萬葉創刊號 1951年10月   頁+2でPDFの数字になる ●は著作権切れ
 
 萬葉集金砂子切
●「萬葉集」書名の意義………………………鈴木虎雄 一
 紀皇女と多紀皇女……………………………吉永登 三
 萬葉集雜歌の典據をめぐつて………………伊藤博 一三
 「莫囂圓隣」の歌訓詁私按…………………澤瀉久孝 二〇
 獨りのみきぬる衣の…………………………佐竹昭廣 二六
 彼方の赤土少屋にこさめふり………………木下正俊 三二
 往左來左君社見良目…………………………尾埜よしゑ 三九
 序詞句格補説…………………………………森重敏 四四
 萬葉集の助詞「が」「の」の或る場合……西宮一民 五二
 由阿の傳について……………………………濱口博明 五七
 萬葉集講話一…………………………………澤瀉久孝 六三
〔さすがに物故された方が多いが、とても50年以上前とはいえない。一番近い沢瀉久孝であと2、3年で切れる。尾埜、濱口などいった人は情報がない。こういう人はいつ切れるのかほぼ永久に不明だ。創刊号は大変短いのが一篇だけ。これからも期待できないが、せめて目次を見て、興味がわいたら、ネット上のPDFで読んで頂くしかない。単行本収録のも結構ある。〕
 
(1)   「萬葉集」書名の意義
                  鈴木虎雄
 
 「萬葉集」書名の意義については從來二説あり、一は「萬の言の葉」の義なりとなし、一は「萬世」の義なりとなす。之について故岡田正之博士は「近江奈良朝の漢文学學」に於て、廣く考證せし後、二説を裁定して自説を提出し、
 詩ヲ集メテ詩林ト稱シ、歌ヲ編ミテ歌林ト名クル如ク、萬葉ヲ以テ衆多ノ歌ニ譬へ、歌林ノ萬葉ヲ集メタル意味ヨリシテ此名ヲ下シタルモノナナラン。憶良ニ歌林アリ、家持ニ萬葉あり、命名ノ相配スルハ恐ラクハ偶然ニアラザルベシ。
といひ、更に證を擧げて
 詩文ヲ枝葉ニ譬ヘシ例ハ少カラズ、揚雄ノ解嘲ニ、顧黙而作2太玄五千文1、枝葉扶疎、獨説數十餘萬(【虎曰、刊本萬ヲ脱ス】)言、ト、其ノ李善注ニ、以v樹譬v文也、説文曰、扶疎、四布也、ト見エ、殊ニ晉ノ陸雲ノ祖考頌ニ、靈魂(【虎曰、魂ハ根ノ誤ナラン】)既茂、萬葉垂v林、ノ語モアリ、家持ハ或ハ此ニ本ヅキシモノニアラザルカ。
といはれたり。
 予は結論としては全く岡田博士説に賛同す。而して今此に聊か蛇足を添へんと欲す。
 葉を以て世代に比するもの、上葉 中葉詩經 累葉 奕葉 あり、數字を冠するものに、二葉又兩葉 六葉 八葉唐 百葉 萬萬葉唐 等あり、(唐)と注せる以外のものは皆唐以前の用例なり。干葉は葉の【或は花の】重なれるものをさすためか是を世代に用ゐしものあるを知らず。萬葉を萬代・萬世の義とするものは、前賢多く陸機の曲水詩序の拓v世貽v統、固萬葉以爲v量者也、を擧ぐ。漢語の萬葉に萬代の義あるは明かなることなれども、問題は集名が之を採用せしものなるや否やに存す。
(2) 萬代を言はんとして之を萬葉といふは譬喩的の用法なり。萬葉の原義は萬の木葉をさすものなり。故に萬葉なる語の譬喩的用法は萬代といふ一義に限れるものにあらず。陸雲の靈根既茂、萬葉垂v根、【岡田氏已に之を引く】は陸氏家門の支族の茂りはびこれるさまを譬へていふなり。更に一二の例を擧げんに、魏志高堂隆傳の自謂、本枝百葉、永垂2弘暉1、は萬といはず百といひたるも、葉を以て支族の衆多をあらはすなり。李白の贈2清〓明府姪1詩の我李百萬葉、柯條布2中州1、も亦同樣なり。葉は已に之を世代にたとへ、支族の衆多なるにたとふるならば、更に之を他物にもたとふることを得べし。但、順序としては葉は先づ枝に屬し、次に之を林に屬せしむるを當然とす。初め林は書名に附せられ、唐以前に、易林 字林 文林 翰墨林 等の稱あり。詩林といふは唐以前には之を見ず、歌林の如きは全く本邦の創制とおもはる。唐の初には「文館詞林」あり、此、詩林に近似せる最初のものならん。古代は文辭を集めしもの、多く之を「苑」といひ「林」とはいはざりしが如し。白氏文集に論策を集めたる部分を「策林」と稱せるあり、これは萬葉集時代よりは後るるものなり。岡田説の如く、憶良已に歌林あれば之に對して家持に萬葉あり、その萬葉とは歌の林に立ち茂る樹木の衆多の葉の意義を用ゐたりと考ふるは自然にして適當なる説にはあらざるか。
 次に一考を要するは集名の萬葉と古今集序の「萬の言の葉」との關係なり。豫はそれは直接には無關係なりと信ず。前項の述べし所は古今集序を全く考慮に入れずして建てたるものなれば殆ど無用の樣なるも少しく陳ぶる所あらん。「言葉」の語が成立つものならばそは甚だ好都合なれども此語が已に問題なり。許登乃波 古登波 の波婆は語源上果して葉の義あるものなりや否や。大槻氏の「言海」ことば〔三字傍線〕の條に、言葉〔二字傍線〕とし、「葉ハ繁キ意ト云」とあるばかりにてハ〔二重傍線〕の原義の何なるやは明かにせられず。臆説にてはことば〔三字傍線〕とは寧ろ事端の義にあらずやともおもはるるなり。故に言葉〔二字傍線〕を萬葉時代にさかのぼらせて之を意義づけんとするは必要なきことなり。然らば「言ノ葉」思想は無用なるかといふに亦必しも然らず。「言ノ葉」とは貫之の獨創なるか、當時の人人の思想を代表して美しくしやれてかくいひなしたるか、の孰れかなるべし。之を祖として後には金葉 玉葉 新葉 等の歌集名も生じ、又「詞花」といへる集も出づ。(3)漢語としては詞華はあれども言葉葉 言葉 共に之あることなし。「言ノ葉」思想なるものは萬葉集の時代に歌葉 歌林 の思想ありてそこに潜在せし思想が偶ま貫之により文字として表明せられしものと觀ば如何。これ、迂遠ながら萬代説を取らずとも、萬の木葉即歌葉 といふ説によりて「萬葉集」の集名を解して差支なきことを助くる一證ともならん(昭和二十六年八月末稿)−京都大學名譽教授−
 
萬葉第二號 1952年1月
 
 鴨川考………………………………………新村出 一
 萬葉集表現の一面…………………………小島憲之 三
 憶良の長歌…………………………………清水克彦 一二
 卷十六「饌具雜器」をめぐつて…………橋本四郎 一八
 「芳野よく見よ良き人よく見」…………澤瀉久孝 二二
●「草等良牟」考……………………………加藤順三 二八
 「片思ひを馬にふつまに」の歌私解……阪倉篤義 三一
 「甚」字の訓について……………………武智雅一 三九
 萬葉集曝井の武藏國説……………………望月久貴 四六
 萬葉集講話二………………………………澤瀉久孝 五二
 上代特殊假名遣表解説……………………上野務 五八
 新刊紹介・美夫君志會編「萬葉集新説」…小島憲之 六三
 
(28)   「草等良牟」考
                  加藤順三
 
  ほととぎす來鳴とよまば草等良牟花橘を屋戸には植ゑずて(四一七二)
  口譯――時鳥ガ來テ聲ヲ響カセテ鳴クナラバ、必ズ枝ニトマルベキ花橘ヲ私ノ宿宿ニ植ヱナイデ惜シイコトヲシタ(全釋)
 右の歌は天平勝寶二年三月二十三日、大伴家持が越中の任地での作品で、平凡なものであるが草等良牟の句が難解とせられてゐる。
 鴻巣氏の全釋でも、
  この句はわからない。卷十の歌(一九四三)の草取れり〔四字傍点〕と同樣らしく思はれるが、これでは解し難い。暫く略解の宣長説「草とるとは、すべて鳥の木の枝にとまることを言ひ、これも時鳥のとまるべき花橘を宿に植ゑむものを植ゑずして今悔る意なり」に從つておかう。意味がよくわからないから批評は出來ない云々
と正直に述べてゐる。
 卷十の歌といふのは、
  月夜よみなく時鳥見まく欲り我草取有見む人もがも
であつて、宣長はこの歌の吾〔傍点〕の字を今〔傍点〕に改めイマクサトレリとして解してゐる。
 ワレクサトレリ(代)、ワガクサトレル(考)、イマクサトレリ(古義)、ワレクサトレリ(新考)――など訓は種々になつてゐるが意味はいづれも徹底しない。古義は全體に宣長説に從ひ
  歌の意は、月がよく照りたる故に、この月影に時鳥の姿も見ゆべきなれば、いかにぞしてその姿を見まほしと思ひて見や(29)りたれば今〔傍点〕木の枝にとまりて鳴てゐるを、唯獨り見むは口惜しければ、いかで來て見む人もがな、あれかしとなり
と譯してゐる。全く詞の筋道を無理に合理化したやうな迂遠な解である。
 從來の學者の態度には、歌の本質的なものを捉へずして、語法や用字や詞句の形式的な合理を追求し、甚だしきは改字することを恣にして、歌の發想上の自然、内面の必然といふ點を輕視する缺點がある。この歌にはそれが著しく現れてゐる。
 私がこの歌を玩味してゐるうちに、極めて安易にその正確な意味が見出せるやうに思ふので、次にその點を明かにしたい。
 宣長が草とる〔三字傍点〕といふ詞を、木にとまる〔五字傍点〕ことに斷定してゐる根據は一寸不明であるが、これは鷹詞から來てゐるらしいい。(草とるとは鳥を手取りすることだといふ變つた説を清水濱臣があげてゐるが、これも、鳥狩に關係がある)
 定家の鷹三百首和歌に、
  雪をうすみわか菜つむ野にかけ落し草とる鷹の七嶺の鈴
など鷹の用語に草とるといふ詞をよく見出すのであるが、これをこのにあてはめることは全く無理である。萬葉集のこの二つの歌は、同一の思想を、やゝ形を變へて用ひてゐるのであつて、卷十、十一、十二などの古歌集の用語を利用することは、大伴家の人々の一つの習慣と見られるのである。それで卷十のこの歌を表現通りに解釋すると、
  月のよい夜明けに、鳴く時鳥を見ようと私は野へ出て草を取つてゐる。誰か見てくれる人があればいい。
の意である。一首の作品としては、第五句が少しおちつかずやゝ突然の感があるが、それには理由がある。それは、同じ卷のすぐ前の歌に連續した意味があるからで、その前歌は
  時鳥なく聲きくや卯の花の咲きちる丘にくず引く乙女(一九四二)
といふのである。これは「時鳥の今なく聲をきいたか、卯の花のさく丘で葛をひくかあいゝ娘よ」といふのであるから、「われ草とれり見む人もがも」すなはち、誰かに見られたい、あなたのやうな人にとの意で、一寸不安定であつた「見む人もがも」の句が答歌〔二字傍点〕として落ちつくのである。
 大體本集の書式は、問答歌には必ず問答と註記する習慣(30)であるが、時には何も書かずにたゞ並記してある場合もある。(例へば、二七七一と二七七二、二四八四と二四八五、二一三九と二一四〇などがそれである)。
 これらの事情を推すと草採るは葛引くと同じ意味であつて、夏葛を引きその繊維で衣服をつくることは古代生活の自然な現象である。なほ言へば、當時の生活物資中重要なものに對しては固有の名詞を用ひず、檜眞木といひ、葺代の萱を眞草とよび、川狩の鵜を眞鳥とよんだように、夏草の葛を引くわざを草とるといつて通用したのである。
 この考へを更に確定する爲に今一つの用例がある。それは卷七の旋頭歌
  太刀の後鞘に入野に葛ひく吾妹、眞袖に着せてむとかも夏草刈〔三字傍点〕るも(一二七二)
この歌は、第四句に多少の問題はあるが、大意は
  (太刀の後鞘に)入野で葛を引いてゐる少女よ、あれは眞抽の着物に仕立てゝ私に着せようとて、夏草を刈つてゐるのだ
といふことで、葛と夏草とを同位に用ひてゐるのである。
 以上を綜合すると、時鳥の鳴く月明の頃は、夏葛を引く時節であり、その作業と季感と戀愛感情とが興味ある主題をなしてゐる。
 なほ以前に考證したことであるが、時鳥に配合せられるものは、山野の卯の花と庭苑の橘の樹であつて、この鳥を卯の花から花橘に遷り住むものとする趣味感がすでに固定してゐる。
  ――卯の花のさく丘べより飛びかけり、來鳴とよもし(略)わが宿の花橘に住みわたれ鳥(一七五五)
の長歌を見てもわかるのである。
 これと同時に、卯の花、橘の他にも葛を引く頃に鳴く鳥といふ情致が存し、それが詩的な刺激となつたと見ることが出來る。
 それで本問題の歌を改めて口譯すると
   時鳥よ、おまへの鳴きとよむ頃となると、私は野へ出て葛を引かうよ、花橘を宿に植ゑてお前を待つまでもないことだ
といふ意味になる。この難句を、かくして解くことが出來れば幸である。        −同志社女子大學教授−                            
 
萬葉第三號 1952年4月
 
●萬葉集と古今六帖…………………………山田孝雄 一
●紀皇女に就いて……………………………尾山篤二郎 一九
 遊仙窟と萬葉集……………………………土橋寛 二六
●「或本反歌二首」小考……………………内田曉郎 三一
 萬葉集訓詁斷片……………………………大野晋 三八
 萬葉集講話 三……………………………澤瀉久孝 四五
 書評・創元社刊「萬葉集講座」第一卷…伊藤博
 
(1)   萬葉集と古今六帖      山田孝雄
 
 萬葉集の歌が古今集には殆ど採られなくて、古今六帖に多く載せてゐる。この古今六帖に萬葉集の歌の多く載せてあることは契沖はやく之をいひ、山本明清の古今和歌六帖標注にそれを一層明かにしたことは誰も知つてゐることであるが、私はその古今六帖に傳へられた萬葉集の歌についての概觀をこゝに述べてみようと思ふ。それについては先づ萬葉集の古點といふことを顧みることを要する。
 萬葉集は大伴氏と關係が深く、特に卷十七以下四卷は家持の歌日記のやうな有樣であるが、それが天平寶字三年正月一日の家持の詠で終つてゐ、その後二十八年目、延暦五年に家持が歿するのであるが、その間の歌は一首も傳はらない。その二十七八年間に家持が一首も歌を詠まなかつたといふことは常識には考へにくい事であるから、いろ/\推測的の意見も生じてくる次第で、私も一種の推測を下したのであるが、今はその論に觸れない。
 古今集雜下に
 貞觀の御時萬葉集はいつはがりつくれるぞと問はせ給ひければよみて奉りける
 文屋ありすゑ神無月時雨ふりおける楢の葉の名におふ宮の古ことぞこれ
とある。こゝに奈良の宮の古ごとゝ答へ奉つたのである。その奈良宮は所謂奈良朝をもさし、又平城天皇の朝をもさし得るので明確にはきめられぬ。しかし、その「古こと」が古歌の意味だとすれば奈良朝になるが、勅問はその著作の時代をきかれたのだから、それでは眞の答にはなつてゐない。その「古こと」を古の事がらとすれば、時代はいづれをさすか、こゝには曖昧である。
 次に新撰萬葉集上卷の序を見る。
(2)  夫萬葉集者古歌之流也、……凡厥取2草藁1不知2幾千1漸尋2筆墨之跡1、文句錯亂非v詩非v賦字對雜揉む、難v入難v悟、所謂仰彌高、鑽彌堅者乎。
とある。これは今の萬葉集に對する評である。「文句錯亂非v詩非v賦」とあるは、彼の萬葉集はすべて漢字で書いてあるから、漢文か漢詩かとして讀み下さうとすればまことに詩にも非ず賦にも非ざるもので、文句は錯亂したやうに見え、字對などは全く見られぬ有樣で錯亂雜揉入り難く悟り難いものであつたらう。さうしてそれに續くものとして撰せられた新撰萬葉集は萬葉假名で和歌を記し、その各の和歌に絶句詩一首づゝを副へてあるが、これは萬葉集の體裁に傚ふつもりであつたのかも知られないが、若しさうだとすれば萬葉集は難解のもので、とにかく和歌も漢詩賦のやうに書いたものだと考へてゐたからかも知れぬ。
 古今集の序文には
  昔平城天子詔2侍臣1令v撰2萬葉集1自v爾時歴2十代1數過2百年1。其後和歌棄不v被v採。雖d風流如2野宰相1、雅情如c在納言u而皆以2他才1聞、不d出2斯道1顯u。……各獻2家集並古來舊歌1曰2續萬葉集1、於是重有v詔部2類所v奉之歌1勒爲2二十卷1名曰2古今集1。
とある。之によると、はじめ醍醐天皇は歌人の家々の集又古來の舊歌を獻ぜしめ、それを總括して一の大歌集を編せしめて續萬葉集と名づけられたものと思はれ、その後重ねて詔して、その續萬葉集として集められた歌を部類次第して古今集とせられたものであると考へられる。隨つて古今集にはその假名序にいふ如く、古くても「萬葉集に入らぬ古き歌」をとつたものであると思はれる。
 そこで、古今集は古歌でも萬葉集以外の古歌をとつたもので、萬葉集は特例の取扱になつてゐたやうであるが、村上天皇の御世に至つて、その訓點を施すことを企てられた。この事は源順集に
  天暦五年宜旨ありて、はじめてやまとうたえらぶ所をなしつぼにおかせたまひて古萬葉集よみときえらはしめ給ふなり。めしをかふるは河内掾きよはらの元輔、近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宣、學生源順、御書所のあつかり坂上望城なり。藏人左近衛少將藤原朝臣伊尹をそのところの別當にさためさせ給ふに、(下略)
とあるので、あきらかであるが、又源順は、規子内親王家(3)歌合の判詞に
  そも/\したがふなしつぼにはならのみやこのふる歌よみときえらびたてまつりしときにはすこしくれ竹のよこもりてゆくすゑたのむ折もはへりき。
とあつて、それは壯年の時であつたと回顧してゐる。この撰和歌所のことはその別當の任ぜられた宜旨奉行文と禁制闌入事の文とが源順の撰文として本朝文粹卷十二に載せてある。その撰者には箕裘を尋ねて寓直の徒となすとあつて、名家の子弟を集められる趣旨であつたらしい。即ち清原元輔は深養父の孫、紀時文は貫之の子、大中臣能宣は頼基の子、坂上望城は是則の子でそれ/”\父祖は歌人としてすぐれてゐた。源順は定の曾孫、擧の子であるが、父祖が歌仙の列に入らなかつた。しかしながらこの梨壺に於いては牛耳を握つてゐたやうであつた。これは主としてその學殖によつたものであらう。萬葉集をよみこなすには漢學の造詣の深いことが、主たる條件であつたのであらう。
 さて、この萬葉集の和解を企てられたのは、十訓抄によれば廣幡の御息所が天皇に勸められたことに基づく由である。この御息所は中納言源庶明の女で名は計子といひ拾遺集の作者であるが、その歌にすぐれてゐたことは榮花物語にも見ゆる。
 この天暦の時に讀み和げ得た歌はどの歌どもであるか、又幾ら程の數がよみ得られたのであるかは明らかに傳ふるものが無い。詞林采葉集には「萬葉集點和」と標した條に
  天暦御宇詔2大中臣能宣、清原元輔、坂上望城、源順、紀時文等1、於2昭陽舍1梨壺加2和點1此號2古點1、亦追加v點人々法成寺入道關白太政大臣、大江佐國、藤原(惟宗、誤)孝言、權中納言匡房、源國信、大納言源師頼、藤原基俊等各加v點、此名2次點1亦權律師仙覺加v點此稱2新點1。
と見ゆる。即ち天暦の時の訓を古點といひ、鎌倉時代の仙覺の訓を新點といひ、古點の後、新點の前に加つた多くの人々の訓をすべて次點といふのである。以上の三種の點和のうちでその事實の明確になつてゐるのは新點だけである。
 仙覺は萬葉集の研究には劃期的の偉業を成した人であることは古今を通じて異論の無い所である。しかもその人の新點の歌は合計百五十二首であり、仙覺抄に説く所の歌は(4)八百十一首である。仙覺以後契沖までさしたる萬葉學者は出でなかつた。その間にも玄覺とか成俊とか由阿とか宗祇とか、それ/”\有名な人が萬葉集に關してそれ/”\多少の貢獻をしたことは認めなければならぬが、訓點の上に大なる功績をのこしたといふことは出來ぬ。かくして江戸時代の初期に古活字本、寛元版本が出るに及んだのである。その寛永版本には多少の誤もあることは周知の事だけれども、とにかく萬葉集のすべての歌、四千五百餘首には、それ/”\の訓が施してある。その訓は誤も少くあるまいが、一體誰がかくまでに加へ得たものであらうか。仙覺にある八百餘首以外は仙覺が異議を唱へなかつたものと見てもよいであらうか。さうすれば、その他の三千七百首計は仙覺抄以前に既に訓が成り立つてゐたと認めねばなるまい。他覺以前に萬葉集の歌を論説したものに俊頼口傳、綺語抄、和歌童蒙抄、萬葉集抄、奥義抄、袖中抄、古來風體抄、和歌色葉集、八雲御抄等がある。それらの書に説く所と仙覺抄に説く所を綜合して佐々木僧綱氏の示された表をみると總計九百九十六首とある。上の俊頼口傳以下は平安末期院政時代以後のものである。
 さうすると、この約千首を除いた三千五百首計は平安朝末期には既に訓を與へられてゐたであらう。これらの訓にはもとより多少の錯誤が無いとはいはれまいが、とにかくに一往は讀み得てあるのである。なほ又俊頼口傳以後の諸書にいふ所とて萬葉集の新點といふ譯ではないから、新點百五十二首以外の四千餘首といふものは平安朝時代に一往訓點が下されてゐたことを認めねばならぬ。而してその訓點は誰が下したかといふに、それは要するに古點から次點の間によみ下したものと推定せらるべきものであらう。
 次點の點者としては詞林采葉に道長、佐國、孝言、匡房、國信、師頼、基俊等が示されてあるが、誰がどの歌をよんだのか、その數は何程になるのか明かには知られてゐない。
〔以下、山田孝雄「萬葉集考叢」(本私設万葉文庫にあり、うすうす気づきながらここまで入力したのが惜しまれる、私にはよくあることだが)所収のものを御覧頂きたい。〕
 
