牧野富太郎選集 5、東京美術、1970.9.14(1981.7.25.新装版第2刷)
 
(182) ハマユウの語原
 
 ハマユウはハマオモトともハマバショウともいうもので、漢名は『広東新語』にある文珠蘭であるといわれる。宿根生の大形常緑草本でヒガンバナ科に属し Crinum asiaticum Lvar.japonicum Baker の学名を有し、わが国暖国の海浜に野生している。葉は多数叢生して開出し、長広な披針形をなし、質厚く緑色で光沢がある。茎は直立して太く短い円柱形をなし、その葉鞘が巻き重なって偽茎となっている。八、九月頃の候葉間から緑色の蔕を抽き、高い頂に多くの花が集まって繖形をなし、花は白色で香気を放ち、狭い六花蓋片がある。六雄蕋、一子房があってその白色花柱の先端は紅紫色を星する。花後に円実を結び淡緑色の果皮が開裂すると大きな白い種子がこぼれ出て砂上にころがり、その種皮はコルク質で海水に浮かんで彼岸に達するに適している。そしてその達するところで新しく仔苗をつくるのである。
 葉の本の茎はじつは本当の茎ではなく、これはその筒状をした葉鞘が前述のように幾重にも巻き重なって直立した茎の形を偽装しており、これを幾枚にも幾枚にも剥がすことができ、それはちょうど真っ白な厚紙のようである。
(183) 『万葉集』巻四に
  三熊野之浦乃浜木綿百重成心者雖念直不相鴨《みくまぬのうらのはまゆふももへなすこころはもへどただにあはぬかも》
という柿本人麻呂の歌がある。この歌中の浜木綿《はまゆう》はすなわちハマオモトである。この歌の中の「百重成」の言葉はじつに千金の値がある。浜木綿の意を解せんとする者はこれを見逃してはならない。
 貝原益軒の『大和本草』に『仙覚抄』を引いて
   浜ユフハ芭蕉ニ似テチイサキ草也茎ノ幾重トモナクカサナリタル也ヘギテ見レバ白クテ紙ナドノヤウニヘダテアルナリ大臣ノ大饗ナドニハ鳥ノ別足ツヽマンレウニ三熊野浦ヨリシテノボセラルヽトイヘリ
とある。また『綺語抄』を引いて
  浜ユフは芭蕉葉ニ似タル草浜ニ生ル也茎ノ百重アルナリ
ともある。
 また月村斎宗碩の『藻塩草』には「浜木綿」の条下の「うらのはまゆふ」と書いた下に   みくまのにあり此みくまのは志摩国也大臣の大饗の時はしまの国より献ずなる事旧例也是をもって雉のあしをつゝむ也抑此はまゆふは芭蕉に似たる草のくきのかはのうすくおほくかさなれる也もゝへとよめるも同儀也又これにけさう文を書て人の方へやるに返事せねば其人(184)わろしと也又云これにこひしき人の名をかきて枕の下にをきてぬればかならず夢みる也此みくまのは伊勢と云説もあり何にも紀州にはあらず云々
とある。
 浜木綿《ハマユウ》とは浜に生じているハマオモトの茎の衣を木綿《ユウ》(ユウとは元来は楮すわなちコウゾの皮をもって織った布である。この時代にはまだ綿はなかったから、ひっきょう木綿を織物の名としてその字を借用したものにすぎないのだということを心に留めておかねばならない。ゆえにユウを木綿と書くのはじつは不穏当である)に擬して、それで浜ユウといったものだ。人によってはその花が白き幣を懸けたようなのでそういうといっているけれど、それは皮相の見で当たっていない。本居宣長の『玉かつま』十二の巻「はまゆふ」の条下に
   浜木綿……浜おもとと云ふ物なるべし……七月のころ花咲くを其色白くて垂《たり》たるが木綿に似たるから浜ゆふとは云ひけるにや
と書いてあるが、「云ひけるにや」とあってそれを断言してはいないが、花が白くて垂れた木綿に似ているから浜ユウというのだとの説は、とっくに人麻呂の歌を熟知しおられるはずの本居先生にも似合わず間違っている。
 同じく本居氏の同書『玉かつま』木綿の条下に
   いにしへ木綿《ユフ》と云ひし物は穀《カヂ》の木の皮にてそを布に織たりし事古へはあまねく常の事なり(185)しを中むかしよりこなたには紙にのみ造りて布に織ることは絶たりとおぼへたりしに今の世にも阿波ノ国に太布《タフ》といひて穀の木の皮を糸にして織れる布有り色白くいとつよし洗ひてものりをつくることなく洗ふたびごとにいよ/\白くきよらかになるとぞ
と書いて木綿《ユウ》が解説してある〔牧野いう、土佐で太布《タフ》というのは麻《アサ》で製した布のものをそう呼んでいた〕。
 小笠原島にオオハマユウというものがある。その形状はハマユウすわなちハマオモトと同様でただ大形になっているだけである。この学名は Crinum gigas Nakai である。が、私は今これを Crinum asiaticum L.var.gigas (Nakai) Makino (nov.comb.) とするのがよいと信じている。
               1953年『植物一日一題』より
 
 
牧野富太郎選集 2、東京美術、1970.5.20(1981.7.25.新装版第2刷)
 
(235) 万葉集巻一の草木解釈
 
     アズサ
 
  八隅知之《やすみしし》……御執乃《みとらしの》……梓弓之《あづさのゆみの》……
 アズサはわが日本の特産で支那にはない。ゆえに古くからこれに当て用いている梓の字はこのアズサから取り除かねはならぬのである。つまりアズサは梓ではないのである。アズサを梓とすることはまったく昔から、これまでの学者の思い違いでいわゆる認識不足の致すところである。しからば梓とはどんな樹かというと、これはひとり支那のみに産する落葉喬木で、かのキササゲ(楸)と同属近縁の一種である。白色合弁の脣形花が穂をなして開き、後ちょうどキササゲのような長い莢の実を結ぶのである。私はかつて東京春陽堂で発行になった『本草』という雑誌の創刊号にその図説を出し、そしてトウキササゲの新和名を付けておいたが、しかしまだその生本は日本へ来たことがない。この梓は支那では木王といって百木の長ととうとび、梓より良い木は他にはないととなえている。それゆえ書物を板木に彫るを上梓といい、書物を発行するを梓行と書(236)くのである。
 アズサの称呼はすこぶる古いが、しかしそれはまだ今日でも死語とはなっていない。そして地方の方言としてある山中にのこっているのである。この方言を使ってここにアズサの実物が明らかにせられたが、それは故白井光太郎博士の功績に帰せねばなるまい。
 昔アズサを弓に製して信州などの山国からこれを朝廷にみつぎした。すなわちこれがいわゆるアズサユミである。今日植物界では一般にこの樹をミズメともヨグソミネバリとも呼んでいる。山中に入ればこれを見ることができるが、これはシラカンパ属の一種で大なる落葉喬木をなしている。試みにその小枝を折りて嗅げば一種の臭気を感ずるからすぐに見分けがつく。その材はいま一例を挙げてみれば、かの安芸の宮島で売っている杓子や盆などもこれで作られる。
 葉は枝に互生し長楕状卵形で短柄をそなえ鋸歯があり、多くの支脈が斜めに平行している。わかいときは白い絹毛がある。また稚樹のものは小形で毛があり卵形で、老葉とはややその観を異にし、新枝のものには葉柄のもとに小さい托葉がある。老葉は去年に出た短枝に各二葉ずつ付くこと同属の他種と同様である。果穂は長楕円形で小枝の葉間に出で、多数の三岐鱗片が鱗次し小さい翅果を擁している。
 従来小野蘭山を初めとして日本の諸学者は梓をアカメガシワ(タカトウダイ科の落葉樹でまたゴサイバの名がある。またカワラガシワともいう)であると唱え、さらにこのアカメガシワをア(237)ズサだとなし、また学者によってはキササゲをアズサとなしているのはその妄断じつに笑うべしであるが、さらに驚くのはかの有名な『大言海』にアズサをキササゲあるいはアカメガシワとなして依然として旧説を掲げ、既にとく明らかになっているアズサの本物にいっこう触れていないことである。
 
     ミクサ
 
  金理乃《あきのぬの》 美草苅葺《みくさかりふき》 屋杼礼里之《やどれりし》 
兎道乃宮子能《うぢのみやこの》 借五百磯所念《かりいほしおもほゆ》
 
 ミクサは美草でススキをほめてとなえたものである。人によりてはミクサは秋の百草だといっている。またオバナをそうよむべしと唱えているが、尾花のみでは屋根を葺くに足らぬゆえ、その説は不満足に感ずる。
 
     コマツ
 
  吾勢子波《わがせこは》 借廬作良須《かりほつくらす》 草無者《かやなくば》 小松下乃《こまつがもとの》 草乎苅核《かやをからさね》
 コマツは小松であまり太くない小柄な松をいうのである。
 
     ヌハリ
 
(238)  綜麻形乃《へそがたの》 林始乃《はやしのさきの》 狭野榛能《さぬはりの》 衣爾著成《きぬにつくなす》 目爾都久和我勢《めにつくわがせ》
 ヌハリは野榛で野に生えているハリ、すなわちハンノキをいったものだ。ハリについては下にくわしく述べてある。
 
     アカネ
 
  茜草指《あかねさす》 武良前野逝《むらききぬゆき》 標野行《しめぬゆき》 野守者不見哉《ぬもりはみずや》 君之袖布流《きみがそでふる》
 アカネはわが邦のどこにも見られるアカネ科の宿根植物で、山野に出ずればすぐ見付かる蔓草である。その茎葉に、逆向せる鈎刺があってよく衣などに引っかかるから、一度覚えるともはや忘れぬ草である。さかんに他の草木の上に繁衍し、茎は四稜で鈎刺はその稜に生じている。長い葉柄をもった卵形あるいは卵状心臓形の薬は四枚ずつ茎に輪生しているが、じつ言うとその中の二枚は元来は托葉で、それが対立している葉と同形となっているので、これがこの類の特徴である。秋になると梢に反覆分枝し、五裂花冠と五雄蕋とを有する淡黄色の小花をたくさんに開いている。花がすんだ後には双頭状をなした小さい果実ができ、秋が深けるとその苗が枯れる。
 根は太い鬚状で黄赤色を呈し、これから染料を採りいわゆる茜染めをする。茜で染めたものは黄赤色でちょうど紅絹《もみ》の褪せたような色である。往時はふつうに染めたものだが今代ではきわめて稀にこれを見るにすぎない。私は先年秋田県の花輪町でそれを染めさせたことがあった。
(239) ふつうに茜染めのあった時代に贋の茜染めがあった。それは蘇枋《スオウ》で染めたもので本当の茜染めよりはその色が赤かったのである。
 アカネの根から前述のように染料が採れその色が赤いから、「あかねさす」という枕言葉も生じたわけで、それは赤いことを意味する。
 茜草はアカネの草の漢名で字音はセンソウであってセイソウではない。支那の古い書物の『説文』には、この草は人の血が化したものだといっているのは面白い。同国でもこの草の根を用いて縫色を染める。
 和名のアカネは赤根の意味で、前に言ったようにその根が赤いからである。支那ではこれを茜根と書いている。アカネは国によりアカネカズラともベニカズラとも呼ばれる。
 
     ムラサキ
 
  柴草能《むらさきの》 爾保敝類妹乎《にほへるいもを》 爾苦久有者《にくくあらば》 人嬬故爾《ひとづまゆゑに》 吾恋目八方《われこひめやも》
 ムラサキは漢名の紫草でムラサキ科の宿根草である。山地向陽の草間に生じて一株に一条ないし三条ばかりの茎が出て直立し、斜めに縦脈のある狭長葉を互生し、茎とともに手ざわりあらき毛を生ずる。七、八月の候、茎稍分枝し枝上の苞葉腋ごとに五裂花冠の小白花を下から順次に開き、開謝相次ぎ久しきにわたって終わる。枝末の嫩き部は多少外方に巻曲して、ムラサキ科植物(240)の常套特徴をあらわしている。ムラサキの名にふさわしい美花を開くと思いきや、それはまったく意外でまことに平凡な小花を出すにすぎない。しかし万緑叢中に点々としてその純白花の咲いている風情はまた多少捨て難いところがないでもなく、これがムラサキの花だと思うとなんとなく貴く感じ、思わずこれを見つむる心にもなる。花がすむと堅き粒状の小実を宿存萼の中心に結び、平滑でついに真珠色を呈するにいたるが、採ってこれを蒔けばよく生える。
 この草の根が紫根で、いわゆる紫根染めの原料である。その根は地中に直下する痩せた牛旁根で、単一あるいは分岐し、生時はその根皮が暗紅紫色を呈している。昔は江戸紫などととなえ一般に紫はその紫根で染めたものだが、今日では美麗な新染料に圧倒せられてこのユカリの色の紫を紫根で染めることはじつに稀になってしまった。それでも染める紺屋がたまにはないでもないので、私は以前これを秋田県の花輪町で染めさせたことがあった。それを娘の衣服に仕立ててみたが、現代の紫に比ぶればその色が冴えないので、よほど目の利いたクロウトに出会わない限り、着損をするようだ。しかしなかなか奥ゆかしい色であることは請け合うておく。
 「紫の一もとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」とあって、このムラサキは武蔵野の景物の大立物ではあるが、星移り物変わった今日では武蔵野にはめったにこれが見つからない。絶対にないではないが、昔のようにそこここに見つからない。
 
