(6)萬葉葉 巻第十七概説
 
    一
 
 本巻は、『国歌大観』の番号の(三八九〇)より(四〇三一)に至る一四二首を収めて一巻としたものである。歌体からいうと、長歌一四首、旋頭歌一首、短歌一二七首である。
 本巻を初めとして、巻第二十に至るまでの四巻は、従前の十六巻とは全く体裁を異にしている。それは従前の十六巻は、既存の資料を整理編集したものであったが、本巻以下は、主として大伴家持の作品を集めたもので、私家集の趣を持ったものである。家持以外の人の作も収録してはいるが、それらは彼が直接に交渉を持つことによって知り得た歌、または、それらの人をとおして新たにその存在を知り得た古歌であって、いわば新資料とも称すべきものである。本巻所収の一四二首のうち、家持の作が七二首を占めていることは、この間の消息を示している。
 さらにまた、本巻以下は、部立を設けていない。歌そのものからいうと、雑歌、相聞、挽歌のすべてを含んでいるのであるが、そうしたことには全然触れず、その作品の成った事情及びその時に重点を置いて、これを年代順に排列しているのである。その点から見ると、本巻以下は、大伴家持の私家集であるとともに、歌日記、兼備忘録の趣をもっているのである。
 本巻の歌を年代的に見ると、天平二年十一月、大伴旅人が大納言に任ぜられて京へ還る時、その※[人偏+兼]従《けんじゆう》の一部の海路を取った者の歌に始まり、天平二十年春、家持が越中の国守として任地にある時の歌に終わっている。なお、家持の越中の国守に任ぜられたのは天平十八年七月で、本巻所収の彼の歌の大部分は、天平十九年より二十年正月に至る約一年間のものである。
 
     二
 
 本巻は、大伴家持の私家集の趣をもっている上に、年代順に排列しているところから、歌人としての彼の進歩発展の跡をつぶさに跡づけさせるものとなっている。本巻の魅力の大半はそこにあるといえる。
 いかなる優れた資質をもった歌人も、その時代を超えうるものではない。歌人としての家持の業績で現在に遺っているのは、奈良朝時代の爛熟期と称せられる天平時代で、しかもその末期の数年間のものである。時代は政治的には泰平がつづいて、皇室をめぐる廷臣は、外に向かって団結して当たるというような事件は何事もなかったところから、勢い内に向かって、自家の権力を張るということに専心し、すでに藤原氏はその事を遂げて、皇室を擁しての権力は牢固たるものがあった。そのことはそれにとどまらず、さらに藤原氏同族間の暗闘となり、さらに新興宗教仏教を利用しての争奪にまで展開して行った。藤原氏(7)以外の廷臣は、少数の恃《たの》むところある者は、現状を打破しようとの志を蔵していたが、大多数の者は、藤原氏の勢力下に屏息《へいそく》し、一意保身を思っていたのである。彼らの生活気分は、当然消極的となり、衷心寂寥感を抱いて逃避的となるか、または非難されない形においての享楽者になるよりほかはなかったのである。時代はすでに彼らのすべてを知識人としていた。彼らは期せずして、相率いて風流の道に向かって行った。風流とは詠歌、賦詩、音楽などである。風流の会は、彼ら廷臣の間には頻繁に行なわれた。酒には歌が伴い、音楽が伴った。宴歌は歌の主体のごとくになり、この時期の歌風となって来たのである。
 宴歌はすでに酒興を添えるためのものとなっていた。しかしそれにも推移があった。一時代前の宴歌は、会衆一同の放笑を買うのを目的としたものであったが、この時代の宴歌はそれでは満足できず、微笑となり、黙してうなずくものとなって来た。会衆一同に共通の興味を感じさせうる、この種の取材といえば、自然の風景よりほかにはない。眼前の風景を捉えて、快感を起こさせるものにするか、あるいはまた、自然に託して、胸臆に蔵している気分を、婉曲に他に伝えるかである。聡明なる廷臣は暗黙のあいだに、共通の鬱情をもっている。自然に託しての気分暗示の歌が、より多く人々に愛好されたことは、察しやすいことである。
 以上が大体、この時代の歌の傾向である。これを一時代前の歌の傾向に較べると、従前は積極的な生活気分をもって、自身に感動を起こさせた事象を力強く言表し、そうすることによって自身の感動を表現しようとしたのに、この時代には、消極的な生活気分をもって、自身の感動そのものを、直接に披瀝しようとするようになったのである。そうはいっても、感動を他に伝えようとすれば、説明しただけではかえって間接のものになるので、それを直接にするための具象化は行なっている。しか
しその具象化は、感動に重点を置き、具象化は必要を充たす程度の従属的なものという傾向になって来るのである。この時代の歌のもの柔らかに、心が細かく、暗示的なものになっているのは、そのためである。
 大伴氏という名族の嗣子と生まれ、一族を統御すべき位置に立たされた家持であるが、彼は心弱く、政治的手腕がなく、その任には堪えない人であった。一と口にいうと、この時代の廷臣の典型的な人で、消極的で、心弱く、気分本位の人で、時にはその環境から逃避することを夢みるような人だったのである。これが家持が政治的には失意で、同時に歌人としては大成し得た理由だったのである。
 
     三
 
 歌人大伴家持にとっては、天平十八年、彼が越中の国守に任ぜられ、任国越中に数年を過ごしたということは、きわめて重大なことであった。これは彼の歌人生活の上では境界線をなすもので、それ以前と以後とは格段な相違を示しているのである。本巻はその飛躍の跡をあからさまに見せている。
 家持の年齢は明記されたものがない。現在は、その没した延(8)暦四年には六十八歳であったろうと推定されている。それから逆算すると越中の国守となった天平十八年には二十九歳だったのである。
 天平十八年以前の彼の代表作と思われるものは、「十六年四月五日、独平城の放き宅に居て作れる歌六首」と題するものである。当時京は恭仁に遷され、平城は故京となってさびしい所となっていた。家持はたまたまそうした京の故宅へ帰り、おりから橘の花に来て鳴く霍公鳥《ほととぎす》を聞いて、深いなつかしさを感じて五首を詠み、さらに五月の宮中行事である薬狩の月の来たことを、あこがれをもって一首詠み添えているのである。こうした境が、家持の最も感興を覚える境地だったのである。自然鑑賞とはいっても、荒廃しようとするさみしい故京の家にひとり籠もり、橘の花に昔忘れずに来る霍公鳥の幽かな声に聞き入って、さびしさとなつかしさとの一つになった幽情を喜び、また美装をして薬狩をする行楽に憧れの情を寄せるという、静穏な、個人的であって同時にそれにも堪えきれないというような境地が好ましかったのである。こうした彼の好みを、一段と直接に示しているのはその表現方法である。微細な点は本文に譲るが、一と口にいうと、すべて気分の直写で、中にはその度が過ぎて、説明に堕そうとするようなものもまじっている。天平十六年には彼はすでに二十七歳に達しているのであるが、当時の歌界から見て、彼は二流もしくは三流の手腕しかなかったのである。
 しかし彼の作には一種の魅力があって、相応の浸透力をもっている。それは父旅人に似通う貴族的な品位である。それにはいささかの思いあがりもなく、また才走ったところもなく、あくまでも正直で、率直で、純粋であって、その点庶民的ともいえるものである。それがすなわち彼の持ち味で、生まれながらのものだったのである。
 当時の家持は、歌人的資質には恵まれていたが、要するに磨かれざる玉で、光とも称すべきものはほとんど見えなかったのである。これは彼自身も意識していたと見え、この時期以前の作は古人を踏襲することが多く、自信が持てず、臆病で、したがってたどたどしい感をさえ起こさせるものが少なくなかったのである。
 
     四
 
 その家持が越中の国守に任ぜられ、京の歌界の雰囲気から離れ、ひとり任地に過ごすことになると、偶然にも彼の歌人生活には、展開進歩が起こって来たのである。
 当時の越中の国府は、現今の高岡市伏木町で、国司館は二上山の山裾の小高いところにあり、そこからは奈呉の海が下瞰《かかん》できたのである。いわゆる山海の形勝を占めた場所で、海を見ることのできなかった奈良京の家持には、楽しい任地であったろうと思われる。その間の消息は、彼は旅の侘びしさは漏らすことがあったが、任地そのものについては何事も呟いていないのでもうかがえる。それどころではなく、山と海の四季の景観、それに付随しての鳥獣|花卉《かき》、狩猟漁撈は、尽きるなき興味の対象となったのである。
(9) 京官の地方官に転任した者の最も苦痛とすることは、人に飢えることであった。当時の京官は一様に、風流を解することを願いとし誇りともしていて、家持はその欲望のことに強い人であったから、辺土越中の国庁はその飢えを感じさせる可能性の最も多いところであった。国庁の彼の下僚は、いずれも一とおりの風流は解していたことが、着任につぐ宴席の歌で知られる。その中に一人凡ならざる人がいた。それは越中の掾《じよう》であった同族の大伴池主で、その才華は彼との宴歌の唱和によって知られたと見える。しかしその手腕がどれほどであるか、また彼に対してどれほどの親愛感をもっているかは、その当座は知ることができなかった。それを知ることができたのは、着任の翌十九年の二月、家持は大患にかかり、ひそかに死を覚悟させられるほどであったが、幸いに快方に向かい得た時、おりからの春光に背《そむ》く恨みを、歌をもって池主に訴えると、池主はただちにそれに唱和したのが機会となって、双方は互いに相手の才に推服し合い、家持の作歌欲は、その際の寂寥感と、池主との競い心に刺激されて、従来かつて無かったほどの旺盛なものとなったのである。
 越中の国守に任ぜられたということは、家持の生活気分に激動を与えたことと見え、彼はそれに関しての歌を詠んでいない。着任後間もなく彼は、愛弟書持の早世の報に接し、哀慟して長歌を作っている。年が改まると、上にいった大患にかかり、その時には、その生母と妻子とを恋い隣れんでの長歌を詠んでいる。それらを他にしては、儀礼としての宴歌を詠んでいるだけで、彼の詩情の主題ともみえる自然鑑賞の歌は一首も詠んでいないのである。家持には多分、新環境は単に重圧であり、また引き続いての人事は深い寂寥感をもたらすものとなって、その感情は萎靡《いび》し尽くそうとしていたのではなかったかと思われる。彼が池主に贈った歌も、風流に託して、その負いきれない寂寥を訴えたのであろうと思われる。下僚はいずれも馴染のない人ばかりであるから、その場合、同族ということをせめてもの繋《つなが》りにしたのであったろう。
 その池主は、はからずも彼家持を起死回生させる救い主となったのである。この当時の池主は、歌人としての資質においては家持にまさっているとはいえないが、作歌に練達している点では家持よりもはるかにまさっており、漢文学より得たであろうと思われる豊かな幅を持っていて、短歌はしみじみとした、また軽快な作が自在に詠め、ことに長歌にあっては、想像を駆って縦横な詠み方ができる人だったのである。また漢文学の素養においては、はるかに家持をしのいでいたとみえる。彼は越中の国庁において傑出していたのみならず、これを京に移してもある地歩を占めうる人だったのである。最初は家持は押され気味であった。しかし彼はそれまでの抑圧されていた気分のはけ口を池主に得、文芸をとおしての交わりにのみ見られる特殊の親近感に導かれて、頻繁に唱和を続けたのである。そのことは、天平二年より十九年に至るまでの長い期間にわたっての作歌数よりも、池主と交わりを結んでの十九年一年間の作歌数のほうが、はるかに多いことによって知られる。
(10) 家持の作歌手腕は、その十九年の一年間に著しく進歩した。すなわち作歌に対する自信を持ち得、腰が据わり、いわゆる油が乗り、濶達自在な作ができるようになったのである。もとより本来の持ち味の上に立ってのことであるが、それが徹底に向かうとともに、一家の風格が確立して来たのである。二十年九月に作った「放逸せる鷹を思ひ、夢に見て感悦して作れる歌一首并に短歌」と題する長編の長歌と反歌とは、題材は愛していた鷹狩の鷹を逃がした一些事を詠んだものであるが、複雑した事象を自在に詠みこなして、生趣ある作としている手腕は、まさに一家を成していることを裏書しうるものである。歌人としての大伴家持は、この年すなわち天平十九年から存在したという感がある。
 
(16)     天平二年庚午の冬十一月、大宰帥大伴の卿の、大納言に任けらえ【帥を兼ぬること旧の如し。】京に上りし時、※[人偏+兼]従等、別に海路を取りて京に入り、ここに※[羈の馬が奇]旅を悲み傷みて、各所心を陳べて作れる歌十首
 
【題意】 「十一月」は、旅人の上京が、巻三(四四六)、巻六(九六五)で十二月と知られるので、一と月先立って出発したのである。「帥を兼ぬること旧の如し」は、いわゆる遙任で、その職としての給与を得させるためで、優遇法であったとみえる。「※[人偏+兼]従」は、従者の意である。
 
3890 我《わ》が夫子《せこ》を 我《あ》が松原《まつばら》よ 見渡《みわた》せば 海人《あま》をとめども 玉藻《たまも》刈《か》る見《み》ゆ
    和我勢兒乎 安我松原欲 見度婆 安麻乎等女登母 多麻藻可流美由
 
【語釈】 ○我が夫子を我が松原よ 「我が夫子を我が」は、「待つ」と続き、それを「松」に転じての序詞で、七音のもの。妻がその夫の帰りを待つ意で、今、京に向かっての路にある作者としては、実感である。待つと松を懸けることは先例のあるものである。「松原」は、普通名詞。どことも知られぬ。「よ」は、をとおして。○見渡せば 海上を見渡せば。舟行の常として、夜は上陸して宿るのであるから、その際のこと。○海人をとめども玉藻刈る見ゆ 「海人をとめ」は、女の海人の称で、慣用語。「玉藻」は、「玉」は、美称。「藻」は、海草の総称で、食料とした物。
【釈】 わが背子を我が待つというに因む、松原をとおして海上を見渡すと、海人のおとめどもが、玉藻を刈っているのが見える。
【評】 夜の宿りをするために上陸して、落ちついた心で海上を眺めての作である。形は叙景になっているが、作因は気分で、「我が夫子を我が」という序詞が、その気分の中心となり、一首(17)を統一している歌である。妻は京にいて、久しぶりで逢える喜びを思っての序詞であるが、それをいうに、妻のほうに重点を置き、妻が我を待っているとするのは、上代よりの定まった言い方である。この歌は、巻六(一〇三〇)聖武天皇の御製「妹に恋ひ吾乃松原《あがのまつばら》見渡せば潮干の潟にたづ鳴き渡る」に酷似している。御製の調べの高く、心豊かなのには及ばないが、もの柔らかく親しさのある歌で、独自の面目のあるものとはいえる。
 
     右の一首は、三野連石守《みののむらじいそもり》の作れる。
      右一首、三野連石守作。
 
【解】 伝未詳。巻八(一六四四)に梅の歌が一首ある。以下は作者不明である。
 
3891 荒津《あらつ》の海《うみ》 潮《しほ》干《ひ》潮《しほ》満《み》ち 時《とき》はあれど いづれの時《とき》か 吾《わ》が恋《こ》ひざらむ
    荒津乃海 之保悲思保美知 時波安礼登 伊頭礼乃時加 吾孤悲射良牟
 
【語釈】 ○荒津の海 福岡湾内で、今福岡市西公園の海上の称である。○潮干潮満ち時はあれど 湖が干たり、満ちたりして、海は変化する時があるけれども。○いづれの時か吾が恋ひざらむ 「か」は、係助詞で、反語をなしているもの。「恋ひざらむ」は、「恋ひずあらむ」で、「む」は、推量の助動詞。
【釈】 荒津の海は、潮が干たり満ちたりして変化する時があるけれども、いつの時とて我は妹を恋いずにいようか、いられはしない。
【評】 自然界の現象の変化のあるのと、自身の恋ごころの変化のないのとを対照し、その心を強めようとする表現方法は、集中に例の少なくないものであり、これもそれで、四、五句は慣用句に近いものである。しかし初二句は、航路の実景を捉えてのもので、実感の裏づけのあるものであるが、誇張を思わせるものである。任期の長い地方官が、偶然にも帰京のできるようになった喜びよりの誇張であろうが、それにしても、気分よりも取材のほうが勝ちすぎた感のあるものである。そうした詠み方は、この時代としては古風なものだったのである。それがしっくりしないのだと思われる。
 
3892 磯《いそ》毎《ごと》に 海人《あま》の釣船《つりふね》 泊《は》てにけり 我《わ》が船《ふね》泊《は》てむ 磯《いそ》の知《し》らなく
(18)    伊蘇其登尓 海夫乃釣船 波※[氏/一]尓家里 我船波※[氏/一]牟 伊蘇乃之良奈久
 
【語釈】 ○磯毎に海人の釣船 「磯」は、岩石より成った海岸の称。下の続きで、釣船の繋留場である。そうした所は、風波をしのぐ便があるとしてのことと取れる。○泊てにけり 泊まってしまったことだで、夕方の光景。○磯の知らなく 磯の知られないことよで、航海を続けている意。
【釈】 磯ごとに海人の釣船は泊まってしまったことだ。わが船の泊まる磯は、何処《いずこ》とも知られないことよ。
【評】 夕方の海上を航行する不安の情をいったものである。その情を誘ったものは、磯ごとに泊てている海人の釣船で、それとわが船とを対比して、陸上の安らかさを羨み、「知らなく」といって嘆いているのである。その船の泊てる所は、船頭には予定がついており、船客も問えばわかるほどのことであるが、嘆きをあらわそぅがためにわざといっているのである。当時の航路は、できうる限り海岸から離れさせまいとしていたので、釣船の状態は明らかに知れたのである。事を主としているごとくであるが、第三句と結句とに詠歎法を用いて、気分をあらわしているもので、そのために一首が生かされている。
 
3893 昨日《きのふ》こそ 船出《ふなで》はせしか 鯨魚取《いさなと》り 比治奇《ひぢき》の灘《なだ》を 今日《けふ》見《み》つるかも
    昨日許曾 敷奈〓婆勢之可 伊佐魚取 比治奇乃奈太乎 今日見都流香母
 
【語釈】 ○昨日こそ船出はせしか 「昨日こそ」は、「こそ」は、強調してのもので、係助詞。つい昨日。「船出はせしか」は、「しか」は、「き」の已然形。「こそ」の結。前提法を作る古格で、船出をしたがの意。○鯨魚取り比治奇の灘を 「鯨魚取り」は、海の枕詞。「比治奇の灘」は、響の灘の古名であろうとされている。響の灘という地名は二か所にあって、一か所は山口県豊浦郡の西方海面で、玄海灘に続くところである。今一か所は兵庫県高砂市の海面である。ここは、次の歌との排列関係から見て、後者と思われる。「灘」は、浪の高い海の称で、他に用例のないものである。○今日見つるかも 「今日」は、上の「昨日」に対させたもの。「かも」は、詠歎の助詞。
【釈】 つい昨日船出をしたのであったが、比治奇の灘を今日は見たことであるよ。
【評】 当時の航海は一に天候しだいであったが、一行の海路はそれに恵まれて、甚だ順調なものであったのを喜んだ心である。「昨日こそ」という言い方は、他にも用例のあるもので、時の経過の速やかなのを、譬愉的にいったものである。この歌ではそれを「今日」と対照させて強めている。明るい気分の歌である。
 
3894 淡路島《あはぢしま》 門渡《とわた》る船《ふね》の 楫間《かぢま》にも 吾《われ》は忘《わす》れず 家《いへ》をしぞ思《おも》ふ
(19)    淡路嶋 刀和多流船乃 可治麻尓毛 吾波和須礼受 伊弊乎之曾於毛布
 
【語釈】 ○淡路島門渡る船の 「淡路島」は、既出。「門」は、海峡である。明石海峡。瀬戸内海の最初の寄港地なので、そこからは難波津は眼前のものとなるのである。○楫間にも 「楫間」は、「楫」は、櫂や艪の総称。「間」は、楫を操り終えて、次の操りへ移る間の称で、きわめて短い間。絶え間なくの譬喩である。○吾は忘れず家をしぞ思ふ 「ず」は、連用形。忘れずしてと続く。「家」は、家にいる妹を言いかえたもの。「しぞ」は、「し」は、強め、「ぞ」は、係助詞。
【釈】 淡路島の海峡を渡る船の、せわしく操る楫と楫の絶え間も、われは忘れずして家ばかり思っていることであるよ。
【評】 筑紫よりの航路が終わりに近く、最終の碇泊地難波津を遠く眼に見る地点に至った時の心である。遠く憧れの対象としていたその妹のいる家が、いまや実際に近くなったと思うと、憧れの情がますます募って来るというので、人間の至情に触れている心である。「淡路島門渡る」は、明石海峡は難航路とされていて、「楫間」もしたがって短かったので、これまた適切な譬喩である。
 
3895 玉《たま》映《は》やす 武庫《むこ》の渡《わたり》に 天伝《あまづた》ふ 日《ひ》の暮《く》れゆけば 家《いへ》をしぞ思《おも》ふ
    多麻波夜須 武庫能和多里尓 天傳 日能久礼由氣婆 家乎之曾於毛布
 
【語釈】 ○玉映やす武庫の渡に 「玉映やす」は、「映やす」は、「映ゆ」の使役法で、映えあらせる。「武庫」に続く意につき『古事記伝』は、「心に向かって愛でたき」という意を、古くは「むかしき」といったので、「むか」すなわち「向」を武庫に転じての枕詞だというのである。言いかえると、玉の光を映発させるものである。「武庫の渡に」は、今の兵庫に近い海で、海を「渡」といっているのは、そこから難波津までは直路になっているので、憧れ気分からいっているものと思われる。○天伝ふ 空を移りゆくで、日の枕詞。
【釈】 玉を映えあらしめる向に因みある、武庫の海で、天を移りゆく日が暮れて行ったので、わが家が恋しく思われることであるよ。
【評】 武庫の海上で日が暮れて来たので、その土地の京近い関係からと、また、夕幕は哀愁を誘われる関係からとがからみ合って、しきりに家恋しくなって来たことを、気分を主として詠んでいる歌である。「玉映やす武庫の渡に」は、夕日に海が輝く美しさを、玉を装いとした美しい人を連想していったもの、また、「天伝ふ日の暮れゆけば」は、海上で遮る物なく眺める広い空を思ってのもので、いずれも感覚的・気分的の味わいを持ったものである。事として立ち入った言い方をせず、気分とし(20)て柔らかく拡がりを持った言い方をしているところは、まさに新風で、凡手ではない。なお底本、元暦校本、紀州本などでは前の(三八九四)とこの歌との間に(三八九八)(三八九九)とが入り、排列の順序を異にしている。しばらく『国歌大観』の番号順に従う。
 
3896 家《いへ》にても たゆたふ命《いのち》 浪《なみ》の上《うへ》に 浮《う》きてし居《を》れば 奥処《おくか》知《し》らずも
    家尓底母 多由多敷命 浪乃宇倍尓 宇伎※[氏/一]之乎礼婆 於久香之良受母
 
【語釈】 ○家にてもたゆたふ命 「家にても」は、家にあっても。「たゆたふ」は、定まらず、漂うの意で、安定に対する語。「命」は、わが生命をで、これは仏教の無常観の上に立っての心。○浪の上に浮きてし居れば 「浪の上に」は、浪の上を行く船の上にの意。「浮きてし」の「し」は、強意の助詞。「浮きて」は、船上にある自身の状態。この語は「たゆたふ」に気分の上で絡むものを持っている。○奥処知らずも 「奥処」は、「奥」すなわち物の極まり。「処」は、ところで、際限というにあたる。「知らずも」は、知られないことよ。生命のたゆとう程度に際限がない意を嘆いていっているもの。
【釈】 家に在ってさえ、定まりなく漂っているわが生命を、浪の上にこのように浮いているので、その危さの際限も知られないことよ。
【評】 この歌は、これまでのものと趣を異にして、航海の危険を思い入っていっているものである。航海の怖ろしさではなく、ただちに生命そのものの危険にまで思い入ったのである。「家にてもたゆたふ命」は、知性的のものである。「奥処知らずも」は、それを徹底させているものである。しかしそのためにいっている、「浪の上に浮きてし居れば」は、実際に即しつつも、感傷の心よりいっているもので、少なくとも知性的とはいえないものである。したがって「奥処知らずも」も、その関係で感傷のまつわったものとなっている。言いかえると、第三句以下は感情語である。一首全体として観ると、知性を感情の中に溶かし入れた趣を持った歌である。この、知性と感傷と同時に働き、主観的なしめやかなものとする傾向は、この時代の新傾向といえるものである。この歌はその意味で破綻を見せていないものである。
 
3897 大海《おほうみ》の 奥処《おくか》も知《し》らず 行《ゆ》く我《われ》を 何時《いつ》来《き》まさむと 問《と》ひし児《こ》らはも
    大海乃 於久可母之良受 由久和礼乎 何時伎麻佐武等 問之兒良波母
 
(21)【語釈】 ○大海の奥処も知らず 海路の、その到り着く目当ても知られずに。○行く我を 「行く」は、ここは、官人として命をこうむって任地すなわち大宰府へ赴く意であることが、上の続きで明らかである。「我を」は、我であるのに。○何時来まさむと 「来まさむ」は、「来む」の敬語で、いつ帰っていらっしゃるでしょうかと。○問ひし児らはも 「児ら」は、女の愛称で、「ら」は、接尾語。尋ねたあのかわゆい女はなあ。作者が京に在った時代に関係した女である。
【釈】 大海の、行き着く目当ても知られずに出かけてゆく私なのに、いつ帰っていらっしゃるでしょうかと尋ねた、あのかわゆい女はなあ。
【評】 船が難波津に近づくにつれて、この作者は在京時代関係していた女を思い出し、なつかしく思うとともに、今はどうなっているだろうかと不安に感じた心を打出していっているのである。身分が高く、関係している女も世間晴れての仲であれば、消息を交わす方法もあったろうが、この作者はそれが全くできなかった人と思われる。「大海の奥処も知らず」という作者も、年若く、世間見ずの人と思われるが、「何時来まさむと問ひし」という女は、いっそうそれだったのである。当時とすればこうしたことは普通のことであったろうが、現在からは歌物語めいた感じのする歌である。
 
3898 大船《おほふね》の 上《うへ》にし居《を》れば 天雲《あまぐも》の たどきも知《し》らず 歌《うた》ひこそ我《わ》が背《せ》
    大船乃 宇倍尓之居婆 安麻久毛乃 多度伎毛思良受 歌乞和我世
 
【語釈】 ○大船の上にし居れば 「大船」は、一行の乗っている船で、官人の乗るものとて、大きな船だったとみえる。「上にし居れば」は、「し」は、強意。○天雲のたどきも知らず 「天雲の」は、天雲のごとくで、譬喩の意で「たどきも知らず」にかかり、その枕詞となったもの。「たどき」は、「たづき」と同じで、頼りどころ。「知らず」は、知られぬで、甚だ頼りなく、心細い意。○歌ひこそ我が背 「歌ひこそ」は、訓はさまざまで、定まらない。これは『全註釈』の訓である。「こそ」は、願望の助詞。歌ってください。「我が背」は、本来は女より男に対しての称であるが、男同士も愛称として用いた。ここは男同士である。呼びかけ。
【釈】 大船の上にいるので、空の雲のように、頼りどころもない心細い気がします。歌を歌ってください、親しい君よ。
【評】 若い官人で、航路には馴れない上に、ことに今は帰路で、心ゆるみも伴っていたろうから、「たどきも知らず」というのは実感であったろうと思われる。そうした際、それを救うものとして歌を求めるということは、当時、歌が生活に占めていた位置を思わせられることである。全体として、一種の気分を持った歌である。
 
(22)3899 海人《あま》をとめ 漁《いざ》り焚《た》く火《ひ》の おほほしく 都努《つの》の松原《まつばら》 思《おも》ほゆるかも
    海未通女 伊射里多久火能 於煩保之久 都努乃松原 於母保由流可間
 
【語釈】 ○漁り焚く火の 漁りをするために舟中に焚く火ので、その光のおぼつかない意で、「おほほしく」にかかる序詞。○おほほしく 心晴れない意の形容詞で、「思ほゆるかも」に続く。○都努の松原 所在不明であるが、それは名の伝わらないためで、大体は西宮市|津門《つと》、松原町付近にあった松原と推量される。この推量は巻三(二七九)高市黒人の「吾妹児に猪名野は見せつ名次山《なすぎやま》角《つの》の松原何時か示さむ」によってで、当時佳景として名高かった所である。
【釈】 海人おとめが漁りのために船中で焚く火の光のはっきりしないように、心晴れずに都努の松原の思われることであるよ。
【評】 この作者は、都努の松原の佳景に対して思慕の情を寄せており、船がそこの海岸を通る時には十分に鑑賞しようと思っていたのに、あいにくにもその時は夜に入っており、松原をはっきり見ることができなかった遺憾な心をいっているのである。気分の中心は「おほほしく」で、それをいうために「海人をとめ漁り焚く火の」という序詞を設け、それによって「おほほしく」が夜に入っているためであったという、合理的ではあるが手の込んだ技巧を用いているのである。作意は単純なものであるが、気分の歌であるのと、技巧とのために立体味を帯びて来て、やや難解のごとくに感じられる歌である。また、そのように感じさせるのは、他の人々はすべて旅愁をいっているのに、ただ一人風景を対象としての歌を詠んでいるからでもある。
 
     右の九首、作者は姓名審かならず。
      右九首、作者不v審2姓名1。
 
     十年七月七日の夜、独|天漢《あまのがは》を仰ぎて聊|懐《おもひ》を述ぶる歌一首
 
【題意】 「十年」は、天平十年で、上の天平二年の歌から一足飛びになっている。それは上の歌は旅人の大宰府時代の拾遺で、以下は年次を逐っているのである。「独」は、当時は七月七日の夜は雅宴を張るのが風であったが、それをせずに詠んだ歌の意である。
 
3900 織女《たなばた》し 船乘《ふなのり》すらし まそかがみ 清《きよ》き月夜《つくよ》に 雲《くも》立《た》ち渡《わた》る
(23)    多奈波多之 船乘須良之 麻蘇鏡 吉欲伎月夜尓 雲起和多流
 
【語釈】 ○織女し船乗すらし 織女が彦星に逢うために、天の河を渡る船に乗って漕いでいるらしいで、「し」は、強意の助詞。普通天の河を舟行するのは、彦星である。織女にしたのは、先例はあるが、珍しい想像である。○まそかがみ清き月夜に 「まそかがみ」は、意味で「清き」にかかる枕詞。「清き月夜」は、空の晴れ渡った月夜で、月は七日月である。○雲立ち渡る 天の河のあたりに立っている白雲を、舟を漕ぐために立つ天の河の白霧と見たのである。これは先例の多い想像である。
【釈】 織女が、彦星に逢おうと、天の河を船で漕ぎ渡っているらしい。まそ鏡のように清い月夜に、櫂によって立つ河霧が雲となって立ちつづいている。
【評】 天上の二星の恋を、純客観的に、清らかに美しく想像した歌である。独創はないが、それとともに自分の感情もまじえていないので、この趣を持ち得ているのであって、それがすなわち特色となっている。取材の扱い方とともに、調べが柔らかく、みずみずしく、一首全体としておのずから品位ある、気分の歌となり、それが魅力となっているのである。
 
     右の一首は、大伴宿禰家持作れる。
      右一首、大伴宿祢家持作。
 
     大宰の時の梅の花に追ひて和ふる新しき歌六首
 
【題意】 「大宰の時の梅の花」は、天平二年正月十三日、旅人が大宰府の自邸で観梅の宴を催して、人々とともに詠んだ梅花の歌三十二首(八一五−八四六)で、巻五に出ている。「追ひて和ふる新しき歌六首」は、その中の六首に対して、十年を経ての後、和うる心をもって詠んだのである。その時の風流を偲び、ゆかしさのあまりにしたことと思われる。
 
3901 み冬《ふゆ》つぎ 春《はる》は来《き》たれど 梅《うめ》の花《はな》 君《きみ》にしあらねば 折《を》る人《ひと》もなし
    民布由都藝 芳流波吉多礼登 烏梅能芳奈 君尓之安良祢婆 遠流人毛奈之
 
【語釈】 ○み冬つぎ春は来たれど 「み冬つぎ」は、「み」は、接頭語。「つぎ」は、次で、冬に続いて。「春は来たれど」は、春は来ているけれども。○梅の花 その春の梅の花を。○君にしあらねば 君ではないのでで、「し」は、強意。この「君」は、巻五(八一五)「梅花の歌」の第一首(24)目の作者「大弐紀卿」をさしている。その歌は、「正月《むつき》立ち春の来らばかくしこそ梅を折りつつ楽しき竟《を》へめ」で、それに和えている歌だからである。○折る人もなし 「折る」は、梅の花を折るのは挿頭《かざし》にするためで、それは酒宴の席に限られてのことだったのである。折る人がないというのは、梅花を愛でて雅宴を催す風流の人がないの意。
【釈】 冬に続いて春が来たけれども、梅の花を、君ではないので、折って挿頭にする人もない。
【評】 往事をなつかしんで、追いて和うるという条件の下に作った歌として見ると、初二句はその心を遂げ得ているものであるが、四、五句は誇張にすぎて、心はあるが気分とまではならず、単なる常識にとどまっているものである。不熟の作という感がある。
 
3902 梅《うめ》の花《はな》 み山《やま》と繁《しみ》に ありともや かくのみ君《きみ》は 見《み》れど飽《あ》かにせむ
    烏梅乃花 美夜万等之美尓 安里登母也 如此乃未君波 見礼登安可尓勢牟
 
【語釈】 ○み山と繁にありともや 「み山と」は、「み」は、接頭語。「と」は、のごとくで、山のように。「繁に」は、繁くで、たくさんに。「ありともや」は、「や」は、疑問の係で、たといあったからとて……だろうか。○かくのみ君は このようにばかり君は。「君」は、巻五(八一六)「梅花の歌」の第二首目の「梅の花今咲ける如散り過ぎず我が家の苑にありこせぬかも」の作者小弐小野大夫をさしていると取れる。○見れど飽かにせむ 「飽かに」は、「に」は、打消の助動詞連用形で、飽かず。「せむ」は、為む。
【釈】 梅の花はたとい山のようにたくさんに咲いていようとも、このようにばかり君は、見ても見飽かないものにすることだろうか。
【評】 和うる歌としては、形の上から見ると誰の歌に対してかがはっきりしないが、心から見ると小野大夫が、帥の邸の梅花に見ほれて、それが散らない物で、そして自分の家の苑の物であってほしいといっているのに和えたものであることが明らかだといえる。大夫の歌の「吾が家の苑に」といっているのは、当時梅は漢土渡来のもので、したがって得やすからぬ物であったことを背後にしてのことである。和え歌はその心を察しるものの、大夫は本来風雅な心に富んでいるのでそのように思うのだとし、そこに重点を置いて、その心のゆかしさをいっているのである。一首、どちらかというと複雑した気分で、扱いにくいものであるところから、勢い詠み方がたどたどしい感のするものとなってしまったのである。詠みにくい、手に余る内容ながら、強いても詠みきろうとした心の見える歌である。「み山と繁に」という幼稚に近い想像は、この作者の態度を如実に示しているものである。
 
(25)3903 春雨《はるさめ》に 萌《も》えし楊《やなぎ》か 梅《うめ》の花《はな》 ともに後《おく》れぬ 常《つね》の物《もの》かも
    春雨尓 毛延之楊奈疑可 烏梅乃花 登母尓於久礼奴 常乃物能香聞
 
【語釈】 ○春雨に萌えし楊か 春雨に催されて若葉を出した柳なのかで、「か」は、疑問。○梅の花ともに後れぬ 梅の花と一緒に、それに後れずに若葉する。○常の物かも 普通の若葉なのかで、「かも」は、疑問。
【釈】 春雨に催されて、特に早く若葉を出した楊であろうか。それともまた、梅の花と一緒に、後れずにする、普通の若葉なのか。
【評】 この歌は、巻五(八一七)「梅花の歌」の第三首目小弐粟田大夫の「梅の花咲きたる苑の青柳は蘰にすべくなりにけらずや」に和えたものと取れる。大夫の歌は、宴席の礼として蘰をするのにふさわしく、柳が若葉をしているというので、それだけで心が尽くされていて、和えるに和えようのないような歌である。作者は順序を追って和え歌を詠んでいるので、この歌にもしようとして、強いて試みた趣のある歌である。和え歌も柳を中心として、その若葉するのと、梅の花との先後を問題として、いずれが先であろうかと疑ったのである。柳の若葉と梅の花という春の景物を並べて、このように問題にするということは一応の興味のあることであり、また形としても、疑問を二つ並べて一首の歌とすることは先蹤のあることで、一首の歌としては相応に整ったものというべきである。しかしこの歌を和え歌という角度から見ると、直接につながるところのいかにも少ない、したがって体を成さないものである。強いて作ったというのはその意味である。
 
3904 梅《うめ》の花《はな》 何時《いつ》は折《を》らじと 厭《いと》はねど 咲《さ》きの盛《さかり》は 惜《を》しきものなり
    宇梅能花 伊都波乎良自等 伊登波祢登 佐吉乃盛波 乎思吉物奈利
 
【語釈】 ○何時は折らじと厭はねど 特にどのような時には折るまいと思って、折るのを厭いはしないが。折るのは賞翫するためで、それをするのはいつでもかまわないが。
【釈】 梅の花は、どのような時には折るまいと思って、折るのを厭ってはいないが、盛りに咲いている時は、惜しいものである。
【評】 この歌は、巻五(八二〇)「梅花の歌」第六首目の筑後守葛井大夫の「梅の花いま盛なり思ふどち挿頭にしてな今さかり(26)なり」に和えたものと取れる。他には類のないまで形が通っているのと、心としても、和え歌とするに足りるつながりがあるからである。しかしこの歌には気分がなく、常識を説明したにすぎない趣がある。大夫の歌が心の尽くされているもので、和える余地のないものということも伴っていよう。
 
3905 遊《あそ》ぶ内《うち》の たのしき庭《には》に 梅柳《うめやなぎ》 折《を》りかざしてば 思《おも》ひ無《な》みかも
    遊内乃 多努之吉庭尓 梅柳 乎理加謝思底婆 意毛比奈美可毛
 
【語釈】 ○遊ぶ内のたのしき庭に 「遊ぶ内の」は、遊びをしている現在の。「内」は、現在。「たのしき庭に」は、楽しいこの庭で。「庭」は、旅人の大宰府の邸の庭。○祈りかざしてば 折って挿頭にしたならばで、挿頭は、遊びの際の礼としての物。「てば」は、「て」は、完了「つ」の未然形で、それに、助詞「ば」の接したもので、仮定。○思ひ無みかも 「無み」は、動詞「無む」の連用形で、状態をあらわすもの。下に「あらむ」が略されている形で、思いなくかあらむの意。
【釈】 遊ぶ現在の楽しいこの庭で、梅や楊を折って挿頭にしたならば、思いのないことであろうなあ。
【評】 この歌は、巻五(八二一)「梅花の歌」の第七首目、満誓の「青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし」に和えたものである。和えとはいうが、満誓のさわやかな歌に対して、その心中を推量した程度のもので、何の加うるところのないものである。苦心して詠んだとみえる歌であるが、比較すると甚しく見劣りのするものである。
 
3906 み苑生《そのふ》の 百木《ももき》の梅《うめ》の 散《ち》る花《はな》の 天《あめ》に飛《と》びあがり 雪《ゆき》と降《ふ》りけむ
    御苑布能 百木乃宇梅乃 落花之 安米尓登妣安我里 雪等敷里家牟
 
【語釈】 ○み苑生の百木の梅の 「み苑生」は、「み」は、美称。「苑生」は、苑の物を植える所で、今いう庭。「百木」は、多くの木というを具象的にいったものであるが、ここは下の続きで、梅の木。○天に飛びあがり これは、下の「雪と降りけむ」の理由としていったものである。幼稚極まるところに、一種のおもしろみがある。○雪と降りけむ 雪のように降ったのであったろうで、「けむ」は、過去推量。
【釈】 お庭の百木とある梅の木の散る花が、空へ飛びあがって、雪のように降ったことであったろう。
【評】 この歌は、巻五(八二二)旅人の「わが苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」に和えたものである。旅(27)人の歌からその際の光景を想像し、昂奮して、一気に詠んだような歌である。こうした歌に和え歌を詠もうということが、自体無理なことで、それとしてはこの歌は成功しているものといえよう。
 
     右は、十二年十二月九日、大伴宿禰|書持《ふみもち》作れる。
      右、十二年十二月九日、大伴宿祢書持作。
 
【解】 「書持」は、元暦校本による。仙覚本系統の本は「家持」となっている。歌風から見て、家持よりは粗野で、一本気で、生硬で、明らかに異なった趣があるので、書持の物と思われる。書持は家持の弟で、天平十八年九月頃若くして没したことが、家持の挽歌によって知られる。
 
     三香原《みかのはら》の新しき都を讃《ほ》むる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「三香原の新しき都」は、山城国(京都府)相楽郡加茂町三香原にあった宮で、久邇宮という。奈良京より遷都され、天平十三年正月、天皇はその宮で朝を受けさせられた。このことは巻三(四七五)以下しばしば出た。「讃むる」は、賀するためである。
 
3907 山背《やましろ》の 久邇《くに》の都《みやこ》は 春《はる》されば 花《はな》咲《さ》きををり 秋《あき》されば 黄葉《もみちば》にほひ 帯《お》ばせる 泉《いづみ》の河《かは》の 上《かみ》つ瀬《せ》に うち橋《はし》わたし 淀瀬《よどせ》には 浮橋《うきはし》渡《わた》し 在《あ》り通《がよ》ひ 仕《つか》へまつらむ 万代《よろづよ》までに
    山背乃 久迩能美夜古波 春佐礼播 花咲乎々理 秋左礼婆 黄葉尓保比 於婆勢流 泉河乃 可美都瀬尓 宇知橋和多之 余登瀬尓波 宇枳橋和多之 安里我欲比 都加倍麻都良武 万代麻弖尓
 
【語釈】 ○春されば花咲きををリ 春が来れば、花が枝もたわませて咲き。○秋されば黄葉にほひ 秋が来れば黄葉が色美しく映発し。○帯ばせる泉の河の 「帯ばせる」は、「帯べる」の敬語で、都に添うて流れている河を、皇居を尊ぶ意で用いたもの。「泉の河」は、今の木津川の古名。○上つ瀬にうち橋わたし 「上つ瀬」は、上流の瀬で、瀬は水の浅いところ。「うち橋」は、かけはずしの自在にできる橋の称。この当時多かった(28)物である。○淀瀬には浮橋渡し 「淀瀬」は、淀となっている瀬で、淀は水が深く淀んでいる所。「浮橋」は、水に浮かんでいる橋で、筏や舟を並べた上へ、板を渡した橋。○在り通ひ仕へまつらむ万代までに 「在り通ひ」は、「在り」は継続しての意で、接頭語としたもの。継続して通って。「仕へまつらむ」は、御奉仕申し上げようで、「まつる」は、敬語。「万代」は、万年で、永久にという意を具象的にいったもの。
【釈】 山背の久邇の都は、春が来れば花が枝を撓ませて咲き、秋が来れば黄葉が色美しく映発し、帯としていられる泉河の、その上流の瀬にはうち橋を渡し、淀となっている瀬には浮橋を渡して、継続して通って御奉仕申し上げよう。永久にわたって。
【評】 「新しき京を讃むる」というのは、遷都という事件を機会として天皇を賀する心からのことで、賀するのは皇威の盛んなことを述べることで、その詞にも型があった。それは皇居をめぐる山川が、皇居を守り、天皇を喜ばせること、また臣下がいちずに天皇に奉仕することで、言いかえると国土山川がこぞって天皇に奉仕することであった。この歌もそれで、第一に、三香原の宮をめぐらす山の春の花、秋の黄葉の美を述べ、第二に、臣下の者が打橋と浮橋とを渡って、繁く永久に奉仕することを述べているのである。やや溯った時代にあっては、同じく賀の歌とはいっても、天皇を神格視し、宗教的な熱意をもって詠んでいるのであるが、この歌にはそうした趣がなく、単に型のみのものとなっている。作者にもよろうが、より多く時代気分によってのことと思われる。
 
3908 楯竝《たたな》めて 泉《いづみ》の河《かは》の 水脈《みを》絶《た》えず 仕《つか》へまつらむ 大宮所《おほみやどころ》
    楯並而 伊豆美乃河波乃 水緒多要受 都可倍麻都良牟 大宮所
 
【語釈】 ○楯竝めて泉の河の 「楯竝めて」は、楯を並べてで、これは弓矢を武器の主体とした時代、戦を始める前に防備として行なったことである。弓を射る意の「い」と続け、「泉」の枕詞としたもの。「たた」は、下の続きとの関係から転音となったもの。○水脈絶えず仕へまつらむ 「水脈」は、流れの道。「絶えず」は、絶えずして。○大宮所 大宮のある処の意であるが、大宮そのものをもいう語となっている。大宮を直接にさすのをはばかって、間接にいったのである。
【釈】 楯竝めて射るという、その泉の河の流れの道の絶えずに、お仕え申し上げよう、この大宮よ。
【評】 永久の物である山や河を譬として、皇居の万歳を賀するのは、以前よりの型となっていることで、これもそれである。重く、清らかに、一首一句としていっているものである。長歌にふさわしい反歌である。
 
     右は十三年二月、右馬頭境部宿禰老麿作れる。
(29)      右、十三年二月、右馬頭境部宿祢老麿作也。
 
【解】 「十三年二月」は、正式に遷都のあった翌月である。「境部宿禰老麿」は、伝未詳。
 
     霍公鳥を詠める歌二首
 
3909 橘《たちばな》は 常花《とこはな》にもが ほととぎす 住《す》むと来鳴《きな》かば 聞《き》かぬ日《ひ》なけむ
    多知婆奈波 常花尓毛歟 保登等藝須 周無等來鳴者 伎可奴日奈家牟
 
【語釈】 ○橘は常花にもが 「常花」は、常《とこ》しえの花、すなわち散ることのない花。「が」は、願望の助詞で、「も」を伴うもの。橘は永久に散らない花であってくれよ。○ほととぎす住むと来鳴かば ほととぎすが、そこに住みつこうとて来て鳴いたならば。ほととぎすは橘を酷愛して、その木を尋ねて来ることとしていっている。
【釈】 橘は永久に散らない花であってほしい。それだと、ほととぎすがそこに住もうとて来て鳴いたならば、聞かない日はないことだろう。
【評】 橘の花の咲いたのに対して、ほととぎすを思う心である。ほととぎすは必ず橘の花に来るものと定め、花が散らない限りいつまでもとどまっているものとして言っているのである。橘の花の咲く季節とほととぎすの渡って来る季節の一致しているところから、この愛すべき二つの物の間に必然的な関係を認めたのは、奈良朝時代の文芸趣味で、それがしだいに男女関係にまで進展したのである。これは文芸趣味としてのものであるが、誇張があるために、理詰めに近い趣のあるものとなっている。
 
3910 珠《たま》に貫《ぬ》く 楝《あふち》を宅《いへ》に 植《う》ゑたらば 山《やま》ほととぎす 離《か》れず来《こ》むかも
    珠尓奴久 安布知乎宅尓 宇惠多良婆 夜麻霍公鳥 可礼受許武可聞
 
【語釈】 ○珠に貫く楝を宅に 「珠に貫く」は、珠として糸に貫くで、これは五月五日の節供の薬玉のことをいったものである。薬玉は中国より渡来した物で、不浄、邪気を払うものとしたのである。わが国では、菖蒲や橘の実を五色の糸に貫いた。ここの「珠」は、下の続きで楝である。「楝」は、落葉喬木で、今のせんだんの木である。夏、長い穂をなして、淡紫の五弁の花を開き、秋その実が熟す。ここの珠は、その花の蕾であ(30)る。○植ゑたらば 植えてあらばで、他に用例のないもの。今日の口語と同じである。○山ほととぎす離れず来むかも 「離れず」は、絶え間なくで、本来空間的にいう語であるが、時間的にも用いたのである。楝の花の咲くのは、橘と時季を同じゆうしているから、ほととぎすをそちらへも及ぼしたのである。花の美しいことを通してのことである。「かも」は、疑問。
【釈】 薬玉の珠として貫く楝を、わが家に植えたならば、山ほととぎすが絶え間なく来るであろうか。
【評】 ほととぎすを恋うる心から、その好みそうな木として楝の木を想像したのである。その家には楝の木はなかったところからの想像で、想像とはいっても実際に即しているので、真実味のあるものである。前の歌よりは自然で、このほうが味わいがある。
 
     右は、四月二日、大伴宿禰書持、奈良の宅より兄家持に贈れる。
      右、四月二日、大伴宿祢書持、從2奈良宅1贈2兄家持1。
 
【解】 「四月二日」は、上の続きで天平十三年であり、この年は閏三月があったから、四月には橘が咲いていたのである。「奈良の宅」は、佐保にあった大伴氏の邸。「兄家持に贈れる」は、家持は久邇京に行っていたのである。
 
     橙橘《とうきつ》初めて咲き、霍鳥《くわくてう》飜《かけ》り嚶《な》く。此の時候に対して、※[言+巨]《なん》ぞ志を暢《の》べざらむ。因りて三首の短歌を作りて、以ちて鬱結の緒《こころ》を散らすのみ。
 
【解】 「橙橘」は、橘。「霍鳥」は、ほととぎす。「緒」は、心である。上の書持の歌に答える歌に添えた書牘である。
 
3911 あしひきの 山辺《やまべ》に居《を》れば ほととぎす 木《こ》の間《ま》立《た》ちくき 鳴《な》かぬ日《ひ》はなし
    安之比奇能 山邊尓乎礼婆 保登等藝須 木際多知久吉 奈可奴日波奈之
 
【語釈】 ○あしひきの山辺に居れば 「山辺」は、家持の久邇京の寓居のあった地。このことは巻四(七六九)にも出ている。○立ちくき 「立ち」は、接頭語。「くき」は、潜り、漏りの意の古語で、ここは潜り。
【釈】 我はあしひきの山近い家に住んでいるので、ここはほととぎすが、木の間を飛び潜って鳴かない日とてはない。
(31)【評】 取材は単純であるが、純気分の作である。「木の間立ちくき」は、実際に即しているためにおのずから拡がりを持って生きているか書持の歌に較べると、きわやかな相違がある。
 
3912 ほととぎす 何《なに》の心《こころ》ぞ 橘《たちばな》の 珠《たま》貫《ぬ》く月《つき》し 来鳴《きな》きとよむる
    保登等藝須 奈尓乃情曾 多知花乃 多麻奴久月之 來鳴登餘牟流
 
【語釈】 ○何の心ぞ どういう心からぞと、疑った意。「ぞ」は、終助詞。○橘の珠貫く月し 橘の実を、薬玉として糸に貫く月、すなわち五月の節供の月にで、「し」は、強意の助詞。○来鳴きとよむる 渡って来て鳴きとよもすことよで、盛んに鳴き立てる意。
【釈】 ほととぎすは、どういう心からであろうか。橘の実を薬玉として糸に貫く月に、渡って来て鳴きとよませることであるよ。
【評】 この歌は、橘の花の咲く時にほととぎすが渡って来て、盛んに鳴くのは、どういう心であろうと、その心を解し難いものにして、疑って問題としているものである。橘とほととぎすとを密接不離な関係のあるものと見ようとする心とは正反対なもので、それの感性的・耽美的なのに対して、知性的・批評的な態度のものである。しかし、そうはいっても、陥るところは耽美の心を深化させるにすぎないものである。更にいうと、耽美的であると同時に批評的であったのは、奈良朝の知識人の心で、これは次の平安朝時代に伝わって強化された傾向で、家持はその先蹤をなしている人である。この歌は、批評的とはいっても態度の上のことで、断定はなく、疑問になっており、質実な自然な詠み方をしていて、いささかの厭味もないものである。
 
3913 ほととぎす あふちの枝《えだ》に 行《ゆ》きて居《ゐ》ば 花《はな》は散《ち》らむな 珠《たま》と見《み》るまで
    保登等藝須 安不知能枝尓 由吉底居者 花波知良牟奈 珠登見流麻泥
 
【語釈】 ○あふちの枝に行きて居ば 「あふち」は、書持の二首目の歌に対していっているもの。「行きて居ば」は、飛んで行ってとまっていたならばで、類語のあるものであるが、ほととぎすとしては橘を主とし、楝のほうは二の次のものとしていることをあらわした言い方で、微細な心を持ったものである。○花は散らむな 「な」は、詠歎の助詞で、その美観を心に置いてのもの。○珠と見るまで 珠の散るのを見るがごときまでにで、糸に貫いた多くの珠の、その糸が絶えて散るさまをいってのもの。この珠は薬玉に絡ませたものである。
【釈】 ほととぎすが、楝の枝に飛んで行き、とまっていたならば、その花は散ることであろうよ。珠と見るまでに。
(32)【評】 書持の歌からの連想で、想像に浮かんで来た光景である。十分に気分化されているもので、そのために微細な言い方もできているのである。家持の繊細な美に対しての感受性の、いかに鋭敏であったかを思わせるに足りる歌である。
 
     右は、四月三日、内舎人《うちのとねり》大伴宿禰家持、久邇京より弟|書持《ふみもち》に報へ送れる。
      右、四月三日、内舎人大伴宿祢家持、從2久迩京1報2送弟書持1
 
     霍公鳥を思《しの》ふ歌一首、田口朝臣|馬長《うまをさ》の作れる
 
【題意】 「馬長」は、伝未詳。
 
3914 ほととぎす 今《いま》し来鳴《き な》かば 万代《よろづよ》に 語《かた》りつぐべく 念《おも》ほゆるかも
    保登等藝須 今之來鳴者 餘呂豆代尓 可多理都具倍久 所念可母
 
【語釈】 ○今し来鳴かば 「今し」は、「し」は、強意で、たった今というにあたる。○万代に語りつぐべく 永久に語り継ぐであろうと。これは最大級の名誉。
【釈】 ほととぎすよ、たった今来て鳴いたならば、永久に語り継ぐであろうと思われるがなあ。
【評】 左注によって宴席で詠んだ歌ということがわかる。主人、または主人方となって、客をもてなす心で詠んだもので、「万代に語りつぐべく」という思い切っての誇張が、一種の機知のごとく喜ばれたものとみえる。しかしこの程度の技巧が人の記憶にとどまり得たのは、その時ほととぎすが来たというような事実が伴わなかろうか。
 
     右は、伝へ云はく、ある時交遊集宴せり。此の日此の処に霍公鳥鳴かず。仍りて件の歌を作りて以ちて思慕の意を陳べきといふ。但しその宴所并に年月はいまだ詳審《つまびらか》にするを得ず。
      右、傳云、一時交遊集宴。此日此處霍公鳥不v喧。仍作2件歌1、以陳2思慕之意1。但其宴所并年月未v得2詳審1也。
 
(33)     山部宿禰|明人《あかひと》の春※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》を詠める歌一首
 
【題意】 「明人」は、赤人である。訓を主として文字にはかかわらなかったための書き方で、例の少なくないものである。
 
3915 あしひきの 山谷《やまたに》越《こ》えて 野司《のづかさ》に 今《いま》は鳴《な》くらむ 鶯《うぐひす》の芦《こゑ》
    安之比奇能 山谷古延※[氏/一] 野豆可佐尓 今者鳴良武 宇具比須乃許惠
 
【語釈】 ○あしひきの山谷越えて 「あしひきの」は、山の枕詞。「山谷」は、山や谷を。「越えて」は、通り越してで、鶯は、山にいる鳥で、春になると里へ出るものと解していっているのである。○野司に今は鳴くらむ 「野司」は、野中の小高い所の称。「今は」の「は」は、強めで、今はまさに鳴くべき季節であるとしての意でいっている。「らむ」は、現在の推量の助動詞。山の下は広い野で、木立がないところから、野づかさはとまり場所としての意で、作者の心にあった場所とみえる。○鶯の声 「声」は、詠歎をこめていっているもの。
【釈】 冬季を住みついていた山を出、多くの山や谷を通り越して、山裾の野の野づかさの上で、今はまさに鳴いているであろうところの、その鶯の声よ。
【評】 赤人の歌の特色である、静かな境を捉え、想像であるにもかかわらず、実際に即した微細な言い方をし、清らかに明るい趣をもたせているものである。この意味では、上の家持の歌と通うところの多いものである。相違を挙げると、家持の歌には湿おいが多いが、赤人の歌には、較べるとやや乾いた趣がある。しかし家持の持ち得なかった、澄み入った趣は深いものがある。この歌にもそれは認められる。これは個性の相違によるものであるが、個性をほしいままにする傾向が、時代とともに深くなって来た意味で、時代の影響も伴ってのことと思われる。
 
     右は、年月所処、いまだ詳審《つまびらか》にするを得ず。但し聞きし時のまにまにここに記し載す。
      右、年月所處、未v得2詳審1。但隨2聞之時1記2載於茲1。
 
     十六年四月五日、独|平城《なら》の故き宅に居て作れる歌六首
 
【題意】 「十六年四月五日」は、この年の二月、久邇京の高御座や大楯を難波宮に遷され、その頃は天皇は、近江|紫香楽《しがらき》宮に行幸(34)せられ、諸臣は供奉していた時である。内舎人の家持もそれに加わるべきであった。「独」というのは、何らかの事情があって、供奉に加わらず、しかも「平城の故き宅」にいたのである。なお十六年には、正月に閏があったので、「四月」は、例年の五月の候である。
 
3916 橘《たちばな》の にはへる香《か》かも ほととぎす 鳴《な》く夜《よ》の雨《あめ》に うつろひぬらむ
    橘乃 尓保敞流香可聞 保登等藝須 奈久欲乃雨尓 宇都路比奴良牟
 
【語釈】 ○にほへる香かも 「にほへる香」は、色美しく咲いている花の香。「かも」は、疑問の係。
【釈】 橘の色美しく咲いている花の香は、ほととぎすの鳴く今夜の雨で、消え失せてしまったであろうか。
【評】 雨の夜、家のうちにいて、庭の橘に鳴いているほととぎすの声に聞き入っていたが、最後に、この雨で、あの美しい花の持っている香が消え失せたろうかと、惜しんで思いやった心である。ほととぎすが鳴かなくなった時の心とみえる。耽美気分を表現したもので、耽美気分とはいっても静かななつかしい気分である。形は単純であるが、気分は相応に複雑で、作者独自のものである。
 
3917 ほととぎす 夜音《よごゑ》なつかし 網《あみ》ささば 花《はな》は過《す》ぐとも 離《か》れずか鳴《な》かむ
    保登等藝須 夜音奈都可思 安美指者 花者須具登毛 可礼受加奈可牟
 
【語釈】 ○ほととぎす夜音なつかし 「夜音」は、ほととぎすは昼も鳴くので、差別していったもの。「なつかし」は、夜音はしめやかさの添うゆえにいったもの。○網ささば 「網」は、鳥網。「さす」は、網を張る意で、他にも用例のある語。張ったならばで、網の中に取り籠めたならば。○花は過ぐとも離れずか鳴かむ 「過ぐ」は、花の時が経過することで、散る意。「離れず」は、絶えずの意で、上に出た。「か」は、疑問の係。
【釈】 ほととぎすの夜鳴く声がなつかしい。網を張って取り籠めたならば、橘の花は散ろうとも、絶えずそこで鳴くであろうか。
【評】 「ほととぎす夜音」は、そのしめやかさをなつかしむので、耽美心である。「離れずか鳴かむ」は、それを進展させようとしてのものである。「網ささば」は、耽美心からの本能的の思いつきで、同じく花を惜しむ心である。幼く思いつめる心と、細かい心づかいとのある歌で、作者の人柄を思わせられる歌である。
 
(35)3918 橘《たちばな》の にほへる苑《その》に ほととぎす 鳴《な》くと人《ひと》告《つ》ぐ 網《あみ》ささましを
    橘乃 尓保敞流苑尓 保等登藝須 鳴等比登都具 安美佐散麻之乎
 
【語釈】 ○橘のにほへる苑に 橘の花の、色美しく咲いている庭にで、「苑」は、自分の家の庭である。○鳴くと人告ぐ 「人」は、家人。○網ささましを 鳥網を張って、そのほととぎすを取り籠めようものを。
【釈】 橘の花の色美しく咲いている庭に、ほととぎすが鳴いていると人が告げる。鳥網を張って取り籠めようものを。
【評】 これは昼のことと取れる。「網ささましを」は、上の歌と心の通うものであるが、こちらには熱意がなく、単なる思いつき程度のものとなっている。それは「人告ぐ」という間接のもので、直接な刺激を受けないために熱意が湧かなかったためとみえる。これは誰にも共通のことであるが、家持という人はその程度のきわだっていた人とみえる。感傷的な人だったのである。
 
3919 あをによし 奈良《なら》の都《みやこ》は 古《ふ》りぬれど もと霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》かずあらくに
    青丹余之 奈良能美夜古波 布里奴礼登 毛等保登等藝須 不鳴安良久尓
 
【語釈】 ○奈良の都は古りぬれど 奈良の都は旧都となったが。この時は上にいったように都は難波に遷されていたのである。○もと霍公鳥 昔なじみのほととぎすで、ほととぎすは鳴き声の同じところから、年々同じほととぎすが還って来るとしての称。○鳴かずあらくに 「あらく」は、「ある」の名詞形。「に」は、感動の助詞で、鳴かずにいることよで、鳴かないことよの意。
【釈】 あおによし奈良の都は旧都となってしまったが、昔なじみのほととぎすは、鳴かずにいることよ。
【評】 題詞にあるように、家持は行幸の供奉にも加わらず、ひとり佐保の家に籠もって、おりからのほととぎすに心を紛らしていたのであるが、そのほととぎすが鳴かなかった時、官人として思い入るところがあって詠んだ歌とみえる。咲く花のにおうがごとくと讃えられた奈良の都が旧都となったのであるから、普通の情としては「もと霍公鳥」も鳴くというべきであるのに、この歌は、その鳴かないことに重点を置いていっているのである。これは「もと霍公鳥」が遷都を肯定している心で、それがやがて作者の心でもあったのである。相ついでの遷都は政情にからんでのことであり、官人としての作者は内舎人という微官ではあったが、それに通じていて、このような言い方をしているものとみえる。一首、意図を持っての歌であるが、それにし(36)ては気分があり、底を割らないところに味わいのあるものであ  る。
 
3920 鶉《うづら》鳴《な》き 古《ふる》しと人《ひと》は 念《おも》へれど 花橘《はなたちばな》の にほふこの宿《やど》
    鶉鳴 布流之登比等波 於毛敞礼騰 花橘乃 尓保敷許乃屋度
 
【語釈】 ○鶉鳴き古しと人は念へれど 「鶉鳴き」は、鶉は草深い所、荒れた家の庭などに住むところからの、修飾語として古しに続けたもの。「古しと人は念へれど」は、古くなった家と他人は思っているけれども。○花橘のにほふこの宿 「花橘」は、橘の、花の咲いている時の称。「にほふ」は、色美しく咲いている。「この宿」は、このわが家よと、なつかしみの情を寄せていっているもの。
【釈】 鶉が鳴いて古びていると人は思っているけれども、橘の花の色美しく咲いているわが家よ。
【評】 古くより住み馴らしているわが家のなつかしさをいっているもので、共通の人情である。同じくなつかしさをいうにしても、大伴氏の故宅であるから、その方面からも言いうるものがあろうが、それには触れず、「鶉鳴き古しと」と、「花橘のにほふ」とを対照させて、その一点からのみいっているところに、この歌の魅力がある。気分の具象化の巧みに、しかも自然にできている意味においてである。ここにも作者の人柄がみえる。
 
3921 杜若《かきつばた》 衣《きぬ》に摺《す》りつけ 大夫《ますらを》の きそひ猟《かり》する 月《つき》は来《き》にけり
    加吉都播多 衣尓須里都氣 麻須良雄乃 服曾比※[獣偏+葛]須流 月者伎尓家里
 
【語釈】 ○杜若衣に摺りつけ 「杜若」は、今と同じ。その紫の花を衣に摺って摺衣《すりごろも》とする意。巻七(一三六一)「住吉の浅沢小|野《の》のかきつばた衣《きぬ》に摺りつけ着む日知らずも」とあり、一つの風となっていたのである。○大夫のきそひ猟する 「大夫」は、男子の自尊しての称。「きそひ猟する」は、「きそひ」は、着装《きよそ》いの約で、普通の衣服の上にさらに衣服を襲《かさ》ねる意で、狩衣である。「きそひ猟」は、薬猟ということを、その時の特殊な服装であらわしているものである。薬猟のことは巻十六(三八八五)「乞食者の詠」に出た。○月は来にけり 月は来たことだで、本来は五月五日の行事であったのが、四、五月の頃になったのである。今は題詞にいうように、実際は五月で、まさにその月だったのである。
【釈】 杜若の紫の花を衣に摺って摺衣とし、男子がそれを着装うての猟をする月が来たことだ。
【評】 平城の故宅の寂寥の中にあって、最後に思いを寄せたのは、宮中の行事としての五月の薬猟の華やかさであって、それ(37)に対しての憧れの情をいったものである。薬猟の楽しさをいうに、その頃の定めとなっていたと思われる杜若の摺衣によってしているのは、具象化の方法としてである。その楽しさは華やかさにありとし、気分としてあらわそうとしたのである。一首、華やかさに清らかさも添っていて、さわやかな感じのある作である。
 
     右は、大伴宿禰家持の作れる。
      右、大伴宿祢家持作。
 
     十八年正月、白雪|多《さは》に零《ふ》りて地《つち》に積むこと数寸なり。時に左大臣橘の卿、大納言藤原豊成の朝臣及び諸王臣等を率《ゐ》て、太上天皇の御在所【中宮の西院】に参入《まゐ》りて、掃雪に供へ奉りき。ここに詔を降して、大臣参議并に諸王は、大殿の上に侍《さもら》はしめ、諸卿大夫は南の細殿に侍はしめて、則ち酒を賜ひて肆宴《とよのあかり》し給ひき。勅したまはく、汝諸王卿等、聊此の雪を賦して各其の歌を奏せよといふ。
      十八年正月、白雪多零積v地數寸也。於v時左大臣橋卿率2大納言藤原豊成朝臣及諸重臣等1、參2入太上天皇御在所1、【中宮西院】供2奉掃雪1。於v是降v詔、大臣參議并諸王者、令v侍2于大殿上1、諸卿大夫者令v侍2于南細殿1、而則賜v酒肆宴。勅曰、汝諸王卿等、聊賦2此雪1各奏2其謌1。
 
【題意】 「橘の卿」は、諸兄で、豊成以下を引率したのである。「藤原豊成」は、武智麿の第一子、天平十三年五月従三位、十五年五月中納言、二十年三月従二位大納言、天平感宝元年に右大臣に昇り、天平神護元年十一月、右大臣従一位で薨じた。この時は中納言であり、また集中の例として大納言以上は名を書かないので、ここの「大納言」の「大」は、「中」を後より改めたものだろうとされている。「太上天皇」は、元正天皇である。「中宮の西院」は、「中宮」は宮殿の称で、「西院」は、その西部にある建物。「掃雪」は、実際は雪のお見舞。「南の細殿」は、南の廊下。「肆宴」は、宮中での酒宴の称。
 
     左大臣橘宿禰、詔に応《こた》ふる歌一首
 
3922 降《ふ》る雪《ゆき》の 白髪《しろかみ》までに 大皇《おほきみ》に 仕《つか》へまつれば 貴《たふと》くもあるか
(38)    布流由吉乃 之路髪麻泥尓 大皇尓 都可倍麻都礼婆 貴久母安流香
 
【語釈】 ○降る雪の白髪までに 「降る雪の」は、眼前の実景を捉え、譬喩の意で「白」に続けて、その枕詞としたもの。「白髪までに」は、老いて白髪となるまでに。○大皇に仕へまつれば 天皇に御奉仕申し上げて来たので。○貴くもあるか 「貴く」は、恩寵の大きくかたじけないことかなで、「か」は、詠歎。
【釈】 降っている雪のように白髪となるまでの間を、天皇にお仕え申し上げて来たので、かたじけないことでございます。
【評】 勅題の雪を枕詞にとどめ、一に皇恩の洪大なことを感謝している、老左大臣にふさわしい歌である。緊張を内に包んで、おおらかに、細部にわたらない、品位ある詠み方をしているのも、その心にふさわしい。
 
     紀朝臣|清人《きよひと》の、詔に応ふる歌一首
 
【題意】 「紀清人」は、学者として知られた人で、和銅七年二月、従六位上で、三宅臣藤麿とともに国史を撰せしめられ、養老五年正月、従五位下、山上憶良らとともに、退朝の後に東宮(後の聖武天皇)に侍せしめられた。天平十三年七月、従五位上、治部大輔兼文章博士となり、天平勝宝五年七月、従四位下で卒した人である。
 
3923 天《あめ》の下《した》 すでに覆《おほ》ひて 降《ふ》る雪《ゆき》の 光《ひかり》を見《み》れば 貴《たふと》くもあるか
    天下 須泥尓於保比※[氏/一] 布流雪乃 比加里乎見礼婆 多敷刀久母安流香
 
【語釈】 ○天の下すでに覆ひて 「天の下」は、漢語の天下を訳した語で、地上全体の意。「すでに」は、全く、ことごとくの意で、時間的の意のものではない。○降る雪の光を見れば 「降る雪の光」は、眼前に降りつつある雪の光で、その際きわめてあざやかに感じられているものである。○貴くもあるか 貴くもあることかな。
【釈】 天の下のこの地上を全く覆うて降っている雪の、その耀かしい光を見ると、貴いことであるよ。
【評】 この歌は、大雪の壮大な光景と、その感じとを、重く強い調べをもって叙したもので、重量感の豊かな、雄渾な趣を持ったものである。しかしそれだけにとどめず、皇威の貴さを隠喩にしたもので、「天の下すでに覆ひて」といい、「光を見れば」といっているのはその意のもので、「貴くもあるか」は、天皇を賀した詞である。この句は上の諸兄のものと同じであるが、諸(39)兄は自身の心としていっているのに、清人は、自身を除外し、一に天皇のこととしていっているのである。これは清人が自身の階級を意識してのことである。学者であり、また文章家であった清人は、漢詩を十分に消化させて、それを利用しての詠み方をする人であったとみえる。清人の歌は集中この一首があるのみである。当然あったのだろうが、採録する機会が得られなかった結果と思われる。
 
     紀朝臣|男梶《をかぢ》の、詔に応ふる歌一首
 
【題意】 「男梶」は、天平十五年五月、外従五位下となり、諸官を歴任して、天平宝字四年正月、和泉守となった人である。
 
3924 山《やま》の峡《かひ》 そことも見《み》えず 一昨日《をとつひ》も 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 雪《ゆき》の降《ふ》れれば
    山乃可比 曾許登母見延受 乎登都日毛 昨日毛今日毛 由吉能布礼々婆
 
【語釈】 ○山の峡そことも見えず 「峡」は、山と山との間の称で、その山の峡が、山と一様になって、どこがそこであるかわからない。○一昨日も昨日も今日も 幾日も続いてということを強く印象的にいおうとして、わざと分解していっているもので、具象化である。これは先蹤のあるもので、成句に近いものである。
【釈】 山の峡は、どこがそこであるともわからない。一昨日も、昨日も、今日も、打続いて雪が降っているので。
【評】 この歌は、「雪を賦して」のものであるが、単に大雪そのものに驚き珍しく思っているだけの心で、賀の心は認められないものである。詔に応ずる歌であるが、そうした特殊な事情は念頭に置かず、個人的の興味のみをいったものといえる。歌は時代的にそのような傾向を取りつつあったので、それに従って詠んだものというべきであろう。よし悪しをいうべきほどのものではない。
 
     葛井《ふぢゐ》連|諸会《もろあひ》の、詔に応ふる歌一首
 
【題意】 「諸会」は、天平七年九月、右大史正六位下、十九年四月、相模守となり、天平宝字元年五月、従五位下となった人である。『経国集』に対策文が収められている。
 
(40)3925 新《あらた》しき 年《とし》のはじめに 豊《とよ》の年《とし》 しるすとならし 雪《ゆき》の降《ふ》れるは
    新 年乃婆自米尓 豊乃登之 思流須登奈良思 雪能敷礼流波
 
【語釈】 ○豊の年しるすとならし 「豊の年」は、漢語の豊年を訳した語。「豊」は、ゆたか。「年」は、稲の意の古語で、祝詞の祈年祭《としごいのまつり》の年などと同じである。「しるす」は、ここはあらわすで、瑞兆をあらわす意である。『文選』の謝霊運の雪賦に、「盈v尺則呈2瑞於豊年1」とあり、その他にもある。諸会は、漢文学に通じているところから、これらを心に置いてのものとみえる。「ならし」は、「なるらし」で、「らし」は、強い推量。
【釈】 新しい年の始めに、豊年の瑞兆をあらわすことであるらしい。雪の降っているのは。
【評】 諸会は、官人とはいえ、身分の低い者であることを強く意識し、雪を自身に触れさせていわないのはもとより、狭く、実際的な物とし、雪は豊年の兆という成語に即して、それをもって国家を賀する態度で詠んだのである。地方官として、実務に携わっている者のごとき態度である。年月としての「年」と、稲の古語としての「年」との同音異義であるのを利用して、技巧としたものといえる。雪は豊年の兆ということは、漢文学の造詣をいうほどのものではないが、この時代はすでに漢文学が知識階級に行き渡り、しかも新味を持っていたのであるから、これまた技巧と見られ得るものであったろう。一首、暢《の》びやかで明るさを持ち得ており、賀歌としてふさわしいものである。
 
     大伴宿禰家持の、詔に応ふる歌一首
 
3926 大宮《おほみや》の 内《うち》にも外《と》にも 光《ひか》るまで 零《ふ》らす白雪《しらゆき》 見《み》れど飽《あ》かぬかも
    大宮能 宇知尓毛刀尓毛 比賀流麻泥 零須白雪 見礼杼安可奴香聞
 
【語釈】 ○大宮の内にも外にも 大宮の四方の御門の内にも外にも。○零らす白雪 「零らす」は、原文「零須」で、敬語法である。類聚古集には「零流」とあって、「零れる」である。「零らす」だと、天皇の意志でお降らせになるで、「大宮」との関係で通じなくはない。
【釈】 大宮の四方の御門の内にも外にも、光るまでにお降らせになる白雪は、見ても見飽かない愛でたさであるよ。
【評】 結句の「見れど飽かぬかも」が作意で、雪の美観を感覚的に讃えたものである。しかしそれを単なる雪とせず、「大宮の内にも外にも光るまで零らす」と、皇威によって降らせた物として、賀の心をからませた歌と取れる。表面は叙景で、ただ(41)「零らす」の一敬語によってその心をあらわしているものとみえる。しかし中心を美観に置いているので、賀の心は隠約なものとなっている。家持を思わせるものである。なお『総釈』で、佐佐木信綱氏は、当時家持は外従五位下で、紀男梶や吉井諸会より高位であるのに、下位の者のごとくに歌を並べているのは、この巻が家持の手に成った一証とするに足りるとしている。
 
     藤原豊成朝臣、巨勢|奈弖《なで》麿朝臣、大伴牛養《うしかひ》宿禰、藤原仲麿朝臣、三原王、智努《ちぬ》王、船主、邑知《おほち》王、小田王、林王、穂積朝臣|老《おゆ》、小田朝臣|諸人《もろひと》、小野朝臣|綱手《つなで》、高橋朝臣|国足《くにたり》、大《おほ》朝臣|徳太理《とこたり》、高丘《たかをか》連|河内《かふち》、秦忌寸朝元《はだのいみきてうぐわん》、楢原造東人《ならはらのみやつこあづまひと》
 
【解】 以上の人は、左注によって、歌を作った人々である。「巨勢奈弖麿朝臣」は、大海の孫、比登の子で、従二位大納言に昇り、天平勝宝五年三月に薨じた。「大伴牛養宿禰」は、咋子の孫、吹負の子、正三位中納言となり、天平勝宝元年閏五月薨じた。「藤原仲麿朝臣」は、不比等の孫、武智麿の第二子で、天平宝字二年八月、勅によって藤原恵美押勝と称し、大師および正一位となったが、天平宝字八年九月、謀反のことが顕われて、近江に奔って斬られた。「三原王」は、巻八(一五四三)に既出。舎人皇子の子。天平勝宝四年七月薨じた。「智努王」は、長皇子の子、天平勝宝四年九月、文室真人智努と称した。従二位となり、宝亀元年十月薨じた。「船王」は、舎人皇子の子で、後、親王となり、二品兵部卿となった。天平宝字八年十月、恵美押勝の変に坐して隠岐国に流された。「邑知王」は、長皇子の第七子で、後、文室真人大市と称し、正二位中務卿となった。宝亀十一年十一月薨じた。「小田王」は、系統未詳。天平勝宝元年十一月、従五位下から正五位下となった。「林王」は、未詳。林王と呼ばれた人は何人かいたようであるが、いずれも歌は伝わっていない。「穂積朝臣老」は、巻三(二八八)に出た。「小田朝臣諸人」は、『代匠記』初稿本は、「小田」は「小治田」の誤写としている。小治田諸人だと天平勝宝六年正月、従五位上となった人。「小野朝臣綱手」は、天平十二年外従五位下。内蔵頭を経て、十八年四月、上野守、従五位下となった。「高橋朝臣国足」は、天平十八年四月、従五位下で越後守となった。「大朝臣徳太理」は、天平十八年四月、従五位下となった。「高丘連河内」は、巻六(一〇三八)に出た。「秦忌寸朝元」は、弁正法師の子で、唐で生まれた人。天平七年四月、外従五位上、九年十二月、図書頭。十八年三月、主計頭となった。「楢原造東人」は、天平十九年三月、駿河守となり、天平勝宝二年三月、駿河国廬原郡多胡の浦の浜で黄金を獲て献じ、勤臣の姓を賜わった。天平宝字元年五月、正五位下となった。
 
     右の件の王卿等、詔に応へて歌を作り、次によりて奏しき。登時《そのとき》其の歌を記さず、漏失せり。但《ただ》、秦忌寸朝元は左大臣橘の卿|謔《たはぶ》れて云はく、歌を賦するに堪《あ》へずは麝を以ちて贖《あがな》へといふ。此に因(42)りて黙止《もだ》をりき。
      右件王卿等、應v詔作v歌、依v次奏之。登時不v記2其歌1、漏失。但秦忌寸朝元者、左大臣橋卿謔云、靡v堪v賦v歌以v麝贖之。因v此黙已也。
 
【解】 「橘の卿謔れて云はく」以下は、秦朝元は唐で生まれた人で、漢学には通じていたが、作歌には堪えられなかったので、諸兄は庇護する心を、謔れの形をもっていったのである。「堪へずは」は、「出来ずば」の意で、「麝を以ちて贖へ」は、朝元はその唐との関係で、家に麝香を蔵していることが知られていたので、代わりにそれを奉れよといったのである。罪の贖いに物をもってすることはきわめて古い代からの習わしであったから、これは普通のことだったのである。「黙止をりき」は、黙っていたで、歌を詠まなかった意である。
 
     大伴宿禰家持、閏七月を以ちて越中国の守に任《ま》けらえ、即ち七月を取りて任所に赴く。時に姑《をば》大伴氏の坂上郎女の、家持に贈れる歌二首
 
【題意】 「閏七月」は誤写とされている。閏は、普通の月の後に続くものであるから、閏七月に命が下り、「七月」に発足することは不合理である。また、天平十八年には、九月に閏があったが、七月にはなかったのである。一方、続日本紀にこの事の記事があり、命の下ったのは六月二十一日であるから、明らかに「六月」の誤写とすべきである。「姑」は、父の姉妹の称で、郎女は、旅人の異母妹であり、家持には叔母である。
 
(43)3927 草枕《くさまくら》 旅《たび》ゆく君《きみ》を 幸《さき》くあれと 斎戸《いはひべ》すゑつ 吾《あ》が床《とこ》の辺《ぺ》に
    久佐麻久良 多妣由久吉美乎 佐伎久安礼等 伊波比倍須恵都 安我登許能敞尓
 
【語釈】 ○斎戸すゑつ 「斎戸」は、忌み清めた瓶で、神に供える御酒の称である。「すゑつ」は、神に供えた意でいっているものである。○吾が床の辺に 床の辺に据えるのは定まった習わしとなっていたもので、巻二十(四三三一)に「斎瓮を床辺にすゑて」ともある。
【釈】 草枕の旅を行く君が無事であれと斎戸を据えて祈った。わが床の辺に。
【評】 上代の旅の容易ならぬものであったことはしばしば出た。家持の場合は、国守の赴任としての旅であるから、相当の警備もあり、不安なものではなかったろうが、若き甥に対する叔母の情として、発足に先立って、励まし力づける心をもって贈ったものである。平淡に、澄んだ気品ある詠み方をしているのは、その目的にふさわしいことである。
 
3928 今《いま》のごと 恋《こひ》しく君《きみ》が 思《おも》ほえば いかにかもせむ 為《す》るすべのなさ
    伊麻能其等 古非之久伎美我 於毛保要婆 伊可尓加母世牟 須流須邊乃奈左
 
【語釈】 ○思ほえば 動詞「思ほゆ」の未然条件法。思われるならば。
【釈】 今のように、恋しくあなたが思われるならば、どうしたらよいのでしょうか。するべき方法もないことです。
【評】 第一首で、改まって旅中の無事を祈った上で、転じて、叔母としての別後の気持を思いやっていっているものである。叔母甥の間では、この程度のことは口頭で軽く言い合うものであるが、それとは反対に歌には成り難い性質のものである。捉え所のない気分だからである。この歌は、その気分をそのままに捉えて、情味濃やかなものにしている。郎女にして初めてなしうることである。手腕を思わせられる歌である。
 
     更に越中国に贈れる歌二首
 
3929 旅《たび》に去《い》にし 君《きみ》しも続《つ》ぎて 夢《いめ》に見《み》ゆ 吾《あ》が片恋《かたこひ》の しげければかも
(44)    多妣尓伊仁思 吉美志毛都藝※[氏/一] 伊米尓美由 安我加多孤悲乃 思氣家礼婆可聞
 
【語釈】 ○吾が片恋のしげければかも 「片恋」は、こちらでばかり思っている恋。「しげければかも」は、繁くあるからであろうかで、下に、「あらむ」の意が省略されている。人の夢を見るのは、その人がこちらを思っているからだとするのが普通であるが、反対に、こちらで思っていると、その人を夢に見るともしていた。ここは後の場合のものである。
【釈】 旅に行ってしまった君が、続いて夢に見えます。わたしの片恋が繁くあるからのことでしょうか。
【評】 「吾が片恋の」以下は、文字どおりのものではなく思える。郎女はうち続いて家持の夢を見、年長の女心から、彼が旅のさびしさからしきりに家を恋うてのことであろうと隣れんで、黙ってはいられなくなったと思われる。しかし、それと直接にはいわず、わざと、普通の恋愛関係のように、「吾が片恋」と誇張していったものと思われる。これはありがちなことだからである。家持は無論それとすぐに感じたのであろう。才女というべきである。
 
3930 道《みち》の中《なか》 国《くに》つ御神《みかみ》は 旅行《たびゆき》も 為知《しし》らぬ君《きみ》を 恵《めぐ》みたまはな
    美知乃奈加 久尓都美可未波 多妣由伎母 之思良奴伎美乎 米具美多麻波奈
 
【語釈】 ○道の中国つ御神は 「道の中」は、越中国を、越の道の中の国と呼んでいたので、越中の意味でいっている。「国つ御神」は、その国を守護する神で、国魂である。国々にそうした神が鎮座していたので、これは古い時代からの信仰である。○旅行も為知らぬ君を 「旅行」は、旅に行くことで、名詞。ここは家持の国守として着任していること。「為知らぬ」は、するを知らないで、経験のない意。○恵みたまはな 「な」は、相手に希望または願望をあらわす助詞。普通、自己の動作につけるが、「たまふ」は、例外である。恵んでいただきたい。
【釈】 越の道の中の国の御神は、旅に行くことの経験もない君を、恵んでいただきたい。
【評】 上の歌は、家持を不安に感じて案じる心持を、なかば戯れめいていったのであったが、この歌は、その延長として、転じて改まっていっているものである。表面は家持に宛てたものであるが、実質は越中国の国つ御神に、家持の加護を祈るものである。すなわち家持とともどもに祈ろうとするので、祈りは同心の者が多人数でするのが本来だったのである。越中にあっては、その国の国つ御神が最大の権力者だったのである。祈りの言葉であるが、叔母としての純情の気分の沁みわたった感じのあるものである。
 
(45)     平群氏《へぐりうぢ》の女郎《をみな》の、越中守大伴宿禰家持に贈れる歌十二首
 
【題意】 「平群氏の女郎」は、家持の関係した多くの女性の中の一人で、本巻に至って初めて見える人である。伝は未詳である。「十二首」は、時々に贈ったものであることが左注にある。
 
3931 君《きみ》により 吾《わ》が名《な》はすでに 立田山《たつたやま》 絶《た》えたる恋《こひ》の しげき頃《ころ》かも
    吉美尓餘里 吾名波須泥尓 多都多山 絶多流孤悲乃 之氣吉許呂可母
 
【語釈】 ○吾が名はすでに 「すでに」は、もはやの意で、現在と同じ意の副詞。上の(三九二三)「天の下すでに覆ひて」の「すでに」の、すっかりの意のものと二様に用いられていたのである。○立田山 奈良県生駒郡にある山で、しばしば出た。上よりは「立つ」と続き、それを立田山へ懸けたものである。この「立田山」は、普通からいうと、枕詞または序詞として下へ続く形のものであるが、この歌はそれではなく、ただ「立つ」の意だけで終止しているものである。すなわち「立つ」という意を、語調のおもしろさから「立田山」としたにすぎないものである。『略解』は、生駒郡は古くは平群郡で、平群氏の住地の関係から捉えたものだと解しているが、それにしても同様である。○絶えたる恋の 関係のなくなってしまった恋のであるが、家持が越中へ行って逢えなくなったことを、誇張していっているもの。○しげき頃かも 多いこの頃であるよで、逢えないと思うと、かえって恋の深まる意。
【釈】 君によってわが評判はもはや立って、関係のなくなってしまった恋の思いの多いこの頃であるよ。
【評】 家持に対しての訴えで、評判は立ち、逢うことは全然できないために、恋はますます繁くなって来るという、もっともな嘆きである。「立田山」という語は、作者としては高く立つという意を持たせたつもりでもあろうが、徹底しないために、心よりも語調を重んじた形のものとなり、かえって一首を軽くさせる結果となっている。
 
3932 須磨《すま》ひとの 海辺《うみべ》常《つね》去《さ》らず 焼《や》く塩《しは》の 辛《から》き恋《こひ》をも 吾《あれ》はするかも
    須麻比等乃 海邊都祢佐良受 夜久之保能 可良吉戀乎母 安礼波須流香物
 
【語釈】 ○須磨ひとの海辺常去らず焼く塩の 須磨の人が、海辺をいつも離れずに焼いている塩のようにで、譬喩として「辛き」にかかり、以上その序詞。○辛き恋をも 苦しい恋を。
(46)【釈】 須磨の人が、海辺をいつも離れずに焼いている塩のように、辛く苦しい恋をわたしはしていることですよ。
【評】 逢える望みのない恋の訴えである。四、五句は慣用句である。序詞も、住地には関係のないもので、伝え聞いて知っていることを捉えていっているもので、その点、上の歌の「立田山」と似ている。一首の歌としては平凡なものであるが、才の働く女だったのである。
 
3933 ありさりて 後《のち》も逢《あ》はむと 念《おも》へこそ 露《つゆ》の命《いのち》も つぎつつ渡《わた》れ
    阿里佐利※[氏/一] 能知毛相牟等 於母倍許曾 都由能伊乃知母 都藝都追和多礼
 
【語釈】 ○ありさりて 「あり」は、生存。「さり」は、春さりてなどのそれと同じく移る意で、生きて過ごしての意。○念へこそ 念えばこその古格で、已然条件法。○露の命も 露のごとき脆き命で、仏典よりのもの。○つぎつつ渡れ 生き継ぎつつ過ごしていることである。
【釈】 このように生きて過ごして、後にも逢おうと思えばこそ、露のような脆い命も生き続けて過ごしていることです。
【評】 遠国にいる家持をいちずに思って、一つ思いをめぐって、繰り返して訴えているのである。この歌は、昂奮が鎮まって、自身の身世に思い入つた趣のあるものである。こうした傾向の歌の陥りやすい概念的なところがなく、気分の範囲のものである。
 
3934 なかなかに 死《し》なば安《やす》けむ 君《きみ》が目《め》を 見《み》ず久《ひさ》ならば 術《すべ》なかるべし
    奈加奈可尓 之奈婆夜須家牟 伎美我目乎 美受比佐奈良婆 須敞奈可流倍思
 
【語釈】 ○君が目を見ず久ならば 「目」は、容儀で、目によって代表させたもの。「見ず」は、連用形で、見ずに。
【釈】 かえって死んだならば、楽であろう。君が姿を見ずに久しかったならば、やるせないことでしょう。
【評】 再び昂奮した歌であるが、初二句は慣用的なもの、三句以下は平凡で、情熱の伴わないものである。
 
3935 隠沼《こもりぬ》の 下《した》ゆ恋《こ》ひあまり 白波《しらなみ》の いちしろく出《い》でぬ 人《ひと》の知《し》るべく
(47)    許母利奴能 之多由孤悲安麻里 志良奈美能 伊知之路久伊泥奴 比登乃師流倍久
 
【解】 この歌は、巻十二(三〇二三)にあるものと同じである。古歌をかりてわが心をいうことは、実際生活の上では普通とされていたことで、これはその明らかな例である。
 
3936 草枕《くさまくら》 旅《たび》にしばしば 斯《か》くのみや 君《きみ》を遣《や》りつつ 吾《あ》が恋《こ》ひをらむ
    久佐麻久良 多妣尓之婆々々 可久能未也 伎美乎夜利都追 安我孤悲乎良牟
 
【語釈】 ○旅にしばしば 「旅」は、女郎の立場からいっているもの。「しばしば」は、久邇、難波、越中と家持の移動の続いているのをさしたもの。○斯くのみや君を遣りつつ 「斯くのみや」は、「のみ」は、強め。「や」は、疑問の係。
【釈】 草枕の旅にしばしばも、このようにばかり、君をやりやりして、われは恋うているのであろうか。
【評】 訴えというよりは、自身を主としての愚痴に近い歌である。三、四句は倒句になっており、「斯くのみや」は、「吾が恋ひをらむ」に続くものである。語調を主として、それに引かれてのものである。一首を弱くしている。
 
3937 草枕《くさまくら》 旅去《たびい》にし君《きみ》が 帰《かへ》り来《こ》む 月日《つきひ》を知《し》らむ すべの知《し》らなく
    草枕 多妣伊尓之伎美我 可敞里許年 月日乎之良牟 須邊能思良難久
 
【語釈】 ○旅去にし君が 旅に行った君がで、「旅」は、越中。
【釈】 草枕の旅へ行った君が、帰って来るだろう月日を知る方法も知られないことよ。
【評】 家持の京に帰る時の遠さを思いやった嘆きである。国守の任期は普通は四年だったので、年若い女心からはまさに遼遠の感がしたのであろう。「来む」「知らむ」とあり、さらに「知らなく」と、同じ形が重なって、平板な感をさせる。心もそれに伴って平凡なものとなっている。才は働くが、作歌には馴れなかったのである。
 
3938 かくのみや 吾《あ》が恋《こ》ひをらむ ぬばたまの 夜《よる》の紐《ひも》だに 解《と》き放《さ》けずして
 
 
       (48)    可久能未也 安我故非乎浪牟 奴婆多麻能 欲流乃比毛太尓 登吉佐氣受之※[氏/一]
 
【語釈】 ○夜の紐だに解き放けずして 「夜の紐だに」は、夜寝る時の衣の紐さえも。昼は結んである衣の紐を、夜は解いて楽にして寝るのが習わしだったのである。「解き放けずして」は、解き放たないで。二句、夜も安らかな形になり得ず、丸寝をする意で、恋の恨みの程度を具体的にいったもの。
【釈】 このようにばかり、いつまでも恋うているのであろうか。夜の衣の紐さえも、解き放たないで。
【評】 初二句は慣用句である。二句以下は実際をいっているので、恋の悩みに捉えられて、懶《ものう》さに堪えない心を暗示し得ている。気分をあらわしているといえるものである。
 
3939 里《さと》近《ちか》く 君《きみ》がなりなば 恋《こ》ひめやと もとな念《おも》ひし 吾《あれ》ぞ悔《くや》しき
    佐刀知加久 伎美我奈里那婆 古非米也等 母登奈於毛比此 安達曾久夜思伎
 
【語釈】 ○里近く君がなりなば 「里近く」は、女郎が住んでいる奈良の里で、そこへ近く。「君がなりなば」は、久邇京、難波京などへ行っている家持が帰って来たならば。○恋ひめやと 恋いようか、恋いまいとで、「や」は、反語。○もとな念ひし吾ぞ悔しき よしなくも思っていたわれは、今は悔しいことだで、今はそれどころのことではないの意。
【釈】 わたしの里へ近く君が帰ったならば、このように恋いようか、恋いはしまいと、よしなくも思っていたのが、今は悔しいことです。
【評】 女郎が往時を思い返して、家持が久邇や難波へ行っていた時、恋しさに堪えない思いをしたのは、今から考えると悔しいことだというので、現在のつらさを暗示的にいっているものである。実際に即して、喰い入って言っているので、女郎のそれまでの上滑りのしがちな歌に較べて、取材は小さいが感は最も強いものである。
 
3940 万代《よろづよ》と 心《こころ》は解《と》けて 我《わ》が背子《せこ》が 拊《つ》みし手《て》見《み》つつ 忍《しの》びかねつも
    餘呂豆代等 許己呂波刀氣※[氏/一] 和我世古我 都美之手見都追 志乃備加祢都母
(49)【語釈】 ○万代と心は解けて 「万代と」は、いつまでも心かわるまいとての意で、気分として誇張していったもの。「心は解けて」は、心がうち解けてで、現在も口語にも用いているもの。○拊みし手見つつ 「拊みし」は、つねったで、恋の上の戯れとしてしたことである。初二句の心の実証である。「手」は、女郎の手。「見つつ」は、幾たびとなく見て。○忍びかねつも 恋しさに堪え得られなかったことよ。「しのび」は、仮名書きとしては初出の語である。
【釈】 いつまでも変わるまいと心がうち解けて、わが背子がつねった手を見い見いして、こらえ得られなかったことですよ。
【評】 「拊みし手」は、もとより睦まじい間での軽い戯れで、家持としては記憶にもないほどのものであろうが、女郎からいうと、そのつねられた手が、その嬉しかった時の形見のごとくに思われて、自分の手を見るごとにその時の全体が思い出されたのであろう。他に例のない特殊な取材であり、また感覚的なものである上に、歌としても情熱があり、気分に融けていて、相俟って魅力あるものとなっている。従前の歌に較べると傑出したものである。女郎からいうと、ただ家持にだけ見せる歌で、他人を予想などしなかった歌であるから、はばかりなく言い得たものだったのである。
 
3941 鶯《うぐひす》の 鳴《な》くくら谷《たに》に うちはめて 焼《や》けは死《し》ぬとも 君《きみ》をし待《ま》たむ
    ※[(貝+貝)/鳥]能 奈久々良多尓々 宇知波米※[氏/一] 夜氣波之奴等母 伎美乎之麻多武
 
【語釈】 ○鶯の鳴くくら谷に 「鶯の鳴く」は、鶯は幽谷に鳴く鳥であるとして、谷を修飾したもの。「くら谷」の「くら」は、谷の古語で、同意語を畳んで感を強めたもの。○うちはめて 「うち」は、接頭語。「はめて」は、使役の語で、わが身を投げ入れて。○焼けは死ぬとも 「は」は、強め。焼けて死のうともと、仮想としていったもの。これは、その谷を、火山の火?を吐いている所としているのである。
【釈】 鶯の鳴いている谷間に身を投げ入れて、焼けて死のうとも、君と逢う時を待とう。
【評】 わが身はたとい死のうとも、君と逢う時を待とうという、強い愛着をいったものである。初句より四句までは、「死ぬとも」を最悪の状態において想像したものである。火?を吐いている谷間に投身して焼け死ぬということは、その山は火山でなくてはならないが、そうした山を知るはずもなく、知ってもいなかったことは、その谷を「鶯の鳴く」ところとしているのでもわかる。仏説の地獄などからの想像であろう。前の歌にもまして純気分の作で、気分を詠み生かしているといえる。才の働くとともに気分の幅もある女だったのである。
 
3942 松《まつ》の花《はな》 花数《はなかず》にしも 我《わ》が背子《せこ》が 思《おも》へらなくに もとな咲《さ》きつつ
(50)    麻都能波奈 花可受尓之毛 和我勢故我 於母敞良奈久尓 母登奈佐吉都追
 
【語釈】 ○松の花 単性で、四月頃、雄花は新枝の上端に、雌花は下端に咲く。黄色で、目立たない花。これは女郎が自身に譬えたものである。○思へらなくに 思っていないことだのに。「ら」は、完了の助動詞「り」の未然形。「なく」は、打消「ず」の名詞形。
【釈】 松の花は、花の数の中にも、わが背子は思っていないことだのに、よしなくも咲き咲きしている。
【評】 女郎の歌があるのみで、家持の歌のないところから見ると、多分返しをしなかったのであろう。この歌は家持の冷淡な態度に対して恨んで贈ったものである。「松の花」は、女郎が自身の譬喩として捉えたものであるが、他に用例を見ない特殊なものである。その用い方も適切で、いわゆる渋さを持っており、「我が背子が」を除くと、松の花そのものを憐れんだ歌となり、恨みの心の現われない歌となるまでである。最初はむしろたどたどしい歌であったが、最後の三首に至ると、独自の面目を発揮したものとなっている。この歌が最後になっているところを見ると、こういわれても家持は返しをしなかったものとみえる。
 
     右の件の歌は、時時に便使に寄せて来贈れり。一度に送れるにあらず。
      右件歌者、時々寄2便使1來贈。非v在2一度所1v送也。
 
【解】 「便使に寄せて」は、便りの使に託して。京と国府の間にはそうした便宜があったのである。
 
     八月七日の夜、守大伴宿禰家持の館《やかた》に集ひて宴《うたげ》する歌
 
【題意】 家持が国守として着任した後、初めて催した宴である。「館」は、国府庁に近く、今の富山県高岡市伏木町の背後の丘陵の上にあったとされている。そこは射水川に臨んだ景勝の地である。
 
3943 秋《あき》の田《た》の 穂向《ほむき》見《み》がてり 我《わ》が背子《せこ》が ふさ手折《たを》りける 女郎花《をみなへし》かも
    秋田乃 穏牟伎見我※[氏/一]里 和我勢古我 布左多乎里家流 乎美奈敞之香物
 
【語釈】 ○穂向見がてリ 「穂向」は、穂のなびきぐあい。稔りが良ければ深くなびき、悪ければ浅い意。「見がてり」は、見るかたわら。国司は(51)その年の稲のできばえを検察するのが職責の一つとなっていたので、その意でいっているものである。○我が背子が 男同士の最上の親称。次の和え歌で、掾の大伴池主をさしているのである。○ふさ手折りける女郎花かも 「ふさ」は、巻八(一五四九)に既出。ふさふさとで、たくさん。「かも」は、詠歎で、たくさんに折った女郎花ですねの意。
【釈】 秋の田の稲の、穂のなびきぐあいを検察するかたわら、わが懐かしい友の、ふさふさと折った女郎花ですね。
【評】 池主が宴に招かれて来る途中、宴会に興を添えようとして、女郎花を折って持って来たのに対して、その日の主人の家持が、挨拶として詠んだ歌である。「秋の田の穂向見がてり」は、設けていっているもので、挨拶としての語である。これは池主が、地方官としていかに良吏であるかをいおうとしたのである。挨拶の歌としてはわざとらしくなく行き届かせたもので、明るい感じを持ったものである。
 
     右の一首は、守大伴宿禰家持の作れる。
      右一首、守大伴宿祢家持作。
 
3944 女郎花《をみなへし》 咲《さ》きたる野辺《のべ》を 行《ゆ》きめぐり 君《きみ》を念《おも》ひ出《で》 徘徊《たもとほ》り来《き》ぬ
    乎美奈敞之 左伎多流野邊乎 由伎米具利 吉美乎念出 多母登保里伎奴
 
【語釈】 ○女郎花咲きたる野辺を行きめぐり 女郎花の咲いている野を歩きまわってというので、家持のいう「穂向見がてり」というのを否んだ意。○君を念ひ出 「君」は、家持で、あなたを思い出して。これは偶然に思い出したというのではなく、楽しい風景を見ていると、物の趣を解しうる人とともに見たいという感じを起こしての意。○徘徊り来ぬ まわり廻って来た。「たもとほり」は、「た」は、接頭語。「もとほり」は、廻り廻って。
【釈】 女郎花の咲いている野を愛でて歩きまわり、一緒に見たいものだと君を思い出して、せめて花だけでも見せようと、まわり路をしてここへ来ました。
【評】 家持が良吏だと誘えたのを逸らし、我はただ風光を愛する者だといい、君もまたその心の深い人であるので懐かしんでいるということを、軽く巧みにいったものである。家持の歌の持つ柔らかみはないが、心の細かく行き届く点では、勝れているものである。
 
(52)3945 秋《あき》の夜《よ》は 暁《あかとき》さむし 白栲《しろたへ》の 妹《いも》が衣手《ころもで》 著《き》むよしもがも
    安吉能欲波 阿加登吉左牟之 思路多倍乃 妹之衣袖 伎牟餘之母我毛
 
【語釈】 ○秋の夜は暁さむし 秋の夜は、明け方が寒いで、眼前の実際をいったもの。○白栲の妹が衣手 白い織物の妹が衣で、「衣手」、すなわち袖で衣の意をあらわしている。○著むよしもがも 「よし」は、方法。「もが」は、願望の助詞で、着る方法がほしいものだなあ。男が妻の許へ通い、寒い時、妻の衣を借りて着るのは普通のことだったのである。
【釈】 秋の夜は明け方が寒い。それにつけて、妹の衣を借りて着る方法の欲しいことだなあ。
【評】 池主が旅情の侘びしさを訴えたものである。この頃の秋の夜の明け方の寒さから、奈良京に置いて来た妻の、近間にいればと思われ、その法はないものかと思われるというのである。これは自身の侘びしさをいうのが目的ではく、同じ状態でいる家持の侘びしさを察し、いたわり慰めようとの心からのものであるが、直接に、立ち入っての言い方をするのは無礼であるとの心から、婉曲な方法として、このような言い方をしたのである。宴歌としては、男女関係のものが最も一般性があるので、こうした歌が最も多かった。これもそれである。
 
3946 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》きて過《す》ぎにし 岡傍《をかぴ》から 秋風《あきかぜ》吹《ふ》きぬ よしもあらなくに
    保登等藝須 奈伎※[氏/一]須疑尓之 乎加備可良 秋風吹奴 余之母安良奈久尓
 
【語釈】 ○岡傍から 岡のほとりから。「岡」は、国司館の背後の、二上山続きの丘陵であろう。○よしもあらなくに 「よし」は、意味の広い語で、由縁、関係などの意である。ここは方法の意で、方法もないことだのにで、妹と逢う方法のない意でいっているものである。
【釈】 霍公鳥が鳴いて過ぎて行ってしまった岡の辺りから、秋風が吹いて来た。妹に逢う方法もないことだのに。
【評】 上の歌と連作になっており、同じ心を語を変えて繰り返したものである。こちらは自然を重く扱い、旅愁は隠約な形でいっているが、しかしそこに力点を置いたものである。池主の作歌の凡ならざることを示している歌である。
 
     右の三首は、掾《まつりごとぴと》大伴宿禰池主の作れる。
      右三首、掾大伴宿祢池主作。
 
(53)【解】 「掾」は、国司の三等官である。池主は家持の国守となる以前からこの職にいたのである。家持とは一族であるが、その関係は不明である。以下、家持の越中守時代には唱和の作の多い人である。
 
3947 今朝《けさ》の朝明《あさけ》 秋風《あきかぜ》寒《さむ》し 遠《とほ》つ人《ひと》 雁《かり》が来鳴《きな》かむ 時《とき》近《ちか》みかも
    家佐能安佐氣 秋風左牟之 登保都比等 加里我來鳴牟 等伎知可美香物
 
【語釈】 ○今朝の朝明秋風寒し 「あさけ」は、「あさあけ」の約。○遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも 「遠つ人」は、遠方の人で、雁を擬人して、修飾しての枕詞。「時近みかも」は、「近み」は、理由をあらわしたもの。「かも」は、疑問。
【釈】 今朝の明け方は秋風が寒い。遠方の人の雁が、来て鳴くだろう時が近いからであろうか。
【評】 池主の「秋の夜は暁さむし」に和えたものである。家持は「今朝の朝明秋風寒し」と、時間を少し変え、形を似せて承け、三句以下は、「白栲の妹が衣手」を「遠つ人雁が来鳴かむ」と、旅愁を純粋な叙景に変えたのである。池主の行き届いた心と、強い調べはない代わりに、単純に柔らかい心と、澄んだ調べがあって、全体に気品がある。宴歌としての唱和であるが、取材の凡非凡は多くいうべきではない。
 
3948 天《あま》ざかる 鄙《ひな》に月《つき》経《へ》ぬ 然《しか》れども 結《ゆ》ひてし紐《ひも》を 解《と》きも開《あ》けなくに
    安麻射可流 比奈尓月歴奴 之可礼登毛 由比※[氏/一]之紐乎 登伎毛安氣奈久尓
 
【語釈】 ○天ざかる鄙に月経ぬ 「天ざかる」は、天と遠ざかった意で、鄙の枕詞。「鄙」は、越中。「月経ぬ」は、一と月が経過した。○結ひてし紐を解きも開けなくに 「結ひてし紐」は、夫が旅立ちをする時には妻が平安を祈る心をもって、その下衣の紐を結ぶのは、上代の信仰で、しばしば出た。ここもそれで、普通のことであるから、主格が省かれている。「解きも開けなくに」は、解き放さないことだで、他の女とは関係しない意を暗示したもの。
【釈】 京からは空と遠い鄙で月を経過した。しかしながら、旅立ちをする時、妻が結んだ下衣の紐を解き開けないことだ。
【評】 池主が、「秋の夜は暁さむし」といい、また、「霍公鳥鳴きて過ぎにし」と二首の連作をもって、ねんごろに家持の旅情を慰めているのに和えたものである。家持は素直にその心持を承け入れて、我も妻を思っているといっているのであるが、し(54)かしその言い方は、改まった、むしろ野暮な言い方で、宴歌らしい洒落気なぞの全くないものである。純良ではあるが、我儘な、融通のきかない家持の風貌を思わせる和え歌である。
 
     右の二首は、守大伴宿禰家持の作れる。
      右二首、守大伴宿祢家持作。
 
3949 天《あま》ざかる 鄙《ひな》にある我《われ》を うたがたも 紐《ひも》解《と》き放《さ》けて 念《おも》ほすらめや
    安麻射加流 比奈尓安流和礼乎 宇多我多毛 比母登吉佐氣※[氏/一] 於毛保須良米也
 
【語釈】 ○天ざかる鄙にある我を 家持の「天ざかる鄙に月経ぬ」を承けての語。○うたがたも きつと、けっしての意の副詞。巻十二(二八九六)に既出。○紐解き放けて これは男が、上衣の紐を解いての意で、うち寛いで、心解けていることを具象的にいったもの。家持の「結ひてし紐を解きも開けなくに」をうけての語。○念ほすらめや 「念ほす」は、「思ふ」の敬語。「らめ」は、推量の助動詞。「や」は、反語で、お思いになっていましょうか、いないでしょうの意。
【釈】 空のように京から離れた鄙にいる私を、きっと、うち解けてはお思いになっていないでしょう。
【評】 上の和え歌に対して、さらに池主が和えた歌である。家持の和え歌が意外にも改まったものだったので、池主は訝かり恨む心をもっていっているのである。それをいうに、家持の語を取って、全く別意を盛っていっているのは、和え歌の型に従ってのことであるが、自在な才というべきである。
 
     右の一首は、掾大伴宿禰池主。
      右一首、掾大伴宿祢池主。
 
3950 家《いへ》にして 結《ゆ》ひてし紐《ひも》を 解《と》き放《さ》けず 念《おも》ふ心《こころ》を 誰《たれ》か知《し》らむも
    伊敞尓之底 由比弖師比毛乎 登吉佐氣受 念意緒 多礼賀思良牟母
 
(55)【講釈】 ○家にして結ひてし紐を 家にあって妹が結んだわが衣の紐を。○解き放けす念ふ心を 解き放たずに妹を思っているわが心を。○誰か知らむも 誰が知る者があろうか、知らないだろうで、「か」は、反語となっている。
【釈】 家にあって、旅立つ我に妻が結んだ衣の下紐を、解き放たずに妹を思っている心を、誰が知る者があろうか、知らないだろう。
【評】 池主に上のようにいわれると、家持はまた弁解せずにはいられない気になって、そうではない、あなたは私の心を知らないのだといっているのである。礼としてそういわずにはいられなかったろうが、そぅ思うところに、ますます家持の風貌の浮かぶ歌である。宴歌としてはすでに脱線している趣がある。
 
     右の一首は、守大伴宿禰家持。
      右一首、守大伴宿祢家持。
 
3951 茅蜩《ひぐらし》の 鳴《な》きぬる時《とき》は 女郎花《をみなへし》 咲《さ》きたる野辺《のべ》を 行《ゆ》きつつ見《み》べし
    日晩之乃 奈吉奴流登吉波 乎美奈敞之 佐伎多流野邊乎 遊吉追都見倍之
 
【語釈】 ○茅蜩の鳴きぬる時は ひぐらしの鳴いた時にはで、ひぐらしは明け方か夕方の涼しい時に鳴くのであるが、ここは夕方で、その声のさびしさと、夕方のさびしさとの相俟って、旅愁をそそられる時である。○行きつつ見べし 「行きつつ」は、行き行きして。「見べし」は、上一段活用の動詞は古くは連用形から「らむ」「べし」などの助動詞に接したのである。ここはそれで、「見べし」は、見るとよいの意で、さびしさを女郎花の華やかさでまざらせよの意である。
【釈】 ひぐらしの鳴いた時には、女郎花の咲いている野に行き行きして見るとよい。
【評】 作者は八千島で、家持と池主の理に落ちようとする宴歌を、軽く他に転じたのである。時は夕方で、座には池主が持って来た女郎花があるので、それらに寄せた形のものである。心さびしい時には、しかるべき方法でまぎらせよといぅので、心としては老熟したもので、歌としてもあっさりした枯れたものである。
 
     右の一首は、大目秦忌寸八千島《おほきさくわんはだのいみきやちしま》。
(56)      右一首、大目蓁忌寸八千嶋。
 
【解】 「目」は、国司の第四番目の官である。目は大国二人、中国と小国は各一人の制であったから、越中は大国で、大少の目があったのである。「八千島」の伝は未詳。なお、続日本紀、宝亀六年三月の条に、初めて越中、但馬、因幡、伯耆に大少の目を置くとあるが、事実はそれよりかなり前から置かれていたのである。
 
     古歌一首【大原高安真人の作れる】年月審ならず。但し聞く時のまにまにここに記し載す。
 
【題意】 「大原高安真人」は、もと高安王といい、天平十一年十一月、大原真人の姓を賜わって臣籍に下った人で、巻四(五七七)に出た。天平十四年十二月に卒して、当時故人だったので古歌といったのである。
 
3952 妹《いも》が家《いへ》に 伊久理《いくり》の森《もり》の 藤《ふぢ》の花《はな》 今《いま》来《こ》む春《はる》も 常《つね》斯《か》くし見《み》む
    伊毛我伊敞尓 伊久里能母里乃 藤花 伊麻許牟春母 都祢加久之見牟
 
【語釈】 ○妹が家に伊久理の森の 「妹が家に」は、「行く」と続け、伊久理の枕詞としたもの。「伊久理」は地名であるが、諸所にあるもので所在が不明である。『総釈』は、大和、越後、越中にあるとの諸説があるが、森田柿園の『万葉事実余情』の説が最も根拠があるといっている。要は越中国礪波郡石栗庄(礪波市井栗谷町)がそれであろう。東大寺所蔵の天平宝字三年十一月十四日の文書に、故大原真人麿ノ地とある。麿は高安真人の子で、父このかた所領としていた地であろうというのである。宴席の歌として詠んだものであり、風物を愛でての歌であるから、越中国に関係のあるものでないとふさわしくない。推測説ではあるが従うべきであろう。○今来む春も 「今」は、意味の広い語で、ここは副詞として、さらにの意で用いたもの。他に用例がある。さらに来るであろう春にも。○常斯くし見む 「常」は、永久に。「斯くし」は、「し」は、強めで、永久にこのように見よう。
【釈】 妹が家にいくというに因む、伊久理の森の藤の花は、さらに来るであろう春にも、永久にこのように見よう。
【評】 歌は春季のもので、時は今初秋であるから、その意味では調和のないものであるが、作意は、美に対する永久の憧れであり、作った土地も越中国であるから、新任の国守に対する賀の心を託し得られるものとして誦したのであろう。歌としても、この時代の歌風である、気分を主とした、細かく柔らかなもので、立体感を持ち得ているものである。
 
(57)     右の一首は、伝へ誦《よ》めるは僧玄勝なり。
      右一首、傳誦僧玄勝是也。
 
【解】 「僧玄勝」は、伝未詳である。この際、守の館に招かれているのであるから、国分寺の僧ででもあろう。
 
3953 雁《かり》がねは 使《つかひ》に来《こ》むと 騒《さわ》くらむ 秋風《あきかぜ》寒《さむ》み その河《かは》の《へ》辺に
    鴈我祢波 都可比尓許牟等 佐和久良武 秋風左無美 曾乃可波能倍尓
 
【語釈】 ○雁がねは使に来むと 「雁がね」は、雁。「使に来む」は、雁が秋、北方の地からわが国に渡って来るのを、中国の蘇武の故事の雁信に関係させていったもので、漢文学の影響である。すでに常識化していたのである。「と」は、とて。○騒くらむ 先を争って、いまや騒いでいるのであろう。○秋風寒みその河の辺に 「寒み」は、寒いゆえにで、その時が来たとして。「その河の辺に」は、「その」は、雁の今住んでいる国をさしたもので、北方の地である。「河の辺」は、雁は好んで河辺の蘆荻の中にいるところからの想像。
【釈】 雁はこの国へ使として来ようとて、先を争って騒いでいるのであろう。秋風が寒いので、その住む国の河の辺りで。
【評】 上の(三九四七)で、「遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも」と詠んだ歌に対し、自身唱和している形の歌である。雁に雁信を連想し、さらに京に残して来た妻を連想するものがあって、一歩進めたことをいわなくては飽き足りなかったとみえる。想像の歌を詠むと見劣りのする家持であるが、それとしてはこの歌は、気分の豊かな、余裕を持った、味わいのある歌である。
 
3954 馬《うま》竝《な》めて いざうち行《ゆ》かな 渋谿《しぶたに》の 清《きよ》き磯廻《いそみ》に 寄《よ》する波《なみ》見《み》に
    馬並※[氏/一] 伊射宇知由可奈 思夫多尓能 伎欲吉伊蘇未尓 与須流奈〓見尓
 
【語釈】 ○馬竝めていざうち行かな 「馬竝めて」は、乗馬を連ねて。「いざうち行かな」は、さあ行こうで、「うち」は、接頭語。「な」は、願望の助詞。○渋谿の 二上山の山脈が海に入って尽きる所にある磯で、高岡市伏木町から北方十町ほどの所にある勝地。○清き磯廻に寄する波見に 「磯廻」は、磯の入り込んだ所で、磯は岩石の海岸の称。ここは今も奇岩の多い勝地である。「寄する波見に」は、海の波の寄せて来る風光を見にで、家持には海は新味を持ったものだったのである。
(58)【釈】 乗馬をつらねて、さあ行こうよ。渋谿の清い磯へ寄せる波を見に。
【評】 席上に、渋谿の勝景を説いて聞かせる者があり、家持は遊意の勃然と起こるものがあって、即座に詠んだものとみえる。佳景に憧れる気分の豊かな彼であるから、ありうることである。調べが明るくさわやかで、その席にふさわしいものである。四、五句、同形、同音を畳んでいるが、謡い物としては妨げないものであったろう。
 
     右の二首は、守大伴宿禰家持。
      右二首、守大伴宿祢家持。
 
3955 ぬばたまの 夜は更けぬらし 玉《たま》くしげ 二上山《ふたがみやま》に 月《つき》傾《かたぶ》きぬ
    奴婆多麻乃 欲波布氣奴良之 多末久之氣 敷多我美夜麻尓 月加多夫伎奴
 
【語釈】 ○ぬばたまの夜は更けぬらし 「ぬばたまの」は、夜の枕詞。「らし」は、証を挙げての推量。○玉くしげ二上山に月傾きぬ 「玉くしげ」は、玉櫛笥で、蓋と続け、「二」の枕詞としたもの。「二上山」は、高岡市伏木町の西方にある山で、二蜂並立しているところからの名で、国司館からは、その背後の山である。
【釈】 ぬば玉の夜は更けたらしい。玉くしげ二上山に月が傾いた。
【評】 これは客として長座をして、夜を更かしたと、挨拶の心をもって詠んだものである。「夜は更けぬらし」「月傾きぬ」といって、時の経つのも忘れていて、今ふと心づいたという形でいっているので、要を得たものである。その場合に適切である(59)ことを旨としたもので、巧拙をいうべき性質のものではない。
 
     右の一首は、史生土師《ふみかくひとはにしの》宿禰|道良《みちよし》。
      右一首、史生土師宿祢道良。
 
【解】 「史生」は、書記で、国司の最下位の役。「遺良」は、伝未詳。
     大目《おほきさくわん》秦忌寸八千島の館に宴する歌一首
 
3956 奈呉《なご》の海人《あま》の 釣《つり》する船《ふね》は 今《いま》こそは 船〓《ふなだな》打《う》ちて あへて漕《こ》ぎ出《で》め
    奈呉能安麻能 都里須流布祢波 伊麻許曾婆 敷奈太那宇知※[氏/一] 安倍弖許藝泥米
 
【語釈】 ○奈呉の海人の 「奈呉」は、今日の高岡市伏木町と、小矢部川(もと射水川)をはさんで、東方の新湊市放生津潟一帯の富山湾に面している地。○船〓打ちて 「船〓」は、船の側板で、船の左右に縁側のような形につけた板。踏み渡るための物で、小舟にはないが、やや大きな船には必ずある物。ないのが棚無《たななし》小舟である。「打ちて」は、叩いてで、船出の際にすることで、これは物音をもって悪魔を払う呪いであろう。弓弦を鳴らしなどすると同じ意と取れる。○あへて漕ぎ出め 「あへて」は、押し切ってで、波を冒して。「め」は、「こそ」の結。
【釈】 奈呉の海の海人の釣をする船は、今こそ船〓を叩いて呪いをして、押し切って漕ぎ出すであろう。
【評】 左注によって、その日の主人八千島が、客へのふるまいとして、その家より展望のできる海のおもしろさを見せようとして詠んだ歌である。挨拶の歌の範囲のものであるが、それとしてはきわどい境を捉え、生動の趣を帯びさせている、上手な(60)歌である。「船〓打ちてあへて」というあたりは、事と気分と融 け合っている。
 
     右は、館の客屋《まれひとのや》は、居ながら蒼海を望む。仍りて主人《あるじ》この歌を作れり。
      右、館之客屋、居望2蒼海1。仍主人作2此謌1也。
 
【解】 「客屋」は、客を招じ入れる屋で、屋といっているところから見て、別棟であったろう。
 
     長逝《みまか》れる弟《おとのみこと》を哀傷《かなし》める歌一首 井に短歌
 
【題意】 「弟」は、既出の書持である。長逝の日は左注にある。
 
3957 天《あま》ざかる 鄙《ひな》治《をさ》めにと 大王《おほきみ》の 任《まけ》のまにまに 出《い》でて来《こ》し 吾《われ》を送《おく》ると あをによし 奈良山《ならやま》過《す》ぎて 泉河《いづみがは》 清《きよ》き河原《かはら》に 馬《うま》駐《とど》め 別《わか》れし時《とき》に ま幸《さき》くて 吾《あれ》帰《かへ》り来《こ》む 平《たひら》けく 斎《いは》ひて待《ま》てと 語《かた》らひて 来《こ》し日《ひ》の極《きはみ》 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》をた遠《どほ》み 山河《やまかは》の 隔《へな》りてあれば 恋《こひ》しけく け長《なが》きものを 見《み》まく欲《ほ》り 念《おも》ふ間《あひだ》に 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》の来《け》れば うれしみと 吾《あ》が待《ま》ち間《と》ふに およづれの たは言《こと》とかも 愛《は》しきよし な弟《おと》の命《みこと》 何《なに》しかも 時《とき》しはあらむを はだ薄《すすき》 穂《ほ》に出《づ》る秋《あき》の 萩《はぎ》の花《はな》 にほへる屋戸《やど》を 【言ふこころは、この人、人となり花草花樹を愛でて多く寝院の庭に植う。故、花にほへる庭と謂へり。】 朝庭《あさには》に 出《い》で立《た》ち平《なら》し 夕庭《ゆふには》に 踏《ふ》み平《たひ》らげず 佐保《さほ》の内《うち》の 里《さと》を行《ゆ》き過《す》ぎ あしひきの 山《やま》の木末《こぬれ》に 白雲《しらくも》に 立《た》ち棚引《たなび》くと 吾《あれ》に告《つ》げつる 【佐保山に火葬せり。故、佐保の内の里を行き過ぎといへり。】
    安麻射加流 比奈乎佐米尓等 大王能 麻氣乃麻尓末尓 出而許之 和礼乎於久流登 青丹余之 奈良夜麻須疑※[氏/一] 泉河 伎欲吉可波良尓 馬駐 和可礼之時尓 好去而 安礼可敞里許牟 平久 伊波(61)比※[氏/一]待登 可多良比※[氏/一] 許之比乃伎波美 多麻保許能 道乎多騰保美 山河能 敞奈里※[氏/一]安礼婆 孤悲之家口 氣奈我枳物能乎 見麻久保里 念間尓 多麻豆左能 使乃家礼婆 宇礼之美登 安我麻知刀敷尓 於餘豆礼能 多波許登等可毛 波之伎余思 奈弟乃美許等 奈尓之加母 時之波安良牟乎 波太須酒吉 穗出秋乃 芽子花 尓保敞流屋戸乎 【言、斯人、爲v性好2愛花草花樹1、而多植2於寝院之庭1、故謂2之花薫庭1也】 安佐尓波尓 伊泥多知奈良之 暮庭尓 敷美多比良氣受 佐保能宇知乃 里乎徃過 安之比紀乃 山能許奴礼尓 白雲尓 多知多奈妣久等 安礼尓都氣都流 【佐保山火葬。故、謂2之佐保乃宇知乃佐刀乎由吉須疑1】
 
【語釈】 ○大王の任のまにまに 天皇の任ずるままに。「任」は、本来、地方官として差遣する意で、転じて一般的の意となった語。○泉河清き河原に 「泉河」は、山城国相楽郡の今の木津川。「清き河原」は、この河は、徒渉もし、船によっても渡った。○馬駐め別れし時に 乗馬を駐めて、別れた時にで、泉河が別れ場所となっていたとみえる。○ま幸くて吾帰り来む 「ま幸く」は、原文「好去」で、巻四(六四八)、巻九(一七九〇)に「さきく」に当てて出ているもの。無事に任地まで行って。「帰り来む」は、任務を終えて帰って来よう。○平けく斎ひて待てと 平安にわが無事を神に祈って待っていよと。以上、家持の別れの挨拶。○語らひて来し日の極 「来し日の極」は、ここへ来た日が最後で。「極」は、極限。○道をた遠み 「た」は、接頭語。「遠み」は、遠くてで、状態をいったもの。○山河の隔りてあれば 山や河が間を隔てているので。○恋しけくけ長きものを 「恋しけく」は、「恋し」の名詞形。「け長きものを」は、時長く思うのに。恋しいために、別れている間が長く感じられる意。○見まく欲り 「見まく」は、「見む」の名詞形。見たいことだと。○使の来れば 「来れば」は、「来」に、形状言「あり」の熟合した語とする解に従う。来たので。○うれしみと うれしいことと思って。○およづれのたは言とかも 「およづれ」は、妖言の字を当てる語で、不祥の言。「たは言」は、たわけた言で、ほぼ同意語を畳んで、意を強めたもの。「とかも」は、としていうのであろうかで、「かも」は、疑問の係。○な弟の命 「な」は、汝で、親愛して添える語。「汝兄《なせ》」と対する称である。「命」は、敬称。普通の場合にも用いるが、今は故人に対しての場合なので、敬意から添えたもの。○何しかも時しはあらむを 何としたことか、死ぬ時はあろうに。「し」は、二つとも強意。「かも」は、疑問の係で、結末の「立ち棚引く」で結んでいる。○はだ薄 薄の穂が旗のようになるところからの称。○穂に出る秋の 「の」は、同意の名詞を接続する助詞。○にほへる屋戸を 色美しく咲く庭を。○言ふこころは 家持の自注。○寝院 正殿の称で、おおとの。○朝庭に出で立ち平し 「朝庭」は、朝の庭で、次の「夕庭」に対させたもの。「出で立ち平し」は、「平し」は、踏みならす意で、繁く踏む意。この二句は、次の二句と続いている。○夕庭に踏み平らげず 「踏み平らげず」は、「平し」の反対で、この「ず」の否定の助動詞は、前々句の「平し」にわたっている。この形は平安朝時代には多いものである。愛している秋の植物を賞翫する暇もなくの意。「平らげず」は、連用形で、平らげずしての意のもの。○佐保の内の里を行き過ぎ 「佐保の内」は、佐保川の周辺の地の称。佐保は大伴氏の邸のあった所で、家を出ての意。○山の木末に白雲に立ち棚引くと 山の木の梢に白雲のさまに立ち棚引いたことだと。これは自注にある、佐保山での火葬の状態。以上が使の語である。「棚引く」は、上の「何しかも」の「かも」の結。○吾に告げつる 「つる」は、「たは言とかも」の「かも」の結。
(62)【釈】 京よりは空と遠い鄙を治めにと、天皇の任のままに、家を出て来た我を送るとて、あおによし奈良山を越して、木津川の清い河原に、乗馬をとどめて別れをした時に、無事であってわれは帰って来よう、あなたも平安で、神に祈りをして私を待てと、話し合ってこちらへ来た日が最後で、玉桙の道が遠くて、山や河を隔てているので、恋しいことは時長く思われるのに、見たいことだと思っている間に、玉梓の使が来たので、うれしいことだと思って、待って尋ねると、つくり言で、間違った言としてであろうか、最愛の弟の命は、何としたことか、時もあろうのに、旗薄が穂に出る秋で、萩の花が色美しく咲いている庭を、朝庭に立ち出て踏み平らし、夕庭に踏み平らげることをせずに、佐保のうちの里を通り過ぎ、あしひきの山の木立の梢に、白雲のさまに立って棚引いたと、私に告げたことであるよ。
【評】 弟の書持の死を、使の報告で知って詠んだ挽歌である。二月前家持が越中へ赴任するのを、山城の泉河まで送って来、書持の平安を祝って別れたのであったが、恋うて逢いたく思っているおりから、使が来、嬉しくて、いうことを聞こうとすると、それは書持の死の報告で、すでに佐保山で火葬に付したことだったのである。挽歌ではあるが、家持のいっていることは、その別れた時の思い出と、死の報告とを並べ、中間のつなぎに挟んだにすぎないもので、一と口にいぅと抒情的の叙事である。しかし一篇は、静かに、しめやかに、哀傷に浸っての言い続けをしていて、その気分がただちに内容となって、不足を感じさせないものとなっている。しっかりと統一のついている点と、繁簡よろしきを得ている点とでは、家持の長歌としては稀れに見るもので、すぐれたものである。大体奈良朝時代は挽歌の著しく少ない時代で、ことに長歌形式をもって詠んでいるものは、山上憶良があったくらいで、他にはないといえる。これは死ということに対する一般の態度が異なって来たためと思われる。例せば前代藤原朝の柿本人麿の挽歌を見ても、死は現《うつ》し世から幽《かく》り世へ移動することであって、その人としては依然存在を続けているのであり、異なるところは、その心の測り難いものの添って来ている点にあった。したがって死者は、心をこめて慰めなければならない者であって、挽歌もその心より詠むものであった。したがって挽歌は死者に対していう語であって、いかにその人を思っていたか、今もいかに慕っているかということに重点を置いていっていたのである。しかるに家持のこの歌になると、徹頭徹尾家持自身の心である。その死の意外なこと、続いては生のはかなさに対する気分であって、書持の霊に呼びかけて訴える語は全然ないものとなっているのである。死に対する古代信仰が衰え、新興の仏教思想に代わって来たというべきであろう。それに家持の人柄も伴っていようが、著しい変化である。家持のこの挽歌は、態度としては、次の平安朝時代の哀傷歌と異ならないものである。
 
3958 ま幸《さき》くと 言《い》ひてしものを 白雲《しらくも》に 立《た》ち棚引《たなび》くと 聞《き》けば悲《かな》しも
(63)    麻佐吉久登 伊比※[氏/一]之物能乎 白雲尓 多知多奈妣久登 伎氣婆可奈思物
 
【語釈】 ○ま幸くと言ひてしものを 家持が泉河で、書持にいったことの繰り返し。○白雲に立ち棚引くと 使の語の繰り返しである。
【釈】 平安であれと、祝っていったのであったに、白雲のさまとなって立ち棚引いたと聞くと、悲しいことだ。
【評】 長歌でいったことの要点を二つつなぎ合わせて一首としたものである。長歌の繰り返しとすると、多少なりとも新味のある形である。
 
3959 かからむと かねて知《し》りせば 越《こし》の海《うみ》の 荒磯《ありそ》の波《なみ》も 見《み》せましものを
    可加良牟等 可祢弖思理世婆 古之能宇美乃 安里蘇乃奈美母 見世麻之物能乎
 
【語釈】 ○かからむとかねて知りせば こうしたことがあろうと、前もって知っていたならば。巻二(一五一)額田王の作品に既出。○荒磯の波も見せましものを 「荒磯」は、荒い磯で、普通名詞。これは前に出た。国司館に近い渋谿の磯をさしているものと思われる。「見せましものを」は、見せたであろうにで、「まし」は、「せば」の帰結。
【釈】 このようなことがあろうと、前もって知っていたならば、越の海の荒磯の波のおもしろさを見せたであったろうに。
【評】 先蹤のある歌ではあるが、愛情の溢れているものである。家持はその頃、渋渓の景勝を見、海珍しい心から甚だおもしろく感じていて、それを書持に見せなかったのを、遺憾に思ったのである。
 
     右は、九月二十五日、越中守大伴宿禰家持の、遙に弟の喪を聞き、感傷《かなし》みて作れるなり。
      右、九月廿五日、越中守大伴宿祢家持、遙聞2弟喪1、感傷作之也。
 
     相歓ぶる歌二首
 
【題意】 大伴池主が大帳使として都へ上り、帰任したのを歓んで、家持が詠んだ宴歌で、左注に詳しい。
 
3960 庭《には》に降《ふ》る 雪《ゆき》は千重《ちへ》しく 然《しか》のみに 念《おも》ひて君《きみ》を 吾《あ》が待《ま》たなくに
(64)    庭尓敷流 雪波知敞之久 思加乃未尓 於母比※[氏/一]伎美乎 安我麻多奈久尓
 
【語釈】 ○雪は千重しく 「千重しく」は、深く積もるということを具象的にいったもの。「しく」は、重なる意。○然のみに その程度だけにで、それくらいの程度にの意。○念ひて君を吾が待たなくに 上に接して、思って君を私は待たないことだで、それにもまして深く思っていた意。
【釈】 庭に降る雪は、千重と深く積もっている。その程度だけに君を思って、私は待ったのではないことだ。
【評】 挨拶の歌であるが、儀礼の臭いのないのみならず、家持の濃情を思わせる歌である。初二句の大雪は左注に出ており、眼前のものである。眼前を捉えて枕詞や序詞とすることは型となっているが、これはそれを超えて、譬喩というよりもむしろ 実感として、「然のみに念ひて君を」と続けているもので、家持の柔らかい気分の動きをさながらに見せているものである。正直なのが新味となっている。
 
3961 白浪《しらなみ》の 寄《よ》する礒廻《いそみ》を 漕《こ》ぐ船《ふね》の 揖《かぢ》取《と》る間《ま》なく 念《おも》ほえし君《きみ》
    白浪乃 余須流伊蘇未乎 榜船乃 可治登流間奈久 於母保要之伎美
 
【語釈】 ○揖取る間なく 楫を使うに忙しく、間隙なくで、間断なく。以上四句、「念ほえし」の序詞。
【釈】 白浪の寄せる磯を漕いでいる船の、楫を使うに忙しく間断のないように、絶えず思われたあなたよ。
【評】 四句までの長序は、左注によってその時の眼前の景であり、この捉え方は型となっている。また「楫取る間なく」も成句で、序詞そのものには新味はない。しかし四句の長序を用い、緊張した調べをもって一気に詠んでいるという形は、そのことにその時の気分が現われていると見るべきであり、ことに家持にあってはその感がある。主人として詠んだ宴歌の旨にかなっている。
 
     右は、八月を以ちて、掾大伴宿禰池主、大帳使に付きて京師に赴向《おもむ》き、同じ年十一月、本任に還り到りき。仍りて詩酒の宴を設け、弾糸飲楽せり。この日、白雪忽に降りて、地に積むこと尺余なり。この時、漁夫の船、海に入り瀾《なみ》に浮べり。ここに守大伴宿禰家持、情《こころ》を二つの眺に寄せて、聊欣ぶる歌を裁《つく》る。
(65)      右、以2八月1、掾大伴宿祢池主、附2大帳使1、赴2向京師1、而同年十一月、還2到本任1。仍設2詩酒之宴1、彈絲飲樂。是日也、白雪忽降、積v地尺餘。此時也、漁夫之船、入v海浮v瀾。爰守大伴宿祢家持、寄2情二眺1、聊裁2欣歌1。
 
【解】 「大帳使に附きて」は、国庁より太政官にまで、大帳を持参すべき使に任ぜられて。「大帳」とは大計帳とも計帳とも称したもので、部内の戸口の移動を記した帳籍で、毎年八月三十日までに太政官に送る定めとなっていた。太政官はそれによって、人口を知り、庸調の数を知ったのである。なお、国庁よりのこの種の使は、大帳使の他に正税帳使、貢調使、朝集使とあって、毎年四回の使を立てたのである。「弾糸」は、琴を弾ぜしむること。「飲楽」は、宴を設ける意であるが、慰労歓迎の心よりのもの。「この日」以下は、自身作った宴歌の取材の説明で、この当時の歌の詠み方をも説明したものとなっている。
 
     忽ちに枉疾《やまひ》に沈み、殆《ほとほと》に泉路に臨みき。仍りて歌詞を作りて以て悲みの緒《こころ》を申《の》ぶる歌一首井に短歌
 
【題意】 「枉疾」は、「枉」は羸弱。疾というに同じ。「泉路に臨みき」は、黄泉の路で、危くも死のうとしたの意。
 
3962 大王《おほきみ》の 任《まけ》のまにまに 大夫《ますらを》の 情《こころ》振《ふ》り起《おこ》し あしひきの 山坂《やまさか》越《こ》えて 天《あま》ざかる 鄙《ひな》に下《くだ》り来 《き》 息《いき》だにも 未《いま》だ休《やす》めず 年月《としつき》も いくらもあらぬに うつせみの 世《よ》の人《ひと》なれば うち靡《なび》き 床《とこ》にこい臥《ふ》し 痛《いた》けくし 日《ひ》にけに益《まさ》る たらちねの 母《はは》の命《みこと》の 大船《おほふね》の ゆくらゆくらに 下恋《したごひ》に 何時《いつ》かも来《こ》むと 待《ま》たすらむ 情《こころ》さぶしく 愛《は》しきよし 妻《つま》の命《みこと》も 明《あ》け来《く》れば 門《かど》に倚《よ》り立《た》ち 衣手《ころもで》を 折《を》り返《かへ》しつつ 夕《ゆふ》されば 床《とこ》うち払《はら》ひ ぬばたまの 黒髪《くろかみ》敷《し》きて いつしかと 嘆《なげ》かすらむぞ 妹《いも》も兄《せ》も 若《わか》き児《こ》どもは 彼此《をちこち》に 騒《さわ》き泣《な》くらむ 玉桙《たまほこ》の 道《みち》をた遠《どほ》み 間使《まづかひ》も 遣《や》るよしもなし 思《おも》ほしき 言《こと》伝《つ》てやらず 恋《こ》(66)ふるにし 情《こころ》は燃《も》えぬ たまきはる 命《いのち》惜《を》しけど 為《せ》む術《すべ》の たどきを知《し》らに 斯《か》くしてや 荒《あら》し男《を》すらに 嘆《なげ》き臥《ふ》せらむ
    大王能 麻氣能麻尓々々 大夫之 情布里於許之 安思比奇能 山坂古延弖 安麻射加流 比奈尓久太理伎 伊伎太尓毛 伊麻太夜須米受 年月毛 伊久良母阿良奴尓 宇都世美能 代人奈礼婆 宇知奈妣吉 等許尓許伊布之 伊多家苦之 日異益 多良知祢乃 波々能美許等乃 大船乃 由久良々々々尓 思多呉非尓 伊都可聞許武等 麻多須良武 情左夫之苦 波之吉与志 都麻能美詐登母 安氣久礼婆 門尓餘里多知 己呂母泥乎 遠理加敞之都追 由布佐礼婆 登許宇知波良比 奴婆多麻能 黒髪之吉※[氏/一] 伊都之加登 奈氣可須良牟曾 伊母毛勢母 和可伎兒等毛波 乎知許知尓 佐和吉奈久良牟 多麻保己能 美知乎多騰保弥 間使毛 夜流余之母奈之 於母保之伎 詳登都※[氏/一]夜良受 孤布流尓思 情波母要奴 多麻伎波流 伊乃知乎之家騰 世牟須辨能 多騰伎乎之良尓 加苦思※[氏/一]也 安良志乎須良尓 奈氣枳布勢良武
 
【語釈】 ○大夫の情振り起し 「大夫の情」は、男子たる雄々しい心で、国家奉仕を任とする心。「振り起し」は、振起という漢語を訳したものであろう。○息だにも未だ休めず年月もいくらもあらぬに 長途の旅に疲れてせわしくなった息さえもまだ休めず、時も幾ばくも立たないのに。「いくら」は、他に用例のない語である。この四句は、巻五(七九四)憶良の「日本挽歌」に「息だにもいまだ休めず、年月もいまだあらねば」にならったもの。○うち靡き床にこい臥し 「うち靡き」は、「うち」は、接頭語。「靡き」は、なよなよと。「こい臥し」は、「こい」は、倒れる意の動詞で、連用形。「臥し」と同意語で、畳んで強めたもの。○痛けくし日にけに益る 「痛けく」は、痛しの名詞形で、病苦。いたつきというに同じ。「し」は、強意。「日にけに」は、日に日に。以上一段で、病苦の叙述。○たらちねの母の命の 「命」は、敬称。家持の母は当時存命だったことが、続日本紀、光仁紀、天応元年八月の条に、「家持為2左大弁兼春宮大夫1。発v是遭2母憂1解v任。至v是復焉」とあるので知られる。○大船のゆくらゆくらに 「大船の」は、譬喩で「ゆくら」にかかる枕詞。「ゆくら」は、動揺することで、子の帰りを待って心が動揺する意で、副詞。○待たすらむ情さぶしく 「待たすらむ」は、お待ちになるであろうで、待つの敬語。「らむ」は、連体形。「情さぷしく」は、心持が気の毒で。「さぶしく」は、楽しまない意の形容詞。○愛しきよし妻の命も 愛すべき妻の君も。「妻」は、同棲した妹の称。「命」は、女性に対しての慣用の敬称。○門に倚り立ち 門に長く立っているで、帰りを待つ意。倚門という漢語より出、故事のある語。○衣手を折り返しつつ 袖を折り返しつつで、これは恋の上の呪いで、相手を招き寄せる呪いであろう。○床うち払ひ 床の塵を払って、清めることであるが、男を招き寄せる呪い。(67)○黒髪敷きて これは寝る時の状態であるが、同じく男を抱き寄せる呪いで、側の多いもの。○いつしかと嘆かすらむぞ 「いつしかと」は、いつだろうか、早くの意で、早く帰れと思って。「嘆かすらむぞ」は、お嘆きになっていようぞで、「嘆かす」は、嘆くの敬語。「ぞ」は、終助詞。○妹も兄も若き児どもは 女の児も男の児も、幼い子どもは。家持の子で、その名の伝わっているのは永主《ながぬし》だけで、その他は知れない。「兄」も永主であるかどうかわからない。○間使も遣るよしもなし 「間使」は、双方の間を往復する使で、それをやる手段もない。○思ほしき言伝てやらず 心に思い望んでいることを伝えてやらずに。○恋ふるにし情は燃えぬ 恋うているので、嘆きに胸は熱くなった。「し」は、強意。以上、第二段で、京の家族に対する愛着をいっている。○たまきはる命惜しけど 「たまきはる」は、命の枕詞。「惜しけど」は、惜しけれどの古格。○為む術のたどきを知らに しようことのその手がかりさえも知られずにで、どうしてよいかわからずにの意。慣用句。○斯くしてや荒し男すらに嘆き臥せらむ 「斯くしてや」は、「や」は、疑問の係。「荒し男すらに」は、荒い男でさえに。「臥せらむ」は、臥しあらむで、動詞「臥す」に、助動詞の「り」と「む」の結合したもので、上の「や」の結。以上、第三段で、感慨。
【釈】 天皇の任ずるままに、男子たる雄々しい心を振い起こし、あしひきの山や坂を越して、天と遠い鄙に下って来て、息さえもまだ休ませず、時も幾らも立たないのに、現し世の人間なので、なよなよと床に倒れ臥して、病苦が日に日にまさって来る。たらちねの母上は、大船のように心が動揺して、心ひそかに我を恋うて、いつ帰って来るだろうかとお待ちになっている気持が気の毒で、最愛の妻の君も、夜が明けて来ると門へより立って、袖を折り返す呪いをしつつ、夜になると、床の塵を払って呪いをし、ぬばたまの黒髪を敷く呪いをして寝て、早く帰れと思ってお嘆きになっていようぞ。女の児も男の児も、幼い児どもは、あちらこちらに騒いで泣いていよう。玉桙の道が遠いので、双方の間を通う使も、やる方法がない。思い望んでいることも、言伝ててやらずに、恋しがっているので、心は熱くなった。命は惜しいけれども、どうしたらよいかその手がかりが知れないので、このようにして、荒々しい男子さえも、嘆いて寝ていることであろうか。
【評】 この歌を作ったのは、左注によると、天平十九年二月二十一日で、前半の秋越中に来、冬を経て春になった時のことで、身体の強くなかったとみえる家持は、馴れない風土と新しい職務のために圧倒されたのであろう。「殆に泉路に臨みき」といっているので、自身生命の危さを意識させられた時の心をいっているものである。場合がら、家持の心の深所に触れているものと思われる。床上での作であるが、構成は整然として、第一段では病状、第二段では京に残してある家族への心情、第三段では生命に対する感となっている。第一に注意されるのは、天皇に対する思想であるが、これは直接にいう機会がないので、間接なものとなっている。「大王の任のまにまに、天ざかる鄙に下り来」と言い起こし、たちまち大患にかかった嘆きをいっているのであるから、職務が果たせないということが大きい関心事であったことは明らかである。しかしそれを京に残してある家族に較べると、こちらは比較にならないほど大きいものなのである。この時代には、家という語は妹と同意語なくらいで、妹以外の者は問題にしなかった。男で子を問題としている者は、一人山上憶良があっただけであるが、家持は憶良と同じく子を(68)問題としているのである。また、親を問題としているのは、庶民の防人《さきもり》が親と別れる際くらいなもので、身分ある人としては、親の寿を祷《いの》る際に限られている。家持はその母を深く思っているのである。妻はもちろんで、それとともに母や子を思っているというのは、この時代としては類例の見えない特殊なことで、家持がいかに家族愛に生きていた人であるかを思わせることである。第三段の生命に対する思想としては、「たまきはる命惜しけど為む術のたどきを知らに」といっているだけで、静かに諦めているごとき物言いをしている。年若い家持としては、そのいささかも取り乱したところのないのは、叡智のためとのみは言い切れない感のあることで、本来生命に対する執着の強くなかった現われとみえる。これを全体として、作歌の上で影響をこうむったとみえる憶良に比較すると、子を思うという一点では共通のところがあるが、天皇に対し、また生命に対する執着の上では甚しく稀薄で、比較の圏外の人にみえる。
 
3963 世間《よのなか》は 数《かず》なきものか 春花《はるはな》の 散《ち》りのまがひに 死《し》ぬべきおもへば
    世間波 加受奈枳物能可 春花乃 知里能麻我比尓 思奴倍吉於母倍婆
 
【語釈】 ○世間は数なきものか 「世間」は、人間の生きている間の意のもの。「数なき」は、生きている年月の数のないで、短いということを具象的にいったもの。「か」は、詠歎。○春花の散りのまがひに 「春花」は、春咲く花の総称。「散りのまがひ」は、散るのにまぎれて。「散り」も、「まがひ」も、名詞形。○死ぬべきおもへば 死ぬだろうと思うと。
【釈】 人間の生命は短いものであることよ。春の花の散るのにまぎれて、死ぬだろうと思うと。
【評】 この春の中に死ぬものと思って、生命というものの短さを歎息している心で、長歌の結末を語を換えて詠んだものである。「春花の散りのまがひに」と、季節感を取入れているところは、家持の思われることである。
 
3964 山河《やまかは》の 退方《そきへ》を遠《とほ》み 愛《は》しきよし 妹《いも》を相見《あひみ》ず かくや嘆《なげ》かむ
    山河乃 曾伎敞乎登保美 波之吉余思 伊母平安比見受 可久夜奈氣加牟
 
【語釈】 ○山河の退方を遠み 「山河の」は、山や河の。「退方」は、退いているかたで、隔たりということを具象的にいったもの。「遠み」は、遠いので。隔たりが遠いので。越中と京との距離をいったもの。○妹を相見ずかくや嘆かむ 妹に逢わずに、このように嘆くのであろうか。
(69)【釈】 山や河の隔たりが遠いので、最愛の妹と逢わずに、このように嘆くのであろうか。
【評】 家族の中の最も心を引かれるものとして妹を取上げ、妹に逢わずに死別するのであろうかと嘆いているのである。これは当時の人に共通な心である。
 
     右は、十九年春二月二十一日、越中国の守の館にて、病に臥して悲傷《かなし》みて、聊此の歌を作れり。
      右、十九年春二月廿一日、越中國守之館、臥v病悲傷、聊作2此謌1。
 
     掾大伴宿禰池主に贈れる悲の歌二首
     忽に枉疾《わうしつ》に沈み、旬を累《かさ》ねて痛苦す。官神を祷《の》み恃《たの》みて、しばらく消損《い》ゆるを得たり。しかも由《なほ》身体|疼《いた》み羸《やつ》れ、筋力怯軟にして、未だ展謝に堪《あ》へず。係《か》け恋《しの》ふこといよいよ深し。方今春の朝の春の花、馥《ふく》を春の苑に流し、春の暮の春の鶯、声を春の林に囀る。此の節候に対して琴《きん》と吹sそん》と翫《もてあそ》びつ可し。興に乗る感あれども、杖を策《つ》く労に耐《あ》へず。独|帷幄《あげばり》の裏《うち》に臥して、聊寸分の歌を作り、軽《かろがろ》しく机下に奉り、玉頤《ぎよくい》を解かむことを犯す。其の詞に曰く
     忽沈2枉疾1、累v旬痛苦。祷2頼百神1、且得2消損1。而由身體疼羸、筋力怯軟、未v堪2展謝1。係戀弥深。方今春朝春花、流2馥於春苑1、春暮春鶯、囀2聲於春林1。對2此節候1琴翠ツv翫矣。雖v有2乘v興之感1、不v耐2策v杖之勞1。獨臥2帷幄之裏1、聊作2寸分之歌1、輕奉2机下1、犯v解2玉頤1。其詞曰
 
【解】 歌に添えての書翰で、当時の風に従ったものである。「旬を累ね」は、「旬」は旬日すなわち十日。「累ね」は、「重ね」で、何十日になり。「百神を祷み恃みて」は、多くの神に祷って、その力を恃んで。「しばらく消損ゆるを得たり」は、「消損」は、病苦が消え減ずる意で、癒えること。「展謝」は、陳謝で、お礼に参る意。「係け恋ふ」は、心にかけて思うこと。「馥を春の苑に流し」は、香を春の苑に漂わし。「琴と垂ニ」は、垂ヘ、酒の樽で、琴を弾じつつ飲酒すること。「杖を策く」は、外出の意。(70)「帷幄の裏」は、織物のとばりで、寝所を遮らせている物。「寸分の歌」は、短い歌。「玉頤を解かむことを犯す」は、「玉頤」は、玉は美称で、頤はおとがいで、それを解くは、笑うこと。「犯す」は、敢えて示すで、お笑い草に供するの意。
 
3965 春《はる》の花《はな》 今《いま》は盛《さかり》に にほふらむ 折《を》りて挿頭《かざ》さむ 手力《たぢから》もがも
    波流能波奈 伊麻波左加里尓 仁保布良牟 乎里※[氏/一]加射佐武 多治可良毛我母
 
【語釈】 ○にほふらむ 「にほふ」は、色美しく咲く意。○祈りて挿頭さむ手力もがも 「挿頭す」は、普通の時にすることではなく、酒宴の場合にすることである。ここもそれで、花に対して酒宴を設けて眺めたい意。「手力」は、手の力ではなく、体力。「もがも」は、願望。
【釈】 春の花は、今は盛りと美しく咲いているであろう。折って挿頭す力がほしいことであるよ。
【評】 風物の観賞が、社交の方便でもあった当時とて、病人がやや快方に向かうと、それに対して憧れをつないだものである。左注によると、二月二十九日付の書翰で、三月三日の節の数日前のもので、それに刺激されてもいよう。
 
3966 鶯《うぐひす》の 鳴《な》き散《ち》らすらむ 春《はる》の花《はな》 いつしか君《きみ》と 手折《たを》りかざさむ
    宇具比須乃 奈枳知良須良武 春花 伊都思香伎美登 多乎里加射左牟
 
【語釈】 ○鳴き散らすらむ春の花 鳴いて散らすであろう春の花を。○いつしか君と手折りかざさむ 「いつしか」はしばしば出た。いつ君とともに折って挿頭すことができようか、早くその時になりたいの意。
【釈】 鶯の鳴いて散らしているであろう春の花を、いつ君とともに、折って挿頭にしようか。
【評】 上の歌に続けて、憧れ気分にそそられて、床上にいることをもどかしく思っている心である。「鶯の鳴き散らすらむ春の花」は、新味はないが、憧れ気分からの推量にふさわしい柔らかみのあるものである。「いつしか」がきいている。
 
     二月二十九日、大伴宿禰家持。
 
【解】 以上が書翰の奥付である。
 
(71)     忽に芳音を辱くし、翰苑雲を凌ぐ。兼ねて倭詩を垂れ、詞林錦を舒《の》べたり。以ちて吟じ以ちて詠じ、能く恋緒を?《のぞ》く。春、楽しむ可し。暮春の風景最も可怜《おもしろ》し。紅桃灼々として戯蝶花を廻りて?ひ、翠柳依々として嬌鶯葉に隠りて歌ふ。楽しむべきかも。淡交席を促《ちかづ》け、意を得て言を忘る。楽しきかも、美しきかも。幽襟賞づるに足れり。豈|慮《はか》りきや、蘭宦b?《くさむら》を隔てて琴雛p無く、空しく令節を過して物《もの》の色《いろ》人を軽みせむとは。怨むる所此にあり、黙已《もだを》ること能はず。俗の語に云ふ、藤を以ちて錦に続ぐといへり。聊談咲に擬《よそ》ふるのみ。
     忽辱2芳書1、翰苑凌v雲。兼垂2倭詩1、詞林舒v錦。以吟以詠、能?2戀緒1。春可v樂。暮春風景、最可怜。紅桃灼々、戯蝶廻v花?、翠柳依々、嬌?隱v葉歌。可v樂哉。淡交促v席、得v意忘v言。樂矣美矣。幽襟足v賞哉。豈慮乎、蘭寢uv?、琴趨ウv用、空過2令節1、物色輕v人乎。所v怨有v此、不v能2黙已1。俗語云、以v藤續v錦。聊擬2談咲1耳。
 