(19)   紀皇女に就いて          尾山篤二郎
 
  本紙創刊號所載の吉永登教授の御研究文『紀皇女と多紀皇女』に就いて愚考を申上ぐる。私の未刊の稿本『萬葉集作者考』中、紀皇女の一篇があり、それと考へ合せますと、少し異つた意見がありますので、大方博雅の御參考を希ひ度いと存じます。
 卷三の譬喩歌第一に、紀皇女御歌一首。
  輕の池の※[さんずい+内]回〔二字右○〕往きめぐる鴨すらに玉藻の上に獨寢なくに(三九〇)
といふのと、卷十二の寄物陳思の歌群中に
  己故罵えて居れば※[馬+総の旁]馬の面高夫駄〔四字右○〕に乘りて來べしや(三〇九八)
(20)  右一首、平群(ノ)文屋(ノ)朝臣益人傳云、昔聞、紀(ノ)皇女竊嫁2高安(ノ)王1、被v責之時、御2作此歌(ヲ)1。但(シ)高安(ノ)王左降、任2之伊豫國守1也。
と云ふのがある。固より名を顯したのは前の一首だけで、後者は傳承歌であつて、卷十二の性質上一切作者は顯かにしてゐない。吾々は左註で其事を知るだけのことだが、果して斯ういふ史實があつたかどうか解らないが、萬葉集の此卷が集められた當時、編者がこれを參考としたのだから、これを一應さういふ事が在つたとして認めて置かうとするのである。
 若し斯う云ふ事が事實あつたものとして觀ると、それは何時頃で、また紀(ノ)皇女と高安(ノ)王が何歳頃の話になるか、といふ事を知りたく思ふ。
 紀(ノ)皇女に就いては、卷二に弓削(ノ)皇子、思2妃皇女1御歌歌四首
  芳野河ゆく瀬の早みしましくも淀むことなく有りこせぬかも(一一九)
  吾妹子に戀ひつゝ有らずは秋萩の咲きて散りぬる花に有らましを(一二〇)
  夕さらば汐滿ちきなむ住吉の淺香の浦に玉藻苅りてな(一二一)
  大船のはつる泊のたゆたひに物思ひ痩せぬ人の子故に(一二二)
といふ四首の戀歌がある。紀(ノ)皇女は天武紀二年二月癸未の條に僅に名が見える切りで、薨卒の年齡、傳も一切不明な方である。たゞ御同母妹に田形(ノ)皇女があつて、續紀文武天皇の慶雲三年八月、遺2三品田形(ノ)内親王1、侍2于伊勢大神宮1、と見え、聖武天皇の神龜元年二月六日、授2三品田形(ノ)内親王、吉備(ノ)内親王、並二品1、また同じ五年二月五日、二品田形(ノ)内親王薨、――天渟中原瀛眞人天皇之皇女也、とあり、御姉の紀(ノ)皇女に比しては頗る詳しい。また御アニ君穗積親王に至つては愈詳しいのであるが、此方は元明天皇の靈龜元年七月二十七日に知大政官事一品親王として薨じられてゐる。これは早く亡くなられたか、或はまた何か内輪の事件があつたかと觀るのが吾々の目だ。その目が先づ一番にひきつけられるのは上の萬葉卷十二の左註であり、次に異母兄弟の弓削(ノ)皇子の戀歌である。弓削(ノ)皇子は文武三年紀に、淨廣貳弓削(ノ)皇子薨、――天武天皇之(21)第六皇子也、と見え、第六皇子かどうか疑はしいが、淨廣貳位は親王十二階の八階で、直ぐ後で制せられた大寶の三品に當り、當時としては皇子中の有力者であるが、兎に角この時亡くなられてゐる。懷風藻の葛野王の傳に、
  王子(ハ)者、〔煩瑣なので入力省略〕…拜(ス)2式部卿(ニ)1。時(ニ)年三十七。
と誌してゐるが、弘文天皇の皇子葛野王の年齡と弓削皇子の年齡が、私觀では一致するのである。謬つても一二歳の上ぐらゐである。尤もこの葛野王は年齡は慶雲二年十二月二十日に卒した時の年齡であるから、生誕は天智八年であり、御父弘文二十三の時である。從つて弓削皇子は葛野よりも七年前に卒去したから、その際の年齡は三十一二歳であらうと思はれ、此戀歌も餘り遠くない時のものであらうとは思うが、家持などの例からすると、もつと早くかういふ歌は作り得るから、二十歳前後とするも差支へない。
 此所で天武諸皇子の順位(皇女は解らぬ)を一寸擧げて見よう。
 夫人。鏡(ノ)王(ノ)女、額田姫(ノ)王。
  腹。十市(ノ)皇女(弘文帝妃。天智八年葛野王を産む)。
 夫人。鏡(ノ)女王。(額田姫王の姉、後に錬足の夫人となる。皇子皇女なし)。
 夫人。胸形(ノ)徳善(ノ)女尼子(ノ)娘。
  1高市(ノ)皇子。壬申の亂の大和軍惣指揮官。持統四年七月任太政大臣。同十年七月薨(扶桑略記云、年四十三)。
 妃。天智天皇女、大田(ノ)皇女(持統同母姉)。
  腹。大來(ノ)皇女。文武大寶元年十二月薨(時に四十歳位)。
  3大津(ノ)皇子。天武十二年二月始めて朝政を聽く(二十一歳)。朱鳥元年九月天皇崩、十月大津謀反、譯語田舍
(22)〔平凡な引用ばかりで極めて退屈、よって皇子名と順位の数字以外は省略〕
2草壁、4忍壁、5礒壁、6長、7弓削、8穗積、9舍人
(23)10新田部
 以上各皇子の肩に附した數字は私の推定順位である。續日本紀の各薨時の順位は出鱈目である。出鱈目でなくとも極めて不親切である。特に舍人親王を天武第三皇子としたのはひど過る。また公卿補任が壽を六十歳としたのは何を根據にしたか知らないが、これは肯けるやうである。さうすれば天武三年の生誕になる。
 天武八年紀に、五月吉野離宮で皇后及び草壁、大津、高市(以上天武皇子)、河島(天智)、忍壁(天武)、芝基(天智)の六皇子に詔して、今日汝と倶に庭に盟つて千歳の後事無からんと欲するがどうだと仰言つた。草壁は直ちに答へて、吾兄弟は長幼併せて十餘王、各異腹より出てゐるが、一身同體、相扶けてやりませうと云うてからに、他の五皇子諸共に盟を樹てた。此六人が當時既に立派に成人した代表と見て好からう。また十四年正月には、草壁淨廣壹、大津に淨大貳、高市に淨廣貳、川島と忍壁に淨大參の位階を授けられ、先鳥元年八月、皇太子草壁、大津、高市、に四百戸、川島、忍壁に百戸、芝基、礒城に二百戸の加封があつた。淨廣一位は親王十二階の第五階で古令の二品に該當する。淨大二は十二階の第七階で三品、淨廣二は第八階で同じく三品、淨第三は第九階で後の四品に該當する。またこれより前、十年三月十六日太極殿で川島(天智)と忍壁(天武)の二皇子等に詔して、帝紀及び上古の諸事を記定せしめられてゐる。故に天武皇子としては、1高市、2草璧、3大津、4忍壁、5礒城は動かないが、3大津、2草壁、1高市と次第に夭折して奈良朝になると穗積、舍人、新田部と三人だけになつた。穗・舍・新の順位は政治的活動から觀て長幼のあつた證據があり、當然な順位である。そして次第に世は天智・天武諸皇子からすれば孫の代、天智・天武からすれば曾孫の代になるが、その中の皇女の一人と、天智・天武からすれば御從兄弟になる河内(ノ)王の遺兒貴公子とが、世間體の惡い戀愛遊戯をした。それが卷十二の益人(24)の傳のある「おのれゆゑ罵えてあれば」(三〇九八)の歌である。
 この歌――といふよりも一つの事件――の起つた時、大原(ノ)眞人高安がまだ高安(ノ)王であつた時代で、左降されて伊豫の國守になつたことが在つたか無かつたか、在つたとすればそれ何時頃だと云ふことさへ定めればいゝのである。國には大上中小の別がある。伊豫は中國で國守は從五位下相當官である。若し彼が大或は上國の國守であり、それが中或は小國に異された場合は、これは左遷である。
 先づ高安(ノ)王だが、初めての敍位は元明和銅六年正月二十四日で、續紀に『無位内部王(記は内を門に誤る)從四位下、無位高安王從五位下――』で即ち高安は二十一歳に達してゐたのである。次に元正養老元年正月四日『從五位下高安王、門部王(高安の次弟)、葛木王、並從五位上』とあつて、高安二十六歳である。次に養老三年七月始めて按察使を置かれた條に『――伊豫國守從五位上高安王、管2阿波・讃岐・土佐三國1、』とあつて四國全體を菅してゐるが、上に云つたが如くこれは從五位上行〔右○〕伊豫守である。即ち註に益人が云つたやうに、左降されて伊豫守となつてゐたのである。それならば左遷以前はどういふ役目をしてゐたかだが、これには恰好な歌が卷四にある。
   大納言大伴卿、新袍(ヲ)贈(レル)2攝津(ノ)大夫《カミ》高安(ノ)王(ニ)1歌一首。
  吾が衣人にな著せそ網引する難波壯士の手には觸るとも(五七七)
どういふ意味で新しい袍を贈つたかといふと、無論新任を賀した心からであるが、旅人の父安麻呂が天武二年六月薨じた叔父の子供兄妹を養つてをつたが、多分旅人が世話をして其妹を高安(ノ)王に嫁入させてゐたのである。さういふ關係でこのやうな俳諧味を含んだ歌が出來た。これが後に不縁になつて大伴家へ歸つて來て家持の義母となり、神龜五年に太宰府で病歿した大伴(ノ)郎女である。高安(ノ)攝官は、和銅六年八月『從四位下大石(ノ)王(ヲ)爲(ス)2攝津大夫(ト)1、』の後を次ぎ、養老元年正月從五位上に昇敍の直後で、無論これは守〔右○〕攝津大夫であつた。彼の後には養老三年九月任命の『正四位下巨勢(ノ)朝臣邑治(ヲ)爲2攝津國攝官1、正四位下大伴(ノ)宿禰旅人爲2山背國攝官1、』の巨勢(ノ)邑治があるわけだが、養老二年ぐらゐであつたらうか。
 相手の高安が二十七歳として紀(ノ)皇女は幾つかと云ふに、(25)假に天武十二年生としても三十六歳、舍人親王と一緒の年に生れたとすれば四十三歳、何れにしても大年増だが、斯う云ふ奇妙な關係は餘程此當時の人々の間に流行したと見え、大伴(ノ)家持と紀(ノ)郎女や平群(ノ)女郎の關係、坂(ノ)上(ノ)郎女と大伴(ノ)駿河麻呂の關係その他色々あつて一つの風習と見慣してもよからう。『輕の池』の歌にしても、『己故罵えて居れば』にしても生若い息遣ひではない。弓削(ノ)皇子との關係は上に擧げた四首の歌で明瞭だが、皇子は迅く亡くなつてをられ、譴責を受けた所が大したことはない。高安は守〔右○〕が行〔右○〕になつただけであつたから紀(ノ)皇女と雖も謹愼ぐらゐで濟んだらうし、また濟んだ筈である。然し皇女の素行に缺くるものが在つた爲めか、妹の田形(ノ)皇女とは比較すべくもない程紀の上ではひどく虐待され、何も記されてゐない。たゞ卷三に『同石田(ノ)王卒之時、山前(ノ)王哀傷作歌一首』といふ長歌があり、左註に『右一首、或云柿本朝臣人麿(ノ)作』とも見え、また『或本反歌二首』と在つて、
  隱口の泊瀬をとめが手に纒ける玉は亂りて在りと言はずやも(四二四)
  河風の寒き長谷《はつせ》を歎きつゝ君が歩くに似し人も逢へや(四二五)
  右二首者、或云、紀(ノ)皇女薨後、山前(ノ)王代2石田(ノ)王(ニ)1作之也。
 何れにしても此左註が在り得べきものとして時人が認めたから書き記したもので、さうすると事件が在つて間もなく、皇女は薨じられたものとすべきであらう。またこれも間もなく、非常に皇女に接近してゐた石田(ノ)王(傳不明)が亡くなられ、續いて石田(ノ)王の友人山|前《くま》(ノ)王も亡くなられたやうである。間もなくと云ふことは偶然ではあるけれども、實際がさういふ事になつたので、奈何にも不自然に見えた所で、これはもう致方がない。いか程不自然であつても、過去帳は任意に書替へる譯には往かない。
 石田(ノ)王は萬葉集卷三に名だけが見える切りで紀及び他に一箇所も見えぬ方であるから止むをいが、丹生(ノ)女王はある。多分石田(ノ)王の配偶であつたらうが、天平十年正月從四位下より上に、孝謙天平勝寶二年八月正四位下より上に昇格されてゐるから、相當な諸王家の方であらう。萬葉では丹生王とあつて女王とはないが、歌の樣が相違なく女性であるから女は略されたものと認める。額田姫王が(26)額田王とのみ記されてをり、その他にも例がある。山前(ノ)王に到れば、これはもう懷風藻の作者であり、忍壁(ノ)親王の長男であり、刑部卿であるからして、慶雲二年の初敍からして既に從四位下、卒去は養老七年十二月であつた。即ち天武十四年の生で卒せられた時は三十九歳であつた。
 以上私考では斯う云ふことになるのだが、尚旅人の贈袍歌(五七七)の詞書に大納言大伴卿とあることに不審を抱く方があるかも知れない。これは後で萬葉集編纂の際書入れたもので、若しこれが現職の官名と採ると、當然のことゝして下を大原(ノ)高安と書くべきで高安王では駄目である。それよりも茲に大原(ノ)高安と書いてない事の方が重要であつて、それは高安が王族であつた期間を示すものであるからである。もう一つ紀(ノ)皇女を多紀内親王の誤りと觀る説、これは驚くべき猛斷と云ふより他はない。多紀(ノ)内親王は志貴(ノ)親王の妻で安貴(ノ)王の御母、志貴親王薨後とても別に浮名を世に唱はれた事もなく、從つて皇室からも非常に叮重にお取扱ひになられ、極位一品を贈られてゐる。孝謙天皇の天平勝寶三年正月高齡で薨ぜられて被入るが、神の如く靜かな御一生であり、また御晩年であられたかと考へられる。どうぞ御削除を願ひたい。
  ――藝術院會員――
 
(31)  「或本反歌二首」(424・425)小考
                   内田曉郎
 
     同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首
423 つぬさはふ磐余の道を 朝さらず歸《ゆき》けむ人の おもひつつ通ひけまくは 時鳥鳴く五月には あやめぐさ花橘を 玉に貫き【一に云ふ貫き交へ】かづらにせむと 九月の時雨の時は もみぢばを折りかざさむと 延ふ葛のいや遠永く【一に云ふ葛の根のいや遠長に】 萬世に絶えじとおもひて【一に云ふ大船のおもひたのみて】 通ひけむ君を監ば明日ゆ【一に云ふ君を明日ゆは】外にかも見む
    右一首或云柿本朝臣人麿作
(32)   或本反歌二首
424 隱口の泊瀬をとめが手に纒ける玉は亂れてありといはずやも
425 河風の寒き泊瀬を歎きつつ君が歩くに似る人も逢へや
   右二首者或云紀皇女薨後山前王代石田王作之也
 卷三挽歌中の作(引例の訓はすべて新校萬葉集改訂版による)。こゝに見える「或本反歌二首」の表現性について考へて見ようと思ふ。
 掲載のしかたは、まづ「……作歌一首」とある題詞に應じて長歌一首を掲け、これに作者の別傳を記し、さらに「或本」にあるといふ反歌二首を添へ、これにも作歌事情の別傳を記す。すなはち編者の底本とした資料には長歌一首を傳へるのみで反歌なく、反歌は「或本」の方にのみあつたものらしい。ある説《一》にこれは一つ雪にある長歌(やはり石田王を挽したもの)の「或本反歌」であると言ふが、私は通説どほり今の長歌に對する「或本反歌」と見る。一般に題詞における歌數の記しかたからしても反歌は長歌に從屬するものとされてをり、そのため、たとへ「或本反歌」でもそれの添ふべき長歌の脇に近く置かれるのが普通と思はれるからである。その説のごとくならば今の長歌よりも前に置かれるべきであらう。よつて私は今の長歌に對する「或本反歌」と見て上のごとく解したわけである。
 さてこの二首のうち初めの一首は表現が譬喩的なので、適宜な内容を與巧さへすれば容易に題詞の意に沿うて反歌ともなり、また左註の意に沿うて獨立の短歌ともなり得るので、今はもつぱら後の一首によつて考察を進めるが、後の一首もまた澤瀉久孝博士《二》によれば題詞・左註の兩樣に解すべきもので、編者もかく解したればこそ兩樣の傳を掲げたのであり、いづれが原作の意であるかはこの事實を認めた上で決せらるべきだとされてゐる。そして題詞に沿はせて反歌とすれば、
  生前石田王が歎きつゝ歩かれたその姿に似た人にも逢はれはしない。
の意となり、左註に沿はせて獨立の短歌とすれば、
  紀皇女のなくなられたことを悲しみ歎きつゝ石田王が歩かれるに、今はなき紀皇女に似た女《ひと》にも逢はれはしない。
の意となるとされた。いづれも「君」は男性たる石田王を指し、「逢へや」は反語表現《三》である。さらに「歎きつゝ」が前者で戀の心を言つてゐることに注意を要する。そして(33)兩解の相違として前者が「君が歩くに似る人」と續けて見、後者が「君が歩くに」で一旦切つて見てゐる點を指摘しなければならぬ。
 さて前解のごとく見て反歌とするとき長反歌の意味關聯はどうなるかといふに、
 〔長歌〕……通ひけむ君〔イ五字傍線〕をば明日ゆ外にかも見む〔ロ六字傍線〕
 〔反歌〕……歎きつゝ君が歩く〔い八字傍線〕に似る人も逢へや〔ろ三字傍線〕
は同じことを言ひかへたものであり、(イ)と(い)、(ロ)と(ろ)が意味上對應することになる。(ロ)は作者が「君」(石田王)を「外に見」なければならぬ歎き《四》、(ろ)も作者が「君」(石田王)に似た人にも逢へぬ歎き《五》で、共に石田王の死といふ事實をふまへた表現であり、同樣にして(イ)は、(い)と對應してゐるゆゑ戀の心を含んでゐるはずで、「女のもとへ通うた」の意であると考へられる。つまりこの場合の長歌は石田王が生前女のもとへ通うたことを詠みこんでゐることとなるのである。
 そこで主な註釋書によつて長歌の解を見ると、右のごとく女のもとへ通うたと見るもののあるのは當然であるが、また一方「藤原の宮へ通うた」と見て戀の心を含めない解もあり、むしろそれの方が早く起つてゐることを知る。それゆゑ後者の解を(甲)とし前者の解を(乙)として諸説をまとめると次のごとくなる。
 (甲) 「藤原の宮へ通うた」と見る解(但し略解のみは泊瀬方面にある莊に通うたと見る)
  (1) 代匠記(初) 代匠記(精) 全註釋 私注
  (2) 考 略解 註疏
  (3) 童蒙抄 攷證
 (乙) 「女のもとへ通うた」と見る解
  (1) 攷證一説 古義 全釋 講義
  (2) 井上氏新考 折口氏口譯
  (3) 槻落葉
  拾穗抄・吉澤氏總釋はいづれとも明示せず。
 右の(甲)(乙)兩解は問題の短歌を反歌とするにあたつてどんな結果をもたらすであらうか。まづ(甲)のうち(1)のものはみな反歌としても解いてゐるのであるが、どの説によつても最後まで解き得ぬ個所が一つ生ずる。それは「歎きつゝ」なる言葉である。この言葉を長歌に即應せしめて解かうとすればそれ自身の語意語法に即せぬことになり、またそれの語意語法に忠實に解かうとすれば長歌に即應せぬ(34)ことになるのである。代匠記(初)の「長歌によめるごとく時につけてさまざまの事どもおもひて」や、同書(精)の「妻ノ打歎キツツ……求ムランニ」は前者であり、全註釋の「悲歎に暮れながら」は後者である。私注はこの點を避けて明解しない。そこで(2)のごとく反歌にあらずとする説も生ずる。「此歎乍ありくを宮づかへの道の往來の事といへど、さらばなげきつつありくといはんよしなし」と考が言つてゐるやうに、「宮仕へに通ふことに喜びを寄せた長歌の内容と、この「歎く」といふこととはまことに調和しがたいのである。かくて(3)の童蒙抄が左註によつて解くに心ひかれ、攷證が(甲)(乙〕兩解をあげて(甲)においては反歌として解くことを避けるごとき態度も出てくると思はれる。この難點を除いて長反歌たるの結合を緊密にするために生じたのが(乙)のごとき長歌解釋である。それによれば(1)の古義に「泊瀬處女がことをかにかくに念ひ歎息て」と言ひ、講義に「その女の許より止むを得ずかへりなどする人が別を惜しみ歎きつつ」と言つてゐるやうに、「歎きつつ」にも即し、かつ長歌に「女のもとへ通うた」人のことと見たのとも合ふ解釋が得られる。(2)は石田王を女性と見た上で反歌としたため、かへつて長歌の方で、死者たる女王が自分のもとへ通うた人を外に見る(新考)と解いたり、「君」が女王を指す語である(口譯)と見たりしなければならぬ無理を生じてゐる。(反歌の解釋は實は左註によつて解いたのと同じ結果になつてゐる)また(3)の槻落葉はこの一首のみ反歌にあらずとしたが、それは左註の紀皇女をそのまま長歌の方へあてはめた誤解である。以上により、今の短歌を反歌とするためにはどうしても(乙〕によつて長歌を解する必要のあることが明らかとなつた。
 では長歌自體の解釋は(甲)(乙)いづれによるべきか。まづ「君をば明日ゆ外にかも見む」といふ表現は、前述のごとく石田王の死といふ事實をふまへて、作者が「君を外に見」なければならぬと歎いたものであり、「君を外なるものと見る」――すなはち「君」がさながら他人のごとく作者と關係なき存在になることへの歎きである。そしてこの歎きが痛切に表現されるためには、その「君」はもと/\作者にとつて「外に見る」べくもない親近な存在であつたのでなければならぬ。このことは「吾妹子が形見に見むを印南づま白浪高み外にかも見む」(三五九六)における(35)作者と「印南づま」との關係とほゞ同樣である。(この歌では「外ながら見る」の意にやや近づいてゐるが、それでもこの關係は認められる。)それゆゑ今、冒頭以來「……とおもひて通ひけむ」までの、「君」のことを言つた部分が、作者に對する「君」の親近性を表現したものであればよい。ところで(甲)(乙)いづれの解がこの要求を充たすであらうか。(甲)藤原の宮へ通うた人、(乙)女のもとへ通うた人、と並べてみれば、明らかに(甲)であると言へよう。何となれば作者もまた同じ宮仕人として藤原の宮にあり、石田王と親しかつたとすることはきはめて容易だからである。しかも石田王が「時鳥鳴く五月には云々、九月の時雨の時は云々」と宮廷生活の場に思ひを馳せ、さらに「萬世に絶えじ」とまでそれに期待を寄せたことは、作者と共にする生活への喜びを語るものであり、作者に言はせれば、自分と共に喜びを頒つべく藤原の宮へ「通うて來た〔二字傍点〕」君だつたのである。「通ふ」が「通うて來る」の意にもなることは「大宮人は常に通はむ」(九二三)等の類型、「※[(貝+貝)/鳥]の鳴くわが〔二字傍点〕島ぞやまず通はせ」(一〇一二)その他によつて明らかであり、上の「磐余の道を……歸《ゆき》けむ」も「磐余の道をとほる〔三字傍点〕」の意でそれに調和し、なほ「歸」といふ字面も「天歸《あまゆく》月」(二四〇)のごときにこの意を見得るのである。(「天歸《あめゆく》月」と訓めばなほさらのことである。)
 しかるに、(乙)の解によつて「女のもとへ通うた」と見れば、「君」はその相手たる女人の方には近くなるが作者にはむしろ遠い關係に立つ。作者は「君」の戀を傍觀する第三者であつて、「君」が「時鳥鳴く五月には云々、九月の時雨の時は云々」と戀人との遊樂に心をはずませ、ために「萬世に絶えじ」とまで願つたからとて、作者じしんにとつてそのことが特にどうといふわけのものでもない。當人同志にこそその願ひは意味をもつであらう、そして「玉の緒の絶えじい妹」(四八一)「千歳に障ることなく萬世にかくしあらむ」(三三〇二)のごとき願ひも類例としてあるくらゐであるが、しかしこれらの例はその願ひをなす人が同時にその歌の作者でもあつて、それの果たされなかつたのを歎いたものである。今の場合は「君」の願ひは作者とはまづ無縁である。作者と無縁な戀愛關係を詠みこむことは作者自身の歎きを強調するゆゑんとはなりがたい。もつとも人麿が明日香皇女を挽した(一九六)時には皇女と夫君(36)との關係を詠みこんだが、そこでは殘された夫君に強い同情を寄せその人の心を心として亡き皇女を悼んでゐる。けれども今は、殘された女人については一言も觸れてゐないのである。
 かく考へると長歌自體の本意にかなふ解は實は(甲)であつて、(乙)ではないと言ふべきである。「一云」の歌詞による時も同樣のことが言へる《六》。もつともこれを愛する男性に死なれた女人の作とすれば(乙)こそかへつて適解となるが、題詞によれば女人の作とはいへず、人麿作なる傳によつてもなほ確かには言ひかねる。
 もと/\(甲)の解は「或本反歌」を反歌たらしめないものであつたが、その(甲)が實は右のごとく長歌の本意をあらはしたものであるならば、「或本反歌」は實はこの長歌本來の反歌ではなく、後に反歌と見なされるに至つたもので、「或本」に反歌とする所傳は後來の誤傳であるといはねばならぬ。しからばそれは、本來何であつたか。。左註によつて解けば「君が歩くに」で一旦切れることになるから、一首は第二句で輕く休み第四句で深く切れつつ、それ全體へ第五句の歎きが強く響き合ひ、整然たる古調の歌となる。結句「某に似る」と言ふ所をただ「似る」とのみ言つたのは人麿の「似てしゆかねば」(二〇七)の例とも思ひ合はされる。しかるにこの歌を反歌として解けば「君が歩くに似る人」と續き、「君が歩く」が體言化されて「に似る」へ讀くことになるが、集中の例では「……【とふちふ】に似る」以外はすべて體言から續くものばかりで、今のはほとんど例のない表現といはざるを得ない。例はなくとも言へる道理であるが、耳慣れぬものとなるわけである。しかもこのことは一首における意味の續き合ひにもあいまいなものを生ぜしめる。「似る」のは「川風の寒き泊瀬を歎きつつ君が歩く」と「人」とでなければならぬが、前者は特定の情景の中に一の人物の動きを點在せしめた表現であり、後者は一の個體の表現であるため、「君」と「人」とが「君が歩くに似る人」なる部分において結合度を強め、『川風の寒き泊瀬を」なる部分はやや遊離の状態に置かれる。この遊離した初二句はかへつて結句中の「逢へや」と響き合ふごとき印象さへ與へ、ために一首の表現はあいまいになる。しかるに左註によつて解けばかかるあいまいさは一掃されるのである。それゆゑ左註こそこの歌の本意に(37)かなふものといふべきであらう。紀皇女の薨去を養老二・三年以後とする説によればこの左註は集中の作品配列順と矛盾し、この左註は疑はれるが、本誌創刊號吉永登氏の詳論《七》が紀皇女の薨去を遷都以前として居られるのによつて、疑ふ必要のないことを知るのである。
 以上をとりすべて一つの事實を想定する。山前王は初め短歌二首を作り(左註)、後また長歌一首をを作つた(題詞)。しかるに後者は傳へられて多くの人の耳目に觸れ(人麿作といふ別傳さへ生じてゐることからもそれは考へられる)、少くとも二樣に解釋された。その一つの解釋が機となつて初めの短歌二首が長歌と同時に作られた反歌であると見なされるに至り、「或本」の所傳が生れた。(反歌となる過程については詳論が必要である。)遷都以前の作が卷三第一次撰の天平初年頃までにかかる誤傳をも生じたと見ることはさまで無理ではないと考へられるのである。
 (一) 井上富藏氏「萬葉集四二五番の左註について(「文藝と思想」三號)
 (二) 澤瀉博士「歎きつつ君が歩くに」(古徑一)
 (三) 濱田敦氏「上代における希求表現」(「國語國文」一七卷一號)にはこれも希求表現の一種と説かれてゐるが、それによつても本稿の論には變更がない。
 (四) 井上氏新考には亡き石田女王が、自分のもとへ通うた人を「外に見る」と説く。道理としては認められるやうでも、實際の用例では「外に見る」の主語はすべて作者となつてゐるのみならず、一首の表現としても新考説は不自然である。
 (五) 前掲濱田氏論文に「似る人も逢へや」のごとき「も」を格助詞「に」の代理をなすものと説かれてゐる。
 (六) 底本歌詞も「一云」歌詞も意味する所は實費的にはかはらない。兩歌詞の相違は「いや遠永」なる概念が前者では引用文内にあり、後者では地の文に出てゐるのみ。表現として前者がより直寫的、後者がより説明的とはいへよう。兩歌詞圖式化すると、
 思ひつつ通ひけまく〔九字傍線〕は 思ひつつ通ひけまく〔九字傍線〕は
 ……………………と〔右●〕 ……………………と〔右●〕
 ……………………と〔右●〕 ……………………と〔右●〕
 延ふ葛のいや遠永く萬世に絶えじと〔右●〕起《肆》思ひて思ひて通ひけむ〔七字傍線〕君をば…
 葛の根のいや遠長に大船の思ひたのみて通ひけむ〔十三字傍線〕君を…
なほ「一云」が作者の別案か傳承間に生じた異傳かといふこと、また人麿作なる別傳との關係如何といふことも十分には明らかでない。
 (七) 吉永と氏「紀皇女と多紀皇女」
   (昭二六、一〇、一八再稿)
 
萬葉第四號 1952年7月
 
 萬葉集本文批評の一方法…………………佐竹昭廣 一
●齊明天皇論…………………………………田邊幸雄 一九
 中皇命と有馬皇子…………………………田中卓 三二
 萬葉集の用字………………………………神田秀夫 四一
 憶良の貧窮問答のうたの訓ふたつ………龜井孝 四八
 小治田之年魚道之水………………………奥野健治 五二
 萬葉集はなぜ訓めるか……………………池上禎造 五八
 尾山氏に答へる……………………………吉永登 六四
 萬葉集講話 四‥…………………………澤瀉久孝 六六
 
(19)   齊明天皇論
                  田邊幸雄
 
 最近、初期萬葉への關心が幾分高まつて來たかに見受けられる。その具體相をいろいろの角度から究明しようとする試みがぼつぼつ出始めているが、この小稿もその片隅へささやかな照明を加えてみようと意圖するものにほかならない。一人の萬葉作家としての齊明天皇の名は、これまであまり口にされることがなかつた。少くとも舒明、天智の諸帝よりもその影は薄かつたといつてよい。所が二十三年八月、國語國文第十七卷第五號に、澤瀉博士の「齊明天皇御製攷」が出て、その作品の範圍は從來よりも擴げて考えるべきことが主張せられるに至つた。これによれば作品は十五首ということになる。博士の論旨の悉くに賛してよいかどうかには多少疑問もあり、後にそのことにふれるであろうが、一歩を讓つて十二、三首としても額田王の十二首(從來の數え方)に匹敵する。のみならず、齊明天皇の作品は日本書紀、萬葉集兩書にわたつて存し、記紀歌謠から萬葉への問題を考える際にも一つの根處となる。作家としての人間像を構築し、作品の史的意味を考えてみようと思い立つた所以である。尚呼稱は寶皇女、天豐財重日足姫天皇、皇極天皇、皇組母尊、齊明天皇、後岡本宮御宇天皇、中皇命、等いろいろあるが、すべて標題のもののみを用いることにし、研究對象としての敍述がわずらわしくならぬため、敬語は一切省略させていただくことにする。
 
