡い物の性質として、誇張があり、刺激の強いほど興味が多いので、前々歌を進展させてこのような歌にするということは、むしろ普通のことであったろう。
3542 さざれ石《いし》に 駒《こま》を馳《は》させて 心《こころ》痛《いた》み 吾《あ》が思《も》ふ妹《いも》が 家《いへ》のあたりかも
佐射礼伊思尓 古馬乎波佐世弖 己許呂伊多美 安我毛布伊毛我 伊敞乃安多里可聞
【語釈】 ○さざれ石に駒を馳させて 「さざれ石」は、小石で、河原のものである。「馳させて」は、馳せさせてで、駒の蹄の痛む意で「痛み」に続け、以上その序詞。○心痛み吾が思ふ妹が 心が痛いまでに思っている妹の。○家のあたりかも 家の近い所であるよで、「かも」は、感動の助詞。
【釈】 小石続きの河原をわが乗る駒を馳せさせて、その蹄が痛むように、心痛いまでわが思っている妹が家のあたりであるよ。
【評】 男がゆくりなく女の家の近くまで来て、それと心づいた時の感動である。「さざれ石に駒を馳させて」の序詞は、その時の男の実況で、それを「心痛み」の譬喩としたのである。この序詞は、馬を深く愛している心持を無意識にあらわしているもので、生活の実際に即した心である。一首、日常生活の上のいささかの実感で、構えては捉えられないもので、そこに特色が(259)ある。また作意としても、いささかの気分そのものをいおうとしたもので、気分尊重の作風の上に立ってのものである。いささかの気分を、実際に即して、徹底させようとする作風は、京にあっても、奈良覇に人っての新しいものである。東歌としてそれを遂げているのは珍しいといえる。特色ある歌である。
3543 むろがやの 都留《つる》の堤《つつみ》の 成《な》りぬがに 児《こ》ろはいへども いまだ寝《ね》なくに
武路我夜乃 都留能都追美乃 那利奴賀尓 古呂波伊敞杼母 伊末太年那久尓
【語釈】 ○むろがやの都留の堤の 「むろがやの」は、室草ので、室の屋根を葺く萱で、室を包む意で「堤」にかかる序詞。「都留の堤の」は、「都留」は、山梨県都留郡にある、都留川の堤かという。堤防工事の竣工の意での「成り」にかかり、以上その序詞。○成りぬがに児ろはいへども 「成りぬがに」は、求婚を承諾したがように。「ぬ」は、完了。「がに」は、のごとくに。「児ろ」は、女の愛称で、あの女はいったけれども。○いまだ寝なくに まだ寝ないことだ。
【釈】 室がやの都留の堤防工事のように、成り立ったがようにあの女はいったけれども、まだ共寝をしないことだ。
【評】 これと類想の歌は少なくない。女が拒みはしないが、進んで男に逢う機会を与えないというのは、心理的に自然なことである。この歌では、「むろがやの都留の堤の」という序詞が特殊なものになっている。堤防工事は大工事で、評判なものであったろうが、臨時のことである。それを捉えて序詞とするのは、その工事に直接に関係しているか、あるいは都留の地方のものでなくてはならない。その工事に関係している者の間に生まれて、謡われていたものとすれば、最も自然である。作意から見て、そのように思われるものだからである。淡泊で、気の利いた歌である。以下地方に関係しての歌である。
3544 明日香河《あすかがは》 下濁《したにご》れるを 知《し》らずして 背《せ》ななと二人《ふたり》 さ寝《ね》て悔《くや》しも
阿須可河伯 之多尓其礼留乎 之良受思天 勢奈那登布多理 左宿而久也思母
【語釈】 ○明日香河下濁れるを 「明日香河」は、大和国の川で、この時代には代表的に名高かった。「下濁れるを」は、底のほうは濁っているのをで、以上、男の心の誠実でないことの譬喩。景物そのものを譬喩とすることは、謡い物に多いものである。○背ななと二人 「背なな」は、「背な」の「な」がすでに親愛の意の接尾語であるのに、それにさらに、同じ意の「な」を重ねたものである。語としては無理であるが、謡い物として語調を重んじる上からのことと取れる。他には用例のない語。背なと二人で。
(260)【釈】 明日香河の流れの、底のほうは濁っていることを知らずに、そうした背ななと二人で寝て、残念なことだ。
【評】 東歌の中に、大和国での謡い物であったとみえる歌のまじっていることは、不自然である。しかし東歌は、東国で採録された歌の称で、東国で謡われていた歌はすなわち東歌である。巻中、五首ある人麿歌集の歌のごときは、その適例である。この歌も大和国の謡い物で、多分京の官人のもたらし来たったものであろう。心は一般性のあるもので、詠み方も平明に柔らかく、しかも「背なな」の語のあるところなど、明らかに謡い物で、また愛されうる条件も備えているので、東国人によって謡われていたものとみえる。
3545 明日香河《あすかがは》 塞《せ》くと知《し》りせば あまた夜《よ》も 率寝《ゐね》て来《こ》ましを 塞《せ》くと知《し》りせば
安須可河伯 世久登之里世波 安麻多欲母 爲祢弖己麻思乎 世久得四里世波
【語釈】 ○明日香河塞くと知りせば 明日香河の流れを塞き止めると知ったならば。女が逢うことを拒む意の譬喩としていっているもの。○あまた夜も率寝て来ましを 「率寝」は、寝所に伴って行って寝るで、寝るの同意語。幾夜も寝て来ようものをで、「まし」は、「せば」の仮想の結。
【釈】 明日香河の流れを塞き止めるように、我と逢うことを拒むと知ったならば、多くの夜を共寝して来ようものを。塞くと知っていたならば。
【評】 上の歌と問答の形になっている。懸け合いで謡った歌であろう。この歌では「明日香河」を女の譬喩としてあり、問答であることの歴然たる歌である。二首、謡い物としても浅薄なものである。
3546 青柳《あをやぎ》の 張《は》らろ川門《かはと》に 汝《な》を待《ま》つと 清水《せみど》は汲《く》まず 立処《たちど》平《な》らすも
安乎楊木能 波良路可波刀尓 奈乎麻都等 西美度波久末受 多知度奈良須母
【語釈】 ○青柳の張らろ川門に 「張らろ」は、「張れる」の東語。「張る」は、枝や芽を出すこと。「川門」は、川幅の自然に狭くなっている所の称。ここは用水場としていっているのであるが、そうした所は水量が多く、水が扱いいいわけである。○汝を待つと 「汝」は、下の続きで、女がその男を指していっているもの。「待つと」は、待合わせようとて。水を汲むのは若い女の役で、娘の外出のできる唯一の時。○清水は汲まず立処平らすも 「せみど」は、清水の東語。「汲まず」は、汲まずして。「立処」は、女の現に立っている所。「平らす」は、踏みならすで、待ち侘びることを具象的にいったもの。「も」は、感動の助詞。
(261)【釈】 青柳の芽を張っている川門に、あなたを待合わせようとて、清水は汲まずに、立っている処を踏みならしていることよ。
【評】 日常生活の一些事を詠んだものであるが、叙事的に詠んでいるので、画致豊かな歌になり、それがおのずから平和な、明るい抒情味を譲し出すものとなっている。「清水は汲まず立処平らすも」は、語調の上からも、また含蓄の上からも、優れた技巧である。日常生活に即しての軽い気分を捉えて、技巧によって詠み生かしているこうした歌が、民謡として農村に生まれたであろうかと疑われる。降っての時代に、第三者によって詠まれたものではなかろうか。
3547 味鳧《あぢ》の住《す》む 須沙《すさ》の入江《いりえ》の 隠沼《こもりぬ》の あな息《いき》づかし 見《み》ず久《ひさ》にして
阿遲乃須牟 須沙能伊利江乃 許母理沼乃 安奈伊伎豆加思 美受比佐尓指天
【語釈】 ○味鳧の住む須沙の入江の 「味鳧の住む」は、状態としていっているものだが、慣用されて枕詞に近く打っているもの。「須沙の入江」は、所在不明である。『延喜式』には紀伊国、『倭名類聚鈔』には出雲国となっており、『万葉地理』は尾張国知多郡豊浜村の旧名(現、豊浜町)としていて、諸所にある地名だからである。「入江」は、海に限らず、湖や川などでも、水の陸地に入り込んだ所の称。○隠沼の 「隠沼」は、水の出口のない沼の称で、はればれしない意で「息づかし」にかかり、以上その序詞。○あな息づかし 「あな」は、感動の語。「息づかし」は、溜め息がつかれるさまだで、形容詞。○見ず久にして 逢わずに久しくなるので。
【釈】 味鳧の住んでいる須抄の入江の隠沼のように、ああ、溜め息のつかれるさまである。逢わずに久しくなるので。
【評】 男が女を思った歌である。隠沼を用いての序詞は、類の少なくないもので、それに住地としての須沙を添えたものである。品のある歌であるが、特色のないものである。
3548 鳴瀬《なるせ》ろに 木屑《こつ》の寄《よ》すなす いとのきて 愛《かな》しけ背《せ》ろに 人《ひと》さへ寄《よ》すも
奈流世呂尓 木都能余須奈須 伊等能伎提 可奈思家世呂尓 比等佐敞余須母
【語釈】 ○鳴瀬ろに 「鳴瀬」は、水音の高く鳴る瀬で、「ろ」は、接尾語。山川の状態。○木屑の寄すなす 「こつ」は、木屑の古名。これは上流に製材所があり、そこでできる木屑の自然に流れ下る物であろう。○いとのきて愛しき背ろに 「いとのきて」は、甚だの意の古語。巻五(八九二)「いとのきて短き物を」その他にも出た。「愛しけ」は、愛しきの古形。「背ろ」は、夫。甚だいとしいわが夫に。○人さへ寄すも 「人さへ」は、「人」は、この歌は妻である女のもので、同性の女を指したもので、「さへ」は、我という者のある上に、人までが。「寄すも」は、心を寄(262)せることだ。
【釈】 水音の高く鳴る瀬に、上流からの木屑が寄るように、甚だいとしい夫に、他の女までが心を寄せることだ。
【評】 女がひどくいとしく思っている夫に、自分以外の多くの女も心を寄せていることを思って、気を揉んでいる心である。恋の上では起こりうる心であるが、しかし歌としては例の多くないもので、またこのように率直に、素朴に詠んだものはない。「鳴瀬ろに木屑の寄すなす」という譬喩は、この女と男との住地をあらわすとともに、男女間のそうした消息もよく知れることをあらわしているものである。「鳴瀬ろ」と「愛しけ背ろ」「木屑の寄すなす」と「人さへ寄す」は、脚韻を同じくしたもので、謡い物としては技巧となしうるものである。素朴を建前としながらも、技巧もある歌で、謡い物として愛されたものだろうと思われる。
3549 多由比潟《たゆひがた》 潮《しほ》満《み》ちわたる 何処《いづ》ゆかも 愛《かな》しき背《せ》ろが 吾《わ》がり通《かよ》はむ
多由比我多 志保弥知和多流 伊豆由可母 加奈之伎世呂我 和賀利可欲波牟
【語釈】 ○多由比潟潮満ちわたる 「多由比潟」は、地名であるが、東国では聞こえていない。越前国手結の浦(敦賀市田結)は名高い。「潮満ちわたる」は、夕潮が全面的に満ちて来ている。○何処ゆかも どこを通ってかで、「かも」は、疑問の係。○愛しき背ろが吾がり通はむ いとしい夫が、わが方へ通って来るであろうかで、「む」は、「かも」の結。
【釈】 多由比潟に、夕潮が一面に満ちて来ている。どこをとおっていとしい夫は、わがもとにかよつて来ようか。
【評】 日常生活の上で、その時その時に起こる心持で、歌としては最も基本的なものである。民謡はその上に立ったもので、その意味で最も民謡的な歌である。
3550 押《お》して否《いな》と 稲《いね》は舂《つ》かねど 波《なみ》の穂《ほ》の いたぶらしもよ 昨夜《きそ》ひとり寝《ね》て
於志弖伊奈等 伊祢波都可祢杼 奈美乃保能 伊多夫良思毛与 伎曾比登里宿而
【語釈】 ○押して否と稲は舂かねど 「押して否と」は、強いていやだといって。「稲は舂かねど」は、このように稲を舂くのではないけれども。稲を舂くのは女の役となっていたのである。これは女がその男にいっている語で、女が稲を舂いているところへ男が来て挑むのに対して、一応は(263)相手にならず、知らん顔をして稲を舂き続けていたのであるが、本心は拗ねてのことなので、やがて言いわけとして言い出した語である。○波の穂のいたぶらしもよ 「波の穂」は、波がしらで、波の高まりつくした時の称で、「波の穂の」は、波がしらのようにの意で、「いたぶらし」にかかる枕詞。「波の穂」は、古事記にある語であるが、本集にはここにあるだけである。「いたぶらし」は、いたぶるという動詞を形容詞に転成した語である。これは巻十一(二七三六)「風をいたみ甚振る浪の」とあり、浪の甚しく動揺する意で、ここは心の昂ぶって落ちつかない意である。「もよ」は、詠歎。○昨夜ひとり寝て 昨夜は独寝をしてで、「いたぶらし」の理由をいったもの。
【釈】 どうでもいやだといって、稲を舂いているのではないが、波がしらのように、心が昂ぶって落ちつかないことよ。昨夜独寝をして。
【評】 女が稲舂きをしているところへ、夫である男が寄って来て挑むのに対し、初めは拗ねて稲を舂きつづけていた女が、気が折れて、その拗ねている理由を説明した語である。女の拗ねているのは、昨夜、来るかと思っていた男が来ずに、独寝をさせた恨めしさから、男を見ると、気が昂ぶって来たのだというのである。庶民という中でも、身分の低い、やや年を経た夫婦生活の一断面を、露骨に、生き生きとあらわしている歌である。刺激の強いことを喜ぶ労働歌の範囲のものである。謡い物でないと見られない歌である。
3551 味鎌《あぢかま》の 潟《かた》に開《さ》く波《なみ》 平瀬《ひらせ》にも 紐《ひも》解《と》くものか かなしけを置《お》きて
阿遲可麻能 可多尓左久奈美 比良湍尓母 比毛登久毛能可 加奈思家乎於吉弖
【語釈】 ○味鎌の潟に開く波 「味鎌」は、東国では所在不明である。一首置いての次にも出ており、いずれも海岸地域である。巻十一(二七四七)「味鎌の塩津をさして」と出てもいるが、これは近江国浅井郡である。「潟」は、遠浅の海岸の称。「開く」は、波の割れて白く立つことを、花の咲くに譬えての語である。味鎌の潟で、波の花が咲いている。○平瀬にも紐解くものか 「平瀬」は、水面の平らな流れの称で、川にも、海にもいう。ここは上の潟に動いている波の状態をいったもの。「紐解く」は、上の「開く」を語を換えていったもの。花の咲くのを、花が紐解くというのは、古今集、秋、詠人知らず、「もも草の花の紐とく秋の野に思ひ戯れむ人なとがめそ」とあり、「開く」と同じく言いうる譬喩である。「ものか」は、詠歎。平瀬でも、波は紐解くものなのかで、波の白く砕けるのは、沖かまたは岸でのこととして、潟でそれをするのは珍しいとして詠歎したもの。この「紐解く」に、下紐を解いて寝る意をかけ、それを主として言い続けているもので、初句より三句までは序詞である。○かなしけを置きて 「かなしけ」は、愛しきで、愛する者で、妻の意。名詞形。「置きて」は、後に残して置いてで、妻を家に置いて旅にいる人の、妻を思っての心。
【釈】 味鎌の潟に波の花が咲いている。こうした平瀬にも波が紐解くように、我も下紐を解くことなのか。愛する者を後に残し(264)ておいて。
【評】 味鎌の潟の見える地域に旅して来た男が、その地の女と関係を結ぶこととなり、旅立つ際、妻の斎って結んだ下紐を解こうとして、妻を思って心咎めのされることをいったものである。序詞は眼前を捉えて「紐解く」を起こしたものであるが、語の技巧の勝った、心細かいものなので、難解の感のあるものとなっている。しかし無理のないもので、手腕ある人の作である。味鎌は所在不明であるが、東国の中の地名で、そのために東歌の中に収めたものとみえるが、歌は東国人のものではなく、京の官人の味鎌での作で、その地に伝わったものと思われる。奈良朝時代の歌風である。
3552 松《まつ》が浦《うら》に さわゑうらだち 真他言《まひとごと》 思《おも》ほすなもろ 我《わ》が思《も》はのすも
麻都我宇良尓 佐和惠宇良太知 麻比登其等 於毛抱須奈母呂 和賀母抱乃須毛
【語釈】 ○松が浦にさわゑうらだち 「松が浦」は、浦の名であろうが、所在不明である。福島県相馬市の東、松川浦、あるいは宮城県の松島との説がある。「さわゑうらだち」は、難解な語で、諸注じつにさまざまである。一首の作意から見ると、波の音の騒がしいのを、人の噂の高いことの譬喩にした、例の多いものにみえる。『全註釈』は、「さわゑ」は、「さわ」は、波の音の擬声で、「ゑ」は、接尾語で、波の騒がしい音をいうのであろうとし、「うらだち」は、浦立ちで、浦に波が立つ意だろうとしている。すなわち騒がしく波が浦に立って、である。比較的穏やかな解として従う。叙事をただちに譬喩にするのは、東歌に多いことで、これもそれで、そのようにの意で、「真他言」にかかり、以上その序詞。○真他言思ほすなもろ 「真他言」は、「真」は、接頭語。「他言」は、周囲の噂で、男女関係についての漁村の噂。「思ほす」は、思うの敬語。「なも」は、「らむ」の東語で、既出。「ろ」は、接尾語。周囲の噂をお思いになるであろう。○我が思ほのすも 「思ほ」は「思ふ」の、「のす」は、「なす」の東語で、既出。私が思っているように。
【釈】 松が浦に、波が騒がしく浦に立つように、周囲の噂をあなたはお思いになっているであろう。私が思っているように。
【評】 男と関係を結んだ当座の女が、その関係が漁村の専らの風評になって当惑している時、男を慰めて贈った歌である。部落生活で、男女関係が風評の的にされること、また男女がそれを惧れる歌はじつに多い。これもその範囲のものであるが、この歌は、惧れるというのではなく、うるさく思うという程度のもので、女は自身その程度にしか思っていないことを男に告げ、男もそうした心持でいるだろうと、慰めの形でいっているものである。婉曲に誓言を交わし合おうとするごとき心であるが、それ以前の、それにも及ばない心をいったものである。純情の現われた歌である。
(265)3553 味鎌《あぢかま》の 可家《かけ》の水門《みなと》に 入《い》る潮《しほ》の 言《こて》たずくもか 入《い》りて寝《ね》まくも
安治可麻能 可家能水奈刀尓 伊流思保乃 許弖多受久毛可 伊里弖祢麻久母
【語釈】 ○味鎌の可家の水門に 「味鎌」は、上に出た所在不明の地。「可家」もしたがって不明である。愛知県知多郡上野町大字加家にもとめる説(松田好夫氏)がある。「水門」は、湾口、江口である。○入る潮の 海から入る潮のようにで、以上結句の「入りて」にかかる序詞。○言たずくもか 「言」は、「こと」の東語であろう。「たずく」は、難解の語、諸注、さまざまに解している。誤写説も多い。『全註釈』は、「助くもか」と解している。語形に即しての解であり、前後の語との振合いから見ても、最も自然な解と思える。しかしこの句は挿入句の形になっているもので、今少し強い意でいっているものではないかと思われる。その意味から、「言たず」は、言立(ことだて)の東語で、改まっての言い立て。「く」は、動詞を名詞形にする意のもので、次の句の「寝まくも」と音脚を合わせるために用いた形ではないかと思われる。強いたところがあるが、謡い物の修辞としてはありうることに思える。「か」は、疑問の助詞で、反語をなしているものと取れる。改めて言い立てをすることがあろうか、の意と思われる。今はそう解する。○入りて寝まくも 妹の床に入って寝ようことだ。
【釈】 味鎌の可家の水門に入って来る海の潮のように、改めての言い立てごとがいろうか、妹の床へ入って寝ようことだ。
【評】 第四句の解が問題となるが、大意は明らかである。可家の水門地帯に住む、海での荒い労働をしている人の、一般的に持っている心持を代弁した謡い物と思われる。誇張があり、刺激の強いことを喜ばれる謡い物で、第四句もその範囲のものと思われる。
3554 妹《いも》が寝《ぬ》る 床《とこ》のあたりに 石潜《いはぐく》る 水《みづ》にもがもよ 入《い》りて寝《ね》まくも
伊毛我奴流 等許乃安多理尓 伊波具久留 水都尓母我毛与 伊里弖祢末久母
【語釈】 ○石潜る水にもがもよ 岩を潜る水であってほしいことだなあ。「もがも」は、願望、「よ」は、感動の助詞。どこへでも行かれるのを羨む心。
【釈】 妹が寝ている床の辺りへ、岩を潜る水であってほしいことだなあ、入って寝ようものを。
【評】 広く一般的な心でいっているもので、謡い物である。「石潜る水にもがもよ」は、山村の生活者として捉えたもので、そうした土地の者には親しいものであろう。結句は慣用句である。
(266)3555 真久良我《まくらが》の 許我《こが》の 渡《わたり》の 唐楫《からかぢ》の 音高《おとだか》しもな 寝《ね》なへ児《こ》故《ゆゑ》に
麻久良我乃 許我能和多利乃 可良加治乃 於登太可思母奈 宿莫敞兒由惠尓
【語釈】 ○真久良我の許我の渡の 「真久良我」は、大名、「許我」は、小名であろう。上の(三四四九)に、「麻久良我よ海人漕ぎ来見ゆ」と出、また以下にも出ている。「許我」を、下総国の古河(茨城県古河市)とする解がある。「渡」は渡船場で、利根川のそれである。否定はできない解である。○唐楫の 唐風の艪だと『略解』は解している。在来の艪に較べて音の高い意で、「音高し」にかかり、以上その序詞。○音高しもな 「音高し」は、噂が盛んだで、「もな」は、感動。○寝なへ児故に 「寝なへ」の「なへ」は、東語の打消の助動詞「なふ」の転音。(三五二九)に既出。寝ない女のことだのにの意。
【釈】 真久良我の許我の渡で使う唐楫のように、音の高いことだなあ。共寝をしない女のことだのに。
【評】 類想の多い歌で、一般的な心である。序詞で特色を添えている。許我の渡付近で謡われた謡い物であろう。唐楫が珍しかった時代の歌とは知れるが、それがどのような物とも、いつ頃用いられたとも知れない。
3556 潮船《しほぶね》の 置《お》かればかなし さ寝《ね》つれば 人言《ひとごと》しげし 汝《な》を何《ど》かも為《し》む
思保夫祢能 於可礼婆可奈之 左宿都礼婆 比登其等思氣志 那乎杼可母思武
【語釈】 ○潮船の置かればかなし 「潮船」は、河舟に対して、海で用いる船の総称。用いない時は陸上に置く意で、「置く」の枕詞。「置かれば」は、「置ければ」の訛音で、ここは男が、女を、関係せずにさし置くと。「かなし」は、いとしいで、思いの迫る意。○さ寝つれば人言しげし 「さ」(267)は、接頭語。共寝をしたので、周囲の噂が多い。○汝を何かも為む 「汝」は、男より女を指しての称。「ど」は、「など」の東語「あど」の「あ」の略されたもの。「しむ」は、「せむ」の東語で、あなたをどのようにしようか。
【釈】 潮船のように、たださし置くといとしい。共寝をしたので、周囲の噂が多い。あなたをどのようにしようか。
【評】 漁村生活をしている男の歌で、女に訴えたものである。部落生活は集団生活で、互いに相干渉する気風が濃厚である中でも、漁村は一段と濃厚だったらしい。この男の嘆きは一般的なものではあるが、実感の直写である意味で、個人的な趣をもったものである。「汝を何かも為む」は、文字どおりどうしようとの分別はつけられず、当惑の情をそのままに訴えたもので、そこにあわれがある。単純で、善良で、東歌らしい歌である。
3557 悩《なやま》しけ 他妻《ひとづま》かもよ 漕《こ》ぐ船《ふね》の 忘《わす》れはせなな いや思《も》ひ増《ま》すに
奈夜麻患家 比登都麻可母与 許具布祢能 和須礼波勢奈那 伊夜母比麻須尓
【語釈】 ○悩しけ他妻かもよ 「悩しけ」は、「悩しき」の古形。「かもよ」は、「かも」も「よ」も感動の助詞で、心悩ましくさせる人妻だなあ。○漕ぐ船の 漕いでいる船のようにで、心より放せない意で、「忘れ」にかかる枕詞。○忘れはせなな 「せなな」は、上の(三四〇八)以下たびたび出た。「せずに」の意。○いや思ひ増すに ますます思いが増すので。
【釈】 心悩しく思わせる人妻だなあ。漕いでいる船のように、忘れることはせずに、ますます思いが増すので。
【評】 人妻に心を寄せている男の独語である。心の動くに任せて、その動く心のさまにはある省察を加えているが、人妻という立場にいる女に対しては、いささかの関心ももたず、単に一人の女と見ているのである。人妻という意識の上に立っての歌は何首かあるが、この歌のように徳義ということに無関心な歌はない。このような風も一方には存在していたものとみえる。歌としては、熱意を力強く躍動的にあらわし得ているものである。「漕ぐ船の」という枕詞は、生活に即してのものであろう。
3558 逢《あ》はずして 行《ゆ》かば惜《を》しけむ 麻久良我《まくらが》の 許我《こが》漕《こ》ぐ船《ふね》に 君《きみ》も逢《あ》はぬかも
安波受之弖 由加婆乎思家牟 麻久良我能 許賀己具布祢尓 伎美毛安波奴可毛
【語釈】 ○逢はずして行かば惜しけむ 逢わずに行ったならば、惜しいことだろうで、「行かば」は、遠い旅へ行くことと取れる。○麻久良我の(268)許我漕ぐ船に 地名は(三五五五)に出た。「漕ぐ船に」は、渡船場を漕いでいる船に。○君も逢はぬかも 「君」は、男より女を指しての称と取れる。「ぬかも」は、打消から、転じて願望になる語で、君も乗っていて、逢わないのかなあ、逢いたいものだの意。
【釈】 逢うことがなくて旅へ行ったならば、残念なことだろう。麻久良我の許我の渡を漕ぐ船にあの人も乗っていて、逢えないのかなあ。
【評】 遠い旅へ出る男が、その女と逢うことができずに、今その郷土と明瞭な境をなしている許我の渡を渡る船中で、そこを逢うことの可能性のある最後の場所として、女がこの渡船場の船に居たならばなあと空想した心である。「君も逢はぬかも」という言い方は、その空想であることを暗示しているものである。この歌は形は平明であるが、心は漠然としていて、いかようにも解せるところがある。上のような作意のものと解せられる。気分本意の歌で、心も形も東歌の風の少ないもので、降っての時代のものである。
3559 大船《おほふね》を 舳《へ》ゆも艫《とも》ゆも 固《かた》めてし 許曾《こそ》の里人《さとびと》 顕《あらは》さめかも
於保夫祢乎 倍由毛登母由毛 可多米提之 許曾能左刀妣等 阿良波左米可母
【語釈】 ○大船を舳ゆも艫ゆも 大船を、前方の舳のほうからも、後方の艫のほうからも。これは、完全な碇のなかった上代には船を繋留するには、船の前後に綱を着け、それを陸上の大木に繋いだので、船を固める意で「固め」に続け、以上その序詞。○固めてし 夫婦関係の秘密を口外しまいと口固めをしたで、「て」は、完了。○許曾の里人顕さめかも 「許曾の里人」は、住地によってその人を現わしたもので、女より男を指したものと取れる。「顕さめかも」は、「かも」は、推量の助動詞「む」の已然形「め」を承けて、反語をなすもの。口外しようか、することはなかろう。
【釈】 大船を、舳のほうからも、艫のほうからも、鋼で結い固めるように、夫婦関係の秘密を守ろうと口固めをした、許曾の里の人は、口外をしようか、Lはしないであろう。
【評】 夫婦関係の秘密は、それを顕わすと関係が絶えるというのが、上代の信仰であった。ここはその意味のもので、「固めてし」は、夫婦関係そのものと同じで、「顕す」は、それを絶つことになるのである。「許曾の里人」は、男女いずれともわからない言い方であるが、結婚後、そのことにより多く執着をもつのは女であり、したがって警戒心の強いのも女である点から見て、その里人は男で、女が男に対して、ある程度の不安を感じ、同時に男を頼む心からそれを打消しているものと取れる。その意味で女性の心理に即した歌である。「許曾の里人」と、広い漠然とした呼び方をしているのも、同じく女性の心理といえる。序詞は特色のあるものである。女の住地が港で、そうした状態を見馴れているところからのもので、その土地の者にはきわめ(269)て適切なものであったろう。やや古風な、強さと重厚味をもった歌である。
3560 真金《まかね》吹《ふ》く 丹生《にふ》の真朱《まそほ》の 色《いろ》に出《で》て 言《い》はなくのみぞ 吾《あ》が恋《こ》ふらくは
麻可祢布久 尓布能麻曾保乃 伊呂尓〓弖 伊波奈久能未曾 安我古布良久波
【語釈】 ○真金吹く丹生の真朱の 「真金」は、銕《てつ》で、「吹く」は、銕鉱から銕を、火力で吹き分ける意。「丹生」を修飾する枕詞。「丹生」は、地名で、諸国にあるが、東国ではどこか明らかでない。上野国(富岡市、上丹生、下丹生)かという。「丹生」は元来、赤土を産出する地の意で、転じて地名となったものである。「真朱」は、「真」は、美称。「朱」は、辰砂で、赤色の顔料とするものである。意味で「色」に続け、以上その序詞。○色に出て言はなくのみぞ 「色に出て」は、表面に顕わして。「言はなくのみぞ」は、言わないだけのことぞ。○吾が恋ふらくは 我の恋うていることは。
【釈】 鉄を吹き分ける丹生の里の其朱のように、表面に顕わしていわずにいるだけのことであるぞ。わが恋うることは。
【評】 片恋をしている訴えで、男から女にいったものと思われる。類想の多いもので、その土地に関係させての序詞が特色をなしているものである。その土地での謡い物である。調べのよくこなれているのは、型があっての歌であるとともに、謡い伝えていたからであろう。
3561 金門田《かなとだ》を 荒垣間《あらがきま》ゆ見《み》 日《ひ》が照《と》れば 雨《あめ》を待《ま》とのす 君《きみ》をと待《ま》とも
可奈刀田乎 安良我伎麻由美 比賀刀礼婆 阿米乎万刀能須 伎美乎等麻刀母
【語釈】 ○金門田を荒垣間ゆ見 「金門田」は、門田で、家の前にある田。「荒垣間ゆ見」は、諸説のある句である。『代匠記』の解。「荒垣」は、間隔を荒く結った垣で、田に繞らした物である。「垣つ田」というのと同じとみえる。特に大切に扱うべき必要のある田で、庶民でいえば苗代田であろうか。「間ゆ見」は、垣の間をとおして見てで、田の状態に注意している意。○日が照れば 「とれば」は、「てれば」の靴音。田の水が乾くので。○雨を待とのす 「待とのす」は、「待つなす」の東語で、待つがように。○君をと待とも 「君をと」の「と」は、助詞「ぞ」の訛か(『古典大系』)。この続きは巻二十(四四三〇)「出でてと吾が来る」とあり、東語の範囲のものである。「待とも」は、「待つも」の東語。
【釈】 門の田を、それを繞らしている荒い垣の間をとおして見て、日が照ると、雨を待つがように、君を待っていることだ。
(270)【評】 女の男に訴えた歌である。四句までが「待つ」の譬喩になっている。譬喩は農民の農耕生活から捉えたもので、その事がやや特殊なため、語が多くなっているのであるが、それが、女の気分の真実性を暗示するものとなっている。東歌以外には見難い譬喩である。東語の多いのは、東歌としても狭い範囲での謡い物であったろう。
3562 荒磯《ありそ》やに 生《お》ふる玉藻《たまも》の うち靡《なぴ》き 独《ひとり》や寝《ぬ》らむ 吾《あ》を待《ま》ちかねて
安里蘇夜尓 於布流多麻母乃 宇知奈婢伎 比登里夜宿良牟 安乎麻知可祢弖
【語釈】 ○荒磯やに 「や」は、接尾語。本来は感動の助詞である。○うち靡き 「靡き」は、女の寝ている状態。
【釈】 荒磯に生えている玉藻のように、柔らかに靡いて独りで寝ていることであろうか。われを待ち得ずに。
【評】 妻の所へ行かれなかった男が、妻の独寝をしている状態を想像した歌で、恋しさからである。人麿歌集に好んで捉えている境で、その影響のあるものであろう。序詞は、その住地を捉えたものであろう。
3563 比多潟《ひたがた》の 磯《いそ》の若布《わかめ》の 立《た》ち乱《みだ》え 吾《わ》をか待《ま》つなも 昨夜《きぞ》も今夜《こよひ》も
比多我多能 伊蘇乃和可米乃 多知美太要 和乎可麻都那毛 伎曾毛己余必母
【語釈】 ○比多潟の磯の若布の 「比多潟」は、所在不明。霞が浦の一部とする説がある。「磯の若布の」は、岩に生える若布ので、その状態として「乱え」に続け、以上その序詞。○立ち乱え吾をか待つなも 「立ち乱え」は、「立ち」は、接頭語。「乱え」は、「乱れ」の東語で、恋のために心が乱れての意。「吾をか待つなも」は、「か」は、疑問の係。「待つなも」は、「待つらむ」の東語で、われを待っていることであろうか。
【釈】 比多潟の岩に生えている若布のように、心が乱れてわれを待っていることであろうよ。昨夜も今夜も。
【評】 上の歌と同じく、男が女の許へ行けない夜の心で、これは女の待ち侘びているのを憐れんでの推量である。「比多潟の磯の若布の」と、その住地の実際を捉えて「立ち乱え」の序詞としているのは、尋常な場合ではないごとく思わせるが、特別な場合とも見えない。誇張しての語で、それが謡い物としての興味であったろう。それだと、「昨夜も今夜も」は、その誇張を真実化するためのものとなり、巧みな表現となる。その意味の歌であろう。
(271)3564 小菅《こすげ》ろの 浦《うら》吹《ふ》く風《かぜ》の 何《あ》どすすか 愛《かな》しけ児《こ》ろを 思《おも》ひ過《すご》さむ
古須氣呂乃 宇良布久可是能 安騰須酒香 可奈之家兒呂乎 於毛比須吾左牟
【語釈】 ○小菅ろの浦吹く風の 「小菅ろ」は、「ろ」は、接尾語で、下の「浦」のある地である。所在不明。今の東京都葛飾区小菅町で、今は海より遠いが、古くは海岸であったろうともいう。「浦吹く風の」は、風の吹き過ぐという意で結句の「過ぐ」にかかり、以上その序詞。○何どすすか 「あど」は、「なにと」の東語。「すす」は、動詞「す」を重ねてその連続をあらわしたもので、「しつつ」の東語。上の(三四八七)に、「梓弓末に玉纏きかく為為ぞ」と出た。「か」は、疑問の係。何としつつか。○愛しけ児ろを 「愛しけ」は、愛しきで、かわゆいあの女を。○思ひ過さむ 思いを過ぎ去らせようで、忘れようの意。「む」は、「か」の結。
【釈】 小菅の浦を吹き過ぎる風のように、何としつつ、あのかわゆい女を思い忘れようか。
【評】 純抒情的に愛情を披瀝した歌である。「小菅ろの浦吹く風の思ひ過さむ」は、気分としても繊細な、新風のものであるが、「何どすすか愛しけ児ろ」は、東語の連続で、東歌の面目をもっているものである。この矛盾は、東歌そのものの動きつつあった状態を示しているものである。心広い歌で、謡い物に適したものである。
3565 彼《か》の児《こ》ろと 寝《ね》ずやなりなむ はだ薄《すすき》 宇良野《うらの》の山《やま》に 月《つく》片寄《かたよ》るも
可能古呂等 宿受屋奈里奈牟 波太須酒伎 宇良野乃夜麻尓 都久可多与留母
【語釈】 ○彼の児ろと寝ずやなりなむ 「彼の児ろと」は、あのかわゆい女と。「彼の」という語は初出である。「この」「その」は、あったが、「かの」は、後れて発生した詞で、用いる機会が少なかったからとみえる。「寝ずやなりなむ」は、寝られなくなるだろうかで、夜の間の少なくなったことをいったもの。「や」は、疑問の係。○はだ薄宇良野の山に 「はだ薄」は、穂を出した薄で、「穂」にかかる枕詞を、それとほぼ同意語として末(うら)に懸けたもの。「宇良野の山」は、「宇良野」は、『延喜式』の信濃国駅馬に浦野とある所かという。それだと今の長野県小県郡浦野町浦野である。○月片寄るも 「つく」は、月の東語。「片寄る」は、傾く。山を西方に見ていっているので、月の入るのはすなわち夜明けである。
【釈】 あのかわゆい女と寝られなくなるであろうよ。はだ薄の浦野の山に、月が傾くことだ。
【評】 女の許に通う男の、途中、月が大分傾いたのを見て、行き着いたら夜明けになりはしないかと、焦燥を感じている心である。遠隔の地に妻をもつ風のあった上代では、これは一般性のある心で、謡い物的な取材である。心は焦燥感であるが、一(272)首の調べは沈静味を持っていて、焦燥をほどよく押え、またそれを思わせる、緊張した思い入った趣もあって、東歌としては特殊にみえるものである。この調べが作者のその時の気分だったのである。またそれが同感されて謡い物ともなっていたのである。注意に値する歌である。
3566 吾妹子《わぎもこ》に 吾《あ》が恋《こ》ひ死《し》なば そわへかも 神《かみ》に負《おほ》せむ 心《こころ》知《し》らずて
和伎毛古尓 安我古非思奈婆 曾和敞可毛 加未尓於保世牟 己許呂思良受弖
【語釈】 ○吾妹子に吾が恋ひ死なば 「吾妹子」は、女に対しての最大愛称。「恋ひ死なば」は、女が逢おうとしない上でのこと。○そわへかも この句は、「かも」は、疑問の係助詞と取れるが、「そわへ」は、他に用例のない語で、諸注解し難くしている。誤写説をほかにすると、問題として将来を待つべき語である。前後の関係から見て、死の理由というほどの意で、神に関してのことであるから、その意味での特殊な語として用いられていたものかと思われる。○神に負せむ 神意よりのことと、神に負わせよう。○心知らずて 「心」は、事の真相の意で、真相を知らずしてで、本当のことはわからずに。
【釈】 吾妹子にわが恋い死にをしたならば、神様のせいにするであろうか。人は真相を知らずに。
【評】 男が女に贈った歌である。「吾妹子に吾が恋ひ死なば」は、結婚した女に対してならば、たといいかなる妨げが起ころうとも、いわない語で、求婚時代の訴えであろう。第三句は解せないが、「神に負せむ心知らずて」は、死なせるのはあなたであるのに、それを神様のせいにしようから、あなたは当然神罰をこうむることだろうの意で、甚しい威嚇である。恋に死なせるという感傷よりの威嚇は、後世には少なくないものであるが、それに「神」を引合いに出すのは稀れである。それ点、信仰が生活の支柱となっていた時代を反映しているといえる。東歌にはふさわしくないものである。
防人の歌
3567 置《お》きて行《い》かば 妹《いも》ばまかなし 持《も》ちてゆく 梓《あづさ》の弓《ゆみ》の 弓束《ゆづか》にもがも
於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈之 母知弖由久 安都佐能由美乃 由都可尓母我毛
(273)【語釈】 ○置きて行かば妹ばまかなし 「置きて行かば」は、後に残して行ったならば。「妹ばまかなし」の「ば」は、濁音の仮名があたっている。「は」の訛。「まかなし」は、「ま」は、接頭語。「かなし」は、思いに堪えない意で、妹のことが思いに堪えられないで、妹を憐れんでの心。「行かば」の照応として、「まかなしからむ」と未然形にすべきところを、終止形にしているのは、上代文法である。○持ちてゆく梓の弓の 防人として持って行く梓弓の。○弓束にもがも 「弓束」は、弓の中央部の手に握る所の称。「もがも」は、願望。
【釈】 後に残して行ったならば、妹のことが思いに堪えられない。手に持って行く梓弓の、弓束であってほしいことだ。
【評】 若い防人の、妻との別れを惜しむ心である。自身のことはいわず、妻を隣れむことのみをいっているのは、型のごとくなっていたことである。なつかしい人を、自身より離さずにいる品物であって欲しいというのは、上代人は、形のある物をとおしてでないと、その人を思えないとするところからのことで、例の多いものである。弓束は、絶えず握っている部分であるから、この際としては、適切な品である。単純な、明るさを失わない心である。
3568 おくれ居《ゐ》て 恋《こ》ひば苦《くる》しも 朝狩《あさがり》の 君《きみ》が弓《ゆみ》にも ならましものを
於久礼爲弖 古非波久流思母 安佐我里能 伎美我由美尓母 奈良麻思物能乎
【語釈】 ○おくれ居て恋ひば苦しも 「恋ひ」は、「恋ふ」の未然形で、接続助詞「ば」が接して、恋うたならば。「苦しも」は、苦しいことだで、これも時の関係は上の歌と同じである。○朝狩の君が弓にも 「朝狩の」は、朝にする狩ので、ここは「弓」の枕詞。「君が弓にも」は、君の持ってゆく弓にも。○ならましものを なったろうものをで、仮想。
【釈】 後に残っていて、恋うたならば苦しいことだ。できるならば、朝狩の、君の弓にもなったろうものを。
【評】 上の男の歌に対しての、その妹の答歌である。男の歌を承けていっているにすぎないもので、したがって男の歌のもつ哀切の感のないものである。「持ちて行く梓の弓の」を、「朝狩の君が弓にも」といっているのは、男の平常に力点を置いている意味で筋は通るが、この場合、余裕のありすぎるもので、これがかえって感を薄くしている。
右の二首は、問答。
右二首、問答。
【解】 問答になっている関係から、防人の妻の歌も、防人の歌の中に加え、特別扱いをしている断わりである。
(274)3569 防人《さきもり》に 立《た》ちし朝明《あさけ》の 金門出《かなとで》に 手放《たばな》れ惜《をし》み 泣《な》きし児《こ》らはも
佐伎母理尓 多知之安佐氣乃 可奈刀〓尓 手婆奈礼乎思美 奈吉思兒良婆母
【語釈】 ○防人に立ちし朝明の 「防人に」は、防人として。「立ちし朝明の」は、発足した夜明けの。「朝」は暁で、今の午前二時であるから、朝明はしらじら明けである。○金門出に 門出に。○手放れ惜み泣きし児らはも 「手放れ惜み」は、「手」は、接頭語で、我より放れるであるが、心は別れで、別れを惜しんで。「泣きし児らはも」は、泣いたかわゆい女はなあで、別れた後、そのさまを思い出して慕う意。
【釈】 防人として、出発した朝明けの門出に、別れを惜しんで泣いた、あのかわゆい女はなあ。
【評】 防人として東国から難波に行く途上、妻を思い、その最も感銘の深かった時を思い浮かべての心である。東国にあるこうした歌は、その防人が任が果てて帰って来、その郷里で思い出話としたところから伝わったものであろう。平明な、哀れのある歌であるところから、謡い物にされていたとみえる。
3570 葦《あし》の葉《は》に 夕霧《ゆふぎり》立《た》ちて 鴨《かも》が音《ね》の 寒《さむ》き夕《ゆふべ》し 汝《な》をば偲《しの》はむ
安之能葉尓 由布宜里多知弖 可母我鳴乃 左牟伎由布敞思 奈乎波思努波牟
【語釈】 ○葦の葉に夕霧立ちて 海岸地帯の光景を、想像でいったもの。○鴨が音の寒き夕し そこに宿っている鴨の鳴き声の寒く聞こえる夕べは。「鴨」は、古くは、水禽の総称としても用いた。ここは想像であるから、広い意のものであろう。「し」は、強意の助詞。○汝をば偲はむ あなたを思うことだろう。
【釈】 海岸の葦の葉に夕霧が立って、鴨の鳴き声の寒く聞こえる夕べは、あなたを思うことだろう。
【評】 行く先にある海岸地帯の、秋から冬にかけての肌寒い夜を想像し、そうした時にはあなたを思うだろうというので、一読よそよそしい感じのする歌である。別れの際には、大体自分のことはいわず、いっても不吉な言は避けることになっていた。言霊を怖れる心からである。この歌は自分の上をいっているのであるが、上の意味でこのようなことをいっているのである。想像よりの言ではあるが、この防人は、海岸の様子を知っている人であったろう。
3571 己妻《おのづま》を 人《ひと》の里《さと》に置《お》き おほほしく 見《み》つつぞ来《き》ぬる この道《みち》の間《あひだ》
(275) 於能豆麻乎 比登乃左刀尓於吉 於保々思久 見都々曾伎奴流 許能美知乃安比太
【語釈】 ○己妻を人の里に置き 「己妻」は、己の妻で、熟語。妻という称は、女との関係をその家より承認されて、自分の家に引取れるようになっている女に対してのものである。「人の里」は、男を主としていっているもので、その女の家のある里で、ここは女の家をいっているものである。「置き」は、残して置いて。○おほほしく見つつぞ来ぬる 心結ばれて、その里を見つつ来たことだ。「おほほしく」は、心結ぼれて。「ぞ」は、係。○この道の間 この道を来る間を。
【釈】 おのれの妻を他人の里に残して置いて、その里を心結ぼれて、見つつ来たことである。この道を来る間を。
【評】 この防人の感じていることは、「おほほしく見つつぞ来ぬる」という自身の感情である。前後は「おほほしく」の説明である。防人は、命令が下るとほとんど同時に出発しなければならないような慌しいものであったから、その生家にいる妻に逢って、別れを告げる暇のなかったのを、心残りに感じての心であろう。気分を主にしているものなので、明らかにいっているが、中心が漠然としている感がある。技巧はしっかりしていて、防人としては知性的な、やや身分ある者の歌と取れる。
譬喩歌
3572 何《あ》ど思《も》へか 阿自久麻山《あじくまやま》の ゆづる葉《は》の 含《ふふ》まる時《とき》に 風《かぜ》吹《ふ》かずかも
安杼毛敞可 阿自久麻夜末乃 由豆流波乃 布敷麻留等伎尓 可是布可受可母
【語釈】 ○何ど思へか 「あど」は、「なにと」の東語。「か」は、疑問の係。何と思ってか。○阿自久麻山の 所在不明。『大日本地名辞書』は、茨城県筑波郡筑波町平沢の北、神郡《かんごおり》の子飼山をあげている。○ゆづる葉の 交譲木で、濶葉常緑樹。今は「ゆずり葉」と呼ぶ。○含まる時に 「含まる」は、葉がつぼんでいる意で、まだ若く、開かずにいる葉。○風吹かずかも 「ず」は、原文「受」で、「ず」であるが、「す」の訛ったものか。謡い物として「ず」に近く発音したのを筆録したのであろう。「風吹かず」は、含まっている葉を無理に開かせようとして、風を吹かせる意。「ず」は、「か」の結。「かも」は、詠歎の助詞。
【釈】 何と思ってか、阿自久麻山のゆずり葉の、まだ若くて、開かずに蕾んでいる時に、強いて開かせようとして、風を吹かせることだなあ。
(276)【評】 阿自久麻山のゆずり葉は、その付近にいる女の譬喩。含まる時は、女がまだ少女で、婚期には達していない譬喩。風吹かすは、他の男が結婚しようとして、誘いをかける譬喩である。歌は、その少女に心を寄せて、成人を待っていた男の、他の男がまだ春意を解さない少女に言い寄るのを知って、歎息している心である。早婚時代とて、このようなことが往々にあったのであろう。ゆずり葉の若葉を譬喩にしたのは、その土地が山地であるのと、季節の関係よりとのことであろう。
3573 あしひきの 山葛蘿《やまかづらかげ》 ましばにも 得難《えがた》き蘿《かげ》を 置《お》きや枯《か》らさむ
安之比奇能 夜麻可都良加氣 麻之波尓母 衣我多伎可氣乎 於吉夜可良佐武
【語釈】 ○あしひきの山葛蘿 「あしひきの」は、山の枕詞。「山葛蘿」は、熟語で、「山葛」は、山に自生する常緑の蔓状植物を輪にして、頭髪の上に載せるようにした物の称で、「蘿」は、現在、日かげのかずらと称する蔓草である。これは言いかえると、日かげのかずらで作った山かずらである。これは上代は神事を行なう際、儀礼として着ける物であったが、やや下っては神職の人の物となった。男女を通じての物で、巫女も着けたのである。○ましばにも得難き蘿を 「ましば」は、「ま」は、接頭語で、「しば」は、しばしばの古語。たびたびは。「得難き蘿」は、得やすくない、立派な日かげのかずらを。○置きや枯らさむ 「置きや」は、用いずにさしおいてで、「や」は、疑問の係。「枯らさむ」は、枯らすのであろうか。
【釈】 あしひきの日かげのかずらの山かずらよ。たびたびは得難い立派な日かげのかずらを、用いずにさしおいて枯らすのであろうか。
【評】 「山葛蘿」は、女の譬喩で、その物の性質上、神職をしている巫女を指しているのであろう。そうした女に心を動かした男が、女の職分柄、妻とはなし難いものとして、しかしその美しさを惜しんでの歎息である。譬喩歌ではあるが、作意が単純であるために、無理のない、気分の現われた歌となっている。
3574 小里《をさと》なる 花橘《はなたちばな》を 引《ひ》き攀《よ》ぢて 折《を》らむとすれど うら若《わか》みこそ
乎佐刀奈流 波奈多知波奈乎 比伎余治弖 乎良無登須礼杼 宇良和可美許曾
【語釈】 ○小里なる花橘を 「小里」は、郷の中にある一部落の称で、作者としては指す所のあってのもの。「花橘」は、花の咲いている橘の称。○引き攀ぢて 引き寄せての当時の語。○うら若みこそ 「うら若み」は、状態で、「こそ」は、下に「あれ」の略されたもの。枝が若いことだ。
(277)【釈】 小里にある花の咲いている橘を、引き寄せて、折ろうとするが、枝が若いことだ。
【評】 「花橘」は、女の譬喩で、例の多いものである。心の広い歌で、京の歌にならって作ったとみえるものである。
3575 美夜自呂《みやじろ》の すかべに立《た》てる 貌《かほ》が花《はな》 な咲《さ》き出《い》でそね 隠《こ》めて偲《しの》はむ
美夜自呂乃 須可敞尓多弖流 可保我波奈 莫佐吉伊〓曾祢 許米弖思努波武
【語釈】 ○美夜自呂のすかべに立てる 「美夜自呂」は、地名であるが、所在不明。信濃国南安曇郡有明山の麓近くにあり、他にもある名である。「すかべ」の「すか」は、水辺の砂の地帯をいう。○貌が花 貌花で、今の昼顔とされている。○な咲き出でそね 咲いてくれるなで、「ね」は、願望の助詞。○隠めて偲はむ 「隠めて」は、人に隠して。「偲はむ」は、心の中で思っていよう。
【釈】 美夜自呂の砂丘に生い立っている貌花よ。咲き出してはくれるな。人に隠して、我一人、思っていよう。
【評】 美夜自呂の貌花は、その地の美しい女の譬喩である。花の種類の少ない時代なので、貌花は美人の譬喩となっていたからである。「な咲き出でそね」というのは、貌花に対しては明らかに無理な注文である。「ね」を添えていっているところも、「隠めて」と続けているのも、誰の目にも着くようにしてくれるなの心で、他の男との接触を禁じたい心を、婉曲にいったものと取れる。「偲はむ」も、その延長で、わが独占にしていたいの意であろう。心が複雑であるために、語に多少の無理が生じたものとみえる。
3576 苗代《なはしろ》の 子水葱《こなぎ》が花《はな》を 衣《きぬ》に摺《す》り なるるまにまに 何《あ》ぜか愛《かな》しけ
奈波之呂乃 古奈宜我波奈乎 伎奴尓須里 奈流留麻尓末仁 安是可加奈思家
【語釈】 ○苗代の子水葱が花を 「苗代の」は、苗代田の。「子水葱」は、巻三(四〇七)以下しばしば出た。食料にする物で、自生もし、作りもした。花は紫青色で、衣を摺る料にした。○なるるまにまに その衣を着馴れるに伴って。○何ぜか愛しけ 「あぜか」は、「などか」の東語で、「か」は、係。「愛しけ」は、「愛しき」の古形で、どうしてこうかわゆいのであろうか。
【釈】 苗代田の子水葱の花を衣に摺りつけて、着馴れるにつれて、どうしてこのようにかわゆいのだろうか。
【評】 「子水葱が花」は女の譬喩、「衣に摺り」は、関係を結んだ譬喩、「なるるまにまに」は、馴染の重なるについての譬喩で(278)ある。関係している時が長くなるにつれて、訝かしいほどかわゆくなるというので、健康で、単純な農民の心の現われた歌である。
挽歌
3577 愛《かな》し妹《いも》を 何処《いづち》行《ゆ》かめと 山菅《やますげ》の 背向《そがひ》に寝《ね》しく 今《いま》し悔《くや》しも
可奈思伊毛乎 伊都知由可米等 夜麻須氣乃 曾我比尓宿思久 伊麻之久夜思母
【語釈】 ○愛し妹を何処行かめと 「愛し妹」は、かわゆい妹で、「を」は、詠歎。「何処行かめと」は、どこへ行こうか、行きはしまいと思って。「め」は、「何処」の疑問の係を、已然形で結んだもので、反語となっている。○山菅の背向に寝しく 「山菅の」は、その葉が乱れて向き向きになっている意で、背向にかかる枕詞。「背向」は、背中合わせで、睦まじくないさま。「寝しく」は、「し」は、過去の助動詞。「く」を添えて名詞形としたもの。寝たことが。○今し悔しも 今は残念なことだで、「今し」の「し」は、強意の助詞。
【釈】 かわゆい妹を、どこへ行こうか、行きはしまいと思って、山菅のように背中合わせに寝たことが、今は残念である。
【評】 妻の死後、夫である男が、生前愛の足りなかったことを反省しての憐れみである。この歌は巻七(一四一二)「吾が背子を何処行かめとさき竹の背向に宿しく今し悔しも」によったものである。すなわちその歌を、いささか換えて自身に適用させたのである。別伝は大体そうしたもので、この歌もその一首である。
以前《さき》の歌詞は、いまだ国土山川の名を勘《かむが》へ知ることを得ず。
以前歌詞、未v得3勘2知國土山川之名1也。
【解】 「以前の歌詞」は、(三四三八)以下の歌を指している。「国土山川の名を勘へ知ることを得ず」は、国別けにしてある歌は、国土はもとより、山川の地名で、その所在の知られうるものは、それを頼りとして分けたということで、資料とした原本には、国分けがなく、国分けは一に編集者のしたものであることを示している注である。したがって(三四三八)以下は、東歌ということは資料の原本にあったが、国分けはすでになかったことを示しているものである。この注は、無論本巻の編集者の加えたものである。
萬葉集評釋 卷第十五
(280) 萬葉葉 巻第十五概説
一
本巻は、『国歌大観』(三五七八)より(三七八五)に至る二〇八首を収めた巻である。歌体からいうと、長歌五首、旋頭歌三首、他はすべて短歌で、短歌を主体としたものである。
本巻の歌は、その性質からいうときわめて特殊なもので、集中他に類例のないものである。それは特殊な性質を持った二大歌群があり、それぞれすでに編集されて巻を成していたのであるが、その二巻を合わせたものがすなわち本巻だからである。
二
二大歌群の一つは、天平八年、わが国より新羅に遣わされた国使一行の、その往復の途次において詠んだ旅行歌を集録したものである。
この遣新羅使のことは、続日本紀によってその大体が知られる。それによると、「天平八年二月、戊寅(二十八日)以2従五位下阿倍朝臣継麻昌1、為2遣新羅大使1」とあり、ついで「夏四月丙寅(十七日)、遣新羅使阿倍朝臣継麻呂等拝レ朝」とあって、間もなく出発する予定であったとみえるが、歌で見ると、発船は六月に入ってであったとみえる。帰朝したのは翌年で、続日本紀、天平九年正月の条に、「辛丑(二十七日)、遣新羅使大判官従六位上壬生使主宇太麻呂、少判官正七位上大蔵忌寸麻呂等入京。大使従五位下阿倍継麻呂泊2津嶋1卒、副使従六位下大伴宿禰三中染v病不v得2入京1」とある。この年は流行病が盛んで、京にあっても藤原武智麿、房前、宇合、麿などの顕官が、相継いで流行病で死んでいるので、大使の死、副使の病もその系統のものであったかもしれぬ。ついでまた、二月己末日(十五日)の条に、「遣新羅使、奏d新羅国失2常礼1不uv受2使旨1。於v是召2五位已上并六位以下官人惣四十五人于内裏2令v陳2意見1」とあり、三月の条に「壬寅(二十八日)、遣新羅使副使正六位上大伴宿禰三中等四十人拝v朝」とあって、この一行に関する記事は終わっている。当時の国際情勢とともに、使臣の苦難のほどもうかがわれる。
この一行は、その事の準備された時から発船までの間にすでに時の狂いがあったが、発船して対馬国竹敷の浦に着くまでの内海の航路でも、時を空費しなければならなかった。それは一に天候が定まらず、航路の見とおしのつかなかったためである。作歌数の多いのはそのためである。
歌そのものについて見ると、作歌はほとんどすべて陸上においてしていて、海上でのものは例外の観がある。これは当時の風として、夜は可能な限り陸上に宿ったからであり、それよりも大きい理由は、天候の見定めのつくまでを滞在していたからである。
(281) 歌の内容をなしているものは、すべて旅愁であり、旅愁は一に、京の妻を恋うるもので、それ以外にわたったものはきわめて少数である。その少数も、一行中の代表的な責任者が、たまたま使命に触れての感をいっているものと、他の人の初見の土地の風光に対しての感を陳べているものであって、それ以外にわたってのものは一首もない。もっとも、随員の一人雪連宅満の壱岐で病没したのに対しての挽歌の一連があるが、これは特別のものとする。
一行がなぜそのように一様に、京の妻を恋うる歌を詠んだかについては、推量しやすい理由がある。それは上にいったがように、天候のため滞在する期間が長くなると、自然の成行きとして小酒宴の催されることがきまりのごとくなったと見える。酒宴には歌が無くてはならず、その歌はまた会衆がひとしく興味を感じうるものでなくてはならなかった。したがってその作歌は、勢い相聞歌となったのである。酒宴のことは記してはないが、作歌から見て、それを作った場合が推量される。ついでとしていうと、一行は周防国佐婆の海上で測らずも逆風に逢い、一昼夜を漂流しているのであるが、信仰に触れての歌がじつに少ない。官人という中でも、外国に使臣として遣わされる層に、信仰心が稀薄であったかにみえることも注意される。
この歌群の集録者は、一行中の何びとかであったのだが、その誰であったかは不明である。一人の歌好きの人であったことは、往路の歌は、対馬の竹敷の浦までで打ち切られており、帰路の歌は播磨灘まで来て初めて見えることからも推量される。集録者であった一人の人が、何らかの事情で中止すると、代わる者がなかったのである。集録者は、副使大伴三中ではないかと擬せられている。
三
この歌群は、いったがごとく主として宴歌を集録したもので、それをしたのは、歌好きの心より、良いと感じた歌の忘却されることを惜しんでのことであって、他の意よりのことではなかったろう。しかしその結果から見ると、一団の人が一定の航路上にあっての作歌で、時の移るとともに所も変わり、その所どころで作った歌であるために、おのずからその間に連絡がついて、一人の人の長期にわたっての紀行文と異ならないものとなっている。否、むしろ多彩な紀行文とさえなっている。歌そのものから見ると、無論一首一首独立したものであるが、時と所の推移はそれを一大連作と見させるものとなって、結局、特殊な紀行文学をなしているのである。それがこの一大歌群の一つの特色である。
歌をもって散文に代わらしめ、散文の要求するものを遂げさせようとする傾向は、すでにこの時代の初頭、大伴旅人、山上憶良などによって試みられている。この大歌群はおのずからにしてそれを行なっているものである。編集者のこの歌群を本集に収録したのもその心が伴っていたのであろう。
(282) 四
他の今一つの大歌群は、中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子との贈答歌六三首である。これは純粋な相聞歌で、その意味では他奇なきものであるが、この相聞歌はきわめて特殊な事情のもとに詠まれているもので、その事情が相聞歌を特殊なものとしているのである。
中臣宅守は、天平宝字七年正月、従六位上より従五位下に進められた人ということが、続日本紀によって知られるほかは、所見のない官人である。狭野弟上娘子は身分が知られており、斎宮案の十二司の中の一つである蔵部に女嬬として仕えていた女である。女嬬は微官で、掃除などを掌る役である。宅守は職は不明であるが、歌で見ると、日々女嬬の娘子と顔を合わせていた人であり、また中臣の氏から見ても、斎宮寮に関係した職の人ではなかったかと推量される。
宅守は娘子とひそかに通ずる間となり、その事が顕われた。そうした女官と通じることは国法の禁じていたことなので、男の宅守は法に問われ、流刑に処せられて越前国へ遣られたのである。その時は不明であるが、続日本紀、天平十二年六月庚午(十五日)の大赦の勅の中に、大赦にあずかり難い者五人を挙げている中に宅守の名のあるのと、その作歌とから見て、処刑されたのは天平十二年の春頃、赦免になったのは、翌十三年の夏、霍公鳥の鳴く頃であったろうと推量される。
歌は相思の男女が、配所と京とに別れていて詠みかわしたものである。そこには何の事件もなく、かなしみ訴える心と、慰め励ます心との往来にすぎないものであるが、場合が場合とて二人の性格が如実に現われ、同時に相思の間のいたわり合いが絡みついて、感情の小波の起伏のあざやかにうかがわれるものとなっている。すなわち宅守の気弱く、しつこく、愚痴っぽい性格と、娘子のきわめて純情で、感性が鋭く、相応に聡明な性格とが、それぞれの歌をとおして対照的に現われるとともに、他方には、男が昂奮すると女が落ちついてなだめ、反対に男が落ちつくと女が昂奮して訴える起伏のさまがうかがえるのである。これらの歌は、もとより文芸品として作ったものではなく、消息に代えての実用品として詠んだものであって、したがってその時どきの相手次第によって内容を制限されているものであるが、娘子の歌才は凡庸ではなく、むしろ非凡に近いところがあるので、この贈答を味わい細かなものにしている。
五
宅守と娘子の歌は、無論相手一人を対象とした、真剣な実用文だったのであるが、これを第三者から見ると、歌をもって綴った恋愛物語となっているのである。しかも上にいったがごとく、性格と、その時どきの心理とが絡み合い、相手と一体に溶け合って進展させている物語で、その意味では物語というよりも、平安朝の日記文学に近く、あるいは近代の恋愛小説に近いとも言いうるものである。
この歌群は一巻となり、ある程度世に行なわれていたかにみ(283)え、新しい物であるにもかかわらず別伝さえもあったことが知れる。
本巻の編集者がこれを収録したことは、上の遣新羅使のものと同じ心よりのことであったろう。
六
本巻の編集者が大伴家持であろうということは、考証が重ねられて、今は定説のごとくなっている。繰り返しを避けて省くこととする。
(287) 新羅に遣さえし使人等《つかひびとたち》、別を悲みて贈答し、及《また》海路に情《こころ》を慟《いた》み思を陳《の》べ、并に所に当りて誦詠せる古歌
【題意】 この題詞は目録とは異なっていて、目録のほうはやや委しく、「天平八年丙子夏六月、使を新羅国に遣はしし時、使人等各別を悲しみて贈答し、及海路の上に旅を慟み思を陳べて作れる歌并に所に当りて誦詠せる古歌一百四十五首」となっている。題詞より目録のほうが委しいということは違例なことで、したがって注意されている。以下の百四十五首を収録した人は、多分題詞のごとく記していたろうが、後の人が、それだけでは不明な虞《おそ》れがあるとして、続日本紀の記事によって委しくしたのではなかろうかと思われる。そう解するのが自然だからである。続日本紀の記事は概説に引いてあるから、参照されたい。この題詞は、以下百四十五首にわたるものである。
3578 武庫《むこ》の浦《うら》の 入江《いりえ》の渚鳥《すどり》 羽《は》ぐくもる 君《きみ》を離《はな》れて 恋《こひ》に死《し》ぬべし
武庫能浦乃 伊里江能渚鳥 羽具久毛流 伎美乎波奈礼弖 古非尓之奴倍之
【語釈】 ○武庫の浦の入江の渚鳥 「武庫の浦」は、摂津国武庫郡(現、兵庫県西宮市)武庫川の河口の称で、現在よりも西に寄っていたろうと推定されている。「入江」は、現在よりも深く湾入していたろうと推定される。「渚鳥」は、渚の辺りにいる鳥の総称で、渚にいるのは、そこで食餌としての小魚を獲るためである。鳥の習性としての「羽ぐくもる」に続き、初二句はその序詞。○羽ぐくもる君を離れて 「羽ぐくもる」は、他動詞「羽ぐくむ」に対しての自動詞で、羽ぐくまれているの意。羽ぐくむは、親鳥かその雛鳥を養い育てるために羽根の下に籠もらせることで、ここは女が、その夫とする男によりすがっていることを、雛鳥の状態を譬喩としていったもの。「君を離れて」は、君に別れての意であるが、譬喩の関係で言いかえたもの。○恋に死ぬべし 「死ぬべし」の「べし」は、推量で、悲しみを強めていったも(288)の。
【釈】 武庫の浦の入江の渚にいる鳥の、その雛鳥が親鳥に羽ぐくまれているようなわたしは、君から離れて、恋しさに死んでしまうことでしょう。
【評】 発足前の夫に対して、その妻の贈ったものである。遠い危険な旅へ、夫を立たせた後の、自身の恋しさを思いやって訴えたもので、心は明らかである。この歌を贈ったのは、夫妻とも奈良京にいてのことと思われるから、その点から見て「武庫の浦の入江の渚鳥」という序詞は、不自然な感のあるものである。普通、このように地名を入れての序詞は、現在その地にいてのものであるから、この歌で見ると、妻が夫を送って武庫まで来ているかのように思わせるからである。武庫は難波津を出た船の第一の碇泊地であるから、関係の少なくない地ではあるが、それにしてもこの感は蔽い難い。「羽ぐくもる」に引かれて、漠然と捉えたものか、または夫妻間には、武庫についての何らかの連想があってのものか、その辺はわかりかねる。いずれにしても妥当ではないものである。多分当時の新歌風は、そうしたことを余り問題にしなくなっていたのであろう。
3579 大船《おほふね》に 妹《いも》乗《の》るものに あらませば 羽《は》ぐくみもちて 行《ゆ》かましものを
大船尓 伊母能流母能尓 安良麻勢婆 羽具久美母知弖 由可麻之母能乎
【語釈】 ○大船に妹乗るものに 「大船」は、使人が乗る官船を指してのもので、「大」は、事実でもあるが、尊んで添えている語である。遣唐使の乗る船と同じく、「四つの船」と称せられる物で、当時としては大規模の物だったのである。「妹乗るものに」は、妹が乗るもので。○あらませば 「ませ」は、仮想の推量の助動詞「まし」の未然形、前提法で「まし」に対させたもの。○羽ぐくみもちて行かましものを 「羽ぐくみ」は、他動詞で、上の「羽ぐくもる」は、自動詞。それに「もちて」を続け、羽の下に覆い持っての意で、人目に立たずに、ひそかにの意でいっているもの。すなわち贈歌とは内容を異ならせているのである。「を」は、詠歎。
【釈】 官船に妹が乗れるものであったならば、いわれるように、我は羽ぐくみもって、ひそかに伴って行こうものを。
【評】 上の妻の歌に対して、夫が答歌として詠んでいるものである。感情の上では不合理なことも行ないたいのであるが、道理の上では思うべくもないことだとし、それを対照させていうことによって嘆きをあらわしているもので、根本は知性的なものである。「羽ぐくみもちて」は、いったがごとく贈歌の語を承けて内容を変えたもので、型に合わせた、要を得たものである。奈良京の知識人の歌で、一応の落着きと柔軟味はあるが、情熱のないものである。ある年輩に達した夫妻を思わせる。
(289)3580 君《きみ》が行《ゆ》く 海辺《うみべ》の宿《やど》に 霧《きり》立《た》たば 吾《わ》が立《た》ち歎《なげ》く 息《いき》と知《し》りませ
君之由久 海邊乃夜杼尓 奇里多々婆 安我多知奈氣久 伊伎等之理麻勢
【語釈】 ○君が行く海辺の宿に 「君」は、上の歌と同じ。「行く」は、行く旅路の意。「海辺の宿」は、船旅は、夜は船を海岸に繋ぎ、人は上陸して寝るのが建前となっていたので、そうした海辺の宿の意で、「宿」は、大体仮小屋であったろう。○霧立たば もし霧が立つならば。○吾が立ち歎く息と知りませ 「立ち歎く」は、「立ち」は、接頭語。「息と知りませ」は、「息」は、嘆いてつく大きい息で、そうした息は霧となるものとしていっているもので、これは古くからある成語である。続日本紀に、出発前の「拝朝」は四月とあり、出発は「夏六月」とあるから、実際としては息が霧になる季節ではないのであるが、上代は人の身より出る息から成る霧には、その人の霊がこもり、また霊的作用で、思う人のいる所へ通いうるものとしていっているのである。「ませ」は、敬語の助動詞「ます」の命令形。
【釈】 君が行く旅路の、その海べの宿に霧が立つならば、私が君を思い嘆いての息であるとお知りください。
【評】 霧に対しての上代人の信仰は、常識的となっていたもので、したがって類想の歌の少なくないものである。したがってこの歌は、取材としては特殊なものではない。それを取立てていっているのは、この種の信仰は、男性よりも女性のほうが強く、したがって思い詰めて一本気になっていっているところに、この歌の特殊さがあるのである。すなわち知性的ではなく、情熱的なところにこの歌の特色があるのである。このことは作者としては意識していないものであろう。
3581 秋《あき》さらば 相見《あひみ》むものを 何《なに》しかも 霧《きり》に立《た》つべく 歎《なげき》しまさむ
秋佐良婆 安比見牟毛能乎 奈尓之可母 寄里尓多都倍久 奈氣伎之麻佐牟
【語釈】 ○秋さらば相見むものを 「秋さらば」は、秋とならばの意。既出。遣新羅使は、夏六月発足、秋には帰朝のできるものと予定し、その心でいっているのである。「相見む」は、夫妻相逢う意の語。「を」は、詠歎。○何しかも 「し」は、強意の助詞。「かも」は、疑問の係助詞。○霧に立つべく歎しまさむ 「霧に立つべく」は、霧となって立つようなまでの、下の「歎」の強さをいっているものである。嘆きの息が霧となって立つということは、その嘆きが尋常のものではないことである。「しまさむ」は、「せむ」の敬語で、女性に対しての慣用のものである。
【釈】 秋となったならば、また逢い見るであろうものを、何だって、霧に立つような強い嘆きをなさろうとするのですか。
【評】 上の妻の歌に対しての夫の答歌であって、一意に慰めようとしてのものである。当時の渡唐の旅は命をかけてのもので、(290)渡韓もそれについでの危険であったから、事は容易ならぬものである。使人らはもとよりそれを覚悟していたものである。しかるに夫として妻に対しては、事無げにいっているのである。これは妻を安んじさせようとする心からのことで、この軽く言い去っていることがすなわち温情なのである。陰影を持った歌である。
3582 大船《おほふね》を 荒海《あるみ》に出《い》だし います君《きみ》 恙《つつ》むことなく はや帰《かへ》りませ
大船乎 安流美尓伊太之 伊麻須君 都追牟許等奈久 波也可敞里麻勢
【語釈】 ○大船を荒海に出だし 「大船」は、上に出た。「荒海」は、あらうみの約音。上代の船にとっては、いかなる海も怖るべき荒海であったが、壱岐、対馬より新羅に至るまでの朝鮮海峡はまさに荒海だったのである。○います君 「います」は、「行く」の敬語。「君」は、上と同じく夫を指したもので、呼びかけ。○恙むことなくはや帰りませ 「恙む」は、障るの意で、本来は、災禍があると忌み籠もっていることの意で、それが災禍の意に転じたものである。「帰りませ」は、「ませ」は、敬語の助動詞の命令形。
【釈】 大船をあら海に出して旅行きをする君よ。障ることなく、早く帰っていらっしゃいませ。
【評】 妻が夫の道中無事を祈った歌である。善言をもって人を祝うと、語そのものに宿る言霊の力により、その語どおりの事が現われるという信仰は、上代にあってはきわめて強いもので、今もその信仰の上に立って祝っているのである。祝いは現在でも、信仰は薄らいだが、依然行なわれているものである。実用性の歌で、巧拙を超えてのものである。
3583 真幸《まさき》くて 妹《いも》が斎《いは》はば 沖《おき》つ浪《なみ》 千重《ちへ》に立《た》つとも 障《さはり》あらめやも
眞幸而 伊毛我伊波伴伐 於伎都奈美 知敞尓多都等母 佐波里安良米也母
【語釈】 ○真幸くて妹が斎はば 「真幸くて」は、「真」は、真にの意の接頭語。「幸くて」は、無事であってで、これは「妹」の状態をいっているものである。「斎はば」は、神を祭って、神力によって災禍を払うように祈ることで、これは家に留守する者も行ない、旅にある者も行なうことである。○沖つ浪千重に立つとも 「沖つ浪」は、沖の浪。「千重」は、繁くという意を具象的にいったもの。「とも」は、未来の想像。沖の浪がいかに繁く立とうともで、上の歌の「荒海」を、具象的にいっているもの。上代の航路はしばしばいったがように、許される限り海岸を離れないようにしたものであるから、「沖つ浪」が直接の問題になって来ることは、その沖を横切る時で、荒海の荒海たる時なのである。○障あらめやも 「や」は、反語。「も」は、詠歎。障りがあろうか、ありはしないことよの意で、上の歌の「恙みなく」を承けていっているものである。この(291)信念は、妹が斎うことによっての神力の加護を、頼みきっていっているものである。
【釈】 真に無事でいて、妹がわがために斎うならば、沖の浪が千重と立とうとも、我に障りがあろうか、ありはしないことよ。
【評】 上の、妻の祝の心を承け入れて、そのように妹が我を斎ってくれたならば、必ず神の加護があり、いわれるところの荒海も、障りのあるようなことなく越えうることだと、確信をもっていっているものである。妹にも劣らない深い信仰よりの言であるが、これは場合がら実感であったことと思える。「真幸くて」と、妹も無事でいることを願い、それを継続しての斎いに結びつけて一首の統一を持たせているのは、細心の用意と言いうる。互いに他を主として物を言い合うのは、上代といううち、ことに夫妻の間にあっては普通のこととなっていたのである。
3584 別《わか》れなば うら悲《がな》しけむ 吾《あ》が衣《ころも》 下《した》にを著《き》ませ ただに逢《あ》ふまでに
和可礼奈婆 宇良我奈之家武 安我許呂母 之多尓乎伎麻勢 多太尓安布麻弖尓
【語釈】 ○別れなばうら悲しけむ 「別れなば」は、未然形に続く仮定条件をあらわす。妻が夫と別れてしまったならば。「うら悲しけ」は、形容詞の未然形。「うら」は、本来は下ごころであるが、慣用の結果接頭語的になったもので、心がなしくあろうで、頼りない気がしようの意に近いもの。妻自身の心状の推量。○吾が衣下にを著ませ 「吾が衣」は、妻が自身の衣で、「下に」は、夫の衣の下着としてで、人に目立たないように、秘密にして。「を」は、感動の助詞。「著ませ」は、「ませ」は、敬語の助動詞で、命令形。これは妻が自身の衣を夫に贈るについてその目的をいったもので、上代は衣を貸し借りすることもしたが、これはその時の寒さを防ぐための臨時の都合よりのことで、これはそれとは異なって、妻がその身に着けている衣には、自身の霊が宿っていて、それを夫に着せようとするのは、自身の霊を夫の身に添わせようとすることで、上代の信仰である。「下にを」は、夫の膚に直接に添わせる意と、人目に立たない意とを兼ねてのことである。○ただに逢ふまでに 直接に相逢う時までを。
【釈】 君に別れたならば、心がなしいことでしょう。わが衣を君の衣の下に着て下さい。直接に相逢う時までを。
【評】 これは妻が夫に、自分の衣を贈るのに添えた、挨拶の歌である。自分の身についた品を、自身の身代わりすなわち形見として贈ることは、上代には信仰の伴ってのことであって、これは常識となっていて、説明を要さないことだったのである。今は説明の心をもって、「別れなばうら悲しけむ」ということを言い添えているのである。これは自身の頼りなさの訴えであるが、同時に、自身の霊を夫に添わしめて、絶えず夫を守るものとさせようとの心も持っていて、そのほうは言外に置いているものと思える。妻の純情のこもっている、あわれ深い歌である。
(292)3585 吾妹子《わぎもこ》が 下《した》にも著《き》よと 贈《おく》りたる 衣《ころも》の紐《ひも》を 吾《あれ》解《と》かめやも
和伎母故我 之多尓毛伎余等 於久理多流 許呂母能比毛乎 安礼等可米也母
【語釈】 ○吾妹子が下にも著よと贈りたる 「下にも」の「も」は、詠歎。「贈りたる」は、贈って来ている。○衣の紐を吾解かめやも 「や」は、反語、「も」は、詠歎。衣の紐を解こうか、けっして解きはすまいで、「下にを著ませ」を承けて、着るのみか、脱ぐことはけっしてすまいと具象的に強くいい、喜びの心をあらわしたものである。妻の霊を身より離さないの意である。
【釈】 吾妹子が、下着として着よと贈って来ているこの衣を、いわれるがように着て、その紐は解こうか、解いて身より離すことはけっしてしないだろう。
【評】 上の歌に対しての夫の答歌で、四、五句にその作意をあらわしているものである。同じく挨拶の範囲の歌で、文芸的な巧拙など問題とはしていないものである。
3586 我《わ》が故《ゆゑ》に 思《おも》ひな痩《や》せそ 秋風《あきかぜ》の 吹《ふ》かむその月《つき》 逢《あ》はむもの故《ゆゑ》
和我由惠尓 於毛比奈夜勢曾 秋風能 布可武曾能都奇 安波牟母能由惠
【語釈】 ○我が故に思ひな痩せそ 「我が」は、夫で、遠く行く我のために。「思ひな痩せそ」は、「思ひ」は、嘆きで、嘆いて、身を痩せさせることはするな。○秋風の吹かむその月 「秋風の」は、上にも、帰期は秋だと予定していた、その意のもの。「その月」の「その」は、強めの意で添えているもの。秋にはという意を、具象的に、強めていったもの。○逢はむもの故 相逢うであろう期限のある旅であるゆえにで、その事を事なげにいったもの。妻を安んじさせようとの心からである。
【釈】 我のために、嘆いて、身を痩せさせることはするな。秋風の吹くであろうその月には、帰って来て相逢う旅であるゆえに。
【評】 夫よりその妻に贈った歌で、慰めて安んじさせようとの心からのものである。旅の性質には触れず、ただ帰期の速かなことだけをいっているのはそのためで、言い方もただちに心の中核に躍り入ってのものである。柔らかい歌ではあるが、男性的な心よりのものである。「故」という語が二回まで用いられているが、よくこなれて、むしろ調子を助けるものとなっている。
(293)3587 栲衾《たくぶすま》 新羅《しらぎ》へいます 君《きみ》が目《め》を 今日《けふ》か明日《あす》かと 斎《いは》ひて待《ま》たむ
多久夫須麻 新羅邊伊麻須 伎美我目乎 家布可安須可登 伊波比弖麻多牟