【題意】 右に対する池主の返翰である。「翰苑」は、文苑と同じく、ここは家持の書翰の文章をさしたもの。「雲を凌ぐ」は、雲をも凌ぐ気があるというので、その優れたことを褒めたもの。出典のある語。書翰の文章を褒めるというのはこの時代の風で、唐風にならったのである。「倭詩」は、わが国の歌で、やまと歌。「詞林」は、翰苑と同じ意で、ここはその詞藻をさしたもの。「錦を舒べ」は、極美のものとして譬えたもの。「恋緒を?く」は、家持に対する恋しい思いをやるを得たで、喜びをいったもの。「暮春の風景」は、家持の文に応じてのもの。「紅桃」は、くれないの桃の花。「灼々」は、花の盛りなさまの形容で、出典のある語。「依々」は、嫋やかなさまの形容。「嬌鶯」は、媚びを含んだ鶯で、里馴れた鶯の意。上の「戯媒」とともに出典のある語。以上、眼前の春景を叙したもの。「淡交席を促け」は、「淡交」は淡き交わりで、君子の交わり。『荘子』の語。「席を促け」は、席を進めで、打解けて親しくする意。「意を得て言を忘る」は、おのずから相手の心を解して、いう要のないところからわが言葉を忘れる。「幽襟」は、風雅の心。家持と自分との心。「賞づるに足れり」は、賞するに足るものがあるで、以上、平常二人の、風雅を介しての交わりの楽しさを叙したもの。「蘭?を隔てて」は、蘭も宸燒F草で、君子としての二人の譬。「?」は、叢で、それが中間にあって隔てとなってで、これは家持がはからずも病臥したことを譬えていったもの。「琴雛p無く」は、琴も酒も無用の物となってで、風雅の宴を催すこともできなくなった意。「空しく令節を過して」は、「令節」は佳節で、三月三日の節供。いたずらに三月三日の佳節を過ごして。「物の色人を軽みせむとは」は、「物の色」は景物で、春の花や鳥をして、それ(72)を賞翫しない人を軽んじさせる意で、以上家持がおりからの春にそむいていたので、自分も同じ有様にさせられていた侘びしさを風物の側からいったもの。「怨むる所此にあり、黙已ること能はず」は、上をうけ、下の歌を贈る理由をいったもの。「俗の語」は、世間の言いぐさ。「藤を以ちて錦に続ぐと」は、「藤」は藤衣で、葛布でこしらえた賤者の衣、「錦」は、極美の衣。「続ぐ」は、縫い続けるというで、不調和の甚しい意の皆。「談咲」は、「咲」は笑いで、お笑いぐさ。「擬ふる」は、なぞらえるで、供するというにあたる。
 
3967 山峡《やまがひ》に 咲《さ》ける桜《さくら》を ただひと目《め》 君《きみ》に見《み》せてば 何《なに》をか思《おも》はむ
    夜麻我比迩 佐家流佐久良乎 多太比等米 伎美尓弥西※[氏/一]婆 奈尓乎可於母波牟
 
【語釈】 ○山峡に咲ける桜を この桜は、遅桜であるが、眺めとしては最も好い物である。○君に見せてば何をか思はむ 「見せてば」は、「て」は、完了の助動詞「つ」の未然形。「ば」は、仮定で、見せたならば。「何をか思はむ」は、何を嘆こうかで、「か」は、疑問の係。
【釈】 山峡に咲いている桜を、ただ一と目あなたに見せたならば、私は何を嘆きましょうか。
【評】 家持の越中の守となったのは昨年の七月で、今は初めて逢う春である。同好のよしみの深い池主としては、この感は心よりのものであったろうと見える。真率な、厭味のない歌である。
 
3968 鶯《うぐひす》の 来鳴《きな》く山吹《やまぶき》 うたがたも 君《きみ》が手《て》触《ふ》れず 花《はな》散《ち》らめやも
    宇具比須能 伎奈久夜麻夫伎 宇多賀多母 伎美我手敷礼受 波奈知良米夜母
 
【語釈】 ○鶯の来鳴く山吹 鶯の来て鳴いている山吹の花で、眼前の物として見ている形のもの。山吹に鶯を配するのは、他に例のないものであるが、これは家持より贈った、「鶯の鳴き散らすらむ春の花」を心に置き、それに和する心でいったものだからである。○うたがたも 上の(三九四九)に、「うたがたも紐解き放けて」と出た。けっして。○君が手触れず 「ず」は、連用形で、ずしての意のもの。君が手触るは、折って挿頭とすることをいったもの。これも家持の歌の「手折りかざさむ」に和する心よりの言である。○花散らめやも 花が散ろうか、散りはしないだろうで、「や」は、反語。
【釈》 鶯が来て鳴いている山吹の花は、けっして、あなたが挿頭に折られずに花が散りましょうか、散らないでしょう。
(73)【評】 家持の贈歌の「春の花手折りかざさむ」とあるのを心に置き、それに和する心をもって、「春の花」を今眼前に見ている「山吹」として、また家持が「いつしか君と」といっているのをうけて、必ず近く御全快になろうの心をこめていったものである。答歌としてこまごまと行届かせたために、それに圧しられて、割合に情味の出ないものとなっている。
 
     沽洗二日、掾大伴宿禰池主。
 
【解】 「沽洗」は、三月の異名で、「沽」は故で、古き。「洗」は鮮で、新しきで、古きを去って新しきにつく意で、季節を説明しての称。「二日」は、三日の節日の前日。以上が池主の返翰である。
 
     更に贈れる歌一首 并に短歌
 
     弘きを含む徳、恩を蓬のごとき体に垂れ、貲《はか》らざる思、陋《いや》しき心に報《こた》へ慰む。載《すなはち》末眷《まつけん》を荷ひて、喩ふる所に堪ふること無し。但し稚き時遊芸の庭に渉《わた》らざりしを以ちて、翰を横ふる藻のおのづから彫虫に乏しく、幼年いまだ山柿《さんし》の門に逕《いた》らずして、歌を裁《つく》る趣、詞を聚林に失ふ。爰に藤を以ちて錦に続ぐ言を辱くし、更に石を将《も》ちて瓊《たま》に間《まじ》ふる詠を題す。固《もと》よりこれ俗愚癖を懐《うだ》きて黙已《もだを》ること能はず。仍りて数行を捧げて式《も》ちて嗤笑に酬ゆ。其の詞に曰く
      合v弘之徳、垂2恩蓬體1、不v貲之思、報2慰陋心1。載荷2末眷1、無v堪v所v喩也。但以2稚時不1v渉2遊藝之庭1、横v翰之藻自乏2乎彫蟲1焉、幼年未v逕2山柿之門1、裁v歌之趣、詞失2乎聚林1矣。爰辱2以v藤續v錦之言1、更題2將v石間v瓊之詠1。固是俗愚懐v癖不v能2黙已1。仍捧2数行1、式酬2嗤咲1。其詞曰
 
【解】 「更に贈れる歌」は、更に家持より池主に贈った歌で、これはそれに添えた家持の書翰である。「弘きを含む徳」は、広大なる徳の意で、「弘きを含む」は、易経にある、地の徳を讃えた語である。ここは池主の温情に譬えたもの。「恩を蓬のごとき体に垂れ」は、恩を蓬のような賤しいわが身に及ぼしで、家持の卑下しての感謝。「貲らざる思、陋しき心に報へ慰む」は、「貲」は※[此/言]と同じく、はからざる思いは、陋しいわが心を返翰によって慰めた。「載末眷を荷ひて」は、「末眷」は諸本「未春」とある(74)のを、『代匠記』が「未」は「末」の誤写として改め、『略解』が「春」を「眷」の誤りとして改めたもので、『新訓』の従っているもの。眷は顧みる心で、恵みの意。「末眷」は、恵みの余沢で、それをこうむって。見舞をかたじけのうしての意。「喩ふる所に堪ふること無し」は、譬とするに足りるものもないで、謝する語を知らないの意。以上、池主の返翰に対して感謝したもの。「遊芸の庭に渉らざりしを以ちて」は、「遊芸」は論語の「遊2於芸1」を取った語で、文芸の意。「庭」は教えで、文芸の教えを受けなかったので。「翰を横ふる藻」は、文を綴ってゆく詞藻。「おのづから彫虫に乏しく」は、「彫虫」は技巧の末の意であるが、ここは技巧の意で用いている。自然、技巧に乏しく。「山柿の門に逕らずして」は、「山柿」は、山は山部赤人、柿は柿本人麿とされて来たが、「山」を佐佐木信綱氏は山上憶良であろうとした。ここは、その当時一般に承認されていたこととしていっているものなので、古来いわれていたように山部赤人ではないかと思われる。今はそれに従う。二人を歌の権威者として、作歌の方面はの意でいっているもの。「門に逕らずして」は、上をうけて、学ぼうとしなくて。「歌を裁る趣、詞を聚林に失ふ」は、「聚林」が解し難いものとなっている。歌を作る趣は、詞がたどたどしいの意であろう。以上、作文も作歌も教養が足りず、不堪であると卑下したもの。これは儀礼としての卑下ばかりではなく、家持は実際十分の自信は持ち得なかったかと思われる。「藤を以ちて錦に続ぐ言を辱くし」は、池主が家持にいった語を逆に用い、わが藤の衣に続けるに、錦のごとき返翰を拝受し。「更に石を将ちて瓊に間ふる詠を題す」は、更にまた我は、石のごとき歌をもって、瓊のごとき貴詠にまじえようとて記すで、新たに贈る歌に対しての卑下。「固よりこれ俗愚癖を懐きて黙已ること能はず」は、もちろんこれは、世俗の愚者の我の、作歌癖をもっていて、黙ってはいられずにすることだ。「嗤笑に酬ゆ」は、お笑いぐさに供するの意。「但し稚き時」以下は、更に歌を贈るについて、誤解されないようにと弁明したものである。
 
3969 大王《おほきみ》の 任《まけ》のまにまに しなざかる 越《こし》を治《をさ》めに 出《い》でて来《こ》し 大夫《ますら》吾《われ》すら 世《よ》の中《なか》の 常《つね》し無《な》ければ うち靡《なび》き 床《とこ》にこい臥《ふ》し 痛《いた》けくの 日《ひ》に日《け》に増《ま》せば 悲《かな》しけく 此処《ここ》に念《おも》ひ出《で》 いらなけく 其処《そこ》に念《おも》ひ出《で》 歎《なげ》くそら 安《やす》けなくに 思《おも》ふそら 苦《くる》しきものを あしひきの 山《やま》き隔《へな》りて 玉桙《たまほこ》の 道《みち》の遠《とほ》けば 間使《まづかひ》も 遣《や》るよしも無《な》み 思《おも》ほしき 言《こと》も通《かよ》はず たまきはる 命《いのち》惜《を》しけど 為《せ》むすべの たどきを知《し》らに 籠《こも》り居《ゐ》て 念《おも》ひ嘆《なげ》かひ なぐさむる 心《こころ》はなしに 春花《はるはな》の 咲《さ》ける盛《さかり》に 思《おも》ふどち 手折《たを》りかざさず 春《はる》の(75)野《の》の 茂《しげ》み飛《と》びくく 鶯《うぐひす》の 声《こゑ》だに開《き》かず をとめ等《ら》が 春菜《わかな》摘《つ》ますと くれなゐの 赤裳《あかも》の裾《すそ》の 春雨《はるさめ》に にほひひづちて 通《かよ》ふらむ 時《とき》の盛《さかり》を いたづらに 過《すぐ》し遣《や》りつれ 思《しの》はせる 君《きみ》が心《こころ》を うるはしみ 此《こ》の終夜《よすがら》に いも寝《ね》ずに 今日《けふ》もしめらに 恋《こ》ひつつぞ居《を》る
    於保吉民能 麻氣乃麻尓々々 之奈射加流 故之乎袁佐米尓 伊泥※[氏/一]許之 麻須良和礼須良 余能奈可乃 都祢之奈家礼婆 宇知奈妣伎 登許尓己伊布之 伊多家苦乃 日異麻世婆 可奈之家口 許己尓思出 伊良奈家久 曾許尓念出 奈氣久蘇良 夜須家奈久尓 於母布蘇良 久流之伎母能乎 安之比紀能 夜麻伎敞奈里※[氏/一] 多麻保許乃 美知能等保家婆 間使毛 遣縁毛奈美 於母保之吉 許等毛可欲波受 多麻伎波流 伊能知乎之家登 勢牟須辨能 多騰吉乎之良尓 隱居而 念奈氣加比 奈具佐牟流 許己呂波奈之尓 春花乃 佐家流左加里尓 於毛敷度知 多乎里可射佐受 波流乃野能 之氣美登妣久々 ※[(貝+貝)/鳥] 音太尓伎加受 乎登賣良我 春菜都麻須等 久礼奈爲能 赤裳乃須蘇能 波流佐米尓 々保比々豆知弖 加欲敷良牟 時盛乎 伊多豆良尓 須具之夜里都礼 思努波勢流 君之心乎 宇流波之美 此夜須我浪尓 伊母祢受尓 今日毛之賣良尓 孤悲都追曾乎流
 
【語釈】 ○しなざかる越を治めに 「しなざかる」は、未詳の語である。「しな」は、級で、ここは坂の意で、京から多くの坂を隔てているで、意味で「越」にかかる枕詞とする解が、比較的穏やかであるが、明らかではない。○大夫吾すら ますら男のわれさえ。「ますら」から「吾」に続けるのは例のないものである。○悲しけく此処に念ひ出いらなけく其処に念ひ出 「悲しけく」は、「悲し」の名詞形。「いらなけく」は、「いらなし」の名詞形で、これは、甚しく、烈しくの意。「此処」「其処」は、それこれというにあたる。死を意識すると、悲しいこと、突きつめたことをそれこれ思い出す意。この四句は、古事記中巻、宇治稚郎子の歌と伝えられるものから取ったものである。○歎くそら安けなくに思ふそら苦しきものを 「歎くそら」は、嘆く心地。「安けなくに」は、形容詞「安し」の未然形に、否定「ず」の名詞形「なく」の接したもの。嘆く心地は安くはないことだのに、物を思う心地は苦しいことだのに。四句、巻四(五三四)にあるもの。○山き隔りて 巻四(六七〇)に既出。山をへだてての意。○春菜摘ますと 「はるな」「わかな」と二様に訓まれている。「わか菜」は、不老の呪力を持った物としているので、「春」は、「若」に義をもって当てた字とする解に従う。「摘ます」は、慣用の敬語。○春雨ににほひひづちて 春雨で、色美しく濡れてで、「にほひ」は、濡れたため(76)に、色の美しくなる意。○時の盛を 春の最上の時を。○過し遣りつれ 「つれ」は、已然条件法で、過ごし去ったので。○思はせる君が心を 「思はせる」は、「思ふ」の敬語で、我を御思いくださるあなたの心を。○うるはしみ なつかしいので。○今日もしめらに 「しめら」は、すべてで、今日もまた終日を。
【釈】 天皇の任のままに、しなざかる越の国を治めると、京を出て来たますら男のわれさえも、世の中は無常なので、なよなよと床に倒れ寝て、病苦が日ごとに増すので、悲しいことをこれと思い出し、思いつめたことをそれと思い出し、嘆く心地は安くはないことだのに、物を思う心地は苦しいことだのに、あしひきの山を隔てて、玉桙の道が遠いので、間使をやる方法もなく、言いたいと思う心もいってやらずに、たまきはる命は惜しいけれども、どうすればよいという手がかりもわからずに、籠もっていて物を思い嘆きをし、我と慰める気もなく、春の花の咲いた盛りを、思い合う同士、折って挿頭して眺めもせず、春の野の木立の繁みを飛びくぐる鶯の声も聞かず、娘たちが若菜をお摘みになるとて、くれないの赤裳の裾が、春雨で色美しく濡れて通っているだろう、その春の最上の時を、いたずらに過ごし去ったので、私をお思いくださるあなたの心がなつかしさから、その夜は夜どおし眠りもしずに、今日もまた一日じゆうあなたを恋いつづけていることです。
【評】 家持が病床に横たわって、むなしく春を過ごそうとしている恨みを歌として池主に贈ってやったのに対し、池主は答歌として、家持に同情し、この花を一と目でも見せたい、花の散りつくさないうちに見られるよう、快くなられるようにといった。それは心をこめて詠んだものとはみえるが、しかし贈答の歌の型を超えたほどのものではなかった。しかるに家持はその答歌を甚しく嬉しく感じ、その嬉しさの理由を、つぶさに語らなければいられない気分になったのである。理由の根本は、思わぬ大患である。しかもその大患は旅でのことで、死を覚悟しなければならないものであったが、遠隔な旅のこととて、心さびしさの極にいたのである。歌の一半は、さきに詠んだ歌とほぼ同様のもので、長々しいものであるが、彼としてはこのことは、この場合いわずにはいられなかったことなのである。大患が峠を越すと、その心さびしさをまざらす方法が欲しくなったが、おりから季節は、一年の中の最上の好季節である春だったので、健康時とは比較にならないなつかしさを感じ、池主に書翰を添えて愚痴を訴えたのである。池主の返翰は温情の籠もったものだったので、本来感傷的であるのに、場合がら甚だ心さびしくなっていた家持は、饑えていた温情をゆくりなく与えられたように感じ、「思はせる君が心を」以下結末までにいっているように、返翰を受けた日はうれしさから終夜眠らず、その翌日も終日のうれしさを反芻《はんすう》していたというので、全心を傾けつくしての感謝を述べなければいられない気になったのである。文を添えてこの長い歌を詠んだのは、家持としては必要に駆られてのことだったのである。文で、作文作歌に自信のないことを、卑下しつつこまごまといっているのは、それをいう目的は、この歌を詞藻の楽しみとしての歌だとは思われたくなかったからである。次に、これを一首の歌として見ると、できばえの良いものではない。全体に説明的で、冗長だからであり、また、他人の句を多量に取っていて、新味もないからである。しかし(77)いずれも、一概には非難のできないことである。説明的で冗長なのは、家持はその際の自身の心境を十分に理解してもらおうと思って詠んだので、取材は勢いそのようにならざるを得なかったのである。また他人の句を多量に取っているのは、この時代は、歌の上では、一方には進取的であったが、同時に他方には復古的であって、故人にならうのを恥としなかった時代である。それに漢文学も盛行していたが、これは古人を模するのをむしろ誇りともしていたのである。そのことはひとりこの歌の責任とはいえない。さらにまたこの歌は、池主の返翰を得た翌日詠んだもので、短時間のうちに作ったものである。病衰していた家持が、即座に充実した長歌を作り得なかったとしても、非難はできないことである。
 
3970 あしひきの 山桜花《やまさくらばな》 ひと目《め》だに 君《きみ》とし見《み》てば 吾《あれ》恋《こ》ひめやも
    安之比奇能 夜麻左久良婆奈 比等自太尓 伎美等之見※[氏/一]婆 安礼古非米夜母
 
【語釈】 ○山桜花 池主の「山峡に咲ける桜」といっているもので、山の桜花。
【釈】 山の桜花を、ただ一と目だけでも、君と一緒に見たならば、われはこのように恋いようか、恋いはしない。
【評】 池主の歌をすなおにうけ入れて、他意なく詠んだ形のものである。長歌にふさわしい心のものである。
 
3971 山吹《やまぶき》の 茂《しげ》み飛《と》びくく 鶯《うぐひす》の 声《こゑ》を聞《き》くらむ 君《きみ》は羨《とも》しも
    夜麻扶枳能 之氣美登枇久々 ※[(貝+貝)/鳥]能 許惠乎聞良牟 伎美波登母之毛
 
【語釈】 略す。
【釈】 山吹の茂みを飛びくぐって鳴く鶯の、その声を聞くであろう君は、羨ましいことであるよ。
【評】 これも池主の、「鶯の来鳴く山吹」に和したもので、池主のは、家持の全快の日の近いことを祝う心のものであるが、これはそれには触れず、その歌にはない「声」を思いやって、そこに重点を置いているもので、一応の働きを見せた和えである。
 
3972 出《い》で立《た》たむ 力《ちから》を無《な》みと 籠《こも》り居《ゐ》て 君《きみ》に恋《こ》ふるに 心神《こころど》もなし
(78)    伊泥多々武 知加良乎奈美等 許母里爲弖 伎弥尓故布流尓 許己呂度母奈思
 
【語釈】 ○出で立たむ力を無みと 外出をしよう力がないゆえに。○君に恋ふるに心神もなし 「君に恋ふるに」は、君を恋うることのために。「心神」は、精神、魂にあたる古語で、しっかりした心がない。
【釈】 外出するだけの体力がないゆえに、家の中に籠もっていて、君を恋うることのために、われはしっかりした心もない。
【評】 これは長歌の結末の部分を総収して繰り返したもので、一歩前進させたものである。「心神もなし」は、言いかえると心|呆《ほ》れているので、まさに恋愛状態のような心である。
 
     三月三日、大伴宿禰家持
 
     七言、晩春遊覧の詩一首 并に序
     上巳の名辰、暮春の麗景、桃花は瞼《まぶた》を照して紅《くれなゐ》を分ち、柳色は苔を合みて緑を競ふ。時に手を携へて曠《ひろ》く江河の畔を望み、酒を訪ひて※[しんにょう+向]《はるか》に野客の家を過ぐ。既にして琴と垂ニ性を得、蘭契光を和《やはら》ぐ。嗟乎《ああ》今日恨むる所は徳星の已に少きことを。若し寂《ひそ》めるを扣《たた》き章《あや》を含まずは、何を以ちてか逍遥の趣を※[手偏+慮]《の》べむ。忽に短筆に課《おほ》せて聯四韻を勒《しる》すと云ふ
      上巳名辰、暮春麗景、桃花昭v瞼以分v紅、柳色含v苔而競v緑。于v時也、携v手曠望2江河之畔1、訪v酒※[しんにょう+向]過2野客之家1。既而也、琴嵩セv性、蘭契和v光。嗟乎、今日所v恨徳星已少歟。若不2扣v寂含1v章、何以※[手偏+慮]2逍遥之趣1。忽課2短筆1、聊勒2四韻1云尓
 
【解】 「七言」は、七言の詩。「晩春遊覧」は、詩の題で、これは池主の作って家持に贈ったもの。「上巳の名辰」は、「上巳」は、その月の最初の巳の日で、三月の節供の日のこと。魏の文帝の頃までは、三月の節供は、上巳の日であったが、その後は三日と定められるに至った。しかし典故を重んじる心から、上巳と呼んでいたのである。「名辰」は、名ある時で、よき日。「暮春の麗景」は、太陰暦の三月は暮春で、「麗景」は、美しい風景。「桃花は瞼を照して紅を分ち」は、桃の花が、瞼すなわち見る目を照らして、その紅が鮮明で。「分ち」は、分明。「柳色は苔を含みて縁を競ふ」は、「苔」は、『略解』は上の「瞼」と対になってい(79)る関係上、「黛」か「眉」の誤写であろうとし、『新訓』は「黛」に従っている。「黛を含みて」は、まゆずみのごとくであってで、黛は青かったのである。柳の色は黛のようで、縁を競っている。以上、春の佳景。「手を携へて」は、友と同行して。「酒を訪ひて※[しんにょう+向]に野客の家を過ぐ」は、酒をもとめて、遠く田舎人の家まで行く。「琴と垂ニ性を得」は、琴と酒樽とがその本性を顕わしてで、琴を弾じ、酒を飲んで楽しんでの意。「蘭契光を和ぐ」は、「蘭契」は蘭の花の香のごとき清き交わりで、利害の念のない君子の交わり。「光を和ぐ」は、才能を競うことをしない意で、『老子』の「和2其光1同2其塵1」から出た語。以上、遊覧の楽しみをいったもの。「今日恨むる所は」は、今日の遊覧で遺憾に感ずることは。「徳星の已に少きことを」は、「徳星」は、徳ある人に属している星で、稀れに現われる星である。ここは徳ある人の譬喩で、家持をさしており、同行の友のうちに家持のような人のいなかったことを婉曲にいったもの。「寂めるを扣き章を含まずは」は、「寂めるを扣き」は、菲才を、強いての意で、池主が自身を卑下していっているもの。『文選』陸士衡の文賦に、「叩2寂寞1求v音」によった語。「章を含まずは」は、文章を作らずばで、これも『文選』左太沖の蜀都賦の「楊雄含v章而挺v生」によった語。「短筆に課せて」は、拙い筆に命じて。「四韻を勒す」は、四つの韻字を定めたの意で、これは次の律詩に四つの韻字のあることをいったもの。韻字は、遊、舟、流、留である。
 
     余春の媚《よ》き日宜しく怜賞すべく 上巳の風光は覧遊するに足れり 柳陌は江に臨みて※[衣+玄]服を縟《まだらか》にし 桃源は海に通じて仙丹を浮ぶ 雲|罍《らい》に桂を酌めば三清湛へ 羽爵は人を催して九曲に流る 縦酔陶心して彼我を忘れ 酩酊して処として淹留せずといふことなし
      餘春媚日宜2怜賞1 上巳風光足2覽遊1 柳陌臨v江縟2※[衣+玄]服1 桃源通v海泛2仙舟1 雲罍酌v桂三清湛 羽爵催v人九曲流 縦酔陶心忘2彼我1 酩酊無3處不2淹留1
 
【語釈】 ○余春の媚き日宜しく怜賞すべく 「余春」は、序の暮春と同じ。「媚き日」は、なまめかしい日で、序の麗景の日。「怜賞」は、あわれみ賞する。○上巳の風光は覧遊するに足れり 「上巳」は、序に出た。「足れり」は、不足がない。○柳陌は江に臨みて※[衣+玄]服を縟にし 「柳陌」は、柳のある路で、柳の並木のある路。「江に臨みて」は、流れに沿うていて。「※[衣+玄]服を縟にし」は、盛服すなわち盛装した衣で、柳の縁をまだらに色どっており。○桃源は海に通じて仙舟を浮ぶ 「桃源」は、陶潜の『桃花源記』に出ている武陵の桃源の地で、桃花が多く、河のある地。「海に通じて」は、桃源の流れが海に通じていて。「仙舟を浮ぶ」は、その江には仙人の舟を浮かべているで、桃源の仙人が、舟に乗って下流まで遊びに出ている意。以上、矚目の景。○雲罍に桂を酌めば三清湛へ 「雲罍」は、「罍」は、雷で、雲雷の模様を描いた樽。「桂」は、桂酒で、よい酒。雲雷の模様のある酒樽から、桂の酒を酌むと。「三清」は、美酒の意で、『周礼』に、「三曰2清酒1」とあるによったもの。「湛へ」は、十分に満ちており。○羽爵は人を催して九曲に流る 「羽爵」は、雀の形をした杯。「人を催して」は、人々を催促してで、これは曲水の宴のさまをいったも(80)の。すなわち羽爵が水に浮かんでつぎつぎに流れて来るのであるが、それが自分の前へ来るまでに、詩を作らねばならぬ定めとなっていたのである。「九曲に流る」は、「九曲に」は、幾曲がりにも曲がって。「流る」は、羽爵が流れて来るの意。○縦酔陶心して彼我を忘れ 「縦酔」は、ほしいままに酔い、「陶心」は、「陶然」たる心となり、「彼我を忘れ」は、平生の分別心を忘れて。○酩酊して処として滝留せずといふことなし 「淹留」は、滞りとどまるで、酩酊して、行く先々で、滞りとどまらない所はない。以上、美酒と風雅の交わりで、歓を尽くす意。
【評】 文も詩も、実際生活からは隔離した、全く空想の世界のものである。こうした文字をつらねることが興味であったとともに、これを示すことが病中の慰めになると信じていたところに、当時漢文学がいかに尊重され、また浸潤していたかの実状がうかがわれる。この時代の新歌風とした気分本位の歌は、この雰囲気につながりを持つものと思われる。
 
     三月四日、大伴宿禰池主
 
【解】 三日のことを即日、詩とし、翌日贈ったのである。
 
   昨日短懐を述べ、今朝耳目を※[さんずい+于]《けが》す。更に賜書を承り、且奉ること不次なり。死罪死罪。
   下賎を遺《わす》れず、頻に徳音を恵む。英雲星気、逸調人に過ぎたり。智水仁山、既に琳瑯の光彩を※[革+媼の旁]《つつ》み、潘江陸海、おのづから詩書の廊廟に坐す。恩を非常に騁《は》せ、情を有理に託《つ》け、七歩章を成し、数篇紙に満つ。巧に愁人の重患を遣り、能く恋者の積思を除く。山柿の歌泉、此に比ぶれば蔑《な》きが如し。彫竜の筆海粲然として看ることを得たり。方《まさ》に僕の幸あるを知りぬ。敬《つつし》みて和ふる歌。其の詞に云はく
      昨日述2短懷1、今朝※[さんずい+于]2耳目1。更承2賜書1、且奉不次。死罪々々
      不v遺2下賤1、頻惠2徳育音1。英雲星氣、逸調過v人。智水仁山、既※[革+媼の旁]2琳瑯之光彩1、潘江陸海、自坐2詩書之廊廟1。騁2思非常1、託2情有理1、七歩成v章、数篇滿v紙。巧遣2愁人之重患1、能除2戀者之積思1。山柿歌泉、比v此如v蔑。彫龍筆海粲然得v看矣。方知2僕之有1v幸也。敬和歌。其詞云
 
【解】 これは池主より家持に贈った三月五日付の書翰である。「昨日短懐を述べ」は、「短懐」は拙い思いで、上の「七言、晩春(81)遊覧の詩」である。「更に賜書を承り」は、三月三日付の家持の長歌のある書翰である。「奉ること不次なり」は、「不次」は順序なく乱れている意で、家持の新たに贈った長歌に対して答をするのが順序であるのに、それをせずに、上の上巳の詩を贈ったことをいっているのである。これは使が行きちがいになったのである。「死罪」は、恐縮の意で、慣用語。「下賤を遺れず、頻に徳音を恵む」は、「下賤」は、賤しいで、われ池主の卑称。「徳音」は、家持の書翰を尊んでの称で、尊書というに同じ。賤しい手前を忘れずに、続いて尊書を賜わった。「英雲星気、逸調人に過ぎたり」は、「英雲星気」は、雲のごとくに豊かに、星のごとくに冴えているで、天象を譬喩として家持の歌を讃えたもの。「逸調人に過ぎたり」は、歌の調べの高さは何びとよりもまさっている。「智水仁山、既に琳瑯の光彩を※[革+媼の旁]み」は、「智水仁山」は、論語の「智者楽v水、仁者楽v山」から取った句で、家持の智と仁とは。「琳瑯」は、美玉で、美玉の光を包蔵していて。「潘江陸海、おのづから詩書の廊廟に坐す」は、「潘江陸海」は、二人とも『文選』の作者で、六朝《りくちよう》時代の代表者潘岳と陸機であり、その才を江海に喩えての称。これを家持に擬しているのである。「詩書の廊廟に坐す」は、文芸の堂奥に達しているで、家持を賞讃したもの。「思を非常に騁せ」は、「非常」は非凡で、着想は非凡であって。「情を有理に託け」は、表現は条理が立って。「七歩章を成し」は、きわめて速吟でで、これは魏の曹植が七歩を移す間に文を作った故事によった語。「数篇紙に満つ」は、家持の三月三日の文と長歌の文字の多きをいったもの。「巧に愁人の重患を遣り、能く恋者の積思を除く」は、「愁人」は旅愁を抱いている人で、池主自身。「恋者」も同じく、繰り返し。「重患」は重なる思いで、深い旅愁。「績思」は積もる思いで、同じ。「遣り」「除く」は、まぎれ忘れさす。「山柿の歌泉、此に比ぶれば蔑きが如し」は、山部赤人、柿本人麿の歌才も、あなたに比べればないも同様だで、家持が「山柿の門に逕らず」といったのをうけていったもの。「彫竜の筆海」は、竜を彫ったような筆の勢を。「粲然として看ることを得たり」は、はっきりと見ることを得た。
 
3973 大王《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ あしひきの 山野《やまの》障《さは》らず 天離《あまざか》る 鄙《ひな》も治《をさ》むる 大夫《ますらを》や 何《なに》かもの念《も》ふ あをによし 奈良路《ならぢ》来通《きかよ》ふ 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》絶《た》えめや 隠《こも》り恋《こ》ひ 息《いき》づき渡《わた》り 下念《したもひ》に 嘆《なげ》かふ我《わ》が兄《せ》 古《いにしへ》ゆ 言《い》ひ継《つ》ぎ来《く》らし 世《よ》の中《なか》は 数《かず》なきものぞ 慰《なぐさ》むる 事《こと》もあらむと 里人《さとびと》の 吾《あれ》に告《つ》ぐらく 山傍《やまび》には 桜花《さくらばな》散《ち》り 貌鳥《かほどり》の 間《ま》なくしば鳴《な》く 春《はる》の野《の》に 菫《すみれ》を 摘《つ》むと 白栲《しろたへ》の 袖《そで》折《を》り反《かへ》し くれなゐの 赤裳《あかも》裾引《すそび》き をとめらは 念《おも》ひ乱《みだ》れて 君《きみ》待《ま》(82)つと うら恋《ご》ひすなり 心《こころ》ぐし いざ見《み》に行《ゆ》かな 事《こと》はたなゆひ
    憶保枳美能 弥許等可之古美 安之比奇能 夜麻野佐波良受 安麻射可流 比奈毛乎佐牟流 麻須良袁夜 奈迩可母能毛布 安乎尓余之 奈良治伎可欲布 多麻豆佐能 都可比多要米也 己母理古非 伊枳豆伎和多利 之多毛比尓 奈氣可布和賀勢 伊尓之敞由 伊比都藝久良之 餘乃奈加波 可受奈枳毛能曾 奈具佐牟流 己等母安良牟等 佐刀比等能 安礼迩都具良久 夜麻備尓波 佐久良婆奈知利 可保等利能 麻奈久之婆奈久 春野尓 須美礼乎都牟等 之路多倍乃 蘇泥乎利可敞之 久礼奈爲能 安可毛須蘇妣伎 乎登賣良波 於毛比美太礼弖 伎美麻都等 宇良呉悲須奈里 己許呂具志 伊謝美尓由加奈 許等波多奈由比
 
【語釈】 ○山野障らず 山や野にも妨害されずに。○鄙も治むる 鄙さえも治める。○大夫や何かもの念ふ 「大夫や」は、「や」は、詠歎の助詞。何で物思いをするのですかで、「か」は、疑問の係。ふさわしくないとして励ましているもの。以上、第一段。○奈良路来通ふ 「奈良路」は、ここは越中より奈良へ通じる街道で、「来通ふ」は、こちらへ通って来る。○使絶えめや 使が絶えようか、絶えはしないで、「や」は、反語。以上第二段。○隠り恋ひ息づき渡り 「隠り恋ひ」は、家の内に籠もって奈良を恋う。「息づき渡り」は、溜め息をつき続け。○下念に嘆かふ我が兄 「下念に」は、「に」は、原文諸本「余」だが「尓」の誤写とする『考』に従う。心中ひそかに思う形で。「嘆かふ我が兄」は、嘆き続けているわが兄よで、家持を親称をもって呼びかけたもの。以上第三段。○古ゆ言ひ継ぎ来らし 昔から言い継いで来ているらしい。独立文で、慣用されているもの。○世の中は数なきものぞ 世間は、数のない、すなわち短いものぞで、世間は無常の意で、そのゆえにの余意をもって下へ続く。以上第四段。○慰むる事もあらむと 国守の病を慰めることもあろうかとて。○里人の吾に告ぐらく 里の人がわれにまで告げますことには。「告ぐらく」は、「告ぐ」の名詞形。○貌鳥の間なくしば鳴く 「貌鳥」は、しばしば出た。今のかっぽう鳥、すなわち郭公かという。「間なくしば鳴く」は、絶え間なくしきりに鳴いている。「鳴く」は、連体形で、下の「春の野」に続く。○白栲の袖折り反し 白い栲の衣の袖を折り反して。「袖折り返し」は、恋の上の呪いで、思う人を自分のほうへ招き寄せるための呪いであったとみえる。○をとめらは念ひ乱れて 里のおとめたちは思い乱れて。○君待つとうら恋ひすなり 「君」は、国守としての家持で、あなたを待つとて心あこがれをしているのですよで、「なり」は、詠歎。これまでが里人の語。以上第五段。○心ぐしいざ見に行かな 「心ぐし」は、心が晴れず苦しい意で、以下池主の感。「いざ見に行かな」は、さあ春の野を見に行きましょうよで、「な」は、勧誘をあらわす助詞。○事はたなゆひ 「事」は、野遊びのこと。「たなゆひ」は、「たな」は、巻十三(三二七九)「人にな告げそ事はたな知れ」の「たな」で、十分にの意の副詞。「ゆひ」は、古事記上巻に出ている「うきゆひ」の「ゆひ」で、結いで、約束をする意である。十分なる約束の意で、一語と取れる。その事は十分な約束をしての意で、当時一般に慣用されていた語と思われる。
(83)【釈】 天皇の命を謹み受けて、あしひきの山や野に妨害されずに、天と遠い鄙さえも治めている大夫が、何でふさわしからぬ嘆きなどするのですか。あおによし奈良へ通ずる街道を通って来る玉梓の使が絶えようか絶えはしません。家に籠もって京を恋い、溜め息をつき続けて、心中でひそかにする形で嘆きつづけている親愛なる君よ。古より言い続けて来ているらしい。人の世にある間は短いものです。守のあなたを慰めることもあろうかと、里の人が私にまで告げることには、山べには桜の花が散り、貌鳥が絶え間なくしきりに鳴いている春の野には、菫の花を摘むとて、白い栲の衣の袖を折り返して、くれないの赤裳の裾を引いているおとめたちは、思い乱れてあなたの野遊びを待つとて、心あこがれをしているとのことです。私も心晴れず苦しい。さあ野を見に行きましょうよ。この事は十分に約束して。
【評】 家持の三月三日の長歌に和えて、その病苦よりの心弱さを引き立てるため、一意、慰め励まそうとして、心をこめて詠んだ歌である。「大王の命かしこみ」より、「世の中は数なきものぞ」に至るまでの一半は、一段、一段、家持の歌に即していっているものであるが、そのいうところは、家持の悲観的な語をくつがえして楽観的にいっているもので、ことに「世の中は数なきものぞ」は、家持の「世の中の常し無ければ」と消極的に解して、一切の嘆きの根本としているのを、池主はこれを積極的に解し、さればこそ行楽をほしいままにすべきだとし、それを風雅の基本ともしているのである。その上で家持の憧れて、「いたづらに過し遣りつれ」と嘆いている春の野を、里人の目を通して親しく見ている景とし、その上で「くれなゐの赤裳の裾の」という家持の語を取って、そうした「をとめらは念ひ乱れて、君待つとうら恋ひすなり」と展開させているのである。そして、最後に自身の心をも添えて、「心ぐしいざ見に行かな事はたなゆひ」と、強い語をもってそそのかしているのである。一首、和え歌の型に従い、周到な用意をもって詠んだものであるが、そのために事が多くなり、心が散漫になって、部分的には整っているが、全体としては統一感の乏しいものとなっている。しかし本来が和え歌であって、明らかな目的を持っての作であるから、多く非難するのは無理なことである。
 
3974 山吹《やまぶき》は 日《ひ》に日《ひ》に咲《さ》きぬ 愛《うるは》しと 我《あ》が念《も》ふ君《きみ》は しくしく念《おも》ほゆ
    夜麻夫枳波 比尓々々佐伎奴 宇流波之等 安我毛布伎美波 思久々々於毛保由
 
【語釈】 ○山吹は日に日に咲きぬ 「日に日に」は、従来の用例はすべて「日にけに」であるので、新しいものである。○愛しと なつかしと。○しくしく念ほゆ 「しくしく」は、重ね重ね。「日に日に」と対させてある。
【釈】 山吹の花は、日に日に咲き増した。なつかしと我が思っている君は、重ね重ね思われる。
(84)【評】 家持の「山吹の茂み飛びくく」に和えたものである。「山吹は日に日に咲きぬ」と、「我が念ふ君はしくしく念ほゆ」とは、事としてはかけ離れたものであるが、心としては緊密に連絡しており、上は下の譬喩のごとくなっているものである。この飛躍しつつも同時にそれを没している言い方は、気分を主とするところよりできることで、長歌では見せなかったことを、反歌できわやかに見せているのである。
 
3975 我《わ》が兄子《せこ》に 恋《こ》ひすべなかり 葦垣《あしがき》の 外《ほか》になげかふ 我《あれ》し悲《かな》しも
    和賀勢故迩 古非須敞奈賀利 安之可伎能 保可尓奈氣加布 安礼之可奈思母
 
【語釈】 ○我が兄子に恋ひすべなかり 「我が兄子」は、最大級の親称。「恋ひすべなかり」は、恋いて術《すべ》なくいるで、恋うるが、何ともする術もない意。病床に見舞うことはできなかったとみえる。○葦垣の外になげかふ 「葦垣の」は、ここは、その内と外との意で、「外」にかかる枕詞。「外に嘆かふ」は、よそにいて、嘆きつづける。○我し悲しも 我は悲しいことであるよで、「し」は、強意。
【釈】 最も親愛なる君に、恋うて何ともせん術がなくています。葦垣の外のように、よそにいて嘆きつづけている私は悲しいことですよ。
【評】 家持の「籠り居て君に恋ふるに心神もなし」に和えたものである。それに相当させて、恋の歌のような濃情をいったものである。真率な情が籠もっていて、作為とは見えないものである。
 
     三月五日、大伴宿禰池主
 
     昨暮の来使は、幸に晩春遊覧の詩を垂れ、今朝の累信は、辱く相招望野の歌を※[貝+兄]《たま》ふ。一たび玉藻を看て稍鬱結を写《のぞ》き、二たび秀句を吟じて、已に愁緒を※[益+蜀]《のぞ》く。此の眺翫にあらずは、孰か能く心を暢《の》べむ。但《ただ》走《やつがれ》稟性彫り難く、闇神|瑩《みが》くこと靡《な》し。翰《ふみて》を握りて毫を腐《くた》し、研《すずり》に対ひて渇くことを忘る。終日流を目して、綴れども能はず。所謂文章は天骨にして、習ひて得ず。豈字を探り韻を勒して、雅篇に叶和するに堪へめや。抑も鄙里の小児に聞かくは、古人言に酬いずといふこと無しといへり。聊か拙詠を裁り、敬《つつし》みて解咲に擬す。【如今《いま》言を試し韻を勒し、斯の雅作の篇に同ずるは、豈石を持《も】ちて瓊《たま》に間《まじ》へ、声に唱《うた》ひ曲に遊ぶに殊ならめや。抑も小児の濫に(85)謠ふに譬ふ。敬みて葉端に写し、式《も》ちて乱に擬へて曰く】
     昨暮來使、幸也以垂2晩春遊覽之詩1、今朝累信、辱也以※[貝+兄]2相招望野之歌1。一看2玉藻1、稍寫2鬱結1、二吟2秀句1、己※[益+蜀]2愁緒1。非2此眺翫1、孰能暢v心乎。但走稟性難v彫、闇神靡v瑩。握v翰腐v毫、對v研忘v渇。終日目v流、綴之不v能。所v謂文章天骨、習之不v得也。豈堪3探v字勒v韻、叶2和雅篇1哉。抑聞2鄙里小兒1、古人言無v不v酬。聊裁2拙詠1敬擬2解咲1焉。【如今賦v言勒v韻、同2斯雅作之篇1、豈殊2將v石間v瓊、唱v聲遊v曲1歟。抑小兒譬2濫謠1。敬寫2葉端1、式擬v乱曰】
 
【解】 三月五目、家持より池主に贈った返翰である。「昨暮の来使」は、昨、三月四日の暮のあなたよりよこした使は。「詩を垂れ」は、詩を賜わり。「今朝の累信」は、今、三月五日の朝、重ねてくだされた書信は。「相招望野の歌」は、相招きて野に望むで、誘い合って野遊びをする歌。「※[貝+兄]」は、「賜」に同じ。「玉藻」は、玉のような詞藻で、詩をさしている。「鬱結を写き」は、憂えに結ばれた心を除き。「写」は、「除」に同じ。「秀句を吟じて」は、すぐれた句を口ずさんで。「此の眺翫にあらずは、孰か能く心を暢べむ」は、このように風光を文字に写すのでなければ、誰がよく心をのびやかにすることができようかで、詩文の力を讃えたもの。「但走」は、元暦校本にあるもので、仙覚本は「但惟下僕」とある。作者に両案があって、どちらも伝わっていたとみえる。「走」は、卑下の一人称。「稟性彫り難く」は、「稟性」は天性。「彫り難く」は素質なくの意。これは論語の、孔子が宰予を歎じた「朽木不v可v彫也」によった語。「闇神瑩くこと靡し」は、「闇神」は、闇愚なる心。「瑩くこと靡し」は、勉学をしたことがないで、「靡し」は絶無。「翰を握りて毫を腐し」は、「翰」は筆で、古くは筆の穂は鳥の羽を用いたところからの字。「毫」は毛筋で、「腐し」は、墨をつけ放しで用いないところから腐らせることで、文を綴ろうとして綴れない意。「研に対ひて渇くことを忘る」は、硯に対っていて、その水の乾いてしまうことも忘れるで、意は上と同じ。「終日流を目して」は、一日じゆう、茫然と水流を見やっていての意とみえる。それだと国司館から射水河を見やる意であろうが、語が足りず、唐突である。不明とすべきであろう。「文章は天骨にして、習ひて得ず」は、美しい文を綴るのは天性、生まれつきのことで、習ってできることではない。「字を探り韻を勤して、雅篇に叶和するに堪へめや」は、字を探して韻字を定め、あなたの雅正の詩に協わせ和することができようか、できはしない。「鄙里の小児に聞かく」は、「小児」は無知な者としていったもの。田舎の無知な者のいっていることにはで、誰でもいうには。「古人言に酬いずといふこと無しといへり」は、「古人」は古の賢い人。「言に酬いず」は、人から物をいわれて答えない意で、これは詩経の「無2徳不1v報、無2言不1v酬」による語である。これは、事には堪えないが、答えないわけにはゆかないの意でいっているもの。「解咲に擬す」は、頤を解いての笑いになぞらえるで、お笑いぐさに供する意。(86)以上で挨拶の語は終わっていると取れる。また、これ以下は、上にいっていることと重複しているものであるから、作者に両案があり、どちらも伝わっていたものと解される。「石を将ちて瓊に間へ」は、すでに一度池主への書翰に用いた語である。「声に唱ひ曲に遊ぶに殊ならめや」は、声を張りあげて、音曲の仲間入りをするに異なろうか、異ならないの意。本文は「曲」の上に走の字があるが、あつては意をなさない所から、『新訓』は衍字として削っている。無能でただ口真似をする意の譬。「小児の濫に謡ふに譬ふ」は、上の「声に唱ひ」以下の説明。「葉端」は、紙端で、改まってのことではない意で、卑下。「乱に擬へて」は、乱辞とも、反辞ともいい、賦の後に添える短文の称で、賦でいつたことの大意を要約しての語である。「擬へて」は自分の詩をそうした物になぞらえてで、卑下しての語。
 
     七言一首
     ※[木+少]春の余日は媚景麗しく 初巳の和風払ひておのづから軽し 来燕は泥を銜みて宇を賀《ほ》きて入り帰鴻は蘆を引きて※[しんにょう+向]《はるか》に瀛《おき》に赴く 聞くならく、君が嘯侶と新に曲を流し 禊飲 爵《さかづき》を催して河清に泛ぶるを 良きこの宴を追《お》ひ尋《もと》めむと欲《おも》へども 還りて知る、懊《やまひ》に染みて脚の※[足+令]※[足+丁]《れいてい》たることを
      ※[木+少]春餘目媚景麗 初巳和風拂自輕 來燕※[銜の金が含]v泥賀v宇入 歸鴻引v蘆※[しんにょう+向]赴v瀛 聞君嘯侶新流v曲 禊飲催v爵泛2河清1 雖v欲v追2尋良此宴1 還知染v懊脚※[足+令]※[足+丁]
 
【語釈】 ○※[木+少]春の余日は媚景麗しく 「※[木+少]春」は、暮春の意で、※[木+少]は木の末。「余日」は、余りの日で、終わりに近い日。「媚景」は、明媚なる風景。「麗しく」は、整って。暮春の終わり近い日は、明媚なる風景が整って。○初巳の和風払ひておのづから軽し 「初巳」は、上巳。「和風」は、のどかな風。「払ひておのづから軽し」は、吹きわたって、自然に軽いで、春風の趣。上巳の日ののどかな風は、吹きわたって自然に軽い。○来燕は泥を銜みて宇を賀きて入り 「来燕」は、春になると南方から渡って来る燕。「泥を銜みて」は、去年の古巣を繕うために、泥をふくんで。「宇を賀きて入り」は、「宇」は、家で、古巣のある家を、祝うさまをして入って来て。これは『淮南子』の「大※[まだれ+夏]成而燕雀相賀」によった語。帰って来た燕は、古巣を繕う泥をふくんで、その家を祝うさまをして入って来。○帰鴻は蘆を引きて※[しんにょう+向]に瀛に赴く 「帰鴻」は、「鴻」は、雁を言いかえたもの。春になると雁は北方に向かって帰って行く。「蘆を引いて」は、蘆を咬えて飛ぶ状態をいったもの。これは海を越える時、疲れると、その蘆を波に浮かべて、その上にとまって翅を休めるためで、雁の習性である。「※[しんにょう+向]に」は、遠く。「瀛」は、大洋。帰る雁は蘆を咬えて、遠く大洋へ行く。○聞くならく、君が嘯侶と新に曲を流し 「聞くならく」は、君の詩で聞けば。「嘯侶」は、歌う友で、吟友。「曲を流し」は、曲水に盃を流す遊ひをしてで、これは池主の詩に曲水の宴を催したことのあるのをうけてのもの。聞けば、君は吟友と新たに曲水の宴をして。○禊欽爵を催して河清に乏ぶるを 「禊飲」は、「禊」は、みそぎで、漢土では上巳の日には河のほとりで、禊をして邪気を払い、続いて酒宴を催したのである。(87)「爵を催して」は、盃の廻って来ることを催促して。「河清に泛ぶるを」は、盃を清い水の上に浮かぶることをで、宴の情景である。この遊びはわが国でも一般になつかしがられていたと見え、巻十九(四一五三)にも「漢《から》ひとも筏《いかだ》浮べて遊ぶといふ今日ぞ我が背子花蘰せな」という歌がある。禊飲の宴の盃の廻って来るのを催促して、河の清い水の上に浮かべるのは、上の句をうけたもので、「聞くならく」はここまでかかっている。○良きこの宴を追ひ尋めむと欲へども 良いその宴を追いもとめて、我も仲間入りをしたいと思うけれども。○還りて知る、懊に染みて脚の※[足+令]※[足+丁]たることを 「還りて知る」は、顧みて心づく。「懊に染みて」は、我は病にかかって。「脚の※[足+令]※[足+丁]たることを」は、脚がよろよろとして、歩行に堪えないことを。
【評】 「軽」「瀛」「清」「※[足+丁]」と、いわゆる韻を勒して答詩を作っているが、苦渋の痕の見える、池主には遠く及ばないものである。家持も漢文学の教養はもっていたとみえるが、詩作は拙く、いうように天骨がなかったと思われる。書翰にいうところも、必ずしも卑下ではなかったのである。
 
     短歌二首
 
3976 咲《さ》けりとも 知《し》らずしあらば 黙《もだ》もあらむ 此《こ》の山吹《やまぶき》を 見《み》せつつもとな
    佐家理等母 之良受之安良婆 母太宅安良牟 己能夜万夫吉乎 美勢追都母等奈
 
【語釈】 ○黙もあらむ 黙ってもいられようで、ここは、物を思えばいうの反対で、何も思わずにいられようの意。○此の山吹を見せつつもとな この山吹を見させつつ、由ないことですで、下に嘆かせるの意が略されている。
【釈】 たとい咲いていようとも、全く知らずにいたならば、何とも思わずにいましょう。この山吹の花を見させつつ由ないことです。
【評】 池主から、その日の歌に添えて山吹の花を贈られたのに対しての挨拶である。この歌は、巻十(二二九三)「咲けりとも知らずしあらば黙然もあらむ此の秋芽子を見せつつもとな」により、その「秋芽子」を「山吹」と変えただけのものである。古歌を取って間に合わせることは一般に行なわれていた風である上に、崇古の傾向のあった時代とて、こうした事が心利いたこととして興味のあるものだったとみえる。
 
3977 葦垣《あしがき》の 外《ほか》にも君《きみ》が 倚《よ》り立《た》たし 恋《こ》ひけれこそば 夢《いめ》に見《み》えけれ
(88)    安之可伎能 保加尓母伎美我 余里多々志 孤悲家礼許曾婆 伊米尓見要家礼
 
【語釈】 ○葦垣の外にも君が倚り立たし 「葦垣の外にも」は、わが家の葦垣の外にで、池主の枕詞として用いた「葦垣の」を実物に変えたのである。「君」は、池主。「倚り立たし」は、「倚り立つ」の敬語。○恋ひけれこそば 「けれこそ」は、「ければこそ」の古格。恋うたのでこそ。「ば」は、「は」と同じだが、「こそ」に添った場合は濁って「ば」となることが多い。○夢に見えけれ わが夢に君が見えたのであるよで、「けれ」は、「こそ」の結。これはしばしば出たごとく、先方でこちらを思うと、その魂に感応して、我の夢に見えるという、古い時代よりの信仰によっていったもの。
【釈】 わが家の葦垣の外に君がお倚り立ちになり、我を恋うたればこそ、わが夢に見えたことであるよ。
【評】 池主の、「我が兄子《せこ》に恋ひすべなかり葦垣の外になげかふ我《あれ》し悲しも」に対しての答歌である。贈歌の「葦垣の」は枕詞であるのを、実物に変え、「外になげかふ」を、その感応のまさしくもあったと応じたもので、答歌の型どおりに詠んだものである。技巧を持ちつつも安らかに、自然に詠んでいる歌である。
 
     三月五日、大伴宿禰家持、病に臥して作れる。
      三月五日、大伴宿祢家持、臥v病作之。
 
【解】 返翰に「今朝」とある、その日の中に詠んで答えたものである。その事の速やかさが重んじられていたからである。
 
     恋緒を述ぶる歌一首 井に短歌
 
【題意】 「恋緒」は、恋情で、家持が奈良にあるその妻大伴大嬢に対してのものである。家持は正月には税帳使として上京する予定になったので、久しぶりに妻に逢えることが刺激になってのことと知られる。
 
3978 妹《いも》も吾《われ》も 心《こころ》は同《おや》じ 副《たぐ》へれど いや懐《なつか》しく 相見《あひみ》れば 常初花《とこはつはな》に 情《こころ》ぐし 眼《め》ぐしもなしに 愛《は》しけやし 吾《あ》が奥妻《おくづま》 大王《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ あしひきの 山《やま》越《こ》え野《ぬ》行《ゆ》き 天離《あまざか》る 鄙《ひな》治《をさ》めにと 別《わか》れ来《こ》し 其《そ》の日《ひ》の極《きはみ》 あらたまの 年《とし》往《ゆ》き返《がへ》り 春花《はるはな》の うつろふまでに(89) 相見《あひみ》ねば いたも術《すべ》なみ 敷栲《しきたへ》の 袖《そで》反《かへ》しつつ 宿《ぬ》る夜《よ》おちず 夢《いめ》には見《み》れど 現《うつつ》にし 直《ただ》にあらねば 恋《こひ》しけく 千重《ちへ》に積《つも》りぬ 近《ちか》からば 帰《かへ》りにだにも うち行《ゆ》きて 妹《いも》が手枕《たまくら》 さし交《か》へて 寝《ね》ても来《こ》ましを 玉桙《たまほこ》の 路《みち》はし遠《とほ》く 関《せき》さへに 隔《へな》りてあれこそ よしゑやし よしはあらむぞ ほととぎす 来鳴《きな》かむ月《つき》に いつしかも 早《はや》くなりなむ 卯《う》の花《はな》の にほへる山《やま》を 外《よそ》のみも ふり放《さ》け見《み》つつ 淡海路《あふみぢ》に い行《ゆ》き乗《の》り立《た》ち あをによし 奈良《なら》の吾家《わぎへ》に ぬえ鳥《どり》の うら嘆《なけ》しつつ 下恋《したごひ》に 思《おも》ひうらぶれ 門《かど》に立《た》ち 夕占《ゆふけ》問《と》ひつつ 吾《あ》を待《ま》つと 寝《な》すらむ妹《いも》を 逢《あ》ひて早見《はやみ》む
    妹毛吾毛 許己呂波於夜自 多具敞礼登 伊夜奈都可之久 相見婆 登許波都波奈尓 情具之 眼具之毛奈之尓 波思家夜之 安我於久豆麻 大王能 美許登加之古美 阿之比奇能 夜麻古要奴由伎 安麻射加流 比奈乎左米尓等 別來之 曾乃日乃伎波美 荒璞能 登之由吉我敞利 春花乃 宇都呂布麻泥尓 相見祢婆 伊多母須敞奈美 之伎多倍能 蘇泥可敞之都追 宿夜於知受 伊米尓波見礼登 宇都追尓之 多太尓安良祢婆 孤悲之家口 知敞尓都母里奴 近在者 加敞利尓太仁母 宇知由吉※[氏/一] 妹我多麻久良 佐之加倍※[氏/一] 祢天蒙許万思乎 多麻保己乃 路波之騰保久 關左閇尓 散奈里※[氏/一]安礼許曾 与思惠夜之 餘志播安良武曾 霍公鳥 來鳴牟都奇尓 伊都之加母 波夜久奈里那牟 宇乃花能 尓保敞流山乎 余曾能未母 布里佐氣見都追 淡海路尓 伊由伎能里多知 青丹吉 奈良乃吾家尓 奴要鳥能 宇良奈氣之都追 思多戀尓 於毛比宇良夫礼 可度尓多知 由布氣刀比都追 吾乎麻都等 奈須良牟妹乎 安比※[氏/一]早見牟
 
【語釈】 ○妹も吾も心は同じ 「同《おや》じ」は、「おなじ」の古語で、当時並び行なわれていた。妹もわれも相思う心は同じである。○副へれどいや懐しく 一緒にいるけれどもますます懐かしく。一緒にいれば心の鎮まるのに対させてのもので、飽くことを知らない恋の心をいったもの。○相見(90)れば常初花に 「相見れば」は、「副へれど」を繰り返して、さらに説明したもの。「常初花に」は、永久の初花のようにで、いつも珍しく。○情ぐし眼ぐしもなしに 「ぐし」は、曇る意の形容詞で、「情」「眼」に接して熟語を成すもの。心が曇り、眼が曇ることがなくてで、いつも晴れ晴れと明るくて。○愛しけやし吾が奥妻 「奥妻」は、他に用例のない語。「奥」は、ここは、心の深く遠い処で、心底から思っている妻で、下に詠歎を含んでいる。最愛の、わが心底から思っている妻よ。以上、第一段。○別れ来し其の日の極 別れて来たその日を最後として。○あらたまの年往き返り あらたまの年が過ぎて往き、また立ち返って来て。年が変わって。○春花のうつろふまでに 春の花の散って行くまでに。○敷栲の袖反しつつ 「敷栲の」は、よい栲ので、袖の枕詞。「袖反しつつ」は、袖を折り反し続けてで、これは思う人を招き寄せる呪い。○宿る夜おちず夢には見れど 寝る夜を欠かさず、毎夜夢には見るがで、上の「袖反し」の結果。○現にし直にあらねば 現実に、直接に逢うのではないので。○恋しけく千重に積りぬ 「恋しけく」は、「恋し」の名詞形。恋しさは限りなく積もった。「し」は、強意。○近からば帰りにだにも 「かへり」は、名詞で、行ってすぐに帰る意。口語に立ちがえりというのにあたる。路が近かったならば、立ちがえりにでも。○うち行きて 「うち」は、接頭語。京へ行って。○路はし遠く 「し」は、強意の助詞。○関さへに隔りてあれこそ 「関」は、越前と近江の国境にある愛発《あらち》の関。「さへに」は、までも。「隔りてあれこそ」は間を隔ててあることよで、関はきわめて越し難いもの。「こそ」は、これは結のないところから、係ではなく、強い強意の助詞と取れる。以上、第二段。○よしゑやしよしはあらむぞ 「よしゑやし」は、それもよし。「よしはあらむぞ」は、方法はあろうぞで、転じて楽しい希望をいおうとしてのもの。○ほととぎす来鳴かむ月に ほととぎすが来て鳴くだろう月に。本巻(三九八四)の左注に「霍公鳥者、立夏之日来鳴必定」とある。立夏は四月である。家持は五月には税帳使として上京する予定になっていたので、その心でいっているのである。そのことは後続の歌で明らかである。○いつしかも早くなりなむ 「いつしかも」は、いつ来るであろうかなあで、「し」は、強意。「早くなりなむ」は、「な」は、完了の助動詞の未然形で強意。「む」は、推量の助動詞で、早くならないであろうか。○卯の花のにほへる山を 卯の花が色美しく咲いている山を。○外のみもふり放け見つつ よそにばかり仰ぎ見つつで、立ち寄って見ようともせず行程を急いで。これは越前あたりの山中の道のさま。○淡海路にい行き乗り立ち 「淡海路に」は、ここは、淡海国に。「い行き」の「い」は、接頭語。「乗り立ち」は、船に乗って出てで、湖上を船で越す意。○ぬえ鳥のうら嘆しつつ 「ぬえ鳥の」は、ぬえ鳥のごとくの意で、「嘆」にかかる枕詞。今の「とらつぐみ」で、夜、人の咽び泣くような声をして鳴く鳥だからである。「うら嘆」は、心の中でひそかに嘆くで、咽び泣くにあたる。巻十(一九九七)に既出。「しつつ」は、連続。○下恋に思ひうらぶれ 「下恋」は、心の中にひそかに恋うる意で、名詞。「思ひうらぶれ」は、憂えしおれて。○門に立ち夕占問ひつつ 「門に立ち」は、家を離れないつつましさを示す意でのもの。「夕占」は、夕方の人の物言いによっての占いで、既出。「問ひつつ」は、夕占をしつつで、連続。○吾を待つと寝すらむ妹を 「吾を待つと」は、われの帰りを待つとてで、待ちかねての余意を持たせたもの。「なす」は、「寝る」の敬語。○逢ひて早見む 早く逢い見むの意で、この倒語は他に例のないもの。
【釈】 妹もわれも相思う心は同じである。一緒にいるけれども、ますます懐かしく、相見ていれば、永久の初花のさまに、心が曇り、眼が曇ることもない、最愛のわが心底より思っている妻よ。天皇の命令を畏み受けて、あしひきの山を越え野を行き、天と離れている都を治めにと別れて来たその日を最後に、あらたまの年は過ぎて往き、又の年は立ち返って、春の花の散るまでも相逢わないので、何ともやるせなく、敷栲の衣の袖を折り返しつづけて、寝る夜を欠かさず毎夜夢には見ているが、現実に、直(91)接に逢うのではないので、恋しさは限りなく積もった。路が近かったならば、立ち帰《がえ》りにでも行って、妹が手枕を我とさし交わして、寝ても来ように、玉桙の路は遠く、関までも間を隔てていることであるよ。よしや、方法はあろうぞ。ほととぎすが来て鳴くだろう月に、早くならないだろうか。卯の花の色美しく咲いている山を、よそにのみ仰ぎ見つつ、淡海国に行って船に乗って出、あおによし奈良のわが家に、ぬえ鳥のようにひそかに嘆きながら、心に包む恋に憂えしおれて、門に立って夕占を問いつづけ、われを待って寝ていらっしゃるであろう妹に、逢って早く見たい。
【評】 この歌は、上来の池主との贈答の歌にくらべると、著しく気力が張り、気分が豊かで、ほとんど別人の観のあるものである。池主との贈答は、最後が三月五日で、病に臥してとあるが、これは左注に三月二十日の夜とあるので、その間に家持の病気はかなり恢復したためともみえる。家持は京にあった時代には、多くの女性と関係を結んだが、越中の在任中は一変してきわめて謹厳な国守であったとみえる。それは国守は、道徳的にもその部内に範を垂れるべき職であるとする意識もあったろうが、今一つは、彼の異性に対する心は、妻の坂上大嬢以外には散らなかったためとみえる。死生の間に漂っていた時は、その生母とともに、妻子をも思ったのであったが、これはいわゆる情愛の範囲のもので、恋緒としては坂上大嬢にのみつながっていたとみえる。この歌は、ただ恋緒そのもののみを対象としたもので、他には何の事件をも含んでいないものであるが、それにもかかわらず彼の陥りやすい冗漫にまでは至らず、恋の気分をもって一貫してこれだけの長篇としているのであるから、その意味でも特色ある作である。構成も整然としていて、第一段では相思の情、第二段では職務のために疎隔されている苦痛、第三段では相見る機会を予想しての喜びとしてあって、その接続はきわめて自然である。第一段は、簡潔な、立体感を持ったもので、家持としては珍しいまでのものである。第二段は、語って委しきにすぎる感のあるものであるが、しかしその気分の第三段に呼応している意味で、多く非難ができない。第三段は一転して、「よしゑやしよしはあらむぞ」と、五月、税帳使となって上京する予想を述べているのであるが、この一段は純想像の世界が彼の気分に融かされて、生彩あり、魅力あるものとなっている。家持には想像の世界を扱ったものがなく、あるいは扱いかねる人のごとくにもみえるのであるが、この段では越中より奈良までの道中、奈良の家を、現前のもののごとく扱っているのである。これは既知の世界だからとのみはいえないものである。一首、大患の癒えた後に持つ異常なる人生執着が、このような作をさせたのであって、家持自身からいっても、随時に持てる気分ではなかったとみえる。
 
3979 あらたまの 年《とし》かへるまで 相見《あひみ》ねば 心《こころ》もしのに 思《おも》ほゆるかも
    安良多麻乃 登之可敞流麻泥 安比見祢婆 許己呂毛之努尓 於母保由流香聞
 
(92)【語釈】 ○心もしのに思ほゆるかも 心も萎れて妻の恋しく思われることだ。
【釈】 あらたまの年が新たに立ち返るまでの久しい間を相逢わないので、心も萎れて妻の恋しく思われることだ。
【評】 長歌の前半の心を総括して繰り返したものである。長歌で言い尽くしたためか、気の抜けたものとなっている。
 
3980 ぬばたまの 夢《いめ》にはもとな 相見《あひみ》れど 直《ただ》にあらねば 恋《こ》ひ止《や》まずけり
    奴婆多麻乃 伊米尓波母等奈 安比見礼騰 多太尓安良祢婆 孤悲夜麻受家里
 
【語釈】 ○ぬばたまの夢にはもとな相見れど 「ぬばたまの」は、夜の枕詞から夜の意となったもの。「もとな」は、ここは、甲斐なくというにあたる。○直にあらねば恋ひ止まずけり 直接に逢うのではないので、恋いやまないことだで、「けり」は、「ず」に接しての感動。例のあるものである。
【釈】 夜の夢には、その甲斐なく相逢っているけれども、直接に逢うのではないので、恋いやまぬことだ。
【評】 これも長歌の前半の一部の繰り返しである。結句の張りを不調和としないだけの張りを持ったものである。
 
3981 あしひきの 山《やま》き隔《へな》りて 遠《とほ》けども こころし行《ゆ》けば 夢《いめ》に見《み》えけり
    安之比奇能 夜麻伎敞奈里※[氏/一] 等保家騰母 許己呂之遊氣婆 伊米尓美要家里
 
【語釈】 ○山き隔りて遠けども 「き隔りて」は、巻四(六七〇)および上の(三九六九)に出た。隔てて。「遠けども」は、遠けれども。○こころし行けば わが心が大嬢の許へ行くので。「し」は、強意。○夢に見えけり 大嬢が夢に見えたことであった。心が通うと夢に見えるという一般的信仰の上に立つての心。
【釈】 あしひきの山を隔てて、遠いけれども、わが心がその人の許へ行くので、その感応で、その人が夢に見えたことだ。
【評】 大嬢が夢に見えたことをいっているので、これは大嬢がこちらを思っているからだといえることであるが、女性を重んじる心から、自分が大嬢を思うゆえに、その心が感応して、大嬢が夢に見えたのだといっているのである。当時としては普通な言い方だったのである。
 
(93)3982 春花《はるばな》の うつろふまでに 相見《あひみ》ねば 月日《つきひ》数《よ》みつつ 妹《いも》待《ま》つらむぞ
    春花能 宇都路布麻泥尓 相見祢婆 月日餘美都追 伊母麻都良牟曾
 
【語釈】 ○月日数みつつ妹待つらむぞ 「数み」は、数えで、現在も行なわれている語。「つつ」は、連続。「待つらむぞ」は、現在、待っていようぞ。
【釈】 春の花の散ってしまうまでの久しい間を相逢わないので、日々、月日を数えつつ妹は我を待っていようぞ。
【評】 妹を隣れんでの心である。四首、時間的に心の推移してゆく順序に排列しているので、おのずから連作の趣を成している。そこに趣はあるが、しかしそのために説明的なものとなり、長歌の持つ感動は全く見えない、感の稀薄なものとなっている。上の長歌にはふさわしくないものである。
 
     右は、三月二十日の夜の裏《うち》に、忽に恋情を起して作れる。大伴宿禰家持。
      右、三月廿日夜裏、忽今起2戀情1作。大伴宿祢家持。
 
     立夏四月、既に累日を経れども、由《なほ》いまだ霍公鳥の喧くを聞かず。因りて作れる恨の歌二首
 
【題意】 「立夏四月」は、「立夏」は暦面の日で、年々に異なって一定していない。太陽の運行によって算出する日だからである。また一方、「四月」は夏季の初めの月としている関係上、このように続けていうのである。「累日を経れども」は、何日か過ぎたけれども。「由」は「猶」と同じ。これは霍公鳥は立夏とともに喧くとされているからで、そのことは左注でいっている。
 
3983 あしひきの 山《やま》も近《ちか》きを ほととぎす 月《つき》立《た》つまでに 何《なに》か来鳴《きな》かぬ
    安思比奇能 夜麻毛知可吉乎 保登等藝須 都奇多都麻泥尓 奈仁加吉奈可奴
 
【語釈】 ○あしひきの山も近きを 「山」は、国司館は二上山続きの山の上にあったので、それらの山をさしたもの。「近きを」は、近いのに。○月立つまでに 月が変わるまで。立夏は三月中で、「二十九日」までには「累日」という日数があったので、久しい期間の意でいっているのであ(94)る。
【釈】 あしひきの山も近いここであるのに、ほととぎすよ、立夏の日から月が変わるまで、どうして来て鳴かないのか。
【評】 家持は霍公鳥を酷愛したことが、他の歌でも知られる。漢文学の影響ではあったろうが、すでに時代の風となって、そうしたことは意識していなかったことが、この歌のもつ真率さでも知られる。この歌は詩的誇張ではなく、実感そのものだからである。「月立つまでに」という、無理な言い方も実感のさせることである。
 
3984 玉《たま》に貫《ぬ》く 花橘《はなたちばな》を 乏《とも》しみし この我《わ》が里《さと》に 来鳴《きな》かずあるらし
    多麻尓奴久 波奈多知婆奈乎 等毛之美思 己能和我佐刀尓 伎奈可受安流良之
 
【語釈】 ○玉に貫く花橘を 玉のさまに糸に貫く橘の花が。これは五月五日の節日の薬玉のことである。これは「玉に貫く」は、花橘の修飾で、霍公鳥の愛好する花橘が主になっているものである。○乏しみし 「し」は、強意の助詞で、乏しいゆえに。○この我が里に来鳴かずあるらし この、わが住んでいる里には来て鳴かないのであるらしいで、「らし」は、強い推量。主格であるほととぎすを省いているのは、「花橘」と「来鳴かず」で明らかだとしたためであろう。
【釈】 玉のさまに糸に貫く橘の花が乏しいゆえに、このわが住む里には、来て鳴かないのであるらしい。
【評】 上の歌と連作となっているもので、上の歌では訝かったが、ただちに思いかえし、ほととぎすが愛してとまるべき、橘の花がないゆえであろうかと、霍公鳥に同情した心である。歌本来の性格として、人に対し物をいう場合には、自身を抑えて相手を立てていうことになっていたのであるが、この時代には、それが自然界にも及んでいたのであって、家持のこの態度は、彼独自のものではなく、時代風だったのである。しかし家持は、特にそれが身についていたので、そこに彼の人柄があったのである。この歌でも、霍公鳥と花橘をいうにも、風流がったところは少しもなく、当然のこととしていっているのである。なお、左注も添えている。
 
     霍公鳥は立夏の日来鳴くこと必定まれり。又越中の風土、橙橘のあること希《まれ》なり。此《これ》に因りて、大伴宿禰家持、感を懐《こころ》に発して聊此の歌を裁《つく》る。【三月二十九日】
      霍公鳥者、立夏之日來鳴必定。又越中風土、希v有2橙橘1也。因v此、大伴宿祢家持、感發2於懷1、(95)聊裁2此歌1。【三月廿九日】
【解】 「霍公鳥は立夏の日来鳴くこと必定まれり」は、時代の心だったのである。それを証する歌が多い。「橙橘」は橘で、霍公鳥は橘の花かまたは卯の花へ来るものだということも、時代の心だったのである。自然の運行に必然性を認めたのは、本来が農業国である上に、漢土の敬天思想が影響し、それが風流の方面に展開したのである。
 
     二上山の賦一首 【この山は射水郡にあり。】
 
【題意】 「二上山」は、高岡市伏木町の西北に聳えており、標高二七〇メートル、峰が二つに分かれているところよりの称である。二上とは二神で、男女二神の意である。国司館のある丘陵に続いている。「賦」は詩の一体で、詩経の注に「敷2陳其事1而直言v之者也」とあり、ここはこれにならって言ったものである。
 
3985 射水河《いみづがは》 い行《ゆ》き廻《めぐ》れる 玉《たま》くしげ 二上山《ふたがみやま》は 春花《はるはな》の 咲《さ》ける盛《さかり》に 秋《あき》の葉《は》の にほへる時《とき》に 出《い》で立《た》ちて ふり放《さ》け見《み》れば 神《かむ》からや 許多《そこば》貴《たふと》き 山《やま》からや 見《み》がほしからむ 皇神《すめかみ》の 裾廻《すそみ》の山《やま》の 渋谿《しぶたに》の 埼《さき》の荒磯《ありそ》に 朝凪《あさなぎ》に 寄《よ》する白浪《しらなみ》 夕凪《ゆふなぎ》に 満《み》ち来《く》る潮《しほ》の いや増《ま》しに 絶《た》ゆることなく 古《いにしへ》ゆ 今《いま》のをつつに 斯《か》くしこそ 見《み》る人《ひと》ごとに 懸《か》けて偲《しの》はめ
    伊美都河伯 伊由伎米具礼流 多麻久之氣 布多我美山者 波流波奈乃 佐氣流左加利尓 安吉乃葉乃 尓保敞流等伎尓 出立※[氏/一] 布里佐氣見礼婆 可牟加良夜 曾許婆多敷刀伎 夜麻可良夜 見我保之加良武 須賣可未能 須蘇未乃夜麻能 之夫多尓能 佐吉乃安里蘇尓 阿佐奈藝尓 餘須流之良奈美 由敷奈藝尓 美知久流之保能 伊夜麻之尓 多由流許登奈久 伊尓之敞由 伊麻乃乎都豆尓 可久之許曾 見流比登其等尓 加氣※[氏/一]之努波米
 
(96)【語釈】 ○射水河い行き廻れる 「射水河」は、水源は飛騨(岐阜県)で、越中国(富山県)射水郡、礪波郡を流れ、伏木と放生津の間で富山湾に注ぐ。古昔は、今の庄川も小矢部川と合流して、射水川となっていた。「い行き」は、「い」は、接頭語。その裾を流れめぐっている。○玉くしげ二上山は 「玉くしげ」は、玉櫛笥。その蓋と続く意で、「二」にかかる枕詞。○秋の葉のにほへる時に 「にほへる」は、色美しくなっているで、紅葉しているの意。以上四句、対句によって春秋をいい、一年間を代表させている形であるが、同時に、神としての二上山を望むにふさわしい時としていっているもの。○神からや許多貴き 「神から」は、神のゆえにで、上代は山は、山そのものが神であると信じていたからの語。「や」は、疑問の係。「許多」は、「そこぱく」というと同じ語。他には用例はない。多量の意から質に転じて、甚だの意となったもの。「貴き」は、「や」の結、連体形。貴いことであるよの意。○山からや見がほしからむ 「山から」は、山のゆえであるが、その山は神としてのそれで、「神から」と同じ。「や」は、疑問の係。「見がほしからむ」は、見たく思うのであろうか。以上、第一段。○皇神の裾廻の山の 「皇神」は、統へ治むる神であるが、単に神の意にも用いる。ここは後者で、二上山をさしたもの。「裾廻の山」は、裾にある山で、下の続きで、渋谿を形成している山。それだと二上山の東北方にある山である。○朝凪に寄する白浪 次の「夕凪に満ち来る潮の」とともに、「いや増し」にかかる長序。○いや増しに絶ゆることなく いよいよますます絶えることなくで、結末の「懸けて偲はめ」に続く。○古ゆ今のをつつに 「をつつに」は、現在で、古から今の現在にわたって。○斯くしこそ このように。「こそ」は、係。○懸けて偲はめ 心にかけて賞することであろう。「め」は、結。
【釈】 射水河が流れめぐっている、玉くしげ二上山は、春の花の咲いている盛りに、秋の葉の色美しく染まっている時に、家を出て仰いで見ると、神のゆえに甚しく貴いのであろうか。山のゆえに見たく思うのであろうか。神の裾にある山の、渋渓の埼の荒磯に、朝凪に寄せる白波の、夕凪に満ちて来る潮のように、いよいよまさって、絶えることがなく、昔から今の現在にわたって、このように、見る人ごとに心にかけて賞することであろう。
【評】 国司館から望み見られる二上山を、山をただちに神とする上代信仰に従って誘え賀した歌で、詠み方もそれにふさわし(97)しく、正しく麗しいことを旨としたものである。射水河を、「い行き廻れる」ものと見るのも型のあるもの。また、「春花」「秋の葉」を、神霊の力の現われのごとく見るのも、同じく型のあるものである。渋谿の荒磯の「白浪」と「潮」とを用いた長序は、いささかながら特色のあるものである。山を神霊そのものと見つつも、自然の美観に心引かれる趣の蔽い難く見えるのは、時代の影響というべきである。作意が条件つきのものであるところから、創意を出す余地はないが、一方、簡潔に、沈静にいっているので、それを補っているといえる。
 
3986 渋谿《しぶたに》の 埼《さき》の荒磯《ありそ》に 寄《よ》する波《なみ》 いやしくしくに いにしへ思《おも》ほゆ
    之夫多尓能 佐伎能安里蘇尓 与須流奈美 伊夜思久思久尓 伊尓之敞於母保由
 
【語釈】 ○渋谿の埼の荒磯に寄する波 上に出たもの。波の打ちしきって来る意で「しくしく」に続き、以上その序詞。○いやしくしくに ますますしきりに。○いにしへ思ほゆ 古が思われるで、古は長歌の結末にある「古」を繰り返したものである。神を崇敬する心からその歴史性を思わせられる意で、常識である。
【釈】 渋谿の埼の荒磯に寄せる波のように、いよいよ重ね重ね昔のことが思われる。
【評】 序詞は眼前を捉えた時様のものであるが、そのための立体感が添い、「いにしへ思ほゆ」をかなりまで気分のあるものにしている。気品のある歌である。
 
3987 玉《たま》くしげ 二上山《ふたがみやま》に 鳴《な》く鳥《とり》の 声《こゑ》の恋《こひ》しき 時《とき》は来《き》にけり
    多麻久之氣 敷多我美也麻尓 鳴鳥能 許惠乃孤悲思吉 登岐波伎尓家里
 
【語釈】 ○鳴く鳥の 霍公鳥である。○時は来にけり 季節が来たことだ。
【釈】 玉くしげ二上山に鳴く鳥の、声の恋しい季節が来たことだよ。
【評】 これは二上山は霍公鳥の鳴くべき山であるとして、季節の上から、そのゆかしさをいっているものである。長歌に、二上山の自然美をからませていた、その延長としてのもので、作者からいえば、反歌としてのつながりのあるものとしたのであろう。一首の歌としては、相応に気分のあるものである。
 
(98)     右は、三月三十日、興に依りて作れる。大伴宿禰家持。
      右、三月卅目、依v興作之。大伴宿祢家持。
 
     四月十六日、夜の裏《うち》に、遙に霍公鳥の喧《な》くを聞きて、懐《おもひ》を述ぶる歌一首
 
3988 ぬばたまの 月《つき》に向《むか》ひて 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》く音《おと》はるけし 里《さと》遠《どほ》みかも
    奴婆多麻乃 都奇尓牟加比※[氏/一] 保登等藝須 奈久於登波流氣之 佐刀騰保美可聞
 
【語釈】 ○ぬばたまの月に向ひて 「ぬばたまの」は、夜の物である意で、「月」の枕詞にしたもの。「月に向ひて」は、下の続きで見ると、目にしたのではなく、月のある空に鳴いたのを、気分から想像していったものである。○里遠みかも わが里が霍公鳥からは遠いからであろうかで、「み」は、理由をあらわしたもの。「かも」は、疑問。
【釈】 ぬばたまの月に向かって、霍公鳥の鳴く音がはるかにする。わが住む里からは遠いからなのであろうか。
【評】 月のある夜、霍公鳥の声のほのかにするのを、初めて聞いた感である。「四月十六日」と日を断わってあるのは、立夏よりもはるかに後であることを示しているもので、いかに待ったかをも暗示しているものである。「懐を述ぶる」も、感動の深かったことを示しているもので、題詞である程度まで歌の気分を説明したものである。抒情の語といえば、「里遠みかも」だけであるが、これは「音はるけし」の説明で、抒情とはいえない程度のものである。抒情語を好む家持であるが、感が高潮するとそれを用いず、ほとんど純客観にいい、抒情のほうは題詞で暗示するにとどめているのである。「月に向ひて」は魅力のある句である。調べが澄んで、気分の高潮を伝えている。
 
     右は、大伴宿禰家持の作れる。
      右、大伴宿祢家持作之。
 
     大目秦忌寸|八千島《やちしま》の館にて、守大伴宿禰家持を餞する宴《うたげ》の歌二首
 
【題意】 「秦八千島」のことは、上の(三九五六)に出た。「餞する宴」は、家持が税帳使として上京するを送る宴である。歌は(99)家持の詠んだものである。
 
3989 奈呉《なご》の海《うみ》の 沖《おき》つ白波《しらなみ》 しくしくに 思《おも》ほえむかも 立《た》ち別《わか》れなば
    奈呉能宇美能 意吉都之良奈美 志苦思苦尓 於毛保要武可母 多知和可礼奈婆
 
【語釈】 ○奈呉の海の沖つ白波 「奈呉の海」は、(三九五六)に出た。八千島の館から見える海。「沖つ白波」は、折重って来る意で、「しくしく」に続き、以上その序詞。○しくしくに思ほえむかも 重ね重ねも君が思われることであろうかなあで、「かも」は、疑問。○立ち別れなば 別れたならば。
【釈】 奈呉の海の沖の白波のように重ね重ねも思われることであろうかなあ。別れたならば。
【評】 客として招かれた家持が、主人八千島に対して述べた挨拶の歌で、儀礼の範囲のものである。「奈呉の海の沖つ白波」は、眼前を捉えての序詞であるが、「白波」を「しくしく」に懸けるのは慣用となっていたのである。
 
3990 我《わ》が兄子《せこ》は 玉《たま》にもがもな 手《て》に纏《ま》きて 見《み》つつ行《ゆ》かむを 置《お》きて往《い》かば惜《を》し
    和我勢故波 多麻尓母我毛奈 手尓麻伎※[氏/一] 見都追由可牟乎 於吉※[氏/一]伊加婆乎思
 
【語釈】 ○我が兄子は玉にもがもな 「我が兄子」は、八千島に対しての親称。「玉にもがもな」は、玉であればいいがなあ。
【釈】 親愛なるあなたが、玉であってくれればいいがなあ。手に纏いて、見ながら行こうのに。残しておいたら惜しい。
【評】 愛する人を「玉にもがもな」というのは、きわめて常套的なものである。しかし形として新味があり、二句で切り、四句で切り、感動の助詞を多く持ったものである。これは口語的発想の典型的のもので、句切りごとに力をこめていっているものである。ことに結句は、その趣の濃厚なものである。
 
     右は、守大伴宿禰家持、正税帳を以ちて京師に入らむとす。仍りて此の歌を作り、聊相別るる嘆を陳ぶ。四月二十日。
      右、守大伴宿祢家持、以2正税帳1須v入2束師1、仍作2此謌1、聊陳2相別之嘆1。四月廿日。
 
(100)【解】 「正税帳」は、前年度の租税の出納を記した帳簿で、年々、二月の末日までに、国庁より中央政府へ差出すべき制であった。後、越中国、外八か国は、四月末日までにと改められたという。家持の上京は五月初旬であるが、延期の理由は明らかでない。
 
     布勢《ふせ》の水海《みづうみ》に遊覧する賦一首 井に短歌【この海は射水郡旧江村にあり。】
 
【意】 「布勢の水海」は、二上山の北方、氷見市にあった湖水。もとの窪村、神代村、布勢村、十二町村などに囲まれている低地がすなわちその跡で、以前は東西四十町、南北は十町より十二町の水海であったが、慶長、元和の後の頃に干拓されて低地となり、今は中央に一条の水路が残るのみとなっている。十二町潟、氷見潟という。「旧江村」は水海の南岸にあったというが、今は名が伝わっていない。
 
3991 もののふの 八十伴《やそとも》の緒《を》の 思《おも》ふどち 心《こころ》遣《や》らむと 馬《うま》並《な》めて うちくちぶりの 白波《しらなみ》の 荒磯《ありそ》に寄《よ》する 渋谿《しぶたに》の 埼《さき》たもとほり 松田江《まつだえ》の 長浜《》過《ながはます》ぎて 宇奈比河《うなひがは》 清《きよ》き瀬毎《せごと》に 鵜河《うかは》立《た》ち か往《ゆ》きかく往《ゆ》き 見《み》つれども そこも飽《あ》かにと 布勢《ふせ》の海《うみ》に 船《ふね》浮《う》け居《す》ゑて 沖辺《おきべ》漕《こ》ぎ 辺《へ》に漕《こ》ぎ見《み》れば 渚《なぎさ》には あぢむら騒《さわ》き 島廻《しまみ》には 木末《こぬれ》花《はな》咲《さ》き 許多《ここばく》も 見《み》の清《さや》けきか 玉《たま》くしげ 二上山《ふたがみやま》に 延《は》ふ蔦《つた》の 行《ゆ》きは別《わか》れず 在《あ》り通《がよ》ひ いや毎年《としのは》に 思《おも》ふどち 斯《か》くし遊《あそ》ばむ 今《いま》も見《み》る如《ごと》
    物能乃敷能 夜蘇等母乃乎能 於毛布度知 許己呂也良武等 宇麻奈米※[氏/一] 宇知久知夫利乃 之良奈美之 安里蘇尓与須流 之夫多尓能 佐吉多母登保理 麻都太要能 奈我波麻須義※[氏/一] 宇奈比河波 伎欲吉勢其等尓 宇加波多知 可由吉加久遊岐 見都礼騰母 曾許母安加尓等 布勢能宇弥尓 布祢宇氣須惠※[氏/一] 於伎敞許藝 邊尓己伎見礼婆 奈藝左尓波 安遲牟良佐和伎 之麻未尓波 許奴礼波奈左吉 許己婆久毛 見乃佐夜氣吉加 多麻久之氣 布多我弥夜麻尓 波布都多能 由伎波和可礼受(101) 安里我欲比 伊夜登之能波尓 於母布度知 可久思安蘇婆牟 異麻母見流其等
 
【語釈】 ○もののふの八十伴の緒の 「もののふ」は、職業部属。「八十伴の緒」は、多くの団体の長で、古くはそうした人々が朝廷へ奉仕する官人で、文武百官を説明的にいった成語である。ここは転じて、国庁の官人の称として用いているのである。○思ふどち心遺らむと 思い合う同士、心を慰めようとて。○馬並めてうちくなぶりの 「馬並めて」は、乗馬を並べて。「うちくちぶりの」は、他に用例を見ない語で、語義不明である。下の続きで、磯へ寄せて来る海の白波の状態としていっている語であるから、白波の沖における状態と取れる。波の崩れるさまをあらわす語でもあろうか。家持の歌には、時に方言がまじることがあるから、越中の方言であるかもしれぬ。○渋谿の埼たもとほり 「たもとほり」は、「た」は、接頭語。「もとほり」は徘徊して。最初に渋溪の海べを遊覧したのである。○松田江の長浜過ぎて 「松田江」は、現在は地名が伝わっていないので、明らかではない。しかし下の「宇奈比河」へ行く途中であるから、路順から見て、渋谿から氷見市へ行く間の浜であろうという。「長浜」は、長く続いている砂浜。○宇奈比河 この名は伝わらない。『倭名類聚鈔』に、「射水郡宇納宇奈美」とあり、今は、氷見市宇波にある小川で、宇波川と呼ばれている。○鵜河立ちか往きかく往き 「鵜河」は、鵜を使って、河で魚を漁ることの称で、鵜飼。「立ち」は、催して。「か往きかく往き」は、あちらへ往き、こちらへ往きで、渋溪、松田、宇奈比河と諸所で遊んだ意。○そこも飽かにと 「そこ」は、それで、それらすべてにも、「飽かに」の「に」は、打消の助動詞。飽かずとして。○船浮け居ゑて 「浮け居ゑて」は、浮かばせて据え置いて。船の用意をさせての意。○あぢむら騒き 「あぢむら」は、味鳧の群れ。○島廻には木末花咲き 「島廻」は、島のめぐり。湖上にあった島。今、水海の跡であった地から一里ばかりの所に、多古《たこ》という地名が残っており、多古崎、多古浦という地名もある。この地方は後の歌にも出ており、形勝の地だったのである。「島」は、それではないかという。「木末花咲き」は、梢に花が咲いていてで、遠望しての景。この花は卯の花であったとみえる。この歌に和する池主の歌に、そのことをいっているからである。○許多も見の清けきか 「許多も」は、甚しくも。「見」は、名詞形で、眺望。「か」は、感動の助詞で、甚しくも眺望の清かなことかな。以上、第一段。○玉くしげ二上山に延ふ蔦の 蔦の蔓は別れては伸びる意で、以上「別れ」にかかる序詞。○行きは別れず 行き別れて離れ離れとはならずして、すなわち今のごとく親しくして。○在り通ひいや毎年に 「在り通ひ」は、継続してここに通って来て。「いや毎年に」は、ますます年ごとに。「としのは」は、巻十九(四一六八)に、家持がこの文字を用い、注として添えている訓である。○思ふどち斯くし遊ばむ 相思う同士、このようにして遊ぼうで、「し」は、強意の助詞。○今も見る如 今見ているがようにで、変わらずに。
【釈】 国庁に仕えている多くの官人の、親しい者同士が心を慰めようとて、乗馬を並べて、うちくちぶりの白波が荒磯に寄せて来る、渋渓の埼を徘徊して、松田江の長い砂浜を通り過ぎて、宇奈比河の清い瀬ごとに鵜飼を催して、あちらに行きこちらに往って眺めをしたけれども、それにも満足しないとして、布勢の水海に、船を浮かべて据えて、それに乗って沖のほうを漕ぎ、岸寄りを漕いで眺めると、渚には味鳧の群れが騒いでおり、島のめぐりには梢に花が咲いていて、甚しくも眺望の清かなことであるよ。玉くしげ二上山に這っている蔦のように、その蔓の行き別れて離れ離れになることはせずに、継続してここに通って、ますます年ごとに、思い合う同士、このようにして遊ぼう。今も見ているように。
(102)【評】 家持が国庁の官人と集団をなし、渋谿の埼、松田江の浜に遊び、宇奈比河で鵜飼をし、なお足りずとして、布勢の水海に舟遊びをして、「許多も見の清けきか」と感歎した、初夏の一日の行楽を、その次第のままに成した歌である。これがこの歌の大部分で、終末は、「いや毎年に斯くし遊ばむ」と約束することによって結んでいるが、これは守としての家持の、部下に対しての挨拶である。一首の構成はおのずから道行風になっている。道行風は古くから存在している体で、また愛好されてもいたものとみえるが、取材から見るとほとんど全部相聞歌で、稀れに賀の歌がまじっているものである。この歌は自然鑑賞である。すなわち道行風という古い体を用いて、自然鑑賞という新しい取材を扱ったもので、道行風に新生面を拓いた形となっているものである。ここにこの歌の特色がある。この歌を表現の面から見ると、平面的に羅列した趣が目立ち、取材の単純であるにもかかわらず、ある混雑を持っている感がある。これは取材の関係とばかりはいえず、詠み方も相応に関係していると思われる。具体的にいうとこの歌は、五七、五七の接続の句跨りになっているところが多い。これは作者が印象を主とせず、印象に伴って起こる気分に引かれて、語調によりかかって詠むところから起こる結果である。家持は本来気分に依拠するところのありすぎる人であるが、この歌には特にそれが多く、それがこの歌を必要以上に平坦にさせ、印象を稀薄にさせていると思われる。これはそのために一首を柔らかく、つつましいものにしていることではあるが、得る所より失う所が多いと思われる。
 
3992 布施《ふせ》の海《うみ》の 沖《おき》つ白浪《しらなみ》 在《あ》り通《がよ》ひ いや毎年《としのは》に 見《み》つつ偲《しの》はむ
    布勢能宇美能 意枳都之良奈美 安利我欲比 伊夜登偲能波尓 見都追思努播牟
 
(103)【語釈】 略す。
【釈】 布勢の海の沖の白波よ。継続してここに通い、ますます年ごとに、見つつも愛でよう。
【評】 長歌の結末を繰り返した形で、型のごとき反歌である。「沖つ白波」に力点を置いているのは、舟を離れて上陸して、今一度水海を見渡しての心ということが見え、ある動きを見せたものにはなっている。
 
     右は、守大伴宿禰家持の作れる。四月二十四日。
      右、守大伴宿祢家持作之。四月廿四日。
 
     敬《つつし》みて布勢の水海に遊覧する賦に和ふる一首 并に一絶
 
【題意】 左注によって池主の作である。「一絶」は、短歌を、漢詩の絶句に擬しての称で、例の見えないものである。
 
3993 藤浪《ふぢなみ》は 咲《さ》きて散《ち》りにき 卯《う》の花《はな》は 今《いま》ぞ盛《さかり》と あしひきの 山《やま》にも野《の》にも ほととぎす 鳴《な》きし響《とよ》めば うち靡《なぴ》く 心《こころ》もしのに そこをしも うら恋《ごひ》しみと 思《おも》ふどち 馬《うま》うち群《む》れて 携《たづさ》はり 出《い》で立《た》ち見《み》れば 射水河《いみづがは》 湊《》の洲鳥《みなとすどり》 朝《あさ》なぎに 潟《かた》に求食《あさり》し 潮《しほ》満《み》てば 妻《つま》喚《よ》び交《かは》す ともしきに 見《み》つつ過《す》ぎ行《ゆ》き 渋谿《しぶたに》の 荒磯《ありそ》の埼《さき》に 沖《おき》つ波《なみ》 寄《よ》せ来《く》る玉藻《たまも》 片搓《かたよ》りに 蘰《かづら》に作《つく》り 妹《いも》がため 手《て》に纏《ま》き持《も》ちて うらぐはし 布勢《ふせ》の水海《みづうみ》に 海人船《あまぶね》に 真※[楫+戈]《まかぢ》揖《かい》貫《ぬ》き 白栲《しろたへ》の 袖《そで》ふり反《かへ》し 率《あども》ひて 我《わ》が漕《こ》ぎ行《ゆ》けば 乎布《をふ》の埼《さき》 花《はな》散《ち》りまがひ 渚《なぎさ》には 葦鴨《あしがも》騒《さわ》き さざれ波《なみ》 立《た》ちても居《ゐ》ても 漕《こ》ぎ廻《めぐ》り 見《み》れども飽《あ》かず 秋《あき》さらば 黄葉《もみち》の時《とき》に 春《はる》さらば 花《はな》の盛《さかり》に かもかくも 君《きみ》がまにまと 斯《か》くしこそ 見《み》も明《あき》らめめ 絶《た》ゆる日《ひ》あらめや
(104)    布治奈美波 佐岐弖知里尓伎 宇能波奈波 伊麻曾佐可理等 安之比奇能 夜麻尓毛野尓毛 保登等藝須 奈伎之等与米婆 宇知奈妣久 許己呂毛之努尓 曾己乎之母 宇良胡非之美等 於毛布度知 宇麻宇知牟礼弖 多豆佐波理 伊泥多知美礼婆 伊美豆河伯 美奈刀能須登利 安佐奈藝尓 可多尓安佐里之 思保美弖婆 都麻欲妣可波須 等母之伎尓 美都追須疑由伎 之夫多尓能 安利蘇乃佐伎尓 於枳追奈美 余勢久流多麻母 可多与理尓 可都良尓都久理 伊毛我多米 ※[氏/一]尓麻吉母知弖 宇良具波之 布勢能美豆宇弥尓 阿麻夫祢尓 麻可治加伊奴吉 之路多倍能 蘇泥布理可邊之 阿登毛比弖 和賀己藝由氣婆 乎布能佐伎 波奈知利麻我比 奈伎佐尓波 阿之賀毛佐和伎 佐射礼奈美 多知弖毛爲弖母 己藝米具利 美礼登母安可受 安伎佐良婆 毛美知能等伎尓 波流佐良婆 波奈能佐可利尓 可毛加久母 伎美我麻尓麻等 可久之許曾 美母安吉良米々 多由流比安良米也
 
【語釈】 ○藤浪は咲きて散りにき 「藤浪」は、藤の花房のなびく譬喩で、藤の花。「散りにき」は、散ってしまった。形は独立文であるが、意は下へ続く。○卯の花は今ぞ盛と 「ぞ」は、係助詞で、「盛と」は、盛りなるとて。卯の花は霍公鳥の来る花とされていた。○うち靡く心もしのに 「うち靡く」は、物に感じる心の状態を譬喩としたもので、「心」の枕詞。「心もしのに」は、心も萎れるさまに。○そこをしもうら恋しみと 「そこ」は、「それ」で、霍公鳥の声。「し」は、強意の助詞。「も」は、詠歎で、そのほととぎすのことばかりが。「うら恋しみと」は、「み」は、理由をあらわすもので、心恋しいからと。○射水河湊の洲鳥 「湊」は、河口。「洲鳥」は、洲に住んでいる鳥で、洲にいるのは求食のため。○朝なぎに潟に求食し 「潟」は、海の浅瀬。鳥は朝が求食の時であるから、実際に即した言い方。○潮満てば妻喚び交す 満潮になると危険であるとして雄が雌を喚んで警める意。これは慣用句。○ともしきに 羨ましいことと思うにつけ。雌雄の睦ましさに心引かれる意。○片搓りに蘰に作り 「片搓り」は、搓るのは二筋を搓り合わせるのに対して、一筋を搓ることで、捻ってというにあたる。「蘰」は、髪の周囲に巻く形に作る物。○うらぐはし布勢の水海に 「うらぐはし」は、言いようもなく快いで、形容詞。布勢の水海を賞したもの。○海人船に真※[楫+戈]楫貫き 「海人船」は、その他の海人の用いている船。「真※[楫+戈]」は、大きなかじで、船を疾走させるもの。「楫」は、小さなかじ。「貫き」は、貫きとおしで、大きなかじ、小さなかじを取りつけて。○白栲の袖ふり反し 白栲の衣の袖を振りひるがえして。水夫の舟を漕ぐさま。○率ひて我が漕ぎ行けば 同行者を引きつれて私が漕いで行くと。水夫の漕ぐのを自身のことにしていったもの。○乎布の埼花散りまがひ 「乎布の埼」は、二上山の裾で、湖中にあった岬。形勝の地として、他の歌に出ている。「花」は、卯の花。「散りまがひ」は、散り乱れ。○渚には葦鴨騒き 「葦鴨」は、鴨の葦べにいるよりの称。○さざれ波立ちても居ても 「さざれ波」は、さざ波で、意味で「立つ」にかかる枕詞。「立ちても居ても」は、立って見ても居て見てもで、下の「見れども」に続くもの。○漕ぎ廻り見れども飽かず 漕ぎめぐって、いくら見ても飽かない。○かもかくも君がまにまと 「かもかくも」は、ああにでも、こうにでもで、いついかようにでもの意。「君がまにまと」は、「君」は、家持。君の心のままに従ってで、「と」は、上(105)を総収して下に続ける助詞。○斯くしこそ見も明らめめ このように、眺めて心を晴らそうで、「め」は、「こそ」の結。○絶ゆる日あらめや この遊覧の絶える時があろうか、ありはしないで、「や」は、反語。風景をたたえるとともに賀の心をいったもの。
【釈】 藤の花は咲いて散ってしまった。卯の花は今が盛りであるとて、あしひきの山にも野にも、霍公鳥が鳴き響かしているので、感じなびく心は、それを聞くと、萎れるさまになるまでも、心恋しいからとて、思い合う同士、乗馬を群らがらせて、一緒に出て来て見ると、射水河の河口の洲鳥は、朝なぎの干潟にあさりをし、満潮となったので、雄は雌を警めて喚びかわしている。その睦ましさに羨ましく見つつ過ぎて行って、渋谿の岩石の埼に、沖の波が寄せて来る玉藻を、一筋搓りにして蘰に作り、妹に贈るためと手に纏《ま》いて持って、言いようもなく快い布勢の水海に、海人の船に大かじと小かじとを取りつけ、白栲の衣の袖を振り翻して、一行を引き連れて私が漕いで行くと、乎布の埼には花が散り乱れて、渚には葦鴨が騒いでおり、さざ波に因みある、立って見ても坐って見ても、漕ぎめぐって見るけれども見飽かない。秋が来たならば黄葉の時に、春が来たならば花の盛りに、いついかようにもあなたの心のままに従って、このように遊覧して心を晴らそう。そのことの絶える時があろうか、ありはしない。
【評】 布勢の水海の集団的な遊覧には、池主も無論加わっていたとみえる。家持の上の歌は、同好の池主に示したと見え、池主はそれに刺激されて、和うる形においてその遊覧の興をいったのである。和え歌の基本になっているのは相聞の歌のそれで、それは一と口にいうと、寄せられた歌に即しつつ、同時にそれから離れることである。相聞の歌だとこのことは容易であるが、風景の歌に対してそれをするのは困難である。目に見たものは同じ風景で、興味もさして変わっているはずはなく、すなわち即しすぎていて、離れる余地のないものだからである。その間にあって、型のごとく離れようとすると、取材を部分的に変えてゆくよりほかはない。池主の和え歌は明敏にその点を遂げていて、それがこの歌の興味でもあり、特色でもある。この歌、(106)起首より「うら恋しみと」までは、一日の遊覧を思い立たせた誘因で、到る所に鳴きとよもしている霍公鳥に、一同が遊意を刺激されたことをいっているのである。これは家持の心を推量していっているもので、家持自身もわが意を得たりとしていたものであろう。これは家持の歌には、全然触れていないものである。次に、射水河の湊の洲鳥の、雌雄睦ましいのをともしむ心、渋谿の荒磯の玉藻を、妹のために蘰に作るのは、いずれも京に残してある妹を恋しく思う心を婉曲にあらわしたもので、いわゆる旅愁である。これは池主が自身のこととしていっているのであるが、作意は家持の心を推量して、代弁しているものとみえる。これも家持のうなずいたものである。このことも家持の歌は触れていないものである。次に、中心をなす布勢の水海の風景も、家持の歌は簡単にすぎるほどのものであるが、池主は精細に、変化を持たせて描いていて、そのさまを想像させるに足りるものとしているのである。終末の結は、家持は国庁の官人に対して、将来も睦ましくして共に遊ぼうと挨拶しているのに対し、池主は反対に、将来も君に随行しようといって、賀の語をもって結んでいるのである。一首、きわめて要領よく和え歌としての心を遂げていて、その頭脳の明敏を思わせるものである。しかしこれを一首の歌として見ると、部分的にはいかにも巧みであるにもかかわらず、全体を貫いている気分は稀薄で、その点では家持の上の歌に遠く及ばないものである。一長一短であるが、歌人としては家持の下位に立つべき人である。
 
3994 白波《しらなみ》の 寄《よ》せ来《く》る玉藻《たまも》 世《よ》の間《あひだ》も 継《つ》ぎて見《み》に来《こ》む 清《きよ》き浜傍《はまぴ》を
    之良奈美能 与世久流多麻毛 余能安比太母 都藝弖民仁許武 吉欲伎波麻備乎
 
【語釈】 ○白波の寄せ来る玉藻 渋谿の埼の玉藻をうけたもの。玉藻には節すなわち「よ」のある意で、「世」にかかり、以上その序詞。○世の間も この世に在る間で、生涯。「も」は、感動の助詞。○清き浜傍を 「を」は、感動の助詞。渋谿の景をいったのである。
【釈】 白波の寄せて来る美しい藻の節《よ》に因むこの世に在る間は、続いて見に来よう。この清らかな浜べよ。
【評】 この反歌は、長歌の渋谿の埼の一節を捉えたもので、中心の布勢の水海からは離れたものである。しかし長歌とのつながりは持っているものである。「白波の寄せ来る玉藻」を「世」の序詞としたのは、池主の創意になるもので、これまた明敏さを思わせるものである。一首としても才の利いたものである。
 
     右は、掾大伴宿禰池主の作れる。【四月二十六日追ひて和ふ。】
      右、掾大伴宿祢池主作。【四月廿六日追和。】
 
(107)【解】 「二十六日」は、家持の歌のできた翌々日である。達者な作歌力というべきである。
 
     四月二十六日、掾大伴宿禰池主の館にて、税帳使《さいちやうし》守大伴宿禰家持を餞する宴の歌、井に古き歌四首
 
3995 玉桙《たまほこ》の 道《みち》に出《い》で立《た》ち 別《わか》れなば 見《み》ぬ日《ひ》さまねみ 恋《こひ》しけむかも
    多麻保許乃 美知尓伊泥多知 和可礼奈婆 見奴日佐麻称美 孤悲思家武可母
 
【語釈】 ○見ぬ日さまねみ 「さまねみ」は、「さ」の接頭語の添った形容詞。「まねみ」は、多くして。○恋しけむかも 「恋しけ」は、形容詞の古い未然形。それに未来の助動詞「む」の接した語。恋しいことであろうなあ。
【釈】 玉桙の道に出かけて別れたなら、逢わない日が多くて、恋しいことであろうなあ。
【評】 客としての家持が、挨拶に詠んだものである。挨拶というにすぎない歌である。
 
     一に云ふ、見ぬ日久しみ 恋しけむかも
      一云、不見日久弥 戀之家牟加母
 
【解】 作者の別案で、「さまねみ」を「久しみ」としただけである。細心さが知られる。
 
     右の一首は、大伴宿禰家持作れる。
      右一首、大伴宿祢家持作之。
 
3996 我《わ》が兄子《せこ》が 国《くに》へましなば 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》かむ五月《さつき》は さぶしけむかも
    和我勢古我 久尓敞麻之奈婆 保等登藝須 奈可牟佐都奇波 佐夫之家牟可母
 
【語釈】 ○我が兄子が国へましなば 「我が兄子」は、男同士の間の親称。家持をさす。「国」は、旅へ対させたもので、ここは奈良。「まし」は、(108)「往き」の敬語。○さぶしけむかも 「さぶし」は、楽しくないで、未然形の古形。「さぶしけ」に未来の助動詞「む」の接したもの。
【釈】 親しい君が国へいらしたなら、ほととぎすの鳴くであろう五月は、楽しくないことであろうなあ。
【評】 「霍公鳥鳴かむ五月は」は、この宴は四月二十六日で、五月が迫っているところから、楽しかるべき時が、家持のいなくなるために楽しくなるだろうと嘆いているのである。かりそめの別れで、淡い心のものではあるが、気分のある歌である。
 
     右の一首は、介内蔵忌寸《すけくらのいみき》繩麿の作れる。
      右一首、介内蔵忌寸繩麿作之。
 
【解】 「介」は、守につぐ二番目の職である。「内蔵繩麿」の伝は未詳。
 
3997 吾《あれ》なしと な侘《わ》び我《わ》が兄子《せこ》 ほととぎす 鳴《な》かむ五月《さつき》は 玉《たま》を貫《ぬ》かさね
    安礼奈之等 奈和備和我勢故 保登等藝須 奈可牟佐都奇波 多麻乎奴香佐祢
 
【語釈】 ○玉を貫かさね 「玉を貫く」は、五月五日の節日に、薬玉として、橘の実を玉に貫くことであるが、ここは、その時の花を玉として貫く意。「さ」は、敬語「す」の未然形。「ね」は、希求の助詞で、節日を楽しくお遊びなさいよの意。
【釈】 私が居ないとて、さびしがるな、親しい友よ。ほととぎすの鳴くであろう五月には、花を薬玉の玉に貫いて、楽しくお遊びなさいよ。
【評】 前の歌に対する家持の和え歌である。介の繩麿の嘆きをすなおにうけ入れ、やさしく慰めているものである。さぶしと嘆くのも、もっともとして慰めるのも、風流な遊びを中心としてのことである。当時の国庁の官人の生活気分の思われる贈答である。
 
     右の一首は、守大伴宿禰家持の和《こたへ》。
      右一首、守大伴宿祢家持和。
 
(109)     石川朝臣|水通《みみち》の、橘の歌一首
 
【題意】 「石川水通」の伝は未詳。「古歌」とあるのはこの歌である。故人の歌の意である。
 
3998 我《わ》が宿《やど》の 花橘《はなたちばな》を 花《はな》ごめに 玉《たま》にぞ吾《あ》が貫《ぬ》く 待《ま》たば苦《くる》しみ
    和我夜度能 花橘乎 波奈其米尓 多麻尓曾安我奴久 麻多婆苦流之美
 
【語釈】 ○花ごめに玉にぞ吾が貫く 「花ごめ」は、橘の実を花をこめて、もろともに。「玉にぞ吾が貫く」は、薬玉の玉として私は貫くことだ。○待たば苦しみ 実になるのを待ったら、待ち遠で苦しいので。玉には、本来は実を貫くべきだからである。
【釈】 わが屋前の花の咲いている橘を、花をこめてもろともに薬玉の玉として私は貫くことだ。実になるのを待ったら、待ち遠で苦しいので。
【評】 五月の節日の薬玉に夢中になっている心をいったものである。節日が代表的な遊楽の日となり、またその遊楽が風流をつくす日となって、その意味で限りなく魅力のあるものとされていたことがうかがわれる。しかしその風流は、この形に現われているように、わざとらしい、装ったものであったことが知られる。古歌として記憶されていたところから見ると、こうした心のものが人々に承認されていたのである。
 
     右の一首は、伝へ誦《よ》めるは、主人《あるじ》大伴宿禰池主なりと云へり。
      右一首、傳誦、主人大伴宿祢池主云v尓。
 
【解】 介と守との贈答につけて、主人の掾池主が、歓待の心から誦したものと取れる。
 
     守大伴宿禰家持の館にて飲宴する歌一首 四月二十六日
 
3999 京方《みやこへ》に 立《た》つ日《ひ》近《ちか》づく 飽《あ》くまでに 相見《あひみ》て行《ゆ》かな 恋《こ》ふる日《ひ》多《おほ》けむ
(110)    美夜故敞尓 多都日知可豆久 安久麻弖尓 安比見而由可奈 故布流比於保家牟
 
【語釈】 略す。
【釈】 都のほうへ発足する日は近づく。心の飽くまで相逢って行きたい。恋しく思う日が多いであろう。
【評】 池主の館で別宴を張られた日、自分の館でまた宴を張って、席上、挨拶として詠んだ歌である。池主の館で、「見ぬ日さまねみ恋しけむかも」と詠んだのを繰り返したがごとき歌であるが、「飽くまでに相見て行かな」と言い添えて、宴を張った心を明らかにしている。率直をきわめた歌である。
 
     立山《たちやま》の賦一首 井に短歌【此の立山は新川郡にあり。】
 
【題意】 「立山」は、古くは「多知夜麻」であった。富山県、中新川郡にあり、主峰雄山は標高二九一二メートルある。「新川郡」は、今は上、中、下の三郡に分かれている。
 
4000 天離《あまざか》る 鄙《ひな》に名《な》懸《か》かす 越《こし》の中《なか》 国内《くぬち》ことごと 山《やま》はしも 繁《しじ》にあれども 川はしも 多《さは》に逝《ゆ》けども 皇神《すめかみ》の 領《うしは》きいます 新川《にひかは》の その立山《たちやま》に 常夏《とこなつ》に 雪《ゆき》降《ふ》り敷《し》きて 帯《お》ばせる 可多加比河《かたかひがは》の 清《きよ》き瀬《せ》に 朝夕《あさよひ》ごとに 立《た》つ霧《きり》の 思《おも》ひ過《す》ぎめや 在《あ》り通《がよ》ひ いや毎年《としのは》に 外《よそ》のみも ふり放《さ》け見《み》つつ 万代《よろづよ》の 語《かた》らひ草《ぐさ》と いまだ見《み》ぬ 人《ひと》にも告《つ》げむ 音《おと》のみも 名《な》のみも聞《き》きて 羨《とも》しぶるがね
    安麻射可流 比奈尓名可加須 古思能奈可 久奴知許登其等 夜麻波之母 之自尓安礼登毛 加波々之母 佐波尓由氣等毛 須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曾能多知夜麻尓 等許奈都尓 由伎布理之伎弖 於姿勢流 可多加比河波能 伎欲吉瀬尓 安佐欲比其等尓 多都奇利能 於毛比須疑米夜 安里我欲比 伊夜登之能播仁 余増能未母 布利佐氣見都≧ 余呂豆餘能 可多良比具佐等 (111)伊末太見奴 比等尓母都氣牟 於登能未毛 名能未母伎吉※[氏/一] 登母之夫流我祢
 
【語釈】 ○鄙に名懸かす 「懸かす」は、「懸く」の敬語。懸くは及ぼす、関係するで、意味の広い語である。ここは「鄙」を対象としているので、鄙の中に加わっている意。鄙にその名をお列ねになっているで、「越の中」を修飾したもの。国土に対して敬語を用いているのは、上代信仰では、国土はすなわち神であったからである。○越の中国内ことごと 「越の中」は、越中。「国内ことごと」は、国内いちめんに。○皇神の領きいます 「皇神」は、尊い神で、ここは山の神で、立山の雄山に、現在雄山神社として祀られている神。「領きいます」は、御領有になっている。○常夏に雪降り敷きて 「常夏に」は、夏じゅう、常にで、副詞。単に、常にの意にも用いた。「雪降り敷きて」は、雪が降り敷いていてで、夏じゅう、雪の消えないのを遠望してのもの。国司館からの遠望であろう。○帯ばせる可多加比河の 「帯ばせる」は、「帯ぶ」の敬語。山の神に対しての敬語である。「可多加比河」は、現在も片貝川と呼ぶ。立山の北にある猫又山・滝倉岳から発して、片貝谷を経て魚津市経由で富山湾に注ぐ。○立つ霧の思ひ過ぎめや 「立つ霧の」は、過ぎる、すなわち消える意で、譬喩としてのもの、「帯ばせる」以下これまでの五句は、「思ひ過ぎめや」の序詞。「思ひ過ぎめや」は、思い忘れようか、忘れはしないで、「や」は、反語。○在り通ひいや毎年に 「在り通ひ」は、継続して通って来てで、これは続きの「外のみも」と調和しない語である。継続しての意で用いたものと思われる。○羨しぶるがね 「羨しぶる」は、「羨しぶ」すなわち羨ましがるの連体形。「がね」は、料にで、ためにの意。うらやましがるために。
【釈】 京からは天と離れている鄙の国に、その名をお列ねになっている、越中国の国いちめんに、山は多くあるけれども、川は多く流れて行くけれども、尊い神の領有していらせられる、新川郡のその立山に、夏じゅうを常に雪が降り敷いていて、その神のお帯びになっている、可多加比河の清き瀬に、朝夕ごとに立つ霧の消えるように、思い忘れられようか、忘れられはしない。継続して通って、いよいよ毎年に、よそからばかりでも振り仰いで見つつ、万代にわたっての話の種として、まだ見ない人にも告げよう。話だけでも、評判だけでも聞いて、羨ましがるために。
【評】 越中にあって、多分丘上の国司館から、日夕立山を望んでの作であろうが、それとしては感動の稀薄な作である。起首、立山の所在をいうまでの叙述は、相応に荘重なものであるが、神格を感じて叙する立山そのものは、「常夏に雪降り敷きて」と(112)いう二句にすぎないのである。「帯ばせる」と、同じく神格を感じて言い出している加多加比河は、「思ひ過ぎめや」の序詞となってしまっているのである。「常夏に雪降り敷きて」は、当然神霊の力の現われと見るべきであるが、加多加比河の扱い方によって、あるいは単に風景としていっているのではないかとさえ思わせ、薄弱なものに思わせる。「在り通ひ」以下の讃歎も、結局は「羨しぶるがね」という低調なものとなっている。高山をただちに神とする信仰は、家持にあってはすでに語のみのものとなり、実感とはならなかったとみえる。のみならず、自然の大景に対すると、それを受け入れて自身の気分とすることはできなかったとみえる。家持は人間の圏内のみの歌人だったのである。
 
4001 立山《たちやま》に 降《ふ》り置《お》ける雪《ゆき》を 常夏《とこなつ》に 見《み》れども飽《あ》かず 神《かむ》からならし
    多知夜麻尓 布里於家流由伎乎 登己奈都尓 見礼等母安可受 加武賀良奈良之
 
【語釈】 ○常夏に見れども飽かず 夏じゅうを常に見たが飽かない。○神からならし 神霊のゆえであろうで、夏、雪のある理由を、神霊の力としたもの。
【釈】 立山に降り置いている雪を、夏じゅうを常に見たけれども見飽かない。この雪は、神霊のゆえであろう。
【評】 初句より四句までは風景としての感であるが、結句の「神からならし」の信仰的なものと、破綻を見せない程度において調和させている。長歌の繰り返しであるが、このほうが勝れている。
 
4002 可多加比《かたかひ》の 河《かは》の瀬《せ》清《きよ》く 行《ゆ》く水《みづ》の 絶《た》ゆることなく 在《あ》り通《がよ》ひ見《み》む
    可多加比能 可波能瀬伎欲久 由久美豆能 多由流許登奈久 安里我欲比見牟
 
【語釈】 ○可多加比の河の瀬清く行く水の 譬喩の意で、「絶ゆることなく」の序詞。
【釈】 可多加比の河瀬の清く流れ行く水のように、絶えることなく継続して通って立山を見よう。
【評】 形としては、長歌の一部を繰り返したごとくにしているが、心としては進展を持ったもので、自身と立山とを対させ、大観した心のものである。気分の含みがあり、気品も持った作である。
 
(113)     四月二十七日、大伴宿禰家持の作れる。
      四月廿七日、大伴宿祢家持作之。
 
     敬《つつし》みて立山の賦に和ふる一首 并に二絶
 
【題意】 左注によると、池主が家持の作をした翌日に贈って来たものである。「二絶」は、短歌二首を絶句の二首に擬したもの。
 
4003 朝日《あさひ》さし 背向《そがひ》に見《み》ゆる 神《かむ》ながら 御名《みな》に帯《お》ばせる 白雲《しらくも》の 千重《ちへ》を押《お》し別《わ》け 天《あま》そそり 高《たか》き立山《たちやま》 冬夏《ふゆなつ》と 分《わ》くこともなく 白栲《しろたへ》に 雪《ゆき》は降《ふ》り置《お》きて 古《いにしへ》ゆ 在《あ》り来《き》にければ 凝《こご》しかも 巌《いは》の神《かむ》さび たまきはる 幾代《いくよ》経《へ》にけむ 立《た》ちて居《ゐ》て 見《み》れども奇《あや》し 峯《みね》高《だか》み 谷《たに》を深《ふか》みと 落《お》ち激《たぎ》つ 清《きよ》き河内《かふち》に 朝《あさ》去《ささ》らず 霧《きり》立《た》ち渡《わた》り 夕《ゆふ》されば 雲居《くもゐ》棚引《たなび》き 雲居《くもゐ》なす 心《こころ》もしのに 立《た》つ霧《きり》の 思《おも》ひ過《すぐ》さず 行《ゆ》く水《みづ》の 音《おと》も清《さや》けく 万代《よろづよ》に 言《い》ひ継《つ》ぎ行《ゆ》かむ 河《かは》し絶《た》えずは
    阿佐比左之 曾我比尓見由流 可無奈我良 弥奈尓於姿勢流 之良久母能 知邊乎於之和氣 安麻曾々理 多可吉多知夜麻 布由奈都登 和久許等母奈久 之路多倍尓 遊吉波布里於吉弖 伊尓之邊遊 阿理吉仁家礼婆 許其志可毛 伊波能可牟佐備 多末伎波流 伊久代經尓家牟 多知※[氏/一]爲弖 見礼登毛安夜之 弥祢太可美 多尓乎布可美等 於知多藝都 吉欲伎可敷知尓 安佐左良受 綺利多知和多利 由布佐礼婆 久毛爲多奈※[田+比]吉 久毛爲奈須 己許呂毛之努尓 多都奇理能 於毛比須具佐受 由久美豆乃 於等母佐夜氣久 与呂豆余尓 伊比都藝由可牟 加波之多要受波
 
【語釈】 ○朝日さし背向に見ゆる 朝日がさしてうしろ向きに見える。立山の朝の状態。立山は国司館のあった現在の伏木町背後の丘陵からは東(114)方にあたっているので、朝日の出る時は、光の射さない背面が見えるのである。これは一日じゆうの最も印象的な時刻における実写である。○神ながら御名に帯ばせる 「神ながら」は、神のゆえにの意から、神そのままにの意となったもの。「神」は、立山の神。「御名に帯ばせる」は、「帯ばせる」は、「帯ぶ」の敬語。神のままに御名として持っていらせられるで、二句を隔てて「立山」に続く。家持の「名懸かす」と同義である。○白雲の千重を押し別け 白雲の千重と深いのを押し開いてで、白雲を深く帯びて立っているというのを、神を主体として言いかえたもの。天孫降臨の際を思っての言い方である。○天そそり高き立山 「天そそり」は、ここにのみある語。天に進み昇ってで、天に迫って高く立っている立山。以上立山の輪郭。○冬夏と分くこともなく白栲に雪は降り置きて 「冬夏と分くこともなく」は、下の「雪」の状態で、普通雪は、冬降って夏はなくなるのに、その差別をすることもなく。「白栲の」は、「雪」の枕詞で、雪が降って置いていて。○古ゆ在り来にければ 遠い昔から今まで、存在して来たことなので。永久に雪があるのでの意。以上、神威を讃えたもの。○凝しかも巌の神さび 「凝しかも」は、こりこりしきかなで、峻しいことよ。独立文として下へ続く。「かも」は、感動の助詞。巌の修飾。「巌の神さび」は、巌が神々しく。巌の老いているのを、神性と見ての形容。○たまきはる幾代経にけむ 「たまきはる」は、ここは「代」の枕詞。「代」を「命」と同意に見てである。「幾代経にけむ」は、幾代の久しさを経たことであろうか。悠久の久しきにわたる神性をいったもの。以上、立山の神性の総叙で、第一段。○立ちて居て見れども奇し 立って見、居て見るが神怪であるで、上を受けて、細叙に入ろうとするもの。○峯高み谷を深みと 峯が高く谷が深いので。「み」は、二つとも理由を示すもの。「と」は、上をうけて下に続ける助詞。○落ち激つ清き河内に 水が落ちて泡立つ清い谷には。「河内」は、川の流れている渓谷。○朝去らず霧立ち渡り夕されば雲居棚引き 朝ごとに霧が立ち渡り、夕べが来れば雲がいちめんにかかって。「朝去らず」は、朝を漏れずで、朝ごとに。「雲居」は、雲。「棚引き」は、全面的にかかって。「峯高み」以下これまでは、神としての山。以上、さらに神性をいったもの。○雲居なす心もしのに立つ霧の思ひ過さず 「雲居なす」は、雲のごとくに頼りなくの意で、譬喩。「心もしのに」は、心も萎れてで、極度に驚歎した心のさま。「立つ霧の」は、立つ霧のように消えるの意で、譬喩として「過ぐ」の枕詞。「思ひ過さず」は、思い忘れない。以上、讃歎。○行く水の音も清けく 行く水のように、音さやかにで、「語り継ぎ」の修飾。○万代に言ひ継ぎ行かむ 永久に語り続けて行こうで、「万代」は、家持の歌の句に応じさせたもの。○河し絶えずは 「河」は、家持の歌に応じさせた可多加比河で、「し」は、強意。
【釈】 朝日がさして、背後に見えている、神そのままに、御名に持っていらせられる、白雲の深いものを押しわけて、天に進みのぼっている高き立山。夏と冬とを差別することなく、真っ白に雪が降って置いて、遠い昔から存在して来たことなので、嶮しいことよ、その巌は神々しく、たまきわる幾代を経たことであろうか。立って見、坐って見て、つくづくと見るが神怪である。峯が高く谷が深いので、落ちて泡立つ水の流れて、清らかな河内に、朝ごとに霧が立ち渡り、夕べが来れば雲が全面的にかかって、その雲のようにわが心は驚款に萎れて、その霧のように思い忘れない。その水の音の清かなように、この山を永遠に言い継いで行こう。この河が絶えなかったならば。
【評】 池主も家持と同じく立山に登ったことはなく、国庁の辺りから遠望しての感をいったにすぎないのであるが、物の形象を捉える上では家持よりも感受性がはるかに多く、また変化をつける才能も同じく豊かなので、その上では新しいものとして(115)いる。「高き立山」に至るまでの、立山を総括しての讃えも、語の組立ては家持と同じくしているが、「朝日さし背向に見ゆる」の印象的なところ、神性を発揮したところは、勝れている。ついでいっているところは、立山の特色で、これら都人には最も珍しい、夏も消えない雪であって、それをいっていることは家持と同じであるが、池主は、火山型の山容を捉え、「凝しかも巌の神さび」という言い方において、その稜線の鋭さをいっている。これは家持の捉え得なかったもので、勝れているといえる。次は、立山の神性の現われとして、霧と雪とを捉えていっている。この神性は家持の触れなかったもので、起首との照応としてもあるべきである。しかしここでは、細叙にすぎて、かえって神性を減じさせている憾《うらみ》がある。この人の癖からである。結末は、家持に応じたものであるが、池主はそれを語る相手の目あてがないところから、広い相手を思ったものとしている。ここも、「雲居なす心もしのに」以下、「霧」「水」を譬喩に捉えたのは、才はきいているが細叙にすぎたものといえる。一首全体として見ると、家持の歌は、細くはあるが滑らかさを帯びていたが、池主は反対に、太くはあるが騒がしくて、肝腎の統一感を持ち得ない点では、むしろ劣っている。思うに漢詩の影響を受けすぎ、部分的に、秀句を得ようとすることに心を奪われ、全体の統一をおろそかにしたためと思われる。構成が確かで、その連続も自然であるのに、感味の乏しいのはそのためと思われる。さらに根本的にいえば、池主は才が勝って、気分が足りなかったからである。
 
4004 立山《たちやま》に 降《ふ》り置《お》ける雪《ゆき》の 常夏《とこなつ》に 消《け》ずて渡《わた》るは 神《かむ》ながらとぞ
    多知夜麻尓 布里於家流由伎能 等許奈都尓 氣受弖和多流波 可無奈我良等曾
 
【語釈】 ○消ずて渡るは 消えずして続いているのは。○神ながらとぞ 神のゆえだということであるで、下に「云ふ」が略されている。
【釈】 立山に降って置いている雪の、夏じゅうを常に消えずに続いているのは、神のゆえだということである。
【評】 家持の第一の歌に応じさせたものであるが、これはよそよそしい、何の感動もないもので、甚しく劣ったものである。
 
4005 落《お》ち激《たぎ》つ 可多加比河《かたかひがは》の 絶《た》えぬごと 今《いま》見《み》る人《ひと》も 止《や》まず通《かよ》はむ
    於知多藝都 可多加比我波能 多延奴期等 伊麻見流此等母 夜麻受可欲波牟
 
【語釈】 ○今見る人も 現在立山を見ている人もまたで、これは家持の第二首に和えた関係上、明らかに家持をさしたものである。
(116)【釈】 落ちて泡立って流れる可多加比河の流れの絶えぬがように、現在立山を見ている人も、やまず通ってみよう。
【評】 家持の第二首目は、立山の風景の見飽かぬことをいったものであるが、池主は家持に対しての賀の心も加えていったのである。答歌としての体を得たものであり、しばらくの別れが目前に迫っているこの際としては、心利いたものである。
 
     右は、掾大伴宿禰池主の和ふる。四月二十八日。
      右、掾大伴宿祢池主和v之。四月廿八日。
 
     京に入らむこと漸《やや》に近づきて、悲みの情|撥《はら》ひ難く、懐を述ぶる歌一首 并に一絶
 
4006 かき数《かぞ》ふ 二上山《ふたがみやま》に 神《かむ》さびて 立《た》てる栂《つが》の木《き》 幹《もと》も枝《え》も 同《おや》じ常盤《ときは》に 愛《は》しきよし 我《わ》が兄《せ》の君《きみ》を 朝《あさ》さらず 会《あ》ひて言問《ことど》ひ 夕《ゆふ》されば 手《て》携《たづさ》はりて 射水河《いみづがは》 清《きよ》き河内《かふち》に 出《い》で立《た》ちて 我《わ》が立《た》ち見《み》れば 東《あゆ》の風《かぜ》 甚《いた》くし吹《ふ》けば 湊《みなと》には 白波《しらなみ》高《たか》み 妻《つま》喚《よ》ぶと 洲鳥《すどり》は騒《さわ》く 葦《あし》刈《か》ると 海人《あま》の小舟《をぶね》は 入江《いりえ》漕《こ》ぐ 楫《かぢ》の音《おと》高《たか》し そこをしも あやにともしみ 偲《しの》ひつつ 遊《あそ》ぶ盛《さかり》を 天皇《すめろき》の 食國《をすくに》なれば 御言《みこと》持《も》ち 立《た》ち別《わか》れなば 後《おく》れたる 君《きみ》はあれども 玉桙《たまほこ》の 道《みち》行《ゆ》く我《われ》は 白雲《しらくも》の 棚引《たなび》く山《やま》を 磐根《いはね》踏《ふ》み 越《こ》え隔《へな》りなば 恋《こひ》しけく 日《け》の長《なが》けむぞ そこ思《も》へば 心《こころ》し痛《いた》し 霍公鳥《ほととぎす》 声《こゑ》にあへ貫《ぬ》く 玉《たま》にもが 手《て》に纏《ま》き持《も》ちて 朝夕《あさよひ》に 見《み》つつ行《ゆ》かむを 置《お》きて行《い》かば惜《を》し
    可伎加蘇布 教多我美夜麻尓 可牟佐備弖 多※[氏/一]流都我能奇 毛等母延毛 於夜自得伎波尓 波之伎与之 和我世乃伎美乎 安佐左良受 安比弖許登騰比 由布佐礼婆 手多豆佐波利弖 伊美豆河波 吉欲伎可布知尓 伊泥多知弖 和我多知弥礼婆 安由能加是 伊多久之布氣婆 美奈刀尓波 之良奈(117)美多可弥 都麻欲夫等 須騰理波佐和久 安之可流等 安麻乃乎夫祢波 伊里延許具 加遅能於等多可之 曾己乎之毛 安夜尓登母志美 之怒比都追 安蘇夫佐香理乎 須賣呂伎能 乎須久尓奈礼婆 美許登母知 多知和可礼奈婆 於久礼多流 吉民婆安礼騰母 多麻保許乃 美知由久和礼播 之良久毛能 多奈妣久夜麻乎 伊波祢布美 古要敞奈利奈婆 孤悲之家久 氣乃奈我家牟曾 則許母倍婆 許己呂志伊多思 保等登藝須 許惠尓安倍奴久 多麻尓母我 手尓麻吉毛知弖 安佐欲比尓 見都追由可牟乎 於伎弖伊加婆乎思
 
【語釈】 ○かき数ふ 「かき」は、接頭語、「数ふ」は、数をかぞえるで、「二」にかかる枕詞。○神さびて立てる栂の木 神々しい大木となっている栂の木で「栂」は、今の「とが」。これは大伴氏を譬えたもの。○幹も枝も同じ常磐に 幹も枝も等しく常磐で。これは上をうけて、本流も支流も共に栄えていての譬。○愛しきよし我が兄の君を 愛すべき親しいあなたを。池主に対しての最大愛称。○朝さらず会ひて言問ひ 朝ごとに会っては話をし。○夕されば手携はりて 夕べとなれば、手を携え合って。○清き河内に 「河内」は、ここは流れている範囲で、辺りというにあたる。○東の風 東風の越中での方言で、既出。今も「あいの風」といっている。○妻喚ぶと洲鳥は騒く 妻を警戒して喚ぶとて、洲にいる鳥は鳴き騒ぐで、これは上の(三九九三)池主の布勢水海の歌に出た句。○葦刈ると これは集中今一例(四四五九)にあるのみのもの。海岸の葦を刈ることで、実況である。○そこをしもあやにともしみ その風景を甚しく珍しく思うので。「しも」は、強意。「ともしみ」は、珍しいゆえに。○偲ひつつ遊ぶ盛を 愛しつつ遊ぶ盛りであるのに。○御言持ち立ち別れなば 勅命を帯びて別れたならば。これは家持が正税帳使となって、京へ上ったならばの意。○後れたる君はあれども 後に残っているあなたは、ともかくもとして。「あれども」は、さてあれどもで、ともかくもしての意の成語で、用例の少なくないもの。○恋しけく日の長けむぞ 恋しいことが、時久しくあろうぞ。「恋しけく」は、「恋し」の名詞形。「日《け》」は、時。「長けむ」は、長くあろう。○霍公鳥声にあへ貫く玉にもが 霍公鳥の声に交じえて糸に貫くところの玉であってほしい。「糸に貫く玉」は、五月五日の節日に用いる薬玉で、玉は実物の玉を主とし、橘の幼い実をも、玉に擬して用いたのである。「霍公鳥」は、おりから渡って来る霍公鳥の声を、愛するあまりに、玉にまじえて貫こうというので、これは当時に愛された思いつきである。例は、巻八(一四六五)「霍公鳥《ほととぎす》いたくな鳴きそ汝《な》が声を五月の玉に相貫《あひぬ》くまでに」、巻十(一九三九)「霍公鳥汝《な》が初声は吾《われ》にもが五月《さつき》の珠に交《まし》へて貫《ぬ》かむ」、その他にもあり、家持も詠んでいる。こうしたことをいったのは、この歌を作った時は「四月三十日」で、五月の節日が迫っていた時だからである。
【釈】 かき数える二上山に、神々しい大木となって立っている栂の木の、幹も枝もおなじ常盤であるように、愛すべき親しいあなたと、朝ごとに会っては話をし、夕べが来ると手を携え合って、射水河の清い河内に出て行って、私が立って眺めると、東の風が甚しく吹くので、河口には白波が立つゆえに、妻を警戒して喚ぶとて洲に住む鳥は鳴き騒ぐ。海岸の葦を刈るとて、海人の小舟の入江を漕ぐ艫の音は高い。その風景が甚しくも珍しいので、愛《め》でつつも遊んでいる盛りであるのに、天皇の御領国なので、(118)勅命を帯びて別れたならば、後に残っているあなたは好くもあろうが、玉桙の道を行く私は、白雲の棚引いている山を、磐を踏んで越えて隔たったならば、恋しく思う時が長いことであろうよ。そのことを思うと、心が痛い。あなたは霍公鳥の声に交ぜて、糸に貫く玉であってほしい。それだと手に巻いて持って、朝夕に見ながら行こうものを。残して行くは残念である。
【評】 正税帳使となって上京する家持が、池主とのしばらくの別れを惜しんで寄せたものである。事はきわめて平凡単純なもので、短歌の一、二首をもってしても足りるものであるのに、こうした長歌とし、しかも長きを厭わしめないものとしているのは、一に家持の濃情よりのことで、他の理由あってのことではない。一首、気分の表現で、すべて具象化されているので、空疎ではない。前後二段に分け、前半は池主との遊覧の楽しみを叙したものであるが、場所を、射水川の河口、渋谿に限り、それも東の風の吹く時の光景に限っているのは、要を得ている。その楽しみを総括して「あやにともしみ」といっているのは、まさに実感であったろう。白波の高い時の洲鳥のさま、海人の葦刈小舟のさまなどの微細なものは、想像では捉えられない物であり、また、そうした細かい物を愛する家持だったからである。前半は生趣あるものである。後半は、別れて旅立った後の想像であるが、その想像は気分化されて、現在と選ぶところのないものとなっている。結末の「霍公鳥声にあへ貫く玉にもが」は古歌の踏襲であり、すでに一たび八千島に与えた歌の再用であるが、これは五月の節日が四、五日の近くに迫っていた時で、実際に即しているとともに、家持の趣味と相俟って気分化され、調和あるものとなっている。『総釈』はこの歌に、語尾の繰り返しの多いことをいって、それを一種の技巧と認めている。「我が立ち見れば」「甚くし吹けば」「食国なれば」「立ち別れなば」「越え隔《へな》りなば」「そこ思へば」がそれである。これらはいずれも因果関係を示しているもので、心が知性的に働いていたことを現わしているものといえる。心の主体をなしているものは気分であるが、その気分は相応に知性の伴ったもので、そこには家持の歌風があり、また時代の生活気分もあるといえよう。終止形を適当にあんばいして冗長の感を起こさせなくしている点も注意される。
 
4007 我《わ》が兄子《せこ》は 玉《たま》にもがもな ほととぎす 声《こゑ》にあへ貫《ぬ》き 手《て》に纏《ま》きて行《ゆ》かむ
    和我勢故波 多麻尓母我毛奈 保等登伎須 許惠尓安倍奴苦 手尓麻伎弖由加牟
 
【語釈】 略す。
【釈】 親しいあなたは、玉であってくれれば好いなあ。それだと霍公鳥の声に交じえて貫いて、手に巻きつけて行こう。
【評】 長歌の結末の繰り返しで、謡い物の型の濃い反歌である。
 
(119)     右は、大伴宿禰家持の、掾大伴宿禰池主に贈れる。 四月三十日。
      右、大伴宿祢家持、贈2掾大伴宿祢池主1。 四月卅日。
 
     忽に京に入らむとして懐を述ぶる作を見る。生別の悲、腸を断つこと万廻、怨の緒|禁《とど》め難し。聊所心を奉る歌一首 并に二絶
 
【題意】 右の歌に対して池主の答えたもの。「怨の緒」は、怨みの心。「所心」は、思う所。
 
4008 あをによし 奈良《なら》を来離《きはな》れ 天《あま》ざかる 鄙《ひな》にはあれど 我《わ》が兄子《せこ》を 見《み》つつし居《を》れば 思《おも》ひ遣《や》る 事《こと》もありしを 大君《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 食国《をすくに》の 事《こと》執《と》り持《も》ちて 若草《わかくさ》の 脚帯《あゆひ》手装《たづく》り 群鳥《むらとり》の 朝立《あさだ》ち去《い》なば 後《おく》れたる 我《あれ》や悲《かな》しき 旅《たび》に行《ゆ》く 君《きみ》かも恋《こ》ひむ 念《おも》ふそら 安《やす》くあらねば 嘆《なげ》かくを 止《とど》めもかねて 見渡《みわた》せば 卯《う》の花山《はなやま》の ほととぎす 哭《ね》のみし 泣《な》かゆ 朝霧《あさぎり》の 乱《みだ》るる心《こころ》 言《こと》に出《い》でて 言《い》はばゆゆしみ 礪波山《となみやま》 手向《たむけ》の神《かみ》に 幣《ぬさ》奉《まつ》り 我《あ》が乞《こ》ひ祈《の》まく 愛《は》しけやし 君《きみ》が正香《ただか》を ま幸《さき》くも 在《あ》り徘徊《たもとほ》り 月《つき》立《た》たば 時《とき》もかはさず 瞿麦《なでしこ》が 花《はな》の盛《さかり》に 相見《あひみ》しめとぞ
    安遠迩与之 奈良乎伎波奈礼 阿麻射可流 比奈尓波安礼登 和賀勢故乎 見都追志乎礼婆 於毛比夜流 許等母安利之乎 於保伎美乃 美許等可之古美 乎須久尓能 許等登里毛知弖 和可久佐能 安由比多豆久利 無良等理能 安佐太知伊奈婆 於久礼多流 阿礼也可奈之伎 多妣尓由久 伎美可母孤悲無 於毛布蘇良 夜須久安良祢婆 奈氣可久乎 等騰米毛可祢※[氏/一] 見和多勢婆 宇能婆奈夜麻乃 保等登藝須 祢能未之奈可由 安佐疑理能 美太流々許己呂 許登尓伊泥弖 伊波婆由遊思美 (120)刀奈美夜麻 多牟氣能可味尓 奴佐麻都里 安我許比能麻久 波之家夜之 吉美賀多太可乎 麻佐吉久毛 安里多母等保利 都奇多々婆 等伎毛可波佐受 奈泥之故我 波奈乃佐可里尓 阿比見之米等曾
 
【語釈】 ○奈良を来離れ 「来離れ」は、離れて任地に来て。○食国の事執り持ちて 天皇の御領国の政務を取り扱って。これは越中の国庁の正税帳使となったことを、家持を尊む心から重くいったもの。○若草の脚帯手装り 「若草の」は、脚帯の材料としていっているのだろうという。「脚帯」は、本来、麻類の繊維を材料として作るものなので、ここは季節の関係と、それを美しくいおうとする関係とからいっているのだろうという。枕詞としての用例はないので、上の意で枕詞風にいったものと見れば、意が通ずる。今はその解に従う。「卿帯」は、袴の上から膝の辺りを結ぶ紐の称で、それをするのは行動を便にするためである。ここは旅装としてである。「手装り」は、「手」は、接頭語。「装り」は、装うてで、すなわち結んで。○群鳥の 群島のようにで、譬喩として「朝立ち」にかかる枕詞。鳥は朝、群れて塒《ねくら》を立つ習性によってである。○後れたる我や悲しき 後に残った私のほうが悲しいのでしょうか。「や」は、疑問の係。○旅に行く君かも恋ひむ 旅に行くあなたのほうが私を恋うるのでしょうか。「かも」は、疑問の係。○嘆かくを 「嘆かく」は、嘆くことで、名詞。○見渡せば卯の花山のほととぎす 見渡すと卯の花の咲き満ちている山を過ぎる霍公鳥のようにで、「哭」にかかる序詞。○朝霧の 譬喩として「乱る」にかかる枕詞。○言に出でて言はばゆゆしみ 言葉として口へ出していったら、はばかりがあるので。旅立つ人に不吉な言葉をいうのははばかったのである。これは言霊信仰からのことである。○礪波山手向の神に 「礪波山」は、越中(富山県)と加賀(石川県)との国境にある山で、今の小矢部市石動町西南方の倶利伽羅峠。本道ではないが、当時通路とした道の山。「手向の神」は、手向の祭をする神。○幣奉り我が乞ひ祈まく 幣を奉って、私が乞い祈ることには。これははるかに祈るのである。「祈まく」は、祈むすなわち祈ることで、名詞形。以下は乞い祈む語である。○愛しけやし君が正香を 愛すべき君が実体を。○ま幸くも在り徘徊り 無事で、そちこちと立ち廻って。「徘徊り」は、用務を果たしての意を具象的にいったもの。○月立たば 月が変わったならば。○相見しめとぞ 相逢わしめ給えと祈ることですで、「祈ることです」が略されている。
【釈】 あおによし奈良の都を離れて来た、天と遠い鄙ではあるが、親しいあなたに逢っているので、旅愁をまぎらすこともありましたのに、大君のお言いつけをこうむり、御領国の政務を取り扱って、若草の脚帯を結び、群鳥のように朝立って行ったならば、後に残っている私のほうが悲しいのでしょうか、旅へ行くあなたのほうが私を恋しいでしょうか。あなたを思う心が安くないので、嘆くことがとどめ得られずに見渡すと、卯の花の咲き満ちている山を過ぎる霍公鳥のように、泣きにのみ泣かれます。朝霧のように乱れる心を、言葉として口に出していったならばはばかりがありますので、礪波山の手向の神に、幣を奉って私が乞い祈りますことには、最愛のあなたの実体を、無事でいて、立ち廻り用務を果たして、月が改まったならば、時も移さずに、瞿麦の花の盛りに、お逢わせくだされと祈ることです。
【評】 上の家持の歌に答えたものである。送別の歌としては、こまごまと、しみじみと、落ちついて情理を尽くして述べてい(121)るもので、その点、池主の歌としては珍しいものである。構成は、例によって整然としている。第一段は、起首より「思ひ遣る事もありしを」までで、まず自身の立場を明らかにしている。同族ではあるが、下僚の身とて、控え目にして物をいうのが礼であるとし、それには自身の立場を明らかにしてかかるべきだとしたものと見える。第二段は、「ほととぎす哭のみし泣かゆ」までである。正税帳使という役をいうための大がかりな言い方、旅装としての「脚帯手装り」「哭のみし」に対する眼前を捉えての三句の序詞など、その才の凡ならざることを示してはいるが、さすがに適度を失わずに守り得ているものである。第三段は結末までで、最も行き届いたものである。「言に出でて言はばゆゆしみ」は、今日でも無意識の中に保たれている信仰で、当時としてはいうにも及ばないものであったろうが、それが礪波山の手向の神への訴えの言葉の伏線となって、祈りの言葉を自然なものとしている。「ま幸くも在り徘徊り」「瞿麦が花の盛に」は、いずれも巧みな技巧である。一首、広くいえば友人に対しての送別である。感傷と誇張を交じえず、これだけの情味を湛えた作をするということは、才のみでは不可能なことである。池主の隠れていた半面の現われた作である。
 
4009 玉桙《たまほこ》の 道《みち》の神《かみ》たち 幣《まひ》はせむ 我《あ》がおもふ君《きみ》を なつかしみせよ
    多麻保許乃 美知能可未多知 麻比波勢牟 安賀於毛布伎美乎 奈都可之実勢余
 
【語釈】 ○道の神たち幣はせむ 「道の神たち」は、都までの道中の、行く先々の神たち。「たち」は、敬称としての複数。呼びかけ。「幣」は、贈物。ここは幣帛で、それを捧げるのは、祈りをすること。○なつかしみせよ 「なつかしみ」は、親しみ愛することで、それをせよで、特別の加護をせよ。
【釈】 玉桙の道の、行く先々の神たちよ。幣帛は捧げましょう。わが思っている君を、親しみ愛してくだされよ。
【評】 長歌の結末を受けて、そちらでは礪波山の手向の神を祈っていたのを進展させ、「道の神たち」と拡大させている。「なつかしみせよ」というのも、祈りの語としては特別なものである。反歌としては要を得たものである。
 
4010 うら恋《ごひ》し 我《わ》が兄《せ》の君《きみ》は 瞿麦《なでしこ》が 花《はな》にもがもな 朝《あさ》な朝《さ》な見《み》む
    宇良故非之 和賀勢能伎美波 奈泥之故我 波奈尓毛我母奈 安佐奈々々々見牟
 
【語釈】 ○うら恋し 心恋しきの意で、終止形から名詞へ接する古格のもの。○花にもがもな 「もが」は、願望の助詞。「も」は、詠歎。花であ(122)つてほしいなあ。
【釈】 心恋しい、親しいあなたは、瞿麦の花であってほしいなあ。それだと毎朝見よう。
【評】 家持の反歌の、「我が兄子は玉にもがもな」というのに和えて、これから咲き出そうとする瞿麦に替えたのである。瞿麦はこの当時、特に愛されていた花であるから、心きいた譬である。
 
     右は、大伴宿禰池主の報へ贈り和ふる歌。五月二日。
      右、大伴宿祢池主報贈和謌。五月二日。
 
【解】 これに続く歌は、家持が越中に帰っての九月のものであって、その間が空白となっている。散佚《さんいつ》したものであろう。
 
     放逸せる鷹を思《しの》ひ、夢《いめ》に見て感悦《よろこ》びて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「放逸せる鷹」は、逃げた鷹で、その鷹は、家持の鷹狩に使っていたもの、また逃げたのは、鷹の係をさせていた山田君麿という老人の不注意からのことである。「夢に見て感悦び」は、逃げた鷹が帰って来ることを、夢に娘子が現われて告げたので、それを神の夢告と信じて歓喜したのである。夢告は上代からの信仰で、今でも地方によっては信じられているものである。これらのことは左注にくわしい。
 
4011 大王《おほきみ》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》ぞ み雪《ゆき》降《ふ》る 越《こし》と名《な》に負《お》へる 天《あま》ざかる 鄙《ひな》にしあれば 山《やま》高《たか》み 河《かは》とほしろし 野《の》を広《ひろ》み 草《くさ》こそ茂《しげ》き 鮎《あゆ》走《はし》る 夏《なつ》の盛《さかり》と 島《しま》つ鳥《どり》 鵜養《うかひ》が伴《とも》は 行《ゆ》く河《かは》の 清《きよ》き瀬《せ》毎《ごと》に 篝《かがり》さし なづさひ上《のぼ》る 露霜《つゆじも》の 秋《あき》に至《いた》れば 野《の》も多《さは》に 鳥《とり》多集《すだ》けりと ますらをの 伴《とも》いざなひて 鷹《たか》はしも 数多《あまた》あれども 矢形尾《やかたを》の 我《あ》が大黒《おほぐろ》に 【大黒は蒼鷹の名なり】 白塗《しらぬり》の 鈴《すず》取《と》り附《つ》けて 朝猟《あさかり》に 五百《いほ》つ鳥《とり》立《た》て 夕猟《ゆふかり》に 千鳥《ちとり》踏《ふ》み《た》立て 追《お》ふ毎《ごと》に 免《ゆる》すことなく 手放《たばな》れも 還来《をち》もか易《やす》き これを除《お》きて 又《また》はあり難《がた》し さ並《なら》べる 鷹《たか》は無《な》けむ(123)と 情《こころ》には 思《おも》ひ誇《ほこ》りて 笑《ゑま》ひつつ 渡《わた》る間《あひだ》に 狂《たぶ》れたる 醜《しこ》つ翁《おきな》の 言《こと》だにも 吾《われ》には 告《つ》げず との曇《ぐも》り 雨《あめ》の降《ふ》る日《ひ》を 鳥猟《とがり》すと 名《な》のみを告《の》りて 三島野《みしまの》を 背向《そがひ》に見《み》つつ 二上《ふたがみ》の 山《やま》飛《と》び越《こ》えて 雲隠《くもがく》り 翔《かけ》り去《い》にきと 帰《かへ》り来《き》て 咳《しはb》れ告《つ》ぐれ 招《を》くよしの そこに無《な》ければ 言《い》ふすべの たどきを知《し》らに 心《こころ》には 火《ひ》さへ燃《も》えつつ 思《おも》ひ恋《こ》ひ 息《いき》づき余《あま》り げだしくも 逢《あ》ふことありやと あしひきの 彼面此面《をてもこのも》に 鳥網《となみ》張《は》り 守部《もりべ》を居《す》ゑて ちはやぶる 神《かみ》の社《やしろ》に 照《て》る鏡《かがみ》 倭文《しつ》に取《と》り添《そ》へ 乞《こ》ひ祈《の》みて 吾《あ》が待《ま》つ時《とき》に 嬢子《をとめ》らが 夢《いめ》に告《つ》ぐらく 汝《な》が恋《こ》ふる その秀《ほ》つ鷹《たか》は 松田江《まつだえ》の 浜《はま》行《ゆ》き暮《く》らし ※[魚+制]《つなし》漁《と》る 氷見《ひみ》の江《え》過《す》ぎて 多古《たこ》の島《しま》 飛《と》び徘徊《たもとほ》り 葦鴨《あしがも》の 多集《すだ》く旧江《ふるえ》に 一昨日《をとつひ》も 昨日《きのふ》も在《あ》りつ 近《ちか》くあらば 今《いま》二日《ふつか》だめ 遠《とほ》くあらば 七日《なぬか》のをちは 過《す》ぎめやも 来《き》なむ吾《わ》が兄子《せこ》 懇《ねもころ》に な恋《こ》ひそよとぞ いまに告《つ》げつる
    大王乃 等保能美可度曾 美雪落 越登名尓於敞流 安麻射可流 比奈尓之安礼婆 山高美 河登保之呂思 野乎比呂美 久佐許曾之既吉 安由波之流 奈都能左加利等 之麻都等里 鵜養我登母波 由久加波乃 伎欲吉瀬其等尓 可賀里左之 奈豆左比能保流 露霜乃 安伎尓伊多礼婆 野毛佐波尓 等里須太家里等 麻須良乎能 登母伊射奈比弖 多加波之母 安麻多安礼等母 矢形尾乃 安我大黒尓 【大黒者蒼鷹之名也】 之良奴里能 鈴登里都氣弖 朝※[獣偏+葛]尓 伊保都登里多※[氏/一] 暮※[獣偏+葛]尓 知登理布美多※[氏/一] 於敷其等迩 由流須許等奈久 手放毛 乎知母可夜須伎 許礼乎於伎※[氏/一] 麻多波安里我多之 左奈良敞流 多可波奈家牟等 情尓波 於毛比保許里弖 惠麻比都追 和多流安比太尓 多夫礼多流 之許都於吉奈乃 許等太尓母 吾尓波都氣受 等乃具母利 安米能布流日乎 等我理須等 名乃未乎能里弖 三(124)嶋野乎 曾我比尓見都追 二上 山登妣古要※[氏/一] 久母我久理 可氣理伊尓伎等 可敞理伎弖 之波夫礼都具礼 呼久餘思乃 曾許尓奈家礼波 伊敷須敞能 多騰伎平之良尓 心尓波 火佐倍毛要都追 於母比孤悲 伊伎豆吉安麻利 氣太之久毛 安布許等安里也等 安之比奇能 乎※[氏/一]母許乃毛尓 等奈美波里 母利敞乎須惠※[氏/一] 知波夜夫流 神社尓 ※[氏/一]流鏡 之都尓等里蘇倍 己比能美弖 安我麻都等吉尓 乎登賣良我 伊米尓都具良久 奈我古敷流 曾能保追多加波 麻追太要乃 波麻由伎具良之 都奈之等流 比美乃江過弖 多古能之麻 等妣多毛登保里 安之我母乃 須太久舊江尓 乎等都日毛 伎能敷母安里追 知加久安良婆 伊麻布都可太米 等保久安良婆 奈奴可乃乎知波 須疑米也母 伎奈牟和我勢故 祢毛許呂尓 奈孤悲曾余等曾 伊麻尓都氣都流
 