 皇極紀冒頭の文章による上、齊明天皇(寶皇女)は、敏達天皇の子たる忍坂日子人太子の子茅渟王(智奴王)を父とし、吉備姫王を母として生まれている。吉備姫王は紹運録に用明天皇第十子櫻井皇子の女としているが、むしろ不明としておいた方が安全であろう。以下、齊明天皇に關する(20)記事の中、人間像構築に何らかの關りを持つと思われるもののみを敢りあげ、番號を附して簡潔にこれを述べることにする。
 1、はじめ用明天皇の孫高向王に嫁して、漢皇子を生んだ。(齊明紀冒頭の記事)この皇子がその後どうなつたかわからない。
 2、舒明天皇の皇后となる。(舒明紀二年春正月……六三〇年)皇后は二男一女を生んだ。葛城皇子(中大兄・天智)、間人皇女、大海人皇子(天武)である。
 3、舒明天皇は十三年(六四一年)十月崩御。翌年正月、皇后が即位して皇極天皇となつた。天皇は「順2考《カムカヘテ》古(ノ)道(ニ)1」政を爲《おさ》めた。(齊明紀冒頭の記事)
 4、蘇我蝦夷が佛法による雨乞に失敗した後、天皇は南淵の河上に幸し、跪いて四方を拜み、天に仰いで乞うた所、五日にわたる大雨があり、民はよろこんで、至徳天皇《いきほひましますすめらみこと》といつた。(皇極紀元年六月)
 5、百濟大寺造營のため近江と越との丁《よぼろ》を發するよう命じ、諸國に命じて船舶を作らせた。又宮室造營のための材木を諸國に伐り出させ、遠江・安藝にわたる國々の丁を發した。(同年九月)
 6、母吉備姫王逝去。天皇は臥病から發喪まで床側を去らず、視養をおこたる所がなかつた。(同二年九月)
 7、中大兄、藤原鎌足、蘇我山田麻呂等による入鹿誅伐が大極殿に行われ、傷つけられた入鹿は天皇に訴えたが、天皇は大いに驚き、中大兄に詔して「不v知所v作《ナス》有(ル)2何(ノ)事(カ)1耶」と尋ねたが、中元兄が地に伏して、入鹿は天宗を滅してひつぎの位を傾けんとしている、天孫を以て入鹿に代えることができようか、と奏すると「天皇即(チ)起(チテ)入2於殿中1」という有樣であつた。(同四年六月……六四五年)
 8、右事件より二日後、天皇は中大兄に位を讓ろうとしたが、中大兄は鎌足とはかつてこれを辭したので、古人大兄へと順次廻され、結局孝徳天皇が立つことになり、中大兄は皇太子となつた。(孝徳紀即位前紀)
 9、孝徳天皇が丈六の繍像を作つた時、皇祖母尊(齊明)は十師等を請して設齋した。(孝徳紀白雉二年三月……六五一年)
 10、中大兄は孝徳天皇に大和の京へ還ろうと建議したが、容れられないことを知ると、天皇の近親者を悉く拉し(21)て大和へ移つたが、その時、皇祖母尊も行動を共にした。(白雉四年)
 11、孝徳天崩御の翌年正月、飛島板盖宮に即位。重祚の初まりである。(齊明紀元年正月……六五五年)
 12、小墾田に宮闕をつくりたてて瓦ぶきにしようとした。又深山廣谷には宮殿を造らんとする材の朽ち爛れるものが多く、遂に止めて作らぬことになつた。(同年十月)
 13、飛島板盖宮に火災ががあり、飛島川原宮に遷居した。(同年冬)
 14、飛島岡本に於て更に宮地を定めた。宮室を起して遷り、後飛島岡本宮といつた。田身嶺に垣をめぐらし、嶺上の兩槻樹の邊にたかどのをたて兩槻宮《なみつきのみや》と號し、又天つ宮ともいつた。(齊明紀二年)
 15、この頃工事を好み、香具山の西から石上山に至る渠《みぞ》をほらせた。舟二百隻を以て石材運搬にあて、それを以て宮の東の山に垣を作つたが、時の人は謗つて、「狂心渠《タフレコヽロノミゾ》。損2費《オトシコト》功夫《ヒトチカラヲ》1。三萬餘矣。費2損造v垣|功夫《ヒトチカラヲ》1。七萬餘矣。宮材《ミヤノキ》爛《タヾレ》矣。山(ノ)(ノ)椒《スヱ》埋《ウヅモレリ》矣。」と言い、又「作2石(ノ)山丘(ヲ)1。隨《マヽニ》v作《ツクラム》自(ニ)破《コボレム》。」
とも謗つた。(齊明紀二年)
 16、吉野の宮を作る。(同年)
 17、岡本宮に火がついた。(同年)
 18、須彌山像を飛鳥寺の西に作り、且、盂蘭※[分/瓦]會《ウラボンノヲカミ》を設けた。(同三年七月)
 19、皇孫建王が八歳で他界した。天皇は甚しくこれを哀しみ、萬歳千秋の後必ず朕が陵に合せ葬れと言い、「今城なる小丘《をむれ》が上に(一一六)」以下三首の歌をよんで、時々唱つて悲哭した。(同四年五月)
 20、紀の温湯に幸し、皇孫を憶うていたみかなしみ、「山こえて海渡るとも(一一九)」以下二首の歌を口ずさんだ。(一二〇と一二一とは併せて一首と見るべきものである)(同年十月)
 21、右の行幸の時の留守官蘇我赤兄は有間皇子をそそのかそうとして、齊明天皇の政治の三失を語つた。「大起〔うんざりなので中略〕爲v丘三也(同年十一月)
 22、吉野に幸し、又近江平浦に幸した。(同五年三月)
 23、甘檮丘の東の川上《カハラ》に須彌山を造つて蝦夷《えぞ》を饗した。(同年三月)
(22) 24、有司は勅を奉じて百の高座百の納袈裟を造り、仁王般若の會を設けた。(同六年五月)
 25、石上の池の邊に須彌山を作つた。高さは廟塔の如くである。(同年五月)
 26、國を擧げて百姓は故なくして兵器を持ち道に往還し、老人は百濟國の所を失う相《しるし》かと言つた。(同年五月)
 27、唐、新羅の連合軍に壓迫されて危くなつた百濟が救援を我國に求めて來たので、天皇は坐視するにしのびずとして出兵を決意した。(同年十月)
 28、右のため難波に幸して軍器を整えら。(同十二月)又この歳駿河國に船を造らせたが、しれを挽いて績麻《オミノ》郊に至つた時、その船が夜中に故なくして宅艫舳が相反つたので、人々は敗戰を知つた、とある。
 29、天皇の船は瀬戸内海を西航し、大伯の海、熟田津を經て、娜(ノ)大津(博多)に到着。磐瀬行宮に居ることとなつた。(同七年正月−三月)
 30、朝倉橘廣庭宮に遷る。社の木をきり拂つてこの宮を作つたため、神が怒つて殿を壞し、又宮中に鬼火があらわれ、大舍人近侍の病死する者が多かつた。(同年五月)
 31、二十四日、天皇は朝倉宮にその生涯を終つた。(同年七月……六六一年)水鏡、神皇正統記等はその享年を六十八と記している。
 32、中大兄は天皇の喪を奉じて磐瀬宮に還つたが、この夕、朝倉山の上に鬼がいて大笠を著、喪儀を見ていた。(同年八月)
 33、天皇の喪は海路難波に至り、飛鳥の川原に還つて殯《もがり》した。(同年十月−十一月)
 
 官撰史に記された幾つかの事蹟のみから一人の人間の性格を探ろうとすることには、かなりの無理と危險とがつきまとう。しかし他に材料がないのだから、多少の片寄りは豫想しつつもこれによるの外はない。その前半生が全くわからないのが殘年であるが、神皇正統記等の享年六十八歳に從えば、舒明紀二年の立后の時、三十七歳だつたことになる。舒明天皇(田村皇子)の所へ入つたのは、再縁であるから、その前に高向王との結婚を中心とする若い時期の波瀾があり、その破局から再縁に至る多くの邊轉のあつたことだけは想像される。以下歸納される諸々の性格面が、(23)すべて中年を過ぎた後の行爲のみによるものであることは遺憾だが、どうにも仕方がない。
 今、前項に擧げた三十數條から齊明天皇の性格的特色を、次のようにまとめることができるかと思う。
 第一は、その政治感覺の薄さである。これを最もよく語るのは、7の記事であるが、8、10、11、22、27、28、29等もこのことに無縁ではない。讓位ということも、重祚も8、11の時が我が國に於けるその起源なのであるが、最初だということが注意されるだけで、その政治的意義については古來の史家があまり問題にしない。背後に動いていた中大兄の經綸の重要性に比する時、こうしたことは殆ど問題とするに足りないのであろう。百濟に乞われて自ら出征する件も策の上なるものでなく、國民の背反意識が各所の記事に見受けられる。
 第二は、土木工事乃至物を造ることへの驚くべき執心ぶりである。5、12、14、15、16、18、21、23、25等はその關心の並々ならぬことを物語る。寺院、宮殿、渠溝、須彌山等、すべて壯大な形を殘すものへ異常にひきつけられたらしく、そのため各國から丁《よぼろ》を發し、國民の不服の念を高め、財政の困窮を來たすも意に介せぬ風があつた。
 第三は國民一般の心にその人柄が必ずしも好意のみを印象づけなかつた點、時に謗られるものを持つていた點である。13、15、17、21、26、30等に見られるものは國民のそういう心を反映しているといえよう。民は多くの場合、自分等に及んで來る被害の根源たる政策に誹謗の切先を向けるのが普通だが、15等にはそうした土木工事に執して他を省みぬ女帝その人を恨んでいる空氣が感ぜられる。
 第四に、右の事情があつたにもかかわらず、女帝その人は慈悲心に富み、同情心の人一倍強い方だつたことを言わねばならぬ。6、19、20、27等がその心の甚しくあつかつたことを示す。そしてこれは齊明天皇の作品を支える一つの重要な基底をなすものであつたと同時に、半島の情勢に對する大局的な見通しをつけ得ず、むしろ情的要素にひきずられて百濟救援に乘出すという、晩年の悲劇を來たした根因である、ともいえそうである。
 第五に、宗教への觸れ方を考えておきたい。3でいう古道とは、佛教に對し、天神地祇を拜する我が國古來のゆき方であろう。偶然4のような事件が生じて、そのため天皇(24)は宗教上の保守派にあがめまつられ、至徳天皇と稱せられるに至つた。所がそれから九年目には、9で明かなように十師までまねいて佛道に歸依し切つているようである。これは佛教派の孝徳天皇の御代だつたからかも知れないが、18、23、24、2は齊明朝の話である。ここに於て、天皇が初めに示した古道によるゆき方も決して深い根底に立つものでなかつたことが知られると思う。女帝にとつてそれはどちらでもよい問題であつたのであり、時流と共に佛教に移つたのであろう。そうなると神を拜して雨を降らせた昔を忘れ、社の木を切つて宮殿の材とし、神の忿を招くような始末(30)にも立ち至つている。
 
 齊明天皇がその生を送つた七世紀頃の時代の動きを少しく見ておきたい。「爲……昔より祖禰みづから甲冑を〓き、山川を跋渉して寧處するに遑あらず。東のかた毛人を柾すること五十五國。西のかた衆夷を服すること六十六國。……」の字句を以て知られる倭王武の上表文は四七八年(雄略天皇二十二年)に奉られている。いわゆる英雄時代の終結、國内統一の完成が、この少し前頃であつたらしいことは、大體信じてよさそうであるが、齊明天皇の生まれたのは、六世紀末と見られるから、この上表文から百年以上後に當る。皇室の基礎はほぼ安定していたと思われるが、それは中央集權國家の中心としての皇室でなく、大氏族としての皇室であつた。皇室の外に有力な多くの氏族があつたことはいうまでもなく、なかんづく最も勢威をふるつたのが蘇我氏であつた。崇峻天皇を倒した馬子の權勢は聖徳太子ですらこれを如何ともし難かつたものらしい。しかしその太子は蘇我氏と正面から爭わず提携して佛法を弘め、治世の實をあげることに努力した。推古天皇の即位前後に生まれたらしい齊明天皇は、その少女期から青春期を、この聖徳太子攝政時代という、よき時代に送つたことになる。
 聖徳太子が六二一年に歿して後、伏流となつていた蘇我氏の勢威は再び顯れて來た。推古天皇崩御後、舒明天皇が即位したのは蝦夷《えみし》の背景あつての事である。蘇我氏に擁立された天皇の皇后たる寶皇女(齊明天皇)が、蘇我氏に對してどう出られるものでもなかつたであろう。威權に於て皇室を越していたらしい蘇我氏を倒す謀はその子中大兄をまつてはじめて可能であつた。二大勢力のしのぎを削る抗(25)爭が遂に大極殿のクーデターとなつて爆發するに至る、そうした息苦しい歴史の流れに、この女帝はあまり敏感でなかつたようである。事變當日の天皇の態度には唯茫然たるものが、感ぜられるのみである。
 この劃期的政變によつて事情は一變し、以後孝徳朝に於て着々中央集權の實があがつてゆくのだが、半面、古人大兄の叛亂、蘇我石川麻呂の、一族の讒言による自害、有間皇子の悲劇等、中大兄の經綸との摩擦によつて生じた多くの事件を數え得る。そのいずれにも天皇はふれていない。時代は天皇を置去りにして進んだ。改新政治は孝徳朝に於てそのみずみずしさを發揮したが、間もなく多くの障害に出あつていつしかその鋭鋒がにぶり、齊明朝では、その疲れを著しく示して來る。その頃朝鮮問題は我が國に不利な方向へ進み、國内にも新政を喜ばぬ聲や、陰謀的傾向の強い中大兄に對して危懼の念をいだく向もあつたらしく、國民の足並は揃わなかつたと見てよい。中央集權という形は既に造られているが、それにふさわしい民の精神の發展はなく、豪族は現在の窮屈さから昔の夢を追い、概して保守的な傾向を取りがちであつた。改新に對する反動という程強いものを持つていたわけではないが、古い秩序を回想し、古いものに心をひかれるという傾きは時代一般に著しかつたらしい。政治形式の上では改まつた古いやり方が、個々の國民生活の間にはやり大切に守られて行われていたのが、この特殊な時期の實情であろう。
 このような時期に齊明天皇の如き人が帝位にあつたことは、殊に中大兄にとつて好都合であつたに違いない。入鹿誅伐以後、その畏怖されていた實力を行使して次々に障害を除き、着々中央集權の基礎を固めていつた中大兄には、己のどぎつい政治行動をカモフラージュする何かが必要であつた。自分の實母であり青春をよい時代に送つて人柄のよさを自然と身につけ、諸事保守的で控え目で同情心にあついこの齊明天皇を表面に立てて、國民一般の心をそこに向けさせることは何にもまして有利だつたのである。天皇の存在は中大兄にとつて、有難い防波堤であつた。緩衝地帶で患つた。政治感覺は鈍かつたにしても、又古代の專制君主らしく土木工事をやりすぎて民の怨を買うような點があつたにしても、この老婦人を皇室の代表者としておくことは、それらを差引いて尚餘りある有利な條件を構成せし(26)め得た筈である。齊明天皇が自然と身にそなえていた上品な古さ、それは床の間の置物的な役割を負わされていた天皇にとつて、最も貴重な財産だつたと云えるであろう。
 
 齊明天皇の作品を吟味したい。
 八歳で薨じた皇孫建王をいたんで
(イ) 今城《いまき》なる小丘《をむれ》が上に雲だにも著《しる》しく立たば何か嘆かむ(一一六)
   射《い》ゆ鹿《しし》をつなぐ川邊の若草の若くありきと我が思《も》はなくに(一一七)
   飛島川水ぎらいつゝ行く水の間も無くも思ほゆるかも(一一八)
と歌つたのは、齊明四年五月。そしてその十月紀伊行幸の際に同じ建王を偲んで
(ロ) 山越えて海渡るともおもしろき今城の中《うち》は忘らゆましじ(一一九)
   水門《みなと》の潮《うしほ》のくだり海《うな》くだり後も暗《くれ》に置きてか行かむ(一二〇)うつくしき我が若き子を置きてか行かむ(一二一)
と口ずさんでいる。この(イ)(ロ)二群の歌については別にむずかしい論議を重ねる必要はないと思う。書紀の記載をそのまま信じて、齊明天皇がその折り作歌したものとすることに、先學も疑を持たなかつたようであるし、私も同樣である。唯、最後の一二〇と一二一とを合わせて一首と見るべきことは上述の如くであり、精しくは拙稿「夷振之片下考」(國語と國文學二十四年七月號)を參照願いたい。
  中皇命往2于紀温泉1之時御歌
(ハ) 君が代《よ》も吾が代もしるや磐代の岡の草根をいざ結びてな(萬葉集一〇)
   吾が背子は借廬《かりほ》作らす草《かや》無くば小松が下の草を苅らさね(一一)
   吾が欲《ほ》りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の珠ぞ拾はぬ(一二)
   右※[手偏+僉]2山上憶良大夫類聚歌林1曰。天皇御製歌云云
前掲澤瀉博士の「齊明天皇御製考」に從つてこの中皇命を齊明天皇とすることに賛成である。ことに、「君が代」を子たる中大兄のやがてしろしめすべき世、「君が代」を自身の今治める世を指す、と解し、又、「吾が背子」をこの(27)旅行の宰領たる吾が子中大兄を指したと見る見解は、卓説だと思う。(ロ)と同じ旅行即ち齊明四年(六五八年)の作となる。
   天皇遊2獵内野1之時中皇命使2間人連老1獻歌
  やすみしし わが大王の あしたには……梓の弓の なかはずの 音すなり(三)
    反歌
(ニ) たまきはる内の大野に馬並めて朝ふますらむその草深野(四)
澤瀉博士説により、三を傳誦歌四のみを齊明天皇作とすることに賛成。三は内容的に見てこの作者とは異質のものと見られる。天皇は舒明天皇を指すから、從つてこの四はその崩御六四一年よりも以前ということになる。
  崗本天皇御製一首並短歌
(ホ) 神代より あれつぎ來れば 人さはに 國には滿ちて あぢむらの かよひはゆけど 吾が戀ふる 君にしあらねば 晝は 日の暮るるまで 夜は 夜の明くるきはみ 思ひつつ いも寢がてにと 明かしつらくも 長きこの夜を(卷四、四八五)
    反歌
  山の端にあぢむらさわぎゆくなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば(四八六)
  淡海路のとこの山なるいさや川けのころごろは戀ひつつもあらむ(四八七)
    右今案。高市岳本宮後岡本宮二代二帝各有v異焉。但※[人偏+稱の旁]2岡本天皇1未v審2其指1。
左注で言つている通り、岡本宮に前(舒明)と後(齊明)とあるから、題詞がいずれを指すかはわからぬが、「君」という言葉の使い方や歌の空氣から女の歌と見るべきことはほぼ明らかで、二人の中ならば齊明作と考うべきこと諸説のいう如くである。しかし長歌は卷十三の三二四八と似ており、そうした點からは、これを民謠と見る説にも心をひかれる。はじめ古い時代の女流の歌だつたが、時を經て傳誦され民謠化したものと見るべきであろうか。そして、その場合、原作者を題詞と内容とにより齊明天皇とすることは妥當だと思われる。そうするとこれは「君」の生きていた時代の歌らしいから、「君」を舒明天皇として六四一年以前となり、高向王とすると不明になるが、恐らくそれ(28)よりも以前ということになるであろう。
  額田王歌未詳
(ヘ) あきの野のみ草苅りふき宿れりし兎道《うぢ》のみやこの借廬し思ほゆ(七)
    右※[手偏+僉]2山上憶良大夫類聚歌林1曰。一書戊申年幸2比良宮1大御歌。但紀曰。…下略
この歌を皇極天皇の御代のものとすると、額田王は十歳以下だつたと見るのが妥當だから、作歌は無理となる、左注の「大御歌」は齊明歌の意で記したと見てよい、という考えの上に立つて澤瀉博士は次のような想像をされた。戊申の年(孝徳天皇大化四年)の比良行幸が書紀に見えないのは、それが孝徳天皇の行幸でなく、太上天皇(齊明)の御幸だつたからだ、夫君舒明天皇の在世中、齊明天皇は共に近江路へいつたことがあり、それをこの戊申の年の御幸で追懷してこの歌を詠んだのである、それは熟田津で「御2覽昔日猶存之物1、當時忽起2感愛之情1」したのと全く同じ心境による、という御意見である。細部は略させていただいたが、誠に理路整然たる推定で、殊に額田王の年齡とのにらみ合わせはこの想像説をかなり強いものにしていると思う。これによれば六四八年の作となる。そしてこの説の魅力はその結論が齊明天皇作歌の全體的傾向に甚だマッチしたものを一首加えるようになる點にも存するのである。
  額田王歌
(ト) 熟田津《にぎたづ》に船乘りせむと月待てば潮も適ひぬ今は漕ぎ出でな(八)
   右※[手偏+僉]2山上憶良大夫類聚歌林1曰。飛鳥岡本宮御宇天〔あまりにもだらだらと退屈なので省略〕有2四首。
この歌を左注の最後に近い句によつて齊明天皇のものとすることに關してだけは、私は澤瀉博士に反對である。紙數が少くなつたので結論的な部分のみを述べることにするが、私の考えは大體に於て、博士が紹介されている粂川定一氏の説に近い。類聚歌林のこの歌の部分は次の如くであつたかと思う。齊明七年正月西征の船團が熟田津に碇泊していた期間に作られた歌の一連が並べられている。その中には額田王の歌が五首あつた。一つは八の歌であり、他は(29)「別有2四首1」の四首である。齊明天皇の歌は、伊豫國風土記に載つた「みぎたづに泊《は》てて見れば」を頭句とする一首又は一連の歌があり、それは左注に「御2覽昔日猶存之物1當時忽起2感愛之情1」とある、回想的抒情的内容のものであつた。そしてその他に中大兄、倭姫女王(喜田博士は「中天皇考」に大安寺伽藍縁起流記資材帳の本文をひいて、齊明天皇が九州で歿する時、倭姫が傍にいたと考うべきことを論じている。即ちこの旅に同行したと見て差支えない筈である。)の歌等も或いは並んでいたかも知れぬ。しかし齊明天皇はその中で最高位置の人だから、歌林の筆者は齊明天皇作歌の内容を中心とした題詞或いは説明書の書き方をして「御覽昔日……」と書いた。それを萬葉編者が深慮なしに引用してこういう矛盾した結果をしたのであろう。八の歌を齊明天皇作なりとする論者ははこの歌が王者の風格を具えている由をいう。しかしそれは主觀論で説得力は弱い。又結句の「今は漕ぎ出でな」が齊明天皇作の一〇の結句「いざ結びてな」と語法的に同じであることを擧げる。結句だけについて云えばいかにもそうであろうが、結句が集結している第四句以上を比べれば、八の方は漸層的に渦卷くように盛り上り、一〇は枯淡にさらつと仕上げている。極端な程相反する傾向の歌だと云うべきではなかろうか。更にもう一つ云いたいことがある。水鏡、神皇正統記等によればこの時齊明天皇は六十八歳だつたことになる。この年齡は何によつたか不明で必ずしも信ずることはできないが、高向王に嫁して漢皇を生んで後、舒明天皇の後宮に入り皇后となつた事情などを考えると、ほぼ當らずと雖も遠からずの享年だと思えるし、これから割引しても十年以上若かつたとは思えない。六〇−六八歳位の頽齡にある女帝の作として、この頭から足の先まで意欲のみなぎり溢れたような八の歌は不自然ではあるまいか。一方額田王は例の蒲生野遊獵の時を三十八、九歳とする中島光風の推定(【國語と國文學十九年二月號】)に從えば、この時三十一、二歳となり、正にこうした何かをはらんで欝勃たる氣概を内にこめた歌を作る年齡として適わしい。同じ齊明七年(六六一年)、一方は温雅な枯れた心情から昔日の面影を見て、感受の情を發し、恐らくはやわらかく心に沁み入る如き悲傷の歌を殘し――その歌詠は伊豫國風土記に引かれていたという「みぎた津にはてて見れば」の二句を殘すのみで傳わらないが――、他方は(30)生命の躍動を力強い字餘り結句に盛り上げて次に來るべき時代を暗示する。世代の相違の面白さが見事に表れた古代文學史の意味深い一齣がこの時だつたと云えないであろうか。
 卷一に於て題詞と左注との睨み合わせは愼重を要するが、私は八、一七、一八に於ては題詞の方を採つて額田王作することの妥當なるを思うものである。
 
 以上、確實な作品から順次吟味した結果は、最後の一首を除いて悉く澤瀉博士説の恩澤に浴する結果となつた。今この各作品群の順序を年代順に並べ變えて見ると次の如くになる。(ホ)…六四一年以前、(ニ)…同上、(ヘ)…六四八年、(イ)…六五八年五月、(ロ)…六五八年十月、(ハ)、同上。こうしてみると、特殊な時期を生きた一人の作家の作品展開の跡を認めることができるように思われる。(ホ)の一連には古い時期の民謠的相聞歌らしいおおらかな素直さがあり、個性的なものは全く見られない。同時代のものでも(ニ)となると、そこに夫君への敬慕が一つの高まりへ凝集しようとする傾きを示し、作者の幸福な時期の作たることを思わせる。(ヘ)がこの天皇のものだとすれば、ここに始めてこの作者の特質を形造る回想的主題が表われた譯であり、年齡的にも老年期に入つて來たことを思わせる。(イ)(ロ)(ハ)はすべて崩御三年前の作品であるが、(ハ)は※[羈の馬が奇]旅歌の部類に屬し、作者が旅中にあつて、旅の行爲や情景をさらつとした表現に盛つた、淡泊な所に魅力のある、いかにも最盛期以前という匂いの著しい歌、温雅な風韻に掬すべきものがある。(イ)(ロ)は愛孫の他界という衝撃を媒介として作者がはじめて至り得た純粹抒情の世界であり、これをこそ作者の中心的歌風というべきであろう。ここに至るとどの一つをとつてみても典雅な言葉遣いの中に悲恋の情が澄んだひびきを殘して居り、國母としての位置と老齡と逆縁との回想の旅と、この樣な條件が幾つか合して始めて形成され得た一連の挽歌だということができる。殊に最後の歌(一二〇・一二一)など、短歌プラス片歌の形式(夷振之片下)の長所を最もよく生かし鵠、悲傷の餘韻を嫋々と漂わせた名歌といつて差支えない。
 
 齊明天皇の生涯に起つた最大の政治的事件は、六四五年(31)の入鹿誅伐にスタートした大化改新の斷行であろう。これにより中央集權の形が一應できて、外形的には制度が整い、皇室が隆盛に赴く時期を迎えた。しかし人々一般の生活態度は必ずしも新しいものへ順應せず、むしろ古いままに止まつていたのが、壬申の亂までの社會の實情であつたらしい。天皇の純粹抒情詩はこうした微妙な時期に生み出されている。齊明天皇は古代の霧の深々とかかつた中にその前半生を終え、律令制社會に切替えられた頃には既に老齡に入つていた。最早新しいものをまさぐろうとする時期でもなく、戀情の淵に身を委ねている時でもない。而も一まず固定した律令制社會は、このふくよかな詩才をもつ女性に抒情詩制作を許すまでに成熟して來ている。その時、政治の大部分を我が子の中大兄に委ねてみち足りた物質生活を送る齊明天皇に、愛孫の早逝という事態が生じた。この時期にこの人にこの事態が生じて、かくして上代文學史に一つの高まりを示す早期の抒情詩的詩歌は生まれたのである。なるほどそういうものの系譜を辿れば、この直前に川原史滿が中大兄に代つて造媛の死を傷んだ二首の短歌(紀一一三・一一四)があり、顯宗天皇が置目の去るを惜んだ紀八六(記一一三)、及びはるかに古い時代の物語に假託されている僅かの抒情歌があるにはある。而も一人の作家によつてこれだけ一つの方向が深められたのはやはり此の天皇を以て嚆矢としなければならないであろう。
 その全歌を通じて温雅な柔らかさナイーヴな素直さが一貫し、それが悲傷の抒情歌に結晶して清い悲しみをも今日にまで漂わす。その到り得た境地は、天武天皇から人麿へとひかれる第二期萬葉、いわゆる萬葉的なるものの力強さ逞ましさに連るものではない。むしろそれとはうらはらな、記紀歌謠後期の一時期を飾るに適わしい清澄な完成を示すものである。いわゆる萬葉的なものは、このような完成的境地への反措定としてこれらを打破つて現れたのだとも云える。しかしここには確かに一作家としての明瞭な色彩がある。その發想に個性的なものは乏しく、その境地は古いといつてしかるべきものかも知れない。だが記紀歌謠から萬葉へと進む古代詩歌史は、この齊明天皇へ來てはじめて一人の作者像を持ち得たと云えるのではないだろうか。その作者としての色調が、壬申の亂を數十年後に控え、やや固定し沈滯していた天皇晩年の社會情勢と、その中をこの(32)小稿の前半で考察したように上品に、且つ古く生きていた作者の生き方とに、分かち難く結びついていることは今更いうまでもないことであろう。――三、一二、――
           ――成城大學教授――
 
萬葉第五號 1952年10月
 
 相聞の意義…………………………………伊藤博 一
 萬葉集の藝術史的位置……………………中村茂夫 二一
 青雲攷………………………………………吉井巖 三一
 萬葉集紅梅攷………………………………本田義彦 四〇
 舟公宣奴島爾………………………………塚原鐡雄 四六
 萬葉の指示語………………………………井手至 四九
 假名字母より見たる萬葉集卷十四の成立過程について………福田良輔 五八
 萬葉集講話…………………………………澤瀉久孝 六八
 黄葉片々
  かけておもふ……………………………阪倉篤義 七七
  誰爾絶多倍………………………………木下正俊 七八
  「後」と「復」…………………………佐竹昭廣 八〇
  憶良の「好去好來」……………………小島憲之 八二
 
萬葉第六號 1953年1月
 
 潤和川と潤井川……………………………新村出 一
 記紀歌謠と初期萬葉………………………久松潜一 六
 巫女の嘆き…………………………………吉永登 一五
 人麿長歌の位置……………………………清水克彦 二二
 防人等………………………………………益田勝實 三四
 萬葉集の藝術史的位置……………………中村茂夫 四四
 萬葉集講話 六……………………………澤瀉久孝 五一
 資料紹介・眞淵草稿本「竹取翁歌解」…神堀忍 五八
 黄葉片々
  回想の歌二三首…………………………神田秀夫 六二
 ●舟公宣奴島爾私案………………………尾山篤二郎 六四
 
