萬葉集論究 第一輯、松岡靜雄、章華社、417頁、3圓80錢、1934.2.11發行
          (入力者注、本書では【】は割り注の記号ではない。算用数字は入力者の付したもの。)
 
(1)  凡例
一、歌詞、前書、左注の原文は仙覺本(寛永版)に據り、「校本萬葉集」及「萬葉集總索引」を以て考異し、誤字は△、衍字は▲を旁記して表示した。
 變體、略書、省劃等活字に之を求め得ざるものは、新鑄の勞を憚つて正字に改めたが、論議のあるものは原文の通り特製した。
二、旁訓は仙覺點(本論では舊訓と稱へる)を出來るだけ尊重することにしたけれども、明に誤訓と認められるものは、契沖以下の諸學匠の説を参照して、其可なるものに從ひ、いづれも採るに足らざる場合には新に考定した。釋義の標目に圏點を附したのは私の新訓である。
三、屡々引用する文獻には便宜の爲、左記の略字を用ひた。
〔紀〕  日本書紀        〔釋記〕 釋日本紀(卜部兼方)
〔記〕  古事記         〔記傳〕 古事記傳(本居宣長)
〔舊〕  舊事本紀        〔姓〕  新撰姓氏録
(2)〔字鏡〕 新撰宇鍍(天治本) 〔和〕 倭名類聚鈔
〔拾〕  萬葉集拾穗抄(北村季吟)〔代〕 萬葉集代匠記(圓珠庵契沖)
〔童〕  萬葉集童蒙抄(荷田春満)〔考〕 萬葉考(賀茂眞淵)
〔略〕  萬葉集略解(橘千蔭)  〔古〕 萬葉集古義(鹿持雅澄)――〔品物解〕同上附録
〔新考〕 萬葉集新考(井上通泰) 〔新訓〕 新訓萬葉集(佐佐木信綱)
〔地辭〕 大日本地名辭書(吉田東伍)
 右の外は全書名と、要すれば著者名とを掲げる。
四、既刊の拙著中に掲げた所説は、参照の勞を省くため、成るべく要點を摘記したが、長文のもの又は直接關係の少いものは、左記の略称を用ひて所出を示すに止めた。
〔神代篇〕 紀記論究「神代篇」    〔建國篇〕 同上「建國篇」
〔語誌〕  日本古語大辭典「語誌篇」 〔訓詁〕  同上「訓話篇」
〔要録〕  同附録「語法要録」
五、集中の歌を指示するには、便宜上「國歌大觀」の番號を用ひた。
 附記。萬葉集總索引(正宗敦夫)によつて檢出の便を得たことについては、特に編者に感謝する。
 
(3)  目次
 
序説…………………………………………………………………………一
 
雜歌…………………………………………………………………………七
相聞歌……………………………………………………………………九九
問答歌…………………………………………………………………二四三
譬喩歌…………………………………………………………………二八五
挽歌……………………………………………………………………二九〇
 
索引……………………………………………………………………三八七
 
(1)  序説
 
 萬葉集は國語の寶庫である。我々の言語は此時代に於て全く整備し、發達の頂點に達したのであるが、爾来漢語の影響をうけて甚しく變化し、或意味に於ては寧ろ退化した。さりながら現代の國語も、上代人の用ひた言語も本質に於ては變りはないのであるから、國語について正しい理會を得んが爲には其源に泝るを可とし、殊に萬葉集中に用ひられた語彙語法については精細なる觀察を必要とする。否、此集の用語が逐一釋明せられた曉でなければ、國語の本質を詳にしたりといふことは出來ぬ。不幸にして此寶庫は尚未だ盡く開放せられるに至らず、今日まで吾人の目にせざる珍寶が深く秘藏せられて居るのである。
 萬葉集についての著書は、「國書解題」に收録せられて居るだけでも百十五種に及び、近人の手になつた大小の述作も少くはないが、註釋書に關する限り、大體に於て訓讀と會意とを主とし、言語學的研究には疎であつた憾がある。一定の方針もなく、確乎たる法則にも據らずして、任意に漢字を用ひた表記法には、難讀のものが少くはなく、ことに柿本人麿集から轉載せられたものゝ多い第十一卷の歌の如く助語(助辭及助動詞)を表記せず、極度に省筆せられたものに在つては、今尚疑義の存するものもあるが、先學の努力により少數を除いては、一通り訓讀せられたので、之によつて兎にも角にも歌意を演繹することが可能であるかのやうに見え、輕率にも定訓を與へんとするものをすら生じた。さりながら集中の多くの歌謠が尚其大意に於てすら一致せず、(2)研究の餘地を殘して居るのは訓讀〔二字右○〕必しも解讀〔二字右○〕にあらざることの證據といふべきである。
 眞淵以下の演繹の態度は、先づ訓讀に基き、類別、前書、左註等を參考として歌の大意を推測し、之を根據として句意乃至語意を考定するといふ方式で、從つて牽強附會に近いものもあり、牽強不能の場合には任意に字を改め、更に窮するに及びては脱落ありとして之を補ふことをも敢てした。衍誤亂脱は決して絶無のことではないが、古來校合に校合を重ねた本集に、さのみ誤脱が多かつたとは考へられぬことであるから、解讀の困難なるは自己の學力の不足に因するものとして再三再四推考を試みねばならぬ。改竄の非は今や學界一般に認識せられたが、演釋方式は依然舊態を宿し、臆測が常に語釋に先行する嫌があり、字を改めることの代りに音訓について異説を立て、之によつて抵觸を避ようとし、甚しきは語義を捏造してまでも、豫斷を通さうとするものがある。藝術品の鑑賞といふ點よりすれば、全體から受ける印象は極めて大切なもので、語句の末には必しも拘々たるこせを要せぬかも知れぬが、國語學上甚歎かはしいことゝ云ふべきで、漸く開けかゝつた寶庫の扉は此の如くして再び荊棘に閉されんとして居るのである。
 科學的に萬葉集の歌論を取扱はんが爲には、先づ逐語の意義を究め、句意を明にして後、全體の趣旨を察するといふ順序によらねばならぬことは何人も異議があるまい。國語には同音異義の語及語分子が少くはないから、其いづれに屬するかを決定する爲には、文脈を參考とする必要のあることは勿論であるが、前後の文意から語義を案出することは許されぬ。此事たる極めて明白なる道理であるにも拘はらず、上述の如く往々逆手段が採用せもれて居るのは、語釋の基礎が確立しなかつた爲で、和名抄、新撰字鏡その他の辭書に見えぬ古言、(3)廢語は、他の用例を求め之と對比して定義を下すことを以て唯一の方法としたからである。さりながら抽象語は勿論、具象語に在つても、往々嚴密なる定義を與へることが出來ず、唯漠然たる意味を會得するに留まるものがある。誤解や多くは此から出發するのであるが、幸にも我國語の多くは之を分析して言語に還元することが可能であるから、原語の含蓄する概念を知悉するならば、多數の例を列擧せずとも、語義を釋くことはさのみ困難ではない。例へばネモコロといふ語は少くともネ、モコ、ロの三分子に分拆し得られ、其各々について考察すれば自ら氷釋せられるのである(本文第一八七頁參照)。されば語釋の基礎は此分拆方法に置かぬばならぬと私は確信するのである。
 此見地を以て私は嚮に「日本古語大辭典」を起草するに當り、集中の難解語に對し、若干の釋明を與へて置いたが、勿論考の尚至らざるものもあり、縱ひ個々の語句を明にしても、其によつて盡く歌意を解き得べきものではないから、相當に世の注意を惹いたにも拘はらず、歌謠そのものゝ註釋に資せられることが少かつたやうである。最近世にあらはれた著書論文等を見るに、世を惑はすものは、單語の誤釋よりも寧ろ語法の曲解に存する場合が少くはない。國語の語法就中「時」及「法」の表現樣式、並に語(句)と語(句)との關係表示の如きは、漢語の影響を受けて甚しく變遷したので、上代人が常用した語法でも現代語に直譯し得られぬものがあり、從來誤解せられて居た點も少くはない。此等は近代の科學的研究によつて大に明にせられたけれども、日常練習の機會がないから、ともすれば混亂を免かれぬのである。さりながら歌謠の如き微妙な感想を表示するものに在つては、一音の相違も含蓄に大なる影響を及ぼすが故に、之を疎略にすることは出來ぬ。例へば咲キナムと(4)咲カムとの差別を口語で表はすことは困難であるが、兩者を同義と見なし、語音數の關係上任意に其一を擇んでもよいと解するものがありとすれば大なる誤りで、萬葉人は意識して之を使ひ分けたのである。此やうな關係を論ずるのは文法書の領域に屬するといふものがあるかも知れぬが、假令今後如何に精確な文法書が世に出ることがあるにしても、尚微細な點は用例について説明するの外なく、歌釋にまで立入ることは文法書の任ではない。
 上述の如くば、萬葉集の言語學的研究は遲蒔ながら此から初めねばならぬ。其は必しも通釋を必要とせぬのであるが、從來の註釋には尚再吟味を要するものがあり、誤つた解釋を基礎とする論議は、砂上の樓閣に等しいものてあるから、少くとも數卷に亙つて詳密なる論究を試みることは決して屋上屋を架するものではない。私はこの見解に基き、先づ第十三卷及第十四卷を選んで、仔細に檢討することにした。其は次の理由によるものである。
 一、此兩卷は集中最も難解とせられ、何人も現存の註釋書に滿足して居らぬこと。――釋者自身も恐らくは説き得て遺憾なしとは自信しなかつたであらうと思はれる。
 二、第十三卷には比較的古い歌が多く、第十四卷は當時東國に行はれた方言を以て詠じて居るので言語學的資料たるべきものが多いこと。
 三、兩卷共に題辭(前書)を缺き、作家の名も不明であるから、歌意豫斷の手がゝりがなく、必然語句の推究に重きを措かぬばならぬこと。
(5)餘命が之を許すならば、集中最も俗臭ありとせられる第十六卷の有2由縁1歌《ヨシアルウタ》、諸卷に分載せられた人麿歌集の歌、並に旋頭歌及作者不明の短歌中、言語學的研究に値するものにも説き及ぼしたいと考へて居る。
 本篇を草するに當り、先學の説を論破することについては私は多大の苦痛を感じた。契沖、眞淵、宣長等は、私の常に敬服して居る巨匠で、世代の近い雅澄以下も未見の師であり、新考の著者の如きは俗縁の尊屬であるから、私情としては成るべく其所説を尊重したいのであるが、上述の如く、研究の態度に於て根本的相違があるので、明白に其缺點を指摘せぬ限り、論陣を進めることが出來ぬ。其故に今日まで執筆を躊躇したのであるが、私の健康は益々傾き、昨春の診定では三ケ年以上の壽命は拾ひものであると宣告せられたので、あらゆる私情を抛つて斯學に精進することにした。其は決して生前に名を賣らんが爲でないことは勿論、死後の榮譽を求める野心があるのでもなく、唯私の學問的良心が逡巡を許さぬからである。
 私は若干の舊訓を復活し、多くの新訓を與へたけれども、決して之を以て完全無虧なりとするのではなく、今後の研究によつて更に適切なる好訓があらはれんことを希望するもので、此の如くして自ら正訓が定まつて行くことゝ信ずる。さりながら作者が口吟した原形乃至筆録者が庶幾した原訓にまで還元することは殆ど不可能な場合がある。例へば我(吾)はアと唱ふべきか、ワとすべきか、又はイメとユメ(夢)とはいづれが正訓であるか、不知の訓はシラニとシラズとの孰れに從ふべきかといふが如きは、到底字面だけでは判定しかねることで、有(在)を以て表記せられた助動詞の如きも、ケリともタリとも了解し得られる場合があつて、作者を地下から起して其心もちを聞かぬ限り、斷定を許されぬのである。世には萬葉集の研究は既に一段落を了したもの(6)と見なして、定訓設定の必要を説き、或は之に指を染めたものもあるが、其謂ふ所の定訓が原訓還元の意ではなく、便宜上の擬定訓のことであるとしても、上述の如く語釋上尚多くの疑義が殘されて居るのに、之が研究を疎略にして人爲的拘束を設けようとするのは理不盡といはねばならぬ。
 私は繰りかへしていふ。萬葉集は國語の無盡藏の寶庫で、兩三者の貧弱なる研究のみを以て滿足すべきではない。傳へ聞く所によればセクスペアの研究は既に一千七百餘種に達したといふことである。かくてこそ英語のやうな言語學的にはさのみ完備ともいへぬ言語が、強國の勢威によるとはいへ、世界的文化語と認められるやうになつたのである。自國語を輕視し、古言は日常語と没交渉なるものとして研究を忽にする結果は、文化の向上を妨げ、民族的自滅を招くこと必定で、寒心に堪へぬことである。此見地から私は萬葉集の言語學的研究が今後益々勃興せんことを熱望し、敢て一炬を投ぜんとするのである。
 第十三卷及第十四卷の編者、編纂年代、編輯方針及典據等については論ずべきことが多いが、其は寧ろ書誌學の領域に屬し、直接言語學との交渉がないのみならず、語句の意義が明瞭となり、歌意が正解せられた後に於て再考することを可とするから、本編に於ては已むを得ざる場合の外之に觸れねことにした。
 
(7)萬葉集卷第十三
 
    雜歌 二十七首(長十六、短十、旋頭一)
 
3221 冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》 朝爾波《アシタニハ》 白露置《シラツユオキ》 夕爾波《ユフベニハ》 霞多奈妣久《カスミタナビク》 汗〔左△〕湍能振《カゼノフル》 樹奴禮我之多爾《コヌレガシタニ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴母《ウグヒスナクモ》【三二二一】
 
冬ごもり 春さり來れば 朝には 白露おき 夕には 霞たなびく かぜのふる こぬれがしたに ぐひすなくも
 
      右一首
 
ふゆごもり(冬木成) 春の枕詞。草木は冬期蟄伏し、春になれば芽をハルものなるが故に、冬ゴモリ春とつづけたので、ハル(春)といふ語も之から出たのである。成をモリの假字に用ひた事由については、盛〔右○〕の略書とするのが通説であるが、或は成盛相通なりといひ【古義】、或は戍〔右○〕の誤記なりとする説もある【福井久藏(8)氏枕詞の研究と釋義】
はるさりくれば(春去來者) 夕方(夜)をユフサ(ヨサ)といひ、同義を以てユフサリ(ヨサリ)ともいふやうに春べをハルサともハルサリとも稱へたので【語誌】、春サリ來レバは春が來ればといふと同意である。
あしたには(朝爾波)
しらつゆおき(白露置) ツユには涓滴の義もあるので、草木の葉等に凝着する露を特示せんが爲にシラ(白)といふ語を冠したのであらう。古人は霜はフル(降)もの、露はオク(置)ものと考へて居たやうであるが、白露の置くのは夏秋の朝を以て最とし、春期に在つては餘り顯著な現象ではない。
ゆふべには(夕爾波)
かすみたなびぐ(霞多奈妣久) カスミは幽《カスカ》に日光を遮る薄霧をいひ、長く瀰漫することをタナビクと稱する【語誌】。
かぜ〔二字右○〕のふる(汗湍能振) 汗湍ともに音符として用ひた例がないから、訓假字と見ねばならぬが、其にしても此まゝでは難讀である。私は假に汗〔右△〕を河〔右○〕の誤寫と見て、契沖訓に從ひカゼと訓み、――河をカの訓假字に用ひた例は日本書紀にも散見し、湍が瀬《セ》と同義なることはいふまでもない――能振は字の通りノフルと訓して置く。即ち春風ノ振り〔三字右○〕搖ガスといふ意を以て木梢の修飾としたものと想定するのである。
こぬれがしたに(樹奴禮我之多爾) コヌレはコ(木)ノ(之)ウレ(梢)の約。春風の吹きわたる梢の下に※[(貝+貝)/鳥]が鳴くといふのである。ウレはウキ(浮)、ウヘ(上)等の語幹ウから出た語で、ウラともいひ、上端を意味する。
(9)うぐひすなくも(※[(貝+貝)/鳥]鳴母) ウゲヒスは世人周知の鳴禽であるが、其名の所由は判明せぬ。若しウクヒが韓語※[ハングルのケコリ]《ケコリ》の※[ハングルのケ]から出たものとすれば擬聲語と見るべきで、スは韓語※[ハングルで鳥の意味のセ](鳥)の轉呼なること疑なく、カケス〔右○〕、カラス〔右○〕、キギス〔右○、ホトトギス〔右○〕、モズ〔右○〕の如く用ひられるのである。鳴クモ〔右○〕のモは勿論感動詞である。
【大意】 春邊になれば、朝は白露が置き、夕は霞がたなびく、風のふる木未の下に※[(貝+貝)/鳥]が鳴くよ
 
3222 三諸者《ミモロハ》 人之守山《ヒトノモルヤマ》 本邊者《モトヘハ》 馬醉木花開《アシビハナサキ》 末邊方《スヱヘハ》 椿花開《ツバキハナサク》 浦妙山曾《ウラクハシヤマゾ》 泣兒守山《ナクコモルヤマ》【三二二二】
 
みもろは 人のもる山 もとへは あしび花さき すゑへは 椿花さく うらくはし 山ぞ なく子もる山
 
右一首
 
みもろは(三諸者) ミモロはミムロ(御室)の轉呼で、ムロは地面を掘り下げて窖を穿ち、其上に屋蓋を設けた居宅を意味するから【語誌】、――アイヌ語でもモロ〔二字右○〕といふ――之に敬稱ミ(御)を冠すると、ミヤ(御屋)即ち宮と同じく、貴人の宮邸又は神廟の意となるのであるが、特に出雲系の神靈を祭祀する社をいふに用ひられる。されば此名を以て呼ばれる地點は、磯城郡の三輪山を始め、大和だけでも數ケ所を算するが、此は山部宿禰赤人が三諸乃神名備山と詠じた【萬三】高市郡雷岳のことであらう。飛鳥朝歌人の讃美した山で(10)ある。
ひとのもるやま(人之守山) 守山の義は字によつて明白であるが、或は雷岳の一名をモル山と稱へたのかも知れぬ。近江國の守山を森〔右○〕山又は杜〔右○〕山とも書く所を見ると、神ナビと同じく(後記參照)、神の杜の意を以て命名せられたことも有り得べきで、人ノといふ限定語を冠したのは、末句の泣ク子と同じくモルといふ語の序とも了解せられる。
もとへは(本邊者) 本方ハといふ意。次のスエヘと對立する語で、此方と彼方といふ意味にも用ひられる。
あしびはなさき(馬醉木花開) アシビは今アセビ(アセボ)と稱する石南科常緑灌木で、其葉に毒素を含み、牛馬之を食する時は瞑眩《メンケン》を起すにより馬醉木の字をあてたのであるが、本集第七卷及第二十卷に安志妣、安之婢と表記せられて居る所を見ると、アシビを古言とすべきで、恐らくはアシ(惡)ミ(實)の意を以て命名したのであらう。舊訓ツツジとあるのは、同一科に屬する植物なるが故に混同したものと思はれる。
すゑへは(末邊者) 末方ハ
つばきはなさく(椿花開) ツバキ(椿)は世人周知の植物で、其名はツ(強)バ(葉)キ(木)から出たものと思はれるから、本初は革質葉植物の總稱であつたのであらうが、今では專ら海柘榴をいふ。
うらくはし(浦妙) ウラはヱラ(歡喜)の轉呼で【語誌】、之をクシ(奇)とハシ(好)とを連約したクハシに冠すると快妙といふ意になるのである。此は次句の山の修飾語で、後世ならばウラクハシキといふ連體形を用ひる場合であるが、終止形を充當したのは、クハシ女、サカシメ(記の八千矛神の歌)等と同例で、形容詞活用が尚未だ完備しなかつた時代の名殘である。
やまぞ(山曾) 三音を以て一句とし、且前句の五音及後句の七音と相待つて一聯をなすものである。此は左記の如く紀記の歌謠にも例の多い古歌の一形式である。
 【稚郎子皇子の御歌】 わたりでに たてる〔三字右○〕 あづさゆみまゆみ【紀】
 【輕太子の御歌】 はさのやまの はとの〔三字右○〕 下なきになく【紀】【記】
 【雄略天皇御製】 ししふすと たれぞ〔三字右○〕 おほまへにまをす【記】
 【天詩歌】 おひ立てる はびろ〔三字右○〕 ゆつまつばき【記】
 【春日山田皇女の歌】 ながれ來る たけの〔三字右○〕 いくみだけよだけ【紀】
なくこもるやま(泣兒守山) 泣ク子(ヲ)守ル山といふ意。第二句を反誦するに當り、上三音をかへた所に此歌の技巧があるのであるが、泣ク子は單に序で、歌意には關係はない。
【大意】 御室の守山は此方には馬醉木の花が咲き、彼方には椿が咲く、守山は麗はしい山ぞ
 
3223 霹靂之《カムドキノ》 日香天之《ヒカルミソラノ》 九月乃《ナガツキノ》 鐘禮乃落者《シグレノフレバ》 鴈音文《カリガネモ》 未來鳴《イマダキナカヌ》 神南備乃《カムナビノ》 清三田屋乃《キヨキミタヤノ》 垣津田乃《カキツタノ》 池之堤之《イケノツツミノ》 百不足《モモタラズ》 三〔左△〕十槻枝丹《イツキガエダニ》 水枝指《ミヅエサス》 秋赤葉《アキノモミヂバ》 眞割持《マキモタル》 小鈴文由良爾《コスズモユラニ》 手弱女爾《タワヤメニ》 吾者有友《ワレハアレドモ》 引攀而《ヒキヨヂテ》 峯〔左△〕文十遠仁《エダモトヲヲニ》 ※[木+求]〔左△〕手折《ウチタヲリ》 吾者持而往《アハモチテユク》 公之頭刺荷《キミガカザシニ》【三二二三】
 
(12)かむどきの ひかるみ空の なが月の しぐれの降れば 雁がねも いまだ來なかぬ 神なびの 清き御田屋の かきつ田の 池の堤の 百足らず 齋槻《イツキ》が枝に みづ枝さす 秋のもみぢ葉 まきもたる 小鈴もゆらに たわやめに 吾はあれども 引よぢて えだ〔二字右○〕もとををに うち手折り 吾《ア》はもちて行く 君がかざしに
 
かむどきの(霹靂之) 舊訓カミトケとあるが、カミのミ〔右○〕は次音に類化して必然ム〔右○〕とならねばならず、トケは語義上ドキなることを要するから、神功紀及推古紀の旁訓に從うてカム〔右○〕ドキ〔右○〕と訓むを可とする。記の日子穗々手見命の歌及應神天皇の御製に於ける用例によれば、トキはツキ(著)の古言であるから、カム(雷)ドキ(著)は落雷の意であらぬばならぬ。此は次句と共にナガ月の序として用ひられたのであるが、題詠の地が後述のやうに三諸乃神名備山、即ち雷岳なるが故に引合に出したので、霹靂の二字も或はイカヅチと訓ませるつもりであつたかも知れぬ。
ひかるみそらの(日香天之) 舊訓による。日香をヒカルと訓むのは聊か無理のやうであるが、香の原音は kang で、カグの假字にも用ひられる所を見ると、カンとも發音し、音便によつてカル〔右○〕と稱へられたことも絶無とはいへぬ。ミソラのミはマ(眞)に通ずる接頭語で、單にソラ(虚空)といふと大差はない。ヒカルは勿論雷光を意味し、ミソラのナ〔右○〕ル(鳴)といふ縁によつてナ〔右○〕ガ月にいひかけたので、――ナルの語幹はナで、ナク(鳴)、ナス(令v鳴)とも用ひられ、ネ(音)から分化したものであるから、一言にいひかけたのは決(13)して不當ではない ――時雨の空に雷鳴がするといふのではない。先學が此二句を改訓又は改作したのは之に氣がつかなかつたからであらう。
ながつきの(九月乃) ナガ月と稱へるのは收穫季節なるが故で、ナ(食)ガ(之)ツキ(月)の意である。
しぐれのふれば(鐘禮乃落者) シグレはシキ(重)クレ(闇)の約濁で、本來陰雲の重疊を意味し、曇天をシグレの空といひ、其遂に雨になつた場合にはシグレの雨と稱するのであるが、晩秋初冬には此やうな天氣がつゞくから其頃の雨をもシグレといひ、時雨とかくやうになつたのである【語誌】。此條件表示は數句を隔てゝミヅ枝サス秋ノモミヂ葉にかゝるのである。
かりがねも(鴈音文) カリは鴨雁類の總稱であるから、特に鴻雁を指稱する爲にカリ之兄《ガネ》というたのである【語誌】。後世カリを鴻雁の稱呼に專用し、カリガネといへば雁之音と了解せられるやうになつたが、此歌に於ては尚原義に用ひて居る。
いまだきなかぬ(未來鳴) 舊訓キナカズ〔右△〕とあるが、時雨の降ることは雁が渡來せぬ理由にならぬから、此は神ナビの御田の修飾と見るべきで、未ダ來嶋カヌ〔右○〕と訓まねばならぬ。
かむなびの(神南備乃) 上記の三諸ノ神名備山のことで、雷岳は其一名である。ナビは韓語※[ハングルで木の意味のナム]《ナム》(木)と同語で、英語の Wood(木)が森林の義とも了解せられると同樣に、樹群をいふにも轉用せられ、神の杜《モリ》の意を以てカムナビと稱へられたのであらう。舊訓はカミ〔右△〕ナビとあるが、神の原音はカム〔右○〕であるのみならず、ナといふ語音が後續して居るからカムと發音せねばならぬ。
(14)きよきみたやの(清三田屋乃) キヨキ(淨)はミタ(神田)の修飾、ヤ(屋)は其田の管理者の邸宅をいふのであらう。されば垣内即ち屋敷内に田もあり、池も存したので、尋常の御田部即ち農夫の廬とは異り、廣い地積を占めて居たのである。
かきつたの(垣津田乃) カキツタはカキ(垣)ウチ(内)タ(田)の連約である。之を池の名と見ることも可能であるが、此は輕(ノ)池、劔(ノ)池、磐余(ノ)池のやうな大池ではなく、無名の一小池であつたと思はれる。
いけのつつみの(池之堤之) ツツミは包の意から沼池の週邊を圍繞する坡堤の義に轉用せられたのである。
ももたらず(百不足) 字の如く百の數に足らぬといふ意を以てイ(五十)の枕詞に用ひられたので、百タラズ八十ともつゞけることがある。
いつきがえだに(三〔右△〕十槻枝丹) 三〔右△〕が五〔右○〕の誤寫なることは疑なく、五十はイの假字として用ひられたので、ユ(齋)と相通じ、清淨(神聖)を意味する。――五をも五十をもイと呼稱するのは、甚紛らはしいことのやうであるが、實際の發音には多少の差別が存したのかも知れぬ。ユ(齋)に通ずるイの假字には專ら五十のみが用ひられる所を見ると、少くとも其は yi であつたのであらう。原數の音を疊んで二位數を表現することはパラウ語にも例がある――ツキの原義はツ(強)キ(木)で、ツバ(強葉)が革質葉の樹木の總稱であると同樣に、強靱なる樹木を意味し、槻には限らなかつたものと思はれる。
みづえさす(水枝指) 草木の枝根嫩芽等の射出することを一般にサスといふ。ミヅエのミヅ(瑞)は愛賞の意のメデから分化した語で、見事なといふほどの意であるが、九月になつて枝が射出したといふのではなく(15)樹葉の色づいたことを此樣式を以て表現したのであらう。
あきのもみぢば(秋赤葉) ケヤキ(槻)の葉は黄變してもさのみ美しいものでないから、本集第三卷の高槻村〔二字右○〕散去奚留鴨といふ歌も之を惜しむ意と了解せられるけれども、果して字の如くケヤキのモミヂを意味したかは疑問である。モミヂの語原は從來紅絹の意のモミにあると説かれて居るが、本集の用字例によつても明なるが如く、黄〔右○〕葉をもモミヂと稱へるのみならず、モミ(紅絹)が古言であるかも疑はしいから、之を他に求めねばならぬ。モミヂを活用してモミデル【萬八】、モミダヒ【同一五】」モミヅ【同一四】とした例があり、後世の歌にはモミダス、モミヂテ、モミヂヌの如くも用ひられたが、モミダ〔右○〕》ン、キミヂ〔右○〕ン、モミデ〔右○〕ンといふ用例はなく、正規の活用としてはモミヂスの如く助動詞シ(爲)を添加することを要したものゝやうであるから、ヂを活用語尾と見ることは出來ぬ。案ずるにモミヂは和名抄のカヒルデの木(※[奚+隹]頭樹)の別名で、葉の形が蛙の手に似て居るから、ガマ(蝦蟆)の方言モミ【應神紀記】にテ(手)を連ね、音便によつてモミヂといひ、轉じて紅(赤)葉乃至黄葉の義に用ひられるやうになつたのであらう。若し然りとすれば此イツキは※[木+戚]科喬木を指稱したものとすべきで、特に秋の〔二字右○〕モミヂ葉とある所を見ても、モミヂの原義が赤(黄)變でないことが説明せられる。
まきもたる(眞割持) 舊訓マサケモチとあるが、意をなさぬ語句であるから、割をキ(キルの語幹)の假字と見て、眞淵説の如くマキ(纏)モタル(持在)と訓むべきで、手に卷きつけて居るといふ意と了解せられる。
をすずもゆらに(小鈴文由良爾) ユラはユラグ(搖)の語幹で、ユリ(震)と同源から分化したのである。手卷(16)につけた小鈴をユラガシといふ意。
たわやめに(手弱女爾) タワヤはタワ(撓)の名詞形で、タワヤメといへば嬋娟たる女性の義ともなるのであるが、此は寧ろカ細い婦人といふ程の意に用ひられたのであらう。接尾語ヤはワカ(若)をワカヤ〔右○〕、ニコ(和)をニコヤ〔右○〕といふが如く【記】、アカ(赤)ラ〔右○〕、ナガ(長)ラ〔右○〕のラと同一職能を有するのであるが、今ではワカヤ〔右○〕カ、ニコヤカ〔右○〕の如き形容詞形にのみ其名殘を留めて居る。
われはあれとも(吾者有友)
ひきよぢて(引攀而) ヨヂはヨり(依)、ヨセ(寄)、ヨキ(避)等の語幹ヨにイデ(出)の語尾デを連ねたものゝ轉呼であるから、原義は依出であるが、此は枝を引寄せて縋りつくといふ意を以てヒキヨヂというたものゝやうである。
えだ〔二字右○〕もとををに(峯〔右△〕文十遠仁) 舊訓は字に即してミネ〔二字右△〕モトヲヲニとあるが、峯としては意をなさず、躯體の義のミネ(ムネ)の借字と見ても穩でないから、眞淵説の如くエダ〔二字右○〕と訓むべき字の誤記であらう。トヲヲはタワ(撓)の音便トヲの疊尾語で、タワヤカニといふ意である。
うちたをり(※[木+求]〔右△〕手折) ※[木+求]〔右△〕は※[手偏+求]〔右○〕の誤記であらうが、其にしてもウチの假字とするには不適當である。さりながら他に好訓も思ひあたらぬから、姑く舊訓に從うて置く。タヲリの手も亦借字で、此タは直の義から出た接頭語である。
あはもちてゆく(吾者持而往) 此も舊訓にはワレ〔右△〕ハモテ〔右△〕ユキ〔右△〕とあるが、古義の訓を可とする。蓋しモテはモ(17)チの轉呼で連用形と見ねばならす、而の字が過剰になるからである。
きみがかざしに(公之頭刺荷) キミは情人たる男性を意味し、カザシはカミ(頭又は髪)の語根カとサシ(挿)とより成り、現代語のカム〔右○〕サシ(釵)に相當する。金屬製の頭飾具が出現しなかつた以前には花葉蔓草等を以て之に代用したのである。
【大意】 九月になり時雨が降り出したので、鴻雁は未だ來訪せぬが、三諸の神名備山(雷岳)の齋淨なる神田の公宅の垣内にある用水池の堤のイツキ(※[木+戚]樹)の枝が美しく紅葉した。其枝を(私は)かよわい婦人ではあるが、手卷の小鈴を搖がしつゝ引すがり押まげて打折り、君が挿頭《カザシ》(の料)に持つて行く
 
反歌
 
3224 獨耳《ヒトリノミ》 見者戀染《ミレバコホシミ》 神名火乃《カムナビノ》 山黄葉《ヤマノモミヂバ》 手折來君《タヲリコシキミ》【三二二四】
 
ひとりのみ 見ればこほしみ 神なびの 山のもみぢ葉 手折り來し君
 
此一首入道殿讀出給
 
右二首
 
(18)左註は入道殿と呼ばれた貴人が解讀したといふことで、恐らくは後人の註記であらう。時代が判明せぬので入道殿が何人であるかを推定し得ぬ。
ひとりのみ(獨耳) ヒトリはヒト(一)アリ(在)の連約で、ノミは口語のダケと同義であるが、允恭天皇の御製に唯一夜ノミとある外には紀記歌謠に用例が見えず、來目歌には撃之而已〔二字右○〕の意をウチテシヤマム〔五字右○〕と表現して居る所を見ると、第二次生又は外來語と思はれる。
みればこほしみ(見者戀染) 舊訓コヒシとあるが、戀シの古形はコホシで、記の歌垣の歌にもウラコホシ〔三字右○〕ケムとあり、本集に於てもコホシと訓した例が多いから、之に從ふことを可とする。接尾語分子ミには見ルの外に思フの義もあるから、此は秋の哀にさそはれて愛人を戀しく思ふといふ意と解すべきである。
かむなびの(神名火乃) 前出
やまのもみぢば(山黄葉) 本歌に赤葉とあるのを此歌に黄葉としたのは、いづれもモミヂバの假字であるからである。
たをりこしきみ(手折來君) 舊訓コム(未來格)とあるのは、本歌の趣旨にあはぬから勿論誤訓とせねばならぬが、キヌ又はキツと改めたのも、此場合適切なる表現と見ることは出來ぬ。男の許に黄葉の枝を將來して詠じたものとすれば、雅澄訓の如くコシであらぬばならぬ。其は過去連體法であるから、餘韻を含めたものとすべきで、口語に直せば來タヨ〔右○〕といふのである。キミが呼格なることは勿論である。
(19)【大意】 獨のみ見れば(君を)戀しく思ひ、神名備山の黄葉を折つて來ましたよ。あなた!
 
3225 天雲之《アマクモノ》 影寒〔左△〕所見《カゲサヘミユル》 隱來※[竹/矢]《コモリクノ》 長谷之河者《ハツセノカハハ》 浦無蚊《ウラナミカ》 船之依不來《フネノヨリコヌ》 礒無蚊《イソナミカ》 海部之釣不爲《アマノツリセヌ》 吉咲八師《ヨシヱヤシ》 浦者無友《ウラハナクトモ》 吉畫矢寺《ヨシヱヤシ》 礒者無友《イソハナクトモ》 奥津浪《オキツナミ》 淨〔左△〕※[手偏+旁]入來《シキテコギリコ》 白水郎之釣船《アマノツリフネ》【三二二五】
 
天くもの 影さへ見ゆる こもりくの 初瀬の川は うら無みか 舟のより來ぬ 磯なみか 海人の釣りせぬ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし いそは無くとも 沖つ波 しきて漕入來《コギリコ》 海人のつり舟
 
あまぐもの(天雲之)
かげさへみゆる(影寒〔右△〕所見) 寒〔右△〕は元暦校本に塞〔右○〕とあるを正しとする。天雲ノ影サヘ見ユルは河水の清澄なることの形容である。
こもりくの(隱來※[竹/矢]) コモリ(隱)ク(處)の謂で、幽邃なる谿谷に源を發するにより、初瀬川の修飾的枕詞に用ひられたのである。
はつせのかはは(長谷之河者) ハツはホ(秀)の接頭語分子形で、――ユ(齋)を他語と連結する場合ユツとすると軌を一にする――ホツともいひ、フト(太)及ハツ(初)といふ形容詞を分岐した。此は其原義によつて用ひられ、セは水流の急なる部分を意味するから、ハツセといへば大溪の意となり、長谷と書くのも此によるのである。磯城郡中の最大河流で、源を上之郷村の山中に發し、初瀬及三輪山彙の麓を廻つて西北流(20)し、佐保川と合して大和川となるのである。
うらなみか(浦無蚊) 舊訓ウラナキ〔右△〕カとあるが、ナキをナミ〔右○〕と改めた契沖訓を可とする。蓋しナキカといへば事實上の問となるが、此川にウチ(浦)と名づけるほどの汀渚がある筈はないから、ナシと思うて〔三字右○〕かといふ意を以て、ウラナミカ〔右○〕と詠じたものとすべきである。
ふねのよりこぬ(船之依不來) 舟の來航せぬことよといふ意。
いそなみか(磯無蚊) イソはイシ(石)と同原から分化した語で、砂石に滿ちた水濱を意味する。此も舊訓はナキカとあるが、ナミ〔右○〕カを可とすること上述の通りである。
あまのつりせぬ(落部之釣不爲) アマは本來種族名であるが、大和に於ては夙に民族融合が實現したので、通例漁人の義と了解せられた。上句の船も此アマも或意中の人に譬へたのであらう。
よしゑやし(吉咲八師) ヤシは青土《アヲニ》ヨシ、麻裳ヨシ、玉藻ヨシ等のヨシと同じく間投詞で、ヨシヱはヨシヤの轉呼である。ヤとヱとは子母音共に相違して居るが、天智朝の童謠にもクルシヤ〔右○〕といふべき場合にクルシヱ〔右○〕とした例があり【紀】、其他吾者サブシヱ〔右○〕【萬四】、アレハ待タムヱ〔右○〕【萬一四】の如くも用ひられて居るから、相通を許されたものと思はれる。此ヱ(ヤ)も亦感動詞で、語義はヨシ(縱)といふに過ぎぬが、今も此意味をヨシヤ〔右○〕と稱へることがある。
うらはなくとも(浦者無友)
よしゑやし(吉駕矢寺)
(21)いそはなくとも(礒者無友) 以上四句は人麿の石見海の歌【萬二】にヨシヱヤシ浦ハ無クトモ、ヨシヱヤシ潟ハ無クトモとあると同工異曲である。偶然の暗合といふこともあり得るが、或は一種の慣用句であつたかも知れぬ。
おきつなみ(奥津浪) 沖は海人の釣する海上を意味するのであるが、初瀬川に關する叙事としては餘りに突飛であるから、次句の枕詞として用ひられたものとせねなならぬ。
しきて〔三字右○〕こぎりこ(淨〔右△〕※[手偏+旁]入來) 淨の字は舊訓イソヒとあり、諍〔右△〕と改記した寫本もあるので、之に從うてキソヒ又はキホヒだ訓したものもあるが、いづれにしても上句沖ツ波の縁語、としては不適當であるから、淨〔右△〕は重〔右○〕の誤寫と見てシキテと訓むべきであらう。本集十一卷にも奥津浪敷而〔二字右○〕耳|八方《ヤモ》戀度奈牟と用ひた例があり、沖ツ波に況へて重《シキ》テ訪ヒ來レといふ希望を述べたものと解することによつて始めて歌意が明になるのである。若しイ添ヒ又は競ヒとすれば二人以上に嘱望することになり、上句に表現せられた閨愁が性的要求であるかのやうに聞えて甚忌はしい歌になるのである。※[手偏+旁]入來は舊訓の如くコギイ〔右○〕リコとよむのが至當であるが、――イリ(入)のイは語幹であるから連約せぬことを古語法とする――皇極朝の童謠にもヒキイレ(引入)を比岐例《ヒキレ》と假字書した例があり、此時代には既に第二次的連約が行はれて居たやうであるから、原作者も恐らくはコギリコと唱へたのであらう。
あまのつりふね(白水郎之釣船) アマを白水邸と書くのは、和名抄箋注【狩谷※[木+夜]齋】によれば、支那の白水といふ地の人が善く水中に没して物を探ぐるが故に漁夫の異稱に轉用せられたので、白水の二字を合はせて泉(22)郎と書くこともある。上記の如くアマも船も意中の人に況へたのであるから、此句に於ては之を一つに合はせたので、釣舟を複數と見るのは誤りである。
【大意】 天雲の影さへ見える(清き)初瀬川に船が寄り來ぬのは浦がないと思うてのことか。海人の釣せぬのは磯が少いと思うてか。よし浦はなくとも、よし磯はなくとも沖つ波のやうに屡々漕入れて來れ、海人の釣舟(我戀人)よ
 
反歌
 
3226 沙邪禮浪《サザレナミ》 浮而流《ウキテナガルル》 長谷河《ハツセガハ》 可依礒之《ヨルベキイソノ》 無蚊不怜也《ナキガサビシサ》【三二二六】
 
さざれ波 うきて流るる 初瀬川 よるべき磯の なきがさびしさ
 
右二首
 
さざれなみ(沙邪禮浪) サは些の意の原語で、之を二つ重ねると細少の義となり、レは接尾語ラの音便で此場合には虚辭であるから、サザレ波はサザナミと同じく漣※[さんずい+獣偏+奇]の意である。此は次句ウキ(浮)の主語ではなく、小波ガ立チ〔三字右○〕といふべきを省略したので、流の急なる川の瀬に於ては、水底の岩石に衝激して、風なくとも小い波を起すが故に副詞的に用ひられたのである。
うきてながるる(浮而流) サザレ流が浮流する筈がないといふ理由の下に浮〔右○〕を湧〔右△〕又は沸〔右△〕又は敷〔右△〕と改めたもの(23)があるが、其にしても波の述語としてナガルといふことは有り得ぬから、此句の主語は次の長谷川で代名詞が略せられたものとせねばならぬ。水量豐富なる河流は盛り上つたやうに見えるから、浮キテ流ルルと修飾することは決して不當ではない。
はつせがは(長谷河)
よるべきいその(可依礒之) 右の如く水量の豐富なる初瀬川にはイソ(磯)即ち河原が乏しかつたものと思はれる。ヨルの主語も亦明示せられて居らぬが、本歌によれば舟又は漁人と丁解せられる。
なきがさびしさ(無蚊不怜也) サビシは本集第四卷には左夫〔右○〕思、第九卷には左府〔右○〕下と假字書した例があるから、舊發音はサブシであつたとすべきで、サムシ(寒)から轉義して凄寒、不樂、不怜(不可怜)の意となり、更に寂然の義を生じたものと思はれるが、音便によつてサビ〔右○〕シとも稱へるのである。接尾語サは前續形容語の意義を含蓄する抽象名詞を作るに用ひられ、場合によつては其程度を表示する。此は連語として用ひられたので、サビシイことよといふとほゞ同意である。
【大意】 さざ波が立ち、水面が盛り上つて流れる初瀬川(には)、立寄るべき磯がないことの寂しさよ
 
3227 葦原※[竹/矢]《アシハラノ》 水穗之國丹《ミヅホノクニニ》 手向爲跡《タムケスト》 天降座兼《アモリマシケム》 五百萬《イホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅカミノ》 神代從《カミヨヨリ》 云續來在《イヒツギキテアル》 甘南備乃《カムナビノ》 三諸山者《ミモロノヤマハ》 春去者《ハルサレバ》 春霞〔左△〕立《ハルガスミタチ》 秋往者《アキユケバ》 紅丹穗經《クレナヰニホフ》 甘嘗備乃《カムナビノ》 三諸乃神之《ミモロノカミノ》 帶爲《オビニセル》 (24)明日香之河之《アスカノカハノ》 水尾速《ミヲハヤミ》 生多米難《イキタメガタキ》 石枕《イハマクラ》 蘿生左右二《コケムスマテニ》 新夜乃《アラタヨノ》 好去通牟《ヨサリカヨハム》 事計《コトハカリ》 夢爾令見社《ユメニミセコソ》 劔刀《ツルギタチ》 齋祭《イハヒマツレル》 神二師座者《カミニシマサバ》【三二二七】
 
あし原の みづ穗の國に たむけすと 天降りましけむ 五百萬 千萬神の 神代より いひつぎ來てある 神なびの みもろの山は 春されば 春がすみたち 秋ゆけば 紅にほふ 神なびの 三諸の神の 帶にせる 明日香の川の みをはやみ いきためがたき いはまくら 苔むすまてに あらた夜の よさり通はむ ことはかり 夢に見せこそ 劔太刀 いはひ祭れる 神にしまさば
 