【語釈】 ○大王の遠の朝廷ぞ 「遠の朝廷」は、京の朝廷を標準として、遠隔の地にある朝廷で、国庁を尊んでの称。○み雪降る越と名に負へる 「み雪降る」は、「み」は、接頭語で、越を説明したもの。「越と名に負へる」は、「越」は、北陸道の総称であるが、ここは越中を主としての称。越の国という評判を持っている。○鄙にしあれば 鄙の辺土なのでの意。「し」は、強意の助詞。○山高み河とほしろし 山が高くして、川が雄大である。○野を広み草こそ茂き 野が広くして、草が茂っていることだ。○鮎走る夏の盛と 鮎が河に走っている夏の盛りであるとて。上の「河とほしろし」を受けて、以下夏の川を叙している。○島つ鳥鵜養が伴は 「島つ鳥」は、島に住む鳥で、「鵜」の枕詞。「鵜養が伴」は、「鵜養」は、鵜を使って鮎を獲ることを職とする者の称。「伴」は、集団。二句、古事記、神武天皇の御製というにあるもの。○行く河の 流れ行く河の。○篝さしなづさひ上る 「篝さし」は、篝火を水面にさし寄せて。「さし」は、意味の広い語であり、ここは水を照らして、魚を集める意をいっている。「なづさひ上る」は、水に漬って川を溯る。以上第二段で、夏の鵜飼をいい、次の鷹狩に対させたもの。○露霜の秋に至れば 水霜の置く秋になれば。○野も多に鳥多集けりと 野に多く鳥が集まっているとて。「も」は、感動の助詞、詠歎。「けり」は、「きあり」。○ますらをの伴いざなひて 「ますらを」は、ここは、年盛りの男の称。「伴」は、その仲間で、若い男を大ぜい。「いざなひて」は、誘い立てて。以下、家持自身のこと。○鷹はしも数多あれども 鷹狩をする鷹は多く飼っているけれども。○矢形尾の我が大黒に 「矢形尾」は、諸説があって、明らかでない。字面から見ると、矢羽根の形をした尾をもった鷹と取れる。形の特色を捉えて分類した名で、複雑なものではなかろう。「大黒」は、鷹の名で、「大黒は蒼鷹の名なり」と自注している。「蒼鷹」は、大鷹で、大鷹は雌である。○日塗の鈴取り附けて 「白塗の鈴」は、銀の鍍金した鈴で、「取り附け」は、尾につけるのである。これは音で鷹の行方を知るに便にするためである。○朝猟に五百つ鳥立て夕猟に千鳥踏み立て 「五百つ鳥」も「千鳥」も、多くの鳥という意を具象的にいったもの。「立て」は、「踏み立て」と同じく、草むらの中にいる鳥を、踏んで飛び立たせる意。これは朝も夕べもそこを塒《ねぐら》としているのを追い立てるのである。○追ふ毎に免すことなく 大黒が追うごとに、取り逃がすことがなく。○手放れも還来もか易き 「手放れも」は、据えている手から鷹の放れることもで、「手放れ」は、名詞。「還来も」は、以前いた所へ還って来る意で、鳥を(125)捉え終わって手へ戻ることもで、「還来」も名詞。「か易き」は、「か」は、接頭語、「易き」は、たやすいことはで、「か易き」は、連体形。○これを除きて又はあり難し この大黒を外にしては、他には存在しがたい。○さ並べる鷹は無けむと 「さ並べる」は、「さ」は、接頭語で、並びうる鷹はなかろうと。○笑ひつつ渡る間に 得意の微笑を浮かべつつ月日を過ごしている間に。○狂れたる醜つ翁の 「狂れたる」は、心狂う意の古語で、常識の足りないことを誇張していったもの。「醜つ翁の」は、「醜」は、物をののしる意の語。「翁」は、年寄り。まぬけな年寄りというにあたろう。この人のことは左注に出ている。○言だにも吾には告げず 言だけでも、われには告げ知らせずに。断わらずに黙ってで、これは大黒を持ち出したことを背後に置いていっているもの。○との曇り雨の降る日を 空が全面的に曇って、雨の降っている日なのに。そうした日には鷹狩などはすべくもないのである。○鳥猟すと名のみを告りて 鷹狩をすると、自分の名だけを告げて。ただそれだけの断わりをしての意。この続きに、大黒を持ち出して、帰って来ての意が略され、ただちに大黒の逃げた報告に移っている。○三島野を背向に見つつ 「三島野」は、『倭名類聚鈔』に、「射水郡三島 美之万」とある地で、今の大門町東南部二口の地だという。国司館から射水川を隔てて見られる地である。「背向に見つつ」はうしろにしながらで、大黒はその野で逃げ、これは逃げ去る状態。○二上の山飛び越えて 「二上山」は、元暦校本、類聚古集とも「二山上」となっている。誤写で、従来の「二上山」が原形であると取れる。○雲隠り翔り去にきと 雲に隠れて、飛び去ってしまったと。○帰り来て咳れ告ぐれ 「咳れ」は、咳をして。「告ぐれ」は、告げたのでで、已然条件法で下へ続く。これは年寄りを憎んでの描写である。○招くよしの 大黒を招き寄せる手段が。○息づき余り 溜め息をついても、つくに余ってで、つききれずに。○けだしくも逢ふことありやと もしも大黒を見かけることがあろうかと思って。○あしひきの彼面此面に 「あしひきの」は、ここは山のの意。山は二上山。「彼面此面」は、そちらの面こちらの面に。○鳥網張り守部を居ゑて 「となみ」は、とりあみの約。「守部」は、番人。○ちはやぶる神の社に 「ちはやぶる」は、いちはやぶるで強い勢を発揮している意で、神を讀えての枕詞。「社」は、屋代で、神の降り給う所の称。大木であった。○照る鏡倭文に取り添へ 「照る鏡」は、照っている鏡で、その物をたたえての称。「倭文」は、緯糸を赤、青などに染めて、縞に織った布で、古くは珍重した物。いずれも幣としては鄭重な物である。○嬢子らが夢に告ぐらく 妹子が夢に告げることには。「ら」は、接尾語。「告ぐらく」は、名詞形。これは神意の夢告で、神意は若い女、または童児などに憑《つ》くものとされていた。○汝が恋ふるその秀つ鷹は あなたの恋うているそのすぐれた鷹は。これ以下は神託である。○松田江の浜行き暮らし 「松田江」は、上の(三九九一)「布勢氷海」の歌に、「松田江の長浜過ぎて」とあった地で、渋谿と氷見の間の海岸。「行き暮らし」は、日を暮らし。○※[魚+制]漁る氷見の江過ぎて 「※[魚+制]」は、今の「このしろ」。「氷見の江」は、氷見の海と布勢の水海とをつなぐ水路で、今も氷見市の背後に流れの緩い水路がある。○多古の島 布勢の水海に面した地に、今も上田子、下田子の地名を存している。○多集く旧江に 「旧江」は、布勢の水海の南岸にあった地。○近くあらば今二日だめ 「だめ」は、底本には「太未」(だみ)となっているが、元暦校本、類聚古集などの「太米」とのあるのに従う。いずれにしても不明の語である。下の続きから「ばかり」の意と取れる。その意の越中の方言だろうという。早かったらば、いま二日ばかりのうちに。○遠くあらば七日のをちは 遅かったらば、七日のかなたはで、七日以上は。○過ぎめやも来なむ吾が兄子 越そうか、越さずに還って来ようわが兄子よ。「や」は、反語。○懇にな恋ひそよとぞいまに告げつる 心深く恋うることはするなよと、夢に告げたことであった。「いま」は、「いめ」で、夢の古語か、誤写によるものかと考えられている。
【釈】 天皇の遠隔の地にある朝廷であるぞ。雪が降る越の国という評判を持っている、天のように遠い鄙なので、山が高くて、(126)河が雄大である。野は広くて、草が茂っていることである。鮎の走っている夏の盛りだとて、島の鳥の鵜養をする人々は、流れゆく川の清い瀬ごとに、篝火をさし照らして水に漬って溯って行く。水霜の置く秋になると、野にたくさんに鳥が集まっているとて、若盛りの男の人々を誘って、鷹は多く飼っているが、矢形尾のわが大黒に(大黒は大鷹の名である)、白く鍍金《めつき》した鈴を取りつけて、朝の猟には五百もの多くの鳥を草むらを踏んで飛び立たせ、夕べの猟には千もの多くの鳥を同じく草むらを踏んで飛び立たせ、大黒は追うたびごとに取逃がすことがなく、手から放れることも、事を終えて手に戻って来ることもたやすいことは、これをほかにしてはまたとあり得ない、匹敵する鷹はないことであろうと、心に思い誇って、得意の笑みを浮かべつつ月日を過ごしている間に、心の狂っているまぬけな年寄りが、言葉にだけも私には告げ知らせずに、空いちめんに曇って雨の降る日なのに、鷹狩をすると名前だけを告げて、大黒は三島野を後ろにしつつ、二上の山を飛び越えて、雲に隠れて見えなくなってしまったと、帰って来て、咳をして告げたので、招き寄せる手段がここにはないので、いうことの手がかりも知られずに、心には怒りの火までも燃えながら大黒を恋しく思い、溜め息もつききれずに、もしも大黒に逢うことがあろうかと思って、山のそちらの面こちらの面に鳥網を張って番人を置いて、勢猛き神の社に、光り照る鏡を倭文に取り添えて幣に奉り、乞い祈って私の還るのを待っている時に、嬢子が夢に現われて私に告げることには、あなたが恋うているあのすぐれた鷹は、松田江の浜を一日行き暮らして、※[魚+制]《つなし》を漁《すなど》る氷見の江を通り過ぎて、布勢の水海の多古の島を飛び廻って、鴨の集まっている旧江に、一昨日も昨日も居ました。早かったならば、いま二日ばかりのうちに、遅かったらば、七日以上は越すことがありましょうか、還って来ましょう親しいあなたよ。心深くは恋うることをなさるなと、夢に告げたことであった。
(127)【評】 この長歌は、家持に多い長歌の中でも、最も異色に富んだ一首である。これを取材から見ると、彼の鷹狩に使う愛していた鷹を、その鷹飼の老人が不注意から逃がしたという、第三者からいうと何のつながりもない、一些事にすぎないものである。もし表現が拙なかったら、全く価値のないものに成り終わるべき危険な取材である。家持はそれを詠み生かして、彼としては代表的な一首とまでしているのである。この歌の価値は全く表現技巧にある。これを技巧の面から見ると、取材の小さいのとは反対に、一首の構成はじつに大きく、第一段は、越中国の山は高く川は雄大に、野は広く草は深くて、鵜飼、鷹狩をせずにはいられないことを述べ、夏の鵜飼についでする秋の鷹狩の鷹の、きわめて優秀な物を得て、得意になっていることを述べている。第二段は、空の曇り深く、鷹狩などはすべくもない日に、その鷹飼の老人が無断に、家持の愛している鷹を持ち出して逃がしてしまったことを、その老人の帰って来ての報告によって初めて知った、その思いがけぬ驚き、愚かしさへの怒り、言いようもない思慕である。第三段は、どうにかしてその鷹を捕えようと手を尽くし、神へもねんごろに祈願して待っていると、一夜夢に嬢子が現われ、その鷹の遠からず還って来ることを告げたので、家持はこれを明らかに神の夢告であると信じて、それをもって結末としているのである。これを全体として見ると歌柄が大きく、抒情をとおしつつ以上の叙事を進行させているのであるが、抒情と叙事とが微妙に調和してのことなので、部分的の味わいが豊かで、変化があって、どこを段落ということもなく続いていて、上にいった三段も明らかに段落とは言い難いものである。部分的の技巧についていささかいうと、起首、「大王の遠の朝廷ぞ」と、突如、任国越中を明るい心をもって讃え、中心の秋の野の鷹狩をいうために、その対照として夏川の鵜飼をきわめて自然な形でいっているところまでの、堂々と、また悠々とした展開、その鷹狩の鷹としての大黒の状態の描写、愛情の表現は、いかにも生彩に富んだ、巧みなものである。鷹飼の鷹を逃がした第二段は、第一段とは一変して、急促した形において表現している。鷹飼が大黒を持ち出したことは全く知らずにいて、その鷹飼の野から帰って来ての報告で、初めてそのことを知ることにしてあるが、ここには一句の説明語もなく、のみならず叙事も省略して、ただちに事件の中核だけを報告によって知るという急迫した叙事法になっている。これは気分を主にしての叙事で、そのためにかえって簡潔になっているので、巧妙である。第三段の、逃げた鷹を捉えようとしての焦慮をいうに、夢の告げの言葉のみをもって打ち切っているのは巧妙である。これも上と同じく、気分を主として、それを具象しようとしての描写だからであって、したがって説明語を要さないものとなっているからである。技巧を通じて、その中心となっていることは、気分を主としながら、表現としてはそれを具象化しての客観的描写としていることで、その融合がじつに微妙に遂げられていることである。長篇であるにもかかわらず、その長さを感じさせないのは、一にこの点にあるのである。家持の長歌は、ともすると強いて長歌としているごとき、あるたどたどしさを感じさせたのであるが、越中の一年は、見事にその境を脱却させた観がある。
 
(128)4012 矢形尾《やかたを》の 鷹《たか》を手《て》に居《す》ゑ 三島野《みしまの》に 猟《か》らぬ日《ひ》まねく 月《つき》ぞ経《へ》にける
    矢形尾能 多加乎手尓須恵 美之麻野尓 可良奴日麻祢久 都奇曾倍尓家流
 
【語釈】 略す。
【釈】 矢形尾をした鷹を手に据えて、三島野に、猟をしない日が多く、今は月を過ぎたことであるよ。
【評】 鷹なき後のさびしさを総括していっているもので、長歌の昂奮した心とは異なって、落ちついた、気品を持った歌である。愛する物のなくなった当座の心としてはおおらかな言い方である。
 
4013 二上《ふたがみ》の 彼面此面《をてもこのも》に 網《あみ》さして 吾《あ》が待《ま》つ鷹《たか》を 夢《いめ》に告《つ》げつも
    二上能 乎弖母許能母尓 安美佐之弖 安我麻都多可乎 伊米尓都氣追母
 
【語釈】 略す。
【釈】 二上山のそちらこちらに網を張って、わが待っている鷹のことを、夢に告げたことだよ。
【評】 長歌の繰り返しである。「夢に告げつも」に重点を置き、一に神助を待つ心をおおらかにいっているものである。上の歌と同系の味わいである。
 
4014 松反《まつがへ》り しひにてあれかも さ山田《やまだ》の 翁《をぢ》がその日《ひ》に 求《もと》め逢《あ》はずけむ
    麻追我敞里 之比尓弖安礼可母 佐夜麻太乃 乎治我其日尓 母等米安波受家牟
 
【語釈】 ○松反りしひにてあれかも この二句は、巻九(一七八三)人麿歌集に、その妻の歌として、「松反りしひてあれやは三栗の中ゆ上り来ず麿と云ふ奴」とあるによったもので、他に類例がなく、不明の語である。『総釈』で佐佐木信綱氏は、「松反り」は借訓で、「待つ還り」であり、待つに還る意で、当時の諺であったろうと解している。『全註釈』も鷹狩の語で、鷹は待っていると帰って来るという意の語であろうといっている。言霊《ことだま》、夢などと同じく、こちらで待っていれば、その霊が先方に通じて還って来るという俗信はありうるものに思われるからである。「しひ(129)にてあれかも」は、「しひ」は、「誣《し》ひ」で、偽りの意の名詞。「あれかも」は、「あればかも」の古格で、「かも」は、疑問の係。○さ山田の翁が 「さ」は、接頭語で、山田の老人。これは鷹飼で、左注で「山田君麿」と呼んだことが知られる。長歌で「狂れたる醜の翁」とののしられた人である。○その日に求め逢はずけむ 「その日」は、鷹の逃げた日で、探して見つけることができなかったのであろうか。
【釈】 待つに還るということは、偽りであって、山田の老人が、その日に、探しても見つけることができなかったのだろうか。
【評】 左注に、「恨を却くる歌を作りて」といっているように、鷹飼の翁に対する恨みを棄てようとする心からのものである。「松反りしひにてあれかも」と、諺を疑問にしているのは、その意識からのことであろう。
 
4015 情《こころ》には ゆるふことなく 須加《すか》の山《やま》 すかなくのみや 恋《こ》ひ渡《わた》りなむ
    情尓波 由流布許等奈久 須加能夜麻 須加奈久能未也 孤悲和多利奈牟
 
【語釈】 ○ゆるふことなく 「ゆるふ」は、緩むで、悲しみがやわらぐことがなく。○須加の山 正倉院文書(『大日本古文書』四)に、射水郡須加村の地名がある。その地の山で国司館から見える山であったろうが、今はどの山とも知れぬ。高岡市西方、頭川《ずかわ》の地かともいわれる。「すかなく」へ同音でかかる枕詞。○すかなくのみや 「すかなく」は、『新撰字鏡』に出ている語で、坐して嘆く意の形容詞。催馬楽「葦垣」にも出ている語。「のみ」は、強め、「や」は、疑問の係。
【釈】 心中では、悲しみの緩むことがなく、須賀の山に因む、すかなくすなわち坐しての嘆きばかりして、恋い続けるのであろうか。
【評】 嘆きの気分を述べただけの歌である。「須加の山すかなくのみや」は、須加の山という眼前に見ているものに絡ませて、多少なりとも具象的なものにしようとしてのもので、「すかなく」という用例の少ない語は、その枕詞から引き出されたものである。
 
     右は、射水郡旧江村に蒼鷹を取り獲たり。形容美麗にして雉を鷙《と》ること群に秀でたり。時に養吏山田|史《ふひと》君麿、調試節を失ひ、野の猟候に乖《そむ》く。風を搏つ翅高く翔りて雲に匿れ、腐れたる鼠の餌呼び留むるに験靡し。ここに羅網を張り設《ま》けて非常を窺ひ、神祇に奉幣して虞《はか》らざるを恃む。粤《ここ》に夢の裏に娘子《をとめ》あり。喩して曰く、使君苦念を作《な》して空しく精神を費すこと勿れ、放逸せる彼《そ》の(130)鷹、獲《と》り得むこと近からむといふ。須臾《しまらく》に覚《おどろ》き寤《さ》め、懐《こころ》に悦あり。因りて恨を却《しりぞ》くる歌を作りて、式《も》ちて感信を旌《あらは》す。守大伴宿禰家持。九月二十六日作れる。
      右、射水郡古江村取2獲蒼鷹1。形容美麗、鷙v雉秀v群也。於v時養吏山田史君麿、調試失v節、野※[獣偏+葛]乖v候。搏v風之翅、高翔匿v雲、腐鼠之餌、呼留靡v驗。於v是張2設羅網1、窺2乎非常1、奉2幣神祇1、恃2乎不1v虞也。粤以夢裏有2娘子1。喩日、使君勿d作2苦念1空費c精神u。放逸彼鷹、獲得未v幾矣哉。須臾覺寤、有v悦2於懷1。因作2却v恨之歌1、式旌2感信1。守大伴宿祢家持。九月廿六日作也。
 
【解】 「調試節を失ひ」は「調試」は、猟の鷹としてのしつけ。「節を失ひ」は、度を弁えず。「野の猟候に乖く」は、野で猟をする季節を間違えている。鷹狩は大体冬季のことであるのに、この時は、この歌を作ったのが「九月二十六日」で、その前月であったことが歌で知られる。「腐れたる鼠の餌」は、『荘子』秋水稿に出ている語で、猛禽はおのおの好む餌があるの意。「非常を窺ひ」は、万一を僥倖しようとし。「虞らざるを恃む」は、意外なことを頼みとするで、上と同じ。「使君」は、漢唐時代の長官に対しての称で、ここは国守の代名詞。「恨を却くる歌」は、恨みを忘れる歌で、これは下の感信をあらわす証としてのこと。「感信を旌す」は、夢告に対して感動しての信仰をあらわすの意。
 
     高市連黒人の歌一首 【年月審かならず】
 
【題意】 「高市連黒人」は、藤原朝の人で、巻一(三二)に出た。作った年月は明らかではない。
 
4016 婦負《めひ》の野《の》の 薄《すすき》押《お》し靡《な》べ 降《ふ》る雪《ゆき》に 宿《やど》借《か》る今日《けふ》し 悲《かな》しく思《おも》ほゆ
    賣比能野能 須寸吉於之奈倍 布流由伎尓 夜度加流家敷之 可奈之久於毛倍遊
 
【語釈】○婦負の野の薄押し靡べ 「婦負」は、今は郡名に「ねい」となっており、『倭名類聚鈔』に「越中国婦負郡禰比」とあり、「ねひ」と呼ばれていた。「野」は、今の富山市街西方の北国街道に沿う平野かという。「押し靡べ」は、押しなびかせてで、下の雪の降り積もる状態をいったも(131)の。○宿借る今日し 「宿借る」は、そこにある民家を借りること。「今日し」の「し」は、強意。○悲しく思ほゆ 「思はゆ」は、思われるの意。
【釈】 婦負の野の薄を押しなびかせて降る雪に、宿を借りる今日は、悲しく思われる。
【評】 黒人の作風を示しているものである。初句より四句までは、単純、率直に眼前を叙し、結句は抒情をもってし、一首を気分的に統一している。奈良朝時代の人から見ると、その時代の新風とするものが、すでに遠い時代にあったことを示していることで、その意味でなつかしいものであったろう。
 
     右は、此の歌を伝へ誦めるは、三国真人五百国《みくにのまひといほくに》なり。
      右、傳2誦此歌1、三國眞人五百國是也。
 
【解】 「三国五百国」は、その伝が不明である。国庁に仕えていた人であったろう。
 
4017 東《あゆ》の風《かぜ》【越の俗語東風をあゆのかぜといへり】 いたく吹《ふ》くらし 奈呉《なご》の海人《あま》の 釣《つり》する小船《をぶね》 漕《こ》ぎ隠《かく》る見《み》ゆ
    東風【越俗語東風謂2之安由乃可能是1也】 伊多久布久良之 奈呉乃安麻能 都利須流乎夫祢 許藝可久流見由
 
【語釈】 ○東の風 注は、自注で、越の国の方言で、東風をあゆの風と呼んでいるというのである。○漕ぎ隠る見ゆ 漕いで、風から隠れるのが見える。
【釈】 東の風が強く吹くらしい。奈呉の海人の釣をしている小舟が、漕いで、風から隠れるのが見える。
(132)【評】 国司館から奈呉の海を眺めやっての心で、実景である。類歌が多いのは、海には多い現象だからである。「あゆのかぜ」と方言を用いているのは、家持の正直と、進取気分の一つになってのことと思われる。
 
4018 湊風《みなとかぜ》 寒《さむ》く吹《ふ》くらし 奈呉《なご》の江《え》に 妻《つま》喚《よ》び交《かは》し 鶴《たづ》さはに鳴《な》く
    美奈刀可是 佐牟久布久良之 奈呉乃江尓 都麻欲妣可波之 多豆左波尓奈久
 
【語釈】 ○湊風寒く吹くらし 「湊風」は、「湊」は、下の続きで、射水河の河口で、そこに吹く風。「寒く吹くらし」は、寒く吹いているらしい。○奈呉の江に 「奈呉の江」は、射水郡の今の放生津潟の古称である。放生津潟は周囲一里余の小湖水で、狭い砂地を境として海に接している。射水河の河口からは、東へ十余町距たっている。
【釈】 射水川の河口の風は寒く吹くらしい。奈呉の江で、妻を喚び交わして、鶴が多く鳴いている。
【評】 奈呉の江の辺りに立っての感である。その江にあさりをしている鶴の鳴き交わす声を聞いて、湊風を寒く感じて、雄が雌をいたわって喚ぶのらしいと解したのである。家持の郷愁の反映である。それとしてはおおらかである。
 
     一に云ふ、鶴《たづ》さわくなり
      一云、多豆佐和久奈里
 
【解】 結句の別案である。原案のほうが含蓄があり、形としても安定感がある。
 
(133)4019 天《あま》ざかる 鄙《ひな》とも若《しる》く ここだくも 繁《しげ》き恋《こひ》かも 和《な》ぐる日《ひ》もなく
    安麻射可流 比奈等毛之流久 許己太久母 之氣伎孤悲可毛 奈具流日毛奈久
 
【語釈】 ○天ざかる鄙とも著く 都を遠く離れた鄙ということが顕著で。「著く」は、顕著の意の形容詞。○ここだくも繁き恋かも 「ここだくも」は、甚しくも。「繁き恋」は、都に対しての意で、多き恋をすることよ。○和ぐる日もなく その恋の静まる日もなくて。
【釈】 天と離れている鄙ということが顕著に、甚しくも京に対して繁き恋をすることよ。静まる日はなくて。
【評】 京に対しての思慕の情を、直接な刺激なく述べているものである。漠然とした気分であるから、昂奮したものか、概念的なものかになりやすいのであるが、それとしては落ちついた、しみじみした気分のものとしていて、目立たないが力量の思われるものである。「鄙とも著く」の「も著く」は、一つのことが、他のことの原因となることを示す場合のもので、知性の範囲に属する言い方である。それを目立たないものにしているのは、気分に溶かし込んでいるがためである。些事であるが、家持の歌風、引いてはその時代の歌風につながりを持っていることである。
 
4020 越《こし》の海《うみ》の 信濃《しなの》【浜の名なり】の浜《はま》を 行《ゆ》き暮《く》らし 長《なが》き春日《はるひ》も 忘《わす》れて思《おも》へや
    故之能宇美能 信濃【濱名也】乃波麻乎 由伎久良之 奈我伎波流比毛 和須礼弖於毛倍也
 
【語釈】 ○越の海の信濃の浜を 「越の海」は、北陸一帯の海であるが、ここは下の信濃の浜の辺りをさしたもの。「信濃の浜」は、今はその名が伝わっておらず、したがって所在は明らかでない。『万葉越路の栞』は、奈呉の海浜と、奈呉入江との間の浜路であろうとし、そこは今も旅人が通行するようだといっている。また、放生津新町には信濃祭と呼ぶ祭礼があり、土地の人は訛って「しなん祭」と呼んでいるともいっている。それだと海と湖とを同時に見られる路であり、上の歌で、「鶴さはに鳴く」といった地と思われる。これらの歌は同日の作であるから、そこかと思われる。○行き暮らし 歩いてその日を暮らし。○長き春日も忘れて思へや 「長き春日も」は、長い春の日にも。「忘れて思へや」は、「忘れて思へ」は、忘れと意味は同じで、「や」は、反語。「忘れ」は、京の恋しさをで、京の恋しさは忘れられようか、忘れられはしない。
【釈】 越の海の、信濃の浜を歩いて日を暮らし、その長い春の日にも、京恋しさを忘れられようか、忘れられはしない。
【評】 初春の一日、信濃の浜に遊んで、春の海のたのしさから終日を遊び暮らした間も、そのたのしさが刺激となって、京恋(134)しい情が絶えず胸にあったという嘆きである。「忘れて思へや」は、強い語ではあるが、同時に婉曲なもので、上からの続きで、おおらかに、上品に旅愁をあらわしているものである。漢詩に通う趣がある。
 
     右の四首は、二十年春正月二十九日、大伴宿禰家持。
      右四首、廿年春正月廿九日、大伴宿祢家持。
 
【解】 家持としては、越中で三度目の春に逢ったのである。
 
     礪波《となみ》郡|雄神河《をかみがは》の辺《へ》にて作れる歌一首
 
【題意】 以下九首は、左注によると、家持が国守として、春の出挙のために部内の諸郡を巡行した際に作ったものである。「礪波郡」は、国府のある射水郡からは南方にあたり、明治年代、東西二郡に分かたれた。「雄神河」は、今、庄川と呼ぶ。飛騨国白川地方から発しる川で、以前は射水河(小矢部川)に合流したが、明治年代、水路を作ってただちに海に注ぐ川とした。「雄神河」というのは、雄神村(今、庄川町に入り村名を失った)を流れる時の称である。
 
4021 雄神河《をかみがは》 紅《くれなゐ》にほふ 嬢子《をとめ》らし 葦附《あしつき》【水松の類】 採《と》ると 瀬《せ》に立《た》たすらし
    乎加未河伯 久礼奈爲尓保布 乎等賣良之 葦附【水松之類】等流登 湍尓多々須良之
 
【語釈】 ○雄神河紅にほふ 雄神河が紅に美しく染まっている。○嬢子らし葦附採ると 「嬢子らし」は、その地の娘たちが。「し」は、強意の助詞。「葦附」は、渓流に自生する藻の一種で、緑色をした、食(135)用とする物である。今も東礪波郡北般若村地方から産し、葦附海苔という。葦附というのは、葦の根に生ずる意の名であろうが、実際は小石の表面にも付着するのである。「水松(みる)の類」という自注は適切ではない。○瀬に立たすらし 「立たす」は、「立つ」の敬語。女性に対しての慣用である。
【釈】 雄神河が紅に美しく染まっている。娘たちが、葦附を採るとて河瀬にお立ちになっているらしい。
【評】 村の娘たちが河へ入って葦附を採っているのを見ての興であるが、葦附を採るということが珍しく、それに引かれての作であろう。それは葦附に対する自注の適切でないのからもうかがわれる。その物を目に見たのではなかろう。この歌の形は、巻七(一二一八)「黒牛の海紅にほふ百磯城の大宮人しあさりすらしも」によっていることは明らかである。形は似ているが、味わいはさすがに距離がある。巻七の歌は、人の方が中心になっているが、この歌は自然の方が中心になっていて、作者自身の気分が濃厚に出ている。その意味で、面目のある歌といえる。
 
     婦負《めひ》郡|※[盧+鳥]坂《うさか》河の辺《へ》にて作れる歌一首
 
【題意】 「婦負郡」は、上の(四〇一六)に出た。射水郡、礪波郡の東に接している。「※[盧+鳥]坂河」は、※[盧+鳥]坂という名は伝わっていないが、現在、富山市の南方に鵜坂村(現、婦中町)があり、神通川がそこを流れているから、その川のその地における称であったろう。
 
4022 ※[盧+鳥]坂河《うさかがは》 渡《わた》る瀬《せ》多《おほ》み この我《あ》が馬《ま》の 足掻《あがき》の水《みづ》に 衣《きぬ》ぬれにけり
    宇佐可河伯 和多流瀬於保美 許乃安我馬乃 安我枳乃美豆尓 伎奴々礼尓家里
 
【語釈】 ○※[盧+鳥]坂河渡る瀬多み 「渡る瀬」は、渡るべき瀬。「多み」は、(136)多いので。河原が広く、瀬が幾筋にも分かれている意。○足掻の水に 馬の脚の運びに伴って立つ飛沫のために。
【釈】 ※[盧+鳥]坂河は渡るべき瀬が多いので、このわが乗馬の足掻に伴って立つ飛沫のために、衣が濡れてしまったことだ。
【評】 上代は川に橋が少なく、ほとんど徒渉であったために、衣が濡れる場合が多く、それが旅の侘びしさの一つとなっていた。この歌も巻七(一一四一)「武庫河の水脈を急みか赤駒の足がく激ちに沾れにけるかも」を思わせるものである。しかしこの歌は、侘びしいながらに明るさを持ったものである。そこに家持の風格がある。
 
     ※[盧+鳥]《う》を潜《かづ》くる人を見て作れる歌一首
 
【題意】 「※[盧+鳥]を潜くる人」は、※[盧+鳥]を潜かしめて河魚漁をる人で、すなわち川狩をする人である。職業にもし、また娯楽にもした。
 
4023 婦負河《めひがは》の 早《はや》き瀬毎《せごと》に 篝《かがり》さし 八十伴《やそとも》の男《を》は 鵜河《うかは》立《た》ちけり
    賣比河波能 波夜伎瀬其等尓 可我里佐之 夜蘇登毛乃乎波 宇加波多知家里
 
【語釈】 ○婦負河 婦負の野を流れる川、神通川の一部。○八十伴の男は 上の(三九九一)「布勢の水海」の歌に出た。朝廷の百官の称であるが、国庁の官人もそれと同じ者として、部下の者をさしていっているので、多くの官人。○鵜河立ちけり 鵜飼を行なっていることだ。
【釈】 婦負川の早い瀬ごとに篝火をさし照らして、多くの官人は、鵜飼を行なっていることだ。
【評】 国守の旅の一夜を慰めようと、随員である多くの官人が、春であるのに鵜飼を行なっているのを見ての心である。楽しく見ているのであるが、その心はわざと抑えて、「八十伴の男」という称によって、その心を暗示しているものである。重い語を連ねての精叙も、その気分をあらわしている。
 
     新川《にひかは》郡、延槻河《はひつきがは》を渡る時作れる歌一首
 
【題意】 「新川郡」は、越中国の東端の大郡で、現在は上中下の三郡に分かれている。「延槻河」は、今は早月《はやつき》川と呼ばれている。立山の北にある大日岳から発し、北流して滑川、魚津両市の境をなし、富山湾に入る。
 
4024 立山《たちやま》の 雪《ゆき》し来《く》らしも 延槻《はひつき》の 河《かは》の渡瀬《わたりせ》 鐙《あぶみ》浸《つ》かすも
    多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 可波能和多理瀬 安夫美都加須毛
 
【語釈】 ○立山の雪し来らしも 「立山」は、水源地として、その方面での高山をいったもの。「雪」は、雪解の水の意。「し」は、強意、「も」は、感動の助詞で、いずれも水勢のはげしさをあらわしたもの。○鐙浸かすも 「鐙」は、足踏の略。馬の両脇に垂れ、乗馬の際足をかけるもの。「浸かす」は、浸からせるで、鎧を水に浸からせられることである。
【釈】 立山の雪解の水が流れて来るのらしいことよ。延槻河の渡瀬で、わが乗馬の鐙は、水に浸からせられたことだ。
【評】 延槻河の水の深く、したがって水勢の強い瀬を、馬で渡っている時の感である。大日岳から発しる川を、高山の立山から発しる川とし、「立山の雪し来らしも」と大きくおおまかにいい、水の深さを、「鐙浸かすも」と、自身に引きつけ、感覚的にいっている扱い方、調べを張らせつつ、「し」「も」の助詞によってその水勢を暗示している点など、手に入った技巧というべきである。
 
     気太神宮《けだのかむみや》に赴き參り、海辺《うみべ》を行きし時作れる歌一首
 
【題意】 「気太神宮」は、今の気多神社で、石川県(能登)羽咋市一の宮の、海岸に近い丘陵の上に立つ。祭神は大国主命。当時は能登国は越中国に属していたのである。「赴き参り」は、参詣の意。
 
4025 之乎路《しをぢ》から 直越《ただこ》え来《く》れば 羽咋《ほくひ》の海《うみ》 朝《あさ》なぎしたり 船楫《ふねかぢ》もがも
    之乎路可良 多太古要久礼婆 波久比能海 安佐奈藝思多理 船梶母我毛
 
(138)【語釈】 ○之乎路から直越え来れば 「之乎路から」は、之乎路道をとおって。「之乎」は、今の志雄町で、能登国(石川県)羽咋郡にある地で、能登と越中との国境をなす山脈の西麓にある。越中の氷見から、志雄に通ずる街道があって、それが之乎路である。「直越え来れば」は、まっすぐに越えて来るとで、氷見から、この街道を志雄に向かって来ると。○羽咋の海 羽咋市の付近にある海で、能登国の西海岸の海である。一説に、羽咋市にある邑知潟ともいう。○船楫もがも 船と楫との欲しいことだ。舟行したくなった意である。
【釈】 志雄街道をとおって、氷見から、山をまっすぐに越して来ると、羽咋の海は朝凪をしている。船と楫との欲しいことだ。
【評】 山路を越して来て、海岸へ出ると、眼界が改まるとともに、海なつかしい心が起こり、舟行をしたい気になったというのである。山と海とを対照させて叙し、舟行を欲する心理の自然さを暗示している。海そのものに心を引かれたことをいっている歌で、「船楫もがも」は、その具象化である。
 
      能登郡|香島《かしま》の津《つ》より発船《ふなだち》して、熊来《くまき》の村をさして往きし時作れる歌二首
 
【題意】 「能登郡」は、現在の鹿島郡。また、「香島の津」は、現在の七尾市である。「熊来の村」は、七尾湾の西湾の西部にあって、現在の中島町、もとの熊来村とその付近の地である。「熊来」は、巻十六(三八七八)に出た。「発船して」は、七尾市から発船して、七尾湾を、海上四里をとおって来るのである。
 
4026 鳥総《とぶさ》立《た》て 船木《ふなぎ》伐《き》るといふ 能登《のと》の島山《しまやま》 今日《けふ》見《み》れば 木立《こだち》繁《しげ》しも 幾代《いくよ》神《かむ》びぞ
(139)    登夫佐多※[氏/一] 船木伎流等伊布 能登乃嶋山 今日見者 許太知之氣思物 伊久代神備曾
 
【語釈】 ○鳥総立て 「鳥総」は、二様の解があり、定解はない。一は伐った木の枝で、今一は手斧だという。山から船木を伐り出す時の行事で、その木を山神の物とし、伐り出すについて許しを乞うための行事である。巻三(三九一)「鳥総立て足柄山に船木伐り」と出た。○能登の島山 能登島(鹿島郡能登島町)の山の意で、七尾湾の東方にあり、周囲十四里あって、今家持の志す熊来村とは反対の方にあたる。○幾代神びぞ 「神び」は、「び」は、その性質をあらわす意の語で、神さびと同じである。老いて神々しくなったさまをいう。名詞。
【釈】 鳥総を立てて船材を伐り出すといぅ能登の島山、今日見ると木立が繁っている。幾夜を経ての神々しさであろうぞ。
【評】 熊来村へ行く船上から、能登島を眺めての感である。歌体は旋頭歌であるが、詠み方は短歌に近いもので、したがって謡い物風にならず、思い入った気分のものとなっている。この時代には大体旋頭歌が少なく、家持としてもこの一首があるのみである。
 
4027 香島《かしま》より 熊来《くまき》をさして 漕《こ》ぐ船《ふね》の 揖《かぢ》取《と》る間《ま》なく 京師《みやこ》し念《おも》ほゆ
    香嶋欲里 久麻吉乎左之※[氏/一] 許具布祢能 可治等流間奈久 京師之於母倍由
 
【語釈】 ○揖取る間なく 楫を操るに絶え間がない意で、「間なく」にかかり、初句以下その序詞。この懸かりは慣用となっているものである。○京師し念ほゆ 「京師」は、都にいる妻を、広い言い方をしたもの。「し」は、強意。「念ほゆ」は、恋しく思われる。
(140)【釈】 香島から熊来をさして漕いで行く船の、楫を操るに絶え間のないように絶え間なく、京が思われる。
【評】 僻陬《へきすう》の旅に日を重ねているのが刺激となって、絶えず京の妻が思われるというので、自然な気分である。眼前の地名を二つ重ねている序詞が、この気分を濃厚にしている。
 
     鳳至《ふげし》郡、饒石河《にぎしがは》を渡りし時作れる歌一首
 
【題意】 「鳳至郡」は羽咋、鹿島の地方に接した郡である。家持は熊来村を巡行しての後、半島を斜に横断して、北上したのである。「饒石河」は、今は仁岸川と書き、流域二里ばかりの川で、半島の西岸門前町剣地から海に注ぐ。
 
4028 妹《いも》に逢《あ》はず 久《ひさ》しくなりぬ 饒石河《にぎしがは》 清《きよ》き瀬《せ》毎《ごと》に 水占《みなうら》はへてな
    伊毛尓安波受 比左思久奈里奴 尓藝之河波 伎欲吉瀬其登尓 美奈宇良波倍弖奈
 
【語釈】 ○妹に逢はず 妹に逢わずして。「妹」は、京にある坂上大嬢。「ず」は、連用形。○清き瀬毎に 清い瀬を見るごとにで、下の「はへ」に続く。○水占はへてな 「水占」は、水によってする占いと取れるが、ここにあるのみの語で、その方法は知られない。伴信友はその『正卜考』で、流れに繩を流して、その流れ工合で判じる卜法であろうといっている。「瀬毎に」するというので、きわめて簡単な方法だったとみえる。「はへて」は、未詳。水占に使う繩を引きのばす意か。「てな」は、「て」は、完了の助動詞「つ」の未然形、「な」は、希望の助詞で、水占をしようの意。
【釈】 妹に逢わずに久しくなった。饒石河の、清い瀬を見るごとに、水占をしよう。
【評】 上の歌と同じく、僻陬の旅の侘びしさから、妹を恋うる思いの著しく深まった心の表現である。「瀬毎に、はへてな」は、水占は一つの瀬ですれば足りることであろうが、それをこのようにいっているのは、しきりに水占をしたい心が起こるが、さすがに従者の見る目があるので、実行には移せない心をいっているのである。家持の人柄を思わせる、つつましい心の表現である。
 
     珠洲《すす》郡より発船《ふなだち》して治布《ちふ》に還りし時、長浜《ながはま》の湾《うら》に泊《は》てて月光《つき》を仰ぎ見て作れる歌一首
 
(141)【題意】 「珠洲郡」は、鳳至郡の東に接し、半島の突端にある小郡である。『総釈』は、「郡」とあるが、これは郡家の意のもので、そこは上代の珠洲駅のあった地で、今の珠洲市正院の辺りと推定されるといわれている。「治布」は、所在不明。「還りし時」というので、国府に近いほうである。「治府」の誤りで国府かともいう。「長浜の湾」も所在不明である。『倭名類聚鈔』の能登郡に「長浜奈加波万」とある。国府への帰途であるから、能登郡は問題になりうる。
 
4029 珠洲《すす》の海《うみ》に 朝《あさ》びらきして 漕《こ》ぎ来《く》れば 長浜《ながはま》の湾《うら》に 月《つき》照《て》りにけり
    珠洲能宇美尓 安佐妣良伎之弖 許藝久礼婆 奈我波麻能宇良尓 都奇※[氏/一]理尓家里
 
【語釈】 ○朝びらきして 朝の発船をしてで、「朝びらき」は、名詞。
【釈】 珠洲の海で、朝発船をして漕いで来ると、長浜の湾に、月が照っていたことである。
【評】 国守としての事務を終わり、帰路についた快さを述べているものである。朝の発船の地と、夜の碇泊の地とをあげ、「月照りにけり」と海上を照らす月をもって結んでいるのは、すべてその快さの具象化で、その点甚だ文芸的である。船脚のきわめて早いものであったがごとき言い方をしているのは、気分よりのことである。調べが明るく、さわやかなのも、その構成よりも直接な、気分の具象化である。
 
     右の件《くだり》の歌詞は、春の出挙《すゐこ》に依りて諸郡を巡行す。その時その所に目を属《つ》けて作れる。大伴宿禰家持。
      右件歌詞者、依2春出擧1、巡2行諸郡1、當時當所屬v目作之。大伴宿祢家持。
 
【解】 「春の出挙」は、「春」は、春の播種前の意で、「出挙」は、官稲を出して、貸し用いる義で、人民の窮乏を救うためのものである。「巡行」は、人民の実情を視察するためである。これは国司の任務で、定例となっていたのである。貸した官稲は、秋の収穫後、利を添えて返さしめたのである。
 
(142)     ※[(貝+貝)/鳥]の晩《おそ》く哢くを怨むる歌一首
 
4030 うぐひすは 今《いま》は鳴《な》かむと 片待《かたま》てば 霞《かすみ》たなびき 月《つき》は《へ》経につつ
    宇具比須波 伊麻波奈可牟等 可多麻※[氏/一]婆 可須美多奈妣吉 都奇波倍尓都追
 
【語釈】 ○片待てば 「片待つ」は、偏《かたよ》り待つで、ひたすら待つの意の熟語。○月は経につつ 「月」は、鶯の鳴くべき月で、「経につつ」の「に」は、完了の助動詞。経過しつつある。
【釈】 鶯は、今は鳴くだろうとひたすら待っていると、霞が全面的にかかって、月は過ぎてしまいつつある。
【評】 気分を主にした歌で、春が来たなどの説明語を添えず、ただちに中心に入って、もどかしい気分を言い続けている。取材を詠み生かしている、気の利いた作である。
 
     酒を造る歌一首
 
【題意】 酒を醸造する際に作った歌である。酒は冬醸造するものであるのに、春醸造するのは、春の祭に神に供える神酒を、臨時に醸造したのであろう。酒は本来神に供えるための物で、そのための酒を醸造するのは国庁の任務であった。
 
4031 中臣《なかとみ》の 太祝詞《ふとのりとごと》 言《い》ひ祓《はら》へ 贖《あが》ふ命《いのち》も 誰《た》が為《ため》に汝《なれ》
    奈加等美乃 敷刀能里等其等 伊比波良倍 安賀布伊能知毛 多我多米尓奈礼
 
【語釈】 ○中臣の太祝詞 「中臣の」は、中臣氏ので、中臣氏は天児屋根命の子孫で、代々、祭事を職とした氏である。「太祝詞」は、「太」は、壮大の意で、讃えての形容語。「祝詞」は、祝詞言で、「のりと」は、略称である。中臣氏に属している霊威ある祝詞言を。○言ひ祓へ 「祓へ」は、下二段活用で、「祓ふ」の連用形。述べて、祓いをして。この祝詞は大祓の祝詞である。祓えの対象となっているのは、題詞にある、今醸造する酒で、酒に宿る邪気を払って清浄な物にするためである。○贖ふ命も 「贖ふ」は、あがなうで、代表的の例は、物を罪の代わりとして出して、その罪を償うことで、これは古代より普通のこととして行なわれていたのである。また、神に祈願をする時には必ず幣を奉った上で祈願することになっていて、その場合には、幣は贖い物にあたる。ここはその意味のもので、祭をする時には、必ず御酒を奉ることになっているので、御酒は(143)贖いの物にあたる。ここは、清浄な御酒を奉って、神の加護によって保つわが命も。○誰が為に汝 「誰が為に」は、誰のためにすることであろうかで、「汝」は、汝のためである。「汝」は、二人称で、眼前にいる人に対しての称である。したがってこの場合誰をさしているかは不明であるが、家持をしてわが命にもまさる人と思わせているのは、京にいる妻の坂上大嬢のほかにはない。大嬢の霊がわが身に添っていると信じ、事の性質上、婉曲にいおうとしてこのようにいったとすれば、不自然ではなくなる。そう解される。
【釈】 中臣氏の太祝詞言を述べて邪気を払い、清浄な御酒を醸して奉ることによって贖うわが命も、誰のためであろうか、汝のためである。
【評】 国庁の任務として、春の祭の御酒を醸造するにあたり、家持は守としてそれに伴う行事に連なった際、その酒から春の祭、神に対しての祈願へと、当然なことを連想するとともに、その連想は、常に恋しがっている京の妻に及び、個人的な感傷となっていっての歌と解される。第三句までは眼前を叙したものであるが、それに続く第四句、第五句は、相応に飛躍を持ったものとなっているのであるが、これは彼のその時の気分の表現で、気分が一時に迸発したためと思われる。一首の調べは彼の平常に似ず緊張したもので、四、五句の飛躍をも不自然なものにしていない点にもそれをうかがわせる。特色のある歌である。
 
     右は、大伴宿禰家持作れる。
      右、大伴宿祢家持作之。
 
(146) 萬葉葉 巻第十八概説
 
     一
 
 
 本巻は、『国歌大観』の番号の(四〇三二)より(四一三八)の一〇七首を収めたもので、長歌一〇首、短歌九七首より成っている。
 年代は、天平二十年三月より天平勝宝二年二月までで、二年間のものである。
 作者は家持が中心で、それに彼の直接交際した人、及びそれらの人を介して、その作を伝聞した作者だけに限られており、その点、前巻と全く同一である。この消息は、長歌の一〇首はすべて家持で、また短歌九七首のうち五八首は家持の作であるのでもうかがえる。
 
     二
 
 この二年間の家持の作歌生活の上で注意されることは、第一には宴歌の少なくなっていることである。京から来る官人を迎えるための宴、国庁の儀式としての宴は別とすると、親睦のための宴はきわめて稀れで、したがって宴歌も少ない。第二は、遊覧の歌の少ないことである。京から来た田辺福麿をもてなすために布勢の水落に遊んだのを除くと、遊覧と称すべきほどのものはなく、したがってその歌もない。第三に、それらとは反対に多くなっているのは、周囲の者とは離れて、ひとり心やりに詠んでいる歌である。これは家持の、国守生活に馴れ、景勝に対する好奇心が衰え、安定した気分になって来たがためで、ひとり心やりに詠む歌の多くなったのは、彼の本来の性分が、ようやく現われきたったためと思われる。
 この安定を持って来たということは、単に環境に馴れて来たからという外面的の事情のためばかりではなく、人としての家持が、その青年時代を脱して壮年時代に入って来たためという、内面的のことが伴ってのことであって、そのほうがはるかに力強いものであったとみえる。このことは、家持の歌の取材の上に明らかに現われている。
 これを私人的の面から見ると、天平二十年の春に、越中の掾大伴池主は、越前の掾に転任している。家持と池主との心のつながりのいかに深いものであるかは、前巻によってうかがわれる。しかるに家持は、その別離に際して一首の歌も詠んではいず、したがってその転任がいつであったかも知られないのである。濃情の家持がこのような態度をとりうるに至ったのは、その感傷を制御する力を持ち得たためで、まさに壮年時代の分別力の現われと見られる。
 それにもましてさらにこのことを思わせるのは、天平感宝元(勝宝元)年二月以前に、彼の嫡妻である大伴坂上大嬢が、京から彼の任地に来ていることである。家持は多くの女性と関係は(147)結んだが、いわゆる猟奇者ではなく、彼がその愛情を傾注したのは大嬢一人だけであって、彼女と関係が深くなると、他の女性との交渉は絶ったまでであった。ことに越中の国守となった後は、その方面は謹厳そのもののように身を持していたことは、「庭中の花を詠めて作れる歌」に、「あらたまの年の五年、敷栲の手枕纏かず、紐解かず丸寝をすれば」(四一一三)といっているのでもうかがわれる。その大嬢がついに任地に来たのであるが、家持はそれについて、同じく一首の歌も詠んではいないのである。そのことのあったのを思わせるのは、感宝元年二月十八日の歌に、「墾田の地を検察する事に縁りて、礪波の郡主帳田治比部北里の家に宿る。時に忽に風雨起りて、辞去することを得ずして作れる歌一首」と、詳しく事情をことわって「荊波の里に宿借り春雨に隠《こも》り障《つつ》むと妹に告げつや」(四一三八)と、妻に対する深い情を、従者に使命を果たしたかどうかを確かめる形で、さりげなくあらわしているのによって察しられるのである。この落ちつきと心濃やかさとは、壮年時代の態度というよりは、むしろ老年時代のそれである。
 私人としての家持が、一躍老成して来たことは、これらによって知られる。
 
     三
 
 公人としての家持も、この時期には、良国守となっていたことが、その歌によって知られる。
 「史生尾張少咋を教へ喩す歌一首 并に短歌」(四一〇六−四一〇九)は、国守としての家持が、修身の上で、いかに管下の官人庶民に範を垂れていたかをうかがわしむるものである。
 これは事件としては一些事である。史生とは書記で、国庁の最下級の職員である。少咋を教え喩すのは、彼は奈良京に妻があるのであるが、それを忘れて、国府にいる一遊行婦に耽溺して、周囲の者から嗤笑《ししよう》されているのを改めさせようとしての歌である。家持はその歌に序を添えているが、それは律の中の戸婚律を引いたもので、要は、夫が律の認めていること以外のことで妻を離別すると、刑に処するというのである。彼はそれにさらに詔書の句を引いて並べ、その上で教え喩す歌を詠んでいるのである。こういうことが可能なのは、長官としての家持自身が、その方面では非難さるべき何事もないという自信があったからである。国守になって以後の彼は、完全に孤棲していたことは上の大伴坂上大嬢についていった。すなわち律の文に触れそうなことすらしなかったのである。また国守は、その職責の一つとして、管下の者に範を垂れるべきものとなっていたが、彼はそれも遂げ得ていたのである。これは三十代前後の人で、十分に我儘のきく官人として、しかも地方官となっている者には、たやすきに似てたやすからざることであったろうと思われる。公人としての家持は、当時にあっては多分異例な人であったろう。
 また、国守としての家持を思わせるものに、「天平感宝元年閏の五月六日以来、小旱起りて、百姓の田畝稍凋める色あり。六月朔日に至りて、忽に雨雲の気を見る。仍りて作れる雲の歌一(148)首短歌一絶」(四一二二−二三)と題する歌は、水を掌る海神に雨を祈る歌である。歌の性質上、事としては他奇がないが、その調べの冴えて高く、生趣の豊かな点は、その真心を情熱を尽くして詠んでいることを思わせるものである。これは国守としての家持の気分の直接に現われているもので、まさに信頼のできる良国守だと思われる。
 
     四
 
 「天平感宝元年五月十二日、越中国の守の館にて大伴宿禰家持の作れる」と左注している、「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌一首并に短歌」(四〇九四−九七)と題する歌は、家持の作中でも注意されているものである。詔書というのは、続日本紀、天平二十一年二月、陸奥国から黄金九百両を貢した。おりから東大寺の廬遮那仏の像の造立中で、それに鍍金する黄金がなくて悩んでいた時であったので、聖武天皇には、それを天神地祇の加護として喜ばれ、大仏と、一般に対しての賀の心よりの詔書を四月一日に発せられた。一般の中には、特に大伴氏の古来の功績を賞せられる部分があったのである。家持は越中にあってその詔書を拝し、自分の祖先のことにも触れていられるので、甚しく感激して詠んだのである。作意は、詔書の旨をうけて天皇の御代を賀したものであるが、中心は、同じく詔書の中で、天皇の嘉賞された大伴氏の祖先以来の忠節を、一族の者が継承して、ますます奉公の誠をいたすべきことを誓ったところにある。そのことを述べるにあたっては、家持は大伴氏一族の代表者として述べているのである。大伴氏には彼よりも長者で、したがって位階の高い人もいるのであるが、このような改まった物言いをする場合には、彼は宗家の嗣子として、一族を代表すべき位置にいたので、その態度を取って言っているのである。
 皇室をめぐる廷臣として、大伴氏は正しく名族である。宗家の嗣子としての家持の負わされている責任は、皇室に対し、祖先に対して、否も応もなく負わねばならぬものだったのである。
 歌をとおしてうかがわれて来た大伴家持が、新たに、明らかに持たされたこの意識は、彼を幸福にするものか、不幸にするものかは、にはかには判じがたい感のするまでのものである。
 
     五
 
 本巻の家持の歌は、宴歌、遊覧の歌が減って、反対に、周囲から離れて、ひとり心やりに詠む歌が多くなっており、それがまた彼の本来の姿であると上にいった。そうした歌が、どのような傾向のものであるかについて、概括したいささかを言い添える。
 家持の本質的な歌とみえるものは、大体、気分本位のもので、ある程度知性の働きの加わったものである。それが彼の作歌技巧としてのものであるか、または彼の実感としてのものであるかは、問題になることである。見やすい関係から、彼の長歌の一、二について瞥見することとする。
 天平感宝元年「七月七日、天漢を仰ぎ見て」と左注のある「七夕の歌一首并に短歌」(四一二五−二七)と題する歌がある。(149)作意は、天の河に橋があり船があれば、自由にいつでも逢えように、何ゆえに秋でなければ違えないのかと、訝かしむ心を中心にしたもので、「現身の世の人我も、此処をしもあやにくすしみ」といっているのである。心としては新しいものではないが、しかしこの歌は詠み方がきわめて素朴で、詩的昂奮というようなものはいささかもなく、心に浮かぶままを率直に述べたものであることは、その詠み方から察しられる。この歌を詠んでおのずから連想されることは、彼と大伴坂上大嬢との関係である。彼と大嬢とはすでに夫婦関係となっており、相思の間でもある。大嬢は当然彼の任地に来るべきであるのに、それができず、互いに悩み合っていたのは、多分は大嬢の母大伴坂上郎女がそのことを好まないためであったろうと察しられる。そして家持はそれをどうすることもできなかったのである。七月七日天の河を仰ぎ見ると、平常悩みに悩んでいるそれが胸に浮かび、それがこのような形になって現われたものと解せられる。この歌はただちに気分の作とは称し難い。しかし彼の気分の在り方を説明しているものとはいえる。すなわち実際生活に思い入り、勢いある程度の知性が働き、それが婉曲に現われて来ているのが、彼の気分の歌となるのである。その意味でこの歌は注意を惹く。
 同じ年の「閏五月二十三日」と左注のある「橘の歌一首并に短歌」(四一一一−一二)も、これに似た傾向のものである。作意は、橘を酷愛して、その花もその実も愛でたく、ことに常緑であることに心を寄せ、まさしくも「時じきの香の木の実」だといい、さらに進んでこの木が持っている、遠い神の御代に、常世の国から将来した伝説にまで及ぼしているのである。感性よりの賞美が主になっているのであるが、それに対して思い入る心の深さが、おのずから知性の働きをも伴わせて来るのであって、その結果が気分的なものになって来るのである。
 家持の気分本位の歌は、作歌技巧の進展として持ち得たものではなく、実際生活に対して思い入り、時には沈潜するところまで入り込んでの実感であるということが、その実相であると解される。彼のこのことは、生まれつきであり、おのずから身についたものだったのである。
 気分本位の作風というのは、ひとり、家持の作風であったのではなく、天平末期の官人に共通した作風であった。概括していうと奈良朝時代以前にあっては、感動を起こさせた対象そのものに重点を置き、それを明らかに力強くあらわすことによって、自身の感動をあらわそうとしたのであった。それが奈良朝時代という中にも天平末期時代に入ると、対象よりもむしろ、感動させられた感動そのもののほうに重点を置いて表現するようになって来た。そのように移行したのは、その当時の官人生活にあっては、皇室をめぐっての政治情勢が絶えず動揺し、その間に処してゆくには、不断の注意を怠れなかったところから、おのずから気分が沈潜し、主観的とならざるを得なかった成行きと思われる。さらに今一つは、時代は文化的となり、文芸尊重の気風が熾《さか》んになって来ていたので、社交に緊密なつながりを持っていた歌は、勢いその色彩を帯びざるを得なかったと思われる。それとこれと相俟っての気分生活の反映として、歌も(150)気分本位となって来たと思われる。
 越中の国庁にあって、京の歌風とは直接のつながりのなかった家持であるが、彼はその本性として気分本位に趨《おもむ》かざるを得ないものがあって、路を異にしつつも、結局同じ歌風の歌人となったのである。それがやがて家持が、奈良朝末期時代の代表歌人で、時代の代弁者のごとく目せられるに至ったのだと解せられる。
 
(155)     天平二十年の春三月二十三日、左大臣橘の家《いへ》の使者《つかひ》造酒司令史田辺福麿《みきのつかさのまつりごとびとたなべのさきまろ》を、守大伴宿禰家持の館《やかた》に饗しき。爰に新しき歌を作り、井せて便《たより》に古き詠《うた》を誦《よ》みて各|心緒《こころ》を述ぶる。
 
【題意】 「左大臣橘の家」は、橘諸兄の敬称。諸兄が左大臣となったのは、天平十五年五月である。「使者」は、何の用件を持っての使であるかは不明である。「造酒司令史」は、「造酒司」は、宮内省に属し、酒、禮、酢を造ることを司る役所。「令史」は、そこの三等官で、大初位上の者のあたる役。「田辺福麿」は、伝未詳。巻六・九に田辺福麿歌集の歌が出ている。「便に古き詠を誦みて」は、宴歌として、その場にふさわしい古歌を誦むことで、これは普通のことであった。多少改作しても誦んだ。
 
4032 奈呉《なご》の海《み》に 船《ふね》しまし貸《か》せ 沖《おき》に出《い》でて 波《なみ》立《た》ち来《く》やと 見《み》て帰《かへ》り来《こ》む
    奈呉乃宇美尓 布祢之麻志可勢.於伎尓伊泥弖 奈美多知久夜等 見底可敞利許牟
 
【語釈】 ○奈呉の海に船しまし貸せ 「奈呉の海に」は、国守の館から見渡される富山湾に出る。「船しまし貸せ」は、船をしばらくの間貸してくだされ。○沖に出でて波立ち来やと 沖に漕ぎ出して、そちらには波が立って来るかどうかを。
【釈】 奈呉の海に出る船を、しばらくの間貸してくだされ。沖のほうに漕ぎ出して、そちらには波が立って来るかどうかを、見て帰って来ましょう。
【評】 客の福麿の歌で、国守の館から見える奈呉の海は、富山湾の奥のほうで、宴の時その辺りは凪ぎ渡っているのを見やって楽しく感じるあまりに、その凪ぎのどこまでも続いているの                          
を見究めたい感を起こしていっているものである。平淡な歌であるが、詩情の豊かな人であったことを思わせる作である。
 
4033 波《なみ》立《た》てば 奈呉《なご》の浦廻《うらみ》に 寄《よ》る貝《かひ》の 間《ま》なき恋《こひ》にぞ 年《とし》は経《へ》にける
    奈美多底波 奈呉能宇良未尓 余流可比乃 末奈伎孤悲尓曾 等之波倍尓家流
 
【語釈】 ○寄る貝の 寄せる貝の絶え間ないようにで、初句よりこれまで、「間なく」の譬喩。○間なき恋にぞ 絶え間ない憧れにで、「恋」は、福麿の家持に対する思慕。
(156)【釈】 波が立つと、奈呉の浦に寄って来る貝のように、絶え間のない思慕に年が経たことです。
【評】 福麿の家持に対する挨拶の語である。さしたることではなくても身分の距離もあって、福麿は家持に逢う機会が得られずにいたので、今度逢い得た喜びを述べたものである。「間なく」の譬喩として「波」を用いるのは慣用となっていた。今はそれを「貝」に変えている。いささかの新味にはすぎないが、おりから海は凪ぎ渡っており、また心としても荒く目立つ波よりも、静かに潜む貝のほうが、はるかに適当である。やはり詩情ある人にして、初めて捉え得られるものである。ほどのよい挨拶というべきである。
 
4034 奈呉《なご》の海《うみ》に 潮《しほ》のはや干《ひ》ば 求食《あさり》しに 出《い》でむと鶴《たづ》は 今《いま》ぞ鳴《な》くなる
    奈呉能宇美尓 之保能波夜非波 安佐里之尓 伊泥牟等多豆波 伊麻曾奈久奈流
 
【語釈】 略す。
【釈】 奈呉の海に、潮が早く干たならば、求食をしに出ようと思って、鶴は鳴いていることだ。
【評】 宴の催されている時は夕方で、海としては干潮時となっており、おりから鶴の鳴き声が聞こえたので、即興として詠んだものとみえる。鶴の鳴き声に、求食に出ようと昂奮した心を感じているのは、詩情ではあるが、実際生活につながりを持っているもので、その二つの融け合っているところに特色がある。「はや干ば」といい、「今ぞ鳴く」といって、細かく刻んで、緊密につないでいる語つづきも、その思いやりの空疎なものではないことを示している。いかなる取材も詠み生かしうる才人だと思わせる人である。
(157)4035 霍公鳥《ほととぎす》 厭《いと》ふ時《とき》なし 菖蒲草《あやめぐさ》 蘰《かづら》にせむ日《ひ》 此《こ》ゆ鳴《な》き渡《わた》れ
    保等登藝須 伊等布登伎奈之 安夜賣具佐 加豆良尓勢武日 許由奈伎和多礼
 
【語釈】 ○蘰にせむ日 菖蒲を編んで蘰とし、頭に巻くであろう日で、これは五月の節日にすることである。
【釈】 霍公鳥の声は、いつとていやな時はない。しかし、菖蒲草を蘰にして頭に巻くであろう日に、ここをとおって鳴いて行けよ。
【評】 題詞にいう「古き詠」で、巻十(一九五五)にある歌である。今は三月の下旬で、霍公鳥の来るには間のある時であるが、五月の節日と霍公鳥は、これら官人の代表的に楽しい時、楽しい物としているので、何らかの関係で誦んだのであろう。
 
     右の四首は、田辺|史《ふひと》福麿。
      右四首、田邊史福麿。
 
     時に明日将に布勢《ふせ》の水海《みづうみ》に遊覧せむと期《ちぎ》りき。仍りて懐《こころ》を述べて各作れる歌
 
【題意】 「明日」は、問題となっている。上の宴歌は「二十三日」のものであり、またこの続きの歌で見ると、布勢の水海に遊覧したのは「二十五日」である。したがってこの題詞の日は「二十四日」でなくてはならない。前日に続いて二十四日にも、国守の館で宴を催し、その時に詠んだものであろう。題詞に不備な点がある。
 
4036 如何《いか》にある 布勢《ふせ》の浦《うら》ぞも 許多《ここだく》に 君《きみ》が見《み》せむと 我《われ》を留《とど》むる
    伊可尓安流 布勢能宇良曾毛 許己太久尓 吉民我弥世武等 和礼乎等登牟流
 
【語釈】 ○許多に君が見せむと 甚しくもあなたが見せようとしてで、「君」は、家持で、「我に見せむと」といわないのは、家持を主としていったのである。
(158)【釈】 どのようなさまをした布勢の浦なのですか。大変にあなたは見せようとして、私をとどめることです。
【評】 主人の家持がしきりに布勢の水海を見せようとするのに対して、福麿が歌をもって答えた挨拶である。対話の語で足りることを、歌の形にしていうのは伝統で、必ずしも歌に溺れてのことではなく、むしろ礼だともいえることである。事実この歌は、一方には、さしたる風景ではなかろうという心を持ちつつ、同時に他方には、あまりにもいわれるので、好奇心を起こし、遊意を催しているという、微妙な味わいを持った歌である。この心は歌でなくては現わせないものである。きわめて平凡のように見えながら、じつは福麿の作歌手腕の凡ならざることを示している歌である。
 
     右の一首は、田辺史福麿。
      右一首、田邊史福麿。
 
4037 乎敷《をふ》の埼《さき》 漕《こ》ぎ徘徊《たもとほ》り 終日《ひねもす》に 見《み》とも飽《あ》くべき 浦《うら》にあらなくに
    乎敷乃佐吉 許藝多母等保里 比祢毛須尓 美等母安久倍伎 宇良尓安良奈久尓
 
【語釈】 ○乎敷の埼 布勢の水海の南岸にある岬で、水海のうち、最も景勝の地で、この名は他にも二か所出ている。○見とも飽くべき 「見とも」は、「見るとも」の古格で、古くは「見」から「らむ」「べし」「とも」に接していた用例がある。
【釈】 乎敷の埼を漕ぎめぐって、一日じゅうを見ようとも飽くであろうような浦ではないことよ。
【評】 右の福麿の歌に対する家持の答である。福暦は余裕をもって、自在な詠み方をしているのに対し、家持はいちずに、融(159)通のきかない詠み方をしている。年をした苦労人と若い貴族とを対させたような趣がある。
 
     一に云ふ、君《きみ》が問《と》はすも
      一云、伎美我等波須母
 
【解】 「問はす」は、「問ふ」の敬語で、君がお尋ねになることだの意。「一に云ふ」は、別案の意であるが、この七音句は、第二句にも第三、四句にも入れられないものであるから、第六句と見るほかはないものである。第六句であったとすると、仏足石歌体であって、無理のない、自然なものとなる。仏足石歌体はこの時代謡い物として存在したものであるから、家持がそれを用いたということはありうることである。これを「一に云ふ」としたのは、家持自身であったか、または彼以外の何びとかであったかは不明である。右の歌は、短歌形態のものとしても、結構通るものであるから、家持自身別案としたとも見られうる。また、家持は仏足石歌体として詠んだのを、他の人が、その歌体を見馴れないところから、第六句を別案と見て、このように扱ったということも、同時にありうることだからである。
 
     右の一首は、守大伴宿禰家持。
      右一首、守大伴宿祢家持。
 
4038 玉《たま》くしげ いつしか明《あ》けむ 布勢《ふせ》の海《うみ》の 浦《うら》を行《ゆ》きつつ 玉《たま》も拾《ひり》はむ
    多麻久之氣 伊都之可安氣牟 布勢能宇美能 宇良乎由伎都追 多麻母比利波牟
 
【語釈】 ○五くしげいつしか明けむ 「玉くしげ」は、玉櫛笥で、その蓋をあける意で、「明け」の枕詞。「いつしか明けむ」は、早く明けないかなあ。○玉も拾はむ 「玉」は、美しい小石、貝などの総称で、佳景を眺めながら玉をも拾おう。
【釈】 玉くしげの蓋を明けるに因む、早く夜が明けないかなあ。布勢の海の浦を行きながら玉をも拾おう。
【評】 明日の布勢の海を思いやっての憧れで、普通の歌である。しかし語つづきは気が利いている。
 
(160)4039 音《おと》のみに 聞《き》きて目《め》に見《み》ぬ 布勢《ふせ》の浦《うら》を 見《み》ずは上《のぼ》らじ 年《とし》は経《へ》ぬとも
    於等能未尓 伎吉底目尓見奴 布勢能宇良乎 見受波能保良自 等之波倍奴等母
 
【語釈】 ○見ずは上らじ 見ずには京へ上るまいで、京へ帰るまい。
【釈】 話にだけを聞いて、目には見ない布勢の浦を、見ずには京へ上るまい。たとい年は経ようとも。
【評】 これは単に挨拶だけの歌である。四、五句はいう者がまず微笑して、聞く者の微笑を期待しているような誇張である。
 
4040 布勢《ふせ》の浦《うら》を 行《ゆ》きてし見《み》てば ももしきの 大宮人《おほみやびと》に 語《かた》り継《つ》ぎてむ
    布勢能宇良乎 由吉底之見弖婆 毛母之綺能 於保美夜比等尓 可多利都藝底牟
 
【語釈】 ○行きてし見てば 「し」は、強意の助詞。「見てば」は、「て」は、完了の助動詞「つ」の未然形。行って見たならば。
【釈】 布勢の浦を、行って見たならば、帰って、ももしきの大宮人に、話し伝えよう。
【評】 これは、前の歌以上に、形式的な挨拶である。「語り継ぎてむ」は、成句とも見られるものである。
 
4041 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》き散《ち》る園《その》に われ行《ゆ》かむ 君《きみ》が使《つかひ》を 片待《かたま》ちがてら
    宇梅能波奈 佐伎知流曾能尓 和礼由可牟 伎美我都可比乎 可多麻知我底良
 
【語釈】 ○片待ちがてら ひたすらに待つかたわらで、「がてら」は、かたがたで、事を兼ねる意の接尾語。現在口語に用いられている。「がてり」と同意語で、そのほうが古い形と思われる。
【釈】 梅の花の咲いて散っている園にわたしは行こう。君から来る使をひたすらに待つかたわら。
【評】 これは題詞にある「古き詠」で、巻十(一九〇〇)に出た。そちらは結句が、「片待ちがてり」になっている。何らかの機会に誦んだのである。
 
(161)4042 藤浪《ふぢなみ》の 咲《さ》き行《ゆ》く見《み》れば 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》くべき時《とき》に 近《ちか》づきにけり
    敷治奈美能 佐伎由久見礼婆 保等登藝須 奈久倍吉登伎尓 知可豆伎尓家里
 
【語釈】 略す。
【釈】 藤の花の咲いてゆくのを見ると、霍公鳥の鳴くべき時に近づいたことだ。
【評】 霍公鳥に対する憧れが、すでに常識的となって、それをいうこと自体が、すでに興味になっていたごとき歌である。福麿の歌とすると素朴な詠み振りである。
     右の五首は、田辺史福麿。
      右五首、田邊史福麿。
 
4043 明日《あす》の日《ひ》の 布勢《ふせ》の浦廻《うらみ》の 藤浪《ふぢなみ》に 蓋《けだ》し来鳴《きな》かず 散《ち》らしてむかも
    安須能比能 敷勢能宇良未能 布治奈美尓 氣太之伎奈可受 知良之底牟可母
 
【語釈】 ○蓋し来鳴かず 多分来て鳴かずに。
【釈】 明日の日の布勢の浦の藤の花には、多分来て鳴かずに、その花を散らしてしまうでしょうな。
【評】 右の福麿の歌に和えたものである。主格の霍公鳥を省いているのは、和えだからである。明日の遊覧に、水海の岸の藤の花に、霍公鳥が来て鳴いたら、さぞ好いだろうなと思い、季節の早さを思って諦めた心で、福麿の歌とは反対に、濃厚に気分をあらわした、家持らしい歌である。
 
     一に頭に云ふ、ほととぎす
      一頭云、保等登藝須
 
(162)【解】 「頭」は、頭句で、初句である。主格のほととぎすを省くことが気になっての別案である。これを用いると、事は明らかになるが、気分は薄くなる。これを用いなかったところに家持の好尚がうかがわれる。
 
     右の一首は、大伴宿禰家持|和《こた》ふ。
      右一首、大伴宿祢家持和之。
 
     前《さき》の件《くだり》の十首の歌は、二十四日の宴に作れる。
      前件十首歌者、廿四日宴作之。
 
【解】 「十首」とあるが、じつは八首である。あったのが失われたのか、または誤算かは不明である。『古典大系本』によれば、巻十八は早く損傷をうけた巻で、平安時代に入ってから補修されたため、空白部分が生じたり、表記上の混乱も生じたのであろうといっている。あとにも歌数と合わぬ左注が出る。「二十四日」は、ここで明らかにされている。
 
     二十五日、布勢の水海に往く道中にて、馬の上に口号《くちずさ》める二首
 
【題意】 「口号める」は、口でいうこと。この二首は作者名がないが、初めの歌は家持、後の歌は福麿と取れる。
 
4044 浜辺《はまべ》より 我《わ》がうち行《ゆ》かは 海辺《うみぺ》より 迎《むか》へも来《こ》ぬか 海人《あま》の釣舟《つりぶね》
(163)    波萬部余里 和我宇知由可波 宇美邊欲里 牟可倍母許奴可 安麻能都里夫祢
 
【語釈】 ○浜辺より我がうち行かば 「浜辺より」は、浜辺をとおって。「浜」は、砂の海岸の称。「うち行かば」は、「うち」は、接頭語。○迎へも来ぬか 迎えに来ないのかなあで、迎えに来てくれよの意。○海人の釣舟 海人の釣舟は。
【釈】 浜のほうをとおって私が行ったならば、海のほうから迎えに来ないのかなあ、あの海人の釣舟は。
【評】 馬で布勢の水海のほうへ志し、水海が見え、水上の釣舟の見えて来た時の興である。明るく軽い心から、いささかの光景に興を感じてのものである。
 
4045 沖辺《おきべ》より 満《み》ち来《く》る潮《しほ》の いや増《ま》しに 我《あ》が念《も》ふ君《きみ》が 御船《みふね》かも彼《かれ》
    於伎敞欲里 美知久流之保能 伊也麻之尓 安我毛布支見我 〓不根可母加礼
 
【語釈】 ○沖辺より満ち来る潮の 沖の方から満ち高まって来る潮がで、譬喩として「いや増し」にかかる序詞。○いや増しに我が念ふ君が ますます増さって私が思うあなたので、「君」は、家持。○御船かも彼 御船ですか、あれはで、「かも」は疑問の助詞。
【釈】 沖のほうから満ちて来る潮のように、ますます増さって私の思うあなたの、御船なのですか、あれは。
【評】 上の歌と同じく、水上の船に目をつけ、和える心をもっていっている歌で、これは明らかに福麿の歌である。この序詞は類型的なものであるが、場合がら自然であり、「御船かも彼」は気が利いている。柔軟で、自在である。
 
     水海に到りて遊覧せし時、各|懐《こころ》を述べて作れる歌
                            
4046 神《かむ》さぶる 垂姫《たるひめ》の埼《さき》 漕《こ》ぎめぐり 見《み》れども飽《あ》かず 如何《いか》に我《われ》せむ
    可牟佐夫流 多流比女能佐吉 許支米具利 見礼登毛安可受 伊加尓和礼世牟
 
【語釈】 ○神さぶる垂姫の埼 「神さぶる」は、神々しい。山や埼など土地についていう場合には、木立が物古り、岩石が聳えなどして神異の感を帯びている意。「垂姫の埼」は、『万葉集全釈』は実地踏査をして、古の布勢の水海の南岸で、今の氷見市耳浦の地方である。ここは二上山の北麓(164)で、乎敷の埼とともに、半島を成して水海に突出していたろうといっている。また、『越中国式内等旧社記』には、「垂比※[口+羊]神社、国史記載社、同保内耳浦村鎮座、今称2火宮権現1。往古布勢湖垂姫埼此地辺也」とある。それによるとこの埼には垂姫神社があり、埼の名もそれによってのものである。「神さぶる」には、神社としての意もからんでいる。○如何に我せむ どのようにこの身をしようで、おもしろさに堪えられず、身をもてあつかいかねる意。
【釈】 神々しい垂姫の埼を漕ぎめぐって、見ても見飽かない。どのようにこの身をしよう。
【評】 垂姫の埼は、巻十九(四一八七)「乎敷の浦に霞たなびき、垂姫に藤浪咲きて」ともあり、乎敷の浦と相俟って湖中第一の景勝であったとみえる。「如何に我せむ」は、その景勝より受ける感じを綜合してのもので、単純で含蓄があり、柔らかく感覚的で、巧妙な表現である。才情を思わせる。
 
     右の一首は、田辺史福麿。
      右一首、田邊史幅麿。
                   
4047 垂姫《たるひめ》の 浦《うら》を漕《こ》ぎつつ 今日《けふ》の日《ひ》は たのしく遊《あそ》べ 言継《いひつぎ》にせむ
    多流比賣野 宇良乎許藝都追 介敷乃日波 多努之久安曾敞 移比都支尓勢牟
 
【語釈】 略す。
【釈】 垂姫の浦を漕ぎつづけて、今日の日は、楽しくお遊びなさい。後の言い伝えにしましょう。
【評】 作者は左注で、宴席に侍していた遊行婦である。同席の人々に対しての挨拶であるが、主として客の福麿にいったものとみえる。「言継にせむ」が働いている。
 
     右の一首は、遊行女婦《うかれめ》土師《はにし》。
      右一首、遊行女婦土師。
 
【解】 「遊行女婦」は、上にしばしば出た。「土師」は、氏か名か不明である。
 
(165)4048 垂姫《たるひめ》の 浦《うら》を漕《こ》ぐ船《ふね》 楫間《かぢま》にも 奈良《なら》の我家《わぎへ》を 忘《わす》れて念《おも》へや
    多流比女能 宇良乎許具不祢 可治末尓母 奈良野和藝弊乎 和須礼※[氏/一]於毛倍也
 
【語釈】 ○揖間にも 楫で漕ぐ時と時との間で、短い時の譬喩。少しの間でも。○奈良の我家 「我家」は、妹というを婉曲にいったもの。○忘れて念へや 思い忘れようか、忘れないで、「や」は、反語。
【釈】 垂姫の浦を漕いでいる船の、その楫間のような少しの間でも、奈良のわが家を思い忘れようか、忘れはしない。
【評】 主人の家持の歌で、妻恋しい旅愁をうち出していったものである。宴歌の中でも、旅にあってのそれは、妻恋しい旅愁を詠むのが型のようになっている。これもそれであろう。しかしそれだけではなく、不日京へ帰る福麿を思うと、それに刺激されるところもあったものであろう。
 
     右の一首は、大伴家持。
      右一首、大伴家持。
 
4049 おろかにぞ 我《われ》は念《おも》ひし 乎不《をふ》の浦《うら》の 荒磯《ありそ》のめぐり 見《み》れど飽《あ》かずけり
    於呂可尓曾 和礼波於母比之 乎不乃宇良能 安利蘇野米具利 見礼度安可須介利
 
【語釈】 ○おろかにぞ我は念ひし 「おろかに」は、おろそかにの約言で、他に用例のないもの。粗略に。「し」は、「ぞ」の結。○荒礒のめぐり 「荒礒」は、水中から現われている岩石で、乎不の埼は岩石より成っていたのである。○見れど飽かずけり 「けり」は、感歎を含んだ過去の助動詞。
【釈】 粗略に我は思っていた。乎不の浦の荒礒の周囲は、見ても飽かないことであった。
【評】 福麿の歌で、「おろかにぞ我は念ひし」は、前に布勢の水海の遊覧を勧められた時、「如何にある布勢の浦ぞも」といったことを思い、それに呼応させて、勧められたのはいかにももっともだったの意でいっているものである。挨拶の範囲の歌である。
 
(166)     右の一首は、田辺史福麿。
      右一首、田邊史福麿。
 
4050 めづらしき 君《きみ》が来《き》まさば 鳴《な》けと言《い》ひし 山霍公鳥《やまほととぎす》 何《なに》か来鳴《きな》かぬ
    米豆良之伎 吉美我伎麻佐婆 奈家等伊比之 夜麻保登等藝須 奈尓加伎奈可奴
 
【語釈】 ○めづらしき 珍しきの意のもの。「愛づらしき」の意からやや転じているものである。○君が来まさば 「君」は、客の福麿。「来まさば」は、「来ば」の敬語。布勢の水海へ来る意。○何か来鳴かぬ どうして来て鳴かないのか、と咎めていっているもの。「か」は、疑問の係。
【釈】 珍しい君がここへいらしたならば、鳴けよと命じておいた山霍公鳥は、どうして来て鳴かないのか。
【評】 主人側として、山霍公鳥の珍客に対して心の足らぬことを咎めていっているもので、馳走の整わぬことの叱言の類である。福麿が霍公鳥に触れての歌を詠んでいるのに対していったもので、季節が早くてその望めないことはわかりきっていてのものである。単なる挨拶である。
 
     右の一首は、掾久米朝臣|広繩《ひろなは》。
      右一首、掾久米朝臣廣繩。
 
【解】 「掾」は、越中の掾で、前の掾池主と代わっていたのである。池主の後の歌で見ると越前の掾に転じているのであるが、その時期はわからぬ。巻十七(四〇〇八−一〇)の歌は、昨年五月、家持が税帳使として上京するのを送る池主の作であるから、それ以後のことである。広繩は、天平十七年に左爲少允従七位上であったことだけが知られる。
 
4051 多胡《たこ》の埼《さき》 木《こ》の暗《くれ》茂《しげ》に 霍公鳥《ほととぎす》 来鳴《きな》き響《とよ》めば はだ恋《こ》ひめやも
    多胡乃佐伎 許能久礼之氣尓 保登等藝須 伎奈伎等余米婆 波太古非米夜母
 
(167)【語釈】 ○多胡の埼 巻十七(四〇一一)に多古の島とあったのと同地であろう。巻十九(四二〇〇)には多〓の浦とも出る。○木の暗茂に 木が繁茂して暗い所の称。「茂に」は、茂みに。○来鳴き響めば 「響め」は、下二段活用で、響むの未然形。とよもしたならば。○はだ恋ひめやも 「はだ」は、甚しくの意。「や」は、反語。
【釈】 多胡の埼の、木立の繁く暗い所の茂みに、霍公鳥が来て鳴いてとよもしたならば、甚しく恋いようか、恋いはしない。
【評】 船を多胡の埼に移動させて、その埼の木立の鬱蒼として立ち続いて、霍公鳥が来て鳴きそうな景を見ると、上の広繩の霍公鳥の歌をうけ、同じく福麿に対する挨拶の心をもって詠んだものである。宴歌としては重い、思い入った調べの歌である。
 
 
     右の一首は、大伴宿禰家持。
      右一首、大伴宿祢家持。
 
     前の件の十五首の歌は、二十五日作れる。
      前件十五首歌者、廿五日作之。
 
【解】 これも(四〇四四)以下とすると、実数は八首で、十五首とは甚しく距離がある。前日二十四日の宴歌と同じく、何らかの理由あっての相違であろう。
 
     掾久米朝臣広繩の館に、田辺史福麿を饗《あへ》する宴《うたげ》の歌四首
 
4052 霍公鳥《ほととぎす》 今《いま》鳴《な》かずして 明日《あす》越《こ》えむ 山《やま》に鳴《な》くとも 険《しるし》あらめやも
    保登等藝須 伊麻奈可受之弖 安須古要牟 夜麻尓奈久等母 之流思安良米夜母
 
【語釈】 ○明日越えむ山に 明日、京に帰るとて越えるであろう山にで、「山」は、礪波山。○験あらめやも 甲斐があろうか、ありはしないで、「や」は、反語。
【釈】 霍公鳥は、今鳴かないで、明日越えるであろぅ山に鳴いても、その甲斐があろうか、ありはしない。
(168)【評】 客の福麿の歌である。別宴のこととて思うところがあろうが、それには直接に触れず、霍公鳥を促してどうしても鳴かせようとしていっているのである。これは霍公鳥の鳴く声は哀感を持ったものであるから、自身の別れに際しての哀感を霍公鳥に代弁させようとの心である。福麿としては挨拶の心よりのもので、それとしては要を得たものである。
 
     右の一首は、田辺史福麿。
      右一首、田邊史福麿。
 
4053 木《こ》の暗《くれ》に なりぬるものを 霍公鳥《ほととぎす》 何《なに》か来鳴《きな》かぬ 君《きみ》に逢《あ》へる時《とき》
    許能久礼尓 奈里奴流母能乎 保等登藝須 奈尓加伎奈可奴 伎美尓安敞流等吉
 
【語釈】 略す。
【釈】 木が茂って暗い時になっているのに、霍公鳥はどうして来て鳴かないのか。君に逢っている時に。
【評】 主人広繩の歌で、客の福麿の歌に和えたものである。福麿の心はそれと感じているのであるが、それには触れず、「君に逢へる時」といって、風流心の深い福麿のごとき人に逢っている時に、鳴いてその心を喜ばせるべきであるとして、その意味で福麿とともに、鳴かないのを咎める形にしているのである。これまた要を得た挨拶である。
 
     右の一首は、久米朝臣広繩。
      右一首、久米朝臣廣繩。
 
4054 霍公鳥《ほととぎす》 此《こ》よ鳴《な》き渡《わた》れ 燈火《ともしび》を 月夜《つくよ》に比《なそ》へ その影《かげ》も見《み》む
    保等登藝須 許欲奈枳和多礼 登毛之備乎 都久欲尓奈蘇倍 曾能可氣母見牟
 
【語釈】 ○此よ鳴き渡れ ここをとおって鳴き過ぎて行けよと、命令したもの。○燈火を月夜に比へ 「燈火」は、菜種油の燈火で、この当時は(169)一般化されず、珍しく貴い物になっていたことが、他の歌でうかがわれる。これは座上にあったものである。「月夜に比へ」は、月光になぞらえてで、月光で鳴いてゆく霍公鳥の姿を見るということが、憧れになっていて、それを心に置いてのことと取れる。○その影も見む その姿をも見ようで、「影」は、姿。
【釈】 霍公鳥よ、ここをとおって鳴き過ぎて行けよ。燈火の光を月の光になぞらえて、その姿をも見よう。
【評】 家持の歌である。ここでは鳴く鳴かないということから離れ、当然鳴いて来るものとして、その声を聞くのみか、そのゆかしい姿をどこまでも見ようというのである。この歌も、霍公鳥を暗に福麿に喩えて、別れを惜しむ心をこめていっているのである。想像での歌であるが、気分の具象化が鮮やかで、上品な魅力ある歌となっている。
 
4055 可敞流廻《かへるみ》の 道行《みちゆ》かむ日《ひ》は 五幡《いつはた》の 坂《さか》に袖《そで》振《ふ》れ 吾《われ》をし念《おも》はば
    可敞流未能 美知由可牟日波 伊都婆多野 佐可尓蘇泥布礼 和礼乎事於毛波婆
 
【語釈】 ○可敞流廻の道行かむ日は 「可敞流」は、地名で、福井県南条郡鹿蒜(今庄町、帰)。「廻」は、土地の湾曲した所に添える接尾語。そこは北陸道の通路にあたっている。「道行かむ日は」は、その道を行くだろう日、すなわち帰京の旅をするだろう日はで、上の歌で見ると、発足は明日だったのである。○五幡の坂に袖振れ 「五幡」は、敦賀市の北部の五幡、敦賀湾の東岸にある坂で、展望のきく坂。「袖振れ」は、われにその霊を贈るわざをせよの意。
【釈】 可敞流の道をゆくだろう日には、五幡の坂で、袖を振りたまえよ。私を思うならば。
【評】 家持の歌である。福麿の帰京の道が、越中を過ぎて越前へ入っての時を思いやっていっているもので、その道は、家持も熟知しているものである。「吾をし念はば」「五幡の坂に袖振れ」というのは、自身の別れを惜しむ心を、福麿のわざによってあらわそうとしているのである。旅立つ人と別れをする場合には、嘆きをいい、不吉に近い語を出さないのが礼となっていた。言霊を怖れる心からのことと思われる。この宴歌に、直接惜別の語を出さず、霍公鳥に託して婉曲にいい、また旅行く人自身によってそのことをさせようとするのも、その心からのことと思われる。袖を振る場所を越前国のこととしているのも、同じくそうした斟酌が伴っていよう。越中の家持には無論見えない場所である。
 
     右の二首は、大伴宿禰家持。
 
(170)     右二首、大伴宿祢家持。
 
     前《さき》の件《くだり》の歌は、二十六日作れる。
      前件歌者、廿六日作之。
 
【解】 「前の件」は、(四〇五二)以下の四首である。
 
     太上皇《おはきすめらみこと》の難波宮に御在《おはましま》しし時の歌七首 清足姫天皇なり
 
【題意】 「太上皇」は、「清足姫天皇なり」と注がある。続日本紀、元正天皇の巻に、日本根子高瑞浄足姫《やまとねこたかみずきよたりひめ》天皇とあり、元正天皇である。「難波宮に御在しし時」は、『万葉集新釈』は、続日本紀、天平十六年の条に、「閏正月乙亥、天皇行2幸難波宮1。二月戊午、取2三嶋路1、行2幸紫香楽宮1、太上天皇及左大臣橘宿祢諸兄、留在2難波宮1焉。冬十月庚子、太上天皇行2幸珍努及竹原井離宮1、壬寅、太上天皇還2難波宮1。」とあるのにより、太上天皇の天平十六年の夏は難波宮におわしまし、またその十月、他への行幸があったが、間もなく還御になっていることを証している。以下の歌は、その際のものと思われる。またこれらの歌を家持が知ったのは、次の(四〇六二)の左注で、田辺福麿の伝え誦んだがためである。
 
     左大臣橘宿禰の歌一首
 
【題意】 「左大臣橘宿禰」は、橘諸兄の敬称。「歌」は、堀江の御舟遊に供奉してのものである。
 
4056 堀江《ほりえ》には 玉《たま》敷《し》かましを 大皇《おほきみ》を 御船《みふね》漕《こ》がむと かねて知《し》りせば
    保里江尓波 多麻之可麻之乎 大皇乎 美敷祢許我牟登 可年弖之里勢婆
 
【語釈】 ○堀江には玉敷かましを 「堀江」は、いわゆる難波堀江で、往古、淀川の下流は水量が多く、落差がなくて、雨期などには海水が逆流して来たので、難波宮の北方の郊原を開穿して、その水を西方の海へ入らしめた、その開穿した川の称で、大体現在の天満川にあたる。「玉敷かましを」は、道に玉を敷いたであったろうものを。「玉」は、小石で、道を清らかにするためのことで、これは現在の敷き砂にあたるもの。○大皇を(171)御船漕がむと 「大皇を」は、大皇のの意であるが、大皇を尊み、そちらに重点を置いての言い方。「御船漕がむと」は、御舟遊びの船を漕ごうとで、この時は後の歌で夏のことであったと知られる。納涼のためであったろう。○かねて知りせば 前もってもし知っていたならば。事は多分突然のお思い立ちで、かねて知ろうはずはないのであるが、左大臣として君側に侍している身とて、何事も知るべき責任があるとして、不注意を謝する意をもっていったもの。儀礼である。
【釈】 堀江の道には、玉を敷いて置いたであろうものを。天皇の御船を漕ごうと、前もって知っていたならば。
【評】 行幸に対しての設備の足りなかったのを、責任者自身の不注意であるとして謝して奏した歌である。一首、おおらかに、また暢びやかに詠んであって、この時代の貴族の気分を思わせられるものである。
 
     御製歌《おほみうた》一首 和へたまへる
 
4057 玉《たま》敷《し》かず 君《きみ》が悔《く》いていふ 堀江《ほりえ》には 玉《たま》敷《し》き満《み》てて 継《つ》ぎて通《かよ》はむ
    多萬之賀受 伎美我久伊弖伊布 保理江尓波 多麻之伎美弖々 都藝弖可欲波牟
 
【語釈】 ○玉敷かず君が悔いていふ堀江には 玉を敷かなくて、君が後悔していうこの堀江には。○玉敷き満てて継ぎて通はむ 玉をいっぱいに敷いて、続いて通いましょう。
【釈】 玉を敷かなくて、あなたが後悔していうこの堀江には、玉を十分に敷いて、続いて通いましょう。
【評】 左大臣の奏すことをそのままにうけ入れられて、これからは玉をいっぱいに敷いて通おうといわれているので、これは諸兄よりもはるかにおおらかで、その至極とも思われるものである。当時の宮中の日常生活の御気分、君臣間の親和のさまのうかがわれる御製である。
 
     或は云ふ、玉《たま》こきしきて
      或云、多麻古伎之伎弖
 
【解】 第四句の別伝である。「こき」は、玉の緒から玉を抜き落とす意である。原文のほうが一首に調和がある。これは別伝というより、伝える福麿が、あるいはこうではなかったかとしていったもので、記憶の不確かさから言い添えたものであろう。
 
(172)     右の一首。件《くだり》の歌は、御船の江を泝《さかのぼ》りて遊宴せし日、左大臣の奏せる、并に御製《おほみうた》なり。
      右一首。件歌者、御船泝v江遊宴之日、左大臣奏、并御製。
【解】 「一首」は、「二首」とあるべきだと、『代匠記』がいっている。船中で御酒を賜わった際の歌の意である。
 
     御製歌《おほみうた》一首
 
4058 橘《たちばな》の とをのたちばな 弥《や》つ代《よ》にも 我《あれ》は忘《わす》れじ この橘《たちばな》を
    多知婆奈能 登乎能多知婆奈 夜都代尓母 安礼波和須礼自 許乃多知婆奈乎
 
【語釈】 ○とをのたちばな 「とを」は、撓みで、実のために枝がたわんでいる意。枝がたわんでいる橘。○弥つ代にも いや多くの代で、永久の時代。いつまでも。
【釈】 橘の、実のために枝のたわんでいる橘よ。いついつまでも我は忘れまい。この橘を。
【評】 左注にあるように、太上天皇が橘諸兄の邸に行幸になり、宴をなされた時、諸兄を賀して賜わった御製である。諸兄を橘に譬えるためであるが、これは御座所に近く立っている橘を捉えて、諸兄に譬えられたものであることは、続きの歌でも知られる。橘という氏は、本来その木になぞらえて賜わったものであるから、かたがた緊密な譬である。「とをのたちばな」は、諸兄の一家の栄えを譬えたもの。「我は忘れじ」は、愛護を垂れ給う譬である。「橘」を三度まで繰り返していられるのも、諸兄に対するお心持の深さをあらわしているものである。おおらかに、柔らかく詠まれてはいるが、二句で切り、四句で切った、強さを含んだものである。一首の持つおのずからなる豊かさは、皇室特有のものである。天皇の賀歌としては鄭重なものであるが、これは諸兄の身分と、その人柄に対してのことであろう。
 
     河内女王《かふちおほきみ》の歌一首
 
【題意】 「河内女王」は、高市皇子の女で、正三位に至り、宝亀十年十二月薨じた。天平宝字二年八月に、正四位から従三位とな(173)り、宝亀四年正月に、無位から本位の正三位に復された記事のあるところから見て、その間に何らかの事があったとみえるが、明らかではない。
 
4059 橘《たちばな》の 下照《したで》る庭《には》に 殿《との》建《た》てて 酒宴《さかみづき》います 我《わ》が大君《おほきみ》かも
    多知婆奈能 之多泥流尓波尓 等能多弖天 佐可弥豆伎伊麻須 和我於保伎美可母
 
【語釈】 ○橘の下照る庭に 橘の実が色づいて、その木の下まで照っている庭に。これは諸兄の邸の庭のさまである。○殿建てて 「殿」は、太上天皇の御座所としての物で、「建てて」は、新たに建てて。これは尊貴な方の行幸を仰ぐ際は、清浄を期して新築するのが例となっていたのである。単純な建造であった。○酒宴います 「さかみづき」は、酒水漬きで、酒に浸る意で、名詞形。普通の酒宴を、そのことの愛でたさから誇張した語である。「います」は、敬語。○我が大君かも 「かも」は、詠歎の助詞。
【釈】 橘の実の木の下までも照らしている庭に、殿を建て、御酒宴をしていらせられるわが大君であるよ。
【評】 供奉していた女王の、天皇に奉った賀歌である。行幸の際に賀歌を奉るのは、型のごとくなっていたことなので、その心よりのものである。「橘の下照る庭に」は、間接ながら諸兄に対する賀ともなるもので、「殿建てて酒宴います」は、眼前の事実ではあるが、その事の愛でたく快いことを、鄭重に力強くいったものである。一首、盛事として賀した気分が、力強く、豊かに現われている。手腕ある歌である。
 
     栗田《あはた》女王の歌一首
 
【題意】 「粟田女王」は、系統未詳。天平宝字八年五月、正三位をもって薨じた。
 
4060 月《つき》待《ま》ちて 家《いへ》には行《ゆ》かむ 我《わ》が挿《さ》せる あから橘《たちばな》 影《かげ》に見《み》えつつ
    都奇麻知弖 伊敞尓波由可牟 和我佐世流 安加良多知婆奈 可氣尓見要都追
 
【語釈】 ○我が挿せるあから橘 わが髪に挿頭として挿している、赤く色づいた橘の実を。「挿せる」は、宴席に列なる時の礼としてすることで、礼装である。「あから橘」は、赤く色づいている橘の実で、これは庭前にある物を採ったのである。○影に見えつつ 「影に」は、月の光に。「見(174)えつつ」は、見られつつで、照らされつつという意。
【釈】 月の出を待って、家には帰ろう。わが髪に挿頭として挿している赤い橘の実を、月の光に照らされながら。
【評】 行幸の宴席の愛でたいさまが心を引いて、別れ難く思われるから、できる限りそのゆかしいさまを、自身に保たせておこうとの心で、直接ではないが、賀の心を詠んでいるものである。このように控え目の詠み方をしているのは、身分関係からそうすべき必要があつてのことで、歌の技巧上のことではなかろうと思われる。今は改まっての場合で、技巧のために作意を曲げる場合ではないからである。「影に見えつつ」が主になっている歌で、やや強いた趣はあるが、一定の条件下に詠んだものであり、それとしては才情の思われる歌である。
 
     右の件の歌は、左大臣橘|卿《まへつぎみ》の宅《いへ》に在《いま》して、肆宴《とよのあかり》きこしめしし時の御歌、并に奏せる歌なり。
      右件歌者、在2於左大臣橘卿之宅1、肆宴御歌、并奏歌也。
 
【解】 「肆宴」は、豊明で、「豊」は美称。「明」は酒に酔って顔の赤らむ意で、本来は宮中で、新甞祭の翌日、群臣に御酒を賜うことの称であるが、転じて天皇の御宴の称ともなった語。
 
4061 堀江《はりえ》より 水脈引《みをび》きしつつ 御船《みふね》さす 賤男《しづを》の徒《とも》は 河《かは》の瀬《せ》まうせ
    保里江欲里 水乎妣吉之都追 美布祢左須 之津乎能登母波 加波能瀬麻手勢
 
【語釈】 ○堀江より水脈引きしつつ 「堀江より」は、堀江をとおって。「水脈引き」は、船の進行する時に、船尾に起こる波を引くことで、それをしながら。○御船さす賤男の徒は 「御船さす」は、御船に棹さすで、御船を漕ぐ。「賤男の徒」は、「賤男」は、舟子を身分低い者として卑しめての称で、「徒」は、その仲間で、人々。○河の瀬まうせ 「河の瀬」は、水の深い所の称。「まうせ」は、「まうす」の命令形。古くは「まをす」といったが、この時代は、この形になっている。「申す」は、言うの卑下しての語であるが、執り行なう意にも用いる。ここは、河の瀬すなわち水の速く流れる所をお仕え申せで、漕げよの意。
【釈】 堀江をとおって、水脈を引きながら御船を漕ぐ、賤しい男どもは、河の瀬の水の速く流れる所を漕げよ。
【評】 これは上の歌とは別で、次の歌で見ると、夏、太上天皇が難波堀江に納涼などなされた際、供奉していた官人で、御船(175)の責任者となっていた人が、船頭をはじめ船人一同に向かい、心して安全のように御奉仕せよと注意したものである。調子よく、謡い物のにおいのある歌である。作者はその官人で、名は伝わらない。身分が低いからのことと取れる。
 
4062 夏《なつ》の夜《よ》は 道《みち》たづたづし 船《ふね》に乗《の》り 河《かは》の瀬《せ》毎《ごと》に 棹《さを》さし上《のぼ》れ
    奈都乃欲波 美知多豆多都之 布祢尓能里 可波乃瀬其等尓 佐乎左指能保礼
 
【語釈】 ○道たづたづし 道がおぼつかないで、これは、御船につけた綱を曳いて、河岸を上って行く者に対して、道が暗くて、足もとのあぶないことをいったものである。○船に乗り 綱を曳くことをやめて、船に乗って。○河の瀬毎に 河の水の速く流れる所ごとに。○棹さし上れ 棹をさして漕ぎ上れよと命じたもの。
【釈】 夏の夜は暗くて、足もとがおぼつかない。船に乗って、水の速く流れる所のあるごとに、棹をさして漕いで上れよ。
【評】 これは御船の曳き綱を曳き上っている者に対しての、上の歌と同じ官人の命じたものである。水の浅い所は曳き船にする必要があるが、深い所はそれには及ばない。深い所のあるごとに、船に乗って漕げというので、無用の労はするなと劬《いたわ》ったものである。「瀬毎に」が、その心をよくあらわしている。
 
     右の件の歌は、御船、綱手《つなで》以ちて江を泝《さかのぼ》り遊宴したまひし日作れる。伝へ誦《よ》める人は田辺史福麿なり。
      右件歌者、御船、以2綱手1泝v江遊宴之日作之。傳誦之人田邊史福麿是也。
 
【解】 「綱手」は、御船に綱をつけること。「伝へ誦める」は、暗記していて誦んだのであろう。必ずしも特異なことではないが、当時の人の歌に対しての風を思わしめることである。
 
     後に追ひて和《こた》ふる橘の歌二首
 
【題意】 福麿の伝えた「橘」の歌に対して、家持が追和したので、太上天皇を賀し奉ったものである。
 
(176)4063 常世物《とこよもの》 この橘《たちばな》の いや照《て》りに 我《わ》ご大皇《おほきみ》は 今《いま》も見《み》る如《ごと》
    等許余物能 己能多知婆奈能 伊夜弖里尓 和期大皇波 伊麻毛見流其登
 
【語釈】 ○常世物 常世の国の物であるで、下の橘を修飾したもの。この語は、古事記、垂仁天皇の巻に出ている。橘は田道間守が、天皇の勅命をこうむって、常世の国に渡り、そこから将来した物で、常世の国は海外にある不老不死の国である。したがって常世物は、不老不死の国のめでたい物の意。○この橋のいや照りに この橘の実のように、いよいよ照って。「この」は、家持もその場に居たがように想像しての語。○我ご大皇は今も見る如 「我ご」は、「我が」の転音。用例の多いもの。「今も見る如」は、今も見るようにで、下にいつまでもいませの意が略されている。
【釈】 不老不死の国の物であるこの橘の実のようにいよいよ照って、わが大皇は、今も見るように永久にいませよ。
【評】 太上天皇に供奉した二人の女王とともに、橘に寄せて太上天皇の万歳を賀したのである。「今も見る如」といいさしにした形になっているが、それには「常世物」という修飾語が照応して、万歳の意を生んでいるのである。橘に寄せることは、おのずから橘氏を賀することにもなっている。
 
4064 大皇《おほきみ》は 常磐《ときは》に在《ま》さむ 橘《たちばな》の 殿《との》のたちばな 直照《ひたて》りにして
    大皇波 等吉波尓麻佐牟 多知婆奈能 等能乃多知婆奈 比多底里尓之弖
 
【語釈】 ○常磐に在さむ 永久にましまそう。「常磐」は、床岩で、大きく平らな岩で、永久の譬喩。○稀の殿のたちばな 「橘の」は、橘家の。「殿のたちばな」は、太上天皇の御座所の殿の前にある橘の木の実。上の河内の女王の「橘の下照る庭に殿建てて」の殿と橘。○直照りにして ひたすらに照るさまであって。
【釈】 天皇は永久にましまそう。橘の家の奉迎の殿の前にあるたちばなの木の実の、ひたすらに照るさまであって。
【評】 この歌は、河内の女王の歌に和える形で、同じく太上天皇を賀したものである。「橘の殿のたちばな」は、女王の歌を言いかえたもので、形の変化はあるが、心は全く同一である。「橘の」は、女王の歌よりも諸兄を表面に押し出したもので、その点いささか異なっているが、これは家持としては諸兄をも間接に賀したい心が絡んでいてのことであろう。この句は複雑した内容を強いて一句に盛ろうとしたもので、形は巧みにみえるが、窮屈にすぎ、説明的な感じを持ったものとなっている。したがって上の歌にくらべると、調べの低いものとなり、見劣りがする作である。
 
(177)     右の二首は、大伴宿禰家持作れる。
      右二首、大伴宿祢家持作之。
 
     射水郡の駅館の臣の柱に題し著《つ》けたる歌一首
 
【題意】 「射水郡」は、現在の富山県氷見郡である。「駅館」は、駅に設けられている公の館で、本来は駅馬を置く家であるが、その性質上から、自然旅館と同じことをする所となったものである。越中国の駅は、『延喜式』によると八つあるが、射水郡の駅は亘理《わたり》と称するものが一つである。この名は渡りすなわち渡海の津の義で、それから推すと今の新湊市すなわち放生津であろうという。「題し著けたる歌」は、書きつけてある歌で、旅館とて、旅人のしたことである。
 
4065 朝《あさ》びらき 入江《いりえ》漕《こ》ぐなる 楫《かぢ》の音《おと》の つばらつばらに 吾家《わぎへ》し念《おも》ほゆ
    安佐妣良伎 伊里江許具奈流 可治能於登乃 都波良都婆良尓 吾家之於母保由
 
【語釈】 ○朝びらき入江漕ぐなる楫の音の 「朝びらき」は、碇泊していた船の、朝、船出をすること。「入江」は、射水河の河口。「楫の音」は、その昔の擬声音としての「つばらつばら」に続き、以上その序詞。○つばらつばらに 細委に、こまごまとの意。○吾家し念ほゆ わが家が恋しく思われるで、旅愁。「し」は、強意の助詞。
【釈】 朝、船出をして、入江を漕いでいる楫の音が、つばらつばらと音を立てている、それに因みある、こまごまとわが家が恋しく思われる。
【評】 旅人として駅館に宿り、朝の目覚めに楫の音を聞いて旅愁を刺激されての作であるが、その作因である眼前の事象を、序詞とした歌である。これは型となっているものであるが、その下への続け方は気の利いているものである。実感をしみじみと詠んでいるので、おのずから気分化されている趣のある歌で、凡手ではない。
 
     右の一首は、山上臣《やまのうへのおみ》の作れる。名を審にせず。或は云ふ、憶良大夫の男《をのこ》といへり。但し其の正名はいまだ詳ならず。
 
(178)      右一首、山上臣作。不v審v名。或云、憶良大夫之男。但其正名未v詳也。
 
【解】 「臣」は、山上氏の姓。「男」は、男の子。「正名は詳ならず」は、憶良の子の名は聞こえていなかったとみえる。憶良の死は、天平五年で、年は七十四歳であったろうというから、その男子は相応の年輩であったろうと思われるが、聞こえなかったのである。
 
     四月一日、掾久米朝臣広繩の館にて宴《うたげ》せる歌四首
 
4066 卯《う》の花《はな》の 咲《さ》く月《つき》立《た》ちぬ 霍公鳥《ほととぎす》 来鳴《きな》き響《とよ》めよ 含《ふふ》みたりとも
    宇能花能 佐久都奇多知奴 保等登藝須 伎奈吉等与米余 敷布美多里登母
 
【語釈】 ○咲く月立ちぬ 咲く月が始まったで、卯の花が咲くと霍公鳥が来るとしていたのである。○含みたりとも 花はつぼんでいようとも。
【釈】 卯の花の咲く月が始まった。霍公鳥は、来て鳴いてとよもせよ。花はまだつぼんでいようとも。
【評】 宴の興を添えるものとしての霍公鳥の鳴くのを待つ心で、宴歌としてふさわしいものである。四月に入れば霍公鳥が来るという上に立ち、四月を卯の花の咲く月とし、その花は「含みたりとも」といっているので、おおまかなようであるが、心細かく行き届かせている。
 
     右の一首は、守大伴宿禰家持作れる。
      右一首、守大伴宿祢家持作之。
 
4067 二上《ふたがみ》の 山《やま》にこもれる 霍公鳥《ほととぎす》 今《いま》も鳴《な》かぬか 君《きみ》に聞《き》かせむ
    敷多我美能 夜麻尓許母礼流 保等登藝須 伊麻母奈加奴香 伎美尓伎可勢牟
 
【語釈】 ○今も鳴かぬか 「今も」は、「も」は強調したもので、今の意。「鳴かぬか」は、鳴かないのか、鳴いてくれよの意。○君に聞かせむ (179)「君」は、家持で、上の歌に和えたのである。
【釈】 二上の山に籠もっている霍公鳥は、今鳴かないのか、鳴いてくれよ。あなたに聞かせよう。
【評】 家持の歌に和えて詠んだものである。気の利いた、柔らかみのある歌である。
 
     右の一首は、遊行女婦土師《うかれめはにし》作れる。
      右一首、遊行女婦土師作之。
 
【解】 「遊行女婦土師」は、(四〇四七)に出た。
 
4068 居《を》り明《あか》しも 今宵《こよひ》は飲《の》まむ 霍公鳥《ほととぎす》 明《あ》けむあしたは 鳴《な》き渡《わた》らむぞ
    乎里安加之母 許余比波能麻牟 保等登藝須 安氣牟安之多波 奈伎和多良牟曾
 
【語釈】 ○居り明しも 起きていて夜を明かしても。徹夜しても。○明けむあしたは 明けての朝はで、このことは左注にある。
【釈】 起きていて夜を明かしても、酒を飲もう。霍公鳥は、明けての朝は、鳴いて渡ろうよ。
【評】 宴歌の取材として、霍公鳥がいかに魅力あるものであったかを思わせられるような歌である。宴歌といえば相聞の歌か、戯咲歌かであったのを、その代わりをするようになったのである。しかしこの歌など、風流な霍公鳥だとはいえ、宴歌の趣の濃厚なものである。
 
     二日は立夏の節に応《あた》る。故《かれ》明且《あくるあした》喧《な》かむといへり。
      二日應2立夏節1。故謂2之明且將1v喧也。
 
【解】 (四〇六八)の歌の下に細字で記されている。自作に対しての自注である。霍公鳥が立夏とともに鳴くということは、巻十七(三九八四)左注にも、「霍公鳥は立夏の日来鳴くこと必定まれり」と、同じく家持が注をしている。
 
(180)     右の一首は、守大伴宿禰家持作れる。
      右一首、守大伴宿祢家持作之。
 
4069 明日《あす》よりは 継《つ》ぎて聞《きこ》えむ 霍公鳥《ほととぎす》 一夜《ひとよ》の故《から》に 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
    安須欲里波 都藝弖伎許要牟 保登等藝須 比登欲能可良尓 古非和多流加母
 
【語釈】 ○一夜の故に 一夜のことだのにで、短い距離のために。
【釈】 明日からは続いて聞こえるであろう霍公鳥を、一夜の隔てがあるので、あこがれ続けることであるよ。
【評】 家持の霍公鳥を思う、上の二首の歌に対して、和える心をもって詠んでいるものである。知性的な、行き届いた心の持主と思われるが、しかし立ち入った物言いはせず、控え目に詠んでいるのは、身分の隔たりを意識してのことであろう。座興に中心を置いて詠む場合だからである。
 
     右の一首は、羽咋《はくひ》郡の擬《かり》の主帳|能登臣乙美《のとのおみおとみ》の作れる。
      右一首、羽咋郡擬主帳能登臣乙美作。
 
【解】 「羽咋郡」は、能登(石川県)の四郡の中の一。「擬の主帳」は、帳簿、文書を司る官で、郡の四等官で、「擬」は、本官に次いでの役である。「能登」という氏は、その地の人だからであろう。郡司はその地方の豪族の任ぜられる官だったのである。「乙美」は、伝未詳。
 
     庭中の牛麦《なでしこ》の花を詠める歌一首
 
【題意】 「牛麦」は、瞿麦と同じで、本邦固有の河原撫子である。
 
4070 一株《ひともと》の なでしこ植《う》ゑし その心《こころ》 誰《たれ》に見《み》せむと 思《おも》ひ始《そ》めけむ
(181)    比登母等能 奈泥之故宇惠之 曾能許己呂 多礼尓見世牟等 於母比曾米家牟
 
【語釈】 ○誰に見せむと思ひ始めけむ 誰に見せようと思い始めたことであったろうか。あなた以外の誰でもない、あなたに見せようと思い始めたのであったの意。
【釈】 一株のなでしこを植えたその心は、あなた以外の誰に見せようと思い始めてのことであったろうか。
【評】 一株のなでしこを庭に植えたのは、その花をあなたに見せようと思い立ってのことであったのに、その花の咲かないうちにお別れすることとなったと、別れを惜しむ挨拶としていったものである。庭中の撫子の、花の咲かないのを指していっている形で、単純な語の中に、深いあわれをこめた、気分をあらわし得た歌である。主人としての挨拶の歌であるが、少なくも儀礼の匂いを帯びない、その種の物としては珍しい作である。家持の長所の出ている歌である。
 
     右は、先《さき》の国師《こくし》の従僧《ずそう》清見《せいけん》京師《みやこ》に入らむとす。因りて飲饌を設《ま》けて饗宴しき。時に主人《あるじ》大伴宿禰家持此の歌詞を作りて、酒を清見に送れるなり。
      右、先國師從僧清見可v入2京師1。因設2飲饌1饗宴。于v時主人大伴宿祢家持作2此歌詞1、送2酒清見1也。
 
【解】 「先の国師」は、「先の」は前ので、前任の意で、「国師」は国分寺の主僧の称。「従僧」は、侍者としての僧。「京師に入らむとす」は、国師が交替になったので、京へ帰る意であろう。「清見」は、伝未詳。「此の歌詞を作りて、酒を送れる」は、盃を勧めるに先立って、歌を詠む意で、これは定まった儀式だったのである。
 
4071 しなざかる 越《こし》の君《きみ》らと かくしこそ 楊《やなぎ》蘰《かづら》き 楽《たの》しく遊《あそ》ばめ
    之奈射可流 故之能吉美良等 可久之許曾 楊奈疑可豆良枳 多努之久安蘇婆米
 
【語釈】 ○しなざかる越の君らと 「しなざかる」は、級離るで、越の枕詞。巻十七(三九六九)に出た。「越の君ら」は、左注にある郡司以下の多くの役人に、家持が守としていっているもの。○かくしこそ このようにで、「し」は、強意の助詞。○楊蘰き 「蘰き」は、「かづら」を動詞として活用させたもので、楊の枝を蘰としての意。蘰は改まっての宴席に列する際、その季節の花や木の枝で作るもので、ここは初夏の候に、国(182)守の招宴に臨むためにしている礼装で、国守の家持も同じようにしているのである。○楽しく遊ばめ 楽しく遊ばうで、「め」は、「こそ」の結。
【釈】 京から遠く離れている越の国の君らと、このように、楊を蘰として、将来も楽しく酒宴をしよう。
【評】 この歌を詠んだ事情は、左注に出ている。歌で見ると、家持が国守として、部内の郡司以下の役人に、「しなざかる越の君ら」と呼びかけ、将来も、「かくしこそ遊ばめ」と、年々酒宴をしようといっているので、賀の心をも含めているものである。国守としての恒例の宴席へ臨んでの挨拶の歌である。高く地歩を占めて、親善の意を示すのを主目的としているもので、歌はそれにふさわしいものである。
 
     右は、郡司已下、子弟已上の諸人|多《さは》に此の会に集《つど》ひき。因りて守大伴宿禰家持、此の歌を作れり。
      右、郡司已下、子弟已上諸人多集2此會1。因守大伴宿祢家持作2此歌1也。
 
【解】 「郡司已下、子弟已上の諸人」は、「郡司」は一郡の長官で、「子弟已上」は、郡司の子弟で、郡司と郡司の子弟の意。「此の会」は、字面で見ると、上の従僧清見の惜別の宴のごとくに取れるが、しかし歌そのものは、「遊び」を主としたもので、また将来も繰り返すことを目的としているものであって、性質が全然異なっている。「此の会」は、文字の足りないものであろうと思われる。従僧清見との別宴を、「会」というのもいかがである。なおこれに続くこの会での歌では、家持は宴歌として相聞関係の歌を作っている。これは明らかに清見とは縁のないことである。
 
4072 ぬばたまの 夜渡《よわた》る月《つき》を 幾夜《いくよ》経《ふ》と 数《よ》みつつ妹《いも》は 我《われ》待《ま》つらむぞ
    奴婆多麻能 欲和多流都奇乎 伊久欲布等 余美都追伊毛波 和礼麻都良牟曾
 
【語釈】 ○夜渡る月を 夜空を渡る月を見て。○幾夜経と数みつつ妹は 「幾夜経と」は、別れて幾夜を経ることだと。時の経過を知るに、月を目標として、その満ち欠けする形によって知ったので、ここもその意のもの。幾日経つというのと同じである。「数みつつ」は、夜の数を数えながら。○我待つらむぞ 我の行くのを待っていようよ。
【釈】 まっ黒な夜の空を渡ってゆく月を見て、別れて幾夜を経ることかと、夜の数を数えながら、妹は我の行くのを待っていようよ。
【評】 前の歌と同じ場合のもので、作因は左注にある。主人としての守家持が、客としての郡司及びその子弟の酒宴に興をあ(183)らしめようとして詠んだもので、宴歌である。宴歌は相聞が普通である。家持が国庁の官人とする宴には、そのような歌は詠まないのであるが、今は部内の郡司階級の諸人の集まりであるから、斟酌して、調子を引き下げて、型のように相聞の歌を詠んだものとみえる。また、今集まっている人々は、遠方から来ている人もあって、旅愁を感じていようと察し、それを察する形にせず、自身のことのようにして、実際は代弁することにしようとの斟酌をも加えて、「我待つらむぞ」といったものと思われる。上の歌は守にふさわしいものであるが、これは砕けて、同輩のような立場に立っていっているのである。この二首で見ると、家持は寛厳両面を持っていて、為政者の資格のあった人にみえる。
 
     右は、此の夕、月の光遅く流れ、和風稍|扇《あふ》ぐ。即属目に困りて、聊此の歌を作れり。
      右、此夕、月光遲流、和風稍扇。即因2属目1聊作2此歌1也。
 
【解】 「遅く流れ」は、ゆるやかにさして来て。「稍扇ぐ」は、静かに吹いて来る。作者名はないが、家持であることは疑いがない。
 
     越前国の掾大伴宿禰池主の、来贈《きおく》れる歌三首
 
     今月十四日を以ちて深見《ふかみ》村に到り来、彼《か》の北方を望拝し、常に芳徳を念ふこと、いづれの日か能く休《や》まむ。兼ねて隣近なるを以ちて、忽に恋緒を増す。加以《しかのみならず》先の書に云ふ。暮春惜むべし。膝を促《ちかづ》くることいまだ期《ちぎ》らずといへり。生別の悲、それ復何をか言はむ。紙に臨みて悽断《いた》む。状を奉ること不備なり。
 三月十五日、大伴宿禰池主
      以2今月十四日1、到2來深見村1、望2拜彼北方1、常念2芳徳1、何日能休。兼以2隣近1、忽増2戀緒1。加以先書云、暮春可v惜。促v膝未v期。生別悲兮、夫復何言。臨v紙悽斷。奉v状不備。
 三月十五日、大伴宿祢池主
 
(184)【解】 池主が歌に添えた書翰である。「深見の村に到り来」は、深見村に公務を帯びて来て。「深見村」は、所在不明である。越前国のうち最も越中国に近い所と知られる。『延喜式』に加賀国(当時越前国に属していた)の駅名を挙げている中に、田上、深見、横山と続けている。田上は、現在の金沢市。横山は能登国に近い所であるから、深見村はその中間の地で、河北郡のうち今の津幡町辺であったろう。駅家のあった地である。「北方を望拝し」は、北の方越中の国府のある方を望んで。「隣近なるを以ちて」は、国府に近い所へ来たがゆえに。「恋緒」の「緒」は、諸本ともない字である。『古義』は、「常念芳徳」以下、四字をもって句を作っている関係上、ここも四字であるべきで、脱漏したものとして補った字である。「恋緒」は、家持に対しての憧れ心。「先の書に云ふ」は、最近、家持より池主に送った書翰。「膝を促くることいまだ期らず」は、膝を交じえての面談は、いつとも計り難い。「悽断」は、「断」を添えていう字で、心が痛むの意。「三月十五日」は、天平二十一年である。この年の四月十四日、天平感宝と改元され、同じ年の七月二日、また天平勝宝と改元されたのである。「三月十五日」を天平二十一年とするのは、これに続く(四〇九四)「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌」に日付があり、天平感宝元年五月十二日とあるのによって明らかである。巻十七の最後で、季節の明らかな歌は、家持が天平二十年の春の出挙で、部内諸郡を巡行した歌で、本巻は目次を追って、日付のある歌では、上の(四〇六六)「四月一日、掾久米朝臣広繩の館に宴せる歌」が天平二十年の歌の最後となっているのであるが、この歌に至って、にわかに「二十一年三月十五日」となり、約一年間を飛躍し、その間を空白にしているのである。何ゆえにこうしたことが起こったかは不明である。錯誤よりのことであろう。
 
     一、古人《いにしへびと》の云へる
 
【解】 古歌にいうと同じで、古人の歌を引いて自身の懐に代える意である。
 
4073 月《つき》見《み》れば 同《おな》じ国《くに》なり 山《やま》こそは 君《きみ》が辺《あたり》を 隔《へだ》てたりけれ
    都奇見礼婆 於奈自久尓奈里 夜麻許曾婆 伎美我安多里乎 敞太弖多里家礼
 
【語釈】 略す。
【釈】 月を見ると、同じ国である。山こそが、君の辺りを隔てていることだ。
【評】 古歌というが、近似していて名高い歌は、巻十一(二四二〇)「月見れば国は同じを山|隔《へな》り愛《うつく》し妹は隔りたるかも」であ(185)ろうか。月に対して遠人を思うのは、古今共通の心で、古歌とはいうが、多分池主の歌であろう。「月」はおりからの月で、「山」は礪波山であろう。
 
     一、物に属《つ》きて思を発《おこ》せる
 
4074 桜花《さくらばな》 今《いま》ぞ盛《さかり》と 人《ひと》は云《い》へど 我《われ》はさぶしも 君《きみ》とし在《あ》らねば
    櫻花 今曾盛等 雖人云 我佐夫之毛 支美止之不在者
 
【語釈】 略す。
【釈】 桜花は今が盛りだと人はいうけれど、私は楽しくない。あなたと一緒ではないので。
【評】 盛りの桜花も、その趣を十分に解する君と共に見るのでなければ興がなく、見る気にもなれないというので、これは漢詩文に多い、文人の矜恃をいったものである。文人の常識ともいうべきものを、眼前の桜に寄せていい、家持に対する思慕の情をあらわしたものである。
 
     一、所心の歌
 
【題意】 「所心」は、思う所の意で、成語である。
 
4075 相思《あひおも》はず あるらむ君《きみ》を あやしくも 嘆《なげ》き渡《わた》るか 人《ひと》の問《と》ふまで
    安必意毛波受 安流良牟伎美乎 安夜思苦毛 奈氣伎和多流香 比登能等布麻泥
 
【語釈】 ○あやしくも嘆き渡るか 「あやしくも」は、甲斐のないことをすると、我と我が心を訝かる意。「嘆き渡るか」は、嘆きつづけることかなで、「か」は、詠歎の助詞。○人の問ふまで かたわらの人の怪しんで問うまでで、これはこの時代には、用例のないものである。
【釈】 思わずにいるであろうあなたを、訝かしくも嘆きつづけていることですよ。かたわらの人が怪しんで尋ねるまでに。
(186)【評】 女の恋の訴えと同じ心をもって詠んだものである。書翰にいう恋緒である。「人の問ふまで」は、次の平安朝時代には盛行した語であるが、この当時は用いられなかった語である。さしたる語ではないが、才情のうかがわれるものである。
 
     越中国の守大伴家持の、報《こた》へ贈れる歌四首
 
【題意】 上に対しての返翰である。当然書翰が添っていたろうが、残っていない。
 
     一、古人の云へるに答ふる
 
4076 あしひきの 山《やま》は無《な》くもが 月《つき》見《み》れば 同《おな》じき里《さと》を 心《こころ》隔《へだ》てつ
    安之比奇能 夜麻波奈久毛我 都吉見礼婆 於奈自伎佐刀乎 許己呂敞太底都
 
【語釈】 ○山は無くもが 「もが」は、願望の助詞。山は無くて欲しいことだ。○月見れば同じき里を 月を見ると、同じ光の照らしている里であるのに。○心隔てつ 山が二人の心を隔てた。「つ」は、完了の助動詞。「心」は、間の意であるが、強調して言いかえたものである。文字面で見ると、二人の心を隔てて疎くならせた意に取れるもので、不熟な語である。
【釈】 あしひきの山は無くて欲しいことだ。月を見ると、同じ光の照らしている里であるのに、山が二人の間を隔てた。
【評】 作意は常識ともなっているものである。しかし池主の歌にくらべると気分化しているもので、「心隔てつ」もその上に立ってのものである。
 
(187)     一、目を属《つ》けて思を発《おこ》せるに答へ、兼《かね》て遷任せる旧《ふる》き宅《いへ》の西北《いぬゐ》の隅の桜の樹を詠み云へる
 
【題意】 「遷任せる旧き宅」は、池主が越中の掾であった時に住んでいた、以前の家で、これは国庁に属していた官舎であったろう。
 
4077 我《わ》が兄子《せこ》が 古《ふる》き垣内《かきつ》の 桜花《さくらばな》 いまだ含《ふふ》めり 一目《ひとめ》見《み》に来《こ》ね
    和我勢故我 布流伎可吉都能 佐久良婆奈 伊麻太敷布賣利 比等目見尓許祢
 
【語釈】 ○古き垣内の 古い囲い内の。「かきつ」は、垣うちの約言。「古き」は、そのことが懐かしみのあることとして添えているもの。○いまだ含めり まだつぼんでいる。○一目見に来ね 「ね」は、希望の助詞。一と目でも見にいらっしゃい。
【釈】 親しいあなたの、古い囲い内の桜の花は、まだつぼんでいます。一と目見にいらっしゃい。
【評】 池主の桜花に答えたものである。池主の文人的矜持を伴わせての歌とは異なって、これは庶民的な、単なる常識人としての心である。自身のことには触れず、池主を主に立てて、そういわれれば、懐かしさに堪えられないだろうと思うことを、察していっているのである。家持の心やさしい面を遺憾なく出している歌である。国司が国境を越えて他国へ行くということは、特別の場合でないとできないことで、家持の「桜花、見に来ね」という誘引は、絶対に実行不可能のことだったのである。
 それをいっているのは、やがて家持の、どうかして面接したいという心をあらわしているもので、答の心はその意味で十分にあらわされているのである。答歌としては、真実味の多い点で珍しいものである。
 
     一、所心に答ふる。即ち古人《いにしへびと》の跡を以ちて今日《けふ》の意《こころ》に代ふる
 
【題意】 「古人の跡を以ちて」は、古人の詠み残している歌をもって。「今日の意に代ふる」は、現在の自分の心に代えるの意。
 
4078 恋《こ》ふといふは えも名《な》づけたり 言《い》ふすべの たづきも無《な》きは 我《あ》が身《み》なりけり
    故敷等伊布波 衣毛名豆氣多理 伊布須敞能 多豆伎母奈吉波 安賀未奈里家利
 
(188)【語釈】 ○恋ふといふはえも名づけたり 「恋ふといふは」は、恋という名は。「えも名づけたり」は、「えも」は、得もで、可能の意で、よくもの意。よくも名づけたものである。○言ふすべのたづきも無きは 言いあらわすべき方法の、その手がかりもないものは。これは実状は何とも説明のしようもない意の慣用句で、恋情の上で用いられているもの。○我が身なりけり わが身なのであった。
【釈】 恋という名は、よくも名づけたものである。実状は、言いあらわす方法の、その手がかりもないわが身なのであった。
【評】 池主に対する思慕の情は、まさに恋という語でいうよりほかはないもので、実状は説明を超えた、不可能なものだというので、すなわちそれをもって説明としているものである。説明し難い気分を説明しているものである。「古人の跡を以ちて」といっているが、このような歌は見えない。古人の男女間の恋情をあらわした語を借りて、思慕の情をあらわすとの意で、「恋」といい、「言ふすべのたづきも無き」という語が、すなわちそれであろう。池主の女の立場に立って男を怨む形の歌とはかけ離れたものである。
 
     一、更に目を矚《つ》くる
 
【題意】 「更に」は、別にであって、答以外に。「矚」は、属と同じ。
 
4079 三島野《みしまの》に 霞《かすみ》たなびき しかすがに 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 雪《ゆき》は降《ふ》りつつ
    美之麻野尓 可須美多奈妣伎 之可須我尓 伎乃敷毛家布毛 由伎波敷里都追
 
【語釈】 ○三島野に 国司館から射水川を隔てて見渡される南方の野。富山県射水郡大門町の地かといわれている。巻十七(四〇一一)「放逸せる鷹」に出た。○雪は降りつつ 雪は降りつづけている。
【釈】 三島野には霞がたなびいて、それだのに、昨日も今日も雪は降りつづけている。
【評】 国司館から見える眼前の光景を叙したもので、この景は、池主も眼に沁みているものであろうから、第三者にはうかがえない興趣を感じたものであったろう。家持もその心から詠んでいるものである。「しかすがに」「昨日も今日も」など、当時用いられていた語句である。
 
     三月十六日
 
(189)【解】 池主が深見村へ来たのは十四日で、家持への書翰の日付はその翌日の十五日、家持のこの返翰は十六日である。いずれも即座に執筆したものである。一般の風であったか、あるいは彼らの特殊なことであったかはわからないが、注意されることである。
 
     姑《をば》大伴氏の坂上郎女の、越中守大伴宿禰家持に来贈《きおく》れる歌二首
 
4080 常人《つねひと》の 恋《こ》ふといふよりは 余《あま》りにて 我《われ》は死《し》ぬべく なりにたらずや
    都祢比等能 故布登伊敷欲利波 安麻里尓弖 和礼波之奴倍久 奈里尓多良受也
 
【語釈】 ○常人の恋ふといふよりは 世間一般の人が恋うというよりは。○余りにて 以上であって。○なりにたらずや なったではありませんか。
【釈】 一般の人が恋うといっているよりは以上であって、私は死にそうになったではありませんか。
【評】 少年時代より世話をし、また娘の聟となっている家持に、叔母としての思慕の情を訴えた歌である。「死ぬべくなりにたらずや」は、遠く別れていることが何年にもなり、思慕の情が次第に募り、今は堪えられなくなったことをいったもので、自然な、含蓄のある語である。一首、思慕の気分の説明であるが、自然に、静かに流れ出す気分を、落ちついて、確かに言い続けているので、独自の気品を備えたものとなっている。
 
4081 片思《かたおもひ》を 馬《うま》に太馬《ふつま》に 負《おほ》せもて 越辺《こしべ》に遣《や》らば 人《ひと》衒《かた》はむかも
    可多於毛比遠 宇万尓布都麻尓 於保世母天 故事部尓夜良波 比登加多波牟可母
 
【語釈】 ○馬に太馬に 「太馬」は、ふとうまの約音で、太った、肥えた馬。「馬に」といい、さらに「太馬に」と言いかえた形で、その際の気分を写した形のもの。阪倉篤義氏は「全く」「すっかり」の意の副詞かとしているが、しばらく旧説に従う。○負せもて 負せもちての意であるが、「もちて」が「もて」に転じたもの。用例のあるものである。○越辺に遣らば 越の国のほうへやったならば。○人衒はむかも 「衒はむ」は、本集には他に用例のない語で、したがって問題とされている。『略解』は、後のものであるが、後撰集に、「山風の花の香かどふ麓には春の霞ぞほだしなりける」とある、その「かどふ」と同語であって、今「かどはす」というのも類語であろうという。それだと欺き奪う意である。これに従(190)うべきであろう。「かも」は、疑問の助詞。
【釈】 私の片思いを、馬に、いや肥えた馬に負わせて、越の国のほうへやったならば、結構な荷物だと思って、途中で人が欺き奪うでしょうか。
【評】 私のあなたに対する大へんな片思いは、知らせてあげたいと思うが、知らせられないでしょう、という心を、諧謔まじりにいったものである。片思いのほどを知らせたいというのは、当然のことで、理詰めである。また、当時は物を運ぶには馬の背によるよりほかはなく、また運ぶ途中には剽盗がいて奪うということもありがちなことだったので、その点も理詰めである。諧謔は、片思いを結構な荷物だろうと誤認することで、これもありうることから諧謔になるのである。一首、理詰めの上に立っての諧謔で、滑稽の本道である。上の歌の連作で、「恋」といい、「死ぬべく」といっているのと同じ心のものであるが、それを明るく上品な滑稽に言いかえて、家持を微笑させようとしたのである。才情の非凡を思わせる歌である。
 
     越中守大伴宿禰家持の報《こた》ふる歌、并に所心の三首
 
4082 天《あま》ざかる 鄙《ひな》の奴《やつこ》に 天人《あめひと》し かく恋《こ》ひすらば 生《い》けるしるしあり
    安万射可流 比奈能夜都故尓 安米比度之 可久古非須良波 伊家流思留事安里
 
【語釈】 ○鄙の奴に 原文「比奈能都夜故尓」で、文字どおりに訓むと、「ひなのみやこに」と訓むほかはない。それだと「都の都に」で、語そのものとして解せられず、下へも通じない。『略解』は、木居大平の説として「都夜」は、誤写で、顛倒したものと見、「夜都故」で、奴であるとしている。それだと、郡にいる奴隷で、家持が自卑しての称となり、下への続きも自然となる。ありうべき誤写として従う。○天人し 天上の仙女で、「し」は、強意の助詞。郎女を譬えたもの。○かく恋ひすらば 「恋ひすらば」は、「恋せらば」とあれば普通であるが、異例な接続であるところから問題にされている。恋しあらばの意の方言であろうかという解が妥当に思われる。「鄙の奴」と称しての続きであるから、方言を用いたとしても不自然ではない。それに家持は、比較的最も多く方言を用いる人だからでもある。そう解する。
【釈】 京よりは天と離れている鄙の奴の我に、天の人がこのように恋をしているというならば、生きている甲斐があります。
【評】 郎女の初めの歌に対しての報えで、深く喜んだ心である。「天ざかる鄙の奴」と「天人」と対照しての譬喩は、もとより歌詞としてのものであるが、興趣ばかりのものではなく、本心も絡んでのもので、京恋しい心、言いかえると地方官の現境を侘びしく思っての訴え心もまじっているものと思われる。
 
(191)4083 常《つね》の恋《こひ》 いまだ止《や》まぬに 都《みやこ》より 馬《うま》に恋《こひ》来《こ》ば 荷《にな》ひ堪《あ》へむかも
    都祢乃孤悲 伊麻太夜麻奴尓 美夜古欲里 宇麻尓古非許婆 尓奈比安倍牟可母
 
【語釈】 ○常の恋いまだ止まぬに 「常の恋」は、平常、郎女に対して持っている恋。「いまだ止まぬに」は、まだ鎮まらないのにで、続いているのにの意。○馬に恋来ば 馬で恋を運んで来たならば。「恋」は、郎女のいう「片思」。○荷ひ堪へむかも 荷いきれるでしょうか。
【釈】 平常のあなたに対する恋が、まだ鎮まらずに続いていますのに、都から、馬で恋を運んで来たら、荷いきれましょうか。
【評】 郎女の後の歌に報えたもので、「常の恋いまだ止まぬに」は、家持も郎女と同じく片思いをしているといって和え歌の型に合わせたもの。「馬に恋来ば荷ひ堪へむかも」は、初二句をうけての上ではまじめなものになり、言い方としては諧謔とまではいえなくても、それに近い愛嬌を持ったものである。郎女と調子を合わせようとしているが、郎女の持つ自然と冴えとには遠く及ばず、辛くも糊塗している程度のものである。資質の相違で、年齢の差よりのことではない。
 
     別《こと》に所心一首
 
4084 暁《あかとき》に 名告《なの》り鳴《な》くなる 霍公鳥《ほととぎす》 いやめづらしく 念《おも》ほゆるかも
    安可登吉尓 名能里奈久奈流 保登等藝須 伊夜米豆良之久 於毛保由流香母
 
【語釈】 ○名告り鳴くなる霍公鳥 自分の名をいって鳴く霍公鳥で、霍公鳥は、ほととぎすと鳴くというので、その鳴き声が名となっているものとしていたのである。以上「いやめづらしく」に譬喩としてかかる序詞。これは郎女よりの歌の隠喩としてのものである。○いやめづらしく いよいよ珍重すべく。
【釈】 暁に、自分の名をいって鳴く霍公鳥は、いよいよ珍重すべく思われることである。
【評】 郎女から心やさしい消息を受けての喜びを、おりから、珍しくも鳴く霍公鳥に寄せていっているものである。霍公鳥を酷愛していた家持なので、多分初めて聞いたであろう霍公鳥に譬えたのは、譬え得たことと思ったろうが、その感が郎女に伝わったかどうかが危まれる。自身の気分に圧倒され、表現が伴いかねたのではなかろうか。
 
(192)     右は四日、使に附けて京師《みやこ》に贈り上《のぼ》せる。
      右四日、附v使贈2上京師1。
 
【解】 月がないが、三月十六日を承けたものであり、霍公鳥が鳴いているので、四月の四日であろう。
 
     天平感宝元年五月五日、東大寺の占墾地《せんこんち》の使僧平栄等を饗《あへ》しき。時に守大伴宿禰家持の、酒を僧に送れる歌一首
 
【題意】 「天平感宝元年」は、天平二十一年四月十四日改元した。陸奥国から黄金の出たのを瑞祥としてのことである。「東大寺」は、現在奈良市にある寺。「占墾地」は、「墾地」は開墾して私有の田とする地の称で、「占」はそれを処理する意。「使僧」は、その事のために東大寺より派遣された僧。これは、従来は土地は私有を許されなかったが、廬遮那仏に祈願の心より、制限を設けて許されることとなった。東大寺では買い取った未墾地、檀越《だんおち》から施入した未墾地の越の国にある物を処理させるために、寺僧を遣わしたのである。「平栄」は、伝未詳。「酒を送れる歌」は、越中の国庁に来た平栄に、杯を勧める際に詠んだ歌。
 
4085 焼刀《やきたち》を 礪波《となみ》の関《せき》に 明日《あす》よりは 守部《もりべ》遣《や》り副《そ》へ 君《きみ》を留《とど》めむ
    夜伎多知乎 刀奈美能勢伎尓 安須欲里波 毛利敞夜里蘇倍 伎美乎等登米牟
 
(193)【語釈】 ○焼刀を 焼いて鍛えた太刀で、「を」は、詠歎の助詞。磨ぐ意で、「礪」にかかる枕詞。○礪波の関に 礪波山の関にの意。関は越中より越前に通じる街道にあり、礪波山の東麓小矢部市石動町にあった。○守部遣り副へ 「守部」は、番人の総称で、ここは関の番人。「遣り副へ」は、国庁より遣わして数を増してで、番を厳重にしての意。
【釈】 焼刀を磨ぐに因みある礪波の関へ、明日からは、番人を遣って数を増して、君をこの地にとどめましょう。
【評】 京より来た平栄達が懐かしいので、ここにとどめて帰れないようにしようというのである。勧盃の際の儀礼の語ではあるが、それだけにとどまらず、京懐かしい心もこもっているものである。「守部遣り副へ」は、国守としての立場よりの語で、さすがに改まったところがあり、ほどの良い言い方である。
 
     同じ月九日、諸僚、少自秦伊美吉石竹《すなきさくわんはだのいみきいはたけ》の館に会《つど》ひて飲宴しき。時に主人《あるじ》、百合《ゆり》の花蘰《はなかづら》三枚を造り、豆器《づき》に畳《かさ》ね置きて、賓客《まれびと》に捧げ贈る。各々此の蘰を賦して作れる歌三首
 
【題意】 「諸僚」は、国庁の役人たち。「少目」は、国司の四等官で、大目の次位。大国は大少があった。「秦伊美吉石竹」は、「伊美吉」は忌寸と同じで、姓。この人は天平宝字八年、正六位上から外従五位下に、宝亀五年、飛騨守、七年播磨介となった人。「百合の花蘰三枚」は、元暦校本には三枝とあり、いずれが正しいか不明である。一本の百合を輪にして造った蘰の三つの意である。「豆器」は、儀式の際食物を盛る器で、高杯の類。
 
4086 あぶら火《び》の 光《ひかり》に見《み》ゆる 我《わ》が蘰《かづら》 さ百合《ゆり》の花《はな》の 笑《ゑ》まはしきかも
    安夫良火乃 比可里尓見由流 和我可豆良 佐由利能波奈能 惠麻波之伎香母
 
【語釈】 ○あぶら火の 菜種油のあかりの。○我が蘰 贈られたわが花蘰。○さ百合の花の 百合の花のようにで、「笑まはし」の譬喩。巻七(一二五七)「道の辺の草深百合の花咲に咲まししからに」とあるに同じ。○笑まはしきかも 「笑まはし」は、動詞「笑む」から転じた形容詞。微笑されることよで、心たのしい意。
【釈】 あぶら火の光に見える私の花蘰は、百合の花のように、微笑されるものであるよ。
【評】 百合の花蘰を贈られたに対しての挨拶の歌である。贈物をされると、そのものの結構な物であることをいうのが礼で、「笑まはしきかも」はすなわちそれである。その「笑まはし」をいうに、花蘰の材料になっているさ百合の花を譬喩にしている(194)ので、そこに技巧の中心がある。しかしこれは用例のあるものである。一首、可隣な物に見入って、その感じを気分化するという家持の長所を発揮したもので、挨拶の歌としては優秀な作である。
 
     右の一首は、守大伴宿禰家持。
      右一首、守大伴宿祢家持。
 
4087 燈火《ともしび》の 光《ひかり》に見《み》ゆる さ百合花《ゆりばな》 後《ゆり》も逢《あ》はむと 思《おも》ひ始《そ》めてき
    等毛之火能 比可里尓見由流 左由理婆奈 由利毛安波牟等 於母比曾米弖伎
 
【語釈】 ○さ百合花 同音の「後」にかかり、以上その序詞。巻八(一五〇三)「吾妹子が家の垣内の小百合花ゆりと云へるは不欲と云ふに似る」の先例のあるものである。○後も逢はむと思ひ始めてき 「ゆり」は、後の意の古語。今後もこのように逢おうと思い初めたことでした。
【釈】 燈火の光に見える百合の花と同音の後《ゆり》、すなわち今後もこのように逢おうと思い初めたことでした。
【評】 これも同じく挨拶として、その夜の飲宴に対しての喜びをいったものである。花蘰の百合を、古歌にならつて序詞として絡ませているのは、この当時こうしたことが、後世の本歌取に類した興味を感じ得させたからのことであろう。結句の「思ひ始めてき」は、挨拶の心の働きすぎた感のあるものである。事が主になりすぎて、気分の足りないものである。
 
     右の一首は、介内蔵伊美吉《くらのいみき》繩麿。
      右一首、介内蔵伊美吉繩麿。
 
4088 さ百合花《ゆりばな》 後《ゆり》も逢《あ》はむと 思《おも》へこそ 今《いま》のまさかも 愛《うるは》しみすれ
    左由理婆奈 由里毛安波牟等 於毛倍許曾 伊末能麻左可母 宇流波之美須礼
 
【語釈】 ○さ百合花 「後」にかかる枕詞。○思へこそ 「思へばこそ」の古格。已然条件法。○今のまさかも 「まさか」は、現在の意の古語。(195)今の現在もで、同意語を畳んで強調したもの。○愛しみすれ 「愛はしみ」は、形容詞愛しに、「み」を添えて動詞化したものの名詞形。「すれ」は、「こそ」の結。親しくするのですの意。
【釈】 さ百合花に因みある、後も逢おうと思えばこそ、今の現在も親しくするのです。
【評】 上の繩麿の歌に和える心をもって詠んでいるものである。繩麿の歌に対しては、主人の石竹が挨拶するのが自然であるが、主賓の家持が代わってした形のものである。繩麿の歌と内容は異ならないが、その無骨なのを柔らげて、愛想のあるものに言いかえている。
 
     右の一首は、大伴宿禰家持の和へ。
      右一首、大伴宿祢家持和。
 
     独り幄《とばり》の裏《うち》に居て、遙に霍公鳥の喧《な》くを聞きて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「幄の裏」は、幕を張った内で、室内の意。
 
4089 高御座《たかみくら》 天《あま》の日嗣《ひつぎ》と 天皇《すみろき》の 神《かみ》の命《みこと》の 聞《きこ》し食《を》す 国《くに》のまほらに 山《やま》をしも さはに多《おほ》みと 百鳥《ももとり》の 来居《きゐ》て鳴《な》く声《こゑ》 春《はる》されば 聞《きき》の愛《かな》しも いづれをか 別《わ》きてしのはむ 卯《う》の花《はな》の 咲《さ》く月《つき》立《た》てば めづらしく 鳴《な》く霍公鳥《ほととぎす》 菖蒲草《あやめぐさ》 珠《たま》貫《ぬ》くまでに 昼《ひる》暮《く》らし 夜渡《よわた》し聞《き》けど 聞《き》くごとに 心《こころ》つごきて うち嘆《なげ》き あはれの鳥《とり》と 言《い》はぬ時《とき》なし
    高御座 安麻乃日繼登 須賣呂伎能 可未能美許登能 伎己之乎須 久尓能麻保良尓 山乎之毛 佐波尓於保美等 百鳥能 來居弖奈久許惠 春佐礼婆 伎吉乃可奈之母 伊豆礼乎可 和枚弖之努波无 宇能花乃 佐久月多弖婆 米都良之久 鳴保等登藝須 安夜女具佐 珠奴久麻泥尓 比流久良之 欲和多之伎氣騰 伎久其等尓 許己呂都呉枳弖 宇知奈氣伎 安波礼能登里等 伊波奴登枳奈思
 
(196)【語釈】 ○高御座天の日嗣と 「高御座」は、天皇の座を讃えての称で、「天の日嗣」を修飾する枕詞。「天の日嗣」は、天の日を継承する意で、帝位。「と」は、として。○天皇の神の命の 「天皇」は、当代の天皇は大君と称し、それに対して、皇祖、または皇祖より先代の天皇までの称で、ここは広く天皇の意のもの。「神の命」は、いずれも天皇の尊称。○聞し食す国のまほらに 「聞し」「食す」は、いずれも敬語で、御支配になるの意の成語。「国のまほらに」は、国のすぐれた所に。「まほら」は、「ま」は、美称、「ら」は、接尾語で、「ほ」は、すぐれた所の意。これは国を讃えて添えている語で、この二句は、意味としては国というに異ならない。ここは越中国を、天皇の領土として讃えていっているのである。○山をしもさはに多みと 「山をしも」は、「しも」は、強調した助詞。「さはに多みと」は、「さはに」は、「多み」の副詞で、「多み」は、多いので。山が多いのでとて。○百鳥の来居て鳴く声 「百鳥」は、あらゆる鳥で、鳥類を総括したもの。「来居て鳴く声」は、来ていて鳴く声は。○春されば聞の愛しも 春が来ると、開く声の身にしみることよ。「聞」は、名詞。春は鳥の声の高く艶を帯びて来る時である。○いづれをか別きてしのはむ どの鳥の声を、取り分けて賞美しようか、すべて良いで、「か」は、疑問の係で、反語をなす助詞。○卯の花の咲く月立てば 卯の花の咲く月が来ると。四月をさしている。○菖蒲草珠貫くまでに 菖蒲草を、珠として貫く、すなわち薬玉を作る五月の節日までを。○昼暮らし夜渡し聞けど 昼は終日聞き暮らし、夜は夜をとおして聞くけれども。○聞くごとに心つごきて 「つごきて」は、心のはげしく動く意。すなわち感動しての意。『考』は、「都」は「宇」の誤写として「うごきて」としている。○うち嘆きあはれの鳥と 「うち嘆き」は、「うち」は、接頭語。溜め息をついて。「あはれの鳥と」は、「あはれ」は、感銘をあらわす語で、賞美すべき鳥だと。
【釈】 高御座にいます天つ日嗣として、天皇の神の命の、御支配になる国のすぐれた所に、山が甚だ多いのでとて、あらゆる鳥の来て鳴く声は、春が来ると聞こえる声が感動させる。どの鳥の声と取り分けて賞美ができようか、できはしない。卯の花の咲く月が来ると、愛すべくも鳴く霍公鳥の声は、菖蒲草を珠として緒に貫く日までを、昼は一中じゅう、夜は夜をとおして聞くけれども、聞くたびごとに心が感動して、溜め息をついて、賞美すべき鳥よといわない時はない。
【評】 家持が霍公鳥を酷愛していたことは、既出の歌で明らかである。この歌は、その酷愛している気分を十分に言い尽くそうとした歌で、長歌形式を選んでいることがその心を示している。しかし結果から見ると、この歌は彼の意図を裏切っているもので、失敗に終わったといわざるを得ないものである。失敗の理由は明らかである。本来長歌は、叙事によって抒情を遂げるもので、さらにいえば、叙事を伴わせなければ抒情が貫徹されない場合に用いるべき形式である。しかるにこの歌には、叙事を必要とする方面が全くない。対象は霍公鳥の鳴き声だけで、その他には何ものもないのである。ある物は、その鳴き声に対する彼の感動であるが、感動は気分で、これは抒情の範囲のものである。気分の具象化としての叙事はありうるが、それは単純な叙事で足りるもので、長歌形式を必要とするごときものではないのである。この歌は内容に不調和な形式を選び、それに伴って、気分の具象化としては必要以外のことをも、必要であるごとく言い続けるに至ったのである。初夏の渡り鳥の霍公鳥をいうために、春の鳥の鳴く山をいい、その山の所在をいうために、古来天皇の御支配になるこの国土までも言い続けるというのは、じつに表現の眼目である適当ということを、完全に忘れ去ったことである。一首の中心である霍公鳥をいう段になる(197)と、その背景である前半とは逆転して、ほとんどいうべき材料がなく、ただ霍公鳥に聞きほれる気分をいっているのみで、それも前半に引かれて説明的にいっているにすぎないのである。
 一首が統一のない、気分の稀薄なものになり終わったのは、要するに長歌形式というものの理解が足らず、その形式を過大視し、その形式そのものが気分をあらわしうるように誤信したためである。家持は細心な用意は持った人であるが、大体気分本位の人なので、こうした結果をもたらすに至ったものと思われる。
 
4090 行方《ゆくへ》なく あり渡《わた》るとも 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》きし渡《わた》らば かくやしのはむ
    由久敞奈久 安里和多流登毛 保等登藝須 奈枳之和多良婆 可久夜思努波牟
 
【語釈】 ○行方なくあり渡るとも 「行方なく」は、なすべき方法もなくてで、途方に暮れての意。「あり渡るとも」は、経過し続けていようともで、懊悩を続けている時であろうとも。○霍公鳥鳴きし渡らば 霍公鳥が鳴いて空を渡ったならばで、「し」は、強意の助詞。○かくやしのはむ このように愛するであろうかで、「や」は、疑問の係。
【釈】 途方に暮れて生き続けていようとも、霍公鳥が、鳴いて空を渡ったならば、このように愛することであろうか。
【評】 これは現に霍公鳥が、鳴いて空を渡ってゆくのを聞いて、聞きほれている時の想像である。家持は言い難い良い心持で聞いているのであるが、それとは反対な状態を想像し、かりに懊悩に沈み続けている場合でも、やはりこのようであろうかと思ったのである。これは言いかえると、たといいかような場合であろうとも、霍公鳥の鳴く声を聞けば、その状態を超えて、良い心持になろうと思っていっているのである。持って廻った言い方であるが、これは実感を強く言いあらわそうとしてのものである。
 
4091 卯《う》の花《はな》の 共《とも》にし鳴《な》けば 霍公鳥《ほととぎす》 いやめづらしも 名告《なの》り鳴《な》くなへ
    宇能花能 登聞尓之奈氣婆 保等登藝須 伊夜米豆良之毛 名能里奈久奈倍
 