【語釈】 ○栲衾新羅へいます 「栲衾」は、栲は楮で、その繊維で織った布の衾は、色が白い意で新羅へ冠したもの。古い枕詞である。「います」は、「行く」の敬語。○君が目を 「目」は、広く、見ること、見られることをあらわす語で、相見る意を具象化した語である。○今日か明日かと 今日は逢えるか、明日は逢えるかと思ってで、帰期に憧れることを感傷的にいったもの。○斎ひて待たむ 「斎ひて」は、夫の無事なことを神に祈る意で、上に出た。「待たむ」の「む」は、上の「か」の結で、連体形。
【釈】 栲衾新羅へいらっしゃる君に相逢う時を、今日か、明日かと思って、神に君の無事を祈って待っておりましょう。
【評】 上の歌に対する妻の答歌である。「栲衾新羅へ」と、「今日か明日かと」を対照させ、さらにその「今日か明日かと」に感傷の心をあらわして、昂奮と飛躍とを示している歌である。上の男性的な男の心をさながらに受け入れて、女性的ないちずな心をもって答えているものである。二首、贈歌として相対させて見ることによって、味わいの加わって来るものである。
3588 はろばろに 思《おも》ほゆるかも 然《しか》れども 異《け》しき情《こころ》を 吾《あ》が思《も》はなくに
波呂波呂尓 於毛保由流可母 之可礼杼毛 異情乎 安我毛波奈久尓
【語釈】 ○はろばろに思ほゆるかも 「はろばろに」は、遙かの語幹「はろ」を畳んで強めた副詞。きわめて遠く思われることであるよで、夫の行く新羅国を思っていっているもの。夫の行く国の遠いということは、夫との心の距離をも連想させることで、ここはそれを背後に置き、そのほうへ力点を置いていっているものである。○然れども 上を承けて、それを覆したもの。○異しき情を吾が思はなくに 「異しき情」は、原文「異情」。旧訓「あやしきこころ」。『代匠記』の訓。あだし心で、夫に背く心。「思はなくに」は、上に続けて、「情を思ふ」という言い方をしたもの。現在だと心を持つというにあたる語法である。「なく」は、打消の助動詞「ず」の名詞形。「に」は、詠歎。
【釈】 君の行く国はきわめて遙かに思われることである。しかしながら、君に対してあだし心はわが持たないことであるよ。
【評】 上の歌に続けて、女がその夫に贈ったものである。「異しき情を吾が思はなくに」が中心であり、夫の旅行中、妻としての真実は十分に守ることを誓った、いわゆる誓言である。当時の夫妻は居を異にし、関係を秘密にしているところから、おりおり、こうした誓言を交わす必要があって、それが風習となっていたのである。この夫妻は相応の身分ある人で、夫婦関係(294)が秘密になっている間柄ではなかったろうと思われるが、場合が場合だけに、こうした誓言をすることが、夫に対して慰めとなるだろうと思ってしたとみえる。「はろばろに思ほゆるかも」は、形としては地理的にいっているものであるが、それがやがて心の距離にもなりうるものであって、この場合は、むしろ心のほうを主としていっているのである。そのことは、夫とても同じはずである。それが妻をして誓言の要を感じさせたのである。無論夫のためにいっているもので、夫は喜んで受け入れた歌だったであろう。
右の十一首は、贈答。
右十一首、贈答。
【解】 これは撰者の加えた注と思われる。以下も同様である。以上は、奈良を離れるまでのある一人の人の作物で、その人は、この全体の歌群の集録者であったろうと思われる。
3589 夕《ゆふ》されば 蜩《ひぐらし》来鳴《きな》く 生駒山《いこまやま》 越《こ》えてぞ吾《あ》が来《く》る 妹《いも》が目《め》を欲《ほ》り
由布佐礼婆 比具良之伎奈久 伊故麻山 古延弖曾安我久流 伊毛我目乎保里
【語釈】 ○夕されば蜩来鳴く 夕が来れば蜩が鳴くで、「来鳴く」は、夕方になって鳴くところから、よそから来て鳴くように感じて「来」を添えたのである。「鳴く」は、連体形。○生駒山 奈良県生駒郡と、大阪府枚岡市との間、大和河内の国境をなす山で、奈良京と難波との通路に横たわっている。今一つの通路の竜田越えよりは、山は峻しいが路は近かった。○越えてぞ吾が来る 「来る」は、現在だと「行く」というにあたる場合であるが、奈良京にいる妹を中心としてこのよう(295)にいったのである。「来る」は、「ぞ」の結、連体形で、詠歎を含んだもの。越えて我は妹が方へと行くことであるで、これは難波津から乗船しようとして、すでにそちらへ行っているのであるが、海路の見定め難いところから、乗船を延ばしていることを背後に置いていっているものである。○妹が目を欲り 「目」は、上に出た。妹に逢いたくて。「欲り」は連用形。
【釈】 夕方となると蜩が来て鳴くところの生駒山を、越えて我は行くことである。妹の顔が見たくて。
【評】 表向きは奈良京を発足して旅路に上った身であるが、偶然にも隙ができたのを利して、妹に逢うために京へ帰った時の心である。夕方、さみしい蜩の声を聞きながら、生駒山の険路を越えるというので、妹を思う情は、うかがえるが、大命を負うている国使の随員という感情には、全然触れたところがない。当時の廷臣のこうした際の心のみえるものである。
右の一首は、秦間満《はたのはしまろ》。
右一首、秦間満。
【解】 「間満」の伝は不明。下に秦田満というがあり、それも同一人で、「間」と「田」とは、いずれかが誤写であろうといわれている。「満」は「麿」と通用した文字である。
3590 妹《いも》に逢《あ》はず あらば術《すべ》無《な》み 石根《いはね》踏《ふ》む 生駒《いこま》の山《やま》を 越《こ》えてぞ吾《あ》が来《く》る
伊毛尓安波受 安良婆須敞奈美 伊波祢布牟 伊故麻乃山乎 故延弖曾安我久流
【語釈】 ○妹に逢はずあらば術無み 妹に逢わずにいようとすれば、やるせないゆえに。「逢はず」は、連用形。○石根踏む生駒の山を 「石根」は、岩で、「根」は、接尾語。具象的にいったもの。岩を踏んで歩くところの。「生駒の山」は、上と同じ。○越えてぞ吾が来る 越えて妹のもとに行くことであるで、上の歌と同じ。
【釈】 妹に逢わずにいようとすれば、やるせないので、岩を踏んで歩く困難な生駒の山を越して、我は妹のもとに行くことである。
【評】 上の歌と同じ境に立っての心で、同じく生駒山を越える際の感である。「妹に逢はずあらば術無み」は、一応は、妹に逢うことをはばかろうとしたが、それに堪えない心をいっているもので、上の歌よりは複雑で、したがって熱意をもったものでもあるが、それとともに説明的になっているものである。
(296) 右一首は、暫く私の家に還りて思を陳ぶ。
右一首、※[斬/足]還2私家1陳v思。
【解】 これらの歌の集録者の注である。
3591 妹《いも》とありし 時《とき》はあれども 別《わか》れては 衣手《ころもで》寒《さむ》き ものにぞありける
妹等安里之 時者安礼杼毛 和可礼弖波 許呂母弖佐牟伎 母能尓曾安里家流
【語釈】 ○妹とありし時はあれども 「妹とありし時」は、妹と一緒に居た時で、奈良京にいた時には。「あれども」は、下の「寒き」に対させていっているもので、さもなくあれども、すなわち寒くはなくあったけれどもの意。○別れては 別れて来ている現在は。○衣手寒きものにぞありける 「衣手寒き」は、袖の寒いで、独寝の肌さびしいことをあらわす歌語ともなっており、ここはそれである。難波津を発船したのは夏だったのである。「ものにぞありける」は、ものであることよで、「ぞ」は、係助詞。初めて経験したことのように、詠歎をこめていったものである。
【釈】 妹と一緒にいた時は、それとも思わずにいたけれども、別れてのちは、衣の寒いものであることよ。
【評】 難波での旅情を詠んだものである。素朴というよりむしろ素朴にすぎる歌である。その意味では、奈良京の歌とも思われないほどのものである。一行の歌は残らず採録しようとの心から記録したものであろう。
3592 海原《うなはら》に 浮寝《うきね》せむ夜《よ》は 沖《おき》つ風《かぜ》 いたくな吹《ふ》きそ 妹《いも》もあらなくに
海原尓 宇伎祢世武夜者 於伎都風 伊多久奈布吉曾 妹毛安良奈久尓
【語釈】 ○海原に浮寝せむ夜は 海上に浮寝をするであろう夜は。「浮寝」は、船中で寝る意。発船前、想像としていっているもの。○沖つ風いたくな吹きそ 沖の風よ、強くは吹くなと、風に命令した形。下の続きで、肌寒さを厭う心でいっているのである。○妹もあらなくに 妹も一緒に居ないことだのに。
【釈】 海上で、船中に寝るであろう夜は、沖の風よ強くは吹くなよ。妹も一緒にはいないことだのに。
(297)【評】 陸上にあって、発船後の海路を思いやっての心である。海路の侘びしさは想像しているが、その第一に、妹の一緒に居ないことを置いているもので、いかに航海の実情に遠いものであるかを思わせる歌である。
3593 大伴《おほとも》の 御津《みつ》に船乗《ふなの》り 漕《こ》ぎ出《で》ては いづれの島《しま》に 廬《いほり》せむ我《われ》
大伴能 美津尓布奈能里 許藝出而者 伊都礼乃思麻尓 伊保里世武和礼
【語釈】 ○大伴の御津に船乗り 「大伴」は、難波から泉北を含んでいる、広い地域の称。「御津」は、難波津で、朝廷の津すなわち船の発着所であるところからの敬称。「船乗り」は、熟語で、船乗りをして。○いづれの島に廬せむ我 「いづれの島」は、どういう島にで、「島」は、行く先々の繋留地を指していっているもの。「廬せむ」は、仮小屋を造って寝るだろうかで、「我」は、我はで、感傷の心から自意識を強めさせられての語である。
【釈】 大伴の御津で船乗りをして、海路に漕ぎ出してからは、どういう島に廬を作って寝ることであろうか、我は。
【評】 いよいよ発船となった時、新たなる感傷と昂奮をもち、遠い海路と自身を大観しての心である。「いづれの島に」と、落莫と、頼りない心を具象しているが、海路の不安には触れていない。それが最大の関心であったろうが、わざと触れなかったのであろう。作歌に熟した人の歌である。
右の三首は、発《ふなだち》に臨みし時作れる歌。
右三首、臨v發之時作歌。
3594 潮《しほ》待《ま》つと ありける船《ふね》を 知《し》らずして 悔《くや》しく妹《いも》を 別《わか》れ来《き》にけり
之保麻都等 安里家流布祢乎 思良受之弖 久夜之久妹乎 和可礼伎尓家利
【語釈】 ○潮待つとありける船を 「潮待つと」は、船出に適した潮加減を待つとて。潮は一昼夜にも干満があるのであるが、船出に最も適した潮加減は、一月中、新月または満月の時なのである。ここの「潮待つと」はその意味のものである。「ありける船を」は、留まっていた船であるものを。○悔しく妹を別れ来にけり 残念にも別れて来たことであったで、「妹を別れ」は、別れの目標をいう時には、「に」といわず「を」を用い(298)るのが例となっていた。
【釈】 船出に適した潮を待つとて留まっていた船であるものを。それとは知らなくて、残念にも、逢いに行った妹に慌しく別れて来たことであった。
【評】 この歌は、上の「発に臨みし時作れる」の類に加えるべき歌とみえるが、海上での歌に入れている。妹を思慕する心であるから、海上での心としても成り立ちうるものである。実感を素朴に詠んだもので、作意を遂げ得ている歌である。
3595 朝《あさ》びらき 漕《こ》ぎ出《で》て来《く》れば 武庫《むこ》の浦《うら》の 潮干《しほひ》の潟《かた》に 鶴《たづ》が声《こゑ》すも
安佐妣良伎 許藝弖天久礼婆 牟故能宇良能 之保非能可多尓 多豆我許惠須毛
【語釈】 ○朝びらき 朝、船出をすることをあらわす語。巻三(三五一)に既出。○武庫の浦の潮干の潟に 「武庫の浦」は、上の(三五七八)に出た。「潮干の潟」は、潮が干て、潟となった海。○鶴が声すも 「鶴」は、海が干潟となった時が、食餌としての小魚の獲やすい時とする鳥で、「声」は、そのための活動をしながら立てる、賑わしい声である。
【釈】 朝、船出をして、漕ぎ出して来ると、武庫の浦の、おりからの潮干の潟のほうで、鶴の鳴き声がすることであるよ。
【評】 朝、難波津を船出して、初めて海上の者となって、武庫の浦に近づいた時、おりから干潮で、賑わしく鶴の鳴く声を聞いて、興を催しての心である。大和の京の人の、海めずらしい心である。「潮干の潟に」は、鶴の声の賑わしさをあらわすためのものである。興趣の歌で、旅愁に触れてのものではない。心のぴやかな歌である。
3596 吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》に見《み》むを 印南都麻《いなみつま》 白浪《しらなみ》高《たか》み 外《よそ》にかも見《み》む
和伎母故我 可多美尓見牟乎 印南都麻 之良奈美多加祢 与曾尓可母美牟
【語釈】 ○吾妹子が形見に見むを 「形見に見むを」は、身代わりの物として見ようものを。○印南都麻 「印南」は、播磨国印南郡(兵庫県)の地で、「都麻」は、加古川の河口にある砂洲で、今の高砂市の地がそれだという。古くから名勝の地とされていた。上代人は名とそのものとの間に強いつながりを感じたところから、都麻という名に家妻を連想して、形見との感を起こしたのである。○白浪高み外にかも見む 「白浪高み」は、白浪が高いゆえにで、その白波は印南都麻に寄せる波である。上代の漕法は、できうる限り海岸を離れまいとするのであるが、海岸に浪が高いと、(299)船が陸に押し付けられて砕ける惧れがあるところから、余儀なく遠ざかって、沖のほうを漕いだので、今もそれである。「外にかも見む」は、遠いものとして見るのであろうかで、「かも」は、疑問の係助詞。
【釈】 吾妹子の形見として見ようものを。その印南都麻を、白浪が高いので、遠く見ることであろうか。
【評】 印南都麻のあたりを過ぎる時、その名に刺激されて、妻恋しい旅情を起こし、そこに船を寄せられない嘆きをいっているものである。上代人は名というものに対して神秘的な信仰を抱いており、名はただちにそのものであると感じていたのであるから、ここも印南都麻に家妻そのもののごとき感を起こしたのである。その信仰の後退した現在では、単なる語戯のごとく思うが、ここは場合がら、上代信仰を強く起こしていっているのである。名勝の地の見られない心残りという程度のものではない。調べがしみじみとしているのも、その心からのことである。
3597 わたつみの 沖《おき》つ白浪《しらなみ》 立《た》ち来《く》らし 海人娘子《あまをとめ》ども 島隠《しまがく》る見《み》ゆ
和多都美能 於伎津之良奈美 多知久良思 安麻乎等女等母 思麻我久流見由
【語釈】 ○沖つ白浪立ち来らし 「沖つ白浪」は、沖に立つ高い浪で、「立ち来らし」は、「らし」は、強い推量をあらわす助動詞である。○海人娘子ども島隠る見ゆ 「海人娘子ども」は、海人の女の、藻刈りなどに、沖のほうに出ている多くの舟で、「島隠る」は、舟が島陰に隠れる意。白浪の危険を避けるためである。「隠る」は、終止形で、「見ゆ」に接しさせる古格である。
【釈】 海原の沖に立つ高く白い浪が寄せて来るらしい。海人娘子どもの漕いでいる多くの舟の、島陰に隠れるのが見える。
【評】 陸に添って漕いでいる官船から、沖のほうに出ている小さな舟群の状態を見やっての感である。漁撈生活をしている者にはきわめて普通な光景であるが、海めずらしい心より捉えているものである。「わたつみの沖つ白浪」と大げさな言い方をし、また、多分明らかには差別し難かったろうと思われる舟人を、「海人娘子ども」といっているのも、興趣からの言であろう。
3598 ぬばたまの 夜《よ》は明《あ》けぬらし 多麻《たま》の浦《うら》に 求食《あさり》する鶴《たづ》 鳴《な》き渡《わた》るなり
奴波多麻能 欲波安氣奴良之 多麻能宇良尓 安佐里須流多豆 奈伎和多流奈里
【語釈】 ○ぬばたまの夜は明けぬらし 「ぬばたまの」は、夜の枕詞。「明けぬらし」は、明けたらしいで、「らし」については上にいった。○多(300)麻の浦に求食する鶴 「多麻の浦」は、所在不明である。中山厳水は、播磨国印南都麻と、次の備中国神島との中間に排列されている関係上、備中国浅口郡玉島の浦(現、岡山県玉島市の海)かといっている。岡山県玉野市玉、または、西大寺市東片岡あたりかとの説もある。「に」は、に向かって。「求食する鶴」は、「求食する」は、食餌としての小魚を獲る意で、鶴は陸上の林間にその塒《ねぐら》を持ち、海べに行くのは求食のためで、鳥類共通の習性として、朝の中に食餌の大部分を摂取するものである。ここもその意でいっているのである。○鳴き渡るなり 「鳴き渡る」は、鳴きつつとおって行くで、「なり」は、断定の助動詞。
【釈】 ぬば玉の夜は明けたらしい。多麻の浦を指して、求食をしようとする鶴が、鳴きながら空を飛び渡ってゆくことである。
【評】 航海中の官人が、夜、陸上の廬に寝、夜明けの目覚めに見た光景である。奈良京の官人にとっては、こうした、海岸地帯特有の光景は、よほど心めずらしいものであったろう。夜明けの大景の中に、海辺へ向かって翔けてゆく鶴だけを捉え、静かな、思い入った調べでいっているところに、その気分が感じられる。
3599 月《つく》よみの 光《ひかり》を清《きよ》み 神島《かみしま》の 磯廻《いそみ》の浦《うら》ゆ 船出《ふなで》す吾《われ》は
月余美能 比可里乎伎欲美 神嶋乃 伊素未乃宇良由 船出須和礼波
【語釈】 ○月よみの光を清み 「月よみ」は、月の古称。「光を清み」は、光が清いゆえにで、これはその光を頼りとする意でいっているもので、風光としてではない。○神島の磯廻の浦ゆ 「神島」は、備中国小田郡笠岡港の海上にある島(岡山県笠岡市|神《こう》ノ島)である。巻十三(三三三九)には、「備後国神島の浜にて」とあり、備中と備後の国境にあり、以前は備後国に属していたものと思われる。神《こう》の島の南、高島をあてる説、また、広島県福山市|神島《かしま》町説もある。「磯廻の浦ゆ」は、「廻」は、湾曲しているところ。「磯」は、岩石より成っている海岸の称。磯に繞らされている浦の間を通って。○船出す吾は 「船出(301)す」は、船出をするで、「す」は、終止形。「吾は」は、主語。
【釈】 月の光が清いゆえに、それを頼りにして、神島の磯の浦の間を通って、船出をする、われは。
【評】 夜明け近い頃の月光が明らかなので、まだ夜の明けきらない中に船出をする時の感動である。当時の航海では、天候次第で幾日も碇泊するとともに、可能であれば夜も航海を続けることは普通なことであった。航海に馴れない心は、夜明け前の発船が、珍しい、感動的のものだったのである。「磯廻の浦ゆ」という細かい描写は、その心よりのものである。調べも、事に合わせては、静かながら緊張したものである。
3600 離磯《はなれそ》に 立《た》てる室《むろ》の木《き》 うたがたも 久《ひさ》しき時《とき》を 過《す》ぎにけるかも
波奈礼蘇尓 多弖流牟漏能木 宇多我多毛 比左之伎時乎 須疑尓家流香母
【語釈】 ○離磯に立てる室の木 「離磯」は、離れ磯の約音で、遠く離れた岩石の称。「室の木」は、通称ねずみさし、あるいはねずと称する木。巻三(四四六−八)に出た。詠歎をこめていっているもの。○うたがたも 集中、用例の少なくない語であり、巻十二(二八九六)に既出。難語で、定解のないものである。きっと、必ずの意。副詞で、「過ぎ」につづくもの。○久しき時を過ぎにけるかも 久しい年を経て来たことであろうかと、その大木であるのに対して驚嘆の情を寄せていっているものである。
【釈】 海上の離れ岩の上に立っている室の木、あれはきっと、久しい年を経過したことであろうか。
【評】 海上の離れ岩の上に立っている、老木の室の木を見て、その在り場所と、その木の状態に対して、強い驚異を感じた心である。海馴れない奈良京の官人としてもっともなことである。巻三(四四六−八)に大伴旅人の鞆の浦の室の木に対しての歌が三首あったが、これもそれと同じ木であろう。捉え方の単純なのと、直線的な、緊張した調べが、驚異感を現わし得ている。
3601 しましくも ひとりあり得《う》る ものにあれや 島《しま》の室《むろ》の木《き》 離《はな》れてあるらむ
之麻思久母 比等利安里宇流 毛能尓安礼也 之麻能牟漏能木 波奈礼弖安流良武
【語釈】 ○しましくもひとりあり得るものにあれや 「しましく」は、「しばらく」の古語。「ひとりあり得るものにあれや」は、独りでいられるものであろうかで、「あれや」は、強い疑問条件法で、反語。○島の室の木離れてあるらむ 「島」は、水に臨んだ地の称で、上の歌の「離磯」に(302)相当するもの。「離れてあるらむ」は、あのように独り離れているのであろうで、「らむ」は、現在推量の助動詞。
【釈】 しばらくの間でも、人は独りでいられるものであろうか、そうではないのに、島の室の木は、あのように独り離れているのであろうか。
【評】 上の歌を承けて、同じ人がさらに詠み続けたものである。上の歌は驚異の情より、室の木そのもののみをいったものであるが、ついで、室の木の孤独の状態をわが身に引較べ、自身の妻に離れてのさみしさの堪え難いのに繋ぎ、その我と室の木とを対照していうことによって、旅情をあらわそうとしたのである。そのあらわし方の婉曲なのは、上の歌との関係において、同じく室の木に対する驚異の情から離れまいとしたがためである。すなわちこの二首は、緊密に関係させてある連作なのである。線が細く、調べが柔らかで、比較的複雑な気分をあらわし得ているのは、歌に馴れている人の詠み口で、歌風はまさしく奈良京のものである。
右の八首は、船に乗り海に入りて路上に作れる歌。
右八首、乘v船入v海路上作哥。
所に当りて誦詠せる古歌
【解】 これは、以下十首を総括しての分類である。航路の諸所で、興によりて誦した古歌の意である。眼にする風景やまた心に思うことが、古歌に通うものがあれば、それを誦詠することによって自身を代弁させて心をやるということは、きわめて自然なことで、現在も行なわれていることである。古歌とはいうが、その中に柿本人麿の歌が甚だ多い。人麿の生存時代と、今の天平初期との隔りはいくぱくでもない。したがって「古」とは、今ではないという程度の語である。
3602 あをによし 奈良《なら》の都《みやこ》に たなびける 天《あま》の白雲《しらくも》 見《み》れど飽《あ》かぬかも
安乎尓余志 奈良能美夜古尓 多奈妣家流 安麻能之良久毛 見礼杼安可奴加毛
【語釈】 ○あをによし奈良の都にたなびける 「あをにょし」は、奈良の枕詞。「たなびける」は、たなびきあるで、たなびくは全面的にかかっているの意より、単にかかっているの意に転じたもの。○天の白雲 「天」は、助詞「の」を伴って他語に続く場合には、「あま」と「あめ」と両様(303)あり、ここは「あま」である。心としても天上の国と、空と二義がある。ここは空の意のものである。○見れど飽かぬかも 絶賞する意の成句。
【釈】 あおによし奈良の都の上に靡いている空の白雲は、見れども見飽かない愛でたいものであるよ。
【評】 空の白雲を眺め、奈良の都の上にたなびいている物を思うことによって、限りなき思慕を寄せるという、特殊な歌である。一見、奈良京を讃えたもののごとくみえるが、作意はそれではなく、奈良京以外の地にあり、そこにいる人を思慕するあまりに、京につながりを持っている白雲を、その人の形見のごとくに見なして詠んだ歌であろう。これを誦詠した人もその心からで、大和の空の想定される範囲であれば、難波でも、航路でも、心やりとなりうる歌である。「古歌」とはいうが、無論奈良遷都後の新しい歌である。実際に即しての歌であるが、心の拡がりの広い、形のおおらかに美しい、すぐれた歌である。
右の一首は、雲を詠める。
右一首、詠v雲。
【解】 雲そのものを詠んだ歌と見ての注である。編者の注ではなかろうか。
3603 青楊《あをやぎ》の 枝《えだ》伐《き》り下《おろ》し 斎種《ゆだね》蒔《ま》き ゆゆしき君《きみ》に 恋《こ》ひわたるかも
安乎楊疑能 延太伎里於呂之 湯種蒔 忌忌伎美尓 故非和多流香母
【語釈】 ○青楊の枝伐り下し 「青楊」は、「や」に「楊」を用いてあるところから、河楊をあらわしているものと取れる。「下し」は、下の続きで、苗代田の水口《みなくち》に挿すのである。これは苗の発育を祈る神事で、上代には一般に行なわれ、後世にも部分的には保たれていたことである。○斎種蒔き 「斎種」は、忌み浄めたところの種籾の称で、種籾は稲作にとってはきわめて重大なものであるところから、その発育を祈る神事を行なったのである。「斎」を同音反復で「ゆゆし」に続け、初句よりこれまでその序詞。○ゆゆしき君に恋ひわたるかも 「ゆゆしき」は、原文「忌忌」で、西本願寺本は今のごとく訓み、『代匠記』は「ゆゆしく」と訓んでいる。恐れはばかるべきの意の形容詞で、「君」の形容と解す。序詞との関係において、それが作意と解されるからである。「恋ひわたるかも」は、恋いつづけていることであるよと詠歎したもの。
【釈】 青楊の枝を伐り下ろして、水口に挿して神事を行ない、忌み浄めた種籾である斎種を苗代田に蒔くのに因みある、恐れはばかるべき君に、恋い続けていることであるよ。
【評】 この歌は女の男を恋うているものである。序詞は、おりからの眼前を捉えたもので、女は農業をしている部落の者であ(304)ることが知れ、君という男は、その地の小さい領主格の者の子なぞであろう。取材からも、詠風からも、古歌と称しうるものである。この歌は農村の謡い物の京に流れ入っていた物であろう。一行の実情にはつながりのない物であるが、可隣な恋情で、共感をかちうるものとして誦詠したのであろう。
3604 妹《いも》が袖《そで》 別《わか》れて久《ひさ》に なりぬれど 一日《ひとひ》も妹《いも》を 忘《わす》れて念《おも》へや
妹我素弖 和可礼弖比左尓 奈里奴礼杼 比登比母伊毛乎 和須礼弖於毛倍也
【語釈】 ○妹が袖別れて久に 「妹が袖別れて」は、手枕を纏くを、袖を近くと言いかえているその意のもので、妹が手枕すなわち共寝の床を別れてで、妹に別れてということを、具象的にいったもの。「久に」は、久しくで、下へ続く。○忘れて念へや 「忘れて念ふ」は、後世だと思い忘れるというべきところで、その意の古格。「や」は、已然形「念へ」に接して反語をなしているもの。忘れようか、忘れはしない。
【釈】 妹と共寝の床を別れて久しくなったけれども、一日とて妹を忘れようか、忘れはしない。
【評】 実感を素朴に詠んだもので、むしろ素朴にすぎる、拙いものである。素朴ということを時代的に見れば「古歌」ともいえるが、あるいは自作であるものを、筆録者が「古歌」と見なしたのではないかとも思われるものである。
3605 わたつみの 海《うみ》に出《い》でたる 飾磨川《しかまがは》 絶《た》えむ日《ひ》にこそ 吾《あ》が恋《こひ》止《や》まめ
和多都美乃 宇美尓伊弖多流 思可麻河伯 多延無日尓許曾 安我故非夜麻米
【語釈】 ○わたつみの海に出でたる 「わたつみの海」は、「わたつみ」は海神で、海神である海。○飾磨川 今の姫路市の東方を流れている船場川の古名。○絶えむ日にこそ吾が恋止まめ 「絶えむ日にこそ」は、上を承けて、その流れの絶えよう時にこそで、これは永久に無いこととして、その意で譬喩としていったもの。「吾が恋止まめ」は、わが妹に対する恋はやもうで、「め」は、「こそ」の結。永久にやまないの意をあらわしているもの。
【釈】 海神である海に流れ出ている飾磨川の、この流れが絶える日があったならば、その時こそは、妹に対するわが恋もやもう。
【評】 男が女に贈った誓言で、これは時あって男女とも繰り返していたものである。この歌は、飾磨川を共に目にしている男女間の歌である。船が飾磨川の河口を過ぎる際に、地名によってこの歌を思い出して誦詠したものとみえる。妻を切愛する心(305)の歌であるから、一行の旅情にもつながるところがあったろうと思われる。川の水が海に流入する状態は印象的なものであり、またいかなる川も大体同様であるから、この歌の飾磨川は、他の川であってもさしつかえない。あるいは他の川であった歌を、川の名だけを取りかえて、このようにしたのではないかとの想像もされるものである。
右の三首は、恋の歌。
右三首、戀歌。
3606 玉藻《たまも》刈《か》る 乎等女《をとめ》を過《す》ぎて 夏草《なつくさ》の 野島《のじま》が埼《さき》に 廬《いほり》す我《われ》は
多麻藻可流 乎等女乎須疑弖 奈都久佐能 野嶋我左吉尓 伊保里須和礼波
【語釈】 ○この歌は、左注に出ている人麿の歌によったもので、いささか異なっているのみのものである。人麿の歌は、巻三(二五〇)に出ているからそちらに譲り、異なっている部分だけをいう。以下も同様である。(二五〇)の左注の「一本に云ふ」に同じ歌である。○乎等女を過ぎて 「平等女」は、摂津国有馬郡にある地名、その地に処女《おとめ》塚(神戸市東灘区御影町東明にあり)のあるところより、それが地名となったものである。この塚のことは巻九(一八〇九)以下に出ている。○廬す我は 小屋がけをする、我は。これは、夜は上陸して、小屋を構えて寝るのが船旅の常だったので、このことはしばしば出た。
【釈】 玉藻を刈る乎等女の地を通り過ぎて、夏草の照る日に萎えるに因みある、野島が崎に、夜を寝るための小屋がけをする、我は。
(306)【評】 人麿の歌を改作したもので、評はその改作のしかたについて、つづく左注の解の部でいう。
柿本朝臣人麿の歌に曰く、敏馬《みぬめ》を過ぎて、又曰く、船近づきぬ
柿本朝臣人麿歌曰、敏馬乎須疑弖、又曰、布祢知可豆伎奴
【解】 難波津を発した船が、摂津国から海岸を離れ、瀬戸内海の入口を横切って、淡路国の野島に寄港することは、一定の航路で、人麿の時代も今も異ならず、この船もそれをしたのである。人麿の歌は、風浪を避けて碇泊しており、それが鎮まるとともに、一気に、快速力をもってこの航路を漕ぎ、野島が崎に近づいた快さを詠んだもので、心の躍動をあらわそうとしたものであるが、この歌は単に、一定の航路を行くこととして、叙事的にいったにすぎないものである。比較にはならないものである。
3607 白栲《しろたへ》の 藤江《ふぢえ》の浦《うら》に 漁《いざり》する 海人《あま》とや見《み》らむ 旅《たび》ゆく吾《われ》を
之路多倍能 藤江能宇良尓 伊射里須流 安麻等也見良武 多妣由久和礼乎
【語釈】 ○この歌は、巻三(二五二)人麿の歌である。○白栲の 白色の布で、楮の繊維である。藤にかかる枕詞としてあるが、適当ではない。人麿の原作は、「荒栲の」で、織維の太い意で「藤」にかかっているのである。こちらは一般化して、その特色を没したものである。○漁する海人とや 「漁」は、広くすなどりする意。人麿は、「すずき釣る」として、具象的にいっているのを、説明的にしている。「や」は、疑問の係助詞で、人麿の原作は、「か」である。奈良京時代は、「か」より「や」のほうが親しかったのである。
(307)【釈】 白栲の藤江の浦で、漁りをしている海人だと、人はわが船を見るであろうか。旅行きをしている我であるに。
【評】 上の歌と同じく、人麿の原作との比較においてされるべきもので、次の解の部に譲る。
柿本朝臣人麿の歌に曰く、荒栲《あらたへ》の、又曰く、鱸《すずき》釣る 海人《あま》とか見らむ
柿本朝臣人磨歌曰、安良多倍乃、又曰、須受吉都流 安麻登香見良武
【解】 「荒栲の」は、藤の枕詞として、その特質を捉えた適切なものであるが、「白栲の」はどちらかというと不合理である。これは記憶の間違いと見るべきであろう。「鱸釣る」を「漁する」としたのは、原作の具象的なほうが遙かに味わいがあるのでもり、またこの場合として、そういってもさしつかえのないのを、このように換えているのは、感性が劣っていて、どちらでも大差ないように思ったのであろう。「か」を「や」にしたのは、さしたるものではない。この歌は、藤江の浦を過ぎる際に思い出して誦詠したものであろう。その地へ来て、人麿のそこで詠んだ歌を思い出すということは、彼に対しての平常の敬慕を思わせることではあるが、しかし、彼の美を理解する程度においては、ある不安を思わせられる。それとともに古歌の伝誦ということが、いかに悪化させるものであるかということを、ありありと見せている例である。
3608 天離《あまざか》る 鄙《ひな》の長道《ながぢ》を 恋《こ》ひ来《く》れば 明石《あかし》の門《と》より 家《いへ》のあたり見《み》ゆ
安麻射可流 比奈乃奈我道乎 孤悲久礼婆 安可思能門欲里 伊敞乃安多里見由
【語釈】 ○鄙の長道を 「を」は、原作では「ゆ」となっている。「を」は、ここは動作の場所を示している助詞である。「ゆ」は、動作の経路を示す助詞で、この場合、鄙の長路の間を、つぶさにの意を持っていて、内容が異なっている。左注はこの点に触れていないので、「を」と「ゆ」とを同意の用語としたのかと取れる。○家のあたり見ゆ 「家のあたり」は、原作は、「大和島」である。大和島は大和で、家のある国であるから、意味としては通じないとはいえないが、しかし、このように距離感を没して、狭い言い方をすると、原作の自然さと、憧れの情の、それとして強く、おおらかに躍動する気分が消えて、事象のみを不自然にいっただけのものとなってしまう。気分としては甚しい相違である。
【釈】 天と遠い鄙の長い道の間を、わが家を恋うて帰って来ると、明石の海門から、大和国の家の辺りが見える。
【評】 明石の海門を過ぎる時に、人麿の歌を思い出して誦詠したのであろう。原作との比較は、上でいった。「ゆ」を「を」に換えたのはしばらく措き、「大和島」を「家のあたり」に換えたのは、記憶の誤りではなく、意識的にしたものと思われる。(308)それは人麿の原作は、西南方面から、難波に向かって帰航する時の歌であるが、一行の航路は、それとは正反対であって、この歌を思い出させたのは、「明石の門より大和島見ゆ」という、後半だけの関係だったからである。一行としては、「大和島」は憧れの対象ではなく、思い出の悲しみだったのである。その心が、「家のあたり」という、細かく刻んだものにさせたのだろうと思われる。したがってこの誦詠を聞く人々には、この換え方を、かえって即妙な、気の利いたものと感じたろうと思われる。実際の状態に重点が置かれ、人麿の作ではあるが、軽い心やりとされていた消息が、この改作をとおしてうかがわれる。
柿本朝臣人麿の歌に曰く、大和島見ゆ
柿本朝臣人麿歌曰、夜麻等思麻見由
【解】 結句の相違についての注で、「評」において触れた。
3609 武庫《むこ》の海《うみ》の 庭《には》よくあらし 漁《いざり》する 海人《あま》の釣船《つりぶね》 浪《なみ》の上《うへ》ゆ見《み》ゆ
武庫能宇美能 尓波余久安良之 伊射里須流 安麻能都里船 奈美能宇倍由見由
【語釈】 ○この歌は、巻三(二五六)人麿の歌の改作である。○武庫の海の これは上の(三五七八)の「武庫の浦」と同じである。原作は「飼飯の海の」で、これは淡路国に属する海で巻三(二五六)参照。○漁する海人の釣船浪の上ゆ見ゆ 漁りをする海人の釣船が、浪の上をとおして見える。原作は、「刈薦の乱れ出づ見ゆ海人の釣船」で、甚しく換えている。
【釈】 武庫の海の漁場が、工合がよいのであろう。海人の釣船が、浪の上をとおして見える。
【評】 この歌は、人麿の歌を誦詠したというよりも、人麿の歌によって新たに詠んだものと見るほうが適当なほどに異なって(309)いる。それは場所も、光景も異なっているのである。原作は、気比の海べの海人が、出漁の機をねらっていたところ、漁場の工合が良いと認められたので、多くの船が一斉に、乱れて漕ぎ出したという、歓喜と活動に充ちた歌であるのに、これは武庫の海で、静止的に、また連続的に漁りをしているさまを遠望した心で、全く内容を異にしているものである。誦詠ではなく、また比較もすべきものではない。しかしこの種の歌はきわめて多く、作者の明らかな作でも、どこまでがその作者のものかということの定められないものが少なくない。
柿本朝臣人麿の歌に曰く、気比の海の、又曰く、刈薦の 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船
柿本朝臣人麿歌曰、氣比乃宇美能、又曰、可里許毛能 美太礼弖出見由 安麻能都里船
【解】 原作は、第四句「乱れ出づ見ゆ」であるのを、「乱れて出づ見ゆ」と、「て」を加えている。粗漏である。
3610 阿胡《あご》の浦《うら》に 船乗《ふなの》りすらむ 少女《をとめ》らが 赤裳《あかも》の裾《すそ》に 潮《しほ》満《み》つらむか
安胡乃宇良尓 布奈能里須良牟 乎等女良我 安可毛能須素尓 之保美都良武賀
【語釈】 ○この歌は、巻一(四〇)の人麿の歌である。○阿胡の浦に 「阿胡」は、三重県志摩郡の安虞《あご》(現、阿児町)で、古、国府の在った地である。巻一(四〇)には「嗚呼見乃浦尓《あみのうらに》」とあり、またこの歌の左注にも「安美能宇良《あみのうら》」とある。この歌の誦詠者は「阿胡」としているのであるが、誦詠する場合には「阿胡」と言い続けて来ており、この誦詠者もそれにならってのことと思われる。○赤裳の裾に 「赤裳」は、赤色の裳で、普通のものである。「原作」は玉裳で、玉は美称である。
【釈】 阿胡の浦で船乗りをしているだろう官女らの、赤裳の裾に潮が満ちているであろうか。
【評】 どこで誦詠したともわからない。船上にいて女を思うところから、人麿の官能的な匂いを帯びた歌を思い出して、心やりに誦詠したのであろう。人麿の「玉裳」は官能的ではあるが、同時に気品を失わせまいとしているものである。「赤裳」と換えたのは、それが普通であったために誤ったのか、意識的に改めたのかわからない。いずれもありうることである。
柿本朝臣人麿の歌に曰く、網の浦、又曰く、玉裳の裾に
柿本朝臣人麿歌曰、安美能宇良、又曰、多麻母能須蘇尓
(310)【解】 初句、四句の相違についての注で、「評」において触れた。
七夕の歌一首
3611 大船《おほふね》に 真楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 海原《うなはら》を 漕《こ》ぎ出《で》て渡《わた》る 月人壮子《つきひとをとこ》
於保夫祢尓 麻可治之自奴伎 宇奈波良乎 許藝弖天和多流 月人乎登〓
【語釈】 ○大船に真揖繁貫き 「真楫」は、「真」は、物の完備している意をあらわす語で、「真楫」は、大船の左右に、完備させて取り着けた艫の称。「繁貫き」は、繁く取り着けて。「大船」は、満月前後の月の形を上代の船の形に似通うところがありとして、月を大船の譬喩とし、大船には「真楫繁貫き」という設備があるので、月の船にもそれがあると想像していっているものである。○海原を漕ぎ出て渡る 「海原」は、晴れ渡った夜空を、海原の隠喩としたもの。「漕ぎ出て渡る」は、月が現われて、空を渡って行く状態を隠喩したもの。○月人壮子 「月人」は、月中に人があると想像しての称で、これは用例の少なくないもの。「壮子」は、若盛りの男子の称で、月のみずみずしいさまを隠喩したもの。「月人壮子」は熟語で、月を擬人しているものである。本来月は、月読尊であるとされていたので、この擬人は根拠のあるもので、それを文芸化したものである。詠歎を含んでいる。
【釈】 大船に左右の楫を十分に取り着けて、海原を、漕ぎ出して漕ぎ渡って行くところの月中の若い男よ。
【評】 これを人麿の七夕の歌であるとしているにつき、『代匠記』は巻十の、人麿歌集の七夕の歌三十八首を集めてある中にも見えないとして、その拠《よ》る所を知らないことをいっている。人麿歌集の持つ冴えた奔放な調べと、自由に語を連ねて、しかも一脈の余裕を存している微妙な味わいを持ったものに較べると、この歌は常識的なところがあり、ある鈍さを持っていて、これがはたして人麿歌集の歌と同一手に出たものかを疑わしめるところがある。しかしこの歌の浪曼的なところ、隠喩で終始していて、説明を加えようとしないところは、人麿的と言いうるものである。気分を重んじ、美しさを慕う心の濃厚であった奈良京の歌風に親しんでいる何びとかが、人麿の歌風を模して作ったとすれば、これほどの歌は、さしたる困難なく詠めたことだろうと思われる。そうした歌に人麿の作という伝が添ったものではないかと思われる。後に、筑紫《つくし》の館《たち》に至った時に、諸人が七夕の歌を詠み合ったものがある。この歌もそうした範囲のもので、人麿に関係した歌とのゆえをもって、類によってここに載せたのではないかと思われる。歌は月の歌で、題詞の七夕の歌とは合わない。七夕の夜に誦詠した歌の意で添えたものであろう。
(311) 右、柿本朝臣人麿の歌。
右、柿本朝臣人麿歌。
【解】 以上で「古歌」は終わっている。
備後国|水調《みつき》郡|長井《ながゐ》の浦に船|泊《は》てし夜作れる歌三首
【題意】 「水調郡」は、今の広島県御調郡。「長井の浦」は、糸崎だという。
3162 あをによし 奈良《なら》の都《みやこ》に 行《ゆ》く人《ひと》もがも 草枕《くさまくら》 旅行《たびゆ》く船《ふね》の 泊《とまり》告《つ》げむに【旋頭歌なり】
安乎尓与之 奈良能美也故尓 由久比等毛我母 久左麻久良 多妣由久布祢能 登麻利都〓武仁 旋頭歌也
【語釈】 ○行く人もがも 「行く人」は、一行とはかかわりのない、通りがかりの人。「もが」は、願望で、詠歎の「も」を伴ったもの。○草枕旅行く船の 「草枕」は、「旅」の枕詞。○泊告げむに 「泊」は、船の碇泊する場所。「告げむに」は、告げようにで、告げる相手は、その家人。○旋頭歌なり 編纂者の注とみえる。
【釈】 青丹よし奈良京に行く人に逢いたいものだなあ。草枕旅行きをしている船の泊まり場所を、家びとに告げてやろうに。
【評】 奈良の家に残っている妻を恋しく思っての心である。それをいうに、自身の心は直接にいはず、自分を案じている妻を思いやり、それを慰めてやりたいとする心をいうことによってあらわしているのである。公の使としては、このような言い方(312)をするのが常識となっていたのである。幸いに望みのような人があったとしても、その人が奈良に着く時には、船はどこへ行っているかわからないので、事としてはその甲斐がないのであるが、願うところは心を通じることであるから、それでも良かったのである。「旋頭歌なり」という注は、この形式はすでに時代後れの特殊なものとなっていたところからのこととみえる。この当時としても、テンポが緩やかにすぎて、いわゆる気の利かないものとされ、そのために廃っていたからのこととみえる。
右の一首は、大判官《おほきまつりごとびと》。
右一首、大判官。
【解】 「大判官」は、壬生使主宇太麿《みぶのおみうだまろ》である。この時には従六位上であったが、天平十八年四月には外従五位下。右京亮、但馬守を経て天平勝宝六年七月には、玄蕃頭となった。
3613 海原《うなはら》を 八十島隠《やそしまがく》り 来《き》ぬれども 奈良《なら》の都《みやこ》は 忘《わす》れかねつも
海原乎 夜蘇之麻我久里 伎奴礼杼母 奈良能美也故波 和須礼可祢都母
【語釈】 ○海原を八十島隠り 「海原」は、涯しのない海の称であるが、じつは瀬戸内海。「八十島隠り」は、多くの島々に隠れて。「島」は、水に臨んだ陸の称で、進航する船の沿いつつゆく陸の総称。「隠り」は、連用形で、隠れて。船が島を後《しり》えにして進むのを、具象的にいったもの。成句である。
【釈】 海上を、多くの島々を後ろにして遠く来たけれども、奈良の都は忘れかねたことだ。
(313)【評】 旅愁をいったもので、「奈良の都」というのは、そこにいる妻を広い語で言いかえたものである。距離が遠ざかれば忘れそうなものであるが、忘れられないと、幼い心になっていっているものである。調べが徹っていて、感のある歌となっている。
3614 帰《かへ》るさに 妹《いも》に見《み》せむに わたつみの 沖《おき》つ白玉《しらたま》 拾《ひり》ひて行かな
可敞流散尓 伊母尓見勢武尓 和多都美乃 於伎都白玉 比利比弖由賀奈
【語釈】 ○帰るさに妹に見せむに 「帰るさ」は、「さ」は、時の意の接尾語で、帰る時、すなわち使命を果たして、京の家に帰った時に。「見せむに」は、見せようために。○わたつみの沖つ白玉 海の沖のほうの底に沈んでいる玉で、鰒玉である。獲難く貴い物としていた。玉は女の装身具の第一のものである。○拾ひて行かな 「ひりひ」は、「ひろひ」の古語。「な」は、自己に対する願望で、拾ってゆきたい。
【釈】 帰る時に、妹に苞として見せようために、海の沖のほうに沈んでいる鰒玉を拾って行きたい。
【評】 これも旅愁であるが、奈良京の人には常識的になっていた心である。海に接する機会の少ない奈良京の官人は、海を見るごとにこうした感を起こし、作例も甚だ多いものである。「帰るさに」と、摂津か紀伊あたりの近海へ行った時とほとんど異ならない心でいたとみえる。当時の官人が思われる。
風速《かざはや》の浦に船|泊《は》てし夜作れる歌二首
【題意】 「風速の浦」は、安芸国賀茂郡三津町の西方に、今もその名を持った地(現在、広島県豊田郡|安芸津《あきつ》町大字風早)があって、そこの海である。この地名は紀伊国にもある。他にもありうる名である。
3615 わが故《ゆゑ》に 妹《いも》欺《なげ》くらし 風早《かざはや》の 浦《うら》の沖《おき》べに 霧《きり》たなびけり
和我由惠仁 妹奈氣久良之 風早能 宇良能於伎敞尓 寄里多奈妣家利
【語釈】 ○わが故に妹歎くらし 我を思うゆえに、妹が嘆いているらしいで、「らし」は、強い推量。○浦の沖べに霧たなびけり 「沖べ」は沖のほうで、浦から距離を置いて望んでいる所。「霧」は、嘆きの息が霧となって立つものとしていたので、これはそれである。
(314)【釈】 我を思うゆえに、妻が溜め息をついているらしい。風早の浦の沖のほうに、今そのための霧が一面にかかっている。
【評】 時は秋であるから、風速の浦の沖に夜霧がかかったのである。嘆きの息が霧に立つということは、古くからいわれていることであるが、ここはそれだけではなく、上の(三五八〇)の、出発前奈良で妻が、「君が行く海べの宿に霧立たば吾が立ち歎く息と知りませ」と詠んだ歌を思い出し、これはそのためのものだと思ったのである。「らし」の強い推量はその意のものである。すなわち作者はその人と同じ人で、やがてこの歌群の筆録者であったろうと思われる。形は素朴に、一気に、強い調べをもって感をあらわそうとしている、相当に手腕ある人である。
3616 沖《おき》つ風《かぜ》 いたく吹《ふ》きせば 吾妹子《わぎもこ》が 歎《なげ》きの霧《きり》に 飽《あ》かましものを
於伎都加是 伊多久布伎勢波 和伎毛故我 奈氣伎能奇里尓 安可麻之母能乎
【語釈】 ○沖つ風いたく吹きせば 「沖つ風」は、沖の風であるが、ここは、沖から陸のほうへ吹く風としていっている。「いたく吹きせば」は、強く吹いたならばで、「せば」は、仮想。○吾妹子が歎きの霧に 妻の嘆きによって湧く霧に接してで、これは、上の歌を承けていっているもので、意は上と同じである。○飽かましものを 「飽く」は、十分にわが身内に受け入れようものをで、「まし」は、「せば」の帰結。
【釈】 沖の風が強く吹くならば、妻の嘆きより立つ霧を、わが身内に十分に受け入れようものを。
【評】 上の歌と連作になっている物で、同じ作者の歌である。離れて目に見ているだけでは、妻の心をそれと知るだけで飽き足らない。妻の霊のこもった霧を、十分に身内に受け入れようとする心で、そのかなわないのを嘆く心である。感のある歌である。
安芸国|長門《ながと》の島にて、船を磯辺《いそべ》に泊《は》てて作れる歌五首
【題意】 「長門の島」は、広島県安芸郡で、今の倉橋島の古名だという。「磯辺」は、海岸の岩石の多い所。「泊て」は、碇泊させて。一行は上陸して、廬を結んでいたのである。
3617 石走《いはばし》る 滝《たぎ》もとどろに 鳴《な》く蝉《せみ》の 声《こゑ》をし聞《き》けば 京師《みやこ》し思《おも》ほゆ
(315) 伊波婆之流 多伎毛登杼呂尓 鳴蝉乃 許惠乎之伎氣婆 京師之於毛保由
【語釈】 ○石走る滝もとどろに 石の上を走り流れる滝の音も、とどろくばかりに。「滝」は、傾斜地を流れる急流の称。「とどろに」は、高く鳴る意の副詞で、以上、下の蝉の鳴き声の形容である。○鳴く蝉の声をし聞けば 「蝉」は、この続きの歌でひぐらしと知られる。「し」は、強意の助詞。○京師し思ほゆ 「京師」は、奈良京。「し」は、強意。「思ほゆ」は、恋しく思われる。
【釈】 岩の上を走り流れる急流もとどろくばかりに、かしましく鳴く蝉の声を聞くと、都が思われる。
【評】 航海中も、可能の限り夜は上陸するのであるが、この場合は、昼も滞在をしていたのである。一行にとっては、陸上の昼の風光に親しむのは、珍しくもなつかしいものであったとみえる。「滝もとどろに鳴く蝉の」は、渓流の音と蝉の声とが一つになった意であろうが、字面で見ると、蝉の声のかまびすしさを形容するものとなっている。したがって、京師を連想させるのは、かまびすしい蝉の声そのもののようになるが、作意は、陸上で聞く蝉の声というだけであろう。作歌に馴れず、手が心に伴いかねたのであろう。しかし心は自然であり、調べも徹っていて、すぐれた資質を思わせる歌である。
右の一首は、大石蓑麿。
右一首、大石蓑麿。
【解】 伝は未詳で姓《かばね》の無いところから見て、身分の低い人であったろう。
3618 山河《やまがは》の 清《きよ》き河瀬《かはせ》に 遊《あそ》べども 奈良《なら》の京《みやこ》は 忘《わす》れかねつも
夜麻河伯能 伎欲吉可波世尓 安蘇倍杼母 奈良能美夜故波 和須礼可祢都母
【語釈】 ○山河の清き河瀬に 「山河」は、山にある河で、上の歌の「石走る滝」と同じ流れとみえる。長門の島は大きくない島であるから、河もそれに準じた物と思われる。○遊べども 遊んでいるけれどもで、時も秋季であるから、河辺をなつかしんで、そこで酒宴をしたとみえる。何人かと一緒のこととみえる。
【釈】 山河の清らかな水辺で遊んでいるけれども、奈良京は忘れられないことだ。
【評】 「遊べども」とあるので、宴歌の範囲のものでもあったろう。筆録者があったために残った程度の軽い歌である。
(316)3619 礒《いそ》の間《ま》ゆ 激《たぎ》つ山河《やまがは》 絶《た》えずあらば またも相見《あひみ》む 秋《あき》かたまけて
伊蘇乃麻由 多藝都山河 多延受安良婆 麻多母安比見牟 秋加多麻氣弖
【語釈】 ○礒の間ゆ激つ山河 「礒」は、石の古語で、大石。「間ゆ」は、間をとおって、「激つ山河」は、泡立ち流れる山の河で、河は上の二首と同じもの。○絶えずあらば 流れが絶えずにいるならば。○またも相見む 再びこの山河を見よう。○秋かたまけて 「かたまく」は、巻二(一九一)、巻十(一八五四)に既出。秋を待ち設けてで、秋になったらばの意。秋は帰朝を予定している時。
【釈】 岩の間をとおって、泡立ち流れるこの山河の流れが絶えずにいるならば、再びこの流れを見よう。来る秋を待って。
【評】 山河を対象とした歌で、以上の歌と同じ性質のものである。眼前の渓流に愛情を寄せて、来る秋にはまたも見ようといっているのである。しかし明るく軽くなるべき歌に、それとは反したある暗さ重さともいうべきものがまつわっていて、少なくとも宴歌にはふさわしくない陰影がある。使命と、それに伴う難航海とが心にかかっていて、それがおのずから現われるからであろう。「秋かたまけて」にも、あるわざとらしさがあるといえる。
3620 恋《こひ》繁《しげ》み 慰《なぐさ》めかねて 茅蝉《ひぐらし》の 鳴《な》く島陰《しまかげ》に 廬《いはり》するかも
故悲思氣美 奈具左米可祢弖 比具良之能 奈久之麻可氣尓 伊保利須流可母
【語釈】 ○恋繁み慰めかねて 都に対しての恋しさが繁くて、慰め得られずに。○茅蝉の鳴く島陰に 「島陰」は、島の陰で、風浪を避けられる所。○廬するかも 「廬する」は、廬を作って入っている意。「かも」は、詠歎。
【釈】 都に対しての恋が繁くて、慰め得られずに、ひぐらしの鳴くこの島の陰に廬を作って入っていることであるよ。
【評】 これは以上の歌とは別で、島陰の廬にいての感である。「茅蝉の鳴く」といっているので、朝早くかあるいは夕方で、昼夜を通じて最も感傷的になりやすい時で、そうした時陸上にいて、ひぐらしの声を聞いたならば、一段と感傷を深めさせられるわけである。「恋繁み慰めかねて」は、都に対しての心で、その時の感傷を総括していっているものである。自身の全体を促えて、無理なくいっているので、旅愁が気分となって現われている。
(317)3621 我《わ》が命《いのち》を 長門《ながと》の島《しま》の 小松原《こまつばら》 幾代《いくよ》を経《へ》てか 神《かむ》さび渡《わた》る
和我伊能知乎 奈我刀能之麻能 小松原 伊久与乎倍弖加 可武佐備和多流
【語釈】 ○我が命を長門の島の 「我が命を」は、「長」にかかる枕詞。枕詞とすると、「を」は、感動の助詞で、「よ」に近いものであるが、ここは、わが命を長くとの意で用いてあり、形だけを枕詞風にしたものである。時代の好尚のさせていることと見るべきであろう。○小松原 文字としては若松の原であるが、下の続きで見ると相応な老樹である。この時代には、老松をも小松という風があって、巻四(五九三)「楢山の小松が下に立ち嘆くかも」、またその他にも用例がある。これもそれである。○幾代を経てか神さび渡る 幾代を経過して、このように神々しく老い続いているのであるかで、「か」は、疑問の係助詞。
【釈】 わが命を長くと思うに因みある長門の島の松原よ。幾代を経過してこのようにこうごうしく老い続いているのであるか。
【評】 長門の島の松原に対しての感である。感は美感ではなく、その生命の久しいことに対してのもので、「幾代を経てか神さび渡る」と畏敬に近い感を起こしたのである。これは、心中ひそかに航路の困難を予想している不安が起こさせたところのもので、自身も松の樹齢の久しきにあやかりたい心からのものである。表面は松原を讃えているのであるが、心は我とわが身を祝っているのである。「我が命を」の用い方もこの心から出ているものである。歌としては平凡であるが、作者の生活からいうと心深いものである。
長門の浦より舶出せし夜、月光を仰ぎ観て作れる歌三首
【題意】 当時の航海は天候次第だったので、海上が安全だと見れば、夜間でも、月光が頼りうれば発船したのである。
3622 月《つき》よみの 光《ひかり》を清《きよ》み 夕凪《ゆふなぎ》に 水手《かこ》の声《》こゑ喚《よ》び 浦廻《うらみ》漕《こ》ぐかも
月余美乃 比可里乎伎欲美 由布奈藝尓 加古能己惠欲妣 宇良未許具可聞
【語釈】 ○月よみの光を清み 「月よみ」は、月の古名。「光を清み」は、光が清いゆえに。○夕凪に 現在も用いている語。夕方、海に風波が全く絶えた時の称。○水手の声喚び浦廻漕ぐかも 「水手の声喚び」は、水手が声をかけ合ってで、艪を使う調子を合わせるためのものである。「浦廻」は、海岸の湾曲したところ、浦のあたり。「かも」は、詠歎。
(318)【釈】 月の光が清いので、夕凪の海に、水手が声をかけ合って艪拍子を合わせ、浦廻を漕ぐことであるよ。
【評】 長門の島に碇泊していたが、天候の見定めがついたので、おりから月光を頼りに、夕凪の海に漕ぎ出した際の感である。「水手の声喚び」以下は、その際の快い感動である。純客観的で、主観語をまじえていないのは、快さからである。
3623 山《やま》の端《は》に 月《つき》かたぶけば 漁《いさり》する 海人《あま》のともし火《び》 沖《おき》になづさふ
山乃波尓 月可多夫氣婆 伊射里須流 安麻能等毛之備 於伎尓奈都佐布
【語釈】 ○山の端に月かたぶけば 「山の端」は、山が空と接している辺り。「月かたぶけば」は、月が傾いて入り方になったので。○沖になづさふ 「なづさふ」は、巻三(四三〇)に既出。ここは水に浸って漂っている意で、はっきりと映じていること。
【釈】 山の端に月が傾いてゆくと、漁りをする海人のともし火が沖のほうの水に浸って漂っている。
【評】 月光に照らされて明るかった海上が、それが隠れようとして小暗くなって来ると、反対に、今まで目立たなかった漁り舟のともし火の浜に映じるのが、急にはっきりとした、その明鞍の変化を、印象を主としていっているものである。この当時の新風である。上の歌とは時間的推移の関係を持っている。
3624 吾《われ》のみや 夜船《よふね》は漕《こ》ぐと 思《おも》へれば 沖辺《おきべ》の方《かた》に 楫《かぢ》の音《おと》すなり
和礼乃未夜 欲布祢波許具登 於毛敞礼婆 於伎敞能可多尓 可治能於等須奈里
【語釈】 ○吾のみや 「や」は、疑問の係。○思へれば 思いあればで、思っていると。○楫の音すなり 「なり」は、詠歎の助動詞。
【釈】 自分だけが夜船を漕いでいるのかと思っていると、沖のほうに楫の音がしていることよ。
【評】 闇の海を航行して、わびしさを感じているおりから、闇をとおして、遠い沖のほうに、同じく楫を使う音のするのを聞いた時の感である。単純にいって、深い感動をあらわし得ている歌である。これも、上の歌と時間的推移の関係を持っており、三首おのずから連作の形になっている。
(319) 古き挽歌一首 并に短歌
【題意】 「古き」は、上にもいったように、現在ではない意で、近い過去という程度のものである。一行の中に記憶している者があって誦詠したのである。
3625 夕《ゆふ》されば 葦《あし》べに騒《さわ》き 明《あ》け来《く》れば 沖《おき》になづさふ 鴨《かも》すらも 妻《つま》と副《たぐ》ひて 我《わ》が尾《を》には 霜《しも》な降《ふ》りそと 白栲《しろたへ》の 羽《はね》さし交《か》へて 打《う》ち払《はら》ひ さ宿《ぬ》とふものを 逝《ゆ》く水《みづ》の 還《かへ》らぬ如《ごと》く 吹《ふ》く風《かぜ》の 見《み》えぬが如《ごと》く 跡《あと》もなき 世《よ》の人《ひと》にして 別《わか》れにし 妹《いも》が著《き》せてし 褻衣《なれごろも》 袖《そで》片敷《かたし》きて 独《ひとり》かも寝《ね》む
由布左礼婆 安之敞尓佐和伎 安氣久礼婆 於伎尓奈都佐布 可母須良母 都麻等多具比弖 和我尾尓波 之毛奈布里曾等 之路多倍乃 波祢左之可倍弖 宇知波良比 左宿等布毛能乎 由久美都能 可敞良奴其等久 布久可是能 美延奴我其登久 安刀毛奈吉 与能比登尓之弖 和可礼尓之 伊毛我伎世弖思 奈礼其呂母 蘇弖加多思吉弖 比登里可母祢牟
【語釈】 ○夕されば葦べに騒き 夕方になると、海岸の葦の辺りを塒とするとて鳴き騒ぎ。野鳥は塒につく時は騒ぐ習性を持っている。○明け来れば沖になづさふ 夜が明けて来ると、沖で水に漂っている。○鴨すらも妻と副ひて 鴨のような物さえもその妻と連れ立って。○我が尾には霜な降りそと わが尾羽には霜が降るなと。○白栲の羽さし交へて 白い羽をさし交わし合って。鴨に白栲の羽はあたらない。白くはないからである。人の場合の白栲の袖が、何らかの経路で介入したのかもしれぬ。○打ち払ひさ宿とふものを 置く霜を払って寝るということだのに。「さ宿」は、「さ」は、接頭語。「とふ」は、「といふ」の約音。○逝く水の還らぬ如く 流れて行く川水の再びは還って来ないごとくで、下の「跡もなき」の譬喩。○吹く風の見えぬが如く 吹いている風の、ありはするが目には見えないごとくで、同じく譬喩。二句対句で慣用されていたもの。○跡もなき世の人にして 「跡もなき」は、残る物とてもないで、はかないという意を具象的にいったもの。「世の人にして」は、この世の中の人とあって。「逝く水の」以下六句は、人間そのもののはかなさを嘆いているもので、作者自身をいっているのである。○別れにし妹が著せてし 「別れにし」は、別れて来たで、「に」は、完了の助動詞。「し」は、過去の助動詞。これは旅をするについての別れで、死者に対する追慕ではない。「妹が著せてし」は、妹が我に着せたで、「て」は、完了の助動詞で強意、「し」は、過去の助動詞。○褻衣袖片敷きて 「褻衣」は、着古して、くた(320)くたになった衣で、別れている時の久しいことを具象的にいったもの。「袖片敷きて」は、自分の袖だけを敷いてで、「片敷き」は、独寝を具象的にいったもので、成句。○独かも寝む 「かも」は、疑問の係で、独寝をすることであろうか。
【釈】 夕べとなると海岸の葦の辺りに塒につくとて騒ぎ、夜が明けて来ると、沖のほうで水に漂っている鴨のようなものでさえも、妻と連れ立っていて、わが尾羽には霜は降るなと、白い羽をさし交わして、霜を払って寝るということであるのに。流れてゆく水の還って来ないごとく、吹く風の目には見えないがごとく、後に残る物とてはない、この世の人間とあって、別れて来た妹が着せた着馴らして汚れた衣の袖一つを敷いて、独寝をするのであろうか。
【評】 この歌は、題詞に、「古き挽歌」とあり、また左注に「丹比大夫、亡《みまか》りし妻を悽《いた》み愴《なげ》ける歌」とあるが、歌そのものはそうしたものではなく、官命で海岸地帯に出張して、久しい滞在をしている丹比大夫が、霜を覚えるような肌寒い夜、京の家にいる妻を思って、独寝の侘びしさを嘆いている歌である。前半の「打ち払ひさ宿とふものを」などは、出張先である海岸地帯の眼前の物として、そこに住む鴨のようなはかない鳥でさえも、雌雄常に連れ立っていて、互いに睦まじくいたわり合っているのを、現在、妻と離れて侘びしい思いをしている自身に引き当てて、譬喩として羨んでいるのである。「大夫」という身分ある京の廷臣の、亡き妻をかなしむ譬喩としては、甚だ不自然なものである。それに続く「逝く水の還らぬ如く」以下、「跡もなき世の人にして」は、仏教の無常観を仮りて、人間の身をはかなんでいるものであるが、これははかなさを嘆くことを目的としたものではなく、反対に、人生ははかないものであるゆえに、その可能な間に享楽を尽くすべきだという意をいおうとしてのものである。享楽とはここでは、夫婦離れずに睦まじく過ごすことである。一見、語が足らぬかのようにみえるが、上の鴨の譬喩、また、下の、夫婦離れて過ごしている嘆きとで、十分その意は通じるものとして、わざと婉曲にしているのである。続いての、「別れにし妹が著せてし」以下は、起首の「我が尾には霜な降りそと」との照応で、肌寒い夜の独寝の侘びしさの嘆きである。この歌は明らかに旅愁であって、挽歌ではない。これを挽歌としたのは編集者の誤解で、「逝く水の還らぬ如く」以下を、人生の無常を嘆いたものと解し、その延長として「別れにし妹が著せてし」の「別れにし」を、死別の意に解したのである。作意のごとく旅愁の歌とすると、奈良朝中期の享楽気分の上に立って、廷臣の身でありながらも、個人的享楽を絶対のもののごとくに見、「鴨すらも」と、鴨を蔑視しつつも羨み、仏説の無常観を享楽気分の支柱としているもので、しかも熱意なく、平坦に詠み流しているものである。時代性の反映ではあるが、その甚しいものである。
反歌一首
3626 鶴《たづ》が鳴《な》き 葦《あし》べをさして 飛《と》び渡《わた》る あなたづたづし 独《ひとり》さ寐《ぬ》れば
(321) 多都我奈伎 安之敞乎左之弖 等妣和多類 安奈多頭多頭志 比等里佐奴礼婆
【語釈】 ○鶴が鳴き 「鶴」は、つるだけに限らず広く水禽をも称したが、かりに鴨としても長歌とのつながりが薄弱である。やはり鶴とすべきであろう。鶴が鳴いて。○葦べをさして飛び渡る 下の続きで、朝とわかる。それだと、食餌を獲ようとして、その時から海べへ飛び渡ってゆくで、これは寝ていて、鳴き声によって推定している言い方である。以上、同音で、「たづ」にかかる序詞。○あなたづたづし 巻四(五七五)に既出。「あな」は、感動詞。「たづたづし」は、おぼつかない、頼りないで、下の独寝の感。
【釈】 鶴が鳴いて、海岸の葦べのほうをさして飛び渡ってゆく。ああ頼りないことである。独寝をしておれば。
【評】 長歌と同じ境にあっての朝の目覚め時の感である。長歌の結末の「独かも寝む」に、時間的につながりがあるものである。「鶴」を捉えているのは、取材としては唐突の感があるが、序詞として用いているものであるから、緩和されるところがある。長歌で言いつくしているので、変化を求めたとも見られる。
右、丹比大夫《たぢひのまへつぎみ》、亡《みまか》りし妻を悽《いた》み愴《なげ》ける歌。
右、丹比大夫、悽2愴亡妻1歌。
【解】 「大夫」は、四位五位の人に通じての敬称である。敬称でその人を呼ぶのは、名をもってすることを憚ってのことである。その人の子孫であれば、故人となった人をもこのような呼び方をするが、ここは第三者としてのことであるから、この大夫は現存の人だったとみえる。当時丹比氏で四位五位の人は、広成、広定、屋主、国人などがあったから、その中の一人であろう。「亡りし妻」以下は、「古き挽歌」という題を付した人で、同じ編集者であろう。
物に属《つ》きて思を発《おこ》せる歌一首 井に短歌
【題意】 「物に属きて思を発せる」は、目に見る物によって感動を起こすの意で、巻十三に多い。道行きの歌と同様の物である。謡い物として古くより行なわれていた形に、新たに説明を与えたにすぎないものである。編集者の加えたものかと思われる。
3627 朝《あさ》されば 妹《いも》が手《て》に纏《ま》く 鏡《かがみ》なす 三津《みつ》の浜《はま》びに 大船《おほふね》に 真楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き から国《くに》に 渡《わた》り行《ゆ》かむと 直向《ただむか》ふ 敏馬《みぬめ》をさして 潮待《しほま》ちて 水脈導《みをび》き行《ゆ》けば 沖辺《おきべ》には 白波《しらなみ》高《たか》み 浦(322)廻《うらみ》より 漕《こ》ぎて渡《わた》れば 吾妹子《わぎもこ》に 淡路《あはぢ》の島《しま》は 夕《ゆふ》されば 雲居《くもゐ》隠《かく》りぬ さ夜《よ》ふけて 行《ゆく》方《へ》を知《し》らに 吾《あ》が心《こころ》 明石《あかし》の浦《うら》に 船《ふね》泊《と》めて 浮宿《うきね》をしつつ わたつみの 沖辺《おきべ》を見《み》れば 漁《いさり》する 海人《あま》の娘子《をとめ》は 小船《をぶね》乗《の》り つららに浮《う》けり 暁《あかとき》の 潮《しほ》満《み》ち来《く》れば 葦辺《あしべ》には 鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る 朝《あさ》なぎに 船出《ふなで》をせむと 船人《ふなびと》も 水子《かこ》も声《こゑ》よび 鳰鳥《にほどり》の なづさひ行《ゆ》けば 家島《いへしま》は 雲居《くもゐ》に見《み》えぬ 吾《あ》が思《も》へる 心《こころ》和《な》ぐやと 早《はや》く来《き》て 見《み》むと思《おも》ひて 大船《おほふね》を 漕《こ》ぎ我《わ》が行《ゆ》けば 沖《おき》つ波《なみ》 高《たか》く立《た》ち来《き》ぬ 外《よそ》のみに 見《み》つつ過《す》ぎ行《ゆ》き 多麻《たま》の浦《うら》に 船《ふね》をとどめて 浜《はま》びより 浦礒《うらいそ》を見《み》つつ 哭《な》く児《こ》なす 哭《ね》のみし泣《な》かゆ 海神《わたつみ》の 手纏《たまき》の珠《たま》を 家《いへ》づとに 妹《いも》に遣《や》らむと 拾《ひり》ひ取《と》り 袖《そで》には入《い》れて 返《かへ》し遣《や》る 使《つかひ》無《な》ければ 持《も》てれども 験《しるし》を無《な》みと また置《お》きつるかも
安佐敬礼婆 伊毛我手尓麻久 可我美奈須 美津能波麻備尓 於保夫祢尓 眞可治之自奴伎 可良久尓々 和多理由加武等 多太牟可布 美奴面乎左指天 之保麻知弖 美乎妣伎由氣婆 於伎敞尓波 之良奈美多可美 宇良未欲理 許藝弖和多礼婆 和伎毛故尓 安波治乃之麻波 由布左礼婆 久毛爲可久里奴 左欲布氣弖 由久敞乎之良尓 安我己許呂 安可志能宇良尓 布祢等米弖 宇伎祢乎詞都追 和多都美能 於枳敞乎見礼婆 伊射理須流 安麻能乎等女波 小船乘 都良々尓宇家里 安香等吉能 之保美知久礼婆 安之辨尓波 多豆奈伎和多流 安左奈藝尓 布奈弖乎世牟等 船人毛 鹿子毛許惠欲妣 柔保等里能 奈豆左比由氣婆 伊敞之麻婆 久毛爲尓美延奴 安我毛敞流 許己呂奈具也等 波夜久伎弖 美牟等於毛比弖 於保夫祢乎 許藝和我由氣婆 於伎都奈美 多可久多知伎奴 与曾能未尓 見都追須疑由伎 多麻能宇良尓 布祢乎等杼米弖 波麻備欲里 宇良伊蘇乎見都追 奈(323)久古奈須 祢能未之奈可由 和多都美能 多麻伎能多麻乎 伊敞都刀尓 伊毛尓也良牟等 比里比登里 素弖尓波伊礼弖 可敞之也流 都可比奈家礼婆 毛弖礼杼毛 之留思乎奈美等 麻多於伎都流可毛
【語釈】 ○朝されば妹が手に纏く 朝が来れば妹が手にかかえるで、「纏く」は、ここは、かかえる意で、下の鏡の説明。○鏡なす三津の浜びに 「鏡なす」は、鏡のようにで、「見」にかかる枕詞。「三津」は、御津で、難波津の美称。「浜び」は、「浜べ」の古語。「に」は、において。○大船に真楫繁貫き 「真楫」の「真」は、物の完備したことをあらわす語で、ここは、船の左右の楫の意。「繁貫き」は、繁く取付けで、遣新羅使の官船。○から国に渡り行かむと 「から国」は、上代では外国の総称であったが、今は新羅国。○直向ふ敏馬をさして 「直向ふ」は、真正面に向かっている。「敏馬」は、摂津国武庫郡。今の都賀浜より小浜野に至る海辺(神戸市灘区岩屋、大石付近)。○潮待ちて水脈導き行けば 「潮待ちて」は、潮の満ちるのを待ってで、上代の舟行の第一要件は潮加減であった。「水脈導き行けば」は、「水脈」は、水のうねりで、船が進行する時、船の後方に引く、水の尾の称。それを引いて行くと。○沖辺には白波高み 沖のほうは白波が高いゆえに。難波より敏馬の辺りまでは、沖を行くこともあったのである。○浦廻より漕ぎて渡れば 「浦廻」は、浦のめぐり。「より」は、行動の位置を示す助詞で、「を」にあたる。「漕ぎて渡れば」は、漕いで行くと。○吾妹子に淡路の島は 「吾妹子に」は、逢う意で、「淡」にかかる枕詞。○夕されば雲居隠りぬ 「雲居」は、雲で、夕方になると現われる雲に隠れた。以上、朝より夜までで、第一段。○さ夜ふけて行方を知らに 「さ夜」の「さ」は、接頭語。「行方」は、船の向かうべき方向。「知らに」の「に」は、打消の助動詞「ず」の連用形で、知られずして。夜ふけると暗くて、船の進むべき方向がわからなくて。○吾が心明石の浦に 「吾《あ》が心」は、赤しの意で、「明」にかかる。○浮宿をしつつ 「浮宿」は、波の上に浮かんで寝る意で、すなわち上陸せずに船中に寝つつ。○小船乗りつららに浮けり 「小船」は、海人船。「乗り」は、連用形で、乗って。「つららに」は、連なっての意で、副詞。沖辺とはいうが、当時の漁船の常として、岸からいくぱくも離れてはいない辺りとみえる。以上、一夜の光景で、第二段。○暁の潮満ち来れば 「暁」は、夕べとともに満潮時である。○葦辺には鶴鳴き渡る 海岸の葦のあたりには、鶴が鳴いて遠く飛ぶで、これは満潮でいられなくなったためである。○朝なぎに船出をせむと 「朝なぎ」は、朝の凪で、夕凪と対しての凪ぎ時。○船人も水子も声よび 「船人」は、船長など、船乗りの総称。「水手」は、船を漕ぐ人。「声よび」は、声をかけ合って。○鳰鳥のなづさひ行けば 「鳰鳥の」は、かいつぶりのごとく。「なづさひ行けば」は、水に漂い進んで行くと。○家島は雲居に見えぬ 「家島」は、播磨国飾磨郡に属する群島で、揖保郡室津の南にある。今は、兵庫県飾磨郡|家島《えじま》町。「雲居」は、ここは遠くの意のもの。○吾が思へる心和ぐやと わが家恋しく思っている心が、家という名を持った島々に寄ったら慰められるだろうかとで、「や」は、疑問の助詞。名はその実をあらわすものだとする信仰からの心で、上にも出た。○早く来て見むと思ひて 「早く来て」は、今だと早く行ってであるが、ここは家島を主とする関係上、当時の言い方の「来て」を用いているのである。○大船を漕ぎ我が行けば 「我が」は、感を強めるためにわざと添えていっているもの。○沖つ波高く立ち来ぬ 沖の波が高く立って来たで、そうした状態になると、乗船を岸に打ちつけられる危険から、船が寄せられなかったのである。これはその意でいっているもの。以上、第三段。○外のみに見つつ過ぎ行き 家島を、遠くからのみ見つつ行き過ぎてで、家島に未練を感じる意。○多麻の浦に船をとどめて 「多麻の浦」は、上の(三五九八)に出た。岡山県玉島(324)市の海上。○浜びより浦礒を見つつ 「浜び」は、「浜べ」の古語。浜は砂より成る海岸。「浦礒」は、浦や礒で、「浦」は入江、「礒」は、海岸の岩石で、「見つつ」は、通って来た航路を眺めやりつつ。○哭く児なす哭のみし泣かゆ 「哭く児なす」は、泣く児のごとくで、「哭」の枕詞。「哭のみし」は、「哭」は、泣くの名詞形で、「のみ」も「し」も強意の助詞。「泣かゆ」は、泣かれる。泣きにのみ泣かれるで、都を離れてはるばると来た感傷。○海神の手纏の珠を 「海神」は、わたつみの神の意のもので、海をうしはく所の神で、「手纏の珠」も、その神の腕くびに巻いている珠で、神の装いとしている珠。これは海中の深いところにある鰒玉をいっているので、成語である。○家づとに妹に遣らむと 土産として妹に与えようと思って。○拾ひ取り袖には入れて 「拾《ひり》ひ」は、前出。この二句で、珠は海岸に打ち寄せられている貝殻か、美しい小石とわかる。○返し遣る使無ければ 引きかえして遣るべき使者がないので。○持てれども験を無みと 持っていたがその甲斐がないゆえに。○また置きつるかも また、元の所に置いたことであったで、「つる」は、完了の助動詞で、連体形。詠歎してのもの。「かも」も、詠歎。
【釈】 朝が来ると、妹が手に抱いて見る鏡のように、その見に因みある三津の浜べで、大船に十分に艪や楫を繁く取付け、韓国へ渡って行こうとして、そこから真正面に向かっている敏馬をさして、満潮を待って、水脈を後に引いて漕いで行くと、沖のほうは白波が高いので、浦のほうを漕いで渡ると、吾妹子に逢うというに因む淡路の島は、夕べになると雲に隠れた。夜ふけて、進むべき方角が知られずに、わが心赤しというに因みある明石の浦に船を泊《と》めて、波の上に浮寝をしながら、海の沖のほうを見ると、漁をする海人の娘子は、小船に乗って、連なり浮いている。暁の潮が満ちて来ると、海岸の葦の辺りには、鶴が鳴いて遠く飛んでいる。朝風に船出をしようとて、船頭も水手も、懸け声を合わせて、鳰鳥のように漂って行くと、家島が遙かに見えた。わが家恋しく思っている心が慰められるだろうかと思い、早くそこへ行って見ようと思って、大船を漕いで我が行くと、沖の浪が高く立って来て、寄せられなかった。遠くからばかり見やりつつ過ぎて行って、多麻の浦に船を泊めて、砂浜から通り過ぎて来た浦や海岸の岩を眺めやりつつ、都遠く来たことと思うと、泣く児のように泣きにのみ泣かれる。海神のその腕に巻いている珠を、土産として妹にやろうと思って拾い取って袖の中に入れたが、帰してやる使がないので、持っていたが甲斐がないので、またそこへ置いたことであった。
【評】 この集にあっても長歌の作者は、さして多くはなく、それも時代が降るに従って次第に数が減って、この歌の詠まれた奈良朝時代には、数えるほどの人しかなかったのである。その間にあって、遣新羅国使の随行の人の中に、長歌形式をもってこれだけの量のある歌を詠む人のあったのは、異とするに足りることである。歌風は、巻十三の相聞の道行き体のものと揆を一にしたものである。またそれらは民謡でもあったので、おのずから耳に熟してもいたはずの物であるから、その意味でこの歌は、新生面を拓き得たとはいえないものである。この歌も中心は、それらと同じく、旅にあって家を思い妹を恋うる心のもので、起首の序詞からすでにその色を帯び、結末は際やかにその心を浮かび上がらせているものであるが、しかし全体として見ればそれだけではなく、それとは別個に、旅行記の趣を濃厚に持っているものである。一首を三段に分かち、明石、家島、(325)多麻の浦と平面的に並べて叙して行っているのは、まさしく旅行記的である。家島、多麻の浦は、相聞の心が濃厚であるが、一首の半ばを割いている明石まではその心を直接には見せず、純旅行記といえる詠み方である。本来の長歌の特色は、たとい細部にわたっていおうとも、一首の中心が明らかに、したがって統一力が強く、立体感を醸し出しているところにある。この歌はそれとは反対に、必ずしも中心が一つではなく、したがって統一力がなく、平面感に終始しているものであって、これはまさしく散文の態度のものである。奈良遷都前後、旅人・憶良らは、歌をもって散文的な趣をあらわそうと、意識して努力している跡のみえることは、すでにその歌について言った。家持の短歌の連作、長歌は、それを継承したものとみえる。歌が散文的傾向を帯びて来たのは時代の風だったのである。この作者はその雰囲気の中にあってこうした長歌を作ったので、旅行記的のものとなっているのはむしろ当然ともいえる。詠み方も、線の細い、小味なものであって、これだけの量を持った歌にはふさわしくなく、短歌の連続とも見られるもので、そう見るほうが適当とさえ思われるものである。さすがにそれをする手腕には凡ならざるものがあって、飽かずに読み終わらせるものを持っている。要するに、注意すべき作である。