(241)     ソ
 
  打麻乎《うつそを》 麻績王《をみのおほきみ》 白水郎有哉《あまなれや》 射等籠荷四間乃《いらごがしまの》 玉藻苅麻須《たまもかります》
 ソはオと同じでアサの皮の繊維をいうのである。そしてその青色を帯びるものをアオソと称する。オはアサの草の名としても用いられ、またその皮の繊維の名としても用いられる。畢竟繊維に用いられるときはソの一名となるわけである。
 アサは漢名は大麻と称する。上古より古くわが邦に作られている重要植物の一つで、クワ科に属する一年草である。春どき畑に下種して作る。茎は高く成長し、鈍四稜で緑色を呈し梢に分枝する。葉は葉柄があって茎に対生すれども、梢にあつては互生する。掌状全裂葉で五ないし十一裂片相並び、狭長で尖鋸歯がある。茎葉より一種不快の臭いを放つゆえに、その畑に近づくと嫌なにおいに襲われる。雄本(オアサという)雌本(メアサあるいはミアサという)があって、共に梢に花が咲く。花は小形でなんらその色の美はない。堆本は梢の枝上に花穂をなし、黄緑色五萼片の小花は下に向いて開き、五雄蕋が下がって黄色の花粉を風の吹くままに飛散する。いわゆる風媒花である。雌本には小なる雌花が枝上の葉間に位して一子房を有し、花後に実ができる。いわゆるオノミである。
 秋になればアサを刈り皮を剥ぎその繊維を採る。これすなわちソあるいはオである。その皮を(242)剥ぎ去った白い裸の茎をアサガラあるいはオガラといい、朝鮮ではこれを麻骨と称すと書物にある。
 
     タマモ
 
  打麻乎《うつそを》 麻績王《をみのおほきみ》 白水郎有哉《あまなれや》 射等籠荷四間乃《いらごがしまの》 珠藻苅麻須《たまもかります》
  空蝉之《うつせみの》 命乎惜美《いのちををしみ》 浪爾所湿《なみにひで》 伊良虞能島之《いらごのしまの》 玉藻苅食《たまもかりはむ》
  玉藻苅《たまもかる》 奥敝波不榜《おきへはこがじ》 敷妙之《しきたへの》 枕之辺《まくらのほとり》 忘可禰津藻《わすれかねつも》
 タマモは玉藻あるいは珠藻で、ここは海藻を指し、玉もしくは珠は藻の美称としてつけたものである。橘千蔭は「玉藻は藻の子は白く玉の如くなれば言へり」と言っているが、そうなると、玉のある海藻はまず差しあたりかの玉のような浮嚢を有するホダワラ(ホンダワラ)の一属諸種を指して言ったものと見ねばならぬ。しかしホダワラ一類はあえて人の食用とするものでないから、ここの玉と珠とは前述のとおり藻を美称するに付けたものだとする方が穏当である。
 
     ツガ
 
  玉手次《たまたすき》 畝火之山乃《うねびのやまの》 樛木乃《つがのきの》 弥継嗣爾《いやつぎつぎに》……
 ツガはまたトガともいい、俗に栂の字が使ってあるが、また古くは樛木とも書いてある。しか(243)しこれらはもとよりツガの漢名ではない。 マツ科の常緑喬木で巨幹を有し高聳する。わが邦中部以西の山中に生じ、小枝繁く葉は小さき線形で長短不同の葉が二列をなして小枝上に排列している。枝端に生ずる毬果は長楕円形で下向し、重なった鱗片がこれを擁しその鱗内に種子がある。材は建築用または器具用などにする。
 ツガの姉妹品にコメツガがあって同じく大木となる。葉はツガより小さく毬果は少し円い。わが邦中部以北の山地に生じているが、このコメツガはけだし古歌とはあまり関係がないものであろう。
 
     ハママツ
 
  白波乃《しらなみの》 浜松之枝乃《はままつがえの》 手向草《たむけぐさ》 幾世左右二賀《いくよまでにか》 年乃経去良武《としのへぬらむ》
 ハママツは浜松で浜に生えている松である。そしてその種類はクロマツでなければならぬ。
 
     マキ
 
  八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》…… 其木立《まきたつ》 荒山道乎《あらやまみちを》 石根《いはがねの》……
 マキはまたマケともいわれる。マキは真木であるが、これに両説があって一つはスギとし一つはヒノキとする。貝原益軒はスギは古名がマキでマキノトというのは杉戸のことであるといって(244)いる。またヒノキは諸木の上乗なものであるから、これを賞讃して真木というのだとの説もある。しかし歌はいずれの木へでも通ずる。
 右は古名のマキであるが、今名のマキというのはまったく別の木であるから、これを混合してはならない。すなわち今日いうマキはクサマキを略したもので、これは一つにイヌマキとも称する。山中に自生し葉は狭長で三、四寸の長さがある。この一種にラカンマキというものがあって、よく海に近い地の人家の生籬としまた寺院などの庭樹になっている。この品は支那にも日本の南部にも野生がある。すなわち漢名の羅漢松である。従来この羅漢松をイヌマキの漢名だとしてあったが、それは誤りでこれはラカンマキの支那名である。この樹の葉はイヌマキのそれよりは小形で、もっと枝に密生している。
 
     マクサ
 
  真草苅《まくさかる》 荒野二者雖有《あらぬにはあれど》 黄葉《もみぢばの》 過去君之《すぎにしきみが》 形見跡曾来師《かたみとぞこし》
 マクサは真草でススキの美称であるが、しかし実際はこれを刈るときたとえススキが主体になっていても、それにまじわりていろいろの草もいっしょに刈り込まれるのであろう。
 
     ヒ
 
(245)  八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》…… 田上山之《たなかみやまの》 真木佐苦《まきさく》 槍乃嬬手乎《ひのつまでを》……
 とはヒノキで従来から通常檜の字が当ててあるが、これは当たっていなく、檜はイブキビャクシン(略してイブキという)の漢名である。そしてヒノキには扁柏の漢名が慣用せられていれど、これもまた適中していないと思う。ヒノキは支那にない樹だからしたがって支那名があるはずがない。
 ヒノキは火の木の義で、この材を他の木とすり合わすと自然に発火するのでこの名がある。日本の古代人はたぶんこのヒノキで火を出したであろう。
 伊勢の大神宮では今日でもヤマビワの木で鋸のようにヒノキをもんで発火させ、これを御神火として神前へ供する儀式がある。
 ヒノキは山中に生ずる常緑の喬木で、多く枝を分かち葉は小形で小枝の両側に連着し、緑色で下面に少しく白色を有することがある。春どき枝上に長楕円形黄褐色の細花穂を群着し多量の黄色花粉を散出する。毬果は球形で直径三分ばかり、これまた枝上に群生し秋になって熟すれば褐色となり、堅い数鱗片を聞いて褐色種子を散ずる。材は良好で建築に賞用せられ、質密で色白く木の香りが高い。
 
     ツラツラツバキ
 
(246)  巨勢山乃《こせやまの》 列列椿《つらつらつばき》 都良都良爾《つらつらに》 見乍思奈《みつつしぬばな》 許湍乃春野乎《こせのはるぬを》
 ツバキの木がたくさん連なり続いて茂り、花も咲き満ちているのをいったものである。
 
     ハリ
 
  引馬野爾《ひくまぬに》 仁保布榛原《にほふはりはら》 入乱《いりみだれ》 衣爾保波勢《ころもにほはせ》 多鼻能知師爾《たびのしるしに》
 ハリはハリノキで今日ではふつうにハンノキと呼んでいる。従来これに赤楊の漢名が当ててあれどこれは誤りであると思う。また日本で榛の字を用いていれどこれは漢名ではなくまったく俗字である。そして榛の字音はシンで元来はハシバミの漢名である。ゆえに漢名としてこの字を正当に用いるとしたら、榛はハリすなわちハンノキとはなんの交渉も持っていない。またなお俗字として※[木+豈]だの※[木+番]だのの字が使われている。
 ハリすなわちハンノキはカバノキ科の落葉樹で、山間の湿りたる地を好んで生じ所々に林をなしている。東京付近ではよくこれを田の畦に植え、秋になって刈り稲を掛けるに便している。材は種々の用途がある。葉は葉柄を有して枝上に互生し、広披針形で尖り鋸歯がある。早春新葉に先だちて枝梢に雌雄花を着ける。雄花はいわゆる※[草冠/柔]※[草冠/夷]《じゆうてい》花穂をなし、褐緑色で下垂し、細花集まり付き黄色花粉を※[米+參]出する。雌花穂は小形で分枝せる硬端に付き暗赤色を呈している。それが後に楕円形、あるいは円形の果穂となり、秋になると多くの堅い鱗片が開いて中の種子が散落する。(247)この熟した果穂を採り集め、茶色を染める染料に使用する。
 ハリは人によりハギすなわち萩(この場合これは和字である。支那の萩と字面は同じだけれどまったく別である)であるという説がある。これも一説であながち排斥すべきものではないと思う。数首の歌の中にはかえってハギである方がよいようにも思われる。昔はハギの花も衣に摺りてその花色を移したこともあったであろう。またあり得べきことだとも考えられる。とにかく万葉研究者には研究の余地を残した好問題であるといえる。
 
     アシ
 
  葦邊行《あしへゆく》 鴨之羽我比爾《かものはがひに》 霜零而《しもふりて》 寒暮者《さむきゆふへは》 倭之所念《やまとしおもほゆ》
 アシは又ヨシともいわれるが、これはアシを惡しいとて、縁起を祝いヨシすなわち善しとしたもので、本来の名はまさしくアシである。ゆえに豊葦原はトヨアシハラといってトヨヨシハラとはいわない。しかるに今日ではアシの茂っている所をヨシハラと呼んでアシハラといわぬのは、トヨアシハラとまったく反対になっていて面白い。
 アシは漢名を蘆と書く。また葦と書いてもよろしく、また葭と書いても差支えはない。この三つはいずれもアシのことではあるが、しかし支那の説では初生の芽出しが葭で、それがもっと生長した場合が蘆で、そして充分成長したものが葦であり、葦は偉大の意味だと書いてある。
(248) アシはわが邦諸州の沼沢諸地ならびに河辺の地に生じて大群をなし、いわゆるヨシハラをなしている。その茎すなわち稈はヨシ簾《ズ》にするのでだれもがよく知っている。支那では蘆筍といってその嫩芽を食用にし市場にも売っているが、日本のものは支那のものより瘠せているからだれもその筍を採って食う人がない。しかし私はかつてこれを試みに煮食してみたが硬い部分が多くてあまりうまくはなかった。
 アシは禾本科の一種である。その地下茎はさかんに泥土中を縦横に走り、それから茎すなわち稈が出て生長するから、これあるところはたちまちに叢をなして繁茂する。稈には節があり、葉は緑色狭長で長く尖り、その葉鞘をもって稈に互生し、秋にいたり梢頂に褐紫色の花穂を出し、多数の穎花からなりふさふさとして風来ればなびいている。老ゆれば白毛が出ていわゆる蘆花をなし、枯残せる冬天の蘆葦は帰雁に伴うて大いに詩情をそそるものである。
 その葉一方より風来たれは葉々風を受けてかなたに偏向し、葉鞘ねじれて葉片はそのまま依然としている。このごとき場合がいわゆる片葉《カタハ》ノ蘆《ヨシ》にて別になんの不思議もなければ無論別種のものでもない。一方から風の吹き来るところではどこでも随時この片葉の蘆が出現する。
 またアシの葉には他の禾本類の葉と同じく先の方に少しの括《くび》れがある。往々書物に書いてあるようにその葉を十二カ月に分割し、その括れに当たる月にはその年に大水があると占ってあるが、これはまったくいわれのない迷信である。元来禾本類の葉にこの括れのあるのはその葉のき(240)わめてわかくてまだ閉じ込められている時分に、その茎の節の上になっておったところにそれができるのである。
 古歌ではアシをヒムログサ、タマエグサ、ナイハグサ、サザレグサ、ハマオギというとある。ハマオギはかの「浪速のあしは伊勢の浜をぎ」と詠まれたもので、これは今日でもなお伊勢の三津という所に昔のままに残っている。行ってこれを見るとまったくアシであって、あえて別のものではない。
 