(64)   舟公宣奴島爾私案
                  尾山篤二郎
 
 第三の國歌大觀番號三四九の歌は誰も手を擧げて了ふ難訓歌で、前號に塚原鐡雄さんの新訓があるが、どうも「爾」一字を『近づく』と訓むことが難しさうだ。色んな説もあるが、今の所では全註釋の武田博士の御説が、一番吾々には解るやうな氣がしてゐる。即ち
  三津の崎浪をかしこみ隱江の舟漕ぐ公はのりぬ野島に
とあるものでノリヌは宣りぬか乘りぬか不明なのが少し氣になる程度で、武田さんも『いまだ定訓を得ない。』と云はれてゐるが、これなら通ると思ふ。然し私には一私案はある。「公」といふ字を訓むのが甚難しいんだが、この字は「私」の反對だから「勤しみ」とだけは訓むことが出來よう。だが、それでは歌の調子が良くない。そこで第一卷の新京役民の歌にある「いそはく」が競ひ勤しむ意の言葉であつやうに思はれる所から『舟公宣』を「舟にいそはき乘れば野島に」と訓めないものだらうかと思つてゐる。
  三津の崎浪をかしこみ隱江の舟にいそはき乘れば野島に
と懸命に舟を漕いでゐると、それでも野島に付づいて來た、といふ安心感を詠つたものとしたらどうであらうか。「宣」は假借で、釋は「乘れば」と取るのである。何かに參考になれば幸甚。また御意見も伺ひたいと思ふ。(十・八日)
 
萬葉第七號 1953年4月
 
 萬葉集における心情表現の特性…………北住敏夫 一
 白鳳の宮廷歌人……………………………北山茂夫 九
 露霜攷………………………………………武智雅一 二二
 「梅の花咲き散る園」私考………………和田徳一 二九
 入聲音より見た人麻呂の用字法…………三吉陽 三六
 東歌研究のノートから……………………後藤興善 四四
 助動詞「たり」の形成について…………春日和男 五一
 萬葉集講話 七……………………………澤瀉久孝 六八
 黄葉片々
  濱木綿の百重なす考……………………小清水卓二 七五
 ●萬代に過ぎむと念へや…………………内田曉郎 七六
 
   萬代に過ぎむと念へや
                  内田曉郎
 
 人麿が高市皇子を悼んだ、あの最も長大な挽歌の末尾に
 ……しかれどもわが大君の 萬代と念ほしめして 作らしし香久山の宮 萬代に過ぎむと念へや…(二の一九九)
といふ一節のあることは周知のとほりである。そしてここの「過ぐ」が宮の「失せる」「亡びる」意に解すべきものであること、およぴ「萬代に過ぎむと念へや」が反語であつてその「念ふ」の語は輕く添へたまでのものであること、從つてこの個所が結局「永久に失せることがあらうか、ない。」の意に歸するものであることもまた、周知の所である。
 ところが「萬代に」のかかりかたはどうなつてゐるかといふ點になると未だかならずしも明らかでない。山田博士はその「講義」に
  この二句につきて考ふべきあり。終の「ヤ」はもとより諸家のいふ如く反語をなせるものなるが、これを「ヨロヅヨニ」よりつづけて、ここに至りて反語となれりとするときは何の意かわから(77)ぬ事となるべし。
と言はれてゐる。その意味はかうであらう。即ち、普通ならば「とこしへに君も逢へやも」(允恭記)などに見られるやうに、「とこしへに」は「逢へ」にかかり、その「とこしへに逢へ」全體が「や」に包まれて反語になる、言ひかへれば時枝博士のいはゆる入子型構造になるはずであるのに、今の場合はさうなつてゐない、といふのである。ではどう解すべきか。博士は語をつづけて言はく、
 さればこれは「萬代に」はそれにて句をきりて、萬代に存續しての意にとりてそのままにおき、次に「や」の關する所は「過ぎむ」より下にして、過ぎむと思はむや決して過ぎじ、即ちこの香久山の宮は永久に存續すべく思ふと釋せざるべからず云々。
これによれば「萬代に存續して」の意をもつて中止する法である。はたしてさうであらうか。さらに博士はかやうな表現はかたこと〔四字傍点〕のやうな無理な言ひかただと評されてゐる。齋藤茂吉氏はその「人麿評釋篇に山田説を引いた後、
 「萬代爾」から過ぎむと念へやといふ反語に直ぐ續くのではなく、萬代爾のところで息の休みがあるものである。韻文の技法は正に如是のものである。
と言はれ、同じ解釋に立ちつつも賞讃の聲を放つて居られる。次田潤氏も「新講」に、
 「萬代に」の下には、搖ぐことなくしての如き意味の語が省かれてゐる。
と言はれ、同じ解釋に立つて居られる。これらはいづれも「や」の關する所が「過ぎむ」以下であると見る點で一致し、それゆゑに「萬代に」で中止する法だとしたのである。
 なるほど「や」の關する所は「過ぎむ」以下であるが、それゆゑに「萬代に」で中止してそこに省略があるとし、ためにかたこと〔四字傍点〕であるとか人麿獨自の省略的表現だとかいふふうに特殊視すべきものであらyか。思ひつくままに類例をあげてみよう。
○珠くしげ葦木の河を今日見ては萬代までに〔五字傍線〕忘らえめやも(八の一五三一)
○高圓の野邊はふ葛の末つひに千代に〔三字傍線〕忘れむわが大君かも(二〇の四五〇八)
○わが命の全けむ限り〔九字傍線〕忘れめやいや日にけには念ひ益すとも(四の五九五)
○神名備の御諸の山にいはふ杉念ひ過ぎめやこけむすまでに〔七字傍線〕
傍線を附した語はいづれも永久・無限といつたやうな積極的な意味内容の語であるに反し、その下に來てゐる動詞は「忘る」「念ひ過ぐ」などいづれも消極的な意味内容の語であることは注意を要する。思ふにこれらは「萬代までに」等で中止する法ではなく、「萬代までに」等が「忘らえめやも〔三字傍点〕」等の反語までかかつてゆく修飾法であらう。さればこそ入子型構造にならぬと見えるのであり、その點山田博士のいはゆる陳述副詞に似てある。しかるに「萬代までに」は陳述副詞ではない。私はここに渡邊實氏がかつて「陳述副詞にの機能」といふ論文(國語國文一八の一)で陳述副詞が入子型式にあてはまらぬものであることを述べつつそれとよく似て實は異なる一群の表現のあることを指摘されてゐたのを思ひす。氏のあげられたのは「何となく愉快でなかつた。」のごとき例で、この「何と(78)なく」は否定辭の所までかかつて居り、その點陳述副詞と似てゐるやうだが、しかし事實は「詞+否定辭」全體に相當する詞、即ちもとの詞とは反對の意味を表すごとき詞の意味にかかつてゐるのであつて、本質的に入子型式をはづれるものではないとされたのである。今の場合も「萬代までに」は「忘らえめやも」全體に相當する詞、例へば「念ほえむかも」のごとき意味にかかつてゐるといへよう。これを心理的に説明すれば、「萬代までに」は本來「念ほえむかも」のごときことばを豫想してwゐるが、今その豫想と全く正反對に「忘らえ」なる場合を假想してみることにより、かりそめにもそんなことがあり得ようかと、たちまちそれに強く反撥する氣勢が生じて「忘らえめやも〔三字傍点〕」といふ反語表現となる、と言へよう。問題の「萬代に過ぎむと念へや」も同樣である。「榮えむ」のごときことばにかかる所を正反對の「過ぎむ」に續いたために反語となり、萬代に榮えこそすれ、亡びるなどとはかりそめにも考へられないといふ強調的表現なのである。反語ならずとも「萬代にかはらずあらむ」(三一五)、「萬代に絶えじと念ひて」(四二三)、「萬代に絶ゆることなく」(九一一)など、否定を伴なふ場合も同樣に強調的な、もしくは陰影の濃い表現と考へられる。類似の場合は他にもあるが一々ふれない。してみればこれは特殊視するにあたらない一聯の修辭であると言つてよいことになる。(二七・一〇・六)
 ○本文「萬代爾過牟登念哉」の「過」は「遇」とある本(金〔傍線〕。又|温〔傍線〕・矢〔傍線〕・京〔傍線〕の頭書)もあるが、「遇」は誤であることは、「戀もすぎねば」の場合をもつて澤瀉先生が説かれた(古徑一)のがそのままあてはまる。
 
萬葉第八號 1953年7月
 
 譬喩歌の性格………………………………扇畑忠雄 一
 萬葉貴族の生活圏…………………………薗田香融 九
 人麿における推定表現の丹精……………森重敏 二二
 「わわらば」と「わくらは」……………井手至 三二
 「何時邊乃方」考…………………………野中春水 四〇
 「〓手折」考………………………………竹岡正夫 四六
 萬葉集講話 八……………………………澤瀉久孝 五三
 黄葉片々
  袖中抄と類聚古集………………………吉永登 六一
  「三袖」布疑……………………………佐竹昭廣 六三
  「越野過去」訓義私按…………………木下正俊 六四
 
萬葉第九號 1953年10月
 
 山柿の論……………………………………久松潜一 一
 大伴家持の語彙……………………………蜂矢宣郎 八
 萬葉集歌修辭の一面………………………伊藤博 二三
 卷十四の「中麻奈」………………………都竹都年雄 三二
 紀皇女をめぐる論爭について……………田中卓 三六
 「トガ野」の鹿と「ヲグラ山」の鹿……小島憲之 四四
 黄葉片々
  上代歌謠語釋小考………………………曾田文雄 五五
  「八多籠」………………………………橋本四郎 五七
  藐孤射考…………………………………森安太郎 五九
  「萬葉古徑三」を讀む…………………倉野憲司 六一
  「萬葉の世紀」を讀む…………………吉永登 六三
 
萬葉第十號 1954年1月
 
●萬葉集における部類の基準としての時間…武田祐吉 一
 元暦校本萬葉集卷十七の一性質…………吉井巖 一二
 無常観………………………………………井手恒雄 一九
 脣内韻尾の省略される場合………………木下正俊 二四
 三條西實隆の萬葉研究……………………大久保正 三二
 天理圖書館藏萬葉集關係書籍展覽會目録…中村幸彦 四〇
 萬葉集講話 九……………………………澤瀉久孝 四八
 黄葉片々
  手玉鳴裳…………………………………佐伯梅友 五五
  「雪のくだけしそこに散りけむ」……澤瀉久孝 五七
 
(1)   萬葉集における部類の基準としての時間
                 武田祐吉
 
     一
 
 萬葉集の編者が歌を部類し配列するに當つて、その基準の一として時間を使用したことは、たやすく認められるところである。時間の知られるものと知られないものとを分け、知られるものについては、古いものから順次に配列をしてゐる。
 基準として使用された時間は、歌の成立、傳聞、およぴ關連の三種である。
 成立。ある歌が、何時詠み出されたかによつて、古いものから順次新しいものへと配列する。成立の時間は、年月日についてあきらかにされてゐるものと、だいたいの時間を推定するものとがある。それには、作者の時代、事件、歌の内容格調、資料の性質、他の歌との關連、文獻の證明等種々の方法が使用される。この成立の時間による配列が、主として使用され、他の性質のものは、これを補助として使用される。
 傳聞。成立の時間にかかはらず、吟誦され傳聞された時間によつて配列するもの。例へば卷の六に、天平十年八月二十日の右大臣橘家に宴せる歌の中に、
  ももしきの大宮人は今日もかも暇を無みと里に行かざらむ(一〇二六)
   右の一首は右大臣傳へ云ふ、故の豐島の采女の歌
とあるのは、この時の作ではなく、傳聞によつてここに收めたものであつて、これは資料のままによるものと考へられる。
 關連。同一の事件に關するもの、または後人の和ふる歌の如きは、成立の時間によらずに、關連する歌のもとに集(2)めてある。例へば、有間の皇子のみづから傷みて松が枝を結べる歌口次に、結び松に關する後人の歌を載せ、また天平二年正月十三日の梅花の歌の次に、後人の追ひて和ふる歌を載せてゐるが如きはこれである。これらは事項本位に部類が爲されたものであつて、その本歌の時間によつて配列されてゐるものである。
 時間の表示には、種々の方法が使用されてゐる。
 一、天皇の時代によるもの。卷の一と二とに使用される。例へば、泊瀬朝倉宮御宇天皇代といふやうに標記し、下にその天皇について説明する。これは古くは、年號が使用されなかつたので、年號による標記が不可能であるのと、その頃の歌の成立が、何天皇の御代といふのみで、年にかけて記すだけの資料に乏しいものが多かつたためであらう。古くは天皇御一代ごとに宮號がかはるので、何々宮御宇天皇と記せば、その御代が指定されるのであるが、藤原の宮になると持統天皇、文武天皇の二代となり、藤原の宮とだけでは、そのいづれであるかが指定されない。ところで萬葉集では、藤原宮御宇天皇代の下に、持統天皇についてのみ説明し、實際は、なほつづいて文武天皇の御代にも及んで歌を收載してゐる。文武天皇の御代に年號が淀められてからは、年號による方法に引き繼がれる。なほ卷の一、二の終において、寧樂の宮とのみ標記してゐるのは違例である。
 二、年號によるもの。文武天皇の四年に年號を定めて大寶と稱せられてからは、年號を標記して歌を收載してゐる。これは卷の一、二、三、六等に使用されてゐる方法である。また前後に年號標記のされてゐない中に、年號標記による記載の行はれてゐる卷の四、八の如き例もある。これはその資料にあつたままを保存したのであらう。年號標記のもとでは、年數をかかげるのが本則であるが、また月に及ぶものもある。
 三、左註によるもの。左註によつてその歌の時間の位置を記したものは、天皇の代によるものの中にも、年號によるものの中にもある。これも資料によるものと、編者の考證によるものとがあるやうである。月日まで明記されてゐるものは資料によるものとなすぺく、考證によるものは、行幸等の大事件に關するものが多い。大伴氏の私生活に關して時間を考證したものは見當らないやうである。
(3) 四、配列によるもの。何等の標記もなく、ただ配列によつて時間を暗示元するもの。これはその歌の時間について、明確な知識は得られなかつたが、作者や事件によつて、大體の見當のつくものである。例へば資料にただ天皇とだけあつて、何の天皇であるかあきらかでは無いが、、作者が柿本人麻呂であるとすれば、その天皇の範圍はほぼきまるのである。
 配列に際して時間が意識されてゐたことは、作者不明の卷においても行はれてぬるやうである。そのいちじるしい例は、卷の十三であつて、ここにおは作者不明の長歌を收載してあるが、その順序は、明日香藤原の地方を詠んだものを前にし、奈良の都の歌に及んでゐる。卷の十において、一般の作者不明の歌の前に柿本人麻呂歌集所出の歌をおいてゐるのも、時間の順序による配列と思はれるし、卷の十一、卷の十二に於いても、同樣のことが認められる。作者未詳の卷のうちでは、卷の十四だけに、時間についての考慮があらはれてゐない。
 
     二
 
 一般的に時間について關心を有してゐると云へるけれども、その程度は、卷によつてかならずしも一樣でない。嚴密に時間について考證までしてゐる卷もあるが、またそれほどでない卷もある。
 卷の一、二は、天皇の代、もしくは年號によつて時間を標記し、また左註によつて時間を考證し、時間については、おほむねこれを明白にしてゐる。この二卷は、雜歌、相聞、挽歌の三分野にわたつてゐるので、一往これで時間の知られるもので、一の小團を成するものの如くである。
 卷の三、四が、時間の標記をしないのは、卷の一、二と、別の態度に出てゐるものである。これは時間の所屬を明確になし難いためであるかと思ふが、しかし中には時間の明白のものもあり、また簡單な考證で、これをあきらかにすることのできるものもある。
 卷の三は、雜歌、譬喩歌、挽歌の三部から成つてゐる。雜歌は、天皇の雷の岳にいでましし時の柿本人麻呂の歌以下、長短合はせて百五十七首を録してゐるが、作歌の年月を明記した歌は無い。二個處まで、左註に遷都について記してゐるのを見れば、帝都の移動について注意の拂はれて(4)ゐたことが知られ、また志賀に幸しし時の歌(二八七、二八八)に註して、幸行の年月を審にせずといふのは、歌の時間について注意を拂つてゐたことが知られる。
 譬喩歌は、短歌二十六首を録してゐるが、作歌の年月について記してゐるものは無い。
 挽歌は、聖徳太子の御歌以下、長短合はせて六十九首を録してゐるが、これは作歌の時代の知られ、もしくは年月の記されてゐるもの多數を含んでゐる。殊に後半四三四以下の五十音は、年紀を立てて集録して居り、この點において、卷の三の挽歌は、その卷の雜歌、譬喩歌と共に一部を成すものと、また卷の六の雜歌と對するものとを有する次第である。
 年紀を立ててゐる部分は、和銅四年辛亥、河邊の宮人の、姫島の松原の美人をの屍を見て哀慟して作れる歌四首(四三四−四三七)にはじまる。その左註には、右は案ずるに、年紀と、所處及び娘子の屍、歌を作れる人の名とを併はせて、已に上に見えたり。但し歌の辭相違ひ是と非と別ち難し。因りて累ねてこの次に載すとある。已に上に見えたりといふのは、卷の二における同題の歌をさすものであつて、これは彼に對して後加の性質のものであることを語つてゐる。その次にあるのは、神龜五年戊辰、大宰の帥大伴の卿の故人を思ひ戀ふる歌三首であつて、これは大宰の帥を中心とする歌の集團から出たものである。以下引き續いて年紀を立てて歌を載せ、大伴家持の天平十一年年、十六年の作歌に及び、更に高橋朝臣の過ぎにし妻を悲傷して作れる歌を録して終つてゐる。
 卷の四は、相聞の一部立であつて、難波の天皇の妹の御歌以下、長短旋合はせて三百七首を録してゐる。卷頭の、難波の天皇の妹の、大和にまします皇兄に奉り上ぐる御歌一首(四八四)は、難波の天皇について、仁徳天皇、孝徳天皇の間に一方に定めかねるのであるかも知れないが、これについて別に説明は無い。次の岡本の天皇の御製一首(四百八十五−四八七)は、左註に、古今案ずるに、高市の岡本の宮、後の岡本の宮、二代二帝各異れり。但し岡本の天皇といへる、いまだその指すところを審にせずとあつて、これも時代に疑問があるとしてゐる。しかしその次にある、額田の王の、近江の天皇を思びまつりて作れる歌一首(四八八)は、題詞に信頼するかぎり時代は明白である。よつて(5)この卷は時代の標目を立てない方針と見るべく、あるいは後加のものも存するかも知れないのである。
 以下引き續いて、年紀を立てないで歌を收録してゐるが、卷首から五十九首を經て、第六十首に至つて、突然年紀が現れる。すなはち、神龜元年甲子の冬十月、紀伊の國に幸しし時の歌(五四三−五四五)、二年乙丑の春三月、三香の原の離宮に幸しし時の歌(五四六−五四八)で、共に笠金村の作である。この二題は、作者の署名の方式が異例であり、その年紀は、資料とした笠朝臣金村歌集から来たものと考へられる。このやうな特殊の歌集から採録した歌は、おしなべて後加のものと考へられる。
 次に、五年戊辰、大宰少貳石川足人の朝臣の遷任するを筑前の國の蘆城の驛家に餞する歌三首(五四九−五五一)以下、大宰の大伴旅人を中心とする歌の集團に入るのでるが、はじめ五年戊辰を記しただけで、その後は年紀の掲記無く、大宰大監大伴宿禰百代等の、驛使の贈れる歌二首(五六六−五六七)の左註に、天平二年庚午の夏六月の文が見え、同じく年紀無くして旅人の上京後の歌に移る。以下卷末に至るまで時間についての記載は無い。
 卷の五は、左註、前行文等において、年月について記したものが多いが、この卷は、大部文貼りつぎによる成立と考へられるので、特殊の事情のもとにあるものとなすべきである。
 卷の六は、雜歌の一部立で、長短旋合はせて百六十首を録してゐる。卷頭の養老七年癸亥の夏五月、芳野の離宮に幸しし時の笠金村歌以下百三十六首は、年紀を掲記して收録してあり、その以下の二十四首は、年紀の記載が無い。
 年紀の記載は、資料によるものと、考證によるものとがあるやうである。九一六の左註に、右は年月詳ならず。但し歌の類をもちてこの次に載す。九一九の左註に、右は年月記さず、但し玉津島に從駕すといへり、因りて今行幸の年月を檢注して載す。九四七の左註に、右は作歌の年月いまだ詳ならず、但し類を以ちて故この次に載す。九五四の左註に、右は作歌の年審ならず、但し歌の類を以ちて、便にこの次に載すとある類、いづれも作歌の年月を考證し、もしくは考證しようとしたことがわかる。これに對して卷末の田邊福麻呂歌集所出の歌は、寧樂の故りにし郷を悲み(6)て作れる歌、久邇の新しき京を讃めて作れる歌以下、年月の考證を試みられる餘地のあるものがあるにかかはらず、これを爲してゐない。
 卷の八は、春夏秋冬の四季について、それぞれ雜歌、相聞にわけゐる。大體の方針は、時間を立てない行き方であるが、往々にして題詞または左註に年月を記したものがある。題詞に年月を記したものは、
  天平五年癸酉の春閏の三月、笠朝臣金村の入唐使に贈れる歌一首(一四五三)
があるが、この年紀は、この歌だけに關するもので、以下の歌には關係しない。この歌は、笠朝臣金村歌集から採擇編入されたものと考へられる。また左註に見える年月の大部分は、資料とするところから來たものが、そのまゝ殘つてゐるのであらう。
 卷の九は、雜歌、相聞、挽歌の三部から成つてゐる。雜歌は泊瀬の朝倉の宮に天の下知らしめしし大泊瀬稚武の天皇の御製の歌以下、長短旋合はせて百二首を收録する。題詞に大寶元年辛丑の冬十月の年紀を有するものがあるが、その年月は、その一連の作にかかるだけで、以下に及ばない。この卷は、全卷を通じて、特殊の歌集から採録した歌の多いのが特色である。
 相聞は、振の田向の宿禰の歌以下、長短合はせて二十九首を收録してゐる。そのうち、題詞に年月を記したもの三あり、うち二は笠朝臣金村歌集所出の歌てある。これらの題詞の年紀も、その歌かぎりで、他の作歌に及ばない。
 挽歌は、宇治の若郎子の宮所の歌以下、長短合はせて十七首の歌を收録してゐる。いづれ柿本朝臣人麻呂歌集等の特殊の歌集所出の歌であるが、年月に關する記事は、一も見出だされない。
 卷の十五は、天平八九年の遣新羅使人の歌を先にし、天平十二年以後と推定される中臣宅守と娘子との相聞の歌を後にしてゐる。
 卷の十六は、明日香藤原の宮時代と考へられる歌を先にし、奈良時代と考へられる歌を後にし、時代の考へられない歌を、その間に交へ、また最後にまとめてもゐる。この卷中、筑前の國の志賀の白水郎の歌には、左註に、神龜年中の語がある。
 卷の十七以下の四卷は、年月を明記して歌を記載して居(7)り、往々にしてその明示の無いものが見られる。
 
     三
 
 作者のうち、あるいは萬葉集の成成に何等かの關係があるかも知れないとされる數人について、その作品における時聞の問題をくらべて見よう。その人々は、山上憶良、大伴旅人、大伴の坂上の郎女、大伴家持である。
 一、山上憶良。
 憶良の作品のうち、紀伊の國の行幸の時、大唐にありし時の歌のやうな歴史的事件に關係あるものの時間は、自記をまたないでもあきらかにされる。私的生活に關するものとしては、卷の五所載のものは、自記のものを貼り繼いだと考へられるが、その人はかならずしも憶良自身とはなし難く、むしろその反證さへも認められる。その他においては、卷の八の秋の雜歌のうち、七夕の歌十二首に時間の註記がある。類聚歌林の編者である憶良は、その自作の歌集をも類聚樣式としたかも知れないが、また特に七夕の歌だけを抄出したものであるかも知れない。これだけでは萬葉集の成立に關係があるとは爲し難い。七夕の歌の時間のうち、一五一八の歌の左註に、右は、養老八年七月七日、令に應ふるとあるが、養老八年には、二月四に皇太子が即位して神龜元年とした。故に養老八年七月といふ云ひかたは無く、また令に應ふるといふのは、皇太子の令旨に應ずる意であるが、その時に皇太子は無い。なほ次の歌の左註には、神龜元年七月七日とある。憶昆は、養老五年正月に、退朝の後、東宮に侍せしめられたのであるから、これは養老五、六、七年のうちの誤であらうとされてゐる。これがもし憶良自記のまゝとすれば、記憶の誤とすべきであらう。しかしそれにしても手もとには手録があつて、時間を記入してあつたのだらう。
 作者の手記といへども、時間が書かれてゐるとのみは限らない。笠金村歌集には、年月の記入があるが、高橋蟲麻呂歌集には無く、卷の八の遣新羅使人の歌の記録にも年月は記されてゐない。
 二、大伴旅人
 卷の五には、年月日に係けたものがあるが、これは手記に出るものであつても、これだけでなく、他の事情を併せてこの卷の成立を考へなければならない。卷の五以外で(8)は、年月に及んでゐるものは、
  神龜五年十一月(卷の六、九五七)
  天平二年十二月(卷の六、九六七、九六八、卷の三、四四九−四五三)
がある。このうち、神龜五年十一月のものは、冬十一月、大宰の官人等、香椎の※[まだれ/苗]を拜み奉り訖へて云々とあり、前を受けて神龜五年とするのである。この時の作は、旅人の作の外に、大貳小野老朝臣の歌がある。しかるに小野老は、天平二年正月十三日の梅花の歌に、まだ少貳であつて、その後に大貳に昇進したのであるから、こゝに大貳とあるのは、後に改めたものとすべきである。しかし事によると、これを神龜五年の序列においたのは、編者の誤であるかもしれない。
 旅人が、大宰の師時代に歌の手記をしたことがあつたのは、卷の五によつて説明されるが、連續的に自作他作をも合はせて記し留めてゐたといふ證明は成立しない。その大宰の帥時代の資料は、旅人の側近の人の集録に成つたものであつたかもしれないのである。それは卷の五における資料が、連續的でなく存在してゐることによつても、さういふ考へかたがされるのである。
 三、大伴の坂上の郎女。
 坂上の郎女の作品中、年月の記述のあるものは、
  天平二年十一月 (卷の六、九六三、九六四)
    四年三月一日(卷の八、一四四七)
    九年四月  (卷の六、一〇一七)
    十一年八月 (卷の八、一六二〇)
    同年九月  (同、一五九一、一五九三)
である。坂上の郎女は、文筆に熟し、長歌の作をも留めてゐるので、歌の手記を有してゐたとは考へられるが、以上の如きは、家持あたりの記録によるものであるかもしれない。これだけの材料では、萬葉集の成立に關係があることは證明されない。
 四、大伴家持。
 大伴家持は、多數の作品を傳へて居り、時間について記事のあるものも多い。今、時間の記されてゐるものを拾つて、時間順に配列すると左の通りになる。
  天平八年九月(卷の八、一五六六−一五六九)
    十年十月十七日(同、一五九一)
(9)   十一年六月  (卷の三、四六二、四六六)
      七月  (同、四六五−四七四)
      八月  (卷の八、一六一九)
      九月  (同、一六二五、一六二六)
    十二年六月 (同、一六二七、一六二八)
      十月  (卷の六、一〇二九、一〇三二、一〇三三、一〇三五、一〇三六)
    十五年八月十六日(同、一〇三七)、(卷の八、一六〇二、一六〇三)
      八月  (同、一五九七−一五九九)
      二月三日 (卷の三、四七五−四七七)
      三月二十四日(同、四七八、−四八〇)
    十六年正月十一日(卷の六、一〇四三)
 以上のうちには、藤原廣嗣の謀反のやうな歴史的事件もあるが、多くは家持個人の私的生括に屬するものであつて、これらは作者の手記によるものと思はれる。なほこれに附隨して他人の作歌も傳へられ、傳聞をも記録してゐたと考へられる。一方には、これらの年月は、點在的なものであつて、この以外に時間について記事をもたない歌もすくなくない。これは家持が、ある事件においてのみ時間を記したとも考へられ、あるいは他の歌が時間の記事を脱却したものとも考へられる。
 資料としての事實と、萬葉集に現れたものとしての事實とは、別個のものであつて、かならずしも同一の性質を有するものではない。大伴家持は、しばしば萬葉集の編者に擬せられる人であるが、その論據は、資料としての事實をそのまゝ受け入れてゐるものが多いやうである。この次に、萬葉集における大伴家持の歌の時間の性質について、特に家持が最後の編者であるかどうかを檢討しよう。
 イ、卷の三の挽歌のうちに、
  十六年甲申の春二月、安積の皇子の薨りましし時、内舍人大伴宿禰家持の作れる歌六首(四七五−四八〇)
と題して、長歌二首短歌四首を載せてゐる。はじめの長歌一首短歌二首の次に註して、右の三首は、二月三日に作れる歌とあり、その次の長歌一首短歌二首の次に註して、右の三首は、三月二十四日に作れる歌とある。十六年とあるは、前を受けて天平十六年であるが、安積の皇子の薨去は、續日本紀によれば、天平十六年閏正月十三日であるの(10)を、こゝに二月としたのは、はじめの三首の次に二月三日に作つたとるによつたものであらう。家持は、安積の皇子に仕へてゐたと考へられるので、自分で題詞を書くとしたら薨去の月を誤記することはあり得ないことと思はれる。家持の手記を資料としたが、萬葉集における記事は、かならずしも資料のまゝではないであらう。
 ロ、卷の六、雜歌のうちに、
  十二年庚辰の冬十月、大宰の少貳藤原朝臣廣嗣の謀反して軍を發せるによりて、伊勢の國にいでましし時
云々の題のもとに、大伴家持の歌(一〇二九)、天皇の御製の歌(一〇三〇)、丹比屋主の歌(一〇三一)、大伴家持の歌二首(一〇三二、一〇三三)、大伴東人の歌(一〇三四)、大伴家持の歌二首(一〇三五、一〇三六)の八首を收録してゐる。これはすべて家持の手記を資料としたものと考へられる。こゝに十二年とあるのは天平十二年で、十月とあるは、天皇出發の月であつて、實際の作歌は、以下十一月、十二月に及んでゐる。
 ところで第一首は河口の行宮で大伴家持の作つた歌であるが、第二首は、天皇の御製の歌であつて、
  妹に戀ひ吾の松原見わたせば潮干の滷に鶴鳴きわたる
の歌を載せ、その左註に
  右の一首は、今案ずるに、吾の松原は三重の郡にあり、河口の行宮を去ること遠し。もし疑はくは朝明の行宮におほましましし時、製りましし御歌にして、傳ふる者誤れるか。
とある。この歌は、家持が傳聞して記載しておいたものと見られ、この序列においたのは、見聞に入つた順序によつたものなるべく、前の歌の題詞河口の行宮がこれにかかるものとも思はれない。もし左註にいふやうに、朝明の行宮でお作りになつたものならば、河口の行宮で傳聞するはずも無いのである。殊に今案ずるにとあるのは、編者が後に考へて記したものと見るべく、家持の所爲としては不審のことが多い。
 次に丹比屋主の歌として、
  おくれにし人を思はく泥の埼木綿とりしでてさきくとぞ思ふ
の一首があり、その左註に、
  右は案ずるに、この歌はこの行の作にあらざるか。然(11)いふ所以は、大夫に和して河口の行宮より京に還らしめ、從駕せしむることなし。何ぞ思泥の埼を詠めて歌を作ることあらめや。
とある。この歌も、家持が旅中に傳聞して記載しておいたものと考へられるので、この行の作にあらざるかといふは、不審である。他日の舊作をこの時に聞いたといふのか。疑なきを得ないところである。
 これらの左註は、一往成書となつた萬葉集の記事に對して、何人かが記入したものであるかもしれない。しかしこの卷の左註には、時間を考證して編纂配列したことを記したものもあつて、それらは直に編者の所爲となすべきであることを考へれば、これもまた編者の所爲と考へる方が順當であるらしい。資料は家持の手記ながら、これを整理し配列して萬葉集を成したのは、家持以外の人のしわざであり、左註をつけたのも、その時のわざであるやうに思はれる。
 ハ、卷も八は、季節のある歌を收録してゐる。それは歌詞もしくは題詞に、季節を感ずる詞句を有するものを集めたと考へらるが、例外として、作歌の時期によつて季節を定めたと見られるものがあり、それは天平五年閏三月の笠金村の歌と大伴家持の作品で、家持のは次のものである。
    大伴家持の、姑坂上の郎女の竹田の庄に至りて作れる歌一首
  玉桙の道は遠けどはしきやし妹をあひ見にいでてぞわが來し(一六一九)
    大伴の坂上の郎女の和ふる歌一首
  あらたまの月立つまでに來まさねば夢にし見つつ思ひぞわがせし(一六二〇)
    右の二首は、天平十一年己卯の秋八月に作れる。
 この二首の歌詞には、季節に關する詞句無く、全く作歌の時期によつて秋の相聞に收めたものと見られる。一方、天平十五年秋八月十六日の作歌は二分して、季節の無いものを卷の六に載せ、季節のあるものを卷の八に收めてゐる。
 家持の作品のうち、作歌の時間について記してあるものは、その手記と考へられる資料によるものであらうが、これをそのまゝ保存して作歌の時間を重視するならば、作歌(12)の時間の記されてゐないものは、どうしてこれを考證しようとしなかつたのであらう。家持の私生活に關する歌で、家持自身ならば、多分時間の證明が可能であつたらうと思はれるものが若干ある。坂上の大孃との相聞の歌もあるようだが、卷の四の終にある、藤原久須麻呂との相聞の歌の如きも、多分年月がわかると思ふ。この相聞の歌は、季節を含むものであり、それぞれの方面からこれを卷の四に收めたことは家持自身の手によるとしては不審がある。
 二、家持の作品の配置について、雜歌のうち、季節のあるものを卷の八に、時間の記事のあるものを卷の六に收めたとすると、季節なくまた時間の記事の無いものは、どこにも收めてないことになる。家持にさういふ種の作品が無かつたはずは無いと思はれるが、萬葉集を家持の編になるものと考へる時にはその行く方は疑問である。こゝにも家持をもつて萬葉集(卷の十六まで)の最後の編者とすることになほ考究すべき問題が存するのである。 ――國學院大學教授――
 