【語釈】 ○卯の花の共にし鳴けば 「卯の花の」は、卯の花と、の意で、卯の花の咲くのと。この言い方は、巻八(一四七二)「霍公鳥来鳴き響もすうの花の共にや来しと問はましものを」があり、用例のあるものである。「共にし鳴けば」は、一緒に鳴くので。○いやめづらしも いよいよ愛すべくあるよ。○名告り鳴くなへ その名を告げて鳴くとともに。「名告り」は、ほととぎすの鳴く意で、既出。
(198)【釈】 卯の花の咲くのと一緒に鳴くので、霍公鳥はいよいよ愛すべくあるよ。その名を告げて鳴くとともに。
【評】 霍公鳥の愛すべきことをいおうとして、その鳴いて来る時は卯の花が咲いている時なのでいよいよ良いとし、鳴くにもその名を鳴き声で告げるのが良いとして、極力ほめている。気分化していっているために、低調の感のあるものとなっている。
 
4092 霍公鳥《ほととぎす》 いとねたけくは 橘《たちばな》の 花《はな》散《ち》る時《とき》に 来鳴《きな》き響《とよ》むる
    保登等藝須 伊登祢多家口波 橘乃 播奈治流等吉尓 伎奈吉登余牟流
 
【語釈】 ○霍公鳥いとねたけくは 「ねたけく」は、「嫉し」の名詞形。霍公鳥のいたく嫉ましいことは。○橘の花散る時に 「橘」は、代表的に愛された木なので、その花の散る時は、甚だ惜しく、感傷的にならざるを得ない時だったのである。○来鳴き響むる 来て鳴いて、辺りをとよめているで、人の感傷的になるのと反対に、楽しげであるさまとしていったもの。下に「ことなり」の意が略されている。
【釈】 霍公鳥の、いたくも嫉ましいことは、橘の花の散る時に、来て鳴いてとよもしていることである。
【評】 この歌は、単純に似ているが、複雑な気分を盛ったものである。霍公鳥は、その鳴き声の感傷的で、あわれを誘うところがある。橘の花の散るさまの感傷を誘うものであることは、いうまでもない。耳に聞く感傷と、目に見る感傷と一緒になった状態は、一方には甚だ快いとともに、他方には感傷の強さに堪えられないものである。この歌は、その堪えられない側に立って、霍公鳥は、橘の花の散る感傷的なさまを、無関心らしく来鳴きとよもしている、その無関心なさまが嫉ましいといっているのである。しかしこの嫉ましさは、堪えられる程度までの、感傷的な、さまの良さを連想させるもので、作意はその良さを暗示させるところにある。すなわち霍公鳥の良さを讃える気分を、逆説的に、屈折を持っていっているものである。
 
     右の四首は、十日、大伴宿禰家持作れる。
      右四首、十日、大伴宿祢家持作之。
 
【解】 「十日」は、五月十日。
 
     英遠《あを》の浦に行きし日、作れる歌一首
 
【題意】 「英遠の浦」は、氷見市の北方の阿尾海岸である。
 
(199)4093 英遠《あを》の浦《うら》に 寄《よ》する白波《しらなみ》 いや増《ま》しに 立《た》ち重《し》き寄《よ》せ来《く》 東風《あゆ》を疾《いた》みかも
    安乎能宇良尓 餘須流之良奈美 伊夜末之尓 多知之伎与世久 安由乎伊多美可聞
 
【語釈】 ○立ち重き寄せ来 立ち重なって寄せて来る。○東風を疾みかも 「東風」は、地方語で、巻十七(四〇一七)に既出。
【釈】 英遠の浦に寄せる白波は、ますます増して、立って、重なって、寄せて来る。東風が早いからであろうか。
【評】 常凡な風景であるが、第三、四句の波の状態は感動をもっていっているものである。海に対しての新鮮味を感じ続けていたのである。落ちついた歌である。
 
     右の一首は、大伴宿禰家持作れる。
      右一首、大伴宿祢家持作之。
 
     陸奥《みちのく》国より金《くがね》を出《いだ》せる詔書《みことのりぶみ》を賀《ことほ》く歌一首 并に短歌
 
【題意】 「陸奥国より金を出せる」は、続日本紀、天平二十一年二月、陸奥国、始めて黄金を貢す、とあり、同四月、陸奥守従三位百済王敬福、黄金九百両を貢す、という記事がある。「詔書」というのは、聖武天皇はその事を甚しく歓ばれ、宣命を二文発せられた。一文は、その事を廬遮那仏に謝されたもの、他の一文は、天皇としての位置を思し召され、また国家の功臣と百姓に恩を垂れ給うべきことをいわれたものであって、その功臣の中には、武臣として大伴佐伯二氏のことを、ことに重くいわれたのであった。越中にあった家持はその事を伝聞し、また、大伴氏をいたく賞せられているのに感激して、この賀歌を作ったのであ(200)る。歌の中には廬遮那仏に関することが多いが、それはすべて宣命の中にいわれているものである。聖武天皇が国家鎮護の仏としての廬遮那仏造立を発願されたのは天平十三年、起工は同十七年、天平勝宝元年にはほぼ竣工したのであるが、仏を荘厳するために黄金の箔を塗ることは不可能にみえた。それはわが国では古来黄金を産出したことがなく、またその時は天下の財を費やした時で、海外に求めることもかなわなかったからである。陸奥の国からの貢はその際のことだったのである。天皇は甚しく感激され、このことは天神地祇の瑞祥を示されたことであり、また歴代の皇霊の護助であるとされて宣命を発せられたのである。天平勝宝の改元もそのためであった。また家持も、従五位下から従五位上へと一階を進められたのであった。
 
4094 葦原《あしはら》の 瑞穂《みづほ》の国《くに》を 天降《あまくだ》り しらしめしける 天皇《すめろき》の 神《かみ》の命《みこと》の 御代《みよ》重《かさ》ね 天《あま》の日嗣《ひつぎ》と しらし来《く》る 君《きみ》の御代御代《みよみよ》 敷《し》きませる 四方《よも》の国《くに》には 山河《やまかは》を 広《ひろ》み淳《あつ》みと 奉《たてまつ》る御調宝《みつきたから》は 数《かぞ》へ得《え》ず 尽《つく》しも兼《か》ねつ 然《しか》れども 吾《わが》大王《おほきみ》の 諸人《もろひと》を 誘《いざな》ひ給《たま》ひ 善《よ》き事《こと》を 始《はじ》め給《たま》ひて 金《くがね》かも たしけくあらむと 思《おも》ほして 下悩《したなや》ますに 鶏《とり》が鳴《な》く 東《あづま》の国《くに》の 陸奥《みちのく》の 小田《をだ》なる山《やま》に 金《くがね》ありと 奏《まう》し賜《たま》へれ 御心《みこころ》を 明《あき》らめ給《たま》ひ 天地《あめつち》の 神《かみ》相納受《あひうづな》ひ 皇御祖《すめろき》の 御霊《みたま》助《たす》けて 遠《とほ》き代《よ》に かかりし事《こと》を 朕《わ》が御世《みよ》に 顕《あらは》してあれば 食国《をすくに》は 栄《さか》えむものと 神《かむ》ながら 思《おも》ほしめして もののふの 八十伴《やそとも》の雄《を》を まつろへの むけのまにまに 老人《おいひと》も 女童児《をみなわらは》も 其《し》が願《ねが》ふ 心足《こころだら》ひに 撫《な》で給《たま》ひ 治《をさ》め給《たま》へば 此《ここ》をしも あやに貴《たふと》み 嬉《うれ》しけく 愈《いよよ》思《おも》ひて 大伴《おほとも》の 遠《とほ》つ神祖《かむおや》の 其《そ》の名《な》をば 大来目主《おほくめねし》と 負《お》ひ持《も》ちて 仕《つか》へし官《つかさ》 海《うみ》行《ゆ》かば 水浸《みづ》く屍《かばね》 山《やま》行《ゆ》かば 草《くさ》生《む》す屍《かばね》 大皇《おほきみ》の 辺《へ》にこそ死《し》なめ 顧《かへり》みは せじと言立《ことだ》て 大夫《ますらを》の 清《きよ》きその名《な》を 古《いにしへ》よ 今《いま》のをつつに 流《なが》さへる 祖《おや》の子等《こども》ぞ 大伴《おほとも》と 佐伯《さへき》の氏《うぢ》は 人《ひと》の祖《おや》の 立《た》つる言立《ことだて》 人《ひと》の子《こ》は 祖《おや》の名《な》絶《た》たず 大(201)君《おほきみ》に 奉仕《まつろ》ふものと 言《い》ひ継《つ》げる 言《こと》の職《つかさ》ぞ 梓弓《あづさゆみ》 手《て》に取《と》り持《も》ちて 剣大刀《つるぎたち》 腰《こし》に取《と》り佩《は》き 朝守《あさまも》り 夕《ゆふ》の守《まも》りよ 大君《おほきみ》の 御門《みかど》の守護《まもり》 我《われ》をおきて また人《ひと》はあらじと 弥立《いやた》て 思《おも》ひし増《まさ》る 大皇《おほきみ》の 御言《みこと》の幸《さき》の【一に云ふ、を】 聞《き》けば貴《たふと》み【一に云ふ、貴くしあれば】
    葦原能 美豆保國乎 安麻久太利 之良志賣之家流 須賣呂伎能 神乃美許等能 御代可佐祢 天乃日嗣等 之良志久流 伎美能御代々々 之伎麻世流 四方國尓波 山河乎 比呂美安都美等 多弖麻都流 御調寶波 可蘇倍衣受 都久之毛可祢都 之加礼騰母 吾大王乃 毛呂比登乎 伊射奈比多麻比 善事乎 波自米多麻比弖 久我祢可毛 多之氣久安良牟登 於母保之弖 之多奈夜麻須尓 鶏鳴 東國乃 美知能久乃 小田在山尓 金有等 麻宇之多麻敞礼 御心乎 安吉良米多麻比 天地乃 神安比宇豆奈比 皇御祖乃 御靈多須氣弖 遠代尓 可々里之許登乎 朕御世尓 安良波之弖安礼婆 御食國波 左可延年物能等 可牟奈我良 於毛保之賣之弖 毛能乃布能 八十伴雄乎 麻都呂倍乃 牟氣乃麻尓々々 老人毛 女童兒毛 之我願 心太良比尓 撫賜 治賜婆 許己乎之母 安夜尓多敷刀美 宇礼之家久 伊余与於母比弖 大伴乃 遠都神祖乃 其名乎婆 大來目主等 於比母知弖 都加倍之官 海行者 美都久屍 山行者 草牟須屍 大皇乃 敞尓許曾死米 可敞里見波 勢自等許等太弖 大夫乃 伎欲吉彼名乎 伊尓之敞欲 伊麻乃乎追通尓 奈我佐敞流 於夜乃子等毛曾 大伴等 佐伯乃氏者 人祖乃 立流辞立 人子者 祖名不絶 大君尓 麻都呂布物能等 伊比都雅流 許等能都可左曾 梓弓 手尓等里母知弖 釼大刀 許之余等里波伎 安佐麻毛利 由布能麻毛利余 大王乃 三門乃麻毛利 和礼乎於吉弖 且比等波安良自等 伊夜多※[氏/一] 於毛比之麻左流 大皇乃 御言能左吉乃【一云、乎】 聞者貴美【一云、貴久之安礼婆】
 
【語釈】 ○葦原の瑞穂の国を わが国の古名。葦原にかこまれた、稲の豊かに実る国と、讃えての称。○天降りしらしめしける天皇の神の命の 天より降って御支配になった、天皇の神の命。瓊々杵尊を尊んでの称。○御代重ね天の日嗣としらし来る君の御代御代 御代を継いで重ねて、天(202)の日神の継承者として御支配になって来た大君の御代御代。瓊々杵尊以来の歴代の天皇の御代を通じて。○敷きませる四方の国には 御支配になる全国土には。「四方の国」は、皇居を中心としての四方の国で、全国土を具象的にいったもの。○山河を広み淳みと 「山河を」は、山や河であるが、全国土を地形的に言いかえたもの。「淳み」は、充実している意で、「み」は、どちらも理由を示すもの。地形が広く充実しているので。「と」は、以上を総括して、下に続ける意の助詞。○奉る御調宝は 「御調」は、地租以外の頁物の総称で、御調の宝は。○数へ得ず尽しも兼ねつ 数えきれず、言い尽くしかねた。「つ」は、完了の助動詞で、以上の全文はここで切れる。○諸人を誘ひ給ひ 臣民をお誘いになって。○善き事を始め給ひて 「書き事」は、仏説にいう、功徳のための善業で、廬遮那仏造立のこと。これは宣命に、「衆人《もろびと》を誘ひ率ゐて仕へ奉《まつ》る心は、禍|息《や》みて善く成り、危き変りて全《また》く平けむと念ほして仕へ奉る間に」とある個所をいっているのである。○金かもたしけくあらむと 「金かも」は、金は金箔として仏を塗る料としての物。「かも」は、疑問の係。「たしけく」は、底本など仙覚本系統の諸本には、原文「多能之気久」(たのしけく)とあるが、元暦校本には「能」がないので、正宗敦夫氏がそれによつて「たしけく」と改めたのである。「たしけく」は、「たしかに」と同じ。金は十分にあるだろうかの意。宣命の「衆人《もろびと》は成らじかと疑ひ、朕は金《くがね》少けむと念ひ憂へつつあるに」とある個所に当てていっていると取れる。○思ほして下悩ますに お思いになって、内心お悩みになるに。「思ほし」「悩ます」は、敬語。○鶏が鳴く 東の枕詞。○小田なる山に 『延喜式』神名に、小田郡黄金山神社とあり、現今の宮城県遠田郡涌谷町で、黄金迫という字がある。○金ありと奏し賜へれ 「賜へれ」は、已然形「賜へ」に、完了の助動詞「り」の接続した形で、已然条件法で、「奏せば」を敬語として、奏させていただけばとした語法である。「遣唐使時奉幣」に「皇神等《すめかみたち》の前に申し賜はく」とあるなどと同じく、この時代の語法である。○明らめ給ひ 明るくなされてで、上の「下悩ますに」に応じさせたもの。○天地の神相納受ひ 天神地祇すべて、よしとして諾い。○皇御祖の御霊助けて 皇祖の神霊が加護して。この四句は、宣命の中の「天《あめ》に坐す神|地《つち》に坐す神のあひうづなひ奉りさきはへ奉り、又|天皇《すめろき》の御霊たちの恵み賜ひ撫で賜ふことによりて、顕し示し給ふ物ならしと思ほしめせば」とあるによったもの。○遠き代にかかりし事を 遠い古の天皇の代に、このようにあったことを。「遠き代」は、尊い代の意でいったもの。「かかりしこと」は、黄金の産出したこと。これは廬遮那仏に申された宣命とは異なったものである。それには「天地《あめつち》の開闢《ひら》けしより以来《このかた》に、黄金《くがね》は人国《ひとくに》より献ることはあれども、此の地《つち》には無き物と念へるに」とあるからである。『考』は「かかりし」は「なかりし」の誤写として改めている。家持はそちらの宣命は知らなかったのであろう。また、黄金が出たというに近い記事は、続日本紀、文武天皇の巻に一度ならず出ているものなので、架空の言ではない。○朕が御世に顕してあれば 「顕してあれば」は、黄金を産出するという、前古にない瑞祥を顕わしているので。これは、上の「遠き代に」以下の四句とともに、宣命にあるのによったもの。○もののふの八十伴の雄を 朝廷の百官をの意の慣用句。既出。○まつろへのむけのまにまに 「まつろへ」は、下二段活用の他動詞で、名詞形。天皇に服従奉仕させる意。「の」は、にしての意で、同意語を接続させる助詞。「むけ」は、他動詞で、名詞形。こちらへ向かわしめるで、従わしめる意。従わしめているままに。これは本来は、背反している者の帰順しているままにの意であるが、転じて、天皇より見た廷臣の、日常の奉仕のさまをあらわす意にしたもの。現に奉仕しているままに。○老人も女童児も これは扶助なき老人も、頼りなき寡婦、孤児も。○其が願ふ心足ひに 「し」は、「其」の古語。「心足ひ」は、心の足ることで、熟語。満足の意。その者どもの願っていることの満足するように。「もののふの八十伴の雄を」よりこれまでは、宣命の後半をなしていることを総括していっているもので、天皇は、御自身の御世に、かつてない瑞祥の顕われたことの歓びとして、この歓びを全臣民に分かとうと思し召され、(203)それにつき、まず功臣を賞され、次に庶民を恤もうとして、さまざまなことをなされたのであるが、それを総叙したもの。以下は、功臣として大伴、佐伯の二氏のことにも及んでいるので、家持は自身のこととして大伴氏について細叙するのである。○此をしもあやに貴み その点を甚しく貴く思い。○嬉しけく愈思ひて 「嬉しけく」は、うれしいことで、名詞形。うれしいことにいよいよ思って。○大伴の遠つ神祖の 大伴氏の遠祖の。「神」を添えているのは、遠祖に神性を認めてのもの。「遠つ神祖」は、天忍日《おしび》命とも、また道臣命とも取れる。天忍日命は、古事記、上巻、天孫降臨の際に供奉した人で、「故《かれ》爾《ここ》に天忍日命、天津久米命、(中略)御前《みさき》に立ちて仕へ奉《まつ》りき。故《かれ》その天忍日命こは大伴|連《むらじ》等の祖、天津久米命こは久米|直《あたひ》等の祖なり」とあるからである。また、道臣命は、神武天皇東征の際の武将で、大伴氏には中興の祖である。後の続きから見ると、「遠つ神祖」というのはこの人をさしているのである。○其の名をば大来目主と負ひ持ちて仕へし官 その名を大来目主と負って、仕えたところの役のの意。「大来目主」は、ここは職名である。「来目」は、古事記、日本書紀の神武の巻に、「久米部」とあるもので、天皇直属の兵士の集団の名である。ここの「来目」もそれで、「主」は、その長官。「大」は、尊んで添えた語で、兵団の長官の意である。その名を兵団の長官と負い持って、すなわち武将として仕えて来た職の、の意。○海行かば水浸く屍 以下は古歌謡で、大伴氏に伝わったものとしている。海を行ったならば、水浸くからだとなろうで、「屍」は、からだ。○山行かば草生す屍 山を行ったら草の生えるからだとなろうで、上と同じ。○大皇の辺にこそ死なめ顧みはせじと言立て 大皇の辺りでこそ死のう。一身を顧みはしまい、と言い立てて。「顧みはせじ」までが古歌謡で、武臣として、いかなる場合にも決死の覚悟をもって責めを果たそうの意である。「大伴の遠つ神祖」以下これまでは、宣命によってのものである。それは宣命には「大伴佐伯の宿禰は、常も云ふ如く、天皇《すめら》が朝守り仕へ奉《まつ》ること、顧み無き人どもにあれば、汝《いまし》たちの祖《おや》どもの云ひ来らく、海行かば水浸くかばね、山行かば草むすかばね、大君の辺にこそ死なめ、のどには死なじと云ひ来る人どもとなも聞しめす」というのである。歌謡の結句「のどには死なじ」は、のどかには死ぬまい、である。歌は「顧みはせじ」であるが、多分二様に伝えられていたので変えたのであろう。○古よ今のをつつに 古より今の現実にわたって。「をつつ」は、現実。○流さへる祖の子等ぞ 「流さへる」は、「流さふ」に助動詞「り」の接続したもの。伝えて来ている祖先の子孫なる我ぞで、自身の職責を強く認識した意。○大伴と佐伯の氏は 「佐伯」は、雄略天皇の代に大伴守屋が、その子|談《かたる》と相並んで宮門を守ることとなり、その談の子孫が佐伯氏となったので、同族である。○人の祖の立つる言立 人の祖たる者の立てている言立てとして。○人の子は祖の名絶たず大君に奉仕ふものと 人の子たる者は、祖の職名を絶たずに、大君に奉仕する者であると。「名」は、職名の意である。これは廷臣の間に一般にいわれていた語としてのものである。「祖の名絶たず」は、大化改新以前は、官職は世襲するものとなっており、大きな過失がない限りは免ぜられることはなかったので、忠誠を尽くしてということと同意語だったのである。○言ひ継げる言の職ぞ 古から言い伝えている語のある、その職であるぞ。家訓を守って、そのとおりにして来ているわが武の職分の意。○朝守り夕の守りよ 朝の守り、夕べの守りで、「よ」は、指定の助詞。「朝」「夕」は、終日で、不断の意。○弥立て思ひし増る 「弥立て」は、上の「言立」に対させたもので、いよいよ堅く言立てをして。「思ひし増る」は、職責に対しての思いがまさって来るで、「し」は、強意。上の「嬉しけく愈思ひて」に応じさせたもの。○御言の幸の聞けば貴み 「御言の幸の」は、詔のありがたさをで、「の」は、一にいうの「を」であるべきである。「聞けば貴み」は、聞けば貴いので。「御言の幸の」は、「貴くしあれば」と続くべきである。
【釈】 葦原の瑞穂の国を、高天原より降って御支配になられた、天皇の神の命が、御代を重ねて、天つ日嗣として御支配になっ(204)て来ている大君の御代御代に御支配になっている四方の国には、山河が、広くて充実しているので、献上する貢物の宝は、数えきれず言い尽くせないことであった。しかしながらわが大君が臣民をお誘いになり善業をお始めになって、黄金が十分にあるだろうかとお思いになり、内心お悩みになっていると、鶏が鳴く東の国の陸奥の、小田にある山に、黄金があると奏させていただいたので、お心を朗らかになされ、これは、天地の神々がよしとして諾い、皇祖の御霊も御加護になって、古の代にこのようにあった事を朕の御世に顕わしたことなので、御領国は栄えることであると、神のままにお思いになられて、廷臣の諸部の者を、御奉仕の現状のままに、老いて扶けなき老い人も、寡婦孤児も、その者どもの願っていることの満足するように、お撫でになり、お治めになられるので、その点が甚しく尊く、嬉しいことにいよいよ思って、大伴氏の遠い神祖が、その名を大来目主と負って御奉仕申した職の、海を行ったならば水浸く体《からだ》となろう、山を行ったならば草の生える体となろう。大君の辺りにこそ死のう。一身を顧みることはしまい、と言い立てて、大夫としていさぎよい名を、古より今の現在にわたって伝えて来ている先祖の子孫であるぞ。大伴と佐伯との二氏は、人の祖たる者のする言立ての、人の子たる者は、祖の職名を断絶させずに、大君に御奉仕するものだと言い継いで来た、その語どおりの武の職であるぞ。梓弓を手に取り持って、剣の大刀を腰に取り帯びて、朝の守り、夕べの守りぞ。大君の御門の守護は、我を外にして他にはその人があるまいと、いよいよ言立て、忠誠の思いがまさって来ることである。大君の詔のありがたさを聞くと貴いので。【一には云ふ、大君の詔が有難くあるので。】
【評】 題詞の「陸奥国より金を出せる詔書」は、「詔書」は後世でいう宣命で、それは多くの宣命中でも最も長大な物で、長大なのは聖武天皇がいたく感動されてのものだからである。その感動はうかがいやすいことである。廬遮那仏は、宣命の中にもあるが、国家擁護のための仏で、その上では最も多力の神だったのである。国帑《こくど》を傾け、多年にわたっての工事は、そのお心からのことで、鍍金の黄金のないのを悩まれたというのは、かりそめ事ではなかったのである。そこへ、古来わが国にはないものとされていた黄金が出たので、天皇はただちに、この時代には特に高まっていた瑞祥思想から、廬遮那仏の顕わされたものとしたのである。その歓喜されたことはいうまでもない。それにつけ天皇は、この瑞祥は朕一人のものとすべきではない、全臣民とともに受けようと思われ、まず社、寺、それに属する祝、僧、陵戸の者より初め、頼りない老幼、婦女に恵みを垂れ、ことに近世の功臣を思われ、その子孫を恤み、その墓までも重んじるようにされたのである。功臣中でも、大伴、佐伯二氏の宮門護衛の功を重く認められ、さらに今後をも奨励されたのである。家持のこの歌は、一にその宣命に沿って詠んでいるものなのである。宣命の主旨である、瑞祥としての黄金の顕われについては、家持の物言いは婉曲で、また概略である。それは彼としては心してのことであったと思われる。天皇の歓喜を、直接の形で汲みうるごとき物言いをするのは、冒涜に近いことで、けっしてすべからざることと遠慮したとみえる。これは当然の用意だったのである。宣命の後半の、天皇が歓びを分かとうとしてなされた、各方面への恵みも、全然触れずにいる。これも上と同じく、たとい善行にもせよ、天皇の御行動に対して立ち(205)入っての物言いをするのは遠慮すべきだとしたものと思われる。しかし大伴氏のことについては、ほとんど宣命に近いほどの多くの語を連ねている。これにも用意があって、宣命は古来の功臣としての大伴氏をいわれているのであるが、家持はすべて自身の問題として、祖先の忠誠の精神をわが精神とし、一意祖先の名を守ろうと、我と自身を励ますものとして、そこに一首の重点を置いているのである。しかしこの時代には大伴氏はもとより、家持も武臣ではなかったのである。一首、「賀く歌」とはいっているが、宣命を一臣下として文字どおり承認し、「弥立て思ひし増る」と結んでいるように、自身の奉公の念を励ましたものである。一首の出来栄えとしては、宣命に即していおうとする条件下に作ったものなので、単純化は期しているが、おのずから複雑になり、それに引かれつつ言い続けている形になっているので、勢い平面的になり、こうした性質の歌に必要な、立体感の乏しいものとなってしまっている。これは言いかえると、家持はこの宣命を読んだ際の感動に圧倒され、それを支配するだけの魄力がなかったというべきである。宣命の発せられたのは四月一日で、これを作ったのは左注で五月十二日であるから、宣命が越中に伝達される期間はあったにもせよ、その間一と月があったので、時間が不足したとはいえないのである。
 
     反歌三首
 
4095 大夫《ますらを》の 心《こころ》思《おも》ほゆ 大君《おほきみ》の 御言《みこと》の幸《さき》を【一に云ふ、の】 聞《き》けば貴《たふと》み【一に云ふ、貴くしあれば】
    大夫能 許己呂於毛保由 於保伎美能 美許登能佐吉乎【一云、能】 聞者多布刀美【一云、貴久之安礼婆】
 
【語釈】 ○大夫の心思ほゆ 大夫たる者の心が思われるで、「大夫」は、長歌をうけて、武臣。「思ほゆ」は、振い起こされる意。
【釈】》 大夫としての心が振い起こされる。大君の御言のありがたさを、聞けば貴いがゆえに。
【評】 長歌の後段の心を要約して、その結尾の句を繰り返した形のものである。反歌としては古風な型である。歌の性質上、それを適当だとしてのことであろう。感動がただちに調べとなっている。要を得た反歌である。
 
4096 大伴《おほとも》の 遠《とほ》つ神祖《かむおや》の 奥《おく》つ城《き》は 著《しる》く標《しめ》立《た》て 人《ひと》の知《し》るべく
    大伴乃 等保追可牟於夜能 於久都奇波 之流久之米多弖 比等能之流倍久
 
【語釈】 ○大伴の遠つ神祖の 長歌にあった語で、道臣命であろう。中興の人を祖神とするのは例のあることで、むしろ普通である。○奥つ城は (206)墓を具体的にいったもので、地下の一劃の構えをした場所の意。道臣命の墓は、所在不明である。大伴氏は神武天皇東征以来、大阪湾に面した大伴の地を所領とし、それを氏の名ともしているのであるから、その方面であろう。なお、『三代実録』、貞観十五年十二月の条に、河内国の正六位上、天押日命の神に従五位下を授ける記事がある。その社は現在の大阪府南河内郡の伴林神社だという。つながりがあるかと思われる。○著く標立て人の知るべく 明白に標示を立てよ、世の人のそれと知るように。
【釈】 大伴の遠祖の神の墓には、明白に標示を立てよ。世の人のそれと知るように。
【評】 これは、詔書に、「国家《みかど》護り仕へ奉《まつ》る事の勝れたる臣たちの侍ふ所には、表《しるし》を置きて、天地《あめつち》と共に人に侮らしめず穢《けが》さしめず治め賜ふと」とあるのにより、それをするために人に命じる心のものである。上に続いて、詔書の御心を謹みうけての心のものである。
 
4097 天皇《すめろき》の 御代《みよ》栄《さか》えむと 東《あづま》なる みちのく山《やま》に 金《くがね》花《はな》咲《さ》く
    須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜麻尓 金花佐久
 
【語釈】 ○東なるみちのく山に 東にある陸奥国の山にで、長歌にある「小田なる山」を言いかえたもの。○金花咲く 黄金か、花のごとくに咲くの意で、「花咲く」は、なかった物の新たに現われたことと、そのものの美しいこととをあわせあらわした譬喩である。瑞祥の意である。
【釈】 天皇の御代が栄えようとて、その瑞祥に、東にある陸奥山に、黄金が花のごとくに咲き出す。
【評】 上の二首は、長歌の後段の、自身に即したものについての反歌であるが、最後に前段の、天皇の瑞祥に対しての賀を陳べて結びとしたのである。黄金の出現を「花咲く」と、麗わしく花やかに進展せしめたのである。この譬喩は、この場合きわめて適切なものである。
 
     天平感宝元年五月十二日、越中国の守の館にて大伴宿禰家持の作れる。
      天平感寶元年五月十二日、於2越中國守館1大伴宿祢家持作之。
 
     芳野離宮《よしののとつみや》に行幸《いでま》さむ時の為に、儲《ま》けて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 天皇が芳野離宮に行幸をなさるであろう時、供奉を仰せつけられ、そうした時の例として賀歌を献ずる時のために、あ(207)らかじめ設けて作った歌の意である。「儲作」は、預作ともいう。前人のしたことにならってのものか、またはそうした事がありうると予想してのことかは不明である。
 
4098 高御座《たかみくら》 天《あま》の日嗣《ひつぎ》と 天《あめ》の下《した》 知《し》らしめしける 天皇《すめろき》の 神《かみ》の命《みこと》の 畏《かしこ》くも 始《はじ》め給《たま》ひて 貴《たふと》くも 定《さだ》め給《たま》へる み吉野《よしの》の この大宮《おほみや》に 在《あ》り通《がよ》ひ 見《め》し給《たま》ふらし もののふの 八十伴《やそとも》の緒《を》も 己《おの》が負《お》へる 己《おの》が名《な》負《お》ひ 大王《おほきみ》の 任《まけ》のまくまく 此《こ》の河《かは》の 絶《た》ゆることなく 此《こ》の山《やま》の 弥《いや》つぎつぎに 斯《か》くしこそ 仕《つか》へ奉《まつ》らめ いや遠永《とほなが》に
    多可美久良 安麻乃日嗣等 天下 志良之賣師家類 須賣呂伎乃 可未能美許等能 可之古久母 波自米多麻比弖 多不刀久母 左太米多麻敞流 美与之努能 許乃於保美夜尓 安里我欲比 賣之多麻布良之 毛能乃敷能 夜蘇等母能乎毛 於能我於弊流 於能我名負 大王乃 麻氣能麻久々々 此河能 多由流許等奈久 此山能 伊夜都藝都藝尓 可久之許曾 都可倍麻都良米 伊夜等保奈我尓
 
【語釈】 ○高御座天の日嗣と 高御座に在《ま》す天の日嗣としてで、天皇を讃え奉っての称。上の(四〇八九)に出た。○天の下知らしめしける 「天の下」は、わが国の意。○畏くも始め給ひて 「畏くも」は、天皇の御幸として添えたもの。「始め給ひて」は、吉野への行幸をお始めになって。日本書紀、応神紀に、「十九年冬十月戊戌朔、幸2吉野宮1。」とあるのが、史上に見える吉野行幸の初めである。○貴くも定め給へる 「貴くも」は、「畏くも」と同じ。「定め給へる」は、離宮と御定めになったところの。○在り通ひ見し給ふらし 「在り通ひ」は、継続して通って御覧になるらしい。「見《め》し」は、「見る」の敬語「見《み》し」の転音。以上一段。○もののふの八十伴の緒も 廷臣の八十と多くの職業集団の長もで、廷臣の性質を示す古くよりの慣用句。供奉の廷臣もの意。○己が負へる己が名負ひ 「己が名負ひ」は、自分の名として負い持っているで、これは自分の職業の名を負うている、の意である。古くは廷臣の官職は世襲であったので、最も明らかな名は「何部」という、その職業集団の名を自分の名とし、またそうした名でなくとも、氏によって職業は定まっていたので、氏はすなわち職業を示していたのである。その職業の朝廷奉仕のものであることは無論である。「己が名負ひ」は、自分の名を負うて。二句、自分の職業をあらわす名を持つところの自分の名を持ってで、これは廷臣の名を、朝廷の側から見た意で、朝廷に中心を置いての言い方である。○大王の任のまくまく 「まくまく」は、『代匠記』は、「まにまに」と同意語だとしている。異説もあるが、これに従う。天皇の御任命のままに。
【釈】 高い御座に在す天つ日嗣として、天下を御支配になられたところの、天皇の神の命が、恐れ多くもお始めになって、貴く(208)も離宮とお定めになっている、吉野のこの大宮に、継続して通って山水の景を御覧になられるらしい。廷臣である多くの職業集団の長も、自分の職業として負っている自分の名を負うて、大君の御任命のままに、この吉野の河のように絶えることがなく、この吉野の山のようにいよいよつぎつぎに、このようにお仕え申し上げることであろう。いよいよ永遠に。
【評】 行幸の際の賀歌はほぼ型ができている上に、吉野離宮の行幸のものは、一段とそれが固まっており、最も新意の出し難いものである。それとしてはこの歌は、比較的新意のあるものである。この歌は賀を、時の悠久ということに置き、それをもって統一しているものである。前段は皇室のことをいい、吉野離宮の始めの甚だ悠遠なことを語少なくいい、後段は、廷臣の御奉仕の悠遠に続くであろうことをいって、河と山とをその上での譬喩としているのである。時によっての統一が徹底しているので、単純に気分化されたものとなり、語も調べも静かな、刺激の少ないものとなっている。一首、奈良朝時代の盛時の気分を反映しているごとき趣がある。想像で作ったものとて、生動の趣が無さすぎる欠点はあるが、それを補いうる長所を持っているといえよう。
 
     反歌
 
4099 いにしへを 思《おも》ほすらしも 我《わ》ご大君《おほきみ》 吉野《よしの》の宮《みや》を 在《あ》り通《がよ》ひ見《め》す
    伊尓之敞乎 於母保須良之母 和期於保伎美 余思努乃美夜乎 安里我欲比賣須
 
【語釈】 略す。
【釈】 古えのことをお思いになるらしい。わが大君は、吉野宮を、継続して通って御覧になる。
【評】 長歌の前段を要約して、繰り返したものである。
 
4100 もののふの 八十氏人《やそうぢびと》も 吉野河《よしのがは》 絶《た》ゆることなく 仕《つか》へつつ見《み》む
    物能乃布能 夜蘇氏人毛 与之努河波 多由流許等奈久 都可倍追通見牟
 
【語釈】 ○もののふの八十氏人も 「八十氏人」は、八十と多くの氏の人で、伴の緒というよりも意味の広い称で、成句である。○吉野河絶ゆる(209)ことなく 「吉野河」は、譬喩の意のもので、形としては枕詞的になっている。○仕へつつ見む 「見む」は、風光をであるが、上の吉野河をからませている。
【釈】 廷臣の多くの氏の人も、吉野河の水のように絶えることなく、永遠に奉仕しつつもこの風光を見よう。
【評】 これは後段を繰り返したものである。吉野河の風光を絡ませたところに、時代の気分がある。
 
     京《みやこ》の家に贈らむ為に、真珠を願ふ歌一首 并に短歌
 
【題意】 「京の家に贈らむ」は、奈良の大伴氏の家にいる妻、坂上大嬢に贈らむの意。「真珠を願ふ」は、真珠を得んと願う意。「真珠」は、鰒玉で、しら珠。今の真珠である。海辺よりの家苞として、女の最もほしがっていた物である。
 
4101) 珠洲《すす》の海人《あま》の 沖《おき》つ御神《みかみ》に い渡《わた》りて 潜《かづ》き採《と》ると云《い》ふ 鰒珠《あはびだま》 五百箇《いほち》もがも はしきよし 妻《つま》の命《みこと》の 衣手《ころもで》の 別《わか》れし時《とき》よ ぬばたまの 夜床《よどこ》片《かた》こり 朝寝髪《あさねがみ》 掻《か》きも 梳《けづ》らず 出《い》でて来《こ》し 月日《つきひ》数《よ》みつつ 歎《なげ》くらむ 心慰《こころなぐさ》に 霍公鳥《ほととぎす》 来鳴《きな》く五月《さつき》の 菖蒲草《あやめぐさ》 花橘《はなたちばな》に 貫《ぬ》き交《まじ》へ 蘰《かづら》にせよと 包《つつ》みて遣《や》らむ
    珠洲乃安麻能 於伎都美可未尓 伊和多利弖 可都伎等流登伊布 安波妣多麻 伊保知毛我母 波之(210)吉餘之 都麻乃美許登能 許呂毛泥乃 和可礼之等吉欲 奴婆玉乃 夜床加多古里 安佐祢我美 可伎母氣頭良受 伊泥※[氏/一]許之 月日余美都追 奈氣久良牟 心奈具佐尓 保登等藝須 伎奈久五月能 安夜女具佐 波奈多知婆奈尓 奴吉腕自倍 可頭良尓世餘等 都追美※[氏/一]夜良牟
 
【語釈】 ○珠洲の海人の 「珠洲」は、石川県珠洲市、能登半島の末端の海岸の地で、そこの海人の。○沖つ御神に 沖の御神で、沖にいます海神の神霊の意であるが、これは反歌にある「沖つ島」である。『延喜式』神名に、辺津比※[口+羊]神社は七つ島にあり、奥津比※[口+羊]神社は舳倉島にあるとある、その舳倉島である。○鰒玉五百箇もがも 「鰒珠」は、真珠。舳倉島は、産地とされていたのである。「五百箇」の「ち」は、一つ二つの「つ」の通音。たくさんという意を、具象的にいったもの。「もが」は、願望の助詞。以上一段。○はしきよし妻の命の 愛すべき妻の命が。「命」は、女性に対しての慣用の敬称。○衣手の別れし時よ 袖が別れた時から。手を別つというと同じ。○ぬばたまの夜床片こり 「ぬばたまの」は、夜の枕詞。「片こり」は、「こり」は、用例のない語。原文「古里」で、諸本同じである。『代匠記』は、「古」は「左」の誤写としている。とにかく、その意と取れる。共寝の床を、一方へ去って寝てで、夫のための分を空けて置く寝方。これは夫を待つ呪法としてのことで一般に行なわれていたものである。○朝寝髪掻きも振らず 朝の寝くたれ髪を掻き梳りもせずに。心の張りを失っての懶《ものう》さのためである。○出でて来し月日数みつつ 我の家を出て、ここへと来た時からの月日を数えつつ。○歎くらむ心慰に 「心慰に」は、原文は諸本「心奈具佐余」とあるが、「余」は「尓」の誤りとする『代匠記』の説に従う。「心慰」は、心の慰めで、心慰めのために。以上二段。以下三段。○霍公鳥来鳴く五月の菖蒲草花橘に 霍公鳥が来て鳴く五月の、その節日に、菖蒲草と橘の花とに。○貫き交へ蘰にせよと包みて遣らむ 鰒珠を貫き交じえて宴の折の蘰にせよといって、物に包んで贈ろう。「包みて」は、人に物を贈るおりの型である。
【釈】 珠洲の海人が、沖の御神へ渡って行って、水に潜り入って採るという鰒珠を、たくさんに欲しいものであるよ。愛すべき妻の命が、その袖のわが袖と別れた時から、夜床を片寄って寝て、朝の寝くたれ髪も梳らずに、我の家を出て来た時からの月日を数えつつ、嘆いているだろう心慰めのために、ほととぎすが来て鳴く五月五日の節日に、菖蒲草と橘の花とに貫きまぜて、蘰にせよといって、物に包んで贈ろう。
【評】 左注に「五月十四日興に依りて作れる」とあるが、まさにそうした作と思われるものである。中核をなしていることは、鰒珠を京の妻に贈りたいというだけのことである。男が海辺へ旅をした場合には、妻に家苞として珠を贈りたいと思い、妻もまたそれを期待していた歌は多く、一つの常識のようになっていたとみえる。家持からいえば、部内の能登の舳倉島はその産出地であるから、そこの鰒珠を贈ろうという思いつきは、きわめて普通な、また自然なことである。しかし「五百箇もがも」は大げさで、まさに興である。それにつけ、妻が恋の悩みをしている「心慰」にしようというのは、もっともというよりも、むしろもっともにすぎるものである。転じて、五月の節日の蘰に、玉として貫かせようというのはおもしろいが、いかんせん(211)その時は、五日を十日も過ぎようとする十四日で、これは興にすぎる連想であろう。「興」そのものはさしたるものではないが、一首、気分に乗じての作なので、単純で、簡潔で、しかもいささかながら変化飛躍もあって、おのずから三段になっているのである。要するにできばえの良い、その意味での魅力を持った歌である。
 
4102 白玉《しらたま》を 包《つつ》みて遣《や》らば 菖蒲草《あやめぐさ》 花橘《はなたちばな》に 合《あ》へも貫《ぬ》くがね
    白玉乎 都々美※[氏/一]夜良婆 安夜女具佐 波奈多知婆奈尓 安倍母奴久我祢
 
【語釈】 ○白玉を包みて遣らば 「白玉」は、鰒珠。「遣らば」の「ば」は、原文「婆」。『代匠記』は「那」の誤写としている。結句の「貫くがね」との照応上、そのほうが自然であるが、推量にすぎないことなので、原文に従うほかはない。○合へも貫くがね 交じえて貫く料にで、下に「するだろう」の意のあるものと見なくてはならぬ。
【釈】 白玉を包んで贈ってやったならば、菖蒲草や橘の花に交じえて貫く料にするだろう。
【評】 長歌の結末の繰り返しで、無造作な作である。
 
4103 沖《おき》つ島《しま》 い行《ゆ》き渡《わた》りて 潜《かづ》くちふ 鰒珠《あはびだま》もが 包《つつ》みて遣《や》らむ
    於伎都之麻 伊由伎和多里弖 可豆久知布 安波妣多麻母我 都々美弖夜良牟
 
【語釈】 ○沖つ島い行き渡りて 「沖つ島」は、沖の島で、長歌の「沖つ御神」で、舳倉島である。○潜くちふ 「ちふ」は、「といふ」の約言で、連体形。○鰒玉もが 「もが」は、願望の助詞。
【釈】 沖の島に渡って行って、海人が水に潜いて採るという鰒珠を欲しいものだ。包んで贈ろう。
【評】 長歌の第一段の繰り返しにすぎないものである。
 
4104 吾妹子《わぎもこ》が 心慰《こころなぐさ》に 遣《や》らむため 沖《おき》つ島《しま》なる 白玉《しらたま》もがも
    和伎母故我 許己呂奈具佐尓 夜良無多米 於伎都之麻奈流 之良多麻母我毛
 
(212)【語釈】 ○白玉もがも 「白玉」は、鰒珠の当時の称。
【釈】 吾妹子の心慰めとして贈ろうがために、沖の島にあるという白玉を欲しいものだなあ。
【評】 第一段と第二段とを一つにして繰り返したものである。「沖つ島なる白玉」というので、そこは鰒珠の採れる所だと聞いたことが明らかである。
 
4105 白玉《しらたま》の 五百箇集《いほつつどひ》を 手《て》にむすび 遣《おこ》せむ海人《あま》は むがしくもあるか
    思良多麻能 伊保都追度比乎 手尓牟須妣 於許世牟安麻波 牟賀思久母安流香
 
【語釈】 ○白玉の五百箇集を 白玉の五百もの集まりを。巻十(二〇一二)「白玉の五百つ集を解きも見ず」とあるが、それは緒に貫いたもので、ここは採ったばかりの物である。成語を借りたのである。○手にむすび 手に掬びで、水を手で掬ぶように白玉を掬んで。○遣せむ海人は 「遣せむ」は、我によこさむで、わが許に持って来てよこすだろう海人は。○むがしくもあるか 「むがし」は、喜ばしい、なつかしいの意の形容詞。こちらに向かうことが望ましいの意の語。「おむがし」「うむがし」などと同じである。「あるか」は、「か」は、詠歎の助詞で、「かな」。
【釈】 白玉の五百もの集まりを、手に掬んで、私の所へ持って来てよこすであろう海人は、なつかしいことだなあ。
【評】 上の三首はすべて長歌の繰り返しにすぎないもので、無造作で、しつこさを思わせるものであったが、これはいささかながら展開を持ったものである。純気分の作で、長歌と同じく想像でいっている軽いものなので、おのずから生趣を持ったものとなっている。
 
     一に云ふ、我家《わぎへ》むきはも
      一云、我家牟伎波母
 
【解】 結句の別案と取れる。解しかねるので、問題となっている。元暦校本、類聚古集には「我家牟伎波母」の、「伎」がない。それによると、「家牟波母」は「けむはも」と訓めるが、「我」が問題となる。誤謬があろう。
 
     右は、五月十四日、大伴宿禰家持の、興に依りて作れる。
(213)      右、五月十四日、大伴宿祢家持、依v興作。
 
     史生《ふみかくひと》尾張少咋《をはりのをくひ》を教へ喩す歌一首 井に短歌
 
【題意】 「史生」は、書記で、国庁の最低の官。「尾張少咋」は、伝不明。妻が奈良に居たところから見て、中央から下った人とみえる。「教へ喩す」は、国司はその職制の中に、管下の民を教えるべき事が加わっている。今は下僚のことであるから、その必要があるとしてである。これは巻五(八〇〇)山上憶良の「或へる情を反さしむる歌」と同じことで、歌そのものもそれにならったところのあるものである。
 
     七出《しちしゆつ》の例に云ふ、
     但し一条を犯せらば、即ち出すべし。七出無くて輙《たやす》く棄つる者は、徒《づ》一年半。
     三不去《さんふこ》に云ふ、
     七出を犯すとも、棄つべからず。違《たが》へる者は杖一百。唯※[(女/女)+干]を犯せると悪疾とは棄つることを得。
     両《ふたり》の妻の例に云ふ、
     妻有り、更に娶る者は、徒一年。女家《によけ》は杖一百にして離て。
     詔書に云ふ、
     義夫節婦を愍《あはれ》み賜《た》ぶ。
     謹みて案《かむがふ》るに、先の件の数条は、法を建つる基、道に化《おもむ》くる源なり。然らば則、義夫の道は、情、別なきに存す。一つの家に財を同《とも》にし、豈旧きを忘れ新しきを愛づる志有らめや。所以《このゆゑ》に数行の歌を綴り作《な》し、旧きを棄つる惑を悔いしむ。其の詞に曰く、
     七出例云、
     但犯2一條1、即合v出之。無2七出1輙棄者、徒一年半。
(214)     三不去云、
     雖v犯2七出1不v合v棄之。違者杖一百。唯犯v※[(女/女)+干]悪疾得v棄之。
     兩妻例云、
     有v妻更娶者、徒一年。女家杖一百離之。
     詔書云、
     愍2賜義夫節婦1。
     謹案、先件數條、建v法之基、化v道之源也。然別義夫之道、情存v無v別。一家同v財、豈有2忘v舊愛v新之志1哉。所以綴2作數行之歌1、令v悔2棄v舊之惑1。其詞曰、
 
【解】 「七出」というのは、夫がその妻を去る場合、正当であるとして、国法が認める七つの理由の称である。「例に」は、実例として。この「七出」、次の「三不去」は、この時代の法律であった「大宝令」の中の「戸令」にあるものである。「大宝令」は散佚して後に伝わらないが、部分的には残っているものがあり、それによって出所が知られるのである。「七出」というのは、「凡、妻を棄てむことは、七出の状あるべし。一には子無き、二には婬※[さんずい+失]、三には舅姑に事《つか》へざる、四には口舌《くぜつ》、五には盗癖、六には妬忌、七には悪疾」とある。「一条を犯せらば」は、上の七つの理由の中の一つを犯したならば。「徒」は、刑罰の称の一つで、一定の場所に拘禁して、労役に服させること。「一年半」は、その期間。「三不去」は、上の「七出」の個条に続いているもので、「七出を犯すとも棄つべからず」とある付則である。「三不去」というのは、「一には経《かつ》て舅姑の喪を持《たす》けし、二には娶りし時に賤しかりしが後に貴き、三には受けし所ありて帰す所なき」である。これにもまた付則があって、「即義絶婬※[さんずい+失]悪疾を犯さば此令に拘はらざれ」というのである。「杖」は、刑罰の名で、杖で打たれることで、「徒」よりは一段軽い刑。「一百」は、打たれる数。「両の妻」は、重婚である。「女家」は、婦人の意で、「離て」は、放てよ。女も男と同じく、一段軽い刑に処したのである。「詔書」は、いつのものともわからぬが、内容を見ると、この種のものはしばしば発せられた。「一つの家に財を同にし」は、同じ家に財物を共にして住んでいて。
 
4106 大己貴《おはなむち》 少彦名《すくなびこな》の 神代《かみよ》より 言《い》ひ継《つ》ぎけらく 父母《ちちはは》を 見《み》れば尊《たふと》く 妻子《めこ》見《み》れば 愛《かな》しく愍《めぐ》し うつせみの 世《よ》の理《ことわり》と かく様《さま》に 言《い》ひけるものを 世《よ》の人《ひと》の 立《た》つる言立《ことだて》 ち(215)さの花《はな》 咲《さ》ける盛《さかり》に 愛《は》しきよし その妻《つま》の児《こ》と 朝夕《あさよひ》に 笑《ゑ》みみ笑《ゑ》まずも うち歎《なげ》き 語《かた》りけまくは 永久《とこしへ》に 斯《か》くしもあらめや 天地《あめつち》の 神《かみ》こと依《よ》せて 春花《はるはな》の 盛《さかり》もあらむと 待《ま》たしけむ 時《とき》の盛《さかり》ぞ 離《はな》り居《ゐ》て 歎《なげ》かす妹《いも》が 何時《いつ》しかも 使《つかひ》の来《こ》むと 待《ま》たすらむ 心《こころ》さぶしく 南風《みなみ》吹《ふ》き 雪消《ゆきけ》まさりて 射水河《いみづがは》 流《なが》る水沫《みなわ》の よる辺《べ》無《な》み 左夫流《さぶる》その児《こ》に 紐《ひも》の緒《を》の いつがり合《あ》ひて 鳰鳥《にほどり》の 二人《ふたり》並《なら》び坐《ゐ》 奈呉《なご》の海《うみ》の 沖《おき》を深《ふか》めて 惑《さど》はせる 君《きみ》が心《こころ》の 術《すべ》もすべ無《な》さ 【佐夫流と云ふは、遊行女婦の字なり】
    於保奈牟知 須久奈比古奈野 神代欲里 伊比都藝家良久 父母乎 見波多布刀久 妻子見波 可奈之久米具之 宇都世美能 余乃許等和利止 可久佐末尓 伊比家流物能乎 世人能 多都流許等太弖 知左能花 佐家流沙加利尓 波之吉余之 曾能都末能古等 安沙余比尓 惠美々惠末須毛 宇知奈氣支 可多里家末久波 等己之部尓 可久之母安良米也 天地能 可未許等余勢天 春花能 佐可里裳安良牟等 末多之家牟 等吉能沙加利曾 波奈利居弖 奈介可須移母我 何時可毛 都可比能許牟等 末多須良无 心左夫之苦 南吹 雪消益而 射水河 流水沫能 余留弊奈美 左夫流其兒尓 比毛能緒能 移都我利安比弖 尓保騰里能 布多里雙坐 那呉能宇美能 於支平布可米天 左度波世流 支美裁許己呂能 須敞母須敞奈佐 【言2佐夫流1者遊行女婦之字也】
 
【語釈】 ○大己責少彦名の神代より言ひ継ぎけらく 「大己貴少彦名の」は、神代の説明としての語。出雲系統の、国土開発の神で、一般に親しく感じられる言い伝えになっていたとみえる。○父母を見れば尊く妻子見れば愛しく愍し 「愛しく愍し」は、可愛ゆくもいじらしくもある。○うつせみの世の理と 「うつせみ」は、現身で、人というにあたる。人の世の道理であるとして。以上、山上憶良の「或へる情を反さしむる歌」の「父母を見れば尊し、妻子見ればめぐし愛し、世の中はかくぞ道理」〔巻五(八〇〇)〕とあるにならったもの。○かく様に言ひけるものを このようにいって来たものを。○世の人の立つる言立 世間の人の立てる言い立てとして。○ちさの花咲ける盛に 「ちさ」は、ちしゃの木ともいい、九州中国辺の山地に自生する落葉喬木で、七月頃、白色小弁の花を開く。ちさの花が咲いている盛りにで、これは少咋が、越中の国庁に仕える前、(216)その妻と同棲していた所をいったもの。○愛しきよしその妻の児と 愛すべきその妻と。「妻の児」は、愛称。○笑みみ笑まずも 笑みもし、また笑まずにもで、睦ましいが、嘆きもあってという意の具象。○語りけまくは 「けまく」は、「けむ」の名詞形。語ったであろうことは。○永久に斯くしもあらめや いつまでもこのようでばかりあろうかで、「や」は、反語。「斯くしも」は、貧窮の状態をさしたもの。○天地の神こと依せて 「こと依せて」は、事をよせてで、善き事を授けての意。○春花の盛もあらむと 「春花の」は、盛の枕詞。春花のように盛りの時もあろうと。○待たしけむ時の盛ぞ 「待たし」は、「待つ」の敬語。お待ちになったであろう時の、今はその盛りであるぞ。以上で見ると、少咋は以前貧窮でいたのを、抜擢して史生の位地を得させたので、家持はその間の事情を知悉していたのである。○離り居て歎かす妹が 「離り居て」は、原文「波居弖」。『新訓』は、「波」の下に「奈利」が脱したものとして、今のごとく訓んでいる。これに従う。「歎かす」は、「歎く」の敬語で、女性に慣用のもの。妻は以前からの家に残っていたのである。○何時しかも使の来むと 早く夫よりの迎いの使が来ないかと思って。○待たすらむ心さぶしく 「待たす」は、「待つ」の敬語。お待ちになっているだろう心が気の毒にて。以下全体にかかる副詞句。○南風吹き雪消まさりて 南風が吹いて山の雪解けが増して。○射水河流る水沫の 射水河を流れる水の沫が。「流る水沫」は、終止形から名詞に続く古格のもの。○よる辺無み左夫流その児に 「よる辺無み」は、たよる所がなくて。「左夫流」は、さびしく思っているで、それを自注にある、女の名の左夫流に懸けているのである。その点からは、「南風吹き」以下は、左夫流の序詞である。「その児に」は、その可愛ゆい女にで、児は愛称。○紐の緒のいつがり合ひて 「紐の緒の」は、「いつがり」の枕詞。「いつがり」は、つながり。巻九(一七六七)「紐児にいつがり居れば」の用例がある。○鳰鳥の二人並び坐 「鳰鳥の」は、「並び」の枕詞。○奈呉の海の沖を深めて 「奈呉の海の沖を」は、「深」の序詞。「深めて」は、心を深くして。○惑はせる君が心の術もすべ無さ 「惑はせる」は、「惑へる」の敬語で、「さどふ」は、惑うと同じ。「術も」は、下の「すべ」を強めるために重ねたもので、何とも施す術のないことよ。
【釈】 大己貴少彦名の遠い神代から言い続いでいたことには、父母を見ると貴く、妻子を見ると可愛ゆくいじらしい、これが人の世の道理であると、そのように言い継いで来ているものを。世間の人の立てる言い立てとして、ちさの木の花が咲いていた盛りの時に、可愛ゆいその妻の児と、朝夕に、笑みもしまた笑みもせずに、嘆いて話したであろうことは、いつまでもこのようでばかりいようか、天地の神の善い事を授けて、春の花のように盛んになれる時があろうとお待ちになったであろう時の、今はその盛りであるぞよ。離れていてお嘆きになっている妻が、いつ迎いの使が来るであろうとお待ちになっているだろう心が気の毒に、南風が吹いて雪解けが増して、射水河を流れる水の泡のたより所がなくてさぶしくしているのに因みある左夫流という可愛ゆい女と、紐の緒のようにつながり合って、鳰鳥のように二人で並んでいて、奈呉の海の沖のように心を深くしてお惑いになっていられる君の心は、何とも施すべき術のないことであるよ。
【評】 史生の尾張少咋が、国府にいる遊行女婦の左夫流というに溺れ、故郷にいるその妻を棄てたがようにしているのを、守としての家持が、懇切をきわめた諭し方をしている歌である。この歌はいったがごとく、筑前守としての山上憶良が、「或へる情を反さしむる歌」と題して、その部民を諭したのにならっているものであるが、本来国司は、部内の民を教化することがそ(217)の職責の中にあるので、憶良のしたこともそれであり、家持もそれをしているのであって、模倣とのみはいえないことなのである。さらにまた家持は、奈良にいた当時は、若い女性に取り囲まれていたのであるが、越中守となった後は、その妻の坂上大嬢を恋うる歌は詠んでいるが、その他には一首の恋の歌も詠まず、謹厳そのもののごとくにしていた。多分教化という上から、身をもって範を垂れようとする心があってのことであったろう。その点から見ると少咋は、下位の者ではあるが同じく国司の一人なので、黙視することはできないとも思ってのことであろう。序詞に、律令の中の妻を棄てる際の条文、重婚に関する条文を列挙しているのは、少咋の行動の、国法にも触れようとしていることを反省させようとしてのこととみえる。引例を最少限度にとどめているのは、少咋に対しての礼としてであったろう。歌は、「喩す」とはいっているが、実際は訴えである。こちらでは、第一に父母妻子に対する古来の人情を説き、第二に過去の貧窮時代を思い出させようとして、それを描写までし、第三に、現在はその過去に夢みていた幸福時代であって、まさに妻を喜ばせる時代であるとし、第四に、左夫流に溺れていることに対して、「術もすべ無さ」と深い歎息をしているのであって、一首全く訴えをもって終始しているのである。家持が長官でありながら、下僚に対してこのように優しい態度をもって臨んでいるのは、大体は彼の人柄から来ているのであろうが、そこには少咋に対しての私的な情もまじっていたのではないかと思われる。それは上にも触れていったように「ちさの花咲ける盛に」より「待たしけむ時の盛ぞ」までは、少咋の史生となる以前の貧窮時代を敍しているものであって、それも推量によってのみ描いたものではなく、親しく眼に見て、知悉していたことを思わせるものである。それだと、少咋を史生に抜擢したのは家持であって、彼は少咋に対して個人的にも責任のある仲となる。また彼の少咋の妻に対しての深い愛燐も、根拠のあることとなるのである。異常の優しさはそのためではないか。この一段の描写は、この段におのずから物語歌の匂いを帯びさせるものとなり、一首の歌として見ても趣あるものにしている。些事ながら、「ちさの花咲ける盛に」は、ちさは山ぢさで、山野に自生する木なので、少咋の貧居をあらわす語として巧みなものである。
 
(218)     反歌三首
 
4107 あをによし 奈良《なら》に在《あ》る妹《いも》が 高々《たかだか》に 待《ま》つらむ心《こころ》 然《しか》にはあらじか
    安乎尓与之 奈良尓安流伊毛我 多可々々尓 麻都良牟許己呂 之可尓波安良司可
 
【語釈】 ○高々に待つらむ心 「高々に」は、背伸びして遠方を望む形で、「待つ」につづく副詞。思い焦れという意を具象的にしたもの。「待つらむ心」は、下に「よ」の詠歎のある形で、それに、思いやられるという余意を含ませたもの。○然にはあらじか 「か」は、疑問で、そうではなかろうかの意。我はそう思うがの心をもって、問うているのである。この句は、上にいった憶良の「或へる情を反さしむる歌」に出ており、「かにかくに欲しきまにまに 然にはあらじか」とあり、それにならったのである。
【釈】 あおによし奈良にある妻が、背伸びをして君の使を待っているであろうその心よ。そうではなかろうか。
【評】 「待たすらむ心さぶしく」とある一節の繰り返しである。憶良を学んでいるとはいえ、明らかに訴えの心のものである。
 
4108 里人《さとびと》の 見《み》る目《め》はづかし 左夫流児《さぶるこ》に 惑《さど》はす君《きみ》が 宮出後風《みやでしりぶり》
    左刀妣等能 見流目波豆可之 左夫流兒尓 佐度波須伎美我 美夜泥之理夫利
 
【語釈】 ○里人の 「里人」は、国府の人。○宮出後風 「宮出」は、宮へ出仕するの意の熟語で、用例のあるもの。「宮」は、国庁をさしているもので、「遠の朝廷《みかど》」とも称している延長。「後風」は、うしろつきで、後世のうしろでにあたる古語。下に詠歎がある。
【釈】 里人の見る目がはずかしい。左夫流児に迷っていらっしゃる君の、朝の出仕のその後つきよ。
【評】 これは諭すといぅ意は間接で、家持の苦々しく、きまり悪く思う気分の主となっているものである。家持といぅ人が濃厚に出ている点に興味がある。
 
4109 くれなゐは うつろふものぞ 橡《つるばみ》の なれにし衣《きぬ》に なほ若《し》かめやも
    久礼奈爲波 宇都呂布母能曾 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母
 
(219)【語釈】 ○くれなゐはうつろふものぞ 「くれなゐ」は、紅花で、衣の染色としていっている。「うつろふ」は、ここは色の褪せて変わる意。○橡のなれにし衣に 「橡」も、同じく橡色で、これはどんぐりの皮を煎じて染める褐色。「なれにし」は、着馴れたところの。○なほ若かめやも 「や」は、反語。やはり及ぼうか、及びはしないなあ。
【釈】 くれない色の衣は、あせやすいものであるぞ。橡色の着馴れた衣に、やはり及ぼうか及ばないなあ。
【評】 「くれなゐ」を左夫流児に、「橡」を妻に譬えたもので、教え諭す心をいったものである。作因に直接な歌であるが、類想の多い平凡なものである。
 
     右は、五月十五日、守大伴宿禰家持の作れる。
      右、五月十五日、守大伴宿祢家持作之。
 
     先《さき》の妻《め》、夫《せ》の君《きみ》の喚使《めしつかひ》を待たず、みづから来りし時作れる歌一首
 
【題意】 「先の妻」は、上を承けて、少咋の奈良の家にいる妻。「喚使」は、少咋よりの迎えの使。
 
4110 左夫流児《さぶるこ》が いつきし殿《との》に 鈴《すず》掛《か》けぬ 駅馬《はゆま》下《くだ》れり 里《さと》もとどろに
    左夫流兒我 伊都伎之等乃尓 須受可氣奴 波由麻久太礼利 佐刀毛等騰呂尓
 
【語釈】 ○左夫流児がいつきし殿に 「いつきし」は、斎きしで、忌み清めて神に仕える意の語であるが、転じて、尊い人を大切にする意にも用いた。ここはそれで、小咋を大切にしていたの意。「殿」は、きわめて身分高い人の邸の称。ここは小咋の館をいっているもので、上にふさわしい呼び方にしたのである。左夫流児の立場に立ち、わざと大げさにいったもの。○鈴掛けぬ駅馬下れり 「鈴」は、駅鈴で、「はゆま」は、早馬の約言。駅鈴をつけない駅馬。「下れり」は、京から来た。公用の使者は駅鈴を給され、そのために諸道に備えてある駅馬に乗ったのである。小咋の妻はそうした馬に乗れるはずはなく、普通の賃馬に乗って来たのを、大げさにいったもの。○里もとどろに 国府も轟くまでに。これは里人が興味を持って騒ぐ意。
【釈】 左夫流児が大切にお仕えをしていた殿に、駅鈴を掛けない駅馬が下った。里中に轟くまでに騒がしく。
【評】 家持がその事の噂を聞いて、痛快に感じての心である。「いつきし殿」「鈴掛けぬ駅馬」など、甚しく誇張した言い方を(220)しているのは、その気分からのものである。上の歌と対照すると、家持のその際の気分がさながらに感じられる。こうした方面の歌才のみえる歌である。
 
     同じき月十七日、大伴宿禰家持の作れる。
      同月十七日、大伴宿祢家持作之。
 
     橘の歌一首 并に短歌
 
4111 かけまくも あやにかしこし 皇神祖《すめろき》の 神《かみ》の大御代《おほみよ》に 田道間守《たぢまもり》 常世《とこよ》に渡《わた》り 八矛《やほこ》持《も》ち 参出来《まゐでこ》し 時《とき》じくの 香《かく》の木《こ》の実《み》を かしこくも 遺《のこ》したまへれ 国《くに》も狭《せ》に 生《お》ひ立《た》
ち栄《さカ》え 春《ほる》されば 孫枝萌《ひこえも》いつつ ほととぎす 鳴《な》く五月《さつき》には 初花《はつはな》を 枝に手折《えだたを》りて 少女《をとめ》等《ら》に 裹《つと》にも遣《や》りみ 白栲《しろたへ》の 袖《そで》にも攻入《こき》れ 香《か》ぐはしみ 置《お》きて枯《か》らしみ あゆる実《み》は 玉《たま》に貫《ぬ》きつつ 手《て》に纏《ま》きて 見《み》れども飽《あ》かず 秋《あき》づけば 時雨《しぐれ》の雨《あめ》零《ふ》り あしひきの 山《やま》の木末《こぬれ》は 紅《くれなゐ》に にほひ散《ち》れども 橘《たちばな》の なれるその実《み》は 直照《ひたて》りに いや見《み》がほしく み雪《ゆき》降《ふ》る 冬《ふゆ》に到《いた》れば 霜《しも》置《お》けども その葉《は》も枯《か》れず 常磐《ときは》なす いや栄《さか》はえに 然《しか》れこそ 神《かみ》の御代《みよ》より 宜《よろ》しなへ この橘《たちばな》を 時《とき》じくの 香《かく》の木《こ》の実《み》と 名《な》づけけらしも
    可氣麻久母 安夜尓加之古思 皇神祖乃 可見能大御世尓 田道間守 常世尓和多利 夜保許毛知 麻爲泥許之 登吉時支能 香久乃菓子乎 可之古久母 能許之多麻敞礼 國毛勢尓 於非多知左加延 波流左礼婆 孫枝毛伊都追 保登等藝須 奈久五月尓波 々都波奈乎 延太尓多乎理弖 乎登女良尓 (221)都刀尓母夜里美 之路多倍能 蘇泥尓毛古伎礼 香具播之美 於枳弖可良之美 安由流實波 多麻尓奴伎都追 手尓麻吉弖 見礼騰毛安加受 秋豆氣婆 之具礼乃雨零 阿之比奇能 夜麻能許奴礼波 久礼奈爲尓 仁保比知札止毛 多知波奈乃 成流其實者 比太照尓 伊夜見我保之久 美由伎布流 冬尓伊多礼婆 霜於氣騰母 其葉毛可礼受 常磐奈須 伊夜佐加波延尓 之可礼許曾 神乃御代欲理 与呂之奈倍 此橘乎 等伎自久能 可久能木實等 名附家良之母
 
【語釈】 ○かけまくもあやにかしこし 口にかけるということは、甚しく恐れ多いで、天皇のことを申す際の讃詞。○皇神祖の神の大御代に 「皇神祖の神」は、天皇を讃えての称。「大」も讃詞。下の続きで、垂仁天皇の代をさしているのである。○田道間守 日本に帰化した、新羅の王子|天日槍《あまのひほこ》の子孫で、日本書紀では四代目の孫となっている。古事記では、ただ子孫となっている。天皇の命をこうむって、常世の国に橘を求めに行き、持って参ると、天皇崩御の後だったので、山陵に献って死んだという。○常世に渡り 海外の国であるが、何処《いずこ》とも知れない。橘は、わが国にも野生の物があったが、一般には知られなかったのである。○八矛持ち 「八」は、多数。「矛」は、棒状の物の称で、何本かを持って。後に繁殖したので、苗木である。「八矛」は、日本書紀には「八|竿《ほこ》八|縵《かげ》」とあり、古事記には「矛八矛縵八縵」とある。○参出来し 「参出」は、尊い所へ伺う意で、皇居へ帰って来たの意。○時じくの香の木の実を 「時じく」は、その季節でないの意。「香」は、香のあることで、その季節でなく、すなわち冬に熱する香のある木の実で、橘をその特質から命じた称。「時じくの」は、原文「登吉時支能」。「時じき」であるが、この歌の結末では「時じくの」となっている。「時じ」は、形容詞の活用形であるが、形容詞は、その「き」から「の」の助詞に接しることはなく、また「時支」の字音仮字は問題になり、「時じくの」の誤りであろう。○遺したまへれ 「たまへれ」は、已然条件法で、たまへればの意。遺してくだされたので。○国も狭に 国土も狭いまでに。○孫枝萌いつつ 「孫枝」は、枝から出る枝。「萌い」は、「萌ゆ」の上二段活用の連用形と思われるが、他に用例はない。○枝に手折りて 「枝に」は、枝のままに。○裹にも遣りみ 「裹」は、土産。「遣りみ」は、遣りもしたり。「み」は、状態を示すもの。○袖にも扱入れ 「扱入れ」は、扱き入れの約言。こき落として入れ。○香ぐはしみ置きて枯らしみ 香のよいゆえに、身辺に置いてひからびさせたり。○あゆる実は玉に貫きつつ 「あゆる実」は、落ちる実で、熟して落ちるもの。巻八(一五〇七)「あえぬがに花咲きにけり」の用例がある。「玉に貫きつつ」は、玉として緒に貫きつつ。○直照りにいや見がほしく 照りに照って、いよいよ見たいものとなり。○み雪降る 冬の枕詞。○常磐なすいや栄はえに 「常磐なす」は、岩石のようにで、「栄はえ」の枕詞。「栄はえ」は、栄え映えてで、いよいよ栄えに栄えて。下に「あり」の意が略されている。○宜しなへ 良いことが並ぶ意で、まことにふさわしい意で、副詞として「名づけ」に続く。
【釈】 口にすることも甚だ恐れ多い。古の天皇の大御代に、田道間守が常世の国に渡って、幾本かの苗を持って帰り参った、その季節ならず実る香りある木の実を、ありがたくも世に遺してくだされたので、この国土も狭いまでに生い立って栄えて、春が来ると、枝より枝が出続け、ほととぎすが鳴く五月には、初咲きの花を、枝のまま折って、少女らに土産としてやりもし、わが(222)白栲の袖の中にも扱き落とし入れ、香が愛でたいので、身辺に置いてひからびさせもし、こぼれ落ちる実は、玉として緒に貫きつ貫きつして、腕に纏《ま》いて、見るも見飽かない。秋めいて来れば、時雨の雨が降って、あしひきの山の木の梢は、紅に色美しくなって散るけれども、橘の木に成っているその実は、照りに照っていよいよ見たい物となり、雪の降る冬が来れば、霜が置くけれどもその葉も枯れずに、岩石のようにいよいよ栄えに栄えている。それであればこそ、まことにふさわしく、この橘を、その季節でなく実る香のある木の実と名づけたのであろうよ。
【評】 この歌は、この当時、霍公鳥と並べて酷愛していた橘を、そのものだけ取離して讃えたものである。橘は古くからあった木であり、また「国も狭に」といっているように多くもあり、したがってそれに関しての歌も少なくなくて、加えいうべき余地もないものだったのである。それを改めて長歌形式をもっていっているところにこの歌の特色がある。長歌にしたのは、橘という目をもって感覚的に賞すべき物を、角度を変えて、長い時の流れの上に移し、時の推移をとおして賞するという、知性的な扱いをしようとしたためである。重点を置いたのは、橘に関する起源伝説である。伝説は橘を貴くしようとするためのものであるが、その点からいうと、古の天皇が勅して、常世の国から将来せしめたということは、その条件を具備したものである。常世の国は、この時代には神仙国だったので、そこの原産だということは、言い難い魅力のあることだったのである。時じくの香の木の実という名は、初めてこの木を見た者の驚歎しての命名であるが、この歌はその名を重く取り上げ、それをめぐっての春夏秋冬の推移を叙することによって、その名の実であることを立証しようとしたのが、一首の構想なのである。知性的な歌というべきである。四季の推移は、感覚的な面を取り入れうる部分で、そこに一首の趣致を発捧すべきであるが、それの最も可能な、花の咲く夏も、実の照る冬も、そのいっていることは、すでに言いふるされている常識的なものばかりで、新味のないものである。主旨が時じくの香の木の実の立証にあるので、多くは言い難い場合であろうが、それにしても、今少し作者自身をとおしての特殊なものがあったならばと思わせる。家持の知性的な面の出ている歌であるが、その意味での新味はあるが、一首の歌として見ると、説明的で、平坦で、浅くして魅力の足りない作である。しかしこれは、主旨が主旨だからで、当然な成行きでもある。
 
     反歌一首
 
4112 橘《たちばな》は 花《はな》にも実《み》にも 見《み》つれども いや時《とき》じくに 猶《なほ》し見《み》が欲《ほ》し
    橘波 花尓毛實尓母 美都礼騰母 移夜時自久尓 奈保之見我保之
 
(223)【語釈】 ○花にも実にも 花の時にも、実の時にも。○いや時じくに その上にも、いつという季節なしに。○猶し見が欲し もっと見たいで、「し」は、強意。
【釈】 橘は、花の時にも実の時にも見たけれども、その上にも、いつの季節ということもなく、もっと見たい。
【評】 橘に対して、その最も良い花の時、実の時も見たが、なお見飽かず、季節を超えても見たいというので、不合理な、限りない憧れをいっているものである。長歌の叙事的であるのに対して純抒情的で、その対照的なところに長歌の進展がある。要を得た反歌である。
 
     閏五月二十三日、大伴宿禰家持作れる。
      閏五月廿三日、大伴宿祢家持作之。
 
     庭中の花を見て作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「庭中の花を見て」は、原文は「庭中花」で、『代匠記』は、「庭」の上に「見」の脱したものとして補っている。
 
4113 大君《おほきみ》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》と 任《ま》き給《たま》ふ 官《つかさ》のまにま み雪《ゆき》降《ふ》る 越《こし》に下《くだ》り来《き》 あらたまの 年《とし》の五年《いつとせ》 敷栲《しきたへ》の 手枕《たまくら》纏《ま》かず 紐《ひも》解《と》かず 丸寝《まろね》をすれば いぶせみと 情慰《こころなぐさ》に なでしこを 屋戸《やど》に蒔《ま》き生《おほ》し 夏《なつ》の野《の》の さ百合《ゆり》引《ひ》き植《う》ゑて 咲《さ》く花《はな》を 出《い》で見《み》る毎《ごと》に なでしこが その花妻《はなづま》に さ百合花《ゆりばな》 後《ゆり》も逢《あ》はむと 慰《なぐさ》むる 心《こころ》しなくは 天《あま》ざかる 鄙《ひな》に一日《ひとひ》も 在《あ》るべくもあれや
    於保支見能 等保能美可等々 末支太末不 官乃末尓末 美由支布流 古之尓久多利來 安良多末能 等之乃五年 之吉多倍乃 手枕末可受 比毛等可須 末呂宿乎須礼波 移夫勢美等 情奈具左尓 奈泥之故乎 屋戸尓末枳於保之 夏能々 佐由利比伎宇惠天 開花乎 移弖見流其等尓 那泥之古我(224) 曾乃波奈豆末尓 左由理花 由利母安波無等 奈具佐無流 許己呂之奈久波 安末射可流 比奈尓一日毛 安流部久母安礼也
 
【語釈】 ○任き給ふ官のまにま 「任き」は、任ずる。従来「任け」と下二段活用であったが、ここは上二段になっている。(四一一六)「大君の任きのまにまに」と、今一例がある。○あらたまの年の五年 「五年」は、国司の任期としていっているもので、六年が限度である。家持の越中の国守となったのは天平十八年で、この時は足掛け四年足らずである。感傷の心より誇張していったもの。○敷栲の手枕纏かず 「敷梓の」は、枕の枕詞であるのを、ここは「手枕」にかけている。○いぶせみと情慰に 「いぶせみと」は、心晴れぬゆえにとで、「み」は、理由を示すもの。「情慰」は、心の慰めにで、心やりと同じ。○夏の野のさ百合引き植ゑて 「野」は、原文「能」で、「の」の仮字である。「野」は、甲類、「能」は、乙類の用字で違例である。「引き植ゑて」は、引き抜いて来て植えて。○なでしこがその花妻に なでしこのその花のような美しい妻にで、妻は京にいる坂上大嬢である。「なでしこがその」の七音が、「花」の序詞になっている形である。○さ百合花後も逢はむと 「さ百合花」は、同音の関係で「ゆり」の枕詞。「ゆり」は、後の古語。後には逢おうと思ってで、「も」は、詠歎。○在るべくもあれや 居ようにも居られようか、居られはしないで、「や」は、反語。
【釈】 大君の京より遠方の朝廷として、御任命になる官のままに、雪の降る越の国に下って来て、あらたまの年の五年の間を、妻の敷栲の手枕纏かずに、わが衣の紐を解かずに独寝をしているので、心の晴れないゆえの心やりに、撫子をわが庭に蒔いて生やして、夏の野の百合を引抜いて来て植えて、花を出て見るごとに、撫子のその花のように美しい妻に、百合の花の後に逢おうと、慰める心がなかったならば、都よりは天と離れている鄙に一日でも、居ようにも居られようか、居られはしない。
【評】 長期にわたっての旅寝をしている人の、家に残してある妻を恋うる歌で、類の多いものである。この類の歌は、感傷に圧しられて、誇張に流れるか、またはしつこい物になりやすいものであるが、この歌にはそれがなく、気分の純粋を保ちつつも、ほどよい物言いをしてあって、誇張もしつこさもなく、しみじみした味わいのあるものである。家持の長所の出ている作である。もっともそれは、取材の単純なためもあるが、それにしても統一感の強い、すっきりした作である。「なでしこがその花妻に さ百合花後も逢はむと」は、作者自身は得意なものであろうが、この歌にとっては、技巧の勝ちすぎた、したがって不調和な感のあるものとなっている。
 
     反歌二首
 
4114 なでしこが 花《はな》見《み》る毎《ごと》に 嬢子《をとめ》らが 笑《ゑ》まひのにほひ 思《おも》ほゆるかも
(225)    奈泥之故我 花見流其等尓 乎登女良我 惠末比能尓保比 於母保由流可母
 
【語釈】 ○嬢子らが笑まひのにほひ 「嬢子」は、妻の大嬢をさしたもので、「ら」は、接尾語。「笑まひのにほひ」は、ほほ笑む顔いろの美しさで、「笑まひ」は、「笑む」の連続で、名詞。
【釈】 撫子の花を見るごとに、妻のほほえむ顔いろの美しさが思われることであるよ。
【評】 撫子の花を見ると、妻の笑顔が連想されるということを、説明的にいっているもので、その説明的なところに、漢詩の影響を受けた匂いがあるが、しかし「笑まひのにほひ」は、巧みで上品な句である。実感をとおさなければいえないものである。反歌として、進展を持たせ得ている歌である。
 
4115 さ百合花《ゆりばな》 後《ゆり》も逢《あ》はむと 下延《したは》ふる 心《こころ》しなくは 今日《けふ》も経《へ》めやも
    佐由利花 由利母相等 之多波布流 許己呂之奈久波 今日母倍米夜母
 
【語釈】 ○さ百合花 「後」の枕詞。○下延ふる 「下」は、心中。「延ふる」は、「延ふ」の連続で、心中にひそかに思っている心を通わせる意の語。○今日も経めやも 今日の一日も過ごせようか、過ごせないで、「や」は、反語。
【釈】 さ百合花の後も逢おうと心中ひそかに思っている心がなかったならば、今日の一日も過ごせようか、過ごせはしない。
【評】 長歌の結末を繰り返しているもので、型となっている言い方である。
 
     同じく閏五月二十六日、大伴宿禰家持作れる。
      同閏五月廿六日、大伴宿祢家持作。
 
     国の掾久米朝臣広繩、天平二十年を以ちて朝集使《てうしふし》に附きて京《みやこ》に入り、其の事|畢《をは》りて、天平感宝元年閏五月二十七日本任に還り到りき。仍りて長官の館に詩酒の宴を設けて楽飲せり。時に主人《あるじ》守
 
(226)     大伴宿禰家持の作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「朝集使」は、国庁より太政官に、その国の政治状態を申告するために遣わされる使の一つで、申告は朝集帳を届けることである。これは一国の池溝、官舎、国衙の器杖、船舶、駅馬、神社、僧尼などに関する一切を記したものである。その時期は、畿内は十月、畿内以外は十一月である。「附きて」は、命じられてで、当時の慣用語である。「長官の館」は、守家持の館。「詩酒」は、酒宴といぅ意を漢風にいったもの。
 
4116 大君《おほきみ》の 任《ま》きのまにまに 執《と》り持《も》ちて 仕《つか》ふる国《くに》の 年《とし》の内《うち》の 事《こと》かたね持《も》ち 玉《たま》ほこの 道《みち》に出《い》で立《た》ち 岩根《いはね》踏《ふ》み 山《やま》越《こ》え野《の》行《ゆ》き 都《みやこ》べに 参《まゐ》し我《わ》が兄《せ》を あらたまの 年《とし》往《ゆ》き還《がへ》り 月《つき》かさね 見《み》ぬ日《ひ》さまねみ 恋《こ》ふるそら 安《やす》くしあらねば 霍公鳥《ほととぎす》 来鳴《きな》く五月《さつき》の 菖蒲草《あやめぐさ》 蓬《よもぎ》蘰《かづら》き 酒《さか》みづき 遊《あそ》びなぐれど 射水河《いみづがは》 雪解《ゆきげ》溢《はふ》れて 逝《ゆ》く水《みづ》の いや増《ま》しにのみ 鶴《たづ》が鳴《な》く 奈呉江《なごえ》の菅《すげ》の ねもころに 思《おも》ひ結《むす》ぼれ 歎《なげ》きつつ 我《あ》が待《ま》つ君《きみ》が 事《こと》畢《をは》り 帰《かへ》り罷《まか》りて 夏《なつ》の野《の》の さ百合《ゆり》の花《はな》の 花咲《はなゑみ》に にふぶに笑《ゑ》みて 逢《あ》はしたる 今日《けふ》を始《はじ》めて 鏡《かがみ》なす 斯《か》くし常《つね》見《み》む 面変《おもがは》りせず
    於保支見能 末支能末尓々々 等里毛知※[氏/一] 都可布流久尓能 年内能 許登可多祢母知 多末保許能 美知尓伊天多知 伊波祢布美 也末古衣野由支 〓夜放敞尓 末爲之和我世乎 安良多末乃 等之由吉我弊理 月可佐祢 美奴日佐末称美 故敷流曾良 夜須久之安良祢波 保止々支須 支奈久五月能 安夜女具佐 余母疑可豆良伎 左加美都伎 安蘇比奈具札止 射水河 雪消溢而 逝水能 伊夜末思尓乃未 多豆我奈久 奈呉江能須氣能 根毛己呂尓 於母比牟須保礼 奈介伎都々 安我末川君我 許登乎波里 可敞利末可利天 夏野能 佐由利能波奈能 花咲尓 々布夫尓恵美天 阿波之多流 今日乎波自米※[氏/一] 鏡奈須 可久之都祢見牟 於毛我波利世須
 
(227)【語釈】 ○大君の任きのまにまに 「まにまに」は、ままにと同じで、従って。ここは、承って。○執り持ちて仕ふる国の 「執り持ちて」は、担任して。「仕ふる国」は、政務を御奉仕する国で、越中。○年の内の事かたね持ち一年間の政務を総収して。「かたね」は、束ねで、総収して。これは朝集便の使命を説明したもの。○玉ほこの道に出で立ち 「玉ほこの」は、道の枕詞。「道」は、京への街道。○都べに参し我が兄を 「都べに」は、都の方にで、太政官を言いかえたもの。「参し」は、まいでしと同じで、尊い所へ伺った。「我が兄」は、広繩を親しんでの称。○年往き還り 年が過ぎて、新しい年が還って。広繩の上京は、二十年の十一月の期日に間に合うように秋のうちに出発し、今は翌年の五月だからのこと。○見ぬ日さまねみ 「さまねみ」は、「さ」は、接頭語。「まねし」は、数の多い意の形容詞。「み」は、状態をあらわすもの。逢わない日が多くして。○恋ふるそら 恋うる心。○菖蒲葦蓬蘰き 菖蒲と蓬とを蘰にし。「蘰き」は、「かづら」を動詞とした語の連用形。蘰は下の「酒みづき」をする折の礼装としての物である。蓬を蘰の料にするのは初めて出たものである。これは平安朝時代には、五月の五日に屋根を葺く料としたもので、香草の香で邪気を払おうとしたのである。○酒みづき遊びなぐれど 「酒みづき」は、酒宴で、名詞。「なぐれど」は、和ぐれどで、上の安からぬ恋ごころを和らげるけれども。○射水河雪解溢れて逝く水の 「溢れて」は、岸にあふれて。「増し」に、譬喩としてかかる序詞。○鶴が鳴く奈呉江の菅の 「鶴が鳴く」は、奈呉江の修飾。「奈呉江」は、今の富山県新湊市の放生津潟《ほうじようづかた》で、既出。「菅」は、そこの海辺に生えているもの。「菅の根」と続き、「ねもころ」の序詞。○ねもころに思ひ結ぼれ 心が深く結ぼれて。○事畢り帰り罷りて 朝集便としての用務が終わって、帰って来て。「罷りて」は、尊い所から退去する意。○さ百合の花の 「花の」は、花のごとく。○花咲ににふぶに笑みて 「花咲」は、にこやかな笑み。「にふぶ」は、笑顔の形容で、にこにこというにあたる。○逢はしたる今日を始めて 「逢はし」は、逢うの敬語。お逢いになっているで、我と逢っているのを、先方を主としていったもの。「今日を始めて」は、今日を逢い初めとして。○鏡なす斯くし常見む面変りせず 「鏡なす」は、意味で「見」にかかる枕詞。「斯くし常見む」は、このように絶えず逢おう。「面変りせず」は、顔つきが変わらずにで、無事でということを具象的にいったもの。
【釈】 大君の御任命を承って、担任して御奉仕するこの国の、一年間の政治状態を総収して、京への道に上って、岩を踏み山を越え野を行って、都の方にと参ったわが親しい友を、年が過ぎ年が還り、月をかさねて逢わない日が多く、恋うる心の安くないので、ほととぎすが来て鳴く五月の、菖蒲草と蓬とを蘰にして、酒宴をして遊んで心をやわらげるけれども、射水河の雪解けの岸に溢れて逝く水のように、いよいよ増さるばかりで、鶴が鳴いている奈呉江に生えている菅の根に因みある、深くも心は結ばれて、嘆きつづけて我が待っている君が、用務が終わって、退り帰って、夏の野に咲いている百合の花のように、にこやかな笑みににこにこと笑んでお逢いになっている今日の日を初めにして、鏡のようにこのようにばかりいつまでも見よう。顔つきの変わることがなくて。
【評】 広繩が朝集使としての任を果たして帰って来たのを歓迎する宴に、家持が主人《あるじ》として詠んだ歌で、主旨は儀礼としてのものである。起首、朝集使のことを事細かにいっているのは、その事を尊んでのもので、結末の「事畢り帰り罷りて逢はしたる」は、その結びで、主旨はそれで尽くされているのである。中間の「あらたまの年往き還り」以下「我が待つ君が」までは、(228)広繩の不在中、いかにさびしくいかに恋しかったかという、全く家持個人の私情で、官人としての守、掾という関係を離れての友情を叙したもので、こうした改まっての場合のものとしては、私情にすぎた、度はずれのものである。これは家持の人柄の発露であって、そのことは儀礼の部分にも沁み渡っているのである。大体この場合は、このような長歌形式でなくても事は足りるのに、しかも縷々として述べ立てていることが、すでに彼の気分のさせていることなのである。一首、語の多いわりには、切実な情の少ないものであるが、これは本来そうした情の現われるべくもない事柄を、気分に乗せられて長々と述べている結果である。
 
     反歌二首
 
4117 去年《こぞ》の秋《あき》 相見《あひみ》しまにま 今日《けふ》見《み》れば 面《おも》や珍《めづ》らし 都方人《みやこかたひと》
    許序能秋 安比見之末尓末 今日見波 於毛夜目都良之 美夜古可多比等
 
【語釈】 ○去年の秋相見しまにま 「去年の秋」は、広繩の発足した時である。十一月一日という期日に間に合わせようとしたので、晩秋初冬だったのである。「まにま」は、まにまにと同じで、見たきりにの意。○面や珍らし 「や」は、「弥《いや》」で、いよいよという意のもの。『新考』は用例として、古事記、雄略の巻の御製、「水《みな》そそぐ臣《おみ》の少女《をとめ》、本陀理《ほだり》取らすも、本陀理取り堅く取らせ、下堅くや堅く取らせ」を挙げて「や堅く」の「や」と同じだといっている。○都方人 都の方の人で、広繩が久しぶりで都の方から来た関係でいっているのであるが、自身の都懐かしい気分をこめての称である。
【釈】 去年の秋見たままで今日見るので、顔がいよいよ珍しい。都方の人よ。
(229)【評】 長歌を総収して、京から帰って来た広繩の珍しさと懐かしさを一首にしたもので、要領のよい、きわめて巧みな反歌である。純気分の作で、したがって安らかに統一のついた歌である。「都方人」は、帰国歓迎と懐かしさを一つにした句で、歌としては、飛躍のある続け方であるが、気分としては完全に融け合って、含蓄のあるものとなっている。
 
4118 かくしても 相見《あひみ》るものを 少《すくな》くも 年月《としつき》経《ふ》れば 恋《こひ》しけれやも
    可久之天母 安比見流毛乃乎 須久奈久母 年月經礼波 古非之家礼夜母
 
【語釈】 ○かくしても このような状態であっても。○少くも これは下に否定の語を伴って、大いにあるの意を成す副詞で、ここは否定の代わりに反語をもってしている。○年月経れば 去年から今年までの久しきを経たので。○恋しけれやも 「恋しけれ」は、形容詞の已然形。「やも」は、反語で、恋しかろうか、恋しくはないで、それが「少くも」を受けて、甚しく恋しかった意となっている。
【釈】 このような状態で逢うことであるのに、年月を久しく経たので、少しく恋うていたことであったろうか、甚しくも恋うていた。
【評】 これは長歌の中間の私情と、結尾の逢うての嬉しさだけを、完全に気分化して繰り返したものである。逢うての嬉しさにつけ、別れていた時の恋しさが思い出されるという、一般的な心持をいったものである。「少くも」以下の屈折を持った言い方は、その一般的なものを、強く特殊化しようとしてのものである。
 
     霍公鳥の喧くを聞きて作れる歌一首
 
4119 いにしへよ 偲《しの》ひにければ 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》く声《こゑ》聞《き》きて 恋《こひ》しきものを
    伊尓之敞欲 之怒比尓家礼婆 保等登伎須 奈久許惠伎吉弖 古非之吉物乃乎
 
【語釈】 ○いにしへよ偲ひにければ 「いにしへよ」は、昔よりであるが、「いにしへ」は自身の強い過去の意にも、歴史的に前代の意にも用いられる語である。ここは、一首の作意から見て、前代よりの意と取れる。「偲ひにければ」は、愛して来たので。
【釈】 前代から愛して来たので、霍公鳥の鳴く声を聞くと、懐かしいことだ。
(230)【評】 霍公鳥の鳴き声を聞いて、自身なつかしく思うとともに、古人もこれに対して同様な感を起こしたことを連想し、それによってなつかしい情を深めた心である。霍公鳥の鳴き声の同じところから、新たに渡ってきたものに対して、去年来たのと同じ鳥だとして、「もと霍公鳥」と語も拵えているくらいで、その気分を時間的に延長させたものといえる。知性的な心をまじえることによって感情を深めようとする、家持の好んだ傾向の範囲内のものである。
 
     京《みやこ》に向はむ時、貴人《うまひと》を見、及《また》美《かほよ》き人に相ひて、飲宴せむ日の為に、懐を述べて、儲《ま》けて作れる歌二首
 
【題意】 「京に向はむ時」は、予想するところがあってのことと思われる。「貴人」は、身分ある人、「美き人」は、美女。これも予想する人があってのこととみえる。「儲けて」は、あらかじめ。都恋しい心よりのことで、家持の心を思わせる。
 
4120 見《み》まく欲《ほ》り 思《おも》ひしなへに 蘰《かづら》掛《か》け かぐはし君《きみ》を 相見《あひみ》つるかも
    見麻久保里 於毛比之奈倍尓 加都良賀氣 香具波之君乎 安比見都流賀母
 
【語釈】 ○思ひしなへに 思っていたとともにで、思っていたのがかなって。○蘰掛け 髪に蘰を掛けて。これは酒宴の席の礼装である。○かぐはし君を 「かぐはし」は、香細しで、香の甚だ好い意であるが、転じて、人を讃える語となったものである。懐かしきというにあたる。終止形から体言に続く古格。「君」は、男。
【釈】 逢いたいことだと思っていたとともに、蘰を掛けている懐かしいあなたと逢ったことであるよ。
【評】 題詞にある、貴人に逢って、宴飲する日に、挨拶として贈る歌である。「蘰掛けかぐはし君」という語は「か」を頭韻とした、音調の美しい句で、「見まく欲り思ひしなへに」と相俟って、静かな楽しい気分を漂わし得ている。京に対する憧れの生んだ幻想である。
 
4121 朝参《てうさん》の 君《きみ》が姿《すがた》を 見《み》ず久《ひさ》に 鄙《ひな》にし住《す》めば 吾《あれ》恋《こ》ひにけり
    朝參乃 伎美我須我多乎 美受比左尓 比奈尓之須米婆 安礼故非尓家里
 
(231)【語釈】 ○朝参の 「朝参」は、官人として朝廷へ出仕することで、熟語である。訓が定まらず、『考』は「まゐり」、『新考』は「てうさん」と訓み、これは「令」にも出ている語であり、当時の人には口馴れた語であったろうといっている。問題となろうが、「まゐり」と訓むよりは妥当性のあるものとして、これに従う。○君が姿を 「君」は、男。「姿」は、服装で、服色は位階をあらわすものになっていたから、高い位階の人の礼装は、官人としての立場から見ると限りなく魅力のあったものと思われる。○鄙にし住めば 「鄙」は、ここは越中。「し」は、強意の助詞。
【釈】 朝廷へ出勤のあなたの姿を見ないのが久しく、鄙に住んでいるので、わたくしは恋うていたことでした。
【評】 題詞の「貴人」を対象としての挨拶の歌である。この歌の心は、贈る者、贈られる者の間には、きわめて親しいものであったろうと思われるが、第三者には間接なものである。
 
     一に云ふ、はしきよし 妹《いも》が光儀《すがた》を
      一云、波之吉与思 伊毛我須我多乎
 
【解】 上の歌の、初二句の別案である。これだと、歌詞の「美き女」にあたるものとなる。
 
     同じく閏五月二十八日、大伴宿禰家持の作れる。
      同閏五月廿八日、大伴宿祢家持作之。
 
     天平感宝元年閏の五月六日以來、小旱起りて、百姓の田畝稍|凋《しぼ》める色あり。六月朔日に至りて、忽に雨雲《あまぐも》の気を見る。仍りて作れる雲の歌一首 短歌一絶
 
【題意】 国守としての立場から作ったもの。「一絶」は、短歌を漢詩の絶句に擬して、一首の意で用いたもの。
 
4122 天皇《すめろき》の 敷《し》きます国《くに》の 天《あめ》の下《した》 四方《よも》の道《みち》には 馬《うま》の蹄《つめ》 い尽《つく》す極《きはみ》 船《ふな》の舳《へ》の い泊《は》つるまでに 古《いにしへ》よ 今《いま》の現《をつづ》に 万調《よろづつき》 奉《まつ》る長上《つかさ》と 作《つく》りたる その農業《なりはひ》を 雨《あめ》降《ふ》らず 日《ひ》の重《かさ》なれば 値《う》ゑし田《た》も 蒔《ま》きし畠《はたけ》も 朝毎《あさごと》に 凋《しぼ》み枯《か》れ行《ゆ》く 其《そ》を見《み》れば 心《こころ》を痛《いた》み 翠児《みどりこ》(232)の 乳《ち》乞《こ》ふがごとく 天《あま》つ水《みづ》 仰《あふ》ぎてぞ待《ま》つ あしひきの 山《やま》のたをりに この見《み》ゆる 天《あま》の白雲《しらくも》 海神《わたつみ》の 沖《おき》つ宮辺《みやべ》に 立《た》ち渡《わた》り との曇《ぐも》り合《あ》ひて 雨《あめ》も賜《たま》はね
    須賣呂伎能 之伎麻須久尓能 安米能之多 四方能美知尓波 宇麻乃都米 伊都久須伎波美 布奈乃倍能 伊波都流麻泥尓 伊尓之敞欲 伊麻乃乎都頭尓 万調 麻都流都可佐等 都久里多流 曾能奈里波比乎 安米布良受 日能可左奈礼婆 宇惠之田毛 麻吉之波多氣毛 安佐其登尓 之保美可礼由苦 曾乎見礼婆 許己呂乎伊多美 弥騰里兒能 知許布我其登久 安麻都美豆 安布藝弖曾麻都 安之比奇能 夜麻能多乎理尓 許能見油流 安麻能之良久母 和多都美能 於枳都美夜敞尓 多知和多里 等能具毛利安比弖 安米母多麻波祢
 
【語釈】 ○天の下四方の道には 「天の下」は、わが全国土。「四方の道」は、京より諸方へ通じる道で、七道。「天の下」を言いかえたもの。○馬の蹄い尽す極 「馬の蹄」は、貢物を運ぶ馬。「い尽す極」は、「い」は、接頭語。行きつくす最後の地で、地上の全部。○船の舳のい泊つるまでに 「船の舳」は、船の意。「い泊つるまでに」は、「い」は、接頭語で、「泊つる」は、船の最後の点としてとどまる所で、上と同じく海路のことごとくの意。この四句は祈年祭の祝詞に、「青海原は棹柁干さず、船の舳の至り留まる極、大海の原に舟満ちつづけて、陸より往く道は荷の結|縛《ゆ》ひ堅めて、磐根木根履みさくみて、馬の爪の至り留まる限、長道《ながぢ》間《ま》なく立ちつづけて」とあるによったものである。この祝詞の「往く」は、地方より都へ向かって往く意であるのを、ここは語を仮りてはいっているが、国土隈なくの意としているのである。しかし貢物を運ぶという上ではつながりを持っている。○古よ今の現に 古より今の現在までに。○万調奉る長上と 「万調」は、あらゆる調、貢物の意で、「長上と」は、その最上の物として。○作りたるその農業を 作ってあるその農産物だのに。「農業」は、農作の意で、日本書紀、崇神紀に「農天下之大本也」の「農」の注に、「なりはひ」とある。「を」は、詠歎で、農作物であるのに。○蒔きし畠も 「畠」は、本来は陸田毛《はたけ》で、陸田に作った豆や麦の称。ここは麦豆のそれである。○朝毎に凋み枯れ行く 「朝毎」は、朝は一日のうちで作物の最も印象的に見える時としていっている。○心を痛み 心が痛くて。「み」は、状態をあらわすもの。○緑児の乳乞ふがごとく ひたすらにの意の譬喩。○天つ水仰ぎてぞ待つ 「天つ水」は、天より来る水で、雨。神より賜わる水としていっているもの。○山のたをりに 「たをり」は、山の窪んでたわんだようになっている所の称。雲のかかりやすい所である。○この見ゆる天の白雲 「この」は、上代は「かの」の意に用いた。遠近を差別する語がなかったのである。「白雲」は、題詞の「雨雲の気」とあるもの。○海神の沖つ営辺に 「海神」は、海の神で、水を掌る神である。「沖つ宮辺に」は、沖にあるその宮の辺にで、この宮はいわゆる竜神の宮である。○立ち渡りとの曇り合ひて 「立ち渡り」は、伸びて立ち続いて行って。「との曇り合ひ」は、全面的に曇り合ってで、山の神と海の神とが協力して。○雨も賜はね 「も」は、詠歎。雲を賜わらせてくださいで、「ね」は、願望の助詞。
(233)【釈】 天皇の御支配になっている国の、天の下の多くの方角へ向かぅ道には、馬の蹄の行き尽くすその最後の地点まで、また船の舳の行き着いて止まる最後の港までも、古より今の現在までに、よろずの調貢物の第一の物として作っているその農作物であるのに。雨が降らずして日が重なってゆくので、植えた田の稲も、蒔いた畠の麦豆も、朝ごとに凋んで枯れて行く。それを見ると苦しさに心が痛く、緑児が母の乳を乞うがようにひたすらに、天より賜わる水を仰いで待っていることである。あしひきの山のたおりに、あの見えているところの天の白雲は、海神のいます沖の宮の辺りまで伸びて広がって行って、全面的に曇り合って、雨を賜わらせてください。
【評】 これは、夏旱魃が起こって、稲、麦豆など、貢物の首位を占める物が、まさに枯死しようとしているのを見て、家持は一国の国守として、朝廷に対しての責任を痛感し、山のたおりに、雨を含んだ白雲の立ったのを機会に、それを天の神の立てた物と見、その雲が海神のいます海の沖まで伸びて行き、天の神海の神相協力して、雨を降らせて賜われと祈った歌である。陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌を、大伴氏の代表者として詠んだのと並び、これは一国の国守として、神に雨を祈る歌で、規模の大きな上では相対しうるものである。この歌は構成が整然としていて、第一段は、起首より「作りたるその農業を」までで、貢物としての稲、麦豆の貴さをいっている。「馬の蹄」「船の舳」と、祈年祭の祝詞の語を引いていっているのは、天皇に対しての貢物の貴さをいおうとしてのもので、これは技巧としてではない必要な内容で、その表現として見てきわめて有効なものである。第二段は、「朝毎に凋み枯れ行く」までで、これは眼前の旱魃の状態で、国守としての最大事である。第三段は、「天つ水仰ぎてぞ待つ」は、上に伴う国守としての憂慮である。「天つ水」という語は、柿本人麿の歌にある語であるが、ここは、天つ神の贈物としての水そのものであって、それも適切味を持ったものである。第四段は、それより結末までの祈りの語で、歓喜の情を伴ってのもので、生趣あり躍動あるものである。「あしひきの山のたをり」は、国守館より見る二上山、「海神の沖つ宮辺」は、同じくそこより見渡される奈呉の海で、実感のこもった語である。家持の長歌は、自身の日常生活に即しての静かにしみじみした気分のものが多いのであるが、上にいった陸奥国より金を出したのを賀する歌、あるいはこの歌のように、公人としての意識の上に立ってのものは、面目を一変して来、ことにこの歌のごときは簡潔に、整然として乱れのないものとなって来るのである。この歌はその意味では、彼の代表的の作といえるものである。
 
     反歌一首
 
4123 この見《み》ゆる 雲《くも》ほびこりて との曇《ぐも》り 雨《あめ》も降《ふ》らぬか 心足《こころだ》らひに
(234)    許能美由流 久毛保妣許里弖 等能具毛理 安米毛布良奴可 己許呂太良比尓
 
【語釈】 ○この見ゆる雲ほびこりて 「この見ゆる」は、長歌にあったもの。「ほびこり」は、「はびこり」の古形。○との曇り雨も降らぬか 「との曇り」も、「雨」も、長歌に出たもの。「降らぬか」は、降らないのか、降ってくれよの願望。○心足らひに 「足らひ」は、「足る」の連続で、熟語。心が満足するまでにで、「降らぬか」に副詞句としてかかるもの。
【釈】 あの見えている雲がはびこり拡がって、空全面が曇って、雨が降ってくれぬか。心が満足するまでに。
【評】 長歌の第三段を繰り返したものである。しかし「心足らひに」を添えて、進展させているもので、それによって願望を強めている。場合がら適切な反歌である。
 
     右の二首は、六月一日の晩頭《ゆふべ》に、守大伴宿禰家持の作れる。
      右二首、六月一日晩頭、守大伴宿祢家持作之。
 
     雨の落《ふ》るを賀《ほ》く歌
4124 我《わ》が欲《ほ》りし 雨《あめ》は降《ふ》り来《き》ぬ かくしあらば 言挙《ことあげ》せずとも 年《とし》は栄《さか》えむ
    和我保里之 安米波布里伎奴 可久之安良波 許登安氣世受杼母 登思波佐可延牟
 
【語釈】 ○かくしあらば このようであるならばで、「し」は、強意。これは初二句を受けたもので、神々が人々に加護を垂れ給う証を眼前に見ての心。○言拳せずとも こちらの心を言い立てなくても。「言挙」は、言い立てで、ここは神に対してそれをする意。○年は栄えむ 「年」は、穀物のみのりで、一みのりが一年なのである。穀物のみのりは豊かであろう。
【釈】 わが願っていた雨は降って来た。このようであったならば、言い立てをしなくても、五穀のみのりは豊かであろう。
【評】 神に対する信仰と信頼の上に立っての心で、わが願っていたことは神々が知っていらして、このように雨を降らしてくだされた。言挙はすべきではない、せずともしかるべくお計らいくださるというのである。「葦原の水穂の国は、神ながら言挙せぬ国」(巻十三、三二五三)と、古来いって来ていることの実証を、眼前に見ての心である。感激のみをいって、説明にわ(235)たっていないのは、この時代にあってはそれは自明なことだったからである。調べが張って、強くさわやかなのは、感激の情をそのままにあらわそうとして詠んでいるからである。
 
     右の一首は、同じ月の四日、大伴宿禰家持の作れる。
      右一首、同月四日、大伴宿祢家持作。
 
【解】 上の歌を詠んだのは一日の晩頭で、四日に至って雨が降ったのである。
 
     七夕の歌一首 并に短歌
 
4125 天照《あまで》らす 神《かみ》の御代《みよ》より 安《やす》の河《かは》 中《なか》に隔《へだ》てて 向《むか》ひ立《た》ち 袖《そで》振《ふ》り交《かは》し 生《いき》の緒《を》に 歎《なげ》かす子《こ》ら 渡守《わたりもり》 船《ふね》も設《まう》けず 橋《はし》だにも 渡《わた》してあらば その上《へ》ゆも い行《ゆ》き渡《わた》らし 携《たづさ》はり うながけり居《ゐ》て 思《おも》ほしき ことも語《かた》らひ 慰《なぐさ》むる 心《こころ》はあらむを 何《なに》しかも 秋《あき》にしあらねば 言問《ことどひ》の 乏《とも》しき子《こ》ら 現身《うつせみ》の 世《よ》の人《ひと》我《われ》も 此処《ここ》をしも あやにくすしみ 往《ゆ》き更《かは》る 毎年《としのは》ごとに 天《あま》の原《はら》 ふり放《さ》け見《み》つつ 言《い》ひ継《つ》ぎにすれ
    安麻泥良須 可末能御代欲里 夜洲能河波 奈加尓敞太弖々 牟可比太知 蘇泥布利可波之 伊吉能乎尓 奈氣加須古良 和多里母理 布祢毛麻宇氣受 波之太尓母 和多之弖安良波 曾乃倍由母 伊由伎和多良之 多豆佐波利 宇奈我既里爲弖 於毛保之吉 許登母加多良比 奈具左牟流 許己呂波安良牟乎 奈尓之可母 安吉尓之安良祢波 許等騰比能 等毛之伎古良 宇都世美能 代人和礼毛 許己乎之母 安夜尓久須之弥 徃更 年乃波其登尓 安麻乃波良 布里左氣見都追 伊比都藝尓須礼
 
【語釈】 ○天照らす神の御代より 天照大神の御代から。牽牛織女二星の存在した時期としていったもの。これを天地の最古の時としているのである。○安の河 高天原にあるとしている河で、古事記、日本書紀の神代の巻に出ている河。天の河は、すなわちそれだとしているのである。(236)○袖振り交し 二人で袖を振って、遠く心を交わし合って。○生の緒に歎かす子ら 「生の緒に」は、息の続く間をで、命がけでの意の副詞句。「歎かす」は、嘆くの敬語。「子ら」は、愛称。以上、牽牛織女の二星の宿命をいったもので、一段。○携はりうながけり居て 手をつなぎ、頸に手をかけ合っていて。「うながけり」は、古事記、神代の巻、八千矛の神の相聞歌に出ている語。○何しかも秋にしあらねば言問の乏しき子ら 「何しかも」は、どうしたわけでかで、「かも」は、疑問の係。「言問の」は、物を言い合うことの。「乏しき」は、「かも」の結。乏しい子らなのであろうか。乏しい理由は伝説となっているが、承認しかねて、わざと疑問としている形である。逢いたがっている夫婦を、逢わせずにいる訝かりで、以上二段。○現身の世の人我も 「現身の」は、意味で「世」にかかる枕詞。「世の人我」は、天上に対して、地上の者我の意。○此処をしもあやにくすしみ 「此処をしも」は、その点をで、「しも」は、強意。「あやにくすしみ」は、甚しくも不思議に思って。「み」は、状態をあらわすもの。上の「何しかも」に照応しているものである。○往き更る毎年ごとに 「としのは」は、毎年の意であるから、「ごとに」は、強意のために添えたもの。○言ひ継ぎにすれ その怪しさを言い継ぎにしている。「すれ」は、「こそ」の係がなくて已然形にしている、他に例のないものである。『新考』は、家持がふと誤ってのものではないかと疑っている。
【釈】 天照大神の最古の御代から、安の河を中に隔てて、向かい合って立って、袖を振って、遠く思いを交わし合って、命がけで嘆いていらっしゃる愛すべき二人よ。渡し守はこの河には船も設けない。せめて橋でも渡してあったら、その上をとおって渡ってお行きになり、手をつなぎ、頸に手を掛け合っていて、言いたいと思われることも話し合い、心を慰めることもあろうのに、どうしたわけで秋でなければ、物を言い合うことも少ない、愛すべき二星なのであろうか。現し身のこの世の人である我も、その点を甚しくも不思議に思って、去り来たりする年ごとに、天の原ふり放け見つつ、言い継ぎにしている。
【評】 天の河の二星に関しての歌はじつに多くあるが、その内容はほとんど一定していて、相逢えずにいることに対しての憐れみ、またたまたまの逢瀬のいかに楽しいものであろうかという思いやりの範囲にとどまっており、それ以外のものはない形である。この歌は、それらとは異なり、二星が秋でなければ逢えないというのは、一体なぜであろうかと、それを怪しみ訝かることを作意としたもので、二星の甲斐なく思慕し合う状態、また、逢う方法の全くない嘆きは、その怪しみ訝かりを強めるためというより、むしろ合理化するためのものとしている。これは一と口にいうと、個人の欲望を絶対なものと見、その角度から伝説を批判的に見ているものであって、天の河に対して初めて知性的な眼を向けたものである。また、牽牛織女をわが国のものとし、「天照らす神の御代より」の存在とし、天の河を「安の河」とするのも、これは人麿の歌にもあるものであるが、いずれも個人的・実証的に物を見ようとする延長と見られるものである。この歌は作意としてはそのように知性的であり、また構成もそれにふさわしく整然としてもいるが、一首全体の味わいとしては、当然盛り上がって来べき感味が稀薄で、力弱いものとなっており、そこに矛盾を思わせる。これは偶然なものではなく、家持をして心弱くならせる理由があって、それが反映してのことではなかったか。それは家持は坂上大嬢と結婚し、相思の間ではあったが、彼が越中に着任して以来すでに足掛け(237)四年を経過したにもかかわらず、大嬢は夫の許へは来ずにいた。これは大嬢の母坂上郎女が、娘を手放すことを好まなかったためらしく、そして夫妻はそれをいかんともすることができなかったらしい。その陰鬱な気分が家持の胸に積もっていて、それが七月七日の夜天の河を仰ぎ見た折に発露したのではないか。二星の立場に立って、その欲望を制させている伝説に、知性的、批評的の眼を向けさせているのは、間接に坂上郎女に対しての愚痴を、そうした形で漏らしたものと思われる。迎えての解のごとくであるが、そう解すると、この歌は自然なものとなって来るのである。
 
     反歌二首
4126 天《あま》の河《がは》 橋《はし》渡《わた》せらば 其《そ》の上《へ》ゆも い渡《わた》らさむを 秋《あき》にあらずとも
    安麻能我波 々志和多世良波 曾能倍由母 伊和多良佐牟乎 安吾尓安良受得物
 
【語釈】 ○橋渡せらば 橋渡しあらばの約で、未然条件法。○い渡らさむを 「い渡らさむ」は、「渡らむ」の敬語。牽牛のすること。「を」は、詠歎。
【釈】 天の河に橋が渡してあったならば、牽牛は渡って行かせられるであろうものを。秋ではなかろうとも。
【評】 第二段の、二星を憐れむことを繰り返したものである。類想の歌が多い。
 
4127 安《やす》の河《かは》 こ向《むか》ひ立《た》ちて 年《とし》の恋《こひ》 日長《けなが》き子《こ》らが 妻間《つまどひ》の夜《よ》ぞ
    夜須能河波 許牟可比太知弖 等之乃古非 氣奈我伎古良河 都麻度比能欲曾
 
【語釈】 ○こ向ひ立ちて 「こ向ひ」は、用例のない語である。「こ」は、「い」の誤写であろうとする解と、接頭語であろうとする解とがある。不明である。○年の恋日長き子らが 「年の恋」は、一年じゅうの積もった恋で、「日長き子ら」は、時久しい恋をしている子らの。○妻問の夜ぞ 「妻問」は、夫が妻を訪う意で、相逢うの意。
【釈】 天の河に向かって立って、一年じゅぅの積もる恋の、その時久しい恋をしている、愛すべき二人が、相逢う夜だ。
【評】 この歌は、独立しての歌とすれば、類想の多い、平凡な歌である。しかし、長歌の反歌とすると、この場合言い及ぼさ(238)ずにはいられなかった境であろう。
 
     右は、七月七日、天漢《あまのがは》を仰ぎ見て、大伴宿禰家持の作れる。
      右、七月七日、仰2見天漢1、大件宿祢家持作。
 
     越前国の掾大伴宿禰池主の、来贈れる戯の歌四首
 
【題意】 「戯」の意は、次の書翰が示しており、歌に対しては、書翰は題詞の役をしている。
 
     忽に恩賜を辱くし、驚欣已に深し。心中|咲《ゑみ》を含みて、独座りて稍開けば、表と裏と同じからず、相違何ぞ異れる。所由《ゆゑ》を推し量るに率爾《いささめ》に策《ふむだ》を作《な》せる歟。明かに知る、言を加ふること豈他意有らめや。凡そ本物《ほんもち》を貿易《まうやく》すること、其の罪軽からず。正贓倍贓《しやうざうばいざう》、宜しく急に并《あは》せ満たすべし。今風雲に勒《ろく》して徴使《めしづかひ》を発《いだ》し遺す。早速《すみやか》に返報して、延廻すべからず。
         勝宝元年十一月十二日、物を貿易せらえし下吏。
        謹みて貿易の人を断る官司の庁下に訴ふ。
       別に白さく、可怜《かれい》の意、黙止すること能はず、聊四の詠《うた》を述べて睡覚に准擬《なぞ》ふ。
      忽辱2恩賜1、驚欣已深。心中含v咲、獨座稍開、表裏不v同、相違何異。推2量所由1、率尓作v策歟。明知、加v言豈有2他意1乎。凡貿2易本物1、其罪不v軽。正贓倍贓、宜2急并滿1。今勒2風雲1發2遣徴使1。早速返報、不v須2延廻1。
         勝寶元年十一月十二日、物所2貿易1下吏、
        謹訴2貿易人斷官司 廳下1。
       別白、可怜之意、不v能2黙止1、聊述2四詠1、准2擬睡覚1。
 
(239)【解】 「忽に恩賜を辱くし」は、思わずに御恵贈の品を拝受し。「驚欣已に深し」は、甚だ驚喜しました。「独座りて稍開けば」は、自身、荷の包を少し開くと。「表と裏と同じからず、相違何ぞ異れる」は、包についている、内容を示す札と、包の中の品物とは同じでなく、しかも甚しく違っている。「所由を推し量るに率爾に策を作せる歟」は、その理由を推量すると、軽忽に札書きをしたのであろうか。「明かに知る、言を加ふること豈他意有らめや」は、「言を加ふること」は、その贈物に添えてあった上書で、それは内容を明示しない漠然たる言い方か、あるいは、戯れに洒落れた言い方をしてあったとみえる。明らかにわかります、お添えになっているお言葉で、他意あってのことであろうか、御好意よりのことだといぅことをで、厚情を謝する意。「凡本物を貿易すること、其の罪軽からず」は、一転して戯語をいっているもの。およそ、もとの品物を、悪い品物と取り換えることは、その罪が軽くはないで、これは詐偽で、窃盗に近いことだからである。こういうことをいうのは、包みの上書を本物とし、それと一致しない内容を、貿易すなわち取り換えた品物としていっているのである。この言い方は、国司としての彼らが、部内の不良な民を裁く場合に言い馴れているもので、その意味で興味ある戯語となり得た語とみえる。「正贓倍贓、宜しく急に并せ満たすべし」は、「正贓」は、不正に取り換えた品物を還すこと。「倍贓」は、その償いとして、倍額にして還すこと。いずれも官に没収することになっていた。「并せ満たすべし」は、双方を取揃えよ。上を受けて、すべて法律語である。「風雲に勒して徴使を発し遣す」は、「風雲」は、その速やかな意で馬に譬えたもの。「勒」は、馬を御する具で、馬の装いをして。徴使の乗る馬。「徴使」は、贓物を取り立てる使で、それを差し遣わす。幸便に託してこの使を送るということを、上を受けて大げさに言い続けたもの。「返報して、延廻すべからず」は、返事をして、延引してはならない。「物を貿易せらえし下吏」は、品物を取り換えられた身分低い官人。「貿易の人を断る官司の庁下」は、物を取り換えた人を裁判する役人の長の貴下で、この「官司」は国司のあたる役であった。「別に白さく」は、追白と同じ。「可怜の意」は、愛すべき物を褒める心はで、ここは家持の贈った品物すなわち袋を愛でる意で、袋ということは歌でわかる。「睡覚に准擬ふ」は、目ざましの料になぞらえるで、お笑いぐさに供すというと同じ。
 
4128 草枕《くさまくら》 旅《らたび》の翁《おきな》と 思《おも》ほして 針《はり》ぞ賜《たま》へる 縫《ぬ》はむ物《もの》もが
    久佐麻久良 多比乃於伎奈等 於母保之天 波里曾多麻敞流 奴波牟物能毛賀
 
【語釈】 ○旅の翁と思ほして 我を旅にいる翁とお思いになって。池主の年齢は不明だが、若かったことは作の上で察しられる。「翁」は、無論戯言である。○針ぞ賜へる 針をくだされたことです。これで見ると、家持の贈物は、旅行の際携帯する習いになっていた針で、それはそのための袋に入れてあった物と知れる。旅行の際、針を携帯することは、巻二十(四四二〇)「草枕旅の丸寝の紐絶えばわが手と附けろこれの針もし」と(240)あり、これは防人にその妻が贈ったのであるが、当時は必要品だったのである。○縫はむ物もが 縫ふべき物もいただきたいものですで、「もが」は、顕望の助詞。この「物」は、書翰にいう「倍贓」にあたるもので、戯れに甘えての言。
【釈】 草枕の旅にある私とお思いになって、針をくだされたことです。縫うべき物もほしいことです。
【評】 家持の心やさしい贈物を、うれしく思っての感謝であるが、それをそうはいわず、つけ上がり、甘えたことをいう形においてその嬉しさをあらわしているものである。「縫はむ物もが」を、書翰のほうでは、さらに正贓に対する倍贓という、手のこんだ戯言にしているのである。
 
4129 針袋《はりぶくろ》 取《と》り上《あ》げ前《まへ》に置《お》き かへさへば おのともおのや 裏《うら》も継《つ》ぎたり
    芳理夫久路 等利安宜麻敞尓於吉 可邊佐倍波 於能等母於能夜 宇良毛都藝多利
 
【語釈】 ○針袋 針を入れる袋で、家持の贈った物。上の歌では、針をいっているが、贈ろうとしたのは袋で、針は付随物だったのである。○取り上げ前に置き 手に取り上げて見、また前に置いて見てで、つくづくと見たことを具象的にいったもの。おもしろい物だからである。下の続きで見ると、袋は絹の小切れを継ぎ合わせて拵えた物だったのである。○かへさへば 「かへさへ」は、「かへす」の連続「かへさふ」の已然形で、袋の内側を、裏返しにして見ればで、上を受けてさらによく見ると。○おのともおのや 「おの」は、他に用例のない語。木村正辞は、『新撰字鏡』に、「吁、疑恠之辞也、於乃」とあるにより、恠《あや》しいの意であるといっている。ここはそれを畳んで強めて、「や」の詠歎を添えたもので、恠しいとも恠しいぞで、変だぞ変だぞというにあたる。○裏も継ぎたり 裏側までも継ぎ合わせにしてある。
【釈】 針袋を手に取って見、前に置いて見、裏返しにして見ると、変だぞ変だぞ、裏側まで継ぎ合わせにしてある。
【評】 家持の贈った針袋は、絹の小切れを継ぎ合わせて拵えたもので、いわゆる凝った物だったのである。この類の小袋は、今も同様のことをして楽しんでいるので、当時にあっては、しゃれた、気の利いた、彼ら階級の者にあってはおもしろい物だったとみえる。池主の喜んだのは無論であるが、適当なあらわしようのないところから、それを初めて見た時の印象を、丹念に叙することによってあらわそうとしたものである。その意味では巧妙な歌である。事が特殊であり、また趣味的なものであるから、一般性のない歌であるが、しかしその心は推量のできるものである。
 
4130 針袋《はりぷくろ》 帯《お》び続《つづ》けながら 里《さと》ごとに てらさひ歩《ある》けど 人《ひと》も咎《とが》めず
(241)    波利夫久路 應婢都々氣奈我良 佐刀其等迩 天良佐比安流氣騰 比等毛登賀米授
 
【語釈】 ○帯び続けながら 腰に下げ続けながらで、「帯び」が、針袋の携え方だったのである。○てらさひ歩けど 「てらさひ」は、「照らす」の連続で、見せびらかすというにあたる語。○人も咎めず 誰も各め立てをしないで、これは目をつけてとやかくいわないことで、目立たないからである。良い物を、自慢で見せびらかすと、人に非難されるが、それがなくて楽しい意。
【釈】 いただいた針袋を、腰に帯びとおしにして、里から里と見せびらかして歩きますが、誰も咎めません。
【評】 これも上の歌と同じく感謝の心である。「てらさひ歩けど」までは、そのものの嬉しさに堪えられない心で、それを少年の行動を借りて具象したもの。「人も咎めず」は大人の心で、得意な振舞いをしても、人から非難されないということは、一段の楽しさなのである。上の歌ほどの自然さはないが、謝意の表現としては、巧みなものといえる。
 
4131 鶏《とり》が鳴《な》く 東《あづま》を指《さ》して ふさへしに 行《ゆ》かむと思《おも》へど 由《よし》も実《さね》なし
    等里我奈久 安豆麻乎佐之天 布佐倍之尓 由可牟等於毛倍騰 与之母佐祢奈之
 
【語釈】 ○鶏が鳴く東を指して 「鶏が鳴く」は、東の枕詞。「東」は、東国一帯の称。この当時は東国は、西南地方ほどに皇化が洽《あまね》くはなく、したがって様子のよくは知られないところから、都よりいうと、きわめて遠く感じられたのである。そうした東国をさして。○ふさへしに 「ふさへ」は、他に用例のない語である。似合うという意の「ふさはし」の名詞形と取れる。似合うことの意。旅行用の針袋に似合わしいことをしにの意で、連作である関係上、針袋を略していったもの。○由も実なし 「由」は、縁故。「実」は、真実にの意の副詞で、その縁故が実際ない。
【釈】 鶏が鳴く東国をさして、針袋に似合わしいことをさせに行こうと思いますが、その縁故が実際ございません。
【評】 針袋に刺激されて、遠い旅行をして見たい気になったが、そうした手がかりは全然ないと歎息した心である。上の歌よりまた一段と自然性の乏しい歌であるが、しかしいわゆる文人気分のある作で、この場合、彼ら同士の間にあっては興味のあったものだろうと思われる。「鶏が鳴く東」は、遠い国という意の具象であるが、文人気分からいえば、ほとんど閉ざされたままの国で、その意味で、好奇心を起こさせる、魅力ある国であったろうと思われる。
 
     右の歌の返し報《こた》ふる歌は、脱《お》ち漏れて探し求むることを得ず。
      右歌之返報歌者、脱漏不v得2探求1也。
 
(242)【解】 右の歌に対して、家持より返しとして報いた歌は、歌の控えから漏れて、探せないというので、家持の自注である。はたしてそうであったのか、または、その歌は記録するを欲しなかったからのことかはわからない。後の場合もありうることで、それをこのように言うこともまたありうることだからである。
 
     更に来贈れる歌二首
 
【題意】 さらにまた、池主から贈って来た歌で、次は、それに添った書翰である。
 
     駅使を迎ふる事に依りて、今月十五日、部下の加賀郡の境に到来せり。面蔭に射水の郷を見、恋緒を深海《ふかみ》の村に結ぶ。身は胡馬に異なれど、心は北風に悲ぶ。月に乗じて徘徊し、曾て為す所無し。稍来封を開く。其の辞云々といへり。先に奉る所の書《ふみ》、返りて畏る、疑に度《わた》れるを。僕嘱羅を作《な》し、且つ使君を悩す。夫れ水を乞ひて酒を得《う》るは、従来能く口にす。論時に理に合はば、何ぞ強吏と題《い》はめや。尋《つ》ぎて針袋の詠《うた》を誦《よ》むに、詞泉酌めども渇《ひ》ず、膝を抱きて独り咲ひ、能く旅愁を※[益+蜀]《のぞ》く。陶然として日を遣る。何をか慮らむ、何をか思はむ。短筆不宣。
     勝宝元年十二月五日、物を徴《はた》りし下司。
    謹みて不伏の使君の記室に上る。
      依d迎2驛使1事u、今月十五日、到2來部下加賀郡境1。面蔭見2射水之郷1、戀緒結2深海之村1。身異2胡馬1、心悲2北風1。乘v月俳〓、曾無v所v爲。稍開2來封1。其辞云々者。先所v奉書、返畏、度v疑歟。僕作2喝羅1、且惱2使君1。夫乞v水得v酒、從來能口。論時合v理、何題2強吏1乎。尋誦2針袋詠1、詞泉酌不v渇、抱v膝獨咲、能  露2旅愁1。陶然遣v日。何慮何思。短筆不宣。
         勝寶元年十二月十五日、徴v物下司。
        謹上2 不伏使君 記室1。
 
(243)【解】 「駅使を迎ふる事に依りて」は、駅使は駅馬に乗る使で、官令を帯びて越前の国庁に来る使で、国司としてそれを出迎えるために。「部下の加賀郡の境に到来せり」は、部下は、越前国の中。「加賀郡」は、現在は石川県の石川、河北の二郡で、この当時は越前国に属していた。「境」は、国境。「面蔭に射水の郷を見」は、射水の郷は国庁のある所で、家持をさしてのもの。「面蔭に見」は、家持を慕う意を暗示したもの。「恋緒を深見の村に結ぶ」は、深見の村は、三月十五日の書翰にも出ている村で、池主の現に来ているところ。「恋緒を結ぶ」は、家持を恋うる意。「結ぶ」は、「緒」の縁語。「深」も「恋」のそれである。「身は胡馬に異なれど、心は北風に悲ぶ」は、胡馬は北方のえびすの馬で、北風はその故郷の方より吹いて来る風。身は胡馬ではないが、北風に哀感を起こすで、深見の村から越中の射水は北方にあたっている意である。これは『文選』の古詩「胡馬依2北風1、越鳥巣2南枝1」によった語。「月に乗じて徘徊し、曾て為す所無し」は、月下をさまよって、思慕の情を、どうしようもありません。「稍来封を開く」は、ようやく書翰を得て読んで。この「来封」は、家持の「脱ち漏らしたる歌」のある書翰である。「其の辞云々といへり」は、「その辞」は家持の文言で、云々はいうに及ばないものとして略したのである。「先に奉る所の書」は、「先に奉る」は、上に出ている書翰。「返りて畏る、疑に度れるを」は、私に対して疑いをお起こしになったのではないかと懸念される節がありますの意。家持が戯れに、腹を立てたようなことをいってやったとみえる。「僕嘱羅を作し、且つ使君を悩す」は、「嘱羅」は不明の語であるが、嘱は頼みごとの意で、それを「作し」は、針袋を贈られた上に、さらに他の物を無心した意と取れる。「使君」は国司の唐名で、それにつけて貴下を悩ますことですの意。「水を乞ひて酒を得るは、従来能く口にす」は、水を乞うて酒を得る、すなわち望外の良い物を得るということは、何びとも願うことで、昔から人がよくいっていることですで、無心をしたのはむしろ普通のことで、格別のことではないの意。これは『遊仙窟』の、「乞v漿得v酒、旧来神口」とあるによった語。「論時に理に合はば、何ぞ強吏と題はめや」は、「論時に理に合はば」は、その論が、その場合の理にかなっていたならばで、貿易に対しては、正贓倍贓を出せといったことをさしたもの。「何ぞ強吏と題はめや」は、何で徴収を強いる吏といえようかで、これも自身の無心をしたことを当然だとしたもの。「強吏」という語は、家持の書翰にあったとみえる。「僕」以下これまでは「疑に度れる」に対しての弁解で、疑いを受けるべき理由はないというのである。家持の返翰は、戯れに、わざと「強吏」というような語を用いてあったとみえ、池主もその戯れであることを承知の上で、わざと本気を装って弁解しているのである。「陶然として日を遣る」は、楽しさにうっとりとして日を過ごすの意。「何をか慮らむ」は、何の気にかけることがあろうかで、弁解も無用だの意。「短筆」は、拙い筆。「不伏」は、人に伏さぬ人の意か。「使君」は、ここは国司家持をさす。「記室」は、書記室で、「侍史」というにあたる。
 
(244)     別に奉る云々。歌二首
 
【題意】 「別に奉る」は、別文で、「云々」は、略した意で、これは家持のしたこと。
 
4132 竪様《たたさ》にも かにも横様《よこさ》も 奴《やつこ》とぞ 吾《あれ》はありける 主《ぬし》の殿門《とのど》に
    多々佐尓毛 可尓母与己佐母 夜都故等曾 安礼波安利家流 奴之能等乃度尓
 
【語釈】 ○竪様にもかにも横様も 「竪様にも」は、竪にも。「かにも横様も」は、このように横にもで、「かにも」は、強意のために添えた語。以上、どのようにでもなって。○奴とぞ吾はありける 「奴」は、奴隷であるが、ここは部下としての意を卑下していったもの。「ける」は、過去の詠歎で、「ぞ」の結。○主の殿門に 「主」は、仕える主人。「殿門」は、殿の門で、御門。奴の詰所の意。
【釈】 竪にも、このように横にも、どのようにでもなって、奴として私はいたことでした。あるじあなたの御門に。
【評】 下僚として越中の任国にあった時、心としては部下と同じものを持っていたと、思い出としていっているものである。これをいうのは、今もその当時と異ならぬ心を持っていることをいおうとしたためで、言いかえると、家持に対して無二の真実を持っていることを、婉曲に誓ったものである。
 
4133 針袋《はりぶくろ》 これは賜《たば》りぬ すり袋《ぶくろ》 今《いま》は得《え》てしか 翁《おきな》さびせむ
    波里夫久路 己礼波多婆利奴 須理夫久路 伊麻波衣天之可 於吉奈佐備勢牟
 
【語釈】 ○針袋これは賜りぬ 針袋、そちらはいただきましたで、すでに贈られた物。○すり袋今は得てしか すり袋のほうを、今はいただきたいものですで、「てしか」は、顧望。「すり袋」は、不明である。針袋は旅行用のものであるから、それと並ぶべき、同じく旅行用の物と取れる。『代匠記』は火燧《ひうち》を入れる袋かといい、傍証になりうる引文をしている。『略解』も従っている。それだと最も似合わしいといえる。『古義』は※[竹/鹿]袋《すりぶくろ》であろうといっている。それは『倭名類聚鈔』行旅具に、「説文云、※[竹/鹿]、竹篋也。楊子漢語抄云、※[竹/鹿]子、須利《すり》」。「主鈴式」に、「凡行幸従駕内印、并駅鈴伝符等、皆納2漆|※[竹/鹿]子《すりこ》1」とある物で、今の世の皮籠《かはこ》の類で、旅客の負うて歩いたものであろう。その※[竹/鹿]を入れる袋がすり袋で、あるいはその袋を、※[竹/鹿]代《すりしろ》に造った物の称であろうといっている。他にも説があるが、この解が最も根拠のあるものである。○翁さびせむ 翁にふさわしい様をしようで、ここの「翁」は、旅の翁としてである。
(245)【釈】 針袋、そちらはすでにいただきました。すり袋を今は欲しいものです。旅の翁にふさわしい様をしましょう。
【評】 上の歌と連作になっているもので、上の歌で、私はあなたの奴のように思っているといったのを受け、あなたも私をそのように思って、この上とも物を下さいとの意で、すり袋を無心した形にしたのである。「正贓倍贓」という戯語から、あるいは家持の機嫌を損じたかもしれぬと懸念されたので、その点で書翰であくまでも弁解した上で、さらにその時の気持に立ち帰って、意識して、好意に甘える態度を取った物言いである。これは親善の意をあらわす方法としてのことで、それ以外の心を持ったものでないことはいうまでもない。すり袋そのものは不明な点があるが、「翁さびせむ」といっているのは、さきの歌で「旅の翁」といったのを受けての語で、そうした身にふさわしくしようといっているのでも、その心は明らかである。
 
     宴席に雪月梅花を詠める歌一首
 
【題意】 宴席の興として、雪、月夜、梅の花を詠み込んでの一首を作れといわれて詠んだ歌である。これは巻十六に多く出ている戯咲歌の範囲のもので、家持もその作者の一人であった。
 
4134 雪《ゆき》の上《うへ》に 照《て》れる月夜《つくよ》に 梅《うめ》の花《はな》 折《を》りて贈《おく》らむ 愛《は》しき児《こ》もがも
    由吉乃宇倍尓 天礼流都久欲尓 烏梅能播奈 乎理天於久良牟 波之伎故毛我母
 
【語釈】 略す。
【釈】 雪の上に、月の照っているこのような夜に、そこに咲いている梅の花を、折って贈ろうとする可愛ゆい女がほしいものだなあ。
【評】 多種の物を一種に詠み込むことの興は、その物がかけ離れた物で、詠めそうもない物でなくてはならぬ。ここに列挙した物はそうした物ではなく、多分その宴席から見えている物で、名前そのものの列挙がすでに歌となりうるものである。この歌は、それに「愛しき児もがも」という、宴歌としては型になっている恋愛気分の一句を添えたのみのものである。戯咲歌が衰え、題詠歌に移って来ていた反映でもあろう。
 
     右の一首は、十二月、大伴宿禰家持の作れる。
(246)      右一首、十二月、大伴宿祢家持作。
 
4135 我《わ》が兄子《せこ》が 琴《こと》とるなへに 常人《つねびと》の いふ歎《なげき》しも いや重《し》き増《ま》すも
    和我勢故裁 許登等流奈倍尓 都祢比登乃 伊布奈宜吉思毛 伊夜之伎麻須毛
 
【語釈】 ○琴とるなへに 「琴とる」は、琴を弾く意。琴を弾くに伴って。○常人のいふ歎しも 「常人」は、世の一般の人で、人というにあたる。人のいうところの嘆きで、琴の音を聞いていると哀愁を催して来るの意。「しも」は、強意の助詞。○いや重き増すも いよいよ重なり、増さって来るで、語を尽くして感の深さをいったもの。
【釈】 親しいあなたが琴を弾くに伴って、世の人のいうところの哀感が、いよいよ重なり増さって来ます。
【評】 作歌の場合は左注にあって、宴席で主人が興を添えようとして弾いた琴に対し、客の家持が、挨拶として詠んだ歌である。琴は宴席には付き物で、格別なものではなく、主人の琴も初めて聞くものではなかったろう。歌も挨拶のもので、宴席においてのものである。それとしては、琴の音に引き入れられた気分が豊かに出ていて、すぐれた歌といえるものである。「常人の」以下充実した語つづきである。事が一旦気分化して来ると、風格ある歌を詠みうる人だったのである。
 
     右の一首は、少目秦伊美吉石竹の館の宴に、守大伴宿禰家持の作れる。
      右一首、少目秦伊美吉石竹館宴、守大伴宿祢家持作。
 
     天平勝宝二年正月二日、国の庁に饗《あへ》を諸郡司|等《たち》に給ふ宴《うたげ》の歌一首
 
【題意】 正月、国守が、部内の郡司等を国庁に招いて饗することは、定例となっていたのである。このことは巻二十の最後の歌にも見られる。歌は国守としての挨拶である。
 
4136 あしひきの 山《やま》の木末《こぬれ》の ほよ取《と》りて 挿頭《かざ》しつらくは 千年《ちとせ》寿《ほ》くとぞ
    安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等理天 可射之都良久波 知等世保久等曾
 
(247)【語釈】 ○山の本末のほよ取りて 山の木の枝先にあるほよを取って来て。「ほよ」は、『新撰字鏡』に出ており、また『倭名類聚鈔』にも出ていて、「寄生、本草云寄生。一名寓木。寓亦寄也。音遇、夜度利岐、一云保夜」とあり、ほやとも呼んだのである。※[木+解]寄生科で、榎、栗、桜などに寄生する植物。茎は粘柔緑色、葉は倒針形の二葉対生。浅黄色の花を開く。下の続きで見ると、新年の宴の挿頭だったとみえる。吉江喬松は、フランスの上代人は、森林は神のいます神聖な所とし、ことに寄生木は、神そのものであるとして神聖視したという。分布の広い信仰だったのである。○挿頭しつらくは かざしつることはで、挿頭しているのは。○千年寿くとぞ 千年の寿命を祝ってのことだというで、「云ふ」が略されている。
【釈】 あしひきの山の木の枝から、ほよを取って、挿頭にしたことは、千年の寿命を祝ぐためのことだという。
【評】 その日の宴には、古来の礼として、国司も郡司も、冠にはほよを挿頭としていたとみえる。守としての家持は、そのほよの説明をする歌を詠んで、祝の詞としたのである。互いにそのほよの示すように、千年を変わらずにいようというのである。ほよはその当時、こうした説明を、必ずしも不用とはしない程度にまで曖昧な物になっていたからのことかと思われる。守の下僚に対する祝詞としては、この場合ふさわしい歌である。
 
     右の一首は、守大伴宿禰家持作れる。
      右一首、守大伴宿祢家持作。
 
     判官久米朝臣広繩の館にて宴せる歌一首
 
4137 正月《むつき》たつ 春《はる》のはじめに かくしつつ 相《あひ》し笑《ゑ》みてば 時《とき》じけめやも
    牟都奇多都 波流能波自米尓 可久之都追 安比之惠美天婆 等枳自家米也母
 
【語釈】 ○正月立つ春のはじめに 正月が来た春のはじめにで、一年の初めの時に。○相し笑みてば 互いに笑んだならば。「し」は、「相」を強めたもの。「笑みてば」は、「て」は、完了の助動詞「つ」の未然形で、これも強めたもの。○時じけめやも 「時じけめ」は、「時じく」の活用「時じけ」に、助動詞「む」の已然形「め」の接したもの。「や」は、反語。その時でないという時があろうか、ありはしないで、いつでも続きうることであるの意を強くいったもの。
【釈】 正月が来た春の初めに、このように互いに相笑んだならば、この笑みがその時ではないという時があろうか、ありはしないことだ。
(248)【評】 正月初め、国司の一人の家へ集まっての宴に臨み、守として詠んだ歌である。「相し笑みてば時じけめやも」という言い方は力をこめ、屈折を持たせて、強くいった言い方で、尋常のものではない。その時の思いつきという性質のものではなく、それに類した成語があって、言いかえたものではないかと思われる。楽しく相笑むということは、めでたい語と同じく、そのもの自体に呪力があるという信仰もありうるものだからである。現在でも松の内は争うものではないと戒め合う心があるのと同様なことがあったろうと思われる。それだと守の挨拶としてふさわしいものとなって来る。
 
     同じき月五日、守大伴宿禰家持の作れる。
      同月五日、守大伴宿祢家持作之。
 
     墾田の地を検察する事に縁《よ》りて、礪波郡の主帳|多治比部北里《たぢひべのきたざと》の家に宿る。時に忽に風雨起りて、辞去することを得ずして作れる歌一首
 
【題意】 「墾田」は、上の(四〇八五)東大寺の占墾地使に出た。新たに開墾した田の称で、養老七年夏以後、開墾者は三代の間私有することを許されていたが、天平十年五月以後は、永代の私有を認められるに至った。「検察」は、それについて、国司として実地の検分をする意。「主帳」は、書記。「北里」は、伝未詳。
 
4138 荊波《やぶなみ》の 里《さと》に宿《やど》借《か》り 春雨《はるさめ》に 隠《こも》り障《つつ》むと 妹《いも》に告《つ》げつや
    夜夫奈美能 佐刀尓夜度可里 波流佐米尓 許母理都追牟等 伊母尓都宜都夜
 
【語釈】 ○荊波の里に 『延喜式』神名に、「越中国礪波郡荊波神社」とあるが、現在は所在不明。礪波市池原の荊波《やぶなみ》説と小矢部市|礪中《とちゆう》町藪波説とがある。○隠り障むと 「隠り」は、雨ごもりで、雨に籠もって外出しない意。「障む」は、間違い事のないように慎しむ意で、同意語を畳んで強めたもの。○妹に告げつや 家の妹に告げたかで、従者に、命じたことを果たしたかと確かめたもの。「妹」は、家持の妻坂上大嬢で、この頃は家持の許に下って来ていたのである。それにつき『代匠記』は、巻十九(四一六九)の題詞の「家婦京に在す尊母に贈らむが為に、誂へらえて作れる歌」は、この年と同じく天平勝宝二年三月二十三日の作であるから、大嬢の越中に来ていたことは確かである。下った時期は、勝宝元年閏五月までの歌では、京に居たことが明らかだから、その後のことであるといっている。
(249)【釈】 荊波の里に宿を借りて、春雨に籠もって慎しんでいると、家の妻に告げたのか。
【評】 従者に、命じて置いた事を果たしたかと、念のために尋ねた語である。こうした日常の用向きを、歌の形でいうのは、伝統の久しいもので、歌の文芸以前の形である。作因は、妻を思う心からのことで、それがまた歌の形ともさせたのである。一首の歌となり得ているのも、その作因のためである。
 
     二月十八日、守大伴宿禰家持の作れる。
      二月十八日、守大伴宿祢家持作。
 
(252)  萬葉葉 巻第十九概説
 
     一
 
 本巻は『国歌大観』の番号の(四一三九)より(四二九二)に至る一五四首を収めた巻である。
 本巻は、巻第十七、十八の継続で、同じく大伴家持の家集の形を成しているもので、彼の作を、成るに従って日記的に排列することを主として、添うるに、彼の周囲の人々の作で、彼と直接交渉を持つことによって知り得た作をもってし、次に、何らかの機会において、いわゆる伝誦によって知るを得た人々の作を、これまた見るを得、知るを得た順序を追うて日記的に排列して一巻としたものである。
 その期間からいえば、天平勝宝二年三月から、同じき五年二月にわたるもので、まる三年間である。歌数一五四首を、歌形よりいえば、長歌二三首、短歌一三一首である。そのうち、家持の作は、長歌一七首、短歌八六首で、一〇三首を占めている。まさに家持の家集というべきである。
 
     二
 
 本巻で最も注意させられることの第一は、歌人としての家持が、この三年間の期間において、その作歌上にいかなる推移、展開を示しているかということである。
 わが国の歌といううち、ことにこの時代の歌は、伝統の歌風の強固にして動かすべくもないものがあり、作歌はその上に立ってのものだったことである。伝統とは一と口にいえば、歌は実際生活と緊密に結びついたものであり、それを母胎として生まれ来たるもので、それより遊離することのできないものだということである。これは歌は本来、実際生活の必要を充たすためのものであり、実用性のものであること、また、その表現形式としての短歌形式は、この実用性を果たす上に、最も適当した、恰好な形式であって、慣用の結果、ぬきさしのならないものとして一般から承認されていたことである。この短歌形式の尊重ということは、その発生は、歌の実用性ということに関連してのものであるが、慣用の結果、形式そのものとして権威あるものとなり、五句三十一音は歌そのものの代名詞であり、別名であるがごとき感の伴うものとなったのである。歌そのものとしては、時代の進むとともにそれに対する要求が移って来、実用性のものより次第に文芸性のものになって来たのであるが、その内容の変わるにもかかわらず、表現は短歌形式をもってしなくてはならず、少なくともそれが主体となっていたのである。短歌という短小な形式をもって、文芸的発想を充たそうとすれば、実際生活より離れることは不可能だったのである。万人共通の実際生活に即していうのでなければ、歌は他人には通じがたいものだったからである。短歌と実際生活との結びつきは、(253)歌にとっては宿命的なものである。加えて、歌が文芸性のものとなるということは、言いかえれば歌が個人性を増すということであって、そうなればなるほど、実際生活との結びつきは緊密とならざるを得なかったのである。
 こういうことを事新しくいうのは、この時期において家持の文芸観は確立して来、明瞭に、歌は文芸性を充たすためのものであるということをいうに至っているからである。それは本巻結尾の歌である(四二九二)「うらうらに照れる春日に雲雀あがり情《こころ》悲しも独しおもへば」の左注において、「悽惆の意、歌にあらずは、撥《はら》ひ難きのみ。仍りて此の歌を作り、式《も》ちて締緒を展《の》ぶ」といっているので知られる。これは、歌とはわが生存上の必要を充たすためのものであって、処世上に利用すべきものではない。歌は目的であって、方便ではない。文芸性のものであって、実用性のものではない、ということである。
 家持の作歌の推移、展開ということは、彼がこの信念の線に沿って、いかに歩み、いかに進めて行ったかということである。
 
     三
 
 歌人家持を今日に存在させているおもなる原因は、彼が越中守に任ぜられた天平十八年六月より天平勝宝三年八月に至る五年間の任期を、当時としては「天離る」といい「級ざかる」といった越中の国府に、単調にして無聊な生活を送らしめたことである。彼にはもともと歌人としての素質があったのであるが、もしこの環境がなかったならば、はたして大成し得たかどうかは疑わしいといえる。それは天平勝宝三年国守の任期が満ちて、その八月奈良の都に帰ると、越中時代の多作より一変して、じつに寡作の人となり、たまたま宴歌を作るにすぎない人となっている実事を見ても、この間の消息はうかがえる。天平勝宝三年は、彼はすでに足掛け六年間を越中に過ごしていたものであるが、その前年よりこの年に至る頃には、その作歌の跡から見ると、彼はじつにその生活の単調無聊に苦しんでいたことが知られる。着任の当座は、奈良京の人に共通のこととして、奈呉の海の眺望が珍しかった。国司館に接している二上山、遠く望まれる白山も珍しかった。海にも似て、しかも静かな布勢の水海は心を引かれる所として遊覧を楽しんだ。この巻の頃は、それらの風景に対する興味も薄らいだとみえ、作歌の直接の材料とすることはきわめて稀れになってしまひ、比較的興味のあるのは、布勢の水海のみとなっている。生活に変化を与える遊びとしては、前よりの引続きとしての鷹狩があり、新たに鵜飼の遊びも加えて来たのであるが、これは季節の制限があって、短期間に限られてのものである。屋内生活としては、五年間を離れて過ごして来た妻の大伴大嬢が下って来ていたので、慰めるに足りるものがあったろうが、この人はその母に似ず、また家持にも似ずして、作歌の才を持ってはいなかったとみえる。これらのほかに慰めの途を求めると、下僚との交わりであるが、この頃は宴楽が少なかったとみえ、酒に付き物となっている宴歌が少なく、のみならず宴歌の代表的の型となっている恋の歌がほとんど見えない。これは家持が身を持すること謹厳で、自(254)身その種の歌を避けていたところから、おのずから風をなしたのではないかと思われる。
 事態がこのようであったから、家持のその日々の単調と無聊をまぎらし慰めるものとしては、その好むところの作歌をするよりほかはなかったのである。作歌は、外部よりの刺激と、外部の者に示そうとする刺激よりする場合が多い。歌が社交の具となったがごとき風を示しているこの時代は、ことにそれであったといえる。しかるに家持にはその刺激が全くなかった。同族であり、唯一の心合いの下僚であるとともに、作歌作詩の上に秀でた才を持った大伴池主がいなくなってからは、彼には一人の詩友もなかった。池主の後任者であった久米広繩は、多少の作歌の才を持っており、家持の最も親しさを感ずる者ではあったが、池主には及ぶべくもなく、彼を刺激する者とはなり得なかった。したがって池主に対したがごとく、その作歌を示そうとするまでの心にはならなかったとみえ、事実してもいないのである。作歌の上では家持は全く外部から絶縁されており、社交上の必要から作らせられ、示さなくてはならない稀れな場合のほかは、歌を通しての外部との交渉は全くなかったのである。
 家持の没頭していた作歌は、純粋に文芸的衝動によってさせられるものだったのである。加えて、国守の任期は五年と定まっていたので、今はその満期帰京も眼に近いものとなって来、それが本能的にもたされている都へ対する憧れの情をあおり、ますます単調無聊の感を深めて来たろうから、一意専心、作歌をしたがごとくである。この種の作歌を続けてゆけば、その人が歌人的素質を持っている人である限り、作歌はその人自身を掘り下げて、平常はそれと意識せずにいるその人の本質の深所奥所を把握せしむる屈強の物となり、またそれをなし遂げさせずにおかない物ともなって来る。家持はこの時代においてそれをなし遂げたのである。
 家持という人は、その歌を通して見ると、性来としてきわめて正直な人で、また他人に対する情愛のきわめて深い人であった。しかし気分の振幅は狭く、何にでも流通のできるという、いわゆる融通の利く人ではなかった。しかし知性は相応に働く人で、事のほどよさ、振合いということは十分に解る人であった。世に処して誤りなく渡ってゆくことはできる人であるが、どちらかというと消極的であって、身を護るという程度のもので、事を計画し、身を進めてゆくというごとき積極的のことはできず、また厭って、しもしなかった人とみえる。したがって日常生活の上に起こり来る哀楽にしても、その激しいものを厭い、静かな気分を愛してゆく人であった。こうした世に執着するところの強くなく、求むるところの多くない人には、その充たされざるところより来る焦躁も暗さもなく、いつも明るく、ほどよい憧れ気分を抱いて、その日常生活を楽しんで行かれたのである。こうした風は、家持ひとりのことではなく、大体とすると天平末期のこの時代はそうした時代で、上層階級の多数の人に共通の気分だったのである。彼のこの気分は、彼の属している奈良京の上層階級の雰囲気であって、彼の気分はそれに(255)よって支持され擁護されるものだったのである。
 こうした気分をもっていた家持の、作歌を通して掘り下げてゆき、到達し得た歌境は、対象としては、美しく、可愛ゆく、一脈幽遠の情を誘うものであって、これを受け入れる心としては、対象そのものの形としてではなく、その歌が醸し出すところの気分だったのである。古来の信仰より解放されて、自然が単なる自然となって来たこの時代にあっては、その自然の人間につながりうるところは、その愛すべく楽しむべきことよりほかはなかったのである。また、威力を失った自然は、形そのものに仰ぎ見させる物はなくなり、その愛すべき面に、人間の力が添って醸し出して来る気分よりほかはなかったのである。こうしたものをどこまで徹底的に捉え得、どの程度まで生動するものとなしうるかが、歌人の問題となり、個性の問題となって、それが全部だったのである。
 
     四
 
 家持の到達した歌境は、本巻の巻首と巻末の歌によってうかがわれる。巻首は、
  春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ※[女+感]嬬《をとめ》(四一三九)
  もののふの八十《やそ》をとめ等が悒《く》みまがふ寺井の上の堅香子《かたかご》の花(四一四三)
 これらは家持の歌としては、代表的に客観的傾向の勝ったものである。したがって明るく、軽さがあって、一見趣味的の作のように見えるのであるが、これが彼の生活内容だったのである。本巻には、前巻にもまさって霍公鳥の歌が多く、長歌四首、短歌十四首に及んでいる。その溺愛の程度は、いわゆる風流を超えて、むしろ苦しげに見えるまでであるが、それは風流というごとき、生活とある距離を持った、遊離したものではなく、家持にとっては霍公鳥は、ただちに生活内容であったことが知られる。これらの歌もその範囲のもので、これが彼のその時の生活内容だったのである。
 巻尾の歌は、上に挙げた「うらうらに照れる春日に」というのであるが、それに先立つ二首を挙げると、
  春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも(四二九〇)
  わが屋戸のいささ群竹《むらたけ》吹く風の音のかそけきこの夕《ゆふべ》かも(四二九一)
であり、これらは彼の歌風である主観的のものである。これにつぐ歌に彼は、上に引いた「悽惆の意、歌にあらずは、撥《はら》ひ難きのみ」という文芸論的の注を添えている。
 この歌の題詞の「二月」は、天平勝宝五年のそれであるが、彼が越中より帰京したのは、天平勝宝三年の八月であって、爾来、足掛け三年、満一年を過ごしているのである。その間家持は作歌の数がきわめて少なく、たまたま作れば宴歌のみだったのである。越中の閑処にあっては作歌に淫し、題詠の一種として、あらかじめ用いざる音を定めての作歌を試み、その音の多きを喜ぶがごときことまでもしていた彼であるが、奈良京の刺(256)激多く、事多い生活に入ると、彼は静処にあってその気分を愛してする作歌気分を全然奪われてしまっていたとみえる。しかし、一たび確かに捉えていた作歌気分は、機を得て起って来、上の三首のごとき歌を成したのである。「悽惆の意、歌にあらずは、撥ひ難し」というのであるが、作歌によって悽惆の意を撥いうる歌は、趣味として詠む歌の能く成しうるところでなく、本質より発し、全心を傾注したものでなくてはならない。家持はこれらの歌を詠んだ際、久しぶりに、彼の所期している純粋の歌を詠み得たと感じ、その歓びからこうした注を加えたものと思われる。この傾向、範囲の歌は、越中時代には、巻首の歌のみならず何首かを詠み得ているのである。これらが彼の到達した歌境で、彼独自の風格なのである。
 