あしはらの(葦原※[竹/矢])――此國土を葦原國、葦原中國、豐葦原中國、豐葦原瑞穗國、豐葦原千五百秋瑞穗國、豐葦原之千秋長五百秋之水穗國等と稱したことは、紀記の明示する所であるが、此名號の所由については尚疑義がある。少くとも葦原國は本初出雲の別稱であつたと思はれるが、之を論ずることは本書の範圍外に亙るから、拙著「紀記論究」神代篇【第四卷一〇四頁以下】を參照せられんことを要求する。アシハラの語義は勿論葦の茂生した原野といふことである。
みづほのくにに(水穂之國丹) ミヅホはめでたい穗といふ意で【第一四頁參照】、葦原とつゞけてあるが、葦の穗をいふのではなく、穀物豐饒の故を以て此國土の名號としたのである。國ニ〔右○〕とあるのは一句を隔てて天降につゞける爲で、丹〔右○〕を乎〔右△〕と改めたのはさかしらである。
たむけすと(手向爲跡) タムケといふ語は通例神に奉幣する意と了解せられて居るが、此は恐らくは同音別(25)義で、コトムケ(言向)に對しタムケ(手向)といふ語が存し、武力平定を意味したのであらう。其から分派せられたタムカヒが抵抗の義【神武紀】に用ひられたのは至當のことである。さればタムケストは「征討するとて」といふ意であらねばならぬ。
あもりましけむ(天降座兼) アマ(天)オリ(降)を約してアモリと稱へたので、マシは敬語、ケムは過去時に於ける未來表示であるから、事實と斷言することの出來ぬ場合、即ち推量法に用ひられるやうになつたのである。
いほよろづ(五百萬) イは五又は五十といふ中間數を表現するに用ひられるのであるが、之にホ(秀)をそへて五十よりも一位上の中間數の稱呼としたのである。多數の概念を表示するヤにホを連ねて八百をヤホと呼ぶのも同じ觀念によるもので、されば二百、三百はフタホ、ミホとは稱へられなかつた。ヨロヅの語幹ヨロは韓語※[種々を意味するハングルのヨロ、皆様を意味するヨロブンのヨロ]と同原で、原義は多數であるが、之に數を意味するチを添へて第五位數の表示としたものゝやうである。
ちよろづかみの(千萬神之) 千も亦朝鮮語※[ハングルでチダ](計算する)の語幹※[ハングルでチ]と同源で、「數」を意味し、國語に於てはタ、ツ、トと轉呼してヒト〔右○〕(一)、フタ〔右○〕(二)、ミツ〔右○〕(三)、ハタチ〔右○〕(二十)の如く用ひられると同時に、第四位數をも表示するやうになつたのであるが、イホヨロヅ(五百萬)及チヨロヅ(千萬)は決して字の示すが如き實數を意味するのではないから、八百萬神《ヤホヨロヅノカミ》、八十萬神《ヤホヨロヅノカミ》と同じく極めて多數の神達といふに外ならぬのである。――以上は次句のカミヨ(神代)にかゝる序的修飾で、歌意には直接の交渉はない。
(26)かみよより(神代從)
いひつぎきてある(云續來在) 後世テアルを約して專らタルと發音するけれども、上代にはテアルとタルとの間に敢然たる區別が存した。即ちタルは完了助動詞の分詞形テと助動詞〔三字右○〕アルとの連約なるが故に、完了時格(連體法)を表示するが、アリが動詞〔二字右○〕として用ひられた場合、即ち完了事項の現在を表示するに於ては連約せぬことを原則としたから、此句の如きも標準音數に剰るにも拘はらず、キテアル(連體法)と訓したので、恐らくは傳誦によるものであらう。之を連吟することは妨はないが、キタルと訓まねばならぬ【考以下】とするのは固陋で、字を改めて來ヌルと訓した宣長説【略】はさかしらとせねばならぬ。口語でも此場合は云ヒ續イデヰル〔三字右○〕といふのである。
かむなびの(甘南備乃) 既記の飛鳥の神名備で、式内飛鳥坐神社の所在地である。出雲國造神賀詞によれば此社の祭神は大國主の子賀夜奈流美命とあるが、雄略紀の分註には或云2大物代主神1也とあり、舊事本紀大己貴系譜には事代主神の下に坐2倭國高市郡高市社1亦云2甘南備飛鳥社1と注し、現在は社傳によつて事代主を主祭神として居る。いづれにしても天孫氏來着以前から鎭座した神なるが故に上句の如く修飾したのである。
みもろのやまは(三諸山者) ミモロ即ち神廟のある山であるから、神ナビの三諸山とも三諸乃神名備山【第一三頁】とも稱へたのである。
はるされば(春去者) 春サリ來レバ【第七頁】と同じく、春邊になればといふ意である。
(27)はるかすみたち(春霰〔右△〕立) 霰〔右△〕が霞〔右○〕の誤記なることはいふまでもない。カスミ【第八頁】のこめることはタナビクともタツ(立)ともいはれる。
あきゆけば(秋往者) ユキ(行)といふ語は、今では主として此方から或る方へ移動すること、即ち獨逸語の hingehen の意に用ひ、之に對して他から此方へ來動すること(herkommen)をク(來)といふのであるが、上代に於ては動作の方向を區別することをさのみ必要としなかつたので、越エが兩方向(hinger、heruber)に共通であるやうに、ユク(行)もク又はクル(來)も相通じて用ひられ、――今も九州方言では通常ユクといふべき場合にクルといふ――秋(ガ)來レバを秋ユケバ〔三字右○〕と表現しても差支なしとせられたのである。ユクはイ〔右○〕クともいひ、イ〔右○〕デ(出)、イ〔右○〕ニ(去)、イ〔右○〕リ(入)等と同じく、行動を意味する語幹イに活用語尾キ(ク)を連ねたもので、キ(來)とは淵源を異にする。
くれなゐにほふ(紅丹穗經) クレナヰ(紅)はクレ(呉)ノ(之)アキ(藍)の連約で、カラヰ(韓藍)と同じく、紅色染料なるにより、其色をいふにも轉用したのである。――此紅が樹木の紅葉を意味することは勿論で、或は其下に葉の字を脱したものとして、モミヂバと訓むのかも知れぬ。――ニホフはニ(赭士)ホ(秀)即ち丹(辰砂)から導かれた動詞で、色澤を放つことを意味するから、紅色の鮮麗なることをクレナヰニホフというたのである。
かむなびの(甘嘗備乃)
みもろのかみの(三諸乃神之) 此神については上記のやうに色々の説があるが、其は歌意を左右するもので(28)はない。
おびにせる(帶爲) 帶にして〔二字右○〕居るといふ意で、佩びて居るといふことではないから、オバセルと訓んでもよいといふ雅澄説は蛇足とすべく、丘麓を流れる川を神の帶にたとへたのである。
あすかのかはの(明日香之河之) アスカ川は源を高市郡高市村の稻淵山に發し、飛鳥を經、雷《カミ》丘の西麓を繞つて北流し、末は大和川に合する。
みをはやみ(水尾速) ミヲは水緒即ち水脈の義で、ハヤミの原義は速シト見ルであるが、此は速きが故にといふ意に用ひられたのである。
いきためがたき(生多米難) 舊訓に從へば生は借字で、イキはユキ(行)に通じ、イキタムといへば行囘即ち蜒々長蛇の如きこ上の形容である。水流急なるが故に此川を行廻らしめ難しといふのである。
いはまくら(石枕) マクラはマク(纏)に名詞形接尾語ラを連ねた語で【第一五頁參照】、原義はマクものであるから、流に臨む岩石を水が取卷くといふ意を以てイハマクラと稱へたことは不當ではなく、緩流であるならば之を避けて迂廻するのであるが、水脈《ミヲ》が速いために岩に激し、其面を摩して流れ行くのである。淀まぬ水に洗はれる石は水苔のつく遑のないものである。――眞淵は枕〔右○〕を根〔右△〕と改めてイハガネと訓し、私も誤つて之に雷同したが【訓詁】、其は考の足らぬ賢しらであつた。
こけむすまてに(蘿生左右二) 蘿はヒカゲ一名マツノコケ又はサルヲカゼに充てられる字であるが【和】、此コケは河流の岩石に附着するものをいふのであるから、水衣即ち苔【和】であらぬばならぬ。但しコケの原(29)義は木毛で、寧ろ蘿にあたるのであるが、濕面に自生する微植物の謂と了解せられるやうになつたので、枝幹に寄生するものをと(干)コケ(苔)即ちヒカゲど稱へて之を區別した。コケの生ひることを表現するにはムスといふ動詞を用ひることを例とするが、其語幹ムはウム(産)の原語で、――仁徳紀(記)の歌には産卵の意をコ(卵)ム(産)と表現して居る――之にシといふ活用語尾を連ねて自生の義としたものゝやうである。左右を併稱するにはマ(モロの語根)といふ語を用ひ、左右手即ち諸手《モロテ》をマテと稱へるから、手を略してマテの假字に用ひたのであるが、此にいふマテはマタ(股)の轉呼で、枝條、河川、道路等すべて分岐して居るものは其交叉點を行どまりとするが故に、マタ(マテ)ニといへば最極點の意と了解せられ、約濁によつてマデと發音するのである。されば左右二をマデ〔右△〕ニと訓むのは誤りで、マテニと清んで發音するか、若くはニを除いてマデといはねばならぬ。急流の擦過する岩面に蘚苔の生ずるのは、礫石《サザレイシ》が巖となつて苔のムスのと同樣に、多くの歳月を要するものであるから、遠き未來の譬に用ひられたのである。
あらたよの(新夜乃) 舊訓アタラ〔二字右△〕ヨとあるのは恐らくは誤記で、字によればアラタ〔二字右○〕ヨであらぬばならぬ。更新する夜といふ意であるが、助語ノを添へた所を見ると、限定修飾若くは枕詞とすべきで、此見地を以て後句を解讀することを要する。
よさりかよはむ(好去通牟) 好去の二字を舊訓ヨシユキとしたのは夜シ行キと解したのかも知れぬが、熟せぬ語であるのみならず、口調の惡い字餘りとなるので、ヨク〔右○〕ユキスギ〔二字右△〕【考】又はサキク〔三字右△〕カヨハム【略解以下】といふ改訓があらはれた。さりながら通牟をスギム、好去をサキクと訓むのは無理であるのみならず、上(30)句とつゞかぬので脱句ありと説くものすらあるが【新考】、推定訓を基礎として古歌を添刪せんとするのは無謀で、其に先ちて正訓の發見に努力することが學者の義務であると信ずる。案ずるに好はヨ、去はサリと訓み得る字であるから、ヨサリといふ語にあてた假字とすべきで、アラタ夜の夜サリ即ち毎夜通ハムといふ意であらう。ヨサリは京阪方言に殘つて居るのみであるから、或は俗語と見なすものがあるかも知れぬが、ヨ(夜)は原語で、ユフ(夕)といふ語も亦ヨフ(夜經)の轉呼なるが故に、ユフサリが古言であるとすれば、ヨサリは更に其以前から存した筈である。リはアリ(有)の語根であるが、虚辭的に接尾せられたもので、サは方(邊)の義であるから【第八頁】、ヨサリは夜分の意となるのである。
ことはかり(事計) 排列の序次は相反するが、ハカリゴト(謀計)とほゞ同義で、事ヲ計ルといふ意の名詞形である。
ゆめにみせこそ(夢爾令見社) ユメ(夢)の原義はヨメ(夜目)で、イメとも轉呼せられるが、熟れを正訓とすべきかは作者に聞かねば分らぬから、舊訓に從ふ外はあるまい。さりながら令見をミエ〔右△〕ムと訓したのは誤りとすべきで、字によればミセ〔右○〕と訓むの外はなく、句意から考へてもミセであらぬばならぬ。コソは希求の義のカの轉呼で、――通例ガと發音し、ガモの形に於て最も多く用ひられる――之に指定助語ソを添へて願望の意を強めたものとも了解せられるが、八千矛神の歌に「打やめコセネ」と用ひた例があり、本集にも「ありコセぬかも」【卷二】、「散りコスなゆめ」【卷八】等とあるから、古は活用したのであらう。若し然りとすればコソは其命令法である。
(31)つるぎたち(劔刀) タチの原義は切斷で、カタナ(小刀)に對して大刀の字をあて、腰間に横へるが故に横刀ともかき、ツルギはツラキリ(貫鑽)の連濁であるから劔の稱呼となり、別型の兵器の名と了解せられて居るのであるが、上古には截然たる區別はなかつたやうで、草薙劔は草薙横刀〔二字右○〕【紀】又は草那藝之大刀〔二字右○〕【記】とも記され、倭建命の御歌にはツルギのタチとも詠まれて居る【記】。其はツルギが固有の國語なるに反し、タチはタガル・フイジ語のタクー(切)と同源から出た外來語であるが、いづれも刃物を意味するからで、之を重ねてツルギタチとつゞけても妨なしとせられたのであらう。刀劔を神靈又は靈代として奉齋することは石上布留御魂《イソノカミフルミタマ》神社を始め、其例が多いから、イハヒ(齋)の枕詞としてツルギタチといふ語を用ひたのは不當ではなく、伊豆國の官社にも劔刀〔二字右○〕石《イハ》床別命といふ神がある。――刀劔を幣として神を祭る意とも解せられぬことはないが、其にしては言葉が足りぬ。
いはひまつれる(齋祭) イハヒは齋淨(神聖)を意味する原語イ(ユ)の活用形で、ハヒはサキ(幸)ハヒ、チ(靈)ハヒの如く用ひられるが、本來活用語尾ヒの一形式なるが故に、其職能も亦ほゞ相同じく、之を神聖にするといふ意である。マツレルはマツリアルの連約で、口語で祭つてある(居る)といふに同じく、マツリはマチ(眞靈)から派成せられて祭祀の義を生じたのである。
かみにしまさば(神二師座者) 舊訓イマサバとあり、マスにイを接頭してイマスとした例も多いが、此は強ひて字餘りにする必要のない句であるから、新考訓の如く接頭語を省いてマサバとするを可とする。マスの原義はミ(御)ス(爲)と思はれるが、記の若日子傳説に我子音不死有祁理、我君者不死坐〔右○〕祁理とあるやう(32)に、アリ(在)と同義の敬語としても用ひられるのである。シはソに通ずる強意の指定助語であるからカミニシマサバは神に靈あるに於てはといふに等しい。考以下に、マセバと訓したのは、三諸の神が神なることは既知の事實であるから、假設條件は不當であると考へた爲であらうが、ミセコソといふ希望の前提としては穩でない。現代語に於ても神ナラバとあるべきで、神ナレバ又は神ナルが故ニ夢に示したまへといふやうな言葉づかひはない。
【大意】 葦原の瑞穗國に武力平定の爲に降臨した無數の神達の御代より言ひ傳へて居る神名備の三諸の山は、春邊になれば春霞が立ち、秋が來れば紅葉が匂ふ。(其)神なびの三諸の神が帶にして居る飛鳥川の水脈が早く、往き廻ることの出來ぬ岩枕に苔が生ひるまで、更新する夜毎に(情人の)通うて來る謀計を夢に見せて下きれ、齋ひ祭つてある神に靈がましまさば
 
反歌
 
3228 神名備能《カムナビノ》 三諸之山丹《ミムロノヤマニ》 隱藏杉《コモルスギ》 思將過哉《オモヒスギメヤ》 蘿生左右《コケノムスマデ》【三二二八】
 
神なびの みむろの山に こもる杉 おもひすぎめや 苔のむすまで
 
かむなびの(神名備能) 前出。
みむろのやまに(三諸之山丹) 本歌にはミモ〔右○〕ロと訓したにも拘はらず、此三諸をミム〔右○〕ロとしたのは、統一を(33)缺くやうであるが、ミモ〔右○〕ロは音便で、ミムロが原語てあるから、舊訓を非とすべき理由はない。
こもるすぎ(隱藏杉) 刊本には杉の字を次句に移し、隱藏をカクレタルと訓して一句として居るが、後述の如く意をなさぬから、三字を合はせてコモルスギと訓み、コミ(茂)アル杉の意とすべきであらう。繁密をコミ(クミ)といふことは雄略天皇の御製のイクミ〔二字右○〕竹の例もあり【記】、春日山田皇女の歌にも見える【紀】。眞淵が之をイハフと改訓したのは同じく三諸と呼ばれる三輪山の杉が神木とせられ、本集にも三諸ノ神ノ神杉【二卷】三輪ノ祝ガ忌ハフ杉【四卷】、神ノ祝ガ鎭齋フ杉原【七卷】等と詠まれて居るからであらうが、隱藏をイハフと訓むべき理由もなく(其故に新考は鎭齋の誤記と推定した)、神社の杉は盡く神木とせられたのではない。神名備の杉を詠じた歌には「神ナビの神依板〔三字右○〕にする杉の念もすぎ〔二字右○〕ず戀のしげきに」【萬九】といふ一首があるが、此とても飛鳥の神ナビとは限らず、又神依板にする杉なるが故に鎭齋せられたと斷定することは出來ぬ。されば同集第三卷の「石の上振の山なる杉村〔二字右○〕の思ひすぐ〔二字右○〕べき君にあらなくに」といふ歌に在てはイハフといふ語は用ひられて居らぬのである。――以上三句はスギといはむが爲の序をかねて居る。
おもひすぎめや(思將過哉) 上記の如く刊行の仙覺本には前句の杉の字を引おろし、思をシの音符としてスギシスギム〔右○〕ヤと訓して居るが、其は明に誤讀で、先學の説の如くオモヒスギメ〔右○〕ヤと訓まねばならぬ。思ヒスギは看過シと同一語法で、等閑にすることをいひ、メヤは反語表示であるから、忽には思はぬといふ意になるのである。
こけのむすまで(藻生左右) コケムスマテニともいひ得られるが、本歌は左右二〔右○〕、こゝには左右と書きわけ(34)て居る所を見ると、マデと訓ませるつもりであつたのであらう。若し然りとすれば助語ノを挿入して標準句長にあはせることを可とする。此コケは水衣の謂ではなく、杉の木に生ひたものであるから、字の如くヒカゲ(干苔)の意と了解すべきである。
【大意】 神なびの三諸山に茂生する杉に葉の生ひるまでも決して等閑《ナホザリ》には思ふまい
 
3229 五十串立《イクシタテ》 神酒座奉《ミワスヱアツル》 神主部之《カムヌシノ》 雲聚玉蔭《ウズノタマカゲ》 見者乏文《ミレバトモシモ》【三二二九】
 
いくしたて 神酒《ミワ》すゑまつる 神主の うずの玉かげ 見ればともしも
 
右三首、但或書此短歌一首無v有v載v之也
 
いくしたて(五十串立) ハシ(桿)から「好」の義が生まれたと同樣に、クシ(串)が「奇」の意に用ひられるのは桿條に或る靈異の力があると信ぜられたからで、神靈を鎭祭する爲にも刺し繞らし、之をイ(斎)クシ(串)と稱へたことは舊事本紀の宇摩志麻治命の記事【五及七卷】によつても明である。其は今も御靈代とする御幣の柱に名殘を留めて居るが、此イクシもタテとあるから之に類するものであらう。神代紀一書に五百箇眞坂樹《イホツマサカキ》八十|玉籤《タマクシ》、五百箇|野薦《ヌスズ》八十玉籤とあるのは幣物の謂で、今も榊の枝又は篠の桿條に幣帛を取つけたものをタマクシと稱へる。
みわすゑまつる(神酒座奉) 神酒は舒明紀にミワと旁訓せられ、和名抄も之を繼承し、本集第二卷には「哭澤《ナキサハ》(35)の杜《モリ》に三輪〔二字右○〕すゑこひのめ〔二字右○〕ど」とあるから、或時代に此稱呼を用ひたことは疑がないが、名號の所由を詳にせぬ。三輪神社の獻酒式のことは既に崇神紀にも見え【建國篇三−一六〇頁】、其社の神木たる杉の葉が酒店の標識に用ひられた程有名であつたから、酒の異名に社號を轉用したことも有り得るが、或は米※[酉+媼の旁]の韓音※[ハングルでマウン、振り仮名に「ミウン」とあるがハングルは明らかにマウンである、おそらく「マ」は「ミ」のハングルの間違いであろう、入力者]《ミウン》の轉呼であつたかも知れぬ。但しこゝの神酒はミキと訓んでも差支はない。スヱマツルは神酒を容れたミカ(甕)を地上に掘すゑて神供とすることを意味する。
かむぬしの(神主部之) 舊訓カミとあるが、カムを可とすることは上記の通りである。カムヌシは神之大人《カミノウシ》の約で、齋之大人即ち齋主と同じく、神官の長をいふのであるから、一社一人に限られた筈であるのに、神主部〔右○〕と表記せられて居る所を見ると、或は三字を合はせてカムトモ(神伴)とよみ、神に奉仕する人の群と解する方がよいかも知れぬ。
うずのたまかげ(雲聚玉蔭) ウズは推古紀に髻華此云2于孺1と註せられ、豹尾又は鳥尾等を用ひたとあり、或は鈿の字をあて、大化三年の制によれば、鐙冠は鈿を以て高下を判ち、金銀銅を材料とするとあるが、此ウズは右の髻華又は鈿をいふものとは思はれず、玉蔭の修飾として用ひられたものゝやうであるから、思邦歌にウズに挿したとある白橿の枝又は熊橿の葉とも異り【紀】【記】、本集第十九卷に詠まれた橘子の類をさすものと見ることも出來ぬ。されば先づウズの語原について考察を加へることを要する。案ずるに此語はウとズとの二語分子より成り、ウはオホ(大)の古言オフ(アフ)の約で、コマ(駒)に對するウ〔右○〕マ(馬)、ヲハナリ(小放)に對するウ〔右○〕ハナリ(大放)【神武紀】の如く、古來大の義に用ひられ、今も薩摩方言では大男(36)をウ〔右○〕ヲトコ、大風をウ〔右○〕カゼなど稱へて居る。スはスガ(清)、スミ(澄)等の語幹であるが、ズと濁つたのは其疊語ススの連約と思はれるから、ウズといへば大清淨の意となり、神職の服飾なるが故に、此語を以て修飾したものとすべきである。髻華をウズと稱へたのも恐らくはウズのカザシ(挿頭)の略稱であらう。カゲの原義はカ(髪)ケ(毛)と思はれるが、カツラ(髪連)即ち髪と同義語として用ひられ、應神天皇も御蔭をめされたことが播磨風土記に見え、持統紀によれば華縵此曰2御蔭1とあり、本集第十四卷にも「あしびきの山かつらカゲましばにも得がたきカゲを置きや枯さむ」とある。本初は專ら花葉蔓草等の自然物を供用したのであらうが、安康紀(記)に押木〔二字右○〕珠縵などある所を見ると、人工を加へた冠状のものも存したのであらう。タマは其飾として鏤めたものとも、或は單に美稱とも解釋し得られる。――宣長が玉の字を山〔右△〕の誤寫として、髻華に垂れる日影※[草冠/縵]のことゝしたのは【玉勝間】、根據のない推測に過ぎぬ――此當時は既に隋唐式の冠も制定せられて居たのであるが、神職は尚古式の服飾を用ひたのではあるまいか。
みればともしも(見者乏文) トモシは乏少の意から轉じて羨望の義となつたのである。
【大意】 齋串(を)建てゝ神酒を(掘)すゑ貢る神主(神伴)の莊嚴なる玉鬘を見ると羨ましい
右によれば此歌は神職の玉鬘を賞めたので、本歌とも第一の反歌とも極めて縁が乏しいから左註にいふ之を收載せぬ或書の方が正傳であらう。
 
(37)3230 帛※[口+立刀]《キヌサヘギ》 楢從出而《ナラヨリイデテ》 水蓼《ミヅタデノ》 穗積至《ホツミニイタリ》 鳥網張《トアミハル》 坂手乎過《サカテヲスギテ》 石走《イハハシノ》 甘南備山丹《カムナビヤマニ》 朝宮《アサミヤニ》 仕奉而《ツカヘマツリテ》 吉野部登《ヨシヌヘト》 入座見者《イリマスミレバ》 古所念《イニシヘオモホユ》【三二三〇】
 
きぬさへぎ 奈良より出でて 水蓼の 穗積にいたり 鳥網《トアミ》張る 坂手をすぎて 石はしの 神なび山に 朝宮に 仕へ參りて 吉野へと 入ります見れば 古おもほゆ
 
きぬさへぎ〔五字右○〕(帛※[口+立刀]) 舊訓ミテグラヲとあり、幣帛をミテグラと訓した例は書紀にも少くはないが、ミテグラの語義は御手座で、案上に置いて供進するオキクラ(置座)に對して、手に捧持する神幣をいふのであるから、帛一字に此訓を與へることは不當で、※[口+立刀]は呼に代用してヲと訓ませた形跡はあるが正字ではない。其故に宣長は此三字を内日刺の誤記としてウチヒサスと訓み【略解】、雅澄は※[口+立刀]を奉〔右△〕と改めてヌサマツリと訓したのであるが、いづれも想像から出發したもので、論據のないことであるから、吾人は先づ原字の解讀に今一段の努力を試みねばならぬ。案ずるに帛の字は繼體紀以下常にキヌと訓せられ、※[口+立刀]の字は續後紀承和十年の章下に春水連姓を賜はつた『※[口+立刀]綿麻呂といふものがある。元夷種也とある所を見ると、サヘキ(佐伯)の假宇なること疑なく(恐らくは叫〔右○〕の變體であらう)二字を合はせて安んじてキヌサヘギと訓み得られる。サヘキはサヤギと通音であるから、衣がサヤサヤとナル(鳴)といふ意を以てナラ(奈良)の枕詞に用ひたものとすべきである。
ならよりいてて(楢從出而) 楢は奈良の借字なることは疑なく、宣長が都〔右△〕の誤記としたのは、前句の誤讀に(38)基く臆斷である。
みづたでの(水蓼) 水蓼は和名本草にも美都多天と訓し、タデの一種として擧げて居る。水濕の地に生ずるが故に此名を負はせたものゝやうで、穗を摘んで辛味に供用するから、ホツミ(穗積)の枕詞とせられたのである。
ほつみにいたり(穗積至) ホツミは物部氏族中の一名門の稱呼で【語誌】、其占住地にも此名を與へたものゝやうであるが、夙に分散したので其地名もまた消滅した。さりながら此歌によれば、此時代までは奈良と坂手との中間に存したものとせねばならぬから、或は神武紀に猪祝が占住したとあるホソミ(臍見)はホツミの轉呼であるかも知れぬ。其|長柄《ナガラ》丘は今も山邊郡朝和村大字長柄に名殘を留めて居る。
とあみはる(鳥網張) トナミと訓み、鳥之網の約とするのは誤りで、助語ノ(之)は蛇足である。トリ(鳥)の語根はトであるから、接合に際してはトカリ(鳥狩)、トトリ(鳥取)、トス(鳥栖)の如くリを省くことを例とし、アミ(網)のアは必しも前續母韻に攝せられ若しくは約縮せられるものではなく、タテア〔右○〕ミ(竪網)、ヂビキア〔右○〕ミ(地曳網)のやうに之を存するのが例であるから、舊訓に從ひトア〔右○〕ミハルと唱ふべきである。
さかてをすぎて(坂手乎過) 坂手は景行朝に池塘を築設せしめられた地點で【紀】【記】、今も磯城郡川東村の大字に其名を存する。
いははしの(石走) 舊訓イハハシルとあるが、次句とつゞかぬから、眞淵に從ひ走をハシの假字としてイハハシノ(石橋之)と訓み、カミ(上)にかゝる枕詞と見るべきであらう。石橋は徒渉に便にする爲に水流に飛(39)石を布置したものをいひ、間近キ【萬四】、遠キ【萬一一】にも冠せられた。但しタキ(湍)、タルミ(垂水)、アフミ(大水)等にかゝる石走はイハハシルと唱へねばならぬ。
かむなびやまに(甘南備山丹) 上述の飛鳥の神名備山をいふ。此附近は推古朝以降天武朝に至るまで六代の帝都で、反歌によれば奈良遷都後も此丘上に離宮が存したものゝやうである。
あさみやに(朝宮) 此アサ(朝)は副詞若くは限定語であるが、ミヤ(宮)と連結して熟語となり、第二卷にも朝宮ヲ忘レ賜フヤ夕宮ヲ背キ賜フヤ【一九六】と用ひた例がある。此も朝ノ(又は朝ニ)宮ニといふ意と解すべきで、後句によれば吉野行幸の御路次この離宮に駐輦あらせられたものと思はれる。
つかへまつりて(仕奉而) 奉仕してといふ意。作者は供奉の一員で、上句奈良ヨリ出デテ以下總べて主觀的に叙述して居るのである。奉仕は朝宮に限らぬことであるが、早朝の發輦を聯想せしめる爲に、特に此熟語を用ひたのであらう。新考が朝宮の前に二句を補うたのはさかしらである。
よしぬへと(吉野部登) 天智紀童謠には、曳之弩《エシヌ》と假字書せられて居るが、奈良朝時代にはヨシヌと稱へられたと見えて、本集第十八卷に余思努又は與之努と表記せられて居る。――ヨシノと稱へるやうになつたのは稍後のことである――ヘトといふ助語を添へたのは吉野ヘ〔右○〕向フト〔右○〕シテといふ爲である。
いりますみれば(入座見者) イリマスは入御であるが、前句及末句によれば此は吉野離宮へ御到着をいふのではなく、飛鳥を發輦、吉野に向はせられるを見ればといふ意と解すべきである。
いにしへおもほゆ(古所念) 古の字は舊訓の如くムカシともいふが、慣例に從ひイニシヘと訓む方がよい。(40)オモホユは思ハルの古言である。――今次の駐輦に會し舊都の過去が追憶せられるといふのであるから、飛鳥に於て詠じた歌であらねばならぬ。作者は恐らくは此地に所縁のある人であらう。
【大意】 奈良を發足し、穗積に至り、坂手を過ぎて神名備山の離宮に於て奉仕し、吉野へ向ふとて發輦あらせられるのを見ると、過去が追憶せられる
 
反歌
 
3231 月日《ツキモヒモ》 攝〔左△〕友《アラタマレドモ》 久經流《ヒサニフル》 三諸之山《ミモロノヤマノ》 礪津宮地《トツミヤトコロ》【三二三一】
 
つきも日も あらたまれども 久にふる 三もろの山の とつ宮どころ(古き都のとつ宮どころ)
       此歌入道殿讀出給
                                
右二首、但或本歌曰2故王都《フルキミヤコノ》 跡津宮地《トツミヤドコロ》1也
 
つきもひも(月日) 舊訓による。考以下ツキヒハ〔右○〕と改訓して居るが、月モ日モを不可とすべき理由はなく、助語ハを用ひて語勢を強めることを絶對に必要とするとも考へられぬ。勿論ツキヒハというても差支はないが、其取捨選擇は作者の氣もちに聞くの外はない。但し次句を七音に訓むとすれば律調上此句は五音を可とする。
あらたまれども(攝〔右△〕友) 舊訓カハリユクトモ〔四字右△〕とあるが、此は現實をいふのであるから、假設條件を用ひるこ(41)とは出來ぬ。攝の字にはカハリ(代理)といふ訓もあるが、代謝の意はないのみならず、ユクといふ語を添へて讀ませることも無理である。――新訓に次句の久を加へてユケドモヒサニと訓んだのは、後句の改訓の結果であるが、攝をユキの假字とすべき理由がない――案ずるに攝は※[足偏+聶]〔右○〕の誤寫で、月も日も相※[足偏+聶]するといふ意を以てアラタマレドモと訓ませるつもりであつたのではあるまいか。
ひさにふる(久經流) 久ニ經ルは恆久の意。元暦校本、天治本、類聚古集に流經〔二字右△〕と倒記せられて居るので、久を上句につけてナガラフルと解讀したものもあるが【新訓】、假に之をナガ(長)ラ(接尾語)フル(經)即ち長ク經ルといふ意としても、久ニと長クとが重複する嫌があるから、舊訓に從ひヒサニフルとすべきであらう。
みもろのやまの(三諸之山)――ふるきみやこの(故王都) ミモロの山は上述の如く神名備山を意味し、古き都とあるのは此地方が藤原宮以前の皇居であつたからである。
とつみやどころ(礪津宮地) 外ツ宮處即ち離宮のある處といふ意。トツはト(外)の接頭形態で、外ツ國の如くも用ひられる。
【大意】 月も日も新まるけれども、恆久なる(は)三諸の山の離宮所在地(である)
 
3232 斧取而《ヲノトリテ》 丹生檜山《ニフノヒヤマノ》 木折來而《キコリキテ》 機〔左△〕爾作《カヂニツクリ》 二梶貫《マカヂヌキ》 礒※[手偏+旁]回乍《イソコギタミツツ》 島傳《シマヅタヒ》 雖見不飽《ミレドモアカズ》 三吉野乃《ミヨシヌノ》 (42)瀧動動《タキモトドロニ》 落白浪《オツルシラナミ》【三二三二】
 
をのとりて 丹生の檜山の 木《キ》折《コ》り來て かぢに作り 二《マ》かぢぬき 磯こぎたみつつ 島づたひ 見れどもあかず 三吉|野《ヌ》の 瀧もとどろに 落つる白波
 
をのとりて(斧取而)
にふのひやまの(丹生檜山) ニフの原義はニ(土)フ(生)で、赭土《ニ》生産地をいひ、之を名に負ふ地點は極めて多く、吉野だけでも丹生川を號とする神社が三ケ所にある。さりながら此は三吉野の瀧として有名なる中莊村大字宮瀧を距ること遠からぬ所に位し、檜の生ひた丘陵地と了解すれば十分で、必しも地點を物色する必要はない。
きこりきて(木折來而) コリ(樵)は伐木の謂であるから、折の字をあてたのである。
かぢ〔二字右○〕につくり(機〔右△〕爾作) 機の字は元暦校本の朱書及類聚古集に※[楫+戈]〔右○〕とあるに從ひカヂ〔二字右○〕と訓むべきである。舊訓フネ、代匠記イカダ、考ヲフネとあるのはいづれも推讀で、此當時に於ても河川又は港灣内では主として刳舟を用ひ、木を樵り來て建造することはなく、伐木現場に於て製作し、運搬の勞を省いたことは本集の歌謠及播磨風土記の記事等によつて明白で、筏は磯を漕ぎ廻つて遊覽する爲には不適當である。或は造舟(編筏)を説かずしてカヂ(※[楫+戈])のみを擧げたことを不當と考へるものがあるかも知れぬが、以上四句は寧ろ次のマカヂ〔二字右○〕ヌキの序であることを考へねばならぬ。
(43)まかぢぬき(二梶貫) マはマタ(又)の語幹で、助語モと語原を同うし、對偶をなす二物を并稱するに用ひられる接頭語なるが故に二の字をあてたので、一側のみで漕ぐと直線に進むことが困難であるから、今も面梶《オモカヂ》取梶《トリカヂ》を装備するやうに、少くとも二挺の※[楫+戈]を用ひることを可としたのである。之を取装ふことをヌクというたのは、舷側に設けた孔又は索環に貫通して操作したからで、肥前風土記に船の※[爿+弋]※[哥+弋]《カシ》(水竿)の穴とあるのも之をいふのであらう。カヂのカは舟行を表示する概念語で、〔右○〕》グ(漕)といふ形を以て活用せられ、之を操作するものをカコ(水手)といひ、コグ手といふ意を以て楫(※[楫+戈])をカテと稱へ、カヂと轉呼したのである。されば之をカエ(漕柄)とも稱し、音便によりカイといふのであるが、後世操針用として舟尾に装着する楫即ちSteering oar を專らカヂとよぴ、梶といふ新字を作つて之に配當し、之と區別する爲に楫(櫂)(※[木+堯])にはカイといふ名を用ひ、或は字音を以てロ(櫓)と稱へるやうになつたのである。
いそこぎたみつつ(礒※[手偏+旁]回乍) タミはタメ(撓)の自動詞形で、廻ることをいひ、之に添へたツツは行爲の反復連續を示し、コギタミコギタムといふと同意である【要録一〇一四頁】。
しまづたひ(島傳) 宮瀧の附近には川中嶋はなく、タキ(湍)といふ名を負うて居る所を見ても、傳ひ行くほど多くの島嶼が存したとは思はれぬから、シマは原義により洲間の謂とすべきで、磯を廻り、砂堆の間を傳ふといふ意であらう。
みれどもあかず(雖見不飽)
みよしぬの(三吉野乃) ミはマ(眞)に通ずる接頭語であるが、其有無によつて意義を増減することなく、(44)單に吉野といふと同義である。
たきもとどろに(瀧動動) 古言のタキはタルミ(垂水)即ち懸瀑のことではなく、急湍の謂で、吉野川の上流及支流には此名に相當する落流は少くないが、就中中莊村大字宮瀧は、往昔の離宮所在地と傳へられ、河流は巨岩の爲に蹙められ、白浪奔騰し、泡沫煙の如くなるが故に、單にタキといべば此地のことゝ了解せられたのであらう。トドは擬聲語で、水音の※[鼓/冬]々たることをいひ、名詞形とする爲にロを接尾し、更に助語ニを添へて副詞に用ひたのである。
おつるしらなみ(落白波) 前句見レドモ飽カズの目的格である。
【大意】 斧を取つて丹生の檜山の木を樵り來り楫《カチ》に作り(以上序)、兩楫を舟に装備して磯を榜き廻りつゝ、砂洲傳ひに見ても、三吉野の急湍を鳴動《トドロ》かして落ちる白波は見飽かぬ(ことよ)
 
旋頭歌
 
3233 三芳野《ミヨシヌノ》 瀧動動《タキモトドロニ》 落白波《オツルシラナミ》 留西《トマリニシ》 妹見卷《イモニミセマク》 欲白波《ホシキシラナミ》【三二三三】
 
みよし野の 瀧もとどろに 落つる白波、とまりにし 妹に見せまく 欲しき白波
 
右二首
 
本集に於て旋頭歌と稱するものは五七七音三句一聯の片歌を二つ合はせた歌形で、其は志都歌の基調である(45)から、旋頭がシヅの音符假字なることは云ふまでもない。從來字義に拘泥して或はカウベヲメグラス歌《ウタ》又はカミニカヘル歌と訓み、甚しきは古今集なる「はつせ川古川の邊に二本《フタモト》ある杉、年をへて又も相見む二本ある杉」といふ歌を起原と推定してフタモトの歌といふのが其本稱であると主張したものすらあるが、其は句法の研究が不十分であつた爲で、ヤマト歌が短長二句一聯を基調とするに對し、三句又は五句を基調とするものをシヅ(賤)歌若くはヒナ(鄙)振《ブリ》と稱へたことは紀記に明徴がある【歌學參照】。
みよしぬの(三芳野)
たきもとどろに(瀧勤動)
おつるしらなみ(落白浪)〔以上三行に括弧を付けて〕 前出
とまりにし(留西) 都に留まつてしまうたといふ意で、留まつた(トドマリシ)といふと多少の相違がある。其は作者の氣もちによる選擇とも解釋し得られぬことはないが、語感からいふと、同行も可能であつたのに態と殘留したのではないかと思はれる。萬一事情が同伴を許さなかつたか、若くは作者が之を欲しなかつたのであるならば、置キテ來シといふ表現を用ひたであらう。此句によつて此行が私的遊覽ではなく供奉の爲であつたことが推測せられ、タキを離宮所在地の急湍即ち宮瀧なりとする上記の想像が肯定せられるのである。
いもにみせまく(妹見卷) 契沖訓による。見の下に今一字を加へた本があり、就中天治本及類聚古集には見西〔右○〕とある所を見ると、代匠記以前にもイモニ〔右○〕ミセ〔右○〕マクと讀んだものがあつたのであらう。ミセマクのクは(46)「事」を意味する語分子で、用言の各時格に添著せられるが、可能なる限り未然形と連ね、見セムコトといふ意はミセマ〔右○〕クと表現するのである。
ほしきしらなみ(欲白波) ホシは動詞ホリの形容詞形で、語幹ホはホメ(賞)とも活用せられ、原義は恐らくは「秀《ホ》」であらう。
【大意】 吉野の急湍を鳴動して落ちる白波(!)。(都に)留まつてしまうた彼女に見せたいと思ふ白波(!)
 