     マツ
 
  霞打《あられうつ》 安良礼松原《あられまつはら》 住吉之《すみのえの》 弟日娘与《おとひおとめと》 見礼常不飽香聞《みれどあかぬかも》
  大伴乃《おほともの》 高師能浜乃《たかしのはまの》 松之根乎《まつがねを》 枕宿杼《まきてぬるよは》 家之所偲由《いへししぬばゆ》
 マツすなわち松はアカマツ(メマツ)でもクロマツ(オマツ)でもよろしく、歌によってアカマツの場合もあればまたクロマツの場合もある。この二種は日本松樹の二大代表者で、じつにわが邦山野の景色はこの二樹が負って立っていると唱道しても決して過言ではあるまい。総体アカマツは山地に多くクロマツは海辺に多い。かの諸州の浜に連なる松樹はみなこのクロマツである。
 アカマツの幹は樹皮に赤味を帯びているからそういい、クロマツは幹の色に黒味があるからそ(250)ういわれる。そして両方とも幹は勇健で直立分枝し、下の方はいちじるしい亀甲状の厚い樹皮でおおうている。葉は針状常緑であるが、アカマツの方は柔らかくクロマツの方は剛い。両方ともその針状葉が二本並んで釵状をなしているが、これはその一本が独立の一葉で、それがきわめて細微な小枝へ二本並んで出ているのである。ゆえに松の枝にはじつにたくさんな小枝が付いているわけだ。葉のもとには膜質褐色の袴がある。松に枝の出るときは右の両針葉の中間から所出する。もし五葉ノ松であったらその五本の針状葉の中心から枝が出てくる。そしてそれが漸次に生長してついに新枝となるのである。
 クロマツ、アカマツともにそれに花が咲くときは、そのいわゆるミドリのもとの方に小鱗片ある長楕円形の黄花が群着し、多量の花粉を吐出し風に吹かれて散漫し、あるものはミドリの頂にある雌花毬に付着するが、しかしその大部分は地面に降り落ち、あたかも硫黄の粉を播き散らされたように見える。
 ミドリの頂にある暗紅紫色の雌花が後にだんだんその大さを増して緑色を呈し、次年の秋にまったく熟して硬い鱗片を開き中の種子を散出せしめる。いわゆる松毬すなわちマツカサで、クロマツのものはアカマツのものより少々大きい。種子には翅があって風に吹かれてその地この地に飛び散り、その落ちた所に仔苗を生ずるが、その苗には緑色糸状の輪生子葉を有している。
 古歌では松にイロナグサ、オキナグサ、ハツヨグサ、トキワグサ、チエダグサ、チヨギ、ソチ(251)ヨグサ、スズクレグサ、タムケグサ、メサマシグサ、コトヒキグサ、ユウカゲグサ、ミヤコグサ、クモリグサ、ヒキマグサ、モモクサなどたくさんな名がある。歌では、木でもこれを草と呼んでいる。
 《追記》 前文に梓の生木はまだ日本へ来たことがないと書いたが、その後この樹が多少は既に来ていることを知った。ゆえにそのある所を訪えばその生木が見られる。
                     1943年『植物記』より
 
(253)  万葉集スガノミの新考
 
 『万葉集』の巻の七に
  真鳥住《まとりす》む卯名手《うなて》の神社《もり》の菅《すが》のみ(本文は根《ね》とある)を衣《きぬ》に書《か》き付《つ》け服《き》せむ児《こ》(女)《おんな》もがも、
という歌がある。
 古くより今日にいたるまでいずれの万葉学者もみなこの菅の実をヤマスゲであると解し、そのヤマスゲはすなわち漢名麦門冬のヤマスゲを指したものである。すなわちこの麦門冬をヤマスゲと称することは古く深江輔仁の『本草和名』ならびに僧昌住の『新撰字鏡』にそう出ており、また源順の『倭名類聚抄』にも同じくそうある。かくこの麦門冬をヤマスゲといったのはきわめて古い昔の名であるが、しかしこの名はとっくにすたれて今はこれをジャノヒゲあるいはリユウノヒゲあるいはジョウガヒゲあるいはジイノヒゲあるいはタツノヒゲなどと呼んでいる。
 右の、真鳥住《まとりす》む卯名手《うなて》の神社《もり》のすがのみを衣《きぬ》に書《か》き付《つ》けきせむこもがも、なるこの歌の意は、菅という一種の植物が卯名手(奈良県大和の国高市郡|金橋村《かなはしむら》雲梯《うなで》)の神社の杜に生えていて、その熟した実を採って衣布に書き付け、すなわちすり付けて色を付け、その染めた衣を着せてやる(253)女があればよい、どうかどこかにあって欲しいものだというのであるから、そのスガの実はどうしても染料になるものでなければならないことはだれが考えてもすぐ分かることであろう。古名ヤマスゲ今名リュウノヒゲの実がもし染料になるものならは、まずはそれでもその意味が通ぜんことはないとしても、実際この麦門冬の実(じウは裸出せる種子である)は絶対に染料にはならぬものだ。ゆえに昔よりそれでものを染めたためしがない。それはそのはずである、麦門冬すなわちリュウノヒゲの実はだれもがあまねく知っているように美麗な藍色に熟してはいるが、いくらこれを衣布にすり付け(すなわち書き付け)たとていっこうに衣布は染まらないからである。すなわちこの実の藍色なのは単にその実の表皮だけであって、その表皮はきわめて非薄な膜質でなんの色汁も含んでいない。そしてその表皮の下には薄い白肉層があって、中心に円い一種子状胚乳を包んでいるにすぎない。ゆえにいずれの書物を見てもこの麦門冬の実を染料に利用することは当然いっこうに書いてないが、しかしそれを染料に使うのだと強いて机上で空想するのは独り万葉学者のみである。畢竟それは同学者が充分に植物に通じないから起こる病弊であると言える。
 しからばすなわちその真鳥住《まとりす》む卯名手《うなて》の神社《もり》の云々の歌にあるスガとは、いったい何を指しているのかと言うと、それはスイカズラ科(忍冬科)のガマズミのことであって、すなわちスガノミとはそのガマズミの実である。これは従来だれひとりとして気の付かなかったものである。
 このガマズミは浅山または丘岡またあるいは原野にも生じている落葉潅木で、わが邦の諸州に(254)ふつうに見られ、神社の杜などにはよくそれが生じている。同属中の別の種類、例えばミヤマガマズミなどは奥山にも産すれど、ガマズミはひっきょう里近い樹で絶えて深山にはこれを見ない。緑葉が枝に対生し五、六月の候枝梢に傘房状をなして多数の五雄蕋小白花を集め開き、その時分に山野へ行くとそこここでこれに出会いその※[手偏+賛]蔟《さんそう》せる白花がよく眼につく。秋になるとアズキ大の実が枝端に相集まり、これが赤色に熟してすこぶる美しく、実の中に赤い汁を含んでいてその味が酸く、よく田舎の子供が採って食している。ところによりてはこれを漬物桶へ入れて漬物と一緒に圧し、その漬物に赤い色を付与するに用いらるる。このようにその実に赤汁があって赤色に染まるので、そこで昔これを着色の料として衣布へすり付けそれを染めたものと見える。すなわちかく解釈すると、ためにその歌が初めて生きてきてその歌句がよく実況と合致し、なんらその間に疑いをはさむ余地はないこととなる。
 ところがその間いささか遺憾なことには、今私の知っている限りにおいてガマズミにスガなる方言は見つからないが、しかしガマズミにズミの名がある。万葉のスガはけだしこのズミと同系であろうと思う。そしてどちらかが転訛しているではないかと考えられる。右のズミは元来スミが本当で、それが音便によってズミとなったのである。このスミはソミすなわち染ミでものを染めるから来た名である。それはちょうどイバラ科のズミととなうる樹と同じ名で、このズミの樹はその樹皮を染料に使うものである。すなわちズミの名はこれに基づきて生じ、そしてその正し(255)い名はその染ミから来たスミであってそれがズミに変じたものである。右の歌のスガがガマズミの方言として今日もしも消えやらずに大和高市郡の雲梯《うなで》(卯名手《うなて》)辺に残っていることがあったとしたら、それはまことに興味深き事実を提供することになる。私は折があったら同地方へ行ってこれを調査してみたいと思っている。
 これまでガマズミの実が衣布の染料になると言った人も、また書いた人もいっこうになかったが、しかしいみじくも万葉の歌が、それが染め料になるべき事実を明らかにおしえ証拠立てていることはまったくその歌の貴いところであるというべきだ。すなわちこの歌ならびに次の歌があったため、われらは初めて昔時ガマズミの実を染料にしたという事実を幸いに掌握することができたのである。
 上のガマズミにはズミのほか、ヨソゾメ、ヨツドメ、ヨツズミ、イヨゾメなどの一名がある。ガマズミのスミ、ヨツズミのスミ、ヨソゾメのソメ、イヨゾメのソメはズミのスミと同じくともにみな染めるの意である。そしてヨツドメはヨソゾメを訛ったものである。しかしガマ、ヨツ、ヨソ、イヨという形容詞はなにを意味しているのか今私には解せないのを遺憾とし、博識な君子の教えを乞いたいと希望しているゆえんである。
 上の歌ではスガノミのスガに菅の字が当て用いてある。この菅の字は通常スゲ(Carex)の場合に用いスゲともスガともよませてある。しかしこの歌の菅《すが》のみの菅はたとえ字面は同じでも、決(256)してスゲ(Carex)の場合のスゲではない。菅をスゲのほかスガとよますもんですから、それでガマズミの場合のスガに菅の字を借り用いたものにすぎないであろう。
 真鳥住《まとりす》む云々の歌を上のように解釈してこそそこで初めて次の歌が生きてくる。すなわちそれは『万葉集』七の巻に載っているものである。
  妹《いも》が為《た》め菅《すが》の実《み》採《と》りに行《ゆ》きし吾《あ》れ山路《やまぢ》に惑《ま》どひ此《こ》の日《ひ》暮《くら》しつ
 これまでの万葉学者はいずれもこの歌の菅の実をも古名ヤマスゲの麦門冬であると解している。すなわちこの麦門冬の実は子女がもてあそぶものゆえ、それでそれを採りに行ったとしている。
 しかるにここは決してそうではない。このスガノミはこれもやはり前の歌のようにそれはガマズミの実である。すなわちこの歌の意は、衣を染めん料にとしてそれをわが妻に与えんがため山へガマズミの実を採りに行き、そのものを捜しつつ山中をそちこちと彷徨《さまよ》うて歩き回り、ついにその日一日を山で暮してしまったというのである。これはつまりその実をなるべく多量に採り集めんがためであったのであろう。
 ここに妹と言うのはなにも麦門冬の実をお手玉にして遊ぶほどの幼女ではあるまい。人の妻にでもなろうというほどな年輩の女には、もはやこんな幼稚きわまる遊びにはまったく興味はない。ゆえにこれを万葉学者がお定まりのようにいっている麦門冬なるヤマスゲ、すなわち今名リ(257)ュウノヒゲとするのはまったく誤りである。しかしこれを手玉にするのではなくその藍色の実を染料にする目的と仮定しても、それは前にも述べたように全然不可能なことに属する。すなわち強いてこれを紙にすり付ければ、単にそのこわれた外皮のカケラが暫時不規則に紙に貼り付くのみである。
 これに反してかのガマズミの実なれば確かに染料になるので、そこでそれを女に贈ればために色ある美衣を製し得ることになるから、女の喜びはまた格別なものであろう。すなわち山を終日駆け回ってその実を集めるだけの値打ちは充分にある。女はかく色彩のある衣《きぬ》を熱愛するがゆえに、したがってそれを染める(書き付ける、すなわちすり付ける)料になる実を女に贈り与えるのはそこに大いに意義がある。すなわちこのように解釈してこそこの歌、すなわち、妹《いも》が為《た》め菅《すが》の実《み》採《と》りに行《ゆ》きし吾《あ》れ山路《やまぢ》に惑《ま》どひ此《こ》の日《ひ》暮《くら》しつ、の歌が初めて生動するのである。万葉学者がいっこうにそこに気が付かず、また誤った麦門冬をここへ持ち出してくるから、この歌の解釈がうまく行かず、かつ少しも実際と合致することがないのである。
 以上述べた理由よりして、私は右二つの歌の菅の実、すなわちスガノミは、これはまったくガマズミの実を指すものだと断言する。すなわちこの事実はけだしこれまで数多き万葉学者のだれもが説破していない新説であろうと私は私自身を信ずるのである。
 ついでに古名ヤマスゲ(山菅)の麦門冬について、世人とあわせて万葉学者の注意を喚起した(258)いことは、麦門冬には決して大小の二種あるものではないという事実である。世人はみな小野蘭山の『本草綱目啓蒙』の仮説に誤られて麦門冬に二種ありとし、すなわち一つを小葉麦門冬としてこれにリユウノヒゲ一名ジャノヒゲを配し、一つを大葉麦門冬としてこれに古名ヤマスゲ一名ヤブラン一名ムギメシバナ一名コウガイソウを配しているがこれはまったく誤りで、小葉麦門冬とか大葉麦門冬とかそんな漢名はいっさいこれなく、それは蘭山が勝手にこしらえた字面である。元来その漢名麦門冬の中には決してヤブランはあずかっていなく、これは麦門冬埒外の品である。したがって麦門冬はリユウノヒゲ一名ジャノヒゲ、古名ヤマスゲの専用名である。蘭山はこの古名のヤマスゲをヤブランの古名のように書いておれどもそれもまったく誤りで、これは疑いもなくリュウノヒゲの古名である。
 元来『万葉集』にはおそらく麦門冬のヤマスゲ(山菅)は関係のない植物であって、集中の歌に山菅(ヤマスゲ)とあるのは、多くは本当のスゲ属すなわちCarex のあるものを指しているのではないかと思う。ヤプランにいたっては全然万葉歌のいずれにも無関係で、この品は断然同集より追いのけらるべきものである。
 『万葉集』の三の巻に
  奥山《おくやま》の菅《すが》の葉《は》凌《し》ぬぎふる雪《ゆき》の消《け》なば惜《を》しけむ雨《あめ》なふりそね
という歌がある。万葉学者はこの歌の菅を山菅としそれが麦門冬であるとしていれど、それはま(259)ことに不徹底な想像説たることを免れ得ない。なんとならば元来麦門冬は決して奥山には生えていないからである。ゆえに古名ヤマスゲのリユウノヒゲでも、またあるいはヤブランでもこれを奥山で得ることはまったくできない。右の二つの植物は里近のごく低い岡かその麓の地かあるいは平地かに生えているにすぎない。ゆえにこの歌の菅はCarex属のある種類であるカンスゲか何かを指したものであろう。カンスゲなら奥山にも生じているいちじるしいスゲで、これはその名の示すがごとく雪の降る寒中でも青々と繁茂している常磐の品である。こんな奥山のスゲを想像してこそこの歌に妙味がある。
 また『万葉集』の十一の巻に
  烏玉《ぬばたま》の黒髪山《くろかみやま》の山草《やますげ》に小雨《こさめ》ふりしき益益《しくしく》思《おも》ほゆ
という歌があるが、この中にある山草《やますげ》はすなわち山菅《やますげ》であろうといわれているが、このヤマスゲも万葉学者は麦門冬のヤマスゲと思っているでしょう。しかしその黒髪山はどこの黒髪山かあまりはっきりせぬようだ。しかし今日の万葉学者はその山は奈良の北方にある佐保山の一部だといっているが、それはかなり高い山でがなあろう。もしそうであるとすると、こんな山の中には麦門冬は生えていないだろうから、ここはやはりふつうに山中どこにもあるCarex属のスゲと見た方がずっと実際に即している。いつも麦門冬の古名ヤマスゲの称呼に拘泥して、ヤマスゲとあればこの麦門冬のヤマスゲ以外にはヤマスゲの言葉はいっさいないと考えるのは、融通性のない(260)固陋な見解であると私は信ずる。前述のとおり麦門冬の生育地は低い岡や山足の地、あるいは平地の樹下の場所に限られていて、少し高い山地から奥山、深山には生じていないが、Carex属のスゲ類なればたくさんいろいろの種類があって岡にでも浅い山にでも、また高い山でも、また奥深き深山でもきわめて広範囲にわたって、どこでもいたるところに生い茂っていて趣のあるものであるから、昔の歌よみが常識的にもこれを見逃すはずはなく、きっとこれをも歌に採り入れているに相違ないと私は思う。また俗間で歌よむ人々はなにもいちいち植物学者ではないから、ときにある禾本類がたくさんに山中で繁茂しているところを遠望して、これを山スゲなどと既にある成語を使った例はおそらくいくつもありはせぬかと想像する。
 また『万葉集』四の巻の
  山菅《やますげ》の実《み》ならぬことを吾《あ》れによせいはれし君《きみ》はたれとかぬらむ
の歌にある山菅も、万葉学者は麦門冬のこととなしていれども、これも Carex のスゲでよいと思う。スゲは植物学的にはむろん実が生るけれど緑色で不顕著で、ふつうの人々には山吹の実と同じように気が付かず、スゲには実がないくらいに思っているものであるから、スゲは実がないからと解釈すればその辺すこぶる簡単明瞭である。麦門冬は実の数は少ないけれどすこぶる顕著な実が生り、子供らでもよく知っていて女の児はお手玉にして遊ぶのである。ゆえにこの実にはハズミダマだのオフクダマだのオドリコだのオンドノミだのジュウダマ(リユウダマの転訛だろ(261)う)だの、またはインキョノメダマだのの名がある。またこれをヤブランとすればこれはまた大いに実(黒色)の生るもので、決して実ならぬごときのさわぎではない。
 また同書二十の巻に
  高山《たかやま》のいほほにおふるすがの根《ね》のねもころごろにふりおく白雪《しらゆき》
という歌があるが、この歌の菅の根も Carex のスゲの根すなわち地下茎である。もしこれを例の麦門冬としたらまったく実地とは合致しない。なんとならば麦門冬は決して高い山には生えていないからである。しかしスゲ類なれば高い山の岩上でもまた岩かげでもどこにでもある。また同巻にある
  さくはなはうつろふときありあしびきのやますがのねしながくはありけり
の歌の中のヤマスゲ(山菅)も Carex の中のなにかのスゲである。スゲなればずいぶん長い根(地下茎を指す)を引いているものが多い。『万葉集古義』の「品物図」にあるようにこれを麦門冬とするのは不都合千万である。またヤブランとするも決して当てはまらない。なんとならば、これらには長い根(地下茎)はないから歌の言葉とはいっこうに合致しないからである。これら一の歌でみても、万葉歌にある山菅をいちがいに麦門冬いってんばりで押し通そうとするとそこここに矛盾があって解釈に無理を生ずることを、万葉歌評釈者はよろしく留意すべきである。
 以上述べ来たったことについては、たぶん万葉学者からは貴様のような門外漢が無謀にもわが(262)万葉壇へ喙《くちばし》を容るるとはケシカランことだとお叱りをこうむるのを覚悟のうえで、かくは物しつ。          1943年『植物記』より
 