反歌二首
3628 多麻《たま》の浦《うら》の 沖《おき》つ白珠《しらたま》 拾《ひり》へれど またぞ置《お》きつる 見《み》る人《ひと》を無《な》み
多麻能宇良能 於伎都之良多麻 比利敞礼杼 麻多曾於伎都流 見流比等乎奈美
【語釈】 ○沖つ白珠 沖のほうにある白珠で、「白珠」は、鰒玉すなわち今の真珠である、が、これは海岸では拾えそうもない物である。誇張といえる。○見る人を無み 「見る人」は、妹の意でいっているもの。「無み」は、無いゆえに。
【釈】 多麻の浦にある、沖の白珠を拾ったが、また置いたことであった。それを見る妹がいないので。
【評】 長歌の結末を、いささか語を変えて繰り返したもので、反歌としては古風なものである。
3629 秋《あき》さらば 我《わ》が船《ふね》泊《は》てむ わすれ貝《がひ》 寄《よ》せ来《き》て置《お》けれ 沖《おき》つ白浪《しらなみ》
安伎佐良婆 和我布祢波弖牟 和須礼我比 与世伎弖於家礼 於伎都之良奈美
【語釈】 ○秋さらば我が船泊てむ 「秋さらば」は、秋が来たならばで、帰朝の予定時である。これは前にも出た。「我が船泊てむ」は、わが船は(326)再びこの多麻の浦に停めよう。○わすれ貝寄せ来て置けれ 「わすれ貝」は、巻一(六八)以下しばしば出た。表は淡紫、裏は白い貝殻で、美しい貝である。それを身に着けると物を忘れさせる力があるとされていた。「寄せ来て置けれ」は、寄せて来てここに置けよと、下の「浪」に命令したもの。「置けれ」は、「置けり」の命令形。○沖つ白浪 呼びかけ。
【釈】 秋になったらば、わが船をここへ停めよう。わすれ貝を、寄せて来て置けよ。沖の白浪よ。
【評】 上の歌の心を延長させたもので、「わすれ貝」は、「またぞ置きつる」といっているその貝であろう。それだと「沖つ白珠」である。帰航の時には、拾って行こうというのである。いささかながら長歌の心を進展させたものである。
周防国|玖珂《くが》郡|麻里布《まりふ》の浦を行きし時、作れる歌八首
【題意】 「玖珂郡」は、養老五年四月、周防国熊毛郡を割いて置いた郡である。「麻里布の浦」は、今は山口県岩国市の東方、錦川(今津川)の河口で、地名辞書は室木の浦と称するところで、近年麻里布村と改称したといっている。熊毛郡|田布施《たぶせ》町(もと麻里府村)とする説もある。
3630 真楫《まかぢ》貫《ぬ》き 船《ふね》し行《ゆ》かずは 見《み》れど飽《あ》かぬ 麻里布《まりふ》の浦《うら》に 宿《やど》りせましを
眞可治奴伎 布祢之由加受波 見礼杼安可奴 麻里布能宇良尓 也杼里世麻之乎
【語釈】 ○真揖貫き 上に出た。○宿りせましを 「まし」は、事実に反する仮想。「を」は、詠歎。
【釈】 十分に楫を取付けて、船が漕いで行かずに、見ても飽かないこの佳景の麻里布の浦に、宿りをしようものを。
【評】 麻里布の浦の佳景を、船の進行中に見て、心を残して過ぎた時の口吟である。平明な歌である。
3631 何時《いつ》しかも 見《み》むと思《おも》ひし 粟島《あはしま》を 外《よそ》にや恋《こ》ひむ 行《ゆ》くよしを無《な》み
伊都之可母 見牟等於毛比師 安波之麻乎 与曾尓也故非無 由久与思乎奈美
【語釈】 ○何時しかも見むと思ひし 「何時しかも」は、いつになったならばで、早くの意。○粟島を 「粟島」は、四国島の古名とする説、山口(327)県熊毛郡|平生《ひらお》町湾口の阿多田島説、山口県屋代島説などがある。その島に接して航したのである。○外にや恋ひむ 「外に」は、そこへ行かずに、遠くから。「や」は、疑問の係。○行くよしを無み 行く方法がないゆえにで、船を寄せないことをいったもの。
【釈】 早く見たいと思っていた粟島を、遠くから見て恋うるのであろうか。そこへ行く方法がないので。
【評】 粟島の佳景であることを聞いて、憧れの心を寄せていたのに、たまたまそこを通っても、よくは見られない心残りをいったのである。奈良京の人の海に対する憧れという中でも、この辺りは異国のような感がしていたろうから、一段と強いものであったろうと思われる。
3632 大船《おほふね》に 〓〓《かし》振《ふ》り立《た》てて 浜清《はまぎよ》き 麻里布《まりふ》の浦《うら》に やどりか為《せ》まし
大船尓 可之布里多弖天 波麻藝欲伎 麻里布能宇良尓 也杼里可世麻之
【語釈】 ○〓〓振り立てて 「〓〓」は、巻七(一一九〇)に出た。船を繋ぐために立てる杙または棹で、もやい杙である。今、船をつないだ河岸を「かし」と称するのは、その名残りであろうと『新考』はいっている。「振り立てて」は、振り上げて立てる意。○やどりか為まし 「か」は、疑問の係。「まし」は、事実に反する仮想。
【釈】 大船に、かしを振り立てて、浜の清らかな麻里布の浦に宿りをしようか。それもできないのだが。
【評】 同じく麻里布の浦をよそに見て通過した後の心残りである。この歌は屈折を持った、熟した技巧ある人のもので、前の二首とは趣を異にしている。
3633 粟島《あはしま》の 逢《あ》はじと思《おも》ふ 妹《いも》にあれや 安宿《やすい》も寝《ね》ずて 吾《あ》が恋《こ》ひ渡《わた》る
安波思麻能 安波自等於毛布 伊毛尓安礼也 夜須伊毛祢受弖 安我故非和多流
【語釈】 ○粟島の逢はじと思ふ 「粟島の」は、前の歌に出た。よそに見て通過した島で、それを捉えて「逢は」の枕詞としたもの。「逢はじと思ふ」は、またとは逢うまいと思っている。○妹にあれや 妹であろうか、そうではないで、「や」は、反語。○安宿も寝ずて吾が恋ひ渡る 「安宿」は、安らかな眠りで、「宿」は、眠りの意の名詞。安眠状態には寝ずして、われは恋い続けている。
【釈】 あの粟島の名に因みある、または逢うまいと思っている妹であろうか、そうではない。それを我は、夜も安眠状態には寝(328)ずして恋い続けている。
【評】 妹も我を思っていようが、我は妹にも増して恋しているという旅情が、「粟島」という名によって高潮させられた形の歌である。純抒情的に、飛躍をもった詠み方をしている。感のとおった歌である。
3634 筑紫道《つくしぢ》の 可太《かだ》の大島《おほしま》 しましくも 見《み》ねば恋《こひ》しき 妹《いも》を置《お》きて来《き》ぬ
筑紫道能 可太能於保之麻 思末志久母 見祢婆古非思吉 伊毛乎於伎弖伎奴
【語釈】 ○筑紫道の可太の大島 「筑紫道」は、筑紫へ行く道。「可太の大島」は、山口県大島郡の屋代島。以上、同音で「しま」にかかる序詞。眼前の景を捉えてのもの。○しましくも 「しまし」は、「暫し」の古語。
【釈】 筑紫へ行く道の、可太の大島に因みある、しばしの間でも、見なければ恋しい妹を、後に残して来た。
【評】 眼前を捉えて序詞とすることは、時様に従ってのことにすぎないとはいえるが、この歌の場合のように遠い旅にあってしている物は、旅の景と自身の心とを一つ物とし、全体として大観し、客観化したものという趣を帯びて来て、相当強み深みのある物となって来る。この歌にはその趣があって、平凡なようであるが、そうはいえないものがある。
3635 妹《いも》が家道《いへぢ》 近《ちか》くありせば 見《み》れど飽《あ》かぬ 麻里布《まりふ》の浦《うら》を 見《み》せましものを
伊毛我伊敞治 知可久安里世婆 見礼杼安可奴 麻理布能宇良平 見世麻思毛能乎
【語釈】 略す。
【釈】 妹の家への道が近かったならば、見ても飽かない麻里布の浦を見せようものを。
【評】 麻里布の浦の佳景を見て、京の妹に見せてやりたいと思っての嘆きである。類想の歌の少なくないものであるが、海を知らない妹であるから、真情のほどが思われる。調べもしめやかで、気分を生かしている。
3636 家人《いへびと》は 帰《かへ》り早来《はやこ》と 伊波比島《いはひしま》 斎《いは》ひ待《ま》つらむ 旅行《たびゆ》く吾《われ》を
(329) 伊敞妣等波 可敞里波也許等 伊波比之麻 伊波比麻都良牟 多妣由久和礼乎
【語釈】 ○伊波比島 熊毛郡に属して、その海上にある小島。上ノ関町祝島。ここを過ぎると、周防灘にかかるところから、航海者はこの島で神を祭って、身の安全を祈ったので、祝島という名が生まれたものと思われる。「斎ひ」に同音でかかる枕詞。○斎ひ待つらむ 斎戒して神を祭って、わが安全を祈っているだろうで、「らむ」は、現在推量。
【釈】 わが家の人々は、早く帰って来よと、この伊波比島に因みある、斎って待っているであろう。旅行きをする我を。
【評】 伊波比島を目に見ると、それが刺激となり、家人がわが安全を祈って斎いをしていることを連想し、それをもって心支えにしようとする心である。場合柄に合わせては、調べが調子づきすぎているが、家人を思うことによって慰められた際の心であるから、うなずき得られるものである。
3637 草枕《くさまくら》 旅行《たびゆ》く人《ひと》を 伊波比島《いはひしま》 幾代《いくよ》経《ふ》るまで 斎《いは》ひ来《き》にけむ
久左麻久良 多妣由久比等乎 伊波比之麻 伊久与布流末弖 伊波比伎尓家牟
【語釈】 ○草枕旅行く人を 「草枕」は、旅の枕詞。「旅行く人」は、海路によっての旅をする人であるが、語としては広く一般の旅行者をさしているもので、自身もその中に含めているものである。○伊波比島 上の歌と同じ。上代は、土地はすなわち神であると信じていたので、ここは島を神としているのである。○幾代経るまで斎ひ来にけむ 「幾代経るまで」は、幾時代を経過するまでの久しい間を。「斎ひ来にけむ」は、伊波比島は斎って来たことであろうか。
【釈】 草枕旅行く人を、伊波比島である神は、幾時代を経過するまでの久しい間を、斎って加護を垂れて来たことであろうか。
【評】 この作者は伊波比島に対して、島を即神とする信仰の上に立ち、神はその名のごとく、きわめて久しい間を加護を垂れて来給うたことを思って、その神をあがめたのである。心としては我に対する加護を乞おうとするのであるが、尊い神に対して我を言い立てることをはばかり、もとよりそうした神であるから、我も加護に預りうることを信じて、単に神徳をたたえるにとどめたのである。これは神に対しての礼であって、上代はすべてそれであったのである。「草枕旅行く人を」という広い言い方をして、自身をその中に含めたのも、その心からのことである。
大島の鳴門《なると》を過ぎて再宿《ふたよ》を経たる後、追ひて作れる歌二首
(330)3638 これやこの 名《な》に負《お》ふ鳴門《なると》の 渦潮《うづしほ》に 玉藻《たまも》刈《か》るとふ 海人娘子《あまをとめ》ども
巨礼也己能 名尓於布奈流門能 宇頭之保尓 多麻毛可流登布 安蘇乎等女杼毛
【語釈】 ○これやこの これが、あの。「や」は、疑問の係助詞。「この」は、以下全体にかかる。○名に負ふ鳴門の渦潮に その名に背かない鳴門の渦潮の上で。「渦潮」は、渦を巻いて流れる潮の称。○玉藻刈るとふ海人娘子ども 「玉藻刈るとふ」は、「玉藻」は、「玉」は、美称で、和布など。「とふ」は、「といふ」の約音。藻を刈るといっている。「海人娘子ども」は、海人の娘子どもなのか。
【釈】 これがあの、その名に背かない鳴門の渦潮の上で、藻を刈るといっている海人の娘子どもなのか。
【評】 一読、解し難い感のする歌であるが、次の、これに和する歌によって解される。この歌を作った時より二夜以前の日、一行は鳴門の渦潮の辺りを経過し、その渦潮の上に船を浮かべている海人の娘子どもを見、何をするのかと尋ねて、藻を刈っているという答を得たのであった。この作者は、その娘子どもを夢に見たのである。夢に対しては神秘感を持っていた時代とて、作者は思いがけないこととして、訝かって、その夢を歌に詠んだのがすなわちこれである。訝かりの気分そのものだけの歌である。奈良京の人には、女のそうした仕事が、きわめて印象的なものだったろうと察しられる。
右の一首は、田辺秋庭《たなべのあきには》。
右一首、田邊秋庭。
【解】 伝未詳。
3639 浪《なみ》の上《うへ》に 浮宿《うきね》せし夜《よひ》 何《あ》ど思《も》へか 心愛《こころがな》しく 夢《いめ》に見《み》えつる
奈美能宇倍尓 字伎祢世之欲比 安杼毛倍香 許己呂我奈之久 伊米尓美要都流
【語釈】 ○浪の上に浮宿せし夜 上陸せずに、船中に寝た夜ということを、具象的にいったものである。そうした言い方をしているために、ある(331)不安な、落着きのない気分を漂わしている。これは作者の意図していたことである。○何ど思へか 妹が我を何と思っていたのかで、用例のある句であり、巻十四(三五七二)「何《あ》ど思《も》へか阿自久麻《あじくま》山の」と出た。これは、夢というものは、先方がこちらを思う心の通って来るために見えるものだという、当時の信仰の上に立って、その思う心の捉え難いもどかしさをいったものである。○心愛しく夢に見えつる 「心愛しく」は、わが心に可愛ゆくであるが、「心」は「愛しく」の語感を強めるために添えたものである。「夢に見えつる」は、「夢」は、上の意のもの。「つる」は、完了の助動詞で、連体形。「か」の結。
【釈】 浪の上に浮宿をした夜、妹は我をどのように思ったのであろうか、我には可愛ゆく夢に見えて来たことであるよ。
【評】 この歌も、妹が可愛ゆく夢に見えて来たといういささかの心揺らぎで、これを歌材として見れば、あまりにも微かな、捉えては詠み難いものである。中心は「心愛しく夢に見えつる」であるが、それに「浪の上に浮宿せし夜」という、必ずしもそれとは一致しない環境を与え、また夢の原因としての「何ど思へか」を添えて、相応に複雑した、したがって一杯となったものにして、渾然とした一首に纏め上げている。上の歌とともに、純気分の歌で、その意味では近代的というべきである。注意される作である。
熊毛《くまけ》の浦に船|泊《は》てし夜作れる歌四首
【題意】 「熊毛の浦」は、山口県熊毛郡にある浦で、今の平生《ひらお》町|小郡《おぐん》にある浦かという。また、光市|室積浦《むろづみうら》ともいう。
3640 都方《みやこべ》に 行《ゆ》かむ船《ふね》もが 刈薦《かりこも》の 乱《みだ》れて思《おも》ふ 言《こと》告《つ》げやらむ
美夜故邊尓 由可牟船毛我 可里許母能 美太礼弖於毛布 許登都等夜良牟
【語釈】 ○都方に行かむ船もが 「都方」は、都方面で、妹のいる所を広くいったもの。「船もが」は、船がほしいものだで、その浦は筑紫と都との航路にあたっていたので、そうした船もあろうかと思ったのである。「もが」は、願望の助詞。○刈薦の乱れて思ふ言告げやらむ 「刈薦の」は、「乱れ」の枕詞。「乱れて思ふ」は、心が乱れて思っているで、妹を恋しく思う心のきわまっている意。「言告げやらむ」は、言葉として告げてやりたいことだ。
【釈】 都のほうへ行く船がほしいことだ。刈薦のように、心が乱れて思っている言葉を、告げてやろう。
【評】 その時居た場所が、諸船の寄港地であったのに刺激されて、旅愁をいったものである。平凡な作であるが、素直で、調(332)べもしみじみしている。
右の一首は、羽栗《はぐり》。
右一首、羽栗。
【解】 伝未詳。『代匠記』は、可能の範囲の考証をしている。「羽栗」は、氏である。
3641 暁《あかとき》の 家恋《いへごひ》しきに 浦廻《うらみ》より 楫《かぢ》の音《おと》するは 海人娘子《あまをとめ》かも
安可等伎能 伊敞胡悲之伎尓 宇良未欲理 可治乃於等須流波 安麻乎等女可母
【語釈】 ○暁の家恋しきに 「暁の」は、夜の明け方ので、しらじら明けの頃。その頃は、夕方と同じく、さみしく人恋しい時と当時はしていた。「家恋しきに」は、妹が恋しい折であるのに。「家」は、妹をわざと間接にいったもの。○浦廻より楫の音するは 「浦廻」の「廻」は、あたり。「より」は、行動の位置を示すもので、「に」というにあたる。○海人娘子かも 「かも」は、疑問の助詞。
【釈】 夜明け方の、京の妹の恋しい折であるのに、浦のあたりに楫の音のするのは、海人の娘子であろうか。
【評】 陸上に宿って、夜明け方に目が覚めて、そうした折の常とて、京の妹を恋しく思って、静寂な中に物思いを続けているおりから、浦のほうにかすかな楫の音が聞こえて来たというので、その音が物思いを深める刺激となったことをいっているものである。純気分の作で、上の鳴門の海人娘子の夢の歌二首と同傾向のものである。一首の形は叙事に似ているが、すべて気分の具象化のためのもので、破綻のない作である。
3642 沖《おき》べより 潮《しほ》満《み》ち来《く》らし 可良《から》の浦《うら》に 求食《あさり》する鶴《たづ》 鳴《な》きて騒《さわ》きぬ
於枳敞欲理 之保美知久良之 可良能宇良尓 安佐里須流多豆 奈伎弖佐和伎奴
【語釈】 ○沖べより潮満ち来らし 「らし」は、証を挙げての強い推量。証は下の「鶴」である。○可良の浦 熊毛の浦に属している狭い部分の称(上ノ関町室津付近)と取れるが、その名は伝わらず、所在不明である。下松市笠戸湾、徳山市徳山湾、説もある。○鳴きて騒きぬ 満潮に驚いてのことである。
(333)【釈】 沖のほうから潮が満ちて来るのであろう。可良の浦であさりをしている鶴が、鳴いて騒いだ。
【評】 前の歌と同じく、朝の浜べの静寂な中に、にわかに鶴の騒がしく鳴く声を聞いて心を動かして、それに推量で説明を与えたのである。この歌は気分とせず、事としようとしているので、前の歌にくらべると甚だ趣の浅いものとなっている。
3643 沖《おき》べより 船人《ふなびと》のぼる 呼《よ》び寄《よ》せて いざ告《つ》げ遣《や》らむ 旅《たび》の宿《やど》りを
於吉敞欲里 布奈妣等能煩流 与妣与勢弖 伊射都氣也良牟 多婢能也登里乎
【語釈】 ○沖べより船人のぼる 「沖べより」の「より」は、上の歌と同じく「を」の意のもの。「船人」は、船を言いかえたもの。下の続きとの関係から、そのほうが適切になるからである。「のぼる」は、京のほうへ向かって漕いでいるところから、京へ上る船と見ていったものである。○呼び寄せていざ告げ這らむ 「呼び寄せて」は、船人をこちらへ呼び寄せて。「いざ告げ遣らむ」は、さあ、京の妹に告げてやろう。○旅の宿りを 旅でわが宿っている場所をで、文通の全くできないところから、せめての願いとして持ったものである。
【釈】 沖のほうを、船人が京に向かって漕ぎのぼっている。ここへ呼び寄せて、さあ、妹に告げてやろう。わが旅の在り場所を。
【評】 旅愁を甚しく昂奮した形でいっているものである。「船人のぼる」と断定していっているが、それは一行とは反対の方向へ向かって行く船というだけで、それ以上はわからないことである。「呼び寄せて」は、もとより不可能のことである。要するに、昂奮しての瞬時の心で、それとしては躍動のさまを相応にあらわし得ている歌である。
一に云ふ、旅《たび》のやどりを いざ告げやらな
一云、多妣能夜杼里乎 伊射都氣夜良奈
【解】 四、五句に対してのものである。「やらな」の「な」は、自身に対しての希望で、告げてやりたいものだ。本文の倒叙を正叙にしたものである。本文のほうが躍動のさまをあらわしている。これは作者自身の別案であったとみえる。異伝の起こるべき性質の歌群ではないからである。
佐婆《さば》の海中にして、忽に逆風漲浪に遭ひ、漂流し宿《ひとよ》を経て後に、幸に順風を得、豊前国|下毛《しもつけ》郡|分(334)間《わくま》の浦に到著す。是《ここ》に艱難を追ひて怛《いた》み悽惆して作れる歌八首
【題意】 「佐婆」は、山口県佐波郡及び防府市の洋上で、周防灘である。「逆風漲浪」は、進路とは反対に吹く風と漲る浪。「宿を経て」は、一夜を宿る意で、一夜を経て。「下毛郡」は、今は大分県に属している。「分間の浦」は、所在が明らかでない。大分県中津市間々崎和間付近かとの説がある。「追ひて怛み」は、後よりいたんで。「悽惆して」は、おそれしおれて。これは漂流の経路である。予定の航路は、佐婆から西方に向かって、海岸に沿って長門国に行き、そこから狭い海峡を越して豊前国の北端へ着くべきであった。しかるに天候の変で暴風に遇い、南方へ流れて、下毛郡に着いてしまったのである。
3644 大君《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 大船《おほふね》の 行《ゆ》きのまにまに やどりするかも
於保伎美能 美許等可之故美 於保夫祢能 由伎能麻尓末尓 夜杼里須流可母
【語釈】 ○大君の命恐み 天皇の仰せを承って。「恐み」の「み」は、動詞として働かせたもの。これはわが国民が国事に服する時に強くその身を意識した語で、成句となっていたものである。○大船の行きのまにまに 「大船」は、ここは、面正しい官船という意でいっているもの。「行きのまにまに」は、行くがままにで、漂流させられている時の状態をいったもの。○やどりするかも 「やどり」は、題詞の「宿を経て」の意で、夜を過ごすことであるが、それを普通の宿りのごとくに思いなしていったもの。「かも」は、詠歎。
【釈】 天皇の仰せを承って、大船の行くに任せて、その上で宿りすることである。
【評】 逆風のために漂流させられて、夜に入った、死生の測られなかった時の心である。歌はその際の心をそのままにいったもので、覚悟の披瀝である。すなわち歌の形でいってはいるが、歌という意識も、巧拙も超えた境のものである。覚悟は、大君の御言によっての事であるとして、生死は度外視し、今は夜のこととて、ここで宿りをするのだ、というのである。語は静かであるが、心としては深く徹したものを持っているのである。
さすがに全体にわたって心弱さを帯びていて、それが実感であったろうと思わせもする。
右の一首は、雪宅麿《ゆきのやかまろ》。
右一首、雪宅麿。
【解】 『新考』は考証して、家としては壱岐の島の島造《しまつこ》を世襲したが、宅麿の祖父|忍見《おしみ》の時、山城国松尾の月読宮の長官となり、(335)それを世襲した家だといっている。また宅麿は卜占を掌ったので、それを職として随行したのだろうといわれる。
3645 吾妹子《わぎもこ》は 早《はや》も来《こ》ぬかと 待《ま》つらむを 沖《おき》にや住《す》まむ 家附《いへづ》かずして
和伎毛故波 件也母許奴可登 麻都良牟乎 於伎尓也須麻牟 伊敞都可受之弖
【語釈】 ○早も来ぬかと 「早も来ぬかと」は、早く帰って来ないか、帰って来ようと思って。「ぬか」は、願望。巻二(一一九)以下用例の少なくないもの。○待つらむを 待っているだろうものをで、「らむ」は、現在の推量。○沖にや住まむ 「沖にや」は、沖は普通の場合では船のあるべき所ではなく、その意でいっているもの。「や」は、疑問の係。「住まむ」は、居ついていることで、陸に着きうるあてのない意で、沖に住みついているのであろうか。○衷附かずして わが家には近づかずして。上の「早も来ぬか」に照応させたもの。
【釈】 吾妹子は、早く帰って来ないか、来よと待っているのであろうものを。我は沖に住みついているのであろうか。わが家には近づかずに。
【評】 この作者は、沖に漂流している時、死ということまでは思わず、いつどうなれるかという目あてのつけられないのを悲しんだのである。それとともに思ったのは、京に自分の帰りを待っている妻で、その待望を遂げさせてやれないのを悲しんだのである。そうした際第一に妻を思うことは人麿などにもあって、特殊のものではなかったのである。後から思っての歌であるが、詠み方が細かくて、その場合の心にはふさわしくなく思わせるものがある。
3646 浦廻《うらみ》より こぎ来《こ》し船《ふね》を 風《かぜ》早《はや》み 沖《おき》つ御浦《みうら》に 宿《やど》りするかも
宇良未欲里 許藝許之布祢乎 風波夜美 於伎都美宇良尓 夜杼里須流可毛
【語釈】 ○浦廻よりこぎ来し船を 「より」は、をの意のもので、(三六四一)に既出。「船を」の「を」は、詠歎で、これまで浦を漕いで来た船であるものを。それまでは航路は浦伝いで、沖のほうには出なかったのである。○風早み 風の早いゆえにで、逆風のためにの意。○沖つ御浦に宿りするかも 「沖つ御浦」は、例のない、解し難い語にみえるが、続きによって、船の宿りをした場所と知られる。それだと題詞の、漂流しつつ夜を明かした海上の称である。そこにはもとより浦などはないのであるが、船の宿る所は浦である関係から、そこを浦と称し、またそこは浦とすると怖ろしい所である意で、尊称の御を冠して「御浦」と称したものと解される。すなわち沖の畏い浦である。「宿りするかも」は、宿りをしていることである、の意。
(336)【釈】 浦を漕いで来た船であるものを。風が早いがゆえに、沖の恐るべき浦に宿りをしていることであるよ。
【評】 海上に漂流して一夜を過ごした時のことを、後より思って、大観し、総括していっているものである。「沖つ御浦」という語は、作者自身もある不安を感じたものと見え、その予備に似た心をもって、「浦廻よりこぎ来し船を」という、その夜の感をいうにはさして必要のないことを取合わせ、それによって支持させようとしたとみえる。こうしたことを添えているのが、すなわち大観総括である。語の興味に引かれて、感のほうをおろそかにしたような歌である。
3647 吾妹子《わぎもこ》が 如何《いか》に思《おも》へか ぬばたまの 一夜《ひとよ》もおちず 夢《いめ》にし見《み》ゆる
和伎毛故我 伊可尓於毛倍可 奴婆多末能 比登欲毛於知受 伊米尓之美由流
【語釈】 ○吾妹子が如何に思へか 妹が自分をどのように思っているからであろうかで、「思へか」は、「思へばか」で、疑問条件法。○ぬばたまの一夜もおちず 「ぬばたまの」は、夜の枕詞。「おちず」は、漏れずに、すなわち夜ごとに。○夢にし見ゆる 「し」は、強意。「見ゆる」は、連体形で、詠歎してのもの。
【釈】 妹は我をどのように思っているからであろうか。ぬばたまの一夜ももれずに夢に見えることであるよ。
【評】 夢は相手がこちらを思っているがゆえに見えるものだという信仰の上に立っての心である。「一夜もおちず」というのは、遭難前後にわたっていっているのであろう。それだと「如何に思へか」の「如何に」は、妹には今度の遭難について、何らかの予感されるもの、すなわち虫が知らせるともいうべきことがあって、しきりに自分のことを案じていたので、それで夢に見えたのだろうということを、婉曲に、わざとぼかした形でいったものと思われる。こうしたことを言い出すのは、今度の遭難を、不意に起こった出来事とは見ず、運命的に定まっていたことと思いなしたい心があったからのことと思われる。災難に逢ったあげくには、これに類したことを思って、我と諦め慰めようとすることは、現在でも往々見ることである。これはそうした感情に、夢の信仰を結びつけ、夢の信仰に重点を置いていっているものである。作意が徹底しかねる歌である。恋の心はまじっていない。
3648 海原《うなはら》の 沖辺《おきべ》にともし 漁《いさ》る火《ひ》は 明《あか》してともせ 大和島《やまとしま》見《み》む
宇奈波良能 於伎敞尓等毛之 伊射流火波 安可之弖登母世 夜麻登思麻見無
(337)【語釈】 ○沖辺にともし漁る火は 「沖辺にともし」は、沖のほうで燈して。「ともし」は、下の漁火で、船上で焚いている火であるが、海上のことで、距離を置いて眺めているので、一点の灯のように見える意。「漁る火」は、漁りをしている火は。「漁る」は、「漁り」の動詞形。○明してともせ 明るくしてともせよで、「ともせ」は、命令形。○大和島見む 「大和島」は、大和国の山々で、「島」は、海上から陸地を呼ぶ称であり、用例のあるものである。
【釈】 大海の沖のほうにともして漁をしている火は、もっと明るくともせよ。そしたら我は故郷の大和島を見よう。
【評】 遭難後、心衰えて、反動的に故郷がたまらず恋しくなっている時に、暗い海上の漁火を見ての感である。「大和島見む」という不自然な、甚しい飛躍をもった語が、遭難事件を背後に置いて見ると、むしろ自然なものに感じられるのは、抒情気分になりきって作っているためである。不自然を自然に感じさせる主力は調べにある。柔らかくはあるが澄んでいるので、一種の強さが添い、人を引き行くものとなっている。
3649 鴨《かも》じもの 浮宿《うきね》をすれば 蜷《みな》の腸《わた》 か黒《ぐろ》き髪《かみ》に 露《つゆ》ぞ置《お》きにける
可母自毛能 宇伎祢乎須礼婆 美奈能和多 可具呂伎可美尓 都由曾於伎尓家類
【語釈】 ○鴨じもの浮宿をすれば 「鴨じもの」は、巻一(五〇)以下しばしば出た。鴨のごとくの意。「浮宿をすれば」は、浪の上に浮かんで寝ていればで、船中に寝る意。漂流の夜である。○蜷の腸か黒き髪に 「蜷の腸」は、巻五(八〇四)以下しばしば出た。蜷《にな》の貝の腸で、食料としたものとみえる。その黒いところから、黒にかかる枕詞。「か黒き」の「か」は、接頭語。○露ぞ置きにける 夜露が宿ったことであるで、「ける」は、詠款の助動詞で、「ぞ」の結。
【釈】 鴨のごとくに浪の上に浮宿をしているので、わが黒髪の上に、夜露が宿ったことであるよ。
【評】 漂流の夜の思い出として詠んだものとみえる。非常なる災厄に遭った際の歌として、こうした物のあることは、一見そぐわないことにみえるが、じつはそうした際の物であるがゆえに肯える物である。この程度のことは、平素も珍しくないことで、むしろありすぎるがゆえに心にも残らないようなことなのである。しかるに死を思わせる危険を脱し得た直後は、自身の生に対する執着の特に強く感じられる時で、そうした時には、些末なこともいまさらのごとく感動しやすくなっているのである。この歌はそうした心の範囲内のものである。実際に即した歌は、ある物はそのためにかえって偽のごとくにもみえるのである。そこに実際というものの深さがあるのである。平凡のごとくにして平凡でない歌である。
(338)3650 ひさかたの 天《あま》照《て》る月《つき》は 見《み》つれども 吾《あ》が思《も》ふ妹《いも》に 逢《あ》はぬころかも
比左可多能 安麻弖流月波 見都礼杼母 安我母布伊毛尓 安波奴許呂可毛
【語釈】 ○ひさかたの天照る月は見つれども 「ひさかたの」は、天の枕詞。空に照る月は見たけれども。暗夜、風浪に漂わされた後、空に照る月を見た時の感。
【釈】 ひさかたの空に照っている月は見たけれども、わが思っている妹に逢わない頃であるよ。
【評】 天上にさやかに照っている月を見ると、漂流させられた夜のことが思われて、その月が甚だ珍しいものに感じられるとともに、その月に対していると都の妹が思われて、久しくも逢わない感をいまさらのようにした心である。その折の実感の直写であることは明らかであるが、しかし他に訴える力の足りないことを思わせられる歌である。表面的にすぎて、思い入る心が足りないからである。
3651 ぬばたまの 夜渡《よわた》る月《つき》は 早《はや》も出《い》でぬかも 海原《うなはら》の 八十島《やそしま》の上《うへ》ゆ 妹《いも》があたり見《み》む【旋頭歌なり】
奴波多麻能 欲和多流月者 波夜毛伊弖奴香文 宇奈波良能 夜蘇之麻能宇倍由 伊毛我安多里見牟 旋頭歌也
【語釈】 ○ぬばたまの夜渡る月は早も出でぬかも 「ぬばたまの」は、夜の枕詞。「夜渡る月」は、夜空を渡ってゆくところの月。「早も出でぬかも」は、早く出てくれぬか、出てくれよで、願望。○海原の八十島の上ゆ 「海原の」は、今漂流している大海の。「八十島の上ゆ」は、多くの島々の上を通してで、島々を越えてのかなたに。○妹があたり見む 妹の家のある辺りを見ようで、それは大和国の京である。○旋頭歌なり 編纂者の注とみえる。
【釈】 夜空を渡ってゆくところの月は、早く出てくれぬか、出てくれよ。大海の多くの島々の上をとおして、大和国の妹の家辺りを見よう。
【評】 漂流の夜の歌で、作因は前々よりの歌と同じで、痛切に妹が思われての心である。この歌は月の出る前のもので、妹のほうを望んでも、暗くて見えないところから、月が出たら見えようと思って、焦る心からのものである。心としては迫ったも(339)のであるが、歌としては余裕がありすぎるのは、旋頭歌という形式が、暢びやかな、謡い物風のもので、迫った気分をあらわすには不適当なところがあることも、大きく関係していよう。
筑紫《つくし》の館《たち》に到り遙に本郷を望み、悽《いた》み愴《なげ》きて作れる歌四首
【題意】 「筑紫の館」は、外客や官人の旅舎として公設した建物の称である。所在については論があって定まらない。『新考』は、筑前国糟屋郡|志珂《しか》島であったといい、『九州万葉地理考』所引中山博士の説では、旧福岡城内にあったとしている。そこからは、天智天皇時代の建物の瓦であろうと推測される古瓦が発見されている。「本郷」は、大和の奈良京。
3652 志珂《しか》の海人《あま》の 一日《ひとひ》も闕《お》ちず 焼《や》く塩《しほ》の 辛《から》き恋《こひ》をも 吾《あれ》はするかも
之賀能安麻能 一日毛於知受 也久之保能 可良伎孤悲乎母 安礼波須流香母
【語釈】 ○志珂の海人の一日も闕ちず焼く壇の 「志珂」は、福岡湾内(粕屋郡志賀町)の志賀島で、しばしば出た。「海人」は、そこの海人は数の多いところから聞こえていた。その海人が一日も闕かさず藻草を焼いてつくる塩ので、その味の辛い意で、以上「辛き」にかかる序詞。眼前を捉えてのものであるが、用例のあるもの。○辛き恋をも 「辛き恋」は、苦しい恋で、京の妻に対してのもの。
【釈】 志珂の海人の一日も欠かさずに焼いている塩のように、辛い恋を我はしていることであるよ。
【評】 旅愁で、序詞で生かされているものである。用例のある序詞であるが、眼前を捉えてのものであるため、新味が感じら(340)れたことであったろう。難航の後であり、時日も予定より遅れていたのだから、旅愁も深まらざるを得なかったろうと思われる。
3653 志珂《しか》の浦《うら》に 漁《いさり》する海人《あま》 家人《いへびと》の 待《ま》ち恋《こ》ふらむに 明《あか》し釣《つ》る魚《うを》
思可能宇良尓 伊射里須流安麻 伊敞妣等能 麻知古布良牟尓 安可思都流宇乎
【語釈】 ○志河の浦に漁する海人 「海人」は、ここは男。呼びかけの形。○家人の待ち恋ふらむに 「家人」は、家族の意であるが、妹を婉曲にいったもの。「待ち恋ふらむに」は、帰りを待ち恋うているだろうのに。○明し釣る魚 「明し」は、夜を明かしてで、夜を通して。「魚」の下に詠歎が含まれている。
【釈】 志珂の浦に漁をしている海人よ。その家の者が帰りを待ち恋うているだろうに、夜通しを釣っている魚よ。
【評】 眼前の光景を捉えて詠んでいる歌である。「待ち恋ふらむに」と現在推量でいい、「明し釣る魚」と終夜の業をいっているので、作者も終夜眺めとおしていたことを示している。この言い方は、作者も終夜京の妻を思い、自身の侘びしさにもまさって、妻をあわれんでいたことを暗示しているものである。作者としてはどの程度まで意識していたかはわからぬが、おのずからに現われて来る余情である。結句、「明し釣る魚」と、おおらかに、また新味ある形をもってしているのも注意される。目立たない歌ではあるが、よい作である。
3654 可之布江《かしふえ》に 鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る 志珂《しか》の浦《うら》に 沖《おき》つ白浪《しらなみ》 立《た》ちし来《く》らしも
可之布江尓 多豆奈吉和多流 之可能宇良尓 於枳都之良奈美 多知之久良思母
【語釈】 ○可之布江に 「可之布」は、香椎《かしひ》の地方音かという。それだと福岡湾内の一部で、今の福岡市香椎の入江。「江」は、そこの入江。○立ちし来らしも 「立ちし」の「し」は、強意の助詞。「らし」は、上の「鶴」を証としての推量。「も」は、詠歎。
【釈】 可之布江に向かって鶴が鳴き渡って行く。こちらの志珂の浦には、沖の白浪が立って来るらしいよ。
【評】 類想の多い歌である。海上を大きな鶴が鳴きながら遠く飛んでゆく光景は、見るごとに心を引かれるものであったろう。地名を二つまで用いて、印象を明らかにしている。
(341) 一に云ふ、満《み》ちし来《き》ぬらし
一云、美知之伎奴良思
【解】 第五句の一案である。作者のしたものであろう。「沖つ白浪」に対してのことであるから、「満ち」よりも、「本文」の「立ち」のほうが適当である。
3655 今《いま》よりは 秋《あき》づきぬらし あしひきの 山松《やままつ》かげに 茅蜩《ひぐらし》鳴《な》きぬ
伊麻欲里波 安伎豆吉奴良之 安思比寄能 夜麻末都可氣尓 日具良之奈伎奴
【語釈】 ○今よりは秋づきぬらし 「今よりは」の「は」は、強意の助詞。今からはまさしくというほどの意。「秋づき」は、「つき」は、名詞に接し、そのものの性質をあらわす語。秋のけはいになるで、「ぬらし」は、「ぬ」は、完了で強意、「らし」は、茅蜩を証としての強い推量。○あしひきの山松かげに 「あしひきの」は、山の枕詞。「山松かげに」は、山にある松の陰で。
【釈】 今からはまさしく秋のけはいとなるらしい。山の松の陰で茅蜩が鳴いた。
【評】 季節の推移をしみじみといったものである。いついかなる事故が突発するかも測り難いこうした旅にあっては、この推移感は、興味としてのものではなく、複雑した気分の伴っていたものであろう。この歌の静かな、しみじみとした調べは、興味以上の重いものをあらわしているからである。
七夕《なぬかのよひ》に天湊《あまのがは》を仰ぎ観、各|所思《おもひ》を陳べて作れる歌三首
3656 秋萩《あきはぎ》に にほへる吾《わ》が裳《も》 ぬれぬとも 君《きみ》が御船《みふね》の 綱《つな》し取《と》りてば
安伎波疑尓 々保敞流和我母 奴礼奴等母 伎美我美布祢能 都奈之等理弖婆
【語釈】 ○秋萩ににほへる吾が裳 「秋萩」は、萩の花という意で慣用している語。「にほへる吾が裳」は、花を摺った色の、美しく映発しているわが裳で、これは天上の織女の装いを想像したもの。○ぬれぬとも たとえ濡れようともで、濡れれば、色が褪せるが、たとえそうなろうとも。(342)○君が御船の綱し取りてば 「君が御船」は、「君」は、夫の彦星。「御船」は、織女のもとに通おうと、天の河を越す船。「綱」は、その船の舳綱で、引寄せ、また岸へ繋ぎなどするためのもの。「し」は、強意。「取りてば」は、手に取って引いたならばで、うれしいだろうの意を含めて、言いさしにしたもの。
【解】 萩の花で摺って、色が美しく映発しているわが裳が、河水に濡れて褪せようとも、天の河を渡って来る背の君の御船の舳綱を取って引いたならば。
【評】 七夕の夜、天上を想像して、織女の心になって詠んだもので、これは先例の多く、型のごとくなっていることである。その想像も、地上の状態をそのままに延長させたもので、これまた先例のあるものである。想像ではあるが、落ちついた、心細かい、温藉な歌となっているのは、作者の年齢、身分などの反映であろう。
右の一首は、大使《おほきつかひ》。
右一首、大使。
【解】 「大使」は、阿倍朝臣継麿。天平七年従五位下。同八年遣新羅大使となり、途中対馬で没したことは概説で触れた。
3657 年《とし》にありて 一夜《ひとよ》妹《いも》に逢《あ》ふ 牽牛《ひこぼし》も 我《われ》にまさりて 思《おも》ふらめやも
等之尓安里弖 比等欲伊母尓安布 比故保思母 和礼尓麻佐里弖 於毛布良米也母
【語釈】 ○年にありて一夜妹に逢ふ 「年にありて」は、一年のうちにあって。この語は、下の続きのように、一年に一度だけというような場合にのみ用いられている。「一夜妹に逢ふ」は、七月七日の一夜だけを妹に逢うところの。○我にまさりて思ふらめやも 我以上に妹を思おうか、思いはしないことよで、「や」は、反語。
【釈】 一年のうちにあって、ただ一夜だけ妹に逢うところの彦星でも、我以上に妹を思おうか、思いはしないことよ。
【評】 おりからの彦星を比較に取って、自身の旅愁を披瀝したものである。心が旅愁のみで充たされていて、それ以外の何物もないような歌である。作者は年若い人であったろう。
3658 夕月夜《ゆふづくよ》 影《かげ》立《た》ち寄《よ》り合《あ》ひ 天《あま》の河《がは》 漕《こ》ぐ舟人《ふなびと》を 見《み》るが羨《とも》しさ
(343) 由布豆久欲 可氣多知与里安比 安麻能我波 許具布奈妣等乎 見流我等母之佐
【語釈】 ○夕月夜影立ち寄り合ひ 「夕月夜」は、夕月の意で、慣用されている語。七日の夜は、夕月の現われる時で、眼前のもの。「影立ち」は、光が現われて。「寄り合ひ」は、寄り添って来てで、以上は言いかえると、夕月の光が現われて、近くさして来る所での意。○天の河漕ぐ舟人を 天の河を漕ぎ渡る舟人、すなわち彦星を。○見るが羨しさ 見ることの羨しさよ。
【釈】 夕月の光が現われて、近くさし来る所で、天の河を漕ぎ渡る舟人の彦星を見ることの羨しさよ。
【評】 上の歌と同じく、旅愁を彦星に寄せて、その妹に逢えるのを羨む心である。この歌は、前の歌にくらべると甚しく余裕をもっていて、細かい叙述をしつつその心をあらわしている。「夕月夜影立ち寄り合ひ」は、宵早く、夕月が光を発して、その光が彦星にも及ぶ情景であるが、「寄り合ひ」は、それが共に天上のもので、相接近していることをも言っているものである。言い方が細かすぎるともいえるが、とにかく若々しく新味のあるものである。全体に調べが張っているので、この初二句を不調和なものとはしていない。以上三首、宴席のものであったろう。
海辺に月を望みて作れる歌九首
【題意】 「海辺」は、上の筑紫の館のある地と取れる。「月を望みて」とあるが、九首の中、月そのものを対象とした歌は一首もなく、月光の下での感懐という範囲のものばかりである。宴を開いて、宴歌として詠んだものかと思われる。
3659 秋風《あきかぜ》は 日《ひ》にけに吹《ふ》きぬ 吾妹子《わぎもこ》は 何時《いつ》とか我《われ》を 斎《いは》ひ待《ま》つらむ
安伎可是波 比尓家尓布伎奴 和伎毛故波 伊都登加和礼乎 伊波比麻都良牟
【語釈】 ○秋風は日にけに吹きぬ 秋風は日ごとに吹いた。これは秋を帰朝の時と期して、妻に約してあることを思っての語である。○何時とか我を斎ひ待つらむ 「何時とか」は、いつ帰るのかと思ってで、「か」は、疑問の係。「斎ひて」は、斎戒して、神に祈って。
【釈】 秋風は日ごとに吹いた。わが妻は、いつ帰るのかと思って、斎戒して神に祈って待っているであろう。
【評】 若い人の持つ明るく単純な心が流れていて、それが快く感じられるだけの歌である。「らむ」といっているので、現にそれをしつついるのを思いやっての心である。
(344) 大使《おほきつかひ》の第二男《おとご》。
大使之第二男。
【解】 阿倍継麿の次男である。名は伝わらない。
3660 神《かむ》さぶる 荒津《あらつ》の崎《さき》に 寄《よ》する浪《なみ》 間《ま》なくや妹《いも》に 恋《こ》ひ渡《わた》りなむ
可牟佐夫流 安良都能左伎尓 与須流奈美 麻奈久也伊毛尓 故非和多里奈牟
【語釈】 ○神さぶる荒津の崎に 「神さぶる」は、そのものの神性を発揮している意で、神々しい。荒津の崎の形容。「荒津の崎」は、福岡湾に出ている岬で、今は福岡市の西公園北端の岬である。そこに神を祀ってあるところから、崎そのものを神と見ていっているのである。○寄する浪 浪の絶え間ない意で、その意の「間」と続け、以上その序詞。○間なくや妹に恋ひ渡りなむ 絶え間なく妹に恋い続けることであろうかで、「や」は、疑問の係。
【釈】 神々しい荒津の崎に寄せている浪のように、絶え間なく我も、妹に恋いつづけるのであろうか。
【評】 月下の宴であるが、宴歌は会衆に共通の興味のあるものとねらうところから、大体相聞の歌となるのである。この場合はそれと同じ心から旅愁となったのである。この序詞の懸け方は慣用となっているものであるが、眼前の景としていっているので、陳腐には感じられなかったろう。
右の一首、土師稲足《はじのいなたり》。
(345) 右一首、土師稻足。
【解】 伝未詳。
3661) 風《かぜ》の共《むた》 寄《よ》せ来《く》る浪《なみ》に 漁《いさり》する 海人娘子《あまをとめ》らが 裳《も》の裾《すそ》ぬれぬ
可是能牟多 与世久流奈美尓 伊射里須流 安麻乎等女良我 毛能須素奴礼奴
【語釈】 ○風の共寄せ来る浪に 「風の共」は、「共」は、共にの意の古語で、既出。風とともに寄せて来る浪の中に。○漁する海人娘子らが 「漁する」は、すなどりの業をしている。「娘子ら」の「ら」は、複数でない場合でも添えていうことがあり、慣用となっていた。反対に、複数の場合でも添えないのも同様である。このことは左注で知られる。○裳の裾ぬれぬ 「ぬれぬ」は、浪で濡れたで、当時の人は一般に、そうした状態に感覚的な美を感じたと見え、例の多いものである。
【釈】 風と共に立つ浪の中に、漁りをしている海人の娘子の裳の裾が浪で濡れた。
【評】 これは海岸では常に見られる些末な光景で、その夜の矚目ではなかったろう。「裳の裾ぬれぬ」ということを、会衆の興を引きうることとして、宴歌としたものとみえる。
一に云ふ、海人《あま》の娘子《をとめ》が 裳《も》の裾《すそ》ぬれぬ
一云、安麻乃乎等賣我 毛能須蘇奴礼濃
【解】 第四句の別案で、複数をあらわす「ら」を除こうとしたものとみえる。語感として、単数としたほうが、官能美は生かし得よう。もっともな別案である。
3662 天《あま》の原《はら》 ふり放《さ》け見《み》れば 夜《よ》ぞふけにける よしゑやし 独《ひとり》寝《ぬ》る夜《よ》は 明《あ》けば明《あ》けぬとも
安麻能波良 布里佐氣見礼婆 欲曾布氣尓家流 与之恵也之 比等里奴流欲波 安氣婆安氣奴等母
【語釈】 ○よしゑやし 「よし」の意で、それに「ゑ」「やし」など感動の助詞を添えて強めたもの。既出。○独寝る夜は明けば明けぬとも 独寝(346)をする夜は、明けるならば明けてしまおうともで、下に、かまわぬというほどの意を含めたもの。
【釈】 大空をふり仰いで見ると、夜が更けたことであるよ。よしや、独寝をする夜は明けるならば明けてしまおうとも。
【評】 この歌は明らかに宴歌で、夜は更けたが酒宴の興は尽きないので、もっと続けたい心からいったものである。旋頭歌の形としたのは、謡い上げるには、その形のほうが暢びやかで、その場にふさわしく感じたからのことであろう。
右一首、旋頭歌なり。
右一首、旋頭歌也。
【解】 編集者の加えた注である。
3663 わたつみの 沖《おき》つ繩海苔《なはのり》 来《く》る時《とき》と 妹《いも》が待《ま》つらむ 月《つき》は経《へ》につつ
和多都美能 於伎都奈波能里 久流等伎登 伊毛我麻都良牟 月者倍尓都追
【語釈】 ○わたつみの沖つ繩海苔 「沖つ繩海苔」は、沖に生える繩海苔で、繩海苔という名は今は伝わらず、したがって不明である。繩のごとく細長い形をした海苔だろうといわれている。沖の深い所で、岩などに生える物とみえる。手繰《たぐ》る意で、「くる」と続け、初二句その序詞。用例のある懸け方であるが、眼前を捉えた形のもので適切である。○来る時と妹が待つらむ 我の帰る時として、妹は京に待っているだろう。○月は経につつ 月は幾たびも経過しつつで、経過する意を、「に」の完了で、強めたもの。
【釈】 大海の沖に生えている繩海苔を手繰るに因みある、我の来る時と思って妹は今も待っているであろう。月は幾たびも経過しつつ。
【評】 宴歌として、共感を得られる旅愁を詠んだもので、実情そのものを、情熱的に、一気に、何の斟酌なく無遠慮に詠み放したような歌である。序詞は、直接ではないが眼前の海から捉えたものであり、また月も、時としてのそれではあるが、珍しくも触れていっていて、要を得ているものである。これを単に一首の歌とすると、相応によい物である。しかし酒興を添えるための宴歌とすると、いわゆる薬の利きすぎたものであって、興を添えるというよりも、むしろ考え込ませ、酔を醒まさせる範囲の歌となりはしないか。こうしたことを問題にするのは、この時代の歌は、前代よりの継承として、まず実用性の歌としてその場合に適し、次に文芸性の歌として、それにもかなう物でなくてはならないという両面をもっていたからである。これ(347)は時代の要求で、作者はいずれもそれを休して作っていたので、その意味でのことである。
3664 志珂《しか》の浦《うら》に 漁《いさり》する海人《あま》 明《あ》け来《く》れば 浦廻《うらみ》漕《こ》ぐらし 楫《かぢ》の音《おと》聞《きこ》ゆ
之可能宇良尓 伊射里須流安麻 安氣久礼婆 宇良未許具良之 可治能於等伎許由
【語釈】 ○志珂の浦に漁する海人 「志珂の浦」は、上の(三六五三)に出た。「浦」は、そこの海辺で、眼前のものである。○明け来れば浦廻漕ぐらし 「明け来れば」は、夜が明けて来たのでで、これも眼前の状態である。当時の暁は鶏鳴で、午前二時であるから、今よりは早い。宴の続いていた時と取れる。「浦廻漕ぐらし」は、浦づたいを漕いでいるらしいで、漁を終えてその家へ帰る途と取れる。「らし」は、証を挙げてのもので、証は下の「楫の音」である。○楫の音聞ゆ 今まで聞こえなかった艪の音が聞こえて来るので、漁船の近づいて来たことを示したもの。
【釈】 志珂の浦に漁をする海人は、夜が白んで来たので、その家に帰ると、浦伝いに漕いでいるらしい。艪の音が近く聞こえて来る。
【評】 「明け来れば」というのは、宴が続いていた時で、眼前の光景を捉えて、宴席の興を添えようとして詠んだものと取れる。作者も、一座の者も、「海人」が夜釣の業を終えて、妹の待っている家に帰るということは、感に触れるもののあったことかと思われる。作意は遂げ得ている歌である。
3665 妹《いも》を思《おも》ひ 寝《い》の宿《》らえぬに 暁《あかとき》の 朝霧隠《あさぎりごも》り 雁《かり》がねぞ鳴《な》く
伊母乎於毛比 伊能祢良延奴尓 安可等吉能 安左宜理其間理 可里我祢曾奈久
【語釈】 ○妹を思ひ寝の宿らえぬに 「寝」は、眠るの名詞形。「宿らえぬに」は眠られないのに。○暁の朝霧隠り 「朝霧隠り」は、熟語で、一語としてのもの。「隠り」は、こもって。○雁がねぞ鳴く 「雁がね」は、雁《かり》の意のもの。その音の悲痛な響を持っているとしていっているもの。「鳴く」は、連体形、「ぞ」の結。詠歎してのもの。
【釈】 京の妹を思って、よくは眠られずにいるのに、しらじら明けの朝霧にこもって雁が鳴くことである。
【評】 この歌は、その夜の光景には関係のない取材のものである。しかし宴歌としては、会衆のすべてに響きうる性質のものである。その折の季節にもかなっていて、調べもとおっていて、拙くはない歌である。類歌は多い。
(348)3666 夕《ゆふ》されば 秋風《あきかぜ》寒《さむ》し 吾妹子《わぎもこ》が 解洗衣《ときあらひごろも》 行《ゆ》きて早《はや》著《き》む
由布佐礼婆 安伎可是左牟思 和伎母故我 等伎安良比其呂母 由伎弖波也伎牟
【語釈】 ○夕されば秋風寒し 夕べとなると秋風が寒いで、眼前の状態。○吾妹子が解洗衣 解いて洗った衣で、「解き」は、「洗ひ」を強めるために添えたもの。熟語。○行きて早著む 家に帰って行って、早く着よう。
【釈】 夕べとなると秋風が寒い。妹が解いて洗つた、さばさばした衣を、家に帰って行って、早く着よう。
【評】 旅愁ではあるが、一脈の明るさを含んだ、しみじみした歌である。「解洗衣」を恋うるのは、多分身分低い人で、また、秋には帰朝する心をもっての旅であったから、衣の着がえなども多くはなかったことに関係させての実感であったろう。それも「秋風寒し」の関係においていっているので、きわめて自然なものになっている。よい歌である。
3667 わが旅《たび》は 久《ひさ》しくあらし この吾《あ》が著《け》る 妹《いも》が衣《ころも》の 垢《あか》づく見《み》れば
和我多妣波 比左思久安良思 許能安我家流 伊毛我許呂母能 阿可都久見礼婆
【語釈】 ○久しくあらし 「あらし」は、「あるらし」の約音。強い推量。○この吾が著る妹が衣の 「この」は、感を強めるために特に添えた指示。「著《け》る」は、「きる」の古語。「妹が衣」は、妹の衣で、形見として贈られた下着。○垢づく見れば 垢じみたのを見ると。
【釈】 わが旅は久しくなったらしい。このわれが着ている、妹の衣が垢じみたのを見ると。
【評】 同じく旅愁であるが、前の歌と同じく身分の低い人で、それを心に置いて作ったものである。「わが旅は久しくあらし」は、明らかに久しいと嘆くのは、身分柄はばかるべきだと思って、わざと推量の形にしたものである。その証として、妻が形見として着させた、その下着の垢づいて来たことをいっているのは、それとなくいう旅愁の、逆に、きわめて効果的に現われているものである。上の歌と対しうる、よい歌である。
筑前国志麻郡の韓亭《からとまり》に到りて船|泊《は》てて三日を経たり。時に夜月の光皎皎として流照す。奄《たちま》ち此の華《ひかり》に対して旅情|悽噎《せいいつ》、各心緒を陳べて聊以ちて裁《つく》れる歌六首
(349)【題意】 「志麻郡」は、今は、恰土《いと》郡と合して、糸島郡となっている。「韓亭」は、福岡湾の西部糸島郡北崎村(現福岡市に入る)の東北唐泊で、能去《のこ》の島と相対している地である。「とまり」は、碇泊する所の称で、宿舎の設けがあったのである。「からとまり」は、海外と交通する船の泊まる意の名であろう。「華」は、月光。「悽噎」は、噎は咽ぶで、悲しみ咽ぶ意。「裁」は、作と同じ。
3668 大君《おほきみ》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》と 思《おも》へれど け長《なが》くしあれば 恋《こ》ひにけるかも
於保伎美能 等保能美可度登 於毛敞礼杼 氣奈我久之安礼婆 古非尓家流可母
【語釈】 ○大君の遠の朝廷と 「遠の朝廷」は、京より遠方にあるところの政庁で、大宰府を初め諸国の国庁の総称で、ここは韓亭をそう呼んだのである。勅を承っての旅で、公設の宿舎にいるので、その宿舎を重んずる心から、このように呼んだのである。○思へれど 思いあれどで、思っているけれども。○け長くしあれば恋ひにけるかも 「け長くしあれば」は、時が久しくなるのでで、「け」は、時。「し」は、強意の助詞。「恋ひにけるかも」は、京の家を恋しく思ったことであった。
【釈】 ここは、天皇の遠方の政庁であると思っているけれども、旅にある時が久しくなるので、京の家を恋しく思ったことであった。
【評】 地方の侘びしい土地にいても、そこを「大君の遠の朝廷」と思って、慰めているということは、この当時の身分ある人の常識としたことである。この作者もそうは思っているが、その時が久しくなると家恋しい心を起こしたことであったと、実情を漏らしているのである。しかしその言い方は、おおらかで、ひかえ目で、きわめて落ちついた態度をもって言っているので、肯わざるを得ないものとなっている。品位ある歌である。
(350) 右の一首は、大使。
右一首、大使。
3669 旅《たび》にあれど 夜《よる》は火《ひ》ともし 居《を》る我《われ》を 闇《やみ》にや妹《いも》が 恋《こ》ひつつあるらむ
多妣尓安礼杼 欲流波火等毛之 乎流和礼乎 也未尓也伊毛我 古非都追安流良牟
【語釈】 ○旅にあれど夜は火ともし居る我を 「火ともし」は、照明として油火《あぶらび》をともしての意。燈油は当時は貴いもので、相応な身分のある人でないと用いられなかったのである。そのことは後の平安朝の盛期の物語、随筆などでも察しられる。ここはその意味で、今大判官の位地にいる作者が、その部屋にともされている油火《あぶらび》に目をつけて、感を発しているのである。○闇にや妹が恋ひつつあるらむ 「闇に」は、夫の留守中の妻が、燈油を惜しんでともさずにいる意でいっているもの。「や」は、疑問の係。「あるらむ」は、いるであろうで、現在としての推量。
【釈】 旅にいるけれども、夜はこのように油火をともしている我を、暗い中で妹は、我を恋いつづけていることであろうか。
【評】 この作者は、自身の旅情には触れず、旅にある自分を恋うている妹のほうを隣れんでいっているので、これは当時の人に多い態度である。その隣れみ方も、一般的なものでないのみならず、夜自分の前にともされている油火に目をつけ、我はこのように明るくしているのに、多分妹はくら闇の中に我を恋いつづけているのだろうと、きわめて実際に即した隣れみ方をしているのである。このように些末な刺激物で心を動かすのは、平常いかに深く思っているかということを暗示することで、それはまた、蔽われず他にも伝わるものである。些末な事象で、素朴な詠み方をしているが、感を引く歌である。
右の一首は、大判官。
右一首、大判官。
【解】 壬生宇太麿《みぶのうだまろ》である。(三六一二)に既出。
3670 韓亭《からとまり》 能許《のこ》の浦浪《うらなみ》 立《た》たぬ日《ひ》は あれども家《いへ》に 恋《こ》ひぬ日《ひ》はなし
可良等麻里 能許乃宇良奈美 多々奴日者 安礼杼母伊敞尓 古非奴日者奈之
(351)【語釈】 ○韓亭能許の浦浪 「韓亭」は、題詞にあるもの。「能許」は、能許島で、福岡湾内にある島、残島村(今福岡市に属す)という。韓亭と相対している。「浦浪」は、浦に立つ浪。韓亭の能許の浦浪ので、韓亭から能許の方を見渡し、能許を韓亭に属しているようにいったもの。
【釈】 韓亭の能許の浦に立つ浪の、立たない日はあるけれども、我は京の家を恋いぬ日とてはない。
【評】 その土地に絶えず繰り返されている自然現象を捉えて、それを自身の恋の繁さに対比させる歌は、各地に行なわれていたもので、集中にも少なからずある。謡い物としては最も作りやすく、最も効果的なものだからである。この歌はその型のもので、あるいはこの地にもそうした歌があって、それにならった物かもしれぬ。調べが低く、纏わりつかうとするごとき趣を持っているところ、まさに謡い物的だからである。
3671 ぬばたまの 夜渡《よわた》る月《つき》に あらませば 家《いへ》なる妹《いも》に 逢《あ》ひて来《こ》ましを
奴婆多麻乃 欲和多流月尓 安良麻世婆 伊敞奈流伊毛尓 安比弖許麻之乎
【語釈】 ○あらませば 「ませ」は、仮設の助動詞で「まし」の未然形。
【釈】 わが身が、ぬばたまの夜空を渡る月であったとしたら、家にいる妹に逢って来ようものを。
【評】 交通不便の時代とて、わが身が鳥であったとしたら、雲であったとしたらという類の仮想の歌は、型のごとくなっていた。これもその範囲のものである。「月にあらませば」は多少とも新味がある。眼前の実際を捉えたものだからである。
(352)3672 ひさかたの 月《つき》は照《て》りたり いとまなく 海人《あま》の漁火《いさり》は ともし合《あ》へり見《み》ゆ
比左可多能 月者弖利多里 伊刀麻奈久 安麻能伊射里波 等毛之安敞里見由
【語釈】 ○ひさかたの 空の枕詞を、空の意に転じさせたもの。○いとまなく 間断なく、絶えず。○海人の漁火はともし合へり見ゆ 「漁火」は、いさり火の略。「ともし合へり」は、多くの海人船が皆ともしているで、「合へり」は、終止形。
【釈】 空の月は照っている。絶え間なく海人船の漁火は、どの船もともし合っているのが見える。
【評】 夜の海上を眺めやっての感である。秋の月が明るく照らしている海上に、夜釣をする海人船の漁火が点々と赤くちらばっている光景に感を起こしたのであるが、純客観的に描くことによって、その感を髣髴させようとした歌である。説明し難い感だからである。意図を遂げ得ている歌である。
3673 風《かぜ》吹《ふ》けば 沖《おき》つ白浪《しらなみ》 恐《かしこ》みと 能許《のこ》の亭《とまり》に 数多夜《あまたよ》ぞ宿《ぬ》る
可是布氣婆 於吉都思良奈美 可之故美等 能許能等麻里尓 安麻多欲曾奴流
【語釈】 ○風吹けば沖つ白浪恐みと 風が吹くので、沖の白浪が恐ろしいがゆえにとて。○能許の亭に数多夜ぞ宿る 「能許の亭」は、所としては韓亭であるが、前面に能許島がある関係から、このように言いかえたのである。
【釈】 風が吹くので、沖の白浪が恐ろしいからとて、能許のとまりに幾夜も宿っていることだ。
【評】 福岡湾を出ると、いよいよ外洋に向かうことになるので、天候を確かめなければ出られず、したがって幾夜も碇泊していたのである。眼前の月夜の海には触れず、一意航路を思っていたのである。韓亭を能許の亭と言いかえているのも、心理の自然があるといえる。
引津《ひきつ》の亭《とまり》に船|泊《は》てて作れる歌七首
【題意】 「引津の亭」は、糸島半島の西部にある、今の糸島郡志麻村の海岸船越から岐志浦付近かとされている。半島を回航して、(353)そこまで前進したのである。
3674 草枕《くさまくら》 旅《たび》を苦《くる》しみ 恋《こ》ひ居《を》れば 可也《かや》の山辺《やまべ》に さを鹿《しか》鳴《な》くも
久左麻久良 多婢乎久流之美 故非乎礼婆 可也能山邊尓 草乎思香奈久毛
【語釈】 ○草枕旅を苦しみ 「草枕」は、旅の枕詞。「苦しみ」は、苦しくして。○恋ひ居れば 京の家を恋うておれば。○可也の山辺に 「可也の山」は、引津の亭の東方にある小富士と呼ばれている山。
【釈】 草枕旅が苦しくて、京の家を恋うていると、可也の山の辺りで、牡鹿が妻恋いをして鳴くことよ。
【評】 秋の旅愁がしみじみとあらわされている。「さを鹿鳴くも」と平叙して、それにつけては何事もいっていないのであるが、自身の心を代弁しているのだという心は十分に通じ、それが余情となっているのである。人と自然が一体となっている気分が背後にあるからである。この気分は時代とともに次第に濃度を増して来たものである。
3675 沖《おき》つ浪《なみ》 高《たか》く立《た》つ日《ひ》に 遇《あ》へりきと 都《みやこ》の人《ひと》は 聞《き》きてけむかも
於吉都奈美 多可久多都日尓 安敞利伎等 美夜古能比等波 伎吉弖家牟可母
【語釈】 ○沖つ浪高く立つ日に 周防国佐婆の海上の出来事を指している。○遇へりきと 「き」と、過去の助動詞を添えて、その事に客観性を(354)持たせている。○都の人は聞きてけむかも 「都の人」は、その家人を主にしたもの。「聞きてけむかも」の「て」は、完了の助動詞で、強調させているもの。「かも」は、疑問。
【釈】 沖の浪が高く立つ日に遭遇したと、京の人は聞き知つたであろうか。
【評】 甚しい困難に遭遇すると、それを親しい人に告げて同情を得たいと思うのは、人間共通の人情である。この歌はその心のものである。作者は大判官で、年齢身分などの関係から、さすがに昂奮せず、落ちついた余裕ある態度でいっているのである。
右の二首は、大判官。
右二首、大判官。
3676 天飛《あまと》ぶや 雁《かり》を使《つかひ》に 得《え》てしかも 奈良《なら》の都《みやこ》に 言《こと》告《つ》げやらむ
安麻等夫也 可里乎都可比尓 衣弖之可母 奈良能弥夜古尓 許登都等夜良武
【語釈】 ○天飛ぶや雁を使に 「天飛ぶや」は、天を飛ぶで、「や」は、感動の助詞。ここは雁の枕詞。「雁を使に」は、雁を使として。中国の蘇武の故事によっての語であるが、鳥を使としたいということは古くからある心でもある。○得てしかも 「てしか」は、願望。欲しいものだなあ、それだとの意。○奈良の都に言告げやらむ 「奈良の都」は、そこにいる妻という意を婉曲にいったもの。「言告げ」は、消息を告げる意。
【釈】 天を飛ぶ雁を使としてほしいものだなあ。それだと奈良の都に、消息を告げてやろう。
【評】 雁はその季節の物ではあるが、心は、通信の困難な上代には、類想の多い一般的なものである。
3677 秋《あき》の野《の》を にほはす萩《はぎ》は 咲《さ》けれども 見《み》るしるしなし 旅《たび》にしあれば
秋野乎 尓保波須波疑波 佐家礼杼母 見流之留思奈之 多婢尓師安礼婆
【語釈】 ○にほはす萩は咲けれども 色美しくさせる萩は咲いているけれども。○旅にしあれば 旅にいるのでで、「し」は、強意の助詞。これは妹が共に居ないことをいっているのである。
(355)【釈】 秋の野を色美しくさせる萩は咲いているけれども、見る甲斐もない。旅にいるので。
【評】 旅愁をいおうとしての歌であるが、この当時の人の自然に対する心の知られるものである。黄葉と並んで秋の美観を代表する萩であるが、妹とともに見るのでなければ楽しくないというのである。すなわち人事がきわめて大きく、自然はそれには較ぶべくもない小さいものだとする心である。これはこの作者だけの心ではなく、時代を通じてのもので、この歌はそれをあからさまにいったものと思われる。
3678 妹《いも》を思《おも》ひ 寝《い》の宿《ね》らえぬに 秋《あき》の野《の》に さを鹿《しか》鳴《な》きつ 妻《つま》おもひかねて
伊毛乎於毛比 伊能祢良延奴尓 安伎乃野尓 草乎思香奈伎都 追麻於毛比可祢弖
【語釈】 ○さを鹿鳴きつ 「つ」は、完了の助動詞で、鳴いた。○妻おもひかねて その妻を恋うるに堪え得ずして。
【釈】 妹を恋うて、寝ても眠られずにいるのに、秋の野で牡鹿が鳴いた。彼も妻を恋うるに堪え得ずして。
【評】 上の(三六六五)と類想の歌で、異なる点は、「妻おもひかねて」と、さお鹿の声に説明を加えたことである。作者としてはそこに重点を置いていっているのであるが、歌としては、そのためにかえって味わいを狭くしているのである。
3679 大船《おほふね》に 真楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 時《とき》待《ま》つと 我《われ》は思《おも》へど 月《つき》ぞ経《へ》にける
於保夫祢尓 眞可治之自奴伐 等吉麻都等 和礼波於毛倍杼 月曾倍尓家流
【語釈】 ○時待つと 「時」は、船出の時で、風波のしずまる時。○月ぞ経にける 月が越えた意で、九月になったのである。「ける」は、「ぞ」の結。詠歎してのもの。
【釈】 大船に艪楫を繁く取付けて、船出の時を待っているのだと我は思っているが、しかし月の過ぎて行ったことである。
【評】 風波が久しくおさまらず、船出ができずにいるもどかしさを嘆いた歌である。事情には触れず、一に自身の気分としていっているのは、もどかしさからである。一行の中には、こうした心をもった人もいたのである。
(356)3680 夜《よ》を長《なが》み 寝《い》の宿《ね》らえぬに あしひきの 山彦《やまびこ》響《とよ》め さを鹿《しか》鳴《な》くも
欲乎奈我美 伊能年良延奴尓 宏之比奇能 山妣故等余米 佐乎思賀奈君母
【語釈】 ○夜を長み 夜の長いゆえに。○山彦響め 山彦を響かしめてで、山彦を起こさせての意。牡鹿の鳴き声の高いことを具象的にいったもの。
【釈】 秋の夜が長いので、寝ても眠られないのに、山彦を起こさせて牡鹿が鳴くことよ。
【評】 これも上の歌と同じく、旅愁には触れないものである。夜、よく眠れないのを、秋の夜の長いゆえだとしてそれを迷惑に感じているのに、さらに甚だ高い声を立てて牡鹿が鳴いて、眠りを妨げるとて、その迷惑のほどをいっているのである。さすがに詠み方は露骨ではないが、心としてはそれである。一行中にはこうした人もいたのである。
肥前国|松浦《まつら》郡|狛島《こましま》の亭《とまり》に船|泊《は》てし夜、遙に海の浪を望みて、各旅の心を慟《かなし》みて作れる歌七首
【題意】 「松浦郡」は、壱岐国へ最も近い地である。「狛島の亭」は、松浦の浦にある地と取れるが所在は不明である。「狛」につき、諸本に「狛イヌシマ、或説コマ、本栢、可尋之」という書入れがあるので、あるいは「栢」の誤写ではないかという。それだと佐賀県東松浦郡|神集島《かしわじま》であり、唐津の北方の洋上にある島である。そこは引津の亭から西方約六里にあり、そこまで来て、また風波にはばまれたのである。「遙に海を望み」は、そこから壱岐国へ向かっての航路を望む意。「慟みて」は、その航路は危険の多い所だからである。
3681 帰《かへ》り来《き》て 見《み》むと思《おも》ひし 我《わ》が宿《やど》の 秋萩《あきはぎ》薄《すすき》 散《ち》りにけむかも
可敞里伎弖 見牟等於毛比之 和我夜度能 安伎波疑須々伎 知里尓家武可聞
【語釈】 ○帰り来て見むと思ひし 帰って来て見ようと思ったで、帰期は秋と予定されていたのである。○我が宿の秋萩薄 わが家の庭の秋萩の花や尾花は。○散りにけむかも 散ってしまったのであろうかで、「に」は、完了の助動詞。
【釈】 帰って来て見ようと思ったわが家の秋萩の花や尾花は、今は散ってしまったことであろうなあ。
(357)【評】 旅愁ではあるが、これは予定の日程の甚しく後れてしま ったことをいうのみで、他には全く触れないものである。それも「見むと思ひし我が宿の秋萩薄散りにけむ」という、静かな、素朴な言い方をし、調べもそれにふさわしい落ちついた暢びやかなものをもってしているのである。その人の思われる歌である。
右の一首は、秦田麿《はだのたまろ》。
右一首、秦田麿。
【解】 伝未詳。上の(三五八九)の「秦間満」と同人で、いずれかが誤写ではないかともいうが、臆測である。
3682 天地《あめつち》の 神《かみ》を祈《こ》ひつつ 吾《あれ》待《ま》たむ 早《はや》来《き》ませ君《きみ》 待《ま》たば苦《くる》しも
安米都知能 可未乎許比都々 安礼麻多武 波夜伎万世伎美 麻多婆久流思母
【語釈】 ○天地の神を祈ひつつ 天神地祇に無事を祈りながら。○早来ませ君 早く帰っていらっしゃいまし君よで、「君」は、誰とも知れぬ。○待たば苦しも 待ったらば苦しいことですで、「待たば」の未然形を、「苦し」の現在で承けるのは当時の語法で、用例の少なくないもの。
【釈】 天神地祇に無事を祈りながら、われは待っていましょう。早く帰っていらっしゃいまし君よ。待ったらば苦しいことです。
【評】 作者は「娘子」というので、題詞の狛島にいた遊行婦で、宴席に侍しての歌と思われる。船の発着地にはどこにもこの種の女が居たのである。「君」というのは一人の人を指しているのではなく、宴席に列している人すべてであろう。そのほうが自然である。挨拶の心のものであるが、結句「待たば苦しも」は、この種の女らしい語である。
右の一首は、娘子《をとめ》。
右一首、娘子。
3683 君《きみ》を思《おも》ひ 吾《あ》が恋《こ》ひまくは あらたまの 立《た》つ月《つき》毎《ごと》に 避《よ》くる日《ひ》もあらじ
伎美乎於毛比 安我古非万久波 安良多麻乃 多都追奇其等尓 与久流日毛安良自
(358)【語釈】 ○君を思ひ吾が恋ひまくは 君を思って、わが恋いむことは。誰が誰にいったのか、作者が記してないので明らかでない。「君」は、遣新羅使の一行と取れる。下の続きで、この先の幾月かに渡って、無事を祈られる人だからである。「吾」といっているのは、その他の人で、一行に対してそういうことをいうのにふさわしい人で、その語によって、「娘子」などと呼ばれる女性ではないことは明らかであるから、狛島の亭のある位地のある人であろう。「恋ひまく」は、「恋ひむ」の名詞形。○あらたまの立つ月毎に 「あらたまの」は、「年」の枕詞を、月に転用したもの。「立つ月毎に」は、新たに来る月ごとにで、この先続いて長くの意。○避くる日もあらじ 「避くる日」は、『新考』は具註暦に注してある忌諱する日の意だとしている。信仰から、何の日は何をしてはならぬという、禁忌があって、守られていたのであるが、その避くべき日であるにもかかわらず思い恋うて、祈ろうというのである。
【釈】 君を思ってわが恋うるだろうことは、新たに来る月ごとに、避ける日もなく、長く続くことであろう。
【評】 これから、危険な外洋の航路を往復しようとする遣新羅使の代表的な人を対象として、送別の心をもっていっているものである。「君を思ひ吾が恋ひまくは」は、君の無事を祈ることはの意であるが、送別の心は、不吉に近い語を用いることを避けるのが定まりとなっていたので、その心より婉曲に言いかえているものである。「避くる日もあらじ」は、そうした禁忌が守られていたことを示すものであって、外洋の航海者を相手にしている土地とて、そうした信仰のあったのは自然である。この信仰は、今も一部の年した女性などには保たれているものである。情味あり、心の行き届いた、相応に年をした人を思わせる歌である。
3684 秋《あき》の夜《よ》を 長《なが》みにかあらむ 何《な》ぞ幾許《ここば》 寝《い》の宿《ね》らえぬも 独《ひとり》宿《ぬ》ればか
秋夜乎 奈我美尓可安良武 奈曾許々波 伊能祢良要奴毛 比等里奴礼婆可
【語釈】 ○秋の夜を長みにかあらむ 「長み」は、「を長み」の形で、状態をいったもの。「か」は、疑問の係。秋の夜が長いからであろうか。○何ぞ幾許寝の宿らえめも 「何ぞ」は、どうしてで、疑問で、「宿らえぬ」と連体形「ぬ」で結んだもの。「幾許」は、量から質をいうに転じたもので、ひどくも。
【釈】 秋の夜が長いからであろうか。何だってひどくも眠られないことであろうか。独寝をしているからであろうか。
【評】 夜、何としても眠れないのを、我と訝かっている気分である。夜が長いので、このように眠れないのだろうか。または独寝が侘びしいからであろうかと、眠れないままにそれこれと思っている、その気分そのものをいっている歌である。旅愁の一歩手前の心で、そこに踏みとどまっているところが特色である。詠み方も、疑問を三回まで繰り返している形で、その気分(359)の表現にふさわしいものである。実際に即しての抒情なので、作者のその際の状態をも思わせるものとなっている。
3685 足姫《たらしひめ》 御船《みふね》泊《は》てけむ 松浦《まつら》の海《うみ》 妹《いも》が待《ま》つべき 月《つき》は経《へ》につつ
多良思比賣 御舶波弖家牟 松浦乃宇美 伊母我麻都倍伎 月者倍尓都々
【語釈】 ○足姫御船泊てけむ松浦の海 「足姫」は、息長《おきなが》足姫で、神功皇后の御名。「御船泊てけむ」は、「御船」は新羅征討の御船。「泊てけむ」は、碇泊したというで、明らかな事実を、敬意をもっていったもの。帰航の時を想像したものと思われる。「松浦の海」は、現在いるところで、東松浦方面。以上「待つ」へかけた序詞。○妹が待つべき月は経につつ 「妹が待つべき月」は、京の妹がわが帰りを待つだろうところの月で、予定ではその頃は帰期だったのである。「経につつ」は、過ぎてしまいつつの意。
【釈】 足姫の御船の泊まったという松浦の海の、その松というに因みのある、妹が待っているはずの月は、過ぎてしまいつつある。
【評】 旅程の延びることを旅愁にからませて、その深まることを嘆いている歌である。序詞の「松浦の海」を重く扱っている。そこは現在碇泊しているところで、これより発航しようとする所であるとともに、古え足姫の御船の泊てた所であるから、その意味では「待つべき」に気分としてのつながりがあるといえる。また自身に対しての賀の心もあるといえよう。しかし全体としては、その序詞が重きにすぎて、一首の気分を弱くしている感がある。
3686 旅《たび》なれば 思《おも》ひ絶《た》えても ありつれど 家《いへ》に在《あ》る妹《いも》し 思《おも》ひがなしも
多婢奈礼婆 於毛比多要弖毛 安里都礼杼 伊敞尓安流伊毛之 於母比我奈思母
【語釈】 ○思ひ絶えてもありつれど 「思ひ絶え」は、一語で、思い切って、すなわち諦めてというにあたる。「ありつれ」は、過去で、いた。○思ひがなしも 「思ひかなし」は、熟語で、「かなし」は、愛《かな》し。可愛ゆいの意で、「思ひ」は、「かなし」を強調させるもの。
【釈】 旅にいるので、諦めてはいたけれども、京の家にいる妹が可愛ゆいことである。
【評】 理をもっては情は抑えられないという心であるが、あくまで単純に、率直に詠んでいるので、感として生きたものとなっている。余裕があり、うるおいがあって、それが大きく働いている。
(360)3687 あしひきの 山《やま》飛《と》び越《こ》ゆる 雁《かり》がねは 都《みやこ》に行《ゆ》かば 妹《いも》に逢《あ》ひて来《こ》ね
安思必寄能 山等妣古由留 可里我祢波 美也故尓由加波 伊毛尓安比弖許祢
【語釈】 ○山飛び越ゆる雁がねは 山を飛び越える雁はで、その状態を見ていてのもの。○妹に逢ひて来ね 妹に逢って帰って来てくれよで、「ね」は、願望の助詞。
【釈】 山を飛び越している雁は、奈良京へ行くのならば、わが妻に逢って帰って来てくれよ。
【評】 京の方角にある山を飛び越えている雁を見て、作者の心持を移入して、その雁を人格視してのものである。「都に行かば妹に逢ひて来ね」は、旅愁と実情との相混じて一つとなったもので、いささかの作為もない、あわれな歌である。形としては、類歌の多い新味のないものである。身分低い、従順な、若い人の作と思われる。
壱岐の島に到りて、雪連宅満《ゆきのむらじやかまろ》が忽ちに鬼病《えやみ》に遇ひて死去《みまか》りし時作れる歌一首 井に短歌