3234 八隅知之《ヤスミシシ》 和期大皇《ワゴオホキミ》 高照《タカテル》 日之皇子之《ヒノミコノ》 聞食《キコシヲス》 御食都國《ミケツクニ》 神風之《カムカゼノ》 伊勢乃國者《イセノクニハ》 國見者之〔左△〕毛《クニミハトモシモ》 山見者《ヤマミレバ》 高貴之《タカクタフトシ》 河見者《カハミレバ》 左夜氣久清之《サヤケクキヨシ》 水門成《ミナトナス》 海毛廣之《ウミモヒロシ》 見渡《ミワタス》 島名高之《シマナダカシ》 己許乎志毛《ココヲシモ》 間細美香母《マクハシミカモ》 挂卷毛《カケマクモ》 文爾恐《アヤニカシコキ》 山邊乃《ヤマベノ》 五十師乃原爾《イシノハラニ》 内日刺《ウツヒナス》 大宮都可倍《オホミヤツカヘ》 朝日奈須《アサヒナス》 目細毛《マクハシモ》 暮日奈須《ユフヒナス》 浦細毛《ウラクハシモ》 春山之《ハルヤマノ》 四名比盛而《シナヒサカエテ》 秋山之《アキヤマノ》色名付思吉《イロナツカシキ》 百磯城之《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤヒトハ》 天地《アメツチト》 與日月共《ヒツキトトモニ》 萬代爾母我《ヨロヅヨニモガ》【三二三四】
 
やすみしし わご大君 高てる 日の御子の 聞こしをす 御食《ミケ》つ國 神風の 伊勢の國は 國みはとも〔二字右○〕しも」 山見れば 高くたふとし 河見れば さやけく清し みなとなす 海も廣し 見わた(47)す 島名高し ここをしも まくはしみかも かけまくも あやにかしこき 山邊の いしの原に うつひさす 大宮つかへ」 朝日なす まくはしも 夕日なす うらくはしも 春山の しなひさかえて 秋山の 色なつかしき 百しきの 大宮人は 天地と 日月と共に 萬代にもが
 
此は三齣より成立する長歌の一形式で、紀の思邦歌及春日山田皇女の歌と同例に屬する。本集には希有であるが、一二齣聯立體は以下に掲げるもの【三二四二】【三二九五】【三三〇九】の外、山上憶良の歌【八〇〇】【八九二】にも見える。此等の長歌に於ては、各段落は特種の形式により、若くは想の轉換によつて表示せられる。此歌に於ても意のつゞかぬ所があるのも之が爲で、其處に却つて歌の面白味があることを味はねばならぬ。
やすみしし(八隅知之) ヤスミは彌住即ち多人數の共棲といふ意から、族長の公邸の名稱となり、皇居の正寢をも大ヤスミ(安)殿と稱へ、其所有者をヤスミ主《チ》と稱へたのが、音便によりヤスミシ〔右○〕と轉呼せられ、枕詞に用ひる爲にタラチシ〔右○〕(足主其)、アラチシ〔右○〕(顯主其)等の例にならひ、更にシ(其)をそへたもので、正寢主《ヤスミシ》其ノといふ意を以て大君につゞくのである。
わごおほきみ(和期大皇) ワゴはワガ(我)の意なることは勿論であるが、「期」の字をガと訓む筈はないから轉呼とせねばならぬ。續日本紀卷一五にも和己於保支美とした例もあるのである。大皇はオホキミの假字で最高敬稱であるが、カバネのキミ(公)にも大臣及大連と同樣に大を冠してオホキミ(大公)と稱へるやうになつたので、區別の爲後者をオホギミと濁つて發音した。中世以降諸王をオホギミと稱へてミコ(親王)(48)と區別したのは之によるもので、大君の謂ではない。舊訓にノをそへたのは蛇足とせねばならぬ。
たかてる〔二字右○〕(高照) 舊訓タカテラスとあり、考以下タカヒカルと改めたが、ヒカルには光の字をあてるのが常例であり、照をテラスと訓むのは天照大御神の場合の如く照リマスといふ意の敬語で、天を令照《テラス》といふことではないから、高ヒカルの例により、高テル〔二字右○〕と訓まねばならぬ。次句との釣合上五音よりも四音を可として、ヒカルの代りにテルを用ひたものと思はれる。
ひのみこの(日之皇子之) 日ノ御子は天津日嗣の御子といふに同じく、天皇又は皇太子に對して用ひる尊號であるが、此歌に於ては勿論主上を意味するのである。
きこしをす(聞食) キコシはキク(聞)の敬語形キカシの轉呼で(要録九二六頁)、聞きたまふといふことであるが、キクは必しも聽覺に訴へることばかりではなく、香をキク、味をキク、口をキク、目がキク、心キクの如く、他の四官の感覺及職能をも表示する。又ヲスの語幹ヲは口を意味する古語であつたらしく、之に作爲語尾シ(爲)を連ねたヲシは食用の意となり、食物をヲシモノといひ、マを接頭したマヲシ(申白)は口供の義であるが、此ヲスは右の語幹ヲに敬語語尾シ(ス)を連結したもので、目ス(召)と同じく敬語助動詞として用ひられる。其故にキコシヲス天下【萬一】、キコシヲス國【萬五】は知ロシメスと同意であるが、此は次句ミケ(御饌)にもかゝり、メシアガル(飲食したまふ)といふ意とも了解せられる。今もお神酒キコシメ〔右○〕スの如く表現せられることもあるのである。
みけつくに(御食都國) ミケは上記の如く御饌であるから、之を貢進する國をミケツクニと稱へ、轉じて皇(49)領の義にも用ひられ、ミケ野又はケ野といへば御領地乃至食邑の意となるのである。普天の下は天皇の知ロシメス版圖で、大御饗も諸國から頁進するのであるが、伊勢は帝都に近く、特に魚鹽の利に富むが故に此稱號を得たので、其疆域の一部分であつた志摩に對しても御食國《ミケツクニ》といふ語を冠した例がある【萬六】。
かむかぜの(神風之) 舊訓カミ〔右△〕カゼとあるが、神武紀(記)に伽牟伽筮(加牟加是)と假字書せられて居るからカム〔右○〕カゼと訓むを可とする。イセ(伊勢)の枕詞で、此國には皇祖大御神を奉齋してあるから、其地を渡る風を神風と稱へたのであらう。神武天皇の御製と稱せられる來目歌にも此枕詞が用ひられ【紀】【記】、伊勢風土記(殘簡)には此語の由來を、其朝に此地方を追はれた伊勢津彦の逸事に附會してあるが、神宮奉遷後に出來た慣用句とせねばならぬ。
いせのくには(伊勢乃國者) イセの原義はイソ(磯)で、本初は五十鈴河口の沿海地帶の稱呼であつたのが、全國の名號に用ひられるやうになつたのであらう。
くにみはともしも〔四字右○〕(國見者之〔右△〕毛) 舊訓クニミレバシモとあり、後句とつゞかぬので、或は脱字脱句ありとし或は此一句を衍としたものがあるが、略解の説のやうに之〔右△〕を乏〔右○〕の誤記として國見はトキシモと訓めばよく意が通ずる。クニミの原義は字の通りであるが、統治者の領内視祭をいふに用ひられ、統治權設定の表示として必要なる儀禮とせられたものゝやうである。さりながら各郷邑を隈なく巡行することは困難であるから、高所に登臨することを以て之に代へ、神武天皇が腋上《ワキカミ》の※[口+兼]間《ホホマ》丘から國状を廻望せられたことを始とし【紀】、本集にも國見ヲシセバ【一卷】、國見遊バシ【一三卷】と用ひられた例があり、遠國にも廷臣を差遣し(50)て代行せしめられたことが第三卷筑波山登臨の歌にも見える。トモシは乏少の義から轉じて羨望又は珍重の意を生じたので、此は後句によれば行幸の供奉員が詠じた歌であるから、國見即ち巡狩は珍重なるかなといふ意と思はれる。――以上九句は第一齣で、齣末を五七七(八)音三句で結んだのは古歌に例のあることである。
やまみれば(山見者) 後句の河見レバの對句である。之によるも前出の國見者をクニミレバと訓むことは不可とせねばならぬ。
たかくたふとし(高貴之) タフトシ(貴)のタはタリ、タシ(足)の語幹で、之にフトシ(太)をそへて尊貴の義を生じたのである。
かはみれば(河見者)
さやけくきよし(左夜氣久清之) サヤケクの語幹サはスと同じく「淨」の義で(第三六頁參照)、之に體言語尾ヤを添へてサヤとし、更に顯著の意のカを連ねてサヤカ(爽)といふ形容詞を作り、サヤケシ、サヤケキ、サヤケク等と活用したのである。
みなとなす(水門成) ミナトの原義は水之門《ミナト》で、河口、海門等をいひ、上古泊舟の爲には河川の口を選んだから、港津をもミナト(湊)と稱へるやうになつたのであるが、此は伊勢海灣若くは其一部の航門を意味するものゝやうである。ナスは通例ノ如クといふ意と了解せられて居るが、海の比況としてはミナトは――假令港津の義と解するにしても――不當であるから、崇神紀の歌に大和ナス〔二字右○〕大物主とあるナスと同樣に、(51)「之」と同一職能を有する一語分子とすべきで、本來ナ(之)にスといふ語尾を添付したものであるが、スが「其」の義なる時は「之其」即ちノ如クといふ意になり、助動詞シ(爲)の連體形なるに於てはナルと同じく連繋助語の用をなすのである(古代歌謠上卷九三頁參照)。
うみもひろし(海毛廣之) 類聚古集には廣々〔右△〕とあり、舊訓はユタケシであるが、古義説の如くウミモヒロシと訓み、六音句とすべきである。
みわたす(見渡) 舊訓ミワタセルとあるが、其は見渡して居るといふことであるから、時格上不可とすべきで、見ワタスと訓み不定時格(不完了現在格)と了解せねばならぬ。前後の句が六音であるから、之と均衡を保つため故意に四音句を用ひたのであらう。
しまなだかし(島名高之) 從來色々に訓せられて居るが、助語を挿入することなく、字によつてシマナダカシと六音に訓むべきであらう。伊勢灣は島の乏しい海で、灣口の答志《タフシ》島の外には目にたつ島嶼もないが、其が果して五十師乃原から展望し得られるかは實地について調査を要する。若し見えぬとすれば此は實景ではなく、志摩から思ひついた空想とすべきである。
ここをしも(己許乎志毛) ココはコ(此)の疊合語で、此此といふ意であるが、コレと通じて用ひられる。シはソと同一効力を有する指定助語で、此ヲモといふ意を強く表示したのである。
まくはしみかも(間細美香母) マは接頭語。クハシはクシ(奇)とハシ(好)とを連ねた形容詞で(第一〇頁)、兩語の意義を兼具し、之にミ(見)を添へることによつてマクハシ(崇美)と見ル(思フ)といふ意になつた。(52)――古義が之を目〔右○〕クハシの意とし、ウラ(心)クハシと對立するを要すとして二句を補うたのは理由のないことで、ウラクハシのウラは上記の如く歡喜の意で、心といふことではない――カモは疑問助語である。
かけまくも(挂卷毛) 上述の如くクは「事」の義で(第四五頁)、掛ケムコトモといふのである。カケは言ひかけること即ち言及を意味する。
あやにかしこき(文爾恐) アヤはイヤ(彌)と同義。カシコキの語根はシコで、――通例「醜」の字をあて、シカミ(蹙)とも活用するが、見ニクイといふことではなく、嚴《イカ》メシイといふ意である――之に顯著の意のカを接頭したカシコは嚴正なるものに對する恐怖畏敬を表現し、主觀的にはカシコミ(惶)といひ、客觀的にはカシコシと活用して、威アリ、賢ナリといふ意に用ひられる。此も恐多キといふことで、三句を隔てゝ大宮にかゝるのでなる。
やまべの(山邊乃) 舊訓ヤマノベとあるが、宣長の考證の如く【玉勝間三】、此時の行宮所在地の遺跡と推定せられる伊勢國河藝郡河曲村大字山邊はヤマベと稱へられるから、助語ノを省いて四音に訓む方が次の六音句に對しても釣合がよい。
いしのはらに(五十師乃原爾) 上記の如く宣長が五十師乃原の所在について詳密に考證した結果、舊訓のイソ〔右△〕シノハラ及眞淵訓のイスズ〔二字右△〕ノハラは存立の根據を失うた。其地は今の鈴鹿郡石藥師村にあたり、山邊村の西北に接し、石藥師と號する寺院中に此佛の像を刻した巨石が存する。玉勝間には藥師像は後日の作爲とし、此奇石が存するによつてイシと名づけられたと説いて居るが、イシは醫師の字音なるによつて之と(53)縁のある藥師を勸請したものとも考へられるから、其以前から巨石が存在したかは疑問で、鈴鹿川に近い所を見ると、或はイソ(磯)の原の意を以て名を負はせたのであるかも知れぬ。
うつひさす(内日刺) ウツ(珍)ヒ(日)サス(射)の謂で、ミヤ(宮)の修飾的枕詞である。本集に宇知〔右○〕比佐受【五卷】、宇知〔右○〕日佐須【一四卷】とあるのは音便と見るべきで、此内日は當然ウツヒと訓まねばならぬ。
おほみやつかへ(大宮都可倍) 大宮仕への意であるが、ツカヘといふ連用形を用ひたにも拘はらす、以下十三句中どの述語にもつゞかぬ所を見ると、此句を以て終止するものとせねばならぬ。ツカヘの原語ツカフ(使)は他動詞であるが、分化以前に於ては或は自他兩用で、ツカヘ(仕)は其已然形として用ひられたのであるかも知れぬ。若し然りとすれば至今格表示であるから(要録九四一頁)、勿論終止の一形であるが、――八千矛神の歌【記】のアリカヨハセといふ句も同例である――此想定が成立せぬとすれば、次に一句を脱したものと見ねばならぬ。次句以下は想に一轉換を示して居るから、以上を以て一齣とすべきで、五七音一聯の外に一長句を添へるのが寧ろ常例である。いづれにしても大宮ツカヘは上掲の朝宮ニ仕ヘ奉り(第三九頁)とは異り、造営に奉仕する意と解すべきで、後掲【三三二六】にも城上宮爾大殿乎都可倍奉而とある。
あさひなす(朝日奈須) 此ナスは既述の如く之其《ナス》で、朝日のやうにといふ意である。
まくはしも(目細毛) マクハシは上記の通りで、モは感動詞である。
ゆふひなす(暮日奈須) 比況。
うらくはしも(浦細毛) ウラクハシは既述の如く快妙の意である(第一〇頁)。
(54)はるやまの(春山之)、此句及後句秋山之のノも亦ノ如クを意味する。
しなひさかえて(四名比盛而) シナヒはシ(繁)ナミ(延)又はシ(繋)ノビ(伸)の轉呼であらう。盛の字は或はサカリと訓むのかも知れぬ。
あきやまの(秋山之) 春山秋山は上記の如く比況的枕詞で、實景ではない。
いろなつかしき(色名付思吉) ナツカシは動詞ナツクの形容詞形で、、原義は並著であるが、親昵の義に轉じたのであるから、色ナツカシキは容色親むべしといふ意になるのである。
ももしきの(百磯城之) 雄略天皇の御製にモモシキの大宮とあるのは【記】朝倉宮をいひ、允恭天皇の皇后忍坂〔二字右○〕之大中津比賣の御母も百師木〔三字右○〕伊呂辨といふ所を見ると、モモは美稱で磯城郡若くは其一地方の稱呼であつたと思はれるが、欽明天皇の皇居なる磯城島《シキシマ》(今の磯城都城島村で、朝倉村の西に接し、忍坂といふ大字が存する)が大和の枕詞となつたやうに、大宮に冠せられる例となつたのであらう。されば之を百石城の義なりとする眞淵以下の説は更訂を要する。
おほみやひとは(大宮人者) ミヤ(宮)の原義は御屋《ミヤ》で、貴人の邸宅をいひ、之に大を冠することによつて皇居と了解せられた。宮廷に奉仕するものは男女共に大宮人と謂ひ得べく、廷臣の意に用ひた例も多いが、此は色ナツカシキといふ修飾語によるも、特に宮嬪をさしたものゝやうである。行宮のことであるから、宮嬪が端近く俳※[人偏+回]するのを、大宮に奉仕する一廷臣が見て詠じた歌と推定せられるが、女性であらせられる天皇(持統)に對する奉壽の意をも寓したのであらう。
(55)あめつちと(天地) 天地ト共ニ〔三字右○〕といふべきを、次句との重複を厭うてトモニを省いたのであるから、助語トを削るべしとする説【新考】には從はれぬ。本集第二卷の天地日月與共〔二字右○〕とは書例を異にすることに注意すべきである。
ひつきとともに(與日月共)
よろづよにもが(萬代爾母我) ヨロヅは上記の如く第五位數を表示するのであるが(第二五頁)、此は原義により多數を意味したので、チヨ(千代)といふと大差はない。カは願望を表示する原語で、コヒ(乞、戀)とも活用せられるが、感動詞及疑問表示のカと區別する爲に有聲音に轉呼せられ、前續語が體言又は名詞形なるときはモを挿入し、活用形態なる場合にはシを介して接續する。
【大意】 我等の大君日之御子のきこしめす御饌の國(なる)伊勢國は國見は珍重なる哉(第一齣)。山を見れば高く貴く、河を見れば爽に清く、水門(海灣)の海も廣く、見渡す島は名高い。此をば崇美と見て、申すも恐多いが、山邊の五十師の原に大宮を造營した(第二齣)。朝日の如く崇美なるかな。夕日の如く快妙なるかな。春山のやうに重り並び榮え、秋山のやうに容色のなつかしい大宮人は、天地日月と共に萬代までも(かくて)ありたい(第三齣)
 
反歌
 
(56)3235 山邊乃《ヤマベノ》 五十師乃御井者《イシノミヰハ》 自然《オノヅカラ》 成錦乎《ナリシニシキヲ》 張流山可母《ハレルヤマカモ》【三二三五】
 
山邊のいしの御井はおのづから成りし錦をはれる山かも
 
此歌入道殿下令2讀出1給
 
やまべの(山邊乃) 前出
いしのみゐは(五十師乃御井者) 本歌には御井のことは見えぬが、第一卷長田王の歌に「山邊の御井を見がてり神風の伊勢をとめども相見つるかも」とあるから、五十師の原に名泉が存したので、行宮も其附近に設けられたものと思はれる。ミ(御)は美稱で、ヰは水を塞ぎ留める爲に設けられた堰堤の稱呼である。上代に於ては堀井《ハリヰ》は稀で、多くは清流又は天然の湧泉を利用し、其有無は宅地選定の主要條件とせられたから、井を以て地名とした例も少くはない。さればイシの原は總名で、行宮の設けられた地點はイシのミヰと呼ばれ、林泉の美の稱すべきものがあつたのであらう。
おのづから(自然) オノの原義はア(我)ナ(汝)で、文法用語でいへば含他的《インクリユシーヴ》第一人稱複數であるが、オノと轉呼し、「各」の意の不定代名詞として用ひられ、之とカラ(自)とを連繋助語ツを以て結合したオノツカラは自然の義と了解せられるやうになつたので、ミ(身)とカラ(自)とより成るミヅカラと同義である。
なりし〔右○〕にしき家(成錦乎) 成一字を從來ナレルと訓して居るが、次句のハレルを張流〔右○〕と表記した所を見ると此はナリシ〔右○〕と訓ませるつもりであつたのであらう。口語に直せばナリシは「出來た」、ナレルは「出來て居(57)る」で、いづれを用ひても意は通ずるが、「出來て居る〔右○〕錦を張つてある」といふよりも、「出來た錦を張つてある」といふ方が穩當でたる。ニシキはニジ(虹)キヌ(絹)の約で、色彩の絢爛なることによつて虹といふ名を與へたのであらう。キヌのヌを略することはカヒキ(甲斐絹)、ツムギ(紡絹《ツムキヌ》即ち紬)の如き例もある。秋の錦は紅葉のことゝ了解せられて居るが、此處には季節を明示せず、本集第六卷にも錦ナス花咲キヲヲリとある所を見ると、春花の形容とも了解せられる。之を持統天皇の伊勢行幸の時の歌とすれば六年春三月である。
はれるやまかも(張流山可母) 以上は少しく離れた所から行宮を眺望した光景を詠じたもので、山とあるのは其背後の高地をいふのであらう。宣長は實地について調査した結果、束方から眺めた光景であらうと考證した。
【大意】 山邊の五十師の原は自然に出來た錦を張り延べてある山であるよ
 
3236 空見津《ソラミツ》 倭國《ヤマトノクニ》 青丹吉《アヲニヨシ》 寧山〔左△〕越而《ナラヤマコエテ》 山代之《ヤマシロノ》 菅〔左△〕木之原《ツヅキノハラ》 血速舊《チハヤブル》 于遲乃渡《ウヂノワタリ》 瀧屋之《タギノヤノ》 阿後尼之原尾《アゴネノハラヲ》 千歳爾《チトセニ》 闕事無《カクコトナク》 萬歳爾《ヨロヅヨニ》 有通將得《アリカヨハムト》 山科之《ヤマシナノ》 石田之森之《イハタノモリノ》 須馬神爾《スメカミニ》 奴左取向而《ヌサトリムケテ》 吾者越往《ワレハコエユク》 相坂山遠《アフサカヤマヲ》【三二三六】
 
そらみつ 大和の國、あをによし 奈良山こえて 山代の つづきの原 ちはやぶる 宇治のわた(58)り 瀧のやの あごねの原を 千とせに かくことなく 萬代に あり通はむと 山科の 石田《イハタ》の杜の すめ神に ぬさ取りむけて 吾はこえ行く あふ坂山を
 
そらみつ(空見津) ヤマトの枕詞で、神武紀によれば饒速日命が天磐船に乘つて大虚を翔行《カケメグ》り、是|郷《クニ》を見おろして天降したによつて虚空見日本國と名づけたとあるから、傳説子は此語を「空で見た」といふ意と解したものと思はれるが、枕詞には完了時格を用ひぬことを例とするが故に、ツは津の意、ミはマ(眞)に通ずる接頭語で、天磐船の泊する津は山岳ならざるべからずとしてヤマト(倭)といひかけたことも有り得る。さりながらソラノ〔右○〕ミツと用ひた例がないから尚斷言を憚るものがあり、殊に本集第一卷柿本人麿朝臣の歌に天爾〔二字右○〕滿とある所を見ると、ミツは充滿の義とも了解せられたのであらう。或は紀記萬葉の編著時代には既に原義が不明であつた爲、種々に解釋せられたので、他に意味のある古言であつたかも知れぬ。
やまとのくに(倭國) ヤマトの原義は山處で、本來神武天皇が最初に占領せられた御料地(大御縣)即ち高市及十市の山地の總稱であつたが、轉じて此國乃至日本全土の總名と了解せられるやうになつたのである。此歌に於ては大和國即ち今の奈良縣を意味する。
あをによし(青丹吉) アヲニは青土の謂。ヨはヤに通ずる感動詞で、之にシを添付したのは、上掲のヤスミシシと同じく(第四七頁)、枕詞の一形式に屬し、八百土ヨシ、麻裳ヨシ、玉藻ヨシ等と同例である。此も次句ナラ(奈良)の枕詞であるが、其闘聯については從來明解がない。青土の産地なるが故につゞけたとする(59)説が最も普及して居るが、同じく色土又は粘土を産することを以て有名なる和爾又は埴安等の冠稱とした例のない所を見ると、尚一考を必要とする。本集第五卷山上憶良臣の挽歌に「くやしかもかく知らませばアヲニヨシクヌチ〔三字右○〕ことごと見せましものを]【七九七】とあるクヌチは、前後の歌詠から推測するも筑前國内〔二字右○〕の意であらねばならず、憶良ほどの學匠が枕詞を誤用したとは考へられぬから、必然クニとつゞく理由が存したものとすべきで、恐らくはクニが黄土《クニ》と通ずるにより、青土《アヲニ》黄土《クニ》といひ連ねたのであらう。若し然りとすれば奈良に冠したのは其轉用で、ナラの原語なる※[ハングルでナラ]《ナラ》が「國」を意味するからではあるまいか。
ならやまこえて(寧山〔右△〕越而) 寧一字をナラと訓むべき理由がないから、契沖説の如く其下に樂の字を脱したものとすべきであらう。ナラは上記の如く「國」を意味する韓語で、外にもソフ(添)及フル(布留)の如く現代鮮語※[ハングルで家を意味するチプ](家)、※[ハングルで村を意味するマウル](村)と同原と認められる地名の存する所を見ると、夙に出雲族によつて命名せられたものと思はれる。ナラ山は今の奈良市の北方一帶の丘陵地をいひ、之を越えると山城國に出るのである。
やましろの(山代之) ヤマ(山)シリ(尻)の謂で、上記奈良山の背後に位する地方の稱呼から、一國の總名に轉用せられたのである。
つづきのはら(菅〔右△〕木之原) 菅〔右△〕は勿論管〔右○〕の誤寫である。相樂郡の北方に接する地方を今も綴喜《ツヅキ》郡と稱するが、此にいふツヅキの原は、恐らくは木津より宇治に通ずる街道の附近をさしたのであらう。
ちはやぶる(血速舊) チ(靈)ハヤ(捷)の振舞をすることをチハヤビといひ、チハヤブルは其連體形で、カミ(神)又はウヂ(氏)の修飾語であるが、宇治(川)の枕詞に轉用せられるやうになつたのである。
(60)うぢのわたり(于遲乃渡) 宇治川の渡をいふ。此川には大化二年に於て既に架橋せられ、天智朝にも實在したことは紀所載の童謠によつても明であるが、此歌を始め本集中一も橋を詠じたものゝない所を見ると、久しからずして腐朽又は流失し、再建までに多くの歳月を經たのであらう。ワタリの語幹ワタは大海の謂であるが、之に行動を表示する活用語尾リを連結することによつて、水面渡航の意を生じ、更に廣く空間又は時間を遷徙する義となり、語尾リをシにかへて其意味の作爲動詞とするやうになつたのである。
たぎのやの(瀧屋之) タギは上記の如く急湍を意味し(第四四頁)、ウチの原義も亦オチ(落)即ち落流であるから、渡頭附近に占住する名門がタギの屋と稱したことは有り得べきである。
あごねのはらを(阿後尼之原尾) アゴはアギ(阿子)と同語で、之に敬稱ネを添へると郎君といふ意になる。原の稱呼とせられたのは、恐らくはタギの屋のアゴネと呼ばれた貴族の所有地であつたからであらう。略解によればアゴネといふ名號は三室戸村(今の宇治郡宇治村大字菟道)に存するといふことであるが、名勝の地として聞えたのではなく、恐らくはアゴネといふ語をゆかしみ、此歌に詠み入れられたのであらう。以下四句も其縁によつてつゞけたのである。
ちとせに(千歳爾)
かくことなく(闕事無)
よろづよに(萬歳爾) 歳をヨと訓むのは無理であるが、上句の千歳に對偶させる爲に特に此字を用ひたのであらう。
(61)ありかよはむと(有通將得) カヨフ(通)はヨブ(呼)の派成語で、語根のヨは呼格助語としても用ひられ、本義は單に呼びかけることであるが、顯著の意のカを接頭することによつて、呼ばふ爲に來往する意を生じた。アリを冠したのは現實の表示であるが、此は準接頭語とも見るべきで、單にカヨヒといふと大差はない。――八千矛神の歌にも用例がある【記】。
やましなの(山科之) 宇治郡の舊地名で、和名抄にも山科(也末之奈)とあり、今は京都市東山區に屬する。名號の所由を詳にせぬが、科野《シナヌ》及|師長《シナガ》等の例によれば、シナはヒナ(夷)の轉呼で、山〔右○〕住夷〔右○〕族によつて名を負うたのではあるまいか。
いはたのもりの(石田之森之) 現今の京都市伏見區に其名を存する。和名抄時代には宇治郡小栗(乎久留須)村に屬したやうであるが、其以前は山科郷中に含まれたのであらう。
すめかみに(須馬神爾) スメの原語はス(淨)ミ(身)で、天神及天皇に對する最高美稱であるから、皇の字を充當することを例とした。爰にいふスメ神は延喜式に天穗日命神社とある社の祭神で【特選神名牒】此森を田中森とも稱するにより、田中明神と號する。
ぬさとりむけて(奴左取向而) ヌサの原義は野麻《ヌサ》であるが、神幣に供することを例としたので、幣帛の義に轉用せられた。ムケはマケ(設)の轉呼で、設備の意から轉じて供進の義となり、準接頭語としてトリ(取)を冠したに過ぎず、タムケ(タも亦直の意の接頭語)といふと大差はない。
われはこえゆく(吾者越往) 舊訓ユカム之あるが、此歌は大和かち近江に至る路次の地名を巧に按排して潤(62)色を施した覊旅の詠で、後世の道行文に類するものであるから、未來格を用ひる理由がない。
あふさかやまを(相坂山遠) 相(逢)坂とかくのは借字で、アフはオフ(大)に通じ、山城から近江に越える大坂なるを以て名を得たのであるが、大和の大坂と區別する爲に、特にアフサカと稱へたものと思はれる。神功紀に官軍が忍熊王の軍に出會したから、逢坂と名づけたとあるのは、類型の多い戯説で、名號所由の根據とすることは出來ぬ。然るに次の歌には少女ラに〔右○〕相坂山とあり、第十、十五卷にはワギモコに〔右○〕相坂山とも用ひ、蝉丸が「これやこの行くも歸るも別れては知るも知らぬもあふ坂の關」と詠じたのは【後撰】、アフに逢の義があるから言ひかけたので、孝徳紀には合坂山とも書かれて居る。
【大意】 大和の奈良山を越え、山城の綴喜の原を過ぎ、宇治川を渡り、瀧の屋のアゴネの原を千秋萬歳もかゝさず通はうと(思ひ)、山科の石田の森の皇神に幣を手向けて、自分は相坂山を越えて行く
 
或本歌曰
 
3237 緑青吉《アヲニヨシ》 平山過而《ナラヤマスギテ》 物部之《モノノフノ》 氏川渡《ウヂカハワタリ》 未通女等爾《ヲトメラニ》 相坂山丹《アフサカヤマニ》 手向草《タムケグサ》 絲〔左△〕取置而《シデトリオキテ》 我妹子爾《ワギモコニ》 相海之海之《アフミノウミノ》 奥浪《オキツナミ》 來因濱邊乎《キヨルハマベヲ》 久禮久禮登《クレクレト》 獨曾我來《ヒトリゾワガクル》 妹之目乎欲《イモガメヲホリ》【三二三七】
 
あをによし 奈良山過ぎて もののふの 宇治川わたり をとめらに 逢坂山に 手向草 しで〔三字右○〕取(63)りおきて 我妹子に あふみの海の 沖つ波 來よる濱邊を くれくれと 獨ぞ我がくる 妹が目をほり
 
あをによし(緑青吉) 枕詞(前出)
ならやますぎて(平山過而)
もののふの(物部之) 物部《モノノベ》の八十氏といふ縁によつてウヂ(宇治)川の枕詞に用ひたのであるが、此當時は既にモノノフ〔右○〕と轉呼して居たと見えて、本集には母能乃布〔右○〕、毛能乃布〔右○〕、物能乃敷〔右○〕、物能乃布〔右○〕、物乃布〔右○〕等と表記した例がある。さりながら此句の如きは尚モノノベ〔右○〕と訓んでも差支はなく、其をモノノフベの約縮なりとした宣長説の妄誕なることは、神代篇第五卷(二三六頁以下)に詳論した通りである。
うぢかはわたり(氏川渡)
をとめらに(未通女等爾) アフ(逢)の序的枕詞で、次に我妹子に相海之海とあると同工異曲である。
あふさかやまに(相坂山丹) 次の二句によれば此峠には靈神が祭られて居たものと思はれる。今も關明神の社がある。
たむけぐさ(手向草) クムケは上記の如くトリムケと同義で(第六一頁)、神供を貢ることをいひ、クサは艸卉の多種多樣なることから縛じて品物の意に用ひられ、手に持つものをタクサ(手草)と稱するやうに【記】手向の料即ち幣帛をタムケグサと稱へたのである。
しで〔二字右○〕とりおきて(絲〔右△〕取置而)舊訓イト〔二字右△〕トリオキツツ〔二字右△〕とあり、眞淵はヌサ〔二字右△〕トリオキテ〔右○〕と改め、其他イ〔右△〕トリオキ(64)テ【新考】、イト〔二字右△〕トリオキテ【新訓】と訓んだものもあるが、手向草イト(絲)とはつゞかず、絲はイト〔右○〕即ち縒合はせたイ(糸〔右○〕)といふ意であるから、トを略してイの假字に用ひたものと解することは困難であり、――而をツツと訓むべき理由のないことは勿論である――ヌサとすれば意は通ずるが餘りに字義を離れ過ぎて居るから、元暦校本の旁書に綵〔右○〕とあるに從ひ、シデ〔二字右○〕と訓むべきであらう。綵は彩糸の義で、種々の色を配合したものをいひ、シドリ即ちシヅオリ(倭文)、シヅハタ(綵布)、シヅクラ(綵鞍)、シヅタマキ(綵手卷)等のシヅにあたるから、シデ(垂)の假字に用ひられたのであらう。本集第六卷にも「木綿取シデテ行かむとぞ思ふ」といふ用例があり、木綿は通例|垂《シデ》かけて供進するによりユフシデといふ熟語を生じ、略してシデといひ、幣の義にも用ひられるが、此は前句に既に幣に相當する手向草といふ語があるから、之をシデルといふ意と思はれる。トリリオキテのトリは準接頭語であるから(第六一頁)、手向草をシデ置キテといふと大差はない。
わぎもこに(我妹子爾) ワガ(我)イモ(妹)を連約してワギモとした例は仁徳天皇の御製にもあり【記】、之に愛稱のコ(子)をそへたワギモコは隼別皇子の歌にも見える【紀】。此句も亦アフミ(近江)の枕詞であるが、同型の序を重ねたのは巧妙なる文飾と見ることが出來ぬ。あふみのうみの(相海之海之) 淡海とも書くによりアフミは淡水の海の義なりとするのが通説であるが、シホミヅ(鹹水)に對してマミヅ(眞水)をアハミヅと稱へた例はなく、アハ(淡)の原義はアワ(沫)で、水の修飾たり得べき語ではないから、アフミのアフは相坂の場合と同じく大の意とすべきで、大水《アフミ》の義を以て大(65)湖に與へた名稱であらう。其故に琵琶湖には限らず、濱名湖にも同じ名を負はせ、近ツと遠ツとを冠して區別したのであるが、近江にのみ其名殘を留め、單にアフミといへば琵琶湖と了解せられ、其所在國名にも轉用するやうになつたので、特に湖水をいふ爲には更にウミ(海)といふ語を添付することを要とした。ウミも亦ウ(大)ミ(水)の謂であるが、アフミが固有名詞化した上のことであるから、同義語の重複を不可としなかつたのである。
おきつなみ(奥浪) 沖ノ〔右○〕浪の謂であるが、ツといふ助語を以て連繋したのは、熟語の形式を備へしめんが爲である。
きよるはまべを(來因濱邊乎) キヨルは來リ寄ルといふ意。此句によれば作者は湖岸を陸行したものと思はれる。
くれくれと(久禮久禮登) クルクル(轉々)トの轉呼で、辿り行くことの形容に用ひたのである。本集第五卷にも用例がある。
ひとりぞわがくる(獨曾我來) 我獨リ來ルといふ意で、ゾは強意の助語である。
いもがめをほり(妹之目乎欲) 妹の目を見たさにといふことであるが、目は容姿の代表として用ひられたので、天智天皇の御製にも「君が目〔右○〕のこほしきからにはてゝ居てかくや戀ひむも君ガ目〔右○〕ヲ欲リ」とあり、本集には第四卷、十一卷、十五卷等に用例がある。
【大意】 奈良山を過ぎ、宇治川を渡り、相坂山に手向草を垂でかけて、近江の海の沖つ波の來(66)寄せる濱邊を辿り辿り獨り旅する。戀人の顔を見たさに
右によれば此歌は近江に居住する愛人に逢ふために、道々奈良の都から下向した人の作で、路次の地名を詠み入れたことは前の歌と趣を同じうするが、其異傳ではなく、先學の説の如く全然別個の歌とせねばならぬ。但し反歌は二首いづれに附屬するものと見ても差支はないから、或は偶然暗合したが爲に、本歌も亦同じ歌の別傳と誤解せられたのかも知れぬ。
 
反歌
 
3238 相坂乎《アフサカヲ》 打出而見者《ウチイデテミレバ》 淡海之海《アフミノウミ》 白木綿花爾《シラユフハナニ》 浪立渡《ナミタチワタル》【三二三八】
 
あふ坂を うち出でて見れば あふみの海 白ゆふ花に 波たちわたる
 
右三首
 
あふさかを(相坂乎) 此ヲはヨに通じ、相坂カラといふ意である。
うちいでてみれば(打出而見者) 一音過剰であるが、イデ(出)のイはイ〔右○〕リ(入)、イ〔右○〕ニ(去)、イ〔右○〕キ(行)の如く活用せられ、行動を意味する語幹であるから、可能なる限り省約せぬことを可とする。ウチは語勢を強める爲の準接頭語である。
あふみのうみ(淡海之海) 神功紀には阿布瀰能瀰と假字書した例もあるが、既設の如くウミのウに意義があ(67)るのであるから、右のイデと同じく可能なる限り連約せぬ方がよい。
しらゆふはなに(白木綿花爾) 本集第六卷及九卷にも白木綿花ニ落タギツ云々とある所を見ると、此名を以て呼ばれた品物が落流奔波の比況たるに適したことは疑なく、ユフは木質繊維の總稱で、種名ではないから【語誌】、造花をいふものと思はれるが、其製式は傳へられて居らぬ。第十二卷に白香〔二字右○〕付木綿ハ花物〔二字右○〕とあり【二九九六】、同じ語句が第三卷の大伴坂上郎女祭神の歌には賢木之枝ニ白香〔二字右○〕付木緜取付而【三七九】と用ひられて居るから,シラガといふものを装著した木綿をユフ花と稱したものとすべきで、或は第十九卷孝謙天皇の御製に、白香著〔三字右○〕朕《ワ》ガ裳ノ裾ニ鎭《イハ》ヒテ待タムとあるやうに、高貴の女性の御裳の裾にも取附けたものと思はれる。之によつて想像するに、全木綿《ウツユフ》即ち尚未だ抽線せざるユフに梳をいれて之を捌き、白髪を解いたやうに波を打たせたものをシラガと呼び、賢木の枝に懸垂する爲に、長い木綿の一端に此|加工《プロセス》を施したものを木綿花とも、白木綿花とも稱へたのではあるまいか。若し然りとすれば之を落流奔波に見たてたことは極めて有り得べきである。助語のニは「のやうに〔右○〕」といふ意に用ひられたので、ヤウといふ語分子の發生以前には、比況はノ、ナス(ノス)、ト、ゴト(ゴトク)といふ助語又は準助語を以て表現せられることを例としたが(要録九八五頁)、トの代りにニを用ひても其意と了解せられたのである。蓋し補足語の標識たるトとニとは、落花雪ト〔右○〕紛フを雪ニ〔右○〕紛フともいひ得るやうに、相通する點があつたのである。
なみたちわたる(波立渡) 波が白木綿花のやうに立ちわたるといふ意。
【大意】 逢坂から出て見ると、近江の海に白木綿花のやうに波が立わたる
 
(68)3239 近江之海《アフミノウミ》 泊八十有《トマリヤソアリ》 八十島之《ヤソシマノ》 島之埼邪伎《シマノサキザキ》 安利立有《アリタテル》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 末枝爾《ホツエニ》 毛知引懸《モチヒキカケ》 仲枝爾《ナカツエニ》 伊加流我懸《イカルガカケ》 下枝爾《シヅエニ》 此米乎懸《シメヲカケ》 己之母乎《サガハハヲ》 取久乎不知《トラクヲシラズ》 己之父乎《サガチチヲ》 取久乎思良爾《トラクヲシラニ》 伊蘇婆比座與《イソバヒヲルヨ》 伊加流我等此米登《イカルガトシメト》【三二三九】
 
近江の海 とまり八十あり 八十島の 島のさきざき ありたてる 花橘を ほつえに もち引きかけ 中つ枝に いかるがかけ しづ枝に しめをかけ さが母を 取らくを不知《シラズ》 さが父を 取らくを知らに いそばひをるよ いかるがとしめと
 
右一首
 
あふみのうみ(近江之海) 前出
とまりやそあり(泊八十有) トマリは湖水を航する船舟の泊地をいひ、ヤソは後世字の如く專ら十の八倍の謂と了解せられるやうになつたが、本來多數を意味するヤ(彌)に第二位數稱ソを連ねたものや、十位の若干數といふほどの意である。――以上二句は八十島をいはんが爲の序である。
やそしまの(八十島之) 多くの島のといふ意。琵琶湖上には八十島といふ表現を用ひるほど多くの離島は存在せぬから、此シマは原義によりスマ(洲間)即ち沿岸の砂岬を意味したのであらう。
しまのさきざき(島之埼邪伎) 右の如くシマが如實の島嶼を意味せぬとすれば、此サキザキも陸岸の岬角の(69)義と解せられる。要するに到所といふほどの意である。
ありたてる(安利立有) アリは現存の意を以て冠せられた準接頭語で、單にタテル即ち立つて居る(生えて居る)といふと大差はない。此安利立を立有と同一視して次の有を衍としアリタツと訓した新考説は甚しき妄誕で、助動詞は其性質上動詞に先行することを許されず、記の八千矛神の歌のアリ〔二字右○〕タタシ、アリ〔二字右○〕カヨハセをタタシアリ(タタセリ)、カヨハシアリ(カヨハセリ)即ち「立つて居られ」「通うて居られ」と解することは出來ぬ。國語に於ては排列の順序は極めて大切で、同じ語(又は語分子)から成立して居るといふことの故を以て、ノミミヅ(飲料水)とミヅノミ(飲器)とを同義語なりとすることは何人も容認すまい。
はなたちばなを(花楠乎) タチバナは宣長説の如くタチマ〔右○〕ナの轉呼で、垂仁朝タヂマモリ(田道間守、多遲麻毛理)が常世國から將來したナ(菓實)なるにより、此名を負うたのであるが、本來暖國原産なるが故に温帶の我國に於ては漸次退化し、菓實よりも寧ろ芳香のある花を珍重するやうになり、之をハナ(花)タチバナ(橘)と稱へ、之に對して菓實即ち橙は、變質しても尚食用たるにより、アヘ(饗)タチバナと呼ばれた。句末のヲはヨに通じ、こゝでは間投詞として挿入せられたので、目的格を表示するものではない。
ほつえに(末枝爾) ホツはホ(秀)の接頭形態で、――ツは本來連繋助語である――ホツエといへば上枝を意味する。
もちひきかけ(毛知引懸) 和名抄に唐韵を引いて黐、所2以黏1v鳥也、和名毛知とあり、植物性の膠質物を意味し、集中にはモチ鳥といふ用例もあるから【第五卷】、此當時は既に世に知られて居たものと思はれるが、(70)ヒキカケ(延注)といふ連語を用ひた所を見ると、液體状のものであつたと思はれる。
なかつえに(仲枝爾) ナカツも亦ナカ(中)の接頭形態である。
いかるがかけ(伊加流我懸) 雄略紀に膳臣斑鳩といふ名が見え、斑鳩此云2伊何屡餓1と註せられて居るが、此名號は鳥名から出たのではなく、同僚難波吉士赤目子〔三字右○〕と同樣に、イカル子《ガ》の謂で、イカルは神代紀に嚴顔〔二字右○〕の訓とせられて居るやうに、イカ(嚴)から出た語であるから、嚴メシイ顔の持主であつたが故に、此名を負うたものと思はれる。斑鳩をイカルガと稱するのも同義によるもので、此鳥が其體躯に似合しからぬ大なる嘴を有し、且顔面が黒色であるからであらう。――著聞集に「イカルガよ豆ウマシとは誰もさぞヒジリコキとは何を鳴くらむ」とある所を見ると、異名を豆ウマシと稱へたものとすべきで、今も豆マワシと呼稱する。ヒジリコキは共鳴聲を模したのであらう。――上宮太子の宮居の地をイカルガと稱へた所を見ると、種名と了解せられたのも相當に古いことであつたとせねばならず、靈異記、本草和名、和名抄等には鵤の字に此訓を與へて居る。生鳥を木の枝に繋ぎ据ゑて、同類又は他鳥を誘ひ寄せることは、今もヲトリ(囮)をカケル〔三字右○〕といふのである。
しづえに(下枝爾) シタ及シモ(下)の語根はシで、シ〔右○〕リ(尾)、シ〔右○〕デ(垂)、シ〔右○〕ヅ(沈)等の語幹としても用ひられて居るが、之に連繋助語ツを連ねるとシツとなり、接頭語分子とせられた。
しめをかけ(此米乎懸) 本集第一卷軍王の歌の左註に舒明天皇の伊豫湯宮行幸の時、宮前の二樹に斑鳩と此米とが大集したとあり、和名抄には※[旨+鳥]に此訓を與へ、小青雀也とあるが、現今シメと稱へて居る鳥はイカ(71)ルガと同じく大喙を有するもので、抄に鴒和名比〔右△〕米とあるにあたるものゝやうである。名號の所由不明。
さがははを(己之母乎) 字に從へはオノ〔二字右○〕ガハハであるが、律調上己は一音に訓まねばならぬ。舊訓にサ〔右○〕ガハハとあるのは之が爲で、此歌の外にも後記の如く己之または己は、オノ(ガ)と訓むべき場合の外は、盡くサガと訓してあるのであるが、音標を以て表現した例はなく、中古の歌文には殆ど其姿を没したので、契沖以下の學匠を誤らせ、或はシガの通音なりとし【代】、或はナガ【考】【新考】【新訓】、ワガ【記傳】》、シガ【略解】【古義】と改訓した。私もサガを不當として上二句がシヅエニ、シメヲカケとあつて、シ音の頭韻を押して居ることに鑑み、少くとも此歌に在つてはシガ〔二字右○〕と訓ませるつもりで己之の字を用ひたものと推定したことがあつたが【訓詁】、本集に己之または己をサガと訓したのは此歌に止まらず、次の如く多くの例がある。
 【一七四一】己之《サガ》心柄
 【一七五五】己《サガ》父爾……己《サガ》母爾
 【二九八三】己之景跡故《サガココロカラ》
 【三二三九】己之《サガ》父乎
 【三二七二】己之《サガ》家|尚《スラ》乎
 【三三一四】己《サガ》夫之
 【三八〇八】己《サガ》妻尚乎
之を盡く書損と見ることは出來ぬから、少くとも點者は意識して此訓を用ひたものとすべきで、集中數多く用ひられた吾、我、余、汝、其の字を一もサと訓した例のない所を見ると、己をサと稱へる理由があると信ぜられたことは事實と斷定すべきである。されば假に其が不當であるとしても誤訓の由つて來る所以を明にするのは後學の義務であり、其に先つてサといふ代名詞が曾て存在し、或時代以降廢用になつたのでは(72)ないかと考へて見る必要がある。案ずるに己は字書によれば身也私也とあり、自稱に用ひられる字であるが、吾、我、余等とは多少用途を異にし、我國に於ては通例オノ又はオノレといふ語に充當せられるから、オノの原義から考察を始めねばなるまい。此語がアナ(吾汝)と通ずることは、神代紀に大己〔右○〕貴此云2於褒婀娜〔二字右○〕武智1とある訓註によつて疑なく、アナ(オノ)は自他に共通なる特種人代名詞で(要録九三六頁)、ウラル・アルタイ語、インド・ゲルマン語乃至漢語には例のないことであるが、マレー・ポリネシア語系及パプア・メラネシア語には通有である。西洋人は之を第一人稱複數の一形と見なし、我々といふ意の普通の形態と區別する爲に、後者の exclisive に對し inclusive といふ名を與へたが、嚴密にいへば一人稱ではないから、私は常に自他稱と呼んで居る。マレー・ポリネシア就中タガル・フイジ語の影響至大なる國語に於ては、――其は私の多年の研究によつて明にせられた事實で、遠からず公表する豫定である――此人稱を取入れてオノ(アナ)といふ語を以て表現し、己〔右○〕の字をあてたのであるが、漢語の普及に伴ひ、其語法中に見ることの出來ない此代名詞に關する意識が漸く不明瞭になり、オノガといふ形に於て專ら第一人稱所有代名詞に用ひられるやうになつた。さりながら之に接尾語レ(ラの變形)を連ねたオノレは尚第二人稱とも了解せられ、疊合語オノオノが各自の義となつたのは、いづれも原義にもとづくものである。マレー・ポリネシア語に於て自他稱を表現するにはタ〔右○〕といふ音を用ひ、タガル・フイジ系に屬する高天原人によつて我國土にも將來せられたのであるが、オノ(アナ)といふ表現法が發生したので、タは不定(疑問)代名詞に轉用せられて「誰」の義を表示し、ドと轉呼しては「孰」「何」の意とせられた。然るにオノが上記の(73)如く第一人稱化するに及び、本來の自他稱乃至各自の意を表示する爲に、發音の近似によつてタ〔右○〕をサ〔右○〕と轉呼し、――中央カロリン語でもシ〔右○〕いふ――原義を代表させたことは極めて有り得べきで、奈良朝時代までは尚此語が存續し、少くとも各自の義に用ひられたものと思はれる。さればこそ平安朝初期の作と稱せられる竹取物語にも「御迎に來む人をば長き爪して眼を掴み潰さむ、サ〔右○〕が髪を取りてかなぐり落さむ、サ〔右○〕が尻を掻き出でゝ許多《ココラ》のおほやけ人に見せて耻見せむ」(岩波文庫本による)とあるので、此サを各自即ち口語のメイメイと譯すればよく通ずるのである。
 己は字義によるもナ(汝)又はシ(其)と訓むべき理由がないから、考以下の訓は臆斷とすべきで、ワ(ア)と譯し得られぬことはないが、上記の如く無數の第一人稱表示に此字を用ひなかつた所を見ても、古人はオノとワ(ア)との差別を明白に意識して居たものとせねばならず、オノ又はオノガに己の字をあてた例は【一一六】【九四六】【一一六五】【一三〇五】【一三四八】【一四四六】【一七三八】(二例)【一七四四】【二〇〇四】【二一三九】【二六五一】【二八六八】【三〇九一】【三七九一】の十五ケ所に見えるが、――【一二八六】の己時立雖榮は舊訓オノガ〔三字右○〕トキタチサカユトモとあるが、サガ〔二字右○〕時ト〔右○〕と訓むを可とする――ワ(ア)ガ、ナガ、シガと訓したものは一つもない。以上の如く論究すると、此句もまたサガハハヲとある舊訓を復活し、各自(メイメイ)即ち斑鳩と此米との母をといふ意とせねばならぬ。次の己之父乎も同樣である。
とらくをしらず(取久乎不知) クはコ(此)から分化した語分子で、「事」又は「者」の意を以て、動詞の連體法(各時格)に接續し、名詞形を作るに用ひられるのであるが、可能なる限り前續母韻を a に轉化することを例(74)とし、取ル――取ラ〔右○〕ク(取ルコト)、取ラム――取ラマ〔右○〕ク(取ラムコト)、取リシ――取リシク(取リシコト)の如く用ひられる。
さがちちを(己之父乎)
とらくをしらに(取久乎思艮爾) ニは打消助動詞ヌの連用形であるが、夙に廢用となり、今では專らズを用ひる。
いそばひをるよ(伊蘇婆比座與) イは接頭語、ソバヒはソヒ(副)の進行格(要録九六六頁)で、竝び居るといふほどの意である。さればこそ後句にイカルガと〔右○〕シメと〔右○〕とあるので、ソヒをイソヒというた例は應神紀にもある。
いかるがとしめと(伊加流我等此米登)
【大意】 近江の湖《ウミ》に八十の泊地《トマリ》がある。その八十の洲間《スマ》の岬々《サキザキ》に生えて居る花橘の上枝に黐《モチ》を延注《ヒキカ》け、中枝に斑鳩を繋ぎ、下枚に鴒《シメ》を繋ぎ、各自の母を捕り、各自の父を取ることを知らず、(其)斑鳩と鴒とは(無心に)ならび居るよ
寓意のありげな歌であるので、二鳥は高市皇子と大津皇子に譬へたのであらうといふ説もあるが(古義)、聊か穿ち過ぎで、湖邊航過に際し、眼に映じた光景を敍したものと見ても、間然する所のない藝術作品である。
 