     五
 
 本巻で最も注意されることの第二は、家持が他人の歌を、聞き得、知り得るに従って、丹念、剋明に記録して、その事のあった順序を追って本巻に収録していることである。この事は本巻に限ったことではなく、巻第十七以下にわたってのことであるが、本巻の物は、大部分は家持と同時代の歌で、それぞれ特色を持った、すぐれた歌が多い意味で、特に目立つのである。
 それら家持の蒐集し得た歌は、この時代の歌といぅ上からいえば、たまたま機会があって聞くを得、知るを得た一小部分であって、その全体から見るというに足りない量と思われる。しかしその質からいうとすぐれた物が多く、その間に介在している家持の歌は、圧せられ、片寄せられて、彼らには及ばぬごとき趣がある。そのことのきわやかに感じられるのは宴歌であって、彼が他の人々と同席して詠んだ宴歌を見ると、その社交上の歌として機知と巧緻とを重んじ、遊離的態度を取って即詠すべきものにあつては、多くの場合、彼は当時の人々に遠く及ばない感がある。彼の強みといえば、その融通のきかぬ、素朴な、結果よりいえば実感に即した点においてまさっていることだけである。それらの人々の、その優れた作だけなりとも、もし今日に保存されていたならば、われわれのこの時代の歌に対する認識は、かなり大きく改められるべきであろう。しかしその全部は壊滅に帰してしまい、遺っている物は、歌という文芸を愛好し、尊重し、他人の作をもわが作と同様に大切に保存しようとした家持の心によって、今日見られるだけの物が存在し得たのである。万葉集の巻第三以下の撰者としての家持の位置には問題が残っている。しかし巻第十七以下は少なくとも彼と見なくてはならない。時代的に見れば重要な資料である、家持の作以外の作の全部は、家持の心一つによって存在している物であることを思うと、家持の位置は単に撰者という程度にはとどまらない、はるかに重要なものとなって来るのである。事新しくいうほどのことではないが、一人の力のいかに大きいものであるかという意味において注意を新たにさせられ、感を深くさせられることである。
 
(263)     天平勝宝二年三月一日の暮《ゆふべ》に、春の苑《その》の桃李の花を眺矚《なが》めて作れる二首
 
【題意】 「春の苑」は、国司館の苑。「眺矚めて」は、しみじみ見て。以下、作者の名のない歌は、すべて家持の作で、そのことは巻末に自注している。
 
4139 春《はる》の苑《その》 紅《くれなゐ》にほふ 桃《もも》の花《はな》 下照《したて》る道《みち》に 出《い》で立《た》つ※[女+感]嬬《をとめ》
    春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立※[女+感]嬬
 
【語釈】 ○紅にほふ 紅色に色美しく咲いている。○下照る道に 「下照る」は、花の木の下が、花の美しい色で照っている意で、熟語。神代の女神に下照比売という名がある。○出で立つ※[女+感]嬬 出て立って眺めているおとめよで、「※[女+感]嬬」は、妻の大嬢に対しての一種の愛称と取れる。
【釈】 春の苑に、紅色に色美しく咲いている桃の花。その木下も花に照っている道に、出て立っているおとめよ。
【評】 苑の桃の花の咲いている下道に、その花を愛でて立っている妻を、屋内から見て花のように美しいと感じて、妻を愛でた心である。その気分をあらわすに、純客観的に、名詞止の上下二句とし、それを続けるだけという、印象を主とした詠み方をして、その気分をあらわそうとしている。それがいささかのぎごちなさもなく、美しく柔らかに結合されているのは、気分が強く働いているためである。家持の特色の現われた歌である。
 
4140 吾《わ》が園《その》の 李《すもも》の花《はな》か 庭《には》に落《ち》る はだれのいまだ 残《のこ》りたるかも
(264)    吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遺在可母
 
【語釈】 ○吾が園の李の花か 「園」は、下の「庭」と区別していっている。庭は屋前の地の称。園はそれに続いた地で、園は木立が多く、庭は少なかったとみえる。「李」は、喬木で、丈が丈余になり、春、青白い花が群らがって咲く。「か」は、疑問の係。○はだれ 薄く置く霜や雪の称で、ここは雪。国司館は二上山続きで、雪が長く残る所であったとみえる。
【釈】 わが園の李の花が庭に散っているのであろうか。それとも、残雪がまだ消え残っているのであろうか。
【評】 広い庭園を眺め渡して、地上にしろじろ溜まっている物に矚目しての感で、自然なものである。しかしこの形は、巻五(八二二)大伴旅人の「わが苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」にならったものとみえる。この形は他にも例の少なくないものである。李の花は、眼前を捉えてのものであるが、歌としては用例のないもので、その意味では新味あるものである。李の青白い花と、春の残雪との比較は、妥当な、自然なものでもある。
 
     飜《と》び翔《かけ》る鴫《しぎ》を見て作れる歌一首
 
4141 春《はる》まけて 物《もの》がなしきに さ夜《よ》更《ふ》けて 羽《は》ぶき鳴《な》く鴫《しぎ》 誰《た》が田《た》にか住《す》む
    春儲而 物悲尓 三更而 羽振鳴志藝 誰田尓加須牟
 
【語釈】 ○春まけて物がなしきに 「春まけて」は、春を待ち受けての意から、春になっての意に転じたもの。「物がなしきに」は、春の季節に刺激されて、理由のない感傷的気分になっているのに。○さ夜更けて羽ぶき鳴く鴫 「羽ぶき」は、羽ばたきをして。これは飛ぶ時には無論することだが、それでない時にも、鳥の習性としてすること。ここは後の場合である。夜ふけて、羽ばたきをして鳴く鴫は。鴫は田鳥ともいい、田に棲む鳥である。○誰が田にか住む 誰の田に住んでいるのか。これは一と続きになっている広い田圃の中から聞こえて来るのを、このようにいったので、どこに住んでいるのかの意。
【釈】 春になって、わが心は感傷的になっているのに、夜更けて、羽ばたきをして鳴く鴫は、田圃のどこに住んでいるのか。
【評】 春の深夜、春の習いとして感傷的な気分になっていると、ふと広い田圃のほうから、微かに、鴫が羽ばたきをして鳴く音が聞こえて来て、それがさらに感傷的気分をそそって来たのを、その気分そのもののみを捉えていっている歌である。立ち入っては何もいおうとせず、説明もしていない歌であるが、一種の寂寥感のふっくらとあらわされている歌である。「誰が田にか(265)住む」は、「住む」という語は男女同棲する意を持っている語であるから、春の深夜を眠れずにいる鴫に、そうした気分を絡ませうる歌にも取れるが、作意はそれに関係させていないのみならず、むしろ反対に、寂寥感を孤独感にまで延長させたもので、それも立ち入らず説明せずに、ふっくらと具象しているものと思われる。家持特有の、気分そのもののみをあらわそうとした歌である。題詞の「跳び翔る鴫を見て」は、内容と一致しないものである。第一は、「さ夜更けて」と「見て」ということは無理で、題詞にこだわるべきではなかろう。
 
     二日、柳黛を攀ぢて京師《みやこ》を思《しの》ふ歌一首
 
【題意】 「柳黛」は、若葉した柳で、柳はしだり柳。「黛」は女の用いる眉墨で、柳の若葉のさまが、女の措いた眉に似ているところからの称。「攀ぢて」は、引きよせて折りての意。当時の用法。
 
4142 春《はる》の日《ひ》に 張《は》れる柳《やなぎ》を 取《と》り持《も》ちて 見《み》れば京《みやこ》の 大路《おほぢ》おもほゆ
    春日尓 張流柳乎 取持而 見者京之 大路所念
 
【語釈】 ○張れる柳 「張れる」は、芽をふくらますの意の語であるが、ここは、若葉の意に用いている。○京の大路おもほゆ 奈良京の大路のさまが恋しく思われるで、当時京の大路には、街路樹として柳が植えられていたのである。橘が街路樹になっていたことは出ていたが、柳は初出である。これが平安京に続き、現代にも及んでいるのである。
【釈】 春の日に若葉している柳の枝を、手に折り取って見ると、京の大路のさまが思われる。
【評】 旅情の嘆きを詠んだものである。国守の任期は五年であるが、家持はすでに越中に五年を過ごしており、また春は官人の定期の交替期である。特に京恋しい情の起こりも募りもすべき時である。「取り持ちて見れば京の」という言い方は、その切情をあらわしているものである。事としていわず、気分として、きわめて自然な形で具象化しているもので、すぐれた歌である。これまた家持独特のものである。
 
     堅香子《かたかご》草の花を攀ぢ折る歌一首
 
【題意】 「堅香子草」は、今のかたくり。百合科で、山地に自生する宿根草。根より片栗粉を製す。花は、一茎一花で、百合に似(266)ている。紅紫色で下垂する。「攀ぢ折る」は、引きよせて折り取るで、愛してのことである。
 
4143 もののふの 八十《やそ》をとめ等《ら》が ※[手偏+邑]《く》みまがふ 寺井《てらゐ》の上《うへ》の 堅香子《かたかご》の花《はな》
    物部乃 八十※[女+感]嬬等之 ※[手偏+邑]乱 寺井之於乃 堅香子之花
 
【語釈】 ○もののふの八十をとめ等が 「もののふの」は、本来は朝廷の百官を称する語で、その多いところから「八十」に続けて八十氏というように用いているのを、ここは「八十」の枕詞としたもの。「八十をとめ等」は、多くのおとめどもで、ここは飲用水を汲む里の少女である。飲用水は、古くからその家のおとめの汲むことと定まっていたのである。○※[手偏+邑]みまがふ 汲み乱れるで、多勢の汲む状態。○寺井の上の 「寺井」は、普通名詞であるが、固有名詞同様の意のもので、寺の地域内、あるいは寺の付近にある部落の井の称。「井」は、飲用水を汲む所の称で、掘井戸にも、流れ川にもいう。ここは多分寺のある場所が山寄りの地で、山から流れ来る清い水の汲み場所の称であろう。「上の」は、上方の。
【釈】 もののふの八十と多い里の少女どもの、乱れ合って水を汲む、寺井の上方に咲いている堅香子の花よ。
【評】 題詞にあるように、堅香子の花を折ろうとし、それを愛ずる気分から詠んでいるものである。初句より四句までは堅香子の咲いている位置をいっているもので、花そのものの愛らしさを、それによって髣髴《ほうふつ》させようとしてである。説明のしようもないので、それによって間接ながらあらわそうとしたのであるが、意図どおりに、よそ目に見るおとめらのそうしたさまが、愛らしいものとなって花にまつわりつき、花そのものの愛らしさになり得ているといえる。第一首目の「春の苑」の歌と、手法を同じゅうしているもので、そちらは、女を主に、花を従としていたのに、こちらは反対に、花を主に、女を従としているものである。自身の気分を、距離を置いての客観描写によって具象化しているものである。こちらは花が主となっているので、おのずから落ちつきが持て、鄙《ひな》びた趣が添って来て、異なった美しさを漂わしている。
 
     帰雁を見る歌二首
 
4144 燕《つばめ》来《く》る 時《とき》になりぬと 雁《かり》がねは 本郷《くに》思《しの》ひつつ 雲隠《くもがく》り喧《な》く
    燕來 時尓成奴等 鴈之鳴者 本郷思部追 雲隱喧
 
【語釈】 ○燕来る時になりぬと 燕の来る時節がめぐって来たことと思ってで、雁の心をいっているもの。○本郷思ひつつ 「本郷」は、雁の棲(267)息地を北方の国とし、そこを恋しく思いつつ。○雪隠り喧く 雲の中に鳴き声がするで、帰って行く途中の状態。
【釈】 燕の来る時になったと思って、この国にいた雁は、その本郷を恋しく思いつつ、雲隠れに鳴いている。
【評】 燕が来、雁が帰るということは、漢詩では成語となっているもので、漢詩が行なわれていたこの時代には常識にすぎないものである。それをこのように一首にしているのは、上に出た「春の日に張れる柳を」の歌と同じく、国守の普通の任期であるところから、内心帰京を待つ心があって、その心から、時が来たとて本郷に帰る雁が羨ましく、自身の心を雁に移入していっているものである。その言い方が隠微なため、単なる叙景の歌のごとくにみえるのであるが、これは事の性質上、露骨な言い方をするのは、公に対して遠慮すべきことだとし、わざとこのような言い方をしたのである。「雲隠り喧く」は、うれし鳴きに鳴いて帰って行く意であるが、さりげなく、ただ雁の習性のように言いなしているもので、最も用意深くいったのである。気分に用意を加えたので、気分そのものも消えた形になっているのである。
 
4145 春《はる》設《ま》けて かく帰《かへ》るとも 秋風《あきかぜ》に 黄葉《もみ》つる山《やま》を 越《こ》え来《こ》ざらめや
    春設而 如此歸等母 秋風尓 黄葉山乎 不超來有米也
 
【語釈】 ○春設けてかく帰るとも 「春設けて」は、上の(四一四一)に出た。ここはもとの「春を待ちうけて」の意に近い。春を待ち受けてこのように帰って行こうとも。○黄葉つる山を 『考』の訓。「黄葉つる」は、上二段活用で、例の多いもの。
【釈】 春を待ち受けて、このように帰って行こうとも、秋風に黄葉する山を越して、再びここに来なかろうか、来ることだ。
【評】 上の歌と連作になっている。上の歌では、ひたすらに京が恋しく、この地を厭っているように聞こえるので、そうではなく、住み馴れたこの地も棄て難い、時あってまた帰って来たいと思っているというのである。雁に代わっていうごとき言い方をしているのは、自分の心を雁に移入しているからで、その点上の歌と同じである。主格の雁を略しているのは連作で、それでも通じるからである。
 
     一に云ふ、春《はる》されば 帰《かへ》るこの雁《かり》
      一云、春去者 歸此雁
 
【解】 初二句の別案である。春が来たので帰ってゆくあの雁よ、で、雁を第三者の立場に立って見た心である。これを捨てたの(268)は、このようにいったのでは、自身の心の移入がなくなり、あるとしても間接にすぎるものとなるとしてであろう。原歌のほうがまきっている。
 
     夜の裏《うち》に千鳥の喧くを聞く歌二首
 
4146 夜《よ》ぐたちに 寝覚《ねざ》めて居《を》れば 河瀬《かはせ》尋《と》め 情《こころ》もしのに 鳴《な》く千鳥《ちどり》かも
    夜具多知尓 寐覺而居者 河瀬尋 情毛之努尓 鳴知等理賀毛
 
【語釈】 ○夜ぐたちに 「ぐたち」は、更けた時で、「ぐ」は、連濁で濁るもの。熟語。○河瀬尋め 「河瀬」は、河は射水川。国司館は射水川の河口に近かったのである。「尋め」は、河の瀬に伝って。『古義』は、この語は集中ここにあるのみだと注意している。○情もしのに鳴く千鳥かも 心も萎れるまでにあわれ深く鳴く千鳥だなあ。
【釈】 夜の更けた時に、寝覚めて居ると、射水川の河瀬を伝って、心も萎れるほどにあわれ深く鳴く千鳥だなあ。
【評】 千鳥の声は、幽かになまめかしく、人を感傷に誘う力を持っているものである。春の深夜、音の絶えた中で、そうした千鳥の声を聞いて、言い難い哀れを催したとみえる。家持という人は物の音に対して敏感であったとみえ、音を対象とした歌がこの前後にある。そのことは、この時代の人に共通のことであったようであるが、家持はことに敏感であったとみえる。この時代の新歌境の一つといえよう。
 
4147 夜《よ》ぐたちて 鳴《な》く河千鳥《かはちどり》 うべしこそ 昔《むかし》の人《ひと》も しのひ来《き》にけれ
    夜降而 鳴河波知登里 宇倍之許曾 昔人母 之努比來尓家礼
 
【語釈】 ○しのひ来にけれ 「しのふ」は、賞美する。「けれ」は、「こそ」の結。
【釈】 夜更けになって鳴く河千鳥よ。昔の人が賞美して来たのも、もっともなことである。
【評】 現在、自身の起こした感を、永い時の流れの上に浮かべ、古人も同じ感を起こしたと思うことによって、その感を深化させた心である。「昔の人」というのは、人麿、赤人などにも千鳥の秀作があるので、それを連想してのことであろう。自身を(269)古人と比較するということは、人麿の歌にも少なくないことであるが、感情に知性がまつわって来ることで、家持の歌に目立つ傾向である。
 
     暁に鳴く雉《きぎし》を聞く歌二首
4148 椙《すぎ》の野《の》に さ躍《をど》る雉《きぎし》 いちしろく 噂《ね》にしも哭《な》かむ 隠妻《こもりづま》かも
    椙野尓 左乎騰流雉 灼然 啼尓之毛將哭 己母利豆麻可母
 
【語釈】 ○椙の野にさ躍る雉 「椙の野」は、「椙」は、杉で、杉の多い野であろう。地名ともみえるが、それではなかろう。国司館から遠くない所と思われる。「さ躍る」は、「さ」は、接頭語。「躍る」は、雉の歩く状態。『新考』は、雉は雀、烏などのように躍って動くものではなく、両足で歩くものだといっている。それだと、鳴き声よりの想像である。「雉」は、呼びかけ。○いちしろく啼にしも哭かむ 「いちしろく」は、はっきりと。「啼にしも哭かむ」は、声を立ててまでも哭くであろうところの。「しも」は、強意の助詞。雉は、朝はことに鳴く鳥で、習性である。○隠妻かも 「隠妻」は、男が人に秘密にしている妻の称。したがって妻のほうからいうと、男に逢う機会の少ない、嘆きの多いもの。「かも」は、ここは疑問の助詞。雉は草深い所のような、人目につかない所にいる鳥なので、隠妻にはその点も関係している。また『新考』は、雉は鳴くのは雄で、雌は鳴かないというが、作意は雌が鳴いていることとしてである。気分よりいっていることなので、その程度の事実の相違は、問題としなかったとみえる。
【釈】 杉の生えている野に、躍っている雉よ。お前は、はっきりと声を立ててまで鳴くであろうところの隠妻なのか。
【評】 雉が、その習性として、朝、けたたましい声を立てて、国司館に続いている杉木立のある野で、移動しながら鳴いているのを聞いての感である。雉は鋭い哀切な声を立てて鳴く鳥であるが、それが躍って鳴いているようなのを聞くと、その雉は隠妻で、夫とする雉が人目をかねて訪うて来ないので、恋いながら待っていたのに、ついに来ずに夜明けになったので、堪えに堪えていた哀情が一時に破れての鳴き声であろうかと、その雉を憐れんで思いやったのである。人間の男女気分を雉に移入しての心である。家持の歌としては、珍しく烈しいものである。
 
4149 あしひきの 八峯《やつを》の雉《きぎし》 なき響《とよ》む 朝明《あさけ》の霞《かすみ》 見《み》ればかなしも
    足引之 八峯之※[矢+鳥] 鳴響 朝開之霞 見者可奈之母
 
(270)【語釈】 ○あしひきの八峯の雉 「あしひきの」は、ここは、峯の枕詞となっている。山から転じたのである。「八峯」は、多くの峯で、そちこちの峯にいる雉が。○なき響む朝明の霞 鳴きとよもしている朝明けの霞を。○見ればかなしも 「かなし」は、感動をあらわす形容詞で、感に堪えない。
【釈】 あしひきのそちこちの峯にいる雉の、鳴いてとよもしている朝明けの霞を見ると、感に堪えない。
【評】 春の明け方に、国司館に続いている二上山を見やり、峰々を包んでいる朝の濃い霞の中から、そちこちに鳴く雉の声を聞きながら、その霞を見やっている心である。気分と対象とが微妙に融け合って、やや複雑した大景が安らかに自然に統一づけられて、魅力ある歌となっている。霞に重点を置き、立ち入った刻んだ言い方をせずに、その中に雉の声を籠もらせている、素直な、おおらかな言い方は、家持の性情の端的な現われといえる。安易さが魅力をなしている歌である。
 
     遙に江を泝《さかのぼ》る船人の唱《うた》を聞く歌一首
 
【題意】 「江」は、射水川を漢風にいったもの。「船人の唱」は、いわゆる船歌。「泝る」は、当時は物の運搬は、できうる限り水路を利用したのであるから、ここは海路からさらに河を泝らせたものとみえる。
 
4150 朝床《あさとこ》に 聞《き》けば遙《はる》けし 射水河《いみづがは》 朝漕《あさこ》ぎしつつ 唱《うた》ふ船人《ふなびと》
    朝床尓 聞者遙之 射水河 朝己藝思都追 唱船人
 
【語釈】 ○朝漕ぎしつつ唱ふ船人 「朝漕ぎ」は、熟語である。「唱ふ船人」は、下に詠歎のある形。船歌によって、舟子になつかしみを寄せたのである。
【釈】 朝床で聞くと、はるかに聞こえる。射水河を朝漕ぎをしながら謡っている船人よ。
【評】 はるかに聞こえて来る節のある謡い声に、ゆかしさを寄せたのである。事に合わせては、張った調べをもっていっている歌である。家持の声というものに対しての興味がさせているものと思われる。
 
     三日、守大伴宿禰家持の館に宴する歌三首
 
(271)【題意】 「三日」は、三月三日で、上巳の宴を開いたのである。
4151 今日《けふ》の為《ため》と 思《おも》ひて標《し》めし あしひきの 峯《を》の上《へ》の桜《さくら》 かく咲《さ》きにけり
    今日之爲等 思而標之 足引乃 峯上之櫻 如此開尓家里
 
【語釈】 ○今日の為と思ひて 「思ひて」は、原文「思」。類聚古集は、下に「而」がある。今日の宴飲の興としようがために。○かく咲きにけり このように咲いたことであるよで、宴席にある桜花をさしていったもの。
【釈】 今日の宴の興にしようために、私の占めて置いた峯の上の桜は、このように咲いたことですよ。
【評】 主人として、客に対しての挨拶の歌である。宴席に、瓶などに挿してある桜の花を指して、今日のためと思って、かねてから占めて置いた桜が、このように咲きましたと、その心構えのほどをいって、歓を尽くしてもらいたいことを、婉曲にいったものである。儀礼の歌で、多少の誇張もあろうが、自然な、安らかな歌である。
 
4152 奥山《おくやま》の 八峯《やつを》の椿《つばき》 つばらかに 今日《けふ》は暮《く》らさね 大夫《ますらを》の徒《とも》
    奧山之 八峯乃海石榴 都婆良可尓 今日者久良佐祢 大夫之徒
 
【語釈】 ○奥山の八峯の椿 「八峯」は、上の歌に出た。「椿」の「つば」は、同音反復で懸けた序詞。椿は宴席に挿花となっていたのを捉えたもの。○つばらかに今日は暮らさね 「つばらかに」は、委曲に(272)で、十分にの意の副詞。「暮らさね」は、「暮らさ」は、未然形で、それに「ね」の希求の助詞を添えたもの。お過ごしなさいの意。○大夫の徒 「大夫」は、男子の敬称。「徒」は、方々よで、呼びかけ。
【釈】 奥山の多くの峯々より折って来た椿に因みある、つばらかに、今日は日をお暮らしなさい。男子の方々よ。
【評】 客一同に対しての正式な挨拶である。挨拶としては、きわめて要を得たもので、序詞も心をこめてのものである。美しさ豊かさのあるもので、実用性の歌ではあるが、文芸性を持ち得ているものである。
 
4153 漢人《からひと》も 筏《いかだ》浮《うか》べて 遊《あそ》ぶといふ 今日《けふ》ぞ我《わ》が夫子《せこ》 花蘰《はなかづら》せな
    漢人毛 〓浮而 遊云 今日曾和我勢故 花縵世奈
 
【語釈】 ○筏浮べて遊ぶといふ 筏は、ここは船を言いかえたものと取れる。これは、『後漢書』礼儀志に、「三月上巳、官民竝(ニ)禊2飲干東流(ノ)水上1」とあるのによったものとみえる。○花蘰せな 花をもって作った蘰で、熟語。蘰は宴飲の時の礼装で、それをすることは、言いかえると楽しみを尽くすことなのである。「花」は、席上の花をさしていると取れる。「な」は、勧誘の助詞。
【釈】 漢の人も筏を浮かべて遊ぶという今日ですよ、親しい方々よ、花蘰をして遊ぼうよ。
【評】 これも歓を尽くせよといぅ挨拶の歌である。「漢人も」といっているのは、古人を引合いに出すのと同じく、彼を重んじて、それと同じことをしようというのである。家持は漢土崇拝の念の、どちらかというと薄かった人とみえるが、その雰囲気の中にいたので、客のほうを主としていったのであろう。
 
     八日、白き大鷹《おほたか》を詠める歌一首 并に短歌
 
【題意】 「白き大鷹」は、「白き」は羽根の白い意。「大鷹」は、『倭名類聚鈔』に、「漢語抄云、大鷹、於保多加、兄鷹、勢宇。今案俗説、雄鷹謂2之兄鷹1、雌鷹謂2之大鷹1也」とあり、雌鷹の称である。鷹狩の鷹である。
 
4154 あしひきの 山坂《やまさか》越《こ》えて 去《ゆ》き更《かは》る 年《とし》の緒《を》長《なが》く しなざかる 越《こし》にし住《す》めば 大王《おほきみ》の 敷《し》きます国《くに》は 都《みやこ》をも 此間《ここ》も同《おや》じと 心《こころ》には 思《おも》ふものから 語《かた》り放《さ》け 見放《みさ》くる人眼《ひとめ》 (273)乏《とも》しみと 思《おもひ》し繁《しげ》し そこゆゑに 情《こころ》和《な》ぐやと 秋《あき》づけば 萩《はぎ》咲《さ》きにほふ 石瀬野《いはせの》に 馬《うま》だき行《ゆ》きて 遠近《をちこち》に 鳥《とり》踏《ふ》み立《た》て 白塗《しらぬり》の 小鈴《をすず》もゆらに 合《あは》せ遣《や》り ふり放《さ》け見《み》つつ 憤《いきどほ》る 心《こころ》の中《うち》を 思《おも》ひ伸《の》べ うれしびながら 枕《まくら》づく 妻屋《つまや》のうちに 鳥座《とぐら》結《ゆ》ひ すゑてぞ我《わ》が飼《か》ふ 真白節《ましらふ》の贋《たか》
    安志比奇乃 山坂超而 去更 年緒奈我久 科坂在 故志尓之須米婆 大王之 敷座國者 京師乎母 此間毛於夜自等 心尓波 念毛能可良 語左氣 見左久流人眼 乏等 於毛比志繁 曾己由惠尓 情奈具也等 秋附婆 芽子開尓保布 石瀬野尓 馬太伎由吉※[氏/一] 乎知許知尓 鳥布美立 白塗之 小鈴毛由良尓 安波勢也里 布里左氣見都追 伊伎謄保流 許己呂能宇知乎 思延 宇礼之備奈我良 枕附 都麻屋之内尓 鳥座由比 須惠弖曾我飼 眞白部乃多可
 
【語釈】 ○去き更る年の緒長く 旧きは去き、新しきが更って来る、その年が長く。「年の緒」は、年で、「緒」は、年は続くものであるところから、語感を強めるために添えたもの。○大王の敷きます国は都をも此間も同じと 「同《おや》じ」は、「同《おな》じ」の古形。巻六(九五六)旅人の「やすみしし吾が大王の食国は大和もここも同じとぞ思ふ」とあるによったものである。○語り放け見放くる人眼 「語り放け」は、「放け」は、「離し」で、語って思いをやるというに同じ。「見放くる」も、逢って思いをやる。「人眼」は、人の我を見る目で、人というを重くいった語である。○乏しみと思し繁し 「乏しみ」は、乏しいので。「と」は、上をまとめて下へ続ける意の助詞。「思し繁し」は、嘆きが多い。「し」は、強意の助詞。○そこゆゑに情和ぐやと それゆえに、心が慰もうかと。○石瀬野に 『倭名類聚鈔』に、「越中国新川郡石勢伊波勢」とあり、今の富山市岩瀬町付近、神通川の河口の東とも、婦負郡和合町西岩瀬(現、富山市に入る)とも、高岡市の石瀬《いしせ》ともいわれている。○馬だき行きて 「だき」は、「たぎ」ともいっている。手綱を手繰る意。古今集に、「あまの綱たぎ」という例がある。○鳥踏み立て 眠っている鳥を、草を踏んで追い立て。○白塗の小鈴もゆらに 「白塗の小鈴」は、巻十七(四〇一一)に「白塗の鈴とりつけ」と出たと同じく、銀の鍍金した小さい鈴で、鷹の行方を知るために取付けるもの。「ゆらに」は、さやかな音のする形容。○合せ遣り 飛び立つ鳥に呼吸を合わせて、手の鷹を放ってやる意。鷹狩の語。○憤る心の中を 「憤る」は、暗く鬱積している思い。○思ひ伸べうれしびながら 「思ひ伸べ」は、思いを伸びやかにして。「うれしびながら」は、「うれしび」は、「うれしみ」と並び用いられている。そのことを嬉しみつつ。○枕づく妻屋のうちに 「枕づく」は、枕詞。定解のない語。枕を付け並べる妻の意かとする解に従う。「妻屋」は、寝室。ここは鷹を飼う場所。大切にする意からである。○鳥座結ひすゑてぞ我が飼ふ真白節の鷹 「鳥座」は、鳥のとまる物の称。「結ひ」は、繩をもって結ぶ意で、作り。「すゑて」は、とまらせて。「真白節」は、「節」は、まだらの意の斑《ふ》(274)で、真っ白な斑。顕昭は、鷹の羽根にはあか斑、くろ斑、しら斑と三種の斑があるといっている。真っ白な羽根をした鷹。下に詠歎がある。
【釈】 あしひきの山や坂を越えて、去りまた改まる年を長く、しなざかる越の国に住んでいるので、大君の御支配になる国は、都もここも同じであると、心では思っていながらも、話をして思いをやり、逢って心をやる人が乏しいので、嘆きが多いことだ。それゆえに、心の慰むこともあろうかと、秋になると、萩が色美しく咲く石瀬野に、馬の手綱を繰って行って、そちらこちらと草を踏んで鳥を追い立て、白塗の小鈴の鳴る音もさやかに、わが手の鷹をそれに合わせて放ちやり、仰いで見やり、いつも鬱積している心の中を伸びやかにし、その事を嬉しみながら、枕づくわが寝室の内に、鳥座を造って、そこに置いて飼っている、真っ白な斑《ふ》をした鷹よ。
【評】 愛育している鷹狩の鷹について、思いを叙している歌である。巻十七(四〇一一)「放逸せる鷹」の歌にも関連するが、この当時は、仏教の殺生戒を守るべき詔が二回までも下されて、鷹狩はしてはならないことになっていた。実際には厳守されてはいなかったが、国守という職に忠実であった家持は、当然鷹狩ははばかるべき行ないだとしていたとみえる。起首の一段に、多年の地方官勤務で、心のやりばなきことを長々と言いつづけ、逢って心をやる人もないというような立ち入ったことまでいっているのは、鷹狩でもしなくてはいられない弁解である。第二段として、鷹狩のおもしろさを述べ、「白塗の小鈴もゆらに、合せ遣りふり放け見つつ」と、簡潔な、生趣ある語をもって贋狩の興味を叔しているのであるが、ただちにそれに続けて「憤る心の中を思ひ伸べ」と、立ち帰って弁解の続きをしているのである。しかし第三段になると、「枕づく妻屋のうちに鳥座結ひ」と異常な愛育振りをいい、それを結びとしているのである。一首、鷹狩の興味と、それをすることの遠慮との絡み合っている歌で、遠慮のほうがはるかに大きいのであるが、結果から見ると興味のほうがより多く残るものとなっているのである。技巧としては、細心な社会的関心を持ちつつ作っているものであるが、冗漫に陥らず、簡潔な、印象的な作となっており、長歌を詠む手腕を思わせるものとなっている。
 
     反歌
 
4155 矢形尾《やかたを》の 真白《ましろ》の鷹《たか》を 屋戸《やど》に据《す》ゑ 掻《か》き撫《な》で見《み》つつ 飼《か》はくし好《よ》しも
    矢形尾乃 麻之路能鷹乎 屋戸尓須惠 可伎奈泥見都追 飼久之余志毛
 
【語釈】 ○矢形尾の 「矢形尾」は、巻十七(四〇一一)に出た。尾羽の斑《ふ》の形。○屋声に掘ゑ 「屋戸」は、長歌の妻星で、語を換えたもの。「据ゑ」は、長歌と同じで、置いて。○掻き撫で見つつ 「掻き」は、接頭語。「撫で見つつ」は、鷹の身を撫でて見つつ。酷愛してのこと。○飼はく(275)し好」も 「飼はく」は、「飼ふ」の名詞形。「し」は、強意。「好し」ほ、楽しい意。
【釈】 矢形尾の、真っ白な鷹を家の内に置いて、その体を撫でさすりつつ飼っていることの楽しさよ。
【評】 結末の繰り返しであるが、それを進展させ、酷愛していることを具象的に、しかも感覚化までしていっているものである。気分の豊かに現われた歌である。
 
     ※[盧+鳥]《う》を潜《かづ》くる歌一首 并に短歌
 
4156 あらたまの 年《とし》往《ゆ》き更《かは》り 春《はる》されば 花《はな》のみにほふ あしひきの 山下《やました》響《とよ》み 落《お》ち激《たぎ》ち流《なが》る辟田《さきた》の 河《かは》の瀬《せ》に 年魚児《あゆこ》さ走《ばし》る 島《しま》つ鳥《とり》 ※[盧+鳥]養《うかひ》伴《とも》なへ 篝《かがり》さし なづさひ行《ゆ》けば 吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》がてらと 紅《くれなゐ》の 八入《やしほ》に染《そ》めて おこせたる 衣《ころも》の裾《すそ》も とほりて湿《ぬ》れぬ
    荒玉能 年徃更 春去者 花耳尓保布 安之比寄能 山下響 墮多藝知 流辟田乃 河瀬尓 年魚兒狭走 嶋津鳥 ※[盧+鳥]養等母奈倍 可我理左之 奈頭佐比由氣婆 吾妹子我 可多見我※[氏/一]良等 紅之 八塩尓染而 於己勢多流 服之襴毛 等寶利※[氏/一]濃礼奴
 
【語釈】 ○花のみにほふ 「のみ」は、原文「耳」。『考』は「開」の誤写として「さき」としている。花ばかりに色美しく咲くで、「山」の修飾として通じる。○流る辟田の 「流る」は、終止形から体言に続く古い語法のもので、当時例の少なくないもの。「辟田」は、川の名で所在不明である。高岡市の西田《さいだ》を流れる川かといわれている。○年魚児さ走る 「児」は、愛称で、若鮎。「さ」は、接頭語。○島つ鳥※[盧+鳥]養伴なへ 「島つ鳥」は、島に棲む鳥で、※[盧+鳥]の枕詞。「※[盧+鳥]養」は、現在の鵜飼。「伴なへ」は、「伴ひ」と同じで、下二段にも活用したもので、他に用例がある。○篝さしなづさひ行けば 「篝さし」は、篝火で水を照らしてで、鮎を集めるためにすること。既出。「なづさひ行けば」は、水に浸って行くと。○吾妹子が形見がてらと 「吾妹子」は、妻の大嬢。「形見がてらと」は、形見をかねてといってで、形見の心を持って着よといって。○紅の八入に染めて 「紅」は、紅花より採った染料としての液。「八入」は、幾度も染めることで、ここは染色の濃いこと。紅色の濃い色に染めて。○おこせたる衣の裾も 「おこせたる」は、贈って来ている。「衣」は、その大切なものである余意のあるもので、以前、奈良より贈って来たものとみえる。○とほりて湿れぬ 河水にぐっしょり濡れた。
【釈】 あらたまの、年が往き、また変わって来て、春となると、花ばかりに色美しくなる、あしひきのその山裾に轟いて、落ち(276)泡立って流れる辟田川の河瀬に、若鮎が走る。島の鳥の鵜飼を伴って、篝火をさし照らして水に浸って行くと、吾妹子が形見かたがた着よといって、紅色に色濃く染めて、贈って来てある衣の裾も、河水でぐっしょり濡れた。
【評】 この歌は短く軽いものではあるが、自身鵜飼をする楽しさを簡潔に暗示的にいっているもので、その技巧が趣となっている歌である。二段より成っており、前段は「年魚児さ走る」までであるが、それをいうに、「あらたまの」以下「花のみにほふ」まで、時の推移を重くいっているのは、鵜飼の楽しみを翹望していた気分をあらわしたものである。また、後段の「吾妹子が」以下は、鵜飼の楽しみに溺れていたことの具象化である。説明の一語をも添えず、純叙事によって、鵜飼の楽しい気分をふっくらとあらわしている歌で、手に入った技巧を思わせられる作である。
 
4157 くれなゐの 衣《ころも》にほはし 辟田河《さきたがは》 絶《た》ゆることなく 吾《われ》かへりみむ
    紅乃 衣尓保波之 辟田河 絶己等奈久 吾等眷牟
 
【語釈】 ○くれなゐの衣にほはし 「にほはし」は、色を美しくしてで、これは長歌の結句の、「とほりて湿れぬ」を受け、濡れたがゆえに色が美しくなる意である。○辟田河 上を受けて、この辟田河をの意であるが、同時に、この辟田河のようにと、枕詞としても下へ続けている形である。○絶ゆることなく吾かへりみむ 絶えることなくわれはまた来よう。この二句は、巻一(三七)人麿の「常滑の絶ゆる事なく復かへり見む」を初め、多くあるもので、慣用句である。
【釈】 くれないの衣を、河水に濡らすことによって色を美しくさせて、この辟田河を、それの絶えないように、絶えることなくまたわれは来よう。
【評】 長歌の結末を繰り返し、それをとおして長歌全部の意味を要約して繰り返したもので、きわめて要を得た反歌である。四、五句の成句も、安易よりのものではなく、一種の技巧としてのものである。
 
4158 毎年《としのは》に 鮎《あゆ》し走《はし》らば 辟田河《さきたがは》 鵜《う》八頭《やつ》潜《かづ》けて 河瀬《かはせ》たづねむ
    毎年尓 鮎之走婆 左伎多河 ※[盧+鳥]八頭可頭氣※[氏/一] 河瀬多頭祢牟
 
【語釈】 ○鵜八頭潜けて 巻十三(三三三〇)「隠口《こもりく》の長谷の川の上つ瀬に鵜を八頭潜け」とあり、それによったもの。鵜の多くを水に潜らせて。(277)○河瀬たづねむ、河潤を伝って上ろう。
【釈】 年ごとに、鮎が走るならば、辟田河に、鵜の多くを潜らしめて、河瀬を伝って溯ろう。
【評】 上の歌をうけて、さらに鵜飼の楽しさに対してのあこがれを具体的にいったのである。「鵜八頭潜け」は、上の歌の「絶ゆることなく吾かへりみむ」と同じく、故句の引用である。上の歌は人麿より、これは詠人知らずよりのもので、当時はすでに古典になっていたものである。それらを引用して、目立たず、自然なものとして使いこなすことは、誇りになっていたことと思われる。この時期は、一方では進取的であったが、同時に他方では懐古的であったからである。
 
     季春三月九日、出挙《すゐこ》の政せむとして旧江《ふるえ》の村に行く。道の上に、目を物花に属《つ》くる詠、并せて興の中に作れる歌。
      季春三月九日、擬2出擧之政1行2於舊江村1。道上屬2目物花》1之詠、并興中所v作之謌。
 
【題意】 「出挙の政せむと」は、「出挙」は、貧民救恤のために、春、官より稲を貸し、秋、利を添えて償わしめる法である。利は当時としては低いものであった。私にこれを摸して、高い利を貪る者は、厳罰に処した。この事に関しての令は少なくない。「旧江の村」は、射水郡、布勢の水海の南岸にあった村である。現在、水見市の一部。「物花」は、景物の目に立つ物。「興の中に」は、興に乗じて。これは以下七首の長短歌にわたつての総標である。
 
     渋谿《しぶたに》の埼を過ぎて巌の上の樹を見る歌一首 樹の名はつまま
 
【題意】 「渋谿の埼」は、二上山北方の海岸。高岡市太田。「つまま」は、現在の「たぶの木」だという。樟科の常緑喬木。春、淡緑色の花をつける。
 
4159 磯《いそ》の上《うへ》の 都万麻《つまま》を見《み》れば 根《ね》を延《は》へて 年《とし》深《ふか》からし 神《かむ》さびにけり
    礒上之 都萬麻乎見者 根乎延而 年深有之 神佐備尓家里
 
(278)【語釈】 ○磯の上の都万麻を見れば 「磯の上」は、題詞の巌の上。○根を延へて 根を延ばして。○年深からし 「年深し」は、年久しの意で、用例の多い語。漢語に多いので、その訳かという。○神さびにけり 老いて神々しくなったことよで、「に」は、完了。「けり」は、詠歎。
【釈】 海べの岩の上の都万麻を見ると、根を延ばして、年久しくもなったことらしい。神々しくなったことよ。
【評】 題詞に「物花」といっている物である。都万麻の在り場所と、老いたさまとに驚歎しての心である。家持の得意の境ではない。
 
    世間《よのなか》の常無きを悲しむ歌一首 并に短歌
4160 天地《あめつち》の 遠《とほ》き始《はじめ》よ 俗中《よのなか》は 常《つね》無《な》きものと 語《かた》り続《つ》ぎ ながらへ来《き》たれ 天《あま》の原《はら》 振放《ふりさ》け見《み》れば 照《て》る月《つき》も 盈昃《みちかけ》しけり あしひきの 山《やま》の木末《こぬれ》も 春《はる》されば 花《はな》咲《さ》きにほひ 秋《あき》づけば 露霜《つゆじも》負《お》ひて 風《かぜ》交《まじ》り 黄葉《もみち》散《ち》りけり 現身《うつせみ》も かくのみならし 紅《くれなゐ》の 色《いろ》も移《うつ》ろひ ぬばたまの 黒髪《くろかみ》変《かは》り 朝《あさ》の咲《ゑみ》 暮《ゆふべ》変《かは》らひ 吹《ふ》く風《かぜ》の 見《み》えぬが如《ごと》く 逝《ゆ》く水《みづ》の 止《とま》らぬ如《ごと》く 常《つね》も無《な》く 移《うつ》ろふ見《み》れば 行潦《にはたづみ》 流《なが》るる涙《なみだ》 止《とど》みかねつも
    天地之 遠始欲 俗中波 常無毛能等 語續 奈我良倍伎多礼 天原 振左氣見婆 照月毛 盈〓之家里 安之比奇能 山之木末毛 春去婆 花開尓保比 秋都氣婆 露霜負而 風交 毛美知落家利 宇都勢美母 如是能未奈良之 紅能 伊呂母宇都呂比 奴婆多麻能 黒髪變 朝之咲 暮加波良比 (279)吹風能 見要奴我其登久 逝水能 登麻良奴其等久 常毛奈久 宇都呂布見者 尓波多豆美 流H 等騰未可祢都母
 
【語釈】 ○天地の遠き始よ 天と地とが分かれた、遠い初めの時より。○常無きものと 恒久性のないものとで、言いかえると、変化を続けているものとの意。これは仏説である。○語り続ぎながらへ来たれ 「語り続ぎ」は、言い伝え。「ながらへ」は、「流れ」の連続で、言い継ぎ続けて。「来たれ」は、已然条件法で、来ているので。○現身もかくのみならし 「現身」は、生きの身で、そのようにばかりあるらしいで、同じく常がないの意。○紅の色も移ろひ 「紅の色」は、若い人の顔いろで、いわゆる紅顔。「移ろひ」は、「移る」の連続で、変わりつづけ。若きは老に入る意。○黒髪変り 黒髪が白髪と変わり。○朝の咲暮変らひ 朝の笑顔が、夕べにはなくなって。「咲」は、笑顔。「変らひ」は、「変り」の連続。これは朝の喜びは夕べにはたちまち悲しみと変わりつつの意。○常も無く移ろふ見れば 恒久性なく、変わり続けるのを見るとで、上を総収して繰り返したもの。○行潦流るる涙 「行潦」は、にわかに現われて流れる水の称で、譬喩。○止みかねつも 「止み」は、「止め」と同意で、並び行なわれていた。行潦以下これまでは、巻二(一七八)、その他にもあって慣用句である。
【釈】 天と地の分かれた悠遠な初めの時から、世の中は常のないものであると、語り続ぎ、言い伝え続けて来ているので、天を仰いで見ると、いうとおりに照る月も満ちたりかけたりすることだ。あしひきの山の木の梢もまた、春が来ると花が美しい色に咲き、秋になると水霜を負って、風にまじって紅葉が散ることだ。人の生きの身も、やはりそのようにばかりあるのらしい。若い身の紅の顔いろも変わりつづけ、ぬば玉の黒髪も変わり、朝の笑顔は夕べには変わって、吹く風の目には見えないように、流れる水のとどまらないがように、常というものがなく変わりつづけて行くのを見ると、行潦のように溢れ流れる涙がとどめ得られないことだ。
【評】 仏教の根本観念である無常といぅことを詠んだもので、これは巻五(八〇四)山上憶良の「世間の住り難きを哀しめる歌」、その他にもあって、いわば、それらの影響を受けての一種の題詠とも見られるものである。内容も、無常ということの説明を出でないもので、広く一般的なことをいっているにすぎないが、しかし扱い方の上には、ある程度の特色を発揮している。起首、「天地の遠き始よ 俗中は常無きものと 語り続ぎ ながらへ来たれ」といって、これを大綱としているのであるが、これは特色のある言い方である。無常観は無論仏説であって、家持もその方面の教養は一わたりは持っていたはずだからである。無常を不動の真実とすれば、このようにもいえようが、「語り続ぎながらへ来たれ」とまで言い切っているところに、家持の気分がある。続けて、天、地、人と、整然と構成をつけ、落ちついて、細かく美しく言い続け、「吹く風の」「逝く水の」と譬喩を設けて、目に見えず、しかしやまずということを強調して、今一度「常も無く移ろふ見れば」と総収して、「行潦」以下の慣用句をもって結んでいる技巧は、家持としてはまさに円熟したものである。一首全体としても、客観的に、しかし空疎にも、(280)冗漫にもせず、余裕と品位をもって詠みこなしている。内容としては魅力のないものであるが、表現技巧は認めらるべき作である。実際生活の上の直接の刺激はなく、心の動くままに詠んだ意味で、「興の中に」といっていると思われる。
 
4161 言《こと》問《ことと》はぬ 木《き》すら春《はる》咲《さ》き 秋《あき》づけば もみち散《ち》らくは 常《つね》を無《な》みこそ
    言等波奴 木尚春開 秋都氣婆 毛美知遲良久波 常乎奈美許曾
 
【語釈】 ○もみち散らくは 「もみち」は、動詞で、上二段、連用形。もみじして。「散らく」は、「散る」の名詞形。○常を無みこそ 常の無いゆえである。「こそ」の下に「あれ」が略されている。
【釈】 物もいわない木でさえも、春は花が咲き、秋は紅葉して散ることは、世の中には恒久性のないゆえのことである。
【評】 これは長歌の前半を繰り返したもので、型のごときものである。
 
     一に云ふ、常《つね》なけむとぞ
      一云、常无牟等曾
 
【解】 結句の別案で、何ものも無常であろうというのであろうで、下に「いふならむ」の意が略されている。
 
4162 現身《うつせみ》の 常《ゆね》無《な》き見《み》れば 世《よ》の中《なか》に 情《こころ》つけずて 念《おも》ふ日《ひ》ぞ多《おほ》き
    宇都世美能 常无見者 世間尓 情都氣受弖 念日曾於保伎
 
【語釈】 ○現身の常無き見れば 生きの身の無常であることを見ると。○世の中に情つけずて この世の中にわが心を着けずしてで、執着をせずして。○念ふ日ぞ多き 世の中を思う日が多いことであるで、努めて執着を持つまいとしているの意。
【釈】 生きの身の無常なのを見ると、世の中に執着をせずに思う日の多いことである。
(281)【評】 長歌の後半の、中心となっている部分を受けての繰り返しである。長歌では客観的にいっていたのを、ここでは進展させて、主観的に、白身の問題としていっているのである。「念ふ」は、何を対象としたものかが問題となっているが、三句の「世の中」である。
 
     一に云ふ、嘆《なげ》く日《ひ》ぞ多《おほ》き
      一云、嘆日曾於保吉
 
【解】 結句の別案で、世の中を嘆く日が多いで、無常を嘆く日である。これは単に長歌の後半を繰り返したのみのものである。本文を進展させたもののほうを良しとしたのであろう。
 
     予《かね》て作れる七夕の歌一首
 
4163 妹《いも》が袖《そで》 われまくらかむ 河《かは》の瀬《せ》に 霧《きり》立《た》ち渡《わた》れ さ夜《よ》ふけぬとに
     妹之袖 和礼枕可牟 河湍尓 霧多知和多礼 左欲布氣奴刀尓
 
【語釈】 ○われまくらかむ 「まくらか」は、枕を動詞化した「まくらく」の未然形で、「む」は、意志。枕としよう。巻五(八一〇)に用例のあるもの。○河の瀬に霧立ち渡れ 天の河に夜霧が立ち籠めよと命令したもの。人目を避けようためである。○さ夜ふけぬとに 「と」は、ほど、あいだの意の古語。本来は、処の意で、内の意としてのこと。用例の少なくないもの。
【釈】 妹が袖を我は枕としよう。天の河の河瀬に霧が立ち渡れよ。夜の更けないうちに。
【評】 「興の中に」の作で、無常を嘆く歌から一転して恋の興となったのである。牽牛星に代わっての心のもので、夜霧にまぎれて、人目につかずに逢おうといぅのである。「予て作れる」とあるのは、歌は実際に即すべきものとする意識よりのことで、 無拘束に詠むのは特別のこととしたのである。
 
     勇士《ますらを》の名を振ふを慕《ねが》ふ歌一首 并に短歌
 
【題意】 左注のように、山上憶良の歌によって作ったものである。
 
(282)4164 ちちの実《み》の 父《ちち》の命《みこと》 柞葉《ははそば》の 母《はは》の命《みこと》 おほろかに 情《こころ》尽《つく》して 念《おも》ふらむ その子《こ》なれやも 大夫《ますらを》や 空《むな》しくあるべき 梓弓《あづさゆみ》 末《すゑ》振《ふ》り起《おこ》し 投矢《なぐや》以《も》ち 千尋《ちひろ》射渡《いわた》し 剣刀《つるぎたち》 腰《こし》に取《と》り佩《は》き あしひきの 八峯《やつを》踏《ふ》み越《こ》え さし任《ま》くる 情《こころ》障《さや》らず 後《のち》の代《よ》の 語《かた》り継《つ》ぐべく名《な》を立《た》つべしも
    知智乃實乃 父能美許等 波播蘇葉乃 母能美己等 於保呂可尓 情盡而 念良牟 其子奈礼夜母 大夫夜 无奈之久可在 梓弓 須惠布理於許之 投失毛知 千尋射和多之 釼刀 許思尓等理波伎 安之比寄能 八峯布美越 左之麻久流 情不障 後代乃 可多利都具倍久 名乎多都倍志母
 
【語釈】 ○ちちの実の父の命 「ちちの実」は、諸説があって定まらない。天仙果《いちじく》であろうとする説が比較的有力である。桑科の落葉潅木で、「いぬびは」といい、その実から乳状の液を出す。同音でかかる「父」の枕詞。「命」は、尊称。○柞葉の母の命 「柞」は、小楢。これも同首で「母」の枕詞。○おほろかに おおよそにと同じ。○その子なれやも 「その子」は、自身を親の立場から見ていったもので、その子の我であろうか、我ではない。「や」は、反語。○大夫や空しくあるべき 男子たる者がいたずらにあるべきだろうか、あるべきではない。「や」は、係助詞で、反語を成すもの。これは巻六(九七八)山上憶良の最後の歌となった「士やも空しかるべき万代に語り続ぐべき名は立てずして」によったもので、そのことは左注にいっている。○末振り起し 「末」は、本に対する語で、弓の上部の称で、弓末(ゆずえ)ともいう。「振り」は、接頭語。「起し」は、立てる意で、矢を射る時の身構え。○投矢以ち千尋射渡し 「投矢」は、「投げ矢」とも訓んでいる。上代は手で投げる矢があって、その名の残っているもので、矢の意。「千尋」は、遠方まで。○剣刀 剣の太刀で 鋭利な太刀。○八峯踏み越え 「八峯」は、多くの峯で、険路の意でいっているもの。○さし任くる情障らず 「さし任くる情」は、「さし」は、接頭語。「任くる情」は、官より任ぜられる精神を。「障らず」は、妨げられずで、達成して。○後の代の語り継ぐべく名を立つべしも 上に引いた山上憶良の歌の続きの、「万代に語り続ぐべき名は立てずして」によったもの。
【釈】 ちちの実の父上、ははそ葉の母上の、おおよそに心を尽くして思っているだろうその子の我であろうか、ありはしない。男子たる者が、いたずらにあるべきだろうか、あるべきではない。我は梓弓の弓末を振り起こし、投矢をもって千尋の遠くまで射渡し、剣の太刀を腰に帯びて、多くの峯をも踏み越えて、公より任ぜられる精神を達成して、後代に語り継ぐような評判を立てるべきであるよ。
(283)【評】 大伴氏の、祖先以来武臣として朝廷に仕えて来たことを思い、自分もそれを襲いたい心を述べている歌である。大化以後廷臣は、家職を世襲しないことに定められていたので、これは現実性のない単に精神上の願いにすぎないことだったのである。そうしたことを突然いっているもので、題詞にいう「興の中に」のことである。作意は、武名を慕っているのであるが、その動機となっているものは、起首の「ちちの実の父の命、柞葉の母の命、おほろかに情尽して、念ふらむその子なれやも」というので、両親を思うと、いさざよき武臣とならざるを得ないと思うことであって、家職の世襲の有無ということは問題外にしての心なのである。すなわちその家の子としての意気込み、気分なのである。そして陥るところは、「後の代の語り継ぐべく名を立つべしも」であって、家名を重んじるにすぎない心なのである。上には、「世間の常無きを悲しむ」「世の中に情つけずて念ふ日ぞ多き」といっているのに、ここではその反対のことをいっているのである。家持にとっては、いずれも真実であったろう。双方に通じていることは、どちらも取材は大きいのであるが、それに対しての感じ方、扱い方の上に、家持という個人が、無意識の形ながら、蔽い難く強く働いていることである。
 
4165 大夫《ますらを》は 名《な》をし立《た》つべし 後《のち》の代《よ》に 聞《き》き継《つ》ぐ人《ひと》も 語《かた》り続《つ》ぐがね
    大夫者 名乎之立倍之 後代尓 聞場人毛 可多里都具我祢
 
【語釈】 ○聞き継ぐ人も語り続ぐがね 聞き継ぐ人が、また、語り継ぐために。「語り続ぐ」を力強くいおうとしたもので、新しい言い方である。
【釈】 男子たる者は名を立てるべきである。後の代にその事を聞き伝えた人も、また伝え続けるために。
【評】 長歌の結末を受けて繰り返した形のものである。謡い物の影響の濃い歌である。長歌が気分の歌で、熱意をもって詠んだものであるところから、この反歌は、調和のあるものとなっている。
 
     右の二首は、山上憶良の臣の作れる歌に追ひ和ふる。
      右二首、追2和山上憶良臣作歌1。
 
【解】 憶良の歌というは、上に引いた、「士やも空しかるべき」の歌である。
 
(284)     霍公鳥并に時の花を詠める歌一首 并に短歌
 
4166 時毎《ときごと》に いや珍《めづ》らしく 八千種《やちくさ》に 草木《くさき》花《はな》咲《さ》き 喧《な》く鳥《とり》の 音《こゑ》も変《かは》らふ 耳《みみ》に聞《き》き 眼《め》に見《み》るごとに うち嘆《なげ》き 萎《しな》えうらぶれ 偲《しの》ひつつ 争《あらそ》ふ間《はし》に 木《こ》の晩《くれ》の 四月《うづき》し立《た》てば 夜隠《よごも》りに 鳴《な》く霍公鳥《ほととぎす》 古昔《むかし》より 語《かた》り継《つ》ぎつる 鶯《うぐひす》の 現《うつ》し真子《まこ》かも 菖蒲《あやめぐさ》 花橘《はなたちばな》を 嬢子《をとめ》等《ら》が 珠《たま》貫《ぬ》くまでに 茜《あかね》さす 昼《ひる》はしめらに あしひきの 八丘《やつを》飛《と》び越《こ》え ぬばたまの 夜《よる》はすがらに 暁《あかとき》の 月《つき》に向《むか》ひて 往《ゆ》き還《かへ》り 鳴《な》き響《とよ》むれど いかに飽《あ》き足《た》らむ
    毎時尓 伊夜目都良之久 八千種尓 草木花左伎 喧鳥乃 音毛更布 耳尓聞 眼尓視其等尓 宇知歎 之奈要宇良夫礼 之努比都追 有爭波之尓 許能久礼能 四月之立者 欲其母理尓 鳴霍公鳥 從古昔 可多里都藝都流 ※[(貝+貝)/鳥]之 宇都之眞子可母 菖蒲 花橘乎 ※[女+感]嬬良我 珠貫麻泥尓 赤根刺 晝波之賣良尓 宏之比寄乃 八丘飛超 夜干玉乃 夜者須我良尓 曉 月尓向而 往還 喧等余牟礼杼 何如將飽足
 
【語釈】 ○音も変らふ 「変らふ」は、「変る」の連続で、変わり続ける。季節に伴って、鳥の種類が変わる意。○うち嘆き萎えうらぶれ 「うち嘆き」は、「うち」は、接頭語。「嘆き」は、溜息をつきで、そのものの愛でたさに堪えられなくてされること。「萎えうらぶれ」は、心が萎えて、悲しく思ってで、上を受けて、愛でたさのさらにきわまっての状態。○偲ひつつ争ふ間に 「偲ひつつ」は、愛でつつ。「争ふ間に」は、その愛でたさを争っている間に。「争ふ」は、原文「有争」。『略解』で本居宣長は「争」は「来」の誤写として「あり来る」と改め、『古義』以来、諸注が従っている。原文のままで通じる。○木の晩の 木の葉が繁り合って暗くなっている意で、「四月」の修飾。原文は諸本「許能久礼罷《このくれやみ》」であるが、底本頭書に「ノ」の訓があり、『略解』にある宣長説では「罷」は「能」の誤写かといっている。これに従う。○夜隠りに 深夜に。○鶯の現し真子かも 「現し」は、現実で、正真の意。「真子」は、愛称。「かも」は、疑問。鶯の正真の良い子であるのか。巻九(一七五五)「鶯の生卵《かひこ》の中に霍公鳥独り生れて」とあり、鶯の巣から孵る意で、その子だといっているのであるが、ここはそれだけではなく、鶯に似てその声の愛でたい点に力点を置いていったもの。○菖蒲花橘を嬢子等が珠貫くまでに 菖蒲と橘の花を、おとめらが珠として貫いて薬玉とする時までをで、五月の節日までをということを、美しく具象的にいったもの。霍公鳥は四月に入ると渡って来て、五月の節日までとどまっているとしたのである。○昼は(285)しめらに 「しめら」は、「しみら」と同じで、繁く連続してで、終日の意。○夜はすがらに 「すがらに」は、通じて尽きるまでで、終夜。○暁の月に向ひて 「暁」は、夜の一部としていっているもの。○いかに飽き足らむ どうして飽き足ろうか。
【釈】 季節ごとに、いよいよ愛らしく、限りない種類に草木の花は咲き、鳴く鳥の声も変わりつづける。その声を耳に聞き、色を眼に見るごとに、愛でたさに溜め息をつき、心が萎れて悲しくなって、愛でつつも愛でたさを争っている間に、木の葉が繁って暗くなる四月が来ると、深夜に鳴く霍公鳥、昔から言い継いで来た鶯の正真の子なのか。菖蒲と橘の花を、おとめらが珠として緒に貫く時までを、あかるい昼は一日じゅう、多くの峯々を飛び越え、暗い夜は夜どおし、暁の月に向かって行き還り鳴き響かしているが、どうして飽き足りようか。
【評】 この歌は左注によると、三月二十日に詠んだもので、四月にならなければ来ない霍公鳥に対して、あこがれの気分から想像によって詠んだものである。歌としては、気分が勝ちすぎ、実感の裏づけの足りないものとなっているが、このことは家持の花鳥に対する愛の、いかに深いものであったかを示していることでもある。家持の花鳥に対しての愛は、この時期の風である風流の範囲のものであるが、それとしてはよほど深いもので、生活からある遊離を持った、美的添加物、あるいは装飾という程度のものではなく、生活上に必要な、それなくしてはいられない、いわば生活の一部を成していたものとみえる。この時代に個人意識に目覚めていた上に、国庁の下僚には心合いの人がなく、寂寥感、孤独感を持たされており、それを花鳥によって慰められていたのではないかと思われる。霍公鳥以外の花鳥の声や色に対し、「うち嘆き萎えうらぶれ、偲ひつつ争ふ」というのは、ある程度の誇張はあるとしても、尋常のものではなく、言語を超えた境のものである。中心の霍公鳥は、想像のものとして一般的であるが、その情景をしみじみと眼前に描いてのもので、想像に溺れての気分を漂わし得ているものである。一首全体としても、一年の時の流れの上に、それぞれの季節の花鳥とともに、一時期の物として霍公鳥を思い浮かべての扱い方で、感性に溺れつつも知性の裏づけも持っている心で、必ずしも単純のみのものではない。
 
     反歌二首
 
4167 時毎《ときごと》に いや珍《めづ》らしく 咲《さ》く花《はな》を 折《を》りも折《を》らずも 見《み》らくし好《よ》しも
    毎時 弥米頭良之久 咲花乎 折毛不折毛 見良久之余志母
 
【語釈】 ○祈りも祈らずも 折っても、折らなくてもで、愛すれば折って見ずにはいられないとする一般的な心を背後に置いてのもの。○見らく(286)し好しも 「見らく」は、「見る」の名詞形。「し」は、強意。見ることの楽しさよ。
【釈】 季節ごとに、いよいよ珍しく咲く花を、折っても折らなくても、見ることの楽しさよ。
【評】 長歌の前半の繰り返しで、「折りも折らずも」を添えることによって、その心を進展させている。四、五句は平凡に似ているが、酷愛することによって初めて言いうる性質のものである。
 
4168 毎年《としのは》に 来喧《きな》くものゆゑ 霍公鳥《ほととぎす》 聞《き》けばしのはく 逢《あ》はぬ日《ひ》を多《おほ》み【毎年、之をとしのはと謂ふ】
    毎年尓 來喧毛能由惠 霍公鳥 聞婆之努波久 不相日乎於保美 【毎年謂2之等之乃波1】
 
【語釈】 ○来喧くものゆゑ 「ものゆゑ」は、ものであるのにで、珍重するには及ばぬわけだのにの意。○聞けばしのはく 「しのはく」は、「偲ふ」の名詞形で、聞けば愛《め》ずることだ。○逢はぬ日を多み 逢わない日が多いゆえにで、「み」は、理由をあらわすもの。去年ここを去ってより、今年渡って来るまでの間。「逢はぬ日」は、霍公鳥を有情のものとしての語。
【釈】 毎年来て鳴くものであるのに、霍公鳥は、声を聞けば愛されることだ。逢わない日が多いゆえに。
【評】 深い愛をいっているものであるが、現われかねている歌である。想像の作の弱所である。
 
     右は二十日、いまだ時に及《いた》らねども、興により予て作れり。
      右廿日、雖v未v及v時、依v興預作也。
 
【解】 「時に及らねど」は、霍公鳥は、四月に入って渡って来る鳥と定められていたからである。
 
     家の婦《め》が京《みやこ》に在《いま》す尊母《ははのみこと》に贈らむが為に、誂《あとら》へらえて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「家の婦」は、大伴坂上大嬢。「尊母」は、大伴坂上郎女。「誂へらえて」は、頼まれての意。歌の代作ということは特別のことではなかった上に、今の場合のごときは、家持自身の心も託せられるものである。
 
(287)4169 霍公鳥《ほととぎす》 来鳴《きな》く五月《さつき》に 咲《さ》き匂《にほ》ふ 花橘《はなたちばな》の 香《か》ぐはしき 親《おや》の御言《みこと》 朝碁《あきよひ》に 聞《き》かぬ日《ひ》まねく 天離《あまざか》る 夷《ひな》にし居《を》れば あしひきの 山《やま》のたをりに 立《た》つ雲《くも》を 外《よそ》のみ見《み》つつ 歎《なげ》くそら 安《やす》けなくに 念《おも》ふそら 苦《くる》しきものを 奈呉《なご》の海人《あま》の 潜《かづ》き取《と》るといふ 真珠《しらたま》の 見《み》が欲《ほ》し御面《みおもわ》 直向《ただむか》ひ 見《み》む時《とき》までは 松柏《まつかへ》の 栄《さか》えいまさね 尊《たふと》き吾《あ》が君《きみ》 【御面は、之をみおもわと謂ふ】
    霍公鳥 來喧五月尓 咲尓保布 花橘乃 香吉 於夜能御言 朝暮尓 不聞日麻祢久 安麻射可流 夷尓之居者 安之比奇乃 山乃多乎里尓 立雲乎 余曾能未見都追 嘆蘇良 夜須家奈久尓 念蘇良 苦伎毛能乎 奈矣乃海部之 潜取云 眞珠乃 見我保之御面 多太向 將見時麻泥波 松柏乃 佐賀延伊麻佐祢 尊安我吉美 【御面謂2之美於毛和1】
 
【語釈】 ○霍公鳥来鳴く五月に咲き匂ふ花橘の 「花橘」は、橘の花で、以上「香ぐはし」の序詞。○香ぐはしき親の御言 「香ぐはしき」は、美しい、あるいは慕わしい意で、ここは慕わしいで、親を讃えたもの。「御言」は、お言葉で、来信の語。○朝碁に聞かぬ日まねく 「まねく」は、多くで、大嬢が越中へ下ってある期間を過ぎたことがわかる。○あしひきの山のたをりに立つ雲を 山の窪みに立つ雲を、よそにばかり見るようにの意で、以上「よそ」にかかる序詞。「たをり」は、峯と峯の間のくぼんでいる所の称で、雲のかかりやすい所。○外のみ見つつ よそにのみ、すなわち遠くばかり見つつ。○安けなくに 形容詞「安け」に、打消の助動詞「ず」の名詞形「なく」の接(288)したもの。安くないことで。○奈呉の海人の潜き取るといふ真珠の 「真珠」は、あわび珠。譬喩として、以上「見が欲し」にかかる序詞。○見が欲し御面 見たいと思うお顔を。○松柏の栄えいまさね 「松柏の」は、松や柏のごとくで、柏は杉、檜など常緑の木の称。意味で「栄え」にかかる枕詞。『古義』は、漢語の「松柏」を訳した語であろうといっている。「いまさね」は、いらしてくださいで、「ね」は、希求の助詞。○尊き吾が君 郎女を尊んでの称で、呼びかけ。
【釈】 霍公鳥が来て鳴く五月には咲いて匂う橘の花のように慕わしい親のお言葉を、朝夕に聞かない日が多く、天と離れている夷に住んでいますので、あしひきの山のたおりに立っている雲のように遠方にばかり見つづけまして、嘆く心は安らかではないことで、思う心は苦しゅうございますのに、奈呉の海人が海に潜いて、取るという鰒玉のように、見たく思いますお顔を、直接に向かって逢い見ますまでは、松や柏のように栄えていらせられてくださいまし。尊いあなた様。
【評】 京の坂上郎女から、越中にいる娘の大孃に来信があって、多分逢いたいというようなことがいってあったのに対して、大孃は同じく逢いたく思っている心を歌で答えようと思い、作歌には自信の持てないところから家持に頼んで詠んでもらったものである。家持は用意深く、長序を三つまで設けて詠んでいる。「花橘の」は、季節としてはやや早いが、すべての人の一様になつかしんでいるもので、適当な序である。「立つ雲を」も、眼前を捉えてのもので、遠い京を思いやる心を絡ませてある点で、凡ではない。「真珠の」も、新味のあるもので、大嬢としては実感の伴ったものでもあって、最もすぐれたものである。「御面」は訓を添えてあるもので、これも新味のある語であったろう。しかしこれらの技巧も、要するに部分的のもので、全体として見ると、この種の歌の生命である情味が乏しく、儀礼の歌という感のあるものである。郎女は大嬢の母であるのみならず、家持にも幼少時代から世話になった叔母であるのに、何ゆえに情味が乗って来ないかと恠《あや》しませる。この歌に限らず、家持の郎女に対する歌は、平常の手腕が出ないかにみえるのである。何らかの理由があったのではないかと思わせる。
 
     反歌一首
4170 白玉《しらたま》の 見《み》が欲《ほ》し君《きみ》を 見《み》ず久《ひさ》に 夷《ひな》にし居《を》れば 生《い》けるともなし
    白玉之 見我保之君乎 不見久尓 夷尓之乎礼婆 伊家流等毛奈之
 
【語釈】 ○白玉の見が欲し君を 「白玉の」は、譬喩として「見が欲し」にかかる枕詞。「見が欲し君を」は、娘より母を「君」と呼んだもので、女性に対しての称として珍しいものである。○生けるともなし 「と」は、心持の意で、生きている心持もしない。
【釈】 白玉のごとく見たいと思う君を、見ないことが久しく、夷にいるので、生きている心持もしない。
(289)【評】 長歌の結末の序詞の語を受けて枕詞に用い、長歌の心を要約して添えた。反歌としては、型にかなわしめたものである。長歌と同じく、用意を持ってのものであるが、情味に乏しい。
 
     二十四日は、立夏《りふか》四月の節に応《あた》れり。これに因《よ》りて二十三日の暮《ゆふべ》に、忽に霍公鳥の暁に喧《な》かむ声を思ひて作れる歌二首
 
【題意】 「二十四日は、立夏四月の節に応れり」は、四、五、六月が夏季であるから、普通だと四月に入る日が立夏の日であるのに、その年は暦面では、三月の二十四日が立夏になるのであった。霍公鳥は立夏とともに来るとされており、また日を数えるには、夜半から夜半までを一日としていたので、二十三日の夜半は立夏で、夜鳴く霍公鳥の来るべき日だったのである。また、立夏は農事の上にも大切な節として、農民もその夜を祝っての行事をしたのである。
 
4171 常人《つねひと》も 起《お》きつつ聞《き》くぞ 霍公鳥《ほととぎす》 このあかときに 来喧《きな》く初声《はつこゑ》
    常人毛 起都追聞曾 霍公鳥 此曉尓 來喧始音
 
【語釈】 ○常人も起きつつ聞くぞ 「常人も」は、一般の農民も。「起きつつ聞くぞ」は、立夏の日の夜を祝って、終夜起きつづけていて聞くぞで、霍公鳥に対しての語。○このあかときに来喧く初声 この暁に来て鳴く今年の初声を。
【釈】 一般の人々も今夜は起きつづけていて聞くぞ。霍公鳥のこの暁に来て鳴く今年の初声を。
【評】 立夏とともに来るとされている霍公鳥の初声に憧れて、夜を起きて待っている心である。いっているのは、我のみではなく、常人も起きていて聞く声だといって、霍公鳥を励ましているのである。霍公鳥を必ず来るものと定めて、駄目を押しているような心で、いかにも本気になって待っている心の現われた歌である。人柄を思わせる。
 
4172 霍公鳥《ほととぎす》 来鳴《きな》き響《とよ》まば 草《くさ》取《と》らむ 花橘《はなたちばな》を 屋戸《やど》には植《う》ゑずて
    霍公鳥 來喧響者 草等良牟 花橘乎 屋戸尓波不殖而
 
(290)【語釈】 ○草取らむ 田の草取りをしよう。これは巻十(一九四三)「月夜よみ鳴く霍公鳥見まく欲り吾草取れり見む人もがも」によったもので、月光に霍公鳥の姿を見るために、田の草取りをしていての心で、ここもその心である。農事をいそしみながら霍公烏を聞こうというのである。○花橘を屋戸には植ゑずて 花咲く橘は屋前には植えないで。橘は霍公鳥の好んで止まる木としてであるが、越中にはその木がないと家持自身いっているので、想像としてのことである。
【釈】 霍公鳥が来て鳴きとよもしたならば、我は田の草取りをしよう。花咲く橘を屋前には植えないで。
【評】 上の歌につながりを持っての想像である。もし霍公鳥が、来鳴きとよもしたならば、屋前へ花橘を植えて、それに止まらせて聞くようなことはせず、親しく田に立って、草取りの勤労をしながら聞こうというのである。霍公鳥を酷愛するところから、より多く直接に見たり聞いたりしようというので、酷愛を具象化した歌である。上の歌で、「常人も起きつつ聞くぞ」といった、その常人の立場に自身を立たせての心で、その意味でつながりを持ったものである。花鳥に溺れつつも、同時に国守としての責任意識の強かった家持の心の現われている歌である。
 
     京《みやこ》なる丹比家《たぢひけ》に贈れる歌一首
 
【題意】 「丹比家」は、どういぅ関係の家か不明である。『古義』は、丹比という地名は奈良にはないので、氏であろうといい、「家」は、橘氏を橘家と呼んだのと同例で、家持の妹の嫁している家であろうといっている。(四一八四)の左注に、「留女之女郎」とあるのがすなわちその人とみえるというのである。(四二一三)の左注にも「贈京丹比家」とある。
 
4173 妹《いも》を見《み》ず 越《こし》の国辺《くにべ》に 年《とし》経《ふ》れば 吾《わ》が情神《こころど》の 和《な》ぐる日《ひ》もなし
    妹乎不見 越國敞尓 經年婆 吾情度乃 奈具流日毛無
 
【語釈】 ○吾が情神の和ぐる日もなし 「こころど」は、心のはたらき、精神。「和ぐる日」は、穏やかになる日で、気安くいられる日。
【釈】 妹を見ずに越の国辺に何年も経たので、わがこころの穏やかでいられる日とてもない。
【評】 素朴な言い方をした歌で、そこに真情の見えるものがある。
 
     筑紫の大宰の時の春の苑《その》の梅の歌に追ひて和ふる一首
 
【題意】 「筑紫の大宰の時」は、父旅人が大宰帥の時の意。「春の苑の梅の歌」は、旅人の催した梅の花の宴で、巻五に出た。「追ひて和ふる」は、その時の歌三十二首の中の第一首(八一五)に対してで、その歌は、「正月立ち春の来らばかくしこそ梅を折りつつ楽しき竟へめ」である。
 
4174 春《はる》の裏《うち》の 楽《たの》しき終《を》へは 梅《うめ》の花《はな》 手折《たを》りをきつつ 遊《あそ》ぶにあるべし
    春裏之 樂終者 梅花 手折乎伎都追 遊尓可有
 
【語釈】 ○楽しき終へは 「終へ」は、終局、頂上の意で、楽しい頂上は。これは大宰の梅の歌の第一首(八一五)の結句「楽しき竟へめ」によったもの。○手折りをきつつ これは同じ歌の第四句「梅ををきつつ」(紀州本・細井本)によったもので、それだと「をき」は、「招き」で招来しての意である。折って、招来して。これは庭の梅の花を折って、蘰として冠に挿す意で、蘰をするのは宴席の礼装となっているので、宴を開くことを言いかえたものである。○遊ぶにあるべし 「遊ぶ」は、文雅の遊びをする意。
【釈】 春の内の楽しい頂上は、梅の花を折って、招来して、文雅の遊びをすることであろう。
【評】 追和とはいうが、追随しているだけで、何の加うるところもない歌である。家持は孝心の深い人だったとみえるから、大宰における旅人の催した梅の花の宴は、胸に去来するものであったろう。ことに身辺の落寞は、その感を強めさせたものとみえる。この歌も、前後に何の関係もなく、梅の花の季節でもない時の歌であることが、そのことを裏書している。
 
     右の一首は、二十七日興に依りて作れる。
      右一首、廿七日依v興作v之。
 
     霍公鳥を詠める二首
 
4175 霍公鳥《ほととぎす》 今《いま》来《き》喧《な》き始《そ》む 菖蒲《あやめぐさ》 蘰《かづら》くまでに 離《か》るる日《ひ》あらめや 【毛能波三箇の辭を闕く】
    霍公鳥 今來喧曾无 菖蒲 可都良久麻泥尓 加流々日安良米也 【毛能波三箇辭闕之】
 
【語釈】 ○菖蒲蘰くまでに 菖蒲を緒に貫いて蘰とする日までをで、五月の節日までということを具体的にいったもの。「蘰く」は、蘰を動詞化(292)したもの。○離るる日あらめや ここを離れる日があろうか、ありはしないで、「や」は、反語。○毛能波云々 「ものは」三つの文字を用いずに詠んだ歌の意で、作歌の上の一つの遊戯である。最も用途の多い助詞を封じたのである。
【釈】 霍公鳥は今来て鳴き始めた。菖蒲を蘰とする日まで、ここを離れる日があろうか、ありはしない。
【評】 霍公鳥の来たことを喜び、五月の節日までは去らないものだといわれているのを、喜びとしている心である。「ものは」の三助詞を用いずに詠んだという断わりは、文字となっているのはこれが最初であるが、実際はある程度行なわれていたものとみえる。これは数種の物を詠み入れる戯咲歌と同範囲のもので、短歌形式を遊戯の具とする風の次第に拡がったことを示しているものである。歌が実用性のものであった時代には、形式は儀礼として尊ぶべきものとなっていたのであるが、文芸性のものとなるとともに、遊戯として興味あるものとなり、初めは戯咲歌として、そのことをあらわに見せているものであったのに、この時期にはこの歌のように、それと断わらなければわからないものとなって来ていたのである。
 
4176 我《わ》が門《かど》ゆ 喧《な》き過《す》ぎ渡《わた》る 霍公鳥《ほととぎす》 いや懐《なつか》しく 聞《き》けど飽《あ》き足《た》らず 【毛能波※[氏/一]尓乎の六箇の辞を闕く】
    我門從 喧過度 霍公鳥 伊夜奈都可之久 雖聞飽不足 【毛能波※[氏/一]尓乎六箇辭闕之】
 
【語釈】 ○我が門ゆ わが門を通って。○いや懐しく いよいよ懐かしくて。近いがゆえである。
【釈】 わが門を通って、鳴いて過ぎて行く霍公鳥は、いよいよ懐かしくて、聞いても飽き足りない。
【評】 これは、「ものはてにを」の、六つの文字を用いないことを条件としての作である。作意は細かく、気分的で、家持の好みを出し得ているものである。難題を詠みぬいたという感のあるものである。適当な話相手も、作歌の仲間もないところから、独り遊びとしてその心をやったものであろう。その意味では察しられるところがある。家持としては、棄て去るに忍びない歌であったろうと思われる。
 
     四月三日、越前の判官大伴宿禰池主に贈れる霍公鳥の歌。旧りにしを感《め》づる意に勝へずして懐を述ぶる歌一首 并に短歌
 
4177 我《わ》が兄子《せこ》と 手《て》携《たづさ》はりて 暁《あ》け来《く》れば 出《い》で立《た》ち向《むか》ひ 暮《ゆふ》されば ふり放《さ》け見《み》つつ 念《おも》ひ(293)暢《の》べ 見和《みな》ぎし山《やま》に 八峯《やつを》には 霞《かすみ》たなびき 谿辺《たにべ》には 椿《つばき》花《はな》咲《さ》き うらがなし 春《はる》し過《す》ぐれは 霍公鳥《ほととぎす》 いや頻《し》き喧《な》きぬ 独《ひとり》のみ 聞《き》けばさぶしも 君《きみ》と吾《われ》 隔《へだ》てて恋《こ》ふる 礪波山《となみやま》 飛《と》び越《こ》え行《ゆ》きて 明《あ》け立《た》たば 松《まつ》の小枝《さえだ》に 暮《ゆふ》さらば 月《つき》に向《むか》ひて 菖蒲《あやめぐさ》 玉《たま》貫《ぬ》くまでに 鳴《な》き響《とよ》め 安寐《やすい》宿《ね》しめず 君《きみ》を悩《なや》ませ
    和我勢故等 手携而 曉來者 出立向 暮去者 振放見都追 念暢 見奈疑之山尓 八峯尓波 霞多奈婢伎 谿敞尓波 海石榴花咲 宇良悲 春之過者 霍公鳥 伊也之伎喧奴 獨耳 聞婆不怜毛 君与吾 隔而戀流 利波山 飛超去而 明立者 松之狭枝尓 暮去者 向月而 菖蒲 玉貫麻泥尓 鳴等余米 安寐不令宿 君乎奈夜麻勢
 
【語釈】 ○念ひ暢べ見和ぎし山に 「念ひ暢べ」は、結ばれている心を伸びやかにし。「見和ぎし山」は、見て心を和やかにした山で、「山」は、二上山続きの山。○うらがなし春し過ぐれば 「うらがなし」は、心が感傷的になる意で、春を修飾する形容詞で、連体形。○霍公鳥いや頻き喧きぬ 夏の物の霍公鳥が、いよいよしきりに鳴いたで、現在の状態。○独のみ聞けばさぶLも 独りでだけ聞いたのでは楽しくないことだ。○君と吾隔てて恋ふる礪波山飛び越え行きて 君とわれとが、それを隔てにして恋うている礪波山を飛び越えて行って。主格の霍公鳥を省き、それに呼びかける形のもの。礪波山は巻十七(四〇〇八)に既出。今の倶利伽羅峠をいう。○明け立たば松の小枝に 夜が明けたならば、松の枝に居て。「小枝」は、「小」は、美称。池主の庭の木を想像してのもの。○菖蒲玉貫くまでに 菖蒲を玉として緒に貫くで、五月節日の薬玉。それまでが霍公鳥のとどまっている期間である。○鳴き響め安寐宿しめず君を悩ませ 鳴き響かせて、安らかな眠りには眠らせずに、君を悩ませよで、上の「君と吾」以下これまでは、霍公鳥に命じた語。
【釈】 親しいあなたと手をつないで、夜が明けて来ると出て向かい、夕べが来れば仰いで見つつ、結ばれた心を伸びやかにし、見て思いを和やかにした山に、峯々には霞がたなびき、谿のほうには椿の花が咲いて、心が感傷させられる春が過ぎたので、今は霍公鳥がいよいよしきって鳴いています。ひとりでだけ聞いていては楽しくないことです。霍公鳥よ、君とわれとがそれを隔てにして恋うている礪波山を飛び越えて行って、夜が明けたらば君の館の庭の松の枝に居て、夕べが来たならば月に向かって、菖蒲を玉として緒に貫く日までを、鳴き響もして、安らかな眠りには眠らせずに君を悩ませよ。
【評】 作意は題詞に尽くしている。家持はその心合いの詞友の池主を思うと、心がただちに陶酔に近いものとなり得たとみえ、(294)彼に贈る歌はすべて暢達の趣を持っている。ことにこの歌は、取材が霍公鳥であるために、それが際立っている。起首より「霍公鳥いや頻き喧きぬ」までは、山を中心として、そこに現われる春より夏の推移をいっているもので、この場合、春は余分のごとくであるが、池主をして以前を思い出させることを主にすれば、いわざるを得ないもので、またいうが適当なものでもある。自身のこととしては、「独のみ聞けばさぶしも」と、きわめて簡単にいってしまっているのもその関係からのことで、情理を兼ねた言い続けである。一転して、霍公鳥に命じる語となっているが、これは作意からいうと、家持の溺愛しているもので、ことに使としてやる形の者でもあるので、家持の魂の籠もっている名代のごときものである。「松の小枝に」「月に向ひて」昼夜を鳴きとおして、「安寐宿しめず君を悩ませ」は、池主のこちらを思わずにいるらしいのを恨む心をこめたものである。この恨みは愛情よりのもので、恋の恨みと異ならないものである。一首、濃やかな友情を戯談まじりに披歴したものである。調べが明るく、句も長短錯落しているところも自然で、その意味で快い作である。
 
4178 吾《ひとり》のみ 聞《き》けばさぶしも 霍公鳥《ほととぎす》 丹生《にふ》の山辺《やまべ》に い行《ゆ》き鳴《な》くにも
    吾耳 聞婆不怜毛 霍公鳥 丹生之山邊尓 伊去鳴尓毛
 
【語釈】 ○吾のみ 「吾」は、「ひとり」「われ」と訓みが定まっていない。長歌の「独のみ聞けばさぶしも」を繰り返したものであるから、「吾」を「ひとり」に義をもって当てた字である。○丹生の山辺に 越前国(福井県)丹生郡丹生の郷にある山。そこは古、国府のあった、今の武生市の西北方にある山である。○い行き鳴くにも 行って鳴くにつけても。
【釈】 ひとりだけで聞くと、たのしくないことだ。命じた霍公鳥が、丹生の山辺へ行って鳴くにつけても。
【評】 命じてやった霍公鳥が、命じられたとおりそちらへ行くにしても、やはりここの霍公鳥をひとりで聞くのは楽しくないというので、どこまでも直接に逢いたい心をいっているものである。恋の歌に似た、飽くなき心をいっているものである。初二句、長歌を繰り返して、新意を展開させたもので、反歌としてふさわしいものである。
 
4179 霍公鳥《ほととぎす》 夜喧《よな》きをしつつ 我《わ》が兄子《せこ》を 安宿《やすい》な寐《ね》しめ ゆめ情《こころ》あれ
(295)    霍公鳥 夜喧乎爲管 和我世兒乎 安宿勿令寐 由米情在
【語釈】 ○ゆめ情あれ 「ゆめ」は、下に打消を伴うのが普通であるが、巻十一(二五一一)「常滑の恐き道ぞ恋ふらくはゆめ」など、打消を伴わず、結末に置く例はある。ここは珍しい例である。心としては、上の「安宿な寐しめ」の打消に属したものと取れる。けっして、の意。「情あれ」は、心づかいをせよ。
【釈】 霍公鳥よ、夜鳴きをしつづけて、親しい君を安眠状態にはけっして寐させるな。その心づかいをせよ。
【評】 長歌の結末を繰り返したものである。「ゆめ情あれ」は、そうすることによって、我の君を思うと同じく君をして我を思わしめよの余意を、婉曲に籠めたものである。
 
     霍公鳥を感《め》づる情《こころ》に飽かず、懐《おもひ》を述べて作れる歌一首 并に短歌
 
4180 春《はる》過《す》ぎて 夏《なつ》来向《きむか》へば あしひきの 山《やま》よび響《とよ》め さ夜中《よなか》に 鳴《な》くほととぎす 初声《はつこゑ》を 聞《き》けば懐《なつか》し 菖蒲《あやめぐさ》 花橘《はなたちばな》を 貫《ぬ》き交《まじ》へ 蘰《かづら》くまでに 里《さと》響《とよ》め 喧《な》き渡《わた》れども 尚《なほ》ししのはゆ
    春過而 夏來向者 足檜木乃 山呼等余米 左夜中尓 鳴霍公鳥 始音乎 聞婆奈都可之 菖蒲 花橘乎 貫交 可頭良久麻泥尓 里響 喧渡礼騰母 尚之努波由
 
【語釈】 ○山よび響め 山を、自分の名を呼びとよめて越して来ての意。○菖蒲花橘を貫き交へ蘰くまでに 菖蒲と橘の花とを緒に貫きまぜて、蘰とする時までをで、五月の節日までの久しい間をの意。
【釈】 春が過ぎて夏が来向かうと、あしひきの山を、我とその名を呼びとよもして越えて来て、夜中に鳴く霍公鳥の、その初声を聞くと懐かしい。菖蒲と橘の花とを緒に貫き交じえて蘰とする日までを、里をとよもして鳴き渡っているけれども、やはり慕わせられる。
【評】 霍公鳥の懐かしさの限りないことを、総括して叙したものである。強い情をとおして叙しているので、語は簡潔に、うるおいを帯びたものとなっていて、説明とは感じさせないが、しかしそれと大差ないものである。内容はすでに幾度も繰り返(296)しているものであるが、他の物に比較すると、この歌は家持の気分の現われの少ないものである。すなわち時代の生活情調、作者の性情とのつながりが稀薄である。その点からいうと、この時期としては古風に属する歌である。これは言いかえると、対象と作者との間に、ある距離があり、作者の内部とのつながりが弱く、作者独自の物になっていないということである。
 
     反歌三首
 
4181 さ夜《よ》ふけて 暁月《あかときづき》に 影《かげ》見《み》えて 喧《な》く霍公鳥《ほととぎす》 聞《き》けばなつかし
    左夜深而 曉月尓 影所見而 喧霍公鳥 聞者夏借
 
【語釈】 ○さ夜ふけて暁月に 「暁月」は、暁の月で、有明月である。例の見えない語である。夜が更けて、暁の月にというのて、時間の推移がみえて、終夜を起きていたことをあらわしているものである。○影見えて 姿が見えて。
【釈】 夜が更けて、暁の月にその姿が見えて鳴く霍公鳥は、聞くと懐かしい。
【評】 長歌には全くない境である。長歌のほうは、外部的に、大まかに叙しているので、それと対照的に、細かく内部的にいったものである。こうした反歌の詠み方は、古く人麿が拓き、赤人がいささか継いだのみで、他にはほとんど見えないものである。家持は多くの長歌を作っているが、こうした反歌は初めてである。「暁月に影見えて」が中心であるが、耳と目とを一つにすることによって感を強めているもので、生趣がある。以下二首もこの系統のものであるから、初めから意図してかかったものかと思われる。
 
4182 霍公鳥《ほととぎす》 聞《き》けども飽《あ》かず 網取《あみと》りに 獲《と》りて懐《なつ》けな 離《か》れず鳴《な》くがね
    霍公鳥 雖聞不足 網取尓 獲而奈都氣奈 可礼受鳴金
 
【語釈】 ○網取りに獲りて懐けな 「網取り」は、網を懸けて取ることで、名詞。「に」は、にして。「懐けな」の「な」は、希求の助詞。手なずけたい。○離れず鳴くがね 「離れず」は、離れずに。いつもかたわらにいて。「鳴くがね」は、鳴くように。
【釈】 霍公鳥は聞くけれども飽かない。網取りにして獲って手なずけたい。いつも傍らで鳴くように。
(297)【評】 霍公鳥を親愛するところからの細かい空想である。本気になっていっているのでほほ笑ましい。誰も言葉にはしなかった意味で新しいものである。
 
4183 霍公鳥《ほととぎす》 飼《か》ひ通《とほ》せらば 今年《ことし》経《へ》て 来向《きむか》ふ夏《なつ》は 先《ま》づ喧《な》きなむを
    霍公鳥 飼通良婆 今年経而 來向夏波 麻豆將喧乎
 
【語釈】 ○飼ひ通せらば 飼い続けるならば。○先づ喧きなむを どこよりも先に、その初声を鳴くであろうよ。
【釈】 霍公鳥を飼い続けるならば、今年が過ぎて、来年の向かって来る夏には、まず第一に鳴くであろうよ。
【評】 上の歌の延長として思い続けた空想である。綱取りにして飼い続けたら、来年の初声は第一に聞かれようといぅので、初声に対するあこがれが中心になっている。上の歌とともに、言い方はもっともであるが、心は情痴の境のものである。
 
     京師《みやこ》より贈り来たれる歌一首
 
【題意】 贈り主は、左注によって、家持の妹と知られる。上の(四一七三)の題詞にある「丹比家」という家に嫁していたのであろう。
 
4184 山吹《やまぶき》の 花《はな》とり持《も》ちて つれもなく 離《か》れにし妹《いも》を 偲《しの》ひつるかも
    山吹乃 花執持而 都礼毛奈久 可礼尓之妹乎 之努比都流可毛
 
【語釈】 ○山吹の花とり持ちて 山吹の花を手に持ってで、下の「妹」の状態。○つれもなく離れにし妹を 思いやりもなく離れて行ってしまった妹を。「妹」は、広く女性に対しての称で、家持の館にいる女性であるから、明らかに大嬢である。したがって「離れにし」は、京から越中へ出発する際のことと思われる。○偲ひつるかも 慕ったことであった。
【釈】 山吹の花を手に持って、我には思いやりもなく離れて行ってしまった妹を、慕ったことでした。
【評】 家持の妹から大嬢へ、消息に添えて贈って来た歌である。心は、すげなくも京を去ってしまった大嬢を、後で偲んだこと(298)であったというので、大嬢の発足の際、別れを惜しんだ心、別れた後のなつかしく思った心を、思い出していっているものである。「つれなくも」は、送る者の側に立っての感で、当然のことを誇張していったものである。大嬢の越中へ下ったのは、山吹の花の咲いていた時であったことがこの歌で知られる。無論前年のその頃であったろう。淡泊な詠み方であるが、情味があり、ある気分も持ち得ているものである。
 
     右は、四月五日、留女《るによ》の女郎《をみな》より送れるなり。
      右、四月五日、從2留女之女郎1所v送也。
 
【解】 「留女」が問題となっている。(四一九八)の左注に、「右、為v贈2留女之女郎1所v誂2家婦1作也。女郎者即大伴家持之妹」とあって、この歌の注と関係のあるものである。「留女」は他に用例を見ない語であるが、留守をしている女の意ではないかという。留守は、家持の佐保にある邸のそれである。留守という語はこの当時用いられている語であるが、それは天皇が他に行幸される場合、皇居を守らしめる職の名で、高官のあたった職である。それが一般の家に及び、こうした語となったのではないかという。家持としては、妹に依頼するというのは自然なことで、妹が前に出た丹比家に嫁していたとしても、それはできる事柄である。多分その意の語であろう。
 
     山振《やまぶき》の花を詠める歌一首 并に短歌
 
4185 現身《うつせみ》は 恋《こひ》を繁《しげ》みと 春《はる》設《ま》けて 念《おもひ》繁《しげ》けば 引《ひ》き攀《よ》ぢて 折《を》りも折《を》らずも 見《み》る毎《ごと》に 情《こころ》和《な》ぎむと 繁山《しげやま》の 谿辺《たにべ》に生《お》ふる 山振《やまぶき》を 屋戸《やど》に引《ひ》き植《う》ゑて 朝露《あさつゆ》に にほへる花《はな》を 見《み》る毎《ごと》に 念《おもひ》は止《や》まず 恋《こひ》し繁《しげ》しも
    宇都世美波 戀乎繁美登 春麻氣※[氏/一] 念繁波 引攀而 折毛不折毛 毎見 情奈疑牟等 繁山之 谿敞尓生流 山振乎 屋戸尓引殖而 朝露尓 仁保敞流花乎 毎見 念者不止 戀志繁母
 
【語釈】 ○恋を繁みと 「恋」は、あこがれ心。「繁み」は、多いものであるとてで、状態。欲望の多い者の意。○春設けて念繁けば 春になると、(299)念いが多いので。「春設けて」は、上の(四一四一)に既出。「繁け」は、已然形。春に刺激されて、欲望の多いのに伴って嘆きの多い意。○引き攀ぢて折りも折らずも 枝を引き寄せて、折ろうとも折らなかろうとも。○屋戸に引き植ゑて 屋前に移し植えて。
【釈】 世に生きている人は、あこがれ心の多いものとて、春になると、物思いが多くあるので、枝を引き寄せて折ろうとも折らなかろうとも、見るごとに心が慰められようかと思って、立ち重なっている山の谿辺に生えている山吹を、屋前に移し植えて、朝露に濡れて色美しく咲いている花を見るごとに、物思いはやまずに、あこがれ心の多いことであるよ。
【評】 「現身は恋を繁みと、春設けて念繁けば」と、人間の感傷気分を大きく捉え、その上に春の山吹を置き、「見る毎に情和ぎむと」と思ったのに、反対に「見る毎に念は止まず恋し繁しも」という結果になってしまったというので、作意は、人間の欲望に伴って起こる感傷の、脱れるすべもない悩ましさで、山吹はその悩ましさをいう上の一点景としての物である。「繁し」という形容詞を短い中に四回まで繰り返しているのも、山吹そのものについて直接にいうことの少ないのも、この作意よりの成行きである。家持の生活気分に即しての歌で、抒情を旨としての歌である。一首の歌としてはさしたるものではないが、作意の一貫したもので、拙いとはいえないものである。
 
4186) 山吹《やまぶき》を 屋戸《やど》に植《う》ゑては 見《み》る毎《ごと》に 念《おもひ》は止《や》まず 恋《こひ》こそ益《まさ》れ
    山吹乎 屋戸尓殖弖波 見其等尓 念者不止 戀己曾益礼
 
【語釈】 略す。
【釈】 山吹を屋前に植えて、その花を見るたびごとに、嘆きは止まずに、憧れ心はいよいよ増すことである。
【評】 長歌の心を短い形に変えて、繰り返したものである。長歌がすでに気分なので、変化も進展もさせようのないものだったのである。
 
     六日、布勢の水海に遊覧《あそ》びて作れる歌一首 并に短歌
 
4187 念《おも》ふどち 大夫《ますらをのこ》の 木《こ》の暗《くれ》の 繁《しげ》き思《おもひ》を 見明《みあき》らめ 情《こころ》遣《や》らむと 布勢《ふせ》の海《うみ》に 小船《をぶね》連竝《つらな》め ま櫂《かい》かけ い漕《こ》ぎ廻《めぐ》れば 乎布《をふ》の浦《うら》に 霞《かすみ》たなびき 垂姫《たるひめ》に 藤浪《ふぢなみ》咲《さ》きて 浜《はま》浄《きよ》く (300)白浪《しらなみ》騒《さわ》き しくしくに 恋《こひ》は益《まさ》れど 今日《けふ》のみに 飽《あ》き足《た》らめやも かくしこそ いや毎年《としのは》に 春花《はるはな》の 繁《しげ》き盛《さかり》に 秋《あき》の葉《は》の 黄色《もみ》つる時《とき》に 在《あ》り通《がよ》ひ 見《み》つつ偲《しの》はめ この布勢《ふせ》の海《うみ》を
    念度知 大夫能 許乃久礼 繁思乎 見明良米 情也良牟等 布勢乃海尓 小船都良奈米 眞可伊可氣 伊許藝米具礼婆 乎布能浦尓 霞多奈妣伎 垂姫尓 藤浪咲而 濱淨久 白波左和伎 及々尓 戀波末佐礼杼 今日耳 飽足米夜母 如是己曾 弥年乃波尓 春花之 繁盛尓 秋葉能 黄色時尓 安里我欲比 見都追思努波米 此布勢能海乎
 
【語釈】 ○大夫の 「大夫」は、男子の自ら誇っていう称で、ここは親しい国庁の官吏らを尊んでの称。原文「大夫」で、「ますらをのこ」と、「こ」を添えて六音に訓んだものと思われる。用例のあるものである。音調の上からのことである。「こ」は、愛称。○木の暗の繁き思を 「木の暗の」は、夏の木の葉か繁って小暗くなる意で、意味で「繁き」にかかる枕詞。眼前を捉えてのものである。「繁き思」は、多い物思いで、日常おのずから起こる嘆き。○見明らめ情遣らむと 見て晴らし、心を慰めようとて。「見明らめ」は、上の「木の暗」の縁語。○ま櫂かけい漕ぎ廻れば 「ま櫂」は、「ま」は、完全の意て、ここは左右の櫂。「い漕ぎ」は、「い」は、接頭語。○乎布の浦に 巻十八(四〇四九)に出た。代表的勝景となっていた所。○垂姫に (四〇四六)に出た。同じく代表的勝景。今は垂姫を眼前に、乎布の浦を遠く望む位置でいっているもの。○しくしくに恋は益れど しきりに水海に対する憧れの情は募って来るけれとも。楽しみは、それを得ることによ(301)ってますます募って来るけれどもの意。「しくしくに」は、上の「白浪」の縁語。○黄色つる時に 「黄色つる」は、上二段活用の例。大体は四段活用だった。
【釈】 思い合う同士の大夫が、おりからの木の暗のような繁き物思いを、見ては心を晴らし、慰めようと思って、布勢の水海に船を連ね並べて、左右の櫂を取り付けて漕ぎ廻ると、あちらの乎布の浦には霞がたなびき、こちらの垂姫の崎には藤の花が咲いて、砂浜が浄く白浪が騒いで、しきりにも勝景に対する憧れは募って来るけれども、しかし今日の遊びだけで満足されるものであろうか、ありはしない。このようにしてますます毎年に、春の花の繁く咲く盛りに、秋の葉の黄葉する時に、継続してここに通って来て、眺望しつつも愛賞しよう。この布勢の海を。
【評】 国庁の下僚一同とともに、一年の好季節である晩春の藤の花の盛りの頃に、布勢の湖に遊んで、興は尽きないが切り上げて帰ろうとする時、家持が守として、儀礼の心をもって詠んだものである。「今日のみに飽き足らめやも」が、勝景に対しての心である。大景を対象として、やすらかに、上品に、細かい心づかいをしつつも目立たない言い続けをしている、手腕を思わせるものである。「今日のみに」の二句の結びは、上の山振の歌と同じ心で、家持の個人性のほどがよく現われているものである。「かくしこそ」以下は、純儀礼の心のもので、一同に対して賀の心をもっていっているものである。前半と調和を持ち得ているものである。地歩を占め、風格をもって詠んでいる歌で、快い作である。
 
4188 藤浪《ふぢなみ》の 花《はな》の盛《さかり》に 斯《か》くしこそ 浦《うら》漕《こ》ぎ廻《み》つつ 年《とし》に偲《しの》はめ
    藤奈美能 花盛尓 如此許曾 浦己藝廻都追 年尓之努波米
 
【語釈】 ○年に偲はめ 「年に」は、本来、巻十(二〇三五)「年にありて今かまくらむぬばたまの夜霧隠りに遠妻の手を」、同(二〇五五)「天の河遠き渡は無けれども公が舟出は年にこそ待て」、その他にもあって、それらは一年じゅうで、一年にわたっての意である。ここは、長歌の「いや毎年に」をうけていっているもので、年ごとにの意としてであって、古くは用例のないもので、家持によって初めて用いられた新語である。彼はこの巻の(四二二九)「新《あらた》しき年のはじめは弥年《いやとし》に雪踏み平し常かくにもが」とも用いている。
【釈】 藤の花の盛りの時に、このように浦を漕ぎめぐりつつ、年ごとに愛賞しよう。
【評】 長歌の後半を繰り返したものである。そちらでは春秋をいつているのに、ここでは「藤浪の花の盛に」と、春という中でも眼前に即していっているのであるが、それはこの場合として当然のことである。「年に」を「年のはに」(毎年に)と同意(302)語として用いているのは、古い用法からいえば誤用であるが、不自然な無理な用法とは見えないものである。家持の用語法から見ると、心あってしたことかとも思われるものである。
 
     水烏《う》を越前判官大伴宿禰池主に贈れる歌一首并に短歌
 
【題意】 「水烏」は、水にいる烏の意で、鵜の戯書である。人に物を贈る時には、その贈る理由すなわち心持を、歌をもっていって添えるのが風習となっていたので、これもそれである。長歌形式をもってしたところが異色である。
 
4189 天離《あまざか》る 夷《ひな》としあれば 彼所《そこ》此間《ここ》も 同《おや》じ心《こころ》ぞ 家《いへ》離《さか》り 年《とし》の経《へ》ぬれば 現身《うつせみ》は 物念《ものもひ》繁《しげ》し 其《そこ》故《ゆゑ》に 情慰《こころなぐさ》に 霍公鳥《ほととぎす》 喧《な》く初声《はつこゑ》を 橘《たちばな》の 珠《たま》に合《あ》へ貫《ぬ》き 蘰《かづら》きて 遊《あそ》ばむはしもう 大夫《ますらを》を 伴《ともな》へ立《た》てて 舛羅河《しくらがは》 なづさひ泝《のぼ》り 平瀬《ひらせ》には 小網《さで》指《さ》し渡《わた》し 早《はや》き瀬《せ》に 水烏《う》を潜《かづ》けつつ 月《つき》に日《ひ》に 然《しか》し遊《あそ》ばね 愛《は》しき我《わ》が夫子《せこ》
    天離 夷等之在者 彼所此間毛 同許己呂曾 離家 等之乃經去者 宇都勢美波 物念之氣思 曾許由惠尓 情奈具左尓 霍公鳥 喧始音乎 橘 珠尓安倍貫 可頭良伎※[氏/一] 遊波之母 麻須良乎々 等毛奈倍立而 舛羅河 奈頭左比泝 平瀬尓波 左泥刺渡 早湍尓 水烏乎潜都追 月尓日尓 之可志安蘇婆祢 波之伎和我勢故
 
【語釈】 ○夷としあれば 「し」は、強意の助詞で、「夷としあれば」は、夷のこととての意。夷を侘びしい所としていっているのである。○彼所此間も同じ心ぞ 「彼所」は、彼所もで、上の「も」を省くのは古格。越前も。「此間も」は、この越中も。「同じ心ぞ」は、同じ侘びしさであるぞの意。○橘の珠に合へ貫き 「橘の珠」は、ここは橘の花、または、花の散った直後の若い実。「合へ貫き」は、交じえて緒に貫いてで、五月の節日の薬玉のこと。○蘰きて遊ばむはしも 「蘰きて」は、蘰としてで、既出。蘰とするのは、宴飲をする時の礼装。「遊ばむはしも」は、問題となっている句である。原文は「遊波之母」で、訓が定まらない。この訓は『新訓』の訓である。「はし」という語は、巻二(一九九)人麿の挽歌に、「露霜の消なば消ぬべく、行く鳥のあらそふはしに」とあり、「一に云ふ」として、「朝霜の消なば消ぬとふに、うつせみとあらそふはしに」ともあって、「はし」は、間、時にの意。すなわち宴飲を主として、そのつなぎにも、の意。○伴へ立てて 「伴へ」は、下二段活用の他動詞。伴(303)いと同じ。上の(四一五六)に既出。○舛羅河 「舛」は、「叔」の略体。「舛羅」は、地名で、『延喜式』の、兵部省越前国の駅馬の条に、「松原八疋、鹿蒜、淑羅、丹生、朝津、阿味、足羽、三尾各五疋」とあって、淑羅は、鹿蒜と丹生との間にあった地である。それだと現在の日野川に接した地とみえる。日野川は、この当時国府のあった武生市をも流れていた川であるから、日野川の古名と取れる。○平瀬には 下の「早瀬」に対させた語で、静かな瀬には。○愛しき我が夫子 池主を呼びかけたもの。
【釈】 天と離れている夷にあるので、そちらもここも、侘びしさは同じことですよ。家を離れて幾年も経ったので、生きの身は嘆きが多いことです。それゆえに、心慰めに、霍公鳥の鳴く初声を、橘の若い実に交じえて貫いて、蘰にして宴飲をなさるであろうその間にも、男子を伴い立てて、舛羅河の流れを分けてさかのぼり、静かな瀬では小網をさし渡して漁り、早い瀬では鵜を潜かせつつ、月ごと日ごとそのようにしてお遊びなさいよ。親しいあなたよ。
【評】 鵜飼の鵜を贈るにつけて、それに添えての歌である。その場合の歌は、その贈物はこちらの心のこもった物であることをいうのが型になっているのが、この歌はその型からはすっかり離れたもので、鵜そのものについては直接には一語も触れず、その代わりに、首尾一貫させて、贈主の温情を連ねているという、特殊なものである。その温情も根柢のあるもので、起首より「現身は物念繁し」と、ともにひとしく旅愁の堪え難いものを持っていることをいい、その上に立っての思いやりなのである。「其故に」以下、最後までは、できる限りの慰みをして旅愁をまぎらせよというので、第一に近く迫っている五月の節日の楽しみをいい、その中間の慰みとして鵜飼を勧めているので、それが実は中心であるが、付随的なもののごとくにいっているのは、卑下の心からである。しかし「月に日に」といって、その慰みの継続を望んでいるのである。心合いの池主に対してではあるが、家持の温情のほどの現われている歌である。
 
4190 舛羅河《しくらがは》 瀬《せ》を尋《たづ》ねつつ 我《わ》が夫子《せこ》は 鵜河《うかは》立《た》たさね 情慰《こころなぐさ》に
    舛羅河 湍乎尋都追 和我勢故波 宇河波多々佐祢 情奈具左尓
 
【語釈】 ○瀬を尋ねつつ 「尋ね」は、とめで、瀬をとめつつ溯り。○鵜河立たさね 「鵜河」は、鵜を使って鮎を獲ることの称。「立たす」は、「立つ」の敬語で、催すこと。「ね」は、願望の助詞。催しなさいよ。「立つ」は、古くは、他動詞も四段活用であって、これはそれである。巻一(三八)に既出。
【釈】 舛羅河の河瀬をとめて溯りつつ、親しいあなたは、鵜河を催しなさいよ。心慰めに。
【評】 語としては結末をうけ、全体を要約して繰り返したものである。温情が直接に出ている。
 
(304)4191 鵜河《うかは》立《た》ち 取《と》らさむ鮎《あゆ》の 其《し》が鰭《はた》は 吾《われ》に掻《か》き向《む》け 念《おも》ひし念《も》はば
    ※[盧+鳥]河立 取左牟安由能 之我波多波 吾等尓可伎无氣 念之念婆
 
【語釈】 ○鵜河立ち取らさむ鮎の 「立ち」は、上の歌と同じく四段活用。催して。「取らさむ」は、「取らむ」の敬語。○其が鰭は 「其」は、代名詞で、「それ」の意。「はた」は、「ひれ」の古語。神代紀にも祝詞にも、魚の総称として「鰭《はた》の広物《ひろもの》鰭《はた》の狭物《さもの》」の語があり、ここも魚の意で、上の「鮎」を言いかえたもの。○吾に掻き向け 「掻き」は、接頭語。「向け」は、向けよで、命令形。われに伝えよの意。これは贈れというのではなく、陰膳を供えよというので、戯れ半分の言い方である。○念ひし念はば 「し」は、強意の助詞で、「念ひし念はば」は、念いを強めたもので、われを深く思うならば。
【釈】 鵜河を催してお取りになるであろう鮎の、その魚は、私に陰膳で供えなさいよ。私を深く思うのであったら。
【評】 長歌の中核を成している温情を、さながらに露出したような反歌である。「其が鰭は我に掻き向け」は、わざと古めかしく厳しげな言い方をしているもので、戯れ半分の形で温情を要求しているものである。「念ひし念はば」と、追いかけて露骨にいっているのは、しつこさにすぎるものであるが、上の続きとして、これまた戯れ気分のまじっているものと取れる。長歌と相俟って、それに生趣を加える反歌で、おもしろい作である。
 
     右は九日、使に附けて贈れる。
      右九日、附v使贈之。
 
【解】 「使」は、鵜を運んで行く使で、それに持たせて贈った歌というのである。
 
     霍公鳥并に藤の花を詠める歌一首 并に短歌
 
4192 桃《もも》の花《はな》 紅色《くれなゐいろ》に にほひたる 両輪《おもわ》のうちに 青柳《あをやぎ》の 細《ほそ》き眉根《まよね》を 咲《ゑ》みまがり 朝影《あさかげ》見《み》つつ 嬢子等《をとめら》が 手《て》に取《と》り持《も》てる まそ鏡《かがみ》 二上山《ふたがみやま》に 木《こ》の暗《くれ》の 繁《しげ》き谿辺《たにべ》を 呼《よ》び響《とよ》め 朝飛《あさと》び渡《わた》り 夕月夜《ゆふづくよ》 幽《かそ》けき野辺《のべ》に はろばろに 喧《な》く霍公鳥《ほととぎす》 立《た》ち潜《く》くと 羽蝕《はぶり》に散《ち》ら(305)す 藤浪《ふぢなみ》の 花《はな》なつかしみ 引《ひ》き登攀《よ》ぢて 袖《そで》に扱入《こき》れつ 染《し》まば染《し》むとも
    桃花 紅色尓 々保比多流 面輪乃宇知尓 青柳乃 細眉根乎 咲麻我理 朝影見都追 ※[女+感]嬬良我 手尓取持有 眞鏡 蓋上山尓 許能久礼乃 繁谿邊乎 呼等余米 且飛渡 暮月夜 可蘇氣伎野邊 遙々尓 喧霍公鳥 立久久等 羽觸尓知良須 藤浪乃 花奈都可之美 引攀而 袖尓古伎礼都 染婆染等母
 
【語釈】 ○桃の花紅色ににほひたる面輪のうちに 「桃の花」は、桃の花のようにで、譬喩。「にほひたる面輪のうちに」は、色美しい顔の中に。○青柳の細き眉根を 青柳の葉のような、細い眉を。「根」は、接尾語。○咲みまがり朝影見つつ 「咲みまがり」は、笑んで曲げて。「まがり」は、上の「を」を受けるもので、他動詞「まげ」と続くべきであるといわれている。「朝影」は、ここは朝の顔の意。○まそ鏡 真澄みの鏡で、その蓋の意で、「二」に懸かり、以上十一句その序詞。○夕月夜幽けき野辺に 「幽けき」は、かすかなの意の形容詞。夕月夜の光かすかな野辺に。○立ち潜くと羽触に散らす 「潜くと」は、潜《くぐ》ると。「羽触」は、羽が触れること。○引き攀ぢて袖に扱入れつ 引き寄せて、その花を袖の中に扱き落として入れた。「扱入れ」は、扱き入れの約。○染まば染むとも その紫が、白い袖に染むなら染みてもよいと思って。
【釈】 桃の花のようなくれない色に、美しい色をしている顔の中に、青柳の葉のような細い眉を、笑んで曲げて、朝の顔に見入りつつ、嬢子らが手に取って持っているまそ鏡の、その蓋に因みある二上山で、葉の暗くなった木の繁り立っている谿辺を、鳴きとよめて朝は飛び渡り、夕月夜の光のほのかな野辺に、はるかに鳴く霍公鳥、その潜り抜けるとて羽が触(306)れて散らす藤の花がなつかしくて、引き寄せて、袖の中に扱き落として入れた。花の色が、染むならば、染みてもよいと思って。
【評】 霍公鳥は、この時代には初夏の自然を代表する魅惑的な存在となっていたが、それを溺愛する家持には、むしろ一年を代表する物ともなっていた。藤の花は、その色の紫は、色のうち最も尊く、したがってなつかしく、また花の態《さま》も豊かなところから、これまた魅惑的なものとなっていたろう。この歌は、その二つの魅惑的なものが一つとなって醸し出す気分に浸って、その気分をさながらに表現しようとしたものである。しかし表現に際しては、これを想像とはせず、眼前の実際と絡ませ、実際をいう形において具象しているものである。すなわち霍公鳥は、国司館に接している二上山の物とし、そこを本拠に野に飛び、国司館の辺りにも来るものとし、またその鳴くのも、夜昼にわたってのこととし、結末は昼、国司館の辺りの藤の花を散らすこととしているのであって、一首の構成は整然たるものである。起首、二上山をいうに、十一句という長序を用いている。序は朝、美しい女が、鏡に見入って、我と見ほれてほほ笑んでいるという特殊なもので、その鏡より蓋に転じたもので、一首の三分の一を割いているものである。当時の序は眼前を捉えて、それを一首の気分に緊密につながらせるのが型のごとくになっていたが、これもそれである。家持の眼前に見るそうした女性は妻の大嬢であったろう。これも大嬢に対する酷愛が、ただちに霍公鳥に融け入るという関係のもので、この長序が一首の基調となっているのである。気分の表現の歌としては、巧みな技巧というべきである。結末の「立ち潜くと羽触に散らす」以下は、巻八(一六四四)三野連石守に「引き攀ぢて折らば散るべみ梅の花袖にこきれつ染まば染むとも」があり、石守は家持よりやや先輩であるから、その歌によったものと思われる。それとしても家持は、それを藤の花とし、羽触に散らすと、なつかしい霍公鳥に関係づけ、それゆえのこととしているので、結構進展がある。のみならず、「扱入れつ」という上からいうと、梅の花よりも藤の花のほうがはるかに自然で、情景相俟って生趣があるので、これまた起首に劣らぬ巧みな技巧といえる。一首、純気分の表現であって、家持の特色を発揮している歌である。
 
4193 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》く羽蝕《はぶり》にも 散《ち》りにけり 盛《さかり》過《す》ぐらし 藤浪《ふぢなみ》の花《はな》
    霍公鳥 鳴羽觸尓毛 落尓家利 盛過良志 藤奈美能花
 
【語釈】 略す。
【釈】 霍公鳥の鳴く時の羽触にも散ったことであった。盛りが過ぎたらしい。藤の花は。
【評】 長歌の結末の繰り返しである。「立ち潜くと」を、「鳴く」と変えたのみである。現に眼前に見ていることとしているので、感あるものとなっている。
 
(307_)     一に云ふ、散《ち》りぬべみ 袖《そで》にこきれつ 藤浪《ふぢなみ》の花《はな》
      一云、落奴倍美 袖尓古伎納都 藤浪乃花也
 
【解】 三、四句の別案である。これでは長歌と全く同じなので、これが原案で、改めたのであろう。改作のほうがはるかに良い。
 
     同じく九日作れる。
      同九日作之。
 
     更に霍公鳥の喧《な》くこと晩《おそ》きを怨むる歌三首
 
4194 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》き渡《わた》りぬと 告《つ》ぐれども 吾《われ》聞《き》き継《つ》がず 花《はな》は過《す》ぎつつ
    霍公鳥 喧渡奴等 告礼騰毛 吾聞都我受 花波須疑都追
 
【語釈】 ○吾聞き継がず 人の聞いたのを、われは受け継いで聞かない。○花は過ぎつつ 「花」は、その折のもので、藤の花。「過ぎつつ」は、散りつつありの意。
【釈】 霍公鳥が鳴いて通ったと人は告げたが、我は受け継いで聞かない。藤の花は散りつつあり。
【評】 ほととぎすの来るに遅く、声の稀れなのを恨んだ心で、平明な作である。「花」で藤をあらわすのは無理である。
 
4195 吾《わ》が幾許《ここだ》 慕《しの》はく知《し》らに 霍公鳥《ほととぎす》 何方《いづへ》の山《やま》を 鳴《な》きか超《こ》ゆらむ
    吾幾許 斯努波久不知尓 霍公鳥 伊頭敞能山乎 鳴可將超
 
【語釈】 ○吾が幾許慕はく知らに 「幾許」は、数より転じて質にも用いたもので、甚しく。「慕はく」は、「慕ふ」の名詞形。「知らに」は、知らずしてで、「に」は、打消の助動詞「ず」の連用形。
(308)【釈】 わが甚しく慕っていることを知らずして、ほととぎすはどちらの山を鳴いて越えるのであろうか。
【評】 これは、ほととぎすに対して愚痴をいっているものである。「何方の山」は、国司館のある山を標準としていっているもので、これも実感としてのものである。
 
(4196) 月《つき》立《た》ちし 日《ひ》より招《を》きつつ うち慕《しの》ひ 待《ま》てど来鳴《きな》かぬ 霍公鳥《ほととぎす》かも
    月立之 日欲里乎伎都追 敲自努比 麻泥騰伎奈可奴 霍公鳥可母
 
【語釈】 ○月立ちし日より招きつつ 「月立ちし日より」は、四月に入った日からで、一日から。霍公鳥は立夏とともに来るとされ、立夏は普通は四月はじめだったからである。「招きつつ」は、迎えつつ。○うち慕ひ なつかしがって。
【釈】 四月が始まって立夏になった日から、迎えつつ、なつかしがって待っているが、来て鳴かない霍公鳥であるよ。
【評】 これも実感そのままの歌である。こうした実感を率直に詠んだ歌は、対象が人事であれば感の深いものとなるが、このように自然を対象とした物では、無味な、平凡なものとなる。しかし以上三首の歌は、家持にあっては、霍公鳥は人間と異ならない感のする物となっていたので、彼自身はこれで足りるものとしていたのであろう。個人性の表現がただちに歌となるものではないという、微妙な境を示している歌といえる。これは作者が家持であるがゆえに問題となるのである。
 
     京《みやこ》の人に贈れる歌二首
 
【題意】 「京の人」は、左注にある留女の女郎である。(四一八四)「山吹の花とり持ちてつれもなく離れにし妹を偲ひつるかも」の返歌で、大嬢に代わって家持の作ったものである。
 
4197 妹《いも》に似《に》る 草《くさ》と見《み》しより 吾《わ》が標《し》めし 野辺《のべ》の山吹《やまぶき》 誰《たれ》か手折《たを》りし
    妹尓似 草等見之欲里 吾標之 野邊之山吹 誰可手乎里之
 
【語釈】 ○妹に似る草と見しより 「妹」は、大嬢より女郎をさしての称で、「妹」は、女同士の代名詞としてのもの。あなたに似ている草と見たので。「より」は、ここは動作の理由を示している助詞で、のでというにあたる。○誰か手折りし 誰が折ったのですか。これは贈歌の「山吹の(309)花とり持ちて」と、大嬢の状態をいって来たのを受けて、「とり持ちて」は、手折ってのこととしていっているので、語の上の戯れである。
【釈】 あなたに似ている草だと見たので、私が占めて置いた野の山吹を、誰が折ったのですか。
【評】 女郎の贈って来た歌は、情愛の深いものであったが、これはそれを気やすく受け流して、その歌にあった「山吹」と「とり持ちて」とにすがって、明るい気分で、型のような返しをしたものである。近親の間の、軽い気分で詠んだ歌である。
 
4198 つれも無《な》く 離《か》れにしものと 人《ひと》はいへど 逢《あ》はぬ日《ひ》まねみ 念《おも》ひぞ吾《わ》がする
    都礼母奈久 可礼尓之毛能登 人者雖云 不相日麻称美 念曾吾爲流
 
【語釈】 ○人はいへど 「人」は、女郎をさしての称で、あなたはいうが。○逢はぬ日まねみ 「まねみ」は、数多くてで、久しくて。
【釈】 思いやりもなく離れて行ったことだとあなたはいうが、逢わない日が数多いので、私は嘆きをしていることです。
【評】 贈歌の「つれもなく離れにし妹を偲ひつるかも」とあるのを受けての語で、いわれたのを打消し、私は逢わない嘆きをしていると、一歩を進めたことをいっているのである。率直な言い方で、情愛のある歌である。
 
     右は、留女の女郎に贈らむが為に、家の婦《め》に誂《あとら》へらえて作れる。女郎は即ち大伴家持の妹なり。
      右、爲v贈2留女之女郎1所v誂2家婦1作也。女郎者即大伴家持之妹。
 
【解】 「留女」は、家の留守居を託している女の称であろうと上にいった。「誂へらえて」は、頼まれてで、代作を頼まれたのである。
 
     十二日、布勢の水海に遊覧し、船を多〓《たこ》の湾《うら》に泊《は》てて、藤の花を望み見て、各|懐《おもひ》を述《の》べて作れる歌四首
 
【題意】 「多〓の湾」は、水海の東南隅にあった湾で、布勢の水海と日本海との間をつなぐ水の入江をなしたところ。今の氷見市宮田の上田子下田子の辺かという。巻十七(四〇一一)。巻十八(四〇五一)に既出。
 
(310)4199 藤浪《ふぢなみ》の 影《かげ》なす 海《うみ》の 底《そこ》清《きよ》み 沈著《しづ》く石《いし》をも 珠《たま》とぞ吾《わ》が見《み》る
    藤奈美乃 影成海之 底清美 之都久石乎毛 珠等曾吾見流
 
【語釈】 ○影なす海の 「影なす」は、影を成して映っているで、藤の花が海の上へ差し出て、海の水を蔽って下陰のごとくにしている意。「海」の状態。○底清み 「み」は、状態を示す。○沈著く石をも 沈んでいる石までも。
【釈】 藤の花が影を成して映っている海の底が清らかで、沈んでいる石までも、珠であるかとわれは見ることだ。
【評】 岸の樹立に絡んで藤の花が海の上へ差し出て咲き拡がっている所に船を留め、船上から水面を眺めた折の心で、その境とともに歌もにおやかである。「珠とぞ吾が見る」は、成句に近いものであるが、藤の花の紫を帯びた石をさしているものなので、少なくとも古さは感じさせない句である。家持の好みにかなった境で、画致豊かな、快い作である。
 
     守大伴宿禰家持。
 
4200 多〓《たこ》の浦《うら》の 底さへにほふ 藤浪《ふぢなみ》を 挿頭《かざ》して行《ゆ》かむ 見《み》ぬ人《ひと》の為《ため》
    多〓乃浦能 底左倍尓保布 藤奈美乎 加射之※[氏/一]將去 不見入之爲
 
【語釈】 ○底さへにほふ 水底までも色美しくしている。○挿頭して行かむ 挿頭として家に帰って行こう。
(311)【釈】 多〓の浦の水底までも色美しくしている藤の花を、挿頭として家に帰って行こう。見ない人に見せようがために。
【評】 「多〓の浦の底さへにほふ」は、上の歌と同じ境をいったもので、守の歌に和えて、一歩を進めたものである。「見ぬ人の為」は、佳景を愛する人に見せたいという詩的常識よりのものであるが、ここは、それほどまでに思われる佳景だというのが作意で、上三句を受けて、今日の喜びを、挨拶の心で守にいっているものである。この歌にも豊かさがある。
 
     次官内蔵忌寸《すけくらのいみき》繩麿
 
4201 いささかに 念《おも》ひて来《こ》しを 多〓《たこ》の浦《うら》に 咲《さ》ける藤《ふぢ》見《み》て 一夜《ひとよ》経《へ》ぬべし
    伊佐左可尓 念而來之乎 多〓乃浦尓 開流藤見而 一夜可經
 
【語釈】 ○いささかに念ひて来しを ちょっとした所だと思って来たのに。○一夜経ぬべし 一夜を過ごしてしまいそうであるで、別れかねる佳景であるの意。
【釈】 ちょっとした所だと思って来たのに、多〓の浦に咲いている藤を見て、一夜を過ごしてしまいそうである。
【評】 広繩は、池主に代わって掾となった人で、多〓の浦の藤は珍しかったとみえる。その日の喜びを、実感をとおして詠んだものである。同僚との宴歌であるから、このように詠むのが自然であったろう。拙いとはいえない歌である。
 
     判官久米朝臣広繩。
 
4202 藤浪《ふぢなみ》を 仮廬《かりほ》に造《つく》り 湾廻《うらみ》する 人《ひと》とは知《し》らに 海人《あま》とか見《み》らむ
(312)    藤奈美乎 借廬尓造 灣廻爲流 人等波不知尓 海部等可見良牟
 
【語釈】 ○藤浪を仮廬に造り 藤の花で仮小屋を造って。「仮廬」は、普通は番小屋とか、旅先で一夜を宿る小屋であるが、ここは、下の「湾廻する」への続きから見ると、船を藤の花で装ったのを、誇張していったものと取れる。○湾廻する 湾めぐりをするで、遊覧のために湾を漕ぎめぐる。○海人とか見らむ 他人は海人と見るであろうか。これは人麿の歌以来慣用されているものである。
【釈】 藤の花で仮小屋を造って、湾めぐりをしている我らとは知らずして、人は海人と見るのであろうか。
【評】 宴歌であるから、船中に藤の花を多く持ちこんでいたのは事実であろう。その意味で「仮廬に造り」は、一応は気の利いた思いつきであるが、「湾廻する」の続きは、それを不自然にしている。「海人とか見らむ」は、この場合必然性がない。作為と踏襲のこなれきらないものとなっている。
 
     久米朝臣継麿。
 
【解】 伝未詳。
 
     霍公鳥の喧かざるを恨むる歌一首
 
4203 家《いへ》に行《ゆ》きて 何《なに》を語《かた》らむ あしひきの 山《やま》ほととぎす 一音《ひとこゑ》も鳴《な》け
    家尓去而 奈尓乎將語 安之比奇能 山霍公鳥 一音毛奈家
 
【語釈】 ○山ほととぎす 山にいるほととぎす。呼びかけ。○一音も鳴け 一と声だけでも鳴けよと命令したもの。
【釈】 家へ帰って行って何を話としようか。山のほととぎすよ、一と声だけでも鳴けよ。
【評】 これは、佳景の中にいての憧れである。「家に行きて」は、この歌ではむしろ軽いものとなっている。即興としてのものである。
 
     判官久米朝臣広繩。
 
(313)     攀ぢ折れる保宝葉《ほほがしは》を見る歌二首
 
【題意】 「攀ぢ折れる」は、枝を撓《たわ》めて折ったところの。「保宝葉」は、現在の朴である。『倭名類聚鈔』に「厚朴、一名厚皮。漢語抄云、厚木、保保加之波乃伎」とある。「葉」は、上代は木の葉は飯などの食物を盛り、それを総称して「かしは」といったところからの用字。この「二首」は、前の歌群と別にしてあるが、この際の歌であることは、続きに「還る時」とあるので知られる。「多〓の浦」を離れての作として、別にしたのかもしれぬ。
 
4204 吾《わ》が夫子《せこ》が 捧《ささ》げて持《も》てる 厚朴《ほほがしは》 あたかも似《に》るか 青《あを》き蓋《きぬがさ》
    吾勢故我 捧而持流 保寶我之婆 安多可毛似加 青蓋
 
【語釈】 ○吾が夫子が 家持を親しんでの称。○あたかも似るか 「あたかも」は、現在も用いている。さながらにの意の副詞。この語はここにあるのみのものである。「似るか」は、似ているなあ。「か」は、詠歎の助詞。○青き蓋 「蓋」は、巻三(二四〇)人麿の歌に、「吾が大王は蓋にせり」と出たそれで、貴人のためにさしかける、織物をもって張った笠。「青き」は、織物の染め色。蓋の染め色には定めがあって、身分によって一定していたが、その中には青色はない。
【釈】 親しいあなたが、さしかざして持っている厚朴は、さながらに似ていることですなあ、青い蓋に。
【評】 家持が朴の枝を持っていたのは、その若葉の広く、色のさわやかな点を愛でてのことと思われる。恵行がそれを蓋に似ているといったのは、家持がそれを用いるに堪える人だとして、祝っていっている意があるものと取れる。しかし、「青き」と断わって、蓋としては存在しない色をもってしているのは、興趣の面からのみいった形としているので、そこに味わいがある。気の利いた機知である。「あたかも似るか」は、漢文口調であり、それが調和を破らないものとなっているのは、作者の教養によるものである。
 
     講師僧恵行《かうじのほふしゑぎやう》。
 
【解】 「講師」は、国分寺の主僧である。『新考』は、続日本紀の文武紀に、「大宝二年二月任2諸国国師1」とあり、桓武天皇の延暦十四年八月の太政官符に、「自v今以後、宜d改2国師1曰2講師1毎v国置c一人u」とあって、この当時国師を講師ともいってい(314)たかと考証している。「恵行」は伝未詳。一行に加わっていたのである。
 
4205 皇神祖《すめろき》の 遠御代御代《とほみよみよ》は い布《し》き折《を》り 酒《さけ》飲《の》むといふぞ 此《こ》の厚朴《ほほがしは》
    皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曾 此保寶我之波
 
【語釈】 ○皇神祖の遠御代御代は 「皇神祖の」は、昔の天皇の。「遠御代御代は」は、遠き御代御代は。形容詞の語幹「遠」より、ただちに体言の「御代」に続けたもの。宣命に用例のある言い方である。○い布き折り 「い」は、接頭語。「布き」は、敷きで、重ねる意。「折り」は、曲げる意で、葉を重ねて曲げて、杯としたので、いわゆる酒柏である。これは古事記、中巻、応神の巻に、「天皇聞2着豊明1之日、於2髪長比売1令v握2大御酒柏1賜2其太子1」とあり、また飯器ともしたことは、『倭名類聚鈔』に、「葉椀、本朝式云、十一月辰日宴会、其販器、参議以上朱漆椀、五位以上葉椀久保天」とある。
【釈】 昔の天皇の遠い御代御代には、重ねて曲げて、酒を飲むということですよ。この厚朴は。
【評】 恵行の蓋に擬らえようとしたのを、家持は軽く逸らして、これは畏い「皇神祖の遠御代御代」に、大御酒柏となされたもので、それを懐かしんでのものであるといい、「い布き折り」という細かい言い方までもして、その心を明らかにしているのである。恵行は軽い心でいっているとみえるのに、家持は固くなって、改まった言い方をしているのは、相手が相手だからのことであろう。家持の正直な、また古代を尊む心の深かったことも思わせる歌である。
 
     守大伴宿禰家持。
 
     還る時、浜の上に月の光を仰ぎ見る歌一首
 
4206 渋谿《しぶたに》を 指《さ》して吾《わ》が行《ゆ》く この浜《はま》に 月夜《つくよ》飽《あ》きてむ 馬《うま》暫《しま》し停《と》め
    之夫多尓乎 指而吾行 此濱尓 月夜安伎※[氏/一]牟 馬之末時停息
 
【語釈】 ○月夜飽きてむ 月を満足するまで眺めよう。「月夜」は、月。「飽きてむ」は、「て」は、完了の助動詞で、「飽かむ」を強めていったもの。○馬暫し停め 「馬」は、家持の乗馬。「停め」は、とどめよで、命令形。全部が命令である。
【釈】 渋谿をさして私の行くこの浜で、月を満足するまで眺めよう。乗馬をしばらくとどめよ。
【評】 口頭でいうべき用事を、歌の形にしていうことは、伝統の久しいもので、古くから行なわれていたものである。歌が実用性のものであった時代のものだからである。歌にしたがために、それとしての独立性を持たせる要があり、口頭だというを要さない、「渋谿を指して吾が行くこの浜に」という語を添えているのである。即興の歌で、情景の共に現われているものである。実用性の形をもって文芸性を遂げているのである。
 
     守大伴宿禰家持。
 
     二十二日、判官久米朝臣広繩に贈れる霍公鳥の怨恨の歌一首 并に短歌
 
4207 此間《ここ》にして 背向《そがひ》に見《み》ゆる 我《わ》が夫子《せこ》が 垣内《かきつ》の谿《たに》に 明《あ》けされば 榛《はり》の小枝《さえだ》に 夕《ゆふ》されば 藤《ふぢ》の繁《しげ》みに はろばろに 鳴《な》く霍公鳥《ほととぎす》 吾《わ》が屋戸《やど》の 植木橘《うゑきたちばな》 花《はな》に散《ち》る 時《とき》をまだしみ 来鳴《きな》かなく 其《そこ》は怨《うら》みず 然《しか》れども 谷片就《たにかたづ》きて 家居《いへを》れる 君《きみ》が聞《き》きつつ 告《つ》げなくも憂《う》し
    此間尓之※[氏/一] 曾我比尓所見 和我勢故我 垣都能谿尓 安氣左礼婆 榛之狭枝尓 暮左礼婆 藤之繁美尓 遙々尓 鳴霍公鳥 吾屋戸能 殖木橘 花尓知流 時乎麻太之美 伎奈加奈久 曾許波不怨 之可礼杼毛 谷可多頭伎※[氏/一] 家居有 君之聞都々 追氣奈久毛宇之
 
(316)【語釈】 ○此間にして背向に見ゆる 「此間にして」は、ここの私の館にあって。「背向に見ゆる」は、後方に見える。○我が夫子が垣内の谿に 「我が夫子」は、広繩を親しんでの称。「垣内」は、垣うちの約で、垣で囲ってある内で、邸内というにあたる。「谿」は、その邸内にあるもので、どちらの館も二上山の山続きの、小高い山上にあったので、広いものであったとみえる。○明けされば榛の小枝に 「明けされば」は、夜が明ければ。「榛」は、萩、榛の木に通じて用いている称で、これは下の続きで榛の木である。「小枝」は、「小」は、美称で、枝。○植木橘 植えた木の橘。越中には橘がないといっているので、特に植えさせたもの。○花に散る時をまだしみ 「花に散る」は、花として散るで、花の散るというに同じである。「時をまだしみ」は、時がまだ来ないので。「まだしみ」は、形容詞「まだし」に「み」を添えて、理由をあらわしたもの。まだ来ないので。霍公鳥は橘の花の散る時に来るものとして、季節をあらわすためにいっているもの。○来鳴かなく其は怨みず 「来鳴かなく」は、来鳴かないことで、名詞形。「其は怨みず」は、その点は怨まない。○谷片就きて 一方は谷に寄ってで、谷を負った館の状態をいったもの。この谷は、上の「垣内の谿」のそれである。
【釈】 ここのわが館にあって、後方に見える、親しいあなたの邸内の谿には、夜が明ければ榛の木の枝に、夜になれば藤の繁みに、はるかに鳴いている霍公鳥。私の屋前の植木の橘は、花として散る時がまだなので、ここへ来鳴かないことのその点は怨まない。しかしながら、谷に寄って家居しているあなたが、聞きながら告げないことはつらい。
【評】 ほととぎすを溺愛している家持の、その季節となったので強い憧れを持ち、自身のいる辺りにはまだ来ないけれども、山の奥まったほうにはすでに来ていよう。山は浅くとも、谷のある辺りは来ているのかもしれぬと推量し、彼の国司館よりは山深い、掾の広繩の館の谷にはあるいは来ていようと推量すると、その知っている谷の榛の木立、藤などが眼前に浮かび、その辺りへ来ているほととぎすの遠音を、広繩は聞いていることだろうとしたのである。これは溺愛がさせる想像で、詩的空想ではなく、実際の気分なのである。一転して、広繩がそれを自分に告げて、聞きに来いと招かないのを怨んだのであるが、その際も、自分の館には来ないのは、まだその時期が早いゆえだと、ほととぎすに対しては怨み得ずにいるのは、同じく溺愛の心からで、その怨めないのを、広繩の心の怨めしいのと対照的に用いているので、この点は巧みである。しかしその巧みは、歌として構えての巧みではなく、これまた実感からのものである。形から見ると、風流に似た歌であるが、家持としては、生活に即してのもので、彼の面目のかなり濃く現われている歌である。
 
     反歌一首
 
4208 吾《わ》が幾許《ここだ》 待《ま》てど来鳴《きな》かぬ 霍公鳥《ほととぎす》 独《ひとり》聞《き》きつつ 告《つ》げぬ君《きみ》かも
    吾幾許 麻※[氏/一]騰來不鳴 霍公鳥 比等里聞都追 不告君可母
 
(317)【語釈】 略す。
【釈】 私がひどく待っているが、来て鳴かない霍公鳥を、ひとり聞きながら告げないあなたであることよ。
【評】 語としては長歌の結末を受け、全体の心を要約してのものである。
 
     霍公鳥を詠める歌一首 并に短歌
 
【題意】 上の歌に対して、広繩の答えた歌である。
 
4209 谷《たに》近《ちか》く 家《いへ》は居《を》れども 木高《こだか》くて 里《さと》はあれども 霍公鳥《ほととぎす》 未《いま》だ来鳴《きな》かず 鳴《な》く声《こゑ》を 聞《き》かまく欲《ほ》りと 朝《あした》には 門《かど》に出《い》で立《た》ち 夕《ゆふべ》には 谷《たに》を見渡《みわた》し 恋《こ》ふれども 一声《ひとこゑ》だにも 未《いま》だ聞《きこ》えず
    多尓知可久 伊敞波乎礼騰母 許太加久※[氏/一] 佐刀波安礼騰母 保登等藝須 伊麻太伎奈加受 奈久許惠乎 伎可麻久保理登 安志多尓波 可度尓伊※[氏/一]多知 由布敞尓波 多尓乎美和多之 古布礼騰毛 比等己惠太尓母 伊麻多伎己要受
 
【語釈】 ○家は居れども 家は構えているけれども。「家は」は、「里は」に対させたもの。○木高くて里はあれども 「木高くて」は、木の丈が高くてで、ここは山の木の特色としていっているもの。「里は」は、住んでいる地はの意で、狭い地域をさしている。家持の住む地に比較しての語だからである。○聞かまく欲りと 「聞かまく」は、「聞かむ」の名詞形。聞きたいことだと。○一声だにも 一と声さえも。
【釈】 谷に近く家は構えていますが、住む所は木高くありますが、霍公鳥はまだ来て鳴きません。鳴く声を聞きたいことだと、朝は門に出て立ち、夕は谷を見渡して憧れていますが、一と声さえもまだ聞こえません。
【評】 家持の怨みに対して弁明しているだけで、それ以上は一歩も出ていないものである。広繩は上の布勢の水海の場合には、暢びやかな短歌を詠んでいる人なのに、それに較べると甚しく詠み難くしている趣がある。長歌を贈られたのであるから、同じく長歌をもって答えなければならないとしたが、その形式を扱い難くしたのかと思われる。この時代は長歌が復興していた(318)かのごとくみえるが、作者は少数の人に限られており、誰にでも詠めるものではなかったとみえる。起首から対句を用いて一段とし、また対句を重ねて、前段を繰り返して結んだのは、不馴れな、拙いものというほかはない。
 
4210 藤浪《ふぢなみ》の 繁《しげ》りは過《す》ぎぬ あしひきの 山霍公鳥《やまほととぎす》 何《な》どか来鳴《きな》かぬ
    敷治奈美乃 志氣里波須疑奴 安志比紀乃 夜麻保登等藝須 奈騰可伎奈賀奴
 
【語釈】 ○繁りは過ぎぬ 「繁り」は、ここは花のさまで、名詞。盛りに同じ。
【釈】 藤の花の盛りは過ぎた。山のほととぎすは、どうして来て鳴かないのか。
【評】 長歌に較べると、著しく冴えている。自信を持ち、熱意を伴わせていっているからである。形式というものの力を思わせられる。
 
     右は、二十三日、掾久米朝臣広繩の和《こたへ》。
      右、廿三日、掾久米朝臣廣繩和。
 
     処女墓《をとめづか》の歌に追《おひ》て同《こた》ふる一首 并に短歌
 
【題意】 「処女墓の歌」は、巻九に田辺福麿と高橋蟲麿の歌がある。「追て同ふる」は、後からなぞらえて詠む意で、巻四(五二〇)に「後人追同歌」の用例がある。この歌の取材から見ると高橋無理麿の(一八〇九−一八一一)に追同したのである。
 
4211 古《いにしへ》に ありけるわざの くすばしき 事《こと》と言《い》ひ継《つ》ぐ 血沼壮士《ちぬをとこ》 菟原壮士《うなひをとこ》の 現身《うつせみ》の 名《な》を争《あらそ》ふと たまきはる 寿《いのち》も捨《す》てて 争《あらそひ》に 嬬間《つまどひ》しける をとめらが 聞《き》けば悲《かな》しさ 春花《はるばな》の にほえさかえて 秋《あき》の葉《は》の にほひに照《て》れる あたらしき 身《み》の壮《さかり》すら 大夫《ますらを》の 語《こと》いたはしみ 父母《ちちはは》に 啓《まを》し別《わか》れて 家《いへ》離《さか》り 海辺《うみべ》に出《い》で立《た》ち 朝暮《あさよひ》に 満《み》ち来《く》る潮《しほ》の(319) 八重浪《やへなみ》に 靡《なび》く珠藻《たまも》の 節《ふし》の間《ま》も 惜《を》しき命《いのち》を 露霜《つゆじも》の 過《す》ぎましにけれ 奥墓《おくつき》を 此処《ここ》と定《さだ》めて 後《のち》の代《よ》の 聞《き》き継《つ》ぐ人《ひと》も いや遠《とほ》に しのひにせよと 黄楊小櫛《つげをぐし》 しか刺《さ》しけらし 生《お》ひて靡《なび》けり
    古尓 有家流和射乃 久須婆之伎 事跡言繼 知努乎登古 宇奈比壯子乃 宇都勢美能 名乎競爭登 玉剋 壽毛須底弖 相爭尓 嬬問爲家留 ※[女+感]嬬等之 聞者悲左 春花乃 尓太要盛而 秋葉之 尓保比尓照有 惜 身之壯尚 大夫之 語勞美 父母尓 啓別而 離家 海邊尓出立 朝暮尓 満來潮之 八隔眼尓 靡珠藻乃 節間毛 惜命乎 露霜之 過麻之尓家礼 奧墓乎 此間定而 後代之 聞繼人毛 伊也遠尓 思努比尓勢餘等 黄楊小橋 之賀左志家良之 生而靡有
 
【語釈】 ○くすばしき事と言ひ継ぐ 「くすばし」は、奇しくあるで、不思議な、珍しい。「言ひ継ぐ」は、連体形。○血沼壮士菟原壮士の 「血沼」は、和泉国の地名。「壮士」は、若い男の総称。血沼の一人の若い男。「菟原」は、摂津国の地名で、「壮士」は、上と同じ。こちらは処女と同郷の者か。○現身の名を争ふと 生きの身の名誉を争うとて。二人の男が一人の女を争い、その競争に勝とうとての意。○たまきはる寿も捨てて 「たまきはる」は、寿の枕詞。「寿も捨てて」は、命までもかけて。○争に嬬問しける 「争に」は、上の「名を争ふ」をうけて繰り返したもので、争いの状態においての意。「嬬問しける」は、求婚をしたところの。○をとめらが聞けば悲しさ 「をとめらが」は、「をとめ」は、葦屋処女。「ら」は、接尾語。「が」は、処女が物語をの意。省略のある言い方である。「聞けば悲しさ」は、伝え聞けば悲しいことであるで、作者の心。以上総叙で、一段。以下、処女のこと。○春花のにほえさかえて 「春花の」は、春の花のようにで、枕詞。「にほえ」は、巻十三(三三〇九)人麿の「つつじ花にほえをとめ」によったものとみえる。色美しく咲き栄えて。○秋の葉のにほひに照れる 秋のもみじ葉のように美しい色に照っている。○あたらしき身の壮すら 『新考』の訓。訓がさまざまで定まらないものであった。惜しむべき若盛りの身をも。○大夫の語いたはしみ 立派な男子の、求婚の語の突きつめたものであるのを気の毒に思い。○啓し別れて 「啓し」は、いうの敬語。お暇乞いをして別れて。○朝暮に満ち来る潮の八重浪に靡く珠藻の 藻には節のある意で節と続け、四句その序。○節の間も惜しき命を 「節の間も」は、束の間もと同じで、きわめて短い間でさえも。「惜しき命を」は、惜しい命なのに。○露霜の過ぎましにけれ 「露霜の」は、消える意で、「過ぎ」の枕詞。「過ぎ」は、死ぬで、水死。「まし」は、敬語の助動詞。ここは死者に対してのことだからである。「けれ」は、已然条件法で、お死にになったので。○黄楊小櫛しか刺しけらし 処女の用いていた黄楊の櫛を、そのように墓の土に刺したらしい。「小」は、美称。○生ひて靡けり その黄楊が土に生えて、生長して枝がなびいている。これは蟲麿の歌の反歌(一八一一)「墓の上の木の枝靡けり聞くが如血沼壮士にし依りにけらしも」をうけていったものである。櫛には神秘な力があるということは、神代紀にも重く語られており、伝統久しい信仰である。ここも櫛に処女の霊が宿るとしていって(320)いるのである。
【釈】 古にあった事で、珍しい事だと人の言い伝えている、血沼壮士と菟原壮士とが、生きの身の名を争おうとて、命までも捨てて、争いの状態で嬬問いをしたという、その処女の物語の、聞けば悲しいことであるよ。春の花のごとくに色美しく咲き栄えて、秋の紅葉のごとくに色美しく照っている、惜しむべき若盛りの身をさえも、立派な男の嬬問のことばを気の毒に思って、父母にお暇乞いをして別れて、家を離れて海辺に来て立って、朝と夕べとに満ちて来る潮の、八重に重なって来る浪になびいている藻の、それに因みある、節の間の短い間も惜しい命であるのに、露霜のように我と死んでしまわれたので、その墓をここと定めて、後の代の聞き伝える人もまた、いよいよ永久に思い出にせよと思って、処女の用いていた黄楊の櫛を、このように土に刺したらしい。それが生えて、なびいている。
【評】 処女墓の伝説は、家持としては感動せずにはいられなかったものであろう。福麿も、蟲麿も長歌に詠んでおり、どちらも同時代の人であるので、それらに刺激されて、追同しようと思い立ったのも自然である。より多く刺激されたのは蟲麿の歌である。しかしできあがった歌から見ると、彼の作は二人のどちらよりも劣ったものである。蟲麿の長歌は、前代の影響を受けた叙事的傾向の濃厚なもので、その点では傑出した物である。家持は自身の気分を精細に述べることには長けているが、事を客観視して、適確に叙するという面は劣っており、こうした材を扱う上では遠く及ばない。福麿は彼と同じく抒情的に扱っているのであるが、彼に較べると事の全体を客観視する力に富んでおり、抒情を通じて、簡潔に、事の全体を髣髴《ほうふつ》せしめている。家持は初めより、事柄は伝説そのものに依存させ、その上に立っての抒情をしようとしているのである。「古にありけるわざの、くすばしき事と言ひ継ぐ」と言い出しているのはそのためである。その結として、「をとめらが聞けば悲しさ」と自身の詠歎をさし挿さんでいるのは、事柄そのものに中心を置くべきこうした材を扱う態度とはいえないものである。処女の水死という事の頂点をいう場合にも、命の惜しさをいうための「節の間」に、四句という長序を用いているのも、事を軽く、自分の気分のほうを重く扱っているがためのもので、繁簡を失っているものである。結尾の「黄楊小櫛しか刺しけらし、生ひて靡けり」も、作意としては余情を持たしめようとしてのことであるが、その力の足りないものというべきである。要するにこの歌は、その取材も、それを扱うにそぐわない彼の短所を、著しく暴露した歌というべきである。
 
4212 処女《をとめ》らが 後《のち》のしるしと 黄楊小櫛《つげをぐし》 生《お》ひ更《かは》り生《お》ひて 靡《なび》きけらしも
    乎等女等之 後能表跡 黄楊小櫛 生更生而 靡家良思母
 
(321)【語釈】 ○処女らが後のしるしと 「処女らが」は、長歌と同じ。「後のしるし」は、後の代への表象として。○黄楊小櫛生ひ更り生ひて 「黄楊小櫛」は、土に刺した櫛が。「生ひ更り生ひて」は、前の木が樹齢のために枯れると、その命を伝えた後の木が更って生えて。○靡きけらしも 「けらし」は、「けるらし」で、過去の事実を推定する意。なびいたらしい。事としては現在とすべきだが、家持はその木は見たことがなく、「追同」として詠んでいるので、過去のこととしてしまったものと思われる。
【釈】 処女の後の代への表象として土に刺した黄楊の櫛は、古い木が枯れると新しい木が更って生えて、久しい時をなびいたらしい。
【評】 長歌の結末をうけての繰り返しであるが、黄楊の櫛が命を持って、永い時代を継ぎ継ぎに残ってゆくことをいうことによって進展させたものである。処女の霊の宿った木としての心持が、ある程度あらわされているものといえる。その意味で、家持の気分の絡んでいる歌である。
 
     右は、五月六日、興に依りて大伴宿禰家持の作れる。
      右、五月六日、依v興大伴宿祢家持作之。
 
4213 東風《あゆ》を疾《いた》み 奈呉《なご》の浦廻《うらみ》に 寄《よ》する浪《なみ》 いや干重《ちへ》しきに 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
    安由乎疾 奈呉能浦廻尓 与須流浪 伊夜千重之伎尓 戀度可母
 
【語釈】 ○東風を疾み奈呉の浦廻に寄する浪 以上、「いや千重しき」に、譬喩としてかかる序詞。○いや千重しきに いよいよ幾重にも重ねて。
【釈】 東風がはげしくて、奈呉の浦に寄せる浪のように、いよいよ幾重にも重ねて、恋うて過ごしていることですよ。
【評】 左注によると、京の妹に贈ったもので、消息の歌である。巧拙など念頭になかった歌であろう。序詞は、当時の風で眼前を捉えているものであるが、京に住む女性には珍しさのあるものであったろう。そのことは念頭にあったろうと思われる。
 
     右の一首は、京《みやこ》なる丹比家に贈れる。
      右一首、贈2京丹比家1。
 
(322)【解】 「丹比家」は、(四一七三)に出た。
 
     挽歌一首 并に短歌
 
【題意】 左注によると、家持が、聟の母の死を傷んだ歌である。
 
4214 天地《あめつち》の 初《はじめ》の時《とき》ゆ 現身《うつそみ》の 八十伴《やそとも》の男《を》は 大王《おほきみ》に 服従《まつろ》ふものと 定《さだ》まれる 官《つかさ》にしあれば 天皇《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 夷《ひな》ざかる 国《くに》を治《をさ》むと あしひきの 山河《やまかは》へなり 風雲《かぜくも》に 言《こと》は通《かよ》へど 正《ただ》に遇《あ》はぬ 日《ひ》の累《かさな》れば 思《おも》ひ恋《こ》ひ 気衝《いきづ》き居《を》るに 玉桙《たまほこ》の 道《みち》来《く》る人《ひと》の 伝言《つてこと》に 吾《われ》に語《かた》らく 愛《は》しきよし 君《きみ》は此《こ》の頃《ごろ》 うらさびて 嘆《なげ》かひ坐《いま》す 世《よ》の中《なか》の 憂《う》けく辛《つら》けく 開《さ》く花《はな》も 時《とき》にうつろふ 現身《うつせみ》も 常《つね》無《な》くありけり たらちねの 御母《みおも》の命《みこと》 何《なに》しかも 時《とき》しはあらむを まそ鏡《かがみ》 見《み》れども飽《あ》かず 珠《たま》の緒《を》の 惜《を》しき盛《さかり》に 立《た》つ霧《きり》の 失《う》せぬる如《ごと》く 置《お》く露《つゆ》の 消《け》ぬるが如《ごと》 玉藻《たまも》なす 靡《なび》き反倒《こいふ》し 逝《ゆ》く水《みづ》の 留《とど》めかねつと 狂言《たはこと》や 人《ひと》の云《い》ひつる 逆言《およづれ》を 人《ひと》の告《つ》げつる 梓弓《あづさゆみ》 爪《つま》ひく夜音《よと》の 遠音《とほと》にも 聞《き》けば 悲《かな》しみ 庭潦《にはたづみ》 流《なが》るる涕《なみだ》 留《とど》めかねつも
    天地之 初時從 宇都曾美能 八十件男者 大王尓 麻都呂布物跡 定有 官尓之在者 天皇之 命恐 夷放 國乎治等 足日木 山河阻 風雲尓 言者雖通 正不遇 日之累者 思戀 氣衝居尓 玉桙之 道來人之 傳言尓 吾尓語良久 波之伎餘之 君者比來 宇良佐備弖 嘆息伊麻須 世間之 〓家口都良家苦 開花毛 時尓宇都呂布 宇都勢美毛 无常阿里家利 足千根之 御母之命 何如可毛 時之波將有乎 眞鏡 見礼杼母不飽 珠緒之 惜倍盛尓 立霧之 失去如久 置露 消去之如 (323)玉藻成 靡許伊臥 逝水之 留不得常 狂言哉 人之云都流 逆言乎 人之告都流 梓弧 爪夜音之 遠音尓毛 聞者悲弥 庭多豆水 流涕 留可祢都母
 