(263)  万葉歌の山ヂサ新考
 
 『万葉集』巻七に左の歌がある。
  気緒爾念有吾乎山治左能花爾香君之移奴良武《いきのをにおもへるわれをやまぢさのはなにかきみがうつろひぬらむ》
また、同じ巻十一には次の歌がある。
  山萵苣白露重浦經心深吾恋不止《やまぢさのしらつゆおもみうらぶるゝこころをふかみわがこひやまず》
 右二首の歌にある山治左ならびに山萵苣、すなわちヤマヂサという植物につき、まず仙覚律師の『万葉集註釈』すなわちいわゆる『仙覚抄』の解釈を見ると
  山チサトは木也田舎人ツサキトイフコレ也
とある。このツサキはヅサノキか、あるいはチサノキかならんと思う。もしそれがヅサノキであればこれはエゴノキ科のチサノキ(すなわちエゴノキ)を指し、もしそれがチサノキなれば同じくエゴノキのチサノキかあるいはムラサキ科のチサノキかを指しているならん。しかしクスノキ料のアブラチャンにもヅサならびにヂシャの名があるから、考えようによってはこの植物ではなかろうかとも想像のできんことはない。
(264) 釈契冲の『万葉代匠記』には
  山チサは今もちさのきと云物なり和名集(【牧野いう、集は抄】)云本草云、売子木【和名賀波知佐乃木】此も此木の事にや
と解し、また
  山萵苣は木なるを此処に置は萵苣の名に依てか、例せば和名集(【牧野いう、集は抄】)に蕣を蓮類に入れたるが如し
とも述べている。
 橘千蔭の『万葉集略解』には
  山ちさというは木にてその葉彼ちさに似たれば山ちさといふならむ、此木花は梨の如くて秋咲りとぞ豊後の人の言へる是なり、又和名抄本草云、売子木【賀波知佐乃木】字鏡、売子木【河知左】有りこれも相似たるものなるべし
と解釈している。
 『万葉集目安補正』には
  山治左《ヂサ》売子《バイシ》木といへど花の色違へり齊※[土+敦]《セイトン》と云物当れりといへり
と記してある。この時代では齊※[土+敦]をチサノキすなわちエゴノキであると信じていたから、この書の齊※[土+敦]はエゴノキを指したものである。
 また売子木を『倭名類聚紗』すなわちいわゆる『和名抄』に和名賀波知佐乃木(カハヂサノ(265)キ)とあるので、それを山ヂサではないかと契冲も千蔭も書いていれど、これは無論同物ではない。上に引ける『万葉集目安補正』では売子木は山ヂサとは花色が違っていると書いて、山ヂサは売子木ではないとしているのは正しいのである。元来売子木とはアカネ科に属するサンダンカ(学名 Ixora Chinensis Lam.)のことで一名山丹とも称し、サンダンカはこの山丹に基づきそれに花を加えてそう呼んだものである。赤色の美花を※[手偏+賛]蔟して開く(ゆえに紅繍毬あるいは珊瑚毬の名もある)熱国の常緑灌木で、わが内地にはもとより産しない。この売子木を『新撰字鏡』で河知左(カハチサ)とし、『和名抄』で賀波知佐乃木(カハヂサノキ)としたのは、無論サンダンカをいったものではなく、なにか別の邦産植物をあててかく称えたものだろうが、それが果して何を指したものかその的物は今日いっこうに捕捉ができない。また現代ではカワヂサもしくはカワヂサノキととなえるなんの木をも見出し得ない。
 次に鹿持雅澄の『万葉集古義』には
  山治左《ヤマヂサ》は契冲、常も(【牧野いう、活版本にかくあるが、これは、今も、なり】)ちさの木と云ものなり、十一にも山ぢさの白露おもみとよみ、十八長歌にもちさの花さけるさかりになどよめり、和名抄に本草に云、売子木、和名賀波知佐乃木とあるものたゞ知佐《チサ》の木のことにやと云り、なほ品物解に委く云り
と記しまた、なお
  山萵苣は契冲、常に(【牧野いう、ここも、今も、でなければならない】)ちさのきといひならへるもの是なりといへり
(266)とも記している。そして前記の「品物解」すなわち『万葉集品物解』には山治左と山萵苣とを
  未だ詳ならず仙覚抄に云山ちさとは木也田舎人は、つさの木といふこれなりといへり、いかゞあらむ、但し此は松《マツ》に山松《ヤママツ》、桜《サクラ》に山桜《ヤマザクラ》などいふ如く山に生たるつねの知左(【牧野いう、知佐の解に拠ればムラサキ科のチサノキを指している、しかし品物図のチサの図は曖昧しごくである】)を云か又一種かく云があるか云々
と述べていて雅澄の山ヂサに対する知識の程度は「未だ詳ならず」であった。
 さて上に列記した万葉諸学者の文句でみると、大体万葉歌の山ヂサはチサノキという樹木の名であると解している。しかしチサノキすなわちチシャノキには三種あって、単にチサノキでは、じつはその中のどれを指しているのか、そこにその樹の解説がない限りは、果してそれがどれであるのか明瞭ではないということになる。
 右のチサノキの三種というのは、一はエゴノキ科のチサノキ(一名チシャノキ、ヅサ、ヂサ、コヤスノキ、ロクロギ、チョウメン、サボン、学名は Styrax japonica Sieb. et Zncc. )であり、二はムラサキ科のチサノキ(チシャノキ、トウビワ、カキノキダマシ、学名は Ehretia thyrsiflora Nakai) であり、三はクスノキ科のヂシャ(一名ヅサ、アブラチャン、コヤスノキ、フキダマノキ、ムラダチ、学名は Lindera praecox Blume)である。つまり万葉歌の山ヂサをしてこの三樹木のどれかに帰着せしめようとせんとて、昔から現代にいたる万葉学者をヤキモキさせているのである。
(267) 私の考えでは、もしも仮に万葉歌の山ヂサを上の三種のどれかに当てはめてみるとしたならば、それはエゴノキ科のチサノキすなわちエゴノキであらねばならないであろう。なんとならばこの樹は諸州に最もふつうに見られ、かつその花は白色で無数に枝から葉下に下垂して咲き、その姿はすこぶる趣があって諸人の眼につきやすいからである。そしてムラサキ科のチサノキと、クスノキ科のヂシャとはなんら万葉歌とは関係のないものだと私は信ずる。なぜならばこの二品はその花状が万葉歌とはシックリ合わないからである。このムラサキ科のチサノキはなんら風情の掬すべき樹ではなく、樹は喬木で高く、葉は粗大で硬く、砕白花が高く枝梢に集まって咲き、みるに足るほどのものではない。そしてこの樹は暖国でなくては生じていなく、内地では稀に植えたものを除くのほかはわずかに四国の南部と九州とに野生があるのみで、そうふつうに見られる樹ではない。こんな無風流な姿で、かつ九州四国を除いたほかはめったに見られない樹が数首の歌に詠み込まれるわけはあるまい。またクスノキ科のヂシャすなわちアブラチャンは山地に生ずる落葉灌木で、砕小な黄花が春、葉のまだ出ない前に枝上に集まり咲くのだが、茶人の好む花ぐらいなものでいっこう人の心をひくようなものではない。
 『万葉集目安補正』ならびに『万葉集古義』以前の万葉学者は、万葉歌の山ヂサにチサノキを当てていれど、それがどのチサノキだか判然しないうらみがあるが、しかし同書以後の万葉学者はこれにあるいはムラサキ科のチサノキを当てている学者もあれば、またエゴノキ科のチサノキ(268)(エゴノキ)を当てている学者もある。中には勇敢にもその図まで入れそれを鼓吹している近代の書物もあって、なかなか努めたりと言うべしである。が、しかし右二種のチサノキにヤマヂサという名はない。
 古往今来万葉学者が唱うるように、万葉歌の山ヂサをあるいはエゴノキ科のチサノキ(すなわちエゴノキ)、あるいはムラサキ科のチサノキとしてみたとき、またあるいは畔田翠山の『古名録』にあるように知佐木《チサノキ》(延喜式)、知佐(万葉集)、加波知佐乃岐(本草和名)、賀波知佐乃木(倭名類聚紗)、賀波知佐乃木(天文写本和名抄)、加和知佐乃支(本草類編)、奈佐乃支(同上)河知左(新撰字鏡)、山萵苣(万葉集)、つさのき(仙覚万葉集註釈)、山治左(万葉集)をいっさい斉※[土+敦]樹のチサノキ(今名)、すなわちエゴノキきりの一種としたとき、果してそれが上の二首の万葉歌とピッタリ合って、あえて不都合なことはないかというと、私は今これをノーと返答することに躊躇しない。以下そのしかるゆえんを説明する。
 上に揚げた第一の歌には「山ぢさの花にか君が移ろひぬらむ」とある。今これをエゴノキ科のチサノキ(エゴノキ)あるいはムラサキ科のチサノキの花だとすると、元来これらの樹の花は純白色であるので、「移ろひぬらむ」がいっこうに利かない。もしこれらの花色が紫か藍でもであったら、それは移ろう色、すなわち変わりやすい色、褪めやすい色であるから「移ろひ」がよく利く。白色には「移ろふ」色はなく、咲き初めから散り果てるまで白色でいつまでたっても白(269)である。ゆえにこの歌の山ヂサは決して白花のひらくエゴノキ科のチサノキでもなければ、またムラサキ科のチサノキでもないという結論に達する。