(75)3240 王《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 雖見不飽《ミレドアカヌ》 楢山越而《ナラヤマコエテ》 眞木積《マキツム》 泉河乃《イヅミノカハノ》 速瀬《ハヤキセヲ》 竿刺渡《サヲサシワタリ》 千速振《チハヤブル》 氏渡乃《ウヂノワタリノ》 多企都瀬乎《タキツセヲ》 見乍渡而《ミツツワタリテ》 近江道乃《アフミヂノ》 相坂山丹《アフサカヤマニ》 手向爲《タムケシテ》 吾越往者《ワガコエユケバ》 樂浪乃《サザナミノ》 志我能韓埼《シガノカラサキ》 幸有者《サキクアラバ》 又反見《マタカヘリミム》 道前《ミチノクマ》 八十阿毎《ヤソクマゴトニ》 嗟乍《ナゲキツツ》 吾過往者《ワガスギユケバ》 彌遠丹《イヤトホニ》 里離來奴《サトサカリキヌ》 彌高二《イヤタカニ》 山文越來奴《ヤマモコエキヌ》 劔刀《ツルギタチ》 鞘從拔出而《サヤヨヌキイデテ》 伊香胡山《イカゴヤマ》 如何吾將爲《イカニワガセム》 往邊不知而《ユクヘシラズテ》【三二四〇】
 
大君の 勅《ミコト》かしこみ 見れどあかぬ 奈良山こえて まきつむ いづみの川の はやき瀬を 竿さしわたり ちはやぶる 宇治のわたりの たきつせを みつつ渡りて 近江路の あふ坂山に 手向けして 吾が越え行けば さざなみの しがのから崎 さきくあらば 又かへり見む 道のくま 八十くま毎に 嘆きつつ 吾が過ぎゆけば いや遠に 里さかり來ぬ いや高に 山も越え來ぬ 劔大刀 さやよ拔き出でて いかご山 いかに吾がせむ 行方しらずて
 
おほきみの(王) 王の訓はオホギ〔右○〕ミであるが、此大君は天皇の御事であるから、オホキミと清《ス》んで發音せねばならぬ。
みことかしこみ(命恐) ミコトは御言の謂で勅旨を意味する。カシコミは既述の如く畏シと思フといふ意で(76)(第一八頁)、反歌の左註によれば穗積朝臣老の佐渡配流途上の作とあるから、大君の命恐ミは左遷の勅命を恐懼しといふ意であらう。
みれどあかぬ(雖見不飽) 此は次句の奈良山の修飾である。
ならやまこえて(楢山越而) 前出
まきつむ(眞木積) マキは眞材《マキ》の詞で、杣木その他の雜木に對し、建築用材たる樹木を意味する。積は舊訓ツメルとあるが、積んで居るといふのではなく、眞木を船に積込む泉川の謂であるから、雅澄訓の如くツムであらねばならぬ。
いづみのかはの(泉河乃) イヅミカハは木津河の別名で、崇神紀(記)に武埴安彦が官軍の將と相挑んだが故に、イドミと呼ばれ、イヅミとも轉呼せられたとあるのは、古傳説に例の多い戯説に過ぎず、相樂郡水泉(以豆美)郷【和】に存した湧泉を名に負うたのである。其附近を瓶《ミカ》ノ原と稱へるのも水處《ミカ》ノ原の謂で、同じくイヅミ(泉)から出たのであらう。木津川ともワカラ川とも稱するが、いづれも局地名で、本稱は山背《ヤマシロ》川である。
はやきせを(速瀬) セはフチ(淵)に對し、河身中水が淺く、流の早い部分をいひ、恐らくは山のセと同じく脊梁の意を以て此名を得たのであらう。
さをさしわたり(竿刺渡) サヲの本義は直桿であるが、特にミサヲ即ち棹をいふに用ひ、之を行使することをサスと稱へる。
(77)もはやふる(千速振)
うぢのわたりの(氏渡乃) 〔二行にかっこをつけて既出とあり。〕
たぎつせを(多企都瀬乎) タギが急湍を意味することは既述の通りで(第四四頁)、タギチといふ動詞を派成した。此タギツは其連體法である。
みつつわたりて(見乍渡而) ツツは行爲の反復を表示する助語で、疊合の見々《ミミ》とほゞ効力を同うする。之を完了の見ツを重ねたものとするのは大なる誤りである。
あふみぢの(近江道乃)
あふさかやまに(相坂山丹) 前出。近江國に越える坂なるが故に近江路といふ語を冠したのである。
たむけして(手向爲) 前出
わがこえゆけば(吾越往者) 七句を隔てゝ吾過往者と對立し、共に彌遠丹以下の前提である。
さざなみの(樂浪乃) サザナミは既記のサザレナミと同義であるが(第二二頁)、此は湖水の南部一帶の地名に轉用せられ【近江風土記】、更に轉じて滋賀、大津等の枕詞に用ひられた。
しがのからさき(志我能韓埼) シガは本來海人族の一支の族稱であるが、其居住地の名にも轉用せられたので【語誌】、今も縣名、郡名として殘つて居る。カラ埼も亦|韓《カラ》を名に負うたのであらうが、カラといふ語音に辛の義もあるから、辛い目を見ても無事であつたらといふ意を寓してサキクアラバと續けたので、後句にマタカヘリ見ムとあるが、必しも此地に再來せんことを要望したのではなく、經由地名を巧に取入れ、(78)且カラサキ〔二字右○〕、サキ〔二字右○〕クと韻を疊んで次句以下の序に用ひたものと解すべきであらう。第一卷柿本朝臣人麿の歌にも樂浪之思賀之辛崎|雖幸有《サキクアレド》とある。
さきくあらば(幸有者) サキはサチ(幸)と通じ、サキハヒ(サチハヒ)の如く活用せられ、サキクは其形容分詞形で、此状態の實在することをサキクアリ〔三字右○〕といひ、助動詞〔三字右○〕アリと連結して用ひる場合にはサキカリと稱する。之は前者に屬するから、眞淵訓の如くサキカラバと連約することは出來ぬ。
またかへりみむ(又反見) 再び歸つて見ようといふ意であるが、此見ムは次句の道につゞく連體法である。
みちのくま(道前) クマの原義は木間《クマ》即ち樹木の生ひた地區《マ》をいふのであるが、其やうな地形には概して陰翳が多いから、一般に物蔭といふ意に轉用せられ、更に曲隅をもクマと稱へるやうになつた。此ミチのクマも亦道路の屈折點を意味するのである。前をクマと訓む理由を詳にせぬが、和名抄にも大和國高市郡檜前は比乃久末〔二字右○〕と訓せられ、紀伊國の日前神社はヒノクマ〔二字右○〕の社と稱へるから、或は丘の前〔右○〕(岬)に於て道路が屈折し、曲阿を生ずることの故を以て此字をあてたのかも知れぬ。
やそくまごとに(八十阿毎) ヤソは上記の如く十位の多數といふほどの意で、阿には曲隅の意があるから、クマの假字に充當したのである。
なげきつつ(嗟乍) 嘆キ嘆キといふ意。ナゲキはナガ(長)イキ(息)の連約で、長大息をいふのである。
あがすぎゆけば(吾過往者) 作者は湖水の西岸を陸行したものゝやうである。
いやとほに(彌遠丹) 益々遠クといふ意。
(79)さとさかりきぬ(里離來奴) サカリはサケ(避)から分化した自動詞で、サケはサキ(割)から出た語であるから、距ダタル又は遠ザカルといふ意になるのである。
いやたかに(彌高二) 益々高ク
やまもこえきぬ(山文越來奴) 以上四句は本集第二卷の人麿の歌【一三一】にも用ひられて居るが、之を模倣したといふわけではなく、當時の慣用句であつたのであらう。
つるぎたち(劔刀) 既出(第三一頁)
さやよぬきいでて(鞘從拔出而) 從の字舊訓ヲとあり、ヨとヲとは相通ずるが(要録一〇〇一頁)、尚字に從うてヨ(又はユ)と訓むを可とする。ヌキは今では他動詞としてのみ用ひられるが、古は自他兩用であつたから、ヌケ〔右○〕イヅをもヌキイヅといひ、ヌキンヅと訛つて今も熟語的に用ひられて居るのである。此は名刀が鞘から拔出でゝカガ〔二字右○〕ヤクといふことをイカゴ〔二字右○〕山に言ひかけると同時に、其山の峻拔を連想せしめる手段に用ひたのである。――雅澄はイ繋《カ》クにかゝると説いたが、其場合には拔放チテ〔四字右○〕といふ能動的表現を用ひねばならぬ。
いかごやま(伊香胡山) 近江國伊香郡の山をいふ。今は部名をイカと稱へて居るが、和名抄には伊加古と訓してある。此は經由地名を取入れて次句の序に用ひたのである。
いかがわがせむ(如何吾將爲) イカガはイカイカを連濁した副詞形で、イカニと同義である。古歌に用例なしとしてイカニカと訓むべしとする説は誤りで、上句イカゴと韻を踏んだのであるから、イカガであらね(80)ばならぬ。
ゆくへしらずて(往邊不知而) 身の行方も知らぬといふのであるから、短期の行旅ではなく、上述のやうに配流途上の作とすべきである。
【大意】 勅命を惶み、見飽かぬ奈良山を越えて、泉川の早瀬を竿さし渡り、宇治川の急湍《タギツセ》を見つゝ渡河し、近江路の逢坂山(の神)に手向して峠を超え、志賀の辛埼を經て、無事ならば復立歸り見ることもあらうと、道の曲折の度毎に嘆き嘆き過ぎて行くと、里は益々遠く離れ、越え行く山は益々高く、伊香山は(前面に)聳立して居る。行方も知らぬ自分は何としよう
 
反歌
 
3241 天地乎《アメツチヲ》 難〔左△〕乞祷《ナゲキコヒノミ》 幸有者《サキクアラバ》 又反見《マタカヘリミム》 思我能韓埼《シガノカラサキ》【三二四一】
 
天地を なげきこひのみ 幸くあらば 又かへり見む しがのから崎
 
右二首、但此短歌者或書云、穗積朝臣老配2於佐渡1之時作歌者也
 
あめつちを(天地乎)
なげきこひのみ(難〔右△〕乞祷) 舊訓コヒネギガタシとあるが、難〔右○〕を歎〔右○〕の誤寫として頭記の如く解讀した眞淵訓の方がよいやうであるから姑く之に從ふ。但し現存の諸寫本中一も刊本と相違するものがないから、或は難(81)は誤記ではなく、之を借字と見てカタク(固)コヒネギと訓むのかも知れぬ。いづれにしても乞祷の對象は天地で、後世ならばアメツチニ〔右○〕といふべきを、天地乎〔右○〕としたのは、武内宿禰の歌に我ヲ問ハス〔四字右○〕ナ【仁徳紀】とあると同じく、コヒ(乞)も亦他に目的語のない場合には、對象を表示する名詞(代名詞)の第四格を支配したのであらう。獨逸語の fragen(乞)も同樣である。
さきくあらば(幸有者)
またかへりみむ(又反見)〔二行にかっこして、前出とあり。〕
しがのからさき(思我能韓埼) 前出。此は明に辛埼を復立かへり見ようといふ意である。
【大意】 天地(の神)に愁祷して、幸に無事であつたら、又立歸り滋賀の辛埼を見よう
 
左註の穗積朝臣老は、續紀によれば養老六年正月乘與を指斥する罪に坐して斬刑に處せらるべきを皇太子の奏によつて死一等を減じて佐渡島に配流せられたとある。第三卷【二八八】に志賀行幸の供奉中同人の作とある吾命之眞幸有者亦毛將見志賀乃大津爾|縁流《ヨスル》白波といふ歌も亦配流途上の詠を誤傳したのであるかも知れぬ。
 
3242 百岐年《モモキネ》 三野之國之《ミヌノクニノ》 高北之《タカキタノ》 八十一隣之宮爾《ククリノミヤニ》 日向爾《ヒムカニ》 行靡闕矣《ユキナビカクヲ》 有登聞而《アリトキキテ》 吾通道之《アガカヨフミチノ》 奥十山《オキソヤマ》 三野之山《ミヌノヤマ》 靡得《ナビケト》 人雖跡《ヒトハフメド》 如此依等《カクヨレト》 人雖衝《ヒトハツケドモ》 無意山之《ココロナキヤマノ》 奥磯山《オキソヤマ》 三野之山《ミヌノヤマ》(82)【三二四二】
ももきね 三|野《ヌ》の國の 高北のくくりの宮に ひむかに 行きなびかくを ありと聞きて 吾がかよふ道の おきそ山 三野のやま なびけと 人はふめど かくよれと 人はつけども 心なき山の おきそ山 みぬの山
 
右一首
 
ももきね(百岐年) 舊訓モモク〔右△〕キネとあるが、字によればモモキネといふ外には讀みやうがないから、佐佐木訓に從ふべきである。キネのネはヤ(屋)ネ〔右○〕、ハ(羽)ネ〔右○〕等の如く發音の便宜上、單音の語に添加せられる接尾語で、單にキ(木)といふと意義に於ては相違がなく、杵の字も今では通例キネと訓まれるが、杵築《キツキ》、杵島《キシマ》、彼杵《ソノキ》の如き古い地名にはキの訓假字に用ひられ、閉伊地方ではキギと稱する。モモキ即ち百樹は後掲の百|小竹《シヌ》之三野【三三二七】と同じく、「野」にかゝる枕詞で、モモは原義により衆庶を意味し、樹木の多いことを形容したのである。此見易い言ひかけを察し得ずして、百詩〔右△〕年、百枝〔右△〕年、百傳布〔二字右△〕等の誤記と推定したのは、所謂凝つては思案に能はざるものか。
みぬのくにの(三野之國之) 美濃國をいふ。ミヌはマヌ(眞野)の音便か、然らずば夙に皇別(安寧天皇の皇子師木津日子命の裔)の所領となつたが故に、敬意を以て御野と呼稱せられたのであらう。いづれにしても原義は、ヌ(野)であるから、上記の如くモモキネ(衆木)を枕詞としたのである。
(83)たかきたの(高北之) タカキタは勿論地名であらうが、ククリの宮の遺跡と稱せられる可兒《カニ》郡久久利村界隈には此名號は殘つて居らず、高北の字義に適合する地勢でもないから、或は北〔右○〕は借字で、高キ田〔二字右○〕といふ意であつたかも知れぬ。大キ田の名を負うた豐後の大分の例によれば、久久利地方の舊稱がタカキタであつたことも絶無とはいへぬ。
くくりのみやに(八十一隣之宮爾) 景行天皇の行宮であつた泳《ククリ》宮【紀】をいふのであらうが、萬葉集時代まで宮號を有する建築が存續したとは考へられぬことであるから、此歌は官命を帶びて美濃の奥地に出張したものが、景行天皇の逸事を思ひ泛べ、之に擬して詠じたものとすべきである。從來難解とせられた次の二句も、此見地を以てすれば極めて容易に會得せられるのである。
ひむかに(日向爾) 日向は借字で、ヒムカはヒミコ(日御子)の轉呼である。筑紫の日向國も日御子即ち天孫の領土の謂であるといふことは「紀記論究」神代篇に反復論述した通りで(一−一八四頁)、本來地理的固有名詞ではないから、其疆域も不定であつたのである。此ヒムカ即ち日御子は天皇を意味するのであるが、スメラミコト又はオホキミと謂はずして此やうな古言を用ひたのは、上記の如く景行朝時代を髣髴せしめんが爲の技巧である。
ゆきなびかくを(行靡闕乎) クは上記の如く動詞から名詞を作るに用ひられる語分子で、「者」の意があるから(第四五頁)、行キ靡クモノ〔二字右○〕ヲといふ意であるが、古語ではユク(行)とク(來)とは相通じて用ひられたから(第二七頁)、此も日御子に來りなびくものをといふ意と解すべきである。
(84)ありとききて(有登聞而)
あがかよふみちの(吾通道之) 舊訓ワ〔右△〕ガカヨヒヂ〔二字右△〕ノとあるが、上句のキキテといふ分詞形は動態を以て承けねはならぬから、新考訓の如くカヨフミチ〔二字右○〕ノとせねばならず、八音となるが故に、ワガよりもア〔右○〕ガを可とする。カヨフの原義はヨブ(呼)に通ずるから(第六一頁)、此も往訪 call on の義に用ひられたものとすべきで、來往の謂ではない。
おきそやま(奥十山) 大木曾山の意。現在木曾山と稱へるのは信濃國西筑摩郡の山地で、以前は美濃國惠那郡に屬したけれども、久久利村よりは遙に東方に位し、歌の趣に合はぬから、或は上古加茂郡地方の山地をも引くるめて大木曾山と稱へたのかも知れぬ。
みぬのやま(三野之山) 大木曾山の對語として用ひられたので、此も一定の嶺嶽を指稱したのではなく、漠然路次の山地を意味したのであらう。京幾から東美濃に赴いた人の作なることはいふまでもない。――五音二句を一聯としたのは珍らしい句法で、歌形の固定せぬ以前の作と思はれる。終尾に此二句を繰返した所を見ると、以上十句を以て一齣としたのであらう。
なびけと(靡得) 舊訓ナビカストとあるのは、強ひて五言にせんが爲の賢しらで、後句のカクヨレトと對立するものであるから、命令法とせねばならぬ。靡ケと要望したのは人麿の歌の「妹が門見むナビケ此山」【一三一】と同樣に、目的地を見|放《サケ》んが爲か、然らずは安らかに到着せんことを欲したのであらう。
ひとはふめど(人雖跡) ヒトは不定代名詞として用ひられたのであるから、之を除いても差支はなく、作中(85)の主人公または其隨伴者と解してもよい。雖跡は舊訓の如くフメドモ〔右○〕としても差支はないが、前句が四音であるから、ヒトハフメドと六音に唱へる方が律調に適する。但し跡は踏の誤記か、又は故意に此字をあてたのか判明せぬ。――後掲【三二九五】の足迹〔右○〕貫、【三三一三】の石迹〔右△〕渡も足フミ〔二字右○〕ヌキ、石フミ〔二字右○〕渡りと訓むものゝやうである。
かくよれと(如此依等) カはコ(此)の音便、クも亦同語から分化したのであるが、上記のやうにコト(事)の意もあるから、ノが「のやうに」といふ意味の比況助語に用ひられるやうに、コトも亦「如《ゴト》」の義を生じ、カクだけでも如此と了解せられるのである。但しカクをココ又はコ(此)と同義に用ひることもあり、其場合には雄略天皇の御製【紀】【記】に見えるやうに、如此はカクノゴト〔二字右○〕と稱へられる。ヨレが寄の意の命令法なることはいふまでもない。
ひとはつけども(人雖衝) ツキ、フミは手足の動作であるが、事實を敍したのではなく、譬へていうたに過ぎぬ。
こころなきやまの(無意山之) 無情ノ山ナルといふ意で、句末の助語ノは此場合同位格表示である。
おきそやま(奥礒山)
みぬのやま(三野之山)〔二行にかっこを付けて「前出。靡ケト以下七句は第二齣である。」とある。〕
【大意】 美濃國の高北のククリの宮に日之御子に來り靡くものがあると聞いて、自分の行き向ふ道にある大木曾の山、美濃の山よ(第一齣)。靡けと蹈みたて、かう寄れと指さしても、無(86)情の山なる大木曾の由、美濃の山(は動かぬこと)よ(第二齣)
 
景行天皇の故事に擬したことといひ、豪宕なる氣魄が歌詞に溢れて居る所を見ても、此は高貴の人の作とせねばならず、句法からいうても奈良朝以前の作と思はれるから、私は之を敏達天皇の御孫で、左大臣橘宿禰諸兄等の父なる三野王の歌ではないかと推測するのである。此王子は壬申の亂に際し、御父栗隈王に從うて筑紫に寓居せられたが、近江朝廷の召兵の使者を威壓し、天武天皇に好意を寄せられたが故に、淨御原朝に重用せられ、奈良朝の初まで歴任して子孫大に繁榮した。其美濃國に所縁を有せられたことは名號によつても明で、御弟|武家《ムケ》王も同國武藝(牟介)郡【和】を名に負はれたのである。天武天皇の十三年二月地形視察の爲に三野王等を信濃國に差遣せられたとあるから、恐らくは其途上の作であらう。本卷には此王子の挽歌も收録せられて居るのである【三三二七】。
 
3243 處女等之《ヲトメラガ》 麻笥垂有《ヲケニタレタル》 續麻成《ウミヲナス》 長門之浦丹《ナガトノウラニ》 朝奈祇爾《アサナギニ》 滿來鹽之《ミチクルシホノ》 夕奈祇爾《ユフナギニ》 依來波乃《ヨリクルナミノ》 波〔左△〕鹽乃《ソノシホノ》 伊夜益舛二《イヤマスマスニ》 彼浪乃《ソノナミノ》 伊夜敷布二《イヤシクシクニ》 吾妹子爾《ワギモコニ》 戀乍來者《コヒツツクレバ》 阿胡之海之《アゴノウミノ》 荒礒之於丹《アリソノウヘニ》 殯菜採《ハマナツム》 海部處女等《アマヲトメドモ》 纓有《ムナガケル》 領巾文光蟹《ヒレモテルガニ》 手二卷流《テニマケル》 玉毛湯良羅爾《タマモユララニ》 白栲乃《シロタヘノ》 袖(87)振所見津《ソデフルミエツ》 相思羅霜《アヒオモフラシモ》【三二四三】
 
をとめらが 麻笥《ヲケ》にたれたる うみ麻《ヲ》なす 長門のうらに 朝なぎに みち來る潮の 夕凪に より來る波の 其しほの いや益《マス》々に その波の いやしくしくに 吾妹子に 戀ひつつ來れば あごの海の ありその上に 濱菜つむ 海人をとめども むながける 領巾《ヒレ》もてるがに 手にまける 玉もゆららに 白たへの 袖ふる見えつ 相思ふらしも
 
をとめらが(處女等之)
をけにたれたる(麻笥垂有) 和名抄には麻に乎一云阿佐と訓してあるが、ヲは尾と同源から分化した語で、アサ(麻)の繊維を意味し、之を續ぎあはせたもの即ちウミヲ(續麻)を垂れ入れるケ(笥)をヲケと稱へた。和名抄にヲケを桶の訓とし、汲2水於井1之器也とあるのは後世の轉義で、恐らくはミヅ(水)ヲケの上略であらう。之に對して火桶といふ語も源氏物語、枕草子、榮華物語等に見える。タレタルはタレテアルの連約で、タレテといふ事態の現在を意味し、完了時格のタレタルとは聊か意義を異にする。此相違はアルの職能が動詞か又は助動詞なるかによつて生じ、上古は之を區別する爲に、動詞として用ひられる場合には連約せぬことを例としたが、萬葉時代には既にいづれをもタレタリ(ル)等と唱へて混用した嫌がある。
うみをなす(續麻成) 麻の緒をつなぐことをウムといひ、長く續いで縷《イトスヂ》としたものをウミヲと稱へる。ナスは上述の如く比況助語で、「の如く」といふ意である。
(88)ながとのうらに(長門之浦丹) 長門國の海濱をもナガトのウラといへぬことはないが、ウラは通例海岸線中の一局部をいふに用ひられ、一國名を冠して伊勢の浦、相模の浦などと稱へることはない。後記の如く長門の萩灣をアゴの海とも呼稱するので、其地の汀浦の謂なりとする説もあるが、長門といふ名の起原は勿論長い水門即ち下之關海峽にあるのであるから、日本海側の一地域に此稱號を冠する筈はなく、要すれば阿武《アム》の浦と稱へた筈である。されば此ナガトの浦は本集第十五卷に遣新羅大使の船が寄泊したとある安藝國長門島即ち今の倉橋島の本浦〔右○〕をいふものと思はれる。若し然りとすれば此歌は海路西行中の吟詠とせねばならぬ。
あさなぎに(朝奈祇爾) ナギはニコ(和)から分化した語で、ナゴヤカ(穩)の如くも用ひられ、轉じて海上靜穩無風(凪)をいふやうになつたのである。
みちくるしほの(滿來鹽之) 鹽は借字で、海水の干滿は反復來往するものなるが故に、シバ(屡)の意を以てシホといひ、朝夕を期して干滿するとは限らぬが、通例毎日二回づゝ起る現象であるから、潮及汐の字を配したのである。潮(汐)と風とを朝凪と夕凪とにふり當てたのは言葉の文で、要するに此句は漲潮といふ意に外ならず、助語ノを添へたのは後句のソノシホと連繋する爲である。
ゆふなぎに(夕奈祇爾) 朝凪の對句である。
よりくるなみの(依來波乃) 此も滿來ル潮と對立せしめたのである。
そのしほの(波〔右△〕鹽乃) 波〔右△〕は勿論彼〔右○〕の誤記。鹽は上述の如く借字で、其潮のやうにといふ意である。
(89)いやますますに(伊夜益舛二)
そのなみの(彼浪乃) 其波の如くといふ意。
いやしくしくに(伊夜敷布二) シケ、シジ、シミ(繁密)等の語根シに活用語尾キを連ねたシキは重、敷、及等の義を生じ、シクは其終止形であるが、之を疊合することによつて反復の意を表示する。さればシクシクは重ね重ね又は頻りにといふに同じい。
わぎもこに(吾妹子爾) ワガイモは連約によつてワギモとなり、コは愛稱として添付せられたのである。イモは男子から同世代の異性に對して用ひる一般的呼稱であるが、ワガといふ語を冠すると、通例妻又は愛人の謂と了解せられた。
こひつつくれば(戀乍來者)
あごのうみの(阿胡之海之) アゴはアギと通ずるから、安藝之海の謂と了解せられる。其は異例であるが、上句の吾〔右○〕妹子〔右○〕の縁により、故意にアゴ(阿子)と轉呼したので、巧妙なる語戯といはねばならぬ。之を難波の海なりとする契沖説も【代】、備中、備後の内にあるべしといふ眞淵の推測も【考】、少くとも此歌に在つては地の理に合はぬ。上述の如く萩灣を阿胡之海と稱へたことは、ハギ(秀子)とアゴ(阿子)とがほゞ同義語なることに徴しても【語誌】事實と思はれるが、其海岸を長門の浦といひ得ぬことは上に詳論した通りであるから、同地に於ける作と見ることは出來ぬ。
ありそのうへに(荒礒之於丹) イソ(磯)のイは接頭語で、複合語に在つては約縮せられることを例とするか(90)ら、アライソとある舊訓は從はれぬ。ウヘといふ語には上方の義の外にへ(邊)と同じくホトリといふ意味もあるので、本集に於ては之を表示する爲に於の字を用ひた例が少くはない。
はまなつむ(濱菜採) ハマナはイソナ(磯菜)と洞じく海濱に生ずる藻をいふ。
あまをとめども(海部處女等) アマといふ語は此時代大和人によつて漁人の義と了解せられたことは上記の通りであるが(第二〇頁)、領巾をかけ手玉を施した蜑があるべき筈はないから、其地の然るべき身分のある少女の謂なることは勿論で、往古此方面はアマ(海人)族の占住地であつたから、興趣をそへる爲に特に此表現を用ひたのであらう。舊訓はヲトメラガ〔二字右△〕とあるが、領巾及手玉の限定語と誤られる虞があるから、等の字をドモと訓み、助語を省くことを可とする。
むながける(纏有) 舊訓マツヒタルとあり、眞淵が之を非としてウナガケルと改めて以來、之に倣うてウナガセル、ウナギタル、ウナゲル等と訓したものもあるが、餘りに字義を離れ過ぎて居るのみならず、マツヒタル(纏在)は適切なる表現とは言ひ難く、ウナギの一形態と見ることについても頗る疑がある。此語はウナ(頸)にかけることを意味するが、ヒレは肩巾とも書くやうに肩から胸に垂れるものであるから、縱ひ其一部分が頸に接着することがあるとしても、ウナグといふ述語の不適當なることは、着衣をソウナ〔二字右○〕ギといひ得ぬと同理で、ヒレ取カケ〔二字右○〕【雄略天皇御製】、ヒレカク〔二字右○〕ル伴緒【祝詞】の如くカク〔二字右○〕と稱へることを例とする。纓は字書に馬鞅也とあり、ムナガイ即ちムナガキ〔二字右○〕(胸懸)にあたるから、胸にカキ(カケの古言)アル即ち懸けて居るといふ意を以て纓有の二字を充てたのは決して不當ではなく、カキアルを約すればカケルとなる(91)のである。今も此種の用途に充當する布片はカタ〔二字右○〕カケと稱へ、クビ〔二字右△〕カケとはいはぬ。
ひれもてるがに(領巾文光蟹) ヒレはヒラ(平)から分化した語で、扁平なるものゝ總稱であるが、袵襟の完備しなかつた時代、胸部の露出を防ぐ爲に肩から垂下することを例とした布片の名稱にも用ひられ、領巾【崇神紀】又は肩巾【天武紀】の字をあてた。此は勿論身分のあるものゝ服装で、上等の布帛を用ひたからテル(光)ガニ即ち光るか〔右○〕のやうに【語誌】と形容したのである。
てにまける(手二卷流) 手に纏いて居るといふ意。
たまもゆららに(玉毛湯良羅爾) ユララはユラ(搖)の疊尾語で、ユラユラト〔右○〕といふに同じい。
しろたへの(白栲〔右△〕乃) タヘは本來手でヘ〔右△〕た布をいひ、機構が尚未だ發達しなかつた以前に於て、手を以て毎回|經線《タツイト》を上下し、其間に緯線《ヨコイト》を通して織り上げたものゝ稱呼であつたが、一般に布帛の意に轉用せられ、漂白したものをシロタヘと稱へた。栲は栲の變體と思はれるが、タヘと訓むべき理由はないから、恐らくはタクヌノ(拷布)の拷の字の誤記で、其材料たる木質繊維をもタヘ(手綜)の布に用ひたから、流用せられたのであらう。――拷布については他の機會に説明する【語誌タクの項下參照】――上古無色の衣服を着用することが多かつたので、シロタヘを衣の枕詞とし、轉じて袖又は袂ともつゞけるやうになつたのである。
そでふるみえつ(袖振所見津) 少女等の袖を振るのが見えたといふ意。舊訓ソデフリ〔右△〕ミセ〔右△〕ツとあるが、所見をミセと訓むことは出來ぬのみならず、此は少女が意識した擧止ではなく、作者の主觀であるから、フル〔右○〕ミえ〔右○〕ツであらねばならぬ。
(92)あひおもふらしも(相思羅霜) 少女等が袖を振つて姿態《シナ》を作らうて居るのは此方に心を寄せるらしいといふ意。アヒは消息文の相〔右○〕成度、難相〔右○〕叶等のアヒと同じく、嚴重なる意味の相互作用をいふのではなく此方にも海濱に嬉遊する少女等をめでたしと見る心があるによつて、半ば接頭語的に之を冠したのであらう。オモヒのオを略してモフラシモと訓むも可。モは感動詞である。
【大意】 少女等が麻笥《ヲケ》に績《ウ》み入れた縷《ヲ》のやうに長い長い長門の浦の朝凪には潮が滿ち來、夕凪には波が寄せて來る。其潮のやうに彌益々に、其波のやうに頻りに妻を思ひながら來ると、阿胡の海の荒磯《アリソ》の邊《ホトリ》に濱菜を摘む少女らが肩にかけた領巾も閃くかのやうに、手に卷いた玉をゆらがして袖を振るのが見える。(其少女等も自分に)氣があるらしい
 
反歌
 
3244 阿胡乃海之《アゴノウミノ》 荒磯之上之《アリソノウヘノ》 小浪《サザラナミ》右二首 吾戀者《ワガコフラクハ》 息時毛無《ヤムトキモナシ》【三二四四】
 
あごの海の ありその上の さざら波 吾が戀ふらくは やむ時もなし
 
あごのうみの(阿胡乃海之)
ありそのうへの(荒磯之上之) 〔二行にかっこを付けて「前出」とあり〕
(93)さざらなみ(小浪) サザナミ(漣※[さんずい+猗])の意で(第二二頁)、サザレナミともいふ。此は比況である。
あがこふらくは(吾戀者) コフラクは戀フルコトといふ意(第四五頁參照)。
やむときもなし(息時毛無)
【大意】 阿胡の海の荒磯の上のサザ波(のやうに)、自分が(妻を)戀ふることは已む時もない
 
3245 天橋文《アマハシモ》 長雲鴨《ナガクモガモ》 高山文《タカヤマモ》 高雲鴨《タカクモガモ》 月夜見乃《ツクヨミノ》持有越水《モタルヲチミヅ》 伊取來而《イトリキテ》 公奉而《キミニマツリテ》 越得之早〔左△〕物《ヲチエシムモノ》【三二四五】 
 
天橋も ながくもがも 高山も たかくもがも 月夜見の もたるをち水 いとり來て 君にまつりて をち得しむもの
 
あまはしも(天橋文) ハシは椅の義で、アマハシは雲梯の謂である。天柱を以て大日〓貴《オホヒルメノムチ》を天上に擧げたといふ古傳説があり【紀】、丹後の天柱立及播磨國印南郡|益氣《ヤケ》里の八十橋に關する口碑によれば【風土記】、上代人は天上と此國土との交通の用に供する梯橋の存在を空想して居たものゝやうであるから、亭々たる喬木若くは摩天の巨巖等が天橋と呼ばれたことも有り得べきである。
ながくもがも(長雲鴨) 長カレヨといふ意。ガモは願望表示で、之を名詞又は準名詞に連結する爲には、助語モの介在を必要とすることは既述の通りである(第五五頁)。
(94)たかやまも(高山文)
たかくもがも(高雲鴨) 高クアリタイといふ意である。
つくよみの(月夜見乃) ツクヨの原義は作夜《ツクヨ》で、夜を作るものは太陰であると信ぜられたから、月の異名をツクヨというたのである。月明の夜を意味するツキ〔右○〕ヨとは僅に一音の相違であるが、全然別語で、ツクヨに對し太陽をツクヒ(作晝《ツクヒ》)といひ、朝ヅクヒ、夕ヅクヒの如く用ひた。ミはミミ(御身)の約縮で、ツクヨ即ち太陰を神格化し、之に御身といふ敬稱をそへたのである。
もたるをちみづ(持有越水) ヲチはヲ(小)の接頭語分子形で、ヲトコ(少男)、ヲトメ(少女)の如くも用ひられ、轉じて若反へるといふ意をも表示するやうになつた。ヲチミヅも亦人を若がへらしめる効驗のある水をいひ、月神が之を所有するといふのは詩人の空想に過ぎぬが、今も元旦に若水を汲む習俗の存する所を見ると、若反水の存在は一般に信ぜられて居たものと思はれる。ヲチは又獨立して後句の如く動詞としても用ひられるが、不完全活用である。――舊訓モチコセルミヅとあるのは、ヲチといふ古言の存在に想到しなかつた爲の誤訓で、久老によつて始めて訂正せられたのである【槻落葉】。
いとりきて(伊取來而) イは接頭語で、取リ來テといふ意である。
きみにまつりて(公奉而)、以下二句も舊訓には誤りがある。其は越水を解讀し得なかつた爲で、キミハツカヘ〔四字右○〕テでは意をなさぬから、君ニ獻《マツ》リテと訓むべきである。キミは男女夫妻の間に互に用ひるが、此は男性の歌と解したい。
(95)をちえしむもの(越得之早〔右△〕物) 早〔右△〕は牟の誤記とする久老説に從ふ。モノは反接の意のモから出た語分子で、多くはヲ、ノ、カラ又はユヱを添へて、豫期を裏切ること若くは意想外のことを表示する準接續詞として用ひられるが【要録一〇〇四頁】、此例のやうに歸結を示さぬ場合には實現に至らざることを意味し、前續動詞が未來格なるか、現在乃至過去格なるかによつて、空望又は徒爾を表示する。此は動詞の連體法に接着することを例とするから、ヲチエシムル〔二字右○〕モノといふべきであるが、二段活動詞の終止形と連體形とは其本質上通用を許されるが故に(要録九四三頁)、語音數に制限のある歌謠に於ては、終止形を連體法に代用した。其例は本集には少くはないが、やゝ後の歌にも幾夜寢覺ヌ〔右○〕須磨ノ關守の如く用ひて居るのである。
【大意】 雲の梯も長くあつて欲しい。高山も高くあつて欲しい。月神の持つて居る若水を取り來つて君に進上して若反らしめようもの
 
反歌
 
3246 天有哉《アメナルヤ》 月日如《ツキヒノゴトク》 吾思有《ワガモヘル》 公之日異《キミガヒニケニ》 老落惜毛《オユラクヲシモ》【三二四六】
天なるや 月日のごとく 吾が思へる 君が日にけに 老いらく惜しも
 
右二首
 
あめなるや(天有哉) ヤは間投詞で、天ニ在ルといふ意を以て次句に連接するのである。ニアルは奈良朝時(96)代には既にナルと連約することを例とし、語音不足の故を以てヤを挿入したものゝやうであるから、舊訓アメニアル〔二字右○〕ヤとあるのは從はれぬ。
つきひのごとく(月日如) 雅澄が天象にはヒツキといひ、歳時はツキヒと稱へることを例とするが故に、月日は日月の倒置であらうと説いたのは理由のあることであるが、月日というても意は通ずるから、誤記と斷定することは困難であり、作者個人の語感から殊更にツキヒと詠じたことも有り得る。
わがもへる(吾思有) 吾が思うて居るといふ意で、ア(ワ)ガオ〔右○〕モヘルと訓んでもよい。
きみがひにけに(公之日異) ケはカ〔右○〕の音便で日《カ》の義もあるから、日ニ日ニ即ち日々の謂とも解せられるが、異〔右○〕の字をあてゝ居る所を見ると顯者の意のカの轉呼で、君が日に著くといふことであらう。
おいらくをしも(老落惜毛) オイラクは「老いること」といふ意(第四五頁參照)。現行文語活用に從へばオユ〔右○〕ラクであらぬばならぬが、古今集以下にもオイ〔右○〕ラクと假字書せられて居る所を見ると、上古老イ〔右○〕が上一段活であつた時代の名殘か、然らずとも音便によつてユをイと轉呼したものと思はれる。
【大意】 天上の日月のやうに自分の思うて居る君の老い行くことが惜しいよ
 
3247 沼名河之《ヌナカハノ》 底奈流玉《ソコナルタマ》 求而《モトメテ》 得之玉可毛《エシタマカモ》 拾而《ヒリヒテ》 得之玉可毛《エシタマカモ》 安多良思吉《アタラシキ》 君之《キミガ》 老落惜毛《オイラクヲシモ》【三二四七】
(97)ぬな川の 底なる珠 もとめて 得し玉かも 拾ひて 得し玉かも あたらしき 君が 老いらく惜しも
 
右一首
 
ぬなかはの(沼名河之) ヌは土石〔右○〕を意味する原語ニの音便で、天沼〔右○〕矛【記】の如くも用ひられるから(神代篇二−二八頁)、ヌナカハは石之河を意味する古言とせねばならぬ。從つて或る一川の固有名ではなく、到所に此名を以て呼ばれる河流が存したので、出雲傳説の沼河比賣を始め、神沼河耳命(綏靖天皇)、建沼河別命等【記】、人名に用ひられた例も少くはない。されば此ヌナ河の所在を物色するのは無益の業で、高天原の渟名井を以て之に擬するが如きは【抄】【古】牽強に過ぎず、單に水清き石川を意味したものとすればよい。
そこなるたま(底奈流玉) 此ナルがニ在ルの意にあらざることは後句によつても明白で、――其義ならばニアリシ〔右○〕といふべきである――ノ(之)と同じく連繋語として用ひられたものとせねばならぬ。ノの原語はナであるから、之に叙述助動詞のアル又はスを添へたナル〔二字右○〕及ナス〔二字右○〕がノ(之)と同一職能を有する連體形として用ひられたことは極めて有り得べきで、ナスを此用途にあてた例は既に上に擧げた(第五〇頁)、――國學院雜誌第卅八卷十號所載坂西文學士の論文參照――タマの原義は團塊状のものをいひ、必しも寶玉には限らぬが、此はヌナ河産の美石を意味し、作者が君と呼稱した人(恐らくは女性)に況へたものと思はれる。
もとめて(求而) 舊訓に此句をモトメツツ、拾而をヒロヒツツとしたのは標準句長に合はせる爲で、而にツ(98)ツの意のないことは勿論であるから、モトメテ及ヒリヒテといふ四音句とせねばならぬ。
えしたまかも(得之玉可毛) 得之をエテシと訓したのも亦七音に充す爲で、上句が四音であるとすれば、律調上六音に唱へることを可とする。カモは疑問表示である。
ひりひて(拾而) 今では專らヒロ〔右○〕フといふが、ヒリ〔右○〕フを原形とするものゝやうである。
えしたまかも(得之玉可毛)
あたらしき(安多良思吉) アタはアテ(貴重)の轉呼、ラほ體言語尾で(第四四頁)、之を添付することによつて可惜といふ意の副詞となり、更にシ(シキ)を連ねて活用せられたのである。
きみが(君之) 三音一句。五音、三音、七音の三句を以て一聯とする形式が古歌に屡々用ひられたことは既述の通りである(第一一頁)。
おいらくをしも(老落惜毛) 前出
【大意】 石之《ヌナ》川の川底の玉よ。さがして得た玉か。拾うて得た玉か。あたら君の老いることが惜しい!
 