萬葉第十一號 1954年4月
 
 潤和川再考…………………………………新村出 一
 古點の成立と後撰集の萬葉歌……………奥村恒哉 五
 萬葉集「小竹島」考………………………松田好夫 一五
 京大本詞林采葉抄攷………………………濱口博章 二二
 湯原王打酒歌評釋の試み…………………橋川時雄 二八
 萬葉集講話 十……………………………澤瀉久孝 三四
 黄葉片々
  山部王について…………………………山崎馨 四二
  旅行きも之思良奴君……………………關守次男 四五
  吾は戀ふるか相ふ縁なしに……………伊藤博 四七
 
萬葉第十二號 1954年7月
 
 奈良時代のヌとノに萬葉假名について…大野晋 一
 同音節反覆の場合の用字法について……鶴久 二五
 「心もとけて」……………………………大野雍煕 三四
 湯原王打酒歌評釋の試み(下)…………橋川時雄 四三
 西莊文庫舊藏の岑柏集……………………吉永登 五一
 萬葉集講話 十一…………………………澤瀉久孝 五五
 黄葉片々
  「火氣」・「如」の訓など………………佐竹昭廣 六二
 
萬葉第十三號 1954年10月
 
●蘆が散る難波………………………………風卷景次郎 一〔本文庫の他の箇所に所収〕
 「青雲の星離れゆき月を離れて」………澤瀉久孝 一三
 「紀之許能暮之」考………………………井手至 二二
 コロンブスの卵……………………………大濱嚴比古 二九
 皇極紀童謠の實體…………………………土橋寛 四〇
 萬葉集における助詞「を」………………諏訪嘉子 五一
 黄葉片々
  奈加弭考…………………………………吉永登 六八
  竹岡氏の※[手偏+求]手折考をよみて…眞鍋次郎 七〇
 
萬葉第十四號 1955年1月
 
●あまのひつぎ考……………………………武田祐吉 一
●わざうた考…………………………………田邊幸雄 五
 拾遺集の萬葉歌……………………………奥村恒哉 一五
 七五調の成立に就いて……………………瀬古確 二三
 「水烏二四毛有哉」其他…………………木下正俊 二九
 越の俗語あゆの風考………………………三邊一郎 三七
 竹取翁歌と孝子傳原穀説話………………西野貞治 四四
 萬葉集講話 十二…………………………沢瀉久孝 五〇
 黄葉片々
  萬葉集「宇敝可多山」考………………本田義彦 五六
 
(1)   あまのひつぎ考
     大伴の家持の用語の一として
                  武田祐吉
 
 言語は、人類の思想表示の機關として使用されるものであつて、個人の用語は、その人の思想表示をするものとして扱はれる。これは歌謠においても同樣であつて、歌謠における用語は、その作者の思想を表示するものとすべきである。
 大伴の家持の作品(歌)について、その用語を、先行の歌謠に見られるものと、然らざるものとに分けるのは、これによつて、その作品に盛られてゐる思想が、先行のものを受けてゐるか、または獨自のものであるかを知らうとするためである。もちろんわれわれの知らない先行の歌謠もあるべきであるが、もし使用回數の多い用語ならば、その一部がわれわれの目に觸れる機會も多いはずである。かつ家持の作品に關する場合は、ある程度豐富に、先行の歌謠が殘つてゐるものと解せられる。
 家持の作品には、先行の歌謠の影響がかなり大きいとされてゐる。これは主としてその用語の同一および類似によつて指摘されてゐる。しかし一面には、先行の歌謠に見られない用語もあつて、これは年を經ると共に、漸次増加する傾向にある。この種のものは、家持の作品における獨自の思想を表示するものとして注意されるのである。
 家持の作品には、國家、朝廷、天皇、氏族などに關して注意すべきものを持つてゐるが、これらは、先行の歌謠に見える用語によつて表現されてゐるものもあると共に、また先行のに見出されない獨自の用語も見出される。例へば、天の日嗣、高み座、國まぎ、みことのさき、高千穗のたけなどの諸語は、先行の歌謠に見出されないものとして注意される。
 アマノヒツギ(天の日嗣)は、家持の作品中に五回使用されてゐるが、同時に、これは萬葉集における全部の使用量であるから、全く家持獨自の用語といふべきである。この語の使用されてゐるのはいづれも長歌で、
(2)  獨幄のうちに居て遙に霍公鳥の喧くを聞きて作れる歌(卷の十八、四〇八九、天平感寶元年五月十日)
  陸奥の國より黄金を出せるを賀く詔書の歌(同、四〇九四、同年五月十二日)
  芳野の離宮に幸行さむ時のために儲けて作れる歌(同、四〇九八、同五月十四日)
  京に向ふ路の上にして興によりてかねて作れる宴に侍ひて詔に應ふる歌(卷の十九、四二五四、天平勝寶茸三年八月)
  族に喩す歌(卷の二十、四四六五、天平勝寶八歳六月十七日)
 これによつて、どのやうな作歌の場合に、この語を使用する機會に接したかが知られるが、霍公鳥の歌にも使用したのは特異である。
 文字は、安麻能日繼(四〇八九・四四六五)、天乃日嗣(四〇九四]、安麻能日嗣(四〇九八)、天之日繼(四二五四)と書かれてゐるので、いづれもアマノヒツギと讀むべきことが知られる。この語は、直接には宣命を受けて使用されてあると思はれるのであるが、續日本紀の宣命には、天日嗣、天日繼と書いたものの外に、天津日嗣、天豆日嗣、天川日繼と書いたものがあつて、アマツヒツギと讀まれてゐる。家持がなぜアマノヒツギにしたかは不明であるが、當時、天日嗣と書いたものについて、アマノヒツギと讀んでゐたのかも知れない。家持の用語には、アマツを使つた例として、枕詞に安麻都美豆(天つ水、卷の十八、四一二二)があり、これは柿本の人麻呂の用語中に見えるものである。アマツとアマノとは、かならずしも同意語ではなく、アマツは、性質の傾向を指示する意味が強く、これに對してアマノは、性質の所屬を指示する意味が強い。しかし日嗣の場合は、アマツを冠すると、アマノを冠するとによつて、意味の相違を示してゐるとも思はれない。元來特にアマツと讀むやうに書かれてあるものは、多くはない。神名にもすくないが、天津日嗣のほかには、古事記に天津瑞、日本書紀に天津磐境、天津水影、天津甕星があり、萬葉集に、天津霧、天津空、天津領巾、天津御門、安麻都美豆があつて、この以外にいくつかの神名があるに過ぎない。これらのアマツを冠する語は、天にあるも申、もしくは特に尊貴のものをさしてゐる。天津日嗣もその一つであつて、歴史性の感じられる表現であるが、それだけに現實の事象を表現するには、時代のへだたりが感じらるのであらう。これは時代の用語の一般的な流れであつて、家持の用語も、この傾向に沿つて選擇がなされたものと見られる。
 ヒツギの語は、古事記の序文に、帝皇の日繼の用例があり、これは日本書紀持統天皇紀の記事などを參考として、帝位繼承の歴史の義と解せられる。しかしこの語の組織の上から見ても、本義は、帝位を繼承することの義なるべく、こゝに帝位の義とする用法にみちび(3)かれるものである。アマツを冠するのは、天つ神の指令にもとづく神聖なわざであるとする思想を表示するものと考へられる。古事記上卷、大國主の神の言の中に「天つ神の御子の、天つ日繼知らしめす、とだる天の御業なして」とある天つ日繼の用法はこれである。これについて古事記傳に「此は天つ日の大御神の大御任を受け傳へまして、その大御業を嗣々に知らしめす由の御稱なり」とあるも、この意に外ならぬのである。日本書紀には、寶祚、天業、基業、天基、大運、宸極、嗣位、鴻緒、大業、天緒、帝業、鴻業などの文字に、アマツヒツギの訓を附してゐる。
 家持の用語としてのアマノヒツギは、單に天の日嗣とのみあるもの一例、高み座の語を冠して使用するもの二例、および上に長い修飾句をおくもの二例にわけて考へられる。
 單に天の日嗣とのみある例は、
  葦原の水穗の國を、天くだり知らしめしける、すめろぎの神の命の、御代かさね、天の日嗣と知らしくる君の御代御代(四〇九四)
とあるもので、帝位の性質を説明するためにこの語が使用されてゐる。すなはち天の日嗣として天下を領有される意に使用されてゐる。この歌は陸奥の國より黄金を出せるを賀ぐ詔書の歌で、その詔書の語を受けてゐると見られるものである。
  高み座天の日嗣と、すめろぎの神の命の、きこしをす國のまほらに(四〇八九)
  高み座天の日嗣と、天の下知らしめしける、すめろぎの神のみこと(四〇九八)
 タカミクラは、高い座席の義で、天皇の座席の美稱である。これを冠するのは、天の日嗣の性質を説明するものであつて、形體の方から帝位を表示して、天の日嗣の内容を明確にするものと解せられる。この續きかたは、宣命には常に「天つ日嗣、高み座」とあつてこれを逆にしたのは、一句の音節數の都合によるものであらう。
 次に長い修飾句を有するものは、いづれも天の日嗣の由來とする天降の神話および神武天皇東征の説話を修飾句としてゐるもので、次の二例である。
  秋津島大和の國を、天雲に磐船浮べ、艫に舳に眞櫂しじ貫き、い榜ぎつつ國見し爲して、天降りまし掃ひことむけ、千代かさねいやつぎつぎに、知らし來る天の日嗣と、神ながらわが大君の、天の下治めたまへば(四二五四)
 ひさかたの天の戸開き、高千穗の嶽に天降りし、すめろぎの神の御代より、梔弓を手握り持たし、眞鹿兒矢を手挿み添へて、大久米のますら武雄を、先に立て靫取り負せ、山河を磐根さくみて、踏みとほり國まぎしつつ、ちはやぶる神をことむけ、ま(4)つろはぬ人をもやはし、掃き清め仕へまつりて、秋津島大和の國の、橿原の畝傍の宮に、宮柱太知り立てて、天の下知らしめしける、すめろぎの天の日嗣と、つぎて來る君の御代御代(四四六五)
 この二例は、前の三例よりも二年もしくは七年の後の作品であつて、その間に、大きな成長のなされてゐることが知られる。前にはたゞその語のみ、もしくは同義異表現の語を冠するだけであつたが、後には、歴史的叙述によつて、その重要性を強調してゐる。
 元來神話およびこれに準すべき説話を叙することは、萬葉集にあつては多いことではない。その中にあつて、先行の歌謠としては、柿本の人麻呂の作品に見るべきものがあり、家持の作品は、その影響を受けてゐると考へられる。人麻呂が、神話について叙したのは、日並みし皇子の尊の殯宮の時の歌(卷の二、一六七)で、この歌の前半に、天地のはじめの時に、天照らす大神が天を統治し、日の御子が葦原の水穗の國を統治することになつた神話を歌つてゐる。これは、古事記日本書紀結集以前の神話記録として注意されるものであつて、古事記日本書紀の所傳と相違するものである。
 人麻呂の、この神話の叙述は、日並みし皇子の尊の父君なる天武天皇を説明しようとしてなされたものであつて、天皇は、高天の原から天降り來る性質のものであることを述べてゐるが、その歴史的叙述は、まだ帝位の概念にまで集中されてゐない。一方宣命では「天つ神の依さしまつりしまにまに、聞しめしくる天つ日嗣高み座の業」(第一詔)「高天の原より天降りましし天皇が御代をはじめて、中今に至るまで天皇が御代御代、天つ日嗣高み座に坐して」(第四詔)といふやうに、天つ日嗣の性格について、その歴史的根據のあることを主張してゐるが、具體的に神話について述べることはない。しかるに家持の作品では、神話およびこれに準ずべき説話について述べて、その結果を、天の日嗣に集中してゐる。
 四二六五の例にあつては、天孫降臨の神話について叙し、これが天の日嗣の由來であることを語つてゐる。これは古事記日本書紀において、天孫降臨の神話をもつて帝位の根據とする思想に一致するものである。ただし大和の國を、磐船を裝つて、國見をしながら掃ひことむけたといふのは、むしろ饒速日の命の天降の神話に近いものを感じさせる。この系統の神話が、大伴氏に傳はつたとすることも、あり得べきところである。
 四四六五の例では、高千穗の嶽に天降りし神の神話から始めて、大久米のますら武雄を先に立てて平定した神武天皇の説話に及んで叙述してゐる。これも古事記日本書紀の記事と一致するところであつて、特に大伴氏の傳承を取り入れたと見られる日本書紀の所載と深い關係のあることを示してゐる。――以下四九頁へ(49)――四頁下段よりつゞく――
 以上の如く、家持特有の用語の一であるアマノヒツギについて、特にこの語を使用することに加へて、その使用の方法についても、家持の思想のありかたを窺ふことが出來るのである。  ――國學院大學教授――
 
(5)   わざうた考
                  田邊幸雄
 
 記紀歌謠の後期に對して私は今特別の興味と關心とを持つているものだが、童謠《わざうた》に關する問題はその中の重要なものの一つである。これを一つの題目としてまとめ始めようとしていた矢先、本誌第十三號に土橋寛氏が「皇極紀童謠の實體」という精密な論考を載せられた。啓發される所多く一入學恩を感謝した次第であるが、同時にまた童謠という共通題目を持ちながら、そのどの面を強く押そうかという段になると、私の意圖する所は必ずしも氏と同じではないようである。私は私の側からこの舞臺に証明をあててみたい。氏への反論ではない。私が童謠の或る部分について漠然と考えていたことを、氏はほゞ同じ方向に於てきわめて具體的に示して下さつたのである。このことに勇氣づけられつつ、別の面へも展開する私の童謠考をここにしたゝめようとする氣になつた。
 
     一
 
 童謠《わざうた》に名義に關する解説は、古事記傳、稜威言別等々を初として辭書類註釋書類に數多くなされているが、これを大別して次の三首種となすことができると思う。
 1、ワザは神態《かみわざ》の意で神が時の異變をうたわしめるのをいう。
 2、或る作業《わざ》をなしつつ歌う歌。
 3、流行歌。
 この中2は日本文學大辭典にある藤田徳太郎の意見であるが實情に合わない。1と3とにはほとんどすべての解説が少しずつ異つた形に於て觸れている。そしてそのことは大局に於て正しい。巫覡の力が社會の各面に大きく及んでいた時代であるから、歌の起りを神の託宣にもつてゆくことは、いろ/\の場合に行なわれたであろう。實際は諷刺する人によつて言いはじめられたものでも、それが神のことばであると人々は信じて歌つたろうし、又それによつて流行もしたと考えられる。語義かいえば神わざのわざであるが、そ(6)の行なわれた面から見れば、それは流行歌であつた。
 土橋氏が言われるように、「一般的な民謠が或る社會的事件が起こつた後にその事件と結びつけるような解釋によつてその前兆と考えられるに至つたもの」、が童謠の中にはたしかにあり、又「社會的事件の後にその事件を諷刺的に歌つたもの」も存するであろう。しかし上述の1と3との兩面の意味を童謠が持つているとすれば、その中には氏の言われるものの他に、事件のさ中で、或いは事件に先んじて歌われたものも存したに違いない。そのことは後で觸れるように書紀の記載の中にも窺われる。そしてそこに童謠の本質中の重要な部分が存するように思う。
 童謠は皇極朝、齊明朝、天智朝に盛行したが、その後しばらく影を没し、續日本紀以下になつて又現われる。最後のものは後に言及するとして、まず本源的部分と目される書紀の實例を見渡したい。
 
     二
 
   時に童謠《わざうた》ありて歌ひけらく
 A岩の上に 小猿米燒く米だにもたげて通らせ 山羊《かましし》の老翁《をぢ》〔紀一〇七・皇極二年(六四三年)十月]
 
  猿猶|合眼《めひき》して歌ひしく
 
 B向つ峰《を》に 立てる夫《せ》らが 柔《にこ》ねこそ 我が手を執らめ 誰《た》がさきで さきでぞもや 我が手執らすもや〔紀一〇八・皇極三年六月〕
  …此は是《これ》數年を經歴して、上宮の王等の蘇我鞍作《そがのくらつくり》が爲に膽駒《いこま》山に圍まえ給はむ兆なり
 
   時に謠歌《わざうた》三首ありき。其の一に曰ひけらく
 C1謠々《はろ/\》に 琴ぞ聞ゆる 島の藪原〔紀一〇九・皇極三年六月〕
 
   其の二に曰ひけらく、
 C2彼方《をちかた》の 淺野《あさの》の雉《きぎし》 響《とよも》さず 我は寢しかど 人ぞ響す〔紀一一〇・同右〕
 
   其の三に曰ひけらく、
 C3小林《をばやし》に 我を引入れて ※[(女/女)+干]《せ》し人の 面《おもて》も知もず 家も知らずも〔紀一一一・同右〕
 
   童謡《わざうた》あり、曰ひけらく、
 D摩比羅矩都能倶例豆例於能幣陀乎……訓義不明、以下略……〔紀一二二・齊明六年(六六〇年)十二月〕
 (E)三月辛酉朔己卯、都を近江に遷したまふ。是の時に天下の百姓(7)都を遷すことを願はず。諷諌《そへあさむ》く者多し。童謠《わざうた》亦|衆《おほ》し。日々夜々失火の處多し。〔天智六年(六六七年)の條〕
 
   童謠《わざうた》に曰ひけらく、
 F打橋《うちはし》の 集樂《つめ》の遊びに 出でませ子 玉代《たまで》の家の 八重子《やへこ》の刀自《とじ》 出でましの 悔《くい》はあらじぞ 出でませ子 玉代の家の 八重子の刀自〔紀一二四・天智九年(六七〇年)五月〕
 
   童謠《わざうた》に曰ひしく、
 G橘《たちばな》は 己《おの》が枝々 生《な》れれども 玉に貫く時 同《おや》じ緒に貫く〔紀一二五・天智十年正月〕
 
   時に童謠《わざうた》に曰ひけらく、
 H1み吉野《えしの》の 吉野《えしの》の鮎 鮎こそは 島邊も宜《え》き あ苦しゑ 水葱《なぎ》の下《もと》 芹《せり》の下 吾は苦しゑ〔紀一二六・天智十年十二月〕
 
 H2臣《おみ》の子の 八重の紐《ひも》解《と》く 一重だに いまだ解かねば 御子《みこ》の 紐解く〔紀一二七・同右〕
 
 H3赤駒の い行き憚《はゞか》る 眞葛原《まくずはら》 何の傳言《つてごと》 直《ただ》にし宜《え》けむ〔紀一二八・同右〕
 便宜上AからHまでの符號を附した。C1C2等はそれらが同時の同事件に關して歌われたと記されていることを示す。Eは歌そのものは存しないが、童謠が行なわれたという記載のあることは注目すべきであるから、假に()を附しておいた。紀一〇七――紀一二八は岩波文本記紀歌謠集の番號で、紀は日本書紀を意味する。ABCは大化以前のもので皇極紀に見え、D−Hとはその性質を異にするらしい。そして童謠の本質的なものはD−Hの方、即ち大化以後のものに於て認められる、というのが私の論の方向である。兩者を吟味することから出發したい。
 
     三
 
 大化以後の童謠《わざうた》の、それも書紀の歌謠の最後を飾つているH群の三歌から時代逆順に見てゆこう。この中H1H2に關しては高木市之助氏の「吉野の鮎」という好論があり、在來の解を壓している。即ちH1は「吉野川の鮎こそは島邊の芹や水葱の蔭に棲んでゐるのも結構だらうが、人間の私はこんな山奥の吉野川のほとりに蟄居してゐては苦しくてたまらない」という氏の解に從うがよく、H2は同じく氏に導かれて、臣の子を近江朝方の有力な家臣、皇子を大海人皇子(天武天皇)と見るべく、愚かな彼等が遲疑逡巡して何事もなし得ない(8)に對し、大海人はひとり颯爽としてあらゆる障害を拂いのけつつ邁進する、意と解したい。即ち兩首とも、近江朝の人達の冷い仕打に怒りつつもこれに耐えて吉野に一旦身を潜め、時機の至るを靜かに待つた實力の持主大海人皇子に對して、心からなる精神的支援を送つたものと見得るのである。H3は同じ歌詞が萬葉集卷十二古今相聞往來歌類の寄物陳思中に見出される(三〇六九)事情もあつて、或いは戀愛民謠が紛れこんだものかと疑われるが、前二歌について高木氏の言われたような寓意がこの歌にもしありとするならば、上句は譬喩で下句の「何の傳言《つてごと》直《ただ》にし宜《え》けむ」が本意であるのだから、壬申の亂直前の兩勢力の、わずらわしいもつれに對する怒りが、大海人方に直接行動をとるようすゝめる、という形に於て現われたものと考えられるのではないか。この一首のみはつきりしないが、他の二首との連關から考えてこのH群が天智天皇歿後壬申の亂勃發に至るまでの、騷然たる物情の中に於て、吉野にある大海人皇子を支持し、近江朝政權に對する不信乃至反感を表明していることはほぼ明らかである。ことにH1の歌の素朴ながら力強い調子と或る事を表わそうという意欲の漲つた姿とは これが亂の終了後何かの歌を假託せしめたものではないことを、歌自身が不穩な空氣の中を泳いでいたものであることを、證するかの如くである。
 Gは天智十年正月に、佐平余自信以下の外國人多數に、大錦下、小錦下以下の位階を授けた時に現われた童謠である。何を諷しているかがはつきりしないが、一視同仁の大御心を讃えたという契沖流の解は當を得ていない。異國の徒をいたずらに賞することをひそかに咎めたとする守部説に從いたい。即ちこの歌も外國崇拜の度が過ぎた天智天皇のやり方に對してちくりと刺した所がある、といつてよさそうである。
 Fの歌の正體もはつきりしない。その年の四月三十日に法隆寺の火災があり、一屋も殘さず、又大雨、雷のあつた由をのべ、「五月、童謠に曰く」としてこの歌が載り、直ちに「六月、邑《むら》の中に龜を獲たり」の記事に移つてしまう。この歌がどういう事件に對する童謠《わざうた》であるか不明である。どうも寺の炎上とは無關係な俚謠であるらしく、集樂《つめ》の遊びに八重子の刀自(箱入娘の意か)を誘い出す意のものであるらしい。書紀編者が炎上に關する童謠《わざうた》と誤認したものかも知れない。
 さて天智天皇六年三月の近江遷都に當つて多く歌われたという童謠はどういう性質を持つものであつたらうか。書紀のこの條を史官の潤色なりとする見方も存するが、童謠という語の出て來る條々特にH群の三歌が發せられた時空の状態等から推すと、この時は當然そうしたことが盛に現われたと思わざるを得ない。そし手天下の百姓が遷都を願わなかつたという記事と諷諌者が多かつたという事情と(9)を考え合わせると、この時の童謠の内容もおのずと推察されてくる。それは明かに天智天皇政權に對する非難であり反撥であつたに相違ない。この四年前には白村江で朝鮮遠征軍が唐新羅連合軍に慘敗し半島經營に終止符を打たれるという失策があり、以後かなり永い期間を九州の地に留つていたらしい天智天皇に對する大和の都の人々一般の非難は、かなり甚しいものがあつたと見なければならない。近江遷都そのものも、そのような眞向からの非難に對して身をかわそうとする意圖を十分その中に含んでいたのであろう。そうした情勢であつてみれば、遷都という至上命令に對して朝野全體が口をとがらせたのも無理はない。久しきにわたる忿懣がこの時に當つて爆發し、數々の童謠となつて不穩の形勢をたかめたことは疑を容れないのである。この情勢を背景として思う時、額田王の三輪山の歌(萬一七・一八)のあの激情の嵐は最も正しく理解されるのであるまいか。この時失火が多かつたという書紀の記事も、又天智九年頃に誣妄《やはごと》妖僞《およづれごと》を禁じている記載もこういう童謠的雰圍氣の存在を證しているようである。
 まひらくつ…にはじまる訓法不明の童謠Dが記されているのは齊明六年十二月の條である。この年新羅を伐とうとして駿河國に命じて船を造らしめたが、その船を挽いて績麻郊《をみの》に至つた時、夜の中に故なくして船の艫舳が相反つた。衆はこれによつて敗戰を豫知した、又|科野《しなの》の國から高さ蒼天に至るという蠅の大群が西に向つて巨坂《おほさか》を越えたという報あり、或る者は之を同じく敗戰の兆としたといぅ記載の後にこの歌が出ているのである。訓義不明の歌をどうこういうべき時ではないが、以上の前文から自然に決まつて來ることは、この歌が當時の民ほとんど悉くの欲しなかつた朝鮮出兵を、恐らくは隱喩を用いることによつて烈しく否定したものであるという一事である。そしてそのことは童謠の最も本質的なものを含み持つということになるのである。齊明元年は六六〇年で、天智天皇(中大兄)が蘇我入鹿を大極殿に倒して大化改新の礎をおいた六四五年から十五年目に當る。その間新政の成功と並んで多くの不平と不滿とが民間に又反對勢力の間に高まつたであろう。それが、半島出兵という重大事にぶつかつて一つの頂點を形作り、この童謠となつたと考うべきものの如くである。
 