 それから上の第二の歌には「白露重み」とある。それはチサノキすなわちエゴノキの下垂している花に露が宿れば、無論重たげになるのは必定ではあれど、たといこの樹の花が露に湿っていても、これを望んで見るにいっこうに露を帯びているような感じのせぬ花である。まったくこれはサラサラした花で、かつ始めから吊垂して咲いているから、仮に露を帯びたとしても、それがために重たげに見ゆることはない。ゆえにこの花は露を帯びていてもまた帯びていなくてもいっこうそこに見さかいのない花である。歌には「白露重み」とあるから、もっと露を帯びたら帯びたらしい姿を呈し、これを見る人にもそれがはっきりと判るようでなければならない理屈ではないか。ゆえにエゴノキのチサノキを同じくこの歌に当てるのは私は不賛成であり、ことにムラサキ科のチサノキにいたってはまったくかえりみるに足らない論外者である。ウソと思えばその樹を実際に見てみるがよい。必ずなるほどと感ずるのであろう。
 上の二つの歌の山ヂサがエゴノキ科のチサノキ、またはムラサキ科のチサノキその品であるという旧来の説、それが今日でも万葉学者に信ぜられているその説を否定するとせば、しからばその歌の山ヂサとは果してどんな植物であってよろしかろうか。
 つらつらおもんみるに、私はその山ヂサは樹ではなく草であって、それはイワタバコ科のイワ(270)タバコ(岩煙草)、一名イワヂシャ(岩萵苣)、一名タキヂシャ (崖萵苣)、一名イワナ(岩菜)、そしてわが邦従来の学者が支那の書物の『典籍便覧』にある苦萵苣に当てし(じつは当たっていないけれど)この品、すなわち Conandron ramondioides Sieb.et Zncc.でなければならぬと鑑定する。しかし今私の知っている限りでは、まだこれにヤマヂサの方言のあるのを見ないけれど、これはこの植物に対して必ずあり得べき名であるから、試みに諸国の方言を調査してみたならたぶんどこかでこれを見出すことがありはせぬかと期待している。
 この植物は山地の湿った岩壁、あるいは渓流の傍の岩側面、あるいは林下の湿った岩の側面などに生じているもので、国によりこれを岩ヂシャもしくは岩崖《タキ》ヂシャととなうるところをもって推せば、前にもいったようにあるいはこれを山ヂシャ(山ヂサ)と呼んでいる所がありそうに思える。山路を行くときその路傍の岩側に咲いている美麗な紫花に逢着し、行人の眼をしてこれに向けしむるのはよくあることである。これをイワタバコというのは、岩に生えてその葉が煙草葉に似ているから、そう名づけられたものである。
 そこでこの植物、すなわちイワヂシャ一名タキヂシャのイワタバコなる草を捉え来たって、上の二つの万葉歌と比べてみる。
 第一の歌の中の「山ぢさの花にか君が移ろひぬらむ」は、右のイワヂシャなればなんの問題もなくよくその歌の詞と合致するのを見るのである。このイワヂシャの花はその色が紫でいわゆる(271)移ろう色であるから、君の心の変わることを言い現わすにはふさわしい植物である。
 次に第二の歌の「白露重み」もこのイワヂシャなれば最もよい。イワヂシャは通常蔭になって湿っている岩壁に着生し、その葉(大なるものは長さ一尺に余り幅も五、六寸に達する)はみな下に垂れて重たげに見え、質厚くきわめて柔軟でやや脆く、かつ往々※[門/活]大でノッペリとしているので、これを見る者はだれでもただちに萵苣《チシヤ》(チサ)の葉を想起せずにはおかない葉状を表わしている。陰湿な場所にあるのでその葉に露も置きやすく、またその葉はボットリと下に垂れているから、露にうるおえばいっそう重たげに見え、かつ花も点頭して下向きに咲いているので、これまた露を帯ぶれば同じく重たげに見ゆるので、「白露重み」の歌詞が充分よくその実際を発揮せしめている。また歌中に山萵苣の字が用いてあるのも決して偶然ではなく、そしてここにその字を特に使用した理由もよくのみ込めるのである。
 このイワヂシャすなわちイワタバコはあえてふつうの草であるとは言わんが、しかし決して稀品ではなく、往々山地ではこれに邂逅するのである。山家《やまが》では家近くにこれを見ることがふつうである所が往々あって、特に紫色の美花を開くので人をしてこれを認めやすからしめ、また覚えやすからしむるのである。試みに山里の人にきけば、ンー、その草ならうちの家の裏の岩にいくらも付いていらー、と言う所もあろう。すなわちこんな草なのであるから、自然に歌を詠む人にその名物の材料となってもなにも別に不思議はないはずだ。
(272) 右のようなわけなのであるから、私は上の万葉歌の山治左(ヤマヂサ)も、また山萵苣(ヤマヂサ)も共にいわゆるイワタバコのイワヂシャそのものであることを確信するのであるが、これは従来万葉歌人のなおいまだ説破しないところであった。
 しかるに私は今この稿を草する際、かの曾槃の著である『国史草木昆虫攷』の書物があることを思い出し、さっそくこれを書架よりひき出して繙閲してみたところ、はからずもその巻の八に左の記事のあるのを見出した。すなわち参考のため今ここにその全文を転載してみよう。
 やまぢさ 万葉巻十一に、「山萵菜のしら露重く浦経る心を深くわが恋やまず」巻七に、山治佐の花にか君がうつろひぬらん、巻十八に、よの人のたつることだて知左の花、六帖に「我が如く人めまれらにおもふらし白雲ふかき山ぢさの花」或はいふ今山野の俗にチシャノキといふものこれ成るべし、槃按に、集中に木によみたるはしるしなし、ましてチサノキの花は色白きものなればうつろひぬといへる詞によしなし、萵苣の字を借用ひたれば蓋しは草なるべし、さて武蔵国相模国山中にイハチサ一名イハナとて葉はげにも菜蔬のチサの葉に似て石転《イワワ》の苔むしたる所におふものあり、その葉は春のすゑにもえいで夏のきて一二茎をぬき桔梗の花に似たる小なるが七ふさ八ふさつどひて咲く也その色はむらさきなり、箱根山かまくら山などにいとおほし、このヤマヂサは応にこれにやあらんか、順抄に本草を引て売子木を賀波治佐乃木と注したり、これ山萵苣にむかへたる名なるべし
(273) 右の書物は今から百二十一年前の文政四年にできたものであるから、この時代に既に曾槃は万葉集のヤマヂサはあるいはイワヂサ(すなわちイワタバコ)ではなかろうかと思っていたのであった。しかし私はまったくこれを知らなかったが、今これを知ってみると曾槃は百年以上も昔に既にはやくこれに気づいていたのであった。そして今日私のみるところとまったく符節を合わせているのは、この説をしてますます真ならしむるうえに大いに貢献するところがあるといってよかろう。
 前文中にエゴノキについて述べたことはあるが、なおこの樹に関してのいきさつを次に少々書いて読者の一粲に供してみよう。
 エゴノキには既に上に書いたとおり種々な名があるが、その中にチシャノキというのがある。しかしそれにヤマヂサという名はない。これは山に生えているチサノキだと言えば通ぜんでもないが、チサノキはなにも山ばかりに生えているのではなく、ずいぶんと平地にもあるから、ことさらこれに山の字を加えて山ヂサと呼ぶ必要もないほどのものである。
 従来わが邦の学者は、このエゴノキを支那の齊※[土+敦]果に当てて疑わない。小野蘭山の『本草綱目啓蒙』を始めとしてみなそう書いているが、これはとんでもない間違いで、齊※[土+敦]果は決してエゴノキではない。しからばそれはなんの樹であるかというと、これはかのオリーブ(Olive すなわち Olea europaea L.)のことである。
(274) この齊※[土+敦]果はすなわち齊※[土+敦]樹のことで、それが初めて唐の段成式の『酉陽雑俎』という書物に出ており、その書には
 齊※[土+敦]樹ハ波斯及ビ仏林国(【牧野いう、小アジアのシリア】)ニ生ズ、高サ二三丈、皮ハ青白、花ハ柚ニ似テ極メチ芳香、子ハ楊梅ニ似テ五六月ニ熟シ、西域ノ人圧シテ油ト為シ以テ餅果ヲ煎ズルコト中国ノ巨勝(【牧野いう、胡麻のこと】)ヲ用ウルガ如キナリ(漢文)
と記してある。しかしこの書の記事は遠い他国の樹を伝聞して書いたものであるから、文中にはまずい点がないでもない。
 日本の学者がまずこれを取り上げてその齊※[土+敦]樹をみだりにわがエゴノキだと考定したのはかの小野蘭山で、すなわちかれの著『本草綱目啓蒙』にそう書いてある。何を言え偉くてもろもろの学者が宗とあがむる蘭山大先生がこれをエゴノキと書いたもんだから、学者仲間になんの異存があろうはずなく、たちまちそれじゃそれじゃとなってその誤りが現代にまで伝わり、今日でもほとんど百人が九十七、八人くらいまではその妄執に取りつかれてあえて醒覚することを知らない有様である。
 それならオリーブをどうして齊※[土+敦]樹というかと言うと、この齊※[土+敦]樹は元来が音訳字であって、それはペルシャ国でのオリーブの土言ゼイツン(Zeitun)に基づいたものにほかならないのである。すなわち齊※[土+敦]樹はオリーブの音訳漢名なのである。そしてこの事実はわが邦では比較的近代(275)に明瞭になったもので、徳川時代ならびに明治時代の学者にはそれは夢想だもできなかったものである。
 芝居の千代萩の千松の唄った歌の中にチサノキがあるが、これはエゴノキ科のチサノキであろう。ムラサキ科のチサノキは関東地にはないから無論この品にあらざることはすぐに推想ができるが、しかしときとするとそれを間違えている人もある。
                        1943年『植物記』より
 