(99)      相聞 五十七首 (長二十九、短二十八)
 
 相聞は性質による歌の分類稱呼で、本集第十一卷及十二卷に古今相聞往來歌〔五字右○〕ともあるから、存問の爲に往來した歌といふ意なることは明白である。古義に引いたやうに此熟字は、文選に收めた曹植から呉季重に與へた文に適對2嘉賓1口授不v悉、往來數相聞〔二字右○〕とある句から出たものゝやうで、聞は呂向の註に問也とあるが、弗2敢以聞1【禮記】の如き用例もあり、キキの外にキカセといふ意をも表示し、自動詞キコエは對象が第三者なる時は聞《キキ》ニ達スルことゝも丁解せられるから、必しも問の義とすることを要しない。さりながら此熟字を採用した本集の編者は之を何と訓ませるつもりであつたか不明で、或は歌の字を添へてアヒキカスル歌又はシタシミ歌とし、或はアヒギキ又はアヒキコエと訓したものもあるが、古今集以下に此名稱を繼承して居らぬ所を見ると、國語化せられて一般に通用したとは思はれず、強ひて和訓を與へる必要もないと信ずるから、古訓に從うてサウモンとして置く。――之に關しては美夫君志、新考、講義等に詳説がある。
 
3248 式島之《シキシマノ》 山跡之土丹《ヤマトノクニニ》 人多《ヒトサハニ》 滿而雖有《ミチテアレドモ》 藤波乃《フヂナミノ》 思纏《オモヒマツハリ》 若草乃《ワカクサノ》 思就西《オモヒツキニシ》 君自二〔二字左△〕《キミニヨリ》 戀八將明《コヒヤアカサム》 長此夜乎《ナガキコノヨヲ》【三二四八】
 
(100)しき島の 大和の國に 人さはに みちてあれども 藤なみの 思ひまつはり 若くさの 思ひつきにし 君により 戀ひやあかさむ 長き此夜を
 
しきしまの(式島之) ヤマト(大和)の枕詞(第五四頁參照)。上記のやうに此語は欽明天皇の皇居から出たのであるから、之を冠稱するやうになつたのも其以後のことであらぬばならぬ。さればこそ紀記の歌論にはアキツシマ又はソラミツのみが大和の枕詞として用ひられて居るのである。――數ある歴代の宮號中から特に此地名が選ばれたのは、シキシマといふ語が、天皇の敷きいます住區《スマ》といふ意に解することも可能なるが故ではあるまいか。
やまとのくにに(山跡之土丹) ヤマトのクニには廣狹二義があるが(第五八頁)、此は嚴重なる地理限界を必要とせず、世の中といふほどの意と解して差支はない。
ひとさはに(人多) ヒトサハニといふ語例は來目歌にもある【紀】【記】
みちてあれども(滿而雖有) 舊訓イハミテアレドとあるが、此は充滿の謂で、屯聚を意味するのではないから、イハミといふ訓はあたらぬやうである。
ふぢなみの(藤浪乃) フヂは本來「斑」の意を以て藤花〔右○〕に與へられた名稱であるから、ナム(木)といふ語をそへて藤樹〔右○〕を區別したのであらう。ナム(※[木の意味のナムというハングル])は韓語であるが、上掲の如く國語と連ねて用ひることもあつたのである。此外にムレ(山)、サシ(城)、ヲ(魚)等の韓語が紀記の歌謠にも用ひられて居る所を見ると、現代人が西洋語をつかひたがるやうに、或時の流行であつたのかも知れぬ。――此は藤樹のやうにといふ意(101)で、次句マツハリの比況的枕詞である。
おもひまつはり(思纏) マツヒシ〔二字右△〕とある舊訓は非とすべきで、一句を隔ててオモヒツキニシとつゞくのであるから、連用形なるを要し、且自動詞であらぬばならぬ。されば雅澄訓のマツハリを可とする。
わかくさの(若草乃) 通例ツマ(夫又は妻)とつゞくのであるが、上古は夫は妻の家にツク〔二字右○〕ことを例としたから、其縁によつてツキ(就)の枕詞に轉用したのであらう。
おもひつきにし(思就西) 前々句と合はせて念が纏《マヅハ》り就いたといふ意に過ぎぬが、之を四句に引伸べたのは歌謠に屡々用ひられる文飾的技巧で、ニシは過去完了時格の一表現である。
きみにより〔三字右○〕(君自二〔二字右△〕) 舊訓のやうにキミヨリニと唱へることは、文法が之を許さぬから、自二〔二字右△〕は倒記としてニヨリ〔三字右○〕と訓むのであらう。之と同一例は後掲【三二五三】の歌にもある。元暦校本は自を目〔右△〕とし、六帖にも「藤なみの思ひまつはし〔三字右△〕若草のおもひなれにし君が目ヲ〔二字右△〕」云々と改めて掲載して居るので、契沖以下メニ〔二字右△〕と改訓して居るが、目ニ戀フといふ語法は有り得ぬ。――妹ニ戀ヒなどといふ場合のコヒは自動詞で、妹ニは標準語であるから、他動詞の目的たる目〔右△〕と混同してはならぬ――カラニと改めた眞淵訓は意はよく通ずるが、其場合には通例同義語のユヱを用ひ、カラニとは謂はぬ。或は自〔右○〕をユヱと訓ませたものと解釋することも可能であるが、尚一|二自《ニヨリ》を訓む方が最も穩當であらう。
こひやあかさむ(戀八將明) ヤは感動詞として挿入せられたので、疑問助語ではないから、戀ヒ明カサムカナといふ意と了解すべきである。
(102)ながきこのよを(長此夜乎)
【大意】 大和國に人はあまた充滿して居るけれども、我念の絡《マツ》まりついた君故に、此長い夜を戀ひ明かすのかナア
 
3249 式島乃《シキシマノ》 山跡乃土丹《ヤマトノクニニ》 人二有《ヒトフタリ》 年年念者《アリトシオモハバ》 難可將嗟《ナニカナゲカム》【三二四九】
 
しき島の大和の國に人二人ありとし思《オモ》はばなにか嘆かむ
 
右二首
 
しきしまの(式島乃) 枕詞(前出)
やまとのくにに(山跡力士丹)
ひとふた(人二) フタリの原義は二在で、人數稱呼と丁解せられるやうになつたのは後日のことでたる。されば單にフタリといふことはなく、蝦夷男〔三字右○〕ヒタリ【神武紀】、我妹子〔三字右○〕とフタリ【仁徳紀】、の如く人物を明示することを要したのである。
ありとしおもはば(有年念者) 有ト思ハバの謂。シの原義は「其」であるが、指定助語に轉用せられたので、ソ(ゾ)と職能を同うする。
なにかなげかむ(難可將嗟) 何カ嗟カム
(103)【大意】 大和の國に(君のやうな)人が二人あるならば何をか嘆かうや
 
3250 蜻島《アキツシマ》 倭之國者《ヤマトノクニハ》 神柄跡《カミカラト》 言擧不爲國《コトアゲセヌクニ》 雖然《シカレドモ》 吾者事上爲《アハコトアゲス》 天地之《アメツチノ》 神毛甚《カミモハナハダ》 吾念《ワガオモフ》 心不知哉《ココロシラズヤ》 往影乃《ヒサカタノ》 月文經往者《ツキモヘユケバ》 王限《タマカギル》 日文累《ヒモカサナリテ》 念戸鴨《オモヘカモ》 胸不安《ムネヤスカラヌ》 戀列鴨《コフレカモ》 心痛《ココロノイタキ》 未遂爾《スエツヒニ》 君丹不會者《キミニアハズバ》 吾命乃《ワガイノチノ》 生極《イケラムキハミ》 戀乍文《コヒツツモ》 吾者將度《ワレハワタラム》 犬馬鏡《マソカガミ》 正目君乎《マサメニキミヲ》 相見天者社《アヒミテバコソ》 吾戀八鬼目《ワガコヒヤマメ》【三二五〇】
 
あきつ島 大和の國は 神からと ことあげせぬ國 しかれども 吾はことあげす 天地の 神も甚 吾が思ふ 心知らずや ひさかたの 月もへ行けば 玉かぎる 日もかさなりて 思へかも 胸やすからぬ 戀ふれかも 心のいたき 未つひに 君に逢はずば 吾がいのちの 生らむきはみ 戀ひつつも 吾はわたらむ まそ鏡 まさ目に君を あひ見てばこそ 吾が戀やまめ
 
あきつしま(蜻島) 蜻は蜻蛉(※[虫+延])即ちトンボのことで、初秋群飛するものなるが故に、アキ(秋)チ(靈)と呼ばれたのであるが、借字に過ぎず、アキツシマは孝安天皇の皇居の地で、ヤマトといふ名稱の起源となつた地方(後の高市及十市郡山地)に隣するが故に、他のヤマト(山處)、例へば筑後の山門等と區別する爲に之を冠稱としたのである。アキツは今も大和國南葛城郡秋津村に其名殘を留めて居るが、古は高市及吉野に接する大地域の總稱で、アキと呼ばれた出雲系種族の住區であつたが故に此名を負うたのである。
(104)やまとのくには(倭之國者) ヤマト民族の居住する國土といふ意味で、此もまた截然たる限界のある地理的稱呼ではない。
かみからと(神柄跡) カラには因の義があるから、神カラといへば神故〔二字右○〕といふ意と丁解せられ、之にそへた助語トはトテといふに同じく、神の思召とてといふほどの意味である。されば次の人麻呂の歌には神ナガラ〔三字右○〕とあるのである。
ことあげせぬくに(言擧不爲國) コトアゲは言ヲ揚ゲルこと即ち揚言の意であるが、こゝでは戀愛關係を發表することをいひ、我國に於ては神の禁《イサ》むるわざなるにより、戀の悩を人に訴ふることをせぬといふのである。
しかれども(雖然) シカ(然)アレドモの約。
あはことあげす(吾者事上爲) 事上は勿論借字で、前句と同じく揚言の謂である。
あめつちの(天地之)
かみもはなはだ(神毛甚) 甚はハタとも訓むから、ハナハダはハタの疊語ハタハタの音便とすべきで、ハタは助語ハに接尾語タを連ねたものである。其はモから出たマタ(又)に對立する語で、之に相當する漢字はないが、強意を表示するから、之を重疊したハタハタ(ハナハダ)は殊絶の義となるのである。
わがおもふ(吾念)
こころしらずや(心不知哉)
(105)ひさかた〔四字右○〕の(往影乃) 舊訓はユクカゲノであるが、月の枕詞としては不適當でたるから、宣長はアラタマノなるべしといひ、其他の學匠も疑を殘して居る。案ずるに神像を神影〔右○〕とも稱するやうに、影は像に通じ、カタ〔二字右○〕とも訓み得られるから、往影の二字はヒサカタの假字であらぬばならぬが、往をヒサと訓むべき理由を詳にせぬ。若し誤字でないとすれば、往は字書に昔〔右○〕也とあるが故に、イニシの意からヒサシに轉用したのかも知れぬが、聊か無理のやうである。
つきもへゆけば(月文經往者)
たまかぎる(玉限) タマキハル【舊訓】、カゲロフノ又はカギロヒノ【代】【考】【略】とある諸訓を非として、雅澄がタマカギルと改めたのは【古】當を得て居るが、其釋義には同意することが出來ぬ。此語が磐垣、ホノカ(幽)、夕、遙等の枕詞として用ひられた所を見ても、タマは靈魂を意味し、其所在を限界するものを磐垣といひ、幽明を堺するといふ意を以て、日とも夕とも幽ともつゞけ、遙遠の枕詞にも轉用せられたのであらう。
ひもかさなりて(日文累)
おもへかも(念戸鴨) 思へば歟といふ意であるが、バは本來語勢を強める爲の助語で、前提句たる職能は已然形そのものに備はつて居るのであるから、必しも之が介在を必要とせぬのである。
むねやすからぬ(胸不安) 舊訓ムネヤスカラズ〔右△〕とあるが、「胸の安からぬのは〔二字右○〕念へばか」といふ意であるから連體形を用ひることを可とする。次の二句に於ても同樣である。
(106)こふれかも(戀列鴨) 戀フレバカモ
こころのいたき(心痛) ココロイタマシスとある舊訓は非。
すゑつひに(未遂爾)
きみにあはずば(君丹不會者)
わがいのちの(吾命乃) イノチはイ(息)ノ(之)チ(靈)の謂で、命脈は呼吸によつて保たれるから、生命の義を生じたのである。さればこそイノチ死ス又はイノチ活クの如き表現が用ひられたのである。
いけらむきはみ(生極) 生一宇をイケラムと訓ませることは無理であるが、前後の文脈により推讀可能であるから略書せられたのであらう。イケラムはイキアラムの約である。
こひつつも(戀乍文)
われはわたらむ(吾者將度) ワタルは世ヲ亙ル即ち歳月を經由するといふ意である。
まそかがみ(犬馬鏡) 犬馬をマソの假字としたのは、當時犬を呼ぶにはマ、馬を追ふ時のかけ聲をソというたからで、本集第十一卷に泉之追馬喚犬二《イヅミノソマニ》と表記した例があり【二六四五】、後掲【三三二四】にマソ鏡に喚犬追馬鏡の五字をあてゝ居る外、第十四卷にも「駒はたぐとも我はソともはじ」とある【三四五一】。マソはマ(眞)ス(清)の轉呼で、マスミといふに同じく、鏡面の清澄なることを意味し、マソカガミは即ち明鏡の謂で、次句マサメの序である。
まさめにきみを(正目君乎) マサメの意義は字の通りで、イメ(夜目)ではなく、ウツツ(現實)に於てといふ(107)のである。マソ〔二字右○〕鏡マサ〔二字右○〕目と韻を押したのであるから、之をタダメと改めた代匠記以下の訓は無稽とせねばならぬ。
あひみてばこそ(相見天者社) 逢見テアラバコソといふ意で、見タラバと解するのは誤りである。ミテのテは本來事態を表示する語分子である。
わがこひやまめ(吾戀八鬼目) 鬼をマの假字としたのは異例であるが、マは神及人間以外の有情を意味する原語であるから【語誌】、鬼をも其一としてマと呼稱したことは有り得べきである。已然形を以て終止したのは、此形が反接を表示するからで、ヤマメド〔右○〕即ち已まうが〔右○〕というて餘情を含めたのである。上句にコソといふ強い指定語を用ひたのは之が爲であるが、コソと已然形との間に係り結びと稱へられるが如き必然的關係が存するのではない。
【大意】 大和國は神(の禁ずる所なるが)故に(戀愛關係を)揚言せぬ國であるけれども、自分は之を敢てする。天地の神も我が戀情を洞察したまはぬか、(相違ふことなくして)月も經、日も累るので、思慕の爲に胸中安からず痛心する。行末遂に君に逢はぬとならば、生き長らへん限り戀ひこがれで日を亙るであらう。現實に君と逢見てこそ自分の戀はやみもしようが
 
反歌
 
(108)3251 大舟能《オホフネノ》 思憑《オモヒタノメル》 君故爾《キミユヱニ》 盡心者《ツクスココロハ》 情〔左△〕雲梨《ヲシケクモナシ》【三二五一】
 
大舟の 思ひたのめる 君ゆゑに つくす心は 惜しけくもなし
 
おほふねの(大舟能) 大船のやうにといふ意で、比況的枕詞である。
おもひたのめる(思憑) 頼みに思うて居るといふ意。
きみゆゑに(君故爾)
つくすこころは(盡心者) ツクスは消耗の意で、思慕切なるにより心を損傷することをいふ。肉體が衰弱するといふ意は言外に溢れて居る。
をしけくもなし(情〔右△〕雲梨) 情〔右△〕は勿論誤字で、元暦校本には※[立心偏+(メ/宏の下)]〔右○〕、天治本其他には惜〔右○〕とある。ヲシケはヲシキの古形で、――形容詞の活用形態は本初シ及ケを語尾とする二種のみであった――クは事の意であるから、此句は惜しいこともないといふ意味になるのである。
【大意】 大船のやうに憑みに思うて居る君故に削られて行く(身も)心も惜しいことはない
 
3252 久堅之《ヒサカタノ》 王都乎置而《ミヤコヲオキテ》 草枕《クサマクラ》 覊徃君乎《タビユクキミヲ》 何時可將待《イツシカマタム》【三二五二】
 
久かたの みやこをおきて 草まくら 旅ゆく君を いつしか待たむ
 
(109)ひさかたの(久堅之) 原義はヒ(日)サ(刺)カタ(方)ノ(之)で、光線の射出する方といへば天空に外ならず、 其故に天、月、雨等の枕詞に用ひられるのであるが、帝都は日之御子のいます地なるが故に、天下の民草を照臨する光は其處より射出するとして、ミヤコとつゞけたのであらう。我國には東を日のさす方と見なす傳銃的思想があるから、或は此歌を贈られた男性は西國に向つて旅したのであるかも知れぬ。
みやこをおきて(王都乎置而) オキテは他所《ヨソ》に置きて即ち見棄てゝといふ意である。
くさまくら(草枕) 草を枕とするといふ意から、タビ(旅)の冠詞となつたのである。
たびゆくきみを(覊往君乎) タビはトビ(飛)から分化した語なるが故に、活用せぬにも拘はらす、尚動詞の連用形と同様に、行ク、立ツ等と直接連結せられるのである。
いつしかまたむ(何時可將待) 何時可は、集中何時鴨【三卷】及何時毛【八巻、十二卷】をイツシ〔右○〕カモ、何時可登【八卷】をイツシ〔右○〕カトと訓ませ、何時鹿〔右○〕跡【四卷】又は伊都之〔右○〕加毛【十七巻】と假字書した例によれば、イツシ〔右○〕カとよむの外はなく、イツト〔右△〕カと改訓したのは理由のないことである。シは其《シ》の意から出た助語で、強意の効力はあるが、意義を増減するものではないから、イツシは時日の不定を表示するに止まるのである。其故に之を疑問句とするには所要の助語を挿入せねばならず、此句に於てもカを添へたのは其が爲で、何時カ待タム即ち何れの日待見るであらうかといふ意である。
【大意】 都をよそに旅に出た君を何れの日に待ち見るであらうか
 
(110)柿本朝臣人麿歌集歌曰
3253 葦原《アシハラノ》 水穗國者《ミヅホノクニハ》 神在隨《カムナガラ》 事擧不爲國《コトアゲセヌクニ》 雖然《シカレドモ》 辭擧敍吾爲《コトアゲゾワガスル》 言幸《コトサキク》 眞福座跡《マサキクマセト》 恙無《ツツガナク》 福座者《サキクイマサバ》 荒磯浪《アリソナミ》 有毛見登《アリテモミムト》 百重波《モモヘナミ》 千重浪爾敷〔二字左△〕《チヘナミシキニ》 言上爲吾《コトアゲスワレ》
【三二五三】
 
あし原の みづほの國は 神ながら ことあげせぬ國 しかれども 言あげぞ吾がする ことさきく ま幸くませと つつがなく 幸くいまさば ありそ波 ありても見むと もも重なみ 千重波しきに 言擧す吾
 
あしはらの(葦慮)
みづほのくには(水穂國者)〔二行にかっこをつけて「前出(第二四頁)」とあり。)
かむながら(神在隨) 舊訓カミノママとあるが、在をノと訓む理由はなく、字によれば神ニアルママ即ち神ナルママであらねばならぬ。さりながら其にしても意が通ぜぬから、孝徳紀に隨在天神《カミナガラ》、本集第一卷に神隨、第十七卷に可無奈我艮とあるやうに、在隨はナガラに宛た借字とすべきであらう。原義は神之因《カムナカラ》で、カラ(因)を名詞と見なし、カミ(神)と連繋する爲にナ(之)を挿入したものであるから、上掲のカミカラと意に於ては相違なく、――メジリ(目尻)をマナ〔右○〕ジリ(眦)ともいふやうに、同一意義が二樣に表現せられた例は稀有ではない――此も神ノ〔右○〕故といふ意に用ひられたのであるが、カラといふ語の用途が廣く、殊にナ(111)ガラといふ形態が遊離して一助語と見なされ、隨〔右○〕の字をあてるやうになつてから、多少の誤解を生じた。孝徳天皇三年の詔に惟神〔二字右○〕我子應治故寄とある惟神が穿訓の如くカムナガラに充てられたものとすれば、神ナルニヨリといふ意とも解せられるが、此は尚上掲の神柄と同意とせねばならぬ。紀の分註に惟神者謂v隨2神道1、亦自有神道也とあるので、神道自然の義と心得、或は自《オノヅカ》ラ神ナリといふ意味と解したものもあるが、集中の諸用例は盡く神ユヱ又は神ナル故《カラ》の意味に用ひられて居るのである。
ことあげせぬくに(事擧不爲國) 前出
しかれども(雖然)
ことあげぞわがする(辭擧敍吾爲) 揚言ヲ〔右○〕吾スルの意で、ヲに代へるに指定助語ゾを以てしたのである。
ことさきく(言幸) 言は借字で、「事」の謂なることは勿論である。
まさきくませと(眞福座跡) マは接頭語で、サキクといふ語を重ねて意を強めたのである。トといふ助語を以て承けた所を見ると、コトアゲの内容は以上を以て終りとし、幸福で御座れといふに過ぎず、さのみ世を憚る程の事でもないが、女人に取りては鯉愛關係を發表すること其が、如何なる形式を以てしても、禁忌とせられたのであらう。
つつがなく(恙無) ツツガを俗語としてツツミ〔右○〕ナクと改訓したものもあるが、語構成からいへばツツミはツミ(罪)の疊頭語、ツツガはトガ(咎)の原語ツガを重ねたもので、上代人の觀念によれば、傷病其他の災殃は神意に背悖することによつて發生するものとせられ、其概念をツといふ語音によつて表現し、所要の接(112)尾語を漆付してツミ〔右○〕ともツガ〔右○〕とも稱へたのであるから、――ミは見の意らしく、ガはサガ(祥)、マガ(禍)の如くも用ひられ、顯著の義から出たものゝやうである――熟れでも大差はない。從つて恙をもツツミといひ得ることは勿論であるが、ツツガと訓んではならぬといふ理由はなく、後者を毒蟲の名なりとするのは甚しい俗解である。
さきくいまさば(福座者)
ありそなみ(荒磯浪) 前出。但し此は次句の序的枕詞として用ひられたのである。
ありてもみむと(有毛見登) アリは存在の意から生存の義に轉用せられたので、生ながらへても相見むといふことである。
ももへなみ(百重波)
ちへなみしきに(千重浪爾敷〔二字右△〕 字によれば舊訓の如くチヘナミニ〔右△〕シキとよまねはならぬが、次句の述語に連用せられたものと解することは出來ぬから、眞淵説の如く爾敷を倒記としてシキニ〔右○〕と訓すべきである。本集第三卷にも千重浪數爾〔二字右○〕雖念《オモヘドモ》といふ用例があり、波の重なり寄せることをナミシキと稱へ、ニを添付して副詞形としたもので、次句の修飾語であり、且上句荒磯波の縁語である。
ことあげすわれ(言上爲吾) 上句のマ幸クマサバ有リテモ見ムは作者の意中で、コトアゲの内容ではないから、言上爲は吾にかゝる連體法であらねばならぬ。されば舊訓の如く言揚スル〔二字右○〕吾といふべきであるが、吟誦に不便であるから、上掲【三二四五】と同じく終止形を連體法に代用したものと見て、コトアゲス〔右○〕吾と訓(113)むべきである。從てワレはコトアゲの主語ではなく、述語を省いて餘韻を殘したものとせねばならぬ。
【大意】 葦原の瑞穗の國は神の(禁ずる所なるが)故に、揚言をせぬ國ではあるけれども、自分は「幸福でおいでなされ」と揚言する。無事幸福でをられたら此世で復お目にかかることもあらうと、百重波千重波のやうに繰かへし揚言する自分(を神も許したまへ)
此は【三二五〇】の異傳であるかのやうに前書せられて居るが、「神の故に揚言せぬ國なるに拘はらず揚言する」といふことを除いては述懷の趣旨は全然相違して居る。上記の如く戀愛關係の發表は上代の婦人に取つては禁制であつたので、此意味を詠み入れた歌は此二首に限らず、他にも有り得た筈であるから、此兩三句の偶合のみを以て同一歌と認定することは出來ぬ。人麿集の所載とあるけれども、此は明に婦人の述懷で、且餘りよい歌とも認められぬから、或は依羅娘子などの作であつたかも知れぬ。
 
反歌
 
3254 志貴島《シキシマノ》 倭國者《ヤマトノクニハ》 事靈之《コトダマノ》 所佐國敍《タスクルクニゾ》 眞福在與具〔左△〕《マサキクアリコソ》【三二五四】
 
しき島の やまとの國は ことだまの 助くる國ぞ まさきくありこそ
 
右五首
 
(114)しきしまの(志貴島)
やまとのくには(倭國者) 前出〔入力者注、二行分にかかる〕
ことだまの(事靈之) 事は借字で、言語の靈をコトダマと稱へたのである【語誌】。無形の事象にも精靈が存するといふ觀念は勿論第二次生であるが、事象そのものに神性があるといふのではなく、其を守護又は支配する靈力又は或る有情の存在を信じたのであらう。
たすくるくにぞ(所佐國敍) 集中第五卷【八九四】に言靈ノサキハフ國とあるのと同一思想で、此國家に於ては言語の靈の冥助があると信ぜられたのである。其は勿論詩人に對し最も多く與へらるべきものであるから、此歌を歌聖人麿の妻なる依羅娘子の作なるべしとする上記の想像は誤つて居らぬやうである。
まさきくありこそ(眞福在與具〔右△〕) コソのコは上記の如くコフ(乞)の語幹であるから(第三〇頁)、其ヲ與ヘヨ(自分ニ)といふ意を以て與をコソとよませた例は集中に少くはない。されば具〔右△〕は其〔右○〕の誤記かとも思はれるが、第十卷【二〇〇〇】にもコソに與具の二字を充てゝある所を見ると、他に理由が存するのかも知れない。舊訓マサキクアレヨク〔三字右△〕とあるのは語法上不當とせねばならぬ。
【大意】 ヤマトの國は言靈の助ける國であるぞよ。幸福で暮されよ
 
3255 從古《イニシヘユ》 言續來口《イツギクラク》 戀爲者《コヒスレバ》 不安物登《ヤスカラヌモノト》 玉緒之《タマノヲノ》 繼而者雖云《ツギテハイヘド》 處女等之《ヲトメラノ》 心乎胡粉《ココロヲシラニ》 其將(115)知《ソヲシラム》 因之無者《ヨシノナケレバ》 夏麻引《ナツソヒク》 命號貯《イノチナヅミテ》 借薦之《カリコモノ》 心文小竹荷《ココロモシヌニ》 人不知《ヒトシレズ》 本名曾戀流《モトナゾコフル》 氣之緒丹四天《イキノヲニシテ》【三二五五】
いにしへゆ 言ひつぎくらく 戀すれば 安からぬものと 玉の緒の つぎてはいへど 少女らの 心をしらに 其を知らむ 由のなければ なつそ引く いのちなづみて かりこもの 心もしぬに 人知れず もとなぞ戀ふる いきの緒にして
 
いにしへゆ(從古) 舊訓ムカシヨリとあり、意に於ては相違はないが、先學の説の如く此當時の慣用句は寧ろイニシヘユ(ヨ)であつたと思はれる。
いひつぎくらく(言繼來口) 言ツギ來ルコト(ハ)といふ意(第四五頁)。
こひすれば(戀爲者)
やすからぬものと(不安物登)
たまのをの(玉緒之) ツグ(續)の枕詞として用ひられたのである。
つぎてはいへど(續而者雖云) ツギテイフは第二句の結びで、曰ク……ト云フと同一語法である。
をとめらの(處女等之) 此ラは複數表示ではなく、野をノラ、夜をヨラといふやうに口調の爲に添付せられた虚字で、或一人の女性をさしたのである。
こころをしらに(心乎胡粉) 契沖訓による。胡粉《ゴフン》は白堊であるから、シラニ(白土)と稱へられ、不知《シラズ》の古言(116)シラニと音が通ずるので假りて用ひたものと思はれる。
そをしらむ(其將知)
よしのなければ(因之無者)
なつそひく(夏麻引) ナツソは字の如く夏日刈入れる麻をいひ、其皮から繊維を抽出することをヒクと稱する。此はイ(糸)一音にいひかけ、次句の枕詞として用ひられたのである。
いのちなづみて(命號貯) 契沖訓による。仙覺律師はミコトをツミテと訓み、皮を剥いだ麻をミコトといふと説いたが、頗る疑問とすべきで、號の字が過剰となるのみならず、殆ど意が通ぜぬから、先學はウナカブシマケ【考】、オモヒナヅミ【古】、ウナカタブケ【新考】等と改訓したのであるが、いづれも餘りに字義及字音と離れ過ぎて居る。新訓が元磨校本及天治本により、號を方の誤記としてイノチカタマケと訓したのは若干據があるが、貯をマケと訓むべき理由もなく且カタマケというては意をなさぬ。案ずるに號をナの假字と見ることを至當とし、貯は天武紀にツメと訓した例があり、ナヅミは澁滯の義であるから【語誌】、生きなやみてといふ意を以て命ナヅミテと解讀することは極めて穩當で且條理に合うて居るやうである。
かりこもの(借薦之) カリコモのやうなといふ意で、シヌ(萎)の枕詞である。コモは和名抄に菰及蒋とあり、水邊に生ずる宿根草で、モシロ(裳代)即ちムシろ(薦)の材料となるものであるが、苅り乾して用ひるからカリコモというたのである。
こころもしぬに(心文小竹荷) 小竹は勿論借字で、シヌの原義は下伸《シヌ》であるが、シヌビ(忍)及シナヒ(萎)と(117)いふ語を派生した。此句も右の兩語をいひかけたので、心モ忍《シヌ》ニ即ち心中で忍びやかにといふ意である。
ひとしれず(人不知) 人ニ知レズ
もとなぞこふる(本名曾戀流) モトナは韓語※[ハングルでモンナ](愚)の轉用で、愚ニモ、徒ニ、無益ニモといふ意を以て本集には度々あらはれるが、紀記にも平安朝以降の歌文にも用例のない所を見ると、一時的流行であつたのであらう。此は徒に思ひこがれるよといふ意味である。
いきのをにして(氣之緒丹四天) イキノヲは氣息の緒の謂で、緒は物を繋ぐものであるから、イノチ(命)の意に用ひられたのである。ニシテは助語ニと動詞シ(爲)の完了分詞とを結合したものであるが、方位格《ロカチーヴ》及|方便格《インスツルメンタリス》表示としても用ひられ、略してニテといひ、更にデと約濁せられた。されば此句も生命デといふに同じく、生命がけで戀するといふのである。
【大意】古來の言ひ傳へに、戀をすれば不安なものであるといひ續いでは居るが、(自分の想ふ)少女の心中を知らず、其を知る由がないので、生きわづらひ、心中に秘めて人に知さず、徒に生命がけで戀することよ
 
反歌
 
3256 數數丹《カズカズニ》 不思人者《オモハヌヒトハ》 雖有《アラメドモ》 暫文吾者《シバシモワレハ》 忘枝沼鴨《ワスラエヌカモ》【三二五六】
 
(118)かずかずに 思はぬ人は あらめども しばしも吾は 忘らえぬかも
 
かずかずに(數數丹) シクシクニ【略】、シバシバニ【古】等と改訓したものがあり、數の字も亦其意味に用ひられることがあるが、シクシク(頻々)又はシバシバ(屡々)ニ思ハヌといへば、稀には想ふことがあるものとも了解せられ、歌意が弱くなるから、此は舊訓の如くカズカズニ即ち色々といふ意とする方がよいやうである。カズは古言である。
おもはぬひとは(不思人者) 上句をシクシクニとし、ヒト(人)を相手の少女と解すれば、略解の如く思ハズヒトはと訓む方がよいかも知れぬが、舊訓に從へばヒトは不定代名詞とも了解せられるから、改訓を躊躇せざるを得ぬ。此は作者の意中をきかねば判定し兼る問題であるが、假に千蔭の推測に從ふとしてもモハズテ〔右○〕ヒトヲと解讀すべきで、オモハズといふ終止法を用ひて一句を二分することは正しい句格ではない。
あらめども(雖有) 舊訓アリトイヘドとあるが、前句のヒト(人)が誰をさすにしても、アリと斷言すべき限りではないから、略解訓の如くアラメドモとせねばならぬ。私は以上三句を「色々に物を思はぬ人もあらうが〔右○〕」といふ意と了解する。
しばしもわれは(暫文吾者) シバシはシバ(屡)の形容詞形で、原語はシマ〔右○〕シであるが、マとバとの通用は紀記の歌謠にも例が多いから、此時代にはシバシの方が寧ろ普通であつたのであらう。
わすらえぬかも(忘枝沼鴨) 語義は舊訓の如く忘レ〔右○〕エヌカモであるが、ワスレは本來四段活用で、其可能法(119)をワスラエ(ワスラレ)といひ、下二段活に轉用せられた後までも此形が襲用せられた。
【大意】 色々に(ものを)思はぬ人もあらうが、自分は片時も忘れ得ぬよ
 
3257 直不來《タダニコズ》 自此巨勢道柄《コユコセヂカラ》 石椅跡《イハハシト》 名積序吾來《ナヅミゾワガコシ》 戀天窮見《コヒテスベナミ》【三二五七】
 
たゞに來ず こゆこせぢから 岩はしと なづみぞ吾が來し 戀ひてすべなみ
 
或本以2此歌一首1爲2之「紀伊國之、濱爾縁云、鰒珠、拾爾登謂自、往之君、何時到來」歌之反歌1也、具見v下也、但依2古本1亦累載v茲
 
右三首
 
ただにこず(直不來) 舊訓コヌとあるは非。
こゆこせぢから(自此巨勢道柄) 舊訓にコノ〔右○〕コセヂカラとあるのは、自と柄とを重複とし、一方を衍と見た爲であらうが、自此《コユ》は此處ヨリ〔二字右○〕又は此處ヲ〔右○〕を意味し、新考説の如く首句と此二音とを序として此ヲ越ス〔二字右○〕を巨勢〔二字右○〕にいひかけ、更にコユ(自此)を越ユにきかせ、コユ〔二字右○〕とコセ〔二字右○〕とを重ねて興趣をそへたものと解すべきであらう。巨勢は高市郡巨勢郷【和】を始め、神武紀によれば和珥坂下に占住した土蜘蛛に居勢祝《コセノハフリ》といふものがあり、今の南葛城郡|御所《ゴセ》町及同郡|葛《クズ》村大字古瀬も同語から出た地名と思はれるが、此は恐らくは武内宿禰の裔孫巨勢朝臣の本貫たる巨勢郷即ち今の高市郡坂合村大字越をいふのであらう。飛鳥から吉野及紀伊(120)方面に通ずる通路はこの地を經由するから、之をコセ道《ヂ》と稱へたことは有り得べきで、カラは必しも自從の意ではなく、本集十一卷に月夜ヨミ妹ニ逢ハムト直路《タダチ》カラ〔二字右○〕我ハ來ツレド云々とあるカラと同じく、コセ道ヲ〔右○〕といふ意と了解せられる。
いははしと(石橋跡) 左注にもあげた紀ノ國ノ濱ニヨルトフ云々の反歌【三三二〇】には此句が石瀬蹈〔右○〕とあるので、其に準じてイハセフミと訓み【考】【略】、或はイハハシフミと訓したものもあるが【古】、其短歌は初句及第四句も相違して居るのであるから、表記法の異同とのみ見ることは出來ぬ。フミに跡(迹)の字をあてた例もあるけれども(第八五頁)、石橋を渡ることをフムとはいはぬから、跡は助語トの假字と見て、石橋ヘト〔二字右○〕といふ意と解すべきであらう。但しイハハシは地名かも知れず、舊訓はイシハシとある。
なづみぞわがこし(名積序吾來) ナヅミは上記の如く澁滯の意で(第一一六頁)、行くべきか行くべからざるかと思案して滯り勝に來たといふことである。
こひてすべなみ(戀天窮見) スベは恐らくは爲方《スヘ》の謂で、後世のセムカタ(將爲方)と同義であらうが、更に爲《セ》ムを冠してセムスベの如くも用ひられることがあり(第一五九頁)、術の義と了解せられて居る。ナミは無の意の主觀的表現で、此《ココ》では戀しくて爲む方なく思ひ〔二字右○〕といふ程の意と解すべきである。
【大意】 戀しさに堪へかねて、巨勢路から石橋へと滯り勝に來た
右によれば此歌は本歌の趣旨とよく協うて居るから、他の反歌が紛れ込んだのではあるまい。左注に指示した歌と【三三二〇】と極めて類似して居るが、尚偶合といふこともあり、故意に兩三(121)語を改めて古歌を活用することも亦、一つの技巧として早くから許されて居たのである。
 
3258 荒玉之《アラタマノ》 年者來去而《トシハキユキテ》 玉梓之《タマヅサノ》 使之不來者《ツカヒノコネバ》 霞立《カスミタツ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》 天地丹《アメツチニ》 思足椅《オモヒタラハシ》 帶乳根※[竹/矢]《タラチネノ》 母之養蚕之《ハハノカフコノ》 眉隠《マユゴモリ》 氣衝渡《イキヅキワタリ》 吾戀《ワガコフル》 心中少《ココロノウチヲ》 人丹言《ヒトニイハム》 物西不有者《モノニシアラネバ》 松根《マツガネノ》 松事遠《マツコトトホシ》 天傳《アマヅタフ》 日之闇者《ヒノクレヌレバ》 白木綿之《シラユフノ》 吾衣袖裳《ワガコロモデモ》 通手沾沼《トホリテヌレヌ》【三二五八】
 
あらたまの 年は來ゆきて 玉梓の つかひの來ねば 霞たつ 長き春日を 天地に 思ひたらはし たらちねの 母のかふこの 繭ごもり いきづき渡り 吾が戀ふる 心の中を 人にいはむ ものにしあらねば 松が根の まつこと遠し 天つたふ 日のくれぬれば 白ゆふの 吾が衣手も 通りてぬれぬ
 
あらたまの(荒玉之) アラタ(新)モノ(者)の轉呼で、更新するものといふ意を以て、年又は月の枕詞に用ひたのである。
としはきゆきて(年者來去而) 年キユキは歳月の變遷といふに同じく、今年の過ぎ去ることを意味するのではない。古義にキサリと改訓したのは、春去、夕去などいふ古語の誤釋から出發したのであるから(第八頁參照)、問題とするに足らぬ。
たまづさの(玉梓之) 「使」の枕詞であるが、語義については從來定説がない。最近公刊せられた山田(孝雄)(122)博士の萬葉集講義(第二卷五六六頁)には、
 使たるものは古、梓の杖を携へしならむ。かくいふ由は古ハセツカベといふものありしが、それは馳使部の意なるべきに、文字に「丈部」とかけり。而して「丈」は即「杖」なることは些の疑なければ、馳使部は必杖を用ゐしなるべく、この杖は通常梓にて作りしなるべし。今もステッキにつくるに多くヅサと名づくる木を用ゐるは其道の人のいふ所なり。その「づさ」をほめて「玉づさ」といへるなるべし。然らばこれ何のむづかしき事もなかるべきなり。
と事もなげに論斷して居る。ハセツカベのことは私が曩に古語大辭典(語誌一〇〇八頁)に於て發表したと同説で、其外にも雄略朝に小子部栖輕《ワカコベノスガル》といふものが勅命を雷神に傳へる爲に、赤幡の桙を手にして使したといふことが、靈異記に見えるから(語誌一〇一六頁)、使者の章として桙又は杖を携行する古俗が存したことは疑がないが、其杖(桙)の材料が梓に限るといふ説明は聊か不十分である。博士のいふヅサがアヅサ(梓)の上略で、且ステッキの多くが此木を以て作られることは事實であるとしても、藜、竹、葡萄等の杖の方が世の中に多く知られて居る所を見ても、梓を其代表として杖と同義語に用ひたとは考へられず、しかもアヅサが何の木であるかといふことすら、尚植物學者間に議論があり、假に和名抄の説の如く楸之屬即今いふキササゲであるとしても、松、杉、檜、橿、槻のやうに普遍的の植物ではないから、若し使者の杖(桙)に限り此木を用ひたものとすれば、其理由が信仰乃至習俗方面から説明せられねばならぬ。其が困難であるとすれば「梓の木に玉を著たるを使の印に持てあるきしなるべし」といふ宜長の推定説と五十歩百歩の差であ(123)る。私は曾て民俗的見地から此枕詞について解釋を試みたが【日本古俗誌】、其が世の容るゝ所となると否とに拘はらず、少くとも一説として存立する慣値はあると今尚確信するので、こゝに之を再説する。其は梓弓が通説に反し、アヅサといふ木で作られた弓の謂ではなく、一種の彈弓を意味するといふ私見と關聯するもので(第二九八頁參照)、タマ(丸)を彈射することをタマ・アヅサといひ、上古之を以て或種の合圖としたので、使の枕詞となつたといふのである【語誌】。私に其ヒントを與へたのは、本集第七卷に收録せられた次の歌である【一四一五】。
 玉梓〔二字右○〕能 妹者珠〔右○〕氈《カモ》 足氷木乃《アシビキノ》 清山邊《キヨキヤマベニ》 蒔散〓《マケバチリヌル》
寛永刊本には末句を蒔散染〔右△〕と書いて居るが、染〔右△〕は古葉略類聚抄に〓〔右○〕とあるを正しとし、漆の俗字であるから、――先學之に氣づかず、染を漆の誤記と推定したが、朝鮮に於ては常用せられて居る――チリヌル〔二字右○〕と訓むべきことは勿論で、其外は意義の明白な挽歌である。此歌によれば玉桙のタマは美稱であるといふ山田説は根柢から覆るのみならず、蒔けば散るほど多くの數を備へて居たものとせねばならぬ。タマは必しも寶石美玉のみの謂ではなく、廣く團塊状の品物の稱呼として用ひられるのであるから、玉梓のタマをツブテ(飛礫)と見ることは決して不當ではあるまい。音信にツブテを用ひた實例は古典には見えぬが、私の見聞によれば南洋廳管下のマーシヤル群島では今も行はれて居ることであり、八千矛神の歌に天馳使〔右○〕の枕詞として用ひられたイシタブ〔右○〕といふ語もイシトブ(石飛)の轉呼とすればよく丁解せられるのである。さりながら此風俗は萬葉集時代に於てすらも既に都人士から忘れられて居たと見えて、上掲の歌の如きも或本(124)には「妹は花〔右△〕かもあしびきの此山かげ〔四字右△〕に蒔けばうせ〔二字右○〕ぬる」【一四一六】と傳へられたとあるから、後世の學者が其眞義を解し得なかつたのも無理はないが、己の想像の及ばぬことの故を以て、根據ある他人の説を妄誕視することは出來まい。
つかひのこねば(使之不來者)
かすみたつ(霞立) 春の枕詞として用ひられたのである。
ながきはるひを(長春日乎)
あめつちに(天地丹)
おもひたらはし(思足椅) タラハシはタリ(足)の進行格形タラヒを語幹とする作爲動詞で、充足させることを意味し、上句と合はせて思慕の情を天地の間に充滿せしむることをいふのである。――以上四句は次の四句と對聯をなすものである。
たらちねの(帶乳根※[竹/矢]) タラはタリ又はタシ(足)の語幹タに、接尾語ラを連ねたもので、チは主の義であるから、タラチは富足なる尊屬を意味し、ネは神名等に屡々用ひられる敬稱で、ナ(汝)ネ〔右○〕、アネ〔右○〕(姉)、トネ〔右○〕(刀禰)等のネも之に屬し、チ(主)とつゞけた例は出雲傳説の天之都度閇知泥〔二字右○〕神等にもある。其故にタラチネ〔右○〕ノといふ代りにタラチシ〔右○〕(其)とも用ひるので、いづれも母又は親の枕詞である。タラチネノ又はタラチシ父とつゞけた例のないのは、上代の氏族制度が母系承統であつたからで、多くの場合父は他氏族に屬し兒女の養育は專ら母の手に委ねられ、オヤ(祖)といへば母親及其所出の謂と了解せられた名殘である。
(125)ははのかふこの(母之養蚕之) コの原義は子で、仔蟲をも意味するのであるが、特に蠶はコと呼ばれ、今もオコ〔右○〕サマなどゝ稱へられる。カフコは勿論飼養する蠶の謂で、之を種名化して柞蠶等と區別する爲にカヒコといふこともあるが、此句に於てはカフは如實の連體法を表示するものと了解すべきである。
まゆごもり(眉隱) 繭舐りの謂なることは勿論で、語原はマ(眞)イ(糸)か若くはマ(丸)イ(糸)であらう。通例マユと稱へられるが、東歌にニヒグハ(新桑)麻欲〔二字右○〕と假字書した例もあるから、音便によりマヨとも稱へられたことは疑がない。マ(眼)ヤ(屋)の意なる眉もまたマユともマヨとも發音せられるから、此字を借りて用ひたので、母ノ養《カ》フ蠶《コ》ノ繭まではコモリ(籠)の序である。
いきづきわたり(氣衝渡) イキヅキはナゲキ(長息)とほゞ同義で、太息《トイキ》をついて世を渡りといふことを意味し、五句を隔てゝ待ツコト遠シに連るのである。
わがこふる(吾戀)
こころのうちを(心中少〕
ひとにいはむ(人丹言) 舊訓に人ニイフとあるが、文法的には雅澄訓の如くイハム〔三字右○〕であらぬばならぬ。
ものにしあらねば(物西不有者) シは強意の助語で、モノニアラネバといふに同じい。
まつがねの(松根) マツの序的枕詞である。
まつこととほし(松事遠) 松は勿論借字で、待ツコト遠シ即ち待遠しいといふ意である。此は上述の對句なる思ヒ足ハシと息ヅキ渡リとを一括して承けて一段落を形成し、以下意味の上からも獨立して居る五句一(126)聯(短歌形)をそへて結んだのである。此は他にも例のある古歌の一形式であるから、略解以下が遠シをトホミ〔右△〕と改訓したのは不當で、其場合には後句も日ヲクラシツレ〔二字右○〕バといはねばならぬ。
あまづたふ(天傳) 日の枕詞である。
ひのくれめれば(日之闇者)
しらゆふの(白木綿之) 衣手の枕詞としてはシロタヘノといふのが普通であるので、千蔭は木綿を幣〔右△〕の誤寫としてタヘと訓み【略】、木村正辭博士は木綿をもタヘと訓み得べしと考證したが【訓義辯證】、此當時に於ては絹及麻の外にユフ(木綿)即ち木質繊維をも衣服原料に供したと想定せられるから、シラユフを絶對に不可とすべき理由がない。
わがころもでも(吾衣袖裳) コロモ(衣)デ(手)はソ(衣)デ(手)と同義語で、袖の意である。
とほりてぬれぬ(通手沾沼)
【大意】 歳月が移つても使が來ぬから、長い春の日を思慕の情を以て天地に充滿させ、母の養ふ蠶の繭のやうに引籠つて嘆き暮し、戀々の心中を人に言ふべきものではないから、待遠く思ふ。(其故に)日が晩れると白木綿の我袖は(涙に滲んで)濡れ通る
 