【題意】「雪連宅満」は、上の(三六四四)に出た。「鬼病」は、「鬼」は死神で、死病の意。その年流行した悪疫である。宅満の死は、場合がら一行にとっては大きな衝動で、傷心事であった。以下長短九首の歌はすべて宅満に対する挽歌である。
3688 天皇《すめろき》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》と 韓国《からくに》に 渡《わた》る我《わ》が背《せ》は 家人《いへびと》の 斎《いは》ひ待《ま》たねか 正身《ただみ》かも 過《あやまち》しけむ 秋《あき》さらば 帰《かへ》りまさむと たらちねの 母《はは》に申《まを》して 時《とき》も過《す》ぎ 月《つき》も経《へ》ぬれば 今日《けふ》か来《こ》む 明日《あす》かも来《こ》むと 家人《いへびと》は 待《ま》ち恋《こ》ふらむに 遠《とほ》の国《くに》 未《いま》だも着《つ》かず 大和《やまと》をも 遠《とほ》く離《さか》りて 石《いは》が根《ね》の 荒《あら》き島根《しまね》に 宿《やどり》する君《きみ》
須賣呂伎能 等保能朝庭等 可良國尓 和多流和我世波 伊敞妣等能 伊波比麻多祢可 多太未可母 安夜麻知之家牟 安吉佐良婆 可敞里麻左牟等 多良知祢能 波々尓麻乎之弖 等伎毛須疑 都奇母倍奴礼婆 今日可許牟 明日可蒙許武登 伊敞比等波 麻知故布良牟尓 等保能久尓 伊麻太宅都可(361)受 也麻等乎毛 登保久左可里弖 伊波我祢乃 安良伎之麻祢尓 夜杼里須流君
【語釈】 ○天皇の遠の朝廷と 「天皇」は、本来は皇祖の称であるが、転じて歴代の天皇の称、さらに当代の天皇の称となった語で、ここは当代である。「遠の朝廷」は、遠方にある政庁で、ここは韓国にある日本府。実際は、日本府は欽明天皇の時代に廃され、遠い過去のものであるが、皇威を讃える意で、古い習慣によっていっているもの。○韓国に渡る我が背は 「韓国」は、ここは新羅。「背」は、本来女より男をさしての称であるが、男同志でも親しんで呼ぶ場合には用いた。「我が」は、それをさらに親しくする意で添えたもの。○家人の斎ひ待たねか 「家人」は、母や妻。「斎ひ」は、忌み清めて神に祈る意。「か」は、疑問の係で、条件法。家人が斎いをしないためかで、それを怠れば神罰があるとしたのである。これは死生は一に神意によるとする信仰からいっているのである。○正身かも過しけむ 「正身」は、本人自身。この解は『全註釈』のしたもので、この語は古事記や正倉院文書にあり、他にも用例があるといっている。「かも」は、疑問の係。「過しけむ」は、神に対して不用意のことをしたろうかで、「けむ」は、結。上の二句と対句になっている。○秋さらば帰りまさむと 「帰りまさむ」は、帰らむの敬語で、帰っていらっしゃろうと。これは宅満自身の語であるが、死者に対しては敬語を用いるのが礼になっているからのものである。しかしただちに、「たらちねの母に申して」と続き、「申し」が同じく敬語であるから、敬語の重用になっている。どちらかをやめるべきである。○時も過ぎ月も経ぬれば 約束の時も過ぎ去り、月も過ぎてしまったのでで、これは家人の心。「て」の助詞を承けて、主格が変わった形のもの。○遠の国未だも着かず 「遠の国」は、遠方の国で、新羅。「着かず」は、着かずしてで、「ず」は、連用形。○石が根の荒き島根に 「根」は、二つとも接尾語で、岩石の荒々しい島で、壱岐の島。○宿する君 「宿」は、死者として葬られていることであるが、礼として自身の心からしたごとく言いかえたもの。「君」は、下に詠歎がある。
【釈】 天皇の遠方にある政庁として、韓国に渡って行くわが背は、家人が神に祈って待たないのか、自分自身神に対して過ちを犯したのであろうか、秋が来たならば帰っていらっしゃろうとたらちねの母に申して、その時期も過ぎ、その月も過ぎ去ったので、今日は来ようか、明日は来ようかと、家人は待ち焦れていようのに、志した遠方の国にはまだ着かずに、大和国をも遠く離れて、岩石の荒々しい島に、宿りをしている君ではあるよ。
【評】 長歌の作は衰えた時代であるが、それにもかかわらず、この歌をはじめとして三首まで続いている。挽歌は儀礼の物で、古来の慣習に従うべき物だとして、努めて長歌形式を用いたものとみえる。そのいっているところは、都の家人たちの、今は帰るべき時期だとひたすらに待ち恋うていように、こうした旅路に、永久の宿りをする人となってしまったということだけである。これは宅満自身、何よりの悲しみとしているところで、それを汲み取っていうことが、すなわち宅満の霊を慰めうることだとしているのである。語は多くなく、調べも静かなものであるが、それはこの際の同僚の一人という立場に立っているものであるから、適当としなければならない。儀礼の作で、文芸を旨としたものではないからである。要を得た作とすべきである。
(362) 反歌二首
3689 石田野《いはたの》に 宿《やどり》する君《きみ》 家人《いへびと》の いづらと我《われ》を 問《と》はば如何《いか》に言《い》はむ
伊波多野尓 夜杼里須流伎美 伊敞妣等乃 伊豆良等和礼乎 等波婆伊可尓伊波牟
【語釈】 ○石田野に宿する君 「石田野」は、今の壱岐郡石田村で、島の東南部である。「宿する君」は、長歌の結末と同じで、葬られている君を言いかえたもの。『新考』はその墓につき海岸から七、八町入った石田村に、石田蜂という岡があり、その上に方四間ばかり、高さ七、八尺の古墳があり、土地の者は、殿の墓、または官人の墓と呼んでいるのがすなわちこの墓だと考証している。「君」は、呼びかけ。○家人のいづらと我を間はば如何に言はむ 「いづら」は、どこというと同じ。どこにいるのかとの意で、生きているものとして所在を訝かってである。「我を問ふ」は、我に問うと同じで、「我」に重点を置いた当時の語法。「如何に言はむ」は、何と答えたものであろうかで、返事に当惑しようの意。
【釈】 石田野に宿りをしている君よ。都に帰って、君の家人が、君はどこにと我に問うたならば、何と答えたものであろうか。
【評】 長歌の延長で、家人の悲しみを、自身を介して、一歩前進させて推量したものである。心細かく、語つづきの柔軟なのは、当時の奈良京の風である。
3690 世《よ》の中《なか》は 常《つね》斯《か》くのみと 別《わか》れぬる 君《きみ》にやもとな 吾《あ》が恋《こ》ひ行《ゆ》かむ
与能奈可波 都祢可久能未等 和可礼奴流 君尓也毛登奈 安我孤悲由加牟
【語釈】 ○世の中は常斯くのみと 「世の中は」は、世間はで、人生はというと同じ。「常斯くのみと」は、いつもこのようにばかりあるものだとで、仏教の無常観によっての語。「と」は、といってで、下に続く。○別れぬる君にやもとな 「別れぬる君」は、死別して行ったところの君で、初二句は宅満の末期の語である。「や」は、疑問の係。「もとな」は、由なくで、「恋ひ」に続く副詞。○吾が恋ひ行かむ 我は恋うて、旅を続けて行くのであろうか。
【釈】 人世はいつもこのようにばかりあるものだといって別れて行った君を、由なくも我は恋うて、旅を続けるであろうか。
【評】 ここに至って初めて作者自身の悲しみを述べている。宅満自身は、「世の中は常斯くのみと」と諦めて世を去ったのでああが、我は諦められず、甲斐なき悲しみを繰り返しつづけるでるろうというので、いずれも人間の真実である。宅満は上の(363)(三六四四)で、死生の間に処して「大君の命恐み」と詠んでいる人で、この歌でもその人柄が思われる。「恋ひ行かむ」と、「行かむ」に力点を置いているのも凡庸ではない。
右の三首は、挽歌。
右三首、挽歌。
【解】 この注は、すでに題詞で明らかであり、以下も同じく挽歌であるから、編集者の添えたものであろう。作者につき『新考』は、以下の挽歌はすべて作者を顕わしている。無いのは、この巻の筆録者の作だから、わざと略いたとみえるといっている。
3691 天地《あめつち》と 共《とも》にもがもと 思《おも》ひつつ 在《あ》りけむものを 愛《は》しけやし 家《いへ》を離《はな》れて 浪《なみ》の上《うへ》ゆ なづさひ来《き》にて あらたまの 月日《つきひ》も来経《きへ》ぬ 雁《かり》がねも 継《つ》ぎて来鳴《きな》けば たらちねの 母《はは》も妻《つま》らも 朝露《あさつゆ》に 裳《き》の裾《すそ》ひづち 夕霧《ゆふぎり》に 衣手《ころもで》ぬれて 幸《さき》くしも あるらむ如《ごと》く 出《い》で見《み》つつ 待《ま》つらむものを 世《よ》の中《なか》の 人《ひと》の歎《なげき》は 相思《あひおも》はぬ 君《きみ》にあれやも 秋萩《あきはぎ》の 散《ち》らへる野辺《のべ》の 初尾花《はつをばな》 仮廬《かりほ》に葺《ふ》きて 雲離《くもばな》れ 遠《とほ》き国辺《くにべ》の 露霜《つゆじも》の 寒《さむ》き山辺《やまべ》に 宿《やとり》せるらむ
天地等 登毛尓母我毛等 於毛比都々 安里家牟毛能乎 波之家也思 伊敞乎波奈礼弖 奈美能宇倍由 奈豆佐比伎尓弖 安良多麻能 月日毛伎倍奴 可里我祢母 都藝弖伎奈氣婆 多良知祢能 波々母都末良母 安佐都由尓 毛能須蘇比都知 由布疑里尓 己呂毛弖奴礼弖 左伎久之毛 安流良牟其登久 伊〓見都追 麻都良牟母能乎 世間能 比登乃奈氣伎波 安比於毛波奴 君尓安礼也母 安伎波疑能 知良敞流野邊乃 波都乎花 可里保尓布伎弖 久毛婆奈礼 等保伎久尓敞能 都由之毛能 佐武伎山邊尓 夜杼里世流良牟
(364)【語釈】 ○天地と共にもがもと 天地とともに、いつまでもこのようにありたいものだと。「もがも」は、願望。これは慣用されている成句である。○思ひつつ在りけむものを 思い続けていたろうものをで、宅満の心中を思いやってのもの。これは下の続きで見ると、「在り」は、その家人とともにの意でいっているものである。○愛しけやし家を離れて 「愛しけやし」は、「愛しきやし」と同意で、愛しきすなわち可愛ゆき。「やし」は詠歎の間投助詞。「家」は、京の家。○浪の上ゆなづさひ来にて 「浪の上ゆ」は、浪の上をとおって。「なづさひ来にて」は、浮かび進んで来て。「に」は、完了の助動詞で、強調したもの。○あらたまの月日も来経ぬ 「あらたまの」は、ここは月にかかる枕詞。「来経ぬ」は、来たり去ったで、経過した。○雁がねも継ぎて来鳴けば 雁も続いて来て鳴くので。これは帰期としていったもの。○たらちねの母も妻らも 「妻ら」の「ら」は接尾語。○朝露に裳の裾ひづち夕霧に衣手ぬれて 巻二(一九四)人麿の歌に、「朝露に玉裳はひづち夕霧に衣は濡れて」とあるを摸したもの。「ひづち」は、濡れる意。朝に夕べに戸外に立つ意。○幸くしもあるらむ如く 「幸くしも」は、「幸く」は、無事で、「しも」は、強意。無事でばかりいるだろうように。○世の中の人の歎は 「世の中の人」は、広い意の語であるが、主として母や妻をさしてのもの。○相思はぬ君にあれやも 「相思はぬ」は、「相」は、添えたのみの語で、思わぬの意。「あれやも」は、疑問条件法、「や」は、反語となっているもので、あろうか、そうではなかろうにの意。○秋萩の散らへる野辺の 「秋萩」は、萩の花。「散らへる」は、「散る」の連続「散らふ」に完了の助動詞「り」の連体形「る」の接したもので、散りつづけている野辺の。○初尾花仮廬に葺きて 「初尾花」は、穂の出初めたばかりの薄。「仮廬」は、墓の上屋《うわや》で、土葬とした墓の上に簡単に設けた小屋の称で、「葺きて」は、屋根代わりとして葺いて。これは普通のことだったのである。○雲離れ遠き国辺の 「雲離れ」は、雲のごとく遠く離れているで、「遠き」の枕詞。「遠き国辺」は、都より遠い国ので、壱岐国。○露霜の寒き山辺に 「露霜」は、水霜。「寒き山辺」は、上にいった石田峰。○宿せるらむ 「宿」は、上の歌と同じく葬られる意。宿りをしているのであろうかで、「らむ」は、上の「君にあれやも」の条件法の結。
【釈】 天地とともにいつまでもいたいものだと、思いつづけていたろうものを、愛すべき家を離れて、浪の上をとおって浮かび進んで来て、月も日も来ては去った。雁も続いて来て鳴くので、哺み育てた母や妻は、朝の露に裳の裾を濡らし、夕霧に袖が濡れて、無事でばかりいるもののように戸外に出て見つづけて待っていようのに、世の中の人の嘆きは思わない君なのであろうか、そうではなかろうに、萩の花の散りつづけている野の、穂を出し初めた薄を仮廬の屋根に葺いて、雲のように離れた京よりは遠い国の、水霜の寒い山に、宿りをしているのであろうか。
【評】 これも宅満に対する挽歌で、一意、宅満の霊を慰めようとして、母や妻はもとより、自分らの悲しみをも述べているものである。前半は、都にいる母や妻が、今や帰る予定の時であると思って、ひたすらに待っていることを思いやって悲しみ、後半は、「世の中の人の歎は相思はぬ君にあれやも」と、母や妻の上に自分たちもまじえて、壱岐国に葬られたことを、悲しみのあまりの恨みとしていっている。前の歌に較べると、彼は知性的で、したがって客観味があり、静かであったが、これは純感性的で、したがって抒情的で、騒がしさがある。起首の「天地と」「朝露に」「夕霧に」の対句など、他よりの引用をして顧みないのは、そうした詠み方のためであり、「秋萩の」以下墓所の形容も、宅満の霊を慰めようとする心より美化したものでは(365)あるが、その詠み方に引かれたものといえるものである。全体として、前の歌より語は多いが、心はかえって少ない歌である。
反歌二首
3692 愛《は》しけやし 妻《つま》も児《こ》どもも 高高《たかだか》に 待《ま》つらむ君《きみ》や 島隠《しまがく》れぬる
波之家也思 都麻毛古杼毛母 多可多加尓 麻都良牟伎美也 之麻我久礼奴流
【語釈】 ○妻も児どもも ここに至って初めて児どもをいっている。上代は、子どもの位置は低かったのである。○高高に待つらむ君や 「高高に」は、背伸びをするさまで、「や」は、疑問の係。○島隠れぬる 「島隠れ」は、熟語で、「島」は、海上より陸地を呼ぶ称で、航海中に死んで葬られる意。死者を重んじる心より、自身でしたこととしているのである。「ぬる」は、「や」の結、連体形。どうして島隠れをしたのであるのかで、詠歎をこめたもの。
【釈】 愛すべき妻や児どもが、背伸びをして待っている君が、どうしてここに島隠れをしたのであるか。
【評】 この反歌は長歌を承けて、その内容を要約して繰り返したものである。「児ども」を添えただけが進展である。
3693 黄葉《もみちば》の 散《ち》りなむ山《やま》に 宿《やど》りぬる 君《きみ》を待《ま》つらむ 人《ひと》し悲《かな》しも
毛美知葉能 知里奈牟山尓 夜杼里奴流 君乎麻都良牟 比等之可奈之母
【語釈】 ○黄葉の散りなむ山に 「散りなむ山」は、散るであろうところの山で、今はそれ以前だったのである。「山」は、石田峰。○人し悲しも 「人」は、母、妻、児ども。「し」は、強意の助詞。
【釈】 黄葉のこれからは散るであろう山に宿ってしまっている君を、帰るかと待っているだろう家人が悲しいことだ。
【評】 これは長歌で、「幸くしもあるらむ如く出で見つつ待つらむものを」といったのを、今一度繰り返したものである。これが悲しみの頂点となっていることで、したがって霊に対して最も慰めともなりうることだからである。長歌のほうで心を尽くしているので、それには及ばないものである。
右の三首は、葛井連子老《ふぢゐのむらじこおゆ》の作れる挽歌。
(366) 右三首、葛井連子老作挽歌。
【解】 伝未詳。
3694 わたつみの 恐《かしこ》き路《みち》を 安《やす》けくも 無《な》くなやみ来《き》て 今《いま》だにも 喪《も》無《な》く行《ゆ》かむと 壱岐《ゆき》の 海人《あま》の 秀《ほ》つ手《て》の卜筮《うらへ》を 象《かた》灼《や》きて 行《ゆ》かむとするに 夢《いめ》の如《ごと》 道《みち》の空路《そらぢ》に 別《わかれ》する君《きみ》
和多都美能 可之故伎美知乎 也須家口母 奈久奈夜美伎弖 伊麻太尓母 毛奈久由可牟登 由吉能安末能 保都手乃宇良敞乎 可多夜伎弖 由加武土須流尓 伊米能其等 美知能蘇良治尓 和可礼須流伎美
【語釈】 ○安けくも無くなやみ来て 「安けく」は、安らかなことで、「安し」の名詞形。この二句は、七五調になっている。○今だにも喪無く行かむと 「今だにも」は、今だけでもで、将来はとにかく、さしあたっての今だけでも。「喪」は、凶事で、災禍なく航海しようと思って。○壱岐の海人の秀つ手の卜筮を 「秀つ手」は、秀でているところの技術で、上手というにあたる古語。「卜筮」は、占いで、名詞。「を」は、をして。壱岐の海人は卜占に秀でているということは当時名高かったので、それをしての意。○象灼きて行かむとするに 「象灼きて」は、亀卜で、亀の甲を灼いて、それによつて顕われる形をもって吉凶を卜うので、「象」は、その形の願われる物の称。「行かむとするに」は、航行をしようとするに。○夢の如道の空路に別する君 「夢の如」は、夢のごとくにもはかなくで、「別」に続く。「道の空路」は道の空、すなわち途中という意の熟語と同じで、「路」は、強調するために添えたもの。新羅への航路中。「別する君」は、別れをする君よで、「別」は、死別を生別のごとく言いかえたもので、礼としての言い方。
【釈】 海上の恐ろしい路を、安らかなこともなく悩んで来て、せめて今だけでも凶事なく行こうと思って、壱岐の海人の上手な占いをして、象を灼いて行こうとするのに、夢のようにも、旅の道の中途で別れをする君よ。
【評】 内容が単純で、短歌をもってしても事の足りるほどのものである。これを長歌形式にしたのは、挽歌としてはそのほうが礼にかなうとする心からのことと思われる。また歌として見ても、短歌では、この素朴な、しみじみとした、言外にさびしさ心細さをただよわした味わいはあらわし難いかに思われる。この味わいは長歌形式より来るものである。
反歌二首
(367)3695 昔《むかし》より 言《い》ひける言《こと》の から国《くに》の 辛《から》くも此処《ここ》に 別《わかれ》するかも
牟可之欲里 伊比郁流許等乃 可良久尓能 可良久毛己許尓 和可礼須留可聞
【語釈】 ○昔より言ひける言の 昔から言い伝えて来た言葉である。○から国の辛くも此処に 「から国の辛く」は、すなわち上の言い伝えで、その意は、外国へ行く辛さ。心としても頷きやすい上に、頭韻の面白さもある語で、諺のようになっていたとみえる。初句より三句までは序詞の形になっているが、それとしての意図はないものとみえる。「辛く」は、苦しくも。「此処に」は、この壱岐国に。
【釈】 昔から言い伝えて来た言葉である、から国の辛くという、その苦しい別れをすることである。
【評】 長歌と同じく、素朴に、しみじみと詠んでいるが、その場合に適するものにしようと、その点に重点を置いた歌なので、独立しての味わいは多くない。
3696 新羅《しらぎ》へか 家《いへ》にか帰《かへ》る 壱岐《ゆき》の島《しま》 行《ゆ》かむたどきも 思《おも》ひかねつも
新羅奇敞可 伊敞尓可加反流 由吉能之麻 由加牟多登伎毛 於毛比可祢都母
【語釈】 ○新羅へか家にか帰る 「新羅へか」は、「か」は、疑問の係で、新羅へ行くのかで、「行く」が略されている形。「家にか帰る」は、または京の家へ帰るのか。○壱岐の島行かむたどきも 「壱岐の島」は、「壱」を同音で「行」にかけた枕詞。「行かむたどきも」は、行こう手段も。○思ひかねつも 思い得られなくなったことよ。
【釈】 新羅へ行くのか、それとも京の家へ帰るのか。壱岐の島に因む、行こうとする手段も思い得られなくなったことよ。
【評】 宅満の死によって、一行は強い衝動を受けて、茫然と自失していたことをいっているもので、この悲しみをいうのは挽歌として適当なことである。これも上の歌と同じく、挽歌ということを旨としているために、独立しての歌とすると、感の乏しさを思わせる。作者は主観性の勝った、知性に富んだ人で、それが歌の上にあらわに現われている趣がある。
右の三首は、六鯖《むさば》が作れる挽歌。
右三首、六鯖作挽歌。
(368)【解】 『代匠記』は「六鯖」につき、続日本紀、廃帝の条に、天平宝字八年正月の条に、「授2正六位上|六人都《むとべの》連鯖麻呂外従五位下1」とあるので、この人の氏と名をこのように書いたのであろうといっている。『全註釈』も、正倉院文書に、六人部鯖麿が天平宝字二年、正六位上伊賀守であったことが知られるといっている。大陸風に氏名を略書することは、当時一部に好んで行なわれたことなので、その人であろう。
対馬《つしま》の島《しま》の浅茅《あさぢ》の浦に到りて船|泊《は》てし時、順風を得ず、経停《とど》まること五箇日《いつか》。ここに物華を瞻望《せんばう》し、各|慟《かなし》む心を陳《の》べて作れる歌三首
【題意】 「浅茅の浦」は、所在不明である。歌によって浅茅山の裾に接している地と知れるが、その山も不明である。対馬の島には、南海岸にも西海岸にも、相当の船着きがないから、東海岸の厳原港あたりだろうという。そこは外洋に面した波の荒い所である。また美津島町の西、浅茅湾東端とする説もある。「物華」は美しい風景。「瞻望」は望み見る意。
3697 百船《ももふね》の 泊《は》つる対馬《つしま》の 浅茅山 《あさぢやま》 時雨《しぐれ》の雨《あめ》に もみたひにけり
毛母布祢乃 波都流對馬能 安佐治山 志具礼能安米尓 毛美多比尓家里
【語釈】 ○百船の泊つる対馬の 「百船の泊つる」は、多くの船の泊てるで、津すなわち港と続けて、対馬にかかる八音の序詞。眼前を叙した形なので、普通のごとくみえるものである。○浅茅山 所在不明。○時雨の雨にもみたひにけり 「時雨」は、秋冬の頃の小雨。「に」は、によって。「もみたひ」は、動詞「もみつ」に連続の「ふ」が接した「もみたふ」の連用形。これは他に用例を見ない形である。「に」は、完了の助動詞。
【釈】 多くの船の泊つる津に因む対馬国の浅茅山は、時雨の雨で、黄葉したことであるよ。
【評】 初句より三句までは、重く力あるもので、四、五句は心細かいもので、渾然としている。一見平凡にみえるが、調べが張っていて、内にこもる力があり、平凡ならぬ作である。題詞で見ると、前途の容易ならぬことを思って、心の緊張していた時の作とて、その緊張が静かにして力ある形となったものと取れる。
3698 天離《あまざか》る 鄙《ひな》にも月《つき》は 照《て》れれども 妹《いも》ぞ遠《とほ》くは 別《わか》れ来《き》にける
(369) 安麻射可流 比奈尓毛月波 弖礼々杼母 伊毛曾等保久波 和可礼伎尓家流
【語釈】 ○天離る鄙にも月は照れれども 「天離る」は、鄙の枕詞。「鄙」は、京を中心として、現にいる対馬をさしたもの。「照れれども」は、照りあれどもで、照っているけれども。○妹ぞ遠くは別れ来にける 「妹ぞ」の「ぞ」は、「月は」の「は」に対させたもので、強めての助詞で、妹には。「遠くは」の「は」も、強めたもの。「ける」は、「ぞ」の結。詠歎してのもの。
【釈】 天と遠い鄙にも京と同じく月は照っているけれども、妹には遠くも別れて来たことだ。
【評】 孤島の秋の夜の月に対して、妻を思う心である。月に対していると、心はなかば都にいるように思われ、都を照らす月が孤島をも照らしているのを訝かしむような心が起こり、同時に一方では、その都にいる妻が、この孤島には遠いものと思われる感である。月と妻とを対照してのものであるが、それとしては知性的なところがなく、強い感のみとなって詠んでいる歌である。旅愁の持ちやすい甘さのない作である。その場合柄のためとみえる。
3699 秋《あき》されば 置《お》く露霜《つゆしも》に 堪《あ》へずして 京師《みやこ》の山《やま》は 色《いろ》づきぬらむ
安伎左礼婆 於久都由之毛尓 安倍受之弖 京師乃山波 伊呂豆伎奴良牟
【語釈】 秋されば置く霧霜に堪へずして 秋となったので、置く水霜に争いきれずして。木の葉は霜に染められまいとして争うものだという、当時の常識を背後に置いたもの。○京師の山は色づきぬらむ 京の山も、今は黄変したのであろう。
【釈】 秋となったので、置く水霜に争い切れずに、京の山も今は色づいてしまっていよう。
【評】 対馬の黄葉を目にしていながら、それには触れずに、連想としての京の黄葉のみをいっているもので、そこに旅情の現われがある。「置く露霜に堪へずして」は、いうところは黄葉であるが、心としては、京にある妹の、自分の帰りを待ち侘びている心を託したものと取れる。青葉を女、霜を男に隠喩することは、これまた常識となっていたからである。眼前に見る黄葉の連想で都を思い、さらにそれを、それとなく妻をあわれむ心にまで延長させたのである。これも旅愁ではあるが、甘さにまでは陥っていない歌である。
竹敷《たかしき》の浦に船泊てし時、各|心緒《おもひ》を陳べて作れる歌十八首
(370)【題意】 「竹敷の浦」は、対馬の浅海湾の一部で、その奥まった所の称である。美津島町|竹敷《たけしき》。『全註釈』は、前に碇泊していた、推定の浅茅の浦(厳原港かという)からこの浦に来るまでの経路を考察している。浅茅の浦のある東海岸は波が荒いが、西海岸は穏やかなので、そちらの航海へ移ろうとし、浅茅の浦からある程度進航して、大船越、あるいは小船越まで行き、そこで船を陸上に揚げ、曳いて竹敷の浦まで持って行ったのだろうという。大船越は、今は竹敷の浦のある浅海湾の裏口をなしている、長さ二十四町、幅八間の狭い水道となっているが、これは寛文十二年に開鑿したもので、当時はこの水道の線に添って、陸上を船を曳いて越させたのだろうというのである。竹敷は今も要港である。
3700 あしひきの 山下《やました》耀《ひか》る 黄葉《もみちば》の 散《ち》りの乱《まがひ》は 今日《けふ》にもあるかも
安之比奇能 山下比可流 毛美知葉能 知里能麻河比波 計布仁聞安流香母
【語釈】 ○あしひきの山下耀る 「あしひきの」は、山の枕詞。「山下耀る」は、「山下」の語義は、解が二つある。一つは、山の草木の下葉で、今一つは、山全体である。「山下」という用例は少なくないが、山全体と解すると通じやすい語である。今はそれに従う。山の全体が光るで、下の黄葉を修飾する語。○散りの乱は 「散り」も「乱」も名詞形。「乱」は、紛乱の意である。成句。○今日にもあるかも 上の「も」は、感動の助詞。今日であることだなあの意。
【釈】 山全体が光るところの黄葉の、散って乱れるのは、今日であることだなあ。
【評】 竹敷の浦に近い山の、全山の黄葉の散り乱れるのを見て、その美観を讃えて、他意なく詠んでいる歌である。対象の捉え方も、調べも、おおらかで、ゆたかで、しかも落ちつきを持った歌である。作者の気分の反映である。「山下耀る」も「散りの乱」も、いずれも成句であるが、よくこなれて、自身の物となっている。
右の一首は、大使《おほきつかひ》。
右一首、大使。
【解】 「大使」は、阿部継麿である。
3701 竹敷《たかしき》の 黄葉《もみち》を見《み》れば 吾妹子《わぎもこ》が 待《ま》たむといひし 時《とき》ぞ来《き》にける
(371) 多可之伎能 母美知乎見礼婆 和藝毛故我 麻多牟等伊比之 等伎曾伎尓家流
【語釈】 ○吾妹子が待たむといひし 妹が、わが帰りを待とうといったで、これだと妹が任意にいったごとくであるが、帰期は夫から告げられて知ったものであるのを、妹のほうを主としていったのである。
【釈】 竹敷の黄葉を見ると、京を発する時妻が、わが帰りを待とうといった時が来たことだ。
【評】 竹敷の黄葉を見ると、その連想として、妻がわが帰りを待とうといった時が来たと、いまさら心づいたがごとくいっている歌である。心としては旅愁であるが、おおらかに、さっぱりとした態度でいっているので、その匂いさえなく、ただ旅程の手間取れる感がわずかに感じられるだけである。上の歌と同じくおおらかであるが、このほうが心の細かさと屈折を含んでいて、その意味で地に着いている感が強い。
右の一首は、副使。
右一首、副使。
【解】 「副使」は、大伴宿禰|三中《みなか》で、巻三(四四三)に出た人。この歌群の筆録者に擬せられている人である。
3702 竹敷《たかしき》の 浦廻《うらみ》の黄葉《もみち》 我《われ》行《ゆ》きて 帰《かへ》り来《く》るまで 散《ち》りこすなゆめ
多可思吉能 宇良未能毛美知 和礼由伎弖 可敞里久流末〓 知里許須奈由米
【語釈】 ○我行きて帰り来るまで 我が新羅へ行って、再びここへ帰って来るまでで、短い期間のごとくいっている。すでに対馬まで来たので、前路は短いように感じての語かもしれぬ。○散りこすなゆめ 「こすな」は、くれるなで、「な」は、禁止。この語は用例の少なくないものである。「ゆめ」は、けっしてという意で、強い禁止である。
【釈】 竹敷の浦添いの黄葉よ。我が新羅へ行って再びここへ帰って来るまで、散ってくれるな、けっして。
【評】 これは純粋な自然愛の歌である。常套的な趣は帯びているが、こうした場合にも、明るい方面のみを認め、事を楽観している態度は、いさぎよいといわざるを得ない。
(372) 右の一首は、大判官《おほきまつりごとぴと》。
右一首、大判官。
【解】 「大判官」は、副使につぐ役。壬生宇太麿。
3703 竹敷《たかしき》の うへかた山《やま》は 紅《くれなゐ》の 八入《やしほ》の色《いろ》に なりにけるかも
多可思吉能 宇敞可多山者 久礼奈爲能 也之保能伊呂尓 奈里尓家流香聞
【語釈】 ○竹敷のうへかた山は 「うへかた山」は、竹敷南方の紅葉山、城山、城八幡山かともいう。○紅の八入の色に 「紅」は、紅花を絞って作った染料。「八入」は、幾度も染料の液に浸す意で、濃い色ということを具象的にいった語。
【釈】 竹敷の「うへかた山」は、紅色の、幾度も染めた色になったことだなあ。
【評】 山が紅の濃い色になったことであると、讃えてのものである。黄葉といわず、また「うへかた山」といって、名をあらわしたところも、実際に即しておおらかにいっていることで、平凡ではあるが、良い所のある歌である。
右の一首は、小判官《すくなきまつりごとびと》。
右一首、小判官。
【解】 「小判官」は、大蔵忌寸麿《おほくらのいみきまろ》。
3704 もみち葉《ば》の 散《ち》らふ山辺《やまべ》ゆ 漕《こ》ぐ船《ふね》の にほひに愛《め》でて 出《い》でて来《き》にけり
毛美知婆能 知良布山邊由 許具布祢能 尓保比尓米〓弖 伊〓弖伎尓家里
【語釈】 ○散らふ山辺ゆ 「散らふ」は、「散る」の連続。「山辺ゆ」は、山裾をとおって。○漕ぐ船のにほひに愛でて 「漕ぐ船の」は、漕いでいる官船の。「にほひ」は、色の映発していること。上代の船は、防腐剤として赤土を塗ったので、これは赤色のよいこと。「愛でて」は、心を引か(373)れて。○出でて来にけり 家を出て来たことであった。
【釈】 もみじ葉の散りつづけている山路をとおって漕いでいる船の、色のよさに心引かれて、家を出て来たことでした。
【評】 これは左注によって、竹敷の浦に住む遊行婦の歌とわかる。捉えていっている境は、一行の官船が、竹敷の浦へ漕ぎ入って来た時と取れる。いっていることは、もみじの散りつついる山裾をとおる、色美しい船に心を引かれて、家を出て見に来たというので、一に色彩の美観をいっているのである。詠み方も、詠み馴れていて、柔らかく、色気があるが、しかし無邪気で、媚態のないものである。挨拶の心をもって詠んだものであろうが、それとすると要領がよく、頭脳の良さを思わせられる歌である。
3705 竹敷《たかしき》の 玉藻《たまも》靡《なび》かし こぎ出《で》なむ 君《きみ》が御船《みふね》を いつとか待《ま》たむ
多可思吉能 多麻毛奈婢可之 己藝〓奈牟 君我美布祢乎 伊都等可麻多牟
【語釈】 ○竹敷の玉藻靡かし 「玉藻」は、「玉」は、美称で、「靡かし」は、船の進行につれて靡かせてで、繊細な、美しい形容である。○いつとか待たむ いつ帰られるかと待とうで、「か」は、疑問の係。早く帰られよの心でいっているもの。
【釈】 竹敷の浦の藻を靡かせて、こぎ出て行くであろう君の御船を、いつ帰られることかと思って待ちましょう。
【評】 これは宴席に侍しての歌で、「君」というのは、一人の特定の人と見るより、そこに列する人々と見るほうが自然である。内容が一般的で、特殊ではないからである。「玉藻靡かし」は、実際に即したものではあるが、美しく、繊細な、新味あるもので、歌才を思わせる句である。
右の二首は、対馬の娘子《をとめ》、名は玉槻《たまつき》。
右二首、對馬娘子、名玉槻。
【解】 「娘子」は、ここは遊行婦である。こうした地にも歌才ある遊行婦が住んでいたのである。
3706 玉《たま》敷《し》ける 清《きよ》き渚《なぎさ》を 潮《しほ》満《み》てば 飽《あ》かず吾《われ》行《ゆ》く 帰《かへ》るさに見《み》む
(374) 多麻之家流 伎欲吉奈藝佐乎 之保美弖婆 安可受和礼由久 可反流左尓見牟
【語釈】 ○玉敷ける清き渚を 「玉敷ける」は、下の「渚」の修飾で、「玉」は、美しい石で、それを敷き詰めている。「清き渚」は、清らかな渚で、次の歌で見ると、発航直前、渚で祝いの酒宴を開いていたのである。「を」は、感動の助詞で、ものを。○潮満てば飽かず吾行く 「潮満てば」は、満潮となったのでで、発船の時。「飽かず吾行く」は、見飽かずに、われは発船する。○帰るさに見む 帰る時に、またここを見よう。
【釈】 玉のような小石を敷き詰めている、清らかな渚であるものを。潮が満ちて来たので、我は飽き足らずして離れて行く。新羅国よりの帰途には、再びこの渚を見よう。
【評】 発船が迫っている日、一行は竹敷の浦の渚で、酒宴を開いて行楽をし、潮が打上げて来たので宴をやめる時、大使として挨拶の心をもって詠んだものと取れる。結句の「帰るさに見む」は、渚に対する愛着の深さをあらわす形のものであるが、一行の無事を祈る心もこめたものと取れる。時宜に適した歌である。
右の一首は、大使。
右一首、大使。
3707 秋山《あきやま》の 黄葉《もみち》を挿頭《かざ》し 我《わ》が居《を》れば 浦潮《うらしほ》満《み》ち来《く》 いまだ飽《あ》かなくに
安伎也麻能 毛美知乎可射之 和我乎礼婆 宇良之保美知久 伊麻大安可奈久尓
【語釈】 ○秋山の黄葉を挿頭し その季節の美しい黄葉を冠に挿してで、これは宴席に列する時には儀礼として行なっていたことである。ここも上に出た宴席である。○浦潮満ち来 「浦潮」は、浦に寄せる潮。「満ち来」は、満ちて来たで、これは発船の時である。○いまだ飽かなくに まだ酒宴に飽かないことであるのに。「なく」は、打消の助動詞「ず」の名詞形。
【釈】 秋山の黄葉を挿頭として、宴に列して我がいると、浦の潮が満ちて来た。まだ酒宴に飽かないことであるのに。
【評】 酒宴の会では、いつまでも興の尽きないことをいうのが礼となっている。この歌もその心のものである。「浦潮満ち来」は、発船の時という意のもので、それを背後に置かないと解し難いものである。儀礼のための歌で、文芸としてのものではないからである。歌才あり、品位ある歌である。
(375) 右の一首は、副使《そへのつかひ》。
右一首、副使。
3708 物《もの》思《も》ふと 人《ひと》には見《み》えじ 下紐《したひも》の したゆ恋《こ》ふるに 月《つき》ぞ経《へ》にける
毛能毛布等 比等尓波美要緇 之多婢毛能 思多由故布流尓 都奇曾倍尓家流
【語釈】 ○物思ふと人には見えじ 嘆きをしていると、他人には見られないだろう。「見えじ」は、見られないだろう。○下紐のしたゆ恋ふるに 「下紐の」は、下衣、または袴などの紐で、同音で「した」にかけた枕詞。「したゆ」は、内心をとおしてで、内心での意。「恋ふるに」は、家を恋うていて。○月ぞ経にける 月を経過したことであるよ。
【釈】 嘆きをしているとは、他人には見られないであろう。しかし下紐に因みある、したすなわち内心で家を恋うていて、月を経過したことであるよ。
【評】 発船直前の宴での歌は、上の三首だけで、以下は別れの時のものであるから、大使の歌であるが、改めて排列し直したものとみえる。旅愁を詠んだものであるが、大使としての位置を意識してのもので、それをいうことによって、一行を慰めようとする心のものとみえる。「物思ふと人には見えじ」と、誰にもそうは見られまいがと底を割って、じつはの心で、「下紐のしたゆ恋ふるに」と、我も内心では家を恋うているといったのである。大使としてそういう歌を示す必要があると感じてのものとみえる。おおらかな、落ちついた詠み方のものではあるが、「下紐のしたゆ恋ふるに」と心細かく、柔らかな言い方をしてあって、歌才の凡ならざることを思わせる歌である。
右の一首は、大使。
右一首、大使。
3709 家《いへ》づとに 貝《かひ》を拾《ひり》ふと 沖辺《おきべ》より 寄《よ》せ来《く》る浪《なみ》に 衣手《ころもで》ぬれぬ
伊敞豆刀尓 可比乎比里布等 於伎敞欲里 与世久流奈美尓 許呂毛弖奴礼奴
(376)【語釈】 略す。
【釈】 家苞として波打ち際の貝殻を拾うとて、沖のほうより寄せてくる浪に、わが袖が濡れた。
【評】 海辺へ遊びに出ていて、即興として詠んだ歌である。類想の多い歌で、歌を詠むということが興味で詠んだような歌である。「貝を拾ふと」というのが、事実であったかどうかも疑われるものといえよう。
3710 潮《しほ》干《ひ》なば またも吾《われ》来《こ》む いざ行《ゆ》かむ 沖《おき》つ潮騒《しほさゐ》 高《たか》く立《た》ち来《き》ぬ
之保非奈婆 麻多母和礼許牟 伊射遊賀武 於伎都志保佐爲 多可久多知伎奴
【語釈】 ○潮干なばまたも吾来む 潮が退いたならば、再びわれはここへ来ようで、前の歌と同じ時のものと取れる。○いざ行かむ さあ、この渚を離れて行こう。○沖つ潮騒高く立ち来ぬ 「沖つ潮騒」は、沖のほうでする、満潮に伴って起こる潮の響。「高く立ち来ぬ」は、音が高く立って来た。
【釈】 潮が退いたならば、またもわれはこの渚へ来よう。さあ、今は離れて行こう。沖の潮騒の響が高く立って来た。
【評】 これも上の歌と同じく、海辺へ遊んでの即興の作で、多分同じ場合のものであろう。こちらは実況に即して、心細かく、その場合の気分の動きをあらわしていて、手腕は遥かに上である。いささかの気分の動きを、品位を保ちつつさながらにあらわすのは、手腕がなくては堪えないことであるが、この歌はそれを遂げているといえる。
3711 わが袖《そで》は 手本《たもと》とほりて ぬれぬとも 恋忘貝《こひわすれがひ》 取《と》らずは行《ゆ》かじ
和我袖波 多毛登等保里弖 奴礼奴等母 故非和須礼我比 等良受波由可自
【語釈】 ○手本とほりてぬれぬとも 「手本」は、袖口の部分で、そこが濡れとおってしまおうとも。○恋忘貝取らずは行かじ 「恋忘貝」は、忘貝はその名によって、物を忘れさせる力があると信じていた貝で、ここは「恋」を冠して恋を忘れさせる力があるとしたもの。恋は家妻に対してである。「取らずは行かじ」は、拾い取らなければここを離れまいで、どうでも拾おうの意。
【釈】 わが衣の袖口は浪に濡れとおろうとも、恋忘貝を拾い取らなければここを離れ行くまい。
(377)【評】 忘貝は浪の寄せて来る物で、今の満潮時をその寄せる時とし、たとえ袂が濡れとおろうとも、どうでも拾い取ろうというのである。妻の恋しさに堪えかねる心を、眼前の状態に寄せていつているものである。類想の多い歌であるが、興味ではなく実感として詠んでいるので、強さがあって、気分となっている。
3712 ぬばたまの 妹《いも》が乾《ほ》すべく あらなくに 我《わ》が衣手《ころもで》を 濡《ぬ》れていかにせむ
奴婆多麻能 伊毛我保須倍久 安良奈久尓 和我許呂母弖乎 奴礼弖伊可尓勢牟
【語釈】 ○ぬばたまの妹が乾すべくあらなくに 「ぬばたまの」は、ここは「妹」にかかる枕詞となっている。例のないもので、解に諸説があるが、賀茂真淵は、「ぬばたまの夜」という関係から「寝」に転じさせて続けたものかといっている。気分を重んじた時代であるから、夜の連想から妹に転じたのであろう。「乾すべくあらなくに」は、乾すべくもないことだのに。「なく」は、否定の助動詞「ず」の名詞形。衣の始末をするのは妹の務めであった。○我が衣手を濡れていかにせむ わが袖を濡らして、どうしたらよいであろうと、当惑しているかのように大げさにしたもの。それがすなわち旅愁なのである。
【釈】 妹が乾すべくもないことなのに、このように、わが袖を濡らして、どうしたらよかろう。
【評】 浪に袖を濡らしたといういささかのことを、妹がいないのにどうしたらよかろうかと、当惑したようにいっている。旅愁をあらわそうとしてのことである。上の歌のいちずになっているのに較べると、軽い物である。『新考』は上の歌に和しての歌だろうといっている。独立の一首としては、取材がやや漠然としているので、前の歌とつながりがあると見ようとしたためであろう。そうも見え、それとすると連作か和《こた》えかであるが、詠み口から見て、和えと解したのであろう。うなずきうる解である。
3713 もみち葉《ば》は 今《いま》はうつろふ 吾妹子《わぎもこ》が 待《ま》たむといひし 時《とき》の経《へ》ゆけば
毛美知婆波 伊麻波宇都呂布 和伎毛故我 麻多牟等伊比之 等伎能倍由氣婆
【語釈】 ○もみち葉は今はうつろふ 「うつろふ」は、衰えてゆく。○吾妹子が待たむといひし時の経ゆけば 「待たむといひし時」は、出発の際、待とうといった時で、その「時」は、秋だったのである。自身告げたことを、妻を主にして言いかえたもの。「経ゆけば」は、過ぎて行ったので。
(378)【釈】 黄葉は今は衰えてゆく。出発の際妹が、帰りを待とうといった時が過ぎて行ったので。
【評】 眼前に黄葉の衰えてゆくのを見て、妹に約束した帰期の過ぎたのを思った心であるが、それを旅愁につなぎ、「吾妹子が待たむといひし時」と言いかえたのである。上の(三七〇一)の「待たむといひし時ぞ来にける」につながりのある歌である。独立した歌として見れば、巧みな歌である。
3714 秋《あき》されば 恋《こひ》しみ妹《いも》を 夢《いめ》にだに 久《ひさ》しく見《み》むを 明《あ》けにけるかむ
安伎佐礼婆 故非之美伊母乎 伊米尓太尓 比佐之久見牟乎 安氣尓家流香聞
【語釈】 ○秋されば恋しみ妹を 「秋されば」は、秋となったのでで、秋は夜長の時である意でいっているもの。「恋しみ妹」は、「恋しみ」は、形容詞「恋し」に「み」を続け、それに動詞の働きをさせたもので、「恋しき」の意。『新考』は、「早み浜風」「早み早|湍《せ》」「奇しみ玉」などと同じ形のものだといっている。○夢にだに久しく見むを せめて夢にだけでも長く逢っていようものを。○明けにけるかも 夜が明けてしまったことであるよと詠歎したもの。妹を思って眠れず、したがって夢も見られなかったことを暗示している。
【釈】 秋となったので恋しい妹を、せめて夢になりとも長く逢おうものを、夜が明けてしまったことであるよ。
【評】 秋の夜の長く肌寒い時は、別して妹が思われることは常識になっていて、この歌はその上に立ってのものである。「夢にだに」以下は、妹を思う心から眠れなかったことを背後に置いていっているものである。一首、秋の夜の旅愁を、気分としていおうとしたために、説明的となり、十分にあらわせなかった感のある歌である。
3715 独《ひとり》のみ 著《き》ぬる衣《ころも》の 紐《ひも》解《と》かば 誰《たれ》かも結《ゆ》はむ 家遠《いへどほ》くして
比等里能未 伎奴流許呂毛能 比毛等加婆 多礼可毛由波牟 伊敞杼保久之弖
【語釈】 ○独のみ 「独」は、妹とあった時に対させていっているもので、旅の身とて自分一人だけいて。○著ぬる衣の紐解かば 現に着ている衣の紐を解いたならば。これは夜も丸寝をして、紐を解いて、衣を脱ぐことをしなかったことをいっているもの。○誰かも結はむ 「かも」は、疑問の係で、誰がその紐を結んでくれようかで、逢って別れる時、衣の紐を結ぶのは妹のすることだとして、その妹の居ないことをいっているもの。○家遠くして 家より遠く在って。「家」は、妹の家で、妹を言いかえたもの。
(379)【釈】 自分独りでだけいて、この着ている衣の上紐を解いたならば、誰が結んでくれようか。妹の家に遠くいて。
【評】 夜、いつものように丸寝をしようとして、妹を恋しく思った心のものである。独寝をする時には、衣を脱がず、したがって紐も解かず、また夫妻逢って別れる時には、妻が夫の紐を結ぶのが習慣だったので、その上に立っての心である。衣の紐を解き結ぶこと自体は、いうにも足りないことであるのに、妻が居ないとそれができないかのように大げさにいっているのがすなわち旅愁である。当時にあっては親しみのある歌だったのである。
3716 天雲《あまくも》の たゆたひ来《く》れば 九月《ながつき》の 黄葉《もみち》の山《やま》も うつろひにけり
安麻久毛能 多由多比久礼婆 九月能 毛美知能山毛 宇都呂比尓家里
【語釈】○天雲のたゆたひ来れば 「天雲の」は、譬喩として「たゆたひ」にかかる枕詞。「たゆたひ」は、猶予逡巡する意で、諸処に碇泊して、手間取って来たので。○九月の黄葉の山も 九月の黄葉した山も。○うつろひにけり 「うつろひ」は、ここは衰える意と取れる。「に」は、完了の助動詞。衰えてしまったことだ。
【釈】 天雲のようにゆっくりと手間取って来たので、九月の黄葉の山も、衰えてしまったことである。
【評】 九月の、黄葉の衰えつくした山に対して、任務を大観しての心である。この歌は旅愁には触れず、任務の重大さのみを思ったものである。歌柄がその心にふさわしく大きく、経て来た航路を、「天雲のたゆたひ来れば」といっているのが、適切である。作歌にも熟した人である。一行中の位置高い人の作かと思われる。
3717 旅《たび》にても 喪《も》なく早《はや》来《こ》と 吾妹子《わぎもこ》が 結《むす》びし紐《ひも》は 褻《な》れにけるかも
多婢尓弖毛 毛奈久波也許登 和伎毛故我 牟須妣思比毛波 奈礼尓家流香聞
【語釈】 ○旅にても喪なく早来と 「旅にても」は、旅にあってもで、旅は凶事のありがちなものとしていったもの。「喪なく」は、凶事なく。「早来と」は、早く帰って来よといって。○吾妹子が結びし紐は 妻が上のごとくいって結んだわが衣の紐で、そのいったことは、言霊の助けがあると信じていったもの。「結びし紐」は、結ぶことそのことに呪力があると信じ、祝いの語は遂げられると信じてのことであって、共に上代の信仰である。○褻れにけるかも 「褻れ」は、着馴れて、くたくたに萎える意。「に」は、完了で、くたくたになってしまったことであるよ。
(380)【釈】 旅でも凶事がなくて早く帰っていらっしゃいといって、かわゆい妹が結んでくれた紐は、なえてしまったことだなあ。
【評】 自身の衣の紐のくたくたになってしまったのを見て、旅の日の久しさを嘆いた心である。妻は、紐についての連想の形になっていて、この歌では主になっていない。その点、旅愁ではあるが、他のほとんど全部の歌とは色合いを異にしている。しかし心としては異なるものではなく、作者の人柄がしっかりしていて、物言いがさっぱりしているところから来る相違である。個性的というに近い。
筑紫《つくし》に廻《かへ》り来て、海路より京に入るに、播磨国の家島《いへしま》に到りし時、作れる歌五首
【解】 「筑紫に廻り来て」は、新羅国での任を果たして、廻航して筑紫へ来て。この時の一行の事情は、大使は対馬に船が泊てた時にすでに没し、副使は病んで、一行の長は大判官壬生宇太麿だったとみえる。それは続日本紀、天平九年正月二十七日に、京に入った者は宇太麿以下だけだったので知られる。
3718 家島《いへしま》は 名《な》にこそありけれ 海原《うなはら》を 吾《あ》が恋《こ》ひ来《き》つる 妹《いも》もあらなくに
伊敞之麻波 奈尓許曾安里家礼 宇奈波良乎 安我古非伎都流 伊毛母安良奈久尓
【語釈】 ○家島は名にこそありけれ 家島というのは、名だけのことであった。上代は物の名には、その名のとおりの実が伴っているものだという信仰を持っていた。ここもそれである。○妹もあらなくに 妹も居ないことだ。「なく」は、打消の助動詞「ず」の名詞形。「に」は、詠歎の助詞。
【釈】 家島は名だけのことである。広い海を、恋うて来たところの妹も居ないことだ。
【評】 帰路に向かっての妻を恋うる心は察しられるものがある。家島という名によって妻を連想したのは、伝統の信仰の伴ってのことで、語戯ではなかったのである。調べは、細いながらに直線的にしみじみしていて、実感であることを裏付けしている。
3719 草枕《くさまくら》 旅《たび》に久《ひさ》しく あらめやと 妹《いも》にいひしを 年《とし》の経《へ》ぬらく
久左麻久良 多婢尓比左之久 安良米也等 伊毛尓伊比之乎 等之能倍奴良久
(381)【語釈】 ○あらめやと 居ようか、居はしまいと。「や」は、反語。出発の際のこと。○年の経ぬらく 年を経てしまったことであるよで、「ぬらく」は、完了の「ぬる」の名詞形。詠歎したもの。すでに翌年の正月に入っていたのである。
【釈】 草枕の旅に久しく居ようか、居はしまいと、妻にいったのに、年を越してしまったことであるよ。
【評】 旅の日程の甚しくも延びたことに対しての感慨である。予定の帰期は秋であったのに、翌年の正月になっていたのである。こうした感慨は、帰路のほうがかえって強く、今は京に近い所まで来ているので、一段と強かったろうと思われる。帰期を妻によってあらわしているのは旅愁からである。
3720 我妹子《わぎもこ》を 行《ゆ》きて早見《はやみ》む 淡路島《あはぢしま》 雲居《くもゐ》に見《み》えぬ 家《いへ》づくらしも
和伎毛故乎 由伎弖波也美武 安波治之麻 久毛爲尓見延奴 伊敞都久良之母
【語釈】 ○雲居に見えぬ 「雲居」は、雲のいるところで、遠くの意のもの。○家づくらしも 「家づく」は、家に近づく意。「づく」は、塩けづくなど、沁みる意にも用いる。「らし」は、強い推量。
【釈】 妻を、早く行って見よう。淡路島が遠くに見えて来た。家に近づくらしいなあ。
【評】 旅愁の範囲のものであるが、逢い難い嘆きから一転して、逢おうとする歓びとなっているものである。調べは、この時代風な低いものであるが、心の躍動をあらわし得ていて、一首を気分的なものにしている。
3721 ぬばたまの 夜明《よあか》しも船《ふね》は こぎ行《ゆ》かな 御津《みつ》の浜松《はままつ》 待《ま》ち恋《こ》ひぬらむ
奴婆多麻能 欲安可之母布祢波 許藝由可奈 美都能波麻末都 麻知故非奴良武
【語釈】 ○ぬばたまの夜明しも船はこぎ行かな 「ぬばたまの」は、夜の枕詞。「夜明し」は、徹夜の意で、現在も口語として用いているもの。「も」は、もまた。「こぎ行かな」の「な」は、自己に対しての願望。○御津の浜松 「御津」は、難波の御津で、その乗った船の泊てる津。「浜松」は、浜辺に立っている松。○待ち恋ひぬらむ 待ち焦がれていようで、「ぬ」は、完了。それを添えることによって強めたもの。この四、五句は、巻一(六三)山上憶良の歌と同じであり、それを襲ったものである。
【釈】 夜明かしをしても船は漕いで行こうよ。御津の浜松が、待ち焦がれをしていよう。
(382)【評】 難波津に近い辺りまで来て、妻を早く見たい思いに駆られている心である。「御津の浜松待ち恋ひぬらむ」は、憶良が遣唐使の随員となって唐にいて詠んだ歌で、本集巻一にも収められており、場合がら、謡い物の文句のごとく口に出て来たものであろう。この歌自体としても口誦的のもので、心に浮かぶままをいったごときものだからである。その意味では心利いたものである。一首の歌としては、よいものではない。
3722 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の泊《とまり》に 船《》泊《ふねは》てて 立田《たつた》の山《やま》を 何時《いつ》か越《こ》え往かむ
大伴乃 美津能等麻里尓 布祢波弖々 多都多能山乎 伊都可故延伊加武
【語釈】 ○大伴の御津の泊に 「大伴の」は、難波を含むやや広範囲の地名で、御津を重くいうために添えたもの。「大伴の御津」と慣用しているので、枕詞に近い。「泊」は、船着き場の総称。○何時か越え往かむ いつ越えてゆくことだろうか。「何時か」は、早く越えて行きたい意のもの。
【釈】 大伴の御津の船着き場に船が碇泊して、竜田山をいつ越えて行くことだろうか。
【評】 航路が難波津近くなると、心は京へ飛んで、竜田山を越える時が待ち遠くもどかしくなっている気分である。以上五首、作者はそれぞれ異なっているが、船が難波に近づぐにつれて、次第に昂奮の情を高めて来るところは、さながらに一人の連作のような感がある。
以上で遣新羅使一行の歌は終わっている。
中臣朝臣|宅守《やかもり》の、狭野弟上娘子《さののおとがみのをとめ》と贈り答ふる歌
【題意】 右の題詞は、目録と異なっており、そちらは今少しく委しくて、「中臣朝臣宅守娶2蔵部女嬬狭野弟上娘子1之時、勅断2流罪1配2越前国1也。於v是夫婦相2嘆易v別難1v会、各陳2慟情1贈答歌六十三首」とある。「嬬」は、「嫂」となっている本があり、したがって問題となっていたが、「嬬」が正しく、官名である。「中臣朝臣宅守」は、ここにある他には、続日本紀、天平宝字七年正月の条に、従六位上より従五位下を授けられたことが見えるだけで、伝は詳らかでない。「蔵部」は、斎宮寮十二司の一つである蔵部司で、「女嬬」は官名である。下級の官で掃除などを掌る職である。「狭野」は氏、「弟上」は名かとされている。「弟」は「茅」とある本もあって、明らかでない。結婚によって罪に処せられたのは、斎宮寮の女官はそのことを禁じられていたためである。配所としての越前は、続日本紀、神亀元年、配流の遠近を定められた条に、近流の中に加えられている地である。宅守の配流の年月は記録されていない。続日本紀、天平十二年に大赦の事があり、大辟以下の者は勅をもって皆赦されたが、その中(383)に「不v在2赦限1」とされた者が数人あり、宅守もその中に加えられている。これは配所に在る間が短きにすぎるとしてのことであろう。それだと、天平十二年を溯ること遠くない時である。赦免の年月も記録がなく、天平宝字七年宅守の昇位以前のある時と知られるのみである。
3723 あしひきの 山路《やまぢ》越《こ》えむと する君《きみ》を 心《こころ》に持《も》ちて 安《やす》けくもなし
安之比奇能 夜麻治古延牟等 須流君乎 許々呂尓毛知弖 夜須家久母奈之
【語釈】 ○あLひきの山路越えむとする君を 「あしひきの」は、山の枕詞。「山路」は、山に向かう路、山中の路の二義がある。ここは後者。「山路越えむとする君」は、遠国へ行こうとする君を、感性をとおしていったもの。旅をすることのなかった女の心からの言い方。○心に持ちて安けくもなし 「心に持ちて」は、心に抱いてというと同じで、「思って」を具象的にいったもの。「安けく」は、安しの名詞形で、強めた形。
【釈】 あしひきの山路を越して行こうとする君を、心に思いとおして、安らかな時はない。
【評】 宅守の配所へ発足する以前に贈った歌である。ただ宅守その人を思っているだけで、他には触れようとしていない心である。「山路越えむと」「心に持ちて」など、感性的の語を無意識に用いている点が目につく。女性特有の感性である。
3724 君《きみ》が行《ゆ》く 道《みち》の長手《ながて》を 繰《く》り畳《たた》ね 焼《や》き亡《ほろ》ぼさむ 天《あめ》の火《ひ》もがも
君我由久 道乃奈我弖乎 久里多々祢 也伎保呂煩散牟 安米能火毛我母
【語釈】 ○君が行く道の長手を 「道の長手」の「手」は、伸びて続いている土地の称で、道のその長い続きをの意。○繰り畳ね 「繰り」は、手繰るという意のそれで、長い物を繰り寄せて畳んで、一つにして。「畳ね」は、「畳なはる」「畳なづく」など、ナ行にも活用したのである。○焼き亡ぼさむ天の火もがも 「焼き亡ぼさむ」は、道を焼いて無くしてしまう。「天の火」は、神秘なる火で、そうした火の存在が信じられていたのである。「もがも」は、願望。
【釈】 君が行く道のその長い続きを、手繰り寄せて畳んで、焼いて無くなしてしまう神秘な火のほしいことだ。
【評】 行くべき道さえ無くなれば、行かずに済むときめての願望である。天の火はそうしたこともできるとし、その現われを願っている心で、さながら童のような空想である。しかし調べは、思い詰めた心よりの語であることを示しているものである。(384)全く理を失って、いわゆる情痴に陥った心であるが、それをあらわす語は、続きが確かで、破綻のないものである。歌才のさせていることである。この歌は人口に膾炙《かいしや》しているが、それは情熱と具象化の才との魅力からで、人間性の深さに触れての、含蓄というような意味ではない。上の歌と同じく、発足前のも のである。
3725 わが背子《せこ》し 蓋《けだ》し罷《まか》らば 白栲《しろたへ》の 袖《そで》を振《ふ》らさね 見《み》つつ偲《しの》はむ
和我世故之 氣太之麻可良婆 思漏多倍乃 蘇〓乎布良左祢 見都追志努波牟
【語釈】 ○わが背子し蓋し罷らば 「わが背子」は、きわめて親しんでの称で、「し」は、強意。「蓋し」は、もしあるいは、の意の副詞。「罷らば」は、京を退去するならば。○白栲の袖を振らさね 「白栲の」は、実際の状態が枕詞的になったもの。「振らさね」は、「振れ」の敬語に、「ね」の願望の添ったもの。お振り下さい。袖を振るのは離れて心を通わす方法で、既出。○見つつ偲はむ その袖を見つつ慕おう。
【釈】 わが背子が、もし京を退去するならば、白栲の袖をお振り下さい。それを見つつ君を思慕しましょう。
【評】 「蓋し罷らば」は、流罪と定められている宅守に対し、あるいはその事の許されることがありはしないかと空想する心を、背後に置いての語であろう。「袖を振らさね」は、一転して、自身の心細さをいっているもので、一首の中に矛盾した心を持っているものである。これは女心の実際であろうが、それをそのままにあらわし得ているのは、才情のさせることである。
3726 この頃《ころ》は 恋《こ》ひつつもあらむ 玉匣《たまくしげ》 明《あ》けてをちより 術《すべ》なかるべし
己能許呂波 古非都追母安良牟 多麻久之氣 安氣弖乎知欲利 須辨奈可流倍思
【語釈】 ○この頃は恋ひつつもあらむ 「この頃は」は、下の続きで見ると、今日までは、の意。「恋ひつつもあらむ」は、恋いながらもいよう。○玉匣明けてをちより 「玉匣」は、美しい櫛笥で、蓋をあける意で「明け」の枕詞。既出。「明けて」は、夜明けてで、宅守の発足が明日と定まっての日の前夜。「をち」は、遠で、彼方。「より」は、から。明日からは。○術なかるべし せん術のないことであろうで、恋しさを超えての心。
【釈】 この頃は恋いながらもいよう。玉匣に因む夜が明けての明日からは、何ともせん術のないことであろう。
【評】 宅守の発足の前夜に贈ったものである。気分としては黙ってはいられないものの、事としてはいうことのない境を、無理なく一首にしたものである。「玉匣明けてをちより」は、美しい、拡がりを持った句である。
(385) 右の四首は、娘子《をとめ》の別に臨みて作れる歌。
右四首、娘子臨v別作歌。
【解】 歌だけを贈ったものとみえる。事情がら、当然のことであったろう。
3727 塵泥《ちりひぢ》の 数《かず》にもあらぬ 吾《われ》故《ゆゑ》に 思《おも》ひ侘《わ》ぶらむ 妹《いも》が悲《かな》しさ
知里比治能 可受尓母安良奴 和礼由惠尓 於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐
【語釈】 ○塵泥の数にもあらぬ吾故に 「塵泥の」は、塵や泥のごとくの意で、価値のないことの譬喩。「数にもあらぬ」は、物の数の中には加えられない。「吾故に」は、われのために。○思ひ佗ぶらむ妹が悲しさ 「思ひ侘ぶ」は、熟語で、嘆きわずらうで、連体形。「悲しさ」は、かわいそうなことよで、名詞形。詠歎したもの。
【釈】 塵や泥のような、物の数でもないわれのために、嘆きわずらうであろう妹の、わかいそうなことよ。
【評】 「塵泥の数にもあらぬ吾」という卑下の語は、今は自分と娘子の身とを大観して、娘子のほうを主として物をいおうとしている場合であるから、当時の習慣に従って自身を卑下したものと思われる。それにしても、官人生活を標準とした言い方で、儀礼的な匂いのあるものである。一首、純情ではあるが、気魄に乏しく、その上では娘子に圧しられる趣がある。
3728 あをによし 奈良《なら》の大路《おほぢ》は 行《ゆ》きよけど この山路《やまみち》は 行《ゆ》き悪《あ》しかりけり
安乎尓与之 奈良能於保知波 由吉余家杼 許能山道波 由伎安之可里家利
【語釈】 ○行きよけど 「よけど」は、形容詞「よし」の已然形「よけ」に、「ど」の接したもので、良いけれどもの意。○この山路は行き悪しかりけり 「この山路」は、今歩いている山路を指しているのであるが、どこの山路かは明らかでない。続きの歌に「み越路の手向」とあるから、その登り路を指しているかと取れる。「行き悪しかりけり」は、行き悪しくあったことだと、詠歎したもの。
【釈】 あおによし奈良京の大路は歩きよいけれども、この山路は、歩きにくいことであった。
(386)【評】 山の険路を歩きながら、奈良の大路をなつかしく思う心で、単純に、他意なく詠んでいるところに、その人柄を思わせるものがある。
3729 愛《うるは》しと 吾《あ》が思《も》ふ妹《いも》を 思《おも》ひつつ 行《ゆ》けばかもとな 行《ゆ》き悪《あ》しかるらむ
宇流波之等 安我毛布伊毛乎 於毛比都追 由氣婆可母等奈 由伎安思可流良武
【語釈】 ○愛しと 幅の広い語であって、深く讃える意。甚だかわゆいと。○行けばかもとな 「行けばか」は、「か」は、疑問の係。「もとな」は、ここは、理由もなく。
【釈】 深くかわゆいとわが思っている妹を思いながら歩いて行くので、理由もなく、このように歩きにくいのであろうか。
【評】 前の歌と連作になっていて、同時の歌である。前の歌は、「行き悪し」ということにつき第一に思ったのは、奈良の大路の恋しさであったが、ついで思い返して、それほど悪い路ではないのに、行き悪しく感じるのは、妹を思いながらに行く気のせいであろうかということであった。やや手腕ある作者なら、二首を一首にしたであろう。宅守の正直な、よい歌をなどとは思わなかった人柄を思わせる連作である。
3730 畏《かしこ》みと 告《の》らずありしを み越路《こしぢ》の 手向《たむけ》に立《た》ちて 妹《いも》が名《な》告《の》りつ
加思故美等 能良受安里思乎 美故之治能 多武氣尓多知弖 伊毛我名能里都
【語釈】 ○畏みと告らずありしを 「畏みと」は、恐るべきこととして。「告らずありしを」は、口に出していわずにいたものをで、「を」は、詠歎の助詞。告るのは結句の「妹が名」である。上代の信仰として、その人の名を呼ぶと、呼ばれた人の魂はその身から遊離して、呼ぶ人のほうへ寄って来るものとしていた。魂が身から遊離することは、その人の命を危険にすることであった。「畏みと」は、その意でいっているもの。○み越路の手向に立ちて 「み越路」は、「み」は、美称。「越路」は、越の国へ行くべき路。「越」は、古くは、越前、越中、越後の総称であった。ここは配所の越前国。「手向」は、手向の祭をする所の総称で、旅人の越えるべき山には、山腹あるいは山頂に手向をする一定の場所があり、そこで道中の無事を祈る祭をしたのである。「み越路の手向」は、近江国より越前国へ越えるべき愛発山《あらちやま》(滋賀県高島郡マキノ町から福井県敦賀市山中へ越える)のそれと取れる。○妹が名告りつ 妹が名を口に出してしまったの意。飛躍のある言い方のようであるが、み越路の手向を過ぎると、当時としては、全く異なる世界へ移るような感がして、哀感に堪えかねて、妹に救いを求めずにはいられない状態に陥ったのである。三、四句は(387)その理由を説明したものである。
【釈】 恐るべきこととして、口に出さずにいたものを。越の国へ行くべき道の手向に立って、妹が名を呼んでしまった。
【評】 この歌は、当時の信仰と、交通不便の状態を背後に置いてのもので、現在からは間接であるが、当時にあっては直接な、親しい感のするものであったろう。宅守の歌は、その感性も鋭くはなく、詠み方も大体説明的で、線の細いものであるが、この歌は、感情の昂揚した自然の成行きとして、一首叙事的で、調べも張っており、宅守としては特異な趣を持ったものとなっている。現在から見ると結句は飛躍のあるものにみえ、それが味わいをなしている。
右の四首は、中臣朝臣宅守の、道に上《のぼ》りて作れる歌。
右四首、中臣朝臣宅守、上v道作歌。
3731 思《おも》ふ故《ゑ》に 逢《あ》ふものならば 暫《しまし》くも 妹《いも》が目《め》離《か》れて 吾《あれ》居《を》らめやも
於毛布惠尓 安布毛能奈良婆 之末思久毛 伊母我目可礼弖 安礼乎良米也母
【語釈】 ○思ふ故に逢ふものならば 「思ふ故に」の「故」は、「ゆゑ」の「ゆ」が上の「ふ」に吸収されて、「ゑ」のごとく聞こえたものと取れる。「逢ふものならば」は、逢えるものであるならば。○妹が目離れて 「妹が目」は、「目」は、顔を代表させたもの。「離れて」は、遠ざかってで、見ずにの意。○吾居らめやも 「や」は、反語。
【釈】 思うがゆえに逢えるものであったならば、しばらくの間でも、妹が顔を離れてわが居ようか、居はしない。
【評】 相思の間だと、思えば逢えるということの上に立ち、思っても違えない現在の状態を悲しんでいる心である。心としては普通のものであるが、それを強くいおうとして屈折をつけ、説明的にいっているために、かえって感の弱いものとなっている。
3732 あかねさす 昼《ひる》は物《もの》思《も》ひ ぬばたまの 夜《よる》はすがらに 哭《ね》のみし泣《な》かゆ
安可祢佐須 比流波毛能母比 奴婆多麻乃 欲流波須我良尓 祢能未之奈加由
(388)【語釈】 ○あかねさす昼は物思ひ 「あかねさす」は、日の枕詞を、昼に転じたもの。既出。「物思ひ」は、嘆きをしで、連用形。○ぬばたまの夜はすがらに 「ぬばたまの」は、夜の枕詞。「すがらに」は、専らで、夜を通じて。○哭のみし泣かゆ 「哭」は、泣くの名詞形。「のみ」は、強め。「し」も、同じ。「泣かゆ」は、泣かれる。
【釈】 あかねさす昼は嘆きとおして、ぬばたまの夜は、夜どおし泣きにのみ泣かれる。
【評】 上の歌を叙事的に言いかえたものである。同じく説明的ではあるが、気分が調べになっているために、感のあるものとなり得ている。
3733 吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》の衣《ころも》 なかりせば 何物《なにもの》もてか 命《いのち》継《つ》がまし
和伎毛故我 可多美能許呂母 奈可里世婆 奈尓毛能母弖加 伊能知都我麻之
【語釈】 ○吾妹子が形見の衣 妻がその身代わりとして贈った衣。その人の身に着いていた物には、その人の魂が宿っているとする信仰が伴っていた。○なかりせば 「せば」は、反実仮設で、現に身に着けているのであるが、もしもこれがなかったならば。○何物もてか命継がまし 「もてか」は、「か」は、疑問の係。「もて」は、古くは「もち」または「もちて」とのみいったのを、この頃から新たに生まれたもので、巻十八(四〇八一)「片思を馬に太馬《ふつま》に負せ持て」の用例もある。「もちて」にあたる。「命継がまし」は、命を続けようで、「まし」は、上の「せば」の結。何物をもって命を続けようか。
【釈】 吾妹子の形見の衣がもしもなかったならば、何物をもってわが命を続けようか。
【評】 娘子から贈られた衣を着ることによって、娘子の魂がいつも共にあると信じて、それに慰められている感謝である。信仰上に立っての歌である。逆説的にいっているのは感を強めようがためで、この歌は遂げ得ている。
3734 遠《とほ》き山《やま》 閑《せき》も越《こ》え来《き》ぬ 今更《いまさら》に 逢《あ》ふべき由《よし》の 無《な》きがさぶしさ
等保伎山 世伎毛故要伎奴 伊麻左良尓 安布倍伎与之能 奈伎我佐夫之佐
【釈】 ○遠き山関も越え来ぬ 「遠き山」は、京より遠い山で、前に出た愛発山。「関」は、関所。当時、日本三関と称せられて、東海道には鈴鹿、東山道には不破、北陸道には愛発の関があった。愛発の関は愛発山にあった。ここはその関である。○無きがさぶしさ 「さぶしさ」は、名(389)詞形で、詠歎を含んだ形。関を越えると、還り難いものとしていっているので、この「さぶし」は心深いものである。
【釈】 京より遠い山も、また関も越えて来た。今はもう逢うべき方法のないのがさみしいことだ。
【評】 上の三首は甚しく昂奮したものであったが、この歌は心鎮まるとともに、流人としての自身の現状を明らかに意識し、京とは絶縁された別世界の者としてのさみしさをいっているものである。以上の歌と連作関係にあるものとして見ると、感情の起伏が趣となっている。
一に云ふ、さびしさ
一云、左必之佐
【解】 古くは「さびし」という語はなく、本集には用例がない。後世の書写本にあったと思われる。
3735 思《おも》はずも 実《まこと》あり得《え》むや さ寝《ぬ》る夜《よ》の 夢《いめ》にも妹《いも》が 見《み》えざらなくに
於毛波受母 麻許等安里衣牟也 左奴流欲能 伊米尓毛伊母我 美延射良奈久尓
【語釈】 ○思はずも実あり得むや 「思はずも」は、妹を思わずしてで、「も」は、詠歎。「実あり得むや」は、ほんとうに居られようか、居られはしないで、「や」は、反語。「や」が反語をなす場合には、已然形「め」に接するのが法であるのに、ここは「む」に接していて、異例である。作意は強いもので、反語と取れるのである。○さ寝る夜の夢にも 「さ」は、接頭語。「夢にも」は、夢にもまた。○見えざらなくに 見えなくはないことだのに。見えるということを、逆説的に否定を二つ重ねていったもので、これは強くあらわそうとする要求からのことである。人がこちらの夢に見えるのは、その人がこちらを思っているからだということは、一般に信じられていたことで、ここもその意のものである。
【釈】 あなたを思わずにほんとうに居られようか、居られはしない。寝る夜の夢にも、あなたが見えなくはないことだのに。
【評】 娘子の夢を見て、また感情の昂揚した歌である。わが思っている娘子もまた、同じく我を思っているという確信を得たので、思う心が一段と高まり、それをそのままに披瀝したものである。この人の詠み癖である説明的なところと、逆説的な言い方とを持ってはいるが、それにもかかわらず盛りあがって来るところがあり、調べも張っていて、平面的になりがちな風を脱している。この人としては良い歌である。
(390)3736 遠《とほ》くあれば 一日一夜《ひとひひとよ》も 思《おも》はずて あるらむものと 思《おも》ほしめすな
等保久安礼婆 一日一夜毛 於母波受弖 安流良牟母能等 於毛保之賣須奈
【語釈】 ○遠くあれば一日一夜も 遠く隔たっているので、一日一夜の間だけでもの意。○思はずてあるらむものと あなたを思わずにいるだろうとは。○思ほしめすな 「思ふな」の敬語。女性に対しての慣用であるが、それとしても鄭重なものである。
【釈】 遠ざかっているので、一日一夜の間だけでも、あなたを思わずにいるだろうとは、お思いくださるな。
【評】 「遠ざかる者は、日々に疎し」という語を心に置いてのものであろう。歌としては、常識的なことを、説明の形で訴えたもので、平凡にすぎるものである。結句の敬語も鄭重にすぎる。
3737 人《ひと》よりは 妹《いも》ぞも悪《あ》しき 恋《こひ》もなく あらましものを 思《おも》はしめつつ
比等余里波 伊毛曾母安之伎 故非毛奈久 安良末思毛能乎 於毛波之米都追
【語釈】 ○人よりは妹ぞも悪しき 他人よりも、妹のほうがいけないことだ。「悪しき」は、「ぞ」の結。詠歎したもの。○思はしめつつ 嘆きをさせ続けて。
【釈】 他人よりは妹のほうがいけないことである。恋をせずにいたろうものを。嘆きをさせつづけて。
【評】 恋の悩ましさから、関係を結んだことを悔いる歌は限りなくあるが、その多くは女の歌である。男の歌もあるが、大体知性的である。この歌は女の歌に似、しかも気分的である。この人の性格より来るものである。
3738 思《おも》ひつつ 寝《ぬ》ればかもとな ぬばたまの 一夜《ひとよ》もおちず 夢《いめ》にし見《み》ゆる
於毛比都追 奴礼婆可毛等奈 奴婆多麻能 比等欲毛意知受 伊米尓之見由流
【語釈】 ○寝ればかもとな 「寝ればか」は、疑問条件法で、結句の「見ゆる」で結んでいる。「もとな」は、由なくも。
(391)【釈】 妹を思いつつ寝るゆえか、由なくも、夜を欠かさずに夢に見えることである。
【評】 上の歌と同じく夢をいっているが、この夢は上とは異なり、上の夢は妹が我を思うゆえのものであるが、これは我が妹を思うゆえのもので、思寝の夢である。夢にはこの両様の解がされていたのである。わが心より見る夢の、我を嘆かせる愚痴をいっているので、「もとな」はその意のものである。上の(三六四七)「吾妹子が如何に思へかぬばたまの一夜もおちず夢にし見ゆる」に酷似している。
3739) かくばかり 恋《こ》ひむとかねて 知《し》らませば 妹《いも》をば見《み》ずぞ あるべくありける
可久婆可里 古非牟等可祢弖 之良末世婆 伊毛乎婆美受曾 安流倍久安里家留
【語釈】 ○恋ひむとかねて 恋うるだろうと前もって。
【釈】 これほどまでに恋うるだろうと、前もって知ったならば、あなたを見ないでいるべきであったことだ。
【評】 類想の多い歌で、愚痴の中でも最も常識的なものである。この人の性格によって気分化されているところはある。
3740 天地《あめつち》の 神《かみ》なきものに あらばこそ 吾《あ》が思《も》ふ妹《いも》に 逢《あ》はず死《しに》せめ
安米都知能 可未奈伎毛能尓 安良婆許曾 安我毛布伊毛尓 安波受思仁世米
【語釈】 ○天地の神なきものにあらばこそ 天地の神がないものなら。○逢はず死せめ 逢わずして、死にもしようで、「め」は、推量の助動詞「む」の已然形で、「こそ」の結。
【釈】 天地の神がないものであるならば、わが思っている妹に逢わずして死にもしよう。
【評】 以上四首、女々しい愚痴ばかり言い続けて来たが、心一転して、積極的に将来を頼む心となって来ている。それは神の加護を信ずる心よりのことで、当時の人には普通のことだったのである。その意味では、平常の心に復したというべきである。巻四(六〇五)笠女郎の歌に、「天地の神し理《ことわり》なくばこそ吾が念ふ君にあはず死せめ」とあって、全く同想である。双互の間に影響があったとは思われないから、共通の信仰のみならず、逆説的な詠み方の上にも、何らかの根拠となるものがあったかと(392)も思われる。
3741 命《いのち》をし 全《また》くしあらば あり衣《ぎぬ》の 在《あ》りて後《のち》にも 逢《あ》はざらめやも
伊能知乎之 麻多久之安良婆 安里伎奴能 安里弖能知尓毛 安波射良米也母
【語釈】 ○命をし全くしあらば 「命をし」は、「を」は、感動の助詞、「し」は、強意の助詞で、命よ、というにあたる。「全くしあらば」は、「全く」は、欠ける所のない意で、無事というにあたる。「し」は、強意。○あり衣の在りて後にも 「あり衣の」は、鮮やかな衣のの意で、同音で「在り」にかかる枕詞。「在りて後に」は、「在り」は、生きていての意。「も」は、詠歎。○逢はざらめやも 「や」は、反語。妹に逢わずにいようか、いはしないことよ。
【釈】 命が無事であったならば、あり衣の世に在ってのこの後に、妹に逢わずにあろうか、ありはしない。
【評】 上の歌よりもさらに積極性を前進させたものである。神の加護ということに直接には触れず、「命をし全くしあらば」と、生命そのものに言いかえて、その生命と愛着の情とを同等のものとしているのである。感傷的気分の一面である。いさぎよく聞こえる。
一に云ふ、在りての後も
一云、安里弖能乃知毛
【解】 生きていて、後にまた。
3742 逢《あ》はむ日《ひ》を その日《ひ》と知《し》らず 常闇《とこやみ》に いづれの日《ひ》まで 吾《あれ》恋《こ》ひ居《を》らむ
安波牟日乎 其日等之良受 等許也未尓 伊豆礼能日麻弖 安礼古非乎良牟
【語釈】 ○逢はむ日をその日と知らず 妹に逢える日を、いつとも知れずにで、「知らず」は、連用形。罪科の許される日の、知られずにの意である。○常闇にいづれの日まで 「常闇」は、永久の闇で、初二句を総括して、語を換えたもの。「いづれの日まで」は、いつの日まで。
【釈】 妹に逢える日を、いつの日とは知れずに、永久の闇の中に、いつの日までわれは恋うているのであろうか。