【語釈】 ○現身の八十伴の男は 生きている身の数多くの廷臣は。○夷ざかる国を治むと 都から遠く離れている国すなわち越の国を治めるとて。○山河へなり 山や河を隔てて。○風雲に言は通へど 「風雲」は、風や雲で、便りを託しうる物としていったもの。巻八(一五二一)「風雲は二つの岸にかよへども」の用例がある。漢語を訳したもの。使によって語は通っているけれどもの意。○玉桙の道来る人の 「玉桙の」は、道の枕詞。「道来る人の」は、ここは京よりの道を来る人が。○伝言に吾に語らく 伝言として私に語ることには。以下その人の語。○うらさびて嘆かひ坐す 心がすさんで、嘆き続けていらっしゃる。「嘆かひ」は、「嘆き」の連続。○世の中の憂けく辛けく 世間の憂いこと、辛いことで、「憂けく」「辛けく」は、名詞形。二句、慣用句。○時にうつろふ 時が来れば散る。○御母の命 「母」は、はは、おも、いずれにも訓める。おものほうが古語である。「みおも」のほうが語感が熟している。「命」は、敬称。聟の母である。○何しかも時しはあらむを どうしたことであろうか、死ぬ時もあろうのに。その死の早いことを嘆き訝かる意。慣用句となっている。○まそ鏡見れども飽かず 「まそ鏡」は、澄んだ鏡のようにで、枕詞。「見れども飽かず」は、その美貌を讃えた意。○珠の緒の惜しき盛に 「珠の緒の」は、同音で「惜し」の枕詞。惜しい盛りの齢で。聟の母は老境には入っていなかったとみえる。○玉藻なす靡き反倒し 「玉藻なす」は、藻のようにで、枕詞。「靡き反倒し」は、力なく倒れて臥して。「こい」は、転ぶの古語。○逝く水の留めかねつと 「逝く水の」は、流れる水のようにで、枕詞。「留めかねつと」は、世の中にとどめ得られなかったと。以上が伝言である。○狂言や 「狂言」は、物に狂った言。「や」は、疑問の係。○逆言を人の告げつる 「逆言」は、妖言で、人をたぶらかす言。「告げつる」は、連体形をもって結んだもので、詠歎の意からである。○梓弓爪びく夜音の 「爪びく夜音」は、原文「爪夜音」。『新考』は、「爪」の下に「引」があって、脱したものとして補っている。それは巻四(五三一)海上女王の「梓弓爪引く夜音の遠音にも君が御事を聞かくし好しも」があり、女王はこの時代の人であるから、家持はそれによったものと見てである。梓弓を爪で弾く夜の音で、夜、宮廷を警護する者が、邪悪な物を近づけない呪法として古くから行なったことである。二句、譬喩として「遠音」にかかる序詞。○遠音にも聞けば悲しみ 「遠音」は、遠方にいて聞く便りの意。遠音にも聞くと悲しく。○庭潦 巻二(一七八)に既出。にわかに地上に現われる水のようにで、「流る」の枕詞。
【釈】 天地の初めの時から、生きている身の、数多くの廷臣は、天皇に奉仕するものであるとして、定まっている役であるので、天皇の御命令を畏み受けて、京から遠く離れている国を治めにと、山や河を隔てて住み、風や雲に音信は通うが、直接には遇わない日がかさなったので、思い恋いして溜め息をついているのに、都からの道を来る人が、伝言として私に語ることには、愛すべき君はこの頃、心がすさんで嘆きつづけていらっしゃる。世の中の憂いこと辛いことには、咲く花もその時が来ると散る。生きている身も無常であることだ。君の御母君は、どうしたことなのか、亡くなられる時もあろうのに、その澄んだ鏡のように見ても飽かず、珠の緒というに因む惜しい盛りの齢に、立つ霧の失《な》くなってゆくように、置く露が消えてゆくように、玉藻のように力なく倒れ臥して、逝く水のように世にとどめ得られなかったという。物に狂った言を人がいったことであろうか。たぶらか(324)し言を人が告げたことであるよ。梓弓を爪引く夜の音のような遠い便りにも、聞くと悲しくて、庭潦のように流れる涙を、とどめ得られなかったことです。
【評】 挽歌として女婿に贈ったものである。挽歌とはいうがこの時代の傾向として、女婿の哀傷を憐れむことに中心を置き、そのために自身の哀傷を心を尽くしていっている形のものである。したがって現在の弔問状と異ならない物で、日常生活の上の必要を充たすためのものである。これは言いかえると、実用性の歌で、文芸性を問題としないものである。それがあるとすると、懇篤に情を尽くす点にある。この歌はその点は十分に果たしているもので、鄭重に、物静かに、こまごまとその心を尽くしていっている。さすがに改まりすぎて窮屈になるということはなく、しみじみとした気分が一首を貫いているものである。慣用句や、他人の句を自在に取入れて使いこなし、ほどよく二句対を連ねている所など手腕を思わせられる。
 
     反歌二首
4215 遠音《とほと》にも 君《きみ》が嘆《なげ》くと 聞《き》きつれば 哭《ね》のみし泣《な》かゆ 相念《あひも》ふ吾《われ》は
    遠音毛 君之痛念跡 聞都礼婆 哭耳所泣 相念吾者
 
【語釈】 ○遠音にも 長歌の語で、人の伝言。○相念ふ吾は 「相念ふ」は、ひとりで思う場合にもいう。ここはその意のもので、君を思っている意。
【釈】 遠方にいて聞く伝言であるが、君が嘆いていると聞いたので、泣きにのみ泣かれます。君を思っています私は。
【評】 長歌の結末の語をうけて、全体を要約して操り返しているものであるが、結句は情味あり、力あるものである。
 
4216 世《よ》のなかの 常《つね》なきことは 知《し》るらむを 情《こころ》尽《つく》すな 大夫《ますらを》にして
    世間之 无常事者 知良牟乎 情盡莫 大夫尓之※[氏/一]
 
【語釈】 ○情尽すな 悲しみの情を尽くすことはするなで、哀傷を過ごして、身を害うな。○大夫にして 大夫とある身であって。
【釈】 世の中の無常であることは知っているだろうに、悲しみを尽くすな。大夫として。
(325)【評】 長歌と反歌の第一首とで、悲しみを十分にいったので、これはそれを進展させ、悲しみに溺れて身を害うな、大夫としてといって、分別を要求したものである。舅にふさわしい心と言い方である。
 
     右は、大伴宿禰家持の、聟南の右大臣《みぎのおほまへつぎみ》の家の藤原|二郎《なかちこ》が慈母《みおも》を喪《うしな》へる患を弔《とぶら》へるなり。 五月二十七日。
      右、大伴宿祢家持、弔d聟南右大臣家藤原二郎之喪2慈母1患u也。 五月廿七日。
 
【解】 「南」は、藤原四家の、南家、北家、式家、京家のうちの南家で、藤原武智暦の家。「右大臣」は、武智麿の第一子豊成である。「藤原二郎」を豊成の第二子とすれば、継繩である。これには異論が出ていて、豊成の弟、仲麿の第二子久須麿ではないかとする説もある。
 
     霖雨《ながめ》の晴るる日に作れる歌一首
 
4217 卯《う》の花《はな》を 腐《くた》す霖雨《ながめ》の 始水《みづはな》に 縁《よ》る木糞《こづみ》なす 縁《よ》らむ児《こ》もがも
    宇能花乎 令腐霖雨之 始水迩 縁木積成 將因兒毛我母
 
【語釈】 ○卯の花を腐す霖雨の 「腐す」は、腐らせるで、雨期の長さを誇張していったもの。○始水に 原文は諸本「始水逝」とあるが、「逝」は「迩」の誤写かとする『代匠記』に従う。「始水」は、水の先端を称する語。現今でも川を堰き止めて置き、その堰を除いたために新たに流れて来る水の先頭を、この語で呼んでいる。ここは今まで水のなかった涸れ川が、雨水の流れ入るために流れとなって流れる、その先端。これは山地では普通のことである。○縁る木糞なす 「木糞」は、木の切り屑、塵芥などの称。涸れ川に溜まっていた物である。「縁る」は、ここは溜まっていた木糞が、一時に水に流されて、おびただしく水面に浮かんだのを、水に寄って来ると見なしての言い方。以上四句、「縁らむ」に同音でかかる序詞で、譬喩ともなっているものである。○縁らむ児もがも 我に寄って来るかわゆい女の欲しいことだなあ。「児」は、女の愛称。「もがも」は、願望。
【釈】 卯の花を腐らせる霖雨の、流れをなして流れる水の先端に、おびただしく寄って来る木糞のように、我に寄って来るかわゆい女があるといいなあ。
(326)【評】 序詞に特色のある歌である。この時期の序詞は、眼前の実際を捉えるのが風となっており、ことにこの序詞は新しいものであるから、一段とそうしたものであったろう。それだと、国司館続きの山に杣山があり、木屑の散らばっていたのが、長雨で渓流が水嵩を増し、その木屑を洗い流して来るのを眼にして捉えたものである。渓流は雨の晴れた後に水嵩の増すのが普通であるから、題詞と合わせて、一段と実際感がある。「木糞なす縁らむ」から主想部への続きは、巻十一(二七二四)のように、風の日の海岸でもそうした心の歌があって、それと同類のもので、成句に近いものである。形から見ても、序詞に四句を費やしていて、序詞が主となっている作である。
 
     漁夫《あま》の火の光を見る歌一首
 
4218 鮪《しび》衝《つ》くと 海人《あま》の燭《とも》せる 漁火《いざりび》の ほにか出《い》でなむ 吾《わ》が下念《したもひ》を
    鮪衝等 海人之燭有 伊射里火之 保尓可將出 吾之下念乎
 
【語釈】 ○鮪衝くと海人の燭せる漁火の 「鮪」は、しびまぐろ。本集では、さば、さわらをも総称して鮪といっている。「衝く」は、銛《もり》でついて獲る。それをするとて。「漁火」は、篝火《かがりび》。火の穂と続け、以上「ほ」の序詞。○ほにか出でなむ 「ほ」は、上からの続きは火焔。それを表面の意に転じたもの。「か」は、疑問の係。うち明けていおうか。○吾が下念を 「下念」は、心中に包んでいる恋情。
【釈】 鮪をつくとて海人がともしている海火のほに因みある、打出して訴えようか。私の心中に包んでいる思いを。
【評】 夜、海上にともしている漁火を見ての歌と思われる。「鮪衝くと」は、古事記、下巻の歌垣の歌謡に、「大魚《おふを》よし鮪衝く海人よ」という句があり、そうした古歌の連想よりのものであろう。この歌も、序詞に力点のあるもので、主想部は平凡なもので、序詞に引かれて続けた程度のものである。
 
     右の二首は、五月。
      右二首、五月。
 
【解】 「五月」とあるのみで、日のないのは、軽い心よりの作で、日はまぎれてしまったものとみえる。
 
(327)4219 吾《わ》が屋戸《やど》の 萩《はぎ》咲《さ》きにけり 秋風《あきかぜ》の 吹《ふ》かむを待《ま》たば いと遠《とほ》みかも
    吾屋戸之 芽子開尓家理 秋風之 將吹乎待者 伊等遠弥可母
 
【語釈】 ○秋風の吹かむを待たば 萩の花は秋風の吹く時に、それとともに咲くべき物だとし、萩がその日を待っていたならばの意。橘の花とほととぎすとの関係のごとく、自然物の間に必然的な関係を認めていたので、家持個人の詩的気分よりのものではない。○いと遠みかも ひどく遠いからであろうか。「遠み」は、遠いゆえ。待ちきれずしてのことであろうかで、萩を有情の物と見ての推量である。
【釈】 わが屋前の萩の花が咲いたことである。秋風の吹くのを待っていたら、ひどく遠いからなのであろうか。
【評】 左注で、萩の早咲きの花に対しての感である。時代の風として、萩に女性を、秋風に男性を感じて、早咲きの萩の花に可憐な気分を感じたのである。その気分の、それとはなく、しかも上品に現われている歌である。
 
     右の一首は、六月十五日、芽子《はぎ》の早花《はつはな》を見て作れる。
      右一首、六月十五日、見2芽子早花1作之。
 
     京師より来たり贈れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「京師より」は、左注により、坂上郎女より娘の坂上大嬢に贈って来たものである。上の(四一六九)に対しての答歌で、長歌としたのは、贈歌がそれだったからである。
 
4220 海神《わたつみ》の 神《かみ》の命《みこと》の 御櫛笥《みくしげ》に 貯《たくは》ひ置《お》きて 斎《いつ》くとふ 珠《たま》に勝《まさ》りて 思《おも》へりし 吾《あ》が子《こ》に はあれど うつせみの 世《よ》の理《ことわり》と 大夫《ますらを》の 引《ひき》のまにまに 級《しな》ざかる 越路《こしぢ》を指《さ》して 延《は》ふ蔦《つた》の 別《わか》れにしより 沖《おき》つ浪《なみ》 撓《とを》む眉引《まよびき》 大船《おほふね》の ゆくらゆくらに 面影《おもかげ》に もとな見《み》えつつ かく恋《こ》ひば 老《おい》づく吾《あ》が身《み》 蓋《けだ》し堪《あ》へむかも
(328)    和多都民能 可味能美許等乃 美久之宜尓 多久波比於伎※[氏/一] 伊都久等布 多麻尓末佐里※[氏/一] 於毛敞里之 安我故尓波安礼騰 宇都世美乃 与能許等和利等 麻須良平能 比伎能麻尓麻仁 之奈謝可流 古之地乎左之※[氏/一] 波布都多能 和可礼尓之欲理 於吉都奈美 等乎牟麻欲妣伎 於保夫祢能 由久良々々々耳 於毛可宜尓 毛得奈民延都々 可久古非婆 意伊豆久安我未 氣太志安倍牟可母
 
【語釈】 ○御櫛笥に貯ひ置きて 「御櫛笥」は、櫛を入れる筥で、「御」は、美称。その筥は、櫛を初め、鏡、珠など、女の最も大切にする品を入れる器であった。「貯ひ」は、四段活用の連用形で、他に用例を見ないもの。○斎くとふ珠に勝りて 大切に守るという珠にも勝って。以上は、大嬢より郎女に贈った歌(四一六九)の中の「奈呉の海人の潜き取るといふ、真珠の見が欲し御面」をうけたもの。○世の理と大夫の引のまにまに 夫妻同棲するのは世の道理とて、夫の誘うままに。「大夫」は、娘の立場からその夫を見てのもの。○延ふ蔦の 譬喩として「別れ」の枕詞。○沖つ浪撓む眉引 「沖つ浪」は、沖の浪が曲線を描いて寄せる意で、譬喩として「とをむ」の枕詞。海に関係づけてのもので、新たに案出したもの。「撓む眉引」は、「とをむ」は、「たわむ」で、他に用例の見えない語。撓んでいるで、ここは下の「眉引」の形で、三日月形になっている意。「眉引」は、黛で描いた眉で、当時の貴族の女性の風。○大船のゆくらゆくらに 「大船の」は、海上で揺れるさまから「ゆくら」の枕詞。ゆれどおしに。二句、成句であるが、同じく海に関係のあるものとして用いたもの。○面影にもとな見えつつ 面影に立って、由なくも見えつづけて。○蓋し堪へむかも 「蓋し」は、おそらくは。「堪へむかも」は、堪えられようか、堪えられなかろうで、「かも」は、反語。「かく恋ひば」以下は、大嬢の歌の「直向ひ見む時までは、松柏の栄えいまさね」をうけて、そのおぼつかなきをいったもの。
【釈】 海の神の命が、御櫛笥の中に貯えておいて、大切に守っているという、その珠にも勝って思っていたわが子ではあるが、世の中の道理として、その夫の誘うままに、山坂を隔たっている越の国をさして、延う蔦のように別れて行ってしまった時から、沖の浪のように三日月形に撓んだ眉引が、大船のようにゆらゆらと、面影に由なくも見え続けて、このように恋うたならば、老いはじめているわが身は、おそらくは堪えられようか、堪えられなかろう。
【評】 大嬢よりの贈歌に対しての答歌である。いっているところは、老いたる親の娘恋しさの訴えで、物静かに、語少なに、品位を保っての訴えであるが、そのいかに深いものであるかを、隠約の中に十分にあらわしているものである。「うつせみの世の理と、大夫の引のまにまに」は、知性としては認容せざるを得ないものであるが、それが同時に恋の苦しさとなることをあらわしているもので、世の親のいおうとして言い得ずにいることを、巧みにいっているものである。また恋しさをいうに、「沖つ浪撓む眉引、大船のゆくらゆくらに、面影にもとな見えつつ」は、いかにも巧みな具象化であって、これあるがゆえに、「老づく吾が身蓋し堪へむかも」の京切な語が、自然な、安定しているものとなっているのである。「海神の神の命の」以下の譬喩が、大嬢の贈歌によったものであるのを初めとし、その延長として「沖つ浪」「大船の」と海に関しての枕詞を捉え、また「か(329)く恋ひば」以下、大嬢の贈歌に即しつつ、その跡を見せない技巧は、非凡なものである。この歌に較べると、大嬢に代わっての家持の作は、はるかに劣ったものである。
 
     反歌一首
 
4221 かくばかり 恋《こひ》しくしあらば まそ鏡《かがみ》 見《み》ぬ日《ひ》時《とき》なく あらましものを
    可久婆可里 古非之久志安良婆 末蘇可我美 弥奴比等吉奈久 安良麻之母能乎
 
【語釈】 ○見ぬ日時なく 見ない日も、見ない時もなくで、絶えず見ている意。
【釈】 このように恋しいものであったら、まそ鏡を見るに因む、見ない日も見ない時もなくしていたであったろうものを。
【評】 反歌としての展開が十分についており、母の娘を思う情が、上品に現われている歌である。「見ぬ日時なく」という言い方は、さすがに才気の現われているものである。
 
     右の二首は、大伴氏の坂上郎女の、女子《むすめ》の大嬢に腸へる。
      右二首、大伴氏坂上郎女、賜2女子大孃1也。
 
【解】 大伴坂上郎女の歌の、本集に出ている最後のものである。郎女は初め、天武天皇の皇子穂積皇子に嫁したが、皇子の薨じたのは霊亀元年で、この時から三十五年前である。郎女の年齢もそれより推して相応の老齢であったことが知られる。
 
     九月三日|宴《うたげ》の歌二首
 
4222 この時雨《しぐれ》 いたくな零《ふ》りそ 吾妹子《わぎもこ》に 見《み》せむが為《ため》に 黄葉《もみち》採《と》りてむ
    許能之具礼 伊多久奈布里曾 和藝毛故尓 美勢牟我多米尓 母美知等里※[氏/一]牟
 
【語釈】 ○吾妹子に見せむが為に 「吾妹子」は、広繩がその妻をいっているもので、次の家持の和え歌によって、その妻は奈良にとどまっている(330)ことが知られる。○黄葉採りてむ 折り取ろうで、「て」は、完了の助動詞。強くいおうとしてのもの。
【釈】 この時雨は甚しくは降るな。わが妻に見せようがために、黄葉を折り取ろう。
【評】 左注によって、広繩の歌で、宴はその館で催したもので、主人として詠んだものである。黄葉は宴席より見える物で、おりから時雨のこぼれかかって来る趣の好いことをいって、客のもてなしにしようとしたのである。「吾妹子に見せむが為に」は、その好さをいおうがためで、それに宴歌の型になっている旅情を絡ませようとしたものである。気の利いた挨拶である。
 
     右の一首は、掾久米朝臣広繩の作れる。
      右一首、掾久米朝臣廣繩作之。
 
4223 あをによし 奈良人《ならびと》見《み》むと 我《わ》が夫子《せこ》が 標《し》めけむ黄葉《もみち》 地《つち》に落《お》ちめやも
    安乎尓与之 奈良比等美牟登 和我世故我 之米家牟毛美知 都知尓於知米也毛
 
【語釈】 ○あをによし奈良人見むと 「あをによし」は、奈良の枕詞で、ここは、これを添えることによって奈良人を重くしたもの。「奈良人」は、奈良の人で、広繩の「吾妹子」を言いかえたもの。「見むと」は、見るだろうと。○標めけむ黄葉 「標めけむ」は、他人に手を触れさせまいと標《しめ》をしたというの意であるが、ここは、心の中にそう思ったろうということを強くいったもの。○地に落ちめやも 「地に落つ」は、散るを具象的にいって強めたもの。慣用句。「や」は、反語。
【釈】 あおによし奈良の人が見るだろうと思って、親しいあなたが標めたという黄葉は、地に落ちようか、落ちはしない。
【評】 上の歌に対して家持の和えたものである。広繩の時雨をいっているのは、黄葉の濡れる程度のことをいったのであるが、それを散ることにまで強め、その散ることはけっしてないといっているのは、広繩のそうした妻を思う心は、必ず通じようといって、夫妻の交情を賀したのである。旅愁の範囲のものではあるが、甚しく健全なもので、この時代の家持を思わせるものである。
 
     右の一首は、守大伴宿禰家持の作れる。
      右一首、守大伴宿祢家持作之。
 
(331)4224 朝霧《あさぎり》の たなびく田居《たゐ》に 鳴《な》く雁《かり》を 留《とど》め得《え》むかも 吾《わ》が屋戸《やど》の萩《はぎ》
    朝霧之 多奈引田爲尓 鳴鴈乎 留得哉 吾屋戸能波義
 
【語釈】 ○留め得むかも 引き留めうるであろうかで、「かも」は、疑問の助詞。
【釈】 朝霧のたなびいている田に鳴いている雁を、引き留めうるであろうか。わが屋前の萩の花は。
【評】 雁に男性を、萩の花に女性を連想するのは、この時期の共通の詩情で、特殊なものではない。この歌もその範囲のものであるが、言い方がおおらかで、ほのかで、品位を持ったものである。「留め得むかも」と危殆の情をもっていっていられるのはすなわちそれで、それがまた一首の魅力となっている。ほのかな香気のような作である。
 
     右の一首の歌は、吉野宮に幸《いでま》しし時、藤原|皇后《おほきさき》の作らせる。但し年月いまだ審詳《つまびらか》ならず。十月五日、河辺《かはべの》朝臣|東人《あづまぴと》が伝へ誦《よ》みて云へり。
      右一首歌者、幸2於芳野宮1之時、藤原皇后御作。但年月未2審詳1。十月五日、河邊朝臣東人傳誦云尓。
 
【解】 「藤原皇后」は、光明皇后。天平宝字四年六月崩じた。「河辺朝臣東人」は、奈良朝後期の人。巻六(九七八)の左注に出た。その頃越中の国府へ来ていたとみえる。
 
4225 あしひきの 山《やま》の黄葉《もみち》に 雫合《しづくあ》ひて 散《ち》らむ山路《やまぢ》を 君《きみ》が越《こ》えまく
    足日木之 山黄葉尓 四頭久相而 將落山道乎 公之超麻久
 
【語釈】 ○山の黄葉に雫合ひて 山の黄葉の葉の上に、木々の雫が落ちて集まって。○散らむ山路を 「散らむ」は、黄葉が雫の重みに堪えずして散るであろうその山路を。散り際になっている黄葉の、脆く散るさまを想像で描いているもの。○君が越えまく 「越えまく」は、「越えむ」の名詞形で、越えることであろう。
(332)【釈】 あしひきの山の黄葉に、おりからの木々の雫が落ちて集まって、その重さで黄葉の散るであろう山道を、君の越えてゆくことであろう。
 
     右の一首は、同じ月十六日、朝集使少目秦伊美吉|石竹《いはたけ》を餞《はなむけ》せし時、守大伴宿禰家持の作れる。
      右一首、同月十六日、餞2之朝集使少目秦伊美吉石竹1時、守大伴宿祢家持作之。
 
【解】 「朝集使」は、朝集帳を持って中央政府に行く位で、巻十八(四一一六)に出た。
【評】 左注によると、少目の秦伊美吉石竹が、初冬の十月、公務を帯びて都へ行くのを送る宴で、守家持が挨拶として詠んだ歌である。「黄葉に雫合ひて散らむ山路」という想像は、初冬の山道のさびしく美しい情景を心細かく巧みに捉えたもので、優れた描写である。「君が越えまく」といぅ結句も、それにふさわしい余情を持っている。目立たない歌であるが、家持の手腕の発揮された作である。
 
     雪の日作れる歌一首
 
4226 この雪《ゆき》の 消遺《けのこ》る時《とき》に いざ行《ゆ》かな 山橘《やまたちばな》の 実《み》の光《て》るも見《み》む
    此雪之 消遺時尓 去來歸奈 山橘之 實光毛將見
 
【語釈】 ○この雪の消通る時に この、今降っている雪の消え残っている時に。○いざ行かな 「いざ」は、誘う意の語で、他に対しても自身に対しても用いる。ここは自身に対してと取れる。さあ行こうよ。○山橘の実の光るも見む 「山橘」は、薮柑子。「実の光る」は、その真紅の実の、雪に照る意。「も」は、並べる意で、雪を主としていっている。
【釈】 この今降っている雪の消え残っている時に、さあ行こうよ。薮柑子の真紅な実の、雪に照るのも見よう。
【評】 国司館続きの山に、雪がいささか降っているのを眺めやっての興である。「山橘の実の光る」といぅ、感覚的なおもしろさを想像しての心で、家持の感触の細かさ、鋭さを思わせる歌である。軽い気分の歌であるが、快いものである。
 
     右の一首は、十二月、大伴宿禰家持の作れる。
(333)      右一首、十二月、大伴宿祢家持作之。
 
4227 大殿《おほとの》の この廻《もとほり》の 雪《ゆき》な踏《ふ》みそね しばしばも 零《ふ》らざる雪《ゆき》ぞ 山《やま》のみに 零《ふ》りし雪《ゆき》ぞ ゆめ縁《よ》るな人《ひと》や な履《ふ》みそね雪《ゆき》は
    大殿之 此廻之 雪莫踏祢 數毛 不零雪曾 山耳尓 零之雪曾 由米縁勿人哉 莫履祢雪者
 
【語釈】 ○大殿のこの廻の雪な踏みそね 「大殿」は、房前の邸を尊んで呼んだもの。「この廻」は、この大殿の周囲ので、屋内にあって見渡していっているもの。「な踏みそね」は、踏むことをしてくれるなで、「ね」は、願望の助詞。雪の汚れることを厭っての語である。五七七で言い切った形のもので、片歌の形である。○しばしばも零らざる雪ぞ たびたびは降らない雪であるよで、今日の雪の珍しく、愛ずべき物である意。言い切ってある。○山のみに零りし雪ぞ 「零りし」は、過去で、従来の雪は、山にだけ降って、里には及ばなかった雪であるよで、上の二句をうけて、断わりを添えたもの。同じく言い切ってある。○ゆめ縁るな人や 「ゆめ」は、強い禁止。「縁るな」は、近寄るなで、雪を対象としてである。「や」は、詠歎で、強くいったもの。八音一句。これも言い切ったもの。○な履みそね雪は 初頭を繰り返して結んだもの。
【釈】 大殿のこの周囲の雪は踏んでくれるなよ。たびたびは降らない雪であるぞ。山にだけ降っていた雪であるぞ。けっしてこの雪に近寄るなよ人よ。踏んでくれるなよこの雪は。
【評】 この歌は、内容は、珍しく降った雪を踏み荒らしてくれるなという、一種の用向きであるが、形式として見ると、集中、他に例の見えないまでに散文的なものである。すなわち問題としていることは、意味の明晰という一事であって、そのために独立した短文を続け、口語的の発想をしているのである。散文と異なるところは、謡うに堪えるだけの曲節を持たせようとして、五七、または八の定数の語を用いる点だけである。歌謡の原始的な形はすべてこれで、この形で叙事も抒情もしたものと思われるが、一万にはそれが次第に文芸的に進展して来て、集中の他の形のごときものとなったのであるが、同時に他方には、依然としてこうした形をも持続していたものとみえる。これを階級的にいうと、上流の有識者の方面には文芸的なものが行なわれ、庶民の無識の者には、この歌のようなものが親しまれていたとみえる。こうした形式の歌がきわめて珍しいものにみえるのは、採録される機会がなかったためであろう。この歌は左注によると、上流の有識者の詠んだものであり、聞かせる相手もそうした人々であったところから見ると、そうした人々からはすでに度外視され、忘却されていたという意味で、この形式が一種の新鮮味あるもののごとく感じられ、その興味から用いられたものとみえる。集中の詠み人知らずの歌は、時代の流動(334)を経てのものであるのに、これはそれを超えた原始的な形を、創作ではあるが、ただちに継承した形のものである。その意味で注意される形式である。
 
     反歌一首
 
4228 在《あ》りつつも 見《め》し給《たま》はむぞ 大殿《おほとの》の この廻《もとほり》の 雪《ゆき》な履《ふ》みそね
    有都々毛 御見多麻波牟曾 大殿乃 此母等保里能 雪奈布美曾祢
 
【語釈】 ○在りつつも ここに居りながらもで、殿の内にいて。○見し給はむぞ 「見し」は、「見」の敬語。御覧になられようぞ。
【釈】 殿の内に居ながらも、御覧になられようぞ、大殿の周囲の雪を踏んでくれるな。
【評】 三句以下は長歌の語そのままを繰り返したもので、初二句はその理由を言い添えたものである。単なる繰り返しに近いものである。反歌として独立する以前の形に近いものである。
 
     右の二首の歌は、三形沙弥《みかたのさみ》の、贈左大臣藤原北|卿《まへつぎみ》の語を承《う》け、依りて誦《よ》めるなり。聞きて伝ふるは、笠《かさの》朝臣|子君《こぎみ》なり。復《また》後に伝へ読むは、越中国掾、久米朝臣広繩なり。
      右二首歌者、三形沙弥、承2贈左大臣藤原北卿之語1、依誦之也。聞v之傳者、笠朝臣子君。復後傳讀者、越中國掾久米朝臣廣繩是也。
 
【解】 「三形沙弥」は、巻二(一二三)に出ている。この人は、日本書紀、持統紀に出ている山田御形だとする説と、それを疑う説とあって明らかでない。未詳とすべきである。「贈左大臣」は、藤原房前で、天平九年四月薨じ、十月左大臣正一位を贈られた。「藤原北卿」は、藤原氏四家の一の北家の卿で、房前の尊称。「語を承け、依りて誦めるなり」は、房前のいう語を歌に詠んだものだの意。「笠朝臣子君」は、伝未詳。
 
     天平勝宝三年
 
(335)4229 新《あらた》しき 年《とし》のはじめは 弥《いや》年《とし》に 雪《ゆき》踏《ふ》み平《なら》し 常《つね》かくにもが
    新 年之初者 弥年尓 雪踏平之 常如此尓毛我
 
【語釈】 ○弥年に いよいよ年ごとに。毎年。○常かくにもが 永久にこのようにありたいものですなあで、「もが」は、願望の助詞。「かく」は、眼前のさまをさしたもので、賀宴をすること。
【釈】 新しい年の始めには、毎年、雪を踏み平して集まって、永久にこのようにしたいものですなあ。
【評】 左注によって、正月二日、国司館に開いた新年の賀宴に、守家持が主人格として詠んだ挨拶の歌である。「雪踏み平し常かくにもが」は、おりから四尺という大雪だったとあるのに、それにも屈せずに集まることに善意を感じ、そのさまの永久に続くことを賀しているのである。挨拶の歌という感のあるものである。
 
     右の一首の歌は、正月《むつき》の二日、守の館に集ひて宴《うたけ》しき。時に零れる雪殊に多く、積りて四尺あり。即主人大伴宿禰家持此の歌を作れり。
      右一首歌者、正月二日、守館集宴。於v時零雪殊多、積有2四尺1。焉即主人大伴宿祢家持作2此歌1也。
 
4230 降《ふ》る雪《ゆき》を 腰《こし》になづみて 参《まゐ》り来《こ》し しるしもあるか 年《とし》の初《はじめ》に
    落雪乎 腰尓奈都美弖 參來之 印毛有香 年之初尓
 
【語釈】 ○腰になづみて 腰で、難渋して押し分けて。○参り来ししるしもあるか 「参り来し」は、お伺いした。「参り」は、来るの謙譲語。「しるしもあるか」は、甲斐のあることかなで、「か」は、「かな」にあたる語。
【釈】 降る雪を腰で難渋して押し分けて、お伺いした甲斐のあることですなあ。年の初めの時に。
【評】 左注によると、正月の三日、介内蔵繩麿の館の賀宴に招かれた時の家持の歌である。主客として第一に喜びをいうべき(336)だとして詠んだ歌である。「腰になづみて参り来ししるしもあるか」は、儀礼としてはいえない語で、家持の実感であったろう。「年の初に」は、喜びの関係においていっているもので、いわゆる縁起の好い意でいっているものである。当時は直接な、親しみある語であったろうと思われる。
 
     右の一首は、三日、介内蔵忌寸繩麿の館に会集《つど》ひて宴楽せし時、大伴宿禰家持の作れる。
      右一首、三日、會2集介内蔵忌寸繩麿之館1宴樂時、大伴宿祢家持作之。
 
     時に、雪を積みて、重なれる巌の起《た》てるを彫《ほ》り成し、奇巧《たくみ》に草樹《くさき》の花を綵《し》め発《ひら》く。此《これ》に属《つ》きて掾久米朝臣広繩の作れる歌一首
 
【題意】 雪を積んで、重畳した巌のさまを彫り作って、その上に、草樹の花を絵具で措いて咲かせたというのである。歌で見ると、花は瞿麦である。
 
4231 瞿麦《なでしこ》は 秋《あき》咲《さ》くものを 君《きみ》が家《いへ》の 雪《ゆき》の巌《いはほ》に 咲《さ》けりけるかも
    奈泥之故波 秋咲物乎 君宅之 雪巖尓 左家理家流可母
 
【語釈】 ○雪の巌に 雪を被っている厳にで、冬の実景と見なしての意。
【釈】 瞿麦は、秋咲くものであるのに、あなたの家の雪の巌に咲いていることですなあ。
【評】 世に珍しい自然現象は、当時の信仰から、祥瑞として、きわめて賀すべきこととした。この歌はその心よりのもので、主人の家を賀したものである。宴席の興を添えようと主人の造った雪細工に対して、客として、それを主人の家の祥瑞としたのは、心の働いた歌というべきである。
 
     遊行女婦蒲生娘子《うかれめかまふのをとめ》の歌一首
 
4232 雪《ゆき》の島《しま》 巌《いは》に植《う》ゑたる 瞿麦《なでしこ》は 千世《ちよ》に咲《さ》かぬか 君《きみ》が挿頭《かざし》に
(337)    雪嶋 巖尓殖有 奈泥之故波 千世尓開奴可 君之挿頭尓
【語釈】 ○雪の島巌に植ゑたる 「雪の島」は、雪の積もっている庭園。「島」は、庭。「巌に殖ゑたる」は、『新考』の訓。○千世に咲かぬか 「千世」は、永久で、永久に咲かないのかで、咲いてくれよの意。○君が挿頭に 「君」は、上の歌を受けてのもので、主人の繩麿。「挿頭に」は、挿頭として。
【釈】 雪の積もっている庭の巌の上に咲いている瞿麦は、永久に咲いてくれよ。主人の君の挿頭として。
【評】 その宴席に召されていた遊行女婦が、上の広繩の歌を受けて、同じく主の繩麿を賀したものである。「千世に咲かぬか」は願望にすぎぬものであるが、その願望は祥瑞に対してのもので《これ》、広繩よりは内輪にしたものである。特殊な材を即座に、その場合にふさわしいものにしているところ、歌才を思わせる。
 
     ここに諸人《もろびと》、酒酣にして、夜《よ》更《ふ》け鶏《とり》鳴く。此《これ》に因りて主人《あるじ》内蔵伊美吉繩麿の作れる歌一首
 
4233 うち羽振《はぶ》き 鶏《とり》は鳴《な》くとも かくばかり 零《ふ》り敷《し》く雪《ゆき》に 君《きみ》いまさめやも
    打羽振 鶏者鳴等母 如此許 零敷雪尓 君伊麻左米也母
 
【語釈】 ○うち羽振き 「うち」は、接頭語。「羽振き」は、羽ばたきをして。○君いまさめやも 「君」は、主賓家持をさしたもの。「います」は、ここは行くの敬語で、「や」は、反語。君はお帰りになろうか、ならないでしょう。
【釈】 羽ばたきをして鶏は鳴こうとも、これほどまでに降り敷いている雪に、君はお帰りになろうか、ならないでしょう。
【評】 鶏鳴を聞いての主人繩麿の挨拶である。実用性の歌の、文芸的に利用されていた程度を思わせるものである。歌の形式をもっていうがゆえに興味となりうるものである。
 
     守大伴宿禰家持の和《こた》ふる歌一首
 
4234 鳴《な》く鶏《とり》は 弥《いや》しき鳴《な》けど 降《ふ》る雪《ゆき》の 千重《ちへ》に積《つ》めこそ 吾《われ》立《た》ちかてね
(338)    鳴鷄者 弥及鳴杼 落雪之 干重尓積許曾 吾等立可※[氏/一]祢
 
【語釈】 ○弥しき鳴けど いよいよ続けてしきりに鳴くけれども。○千重に積めこそ 甚だ深く積むので。「積めこそ」は、已然条件法。○吾立ちかてね 「かて」は、可能の意。「ね」は、打消の助動詞「ず」の已然形。「こそ」の結。立ちかねることです。
【釈】 鳴く鶏はいよいよしきりに鳴くけれども、降る雪が甚だ深く積んでいるので、私どもは立ちかねることです。
【評】 主人の引き留めるのに、躊躇なく応じた心である。題詞に、「酒酣に」とあり、下僚一同は酒興の盛んなのを見て、守としては少なくともそれを妨げまいとしていっているものと取れる。「われ」は「吾等」の文字を用いているところにもその心がうかがわれる。その場合に即させての挨拶で、歌の巧拙を超えたものである。
 
     太政大臣藤原家の、県犬養命婦《あがたのいぬかひのひめとね》の天皇に奉れる歌一首
 
【題意】 「太政大臣藤原家」は、藤原不比等の尊称。養老四年八月薨じ、十月正二位太政大臣を贈られたのである。「県犬養命婦」は、県犬養東人の娘で、名は三千代といった。初め美努王に嫁して葛城王(橘諸兄)、佐為王(橘佐為)を生み、後、不比等に嫁して光明皇后を生んだ。天平五年正月、内命婦をもって薨じた。令の制で、五位以上の婦人を内命婦、五位以上の人の妻を外命婦といった。「天皇」は、三千代は元明、元正、聖武三帝に仕えた人であるから、いずれの天皇をさしているのか明らかでない。
 
4235 天雲《あまぐも》を ほろに踏《ふ》みあだし 鳴《な》る神《かみ》も 今日《けふ》に益《まさ》りて 恐《かしこ》けめやも
    天雲乎 富呂尓布美安太之 鳴神毛 今日尓益而 可之古家米也母
 
【語釈】 ○ほろに踏みあだし 「ほろに」も、「あだし」も、他には用例の見えない語で、不明である。本居宣長は、「ほろに」は、「蹴《く》えはららかし」の「はらら」と同意ではなかろうかといっている。それだと、ばらばらに。また、「踏みあだし」は、「踏み散らして」の意だろうといっている。鳴る神の鳴り轟く時の威力を、視覚をとおしていったものと見たのである。推量しての解ではあるが、この範囲のものであろう。○今日に益りて 「今日」は、眼前の事態をさしていっているもので、どういう事であったかはわからない。その事を眼にしている者の間では、いうを要さないものだったのである。○恐けめやも 恐ろしくあろうか、恐ろしくはないで、「や」は、反語。
【釈】 天雲をばらばらに踏み散らして鳴る神も、今日の天皇にまさって恐ろしくあろうか、ありはしませぬ。
(339)【評】 天皇が何事のお計らいかをなされた時、側近していた命婦が、天皇の威力に恐懼し、讃歎の心を詠んで奉ったものである。鳴る神は、神の中でもその威力の最も直接に感じられる恐るべき神となっていたから、天皇の威力をその神にもまさるというのは、最上の讃款である。第二句は、語義に不明はあるが、大意は感じられる。一首、調べが重厚で、物言いの直線的なのに支えられて、調べがただちに感をあらわしているものである。女性の歌としては、珍しいまでに男性的なものである。
 
     右の一首は、伝へ誦《よ》めるは掾久米朝臣広繩なり。
      右一首、傳誦掾久米朝臣廣繩也。
 
     死《う》せし妻を悲しみ傷む歌一首 并に短歌。作主未だ詳ならず。
 
【題意】 左注により、遊行女婦蒲生の伝誦したものである。上の歌とともに、その宴楽の夜にしたことと取れる。
 
4236 天地《あめつち》の 神《かみ》は無《な》かれや 愛《うるは》しき 吾《あ》が妻《つま》離《さか》る 光《ひか》る神《かみ》 鳴波多※[女+感]嬬《なりはたをとめ》 携《たづさ》はり 共《とも》にあらむと 念《おも》ひしに 情《こころ》違《たが》ひぬ 言《い》はむすべ 為《せ》むすべ知《し》らに 木綿襷《ゆふだすき》 肩《かた》に取《と》り掛《か》け 倭文幣《しつぬさ》を 手《て》に取《と》り持《も》ちて な離《さ》けそと 我《われ》は祷《いの》れど 纏《ま》きて寝《ね》し 妹《いも》が袂《たもと》は 雲《くも》にたなびく
    天地之 神者无可礼也 愛 吾妻離流 光神 鳴渡多※[女+感]嬬 携手 共將有等 念之尓 情違奴 將言爲便 將作爲便不知尓 木綿手次 肩尓取挂 倭文幣乎 手尓取持※[氏/一] 勿令離等 和礼波雖祷 卷而寐之 妖之手本者 雲尓多奈妣久
 
【語釈】 ○天地の神は無かれや 「無かれや」は、無いのであるかで、「や」は、疑問の係。○愛しき吾が妻離る 「愛しき」は、かわゆい。「離る」は、離れてゆくで、ここは死ぬ意でいったもの。「や」の結。以上、第一段。○光る神鳴渡多※[女+感]嬬 「光る神」は、稲妻で、鳴る神と同じ。「鳴」は、鳴りはためくと続く熟語のそれで、「光る神鳴」までの七音は、波多の序詞。「波多※[女+感]嬬」は、妻の呼名であるが、「波多」は、氏か地名か不明である。いずれにしても、例のあるものである。地名のほうが例が多い。○携はり共にあらむと 「携はり」は、ここは、連れ添って。○念ひしに情違ひぬ 思っていたのに、その心は違ったで、予期に反して、死んだの意。以上、第二段。○言はむすべ為むすべ知らに 言おうようも、(340)しよう方法も知られずで、妻が危篤に陥ったのを見ての心。○木綿襷肩に取り掛け 倭文幣を手に取り持ちて 木綿の襷を肩に掛け、倭文の幣を手に持ってで、神に祈りをする時の礼装。成句ではあるが、その事を重んじる心から鄭重にいったもの。○な離けそと我は祷れど 「な離けそと」は、我より妻を離すなといってで、言いかえると、妻を死なすなといって。これは祷りの言葉で、人の死生は一に神意にあるものとしていっているのである。「我は祷れど」は、我は神に祷ったけれども。○纏きて寝し妹が袂は 枕として寝た妹の腕は。○雲にたなびく 雲となって空になびくで、火葬した状態。以上第三段。
【釈】 天地の神はないのであるか、かわゆいわが妻は我より離れることであるよ。光る神の鳴りはためくのに因みある波多娘子よ、連れ添って一しょにいようと思ったのに、その心は違った。言おうようも、しよう方法も知られず、木綿の襷を肩に掛け、倭文の幣を手に持って、我より離すなと神に祷ったけれども、枕として寝た妹が腕は、雲となって、空にたなびいている。
【評】 左注にあるように、遊行女婦蒲生が、宴席の興を添えようとして誦した歌である。場合がら不似合な歌にみえるが、上の広繩の伝誦歌に、「天雲をほろに踏みあだし鳴る神も」とあるのに刺激され、「光る神鳴渡多※[女+感]嬬」と類似の句のあるこの歌を思い出して誦したものと思われる。これは一種の機知で、その点が喜ばれることとしてであろう。また、歌は、死生は一に神意にあるもので、人のいかんともし難いものだとする、古代信仰によって貫かれたものであって、こうした信仰は、この時代にはやや物遠いものになっていたろうと思われるが、これをこの時代の好尚の、物のあわれを喜ぶ心につないで見ると、きわめてあわれ深いこととなって、人々の胸を打つものともなったろうと思われる。かたがた蒲生は、不似合な歌を誦したこととはならなかったろうと解される。歌は純粋な挽歌で、この当時としては類の少ないものである。作意は、夫がその妻の火葬場に行き、妻がみるみる煙となるのを目にし、妻の霊に対して、自身の悲しみを、打ちつけるごとく強くいうことによって、霊を慰めているもので、挽歌として本筋のものである。表現方法も作意にふさわしく簡潔な、力強いものである。第一段、事の全体を短く総叔し、第二段、ただちに中心に入って、第一段を具象化し、第三段、さらに全体を総括して、人の死生をつかさどる神に、心をこめて祈ったのであるが、妻の身は見る目の前に煙となってゆくと具象化して、諦めざるを得ないが、しかも諦めがたい悲痛の情を、すべて目前の火葬のさまにつないでいっているのである。この一切を目前につないでいる点が、この歌の簡潔と力強さを生み出しているのであって、きわめて要を得た表現である。あくまで実際に即して、素朴に、一段一段を短く、一音の冗語もまじえずにいっているところは、古風とも、あるいは庶民的ともみえるのであるが、実はさして古い物ではなく、また庶民的な物とも思われない。多分この時代に近い知識人の作で、古代信仰で貫いているのは、事の性質上、潜在している信仰の表面化したという範囲のものであろう。
 
     反歌一首
 
(341)4237 現《うつつ》にと 念《おも》ひてしかも 夢《いめ》のみに 袂《たもと》巻《ま》き寝《ぬ》と 見《み》るはすべ無《な》し
    寤尓等 念※[氏/一]之可毛 夢耳尓 手本卷寐等 見者須便奈之
 
【語釈】 ○現にと念ひてしかも 現実にと思いたいことだ。「てしか」は、瞑望の助詞。○夢のみに袂巻き寝と 夢にだけ、妹が手を枕として寝ると。○見るはすべ無し 見るのは詮ないことだ。
【釈】 現実にと思いたいことだ。夢でだけ妹が手を枕として寝ると見るのは、詮ないことだ。
【評】 語としては、長歌の結末を受けて繰り返したものとなっているが、作意は、時間的にある期間のあるものである。長歌が情熱的なものなので、この期間は目立って、調和しがたいものにみえる。それに巻十二(二八八〇)「現にも今も見てしか夢のみに袂纏き宿と見るは苦しも」と酷似している。『新考』は、この歌が流動してここに添うものとなったのではないかと疑っている。
 
     右の二首は、伝へ誦めるは、遊行女婦《うかれめ》蒲生なり。
      右二首、傳誦、遊行女婦蒲生是也。
 
【解】 以上三首は、広繩も蒲生も、その宴席で思い出して伝えたのである。
 
     二月二日、守の館に会集《つど》ひて宴《うたげ》して作れる歌一首
 
【題意】 「宴」は、左注に詳しく、孃久米広繩の正税帳を太政官に申告するために上京する、その別宴で、「守の館に」も、その意味での改まったものだからである。「正税帳を以ちて」は、すなわち税帳使で、これは巻十七(三九九五)の題詞に出、その時は家持がその使となったのである。そこに注してある。「久米広繩」は、池主転任以後は、下僚の中では家持の最も心合いとした人である。歌は、守としての家持の改まっての挨拶のものであるが、上京すると相応久しい期間を逢えないので、そのさびしい気分も持たせてのものである。
 
4238 君《きみ》が往《ゆき》 もし久《ひさ》にあらば 梅柳《うめやなぎ》 誰《たれ》とともにか 吾《わ》が蘰《かづら》かむ
(342)    君之徃 若久尓有婆 梅柳 誰与共可 吾縵可牟
 
【語釈】 略す。
【釈】 あなたの旅行が、もし久しいものであったら、梅の花も青柳の枝も、誰とともに私は蘰としましょうか。
【評】 左注にあるやうに、家持としては心合いの下僚である広繩が、正税帳使として京へ上ることになったので、その餞別の宴を催した時の家持の歌である。正税帳使は、国庁としては重い任務を帯びての使であるのに、守として道中の無事を祈ること、労苦をいたわることにも触れず、風雅な遊びをする相手の居なくなることを侘びしむというだけで、当時の家持の気分の思われる歌である。
 
     右は、判官久米朝臣広繩、正税帳を以ちて京師《みやこ》に入らむとす。仍りて守大伴宿禰家持、此の歌を作れり。但し越中の風土、梅花柳絮三月に初めて咲くのみ。
      右、判官久米朝臣廣繩、以2正税帳1應v入2京師1。仍守大伴宿祢家持作2此歌1也。但越中風土、梅花柳絮三月初咲耳。
 
【解】 「正税帳」のことは上に出た。「梅花柳絮三月に初めて咲く」は、北国のこととて春の遅い意。「柳絮」は本来は、柳の花の咲いた後、その実につく綿に似たものの称であるが、ここは柳の花の意に用いている。
 
     霍公鳥を詠める歌一首
 
4239 二上《ふたがみ》の 峯《を》の上《へ》の繁《しげ》に 籠《こも》りにし その霍公鳥《ほととぎす》 待《ま》てど来鳴《きな》かず
    二上之 峯於乃繁尓 許毛里尓之 彼霍公鳥 待騰来奈賀受
 
【語釈】 ○峯の上の繁に 「繁」は、従来は「しじ」であったのを、『新考』の改訓したもの。繁み。○籠りにしその霍公鳥 「籠りにし」は、原文「許毛尓之」。『略解』は、「毛」の下に「里」を脱したものとして、今のごとく改めている。題意から見て従うべきである。「籠りにし」は、「に」は、完了。籠もっていたで、去年、里を去って以来籠もっていた。「その霍公鳥」は、去年のそのほととぎすの意で、「その」によって心を(343)明らかにしている。
【釈】 二上山の峰の木立の繁みに、籠もっていた、その去年の霍公鳥は、待っているけれども、里には来て鳴かない。
【評】 左注によると、四月に入って鳴かない霍公鳥を待つ心であるが、家持としては著しくも落ちついて来た心を示しているものである。二上山を越えて鳴いて来る霍公烏を、家持はその山に棲む鳥とし、鳴く季節が過ぎると、また山に帰って、翌年のその季節を待っている鳥と思っていたとみえる。すなわち渡り鳥とは思わなかったのである。これは詩情ではなく、実際にそう思っていたものとみえる。
 
     右は、四月十六日、大伴宿禰家持の作れる。
      右、四月十六日、大伴宿祢家持作之。
 
     春日にて神を祭りし日に、藤原|太后《おはきさき》の作りませる歌一首。即ち入唐大使藤原朝臣|清河《きよかは》に賜へる。
 
【題意】 「春日にて神を祭りし日」は、「春日」は、今の奈良市の春日の地で、遣唐使の無事を祈る祭を行なったのである。続日本紀、宝亀八年二月の条に、「戊子、遣唐使拝2天神地祇於春日山下1、去年風波不調、不v得2渡海1、使人亦復頻以相香。於v是副使小野朝臣石根、重修2祭礼1也」とある。遣唐使が春日山下で祭を行なうことは、例となっていたとみえる。「藤原太后」は、光明皇后。「入唐大使藤原清河」は、房前の子で、皇后には甥である。清河が遣唐大使に任ぜられたのは、天平勝宝二年九月。この祭の日は、次の清河の歌によると梅の花の咲いている時で三年の一、二月、遣唐使一行の拝朝は四年三月で、閏三月に難波津を出帆したのであった。続日本紀、宝亀十年二月の条に、一行のことが詳しく記されている。「贈2故入唐大使従三位藤原朝臣清(344)河従二位、副使従五位上小野朝臣石根従四位下1。清河、贈太政大臣房前之第四子也。勝宝五年為2大使1入唐。廻日遭2逆風1、漂2着唐国南辺驩州1。時遇2土人1、及合v船被v害。清河僅以v身免、遂留2唐国1、不v得2帰朝1。於v後十余年、薨2於唐国1。石根、大宰大弐従四位下老之子也。宝亀八年、任2副使1入唐。事畢而帰、海中船断、石根及唐送使趨宝英等六十三人、同時没死。故並有2此贈1也」というのである。当時の遣唐使のいかに多難なものであったかが知られる。
 
4240 大船《おほぶね》に 真楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き この吾子《あこ》を 韓国《からくに》へ遣《や》る 斎《いは》へ神《かみ》たち
    大舶尓 眞梶繁貫 此吾子乎 韓國邊遣 伊波敬神多智
 
【語釈】 ○この吾子を 「この」は、親しみの意から、特に指示する意を添えたもの。「吾子」は、愛称。○韓国へ遣る 「韓」は、古くは朝鮮の称であったのが、外国の総称として用いられた語。ここは唐国である。○斉へ神たち 「斉へ」は、大切にせよで、命令形。「神たち」は、「たち」は、複数をあらわす敬語。
【釈】 大船に左右の楫を繁く取りつけて、この愛する子を唐国へやります。大切に守ってください。神たちよ。
【評】 当時の遣唐使は国家的にも大任であったが、同時に死生を賭しての旅でもあった。これは愛する御甥の清河のその旅を、皇后として神に祈られた御歌である。御歌はそれにふさわしい、行き届いたものであるが、それとしてはいかにもおおらかで、おのずからなる気品のあるものである。「この吾子を」という愛称が、前後の改まった語と矛盾のないものとなり、語以上の含蓄と魅力のあるものとなっている。
 
     大使藤原朝臣清河の歌一首
 
4241 春日野《かすがの》に 斎《いつ》く御諸《みもろ》の 梅《うめ》の花《はな》 栄《さか》えて在《あ》り待《ま》て 還《かへ》り来《く》るまで
    春日野尓 伊都久三諸乃 梅花 榮而在待 還來麻泥
 
【語釈】 ○春日野に斎く御諸の 「春日野」は、今の春日公園。「斎く御諸」は、崇めて祭っている神殿。この御諸は、題詞にある祭をする神のそれではなく、藤原氏の氏の神として祀ってあった現在の春日神社であろう。○梅の花 神殿のほとりにあったものとみえる。○栄えて在り待て 咲き栄えて、このようであって、我を待っていよ。○還り来るまで 任を果たして帰朝する時まで。
(345)【釈】 春日野に崇めて祭っている神殿の梅の花よ。咲き栄えて、このようにして待っていよ。還って来る時まで。
【評】 藤原氏の氏の神に触れていっているが、祈りには触れてはいず、のみならず梅の花に対して、「栄えて在り待て還り来るまで」といっているのは、氏の神に祈りをし、無事に任を果たして還って来られるという確信を持ち得た上で、神殿のあたりの梅を見ると、その確信とともに、散りやすい花も、神のほとりにあるゆえに、神助によって久しく散らずにいられるものとの感を起こしていっているものと取れる。場合柄にもかかわらず、いささかの不安も持たず、甚だ思いあがった態度で、梅の花に対して不自然なことまでいっているのは、上のような心よりのことと思われる。それでないと不自然な歌となるからである。そうした心の表現とすると、単純な形の中に複雑な心を盛ったもので、無理なく言いおおせている歌である。気品もあって、歌才を思わせられるものである。
 
     大納言藤原の家にて、入唐使等を餞する宴の日の歌一首 【即主人の卿の作れる。】
 
【題意】 「大納言藤原の家」は、藤原仲麿。武智麿の第二子で、後の恵美押勝である。大納言となったのは天平勝宝元年七月である。清河とは従兄弟である。即主人の卿は、仲麿である。
 
4242 天雲《あまぐも》の 去《ゆ》き還《かへ》りなむ ものゆゑに 念《おも》ひぞ吾《わ》がする 別《わかれ》かなしみ
    天雲乃 去還奈牟 毛能由惠尓 念曾吾爲流 別悲美
 
【語釈】 ○天雲の去き還りなむものゆゑに 「天雲の」は、「去き還り」の枕詞。「去き還りなむものゆゑに」は、行って帰って来るであろうものだのに。○念ひぞ吾がする 物思いを私はすることである。○別かなしみ 別れを悲しんで。
(346)【釈】 天雲のように、行って帰って来るであろうものだのに、物思いを私はすることである。別れを悲しんで。
【評】 清河を招いて餞別の宴を催した席上で、挨拶の歌として詠んだものである。清河の旅に対しての不安はいわず、自身の悲しみだけをいっているのは、旅立つ人には、不吉の語をいうまいとする当時の風に従ってのものである。
 
     民部少輔|多治真人土作《たぢひのまひとはにし》の歌一首
 
【題意】 『代匠記』は、「治」の下に「比」を脱したものとしている。天平十二年正月、正六位上から従五位下となり、諸官を歴任して、参議従四位上で、宝亀二年六月卒した。
 
4243 住吉《すみのえ》に 斎《いつ》く祝《はふり》が 神言《かむこと》と 行《ゆ》くとも来《く》とも 船《ふね》は早《はや》けむ
   住吉尓 伊都久祝之 神言等 行得毛來等毛 舶波早家无
 
【語釈】 ○住吉に斎く祝が 住吉の社に神を祭っている神職が。「住吉」は、今の大阪市の住吉神社で、海神である底筒男命、中筒男命、表筒男命と、比売神を祭り、遣唐使の出航には特にこの神に祈って来た。「祝」は、神職の総称として用いたもの。○神言と 神の御言としてで、神が神職に告げられた言としてで、以下はその言である。○行くとも来とも 「と」は、時の意のもの。行く時も来る時も。「来と」は、「来」の終止形から「と」の体言に接する古格。
【釈》 住吉の神を祭っている神職が、神のお告げだとしていうことには、行く時も来る時も、船は早いでしょう。
【評】 清河の海路の無事を祈る心のものであるが、それを自身の心よりのものとせず、住吉の神の神告として、神職の伝えた語をもってしているのは、この場合甚だ巧みである。遣唐使の出航に際しては、朝廷から住吉の神への奉幣があり、また個人としても行なったであろうから、作者はそうしたことを通してのことと思われる。
 
     大使藤原朝臣滑河の歌一首
 
4244 あらたまの 年《とし》の緒《を》長《なが》く 吾《わ》が念《おも》へる 児《こ》らに恋《こ》ふべき 月《つき》近《ちか》づきぬ
   荒玉之 年緒長 吾念有 兒等尓可戀 月近附奴
 
(347)【語釈】 ○あらたまの年の緒長く吾が念へる 年久しく私が思っているで、「児ら」の修飾句。○児らに恋ふべき 「児ら」は、妻の愛称で、妻を恋しく思うであろう。○月近づきぬ その月が近づいて来たで、「月」は、出航の月。
【釈】 あらたまの年久しくも私が思っている愛する妻を、恋しく思うであろう月が近づいた。
【評】 出航の月の迫って来た頃、清河が妻に与えた歌である。貴族のこととて、妻は初めから同棲していたのであろう。心の深い歌であるが、昂奮を見せず、おおらかに静かな態度で詠んでいるのは、そうした関係においてのものだからであろう。ある厚みのある歌である。
 
     天平五年、入唐使に贈れる歌一首 并に短歌。作者未だ詳ならず
 
【題意】 「天平五年」の遣唐使は、大使は多治比真人広成である。「入唐使」は、一行の中に加わっている一人で、「贈れる」は、その人の友人かと思われる。この時の歌としては、巻五(八九四−八九六)の山上憶良の作、巻八(一四五三1一四五五)の笠金村の作、巻九(一七九〇−一七九一)「親母の子に贈れる歌」がある。
 
4245 そらみつ 大和《やまと》の国 《くに》あをによし 平城《なら》の京師《みやこ》ゆ 押照《おして》る 難波《なには》に下《くだ》り 住吉《すえのえ》の 御津《みつ》に  舶乗《ふなの》り 直渡《ただわた》り 日《ひ》の入《い》る国《くに》に 遣《つかは》さる 吾《わ》が兄《せ》の君《きみ》を 懸《か》けまくの ゆゆしかしこき 住吉《すみのえ》の 吾《わ》が大御神《おほみかみ》 舶《ふな》の舳《へ》に 領《うしは》き坐《いま》し 舶艫《ふなども》に 御立坐《みたちいま》して さし寄《よ》らむ 磯《いそ》の埼々《さきざき》 漕《こ》ぎ泊《は》てむ 泊々《とまりとまり》に 荒《あら》き風《かぜ》 浪《なみ》に遇《あ》はせず 平《たひら》けく 率《ゐ》て帰《かへ》りませ 本《もと》の国家《みかど》に
   虚見都 山跡乃國 青丹与之 平城京師由 忍照 難波尓久太里 住吉乃 三津尓舶能利 直渡 日入國尓 所遣 和我勢能君乎 懸麻久乃 由々志恐伎 墨吉乃 吾大御神 舶乃倍尓 宇之波伎座 舶艫毛尓 御立座而 佐之与良牟 礒乃埼々 許藝波底牟 泊まり々尓 荒風 浪尓安波世受 平久 率而可敝理麻世 毛等能國家尓
 
【語釈】 ○住吉の御津に舶乗り 「住吉の御津」は、「御津」は、朝廷の御料の港の敬称で、普通、難波の御津と称している所。住吉が御津と定め(348)られたことは、古事記、仁徳の巻に出ている。「舶乗り」は、船乗りして。○直渡り日の入る国に 「直渡り」は、ひたすらに渡って。「日の入る国」は、唐。日本書紀、推古紀に、隋国に贈られた国書に「日出処天子、致2書日没処天子1」とあるによっての語で、国家意識を持っての語である。○遣さる吾が兄の君を 「遣さる」は、終止形から体言に接する古格のもの。「吾が兄の君を」は、本来は、妻より夫への愛称であるが、転じて男同士の愛称ともなったもの。ここは男同士とみえる。○懸けまくのゆゆしかしこき住吉の吾が大御神 口に懸けることのはばかりあり恐れ多い、住吉のわが大御神。「懸けまく」は、「懸けむ」の名詞形。○舶の舳に領き坐し 船の前方にお鎮まり遊ばし。「領き」は、御支配になる意。「坐し」は、敬語の動詞。○舶艫に御立坐して 船の後部にお立ちになっていらして。○さし寄らむ磯の埼々 船を寄せるであろう海岸の岩の埼ごとにで、これは風波を防ぐため。○漕ぎ泊てむ泊々に 船を漕ぎ寄せて宿るであろう港ごとに。これは夜は、上陸して寝るため。○平けく率て帰りませ 無事に、連れてお帰りなさいませ。「平けく」は、形容詞「平けし」の連用形。○本の国家に 「みかど」に、「国家」の字を当てていることが注意される。対外事情より国家意識が発揚したものと思われる。「懸けまくの」以下これまでは、巻六(一〇二一)の石上乙暦が土佐国へ配せられる時の歌の「繋巻くもゆゆし恐し、住吉の荒人神、船の舳にうしはきたまひ、付きたまはむ島の埼前、依りたまはむ積の埼前、荒き浪風に遇はせず、草つつみ疾あらせず、急く還したまはね、本の国べに」と酷似しており、関係のあるものと取れる。乙暦の配流は天平十年であり、広成らの遣唐使は五年であるから、この歌のほうが先である。
【釈】 そらみつ大和国の、あおによし平城の都から、おし照る難波国へ下り、住吉の三津で乗船して、直渡りに日の没する国へ遣わされる私の親しいあなたを、口にすることははばかりあり恐れ多い、住吉のわが大御神は、船の舳にお鎮まり遊ばされ、船の艫にお立ちになっていらして、船の寄るであろう海辺の岩の埼ごとに、船の漕ぎ果てて、夜を寝るであろう港ごとに、荒い風荒い浪に遇わせずに、無事に、連れてお帰りなさいませ。もとの国に。
【評】 全篇住吉の神に対する祈願の語より成っている歌である。前半、祈りをする目標である「吾が兄の君」をいっているのは、これは祈りの型であるとともに、事は個人的のものではなく、朝廷の御用としてのものであることを言おうとしてである。朝廷の御用とあれば、住吉の神も格別の加護を垂れ給うということを信じてのことであって、「京師」を重くいい、唐を「日の入る国」といっているのも、また結尾の、「本の国家に」といっているのも、その心よりのことである。住吉の神の加護の中心は、神が船の上に鎮まり給い、親しく御力をあらわし給うことで、抽象的のことではなく、具体的のこととしていっている。これは上に引いた、同じ時の山上憶良の歌には、さらに強力にいわれていることであって、当時一般に、加護ということをそのように解していたとみえる。「吾が兄の君」という愛称の代名詞は、一行の中の何びとかの妻ではないかとも思わせる。一首の語つづきの柔軟で、訴えの気分で一貫されていることもその感を支持するのであるが、それはこの歌は、神に対しての祈りの語であるから、当然そうあるべきもので、証とはなりかねよう。さらにまた、一首の捉え方が大きく、しかも簡潔に扱われており、「日の入る国に」「本の国家に」など、その当時において国家意識の強く働いた語を用いている点は、当然、男性の作と思われる。一首の統一が強く、立体感を持たせている点も、同じくそれを思わせる。家持時代を標準とすれば、一時期前のもの(349)と思わせる作である。
 
     反歌一首
 
4246 沖《おき》つ浪《なみ》 辺浪《へなみ》な越《こ》しそ 君《きみ》が舶《ふね》 漕《こ》ぎ帰《かへ》り来《き》て 津《つ》に泊《は》つるまで
   奧浪 邊波莫越 君之舶 許藝可敵里來而 津尓泊麻泥
 
【語釈】 ○沖つ浪辺浪な越しそ 沖の浪も、辺の浪も、船べりを越すなで、荒い風は立つなの意。
【釈】 沖の浪も辺の浪も船べりを越すことはするな。君の船が漕ぎ帰って、住吉の津に迫てるまで。
【評】 長歌で住吉の神への祈りの心を尽くした上で、自身の祝として言い添えた形のものである。神の加護があって、必ず平安であると信じての上の心で、まさしく祝である。平安ということの具象化としての初二句は、適切な、したがって巧みなものである。三句以下の長歌の繰り返しも、要を得たものである。
 
     阿倍朝臣|老人《おきな》の、唐に遣さえし時、母に奉りて別を悲める歌一首
 
【題意】 「老人」は、伝未詳。遣唐使一行中の人であろう。
 
4247 天雲《あまぐも》の 遠隔《そきへ》の極《きはみ》 わが念《おも》へる 君《きみ》に別《わか》れむ 日《ひ》近《ちか》くなりぬ
   天雲能 曾伎敞能伎波美 吾念有 伎美尓將別 日近成奴
 
【語釈】 ○天雲の遠隔の極 「そきへ」は、退き方で、天の雲が遠く地平のかなたまで退いている、その果てで、果てしなくの譬喩。二句慣用句である。
【釈】 天雲が遠く地平の果てまで退いているように、果てしなくわたしの思っているあなたに、別れるであろう日が近づきました。
【評】 「天雲の遠隔の極」は、ここは「念へる」にかかる副詞句となっている。遣唐使の随員として渡航する直前のこととて、(350)事に即した適切なもので、おのずから拡がりを持った、新意豊かなものとなっている。「日近くなりぬ」といぅ急迫した語調も、気分を暗示するものとなっている。作歌に熟した人とは思えないが、心の全幅を傾けていっているところから、新味あり躍動あるものとなっているのである。天平初期の、前代を引いての歌風である。
 
     右の件《くだり》の歌は、伝へ誦《よ》める人、越中大目|高安倉人種麿《たかやすのくらびとたねまろ》なり。但し年月の次《つぎて》は聞きし時のまにま此《ここ》に載す。
      右件歌者、傳誦之人、越中大目高安倉人種麿是也。但年月次者隨2聞之時1載2於此1焉。
 
【解】 「右の件の歌は」は、「春日に神を祭りし日に」以下八首の歌である。「種麿」は、伝未詳。「年月の次は」は、歌の年代の前後はで、それにはかかわらずの意。
 
     七月十七日を以ちて、少納言に遷し任けらえ、仍りて別を悲しむ歌を作りて、朝集使掾久米朝臣広繩の館に贈り貽《のこ》せる二首
 
【題意】 「少納言に遷し任けらえ」は、事として続日本紀に載るべきであるが、漏れている。「朝集使」は、上に「正税帳使久米朝臣広繩」とあり、また後にも出ている。家持が誤ったのか、またこのようにいうことも許されたかのいずれかである。国庁より中央政庁への定期の使を、総称して朝集使ともいったのではないかという解がある。「贈り貽せる」は、広繩はまだ帰任しないので、その留守宅に贈って遺したのである。
 
     既に六歳の期に満ち、忽に遷替の運に値ふ。ここに旧《ふるき》に別るる悽《かなしみ》、心中に鬱結す。H《なみだ》を拭《のご》ふ袖、何を以ちてか能く旱《かわ》かむ。因りて悲しみの歌二首を作りて、式《も》ちて忘るる莫き志を遺す。其詞に曰く
 
     既滿2六載之期1、忽値2遷替之運1。於v是別v舊之悽、心中鬱結。拭vH之袖、何以能旱。因作2悲歌二首1、式遺2莫v忘之志1。其詞曰
 
(351)【解】 「六歳の期に満ち」は、国守の任期である六年に満ちてで、家持が越中守となったのは天平十八年六月、今は天平勝宝三年七月で、満五年、足掛け六年である。国司の任期は当時は四年で、これより八年後の天平宝字二年十月の勅で六年と改められたのである。しかし実際には、六年制がすでに行なわれていたとみえる。
 
4248 あらたまの 年《とし》の緒《を》長《なが》く 相見《あひみ》てし 彼《そ》の心引《こころびき》 忘《わす》らえめやも
    荒玉乃 年緒長久 相見※[氏/一]之 彼心引 將忘也毛
 
【語釈】 ○彼の心引忘らえめやも 「心引」は、人がこちらの心を引くことで、気の合う、性の合うというを、先方を主としていった語、名詞。「忘らえめやも」は、忘れられようか、忘れられないことよで、「や」は、反語。
【釈】 年久しい間相逢っていた、その間の心引かれたことは忘れられようか、忘れられはしないことよ。
【評】 何人かの下僚の中で、家持は広繩が最も親しかったので、その留守中に国府を去ることに心残りを感じて、留守宅へなりとも心を遺しておこうとしたのである。「彼の心引」という語は、歌としては他に例のないものである。いう者もいわれる者も、感の深い語であったろうと思われる。
 
4249 伊波世野《いはせの》に 秋芽子《あきはぎ》凌《しの》ぎ 馬《うま》並《な》めて 始鷹猟《はつとがり》だに 為《せ》ずや別《わか》れむ
    伊波世野尓 秋芽子之努藝 馬並 始鷹※[獣偏+葛]太尓 不爲哉將別
 
【語釈】 ○伊波世野に秋芽子凌ぎ 「伊波世野」は、上の(四一五四)に出た。恰好な狩場だったのである。「秋芽子凌ぎ」は、萩の花を押し分けて。○始鷹猟だに 鷹狩は秋から冬へかけてするもので、秋のを、小鷹狩といい、小鷹を使って小鳥を獲らせるのである。それに対して冬のを大鷹狩といい、大鷹を使って大鳥を獲らせる。「始鷹猟」は、秋の鷹狩で、それをさえも。
【釈】 伊波世野で萩の花を押し分けて、馬を連ねて、始鷹狩さえもせずに別れるのであろうか。
【評】 心合いの友との別れの語として、その心中の偲ばれるものである。親しい間の物言いは、語が淡くて心の深いものである。この歌も、一緒にいる中の最も楽しかったことを思い出し、それの再びできない残念さをいっているもので、情味の深いものである。
 
(352)     右は、八月四日贈れる。
      右、八月四日贈之。
 
     便《すなは》ち大帳使に附きて、八月五日を取りて京師《みやこ》に入らむとす。此《これ》に因りて、四日を以ちて国厨《くにのみくりや》の饌《あへ》を設《ま》け、介内蔵|伊美吉《いみき》繩麿の館に餞《はなむけ》す。時に大伴宿禰家持の作れる歌一首
 
【題意】 「大帳使に附きて」は、家持が大帳使となって。「大帳使」は、巻十七(三九六一)に出た。一国の大帳または大計帳を中央政庁に持参する使で、八月三十日以前に行なうべき定めであった。「八月五日を取りて」は、八月五日を選んで。「国厨の饌を設け」は、国守の遷任であるから、国庁としての飲饌を設けで、公式の餞別の宴を張りの意。「介内蔵伊美吉繩麿の館に餞す」は、交替すべき守が居ないので、次官の介が代わって儲けをする意。
 
4250 しなざかる 越《こし》に五箇年《いつとせ》 住《す》み住《す》みて 立《た》ち別《わか》れまく 惜《を》しき初夜《よひ》かも
    之奈謝可流 越尓五箇年 住々而 立別麻久 惜初夜可毛
 
【語釈】 ○越に五箇年住み住みて 「五箇年」は、満で数えたもの。しかし長い期間としていっているのである。「住み住みて」は、同語を畳むことによって、その事の長かった感をあらわそうとしてである。○立ち別れまく 「立ち別れむ」の名詞形で、立ち別れようことの。○惜しき初夜かも 惜しい夜であるよで、「初夜」は、その時の時刻をあらわした字。
【釈】 都よりは山坂を離れている越に五か年間を住み住みして、立ち別れようことの惜しい今夜であるよ。
(353)【評】 公の餞別の宴へ客として臨んでの挨拶で、惜別の心である。語は淡いが情味が籠もっていて、ゆったりとした調べが、実感を裏づけるものとなっている。貫禄のある歌である。初句より三句までは巻五(八八〇)憶良、「天ざかる鄙に五年住ひつつ」によったものであるが、いう心の異なった語を取って、無理なきものにこなしきっている。
 
     五日の平旦、道に上る。仍りて国司の次官已下請僚、皆共に視送る。時に射水郡の大領|安努君《あのきみ》広島が門前の林の中に、預《かね》て餞饌の宴を設《ま》く。ここに大帳使大伴宿禰家持の、内蔵伊美吉繩麿の盞《さかづき》を捧ぐる歌に和《こた》ふる一首
 
【題意】 「平旦」は、暁。「射水郡」は、国府のある郡。「大領」は、郡の長官。「安努君」という氏は、『倭名類聚鈔』に安努郷というがあり、今の氷見市加納の地だという。郷名よりのものであろう。大領少領はその地方の豪族であるから、広島もそうした人であろう。「盞を捧ぐる歌」は、人に盞を勧める時には、挨拶として歌を詠んだ後にすることが請書に出ている。定まった型である。ここで別れようとしてのことである。その歌は載せていない。
 
4251 玉《たま》ほこの 道《みち》に出《い》で立《た》ち 往《ゆ》く吾《われ》は 君《きみ》が事跡《ことと》を 負《お》ひてし行《ゆ》かむ
    玉桙之 道尓出立 徃吾者 公之事跡乎 負而之將去
 
【語釈】 ○君が事跡を負ひてし行かむ 「事跡」という語は、語義が明らかでなく、したがって諸説のあるものである。『代匠記』は、行事の蹤迹《しようせき》。『考』は「しわざ」と訓み、政務の事跡。本居宣長は『略解』で、古事記、神代の巻、伊邪那岐命が黄泉国に伊邪那美命を訪うて、夫婦関係を絶つことを、「事戸をわたす」といっているそれで、離別の証のことと思われるといっている。しかし古事記「許等度」の「度」は、甲類で、この「跡」は、乙類であるので、同語とするには疑いがもたれている。『代匠記』の解に従う。「負ひてし行かむ」は、負い持って行こうで、喜びの意。
【釈】 京への道に出で立った私は、あなたよりの事跡を負い持って行きましょう。
【評】 繩麿の歌はどういうものであったかは不明であるが、国庁を代表して、最後の別れを述べたものであるから、多年の勤労をねぎらい、道中の無事を祈るというような、公式な挨拶であったろう。和え歌としても、ここに喜びの心をいったということは、自然である。これも公式の挨拶で、個人的気分のまじらないものである。
 
(354)     正税帳使掾久米朝臣広繩、事|畢《を》へて任に退《まか》り、適《たまたま》越前国の掾大伴宿禰池主の館に遇ひ、仍りて具に飲楽しき。時に久米朝臣広繩の芽子《はぎ》の花を矚《み》て作れる歌一首
 
【題意】 「事畢へて任に退り」は、正税帳使の任務が果てて、その任地へ帰り。「退り」は、尊い所より引き下がる意。下がる広繩、上がる家持が、期せずして途中の越前の池主の館で遇って、酒宴を開いたのである。「芽子の花を矚て」は、池主の庭前の萩の花を見て。
 
4252 君《きみ》が家《いへ》に 植《う》ゑたる芽子《はぎ》の 初花《はつはな》を 折《を》りて挿頭《かざ》さな 旅別《たびわか》るどち
    君之家尓 殖有芽子之 始花乎 折而插頭奈 客別度知
 
【語釈】 ○君が家に 池主の館に。○旅別るどち 旅で別れをするどうしで、広繩も家持も旅の身だからである。「別るどち」は、終止形から体言に接した古格の語。
【釈】 君の家に植えてある萩の初花を、折って挿頭にして酒宴を楽しみましょう。旅で別れをするどうしは。
【評】 題詞でその折の気分が察しられる。池主、家持、広繩と心合いの者の三人だけが、こうした場合偶然に落ち合ったのであるから、感懐の深いことであったろうが、そうしたことには触れず、宴歌として淡い物言いをしているところに、かえって余情がある。「君が家に」と、池主のこともいい、「初花を」と、細かい余情のある捉え方をしているところに、しみじみした気分が出ている。それとない哀愁のある歌である。
 
     大伴宿禰家持の和《こた》ふる歌一首
 
4253 立《た》ちて居《ゐ》て 待《ま》てど待《ま》ち兼《か》ね 出《い》でて来《こ》し 君《きみ》に此処《ここ》に遇《あ》ひ 挿頭《かざ》しつる芽子《はぎ》
    立而居而 待登待可祢 伊泥※[氏/一]來之 君尓於是相 插頭都流波疑
 
【語釈】 ○立ちて居て待てど待ち兼ね 立ったり坐ったりして待ったが、待ちきれずして。○出でて来し君に此処に遇ひ 出て来たあなたにここで遇って。○挿頭しつる芽子 挿頭としたこの萩の花よ。
(355)【釈】 立ったり坐ったりして待ったが、待ちきれずに出かけて来たあなたにここで遇って、ともに挿頭としたこの萩の花よ。
【評】 家持の和え歌は事の全体を対象として、偶然にも遇い得た深い喜びと、心合いの者の別宴を催している喜びまでもいっているものである。率直に、心を尽くしていおうとしつつ、尽くしかねるものを持っているような歌である。
 
     京《みやこ》に向ふ路上にして、興に依りて預《かね》て作れる、宴《うたげ》に侍ひて詔に応《こた》ふる歌一首 并に短歌
 
【題意】 京に帰れば、朝廷の宴に侍することがあり、詔で賀歌を奉ることがあろうと予想し、そうした場合のためにと、あらかじめ歌を作ったのである。
 
4254 秋津島《あきづしま》 大和《やまと》の国《くに》を 天雲《あまぐも》に 磐船《いはふね》浮《うか》べ 艫《とも》に舳《へ》に 真櫂《まかい》繁貫《しじぬ》き い漕《こ》ぎつつ 国見《くにみ》し為《せ》して 天降《あも》り坐《ま》し 掃《はら》ひ平《ことむ》け 千代《ちよ》累《かさ》ね いや嗣継《つぎつぎ》に 知《し》らし来《く》る 天《あま》の日嗣《ひつぎ》と 神《かむ》ながら 吾《わ》が皇《おほきみ》の 天《あめ》の下《した》 治《をさ》め賜《たま》へば 物部《もののふ》の 八十伴《やそとも》の雄《を》を 撫《な》で賜《たま》ひ 斉《ととの》へ賜《たま》ひ 食国《をすくに》の 四方《よも》の人《ひと》をも 余《あぶ》さはず 愍《めぐ》み賜《たま》へば 古昔《いにしへ》ゆ 無《な》かりし瑞《しるし》 遍《たび》まねく 申《まを》し賜《たま》ひぬ 手拱《たうだ》きて 事《こと》無《な》き御代《みよ》と 天地《あめつち》 日月《ひつき》と共《とも》に 万世《よろづよ》に 記《しる》し続《つ》がむぞ 安見《やすみ》しし 吾《わ》が大《おほ》皇《きみ》 秋《あき》の花《はな》 其《し》がいろいろに 見《め》し賜《たま》ひ 明《あき》らめ賜《たま》ひ 酒宴《さかみづき》 栄《さか》ゆる今日《けふ》の あやに貴《たふと》さ
 蜻嶋 山跡國乎 天雲尓 磐船浮 等母尓倍尓 眞可伊繁貫 伊許藝都追 國看之勢志※[氏/一] 安母里麻之 掃平 千代累 弥嗣繼尓 所知來流 天之日繼等 神奈我良 吾皇乃 天下 治賜者 物乃布能 八十友之雄乎 撫賜 等登能倍賜 食國之 四方之人乎母 安夫左波受 〓恨賜者 從古昔 無利之瑞 多婢末祢久 申多麻比奴 手拱而 事無御代等 天地 日月等登聞仁 万世尓 記續牟曾 八隅知之 吾大皇 秋花 之我色々尓 見賜 明米多麻比 酒見附 榮流今日之 安夜尓貴左
 
【語釈】 ○秋津島大和の国を 「秋津島」は、秋の穀物の豊かな土地の意で、大和を讃えての枕詞。○天雲に磐船浮べ 「磐船」は、磐のごとく堅(356)固な船で、「磐」は、譬喩。○い漕ぎつつ国見し為して 「い漕ぎつつ」は、「い」は、接頭語。「つつ」は、継続で、空中を漕ぎまわって。「国見」は、高きより国を展望する意で、国土のさまを視察する意。「し」は、強意の助詞。「為して」は、「して」の敬語。○天降り坐し掃ひ平け 「天降り坐し」は、天より降り賜いて。「まし」は、敬語の助動詞。「掃ひ平け」は、敵対する者を平定し服従させて。以上は瓊々杵尊の降臨を叙したものであるが、古事記、日本書紀の伝えとは異なっており、むしろ饒速日命の伝えに近いものである。作者は崇古の情の深い家持であり、また詔に応える心をもっての作でもあるから、こうした伝えが当時なお一般に承認されていたものとみえる。○知らし来る天の日嗣と この国を御支配になられて来る天つ日嗣の天皇として。ここは天平勝宝元年御即位になられた孝謙天皇をさしている。○神ながら吾が皇の 神そのままにわか大君の。○撫で賜ひ斉へ賜ひ 「撫で」は、愍《あわれ》む意を具象的にいったもの。「斉へ」は、調子を合わせることで、秩序をあらせること。○余さはず愍み賜へば 「あぶさはず」は、本居宣長は、源氏物語「玉かづら」の巻に、「落しあぶさず、とりしたため給ふ」とあると同じだとしている。「あぶさふ」は、「あぶす」の連続で、残さず、漏らさずの意。○古昔ゆ無かりし瑞遍まねく申し賜ひぬ 「瑞」は、漢土の、皇帝に徳があると、天が瑞祥を示すという信仰を伝えたもので、しばしば出た。上の陸奥国より金を産したごときはその代表的のものである。「遍まねく」は、幾度となくで、これは続日本紀にあり、そのたびに改元となっているのである。「申し賜ひぬ」は、「賜ひ」は、謙譲の補助動詞で、相手を敬って、こちらの行動に添える敬語。奏上したの意。○手拱くて 「うだき」は、「抱き」の古語。手を抱きては、なすべき事のない意を具象的にいったもの。○安見しし吾が大皇 安泰なさまに天下を御支配になられるわが天皇で、天皇を讃えまつる成句。○秋の花其がいろいろに 「秋の花」は、現在咲いている花。「其がいろいろに」は、その様々《さまざま》を。○見し賜ひ明らめ賜ひ 「見し」は、「見」の敬語。「明らめ」は、心を晴らす意。御覧になり、御心を晴らさせられて。○酒宴栄ゆる今日のあやに貴さ 「酒宴」は、肆宴をして。「栄ゆる」は、笑み栄えいます今日の。御酒に酔い賜うこと。「あやに」は、限りなくも。
【釈】 秋津島の大和国を、天雲に磐のごとき船を浮かべ、艫に舳に真櫂を繁く取り着けて、漕ぎながら国見をなされて、天降りなさって、敵対する者を平定し服従させて、千代をかさねていよいよ継ぎ継ぎに、御支配になられて来る天つ日嗣として、神そのままにわが大君の天の下をお治めになるので、多くの部族の長たる廷臣を、御愛撫なされ、御調整なされ、御領国の四方の人々をも、漏るることなくお愍みになられるので、昔からなかった祥瑞を、たび多く奏上した。手をこまねいていらせられる泰平な御代であるとして、天地月日とともに永久に、史官の人も記して伝えることでございましょう。安らかに天下を御支配になられるわが大君の、秋の花のそのさまざまを、御覧になり御心を晴らさせられて、召しあがる御酒に笑み栄えていらせられる今日の、限りなくも貴いことでございます。
【評】 宮中の肆宴に、詔によって歌を奉るということが、どの程度まで実現性のあったものか疑わしい。そうした例が少ないからである。題詞にある「興に依りて」というのが作因で、京なつかしい心の一つの発露であったろう。家持の想像したのは、秋の草花を御覧になるにつけ、群臣に陪覧を賜い、御酒を賜うことである。歌はそれにつけて、天皇を賀する心をいうのであるが、その構成は、じつに大がかりで、第一段は、皇基である瓊々杵等の降臨、第二段は、天つ日嗣としての当代の泰平の賀(357)で、第三段に至って、初めてその延長としての斯宴に入るのである。天皇を対象としての賀としては、その事柄の割《わり》には、語を尽くしすぎているほどのものである。これは家持の性分のさせることである。一首全体の感味は想像の歌のこととて生趣の乏しいものである。しかし部分的には、家持らしい特色がある。第一段の瓊々杵尊の降臨を叙したところは、上にいつたがごとく、古事記、日本書紀と異なったものである。官撰のこの二書がすでに行なわれていた時代に、それと異なったこのような伝えを述べるということは、二書の権威を無視することで、それが当時にあってはさしたることではなかったにもせよ、場合がら尋常のことではなかったろうと思われる。また、第三段、天皇が秋花を御鑑賞になる想像も、上よりの続きとしては、あまりにも一般人と異ならないことで、平常のこととしてならば格別、改まっての賀歌としては、かえっていかんの感のあるものである。人麿、赤人などには見られないことである。これらは要するに、家持の個人性を通じての賀ということで、従来には見られなかったものである。
 
     反歌一首
 
4255 秋《あき》の時《とき》 花《はな》種《くさ》にあれど 色別《いろごと》に 見《め》し明《あき》らむる 今日《けふ》の貴《たふと》さ
    秋時 花種尓有等 色別尓 見之明良牟流 今日之貴左
 
【語釈】 ○秋の時花種にあれど 初二句の訓は異訓の多いものである。『新訓』は「秋の時花種なれど」と訓んでいる。原文に従っての訓。「秋の時」は、秋の季節は。この語が用例のないものであるところから、異訓が出たのである。「花種にあれど」は、花はくさぐさにあるけれどもの意。○色別に その花の色ごとに。
【釈】 秋の季節は、花がくさぐさにあるけれども、その花の色ごとに、御覧になり御心を晴らさせられる今日の貴いことよ。
【評】 長歌の結末を受けて繰り返したものである。初二句に新意を持たせているが、工夫してのものである。想像の歌の弱所を示した歌である。
 
     左大臣橘|卿《まへつぎみ》を寿《ことほ》かむ為に、預《かね》て作れる歌一首
 
【題意】 「左大臣橘卿」は、橘諸兄の尊称としてのもの。これは普通のことであった。「寿かむ」は、老境に入って左大臣の現職にあることを賀そうとするために。
 
(358)4256 古《いにしへ》に 君《きみ》が三代《みよ》経《へ》て 仕《つか》へけり 吾《わ》が大主《おほぬし》は 七世《ななよ》申《まを》さね
    古昔尓 君之三代經 仕家利 吾大主波 七世申称
 
【語釈】 ○君が三代経て仕へけり 「君が三代経て」は、天皇の三代にわたって。「仕へけり」は、お仕え申したで、「けり」は、過去の助動詞。その人については諸説があって、『代匠記』は、武内宿禰、『略解』は、諸兄の母夫人県犬養三千代、『新考』は、西漢の名臣霍公であろうといっている。漢土を尊んでおり、漢籍も多く読まれていた時代だから、『新考』の推量が比較的あたっていよう。○吾が大主は 「主」は、主君の称で、それに形容詞「大」を添えた敬称。「吾が」は、親しんで添えたもの。○七世申さね 七代にわたって大臣として国政を奏上なさいませ。
【釈】 古には三代にわたって仕えた人がありました。わが大主は七代にわたって、大臣として国政を奏上なさいませ。
【評】 寿ぎは、老齢の人の、今後の健在を祝う心よりのものである。左大臣としての諸兄を寿ぐには、現在のごとき位置の持続を希うこととすべきである。霍公の三代に歴任したのを例とし、諸兄を七世といって賀したのは、名臣とする心も絡み、事も広くなって、妥当の言い方である。賀歌としては新味のあるものである。
 
     十月二十二日、左大弁|紀飯暦《きのいひまろ》の朝臣の家にて宴《うたげ》せる歌三首
 
【題意】 「左大弁」は、弁は、太政官に属し、左右に分かれて、各大中少とあり、八省を分管して、宮中の庶政を行なう職。「紀飯麿」は、古麿の長子。天平宝字六年七月、散位従三位をもって薨じた。歌はない。
 
4257 手束弓《たつかゆみ》 手《て》に取《と》り持《も》ちて 朝猟《あさかり》に 君《きみ》は立《た》たしぬ 棚倉《たなくら》の野《の》に
    手束弓 手尓取持而 朝※[獣偏+葛]尓 君者立之奴 多奈久良能野尓
 
【語釈】 ○手束弓 握り太の弓。「手束杖」という類語がある。○朝猟に君は立たしぬ 「朝猟」は、早朝にする猟。「君」は、誰ともわからぬ。「立たしぬ」は、敬語。○棚倉の野に 「棚倉」は、『神名帳』に、「山城国綴喜郡棚倉孫神社」とあり、この神社は今は京都府綴喜郡田辺町にある。その一帯の平地か。左注にある久邇京からは近い所である。
【釈】 握り太の弓を手に持って、朝猟に君はお立ちになった。棚倉の野へ。
(359)【評】 左注によると、久邇京時代の歌である。「君」はどういう人かわからないが、狩猟に出る人であるからしかるべき貴族で、作者はその家臣で、主君の勢の盛んなのを賀する心よりのものである。平淡な歌であるが、明るい気分よりのもので、実際に即してもいるので、快く感じられる。時は十月で、猟期にも入っているから、時宜に適した歌である。宴歌は一同に興味を与えうるものであれば、古歌でもさしつかえなかったのである。
 
     右の一首は、治部卿船王の伝へ誦《よ》める。久邇の京都《みやこ》の時の歌なり。いまだ作主を詳にせず
      右一首、治部卿船王傳誦之。久迩京都時歌。 末v詳2作主1也
 
【解】 「船王」は、舎人親王の御子。淳仁天皇の御兄である。「久邇の京都」は、天平十二年十二月より十六年正月までの皇都。
 
4258 明日香河《あすかがは》 河戸《かはと》を清《きよ》み 後《おく》れ居《ゐ》て 恋《こ》ふれば京《みやこ》 いや遠《とほ》そきぬ
    明日香河 々戸乎清美 後居而 戀者京 弥遠曾伎奴
 
【語釈】 ○河戸を清み 「河戸」は、河門とも書く。河の流れの狭くなった所の称。「清み」は、清いゆえに。この歌の作者の家がそこの近くにあり、目に親しんでいたのであろう。○後れ居て 後に残っていて。遷都で、人々は新都に移ったが、この作者は後にとどまっていて。○恋ふれば京いや遠そきぬ 恋うていると京はいよいよ遠くなった。「遠そき」は、遠退きて、作者より遠くなった意。「いや」は、清御原宮より藤原宮、さらに奈良宮と遷られたのである。奈良遷都後かど(360)うかは知られない。
【釈】 明日香河の河門が清いゆえに後に残っていて、恋うていると、京はいよいよ遠くなった。
【評】 遷都の後の古京にとどまっていられる人は、朝廷に現職を持っていない人で、この作者は多分女であろう。故京に残ったのは、「明日香河河戸を清み」で、馴染深い風光に離れ難いためであるが、さすがに京恋しい心は持っているのに、その京は次第に遠ざかって行ったというので、自然への愛と人恋しい心のからみあった、一種の哀愁に浸った心である。語つづきには固さがあるが、調べは細く、作意としてはこの時と異ならないものである。
 
     右の一首は、左中弁中臣朝臣清麿の伝へ誦める古き京の時の歌なり。
      右一首、左中辨中臣朝臣清麿傳誦古京時歌也。
 
【解】 「左中弁」は、太政官の弁官の次官。「中臣朝臣清麿」は、官位累進して、延暦七年七月、八十七歳で薨じた時は正二位前右大臣で、大中臣朝臣と称した。「古き京」は、飛鳥京である。
 
4259 十月《かみなづき》 時雨《しぐれ》の常《つね》か 吾《わ》が兄子《せこ》が 屋戸《やど》のもみち葉《ば》 散《ち》りぬべく見《み》ゆ
    十月 之具礼能常可 吾世古河 屋戸乃黄葉 可落所見
 
【語釈】 ○散りぬべく見ゆ 散りそうに見える。左注によると、梨の黄葉である。
【釈】 十月の時雨の習いなのか。懐かしいあなたの庭の黄葉が、散ってゆきそうに見える。
【評】 庭前の梨子の黄葉のさまを詠んだもので、宴歌としては淡泊をきわめたものである。「十月時雨の常か」と知性的に言い起こし、「散りぬべく見ゆ」と微細な趣をいっているところは、家持の歌と思わせるが、やや興を強いた、沈滞風の見える歌である。八月上旬、帰京の途中以来、十月下旬に至って初めて見える歌で、家持としては珍しいことで、その気分も関係していよう。
 
     右の一首は、少納言大伴宿禰家持の、当時梨の黄葉《もみち》を矚《み》て此の歌を作れる。
(361)      右一首、少納言大伴宿祢家持、昔時矚2梨黄葉1作2此歌1也。
 
【解】 「当時」は、その時で、宴の際である。
 
     壬串の年の乱《みだれ》の平定《しづま》りし以後《のち》の歌二首
 
【題意】 「壬申の年の乱」は、近江大津宮の弘文天皇の元年、吉野に籠もっていられた大海人の皇子が、伊勢より美濃へ出て、近江朝の軍と戦い、七月二十三日、天皇は山前に崩じた乱である。歌は、皇子が大和の飛鳥清御原で即位され、天武天皇となられた時代に、天皇を賀したものである。
 
4260 皇《おほきみ》は 神《かみ》にし坐《ま》せば 赤駒《あかごま》の 匍匐《はらば》ふ田井《たゐ》を 京師《みやこ》となしつ
    皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田爲乎 京師跡奈之都
 
【語釈】 ○皇は神にし坐せば 天皇は神にいらせられるので。これは天皇に対しての讃詞の成句となっている。「八隅しし我が大君、高光る日の御子」を要約し、一歩前進させて、天皇は即神であるとしたものである。後には慣用句となったが、その最も古いものである。「神」は威力の限りないものとしていっているのである。○赤駒の匍匐ふ田井を 「赤駒」は、駒で、「赤」は、駒は普通毛色の赤いところから添えたもの。「田井」は、田。駒が腹這っているような平凡な地の意。○京師となしつ 尊い京師と変えたで、変化の甚しいことをいったもの。
【釈】 天皇は神でいらせられるので、駒が腹ばっている田圃を、京師と変えた。
【評】 飛鳥の清見原が皇都となった時、以前は駒が腹ばっている田圃であったことを思い、その変化の著しさは神にして初めてなしうることだとして、天皇は神であらせられると誘えたのである。なされた事蹟によって威力の限りなさを感じ、神でいらせられると讃えたので、単なる信仰よりの讃えではない。内容が充実しており、調べも張って、さわやかな賀歌である。
 
     右の一首は、大将軍にして右大臣を贈られたる大伴|卿《まへつぎみ》の作れる。
      右一首、大將軍贈2右大臣1大伴卿作。
 
【解】 「大伴卿」は、大伴|御行《みゆき》。長徳の子で、家持の祖父安麿の兄である。大宝元年正月、大納言をもって薨じ、右大臣を贈られ(362)た。
 
4261 大王《おほきみ》は 神《かみ》にし坐《ま》せば 水鳥《みづとり》の すだく水沼《みぬま》を 皇都《みやこ》と為《な》しつ 作者末だ詳ならず。
    大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通 作者未v詳。
 
【語釈】 ○水鳥のすだく水沼を 「すだく」は、多く集まる意。「水沼」は、水を湛えている沼で、沼を強めていったもの。
【釈】 大王は神でいらせられるので、水鳥の多く集まっている沼を、京都とされた。
【評】 上の歌にならって作ったものとみえる。上の歌が謡い物となれば、当然生まれて来るべき性質のものである。清御原が一と続きの田であれば、灌漑用の沼もあったろうから、同じ境を、角度を変えて詠んだにすぎないものである。上の歌のさわやかさには及ばない。
 
     右の件《くだり》の二首は、天平勝宝四年二月二日聞きて、即茲に載す。
      右件二首、天平勝寶四年二月二日聞v之、即載2於茲1也。
 
     閏三月、衛門督《ゆげひのつかさ》大伴|古慈悲《こじひ》宿禰の家にて、入唐の副使《そへづかひ》同じ胡麿《こまろ》宿禰等を餞《はなむけ》せる歌二首
 
【題意】 「衛門督」は、衛門府すなわち宮廷護衛の役所の長官。「ゆげひ」は靱負で、武官の総称。「古慈悲」は、祖父麿の子で、家持とは血縁としては遠い一族である。才幹があり、藤原不比等がその女を娶《めと》らせている。勝宝元年には従四位上となっており、家持よりは位置が高かったのである。宝亀八年八月、大和守従三位をもって、八十三で薨じた。「胡麿」は、旅人には甥であり、家持とは従兄弟の間柄である。天平勝宝二年九月遣唐副使となり、同じ六年正月帰朝、左大弁となり、陸奥鎮守府将軍陸奥按察使を兼ねたが、天平宝字元年七月橘奈良麿の乱に坐して捕えられ、獄死をした。
 
4262 韓国《からくに》に 行《ゆ》き足《た》らはして 帰《かへ》り来《こ》む 大夫武雄《ますらたけを》に 御酒《みき》たてまつる
    韓國尓 由伎多良波之※[氏/一] 可敞里許牟 麻須良多家乎尓 美伎多弖麻都流
 
(363)【語釈】 ○韓国に行き足らはして 「韓国」は、唐国。「行き足らはして」は、「足らはし」は「足る」の連続「足らふ」の敬語で、十分に果たされて。○御酒たてまつる 「御酒」は、酒の古語「き」の敬語。祝の酒であるがゆえに敬語としたもの。「たてまつる」は、勧める意の敬語。
【釈】 唐国に、国使として行って、十分に任務をお果たしになって帰って来るであろう、大夫武雄のあなたに、祝の御酒を差上げます。
【評】 杯を勧める前に、その理由を歌をもって述べるのは型となっている儀礼で、これもそれである。遣唐使は重任であるとともに最も危険な旅であって、生を賭して向かうべきものであった。「韓国に行き足らはして帰り来む」は、その二つを含めた上に、さらに無事で帰って来る祝をもこめたもので、「御酒」はそのためのものである。一首、簡潔に、事と心を尽くし、それにふさわしい強く重い調べをもっていっているもので、堂々たる賀歌である。
 
     右の一首は、多治比真人鷹主《たぢひのまひとたかぬし》、副使《そへづかひ》大伴胡麿宿禰を寿《ことほ》ける。
      右一首、多治比眞人鷹主、壽2副使大伴胡麿宿祢1也。
 
【解】 「多治比真人鷹主」は、伝未詳。天平宝字元年七月、古慈悲と同じく、橘奈良麿の乱に参加していることだけが知られる人である。
 
4263 梳《くし》も見《み》じ 屋中《やぬち》も掃《は》かじ 草枕《くさまくら》 旅行《たびゆ》く君《きみ》を 斎《いは》ふと思《も》ひて 作者未だ詳ならず
    梳毛見自 屋中毛波可自 久左麻久良 多婢由久伎美乎 伊波布等毛比※[氏/一] 作者未v詳
 
【語釈】 ○梳も見じ屋中も掃かじ 「梳」は、櫛に当てた字で、櫛も見ますまい。これは、家族の者の旅立った後は、その人の無事を祈るために家に残った者は髪を梳らないという信仰があったのである。「屋中も掃かじ」は、家の中を掃くこともしないで、これもその心は、上と全く同じである。これは現在も、ある程度保たれている信仰で、本来の状態を改めると、旅にある人に、新しい事変が起こると信じていたとみえる。○斎ふと思ひて 「斎ふ」は、斎戒して神に祈って守る意。「思ひて」は、この時代の語法として、軽く添えるもので、「斎ひて」というと差のないものである。
【釈】 われは櫛も目にしまい。家の中を掃くこともしまい。草枕旅を行く君の無事を神に祈ることと思って。
【評】 これは注によって、「作者未だ詳ならず」の歌である。歌そのものから見ると、胡麿の妻の歌とすれば最も適当であるが、(364)その人はその席には居なかったろうから、妻に代わって、誰かが古歌を誦んだのである。作意は、あくまでも無事を祈ろうというのであるから、一族としての餞の宴にあっては、誰が誦んでも不適当ではないものである。この種の信仰の堅く守られていた雰囲気の中での歌で、場合がら、感の深いものであったろう。
 
     右の件《くだり》の歌を伝へ誦めるは、大伴宿禰|村上《むらかみ》、同じ清継《きよつぐ》等なり。
      右件歌傳誦、大伴宿祢村上同清繼等是也。
 
【解】 「右の件の歌」は、右の二首の歌である。村上と清継の二人の名を連ねているのは、二人が同じことを伝えた意であろう。これは家持は何らかの事情でその餞の宴に列せなかったからのことであろう。「村上」は、巻八(一四三六)に出た。「清継」は、伝未詳である。
 
     従四位上|高麗《こま》朝臣|福信《ふくしん》に勅し、難波に遣し、酒肴を入唐使藤原朝臣清河等に賜へる御歌一首并に短歌
 
【題意】 「高麗朝臣福信」は、武蔵国高麗郡の人。もとの姓は背奈《せな》といい帰化人である。天平勝宝二年正月、高麗朝臣の姓を賜わった。従三位弾正尹兼武蔵守になり、延暦四年致仕、同八年十月、八十一で薨じた。「藤原清河」は、上に出た。「御歌」は、孝謙天皇の御製である。
 
4264 そらみつ 倭《やまと》の国《くに》は 水《みづ》の上《うへ》は 地《つち》往《ゆ》く如《ごと》く 船《ふね》の上《うへ》は 床《とこ》に坐《を》る如《ごと》 大神の《おほかみ》 鎮《いは》へる《くに》国ぞ 四《よ》つの舶《ふね》 舶《ふな》の舳《へ》並《なら》べ 平安《たひら》けく 早《はや》渡《わた》り来《き》て 返言《かへりごと》 奏《まを》さむ日《ひ》に この豊御酒《とよみき》は 相飲《あひの》まむ酒《き》ぞ
    虚見都 山跡乃國渡 水上波 地徃如久 船上波 床座如 大神乃 鎭在國曾 四舶 々能倍奈良倍 平安 早渡來而 還事 奏日尓 相飲酒曾 斯豊御酒者
 
(365)【語釈】 ○そらみつ倭の国は 「そらみつ」は、倭の枕詞。「倭」は、ここは日本の総名としてのもの。○水の上は地往く如く 海上は、地の上を行くがごとくに安全で。海上の安全さを祝っての語である。○大神の鎮へる国ぞ 「大神」は、「大」は、神を崇めて添えたもので、「神」は、天神地祇を広くさしたもの。「鎮へる」は、『略解』の訓。「鎮」を「いはふ」に当てたのは用例がある。鎮護なされるの意。以上第一段。○四つの舶舶の舳並べ 「四つの舶」は、遣唐使の船は四艘と定まっており、大使、副使、判官、主典がそれぞれ分乗するのである。大使は清河。副使は胡麿、吉備真備である。「舶の舳」は、船首を。○返言奏さむ日に 返事を奏すであろう日に。○相飲まむ酒ぞこの豊御酒は 「相飲まむ酒ぞ」は、共に飲むべき酒であるぞ。「豊御酒」は、「豊」は、讃えて添えた語。「御酒」は、敬語で、これは神に祈っての御酒であるとして、差別していわれたもの。「返言」以下は、巻六(九七三)聖武天皇の「酒を節度使の卿等に賜へる御歌」の結末「還り来む日相飲まむ酒ぞ、この豊御酒は」とほとんど同じで、型となっていたものとみえる。
【釈】 そらみつ日本の国は、海の上は、地の上を往くがように安全に、船の上は、床の上におるがごとく安全に、大神の鎮護していらっしゃる国であるぞ。四つの船が舳先を並べて、無事に早く帰って来て、返事を奏すであろう日に、共に飲むであろう酒であるぞ、この良い御酒は。
【評】 遣唐使の無事任務を果たして帰るようにと、天皇として初めに祈り給い、その豊御酒を一行に賜わる時に、天皇の御祝として添えられた御歌である。語の続きがいかにも簡潔である。「水の上は地往く如く、船の上は床に坐る如」は、言霊を信じてのお祝である。「四つの舶」以下「返言奏さむ日に」までも、往路の事には触れず、ただ帰路のみをいわれているのも、同じくお祝である。「この豊御酒は」は、今は往路の無事を神に祈られてのものであるが、それに、無事帰朝の日の、報賽の意の豊御酒をも含めてのもので、簡潔をきわめたものである。聖武天皇の節度使に賜わった御歌は、語の続きが暢びやかで、洋々とした趣を持っているが、この遣唐使に賜わった御歌は、語の続きが緊縮して、お思い入りの深さを示しているのである。これは事の性質が異なっているがためで、天皇としての尊厳を保って、情理を尽くさせられている点は同一である。
 
     反歌一首
 
4265 四《よ》つの舶《ふね》 早《はや》還《かへ》り来《こ》と 白香《しらか》著《つ》け 朕《わ》が裳《も》の裾《すそ》に 鎮《いは》ひて待《ま》たむ
    四舶 早還來等 白香著 朕裳裙尓 鎭而將待
 
【語釈】 ○白香著け 「白香」は、巻三(三七九)大伴坂上郎女の神を祭る歌に、「奥山の賢木の枝に、白香付く木綿取り付けて」と出、その他にもあって、神を祭る時の定まった型である。いったがように語義定まらず、「木綿」「白髪」「白紙」「白い苧」と諸説があるが、白い苧という解が(366)あたっていようと思われる。祭式は代表的に古風の守られているもので、現在の状態をもって推しても誤りのないものに思える。現在でも、榊に着ける物は麻と木綿で、木綿の代わりに白紙を用いてもいる。上の坂上郎女の歌にあるように、白香は木綿と対したもので、白い麻、楮の繊維などであったろう。○朕が裳の裾に鎮ひて待たむ 「裳の裾に」につき、『古義』は、巻五(八一三)大伴旅人の鎮懐石の歌の題詞の「茲の両つの石を用ちて、御袖の中に挿み著けて、鎮懐と為したまひき。実は御裳の中なり」を引き、斉《いわい》と裳とは特別の関係のあることをいっている。これは女の裳は神秘なる力のあるものとする信仰が古くよりあり、それによってのことと取れる。裳の裾で斎って待とうというので、格別な斉である。
【釈】 四つの船が早く還って来よと、白香を着けて、朕が裳の裾で斎って待っていようぞ。
【評】 「白香著け」以下は、女帝であるがゆえの思召しであるが、天皇というよりも、一人の慈愛深い女性としての思召しと言いうるものである。天皇の御真情の発露である。
 
     右は、勅使を発遣《いだしつかは》し、并せて酒を賜ひて楽宴《うたげ》せし日月《ひつき》、いまだ詳審《つまびらか》なるを得ず。
      右、2遣勅使1、并賜v酒樂宴之日月未v得2詳審1也。
 
【解】 遣唐使一行が、出航のため難波に下っていたのであるが、出航のさし迫った日のことであろう。「楽宴せし」は、天皇の賀して賜わった御酒をいただくことをいったものである。
 
     詔に応へむ為に儲《ま》けて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 宮中で肆宴の日には、詔によって、作歌に堪える者は賀歌を献ずることがあったので、そのためにあらかじめ作った意である。
 
4266 あしひきの 八峯《やつを》の上《うへ》の 樛《つが》の木《き》の いや継々《つぎつぎ》に 松《まつ》が根《ね》の 絶《た》ゆること無《な》く あをによし 奈良《なら》の京師《みやこ》に 万代《よろづよ》に 国《くに》知《し》らさむと やすみしし 吾《わ》が大皇《おほきみ》の 神《かむ》ながら 思《おも》ほしめして 豊《とよ》の宴《あかり》 見《め》す今日《けふ》の日《ひ》は もののふの 八十伴《やそとも》の雄《を》の 島山《しまやま》に あかる橘《たちばな》 髻華《うず》にさし 紐《ひも》解《と》き放《さ》けて 千年《ちとせ》寿《ほ》き 寿《ほ》きとよもし ゑらゑらに 仕へ奉るを 見《み》るが貴《たふと》さ
(367)    安之比奇能 八峯能宇倍能 都我能木能 伊也繼々尓 松根能 絶事奈久 青丹余志 奈良能京師尓 万代尓 國所知等 安美知之 吾大皇乃 神奈我良 於母保之賣志弖 豊宴 見爲今日者 毛能乃布能 八十伴雄能 嶋山尓 安可流橘 宇受尓指 紐解放而 千年保伎 保吉等餘毛之 惠良々々尓 仕奉乎 見之貴者
 
【語釈】 ○あしひきの八峯の上の樛の木のいや継々に 「八峯」は、数多《あまた》の峯。「樛」は、今のとが。類音で「継」にかかり、以上その序詞。「いや継継に」は、下の「大君」の賀。「樛の木のいや継々に」は、巻一(二九)にもあって、慣用句といえる。○松が根の絶ゆること無く 「松が根の」は、松の根のごとくで、譬喩の枕詞。「絶ゆることなく」は、同じく「大君」の賀。「松が根」は、松の木の意にも用いるが、ここは文字どおりのもの。○豊の宴見す今日の日は 「豊の宴」は、豊明《とよのあかり》ともいう。宮中の酒宴の称。「豊」は、美称。「あかり」は、酒を飲んで顔の赤くなる意。「見す」は、「見る」の敬語であるが、ここは転じて、行なわせられる意のもの。○もののふの八十伴の雄の 廷臣の百官のの意で、既出。○島山にあかる橘 「島山」は、島は庭園の古称で、庭の築山。「あかる」は、赤くなっているで、橘の実の熟した色。同意の語で「あから橘」がある。○髻華にさし紐解き放けて 「髻華」は、儀礼として冠にさすその時の花木、またはそれを模して作った物の称。これは宴会の礼装としてである。「さし」は、冠に挿して。「紐解き放けて」は、襟の紐を解き放ちで、うち寛いでの意。肆宴の際は特に許されていたのである。○千年寿き寿きとよもし 「千年寿き」は、大君の千年の御齢を寿ぎ。「寿きとよもし」は、寿ぎ轟かしで、一同盛んに寿ぎ奉る意。○ゑらゑらに仕へ奉るを 「ゑらゑらに」は、動詞「ゑらぐ」の語幹を重ねて副詞としたもの。「ゑらぐ」は、大声に笑い楽しむ意の語。「仕へ奉るを」は、上の「千年寿き」を語を換えていったもの。○見るが貴さ 目に見ることの貴いことであるよ。廷臣百官の御仕え申すさまを讃えて、帝徳を言外にしたもの。これは天皇に対しての直接の物言いをはばかる意からである。人麿の歌にも、「樛の木のいやつぎつぎに」、巻三(三二四)赤人の歌
(368)【釈】 あしひきの山々の上に立っている樛の木に因みある、いよいよ継ぎ継ぎに、松の根のように絶えることがなく、あおによし奈良の都に、万代にわたってこの国を御支配になろうと、やすみししわが大君は神のままに思召されて、豊の宴をなさいます今日の日は、廷臣の百官は、御庭の山に赤く熟れている橘を髻華に挿し、衣の襟紐を解き放って、寛ろぎ、大君の千年を寿ぎ、寿ぎ轟かして、声高く笑い楽しんでお祝い申し上げるさまを見ることが貴いことです。
【評】 宮中での豊明は、単なる宴会ではなく、天皇には、皇祖神より代々を重ねての一系の天皇として、その事の長久ならんことを祝う御心で催され、廷臣の百官としては、その御心を体して、天皇の御代の千載を寿ぐ心をもってその御祝に列るのである。この歌の前半の、起首より「豊の宴見す今日の日は」までは、大君のその御心を具《つぶ》さに叙したものであり、後半は、廷臣百官の大君の千載を賀しまつるさまを叙したものである。結句の「見るが貴さ」は、君臣一体となっているそのさまを、廷臣の一人ではあるが、卑下して一歩退いて、盛儀を陪観する態度で叙して、賀宴を力強く結んだ形のものである。この歌は賀歌に伴いやすい誇張がなく、また型に捉われて窮屈になりがちなところもなく、心やすらかに、暢び暢びと詠んでいるもので、その意味で注意される歌である。京に帰ってからの家持は訝かしいまでに歌がなく、稀れにあっても強いて作ったような趣のもののみであるのに、この歌はその本来の気分に乗りつつも、適当な抑制を加えている、彼の歌らしいものとなっているのである。「儲けて作れる」と題しているが、宮中の肆宴を想像すると、漠然として作歌欲が起こり、その気分のままに詠んだのであろう。「儲けて」は準備のためという、実用の意味よりのことではなかったろうと思われる。生趣は乏しいともいえるが、実況を目にしても、自在に生趣を発揮しうる性質の歌ではないから、多くを求めるべきではなかろう。
 
     反歌一首
 
4267 天皇《すめろき》の 御代《みよ》万代《よろづよ》に かくしこそ 見《め》し明《あき》らめめ 立《た》つ毎年《としのは》に
    須賣呂伎能 御代万代尓 如是許曾 見爲安伎良目米 立年之葉尓
 
【語釈】 ○天皇の御代万代に 天皇の御代の永遠にわたって。○かくしこそ見し明らめめ このようにこそ肆宴をお催しになり、御心を晴らされることであろう。「見し」は、長歌と同じく、お催しになる意。○立つ毎年に 新たに来る年ごとに。これによると肆宴は新年の宴である。
【釈】 天皇の御代の永遠にわたって、このような有様にこそ、肆宴《とよのあかり》を御催しになり、御心をお晴らしになることであろう。新たに来る年ごとに。
(369)【評】 長歌の心を要約したものであるが、しかしこれは、天皇 を主にして申し、また肆宴は、新年のそれであることを示していて、相応の展開をつけたものである。賀の心が十分にある。
 
     右の二首は、大伴宿禰家持の作れる。
      右二首、大伴宿祢家持作之。
 
     天皇《すめらみこと》、太后《おほきさき》、共に大納言藤原家に幸《いでま》しし日、黄葉《もみち》せる沢蘭《さはあららぎ》一株《ひともと》を抜き取りて、内侍|佐佐貴山君《ささきのやまのきみ》に持たしめ、大納言藤原|卿《まへつぎみ》并せて陪従《ばいじゆう》の大夫等に遣賜《たま》へる御歌一首
 
【題意】 「天皇」は、孝謙天皇。「太后」は、光明皇后。「大納言藤原家」は、藤原仲麿の家。「沢蘭」は、菊科蘭草属の多年生の草木で、沢のほとりに自生する。今、沢ひよどりという。藤袴に似ており、秋、淡紫の花が咲く。「内侍」は、職名。「山君」は、姓で、名は知られない。「陪従の大夫」は、供奉の廷臣。「御歌」は、天皇の御製であろうが、太后にも言いうる語である。
 
     命婦《ひめとね》誦《よ》みて曰はく
 
【解】 「命婦」は、五位以上の婦人の総称で、ここは上の佐佐景山君である。「誦みて曰はく」は、御歌を口誦していうことには。
 
4268 この里《さと》は 継《つ》ぎて霜《しも》や置《お》く 夏《なつ》の野《の》に 吾《わ》が見《み》し草《くさ》は もみちたりけり
    此里者 繼而霜哉置 夏野尓 吾見之草波 毛美知多里家利
 
【語釈】 ○この里は 仲麿の邸のある里で、取り立てていったもの。○吾が見し草は 「草」は、沢蘭。○もみちたりけり 黄葉していたことだ。
【釈】 この里は続いて霜が置くのか。夏の野で私が見たこの草は、このようにして黄葉していたことだ。
【評】 沢蘭を賜わるにつけ、それに添えられた御歌で、贈物に添える歌の範囲のものである。季節に合わせては、早く黄葉していて珍しい物だというのが作意で、「継ぎて霜や置く」は、黄葉に理を求めた程度のものである。軽い意味の御歌である。
 
(370)     十一月八日、左大臣橘朝臣の宅《いへ》に在《いま》して、肆宴《とよのあかり》きこしめす歌四首
 
【題意】 「橘朝臣」は、橘諸兄。諸兄の姓は宿禰であるが、天平勝宝二年正月朝臣の姓を賜わったのである。「在して」は歌により、太上天皇すなわち聖武太上天皇が、諸臣を供奉として行幸されたのである。
 
4269 外《よそ》のみに 見《み》てはありしを 今日《けふ》見《み》ては 年《とし》に忘《わす》れず 念《おも》ほえむかも
    余曾能未尓 見者有之乎 今日見者 年尓不忘 所念可母
 
【語釈】 ○外のみに見てはありしを よそにばかり見ていたのに。これは、よそにしてばかりいたの意で、無関心でいたのにの意。「ありしを」は、いたものを。○今日見れば 今日、このようにこの邸を見ると。○年に忘れず念ほえむかも 「年に忘れず」は、「年に」は、一年じゅうにわたって忘れられずに。「念ほえむかも」は、思われることであろうなあ。
【釈】 よそにばかり見ていたのに、今日見ては、一年じゅうにわたって忘れられずに思われることであろうなあ。
【評】 太上天皇の、諸兄に対して賜わった御挨拶である。目的格の邸宅を省いていられるのは、相対して仰せられたものだからである。おおらかに、君臣の隔てを徹して、御心親しく仰せられている御歌である。
 
     右の一首は、太上天皇《おはきすめらみこと》の御歌。
      右一首、太上天皇御歌。
 
(371)4270 葎《むぐら》はふ 賤《いや》しき屋戸《やど》も 大皇《おほきみ》の 坐《ま》さむと知《し》らば 玉《たま》敷《し》かましを
    牟具良波布 伊也之伎屋戸母 大皇之 座牟等知者 玉之可麻思乎
 
【語釈】 ○葎はふ賤しき屋戸も 「葎はふ」は、「葎」は、桑科葎草属の多年生草本で、その這っている。これは荒れた家の形容として、慣用されている句。「賤しき屋戸も」は、わが賤しい家も。○玉敷かましを 「玉」は、美しい小石。現在だと砂利、砂の類。玉を敷いたであったろうものを。これも慣用句に近いもの。
【釈】 葎の這っている賤しい家も、大君が幸《いでま》しになろうと知ったならば、玉を敷いたであったろうものを。
【評】 御挨拶に対して、諸兄が御挨拶をお返し申したものである。「葎はふ」も「玉敷かましを」も、慣用句で、御挨拶にすぎないものである。
 
     右の一首は、左大臣橘|卿《まへつぎみ》。
      右一首、左大臣橘卿。
 
4271 松影《まつかげ》の 清《きよ》き浜辺《はまべ》に 玉《たま》敷《し》かば 君《きみ》来《き》まさむか 清《きよ》き浜辺《はまべ》に
    松影乃 清濱邊尓 玉敷者 君伎麻佐牟可 清濱邊尓
 
【語釈】 ○松影の清き浜辺に 松の木陰となっている清らかな浜の辺りに。これは諸兄の庭の池の景をいったもので、池を海になぞらえて「浜」という類は、以前よりの一般の風となっていたことである。「浜」は、砂浜の意。○玉敷かば これは諸兄の上の歌をうけていっているもの。○君来まさむか 大君が行幸になられようかで、「来まさむ」は、敬語。「か」は、疑問の助詞。
【釈】 松の木陰となっている清らかな浜辺に、玉を敷いたならば、大君が行幸になられるであろうか。清らかな浜辺に。
【評】 諸兄の「葎はふ賤しき屋戸も」といったのをうけて、その屋戸の庭の清らかなのをいい、また、諸兄の「玉敷かましを」をうけて、「玉敷かば」といい、さらにまた天皇の「年に忘れず」と仰せられたのに応じて、「君来まさむか」といっているのである。すなわち天皇と家あるじの交わされた歌の双方をうけて、その双方の心を進展させたものである。事無げに詠んでい(372)る歌ではあるが、その場にふさわしくするために、心を微細に  働かせて詠んでいるもので、宴歌としては巧みなものである。
 
     右の一首は、右大弁藤原|八束《やつか》朝臣。
      右一首、右大辨藤原八束朝臣。
 
【解】 「八束」は、房前の子。巻三(三九八)に出た。
 
4272 天地《あめつち》に 足《た》らはし照《て》りて 吾《わ》が大皇《おほきみ》 敷《し》き坐《ま》せばかも 楽《たの》しき小里《をざと》
    天地尓 足之照而 吾大皇 之伎座婆可母 樂伎小里
 
【語釈】 ○足らはし照りて 「足らはし」は、「足る」の連続をあらわす「足らふ」の敬語。上の(四二六二)「韓国に行き足らはして」のそれと同じ。充足なされて。「照り」を修飾したもの。「照りて」は、皇威を讃えた語。○敷き坐せばかも 「敷き坐せば」は、御支配になられるので、であるが、ここは行幸になられていることをいったもの。「かも」は、疑問の係助詞。○楽しき小里 「小里」は、「小」は、美称で、「里」は、諸兄の邸のある地をさしていっているのである。
【釈】 天地に充足おさせになって照らして、わが大君が行幸になっていらせられるのでか、楽しい里であることです。
【評】 一首、皇威をたたえることで終始している歌である。結句「楽しき小里」も、皇威をこうむってのことではあるが、この句には行幸を忝くした諸兄に対するよろこびがあり、また肆宴に列し得た家持自身のよろこびもあるのであるが、それらはきわめて隠約な言い方になっているのである。このような詠み方をしているのは、その場合としては、自身の地位の低い遠慮から、これ以上の言い方はできなかったものと思われる。すなわち自身を引き下げて距離を置いて、おおらかな言い方をするよりほかはなかったと思われる。左注の「いまだ奏さず」とあるのも、遠慮よりのことと思われる。その意味では地位にふさわしい心を、豊かな形において詠み得ている歌である。
 
     右の一首は、少納言大伴宿禰家持。いまだ奏さず
      右一首、少納言大伴宿祢家持。未v奏
 
(373)     二十五日、新甞会《にひなへまつり》の肆宴《とよのあかり》に、詔に応《こた》ふる歌六首
 
【題意】 「新甞会」は、その年の新穀を、天皇御自身神に供えて感謝の意を表し、それについで肆宴をなさる祭で、春の祈年祭と相対する祭である。『職員令義解』に、「大甞 謂甞2新穀1、以祭2神社1也。朝諸神之相甞祭、夕者供2新穀於至尊1也」とある。新たに神殿を設けて祭神を行なった。祭日は、皇極天皇の元年十一月、中の卯の日に行なわれてから、それが例となっていた。この月の「二十五日」は末の卯の日にあたるので、特にその日になされたのである。
 
4273 天地《あめつち》と 相栄《あひさか》えむと 大宮《おほみや》を 仕《つか》へまつれば 貴《たふと》くうれしき
    天地与 相左可延牟等 大宮乎 都可倍麻都礼婆 貴久宇礼之伎
 
【語釈】 ○天地と相栄えむと 天地とともに長久に、栄える御代であろうと思って。これは天皇の御代を賀する慣用語となっているものである。○大宮を仕へまつれば 「大宮」は、新甞会を行なう神殿で、年々新たに造営する宮で、「大」は、美称。大宮の事を御奉仕申し上げたので。大宮の御造営をはじめ、祭事の監督などをしたのであろう。○貴くうれしき その事が貴くまた身にとってもうれしいことである。係助詞がなくて連体形で結んだもので、詠歎を含んでいる。
【釈】 天地とともに永久に、御代は栄えるであろうと思って、大宮の事を御奉仕申し上げましたので、事が貴く、我もうれしいことである。
【評】 新穀の豊かな稔りは、当時にあっては、ただちに御代の栄えで、この会《まつり》は、きわめて重大なものだったのである。その全体を心に置き、祭神の責任者であった自身を「貴くうれしき」と感じての賀で、歌柄の豊かにしみじみとしているのと相俟って、その場合にふさわしい賀歌である。
 
     右の一首は、大納言巨勢朝臣。
      右一首、大納言巨勢朝臣。
 
【解】 「巨勢朝臣」は、巨勢|奈弖暦《なてまろ》。天平勝宝元年四月、大納言となり、同五年三月に薨じた。巻十七(三九二六)左注に出た。
 
(374)4274 天《あめ》にはも 五百《いほ》つ綱《ちゅな》延《は》ふ 万代《よろづよ》に 國《くに》知《し》らさむと 五百《いほ》つ綱《つな》延《は》ふ 【古歌に似ていまだ詳ならず】
    天尓波母 五百都綱波布 万代尓 國所知牟等 五百都々奈波布 似2古歌1而未v詳
 
【語釈】 ○天にはも五百つ綱延ふ 「天にはも」は、「天」は、ここは天井の意。本来、「あめ」「あま」は、高所の意で、山田孝雄氏は現在でも、静岡、秋田、八丈島では、あめ、あまを、天井の意で用いているといわれている。これは、天井としての「天」に、天皇の譬喩としての「天」をこめたものである。「五百つ綱」は、数多くの綱ということを具象的にいったもの。「延ふ」は、張り渡してあるの意。これは最古の建築は、釘という物が存在しなかったため、柱と、たるき、屋根などのつなぎ合わせは、藤蔓などの丈夫な物を綱代わりとして用いたのである。この事は『古義』が例を尽くしていっている。祭式は古式によるのが定まりであるから、新甞会の神殿は上古の風に従って造ったのである。○万代に国知らさむと 永久にこの国を御領有になられるであろうと。○五百つ綱延ふ 第二句の繰り返しであるが、これは天皇の御代の動《ゆる》ぎなく堅固なものである譬喩としていっているものである。○古歌に似ていまだ詳ならず 古歌を誦したのに似ているが、古歌であるかどうか、まだ明らかではないの意。
【釈】 天皇の御身を思わしめる神殿の天には、限りない繩が張り渡してあります。天皇は永遠にこの国を御領有になられるだろうと、堅固に動ぎなく限りない繩が張り渡してあります。
【評】 新甞会の神殿に参って、神殿がわが国上代の建築様式によって営まれ、天井に多くの繩の張り渡されているのを見、「天」という語の連想から、それを天皇の御代の堅固な象徴のごとく感じ、それを天皇に対する賀としたのである。新甞会と御代の関係の緊密さは、上の歌と同じであって、この場合、甚だ心の働いた取材である。事象を主とし、作意のほうはそれに寄せた暗示的なものとし、第二句を結句でくる繰り返すという古風な詠み方をしているのであるが、これは取材が古風なものであるから、それにふさわしい形にしたのであって、この場合、一種の技巧である。結句の「五百つ綱延ふ」が、単なる繰り返しではなく、それによって作意を明らかにしているものであることも、そのことを示している。「古歌に似て」といっているのは、形式に捉われすぎた解であって、無論新作と思われる。
 
     右の一首は、式部卿石川|年足《としたり》朝臣。
      右一首、式部卿石川年足朝臣。
 
【解】 「年足」は、石川石足の長子。天平十一年六月、出雲守として善政を施いたことを賞せられ、累進して御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勲十二等となり、天平宝字六年九月、七十五で薨じた。近く文政三年、大阪府三島郡清水村荒神山(今、高槻市に入(375)る)から年足の墓誌銘が発掘された。
 
4275 天地《あめつち》と 久《ひさ》しきまでに 万代《よろづよ》に 仕《つか》へまつらむ 黒酒《くろき》白酒《しろき》を
    天地与 久万弖尓 万代尓 都可倍麻都良牟 黒酒白酒乎
 
【語釈】 ○黒酒白酒を 「き」は、酒の古語。「黒酒」は、黒色の酒で、古くは黒麹で造り、後には常山《くさぎ》(臭梧桐)の焼灰を入れ、下っては胡麻の粉を入れたといい、時代によって造り方が異なったのである。「白酒」は、普通の酒。これは新甞会に限って用いられた御酒で、この語は新甞会ということを具象的にあらわしたものである。
【釈】 天地と共に久しく、永久に御奉仕いたしましょう。黒酒白酒のことを。
【評】 新甞会を永久に仕えるということは、天皇の御代の永久を賀すのと同意義のことである。黒酒白酒を中心としての賀歌で、淡泊ではあるが、要を得た歌である。
 
     右の一首は、従三位|文室智努兵人《ふんやのちぬのまひと》。
      右一首、從三位文室智努眞人。
 
【解】 前の智努王で、巻十七(三九二六)左注に出た。天平勝宝四年九月、文室真人の姓を賜わる。仏足石を造った人である。
           
4276 島山《しまやま》に 照《て》れる橘《たちばな》 髻華《う ず》に挿《さ》し 仕《つか》へまつるは 卿大夫等《まへつぎみたち》
    嶋山尓 照在橘 宇受尓左之 仕奉者 卿大夫等
 
【語釈】 ○島山に照れる橘髻華に挿し 上の(四二六六)に出た。そちらは「照れる」が「あかる」であるが、意は同じである。ここは大甞会に列するための礼装としてである。○仕えまつるは卿大夫等 「仕へまつる」は、御奉仕するであるが、ここは大甞会に列していること。「卿大夫」は、天皇の御前に伺候する高官の総称。「卿」は、三位以上、参議以上。「大夫」は、四位五位。「たち」は、敬っての複数をあらわす語。
【釈】 禁苑の山に熟して照っている橘の実を、髻華として挿して、大甞会に列している卿大夫たちよ。
(376)【評】 宴を賜わっているのは、五位以上の人の全部で、その人々が礼装をして、祭事に列しているさまは、御代の栄えをあらわしているさまと見、それを天皇に対し奉っての賀の取材としたのである。間接な言い方と取れるが、その場合柄としては直接と感じられたものであろう。
 
     右の一首は、右大弁藤原八束朝臣。
      右一首、右大辨藤原八束朝臣。
 
4277 袖《そで》垂《た》れて いざ吾《わ》が苑《その》に 鶯《うぐひす》の木伝ひ散らす 梅《うめ》の花《はな》見《み》に
    袖垂而 伊射吾苑尓 ※[(貝+貝)/鳥]乃 木傳令落 梅花見尓
 
【語釈】 ○袖垂れていざ吾が苑に 「袖垂れて」は、諸説があるが、『新考』は、徐歩して行くさまであるといっている。ぶらぶら歩くということの具象化である。「垂衣」という漢語を訳したものであろう。「いざ吾が苑に」は、さあ私の苑を観に行こうで、行こうを省いたもの。○鶯の未伝ひ散らす梅の花見に 『新考』は、永手が設けていっていることとしている。寒い奈良であり、時は十一月二十五日で、鶯は愚か、梅も咲くべくもないからだといっている。気の利いた戯れであったとみえる。
【釈】 袖を垂らして、さあ私の苑を見に行きましょう。鶯が枝移りをして散らす梅の花を見に。
【評】 賀歌からは逸脱したもので、肆宴の際の歌というので、ここに収めたものであろう。肆宴の終わろうとしている時、あるいは終わった時、周囲の人に向かっていった形のものである。酔い心地と、興の尽きないところからの誘引である。永手の邸は宮廷に近かったであろう。「鶯の」以下は『新考』のいうように戯れではあるが、美しく、気が利いていて、聞く者も微笑したものであろう。
 
     右の一首は、大和国の守藤原永手朝臣。
      右一首、大和國守藤原永手朝臣。
 
【解】 「藤原永手」は、藤原房前の第二子で、天平九年九月、従六位上から従五位下を授けられ、後、累進して、正一位左大臣となり、宝亀二年二月に薨じた。五十八歳。
 
(377)4278 あしひきの 山下日蔭《やましたひかげ》 蘰《かづら》ける 上《うへ》にや更《さら》に 梅《うめ》を賞《しの》はむ
    足日木乃 夜麻之多日影 可豆良家流 宇倍尓也左良尓 梅乎之努波牟
 
【語釈】 ○あしひきの山下日蔭蘰ける 「山下日蔭」は、山の下に生えている日陰のかずら。「蘰ける」は、蘰としている。これは最も改まっての蘰で、大甞会に対しての礼装である。○上にや更に梅を賞はむ 日陰の上に、さらに梅をかざして、賞美しましようか。「や」は、疑問の係。
【釈】 あしひきの山下の日陰を蘰とした上へ、さらに梅の花を挿頭にして賞美しましょうか。
【評】 上の永手の歌に和えたもので、永手が、「梅の花見に」と誘ったのに応じて、日陰の蘰の上に、さらに梅の花をかざして、喜びを重ねましょうといっているのである。永手のいう梅の花を虚構と知りつつも、その虚構は文雅の気分よりのもので、家持もその虚構を愛して応じたものとみえる。それがすなわち文雅だからである。二首、肆宴の歌の延長である。
 
     右の一首は、少納言大伴宿禰家持。
      右一首、少納言大伴宿祢家持。
 
     二十七日、林王《はやしおほきみ》の宅《いへ》にて但馬|按察便《あぜちし》橘奈良麿朝臣を餞《はなむけ》せる宴の歌三首
 
【題意】 「林王」は、巻十七(三九二六)左注に出た。「按察使」は、地方官の施政のさまを視察し、民情をうかがうために差遣わされる任で、養老三年初めて置かれた。「奈良麿」は、諸兄の長子である。
 
4279 能登河《のとがは》の 後《のち》には逢《あ》はむ しましくも 別《わか》るといへば 悲《かな》しくもあるか
(378)    能登河乃 後者相牟 之麻之久母 別等伊倍婆 可奈之久母在香
 
【語釈】 ○能登河の後には逢はむ 「能登河」は、高円山と三笠山の間を流れる細流で、佐保川に注ぐ。「のと」と類音で「後」の枕詞。用例のあるもの。林王の宅の近くのものと取れる。○悲しくもあるか 「か」は、詠款の助詞。
【釈】 能登河に因みのある、後には逢いましょう。しばらくの間でも、別れるというと悲しいことですね。
【評】 送る者の悲しさだけを、その宅の辺りの能登河を枕詞に用いていっているので、その場合にふさわしい歌となっている。一国の按察使という任務であるから、昂奮すべき場合ではない。
 
     右の一首は、治部卿船王。
      右一首、治部卿船王。
 
【解】 「船王」は、上の(四二五七)左注に出た。天平宝字四年に中務卿となった。治部卿になったことは、続日本紀にない。後に、藤原仲麿の乱の時、隠岐国へ流された人である。
 
4280 立《た》ち別《わか》れ 君《きみ》が往《い》まさば 磯城島《しきしま》の 人《ひと》は吾《われ》じく 斎《いは》ひて待《ま》たむ
    立別 君我伊麻左婆 之奇嶋能 人者和礼自久 伊波比弖麻多牟
 
【語釈】 ○君が往まさば 「君」は、奈良麿。「往まさば」は、「往く」の敬語。○磯城島の 大和の枕詞より、転じて、大和国の意となったもの。この語はさらに転じて日本の意ともなった。○人は吾じく 「吾じく」は、「じ」は、名詞に接して、それを形容詞の資格に変える語で、「鴨じもの」「犬じもの」など例が多い。これは連用形で、われのごとくに。
【釈】 別れて君が但馬に行かれたならば、大和国の人はわれと同じように、神に祈って待つでしょう。
【評】 「磯城島の人は吾じく」という続きは、他に用例の見えない新しいもので、また語感の強いものである。一首も、心の張った、一本気の歌で、それが調べとなって現われている。遠くない旅で、期間も短い別れであるから、緊張した歌は詠めない場合であるのに、不自然でない緊張を持った歌である。
 
(379)     右の一首は、右京少進大伴宿禰黒麿。
      右一首、右京少進大伴宿祢黒麿。
 
【解】 右京少進は右京職の三等官。正七位上相当官。「黒麿」は、伝未詳。
 
4281 白雪《しらゆき》の 降《ふ》りしく山《やま》を 越《こ》え行《ゆ》かむ 君《きみ》をぞもとな 生《いき》の緒《を》に念《おも》ふ
    白雪能 布里之久山乎 越由可牟 君乎曾母等奈 伊吉能乎尓念
 
【語釈】 ○降りしく山を 「降りしく」は、降りしきっている、すなわち降りつづいている意にも、降って敷いている意にもいう語である。ここは後者である。○君をぞもとな 君を由なくも。「ぞ」は、係助詞。○生の緒に念ふ 「生の緒に」は、「生」は、命。「緒」は、綱で、命がけでの意。「念ふ」は、「ぞ」の結。
【釈】 白雪の降って敷いている山を越えて行くであろう君を、私は由なくも、命にかけて思うことです。
【評】 「白雪の降りしく山を越え行かむ」は、おりからの厳冬の 旅を思いやっての心であるが、その労苦をいたわってのものではなく、反対に、その雄々しさを思いやってのものである。それは続きの、「もとな生の緒に念ふ」で明らかである。一方では奈良麿の旅を壮んにしようと思いつつ、同時に自身の感情に圧しられている心、家持の切情と知性のもつれ合った歌である。家持らしい歌である。
 
     左大臣|尾《を》を換へて云ふ。いきの緒にする。然れども猶諭して曰はく、前の如く誦めといへり。
      左大臣換v尾云、伊伎能乎尓須流。然猶喩曰、如v前誦v之也。
 
【解】 「左大臣」は、橘諸兄で、宴席に臨んでいたとみえる。「尾」は、尾句で、結句である。家持は披露する前に、諸兄に示して評を乞うたとみえる。諸兄は結句を「いきの緒にする」と換えたほうが良いといったが、また取消して以前のままにせよといったというのである。「いきの緒に恋ふ」「いきの緒に念ふ」の用例はあるが、「いきの緒にする」は例のないものである。家持の原形のほうが正しいのである。諸兄が換えたかったのは、彼の歌は、おおらかに暢びやかであるところから、「生の緒に念ふ」(380)を語つづきが窮屈であるとしたのであろうか。どちらも勘の上のことである。この場合は、家持の原形の重く窮屈なほうが、一首を生かしうるものとみえる。先輩の評を受けて改作することは、この当時も行なわれていたろうが、書き遺したものがなく、これはその唯一の珍しい例である。
 
     右の一首は、少納言大伴宿禰家持。
      右一首、少納言大伴宿祢家持。
 
     五年正月四日、治部少輔|石上《いそのかみ》朝臣|宅嗣《やかつぐ》の家にて宴《うたげ》せる歌三首
 
【題意】 「宅嗣」は、石上麿の孫、乙麿の子。天平勝宝三年正月、正六位下から従五位下を授けられ、累進して正三位大納言となり、天応元年六月、五十三をもって薨じた。後世、淡海三船と並べて文人の首と称せられた人である。漢詩は『経国集』に載っている。「宴」は、新年の宴である。
 
4282 辞《こと》繁《しげ》み 相聞《あひと》はなくに 梅《うめ》の花《はな》 雪《ゆき》に萎《しを》れて うつろはむかも
    辞繁 不相問尓 梅花 雪尓之乎礼※[氏/一] 宇都呂波牟可母
 
【語釈】 ○辞繁み相問はなくに 人の物言いが多いので、訪わないことだのに。○梅の花 妹の譬喩。○雪に萎れてうつろはむかも 降り置く雪に萎れて、散るであろうかなあで、上をうけて、我を不実だとして恨んで、心が変わるであろうかなあの意を、婉曲にいったもの。
【釈】 人の物言いが多いので、訪わずにいることだのに、梅の花と思うあの女は、雪に萎れるようにわが不実を恨んで、散って、心変わりすることだろうかなあ。
【評】 この歌は、新年の宴に、主人の宅嗣が、客の興を催させようとして、宴歌として詠んだものである。「梅の花」はその席に飾ってあったもので、それを作因とした歌であるが、宴歌にふさわしい相聞の歌としようとして、このように詠んだものと取れる。「梅の花」を妹に譬えたのは普通であるが、無沙汰を恨むのを「雪に萎れて」としているのは、やや物遠い感がある。しかしこれは季節に合わせてのものであるから、その心は誤解なく通じたことと思われる。以上の解は強いたもののようであるが、次の茨田王の歌はこの歌に和えたもので、それによると宅嗣の作意は上のようであったと取れる。軽い心よりの作(381)で、巧拙をいうほどのものではない。
 
     右の一首は、主人《あるじ》石上朝臣宅嗣。
      右一首、主人石上朝臣宅嗣。
 
4283 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》けるが中《なか》に 含《ふふ》めるは 恋《こひ》や籠《こも》れる 雪《ゆき》を待《ま》つとか
    梅花 開有之中尓 布敷賣流波 戀哉許母礼留 雪乎待等可
 
【語釈】 ○梅の花咲けるが中に含めるは 梅の花の咲いている中に、蕾んでいるもののあるのは。これは宅嗣の取材とした席上の梅の花を、同じく取材として、その状態を叙したもの。○恋や籠れる 内に、恋がこもっているであろうかで、「や」は、疑問の係。宅嗣と同じく「梅の花」に女性を感じ、宅嗣の「うつろはむかも」と嘆いたのを押し返し、反対に、そこにはまだ蕾があって恋がこもっているのであろうかと、一応の解釈をしたのである。○雪を待つとか それともまた、雪の降るのを待って、雪に逢って咲こうとしているのであろうかと、再応の解釈をしたのである。これは雪を男性に譬えてのもので、すでに詩的常識となっていたと見える。これは宅嗣が、「雪に萎れて」といっているのに反対し、宅嗣を雪としていっているのである。
【釈】 梅の花の咲いている中に、蕾んだもののあるのは、その内に恋がこもっているのであろうか。それとも雪を待って咲こうとしているのであろうか。
【評】 これは明らかに宅嗣の歌に和えたもので、宅嗣の作意を相聞のものとし、それに対して心細かに和えているものである。相聞とはいえ、いずれも席上の梅の花から連想したもので、文雅の上の遊びとしてのものである。実感とは関係のない遊戯なのである。
 
     右の一首は、中務大輔|茨田王《うまらだのおほきみ》。
      右一首、中務大輔茨田王。
 
【解】 「中務大輔」は、中務省の次官で正五位上相当官。「茨田王」は、系統未詳である。天平十一年正月、無位から従五位下を(382)授けられ、十六年二月、少納言、十八年九月宮内大輔、十九年十一月越前守となった。歌はこの一首が伝わっているだけである。
 
4284 新《あらた》しき 年《とし》の始《はじめ》に 思《おも》ふどち い群《む》れて居《を》れば うれしくもあるか
    新 年始尓 思共 伊牟礼※[氏/一]乎礼婆 宇礼之久母安流可
 
【語釈】 ○い群れて居ればうれしくもあるか 「い」は、接頭語。「あるか」は、「か」は、詠歎。
【釈】 新しい年の始めに、思い合うどうしが、群れて一緒になっていると嬉しいことだなあ。
【評】 局面を変えて、正面より目前の宴会に対する歓びを述べたものである。一般的な心持であるが、静かに躍る心が明るい調べによって詠まれているので、平凡ならぬものとなっている。品位のある作である。
 
     右の一首は、大膳大夫道祖王《かしはでのかみふなどのおほきみ》。
      右一首、大膳大夫道祖王。
 
【解】 「大膳大夫」は、大膳職の長官。「道祖王」は、新田部皇子の子。天平九年九月、無位から従四位下を授けられ、従四位上中務卿となったが、天平勝宝八年五月、聖武太上天皇の遺詔によって皇太子となられた。天平宝字元年三月、廃されて王となり、その七月、橘奈良麿の乱に坐したが、特に罪を許された。
 
     十一日、大雪《おほゆき》落《ふ》り、積ること尺二寸あり。因りて拙き懐《おもひ》を述ぶる歌三首
 
4285 大宮《おほみや》の 内《うち》にも外《と》にも めづらしく 降《ふ》れる大雪《おほゆき》 な踏《ふ》みそね惜《を》し
    大宮能 内尓毛外尓母 米都良之久 布礼留大雪 莫踏祢乎之
 
【語釈】 ○大宮の内にも外にも 「内」は、御門内、「外」は、御門外。一面ということを強めていったもの。○な踏みそね惜し 踏まないでくれ。惜しい。
(383)【訳】 大宮の御門内にも御門外にも、珍しく降ったところの大雪だ。踏まないでくれ。惜しい。
【評】 家持の歌としては風の変わったものである。大体として家持の歌は、対象を一応自身の中に取入れ、白身の気分と融合させた上で、どちらかというと物静かに美しく詠むのであるが、この歌はそれとは異なって、いわば大景ともいうべきものと取組み、そしてその最も言いたいことを、気分化とは無関係に、「な踏みそね惜し」と、説明に近い態度でいっているのである。この詠み方は彼としては珍しいものである。「な踏みそね惜し」は、気分には無関係ではあるが、一句を二文とし、極度に強い言い方をしているのは、一種の気分表現といえるものである。
 
4286 御苑生《みそのふ》の 竹《たけ》の林《はやし》に うぐひすは しば鳴《な》きにしを 雪《ゆき》は降《ふ》りつつ
    御苑布能 竹林尓 ※[(貝+貝)/鳥]波 之波奈吉尓之乎 雪波布利都々
 
【語釈】 ○御苑生の竹の林に 「御苑生」は、皇居の物であるからの敬称。「苑生」は、苑の植込み。○しば鳴きにしを しばしば鳴いたのに。「に」は、完了の助動詞、「を」は、詠歎。以上、まさしくも春となったものをの意を、具象的にいったもの。○雪は降りつつ 「つつ」は、継続で、下に「ゐる」が略されている。
【釈】 御苑生の竹の林に、鴛はしばしば鳴いたのであったのに、雪が降りつつある。
【評】 これは上に続いて、皇居にあっての感である。冬から春へ移る期間の、気温の変化の烈しい頃、春になったかと思うと、冬が立ち返って来るのを、春にあこがれる心から感傷的となって、その嘆きを詠んでいる歌は相応に多い。この歌も、捉えているのはそれと同じ境であるが、この歌にはその感傷的気分がない。他の作者によって中心的に扱われているものが、少なくとも表面には現われていないのである。この歌で扱っているものは、気温の烈しい変化そのものを、大きく、そのままに捉えて、直線的に、強く叙しているのみである。この点、上の歌と同じで、しかも上の歌に見せている感情も見せていないのである。そのため歌柄が大きく、清新の感のあるものとなっている。
 
4287 鶯《うぐひす》の 鳴《な》きし垣内《 かきつ》に にほへりし 梅《うめ》この雪《ゆき》に うつろふらむか
    ※[(貝+貝)/鳥]能 鳴之可伎都尓 々保敞理之 梅此雪尓 宇都呂布良牟可
 
(384)【語釈】 ○鶯の鳴きし垣内に 「垣内」は、「かきうち」の約音。皇居の御垣の内である。○にほへりし梅この雪に 色美しく咲いていた梅が、この降っている雪で。○うつろふらむか 散るであろうか。「か」は、疑問の助詞。
【釈】 鶯の鳴いていた御垣の内に、色美しく咲いていた梅の花は、この雪で散るであろうか。
【評】 上を受けての歌で、初めて心が梅の花に及んで、この雪に散るであろうかと思いやったのである。この歌も思い浮かんだままを大きく捉え、気分をまじえずに詠んだものである。「梅この雪にうつろふらむか」は、強く投げ出したようにいったものであるが、上の大柄な言い方に支持されて、調和のあるものとなっている。三首連作で、大雪を対象としたものであるが、家持の新生面の現われようとする趣のあるものである。
 
     十二日、内裏《うち》に侍《さもら》ひて、千鳥の喧《な》くを聞きて作れる歌一首
 
4288 河渚《かはす》にも 雪《ゆき》は降《ふ》れれし 宮《みや》の裏《うち》に 千鳥《ちどり》鳴《な》くらし 居《ゐ》む所《ところ》無《な》み
    河渚尓母 雪波布礼々之 宮裏 智杼利鳴良之 爲牟等己呂奈美
 
【語釈】 ○河渚にも雪は降れれし 「河渚」は、河の渚。河は、皇居からいうので佐保川である。「降れれ」の「れ」は、「り」の已然形で、条件法。「し」は、強意の助詞か。この続きは用例のないものである。○宮の裏に千鳥鳴くらし 「らし」は、上を証としての推量。○居む所無み 千鳥は居る所がなくて。
【釈】 河の渚にも雪は降り積もったので、大宮の内に千鳥が鳴くらしい。居る所がなくて。
【評】 上の歌の続きで、宮中に侍していて、大雪の後の静寂な中で、近く千鳥の鳴く声を聞いての感である。宮中で千鳥の声が聞こえるということは意外なことで、それをいおうとした歌であるが、この時期の人は小鳥の声に強い愛着を感じ、千鳥の幽かな、哀愁を帯びた声にはことに強く感じて、その心を詠んだ歌は家持自身にもある。この歌はその感傷の面には触れようとせず、その事を全体として捉え、そうした事の理由に思い入って、理由づけだけをいっているのである。一首の歌として見るとおもしろくないものであるが、家持の心の動き方の、従来とは明らかに異なって来ていることを見せている歌である。すなわち事としてはいささかなものであるが、それを全体として大きく捉え、自身の気分を介入させないという態度である。
 
     二月十九日、左大臣橘家の宴《うたげ》にて、攀《よ》ぢ折れる柳《やなぎ》の条《えだ》を見る歌一首
 
(385)【題意】 「柳の条を見る」は、蘰とするためのもので、蘰は「宴」に臨むための礼装としてのものである。
 
4289 青柳《あをやぎ》の 上《ほ》つ枝《え》攀《よ》ぢ執《と》り 蘰《かづら》くは 君《きみ》が屋戸《やど》にし 千年《ちとせ》寿《ほ》くとぞ
    青柳乃 保都枝与治等理 可豆良久波 君之屋戸尓之 千年保久等曾
 
【語釈】 ○上つ枝攀ぢ執り 先端の枝を引き寄せて折り取って。○蘰くは 蘰とするのはで、以上、宴をすることはの意。○君が屋戸にし 「君」は、諸兄、「屋戸」は、家で、「し」は、強意の助詞。君の家でで、これは単に「君が」というと同意であるが、尊んで広い言い方をしたもの。○千年寿くとぞ 千年の齢を保ち給えと寿ぐのであるよの意。
【釈】 青柳の若枝を引き寄せて、折り取って、蘰にしているのは、君が家で、千年の齢を寿ぐとてのことであるよ。
       
【評】 宴に列《つらな》っていて、諸兄を賀した歌である。賀はしかるべき機会である限り、いつしても不自然なことではなかったのである。巻十八(四一三六)「あしひきの山の木ぬれのほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ」と、同工である。
 
     二十三日、興に依りて作れる歌二首
 
4290 春《はる》の野《の》に 霞《かすみ》たなびき うらがなし この夕《ゆふ》かげに うぐひす鳴《な》くも
    春野尓 霞多奈※[田+比]伎 宇良悲 許能暮影尓 ※[(貝+貝)/鳥]奈久母
 