(127)反歌
 
3259 如是耳師《カクノミシ》 相不思有者《アヒモハズアラバ》 天雲之《アマクモノ》 外衣君者《ヨソニゾキミハ》 可有有來《アルベカリケル》【三二五九】
 
かくのみし 相|思《モ》はずあらば 天雲の よそにぞ君は あるべかりける
 
右二首
 
かくのみし(如是耳師) カクは字の如く此やうにといふ意で(第八五頁)、ノミは唯といふに同じく、シは強意の爲に添加せられたのである。
あひもはずあらば(相不思有者) 從來アヒオモハザラバ〔三字右△〕と訓して居るが、思ハザリは思うて居ない〔三字右○〕といふことで、此は思ハズ(ニ)在りの意、即ち動詞としてアリを用ひたのであるから、連約は許されす、「筑波の山を戀ひズアラメかも」【萬二〇】の如くズアラバといはねばならぬ。口語では此場合には「思はぬならば」といふのである。アヒは相互の義であるが、此は呼應といふ意味に用ひられたのである。
あまくもの(天雲之) 次句ヨソの誇張的修飾で、準枕詞と見るべきである。
よそにぞきみは(外衣君者) ヨソはソ〔右○〕ト(外)と同根から分化したものゝやうで、恐らくはオモ(面)に對するセ(背)の轉呼であらう。ヨはヤ(彌)の音便とも了解し得られる。漢語の餘所〔二字右○〕もまた同じ意味に用ひられることがあるので、早期外來語の國語化したものとするのが通説であるが、奈良朝以前の漢語は概して朝鮮を經て輸入せられたものゝやうであるから、韓語化するに至らなかつた此熟語が、我國に於てのみ普及し(128)たとは考へられぬことであり、集中に用ひた三十四例中、一も餘所の二字をあてたものがない所を見ても肯定を躊躇せざるを得ぬ。多くは外の字を充當して居るから、ソト(背方)、ト(遠)、ホカ(秀處)に近い意と了解せられたものとせねはならず、此も無關係といふ意味に用ひられたものと思はれる。
あるぺかりける(可有有來) ベカリはベキの連用形とせねばならぬから(要録九四五頁)、古義訓のやうにベクアリと稱へることは出來ぬ。ケリは過去繼續格で、以上三句の意は初から君とは他人であるべきであつたといふのである。
【大意】 此やうに相思はぬとならば、君は(初から)天雲の外の人であるべきであつた
 
3260 小沼〔左△〕田之《ヲハリタノ》 年魚道之水乎《アユチノミヅヲ》 間無曾《ヒマナクゾ》 人者※[木+邑]〔左△〕云《ヒトハクムテフ》 時自久曾《トキジクゾ》 人者飲云《ヒトハノムテフ》 ※[手偏+邑]人之《クムヒトノ》 無間之如《ヒマナキガゴト》 飲人之《ノムヒトノ》 不時之如《トキナキガゴト》 吾妹子爾《ワギモコニ》 吾戀良久波《ワガコフラクハ》 已時毛無《ヤムトキモナシ》【三二六〇】
 
をはり田の あゆちの水を 間《ヒマ》なくぞ 人は汲むてふ 時じくぞ 人は飲むてふ 汲む人の ひまなきがごと のむ人の 時なきが如 吾妹子に 吾が戀ふらくは やむ時もなし
 
をはりたの(小沼〔右△〕田之) 沼〔右△〕は元暦校本天治本等に治〔右○〕とあるを正とする。此名稱は推古朝の皇居の地によつて著聞であるが、此は次句にアユチとあるから、尾張國をいふのであらう。タは田畑ばかりではなく、廣く土地を意味したものゝやうであるから【語誌】、大和から移任した尾張氏の占住地をヲハリタと稱へ、其か(129)らヲハリといふ國名が出たのであるかも知れぬ。略解にも引用したやうに、神護景雲二年十二月尾張國山田郡の人小治田〔三字右○〕連藥等八人に尾張宿禰の姓を給はつたとある所を見ると【續紀】、或時代までヲハリタといふ名稱が尾張〔二字右○〕國に殘つて居たものと思はれる。欽明朝に小治太點田を開墾したので小治田大連を給はつたと稱せられる氏族は、伊香我色雄命の後とあるから【姓氏録】、尾張氏とは別系とせねばならず、稱徳紀の記事と矛盾するが、いづれか一方に誤傳が存したことも有り得る。之を要するに此小治田が飛鳥の小墾田《ヲハリタ》でないことだけは斷言し得られるやうである。
あゆちのみづを(年魚道之水乎) アユチは神代紀及景行紀にも見える古い地名で、和名抄には尾張國愛知(阿伊知)郡をあげ、今も郡名縣名として存する。紀に吾湯市及年魚市の字をあてゝ居る所を見ると、本來|年魚《アユ》を名に負うた市であつたとすべきで、其跡に發達した大都市をナゴヤ(魚小屋)と稱するのも之に由るものと思はれる。此地に音に聞えた名泉が存したので、此歌の譬喩にも用ひられたのであらうが、其遺跡は不明になつた。――新考が右の姓氏録の記事を根據として道〔右○〕を田〔右△〕の誤記とし、大和の飛鳥の一地點と認定したのは早計で、此歌が大和人の作であつたと假定しても、比況に用ひられた地點も亦大和であらねばならぬといふ理由はなく、上記の如く姓氏録の記事には多少疑が存するのである。
ひまなくぞ(間無曾) 雅澄はマナクゾと改訓したが、間をヒマと訓み得ぬことはなく、律調からいつても五音を可とするから、舊訓を誤謬と斷定することは困難で、後句の無間之如に於ても同樣である。
ひとはくむてふ(人者※[木+邑]〔右△〕云) ※[木+邑]〔右△〕は勿記※[手偏+邑]〔右○〕の誤寫で、テフはトイフの約である。之をチフと改訓したものもあ(130)るが、トイフはトフともテフともチフとも約し得られるから、其孰れを選んだかは作者に聞かねば判明せぬことで、此やうな場合には舊訓を尊重すべきであらう。次の人者飲云も同樣である。
ときじくぞ(時自久曾) 時ジクは家ジク【續紀詔】、我ジク【萬十九】と同一語形で原義は時|其者《シク》であるが、――クは事の意の語分子であるが【第四五頁】、者とも通ずる――時其時即ち隨時の意に用ひられたものゝやうである。登岐士玖能迦玖能木實【記】を紀に非時〔二字右○〕香菓としたのは意譯で、時ならぬ即ち季節はづれのといふ意ではなく、何時でもある菓實と解する方が橘子の實際に適する。然るに後人語義を無視してトキジクを非時の謂とし、或は形容詞に準じてトキジケメヤモ【萬四】の如くも活用して、時々といふ意味に轉用したが、尚不時及非時は本集に於ても常にトキナクと訓し、トキジクと區別して居るのである。
ひとはのむてふ(人者飲云)
くむひとの(※[手偏+邑]人之)
ひまなきがごと(無間之如)
のむひとの(飲人之)
ときなきがごと(不時之如) 上記に倣うてトキジキガゴト【考】又はトキジクガゴト【古】と改訓したのは輕率で、時ナキは時とも無き即ち時を定めぬといふことである。
わぎもこに(吾妹子爾)
わがこふらくは(吾戀良久波) 我戀フルコトはといふ意。
(131)やむときもなし(已時毛無)
【大意】 尾張の年魚市(愛知)の水を斷聞《タエマ》なく人は汲むといふ。いつでも人は飲むといふ。其汲む人の斷聞がないやうに、飲む人の時を定めぬやうに自分が彼女を戀ふことは已む時がない
 
反歌
 
3261 思遣《オモヒヤル》 爲便乃田付毛《スベノタヅキモ》 今者無《イマハナシ》 於君不相而《キミニアハズテ》 年之歴去者《トシノヘヌレバ》【三二六一】
 
おもひやる すべのたづきも 今はなし 君に逢はずて 年のへぬれば
 
今案此反歌謂2之於君不相1者、於v理不v合也、宜v言2於妹不相1也
 
おもひやる(思遣) 念ヲ〔右○〕ヤル即ち放念するといふ意。
すべのたづきも(爲便乃田付毛) スベは上記の如く爲ム方即ち手段の意(第一二〇頁)。タヅキはタドキともいひ、道しるべに建てる木を意味するのであるが(第一五三頁)、タヨリ(便)の義にも轉用せられ、古今集にも「遠近のタヅキも知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな」とある。
いまはなし(今者無)
きみにあはずで(於君不相而) 本歌によればキミが愛人たる女性を意味することは言ふまでもない。左注に君を妹〔右△〕の誤としたのは理由のないことで、此當時には男女互にキミと呼びかはしたのである。
(132)としのへぬれば(年之歴去者)
【大意】 心を慰める方法も今はない。君に逢ふことなくして年が經たから
 
或本反歌曰
 
3262 ※[木+若]垣《アシガキノ》 久時從《ヒサシキトキユ》 戀爲者《コヒセレバ》 吾帶綾〔左△〕《ワガオビユルブ》 朝夕毎《アサヨヒゴトニ》【三二六二】
 
ふしがきの 久しき時ゆ 戀せれば 吾が帶ゆるぶ 朝よひごとに
 
右三首
 
ふし〔二字右○〕がきの(※[木+若]垣) 舊訓ミヅガキノとあり、從來異説を立てたものはないが、※[木+若]をミヅと訓むべき理由はない。本集第四卷及十一卷に袖振山ノ水垣ノ久シキ時ユとあるのは石上布留御魂神社の神籬のことで、外に崇神天皇の宮號をも瑞籬宮と稱するにより、古來存續し、若くは久しい昔に存したものなるが故に久シの枕詞とせられたと説かれて居るが、恆久性の表示の爲なら磯城又は磐垣といふ方が一層適切であり、爰にいふ久シキ時は悠久の昔といふ意ではないから、瑞籬宮を引合に出すことは無理である。案ずるにミヅはメデ(賞)と同原の美稱であるから、主要語はカキ(垣)で、上古生籬としてヒサギ(楸)を植ゑることが多かつたので、――此植物は萬葉歌人によつて度々詠まれて居る――序的枕詞として用ひられたのではあるまいか。若し然りとすれば必しもミヅ垣なることを要せず、※[木+若](若木《ワカキ》の合字)の垣とする方が寧ろ適切である。(133)※[木+若]はシモト(楚)とも訓せられるが【播磨風土記】【字鏡】、此はフシと訓むべきで、出雲傳説にも蒼柴〔右○〕垣【柴此云2府璽1】【紀】、青柴垣【訓v柴云2布斯1】【記】とあり、其が神籬を意味することは分明であるから【神代篇五――一一二頁】、振山のミヅガキも此種のものであつたと想定せられる。要するに今いふイケガキ(生垣)のことである。
ひさしきときゆ(久時從) 舊訓はヒサシキヨ〔右△〕ヨリであるが、時の字をヨと訓むことは困難であるから、上掲第十一卷【二四一五】の歌に準じ、トキユと訓むべきである。
こひせ〔右○〕れば(戀爲者) 從來戀ス〔右○〕レバと訓んで居るが、此は戀して居ればといふ意であるから、コヒセ〔右○〕レバ(戀シアレバの約)とせねばならぬ。
あがおびゆるぶ(吾帶綾〔右△〕) 綾〔右△〕は元暦校本其他の如く緩〔右○〕とあつたのを誤寫したのであらう。帯ユルブは躯體の痩せることをいひ、二重廻りが三重廻るといふ俗語と同一落想である。
あさよひごとに(朝夕毎) 舊訓のやうにアサユフと唱へても差支はないが、ゴトニとの續合上アサヨヒと訓む方が口調がよい。ヨヒ、ユフ共にヨフ(夜經)の縛呼で本來同語である。
【大意】 久しい時から戀をして居るから、朝夕毎に自分の帯は緩くなる
 
3263 己母理久乃《コモリクノ》 泊瀕之河之《ハツセノカハノ》 上瀬爾《カミツセニ》 伊杭乎打《イクヒヲウチ》 下湍爾《シモツセニ》 眞杭乎格〔左△〕《マクヒヲウチ》 伊杭爾波《イクヒニハ》 鏡乎懸《カガミヲカケ》 眞杭爾波《マクヒニハ》 眞玉乎懸《マタマヲカケ》 眞珠奈須《マタマナス》 我念妹毛《ワガモフイモモ》 鏡成《カガミナス》 我念妹毛《ワガモフイモモ》 有跡《アリト》 謂者社《イハバコソ》 國爾毛《クニニモ》 家(134)爾毛由可米《イヘニモユカメ》 誰故可將行《タガユヱカユカム》【三二六三】
 
こもりくの 初瀬の川の 上つせに い杙《クヒ》をうち 下つ瀬に ま杙をうち い杙には 鏡をかけ ま杙には ま玉をかけ ま玉なす 我が思ふ妹も 鏡なす 我が思ふ妹も ありと いはばこそ 國にも 家にも行かめ 誰が故か行かむ
 
檢2古事記1曰、件歌者木梨之輕太子自死之時所v作者也
 
こもりくの(己母理久乃)
はつせのかはの(泊瀬之河之) 〔二行にかっこをつけて〕「前出(第−九頁)」とある。
かみつせに(上瀬爾)
いくひをうち(伊杭乎打) イクヒは宣長説の如く齋杙の意で、鏡をかけて神祇を祭る爲の杙であるから、イ(齋)といふ語を冠したのであらう。
しもつせに(下湍爾)
まくひをうち(眞杭乎格〔右△〕) 此杙も亦眞玉をかける爲であるから、齋《イ》クヒといふべきであるが、同語の重複することを厭ひ、敬語ミ(御)に通ずるマを冠してマクヒとしたのであらう。格は挌の誤記。
いくひには(伊杭爾波)
かがみをかけ(鏡乎懸)
(135)まくひには(眞杭爾波)
またまをかけ(眞玉乎懸) タマは上述のやうに團塊状のものゝ總稱であるから(第一二三頁)、寶玉といふ意を明示せんが爲にマ(眞)を冠したので、其はナ(食物)中に含まれる魚をマナ、ユミといふ語を以て總括せられる射器中典型的のものをマユミ(眞弓)と稱すると軌を一にする。以上十句は序であるが、恐らくは初瀬は作者の郷里で、上古其地に右に描寫せられたやうな儀禮を以て川の神を祭る習俗が存したのであらう。
またまなす(眞珠奈須) ナスは比況助語であるから(第五〇頁)、寶石のやうなといふ意を以て後句の鏡ナス(鏡の如き)と對句をなすのである。
わがもふいもも(我念妹毛)
かがみなす(鏡成)
わがもふいもも(我念妹毛)
ありと(有跡) 三音一句で、次の五音句と一聯をなすものである。
いはゞこそ(謂者社) コソは強意の指定である。
くににも(國爾毛) クニは郷土を意味する。
いへにもゆかめ(家爾毛由可米) ユカメといふ已然形を用ひたのは、所謂係り結びの方則に據るものではなく、行カメドといふ反接的氣分を含ませる爲に外ならず、此やうな場合に上に強意の指定語を要望するのは自然の勢で、口語に於ても言はゞコソ〔二字右○〕行きもしようが〔右○〕と表現せられるのである。
(136)たがゆゑかゆかむ(誰故可將行) タガは古義訓による。故カのカは反語表示で、誰故に行かうや(行きはせぬ)といふ意である。
【大意】 初瀬川では瀬の上下に杙をうち、共に鏡と寶玉とをかけ(て神を祭つ)た(以上序)。其玉の如く鏡のやうに我念ふ彼女が居ると言はゞこそ國にも行かうが、誰故に行かうや
左注に指摘したやうに、記には此歌を輕太子の御作として、末句を少しく變へて收録して居るが、歌の内容は太子の御跡を追うて伊豫國に向うた衣通王を待懷うで詠まれたとある所傳と一致せず、家郷を離れた初瀬の里人が後に殘した愛人の死亡または變心を耳にして悲吟した述懷と見るの外はないから、記の物語は史實ではなく、作者不明の古歌を皇子皇女の哀話に附會したものとすべきであらう(「古代歌論」下卷六五頁參照)。但し歌詞は記の所傳の方が原形に近く、本集に於ては後世の標準歌格に迎合する爲に末尾に一長句を加へ、且兩三句に小改竄を施したものゝやうである。さればこそ反歌は二首共に此本歌の趣に副はぬ憾があるので、恐らくは筆録者又は傳誦者が賢しらに添加したのであらう。
 
反歌
3264年渡《トシワタル》 麻弖爾毛人者《マテニモヒトハ》 有云乎《アリトイフヲ》 何時之間曾母《イツノマニゾモ》 吾戀爾來《ワガコヒニケル》【三二六四】
 
(137)年わたる まてにも人は ありといふを いつの間にぞも 吾がこひにける
 
としわたる(年渡) 年は一年の謂ではなく、歳月の經過することをトシワタルと表現したのである。
まてにもひとは(麻弖爾毛人者) マテニはマデと同義であるから、テを濁るべからざることは既述の通りである(第二九頁)。助語のマテニを句頭に置いたのは例のないことではないが、所謂句跨きで好もしからざる手法といはねばならぬ。上記の如く此は原歌について居たのではなく、後人が賢しらに添加したもののやうであるから歌の品も劣るのであらう。
ありといふを(有云乎) 戀ヲ知ラズテといふ語句を上に補うて聞くべきである。此やうな省語は通常許されぬことであるが、年ワタルといふ慣用句は其意味に了解せられたと見えて、第四卷【五二三】にも歳月の間戀を知らずに暮すといふ意を好渡〔右○〕人者|年母《トシニモ》有云乎と表現した例がある。
いつのまにぞも(何時之間曾母) 間をマニと訓むべからずとする新考説は理由のないことで、助語ニを略書した例は本卷だけでも枚擧に遑がない。イツは既記の如く不定代名詞で、必しも疑問表示ではないから、知ラヌ間ニといふに同じく、ゾは指定助語、モは感動詞なるが故に、「いつのまにやら」といふ意を強く且詠歎的に敍したものとすべきで、若し古義訓のやうに間をアヒダと稱へたとすれば、少くとも句末の毛は省略せられて居た筈である。
わがこひにける(吾戀爾來) 自分はいつの間にか戀に陷つて居たよといふ意と了解せられる。
(138)【大意】 歳月を亙るまでも人は(戀を知らずに)あるといふのに、自分はいつの間にか戀をしてしまうたよ
 
或書反歌曰
 
3265 世間乎《ヨノナカヲ》 倦跡思而《ウシトオモヒテ》 家出爲《イヘデセシ》 吾哉難二加《ワレヤナニニカ》 還而將成《カヘリテナラム》【三二六五】
 
世の中を うしと思ひて 家出せし 吾やなににか 還りてならむ
 
右三首
 
よのなかを(世間乎)
うしとおもひて(俺跡思而)
いへでせし(家出爲) イヘデは勿論佛道でいふ出家のことで、世の中を厭うて佛門に歸したといふことになるのであるが、長歌には少しも其意味が現はれて居らぬ所を見ると、前の反歌と同じく後代的思想を以て追加せられたものとせねばならぬ。
われやなににか(吾哉難二加) ヤは間投詞、ナニニ〔右○〕カはナニト〔右○〕カといふに同じく、歸つても何に(何と)ならうやといふのであらう。
かへりてならむ(還而將成) カヘリテは字の如く家出した家に還りてといふ意であらう。
(139)【大思】 世の中を厭うて家出した自分が歸つても何にならうぞ
 
右によれば此歌は還俗を勸められた人が之を拒絶する意味を詠じたもの解するの外はなく、本歌とは全然關係がない。
 
3266 春去者《ハルサレバ》 花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》 秋付者《アキヅケバ》 丹之穗爾黄色《ニノホニモミヅ》 味酒乎《ウマサケヲ》 神名火山之《カムナビヤマノ》 帶丹爲留《オビニセル》 明日香之河乃《アスカノカハノ》 速瀬爾《ハヤキセニ》 生玉藻之《オフルタマモノ》 打靡《ウチナビキ》 情者因而《ココロハヨリテ》 朝露之《アサツユノ》 消者可消《ケナバケヌベク》 戀久毛《コフラクモ》 知久毛相《シルクモアヘル》 隠都麻鴨《コモリヅマカモ》【三二六六】
 
春されば 花咲きををり 秋づけば にのほにもみづ うま酒を かむなび山の おびにせる 明日香の川の はやき瀬に 生ふる玉藻の うち靡き こゝろはよりて 朝露の けなば消ぬべく 戀ふらくも しるくも逢へる こもりづまかも
 
はるされば(春去者) 既出(第八頁
はなさきををり(花咲乎呼里) ヲヲリはヲリ(居)の畳頭語で、居リ居リといふに同じく、居リツツの意である。此語は本集に用例が多く、ヲヰリ(乎爲里)とも轉呼せられ【第二、三、八、九卷】――ヲル(居)は口語でもヰルといふ――春サレバ乎呼理爾乎呼里【一〇一二】、芽子《ハギ》ノ花サキの乎再入《ヲヲリ》ヲ【二二二八】の如く折々の意にも用ひられた。
(140)あきづけば(秋付者) 秋ヅクは色ヅクなどと同一形態で、秋が催せばといふ意味と了解せられる。
にのほにもみづ(丹之穗爾黄色) 黄色をキバムとした舊訓は誤りで、ニノホ(丹砂)といふ修飾語に適合せぬから、契沖訓の如くモミヅとせねばならぬ。但し連體法として用ひられたのである。
うまさけを(味酒乎) ウマサケは美酒の謂で、之をカム(釀)といふ意を以て次句にいひかけた枕詞である。
かむなびやまの(神名火山之)
おびにせる(帶丹爲留) 既出(第二八頁)
あすかのかはの(明日香之河乃)
はやきせに(速瀬爾)
おふるたまもの(生玉藻之) タマは美稱。早瀬に於ても岩蔭などには川藻が生ひることがある。其藻の如くといふ意で此況的枕詞である。以上十句は序。
うちなびき(打靡)
こころはよりて(情者因而) 心は彼女に打なびき寄りてといふ意。
あさつゆの(朝露之) 朝露のやうにといふ意の比況的枕詞。
けなばけぬべく(消者可消) 單に消えぬべくといふと大差はない。ケナバ(消えなば)といふ前提を冠したのは語意を強める爲で、一種の慣用句である。
こふらくも(戀久毛) 戀フルコトモといふ意。
(141)しるくもあへる(知久毛相) シルクモは著くもといふ意に、驗クモをいひかけたものゝやうである。驗の義としては今ではシルシといふ一形が名詞的に用ひられるのみであるが、其形態からいうても、本初シルキ及シルクとも活用したとせねはならず、恐らくは知ルといふ意の形容詞シルシから夙に著シと驗シとの二義が分化したのであらう。アヘルは逢うて居るといふ意である。
こもりづまかも(隱都麻鴨) コモリの語義は字の通りであるが、此は限定語として用ひられたので、夫婦關係を公表せぬ以前の配偶をコモリヅマといひ、本集第十一卷【二七〇八】にも内妻といふ字をあてゝ居るのである。
【大意】春邊になれば花が咲きに咲き、秋が催すと丹色に紅葉する神名火山が帶にして居る明日香川の早瀬に生ひる玉藻のやうに、――以上序及枕詞――心は打靡き寄つて(魂も)消え消えに戀することも著く、其驗あつて逢うてゐる内妻はよ
 
反歌
 
3267 明日香河《アスカガハ》 瀬湍之殊藻之《セゼノタマモノ》 打靡《ウチナビキ》 情者妹爾《ココロハイモニ》 因來鴨《ヨリニケルカモ》【三二六七】
 
あすか川 せぜの玉藻の うちなびき 心は妹に よりにけるかも
 
右二首
 
(142)あすかがは(明日香河)
せぜのたまもの(瀬湍之珠藻之) 瀬々の玉藻の如くといふ意。
うちなびき(打靡)
こころはいもに(情者妹爾)
よりにけるかも(因來鴨) ニケリといふ過去完了を用ひたのは、寄つてしまうたといふ意なるが故で、單にヨリケリ(寄つた)といふと差別がある。カモは感動詞である。
【大意】 飛鳥川の瀬々の川藻のやうに、(自分の)心は彼女に寄つてしまうたよ
 
3268 三諸之《ミムロノ》 神奈備山從《カムナビヤマユ》 登能陰《トノクモリ》 雨者落來奴《アメハフリキヌ》 雨霧相《アマキラヒ》 風左倍吹奴《カゼサヘフキヌ》 大口乃《オホクチノ》 眞神之原從《マカミノハラヨ》 思管《シヌビツツ》 還爾之人《カヘリニシヒト》 家爾到伎也《イヘニイタリキヤ》【三二六八】
 
みむろの 神なび山ゆ とのくもり 雨は降り來ぬ 雨きらひ 風さへ吹きぬ 大口のま神の原よ しぬびつつ 還りにし人 家にいたりきや
 
みむろの(三諸之) 既出(第九頁)
かむなびやまゆ(神奈備山從) 從の字はこゝも後句も舊訓ニとよんで居るが、其は理由のないことでユ又はヨであらねばならず、此句に於てはヨリ(カラ)を意味する。
(143)とのくもり(登能陰) タナ〔右○〕クモリの轉呼で、層雲をタナクモといひ(記の天孫降臨章下)、之を活してタナクモリと稱へ、黒雲のタナビクことを表示したのである。
あめはふりきぬ(雨者落來奴)
あまきらひ(雨霧相) キリ(霧)といふ語は今では活用せぬが、古は霧タツといふ意の動詞としても用ひられたと見え、第一卷【二九】には春日之|霧流《キレル》と用ひた例もあり、類聚名義抄には雰にキルの訓を與へて居るから、其進行格は當然キラフとあるべきで、舊訓にキリアフと點したのは誤りである。雨〔右△〕は借字で、アマキラヒは天〔右○〕に霧がかゝるといふ意から、前句トノクモリと同樣に、一天かき曇ることをいひ、天霧相〔三字右○〕降リ來ル雪【二三四五】の如くも用ひられたのである。
かぜさへふきぬ(風左倍吹奴) 前句も此の句も現在完了形を用ひたのは、風雨すぎての後の詠であつたからであらう。
おほくちの(大口乃) 字の義を以てマカミ(狼)の修飾的枕詞に用ひたのである。
まかみのはらよ(眞神之原從) 雄略朝に歸化の才伎を置かれた舊地で【紀】、法興寺も最初は此地に建立せられ【崇神紀】、本集第二卷人麻呂の歌【一九九】には天武天皇の大内陵を明日香ノ眞神之原云々と詠じて居るから神ナビ山の隣接地域の稱呼であつたことは疑の餘地がない。眞神原といふ名の所由については枕詞燭明抄(下河邊長流)に、此地に老狼が棲み、多くの人を喰うたにより、土人恐れて大口神といひ、其地を大口眞神原と號すと風土記に見ゆとあり、此歌に大口ノといふ枕詞が用ひられて居る所を見ても、狼によつて名(144)を得たことは分明である。マは上述の如く神祇人間以外の有情をいふ原語であるから(第一〇七頁)、獰猛百獣に首《カミ》たりといふ意を以てマカミと呼ばれたことは極めて有り得べきで、オカミも亦大神を意味し、今も御犬樣と稱へられ、秩父三峰神社に祭られて居る。句尾の從の字は此句に於てはヨと訓むを可とし、本來空間推徙を表示する助語であるが(要録一〇一六頁)、後世音便によりヲと稱へた。此も眞神原ヲと解すれば意味が一層明白になる。
しぬびつつ(思管) 古義訓による。シヌビの原義は下伸であるが、表にあらはさず、心中に思ふといふ意にも用ひられるのである。
かへりにしひと(還爾之人) 還つてしまうた人といふ意。
いへにいたりきや(家爾到伎也) 此ヤは疑問助語で、家に歸つたかといふことである。
【大意】 三諸の神奈備山から黒雲が棚引いて雨が降り、天空がかき曇つて風が吹いた。大口の眞神原を下延へつつ還つてしまうた人は家についたか
 
反歌
 
3269 還爾之《カヘリニシ》 人乎念等《ヒトヲオモフト》 野干玉之《ヌバタマノ》 彼夜者吾毛《ソノヨハワレモ》 宿毛寢金手寸《イモネカネテキ》【三二六九】
 
かへりにし 人をおもふと ぬばたまの その夜はわれも いも寢かねてき
 
(145)右二首
 
かへりにし(還爾之) 前出
ひとをおもふと(人乎念等)
ぬばたまの(野干玉之) 夜、夕、暗、黒、夢等の枕詞で、ヌバタマ【紀】【記】【萬】、ウバタマ又はムバタマ【古今】と假事書せられて居るが、野干(又は夜干)の字をあてた理由については明白な説明がない。野干は狐の異名で、同じく狐に類する獣に射干といふものがあり(字書による)、和名抄によればカラスアフギ(烏扇)といふ植物――鳶尾《イチハツ》科宿根草で、今ではヒアフギと稱へる――も亦一名射干といふとある。其花は黄褐色であるが、黒實を結ぶので、從來之を野(夜)干玉とも烏玉(珠)ともいふと誤斷し、日本紀私記の如きは師説烏羽〔二字右○〕之實也、其色黒、人喩v之と説き【釋記】、烏羽〔二字右○〕を重箱訓にしてウバ玉と稱へたものと解したやうであるが、少くとも此語は文字輸入以前から存したものゝやうである。されば先學も此説に盲從することを欲せず、他に語原を求めんとして、或は鵜羽なりといひ、或は夜の異名とし、契沖はヌバに黒の義ありと説き、眞淵は野眞玉、宣長は野羽玉と解し、其他|寢程《ヌルタマ》【槻落葉】、寢經間【稜威言別】と牽強したものもあるが、論據が薄弱であるのみならず、ムバタマ、ウバタマと轉呼せられた説明がつかぬ。私の信する所によれば此語はヌ(ウ、ム)とマタマ(眞魂)より成り、音便によつてヌ(ウ、ム)バタマとも轉呼せられたものゝやうで、ヌはオニ〔右○〕(鬼)の原語アヌ(幽鬼)の上略と推定せられる。――アイヌ語では夜をアンといふが、恐らくは其から出たのではあるまい――オニが地獄の番卒のことゝ了解せられるやうになつたのは佛教輸入以後のことで(146)古語に於ては漢語鬼と同じく神となり得ざる亡者をいひ、人間に賊害を加へるものと信ぜられたのであるが、其語原は南方民族に存し、今もミクロネシア諸島に在つてはアニ〔右○〕又はアヌ〔右○〕と稱へる。此ヌはンに近く發音せられたるが故にウともムとも表記せられたので、其マタマ即ち幽魂をヌ(ウ、ム)バタマと稱へたことは極めて有り得べきである。幽鬼は日中に出没することがないものと信ぜられたので、夜、夕、暗の枕詞となり、更に黒にも轉用せられたものと思はれる。狐の異名と了解せられて居る野干(夜干)は本來一種の怪獣なるが故にヌマ〔二字右○〕の假字に用ひたのは不當ではなく、――マは上記の如く神祇人間以外の有情をいふのである――烏玉又は黒玉とかくのは、暗黒を聯想せしめんが爲の借字に外ならぬのである。されば野干=射干=烏扇といふ文字によつてカラスアフギの實の謂とする俗説は排棄すべきで、黒きものゝ比況としては此草實よりも更に顯著で、且適切なものがいくらも有る筈である。
そのよはわれも(彼夜者吾毛) 此句によれば男は曉を待たずして退出したものと思はれる。本歌には其を猜ひ詛ふやうな氣分が言外に溢れて居るが、尚思慕の情に堪へずして輾轉反側したといふのである。
いもねかねてき(宿毛寢金手寸) ネは根から分化した語で、本義の根は横ばふやうに偃臥することをいふのであるから、夜眠を表示する爲にはヨ(夜)の轉呼イ――ヨメ(夜目)をイ〔右○〕メ(夢)といふと同例――を冠することを必要とした。さればこそイとネとの間に助語を挿入し、イヲ〔右○〕ヌル、イハ〔右○〕ネズ、イモ〔右○〕ネカネの如くも用ひられるので、一夜といふ意を有する宿の字を充てたのは當を得て居る。然るに後世字義語義を無視してイ〔右○〕にも亦寢の義ありとし、ヤスイ〔右○〕セズ、ウマイ〔右○〕スルの如く用ひたものがあるので、從來の註釋者を誤ら(147)せたのであるが、イとネとが同義語であるとすれば、之を連結したイネは熟合した筈で、其中間に助語の介在することを許さず、此句の如きもイネモ〔右○〕カネテキとあるべきである。カネはカテ(克)の語幹カに打消のネを連ねたもので、不能を意味し、テキは過去完了時格を表示するから、寢てしまふことが出來なかつたといふ意になるのである。
【大意】 還つてしまうた人を思ふとて、其夜は自分も寢入らなかつた
 
3270 刺將燒《サシヤカム》 少屋之四忌屋爾《ヲヤノシコヤニ》 掻將棄《カキステム》 破薦乎敷而《ヤレコモヲシキテ》 所掻〔左△〕將折《ウチヲラム》 鬼之四忌手乎《シコノシコデヲ》 指易而《サシカヘテ》 將宿君故《イネムキミユヱ》 赤根刺《アカネサス》 晝者終爾《ヒルハシミラニ》 野干玉之《ヌバタマノ》 夜者須柄爾《ヨルハスガラニ》 此床乃《コノトコノ》 比師跡鳴左右《ヒシトナルマデ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》【三二七〇】
 
さしやかむ 小《ヲ》屋のしこやに かき棄てむ やれ薦を敷きて うち折らむ 醜《シコ》のしこでを さしかへて いねむ君ゆゑ あかねさす 晝はしみらに ぬばたまの 夜はすがらに 此床の ひしとなるまで 嘆きつるかも
 
さしやかむ(刺將燒) サシは語勢を強める接頭語として用ひられたので、後句のカキ及ウチも同樣である。
をやのしこやに(少屋之四忌屋爾) 舊訓コ〔右△〕ヤノシキ〔右△〕ヤニとあるが、新考説の如くヲヤと訓むを可とし、――元暦校本、天治本等には小屋とある――忌は己に準じてコの音符とすべきで(後句の四忌手も亦然り)、陋(148)屋の謂なることは分明である。シコの原義は上述の如く嚴※[蠣の旁]であるが(第五二頁)、轉じて見ニクイ(醜)といふ意に用ひられるやうになつたのである。
かきすてむ(掻將棄) 雅澄は棄をウテと改訓したが、舊訓を不可とすべき理由はない。
やれこもをしきて(破薦乎敷而)
うちをらむ(所掻〔右△〕將折) 元暦校本に挌〔右○〕とあるを可とし、ウチ折ラムと訓むべきである。サシ、カキ、ウチと故意に接頭語をかへて用ひたものと思はれる。所の字が過剰になるやうであるが、ウチ折ラムトスル所〔右○〕ノといふ意味で添加したものと了解せられるから、強ひて之を衍字とするにも及ぶまい。
しこのしこてを(鬼之四忌手乎) 鬼は醜の省劃であらう。シコのシコ手と重ねて用ひたのは意を強める爲で前句のシコ屋といひ、破薦といひ、男の愛を奪うた婦人を憎む餘り、極度に貶しめたのである。
さしかへて(指易而) 差カハシといふ意。
いねむきみゆゑ(將宿君故) 舊訓ネナムとあり、古義はヌラムと改訓したが、前句に燒カム、棄テム、折ラムとあると同一語法を用ひて然るべきで、殊更に未來完了乃至推量法とすべき理由がない。或は男の不實は此女性の猜疑に過ぎぬが故に、推量法を用ひねばならぬと考へるものがあるかも知れぬが、現認したことでないとしても想定の根據が十分であつたとすれば、未來格を以て表現することは不當ではなく、少くとも此は手を差かへて寢るかも知れぬといふやうな漠然たる推測ではなく、口語で寢ル〔右○〕君故ニといふに當るから、イネム君故としたのであらう。宿の字は前の歌にもイ(夜)に充てられて居り、爰もイネと訓ます(149)爲に特に此字を選んだものとすべきである。上記の兩訓は之をネと同一視した結果、單にネム君故としては標準句長に滿たぬので、ナム又はラムといふ助動詞をかりて補うたものと思はれる。ユヱ(故)は現在了解せられて居るやうに因由の謂で、反接のモノ〔二字右○〕ユヱと同一視することは誤りである。
あかねさす(赤根刺) 光線を赤根の射出に見立てゝ、日、晝、月等の枕としたのである。染料に用ひる茜草をもアカネと稱へるが、此枕詞のアカネは必しも此草を意味するのではない。
ひるはしみらに(畫者終爾) シはシキ(重)、シゲ(茂)、シジ(繁密)等の語根で、之にマ(間)を連ねたシマはシバと轉呼しては數(屡)の意となり、シミ(シメ)の形に於ては緊密の義に用ひられる。ラは名詞形語尾であるから、シミラは隙間なきことをいひ、終日の意にもなるので終の字をあてたのである。
ぬばたまの(野干玉之) 枕詞(前出)
よるはすがらに(夜者須柄爾) スも亦右のシの轉呼で、之に時間の推徙を意味するカラを添へることによつて刻々の意となり、夜スガラ又は夜モスガラといへば徹夜の義と了解せられるのである。
このとこの(此床乃) トコは作者たる女性の坐臥の床をいふ。
ひしとなるまて(比師跡鳴左右) ヒシは擬聲話で、輾轉反側のため床のヒシヒシと鳴ることをいふ。左右は左右手の略書である。
なげきつるかも(嘆鶴鴨) カモは感動詞で、嘆いたよといふ意。完了格を用ひた所を見ると、今は嘆いては居らぬものとすべきで、戀人を待ち迎へ得た後の口説であらう。
(150)【大意】 火をつけたい(やうな)小い陋屋に、棄てたい破薦を敷いて、折(つてや)りたい見にくい見にくい手を差かはしで寢る君故に、終日終夜此床のヒシヒシと鳴るまで嘆いたよ
 
反歌
 
3271 我情《ワガココロ》 燒毛吾有《ヤクモワレナリ》 愛八師《ハシケヤシ》 君爾戀毛《キミニコフルモ》 我之心柄《ワガココロカラ》【三二七一】
 
我が心 やくも吾なり はしけやし 君に戀ふるも 吾がこころから
 
右二首
 
わがこころ(我情)
やくもわれなり(燒毛吾有) 瞋恚の炎に身を焦がすのも自身の心柄であるといふ意で、ココロカラといふ語を後句に讓つたのである。
はしけやし(愛八師) 舊訓ヨシエヤシとあるが、愛をヨシヱとは訓みがたく、本卷に於てはヨシヱは吉咲又は吉惠又は縱惠と表記せられて居るから、此は字の如くハシケ若くはハシキと訓むべきで、ハシケの方が古形であるから之を取ることにした。倭建命の御歌には波斯祁〔右○〕夜斯とあり【記】、本集第四卷【六四〇】にも波之家〔右○〕也思と假字書した例があるのである。ハシケ(キ)はハシ(好)の連體形で、ヤシは感動詞であるから、好キカナといふ意になるのであるが、謌謠に在つては口語のヨシ(英語well)と同じく、間投詞的に用ひら(151)れることを例とし、さしたる意味はない。
きみにこふるも(君爾戀毛)
あがこころから(我之心柄)
【大意】 我心をやくのも自分(の心柄)である。さて君に戀するのも我心から(であるよ)
右の如く悟つたやうな意味を詠じたのも、上記の如く風雨すぎての後のさゞめ言なるが故で、言外に寓意があると考へるのは、前の歌の時格を等閑視した爲の誤解に過ぎぬ。
 
3272 打延而《ウチハヘテ》 思之小野者《シヌビシヲヌハ》 不遠《トホカラヌ》 其里人之《ソノサトビトノ》 標結等《シメユフト》 聞手師日從《キキテシヒヨリ》 立良久乃《タツラクノ》 田付毛不知《タヅキモシラズ》 居久乃《スウラクノ》 於久鴨不知《オクカモシラズ》 親親《オヤオヤノ》 己之家尚乎《サガイヘスラヲ》 草枕《クサマクラ》 客宿之如久《タビネノゴトク》 思空《オモフソラ》 不安物乎《ヤスカラヌモノヲ》 嗟空《ナゲクソラ》 過之不得物乎《スグシエヌモノヲ》 天雲之《アマクモノ》 行莫莫《ユクラユクラニ》 蘆垣乃《アシガキノ》 思亂而《オモヒミダレテ》 亂麻乃《ミダリヲノ》 麻笥乎無登《ヲケヲナミト》 吾戀流《ワガコフル》 千重乃一重母《チヘノヒトヘモ》 人不令知《ヒトシレズ》 本名也戀牟《モトナヤコヒム》 氣之緒爾爲而《イキノヲニシテ》【三二七二】
 