(393)【評】 流人としての自身の現状を大観しての嘆きで、赦免の日の目あてのつかないことに中心を置いていっているものである。二句に「その日」といい、四句に「いづれの日」といって繰り返しているのはそのためである。しつこくいっているために気分的になり得ている。弱い歌ではない。
3743 旅《たび》といへば 言《こと》にぞ易《やす》き 少《すくな》くも 妹《いも》に恋《こ》ひつつ 術《すべ》なけなくに
多婢等伊倍婆 許等尓曾夜須伎 須久奈久毛 伊母尓戀都々 須敞奈家奈久尓
【語釈】 ○言にぞ易き 言葉としてはやすいことであるで、「易き」は、「ぞ」の結、連体形。詠歎してのもの。○少くも これは強い否定をなす意の語で、けっして無いの意で、結句「術なけなくに」に続くもの。○術なけなくに 「なけなくに」は、「なけ」は形容詞「なし」の未然形の古い形。それに「なくに」が接して、術がないではないことだのにで、否定を否定して肯定とし、術があるの意で、それを「少くも」がさらに否定して、結局、全く術がない意になるものである。これは古くからある形で、巻十二(二九一一)「人目多み眼こそ忍べれ少くも心の中に吾が念はなくに」とあり、それにならった形のものである。
【釈】 旅というと、言葉にはやすいものである。妹に恋いつづけて、全く術のないことであるよ。
【評】 旅にあって京の妻を恋うて、何ともする術のない嘆きをいっているものである。「少くも、術なけなくに」と、否定を三回までも重ねるという言い方をしているのは、その屈折によって、思う心を強く、事としてのみならず、気分としてあらわそうとしたためである。歌を気分の表現としようとするのはこの時代の傾向で、それに従ってのものである。この屈折は、現代には親しくないものであるが、当時には親しく、ことにこの作者には親しかったのである。当時の人々の気分は、単純なものではなかったことが思わせられる。
3744 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ふるに吾《あれ》は たまきはる 短《みじか》き命《いのち》も 惜《を》しけくもなし
和伎毛故尓 古布流尓安礼波 多麻吉波流 美自可伎伊能知毛 乎之家久母奈思
【語釈】 ○たまきはる短き命も 「たまきはる」は、命にかかる枕詞。「短き命」は、人の寿を短いものとしていったもので、仏教思想である。「も」は、さえも。○惜しけくもなし 「惜しけく」は、「惜し」の名詞形で、重くいったもの。
【釈】 吾妹子に恋うるために我は、短いものである命さえも、惜しいことはない。
(394)【評】 妹を恋うる上では、我は命も惜しくはないというのは類想の少なくないものであるが、「たまきはる短き命も」と、生命というものを明らかに意識した言い方をしているので、常套を脱し得た、軽からぬ感のあるものとなっている。
右の十四首は、中臣朝臣宅守。
右十四首、中臣朝臣宅守。
3745 命《いのち》あらば 逢《あ》ふこともあらむ わが故《ゆゑ》に はだな思《おも》ひそ 命《いのち》だに経《へ》ば
伊能知安良婆 安布許登母安良牟 和我由惠尓 波太奈於毛比曾 伊能知多尓敞波
【語釈】 ○はだな思ひそ 「はだ」は、従来「はた」と訓み、またの嘆きを含んだ副詞としていたのを、『全註釈』は新しい解をし、「はだ」と訓んでいる。それは「だ」は、原文「太」で、濁音の仮字だからである。清濁は通じて用いているが、濁音の仮字を清音に用いる場合は稀れだからだという。語義は、はなはだの「はだ」で、その意のものであろうとし、他の用例として、巻十八(四〇五一)「ほととぎす来鳴きとよめば波太《はだ》恋ひめやも」を挙げている。一首の上から見て、そのほうが妥当である。従うこととする。○命だに経ば 「経ば」は、在り經ばで、命さえ続いていたならばで、逢えようの意を省いたもの。
【釈】 命があったならば、逢うこともあろう。わたしのために甚しく物思いはするな。命さえ続いていたならば。
【評】 上の歌の「短き命も惜しけくもなし」というごとき、宅守の思い迫った心を危ぶんで、慰めていっているものである。心としては常識的なものであるが、詠み方は落ちついた、余裕のあるもので、しみじみと、要を得た言い方をしている。結句の言いさしも自然である。別れに臨んでの娘子の歌は昂奮したものであったが、別れての後は、比較的静かであったことが、この歌でもうかがえる。それに反して宅守は、別れてのしばらくの間は、比較的静かであったが、時を経るに従って昂奮して来たことは、上の歌でも知れる。この相違は、この二人の場合だけではなく、広く見ての男女の傾向の差と思われる。
3746 人《ひと》の植《う》うる 田《た》は植《う》ゑまさず 今更《いまさら》に 国別《くにわか》れして 吾《あれ》はいかにせむ
比等能宇々流 田者宇惠麻佐受 伊麻佐良尓 久尓和可礼之弖 安礼波伊可尓勢武
【語釈】 ○人の植うる田は植ゑまきず 他人は田植をする田を、君はお植えにならずに。「まさず」は、敬語で、連用形。「人」は、宅守と同じ官(395)人を指したもの。「田」は、朝廷から禄として賜わっている田で、それを自身監理して耕作させていたのである。罪人となって処刑されている間は、そのような田は没収されて作ることができなかったとみえる。ここはその意味のことで、罪人とおなりになってということを、婉曲に言いかえたものである。○今更に国別れして 今となって新たに住み馴れた国から別れてで、上と同じく、流罪に処せられてということを婉曲に言いかえたもの。○吾はいかにせむ われはどうしようというので、結果の大きさに、驚いて途方にくれている意。
【釈】 他人の田植する田をあなたはお植えにならずに、今新たに住み馴れた国から別れられて、わたしはどうしよう。
【評】 娘子との関係で、宅守は流刑という重い刑に処せられて、配所へ遣られた直後の娘子の心である。「田は植ゑまさず、国別れして」は、罪人として流刑に処せられるということを、努めて婉曲にあらわそうとしたもので、これは娘子としては自然の情であるし、また宅守に自身の嘆きを訴えるものであるから、当然な言い方である。「吾はいかにせむ」が気分そのままの表現になっていて、一首を生かしている。
3747 わが宿《やど》の 松《まつ》の葉《は》見《み》つつ 吾《あれ》待《ま》たむ 早《はや》帰《かへ》りませ 恋《こ》ひ死《し》なぬとに
和我屋度能 麻都能葉見都々 安礼麻多無 波夜可反里麻世 古非之奈奴刀尓
【語釈】 ○わが宿の松の葉見つつ 「松」を類音の形で下の「待ち」に続け、以上その序詞としたもの。○恋ひ死なぬとに 「とに」は、時にで、内にというにあたる。
【釈】 わが屋戸の松の葉を見つつ、われはそれに因みある、あなたを待っていましょう。早く帰っていらっしゃいませ。わたしの恋い死にをしないうちに。
【評】 宅守の逢えない嘆きを繰り返しているのに対して、和えとして慰めていっているものである。物静かな、しみじみとした歌で、宅守の昂奮をしずめるに足りるものであったろう。松に待つをかけることは以前からあったが、松の葉は新しく、「わが宿の松の葉」は気分化し得たものでもある。感性の繊細に、鋭敏に働く女性であったことを思わせる歌である。
3748 他国《ひとくに》は 住《す》み悪《あ》しとぞいふ 速《すむや》けく 早《はや》帰《かへ》りませ 恋《こ》ひ死《し》なぬとに
比等久尓波 須美安之等曾伊布 須牟也氣久 波也可反里万世 古非之奈奴刀尓
(396)【語釈】 ○他国は 生国以外の国の称。交通不便なのと、愛郷心の強いところから、他国は甚だ侘びしい所としていた。○速けく 「速かに」を形容詞化した語。「すむやけく」は、他に用例がない。
【釈】 他国は住みにくいということです。速やかに帰っていらっしゃい。わたしの恋い死なないうちに。
【評】 宅守の「旅といへば言にぞ易き」といい、娘子を思って堪えられない嘆きをいったのに対しての和えである。娘子はそれに対して「早帰りませ」と、宅守が自由な旅でもしているような、かけ離れたことをいっているのである。娘子は他に言いうることがなかったとみえる。しかし、いちずに赦免の日を待っているという娘子のこの心は、宅守にとって何よりの慰めであったろう。
3749 他国《ひとくに》に 君《きみ》をいませて 何時《いつ》までか 吾《あ》が恋《こ》ひをらむ 時《とき》の知《し》らなく
比等久尓々 伎美乎伊麻勢弖 伊都麻弖可 安我故非乎良牟 等伎乃之良奈久
【語釈】 ○君をいませて 「いませて」は、居らせての敬語。○何時までか吾が恋ひをらむ 「か」は、疑問の係。いつまでわれは恋うていることであろうかで、「む」は、連体形。○時の知らなく その期間の知られないことよ。
【釈】 他国に君をお置き申して、いつまでわれは恋うているのであろうか。その期間の知られないことよ。
【評】 宅守の「常闇にいづれの日まで」と嘆いたのに対して、娘子も同じ嘆きをするよりほかないことをいったものである。流罪は赦免の日を待つのみで、いつと期待することはできなかったのである。
3750 天地《あめつち》の そこひのうらに 吾《あ》が如《ごと》く 君《きみ》に恋《こ》ふらむ 人《ひと》は実《さね》あらじ
安米都知乃 曾許比能宇良尓 安我其等久 伎美尓故布良牟 比等波左祢安良自
【語釈】 ○天地のそこひのうらに 「そこひ」は、底いで、最奥部の意で用いられていた語。「うら」は、内。天地の最後の果てまでの内にで、天地間にという意を強調していったもの。天地の内というに同じ。○人は実あらじ 「実」は、真実、ほんとうにの意の古語で、副詞。ほんとうにあるまい。
【釈】 天地の最後の果てまでのうちに、わたしのように君を恋うだろう人は、ほんとうにないでしょう。
(397)【評】 宅守が「天地の神なきものに」といい、「短き命も惜しけくもなし」といっているのに対し、娘子もそれに劣らぬ純粋の心を持っていることをいっているもので、双方の歌がおのずからにして誓詞のごとくなっているものである。この歌は誓いという改まった心のものではないが、誓いとしていうべき語の、すでに実行となっている気分を、いみじくもあらわし得ているものである。純真であることを、当然な、自明なこととして、落ちついて、心細かく、行き届かせているものである。
3751 白栲《しろたへ》の 吾《あ》が下衣《したごろも》 失《うしな》はず 持《も》てれ吾《わ》が背子《せこ》 直《ただ》に逢《あ》ふまでに
之呂多倍能 安我之多其呂母 宇思奈波受 毛弖礼和我世故 多太尓安布麻〓尓
【語釈】 ○白栲の吾が下衣 「白栲の」は、ここは状態をいったものと取れる。「吾が下衣」は、娘子の下に着る衣で、膚に直接に着けている物。宅守の歌に「吾妹子が形見の衣」といっているものである。○失はず持てれ吾が背子 「失はず」は、失はずしてで、連用形。「持てれ」は、「持てり」の命令形。「吾が背子」は、呼びかけ。「失はず持てれ」は、絶えず身に着けていよということを婉曲にいったもので、わが魂を身に添わしめよの意。○直に逢ふまでに 直接に逢うまでは。
【釈】 白栲のわが下衣を、失わずして持っていよ、わが背子よ。直接に逢う日までは。
【評】 宅守の「形見の衣」に対させての和えで、このことは宅守のすでに行なっていることなのに、さらにこのようにいっているのは、わが魂をあくまでも身に添わしていよとの心からである。これは当時の信仰の上に立ってのことで、語としてはさしたることはないが、心は深いものがある。調べが張って、纏わりつくごとき気分をもっていっているのは、そのためである。
3752 春《はる》の日《ひ》の うらがなしきに 後《おく》れ居《ゐ》て 君《きみ》に恋《こ》ひつつ 現《うつ》しけめやも
波流乃日能 宇良我奈之伎尓 於久礼爲弖 君尓古非都々 宇都之家米也母
【語釈】 ○春の日のうらがなしきに 春の日の心悲しいのに。春のうららかな頃は、おのずから感傷的になり、ものがなしく感じられる意で、常識となっていたこと。○後れ居て 後に残されていて。○現しけめやも 「現しけ」は、形容詞「現し」の未然形。「め」は、推量の助動詞、「や」は、反語。確かな心でいられようか、いられはしないの意で、これは慣用句。
【釈】 春の日の心悲しいのに、後に残されていて、君を恋いつづけて、しっかりした心で居られようか、居られはしないことよ。
(398)【評】 環境と自身とを綜合して、客観化していうことによって気分をあらわしている歌である。語はおおまかであるが、気分化されているので、娘子の全貌を思わしめるものとなっている。この柔らかさと含蓄とは、この時代の新風である。
3753 逢《あ》はむ日《ひ》の 形見《かたみ》にせよと 手弱女《たわやめ》の 思《おも》ひ乱《みだ》れて 縫《ぬ》へる衣ぞ《ころも》
安波牟日能 可多美尓世与等 多和也女能 於毛比美太礼弖 奴敞流許呂母曾
【語釈】 ○逢はむ日の形見にせよと 逢うだろう日までの、わが形見にせよと思って。○手弱女の 「手弱女」は、男が自身を益荒夫と称するのに対しての語で、弱い女と謙遜しての称。ここは娘子の自称である。○思ひ乱れて縫へる衣ぞ 嘆きに心が乱れて、縫った衣であるよで、君を思う心のこもっている衣ぞの意。
【釈】 逢う日までのわが形見にせよと思って、手弱女の我の、嘆きに心が乱れて縫った衣であるよ。
【評】 娘子が新しい衣を宅守に贈るのに添えた歌である。贈物をする時には、わが心をこめた物だというのが礼であるが、これはその程度のことではなく、嘆きに乱れた心をこめて縫った物で、わが形見だといっているのである。
右の九首は、娘子。
右九首、娘子。
3754 適所《くわそ》無《な》しに 関《せき》飛《と》び越《こ》ゆる ほととぎす あまたが子《こ》にも 止《や》まず通《かよ》はむ
過所奈之尓 世伎等婢古由流 保等登藝須 多我子尓毛 夜麻受可欲波牟
【語釈】 ○過所無しに 「過所」は、『代匠記』の考証によって明らかになった語。公から与えられた関の通行許可証で、後世の関所手形にあたる物である。音で呼んでいた当時の法律語。○関飛び越ゆるほととぎす 関の空を飛び越えるところのほととぎすは。宅守の配所に在った季節としては、上に「春の日」とあり、ここに「ほととぎす」があるので、大体が察しられる。○あまたが子にも 原文「多我子尓毛」。訓がさまざまで一定しない。これは西本願寺本の訓で、最も通じやすいものである。「子」は、親しい従者、愛人などに対する愛称で、ここは愛人で、大勢ある愛人の許にも。
(399)【釈】 過所を持たなくて、関を飛び越えるほととぎすは、多くの愛人の許にも、絶えず通うのだろう。
【評】 ほととぎすの鳴き声を聞いての連想と羨望とである。羨望ではあるが自身をほととぎすにならせたいというのではなく、ほととぎすそのものを主として、「あまたが子にも」と空想して、間接にその気分をあらわしているものである。これは余裕があってのことというのではなく、宅守の善良さからのことと思われる。
3755 うるはしと 吾《あ》が思《も》ふ妹《いも》を 山川《やまかは》を 中《なか》に隔《へな》りて 安《やす》けくもなし
宇流波之等 安我毛布伊毛乎 山川乎 奈可尓敞奈里弖 夜須家久毛奈之
【語釈】 ○うるはしと吾が思ふ妹を 深く可愛ゆいとわが思う妹だのに。○山川を中に隔りて 山や川を中にして隔てて。遠く隔てる意を具象的にいったもの。
【釈】 深く可愛ゆいとわが思っている妹だのに、山や川を中にして隔てていて、心安らかではない。
【評】 平静な心での嘆きである。宅守の心が時とともに平常に復したことを思わせる。
3756 向《むか》ひゐて 一日《ひとひ》もおちず 見《み》しかども 厭《いと》はぬ妹《いも》を 月《つき》わたるまで
牟可比爲弖 一日毛於知受 見之可杼母 伊等波奴伊毛乎 都吉和多流麻弖
【語釈】 ○向ひゐて一日もおちず見しかども 向かい合っていて、一日といえども欠けることなく見て来たが。長期にわたって、毎日逢って来たということは、一見、同棲生活をして来た間のように思わせる語であるが、それは身分柄ありうべからざることであるから、他の関係をとおしてのことでなくてはならない。それだと、男女のこのような交渉を続けるのは、公の職務をとおしてのほかはないことである。宅守はその職務は不明だが、娘子は斎宮寮の蔵部司の女嬬とわかっているから、斎宮寮に仕えている長官格の人であったろう。中臣の氏からも、この時代としては神事方面の官人だろうと思われる。○厭はぬ妹を 見飽かない妹をで、初句より「厭はぬ」までは、妹の修飾句。○月わたるまで 「月わたる」は、月より月にわたるで、幾月もの間までで、下に「見ず」の意が略されている。こうした言いさしの形は、本集としては例の少ないものである。
【釈】 向かい合って、一日も欠かさず見て来たけれども、見飽かないあなたを、月をわたるまでも。
【評】 平静な心をもって過去を追憶して、現在の状態を嘆いているものである。気分の現われている歌である。
(400)3757 吾《あ》が身《み》こそ 関山《せきやま》越《こ》えて 此処《ここ》に在《あ》らめ 心《こころ》は妹《いも》に 寄《よ》りにしものを
安我未許曾 世伎夜麻故要弖 許己尓安良米 許己呂波伊毛尓 与里尓之母能乎
【語釈】 ○吾が身こそ関山越えて 「身」は、下の「心」に対させていっているもの。「関山」は、関所のある山。愛発《あらち》の関のある愛発山。関山は越え難い境界意識を強く持たせるもので、ここもその意のもの。○此処に在らめ 「め」は、「こそ」の結。ここにいるけれどもの意で、下に続く。○心は妹に 心のほうは京にいる妹に。○寄りにしものを 「寄り」は、靡き従う意と、寄りつく意とあり、ここは後者である。心は身より離れて妹のもとに寄りついてしまっていることだ。
【釈】 わが身のほうこそは、関山を越えてのここにいるけれども、心のほうは妹のもとに寄りついてしまっていることだ。
【評】 これも上の歌と同じ範囲のものである。身と心とを二元的に考えるのは上代の信念からのことで、後世の想像としていうのとは異なり、事実としていっているものである。したがって心の浅いものではない。
3758 さす竹《だけ》の 大宮人《おほみやびと》は 今《いま》もかも 人《ひと》なぶりのみ 好《この》みたるらむ
佐須太氣能 大宮人者 伊麻毛可母 比等奈夫理能未 許能美多流良武
【語釈】 ○さす竹の大宮人は 「さす竹の」は、ここは大宮へかかる枕詞であるが、語義は未詳である。「大宮人」は、大宮に仕えている人の総称で、宅守もその一人だったのである。○今もかも 「今も」は、今もまたで、以前と並べていっているもの。「かも」は、疑問の係。○人なぶりのみ好みたるらむ 「人なぶり」は、人をからかい、いじめる意で、現在も用いている語。人なぶりばかり好んでしていることであろうで、「らむ」は、現在推量で結。
【釈】 さす竹の大宮人は、今もまた人なぶりばかりを好んでしているのであろうか。
【評】 この推量は、宅守としては、突然縁遠いことを思い出したものではなく、平常心にあることで、娘子を思い、現在の境遇を思うとともに常に連想されることであったと思われる。大宮人は公務が少なく暇が多いところから、消閑のすさびとして、好んで男女間の情事の噂話をし、進んで人なぶりをしたものとみえる。宅守のいうのはその範囲のものである。宅守と娘子との関係は、その事が顕われると厳罰に処せらるべき性質のものであるところから、彼としては極秘としていたと思われる。それがはしなくも疑いの目をもって見られ出すこととなり、疑いであるがゆえに人々の好奇心をそそり、一段と人なぶりの材料(401)となったものと思われる。宅守の現在の流刑ということも、彼の心より見れば、大宮人の興味としての人なぶりの結果だとみえたのであろう。しかし宅守の現在は、これを表面から見れば、宮廷の禁を犯し、勅命によって処分されたものであるから、その事自体についてはいえず、事の裏面を、さりげなきさまでいっているものと取れる。この歌は彼としていわずにはいられないもので、こうした形をもって娘子に訴えたのであろう。一首の歌としては特殊な取材で、その意味では異色のあるものである。
一に云ふ、今さへや
一云、伊麻左倍也
【解】 以前ばかりではなく、今でさえも。「や」は疑問の係で、第三句の別伝であるが、このほうが心は明らかである。
3759 たちかへり 泣《な》けども吾《あれ》は しるし無《な》み 思《おも》ひ侘《わ》ぶれて 寝《ぬ》る夜《よ》しぞ多《おほ》き
多知可敞里 奈氣杼毛安礼波 之流思奈美 於毛比和夫礼弖 奴流欲之曾於保伎
【語釈】 ○たちかへり泣けども吾は 「たちかへり」は、ここは、事の初めに溯つて考えて。「泣けども」は、成行きの悲しさを泣くけれども。○しるし無み 甲斐なくして。○思ひ佗ぶれて 「侘ぶれ」は、下二段活用の連用形で、当時は行なわれていたものと取れる。思い佗びられて。○寝る夜しぞ多き 「し」は、強意。「ぞ」は、係。寝る夜の多いことだで、「寝る」は、身を横たえることで、眠る意ではない。
【釈】 溯って事の初めを思って、悲しんで泣くけれども、我はその甲斐がなくて、思い侘びられて寝る夜の多いことであるよ。
【評】 「たちかへり泣けども」は、上の歌に関連しての範囲のことで、この流刑の近因をなした「大宮人の人なぶり」を意味させているものと思われる。宅守としては無理ならぬことである。以下は、その延長の状態をいったものである。一首の歌としては、取材も詠み方も無理のあるものであるが、さすがに他にも通じるのは、過去を思って悲しむという、広い意味を持ったところがあるからである。他人の見ることは予期せず、娘子一人を対象にしての訴えであるから、歌の形をもってした消息であり、その意味では非難のできないものである。
3760 さ寝《ぬ》る夜《よ》は 多《おほ》くあれども 物思《ものも》はず 安《やす》く寝《ぬ》る夜《よ》は 実《さね》なきものを
(402) 左奴流欲波 於保久安礼杼母 毛能毛波受 夜須久奴流欲波 佐祢奈伎母能乎
【語釈】 ○さ寝る夜は 「さ」は、接頭語。○実なきものを 「実」は、ほんとうにで、上の娘子の歌に出た。
【釈】 寝る夜は、多くあるけれども、嘆きをせずに安らかに寝る夜は、ほんとうにないことだ。
【評】 上の二首の歌に関連させて、その補足として詠んだ形のものである。いわゆる返らぬ愚痴で、今までいわずにいたものであるが、言い出すと際限がなかったのである。宅守の人柄を思わせるもののある歌である。
3761 世《よ》の中《なか》の 常《つね》の道理《ことわり》 かくさまに なり来《き》にけらし すゑし種《たね》から
与能奈可能 都年能己等和利 可久左麻尓 奈里伎尓家良之 須惠之多祢可良
【語釈】 ○世の中の常の道理 「常の道理」は、一般の道理で、下の、禁を犯して罰せられたことを指しているのである。したがって、「道理」の下に、としての意があると見るべきである。○かくさまになり来にけらし 「かくさまに」は、このような有様にで、現在の流刑に処せられていること。「なり来にけらし」は、事が移って来たのであろうで、「けらし」は、けるらしで、「らし」は、証のある強い推量。○すゑし種から 「すゑし」は、「据ゑし」で、置く、または蒔く意。種を蒔くことを、種をすえるとは現在も口語として用いている。「から」は、ゆえにで、その原因をいったもの。
【釈】 世の中の一般の道理として、このような有様になって来たのであろう。我と蒔いた種のゆえに。
【評】 大宮人の人なぶりを恨む心に発し、ついに真の原因は我自身にあると反省するに至った心で、この一連の歌の結尾となっているものである。知性をもって事の全体を承認し、甘受までした形のもので、調べもそれにふさわしく、静かな、しっかりした趣のあるものである。
3762 吾妹子《わぎもこ》に 逢坂山《あふさかやま》を 越《こ》えて来《き》て 泣《な》きつつ居《を》れど 逢《あ》ふよしもなし
和伎毛故尓 安布左可山乎 故要弖伎弖 奈伎都々乎礼杼 安布余思毛奈之
【語釈】 ○吾妹子に逢坂山を 「吾妹子に」は、逢うと続け、それを逢坂の逢に転じて枕詞としたものである。眼前の事を枕詞の形でいい、一首の(403)本義にも関係させるのはこの時代の風であって、これもそれである。吾妹子に逢うというに因みある逢坂山と解すべきである。「逢坂山」は、山城と近江との国境で、越前への街道にもあたっている。巻六(一〇一七)に既出。○泣きつつ居れど 恋しさに泣きつづけているが。
【釈】 吾妹子に逢うという名を持つ逢坂山を越して来て、妹恋しさに泣きつついるが、逢うべき方法もない。
【評】 物の名は、名のごとき力を持つものだとする一種の信仰の上に立って詠んでいるもので、語戯ではない。現在では直接には感じられない心である。
3763 旅《たび》といへば 言《こと》にぞ易《やす》き 術《すぺ》もなく 苦《くる》しき旅《たび》も 言《こと》に益《ま》さめやも
多婢等伊倍婆 許登尓曾夜須伎 須敞毛奈久 々流思伎多婢毛 許等尓麻左米也母
【語釈】 ○旅といへば言にぞ易き これは上の(三七四三)に出た。○術もなく苦しき旅も やるせなく、苦しい旅も。○言に益さめやも 「言」は、原文「許等」。これを言と訓んだのは『新考』である。「言に」は、言葉で。「益さめやも」は、「や」は、反語で、増さらせる、すなわち実際以上に言いあらわせようか、あらわせない、の意。言葉は実際以上にいうのが普通のことだとして、その言葉でもあらわせないものだというのである。言語に絶しているというのと同じ意である。
【釈】 旅というと、言葉としてはたやすく聞こえることである。わがやるせない苦しい旅も、言葉でその実際以上にあらわせようか、あらわせないことだ。
【評】 自身のいる配所を旅とし、旅というものは漠然と想像されるようなたやすいものではなく、誇張しやすい言葉をもってしてもあらわし難い、術なく苦しいものだと嘆いているのである。第三句以下の語つづきが、直接性を欠いているので、間接な感のあるものとなっている。
3764 山川《やまかは》を 中《なか》に隔《へな》りて 遠《とほ》くとも 心《こころ》を近《ちか》く 思《おも》ほせ吾妹《わぎも》
山川乎 奈可尓敞奈里弖 等保久登母 許己呂乎知可久 於毛保世和伎母
【語釈】 ○遠くとも 身と心とを二元とし、身は遠く離れていようとも。○心を近く思ほせ吾妹 心のほうは近くにいるものとお思いなさい吾妹よ。「思ほせ」は、「思へ」の敬語。女性に対しての慣用。「吾妹」は、呼びかけ。
(404)【釈】 山や川を中に隔てて、身は遠く離れていようとも、心のほうは近くいるとお思いなさい、吾味よ。
【評】 上の(三七五七)の「吾が身こそ関山越えて此処に在らめ」と全く同想のものである。異なるところは、そちらは自分を主としていっているのに、これは娘子を主にしていっているだけである。こうした場合には、男性には浪漫的な心が起こり、繰り返しこうしたことをいわずにはいられなかったろうが、女性はかえって実際的となり、男性の想像するほどの慰めは与えられなかったろうと思われる。
3765 まそ鏡《かがみ》 かけて偲《しぬ》へと まつり出《だ》す 形見《かたみ》の物《もの》を 人《ひと》に示《しめ》すな
麻蘇可我美 可氣弖之奴敞等 麻都里太須 可多美乃母能乎 比等尓之賣須奈
【語釈】 ○まそ鏡かけて偲へと 「まそ鏡」は、真澄鏡で、物にかけて用いるところから、「懸け」と続け、その枕詞としたもの。「かけて偲へと」は、我を心にかけて思えよと思って。「偲へ」は、「しのへ」が普通であるが、ここは「奴」の字が用いてあって異例である。○まつり出す 「まつり」は、「奉《たてまつ》り」の原形で、「出す」は、「差し出す」で、一語。贈るの敬語で、差し上げるにあたる。女性に対しての慣用。○形見の物を人に示すな わが身代わりの品を、人には見せるな。魂のこもった物は、人に示すとその魂の力が衰えるとして忌む信仰があったので、その上に立っての禁止。
【釈】 まそ鏡のように、心にかけて我を思えよと思って差し上げるこの形見の品を、他人には見せるなよ。
【評】 宅守が何物かを、形見として娘子に贈る時に添えた歌である。「形見」といえば、それに上越す物はなく、また形見の品であるから「人に示すな」も当然のことだったのである。その物の何であるかは、この際いう必要のないことなので触れてはいない。枕詞としての「まそ鏡」は当時の歌風からいうと、その品に触れているものかもしれぬ。
3766 愛《うるは》しと おもひしおもはば 下紐《したひも》に 結《ゆ》ひ著《つ》け持《も》ちて 止《や》まず偲《しの》はせ
宇流波之等 於毛比之於毛婆波 之多婢毛尓 由比都氣毛知弖 夜麻受之努波世
【語釈】 ○愛しとおもひしおもはば 「愛しと」は、形見として贈った品を指しているので、この品を深くかわゆいと。「おもひしおもはば」は、思いに思うならばで、上の「おもひ」は、名詞。「し」は、強意の助詞。○下紐に結ひ著け持ちて 「下紐」は、衣の下紐で、人には見えないところ。「結ひ著け持ちて」は、結びつけて持つてで、しっかりと身に着けて。○止まず偲はせ 絶えず我をお思い下さいで、「偲はせ」は、「偲へ」(405)の敬語、命令形。女性に対しての慣用。
【釈】 この形見の品を、深く可愛ゆいと思いに思うならば、下紐に結びつけて持って、絶えず我をお偲び下さい。
【評】 上の歌とともに形見の品に添えた歌で、二首の連作である。訴えの心のもので、しつこさを感じさせるものであるが、そこに宅守の性格と心持とがあるのである。
右の十三首は、中臣朝臣宅守。
右十三首、中臣朝臣宅守。
3767 魂《たましひ》は あしたゆふべに たまふれど 吾《あ》が胸《むね》痛《いた》し 恋《こひ》の繁《しげ》きに
多麻之比波 安之多由布敞尓 多麻布礼杼 安我牟称伊多之 古非能之氣吉尓
【語釈】 ○魂はあしたゆふべに 「魂は」は、宅守の魂は、の意のもの。上にもしばしば出たように、身と魂とを二元的に別の物と見、魂は遠隔の地にある人にも寄せられるものと信じていた、その意でのもの。「あしたゆふべに」は、絶えず。○たまふれど この句は、従来さまざまに解されて来た語である。信仰に関しての語なので、さまざまの解を下し得たからである。「たまふれ」は、「魂触れ」であるとし、また、「魂振れ」であるともしたのである。どちらも上代の重い信仰であった鎮魂の範囲のことである。近来は、「賜ふれど」と解するようになった。それは巻五(八八二)山上憶良の歌に、「吾《あ》が主《ぬし》の御霊《たま》賜ひて」とあり、「魂を賜ふ」という語の当時存在していたことが知れ、また当時「賜ふ」の動詞が、下二段に活用したことが、巻十四(三四三九)「水を賜へな」によって知られるところから、ここも「賜ふれど」であり、下二段已然形に、「ど」の助詞の接したものとされて来たのである。初句から続いて、あなたの魂は、あしたゆうべに常にいただいておりますけれどもで、現在だと、絶えず懇情を寄せられていたけれども。○恋の繁きに 恋しさの繁きためにで、直接にその身に逢いたい意。
【釈】 あなたの魂は、あしたゆうべに絶えずいただいておりますけれど、わたしの胸は苦しさに痛みます。直接に逢いたい恋の繁きために。
【評】 魂は賜わっているが、それだけではあきたらず、直接に逢いたい思いで、胸も痛むというので、女性としての一般的の心持である。魂を賜うというごとき例の少ない語を用いているのは、二人とも斎宮寮に仕えている身で、そうした語に自然親しみを持っているためであろう。信仰にからんでの物言いは、ここばかりではなく、上にも異数的に多く出ていたことからも思われる。以上の贈答を大観すると、娘子が昂奮する時には宅守が落ちつき、また反対に、宅守が昂奮すると娘子が落ちつい(406)ていたのであるが、ここはさらにまた、宅守が落ちついて、娘子が昂奮した状態になっている。感情の起伏の現在関係が、連作に限っての趣を感じさせる。
3768 この頃《ころ》は 君《きみ》を思《おも》ふと 術《すべ》も無《な》き 恋《こひ》のみしつつ 哭《ね》のみしぞ泣《な》く
己能許呂波 君乎於毛布等 須敞毛奈伎 古非能未之都々 祢能未之曾奈久
【語釈】 ○術も無き恋のみしつつ せん術もない、すなわち甲斐ない恋ばかりしつづけて。○哭のみしぞ泣く 泣きに泣いてばかりいることだ。既出。
【釈】 この頃は、君を思うとて、せん術のない恋ばかりをしつづけて、泣きに泣いてばかりいることです。
【評】 「この頃は君を思ふと」といって、それまでは自制して落ちついていたのが、今は堪えられなくなって、感情一方になってしまっている訴えである。上の歌も同範囲のものであるが、そちらには多少なりとも自制の心があったのに、これにはそれがなくなっている。一首、説明的ではあるが、生活気分を全体として捉えての上のことなので、空疎ではない。
3769 ぬばたまの 夜《よる》見《み》し君《きみ》を 明《あ》くる朝《あした》 逢《あ》はずまにして 今《いま》ぞ悔《くや》しき
奴婆多麻乃 欲流見之君乎 安久流安之多 安波受麻尓之弖 伊麻曾久夜思吉
【語釈】 ○ぬばたまの夜見し君を 「ぬばたまの」は、夜の枕詞。「夜見し君を」は、夜、逢った君なのに。○明くる朝 その翌朝。○逢はずまにして 「逢はずま」は、「懲りずま」などと同形の語で、「ま」は、接尾語である。「ま」に対し『新考』は、「儘に」の「ま」の意のものだといっている。朝、男の帰る時、娘子は寝たままで、顔も見ずに別れたことをいっているものである。これは、当時の女としては普通のことだったのである。○今ぞ悔しき 今より思うと残念なことであるよの意で、詠歎してのもの。
【釈】 ぬばたまの夜に逢っていた君だのに、その明くる朝、顔を見ないままでいたのが、今となっては残念なことであるよ。
【評】 宅守の贈って来た追憶の歌に、同じく追憶をいって和えたものと取れる。宅守は事の全体を思いかえし、最後には自己責任に帰して諦めようとまでしているのに、娘子は最後に逢って別れた朝、顔を見ずに別れたことの心残りだけをいって残念がっているのである。どちらも実情で、男女の傾向の相違を示しているものである。
(407)3770 安治麻野《あぢまの》に 宿《やど》れる君《きみ》が 帰《かへ》り来《こ》む 時《とき》の迎《むか》へを 何時《いつ》とか待《ま》たむ
安治麻野尓 屋杼礼流君我 可反里許武 等伎能牟可倍乎 伊都等可麻多武
【語釈】 ○安治麻野に宿れる君が 「安治麻野」は、越前国今立郡の、古の味真郷の野。もと味真野村及び北新床村の地、今武生市内に入り、その東南部である。宅守の配所であったことが、続きで知られる。「宿れる君が」は、宿っている君ので、配所にいる宅守を、やわらげていったもの。○帰り来む時の迎へを 帰って来るであろう時期を迎えるのをで、「迎へ」は、名詞形。帰る迎えをの意であるが、赦免の時が来ないとできないことなので、「時」を主としていったもの。○何時とか待たむ いつとして待とうかで、「か」の疑問の係を用い、嘆いていっているもの。
【釈】 味真野に旅居をしている君の、京へ帰って来るであろう時期を迎えるのを、いつだとして待とうか。
【評】 配所と京との双方で、最も待望していることをいったものである。「帰り来む時の迎へを」という続きは、細心な用意を持ったものである。一首しみじみとしていて、娘子の歌と思わせるものである。
3771 宮人《みやびと》の 安眠《やすい》も寝《ね》ずて 今日今日《けふけふ》と 待《ま》つらむものを 見《み》えぬ君《きみ》かも
宮人能 夜須伊毛祢受弖 家布々々等 麻都良武毛能乎 美要奴君可聞
【語釈】 ○宮人の安眠も寝ずて 「宮人」は、大宮に奉仕している人の総称で、ここは宅守に親しい人々であろう。「安眠も寝ずて」は、安眠もせずして。○今日今日と待つらむものを 今日は帰るか、今日は帰るかと待っていようのに。○見えぬ君かも 「かも」は、詠歎。
【釈】 大宮人が寝ても安眠もしないで、今日は帰るか、今日は帰るかと待っていようのに、見えない君であるよ。
【評】 「安眠も寝ずて」は、娘子の迎えての心もまじっていたろうが、宮人が赦免の日を渇望していたことは事実だったろう。それは宅守に対する人望というよりも、彼の所行が禁を犯しているとはいえ、それは法の上のことで、所行そのことはさして重大なものとは思われないのに、流刑という重い刑に処せられたので、憫《あわれ》まずにはいられないものだったからであろう。しかも彼がそのような重刑に処せられるに至ったのは、宅守の嘆いている、大宮人の好んでする人なぶりが大きく影響していたろうから、その意味での心咎めも加わっていたろうと思われる。娘子はそうしたことには触れようともせず、宮人の赦免の日を渇望していることに感激して、それにも増さる自身の渇望のかなわぬ嘆きにしているのである。女性を思わせる歌である。
(408)3772 帰《かへ》りける 人《ひと》来《き》たれりと いひしかば ほとほと死《し》にき 君《きみ》かと思《おも》ひて
可敞里家流 比等伎多礼里等 伊比之可婆 保等保登之尓吉 君香登於毛比弖
【語釈】 ○帰りける人来たれりといひしかば 「帰りける人」は、罪人の大赦に遇って、京へ帰って来た人で、これは(三七二三)の題詞の際にいったごとく、天平十二年六月庚子だったのである。「来たれりと」は、近くまで来ているの意。「いひしかば」は、人がいったのでで、娘子はそれによって初めてその事を知ったのである。○ほとほと死にき 「ほとほと」は、ほとんどで、危なくそうなる意の副詞。危なく死ぬところでしたで、狂喜の余り、気が遠くなり、死ぬようになった意。○君かと思ひて その人は君なのかと思って。宅守はその時は、他の五人の人とともに赦免に遇えなかったのである。
【釈】 配所から京へ帰って来た人が、そこへ来ていると人がいったので、あぶなく死ぬところでした。君が来ているのかと思って。
【評】 特殊な境を叙事的にいっているのであるが、それがただちに抒情となり、叙事と抒情の微妙に融け合った、魅力多い歌である。「ほとほと死にき」が、抒情の語では到底あらわせない抒情となって生きている。娘子のこの歌を宅守に贈ったのは、嘆きとしてのものではなく、むしろ思い誤りよりの一つの事件として、報告を旨としたものと思わせる。それだと正しい意味での滑稽歌となるべき性質のものである。第三者から見ると、娘子のその際の心は悲痛なものであるが、娘子自身はそれには触れようとせず、ただその一瞬間の状態をいうにとどめているのは、いったがごとき心からとみえる。もっとも宅守が大赦にもれたのは、勅命によってのことで、触れては言い難い事柄であったことも関係していよう。
3773 君《きみ》が共《むた》 行《ゆ》かましものを 同《おな》じこと 後《おく》れて居《を》れど 良《よ》きこともなし
君我牟多 由可麻之毛能乎 於奈自許等 於久礼弖乎礼杼 与伎許等毛奈之
【語釈】 ○君が共行かましものを 「君が共」は、君とともに。古くは、「共」は、「の」に接した語である。「行かましものを」は、配所へ行くのだったものを。仮設。○同じこと 行ったのと同じ事であって。○後れて居れど良きこともなし 後に残されていたが、そのために何の良いこともないで、「同じこと」を説明したもの。
【釈】 君とともに配所へ行くのだったものを。配所と同じことで、後に残されていたが、そのために良いこともない。
(409)【評】 宅守の、遠く離れているにつけ、娘子に対して心もとない感を抱いている歌に和えたものである。娘子としては弁明などするべきほどのことではないとして、それらを総括して、こうした和えをしたものとみえる。落ちついた、あっさりとした歌で、その意味では要を得たものである。
3774 吾《わ》が背子《せこ》が 帰《かへ》り来《き》まさむ 時《とき》のため 命《いのち》残《のこ》さむ 忘《わす》れたまふな
和我世故我 可反里吉麻佐武 等伎能多米 伊能知能己佐牟 和須礼多麻布奈
【語釈】 ○命残さむ 「残さむ」は、残るべくもない命であるが、強いて残しておこうというので、恋の悩みのために当然死ぬべき命だということを、背後に置いていっているものである。さりげなくいってはいるが、強い訴えを持っているものである。○忘れたまふな 我を忘れたまうなと、広い意味でいっているもの。
【釈】 わが背子が帰っていらっしゃるだろう時のために、絶えようとするわが命を残しておきましょう。わたしという者をお忘れくださいますな。
【評】 この歌も上と同じく、宅守の不安を感じての物言いに対して和えたものである。「忘れたまふな」は、宅守と同じく娘子も不安を抱いているがごとき言い方であるが、娘子の持つ不安は、現在の状態に対してというごとき臨時のものではなく、当時の妻が夫に対して持っていた一般的なもので、身を挙げて縋ろうとする積極的なものなのである。女性の弱くして同時に強い心をあらわしている歌である。この歌は一種の魅力を持っているが魅力はそうした力より来るのである。
右の八首は、娘子。
右八首、娘子。
3775 あらたまの 年《とし》の緒《を》長《なが》く 逢《あ》はざれど 異《け》しき心《こころ》を 我《あ》が思《も》はなくに
安良多麻能 等之能乎奈我久 安波射礼杼 家之伎己許呂乎 安我毛波奈久尓
【語釈】 ○年の緒長く 「年の緒」は、「緒」は、長いものである意で、「年」の語感を強めるために添えた語で、年というと同じ。「長く」は、久しくの意。配所で年を越えた意でいっているもの。○異しき心を我が思はなくに 変わった心は持っていないことだ。「思はなくに」は、心思う(410)という当時の用法からのものである。
【釈】 あらたまの年久しくも逢わずにいるけれども、変わった心は我は持っていないことだ。
【評】 娘子の「忘れたまふな」といぅ歌に和えたものである。誓いの心のもので、型に従っての歌である。
3776 今日《けふ》もかも 京《みやこ》なりせば 見《み》まく欲《ま》り 西《にし》の御厩《みまや》の 外《と》に立《た》てらまし
家布毛可母 美也故奈里世婆 見麻久保里 尓之能御馬屋乃 刀尓多弖良麻之
【語釈】 ○今日もかも京なりせば 「今日もかも」は、「も」は、軽く添えたもの。「かも」は、疑問の係。「京なりせば」は、「せば」は、反実仮設で、京に居たとしたら。○見まく欲り 娘子に逢いたくて。○西の御厩の 内裏の西南の隅にあったもので、右馬寮である。○外に立てらまし 「外」は、外辺。「立てらまし」は、「立てり」の未然形に「まし」の添ったもの。「まし」は、上の「せば」の結びで、立っていたであろうに。宅守と娘子とひそかに逢った場所で、二人にとっては印象の深い所。
【釈】 今日なぞは、もし京にいたとしたら、逢いたいと思って、西の厩の外辺に立っていたであろうに。
【評】 年が改まって、春になってのうららかな日に、京を想像しての心である。「西の御厩の外」は、二人が人目を忍んで顔を合わせた場所で、明るくたのしい想像である。娘子の昂奮しているのに比較して、宅守は落ちついた余裕のある気分になっていたのである。
右の二首は、中臣朝臣宅守。
右二首、中臣朝臣宅守。
3777 昨日《きのふ》今日《けふ》 君《きみ》に逢《あ》はずて 為《す》る術《すべ》の たどきを知《し》らに 哭《ね》のみしぞ泣《な》く
伎能布家布 伎美尓安波受弖 須流須敞能 多度伎乎之良尓 祢能未之曾奈久
【語釈】 ○昨日今日 昨日今日はで、第五句へ続く。○為る術のたどきを知らに するべき方法のその手がかりが知られずにで、何事も手につかずに、ぼんやりとしている意。○哭のみしぞ泣く 泣きに泣いてばかりいることです。
(411)【釈】 昨日今日は、あなたに逢わないので、するべき方法のその手がかりが知られずに、泣きに泣いてばかりいることです。
【評】 初句を除くと、すべて成句で、平凡な歌であるが、初句の「昨日今日」がそれを統一して実状の訴えとしている。時日の経過に伴って、昂奮の度を加えていることは、人柄を思わせることだ。
3778 しろたへの 吾《あ》が衣手《ころもで》を 取《と》り持《も》ちて 斎《いは》へ我《わ》が背子《せこ》 直《ただ》に逢《あ》ふまでに
之路多倍乃 阿我許呂毛弖乎 登里母知弖 伊波敞和我勢古 多太尓安布末〓尓
【語釈】 ○しろたへの吾が衣手を 「しろたへの」は、衣の状態。「吾が衣手」は、わが形見として贈った下衣で、「衣手」は、衣全体を代表させていっているもの。○取り持ちて 手に取って持って。○斎へ我が背子 「斎へ」は、物忌みをせよで、物忌みは神に祈る先行条件で、祈れというと同意である。神に祈れよ、わが背子よで、呼びかけての命令。これは衣服によって無事を祈るまじないをするので、重い信仰行事であった。
【釈】 白栲のわが形見の衣を手に取り持って、身の無事を神に祈れ、わが背子よ。直接に相逢うまで。
【評】 女性の信仰心の強さの現われている歌である。娘子の歌としては珍しく線が太く、調べの緊張しているのは、その気分の現われである。「しろたへの吾が衣手」というのは、形見としての娘子の下衣で、娘子の魂の宿っているものである。それを「取り持ちて」といっているのは、二人一体となって祈る意である。これにもその心が現われている。
右の二首は、娘子。
右二首、娘子。
3779 わが宿《やど》の 花橘《はなたちばな》は いたづらに 散《ち》りか過《す》ぐらむ 見《み》る人《ひと》無《な》しに
和我夜度乃 波奈多知婆奈波 伊多都良尓 知利可須具良牟 見流比等奈思尓
【語釈】 ○わが宿の花橘は 「わが宿」は、京にある宅守の家の庭前。「花橘」は、花の咲いている時の橘の称。○いたづらに散りか過ぐらむ 甲斐なく散り過ぎるであろうかで、主人の宅守の見ない意。「らむ」は、現在推量。
【釈】 わが庭前の花橘は、いたずらに散り終わるのだろうか、見る人もなくて。
(412)【評】 橘の花の季節になって、京の家のその花を偲ぶ心である。ようやく花鳥の上に及ぶ余裕を持ち得たのである。歌としては平凡である。
3780 恋《こ》ひ死《し》なば 恋《こ》ひも死《し》ねとや ほととぎす 物《もの》思《も》ふ時《とき》に 来鳴《きな》き響《とよ》むる
古非之奈婆 古非毛之称等也 保等登藝須 毛能毛布等伎尓 伎奈吉等余牟流
【語釈】 ○恋ひ死なば恋ひも死ねとや 恋い死にをするならば 恋い死にをしろと思うのだろうかで、「や」は、疑問の係。○物思ふ時に来鳴き響むる 「物思ふ時」は、嘆きをしている時で、嘆きは娘子を恋うること。「来鳴き」は、来て鳴いて。「響むる」は、鳴き響かせるで、「響むる」は、結。詠歎の意がある。
【釈】 恋い死にをするならば、恋い死にをしろと思うのであろうか。ほととぎすは、嘆きをしている時に、来て鳴いて、鳴き響かせることだ。
【評】 ほととぎすの声を、感傷を誘うものだとする心は、当時盛んだった漢文学によって意識させられ、また支持されて、一般化した詩情であった。この歌もその範囲のものである。しかし自身の気分にしているものとはいえる。
3781 旅《たび》にして 物《もの》思《も》ふ時《とき》に ほととぎす もとな勿《な》鳴《な》きそ 吾《あ》が恋《こひ》まさる
多婢尓之弖 毛能毛布等吉尓 保等登藝須 毛等奈那難吉曾 安我古非麻左流
【語釈】 ○旅にして物思ふ時に 旅に在って、さらに嘆きをしている時に。○ほととぎす 呼びかけ。○もとな勿鳴きそ 由もなくそのように鳴くなで、「もとな」は、由もなく。
【釈】 旅にあって、しかも妹恋しい嘆きをしている時に、ほととぎすよ、由もなくそのように鳴くな。わが恋は増して来る。
【評】 上の歌と同じ心のものである。一首、説明的のものであるが、ほととぎすに対して命ずる形でいっているために緩和されて、気分的のものとなっている。
3782 雨隠《あまごも》り 物《もの》思《も》ふ時《とき》に ほととぎす わが住《す》む里《さと》に 来鳴《きな》き響《とよ》もす
(413) 安麻其毛理 毛能母布等伎尓 保等登藝須 和我須武佐刀尓 伎奈伎等余母須
【語釈】 ○雨隠り物思ふ時に 「雨隠り」は、雨のために家にこもっている意で、そうした時はおのずから物を思わせられる時としていっている。「物思ふ」は、恋の嘆きである。○ほととぎす 上の歌と同じく、感傷を誘うものとしていっている。
【釈】 雨隠りをして、おのずから物思いをする時に、ほととぎすは、わが住んでいる里に来て鳴いて、鳴き響かせている。
【評】 上の歌と心は同じで、「雨隠り」という事情が加わっているだけの歌である。しかし、この歌は、ほととぎすに説明を加えていないために実感味が添っている。
3783 旅《たび》にして 妹《いも》に恋《こ》ふれば ほととぎす わが住《す》む里《さと》に 此《こ》よ鳴《な》き渡《わた》る
多婢尓之弖 伊毛尓古布礼婆 保登等伎須 和我須武佐刀尓 許欲奈伎和多流
【語釈】 ○わが住む里に 上に出た味真野に。○此よ鳴き渡る 「此よ」は、「此ゆ」と同じく、ここを通ってで、宅守のいる所を通って。
【釈】 旅に在って、妹を恋うていると、ほととぎすは、わが住んでいる里に、ここの我がいる所をとおって鳴き過ぎてゆく。
【評】 妹を恋うているおりから、宅守のいる里を目ざして来たほととぎすが、まず宅守の家の上を過ぎて鳴いて行ったというので、妹とそのほととぎすとの間に、ある繋がりを感じた心である。しかしそこまではいわず、叙事を細かくすることによって、その感じを暗示するにとどめている。この歌は、気分をあらわそうとしたものである。しかし気分そのものがあまく さして効果も挙げ得てはいない。
3784 心《こころ》なき 鳥《とり》にぞありける ほととぎす 物《もの》思《も》ふ時《とき》に 鳴《な》くべきものか
許己呂奈伎 登里尓曾安利家流 保登等藝須 毛能毛布等伎尓 奈久倍吉毛能可
【語釈】 ○心なき 理解なき。○鳴くべきものか 「か」は、反語をなしている。
【釈】 理解ない鳥であったことだ。ほととぎすよ、嘆きをしている時に鳴くべきものであろうか。ありはしない。
【評】 ほととぎすの感傷をつのらせることを恨んで、非難している心である。類想の少ない歌であるが、一首の調べに心弱さ(414)が現われていて、それが実感味を感じさせるのと、物言いが素朴で、単純なために、この種のものとしては厭味のない、比較的良いものとなっている。
3785 ほととぎす 間《あひだ》しまし置《お》け 汝《な》が鳴《な》けば 吾《あ》が思《も》ふこころ 甚《いた》も術《すべ》なし
保登等藝須 安比太之麻思於家 奈我奈家婆 安我毛布許己呂 伊多母須敞奈之
【語釈】 ○ほととぎす間しまし置け 「ほととぎす」は、呼びかけ。「間」は、鳴く時と時との合間。「しまし置け」は、しばらく置けと命令したもの。絶え間なく鳴いているのに対してのことである。○吾が思ふこころ 我が恋しく思う心は。○甚も術なし 「甚も」は、いたくと同じで、甚しく。「術なし」は、やるせない。
【釈】 ほととぎすよ、鳴くのに合間をしばらく置けよ。お前がそのように絶え間なく鳴くと、我が妹を思う心は、ひどくやるせがない。
【評】 こうした心は、しばしば繰り返されることによって後には概念化されてしまったが、この当時はまだそこまでは行かず、また宅守の境遇としては実感であったと思わせるものである。この歌には語の省略が相応にあるが、その自然なものになっているのも、実感であったためである。上の歌とともに、ほととぎすの歌の中の良いものである。
右の七首は、中臣朝臣宅守の、花鳥に寄せて思を陳べて作れる歌。
右七首、中臣朝臣宅守、寄2花鳥1陣v思作歌。
萬葉集評釋 卷第十六
(416)萬葉集 巻第十六概説
一
本巻は、『国歌大観』の番号の(三七八六)より(三八八九)に至る一〇四首を収めた巻である。一〇四首という数は、本集を通じても巻第一についでの少数である。
歌体の上から見ると、長歌七首、旋頭歌四首、短歌九二首、仏足石歌体一首である。本巻は歌体の上から見ると、歌数の少ないのとは反対に、最も複雑しているものである。
二
本巻は、部立を立てず、その全体を包含する標目として、「由縁ある并に雑歌」という標目を立てている。この「由縁ある」ということは、集中、ただ本巻にあるのみで、他には見えないものである。由縁あるということは、やがて本巻の特色を語っていることである。
由縁ある歌というのは、一と口にいうと、ある事情のもとに詠んだ歌、あるいはある条件のもとに詠んだ歌ということである。言いかえると、詠むべき必要があって、それを充たすために詠んだ歌ということであって、さらにいえば、文芸的興味より詠んだ歌ではなく、必要にかられて詠んだ歌ということである。
記紀歌謡を初め、本集の奈良朝以前の歌は、これを大体としていえば、いずれも心要があって詠んだ歌である。純文芸的興味より詠んだ歌は、同じく大体としては、奈良朝時代に入って初めから見られるといえるのである。このことは、上にもしばしば触れていったことであるが、上代、信仰に浸っての生活を送っていた時代には、歌の形式をもって物をいうのは、信仰の伴ったことをいう場合にのみ限られていて、したがって歌とせずにはいられなくて詠んだ物であった。しかるに信仰が次第に後退して来ると、歌という形式のもっていた信仰面が失われ、その形式のもっていた文芸面が進展して来て、歌は純文芸となって来たのである。「由縁ある歌」という標目は、歌は詩情の表現で、純文芸であるという奈良朝時代の見地に立って、事件あるいは事情に重点を置いて詠んだ歌を、このように称しているのである。
これを本巻の実際について見れば、ある特殊な事件の起こった時、当事者がその事件に即して詠んだ歌、あるいは、事件は特殊でなくても、作者が特別であった歌、あるいはまた、与えられたる条件のもとに詠んだ歌、さらにまた、歌の本道ではない笑いを旨として詠んだ歌などであって、その特殊な事件という中には、想像によって描き出したものもまじっているのである。しかしこれらは概括していうと、事件、事情に重点を置いた歌ということであって、奈良朝時代以前にあってはむしろ普(417)通のことであった。強いていえば、そのやや際立ったものというにすぎない。それらを特に「由縁ある歌」といって特別扱いにしているのは、本巻の編者の文芸意識よりしていることで、言いかえると、奈良朝時代の歌を基本としての見解である。
三
本巻の含んでいる年代は、飛鳥の清御原・藤原朝時代から、奈良朝時代に及んでいる。これは歌の中に扱われている地名で明らかである。
資料となった物は、何びとかによって筆録されていた数種の物であったとみえる。用字法の相違から見て、少なくとも二、三種のあったことは明らかである。
歌の排列については、編者は用意深くしている。大体、挽歌、相聞、雑歌と分類し、さらに雑歌の中に地方歌を一括して加え、それに対しても挽歌、相聞、雑歌と分類を施しているのである。
四
「由縁ある歌」で、おのずから注意されることは、奈良朝時代に入ってできたと思われるいわゆる歌物語の多いことである。歌物語とは、歌をもって作った叙事中心の物語の謂で、奈良朝初期、大伴旅人、山上憶良などによって、意識的に試みられたものである。彼らの試みたことは、古く行なわれていたものを新たに興し、それによって、国語によっての叙事を行なおうとしたことで、これはその際にいった。本巻には、その叙事的抒情歌の古い物と新しい物とが同時にある。古い物は「乞食者《ほかひぴと》の詠二首」である。これは鹿と蟹とが身を捧げて皇室に奉仕することを述べたもので、心としては皇室を祝《ほ》いだものである。その心を徹しさせるために、多くの叙事をしているので、結果から見ると、叙事的抒情歌となっており、奈良朝時代に意識的に試みた叙事的抒情歌と同範囲のものとなっているのである。奈良朝時代に入って新たに興ったこの傾向の歌が、本巻には相応に多い。今、その新しいものについていささか触れていうことにする。
順序を追っていうと、巻首にある、一女が二人の男、また三人の男に求婚されて、去就に惑って自殺したことを、男の挽歌によってあらわしている二つの歌物語は、いずれも奈良朝に入っての物と思われる。この系統の物語が、奈良朝に入って始まり、急速に広範囲のものとなって来たことは、葛飾の真間の手児奈の物語が、山部赤人がその地に行った時には、手児奈は単なる美女で、夫婦睦ましく暮らした女であったのが、高橋蟲麿が行った時には、早くも変化して、多くの男に思われて、同じく去就に惑って自殺した女となっていたのである。葦屋処女の処女塚も同系統のものである。本巻の二つの物語は、それから推して、奈良朝に入ってのものと思われるのである。
次に竹取の翁と、九人の仙女との贈答の歌は、長い序詞をもった叙事的抒情歌で、長篇という上では注目されるものである。仙女は奈良朝時代に入って隆盛を極めた祥瑞思想の産物であるが、この歌の構想は、そうした思想に反感を抱いている儒学思(418)想をもつている人が、自身の思想を具象化しようとしての作であって、仙女が翁の老衰を嘲ると、翁は閉口していず、仙女も時来たれば老衰して、今自分が嘲られるように嘲られると、歌をもって諭すと、不老の仙女の九人はすべて感服して翁に随うというので、これは奈良朝時代でなければあり得ざる歌と思われるものである。
今一つ、相聞の歌についていうと、「夫の君に恋ふる歌一首并に短歌」は、哀切な歌であるが、歌そのものは想像の作と思われるものである。これには左注の詳しいものが添っており、作者、作歌事情を説いて、由縁ある歌としている。しかるにその作歌事情は作とは矛盾していて一致しない。これは資料となった物が、すでにそうなっていたためと思われるが、そうしたことの起こったのは、その時代がいかに歌物語を要求していたかを示すものである。これは奈良朝時代でないとあり得ないことと思われることである。
五
雑歌は、多くの小部立を立てて分類してある。
注意される点に簡単に触れていうと、「宴歌」は宴席の興を添えるために謡う歌で、大体は頤を解かしむることを目的とした歌である。由縁あるとしているのは、その謡い主が明らかな点である。これにつけて思われるのは、本来酒は御酒であって、神に供えるためのものであった。またそうした際は御酒のお下がりをいただき、飲む時には神を讃える歌を謡うことになっていたのである。その酒が神を離れた、自分らの興味のものとなり、歌もそのようなものとなったということは、歌が信仰を離れて文芸となった過程を示していることで、それを具体的に示しているといえるものである。
長意吉麿の、題として与えられた数種のものを、即座に一首の短歌に纏めて詠んだ歌、及びその他の人の同じ歌は、意吉麿が藤原時代の人である点が注意を引く。それらの歌は、歌を遊戯の具とし、笑いを目的として詠んだものである。清御原朝につぐ藤原朝時代は、国粋を尊重した、敬神の念の深い時代であった。歌もそれに繋がって、重く扱われていたのである。その時代に、他方には歌を遊戯の具とする風が擡頭していて、意吉麿のような人が出、周囲の者もその歌を珍重したのであった。歌が日常生活に溶け入ったものとなっていると、人間の本能として、それに厳粛な心を盛るだけでは満足しきれず、反対に明るい笑いを盛ろうとする要求が起こり、それが意吉麿の歌となったと思われる。この傾向は次第に弘まって、追随者を生み、その題も、「心の著く所無き歌」という、数種のものを詠み込むとは正反対に、全く取りとめのない、意味のない歌を詠むようにもなった。さらにこの傾向は展開して、互いに相手を嘲り合う「嗤ふ歌」あるいは「戯咲歌」となったのである。これも上の「宴歌」と同じく、歌を信仰ということから解放して、文芸とならしめる過程と見られることである。その意味において注意される。
地方歌として注意されるのは、「筑前国の志賀の白水郎の歌(419)十首」である。.これには左注が添っていて、白水郎荒雄が、友に代わって対馬へ航する途中、暴風に逢って水死したのを弔った連作で、作者は、当時筑前国の守であった山上憶良であろうと推定されている。これはまさに由縁ある歌で、憶良の集中にあっても光彩を放ちうるものである。
「乞食者の詠二首」については、すでに上にいった、祝《ほ》かい人に乞食者という文字を当てているのは、皇室に対しての祝かいをするという、神社に繋がりをもっていた職の人が、民家の門口に立って、その祝かいを唱えることによって食を乞うたことを示しているのである。歌によって見ると、そうした人が門に立つと、家の者は迷惑に感じて居留守をつかったと見え、乞食者はそれを制する言葉を前置きにしているのである。ここには信仰の後退ということがみえるのであるが、祝かい人が乞食者と同意義に用いられ、また、前置きを必要としたことは、由縁あるというに足りることである。
六
本巻は歌数は少ないが、「由縁ある」ということをとおして、多方面にわたっての歌集である。最も注意される点は、「乞食者の詠二首」という、古い叙事的抒情歌系統のものが、「竹取翁」の歌のごとき、内容としては議論を中心とし、形式としては劇的のものにまで展開した跡を示していることが、その一つである。また、古くは信仰の伴っていた歌が、信仰から解放され、奈良朝時代の純文芸となる中間において、藤原朝時代という比較的古い時代に、すでに長意吉麿のような、戯咲を旨とする歌人が現われ、それが魅力あるものとして迎えられて、次第に根を張り大をなして、純文芸歌を生む上に影響を及ぼしている過程を暗示していることが、その二である。一見、雑然とした巻であるが、本集にあっても軽からざる巻である。
万葉集としては、既存の資料を整理し編纂することは、この巻で終わり、以下の四巻は大伴家持の歌日記とも称すべきものに転じているのである。
(424) 由縁ある并に雑歌
【解】 「由縁《ゆゑ》ある」は、特別の事情のある、というにあたる。本集の歌は、すべて実際に即して詠んだ形となっているので、その実際は、言いかえると事情といえるものである。これは、それらを普通の事情とし、それに対させての特別の事情で、さらに言いかえると、事件を伴った歌、ということである。これは現在の歌物語というにあたる語である。「由縁ある」と「雑歌」とを並べてあるのは「由縁ある」は、大体相聞と挽歌の範囲のもので、「雑歌」は同じく由縁はあるが、それ以外のものとの意である。
昔者《むかし》娘子《をとめ》あり、名を桜児《さくらこ》と曰《い》ひき。時に二《ふたり》の壮子《をとこ》あり、共に此の娘《をとめ》を誂《いど》みて、生《いのち》を捐《す》てて挌競《あらそ》ひ、死を貪りて相敵《あた》みたりき。ここに娘子《をとめ》歔欷《なげ》きて曰く、古《いにしへ》より今までに、未《いま》だ聞かず、未だ見ず、一《ひとり》の女の身にして、二つの門に往き適《あ》ふといふことを。方今《いま》壮士《をとこ》の意《こころ》和平《やはら》ぎ難きものあり。妾《われ》死《みまか》りて、相害《あらそ》ふことを永く息《や》めむには如かじといひて、乃ち林の中に尋ね入りて、樹に懸りて経《わな》き死《し》にき。其の両《ふたり》の壮士《をとこ》哀慟に敢《あ》へず、血の泣《なみだ》襟《くび》に漣《したた》る。各|心緒《こころ》を陳《の》べて作れる歌二首
昔者有2娘子1。字曰2櫻兒1也。于v時有2二壮士1。共誂2此娘1、而捐v生挌競、貪v死相敵。於v是娘子歔欷曰、從v古来v今、未v聞未v見、一女之身、往2適二門1矣。方今壮士之意、有v難2和平1。不v如2妾死相害永息1、尓乃尋2入林中1、懸v樹經死。其兩壮士、不v敢2哀慟1、血泣漣v襟。各陳2心精緒1作歌二首
【解】 ○昔者 この言い方は、古伝説を伝える型となっている言い方である。○誂みて 求婚をして。○挌競ひ 「挌」は、撃つ意。○経き死にき くびれ死ぬ意で、水死と並んで、上代の自殺の普通の方法。○敢へず 堪えずに同じ。
3786 春《はる》さらば 挿頭《かざし》にせむと 我《わ》が念《おも》ひし 桜《さくら》の花《はな》は 散《ち》りにけるかも 其の一
(425) 春去者 挿頭尓將爲跡 我念之 櫻花者 散去香聞 其一
【語釈】 ○挿頭にせむと その季節の花を用いるのが普通である。ここは、妻にする譬喩としていっている。○桜の花は 「桜」は、娘子の名の「桜児」をかけたもの。○散りにけるかも 旧訓。散り去ってしまったことだなあ。
【釈】 春が来たならば、挿頭にしようと我が思っていた桜の花は、散り去ってしまったことだなあ。
【評】 「桜の花」に「桜児」をかけ、「春さらば挿頭にせむと我が念ひし」に、時を待ってわが妻としようと心に期していたを譬え、「散りにけるかも」に、その死を譬えたものである。挽歌である。全体が静かで、心細かく、歌柄の細いものである。題詞にいっている「哀慟に敢へず」という趣は持ってはいない。物語によって詠んだ物で、奈良朝時代の歌と取れる。
3787 妹《いも》が名《な》に 懸《か》けたる桜《さくら》 花《はな》咲《さ》かば 常《つね》にや恋《こ》ひむ いや毎年《としのは》に 其の二
妹之名尓 繋有櫻 花開者 常哉將戀 弥年之羽尓 其二
【語釈】 ○妹が名に懸けたる桜 「懸けたる」は、妹の名につけてある桜。○常にや恋ひむ 「常」は、永久。「や」は、疑問の係。永久に恋うることであろうか。○いや毎年に 「いや」は、いよいよ。「としのは」は、毎年の意の熟語。
【釈】 妹の名につけてある桜の花が咲いたならば、永久に恋うることであろうか。いよいよ毎年に。
【評】 上の歌に較べると知性的で、したがってさらに間接になっている。作為の作としても、想像力の乏しすぎるものである。
【総評】 この伝説は、畝傍山の東北方に、桜児塚というがあり、それにからんでのものであろうという。それだと、少なくとも奈良朝以前のものである。しかしここに文をもって語られている伝説は、奈良朝に入ってのものと思われる。それは、女が同(426)時に一人以上の男から求婚され、男同士の争いを見るに堪えられなくて自殺するという伝説は、奈良朝時代に入って生まれたものらしいからである。下総の真間の手児奈の伝説はその著しい例で、山部赤人によって扱われた時には単なる美人であったにすぎない手児奈が、高橋蟲麿に扱われた時には、この桜児と同じ心から水死したことになっているのである。桜児塚の伝説は、いずれはあわれなものであったろうが、どういうものであったかわからない。ここに語られているものは、その原形より変えられて、奈良朝の型になったものと思われる。歌はそれによって、奈良朝の人によって詠まれたものと思われる。歌は、その性質としては挽歌であるが、いうところは故人には触れず、自分らの悲しみをいっているのみのものである。その悲しみも、女の名の桜にかけて、その散り去ったのを惜しみ、春ごとに思い出されようことをいっている、美的気分を主としたものなのである。要するに、奈良朝時代の産んだ歌物語である。
或《あるひと》の曰く、昔|三《みたり》の男あり、同《とも》に一《ひとり》の女を娉《つまど》ひき。娘子《をとめ》嘆息《なげき》て曰く、一《ひとり》の女の身は滅《け》易きこと露の如く、三《みたり》の雄《をとこ》の志平ぎ難きこと石《いは》の如しといひて、遂に池の上《ほとり》に〓〓《たもとほ》り水底《みなそこ》に沈没《しづ》みき。時に其の壮士《をとこ》等、哀頽の至に勝《あ》へず、各|所心《こころ》を陳べて作れる歌三首【娘子字を縵児《かづらこ》と曰ふ。】
或曰、昔有2三男1同娉2一女1也。娘子嘆息曰、一女之身、易v滅如v露、三雄之志難v平如v石、遂乃〓2〓池上1、沈2没水底1。於v時其壮士等、不v勝2哀頽之至1、各陳2所心1作歌三首【娘子字曰2縵児1也】
【解】 ○或の曰く 前の伝説と類似のものとしての意で、ある人のいうにはとしている。○滅易きこと露の如く 仏典にある譬喩。○池 歌によつて「無耳《みみなし》の池」と知られる。これはこの物語の発生した地域を示しているものである。
3788 無耳《みみなし》の 池《いけ》し恨《うら》めし 吾妹子《わぎもこ》が 来《き》つつ潜《かづ》かば 水《みづ》は涸《か》れなむ 一
無耳之 池羊蹄恨之 吾味兒之 來乍潜者 水波將涸 一
【語釈】 ○無耳の池し恨めし 「無耳の池」は、無耳山の裾にあった池。『新考』は、今、耳無山の南の麓に木原池というがある。これが無耳の池の名残りであろうかといっている。「し」は、強意。「恨めし」は、池が娘子を殺したのだとして、感傷の心より池を擬人していっているもの。上代信仰からは自然なことだったのである。○来つつ潜かば 「来つつ」は、継続で、入水に先立つ時間を想像してのもの。○水は涸れなむ 「涸れ」は、下二段、未然形で、「なむ」は、願望の終助詞。水が涸れてくれ。
(427)【釈】 無耳の池は恨めしい。吾妹子が来て身を投げたら、水が涸れてくれ。
【評】 娘子の死を悲しみ、情痴に陥った悲しみ方をしているもので、挽歌の旨にかなったものとなっている。気分本位な、線の細く、語の細かいところは、上の歌と同じく奈良朝時代のものである。
3789 あしひきの 山縵《やまかづら》の児《こ》 今日《けふ》ゆくと 吾《われ》に告《つ》げせば 還《かへ》り来《こ》ましを 二
足曳之 山縵之兒 今日往跡 吾尓告世婆 還來麻之乎 二
【語釈】 ○あしひきの山縵の児 「あしひきの」は、山の枕詞。「山縵」は、山の植物で造った縵で、縵児の名にかかって、鄭重にいったもの。「児」は、娘子の愛称。○今日ゆくと吾に告げせば 「今日ゆくと」は、今日死にに行くと。「せば」は、仮設の条件法で、未然形。○還り来ましを 「まし」は、「せば」の帰結、「を」は、詠歎で、還って来ようものを。「還り」は、娘子の死は、自分が娘子の家を訪ねた直後であるとして、引き返して来る意。
【釈】 あしひきの山縵というあのかわゆい女が、もし今日死にに行くと吾に告げたならば、引き返して還って来たであろうものを。
【評】 これも気分本位の歌ではあるが、実際に即しての連想といえるもので、味わいのあるものである。「あしひきの山縵の児」も要を得た讃え詞で、ことに「還り来ましを」は働きを持った句である。挽歌としてしかるべきものである。
3790 あしひきの 玉縵《たまかづら》の児《こ》 今日《けふ》の如《ごと》 いづれの隈《くま》を 見《み》つつ来《き》にけむ 三
(428) 足曳之 玉縵之兒 如今日 何隈乎 見管來尓監 三
【語釈】 ○玉縵の児 「玉縵」は、「玉」は、美称。「あしひきの」よりの続きとして「山」の誤写説がある。「あしひきの」を山の意に転用したと見れば、山縵を美しく言いかえたものとなる。この転用は用例のあるものである。○今日の如 今日、自分がしているように。娘子の死所なりとも知ろうと思って、池の周囲をさまよっている意。悲しみを偲ぶあまりに、せめて娘子の死所なりとも見ようとして、池の周囲をさまよったもの。○いづれの隈を見つつ来にけむ 「隈」は、地勢の堺目となっている所、路の曲がり目などの称。ここは池のまわりで、いずれも隈と言いうるものである。「見つつ」は、見ながらで、死所を選ぶため。「けむ」は、上の「いづれ」を承けての結で、連体形。
【釈】 あしひきの玉縵というあのかわいい女は、今日自分のしているように、池のまわりのいずれの隈を見つつ来たことであろうか。
【評】 この歌も上の二首と同じく、気分よりのものであるが、実際に即する心の深いものである。想像で生み出した世界であるが、気分の力でそれを実際化し得ているものである。
【総評】 「或の曰く」と、上の伝説の別伝のごとくに扱っているが、この伝説は全然別のもので、新たに産み出されたもののようである。それは、男二人を三人とし、樹間の経死を池での水死と変えることは、多少の想像力のある人には、きわめて容易なことだからである。上の伝説では、伝説そのものに重点があり、歌は軽く、付随した物のごとくみえたのであるが、この伝説は反対に、歌のほうに重点があり、それによって支持されているようにもみえるのである。その点から見てこの伝説は、三首の歌の作者によって案出されたものではないかと思われるのである。実際上の伝説の歌は、普通の知識人の軽いすさみと思われるが、こちらの作者は、気分豊かな、歌才に富んだ人で、遥かに勝れているのである。歌風は、上の伝説の歌よりも、奈良朝時代のものであることを、濃厚に示しているものである。伝説は、この作歌者の案出であろうという推量には、この奈良朝時代ということも関係している。
昔|老翁《おきな》あり、号《な》を竹取《たけとり》の翁《おきな》と曰《い》ひき。此の翁《おきな》季春《やよひ》の月に、丘に登りて遠く望むに、忽ちに羮《あつもの》を煮る九箇《ここのたり》の女子《をとめ》に値《あ》へり。百《もも》の嬌|儔《たぐひ》無く、花のごとき容《かたち》止《や》むこと無し。時に娘子《をとめ》等、老翁《おきな》を呼び、嗤《わら》ひて曰はく、叔父《をぢ》来て此の燭の火を吹けといふ。此《ここ》に翁|唯唯《をを》と曰ひて、漸《やや》に?《おもむ》き徐《おもむろ》に行きて座の上に著接《まじは》る。良《やや》久《ひさ》にして娘子《をとめ》等皆共に咲《ゑみ》を含み相|推譲《おしゆづ》りて曰はく、阿誰《たれ》か此の翁《おきな》を呼びしといふ。爾乃《すなはち》竹取の翁|謝《ことわ》りて曰はく、慮《おも》はざる外に偶《たまたま》神仙《ひじり》に逢へり。迷惑《まと》へる心敢へて禁《さ》ふる所な(429)し。近く狎《な》れし罪は、希くは、贖ふに歌を以ちてせむといひて、即ち作れる歌一首 井に短歌
昔有2老翁1號曰2竹取おきな1也。此翁季春之月、登v丘遠望、忽値2〓v羮之九箇女子1也。百嬌無v儔、花容無v止。于v時娘子等、呼2老翁1嗤曰、叔父來乎吹2此燭火1也。於v是翁曰2唯々1、漸?徐行著2接座上1。良久娘子等皆共含v咲相推讓之曰、阿誰呼2此翁1哉。尓乃竹取翁謝之曰、非v慮之外、偶逢2神仙1、迷惑之心無2敢所1v禁。近狎之罪、希贖以v歌、即作歌一首 并短謌
【解】 ○竹取の翁 山野に自生する竹を伐って器具を造ることを職とする翁。上代人は、竹は神秘力を持っている植物とし、呪力ある器具を造る材にした。その意味では、神仙に近いことをする職である。○季春 三月で、やよい。○羮を煮る九箇の女子 「羮」は、ここは野で煮ている物で、若菜のそれである。若菜の羮は、それを食うと人を若がえらせる力があるとして、一般にされていた行事で、ここもそれである。「九箇の女子」は、九人の仙女である。九という数は、神仙思想で貴んでいる数で、ここもそれである。○止むこと無し 限りがない。『代匠記』は「止」は「匹」の誤写かといっている。それだと、たぐうことなし。○嗤ひて あざ笑う意。○燭の火を吹け 「燭」は、『略解』は「鍋」の誤写としている。羮を煮る火だからである。○漸に?き徐に行きて 仙女と知って畏敬してのこと。○阿誰か此の翁を呼びし 翁を呼び近づけた責任者を捜す意。上の「叔父来て」と命令したことの帰結で、その呼ぶのも、去らせようとするのも、一に優越感からのことである。○慮はざる外に 慮外にもで、思いも寄らずに。○迷惑へる心敢へて禁ふる所なし 驚きのために分別を失っている心は、遠慮すべきことができなかった。○贖ふに歌を以ちてせむ 罪を償う料として歌を詠もうの意。唄うには何らかの品物を出すのが定まりであった。
【解又】 これは一つの纏まった神仙譚で、文と、翁の長歌と、仙女の答歌とをもつて構成したもので、長歌は集中第二の長いものであり、答歌も九首の多きをもってしている大規模の物である。この構成は、巻五、大伴旅人の松浦河に遊んで、神女と邂逅しての作(八五三−六三)と酷似している。三部は緊密に連絡しているものであるが、しかしこの文に較べると、長歌と答歌とは、ある矛盾を帯びている。それは、この文では、明らかに仙女の群として叙しているのであるが、長歌と答歌とは、普通の人間界のことと異ならないものとなっているのである。すなわち翁の歌も人間界の娘子に対する心のものとなっており、娘子の歌も、同じ人間界の翁に対する心のものとなっているのである。これは言いかえると、神仙界も人間界と根本の性情においては異なるところのないということをあらわそうとしているもののようで、その展開がやがて作者の神仙界に対する批評と思われる。なお、この文にいっていることは、当時このような伝説があって、作者はそれを比較的原形に近く伝えているものではないかと思われる。それは、平安朝時代初頭の竹取物語は、同じ伝説を展開させたものと思われる関係においてである。