     四
 
 大化以前の童謠の吟味に移ろう。
 Aについては、相磯貞三氏が、山間の農民の狩獵生活の一面を歌つたものと言つておられる(記紀歌謠新解)。歌の本質を考えて山背大兄王の物語から歌を切離そうとした態度に注目すべきものがある。土橋氏は諸説檢討の後、「米燒く」を歌垣の始めに山神に供え(10)るための營みと解され、女たち(小猿)が燒米を燒いている、「頭髪班雜毛」の或いはあごひげなどのあるおじさんよ、そう遠慮せず、せめて燒米でも食べていらつしやい、という風に歌垣に參加した老人をひやかしたものと見ておられる。實にうがつた新見であるが、なお今後の檢討を要するであろう。私自身はコ〔右○〕ザルコ〔右○〕メヤクメコ〔右○〕メダニモというコ音の重なりとその微笑ましい内容とにかげりない明るさを感得する。そしてこの歌の背後には子供の世界が開けているのではないか、この歌が古代の童謠《どうよう》の片しなのではないか、と漠然と考えている。山背大兄の物語から切離すべしと信ずる點は相磯、土橋兩氏に全く同感である。
 猿が歌つたというBの歌には童謠《わざうた》であるという記載は何もない。しかしその後に「此は……兆なり」と記してある點は編者が童謠的にこの歌を解していたことを物語る。そしてやはりこれも後からの史實へのこじつけであることが歌詞のものによつてわかる例である。土橋氏の『向うの峰に立つているあの方の優しい手こそ妾の手を取ればよいのに、誰がガサガサした手で妾の手を取るのでしよう」という解に賛成する。そしてその場合を氏は歌垣で男からの歌いかけに答える女の歌として見ておられる。はつきりした形が出て面白いが、出村の愛慾民謠と見れば、必ずしも歌垣に場面を限らなくてももよいのではないかと思われる。ラフな味の中に土の香の發散する、古代歌謠らしさに溢れた歌である。
 C群の三歌はすべて入鹿が中大兄皇子に斬られる事件の前兆として一連のものに扱われているが、三首それ/”\に事件とは無關係な民謠らしい。C1の片歌は第二句渠騰を琴とするか、言(辭)とするかによつて解釋がわかれて來る。琴・言は共にコもトも特殊假名遣の上の乙類の假名によつて表記されるので、渠騰の字面からこれをいずれかに決めることができない。私はこれを琴と解したいのであるが、それは主としてこの樂器が古代人に甚だ喜ばれ、「其《し》が餘り琴に造り(記七五・紀四一)」と「琴頭《ことがみ》に 來居る影媛(紀九二)」の如く記紀歌謠にも頻出すること、歌謠としての魅力が言《こと》の場合よりはつきりしたものになること、等による。曾て私はこの歌について、自然美への自覺の比較的遲かつた上代人も音の美しさについてははやくからめざめていたことを述べ、文化程度の比較的高い地であつた島の庄の一部から清々しい響の聞えて來る喜びを歌つたものだろうと推測したことがあり(國語と國文學昭和二十三年十一月片歌論)、この考えは今もそれほど變化を來たしていない。どうも歌垣に結びつけることは無理なように思われる。C2は典型的な愛慾の歌で上二句は序詞、「響さず」以下にまことに單純明快な本意がある。その序詞に山野のきつい草の香が漂い、この歌の場面が野外の戀であることを語るようである。C3に至つて古代人のズバリ性は臆面も(11)なくその姿を表わす。土橋氏の歌垣の歌だろうという推測はこの歌の場合最もふさわしい。入鹿の討減に全く無關係なことは明らかである。
 こうして見ると大化以前のABCはすべて童謠《わざうた》の如く扱われておりながら、實は童謠《わざうた》とは別のものだということになつて來る。そしてABCに共通な現象は、歌の後に、山羊《かましし》は山背大兄のことであるとか、小林に引入れてというのは入鹿が急に宮の中で斬られる兆《しるし》だとかいう説明の文を持つていることである。これ等の諸歌にはどこにも蘇我氏への不信も批判も皮肉も諷刺も見當らない。政治的な意味を持つ歌としては、豫想された當時の讀者にぴんと來ないであろうし、又書紀の編集者たちにもはつきりしたものには映らなかつたのであろう。ここに於て長々とした親切らしく見えるような説明を附することを考えたものと思われる。史官にとつて都合のよい説明であり、はつきり言えばこじつけである。GやH群の諸歌は歌を見ただけで史官にうなずけるものがあり、又讀者にも大體その言わんとする所はのみこめると見通されたのであろう。そこに解説の要はなかつたのである。解説が附かなくてはその意味を主張できないのが、これらABCの諸歌である。Bの歌を殊更に猿が歌つたなどと勿體づけて説くのも、要するにこの歌が解説とは無縁の存在であることのカモフラージュであろう。
 
     五
 
 大化以前のこの状態に對して、前々段に吟味した大化以後の童謠の在り方は、はつきりした對照を示している。Dの訓義は不明ながら、それは童謠の發生するに最もふさわしい場合である。天智六年には近江遷都が忌避されてそのことはかなり烈しい非難を内にこめつつ歌われたであろう(E)し、Gの歌は近江朝政府の外國人偏重をちくりと刺しているようである。そして藤原鎌足の死後いくばくもなくして大海人皇子が天智天皇の病床から受禅をことわつて吉野へ入り、朝廷勢力はおのずから二分、間もなく天智天皇他界、世には不穩の空氣が漲つたというこの壬申の亂勃發直前の時期こそ、最も童謠の躍り出るにふさわしい時であり、そこに現われたH群の三歌が又特に力あり、童謠としてすぐれてもいるのである。
 即ち童謠の最も本質的なものはD−Hの線に存するといえる。内容から言えば天智天皇を頭主と仰ぐ近江朝政權〔近江遷都出前をも含む)への不信、それへの不滿爆發を以てはつきりした存在理由とするものである。この見地に立つ時、私は次の歌に注意せざるを得ない。白雉四年(六五三年)、當時難波宮に在つた中大兄皇子は孝徳天皇に倭の京に遷ることを提言したが、天皇の許さないことを知ると直ちに天皇の姉たる皇祖母尊(後の齊明天皇)、后の間人皇后(12)等を自ら引連れて飛鳥の地に移り、百官も之に從つたので、天皇はこれを恨んで位を去ろうと欲し、間人皇后に歌を送つた。「鉗《かなぎ》つけ 我が飼ふ駒は 引出《ひきで》せず 我が飼ふ駒を 人見つらむか(紀一一五)」がそれである。この歌を見る度に私は果して天皇個人がこの歌を歌つたのであろうか、と疑わしく思つている。ひどい仕打をされた孝徳天皇への同情が人々の間にひろがつていたことは間違いないと思うが、この歌は或いはそうした同情者が孝徳天皇の立場に己を置き、秘藏の駒を拉し去られたという表意を歌うことによつて中大兄への怒りを匂わせたものではあるまいか、と考えている。もしそれが同情者一人の詠でなく民衆一般の聲にまでなつていたものだと考えるならば、この歌の實質は童謠《わざうた》とごく近いものになつて來る。大化元年から八年目であるから、こういう童謠的なものが出たとしても別に不思議ではないわけである。
 童謠的に解釋できる歌がこの他にも記紀歌謠に萬葉の作者未詳卷に或いは存するかも知れない。この間題はもう少しゆつくり考えることにしたいが、唯、日本文學大辭典の「童謠」の解説(藤田徳太郎)のように時人の歌その他の諸歌をすべて童謠であるように見てしまう行き方には輕々しく從えないことを附加えておきたい。
 續日本紀以下の童謠を一瞥する。甲「〔光仁天皇〕又嘗(テ)龍潜之時。童謠(ニ)曰(ク)。葛城(ノ)。〔中略、入力者〕刀志止度。…蓋(シ)天皇登極之徴也。〔續日本紀卅一…寶龜元年(七七〇年)以前〕」乙「…初有(リテ)2童謠1曰(ク)。於保〔中略、入力者〕天皇登祚之徴也。〔日本後紀卷十三…大同元年(八〇六年)以前〕」丙「…先v是(ヨリ)童謠(ニ)曰(ク)。天爾波〔中略、入力者〕于今驗v之矣。〔續日本後紀卷十二仁明天皇承和九年(八四二年)〕」丁「…先v是(ヨリ)童謠(ニ)曰(ク)。大枝乎〔中略、入力者〕以爲、…下略〔三代實録卷一清和天皇即位前紀、八五〇年頃〕
 
 この内甲と乙とは日本靈異記にも出ており、甲は催馬樂の呂に屬するものである。甲乙丁には共通の要素がある。つまり天皇なり皇太子なりになることがこれ等の童謠によつて正當化されている點である。甲乙は後からの附會らしく〔白璧しつくやを白壁王(光仁天皇の諱)に結びつけ、やべの坂を山部王(桓武)にあてるなど〕見えるが、丁は文徳天皇の第四皇子であつた惟仁親王(清和天皇)が三人の兄を超えて立太子した事情を民の側から歌つたものらしい。起えて・走り超えて・あがり躍りてという三段階がそれを示しているようである。丙は廢太子を淳和院へ送つた時のものであるが、歌(13)の意味が今の私にはよくわからない。唯、甲や乙とは違う、落首的なものであることを感得することはできると思う。つまり丙や丁には民の聲が反映していて、その性質には大化以後のGやH群に近い所があり、之に反してABCのような附會を敢えてしたのが甲乙であると見てさしつかえないようである。
 
     六
 
 再び童謠《わざうた》の本貫の地へ立ちかえることにする。童謠中の最も童謠的なものが大化以後壬申の亂までの間の作品D−Hにあることは上述した如くであるが、この間の事情を私は次のように考えたい。
 書紀はもちろん天武天皇系統の史官によつて書かれた。天武系が壬申の亂に於て討滅ぼした天智系即ち近江朝勢力を、機會あるごとに批判し諷刺している童謠の存在は、天武系の史官達によつてたまらない魅力であつたに違いない。近江朝に對して大いに筆誅を加えたい所を、童謠が甚だぴりつとした切れ味を以てすでにやつつけてくれているのである。これを採り上げないわけがない。そしてD−Hの如き本來の童謠には大體に於て戀の意味は含まれていないので、要所々々にこれらを置いておくだけで、讀者にはその政局批判的意味がほぼ間違いなく傳わつたのである。すくなくとも書紀のこの部分に配置せられている童謠は、近江朝の崩壞を豫告し、その天武系勢力によつて取つて替られるべき必然性を合理化する役目を見事につとめている。
 さて書紀編集の史官達は、近江朝勢力に對していだいた反感とは又別個な、より強烈な憎しみを蘇我氏へ向けていたわけである。個人の感情に於て眞に憎んでいたか否かはい宮知らず、編集方針としては、皇室をおかすようにはびこりひろがつていた蘇我氏を大いに憎まぬわけにはいかない。その蘇我氏の專横行爲を精彩あるように生き/\と彼等は書きたかつた。事實書いている。八〓《やつら》の※[人偏+舞]《まい》を行なつたとか、百八十の部曲を發して大陵小陵を作つたとか(以上皇極元年−六四二年−)、蝦夷《えみし》がひそかに紫冠を入鹿に授けたとか(六四三年)、さもあるまじき事のように書き立てている。だがこういう所にぴたりと置かるべき童謠はいかにこれを求めても見出されなかつたのであろう。すでに彼等から七、八十年前のことである。資料の乏しいという事情もあるだろうし、大化以前の社會ではD−Hのような状態で童謠が發せられるという諸條件が存し得なかつたのかも知れない。しかもあれだけ身勝手にふるまつた蘇我氏に對して童謠は必ず存したに違いないと、大化以後の社會状態から往時を考える史官達は思い込んだであろう。童謠が見つからないといつて黙つて引きさがる彼等ではない。古い歌謠は蒐集されて手許に多くある。愛慾生活の歌われた素朴な由緒不明の歌謠を童謠に仕立てる〔四字傍点〕こ(14)とぐらいは、他の多くの假託歌の例に見ても、又漢書その他の漢籍から無數に詞章を取入れた態度から考えても、平氣でやつてのけたであろう。しかし鷺を烏と言いくるめるだけの努力はしなければならない。その努力が、ABCの歌の部分にのみこちたく顔を出す後書の説明文である。とにかく童謠としての政治的意味を理解できるのは、これを童謠に仕立てた史官ひとりだけという心細さなのであるから、カマシシというのは、山背大兄の頭髪が班雜毛で山羊《かましし》に似ているからだ、といつた解説はどうしても必要だつたのである。
 そしてこういう附會の童謠ABCが皆六四三、六四四の二年間という時期にのみ置かれていることには、やはりそれだけの意味があるらしい。上述のようにいわゆる蘇我氏の專横行爲はは六四二年−六四四年の間に集中的に述べられている。これは六四五年六月の大極殿に於ける入鹿誅伐を、いわば劇的に盛上げるための殊更なる配慮である、と私は見ている。童謠の配置も亦この配慮に基づいてのものにほかならない。
 從つて大化以前の童謠は、これをしばる一切の史的敍述から切離し、その素朴な持味を白日の前にさらけ出す時、はじめてその各々の文藝性を恢復する。そこにはむせるような草の香りも漂うし、古代らしいラフな味が自然にあふれてもいるのである。之に反し大化以後のものは、當時はまだ異國情緒の色濃い植物だつた橘がそのまま反島人に擬せられたり、ぴちぴちした吉野の鮎が精氣を内にはらんで鬱勃たるものを藏していた天武天皇と通ずる氣分を持つていたりして歴史的車實と結びつく時にこそその眞價を發揮するのである。そこには民の意志がその鋒先を見せ、それ故に時代を推し進める力がそこに宿つている。こうした歌の藝術性の追求はこの點を中心として行なわれなければならない。
 初期萬葉の範圍を一應壬申の亂以前とする時、かなり沈滯し弱まつていた大化−壬申の亂間の歌壇にあつて、力強い詠風を以てこれまでの風を打破り、次期の最盛期萬葉(第二期萬葉)の方向を豫告したものは、藤原鎌足、天武天皇、額田王の三人である、と私は常々考えている。鎌足は歌數が少ない。天武天皇が童豫「吉野の鮎」「臣の子の」によつて支持され期待された人物であり、額田王の「味酒 三輪の山」にはじまるあの長短一連(一七・一八)が「童謠亦衆し」と記された近江遷都の際のものであつたと見られることは、單なる偶然とは思われない。これらの三人がこの期聞に盛上げつつあつた力強い詠風に、童謠は歩調を合わせている、民の側からこの流れに應じている、といい得るであろう。だがこのことはむしる次の如く考うべきものかも知れない。即ち、童謠の持つ民の意志、その曇りのない批判力、それらを含むことによつて當然生じて來た一首の歌としての土性骨の強さ、そういうものに支持され、或(15)いはそれらの空氣の中にあつて作歌したからこそ、天武天皇や額田王の歌のあの力強さは生ずべくして生じたのである、と。いずれにせよ童謠が、萬葉集最盛期の中心的歌風を招來せしめた有力な精神的基礎の一つである。ということだけは言つてよさそうに思われるのである。        ――一九五四・一一・一一――
                 ――成城大學教授――
 
萬葉第十五號 1955年4月
 
 上代の形容詞語尾ジについて……………橋本四郎 一
 和歌成立の一形態…………………………伊藤博 一一
 越中守家持の作品をめぐつて……………吉井巖 二〇
 「親魄相哉」について……………………吉永登 三〇
 大伴家持小論………………………………北山茂夫 三七
 萬葉集講話 十三…………………………澤瀉久孝 五一
 黄葉片々
  いもとありし時はあれども……………大濱嚴比古 五六
  早河の瀬に居る鳥………………………山田弘通 五九
 新刊紹介・The Nnyosu [(Pierson 譯註)…小島憲之 六一
 
萬葉第十六號 1955年7月
 
 萬葉集の神宮文庫本と西本願寺本………上田英夫 一
 萬葉語「ハタ」の周邊……………………小島憲之 六
 浦島の歌に見える玉篋のタブー發想について…西野貞治 一七
 代名詞「し」について……………………森重敏 二〇
 「阿加古比須奈牟」私按…………………木下正俊 二八
 萬葉集講話 十四…………………………澤瀉久孝 三三
 黄葉片々
  紫染聞書…………………………………扇畑忠雄 三七
  「伊豫の高嶺」私考……………………武智雅一 三九
 萬葉集讀添訓索引…………………………蜂矢宣朗 四五
 
萬葉第十七號 1955年10月
解釋特輯號
 
 埋もれた言語と埋もれた訓詁……………龜井孝 一
●いまのをつづ考……………………………武田祐吉 六
●「足莊嚴」と「檀越」……………………正宗敦夫 一〇
 「宇多我多毛」剳記………………………阪倉篤義 一三
 「むさゝびは木ぬれ求むと」……………吉永登 一八
 黒人の「旅にして」の歌の訓釋…………森本治吉 二一
 「しひがたりといふ」……………………澤瀉久孝 二六
 「神之諸伏」の訓…………………………伊丹末雄 二八
●「毛無乃岳」の訓…………………………春日政治 三〇
 叩々ものをおもへば………………………小島憲之 三三
 考へられる訓詁一つ………………………伊藤博 二六
 「戀故にこそ」……………………………井手至 三八
●百人一首の柿本人丸の歌…………………山田孝雄 四一
 地庭不落の訓について……………………山崎馨 四七
 角のふくれ…………………………………眞鍋次郎 五〇
 碓氷の坂を越えしだに……………………春日和男 五四
 うつらうつら考……………………………大坪併治 五九
 
(6)   いまのをつづ考
                  武田祐吉
 
 イマノヲツヅの語は、集中四出してゐる。その用例は、次の通りである。
  紙ながら神さびいます、奇魂伊麻能遠都豆に、貴きろかむ(卷の五、八一三)
  いや増しに絶ゆることなく、古ゆ伊麻乃乎都豆に、かくしこそ見る人ごとに、かけてしのはめ(卷の十七、三九八五)
  ますらをの清きその名を、古よ伊麻乃乎追通に、流さへる祖の子どもぞ(卷の十八、四〇九四)
  古よ伊麻乃乎都頭に、萬調まつるつかさと、作りたるそのなりはひを(同、四一二二)
 これらのイマノヲツヅは、從來、今のうつつ(現)の義として、ほとんど異説が無かつたやうである。今、代表的註解として、代匠(7)記精撰本の説をあげれば、上記卷の五の歌において「イマノヲツヽニハ、ヲトウト通シテ今ノウツヽナリ。ウツシトモ云。此集ニ現ノ字ヲウツヽトヨメリ。現在ノ意ナリ。」とある。
 イマ(今)の方は問題がないものとして、ウツツの用例を見ると本集では、假字がきのものは、宇都追、宇豆都、卯管、得管、打乍と書き、正字では、寤、現、現前をウツツと讀んでゐる。このうち宇豆都と書いたものは、卷の五、京都から九州にゐる大伴の旅人に贈つた書状の中に書き入れた旅人の歌(八〇七)の中にあり、この歌は、特殊の用字法をもつてゐるものである。これをウヅツと讀むべきかの問題がある外は、みなウツツと讀むべきもののやうである。この語は、しばしばイメ(夢)の語と對比して使用され、目のさめてゐる時、まのあたり、現實などの意味を表示するに使用される。類聚名義抄には、覺にウツツ、現にウツツナリの訓があつて、これも同樣に解せられる。なほこの語に關係のあると推定される形容詞ウツシがあり、またウチ、ウツの形で現れてゐる語の中にも、關係のあるものがあるのだらうと推考される。
 ウの音と、ヲの音とが通ずるといふことは、例へば、ウケラ(朮)をヲケラとも言ひ、ウサギ(兎)をヲサギとも言ふことなどの例があつて、あり得ないこととは言へない。但しヲサギの場合は、雄の要素を感じてゐるかもしれない。しかしウツツの下のツは、いつも清音の字が使つてあるのに、ヲツヅは、乎追通の一例を除いては、豆、頭などの濁音の字が使つてあつて、ヲツヅであるやうに考へられるので、これをおし切つて同語であるとすることは、不安が感じられる。
 ヲツヅの語は、四例とも、イマノ(今の)に接續して使用され、その他の用法を見ない。さうして三例までが古ユ(もしくは古ヨにつづいてゐて、古代以來、現代までの意を表示するために使用されてゐる。他の一例もイマノヲツヅで、現代、現時、現前の意に解せられるものである。
 いまこの語に類する表現を求めると、イマノヲといふのがある。これは、
  すめろきの遠き御代にも、おし照る難波の國に、天の下知らしめしきと、伊麻能乎爾絶えず言いつつ(卷の二十、四三八〇)
とあつて、
作者も、古ユ(もしくは古ヨ)今ノヲツヅの語の使用者に同じく、大伴の家持である。
 このイマノヲについては、代匠記精撰本に「イマノヲニハ、ヲトヨト同韻ノ字ナレパ通ジテ今ノ世ナリ。又年ノ緒長クトヨメルハ長クツヾクル意ナレバ、准ラヘテ思フニ、昔ヨリ今ノ緒ニ絶ズト云ヘルニモヤ有ラム」とあつて、今ノ世、今ノ緒の二解のあることを説いてゐる。しかしこのヲが世に同じであるとするのは無理で、別に(8)イマノヨ(今の世)とも使つてゐるのだから、こゝだけをヲとしたとするは不可解である。
 ヲ(緒)の語は、ヲ(苧)と同語で、糸紐状の長いものをいふ。何の緒といふ用語には、實物を表示するものと、譬喩として長いことを表示するものとがある。タマノヲ(玉の緒)は、その雙方の用法があり、ヒモノヲ(紐の緒)は、前者の例、イキノヲ(氣の緒)、トモノヲ(伴の緒)、トシノヲ(年の緒)などは、後者の例である。
 タマノヲ(玉の緒)は、玉を緒につらぬき、もしくは緒に綴つたものをいふが、また譬喩として、生命、靈魂の意にもいふ。こゝで注意しなければならぬことは、タマノヲといふ場合、ヲは、玉が長い緒につながれてゐる状態にあることをいふので、その中心思想は多く、タマの語にあつて、ノヲは接尾語的な用法のものがあることである。玉の緒を結ぶといふやうな表現もあつて、緒が重視されることもあるが、多くは玉の方に重點がある。玉の緒もゆらに取りゆらかして(古事記上巻)のやうな古語において、玉に中心思想のあることを看取すべきである。生命、靈魂の意味表示の場合もさうでタマが生命、靈魂の意味を表示し、ノヲはその性質を説明するための用語と見るべきである。
 ヒモノヲ(紐の緒)の場合は、ヒモだけでよいのだが、ノヲを添へて、その長い性質であることを表示する。
 トモノヲ(伴の緒)については、前に一度書いたことがあるが、その要點を云へば、トモは多數の人の意。ヲは、緒が原義であつてトモが長くつづいてぬるものであることをいふ。しかし萬葉集では假字書きのものの外に、ヲに緒の字をあてたものは一例だけで、他は、雄、男、壯の字をあてて居り、男子であることを表示するやうになつた。
 トシノヲ(年の緒)は、年が長くつづくものであることを意味する場合に使用される。この語は、集中十七例あるが、一の例外もなく、すべて長ク(一例だけは長ミの形)が、これに接續してゐるので、その用法を知るべきである。
 イキノヲ(氣の緒)の語については、その一例、
  今の吾はわびぞしにける。氣乃緒に念ひし君をゆるさく思へば(卷の四、六四四)
の解において、代匠記精撰本が「氣乃緒ハ命ナリ。命アル程ハ息ノ絶ネバ息ヲツナグ緒ノ意ナリ。又息即緒ニテ、氣ハ壽命ヲツナグ緒トモ云ベシ。玉ノ緒ト云、同ジ心ナリ。氣ノ緒ニ念トハ、命ニ懸テ思ナリ」と釋してから、命の意とする解が流行し、古義のやうに、氣は借字で、生の緒の義かとする解をも生じた。
 この語の用字例は、伊伎能乎、伊吉能乎の假字がきのものが三例他は、氣緒、氣乃緒、氣之緒などあるもの十一例、息緒一例、生緒(9)一例で、イキは、氣息の義とすべく、ノヲは、他の用例に準じて氣息の繼續性を表示するものと見るべきである。生緒と書いた一例、
  生緒に念へば苦し。玉の緒の絶えて亂れな。知らば知るとも(卷の十一、二七八八)
の歌は、生命に關して歌つてゐるやうで、イキの語には、生きることの意味を感じて生の字を使つてゐるのだらう。嚴密に云へば、イキノヲ(氣の緒)から分化した別語とすべきだらうが、その意味で通用したかどうかはわからない。
 イキノヲ(氣の緒)は、例外なしに助詞ニ(もしくはニシテ)が接續して副詞句を作り、用言を修飾してゐる。その修飾される用言は、オモフ(念ふ)、コフ(戀ふ)、ス(爲)、ナゲク(歎く)、イキヅク(氣づく)であつて、いづれも連續してなされる動作である。イキノ緒を生命の義とする解釋は、これらの用言に對しては、命ニカケテの意となるものとするが、イキノヲニ、イキノヲニシテの表現が、どうして命ニカケテの意になるのだらうか。
 イキノヲは、やはり氣息の繼續性のあることを表示する語と見るべきだらう。氣息は絶えずつづいてゐる。呼吸のたびにで、ある場合は、絶えずの意に譬喩として使はれてゐると見るべきであつて、ヲ(緒)は、譬喩によつてイキ(氣息)の長いことを表示するのだらう。氣の緒に息づくの例も、絶えず息づくで、よくわかるのである。
 このやうなヲ(緒)の用法は、純粹に國語現象として發達したものであらうが、萬葉集中の漢文の部分における緒の字の用法は、何か關係があるかもしれない。漢語においても、心緒、意緒、情緒、愁緒の如き用法があるが、萬葉集に見えるものは、心緒、愁緒、感緒、悲緒、戀緒、怨緒、締緒で、濫用の觀が無いでもない。「不v勝2犬馬之慕1、心中感緒作歌」(卷の三、四五八左註)の如きその惑を深くするものである。「欝結之緒」(卷の十七、三九一二一前文)も同樣である。
 そこでイマノヲの場合に、イマ(今)が、ヲ(緒)によつて説明されるやうな繼續性をもつてゐるかといふに、イマの語原は不明であるが、もしマ(間)の語を含むものとすれば、それはある幅を有することになる。ツカノマ(束の間)といふ語もあつて、これもあながちに否定はできない。それと關係がないとしても、イマ(今)の時は、無限に後續してゐることだから、ヲ(緒)をもつて譬喩することも無理ではない。イマノヨ(今の世)の語もあるが、ヨ(世、代)は、ある長さの概念のある語であるから、それに準じて今の緒といふ用法も肯定さるべきである。
 イマノヲツヅのヲも、おそらくは、この種のヲ(緒)で、それに(10)更にツヅが接續して、今の繼續性を表示したのだらう。ツヅは、あきらかではないが、ツヅク(續く)の語が、第一に考へられ、ツヅル(綴る)も、これに關係があるのだらう。その體の形を取るものに、ツヅラ(葛)があつて、續くものである意から名づけられたのだらう。ツヅクは、ツグ(繼ぐ)の繼續することを表すために、ツヅクの形をとるものやうであつて、そのツヅが、ヲ(緒)を接續して、繼續の意をたしかめるに至つたのではないだらうか、古ユ(もしくは古ヨ)を受けるイマノヲツヅは、今の世代の意味に、長さをもつ今の表現に使用されてゐるのだらう。年の時代などの譯語があてはまるものと考へられる。
 この語は、今といふ時について、局限された一瞬といふ意味でなく、未來に對してつながりをもつ、繼續性のあるものであるとする思想を表現する。それは、昔の時から繼續して今ここに、我等の前にあるとする。この世における黄重な事實が、昔から現代に至つて變らないとする思想表現の用語として使はれてゐゐるのであつて、現代に失望しない古人の心を、この語によつてあきらかにすることができる。(國擧院大學教授)
 