打ちはへて しぬびし小野は 遠からぬ 其里人の しめゆふと 聞きてし日より 立つらくの たづきも知らず すうらくの おくかも知らず おやおやの さが家すらを 草まくら 旅寢のごとく 思ふそら 安からぬものを 嘆くそら すぐしえぬものを 天雲の ゆくらゆくらに あし垣の 思ひみだれて みだり麻《ヲ》の 麻笥《ヲケ》をなみと 吾が鯉ふる 千重の一重も 人しれず もとな(152)や戀ひむ いきの緒にして
うちはへて(打延而) ウチは接頭語、延ヘテは長クといふに同じく、次句シヌビの修飾である。
しぬぴしをぬは(思之小野者) 從來オモヒシと訓んで居るが、前句によるもシヌビであらぬばならぬ(第一四四頁)。小野は大野に對立する語であるが、後者が曠野の義にも轉用せられると同樣に、小野といへば人里に近い開けた田野と了解せられた。但し此は意中の人に譬へたのである。
とほからぬ(不遠)
そのさとびとの(其里人之) 女の同郷の人といふ意。
しめゆふと(標結等) シメは占有の義であるが、共標識物をいふにも轉用せられ、之を結《ユヒ》付けることをシメユフと稱へた。太古土地及地上物件が民衆の共有であつた時代には、或る地區又は地物を占有せんとする爲には、禾草枝葉等を取かけ又は引わたして之を標示し、敢て侵犯するものは神譴を蒙ると信じたのである。注漣《シメナハ》は恐らくは其名殘で、人間に對する効力がなくなつた後に於ても、尚邪神惡鬼の侵入に備へる爲に門戸に張り亙し、井泉等に結付け、輪餝又は七五三等の形式を生じたが、シメユフといふ表現は殆ど忘れられた。さりながら萬葉集時代には尚其本義を失はなかつたので、占領の意と了解せられ、此も彼女性を手に入れたことを小野はシメユフといふ形式を以て表示したのである。
ききてしひより(聞手師日從)
たつらくの(立艮久乃) 立ツルコトノといふ意。タツルは他動詞タテの連體形で、其目的格は次句のタヅキ(153)(標木)であるが、其は後述の如く言ひかけてあるから、此句もタヅキを言ひ起さんが爲の序と解すべきである。從來之を作者自身の起居の謂と速斷してタタマク【古】、クテラク【新訓】の如く改訓し、私も以前は古義説に從うて居たが【訓詁】、其は考の足らざるものであつた。
たづきもしらず(田付毛不知) タヅは朝鮮語※[ハングルでチャドゥル]《チャツル》と語原を同うし、タヅネ(尋)、タドリ(辿)の語幹で、道標をもタヅ(タド)木と稱へたのであるが、其は道ゆく人の便となるものであるから、タヨリの義にも轉用し上掲の如くスベのタヅキ【三二六一】、爲ムスベのタドキ【三三二九】などゝ用ひられた。此句に於ても同じ意味で、途方にくれたといふのである。不知はシラニとも訓み得るが、當時は既にズを連用形にも充當したやうであるから、強ひて舊訓を改めるにも及ぶまい。以下の歌に於ても同樣である。
すうらく〔四字右○〕の(居久乃) ヲルラクノとある舊訓は語をなさぬが、ヲラク【考】、ヰマク【新考】としたのも誤解である。此は立ツラクの對句であるから、居《ス》ウラク即ち据ゑることゝいふ意なることは勿論で、次句のオクカ(置處)にかゝる序である。居の下に良の字を加へて然るべきであるが、上句との對偶上其必要なしとして之を省いたのが誤読の因となつたのである。
おくかもしらず(於久鴨不知) オクカはいふ迄もなく置處の謂で、手の措き所もなく施す策もないといふことである。
おやおやの(親親) チチハハノと改訓し【略】、或は類聚古集に親之〔右△〕(親々〔右○〕の誤記か)とあるによつてムツマジキ【代】、ムツバヒシ【略】、ニギビニシ【古】等と訓したものもあるが、其は此歌を失戀を詠じたものであらね(154)ばならぬとする豫斷から出發したもので、忠實に語句に從へば、此は憧憬の的であつた美人が、或一男性の占有に歸したことを開いて、岡燒連中の心情を詠じたもので、作者は存外戀の勝利者自身であつたかも知れぬ。諧謔《ユーモア》に富んだ萬葉歌人は往々後人の意表に出るやうな歌謠を殘して居り、殊に此卷には其傾向が顯著であることを思はねばならぬ。されば此親々も勿論複數と解すべきである。
さがいへすらを(己之家尚乎) サが誤訓ではなく、自他稱即ち各自《メイメイ》の意の古語であつたことは上に詳論した通りである(第七一頁)。此は上記岡燒連中のことをいふので、スラのスはシ(其)の轉呼、ヲは屡々述べた通り虚辭であるから、「其」又は「其もの」の意に外ならず、之をスラモ〔右○〕(其尚)と同意に用ひるやうになつたのは寧ろ轉義で(要録一〇二〇頁)、こゝでは尚原義により家其ヲといふ意を表示して居るのである。
くさまくら(草枕) 枕詞(既出)
たびねのごとく(客宿之如久) 自分達の家を旅の宿りのやうに思ふといふのは、心の落つかぬことを誇張したのである。
おもふそら(思空) 空は借字で、ソラは上記スラと同語であるが、――「其」はシともソともいひ、スは其轉呼である――スラモ〔右○〕の意に用ひられたのである。後世獨立語化して「還り給はむソラもなく思さる」【竹取】、「やすきソラなく」【蜻蛉日記】【源氏】等の如く、口語のキ(氣)と同樣に用ひられるやうになつたが、本集には其例はなく、第九卷【一七九二】の安虚歟毛は雅澄説の如く誤字とすべきで、安キ空としては意が通ぜぬ。オモフは旅寢の如くと言ひかけてはあるが、尚思慕を意味するのである。
(155)やすからぬものを(不安物乎) 此モノは反接の表示ではなく、コトと同じく抽象名詞語尾で、之に助語ヲを添へたのは接續の爲であるから、口語に直せば安クナイノヲ〔二字右○〕といふに當る。
なげくそら(嗟空) 嘆クスラモといふ意で、嘆きの爲に其日をすらもといふべきを省略したのである。
すぐしえぬものを(過之不得物乎) 日ヲ過シ得ヌノヲ〔二字右○〕といふ意なることは勿論である。
あまくもの(天雲之) 天雲のやうにといふ意。
ゆくらゆくらに(行莫莫) 眞淵訓に從ふ。ユクラは口語のユツクリ(緩然)の原語で、ユリ(搖)、ユラグ(動)等の語幹ユに活用語尾クを連ねたユク(廃語)を第二次的語幹とし、之に行動表示の接尾語リを結合したものであるが、ユクリ〔三字右○〕カニ及ユクリ〔三字右○〕ナシといふ形に於てのみ中世以降の文語に用ひられ、――−紀に不意をユクリナシと訓したのは、餘裕無シ即ち卒爾といふ義によるものである――原語は上記のやうにユツクリと訛つて口語に傳はつたのである。ユクリ(ユクラ)を重ねると段々の意となるから、雲漠々といふ熟語を活用して莫々の二字をあて、尚誤読を防止する爲にユクの假字として行〔右○〕を冠したのであらう。此は送假字と同一必要から出た上代の表記法で、本集にも屡々用ひられて居り、私は迎假字《ムカヘガナ》と呼ぶことにして居る。此句に於てはユクラユクラはウクウク(憂々)にいひかけたので、本義は寧ろ後者にある。
あしがきの(蘆垣乃) 語義は字の通りであるが、禾莖を結うたものではなく、垣のやうに一列に蘆葦の生ひて居ることをいふのであらう。私の草庵も之を以て垣として居るが、冬枯の季節に於ても尚垣の用をするものである。風が吹くと入り亂れるから、ミダレ(亂)の枕詞としたものと思はれる。
(156)おもひみだれて(思亂而)
みだりをの(亂麻乃) ミダレは上古四段活として、自他に兼用せられた。本集に於ては既に下二段活自動詞も用ひられて居るのであるから、前句は思ミダレ〔右○〕テと訓したので、此も舊訓の如くミダレヲノと唱へても差支はないが.熟語に於ては古形を存するのが例であるから、ミダリヲと訓むことを可とする。此は次句の序的枕詞である。
をけをなみと(麻笥乎無登) 元暦校本、天治本等には麻の字を缺き、笥を司〔右△〕と書いてあるので、新訓ツカサヲナミとよみ、新考は此二句を衍としたが、思ヒミダレ〔三字右○〕てミダリヲ〔四字右○〕のヲケ〔二字右○〕と韻を踏んで居る所を見ても頭記の如く唱へたものとせねばならぬ。ヲケ(舊訓ヲノ〔右△〕ケとあるは非)は上述の如くヲ(麻)を紡み入れる容器をいふのであるが(第八七頁)、麻笥がないから亂れたと解することは語排列の原則上不可能であるから、通音の故を以てワケ〔二字右○〕に言ひかけたものとすべきで、此語は「ワケが爲我手もすまに」【一四六〇】、「われのみ見めやワケさへに見よ」【一四六一】の如く、昵近者に對する稱呼として用ひられるから、此も問題の女性をいひ、其女が自分達の手から失はれたと思うてといふ意を、ヲケをナミと表現したのではあるまいか。
わがこふる(吾戀流)
ちへのひとへも(千重乃一重母)
ひとしれず(人不令知) 人ニ知ラサズといふ意味に人シレズといふ形態を用ひたので、故意に人不令知と表記したのであらう。
(157)もとなやこひむ(本名地戀牟) モトナは既記の如く徒ニといふ意で(第一一七頁)、ヤは間投詞であるから、徒に戀ひん(よ)といふのである。
いきのをにして(氣之緒爾爲而) 既出(第一一七頁)
【大意】長く心の中で慕うた小野(少女)は遠くは離れぬ其郷人が占めたと聞いた日から、途方にくれ、施す策もなく、各自《メイメイ》の親々の家を旅の宿のやうに思ひ、思ふすらも安からず、嗟いて日をすらも過し得ぬので、欝々と思ひ亂れて、其方《ソナタ》は無いものと戀ひしたふ意中の千分の一をも人に知らせず、徒に生命の限りこがれることよ
 
反歌
 
3273 二無《フタツナキ》 戀乎思爲者《コヒヲシスレバ》 常帶乎《ツネノオビヲ》 三重可結《ミヘニユフベク》 我身者成《ワガミハナリヌ》【三二七三〕
 
二つなき 戀をしすれば つねの帶を 三重に結《ユ》ふべく 我が身はなりぬ
 
右二首
 
ふたつなき(二無) 無二即ち無双といふ意。舊訓フタナミニとあるが、二竝の義と誤たれる虞があるから、非とすべきである。
こひをしすれば(戀乎思爲者) 戀をすればといふことで、シはゾに通ずる強意の助語である。
(158)つねのおびを(常帶乎)
みへにゆふべく(三重可結) 本集第四卷【七四二】に一重耳、妹之|將結《ムスバム》、帶乎尚、三重可結〔四字右○〕、吾身者|成《ナリヌ》とある歌は第二句に妹ガ結バムとあるから、後句も三重ムスブ〔三字右○〕ベクと訓むべきてあるが、此場合は右に準じて改訓する必要を認めぬ。第九卷【一八〇〇】の一重結、帶|矣《ヲ》三重結はヒトヘユフ〔二字右○〕帶ヲ三重ユヒ〔二字右○〕と訓むの外はないから、帶はムスブともユフとも稱へたものとすべきで、助語ニを略書して訓みそへしめた例は本卷にも少くはない。
あがみはなりぬ(我身者成) 前記【七四二】【一八〇〇】の外に、上掲の如く本卷にも之と同一着想の歌がある(第一三二頁)。
【大意】 ならび無き戀をするから平常の帶を三重に結ふやうに自分の身體が瘠せた
 
3274 爲須部乃《セムスベノ》 田付呼不知《タヅキヲシラニ》 石根乃《イハガネノ》 興凝敷道乎《コゴシキミチヲ》 石床※[竹/矢]《イハドコノ》 根延門呼《ネバフカナドヲ》 朝庭丹〔右▲〕《アシタニハ》 出居而嘆《イデヰテナゲキ》 夕庭《ユフベニハ》 入居而思《イリヰテシヌビ》 白栲〔左△〕乃《シロタヘノ》 吾衣袖呼《ワガコロモデヲ》 折反《ヲリカヘシ》 獨之寢者《ヒトリシヌレバ》 野干玉《ヌバタマノ》 黒髪布而《クロカミシキテ》 人寢味眠不睡而《ヒトノヌルウマイハネズテ》 大舟乃《オホフネノ》 往良行羅二《ユクラユクラニ》 思乍《オモヒツツ》 吾睡夜等呼《ワガヌルヨラヲ》 續文將敢鴨《ツギモアヘムカモ》【三二七四】
 
せむすべの たづきをしらに 岩が根の こごしき道を 岩どこの 根ばふかなどを 朝には いで居てなげき 夕には 入り居てしねび 白たへの 吾が衣手を 折りかへし 獨しぬれば ぬば(159)たまの 黒かみしきて 人のぬる うまいは寢ずて 大舟の ゆくらゆくらに おもひつゝ 吾がぬる夜らを つぎもあへむかも
 
此歌の首十句及末九句は後掲【三三二九】の挽歌にも見えるから、兩歌の間に交錯紛亂の存したことも有り得べきであるが、此儘でも條理はよく通り、相聞の歌と會得せられる所を見ると、古歌の名句が若干の修補を以て二樣に傳へられたものとすべきで、古事記の八千矛神の贈答歌が、勾《マガリ》大兄皇子(後の安閑天皇)の御作として繼體紀に載せられた外に、本卷【三三一〇】にも類句があり、輕太子の御歌の一首【記】も上掲の如く本卷【三二六三】に相聞として再録せられて居るのと同例と見るべきである。
せむすべの(爲須部乃) 爲ム術《スベ》といふ意で、單にスベといふと大差はなく、上記の如くスベノタヅキと用ひた例もあるのである【三二六一】。
たづきをしらに(田付呼不知) 前出(第一五三頁)
いはがねの(石根乃) 岩頂をイハホ(磐秀)といふに對し、岩脚をイハネ(磐根)とも、イハ(磐)ガ(之)ネ(根)とも稱したのであるが、いづれもイハの同義語と見なされるやうになつた。
こごしきみちを(興凝敷道乎) コゴシはコリ(凝)の語幹コを重ねたコゴの形容詞形で、岩石の磊々たることをいひ、コゴシキは其連體形である。
いはどこの(石床※[竹/矢]) イハドコは岩盤を意味する。
(160)ねばふかなどを〔七字右○〕(根延門呼) 從來、ネバヘルカドヲと訓して居るが、此は門の潤色で、事實描寫ではないからハヘル(延うて居る)といふ繼續格を用ひる理由はなく、多くの枕詞と同樣に不定(現在)時格を以て表現せねばならぬ。記の三重の釆女の歌にも木《コ》ノ根ノネバフ〔三字右○〕宮とあるのである。カナドはカド(門)の古言で、本來|日之門《カナト》即ち日光の入口を意味し、略して日門《カド》ともいふのである。――カナドを金門の謂と解するのは物質文化の發達道程を辨へざるもので、萬葉集時代に於てすらも金屬材料は決して門を作るほど潤澤でなかつた筈で、稀に豪奢なる貴族が鐵門を建てたものがあり得たとしても、東歌にカナド〔三字右○〕田ヲアラガキマユミ【三五六一】とあるカナドの如きは金屬製の門と解することは不可能である――門をカドと訓んだ結果、音數が不足するので、根延をネバヘルとしたのであらうが、此は作者の住宅のカナド(門)をいふのである。
あしたには(朝座丹〔右▲〕) 舊訓アサニハニとあるが、次句の出居及入居は庭に出入することをいふのではなく、道〔右○〕に出で門に歸り入ることを意味するのであるから、庭は助語ニハの假字、丹〔右▲〕は衍字とせねばならぬ。上掲【三三二九】の歌にも朝庭とあるのみで、丹の字は添へられて居らぬ。
いでゐてなげき(出居而嘆) イデヰテとあるのは、戀人が來訪することもあらうかと思うて、門外路傍に徘徊することをいふのであらう。
ゆふべには(夕庭)
いりゐてしぬぴ(入居而思) 思は舊訓オモヒとあるが、此場合には當然シヌビであらぬばならぬ。
しろたへの(白栲〔右△〕乃) 既出(第九一頁)
(161)あがころもてを(吾衣袖乎) 衣はコロモともソとも稱へるから、コロモデ即ソデ(袖)である。
をりかへし(折反) 上代には特設の衾縟はなく、モ(裳)を上にかけソ(衣)を下に敷いて寢ることを例とし、同衾の場合には袖をもひろげることを要したが、獨寢にあつてはさのみ廣くなくとも濟むから、折かへして敷いたのであらう。
ひとりしぬれば(獨之寢者) シは例の強意助語で、獨寢レバといふことである。
ぬばたまの(野干玉) 枕詞(第一四五頁)
くろかみしきて(黒髪布而) 女の黒髪を枕の下に敷きてといふ意。天武紀十一年の詔に自今以後男女悉結髪とあるが、婦人の髪は背後に垂れさげて、髻及末を結んだものゝやうであるから、臥寢に際しては床の上に長く延はせたのである。
ひとのぬる(人寢) ヒトは不定人稱であるが、上句によれば男性を意味したものとせねばならぬ。然るに此歌の大意から推察すると、作者は女人で、男の通路の絶えたことを怨んで詠じたものと思はれ、こゝに聊か矛盾を感ずるのであるが、恐らくは此三句は次のウマイの序であらう。
うまいはねずて(味眠不睡而) 眠睡は借字に過ぎず、ウマイは佳宵、ネズは不寢の義なること勿論で、快く寢ぬといふことである(第一四六頁參照)。
おほふねの(大舟乃) 大船のやうにといふ意で、次句の比況兼序的枕詞である。
ゆくらゆくらに(往良行羅二) 上述の如く緩々に憂々《ウクウク》をいひかけたのである。(第一五五頁)。
(162)おもひつつ(思乍)
わがぬるよらを(吾睡夜等呼) ヨラのラは虚辭、野をノラといふと同じく單に我寢ル夜ヲ〔二字右○〕といふ意である。
つぎもあへむかも(續文將敢鴨) 夜がツヅクといふことを他動詞にいひかへると夜ヲ〔右○〕ツグとなり、日に夜を續いでなどともいふ。アヘ(敢)も亦アフ(合)の他動詞形で、差加へることを意味し、カモは感動詞であるから、此句意は夜を續き合はさんかな、即ち夜が續くことよといふに同じい。然るに元暦校本及類聚古集には續〔右○〕を讀〔右△〕と記し、上述の【三三二九】の歌には此二句が吾寢夜等者數〔二字右○〕物不〔右○〕敢鴨(刊本に鳴〔右△〕とあるのは誤記であらう)とあるので、契沖以下此句をもヨミ〔二字右△〕モアヘムカモと訓し、數ヘモ敢ヘジといふ意の反語と説いて居るが、次の二點から考察すると之に盲從することは出來ぬ。
 一、前句末の助語にハ〔右○〕とヲ〔右○〕との相違があることを看過してはならぬ。夜ヲとある以上、明白に目的格と認むべきで、【三三二九】の夜ラハは主語として、次に之ヲといふ語を補うて會得すべきものである。
 二、數ミモアヘムカモを反語と解することは至難で、其場合にはヨミアヘメヤ〔二字右○〕モといふのが上代語法である。
其故に私は將〔右○〕も亦不〔右△〕の誤記かとも考へて見たが【訓詁】、尚前句の語勢上、原字舊訓を可とすべきで、恐らくは仙覺律師其他の學匠が異本校合の末、續〔右○〕を正しとし、アヘの原義も其時代には尚よく判明して居たから、ツギ〔二字右○〕モアヘムカモと解讀することを至當としたのであらう。
【大意】せん方なく途方にくれて、朝には岩石の磊々たる道に出で居て嘆き、夕には岩盤の根の(163)延うた門内に籠つて戀ひしのび、袖を折反して獨寢をすれば(以下三句序)快くは寢られず、欝々と物思をしつゝ自分の寢る夜の續き加はるであらうよ
右の如く説明すると此歌は少婦の閨愁を敍したものとして何等間然する所がない。假に上十句及末九句が古歌の成句であつたとしでも、白栲以下四句を以て之を繋ぎ、完全なる一篇の歌とした手腕は決して凡庸ならざるものと言はねばならぬ。先學が誤讀誤訓と推定して添刪を加へたのは、作者に對し甚氣の毒なことであつた。
 
反歌
 
3275 一眠《ヒトリヌル》 夜※[竹/弄]跡《ヨヲカゾヘムト》 雖思《オモヘドモ》 戀茂二《コヒノシゲキニ》 情利文梨《ココロトモナシ》【三二七五】
ひとりぬる 夜をかぞへむと 思へども 戀のしげきに 心ともなし
 
右二首
 
ひとりぬる(一眠) 獨リ寢ルといふ意。
よをかぞへむと(衣※[竹/弄]跡) 考にヨヒ〔右△〕ヲヨマムト、新考にヨヲヨミテ〔右△〕ムと改訓したのは、本歌の末句の誤讀から出發し、標準句長に合はせる爲にヨをヨヒ〔右△〕とし、若くはヨミテムといふ未來完了形を用ひたのであらうが、古義の説の如くカゾフは古言で、未來格は意嚮表示になるから、舊訓を非とすべき理由がない。
(164)おもへども(雖思)
こひのしげきに(戀茂二)
こころともなし(情利文梨) ココロトは心所即ち心の居る處といふ意であるから、心トモ無シは心が落つかぬといふに同じい。
【大意】獨寢の夜を數へようと思ふけれども、ひまもなく戀ひわたるので心が落付かぬ
 
3276 百不足《モモタラズ》 山田道乎《ヤマタノミチヲ》 浪雲乃《ナミクモノ》 愛妻跡《ウツクシツマト》 不語《モノイハズ》 別之來者《ワカレシクレバ》 速川之《ハヤカハノ》 往文不知《ユクヘモシラズ》 衣袂※[竹/矢]《コロモデノ》 反裳不知《カヘルモシラズ》 馬自物《ウマジモノ》 立而爪衝《タチテツマヅキ》 爲須部乃《セムスベノ》 田村乎白粉《タヅキヲシラニ》 物部乃《モノノフノ》 八十乃心呼《ヤソノココロヲ》 天地二《アメツチニ》 念足橋《オモヒタラハシ》 玉相者《タマアハバ》 君來益八跡《キミキマスヤト》 吾嗟《ワガナゲク》 八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》 玉桙乃《タマホコノ》 道來人之《ミチクルヒトノ》 立留《タチトマリ》 何常問者《ナニゾトトヘバ》 答遣《コタヘヤル》 田付乎不知《タヅキヲシラニ》 散鉤〔左△〕相《サニヅラフ》 君名曰者《キミガナイヘバ》 色出《イロニイデテ》 人可知《ヒトシリヌベミ》 足日木能《アシビキノ》 山從出《ヤマヨリイヅル》 月待跡《ツキマツト》 人者云而《ヒトニハイヒテ》 君待吾乎《キミマツワレヲ》【三二七六】
百たらず 山田の道を なみ雲の うつくし妻と ものいはず 別れし來れば 早川の 行くへもしらず 衣手の かへるも知らず 馬じもの 立ちてつまづき せむすべの たづきを知らに もののふの 八十の心を 天地に おもひ足《タラ》はし』玉あはば 君きますやと 吾がなげく 八尺《ヤサカ》のな(165)げき 玉桙の 道くる人の 立ちとまり 何ぞと問へば 答へやる たづきをしらに さにづらふ 君が名いへば いろに出て 人知りぬべみ あしびきの 山より出づる 月まつと 人にはいひて 君まつ吾を
 
此歌の前半は後朝《キヌギヌ》の憂思を敍べた男の作、後半は待戀を詠じた婦人の述懷のやうであるが、段落が曖昧であるから問答體とも思はれず、合作と見るには想の聯路が缺けて居る。其故に若し誤傳錯簡でないとすれば、或は第三者が男女双方の情緒を一首の歌に於て描寫しようとした新しい試と見るべきで、玉相者の一句を以て前後を繋いだのであらう。末五句が本集第十二卷【三〇〇二】に收録せられた短歌である所を見ても、眞情を率直に吐露した吟懷ではなく、歌人の遊戯的作品と認定せられるのである。
 
ももたらず(百不足) 八十の枕詞であるが(第一四頁)、ヤ(彌)に轉用したのである。
やまたのみちを(山田道乎) 山田は蘇我の石川麻呂の邸宅のあつた地で、今の磯城郡安倍村字山田である。
なみくもの(浪雲乃) 他に用例はないが、波状の雲の謂なることは疑もなく、二句を隔てゝワカレ(別)にかかる比況的枕詞である。異樣な排列であるが、句法上已むを得なかつたのであらう。
うつくしつまと(愛妻跡) ウツクシはウツ(全)とクシ(奇)との二語より成り、完美乃至美麗の意であるが、活用語尾ミを連ねたウツクシミは愛寵の意となるので愛の字をあてたのであらう。
ものいはず(不語) 古義訓に從ふ。カタラハデ【舊訓】、コトトハズ【考】ともよみ得られぬことはないが、夜來(166)一語をも交へなかつたといふのではなく、曉の慌しさに別を惜しむ暇がなかつたことを意味するものと了解せられるから、第四卷【五〇三】に「ありぎぬのさゐさゐしづみ家の妹にモノイハズ來て思ひかねつも」とあるに準じ、モノイハズと訓む方が當を得て居るやうである。
わかれしくれば(別之來者) シは強意助語。
はやかはの(速川之) 早川のやうにといふ意で、比況的枕詞である。
ゆくへもしらず(往文不知) 往一字をユクヘと訓むことは無理であるから、後句のカヘルモシラズに對してユクモ【新考】又はユカクモ【略】と改訓したものもあるが、早川といふ比況によれば尚ユクヘであらねばならぬ。之をユカクとすれば後句も亦カヘラク〔二字右○〕と訓まねばならぬが、裳の字が過剰になる。
ころもでの(衣袂※[竹/矢]) 上記の如く袖の意であるが(第一六○頁)、衣袖が風に飜るといふ縁によりカヘルの比況に用ひられたのである。
かへるもしらず(反裳不知) 歸らんとも覺えずといふ意であるが、前句とのつゞき合上、カヘルといふ不定時格を用ひたのであらう。
うまじもの(馬自物) ウマ(馬)シ(其)モノ(者)の謂で、馬乃至馬のやうなものを意味する。此も比況的枕詞である。
たちてつまづき(立而爪衝) 馬などのやうに躓くといふ意で、必しも立チテといふを要せぬのであるが、慣用句であつたと見え、第四卷【五四三】にも用ひられて居る。――雅澄は此までを別の歌とし、此下に多數の(167)脱句が存したのであらうと説いたが、私見は之と異ること上述の通りである。
せむすべの(爲須部乃) 既出(第一五九頁)
たづきをしらに(田付乎白粉) 既出(第一五九頁)、白粉はシラニ(白土)の假字である(第一一五頁)。
もののふの(物部乃) 八十の枕詞(第六三頁)。――宣長は以下六句を他の歌が混入したものとしたが、猥に削除することは慎まねばならぬ。
やそのこころを(八十乃心呼) 千々の想といふと同意である。
あめつちに(天地二)
おもひたらはし(念足橋) 千々の想を天地に充滿させるといふ意である。――新考は此までを別首とし、「前の歌は下半を失ひ、後の歌は上半を失へるなり」と認定したが、私は次句の玉相者を相思の情が通じた結果と見なし、前後の關聯はこゝにあると信ずるのである。
たまあはば(玉相者) クマは勿論魂魄の謂で、男の述懷としては魂が逢ハバ此苦悩を彼女に語れといふ意を寓し、女の方からは想が通ずるならば、今夜にも男が通うて來ることもあらうかと道に出て見たが、空だのめであつたといふ意を暗示する爲に、此句を用ひたものではないかと思はれる。※[周+雋]蟲の技に類する嫌はあるが、言ひかけといふ技巧が許されるものとすれば、甚しき失當ではなく、亂脱がないとせば右の外に釋明のしやうがない。
きみきますやと(君來益八跡) 以下は明に女性の敍情である。
(168)わがなげく(吾嗟) 此句の前に道に立つて待てども來ぬといふ意味が含まれて居るものと解すべきである。
やさかのなげき(八尺之嗟) ナゲキの原語はナガ(長)イキ(息)であるから(第七八頁)、其長さを尺度を以て表示したのである。句末に助語ヲを含めたのであらう。
たまほこの〔玉桙乃) 道の枕詞である。タマは美稱、ホコ(桙)の原義は秀木《ホコ》で、上代人により靈異の力のあるものとせられたから、玉桙のチ(靈)といふ意を以てミチ〔右○〕(道)にいひかけたのであらう。
みちくるひとの(道來人之) 道行人ノといふに同じい。上代に於ては動詞の方向は重要視せられなかつたから、ユクとクルとも屡々相通じて用ひられたのである(第二七頁)。
たちとまり(立留)
なにぞととへば(何常問者) 何の字は舊訓の如くイカニとよむこともあるが、此は何〔右○〕事ゾ〔右○〕と人の問うたればと云ふ意であるから、指定助語の存在を必要とし、ドウカといふのではないからナニゾと訓む方がよい。上句に道來ル〔右○〕人とあり、末句も亦現實表示なるが故に、トハバと訓むのは不當で、舊訓の如くトヘバであらねばならぬ。次句の時格も亦之に準ずることを要する。
こたへやる(答遣) コタヘはコト(言)アヘ(令合)の意の古言で、コタヘヤルは返答することである。第四卷【五四三】に道守之將〔右○〕問答乎言將〔右○〕遣とあるに倣うて、イヒヤラムと改めた古義訓は非とすべきで、其には答といふ語が前句について居るのであるから、此と同一視すべきものではなく、且時格も全然相違して居るのである。
(169)たづきをしらに(田付乎不知) 數句の中に同一表現を重ねて用ひたのは好ましからざることであるが、本集の長歌には其やうな例は少くはないから、此事のみを以て本歌が全然別個の二首を繋ぎ合はせたものであるといふことの證據とはなし得ぬ。
さにづらふ(散|鉤〔右△〕相) 鉤〔右△〕は明に釣〔右○〕の誤記で、天治本には改記してある。サは接頭語、ニヅラフはイモ(妹)とつゞけて用ひた例もあり【一九八六】、ニ(丹)ウツラフ(映)の約で、紅顔又は赤映の意を以て君、妹、少女、色、黄葉等の枕詞に用ひられた。
きみがないへば(君名曰者)
いろにいでて(色出) イデのイは可能なる限り省的せざるを可とすること既述の通りである(第二一頁)。
ひとしりぬべみ(人可知) 人知るべしと思ひといふ意である。
あしびきの(足日木能) 山、野、丘等の枕詞で、語義については區々の説があるが、私はアソビ(遊)キ(處)の轉呼と信ずる。遊處は山野には限らぬといふものもあるかも知れぬが、今も行樂を遊山〔右○〕といひ、船遊山の如くも稱へるのである。
やまよりいづる(山從出)
つきまつと(月待跡)
ひとにはいひて(人者云而)
きみまつわれを(君待吾平) ヲはヨに通ずる感動詞で、吾かなといふほどの意である。
(170)【大意】いとしい妻と別の言葉をも交はさず、波雲のやうに別れて山田街道を辿ると、行先もおぼつかなく、引かへすにも返されず、馬などのやうに躓き勝である。何としてよいか分らず、天地の開に千々の想を充滿させ、魂でも逢ふならばと思ふ(男)。其魂が通ふならば君も來たまふであらうかと(道に出て待つかひもなく)、自分のつく長大息を道行く人が(怪んで)何事ぞと問へば返事に困り、君の名をいふと思の色があらはれて、人が(我々の中を)知らうかと思ひ、山から出る月を待つて居るというて、自分は君を待つて居るよ(女)
 
反歌
 
3277 眠不睡《イヲモネズ》 吾思君者《ワガモフキミハ》 何處邊《イヅクヘニ》 今身〔左△〕誰與可《コヨヒタレトカ》 雖待不來《マテドキマサヌ》【三二七七】
いをもねず 吾が思ふ君は いづく邊に 今夜〔右○〕誰とか まてど來まさぬ
 
右二首
 
いをもねず(眠不睡) 夜《イ》ヲモ寢ズといふ意。眠睡はいづれも借字である。
わがもふきみは(君思君者)
いづくへに(何處邊) 舊訓イヅコニゾとあるが、邊をニゾと訓むべき理由はないから、古義訓を可とする。
こよひたれとか(今身〔右△〕誰與可) コノミ〔三字右△〕タレトカとある舊訓は意をなさぬから、身〔右△〕は誤記とせねばならず、眞(171)淵以下が夜〔右○〕又は宵〔右○〕の誤としてコヨヒと改めたのは當を得て居る。次の三字にも改訓が試みられたが、此は新考説の如く寢ル〔二字右○〕といふ語を略したものとして舊訓に從ふべきである。本歌によるも此作者は在五中將のやうに言葉を省く癖を有したものゝやうである。
まてどきまさぬ(雖持不來) 此は餘韻を殘すことを必要とするから、舊訓の如く連體法を用ひねばならぬ。マスに相當する字がないことの故を以てキタラ〔二字右△〕ヌと改訓したものもあるが【新考】、若し敬語を不要とするならばコ〔右○〕ヌといふべきで、ク(來)とキテアリ(來在)の約なるキタルとが混用せられるやうになつたのは、寧ろ後世のことである。此は本歌にも君來マス〔二字右○〕ヤトとあるから、其に準ず據せねばならぬ。
【大意】夜も寢ず(に)自分の思慕する君は何處で今夜は誰と(寢ること)か。待てども來たまはぬ
此反歌は本歌の後半のみと關聯する。或は本初今一首の反歌がついて居たのが散逸したのであるかも知れぬ。
 
3278 赤駒《アカコマノ》 厩立《ウマヤヲタテ》 黒駒《クロコマノ》 厩立而《ウマヤヲタテテ》 彼乎飼《ソヲカヒ》 吾往如《ワガユクゴト》 〔左△〕思妻《オモフツマ》 心乘而〔三字左△〕《ココロニノリテ》 高山《タカヤマノ》 峯之手折丹《ミネノタヲリニ》 射目立《イメタテテ》 十六待如《シシマツゴト》 床敷而《トコシキテ》 吾待公《ワガマツキミヲ》
犬莫吠行年《イヌナホエソネ》【三二七八】
赤駒の 厩をたて 黒駒の 厩をたてて そをかひ 吾が行くごと 心に のりて思ふつま〔九字右○〕 高山の 峯のたをりに いめたてて 獣《シシ》まつごと 床しきて 吾が待つ君を 犬なほえそね
 
(172)原文に從へば旁點の如く訓む外はないが、第八句は次句以下と續かぬから、眞淵は上半は男の歌、下半は女の歌で、二首共に脱句が存し、混れて一首となつたのであると説き、先學盡く之に從うて居るが、前の長歌と同樣に、此の如き斷案を下す前には反復熟慮する義務がある。私は對聯といふ方面から考察する爲に、次の如く行をわけて書き下して見た。
  赤駒の馬屋をたて
  黒駒の厩を建てて其をかひ我が行くごと思ふつま 心にのりて
  高山の 峯のたをりに いめ立てて 獣《シシ》まつ如《ゴト》 床しきて 吾が待つ公《キミ》を
  犬な吠えそね
初二句が次の二句と對聯をなすことはいふまでもないが、黒駒以下六句と高山以下の六句も對偶するもので、思妻《オモフツマ》と心乘而《ココロニノリテ》とを倒置し、妻〔右△〕を借字として夫《ツマ》の義と解するに於ては意はよく通じ、一女性の述懷なることは分明で、しかも非凡の作である。唯疑問とする所は第七第八兩句の措辭で、右の如き倒敍をせずとも、尋常に表現する方法があつた筈であるのみならず、吾待公に對立する句は必然思夫〔二字右○〕であらねばならぬから、或は錯簡が存したのではないかと想像せられる。元暦校本以下の諸本に大なる異同のない所を見ると、かなり古くから此やうに傳へられたのであらうが、心乘而〔三字右○〕の三字が思妻〔二字右○〕と顛倒して居たものとすれば、此兩句はココロニ(四音一句)ノリテ思《モ》フツマとなり、意に於ても句法上からも間然する所がなくなる。其は極めて有り得べき錯簡であるから、この兩三字の位置を動かすことは決して不當でないと確信する。即ち原作は次のやうに表記せら(173)れて居たのであらう。  赤駒 厩立 黒駒 厩立而 彼乎飼 吾往如 心《ココロニ》 乘而思妻《ノリテモフツマ》〔五字左傍線〕(以下同)
以下之に基いて釋明する。
あかこまの(赤駒)
うまやをたて(厩立)
くろこまの(黒駒)
うまやをたてて(厩立而) 以上四句はウマヤ(馬屋)ヲ建テといふことを敷衍して、短長二句の對聯としたに過ぎず、其駒が赤又は黒乃至月毛又は葦毛であつても妨はないのである。
そをかひ(彼乎飼) 略解訓による。彼をカレ【舊訓】又はカ【考】と訓むことの不可なるはいふまでもなく、飼にテを訓みそへてカヒテとしたのも【考】此場合には不當である。
あがゆくごと(吾往如) ユクは騎行の意で、乘リ行クといふべきを、後句にノリといふ語があるから省いたのである。上句四音なるが故に律調上六音に吟唱するを可とする。以上は心ニ乘リテの序である。
こころに〔四字右○〕(心)
のりてもふ〔五字右○〕つま(乘而思妻) ココロニ〔右○〕ノルは此當時の慣用句で【一〇〇】【六九一】【一八九六】【二四二七】【二七四九】【三一七四】【三五一七】にも例があり、自分の心に乘り移るといふ意である。ノリは勿論コマ(駒)の縁語として用ひられたので、ツマは上述の如く夫の意とせねばならぬ(妻は借字)。此は五句を隔てゝ吾待公と對(174)立し、犬ナ吠ソネにかゝるのである。
 
たかやまの(高山)
みねのたをりに(峯之手折丹) タヲリは山頂線の彎曲部(鞍部)を意味するタワ(撓)とアリ(在)とを連ねた動詞的準名詞で、タム(多武)、タムケ(峠)と同義語である。
いめたてて(射目立) イメはイベ(射部)の轉呼で、本來民部名であつたのであるが【語誌】、狩獵に使役せられる勢子の謂にも轉用せられたものゝやうである。イメを立てたのは獣を遁さぬ爲の手配であらう。
ししまつごと(十六待如) 十六はシに二二、ククに八十一の字を宛ると同一の戯書である。シシには宍の義もあり、本來食品就中肉を意味する原語シの疊合であるが、食用獣の總稱となり、其種類によつてカ(鹿)のシシ、ヰ(猪)のシシの如く用ひた。其故に神代紀には獣の字に此訓をあて、猪は勿論、鹿も亦|鹿《シシ》ケ谷の如くシシと稱へるのである。以上四句も亦比況的序である。
とこしきて(床敷而) 寢床を用意してといふ意。シクといふ述語を用ひたのは、上古民衆の居屋にはアグラ(上座)、簀《ス》の子の如き常設の床はなく、貧窮問答の歌に直土爾《ヒタツチニ》藁解敷〔右○〕而【八九二】とあるやうに、土間に禾草を敷いて坐臥の用に供したからで、疊の上に褥乃至蒲團を敷くやうになつたのは遙に後世の事である。
わがまつきみを(吾待公) 上句ノリテ思《モ》フツマの對句で、ヲといふ送假字に誤なしとすれば、吠エは他動詞として人ヲ〔右○〕吠エル犬の如く用ひられたからであらう。
いぬなほえそね(犬莫吠行年) 舊訓ホエコソ〔二字右△〕とあるが、行は宣長説の如く所〔右○〕の誤記か、然らざるも追馬をソ(175)と訓むやうに(第一〇六頁)、行ケといふ意を以てソの假字に用ひられたものとも了解せられ、年は勿論ネの音符であるから、ホエソネ〔二字右○〕と訓むべきである。ナ吠エソ又は之に感動詞ネを連ねたナ吠エソネは吠えるな(よ)といふことで、吠來る勿れといふ意のナ吠エコソとほゞ同義であるが、此場合にはコ(來)は無用であるのみならず、年をソと訓むべき理由がない。
【大意】赤駒の厩を建て黒駒の厩を建てゝ其(駒)を飼ひ、(乘り)行くやうに自分の心に乘り移つて戀ひ思ふ夫(を)、高山の峰の峠に射部(勢子)を立てゝ獣《シシ》を待つやうに床を敷いて自分の待つ君を、(訪ねて來たら)犬は吠えるなよ
右の如く着想も比況も頗る奇拔で、而も洗練せられた句法と輕妙なる措辭とを以て巧に詠出せられた此歌は、本卷の白眉であるのみならず、集中に於ても名歌の一に數ふべきものである。然るに眞淵以下が自己の考察の足らぬことを省みず、畸形として之を排斥したのは、此一首には限らぬことであるが、輕率であるといはねばならぬ。
 
反歌
 
3279 葦垣之《アシガキノ》、末掻別而《スエカキワケテ》 君越跡《キミコユト》 人丹勿告《ヒトニナツゲソ》 事者棚知《コトハタナシリ》【三二七九】
あし垣の すゑかきわけて 君こゆと 人になつげそ ことはたな知り
 
(176)右二首
 
あしがきの(葦垣之) 前出【第一五五頁】。
すゑかきわけて(末掻別而)
きみこゆと(君越跡)
ひとになつげそ(人丹勿告) 此は本歌の趣意をうけて犬に命令する辭で、吠立てゝ人に告げるなといふのである。
ことはたなしり(事者棚知) 者棚は借字で、ハタ(將)ナ(莫)シリ(知)の謂であらう。古語の禁止法は動詞原形(連用形)に禁止語分子ナを冠することによつて表示せられ、強意の爲には助語ソを添へ、若くは前例のやうに更に感動詞ネを連ねることもあるが、其有無は意義を増減せぬのである。ハタは助語ハがモと對立するやうに、モから出たマタと相對する語で、異類接續詞であるが(要録九五一頁)、時としてはマタと通用せられ、或はハタマタと重ねることがある。此も犬に對する命令で、吠えて人に知らすな、ハタ又事即ち自分たちの情事を嗅ぎつけるな〔六字右○〕といふ意を、前句にツゲといふ語を用ひたが故に、此句でも人間にいふやうに知ルナといひかへたのである。自覺を意味するタナシリといふ語があるので【語誌】、棚知をタナシレと訓み、「さやうに心得よ」【略解宣長説】、「たしかに心得よ」【新考】と釋くのは無理で、タナシリには其やうな語義はないのみならず、假にコトを前句に命令した事即ちトイフコトの意と了解し得るにしても、事ハ〔右○〕サウ(タシカニ)心得ヨといふが如きは今の人でも用ひぬ拙い表現である。
(177)【大意】葦垣の末を蹈みわけて君が越えることを(吠えて)人に告げるな、はた(我々の間の)事を(喚ぎ)知るな
 
3280 妾背兒者《ワガセコハ》 雖待不來益《マテドキマサズ》 天原《アマノハラ》 振左氣見者《フリサケミレバ》 黒玉之《ヌバタマノ》 夜毛深去來《ヨモフケニケリ》 左夜深而《サヨフケテ》 荒風乃吹者《アラシノフケバ》 立留《タチドマリ》
 待吾袖爾《マツワガソデニ》 零雪者《フルユキハ》 凍渡奴《コホリワタリヌ》 今更《イマサラニ》 公來座哉《キミキマサメヤ》 左奈葛《サナカヅラ》 後毛相得《ノチモアハムト》 名草武類《ナグサムル》 心乎持而《ココロヲモチテ》 三袖持《ミソデモチ》 床打拂《トコウチハラヒ》 卯管庭《ウツツニハ》 君爾波不相《キミニハアハズ》 夢谷《ユメニダニ》 相跡所見社《アフトミエコソ》 天之足夜于《アメノタルヨニ》【三二八〇】
わがせこは 待てど來まさず 天の原 ふりさけ見れば ぬばたまの 夜も深けにけり さ夜ふけて あらしの吹けば 立ちどまり まつ吾が袖に 降る雪は 凍《コホ》りわたりぬ 今さらに 君來まさめや さなかづら 後も逢はむと なぐさむる 心をもちて み袖もち 床うちはらひ うつつには 君には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 天のたる夜に
 