3791 緑子《みどりこ》の 若子《わくご》が身《み》には 垂乳《たらち》し 母《はは》に懐《うだ》かえ ?襁《ひむつき》の 這児《はふこ》が身《み》には 木綿肩衣《ゆふかたぎぬ》 純裏《ひつら》に (430)縫《ぬ》ひ着《き》 頸著《うなつき》 童子《わらは》が身《み》には 夾纈《ゆひはた》の 袖著衣《そでつけごろも》 著《き》し我《われ》を にほひよる 子等《こら》が同年輩《よち》には 蜷《みな》の腸《わた》 か黒《ぐろ》し髪《かみ》を 真櫛《まぐし》持《も》ち ここに掻《か》き垂《た》り 取《と》り束《つか》ね 挙《あ》げても纏《ま》きみ 解《と》き乱《みだ》り 童児《わらは》に成《な》しみ 羅《うすもの》の 丹《に》つかふ色《いろ》に 懐《なつか》しき 紫《むらさき》の 大綾《おほあや》の衣《きぬ》 住吉《すみのえ》の 遠里小野《とほさとをの》の 真榛《まはり》もち にほほし衣《きぬ》に 高麗錦《こまにしき》 紐《ひも》に縫《ぬ》ひ著《つ》け ささへ重《かさ》なへ 並《な》み重《かさ》ね著《き》 打麻《うちそ》やし 麻績《をみ》の児等《こら》 あり衣《ひぬ》の 財《たから》の子等《こら》が 打栲《うつたへ》は へて織《お》る布《ぬの》 日曝《ひざらし》の 麻紵《あさてづくり》を 信巾裳《ひらも》なす 愛《は》しきに取《と》れば 醜屋《しきや》経《ふ》る 稲置丁女《いなきをとめ》が 妻問《つまど》ふと 我《われ》にぞ来《こ》し 彼方《をちかた》の 二綾襪《ふたあやしたぐつ》 飛《と》ぶ鳥《とり》の 飛鳥壮士《あすかをとこ》が 霖禁《ながめい》み 縫《ぬ》ひし黒沓《くろぐつ》 指《さ》し穿《は》きて 庭《には》に立《た》たずめば 退《まか》り勿《な》立《た》ちと 障《さ》ふる少女《をとめ》が 髣髴聞《ほのき》きて 我《われ》にぞ来《こ》し 水縹《みなはだ》の 絹《きぬ》の帯《おび》を 引帯《ひきおび》なす 韓帯《からおび》に取《と》らし 海神《わたつみ》の 殿《との》の甍《いらか》に 飛《と》び翔《かけ》る 〓〓《すがる》の如《ごと》き 腰細《こしぼそ》に 取《と》り飾《かざ》らひ まそ鏡《かがみ》 取《と》り雙《な》め懸《か》けて 己《おの》が貌《かほ》 還《かへ》らひ見《み》つつ 春《はる》さりて 野辺《のべ》を廻《めぐ》れば おもしろみ 我《われ》を思《おも》へか さ野《の》つ鳥《とり》 來鳴《きな》き翔《かけ》らふ 秋《あき》さりて 山辺《やまべ》を往《ゆ》けば 懐《なつか》しと 我《われ》を思《おも》へか 天雲《あまぐも》も 行《ゆ》きたなびく 還《かへ》り立《た》ち 路《みち》をぞ來《く》れば うち日《ひ》さす 宮女《みやをみな》 さす竹《たけ》の 舍人壮士《とねりをとこ》も 忍《しの》ぶらひ 還《かへ》らひ見《み》つつ 誰《た》が子《こ》ぞとや 思《おも》はえてある かくぞ為来《しこ》し 古《いにしへ》 ささきし我《われ》や 愛《は》しきやし 今日《けふ》やも子等《こら》に 不知《いさ》にとや 思《おも》はえてある かくぞ為来《しこ》し 古《いにしへ》の 賢《さか》しき人《ひと》も 後《のち》の世《よ》の かたみにせむと 老人《おいびと》を 送《おく》りし車《くるま》 持《も》ち還《かへ》り来《こ》し 持《も》ち還《かへ》り来《こ》し
緑子之 若子蚊見庭 垂乳爲 母所懐 〓襁 平生蚊見庭 結經方衣 氷津裏丹縫服 頸著之 童子蚊見庭 結幡之 袂著衣 服我矣 丹因 子等何四千庭 三名之綿 蚊黒爲髪尾 信櫛持 於是蚊寸(431)垂 取束 擧而裳纏見 解乱 童兒丹成見 羅 丹津蚊經色丹 名著來 紫之 大綾之衣 墨江之 遠里小野之 眞榛持 丹穗之爲衣丹 狛錦 紐丹縫著 刺部重部 波累服 打十八爲 麻續兒等 蟻衣之 寶之子等蚊 打栲者 經而織布 日曝之 朝手作尾 信巾裳成 者之寸丹取 爲支屋所經 稻寸丁女蚊 妻問迹 我丹所來爲 彼方之 二綾裏沓 飛鳥 飛鳥壯蚊 霖禁 縫爲黒沓 刺佩而 庭立住 退莫立 禁尾迹女蚊 髣髴聞而 我丹所來爲 水縹 絹帶尾 引帶成 韓帶丹取爲 海神之 殿蓋丹 飛翔 爲輕如來 腰細丹 取餝氷 眞十鏡 取雙懸而 己蚊杲 還氷見乍 春避而 野邊尾廻者 面白見 我矣思經蚊 狹野津鳥 來鳴翔經 秋僻而 山邊尾徃者 名津蚊爲迹 我矣思經蚊 天雲裳 行田菜引 還立 路尾所來者 打氷刺 宮尾見名 刺竹之 舍人壯裳 忍經等氷 還等氷見乍 誰子其迹哉 所思而在 如是所爲故爲 古部 狹々寸爲我哉 端寸八爲 今日八方子等丹 五十狹迩迹哉 所思而在 如是所爲故爲 古部之 賢人藻 後之世之 堅監將爲迹 老人矣 送爲車 持還來 持還來
【語釈】 ○緑子の若子の身には 「緑子の」の「の」は、同意の名詞を重ねる時に用いるもので、にしてすなわちというにあたる助詞。「若子」は、意味の広い語で、嬰児より成年に至るまでの称。「身には」は、身にあってはで、身の時にはというと同じ。緑子で若子であった時期には。○垂乳し母に懐かえ 「垂乳し」は「たら」は、「足らし」で、「足る」の敬語。「し」は、過去の助動詞。乳を足らしてくださった。母の枕詞。「懐かえ」は、「いだかれ」の古語で受身。以上、緑子の時期で、何の不足もなかった意。○〓襁の這児が身には 「〓襁」は、訓が明らかでない。字義は「〓」は、衣服の長く被う貌。「襁」は、幼児に着ける紐で、それを取って這い歩むことを助ける物で、二字で幼児の衣服の特色をいっているのである。諸本、訓がさまざまである。『全註釈』は『類聚名義抄』に、「襁」に「ひむつき」「ちごのきぬ」の二訓のあるのにより「ひむつきの」と訓んでいる。『代匠記』以後は、「〓」を「搓」とした上で訓んでいるから、『全註釈』に従う。「這児」は、原文「平生」。これは論語(憲問篇)に「久要不v忘2平生之言1」とあり、孔安国の注に「平生猶2少時1」とあるによったものだと『古義』が考証している。○木綿肩衣純裏に縫ひ著 「木綿肩衣」は、楮の繊維の布で拵えた、袖のない半纏。半纏は今も小児が用いている。「純裏」は、巻十二(二九七二)「赤帛の純裏の衣」とあり、「ひつら」は、「ひたうら」の約音で、衣の裏を、表と同じ物を用いることの称である。これは当時贅沢としたことである。○頸著の童子が身には 「頸著」は、童の特色をあらわした語で、垂髪にしてある毛が、うなじに着くことの称であろうという。少女の額髪を目刺《めざし》という称から見て、うなずかれる。○夾纈の袖著衣著し我を 「夾纈」は、糸で結びくくって染めて、今いう絞り染にした布で、当時珍重された物だった。「袖著衣」は、袖の先に、さらに半幅の袖を足して長くした物の称で、これは身分ある者の服だった。「著し我を」は、「を」は、感動の助詞で、着た我であ(432)ったことだ。以上、這う児の時期の何不足なかったこと。起首よりこれまでは、嬰児の時期より童子の時期までの追憶で、何不足なく育って来たことをいったもので、総括して一段とし、五音一句をもって結んでいる。○にほひよる子等が同年輩には 「にほひよる」は、原文「丹因」、諸注、訓がさまざまである。『新訓』は「似よる」、『全註釈』は「にほひよる」と訓んでいる。「丹」を「にほふ」と訓むのは、巻八(一五八八)「平山《ならやま》を令丹《にほはす》黄葉」の例があるとしている。「にほふ」は、赤く色づく美しさを現わす語。「よる」は、寄るで、寄り靡いている意で、ここは美しく寄り合っているで、「子等」の状態。「子等」は、対している神女らの親称。「同年輩」は、巻十三(三三〇七)「切る髪の吾同子《よちこ》を過ぎ」と出た。二句、美しく寄り合っているあなたたちと同年輩の時にはで、言いかえると私もあなたたちのような若い盛りの時には、の意。○蜷の腸か黒し髪を 「蜷の腸」は、その黒い所から、譬喩として黒の枕詞。「か黒し」は、「か」は、接頭語。蜷の腸のような黒いわが髪を。○真櫛持ちここに掻き垂り 「真櫛」は、「真」は、接頭語。「ここに」は、下の続きで、長く伸びたのを掻き垂らすのであるから、うなじを越えた肩のあたりで、肩のあたりを指していった形である。この語で見ると、身振りを交じえての歌と知れる。「掻き垂り」は、掻いて垂らしてで、これは髪の伸びたことに得意を感じていったもの。○取り束ね挙げても纏きみ 「取り束ね」は、手で束ねて。「挙げても纏きみ」は、頭の上に挙げて、結んでもみて。「み」は、試みる意。○解き乱り童児に成しみ 「解き乱り」は、いったん結んだ髪を解き乱して。「童児に成しみ」は、童の垂髪にもしてみて。以上、髪の伸びたのが楽しく、さまざまに弄ぶ意で、男子も女子と異ならなかったのである。○羅の丹つかふ色に 『新訓』の訓。この二句は、諸注解し難くして、誤写説の多いものである。「羅」は、薄い織物。「丹つかふ色に」は、「丹」は、赤色。「つかふ」は、「つく」の連続で、よく染まりついている。薄い織物で、赤色のよく染まった色をしたのに。「に」は、に加えて。以上一種の衣。○懐しき紫の大綾の衣 「懐しき紫の」は、なつかしい紫いろに染めた。「懐しき」は、五音一句で、次の五音に続いている。「大綾の衣」は、大きく綾織にした紋様を織り出した衣で、甚だ華美なもの。これまた一種の衣。○住吉の遠里小野の 「遠里小野」は、今、大阪市住吉区と堺市との内にその名が残っている。以前は瓜生野といった。巻七(一一五六)「住吉の遠里小野の真榛もちすれる衣の盛過ぎゆく」がある。○真榛ももにほしし衣に 「真榛」は、「真」は、按頭語で、萩。「にほしし衣に」は、赤く美しく染めた衣に。○高麗錦紐に縫ひ著け 「高麗錦」は、高麗風の錦を。「紐に縫ひ著け」は、衣の上紐として縫って着けて。これも一種の衣。これまた甚だ華美な物である。○ささへ重なへ並み重ね著 「ささへ」は、「指し」の連続。「さし」は、「赤根刺し」の「刺し」と同じく、交じえの意。「重なへ」は、「重ね」の連続で、襲ね。「並み重ね著」は、並べて襲ねて着てで、上の三種の衣を、同時に交じえ襲ねて着ることを強調していったもの。○打麻やし麻績の児等 「打麻やし」は、「やし」は、感動の助詞で、打って柔らげた麻で、麻績の枕詞。「麻績」は、麻を績むことを職とする部族の称。「児等」は、愛称。○あり衣の財の子等が 「あり衣の」は、鮮明な衣で、意味で財にかかる枕詞。「財」は、布を財物としての称で、布を織ることを職とした部族を財部と呼んだ。○打栲はへて織る布 「打栲」は、打って艶を出した栲。「へて」は、糸を綜《へ》てで、糸を織糸に組み立てること。打った栲を綜て、織った布で、財部のことをいったもの。○日曝しの麻紵を 「日曝しの」は、日光に曝すことで、名詞。織った布を水で洗って、日に晒すことで、光沢を出すためのこと。「麻紵」は、麻の手織りの布で、美しい麻布を。○信巾裳なす愛しきに取れば 「信巾裳」は、褶《しびら》で、礼装の時の裳。「なす」は、のごとくに。「愛しきに取れば」は、「愛しきに」は、美しいさまに。「取れば」は、身につければ。○醜屋経る稲置丁女が 「醜屋」は、粗末な屋で、下の稲を扱う屋。「経る」は、時を過ごしているで、醜屋に籠もつてしごとをしている。「稲置丁女」は、ここは稲を扱っている女で、主として稲を舂くことを職としている女。家婢の職であった。(433)○妻問ふと我にぞ来し 求婚をするとてわが所へ来たことであった。伸びた髪を愛して弄ぶことより、衣服のことについてじつに多くを言い連ねた結末が、稲置丁女に求婚されるということで、文字どおり竜頭蛇尾である。この対照はユーモラスだと称すべきもので、また庶民的である。○彼方の二綾襪 「彼方の」は、遠方での物の。「二綾」は、二色の綾で、上等の物。「襪」は、今の靴下。○飛ぶ鳥の飛鳥壮士が 「飛ぶ鳥の」は、飛鳥の枕詞。「飛鳥壮士」は、飛鳥に住んでいる男。○霖禁み縫ひし黒沓 「霖禁み」は、長雨を嫌ってで、「縫ひし黒沓」は、作った黒色の沓で、漆は雨に湿ると色が悪くなるのである。○指し穿きて庭に立たずめば 「指し穿きて」は、「指し」は、接頭語。「庭に立たずめば」は、人の家の屋前に立つと。○退り勿立ちと障ふる少女が 立ち去るなととめる少女が。○髣髴聞きて我にぞ来し 「髣髴聞きて」は、ほのかにその声を聞いてであるが、この句は、前後に続かず、遊離している。「我にぞ来し」は、我の所へ来たことであったで、懸想、求婚の意である。以上、第二段。前段と並んで、青春と、美装との魅力をいったもの。○水縹の絹の帯を 「水縹」は、藍の薄い色。以下、帯についていっている。○引帯なす韓帯に取らし 「引帯」は、袍、直衣などの上に用いる小さい帯で、「なす」は、のごとく。引帯のようにで、帯の形についていったもの。「韓帯」は、どういう帯であるか不明であるが、同じく幅の狭い帯の意でいっていると取れる。「取らし」は、「取る」の敬語で、結ぶ意である。自身のことを敬語でいっているので、妥当でない。○海神の殿の蓋に飛び翔る〓〓の如き 海神の殿すなわち竜宮の屋根瓦の上を飛んでいる〓〓のようなで、〓〓は似我蜂、今のすがれ。腰の著しく細い蜂で、ここは下の「腰細」の譬喩。○腰細に取り飾らひ 「腰細」は、細腰。「飾らひ」は、「飾り」の連続で、単に飾りと同じ意で用いる。○まそ鏡取り雙め懸けて 「まそ鏡」は、真澄の鏡であるが、単に鏡の意でいったもの。「取り雙め」は、「取り」は、接頭語。「雙め」は、並べてで、よく見えるためのこと。○己が貌還らひ見つつ 自分の顔を振り返って見ながら。「還らひ」は、還りの連続。これも単に還りである。「見つつ」は、見るの継続。○春さりて野辺を廻れば 春が来て、野をさまよいまわれば。○おもしろみ我を思へか 「おもしろみ」は、興が深いと。「我を思へか」は、我を思ってかで、疑問条件法。○さ野つ鳥来鳴き翔らふ 「さ野つ鳥」は「さ」は、按頭語。「野つ鳥」は、野の鳥で、諸の鳥。「来鳴き翔らふ」は、来て鳴いて翔けつづけているで、「翔らふ」は、翔るの連続。○秋さりて山辺を往けば懐かしと我を思へか 秋が来て、山辺をさまよい行くと、懐かしく我を思うのかで、上と対句。○天雲も行きたなびく 天雲さえも動きたなびいている。○還り立ち路をぞ来れば 「還り立ち」は、「立ち」は、接尾語で、還って。「路をぞ来れば」は、京の路を来ると。○うち日さす宮女さす竹の舎人壮士も 「うち日さす」は、宮の枕詞。「宮女」は、宮廷に奉仕する女性。「さす竹の」は、大宮の枕詞を、舎人にかけたもの。「舎人壮士」は、舎人の男。○忍ぶらひ還らひ見つつ 「忍ぶらひ」は、「忍ぶ」の連続をあらわす動詞。ゆかしがりつつ。「還らひ見つつ」も「還らひ」は、「還る」の連続。顧みをしつつ。○誰が子ぞとや思はえてある 「誰が子ぞとや」は、いかなる人かとで、どこの家の子かと。「や」は、感動の助詞。「思はえてある」は、思われているで、現在法で強くいったもの。以上、第三段で、前段と並べて、同じ意を、さらに強調したもの。○かくぞ為来し そのようにして来たことだ、と起首よりこれまでを総括して、今一度強調したもので、これは第四段である。○古ささきし我や 「古」は、昔にあって。「ささきし我や」は、「ささきし」は、「ささく」は、集中には用例がないが、竹取物語にはあって、花やぐ意の動詞。「我や」の「や」は、感動の助詞。○愛しきやし今日やも子等に 「愛しきやし」は、「子等」につづくもの。「今日やも」の「やも」は、疑問の係。「子等」は、仙女。○不知にとや思はえてある 「不知にとや」は、「いさ」は、否の意で、題詞にある、翁がじゃまがられる状態。「に」と「や」は、感動の助詞。「思はえてある」は、思われているで、「ある」は、「や」の結。厭わしい者と思われているで、「ささきし我や」に対させたもの。(434)○かくぞ為来し そのようにして来たことだ、と上を承けて、強く確かめるとともに、それゆえにの余意で、下を起こしている。この二句は、上に出たものの繰り返しであるが、上の場合は、古と今とを対照してのものであったが、ここは眼前を強めるためのものである。○古の賢しき人も 「賢しき人」は、賢き人で、その人は『孝子伝』に出ている原穀である。○後の世のかたみにせむと 「かたみ」は、原文「堅監」で、鑑の意である。○老人を送りし車持ち還り来し 「老人を送りし車」は、老人を棄てるために乗せて行った車。「持ち還り来し」は、その家に持ち還ったで、これは再び用いるためで、次の故事によってのものである。故事は『孝子伝』に「原穀者、不v知2何許人1。祖年老、父母厭2患之1、意欲v棄v之。穀年十五、涕泣苦諌、父母不v従。乃作v輿舁棄v之。穀乃随収v輿帰。父謂v之曰、爾焉用2此凶具1。稿曰、乃後父老、不v能2更作得1、是以収v之耳。父感悟愧懼、乃載v祖帰、侍養更成2純孝1。」というのである。事は上代にあったという棄老思想のもので、中心は、老いた親を厭って野に棄てた子は、自分も老いるとその子から同じく棄てられるという点である。この歌の作者はそれを取り、今翁の老いて醜くなっているを嗤っている若い仙女も、老いると翁と同じく若い者から嗤われようというのである。
【釈】 緑児で若子の身の時には、乳を十分にくださる母に抱かれ、襁のついた着物を着る、這う児の身の時には、木綿の袖無しの、裳も表と同じ物を縫って着て、髪の毛の頸まで伸びた童の身の時には、絞り染の、特に袖の長い衣を着た私でしたよ。色美しく寄り合っているあなたたちと同年輩の時には、蜷の腸のような真黒な髪の毛を、櫛でここの所へ掻き垂らしたり、束ねて頭の上へ挙げて結ってみたり、解き乱して童の髪にしてみたりして、羅の、赤色によく染まった衣や、懐かしい色の紫の、綾織の大きな紋のついた衣や、住吉の遠里小野の萩の花で美しく染めた衣に、高麗錦で紐を縫って着けたのやを、取りまぜて重ねて、並べて重ねて着て、打麻を績む麻績部の少女らや、鮮明な衣を織る財部の少女らやが、打った栲を綜て織る布や、日光に曝した麻の手織やを、褶のように身に着けると、醜い屋に住んでいる稲舂きをする女は、求婚をするとてわがもとに来たことであった。遠い地の物である、二種の綾で拵えた靴下に、飛ぶ鳥の飛鳥の男が、長雨の湿りを嫌って縫った黒沓を穿いて、人の家の屋前に佇んでいると、立ち去るなと引き留める少女が、ほのかに聞いて、我に求婚に来たことであった。薄藍いろの絹の帯を、引帯のように韓帯にして取り付け、海神の殿の屋根瓦の上に飛び翔っているすがるのようなわが細腰を飾り立て、ます鏡を並べて懸けて、自分の顔を映して見返りをしつつ、春が来て野辺を歩きまわると、感興深く私を思ってのことか、野の鳥が来て鳴いて翔けめぐっている。秋が来て、山辺を歩いていると、懐かしと我を思ってのことか、空の雲も動いてたなびいている。還って来て、都の路を来ると、うち目さす大宮の宮女やさす竹の舎人の男が、ひどく懐かしがり、幾度も振り返って見つつ、どういう人なのかと思われていることである。そのようにして来たことであった。以前は花やいでいた私が、今日は美しいあなたたちに、厭わしい者に思われていることだ。そのようにして来たことだ。昔の賢い人も、後々の時のかがみにしようと、老びとを野に棄てるとて乗せて送った車を、家に持ち帰って来た。家に持ち帰って来た。
【評】 この歌は、作者の思想方面においても、また表現の技巧方面においても、きわめて特殊なものであって、その意味では(435)本集を通じて他に例のないほどのものである。
思想方面については、上の序詞の際にいささか触れていったが、この歌は竹取の翁の九人の仙女を相手にして詠んだものであるが、翁は仙女を神仙界の特殊な存在として認めず、人間界の翁とともに生存している普通の娘子と同じ者として物をいっているのである。その縷々として語り続けていることは、神仙界の者には解し難いほどに人間的なものである。その中で最も重大なことは、仙女も時が来ると老を免れ難く、若かった自分が老翁となったと同様に老婆となると決めて物をいっていることである。不老長寿を唯一の特色としている神仙界の者にこういうことをいうのは、甚しい侮辱であるが、翁はそれを敢えてしているのである。これは翁は、神仙界を認めていないということである。このことは現在からいうと何事でもないが、この作者が生存していた時代の知識人としては、きわめて異とすべきことである。神仙思想からいうと、本集の時代は、その発展、隆盛の時代であったことはしばしば触れていっているとおりで、ことに奈良朝時代は、神仙思想の展開としての祥瑞思想は、宮廷の上に深く根を下ろし、屡次《るじ》の改元のごときも一にそれによって行なわれていたのである。その間にあって、神仙界を認めないといぅ態度は、まことに異とすべきものである。
またこの歌は、一見、青春を恋い、老齢を嘆いているもののごとくみえるが、必ずしもそうしたものではないことである。翁はその青春時代、はなやぎ騒いで過ごしたことを、きわめて精細に語っているが、しかし現在の老齢に対してのことは全然いっていず、ほとんど意識していないがようである。その青春の時期を語るのも、それを思い返すことによって、老齢の現在との相違を確認しようとするためであるらしく、その結末において、「かくぞ為来し」という、特殊な形である独立文を据えていることでも明らかである。さらにまた、その老齢を嘆いていないことは、仙女に厭われることによって、初めてその老齢のためであることを意識して、重ねて「かくぞ為来し」といっているので明らかである。これは、時の推移に伴って来る老は、生命ある一切に対しての道理であるとし、道理に随順する心よりその老を忘れ、超越しているとしたのであろう。仙女にも当然に老が来るものとし、平然としてそれをいっているのは、仙女も生命あるものである以上、道理は免れ難いとしてのことと解される。これは一と口にいえば、儒教の立場より神仙思想を否定したものであって、竹取の翁の言はすなわち作者の心なのである。ついでにこの歌の青春時代を力強く描いているにもかかわらず、女色ということにはわずかに触れているだけで立ち入っていない点も、儒教的だといえよう。
次に、この歌の表現技巧も特殊なものである。全体の構成は物語的で、詠み方は謡い物的である。前二段の嬰児時代から青春時代まで、時の推移を追って展開させているところは一代記的で、また詠み方は、五七の連続に必ずしも固執せずに往々に破っているところ、「何何の身には」と重畳させているところ、同じ句を繰り返して用いているところなど、すべて謡い物の形である。中には舞の手の加わっているとみえるところのあることも、謡い物的ということを意識して詠んだものである。
表現技巧の上で最も特殊なところは、無論服装についての描写である。嬰児、童時代を伏線として、青年期に入ると一躍服装描写に集中させ、髪の形を第一として、ついで衣服、襪と沓、(436)帯と続け、その一つ一つに一段を費やしていっているのである。しかしこのことは、作者自身の趣味よりしていることではなく、この作以前に社会にそうした物が行なわれていて、相応に勢力のある存在となっていたので、作者はそれを粉本として、こうした技巧を弄したものと思われる。こうした推量をするのは、衣服、装飾を取材とした先例があり、いずれも社会的勢力のあったものと思われるからである。古事記、神代の巻の、八千矛の神が、嫡妻須勢理比売の嫉妬を制そうとして、大和へ上るといって旅装の衣服を取り換えて着る描写は、この歌を見ると連想せずにはいられないものである。また、巻十三(三二九五)の、子がその母に、自身の愛人の美しさを告げるために列挙する服装、髪飾りも、同じく連想を喚び起こすものである。これはどちらも舞を伴つての歌と思われる。この歌の粉本となった歌は、多分青春時代だけのもので、美装に魅力を感じて、心を動かす女だけのものであったろう。またその歌が、庶民階級を対象としたものであったことは、心を動かす女が「稲置丁女」であり、また男がその家の屋前に佇むと、自身呼びとめて懸想を打ちあける「少女」であることで察しられる。この歌の作者がそうした物を粉本としたのは、社会周知のものを捉えて、それに異なった思想を盛って示すということがすなわち技巧であって、模倣とは性質を異にすることだったのである。
この歌の作者が、漢籍の教養の多かったことは、その引用して使いこなしている故事出典、その用字の特殊な点から、たやすく察しられることである。
反歌二首
3792 死《し》なばこそ 相見《あひみ》ずあらめ 生《い》きてあらば 白髪《しらかみ》子等《こら》に 生《お》ひざらめやも
死者木苑 相不見在目 生而在者 白髪子等丹 不生在目八方
【語釈】 ○死なばこそ相見ずあらめ 死んだならば、見ずにいられよう。「見ず」は、下の白髪。○生きてあらば白髪子等に生ひざらめやも 生きていたならば、白髪があなたたちに生えなかろうか、生えよう。「や」は、反語。
【釈】 死んだならば見ずにもいよう。生きていたならば、白髪があなたたちに生えなかろうか、生えることだろう。
【評】 長歌より一転して、露骨に、鋭い物言いをしているものである。不老長寿とされている仙女に対して、「死なばこそ」といい、「生きてあらば」と、さらに対照を設けて強めた言い方をしているのは、むしろ皮肉なまでのものである。結尾を受けて、進展させたのである。
3793 白髪《しろかみ》し 子等《こら》も生《お》ひなば かくの如《ごと》 若《わか》けむ子等《こら》に 罵《の》らえかねめや
(437) 白髪爲 子等母生名者 如是 將若異子等丹 所詈金目八
【語釈】 ○白髪し子等も生ひなば 「白髪し」は、「し」は強意の助詞。「子等も生ひなば」は、あなたたちも私のように生えたならば。○かくの如若けむ子等に 「かくの如」は、このようにで、今の我のように。「若けむ」は、「若し」の未然形「若け」に推量の助動詞「む」の接続したもの、若くあらむで、その時若くいるであろう娘子たちに。○罵らえかねめや 罵られずにいられようか、いられない。「かね」は、得ぬ。「や」は、反語。
【釈】 白髪があなたたちにもまた生えたならば、私が今されているように、年若い子らに罵られずにいられようか、いられはしない。
【評】 上の歌を承けて、さらに実際的に進展させたもので、二首連作である。長歌と相待って作意を徹底させたもので、長歌の柔らかなのとは反対に鋭いものである。神仙思想に対する作者の態度の直接な表現である。
娘子《をとめ》等の和《こた》ふる歌九首
3794 はしきやし 老夫《おきな》の歌《うた》に おほほしき 九《ここの》の児等《こら》や 感《かま》けて居《を》らむ 一
端寸八爲 老夫之哥丹 大欲寸 九兒等哉 蚊間毛而將居 一
【語釈】 ○はしきやし老夫の歌に 「はしきやし」は、愛すべきで、ここは下の「歌」を讃えたもの。○おほほしき九の児等や 「おほほしき」は、気持の結ばれていること、景色のぼんやりしていることを現わす形容詞で、ここは仙女たちが、歌に心を奪われてぼんやりしている意。「九の児等や」は「児等」は、仙女の自称。「や」は、疑問の係。○感けて居らむ 「感け」は、感心する意の古語。
【釈】 愛すべき、翁の歌で、ぼんやりとして九人の少女らは、感心していることであろうか。
【評】 九人の仙女の中の一人が、全体を代表して挨拶をしている歌である。いっていることは、翁の歌をもってする訓誡に深く感動している心である。それは仙女としての誇りを持たず、人間界の普通の少女の心となっていることで、言いかえると、長歌の作者の心をいっているのである。
3795 辱《はぢ》を忍《しの》び 辱《はぢ》を黙《もだ》して 事《こと》も無《な》く もの言《い》はぬ先《さき》に 我《われ》は寄《よ》りなむ 二
(438) 辱尾忍 辱尾黙 無事 物不言先丹 我者將依 二
【語釈】 ○辱を忍び辱を黙して 「辱を忍び」は、「辱」は、翁に訓誡されたことを、仙女として辱と感じていっているもの。「忍び」は、我慢をして。「黙して」は、黙って受け入れて。○事も無くもの言はぬ先に 「事も無く」は、何事もなくで、おとなしくの意。「もの言はぬ先に」は、とやかくいう前にで、何もいわずに、というにあたる。○我は寄りなむ 我は翁の訓誡に従おう。
【釈】 翁の訓誡より受けた辱を我慢し、辱を黙って受け入れて、何事も無く、とやかくいわない先に、私は翁の訓誡に従いましょう。
【評】 この仙女は、翁のいうことを仙女としての誇りから「辱」と感じるが、すべて忍び黙って、「もの言はぬ先に」、すなわち抗弁はせずに従おうというのである。作者の心で、作者は神仙思想を否認はするものの、そちらの立場をも認めていることを示しているものである。談理にわたるべき複雑な心を、女性の心をとおして単純化した歌で、その意味で上手な歌である。
3796 否《いな》も諸《を》も 欲《ほ》りするままに 赦《ゆる》すべき 貌《かたち》は見《み》ゆや 我《われ》も依《よ》りなむ 三
否藻諾藻 随欲 可赦 〓所見哉 我藻將依 三
【語釈】 ○否も諾も欲りするままに 翁の訓誡を、否と反対するのも、諾と承認するのも、各の思うとおりに。○赦すべき貌は見ゆや 他の仙女のすべてが承認しそうな顔いろが見えるで、「貌」は、顔いろで、様子の意。「や」は、感動の助詞。
【釈】 翁のいうことに反対するのも、承認するのも、私の思うとおりに赦しそうな様子が、皆に見えることよ。私も翁のいうことに従いましょう。
【評】 この仙女は、内心翁のいうことを承認しているのであるが、他の仙女はどういう気持がしていようかと、その気がねをしたのであるが、皆が自由に任せる様子であるから、我も翁の訓誡に従おうというのである。女性に共通な心理を捉えていっているものである。
3797 死《しに》も生《いき》も 同《おや》じ心《こころ》と 結《むす》びてし 友《とも》や違《たが》はむ 我《われ》も寄《よ》りなむ 四
死藻生藻 同心迹 結而爲 友八違 我藻將依 四
(439)【語釈】 ○死も生も同じ心と 死ぬのも生きるのも、同じ心持でしょうと。○結びてし友や違はむ 「結びてし」は、契りを結んだで、「て」は、完了の助動詞で、強めるためのもの。「友や違はむ」は、「や」は、疑問の係で、反語をなすもの。友に違おうか、違うまい。○我も寄りなむ 我もまた翁に従おう。
【釈】 死ぬのも生きるのも、同じ心でしようと契りを結んだ友に違おうか、違うまい。私もまた翁の訓誡に従いましょう。
【評】 この仙女は、仲間付合いを重んじて、そこに力点を置き、仲間の者がすでに翁の訓誡に従おうとしている以上、我も仲間はずれにはなるまいと、それを理由にして翁の訓誡に従おうというのである。
3798 何《なに》為《せ》むと 違《たが》ひは居《を》らむ 否《いな》も諾《を》も 友《とも》の並並《なみなみ》 我《われ》も寄《よ》りなむ 五
何爲迹 違將居 否藻諾藻 友之波々 我裳將依 五
【語釈】 ○何為むと違ひは居らむ 何をしようとて、他と違っていようか。何のために、仲間はずれになどなろうかの意。○否も諾も友の並並 反対も賛成も、友と同じようにしよう。
【釈】 何をしようとて、友に違っていようか。反対も賛成も友と同じようにしよう。私もまた翁に従いましょう。
【評】 この仙女は気が弱く、消極的で、何事も御多分に漏れまいとする性分である。最も多い型である。
3799 豈《あに》もあらぬ 自《おの》が身《み》の故《から》 人《ひと》の子《こ》の 言《こと》も尽《つく》さじ 我《われ》も寄《よ》りなむ 六
豈藻不在 自身之柄 人子之 事藻不盡 我藻將依 六
【語釈】 ○豈もあらぬ自が身の故 「豈もあらぬ」は、「豈」は、何と同じ意の古言で、何ということもないで、きわめて平凡なの意。「自が身の故」は、わが身のゆえに。○人の子の言も尽さじ 「人の子」は、「子」は、愛称で、「人の」は、他人の、すなわち仲間の。「言も尽さじ」は、言葉を尽くして物はいわせまいで、世話を焼かせまいというにあたる。
【釈】 何ということもない私の身のために、仲間の者に、面倒な世話を焼かせますまい。私もまた翁に従いましょう。
【評】 この仙女は甚しく自身を卑下して、仲間に煩いをかけまいという遠慮だけから、翁に従おうというのである。人間的というよりも、人間としても稀れなほどに控え目である。
(440)3800 はだ薄《すすき》 穂《ほ》にはな出《い》でと 思《おも》ひたる 情《こころ》は知《し》らゆ 我《われ》も寄《よ》りなむ 七
者田爲々寸 穗庭莫出 思而有 情者所知 我藻將依 七
【語釈】 ○はだ薄穂にはな出でと 「はだ薄」は、巻十(二二八三)に既出。意味で穂にかかる枕詞。「穂にはな出でと」は、「穂」は、表面で、内心に対しての語。「な出でと」は、出るなとで、心を表面には出すなで、下の「情」の状態。○思ひたる情は知らゆ 仲間の者が思っている心持は知られるで、女性の通性として、その本心を包んでいることは知られるの意。
【釈】 はだ薄のように、穂すなわち表面には顕わすなと思っている仲間の者の心持は知られる。私も翁に従いましょう。
【評】 この仙女は穿ったことをいっている。多くの仙女は、それぞれの理由をつけて、翁の訓誡に従おうといっているが、しかしそれは必ずしも心よりそう信じてのことではなく、内心は包んで顕わすまいとしての上である。仲間の多くがそれであれば、我もそれと同じようにして、翁の訓誡に従おうといっているのである。一種の群集心理である。
3801 墨《すみ》の江《え》の 岸野《きしの》の榛《はり》に 染《にほ》ふれど 染《にほ》はぬ我《われ》や 染《にほ》ひて居《を》らむ 八
墨之江之 岸野之榛丹 々穂所經迹 丹穗葉寐我八 丹穗氷而將居 八
【語釈】 ○墨の江の岸野の榛に 「岸野」は、海岸にある野で、普通名詞。「榛」は、萩の花。これは翁の歌にあった「住の江の遠里小野の真榛」とあったのを言いかえたもので、住の江地方の萩は色の美しい点で名高かったのである。○染ふれど 「染ふれ」は、下二段の他動詞で、美しく染めるけれども。○染はぬ我や 美しく染まらない私はで、「や」は、感動の助詞。以上は、美しい仲間のうちにいるけれども、美しくない私はと、その容貌を卑下していっているもの。○染ひて居らむ 美しく染まっていようで、仲間の者と同じようになっていようの意。
(441)【釈】 住の江の海岸の野の萩の花で、美しく染めるけれども、美しく染まらない私は、仲間の者と同じように美しく染まっていましょう。
【評】 私も仲間と同じ状態に、翁の訓誡に従っていようということを、翁の歌の語を取り、自身の容貌を卑下する心をも加えていっているものである。「染ふ」という語を三回まで用い、それによって一切をいおうとしている、手の込んだものである。一種の技巧である。
3802 春《はる》の野《の》の 下草《したくさ》靡《なび》き 我《われ》も寄《よ》り にほひ寄《よ》りなむ 友《とも》のまにまに 九
春之野乃 下草靡 我藻依 丹穗氷因將 友之隨意 九
【語釈】 ○春の野の下草靡き 「下草」は、木陰、あるいは物陰に生えている草で、柔らかく靡きやすいもの。「靡き」は、風に靡く意。靡き寄りと続く意で、下の「寄り」にかかる枕詞。これは眼前を捉えたものである。○にほひ寄りなむ 「にほひ」は、色美しくで、すなおに、さまよくの意。すなおに従おう。○友のまにまに 友のするとおりに。
【釈】 この春の野の下草の靡くように、私も翁に従い、すなおに従いましょう。友のするとおりに。
【評】 この仙女は、眼前を捉えて序詞とし、「寄り」を繰り返して、明るく蟠《わだかま》りなく友と同様に翁に従おうといっているのである。謡い物の匂いの濃厚なものである。
【総評】 以上九首の歌は、これを歌の上からいうと、竹取の翁の歌に対しての九人の仙女の和えであるが、この歌の作者の意図からいぅと、儒教の立場に立って神仙界を否認したのに対して、神仙界を代表する仙女の、それに譲歩し、屈服せざるを得なかったことの具象化である。第一の仙女が全体を代表して、「老夫の歌に感けて居らむ」とその大勢をいうと、第二の仙女は、「我は寄りなむ」と、不快を条件として屈した。そうした者が出ると、第三以下の仙女は、それぞれの理由は付しながらも、第二の仙女にならってすべて翁に屈するのである。その理由の中には、必ずしも翁のいうことの全部を承認するのではないという者もあるが、多くは仙女の集団の一人として、他に異を樹てまいとするのであって、人間界の集団と全く同じような態度を取るのである。これは言いかえると、神仙界の仙女にも、翁がいうごとく老が来る時があり、また仙女の身にも、現在翁が受けているごとき、老の軽視を受けることがあろうということを承認したのである。これは作者からいうと、宮廷をはじめ庶民社会にまで瀰漫している神仙思想を、具体的に否認し得たことであって、作者がいわんとしていたことの核心なのである。
九人の仙女の和えは、作者の一定の意図より出ているもので、単一な、変化を持たせられないものである。しかし作者は、九(442)人の仙女のひとりひとりに、それぞれ異なった気質を持たせ、異なった和え振りをさせているのであって、その点まさに文芸的である。一首一首としては格別なものではないが、全体として見ると、作者の手腕の自然さと非凡さを思わせるものである。
長歌に叙述していることは、当時一つの伝説として行なわれていたものであろうし、翁の長歌はいったごとく粉本のあったものであろう。作者の独創はこれら九首の歌である。それを改作し、連絡をつけることによって、作者は一つの歌物語としたのであるが、その中心を貫流しているものは、いったがごとく儒教の立場に立って神仙思想を否認しようとすることで、結果から見れば作者はそれを遂げ得ているのである。これは一つの議論を、歌物語という形式において文芸化し得たことであって、平安朝時代の竹取物語、伊勢物語などの、散文をもって行なっていることを歌を主体として行なっていることなのである。その意味において甚だ注意される作である。
昔|壮士《をとこ》と美女《をとめ》とありき。【姓名未だ詳ならず。】二親《ちちはは》に告げずして竊に交接《まじはり》を為しき。時に娘子《をとめ》の意《こころ》親に知らせまく欲りして、因りて歌詠を作りて其の夫《せ》に送り与へき。歌に曰く
昔者有3壯士與2美女1也。【姓名未v詳。】不v告2二親1、竊爲2交接1。於v時娘子之意欲2親令1v知。因作2歌詠1、送2與其夫1。歌曰
【解】 「二親に告げずして」ということは、この題詞を書いた時代を示しているものである。上代の結婚は、親に告げずにするのが普通であった。また、「二親」とあるが、上代は「親」といえば母を意味し、父は含んでいないのが普通であった。それを事新しくいっているのは、奈良朝時代の身分ある階級のことである。また、「親に知らせまく欲りして」は、親にうち明けることは世間に顕わすと同意義で、男女とも、夫婦関係の上で互いに確信をもち得てのことだったのである。
3803 隠《こも》りのみ 恋《こ》ふれば苦《くる》し 山《やま》の端《は》ゆ 出《い》で来《く》る月《つき》の 顕《あらは》さば如何《いか》に
隱耳 戀者辛苦 山葉從 出來月之 顯者如何
【語釈】 ○隠りのみ恋ふれば苦し 「隠りのみ」は、「隠り」は、人目を忍ぶ意で、秘密に。名詞形。秘密にばかりして恋うているのは苦しい。○山の端ゆ出で来る月の 山の端をとおって出て来る月ので、譬喩として「顕す」にかかる序詞。○顕さば如何に 親にうち明けたならばどうであろうかで、下に「あらむ」が省かれている。
(443)【釈】 秘密にばかりして恋うているのは苦しい。山の端をとおって出て来る月のようにうち明けて顕わしたらばどうであろうか。
【評】 この歌は意味の広いもので、この題詞にある以外にも解されるものである。男が片恋の苦しさに堪えず、女にうち明けようかと思って、自問したものとも取れ、また、女がここと同様の場合、母にうち明けようかと思い、母がその男を承認するかどうかが測られず、自問したものとも解される。いずれも今の場合よりは自然である。ここに収めているのは、「由縁ある歌」としようとして、由縁を設けてのことと思われる。特殊な歌ではない。
右は或は云はく、男に答歌ありといへり。いまだ探り求むることを得ず。
右或云、男有2答謌1者。未v得2探求1也。
【解】 「或は云はく」は誤りで、答歌は初めから存在していなかったものと思われる。
昔者《むかし》壮士《をとこ》あり、新たに婚礼を成しき。未だ幾時《いくだ》も経ず、忽に駅使《はゆまづかひ》となりて遠き境に遣さる。公事《くじ》限有り、会ふ期《とき》日無し。ここに娘子《をとめ》、感慟悽愴して疾〓《やまひ》に沈み臥しき。年を累ねて後、壮士還り来りて、覆命既に了りぬ。乃ち詣《いた》りて相視るに、娘子の姿容疲羸甚異にして、言語哽咽せり。時に壮士哀み嘆き涙を流して、歌を裁《つく》りて口号《くちずさ》みき。其の歌一首
昔者有2壯士1。新成2婚礼1也。未v經2幾時1、忽爲2驛使1、被v遣2遠境1。公事有v限。會期無v日。於v是娘子、感慟悽愴、沈2臥疾〓1。累v年之後、壯士還來、覆命既了。乃諸相視、而娘子之姿容疲羸甚異、言語哽咽。于v時壮士哀嘆流v涙、裁v歌口号。其哥一首
【題意】 「駅使」は、役人として公務を帯びて、馬に乗って遠く行く使。「公事限有り」は、公務とて、滞在の期間に定まりがあって。「感慟悽愴」は、悲しみがはなはだ深くて。「覆命」は、公に対して、公務を果たしたことの報告。「哽咽」は、声が立たない。
3804 斯《か》くのみに ありけるものを 猪名川《ゐながは》の 奥《おき》を深《ふか》めて 吾《わ》が念《おも》へりける
(444) 如是耳尓 有家流物乎 猪名川之 奧乎深目而 吾念有來
【語釈】 ○斯くのみにありけるものを このようにばかり成ってしまっていたのにで、予想と甚しく違った意。慣用句。○猪名川の奥を深めて 「猪名川」は、摂津国河辺郡の古の猪名(今の池田市、川西市、伊丹市、尼ケ崎市)の地を流れている川。「奥」は、沖で、古くは海だけでなく川にも用いた称。「深めて」は、状態をあらわしているもので、沖が深くなっていて。「奥」は、将来の意もある語で、ここはそれをかけて、将来をかけての譬喩としているのである。すなわち猪名川の沖が深くなっているように、将来をかけて。○吾が念へりける 吾は思っていたことであったで、「ける」は、過去の助動詞の連体形。詠歎したもの。
【釈】 このようにばかり成ってしまっていたのに、猪名川の沖のほうが深くなっているごとく、将来をかけて我は思っていたことであった。
【評】 「猪名川」は、男が駅使となって行っていた任地としていっている形である。しかしこの歌は本来は挽歌で、猪名川の辺りに住んでいる男が、その妻に死なれて詠んだものと見るほうが遥かに自然である。そうした歌に、この題詞にあるような「由縁」を設けて、嵌め込んだものと思われる。
娘子《をとめ》臥して夫《せ》の君《きみ》の歌を聞きて、枕より頭を挙げ声に応へて和《こた》ふる歌一首
娘子臥聞2夫君之歌1從v枕擧v頭應v聲和謌一首
【解】 「声に応へて」は、即時に。
3805 ぬばたまの 黒髪《くろかみ》ぬれて 沫雪《あわゆき》の 零《ふ》るにや来《き》ます 幾許《ここだ》恋《こ》ふれば
烏玉之 黒髪所沾而 沫雪之 零也來座 幾許戀者
【語釈】 ○ぬばたまの黒髪ぬれて 「ぬばたまの」は、黒の枕詞。「黒髪ぬれて」は、男の髪の濡れているのを見ていったもの。○沫雪の零るにや来ます 「沫雪」は、沫のような形をした、軽く、大きな雪。「や」は、疑問の係。「来ます」は、「来る」の敬語。沫雪のふる中をいらっしゃったのですか。○幾許恋ふれば 私が甚しくも恋うるので。
【釈】 ぬばたまの黒髪が濡れて、沫雪の降る中をいらっしゃったのですか。甚しくも私が恋うるので。
(445)【評】 これは女が、沫雪の降っている時に来た男に対しての喜びの挨拶で、健康な状態にいての歌である。「幾許恋ふれば」は、恋うる心がおのずから通じてという余意があって、甘えを帯びているものでもある。一首の心としても題詞にふさわしくない上に、題詞の「言語 頃咽せり」という、衰えて声も出なくなったのと、「声に応へて」というのは、明らかに矛盾したものである。題詞の「由縁ある」に無理にはめ込んだ程度は、男の歌に近いものである。
今|案《かんが》ふるに、この歌は、その夫、使を被りて既に累載を経、還る時に当りて雪|落《ふ》れる冬なり。これに因りて、娘子この沫雪の句を作れるか。
今案、此歌、其夫、被v使既経2累載1、而當2還時1、雪落之冬也。因v斯、娘子作2此沫雪之句1歟。
3806 事《こと》しあらば 小泊瀬山《をはつせやま》の 石城《いはき》にも 隠《こも》らば共《とも》に な思《おも》ひ吾《わ》が背《せ》
事之有者 小泊瀬山乃 石城尓母 隱者共尓 莫思吾背
【語釈】 ○事しあらば 「事」は、事件。「し」は、強意の助詞。大きな事件が起こったならば。○小泊瀬山の石城にも 「小泊瀬山」は、「小」は、美称。「泊瀬山」は、大和国磯城郡、朝倉村から初瀬町(現在、桜井市に入る)へかけての山。以前から共同墓地となっていた山である。「石城」は、石をもって構えた一郭の場所の称で、ここは上代の墳墓である。石城に葬られるのはしかるべき身分ある者に限られたことである。○隠らば共に 「隠らば」は、身を隠すならば。「共に」は、共に隠れようで、下の「隠らむ」を省いたもの。古墳のうちに身を潜めるということはきわめて厭わしいことで、そうしたことでも共にしようの意。○な思ひ吾が背 嘆くな、わが背よ、と呼びかけたもの。
【釈】 もしも大きな事件が起こったならば、初瀬山の古墳のうちに身を潜めるのならば、一緒に潜もう。嘆くなわが背よ。
【評】 この歌は常陸風土記に、その国の謡い物として載せられていて、そちらは、「こちたけば小泊瀬山の石城にも率て隠らなむな恋ひそ吾妹」というので、男の女にいったものとなっている。「こちたけば」は、二人の関係を、周囲の人から甚しく言い立てられそうなのを女が嘆くのに対しての言である。その歌のほうがかえって原形に近いものと思われる。巻四(五〇六)「吾が背子は物な念ほし事しあらば火にも水にも吾なけなくに」も、その歌にならってのもので、広く流行した歌と思われる。今の歌は、男の歌が女の歌となっているのであるが、心は男女関係の上のもので、「事しあらば」は、二人の関係が世間の問題とな(446)ったならばの意である。男はそれが気になって、女に咎められる「思ひ」をしているのであるが、女は反対に男を励ます立場に立っているのは、男には世間が問題になるが、女には、男が問題になるからである。「小泊瀬山の石城にも隠らば共に」というのは、身を潜めるにしても最も厭わしい所の意で、原形となっている歌の動かし難い部分だからである。
右は伝へ云ふ。ある時|女子《をみな》あり。父母に知らせずして、竊に壮士《をとこ》に接《あ》ひき。壮士其の親の呵嘖を悚タ《しようてき》して稍猶予の意あり。此《これ》に因りて娘子《をとめ》此の歌を裁作して其の夫《せ》に贈り与へきといへり。
右傳云。時有2女子1。不v知2父母1竊接2壮士1也。壮士悚2タ其親呵嘖1、稍有2猶豫之意1。因v此娘子裁2作斯哥1、贈2與其夫1也。
【解】 「呵嘖を悚タして」は、叱責することを恐れ慎しんで。「猶予の意」は、女の所へ通うことを躊躇する様子。これはやや古い時代には普通のことであり、また下っての時代にも庶民間では普通だったことを、奈良朝時代の京の人は問題にしはじめ、古い歌にその角度からの解釈を盛って、「由縁ある」ことにしたのである。男の歌を女の歌にしたのも、奈良朝時代の心からのことと思われる。
3807 安積山《あさかやま》 影《かげ》さへ見《み》ゆる 山《やま》の井《ゐ》の 浅《あさ》き心《こころ》を 吾《わ》が念《おも》はなくに
安積香山 影副所見 山井之 浅心乎 吾念莫國
【語釈】 ○安積山影さへ見ゆる 「安積山」は、福島県安積郡山之井村(現、日和田《ひわだ》町)にある小丘。「形さへ見ゆる」は、さまざまの物の影までも映って見えるで、水の清く澄んでいることを具体的にいったもの。巻十三(三二二五)「天雲の影さへ見ゆる、隠口の長谷の河は」という用例がある。○山の井の 山にある井で、古く井というのは、広く飲用水のある所を称したもので、今の掘井戸ではない。ここも山から湧く清水を湛えた所である。したがって水が浅いので、その意で下の「浅き」にかかり、以上その序詞。○浅き心を吾が念はなくに 君に対して浅い心は持っていないことよで、「心念ふ」は、「念ふ」というと同じで、上代の語法。「心を」の「を」は、感動の助詞。「なく」は、打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」の名詞形で、強めたもの。「に」は、感動の助詞。
【釈】 安積山の、物の影までも映る清い山の井の水のように、その浅い心は吾は持ってはいないことであるよ。
【評】 これは安積山の辺りに住んでいる女の、その夫とする男に対して、誠実を誓った歌である。この種の歌は、昂奮をもっ(447)て詠み、したがって誇張のある歌が多いのであるが、この歌にはそれがなく、かえってよいものとなっている。
右の歌は、伝へ云ふ。葛城王《かづらきのおほきみ》、陸奥《みちのく》国に遣さえし時、国司|祗承《つか》ふること緩怠にして異《こと》に甚し。時に、王の意こころ《》悦《よろこ》びず、怒の色面に顕る。飲饌《みあへ》を設《ま》けしかども、宴楽し肯《あ》へず。ここに前《さき》の采女《うねめ》あり、風流の娘子《をとめ》なり。左の手に觴《》を捧《さかづきささ》げ右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、此の歌を詠みき。ここに乃ち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なりき。
右歌、傳云。葛城王、遣2于陸奧國1之時、國司祗承緩怠異甚。於v時、王意不v悦、怒色顯v面。雖v設2飲饌1、不v肯2宴樂1。於v是有2前采女1。風流娘子。左手捧v觴、右手持v水、撃2之王膝1、而詠2此歌1。尓乃王意解悦、樂飲終日。
【解】 「葛城王」は、この名をもって呼ばれた方が数人ある。その一人は聖徳太子の時代の方、また一人は天武天皇の時代の方である。時代が古すぎる感がある。橘諸兄が臣籍に下る前はこの名であったから、その人ではないかとされている。時代的に見てのことである。「陸奥国」は、大化年間に初めて置かれた国で、後、養老年間にそれを割いて、石城《いわき》、石背《いわしろ》の二国を置いたが、神亀年間、それを廃して、前の陸奥国とした。この歌では、国府が安積山に近い所にあったかとみえるから、それで見ると国府が石背国にあった時で、今の郡山市ではないかという。「遣さえし時」というのは、国庁の政務を検察させるためである。「祗承ふること緩怠にして」は、待遇が粗略で。「前の采女」は、以前采女であった女である。采女は諸国の郡の少領以上の家の者で、容貌の端正な者を貢させて、宮中に仕えさせた者の称である。陸奥国からは貢させなかったので、他国の者であったろう。「水を持ち」は、歌にある安積山の山の井の水に擬したのである。歌はその土地に行なわれていたもので、前采女とはかかわりのないものである。この歌と伝えとの関係は、問題のありうるものである。その土地の有力な謡い物に、しかるべき起源伝説を添えようとすることはきわめて例の多いことで、その意味からこうした伝説の生まれうる可能性も多いからである。
3808 住吉《すみのえ》の 小集楽《をつめ》に出《い》でて 寤《うつつ》にも 己妻《おのづま》すらを 鏡《かがみ》と見《み》つも
墨江之 小集樂尓出而 寤尓毛 己妻尚乎 鐙登見津藻
(448)【語釈】 ○住吉の小集楽に出でて 「小集楽」は、左注に「郷里の男女、衆集《つど》ひて野遊す」とある、一つの行事の名称である。訓は、日本書紀、天智紀の童謡に、「うち橋のつめの遊びに出でませ子」とあるその「つめ」で、「を」は、愛称。住吉の土地の集楽に出て来て。○寤にも 「うつつ」は、夢に対する語で、現実。ここは明らかに、はっきりと。○己妻すらを 平常見馴れていろ自分の妻でさえあるのに。○鏡と見つも 鏡のように見たことよ。鏡は貴く美しい物の譬喩で、それのようにつくづく見た意。
【釈】 住吉の集楽に妻とともに出て来て、まざまざと、平常見馴れている自分の妻でさえあるのに、鏡のように貴く美しいと思って見たことよ。
【評】 自分の妻を、多くの人妻の中に置いて見くらべて、今までそれほどにも思わずにいた美貌に心づいて、つくづくと見直したというのである。そうした比較をする機会のなかった上代の庶民生活のこととて察しやすい感動である。「鏡と」という譬喩が、身分柄よく利いている。
右は伝へ云ふ。昔者《むかし》鄙人あり。姓名未だ詳ならず。時に郷里の男女、衆集《つど》ひて野遊す。この会集の中に鄙人の夫婦《めを》あり。其の婦、容姿|端正《きらきら》しきこと衆諸《もろびと》に秀でたり。乃ち彼《か》の鄙人の意、いよいよ妻を愛《いつく》しむ情《こころ》増りて、この歌を作り、美貌を賛嘆したりき。
右傳云。昔者鄙人。姓名未v詳也。于v時郷里男女、衆集野遊、是會集之中有2鄙人夫婦1。其婦容姿端正、秀2於衆諸1。乃彼鄙人之意、弥増2愛v妻之情1、而作2斯謌1、賛2嘆美〓1也。
【解】 「衆楽して野遊す」は、歌にある「小集楽」の注で、春秋の好季に、日を定めて、部落の者が野に集まって遊ぶのは、定まった行事で、諸国にあったことが風土記の中に散見する。溯っての時代の歌垣の系統の行事であったろうと思われる。ここは住吉の場合である。庶民間にあっても、家妻となっている者が、大勢、一緒に集うということは稀れであって、他の妻とわが妻とを見くらべる機会はなかったとみえる。したがってこの男の心はまさしく実感だったのである。注を添えることにょって、一つの歌物語としたのである。
3809 商変《あきがは》り 領《し》らすとの御法《みのり》 あらばこそ 吾《わ》が下衣《したごろも》 返《かへ》し賜《たば》らめ
商變 領爲跡之御法 有者許曾 吾下衣 反賜米
(449)【語釈】 ○商変り領らすとの御法 「商変り」は、いったん売買をした品物を、変改して取消すことの称で、名詞。商は物々交換で、市で行なわれていたことで、市は政府で監督していたもので、商変わりは法令で禁じていたのである。「領らすとの御法」は、「領らす」は、「領る」の敬語で、ここは承認する意。「御法」は、御法令。御承認になるという御法令。○あらばこそ あったならばで、仮設。○吾が下衣 これは女より男に、形見として贈ってある物で、夫婦関係の間にあってのみ行なわれること。○返し賜らめ 「返さめ」の敬語で、「め」は、「こそ」の結。お返しになりもしよう。形見の品を返すことは、関係を絶つ意で、敬語を用いているのは、女に較べては男の身分が高いゆえである。
【釈】 商変わりを御承認になるという御法令があるのでしたら、私の下衣をお返しくださることもございましょう。
【評】 夫婦関係を絶つという意味で、男から女に、以前の女の贈ってあったその下衣を返して来たのに対して、女が腹を立てて贈った歌であって、その事は左注で明らかである。事としては、当時にあってはむしろ普通のことであったろうが、この歌は、「商変り領らすとの御法」という譬喩が奇抜なために、人に伝わったものとみえる。「商変り」という語は、ただここにみえるだけのもので、それを男女間の絶縁に持ち来たしたのは、まさに奇抜である。しかし女性である作者からいうと、市は常に出入りしていた所であり、また相手の男性は、左注によると身分高く、政治に関係を持っていた人と思われるから、自然思い寄りやすいことであったろう。それにもともと腹立ちまぎれの皮肉であるから、当然のこととしていったものであろう。
右は伝へ云ふ。或時、幸《うるはしみ》せらえし娘子《をとめ》あり。【姓名いまだ詳ならず。】寵薄れたる後、寄物【俗にかたみと云ふ】を還し賜《たば》りき。ここに娘子|怨恨《うら》みて、いささかこの歌を作りて献上《たてまつ》りきと云へり。
右傳云。時有2所v幸娘子1也。【姓名未v詳】寵薄之後、還2賜寄物1。【俗云2可多美1】於v是娘子怨恨、聊作2斯歌1獻上。
【解】 「幸」は、天皇より寵せらたことをあらわす語で、相手は天皇か少なくともそれに近い身分の人であったとみえる。「寄物俗にかたみ」は「俗に」は、邦語ではという意で、漢語を主としての言い方である。それが歌でいう「下衣」である。
3810 味飯《うまいひ》を 水《みづ》に醸《か》み成《な》し 吾《わ》が待《ま》ちし 代《かひ》はかつて無《な》し 直《ただ》にしあらねば
味飯乎 水尓釀成 吾待之 代者曾无 直尓之不有者
【語釈】 ○味飯を水に感み成し 「味飯」は、うまき飯。「水に醸み成し」は、水と醸し変えて。「水」は、酒で、待酒を醸して。「醸み」は、本来(450)は口に?んで?酵させたからの語。○吾が待ちし代はかつて無し 「代」は、効果。本来は代価である。「かつて」は、さらにの意の口語。我が待っていた甲斐はさらにない。○直にしあらねば 「直に」は、直接に。「し」は、強意の助詞。直接ではないのでで、これは待った人は直接には来ず、使だけなのを恨んでいっているのである。
【釈】 うまい飯を、水に釀し変えて待酒とし、我が待っていた効果はさらにない。直接に来るのではないので。
【評】 待った甲斐のない恨みをいったものである。恨みを、待酒が無駄になったと失望の形でいい、しかも具体的にいっているので、効果あるものとなっている。実情で、他には言い方がなかったのである。
右は伝へ云ふ。昔、娘子《をとめ》ありき。其の夫《せ》に相別れて、望み恋ふること年を経たりき。その時夫の君更に他妻《あだしつま》を娶《と》りて、正身《ただみ》は来ず、徒《ただ》裹物《つと》を贈りき。此《これ》に因りて、娘子此の恨の歌を作りて、還し酬《むく》いきといへり。
右傳云。昔有2娘子1也。相2別其夫1、望戀經v年。尓時夫君更取2他妻1、正身不v來、徒贈2裹物1。因v此娘子作2此恨歌1、還酬之也。
【解】 「正身」は、本人。「裹物」は、土産物で、贈物。
夫《せ》の君《きみ》に恋ふる歌一首 并に短歌
3811 さ丹《に》つらふ 君《きみ》が御言《みこと》と 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》も来《こ》ねば 憶《おも》ひ病《や》む 吾《わ》が身《み》一《ひと》つぞ ちはやぶる 神《かみ》にもな負《おほ》せ 卜部《うらべ》坐《ま》せ 亀《かめ》もな焼《や》きそ 恋《こひ》しくに 痛《いた》む吾《わ》が身《み》ぞ いちしろく 身《み》に染《し》みとほり 村肝《むらぎも》の 心《こころ》砕《くだ》けて 死《し》なむ命《いのち》 俄《にはか》になりぬ 今更《いまさら》に 君《きみ》か吾《わ》を喚《よ》ぶ たらちねの 母《はは》の命《みこと》か 百足《ももた》らず 八十《やそ》の衢《ちまた》に 夕占《ゆふけ》にも 卜《うら》にもぞ問《と》ふ 死《し》ぬべき吾《わ》が故《ゆゑ》
左耳通良布 君之三言等 玉梓乃 使毛不來者 憶病 吾身一曾 千磐破 神尓毛莫負 卜部座 龜(451)毛莫焼曾 戀之久尓 痛吾身曾 伊知白苦 身尓染保里 村肝乃 心碎而 將死命 尓波可尓成奴 今更 君可吾乎喚 足千根乃 母之御事歟 百不足 八十乃衢尓 夕占尓毛 卜尓毛曾問 應死吾之故
【語釈】 ○さ丹つらふ君が御言と 「さ丹つらふ」は、巻三(四二〇)に既出。「さ」は、接頭語、「丹」は、赤色、「つらふ」は、そのようにあるの動詞で、顔の美しさを讃える意で、「君」の枕詞。「君が御言と」は、君のお言葉だといって。○玉梓の使も来ねば 「玉梓の」は、使の枕詞。使さえも来ないので。○憶ひ病む吾が身一つぞ 「憶ひ病む」は、嘆いて病となっている。「吾が身一つぞ」は、「一つ」は、相手なく頼りない意で、頼りないわが身ぞで、自身の病気の原因を説明したもの。以上第一段。○ちはやぶる神にもな負せ 「ちはやぶる」は、神の枕詞。「神にもな負せ」は、神に責任を負わせるな。上代信仰として、人間の状態の一切は神意によってのことで、病気は神の咎めだとする意。○卜部坐せ亀もな焼きそ 「卜部」は、神意をうかがうための占いを職としている部族の称で、ここは占いをする人。「坐せ」は、坐させの意で、招くの敬語。「亀もな焼きそ」は、亀の甲も焼くなで、占いもするなの意。亀の甲を焼く占いはすでに出た。神の咎めの何によってのものであるかを占い、その咎めを解くためのこと。○恋しくに痛む吾が身ぞ 「恋しくに」は、恋しく思うことによって。「痛む」は、病むの意。病をいたつきという、その痛みである。以上第二段で、第一段を承けて、病は全く自身招いたものだと説明したもの。○いちしろく身に染みとほり 「染みとほり」は、原文「染保里」、『代匠記』は、「染」の下に「登」の脱したものとしている。恋しさが著しく身に染みとおってで、主格が省かれている。○村肝の心砕けて 「村肝の」は、心の枕詞。巻一(五)に、既出。「心砕けて」は、心が砕けて、失せての意。「心」は、魂というと同じ意のもので、甚しく嘆きをすると、魂が身から離れて、それがすなわち死であると信じていたのである。○死なむ命俄になりぬ 死にそうな命ににわかになって来た。恋しさが募って、死期が迫って来たことを意識した意。以上第三段で、転じて、目前をいったもの。○今更に君か吾を喚ぶ 「今更に」は、現在用いていると同じ。「君か吾を喚ぶ」は、君であるか、我を喚ぶのは。「か」は、疑問の係。この「喚ぶ」は、人の死ぬのは魂が身を離れるからだとし、その離れようとしている魂や、また、離れた直後の魂を喚んで、その身に復らせようとして、その名を高く喚ぶことをしたとみえる。これは近世までも他方には保たれていた信仰で、その範囲も狭くはないものである。ここもそれであって、意識の微かになろうとする娘子が、魂喚びとしてその名を喚ばれるのに対し、夫を恋うる心から、そこには居ない夫の声を聞いたかのように思ったのである。○たらちねの母の命か 「たらちねの」は、母の枕詞。「命」は、敬称。「か」は、疑問の助詞で、上に続いて、それとも我を喚んだのはなつかしい母上なのかの意。○百足らず八十の衢に 「百足らず」は、百に足らずで、意味で「八十」にかかる枕詞。「八十」は、多くということを具象的にいったもの。○夕占にも卜にもぞ間ふ 「夕占」は、夕方、辻に立って、通行人の物言いによってする占い。「卜」は、上の繰り返し。「問ふ」は、「ぞ」の結、連体形。詠歎。○死ぬべき吾が故 今は死ぬべくなっている我のゆえにで、「死なむ命俄になりぬ」の繰り返し。
【釈】 美しい君のお言葉だといって、玉梓の使さえも来ないので、嘆いて病んでいる頼りないわが身であるぞ。この病をちはやぶる神の責任ともするな。卜者をお招きして、亀の甲を焼いて神意をうかがうこともするな。君を恋しく思うによって病んでい(452)る我であるぞ。恋しさが著しく身に染みとおって、むらぎもの心が砕けて失せて、にわかにも死にそうな命になって来た。いまさらに、君なのか、わが名を喚ぶのは。それともなつかしい母上なのか。百に足らぬ八十の多くの衢で、夕占にも卜にも神意をうかがっていることであるよ、死ぬべき我のために。
【評】 男に忘れられた女の、その男を恋うる余りに病となり、今や命終わろうとする間際に、初めてその病の原因を母に打明けた形の歌である。女は母のもとに暮らしていたのであるが、母は娘の病のどういうものであるかを全く知らず、一に神の咎めであるとして、それを知ろうとのみしていたというので、そこに女の人柄と、あわれ深さとがある。頂点は「いちしろく」以下「たらちねの母の命か」に至る十句の末期の状態で、それが女の理由を打明ける気になった時であり、その時は「今更に君か吾か喚ぶ」と、心神の衰えつくして、幻覚に捉われていた時だったのである。この歌は簡潔を極めたものであるが、構成が整っていて、抒情が即描写となっており、含蓄の多い、哀切な作で、手腕を思わせるものである。末期の昏睡に陥ろうとしている若い女が、こうした作のできるはずもなく、また表現としても、「吾が身一つぞ」「痛む吾が身ぞ」と同じ形の句を畳み、また枕詞を多く用いているところなどから見ても、明らかに謡い物形式であって、すぐれた手腕ある歌人の、想像よりの作為である。
反歌
3812 卜部《うらべ》をも 八十《やそ》の衢《ちまた》も 占《うら》問《と》へど 君《きみ》を相見《あひみ》む たどき知《し》らずも
卜部乎毛 八十乃衢毛 占雖問 君乎相見 多時不知毛
【語釈】 ○卜部をも八十の衢も 「卜部をも」の「をも」は、にもと同じ。「衢も」は、衢にも。○占間へど 占を問うけれどもで、娘子自身のすること。○たどき知らずも 方法の知られないことだ。
【釈】 卜部にも、八十の衢にも、我は占を問うたけれども、君に逢う方法の知られないことだ。
【評】 「卜部をも八十の衢も占問へど」は、長歌の結末を承けて、主格を変えて言いかえたもので、心としては、病の原因に続かせたものである。反歌としては巧みなもので、第三者の作品ということを一段と明らかに示しているものである。
或本の反歌に曰く
(453)3813 吾《わ》が命《いのち》は 惜《を》しくもあらず さ丹《に》つらふ 君《きみ》によりてぞ 長《なが》く欲《ほ》りする
吾命者 惜雲不有 散追良布 君尓依而曾 長欲爲
【語釈】 略す。
【釈】 わが命は惜しくもない。美しい君のゆえに、長く生きたいと思うことである。
【評】 反歌としてのつながりが乏しく、独立した趣のあるものである。長歌の作者の手に成ったものではない。
右は伝へ云ふ。ある時娘子あり。姓は車持氏なり。其の夫《せ》久しく年序《とし》を逕《へ》て往来することを作さず。時に娘子係恋心を傷ましめ、痾〓《やまひ》に沈み臥し、痩羸日に異にして忽ちに泉路に臨みき。ここに使を遣して其の夫《せ》の君《きみ》を喚び来る。ここに歔欷流Hしてこの歌を口号《くちず》さみ、登時《すなはち》逝歿《みまか》りきといへり。
右傳云。時有2娘子1。姓車持氏也。其夫久逕2年序1、不v作2徃來1。于v時娘子係戀傷v心、沈2臥痾〓1、痩羸日異、忽臨2泉路1。於v是遣v使、喚2其夫君1來。而乃歔來流H、口2号斯歌1、登時逝歿也。
【解】 「車持氏」は、『新撰姓氏録』に「車持公、上毛野朝臣同祖、豊城入参命八世孫射狭君之後也、云々」とあり、皇族の後である。「泉路に臨む」は、黄泉への路に臨むで、死にかかる意。この伝えは長歌の哀切なのに心引かれて、「由縁」を求めて後より設けたものである。「其の夫の君を喚び来る」は、「君か吾を喚ぶ」という幻覚の夫を、実在の夫と誤解してのことで、歌では、母はその夫の存在すら知らなかったのである。
贈れる歌一首
3814 真珠《しらたま》は 緒絶《をだえ》しにきと 聞《き》きし故《ゆゑ》に その緒《を》また貫《ぬ》き 吾《わ》が玉《たま》にせむ
(454) 眞殊者 緒絶爲尓伎登 聞之故尓 其緒復貫 吾玉尓將爲
【語釈】 ○真珠は 鰒玉で、上代最も珍重した物。ここは女の譬喩。○緒絶しにきと聞きし故に 「緒絶」は、真珠を身に着けるように、穴を穿ち緒をとおしていたが、その緒が切れたことで、名詞。これは夫婦関係の切れた譬喩。緒絶をしてしまったと、人の噂で聞いたがゆえに。○その緒また貫き 真珠の緒を、重ねて貫いてで、我との間に関係を結んで。○吾が玉にせむ わが妻にしようの譬喩。
【釈】 真珠は緒絶をしてしまったと人に聞いたので、その緒をまた貫いて、私の玉にしましょう。
【評】 譬喩で終始した歌であるが、真珠を女の譬喩に用いるのは普通のこととなっていたので、じつは譬喩とも言いかねるほどのものである。しかし譬喩の形にすると、言いやすくもあり、美しくもあるので、好んで用いたことと思われる。求婚の歌としては情熱のない事務的な言い方であるが、これはその親に申込んだものであり、親しい間柄などの関係からであろう。言い方のやすらかで、洗練されているのは、双方身分ある者だったからであろう。
答ふる歌一首
3815 白玉《しらたま》の 緒絶《をだえ》は信《まこと》 しかれども その緒《を》また貫《ぬ》き 人《ひと》持《も》ち去《い》にけり
白玉之 緒絶者信 雖然 其緒又貫 人持去家有
【語釈】 ○緒絶は信 緒絶をしたことは真実だ、というので、下に「なり」が略されている。○その緒また貫き 贈歌の句をそのまま用いたもの。○人持ち去にけり 他の人が持って行ってしまったことだ。「人」は、他の男。「けり」は、過去の助動詞で、詠歎。
【釈】 白玉が緒絶をしたことは真実です。しかしその緒をまた貫いて、他の人が持って行ってしまったことです。
【評】 女との結婚に、初めからその親に申入れ、また親が返事をしているもので、身分ある人たちとはみえるが、奈良朝初期以前のことかと思われる。実用性の歌で、それにふさわしく、気分を現わさず、平坦に、行き届いた言い方をしている。贈答とも、同一手から出たものかと思わせるまで似ている。
右は伝へ云ふ。ある時娘子ありき。夫《せ》の君《きみ》に棄てらえて、他氏《あだしうぢ》に改め適《ゆ》きき。時に或る壮士《をとこ》あり。改め適きしことを知らずして、此の歌を贈り遣して、女の父母に請ひ誂《あとら》へしかば、ここに父母の(455)意《こころ》に、壮士《をとこ》未だ委曲《つばら》なる旨を開かずとして、乃ちその歌を作りて報《こた》へ送り、以ちて改め適《ゆ》きし縁《よし》を顕《あらは》しきといへり。
右傳云。時有2娘子1。夫君見v棄、改2適他氏1也。于v時或有2壮士1。不v知2改適1、此哥贈遣、請2誂於女之父母1者、於v是父母之意、壯士未v聞2委曲之旨1、乃作2彼謌1報送、以顯2改適之縁1。
【解】 「他氏」は、他の人の意で、他の氏ではない。「適く」は、嫁すで、結婚する意。
穂積親王《ほづみのみこ》の御歌《みうた》一首
【題意】 「穂積親王」は、巻二(一一四)に出た。天武天皇の第五皇子。知太政官事となられ、元正天皇の和銅八年七月に薨じた。皇子に対して親王と称するのは、本集にあっては、巻六、天平十五年に、安積親王とあり、巻二十、天平勝宝五年、舎人親王とあるのみである。
3816 家《いへ》にありし 櫃《ひつ》に〓《かぎ》刺《さ》し 蔵《をさ》めてし 恋《こひ》の奴《やつこ》の つかみかかりて
家尓有之 櫃尓〓刺 蔵而師 戀乃奴之 束見懸而
【語釈】 ○家にありし櫃に〓刺し 「櫃」は、物を容れる器。長方形の厳重に拵えた箱で、錠前が着いていた。種類が多く、その総称。「〓」は、『倭名類聚鈔』に「かぎ」とある。○蔵めてし しまって置いた。○恋の奴の 恋という奴がで、「恋」を「奴」と擬人したもの。「奴」は、奴婢の総称で、無知無分別で、乱暴な振舞いもする者としていっている。○つかみかかりて だしぬけに掴みかかって来るで、下に「来ぬ」の意が略されている。
【釈】 わが家にあった櫃の中に押し込めて、出ないように錠をかけておいた恋という奴が、だしぬけに掴みかかって来た。
【評】 現在自分のしている恋の、如何に制しても制しきれない、始末のつかないものである嘆きをいっているものである。当時の奴は、身分ある家ではなくてはならない者であったが、相応に始末の悪い者であったから、この譬喩は当時にあってはきわめて適切なものだったのである。「櫃に〓刺し蔵めてし」は誇張で、この誇張で嘆きを笑いにしているのであって、これが一(456)首の興味である。結句の「つかみかかりて」の言いさしの形も効果的である。巻四(六九五)広河女王の「恋は今はあらじと吾は念へるを何処の恋ぞつかみかかれる」は、この歌にならったものである。女王は親王の孫女である。
右の歌一首は、穂積親王、宴飲《うたげ》の日、酒|酣《たけなは》なる時、好みてこの歌を誦して、以ちて恒の賞《めで》と為し給ひき。
右歌一首、穂積親王、宴飲之日、酒酣之時、好誦2斯歌1以爲2恒賞1也。
3817 唐曰《かるうす》は 田廬《たぶせ》のもとに 吾《わ》が背子《せこ》は にふぶに咲《ゑ》みて 立《た》ちませり見《み》ゆ 【田廬はたぶせの反なり。】
可流羽須波 田廬乃毛等尓 吾兄子者 二布夫尓咲而 立麻爲所見 【田廬者多夫世反】
【語釈】 ○唐臼は田廬のもとに 「唐臼」は、『倭名類聚鈔』に、「碓和名可良宇須 踏舂具也」とあって、柄臼ともいう。臼を地に埋め、杵を長い柄の一端につけ、反対の一端を足で踏んで、杵を上下させて搗く臼で、今の踏み臼である。「田廬」は、田圃の間にある伏屋で、田舎の粗末な家とも、収穫期の番小屋とも取れる。ここは番小屋と思われる。○吾が背子はにふぶに咲みて 「吾が背子」は、女より男を親んでの称。男同士でもいうが、ここは女である。「にふぶに咲みて」は、「にふぶ」は、現在のにこにことの意の古語と解される。巻十八(四一一六)「夏の野のさ百合の花の花咲みににふぶに咲みて」の用例によってである。○立ちませり見ゆ 「立ちませり」は、「立てり」の敬語。○反 漢字の音を注する意に用いる字を、転じて、国語の訓みを注するに用いたもの。
【釈】 唐臼は田廬の中の伏屋にあって、わが背子は、にこにこと笑って立っていらっしゃるのが見える。
【評】 部落生活をしている若い夫婦間の歌で、女の目をとおして男の状態をいったものである。夫婦とはいっても人目を忍ぶ仲で、女が白昼男の状態を見るのは稀れなので、男の田中の番小屋で籾を精《しら》げているさまを珍しげにいい、男もまた、女の近く来て立っているのが珍しく、相見て微笑し合った、その微笑の瞬間を捉えて女が歌にしているのである。それは、その微笑の中に説明し難い喜びを感じ合っているので、それをいうのが喜びの気分の全幅の表現だからである。こうした歌は、そうした生活圏内にある者として初めて詠めるものなので、農村に生まれた民謡と思われる。生活をたのしんでいる快い歌である。
3818 朝霞《あさがすみ》 香火屋《かひや》が下《した》の 鳴《な》く蝦《かはづ》 しのひつつありと 告《つ》げむ児《こ》もがも
(457) 朝霞 香火屋之下乃 鳴川津 之努比管有常 將告兒毛欲得
【語釈】 ○朝霞香火屋が下の鳴く蝦 巻十(二二六五)「朝霞鹿火星が下に鳴く河蝦声だに聞かば吾恋ひめやも」と、上三句は、助詞「に」が「の」と変わっているだけである。「朝霞」は、実景。「香火屋」は、田畑を荒らす鹿猪を追うための火を焚く小屋。「蝦」は、河鹿で、そのしのびやかに鳴いている意で、譬喩として「しのひ」にかかり、以上その序詞。○しのひつつありと告げむ児もがも 「しのひつつありと」は、思慕しつづけていると。「告げむ児もかも」は、告げて訴えるかわゆい女の欲しいことであるよで、「もがも」は、願望。恋する相手のない男が、相手をほしく思う心。
【釈】 朝霞のかかっている香火屋の下の流れに鳴いている河鹿の忍びやかにしているように、思慕しつづけていると告げて訴えるべき、かわゆい女のほしいことである。
【評】 農村に住んでいる若者で、恋の相手のなくているところから、相手ほしく思う心である。きわめて一般性を持った心で、これも上の歌と同じく農村の民謡であったろうと思われる。序詞は、当時流行しているものを捉えて用いたものとみえる。これは民謡として普通のことだったのである。民謡ではあるが、明るく上品で、当時の奈良京の歌風の影響を濃厚に受けたものである。
右の歌l一首は、河村王、宴居《うたげ》の時、琴を弾きて、即ち先づ此の歌を誦して、以ちて常の行《わざ》と為しき。
右歌二首、河村王、宴居之時、彈v琴而即先誦2此歌1以爲2常行1也。
【解】 「河村王」は、続日本紀により、宝亀八年無位より従五位下、十年少納言、延暦元年阿波守、七年右の大舎人頭、八年駿河守、九年従五位上になったと知られる。宝亀は光仁天皇の朝で、奈良朝末期である。本巻の成立年代から見て、この河村王であったかどうかが問題にされている。
3819 夕立《ゆふだち》の 雨《あめ》うち零《ふ》れば 春日野《かすがの》の 草花《をばな》が末《うれ》の 白露《しらつゆ》おもほゆ
暮立之 雨打零者 春日野之 草花之末乃 白露於母保遊
【語釈】 ○夕立の 夕方になってにわかに降る雨。これに対する朝立という語が、現在も行なわれている地方がある。○草花が未の 「草花」は、(458)尾花で、薄の穂を形容していったもの。
【釈】 夕立の雨が降るので、春日野の尾花の先に宿る白露が思われる。
【評】 巻十(二一六九)「夕立の雨降る毎に春日野の尾花が上の白露念ほゆ」と出た、その「一に云ふ」のほうである。眼前に降っている雨に対しての連想で、この歌のほうが生趣がある。「春日野」に対する憧れよりの歌である。尾花はどこにでもある物だからである。
3820 夕《ゆふ》づく日 さすや河辺《かはべ》に 構《つく》る屋《や》の 形《かた》を宜《よろ》しみ 諾《うべ》よそり来る
夕附日 指哉河邊尓 構屋之 形乎宜美 諾所因來
【語釈】 ○夕づく日さすや河辺に 「夕づく日」は、夕方の様子になって来た太陽。「さすや」の「や」は、感動の助詞。○形を宜しみ 「宜しみ」は、宜しいので。○諾よそり来る 「諾」は、うべなう意で、「よそり」は、引きよせられる。巻十三(三三〇五)に既出。なるほど人が引きよせられて来ることだ。
【釈】 夕方近い日がさしている、河のほとりに造ってあるこの家の形がよいので、なるほど人が引きよせられて来ることだ。
【評】 宴席に、主人として謡った歌である。人々の寄って来られたのは、この家の景色がよいのと、構造が面白いのとで、それに心を引かれてのことだというので、主人としての挨拶の心よりのものである。「夕づく日さすや」は、風景だけではなく、朝日、夕日のさす家ということは、めでたい意の成語となってもいたものである。これは自作の歌である。
右の歌二首は、小鯛《をだひ》王、宴居《うたげ》の日、琴を取れば登時《すなはち》、必ず先づ此の歌を吟詠せり。その小鯛王は、(459)更《まと》の名|置始多久美《おきそめのたくみ》といふ、この人なり。
右歌二首、小鯛王、安居之日、取v琴登時必先吟2詠此歌1也。其小鯛王者、更名置始多久美、斯人也。
【解】 「小鯛王」は、系統は未詳である。置始多久美とあるので、臣籍に下った人である。藤原武智麿伝に、神亀年間の人物を叙した件に、「風流侍従、有2六入部王、云々、置始工等十余人1」とあるので、その年代が知られる。