(276)  万葉歌のアオイは蜀葵である
 
 『万葉集』巻第十六に「梨《なし》棗《なつめ》黍《きみ》に粟《あは》つぎ延《は》ふ葛《くず》の後《のち》も逢《あ》はむと葵《あふひ》花《はな》咲《さ》く」(成棗寸三二粟嗣延田葛乃後毛将相跡葵花咲)という歌がある。今この歌中の葵を正品の葵、すなわち冬葵(Malva verticillata L.)だとする万葉歌界の通説(佐々木信綱博士の『万葉辞典』参照)には私は断じて賛成しがたく、そして私は進んでわが郷国の歌学者で『万葉集古義』の著者である鹿持雅澄先生の蜀葵説に左袒し、かつその所説を支持することを辞さない。それは確信をもつ私の従来からの見解と一致するからである。今ここにそれを理窟から押してもまた常識から考えても、これは民間で今も人々が通称しているアオイ(すなわち蜀葵、Althaea rosea Car.=Alcea rosea L.)そのものであらねばならない理由がある。そしてこのいわゆるアオイにはさらに、タチアオイ、カラアオイ、カラオイ、ハナアオイ、ツユアオイ、オオアオイ、オオガラアオイの名があり、その漢名には蜀葵のほかになお、戎葵、呉葵、胡葵、一丈紅、葵花などの異名がある。そして本品は元来は欧洲東南部のアルバニア、ギリシアならびに小アジア辺の原産でそれが世界の各方に拡まったものである。
(277) アオイ(民間を通じての俗称)(タチアオイ、ハナアオイ、蜀葵)(原図、もと着色、右傍の全草図は他書よりの転写)〔入力者注、図省略〕
(278) 本種は宿根生の大草本で、茎は数尺の高さに直立し、六月に華麗な大花を繁く緑葉間にひらいてつぎつぎに咲きのぼり、ついにその花が咲き尽した時分に梅雨が上がると唱えられるもので、通常人家の庭際に栽えられ、また諸所農家の庭さきにも多く見られる顕著な花草でだれでもよく知っていて、たいがいの人々が単にアオイと呼んでいるのである。支那の昔の人はこの花草の状を形容して、いっきに「疎茎、密葉、翠萼、艶花、分粉〔牧野いう、雄蕋をさす〕、檀心〔牧野いう、雌蕋をさす〕」と書いている。
 アオイは元来葵、すなわち冬葵の和名ではあれども、民間で俗に昔からアオイと呼んでいるものは、今日でもなおやはり昔のとなえをそのまま続けている蜀葵のアオイそのものである。そして昔からそれを単にアオイと呼んでいる証拠は、今から三百三十六年前に林道春の『新刊多識編』にも既に「蜀葵加良阿於比今案阿於比」とあり『下学集』にも一丈紅すなわちカラアオイを単に葵《アオイ》と書いてある。また貞享元年に刊行せられた向井元升の『庖厨備用倭名本草』には、「アフヒハ本草ニ蜀葵ト云モノ也其説分明ニシテ眼前ニアフヒヲミルガ如シ」と叙してあり、また貝原益軒の『大和本草』には蜀葵をアフヒと訓じており、また同じく益軒の『花譜』にも「蜀葵《あふひ》、本草を考るに今人家にうえて花を賞するあふひ是也」と書いてあり、また小野蘭山の『本草綱目啓蒙』には、「凡花ノ書及詩文ニ葵花ト称スルハ皆蜀葵ヲサス」と出ており、また同じく蘭山の『秘伝花鏡啓蒙』にも蜀葵(タチアオイ、オオアオイ、ツユアオイ)の条下に、「俗ニアフヒノ花(279)ト云フハ此花ヲ指テ云」と書いてあり、また畔田翠山は彼の『古名録』巻十二、加良阿布比《カラアフヒ》すなわち蜀葵の条下に、「万葉集第十六曰|成棗寸三二粟嗣延田葛乃《ナシナツメキミニアハツギハフクズノ》。後毛将相跡葵花咲《ノチモアハムトアフヒハナサク》。蜀葵《アフヒ》ハ入梅ノ頃本ヨリ花開テ梢々咲登リ再ビ本ニ戻リ花聞テ又末ニ咲登レバ出梅也|後毛将相跡《ノチモアハムト》葵花咲ト云此也」と書いており、また水谷豊文の『物品識名』には「アフヒハナアフヒ蜀葵」と記してある。また鹿持雅澄の『万葉集品物解』には「あふひ(葵)」の条下に「此の集にいへるもこの蜀葵《オホアフヒ》なるべし和名本草にいはゆる加良葵《カラアフヒ》も蜀葵《オホアフヒ》の古名ならむか」と述べ、ならびに同人の『万葉集品物図絵』には「あふひ」を蜀葵となしてその図を出し、傍に「成棗《ナシナツメ》。寸三二粟嗣《キミニアハツギ》。延田葛乃《ハフクズノ》。後毛将相跡《ノチモアハムト》。葵花咲《アフヒハナサク》」のその歌が添えてある。また寛政十二年に発行の『【青山御流】活花手引種《イケバナテビキグサ》』にも蜀葵をアオイとしており、また天明二年出版の『華実年浪草』には蜀葵をアオイともカラアオイともしてあり、また『画本福寿草』(後に『草花式』と改題して刷行している)にも蜀葵花をアフヒ【ツユアフヒハナアフヒ】と書いてその図が出ており、また『画本野山草』にも蜀葵すなわち立葵《タチアオイ》一名|戎葵《カラアオイ》をアフヒ(葵の字が仮用してある)としており、また丹波頼理の『本草薬名備考和訓鈔』には蜀葵にアフヒ、カラアフヒ、ハナアフヒ、タチアフヒの名が署してあり、また天保七年に長崎で出版せられた画工川原慶賀の「慶賀写真草』(明治年間になって大阪の書肆前川文栄堂がその旧版木を用いて刷り原本の墨書へほしいままに彩色を施し、かつ書名を勝手に『草木花実写真図譜』と変更し、これを黄表紙四冊〔原本は二冊〕の大本となして出版している)には巻中図画のところでは(280)タチアフヒと書いてあるが、目録のところでは蜀葵としてある。また物集高見博士の『日本大辞林』には、唐葵カラアフヒを東京などにてはアフヒというということが書いてある。また白井光太郎博士の『植物渡来考』ハナアフヒの条下には、「〔名称〕漢名蜀葵和名カラアフヒ本草和名ハナアフヒ一名ツユアフヒ一名タチアフヒ一名オホアフヒ一名オホガラアフヒ南部一名アフヒ能登以上 本草啓蒙〔来歴〕 土耳共、希臘、クレエタ島に野生す支那にても古くは戎葵と呼び西戎より伝来せるものなることを表はせり之れを蜀葵と呼ぶは最初蜀の地に伝へしが故なり爾雅に※[草冠/肩]立堅戎葵なりとあり日本の書にては本草和名にカラアフヒとあるが始なれども万葉集に『ナシナツメキミにアハつぎはふクズののちもあはんとアフヒはなさく』と云ふ歌あり此アフヒも蜀葵の事なるべしと云ふ説あれば此時代に已に日本に伝植せられ居たるならんか」と叙してあり、また京都の医で俳人である永井蘇泉氏(またの号土芳、名は朋吉)の俳句集『ひるがほ』(昭和五年京都刊行)中の「花物語」には「あふひ 立葵一名花葵、葵、蜀葵、戎葵、荊葵 古く支那から輸入された有名な花で、其原産地である欧洲の東南部小亜細亜等には自生がある。あふひ科に属して茎は通常直立して枝無く七八尺に達し、葉は互生で鋸歯がある。花は大きくて五個の花弁があり、短い柄を具へ茎の下方から葉腋毎に生じ茎頭に至って止まる。花の色は、紅、紫、白等色々あり、一重咲き八重咲きがある。其下に総苞を具へ、子房は多室、柱頭は花柱の側面にある。入梅の前後に咲き初め、梅雨期の終る頃全く咲き終るので梅雨葵の名がある。我邦に於て古来文学上に葵(281)と云へば立葵のことで植物学(本草学)上に於ては冬葵を指して葵と称するのである。『万葉集』の物名歌に なしなつめきみにあはつぎはふくずののちもあはむとあふひはなさく 和歌に詠まれた最も古い処である。俳句では せりあげて莟をこぼす葵かな 凡兆」と書いてある
 また従来民間で実地に日常ごくふつうこれを単にアオイと呼んでいる地方は広く邦内諸州いずれにもあって、あえて少しも珍しい事ではなく、女、子供でもみなよくそのアオイなる名を知っておりかつその草をも知っていて、すなわちこれが常識となっているのである。このようにわが邦において古来俗間でふつう単にアオイといってそれが通名のようになっているものは、元来正品のアオイすなわち葵、一名冬葵ではなくてみな蜀葵そのものであるその実状をしっかりと心に銘記していなければならない。このごとく一般的の植物でかつ美花を開き、ふつうに人家あるいは農家などにも種えてあって衆人に親しまれまた悦こばれる花草であるがゆえに、そこで万葉歌人が自詠の歌にふさわしい対象物として通常そこらに見るこのアオイをその歌中に取り入れ、またの再会が叶うであろうとひそかに心の中で期待しつつあるその心事を、そこに祝福しているかのように明るく華やかに咲いているこの蜀葵のアオイ(ハナアオイすなわちタチアオイ)に意を寓せしめて、さてこそいみじくも「葵花咲く」と詠んだのであろうことが想像せられる。そしてこの歌の止めとしてこの句が最も力がある。今試みにこの歌を繰り返し繰り返し味わい読んでみると、この「葵花咲く」の句が特に力強くわが胸に響くのを禁じ得ない。すなわちこれはおそら(282)くこの歌での精神をこめた主句であろう。ひっきょうこれは美しい蜀葵のアオイ花であればこそである。正品の葵(冬葵)の花ではいっこうにたわいないもので、その花は「葵花咲く」と誇りやかに歌うにはその花形があまりにも小さすぎ、少し遠く隔たって望めば果してそこに花があるかないかわからぬぐらいで、かつその上にそれが葉隠れに咲いているからいっこうに不顕著しごくでなんの感じも起こり得なく、そして「葵花咲く」と言うからには、こんな眇たる細花ではまったく張り合いがなく、もっと眼につく鮮明な花でなくては叶わない。なおその上にこの正品の葵(冬葵)は一般広く培養してはいなく、いわばわが邦では古今を通じてあまり人の知らないまれな草本で、たとえそれがあったとしてもふつう人の眼につくようなものではなく、したがって歌に詠み入れて注意を惹かすような資格を持ったものでもない。
 今参考のためにちょっとここに注意書きしておかねばならぬ一事がある。それは飯沼慾斎の『草木図説』巻の十二にあるアオイ(葵)すなわちフユアオイ(冬葵)についてである。すなわち同書の図を見ると、その花が茎の梢の末端に飛び抜けたように描いてあるが、しかしアオイの花は決してこのように顕著には咲かない。茎の梢になると自然に芽も弱くなるからしたがって花梗も縮み、花態も貧弱になるのが常態の姿である。この飛び抜けたように描いてあるのは特にその花をあらわに現わさんがためにわざわざそう取り扱ったのであろうことが想像せられる。
 さて右正品の葵すなわち冬葵(Malva verticillata L.)は主として薬草として、古くわが日本へ(283)は支那から伝えたもので、したがって一般普遍的に諸国で作られたのではなく、ただその実すなわちいわゆる阿布比乃美(深江輔仁の『本草和名』)の冬葵子を採取するためにわずかに薬園に限られて栽培せられたものたるにすぎない。しかるに今から一千余年も前の時代には支那にならいて疏菜の目的で、当時醍醐帝朝廷の内膳司ではこれを園圃で耕種させ朝廷での疏としたことが『延喜式』に載っていて、その事実は「葵※[草冠/爼]九斤」、「葵半把【生菜料】」、「葵四把」の文に徴して知られる。その当時は多少はある地方で食用疏菜として作ってあったこともあったようでもあるが、しかしあまねく諸州の農家で作っていなかったであろうことはわが邦幾多の文献によってそれが一般民間での日常疏菜にまで発展しなかったことが分かる。ゆえに元禄十年刊行の『本朝食鑑』でもまたその他の書物でも、葵がわが邦栽培の疏菜となっている事実はいっこうに書いてない。ひいて今日でも園圃の疏菜として連綿引き続いて作っている風習は、わが邦内どこへ行っても見られないのである。ゆえに葵を菜として貴び作ったということは、それは支那のことがらである。ゆえに支那の書物に出ている事実を移して、もって直ちにわが邦を律することはできないわけだが、とかく支那の書物に依存する昔の半可通学者は往々それをあえてし、葵が支那でのように一般的にわが邦でもまた作られてあったごとく錯覚して書いているのはこっけいのいたりだ。すなわち今から二百六十四年前の貞享元年に出版せられた向井元升の『庖厨備用倭名本草』に、「倭名鈔ニアフヒ園菜部ニ載タリ多識篇ニコアフヒ古人ハ種テ常ニ食ス故二旧《モトノ》本草ニハ菜ノ(284)部ニ載タリ今人ハ食スルモノナク亦種ルモノナシ郊野ニ自生ス故ニ本草綱目ニハ菜ノ部ヨリ移シテ湿草ノ部ニ入タリ」と書いてわが邦でも古人はこれを常食としていたと聞こえるように書いていれど、これはひっきょう支那でのことで決してわが日本でのことがらではなく、この文章は支那の李時珍の『本草綱目』湿草類葵の条下に、「古へハ葵ヲ五菜ノ主ト為セシモ今ハ復タ之レヲ食ハズ故ニ移シテ此ニ入ル」と書き、また「葵菜ハ古人種テ常食ト為ス今ハ種ウル者頗ル鮮ナシ」(【共に漢文】)と書いてあってこれらの文がそのもととなっていることが見られるではないか。
 葵、すなわち冬葵の花は前にもすでに書いたようにいたって小形でいっこうに見るに足らなく、したがって観賞的植物として栽培しているところはいずれにもないから、決して普遍的に民家または農家などにてのふつうの草とはならなかった。そしてまたこの植物は前にも言ったとおり「葵花咲《あふひはなさ》く」と歌われるほどな目につくものでは決してないのである。ひっきょう本当の葵(冬葵)、すなわち正品のアオイは私の確信するところではまったく万葉歌とは無関係没交渉無縁故のものである。それゆえにそのアオイと呼びし名のみにとらわれてそれに拘泥し、直ちにそれが万葉歌のアオイそのものであると速断する説に対しては私は断々固として反対を表明する決意を持っている。
 豊田八十代氏の『万葉植物考』あふひ(葵)の条下に、白井光太郎博士の所見を掲げて「万葉集には葵の字を用いたれば食用の冬葵を指すものと断じて可ならむといはれたり」と書いてある(285)が、この白井博士の説は老練な同君に似あわずじつにその詮索が不徹底で考えが浅膚でまったく間違いきっている。なんとなれば既に前にも書いたとおり、たとえ万葉歌に葵の字が用いてあってもそれは単なる仮用字で、正品の葵すなわち冬葵ではないからである。
 この正品なる葵すなわち Malva verticillata L.は元来欧洲、アフリカ洲東北部のエジプトとアビシニア、印度、支那等の原産といわれ、わが日本へは往時薬用植物として支那から伝えたものである。徳川時代になってのものは山城の山城郷《やましろごう》に多く栽え、その種子すなわちいわゆる冬葵子を採収して四方に貸《う》つたと『本草綱目啓蒙』葵の条下に出ているが、この山城郷は今日の富野荘《とのしよう》村の地で久世郡に属する。しかし現時はその栽培がとっくにすたれて同地に葵を見ることはまったくない。私は先年そこへ調査に行ってそれを確かめてきたことがあった。
 薬草圃に作ってあるものの種子が偶然に逸出し、それが幸いに海辺地に達するとそこに野生の状態となって開花結実し、永く生活を続ける。すなわちその種子が散落しては自ら生え、人力を借りずに生長する。『本草綱目啓蒙』にも「諸州江海浜ニ多ク生ズ」と書いてある。そして海辺以外の地へはあえて野生状態とはならないのは、けだし本種は元来海辺の地がそのホームではありはしないか。
 この葵を今日朝鮮ではアウクといわれるそうだが、久しく同国に在勤していた理学士竹中要氏のいわるるには、右の朝鮮語のアウクは左の順序で逓進しついに和名のアオイとなったものでは(286)なかろうかとのことである。すなわち Auku→Auchu→Auchi→Auhi→Aohi とこれである。しかるにわが邦の学者は、アオイは「仰グ日」の略せられたもので日を仰ぐ意だと言っている。すなわち支那に「葵葉日ニ傾キ其足ヲ照サシメズ」等の語があるごとくその葉が日を仰いで傾くということがらに基づいての説である。このようにアオイの語原については二様の見解があるので、これは語原学者にとっては好課題であるといえる。       1948年『続牧野植物随筆』より
 