【語釈】 ○春の野に霞たなびき 次の歌から見ると、家に籠もっていてのこととみえるから、やや高地である佐保の内から、遠く野のほうを大観しての叙景である。○うらがなし もの悲しいで、「うら」は、軽いもの。これは春の季節に催されて、これという理由もなく、そぞろに起こる哀感である。○この夕かげにうぐひす鳴くも この夕方の光の中に鶯が鳴くことだ。「この」は、眼前をさしたもの。夕方は哀愁の深まる時刻。鶯の声も美しく哀愁を誘うものである。
【釈】 春の野に霞がたなびいていて、もの悲しい。この夕方の光のうちに、鶯が鳴くことだ。
【評】 作意は「うら悲し」という気分である。冬が過ぎ、春の景色が整って来ると、その美しく和やかな環境に刺激されて、反対に、孤独感ともいうべき哀愁を感じさせられるので、これは青年期より壮年期へかけて、誰しも持たされる共通の感傷で(386)ある。家持はそれのやや強い人で、この歌の内容をなすものは、その感傷気分である。これは従来の家持の歌について廻っているもので、彼としては少しも珍しくないものであるが、この歌はその扱い方において、従来とは趣の一変しているものである。この歌の「うら悲し」は、彼一人の気分としてのものとはせず、人間共通の感のごとく、突き放して、客観的なものとし、その気分を醸し出す大自然と一体なものとし、それを言うことによってこれをあらわしているものである。すなわち家持自身の感情としては一語もいわない形において、遺憾なく彼の全感情をあらわすという、矛盾を遂行しているのである。上の「十一日、大雪落り」の歌四首で、自然を大きく捉え、自身の気分を介入させずに、その気分をあらわすという展開を示したのであるが、そこにはある程度意識してそれを行なっている趣があったが、この歌は、無意識に、きわめて自然な形においてそれを行ない、渾然たる趣あるものにしているのである。さらにいえば、「うら悲し」という気分をあらわす語もはばからずいい、それを自身のみの気分とせず、人間共通の気分という、客観的事実のごとく扱う所まで高めて来ているのである。この歌は家持の歌境の飛躍を見せるとともに、その到達した境の高さをも見せているものである。
 
4291 わが屋戸《やど》の いささ群竹《むらたけ》 吹《ふ》く風《かぜ》の 音《おと》のかそけき この夕《ゆふべ》かも
    和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敞可母
 
【語釈】○わが屋戸のいささ群竹 「屋戸」は、庭。「いささ群竹」は、いささかの、群らがり生えている竹。○吹く風の音のかそけき 「音のかそけき」は、竹の葉ずれの音の幽かな。風が弱く柔らかなためで、吹くともしない春風をあらわしているもの。○夕かも 「夕」は、夜。「かも」は、詠歎。
【釈】 わが庭のいささかの群竹を吹く風の、その音の幽かな今宵であるよ。
【評】 春夜、ひとり静かに居て、庭の群竹に起こる幽かな葉ずれの音に聞き入っている心である。この歌は問題を持つものである。それは取材とすると、きわめて平凡なもので、またきわめて単純なものでもあって、何の奇もない。表現も、「いささ群竹」という簡潔な新語はあるが、自然に、順直に、単純なものを単純にいっただけであって、技巧と称すべきほどのものは持っていないのである。それでいてこの歌は、読後、誰の胸にも何ものかを残す力を持っている。問題というのはそれである。それが、「風」そのもの、「いささ群竹」そのものについての連想という範囲ではない。それだといわゆる余情で、技巧の範囲のものであるが、この歌の連想させるものは、そうした枝葉的なものではなく根本的のもので、家持の人生に対する気分というような、彼の魂の直接につながるものを連想させるのである。その意味では、彼の歌境の最高のものを見せている歌といえる。
 
(387)     二十五日作れる歌一首
 
4292 うらうらに 照《て》れる春日《はるび》に 雲雀《ひばり》あがり 情《こころ》悲《かな》しも 独《ひとり》しおもへば
    宇良宇良尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比登里志於母倍婆
 
【語釈】 ○うらうらに照れる春日に うららかに照っている春の日に。○雲雀あがり 雲雀が空に舞い上がって。○情悲しも 心が悲しいことだ。春の哀愁である。○独しおもへば ひとりもの思いをしていると。「し」は、強意の助詞。孤独感を起こしている、との意。
【釈】 うららかに照っている春の日に、雲雀が空に舞い上って、心かなしいことだ、ひとり、物思いをしていると。
【評】 上の「春の野に霞たなびき」に、ほとんど連作として続いているがごとき歌である。そちらは、春のもたらす哀愁が主となっているのであるが、これは「独しおもへば」が主となり、哀愁の上にさらに孤独感が添加されているものとなっている。家持は社会的にも孤独感を持ったであろうし、また文雅の面でも、そうした方面に溺れている人の常として、同じく孤独感を持っていたろうが、ここにいっている孤独感はそうしたものではなく、人間の本能として持つ孤独感であったろう。これは弱きに似て強いもので、処理する方法のないものである。ここは、春のもたらす「情悲しも」とともに起こっているものであるから、本能としての孤独感と取れる。作歌態度、方法は、「春の野に霞たなびき」と全く同一である。そちらは匂やかさにおいて勝り、これは強さにおいて勝っていて、いずれも家持の円熟境を見せているものである。
 
     春日遅々として、※[倉+鳥]※[庚+鳥]《ひばり》正に啼く。悽惆の意、歌にあらずは、撥《はら》ひ難きのみ。仍りて此の歌を作り、式《も》ちて締緒を展《の》ぶ。但し此の巻の中、作者の名字を称《い》はず。徒《ただ》年月所処縁起を録《しる》せるは、皆大伴宿禰家持の裁作《つく》れる歌の詞なり。
      春日遅々※[倉+鳥]※[庚+鳥]正啼。悽惆之意非v歌難v撥耳。仍作2此歌1、式展2締緒1。但此卷中不v※[人偏+稱の旁]2作者名字1、徒録2年月所處縁起1者、皆大伴宿祢家持裁作歌詞也。
 
【解】 「遅々として」は、うらうらとして。「※[倉+鳥]※[庚+鳥]」は、『詩経』にある語で、小鳥の意。ここは雲雀として用いている。「春日」以下、これまでは『詩経』によってのもの。「悽惆の意」は、悲しい心。「歌にあらずは、撥ひ難き」は、作歌でなければ払い難(388)い。作歌を自身の生存に、欠き難いものとしている心で、簡単ではあるが家持の文芸観をあらわしているものである。「締緒を展ぶ」は、結ぼれている心を解くで、上を繰り返して強めたもの。「但し」以下は、この巻の編者の態度でいっているものである。
 
 萬葉集評釋 卷第二十
 
(390) 萬葉葉 巻第二十概説
 
 本巻は万葉集の終巻であって、『国歌大観』の番号の(四二九三)より(四五一六)に至る二二四首を収めたものである。
 年代からいうと孝謙天皇の天平勝宝五年五月から、淳仁天皇の天平宝字三年正月一日に至る五か年間の作であり、一部に、伝誦を通して知り得た古歌があるから、厳密にいうと、この期間に大伴家持の収録した歌ということになる。
 本巻は巻第十七から引続き、大伴家持の私家集であり、家持の歌を中心としてのものである。しかしその成立した形から観ると、家持の歌はむしろその一部を成しているにすぎず、大部分は他人の作である。そして、それらのものは、一に家持の手によって蒐集され、また収録されたのであって、家持自身よりいえば、彼の蒐集欲を充たすことだったのであるが、今日より観れば、奈良朝末期のこの時代の歌界をうかがわしめる料としては、ただ本巻があるのみだという、きわめて貴重なる物となったのである。その蒐集の代表的なものは東国の防人の歌で、これは前後を通じての唯一のものであり、文化史的に観ればきわめて貴重なるものである。本巻の特色は、この家持の蒐集方面にあるのである。
 
     二
 
 この時代の政情は、不安を内に孕んだ、動揺の多い安定のないものであった。天平勝宝元年、聖武天皇譲位、孝謙天皇が御即位となり、天平宝字元年、老臣、左大臣橘諸兄が薨じた頃から、その情勢は表面化して来た。女帝にまします孝謙天皇には皇嗣がなく、皇族中より冊立さるるべきこととなっており、道祖王がすでに皇太子となっていられた。しかるに諸兄の薨じた年には、道祖王は廃せられて、大炊王が代わって皇太子となられた。これは皇位の継承争いを意味するものであって、その背後には、それぞれの皇太子を擁護する権臣があって、権臣の権勢争いを意味するものであった。これが政情不安の母胎のおもなものである。加えて女帝ということは、権臣に擡頭の機会を与えやすいことともなる。この当時の権臣の代表は藤原氏一族であり、それはすでに四家に分かれている上に、皇室との姻戚関係はこの御代において絶えることとなっていた。権臣の利害を通じての結託は、当然起こらざるを得ない情勢だったのである。
 家持が少納言となり、帰京して身を置いたのは、この雰囲気の中であった。彼は天平勝宝六年四月には兵部少輔、天平宝字元年六月には兵部大輔、その十二月には右中弁となったのであり、廷臣として順調に進み得たのであるが、翌二年六月には、因幡守に左遷せられ、再び国守として地方に行かなければなら(391)ない身となったのである。この時は淳仁天皇の御代で、藤原仲麿が太政大臣となり、紫微内相となって権を擅《ほしいまま》にするその直前の時であって、家持の左遷は政情の推移の影響であったことと見られる。
 在京四年間は、家持としては、これを越中在任の四年間に較べると、著しく歌作の乏しい期間であった。しばしば触れて言ったがように、家持という人は、その環境の刺激を受けることの多い人で、その時々の環境に没入させられてしまい、したがって気分の統一を持ち得なかった人のようである。気分本位の歌を作る彼は、そうした境にあっては歌が作れなかったものとみえる。家持の在京四年間はほぼその連続であって、彼がただ独り静処にあり得て、その気分の統一を持ち得たのは、天平勝宝七年二月、兵部少輔として兵部省より難波に遣わされ、東国諸国より難波に集まり来たるその年の防人《さきもり》の事を扱った際の、難波滞在期間であった。この時は彼は防人に同情し、長歌三首、短歌十一首を詠んでいる。加えてまた、難波の地勢そのものの勝れていることに感動し、(四三六〇)「私の拙き懐を陳ぶる一首并に短歌」と題して、難波宮を賀する歌を詠んでいる。離宮に対しての賀歌はすでに型のできてしまっていたものであるが、この賀歌は型を破り、海を控えての難波の地が、政治的に観ていかに勝れた地であるかをいっているもので、知性を取入れ、それによって個性的に詠んでいるものである。家持の歌には相応に知性を含み、また進取的なところを見せているものがあるが、この歌はそれを濃厚に示しているものである。また、その翌年である勝宝八年六月、病に籠もっていた際には、(四四六五)「族《やから》に喩す歌一首并に短歌」を詠んでいる。これは同族中最高位にある大伴古慈悲が、淡海三船《あふみのみふね》の語によって、出雲守を解かれ土佐守に遷されたのを嘆き、大伴氏の神代以来の忠誠と声望とを思って、一族の自重を要望したものである。これらの歌は、在京四年間を通じての雄篇であるが、いずれも身を静処に置いたがために、おのずから気分が統一したことによって詠んでいるものである。これらを外にしての歌はすべて宴歌であって、その他の物はない形である。
 宴歌は、本巻の特色の一つとなっているもので、他のいずれの巻よりも多い。しかも本巻の宴歌は、それとしても特殊なものといえるところがある。
 飲酒は、上代の溯っての世には神事として行なったもので、享楽よりのことではなかった。すなわち人が酒を飲む場合は、祭、祝など特別な場合に限られており、日常の事ではなかった。また人に杯を勧める際には、酒というものの意味を歌をもって陳べ、その上で勧めるのが常で、意味というのは、酒は神の造られたもので、それを飲むことは、神の御力を身に受け入れることとしたのだったのである。この事は、古事記、神功皇后の御歌の「洒楽《さかほがひ》」の歌で明らかである。世が降ると、酒は次第に、神事のみのものではなく、享楽のものとなって来たのであるが、しかし人に盃を勧めるには、まず歌を詠みかけての上でするという風は保たれていて、酒と歌とは離し難いものとなっていたのである。酒の性質が変わる以上、歌の性質も変わらざるを得(392)なくなったのであるが、しかし賀の歌であるべきだとすることだけは保たれており、勧める者、勧められる者同士、互いに賀の心を挨拶として詠みかわしたのである。賀の心は、やや間接であっても妨げないとすれば、眼前の愛でたい風物に寄せていうということが、最もその場合にふさわしい、また最も興味あるものとなって来る。奈良朝に入ると、そうした詠み方が型のごとくになって来た。これは言いかえると、実用性のものである賀の歌を、文芸性のものとしたことである。奈良朝に入ると、枕詞も、その延長の序詞も、また譬喩までも、すべて眼前を捉えていうものとなって来て、ほとんど例外がない。またそれらは語続きの上の興味だけのものではなく、一首の作意につながりを持ち、重い意味を持つという複雑したものとなって来たのであるが、このことには、上にいう宴歌が重く関係しているものと思われる。奈良朝時代は、飲宴が頻繁に行なわれていた時代であり、宴歌がじつに多いのであるが、これは飲宴によって享楽しようとするとともに、宴歌によって文芸欲を充たそうとするためであり、一方に時代の雰囲気は、心合う者同士の懇親の情を深めようとする必要を伴ってのことかと思われる。この最後のことは、名は賀歌ではあるが、その形をもって物を言い合うことは、平常その胸奥に蔵めていることで、口頭の語をもってしては言いかねるごときものを、互いに歌としてあらわしているので知られる。要するに宴歌は、儀礼というごとき表面的のものではなくなり、日常生活の上の要求と緊密なつながりを持った、必要にして欠くべからざるものとなって来たのである。これを純文芸の上より見れば、もとより問題となるべきものであるが、この時代の人々よりいえば日常生活の反映であって、生活と文芸とを融かし合って一体としていた、その直接の現われなのである。時代的にいえば、この時代の宴歌は重いものと観なければならない。また、宴歌として文芸性を濃厚に帯びさせた上からいえば、この時代の宴歌は、前後を空しゅぅした、すぐれたものでもある。この宴歌を家持につなぎ、その作者としての彼を観ると、家持は宴歌に長けた人ではなく、むしろ劣った人だといえる。宴歌はその性質上、当意即妙の機才を必要とするものであるが、家持には機才の動きが少なく、思い入って気分として詠むことによって、その歌才を発揮しうる傾向の人だからである。たまたま優れた宴歌を詠むことがあるが、それはその場合、取材として捉え得た眼前のものが、彼の好みに合った場合に限られているのである。
 
     三
 
 本巻の最大の特色は、その防人の歌を取纏めて収録していることである。これはただ本巻にあるのみで、前後にはないものであり、文化史的に観ればきわめて貴重なものである。これの収録されているということは、全く家持の蒐集欲のさせていることで、しかも偶然にもそれをする機会を恵まれたがゆえにできたことでもある。
 防人とは埼守《さきもり》の意で、埼とは海岸の防備上の要地を称したもの、守とはそこを守備する者の意で、土地としては筑紫という(393)うち、主として壱岐対馬の二島で、それに筑紫の本島の要所である。その目的は、唐であり、その支援を受けていた新羅である。その事の始めは天智天皇の代であり、継続して行なわれていたのである。
 本巻に収められている歌は、孝謙天皇の天平勝宝七年二月のもので、東国十か国の防人の歌である。防人の任期は三年間で、三年目に交替する制となっていたが、その交替は一部ずつ行なわれたので、この時のものもその一部の者の歌である。また防人を出す国は、時代によって推移があり、一定してはいなかった。長い期間にわたってのことで、その推移の詳細は知ることができない。この時の東国の防人は、以前にも東国より徴したことがあるが、取りやめとなっていたのを、聖武天皇の代から、また東国のものとされたところのそれである。取りやめとなったのは、防人の途中の負担は、その途にあたる国々の租税を充《あ》てていたのであるが、途が遠く、負担の多いのを避けるためであり、重ねて東国とされたのは、東国の防人の剛勇を待たなければ、その任務が果たせなかったがためであった。
 防人は、その国々に属している兵団の中から選ばれるのであった。各国とも、その国を防衛する兵団があり、明治以後の徴兵と同じ意味で兵を養成しており、長官があって監督していたのである。防人の事を扱うのは部領使《ことりづかい》と称し、その国の守を初め史生に至るまでの者がその任にあたり、その国より難波までを引率し、兵部省に引渡すのである。兵部省では、その省の官人を難波に出張させ、部領使より受け継ぎ、勅使の検校を経た上で、防人の全部を海路大宰府に向けて発遣せしめるのである。兵部省より命ぜられて、この年その任にあたったものは、兵部少輔の大伴家持だったのである。
 防人の歌は、各国の部領使がそれぞれ取纏めて、これを兵部省へ進《たてまつ》ったのである。このことは、十か国の一国ごとの左注に、「部領使、某の進れる歌」とあるので知られる。この「進れる」につき、『万葉集新考』は、兵部省を経由して朝廷に進るのだといっている。その証として、信濃国の歌の左注を挙げている。それは「信濃国防入部領使、道に上りて病を得て来らず、進れる歌の数十二首」というのであって、防人の歌を進ることは、部領使の任務の一つとして、かねてより定まっていることで、臨時の事ではないというのである。従うべき解といえる。
 朝廷が何ゆえに防人をして歌を進らしめたかということは、明らかな記録は残っていないが、しかし防人の歌自体が、一種の形においてその事を語っていると観られる。
 防人の嘆きの大部分は、防人を命じられたことに対する嘆きである。しかしその嘆きは必ずしも単純なものではなく、中には、おりから病気に悩んでいるのにもかかわらず、長官がその命を下したと、個人的の嘆きをいっている者もあるが、これは例外で、最も多いのは親といううち、ことに母に別れる嘆きである。それについでは妻に別れる嘆きで、中には母のない幼児に別れる嘆きをいっているものもある。また故郷に別れる嘆きもある。しかしその嘆きは善意のもので、間接にまた直接に、その嘆きを超えて、大君に仕えまつろうとする心をいっている(394)もので、中には、自身の嘆きはいわず、その親や妻を祝っているものも少なくない。注意されるのは、自身の嘆きには全然触れず、大君に忠誠を誓いまつる心をもって一貫しているものである。そうした歌を詠んでいるのは、防人の十人長である火長、書記である主帳などに多く、それでなくとも、その歌からみてある教養を持っていると思われるものである。この大君に忠誠を誓いまつることが、防人の歌の本来の性質であって、嘆きを詠んでいる歌は、その性質を知りつつも、その程度の弛んでいる者、あるいは全く知らない者かと思われるのである。朝廷が防人の歌を召されるのは、防人は一朝事ある時には、国家の重大責任を負うて、直接それに当面すべき者である。朝廷より見れば、畿内を離れること遠く、朝廷との関係のおのずから薄い東国の防人に、大君への忠誠を誓わしめることは、その必要ありと認められたことと思われる。歌の形式をもって誓うということは、誓として改まった、したがって有効なものとされてのことと思われる。
 防人の歌が、その当初の宣誓より移って、個人の惜別の情となって来たことは、おもなる理由は、その宣誓の必要の程度が薄らいだということであろうが、今一つは、歌が時代の影響を受けて、次第に文芸的のものと解されるようになって来たのに伴ってのことと思われる。防人の歌で最もその趣の深いのは武蔵国の歌である。武蔵国の歌は他とは異なり、防人となる夫の惜別の歌に対して、その妻の答歌として詠んだものをも差出しており、部領使はそれを兵部省に差出しているのである。これはこの際の防人の歌としては、異様なものであり、朝廷が防人の歌を召された趣旨とは距離のあることである。防人の宣誓としての歌より、文芸としての歌に移行した結果と見なければ解せられないことである。なおこの事は、この年に始まったものではなく、「昔年《さきつとし》の防人の歌」として伝誦されていたものの中にも、すでに防人の妻の歌があるところより見ると、いつからとはわからないが、以前より行なわれていたことであると知られる。また、本巻の防人の歌は、家持の選を加えたものであって、「拙劣なる歌は之を取載せず」といっており、その取ってある数は、全部の約半数にすぎないのである。何を標準として優劣を定めたかは不明であるが、家持としてはおそらく、文芸的価値ということを標準としてのことと思われる。それだとすると、これを文化史的に思うと、その捨てた半数以上のものの中に、かえって庶民の真情が現われていたろうかとも思われるが、今はそれを知る由がない。
 防人の歌は、これを文芸としてみても相当に程度の高い、文芸的魅力を持っているものであり、単に好奇の対象とさるべきものでは断じてない。これらの防人は皆、都よりは遠い東国の農民であり、しかも二十歳前後の青年で、年長けた者とてもそれより遠くない者である。その作歌手腕は、今日のそれに近い人々と比較して思うと、全く驚歎せざるを得ないものである。彼ら防人がいかなる径路でそうした手腕を養い得たかは明らかにはし難い。推測されうることは、あらゆる物の進歩発展は、生活上の必要に駆られ、それを身につけなければ生活に支障を(395)きたすという実感をとおしてでなければ遂げられないということである。その点から思うと、当時の庶民生活と歌とはきわめて緊密な関係を持っており、歌を解し得、またそれを作りうる力を蓄えなければ、生活上甚しい不便をきたしたがためと思わざるを得ない。わが国の上古よりの風習として、結婚に関しての意志表示は、歌をもってすることとなっていた。また、祝賀の心は歌をもってあらわすべきことともなっていた。これらはいずれも、背後に信仰があり、その上に立ってのことで、抜きさしのできないものだったのである。そうした生活上重大な事につながっている歌であるところから、摂取力旺盛な青年が、歌に思いを潜めて学び、こうした進歩発展を遂げ得たのではないかと思われる。趣味、趣向というがごとき動機からは、多数の者がこの程度まで高まりうるとは想像ができないからである。これは問題として残るべきものであるから、今はこの程度にとどめておく。それはとにかく、この特殊なる防人の歌を今日にとどめ得たのは、家持が兵部少輔であり、またたまたま難波に遣わされて、防人の歌を取扱うという位置にあったがためで、まことに僥倖にしてあり得た事だったのである。
 
     四
 
 万葉集は、淳仁天皇の天平宝字二年、大伴家持が因幡守として地方にやられたことによって終わり、彼の歌を終わりとして、奈良朝末期の歌界は全く湮滅《いんめつ》に帰し、知る由のないものとなった。感慨なきを得ぬことである。本集と家持との関係は問題を残しているものであるが、巻第十七以下本巻に至るまでの四巻は、明瞭に彼の手によって成ったものであり、奈良朝末期の歌界の一面を伝え、その全貌の想像されるのも、これまた明瞭に彼のしたことである。その動機は、彼の歌に対する愛好心と、その延長としての蒐集欲とであって、それ以外の何ものでもない。この四巻は彼の備忘のためのものであったことは、自作に対して二案のある場合、その棄てた一案をも、細注の形で付記しているのをみても知られる。また、彼の蒐集欲のいかに強いものであり、また潔癖の伴ったものであったかは、それをした歌に対しての左注のいかに神経質なものであるかをみても知られる。彼の丹念に記録した宴歌のごときも、自身その宴飲の席、に列《つらな》り親しく耳に聞き目に見たものでないと記録していないことは、最も明らかにその態度を示しているものである。この最後の四巻は、全く家持一人の手によって存在しているものであり、彼がなければ存しないものである。家持という人の蒐集欲の現われの、わが文芸の上に及ぼした結果を思うと、感深きことである。しかし歌人としての家持は、この時期には完成の域に達していて、今後の展開は多く望めない人となっていたかに思われる。彼はしばしば触れていったがごとく、知性を摂取した悟性本位の人で、調和をもった、物柔らかな生活を営んでおり、歌はその生活を母胎として生まれて来たとみえる。したがって彼の気分の及ぶ範囲も歌も限界があって、歌を中心としていえば、その生活気分が変わらない以上、歌境も変わり得なかったとみえる。この歌境を変えることは、その生活態度に意志
 
       (394)もので、中には、自身の嘆きはいわず、その親や妻を祝っているものも少なくない。注意されるのは、自身の嘆きには全然触れず、大君に忠誠を誓いまつる心をもって一貫しているものである。そうした歌を詠んでいるのは、防人の十人長である火長、書記である主帳などに多く、それでなくとも、その歌からみてある教養を持っていると思われるものである。この大君に忠誠を誓いまつることが、防人の歌の本来の性質であって、嘆きを詠んでいる歌は、その性質を知りつつも、その程度の弛んでいる者、あるいは全く知らない者かと思われるのである。朝廷が防人の歌を召されるのは、防人は一朝事ある時には、国家の重大責任を負うて、直接それに当面すべき者である。朝廷より見れば、畿内を離れること遠く、朝廷との関係のおのずから薄い東国の防人に、大君への忠誠を誓わしめることは、その必要ありと認められたことと思われる。歌の形式をもって誓うということは、誓として改まった、したがって有効なものとされてのことと思われる。
 防人の歌が、その当初の宣誓より移って、個人の惜別の情となって来たことは、おもなる理由は、その宣誓の必要の程度が薄らいだということであろうが、今一つは、歌が時代の影響を受けて、次第に文芸的のものと解されるようになって来たのに伴ってのことと思われる。防人の歌で最もその趣の深いのは武蔵国の歌である。武蔵国の歌は他とは異なり、防人となる夫の惜別の歌に対して、その妻の答歌として詠んだものをも差出しており、部領使はそれを兵部省に差出しているのである。これはこの際の防人の歌としては、異様なものであり、朝廷が防人の歌を召された趣旨とは距離のあることである。防人の宣誓としての歌より、文芸としての歌に移行した結果と見なければ解せられないことである。なおこの事は、この年に始まったものではなく、「昔年《さきつとし》の防人の歌」として伝誦されていたものの中にも、すでに防人の妻の歌があるところより見ると、いつからとはわからないが、以前より行なわれていたことであると知られる。また、本巻の防人の歌は、家持の選を加えたものであって、「拙劣なる歌は之を取載せず」といっており、その取ってある数は、全部の約半数にすぎないのである。何を標準として優劣を定めたかは不明であるが、家持としてはおそらく、文芸的価値ということを標準としてのことと思われる。それだとすると、これを文化史的に思うと、その捨てた半数以上のものの中に、かえって庶民の真情が現われていたろうかとも思われるが、今はそれを知る由がない。
 防人の歌は、これを文芸としてみても相当に程度の高い、文芸的魅力を持っているものであり、単に好奇の対象とさるべきものでは断じてない。これらの防人は皆、都よりは遠い東国の農民であり、しかも二十歳前後の青年で、年長けた者とてもそれより遠くない者である。その作歌手腕は、今日のそれに近い人々と比較して思うと、全く驚歎せざるを得ないものである。彼ら防人がいかなる径路でそうした手腕を養い得たかは明らかにはし難い。推測されうることは、あらゆる物の進歩発展は、生活上の必要に駆られ、それを身につけなければ生活に支障を(395)きたすという実感をとおしてでなければ遂げられないということである。その点から思うと、当時の庶民生活と歌とはきわめて緊密な関係を持っており、歌を解し得、またそれを作りうる力を蓄えなければ、生活上甚しい不便をきたしたがためと思わざるを得ない。わが国の上古よりの風習として、結婚に関しての意志表示は、歌をもってすることとなっていた。また、祝賀の心は歌をもってあらわすべきことともなっていた。これらはいずれも、背後に信仰があり、その上に立ってのことで、抜きさしのできないものだったのである。そうした生活上重大な事につながっている歌であるところから、摂取力旺盛な青年が、歌に思いを潜めて学び、こうした進歩発展を遂げ得たのではないかと思われる。趣味、趣向というがごとき動機からは、多数の者がこの程度まで高まりうるとは想像ができないからである。これは問題として残るべきものであるから、今はこの程度にとどめておく。それはとにかく、この特殊なる防人の歌を今日にとどめ得たのは、家持が兵部少輔であり、またたまたま難波に遣わされて、防人の歌を取扱うという位置にあったがためで、まことに僥倖にしてあり得た事だったのである。
 
     四
 
 万葉集は、淳仁天皇の天平宝字二年、大伴家持が因幡守として地方にやられたことによって終わり、彼の歌を終わりとして、奈良朝末期の歌界は全く湮滅《いんめつ》に帰し、知る由のないものとなった。感慨なきを得ぬことである。本集と家持との関係は問題を残しているものであるが、巻第十七以下本巻に至るまでの四巻は、明瞭に彼の手によって成ったものであり、奈良朝末期の歌界の一面を伝え、その全貌の想像されるのも、これまた明瞭に彼のしたことである。その動機は、彼の歌に対する愛好心と、その延長としての蒐集欲とであって、それ以外の何ものでもない。この四巻は彼の備忘のためのものであったことは、自作に対して二案のある場合、その棄てた一案をも、細注の形で付記しているのをみても知られる。また、彼の蒐集欲のいかに強いものであり、また潔癖の伴ったものであったかは、それをした歌に対しての左注のいかに神経質なものであるかをみても知られる。彼の丹念に記録した宴歌のごときも、自身その宴飲の席、に列《つらな》り親しく耳に聞き目に見たものでないと記録していないことは、最も明らかにその態度を示しているものである。この最後の四巻は、全く家持一人の手によって存在しているものであり、彼がなければ存しないものである。家持という人の蒐集欲の現われの、わが文芸の上に及ぼした結果を思うと、感深きことである。しかし歌人としての家持は、この時期には完成の域に達していて、今後の展開は多く望めない人となっていたかに思われる。彼はしばしば触れていったがごとく、知性を摂取した悟性本位の人で、調和をもった、物柔らかな生活を営んでおり、歌はその生活を母胎として生まれて来たとみえる。したがって彼の気分の及ぶ範囲も歌も限界があって、歌を中心としていえば、その生活気分が変わらない以上、歌境も変わり得なかったとみえる。この歌境を変えることは、その生活態度に意志(396)力が加わり、積極的にならなければできないのであるが、これは彼には望み難いことに思える。家持の歌が完成の域に達していたろうというのはこの意味で、彼として行きうる所まで行き得ていたのである。この当時の政情は、彼をして入興の歌を詠ましめたかどうかは疑問である。因幡守以後の彼の歌が、宴歌の一首に終わっているのは、甚だ心残りには感じられるが、万葉集そのものよりみれば、重大なる損失ではないかのごとく思われる。
 
〔目次省略〕
 
(403)     山村《やまむら》に幸行《いでま》しし時の歌二首
 
【題意】 「山村」は、『倭名類聚鈔』によると、大和国添上郡に「山村 也未無艮」とあり、今の奈良市山村町(国鉄|帯解《おびとけ》駅東方)の地という。櫟本《いちのもと》町の北方である。
 
     先の太上天皇《おほきすめらみこと》、陪従の王臣に詔り給はく、それ諸王卿等、宜しく和ふる歌を賦《よ》みて奏《まを》すべしとのり給ひて、即ち御口号し給へらく、
 
【解】 「先の太上天皇」は、孝謙天皇の御代から申しているもので、元正天皇。神亀元年二月譲位、天平二十年四月崩御。
 
4293 あしひきの 山《やま》行《ゆ》きしかば 山人《やまびと》の 朕《われ》にえしめし 山《やま》つとぞこれ
    安之比奇能 山行之可婆 山人乃 和礼尓依志米之 夜麻都刀曾許礼
 
【語釈】 ○山人の朕にえしめし 「山人」は、山に住んでいる人の意であるが、これは普通の人の意ではなく、特殊の人てある。それは天皇が尊んでいっていられるので明らかである。特殊な山人は仙人である。この時代は神仙思想の盛行していた時代で、天皇もそれを信じていられたのである。「朕にえしめし」は、朕に与えた。○山つとぞこれ 「山つと」は、山のみやげで、山のみやげ物。大体、花紅葉などであったろうと思われる。
【釈】 あしひきの山に行ったので、山人が朕に得させた山のみやげ物です、これは。
【評】 山踏みをなされた快さから、山で供奉の者に取らせられ(404)た花紅葉のような物を、そこに住んでいた仙人の得させた物だと、戯れて、誇ってお示しになった時の御歌である。山と山人との連想が作因で、「山」という頭韻を三回まで繰り返されているのは、そのためである。おおらかで、明るく、おのずから品位があって、高貴を思わせる御歌である。
 
     舎人親王《とねりのみこ》の、詔に応《こた》へて和へ奉《まつ》れる歌一首
 
【題意】 「舎人親王」は、天武天皇の皇子で、天平七年十一月に薨去された。これはその年以前の行幸である。
 
4294 あしひきの 山《やま》に行《ゆ》きけむ 山人《やまびと》の 心《こころ》も知《し》らず 山人《やまびと》や誰《たれ》
    安之比奇能 山尓由伎家牟 夜麻妣等能 情母之良受 山人夜多礼
 
【語釈】 ○あしひきの山に行きけむ 御歌の「あしひきの山行きしかば」に応じさせたもの。「行きけむ」は、天皇のことで、尊んでわざと過去の推量にしたものである。「山人」は、ここは天皇を言いかえたもの。山に行って、すでに人界を離れていたであろう山人の天皇の。○心も知らず 「心」は、本質の意のもの。「知らず」は、知らずにで、連用形。どういう人であるかも弁えずに。○山人や誰 「山人」は、御歌と同じ意のもの。「や」は、疑問の係で、仰せになる山人は誰なのであるかで、「誰」の下に、「なる」が略されている。これは山人を蔑んだ意のものである。
【釈】 あしひきの山に行ったという仙人の本質も知らずに、そのような物を差上げた山人は誰であるのか。
【評】 御歌の語に即しつつも、内容はすっかり変え、今日山にいらっしゃったという天皇は、すでに人界を超えた仙人でいらっしゃるのに、それとも知らずに、仙人の振舞いをした人は誰であるぞ、といって、天皇のすでに不老不死の仙人でいらせられることを、和え歌の形をもって賀したのである。行幸の際は賀歌を奉るのが習いとなっていたので、山踏みをなされた天皇を、御歌と同じく仙人につなぎ合わせるということは、この場合不自然ではなかったのである。和え歌という条件の下に、賀の心を安らかに言いおおせて、しかも高い意気を示しているところ、すぐれた技巧である。
 
     右は、天平勝宝五年五月、大納言藤原朝臣の家に在りし時、事を奏《まを》すに依りて請ひ問ふ間に、少主鈴《すなきすずのつかさ》山田|史土麿《ふひとひぢまろ》、少納言大伴宿禰家持に語りて曰はく、昔此の言を聞けりといひて、即ち此の歌を誦《よ》みき。
(405)      右、天平勝寶五年五月、在2於大納言藤原朝臣之家1時、依v奏v事而請問之間、少主鈴山田史土麿、語2少納言大伴宿祢家持1曰、昔聞2此言1、即誦2此歌1也。
 
【解】 「大納言藤原朝臣」は、仲麿で、後の恵美押勝。「事を奏すに依り」は、政治上の事を奏上するについてで、少納言として、長官大納言を通じてすべきであったとみえる。「少主鈴」は、中務省に属し、「職員令」に、「大主鈴二人、掌d出2納鈴印、伝符1、飛駅函鈴事u、少主鈴二人、掌同2大主鈴1」とある。正八位上の宮。土麿は伝未詳。
 
     天平勝宝五年八月十二日、二三の大夫等の、各壺酒を提げて高円野に上り、聯所心を述べて作れる歌三首
 
【題意】 「大夫」は、本来は五位以上の者の尊称であったのが、もっと広い意味での尊称に転じたもの。「高円野」は、春日の高円の野。奈良市の東南、高円山麓。「上り」は、奈良京よりは高地だからである。「所心」は、思うこと。
 
4295 高円《たかまと》の 尾花《をばな》吹《ふ》き越《こ》す 秋風《あきかぜ》に 紐《ひも》解《と》き聞《あ》けな 直《ただ》ならずとも
    多可麻刀能 乎婆奈布伎故酒 秋風尓 比毛等伎安氣奈 多太奈良受等母
 
【語釈】 ○紐解き開けな 「紐」は、衣の襟の紐で、「解き開け」は、打寛ぐ場合、涼を納れる場合にすることで、ここは後の場合。「な」は、願望の助詞で、未然形に接する。○直ならずとも 「直」は、直接で、肌を直接に吹かれるのではなくとも。
【釈】 高円の尾花の上を吹き越して来る秋風に、紐を解き開けて吹かれようよ。肌を直接に吹かれるのではなくとも。
【評】 高地の秋風に吹かれて、涼しく快いところから、さらに涼を納れようと思い、同行の者に、挨拶の心よりいったもので、儀礼の心の伴ったものである。軽い心よりのものである。
 
     右の一首は、左京少進大伴宿禰池主。
      右一首、左京少進大伴宿祢池主。
 
(406)【解】 「少進」は、判官。「池主」は、越前掾であった人で、この頃は左京職に転任となっていたのである。
 
4296 天雲《あまぐも》に 雁《かり》ぞ鳴《な》くなる 高円《たかまと》の 芽子《はぎ》の下葉《したば》は もみち敢《あ》へむかも
    安麻久母尓 可里曾奈久奈流 多加麻刀能 波疑乃之多婆波 毛美知安倍牟可聞
 
【語釈】 ○芽子の下葉は 萩の下葉は、黄葉の中の最も早い物とされていて、ここもその意のもの。○もみち散へむかも 「もみち」は、ここは動詞。「敢へむかも」は、堪えむかもで、黄葉されようかと、危ぶんでいっているもの。この時代の共通の詩情として、空に雁が渡って来る時には、地の木草は、それに応じて黄葉する物となっていたので、その心からいっているもので、雁の声はするが、萩の下葉もまだそれに順応のできそうもないのを見ての感である。
【釈】 天雲の中に雁が鳴いていることだ。高円の萩の下葉は、それに順応して黄葉できるであろうかなあ。
【評】 自然の風物の移り行きに心を留めた作であるが、これは雁と黄葉の相互関係に力点を置いていっているもので、「もみち敢へむかも」と嘆きをもっていってはいるものの、理の勝ちすぎた歌である。味わいが浅い。
 
     右の一首は、左中弁中臣清麿朝臣。
      右一首、左中辨中臣清麿朝臣。
 
【解】 「中臣清麿」は、巻十九(四二五八)に出た。清麿の「左中弁」になったのは、続日本紀では天平勝宝六年七月で、この時よりも後である。
 
4297 女郎花《をみなへし》 秋芽子《あきはぎ》凌《ぎしの》ぎ さを鹿《しか》の 露分《つゆわ》け鳴《な》かむ 高円《たかまと》の《の》野ぞ
    乎美奈弊之 安伎波疑之努藝 左乎之可能 都由和氣奈加牟 多加麻刀能野曾
 
【語釈】 ○秋芽子凌ぎ 萩の花を押し伏せて。○さを鹿の露分け鳴かむ 牡鹿がその花の露を分けて鳴くであろうで、「む」は、連体形。牡鹿の牝鹿を恋うて鳴くのは九月頃からで、想像していったもの。
(407)【釈】 女郎花や萩の花を押し伏せて、牡鹿がそれらの露を分けて、妻恋いをして鳴くであろう高円の野であるよ。
【評】 女郎花や萩の美しく咲いている野に、妻恋いをして鳴く牡鹿のあわれな状態を想像で描き出し、それに憧れを寄せている歌である。萩原の妻恋いの鹿は、秋の代表的なものとされていたので、これも新味あるものではないが、「女郎花秋芽子凌ぎ」といい、さらに同じことを「露分け鳴かむ」と、語を換えて繰り返して、しつこく、くどくいっている所に、どこまでも気分をあらわそうとする家持の歌風があって、そこに特色のあるものである。しかしすぐれた歌ではない。
 
     右の一首は、少納言大伴宿禰家持。
      右一首、少納言大伴宿祢家持。
 
     六年正月四日、氏族の人等、少納言大伴宿禰家持の宅に賀《ほ》き集ひて宴飲《うたげ》せる歌三首
 
【題意】 「正月四日」の「宴飲」は、新年の賀としての宴飲である。「氏族の人等」は、大伴氏の一族である。
 
4298 霜《しも》の上《うへ》に 霰《あられ》たばしり いや増《ま》しに 吾《あれ》は参来《まゐこ》む 年《とし》の緒《を》長《なが》く 【古今いまだ詳ならず】
    霜上尓 安良礼多婆之里 伊夜麻之尓 安礼波麻爲許牟 年緒奈我久 古今未v詳
 
【語釈】 ○霜の上に霰たばしり 「たばしり」は、「た」は、接頭語で、走って。譬喩として「いや増しに」の序。眼前を捉えてのものである。○吾は参来む 「参来む」は、「参り来む」の約で、「参り」は、尊い所へ来る意。参上しよう。○年の緒長く 「年の緒」は、「緒」は、年の継続する意で添えて語感を強めたもの。年久しくの意。
【釈】 霜の上に霰が走るように、いよいよ繁く、私は参上いたしましょう。年久しくも。
【評】 新年の賀詞であるが、ただ家持に対して述べるというよりは、家持の家を尊敬して述べているという趣を持ったものである。すなわち家持を氏の上《かみ》と認めてのものと取れる。「霜の上に霰たばしり」は、序詞として清新なものであるとともに、力強くさわやかな感じを持ったものである。以下もそれを損わない続けといえる。「古今いまだ詳ならず」は、上にも出たことのあるもので、家持の注である。序詞は眼前を捉えた新風のものであり、それ以下も家を対象としての物言いで、古歌とは(408)見えないものである。賀詞は古歌の流用でも事足りたので、こ  うした疑いが起こったものとみえる。
 
     右の一首は、左兵衛督大伴宿禰|千室《ちむろ》。
      右一首、左兵衛督大伴宿祢千室。
 
【解】 「千室」は、伝未詳。巻四(六九三)に出た。
 
4299 年月《としつき》は あらたあらたに 相見《あひみ》れど 吾《あ》が思《も》ふ君《きみ》は 飽《あ》き足《た》らぬかも 【古今いまだ詳ならず】
    年月波 安良多々々々尓 安比美礼騰 安我毛布伎美波 安伎太良奴可母 古今未v詳
 
【語釈】 ○年月はあらたあらたに 「年月は」は、これまでの年月は。「あらたあらたに」は、新たにを畳んで強めたもので、新たになるごとにいつも。○吾が思ふ君は 「君」は、家持をさす。○飽き足らぬかも 「飽き足らぬ」は、上の「見れど」に照応させたもので、見るに飽き足らぬ意。
【釈】 これまでの年月の間は、その新たになるたびごとに見て来たが、私の思っている君は、見るに飽き足らないことですよ。
【評】 これは年々の正月に、家持の邸で行なわれて来た宴飲を中心に、その席上で逢って来た家持に対する思慕の情の尽きないことをいったものである。家持に対して氏の上としての尊敬をこめてのものである。これにも「古今いまだ詳ならず」の注があるが、これも賀詞としては特殊なもので、ことに結句の「飽き足らぬかも」の、第四句との続きは、明らかに不熟な点のあるものである。古歌の流用とはみえないものである。
 
     右の一首は、民部少丞大伴宿禰|村上《むらかみ》。
      右一首、民部少丞大伴宿祢村上。
 
【解】 「村上」は、巻八(一四三六)に出た。
 
4300 霞《かすみ》立《た》つ 春《はる》のはじめを 今日《けふ》のごと 見《み》むと思《おも》へば 楽《たの》しとぞ思《も》ふ
(409)    可須美多都 春初乎 家布能其等 見牟登於毛倍波 多努之等曾毛布
 
【語釈】 ○霞立つ春のはじめを 「霞立つ」は、春の枕詞。「春のはじめ」は、年頭である。
【釈】 霞の立つ春のはじめに、今日のように見ようと思うので、楽しく思っていることであるよ。
【評】 平凡な歌であるが、同氏族としての年頭の賀詞であるから、その宴飲の永久のものであることを思うと楽しいと、単純に祝うことによって心が尽くせるわけである。宴飲としてはその場合にかなった、要を得たものともいえよう。
 
     右の一首は、左京少進大伴宿禰池主。
      右一首、左京少進大伴宿祢池主。
 
     七日、天皇、太上天皇、皇大后の、東の常の宮の南の大殿に在《いま》して肆宴《とよのあかり》きこしめせる歌一首
 
【題意】 「天皇」は、孝謙天皇。「太上天皇」は、聖武太上天皇。「皇太后」は、光明皇太后。「東の常の宮」は、東院と称せられた宮で、平城宮の東部にある平常の御殿。平城宮の遺址は、現在徐々に明らかになりつつあるが、内裏は大極殿の北にあった。「肆宴きこしめせる歌」は、大御酒を召させられる日の歌で、「歌」は、その日に献じた賀歌の意である。
 
4301 稲見野《いなみの》の あから柏《がしは》は 時《とき》はあれど 君《きみ》を吾《あ》が思《も》ふ 時《とき》は実《さね》無《な》し
    伊奈美野乃 安可良我之波々 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之
 
【語釈】 ○稲見野のあから柏は 「稲見野」は、播磨国印南郡にある野。今の高砂市、加古川市から明石市へかけての一帯の地。「あから柏」は、葉の赤い柏の称。赤いのは、若葉の頃の一定の期間と思われる。これは下の続きから見てのことである。この「あから」は、あから橘と同じ形のものである。○時はあれど その赤い時に定まりがあるが。○君を吾が思ふ時は実無し 「君」は、当代の天皇に対しての称で、陛下。「実」は、真に。陛下をわたくしがお思い申すのは、定まった時は真にございませんで、絶えずお思い申している意。
【釈】 印南野にあるあから柏の葉の赤いのは、定まった時がありますが、陛下をわたくしがお思い申す定まった時というものは、真にございません。
(410)【評】 宮中の肆宴の際の献歌は、天皇を賀するか、あるいは忠誠を誓うかのいずれかである。これは後者で、それとしては語が柔らかであるが、作者安宿王は、天皇にも、太上天皇、皇太后にも、近親の関係を持っている人なので、これで事足りたものと思われる。「稲見野のあから柏」は、この歌では重い位置を占めたものであるが、これは作者安宿王は播磨守であり、また肆宴には、古式に従って、食器としての柏の葉が用いられ、播磨国は貢物として干※[木+解]の葉を献ずることが、『大膳式』に載ってもいるので、その際の肆宴にも、少なくとも関係のあるものであるから、眼前を捉えた形のもので、時様にかなった、適切なものだったのである。宴歌にふさわしい歌である。
 
     右の一首は、播磨国の守|安宿王《あすかべのおほきみ》奏《まを》せる。古今いまだ詳ならず。
      右一首、播磨國守安宿王奏。古今未v辞。
 
【解】 「安宿王」は、高市皇子の孫、長屋王の第五子で、母は藤原不比等の女である。天平九年九月、無位から従五位下を授けられ、天平勝宝五年四月播磨守となり、宝亀四年十月、高階真人の姓を賜わった。
 
     三月十九日、家持の庄《たどころ》の門《かど》の槻の樹の下《もと》にて宴飲《うたげ》せる歌二首
 
【題意】 「庄」は、荘の俗字で、領地の称。その領地に属させた家のことをもいう。ここは「門」とあるから家であり、今の別荘にあたる物である。「槻の樹の下にて宴飲せる」は、上代より樹下で酒宴をするのは習わしとなっており、例の多いものである。
 
4302 山吹《やまぶき》は 撫《な》でつつ生《おほ》さむ 在《あ》りつつも 君《きみ》来《き》ましつつ 挿頭《かざ》したりけり
    夜麻夫伎波 奈※[泥/土]都々於保佐牟 安里都々母 伎美伎麻之都々 可射之多里家利
 
【語釈】 ○撫でつつ生さむ 撫で可愛ゆがりつつ育てよう。○在りつつも 生きながらえつつもで、作者である老人のこと。○君来ましつつ 「君」は、家持で、あなたがおいでになりつつ。○挿頭したりけり 挿頭にしたことです。挿頭は、宴飲の時にするもので、ここもその意でいっているもの。
【釈】 山吹は撫で可愛ゆがりつつ育てましょう。わたくしは生きながらえつつ、あなたはおいでになりつつ、挿頭にしたことで(411)す。
【評】 作者の名は左注にあり、それと断わってはいないが、家持の領地を管理している老人とみえる。家持が来たので、おりからの山吹の花を持って来て、それに寄せて詠んだものである。「山吹は撫でつつ生さむ」は、この庄の管理は、将来も十分にしようの意を、また「挿頭したりけり」は、管理の労をねぎらわれたのに対しての喜びの意を寄せていっているものと取れる。花に寄せてそれとなく心を尽くしての言い方が巧みである。
 
     右の一首は、置始連長谷《おきそめのむらじはつせ》。
      右一首、置始連長谷。
 
【解】 伝未詳。領地の管理人で、老人であったとみえる。姓を持った人であることが注意される。
 
4303 吾《わ》が兄子《せこ》が 屋戸《やど》の山吹《やまぶき》 咲《さ》きてあらば 止《や》まず通《かよ》はむ いや毎年《としのは》に
    和我勢故我 夜度乃也麻夫伎 佐吉弖安良婆 也麻受可欲波牟 伊夜登之能波尓
 
【語釈】 略す。
【釈】 親しいあなたの、庭の山吹が咲いていたら、やまずに通って来ましょう。いよいよ年ごとに。
【評】 長谷の歌の心を受け入れて和えているものである。語はやさしいが、領地の管理人としての態度をもっていっているもので、甘いばかりの心ではない。
 
     右の一首は、長谷花を攀ぢ、壺を提げて到り来《く》。是に因りて大伴宿禰家持この歌を作りて和ふる。
      右一首、長谷攀v花、提v壺到來。因v是大伴宿祢家持作2此歌1和之。
 
【解】 「花を攀ぢ、壺を提げて」は、山吹の花を折り取り、酒壺を提げてで、家持の邸に接待に来たのである。
 
(412)     同じ月二十五日、左大臣橘の卿の、山田御母《やまだのみおも》の宅《いへ》に宴《うたげ》せる歌一首
 
【題意】 「橘卿」は、諸兄。「山田御母」は、山田は氏、御母は孝謙天皇の御乳母としての称で、名は比売島《ひめじま》という。天平勝宝元年七月、正六位上から従五位下を授かり、天平勝宝七年正月、山田御井宿禰の姓を賜わったが、天平宝字元年、御母という称も、姓も奪われた。ここはそれ以前のことである。
 
4304 山吹《やまぶき》の 花《はな》の盛《さかり》に かくのごと 君《きみ》を見《み》まくは 千年《ちとせ》にもがも
    夜麻夫伎乃 花能左香利尓 可久乃其等 伎美乎見麻久波 知登世尓母我母
 
【語釈】 ○君を見まくは 「君」は、諸兄。「見まく」は、「見む」の名詞形。○千年にもがも 千年もありたいものです。「もが」は、願望の助詞。
【釈】 山吹の花の盛りに、このようにあなたに逢うことは、千年もありたいものです。
【評】 宴歌としての賀歌で、その場合にふさわしくいっただけの、儀礼的なものである。
 
     右の一首は、少納言大伴宿禰家持、時の花を矚て作れる。但しいまだ出ださざりし間、大臣《おとど》宴《うたげ》を罷めたるにより攀《よ》ぢ誦《よ》まざるのみ。
      右一首、少納言大伴宿祢家持矚2時花1作。但未v出之間、大臣罷v宴、而不2攀誦1耳。
 
【解】 「大臣宴を罷めたる」は、客の諸兄が慌しく帰ったこと。「攀」は、『代匠記』は「挙」の誤写としている。用例のない語だからである。引き寄せる意の語であるから、追いすがって、強いてと解しても通じる。
 
     霍公鳥を詠める歌一首
 
4305 木《こ》の暗《くれ》の 繁《しげ》き尾《を》の上《へ》を 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》きて越《こ》ゆなり 今《いま》し来《く》らしも
    許乃久礼能 之氣伎乎乃倍乎 保等登藝須 奈伎弖故由奈里 伊麻之久良之母
(413)【語釈】 ○木の暗の繁き尾の上を 木の葉の暗く繁っている峰の上を。佐保山であろう。○今し来らしも 今、里に来るらしい。「し」は、強意、「も」は、感動の助詞。
【釈】 木の葉の暗く繁っている峰の上を、霍公鳥が鳴いて越えていることだ。今里へ来るらしい。
【評】 家持がその住地の佐保の内から、そこの佐保山を越して来るほととぎすを見ての心である。即興の歌で、気分が張り、「今し来らしも」に喜びの心は現われている。
 
     右の一首は、四月、大伴宿禰家持の作れる。
      右一首、四月、大伴宿祢家持作。
 
     七夕の歌八首
 
4306 初秋風《はつあきかぜ》 涼《すず》しき夕《ゆふべ》 解《と》かむとぞ 紐《ひも》は結《むす》びし 妹《いも》に逢《あ》はむため
    波都秋風 須受之伎由布弊 等香武等曾 比毛波牟須妣之 伊母尓安波牟多米
 
【語釈】 ○初秋風涼しき夕解かむとぞ 初秋の風の涼しい夕べに解こうと思って。「ぞ」は、係。○紐は結びし 下紐を結んだことであった。以上は牽牛星の心で、去年の七夕に妹と逢って別れる時、来年のこうした日に、また逢おうと、妹がわが下紐を結んだことであったと思い出しての心である。男女、逢って別れる時、互いに下紐を結びかわすのは、また逢うまでは解かないという、禁忌のわざで、それはやがてまた逢えるという信仰よりのことであった。ここもそれで、思い出しているのは、去年の七夕なのである。「し」は、「ぞ」の結。○妹に逢はむため 妹にまた逢おうがためにで、すなわち上の信仰をいって、それのかなった喜びの心よりの語である。
【釈】 初秋の涼しい夕べに解こうと思って、下紐は結んだことであった。妹にまた逢おうがために。
【評】 牽牛星の心になって詠んだものである。一年に一度の逢いの許されている夜のめぐって来た今夜、去年の今夜別れる時に行なった禁忌を思い出し、それを守って来たがゆえに、今夜また逢えるのだという、一首の中心である信仰よりの歓喜を、余情として背後に置いての歌である。禁忌も信仰も、この当時としては常識だったので、自然平淡な言い方をしているところから、目立たないものとなっているが、しかし思い入りの深い歌である。七夕の歌としては珍しく含蓄のある、気品を持った作である。この時代の家持の、男女関係に対しての気分を反映している歌と思われる。
 
(414)4307 秋《あき》といへば 心《こころ》ぞ痛《いた》き うたて異《け》に 花《はな》になぞへて 見《み》まく欲《ほ》りかも
    秋等伊閇婆 許己呂曾伊多伎 宇多弖家尓 花仁奈蘇倍弖 見麻久保里香聞
 
【語釈】 ○秋といへば心ぞ痛き 秋というと、心が痛むことである。心痛しは、痛心という漢語から来たものであろう。感情が深まると、胸が痛みを感じる意で、悲しみをあらわすに用いるが、ここは思いの深さをいったもの。○うたて異に 「うたて」は、さらに進んで。「異に」は、ことさらにで、同意語を畳んだ副詞句。「見まく」に続く。○花になぞへて見まく欲りかも 「花になぞへて」は、美しい花に擬えてで、織女を讃えていったもの。「見まく欲りかも」は、見たいと思うからのことなのか。
【釈】 秋というと、心が痛いことであるよ。さらに進んで、ことさらに、妹を美しい花にもなぞえて、逢いたいと思うからのことであろうか。
【評】 これも牽牛星の心になっていっているものである。秋になると胸が痛むのを訝かって、妹に逢える時が近づいたと思うと、怪しいまでに恋情がつのるからであろうかと自身に答えたものである。一年に一度の逢いという宿命にいさぎよく従って、自制してはいるが、さすがに本能は制そうとはしていない心で、知性によって悟性を制御し得ているのである。これも家持の個性を反映しているもので、上の歌と同範囲のものである。
 
4308 初尾花《はつをばな》 花《はな》に見《み》むとし 天《あま》の河《がは》 隔《へな》りにけらし 年《とし》の緒《を》長《なが》く
    波都乎婆奈 々々尓見牟登之 安麻乃可波 弊奈里尓家良之 年緒奈我久
 
【語釈】 ○初尾花花に見むとし 「初尾花」は、薄の、初めて穂に出た物の称で、愛されたもの。同音で「花」にかかる枕詞。眼前の物としてである。「花に見むとし」は、花のように珍しく美しく見ようとて。「し」は、強意の助詞。これは牽牛より織女を見る心。○天の河隔りにけらし 「隔り」は、隔ての古語。「けらし」は、けるらしで、過去の推量。天の河を隔てにしたのであるらしい。○年の緒長く 年久しく。昔より今までの意。
【釈】 初尾花に因む、妹を花のように珍しく美しく見ようとて、天の河を隔てに置いたらしい。年久しくも。
【評】 これも牽牛星に代わってのものである。我と妹との間に天の河を隔てとして置いたのは、永遠にわたって、妹を珍しいもの、美しいものに思わせようとしてのことであろうと、その隔てを善意に解しているものである。上よりの心の続きで、そ(415)の心のきわまっているものである。知性というものを、情性を削ぎ弱めるものと解せず、反対に、ますます悟性を深めさせてゆくものと解している心で、これは家持にして初めて持ちうる心である。七夕の歌としては例のないものである。
 
4309 秋風《あきかぜ》に 靡《なぴ》く河傍《かはび》の 和草《にこぐさ》の にこよかにしも 思《おも》ほゆるかも
    秋風尓 奈妣久可波備能 尓故具左能 尓古餘可尓之母 於毛保由流香母
 
【語釈】 ○秋風に靡く河傍の和草の 「河傍」は、天の河のほとり。「和草」は、今「はこね草」とも呼ぶ。箱根の山中に多い歯朶だからである。多年生で、急崖に這っている。葉柄は紫黒褐色で、若葉の時は紅色を帯びている。同音で「にこ」に続き、以上その序詞。眼前の物としてである。○にこよかにしも 「にこよか」は、「にこやか」に同じ。心嬉しさを具象的にいった語。「しも」は、強意の助詞。
【釈】 秋風になびいている天の河のほとりの和草に因みのある、我も、にこにこしそうに思われることであるよ。
【評】 これも牽牛星に代わっての心で、今より天の河を渡ろうとする折の心である。嬉しさに満ち余った、しかし捉えては言い難い心を、単純に、力強く具象化している歌である。上よりの歌の総結収で、家持の歌才を思わせる歌である。こうした物柔らかな、静かな喜びは、彼の気分に合うものだったのである。
 
4310 秋《あき》されば 霧《きり》立《た》ちわたる 天《あま》の河《がは》 石並《いしなみ》置《お》かば 継《つ》ぎて見《み》むかも
    安吉佐礼婆 寄里多知和多流 安麻能河波 伊之奈弥於可婆 都藝弖見牟可母
 
【語釈】 ○石並置かば継ぎて見むかも 「石並み」は、川の浅瀬に石を並べて、飛石風にしたもので、それを橋に代えたのである。巻二(一九六)の「一にいふ」に「石なみに生ひ靡ける」と出た。「継ぎて見むかも」は、引き続いて逢えようか。
【釈】 秋が来れば、霧が立ちこめる。天の河に石並を置いたならば、続いて逢えるであろうか。
【評】 同じく牽牛星に代わっての心であるが、この歌から普通の題詠風のものとなっている。霧にまざれて天の河を渡り、一年に一夜という定めを裏切ろうというのである。類想の多いもので、家持の特色の無いものである。
 
4311 秋風《あきかぜ》に 今《いま》か今《いま》かと 紐《ひも》解《と》きて うら待《ま》ち居《を》るに 月《つき》かたぶきぬ
(416)    秋風尓 伊麻香伊麻可等 比母等伎弖 宇良麻知乎流尓 月可多夫伎奴
 
【語釈】 ○秋風に今か今かと 秋風の吹く中に、今は来るか、今は来るかと思って。これは織女の心である。○うら待ち居るに 心待ちに待っていると。
【釈】 秋風の吹く中に、今は来るか今は来るかと思って、衣の紐を解いて、心待ちにしていると、月が傾いた。
【評】 これは織女の心に代わって詠んだものである。心が細かくは働いているが、これまた普通の題詠風のもので、類想の多いものである。
 
4312 秋草《あきぐさ》に 置《お》く白露《しらつゆ》の 飽《あ》かずのみ 相見《あひみ》るものを 月《つき》をし待《ま》たむ
    秋草尓 於久之良都由能 安可受能未 安比見流毛乃乎 月乎之麻多牟
 
【語釈】 ○秋草に置く白露の 譬喩として、「飽かずのみ相見る」にかかる序詞。眼前を捉えた形のもので、露の置くのは朝か夕べであるが、これは朝露。○飽かずのみ相見るものを 飽かない心ばかりして相逢っているのにで、牽牛織女にいっているもの。○月をし待たむ 来年のこの月の来るのを待とう。
【釈】 秋草の上に置いている白露のように、飽かない心ばかりして相見ているのに、来年のこの月を待とう。
【評】 これも牽牛星の心になって詠んでいるものである。七夕の夜が明けようとして、別れなければならない時に、牽牛星が織女に向かって、嘆きをもっていっている語である。嘆きではあるが、一年一夜という定めに十分に従って、いかんともし難いものとした上での嘆きで、きわめて静かな嘆きである。牽牛星を、知性の強く働いているものと見ている点で、これは家持らしい歌である。微温的な歌であるが、これは作意が決定しているのである。
 
4313 青波《あをなみ》に 袖《そで》さへ濡《ぬ》れて 漕《こ》ぐ船《ふね》の 〓〓《かし》振《ふ》る程《ほど》に さ夜《よ》ふけなむか
    安乎奈美尓 蘇弖佐閇奴礼弖 許具布祢乃 可之布流保刀尓 左欲布氣奈武可
 
【語釈】 ○青波に 「青波」は、天の河の川浪で、蒼波という漢語に因みのあるもの。○〓〓振る程に 「〓〓」は、船を繋ぎ留めるために、川の(417)中に立てる杙の称。「振る」は、それを立てる意の特殊語。『新考』は、現在も越後では用いる語だといっている。「程」は、間。
【釈】 青波に袖までぬれて漕いでゆく船の、〓〓を立てている間に、夜が更けることであろうか。
【評】 これも牽牛星の心に代わってのものである。現に天の河の渡を船を漕ぎながら、早く妹に逢いたい心からの焦燥気分をいっているものである。「〓〓」は、(一一九〇)(三六三二)などの歌からその新しさによって捉えたもので、一首の歌とすると相応に働きのあるものであるが、家持の個人性とはつながりのないものである。取材としても、上では石並を置けば渡れる天の河が、ここでは大河となっているのである。後半は、「秋草に」以外は皆この範囲のものである。
 
     右は、大伴宿禰家持、独|天漢《あまのがは》を仰ぎて作れる。
      右、大伴宿祢家持、獨仰2天漢1作之。
 
4314 八千種《やちぐさ》に 草木《くさき》を植《う》ゑて 時毎《ときごと》に 咲《さ》かむ花《はな》をし 見《み》つつ思《しの》はな
    八千種尓 久佐奇乎字惠弖 等伎其等尓 左加牟波奈乎之 見都追思努波奈
 
【語釈】 ○八千種に草木を植ゑて 「八千種」は、種類を尽くしての意を具象的にいったもの。○見つつ思はな 「見つつ」は、見続けて。「思はな」は、愛嘗しようよ。「な」は、願望の助詞。
【釈】 あらゆる種類の草や木を植えて、その季節ごとに咲くであろう花を愛賞しようよ。
【評】 願望として詠んだもので、純粋な抒情である。花木を愛賞する家持ではあるが、こうした覇望を新たに起こすのは、越中守時代なればふさわしいが、京にあっては不自然な感がある。何らかの刺激があってのことかと思わせる。
 
     右の一首は、同じ月二十八日大伴宿禰家持の作れる。
      右一首、同月廿八日大伴宿祢家持作之。
 
【題意】 以下六首の歌は、題は無いが、左注に「独秋の野を憶ひて」とあり、また、歌によってその事情が察しられる。それは、天皇が高円離宮に幸行のことがあり、廷臣の多くが供奉したのであるが、家持は何らかの事情で加わることができず、後に残っ(418)て、その日の高円の野を思いやり、ゆかしがって詠んだ歌なのである。高円離宮は、聖武天皇の御造営になられたもので、高円山は春日山の南に続き、離宮は今の白毫寺と鹿野園《ろくやおん》の間かという。宮は高所にあり、山裾は萩が多かったのである。この宮は天平宝字二年の頃には、早くも荒廃した。
 
4315 宮人《みやびと》の 袖《そで》つけ衣《ごろも》 秋萩《あきはぎ》に にほひよろしき 高円《たかまと》の宮《みや》
    宮人乃 蘇泥都氣其呂母 安伎波疑尓 仁保比与呂之伎 多加麻刀能美夜
 
【語釈】 ○宮人の袖つけ衣 「宮人」は、大宮人で、供奉の廷臣の総称。「袖つけ衣」は、端袖《はたそで》ともいい、普通は一幅の袖に、さらに半幅を足して長くした袖で、官服の制となっていたものである。巻十六(三七九一)に「夾纈《ゆひはた》の袖著衣著し我を」とあるのと同じで、貴い服としたのである。○秋萩ににほひよろしき 「秋萩」は、おりからの萩の花。「にほひよろしき」は、萩の花の色と袖つけ衣の色とが、美しく映じ合って好い。○高円の宮 下に詠歎をもっていっているもの。
【釈】 大宮人の袖つけ衣が、おりからの萩の花と色美しく映じ合って好い高円の宮よ。
【評】 第一に家持の想像に浮かんだ、その日の高円の宮の光景である。やや高所にある宮をめぐって、萩の花が咲き続き、その花間に、袖つけ衣を着けた大宮人が入りまじって逍遥している楽しげなさまであるが、それが萩の花の色と、袖つけ衣の色との美しい調和という、色彩を中心としたものとなって浮かんで来たのである。柔らかく、におやかな絵画となって来たところに、家持の感性がうかがわれる。
 
4316 高円《たかまと》の 宮《みや》の裾廻《すそみ》の 野《の》づかさに 今《いま》咲《さ》けるらむ 女郎花《をみなへし》はも
    多可麻刀能 宮乃須蘇未乃 努都可佐尓 伊麻左家流良武 乎美奈弊之波母
 
【語釈】 ○宮の裾廻の野づかさに 「裾廻」は、「廻」は、彎曲している地形をあらわす語。「野づかさ」は、野中の小高くなっている所の称。○女郎花はも 女郎花はなあ。「も」は、感動の助詞。
【釈】 高円の宮の裾廻の野司に、今は咲いているであろう女郎花の花はなあ。
【評】 これは一転して、今は女郎花の花が咲いていようと想像して、なつかしんでいるものである。女郎花は平安朝時代にな(419)ると、その文字面から愛されるようにもなったが、この時代には純粋な気分で愛されたのであった。加えてここでは、行幸の供奉をして見る女郎花ということが関係していて、それが女郎花を言い難くなつかしい気分あるものと思わせたのである。「高円の宮の据廻の野づかさに」と、女郎花の咲いている位置を細かく限定していっているのは、そのなつかしい気分を具象しようがためのものである。その具象が効果的に遂げられて、想像でいっている女郎花が、ありありと生趣を帯びたものとなり、一種特別なものであるかのような魅力あるものとなっている。家持独特の気分によっての歌である。
 
4317 秋野《あきの》には 今《いま》こそ行《ゆ》かめ もののふの 男女《をとこをみな》の 花《はな》にほひ見《み》に
    秋野尓波 伊麻己曾由可米 母能乃布能 平等古平美奈能 波奈尓保比見尓
 
【語釈】 ○秋野には今こそ行かめ 秋の野には、今こそ行こうで、自身の願望をいっているもの。「秋野」は、下の続きで、行幸のある高円の野である。○もののふの男女の 「もののふの」は、部族のの意で、廷臣の総称としたもの。廷臣の男女の。これは行幸の供奉をしている大宮人の男女のの意。○花にほひ見に 「花にほひ」は、花のごとく色美しいさまで、「にほひ」は、名詞。服を主としていっているもの。「見に」は、見るために。
【釈】 秋の野には今こそ行こう。大宮人の男と女の、花のごとく美しいさまを見に。
【評】 第一首の「宮人の袖つけ衣」と同じ範囲の歌で、そちらでは大宮人が、萩原を逍遥している美しいさまを、距離を置いて想像のうちに描いていたのであるが、これはそれだけでは満足できず、自身出かけて行って、親しく目に見たい感を起こした心である。しかし、美観のゆかしさに誘われての気分の上でのこととし、高円の野を「秋野」と広い意味のものとし、供奉の大宮人のさまも、「花にほひ」と、秋野と関係づけて単に美観のみのものとしているのである。細心な用意をもっての作である。
 
4318 秋《あき》の野《の》に 露《つゆ》負《お》へる萩《はぎ》を 手折《たを》らずて あたら盛《さかり》を 過《す》ぐしてむとか
    安伎能野尓 都由於弊流波疑乎 多乎良受弖 安多良佐可里乎 須具之弖牟登香
 
【語釈】 ○あたら盛を 「あたら」は、惜しむべきで、副詞。「盛」は、花盛りを。○過ぐしてむとか 過ごしてしまおうとするのかで、下に「する」の意が略されている。
(420)【釈】 秋の野に、露を帯びている萩を手折らないで、惜しむべき花盛りを過ごしてしまおうとするのか。
【評】 行幸の供奉に加われなかった嘆きをいっているものであるが、それとはいわずに、広い意味でいっているものである。しかし直線的に強くいい、調べもこの場合としては張っているので、その気分は感じられる歌である。
 
4319 高円《たかまと》の 秋野《あきの》のうへの 朝霧《あさぎり》に 妻《つま》呼《よ》ぶ牡鹿《をしか》 出《い》で立《た》つらむか
    多可麻刀能 秋野乃宇倍能 安佐疑里尓 都麻欲夫乎之可 伊泥多都良武可
 
【語釈】 略す。
【釈】 高円の秋野の上の朝霧に、妻を呼ぶ牡鹿が立ち出るであろうか。
【評】 この歌は、離宮から心を高円の野に転じ、秋野のあわれさの代表的なものである、妻恋いをする牡鹿を思ったものである。その想像も、一般的のものとはせず、秋野の朝霧の上に牡鹿を発見した、瞬間の印象としていっているので、事としては常凡であるが、一応の感のあるものとなっている。家持の気分の動きの跡をとどめているものである。
 
4320 大夫《ますらを》の 呼《よ》び立《た》てしかば さを鹿《しか》の 胸分《むなわ》け行《ゆ》かむ 秋野萩原《あきのはぎはら》
    麻須良男乃 欲妣多天思加婆 左乎之加能 牟奈和氣由可牟 安伎野波疑波良
 
(421)【語釈】 ○大夫の呼び立てしかば 「大夫の」は、下の続きで、鹿を呼ぶ男で、猟夫である。「呼び立てしかば」は、鹿を呼び立てたのでで、提示である。鹿を呼ぶのは、鹿笛を吹いて集めるのである。○胸分け行かむ 胸で、前を渡る萩などを押し分けて行くであろうで、「胸分け」は、慣用語。「む」は、連体形。○秋野萩原 秋の野の萩原よで、下に詠歎がある。「秋野萩原」は、意としては秋の萩原であるが、感を強めるために語調を重くしたもの。
【釈】 大夫が鹿笛を吹いて呼び立てたので、牡鹿が胸で押し分けてそちらへ行くであろうところの秋の野の萩原よ。
【評】 上の牡鹿よりの連想で、これは狩場における牡鹿のさまを想像したものである。猟夫が身を潜めて、牝鹿の鳴き声にまねた鹿笛を吹くと、牡鹿はそれに欺かれて、萩原を胸に押し分けつつ、声のするほうへ寄って行くだろうと、狩猟の時の一光景を眼に描いたのである。これは狩猟者にとっては最も興味のある光景であろうが、第三者から見ると、最もあわれ深い光景である。この歌は第三者として見ての光景の想像であるが、美しく咲き続く萩原、あわれな鹿笛と牡鹿とを、一団の物として描き出しているだけで、純客観的な、拡がりを持った歌である。この種の歌としては特殊なものである。
 
     右の歌六首は、兵部少輔大伴宿禰家持の、独秋の野を憶ひて、聊拙き懐《おもひ》を述べて作れる。
      右歌六首、兵部少輔大伴宿祢家持、獨懐2秋野1聊述2拙懐1作之。
 
【解】 「兵部少輔」は、兵部省の、長官である卿の下に大輔少輔とあるそれで、次官である。家持がこの職に任ぜられたのは、天平勝宝六年四月である。「独秋の野を憶ひて」は上にいった。この年に入っての家持の詩情は弛緩したさまであったが、上の七夕の歌とともに、この一連は詩情を盛り返し得たものである。
 
     天平勝宝七歳乙未の二月、相替りて筑紫に遣さるる諸国《くにぐに》の防人等《さきもりら》の歌
 
【題意】 この題詞は、防人制度の行なわれていた当時に書かれたものなので、ここでは防人制度を先に説明するほうが便利である。防人に関する文献は、『古義』が蒐集しているので、ここはそれによって概略をいうにとどめる。「防人」は、埼守で、海辺を守備する兵士である。海辺というのは、九州の北岸と壱岐、対馬の二島である。防人に関しての記録の最も古いものは、日本書紀、孝徳天皇の大化二年の改新の詔の中に出ており、それは広く軍防を厳にすることをいわれたもので、防人の事もその中に加えられているのである。防人が九州の北岸、壱岐、対馬に限られていたのは、その当時新羅がわが国を侵そうとするおそれがあり、新羅の背後には唐があって支援するかに思われたので、それに対しての軍防だったのである。防人の制度の廃されたのは、(422)平安朝時代に入り、外寇のおそれのなくなった時で、じつに久しきにわたってのことであった。防人は諸国にある国庁所属の兵団より選抜された者で、兵団はその国の庶民であった。防人の数は三千人と称されているが、天平宝字元年には千人という記録がある。長い年代にわたってのことで、その時の情勢によって加減されたものとみえる。防人は初め諸国の兵団の者を充てたが、後は筑紫の者とし、また東国の者とし、西海道の者とし、さらにまた東国の者に復した。これは東国の者が最も勇悍で、安んじて事を託せるがためであった。防人は、毎年二月一日を期日として、その三分の一を交替せしめる制となっていた。その際は、その国の国司職の一人が部領便と称する責任者となり、防人を引率して難波まで行き、兵部省より難波に出張している責任者に引渡すのである。兵部省は諸国の防人を一団として、瀬戸内海の海路によって筑紫の大宰府に送り、大宰府が適宜に処理するのであった。題詞の「天平勝宝七歳」は、防人は東国の者で、「諸国」とあるのは、遠江、相模、駿河、上総、常陸、下野、下総、信濃、上野、武蔵の十か国である。なお『駿河国正税帳』の天平十年のものには、駿河国を通過した旧防人の記録があり、それにはこの他に伊豆、安房、甲斐の三国がある。このうち安房は上総国に含まっているが、他の二国も防人を出していたのである。「二月、相替り」は、定期の交替である。「防人の歌」は、防人のうち、作歌に堪える者には歌を詠ませ、部領使がそれを取纏めて兵部省へ差出す制となっていたのである。これは部領使が途中病を獲て、自身そのことの果たせない者は、代理をもってそのことをしているのでも明らかで、これは『新考』が明らかにしていることである。また、集中には、以前の時代の防人の歌で、伝誦されていたものが少なからずあるところから見て、この制は由来の久しいものであることが知られる。何ゆえにこうした制が起こったかについては徴すべき記録がないが、これを朝廷より見ると、東国の防人は、その勇悍は頼もしいが、その地は皇化の浸潤が浅く、心測り難いものがあると見て、防人という重任を託するには、宣誓を求める要がありとして、歌をもってそれをさせようとしたのではなかろうか。防人のうち多少身分があり、文字があるとみえる者は、朝廷のその心を体して、「大君のみ言かしこみ」と忠誠を誓う心を詠み、また武神の加護を祈る心を詠んでいるが、それが防人の歌の本質であったろうと思われる。しかしそうした歌は一部分で、大部分は個人的のものとなって、妻に対し、親に対し、また子に対しての惜別の情を詠んだものとなっているが、これは兵として戦うような事件が起こらなかったために、次第に心が弛緩して来たのと、他方、歌そのものが次第に純文芸的なものとなって来た影響にもよろう。中には妻の惜別の情を詠んだものまでも収めているが、これは歌を取纏めた部領使の責任ともいえることである。題詞の場合の防人の歌は、兵部少輔大伴家持が、兵部省を代表して難波に出張し、その年の防人の事を扱ったところから、偶然にも家持がそれらの歌を受取ることとなり、歌の蒐集欲からひそかに筆写したのである。その年の歌は一六六首で、家持はそれを選択し、拙劣歌八二首を捨て、八四首を採録したのである。家持の選択標準も文芸として見てのことである。
 
(423)4321 畏《かしこ》きや 命《みこと》被《かがふ》り 明日《あす》ゆりや 草《かえ》が共《むた》寝《ね》む 妹《いむ》無《な》しにして
    可之古伎夜 美許等加我布理 阿須由利也 加曳我牟多祢牟 伊牟奈之尓志弖
 
【語釈】 ○畏きや命被り 恐れ多い勅命をこうむって。「や」は、感動の助詞。防人に充てられたこと。○明日ゆりや 「ゆり」は、「より」の方言。「や」は、疑問の係。発足の前日の心。○草が共寝む 「かえ」は「かや」の方言、草のこと。「共寝む」は、「共」は、「とも」の古語。草と共寝をするのであろうか。○妹無しにして 「いむ」は、「いも」の方言。「して」は、状態で。
【釈】 恐れ多い勅命をこうむって、明日からは、草と共寝をするであろうか。妹の無い状態で。
【評】 出発の前夜、妹と共寝をしていての心である。眼前の妹との共寝と、明日からの草を敷いて野宿をする独寝とを対比して、嘆きをいっているのであるが、「畏きや命被り」によって、その嘆きを意志的に抑制している心で、防人の歌としては筋のとおったものである。
 
     右の一首は、国造《くにのみやつこ》の丁《よぼろ》長下《ながのしも》郡の物部|秋持《あきもち》。
      右一首、國造丁長下郡物部秋持。
 
【解】 「国造の丁」は、「国造」は、上代の世襲の地方官で、その地の豪族である。「丁」は、ここは正丁で、二十一歳の男子(天平勝宝九年より二十二歳)で、公用に使役される上での名。少丁、老丁、次丁に対しての称である。国造の家より出た丁で、階級を示しての称。「長下郡」は、長田下郡で、今は静岡県浜松市と、一部は磐田郡となった。「物部秋持」は、伝未詳。以下、防人はすべて同断。
 
4322 我《わ》が妻《つま》は いたく恋《こ》ひらし 飲《の》む水《みづ》に 影《かご》さへ見《み》えて 世《よ》に忘《わす》られず
    和我都麻波 伊多久古非良之 乃牟美豆尓 加其佐倍美曳弖 余尓和須良礼受
 
【語釈】 ○いたく恋ひらし 「恋ひ」は、「恋ふ」の方言。○影さへ見えて 「かご」は、影の方言。「さへ」は、面影が立つばかりでなく、水にその影までが映って見えて。上代人は、相思う者の心霊は通い合って、その人に添っているものとし、夢もそれであるとした。今も、妻が甚しく我(424)を恋うるので、心霊が我に添っているとし、その心霊が面影となって映ったものと見たのである。事としてはわが顔であるが、そうした心理状態から、妻の顔と見えたのである。○世に忘られず 「世に」は、まことにという意の副詞。
【釈】 わが妻はひどく恋うているらしい。飲む水にその影までも見えて、まことに忘れられない。
【評】 これは難波まで行く途中、水を飲もうとした際の心である。上代よりの信仰の上に立っていっていることは、その事もなげにいっている言い方に現われている。この人はある程度作歌に馴れていたとみえ、詠み方が楽である。
 
     右の一首は、主帳《ふみひと》の丁《よぼろ》麁玉《あらたま》郡の若倭部身麿《わかやまとべのむまろ》。
      右一首、圭帳丁麁玉郡若倭部身麿。
 
【解】 「主帳」は、書※[竹/下]に巧みな者の任ぜられる職で、書記である。「軍防令」に、兵千人につき二人と定められている。以下に帳、主帳と何人もあるところから見て、郡家の主帳とみえる。「丁」は、その家から出た者である。「麁玉郡」は、今の引佐、浜名、磐田三郡に分属され、浜松市、浜北市に編入されたところもある。
 
4323 時時《ときどき》の 花《はな》は咲《さ》けども 何《なに》すれぞ 母《はは》とふ花《はな》の 咲《さ》き出《で》来《こ》ずけむ
    等伎騰吉乃 波奈波佐家登母 奈尓須礼曾 波々登布波奈乃 佐吉泥己受祁牟
 
【語釈】 ○時時の 季節、季節の。○何すれぞ 何をしてか。副詞。○母とふ花の咲き出来ずけむ 母という名の花の、咲き出さないのであったろうか。「けむ」は、過去の推量。
【釈】 季節季節の花は咲くけれども、どうして、母という名の花は咲き出さないのであったろうか。
【評】 母をなつかしがり、連想から花に思いよそえ、母という名の花があったら、それを母と思って、身に添えて行こうにと嘆いた心である。父は居を別にしていたところから母だけがなつかしい心と、また上代の信仰として、その名はその実をあらわすものとしていたので、母という名の花があれば、ただちに母と思えたのである。この人は妻がなく、母のみを懐かしく思っていた人とみえる。日本書紀、孝徳紀の、皇太子妃の薨去を悼んでの野中川原史満の歌、「本ごとに花は咲けども何とかもうつくし妹がまた咲き出来ぬ」に酷似している。何らかの経路でこの歌を覚えており、その影響で詠んだものとみえる。
 
(425)     右の一首は、防人山名郡の丈部《はせつかべの》真麿。      右一首、防人山名郡丈部眞麿。
 
【解】 「山名郡」は、今の周智郡南部、磐田市、袋井市及び小笠郡の一部か。「丈部」は、「丈」は「杖」の略字で、杖部であり、走り使となって奉仕する部族の意である。
 
4324 遠江《とへたほみ》 白羽《しるは》の磯《いそ》と 贄《にへ》の浦《うら》と あひてしあらば 言《こと》も通《かゆ》はむ
    等倍多保美 志留波乃伊宗等 尓閇乃宇良等 安比弖之阿良婆 己等母加由波牟
 
【語釈】 ○遠江 「遠つあふみ」の約言「とほたふみ」の地方音。○白羽の磯と この地名は、榛原《はいばら》郡と敷智《ふち》郡(現在浜松市に入る)とにあるが、いずれも左注の山名郡ではない。しかし敷智郡のほうは、天竜川の河口の西岸にあり、山名郡に近いから、古はその辺は山名郡に属していたのではないかという。この防人の住地である。○贄の浦と 敷智郡贄代郷の浦で、現在の引佐郡三ケ日町|鵺代《ぬえしろ》、尾奈にわたっての地の浦。白羽とは浜名湖を隔てて相対している地である。この人の妻の住地であったと取れる。○あひてしあらば言も通はむ 「あひてしあらば」は、合って一と続きになっていたならば。「かゆはむ」は、「かよはむ」の方言。我がいう言葉は通じようで、これは急に防人に充てられ、妻にその事を告げる暇もなくて出発する際の心と取れる。
【釈】 遠江のこの白羽の磯と、あの贄の浦と、もし一と続きになっていたならば、言葉も通じよう。
【評】 物の言い方も、調べも、著しく緊張していて、急迫した気分の表現とみえるから、にわかに防人に充てられて、出発する際の心と取れる。自身と妻をあらわすに土地をもってし、しかも「遠江」と国名を冠しての緊張した言い方をした上で、「あひてしあらば言も通はむ」と、不可能なことを本気になっていっているのは、嘆きのために甚しく昂奮しているところからの成行きで、一首の調べもその不自然を自然とする強さを持っている。一時期前の京の歌の中に加えてみても、遜色のないものである。
 
     右の一首は、同じ郡の丈部|川相《かはひ》。
      右一首、同郡丈部川相。
 
(426)4325 父母《ちちはは》も 花《はな》にもがもや 草枕《くさまくら》 旅《たび》は行《ゆ》くとも ※[敬/手]《ささ》ごて行《ゆ》かむ
    知々波々母 波奈尓母我毛夜 久佐麻久良 多妣波由久等母 佐々己弖由加牟
 
【語釈】 ○父母も花にもがもや 「父母も」は、夫婦同棲していて、子からは同様に懐かしいものになっていたとみえる。夫婦は初めは別居しているが、後には同棲したのである。「がもや」は、「がも」は、願望、「や」は、感動の助詞。○※[敬/手]ごて行かむ 「※[敬/手]ごて」は「ささげて」の方言。ささげ持って行こうで、大切に身を離さないものにしようの意。
【釈】 父母は花であってくれれば好いがなあ。草枕をする旅は行こうとも、捧げて持って行こう。
【評】 上に、母が花であって欲しいという心の歌があったが、これはそれに較べるとはるかに実感的で、それに詠み方も単純で、直線的に、情熱を持っているものである。「※[敬/手]ごて行かむ」という幼げな語が、純情と熱意に溶かされて、その幼さを思わしめないものとなっているのである。
 
     右の一首は、佐野《さや》郡の丈部|黒当《くろまさ》。
      右一首、佐野郡丈部黒當。
 
【解】 「佐野郡」は、今は小笠郡の北部である。
 
4326 父母《ちちはは》が 殿《との》の後方《しりへ》の 百代草《ももよぐさ》 百代《ももよ》いでませ 我《わ》が来《き》たるまで
    父母我 等能々志利弊乃 母々余具佐 母々与伊弖麻勢 和我伎多流麻弖
 
【語釈】 ○父母が殿の後方の百代草 「殿」は、家の美称。父母の家だからである。「後方」は、裏庭。「百代草」は、どういう草であるか不明である。眼前を捉えてのものとみえるが、時は二月中の物であるから、その季節の物で、庶民の庭にある物でもあるから、その範囲の物でなくてはならない。以上、同語で「百代」にかかる序詞。○百代いでませ 「百代」は、百年で、いつまでも。「いでませ」は、いらせられませの意である。○我が来たるまで わたくしが帰って来るまで。
【釈】 父母のお宅の裏にある百代草の、それのように百代においでなさいませ。わたくしが帰って来るまで。
(427)【評】 この歌は、心も語も改まったものである。この時代に防人に立つということは、きわめて重大なことであるのに、この人は自身の上には触れず、別れに臨んで父母の安全を祝っているのである。親子位置を換えている観がある。詠み方も、序を設けているという落ちついたもので、百代草は不明であるが、本義への続け方はきわめて自然で、そこにその心が最も現われている。序は東歌には少なくないものなので、それらを通して身に着けていたのであろう。
 
     右の一首は、同じ郡の生玉部足国《いくたまべのたりくに》。
      右一首、同郡生玉部足國。
 
4327 我《わ》が妻《つま》も 画《ゑ》にかきとらむ 暇《いづま》もが 旅《たび》行《ゆ》く我《あれ》は 見《み》つつしのはむ
    和我都麻母 畫尓可伐等良無 伊豆麻母加 多妣由久阿礼波 美都々志努波牟
 
【語釈】 ○我が妻も 「妻」は、同棲している者に対しての称で、ここもそれと取れる。○暇もが 「いづま」は、「いとま」の方言。「もが」は、願望の助詞。
【釈】 わが妻も、画に書き取る暇をほしいものだ。旅を行くわたしは、それを見つつ思慕しよう。
【評】 防人となるべき命の下るのと、出発との間に余裕がなく、妻の絵姿の書けない嘆きをいっている。嘆きとはいっても、その根幹を成しているものは潔く諦めて触れず、枝葉の一点に対しての嘆きである。落ちついた、淡泊な態度に、その人の全貌が思われる。「見つつしのはむ」という画は、ある程度上手なものでなくてはならない。その当時、東国の庶民の、防人に立つ年齢の者に、そうした嗜みのあったということは驚くに足りることである。
 
     右の一首は、長下《ながのしも》郡の物部|古麿《ふるまろ》。
      右一首、長下郡物部古麿。
 
     二月六日、防人部領使《ことりづかひ》遠江国の史生坂本朝臣|人上《ひとがみ》が進《たてまつ》れる歌の数十八首。但し拙劣《つたな》き歌十一首あるは之を取り載せず。
(428)     二月六日、防人部領使遠江國史生坂本朝臣人上進歌数十八首。但有2拙劣歌十一首1不2取載1之。
 
【解】 「防人部領使」は、防人を引率して、国庁より難波まで行く使の称。「史生」は、国司の中最も低い職。「拙劣き歌」は家持の下した批評である。これは以下にも出るものである。
 
4328 大君《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 磯《いそ》に触《ふ》り 海原《うのはら》渡《わた》る 父母《ちちはは》を置《お》きて
    於保吉美能 美許等可之古美 伊蘇尓布理 宇乃波良和多流 知々波々乎於伎弖
 
【語釈】 ○大君の命かしこみ 天皇の仰せを承って。これは成句となっているものである。○磯に触り海原渡る 「磯に触り」は、磯は石の古語で、下の続きで海岸にある岩である。「触り」は、当時の航海のさまを具象的にいったもので、当時の船は風波に対しての抵抗力が弱いところから、風波があればただちに岩陰に避けられるように、できうる限り海岸を離れずに航したのである。「磯に触り」は、その意からの語で、「船に乗り」ということを、その危険感をもこめていったものである。「うのはら」は、「うなばら」と同じ。広い海の意で、これも海ということを危険感をこめていったものである。
【釈】 天皇の仰せ言を承って、岩に触れて大海を渡って行く。父母を後に残して。
【評】 これは難波に着き、そこから筑紫の大宰府まで船で行こうとしている際の歌である。この防人は相模国の者で、航海のいかに危険であるかを熟知していての歌である。大君の御言をかしこんで、父母に別れ、生命を賭しての危険な旅をし、大君のために一切の私情を棄てて奉仕することをいっているのである。防人の歌の中核を捉えているものである。「磯に触り海原渡る」は、生趣あり、含蓄あるもので、それが一首全体に調和を保っている。
 
     右の一首は、助丁《すけのよぼろ》丈部造《はせつかべのみやつこ》人麿。
      右一首、助丁丈部造人麿。
 
【解】 「助丁」は、上丁を補助する者で、十八、九歳の者である。「造」は、姓で、庶民ながら姓があったのである。郡名がないが、相模国の防人である。
 
(429)4329 八十国《やそくに》は 難波《なには》に集《つど》ひ 舟飾《ふなかざり》 我《あ》がせむ日《ひ》ろを 見《み》も人《ひと》もがも
    夜蘇久尓波 那尓波尓都度比 布奈可射里 安我世武比呂乎 美毛比等母我毛
 
【語釈】 ○八十国は 諸国を具象的にいったもので、東国の防人がの意。○舟飾我がせむ日ろを 「舟飾」は、出帆の祝としての舟の装飾で、海上の無事を祈ってすること。ここはそれを単なる美観としていっているものである。「日ろ」は、「ろ」は、接尾語で、日。○見も人もがも 「見も」は、「見む」の方言。「人」は、最も親しい人をさしていっているもので、父母妻子のたぐい。「もがも」は、「もが」の願望に、「も」の感動詞の添ったもの。
【釈】 諸国の防人が難波に集まって、出帆の舟飾りをわたくしのするだろう日を、見る人がいてくれるといいがなあ。
【評】 難波から筑紫をさしての出帆の日が迫って舟飾りをしようとする日に、親しい人の見る者のないのを、飽き足らず思う心である。相模国の防人で、航海には馴れており、出帆の際は親しい人々から無事を祈っての見送りを受けるのを常としているので、それのない飽き足りなさであろう。単純な心よりの歌とみえる。詠み方も、作歌に馴れない拙さのあるものである。
 
     右の一首は、足下《あしがらしも》郡の上丁《かみつよぼろ》丹比部《たぢひべ》国人。
      右一首、足下郡上丁丹比部國人。
 
【解】 「足下郡」は、足柄下郡であるが、当時、地名は二字に限られているところからの略書である。葛城《かずらき》の「上下」を、葛上、葛下と書いているのと同じである。「上丁」は、成年の丁。
 
4330 難波津《なにはつ》に 装《よそ》ひ装《よそ》ひて 今日《けふ》の日《ひ》や 出《い》でて罷《まか》らむ 見《み》る母《はは》なしに
    奈尓波都尓 余曾比余曾比弖 氣布能比夜 伊田弖麻可良武 美流波々奈之尓
 
【語釈】 ○装ひ装ひて 装いに装って。装いを強くいったもの。上の歌の「舟飾」と同じである。○今日の日や出でて罷らむ 「今日の日や」は、今日という日にで、「や」は、疑問の係。「出でて罷らむ」は、船出をして地方へ下るのであろうか。
【釈】 難波の港で船を装いに装って、今日という日に、船団をして地方へ下るのであろうか。見送る母も居ずに。
(430)【評】 これは上の歌と似ているが、いよいよ船が難波津を発しようとする時の心である。盛んに飾り立てた船に身を託し、海路遠く筑紫へ下ろうとすると、覚悟していたことでも、今更に心が改まり、さみしさと緊張の言い難いものがあり、故郷にいる母も思われて来たのである。その感が不言の中に現われている歌である。形は上の歌と似ているが、感は甚しく異なったものである。
 
     右の一首は、鎌倉郡の上丁《かみつよぼろ》丸子連多麿《まりこのむらじおほまろ》。
      右一首、鎌倉郡上丁丸子連多麿。
 
【解】 「鎌倉郡」は、横浜市、鎌倉市、藤沢市等に分属し、鎌倉郡の名を失った。この防人も「連」の姓を持っている。
 
     二月七日、相模国の防人部領使|守《かみ》従五位下藤原朝臣宿奈麿が進《たてまつ》れる歌の数八首。但し拙劣き歌五首は取り載せず。
      二月七日、相模國防人部領使守從五位下藤原朝臣宿奈麿進歌數八首。但拙劣歌五首者不2取載1之。
 
【解】 「守」は、国の守で、自身部領使を務めたのである。「宿奈麿」は、藤原宇合の第二子で、天平十八年四月、正六位下から従五位下となり、名を良継と改め、累進して内大臣従二位勲四等となり、宝亀八年九月、六十二で薨じ、従一位を贈られた。天平宝字六年、大伴家持等三人と謀って恵美押勝を除こうとし、謀がもれて捕えられたが、罪を一身に負うた。宝字八年、押勝が謀反すると、勅を奉じて、討って功を立てたのであった。
 
     防人の別れを悲む心を追ひて痛みて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 防人の歌を見て、後から同情して作った歌で、追和する意である。作者は家持である。
 
4331 天皇《おほきみ》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》と しらぬひ 筑紫《つくし》の国《くに》は 賊《あた》守《まも》る 鎮《おさへ》の城《き》ぞと 聞《きこ》し食《を》す 四方《よも》の国《くに》(431)には 人《ひと》多《さは》に 満《み》ちてはあれど 鶏《とり》が鳴《な》く 東男《あづまをのこ》は 出《い》で向《むか》ひ 顧《かへり》みせずて 勇《いさ》みたる 猛《たけ》き軍卒《いくさ》と 労《ね》ぎ給《たま》ひ 任《まけ》のまにまに たらちねの 母《はは》が目《め》離《か》れて 若草《わかくさ》の 妻《つま》をも纏《ま》かず あらたまの 月日《つきひ》数《よ》みつつ 葦《あし》が散《ち》る 難波《なには》の御津《みつ》に 大船《おほふね》に 真櫂《》繁貫《まかいしじぬ》き 朝《あさ》なぎに 水手《かこ》整《ととの》へ 夕汐《ゆふしほ》に 楫《かぢ》引《ひ》き撓《を》り 率《あども》ひて 漕《こ》ぎゆく君《きみ》は 波《なみ》の間《ま》を い行《ゆ》きさぐくみ 真幸《まさき》くも 早《はや》く到《いた》りて 大王《おほきみ》の 命《みこと》のまにま 大夫《ますらを》の 心《こころ》を持《も》ちて 在《あ》り廻《めぐ》り 事《こと》し畢《をは》らば 恙《つつま》はず 帰《かへ》り来《き》ませと 斎瓮《いはひぺ》を 床辺《とこべ》にすゑて 白栲《しろたへ》の 袖《そで》折《を》り返《かへ》し ぬばたまの 黒髪《くろかみ》敷《し》きて 長《なが》き日《け》を 待《ま》ちかも恋《こ》ひむ 藍《は》しき妻《つま》らは
    天皇乃 等保能朝庭等 之良奴日 筑紫國波 安多麻毛流 於佐倍乃城曾等 聞食 四方國尓波 比等佐波尓 美知弖波安礼杼 登利我奈久 安豆麻乎能故波 伊田牟可比 加敞里見世受弖 伊佐美多流 多家吉軍卒等 祢疑多麻比 麻氣乃麻尓々々 多良知祢乃 波々我目可礼弖 若草能 都麻乎母麻可受 安良多麻能 月日餘美都々 安之我知流 難波能美津尓 大船尓 末加伊之自奴伎 安佐奈藝尓 可故等登能倍 由布思保尓 可知比伎乎里 安騰母比弖 許藝由久伎美波 奈美乃間乎 伊由伎佐具久美 麻佐吉久母 波夜久伊多里弖 大王乃 美許等能麻尓末 麻須良男乃 許己呂乎母知弖 安里米具里 事之乎波良婆 都々麻波受 可敞理伎麻勢登 伊波比倍乎 等許敞尓須恵弖 之路多倍能 蘇田遠利加敞之 奴婆多麻乃 久路加美之伎弖 奈我伎氣遠 麻知可母戀牟 波之伎都麻良波
 
【語釈】 ○天皇の遠の朝廷と 天皇の遠方にある朝廷として。○しらぬひ筑紫の国は 「しらぬひ」は、筑紫の枕詞。語義は不明である。筑紫の全部を、「遠の朝廷」と天皇が思召される意。○賊守る鎮の城ぞと 「賊」は、広く敵対する者をさす称であるが、ここは外敵である。「鎮の城ぞと」は、鎮め護る場所であるとて。「城」は、建造物であるが、ここは広い地域を具象的に言いかえたもの。「と」は、とてで、ここは天皇が思し召されての意。以上、筑紫国の外敵に対しての重大性を説明したもの。○聞し食す四方の国には 「四方の国」は、天下という意を具象的にいったもの。御領有になる天の下には。○鶏が鳴く東男は 「鶏が鳴く」は、東の枕詞。語義は定説がない。「東男は」は、東国の男は。○出で向ひ顧(432)みせずて 敵に向かって自身を思わなくて。「顧みせず」は、命を思わずということを具象的にいったもの。○勇みたる猛き軍卒と 勇ましく猛き兵であるとして。「軍卒」は、兵。これは当時、続日本紀、景雲三年の詔に、「朕《あ》が東人《あづまぴと》に刀《たち》を授けて、侍《つか》へしむることは……この東人は、常に云はく、額には箭は立つとも、背には箭は立たじと云ひて、君を一つ心をもちて護るものぞ」といわれているので知られる。○労ぎ給ひ任のまにまに 大君が、その労をねぎらわれて、防人のことを任じ給うままに。以上防人の任務の重大性。○あらたまの月日数みつつ 「あらたまの」は、年の枕詞を、月に転じさせたもの。「月日数みつつ」は、旅寝の日数を数えつつで、以上、難波までの旅。○葦が散る難波の御津に 「葦が散る」は、葦の穂が散るで、難波の風景を捉えての枕詞。「御津」は、官用の港としての美称。○水手整へ 水夫をその位置に着かせて。○揖引き撓り 楫を潮に引き撓《たわ》ませて。○率ひて漕ぎゆく君は 「率ひて」は、引き連れて。船を連ねて行くこと。○波の間をい行きさぐくみ 「い行き」は、「い」は、接頭語、「さぐくみ」は、押し分けてで、押し分けて行き。以上、筑紫までの航路。○在り廻り事し畢らば 「在り」は、継続しての意の接頭語。引き続き埼から埼へと廻って。「事し畢らば」は、定期の任務が終わったならば。以上、防人の任務。○恙はず 「恙ふ」は、「つつむ」の継続で、つつむは、凶事で物忌みをすることで、凶事に逢うことがなくて。この語は、他に用例のないもの。○斎瓮を床辺にすゑて 「斎瓮」は、斎い清めた御酒《みき》を入れる瓮で、神に祈りをするため捧げた物。二句、神に無事を祈っての意。○白栲の袖折り反し こちらの心を先方へ通わせる呪術。○ぬばたまの黒髪敷きて 夫の来るのを待つ咒術。○愛しき妻らは 「ら」は、接尾語。以上、防人の妻の心を思いやったもの。
【釈】 天皇の遠方にある朝廷として、しらぬい筑紫国は、外敵を守る鎮護の城であると思し召されて、御領有になられる諸国には、人が多く、満ちてはいるが、鶏が鳴く東の国の男は、敵に向かって命を思わない、勇ましく猛き兵であるとして、御ねぎらいになって、防人のことをお任せになるままに、たらちねの母から離れ、若草の妻と共寝せず、あらたまの月日の数を数えつつ旅をして、さらに難波の御律で、大船に櫂を多くつけ、朝なぎに水夫を呼び立ててその位置に着け、夕汐に楫を引き撓ませて、相連ねて漕いでゆく君は、波の間を押し分けて行って、無事に早く筑紫に着いて、大君の命のままに、益荒雄の心を持って、引き続き埼々をめぐっての任務が終わったならば、凶事に逢うことなく帰っていらっしゃいと、斎い清めた御酒の瓮を床に据えて、神に無事を祈り、白栲の袖を折り返して心を通わせ、ぬばたまの黒髪を敷いて寝て早く来給えと咒いをして、長い期間を待ち恋うていることであろうか、可愛ゆい妻は。
【評】 作意は題詞でいっているように、若い防人とその妻の心とを思いやって、隣れんで詠んだものであるが、この歌は、単にそうした個人的な憐れみの心だけのものではなく、兵部省の役人として、国家的見地から防人を激励しようとして、防人に向かって懇ろに、その任地筑紫の国家的に見ての重要さ、また東国の男に対しての天皇の御信頼の深さを懇ろに説き、その上で、防人として家を離れることに対する隣れみ、途中の労苦に対するねぎらいをいい、さらに立ち返って、天皇の御信頼を思って、いさぎよく任務を果たせと激励して、最後に、長い間をひたすらに、防人の無事を神に祈って待っている近親の心を思えよと、その自重を望んでいるものである。第三者から見ると、この歌は、何ら特殊性のない平凡な、しかも冗漫な作にみえるが、作者からいうと、これは兵部省の役人として、年若い防人に諭すものという、明確な目的をもっての歌であって、その目(433)的を果たしうれば足りるものなのである。すなわち文芸性の歌ではなく、実用性の歌なのである。こまごまと、平坦に言い続けているのは、作意を徹底させようとする心に加えて、家持特有の物やさしい気分の働いているがためである。この歌の巧拙は、歌そのものの性格に関係を持っているもので、一と口にはいえないものである。
 
     反歌
 
4332 大夫《ますらを》の 靱《ゆき》取《と》り負《お》ひて 出《い》でて往《い》けば 別《わかれ》を惜《を》しみ 嘆《なげ》きけむ妻《つま》
    麻須良男能 由伎等里於比弖 伊田弖伊氣婆 和可礼乎乎之美 奈氣伎家牟都麻
 
【語釈】 ○大夫の靱取り負ひて 「大夫の」は、大夫の持つ物としての。「靱」は、矢を入れる器で、当時の代表的の武具。「取り負ひて」は、「取り」は、接頭語で、背に負うて。○嘆きけむ妻 「けむ」は、過去推量で、嘆いたであろう妻よ。
【釈】 大夫の物としての靱を負うて旅へ出て往ったので、別れを惜しんで嘆いたことであったろう、その妻よ。
【評】 長歌の結末をうけて、防人の妻の心をまず思い浮かべて、憐れんでいっているものである。「大夫の靱取り負ひて」は、この場合適切な言い方である。
 
4333 とりが鳴《な》く 東男《あづまをとこ》の 妻《つま》別《わか》れ 悲《かな》しくありけむ 年《とし》の緒《を》長《なが》み
    等里我奈久 安豆麻乎等故能 都麻和可礼 可奈之久安里家牟 等之能乎奈我美
 
【語釈】 ○年の緒長み 別れている年が長いので。
【釈】 鳥が鳴く東の国の若盛りの男の妻別れは悲しいことであったろう。別れている年が長いので。
【評】 これは防人に対しての隣れみであるが、全体を対象としてのものなので、長歌と同じく一般的なことをいったにすぎないものである。言い方のないものでもあろう。
 
     右は、二月八日、兵部使少輔大伴宿禰家持。
(434)      右、二月八日、兵部位少輔大伴宿祢家持。
 
【解】 「兵部使」は、防人の事を処理するために、兵部省より難波に遣わされている使で、上の歌はその立場に立ったものであることをも示しているものである。
 
4334 海原《うなはら》を 遠《とほ》く渡《わた》りて 年《とし》経《ふ》とも 児《こ》らが結《むす》べる 紐《ひも》解《と》くなゆめ
    海原乎 等保久和多里弖 等之布等母 兒良我牟須敞流 比毛等久奈由米
 
【語釈】 ○児らが結べる紐解くなゆめ 「児ら」は、「児」は、妻の愛称で、「ら」は、接尾語。「結べる紐」は、夫婦逢って別れる時に、また逢う咒いとして、互いに下紐を結び合う習いであったそれで、「解くなゆめ」は、その呪いを破って、他の女と関係するな、けっしての意を、具象的にいったもの。
【釈】 海原を遠く渡って行って、年が経ようとも、別れる時に可愛ゆい妻が結んだ下紐を解くなよ、けっして。
【評】 上の長歌の補足として、防人一同に諭す心持のものである。これは妻のほうに力点を置き、隣れんでいっているものである。諭すものではあるが、これは家持の人柄より発したもので、私人的なものである。
 
4335 今《いま》替《かは》る 新防人《にひさきもり》が 船出《ふなで》する 海原《うなはら》の上《うへ》に 浪《なみ》な開《さ》きそね
    今替 尓比佐伎母利我 布奈弖須流 宇奈波良乃宇倍尓 奈美那佐伎曾祢
 
【語釈】 ○今替る新防人が 「今替る」は、新たに交替する。「新防人」は、新しい防人。○浪な開きそね 「聞き」は、波の白く砕けるのを花の咲くに譬えた語で、慣用語。「ね」は、願望。
【釈】 新たに交替する新しい防人が、船出をする海原の上に、波よ砕けなくてくれ。
【評】 防人に対してのもので、航路の安穏を祈ったものである。家持の気分の現われている歌である。
 
4336 防人《さきもり》の 堀江《ほりえ》漕《こ》ぎ出《づ》る 伊豆手船《いづてぶね》 楫《かぢ》取《と》る間《ま》なく 恋《こひ》は繋《しげ》げむ
(435)    佐吉母利能 保里江己藝豆流 伊豆手夫祢 可治登流間奈久 戀波思氣家牟
 
【語釈】 ○堀江漕ぎ出る伊豆手船 「堀江」は、難波の掘割。今の天満川。「伊豆手船」は、伊豆国の職人の造った船で、伊豆風の船。船の型に対しての称。○揖取る間なく 「楫取る」は、楫を操るで、その絶え間がない意で、「間なく」にかかり、以上その序詞。「間なく」は、間断なくで、絶えず。この一句は慣用句である。○恋は繁けむ 妻に対しての恋は繁くあろう。
【釈】 防人が堀江を漕ぎ出す伊豆手船の、その楫を操るに絶え間のないように、絶え間もなく恋の多いことであろう。
【評】 防人に対しての憐れみである。「楫取る間なく」は慣用句であるが、これは今、防人の宿舎から堀江を海に向かって漕ぎ出すという、異常の緊張を思わせる場合のものであるので、生趣あり、感動あるものとなっている。
 
     右は、九日、大伴宿禰家持作れる。
      右、九日、大伴宿祢家持作之。
 
4337 水鳥《みづとり》の 発《た》ちの急《いそ》ぎに 父母《ちちはは》に 物《もの》言《は》ず来《け》にて 今《いま》ぞ悔《くや》しき
    美豆等利乃 多知能已蘇岐尓 父母尓 毛能波須價尓弖 已麻叙久夜志伎
 
【語釈】 ○水鳥の発ちの急ぎに 「水鳥の」は、その飛び立つ時は騒がしい意で、譬喩として「立ち」の枕詞。「発ちの急ぎ」は、旅立ちの準備のせわしさ。○物言ず来にて 「物言ず」は、「物いはず」の約言。「けにて」は「きにて」の方言。「に」は、完了の助動詞。
【釈】 水鳥の飛び立つように、旅立の準備のせわしさに、父母に物をいわずに来てしまって、今は残念なことであるよ。
【評】 旅を続けながら、家恋しく、出発の際のことも思われて来て、事のせわしいために、父母に物をいう暇もなかったことが、静かに思い出されて来て、心残りに思う嘆きである。家恋しい心が、きわめて自然に具象化されている。
 
     右の一首は、上丁《かみつよぼろ》有度部牛麿《うとべのうしまろ》。
      右一首、上丁有度部牛麿。
 
(436)【解】 郡の名が記してないが、以下十首、駿河国の防人で、郡名のない者が続く。
 
4338 畳薦《たたみけめ》 牟良自《むらじ》が磯《いそ》の 離磯《はなりそ》の 母《はは》を離《はな》れて 行《ゆ》くが悲《かな》しさ
    多々美氣米 牟良自加已蘇乃 波奈利蘇乃 波々乎波奈例弖 由久我加奈之佐
 
【語釈】 ○畳薦牟良自が磯の 「畳けめ」は、「畳こも」の方言。畳に編む薦で、その群らがり生えているところから、「むら」の枕詞。「牟良自が磯」は、駿河国の地名であるが、どことも知れない。「磯」は、岩石続きの海岸の称。○離磯の 「離磯」は、ただ一つ離れている岩で、これは海中の物と取れる。離れ岩である。以上、同音で「離れ」にかかる序詞。眼前を捉えたもので、この防人の家より見える景。
【釈】 牟良自が磯の離れ岩のように、母に離れて出てゆくことが悲しいことだ。
【評】 助丁である若い防人の、その出発の日に、母と別れ難くしていっている嘆きである。眼前を捉えての序詞なので、その序詞の持つ気分が一首の心に絡んで来、そうした景を目にしつつ別れを惜しむさまが感じられる。序は同音でかかっているが、譬喩としても結構かかりうるものなので、感が強い。印象的な歌である。
 
     右の一首は、助丁《すけのよぼろ》生部《いくべの》道麿。
      右一首、助丁生部道麿。
 
4339 国《くに》巡《めぐ》る 猟子鳥《あとり》かまけり 行《ゆ》き廻《めぐ》り 帰《かひ》り来《く》までに 斎《いは》ひて待《ま》たね
    久尓米具留 阿等利加麻氣利 由伎米具利 加比利久麻弖尓 已波比弖麻多祢
 
【語釈】 ○国巡る 国を翔けて巡るで、下の猟子鳥の習性。○猟子鳥かまけり 「猟子鳥」は、雀科の小鳥で、今もあとりといい、またあっとりともいう。雀よりやや大きく、嘴は黄白、腰は純白、喉と胸とは茶色、秋、北地から群らがって来る渡り鳥である。「かまけり」は、不明である。諸説があるが、定説とはならない。『新考』は、「か」は「が」、「まけり」は「もころ」の方言だとしている。「もころ」は、ごとくの意の古語で、巻二(一九六)人麿の挽歌「立たせば玉藻のもころ」を初め、この続きの(四三七五)下野国の防人の歌に、「家人《いはびと》の吾《われ》を見送ると立たりし如《もころ》」ともあり、この当時も庶民間には用いられていた語である。方言としても転訛が大きすぎ、国は異なっているが「もころ」という語が同時代に用い(437)られてもいたのであるから、ただちには従いかねる解であるが、しかし前後の続きから見ると、これに従うと一首の意が通じる。その範囲の語であろうと思われる。○行き廻り 任地の埼々を行きめぐって。○帰り来までに 「かひり」は、「かへり」の方言、「来までに」は、終止形から体言に続く古格。○斎ひて待たね 斎いをして、無事を祈って待っていてください。
【釈】 国を翔けめぐる猟子鳥のように、埼より埼を行きめぐって、帰って来るまでを、神に無事を祈って待っていてください。
【評】 母か、あるいは妻に向かっての別れの語である。猟子鳥は、時は一月のことだから眼に見ていたものである。渡り鳥で、群をなして翔る威勢のいい鳥であるから、防人としての自身を譬えるには、適切である上に、相手に元気づける効果もあるものである。健康な、聡明な人柄が思われる歌である。不明の語のあるのが惜しい。
 
     右の一首は、刑部《おさかべの》蟲麿。
      右一首、刑部虫麿。
 
4340 父母《ちちはは》え 斎《いは》ひて待《ま》たね 筑紫《つくし》なる 水漬《みづ》く白玉《しらたま》 取《と》りて来《く》までに
    知々波々江 已波比弖麻多祢 豆久志奈流 美豆久白玉 等里弖久麻弖尓
 
【語釈】 ○父母え 「え」は、「よ」の方言であろう。○筑紫なる水漬く白玉 海の水に漬かっている白玉で、真珠である。○取りて来までに 取って来るまでを。「来まで」は、上の歌と同じ。
【釈】 父母よ、わが無事を神に祈って待っていてください。筑紫国にある、海に漬かっている白玉を採って来るまでを。
【評】 「筑紫なる水漬く白玉」は、憧れを持っていっている形のものであるが、親の心を引き立てようとして、わざと設けていっているものとも取れて、幅の広い語である。これは上の歌よりも、さらに明るい心をもっていっているものである。
 
     右の一首は、川原《かはらの》蟲麿。
      右一首、川原虫麿。
 
(438)4341 橘《たちばな》の 美袁利《みをり》の里《さと》に 父《ちち》を置《お》きて 道《みち》の長道《ながぢ》は 行《ゆ》きかてぬかも
    多知波奈能 美袁利乃佐刀尓 父乎於伎弖 道乃長道波 由伎加弖努加毛
 
【語釈】 ○橘の美袁利の里に 「橘の」は、実にかかる枕詞。「美袁利の里」は、所在不明である。清水市小島町立花かとの説がある。○父を置きて 父を後に残して。母は没して、自分は母の家に住んでいての心である。○道の長道は 長い旅はで、「道」を畳んで語感を強めたもの。○行きかてぬかも 行きかねることだなあ。
【釈】 橘の美袁利の里に父を残して置いて、長い旅の道は、行きかねることだなあ。
【評】 防人として発足する直前の心である。心にかかる者はただ父一人という特別な人である。「行きかてぬ」とまでいっているのであるから、よほど深く気にかかったこととみえる。「橘の」という枕詞は、場所がらとて眼前を捉えてのものとみえる。単純な歌ではあるが、落ちついて、すっきりとしてい、調べも思い入りの深さをあらわし得ていて、京の一時期前の歌に伍しうるものである。
 
     右の一首は、丈部足麿《はせつかべのたりまろ》。
      右一首、丈部足麿。
 
4342 真木柱《まけばしら》 讃《ほ》めて造《つく》れる 殿《との》の如《ごと》 いませ母刀自《ははとじ》 面変《おめがは》りせず
    麻氣波之良 寶米弖豆久礼留 等乃能其等 已麻勢波々刀自 於米加波利勢受
 
【語釈】 ○真木柱讃めて造れる 「まけ柱」は、「け」は、木の古音。檜の柱で、檜は建築用材として最上の物。上代の建築では、家の中心となる柱は、特に高く太く、良い材を用いたのである。「讃めて造れる」は、寿詞を申して、神を祭って立てて造ったところの。○殿の如 「殿」は、身分ある人の家に対する敬称で、ここは、そうした殿のようにで、動《ゆる》ぎのないことの譬喩としてのもの。○いませ母刀自 いらせられませ、母上よで、「刀自」は、主婦の意から転じて、女の敬称としたもの。○面変りせず 「おめ」は、「おも」の方言。「面変りせず」は、顔の様子が変わることなくてであるが、お変わりなくという意を具象的にいったもの。
(439)【釈】 真木柱を、寿詞を申して神を祭って立てて造った殿のように、動ぎなくいらせられまし母上よ、顔変わりなさらずに。
【評】 これは出発に際して、子より母を賀《ほ》ぐという点で典型的なもので、例の少なくないものである。前半の譬喩は実際に即している上に、この場合としてはきわめて適切で、落ちついた、豊かな趣のあるものである。後半もそれに調和しうる豊かなもので、一首渾然としたものである。方言はまじえているが、京の歌に対しうるものである。
 
     右の一首は、坂田部首麿《さかたべのおびとまろ》。
      右一首、坂田部首麿。
 
【解】 「首」は、姓にあるものである。『新考』は名であろうといっている。
 
4343 吾等旅《わろたび》は 旅《たび》と思《おめ》ほど 家《いひ》にして 子持《こめ》ち痩《や》すらむ 我《わ》が妻《み》かなしも
    和呂多比波 多比等於米保等 已比尓志弖 古米知夜須良牟 和加美可奈志母
 
【語釈】 ○吾等旅は 「ろ」は、接尾語で、「児ろ」「日ろ」などの「ろ」と同じで、用例が多い。「旅」は、防人としての旅。○旅と思ほど 「おめほど」は、「思へど」の方言。旅と思って、苦労も諦めるが。○家にして 「いひ」は、家の方言。家に在って。○子持ち痩すらむ我が妻かなしも 「めち」は、「もち」の、「み」は、「め」の方言。稚い児を持って、育てる苦労に痩せるであろう妻が可京そうだ。
【釈】 われの旅は、防人としての旅と思って苦労も諦めるが、家に居て、稚い児を育てる苦労で痩せるであろう妻が可哀そうだ。
【評】 この防人は稚い児があって、妻と同棲していたとみえる。こうした別れの際、自身のことはいわずに、相手のほうを主として物をいうのは、上代では儀礼となっていたのであるが、これは儀礼を超えた、真実の心の溢れ出たものである。若くして老熟したあわれのある歌である。
 
     右の一首は、玉作部広目《たまつくりべのひろめ》。
      右一首、玉作部廣目。
 
(440)4344 忘《わす》らむと 野《の》行《ゆ》き山《やま》行《ゆ》き 我《われ》来《く》れど 我《わ》が父母《ちちはは》は 忘《わす》れせぬかも
    和須良牟※[石+弖] 努由伎夜麻由伎 和例久礼等 和我知々波々波 和須例勢努加毛
 
【語釈】 ○忘らむと 忘れむとの意で、「忘る」が四段活用として用いられていたのである。○忘れせぬかも 「忘れせぬ」は、忘れられぬで、この「忘る」は、下二段である。両様に用いていたのである。
【釈】 忘れようとして、野を行き山を行って、我は来たが、わが父母は忘れられないことだなあ。
【評】 溜め息をそのまま詠み上げたような純情な歌である。感のある歌である。
 
     右の一首は、商長首麿《あきのをさおびとまろ》。
      右一首、商長首麿。
 
【解】 『新考』は、「首麿」は、一首前のそれと同じく、名であろうといっている。『姓氏録』に「商長」という氏があるによってのことである。
 
4345 吾妹子《わぎめこ》と 二人《ふたり》我《わ》が見《み》し うち寄《え》する 駿河《するが》の嶺《ね》らは 恋《く》ふしくめあるか
    和伎米故等 不多利和我見之 宇知江須流 々々河乃祢良波 苦不志久米阿流可
 
【語釈】 ○吾妹子と 「め」は、「も」の方言。○うち寄する 「えす」は、「よす」の方言。駿河の枕詞。波の寄せる意で、同音で懸かるものであろう。○駿河の嶺らは 「ら」は、接尾語で、富士の山。○恋ふしくめあるか 「くふ」は、「こほ」の方言。「め」は、「も」の方言。「か」は、感動の助詞。
【釈】 わが妻と二人でわが見た、駿河の山は恋しいことだなあ。
【評】 「うち寄する駿河の嶺ら」は、故郷を具象的にいったもので、それに「吾妹子」を結びつけ、故郷と妻との恋しいことを詠歎したものである。難波までの途中の山々を眺めるごとに発した感であろう。
 
(441)     右の一首は、春日部《かすがべの》麿。
      右一首、春日部麿。
 
4346 父母《ちちはは》が 頭《かしら》かき撫《な》で 幸《さ》くあれて いひし言葉《けとば》ぜ 忘《わす》れかねつる
    知々波々我 可之良加伎奈弖 佐久安例弖 伊比之氣等婆是 和須礼加祢豆流
 
【語釈】 ○かき撫で 「かき」は、接頭語。「撫で」は、下の続きから見て、単なる愛撫ではなく、祝の語に伴わせる一つの呪法ではなかったかとみえる。それだと、こちらの霊をそちらへ添わしめる法であろう。○幸くあれて 「さく」は、「さきく」の、「て」は、「と」の方言。無事で居よと。○いひし言葉ぜ 「ぜ」は、「ぞ」の方言。
【釈】 父と母とがわたしの頭を撫でて、無事で居よといった言葉が、忘れられないことだ。
【評】 別れの際、両親が自分を祝ってしたことと、いった言葉だけが身に泌みていて、いつまでも忘れられないというのである。純情そのもののような防人が思われる。
 
     右の一首は、丈部稲麿《はせつかべのいなまろ》。
      右一首、丈部稻麿。
 
     二月七日、駿河国の防人部領使守従五位下|布勢《ふせの》朝臣|人主《ひとぬし》、実《まこと》に進《たてまつ》れるは九日、歌の数二十首。但し拙劣き歌は之を取り載せず。
      二月七日、駿河國防人部領使守從五位下布勢朝臣人主、實進九日、歌數廿首。但拙劣歌者不2取載1之。
 
【解】 「人主」は、天平勝宝五年の遣唐使の時、判官正六位上として遣わされた人で、六年四月帰朝、七月従五位下駿河守となっ(442)た。後、式部大輔、出雲守となった。
 
4347 家《いへ》にして 恋《こ》ひつつあらずは 汝《な》が佩《は》ける 刀《たち》になりても 斎《いは》ひてしかも
    伊閇尓之弖 古非都々安良受渡 奈我波氣流 多知尓奈里弖母 伊波非弖之加母
 
【語釈】 ○恋ひつつあらずは 恋いつづけていずに。○刀になりても 「なりても」は、身を代えても。刀は魔を払うものと信じられていた。○斎ひてしかも 「斎ひ」は、神を祭ることであるが、転じて身を護る意ともなった。これはそれである。「てしか」は、願望。
【釈】 家に在って恋いつづけて居ずに、お前が帯びている刀になって、護ってやりたいものだ。
【評】 これは国造の家から出る防人の父が、別れの際その子に贈った歌である。防人の歌に、その家族のもののまじるのも妨げないということは、以前から許されていたとみえ、旧い防人の歌として伝誦されているものの中にその類がある。これも部領使の進った歌の中のものである。歌は一時期前の京の歌と異ならないものである。国造の家なので、相応に教養があったためと思われる。
 
     右の一首は、国造丁《くにのみやつこのよぼろ》日下部使主三中《くさかべのおみみなか》が父の歌。
      右一首、國造丁※[日/下]部使主三中之父歌。
 
【解】 「使主」は姓で、国造として賜わっていたものとみえる。以下十三首は、上総国の歌である。身分ある者に限って郡名を記していない。
 
4348 たらちねの 母《はは》を別《わか》れて まこと我《われ》 旅《たび》の仮廬《かりほ》に 安《やす》く寝《ね》むかも
    多良知祢乃 波々乎和加例弖 麻許等和例 多非乃加里保尓 夜須久祢牟加母
 
【語釈】 ○旅の仮廬に 「仮廬」は、行く先々で、夜の寝所として造る小屋。○安く寝むかも 「かも」は、ここは反語となっており、安く眠れようか眠れないの意。
(443)【釈】 たらちねの母の許を別れて、ほんにわたしは、旅の仮小屋で安らかに眠れましょうか眠れないことでしょう。
【評】 心をこめて斎っている父よりも子は母の方を懐しがっているのであるが、これは年若い男に通有の心で、実感といえることである。詠み方は父と同じである。庶民の中の貴族のような風のある歌である。
 
     右の一首は、国造丁日下部使主三中。
      右一首、國造丁※[日/下]部使主三中。
 
4349 首隈《ももくま》の 道《みち》は来《き》にしを また更《さら》に 八十島《やそしま》過《す》ぎて 別《わか》れか行《ゆ》かむ
    毛母久麻能 美知波紀尓志乎 麻多佐良尓 夜蘇志麻須義弖 和加例加由可牟
 
【語釈】 ○百隈の道は来にしを 「百隈の道」は、隈は道の曲がり角の称で、限りない曲がり角の道で、長途の道ということを具象的にいったもの。「来にしを」は、「に」は、完了、「を」は、詠歎で、すでに来たものを。これは上総国より難波までの陸路をいったもの。○また更に八十島過ぎて 「また更に」は、また新たに。「八十島過ぎて」は、「八十島」は、多くの島々を過ぎてで、海路の遠いことを具象的にいったもの。これは難波津より筑紫までの瀬戸内海の航路。○別れか行かむ 別れて行くのであろうかで、別れるのは故郷で、嘆きをもって怪しみ訝かっていったもの。
【釈】 百隈のある長い途をすでに来たことであるのに、また新たに、八十島の多くの島々を過ぎて、故郷に別れて行くのであろうか。
【評】 陸路、難波へ着いて、さらに海路、筑紫へ向かおうとする時の心である。絶えず心を故郷につないでいるところから、故郷を標準として限りなく遠い境へ行くことを嘆いた心である。「別れか行かむ」に嘆きをこめて、「百隈」「八十島」に長途を具象した詠み方は、上二首と同系のものであるが、それらよりもまさったものである。
 
     右の一首は、助丁《すけのよぼろ》刑部直三野《おさかべのあたひみの》。
      右一首、助丁刑部直三野。
 
【解】 上をうけて、国造の家から出た丁である。「直」は、姓である。
 
(444)4350 庭中《にはなか》の 阿須波《あすは》の神《かみ》に 木柴《こしば》さし 吾《あれ》は斎《いは》はむ 帰《かへ》り来《く》までに
    尓波奈加能 阿須波乃可美尓 古志波佐之 阿例波伊波々牟 加倍理久麻泥尓
 
【語釈】 ○庭中の阿須波の神に 「庭中の」は、庭にまします。「阿須波の神」は、『古事記伝』巻十二に詳しく考証している。この神は、古事記、神代の巻に出ており、大年神の御子で、「祈年祭」の祝詞にも見え、また『神名帳』によれば、宮中の神の三十六座の中の一座でもあり、また、悠紀、主基の国の斎郡では、斎院を構えて八柱の神を祀る中にも祀られている。庭を守る神と思われるというのである。屋敷神であったとみえる。○木柴さし吾は斎はむ 「木柴」は、木の枝の総称。「さし」は、挿しで、地に挿すので、神式の一つである。「吾は斎はむ」は、われは旅の無事を祈ろう。○帰り来までに 事終わって、家に帰るまでの間を。
【釈】 庭にまします阿須波の神に、木の枝を挿してわれは無事を祈ろう。帰って来るまでの間を。
【評】 旅立ちをする時、道中の無事を星敷神に祈るということは、きわめて一般的のことで、近くまで守られていた。これはその範囲のことであろう。阿須波の神が地を護る神であれば、一段と自然である。
 
     右の一首は、帳丁《ふみひとのよぼろ》若麻績部諸人《わかをみべのもろひと》。
      右一首、帳丁若麻績部諸人。
 
【解】 「帳」は、主帳と同じで、略書であろう。郡の書記である。以上、特別の防人として、郡名を記さない。
 
4351 旅衣《たびころも》 八重《やへ》著重《きかさ》ねて 寝《い》ぬれども なほ膚《はだ》寒《さむ》し 妹《いも》にしあらねば
    多妣己呂母 夜倍伎可佐祢弖 伊努礼等母 奈保波太佐牟志 伊母尓志阿良祢婆
 
【語釈】 ○八重著重ねて 何枚も重ねて着て。時は二月で、旅寝は着たままの丸寝だったのである。
【釈】 旅衣を何枚も重ねて着て寝たけれども、やはり膚寒い。妹ではないので。
【評】 独寝の膚寒さに妹を思うという感傷は類型となっているものである。これはその範囲のものであるが、場合がら、感傷を超えての実感と思われる。「旅衣八重著重ねて」と、語を尽くしていっているのもそのためで、「妹にしあらねば」には、お(445)のずからなる詼諧味がある。いささかの厭味もない歌である。
 
     右の一首は、望陀《まくだ》郡の上丁|玉作部国忍《たまつくりべのくにおし》。
      右一首、望陀郡上丁玉作部國忍。
 
【解】 「望陀郡」は、今の君津郡の北部小櫃川流域の地である。東歌に「宇麻具多」とあった地である。
 
4352 道《みち》の辺《べ》の 荊《うまら》の末《うれ》に はほ豆《まめ》の からまる君《きみ》を 離《はか》れか行《ゆ》かむ
    美知乃倍乃 宇万良能宇礼尓 波保麻米乃 可良麻流伎美乎 波可礼加由加牟
 
【語釈】 ○荊の末に 「荊」は、うばらと同じで、茨。「末」は、先端。○はほ豆の 「はほ」は、「はふ」の方言。「豆」は、蔓豆で、野生の豆であるから、実が豆の形になるものの称であろう。以上、譬喩として「からまる」の序詞。○からまる君を 別れを悲しんで、すがりついている妻を。「君」は、妻の敬称。○離れか行かむ 「はかれ」は、「わかれ」であると本居宣長はいっている。「は」と「わ」は通音で、「はしる」を「わしる」、「わづか」を「はつか」ともいうからだとしている。「か」は、疑問の係。
【釈】 道のほとりの茨の先に延っている蔓豆のように、からみついている君を別れて行くのであろうか。
【評】 防人として発足した男を見送りして来た妻が、男がいざ別れようとすると、女は悲しみが極まり、すがりついて離れずにいるので、男は、こうした妻と別れて行くのだろうかと、嘆いて詠んだのである。序は眼前を捉えたものであるが、その時の状態と気分とをきわめて適切にあらわすものとなって、男の当惑と歎息とをさながらに見せるものとなっている。魅力ある歌である。
 
     右の一首は、天羽《あまは》郡の上丁|丈部鳥《はせつかべのとり》。
      右一首、天羽郡上丁丈部鳥。
 
【解】 「天羽郡」は、今の君津郡の西南部である。
 
(446)4353 家風《いへかぜ》は 日《ひ》に日《ひ》に吹《ふ》けど 吾妹子《わぎもこ》が 家言《いへごと》持《も》ちて 来《く》る人《ひと》もなし
    伊倍加是波 比尓々々布氣等 和伎母古賀 伊倍其登母遲弖 久流比等母奈之
 
【語釈】 ○家風は その家の方角より吹いて来る風で、家を連想させるもの。○家言持ちて 「家言」は、家よりの言葉で、家信。
【釈】 家の方角からの風は、日ごとに吹いているけれど、わが妻の、家からの言葉を託されて来る人はない。
【評】 風、雲、鳥などは、音信を連想させるものになっていた。「家風は日に日に」は、家のことが絶えず連想される意で、「人もなし」は、その連想の裏切られる嘆きである。事としては常識的であるが、扱い方は相応に知性的で、防人の歌としてはふさわしくない感のあるものである。原型となる歌があったか、あるいは知識人である部領使の加筆があったかと思わせるものである。
 
     右の一首は、朝夷《あさひな》郡の上丁|丸子連大歳《まりこのむらじおほとし》。
      右一首、朝夷郡上丁丸子連大歳。
 
【解】 「朝夷郡」は、今は安房郡の東南部である。外房州、千倉町に南北朝夷の地がある。養老二年、上総国の平群、安房、朝夷、長狭の四郡を割いて安房国を置き、天平十三年、上総国にあわせたが、天平宝字二年、また、安房国を分立させた。これはその分立以前である。
 
4354 立鴨《たちこも》の 発《た》ちの騒《さわ》きに 相見《あひみ》てし 妹《いも》が心《こころ》は 忘《わす》れせぬかも
    多知許毛乃 多知乃佐和伎尓 阿比美弖之 伊母加己々呂波 和須礼世奴可母
 
【語釈】 ○立鴨の 「こも」は、鴨の方言で、立鴨は一語と取れる。飛び立つ鴨のようなで、譬喩として「騒き」の枕詞。○発ちの騒きに 出発の騒ぎにつけて。○相見てし妹が心は 「相見てし」は、上よりの続き、また下への続きで、妹が特に我に逢った心と取れる。それは、この妹は人目を忍ぶ間柄で、その場合のような人目の多い時には無論逢えないのであるが、その人目の多いのにまぎれてそれとなく逢った意と取れる。別れを惜しむ心を示そうがためである。「妹が心は」は、そうした無理なことをした妹の情は。○忘れせぬかも 忘れはしないことだなあ。
(447)【釈】 立つ鴨のような、出発の騒ぎにつけて、我に逢った妹の情は、忘れはしないことだなあ。
【評】 「発ちの騒きに相見てし妹が心は」と、一見、尋常に似て、その実尋常ではないものである。夫婦関係は結んでいるが、絶対に秘密にしているということは普通のことで、この男女もそうした間柄であったとみえる。女は、秘密を守るために、この場合、素知らぬさまを装っているに堪えられず、部落の見送りの者の中に立ちまぎれて、よそながら見て別れを惜しむようなことをしたとみえる。男は女のその心を汲み、別れて旅を続けているうちも、思い出してはうれしがっていた心をいったものと取れる。うがった解のようではあるが、こうしたことはこの時代にはありがちなことで、一首は、そうしたことを背後に置いての心と見られるものである。そう見るとこの歌の語の続きは、自然な、無理のないものである。
 
     右の一首は、長狭《ながさ》郡の上丁|丈部與呂麿《はせつかべのよろまろ》。
      右一首、長狭郡上丁丈部与呂麿。
 
【解】 「長狭郡」は、今の安房郡の北東部である。加茂川上流に長狭町がある。
 
4355 外《よそ》にのみ 見《み》てや渡《わた》らも 難波潟《なにはがた》 雲居《くもゐ》に見《み》ゆる 島《しま》ならなくに
    余曾尓能美 々弖夜和多良毛 奈尓波我多 久毛爲尓美由流 志麻奈良奈久尓
 
【語釈】 ○外にのみ 無関係にばかり。○見てや渡らも 「や」は、疑問の係。「も」は、「む」の方言。見てあり経ることであろうか。○難波潟雲居に見ゆる 「雲居に」は、遠く雲際に。難波潟の、遠く雲際に見えるところの。○島ならなくに 島ではないことであるのに。
【釈】 無関係にばかり見て在り経ることであろうか。難波潟の、遠く雲際に見える島ではないことだのに。
【評】 これは難波に着いて、出航の日を待って過ごしている間、余裕のあるままにしきりに故郷が思われるのに、その故郷は見えず、目に続いて、難波潟の海上遠く、何のかかわりもない島影が見えとおしているので、わが故郷は、あの島ではないのに、あの島のように、何のかかわりもなく見て過ごしていることであろうかと、歎思していったのである。主格である故郷を省き、それを暗示する語も屈折の多い言い方をしているもので、これを中央の京の歌としても、あまりにも文芸的な言い方で、解しやすくないものである。防人の歌とすると、甚しく加筆したものにみえる。
 
(448)     右の一首は、武射《むざ》郡の上丁|丈部山代《はせつかべのやましろ》。
      右一首、武射郡上丁丈部山代。
 
【解】 「武射郡」は、今の山武郡の北部である。
 
4356 我《わ》が母《はは》の 袖《そで》持《も》ち撫《な》でて 我《わ》が故《から》に 泣《な》きし心《こころ》を 忘《わす》らえぬかも
    和我波々能 蘇弖母知奈弖※[氏/一] 和我可良尓 奈伎之許己呂乎 和須良延努可毛
 
【語釈】 ○袖持ち撫でて 袖をもって目を撫で拭って。母が甚しく涙を流したさま。○我が故に わたしの事のゆえに。防人に立つことで。○泣きし心を忘らえぬかも 泣いた心を、忘れられないことだなあ。
【釈】 わたしの母が、その袖で目を撫で拭って、わたしのことのために泣いた心を、忘れられないことだなあ。
【評】 この防人は、旅をしながらも、家を出る際、自分のことで母が甚しくも泣いてくれたことを思い、そのことが忘れられないといっているのである。「袖持ち撫でて」と、母の甚しく泣いた時の状態をいっているのは、そのさまが面影に立って離れないからで、実感の表現で、技巧を超えたものである。防人らしい歌である。
 
     右の一首は、山辺《やまべ》郡の上丁物部|乎刀良《をとら》。
      右一首、山邊郡上丁物部乎刀良。
 
【解】 「山辺郡」は、今の山武郡の南部である。
 
4357 蘆垣《あしがき》の 隈処《くまと》に立たちて 吾妹子《わぎもこ》が 袖《そで》もしほほに 泣《な》きしぞ思《も》はゆ
    阿之可伎能 久麻刀尓多知弖 和藝毛古我 蘇弖毛志保々尓 奈伎志曾母波由
 
【語釈】 ○隈処に立ちて 曲がり角になっている処、すなわち陰になって人目につかない処に立って。○袖もしほほに 「しほほ」は、水に濡れ(449)ている形容で、袖が涙でびっしょりと濡れて。○泣きしぞ思はゆ 「思はゆ」は、「思ほゆ」の原形。「ぞ」の係を、終止形で結んだ古格のものである。
【釈】 蘆垣の曲がり角の、物陰となっている処に立って、なつかしい妻が、袖も涙でびっしょりとなって泣いたことが思われる。
【評】 この防人も、発足の際、妻が人目を忍んで、別れを惜しんでひどく泣いたさまを面影に描きつつ旅をしている心である。「麓垣の隈処に立ちて」という描写は、その印象が全体的に、ありありと浮かんで来るところからのもので、技巧としてのものではない。この防人の夫婦関係も、人には秘密になっていたもので、それが感情を深めるものとなっているのである。
 
     右の一首は、市原《いちはら》郡の上丁|刑部直千国《おさかべのあたひちくに》。
      右一首、市原郡上丁刑部直千國。
 
【解】 「市原郡」は、今の市原郡の一部。「直」は、姓である。
 
4358 大君《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 出《い》で来《く》れば 我《わ》ぬ取《と》り著《つ》きて 言《い》ひし子《こ》なはも
    於保伎美乃 美許等加志古美 伊弖久礼婆 和努等里都伎弖 伊比之古奈波毛
 
【語釈】 ○出で来れば 旅立って来れば。○我ぬ取り著きて 「我ぬ」は、「わに」の方言。これは転じて「われ」の意にも用いられた語で、巻十四(三四七六)「諾《うべ》児《こ》なは吾《わぬ》に恋ふなも」その他もある。「取り著きて」は、すがりついて。○言ひし子なはも 「言ひし」は、別れる悲しみをいった。「子な」は、「子ら」の方言。「子」は、妻の愛称。「な」は、接尾語。「はも」は、眼前にいない者を深くなつかしむ意をあらわす助詞。
【釈】 大君の勅を承って、旅立ちをして来ると、我にすがりついて、別れる悲しみをいったあの可愛いい女はなあ。
【評】 「出で来れば我ぬ取り著きて」は、この妻も人には秘密にしてある関係の者なので、晴れての見送りもできず、男の旅の通路に待ち構えていて、ひそかに男に逢ったことをあらわしているものである。「大君の命かしこみ」は慣用句であるが、その時の防人の心で、これと女の態度とが対比されて、この場合、著しく男の感を深め強めている。したがって、「子なはも」と、男が旅をしつつ、全体として女を思い浮かべ、なつかしんでいる心が、自然なものとなっている。防人らしい歌で、すぐれたものである。
 
(450)     右の一首は、種※[さんずい+比]《すひ》郡の上丁物部|龍《たつ》。
      右一首、種※[さんずい+比]郡上丁物部龍。
 
【解】 「種※[さんずい+比]郡」は、『延喜式』には「周准郡」となっているので、「※[さんずい+比]」は誤写ではないかと『代匠記』はいっている。巻九(一七三八)「上総の末の珠名の娘子を詠める」とある「末」であろうから、「すゑ」が正しいといえる。今の君津郡の中部である。小糸川流域一帯の地。
 
4359 筑紫方《つくしへ》に 舳向《(むか》る船《ふね》の 何時《いつ》しかも 仕《つか》へ奉《まつ》りて 本郷《くに》に舳向《へむ》かも
    都久之閇尓 敞牟加流布祢乃 伊都之加毛 都加敞麻都里弖 久尓々閇牟可毛
 
【語釈】 ○筑紫方に舳向る船の 「向る」は、「向ける」の方言。筑紫の方角へ舳先の向かっている船が。○何時しかも仕へ奉りて 「何時しかも」は、いつになればかで、早く。「仕へ奉りて」は、御奉仕をしてで、防人の任を終わって。○本郷に舳向かも 「向かも」は、「向かむ」の方言。本国に舳先が向くのであろうか。
【釈】 筑紫の方角へ舳先の向いている船が、いつになったら、御奉仕をして、本国へ舳先が向くだろうか。
【評】 難波津から乗ろうとする船を眺めての感で、その筑紫のほうへ向いている舳先の、故郷のほうへ向く時を待つ心である。新しく、飛躍のある言い方であるが、眼前に見ている船に即しての実感で、きわめて自然に感じられる。
 
     右の一首は、長柄《ながら》郡上丁|若麻績部羊《わかをみべのひつじ》。
      右一首、長柄郡上丁若麻績部羊。
 
【解】 「長柄郡」は、今の千葉県長生郡、茂原市の西に、長柄町がある。
 
     二月九日、上総国の防人部領使少目従七位下|茨田連沙彌麿《うまらだのむらじさみまろ》が進《たてまつ》れる歌の数十九首。但し拙劣き歌は取り載せず。
 
(451)     二月九日、上總國防人部領使少目從七位下茨田連沙祢麿進謌數十九首。但拙劣歌者不2取載1之。
 
【解】 「茨田沙彌麿」は、伝未詳。
 
     私の拙き懐を陳《の》ぶる一首 井に短歌
 
【題意】 家持が、自作へ卑下してつけた題である。この歌は防人とは関係のないもので、難波の離宮を讃えて詠んだものである。天皇が行幸されているごとき語がまじっているが、その事はなかったので、そうした時を予想して詠んだものであろう。「私の」は、賀歌は詔があって詠むので、それがなくて詠む意である。それとすると、従来の賀歌の型を脱した、新しいものである。
 
4360 天皇《すめろき》の 遠《とほ》き御代《みよ》にも 押照《おして》る 難波《なには》の国《くに》に 天《あめ》の下《した》 知《し》らしめしきと 今《いま》の緒《を》に 絶《た》えず言《い》ひつつ 懸《か》けまくも あやに畏《かしこ》し 神《かむ》ながら 吾《わご》大君《おほきみ》の うち靡《なび》く 春《はる》の初《はじめ》は 八千種《やちぐさ》に 花《はな》咲《さ》きにほひ 山《やま》見《み》れば 見《み》のともしく 河《かは》見《み》れば 見《み》の清《さや》けく 物《もの》ごとに 栄《さか》ゆる時《とき》と 見《め》し給《たま》ひ 明《あき》らめ給《たま》ひ 敷《し》きませる 難波《なには》の宮《みや》は 聞《きこ》し食《を》す 四方《よも》の国《くに》より 献《たてまつ》る 貢《みつき》の船《ふね》は 堀江《ほりえ》より 水脈引《みおび》きしつつ 朝《あさ》なぎに 楫《かぢ》引《ひ》き泝《のぼ》り 夕汐《ゆふしほ》に 樟《さを》さし下《くだ》り あぢ群《むら》の 騒《さわ》き競《きほ》ひて 浜《はま》に出《い》でて 海原《うなはら》見《み》れば 白浪《しらなみ》の 八重《うあへ》折《を》るが上《うへ》に 海人小舟《あまをぶね》 はららに浮《う》きて 大御食《おほみけ》に 仕《つか》へ奉《まつ》ると 遠近《をちこち》に 漁《いざ》り釣《つ》りけり そきだくも おぎろなきかも こきぱくも ゆたけきかも 此《ここ》見《み》れば うべし御代《かみよ》ゆ はじめけらしも
    天皇乃 等保伎美与尓毛 於之弖流 難波乃久尓々 阿米能之多 之良志賣之伎等 伊麻能乎尓 多要受伊比都々 可氣麻久母 安夜尓可之古志 可武奈我良 和其大王乃 宇知奈妣久 春初波 夜知(452)久佐尓 波奈佐伎尓保比 夜麻美礼姿 見能等母之久 可波美礼姿 見乃佐夜氣久 母能其等尓 佐可由流等伎登 賣之多麻比 安伎良米多麻比 之伎麻世流 難波宮者 伎己之乎須 四方乃久尓欲里 多弖麻都流 美都奇能船者 保理江欲里 美乎妣伎之都々 安佐奈藝尓 可治比伎能保里 由布之保尓 佐乎佐之久太理 安治牟良能 佐和伎々保比弖 波麻尓伊泥弖 海原見礼婆 之良奈美乃 夜敞乎流我宇倍尓 安麻乎夫祢 波良々尓宇伎弖 於保美氣尓 都加倍麻都流等 乎知許知尓 伊射里都利家理 曾伎太久毛 於藝呂奈伎可毛 己伎婆久母 由多氣伎可母 許己見礼婆 宇倍之神代由 波自米家良思母
 
【語釈】 ○天皇の遠き御代にも 皇位を永遠に連続するものとして、その溯っての御代にもで、歴史上の事実というよりは、皇位を尊んだ意のもの。○押照る難波の国に 「押照る」は、難波の枕詞。「難波の国」は、摂津国の古称で、摂津は後世の称である。○天の下知らしめしきと この日本の国を御領有なされたと。これは仁徳天皇、孝徳天皇などをさしたのである。○今の緒に絶えず言ひつつ 「緒」は、「年の緒」というそれで、今の時代の意である。「今の緒」は、起首の「遠き御代」に応じさせたもの。「言ひつつ」は、言い続けて。これは世の人のすべてしていることとしてである。○懸けまくもあやに畏し 口にかけて申すことも、甚だ恐れ多しで、天皇のことを申す時の儀礼としての慣用句。○神ながら吾大君の 神そのままであられるわが大君が。これも天皇のことを申す慣用句。「わご」は、「吾が大君」の「が」と「お」と音の同化したもの。○うち靡く春の初は 「うち靡く」は、春の枕詞。「春の初は」は、陰暦の二月をさしているもので、以下とともに、天皇が現に難波の宮に行幸になっていられるものとして言い続けているのである。○八千種に花咲きにほひ 限りなき種類に、花が色美しく咲き。○山見れば見のともしく 「見」は、見えることで、名詞。眺め。「ともしく」は、類《たぐい》少なく、賞すべくあって。○物ごとに栄ゆる時と あらゆるものが栄える時であるとして。以上、上の「春の初」を説明したもの。○見し給ひ明らめ給ひ 「見し」は、「見る」の敬語。「明らめ」は、御心を慰められる意。○敷きませる難波の宮は 「敷きませる」は、御領有になっていらせられるであるが、ここは行幸になっていらせられるということを、広い語をもって言いかえたもので、起首よりこれまでは、続きの難波の宮に対しての長い修飾句である。すなわち皇室と由緒の古い難波の宮で、天皇もそれを思し召されて、この春の好季節に行幸になっていらせられることをいって、宮を讃えたのである。以上、第一段。○聞し食す四方の国より 御領有になられる天が下、四方の国から。○献る貢の船は 献る御貢物を運ぶ船は。これは雉波の運搬の便の卓絶したことをいっているものである。この時代は交通にも運搬にも、船は代表的な具だったのである。○堀江より水脈引きしつつ 堀江を通って、水路に従って漕ぎつつ。○朝なぎに楫引き泝り 朝なぎには、楫を押して溯り。○夕汐に棹さし下り 夕汐には棹をさして下って。○あぢ群の騒き競ひて 味鴨の群れのように、騒いで競っていて。以上、舟夫の御奉仕のさま。○浜に出でて海原見れば さらに砂浜に出て、海上を見ると。○白浪の八重折るが上に 「八重折る」は、幾重にも折れ重なる意。巻七(一一六八)「沖つ玉藻は白浪の八重折るがうへに」とある。○海人小舟はららに浮きて 「はららに」ば、ばらばら(453)にで、散在して。○大御食に仕へ奉ると 天皇に御饌供に献上するとて。○遠近に漁り釣りけり 遠近に漁りをし釣をしていたことだで、「けり」は、感動の助動詞。これは海産物の多いこと。以上二段で、難波の海運と海産物の多い特殊性を讃えたもの。○そきだくもおぎろなきかも 「そきだくも」は、非常に。「おぎろなき」は、「おぎろ」は、広大の意で、「なき」は、体言に接してそのようにあるの形容詞を作る語で、広大であることかな。これは海運のこと。○こきばくもゆたけきかも 「こきぱくも」は、「そこぱくも」と同意語。「ゆたけきかも」は、物の豊かなことかなで、海産物の豊富さを讃えたもの。○此見ればうべし御代ゆはじめけらしも この点を見ると、遠い古の代から、ここを都と定めたのは、もっとものことであるようだで、「らしも」は、強い推量。この三句は、起首の「天皇の遠き御代にも」に照応させたものである。
【釈】 天皇の遠い御代にも、この難波国で、天下をお治めになられたと、その時より今の時代にも絶えず世の人が言い続けていて、口にするも甚だ恐れ多い、神そのままにいらせられるわが大君には、春の初めは、限りなき種類に花が色美しく咲き、山を見れば眺めが類少なくて賞美すべく、河を見れば眺めがさわやかで、ありとあるものの栄える時であるとして、それらを御覧遊ばされ、大御心を御慰めになられて、行幸されている難波の宮は、御領有なされる天が下、四方の国から、献上する貢物の船は、堀江を通って水路を漕ぎ続けて、朝なぎには楫を押して溯り、夕汐には棹をさして下って、水夫どもは味鴨の群れのように騒いで競っていて、砂浜に出て海上を見ると、白浪が幾重にも折れ重なる上に、海人の小舟はばらばらに散って浮かんで御饌供に献上するとて、遠近に漁りをし、釣をしていることであった。非常にも広大な海運であることよ。非常にも豊かな海産であることよ。この点から見ると、遠い古の御代から、ここを都と定めたのは、もっともなことであるらしい。
【評】 この歌は、近く春の中に、天皇が難波の宮へ行幸のことがあろうと予想し、その際詔があったら賀歌を献じようとして、あらかじめ作ったもので、その心から「私の拙き懐」と卑下しているのである。この歌は賀歌としては特色のある、新生面を拓いたものである。本来、行幸の際の賀歌は型があって、人麿を除くと千篇一律である。それは第一に天皇の御代を讃え、第二に、離宮または行宮の風景を讃え、第三に結末として、風景に寄せて御代の永久を賀するのに決まっていたのである。それらを標準として見ると、この歌は著しく型を離れている。第一の、天皇の御代を讃えるのは、「敷きませる難波の宮は」までで、全篇の一半を割いているのであるが、ここには天皇の御代を讃える意はいささかもなく、いっていることは難波の宮そのものばかりである。風景の讃えはあるが、それも春の初めの風景の美であって、それも天皇の行幸に関係づけることを主としてのものである。これがすでに異例である。第二は、「遠近に漁り釣りけり」までである。従来の賀歌だと形勝を讃える場合であるが、これは難波の地勢の特色である堀江と海とを挙げ、海運の便と漁場の広さという、実際生活に即した面において極力讃えているのである。それらをすべて天皇につないでいるが、行幸は臨時のことなので、儀礼としてのことである。第三は、普通だと形勝に寄せて天皇を賀するのを、これは海運と海産によって難波の地を賀するのであって、上代ここを都としたのは、これらの点によってであろうとして、現在の離宮を賀しているのである。一篇、難波離宮行幸の賀歌というよりも、行幸を機(454)としての難波優越論ともいうべきものである。聖武天皇の代には、しばらくの間にもせよ難波は京となったので、この意見は卓抜なものではなく、あるいは家持が代弁しているものでもあろうが、とにかくこのように表現しているのは、家持の政事上の識見を思わせるものである。その意味において心ひかれる歌である。
 
4361 桜花《さくらばな》 今《いま》盛《さかり》なり 難波《なには》の海《うみ》 おし照《て》る宮《みや》に 聞《きこ》しめすなへ
    櫻花 伊麻佐可里奈里 難波乃海 於之弖流宮尓 伎許之賣須奈倍
 
【語釈】 ○おし照る「難波」の枕詞として使用されているが、ここでは海の輝き光る意から、「宮」を修飾している。○聞しめすなへ お治めになるとともに。行幸あらせられた折にの意。
【釈】 桜花は今盛りである。難波の海の、輝き光るその宮で、天下をお治めになられるとともに。
【評】 長歌の、春の行幸を予想した部分の繰り返しで、八千種の花の中の桜花を捉えての想像である。取材が麗わしく、歌柄が豊かで、盛り上がる立体感が、賀歌にふさわしいものである。家持の長所の一面を発揮した歌である。
 
4362 海原《うなはら》の 豊《ゆた》けき見《み》つつ 蘆《あし》が散《ち》る 難波《なには》に年《とし》は 経《へ》ぬべく思《おも》ほゆ
    海原乃 由多氣伎見都々 安之我知流 奈尓波尓等之波 倍奴倍久於毛保由
 
【語釈】 ○蘆が散る 「難波」の枕詞。○難波に年は経ぬべく思ほゆ 「年は経ぬべく」は、「年」は、いつまでもという意を具象的にいった語。「経ぬべく」は、暮らしていたく。
【釈】 海原の豊かなさまを見ながら蘆の花の散る難波に、いつまでも暮らしていたく思われる。
【評】 長歌の難波の海の部分の繰り返しである。「海原の豊けき見つつ」は、ここでは風景としての快さとなっている。作者の気分を通じて難波の地を称えたもので、間凛な形で難波の宮を賀したものである。この歌も歌柄が豊かに暢びやかで、賀歌にふさわしい姿のものである。
 