   「足莊嚴」と「檀越」
                  正宗敦夫
 
 八月半ば過澤瀉博士を訪ひまゐらせし折、何か萬葉に就て短かきものにても書けと云はれぬ。老いくづほれ目さへしひたる我の新しき説など有るべきにあらねばとすまひつれどぜひにと乞はるゝによりて物しつ
     ○
 十一卷三オ
  天在一棚橋何將行穉草妻所云足莊嚴《アメナルヒトツタナハシイカニカユカムワカクサノツマガリトイハヾアユヒスラクヲ》(二三六一)
(11) 足莊嚴、舊訓「アシヲウツクシ」とあり。總索引の諸訓説篇に、拾・童「アシヲウツウシ」童(ニ)「ソコモウルハシ」考・略「アユヒスラクヲ」私「アレ(シの誤植)イツクシミ(略宣長説)「足結發《アユヒシタタム》」古「足帶發《アユヒシタタム》」野「アユヒナダスモ」新考「船《フネ》ヨソハクモ」新訓「アシヨソヒセヨ」と出し、私は「アヒスラクヲ」と訓むで置いた。其後の萬葉學の進歩はいちじるいものが有るが、生活に喘ぎかつ目を病みて書を博く見るに困難せる我は後塵を拜する事も出來ない位であるから、其後いづれ樣々な訓が施されてゐる事と思ふ。其後見たのは全釋のツマガイヘラク、アシヨソヒセヨ。定本ツマガリトヘバ、足ヨソヒセムの訓である。新校イヘバ、アシカザリセム。大成イハヾ、足ヲカザラムの訓が有る。所で私は或日康煕字典を見てゐた處が、古典の履の註に釋名を引いて履飾v足以爲v禮也。と云ふ注のある事を見付けた。釋名は手許に無いから確とは云へないが、とにかく斯くある。念の爲に正字通を引いて兒たが是も同じやうに出てゐるから多分確であらう。足を飾るを以て禮としたので有らうから私が「アユヒスラクヲ」と訓んだのはよく無いと思ふ。私は或日古事記を訓んでゐた。中卷の七十ウ(訂正古事記の頁數)に
  我子仕奉云而、嚴餝其家。
とあるのを見つけた。宣長は「ソノイヘヲイカメシクカザリテ」と訓ませてゐる。そこで山田孝雄先生の校註せられた日本國粹全書本の古事記を見るとヨソホヒカザリテと訓じ、頭註に「嚴飾。莊飾の義の熟字ヨソホヒカザルとよむべし」としてゐられる。一切經音義に聲類云。莊(ハ)嚴也とある。宣長の云へるイカメシクの意にはあらざるものゝごとし。類聚名義抄を檢するに、莊。カザル。ヨソホヒ等あり。嚴。カザル、ヨソフ、イツクシ、ハケシ等がある。飾。カザル、カヽヤク、ウルハシ、トヽノフ、タヾスなど訓が出てゐる。そこで「足よそはくも」とか「足かざらくも」とか訓むで兒度いと私は思ふのである。古くは手にも足にも玉を裝りしと見え本集十「足玉も手珠もゆらに織るはたをきみがみけしに縫ひあへむかも」など多い。佛像などに足を飾れるを見る。さる習はしありしと見ゆ。こゝもさる事なるべし。
     ○
  檀越
 私は此の程僧義門の活語餘論を讀んだ。其内には萬葉集の訓に關する説が彼れ是れ見受けられた。
  檀越也然勿言《ダムヲチヤシカモナイヒソ》(三八四七)
の歌に就て説を立ててゐる。タムヲチヤ、シカモナイヒソとは仙覺の新訓である。即ち西本願寺本に朱書となつてゐる。其後は大抵此の訓によつてゐる。處が義門は餘論の三卷に
(12)  檀越也をダム〔右○〕ヲチヤとかなつけしたるは宜しからざる事
と云ふ題でくはしく論じてゐる。此の書は世間に流布極めて稀にして學者の目にふるる事もをさ/\無き書なればこゝに其全文を掲げて御參考に備ふる事とした。今の學者佐々木信綱、武田祐吉兩博士の定本はダヌヲ〔傍線〕と定められた。澤瀉久孝、佐伯梅友の兩博士の新校には定本と同じ訓で有るが、大成の方ではダニ〔傍線〕ヲチと改められてゐる。私は義門の訓の如くダナ〔傍線〕ヲチがよいのでは有るまいかと思ふのである。尤諸博士達は檀字の音をダヌ・ダニとせらるるならんが義門は陀那を檀一字に現はして那字をば略せりと見しことなれば其説は自然異なるなるべし。義門云く
 檀字の音のかなはダン〔右○〕とすべき例格なること奈萬之奈に審かにせることなるを檀越のときなどは殊に必しもダ〔右○〕ムとはすべからざる明證あり。萬葉十六卷廿二『檀越也然勿言云々」の處ダム〔右○〕ヲチヤと仙覺本に見えたるなどはいふにたらず。信はシナとなる字故シム〔右○〕にあらずシン〔右○〕なる例古書どもにしるけき事なるを檀越の檀はもと陀那を一字してあらはせるなれば、那は牟とはさらにならぬ例を思ふべし。かくいふは南海寄皈傳二の廿四に梵云、陀那鉢底譯爲施主、陀那是施、鉢底是主、而云檀越者本非正譯評、略去那字取上陀音轉名爲檀更加越字云云」とあればにて檀は梵語陀那にあてたる也。御國詞のしなの〔三字二重傍線〕を信濃と書くが如し。信那濃とかゝんは訛也と云べき理りおもふべし。されど御國にて信字をたゞシの一音にからましかば亦信那濃とやうには必かくまじきにもあらざる也。さるはちぬの海を珍海ともかけるからは智奴壯士は陳壯士とこそかくべき理りなるに、これは陳奴壯士とやうにかけるにて先辨ふべし。然はあれどそのうへに今一きざみこまやかにくはしく考るときは同じン韻の字なれども陳《チン》はチ一音につかひ珍はチヌ二音につかへる その所以何とは未考ね共 そのけぢめはある珍海を陳海とはかゝで陳奴乃海とはかけるなどを考ふべしシナノ〔三字二重傍線〕も信那濃と三字にはかゝで信濃二字にかける事こは弘仁格延喜式なるゆゑよしある事ながらなほその二書に用るときは信の字してかける處よくみつべし。かかれば檀に又那(ノ)字を連ねて檀那といふは道のくに〔四字二重傍線〕をみちのくにゝ〔六字二重傍線〕といへると同事にてはさらになけれどあひ似たる趣きはなくしもあらず。梵語の陀那〔二字右○〕をもろこしの字音に檀《ダン〔右○〕》とし御國のしな〔右○〕をお書くにからもじかるとて信《シン〔右○〕》とし、からもじ信《シン〔右○〕》をこゝにてしましみしむしめしも《●−○●−○●−○●−○●−○》とはゆめにもせざるをそれをしなしの《●−○●−○》とやうにはむかしよりあまた物せるは三國あひ符ふおのづからの音韻いとも/\くすしく妙にンム〔二字右○〕よく相分れたる者也。支那を震旦振旦とするも同例なめり。大振那は正しく摩※[言+可]支那なることましてしるし
 
(30)   「毛無乃岳」の訓
                  春日政治
 
  本稿は去る七月二十四日、札幌に於ける萬葉學會に於て試みた講話中の一節を取つて、筆にしたものである。
 
     一
 
 萬葉集卷八、夏雜歌のうちに志貴皇子御歌、
  神名火乃 磐瀬乃社之 霍公鳥 毛無乃岳爾 何時來將鳴(一四六六)
の「毛無」を古訓にナラシとあつて、今も定訓のやうになつてゐるが、「毛無」といふをナラシと訓み得るかについて早くから疑をもつてゐた。こゝは京大本によると、左側にケナシといふ赭訓があつて、所謂禁裡御本にさうあつたことが知られるが、何人も虚心にこの字面に當つた時、先づケナシと讀むのが最も自然である。
 然るにそれをナラシと讀んだのは、同卷の後に見える大伴田村大孃與妹坂上大孃歌、
こ、
  古郷之 奈良思之岳能 霍公鳥 言告遣之 何如告寸八(一五〇六)
に、「奈良思」といふ地名があつて、そのナラシと同一地を指した(31)ものとしたのである。さうしてそれは相當早くからのことらしいが、只「毛無」をナラシと訓ませる理由づけには、ちよつと困しむのである。周知の如く代匠記が、左傳・史記・文選などの漢籍を引いて、「毛無」を「不毛」の義の用字とし、更にそれを
  人のふみならし草のなき心にてかけり。
  (初稿本、但し清撰本も同一義を取つた)
といはなければならなくなつた。童蒙抄も殆ど同じ説を出してゐて、多分代匠記によつたものと思ふが、後の諸註は皆この説を呑んでゐるのである。
 私かに思ふに、「毛無」をケナシと訓むと、國語として聞き慣れぬ地名であるから、他に何とか讀むのではないかとの疑から、恰も同所に出た同じ霍公鳥の歌にある奈良思だらうと漫然推讀したのであつて、用字の理由は後人の傅會したものであらうことを恐れる。言はばもとは用字の理由などを考へない、只思ひつきの妄訓であつたともいへる。現に八雲御抄は卷五名所郡の「岳」條に於て、「ならしの岡」を擧げると共に、
  けなしの【萬 一説なからのをかといふ】(流布本による)
を出してある。一説の「なから」は「ならし」の誤であらうが、「けなし」を以て禁裡御本と同じく本訓とし、ナラシ・ケナシを別地としてあるのが、むしろ字面に忠實であつたのではなからうか。
 
     二
 
 辰巳利文氏は「大和萬葉地理研究」の奈良思の岡(但し毛無の岡を同名同地とする説)の位置についての研究に於て
  ‥‥ならしの岡は、どうしても今の坂上村近くになくてはならないと思ふのでありますが、坂上村から信貴山朝護孫子寺に至る山道のほとり(坂上村から東北數丁のところ)に俗にケナシと稱せられる臺地がのこつてをるといふことを村人がはなしました。
といひ、三郷村史には
  毛無《ケナシ》岡は坂上にあり。
ともあつて明かにケナシと讀んである。この土俗に傳はる舊名ほど確かなものはないのであつて、まさしくケナシの地名のあつたことは動かせない。而して我が地名として毛無(ケナシ)は、殊に山名として少からず存するのである。試みに地名辭典類によつて索めて見ても、毛無山といふ山は少くも七八つはある。信越以北に多いが、中國地方にも二つばかりあつて、ケナシは決して無い地名ではないのである。而もこの地名は北海道に系流を引くのではないかと自分は考へてゐる。
 さしむき本土に近一い渡島國龜田郡にはケナシといふ地があり、か(32)つ毛無山がある。元來ケナシ(kenash又はkenashi)はアイヌ語の「林」をいふ語であつて、北海道にはこのケナシュ又はケナシの入つて熟語をなした地名が多數ある。(永田方正氏著「北海道蝦夷語地名解」等によると、凡そ二十ケ所近くを數へることが出來る。)自分は我が本土の宅無山も國語で解するよりも、先住民族の殘した地名に縁由すると見る方が、妥當のように考へるのである。從つて集の「毛無」もケナシと訓んで、もと森林のあつた地の稱呼としたい。即ち人の踏みならした「不毛」の義ではなくて、却つて樹木の叢生した場所であつたと見るべきである。その方が霍公鳥の來鳴くには、より適切のやうにあるからである。
 
     三
 
 以上によつて、自分は「毛無」と「奈良思」とは異名であり、從つて別地であると考へたい。ケナシは今その名の殘つてゐる生駒郡三郷村にあるそれとしなければならないことは勿論である。これに對してナラシの方であるが、天武紀壬申の亂の條に見える「平石野」は、世に言はれたやうに、ナラシノと讀んで誤はないと思ふが、從つて集の「奈良思」と同一に見なければならない。而もこの平石野は書紀によると、近江軍の據つた河内國高安城に對陣した場所と見えるから、どうしても龍田口の方面としなくてはならない。たとひ坂上より多少離れてゐるとしても、同地方の名所を指したものすれば、歌の上にも妨げはないのである。自分は現地についての知識は全く快くものであるが、ともかく兩者は別地と見るのが至當であると思ふ。
 終にこの小論に於てケナシの地名をアイヌ語のそれに系流づけたことは、いささか大膽に過ぎたやうでもある。しかし我が古地名を蝦夷名のそれに關係づけることは、先覺も試みた所であつて、輕々に弄ぶと邪道へ陷る憂へもあるが、諸方面から愼重に考察を進めたならば、そのうちの或物には眞を求め得るのではないかと、自分は今も尚この見方を全然棄ててしまふことが出來ないのである。
(昭和三十年八月三十日稿)  (九州大學名譽教授)
 
(42)   百人一首の柿本人丸の歌
                  山田孝雄
 
 俗に所謂小倉百人一首の柿木人丸の歌は
  あし引の山とりの尾のしたり尾のなか/\し夜を獨かもねん
といふのであることは今更いふまでも無い。その歌は拾遺集十三(戀三)に「題しらず」「人麿」と題して出てゐるもので(拾遺抄には取つてゐない)古今六帖卷二「山とり」には「人まろ」の歌として
  足引の山鳥の尾のしたり尾の長々し夜をわが獨ぬる
といふのがあげてあるが、結句がちがふ。六帖には別に「には鳥」の條に讀人の名無くして
  庭鳥のかけの垂尾のしだりをのなが/\し夜を獨かもねん
といふのがある。之は首二の二句が違ふが第三句以下は上の歌に同じである。
 さて、之は柿本人丸の作とあるけれども、萬葉集には柿本人麿の名を署した歌のうちには見えず、又「柿本人麿歌集」の中にありといふ部類にも見えぬ。しかしながら、三十六人集(歌仙家集)の中の柿本集の中又類従本の柿本集にはのせてある。それで嚴密に論ずれば人麿の作かどうか、問題もあるわけだが、私の今問題とする所は別の點にあるのだから、それには觸れぬ。
 さて、この歌は人麿の作とは無いけれども、萬葉集卷十一にある歌であることは、學界周知の事である。それは寄物陳思の二八〇二番の歌の次に
  或本歌曰足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃長永夜乎一鴨將宿
とある、その歌である。この歌は古来
  アシヒキノヤマドリノヲノシダリヲノナガナガシヨヲヒトリカモネム
とよみ來り、寛永本もさうよみ、拾穗抄には左注を簡にして直ちに
(43)  一云あしひきの山とりのおのしたりおのなが/\しよをひとりかもねん
と書いてある。以上の如くで、百人一首拾遺集に人丸の作としてある歌はこの歌をさしてゐるものであることは明かである。
 さてこの萬葉集卷十一の歌をば、今日では
  あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長き長夜を一人かも寢む
とよみ、彼の百人一首の歌をば萬葉風のよみ方にあらずとして採らぬ樣になつてゐる。私はそれが果してよいのであらうかと疑ふ。
 抑も、上の如く問題となるのは「長永夜」のよみ方なのである。今日では古くから之を「なが/\し夜」とよみ來つたのを排して「ながきなが夜」とよむのがよいとするのである。そのこのやうなことになつたその源は荷田春滿が異論を唱へたのにはじまる。春滿はその著萬葉集童蒙抄にその第四句を「ながながき夜」と讀むべしとしてそれに關して縷々説を述べてゐる。しかし、後の人はその意見に隨はなくして終つた。次には本居宣長が「ながきなが夜」と讀むとしたものである。しかしながら略解などはそのよみ方を絶對によしとしたのでは無く、「長永夜乎」の字の右に「ナガナガシヨヲ」左に「ナガキナガヨ」と注して二の訓を並べ存し、しかも
  按に永は此の誤か、ながきこのよをと有べし。
と説いてゐるが、之はその本の歌の結句「永此夜乎」を據としての考へであらう。しかし、この歌はどの本にも誤字が無いのだから、やはり「長永夜」の三字のまゝにしてそれをどうよむべきかといふことを問題とすべきであらう。
 本居宣長の意見は詞の玉の緒卷四「かも」に
  【拾十三萬十一】あし引の山鳥の尾のしたりを長々し夜をひとり(かも)ねん
とあるだけで委しいことは見えぬ。しかし、ただこれだけを見て直ちに隨ふのは盲從に近い。古義は「ナガキナガヨ」とよむべきものとして、それに就いては注に委しく論じてゐる。曰はく、
  長尭夜乎はもとのまゝならば本居氏の訓るごとく、ナガキナガヨヲ〔七字右○〕なり。十卷に惑者立痛情無跡將念秋之長夜乎寂師耳《サトヒトノアナココロナシトオモフラムアキノナガヨヲサムクシアレバ》〔寂耳は誤字か)とあり、又、永を此字の誤とする説に依ばナガキコノヨヲ〔七字右○〕にて理さだかなり。(ナガ/\シヨ〔六字右○〕とはいふべきにあらず紀(ノ)友則集に、誰きけと聲高砂にさを鹿のなが/\し夜をひとり鳴らむとあるは全(ク)今(ノ)歌に本づきてよめり。さればナガ/\シ∃〔六字右○〕をよみたるもやゝ古くよりのことにてはあるなり。近さ頃若狹の法師義門が山口栞といふもの著て、此(ノ)歌のことを辨じていへるやう、長永夜とかけるはナガ/\シ夜〔六字右○〕と詠るにあてゝかけることもとよりなるべし。然るにこれをナガ/\シキ夜〔七字右○〕といはではシ〔右○〕の言は體語へはつゞくべからざる故にナガキナガヨ〔六字右○〕と(44)訓べしといふ人のあるは中々精しからぬ事なり。もしさいはゞナガヨ〔三字右○〕といふことも聞えず、ナガキ夜〔四字右○〕といはではともいふべし。悲しくある妹をカナシ〔三字右○〕妹、空しくなりた煙をムナシケブリ〔六字右○〕、同じくある人をオナジ〔三字右○〕人とやうにいふ例にて古事記に賢女《サカシメ》、麗女《クハシメ》、萬葉に麗妹《クハシイモ》、可憐《カナシ》妹など引出事にたへず、いとおほきをいかでナガ/\シヨ〔六字右○〕といへるのみをばあやしむべき、云々、但し、ナガナガヨ〔五字右○〕と訓事ふつにかなはずといふにはあらねどぞは作者の意ならざるべく、ナガナガシヨ〔六字右○〕と訓にはおとれり云々などなほくはしく論へり。今按にげにもナガ/\シ夜〔六字右○〕といはむに、語の活《ハタラキ》の格におきてはさらに疑ふべきにあらざることかたへの證例どもにても論なきことなり。されはかの紀友則集などにもナガナガシ夜〔六字右○〕とよめるを見れば後(ノ)世の人の語活の法を誤りて訓る類とはいふべきに非ず、餘が今ナガナガシヨ〔六字右○〕といふべきにあらずといへるは活語の法にかゝはりていへるには非ず、古語のやう考へわたすにすべて疊りをとれる詞を歌の七言句の居《スヱ》む事は古人の詞つづけのさまにあらず。をどらせたる詞はみつ/\し久米の子、とほ/”\し越の國など七言句の位の上に冠らせて姑く歌ひ絶りて次をいふ處におかざれば、語の勢たゆみて古人の詞のさまになきことなれば、なが/\し日、なが/\し夜などよまむは今の人の耳にはさもと聞ゆることなめれど、作者の意にはかなふべくもなし、しかるナガキナガヨと訓はナガナガヨ〔六字右○〕と訓にはおとれりと思ふはなは後世の意にて古書見むとする癖の清くのぞこらざるが故なり。
と通論してゐる。
 之より後皆これに隨つてゐるやうだが、井上通泰氏の新考は古義の説其の地を批評して後
  案ずるに、ナガナカシヨヲといはむよりナガキナガヨヲといはむ方調ををしく(彼は平安朝歌人の趣味にかなふべく、此は寧樂朝作者の好尚にお合ふべし)又長々夜または永々夜と書かで長永夜と書きたるを見れば宣長雅澄などに從ひてナガキナガ夜ヲとよむべし。
と説いてゐる。
 以上、雅澄、通泰の説は要するに、語格上には「ナガナガシ夜」といふを否認し得ざるを以て、その古人の趣味にあはずといふを以て本居説を維持せむとし、文通泰説は「長々夜」とも「永々夜」とも書かぬによりて「ナガナガシヨ」とよむべからず、「長永夜」と書けるは「ナガキナガヨ」とよむべきを示したものだとするのである。
 ここに先づ「長永夜」とあるが故に「ナガキナガヨ」とよむべきものだとする説は果して根據があるのであるか。さやうに萬葉集は(45)一々よみ方をかへむが爲に、わざ/\字を變へて書くものであらう
か。これはただ獨斷の言といふより外は無いと思ふ。それよりも私の疑ふ所は萬葉集の語として「長き長夜」といふいひ方が認められるべきかといふ根本の問題が在ると思ふ。元來「ながながし夜」といひ、「長長き夜」「長き長夜」といふ、いづれもその甚しく長いといふ意を表示するものとしてかれらの語格を認めたものであらうが、かやうに「長き長夜」といふやうな形の語格がこの頃の物の言ひ方として認められたものであらうか。「速み早湍」(卷十一、二七〇六)などの例はあるけれど、それは格が違ふ。私はこの疑を起してから注意を怠らないが、「青き青山」「高き高山」「遠き遠山」「疾き早川」「堅き堅磐」「白き白雲」「若き若草」などやうないい方に接したことが無い。若し「ながきなが夜」とよしとすれば、そのやうな語格はそれ一つに止まるのである。而してかやうな物のいひ方は古今集以後今日までもその實例に接せぬ。それは歌文の上に例が無いのみならず、田常の語にも片こともいはれない限り用ゐた例は無いであらう。「ナガキナガ夜」といふのが「寧樂朝作者の好尚に合ふべし」といひ、「ナガナガシ夜」といふのが「平安朝歌人の趣味にかなふといふ」のは何を根據としての言か、又「古書見むとする癖の清くのぞこれば」この「ナガキナガ夜」といふ「いひ方が正しと考へらるゝ」といふこと何によつての言か、私は一も首肯し得ざるものであるが、畢竟無證の空論に止まると思ふ。
 春滿の唱へたよみ方は「ながながき夜」といふのであるが、かやうに「ながながき」とか「しろしろき」とか「たかたかき」とかいふ語格は古今一も例の無いことだから、誰も隨はなかつたのも當然だが「ながきなが夜」といふ言ひ方もそれと五十歩百歩である。それをよしとする人々の道理に叶うた委しい説明をきゝたいのである。「ながながし夜」に關しては義門の山口栞卷下「なか/\し夜など諸活語の體言へつながる」の條に詳かに論じてゐる所で殆ど間然する所の無いものである。古義はそれを引いてゐるから、その説を熟知してゐた筈である。それ故に、古義自ら
  げにもナガ/\シ夜といはむに語の活の格におきてはさらに疑ふべきにあらざることかたとへの證例どもにても論なきことなり。さればかの紀友則集などにもナガナガシ夜とよめるを見れば、後世の人の語(ノ)活の法を誤りて訓る類とはいふべきに非ず、
と認めてゐるのである。而して「ナガナガシ」といふ語そのものの例こそ無いが、古事記に「とほとほし」といふ語があり、降つて平安朝の歌文にかやうな語格は例が少く無い。源氏物語だけで見ても「あは/\し」(淡)(末摘花等)「あら/\し」(荒)(夕顔等〕「うと/\し」(疎)(帚木等)「おも/\し」(重)(澪標等)「かろ/\し」(輕)(帚木等)「こは/\し」(強)(花宴等)「なほ/\し」(46)(直)(空蝉等〕「わか/\し」(若〕(夕顔等)等の例を見る。これらはクシキ活の形容詞の意を一層強めた意を示す爲の語格として、それらの語幹を重ねてシクシキ活の形容詞とするもので、その時はその元の語幹を重ねたものが末に「し」の音をとつて「とほ/\し」「あは/\し」の如き形を以てその新なる語幹とするものである。かくてその格が古事記にあり、平安朝時代に盛んに打はれたのを見れば萬葉集の時にも行はれてゐたものと認めてよからう、されは「とほし」に基づいて「とほ/\し」が生じたやうに「ながし」に基づいて「なが/\し」が萬葉集の時に存しゐたものと見ても時代的に矛盾は無い筈である。
 さて古くからの語格の一として形容詞の語幹から直ちに體言に熟合せしめて、「アカ〔二字傍線〕玉」「アサ〔二字傍線〕茅」「アラ〔二字傍線〕磯」「ウマ〔二字傍線〕酒」「オソ〔二字傍線〕櫻」「カタ〔二字傍線〕鹽」「カラ〔二字傍線〕酒」「クサ〔二字傍線〕木」(臭木)「ウロ〔二字傍線〕木」「コ〔傍線〕(濃)紫」「コハ〔二字傍線〕飯」「シブ〔二字傍線〕柿」「シロ〔二字傍線〕妙」「ス〔傍線〕莖」(醋莖)「タカ〔二字傍線〕山「チカ〔二字傍線〕道」「ト〔傍線〕鎌」「トホ〔二字傍線〕道」等實刷一々枚擧することが出來ぬ。上にあげたのは皆ク、シキ活の語での例だが、シク、シキ活の語ではその語幹が「シ」の尾音を必ず有すものであるからして、上のややうな語格のときには「トホ/\シ〔五字傍線〕コシノクニ」「サカシ〔三字傍線〕メ」「クハシ〔三字傍線〕メ」「イスクハシ〔五字傍線〕クヂラ」「ミツ/\シ〔五字傍線〕クメノコ」(以上古事記の例)「カグハシ〔四字傍線〕ハナタチバナ」「ミガホシ〔四字傍線〕クニ」「ハシ〔二字傍線〕ツマ」(愛妻)「ウツクシ〔四字傍線〕イモ」(愛妹)〔以上日本書紀)の如く古くよりいひ、萬葉集では「ウツクシ〔四字傍線〕ツマ」(愛夫、卷四、五四三、愛妻、十三、三二七六、三三〇三)「ウツクシ〔四字傍線〕イモ」(愛妹、卷十一、二四二〇)「ウツシ〔三字傍線〕マコ」(宇都之眞子、卷十九、四一六六)「ウラグハシ〔五字傍線〕ヤマ」(浦妙山、卷十三、三二二二)「クハシ〔三字傍線〕イモ」(麗妹、卷十三、三三三〇)「カグハシ〔四字傍線〕キミ」(香具波之君、卷十八、四一二〇)等の例があり、又それが古言の格として行はれたことは延喜式祝詞に「久須志〔三字傍線〕伊波比許登(奇護言、大殿祭)とあるなどでも察せらるゝであらう。
 以上の語格の正しさと、それらの例の古さとに照せば「ナガ/\シ夜」といふことは古雅なもののいひ方であつて「なが/\き夜」「ながきなが夜」といふ古來かつて無かつた物のいひ方にとつてかはらるゝほど拙い俗な語では無いのである。況や紀友則が歌に「なが/\し夜をひとり鳴らむ」とあるのは、この歌を基として詠じたのは明かであると共に、その頃「なが/\し夜」とよんでゐたことを證するものである。然るに、古義が理不盡の言を用ゐてから、殆どすべての學者が之を是認してゐるのはどうした事であらうか。
 
萬葉第十八號 1956年1月
 
 志賀白水郎歌十首…………………………澤瀉久孝 一
 相聞の系譜…………………………………伊藤博 七
 朝歌考………………………………………中鹽清臣 一九
 服曾比獵……………………………………佐藤喜代治 二六
●大伴乃御津…………………………………風卷景次郎 三二〔本文庫の他の箇所に所収〕
 萬葉歌枕に關する疑問二三………………大井重二郎 三八
 萬葉集讀添訓索引…………………………蜂矢宣朗 四五
 
萬葉第十九號 1956年4月
 
 上代敬語動詞成立考………………………木下正俊 一
 元暦校本萬葉集卷第十七、卷第十八の書寫上の異同をめぐつて…神堀忍 二四
 鳴島考再説…………………………………荒木良雄 三二
 人麿の反歌一首……………………………佐竹昭廣 三六
 萬葉集講話 十五…………………………澤瀉久孝 四二
 質料・書評
  語りつぎ言ひつぎゆかむ………………大濱嚴比古 四八
  村木清一郎著「譯萬葉」………………大濱嚴比古 五一
 