(287)  万葉歌のイチシ
 
 万葉人の歌、それは『万葉集』巻十一に出ている歌に「みちのべのいちしのはなのいちじろく、ひとみなしりぬわがこひづまは」(路辺壱師花灼然、人皆知我恋※[女+麗])というのがある。そしてこの歌の中に詠みこまれている壱師ノ花とあるイチシとは一体全体どんな植物なのか。古来だれもその真物を言い当てたとの証拠もなく、いたずらにあれやこれやと想像するばかりである。なぜなれば、現代ではもはやそのイチシの名がすたれてとっくにこの世から消え去っているから、今その実物が掴めないのである。ゆえにいろいろの学者が単に想像を遅しくして暗中模索をやっているにすぎない。
 甲の人はそれはシであるギシギシ(羊蹄)だといっている。乙の人はそれはメハジキのヤクモソウ(※[草冠/充]蔚すなわち益母草)だといっている。丙の人はそれはイチゴの類だといっている。丁の人はそれはクサイチゴだといっている。戊の人はそれはエゴノキだといっている。そしていっこうに首肯すべきその結論に到着していない。
 そこで私もこの植物について一考してみた。始めもしやそれは諸方に多いケシ科のタケニグサ(288)すなわちチャンパギク(博落廻)ではないだろうかと想像してみた。この草は丈高く大形で、夏に草原、山原、路傍、圃地の囲廻り、山路の左右などに多く生えて茂り、その茎の梢に高く抽《ぬき》んでている大形の花穂そのものは密に白色の細花を綴って立っており、その姿は遠目にさえも著しく見えるものである。だが私はそれよりも、もっともっとよいものを見つけて、ハッ! これだなと手を打った。すなわちそれはマンジュシャゲ(曼珠沙華の意)、一名ヒガンバナ(彼岸花の意)で、学名を Lycoris radiata Herb. と呼び、漢名を石蒜といい、ヒガンバナ科(マンジュシャゲ科)に属するいわゆる球根植物で襲重鱗茎(Tumicated Bulb)を地中深く有するものである。
 さてこのヒガンバナが花さく深秋の季節に、野辺、山辺、路の辺、河の畔の土堤、田の土堤、山畑の縁などを見渡すと、いたるところに群集し、高く茎を立て並びあの赫灼たる真紅の花を咲かせて、そこかしこを装飾している光景は、だれの眼にも気がつかぬはずがない。そしてその群をなして咲き誇っているところ、まるで火事でも起こったようだ。だからこの草には狐ノタイマツ、火焔ソウ、野ダイマツなどの名がある。すなわちこの草の花ならその歌中にある「灼然《いちじろく》」の語もよく利くのである。また「人皆知りぬ」も適切な言葉であると受け取れる。ゆえに私は、この万葉歌の壱師すなわちイチシはたぶん疑いもなくこのヒガンバナ、すなわちマンジュシャゲの古名であったであろうときめている。が、ただし現在何十もあるヒガンバナの諸国方言中にイチシに髣髴《ほうふつ》たる名が見つからぬのが残念である。どこからか出てこい、イチシの方言!
                 1953年『植物一日一題』より
(289)  万葉歌のツチハリ
 
 万葉歌のツチハリ、それは『万葉集』巻七に「わがやどにおふるつちはりこころよも、おもはぬひとのきぬにすらゆな」(吾屋前爾生土針従心毛、不想人之衣爾須良由奈)という歌があって、このツチハリの名が一つの問題をなげかけている。
 このツチハリ(土針)は、人がなんと言おうとも、または古書になんとあろうとも、それは決して古人が王孫(『倭名類聚抄』には「王孫、和名沼波利久佐(ヌハリグサ)、豆知波利(ツチハリ)」と書いてある)にあてているツクバネソウでは決してない。
 このツクバネソウは深山に生じているユリ科の小さい毒草で Paris tetraphylla A.Gray の学名を有し、もとより家の居まわりに見るものでは断じてない。またこの草は絶えて染料になるべきものでもなく、まずは山中の樹下にボツボツと生えているただの一雑草にすぎないのである。
 今この歌でみると、そのツチハリは家の近まわりに生えていて、そしてそれが染料になるものでなければならないはずだ。ではそれは何であろうか。
 私の師友であった碩学の永沼小一郎氏は、ツチハリをゲンゲ(レンゲバナ)だとせられていた(290)が、それにはもとより一理窟はあった。が、しかし私の愚考するところではツチハリに三つの候補者がある。すなわちその一はハギ(萩)の嫩い芽出ちの苗、その二はハンノキ、その三はコブナグサである。そこで私はこのコブナグサこそそのツチハリではなかろうかと信じている。すなわちその禾本科なるこの草は通常家の居まわりの土地に生えていて、その花穂が針のように尖っており(それで土針というのだと想像する)、そしてその草が染料になるのだから、この万葉歌のツチハリとはシックリと合っているように感ずる。しかしこの事実は古来何びとも説破しておらず、この頃私の始めて考えついた新説であるから、これが果して識者の支持を受け得るか否かはいっさい自分には判らない。
 右のコブナグサであれば、歌の「わがやどに生ふる」にも都合がよく、また「衣《きぬ》にすらゆな」にも都合がよい。
 このコブナグサは Arthraxon hispiduS(Thunb.)Makino の学名を有し、ホモノ科(禾本科)の一年生禾本で、各地方の随地に生じ土に接して低く繁茂し、前にも書いたように秋にたくさんな針状花椿が出て上を指している。細稈に互生した有鞘葉はその葉片幅広く、基部は稈を抱いている特状があるので、容易に他の禾本と見分けがつく。そしてその葉形を小さい鮒に見たてて、それでこの禾本にコブナグサの名があるのである。
 古く深江輔仁の『本草和名』には、このコブナグサを※[草冠/盡]草にあててその和名を加伊奈(カイ(291)ナ)一名阿之為(アシイ)としてあり、また源順の『倭名類聚鈔』には同じく※[草冠/盡]草にあててその和名を加木奈(カキナ)〔牧野いう、加木奈はけだし加伊奈の誤りならん〕一云阿之井(アシイ)としてある。コブナグサは京都での名で、江州ではササモドキ、播磨、筑前ではカイナグサというとある。貝原益軒の『大和本草』諸品図の中にカイナ草の図があるがただ図ばかりで説明はない。またこれにカリヤス(ススキ属のカリヤスと同名)の名もあるように書物に出ている。『本草綱目啓蒙』には※[草冠/盡]草の条下に「此茎葉を煎じ紙帛を染れば黄色となる」と出ている。八丈島でもこれをカリヤスと呼んで染料にすると聞いたことがあった。
 わが国の本草学者などは支那でいう※[草冠/盡]草をコブナグサにあて、コブナグサの漢名としてこれを用いているが、これは誤りであって元来※[草冠/盡]草とはチョウセンガリヤス(Diplachne serotina Link. var.Chinensis Maxim.) の漢名である。そしてこの※[草冠/盡]草はかの詩経にある「※[草冠/碌の旁]竹猗々たり」の「※[草冠/碌の旁]竹で、支那にはふつうに生じ一つに黄草とも呼んでいる。『本草綱目』※[草冠/盡]草の条下に李時珍のいうには「此草緑色にして黄を染むべし、故に黄と曰ひ縁と曰ふ也」とある。また梁の陶弘景註の『名医別録』には「※[草冠/盡]草……九月十月に採り以て染め金色を作《な》すべし」とあり、唐の蘇恭がいうには「荊嚢の人煮て以て黄色を染む、極めて鮮好なり」(共に漢文)とある。しかし日本人は恐らくこのチョウセンガリヤスを染料として黄色を染めた経験はだれもまだもってはいまい。
 日本の学者は古くから※[草冠/盡]草をカイナのコブナグサに当て、コブナグサを※[草冠/盡]草だと信じ切ってい(292)るが、それは大間違いで※[草冠/盡]草は前記のごとく決してコブナグサではない。学者はそう誤認し、支那では上のように※[草冠/盡]草が黄色を染める染料になるので、そこで日本で※[草冠/盡]草と思いつめていたコブナグサが染め草となったものであろう。すなわち名の誤認から物の誤認が生じたわけで、つまり瓢箪から駒が出たのである。染料植物でないものが染料植物に化けたのである。が、これはそうなっても別にそこに大した不都合はない。なぜなら禾本諸草はたいてい乾かしておいて煮出せば黄色い汁が出て黄色染料になろうからである。
 前に帰っていうが、日本の本草学者は王孫をツクバネソウとしている。しかしこの王孫は断じてツクバネソウそのものではない。そしてこのツクバネソウは日本の特産植物で、支那にはないからもとより漢名はない。  1953年『植物一日一題』より
 
(293)  万葉歌のナワノリ
 
 ナワノリ(縄ノリ)と呼ばれる海藻が『万葉集』巻十一と巻十五との歌にある。すなわちその巻十一の歌は「うなばらのおきつなはのりうちなびき、こころもしぬにおもほゆるかも」(海原之奥津縄乗打靡、心裳四怒爾所思鴨)である。そしてその巻十五の歌は「わたつみのおきつなはのりくるときと、いもがまつらむつきはへにつつ」(和多都美能於伎都奈波能里久流等伎登、伊毛我麻郡良牟月者倍爾都追)である。
 橘千蔭の『万葉集|略解《リヤクゲ》』に「なはのりは今長のりといふ有それか」とあるが、このナガノリという海藻は果してなにを指しているのか私には解らない。そして今私の新たに考えるところでは、このナワノリというのはけだし褐藻類ツルモ科のツルモすなわち Chorda Filum Ramx.を指していっているのであろうと信じている。
 このツルモという海藻は、世界で広く分布しているが、わが日本では南は九州から北は北海道にいたり、太平洋および日本海の両沿岸で波の静かな湾内に生じ、その体は単一で痩せ長い円柱形をなし、その表面がぬるついており、砂あるいはやや泥質の海底に立って長さは三尺から一丈(294)二尺ほどもあり、太さはおよそ一分弱から一分半余りもあって、粗大な糸の状を呈し、上部は漸次に細ってついに長く尖っている。地方によってはこれを食用に供している。そして体がごく細長いので、これを縄ノリとすれば最もよく適当している。このように他の海藻にくらべて特に痩せ長い形をしているので、海辺に住んでいた万葉人はよくこれを知っていたのであろう。ゆえに上のような歌にも詠み込まれたものだと察せられる。このように長い海藻でないとこの歌にはしっくりあわない。
           1953年『植物一日一題』より
 