児部女王《こべのおほきみ》の嗤《わら》ふ歌一首
【意】 「児部女王」は、伝未詳である。「嗤ふ」は、人を嘲り笑う意である。本集の歌には、これまで人を嘲る意のものは見えていない。人間の至情である限り、いわゆる喜怒哀楽のすべてを網羅しているが、いずれも善意より発しているもので、悪意よりのものは一首もなかった。この歌も「嗤ふ」と題してあるが、歌で見ると、娘子の結婚した相手がじつに意外で、その気が知れないということをいっているもので、嘲笑というよりはむしろ、怪訝というほうに近いものである。したがって「嗤ふ」は、歌そのものよりも、そうした題詞をつけたということのほうに問題があると見るべきものである。
3821 美麗《うま》し物《もの》 何所《いづく》飽《あ》かじを 尺度《さかと》らが 角《つの》のふくれに しぐひあひにけむ
美麗物 何所不飽矣 坂門等之 角乃布久礼尓 四具比相尓計六
【語釈】 ○美麗し物何所飽かじを 「美麗し物」は、美しい、立派な物は。「何所飽かじを」は、どこにでも、飽き足りなくはなかろうにで、幾らでもあろうにの意。○尺度らが 「尺度」は、この嗤われている娘子の氏で、左注に出ている。「ら」は、接尾語。○角のふくれに 「角の」は、角のごとき。「ふくれ」は、『倭名類聚鈔』に「布久礼肉墳起也」とあって、瘤の古語である。角のような瘤のある男に。○しぐひあひにけむ 「しぐひ」は、他に用例を見ない語である。『考』は、「し」は、発語、「くひあひ」は、食い合いであろうとしている。その範囲の語で、よく食い合うであろう。「にけむ」は、過去推量。
【釈】 美しいもの立派な物は、どこにでも飽き足らなくはなかろうのに、尺度は、何だって角のような瘤に食い合ったのであったろう。
(460)【評】 この歌は、注が無いと意味のわからない歌である。立て前は抒情であるが、事に即してのもので、その事が特殊なために解し難いものになっているのである。歌そのものに重点を置くと、歌とはすべきものではないが、口頭でいうとつまらないことも、歌の形式でいうと趣あるものになるとして詠んだものである。これは後世まで永く続いたことである。一首の作意は題意でいった。ある身分ある娘子が、全く身分のない、しかもひどい醜男と結婚したのを、何だってああした男とと、女王の心から訝かったのである。
右は、或る時娘子あり。姓《かばね》は尺度の氏なりき。此の娘子、高き姓《かばね》の美人《うまびと》の誂《あとら》ふるに聴《ゆる》さずして、下《ひく》き姓の※[女+鬼]士《しこを》の誂ふるに応《こた》へ許しき。ここに児部女王、此の歌を裁《よ》み作りて、彼《そ》の愚しきを嗤《あざけ》り咲《わら》ひき。
右、時有2娘子1。姓尺度氏也。此娘子不v聽2高姓美人之所1v誂、應2許下姓※[女+鬼]士之所1v誂也。於v是兒部女王、裁2作此歌1、嗤2咲彼愚1也。
【解】 「尺度氏」は、未詳である。『新撰姓氏録』に、「坂戸物部、神饒速日命天降之時、従者坂戸天物部之後者、不v見」とあり、その氏の者かと思わせるだけである。「高き姓の美人」は、姓には高下があり、社会的階級をあらわすもので、結婚の場合にはことに重視した。「美人」は、ここは良き人。「誂ふ」は、結婚の申込み。「下き姓の 娩士」は、姓の低い醜い男で、※[女+鬼]は醜と同意で、歌にいう「角のふくれ」である。
古歌に曰く
【題意】 「古歌」は、撰者の撰集をした者より以前の歌で、年代の不明な物に対していう語となっていた、この当時の言い方。用例のあるものである。ここも古い歌ではない。
3822 橘《たちはな》の 寺《てら》の長屋《ながや》に 吾《わ》が率宿《あね》し 童女散髪《うなゐはなり》は 髪《かみ》あげつらむか
橘 寺之長屋尓 吾率宿之 童女波奈理波 髪上都良武可
(461)【語釈】 ○橘の寺の長屋に 「橘」は、高市郡の、今は明日香村字橘の地で、飛鳥川の上流。「寺」は、いわゆる橘寺で、推古天皇の宮に聖徳太子の創立した寺。「長屋」は、寺門などに添って建てた長い形の屋で、今の長屋と同じ。これは寺の奴婢などの住所である。○わが率宿し 吾が連れて行って共寝をした。○童女放髪は 「童女」は、本来は童の髪の称で、髪を四方に垂らしていることの称。転じて童の意になったもの。「放髪」は、束ねずに放してある髪で、うないを説明的にいったもの。これは、童女の放髪にしていた子はの意。○髪あげつらむか 「髪あげ」は、髪を頭上に上げて結んだものの称で、これは一人前の女になった時、あるいは結婚した時にすることで、ここは一人前になった意である。「つらむか」は、していようかで、「つ」は、完了の助動詞。「か」は、疑問の助詞。
【釈】 橘寺の長屋に連れて行って寝たことのあった、あの放髪の童女は、今は一人前の女になって、髪上げをしていることだろうか。
【評】 男が一度共寝をしたことのあった、放髪の女を思い出し、今は一人前になって髪上げをしていることだろうかと、かわゆく思った心である。早熟早婚の時代で、男女関係は自由であったから、ここにいっているような事は珍しくなく、したがって民謡として謡われていた歌であろう。「寺の長屋」は、奴婢などの住所であったろうから、男はさうした者に知合いがあって、臨時の忍び場所にしたものと思われる。
右の歌は、椎野連長年《しひののむらじながとし》が脉《とりみ》て曰く、それ寺家《じけ》の屋は俗人の寝処にあらず、又若冠の女を※[人偏+稱の旁]《い》ひて放髪丱《うなゐはなり》といへり。然らば腹句已に放髪丱といへれば、尾句に重ねて冠を著くる辞を云ふべからざるをや。
右歌、椎野連長年脉曰、夫寺家之屋者、不v有2俗人寝處1。亦※[人偏+稱の旁]2若冠女1、曰2放髪丱1矣。然(462)則腹句已云2放丱1者、尾句不v可3重云2著v冠之辭1哉。
【解】 「植野連長年」は、伝未詳。続日本紀、聖武紀、神亀元年五月の条に、「正七位上四比忠勇、賜2姓椎野連1」とある。この時姓を賜わった人々はすべて帰化人であるから、忠勇も学術をもって仕えた人であろう。多分医師で、長年もその子弟であったろう。「※[人偏+稱の旁]」は、称。「寺家の屋」は、長屋で、奴婢など俗人の住処であったろうから、長年の非難は当らない。「放髪丱」の「丱」は、束髪両角の意で、これは童女の髪の形である。「腹句」は歌の各句を人体に譬え、頭句、胸句、腰句、尾句といっている。その意のもので、第四句である。他には用例の見えない称である。「冠を著くる辞」は、「冠を著くる」は成年になることで、これは頭を上げて東髪になることを指している。長年のいうのは、第四句ですでに放髪丱といっているので、結句でまた束髪のことをいうべきではないと非難するのであるが、これは同事ではなく別事であるから、何ら非難すべき点がない。誤解してのことである。
決《さだ》めて曰く
決曰
【解】 「決めて」は、決定してで、古歌の誤りを正しての意。
3823 橘《たちばな》の 光《て》れる長屋《ながや》に わが率寝《ゐね》し 童女放髪《うなゐはなり》に 髪《かみ》上《あ》げつらむか
橘之 光有長屋尓 吾率宿之 宇奈爲放尓 髪擧都良武香
【語釈】 ○橘の光れる長屋に 橘の実の照っている長屋にで、これでは長屋が漠然とした、印象を成さないものになる。○童女放髪に髪上げつらむか 「童女放髪」は、童女の髪。「髪上げ」は、成女の髪で、事としてありうべからざることである。意を成さない。
【釈】 略す。
【評】 長年の歌を理解し得ずにした批評を、「由縁あり」として、このように鄭重に扱っている、本巻編集者の心持もまた、解し難い感がある。
長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》の歌八首
(463)【題意】 「長忌寸意吉麿」は、巻一(五七)持統天皇の三河国御幸の際の作歌があり、藤原宮時代の人であるが、伝は未詳である。その残っている歌は、即興、滑稽のもので、才の縦横な人であったことが知られる。
3824 さしなべに 湯《ゆ》わかせ子《こ》ども 櫟津《いちひつ》の 檜橋《ひばし》より来《こ》む 狐《きつ》に浴《あ》むさむ
刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 檜橋從來許武 狐尓安牟佐武
【語釈】 ○さしなべに湯わか世子ども 「さしなべ」は、『倭名類聚鈔』に、「銚子、左子奈閇、俗云2左須奈閇1」とある。柄と注ぎ口のついている鍋。左注の「饌具」にあたる。「子ども」は、下人に対しての呼びかけ。○櫟津の 地名で、日本書紀、允恭紀に出ている櫟井かという。添上郡治道村にその名の地がある(現在、大和郡山市に入り、櫟枝《いちえた》町と呼ばれている)。「櫃」を詠みこむ。左注の雑器にあたる。「津」は、水に臨んだ地の称で、本来は海についての称であるが、上代は池や河にもいった。櫟井の津で、櫟の木のある水辺である。左注の「河」である。○檜橋より来む 「檜橋」は、檜材で造った橋。左注の「橋」。「来む」は、連体形、「こむ」で、左注の狐の声を詠みこむ。○狐に浴むさむ 「狐」は、きつね。「きつ」といっていたので、「ね」は、愛称。「浴むさ」は、「浴む」の使役の「浴むす」の未然形。
【釈】 さし鍋で、湯を沸かせ、皆の者よ。櫟津の檜橋をとおって来る狐に浴みせよう。
【評】 左注とともに見ないと興味のない歌である。題詠で、饌具、狐の声、河、橋という、何の関係もない四つの物を、一首に詠み込んで歌にせよという難題である。そうしたことは普通ではできることではなく、強いて詠んでも、当然の成行きとして、不自然な物になるべきものである。しかるにこの歌は、鳴きながら今檜橋を渡って来る狐を捉え、それがここへ来たら、さし鍋に湯を沸かしておいて浴びせてやろうという、単純にして動きのある歌として、その時そこにいた人々の、そういわれれば、ほんに、と思い、微笑するようなものにしているのである。上手というべきである。
右の一首は、伝へ云ふ。一時《あるとき》衆集ひて宴飲《うたげ》す。時に夜漏三更にして、狐の声聞ゆ。爾乃《すなはち》衆諸《もろびと》興麿《おきまろ》を誘ひて曰く、此の饌具、雑器、狐の声、河、橋等の物に関《か》けて、但《ただ》に歌に作れといひき。即ち声に応へて此の歌を作りき。
右一首、傳云、一時衆集宴飲也。於v時夜漏三更、所v聞2狐聲1。尓乃衆諸誘2興麿1曰、關2此饌具雑器狐聲河橋等物1、但作v哥者、即應v聲作2此歌1也。
(464)【解】 「夜漏三更」は、漏刻は、一定の水の漏ることによって時間を測る器で、今の時計。「三更」は、その水の三度かわることで、その時はすなわち夜半。「興麿」は、意吉麿。上代は音を主として、用字は随意にしたのである。「饌具」は、食器。「但に」は、即座に。「声に応へて」は、いわれると同時にの意。
行勝《むかばき》、蔓菁《あをな》、食薦《すごも》、屋〓《やのうつばり》を詠める歌
【題意】 「行騰」は、鹿、熊、虎、豹などの毛皮を用いて、一片に製し、腰に着け、両方の股脚、袴の前面に垂れて被う物である。騎馬の際に用いる。「蔓菁」は、菜の総称。「食薦」は、竹を簾のように編み、白い生平絹《きびら》を裏につけた薦。饌具を置き、また、食机の下にも敷いた。「屋〓」は、現在の梁と同じ。四種を詠み込んで一首の歌にしたのである。これも与えられた題とみえる。きわめて難題である。
3825 食薦《すごも》敷《し》き 蔓菁《あをな》煮《に》持《も》ち来《こ》 梁《うつばり》に 行騰《むかばき》懸《か》けて 息《やす》む此《こ》の公《きみ》
食薦敷 蔓性※[者/火]將來 〓尓 行騰懸而 息此公
【語釈】 ○梁に行騰懸けて 「梁」は、家屋の用材として地上にある物である。「行騰懸けて」は、馬に乗って来たのであるが、休息する間、乗馬用の行騰を脱いで、懸けて。○息む此の公 休息しているこの公は。「公」は、家屋を建築させる人で、その普請場へ、検分のために来た人である。
【釈】 食薦を敷いて、青菜を煮て持って来い。梁に、行騰を脱いで休息しているこの公のもとへ。
【評】 家屋の普請場へ、その家屋を建てさせる公と呼ばれる人が検分に来た折、従者が、普請場に働いている者に命令した言葉である。突飛な、何の連絡もない四種の品を、一つの動的な情景を想像し、それに結び合わせることによって連絡をつけて、一応筋のとおる物にしたのである。無理を無理でない物にすることが目的で、それが目的の全部なのである。才人というべきである。
荷葉《はちすば》を詠める歌
【題意】 「荷葉」は、蓮葉で、蓮は熱帯アジアから輸入して、古くから栽培した。食用としてのことで、葉は食物を盛る器とした。(465)それは上代、柏の葉を用いた伝統からのことで、『延喜内膳式』に、食物を盛るための蓮葉を河内国から進《たてまつ》ることが出ている。この「荷葉」もその意の物である。
3826 蓬葉《はちすば》は 斯《か》くこそあるもの 意吉麿《おきまろ》が 家《いへ》なるものは 芋《うも》の葉《は》にあらし
蓮葉者 如是許曾有物 意吉麿之 家在物者 宇毛乃葉尓有之
【語釈】 ○斯くこそあるもの このような物なのであるで、下に「なれ」が略されている。驚歎しての心である。○意吉麿が家なるものは 「意吉麿」は、作者自身で、「吾が」といえば足りるのを、自身の名をもってするという、きわめて改まった言い方をしたのである。○芋の葉にあらし 「芋」は、里芋で、その葉は、蓮の葉に酷似している。「らし」は、強い推量の助動詞である。
【釈】 蓮の葉は、こうした物である。それだと手前意吉麿の家にある物は、あれは芋の葉であろう。
【評】 作者意吉麿が、何らかの改まった場合に、蓮の葉に盛った食物を振舞われて、初めて蓮の葉を目にし、これまで蓮だとばかり思っていた自分の家にある物は、あれは芋であったと心づき、驚歎した心である。作者としては実感としていっている形のものである。蓮を見たことがなかったというのはもとより仮設で、仮設してそうした場合を想像して見たのである。いわゆるしらばくれた態度である。ここに作者の才があり、聞く者は、さも実際のことのようにしらばくれおおせた詠み方に興味を感じたのである。あくの脱けた、洒落れた歌であって、その意味で、いかにも上手な歌である。
双六《すごろく》の頭《さえ》を詠める歌
【題意】 「頭《さえ》」は、旧訓「め」。『略解』の訓。歌の仮名書きによってである。「双六」は、盤と頭《さえ》とあり、頭は小さな正方形の各々の面に、一より六までの目が記してあり、それを投げて、現われる所の目の数によって勝負を争う遊戯である。盤の作り方、その勝負を定める規約は、時代によって異なるが、大本は同一で、古くインドより伝来し、広く民間に行なわれ、現在も児童の遊戯の一種として保たれているものである。日本書紀、持統紀三年十二月に、「禁2断双六1」とあるにより、そのいかに盛行したかが思われる。
3827 一二《いちに》の 目《め》のみにあらず 五六三《ごろくさむ》 四《し》さへありけり 双六《すぐろく》の采《さえ》
(466) 一二之 目耳不有 五六三 四佐倍有 雙六乃佐叡
【語釈】 ○一二の目のみにあらず 類聚古集は、「一二《いちに》こと字音に訓んだが、『考』は「一二《ひとふた》」と訓にしている。しかし他は「五六《いつむつ》」のように「つ」を添えていて、訓としても一定してはいない。双六、采も字音であるから、字音が作意であったろうと思われる。○四さへありけり 「ありけり」は、原文「有」で、「けり」は、読み添えである。『考』もそれをしている。過去の感動で、作意としてあるべきものである。
【釈】 一、二の目だけではなく、五、六、三も、四までもあったことだ。双六の采は。
【評】 双六の采を初めて見て、その面ごとにある目を子細に見て、感心した心である。上の「荷葉」の歌と同じ詠み方のものである。こうしたことを歌の形にし、とにかく詠みおおせているだけで値のある歌である。
香《こり》、塔《たふ》、厠《かはや》、屎《くそ》、鮒《ふな》、奴《やつこ》を詠める歌
【題意】 「香《こり》」は、香の古語。香木で、香気が諸の邪気を攘う物として、仏に供養する物。「塔」は、塔と率塔婆の二種に通じての称。ここは塔と取れる。塔はその建て方に古来変遷があるが、ここは現在見るがごとき建て方の木造の物。舎利を蔵めた物、単に仏への供養、報恩のための物とあるが、ここは後の意の物と取れる。「厠」は、今と同じ。本来は川屋で、川の流れの上に建てたのである。以上六種の尊い物と醜い物とを一首の歌の中に詠み込むという、難題中の難題である。
3828 香《こり》塗《ぬ》れる 塔《たふ》にな依《よ》りそ 川隅《かはくま》の 尿鮒《くそぶな》喫《は》める 痛《いた》き女奴《めやつこ》
香塗流 塔尓莫依 川隅乃 屎鮒喫有 痛女奴
【語釈】 ○香塗れる塔にな依りそ 「香塗れる塔」は、香木の粉末にしたものを塗ってある塔で、これは邪悪の気を攘い、清浄ならしめるためである。「な依りそ」は、寄るなで、禁止。呼びかけ。○川隅の屎鮒喫める 「川隅の」は、川の曲がり角の隅。これは厠の屎の停滞する所。「屎鮒」は、鮒を卑しめての称で、「屎」は、厠の屎を食っているとしてである。題の厠と屎と鮒とをこのような形にしたのである。川隅の屎鮒を食っている。○痛き女奴 「痛き」は、甚しいで、穢れのひどい「女奴」は、女の奴で、婢である。呼びかけ。
【釈】 香を塗って清浄にしてある塔に、そのように寄るな。川隅にいる屎鮒を食った、不浄のひどい女奴よ。
【評】 清浄を重んじ、不浄を忌む念の強かった上代であるから、この歌は現在感じるよりも、その当時は筋のとおった歌であっ(467)たろうと思われる。突飛な物のみの六種を、一首中に詠み込み、とにかく筋のとおる物としたということは、感ずべき手腕である。「厠」については、上代は便所を川の流れの上に差出して造ったので、「川屋」の意でいっている語であるといい、または「端屋《かはや》」の意だともいって、定まってはいない。しかし、川には不浄な物も流れやすく、また「川隅」はそうした物の滞る所でもあるから、「川隅」には当然「厠」の意が連想されたのではないかと想像されもする。それだと無理だとはいえ、むしろ巧みな言い方となって来るのであるが、「川隅の屎鮒喫める」は、相応に無理のあるものであるが、五句に六種の名詞を詠み込むには、この程度の無理は当然のことで、この作者としても容易ならぬことであったろうと思われる。
酢《す》、醤《ひしほ》、蒜《ひる》、鯛《たひ》、水葱《なぎ》を詠める歌
【題意】 「酢」は、今日の酢と同種の物である。「醤」は、大豆と小麦とを煎って麹にした物に、塩を加えた物で、今日の醤油の絞らない物。『新考』は「大膳式」に、「小斎給食、……五位已上一人醤酢各五勺……六位已下一人醤五勺云々」とあるを引き、いずれも韲物《あえもの》であるが、酢のほうが醤より重んぜられていたとみえるといっている。「蒜」は、山野に自生する野蒜。その根を今日のごとく食用としたのである。五種の多数であるが、いずれも食用品で、つながりのある物である。
3829 醤酢《ひし捜す》に 蒜《ひる》搗《つ》き合《あ》へて 鯛《たひ》願《ねが》ふ 吾《われ》にな見《み》えそ 水葱《なぎ》の羮《あつもの》
醤酢尓 蒜都伎合而 鯛願 吾尓勿所見 水葱乃※[者/火]物
【語釈】 ○醤酢に蒜搗き合へて 「醤酢」は、醤と酢とを一つに合わせた物。これは肉類を食う時につけて用いる物である。「蒜搗き合へて」は、蒜を搗き砕いて、交じえてで、香気を添えて。○鯛願ふ 以上の調味品に漬けて鯛を食いたいと願っている。○吾にな見えそ われに見えさせてくれるなで、見たくない意。○水葱の羮 水葱を煮た、熱い料理を。
【釈】 酢と醤とを混じた物に、蒜を搗き砕いたのを混ぜて、それに漬けて鯛を食いたいと願っている私に、見させて下さるな。水葱を煮た、熱い料理を。
【評】 盛夏の頃、さっぱりした、刺激の強い、うまい食物を食べたいと思っているところへ、反対に熱い、野菜の煮物をすすめられた場合を想像して、季節にふさわしい代表的な食べ物と、それと反対なものとを具体的に言い立てることによって、一首に纏め上げた歌である。盛夏の季節を想像したということが手柄で、それが興味になったのである。いずれも当時の美食であ(468)る。
玉掃《たまははき》、鎌《かま》、天木香《むろ》 棗《なつめ》を詠める歌
【題意】 「玉掃」は、「玉」は美称で、「掃」は帚に通じて用いた字で、帚である。新年の行事として、帚に玉を付けた物を持って掃くことがあって、巻二十(四四九三)「初春の初子の今日の玉帚」とあり、この称は熟したものだったのである。帚は山野に自生する菊科の落葉灌木で、現在の草帚とは別な物である。この木は今「こうやぼうき」と呼んでいる。「天木香」は、巻三(四四六)に出た。「棗」は、現在の物と同じく、早くから輸入された木である。
3830 玉掃《たまははき》 刈《か》り来《こ》鎌麿《かままろ》 室《むろ》の樹《き》と 棗《なつめ》が本《もと》と かき掃《は》かむ為《ため》
玉掃 苅來鎌麿 室乃樹與 棗本 可吉將掃爲
【語釈】 ○玉掃刈り来鎌麿 「刈り来」は、刈り取って来よで、命令。「鎌麿」は、「鎌」を擬人したもので、呼びかけ。「麿」は人名に最も多いもので、本来は愛称だったのである。○かき掃かむ為 「かき」は、接頭語。
【釈】 玉帚の木を刈って来い、鎌麿よ。室の木と棗の木の下とを掃き清めようがために。
【評】 これも特殊な物の四種が題になっていて、難題であるが、二種の木を庭木とし、その下を掃こうとする場合を想像して取り纏めたのである。「鎌麿」が気が利いており、全体が垢ぬけのした、余裕のあるものとなっていて、その安易さに微笑させるような歌である。才人である。
白鷺の木を啄《く》ひて飛ぶを詠める歌
【題意】 「木を啄ひて」は、白鷺は営巣期には、その材料としての木を啄えて飛ぶもので、実況を見てのものである。
3831 池神《いけがみ》の 力士※[人偏+舞]《りきしまひ》かも 白鷺《しらさざ》の 桙《ほこ》啄《く》ひ持《も》ちて 飛《と》び渡《わた》るらむ
池神 力士※[人偏+舞]可母 白鷺乃 桙啄持而 飛渡良武
(469)【語釈】 ○池神の力士※[人偏+舞]かも 「池神」は、地名と取れるが、所在は不明である。十市郡池上郷の辺りという説があるが、「神」の「み」は、乙類、「上」は、甲類で、合わないとされている。また生駒郡富郷村法起寺の辺りという説もあるが、いずれも明らかではない。「力士※[人偏+舞]」は、天神が金剛力士に仮装して、仏法守護のために、梓を取って舞う※[人偏+舞]で、推古天皇の朝に伝わった呉楽の一曲だという。「かも」は、疑問の係助詞。○白鷺の桙啄ひ持ちて 白鷺を力士に、啄えている木の枝を桙に見立てたのである。○飛び渡るらむ 飛び渡るのであろうかで、「らむ」は、「かも」の結。この見立てから見ると、力士は白衣を纏って、激しく※[人偏+舞]ったものと思われる。
【釈】 池神の力士※[人偏+舞]をするとて、白鷺は桙を啄えて持って、飛び渡るのであろうか。
【評】 白鷺の木の枝を吸えて飛び渡るのを見て、池神の力士※[人偏+舞]を連想したのである。この※[人偏+舞]はその当時にあってはよほど印象的なものであったとみえるが、現在では白鷺の状態から想像するほかはないものである。これは実感を詠んだ普通の歌であるが、力士※[人偏+舞]に関係している点で、「由縁」ある歌とされたのであろう。
忌部首《いみべのおびと》の、数種の物を詠める歌一首【名、忘失せり】
【題意】 「忌部首」は、忌部は氏、首は姓である。名は忘失したというので、何びとか不明。
3832 枳《からたち》の 棘原《うばら》刈《か》りそけ 倉《くら》立《た》てむ 屎《くそ》遠《とほ》くまれ 櫛《くし》造《つく》る刀自《とじ》
枳 棘原苅除曾氣 倉將立 屎遠麻礼 櫛造刀自
【語釈】 ○枳の棘原刈りそけ 「枳」は、今と同じ。「棘原」は、「うまら」ともいっている。刺《とげ》のある小木の総称で、ここは上の枳の繰り返しである。「刈りそけ」は、刈り除いて。○倉立てむ 「倉」は、今と同じく、穀物、財宝、家具などを蔵める建物。倉を立てようと思っている。○屎遠くまれ 「遠く」は、そこより遠い所へ。「まれ」は、大小便をすることで、日本書紀、神代(上)に、「送糞、此云2倶蘇摩屡《くそまる》1」とある。地方により現在も用いている語。○櫛造る刀自 「櫛造る」は、櫛を造ることを職とする。「刀自」は、一家の主婦に対しての敬称で、老若にかかわらない。呼びかけ。
【釈】 枳のうばらを刈り除いて、そこへ倉を立てようとしている。大便は遠くのほうへ行ってせよ。櫛を造る刀自よ。
【評】 「數種の物」というだけで明らかでないが、枳、倉、櫛など、突飛な物は少なくとも題であったろう。難題とすべきでる。屎を不浄な物とし、大切に思っている地を穢すこととして咎めているのであある。筋はとおっている。意吉麿の歌に見られ(470)る流動性はなく、窮屈の感のあるものとなっている。
境部王《さかひべのおほきみ》、数種の物を詠める歌一首【穂積親王の子なり】
【題意】 「境部王」は、続日本紀、元正妃に、養老元年正月無位より従四位下、同五年治部卿とあり、懐風藻には、「従四位上治部卿、境部王二首年二十五」とあって、早世された人である。題詞の下注には穂積親王の子とあるが、『皇胤紹運録』には長皇子の子としている。
3833) 虎《とら》に乗《の》り 古屋《ふるや》を越《こ》えて 青淵《あをぶち》に 鮫竜《みづち》取《と》り来《こ》む 釼大刀《つるぎたち》もが
虎尓乘 古屋乎越而 青淵尓 鮫龍取將來 釼刀毛我
【語釈】 ○虎に乗り古屋を越えて 「虎に乗り」は、騎虎の勢という成語があるのによってのもので、甚だ勢のよいことをいっているもの。「古屋を越えて」は、「古屋」は、地名であろうが、所在は不明である。「越えて」は、通り過ぎて。○青淵に鮫竜取り来む 「青淵」は、深淵。「鮫竜」は、「鮫」は、「※[虫+交]」に通じる字。一種の竜である。「みづち」は、水中に住む霊物の意の語で、強大な力ある物としていっている。「取り」は、殺すで、殺して来るような。○釼大刀もが 「釼大刀」は、釼の大刀。「もが」は、願望の助詞。
【釈】 虎に乗って、古屋を通り過ぎて、青淵に住んでいる※[虫+交]竜を殺して来るであろう釼の大刀をほしいものだ。
【評】 これも題は明らかでない。虎、鮫竜、釼などは少なくも題であったろう。一首の構想は、よる所のあったものと思われれる
それは古屋と呼ぶ地の近くに深淵があって、そこに竜が住んでいるという話があったのを捉えてのものではないかと思われるのである。大池に竜が住むという伝説は民間に多いもので、この時代まで溯りうるものであろう。竜は悪神とされていたものである。
作主未だ詳ならざる歌一首
3834 梨《なし》棗《なつめ》 黍《きみ》に粟《あは》嗣《つ》ぎ はふ田葛《くず》の 後《のち》も逢《あ》はむと 葵《あふひ》花《はな》咲《さ》く
(471) 成棗 寸三二粟嗣 延田葛乃 後毛將相跡 葵花咲
【語釈】 ○梨棗黍に粟嗣ぎ 「梨棗」は、梨の実に棗の実。「黍に粟嗣ぎ」は、さらに黍の実に粟の実と成熟が続き。手のこんだ序詞である。○はふ田葛の後も逢はむと 「はふ田葛の」は、這う葛の蔓のようにで、別れてもまた逢う意で、譬喩として「後も逢はむ」にかかる序詞。「後も逢はむと」は、後々も末長く逢おうとで、男女関係の上のこと。○葵花咲く この「葵」は、萄葵すなわち、花実ではなく、蔬菜に属する葵で、すな わち冬葵である。錦葵科の植物で、冬、白い花が咲く。食用とした物で、その意で『延喜式』にも出ている物である。葵に「逢ふ」をかけていっているもの。
【釈】 梨の実に棗の実、それから黍の実に粟の実と続いて熟し、それからまた、這う葛のように、後々も逢うという名の葵の花が咲く。
【評】 「数種の物を詠める歌」で、数種というのは、梨、棗、黍、粟、田葛、葵の六種である。この歌は「物」は皆食料品で、その意味で連絡のある物であるから、題として出されて詠んだのではなく、作者が進んで詠んだものであろう。また作意は相聞の範囲で、しかも心の軽いものであるから、宴歌として詠んだものかと思われる。やすらかに、余裕をもって詠みおおせている歌で、作主未詳として伝わっている上からも、流行した歌だったろうと思われる。
新田部親王《にひたべのみこ》に献れる歌一首 未だ詳ならず
【題意】 「新田部親王」は、巻三(二六一)に既出。天武天皇の第七皇子。天平七年九月薨ず。「献れる」という事情は、左注に委しい。
3835 勝間田《かつまた》の 池《いけ》は我《われ》知《し》る 蓮《はちす》無《な》し 然《しか》言《い》ふ君《きみ》が 鬢《ひげ》無《な》き如《ごと》し
勝間田之 池者我知 蓮無 然言君之 鬢無如之
【語釈】 ○勝間田の池は我知る 「勝間田の池」は、生駒郡都跡村字六条(奈良市六条町)に残ってゐた薬師寺の西方にあたる大池かといわれている。「我知る」は、「我」は、左注の婦人。○蓮無し 蓮の多い所であるのに、逆にいったもの。戯れとしてである。強くいっているのは、そのためである。○然言ふ君が 「然言ふ」は、そのようにいうで、左注の、その池の蓮の愛でたさを親王が讃えられるのを承けていっているもの。○鬢無き如し 「鬢」は、耳のあたりの毛で、頬ひげの意であろう。親王はそれが多いので、そのことを主にして戯れていっているのである。この捉え(472)方は婦人らしいものである。
【釈】 勝間田の池は、私は知っておりますが、蓮はありません。そのいう君の、頬ひげの無いのと同じです。
【評】 この歌は左注の、これを詠んだ時の事情を離れては、心も通ぜず、興もない歌である。親王の言葉を機会に、軽く明るい心をもってした揶揄である。興ある歌とされたのは、親王の頬ひげの多いことと、歌の詠み方が事に合わせては思いきって大げさな点からとであったろう。
右ある人あり。聞くに曰く、新田部親王|堵裏《とり》に出で遊び、勝間田の池を御見《みま》して御心の中に感《め》でませり。彼《そ》の池より還りて怜愛に忍びず、時に婦人《をみなめ》に語り給はく、今日遊行して勝間田の池を見る。水影濤濤として蓮花灼灼たり。※[立心偏+可]怜断腸、言ふことを得べからずといふ。爾乃《すなはち》婦人、此の戯歌《たはれうた》を作りて、専輙《もはら》吟詠せるなり。
右或有v人。聞之曰、新田部親王出2遊于堵裏1、御2見勝間田之池1、感2緒御心之中1。還v自2彼池1、不v忍2怜愛1、於v時語2婦人1曰、今日遊行、見2勝間田池1。水影濤々、蓮花灼々。※[立心偏+可]怜斷腸、不v可v得v言。尓乃婦人、作2此戯歌1、專輙吟詠也。
【解】 「堵裏」は、「堵」は「都」に通じて用いた文字で、都の内。「怜愛」は、賞美の意。「婦人」は、寵愛の女。「水影濤濤」は、水の豊かな意。「灼灼」は、其盛りの意。
佞人《ねぢけびと》を謗《あざけ》る歌一首
3836 奈良山《ならやま》の 児手柏《このてがしは》の 両面《ふたおも》に かにもかくにも 佞人《ねちけびと》の徒《とも》
奈良山乃 兒手柏之 兩面尓 左毛右毛 佞人之友
【語釈】 ○奈良山の児手柏の 「奈良山」は、奈良市の北方に連なっている山。「児手柏」は、その名称から推して、その葉が小児の掌の形をした柏と思われる。植物の名は地方地方で異なるものであるから、この名は現在には伝わっていないのである。なお巻二十(四三八七)「千葉の野の児(473)手柏のほほまれど」とあって、濶葉であったことが知られる。○両面に 表面と裏面とあると同じようにで、下の「かにもかくにも」の譬喩。○かにもかくにも ああも、こうもで、その場合の利害次第で、どのようにもなるで、下に「なる」の意が略されている。○佞人の徒 「ねぢけびと」は、旧訓。さまざまの訓みがあって定まらない。心のまっすぐでない人。「徒」は、者どもで、多数の人をあらわす語。下に詠歎がある。
【釈】 奈良山の児の手柏の表裏ある状態に、ああにもこうにも、その場合次第なことをする、心のまっすぐでない人々よ。
【評】 作者は学術をもって朝廷に仕えている人で、同じ官人の中に正義感の麻痺している者が多く、さも公のためのように、もっともらしく装うて、その実、私のためを図っているのを憤った心である。「児手柏の両面」は、その所行の巧みで、見さかいのつき難い譬喩である。京に近い「奈良山」の物としている点とあいまって、巧みな譬喩である。「謗る」と題しているが、私情をいっているのではなく、公憤を漏らしているのである。その点を「由縁」と見たのであろう。
右の歌一首は、博士|消奈行文《せなのぎやうもん》の大夫《まへつぎみ》の作れる。
右歌一首、博士消奈行文大夫作之。
【解】 「博士」は、大学寮所属の官名。「消奈行文」は、続日本記に、養老五年正月、明経第二博士正七位上消奈行文に、その学術を賞して物を賜うたことが出ており、神亀四年には従五位下を授けられた。また懐風藻には「従五位下大学助背奈王行文二首年六十二」とある。新羅人の裔である。「大夫」は、五位の人の敬称。
3837 ひさかたの 雨《あめ》も降《ふ》らぬか 蓬葉《はちすば》に 渟《たま》れる水《みづ》の 玉《たま》にあらむ見《み》む
久堅之 雨毛落奴可 蓮荷尓 渟在水乃 玉似將有見
【語釈】 ○ひさかたの雨も降らぬか 「ひさかたの」は、ここは雨の枕詞。「降らぬか」は、降らないのか、降ってくれよの意で、願望をあらわす。○玉にあらむ見む 原文「玉似将有見」で『代匠記』は、「将」と「有」とが顛倒したものと見て、「玉に似たる見む」としている。玉のようであろうさまを見よう。
【釈】 ひさかたの雨が降らないのか、降ってくれよ。蓮の葉にたまっている水の、玉のようであろうのを見よう。
【評】 歌としては普通な物であるが、これを詠んだ際の機知を愛されて伝えられた歌である。またその事情が「由縁」ともされたのである。
(474) 右の歌一首は、伝へ云ふ。右兵衛《みぎのつはものとねり》【姓名未だ詳ならず】あり。歌作の芸に多能なりき。時に府家、酒食を備へ設け、府の官人等を饗宴す。ここに、饌食は盛るに皆荷葉を用ひき。諸人酒酣にして歌舞駱駅す。乃ち兵衛を誘ひて云ふ、其の荷葉に関《か》けて歌を作れといひしかば、登時《そのとき》声に応へて斯の歌を作りき。
右歌一首、傳云、有2右兵衛1、【姓名未v詳】多2能哥作之藝1也。于v時府家、備2設酒食1、饗2宴府官人等1。於v是、饌食盛之皆用2荷葉1。諸人酒酣、哥※[人偏+舞]駱驛。乃誘2兵衛1云、關2其荷葉1、而作v歌者、登時應v聲作2斯歌1也。
【解】 「右兵衛」は、右兵衛府に属している一属官で、官名。六位以上の者の子弟、あるいは一般の有能者から採った。「府家」は、右兵衛の役所。「饌食は盛るに皆荷葉を用ひき」は、食物は、すべて蓮の葉に盛ったの意。「駱駅」は、続いて絶えない意。「関けて」は、関係させて。
心の著く所無き歌二首
【題意】 「心の著く所無き歌」は、左注では「由る所無き歌」といっている。心の通らない、とりとめのない歌の意である。作歌を極度にまで遊戯化したものである。
(475)3838 吾妹子《わぎもこ》が 額《ぬか》に生《お》ひたる 双六《すごろく》の 牡牛《ことひのうし》の 鞍《くら》の上《うへ》の瘡《かさ》
吾味兒之 額尓生流 雙六乃 事負乃牛之 倉上之瘡
【語釈】 ○吾妹子が額に生ひたる双六の 「額に生ひたる」は、額に生えているで、角のある獣を連想してのもの。「双六」は、上に出た双六の盤。「の」は、同意の名詞をつらねる意の助詞。○牡牛の鞍の上の瘡 「牡牛」は、大きな牛。「鞍の上の瘡」は、鞍の上にできている腫物である。
【釈】 わが妻の額に生えている双六盤に対して、それは、大牛の鞍の上にできている腫物である。
【評】 遊戯としてのことであるから、できる限り不合理に、突飛にすることが興味であったとみえる。
3839 吾《わ》が背子《せこ》が 犢鼻《たふさき》にする 円石《つぶれいし》の 吉野《よしの》の山《やま》に 氷魚《ひを》ぞ懸有《さが》れる【懸有、反してさがれると云ふ】
吾見子之 犢鼻尓爲流 都失礼石之 吉野乃山尓 氷魚曾懸有【懸有、反云2佐我礼流1】
【語釈】 ○犢鼻にする円石の 「犢鼻」は、犢鼻褌の略で、今の、ふんどしである。「円石の」の「円」は、日本書紀に「つぶら」という仮名書きがある。「つぶれ」は、その転音。円い石である。「の」は、上の歌と同じで、にして、それとともにの意。ふんどしにする円い石の、その。○吉野の山に氷魚ぞ懸有れる 「吉野の山」は、上の続きでは「円石」、下への続きでは「氷魚」の居所場としてである。「氷魚」は、宇治川の特産物で、網代で捕えるもの。一、二寸の白い魚。「懸有れる」は、ぶら下《さが》っていることよ。○反して 漢字の訓を示す字で、訓みとしてはの意。既出。
【釈】 わが背子がふんどしにしている円い石の、その吉野の山に氷魚がぶら下がっていることよ。
【評】 男女相対して詠み合っている形である。上の歌にもまさって不合理な突飛なものである。
右の歌は、舎人親王《とねりみこ》侍座に合して曰はく、もし由《よ》る所無き歌を作る人あらば、賜ふに銭帛を以ちてせむといへり。時に大舎人《おほとねり》安倍朝臣|子祖父《こおぢ》すなはち此の歌を作りて献上《たてまつ》りしかば、登時《そのとき》募れりし物銭二千文を賜ひき。
右歌者、舎人親王令2侍座1曰、或有d作2無v所v由之哥1人u者、賜以2錢帛1。于v時大舎人安倍朝臣子祖父乃作2斯歌1獻上。登時以2所v募物錢二千文1給之也。
(476)【解】 「舎人親王」は巻二(一一七)に既出。天武天皇の第三皇子。天平七年薨じた。「侍座」は、座側に侍している者で、近侍の者。「大舎人」は、中務省に属する官名。宮中に宿直して雑役をし、行幸の供奉をする職。「安倍子祖父」は、伝未詳。「募れりし」は、賭け物として募集してあった。「二千文」は、銭二千個で、相当な賞である。『大日本古文書』中の「造寺料銭用帳」によると、天平宝字五年には、米一升が六文だったからである。
池田朝臣の、大神朝臣奥守《おほみわのあそみおきもり》を嗤ふ歌一首【池田朝臣の名忘失せり】
【題意】 「池田朝臣」は、「名忘失せり」とあるが、『古義』は、真枚《まひら》であろうとしている。それだと、続日本紀、天平宝字八年従八位上から従五位下。後、諸官を歴任して、延暦六年鎮守副将軍となった人である。「大神奥守」は、天平宝字八年、正六位下から従五位下を授けられた人である。「嗤ふ歌」は、その数が比較的多く、一部類を成している。「嗤ふ」は、文字としては嘲笑であるが、歌で見ると揶揄であって、明るく、軽く、気の利いた揶揄を、歌の形にしていっているものである。取材も、外観に関しての物が多く、内部にわたってのものはない。いう者も、いわれる者も、わらいをもってするという範囲のものである。
3840 寺寺《てらでら》の 女餓鬼《めがき》申《まを》さく 大神《おほみわ》の 男餓鬼《をがき》賜《たば》りて その子《こ》うまはむ
寺々之 女餓鬼申久 大神乃 男餓鬼被給而 其子將播
【語釈】 ○寺寺の女餓鬼申さく 寺々にある女餓鬼が申すことには。「餓鬼」は、仏道でいう三悪道の一つで、そこに遣られた亡者の称である。喉が針のようで、水を見ると火になって飲むことができず、体が痩せからびて、常に餓えに苦しんでいるもので、その形を刻んで、並べてあった。男女があって、その女餓鬼が申すことには。「申さく」は、身分の低い者が尊い者に物をいう意。○大神の男餓鬼賜りて 「大神」は、奥守。「男餓鬼」は、奥守が痩せているので、餓鬼が我と同じ世界のものと見ていっており、この譬喩が嗤いの主体である。「賜りて」は、賜わりてで、当時用例の多い語。尊い者によって賜わって。○その子うまはむ 「その子」は、奥守の子。「うまはむ」は、「生む」に「ふ」を接して、継続をあらわすもの。用例の見えない語である。餓鬼の世界に夫婦生活があり、子を生み続けようというので、この空想の突飛さが笑いとなるものである。
【釈】 寺々にある女餓鬼が申すことには、大神の男餓鬼を夫に賜わって、その子を生み続けましょう。
【評】 大神奥守の痩せているのを、寺にある女餓鬼に似合わしい男餓鬼のようだとしたのもすでに辛辣であるのに、「寺寺の」といって、あらゆる女餓鬼が競って申すこととし、「その子うまはむ」とまでいうと、辛辣に過ぎて、苦笑するよりほかないものとなって来る。こうまでいわれると、いわれた者は当然黙ってはいられなくなって、負けずに言い返そうとする、そこに遊(477)び気分が湧き上がるのである。
大神朝臣奥守の報《こた》へ嗤ふ歌一首
3841 仏《ほとけ》造《つく》る 真朱《まそほ》足《た》らずは 水《みづ》渟《たま》る 池田《いけだ》の朝臣《あそ》が 鼻《はな》の上《うへ》を穿《ほ》れ
佛造 眞朱不足者 水渟 池田乃阿曾我 鼻上乎穿礼
【語釈】 ○仏造る真朱足らずは 「仏造る」は、仏像を造る。「真朱」は、朱砂で、赤色の塗料で、仏像の全体を塗る物。「足らずは」は、不足するならば。○水渟る池田の朝臣が 「水渟る」は、意味で「池」にかかる枕詞。「あそ」は「あそみ」の下略で、古くから用いられているもので、官人に対しての敬称。○鼻の上を穿れ 「穿れ」は、命令形で、仏師にいった形である。真朱はすべて地中から掘り取る物だからである。池田の朝臣がいわゆる赤鼻であるのを嗤ったのである。
【釈】 仏像を造るに真朱が足りないなら、池田の朝臣の鼻の上を掘れよ。
【評】 木像の仏を塗る赤の顔料は多量を要したとみえるから、この赤鼻の上を掘ると幾らでもあるの余意を持ったものである。「仏造る」は、「寺寺の女餓鬼」に対させたものである。贈歌の辛辣を極めているのにくらべると、穏やかで、余裕さえあるものである。喧嘩下手で、言い負かされた形であるが、こうした歌の性質からいうと、このほうが遊びの趣旨にかなっていよう。とにかく性格の差である。
或は云ふ、
平群朝臣の嗤ふ歌一首
【題意】 「或は云ふ」は、この題詞に属したものとみえる。それはこの歌の報え歌(三八四三)を主としてのものとみえる。その場合にいう。「平群朝臣」は、誰とも知れない。『古義』は広成《ひろなり》であろうといぅ。それだと続日本記、天平九年、正六位上から外従五位下となり、諸官を歴任、天平勝宝五年従四位上に進んだ人である。
3842 小児《わらは》ども 草《くさ》はな刈《か》りそ 八穂蓼《やほたで》を 穂積《ほづみ》の朝臣《あそ》が 腋《わき》くさを刈《か》れ
(478) 小兒等 草者勿苅 八穗蓼乎 穏積乃阿曾我 腋草乎可礼
【語釈】 ○小児ども草はな刈りそ 童どもよ、草は刈るなで、命令したもの。○八穂蓼を穂積の朝臣が 「八穂蓼を」は、多くの穂のある蓼よで、「を」は、感動の助詞。穂蓼は食用にした。穂にかかる枕詞。○腋くさを刈れ 「腋くさ」は、両解がある。一つは腋香《わきが》とする解で、『倭名類聚鈔』に「胡臭和岐久曾」とあり、胡臭は腋香で、わきくそと呼んだので、その「くそ」が「くさ」に転じたのだとするのである。それは腋毛は露出する物ではないから見えないものだとしてである。しかしこうした歌を詠み合う親しい間では、腋毛の甚だ多いとか、あるいは長いとかいう程度のことは、自然知れたとしても不思議はない。「小児ども」と呼びかけていっている歌であるから、腋毛の解のほうが自然である。文字の上でも同様である。
【釈】 童どもよ、他の草は刈るな。八穂蓼、穂積の朝臣の腋毛を刈れよ。
【評】 草刈りをする童どもに呼びかけていっている形で、それが腋毛の多さを暗示している形になる。明るい揶揄である。
穂積朝臣が和ふる歌一首
【題意】 「穂積朝臣」も、誰とも知れない。『古義』は老人《おいびと》かといっている。それだと続日本紀、天平九年、正六位上から外従五位下を授けられ、天平十八年、従五位下、内蔵頭となった人である。
3843 何所《いづく》にぞ 真朱《まそほ》穿《ほ》る岳《をか》 薦畳《こもだたみ》 平群《へぐり》の朝臣《あそ》が 鼻《はな》の上《うへ》を穿《ほ》れ
何所曾 眞朱穿岳 薦疊 平群乃阿曾我 鼻上乎穿礼
【語釈】 ○何所にぞ真朱穿る岳 何所にあるぞ、真朱を穿る岳はで、人間が問うた語である。倒句にしている。○薦畳平群の朝臣が 「薦畳」は、薦をもって編んだ畳で、畳の重《へ》の意で、「平」の枕詞。○鼻の上を穿れ 上の(三八四一)に同じ。平群の朝臣も赤鼻だったのである。初二句の問に対して、三句以下は答えた形。
【釈】 何所《いずく》にあるぞ、真朱を掘る岳は。それならば平群の朝臣の鼻の上を掘れよ。
【評】 一首の歌の前半を問とし、後半を答とする形は、例の少なくないものである。旋頭歌の発生に関係のあるもので、その継続と見られる。謡い物時代に多かったのである。問答は、自問自答ともなり、そのほうが多くなったごとくみえる。これは他人の問に対して答えた形の物である。「真朱穿る岳」といい、「鼻の上」というと、鼻に岳を連想しているので、鼻の赤い程度(479)を暗示するものとなり、そこにおかしみがある。軽い心からの歌である。赤鼻の人の多かったことを思わせる。上の歌の題詞の上にある「或は云う」は、(三八四一) の結句と、この歌の結句と同一であるところから、この歌をその別伝のごとく見て添えたものとみえる。全く別歌である。
黒色を嗤咲《わら》ふ歌一首
【題意】 「黒色」は、顔の黒い意。作者の事情は左注にある。作者は土師水通である。
3844 ぬばたまの 斐太《ひだ》の大黒《おほぐろ》 見《み》るごとに 巨勢《こせ》の小黒《をぐろ》し 念《おも》ほゆるかも
烏玉之 斐太乃大黒 毎見 巨勢乃小黒之 所念可聞
【語釈】 ○ぬばたまの斐太の大黒 「ぬばたまの」は、黒の枕詞。「斐太の大黒」は、左注にある巨勢斐太朝臣の綽名である。○見るごとに 見かけるごとに。この綽名につき『代匠記』は、この人は顔色が黒く、体が大きいところから、飛騨国より貢した黒馬を連想して付けたのだろうといっている。「斐太」と飛騨国とを関係させてのことである。○巨勢の小黒し 「巨勢の小黒」は、左注にある「巨勢朝巨豊人」の綽名で、この人も同じく顔色が黒く、体が小さいところから、対照的に付けられていたのである。大和国の巨勢からも黒馬が貢せられていたかとも思われるが、それでなくとも、斐太の大黒を主と樹てて、それに対して、体が小さい意味で付けられるということも想像しうることである。「し」は、強意の助詞で、こちらへ力点を置いていっているのである。○念ほゆるかも 連想させられることであるよ。
【釈】 ぬばたまの斐太の大黒を見かけるごとに、巨勢の小黒が連想させられることであるよ。
【評】 作者水通は、巨勢の小黒と親しいのであるが、逢う機会が少ないところから、懐しく思って詠んだ歌である。嗤うとはいっているが、相手を綽名で呼んでいることをそういっているだけで、揶揄というよりもむしろ親しさをあらわしているものである。大らかな詠み方である。
答ふる歌一首
3845 駒《こま》造《つく》る 土師《はじ》の志婢麿《しびまろ》 白《しろ》くあれば 諾《うべ》欲《ほ》しからむ その黒色《くろいろ》を
(480) 造駒 土師乃志婢麿 白久有者 諾欲將有 其黒色乎
【語釈】 ○駒造る土師の志婢麿 「駒造る」は、土偶の駒を造るで、それを職とする意で、土師を修飾したもの。「土師の志婢麿」は、贈歌の作者で、左注の土師水通。「はじ」は、「はにし」の約音。「志婢麿」は、水通の通称。通称で呼ぶのは軽しめた形であるが、心としては親しんでのこと。○白くあれば 顔色が白いので。○諾欲しからむ なるほど欲しいことであろうで、羨ましかろうの意。○その黒色を この私の黒色を。
【釈】 駒を造るのを職とする土師の志婢麿は、顔色が白いので、なるほど欲しいことであろう。この黒い色を。
【評】 この作者は、左注によると巨勢朝臣豊人で、大黒、小黒とある小黒のほうである。作意は、黒色を嗤われたものと取り、負けない気になって言い返したものである。「駒造る土師の」は、馬に替えての自身の綽名を言い返すために、土師という氏に対し「駒造る」という語を案出したのである。「諾欲しからむ」も、土師に関係させての語であるが、これも強いたところのあるもので、贈歌の大らかなのに較べると、苦労した、刻んだ詠み方をしたものである。
右の歌は、伝へ云ふ。大舎人|土師宿禰水通《はじのすくねみみち》あり。字《あざな》を志婢麿《しびまろ》と曰ひき。時に大舎人巨勢朝臣豊人、字を正月麿《むつきまろ》といへる、巨勢斐大朝臣【名字を忘る、島村大夫の男なり】と、両人並に此彼貌黒色なり。ここに土師宿禰水通この歌を作りて嗤《あざけ》り咲ふといふ。而して巨勢朝臣豊人、聞きて、即ち和ふる歌を作りて酬い咲へるなり。
右歌者、傳云、有2大舎人土師宿祢水道1、字曰2志婢麿1也。於v時大舎人巨勢朝臣豊人、字曰2正月麿1、与2巨勢斐太朝臣1【名字忘之也。嶋村大夫之男也】兩人、並此彼〓黒色焉。於v是、土師宿祢水道、作2斯歌1、嗤咲者。而巨勢朝臣豊人聞之、即作2和歌1酬咲也。
【解】 「大舎人」は、上の(三八三九)に出た。「土師宿禰水通」は、天平二年の大伴旅人邸の梅花の宴に列した人で、巻四・五にも歌が出ている。土師氏は、垂仁天皇の御代に、土偶を作って殉死に代わらしめた野見宿禰の末で、代々土偶を造ることを職とした。「巨勢朝臣豊人」は、伝未詳。「巨勢斐太朝臣」は、伝未詳。この氏は巨勢氏と同祖で、武内宿禰の後である。「島村の大夫」は、天平九年正六位下から外従五位下となり、天平十八年従五位下、刑部少輔となった人である。
(481) 戯に僧《ほふし》を嗤ふ歌一首
3846 法師《ほふし》らが 鬢《ひげ》の剃杭《そりぐひ》 馬《うま》繋《つな》ぎ いたくな引《ひ》きそ 僧《ほふし》半《なから》かむ
法師等之 鬢乃剃杭 馬繋 痛勿引曾 僧半甘
【語釈】 ○法師らが鬢の剃杭 「鬢」は、上の(三八三五)に出た。耳の辺の毛で、頬のひげ。「剃杭」は、剃ったひげの少し伸びたのが、杭を打ち並べたように見える譬喩で、いわゆる不精ひげ。醜い物としていっている。○馬繋ぎ 杭は馬を繋ぐところからいっている。甚しい誇張である。○いたくな引きそ 甚しくは馬を引っ張るなの禁止。○僧半かむ 「半かむ」は、訓は未定で、さまざまに訓まれている。誤写説は別とすると、『略解』は、「なからかむ」、『新訓』は、「僧は泣かむ」と、「は」を訓み添え、「半」を「な」と訓んでいる。『略解』の訓みだと、用例はないが、「なからく」という動詞があり、半分になるの意であったと想定し、その未然形「なからか」に、「む」の助動詞が接したものとする。「枕く」「鬘く」という動詞があったので、こうした動詞があったとしても、さして不自然とはいえない。これは結句であるから、よほど突飛な意でないと調和しないからである。報うる歌でも、同じく結句にこの語を据えているから、当事者としても突飛な、その意味で魅力的な語としたと思われる。
【釈】 法師たちの鬢の剃杭に馬を繋いで、ひどくは馬を引っ張るなよ。法師が半分になってしまおう。
【評】 法師の不精鬚の醜さを、報うる歌によるといわゆる檀家の者が揶揄したもので、取材から見ると、檀家は農民だったとみえる。辛辣というよりも粗野な揶揄のしかたで、その点からも農民を思わせる。「剃杭」「半かむ」など、適切というよりは、それ以上の誇張を持った用語であるのも、農民階級のものだからであろう。奈良朝時代は仏教の興隆期であるが、集中、仏教に関係のある歌は少なく、たまたまある法師を対象としての歌の、このようなものであるのを思うと、農民階級における仏教の位置を思わせられることである。仏教は上層のもので、下層には及ばなかったかとみえる。
法師の報《こた》ふる歌一首
3847 檀越《だにをち》や 然《しか》もな言《い》ひそ 里長《さとをさ》が 課役《えつき》徴《はた》らば 汝《なれ》も半《なから》かむ
檀越也 然勿言 五十戸長我 課役徴者 汝毛半甘
(482)【語釈】 ○檀越や然もな言ひそ 「檀越」は、梵語で、施主の義。「や」は、呼ぶ助詞。「然もな言ひそ」は、そのようにはいうなで、静かに制していっているもの。○里長が 原文「弖戸等我」又は「※[氏/一]戸等我」。訓みかねたところから誤写であるとして、『童蒙抄』以下改字を試みている。『古義』は、「※[氏/一]」は、「五十」の二字の誤写で、「五十戸」で、「戸」の下に「長」が脱したものとして、「里長《さとおさ》」としている。これは巻五(八九二)「楚取五十戸良我許恵波」によったのである。『新考』は、それを承けて、「等」は、「長」の誤写としている。五十戸を里とし、里ごとに里長を置いて課役のことを掌《つかさど》らせていたのである。○課役徴らば 「課役」は、日本書紀、仁徳紀、その他にも「えつき」と訓んでいる。「課《つき》」は物を頁納させることで、租と調の総称であり、「役《え》」は、一年に十日間人夫に出ることで、庸である。「徴らば」は、徴収したならば。○汝も半かむ あなたもまた半分になってしまおう。
【釈】 檀越よ、そのようにはいうな。里長が課役を徴収したならば、あなたもまた半分になってしまおう。
【評】 法師の報えは、「然もな言ひそ」と制し、「課役徴らば」と実状に即したことをいい、「汝も半かむ」と憐れんでいるもので、報えではあるが、嗤いの意は全くなく、憐れみである。まさに法師らしい歌である。贈報二首を連ねると、一つの世相が現われて、「由縁」というに足りるものとなって来る。
夢の裏に作れる歌一首
3848 新墾田《あらきだ》の 鹿猪田《ししだ》の稲《いね》を 倉《くら》につみて あなひねひねし 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
荒城田乃 子師田乃稻乎 倉尓擧藏而 阿奈干稻々々志 吾戀良久者
【語釈】 ○新墾田の 新たに開墾した田で、上代は、住宅を山寄りにし、田を平地にしたが、次第に山寄りを新墾して田としたのである。下の続きで、これもそれとみえる。「の」は、同意の名詞を重ねる意のもの。○鹿猪田の稲を 「鹿猪田」は、鹿や猪の荒らす田で、これは山寄りの田に多いことである。「稲」は、そうした新墾田の稲は、よくできず、実が痩せて細いのが普通である。○倉につみて 「つみ」は、旧訓である。蔵める意である。以上は、そうした稲は、新たに収穫した物ではあるが、前から貯蔵していた物のように、ひねに似ている意で、「ひね」に続けて、その序詞としたもの。○あなひねひねし 「あな」は、歎息。「ひねひねし」は、古い稲の称の名詞「ひね」を、形容詞に活《はたら》かせたもので、「ふるぶるし」の意に転じたもの。いかにも久しいの意。○吾が恋ふらくは 「恋ふらく」は、名詞形で、恋うを強めたもの。わが君を恋うることは。
【釈】 新墾の田で、その鹿や猪の荒らす田に作った稲を刈って倉に蔵めた、その稲のように、ああひねびねと、いかにも久しい。君を恋うることは。
【評】 序詞と、それを受けての「ひねひねし」に趣のある歌である。こうしたことは実感でなくてはいえない事柄である。左(483)注によると、夢で詠んだ歌である。詠もうと心にかけていたことが、夢の中に纏まったものと思われる。
右の歌一首は、忌部首黒麿《いみべのおびとくろまろ》、夢の裏《うち》に此の恋の歌を作りて友に贈り、覚《おどろ》きて誦《ず》し習ふに前《さき》の如し。
右歌一首、忌部首黒麿、夢裏作2此戀歌1贈v友、覺而不誦習如v前。
【解】 「忌部首黒麿」は、巻六(一〇〇八)の作者で、続日本紀、天平宝字二年、正六位上から外従五位下となり、内史局の助となった人。「覚きて誦し習ふに」は、原文「覚而不誦習」とあるが、「不」は、西本顧寺本には消してあり、大矢本、京都大学本には「令」とある。『代匠記』は衍字とし、『略解』は「令」の誤写として、定まらない。衍字説に従う。目が覚めて誦し試みるにで、「前の如し」は、夢で詠んだ時のとおりに覚えていたの意である。夢で詠んだ歌を、覚めてもはっきり覚えていたの意である。
世間の無常を厭ふ歌二首
3849) 生死《いきしに》の 二《ふた》つの海《うみ》を 厭《いと》はしみ 潮干《しほひ》の山《やま》を しのひつるかも
生死之 二海乎 〓見 潮干乃山乎 之努比鶴鴨
【語釈】 ○生死の二つの海を 人間の生きてのさま、死んでのさまを、海に譬えていっているもの。『代匠記』は、「生死の海は、華厳経云、何能度2生死海1、入2仏智海1。海は深くして底なく広くして限りなき物の、能人を溺らすこと、無辺の生死の、衆生を沈没せしむるに相似たれば喩ふるなり」といっている。○厭はしみ 「み」は、理由を現わすもので、厭わしきゆえに。○潮干の山をしのひつるかも 「潮干の山」は、生死の海に対させた語で、生死の海を超越した、潮の干ている山で、仏教でいう悟りの世界すなわち浄土。「しのひつるかも」は、思慕していることである。
【釈】 生と死の二つの海の、限りなく広く、人を溺れ苦しませる所が厭わしいので、そういう海を超越した山である、すなわち浄土を思慕していることである。
【評】 この歌の心は仏教でいえば基本的なもので、常識ともいうべきものである。それを歌の形でいっているのは、謡い物としようとしてであって、いわゆる法文歌であり、その古いものである。
3850 世間《よのなか》の 繁《しげ》き借廬《かりいほ》に 住《す》み住《す》みて 至《いた》らむ国《くに》の たづき知《し》らずも
(484) 世間之 繋借廬尓 住々而 將至國之 多附不知聞
【語釈】 ○世間の繁き借廬に 「世間の」は、現実の人間生活の。「繁き」は、事の多い煩累の多い、の意。「借廬」は、かりに造った小屋で、極楽浄土に対させて、現世を具象的にいったもの。○住み住みて 「住み」を畳んで、住み続けの意をあらわしたもの。○至らむ国のたづき知らずも 「至らむ国」は、至るべき国で、現世の不満足を超越した極楽浄土。「たづき知らずも」は、手がかりが知られないことだ。
【釈】 現世の人間生活の、煩累の多いかりの小屋に住み続けて、至るべき国へ行く手がかりも知らずにいることだ。
【評】 自身の仏心の足りないのを嘆く心である。仏者の教を聴いて仏心は起こしたが、俗世間の執着が棄てられず、心に願うことが実行に移せない嘆きで、仏者の立場からいえば常識ともいえるものである。体験としていっているので、抒情味のあるものとなっている。
右の歌二首は、河原寺の佛堂の裏《うち》に、倭琴《やまとごと》の面《おもて》にあり。
右歌二首、河原寺之佛堂裏、在2倭琴面1之。
【解】 「河原寺」は、高市郡明日香村字河原にある弘福寺。敏達天皇の代の創建である。「倭琴」は、わが国古来の物で、六絃。琴は本来は神前の物であったが、奈良朝では仏寺の斎会の折には用いたのである。以上の二首は、そうした所にある倭琴の面に記してあった歌という特殊な事情で、「由縁ある歌」に加えられたのである。
3851 心《こころ》をし 無何有《むかう》の郷《さと》に 置《お》きてあらば 貌姑射《はこや》の山《やま》を 見《み》まく近《ちか》けむ
(485) 心乎之 無何有乃郷尓 置而有者 藐孤射能山乎 見末久知香谿務
【語釈】 ○心をし無何有の郷に 「心」は、わが心。「し」は、強意の助詞。「無何有の郷」は、荘子の中にある思想上の地名。何のある物なしの意で、無為自然の世界。○藐姑射の山を 同じく荘子にある思想上の霊地で、不老不死の神仙の住んでいる山。○見まく近けむ 「見まく」は、見ること。「近けむ」は、近からむで、目に近く見られることであろうの意。これも、自分も神仙に近い者となり得ようの意。
【釈】 わが心を無為自然な無何有の郷に置いたならば、不老不死の神仙の住む藐姑射の山を見むことが近かろう。
【評】 荘子を読んで作ったともいうべき歌で、奈良朝の知識人の作とみえる。国家主義の徹底していたわが国であるが、同時に一方では、漢土の代表的な個人主義思想である荘子をも受け入れようとしていたのである。もっともこの歌は、奈良朝時代に盛行していた神仙道につながりを持っているもので、荘子の思想としても表面的のものといえる。
右の歌一首
右歌一首
3852 鯨魚《いさな》取《と》り 海《うみ》や死《し》にする 山《やま》や死《し》にする 死《し》ぬれこそ 海《うみ》は潮《しほ》干《ひ》て 山《やま》は枯《か》れすれ
鯨魚取 海哉死爲流 山哉死爲流 死許曾 海者潮干而 山者枯爲礼
【語釈】 ○鯨魚取り海や死にする 「鯨魚取り」は、海の枕詞。「海や死にする」は、「や」は、疑問の係助詞で、反語を成すもの。海が死のうか、死にはしない。○山や死にする 「や」は、上と同じ。山が死のうか、死にはしない。海も山も生命のないものであるから、したがって死などということがあろうかの意で、以上は問である。○死ぬれこそ 死ぬことがあればこそで、「死ぬれ」は、已然形で、条件法。○海は潮干て 海の潮の干るのを、死の状態と見ているのである。仏教からいうと、万有は流転するのが本質で、絶えず変化を続けている。死とは変化に対しての名で、海の潮の干るという変化はすなわち死だというのである。○山は枯れすれ 「枯れ」は、「枯る」の名詞形で、山は枯れることをするのだで、山の木草の枯れる意である。
【釈】 鯨魚取り海が死のうか、死にはしない。山が死のうか、死にはしない。死ぬことがあればこそ、海は潮が干て、山は枯れることをするのだ。
【評】 これは旋頭歌で、それとしても原始的な、片歌での問答を組み合わせて一首としたものである。全体としては、死とい(486)うことを問題としてのもので、前半は普通人の常識から、海、山というごとき生命のないものに、死などということがあろうかと、詰問するようにいっているものである。後半はそれに対して、仏教的立場から、いや、海、山にも死はある。海が潮の干て形の変わるのはすなわち死で、山が草木の枯れて形の変わるのはすなわち死であるというのである。要するに、死とは何であるかということを、仏教的立場から説こうとして、それを具象化していったものである。観念の説明であるが、それとしてはある程度まで文芸化しているものである。
右の歌一首
右歌一首
痩《や》せたる人を嗤笑《わら》ふ歌二首
3853 石麿《いはまろ》に 吾《われ》物もの《》申《まを》す 夏疫《なつやせ》に良《よ》しといふ物《もの》ぞ 鰻《むなぎ》取《と》り食《め》せ 【めせの反なり】
石麿尓 吾物申 夏痩尓 吉跡云物曾 武奈伎取喫 【賣世反也】
【語釈】 ○石麿に吾物申す 「石麿」は、左注にある吉田連老の字である。字をもって呼ぶのは親しんでのことである。「物申す」は、「申す」は、敬語で、ものものしくいったもの。○夏痩に良しといふ物ぞ 「夏痩」は、今もいうことで、夏季は胃腸が衰え痩せることの称。石麿は左注によると、生来痩せた人であるのに、その季節にからませてこのようにいったのである。「良しといふ物ぞ」は、効果があるということだ。○鰻取り食せ 「むなぎ」は、今のうなぎの古名。「取り食せ」は、獲って召し上がれで、「食せ」は、食えの敬語。命令形。○めせの反なり 「喫」に対しての訓の注である。「喫」は、さまざまに訓めるからである。
【釈】 石麿に物を申し上げます。夏痩に効果があるということです。鰻を獲って召し上がれよ。
【評】 作者は大伴家持である。石麿の痩せているのは生来で、夏痩などではなかったのを、おりから夏であり、また、夏痩には鰻が効果があると、現在と同じことがいわれていたので、それを捉えて洒落れて揶揄したのである。「物申す」「食せ」と、わざと敬語を用いてものものしくいっているのも、揶揄を強調しようとしたのである。「嗤笑ふ」とはいっているが、善意のあらわな、すなおな歌である。
(487)3854 痩《や》す痩《や》すも 生《い》けらばあらむを はたやはた 鰻《むなぎ》を漁《と》ると 河《かは》に流《なが》るな
痩々母 生有者將在乎 波多也波多 武奈伎乎漁取跡 河尓流勿
【語釈】 ○痩す痩すも生けらばあらむを 「痩す痩すも」は、痩せに痩せてゆくも。「生けらばあらむを」は、生きていたならば、それでもよかろうのに。○はたやはた 「はた」は、「又」の感動を含んだ語。「や」は、感動の助詞。「はた」を畳んで強めたもので、それだからといってまたなどいうにあたる。
【釈】 痩せに痩せても、生きていればそれでもよかろうのに、そうかといってまた、鰻を漁るとて、河に流れることはするな。
【評】 上の歌と連作になっている。「河に流るな」が主になっていて、これは死になどするなの意で、誇張していっているもので、ここに笑いを予期している歌である。「痩す痩すも」「はたやはた」などの畳語も、同じく誇張で、その準備である。しかし全体としては、心優しく、用意が細かく、嗤笑とは縁遠いものである。流行を追って詠んではいるが、家持にはこの種の歌は詠めなかったのである。
右は、吉田|連者《むらじおゆ》といふものあり。字《あざな》を石麿と曰《い》へり。所謂|仁敬《にんきやう》の子なり。その老、人と為り、身体|甚《いた》く痩せたり。多く喫飲すれども、形|飢饉《うゑびと》に似たり。此《これ》に因りて大伴宿禰家持、聊かこの歌を作りて戯れ咲ふことを為せり。
右、有2吉田連老1。字曰2石麿1。所謂仁敬之子也。其老、爲v人身體甚痩。雖2多喫飲1形似2飢饉1。因v此大伴宿祢家持、聊作2斯歌1、以爲2戯咲1也。
【解】 「所謂仁敬の子なり」は、世にその名をいわれている所の仁敬の子であるという意であるが、その仁敬が明らかではない。『代匠記』は文徳実録、嘉祥三年の条により、吉田氏はその祖先は百済人で、吉田連宜、その子古麿は、累代侍医で、医道とともに儒道にも長けた人であることをいい、石麿はその古麿の誤りではないかといっている。誤りというのは推量であるが、吉田氏の素姓は知られる。「飢饉」は、飢えた人の意。
高宮《たかみやの》王の、数種の物を詠める歌二首
(488)【題意】 「高宮王」は、伝未詳。
3855 〓莢《かはらふぢ》に 延《は》ひおほとれる 屎葛《くそかづら》 絶《た》ゆることなく 宮仕《みやづかへ》せむ
〓莢尓 延於保登礼流 屎葛 絶事無 〓將爲
【語釈】 ○〓莢に 「〓莢」は、『本草和名』に、「〓莢、加波良布知乃岐」とあり、今のサイカチである。これは荳科の落葉喬木で、その実を薬用とする。しかるに『倭名類聚鈔』葛類に、「〓莢、加波良不知、俗云2〓結1」とあって、蛇結《じやけつ》はその名のように、幹が絡み合うところからの称で、蛇結は今はジャケツイバラと呼び、河原などに自生する、同じく荳科の落葉灌木で、藤に似た黄色の花を着けるところから、カワラフジとも称されるのである。サイカチはこれと花が似ているので、カワラフジノキと称されたのであろう。それだと〓莢は蛇結を指しているとみえる。○延ひおほとれる 「おほとれる」は、かぶさり乱れている。○屎葛 今のヘクソカズラで、茎も葉も花も悪臭を有しているところからの称。以上、葛の蔓の絶えない意で、「絶ゆることなく」の序詞。 ○絶ゆることなく宮仕せむ 「宮仕」は、原文「〓」で、仕えの意の字。いつまでも奉仕をしよう。
【釈】 河原藤の上へかぶさり乱れている屎葛のように、絶えることなくいつまでも宮仕をしよう。
【評】 「数種」の題を与えられての題詠であろう。「〓莢」「屎葛」などは少なくともその題であったろう、歌材としては特殊な物で、その意味では難題であったのを、無理なく、落ちつきある歌に詠みこなしている。歌才のある人だったのである。
3856 婆羅門《ばらもん》の 作《つく》れる小田《をだ》を 啄《は》む烏からす《》 瞼《まなぶた》腫《は》れて 幡幢《はたほこ》に居《を》り
婆羅門乃 作有流小田乎 喫烏 瞼腫而 幡幢尓居
【語釈】 ○婆羅門の 梵語で、浄行の意。インド四姓の最上級の称である。天平八年遣唐使に伴われて入朝した人で、大安寺に住んでいた菩提僊那である。東大寺大仏開眼供養の導師となり、その功により僧正に任ぜられ、荘田を賜わった。婆羅門僧正と称せられた。○作れる小田を啄む烏 作っている田の稲を啄む烏は。「小田」は、「小」は、美称。「田」は、荘田。○瞼腫れて まぶたが腫れてで、これは仏罰があたっての意。烏は本来瞼の腫れているごとく見える物であるのに、罰があたってのこととして、そこにおかしみを持たせたのである。○幡幢に居り 「幡幢」は、『倭名類聚鈔』に「宝幢諸幡蓋、訓波多保古」とある。「ほこ」は、桙で、竿であり、幡の着いた竿である。寺院の荘厳具で、法事を行なう日に寺の庭に立てた。「居り」は、とまっているで、目がちょうどに見えず、動けなくなっている意。
(489)【釈】 婆羅門僧正の作っている田の稲を啄む烏は、瞼が腫れて、寺庭の幡竿にとまっている。
【評】 どれだけが題であったかは不明だが、「婆羅門」「幡幢」「烏」は、その中にあったろう。「瞼腫れて」によって、それらを無理なく、のみならず味わいのある纏め方をしたものと思われる。「居り」とあいまって、おかしみのある、しかしあわれもある、よい意味の滑稽にしている。この種の歌としては傑出したものである。
夫《せ》の君に恋ふる歌一首
3857 飯《いひ》喫《は》めど 甘《うま》くもあらず 寝《い》ぬれども 安《やす》くもあらず 茜《あかね》さす 君《きみ》が情《こころ》し 忘《わす》れかねつも
飯喫騰 味母不在 雖行往 安久毛不有 赤根佐須 君之情志 忘可祢津藻
【語釈】 ○飯喫めど 飯を食うが。「飯」は、米を蒸した強飯。○寝ぬれども安くもあらず 寝るけれども心が安からず眠れない。「寝ぬれども」は、従来「行き往けど」と訓まれていたが、『古典大系本』補注(小島氏)による。○茜さす君が情し 「茜さす」は、赤みのまじっているで、顔色の美しさをいったもので、「君」の修飾。「し」は、強意の助詞。
【釈】 飯を食うけれども、甘くはない。寝るけれども、心が安からず眠れない。赤みのさしている顔の美しい君の情が忘れられないことだ。
【評】 作因は左注に出ていて、婢の歌である。「飯喫めど」「寝ぬれども」と、婢としての生活に即した感性のみのもので、「茜さす君」も、同じくその範囲のもので、素朴極まるものである。そしてその素朴が魅力を持ち、美を成していて、まさに庶民の歌である。七句の小長歌という形式も、短歌よりもこのほうが自然で、したがって詠みやすいからのものと思われる。特殊な歌といえる。
右の歌一首は、伝へ云ふ。佐為王《さゐのおほきみ》近習《まかたち》の婦《をみなめ》ありき。時に宿直《とのゐ》遑あらずして夫《せ》の君《きみ》に遇《あ》ひ難く感情馳せ結《むす》ぼほれ、係恋|実《まこと》に深し。ここに宿直《とのゐ》の夜、夢の裏《うち》に相見、党寤《おどろ》きて探り抱くに曾て手に觸るることなし。爾乃《すなはち》哽咽歔欷して、高声に此の歌を吟詠しき。因《かれ》王《おほきみ》之を聞きて哀慟して、永く侍宿《とのゐ》を免しき。
(490) 右歌一首、傳云、佐爲王有2近習婢1也。于v時宿直不v遑、夫君難v遇、感情馳結、係戀實深。於v是當宿之夜、夢裏相見、覺寤探抱、曾無v觸v手。尓乃哽咽歔欷、高聲吟2詠此歌1。因王聞v之哀慟、永免2侍宿1也。
【解】 「佐為王」は、橘諸兄の弟で、天平八年兄とともに臣籍に下り、橘宿禰の姓氏を賜わった人。ここはそれ以前である。「感情馳せ結ぼほれ」は、心が夫の許へ馳せ、鬱しふさいで。「係恋」は、恋慕。「曾て手に触るることなし」は、全く手に触れることがないで、夫が居ない意。
3858 此《こ》の頃《ごろ》の 吾《わ》が恋力《こひぢから》 記《しる》し集《あつ》め 功《くう》に申《まを》さば 五位《ごゐ》の冠《かがふり》
比來之 吾戀力 記集 功尓申者 五位乃冠
【語釈】 ○此の頃の吾が恋力 「恋力」は、恋のための力で、「力」は、労力をあらわす語。苦労というにあたる。○記し集め 書き並べて。○功に申さば 「功」は、当時の法令語で、功績として上申したならば。これは考課令に、官人はその行跡の功過を記録して上申することに定められていたからである。○五位の冠 奈良朝時代の位階は、令制で定められていて、一位から八位までと、その下に大初位、少初位があり、その各々に正従があり、また四位より初位までは上下もあって、すべてで三十階であった。五位以上は勅授で、重かったのである。「冠」によることは発されていたが、語だけは残っていたのである。五位に相当しようの意。
【釈】 この頃の、私の恋のための労苦を記し並べて、功績として上申したならば、五位の冠を賜わるに相当しよう。
【評】 恋のために悩んだ地位低い官人が、その苦労を顧みて、これが職務の上での苦労であったら、まさに五位に相当するものだろう、と思った心である。位階というものが絶えず心にかかっている官人としては、自然な連想といえる。しかし第三者が聞くと、公私を一つにした、ばかばかしい連想で、まさに滑稽以外のものではなくなる。よい意味の滑稽で、気の利いた歌である。勅授であった五位は、当時としては尊いもので、これは大きく計算に入れるべきである。
3859 此《こ》の頃《ごろ》の 吾《わ》が恋力《こひぢから》 給《たば》らずは 京兆《みさとづかさ》に 出《い》でて訴《うた》へむ
頃者之 吾戀力 不給者 京兆尓 出而將訴
(491)【語釈】 ○給らずは 「たばる」は、給わると同じ。賞をくださらずばで、下の続きで、賞は里長のくれるものとしていっている。里に住んでいた関係からである。○京兆に出でて訴へむ 「京兆」は、京師の意で、これは京兆尹の略である。京兆尹を「みさとづかさ」と呼んだのは、日本書紀にある訓みによって知られる。左京、右京と分かれ、左右二人の長官がいたのである。京兆尹の役所へ出てその功を訴えよう。
【釈】 この頃の、私の恋の苦労に対して、里長が賞をくださらないならば、京兆尹の役所へ出頭して、その労苦を訴えよう。
【評】 上の歌の連作で、上の歌は総括しての心、これは実行についての心である。「給らずは」は、「京兆」以下の役人を対象としてのことであるから里長で、自身里に住んでいるからの関係である。上の歌は、卒然と気分として感じたことになっているから、そこに自然性があって同感されるが、これは意識的になってのことであるから、その自然性の失われたものとなり、同感し難くなって来る。いわゆる薬の利きすぎたものである。合理を超えると滑稽が滑稽とならない。
右の歌二首
右歌二首
筑前国志賀の白水郎《あま》の歌十首
【題意】 以下、地方の歌を一類として集めたものである。「白水郎の歌」と題するものは、この続きにも二国の物があって、一小類である。この「筑前国」の物は、白水郎の特殊な事件を対象とした連作である。その事件は左注に委しいが、大略をいうと、大宰府より対馬国へ送る糧食を届けるべき任を負うている船頭が、老齢任に堪えないところから、同業の荒雄に代わりを頼むと、荒雄は応じて出かけたが、中途暴風雨に遇い、水死をした。歌は、荒雄の妻子が夫を追慕して詠んだ形のものである。しかし実は、当時筑前守であった山上憶良が詠んだという伝えのあるもので、それが事実と思われるものである。「志賀」は、今の福岡県糟屋郡志賀町の志賀島で、博多湾の口。
3860 王《おほきみ》の 遣《つかは》さなくに 情進《さかしら》に 行《ゆ》きし荒雄《あらを》ら 沖《おき》に袖《そで》振《ふ》る
王之 不遣尓 情進尓 行之荒堆良 奧尓袖振
【語釈】 ○王の遣さなくに 天皇の遣わしたことではないのに。官命ではないのにの意。○情進に行きし荒雄ら 「さかしら」は、賢しらだてを(492)する意と、心はやっての意と二義あるものと思われる。ここは心はやってである。「行きし荒雄ら」は、出て行つた荒雄がで、「ら」は、接尾語。○沖に袖振る 「袖振る」は、遠く離れている者に、わが心を送る意のしぐさで、ここは妻子に対してのことで、船が難破して、身が沈もうとする際の、最後の別れの意である。
【釈】 天皇の遣わしたことではないのに、心はやって船出した荒雄が、沖で袖を振っている。
【評】 荒雄の妻の立場に立ち、死んだ荒雄を思うと、第一に胸に浮かんで来る情景を詠んだものである。官命であれば余儀ないことだが、それではなく、さかしらに出て行ったというのは、妻としては諦め難いことで、それにしても、死のうとする直前の荒雄が、自分に対して袖を振っているというのは、いささか慰めうるに足りるとしたのである。これは荒雄の妻の胸に映った幻影であるが、その幻影は作者憶良のものなのである。官命に殉ずるのは余儀ないことだが、それ以外の義理立てで、身を危地にさらすべきではなく、自身と家族とを一体として、安らかに生を遂ぐべきだとする心が背後にあって、それによって統一づけている。それが学者としての憶良の、確信を持っての生活気分だったのである。
3861 荒雄《あらを》らを 来《こ》むか来《こ》じかと 飯《いひ》盛《も》りて 門《かと》に出《い》で立《た》ち 待《ま》てど来《き》まさぬ
荒雄良乎 將來可不來可等 飯盛而 門尓出立 雖待不來座
【語釈】 ○荒雄らを来むか来じかと 「荒雄らを」は、「ら」は、接尾語。「来むか来じかと」は、帰って来るだろうか、それとも来ないだろうかと思ってで、「来むか」を主としての言い方。○飯盛りて門に出で立ち 「飯盛りて」は、帰ればすぐに食べられるように、飯を器に盛ってで、いわゆる待ち設けである。「門に出で立ち」は、上と同じく、ひたすらに待つ意。○待てど来まさぬ 「来まさぬ」は、「来ぬ」の敬語。「ぬ」は、「か」の結。