(455)     右は、二月十三日、兵部少輔大伴宿禰家持。
      右、二月十三日、兵部少輔大伴宿祢家持。
 
4363 難波津《なにはづ》に 御船《みふね》下《おろ》すゑ 八十楫《やそか》貫《ぬ》き 今《いま》は漕《こ》ぎねと 妹《いも》に告《つ》げこそ
    奈尓波都尓 美布祢於呂須恵 夜蘇加奴伎 伊麻波許伎奴等 伊母尓都氣許曾
 
【語釈】 ○御船下すゑ 「御船」は、官船であるゆえの美称。「下すゑ」は、「下し据ゑ」の約。「据ゑ」は、船を水に浮かべる意の語であるから、浜に上げてあった船を海に下ろしたのである。○八十揖貫き 多くの楫を取りつけて。○今は漕ぎぬと妹に告げこそ 今は漕ぎ出したと、故郷の妻に告げてもらいたい。「こそ」は、願望の助詞。「告げこそ」は、気分の具象としていっているもので、相手があっていっているものではない。原型となる歌があって、それによってのものであろう。
【釈】 難波津に、官船を海に下ろして浮かべ、多くの楫を取りつけて、今は漕ぎ出したと、故郷の妻に告げてもらいたい。
【評】 難波津から出航しようとする直前の心である。陸路から海路へ移ると、いよいよ妹より遠ざかる気がして、感傷が深まって来ての訴えであるが、それをあらわすに、直接には自身の心をいわず、妹のほうを主とし、しかも妹に安心させようとして、御船に「八十楫貫き」という堅固な状態で出航したと、妹に伝えてくれと、頼むあてもなくいっているのである。あてなくいっているのは、間接ながら自身の感傷をあらわしているのである。若い防人ではあるが、老成した心の持主だったのである。丹念に、心を尽くして、ぽつぽつと言い続けている歌で、そこに気分がある。相応に上手な歌である。
 
4364 防人《さきむり》に 発《た》たむさわきに 家《いへ》の妹《いむ》が なるべき事《こと》を 言《い》はず来《き》ぬかも
    佐伎牟理尓 多々牟佐和伎尓 伊敞能伊牟何 奈流弊伎己等乎 伊波須伎奴可母
 
【語釈】 ○防人に 「さきむり」は、「さきもり」の方言。○家の妹が 「いむ」は、「いも」の方言。この防人は妻と同棲していたのである。○なるべき事を言はず来ぬかも 「なる」は、生業の意の名詞「なり」を動詞化したもので、生業とすべきことをいわないで来たなあ。上代の生業は農業であるから、「なるべきこと」は、作物について注意しなければならない事柄である。「来ぬかも」は、「来ぬるかも」というべきを、終止形をもってした古格である。
(456)【釈】 防人として発足する騒ぎで、家の妻の生業とすべき事を、言わずに来たなあ。
【評】 旅をしつつ家を思うにつけ、留守中、自分に代わって生業すべき家の妻に、その上で注意すべきことを、発足前のどさくさにまぎれて、忘れていわずに来たことを思い出した心である。妻の生計を懸念しての心である。前の歌よりもさらに老成した心を見せている歌である。防人の私人としての面を思わせられる歌である。
 
     右の二首は、茨城《うまらき》郡の若舎人郡広足《わかとねりべのひろたり》。
      右二首、茨城郡若舎人部廣足。
 
【解】 「茨城郡」は、今は茨城県、東西の茨城郡と新治郡とになっている。一人で二首採録されている人で、この類《たぐい》の人は他に二人ある。以下十首は、常陸国の防人の歌である。
 
4365 おし照《て》るや 難波《なには》の津《つ》ゆり 船装《ふなよそ》ひ 吾《あれ》は漕《こ》ぎぬと 妹《いも》に告《つ》ぎこそ
    於之弖流夜 奈尓波能都由利 布奈与曾比 阿例波許藝奴等 伊母尓都岐許曾
 
【語釈】 ○難波の津ゆり 「ゆり」は、「より」の方言。上の(四三二一)にも出た。○船装ひ 船の装いをして。名詞形。○妹に告ぎこそ 「告ぎ」は、「告げ」の方言。
【釈】 おし照るや難波の津から、船の装いをして我は漕ぎ出したと、故郷の妻に告げてもらいたい。
【評】 上の(四三六三)「難波津に」と作意は全く同じで、結句も方言の一音が異なっているだけである。異なる点は、この歌のほうが抒情味が稀薄で、全体が淡白に詠み流されている点だけである。共通の原型があったのではないかと思わせる所以《ゆえん》である。部領使の命によって詠むもので、詠んで差出すことが事の全部で、他には目的のなかった歌であるから、そうしたことがあったとて怪しむには足りないことである。
 
4366 常陸《ひたち》さし 行《ゆ》かむ雁《かり》もが 我《わ》が恋《こひ》を 記《しる》して附《つ》けて 妹《いも》に知《し》らせむ
    比多知散思 由可牟加里母我 阿我古比乎 志留志弖都祁弖 伊母尓志良世牟
 
(457)【語釈】 ○行かむ雁もが 行く雁があればよいがなあ。「もが」は、願望の助詞。○記して附けて 紙に記して、雁に取り付けてで、雁信ということを説明的にいったもの。
【釈】 常陸をさして飛んで行く雁があればよいがなあ。わが恋のほどを紙に記して取り付けて、妹に知らせよう。
【評】 この防人はある程度文字があり、雁信という故事を知っており、「記して附けて」ということを連想し得たのである。この歌も上の歌と同じく語つづきが淡泊で、知識人らしい面影を見せている。「妹に知らせむ」が気分にすぎないことの補足のような歌である。
 
     右の二首は、信太《しだ》郡の物部|道足《みちたり》。
      右二首、信太郡物部道足。
 
【解】 「信太郡」は、今の茨城県稲敷郡の東部である。霞が浦の南方一帯。
 
4367 我《あ》が面《もて》の 忘《わす》れも時《しだ》は 筑波嶺《つくはね》を ふり放《さ》け見《み》つつ 妹《いも》はしぬはね
    阿我母弖能 和須例母之太波 都久波尼乎 布利佐氣美都々 伊母波之奴波尼
 
【語釈】 ○我が面の 「もて」は、「おもて」の方言。○忘れも時は 「忘れも」は、「忘れむ」の方言。「しだ」は、「時」の古語。○妹はしぬはね あなたは慕ってください。「ね」は、願望の助詞。
【釈】 わたしの顔を忘れるような時には、筑波山を望み見つつ、あなたは慕ってください。
【評】 これと類想の歌は、巻十四(三五一五)「我《あ》が面《おも》の忘れむ時《しだ》は国はふり嶺《ね》に立つ雲を見つつ侭《しの》はせ」、同(三五二〇)「面(458)形《おもかた》の忘れむ時《しだ》は大野ろにたなびく雲を見つつ偲はむ」があり、いずれも東歌である。広く東国に行なわれていた歌で、心は、男が遠い旅に行っている間は、女は男の顔をはっきりと眼に浮かべていることが、男の身にとって必要なことであり、もし、はっきり浮かばない時には、雲を眺めて思うと浮かんで来るというのである。これは一つの信仰であって、女が男の顔をはっきり眼に浮かべることは、それによって女の霊を男に伴わせ、男を無事であらせることで、反対に、浮かばない時は、男の身に事のあろうとする時で、その時は雲を眺めていると浮かんで来ると信じられていたものとみえる。この歌の「筑波嶺をふり放け見つつ」も、筑波嶺は常陸国の高山で、いつも雲がかかっているとしてのこととみえる。一首は、男が発足に臨み、女に、わが無事の呪いをしつづけてくれよと頼んだ心である。歌としては、謡い物として謡っている謡を適用したにすぎないものである。
 
     右の一首は、茨城《うまらき》郡の占部小龍《うらべのをたつ》。
      右一首、茨城郡占部小龍。
 
4368 久慈河《くじがは》は 幸《さけ》く在《あ》り待《ま》て 潮船《しほぶね》に 真楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 吾《わ》は帰《かへ》り来《こ》む
    久自我波々 佐氣久阿利麻弖 志富夫祢尓 麻可知之自奴伎 和波可敞里許牟
 
【語釈】 ○久慈河は幸く在り待て 「久慈河」は、福島県東白河郡に発し、那珂郡との境を流れ鹿島灘に入る河。「さけく」は、「さきく」の方言である。変わらずに存在して、わが帰りを待てよで、久慈河を祝った語。○潮船に真楫繁貫き 潮船は海上を漕ぐ船で、河船に対しての称。塩を運ぶ船との解もある。「真楫繁貫き」は、左右取揃えての楫を多く取り付けて。これは遠い航海をする船の設備である。○吾は帰り来む 私は筑紫から帰って来よう。
【釈】 久慈河は変わることなく待っていよ。海上を漕ぐ船に、左右取揃えての楫を多く取り付けて、われは帰って来よう。
【評】 この防人は、久慈河との別れを惜しみ、河を祝って、わが勢よい帰りを待てといっているのである。こうした特殊なことをいっているのは、この防人の生活は久慈河に深いつながりがあり、河船を漕ぐことを業としているところからのことであろう。自身の無事をいうのに「潮船に真楫繁貫き」といっているのも、河船との関係においてのものである。実際に即しての心で、細かい気分のこもった歌である。
 
(459)     右の一首は、久慈郡の丸子部佐壮《まりこべのすけを》。
      右一首、久慈郡丸子部佐壯。
 
【解】 「久慈郡」は、今の茨城県久慈郡、日立市、常陸太田市の一部にあたる。
 
4369 筑波嶺《つくはね》の さ百合《ゆる》の花《はな》の 夜床《ゆとこ》にも 愛《かな》しけ妹《いも》ぞ 昼《ひる》もかなしけ
    都久波祢乃 佐由流能波奈能 由等許尓母 可奈之家伊母曾 比留毛可奈之祁
 
【語釈】 ○筑波嶺のさ百合の花の 「さゆる」は、「さゆり」の方言。「さ」は、美称で、山百合の花。「ゆる」の「ゆ」を、「ゆ床」の「ゆ」に同音でかけた序詞。「筑波嶺」は、女の住地。また、「さ百合の花」は、夏季の物で、この序詞は眼前のものではない。○夜床にも愛しけ妹ぞ 「ゆ床」は、「夜床」の方言。「愛しけ」は、「かなしき」の方言。可愛ゆき。「ぞ」は、感動の助詞。○昼もかなしけ 「かなしけ」は、上と同じ。昼間見ても可愛ゆいことだ。
【釈】 筑波嶺の百合の花に因みのある、夜の共の寝床にもかわゆい妹だ。昼見てもかわゆいことだ。
【評】 夜の暗い中に逢ってもかわゆい妹で、昼見ても、美しくかわゆいというので、妹のかわゆさを称えるに終始している歌である。「筑波嶺のさ百合の花の」という序詞は、女の住地と、百合の花とによって女の美しさを暗示しているものである。この序詞の季節から見ても、防人ということに関係のある歌ではなく、相聞の歌で、謡い物として謡われていたものとみえる。しかも防人の歌とするための改作の跡も見えないものである。防人の歌の中には、こうした歌もまじっていたのである。
 
4370 霰《あられ》降《ふ》り 鹿島《かしま》の神《かみ》を 祈《いの》りつつ 皇御車《すめらみくさ》に 吾《われ》は来《き》にしを
    阿良例布理 可志麻能可美乎 伊能利都々 須米良美久佐尓 和例波伎尓之乎
 
【語釈】 ○霰降り鹿島の神を 「霰降り」は、「かしまし」と続いて、同音で「かしま」にかかる枕詞。「鹿島の神」は、鹿島郡の南端鹿島町の鹿島神宮に鎮まる神で、祭神は建御雷神で、軍神として祀られた神である。○祈りつつ 軍神を祈るのであるから、御霊の力によってわが武勇ならんことを祈るのである。「つつ」は、継続。○皇御軍に 「みくさ」は、「みいくさ」の約で、「軍」は、兵士。天皇の兵士として「御」の美称を添(460)えたもの。○吾は来にしを われは家を発足して来たことであるよ。我と我を励ましたもの。
【釈】 鹿島の神に祈りつつも、天皇の兵として、われは家を出て来たことであるよ。
【評】 鹿島の神は広範囲にわたって尊崇された神で、その神に武勇のほどを心をこめて祈って発足したといい、他の事には触れていっていない歌である。これは防人の歌の本質的なものである。上の歌とは正反対なもので、まさに両端を示しているものである。防人の歌そのものの動揺していたことを思わせるものである。
 
     右の二首は、那賀郡の上丁|大舎人部千文《おほとねりべのちぶみ》。
      右二首、那賀郡上丁大舍人部千文。
 
【解】 「那賀郡」は、今の那賀郡及び、東茨城郡北部、水戸市に及ぶ地。初めて身分を記している。
 
4371 橘《たちばな》の 下《した》吹《ふ》く風《かぜ》の 香《か》ぐはしき 筑波《つくは》の山《やま》を 恋《こ》ひずあらめかも
    多知波奈乃 之多布久可是乃 可具波志伎 都久波能夜麻乎 古比須安良米可毛
 
【語釈】 ○橘の下吹く風の 「橘」は、時は一月であるから、橘の熟した実をさしたもの。「下吹く風の」は、木下を吹く風のようにで、その風は橘の香を伝える意で「香ぐはし」にかかり、以上その序詞。○香ぐはしき筑波の山を 「香ぐはしき」は、美しき、あるいはなつかしきの意で、称える意の形容詞。ここは筑波の山を称えている。「筑波の山」は、古くは部落は山地に設け、また守護神も鎮まっていられるので、広い意でいっているもの。○恋ひずあらめかも 「かも」は、「やも」と同じく、已然形を受けての反語。
(461)【釈】 熟した橘の実のなっている木下を吹く風のように、なつかしい筑波の山を、恋いずにいられようか、いられない。
【評】 この防人は、筑波の山を故郷としており、故郷のなつかしさをいうことによって、その忘れ難さをいっているもので、詠み方が文芸的である。「橘の下吹く風の」という序詞も、その詠み方にふさわしいものである。一首全体として、形は美しいが、そのわりに感銘の少ないのは、文芸的の詠み方の長所とともに短所を示しているものである。
 
     右の一首は、助丁|占部広方《うらべのひろかた》。
      右一首、助丁占部廣方。
 
4372 足柄《あしがら》の み坂《さか》たまはり 顧《かへり》みず 吾《あれ》は越《く》え行《ゆ》く 荒男《あらしを》も 立《た》しや憚《はばか》る 不破《ふは》の関 せき》 越《く》えて 吾《わ》は行《ゆ》く 馬《むま》の蹄《つめ》 筑紫《つくし》の埼《さき》に 留《ちま》り居《ゐ》て 吾《あれ》は斎《いは》はむ 諸《もろもろ》は 幸《さけ》くと申《まを》す 帰《かへ》り来《く》まで
    阿志加良能 美佐可多麻波理 可閇理美須 阿例波久江由久 阿良志乎母 多志夜波婆可流 不破乃世伎 久江弖和波由久 牟麻能都米 都久志能佐伎尓 知麻利爲弖 阿例波伊波々牟 母呂々々波 佐祁久等麻乎須 可閇利久麻弖尓
 
【語釈】 ○足柄のみ坂たまはり 「足柄」は、相模国の足柄郡の足柄山。防人の行くべき海道の中の第一の要所で、関があった。「み坂たまはり」は、「み坂」は、坂には神が祀ってあるところからの敬称で、「たまはり」は、賜わりで、坂の神の許しを得て。坂を越えるのは、旅にあっては重大なことで、坂の神の祭をして越えるのであった。○顧みず我は越え行く 「顧みず」は、故郷のほうを振り返って見ずに。「くえ」は、「越え」の方言。われは越えて行くで、防人としていさぎよくの意である。誓いの心を持っているものと取れる。○荒男も立しや憚る 「荒男」は、荒し男で、強い男である。「立しや憚る」は、「立し」は、「立ち」の方言、「や」は、感動の助詞で、「憚る」は、事をしかねる意。強い男も立ちかねるで、山路の険岨なことを具象的にいったもの。○不破の関 美濃国の不破郡関原町、大字松尾にあり、古来有名なもので、海道の要所である。○馬の蹄筑紫の埼に 「むま」は、「うま」の方言。「蹄」は、爪。「祈年祭」の祝詞の中に「馬の蹄い尽す極み」とあり、行き尽くす意で同音の「つく」に続く枕詞。「筑紫の埼」は、防人としての任所。○留り居て吾は斎はむ 「ちまり」は、「とまり」の方言。「留り居て」は、留まっていて任務を行なって。「吾は斎はむ」は、わが身の無事を神に祈ろう。斎うのは、任務を遂行するためのことで、任務を果たそうの意である。○諸(462)は幸くと申す 「諸」は、防人の家族、及びその部落の者をもこめてのもの。出発に際して見送りをしている人々である。「さけく」は、「さきく」の方言で上に出た。「申す」は、「云ふ」の敬語で、祝いくださる。○帰り来までに 我の帰って来るまでを。
【釈】 足柄山の御坂の神のお許しをいただいて、わたしは、故郷を顧みずに越えて行きます。強い男も脚を立てかねる、不破の関を越えてわたしは行きます。馬の蹄が行き尽くす筑紫の埼に留まっていて、わたしは身の無事を神に祈って任務を果たしましょう。皆様は、わたしの無事をお祈りくださいます。わたしの帰って来るまでを。
【評】 出発に際して、見送りの親戚、部落の人々に対しての挨拶の語である。心としては、いさぎよく防人の任務を果たして、人々の無事であれと祈っていてくださるのに酬いようというのであるが、それを長歌形式をもって、心を尽くしていっているのである。防人の長歌はこれ一首だけであるが、長歌としては古風なもので、叙事と抒情とが緊密に融け合って、したがって短文となり、全体として簡潔で、味わいの多いものである。防人としていさぎよく任地へ行くということを、道行き風の言い方をして、足柄のみ坂、不破の関、筑紫の埼と、それぞれの地に要を得た、巧みな修飾を添えて進行させているのは、古くから伝わっている型に従ってのものである。一転して、「吾は斎はむ 諸は幸くと申す」は、われ自身無事を祈り、あなた方も祈ってくださるという共同の祈りであるが、これは一私人としてのことではなく、防人という公人としてのことで、その心を明らかにするために、上に「留り居て」、すなわち防人として、ということを添えているのである。無事とは、任務を果たしうるということと同意義なのである。語短く心を尽くしていっているもので、技巧としても勝れたものである。挨拶の語であるから、先蹤となるものがあったかもしれぬが、それとしても非凡なものである。
 
     右の一首は、倭文部可良麿《しとりべのからまろ》。
      右一首、倭文部可良麿。
 
     二月十四日、常陸国の部領防人使《さきもりのことりづかひ》大目正七位上息長真人国島《おきながのまひとくにしま》が進《たてまつ》れる歌の数十七首。但し拙劣き歌は取り載せず。
      二月十四日、常陸國部領防人使大目正七位上息長眞人國嶋進歌數十七首、但拙劣歌者不2取載1之。
 
(463)【解】 「息長真人国島」は、「真人」は姓。天平宝字六年正月、息長丹生真人国嶋として正六位上から従五位下を授けられたことだけが伝わっている。
 
4373 今日《けふ》よりは 顧《かへり》みなくて 大君《おほきみ》の 醜《しこ》の御楯《みたて》と 出《い》で立《た》つ吾《われ》は
    祁布与利波 可敞里見奈久弖 意富伎美乃 之許乃美多弖等 伊※[泥/土]多都和例波
 
【語釈】 ○今日よりは顧みなくて 「今日より」は、防人として発足する今日からは。「顧みなくて」は、自身を顧みることはせずに。○醜の御楯と 「醜の」は、醜悪なるで、物を卑しめる意で添える語であるが、ここは、大君に対して自身を卑下してのもの。「御楯」は、楯は敵より身を護る物の意で、兵の譬喩。「御」は、大君の兵の意で、自身を尊んで添える美称。「と」は、として。○出で立つ吾は 「出で立つ」は、発足するで、終止形。「吾は」は、主格。
【釈】 今日からは、わが身の上は顧みることをせずに、大君の醜い御楯として、家を出て行く。われは。
【評】 防人として、天皇に対して誓いを立てる歌で、防人の歌の本質の何であるかを理解して詠んでいるものである。この防人の気分は、調べによって具象されている。一首、落ちついた気分と、緊張した気分とが微妙に融け合って、さわやかな高い響を持った歌となっている。防人の歌としてはまさに代表的なものである。
 
     右の一首は、火長《くわちやう》今奉部與曾布《いままつりべのよそふ》。
      右一首、火長今奉部与曾布。
 
【解】 「火長」は、「軍防令」に、「凡兵士十人為2一火1」とあるもので、十人長である。才幹のあった人とみえる。以下十一首は下野国の歌で、郡名のないのは位置、身分がある者だからである。
 
4374 天地《あめつち》の 神《かみ》を祈《いの》りて 幸矢《さつや》貫《ぬ》き 筑紫《つくし》の島《しま》を さして行《い》く吾《われ》は
    阿米都知乃 可美乎伊乃里弖 佐都夜奴伎 都久之乃之麻乎 佐之弖伊久和例波
 
(464)【語釈】 ○幸矢貫き 「幸矢」は、狩猟に用いる矢の称で、「幸」は、「さち」で、鳥獣に対し威力ある意である。ここは威力ある矢の意で、兵の矢に転用したのである。「貫き」は、胡  ?にさし入れてで、二句、武装を整えての意。「軍防令」に、「凡兵士……毎v人弓一張、弓弦袋一口、副弦二張、征箭五十隻、胡  経一具……皆令2自備1、不v可2闕少1」とある。
【釈】 天地の神に防人の任務の遂行を祈って、幸矢を胡  路にさして、筑紫国をさして行く。われは。
【評】 上の歌と心は全く同じで、防人としての誓いを立てた歌である。上の歌よりは叙事が多いために、調べがおのずから低くなっている。この防人のほうは心がしなやかで、細かく動くからのことである。これもすぐれた歌である。
 
     右の一首は、火長《くわちやう》大田部荒耳《おほたべのあらみみ》。
      右一首、火長大田部荒耳。
 
4375 松《まつ》の木《け》の 並《な》みたる見《み》れば 家人《いはびと》の 吾《われ》を見送《みおく》ると 立《た》たりし如《もころ》
    麻都能氣乃 奈美多流美礼婆 伊波妣等乃 和例乎美於久流等 多々理之母己呂
 
【語釈】 ○松の木の並みたる見れば 「け」は、木《き》の方言。「竝みたる見れば」は、並んで立っているさまを見ると。難波までの途中で見かけた景である。○家人の吾を見送ると 「いは人」は、「いへ人」の方言。妻を主としての言。「見送ると」は、防人としての出立を見送るとてで、最も忘れ難い印象となっているもの。○立たりし如 「立たりし」は、立ちありしで、いつまでも立っていた。「もころ」は、「如し」の古語。
【釈】 松の木の並んで立っているさまを見ると、出立の際、家の人々が、我を見送るとて、いつまでも立っていたさまのようだ。
【評】 この防人は、旅の路を行きながらも、門出の際、家族一同見送りをして、いつまでも立っていたのを、自分も遠くなるまでも振り返って見た時の印象を、偶然、野に立ち並んでいる松の木の幹を見ることによって連想し、それをそのままに直叙したのである。故郷恋しい心であるが、きわめて自然な状態で、昂奮せず、懐かしさも余情の程度として、落ちついて詠んでいるので、味わいの深い歌となっている。特色のある歌である。
 
     右の一首は、火長物部|真島《ましま》。
      右一首、火長物部眞嶋。
 
(465)4376 旅行《たびゆき》に 行《ゆ》くと知《し》らずて 母父《あもしし》に 言《こと》申《まを》さずて 今《いま》ぞ悔《くや》しけ
    多妣由岐尓 由久等之良受弖 阿母志々尓 己等麻乎佐受弖 伊麻叙久夜之氣
 
【語釈】 ○旅行に行くと知らずて 「旅行」は、防人としての遠い旅に行く意で、名詞。「知らずて」は、知らずして。○母父に言申さずて 「あもしし」は、「おもちち」の方言。「あも」は、母の古称。「言申さずて」は、暇乞いを申さずして。○今ぞ悔しけ 「悔しけ」は、「悔しき」の方言。
【釈】 遠い旅に行くことだとは知らなくて、母や父に暇乞いを申さなくて、今となっては残念なことだ。
【評】 この防人は、所属の兵団から呼び出されて行くと、兵団長から防人に立つことを指名され、帰宅をする余暇もなく発足させられたのである。この防人は、そうした扱いについては一と言も触れず、旅をしながら、そうした事情で、両親に暇乞いをしなかったことが、今になると心残りだと嘆いているのである。これはひとりこの防人だけではなく、他にも例のあるものである。訝かしいまでに従順な心である。詠み方も素朴をきわめたものである。
 
     右の一首は、寒川《さむかは》郡の上丁|川上臣老《かはかみのおみおゆ》。
      右一首、寒川郡上丁川上臣老。
 
【解】 「寒川郡」は、今の栃木県下都賀郡の南部。「臣」は、姓。
 
4377 母刀自《あもとじ》も 玉《たま》にもがもや 頂《いただ》きて 角髪《みづら》の中《なか》に あへ纏《ま》かまくも
    阿母刀自母 多麻尓母賀母夜 伊多太伎弖 美都良乃奈可尓 阿敞麻可麻久母
 
【語釈】 ○母刀自も玉にもがもや 「あも」は、上の歌と同じく方言。「刀自」は、婦人の敬称。「玉にもがもや」は、「もがもや」は、「もが」は、願望で、「も」と「や」は、感動の助詞。○角髪の中に 「角髪」は、上代の男子の十七、八歳以上の者の髪の風で、頭髪を中央より左右に分け、耳の上で輪にして束ねたのである。「中に」は、そうした髪の中に。○あへ纏かまくも 「あへ」は、交じえて。「纏かまく」は、「纏かむ」の名詞形で、巻くことをしようものを。玉は身を護る呪力のあるものとして信仰されていた。
【釈】 母上も玉であれば良いがなあ。いただいて、角髪の中にまじえて巻くことにしように。
(466)【評】 防人として発足する際に、母に別れを惜しんでいっている心である。この防人は、角髪の中に玉を巻いていることから思いつき、母も玉であれば、その玉にまじえて巻こうというので、思いつきとしてもきわめて自然である。玉は上代にあっては護身の威力ある物と信じていたので、その意味では合理的な思いつきでもある。上に、母が花であったら捧げて行こうといった防人があったが、それよりははるかに実際に即しており、老成してもいる。
 
     右の一首は、津守宿禰小黒栖《つもりのすくねをぐるす》。
      右一首、津守宿祢小黒栖。
 
【解】 「宿禰」は、姓である。歌からみても、ある身分のあった人と思われる。
 
4378 月日《つくひ》やは 過《す》ぐは往《ゆ》けども 母父《あもしし》が 玉《たま》の姿《すがた》は 忘《わす》れせなふも
    都久比夜波 須具波由氣等毛 阿母志々可 多麻乃須我多波 和須例西奈布母
 
【語釈】 ○月日やは 「や」は、原文「夜」。『代匠記』は、名詞「夜」の意と解し、『古義』は助詞「や」に解している。巻十四(三五六二)「荒磯やに生ふる玉藻の」とあり、語つづきも、用字も例のあるものである。「や」は、感動の助詞で、月日は。○過ぐは往けども 「過ぐ」は、「過ぎ」の方言。○母父が 「おもちち」の方言で、前出。○玉の姿は 玉のごとき姿はで、子より両親を尊んでの譬喩。○忘れせなふも 「なふ」は、打消の助動詞で、東国に広く行なわれた方言。
【釈】 旅に出て月日は過ぎてゆくけれど、母や父の玉のような尊い姿は忘れないことであるよ。
【評】 難波までの途中、幾夜の旅寝を重ねての後、両親の姿が眼に沁みていて忘れられない心を、感慨をもっていっているものである。総括しての心持を、多くの方言をまじえていっているもので、「月日やは」と感動をこめていい、「玉の姿は」と自身の感ずるままにいっているのも、その純真を思わせるものである。
 
     右の一首は、都賀郡の上丁中臣部|足國《たるくに》。
      右一首、都賀郡上丁中臣部足國。
 
(467)【解】 「都賀郡」は、今は栃木県上下の都賀二郡となっている。
4379 白浪《しらなみ》の 寄《よ》そる浜辺《はまべ》に 別《わか》れなば いとも術《すべ》なみ 八遍《やたび》袖《そで》振《ふ》る
    之良奈美乃 与曾流波麻倍尓 和可例奈波 伊刀毛須倍奈美 夜多妣蘇弖布流
 
【語釈】 ○寄そる浜辺に 「寄そる」は、「寄する」の方言。「浜辺」は、任地である筑紫の浜辺と取れる。「に」は、目ざす目的地をさしたもの。○別れなば 別れ往なばで、別れて行ったならば。以上、任地へ行ってしまったならば、の意。○いとも術なみ 何とも方法がないので。○八遍袖振る 幾たびも幾たびも袖を振る。「袖振る」は、離れていて霊を通わす方法である。これは家を出て、あまり遠くない所でのことである。
【釈】 白浪の寄せる浜辺へ別れて行ったならば、何とも方法がないので、今ここでと、幾度も幾度も袖を振る。
【評】 見送りをしている者との距離が次第に遠ざかり、今は見収めと思う時に、あくまでも別れを惜しもうとする心である。四句「いとも術なみ」までは、別れるに別れ難い心の説明で、心としては察しられるものであるが、この場合としては分別心が働きすぎて、かえって感を殺いでいる趣のあるものである。防人の歌としては、巧みなのが災いをなしているといえる。
 
     右の一首は、足利郡の上丁|大舎人部禰麿《おほとねりべのねまろ》。
      右一首、足利郡上丁大舍人部祢麿。
 
【解】 「足利郡」は、今栃木県足利市と群馬県桐生市とに編入、郡名を失った。
 
4380 難波門《なにはと》を 漕《こ》ぎ出《で》て見《み》れば 神《かみ》さぶる 生駒高嶺《いこまたかね》に 雲《くも》ぞたなびく
    奈尓波刀乎 己岐※[泥/土]弖美例婆 可美佐夫流 伊古麻多可祢尓 久毛曾多奈妣久
 
【語釈】 ○難波門を漕ぎ出て見れば 「難波門」は、難波津の入口で、海門。○神さぶる 集中の用例はすべて「かむさぶる」である。このほうが古形であろう。山を神としての語で、神々しい。○生駒高嶺に 生駒の高山で、生駒山。河内と大和の国境に立ち、難波津からは東方にあたる。
(468)【釈】 難波の海門を漕ぎ出して見ると、神々しい生駒の高山に、雲が棚引いていることだ。
【評】 難波の海門を漕ぎ出して、海上より生駒山を望んで、見る場所の異なるところから、その山の著しく神性を帯びているのに驚歎した心である。高山を神と見る上代信仰よりの感で、それとしては甚だ巧みな歌である。防人が難波を漕ぎ出すということは、原則的には筑紫へ向かわせられる時のことで、これは覚悟はしていても感なくはいられない時である。この歌にはそうした感は全然なく、単なる風光の鑑賞のみで、一私人の歌である。難波に発航を待っている期間があり、遊覧の心より船を漕ぐことがあって、その時に詠んだものではないかと思わせる。
 
     右の一首は、梁田《やなだ》郡の上丁大田部|三成《みなり》。
      右一首、梁田郡上丁大田部三成。
 
【解】 「梁田郡」は、今は足利市。御厨町の大字に梁田がある。
 
4381 国国《くにぐに》の 防人《さきもり》つどひ 船乗《ふなの》りて 別《わか》るを見《み》れば いともすべ無《》し
    久尓具尓乃 佐岐毛利都度比 布奈能里弖 和可流乎美礼婆 伊刀母須敞奈之
 
【語釈】 ○国国の防人つどひ 東の諸国の防人が難波に集まって。○船乗りて 「船乗り」は、熟語で、船乗りをして。○別るを見れば 「別る」は、後世だと別るると続けるのを、終止形をもってした古格である。防人の数が多いので、何艘かの船に分乗させるさまを見ると。一たび集まった者が、また別れるのでさびしさを感じた意。○いともすべ無し 何ともいおうようもない。
(469)【釈】 諸国の防人が難波に集まって、船乗りをして別れるのを見ると、何とも言いようがない。
【評】 難波津から筑紫へ向けての船に分乗させられる時の感で、難波である期間一緒にいて、馴染となった者が、また分散させられるさびしさである。いずれも防人という特殊の任務を負わされている者同士とて、一見、深い親しさを感じ合っていたろうから、この分散のさびしさも深いものであったろうと察しられる。実状を素朴というよりも、むしろたどたどしく詠んで、その際のあわれさをあらわしている歌である。防人という者を思わせられる歌である。
 
     右の一首は、河内《かふち》郡の上丁|神麻績部《かむをみべの》島麿。
 
      右一首、河内郡上丁神麻績部嶋麿。
 
【解】 「河内郡」は、今の栃木県河内郡である。
 
4382 布多《ふた》ほがみ 悪《あ》しけ人《ひと》なり あたゆまひ 我《わ》がする時《とき》に 防人《さきもり》にさす
    布多富我美 阿志氣比等奈里 阿多由麻比 和我須流等伎尓 佐伎母里尓佐須
 
【語釈】 ○布多ほがみ 難解の語として、諸説がある。『代匠記』精撰本は、二小腹の意とし、二腹《ふたはら》の、いわゆる腹の黒い意とし、『考』は、同じ意で、二面神とし、『古義』も、同じ意で、太小腹とした。『新考』は、転じて二大上官《ふたおおがみ》の意とした。これは「軍防令」に、軍団の事は、大毅、小毅の二長官が管するものになっているから、その二長官の意だとしたのである。『全註釈』は、『大日本地名辞書』によって、布多にいる大守《おほかみ》だとして、上野の国守としている。それは『倭名類聚鈔』の郷名の、この防人の住地である都賀郡の条に、「布多、高家、山後、山人、田後、生馬、秀文、高粟、小山、三島、駅家」とあり、『地名辞書』はそれに釈を加えて、都賀郡の下に、布多を首書してあることを思うと、国府所在の郷名と判知されるといい、布多は今の下都賀郡国府村、及び大宮村(現、栃木市に入る)、家中村(現、都賀村家中)の地であろうといっているのである。これにょると「布多大守」で、「ほがみ」は「おほかみ」の訛音で、自然な妥当な語である。○悪しけ人なり 「悪しけ」は、「悪しき」の方言。○あたゆまひ 本居宣長は『略解』で、疝痛とした。『倭名類聚鈔』に、「釈名云、疝腹急病也。阿太波良」とあるによってである。『全註釈』は、「あた」は、『類聚名義抄』に、暑、熱に「あたたかなり」の訓がしてある、それで、「ゆまひ」は「やまひ」の方言であろうとし、熱のある病の意であろうとしている。自然である。○防人にさす 「さす」は、指名するで、軍団の中から選抜指名したの意。
【釈】 布多の長官は悪い人である。熱のある病をわたしが煩っている時、防人に指名した。
(470)【評】 国守を悪くいっている歌で、防人の歌としては珍しいものである。しかし悪くいうのは、病中の自分を防人にさしたということで、その計らいが不適当だということだけで、幼い童の時あって親にいう苦情に類した程度のものである。当人は本気になっていっているものであるが、聞く第三者は微苦笑するような歌である。
 
     右の一首は、那須郡の上丁大伴部広成。
      右一首、那須郡上丁大伴部廣成。
 
【解】 「那須郡」は、今の栃木県那須郡である。
 
4383 津《つ》の国《くに》の 海《うみ》の渚《なぎさ》に 船装《ふなよそ》ひ 発《た》し出《で》も時《とき》に 母《あも》が目《め》もがも
    都乃久尓乃 宇美能奈伎佐尓 布奈餘曾比 多志※[泥/土]毛等伎尓 阿母我米母我母
 
【語釈】 ○津の国の 津すなわち港のある国ので、摂津の古称。○発し出も時に 「発し出も」は、「立ち出む」の方言。○母が目もがも 「あも」は、「おも」の方言で、前出。「目もがも」は、顔を見たいことだなあ。
【釈】 津の国の海の渚で船装いをして出て行こう時に、母の顔を見たいことだなあ。
【評】 すでに何人かがいっている心で、場合柄、ひとしく痛感させられる心だったからである。「船装ひ」は、成句として取り入れたもので、軽い意のものである。この歌はよく詠みこなしてあり、落ちついた、しみじみした味わいを持ったものとなっている。歌に馴れていた防人と思える。
 
     右の一首は、塩屋郡の上丁|丈部足人《はせつかべのたりひと》。
      右一首、塩屋郡上丁丈部足人。
 
【解】 「塩屋郡」は今の栃木県塩谷郡に同じ。
 
     二月十四日、下野国の防人部領使正六位上田口朝臣|大戸《おほと》が進《たてまつ》れる歌の数十八首。但し拙劣き歌は(471)取り載せず。
      二月十四日、下野國防人部領使正六位上田口朝臣大戸進歌數十八首。但拙劣歌者不2取載1之。
 
【解】 「田口大戸」は、天平宝字四年正月、正六位上から従五位下を授けられ、宝亀八年正月、従五位上となっている。下野国は上国で、正六位上は国守相当官であるから、この時下野守で、自身部領使となったのであろう。それだと大伴部広成が「悪しけ人なり」といった人で、その歌をそのまま進っているのである。
 
4384 暁《あかとき》の かはたれ時《とき》に 島陰《しまかぎ》を 漕《こ》ぎにし船《ふね》の たづき知《し》らずも
    阿加等伎乃 加波多例等枚尓 之麻加枳乎 己枳尓之布祢乃 他都枳之良須母
 
【語釈】 ○かはたれ時に 「かはたれ」は、彼は誰れで、「かはたれ時」は、薄暗くて、人の顔のはっきりわからない時の意。○島陰を漕ぎにし船の 「かぎ」は、「かげ」の方言。島の陰を漕いで往った船の。「島」は、船を接触させて漕いで行く陸地の称で、海中の島ではない。これは何艘にか分かれて漕いで行く先発の船を見送る心である。○たづき知らずも 手がかりが知られないなあで、頼りないことだなあの意。
【釈】 夜明け方の薄暗い時に、島に隠れて漕いで行った船の、頼りないことだなあ。
【評】 筑紫へ向かっての防人の先発の船を見送って、夜明けの薄暗がりの海上で、しかも島に隠れて見えなくなってしまったのを見て、ひどくその船の頼りないものに感じたのである。その頼りなさは、ひとりその船だけのものではなく、同時に自身の頼りなさになるもので、作因はむしろ自身のほうにあって、自身の頼りなさを、その船をいうことによってあらわそうとしているのである。こうしたあらわし方は、上代からの型になっているもので、この防人の創意ではない。しかしこの歌は、作因と表現の関係が微妙で、文字どおりに、その船に対してだけの感傷と見ても、結構とおるほどの感覚描写を持っているものである。防人の歌としては、非凡な技巧というべきである。
 
     右の一首は、助丁|海上《うなかみ》郡の海上|国造《くにのみやつこ》他田日奉直得大理《をさだのひまつりのあたひとこたり》。
      右一首、助丁海上郡海上國造他田日奉直得大理。
 
【解】 「海上郡」は、今の千葉県海上郡、銚子市、香取郡東部の地である。「海上国造」は、海上地方の国造で、国造は以前の支(472)配者で、当時は官名として賜わっていたもの、実際は豪族である。「直」は、姓。この防人は、国造の家の子弟であろう。海上国造他田日奉直は正倉院文書に載っている。以下、下総国の防人である。
 
4385 行先《ゆこさき》に 浪《なみ》なとゑらひ 後方《しるへ》には 子《こ》をと妻《つま》をと 置《お》きてとも来《き》ぬ
    由古作枳尓 奈美奈等惠良比 志流敞尓波 古乎等都麻平等 於枚弖等母枳奴
 
【語釈】 ○行先に 「ゆこ」は、「行く」の方言。向かって行くほうには。○浪なとゑらひ 「浪なと」は、浪のおと。「と」は、「音」の約音。日本書紀にある「瓊音」の「ぬなと」と同形。「ゑらひ」は、揺れ動いて。○後方には 「しるへ」は、「しりへ」の方言。背後には。○子をと妻をと 「をと」は、『古義』は、「と」は、「ぞ」に近く、その軽い意のものと解している。中央でも用いられていた助詞で、巻四(六六〇)「汝をと吾を」、巻五(八九七)「病をと加へてあれば」などがある。子をぞ妻をぞ。○置きてとも来ぬ 残して来たで、「と」は、上と同じく「ぞ」に近いものである。
【釈】 向かって行くほうには、浪の音が揺れ動いていて、後ろのほうには、子を妻を残して来た。
【評】 難波津から筑紫に向かって発船しようとする時、遠い航海ということが刺激となり、不安な前途と、妻子の愛情とが一つとなり、その間に板挟みとなっての心である。「をと」という助詞は特殊なものではないが、ここでは、「と」を三回まで畳むことが、音調的にその昂奮した気分を表現しているものと取れる。この防人は神経質で、昂奮すると感情の著しく尖って来る人で、そうした気分で詠んだ歌である。
 
     右の一首は、葛飾《かつしか》郡の私部石島《きさきべのいそしま》。
      右一首、葛餝郡私部石嶋。
 
【解】 「葛飾郡」は、今は、千葉県東葛飾郡、松戸市、市川市、東京都葛飾、同江戸川区、埼玉県北葛飾郡、茨城県の猿島郡の一部にわたる地域。
 
4386 吾《わ》が門《かづ》の 五株柳《いつもとやなぎ》 いつもいつも 母《おも》が恋《こ》ひすす なりましつしも
(473)    和加々都乃 以都母等夜奈枳 以都母々々々 於母加古比須々 奈理麻之都之母
 
【語釈】 ○吾が門の五株柳 「かづ」は、「かど」の方言。「五株柳」は、五本の柳で、その家の実状であったと取れる。柳は根を張る木で、地くずれを防ぐによく、用途も多い木であったから、多く植えられていたとみえる例歌がある。以上二句、「いつも」に同音でかかる序詞。○母が恋ひすす 「おも」は、母で、中央でも用いられていた。「すす」は、「つつ」の方言で、東国では広範囲にわたって用いられていた。母が、旅に出た我を恋いながら。○なりましつしも 難解で、諸説のある句である。「なりまし」は、「なり」は、業で、ここは農事。「まし」は、「坐し」で、動詞居るの敬語で、農事をしていらっしゃる、の意と取れる。語の続きが、やや不自然に思われるが、この場合、それが、比較的妥当に思われる。「つしも」は、「つし」は、「つつ」の方言であろう。それだと、下に「あらむ」が省かれている形である。「も」は、詠歎の助詞。
【釈】 わたしの家の門の五本柳に因みある、いつもいつも、母は、人手の足りないところから、わたしを恋いながら、農事をなさりつづけていることであろうがなあ。
【評】 この防人は、母とともに生業の農業をしていたので、自分が防人に出た後は、母がひとりで農業をしなくてほならないが、為事《しごと》が手に余るところから、自分を恋いつつも為事をしつづけているのだろうと、母の労苦を思いやった心と取れる。結句の「つし」はやや不明の感があるが、作意はこの範囲のものと思われる。労力を第一の問題にしている農村生活にあっては、この案じ方は常識であって、老成というほどのものではない。序詞が気が利きすぎて不調和であるが、「いつ藻の花のいつもいつも」という続きが、集中二か所あるので、そうしたものの模倣であろうか。
 
     右の一首は、結城《ゆふき》郡の矢作部真長《やはぎべのまなが》。
      右一首、結城郡矢作部眞長。
 
【解】 「結城郡」は、今と同じ。茨城県結城郡の北部。
 
4387 千葉《ちば》の野《ぬ》の 児手柏《このてがしは》の 含《ほほ》まれど あやにかなしみ 置《お》きてたが来《き》ぬ
    知波乃奴乃 古乃弖加之波能 保々麻例等 阿夜尓加奈之美 於枳弖他加枳奴
 
【語釈】 ○千葉の野の児手柏の 「千葉の野」は、千葉郡の野。「児手柏」は、巻十六(三八三六)「奈良山の児手柏の両面《ふたおも》に」と出た。現在の何の木か不明である。その葉が子供の手を広げたような形をしている柏であろう。その若葉がつぼんで開かずにいる意で、譬喩として「含まる」に(474)かかる序詞。○含まれど 「ほほ」は、「ふふ」の方言。つぼんで開かずにいるが。これは年若い女の譬喩で、巻十四(三五七二)「ゆづる葉の含まる時に風吹かずかも」の用例がある。○あやにかなしみ ひどく可愛ゆいのを。○置きてたが来ぬ 「たが」は、誰がで、我がというのを、強めるためにわざと疑問の形にしたもので、後に残して誰が来たのだろう、誰でもない我であるの意。
【釈】 千葉の野の児手柏の葉のように、つぼんで広がらずにいる女であるが、ひどく可愛ゆいのを、後に残して誰が来たのであろうか。
【評】 早婚時代のことなので、まだ一人前とならない女を許嫁としている防人の、よくも残して来たものだと、我と我を怪しんだ心である。「千葉の野の児手柏の」の序詞は、眼前を捉えたもので、時は二月のことだろうから、多分若葉もしなかったであろう。巧みな序詞である。一首としても神経のとおった、巧みな歌である。
 
     右の一首は、千葉郡の大田部|足人《たりひと》。
      右一首、千葉郡大田部足人。
 
【解】 「千葉郡」は、今の千葉市及び千葉郡の地。
 
4388 旅《たび》と云《へ》ど 真旅《またぴ》になりぬ 家《いへ》の妹《も》が 著《き》せし衣《ころも》に 垢《あか》つきにかり
    多妣等弊等 麻多妣尓奈理奴 以弊乃母加 枳世之己呂母尓 阿加都枳尓迦理
 
【語釈】 ○旅と云ど真旅になりぬ 「云ど」は、「いへど」の約音。「真旅になりぬ」は、「真」は、物の充足していることをあらわす語で、本当の旅すなわち長い旅となった。○家の妹が これは同棲している妹で、当時は別居が建前になっていたところからの称である。同棲は情愛の深いものがあるからのことで、この語はその情愛の深さを暗示しているものである。○著せし衣に 夫の着物をこしらえるのは妻の責任で、繊維を紡ぐことから縫い上げるまで、一切妻の手でしていたから、衣は妻の形見に相当する物であった。○垢つきにかり 「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「かり」は、「けり」の地方語。過去の助動詞で、詠歎を含んでいる。
【択】 一と口に旅とはいうものの、ほんとうの旅になった。同棲している妻が着せた衣に、垢がついてしまったことだ。
【評】 衣の垢づいたのを見て、妻と別れての旅の久しくなったことをしみじみ思った心である。それは、衣の洗濯を初め、一切の世話は、妻のすることになっていたからである。きわめて自然な形において、妻恋しい心を婉曲にいっているものである。(475)類想の多い歌であるが、それは一般に共感されることだったからである。この歌は、婉曲な言い方をしているところにあわれさがある。
 
     右の一首は、占部蟲麿《うらべのむしまろ》。
      右一首、占部虫麿。
 
【解】 郡名がないが、同じく千葉郡であろう。
 
4389 潮船《しほぶね》の 舳越《へこ》そ白浪《しらなみ》 にはしくも 科《おふ》せ賜《たま》ほか 思《おも》はへなくに
    志保不尼乃 弊古祖志良奈美 尓波志久母 於不世他麻保加 於母波弊奈久尓
 
【語釈】 ○潮船の舳越そ白浪 「潮船」は、海上を漕ぐ船で、前出。「舳越そ白浪」は、「越そ」は、「越す」の方言で、舳を越して船にうち上げる白浪のようにで、譬喩として「にはしく」にかかる序詞。○にはしくも 他に用例のない語。にわかに、の意の副詞と取れる。○科せ賜ほか 「賜ほ」は、「賜ふ」の方言。「か」は、感動の助詞。お負わせになることだなあ。○思はへなくに 「思はへ」は、「思ひ敢へ」で、「敢へ」は、できる意の動詞。思い得ないことであるのにで、思いがけないのにの意。
【釈】 潮船の舳先を越す白浪のように、にわかにもお負わせになることだなあ。思い得ないことであるのに。
【評】 突然に防人に指名された時の心である。そのことのきわめて唐突な点だけを、嘆きをもっていっているもので、この嘆きには、留守中の心構えをする余裕もないことをこめていると思える。「潮船の舳越そ白浪」の序詞は、平常潮船を漕ぐことを業としている関係からと取れる。方言の多いのも、それに関係していよう。部領使に差出す歌として詠んでいるのであるから、怨みの心もあろう。
 
     右の一首は、印波《いには》郡の丈部直《はせつかべのあたひ》大麿。
      右一首、印波郡丈部直大麿。
 
【解】 「印波郡」は、今の千葉県印旛郡の印旛沼付近の地。「直」は、姓。
 
(476)4390 群玉《むらたま》の 枢《くる》に釘《くぎ》さし 固《かた》めとし 妹《いも》が心《こころ》は 揺《あよ》くなめかも
    牟浪他麻乃 久留尓久枳作之 加多米等之 以母加去々里波 阿用久奈米加母
 
【語釈】 ○群玉の 群らがつた玉のようにで、転《くる》めく意で、枢の枕詞。○枢に釘さし 「枢」は、上代の開き戸の、開き閉じするために設けた具で、木に穴を穿ち、それに木を挿し、その木の廻転で開閉するのである。それを「くるる」ともいい、そうした戸を「くるる戸」といった。「釘さし」は、その枢に釘を挿しで、そうすると開閉のできなくなる、すなわち戸締まりを固める意で、「固め」にかかり、以上その序詞。○固めとし 「と」は、「て」の方言。固めをしたで、下の続きで、貞実を誓った。○揺くなめかも 「あよく」は、動揺をする意の動詞で、用例のあるもの。平安朝では「あゆく」となり、用例がある。「なめ」は、東国の語では「らむ」を「なむ」といっている、その已然形。「かも」は、已然形を受けて反語となっているもの。動揺しようか、しはしない。
【釈】 戸の枢に釘を挿して戸締まりを固めるように、誓って固めをした妹の心は、動揺しようか、しはしない。
【評】 旅をしながら妻を思った心である。妻を思うと、別れに先立って互いに貞実を誓い合った、その誓いであって、あのように堅く誓ったのだから、けっして不安はないと思って、それを慰めとした心である。「群玉の枢に釘さし」は、家の出入口についてで、この場合適切な、心利いた序詞である。
 
     右の一首は、猿島《さしま》郡の刑部志加《おさかべのしか》麿。
      右一首、※[獣偏+爰]嶋郡刑部志加麿。
 
【解】 「猿島郡」は、今の茨城県猿島郡の一部。
 
4391 国国《くにぐに》の 社《やしろ》の神《かみ》に 幣帛《ぬさ》奉《まつ》り 贖祈《あがこひ》すなむ 妹《いも》がかなしさ
    久尓具尓乃 夜之里乃加美尓 奴佐麻都理 阿加古比須奈牟 伊母賀加奈志作
 
【語釈】 ○国国の 「国」は、ここは下との関係で一劃の小地域の称で、吉野国なども同義のもの。諸々の里の意。○贖祈すなむ 「贖祈」は、他に用例のない語であるが、熟語で、「贖」は、贖いで、神に罪を消すための贖い物を捧げてする祈り。「すなむ」は、「なむ」は、「らむ」の方言で、(477)連体形。するであろう。○妹がかなしさ 「かなしさ」は、可愛ゆさ。
【釈】 諸々の里の社の神に、幣帛を奉って、わたしのために贖い物を捧げての祈りをしているだろう妻の可愛ゆいことよ。
【評】 防人が旅をしつつ妻を思いやっている心である。初句より四句までの推量は、防人として発足する時、妻がいったことで、妻は現在、いったとおりの贖祈をしているだろうと思いやって、その心を可愛ゆく感じているのである。事としては普通のことであるが、信仰と愛情とをとおして、心の緊密につながっているさまを思わせる歌である。
 
     右の一首は、結城《ゆふき》郡の忍海部五百麿《おしぬみべのいほまろ》。
      右一首、結城郡忍海部五百麿。
 
4392 天地《あめつし》の いづれの神《かみ》を 祈《いの》らばか 愛《うつく》し母《はは》に また言《こと》問《と》はむ
    阿米都之乃 以都例乃可美乎 以乃良波加 有都久之波々尓 麻多己等刀波牟
 
【語釈】 ○天地の 「つし」は、「つち」の方言。○愛し母に 「愛し」は、愛すべきの意の形容詞。「愛し母」は、熟語。
【釈】 天地の、いずれの神に祈ったならば、愛すべき母に、また逢うことができようか。
【評】 防人として旅をしながら、母を思っての心であろう。この防人は、生きて還れるかどうかわからないような気がしているが、自身のことは思わず、また母に逢いたいという一念のみになっているのである。「天地のいづれの神を祈らばか」の迷いは、最も祈りのしるしのあらたかな神に祈るのでなければ、そのことが叶わない気がするからのことで、母を思うあまりの迷いである。純情きわまる歌である。
 
     右の一首は、埴生《はにふ》郡の大伴部|麻與佐《まよさ》。
      右一首、埴生郡大伴部麻与佐。
 
【解】 「埴生郡」は、今の印旛郡の一部利根川に沿う地である。
 
(478)7393 大君《おはきみ》の 命《みこと》にされば 父母《ちちはは》を 斎瓮《いはひべ》と置《お》きて 参《まゐ》て来《き》にしを
    於保伎美能 美許等尓作例波 知々波々乎 以波比弊等於釈弖 麻為弖枳尓之乎
 
【語釈】 ○命にされば 「にされば」は、「にしあれば」の約言。命であるので。○斎瓮と置きて 「と」は、とともにの意のもので、斎瓮とともに後に残して。「斎瓮」は、神の祭をして、神に供えた酒で、これは防人として発足するに際し、祭をして、神に無事を祈ったことをあらわしたもの。○参て来にしを 家を出て来たことであった。
【釈】 天皇の命であるので、父母を、斎瓮とともに後に残して、家を出て来たことであった。
【評】 防人として家を出て来た直後、緊張した心をもって、自身の全体を把握していっているものである。防人という任務を強く意識し、それを果たすために、なつかしい父母と、自分を加護して下さる神とを後に置いて出て来たと、感をこめていっているもので、まさに防人の歌の本質を捉えている歌である。「斎瓮と置きて」という言い方は、この場合適切な、そのために新味のあるものである。
 
     右の一首は、結城郡の雀部広島《ささきべのひろしま》。
      右一首、結城郡雀部廣嶋。
 
4394 大君《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 弓《ゆみ》の共《みた》 真寐《さね》か渡《わた》らむ 長《なが》けこの夜《よ》を
    於保伎美能 美己等加之古美 由美乃美他 佐尼加和多良牟 奈賀氣己乃用乎
 
【語釈】 ○弓の共 「弓」は、防人として身より離さずに持っている武具。「みた」は、「むた」の方言。弓と一緒に。○真寐か渡らむ 「真」は、接頭語。「か」は、疑問の係。「渡らむ」は、過ごすだろうで、寝て過ごすのであろうか。○長けこの夜を 「長け」は、「長き」の方言。
【釈】 天皇の仰せを承って、弓と一緒に寝て過ごすのであろうか。長い今夜を。
【評】 防人として旅に出た第一夜の感と取れる。「弓の共裏寐か渡らむ」は、弓を、別れて来た妻と対比したものであるが、対比の仕方がきわめて婉曲なのは、防人としての任務を強く意識しているがためで、技巧とはいえないものである。「長けこ(479)の夜を」は、時は一月で、長くしかも寒い夜で、これも「弓の共」の感を合理化するものである。防人の歌としては優れたものである。
 
     右の一首は、相馬郡の大伴部|子羊《こひつじ》。
      右一首、相馬郡大伴部子羊。
 
【解】 「相馬郡」は、今の千葉県東葛飾郡の一部と、茨城県北相馬郡とである。
 
     二月十六日、下総国の防人部領使少目従七位下|県犬養《あがたいぬかひの》宿禰|浄人《きよひと》が進《たてまつ》れる歌の数二十二首。但し拙劣き歌は取り載せず。
      二月十六日、下總國防人部領使少目從七位下縣犬養宿祢淨人進歌數廿二首。但拙劣歌者不2取載1之。
 
【解】 「県犬養浄人」は、伝未詳。
 
      独り竜田山の桜花を惜める歌一首
 
【題意】 以下、大伴家持の歌である。奈良京より難波に出張する際に見た竜田山の桜を、難波にあって惜しんだ歌である。
 
4395 竜田山《たつたやま》 見《み》つつ越《こ》え来《こ》し 桜花《さくらばな》 散《ち》りか過《す》ぎなむ 我《わ》が帰《かへ》るとに
    多都多夜麻 見都々古要許之 佐久良波奈 知利加須疑奈牟 和我可敞流刀尓
 
【語釈】 ○見つつ越え来し 見ながら越えて来た。奈良から難波に向かってのことである。○我が帰るとに 「とに」は、「と」は間、内の意の古語で、既出。
【釈】 竜田山の、見ながら越えて来た桜花は、散り終わることであろうか。わが帰る時に。
(480)【評】 家持としては平凡な、心やりに口ずさんだ程度の作である。
 
     独り江の水に浮び漂へる糞《こつみ》を見て、貝玉の依らざるを怨恨《うら》みて作れる歌一首
 
【題意】 「江」は、堀江。「糞」は、木屑である。「貝玉」は、真珠貝。「依る」は、「寄る」の意で用いている。「堀江」は、淀河の河口であり、海水と通じているところよりいっているのである。
 
4396 堀江《ほりえ》より 朝潮満《あさしほみ》ちに 寄《よ》る木糞《こつみ》 貝《かひ》にありせば 裹《つと》にせましを
    保理江欲利 安佐之保美知尓 与流許都美 可比尓安里世波 都刀尓勢麻之乎
 
【語釈】 ○堀江より朝潮満ちに 「堀江」は、ここは、河口の意でいっている。「朝潮満ち」は、熟語で、朝潮の満ちること。「に」は、によってで、逆流によっての意。○寄る木糞 海から寄って来る木屑は。○貝にありせば 真珠貝であったならばで、貝も同じく満潮には寄って来るからの連想。○裹にせましを 京の妹への土産としたであったろうものを。
【釈】 堀江から、朝の満潮によって寄って来る海の木屑は、もし真珠貝であったら、妹への土産としたであろうものを。
【評】 朝の満潮時に、堀江へ海から逆流して来る木屑を見て、珍しさに興を覚えた心である。「貝にありせば」という連想は、その合理的なことを頼りとしてのもので、詼諧味の感ぜられるものである。多分それが作意で、作者自身微笑してのものであろう。「裹にせましを」は軽い意のもので、郷愁というべきほどのものではない。
 
     館《やかた》の門《かど》に在りて江の南の美女《たをやめ》を見て作れる歌一首
 
【題意】 「館」は、難波にある兵部省の出張所。「江の南」は、堀江の南方である。したがって、舘は北岸にあり、江を隔てて望んだのである。
 
4397 見渡《みわた》せば 向《むか》つ峯《を》の上《へ》の 花《ほな》にほひ 照《て》りて立《た》てるは 愛《は》しき誰《た》が妻《つま》
    見和多世婆 牟加都乎能倍乃 波奈尓保比 弖里※[氏/一]多弖流波 々之伎多我都麻
 
(481)【語釈】 ○向つ峯の上の花にほひ 向かっている高みの花の、色美しいようにの意で、譬喩として「照り」にかかる序詞である。単なる譬喩で、想像よりのものである。○照りて立てるは愛しき誰が妻 美しく輝いて立っているのは、誰の可愛ゆがっている妻であろうか。「照りて」は、きわめて美しい意。
【釈】 見渡すと向かっている高みの花の色美しいように、美しく輝いて立っているのは、誰の可愛ゆがっている妻であろうか。
【評】 美女を遠望してたたえたもので、家持の好んで捉える範囲のものである。上三句の譬喩は、気分より生み出したもので、常凡なものとなっているために、一首の感が稀薄である。
 
     右の三首は、二月十七日、兵部少輔大伴家持作れる。
      右三首、二月十七日、兵部少輔大伴家持作之。
 
     防人の情《こころ》に為《な》りて思を陳べて作れる歌一首 并に短歌
 
【題意】 「情に為りて」は、代わりての意で、歌の上では古くよりあることである。家持の歌で、防人を見ていると、感傷の心が継いで起こって来て、しきりに歌心をそそられたとみえる。
 
4398 大王《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 妻別《つまわか》れ 悲《かな》しくはあれど 大夫《ますらを》の 情《こころ》振《ふ》り興《おこ》し とりよそひ 門出《かどで》をすれば たらちねの 母《はは》掻《か》き撫《な》で 若草《わかくさ》の 妻《つま》は取《と》り附《つ》き 平《たひら》けく 我《われ》は斎《いは》はむ 好去《まさき》くて 早《はや》還《かへ》り来《こ》と 真袖《まそで》持《も》ち 涙《なみだ》を拭《のご》ひ 咽《むせ》ひつつ 言語《こととひ》すれば 群鳥《むらとり》の 出《い》で立《た》ちかてに 滞《とどこほ》り 顧《かへり》みしつつ いや遠《とほ》に 国《くに》を来離《きはな》れ いや高《たか》に 山《やま》を越《こ》え過《す》ぎ 蘆《あし》が散《ち》る 難波《なには》に来居《きゐ》て 夕汐《ゆふしほ》に 船《ふね》を浮《う》け居《す》ゑ 朝《あさ》なぎに 舳向《へむ》け漕《こ》がむと 侍候《さもら》ふと 我《わ》が居《を》る時《とき》に 春霞《はるがすみ》 島廻《しまみ》に立《た》ちて 鶴《たづ》が音《ね》の 悲《かなし》み鳴《な》けば はろばろに 家《いへ》を思《おも》ひ出《で》 負征箭《おひそや》の そよと鳴《な》るまで 歎《なげ》きつるかも
(482)    大王乃 美己等可之古美 都麻和可礼 可奈之久波安礼特 大夫 情布里於許之 等里与曾比 門出乎須礼婆 多良知祢乃 波々可伎奈※[泥/土] 若草乃 都麻波等里都吉 平久 和礼波伊波々牟 好去而 早還來等 麻蘇※[泥/土]毛知 奈美太乎能其比 牟世比都々 言語須礼婆 群鳥乃 伊※[泥/土]多知加弖尓 等騰己保里 可弊里美之都々 伊也等保尓 國乎伎波奈例 伊夜多可尓 山乎故要須疑 安之我知流 難波尓伎爲弖 由布之保尓 船乎宇氣須惠 安佐奈藝尓 倍牟氣許我牟等 佐毛良布等 和我乎流等伎尓 春霞 之麻未尓多知弖 多頭我祢乃 悲鳴婆 波呂婆呂尓 伊弊乎於毛比※[泥/土] 於比曾箭乃 曾与等奈流麻※[泥/土] 奈氣吉都流香母
 
【語釈】 ○とりよそひ 「とり」は、接頭語。「よそひ」は、防人としての装いをして。○母掻き撫で 「かき」は、接頭語。愛撫して。○平けく我は斎はむ 平安であるようにわたしは神祭をして祈りましょうで、妻より夫にいうもの。○好去くて早還り束と 「好去」は、「まさきく」に当てて来た字で、無事で。「早還り来と」は、早く還っていらっしゃいと。上に続いて妻の語。○真袖持ち 両方の袖をもって。○群鳥の出で立ちかてに 「群鳥の」は、揃って飛び立つ意で、「出で立ち」の枕詞。「出で立ちかてに」は、家を出で得ずして。○いや遠に国を来離れいや高に山を越え過ぎ 巻二(一三一)人麿の「いや遠に里は放《さか》りぬいや高に山も越え来ぬ」にならつたもの。○朝なぎに舳向け漕がむと 「舳向け」は、舳を志すほうへ向ける意で、熟語。ここは筑紫へ向かわせて。○侍候ふと 天候をうかがう意で、日和を見定めようとて。○島廻に立ちて 「島廻」は、原文諸本「之麻米」であるが、「米」は「未」の誤写とする『代匠記』の説に従う。○負征箭のそよと鳴るまで 「負征箭」は、背に負うている箭で、熟語。「征箭」は、矢。「そよと鳴る」は、「そよ」は、箭の擦れ合って立てる音。「鳴るまで」は、鳴るほどまでで、嘆きのための身悶えからのこと。
【釈】 天皇の仰せを承って、妻との別れの悲しくはあるが、男子の精神を振い立てて、防人としての装いをして門出をすると、たらちねの母は愛撫をし、若草の妻は取りすがって、平安であるように祈りをしましょう、無事で、早く還っていらっしゃいと、両袖で涙を拭って、咽びながらいうので、群鳥のように出て行き得ず、立ち留まって顧みをしながら、いよいよ遠く故郷の地を離れて来、いよいよ高く山を越して通り、蘆の花の散る難波に来て居て、夕潮に、乗る船を陸から海に浮かべて据え、朝なぎに舳先を筑紫のほうへ向けて漕ごうと、天候をうかがっている時に、春霞は陸のあたりに立って、鶴の声が悲しく鳴くので、はるかにわが家を思い出して、負うている箭の、擦れ合ってそよと鳴るまでも嘆いたことであった。
【評】 題詞にあるように、防人の心を察して、家持が代わって詠んだものである。この歌の中心となっているのは、防人の一行が、難波津から船で、筑紫の大宰府に向かって出航しようとする際のことで、これは防人としては感情の最も高潮する時で(483)ある。親しく防人に接し、特にその献歌を子細に読んで、誰よりも防人の心情を解していた家持としては、その際を捉えて、何事かをいわずにはいられない衝動を感じたのであろう。その感傷をいうに、防人として家を出る際の悲しみ、家より難波までの旅、難波津から発航しようとする直前までというように、事の一切を尽くしていっているのは、それが感傷を表現する適切な方法で、またそうするよりほかはないとしてのことで、これは家持の個性のさせていることである。さらにまた家持は、防人の家を出る時を叙するに、その家には、防人の母と妻とが同棲しているとし、それが一般的のことであるかのように叙している。上来の防人の歌には、そうした生活をしている者は全く見えない。それは貴族階級に限られたことだからである。また、防人が船出をしようとする際、その感傷を刺激する物として、「春霞島廻に立ちて 鶴が音の悲み鳴けば」といっている。こうした物は、防人は刺激物とは感じていないもので、したがって歌にも詠んでいないものである。防人は刺激など俟つまでもなく、ただちに感傷と一体となっているのである。これは京の貴族階級のみの物だったのである。すでに局外者ではなくなっているはずの家持が、上のような捉え方をしているのは、これまた家持の個人性のさせていることである。心優しく、思いやり深い彼ではあったが、気分本位の人で、防人その人の心情を理解する点では、限度のあったことを思わせられる歌である。
 
4399 海原《うなはら》に 霞《かすみ》たなびき 鶴《たづ》が音《ね》の 悲《かな》しき宵《よひ》は 国方《くにべ》し思《おも》ほゆ
    宇奈波良尓 霞多奈妣伎 多頭我祢乃 可奈之伎与比波 久尓弊之於毛保由
 
【語釈】 ○国方し思ほゆ 「国方」は、故郷の方角で、家の意。
【釈】 海の上に霞がたなびいて、鶴の声の悲しい夜は、故郷が思われる。
【評】 長歌の結尾の部分を繰り返したものである。「島廻」を海原に、「宵」を新たに加えて、いささかの変化と展開をさせている。
 
4400 家《いへ》おもふと 寐《い》を寝《ね》ず居《を》れば 鶴《たづ》が鳴《な》く 蘆辺《あしべ》も見《み》えず 春《はる》の霞《かすみ》に
    伊弊於毛布等 伊乎祢受乎礼婆 多頭我奈久 安之弊毛美要受 波流乃可須美尓
 
【語釈】 ○寐を寝ず居れば 「寐」は、眠りで、名詞。寝ても眠れずにおれば。○鶴が鳴く蘆辺も見えず 鶴も眠れずに鳴いている海岸の蘆の辺(484)りも見えない。
【釈】 家を思うとて、寝ても眠れずにいると、鶴が鳴いている海辺の蘆の辺りも見えない。春の霞で。
【評】 前の歌の延長という形を持ったものである。しかし一首の心は、防人のものではなく、家持自身の気分である。反歌としては不徹底なものであるが、旅愁の歌とすると、気分の豊かな、おおらかな姿を持った、すぐれた歌である。
 
     右は、十九日、兵部少輔大伴宿禰家持の作れる。
      右、十九日、兵部少輔大伴宿祢家持作之。
 
4401 唐衣《からころむ》 裾《すそ》に取《と》りつき 泣《な》く子《こ》らを 置《お》きてぞ来《き》ぬや 母《おも》なしにして
    可良己呂武 須宗尓等里都伎 奈苦古良乎 意伎弖曾伎怒也 意母奈之尓志弖
 
【語釈】 ○唐衣裾に取りつき 「唐衣」は、唐風に裁縫した衣で、わが国の服は、ずぼんに似ていたが、唐衣は裾の部分に横幅の裾がついて特色のあったところから、裾の枕詞。巻十四(三四八二)「韓衣襴のうち交へあはねども」とある。「裾に取りつき」は、裾にすがりつき。これは幼い児の親を慕ってするしぐさ。○泣く子らを置きてぞ来ぬや 「子ら」は、「子」は、幼い児、「ら」は、接尾語。防人の子ども。「置きてぞ来ぬや」は、後に残して来たことだ。「来ぬ」は、「ぞ」の結で、連体形にすべきを、終止形とした異例のもの。「や」は、感動の助詞。○母なしにして 母親なしに。この防人の子は、母がなかったのである。
【釈】 わが裾にすがりついて泣く児を置いて来たことだ。母親なしに。
【評】 防人として発足する際、母のない幼児が自分を慕って泣いたさまを、旅をしながら思っている心である。悲痛の情を、思い入つて、直線的にいっている、感傷を超えた作である。
 
     右の一首は、国造小県《くにのみやつこちひさがた》郡の他田部舎人《をさだべのとねり》大島。
      右一首、國造小縣郡他田舎人大嶋。
 
【解】 「国造」は、国造の家から出た丁の意。「小県郡」は、今の長野県小県郡と上田市の地。以下三首は、信濃国の防人の歌で(485)ある。
4402 ちはやぶる 神《かみ》の御坂《みさか》に 幣《ぬさ》奉《まつ》り 斎《いは》ふ命《いのち》は 母父《おもちち》が為《ため》
    知波夜布留 賀美乃美佐賀尓 怒佐麻都理 伊波〓伊能知波 意毛知々我多米
 
【語釈】 ○ちはやぶる神の御坂に 「ちはやぶる」は、神の枕詞。「神の御坂」は、神のいます御坂の意で、要路にあたる峠には、どこにも神が祀ってあり、旅人は祭をして、神の許しを請うて峠を越したのである。本来普通名詞であるが、ここは信濃の国のそれで、信濃の御坂ともいい、固有名詞のごとくなったものである。信濃国下伊那郡駒場から、美濃国恵那郡に出る山道で、険阻をもって聞こえた路であった。和銅六年、吉蘇路のできる前の古道である。○幣奉り斎ふ命は 祭をして、無事に山越えのできるように祈るわが命は。○母父が為 母や父のためであるで、わがためではないの意。
【釈】 ちはやぶる神の御坂で、幣を供えて、無事に山越えのかなうように祈る命は、母と父とのためである。
【評】 東山道の古道である神の御坂を越そうとして、祭をする際の心である。無事を祈るのはわがためではなく、母と父のためであるというのである。事としては格別のものではないが、単純な詠み方と、思い入った調べとに、純情な一本気が現われていて、感のある歌である。
 
     右の一首は、主帳《ふみひと》埴科《はにしな》郡の神人部子忍男《かむとべのこおしを》。
      右一首、主帳埴科郡神人部子忍男。
 
【解】 「埴科郡」は、今の長野県埴科郡である。「主帳」は、郡の書記。
 
4403 大君《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 青雲《あをくむ》の 棚引《とのび》く山《やま》を 越《こ》よて来《き》ぬかむ
    意保枳美能 美己等可之古美 阿乎久牟乃 等能妣久夜麻乎 古与弖伎怒加牟
 
【語釈】 ○青雲の棚引く山を 「青くむ」は、「青くも」の方言。青みを帯びている雲の称。「との引く」は、「たな引く」の方言であるが、「たな曇り」を「との曇り」ともいうので、これは京にも用いられていたもので、方言とも言い難い程度のものである。○越よて来ぬかむ 「越よて」は、(486)「越えて」の方言。「来ぬ」は、「来ぬる」と連体形にすべきを、終止形にした古格のものである。「かむ」は、「かも」の方言。越えて来たことだなあ。
【釈】 天皇の仰せを承って、青雲の棚引いている山を越えて来たことだなあ。
【評】 旅での感であるが、信濃国にあった間のことで、高山を越して、その山の青空にまじっているのを顧みた際の心である。命がけに越えた緊張感を失わずにいた時の心であることが、拙い詠み方ながら、調べの張っているので知られる。これも感のある歌である。
 
     右の一首は、小長谷部《をはつせべの》笠麿。
      右一首、小長谷部笠麿。
 
【解】 郡名がないのは、上の埴科郡と同じためであるか、または脱したのかわからない。「小長谷部」という部名は、埴科郡の隣郡更級郡の姨捨と関係がありはしないか。
 
     二月二十二日、信濃国の防人部領使、上道《みちだち》して病を得て来らず。進《たてまつ》れる歌の数十二首。但し拙劣き歌は取り載せず。
      二月廿二日、信濃國防人部領便上道得v病不v來。進歌數十二首、但拙劣歌者不2取載1之。
 
【解】 部領使が、途中病を得て難波へは来なかったが、しかも歌は進ったということは、防人の歌は、部領使がその職責として必ず進らなければならないことを、明瞭に示していることである。これは防人の歌のいかなるものであるかを実証していることである。
 
4404 難波道《なにはぢ》を 往《ゆ》きて来《く》までと 吾妹子《わぎもこ》が 著《つ》けし紐《ひも》が緒《を》 絶《た》えにけるかも
    奈尓波治乎 由伎弖久麻弓等 和藝毛古賀 都氣之非毛我乎 多延尓氣流可母
 
【語釈】 ○難波道を 難波までの道をで、故郷を標準としてのもの。難波は、防人の一つの目標地だったのである。○往きて来までと 往って、(487)帰って来るまでの間の物だとして。「来」は、「来る」と連体形とすべきを、終止形にしているのは古格である。○著けし紐が緒 「紐」は、衣の上紐で、「緒」は、紐と同意語で、語感を強めるために重ねたもの。○絶えにけるかも 切れてしまったことだなあ。上代は紐に対して信仰を持っていたので、不吉を感じたのである。
【釈】 難波への道を、往つて帰って来るまでの間の物として、わたしの妻の着けた衣の上紐が、切れてしまったことだなあ。
【評】 難波への途中で、衣の上紐が切れてしまったのを見て、不吉を感じる心から、驚き嘆いた心である。「難波道を往きて来までと」は、妻はその程度の単純な旅だと思っているのに、の意で、自身の不吉感と対比し、妻を憐れむ心から驚き嘆いているのである。相手のほうを主としていっているもので、形は単純であるが、心深い歌である。
 
     右の一首は、助丁《すけのよぼろ》上毛野牛甘《かみつけののうしかひ》。
      右一首、助丁上毛野牛甘。
 
【解】 以下、上野国の防人の歌である。この国のものには郡名が記してない。
 
4405 我《わ》が妹子《いもこ》が しぬひにせよと 著《つ》けし紐《ひも》 糸《いと》になるとも 我《わ》は解《と》かじとよ
    和我伊母古我 志濃比尓西餘等 都氣志非毛 伊刀尓奈流等母 和波等可自等余
 
【語釈】 ○我が妹子が 「我が妹子」は、「わぎもこ」と約音にしない前の原形で、他に用例のないもの。○しぬひにせよと著けし紐 「しぬひ」は、「偲ひ」で、名詞。我を思う材料で、形見というと異ならない。「紐」は、衣の紐。○糸になるとも 手擦れて細って、糸のように変わろうとも。○我は解かじとよ 我は解くまいと思うことよで、「よ」は、感動をあらわす助詞。
【釈】 わたしの妻が我を偲ぶ料にせよといって着けた衣の紐は、細って糸になろうとも、わたしは解くまいと思っていることよ。
【評】 旅にあって、衣の紐によって妻を思った心である。「著けし紐」は、「解かじとよ」によると、着けて結んだ意である。妻が紐を結ぶのは、その紐に妹の霊を結び込める呪術であるから、「解かじとよ」は、妻の霊を身より離すまいの意である。「糸になるとも我は解かじとよ」は、思い入れの深さを具象したもので、特色のあるものである。「我が妹子」という語にも、それがある。
 
(488)     右の一首は、朝倉益人《あさくらのますひと》。
      右一首、朝倉益人。
 
4406 我《わ》が家《いは》ろに 行《ゆ》かも人《ひと》もが 草枕《くさまくら》 旅《たび》は苦《くる》しと 告《つ》げ遣《や》らまくも
    和我伊波呂尓 由加毛比等母我 久佐麻久良 多妣波久流之等 都氣夜良麻久母
 
【語釈】 ○我が家ろに 「いは」は、「いへ」の方言。「ろ」は、接尾語。○行かも人もが 「行かも」は、「行かむ」の方言。「もが」は、願望の助詞。○告げ遣らまくも 「遣らまく」は、「遣らむ」の名詞形。
【釈】 わが家のほうに行く人があればよいがなあ。草枕の旅は苦しいと告げてやりたいことだ。
【評】 幸便があったら、旅の苦しさを家の者に知らせたいというので、独語によって慰めようとすると同じ心のものである。年若い庶民の直情である。
 
     右の一首は、大伴部|節麿《ふしまろ》。
      右一首、大伴部節麿。
 
4407 ひなくもり 碓日《うすひ》の坂《さか》を 越《こ》えしだに 妹《いも》が恋《こひ》しく 忘《わす》らえぬかも
    比奈久母理 宇須比乃佐可乎 古延志太尓 伊毛賀古比之久 和須良延奴加母
 
【語釈】 ○ひなくもり 日の曇りで、「な」は「の」の意のもの。「手の末」を「たな末」というなど例が少なくない。同意語で「薄日」の枕詞。碓氷は霧の深い地である。○碓日の坂を 碓氷峠の坂を。上野と信濃との国境の山碓氷峠で、上野から、信濃、美濃と、東山道を経て難波に向かったのである。○越えしだに 越えただけでも。
【釈】 日の曇るという碓氷の坂を越えただけでも、妹が恋しくて、忘れられないことだなあ。
(489)【評】 上野を出て、碓氷峠を越えて信濃に入り、国が異なったと思うだけでも、それが刺激となって、妹が恋しくなって来た嘆きをいっているものである。上代人にとっては、国境を越えるということは、にわかに旅の感が深くなることであって、この歌の心は当時の人にとっては、直接に響くものだったのである。
 
     右の一首は、他田部子磐前《をさだべのこいはさき》。
      右一首、他田部子磐前。
 
     二月二十三日、上野国の防人部領使大目正六位下|上毛野君駿河《かみつけののきみするが》が進《たてまつ》れる歌の数十二首。但し拙劣き歌は取り載せず。
      二月廿三日、上野國防人部領使大目正六位下上毛野君駿河進歌數十二首。但拙劣歌者不2取載1之。
 
【解】 「上毛野君駿河」は、伝未詳。「上毛野君」の始祖は、崇神紀に、皇子豊城命だとある。
 
     防人の別れを悲む情《こころ》を陳ぶる歌一首 并に短歌
 
【題意】 大伴家持の、防人に代わって詠んだ歌である。
 
4408 大王《おほきみ》の 任《まけ》のまにまに 島守《しまもり》に 我《わ》が立《た》ち来《く》れば 柞葉《ははそば》の 母《はは》の命《みこと》は 御裳《みも》の裾《すそ》 つみ挙《あ》(490)げ掻《か》き撫《な》で ちちの実《み》の 父《ちち》の命《みこと》は 梓綱《たくづの》の 白髯《しらひげ》の上《うへ》ゆ 涙《なみだ》垂《た》り 歎《》き宣賜《のた》はく 鹿児《かこ》じもの 唯《ただ》独《ひとり》して 朝戸出《あさとで》の かなしき吾《わ》が子《こ》 あらたまの 年《とし》の緒《を》長《なが》く あひ見《み》ずは 恋《こひ》しくあるべし 今日《けふ》だにも 言問《ことどひ》せむと 惜《をし》みつつ 悲《かなし》び坐《ま》せ 若草《わかくさ》の 妻《つま》も子等《こども》も 彼此《をちこち》に 多《さは》に囲《かく》み居《ゐ》 春鳥《はるとり》の 声《こゑ》の吟《さまよ》ひ 白栲《しろたへ》の 袖《そで》泣《でな》きぬらし 携《たづさ》はり 別《わか》れかてにと 引《ひ》き留《とど》め 慕《した》ひしものを 天皇《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 玉《たま》ほこの 道《みち》に出《い》で立《た》ち 丘《をか》の岬《さき》 い廻《た》むる毎《ごと》に 万度《よろづたび》 顧《かへり》みしつつ はろばろに 別《わか》れし来《く》れば 思《おも》ふそら 安《やす》くもあらず 恋《こ》ふるそら 苦《くる》しきものを 現身《うつせみ》の 世《よ》の人《ひと》なれば たまきはる 命《いのち》も知《し》らず 海原《うなはら》の かしこき道《みち》を 島伝《しまづた》ひ い漕《こ》ぎ渡《わた》りて 在《あ》り廻《めぐ》り 我《わ》が来《く》るまでに 平《たひら》けく 親《おや》はいまさね 恙《つつみ》なく 妻《つま》は待《ま》たせと 住吉《すみのえ》の 我《あ》が皇神《すめかみ》に 幣《ぬさ》奉《まつ》り 祈《いの》り申《まを》して 難波津《なにはづ》に 船《ふね》を浮《う》け居《す》ゑ 八十楫《やそか》貫《ぬ》き 水手《かこ》整《ととの》へて 朝《あさ》びらき 我《わ》は漕《こ》ぎ出《で》ぬと 家《いへ》に告《つ》げこそ
    大王乃 麻氣乃麻尓々々 嶋守尓 和我多知久礼婆 波々蘇婆能 波々能美許等波 実母乃須蘇 都美安氣可伎奈泥 知々能未乃 知々能美許等波 多久頭努能 之良比氣乃宇倍由 奈美太多利 奈氣伎乃多婆久 可胡自母乃 多太比等里之※[氏/一] 安佐刀※[泥/土]乃 可奈之伎吾子 安良多麻乃 等之能乎奈我久 安比美受波 古非之久安流倍之 今日太尓母 許等騰比勢武等 乎之美都々 可奈之備麻世 若草之 都麻母古騰母毛 乎知己知尓 左波尓可久美爲 春鳥乃 己惠乃佐麻欲比 之路多倍乃 蘇※[泥/土]奈伎奴良之 多豆佐波里 和可礼加弖尓等 比伎等騰米 之多比之毛能乎 天皇乃 美許等可之古美 多麻保己乃 美知尓出立 乎可乃佐伎 伊多牟流其等尓 与呂頭多妣 可弊里見之都追 波呂々々尓 和可礼之久礼婆 於毛布蘇良 夜須久母安良受 古布流蘇良 久流之伎毛乃乎 宇都世美乃 与能比(491)等奈礼婆 多麻伎波流 伊能知母之良受 海原乃 可之古伎美知乎 之麻豆多比 伊己藝和多利弖 安里米具利 和我久流麻※[泥/土]尓 多比良氣久 於夜波伊麻佐祢 都々美奈久 都麻波麻多世等 須美乃延能 安我須賣可末尓 奴佐麻都制 伊能里麻乎之弖 奈尓波都尓 船乎宇氣須惠 夜蘇加奴伎 可古等登能倍弖 安佐婢良伎 和波己藝※[泥/土]奴等 伊弊尓都氣己曾
 
【語釈】 ○島守に 「島守」は、防人の別名で、用例のあるもの。壱岐、対馬はもとより筑紫も島と呼んでいたから、妥当な称である。○柞葉の 同音で、母の枕詞。○御裳の裾つみ挙げ掻き撫で 「御裳」は、「御」は、美称。「つみ挙げ」は、つまみあげて。これはどういう意思表示かわからない。当時は普通のことで、説明を要さないことであったと見える。下の父の状態に対させたもので、それから推すと甚しい悲しみをあらわすしぐさだったとみえる。「掻き撫で」は、愛撫してで、防人の歌に出た。○ちちの実の 同音で、父の枕詞。○拷綱の白髯の上ゆ 「栲鋼の」は、栲の皮で造った綱で、その白いところから白の枕詞。「上ゆ」は、上を伝わらせて。○涙垂り歎き宜賜ばく 「垂り」は、当時は自動にも他動にも通じて用いた。垂らして。「宣賜ばく」は、「賜ぱく」は、「賜ふ」の古語「賜ぶ」の名詞形で、宣り賜うことには。○鹿児じもの唯独して 「鹿児じもの」は、「鹿児」は、鹿の子。「じもの」は、のごとき物。鹿は子を一匹しか産まない物の意で、「独」の枕詞。「唯独して」は、お前がただ独りで。巻九(一七九〇)「鹿児じもの吾が独子の」と出た。○今日だにも言問せむと せめて今日だけでも物をいおうと。○惜みつつ悲び坐せ 「惜みつつ」は、別れを惜しみながら。「悲び坐せ」は、「坐せ」は、敬語の助動詞で、已然条件法。悲しんでいらっしゃるので。○春鳥の声の吟ひ 「春鳥の」は、春の鳥は鳴く声の高い意で、譬喩として下へかかる枕詞。「声の吟ひ」は、「吟ひ」は、咽び泣く意で、咽び声に泣き。巻二(一九九)「春鳥のさまよひぬれば」と出た。○携はり別れかてにと 「携はり」は、手をかけてまつわって。「別れかてに」は、別れられず。「と」は、接続の助詞。○丘の岬い廻むる毎に 「い廻む」は、「い」は、接頭語。「廻む」は、廻って行く。丘の突端を廻って行くごとにで、廻れば、来たほうが見えなくなる意。○たまきはる命も知らず 「たまきはる」は、命の枕詞。「命も知らず」は、わが命のほども知られない。○在り廻り我が来るまでに平けく親はいまさね 継続して廻って防備をし、わたしの帰って来るまでを、平安で親はいらしてください。これは防人の歌にあったもので、取って用いたのである。○恙なく妻は待たせと 災難なく妻は待っていらっしゃいと。「待たせ」は、「待て」の敬語。○住吉の我が皇神に 住吉の神は、大阪市住吉区住吉神社の海上を支配する神である。「皇神」は、皇祖神の意であるが、他の神にも尊称として用いるようになっていた。この時代よりやや以前からである。○難波津に船を浮け居ゑ これ以下は(四三六三)「難波津に御船下すゑ八十楫貫き今は漕ぎぬと妹に告げこそ」を取ったものである。
【釈】 天皇のお命じのままに、島守になってわたしが行くと、たらちねの母上は、御裳の裾をつまみあげて悲しんで愛撫をし、ちちの実の父上は、栲の綱のような白い髯の上を伝わせて涙を垂らし、嘆いて仰せになられることには、鹿の児のようにただひとりで、朝戸出をするかわゆいわたしの子よ。何年もの長い間を逢わなかったならば、恋しいことであろう。せめて今日だけでも物をいおうと、別れを惜しみながら悲しんでいらっしゃるので、若草の妻も子どもも、そちこちに大勢かたまっていて、春の(492)鳥のように咽び声に泣き、白栲の衣の袖を泣き濡らして、手をかけてまつわって、別れられないと引き留めて、慕ったのであるに、天皇の仰せを承って、任地への道に出て、丘の突端を廻って行くごとに、幾たびとなく顧みをしながら、はるかに遠く故郷を離れて来ると、思う心は安くはなく、恋うる心は苦しくあるのに、現し身のこの世の人なので、命のほども知られない。大海の恐ろしい道を、島伝いに漕いで渡って、継続して任地を廻って、わたしの帰って来るまでは、平安に親はいらしてください、災難なく妻は待っていらっしゃいと、住吉のわたしの尊む神様に、幣帛をささげてお祈り申し上げて、難波の津に船を下ろして浮かべて、多くの楫を取り付け、舟子を揃えて、朝、船出をしてわたしは漕ぎ出したと、家に告げてください。
【評】 これは、上の(四三三一)「防人の別れを悲む心を追ひて痛みて作れる歌」、また、(四三九八)「防人の情に為りて思を陳べて作れる歌」の繰り返しであって、ことに(四三九八)とは作意も構成もほとんど同じであって、異なるところは、そちらは難波津から筑紫へ向かって発航しようとする直前の心であるのに、これは発航した直後の心という一点だけである。取材として多少なりとも進展のある上では、連作に似ているのであるが、作者としてはそうした意識はなく、この作をした時がそうした時であったために、おのずから進展が添って来たというにすぎないものと思われる。それは一篇の構成が全く前作と同一で、防人として家族との惜別、難波までの途中の心情、難波より発航する直前の感傷という構成で、前作の繰り返しにすぎないところから見て明らかである。この歌の作因は、兵部省の使としての家持は、難波津から防人を送り出したのであるが、防人の全部の発航を見送ると、彼の持たされ続けて来た防人を悲しむ情が最高潮に達し、加えて発航に際しての防人の心情を、その歌によって知悉したので、彼としては黙っていられない状態になってこの歌を作ったものと思われる。高潮した気分を表現するには、細叙法を用いることが家持の作風で、これは繰り返し行なっていることである。この歌もそれで、防人を中心として、その眼で見たこと、心に感じたことを細叙しているが、ことに心を用いているのは、防人の家族との惜別の情で、眼をとおしての状態を叙するに、全篇の一半を当てている。しかしこれは彼の想像よりのもので、詠まれている防人の家庭生活は前作と同じく、庶民の生活ではなく、当時の貴族階級のそれである。防人は丁で、十九歳か二十歳の農民である。それが両親の家に妻と同棲し、何人かの子を持っており、その父は白髯を持っている老人である。難波までの旅は、細双はしているが、そのいうところはすでに他人の歌にいっているところを綜合したもので、特色のないものである。難波津より発航前後の心情は、実際に即しての感を持っているが、これは防人の歌を読むことによって得たもので、それを想像裡に持ち来たしたにすぎないものである。しかし全体を一首の作品として見ると、前二首に較べると気分が豊かで、語の続きも流麗で、落ちついて心を尽くしている上では、はるかに勝っているものである。感動の続いている限り、語らずにはいられず、また繰り返し語って飽かない、家持という人を思わせる作である。
 
(493)4409 家人《いへびと》の 斉《いは》へにかあらむ 平《たひら》けく 船出《ふなで》はしぬと 親《おや》に申《まを》さね
    伊弊婢等乃 伊波倍尓可安良牟 多比良氣久 布奈※[泥/土]波之奴等 於夜尓麻乎佐祢
 
【語釈】 ○斎へにかあらむ 「斉へにか」は、斎えばにかの意で、祈ってくださったのでかで、已然条件法。「か」は、疑問の係。○親に申さね 親に申し上げてください。
【釈】 家人が、祈ってくれたからであろうか、平安に船出はしましたと、親に申し上げてください。
【評】 長歌の結末の「家に告げこそ」を受けて、さらに内容を盛ったものである。自身が平穏で船出のできたのを、一に家人の祈りのためであろうとして、それを親に向かって感謝するというので、じつに人柄の気高いところがある。これはその際の防人にはふさわしくないものである。歌柄も大きい。これは作者の理想化した防人である。
 
4410 み空《そら》行《ゆ》く 雲《くも》も使《つかひ》と 人《ひと》はいへど 家《いへ》づと遣《や》らむ たづき知《し》らずも
    美蘇良由久 々母々都可比等 比等波伊倍等 伊弊頭刀夜良武 多豆伎之良受母
 
【語釈】 ○み空行く雲も使と人はいへど 古事記、允恭の巻の、木梨軽皇子の歌に「天飛ぶ鶴も使ぞ」とあり、それによってのものとみえる。○家づと遣らむたづき知らずも 家への土産物を託してやる手段の知られないことだ。
【釈】 み空を行く雲も使だと人はいうが、家への土産物を託してやろう方法の知られないことだ。
【評】 海上の船にいて、空を動いて行く雲を見て、あれが使になるなら、家への土産に、珍しい物を託してやりたいなあ、と思った心である。家人を恋うての心ではあるが、これは防人の心ではなくて、貴族の心である。上の反歌の延長である。
 
4411 家《いへ》づとに 貝《かひ》ぞ拾《ひり》へる 浜浪《はまなみ》は いやしくしくに 高《たか》く寄《よ》すれど
    伊弊都刀尓 可比曾比里弊流 波麻奈美波 伊也之久々々二 多可久与須礼騰
 
【語釈】 ○貝ぞ拾へる 「ひりふ」は、「ひろふ」の古語で、用例の多いもの。○浜浪は 砂浜に寄せる浪は。
(494)【釈】 家の土産として、貝を拾ったことである。砂浜に寄せる浪はますますうち重なって高く寄せて来るが。
【評】 上の歌の連作で、家づとの説明をしているものである。これは明らかに、海を珍しく思う奈良の官人の、海を知らない妻を思っての歌で、東国の防人とはかかわりのない心である。
 
4412 島蔭《しまかげ》に 我《わ》が船《ふね》泊《は》てて 告《つ》げやらむ 使《つかひ》を無《な》みや 恋《こ》ひつつ行《ゆ》かむ
    之麻可氣尓 和我布祢波弖※[氏/一] 都氣也良牟 都可比乎奈美也 古非都々由加牟
 
【語釈】 ○島蔭に我が船泊てて 「島蔭に」は、海岸の岩の陰など、風浪のしのげる物陰に。「我が船泊てて」は、乗船が碇泊して。夜のことである。○告げやらむ使を無みや それと家に告げてやろう使が無いので。「告げやらむ」は、夜のわびしさを告げる意。「や」は、疑問の係。○恋ひつつ行かむ 家を恋いながら行くのであろうか。
【釈】 海岸の岩陰にわが船は碇泊して、そのわびしさを家に告げてやろう使がないので、恋いながらも行くことであろうか。
【評】 これは防人に即した想像といえるが、実際の防人は、「使を無みや」というようなことは思い得ず、したがって思いもしなかったであろう。しかしこの語は、第一首の「親に申さね」に照応させたもので、妻を心に置いてのものであろう。四首連作として詠んだものである。
 
     二月二十三日、兵部少輔大伴宿禰家持。
      二月廿三日、兵部少輔大伴宿祢家持。
 
4413 枕刀《まくらたし》 腰《こし》に取《と》り佩《は》き 真愛《まがな》しき 夫《せ》ろがまき来《こ》む 月《つく》の知《し》らなく
    麻久良多之 己志尓等里波伎 麻可奈之伎 西呂我馬伎己無 都久乃之良奈久
 
【語釈】 ○枕刀腰に取り佩き 「枕刀」は、「たし」は、「たち」の方言。寝る時も枕元に置いて、身を離さないところからの称で、普通の刀である。「腰に取り佩き」は、「取り」は、接頭語で、腰に帯びて。防人としての武装で、現に見ているさま。○真愛しき 「真」は、接頭語で、愛すべき。○夫ろがまき来む 「夫ろ」は、「ろ」は、接尾語。「まき来む」は、「まき」は、「罷り」の方言とされている。それだと任が解けて帰って来るで(495)あろうであるが、「まき」と「罷り」とは語形の連絡がなく、方言であるかどうかが不明である。作意から見ると、罷りは合理的である。今はこれに従う。○月の知らなく 「つく」は、「月」の意の方言。月は時の標準となっていたもの。時の知られないことよ。
【釈】 枕刀を腰に帯びて、愛すべき夫が、任が解けて帰って来るであろう時の知られないことよ。
【評】 夫の防人が武装をして出発しようとする姿を見、こうした姿で帰って来るであろうのはいつであろうと、嘆きをこめていっているのである。腰の刀を「枕刀」と言いかえているのも、この場合ふさわしい言い方である。妻の許から発足する形であるから、同棲していたのであろう。防人の妻としては整いすぎる感のある歌である。
 
     右の一首は、上丁|那珂《なか》郡の檜前舎人石前《ひのくまのとねりいはさき》が妻《め》大伴部|真足女《またりめ》。
      右一首、上丁那珂郡檜前舎人石前之妻大伴部眞足女。
 
【解】 「那珂郡」は、今、埼玉県児玉郡の南部となっている。「大伴部」は当時の制として、女は妻となっても生家の氏を用いたのである。「真足女」の「女」は、上代の女の名にはこのように用いたものが多い。以下十二首は、武蔵国の歌で、その中に妻の歌が六首ある。
 
4414 大君《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 愛《うつく》しけ 真子《まこ》が手《て》離《はな》り 島伝《しまづた》ひ行《ゆ》く
    於保伎美乃 美己等可之古美 宇都久之氣 麻古我弖波奈利 之末豆多比由久
 
【語釈】 ○愛しけ 「愛しき」の方言。かわゆい。○真子が手離り 「真子」は、「真」は、接頭語。「子」は、妻の愛称。「離り」は、四段活用。妻のそばを離れて。○島伝ひ行く 島伝いをして行くで、難波津から瀬戸内海の航路を行くのであるが、これは発航前の心で、「行かむ」というべきところを、「真子の手離り」との対比より、強めて現在法としたもの。
【釈】 天皇の御命令を承り、かわゆい妻の許を離れて島伝いをして行くことだ。
【評】 難波津から発航しようとする直前の心である。この防人は秩父郡の助丁で、航海の経験などは多分なく、甚しく緊張させられたものとみえる。「島伝ひ行く」を中心として、「大君の 命かしこみ」といい、「真子が手離り」と畳んでいっているのはそのためで、自分の全体をそれに集中していっているのである。素朴な詠み方であるが、感を持っているのは、その緊張感から(496)である。
 
     右の一首は、助丁秩父郡の大伴部|小歳《をとし》。
      右一首、助丁秩父郡大伴部小歳。
 
【解】 「秩父郡」は、今の埼玉県のその郡である。
 
4415 白玉《しらたま》を 手《て》に取《と》り持《も》して 見《み》るのすも 家《いへ》なる妹《いも》を また見《み》てももや
    志良多麻乎 弖尓刀里母之弖 美流乃須母 伊弊奈流伊母乎 麻多美弖毛母也
 
【語釈】 ○白玉を手に取り持して 「白玉」は、真珠で、代表的に賞美された物。「持して」は、「持ちて」の方言。○見るのすも 「のす」は、「なす」の方言で、ごとくにも。○また見てももや 「見ても」は、「見てむ」の方言で、「て」は、完了の助動詞「つ」の未然形。「む」は、推量の助動詞。「もや」は、このように続いた例はないが、「も」も「や」も感動の助詞で、強い感動をあらわすところの方言と取れる。
【釈】 白玉を手に取り持って見るように、家にいる妻を、また見たいものだなあ。
【評】 妻との別れの歌であるが、自身の嘆きはいわず、妻を白玉に譬え、それを手に取って見るようにまたも見たいと、妻に対する愛をいうことで終始させている歌である。「白玉」は慣用の意のものである。「もや」が感動の助詞であることは、一首の作意からも思われる。教養のある、心落ちついた防人が思われる。
 
     右の一首は、主帳|荏原《えばら》郡の物部|歳徳《としとこ》。
      右一首、主張荏原郡物部歳徳
 
【解】 「主張」は、上にある上丁、助丁に次いで扱っているところから見て、軍団のそれではなく、防人の主帳と知られる。「荏原郡」は、今、東京都の中に入っている。もとの荏原区一帯、現在の大田、品川、目黒、世田谷の各区にわたる地域。
 
(497)4416 草枕《くさまくら》 旅《たび》行《ゆ》く夫《せ》なが 丸寝《まるね》せば 家《いは》なる我《われ》は 紐《しも》解《と》かず寝《ね》む
    久佐麻久良 多比由苦世奈我 麻流祢世婆 伊波奈流和礼波 比毛等加受祢牟
 
【語釈】 ○夫なが 「な」は、接尾語。東国の語。○九寝せば 「まる寝」は、「まろ寝」に同じ。衣を解かず寝ることで、ごろ寝。○家 「いは」は「いへ」の方言。
【釈】 草を枕の旅を行く夫が、ごろ寝をするならば、家にいるわたしは、衣の紐を解かずに寝ましょう。
【評】 夫の歌に和えたものであるが、その形には関係なく、自分も夫と苦労を同じくしようというのである。和え歌としては原始的な、文芸以前のものである。歌の心は現在も保たれているものである。
 
     右の一首は、妻《め》椋椅部刀自売《くらはしべのとじめ》。
      右一首、妻椋椅部刀自賣。
 
【解】 「刀自売」は、主婦の敬称の「刀自」に、女の名に多い「売」を添えたもので、代名詞とみえるものである。それだとこの場合適当な称ではない。
 
4417 赤駒《あかごま》を 山野《やまの》に放《はか》し 捕《と》りかにて 多摩《たま》の横山《よこやま》 歩《かし》ゆか遣《や》らむ
    阿加胡麻乎 夜麻努尓波賀志 刀里加尓弖 多麻能余許夜麻 加志由加也良牟
 
【語釈】 ○赤駒を山野に放し 「赤駒」は、赤毛の駒で、普通の馬。防人の家の物。「山野に放し」は、「はかし」は、「放ち」の方言。山野に放牧してあって。冬季、馬を放牧するのは、普通のことであった。○捕りかにて 「かにて」は、「かねて」の方言。捕え得られなくて。○多摩の横山 「多摩」は、多摩川南岸の一帯の地の称。「横山」は、普通名詞で、横に連なっている山。ここは武蔵の国府のあった今の府中市から、相模国へ出る要路にあった地。○歩ゆか遣らむ 「歩ゆ」は「かし」は、「かち」の方言で、徒歩によって。「か」は、疑問の係。
【釈】 赤駒を山野に放牧してあって、捕え得られなくて、多摩の横山を、徒歩によってやるのだろうか。
【評】 防人の妻の、夫を放牧してある自家の馬に乗せてたたせようと思い、骨を折ったが捕えかねたことを嘆いていっている(498)のである。「軍防令」に、防人は自分の馬に乗って行くことは許されているので、これは特別の願いではなかった。「多摩の横山」と限っていっているところを見ると、乗馬もある範囲のことであったろうと思われる。したがってこれは嘆きとはいっても、心残りという程度のいささかのことである。この妻は、他のことは何もいわず、そのいささかなことに全力をあげているので、その一事によって全幅が思わせられる。また一首全体から、そのいかに一本気で、情熱を持った人であるかも思わせられる。
 
     右の一首は、豊島郡の上丁|椋椅部荒蟲《くらはしべのあらむし》が妻《め》宇遅部黒女《うぢべのくろめ》。
      右一首、豊嶋郡上丁椋椅部荒虫之妻宇遲部黒女。
 
【解】 「豊島郡」は、今は東京都に入っている。豊島、文京、荒川、北、板橋の各区に及ぶ。
 
4418 我《わ》が門《かど》の 片山椿《かたやまつばき》 まこと汝《なれ》 我《わ》が手《て》触《ふ》れなな 地《つち》に落《お》ちもかも
    和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼 和我弖布礼奈々 都知尓於知母加毛
 
【語釈】 ○我が門の片山椿 わが門の片山に咲いている椿よ。「片山」は、一方が山になっている地形で、平地に向かった山の傾斜地の称。○まこと汝 本当にお前は。「汝」は、椿を擬人しての代名詞であるが、その椿は女の譬喩であるから、妻をさしているもの。○我が手触れなな 「なな」は、東国の語で、東歌と防人の歌にのみある語で、方言である。巻十四(三四〇八)(三四三六)などに既出。上の「な」は、打消「ず」の未然形で、下の「な」は助詞「に」の方言。「触れずに」と同じ。中央語にも、巻二(一一四)「君によりなな」と同形のものがあるが、それとは別である。男女関係を結ばずに、の譬喩。○地に落ちもかも 「落ちも」は、「落ちむ」の方言。地に落ちるであろうかなあ。花が散り落ちようかなあの意で、わが妻ではなくなってしまおうかなあの意の譬喩。
【釈】 わたしの門の片山に咲いている椿よ。ほんにお前に、わたしの手は触れずに土に落ちるであろうかなあ。
【評】 一首、全部譬喩からなっている歌である。「我が門の片山椿」は、単に懸想をしているだけで、まだ無関係の女の譬喩であることが、後の続きで知れる。眼前の物を捉えての譬喩であるが、当時椿は酷愛されていた物であるから、作者としては最上の美感を託し得たものである。「地に落ちもかも」は、永い留守中を思いやっての心で、周囲の若い男子の物となりはしないだろうか、と不安をもっていっているものである。一首、隠喩仕立てにしているのは、若い防人の歌としてはふさわしく(499)ないまでの技巧であるが、女との関係がら、また場合がら、気 分が複雑しているので、隠喩にするよりはかなかったものと思われる。すぐれた歌である。
 
     右の一首は、荏原《えばら》郡の上丁物部|広足《ひろたり》。
      右一首、荏原郡上丁物部廣足。
 
4419 家《いは》ろには 葦火《あしぶ》焚《た》けども 住《す》み好《よ》けを 筑紫《つくし》に到《いた》りて 恋《こふ》しけもはも
    伊波呂尓波 安之布多氣騰母 須美与氣乎 都久之尓伊多里※[氏/一] 古布志氣毛波母
 
【語釈】 ○家ろには 「いは」は、「いへ」の方言。「ろ」は、接尾語。自分の家では。○葦火焚けども 「あしぶ」は、葦を燃料として焚く火で、方言。葦は水辺地帯では最も獲やすい燃料である。葦火を焚いているけれどもで、葦火は最も煤の多いものなので、侘びしい意でいったもの。巻十一(二六五一)「難波人葦火たく屋のすしてあれど」とあると同じ。○住み好けを 「好け」は、「好き」の方言。○恋しけもはも 「恋しけ」は、「恋しく」の方言。「もはも」は、「もはむ」の方言で、思わん。
【釈】 わが家では葦火を焚いているけれども住み好いのを、筑紫へ行って、恋しく思うことだろう。
【評】 火を焚く炉を、家庭生活の中心とし、貧しくともわが家にまさる処のないことを、旅へ行って思うだろうというのである。庶民の生活を楽しんでいる気分が、雰囲気のように現われている歌である。防人に見る老成した面がうかがわれる。
 
     右の一首は、橘樹《たちばな》郡の上丁物部|真根《まね》。
      右一首、橘樹郡上丁物部眞根。
 
【解】 「橘樹郡」は、今、神奈川県川崎市、横浜市に編入、郡名を失った。多摩川南岸の地である。
 
4420 草枕《くさまくら》 旅《たび》の丸寝《まるね》の 紐《ひも》絶《た》えば 我《あ》が手《て》と附《つ》けろ これの針《はる》持《も》し
(500)    久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許礼乃波流母志
 
【語釈】 ○我が手と附けろ 「我が手と」は、「我が」は、妻で、わたしの手だと思って。「手」というのは、下の「針」である。「附けろ」は、「附けよ」の方言で、現在も行なわれている。○これの針持し 「持し」は、「持ち」の方言。この針を持って。
【釈】 草枕の旅のごろ寝で、衣の紐が切れたら、わたしの手だと思ってつけなさい。この針を持って。
【評】 夫の旅の荷の中へ、糸とともに針を入れながら、妻の詠んだ歌である。そうした用意は普通のことだったのである。「我が手と附けろ」は、針を自身の形見として、夫に添わせる意でいっているものである。上の防人に似合った妻で、落ちついた、行き届いた人が思われる。
 
 
     右の一首は、妻《め》椋椅部弟女《くらはしべのおとめ》。
      右一首、妻椋椅部弟女。
 
4421 我《わ》が行《ゆき》の 息衝《いきづ》くしかば 足柄《あしがら》の 峰《みね》延《は》ほ雲《くも》を 見《み》とと偲《しの》はね
    和我由伎乃 伊伎都久之可婆 安之我良乃 美祢波保久毛乎 美等登志努波祢
 
【語釈】 ○我が行の 我の旅行が。○息衝くしかば 「息衝くし」は、「息づかし」の方言。息衝くは溜め息をつく意で、嘆かわしというと同じで、形容詞。「かば」は、「からば」で、未然条件法。○足柄の峰延ほ雲を 「足柄の」は、相模の足柄山ので、防人の越えて行くべき山で、近くにある高山。「延は」は、「延ふ」の方言。かかっている。○見とと偲はね 「とと」は、「つつ」の方言。見ながら思ってください。
【釈】 わたしの旅行が嘆かわしかったならば、足柄山の蜂にかかっている雲を見ながら思ってください。
【評】 旅に行く自分を案じるなら、雲を見て自分を思えという歌は、何首かあった。それは旅をする人に、こちらの霊を添わせて、力づけるという信仰に立ってのことである。これもそれである。「足柄の峰延ほ雲」は、この夫婦にとっては、それが最も実際に即したものだったのである。一首、信仰をいうにふさわしい重量を持った歌である。
 
     右の一首は、都筑《つつき》郡の上丁|服部於田《はとりべのうへだ》。
(501)      右一首、都筑郡上丁服部於田。
 
【解】 「都筑郡」は、橘樹郡の西南。今、郡名を失っている。
 
4422 我《わ》が夫《せ》なを 筑紫《つくし》へ遣《や》りて 愛《うつく》しみ 帯《おび》は解《と》かなな あやにかも寝《ね》も
    和我世奈乎 都久之倍夜里弖 宇都久之美 於妣波等可奈々 阿也尓加母祢毛
 
【語釈】 ○夫な 「夫」の方言。前出。○愛しみ かわゆく思うので。○帯は解かなな 「解かなな」は、解かずにの意の東国の語。「なな」は(四四一八)に出た。○あやにかも寝も 「あやに」は、あやしくも、普通ではなく、の意の副詞。「かも」は、疑問の係。「寝も」は、「寝む」の方言。あやしく普通ではなく寝るだろうかで、上を受けて、帯を解かずに、を言いかえたもの。
【釈】 わたしの夫を筑紫へやって、かわゆく思うので、帯を解かずに、普通ではないさまに寝るであろうか。
【評】 夫の旅の侘びしさをいとしむ心である。これは下の、昔年の防人の歌の中の(四四二八)「我が夫なを筑紫は遣りて愛しみ帯は解かななあやにかも寝む」とあると同じである。この歌の謡い伝えられているのを取って、自分の心の代弁としたのである。多少の相違は、伝誦の間の流動である。こうした場合の歌は、これで事足りたのである。なお、この類のものがほかにもあるかもしれぬ。ありうることだからである。
 
     右の一首は、妻《め》服部呰女《はとりべのあさめ》。
      右一首、妻服部呰女。
 
4423 足柄《あしがら》の 御坂《みさか》に立《た》して 袖《そで》振《ふ》らば 家《いは》なる妹《いも》は 清《さや》に見《み》もかも
    安之我良乃 美佐可尓多志弖 蘇※[泥/土]布良婆 伊波奈流伊毛波 佐夜尓美毛可母
 
【語釈】 ○御坂に立して 「御坂」は、坂は神霊の鎮まる所としての美称。「立して」は、「立ちて」の方言。○家なる妹は 「いは」は、「いへ」の方言。○見もかも 「見も」は、「見む」の方言。
(502)【釈】 足柄の御坂に立って袖を振ったならば、家にいる妹は、はっきりと見るであろうか。
【評】 これは埼玉郡の防人の歌で、足柄の御坂で振る袖が、家にいる妹に見えるであろうかと想像しているのである。これは東海道を通って難波へ向かうので、足柄山を越えると、故郷の空が隔離されて見えなくなるので、故郷の空の見収め場所だからである。極端な誇張であるが、心理的には自然な願望である。巻二(一三二)柿本人麿の「石見のや高角山の木の間より」の歌と同想のものである。
 
     右の一首は、埼玉郡の上丁藤原部|等母麿《ともまろ》。
      右一首、埼玉郡上丁藤原部等母麿。
 
【解】 「埼玉郡」は、今は埼玉県で、南北埼玉の二郡、熊谷、行田、羽生三市、大里郡、北足立郡にわたる地となっている。
 
4424 色深《いろぶか》く 夫《せ》なが衣《ころも》は 染《そ》めましを 御坂《みさか》たばらば ま清《さや》かに見《み》む
    伊呂夫可久 世奈我許呂母波 曾米麻之乎 美佐可多婆良婆 麻佐夜可尓美無
 
【語釈】 ○色深く 染色を濃く。○御坂たばらば 「御坂」は、御坂の神が。「たばら」は、「賜ふ」の古語の「たばる」の未然形で、そこを越えることを許してくださったならば。○ま清かに見む 「ま」は、接頭語で、はっきりと見えましょう。
【釈】 色濃く夫の衣は染めたであったろうものを。御坂を越えることをお許しくださったならば、はっきりと見えましょう。
【評】 夫の歌に和えたもので、夫が「清に見もかも」といったのに対し、「ま清かに見む」と、夫の歌に即していっている、京風のものである。夫は情熱そのままに、「袖振らば」といっているが、妻は知性的に、「色深く染めましを」と条件をつけて、そうしてあったならばと、その事の不可能をいっている。また夫は「御坂に立して」と、これまた事ともなくいっているのに、妻は「御坂たばらば」と、信仰を主として、仮定の形をもっていっている。男女の性別をはっきりとあらわしている歌で、どちらも相応の教養のあることを思わせる歌である。防人夫婦の歌としては、その教養の点で珍しい歌である。
 
     右の一首は、妻物部|刀自売《とじめ》。
(503)      右一首、妻物部刀自賣。
 
     二月二十日、武蔵国の部領防人使《さきもりのことりづかひ》掾正六位上|安曇《あづみの》宿禰|三国《みくに》が進《たてまつ》れる歌の数二十首。但し拙劣き歌は取り載せず。
      二月廿日、武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首。但拙劣歌者不2取載1之。
 
【解】 「安曇三国」は、天平宝字八年十月、正六位上より従五位下を授けられたことがわかっている。他は未詳。
 以上で、天平勝宝七年に交替した防人の歌は終わっている。以下八首も防人の歌であるが、それは左注に、「昔年の防人の歌」とあるもので、類をもって集めたものである。
 
4425 防人《さきもり》に 行《ゆ》くは誰《た》が夫《せ》と 問《と》ふ人《ひと》を 見《み》るが羨《とも》しさ 物思《ものも》ひもせず
    佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受
 
【語釈】 ○問ふ人を 尋ねている人をで、「人」は、女である。○見るが羨しさ 見ることの羨ましさよ。羨むのは防人の妻である。○物思ひもせず 心配もせずに。平気での意。
【釈】 防人に行くのは誰の夫ですかと、人に尋ねている人を見ることの羨ましさ。心配もせずに。
【評】 防人に立つ男の妻の歌である。夫が防人に立つことになったので、心配をしているおりから、自分と同じような女が、他の人に、防人に立つのは誰の夫ですかと、平気なさまで尋ねているのを聞いて、身に引きあてて羨ましく思ったのである。防人に関しての世相の一片を、さながらにあらわしている珍しい歌である。この妻は夫婦関係を秘密にしている仲だったとみえる。女性の世界の歌である。
 
4426 天地《あめつし》の 神《かみ》に幣《ぬさ》置《お》き 斎《いは》ひつつ いませ我《わ》が《せ》夫な 我《あれ》をし思《も》はば
    阿米都之乃 可未尓奴佐於伎 伊波比都々 伊麻世和我世奈 阿礼乎之毛波婆
 
(504)【語釈】 ○天地の 「つし」は、「つち」の方言。
【釈】 天地の神に幣を供えて、身の無事を祈りつついらっしゃいませ、わが夫よ。わたしを思うならば。
【評】 防人の夫と別れる際の妻の歌である。信仰の上に立って情理を尽くしての心で、その場合にふさわしい歌である。「我をし思はば」は、夫が口頭の語としていったことを受けてのものと思われる。それだと和え歌の心のものである。
 
4427 家《いは》の妹《いも》ろ 我《わ》をしのふらし 真結《まゆす》ひに 結《ゆす》ひし紐《ひも》の 解《と》くらく思《も》へば
    伊波乃伊毛呂 和乎之乃布良之 麻由須比尓 由須比之比毛乃 登久良久毛倍婆
 
【語釈】 ○家の妹ろ 「いは」は、「いへ」の方言。「ろ」は、接尾語。○真結ひに 「ゆすひ」は、「むすび」の方言。「真」は、充足する意で、「真結ひ」は、固く結ぶ結び方の称。現在も「まめ結び」という名で伝わっている。○結ひし紐の 「紐」は、下紐。○解くらく思へば 解けることを思うと。紐の解けるのは、相手がこちらを思うからのことだという俗信があった。
【釈】 家にいる妹が、わたしを思っているらしい。固結びに結んだ下紐の解けることを思うと。
【評】 同想の歌があるが、それはこの俗信の広く行なわれていたということである。「真結ひに結ひし紐の」と、事実を力強くいっているのは、男性の心で、情痴をいうのでないことを示している。
 
4428 我《わ》が夫《せ》なを 筑紫《つくし》は遣《や》りて 愛《うつく》しみ 帯《えひ》は解《と》かなな あやにかも寝《ね》む
    和我世奈乎 都久志波夜利弖 宇都久之美 叡比波登加奈々 阿夜尓可毛祢牟
 
【語釈】 ○筑紫は 「筑紫へ」の方言。○帯は 「えひ」は、「おび」の方言。
【釈】 わたしの夫を筑紫へやって、いとしいので、帯は解かずに、怪しいさまで寝るのでしょうか。
【評】 上の(四四二二)服部呰女の歌の原形となっていたものである。どこの歌かはわからない。相応に方言の多いにもかかわらず、流布していたとみえる。
 
(505)4429 厩《うまや》なる 繩《なは》絶《なはた》つ駒《こま》の 後《おく》るがへ 妹《いも》がいひしを 置《お》きて悲《かな》しも
    宇麻夜奈流 奈波多都古麻乃 於久流我弁 伊毛我伊比之乎 於岐弖可奈之毛
 
【語釈】 ○厩なる繩絶つ駒の 厩にいて、つないである繩を切る馬のように。これは、飼馬はその飼主が他出すると、自分も出ようとして逸る習性を持っているので、譬喩として「後るがへ」へかけたもので、以上その序詞。○後るがへ 「がへ」は、「かは」の意の反語で、巻十四(三四二〇)「親は放くれど吾は放るがへ」とあり、東国の語である。
【釈】 厩で、つないである繩をたち切る馬のように、遅れようか、遅れはしないと妹がいったのを、残して来て、悲しいことだ。
【評】 防人が、家を離れて久しくない頃に、別れしなの妻の思慕のさまを思い出しての心である。序詞に特色がある。この序詞は家を出しなに眼に見た事実で、馬は飼主が他出するので、当然牽き出されるものとし、それがないので、逸り立って無理に出ようとしたのである。防人はそれを妻のその時のさまの譬喩にしたのであって、妻に対しての隣れみの中には、飼馬に対しての隣れみも取り入れているのである。したがって「置きて悲しも」は、重量のあるものとなっている。庶民生活の実際に即した、魅力のある歌である。
 
4430 荒《あら》し男《を》の い小箭《をさ》手挟《だはさ》み 向《むか》ひ立《た》ち かなる間《ま》しづみ 出《い》でてと吾《あ》が来《く》る
    阿良之乎乃 伊乎佐太波佐美 牟可比多知 可奈流麻之都美 伊※[泥/土]弖登阿我久流
 
【語釈】 ○荒し男のい小箭手挟み 「荒し男」は、荒い男で、強い男の意。「い小箭」は、「い」は、接頭語。「小」は、愛称。「さ」は、矢の古語。「手挟み」は、手に挟み持って。○向ひ立ち 射るべき物に向かって立って。強い男が箭を手挟み持って、射るべき物に向かって立って。猟人の実際のさまか、または猟に関する祭の行事のさまかである。以上、譬喩として「かなる間しづみ」に懸かる序詞。○かなる間しづみ 「かなる間」は、諸説があって定まらない。巻十四(三三六一)「足柄の彼面此面に刺す羂のかなる間しづみ児ろ我紐解く」とあり、東国の語である。かしましく音の立つ間の意ととる。「しづみ」は、静まって。序詞よりの続きは、周囲の騒がしい状態のしずまる意で、受けての本義は、家人たちの騒がしく物音をたてていたのが静まっての意。○出でてと吾が来る 「と」は、上を総収して、下へ続ける助詞。「来る」は、連体形で結んで、詠歎を余意としたもの。来るは、目的地を主としての言い方で、行く意である。
【釈】 強い男が、箭を手に挾み持って、射るべき物に向かって立つとき、周囲が騒がしい、そのように、家人の騒がしさが静まって、家を出て行くことである。
(506)【評】 防人がその家を出て行こうとする際の心をいっているものである。事件としては何事もいわず、緊張した気分そのもののみをいおうとしている、特色のある歌である。序詞は特色のあるものであるが、当時の庶民生活には、猟はつながりのあるもので、実際としても、または行事としても、親しく眼にしていた有様で、防人になって出かける時の緊張したさまをあらわす譬喩として、思い寄りうるものであったろう。しかし「荒し男のい小箭手挟み向ひ立ち」という純客観的の叙事は、原形となるものがあって、自身防人としての弓矢を持っているところから連想して、採用したものではなかろうか。それだと一首の作意も、その序詞から導き出されたものとなって特色が減り、かえって自然になって来る。
 
4431 小竹《ささ》が葉《は》の さやく霜夜《しもよ》に 七重《ななへ》かる 衣《ころも》に増《ま》せる 子《こ》ろが膚《はだ》はも
    佐左賀波乃 佐也久志毛用尓 奈々弁加流 去呂毛尓麻世流 古侶賀波太波毛
 
【語釈】 ○さやく霜夜に 「さやく」は、騒音を立てる意で、旅寝の実状である。○七重かる 「かる」は、「著《け》る」の方言。幾重かを重ねて着る。○増せる 「増さる」の方言。
【釈】 小竹の葉が騒音を立てる霜夜に、幾重も重ねて着る衣にも増さる、妹が膚はなあ。
【評】 霜夜に野宿をして、丸寝の膚寒さから、妹の膚を思い出して恋うる嘆きである。当時は防寒の設備が足りなかったところから、同想の歌が少なくはないが、これは感傷を超えての実感であわれがある。歌も重量感を持っている。
 
4432 障《さ》へなへぬ 命《みこと》にあれば 愛《かな》し妹《いも》が 手枕《たまくら》離《はな》れ あやに悲《かな》しも
    佐弁奈弁奴 美許登尓阿礼婆 可奈之伊毛我 多麻久良波奈礼 阿夜尓可奈之毛
 
【語釈】 ○障へなへぬ命にあれば 「障へなへぬ」の「障へなへ」は、「障へ敢へ」の約音で、「障へ」は、拒む意。「なへ」は、あえで、なしかねるで、拒むことのできかねる。「命にあれば」は、仰せなので。「大君の命かしこみ」と、天皇に対しては個人を没していうのが慣用であるのに、これはある程度個人を立てていっているもので、例のないものである。○あやに悲しも 一とおりならず悲しいことだ。
【釈】 拒むことのしかねる仰せなので、かわゆい妻の手枕を離れて来て、一とおりならず悲しいことだ。
【評】 「障へなへぬ命にあれば」が特色となっている歌である。防人とされた者の天皇に対する心持は、天皇を絶対のものとし、(507)信仰的の情熱を持って事に当たる者と、当然のこととして、批評的な心持などは持たず、無意識状態で事に当たっている者とがあって、後者が圧倒的に多い。このように天皇を権力者と見、余儀なくもその事に当たるというような心をいっているのは、この防人だけである。少なくとも部領使に差出す物として詠んでいる歌に、このようなことをいっているのは、庶民の中にはこうした心持をはばからずいう者のあったことを示しているものである。この歌は、兵部省より防人の歌を徴したことの当然さを実証している感のあるものである。一首の歌とすると、沈痛味に近いものを持って、感の透った歌である。
 
     右の八首は、昔年《さきつとし》の防人の歌なり。主典刑部少録正七位上|磐余伊美吉諸君《いはれのいみきもろきみ》が、抄写して兵部少輔大伴宿禰家持に贈れる。
      右八首、昔年防人歌矣。主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君抄寫。贈2兵部少輔大伴宿祢家持1。
 
【解】 「昔年の防人の歌」は、歌を進るのが以前からのことであったことが知られる。「主典」は、ふみひとで、佐官で、第四等の官である。何の主典であるかを断わっていず、また続けて「刑部少録」とあるので、それが本官で、臨時に兵部使の主典を兼ねさせられた人とみえる。「磐余伊美吉諸君」は、伝未詳。「抄写して」は、何より抄写したのかわからぬ。これらの歌は、巻十四、東歌の中に散在しているもの、その他とも重複したところのない点から見て、民間に伝わることのない状態において保存されている物が多量にあり、その中から抄写したものと思われる。その原本は家持は見ることができず、諸君だけが、何らかの理由で見られたのである。
 
     三月三日、防人を??《かむか》ふる勅使、并びに兵部の使人《つかひびと》等、同《とも》に集へる飲宴《うたげ》に作れる歌三首
 
【題意】 「防人を??ふる勅使」は、防人を諸国の国庁より受取り、筑紫の大宰府へ差遣する事務を検索する勅使である。兵部省に一任されただけではなかったのである。「兵部の使人等」は、家持を初め、兵部省から遣わされた人々である。「三月三日」は上巳の節日で、集宴はそのためのものである。
 
4433 朝《あさ》なさな 揚《あが》る雲雀《ひばり》に なりてしか 都《みやこ》に行《ゆ》きて はや帰《かへ》り来《こ》む
(508)    阿佐奈佐奈 安我流比婆理尓 奈里弖之可 美也古尓由伎弖 波夜加弊里許牟
 
【語釈】 ○なりてしか 「てしか」は、希望をあらわす。なりたいものだ。
【釈】 朝ごとに空に揚る雲雀になりたいものだ。都へ行って、すぐ帰って来よう。
【評】 官命で難波に日を重ねているところから、家恋しくなった心である。宴歌として、一同を代弁して詠んでいるもので、
挨拶のごときものである。
 
     右の一首は、勅使|紫微大弼《きさきのみやのつかさのおほきすけ》安倍沙彌麿《さみまろ》の朝臣。
      右一首、勅使紫微大弼安倍沙弥麿朝臣。
 
【解】 「紫微大弼」は、天平勝宝元年、皇后宮職を紫微中台と改めた。唐制にならってのことである。その次官。「安倍沙彌麿」は、天平九年九月、正六位上から従五位下となり、天平宝字二年三月、中務卿正四位下をもって卒した。
 
4434 雲雀《ひばり》あがる 春《はる》べとさやに なりぬれば 都《みやこ》も見《み》えず 霞《かすみ》たなびく
    比婆里安我流 波流弊等佐夜尓 奈理奴礼波 美夜古母美要受 可須美多奈妣久
 
【語釈】 ○春べとさやに 「さやに」は、はっきりと。
【釈】 雲雀があがる春ごろとはっきりなったので、都も見えずに霞がたなびいている。
【評】 作者は家持で、勅使の歌に和えて、「都も見えず」と、同じく旅愁をいうことを中心としている。しかしその旅愁は、難波にあって眼前に見ている春の風光によって具象しているもので、「春べとさやになりぬれば」と、難波にあって日を経ていることを現わし、さらに霞が深くなったので、都の空を望んでも見えないと、実景に即して複雑味を持たせつつ、同時におおらかに具象しているのである。「雲雀あがる」と勅使の歌の詞を捉えているのも巧みである。宴歌としては、落ちついた、上品なもので、家持の手腕をあらわしているものである。
 
(509)4435 含《ふふ》めりし 花《はな》の初《はじめ》に 来《こ》し吾《われ》や 散《ち》りなむ後《のち》に 都《みやこ》へ行《ゆ》かむ
    布敷賣里之 波奈乃波自米尓 許之和礼夜 知里奈牟能知尓 美夜古敞由可無
 
【語釈】 ○含めりし 蕾んでいた。○来し吾や ここへ来た私がで、「や」は、感動の助詞。家持の難波へ来たのは二月の初めであった。
【釈】 蕾んでいた花の初めの時にここへ来たわたしが、散るであろう後に、都へ行くのであろう。
【評】 上の歌と同じくこれも旅愁を述べたものであるが、いっていることは、この春の都の花を見ずに終わるであろうということである。それをいうに、こちらへ来る時には都の花はまだ開かず、帰るであろう時には散っていようと、しみじみと事くわしくいっているので、感のあるものとなっている。
 
     右の二首は、兵部使少輔大伴宿禰家持。
      右二首、兵部使少輔大伴宿祢家持。
 
     昔年《さきつとし》相替《あひかは》りし防人の歌一首。
 
4436 闇《やみ》の夜《よ》の 行《ゆ》く先《さき》知《し》らず 行《ゆ》く吾《われ》を 何時《いつ》来《き》まさむと 問《と》ひし児《こ》らはも
    夜未乃欲能 由久左伎之良受 由久和礼乎 伊都伎麻佐牟等 登比之古良波母
 
【語釈】 ○闇の夜の行く先知らず 「闇の夜の」は、闇の夜のようにで、譬喩として「行く先知らず」の枕詞。「行く先知らず」は、行く先も知られずに。任地の筑紫をさしてのもの。○行く吾を 行くわたしであるのに。○何時来まさむと いつお帰りになるだろうかと。○問ひし児らはも 「児ら」は、妻の愛称。「ら」は、接尾語。尋ねたかわゆい妻はなあ。
【釈】 闇の夜のように、行く先も知られずに行くわたしだのに、いつお帰りになるだろうかと尋ねた、かわゆい妻はなあ。
【評】 防人が家を出て旅をしつつ、別れた際の妻を思い出しての憐れみである。「何時来まきむと」が中心で、防人はその妻の世間知らずの、さながら子供のようなのを、愛しあわれんだのである。防人が若いので、こうした妻もありうることである。
 
(510)     先の太上天皇《おほきすめらみこと》の御製の霍公鳥の歌一首 日本根子高瑞日清足姫《やまとねこたかみづひきよたらしひめの》天皇なり
 
【題意】 「先の太上天皇」は、当時太上天皇は聖武天皇だったので、区別するために「先の」といっているので、元正天皇である。さらに明らかにするために御名を注したのである。天平二十年四月崩じた。御年六十九。
 
4437 霍公鳥《ほととぎす》 なほも鳴《な》かなむ もとつ人《ひと》 かけつつもとな 朕《あ》を哭《ね》し泣《な》くも
    富等登藝須 奈保毛奈賀郡牟 母等都比等 可氣都々母等奈 安乎祢之奈久母
 
【語釈】 ○なほも鳴かなむ 「なほ」は、『考』は、「直」の意だといい、例として直人《なおひと》すなわち世の常の人のそれで、普通にの意だとしている。巻五(八〇一)「なほなほに家に帰りて業をしまさに」の例もある。尋常に鳴いてほしいで、しきりに鳴くのに対して、そのように鳴かずに欲しいの意。○もとつ人かけつつもとな 「もとつ人」は、本つ人で、以前の人、古馴染の人。誰をさされているかわからない。『代匠記』は、養老五年十月崩じられた御母元明天皇ではないかといっている。「かけつつ」は、懸けつつで、及ぼしつつ、関連させつつの意。「もとな」は、由なく。○朕を哭し泣くも 「哭し泣く」は、熟語。「泣く」は、ここは下二段活用の他動詞で、泣かれる意。
【釈】 霍公鳥は尋常に鳴いてほしい。以前の人に関連させつつ、由なくもわたしは泣かれることだなあ。
【評】 霍公鳥のしきりに鳴くのを聞いて、御心の中にある以前の人を思い出され、涙を誘われた折の御口ずさみである。霍公鳥の哀調を帯びた鳴き声は、人を思わせるものだという常識の上に立っての心で、霍公鳥に、そのようにしきりには鳴くな、(511)甲斐なき嘆きだといわれているのである。心細かく、しみじみとしつつも、詠み方はきわめておおらかで、高貴な風格を持った御製である。
 
     薩妙観《さつめうくわん》の、詔に応《こた》へて和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
 
【題意】 「薩妙観」は、「薩」は氏、「妙観」は尼としての名である。帰化人の系統であろう。養老七年正月、従五位上を授けられ神亀元年正月、河上忌寸の姓を賜わり、天平九年二月、正五位下を授けられた人である。
 
4438 霍公鳥《ほととぎす》 此処《ここ》に近《ちか》くを 来鳴《きな》きてよ 過《す》ぎなむ後《のち》に しるしあらめやも
    保等登藝須 許々尓知可久乎 伎奈伎弖余 須疑奈无能知尓 之流志安良米夜母
 
【語釈】 ○此処に近くを 御座所に近くで、「を」は、感動の助詞。○過ぎなむ後に 今の時が過ぎた後には。「此処」という場所とともに、時も特別の時であったとみえる。○しるしあらめやも 鳴いても甲斐があろうか、ありはしない。
【釈】 霍公鳥は、ここの御座所に近く来て鳴いてくれよ。今の時が過ぎた後には、鳴いても甲斐があろうか、ありはしない。
【評】 詔に応えて詠んだものであるが、作意は、その場所、その時は、思い出の哀しみを尽くすのが本意であるという心で詠んでいるものとみえる。それだと故人となられた人の法事を営んでいるというような場合ではなかったかと思われる。その場合に即させての和え歌で、儀礼の範囲のものである。
 
     冬の日に、靫負《ゆげひ》の御井《みゐ》に幸《いでま》しし時、内命婦《うちのひめとね》石川朝臣の、詔に応《こた》へて雪を賦める歌一首 【諱を邑婆《おほば》といへり】
 
【題意】 「靫負の御井」は、宮中にあった御井の称であろう。衛門を古くは靫負と呼んだので、衛門府にあったものであろう。「内命婦」は、五位の女官の称。「石川朝臣」は、大伴安麿の妻で、坂上郎女の母である。「詔」は、左注にある。「諱」は、実名。
 
4439 松《まつ》が枝《え》の 土《つち》に著《つ》くまで 零《ふ》る雪《ゆき》を 見《み》ずてや妹《いも》が 籠《こも》り居《を》るらむ
(512)    麻都我延乃 都知尓都久麻※[泥/土] 布流由伎乎 美受弖也伊毛我 許母里乎流良牟
 
【語釈】 ○見ずてや妹が 見ずにあなたは。「や」は、疑問の係。「妹」は、女性に対しての代名詞で、ここは左注の水主内親王。
【釈】 松の枝が土に着くまでに深く置いている雪を見ずに、あなたは籠もっているのでしょうか。
【評】 眼前の雪景色のおもしろいのを、共に観ないのを惜しむ形で、病気の様子を尋ねた心である。要領よく、やすらかに詠んである。相応の力量のあったことが思わせられる。
 
     時に水主《もひとり》内親王、寝膳安からず。日を累《かさ》ねて参り給はず。因りて比の日を以ちて、太上天皇、侍嬬等に勅し給ひしく、水主内親王に遺らむ為に、雪を賦みて歌を作りて献《たてまつ》れとのり給ひしかば、ここに諸命婦等歌を作り堪へず。しかるに此の石川命婦、独此の歌を作りて奏し上げき。
      于v時水主内親王寝膳不v安。累v日不v參。因以2此日1太上天皇、勅2侍嬬等1曰、爲v遣2水主内親王1、賦v雪作v歌奉獻者、於v是諸命婦等不v堪v作v歌。而此石川命婦獨作2此歌1奏之。
 
【解】 「水主内親王」は、天智天皇の皇女で、母は栗隈首徳万の女である。天平九年二月、三品に叙せられて、その年の八月薨じた。「太上天皇」は、これを記録した時からいうと聖武天皇であるが、「諸命婦等」とあるように命婦が多く侍しており、その中に安麿の妻の石川命婦も加わっているところから見て、元正天皇であろう。
 
     右件の四首は、上総国の大掾正六位上大原|真人今城《まひといまき》、伝へ誦みて云へり。【年月いまだ詳ならず。】
      右件四首、上總國大掾正六位上大原眞人今城、傳誦云尓。 年月未v詳。
 
【解】 「四首」は、防人の歌からである。「大掾」は、上総国は大国で、大掾一人、少掾一人あった。「年月いまだ詳ならず」は、作歌の年月である。
 
     上総国の朝集使《てうしふし》大掾大原真人今城の、京に向ひし時、郡司の妻女《め》等の餞《はなむけ》せる歌二首
 
(513)【題意】 「朝集使」は、国庁より年四回、中央政府に行く使の一つで、その国の貢物を奉じて行く使。「大原今城」は、巻八(一六〇四)に出た。「郡司」は、その地の豪族の任ぜられる職。「餞せる歌」は、上京の途中その家に立ち寄って餞宴をされた時の歌。
 
4440 足柄《あしがら》の 八重山《やへやま》越《こ》えて いましなば 誰《たれ》をか君《きみ》と 見《み》つつ偲《しの》はむ
    安之我良乃 夜敞也麻故要弖 伊麻之奈波 多礼乎可伎美等 弥都々志努波牟
 
【語釈】 ○八重山越えて 幾重にも重なっている山を越して。○誰をか君と見つつ偲はむ 誰をあなたに似ているとして、見つつ思慕しましょうかで、「か」は、疑問の係。あなたに似る美貌の人は、他にはないの意。
【釈】 足柄の幾重にも重なる山を越してお出でになりましたならば、誰をあなただと見つつ思慕しましょうか。
【評】 餞宴の席に侍していた郡司の妻が、盃を勧める際に詠んだものである。作意は、今城の美貌をたたえるものである。下官の妻が、上官の美貌をたたえるということは、宴歌にもせよ稀有のことで、おそらく例のないものである。「足柄の八重山越えて」と、再び逢い難い人であるかのようにいっているが、今城の任は朝集使で、期間のあるものである。また帰任したからとて、逢える間柄でもなかろうから、要するにその心を合理化しようとしての口実にすぎない。郡司の妻という身分の女が、作歌は巧みにするが、その人柄のどういうものであったかを思わせられる歌である。
 
4441 立《た》ちしなふ 君《きみ》が姿《すがた》を 忘《わす》れずは 世《よ》のかぎりにや 恋《こ》ひ渡《わた》りなむ
    多知之奈布 伎美我須我多乎 和須礼受波 与能可藝里尓夜 故非和多里奈無
 
【語釈】 ○立ちしなふ 「立ち」は、接頭語。「しなふ」は、しなやかなで、京風の美としていっているもの。○忘れずは 「は」は、軽く添えたもので、忘れずして。○世のかぎりにや 命のある限りを。「や」は、疑問の係。
【釈】 しなやかなあなたの姿を忘れずに、命のある限り恋い続けることでしょうか。
【評】 上の歌を受けて、さらに進めていっているもので、美貌に対する限りなきあこがれを、それにふさわしい詠歎をこめていっているものである。この歌では、美貌を「立ちしなふ君が姿」と具体的にいっている。これは迎えて解すると都雅な姿と(514)いう意で、東国の粗野な姿に対比して、文化的な雅びた姿という意に取れる。この歌にはそうした意味も伴っていようが、それとしても相対していての歌なので、不自然な感がある。
 
     五月九日、兵部少輔大伴宿禰家持が宅《いへ》に集飲《うたげ》せる歌四首
 
4442 我《わ》が兄子《せこ》が 屋戸《やど》の瞿麦《なでしこ》 日並《ひなら》べて 雨《あめ》は降《ふ》れども 色《いろ》も変《かは》らず
    和我勢故我 夜度乃奈弖之故 比奈良倍弖 安米波布礼杼母 伊呂毛可波良受
 
【語釈】 ○日並べて雨は降れども 毎日雨が降っているがで、おりからの梅雨。
【釈】 親しいあなたの庭の瞿麦は、毎日雨が降っているが、色も変わりません。
【評】 客として、主人の家の庭の花の美しさをたたえているもので、儀礼の範囲のものである。瞿麦は雨で色が褪せない花で、のみならずかえって美しく見える物である。「色も変らず」は、花の賞美だけではなく、主人に対しての賀の心をこめてのものである。
 
     右の一首は、大原真人今城。
      右一首、大原眞人今城。
 
4443 ひさかたの 雨《あめ》は降《ふ》りしく 瞿麦《なでしこ》が いや初花《はつはな》に 恋《こひ》しき我《わ》が夫《せ》
    比佐可多能 安米波布里之久 奈弖之故我 伊夜波都波奈尓 故非之伎和我勢
 
【語釈】 ○ひさかたの雨は降りしく 「ひさかたの」は、天を雨に転じての枕詞。「降りしく」は、降りしきっている。○いや初花に いよいよ続いて咲く初花のごとくにで、下の「恋しき」の響喩。
【釈】 雨は降りしきっている。瞿麦のいよいよ続いて咲く初花のように、恋しいあなたよ。
(515)【評】 客の歌に和えたもので、同じく雨と瞿麦を材として、今城の恋しさをいったものである。「ひさかたの雨は降りしく」は、語としては三句以下に直接に続かないが、雨中の瞿麦はことに美しいものなので、気分としては「いや初花に」の初花を美化させるものとしてのつながりのあるものである。こうした言い方は家持の風である。自在で、豊かさのある歌である。
 
     右の一首は、大伴宿禰家持。
      右一首、大伴宿祢家持。
 
4444 我《わ》が夫子《せこ》が 屋戸《やど》なる芽子《はぎ》の 花《はな》咲《さ》かむ 秋《あき》のゆふべは 我《われ》を偲《しの》はせ
    和我世故我 夜度奈流波疑乃 波奈佐可牟 安伎能由布敞波 和礼乎之努波世
 
【語釈】 ○秋のゆふべは我を偲はせ 「秋のゆふべ」は、物を思う時としてある意のもの。「偲はせ」は、「偲へ」の敬語で、思ってください。
【釈】 親しいあなたの庭にある萩の、花が咲くであろう秋の夕べには、わたくしをお思いください。
【評】 大原今城は、上総国から朝集使として上京しているのであるから、不日帰任することとなっていたとみえる。それで今城は、別れると容易には逢えないことを思って、物を思うという秋の夕べには、せめて思い出してくださいとの心を、庭に見える萩に寄せていったのである。わたしを忘れないでくださいという意を美しくいったのである。宴歌としては巧みである。
 
     右の一首は、大原真人今城。
      右一首、大原眞人今城。
 
     即鶯の哢《な》くを聞きて作れる歌一首
 
【題意】 「即」は、その時。「鶯」は、梅雨季のもので、時節はずれのものである。
 
4445 鶯《うぐひす》の 声《こゑ》は過《す》ぎぬと 思《おも》へども 染《し》みにし情《こころ》 なほ恋《こ》ひにけり
(516)    宇具比須乃 許惠波須疑奴等 於毛倍杼母 之美尓之許己呂 奈保古非尓家里
 
【語釈】 ○声は過ぎぬと 鳴く時は過ぎ去ったと。○染みにし情 馴染となった心は。「に」は、完了の助動詞で、強めたもの。○なほ恋ひにけり やはり恋うていたことであった。
【釈】 鶯の鳴く時は過ぎ去ったと思っていたが、馴染となった心は、やはり恋うていたことであった。
【評】 おりから庭に来て鳴いた、時節はずれの鶯の声を、即興風に詠むことによって、今城の上の歌に和えたのである。すなわち今城の忘れてくださるなといったのに対し、好いと思って身に沁みた鶯の声は、いつでも恋しいものであるといって、鶯を今城に譬えたのである。今城の秋の萩の花を、春の鶯に対させたもので、心も形も要を得た和えである。家持の歌は機才の乏しいものにみえていたが、この歌など、機才の十分に働いているものである。
 
     右の一首は、大伴宿禰家持。
      右一首、大伴宿祢家持。
 
     同じ月の十一日、左大臣橘卿、右大弁|丹比国人《たぢひのくにひと》真人の宅《いへ》に宴《うたげ》せる歌三首
 
【題意】 「橘卿」は、諸兄。「右大弁」は、太政官の弁官で、諸兄の下僚。「丹比国人」は、巻三(三八二)に出た。
 
4446 我《わ》が屋戸《やど》に 咲《さ》ける瞿麦《なでしこ》 幣《まひ》はせむ ゆめ花《はな》散《ち》るな いやをちに咲《さ》け
    和我夜度尓 佐家流奈弖之故 麻比波勢牟 由米波奈知流奈 伊也乎知尓左家
 
【語釈】 ○咲ける瞿麦 咲いている瞿麦よで、呼びかけ。○幣はせむ 贈物をしよう。「幣」は、贈物で、他に物を頼む時には、まず贈物をすることになっていたので、頼もうの意。瞿麦を擬人してのこと。○いやをちに咲け 「をち」は、若変水《おちみず》のそれで、老いても若きに変わる意で、永久の意。いよいよ永久に咲けよ。
【釈】 わたしの庭に咲いている瞿麦よ、贈物をして頼もう。けっして花は散るな。永久に咲けよ。
【評】 主人として、客の諸兄を賀したのである。諸兄はすでに高齢になっていたので、その長寿を賀したので、瞿麦は眼前に(517)ある花であり、また盛り久しい花なので、それに寄せたのである。
 
     右の一首は、丹比国人真人の、左大臣を寿《ことほ》く歌。
      右一首、丹比國人眞人、壽2左大臣1歌。
 
4447 幣《まひ》しつつ 君《きみ》がおほせる 瞿麦《なでしこ》が 花《はな》のみ訪《と》はむ 君《きみ》ならなくに
    麻比之都々 伎美我於保世流 奈弖之故我 波奈乃未等波無 伎美奈良奈久尓
 
【語釈】 ○幣しつつ君がおほせる 「幣しつつ」は、贈物をしつづけてで、贈歌の語を取ったもの。「おほせる」は、生い育てたで、丹精しつつあなたが育てたの意。○瞿麦が花のみ訪はむ 瞿麦の花のおもしろさだけを見に訪おうとする。「花」は、「実」に対する語で、花は興味、「実」は、心の真実をあらわす成語となっており、ここもその意のものである。「瞿麦」は、贈歌の語で、興味でだけあなたを訪おうとするの意。○君ならなくに あなたではないことであるよ。「君」は、「我」とあると意味が明瞭になるが、このままでは解し難くみえる。しかし作意としては我でなくてはならない。ここも「我」というべきを、「君」と言いかえたものと取れる。上代の言い方として、このように相対して儀礼的な物言いをする場合には、あくまで相手のほうを主として、自身の方は抑えた言い方をするのが風となっていたので、ここもそれをしたのである。
【釈】 丹精をしつつもあなたが育てた、瞿麦の花のおもしろさだけで訪おうとする、そのようなあなたとは思ってはいないことであるよ。
【評】 上の国人の賀に対して諸兄の和えた挨拶で、同じく瞿麦の花を材とし、わたしもあなたの真実を頼んでいることですという意をおおらかな形においていっているものである。左大臣の地歩を占めての挨拶である。
 
     右の一首は、左大臣の和ふる歌。
      右一首、左大臣和謌。
 
4448 紫陽花《あぢさゐ》の 八重《やへ》咲《さ》く如《ごと》く やつ世《よ》にを いませ我《わ》が夫子《せこ》 見《み》つつしのはむ
(518)    安治佐爲能 夜敞佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都々思努波牟
 
【語釈】 ○八重咲く如く 「八重咲く」は、花の群らがって咲く。○やつ世にを 「やつ世」は、八つ代で、多くの代を重ねて、永久の意。「を」は、感動の助詞。○いませ我が夫子 「いませ」は、「ゐよ」の敬語。「我が夫子」は、国人で、呼びかけ。○見つつしのはむ 逢いながら君を思おう。
【釈】 紫陽花の群らがって咲くように、多くの代にいらっしゃいませ、親しいあなたよ。逢いながら君を思いましょう。
【評】 諸兄が国人の長寿を賀したもので、賀されたのに対して賀し返したのである。賀歌なので、「いませ我が夫子」と対当な立場に立ち敬語を用いているのである。「見つつしのはむ」は、国人の賀のために、自身も長寿を保ちうるものとしていっているものと取れる。「紫陽花」は、左注にあるように眼前の物で、宴歌にふさわしい。寛厚な人柄を思わせる歌である。
 
     右の一首は、左大臣の、味狭藍《あぢさゐ》の花に寄せて詠める。
      右一首、左大臣寄2味狹藍花1詠也。
 
【解】 「寄せて詠める」は、寄せて、国人を賀して詠んだ意。
 
     十八日、左大臣の、兵部卿橘奈良麿朝臣の宅《いへ》に宴《うたげ》せる歌三首
 
4449 瞿麦《なでしこ》が 花《はな》取《と》り持《も》ちて うつらうつら 見《み》まくの欲《ほ》しき 君《きみ》にもあるかも
    奈弖之故我 波奈等里母知弖 字都良々々々 美麻久能富之伎 吉美尓母安流加母
 
【語釈】 ○瞿麦が花取り持ちて 譬喩として「うつらうつら」に懸かる序詞。○うつらうつら 他に用例のない語である。『代匠記』は、巻一(五四)「つらつら椿つらつらに」の「つらつら」と同意の語で、熟の字を当てる語であると解している。これに従う。
【釈】 瞿麦の花を手に取って持って、つくづくと見るように、つくづくと見たいと思うあなたであることよなあ。
【評】 客として主人の奈良麿にいっているもので、宴の挨拶である。瞿麦は主人の庭の物である。序詞は宴歌の型のごときもので、四、五句は慣用句である。「うつらうつら」に新味があるが、不明が伴っている。
 
(519)     右の一首は、治部卿|船王《ふねのおほきみ》。
      右一首、治部卿船王。
 
【解】 「船王」は、舎人皇子の子である。巻六(九九八)に既出。
 
4450 我《わ》が夫子《せこ》が 屋戸《やど》の瞿麦《なでしこ》 散《ち》らめやも いや初花《はつはな》に 咲《さ》きは益《ま》すとも
    和我勢故我 夜度能奈弖之故 知良米也母 伊夜波都波奈尓 佐伎波麻須等母
 
【語釈】 ○散らめやも 「や」は、反語で、散ろうか、散りはしない。瞿麦の花は、花のまま枯れるものである。○いや初花に いよいよ初花に咲いての意。この句は上の(四四四三)に出た。
【釈】 親しい君の庭の瞿麦は散ろうか、散りはしない。いよいよ初花に咲いて、咲き増そうとも。
【評】 主人の奈良麿を、その庭のおりからの瞿麦の花に譬えて、その盛り久しいことを賀したのである。宴歌の型どおりに詠んだ程度の歌である。
 
4451 愛《うるは》しみ 我《あ》が思《も》ふ君《きみ》は 瞿麦《なでしこ》が 花《はな》に比《なそ》へて 見《み》れど飽《あ》かぬかも
    宇流波之美 安我毛布伎美波 奈弖之故我 波奈尓奈蘇倍弖 美礼杼安可奴香母
 
【語釈】 ○愛しみ 愛すべく。○花に比へて 花に君をなぞらえて。
【釈】 愛すべくわたしの思っているあなたは、瞿麦の花になぞらえて、見ても飽きないことですなあ。
【評】 これは同じく瞿麦の花に寄せてはいるが、賀の心から離れて、親愛の情をいっているものである。瞿麦は眼前の物であり、当時酷愛されていた花であるから、宴歌としては要を得たものである。
 
     右の二首は、兵部少輔大伴宿禰家持迫ひて作れる。
(520)     右二首、兵部少輔大伴宿祢家持追作。
 
【解】 「追ひて作れる」は、後に作ったのである。二首、型どおりのもので、気分の足りない歌であるのは、そのためであろう。
 
     八月十三日、内《うち》の南の安殿《やすみどの》に在《いま》して肆宴《とよのあかり》きこしめせる歌二首
 
【題意】 「安殿」は、大極殿を大安殿というのに対しての称で、小殿であり、安らかにまします殿の意であろうという。「内の」は、書紀、天武紀に「外安殿」の語があるので、それに対しての称で、外よりも重んじた殿であることが知られる。「南の」は、史上には、東、南、西の三殿が見える。「肆宴」は、宮中の宴の称。
 
4452 嬢子《をとめ》らが 玉裳《たまも》裾《すそ》びく この庭《には》に 秋風《あきかぜ》吹《ふ》きて 花《はな》は散《ち》りつつ
    等賣良我 多麻毛須蘇婢久 許能尓波尓 安伎可是不吉弖 波奈波知里都々
 
【語釈】 ○嬢子らが玉裳裾びく 「妹子」は、女官。「玉裳」は、裳の美称。「裾びく」は、熟語で、裾を引いて歩くこと。○花は散りつつ 「花」は、「秋風」との関係で、萩の花。「散りつつ」は、散りつつありの意。
【釈】 女官らが、美しい裳の裾を引いて歩くこの庭に、秋風が吹いて、花が散りつづけている。
【評】 禁苑を歩いている女官らの美しさと、さわやかな秋風に萩の花の散りつづけている清らかなさまの一つになっている趣をたたえて、天皇に対する賀の歌としたのである。臨時の肆宴であるから、賀の心も、おおらかにそれとない程度にとどめたのであろう。自然な、美しい歌である。
 
     右の一首は、内匠頭《たくみのかみ》兼播磨守正四位下|安宿王《あすかべのおほきみ》の奏せる。
      右一首、内匠頭兼播磨守正四位下安宿王奏之。
 
【解】 「安宿王」は、(四三〇一)に出た。天平勝宝五年四月播磨守となり、六年九月兼内匠頭となった。
 
(521)4453 秋風《あきかぜ》の 吹《ふ》き扱《こ》き敷《し》ける 花《はな》の庭《には》 清《きよ》き月夜《つくよ》に 見《み》