(295)  秋の七種アサガオは桔梗である
 
 今から千六十一年前にできた辞書、それは人皇五十九代宇多帝の時、寛平四年すなわち西暦八九二年に僧昌住の著わした『新撰字鏡』に「桔梗、二八月採根曝干、阿佐加保、又云岡止々支」とある。すなわちこれが岡トトキの名を伴った桔梗をアサガオだとする唯一の証拠である。人によってはこれはただこの『新撰字鏡』だけに出ていて他の書物には見えないから、その根拠がきわめて薄弱だと非難することがあるが、たとえそれがこの書だけにあったとしても、ともかくもそのものが厳然とハッキリ出ている以上は、これをそう非議するにはあたらない。信をこの貴重な文献においてそれに従ってよいと信ずる。
 秋の七種《ななくさ》の歌は著名なもので、『万葉集』巻八に出で山上憶良《ヤマノウエノオクラ》が詠んだもので、その歌はだれもがよく知っているとおり「秋《あき》の野《ぬ》に咲《さ》きたる花《はな》を指《およ》び折《を》り、かき数《かぞ》ふれば七種《ななくさ》の花《はな》」、「はぎが花《はな》を花《はな》葛花《くずばな》瞿麦《なでしこ》の花《はな》、をみなべし又藤袴《ふぢばかま》朝貌《あさがほ》の花《はな》」である。この歌中のアサガオを桔梗だとする人の説に私は賛成して右手を挙げるが、このアサガオをもって木槿すなわちムクゲだとする説には無論反対する。
(296) 元来ムクゲは昔支那から渡った外来の灌木で、七種の一つとしては決してふさわしいものではない。また野辺に自然に生えているものでもない。またこの万葉歌の時代に果してムクゲが日本へ来ていたのかどうかもすこぶる疑わしい。したがってこれをアサガオというのは当たっていない。
 いま一つ『万葉集』巻十にアサガオの歌がある。すなわちそれは「朝がほは朝露負ひて咲くといへど、ゆふ陰にこそ咲きまさりけれ」である。この歌もまた桔梗としてあえて不都合はないと信ずるから、それと定めても別に言い分はない。すなわちこれは夕暮に際して特に眼をひいた花の景色《けはい》、花の風情を愛でたものとみればよろしい。
 この『万葉集』のアサガオを牽牛子《ケンゴシ》のアサガオとするのは無論誤りで、憶良が七種の歌を詠んだ一千余年も前の時代には、まだこのアサガオはわが日本へは来ていなかった。そしてこの牽牛子のアサガオは、始め薬用として支那から渡来したものだが、その花の姿がいかにもやさしいので栽培しているうちに種々花色の変わった花を生じ、ついに実用から移って観賞花草となったものである。そしてこのアサガオは万葉歌とはなんの関係もない。
 また万葉歌のアサガオをヒルガオだとする人もあったが、この説も決して穏当ではない。       1953年『植物一日一題』より
 
(297)  ムクゲをいつ頃アサガオといい始めたか
 
 ムクゲすなわち木槿をアサガオと呼びはじめたのはそもそもいつ頃であって、そしてなぜまたそういったのであろうか。しかしこの名は正しいとはいえないのみならず、それは確かに間違っているのである。
 いったいムクゲの花は早朝に開き一日咲きとおし、やがて晩にしぼんで落ちる一日花で、朝から晩まで開きどおしである。この点からみても朝顔の名は不穏当なものであるといえる。槿花一朝の栄とはいうけれど、この花は朝ばかりの栄ではなくて終日の栄である。すなわち槿花一日の栄だといわなければその花の実際とは合致しない。かくムクゲの花は前記のとおり一日咲きどおしで一日顔だから、これを朝顔というのはすこぶる当を得ていない。
 人によっては『万葉集』にある「朝顔は朝露負ひて咲くといへど、暮陰《ゆふかげ》にこそ咲益《さきまさ》りけれ」の歌によって、秋の七種《ななくさ》の歌の朝顔をムクゲだと考えたので、それでムクゲに始めてアサガオの名を負わせたのだ。それ以前からムクゲにアサガオの名があったわけではない。つまり一つの誤認からアサガオの名が現われたのは、ちょうど蜃気楼のようなもんだ。
(298) 私はここに断案を下してムクゲをアサガオというのは大間違いであると裁決する。不服なれば異議を申し立てよだ。不満があれば控訴でもせよだ。もしも私が敗北したら罰金を出すくらいの雅量はある。もしも金が足りなきゃ七ツ屋へ行き七、八おいてこしらえる。
 このムクゲは落葉灌木で元来日本の固有産ではないが、今はあまねく人家に花木として栽えられ、また生籬に利用せられ挿木が容易であるからまことに調法である。紀州の熊野川に沿った両岸には長い間、まるで野生になったムクゲがかの名物のプロペラー船でさかのぼり行くとき、下り行くとき見られる。人家にあるムクゲの常品は紅紫花一重咲のものだが、なおほかに純白花品、白花紅心品、紅紫八重咲品、白八重咲品等種々な変りだねがあるが、こんな異品をひとところに集めて作り、その花を賞翫しつつ槿花亭の風雅な主人となった人をまだ見たことがない。
 ムクゲは木槿の音転である。なおこれにはモクゲ、モッキ、ハチス、キハチス、キバチ、ボンテンカなどの方言がある。
 蕣の字音はシュンである。世間往々よくこの字をかの花を賞するPharbitis Nil Chois.のアサガオだとして用いる人があるが、それはもとより間違いで、この蕣は木槿すなわちムクゲの一名であり、かの詩経には「顔如舜華」とある。面白いのはムクゲの一名として朝開暮落花の漢名のあることである。今これを和名に訳せばアサザキクレオチバナである。また藩籬草の一名もあるが、これはムクゲがよく生籬《いけがき》になっているからである。
(299) 万葉の歌にハネズ(唐棣花)という植物が詠みこまれてある。すなわち『万葉集』巻四の「念はじと曰ひてしものを唐棣花色《はねずいろ》の、変《うつろ》ひやすきわが心かも」同巻八の「夏まけて咲きたる唐棣花《はねず》久方《ひさかた》の、雨うち降らば移《うつ》ろひなむか」同巻十一の「山吹《やまぶき》のにほへる妹が唐棣花色《はねずいろ》の、赤裳《あかも》のすがた夢《ゆめ》に見えつつ」同巻十二の「唐棣花色《はねずいろ》の移ろひ易き情《こころ》あれば、年をぞ来経《きふ》る言《こと》は絶えずて」などがこれであって、このハネズをニワザクラ(イバラ科)だという歌人もあれば、またそれはニワウメ(イバラ科)だととなえる歌人もある。またそれはモクレン(モクレン科)だと異説を唱える歌人もいるが、今はまずニワウメ説が通っているようである。しかしこれをそう取りきめねばならんなんらの確証は無論そこになにもなく、ただ空想でそういっているにすぎない。そしてハネズなる名称はとっくに既にこの世から逸し去って今日に存していないのである。ところがある昔の学者の一人は、それは木槿のムクゲすなわちハチス(アオイ科)だと唱えている。すなわちそれは正しいか否か分からんが、これはハネズの語とムクゲのハチスの語とが似ているので、そんな説を立てているのであろう。またハナズオウ(紫荊)だと主張する人もある。私は今このハネズの実物についてはなんら考えあたるところもないので、まずまずここにその当否を論ずることは見合わせておくよりほか途がない。しかしそのうちさらに考えてなんとかこの問題を解決してみたいとも思っている。
 ムクゲの葉は粘汁質である。私の子供の時分によくこれを小桶の中の水に揉んでその粘汁を水に出し、油屋の真似をして遊んだもんだ。
             1953年『植物一日一題』より
 
牧野富太郎選集 3、東京美術、1970.6.1(1981.7.25.新装版第2刷)
 
(163) 茱萸はグミではない
 
 日本の学者は昔から茱萸を Elaeagnus 属のグミだと誤認しているが、その誤認を覚らず今日でもなおグミを茱萸だと書いているのを見るのは滑稽だ。昔はとにかく、日新の大字典たる大槻博士の『大言海』にも、依然としてグミを茱萸としているのはまったく時代おくれの誤りで、グミは胡頽子でこそあれ、それは決して茱萸ではない。仮に茱萸が山茱萸の略された字であるとしても、その山茱萸は決してグミでなく、たとえその実がグミに似ていてもグミとはまったく縁はない。しかも正しくいえば、茱萸は断じて山茱萸の略せられたものではなく、そこに茱萸という独立の植物が別にあってそれが薬用植物で、支那の呉の地に出るものが良質であるというので、そこでこれを呉茱萸と呼んだものだ。すなわちマツカゼソウ科(すなわちヘンルーダ科)の Evodia 属のもので、その果実は決してグミの実のような核果状のものではなくて、植物学上でいう Folicle すなわち※[草冠/骨]※[草冠/突]《こつとつ》である。そしてそれは乾質で決して生で食べるべきものではなく、強いてこれを食ってみると山椒の実のように口内がヒリヒリする。陳※[さんずい+昊]子《チンコウシ》の著『秘伝花鏡』の茱萸の条下に「味辛辣如v椒」と書いてあるとおりである。
(164) この茱萸、すなわちいわゆる呉茱萸は、Evodia rutaecarpa Benth. の学名を有する。しかし呉茱萸の主品はたぶん Evodia officinalis Dode. であろう。そしてこの Evodia rutaecarpa Benth. と Evodia officinalis Dode. との両種をともに呉茱萸と呼び、そしてこの二つがともに茱萸であるようだ。学名のうえでは截然と二種だが、俗名の方では混じて両方が茱萸となっている。とにかく茱萸は Evodia 属のもので決してグミ科のものではないことを心得ていなければ、茱萸を談じ得る人とはいえない。
 『大言海』のグミの語原は不徹底しごくなもので、決してその本義が捕捉せられていない。すなわち正鵠《せいこう》を得ていないのだ。いったいグミとはグイミの意で、グイミとは杭の実の義でこの杭は刺《トゲ》を意味し、そして刺は備前あたりの方言でグイといわれ、クイ(杭)と同義である。すなわちグイミとは刺の実の意でそれはそれの生る胡頽子すなわち苗代《ナワシロ》グミの木に枝の変じた棘枝が多いからである。そしてそのグイミが縮まってグミとなったものであるが、この説は従来まだだれもが言っていない私の考えである。例えば土佐、伊予などでは実際一般にグミをグイミと呼んでいる。
 茱萸をグミだと誤解している人達は、さっそくに昨非を改めて、人の嗤い笑うをふせぐべきのみならず、よろしくその真実を把握して知識を刷新すべきだ。
 前に書いたように茱萸はすなわち呉茱萸で、その実の味はヒリヒリするものであって、薬には(165)するが、あえて果のように舐め啖《くら》うべきものではない。支那では毎年天澄み秋気清き九月九日重陽の日に、一家相携えて高所に登り菊花酒を酌み、四方を眺望して気分をはれやかにする。また携えていった茱萸(呉茱萸)を投入した茱萸酒を飲み、邪気を避け陰気を払い五体の健康を祈り、一日を楽して山上に過ごして下山し帰宅する習俗がある。
 次の詩は支那の詩人が茱萸を詠じたものである。
  独(リ)在(テ)2異郷(ニ)1為(ル)2異客(ト)1
  毎(ニ)v逢(フ)2佳節(ニ)1倍(マス)思(フ)v親(ヲ)
  遙(ニ)知(ル)兄弟登(ル)v高(キ)処
  遍(ネク)挿(ムモ)2茱萸(ヲ)1少(カラン)2一人1
  手(ノヅカラ)種(ウ)2茱萸1旧井(ノ)傍(ラ)
  幾回(カ)春露又秋霜
  今来独(リ)向(イテ)2秦中(ニ)1見(ル)
  攀折無(シ)3時(ニ)不《ザル》2断腸1
 昔支那から来た呉茱萸が、今日本諸州の農家の庭先などに往々植えてあるのを見かけるのはあえて珍しいことではない。樹が低く、その枝端に群集して付いている実は秋に紅染し、緑葉に反映して人の眼をひく。すなわちこの実には臭気がありそれが薬用となる。ところによっては民間でその実を風呂の湯に入れて入浴する。日本にあるこの樹はみな雌本で雄本はない。ゆえに実の中に種子ができない。これは挿木でよく活着するだろう。
               1953年『植物一日一題』より