萬葉第二十號 1956年7月
 
 「廣さ」と「狹さ」………………………淺見徹 一
 「しののめ・いなのめ」攷………………井手至 一七
 人麿集の書式をめぐつて…………………阿蘇瑞枝 二八
 志賀白水郎歌十首の原形原意の問題……笠井清 三五
 立山と片貝川………………………………廣瀬誠 四二
 「萬葉考」自筆の一稿本…………………中村幸彦 四七
 萬葉集講話 十六…………………………澤瀉久孝 五四
 土橋寛著「萬葉集−作品と批評−」……吉永登 五九
 
萬葉第二十一號 1956年10月
 
 序詞の源流…………………………………土橋寛 一
 いくひさゝ考………………………………大坪併治 二三
 萬葉集における「者」宇の用法…………鶴久 二九
 机之島考……………………………………大谷寛治 三六
 類聚歌林の形態について…………………吉永登 四〇
 萬葉集講話 十七…………………………澤瀉久孝 四四
 山田孝雄著「萬葉集と日本文藝」………濱口博幸 五〇
 犬養孝著「萬葉の風土」…………………清水克彦 五四
 尾山篤二郎著「大伴家持の研究」………直木孝次郎 五七
 佐佐木信綱著「萬葉集事典」……………藏中進 六二
 
萬葉第二十二號 1957年1月
 
 反語について………………………………阪倉篤義 一
 遣新羅使人等の無記名歌について………藤原芳男 一三
●卷十五に對する私見………………………加藤順三 二二
 阿胡行宮攷…………………………………山田弘通 二八
 萬葉集「行靡闕矣」考……………………松田好夫 三四
 記紀の古さ…………………………………淺見徹 四〇
 萬葉集講話 十八…………………………澤瀉久孝 四八
 黄葉片々
  明日香川川淀さらず立つ霧の…………吉井巖 五四
  異傳發生のある場合……………………神堀忍 五六
 書評
  春日政治博士著「古訓點の研究」を讀んで…木下正俊 五九
 
(22)   卷十五に對する私見
                  加藤順三
 
 私は萬葉集に久しい愛着をもつてゐるものであるが、この集は文學的對象であるが故に、冷靜な學問的追求では滿されない間隙が存する。たとへば卷七の
 あしひきの山河の瀬のなるなへに弓月が嶽に雲立ちわたる(一〇八八)
の如き名歌も、それが人麿歌集中の作品であるが故に完全な人麿作(23)品とは見られない。然し私の情意が、完全な人麿の歌としてこれを認識するのは一つの直感に手頼るからであり、又これによらなければ心の安定は得られないのである。卷十五の成立及作者に關してもやゝこれに類似したことが言はれるのである。
 言ふまでもなく、これは遣新羅使人の歌と、中臣宅守と狹野茅上娘子との相聞歌とで出來上つてゐるもので、この形態を疑ふべき根據はない。偶然に二種の歌群が集められてゐるものと見るより外はないのである。
 たゞ他の卷々の成立や内容には、それが出來上つた必然性が大體に於て認められるのに對して、十五の卷に限つてそれが無い。私の情意はこの偶然の中から必恋を求めようとするのである。これを理論的に實證する爲には、單なる實感では役に立たぬ。これに何かの手懸りと推理の道をつけなくてはならぬ。以下の論攷はこの推理を整理したものである。
 尤も、この論旨は、舊著「萬葉美論」の中にも輪郭を述べ、同じ結論をも表示してあるが、前著の場合は、どこまでも相聞歌の性格を求めるのが主であつて、十五の成立の問題は、むしろ第二義にしてゐたので、こゝに改めて少しく説明を加へたいと思ふ。
 この卷に對しての文献的新資料は出て來さうにもない。遣新羅副使大伴三中だといふ説にせよ、萬葉集と大伴氏との關係から出た推定説であつて實證的なものではない。
 それで少しく大膽ではあるが、この卷の歌がもつ聲調と語句との特徴に留意し、その中から全體に亘る結論を得ようとするのである。卷十五の聲調といふことは、歌人の中で多少注意する人々もあつた。卷一、二などの重厚な息吹《いぶき》のつよい響とは異り、沈んだ感傷度の濃い細味あるもので、一口に低調な末期的聲調とよばれるものである。この末期調の一番よく出てゐるのは十五であつて、人はよく良寛の歌調に比較する。たしかにさうであつて、同じ江戸末期の萬葉歌人でも、平賀元義などには全然十五調は認められない。私は十五の調子を一すぢに低調といふ説には反對の異見をもつてゐる。
 たゞ次に述べたいことは、卷十五の調子の全體が統一してゐるといふこと、又全體の歌の語句が互ひに交流してゐるといふことで、結論的に言へば、この一卷の編者は一人格的だといふことになる。次に私の推論をやゝ順序を立てゝ叙述することにしたい。
 右のやうな思考がが最初私の胸裡に浮んだのには、一つの動機があつた。それは
 君がゆく道の長手をくりたゝね燒きほろぼさむ天の火もがも(茅上娘子 三七二四)
 君がゆく海べの宿に霧たゝばあが立ち歎く息と知りませ(悲別歌、女 三五八〇)
(24)有名な娘子の作品と、卷頭、悲別歌の無名の女との作品とに共通するものを直感した。注意して全萬葉集を見ても、これほど接近した作品はないと思ふ。第一、初五「君がゆく」となつてゐるのはこの二首〔四字傍点〕のみである。短歌の第一句の聲調が、その作者の個性とふかく關係することは創作するものゝ常に感じるところである。又時律的な音の排列を見ても
  212.2122.221.2221.2122(娘子〉
  212.2212.221・2221.2122(女)
全く同一で第二句のみが異つてゐるが、これは「海邊の宿」「途の長手」といふ名詞句に助辭の加はつた同形で、音律的にも密書してゐる。
 又表現的音感(音の緩急、加速度など)いはゆる息づかひ〔四字傍点〕も極めて近く、キリタタバ、クリタタネなど殆んど同一である。
 次に思想の移りがよく似てゐる。靜かな聲調を「息吹の霧」「天の火」など、たとへ一般的にもせよ、當時としては珍らしい空想の世界をよび起してゐる點も、同じ型の情熱的女性を想はしめる。或はこの二人は同じ人であるまいかと思ふ思索を全體の上に投じて見ると、更に多くの例證を發見するのである。
 大體卷十五の形態は、次の三つの部分で構成せられてゐる。
 第一は出發前の男女の悲別歌十一首である。
 第二は船中、無名使人の歌九十一首である。尤も、記名ある使人の作、誦するところの古歌、その他、長歌があるが、これは聲調の追求には必要が少いので問題外とする。
 第三は宅守、娘子の相聞歌六十三首である。
 なほ、まづ整理しておかなくてはならぬのは、第一の男女と第二の無名使人とが一人か多數の人々かといふ點で、古註ではこの點に不注意であつたが、現在では一人説が強調せられてゐるのみならず、私も一人格と考へてゐる。新考には、
 この卷は、一行中の無名氏の録したるもの(所謂家集〔二字傍点〕)にて、作者の名を記さゞる歌は、おほむねその人の作とおぼゆ。その人も譯語などの中なるべきが、その名の傳はらざるは、くちをし
全釋には
 作者は、大使、副使、大使の二男などのものがあり、他に秦間滿、大石簑麿、土師稻足などの名が見えてゐる。併し作者を記してゐないものがかなり多く、その歌風、内容などから押して同一人〔三字傍点〕であるらしく思はれるから(冒頭の贈答の男は、やはりこの人らしい)この一團の歌を蒐集しておいた人は即ち無名の作家であらうと推定することが出來る。
又曰く
 かくの如く毛色の異つた二つの集團を、何故一卷に纒めたかは不(25)明であるが、天平八年の遣新羅使一行と天平十二年を距つるあまり遠からざる以前に流罪となつた中臣宅守とが、畧時代を同じくしてゐるといふ以外に、大した理由はないのであるまいかと思はれる。
この最後の全釋の考へは、よほど進んだところまで來てゐると思ふ。遣新羅使は天平九年に歸京してゐることは續紀によつて明らかである。
 大體右のやうな解釋になつてゐるが、私は始めに述べた考察の上に立つて、無名使人は宅守その人であり、悲別の女人は茅上娘子ではあるまいかと以下の如き順序で論述に着手したのである。そして語句と聲調との關係から、やゝその根據となるべき手懸りを認めたのである。さきにあげた女の作「息吹の霧」に答へた男の歌が、冒頭十一首の中に見える。
 秋さらば相みむものをなにしかも霧に立つべき歎きしまさむ(男 三五八一)
この歌は船中の無名使人歌と關係する
 沖つ風いたく吹きせば吾妹子が嘆きの霧にあかましものを(三六一六)
 わがゆゑに妹なげくらし風早の浦の沖邊に霧たなびけり(三六一五)
この二歌は、はじめの作と縁故がないといふ見方は誤りで、船中の追憶歌であることは明かである。
 暫くもひとりあり得るものにあれや島のむろの木離れてあるらむ(使人 三六〇一)
 粟島のあはじと思ふ妹にあれや安寐もねずてわが戀ひわたる(使人 三六三三)
この二歌は同じ使人の聲調である。
 海原を八十島がくり來ぬれども寧樂の都は忘れかねつも(使人 三六一三)
 山川の清き川瀬にあそべども寧樂の都は忘れかねつも(使人 三六一八)
下句は同一である故に、これも同じ人であらう。又用語の相違はあつても、リズムの迫つた作に次のやうなものを認める。
 天雲のたゆたひ來れば九月のもみぢの山もうつろひにけり(使人 三七一六)
 百船のはつる對島の淺茅山しぐれの雨にもみだひにけり(使人 三六九七)
同調のすぐれた作品である。
 かく同一人と考へられ使人の作品が、宅守の歌にも關係を持つのである。
(26) わぎもこがいかに思へかぬば玉の一夜もおちず夢にし見ゆる(使人 三六四七)
 思ひつゝぬればかもとなぬば玉の一夜もおちず夢にし見ゆる(宅守 三七三八)
下句が全く同一であるのみならず、全集中かゝる一致を示す作は、この二歌のみである。
 類型的な着想であるが模倣したものとは見えぬ。同時代の同一人と見る方が穩當である。
 わがゆゑに妹なげくらし〔十一字傍点〕風早の浦の沖邊に霧たなびけり{使人 三六一五)
 わがゆゑに思ひなやせそ〔十一字傍点〕秋風の吹かむその月あはむものゆゑ(悲別歌、男 三五八六)
 ちりひぢの數にもあらぬわれゆゑに思ひやすらむ〔十一字傍点〕妹が悲しさ(宅守 三七二七)
 右の三首「吾故に」は悲調を帶びた、自稱の句であるが、全集中の所見は他に三首ある。(卷十一2、十二1)
 この言葉癖は偶然にこの卷に多いのでなく却つて作者の好みによる一致と考へることが妥當であらう。私は用語の特徴としてこれを見てゐる。又、娘子と悲別歌の女との關係も次の如くである。
 わかれなばうら悲しけむあが衣したにを著ませたゞに逢ふまでに(悲別、女 三五八四)
 白妙のあがした衣失はず持てれわが背子たゞに逢ふまでに(娘子 三七五一)
 白妙のあがころも手をとりもちていはへわが背子たゞに逢ふまでに(娘子 三七七八)
同一卷中のかゝる類似を、強ひて別人と考へる要はないと思ふのである。(この下句と同じ歌は、全集中外に五首あるが、多くは卷を異にしてゐる)
なほ、創作上の呼吸に於て接近してゐる作に次のやうなものを見出すが、あまり主觀的な細部に亘ることを避けて、この一例にとゞめる。
 大船に妹のるものにあらませば〔二字傍点〕羽ぐゝみもちてゆかましものを(悲別、男 三五七九)
 妹が家路ちかくありせば〔二字傍点〕見れどあかぬ麻里布の浦を見せましものを(使人 三六三五)
 ぬば玉の夜わたる月にあらませば〔二字傍点〕家なる妹にあひて來ましを(使人 三六七一)
 かくばかり戀ひむとかねてしらませば〔二字傍点〕妹をば見ずぞあるべかりける(宅守 三七三九)
せば〔二字傍点〕といふ助辞を、第五句に呼應させる哀調は、まさに十五調、萬(27)葉末期調であつて、次の王朝の文化に根をおろしてゐるものである。
 以上は十五の作品から直接取上げた一つの歸納的證明であつたが、なほ現在の形態が成立した順序に次の如き推定が成立つのであるまいか。つまり原型としての十五卷には、宅守、娘子云々の詞書はなかつたものと思はれる。しかしこの二人の戀は有名であつたので、整理者が固くるしい詞を書き入れたのであらう。それは目録の方に
 中臣朝臣宅守、娶藏部女、娉狹野茅上娘子之時、勅斷流罪、配越前國也云々
かくの如き別注があるので二人の關係はよくわかるので、いはゆる兩妻之罪にとはれて配流されたのである。重婚は重い刑であつた。
 これははじめに書いた如く天平十一年以前、九年以後の出來事であつたらしく思はれる。
 ところが遣新羅の方は、公的な行事である。原稿にも船中の作者の名、地名などが擧げられてゐたのは勿論で、無名の歌は編者一人の作だと考へる論據にもなるのである。
 それで整理の場合、この原稿の詞はそのまゝに活かすと同時に、百首に近い無名の歌を却て、船中の多くの人々の作と見て注意しなかつたのではあるまいか。かゝる國家的行事と、罪深き戀愛といふ相反する内容が災して、今日見るが如き偶然の形態を示してゐるやうに思ふ。
 結論として、この卷は、中臣宅守の家集〔二字傍点〕であり、もしこの事が認められるならば、吾人は萬葉第四期に、家持の外に今一人の抒情歌人を持つことが出來るやうに思ふのである。(十月十五日)
       ――歌人・同志社女子大學教授――
 
萬葉第二十三號 1957年4月
 
 萬葉のあま…………………………………高木市之助 一
 古今和歌六帖の萬葉歌について…………大久保正 一三
 人麻呂の表現と史實………………………伊藤博 二六
 「来す」と「越す」………………………木下正俊 三五
 萬葉集講話 十九…………………………澤瀉久孝 五一
 資料紹介
  敦煌石室の佛説延壽命經………………西野貞治 五七
 書評
  池田源太著「歴史の始源と口誦侍承」…守屋俊彦 六〇
 「萬葉歌人の誕生」を讀んで……………高木市之助 六六
 
萬葉第二十四號 1957年7月
 
 萬葉集の「見」……………………………森重敏 一
 七夕歌と柿飜人麿集………………………後藤利雄 三二
 柿本人麻呂の世界…………………………清水克彦 三八
 萬葉集講話 二十…………………………澤瀉久孝 五〇
 黄葉片々
  嬬の命のたたなづく柔膚………………大野保 五七
  「目をやすみ」…………………………井手至 五九
  積雪彫成重巖之起………………………三邊清一郎 六〇
  うまし……………………………………橋本四郎 六三
 書評
  日本古典文學大系 萬葉集(一)……木下正俊 六五
 
萬葉第二十五號 1957年10月
人麻呂特輯號
 
 人麿の長歌と短歌…………………………岡崎義惠 一
 人麻呂長歌寸言……………………………五味智英 一三
 人麿作品の形成……………………………松田好夫 一八
 叙景歌と人麻呂……………………………大濱嚴比古 二六
 龍田山と狹岑島……………………………木下正俊 三八
 人麻呂と風土………………………………犬養孝 四三
 書評
  田邊幸雄著「初期萬葉の世界」………伊藤博 五五
 
萬葉第二十六號 1958年1月
 
 反歌攷序説…………………………………吉井巖 一
 ねもころに君が聞こして…………………藤原芳男 一五
 憶良の用語「それ」と「また」…………井手至 二三
 準不足音句考………………………………木下正俊 三〇
 光明皇后筆の杜家立成をめぐつて………西野貞治 四二
 萬葉集講話…………………………………釋瀉久孝 五二
 書評
  「古代歌謠集」讀後覺え………………阪倉篤義 五七
  大久保正著「萬葉の傳統」を讀む……石井庄司 六二
 
萬葉第二十七號 1958年4月
 
 萬葉語………………………………………小島憲之 一
 葦垣の思ひ乱れて…………………………賀古明 九
 萬葉語「はた」の意味用法をめぐつて…井出至 一九
 奈良遷都途中の歌について………………吉永登 二五
 我れし行きなば靡け篠原…………………西宮一民 三一
 近江荒都の歌………………………………清水克彦 三七
 黄葉片々
  「濃」の假名遣其他………………………木下正俊 四五
 書評
  萬葉集注釋卷第一を讀む…………………土屋文明 四八
 
萬葉第二十八號 1958年7月
 
 引用…………………………………………川端善明 一
 歌の轉用……………………………………伊藤博 三一
 大作旅人の歸京日程………………………宮木喜一郎 四二
 萬葉集における用字法の一面……………鶴久 五一
 萬葉のカモメ………………………………山本徳太郎 五八
 黄葉片々
  佐宿木花…………………………………眞鍋次郎 六三
 
萬葉第二十九號 1958年10月
 
 相聞歌異見…………………………………澤瀉久孝 一
 副詞ホトホト(ニ)の意味構造…………井手至 八
 山部赤人の「敍景歌」私見………………稻村榮一 一六
 「隼人の湍門」考…………………………花田昌治 二二
 「萬葉考」の校本…………………………河野頼人 二八
 新撰字鏡と遊仙窟…………………………藏中進 三九
 黄葉片々
  遊仙窟の影………………………………小島憲之 四八
 「濱松之上於雲棚引」……………………蜂矢宣朗 四九
 「萬葉のカマメ」を讀んで………………川村多實二 五三
 
萬葉第三十號 1959年1月
 
 「ことば」と「字音仮名」――上代語の清濁を中心に――…橋本四郎 一
 「入日哉」其他……………………………木下正俊 一三
 連體格を構成する助詞二つ
   ――格助詞《な》と格助詞《つ》と――…塚原鉄雄・塚原幸子 二五
 黄葉片々
  「亂れいづ見ゆ」か「亂れていづ見ゆ」か…鶴久 四一
 書評
  萬葉集注釋卷第二を讀んで……………森本治吉 四五
 
萬葉第三十一號 1959年4月
 
 輕の妻の死せる時の歌――人麻呂の作歌精神――…清水克彦 一
 「八船多氣」をめぐつて…………………西宮一民 一二
 「水島」考…………………………………鶴久 一八
 玉葉和歌集中の萬葉歌覺書………………濱口博章 二八
 萬葉集講話(廿二)………………………澤瀉久孝 四一
 黄葉片々
  「落易」の訓など………………………伊藤博 四六
  朝月日向黄楊櫛…………………………橋本四郎 四九
  「耆矣奴」考……………………………加地伸行・小島憲之 五二
  動詞「ウラム」古活用憶斷……………木下正俊 五四
 
萬葉第三十二號 1959年7月
 
 萬葉語のイハバシル・ハシリヰ・ハシリデ…井手至 一
 「しこる」「あきじこる」攷……………吉田金彦 一二
 笠女郎の歌の位置………………………服部貴美子 三〇
 讀添へと書添への間――連想的讀添へ表記と連想的書添へ表記…蜂矢宣朗 四四
 黄葉片々
  「見所久思」考………………………西宮一民 五四
  「佐檜の隈み」考……………………山田弘通 五七
 
萬葉第三十三號 1959年10月
 
 訓假名をめぐつて………………………橋本四郎 一
 連歌源流の考――佐保河之水乎塞上而の歌を中心に――…島津忠夫 一七
 絶えむの心わが思はなくに――陳述をめぐる問題――…淺見徹 二五
 黄葉片々
  筑波嶺に雪かも降らる………………木下正俊 四一
  往布勢水海道中馬上口號二首………藤原芳男 四三
 書評
  神田秀夫著『古事記の構造』………西宮一民 四八
  谷馨著『萬葉武藏野紀行』…………蜂矢宣朗 五二
  澤瀉久孝博士『萬葉集注釋』卷三・四…萬葉七曜會 五五
 
萬葉第三十四號 1960年1月
澤瀉久孝博士古稀記念號
 
 古事記の「寢」字――「大御寢也」の試訓その他――…門前眞一 一
 「古事記」のシについて………………福田良輔 一三
 萬葉解釋におけるアキレスの踵………土橋寛 二三
 萬葉代匠初稿本に關する一二の問題…吉永登 四〇
 正訓字の整理について…………………池上禎造 四七
 萬葉集第十五番の歌「渡津海乃…清明己曽」のよみについての私見…龜井孝 五四
 萬葉集の時代區分………………………扇畑忠雄 六〇
 出典問題をめぐる貧窮問答歌…………小島憲之 七〇
 萬葉語意の構造――(その一)名詞について――…阪倉篤義 七五
 倭建命とその周邊をめぐつて…………吉井巖 八六
 誤字説をめぐつて――「峯(※[木+鋒の旁])と「岫(岬)」の場合――…西宮一民 九八
 訛傳の定着………………………………木下正俊 一〇七
 本文批評の根柢…………………………澤瀉久孝 一一八
 
萬葉第三十五號 1960年4月
 
 反歌としての短歌の成立過程…………森重敏 一
 長屋王故郷歌一首………………………中西進 四二
 書評
  澤瀉久孝博土著「萬葉集注釋 卷第五」…倉野憲司 五四
  日本古典文學大系『萬葉集』(二)…木下正俊 五九
  伊藤博氏著「萬葉集相聞の世界」…青木生子 六五
 
萬葉第三十六號 1960年7月
 
 上代語の清濁――借訓文字を中心として――…西宮一民 一
 萬葉集における借訓假名の清濁表記――特に二音節訓假名をめぐつて――…鶴久 二〇
 雲の上に鳴くなる雁の――右大臣橘家宴歌――…藤原芳男 三三
 「しこる」「あきじこる」の周邊……原田芳起 四〇
 黄葉片々
  阿倍乃嶋と佐農能岡………………荒木良雄 四八
 書評
  錢稲孫譯「漢譯萬葉集選」………伊藤博 五二
 
萬葉第三十七號 1960年10月
 
 旅人の宮廷儀禮歌……………………清水克彦 一
 舎人と挽歌――人麻呂舎人説の基礎的考察として――…阿蘇瑞枝 一一
 萬葉集問目と比較してみた――狛諸成の萬葉考増訂――…河野頼人 二一
 沈む女――その傳承の背景――……吉井巖 三一
 黄葉片々
  打布裳の訓について………………藏中進 五三
 書評
  清水克彦氏著「萬葉集序説」……吉井巖 五八
 
萬葉第三十八號 1961年1月
 
 子規及びその後續者たちの萬葉觀…土屋文明 一
 憶良の歌に見られるもの二つ………吉永登 一一
 類聚古集の部類………………………神堀忍 二二
 はちす――戯笑歌の一解釋――……伊藤博 三三
 夜隱……………………………………中西進 四一
 黄葉片々
  中臣宅守芽上娘子贈答歌…………藤原芳男 五一
 書評
  萬葉集注釋卷六を讀んで…………久松潜一 五六
 
萬葉第三十九號 1961年5月
 
 「見る」ことのタマフリ的意義……土橋寛 一
 家持の藝境……………………………横井博 一一
 萬葉集歌の傳承−繼色紙集の場合−…金井清一 二三
 ツノサハフ・シナテル・シナタツ−枕詞の解釋をめぐつて−…井手至 三三
 「布靡越者」について………………西宮一民 三九
 書評
 日本古典文學大系「萬葉集(三)」…橋本四郎 四七
 
萬葉第四十號 1961年7月
 
 上代の東國俚言−東歌・防人歌の解釋方法に關する問題…淺見徹 一
 枕詞と呪農−「花散らふ」と「み雪ふる」の發想−…櫻井滿 三二
 紀女郎の諧謔的技巧−「戯奴」をめぐつて−…井手至 四一
 石中の死人を見て作れる歌−人麻呂における歌の實用的性格について−…清水克彦 五〇
 黄葉片々
  夏の野にわが見し草は……………藤原芳男 六一
 書評
  土橋寛氏著『古代歌謠論』を讀む…吉永登 六六
 
萬葉第四十一號 1961年10月
 
 「しみら」と「すがら」−ヒネモス・ヨモスガラの意味−…阪倉篤義 一
 「具フ」の假名遣をめぐつて………西宮一民 一五
 人麻呂集戯書「開木代」について…井手至 二六
 仙覺新點歌流傳の一形態……………濱口博章 三三
 黄葉片々
  いづちむきてかあがわかるらむ…眞鍋次郎 四七
  憶良「思子等歌」序文の典據……井村哲夫 四九
 
萬葉第四十二號 1962年1月
 
 ミの形をめぐる問題…………………橋本四郎 一
 所謂形容詞のカリ活用及び打消の助動詞ザリについて−特に萬葉集における義訓すべき不安・不遠・不近・不悪・不有をめぐつて−…鶴久 一六
 雄略御製の傳誦………………………中西進 三六
 沈む女(二)−佐用比賣傳説をめぐつて−…吉井巖 五二
 
萬葉第四十三號 1962年4月
 
 八雲立つ出雲…………………………土橋寛 一
 仙媛贈答歌の性格……………………清水克彦 一六
 動詞の接辭化−萬葉の「行く」と「來」−…井上展子
 假名表記と讀添へ……………………蜂矢宣朗 三八
 黄葉片々
  洽者…………………………………木下正俊 五四
 
萬葉第四十四號 1962年7月
 
 「なに」と「いかに」と……………木下正俊 一
 人麻呂作品の形成……………………中西進 一八
 歌日誌の空白−歌わぬ詩人家持−…伊藤博 四一
 書評
  澤瀉久孝博士著『萬葉集注釋』卷第七…松田好夫 五八
  澤瀉久孝博士著『萬葉集注釋』卷第八…大久保正 六二
 
萬葉第四十五號 1962年10月
 
 見る歌の發想形式について−「見ゆ」を中心に−…吉井巖 一
 吉備津釆女死せる時の歌−柿本人麻呂論の内−…清水克彦 一五
 田邊福麿之歌集と五つの歌群−その用字をを中心として−…古屋彰 二四
 助詞「し」の説−係機能の周邊−…川端善明 三五
 書評
  日本古典文學大系『萬葉集』(四)…西宮一民 四八
  『萬葉集注釋』卷第九を讀んで…扇畑忠雄 五四
  澤瀉久孝博士著『萬葉集注釋卷第十』を讀んで…石井庄司 五九
 
萬葉第四十六號 1963年1月
 
 萬葉の解釋……………………………阪倉篤義 一
 二つの「賀」から……………………木下正俊 一三
 萬葉の郎女……………………………藤原芳男 二〇
 卷十七の對立異文の持つ意味………木下正俊 二七
 黄葉片々
  紐二題−「ただならずとも」と「つけし紐とく」−…吉井巖 三七〕
  大鳥の羽易山………………………大濱嚴比古 四四
 
萬葉第四十七號 1963年4月
 
 吉野……………………………………宮本喜一郎 一
 東歌の「可牟思太」「可牟能禰」について…後藤利雄 一三
 「萬葉考」巻七以下に見られる本文批評…河野頼人 二二
 助詞「も」の説−文末の構成−……川端善明 三六
 黄葉片々
  磯城皇子と「河内王」……………神田秀夫 五一
 
萬葉第四十八號 1963年7月
 
 憶良「思子等歌」の論………………井村哲夫 一
 何處より來りしものぞ………………柳川清 一一
 風雅集中の萬葉歌續考………………澁谷虎雄 二〇
 助詞「も」の説−二、心もしのに鳴く千鳥かも−…川端善明 二八
 黄葉片々
  許※[氏/一]多受久母可………橋本四郎 四六
 書評
  小島憲之博士の大著『上代日本文學と中國文學 上』を讀む…倉野憲司五〇
 
萬葉第四十九號 1963年10月
 
 萬葉集に於ける記號としての一云と或云…藤原芳男 一
 「所依」「所縁」試訓…………………下正俊 一四
 石橋と岩橋……………………………井手至 二七
 日下の直越……………………………西宮一民 三三
 黄葉片々
  履はけ我が背………………………後藤利雄 五一
 書評
  太田善麿著『古代日本文学思潮論』(T・U・V)…西宮一民 五五
  中西進氏著『万葉集の比較文学的研究』を播いて…井手至 六一
 紹介
  『萬葉語研究』再版に寄せて……木下正俊 六五
  澁谷虎雄氏著『【古文献所収】萬葉和歌索引』…濱口博章 六六
 
萬葉第五十號 1964年1月
 
 「あれをとめ」考……………………土橋寛 一
 「はばき」……………………………橋本四郎 一一
 萬葉集に於ける「可」「應」字の用法…鶴久 一七
 狛諸成の萬葉考増訂の方法をめぐつて…河野頼人 二四
 題詞の權威−旅の歌の一解釋−……伊藤博 三六
 壹岐對馬行……………………………澤瀉久孝 五一
 書評
  萬葉集注釋卷第十一を讀む………佐伯梅友 五五
 
〔以上で終わりにします。これ以上行っても著作権切れは出てこないようです。〕