【釈】 荒雄が帰って来るだろうか、それとも帰らぬだろうかと思って、飯を器に盛って、門に出て立って待っているけれども、帰っていらっしゃらないことだ。
【評】 荒雄の妻の心を思いやってのもので、荒雄の船が難波して死んだとは聞いたが、目に見ないこととて、あるいはという心からひたすらに待っていようと思う、その妻に代わつての心を描いているものである。「飯盛りて」という語が、ことに生きている。具象の明らかなのと、調べの張っているのとがあいまって、その心を活かしている。
3862 志賀《しか》の山《やま》 いたくな伐《き》りそ 荒雄《あらを》らが 所縁《よすが》の山《やま》と 見《み》つつ偲《しの》はむ
(493) 志賀乃山 痛勿伐 荒雄良我 余須可乃山跡 見管將偲
【語釈】 ○志賀の山いたくな伐りそ 「志賀の山」は、博多湾口にある志賀島にある山。志賀は荒雄の住地で、その山は荒雄など航海を業としている者が、海路の目標とした山である。「いたくな伐りそ」は、今、山の木を伐っている人に対して、ひどくは伐るなと頼む意。○荒雄らが所縁の山と 「所縁」は、縁故で、生前長く、海路の目標とした縁故。「と」は、と思ってで、すなわち形見として。○見つつ偲はむ 見つつ荒雄を思おう。
【釈】 志賀の山は、ひどくは木を伐らないでください。荒雄が、生前永く海路の目標とした縁故の山と思って、見つつ荒雄を思おう。
【評】 上の歌を承けて、帰らぬ荒雄を、噂のとおり死んだものと諦め、せめて志賀の山を形見として偲ぼうというのである。形見をとどめない荒雄であるから、海路と志賀島とをつなぐ目標の志賀の山は、形見として合理的なものである。「いたくな伐りそ」は、現に木を伐っているのを見て、それに刺激されて感を発した形で、技巧である。連作として、時間的展開に心してのものである。
3863 荒雄《あらを》らが 行《ゆ》きにし日《ひ》より 志賀《しか》の海人《あま》の 大浦田沼《おほうらたぬ》は 不楽《さぶ》しくもあるか
荒雄良我 去尓之日從 志賀乃安麻乃 大浦田沼者 不樂有哉
【語釈】 ○志賀の海人の大浦田沼は 志賀の海人の住んでいる大浦田沼の地は、と取れる。「大浦田沼」につき、『九州万葉手記』は、志賀町|勝馬《かつま》字大浦付近であろうといい、『総釈』で高木市之助氏はその地を実地踏査をし、そこは海岸からはやや遠く、山と山との間の狭い地で、(494)田は泥が深く、耕耘のための牛が悩むほどの農耕地で、海人の往地としてはいかがであると疑っている。住地の山寄りであることは、海人としても地勢が許せば格別のことではなく、また海人が一方農耕をしたことも、時代的に見てこれまた格別のことではないように思われる。○不楽しくもあるか 「不楽し」は、さみしいこと。「か」は、感動の助詞。
【釈】 荒雄らが海へ出て行ってしまった日から、海人の住地の大浦田沼は、さみしいことであるよ。
【評】 荒雄の居なくなった居村全体の寂しさをいったもので、このさみしさは悲款のためである。以上四首の連作で、荒雄に対する挽歌は、一応心を尽くしたものとなっている。
3864 官《つかさ》こそ さしても遣《や》らめ 情出《さかしら》に 行《ゆ》きし荒雄《あらを》ら 波《なみ》に袖《そで》振《ふ》る
官許曾 指弖毛遣米 情出尓 行之荒雄良 波尓袖振
【語釈】 ○官こそさしても遣らめ 「官」は、官職、役所をいう語で、ここは役所で、大宰府。「さして」は、指名して。「遣らめ」は、遣わしもしようで、官命とあれば格別の意。
【釈】 役所こそ指名してやりもしよう。我と進んで出て行った荒雄が、波の上で袖を振っている。
【評】 第一首と心は全く同じで、語をやや狭く限り、「王」を「官」、「沖」を「波」に変えるなどが主になっている程度である。この前の歌までで一応心を尽くしたのであるが、それだけではまだ尽くしきれないとして、細かい心を言い続けたのである。語を狭くしたのはその心からである。生命に対しての執着が強く、家族愛の深い憶良としては、自然なことといえる。抒情を旨としているものであるから、改めての繰り返しは怪しむに足りないことである。
3865 荒雄《あらを》らは 妻子《めこ》の産業《なり》をば 思《おも》はずろ 年《とし》の八歳《やとせ》を 待《ま》てど来《き》まさず
荒雄良者 妻子之産業乎波 不念呂 年之八歳乎 待騰來不座
【語釈】 ○妻子の産業をば 「妻子」は、用例とすると「女子」で、「女」は、妻にも娘にもいう広い意のもので、「子」は、愛称である。妻と子の意のものは見えない。ここは荒雄の妻が自身をいっているものであるから、妻と子の意でなくてはならない。それだと、漢語の妻子《さいし》を言いかえたもので、新しい語とすべきである。心としては、妻ということを広くいったもの。「産業」は、農業の意でいっていると取れる。○思はずろ 「ろ」(495)は、詠歎の助詞か。こうした続きのものは見えない。思わないの意。○年の八歳を待てど来まさず 「年の八歳」は、何年もで、永い間の意の慣用句。「来まさず」は、「来ず」の敬語で、故人の霊に対しての言だからである。
【釈】 荒雄は、妻子の産業のことは思っていない。何年もの間を待っているが、帰っていらっしゃらない。
【評】 農繁期に、夫の協力がなくてはできない労働をしている妻の、夫の無情を恨んでいっている形の歌である。怨むのは思うからのことで、思慕を反語的に恨みの形にしているのである。しかしこの歌は、妻自身を主に立てての心で、妻の歌というよりは、第三者の歌ということをあらわに見せているものである。挽歌としては例のあるものであるが、妻自身の歌としてはやや異例である。作者の心の現われである。
3866 沖《おき》つ鳥《とり》 鴨《かも》といふ船《ふね》の 還《かへ》り来《こ》ば 也良《やら》の埼守《さきもり》 早《はや》く告《つ》げこそ
奧鳥 鴨云船之 還來者 也良乃埼守 早告詐曾
【語釈】 沖つ鳥鴨といふ船の 「沖つ鳥」は、沖に住む鳥で、「鴨」の枕詞。用例の多いもの。「鴨といふ船」は、鴨という名を持った船で、荒雄らの船の名である。船を祝ってつけた名で、やや大きな船はすべて名のあったことは他の例で知られる。○也良の埼守 「也良の埼」は、博多湾内の残島の北端の岬角で、志賀島と相対している。「埼守」は、埼を守っている人で、広く監視、防備をする職。呼びかけ。○早く告げこそ 急いで知らせてくれよで、「こそ」は、願望の助詞。
【釈】 鴨という名の船が、ここの海へ還って来たならば、第一に知りうる也良の埼守よ、急いで我に知らせてくれよ。
【評】 妻子としての心で、自分の周囲の土地や事柄から離れて、初めて海上へと及ぼしたものである。心理の自然があり、連作としての構成から見て、行き届いていることを思わせるものである。
3867 沖《おき》つ鳥《とり》 鴨《かも》といふ船《ふね》は 也良《やら》の埼《さき》 廻《た》みて漕《こ》ぎ来《く》と 聞《き》こえ来《こ》ぬかも
奧鳥 鴨云舟者 也良乃埼 多未弖傍來跡 所聞許奴可聞
【語釈】 ○也良の埼廻みて漕ぎ来と 「廻みて」は、也良の埼をめぐって。志賀島へ船を着けるには、まず第一に、それと相対している残島へ着けるのが順路で、また陸地があると、安全を期する上から、それに添えるだけ添うのが漕法だったのである。○聞こえ来ぬかも 「聞こえ」の原文(496)は尼崎本による。「来ぬかも」は、来ないのかなあで、来てくれよの意。
【釈】 沖の鳥の鴨という船が、也良の埼をめくって漕いで来るということが聞こえて来ないのかなあ。
【評】 上の歌に緊密に接しさせたもので、「早く告げこそ」と頼み、さらにその知らせがあってくれぬかなあと、頼みをかけている心である。自然な連続である。
3868 沖《おき》行《ゆ》くや 赤《あか》ら小船《をぶね》に 裹《つと》遣《や》らば 若《けだ》し人《ひと》見《み》て 披《ひら》き見《み》むかも
奧去哉 赤羅小船尓 裹遣者 若人見而 解披見鴨
【語釈】 ○沖行くや赤ら小船に 「沖行くや」は、「や」は、感動の助詞で、沖のほうへ漕ぎ出て行く。「赤ら小船」は、「赤ら」は、赤を他語に接続させて熟語とする時の言い方。「小」は、美称で、赤く塗った船。これは官船で、したがって大きく、印象的な船だったのである。○裹遣らば 「裏」は、苞《つと》に包んだ物で、ここは食料である。「遣らば」は、託してやったならば。○若し人見て披き見むかも 「若し」は、推量する意の副詞で、ひょっとすれば。「人見て」は、「人」は、ここは荒雄の意のもので、荒雄が見て。「披き見むかも」は、『考』の訓。苞をあけて見ようかで、妻としての空想である。
【釈】 沖を漕いでゆく、あの赤く塗った大船に、食料の包みを託してやったならば、ひょっとして夫がそれを見て、包みを解いて見るであろうか。
【評】 荒雄の妻が、沖を行く赤く大きい官船を見かけた時に、ふと抱いた空想である。ああした船は安全に、どこへでも行かれることと思うと、ああした船に食料を託してやったら、ひょっとして、夫の手に届き、開いて見るようなこともあろうかと(497)思ったのである。生きていなかろうかと思うについで、飢えていなかろうかと思うという、庶民として、また妻としての感性を直截にいったもので、空想ではあるが実感である。さすがに「人」という漠然とした言い方はしている。あわれの深い歌である。
3869 大船《おほふね》に 小船《をぶね》引《ひ》き副《そ》へ 潜《かづ》くとも 志賀《しか》の荒雄《あらを》に 潜《かづ》き遇《あ》はめやも
大舶尓 小船引副 可豆久登毛 志賀乃荒雄尓 潜將相八方
【語釈】 ○大船に小船引き副へ 大きな船に、小さな船を添えて。大きな船はどこまでも行ける物。小さい船は多人数の意。隈なく、多勢での意。○潜くとも 水中に入って捜索しようとも。○志賀の荒雄に 改まって客観的にいったもの。○潜き遇はめやも 捜索し当てることがあろうか、ありはしない。「や」は、反語。
【釈】 遠く行ける大船に、大勢の人の乗った小船を引き添えて、海底を捜そうとも、今は志賀の荒雄を捜し当てて、逢うことがあろうか、ありはしない。
【評】 荒雄の妻の、「沖に袖振る」の悲歎にはじまり、十首の大連作をなしたその最後のもので、結局、強くその死を認めた心のものである。死の噂を聞いた妻の、目に見ぬ噂話とて、死を思いつつも時に生を思い、嘆きつ惑いつする心情の起伏が、感の軽重に従い、時の推移を追って、実感に即しつつも展開している、抒情的叙事詩である。本来は長歌形式のものであるが、短歌形式を選んでいるために、かえって陰影の多い、味わい繞《ゆた》かなものとなっている。対象は荒雄であるが、重点を妻に置いて叙しているのは、憶良の家庭愛の深さのさせることで、妻の悲歎を活かすには短歌形式のほうが適当だとしてのことであろう。この大連作が、荒雄の妻の作でないことも、また志賀島の謡い物でもなかったことはもちろんのことで、左注にあるように憶良の作である。のみならず、彼の作としても、短歌形式のものの中では優秀なものである。
右は、神亀年中を以ちて、大宰府、筑前国|完像《むなかた》郡の百姓《おほみたから》宗形部津麿《むなかたべのつまろ》を差《さ》して、対馬に粮《かて》を送る船の〓師《かぢとり》に充《あ》てき。時に津麿|滓屋《かすや》郡志賀村の白水郎《あま》荒雄の許《もと》に詣《いた》りて語りて曰はく、僕《われ》小事《いささけごと》あり。若《も》し疑はくは許さじかといふ。荒雄答へて曰はく、走《やつがれ》郡を異にすといへども船を同《とも》にすること日久し。志|兄弟《はらから》よりも篤し、死に殉《したが》ふにあり。豈復た辞《いな》まめやといふ。津麿曰はく、府官《つかさ》僕(498)を差して対馬に粮を送る船の〓師《かぢとり》に充てしも、容歯衰へ老いて海路に堪へず。故《かれ》来て祗候す、願はくは相替ることを垂れよといふ。ここに荒雄許し諸《うべな》ひて遂に彼《そ》の事に従ひ、肥前国松浦|県《あがた》美禰良久《みねらく》の埼より発船《ふなだち》して、直《ただ》に対馬を射《さ》して海を渡る。登時《そのとき》忽にち天|暗冥《くら》くして暴風に雨を交へ、竟に順風無くして海中に沈み没《い》りき。これに因りて妻子等|犢《うしのこ》の慕《したひお》に勝《あ》へず、此の歌を裁《つく》り作《な》しき。或は云はく、筑前国守山上憶良臣、妻子の傷《いたみ》を悲感し、志を述べて此の歌を作れりといへり。
右、以2神龜年中1、大宰府、差2筑前國宗像郡之百姓宗形部津麿1、充2對馬送v粮舶〓師1也。于v時津麿詣2於滓屋郡志賀村白水郎荒雄之許1語曰、僕有2小事1、若疑不v許歟。荒雄答曰、走雖v異v郡、同v船日久。志篤2兄弟1、在2於殉1v死。豈復辞哉。津麿曰、府官差v僕充2對馬送v粮舶〓師1、客齒衰老、不v堪2海路1。故來〓候。願垂2相替1矣。於v是荒雄許諾、途從2彼事1、自2肥前國松浦縣美祢良久埼1發舶、直射2對馬1渡v海。登時忽天暗冥、暴風交v雨、竟無2順風1、沈2没海中1焉。因v斯妻子等不v勝2犢慕1、裁2作此歌1。或云、筑前國守山上憶良臣、悲2感妻子之傷1、述v志而作2此歌1。
【解】 「宗形部津麿」は、「宗形部」は、地名。「差して」は、大宰府が指定して。「対馬に粮を」は、『延喜主税式』上に、「凡筑前筑後肥前肥後豊前豊後等国、毎年穀二千石、漕2送対馬島1、以充2島司及防人等粮1」とあり、また同『雑式』に「凡運2漕対馬島粮1者、毎v国作v番以運送」とあって、ここは筑前国がその番にあたってのことである。「〓師」は、船の舵を取る者の称であるが、ここは船長である。「走」は、僕に同じ。「府官」は、つかさで、大宰府。「美禰良久の埼」は、長埼県南松浦郡五島列島の福江島の西北で、今の三井楽町の柏崎。大陸へ渡る船の碇泊地で、ここから渡航するのであった。「犢の慕」は、牛の子が親牛を甚しくも慕うことで、盲目的な愛の譬喩。「或は云はく」は、作者の別伝の形でいっているもの。この文全部が憶良の作で、この連作の序詞として書いたものとみえる。
3870 紫《むらさき》の 粉滷《こがた》の海《うみ》に 潜《かづ》く鳥《とり》 珠《たま》潜《かづ》き出《い》でば 吾《わ》が玉《たま》にせむ
(499) 紫乃 粉滷乃海尓 潜鳥 珠潜出者 吾玉尓將爲
【語釈】 ○紫の粉滷の海に 「紫の」は、濃《こ》の意で「粉」にかかる枕詞。「粉滷の海」は、巻十二(三一六六)「越の海の子難《こかた》の海の島ならなくに」とあるので、越の海の一部の称ではないかとされている。○潜く鳥 食餌を獲るために海水にくぐっている鳥。○珠潜き出でば吾が玉にせむ 海中にある珠を咬え出したならば、わが玉としよう。
【釈】 紫の濃いに因みある粉滷の海で水にくぐっている鳥が、海中にある珠を咬え出したならば、わが玉としよう。
【評】 以下、地方歌を一類としたものである。地方歌の常として、特別の事情の伴った雑歌を除くと相聞であって、その上からはこの歌も相聞の譬喩歌とみえる。それだと「玉」は女、「潜く鳥」は仲介者で、若い男の歌であるが、それとするとあまりにも持って廻ったもので、妥当とはいえない。全体が想像であり、美しさを覗っているもので、奈良朝の官人の気分本位の歌風に近いものである。奈良朝官人の旅の歌で、「紛滷の海」という地名によって、地方歌に加えられたものかと思われる。
右の歌一首
右歌一首
3871 角島《つのしま》の 迫門《せと》の稚海藻《わかめ》は 人《ひと》の共《むた》 荒《あら》かりしかど 吾《わ》が共《むた》は和海藻《にきめ》
角嶋之 迫門乃稚海藻者 人之共 荒有之可杼 吾共者和海藻
【語釈】 ○角島の迫門の稚海藻は 「角島」は、山口県豊浦郡|牡牛《ことい》浦の西北、日本海の中にある島。豊北《ほうほく》町に属す。「迫門」は、海峡で、角島と本州との間の海士《あま》が瀬戸と呼ばれる海峡。「稚海藻」は、今の若海布《わかめ》。若い女の譬喩としての物。若女《わかめ》と音の上でのつながりもある。○人の共 人とともにはで、人は「吾」に対させてのもので、他の人のためにはの意。○荒かりしかど 荒かったけれどもで、これは食べての舌ざわりの硬いことに、態度の手ごわいのを譬えたもの。○吾が共は和海藻 「吾が共は」は、わがためには。「和海藻」は、稚海藻の類で、細く柔らかな海藻で、「和」は、「荒かりし」に対させたもので、舌ざわりの柔らかさに、女としてすなおに靡く意を譬えたもの。下に詠歎がある。
【釈】 角島の海峡の若海布は、他の男のためには荒かったけれども、わがためには、和海布であるよ。
【評】 角島に住んでいる男の、土地の若い女を得ようとして他の男と競争をし、わが者となし得たのを喜んでの心である。海藻の譬喩は、男も女も、それを採って食用としている関係からのもので、そのために面白い歌として謡われていたものと思わ(500)れる。この土地に即しての譬喩の特殊さが由縁ありとされたのであろう。
右の歌一首
右歌一首
3872 吾《わ》が門《かど》の 榎《え》の実《み》もり喫《は》む 百千鳥《ももちどり》 千鳥《ちどり》は来《く》れど 君《きみ》ぞ来《き》まさぬ
吾門之 榎實毛利喫 百千烏 々々者雖來 君曾不來座
【語釈】 ○吾が門の榎の実もり喫む 「榎」は、今の榎の木。「実」は、秋、紅褐色に熟する球状の実で、小鳥が好んで啄む。「もり」は、「もぎ」の意で、今も方言に残っている。○百千鳥 百千の鳥で、多くの鳥ということを具象的にいったもの。○千鳥は来れど君ぞ来まさぬ 「千鳥」は、上の繰り返し。「君」は、女より夫を指したもの。「来まさぬ」は、「来ぬ」の敬語。「ぬ」は、「ぞ」の結で、詠歎してのもの。
【釈】 わが門の榎の木の実を、もいでたべている百千の鳥、百千の鳥はあのように来るけれども、君は来たまわぬことよ。
【評】 秋の日女が、門の榎の木に来て、もいでたべている多くの小鳥に刺激されて、夫の足遠くしているのを嘆いた心で、普通の歌で、民謡としてはすぐれた物という以外に、特異なところはない歌である。また、地名とてもない。何ゆえにこれを「由縁」ある歌にしたかを訝からしめるものである。多分「榎の実もり喫む」が京では珍しいことであったためであろう。全体の調べが明るい上に、四句の繰り返しは、民謡的である。
3873 吾《わ》が門《かど》に 千鳥《ちどり》数《しば》鳴《な》く 起《お》きよ起《お》きよ 吾《わ》が一夜《ひとよ》づま 人《ひと》に知《し》らゆな
吾門尓 千鳥數鳴 起余々々 我一夜妻 人尓所知名
【語釈】 ○吾が門に千鳥数鳴く 「千鳥」は、上と同じく多くの鳥。「数鳴く」は、しきりに鳴くで、夜明けの状態。小鳥は朝の目覚めが早く、また朝が最も活動する時である。○起きよ起きよ 女がその男にいう語で、繰り返しは、男は眠っていて覚めないので、せき込んでのことである。○吾が一夜づま 「つま」は、夫妻に通じての称で、いずれとも定められないが、こうした共寝をしている場合は、男が女の許へ通ってのことと見るのが普通であるから、ここも、妻より夫に対しての称と取れる。「一夜づま」は、旅中の男が遊行婦などにいうとすればとおるが、それもおそらくはいわないであろう。ここは初めて一夜を共寝した夫の意でいったとするほかはない称である。○人に知らゆな 他人にこの関係を知られる(501)なと、警戒していっているもので人の目覚めないうちに帰れよの心よりのもの。
【釈】 わが門に多くの小鳥がしきりに鳴いている。起きなさい、起きなさい。私の一夜を共寝をした夫よ。この関係を人に知られないようになさい。
【評】 一首、女が男に呼びかけていっている形のものである。いわゆる後朝《きぬぎぬ》の歌であるが、別れを惜しむという感傷がなく、夫婦関係を重んじる心より、秘密を守ろうとしてのもので、その実際的に、率直なところは、民謡にふさわしく、具象化があざやかである。最もすぐれている点は、調子の明るく、さわやかなところで、民謡としては典型的なものである。この歌は上の歌よりもさらに、何ゆえに「由縁」ありとするのかを訝からしめるものである。後朝の歌として、京の物とは甚しく異なっている物としてであろうか。
右の歌二首
右歌二首
3874 所射鹿《いゆしし》を つなぐ河辺《かはべ》の 和草《にこぐさ》の 身《み》の若《わか》かへに さ宿《ね》し児《こ》らはも
所射鹿乎 認河邊之 和草 身若可倍尓 佐宿之兄等波母
【語釈】 ○所射鹿をつなぐ河辺の和草の 以上の訓は、類歌として日本書紀、斎明紀に、皇孫建王の薨去を悲しまれての御製、「いゆししをつなぐ 河辺の若草の若くありきとあが念はなくに」とあるのによったものである。「射ゆししを」は、矢で射られた鹿猪をで、「射ゆ」は、終止形から名詞につづく古格。「つなぐ」は、猟師の間の特有語で、傷ついた鹿猪は甚しい渇きを覚え、必ずその近くの河へ行って水を飲み、そこで斃れるものなので、その要領で目当てをつけて確かめに行くの意の語。「和草の」は、柔らかい草ので、確かめに行く野の状態。猟は冬から春にかけてするので、ここは早春。以上、次の「若かへ」にかかる序詞。○身の若かへに 「若かへ」は、他に用例のない語で、若い頃の意だろうとされている。わが身の若かった頃に。○さ宿し子らはも 「さ宿」の「さ」は、接頭語。「子ら」の「ら」は、接尾語。共寝をした女はなあ。
【釈】 射られた鹿猪の斃れ場所を確かめにゆく川辺の若草に因みある、わが身の若かった頃に共寝したあの女は、なあ。
【評】 年老いて、若かった頃に関係した女を思い出してなつかしむ心で、一般性のあるものである。序詞に特色がある。この序詞は、類歌もあるもので、当時にあっては珍しいものではなかったとみえる。狩猟は貴族の代表的な娯楽になっていて、猟師に限ってのものではなかったからである。一首、狩猟をしていての思い出という構成を持っているが、猟師間の謡い物とは(502)思えないものである。序詞の特殊さによって「由縁ある歌」とされたのであろう。
右の歌一首
右歌一首
3875 琴酒《ことさけ》を 押垂小野《おしたりをの》ゆ 出《い》づる水《みづ》 ぬるくは出《い》でず 寒水《さむみづ》の 心《こころ》もけやに 念《おも》ほゆる 音《おと》の 少《すくな》き 道《みち》に逢《あ》はぬかも 少《すくな》きよ 道《みち》に逢《あ》はさば いろげせる 菅笠小笠《すげがさをがさ》 わが頸《うな》げる 珠《たま》の七条《ななを》と 取《と》り替《か》へも 申《まを》さむものを 少《すくな》き 道《みち》に逢《あ》はぬかも
琴酒乎 押垂小野從 出流水 奴流久波不出 寒水之 心毛計夜尓 所念 音之少寸 道尓相奴鴨 少寸四 道尓相佐婆 伊呂雅世流 菅笠小笠 吾宇奈雅流 珠乃七條 取替毛 將申物乎 少寸 道尓相奴鴨
【語釈】 ○琴酒を押垂小野ゆ 「琴酒を」は、琴を押し(弾く意)、酒を垂らす意で、「押垂」にかかる枕詞と取れる。「押垂小野ゆ」は、「小」は、美称で、地名と取れるが、所在は不明である。「ゆ」は、そこを通ってで、よりにあたる。○出づる水ぬるくは出でず 「出づる水」は、湧き出す水。「ぬるく」は、現在のなまぬるいと同じで、冷たくない意。○寒水の心もけやに 「寒水」は、訓がさまざまである。『代匠記』初稿本の訓である。『新考』は「倭姫命世紀」の、「其河水寒有支、則寒河止号支」を引いて、この訓を支持している。冷たい水の意。「心もけやに」は、「けや」は、形容詞「けやけし」の語幹に「に」の助詞の添ったもので、はっきりとの意。飲むと心もはっきりと。○念ほゆる 思われる水音のとつづいて、その「音」を人の音に転じたもので、「念ほゆる」までの七句は序詞である。○音の少き道に逢はぬかも 人音の少ない、すなわち人目のない、こうした道で行き逢えないのかなあで、「ぬか」は、願望をあらわす。以上、第一段で、押垂野を歩いている男が、そこの水音から人の音を連想し、それのないこうした野で、逢い難くしている女に逢いたいと思った意。○少きよ道に逢はさば 「少きよ」は、上を承けて人の音の少ないことよで、「よ」は、感動の助詞。「逢はさば」は、逢わばの敬語で、女性に対しての慣用。○いろげせる菅笠小笠 「いろげせる」は、「いろ」は、「いろせ」「いろと」と、熟しているそれで、相手に対しての愛称。「げせる」は、「けせる」の連濁で、「けせる」は、「着る」の敬語。「け」は、「き」の古語で、用例の多いもの。古くは笠を着るというのが普通であった。あの人のかぶっていらっしゃるで、下の「わが頸げる」に対させたもの。「菅笠小笠」は、「小」は、美称で、菅の笠。重んじる意で語を畳んだもの。○わが頸げる珠の七条と 「わが頸げる」は、自分の頸に掛けている。「珠の七条」は、珠の緒に貫いた物の七筋。男性が襟に珠の緒を掛けることは、溯っての代のことで、下ってはしなかったようである。(503)「七粂」はもちろん誇張で、わが身に着けている最も尊い物の意でいったもの。○取り替へも申さむものを 「申さむ」は、「せむ」の敬語。身に着ているものを取り替えるのは、形見の品を交換することで、互いに相手の霊を身に添わせる、最も親愛をあらわす方法。○少き道に逢はぬかも 第一段の結の繰り返し。
【釈】 琴を押し、酒を垂れる、その押垂野から湧き出す水は、生ぬるくは湧き出さず、冷たい水で、飲むと心もはっきりするように思われる水音に因みある、人の音の少ないこうした道で、行き逢えないだろうかなあ。人の音の少ないことよ、こうした道でお逢いしたら、あの人がかぶっていらっしゃる菅の笠と、私の襟に掛けている玉の緒の七筋とを、お取り替えもしようものを。人の音の少ないこうした道でお逢いできないのかなあ。
【評】 男が押垂野を歩いていて、その野から湧く冷たい水を飲み、その水音からの連想で、人の音の少ないことを思い、こうした道で、あの女に逢えないのかなあ、逢いたいものだと、相思の仲ではあるが逢いがたくしている女を思った心である。もし行き逢えたら、あの女の菅笠と、私の最も大切にしている玉の緒とを、形見として取り替えように。逢えないのかなあ、と繰り返し思った心である。語は複雑であるが、内容はきわめ単純で、語読きの興味を旨とした謡い物系統のものである。しかし作者は、その土地の人々が作ったというようなものではなく、ある知識人の詠んだものである。「道に逢はぬかも」という漠然とした空想を中心とし、心理的に、ゆるやかに展開させてゆく詠み方は、知識人以外にはできないものだからである。気分本位の詠み方をしている点から見て、奈良朝時代の作と思われる。
右の歌一首
右歌一首
豊前国の白水郎《あま》の歌一首
3876 豊国《とよくに》の 企玖《き く》の池《いけ》なる 菱《ひし》の末《うれ》を 採《つ》むとや妹《いも》が み袖《そで》ぬれけむ
豊国 企玖乃池奈流 菱之宇礼乎 採跡也妹之 御袖所沾計武
【釈語】 ○豊国の企玖の池なる 「豊国」は、文武天皇の代に豊国を豊前豊後に分けられた。「企玖の池」は豊前国企救郡(現、北九州市小倉区)にある池であるが、それ以上は不明。○菱の末を 「菱」は、一年生の水草で、池、沼、河などに自生する。夏、花を開き、菱形の固い実を結ぶ。(504)その実が食料となり、古くから愛用されていた。「末」は、蔓の伸びた先端で、ここは実の意でいっているもの。○採むとや妹がみ袖ぬれけむ 「や」は、疑問の係。「み袖」の「み」は、美称。女性に対しての慣用。
【釈】 豊前の国の企敦の池にある菱の実を摘もうとて、妹の袖は濡れたのであろうか。
【評】 妻が菱の実を持ち、袖を濡らして帰って来たのを見て、夫がいたわりの心から詠んだ歌である。類歌のすくないもので、謡い物として行なわれ得るものであるが、白水郎の生活から生まれた歌とは見えないものである。京の旅行者の歌であろう。
豊後国の白水郎の歌一首
あめ
3877 紅《くれなゐ》に 染《し》めてし衣《ころも》 雨《》零《ふ》りて にほひはすとも 移《うつ》ろはめやも
紅尓 染而之衣 雨零而 尓保比波雖爲 移波米也毛
【語釈】 ○紅に染めてし衣 紅花をもって染めたわが衣。「て」は、完了で、強める意で用いたもので、女が男に対する心の深い譬喩。○雨零りてにほひはすとも 「にほふ」は、色の美しく映える意で、雨が降って、濡れることによって色が美しく映えようともで、「雨零りて」は、二人の間に妨げが起こることの譬喩。○移ろはめやも 「移ろふ」は、色の褪せること。「や」は、反語で、色が褪せようか褪せはしないで、心の変わらない譬喩。
【釈】 紅花をもって染めたわが衣は、雨が降って濡れることによって美しく色が映えようとも、色の褪せることがあろうか、ありはしない。
【評】 女が男に真実を誓った歌である。一首全体が隠喩になっているが、衣服は、全部女の手業で拵えたので、譬喩とはいっても直叙と異ならないほど直接なものだったのである。美しい歌で、これも上の歌と同じく白水郎のものではなく、京の人の作であろう。
能登国の歌三首
【題意】 「能登国」は、養老二年五月、越前国の羽咋、能登、鳳至、珠洲の四郡を割いて、初めて置いた国で、後、天平十三年十二月、越中国にあわせ、さらに天平勝宝九年五月、また一国とした国である。今の場合その前後は知れないが、歌はその国に行(505)なわれていた民謡である。
3878 梯立《はしたて》の 熊来《くまき》のやらに 新羅斧《しらぎをの》墜《おと》し入《い》れ わし 懸《か》けて懸《か》けて 勿《な》泣《な》かしそね 浮《う》き出《い》づるやと見《み》む わし
〓楯 熊來乃夜良尓 新羅斧墮入 和之 河毛〓河毛〓 勿鳴爲曾祢 浮出流夜登將見 和之
【語釈】 ○梯立の熊束のやらに 「梯立」は、梯子を立てる意。上代の倉は床が高く、梯子によって出入りしたので、倉にかかる枕詞となっているが、ここは転じて「く」の一音にかかっている。「熊来」は、石川県鹿島郡熊木村で、今の中島町一帯の地。近年「熊木」の名を失った。ここは七尾湾の西部の奥地である。「やら」は、水底に泥のある所の称という。七尾湾の泥海となっている所であろう。○新羅斧墜し入れわし 「新羅斧」は、新羅風にならっての物と取れるが、それ以上はわからぬ。とにかくよい斧とみえる。「墜し入れ」は、過って墜して沈ませて。「わし」は、調子のための囃子詞。○懸けて懸けて 心にかけて、心にかけてで、斧が惜しくてたまらぬ意。○勿泣かしそね 「泣かし」は、「泣き」の敬語。「ね」は、願望の助詞で、お泣きにならないでください。○浮き出づるやと見むわし 浮かび出すかと見ていよう。「わし」は、上と同じ。
【釈】 梯立の熊木のやらに新羅斧を過って墜し入れて。心にかけて、心にかけて、お泣きにならないで下さい。浮かび出すかも知れぬと思って見よう。
【評】 作歌事情は左注にある。斧を泥海に落して泣いている人に対して、揶揄の心をもっている慰めの語である。「勿泣かしそね」と、敬語を使い、頼む態度でいっているのも、「浮き出づるやと見む」と、一緒になって水面を眺めようといっているのも、皆揶揄の心である。形は旋頭歌である。しかし短長長の形にしているだけで、必ずしも五七音を守ろうとしていないのは、短歌以前の謡い物の形にしようとしたものである。この歌は、形は古風であるが、心はむしろ新しい物にみえる。それは真正の古風の歌には、斧を泥海に落して諦めかねている者に対し、それを愚かと見、愚かさを滑稽と見、しかも嗤いをこらえて、丁寧な語をもって揶揄するというような、人の悪い、屈折を持った歌はなかったろうと思われる。また、たといあったにもせよ、それが民謡として謡い続けられていたとは想像できない。多分、奈良朝時代に入っての好事の人の、軽い興味より仮構しての心であろう。
右の歌一首は、伝へ云ふ。ある愚人、斧を海底に墜して、しかも鉄《かね》の沈《しづ》みて水に浮ぶ理なきことを解《さと》らざりしかば、聊か此の歌を作りて、口吟《くちずさ》みて喩すことを為しき。
(506) 右歌一首、傳云。或有2愚人1、斧墮2海底1、而不v解2鐵沈無1v理v浮v水、聯作2此歌1、口吟爲v喩也。
3879 梯立《はしたて》の 熊来酒屋《くまきさかや》に 真罵《まぬ》らる奴《やつこ》 わし 誘《さす》ひ立《た》て 率《ゐ》て来《き》なましを 真罵《まぬ》らる奴《やつこ》 わし
〓楯 熊來酒屋尓 眞奴良留奴 和之 佐須比立 率而來奈麻之乎 眞奴良留奴 和之
【語釈】 ○熊来酒屋に 熊来にある酒屋にて。「酒屋」につき『新考』は、酒屋はやがて酒殿で、神に奉りなどする官用の酒を造る所で、播磨風土記にも、「是時造2酒殿1之処即号2酒屋村1」とあるを引いている。酒は本来はもっぱら神に奉る物であったが、次第に一般の享楽用の物ともなり、奈良京の歌には、その意のものが多くなっている。○真罵らる奴 「真」は、接頭語で、十分の意を持っている。名詞に接している例は多いが、ここのごとく動詞に接している例は、ここが初めてである。「罵《ぬ》らる」は、罵《の》らるで、ひどく罵られている。「奴」は、奴隷の意のものであろう。○誘ひ立て率て来なましを 「さすひ」は、「さそひ」の地方語と取れる。「立て」は、接尾語。「率て来なまし」は、連れてくればよかったものをで、憐れんでの意。
【釈】 梯立の熊来の酒屋で、ひどく罵られている奴。誘い立てて、連れてくればよかったものを。ひどく罵られている奴。
【評】 熊来の酒屋で、主人からひどく罵られている奴を見、憐れには思ったが、そのままに帰って来て、後から思い出して、連れて来ればよかったと悔いている心である。同情する心はあるが、実行する気力を持っていない心である。当時にあっては官人以外にはこうした心の人はなかったろう。酒屋を『新考』の解するごとく公の酒殿とすれば、「率て来なましを」と思いうる者は明らかに官人である。この歌も旋頭歌である。字音の整っているのは、事が単純で、抒情的のものだからで、詠み口が酷似している。上の歌と同一作者であろう。上の歌よりは対象に一般性があるが、しかし広く謡い物とされるような性質のものではない。
右一首
3880 加島嶺《かしまね》の 机の島《つくゑしま》の 小螺《しただみ》を い拾《ひり》ひ持《も》ち来《き》て 石《いし》以《も》ち 啄《つつ》やぶり 早川《はやかは》に 洗《あら》ひ濯《そそ》ぎ 辛塩《からしほ》に こごと揉《も》み 高抔《たかつき》に盛《も》り 机《つくゑ》に立《た》てて 母《はは》に奉《まつ》りつや めづ児《こ》の刀自《とじ》 父《ちち》に献《まつ》り(507)つや みめ児《こ》の刀自《とじ》
所聞多祢乃 机之嶋能 小螺乎 伊拾持來而 石以 都追伎破夫利 早川尓 洗濯 辛塩尓 古胡登毛美 高抔尓盛 机尓立而 母尓奉都也 目豆兒乃刀自 父尓獻都也 身女兒乃〓
【語釈】 ○加島嶺の 旧訓「そもたね」。『考』は「所聞多」は「かしまし」の義であるとして「かしま」と改めた。「加島嶺」は、加島にある山で、加島は、七尾市の付近の称で、古来の要津である。その東方の山であろう。これは下の「机の島」の所在地としていったものである。○机の島の 今、和倉温泉の海上にある小島だという。それだと加島嶺との関係が疎きにすぎる。七尾港外の雌島雄島ともいい、また一説には、能登湾内にある能登島だというが、そのほうが関係が深くなる。○小螺をい拾ひ持ち来て 「小螺」は、細螺とも書く。『全釈』で鴻巣盛広氏は実地を調べ、今もこの辺りでは「しただみ」と呼んでいる。一般には腰高雁空《こしだかがんから》と呼ぶ貝で、大きさは普通の「きしゃご」の二倍より三、四倍ほどあり、また「きしゃご」は海中の砂泥の中に棲むが、これは巌石に付着していて、味は栄螺《さぎえ》に似ているという。「い拾ひ」の「い」は、接頭語。「ひりひ」は、「ひろひ」の古語。○石以ち啄やぶり 石をもって貝殻を叩き破り。○早川に洗ひ濯ぎ 「早川」は、水勢の早い川で、そうした川は水が清い意でいったもの。「洗ひ濯ぎ」は、貝の身を清め。○辛塩にこごと揉み 「辛塩に」は、塩で。「こごと揉み」は、こごと音を立てさせて塩揉みにし。○高杯に盛り机に立てて 「高抔」は、足の高い土器。「机」は、食膳。○母に奉りつや 「奉り」は、差上げる。「つ」は、完了の助動詞。「や」は、疑問の助詞。○めづ児の刀自 「めづ児」は、「愛づ児」で、「愛すべき児」で、女の愛称。「刀自」は、家事を掌る女に対しての敬称。呼びかけ。○父に献りつやみめ児の刀自 「みめ児」は、『古義』の訓。「み」は、「真《ま》」の転音。他に用例の見えない語である。類語として、巻十四(三五〇二)「吾が目妻」があり、見る目の愛すべき妻の意である。それに「み」の美称の添った語で、女の愛称と取れる。
【釈】 加島嶺の辺りの机の島の小螺を、拾い取り持って来て、石をもって叩いてその殻を叩き破り、水勢の早い川で洗い濯いで清め、塩で、ここと音を立てて揉んで、高杯に盛り、食膳の上に立てて、母に差上げたか、かわゆい刀自よ。父に差上げたか、美しい刀自よ。
【評】 両親を持っている刀自は、「めづ児の刀自」「みめ児の刀自」と呼びかけていっている語であるから、その刀自は若く美しい女で、家事の責任者となっている娘とみえる。物をいっているのは、娘の年長者で、女性と思われる。海岸地帯で小螺を食べることは普通のことであったろうし、また調理法といっても、きれいに洗って塩揉みにするというきわめて普通のことで、すべて言い立てるにも及ばないことである。これは母がその小娘に、家事を躾ける語を、謡い物にしたと思われるものである。そうした性質のものではなかったか。叙述の精細で、語続きの素朴なことも、それとすると合理的なものである。
越中國の歌四首
(508)3881 大野路《おほのぢ》は 繁道森径《しげぢもりみち》 繁《しげ》くとも 君《きみ》し通《かよ》はば 径《みち》は広《ひろ》けむ
大野路者 繋道森〓 之氣久登毛 君志通者 〓者廣計武
【語釈】 ○大野路は繁道森径 「大野路」は、大野の地へ通う路。「大野」は、西礪波郡赤丸村三日市(現、福岡町)だという。他に、氷見市上庄川筋説・東礪波郡井口村付近説もある。「繁道森径」は、「繁道」は、木立の繁き道。「森径」は、森の中の道で、繁道を繰り返して意を強めたもの。○繁くとも たとい木立が繁かろうとも。○君し通はば径は広けむ 「君し通はば」は、「君」は、女より男をさしたもの。「し」は、強意の助詞。「通はば」は、わがもとに通わばで、男は森を隔てた地から通って来るのである。「径」は、上の森径で、細く狭い路。「広けむ」は、形容詞の未然形「広け」に推量の助動詞「む」の続いたもので、現在推量。狭い路も広いことであろうと、男の勢を讃えていったもの。
【釈】 この大野への道は、木立の繁く立っている道で、森の中の細道であるが、たとい木立が繁かろうとも、君が通われるならば、狭い径は広いことであろう。
【評】 男の通って来る路の労苦をいたわる歌が型となっている中にあって、これは反対に、歩きにくい経路も、君には広くなろうといっているので、女が、男の身分あり、勢あることを讃えた心である。庶民の女が地方官などを相手にしていた場合のものと思われる。二句の簡潔な繰り返し、三句への続きなど、謡い物として巧みなものである。永く謡われていたものと思われる。
3882 渋谿《しぶたに》の 二上山《ふたがみやま》に 鷲《わし》ぞ子《こ》産《む》といふ 翳《さしは》にも 君《きみ》がみ為《ため》に 鷲《わし》ぞ子《こ》生《む》といふ
澁谿乃 二上山尓 鷲曾子産跡云 指羽尓毛 君之御爲尓 鷲曾子生跡云
【語釈】 ○渋谿の二上山に 「渋谿」は、高岡市渋谷射水川下流の左岸渋谷崎一帯の地の称で、二上山北麓の有機海の海浜。「二上山」は、同じく高岡市伏木町の西方に立ち、越中富士の名があり、頂上が二つに分かれている。上代信仰により、それを男神女神としての称である。○鷲ぞ子産といふ 古事記、下巻、仁徳の巻に、雁がわが国で卵を産み、それを瑞兆とした記事がある。ここもその意のものである。○翳にも君がみ為に 「翳」は、大礼の際、天皇など尊貴な人の背後からさしかける物で、長い柄のついた団扇形《うちわがた》の器で、それには鳥の羽、織物、菅などを用いた。「翳にも」は、鷲の羽を翳の材料にでもして、の意。「君がみ為に」は、君の御用に充てようと。「君」は、領主など身分のある人を指したもの。
【釈】 渋谿の二上山で、鷲が卵を産んだという。翳の材料にでもなって、君の御用に充てようと、鷲が卵を産んだという。
(509)【評】 二上山に鷲の卵を見出したという珍しい噂の立った時、その国の何者かが、それを領主の瑞兆であるとして、その心をいったものである。わが国土に生を享けているものは、人はもとより非情の動物までも、天皇のために身を捧げることを本意としているというのが上代信仰で、ここは領主を天皇に擬していっているのである。上代では、中央より遠い地方では、領主を絶対のものとしていたろうから、こうした考え方も不自然ではなかったのである。古い時代の心持である。歌の形も旋頭歌で、三句、六句を同語の繰り返しにした古い形の物である。越中国にやや古くから伝わっていたものかと思われる。
3883 伊夜彦《いやひこ》 おのれ神《かむ》さび 青雲《あをぐも》の たなびく日《ひ》らに 〓《こさめ》そぼふる
伊夜彦 於能礼神佐備 青雲乃 田名引日良 〓曾保零
【語釈】 ○伊夜彦 今の弥彦山で、新潟県西蒲原郡弥彦村の山。これを越中国の歌としているにつき、『代匠記』は、続日本紀、文武紀、大宝二年三月の条に、越中国の四郡を割いて越後国に属させたとあるところから、それ以前に採録してあった歌であるといっている。この国分けは、この巻の撰者が用いた原本にあったもので、撰者はそのままに転載したのである。○おのれ神さび 我と神の性質を現わして。古くは山は神だったのである。○青雲のたなびく日らに 「青雲」は、空の澄んで青く見えるのをいう語。「たなびく」は、上の「雲」の関係でいっているもので、晴れ渡った意。「日らに」は、原文「日良」。「良」を「すら」と訓んで来たのを『全註釈』は「日らに」と改めている。「ら」は、接尾語で、日に。「良」に「す」を読み添えるより、「に」のほうが合理的であり、また意としても大らかで、作意であろうと思われる。○〓そぼふる 山の上は、小雨がしょぼしょぼと降っている。麓の晴れている時、山の上は小雨の降ることがあるが、それを異常とし、異常なのを神さびたこととしていっているのである。弥彦山は六百メートルにも足りない山で、高山ではないが、たまたま高山にのみ見られることのある現象を見て、崇敬の心よりいっているものである。
【釈】 伊夜彦は、我と神の性質をあらわして、空の青く晴れ渡っている日に、山の上は小雨がしょぼしょぼと降っている。
【評】 晴れた日、伊夜彦の頂に小雨の降っているのを見て、讃歎した心である。上代は山はそれ自体が神であると信じ、また神は神怪をあらわすものとも信じていたので、その心から小雨を讃歎したのである。この信仰をあらわした歌は、山部赤人の富士の歌を初め、他にもあった。詠み方が素朴で、信仰の直写を思わせる。
一に云ふ、あなに神《かむ》さび
一云、安奈尓可武佐備
(510)【解】 上の歌の別伝である。「あなに」は、あやにと同じで、甚しく神の性質をあらわしての意。第二句「おのれ神さび」の別伝とされているが、これは第六句で、本来は、仏足石歌体の歌であるのに、その形の見馴れないところから、誤解しての扱いを加えたものとみえる。仏足石歌体と見るのは、これと連作の関係の次の歌も、同じくこの形であり、そしてそのほうは一段とこのことが濃厚に現われているのによってである。
3884 伊夜彦《いやひこ》 神《かみ》の麓《ふもと》に 今日《けふ》らもか 鹿《しか》の伏《ふ》すらむ 皮服《かはごろも》着《き》て 角《つの》付《つ》きながら
伊夜彦 神乃布本 今日良毛加 鹿乃伏良武 皮服着而 角附奈我良
【語釈】 ○伊夜彦神の麓に 伊夜彦の神の麓にの意で、山を神としてのもの。○今日らもか鹿の伏すらむ 「今日らもか」は、「ら」は、接尾語。「か」は、疑問の係。「鹿の伏すらむ」は、「鹿」は、さお鹿の「しか」で、存在した訓。鹿が伏していようか。「鹿の伏す」は、鹿の習性として脚を屈めてうずくまっているのを、神意を畏んで、平伏していると見てのことであるが、下の続きで見ると、それを鹿とは見ず、人と見てのものである。○皮服着て 人、か鹿の皮の衣を着て。○角付きながら 角の付いたままでで、上の皮服の説明である。日本書紀、応神紀に、天皇が淡路島に遊猟した時、鹿の群れの海を渡るのを見て、人をして見させると、それは人で、角の付いた鹿の皮ごろもを着ているのであったという記事がある。そうした皮ごろもがあったとみえる。それだとこの句は、皮服の説明としてさして特殊のものではなくなる。この句は、第五句に緊密につながっているもので、繰り返しとのみは見難いものである。したがってこの歌は明らかに仏足石歌体である。この歌体は、謡い物に特有なもので、この歌が謡い物であったことを示しているものである。これは集中唯一の例である。上の歌の「一に云ふ」の解は、これによってのものである。
【釈】 伊夜彦の神の麓に、今日も鹿が平伏しているであろうか。鹿の皮服を《かわころも》着て、角の付いたままで。
【評】 伊夜彦の神に詣でた人が、その山の麓に脚を屈めてうずくまっている鹿を、そうした服装をした人と見て、あの人は今日もあのようにしていようかと思い出した心の歌である。二首、仏足石歌体であるところから見て、謡い物であったことは明らかである。二首とも深い信仰心からのもので、上の歌の「〓」の自然現象であると同じく、この歌の「鹿の伏すらむ」も鹿の習性で、いずれも普通のことであるのに、これに深い心を持たせているのは、信仰から迎えてのことなのである。こうした歌は、伊夜彦の神の神事歌でなくてはならない。謡い物の形になっているのは、祭の時謡われたものであろう。舞を伴ったもので、二首、形の酷似しているのは、その関係からのことと思われる。
乞食者《ほかひびと》の詠《うた》二首
(511)【題意】 「乞食者」の訓みは、『古義』の初めて付けたもので、『倭名類聚鈔』に、「楊氏漢語抄云、乞索児、保加比々斗。今案乞索児即乞児也。和名加多井」とあるによったものである。本来「ほかひ」は寿詞であって、『延喜式』に「大殿祭、此云2於保登能保加比1」とある「ほかひ」である。「かたゐ」は乞食で、全然性質を異にしているものである。しかるに時代が下降して、乞食が食を乞う方便として、人の門に立って寿詞を述べるようになったところから、二者混同されて、一つのもののごとくなったのである。ここに採録されている「詠」は、人を寿福するための寿詞ではなく、上代よりのわが国民の信念であったところの、この国土に生を享けているものは、非情の動物であっても、喜んで身を天皇に捧げるものだという意味のもので、天皇に忠誠を誓うものである。もとはしかるべき神事に用いられた謡い物であったろうとみえるものが、乞食の食を乞うための料にされたものである。
3885 愛子《いとこ》 汝兄《なせ》の君《きみ》 居《を》り居《を》りて 物《もの》にい行《ゆ》くとは 韓国《からくに》の 虎《とら》といふ神《かみ》を 生取《いけどり》に 八頭《やつ》取《と》り持《も》ち来《き》 その皮《かは》を 畳《たたみ》に刺《さ》し 八重畳《やへだたみ》 平群《へぐり》の山《やま》に 四月《うづき》と 五月《さつき》の間《ほど》に 薬猟《くすりがり》 仕《つか》ふる時《とき》に あしひきの この片山《かたやま》に 二《ふた》つ立《た》つ 櫟《いちひ》が本《もと》に 梓弓《あづさゆみ》 八《や》つ手挟《たばさ》み ひめ鏑《かぶら》 八《や》つ手挟《たばさ》み 宍《しし》待《ま》つと 吾《わ》が居《を》る時《とき》に さを鹿《しか》の 来立《きた》ち嘆《なげ》かく 頓《たちまち》に 吾《われ》は死《し》ぬべし 大君《おほきみ》に 吾《われ》は仕《つか》へむ 吾《わ》が角《つの》は 御笠《みかさ》のはやし 吾《わ》が耳《みみ》は 御墨《みすみ》の坩《つぼ》 吾《わ》が目《め》らは 真澄《ますみ》の鏡《かがみ》 吾《わ》が爪《つめ》は 御弓《みゆみ》の弓弭《ゆはず》 吾《わ》が毛《け》らは 御筆《みふみて》はやし 吾《わ》が皮《かは》は 御箱《みはこ》の皮《かは》に 吾《わ》が肉《しし》は 御膾《みなます》はやし 我《わ》が肝《きも》も 御膾《みなます》はやし 吾《わ》がみげは 御塩《みしほ》のはやし 耆《お》いたる奴《やつこ》 吾《わ》が身《み》一《ひと》つに 七重《ななえ》花《はな》咲《さ》く 八重《やへ》花《はな》咲《さく》くと 白《まを》し賞《はや》さね 白《まを》し賞《はや》さね
伊刀古 名兄乃君 居々而 物尓伊行跡波 韓國乃 虎云神乎 生取尓 八頭取持來 其皮乎 多々弥尓刺 八重畳 平群乃山尓 四月与 五月間尓 藥※[獣偏+葛] 仕流時尓 足引乃 此片山尓 二立 伊智比何本尓 梓弓 八多婆佐弥 比米加夫良 八多婆左弥 宍待跡 吾居時尓 佐男鹿乃 來立嘆久 (512)頓尓 吾可死 王尓 吾仕牟 吾角者 御笠乃波夜詩 吾耳者 御墨坩 吾目良波 眞墨乃鏡 吾爪者 御弓之弓波受 吾毛等者 御筆波夜斯 吾皮者 御箱皮尓 吾宍者 御奈麻須波夜志 吾伎毛母 御奈麻須波夜之 吾美義波 御塩乃波夜之 耆矣奴 吾身一尓 七重花佐久 八重花生跡 白賞尼 自覚尼
【語釈】 ○愛子汝兄の君 「愛子」は、いとしき子で、女の愛称。ここは乞食者が、門に立った家の主婦を呼びかけてのもの。「汝兄の君」は、男に対しての愛称で、これもその家の主人に対しての呼びかけ。○居り居りて物にい行くとは 「居り」は、家に居てで、繰り返して強めたもの。現に家に居てというにあたる。「い行く」の「い」は、接頭語。よそへ行っているというのはで、居留守を使うとは怨めしいといっているので、下に怨めしいの意を省いたもの。以上四句は、ほかいびとを避けようとする風があるので、避けさせまいとしていっているもの。○韓国の虎といふ神を 「韓」は、外国の総称であったが、ここは文字どおり韓国である。「虎といふ神」は、虎は強力なのを讃えて神としているので、蛇、狼なども同じく神としていた。○生取に八頭取り持ち来 「生取」は、今もいう語。「八頭」は、多くという意を具象的にいったもの。これは下の続きにも出、愛用され、乱用された数である。○その皮を畳に刺し 「畳」は、敷物。「刺し」は、針で縫う意。この「畳」を、「八重畳」の「畳」に畳み、「韓国の」以下六句は、その序詞。○八重畳平群の山に 「八重畳」は、「隔《へ》」の意で、「平」の枕詞。「平群の山」は、奈良県大和郡山市付近にある山。古くから、狩猟に適する山とされていた所である。○四月と五月の間に 下の「薬猟」の季節をいったもので、薬猟は五月五日と定まっていたが、必ずしも確定しなかったとみえる。○薬猟仕ふる時に 「薬猟」は、薬を得るための猟の意で、鹿の若角すなわち鹿茸《ろくじよう》を取り、それを薬品にするためのことである。古くは五月五日と定まっての行事であったが、この歌では時もくずれ、また行なうことも、下の続きで、普通の猟とさして異ならなかったことが知られる。「仕ふる時」は、朝廷の命で行なう意の語。○あしひきのこの片山に 「あしひきの」は、山の枕詞。「この」は、「その」に通じての語で、その平群の。「片山」は、山の片側の称。○二つ立つ櫟が本に 「二つ立つ」は、二本立っている。「櫟が本に」は、「櫟」はくぬぎで、これは殻斗科の落葉喬木。「本」は、幹で、くぬぎの幹の所に。○梓弓八つ手挟み 「梓弓」は、狩の弓。「八つ手挟み」は、多くを手に持って。これは不可能のことで、下の続きに矢のことをこのとおりにいっているので、それに引かれての語である。○ひめ鏑八つ手挟み 「ひめ鏑」は、鏑矢すなわち、音をもって相手を脅かす矢の一種とみえるが、その形は知れない。諸説があるが明らかではない。相手が弱い鹿であるから、浅く傷つけるように造った物であったろう。「八つ手挟み」は、幾筋もを手に挟んで。○宍待つと 「宍」は、鹿猪の総称であるが、ここは鹿。○来立ち嘆かく 来て嘆くことには。「立ち」は、軽く添えたもの。「嘆かく」は、嘆くの名詞形。○頓に吾は死ぬべし 間もなくわたしは死ぬことでしょう。○大君に吾は仕へむ 「仕へむ」は、奉仕しようで、死んで奉仕する意。○吾が角は御笠のはやし 「はやし」は、栄《は》えあらせるものの意で、装飾、または実用になる意。「御笠のはやし」は、御笠の装飾になる。○吾が耳は御墨の坩 わが耳は、墨を磨った汁を容れる壺で、これは形の類似しているところから、鹿の想像しそうなこととしていっているもの。○吾が目らは真澄の鏡 わが目は真澄の鏡となろう。「目ら」の「ら」は、接尾語。上と同じく、鹿の想像。○吾が爪は御弓の弓弭 「弓弭」は、弓の両端の、弓の弦をかけるもの。骨を材料と(513)していたのと、その形が爪に似ているところから、上と同じく鹿の想像していっているもの。以上の耳、目、爪は、鹿自体としてはいずれも大切な物なので、大君への奉仕に足りる物と思おうとしていっているのである。滑稽ではあるが、哀れのある物で、諧謔とはいえないものである。○吾が毛らは御筆はやし 「毛ら」の「ら」は、接尾語。「御筆はやし」は、御筆の材料で、これは実際をいったもの。○吾が皮は御箱の皮に これは、上よりも重いものである。○吾が肉は御膾はやし 「膾」は、今と同じく、肉を細かく切った物の称。これは実用の中心である。○吾が肝も御膾はやし 「肝」は、臓腑の総名。○吾がみげは御塩のはやし 「みげ」は、胃の腑。「肝」と区別していっているのは、用途が異なるため。「御塩」は、塩辛で、胃の腑を細かく切り、塩を加えたのである。○耆いたる奴吾が身一つに 「者いたる奴」は、六十歳以上の奴を耆奴と称した。奴の中でも劣ったもの。「身一つに」は、たよりない身に。下の「七重八重」に照応させてある。○七重花咲く八重花咲くと 七重に花が咲き、八重に花が咲くように、限りなく栄えがあるといっていたと。○白し賞さね白し賞さね 大君に奏して私に栄えをあらせてくださいましで、「白し」は、奏上。「賞さね」は、賞《ほ》める意に、「ね」の願望の助詞の添ったもの。この結句は、七音句を四句重ねて花やかに謡い収めたもの。
【釈】 親しい御内儀よ、親しい御主人よ、現に家に居て、よそへ行っているというのは。朝鮮の国に棲んでいる虎という怖しい神を、生捕りにして八頭持って来て、その皮を剥いで畳に縫って、八重畳にするに因みある平群の山で、四月と五月の間に薬猟を御奉仕申す時に、あしひきのその片山の櫟の木の二本立っている幹の所に、梓弓を八張手に持ち、ひめ鏑を八筋手に持って、鹿を射取るとて待って私がいる時に、牡鹿が来て嘆いていうことには、間もなく私は死ぬでしょう。大君に御奉仕申し上げましょう。私の角は御笠の材料に、私の耳は御墨坩に、私の目は真澄の鏡に、わが爪は御弓の弓弭に、わが毛は御筆の材料に、私の皮は御籍の皮になろう、私の肉は御膾の材料に、私の臓腑も御膾の材料に、私の胃の腑は塩辛の材料になりましょう。年老いている賤しい奴のたよりない身に、七重に花が咲き、八重に花が咲くように、限りない栄えに思っていたと、大君に申し上げて御賞めくださいまし、御賞めくださいまし。
【評】 題意でいったがように、わが国土の中に生存している限り、何物でも一様に喜んで大君に御奉仕申すということが国民感情になっていたのである。生物の中心は人間であり、人間の生活は、一にその住地の守護神の加護によって持続され、生死も神の御心にあると信じていたのであるが、大君は、それら限りなき神々の上に立つ神であられたので、これは日常生活を貫いている信仰の延長で、当然に意識されるべきことだったのである。しかしこの信仰は、他面、強化を必要としたものであると思われる。それは実感そのものというよりは、その延長したものだったからである。同時にまたこの信仰は、日常生活を貫く守護神の信仰に変化が起こると、ある変を来たさざるを得ないものでもあったからである。ここに採録している二首の詠は、作意としては、その強化を意図してのものであり、乞食者がこれを謡い物としたことは、おのずから要を得たことであるが、しかしほかいをされる一般人は、居留守を使ってそれを受けまいとしたというのは、食を与えることを厭う心の伴ってのこととしても、ほかいそのものに対する信仰が動揺を来たしていたためかと思われる。奈良朝時代はしばしば触れたがように、信(514)仰状態が従前に較べては衰えかけていたかにみえる。それは信仰を背後にしての賀歌挽歌が著しく減り、反対に人間中心の相聞、自然鑑賞、日常生活の些細な享楽を対象としての歌の著しく殖えて来ているのでも思われる。この歌の起首の四句も、そうした状態を背後にしたもので、やがてこの歌の、社会的位地も示しているものと思われる。この歌は奈良朝以前の物と思われ、中心思想はいったがごとく従来よりあるもので、この歌の特色は、一にその具象化の手腕にある。その技巧の第一は、さお鹿を擬人して「耆たる奴」として具象し、述懐の形においてこの思想をいわしめたところにある。またその時を、鹿の若角を取ることを目的とした薬猟という、猟としては比較的静かな時とし、一人の猟人の前にみずから出て来、物静かにいわしめている所にある。「八重畳」という平群の山の枕詞に、六句の序詞を添えているのも、いったがごとくわが国を誘える心を絡ませたもので、単なる技巧とは見えないものである。次は鹿の述懐で、これが技巧の中心である。「頓に吾は死ぬべし大君に吾は仕へむ」がその大綱で、結末は、「耆いたる奴吾が身一つに、七重花咲く八重花咲くと、白し賞さね白し賞さね」で、命を捧げて奉仕することをもって、光栄とし満足している心で照応させ、中間、その奉仕のいかにまめやかなる物であるかを、一々並べ立て、心を尽くした形でいわせている所にある。耳、目、爪など、大君の御ためには何の用をも、なさない物をも、それぞれ理屈をつけて、さも用に立つ物のごとくに言いなしているのは、作意から見ると立派な技巧で、「八重畳」に添えた序詞とともに、凡手には出で難いものである。この歌の作られたのは、これに続く「蟹」の歌とともに、地名関係から見て飛鳥朝時代に作られたものかと思われる。作因は、しかるべき神社の神事の際の謡い物としてであったろうと思われる。天皇に対しての献身的忠誠を述べることは、やがて天皇の絶対性を讃えることで、神事以外のものではないからである。当然、舞も伴っていたものであろう。「さを鹿の来立ち嘆かく」は、それとは矛盾するようであるが、生物の測らずも死の迫っていることを悟り、一応嘆くというのは本能であって、自然なことである。しかしただちに大君に対する義務を思い返して来て、喜んで死に帰するというので、かえって深さのあるものとなっているのである。この深さが一首の底流をなしているのである。編集者は、「鹿の為に痛を述べて」と左注を添えているが、これは誤解してのことで、そこに時代の推移があるのである。「乞食者」の出自は、以前、上にいったように神社に仕えていた家であるかもしれぬ。
右の歌一首は、鹿の為に痛《いたみ》を述べて作れる。
右歌一首、爲v鹿述v痛作之也。
3886 おし照《て》るや 難波《なには》の小江《をえ》に 廬《いほ》作《つく》り 隠《なま》りて居《を》る 葦蟹《あしがに》を 王《おほきみ》召《め》すと 何《なに》せむに 吾《わ》を召《め》(515)すらめや 明《あきら》けく 吾《わ》が知《し》ることを 歌人《うたびと》と 吾《わ》を召《め》すらめや 笛吹《ふえふき》と 吾《わ》を召《め》すらめや 琴弾《ことひき》と 吾《わ》を召《め》すらめや かもかくも 命《みこと》受《う》けむと 今日今日《けふけふ》と 飛鳥《あすか》に到《いた》り 立《た》てども 置勿《おきな》に到《いた》り 策《つ》かねども 桃花鳥野《つくの》に到《いた》り 東《ひむかし》の 中《なか》の門《みかど》ゆ 参入《まゐ》り来《き》て 命《みこと》受《う》くれば 馬《うま》にこそ 絆《ふもだし》掛《か》くもの 牛《うし》にこそ 鼻緒《はななは》はくれ あしひきの この片山《かたやま》の もむ楡《にれ》を 五百枝《いほえ》剥《は》ぎ垂《た》り 天光《あまて》るや 日《ひ》の気《け》に干《ほ》し 囀《さひづ》るや 唐碓《からうす》に舂《つ》き 庭《には》に立《た》つ 碓子《すりうす》に舂《つ》き おし照《て》るや 難波《なには》の小江《をえ》の 初垂塩《はつたり》を 辛《から》く垂《た》り来《き》て 陶人《すゑひと》の 作《つく》れる瓶《かめ》を 今日けふ《》往《ゆ》きて 明日《あす》取《と》り持《も》ち来《き》 吾《わ》が目《め》らに 塩《しほ》塗《ぬ》り給《たま》ひ ?《きたひ》賞《はや》すも ?《きたひ》賞《はや》すも
忍照八 難波乃小江尓 廬作 難麻理弖居 葦河尓乎 王召跡 何爲牟尓 吾乎召良米夜 明久 吾知事乎 歌人跡 和乎召良米夜 笛吹跡 和乎召良米夜 琴引跡 和乎召良米夜 彼此毛 命受牟跡 今日々々跡 飛鳥尓到 雖立 置勿尓到 雖不策 都久怒尓到 東 中門由 參納來弖 命受例婆 馬尓己曾 布毛太志可久物 牛尓己曾 鼻繩波久例 足引乃 此片山乃 毛武尓礼乎 五百枝波伎垂 天光夜 日乃異尓干 佐比豆留夜 辛碓尓舂 庭立 碓子尓舂 忍光八 難波乃小江乃 始垂乎 辛久垂來弖 陶人乃 所作〓乎 今日徃 明日取持來 吾目良尓 塩漆給 ?賞毛 ?賞毛
【語釈】 ○おし照るや難波の小江に 「おし照る」は、日光の隈なく照るで、「や」は、感動の助詞。「難波」の枕詞。「小江」の「小」は、美称。○廬作り隠りて居る 「廬」は、蟹が自体を擬人していっているもので、小屋。蟹の穴で、穴居にからませた語。「なまり」は、「なばり」とも言い、隠れる意の古語。○葦蟹を王召すと 「葦蟹」は、海辺の葦の生えている所にいるからの称。葦鶴、葦鴨と同系の称。「王」は、大君。「召すと」は、召すという。○何せむに吾を召すらめや 「何せむに」は、何のために。「吾は召すらめや」は、「や」は、反語。私を召すのだろうか、召すはずはない。○明けく吾が知ることを はっきりと私は知っていることだのに。蟹自身、何の能もないことを知って、訝かって自問自答しているで、下へ続く。○歌人と吾を召すらめや 「歌人」は、宮中の歌舞所で歌を謡う者、すなわち歌手を呼ぶ称。日本書紀、天武紀四年二月の条に、勅で、近国の十三か国の百姓の中から、歌謡に巧みな男女を貢させた記事がある。そうした時に近い時だったので、その連想からであろうか。『略解』(516)は、蟹が沫を吹く音を立てるところから、歌人、笛吹、また爪のあるところから、琴弾など想像したろうといっている。歌人として私を召すのだろうか、そうしたはずはない。○笛吹と 笛を吹く者として。○琴弾と 琴を弾く者として。琴は古くから歌の伴奏となっていたからである。○かもかくも命受けむと 「かもかくも」は、原文「彼毛」。「かくも」にあたる字が脱したものとして、『略解』の補っての訓。とにかくにで、わからないながら、それにかかわらずにの意。「命受けむと」は、仰せを承ろうと思って。○今日今日と飛鳥に到り 「今日今日と」は、今日は今日はと思って明日にと続けての、「飛鳥」の枕詞。難波から大和の飛鳥へ行き。○立てども置勿に到り 立っているが置きと続けて、「置」の枕詞。「置き」は、すわらせて置く意で、立つのとは反対、しゃれてのもの。「置勿」は地名であるが、所在は不明である。○策かねども桃花鳥野に到り 「策かねども」は、杖はつかないけれども。上と同じくその反対の「つく」にかけた枕詞。「桃花鳥野」は、橿原市鳥屋町の地かという。そこは宣化天皇の桃花鳥坂上陵のある地で、古くは、築坂と呼んだ。畝火山の東南にあたる地である。ここが蟹の目的地で、すなわち、蟹を召した大君の所在地である。桃花鳥野に皇居のあったことは記録にないので、大君は天皇ではなく、皇族であったかと思われる。○東の中の門ゆ 「東」は、皇居は南方に向かっていたのであるが、通用門は東方の門であったので、これもそれに準じての方角である。「中の門」は、総門に対して、内郭の門。「ゆ」は、通って。○参入り来て命受くれば 「参入り来て」は、はいつて行つての敬語。「命受くれば」は、上の「命受けむと」に承応さす。○馬にこそ絆掛くもの 「ふもだし」は、後世の「ほだし」で、その約音。両脚を縛り合わせて動けなくする繩。「掛くもの」は、掛くるもので、終止形から体言に続いた古格。○牛にこそ鼻繩はくれ 「鼻繩」も、自由にさせないための物。「はくれ」は、佩くれで、佩くの已然形。付けもすれの意。下に、馬でも牛でもない蟹を、同じく動けなくしての意を略してある。○あしひきのこの片山の 上の歌に出た。○もむ楡を五百枝剥ぎ垂り 「もむ楡」は、「もむ」の語義不明であるが、次に引く『延喜内膳式』で見れば、楡は普通のもので、現在の楡と異ならない。楡の皮の剥ぎ取った物の称であったとみえる。『延喜内膳式』に、「楡皮一千枚、別長一尺五寸、広四寸損得2粉二石1枚別二合。右楡皮、年中雑御菜并羮等料」とあって、これは天皇の供御用の物である。一般にも用いたのである。「五百枝剥ぎ垂り」は、多くの枝から剥いで垂らして。○天光るや日の気に干し 「天光るや」は、「や」は、感動の助詞で、「日の気」は、日の光。天に照る太陽の光線で干し。○囀るや唐碓に舂き 「囀るや」は、「や」は、感動の助詞。「囀る」は、音は聞いても意味はわからない意で「韓」にかかる枕詞。「唐碓」は、杵の柄が長いのを、足で踏んで舂く踏み碓子。○庭に立つ碓子に舂き 「庭に立つ」は、状態をいう意で、碓子の修飾。「碓子」は、『古事記伝』で、「碓」は「磑」の誤写とし「すりうす」と訓んでいる。『倭名類聚鈔』によつての説である。上の唐臼とは別な臼で、粉にする臼だとしてである。しかし、誤写説の上に立ってのもので、そこに問題がある。○初垂塩を辛く垂り来て 「初垂塩」は、海水を蒸発させ、砂で漉して塩とする時、最初に取る最も濃厚な汁。「辛く垂り来て」は、塩辛く垂らして持って来て。○陶人の作れる瓶を 「陶人」は、陶器を作る人。「陶」は、釉薬を用いた堅い器である。○今日往きて明日取り持ち来 急いで持って来てという意を、具象的にいったもの。その瓶は上の楡の皮の粉と初垂塩を入れて混ぜ合わせて醤《ひしお》を造るための物。○吾が目らに塩塗り絵ひ 「目ら」の「ら」は、接尾語。「目」は、蟹の身の代表としていっているもの。感性的に見て自然である。「塩」は、上の醤。「塗り給ひ」は、「塗り」の敬語で、お塗りになって。○?賞すも?質すも 「?」の原文は尼崎本、類聚古集による。底本は「時」で『略解』の宣長説により、「もちはやすも」と訓まれてきていたが、板橋倫行氏の説による。「?」は乾肉、干物をいう。干物にして賞美することよの繰り返し。蟹を美味として珍重したことは、古事記、応神天皇の巻の御製歌にも出ている。
(517)【釈】 おし照るや難波の江に、小屋を作って隠れている葦蟹を、大君が召すという。何のために私を召すのか、召すはずはない。それは明らかに私の知っていることだのに。歌謡いとして私を召すのだろうか、そういうはずもない。笛吹として私を召すのだろうか、そういうはずもない。琴弾として私を召すのだろうか、そういうはずもない。とにかくに、仰せを承ろうと思って、今日は今日はと思って明日になるという飛鳥に行き、立っているが置くという置勿に行き、杖をつかないけれどもつくという桃花鳥野に行って、東方内郭の門を通って参り入って、仰せを承ると、馬にこそ絆は掛けるものであるが、牛にこそ鼻繩は付けるものであるが、葦蟹の私をそれらのように動けなくし、そこの片山にあるもむ楡を、多くの枝から剥いで垂らして、天に照る日の光で干し、それを囀るや唐碓で舂いて、さらに、庭に立っている碓子で舂いて粉にし、おし照るや難波の江の初波りの塩を、塩辛く垂らして持って来て、陶器作りの作ってある瓶を、今日往って明日は持って来て、という急いだことをし、その瓶で楡の粉と初垂塩とを混ぜて醤《ひしお》を作って、わが目にその醤をお塗りになって、?にして賞美するよ、?にして賞美するよ。
【評】 前の鹿の歌と同系のもので、同じ思想を形象化したものである。蟹は海に遠い大和国では、古くから賞美していた物で、難波の蟹は名物となっていたのであろう。蟹は鹿とはちがって、食用となることをいう以外には、大君への奉仕として言い立てうる何物もないのである。その点は鹿とても同様であるが、鹿は形が大きいだけに、とやかくと言い立てて、哀れを漂わしうるのであるが、蟹はそうしたことをする余地もないので、ただ一つの食用ということに絡ませ、こまごまと調理法を叙して、そこに面白味を出そうとしているのである。技巧の第一は、大君の召しをこうむり、何の御用であろうかと訝かり、歌人としてか、笛吹としてか、琴弾としてかと、甚だ自信なき態度で訝かることである。これは多分、天武朝の事柄に絡ませてのことで、同時にこの歌の作られた時代をも暗示しているもので、それだとするとこの歌の作られた当時は、この点は興味のあるものであったろうと思われる。技巧の第二は、「かもかくも命受けむと」以下の道行きである。蟹の道行きは、上に触れた古事記、応神天皇の巻の御製にもあるもので、それと揆を一にしており、上代には深く愛好されたものである。置勿、桃花鳥野など、飛鳥の小地名であるにもかかわらず、今はその名の伝わらないものを連ねているのも、それが蟹の道行きであるがゆえに妥当で、これまた、この歌の作られた当時には興味の多いものであったろうと思われる。技巧の第三は、蟹に付けて食う醤を作ることの細叙であるが、それをいうに先立ち、「東の中の門ゆ、参入り来て命受くれば」という、蟹の堂々たる態度とは正反対に、「馬にこそ絆掛くもの、牛にこそ鼻繩はくれ」といって、その動けなく物に容れられたのか、あるいは茹でられたかを暗示的にいい、対照のおかしさをあらわした上で、おもむろに醤のことを言い続けているのである。醤は、蟹を食う時に限ってのものではなく、広く食味を添えるための物で、日常の物である。それをこのように細叙するのは、不調和のごとくみえるのであるが、蟹については他に言いうることがないので、ここに力点を置いた言い方をしたのである。それにまた醤は、上代にあっては家々で作る物であり、その作り方は周知のこととて、一般的興味の多かったものと思われる。技巧という上からいえば、(518)その妥当ならざるところがかえって面白かったことと思われる。結末の、「吾が目らに塩塗り給ひ、?賞すも?賞すも」は、一首の作意のあるところで、この歌としては大切なものであるが、前の歌に較べると、淡泊なものである。しかし、「吾が目ら」は、蟹としては適切な、感覚的な言い方であり、すでに殺されて食われつついることを、現在法をもっていっているのは、一種のおかしみのあることで、あいまって技巧のあるものといえる。一首、いわゆる小味なもので、単純な事柄に変化をつけ、諧謔味を主としての興味を豊かに持たせたものである。その諧謔味は道行きの枕詞の上にまで現われている。前の鹿の歌と同一作者の作かと思われるが、前の歌の賑わしく、躍ったところのあるのとは異なり、これは静かに、微細で、それぞれ趣を異にしている。じつに力量の非凡さを思わせられる歌である。この歌で大きな支障となるのは、「桃花鳥野」が皇居の所在地であれば、一首が自然なものとなるが、皇居以外では作意が徹底しかねるという点である。「桃花鳥野」が現在推定されている橿原市鳥屋でなく、「置勿」とともに忘れられた小地名で、そこが皇居の地であるということになると、この支障はのぞかれるのである。あるいはまた、この歌は「乞食者」の謡い物の常として流動を経たもので、「策かねども桃花鳥野」は、後より改められたものということもありうることであるが、このことの立証は一層困難であろう。
右の歌一首は、蟹の為に痛を述べて作れる。
石歌一首、爲v蟹述v痛作之也。
物に怕《おそ》るる歌三首
3887 天《あめ》にあるや 神楽良《ささら》の小野《をの》に 茅草《ちがや》刈《か》り 草《かや》刈《か》りばかに 鶉《うづら》を立《た》つも
天尓有哉 神楽良能小野尓 茅草苅 々々婆可尓 鶉乎立毛
【語釈】 ○天にあるや神楽良の小野に 「天にあるや」は、天上にあるに、「や」の感動の助詞の添ったもの。「神楽良の小野に」は、「小」は、美称。「神楽良野」は、想像上のもの。巻三(四二〇)「天なるささらの小野の七相菅」と出た。○茅草刈り 「茅草」は、現在もその名で呼んでいる草。屋根を葺く料とした。茅草を刈って。○草刈りばかに 「刈りばか」は、自分の刈り場所と定められている区域の称。巻四(五一二)「秋の田の穂田の刈りばか」と出た。○鶉を立つも 鶉を飛び立たせることよ。その出しぬけさに、ぞっとした意。
【釈】 天上にある神楽良の野に茅がやを刈って、自分の刈り場所と定められている所に、鶉を飛び立たせることよ。
(519)【評】 怖ろしく、ぞっとする場合を、想像でいっている歌である。天に神楽良野という野があるということは、一般に言い伝えられていることであるが、天のこととて神のいられる怖ろしい所と推量されていたのである。また、屋根を葺く材として茅草を刈るということは、常にしていることで、神楽良野も野であるから、茅がやがあると推量したのである。「刈りばか」は、自分で刈らねばならない区域である。鶉を飛び立たせるのは、それをするものがあってのことで、その者は天のことで神である。この人は、足許から不意に鳥が飛び立つことによって驚かされた経験のある人で、上に推量したような物怖ろしい境で、またそのようなことがあるとしたら、どんなに驚いてぎょっとするだろうと推量した心である。茅がや刈りをしていて驚かされた実感に、測り難く物怖ろしい神楽良の野を結びつけた歌である。想像で拵えた歌で、ただ材料を結び合わせたばかりで、気分の統一がないために、作者の驚きを想像させるにすぎない歌となっている。
3888 奥《おき》つ国《くに》 領《うしは》く君《きみ》が 〓屋形《ぬりやかた》 黄〓《きぬり》の屋形《やかた》 神《かみ》の門《と》渡《わた》る
奧國 領君之 〓星形 黄〓乃屋形 神之門渡
【語釈】 ○奥つ国領く君が 「奥つ国」は、遠方にある国で、この国土に対させての国で、冥界である。「領く君」は、領有する君で、その国の主で、いわゆる死神である。○〓屋形 「屋形」は、家の形につくったもの、舟や車にしつらえる。「〓」は、原文「染」であるが佐竹昭広氏の説に従う。塗ってある屋形。想像しての死神の家。○黄〓の屋形神の門渡る 「黄〓の屋形」は、黄色に塗った屋形で、上の句を説明し、繰り返したもの。「神の門」は、神霊のとどまる狭い所で、「門」は、物と物とに挟まれている狭い所。「渡る」は、とおり過ぎて行く。
【釈】 冥界を領有している主の塗った屋形の、その黄に塗った屋形が、神霊のとどまっている狭い所をとおって行く。
【評】 純空想の歌である。死神に家があり、黄に塗った屋形で、それが地上に現われて動いてい、今、神霊のとどまる狭い所をとおり過ぎて行くというので、全く拠るところのない、気分のみの作である。「神の門渡る」は、それとしては刺激的な力がある。興味よりの空想である。
3889 人魂《ひとだま》の さ青《を》なる公《きみ》が ただ独《ひとり》 逢《あ》へりし雨夜《あまよ》の 葉非左《はひさ》し念《おも》ほゆ
人魂乃 佐青有公之 但獨 相有之雨夜乃 葉非左思所念
(520)【語釈】 ○人魂のさ青なる公が 「人魂」は、人の身から脱け出した魂。上代は魂と身とは別なもので、魂が身に宿っていることが生、脱け出すのが死であるとし、魂はそれ自体地上をさ迷うことがあるとした。ここはそうした魂。「の」は、同意の名詞を接続させる意のもので、にして。「さ青なる公」は、「さ青」は、「さ」は、接頭語で、真っ青。人魂の色。「公」は、人魂を人として、霊であるゆえに敬称を用いたもの、人魂である。真っ青な公。○ただ独逢へりし雨夜の 「ただ独」は、こちらがただ独りで。「逢へりし雨夜の」は、人魂に逢った雨夜の。○葉比左し念ほゆ 「葉比左」は、不明な語。これは『全註釈』が原文に従って訓んだものである。それまでは、第四句の最後の「乃」を衍字として削り、第五句の最初の「葉」を、代わりに第四句に属させて、「両夜は久し」と続けたのである。意味をとおらせようとして原文を改めたのである。「葉比左」につき、『全註釈』は、日本霊異記の訓釈に、「塚」をハヒヤと訓んでいて、灰屋の義であろう。同義で、葉比左という語が存在していたのではないか。あるいは「左」は、「屋」の誤写で、ハヒヤであるかもしれぬといっている。それだと、「し」は、強意の助詞で、塚が思われるの意で、通じやすい、また自然なものになる。
【釈】 人魂である真っ青な公が、こちらはただ独りで逢ったことのあった、両夜の塚が怖ろしく思われる。
【評】 人魂の真っ青なのに、両夜の塚の辺りで逢ったのが忘れられない心で、怖ろしいものを想像して詠んだ歌である。実感のような言い方はしているが、人魂と雨夜と塚との取合わせは、明らかに想像と思われる。思い出としていっているのは、真実味を出そうとしての技巧である。人魂のほうを主に立てての言い方で、これは当時の風である。