わがせこは(妾背兒者) セは婦人から同世代の男子に對して用ひる一般的稱呼であるが、之に愛稱コ(子)をそへ、ワガ(我)を冠すると昵近の男性に對する呼かけとなり、此歌に於ては夫又は情人を意味する。
までどきまさず(雖待不來盆) 元暦校本、天治本等には來不益とある。
あまのはら(天原) クナバラ(國原)、ウナバラ(海原)の例によつて天をアマノハラと稱へたものとも言ひ得(178)られるが、ハラを原野の義とするも、複數表示と見ても、天空を表示するソラに添加するには不適當であるから、恐らくはタカマノハラ(高天原)といふ名稱を字によつて高天の義と解し、高を省略したのであらう。――上記の石屋隱れの章下に天原〔二字右○〕自闇亦葦原中國皆闇となるのは、タカマノハラの略稱で、天空の謂ではない――さりながらタカマノハラが必しも天國を意味せぬことは紀記論究神代篇(三−四頁以下)に詳論した通りであるから、天空をアマノハラと稱へることは、縱ひ古い慣用であるとしても、妥當を缺くものといはねばならぬ。
ふりさけみれば(振左氣見者) フリはウチ見ル、カキ見ルなどいふウチ、カキ等と同じく準接頭語で、強意的に用ひられたのである。サケの原義は上述のやうに「割」であるが(第七九頁參照)、「避」「距」「放」等の義を生じ、政見《サケミ》ルは見|放《サ》クといふと大差はなく、見ヤルといふことである。――以上二句の用例は本集第二卷倭姫皇后の御歌【一四七】にもある。
ぬばたまの(黒玉之) 枕詞(第一四五頁)
よもふけにけり(夜毛深去來) フケはフカ(深)から分化した動詞で、深くなることを意味する。
さよふけて(左夜深而) サは接頭語で、夜フケテといふに同じい。
あらしのふけば(荒風乃吹者) 荒風は正字で、風を意味する古語チ【語誌】をシと轉呼し、其荒いものといふ意を以てアラシと稱へたのである。此は二句を隔て、フル雪ハ云々にかゝる前提である。
たちどまり(立留) 男の來訪を待ち迎へを爲に門外に佇立して居ることで、眞淵が以下二句を次の或本歌に(179)準じて立待爾吾衣袖の誤記とし、立待ツニ吾コロモテニと訓み改め、略解及古義が之に從うたのは此趣を解し得なかつた爲であらう。
まつわがそでに(待吾袖爾)
ふるゆきは(零雪者)
こほりわたりぬ(凍渡奴)
いまさらに(今更)
きみきまさめや(公來座哉) キマサメヤは反語的表示で、來マサジといふことである。
さなかづら(左奈葛) 狹根葛【萬三】、核葛【萬十一】とあると同物で、サネ即ち種の生ずる葛をいひ、本草和名及和名抄には五味に此訓を與へて居り、現今ビナンカヅラ(南五味子)と稱へる蔓性木本である。其蔓は末に、於てより合ふものなるを以て次句の枕詞としたのである。
のちもあはむと(後毛相得)
なぐさむる(名草武類) ナグサはナ(稱)とクサ(品物)――手草及手向草のクサ――との二語より成る複合名詞で、口實を意味し、之に活用語尾ミを連結することによつて、口實を見出すといふ意から更に慰藉の義を生じたものゝやうである。他動詞としてはナグサメ(下二段活)といふ。
こころをもちて(心乎持而) 自ら慰める心もちでといふ意。
みそでもち(三袖持) ミはマ(眞)に通ずる接頭語で、意義を加へることはなく、單にソデ(袖)といふ意であ(180)るが、或は三〔右○〕は二〔右○〕の誤記で、原歌はマソデ(兩袖)と唱へられたのかも知れぬ。
とこうちはらひ(床打拂) トコは寢床の謂で、訪ねても來ぬ男の爲に床を打拂ふのは、上句に自白したやうにせめてもの心やりである。
うつつには(卯管庭) ウツ(現)の疊尾語か、若くはウツウツの約で現實を意味する。
きみにはあはず(君爾波不相) 古義がアハジ〔右△〕と改訓したのは、終止法と見た爲であらうが、此は連用法のズで、逢ハズテといふに近く、次句以下につゞくのである。
ゆめにだに(夢谷) ダニの原語はタダ(啻)ニである。
あふとみえこそ(相跡所見社) 此コソは強意の願望である(第三〇頁)。
あめのたるよに(天之足夜于) タルはタラチネのタラの轉呼で、具足を意味し(第一二四頁)、美稱として冠せられたのであるが、此一語によつて夢中の悦樂に滿足するといふ感じが現はれたのは、極めて巧なる措辭といはねばならぬ。アメ(天)も亦美稱であるが、雨ノ垂ルといふことの縁によつて序的に用ひられたものとも了解せられる。舊訓足夜をアシヤ〔三字右△〕としたのは論ずるに足らぬが、タリ〔右△〕ヨとした眞淵訓も聊か妥當を缺くものゝやうで、少くとも生日之足日をイキ〔右△〕ヒのタリ〔右△〕ヒと稱へることは出來ぬ。
【大意】 我夫君は待てど來たまはぬ。空を見やると夜も更けてしまうた。夜更けて嵐が吹くので、降來る雪は立留まつて待つ自分の袖の上に一面に氷つた。今更君が來られようや。復逢ふ日もあらうと(自ら)慰める氣もちで、寢床を袖で拂ひ、現實には君に逢はずとも、夢にな(181)りと逢ふと見たい(ものである)。一夜しみじみと
 
或本歌曰
 
3281 吾背子者《ワガセコハ》 待跡不來《マテドキマサズ》 鴈音文《カリガネモ》 動而寒《ドヨミテサムシ》 烏玉乃《ヌバタマノ》 宵毛深去來《ヨモフケニケリ》 左夜深跡《サヨフクト》 阿下乃吹者《アラシノフケバ》 立待爾《タチマツニ》 吾衣袖爾《ワガコロモデニ》 置霜文《オクシモモ》 氷丹左叡渡《ヒニサエワタリ》 落雪母《フルユキモ》 凍渡奴《コホリワタリヌ》 今更《イマサラニ》 君來目八《キミキマサメヤ》 左奈葛《サナカヅラ》 後文將會常《ノチモアハムト》 大舟乃《オホフネノ》 思憑迹《オモヒタノメド》 現庭《ウツツニハ》 君者不相《キミニハアハジ》 夢谷《ユメニダニ》 相所見欲《アフトミエコソ》 天之足夜爾《アメノタルヨニ》
【三二八一】
吾がせこは 待てど來まさず かりがねも どよみて寒し ぬばたまの 夜もふけにけり さ夜ふくと あらしの吹けば 立ちまつに 吾が衣手に おく霜も 氷にさえわたり 降る雪も 凍り渡りぬ 今さらに 君來まさめや さなかづら 後も逢はむと 大舟の おもひたのめど うつつには 君には逢はじ 夢にだに あふと見えこそ 天のたる夜に
 
あがせこは(吾背子者) 前出
まてどきまきず(待跡不來) 契沖はキクラズと改訓したが、上記の如く座の字なくともキマサズと訓まねばならぬ(第一七一頁)。或本の歌とあるのであるから表記法を異にすることは怪しむに足らず、標準句長上「不來」だけでもコズと唱へるものはあり得ぬが故に、マスに相當する送假字を省いたものとすべきで、他(182)の例によるもキミといふ代名詞の述語には多くは敬意を用ひたものゝやうである。
かりがねも(鴈音文) 雁の聲もといふ意(第一三頁)。
どよみてさむし(動而寒) ドヨミは響鳴の意で、此鳥の渡來するのは秋冬の交であるから、其聲を聞いて夜寒が身にしみたといふのである。――此二句は前歌の天原振左氣見者にあたるのであるが、此相違から傳誦者は、吾人が前の歌から受けた印象とは全く別個の了解を以て若干の修正を加へたものゝやうである。即ち雁の聲は屋内でも聞えるものであるから、門外に佇んで待つて居たと想像しなかつたことが後句に於て現はれて居る。
ぬばたまの(鳥玉乃) 枕詞(第一四五頁)
よもふけにけり(宵毛深去來) 前出
さよふくと(左夜深跡) フクトは更ケム〔二字右○〕トシテといふ意と了解せられるが、前句と時格が一致せぬから、或はフケと訓ませるつもりであつたかも知れぬ。トとテとは發音上からも意義に於ても相通する。
あらしのふけば(阿下乃吹者) 阿下は舊訓の如くアラシの假字であらうが、他に例のない書法である。次の歌に山下の二字を用ひた所を見ると、阿即ち簷を吹き下《オロ》す風といふ意を以て假用したのであらう。
たちまつに(立待爾) 次句に吾衣袖爾置霜とあるから、戸外に立待つことを意味するものと思はれるが、日暮から道に出て待つて居たと了解せられる前の歌とは趣が相違する。立チ待ツニ〔右○〕吾衣袖ニ〔右○〕といふ同形の副詞を重ねたのは好もしからぬことで、立チテ〔右○〕待ツ吾衣袖ニ〔右○〕と謂はねばならぬ所であるから、恐らくは原歌(183)ではなく、傳誦又は筆録者が上記の如き了解の下に修正加筆したのであらう。
わがころもでに(吾衣袖爾)
おくしもも(置霜文)
ひにさえわたり(氷丹左叡渡) 此二句は前の歌には見えぬ。フル雪の對句としてオク霜を用ひたのは適切であるが、コホリ渡りに配するに同じ意味の氷ニ冴エ渡りを以てしたのは、巧妙なる修辭といふことが出來ぬ。思ふに傳誦又は筆録者は上記の誤解に基き、簷下に立出た人の袖にフル雪が凍つたといふ描寫は誇張に過ぐとして此二句を加へて緩和を計つたのであらうが、霜と雪とが同時に降下するが如きことは事實上あり得ぬ。
ふるゆきも(落雪母)
こほりわたりぬ(凍渡奴)
いまさらに(今更) 〔三行に括弧をつけて「前出」〕
きみきまさめや(君來目八) キタラメヤと改訓【代】することの不可なるは上述の通りである。
さなかづら(左奈葛)
のちもあはむと(後文將會常) 〔二行に括弧をつけて「前出」〕
おほふねの(大舟乃) 枕詞(第一〇八頁)
おもひたのめど(思憑迹) 此二句は前の歌のナグサムル以下四句に相當し、意は通ぜぬこともないが、此前(184)提の歸結を君者不相とすることが論理上聊か困難なるは次に論ずる通りである。
うつつには(現庭) 前出
きみにはあはじ(君者不相) 舊訓アハズとあるが、後も會はむと思ひ憑みながら、アハズと斷定することは矛盾であるから、古義訓の如くアハジであらねばならぬ。さりながら後會の豫期を即坐に裏切るやうな懸念が一方に存したとすれば、少くとも其理由の説明が必要であり、いづれにしても條理が通らぬから、大舟乃思憑迹といふ二句は後人の改竄であつたかも知れぬ。
ゆめにだに(夢谷) 前出
あふとみえこそ(相所見欲) 舊訓ミマホシとあるのは不當で、ミを所見と表記する筈はなく、欲は集中屡々コソと訓まねばならぬ場合に用ひられて居る。
あめのたるよに(天之足夜爾) 前出
【大意】 夫君は待てども來まさず、雁の聲が寒く鳴り響いて夜も更けてしまうた。夜が更けると嵐が吹くので、立つて待つ自分の袖に置く霜が氷のやうに冴えわたり、降る雪が一面に氷つた。今更君が來られようや。復逢ふ日があらうと思ひたのむけれども、現實には君には逢ふまい。夢にでも一夜しみじみと逢ふと見たい(ものである)
上記論究の如く此歌には斧鑿の痕跡の歴然たるものがあるから、前の歌の方が原作に近いもの(185)とせねばならぬ。
 
反歌
 
3282 衣袖丹《コロモデニ》 山下吹而《アラシノフキテ》 寒夜乎《サムキヨヲ》 君不來者《キミキマサネバ》 獨鴨寢《ヒトリカモネム》【三二八二】
ころも手に あらしの吹きて 寒き夜を 君來まさねば 一人かもねむ
 
ころもでに(衣袖丹)
あらしのふきて(山下吹而) 山下は舊訓ヤマオロシとあるが、先學の所説の如くアラシの假字なることはいふまでもない。山下の風の謂である。
さむきよを(寒夜乎)
きみきまさねば(君不來者) 來をキタルと訓むことの非なるは上述の通りであるが、契沖が之を既定條件句としたのは理由のあることで、本歌によるも男の來ぬことは殆ど確實であるから、キマサズバとある舊訓のやうに假設條件を用ひた筈がない。
ひとりかもねむ(獨鴨寢) カモは感動詞で、獨り寢ようよ〔右○〕といふ意である。
【大意】袖に嵐が吹いて寒き夜なるを、君が來まさぬから獨り寢ようよ
 
3283 今更《イマサラニ》 戀友君爾《コフトモキミニ》 相目八毛《アハメヤモ》 眠夜乎不落《ヌルヨヲオチズ》 夢所見欲《ユメニミエコソ》【三二八三】
(186)今さらに 戀ふとも君に 逢はめやも ぬる夜をおちず 夢にみえこそ
 
右四首
 
いまさらに(今更)
こふともきみに(戀友君爾) 此コフは戀即ち思慕の意よりも寧ろコヒ願フといふことであらうが、本來同語であるから、兩方にきかせたものと思はれる。
あはめやも(相目八毛) 逢ハメヤは反語で、逢ふまいといふに同じい。
ぬるよをおちず(眠夜乎不落) ヲはヨに通じ、間投詞的に挿入せられたので、寢ル夜落チズ即ち毎夜缺くることなくといふ意である。
ゆめにみえこそ(夢所見欲) 前出
【大意】今更(來よかしと)冀うても君に逢はうや。毎夜缺くることなく夢にあらはれて欲しい
 
3284 菅根之《スガノネノ》 根毛一伏三向凝呂爾《ネモコロゴロニ》 吾念有《ワガモヘル》 妹爾縁而者《イモニヨリテハ》 言之禁毛《コトノイミモ》 無在乞常《ナクアリコソト》 齊〔左△〕戸乎《イハヒベヲ》 石相穿居《イハヒホリスヱ》 竹珠乎《タカダマヲ》 無間貫垂《マナクヌキタリ》 天地之《アメツチノ》 神祇乎曾吾祈《カミヲゾワガノム》 甚毛爲便無見《イタモスベナミ》【三二八四】
菅の根の ねもころごろに 吾が思へる 妹によりては 言のいみも なく在りこそと いはひ瓮(187)を 心はひほりすゑ 竹珠を 間なく貫き垂り 天地の 神をぞ吾が祈む いたもすべなみ
 
今案不v可v言2之因妹者1、應v謂2之縁君1也、何則反歌云2公之隨意1焉
 
すがのねの(菅根之) スガはスガタタミ(住處疊)を編む材料たるべき禾草の總名で、極めて多數の種類を包括するが、單にスガ(スゲ)と呼ばれたのは、説文にいふ菅茅即ちカヤのことである。其根は特色のあるものなるが故に、「長き」及「おもひ亂れ」の枕詞として用ひられ、此歌に於ても次句のネモコロに言ひかけたので、ネモコロは後記の如く「共根」を意味し、眞菅の葉莖が年々その宿根から分出するのみならず、多數の毛根を生じ、其によつて若干の根株が固く團結して容易に分離することの出來ぬ一塊を形成するから、比況として用ひられたのである。
ねもころごろに(根毛一伏三向凝呂爾) 一伏三向をコロと訓む理由は北村節信の萬葉集折木四考によつて明にせられた。其所説は他の機會に於て紹介することもあらうが、要するに樗蒲の采なる四個のカリ(折木四又は幼木四)を投ずるに當り、一個は伏し、三個が仰向くことをコロと稱へたといふのである。此名號の所由については説明がないが、カリと共に或は外來語ではあるまいか。ネモコロゴロはネモコロの疊尾形で、ネモコロネモコロ即ち懇々といふと同一價値である。此語については山田(孝雄)博士の新著萬葉集講義卷二に五頁に亙る詳密なる考證があるが、其目的は單に定義を求めることにあつたらしく、集中の諸例を網羅し、之と同語と思はれるネンゴロ〔四字右○〕に宛てた漢字をも參酌した結果、『ひきくるめていへば「十分に(188)……」といふ語を基として主観客親兩界に之をあてゝ前のいづれかの意に照して釋すべきなり』といふ結論を與へて居る。こゝにいふ主觀客觀兩界については『主觀的には「力を盡し、身を苦め、心を盡し、至らざる所なく十分なる」意にして……客親的には「徹底的」「普遍的」といふ程の意あり』と説明せられて居るが、此やうな概念語には抽象的定義を下し得べきものではなく、強て之を與へんとするのは無謀の擧で、山田君の努力も結局吾人がネモコロ又はネンゴロといふ語音によつて漠然了解して居る以上に出ることが出來なかつたのである。されば我々は定義よりも寧ろ概念を確實に捕捉することを必要とし、之が爲には語原を明にせねばならぬ。之に關しては山田氏は『多少の説なきにあらねど首肯すべきものを見ず』といふ一言を以て片付けて居るが、恐らくは語原研究を不必要なりとするのではなく、人にも自分にも名説がないといふことであらう。私は數年前既に之について(山田君に首肯せられぬ)一説を公表したが【語誌】、其後の研究によるも之を更訂する必事を認めぬから、こゝに之を再言する。私の信ずる所によれば此語はネ(根)モコ(共)ロ(ラに通ずる接尾語)の三分子より成り、原義は上記の如く共根であるが(ロは虚辭)、ネには氏系の義もあるので、同系即ち肉親の意とも了解せられたものゝやうである。共根と同系との兩義から轉じて委曲、慇懃、誠懇等の意を生じたのは怪しむに足らぬことで、本集には懃、慇懃、懇懃等の文字をあてゝ居るが、若し眞淵説の如く惻隱の二字をもネモコロと訓むべしとすれば【二四七三】、友慈と意が通ずる爲とも了解せられる、現代語に於ても相愛をネンゴロニスルといふのである。右の概念を以て集中の諸例に臨めば、極めて容易に了解せられるのであるが、尚私見を立證するために、煩はしいけれども左に一二檢討を(189)加へる。
 (イ)原義即ち共根〔二字右○〕の意にいひかけ、前後に其縁語を用ひた例
【五八〇】 菅根〔二字右○〕乃ネモコロ見まく欲しき君かも
【六一九】 難波乃菅〔右○〕之ネモコロニ君が聞こして
【七九一】 管根〔二字右○〕乃ネモコロ吾も相|念《モ》はずあれや
【二七五八】 菅根〔二字右○〕之ネモコロ妹に戀ふるにし
【三〇五一】 山菅棍〔二字右○〕乃ネモコロニ吾はぞ戀ふる
【三〇五三】 山菅根〔二字右○〕之ネモコロニやまずおもはば
【三〇五四】 菅根〔二字右○〕乃ネモコロゴロニ吾が念へらむ
【三二八四】 菅根〔二字右○〕之ネモコロゴロニ吾が念へる妹によりては
【三二九一】 山菅之根〔三字右○〕乃ネモコロニ吾が念ふ君は
【四四五四】 須我乃根〔四字右○〕能ネモコロゴロニ降りおく白雪
【一三二四】 葦根〔二字右○〕之ネモコロ念ひてむすび〔三字右○〕てし
【一七二三】 川楊〔二字右○〕乃ネモコロ見れどあかぬ君かも
【二四八六】 鹽干能小松〔二字右○〕ネモコロニ戀ひやわたらむ
【三四一〇】 蘇比乃波里〔二字右○〕波良ネモコロニおくをなかねそ
(190)【四一一六】 ネモコロニおもひむすぼれ〔四字右○〕
眞淵がネモコロと改訓した竊隱及惻隱とある五首を除き、集中此語を用ひた二十一例中、六首の外は上記の如く共根〔二字右○〕の義のあることを意識して使うたものゝやうであり、モコロは「小《ヲ》鴨のモコロ」【三五二七】、「我を見おくるとたたりしモコロ」【四三七五】の如く「同樣」の意に用ひられ、モコロヲ〔右○〕の形に於ては儕輩の義を表示し【一八〇九】【三四八六】、「我がモコニ來む」【仁徳紀】の如き用例もあるからネ、モコロの構成に關する上記私見は肯定せられねばならぬ。
 (ロ)肉親に用ひられた例
上掲【三四一〇】の歌は
 伊香保ろのそひの萩原ネモコロニおくをなかねそまさかしよかば
とあり、大意は肉親間に於ては末の約束をするな、目前さへよければ(よいではないか)といふので、當時東國には尚上代氏族制か遺習を存し、同母系の通婚を禁じたので、之を犯した男女が刹那の享樂を以て滿足せんとする意中を率直に告白したものと思はれる。此ネモコロを慇懃と解しては意が通ぜぬので、クダクダシク【古】又はヒツコク【新考】の義としたものもあるが、此語には其やうな意味はあり得ぬ。
 右の一首を除いては上掲の諸例は「誠實に思慕する」「委曲《ツブサ》に見る」「まめやかに言ひ聞かす」「親切に降り置く雪」の謂と解せられ、其外に「ネモコロニ吾をたのめて」【七四〇】といふやゝ異風の一例があるのみで、吾人の概念を裏切るやうな用法は一つもないのである。されば此歌に於てもネモコロゴロは誠心誠意とい(191)ふほどの意と解すべきである。
わがもへる(吾念有) モヘルは思うてゐるといふ意。
いも〔二字右△〕によりては(妹爾縁而者) 左註に此イモをキミ〔二字右○〕の誤りであらうとした理由は、反歌に公之〔二字右○〕隨意とあると抵觸するといふので、註者は女性をキミと稱することは出來ぬと誤解して居たと見え、上掲【三二六一】の短歌にも同樣の注記を施して居るが、キミは夫妻男女共通の敬稱で、集中にも女性に對して用ひた例證は少くはないから、其だけでは妹〔右○〕を誤字と斷ずることは出來ぬ。さりながら歌詞により察するに、此は女性の作とすべきこと後記の通りであるから、此句のイモは不當で、或本の歌の如くキミニヨリテハとあつたのを誤り傳へたのであらう。
ことのいみも(言之禁毛) イミには禁忌の義があるから、禁の字をあてたのであらう。之をイ〔右○〕サメと訓むのも同じくイ(忌)から出た語なるが故である。我國に於ては後世に至るまで、或る場合に或る言葉を口にすることを禁忌とし、之を犯せば不祥事に遭逢すると信ぜられたが、此は如何なるイミ言葉をさしたのか判明せぬ。但し上句に愛人の故ならばといふ條件があるのであるから、戀愛に關係のある禁忌であつたとせねばならぬ。上掲【三二五〇】【三二五三】に見える神(ナ)カラ言擧セヌことも亦、コトのイミの一種で、次の反歌によつて推測すると、此場合も亦其をいふのではあるまいか。此はことに女性にとつては嚴禁であつたものゝやうである。
なくありこそと(無在乞常) 眞淵訓に從ふ。アリコソはアレヨトいふに同じく(第三〇頁)、無かれかしとい(192)ふ意である。舊訓の如くナクテモガナトというても意は通ずるが、乞は集中第十一卷【二六六一】にもコソと訓まねばならぬ場合に用ひられた例があり、ガナはやゝ後代の用語で、此時代には常にガモというたのみならず、在をテモの假字とすることも穩當ではない。
いはひべを(齊〔右△〕戸乎) 齊は勿論齋の誤寫で、イハヒ(奉齋)の用に供するへ(容器)をイハヒベと稱するのであるが、就中神酒を盛る甕をいふものと了解せられた。
いはひほりすゑ(石相穿居) 【三二二九】に神酒スヱマツルとあると同じ趣で、甕は安定《スワリ》が惡いので地面を掘下げて据ゑたものと思はれる。
たかだまを(竹珠乎) 細い竹を輪切にした環状のものをいひ、ミスマルの珠に代用したものゝやうである。
まなくぬきたり(無間貫垂) 右の竹珠を緒を以て貫聯することをいふ。垂は舊訓の如くタレと唱へてもよいが、古は自他共に四段活であつたのである。――以上四句は祭神の光景を敍したもので、イハヒベを以て、神饌を代表せしめ、竹珠のミスマルは齋主の服装の代表とせられたのである。此は慣用句であつたと見えて、第三卷の大伴坂上郎女祭神の歌【三七九】にも「齋戸ヲ忌ヒ穿居《ホリスヱ》竹玉ヲシジニ貫垂」とある。
あめつちの(天地之)
かみをぞわがのむ(神祇乎曾吾祈) 祈は舊訓イノルとあるが、標準語音數からいうてもノムの方がよい。ミの原義は伸身《ノミ》で、上代人の最敬禮樣式であつたと思はれる。神ヲといふ語にゾをそへたのは強意のためである。
(193)いたもすべなみ(甚毛爲便無見) イタの原語はイ(接頭語)ト(利)であるから、此「甚」もイトと訓み得られるが、後掲或本歌に「痛」の字をあて、【三三二九】に伊多母と假字書した例のある所を見ると、尚イタと唱へたのであらう。
【大意】自分が誠心誠意に思慕する君――妹とあるのは誤傳――故ならば言葉の禁忌もなかれかしと、神酒の瓮を掘りすゑ、竹珠を際間なく貫き垂れて(ミスマルとし)、天地の神をば私は拜む。餘りせん方なさに
 
反歌
 
3285 足千根乃《タラチネノ》 母爾毛不謂《ハハニモイハズ》 ※[果/衣]有之《ツツメリシ》 心者縱《ココロハヨシヱ》 公之隨意《キミガマニマニ》【三二八五】
たらちねの 母にもいはず つつめりし 心はよしゑ 君がまにまに
 
たらちねの(足千根乃) 枕詞(第一二四頁)
ははにもいはず(母爾毛不謂) 言の禁《イミ》即ち揚言を不可とするが故に、母にも謂はなかつたといふのである。雅澄はノラズと改訓したが、ノルは大聲でものいふことであるから、此場合にはあたらぬ。
つつめりし(※[果/衣]有之) ※[果/衣]んで居たといふ意。
ここらはよしゑ(心者縱) 契沖訓に從ふ。ヨシヱはヨシヤの轉呼であるが(第二〇頁)、サテ(英語well)とい(194)ふほどの意を以て半ば間投詞的に用ひられたのであるから、之を除いても意味に變りはない。
きみがまにまに(公之隨意) マニマニはマ〔右○〕(間)ニ〔右○〕の疊合語で、語根マの原義は空間《スペース》であるが、神代紀に一夜之間をヒトヨノカラ〔二字右○〕と訓してあるやうに、助語カラと相通點があるので(要録一〇一八頁)、ママの形に於ては其《ソレ》ナガラ〔二字右○〕といふ意に用ひられ、――漢字には之に相當するものがないから、儘又は任の字を借りた――其副詞形ママニ又はマニマニには……ナガラニ〔右○〕といふ意により、隨の字を充當し、更に其字義にも用ひるやうになつたのである。隨は字書に從也順也とあるので、之によつてママニ又はマニマニといふ語にも定義を下さんとするものが多いが、此語に含まれる概念は聊か相違し、此句の如きも君に從ふといふ意ではなく、親にすら秘して居た意中も君次第〔二字右○〕というて、暗に言擧せざるを得なかつたことを辯疏したものと了解せられる。
【大意】 母にも謂はず包んで居た心(の中)もサヲ君次第!
 
或本歌曰
 
3286 玉手次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナク》 吾念有《ワガモヘル》 君爾依者 《キミニヨリテハ》 倭文幣〔二字左△〕乎《シヅヌサヲ》 手取持而《テニトリモチテ》 竹珠呼《タカダマヲ》 之自二貫垂《シジニヌキタリ》 天地之《アメツチノ》 神呼曾吾乞《カミヲゾワガコフ》 痛毛須部奈見《イタモスベナミ》【三二八六】
玉だすき かけぬ時なく 吾が思へる 君によりては しづぬさを 手に取りもちて 竹だまを
(195)しじに貫きたり 天地の 神をぞ吾がこふ いたもすべなみ
 
たまだすき(玉手次) カケの枕詞である。タマは美稱、タスキの原義は字の如く手に次ぐといふことで、太古|衣袖《ソデ》といふものがなかつた時代に於て、兩腕の露出を掩ふことを目的としたものをいひ、高天原傳説に天宇受賣命が天香山の天之日影を手次に繋けたとあるのも【記】、ヒカゲ即ち蘿(第二八頁)を肩から垂下したことを意味するのである。紀には手襁の二字をあて、此云2多須枳1と訓註して居るが、襁は説文に負v兒衣とあり、新撰宇鏡にも負兒帶也として須支と訓してあるから、明に借字である。さりながら上代人が重量物を携帶する場合、腕力の補として一方の肩から反對側の腋下に垂下した襁状の布片又は繊維等を以て之を支へたことは事實で、神代紀一書國讓の章下にも太玉命以2弱肩1被《トリカケ》2太手襁1とあり、祈年祭の祝詞に忌部(ノ)弱肩(ニ)太多須支取挂とあるのは、ミテグラ(幣)の重く且大なることを形容したものゝやうである。是故に祭祀の任にあたるものは幣を捧持せぬ場合にも之を装着することを例とし、更に淨衣の装飾と見なされるやうになり、允恭紀によれば味橿《アマカシ》丘の岬の盟神探湯《クガタチ》に諸人各木綿手襁を著けて釜に赴いたとあり、大殿|祭《ホガヒ》及大祓の祝詞にはタスキ〔三字右○〕カクル伴ノヲといふ表現が掌典乃至主膳の意に用ひられて居る。――袖袂を※[塞の土が衣]げる爲に片タスキ又は十文字にかける紐の謂として襷〔右○〕の字をあてるやうになつたのは後世のことで、宣長説の如く和名抄に襷とあるのは會意字と思はれる――右の如くタスキは肩に取かけるものであるから、カケの枕詞としたのである。
かけぬときなく(不懸時無) 心にかけぬ時なくといふ意である。
(196)わがもへる(吾念有)
きみによりては(君爾依者) 此キミは上述の如く意中の男性をいふのである。――前の歌から類推すると、契沖説のやうに此次に脱句が存するものとせねばならぬが、ハを強意助語として君ニヨリテ即ち君故にといふ意とすれば、四句を隔てゝ天地ノ神ヲゾ吾乞フにかゝるものとも了解せられる。
しづぬさを(倭父弊〔二字右△〕乎) 父弊〔二字右△〕が文幣〔二字右○〕の誤記なることはいふまでもない。シヅは本來倭人種の支族名で、ヒナ(夷)といふ族名から「鄙」の義が生まれたと同樣に、「賤」の意にも轉用せられたが、此シヅは其意味ではなく、倭人は特に配合色を愛好したので、其製産する雜綵の布をシドリ(シヅオリの約)と稱して倭文〔二字右○〕の字をあて、或はシヅハタ【武烈紀】ともいひ、其他綵絲製の品物をシヅタマキ【萬四】、シヅクラ【萬五】、シヅ卷のアゴラ【雄略紀】等と稱へた。此シヅヌサも亦神幣とする爲に野麻《ヌサ》の繊維を色々に染めたものをいふのであらう。
てにとりもちて(手取持而)
たかだまを(竹珠呼) 前出
しじにぬきたり(之自二貫垂) シジは滋繁を意味する原語シを重ねたもので(第八九頁)、隙間なくといふ意味である。
あめつちの(天地之)
かみをぞわがこふ(神呼曾吾乞) コフが副目的の第四格を支配することは既記の通りである(第八一頁)。
(197)いたもすべなみ(痛毛須部奈見)
【大意】心にかけぬ時なく吾が思慕する君故に、シヅ幣を手にもち、竹玉を隙間なく貫き垂れて(ミスマルとし)天地の神に祈る。せん方なさに
 
反歌
 
3287 乾地〔左△〕乃《アメツチノ》 神乎祷而《カミヲイノリテ》 吾戀《ワガコフル》 公以必《キミニカナラズ》 不相在目八方《アハザラメヤモ》【三二八七】
 
天地の 神をいのりて 吾が戀ふる 君にかならず 逢はざらめやも
 
あめつちの(乾地〔右△〕乃) 元暦校本、天治本等に乾坤〔右○〕とあるを可とする。
かみをいのりて(神乎祷而)
わがこふる(吾戀)
きみにかならず(君以必) カナラズは假《カ》ニアラズの謂であらう。若し然りとすればマコト(實)といふ意の消極的表現で、明に古言ではなく、第二次生の熟語とせねばならぬ。されば本集には此外に第十二卷【三〇七三】の後毛必〔右○〕將相等曾念といふ一例があるのみである。此場合の如く反語的表現を修飾する爲には吾人は通例カナラズシモといふ反接形を用ひるのであるが、此時代には尚用法が固定せず、原義によつて適宜に使用したのであらう。但し必の一字だけでは語勢を寫すに不十分なりとして、以の字を冠したものゝやう(198)で、必以と書くと同樣の措辭と見るべきである。從つて此以〔右○〕を似〔右△〕の誤寫なりとする契沖以下の説は首肯しがたく、此句に於て送假字のニは省略せられ、以必の二字をカナラズと訓ませたものと推定せられるのである。
あはざらめやも(不相在目八方) ザラメ(ム)は打消ズの第二次的活用で、古語のナケメ(ム)に該當し、不逢在〔右○〕ラメ(ム)の謂ではないから、ズと助動詞〔三字右○〕アリとを連約してザラメ(ム)としたのである。メヤモが反語表示たることはいふまでもない。
【大意】 天地の神を祈つて吾戀する君に必しも逢はなからうや(必ず逢ふであらう)
 
或本反歌曰
 
3288 大船之《オホフネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 木始〔左△〕已《サナカヅラ》 彌遠長《イヤトホナガク》 我念有《ワガモヘル》 君爾依而有〔左△〕《キミニヨリテハ》 言之故毛《コトノユヱモ》 無有欲得《ナクアリコソト》 木綿手次《ユフタスキ》 肩荷取懸《カタニトリカケ》 忌戸乎《イハヒヘヲ》 齋穿居《イハヒホリスヱ》 玄黄之《アメツチノ》 神祇二衣吾祈《カミニゾワガノム》 甚毛爲便無見《イタモスベナミ》【三二八八】
大船の おもひたのみて さなかづら いや遠長く 我が思へる 君によりては 言の故も なく在りこそと ゆふたすき 肩にとりかけ いはひ瓮を いはひほりすゑ 天地の 神にぞ吾が祈む いたもすべなみ
 
右五首
 
(199)おほふねの(大船之)
おもひたのみで(思憑而)〔二行に括弧を付けて、既出(第一〇八頁)〕
さなかづら(木始〔右△〕已) 始〔右△〕の字は元暦校本及類聚古集に妨とあるが、大神景井の説の如く防〔右○〕の誤記とすべきで【古義】、新撰字鏡に木防已(ハ)佐奈葛とあるに從ひ、サナカヅラと訓むべきである【新考】。此は其蔓の遠く長く延びることの故を以て、次句の枕詞として用ひたのである。
いやとほながく(彌遠長) 念フといふ動詞の修飾としては遠《トホ》は餘り適切でないが、恐らくは長クに重きを置いたのであらう。
わがおもへる(吾念有) 長く自分が想うて居るといふ意。
きみによりては(君爾依而有〔右△〕) 有〔右△〕の字は元暦校本以下に者〔右○〕とあるを正しとする。
ことのゆゑも(言之故毛) 故〔右○〕が誤字でないとすれば、言は借字で、事之故即ち神譴の因となるべき事故の謂とすべきであらう。
なくありこそと(無有欲得) 前出
ゆふたすき(木綿手次) タスキは上記の如く淨衣の服装具で(第一九四頁)、ユフ(木綿)即ち木質繊維を原料としたものをユフタスキと稱へる。
かたにとりかけ(肩荷取懸) 此は本歌の竹珠乎無間貫垂と同じく、齋主の服装の代表として用ひたので、第三卷【四二〇】石田王を弔する丹生王の歌にも竹玉乎無間貫垂、木綿手次、可比奈爾懸而とした例がある。
(200)いはひへを(忌戸乎)
いはひほりすゑ(齋穿居)
あめつちの(玄黄之) 〔三行に括弧を付けて、前出〕
かみにぞわがのむ(神祇二衣吾祈) 本歌には神ヲゾ〔二字右○〕とあるが、ノムといふ語もコヒ(乞)と同樣に、副目的の第四格の外に第三格をも支配したのである。
いたもすべなみ(甚毛爲便無見) 前出
【大意】心たのみとして長く思うて居る君故には、事故なかれかしと木綿タスキを肩に取かけ、神酒《ミキ》の瓮《ヘ》を掘すゑ、天地の神を自分は祈願する。餘りせん方なさに
 
3289 御佩乎《ミハカシヲ》 劔池之《ツルギノイケノ》 蓮葉爾《ハチスバニ》 渟有水之《タマレルミヅノ》 往方無《ユクヘナミ》 我爲時爾《ワガセルトキニ》 應相登《アフベシト》 相有君乎《アヒタルキミヲ》 莫寢等《ナイネソト》 母寸巨勢友《ハハキコセドモ》 吾情《ワガココロ》 清隅之池之《キヨスノイケノ》 池底《イケノソコ》 吾者不忍《ワレハシヌビズ》 正相左右二《タダニアフマテニ》【三二八九】
みはかしを つるぎの池の 蓮葉《ハチスバ》に たまれる水の 行方なみ 我がせる時に 逢ふべしと あひたる君を ないねそと 母きこせども 吾がこころ きよすの池の 池の底 吾は忍びず ただに逢ふまでに
 
みはかしを(御佩乎) ハカシはハキ(佩)の敬語形であるが、大刀は佩くものなるが故に、御ハカシのタチを(201)略してミハカシとのみいうても御刀の義と了解せられる。横刀は腰に釣つて佩用するから、ツルギといふ語の枕詞として用ひられたのである。
つるぎのいけの(劔池之) 應神朝に築造せられた池で【紀】【記】、大和國高市郡白橿村大字石川に現存する。
はちすぱに(蓮葉爾) ハチスの語義は蜂巣で、形状の類似を以て蓮子に負はせた名であるから、其葉を指稱する爲には特にハ(葉)といふ語を添へることを要したのである。
たまれるみづの(渟有水之) 溜つて居る水のやうにといふ意で、以上四句はユクヘナミの序である。
ゆくへなみ(往方無) 廣い蓮葉に溜つた水は水銀の玉のやうに葉面を轉がり、零れんとしてこぼれぬものであるから、行く方を知らぬといふ意を以て、とつおいつ心の落付かぬことの譬喩としたのであらう。
わがせるときに(吾爲時爾) 自分がして居る時、即ちとつおいつして居る時にといふ意で、古義の如くセシトキと訓み、過去格とすることの非なるは勿論、スルトキといふ訓【考】も適切なる時格表示ではない。
あふべしと(應相登) 言ひ寄つた男に會へといふ意である。
あひたるきみを(相有君乎) 此アヒは占に食《ア》ヒの謂なることは勿論であるが、ウラヘルと改訓したのは【考】理由のないことである。食卜即ち卜占に出ることをウラニアフ〔二字右○〕といふから【垂仁紀記】、卜に合はせるといふ意を以てウラアヘ――アヘはアヒ(合)の作爲動詞形――即ちウラヘといふことが出來るが、ウラヘン、ウラフルと用ひた例のない所を見ても、複合動詞として存立したかは疑問で、假に不完全活用と見るにしても、ウラヘ〔右○〕ルはウラヘアルの約とせねばならぬから、口語に直せば「占うて居る」若しくは「占うてある」(202)の意となり、此場合にはあたらぬ。此は卜に食《ア》うた(完了時格)君といふ意であらねばならぬから、舊訓の如くアヒタルとよみ、ウラ(卜)といふ語が略せられたものとすべきで、相有の二字にもよく當つて居る。
ないねそと(莫寢等) 舊訓ナネソヨトとあるが、此は副寢すなといふ意なること分明であるから、ネだけでは不十分としてヨ(夜)の意なるイ(第一四六頁)を冠したものとすべく、契沖訓の如くナイネソトと唱へねばならぬ。
ははきこせども(母寸巨勢友) キコス(キカスの轉呼)はキク(聞)の敬語形であるが、キクは聽覺のみではなく、他の四官の作用をいふにも用ひられるから(第四八頁)、此も口をキクといふ意の敬語形、即ち言ひたまふといふことゝ解すべきで、母のたまへどもといふ意味である。
あがこころ(吾情)
きよすのいけの(清隅之池之) 字によればキヨスミであるが、此は明に心ヲ來寄スに言ひかけたのであるから、キヨスと訓まねばならぬ。マスミ〔二字右○〕の鏡をマス鏡ともいふやうに、スミ(澄)の意を語幹スのみで代表させることは決して不當ではない。添上郡五ケ谷村大字高樋に清澄《キヨスミ》と稱せられる池があるといふことであるが、此は必しも固有名詞ではなく、池水の清澄なることによつて負はせた名と思はれるから、初頭に敍した劔池のことでも有り得る。
いけのそこ(池底) 上句の言辭のつゞきによつて池底に言及し、シヌブ(下延)の枕詞としたのである。
あれはしぬびず(吾者不忍) 池底を下延することに耐忍の意のシヌビを言ひかけたので、媾會するまで辛抱(203)せずといひ、此歌に於て心情を暴露するに至つた理由を暗示したのである。忍は元暦校本及天治本には志に似た草書をあてゝ居るので、忘〔右△〕の誤寫と認定して改訓したものがあるが【考】、上句と聯連がとれぬから從はれぬ。
ただにあふまでに(正相左右二)
【大意】劔の池の蓮の葉に溜つて居る水のやうに、とつおいつして居る時に、會ふべしと占に出た君を母は媾曳すなと言はれるが、自分の心は既に(君に)寄せたので、正に會ふまで辛抱せず(色に出した)
 
反歌
 
3290 古之《イニシヘノ》 神乃時從《カミノミヨヨリ》 會計良思《アヒケラシ》 今心文〔二字左△〕《イマモココロニ》 常不所念〔左△〕《ツネワスラレズ》【三二九〇】
いにしへの 神の時《ミヨ》より 逢ひけらし 今も心に 常忘られず
 
右二首
 
いにしへの(古之)
かみのみよより(神乃時從) 時をミヨと訓むことは聊か無理であるが、時代の謂としてミヨと義訓したのであらう。字に即してトキとよむのは穩でない。
(204)あひけらし(會計良思) ラシは推量法であるが、ラムよりも多少想定的である。此は過去のことなるが故に助動詞キの未然形なるケを冠したので、逢うたらしいといふことである。
いまもこころに(今心文〔二字右△〕) 舊訓、イマノ〔右△〕ココロモとあるが、心は主語でも目的語でもないから、新考説に從ひ心文〔二字右△〕を倒置とすべきである。古義のやうに今ココロニモと訓しても意は通ずるが、律調にあはぬ。
つねわすられず(常不所念〔右△〕) 舊訓の如くば念〔右△〕は忘〔右○〕の誤記であらぬばならぬ【代】。ワスラエ〔右○〕ズと唱へても差支はないが、ワスラレ〔右○〕ズを不可とすべき理由はなく、萬葉時代には此音便變化は既に發生して居たのであるから、――第二十卷【四三二二】に和須良禮〔右○〕受と假字書した例がある――作者が孰れを選んだかは推斷の限りでない。此やうな場合には舊訓に從ふのが穩當である。
【大意】 神代から(其人と)會うたらしい。今も心中に忘れる時がない
 
3291 三芳野之《ミヨシヌノ》 眞木立山爾《マキタツヤマニ》 青〔左△〕生《シジニオフル》 山菅之根乃《ヤマスガノネノ》 慇懃《ネモゴロニ》 吾念君者《ワガモフキミハ》 天皇之《スメロギノ》 遣之萬萬《マケノマニマニ》【或本云王命恐】 夷離《ヒナサカル》 國治爾登《クニヲサメニト》【或本云天踈夷治爾等】 群烏之《ムラトリノ》 朝立行者《アサタチユケバ》 後有《オクレタル》 我可將戀奈《ワレカコヒムナ》 客有者《タビナレバ》 君可將思《キミカシヌバム》 言牟爲便《イハムスベ》 將爲須便不知《セムスベシラニ》【或書有2足日木山之木末爾句1也】 延津田乃《ハフツタノ》 「歸之」【或本無2歸之句1也】 別之數《ワカレノアマタ》 惜物《・△》可聞《ヲシクモアルカモ》【三二九一】
みよし野の 眞木たつ山に しじにおふる 山すがの根の ねもころに 吾が思ふ君は すめろぎ(205)の まけのまにまに(【おほきみのみことかしこみ】) ひなさかる 國をさめにと(【あまさかる夷をさめにと】) むら鳥の 朝たち行けば おくれたる 我《ワレ》かこひむな 旅なれば 君かしぬばむ 言はむすべ せむすべしらに(あしびきの山の木ぬれに) 延ふつたの 別のあまた 惜しくもあるかも
 
みよしぬの(三芳野之) 既出(第四三頁)
まきたつやまに(眞木立山爾) マキ(第七六頁)の生ひた山にといふ意。
しじにおふる(青〔右△〕生) 字によればアヲミ(アヲク)オフルと訓まねはならぬが、青は生《オフル》の修飾には不適當であるから、眞淵説に從ひ重〔右○〕の誤寫として假にシジニオフルと訓んで置く。シジは上記の如く繁密の義で(第一九六頁)、意はよく通ずるけれども、斷定の根據が乏しく、尚他に良訓がありさうに思はれる。待後考。
やますがのねの(山菅之根乃) 和名抄に麥門冬をヤマスゲと訓して居るが、其は百合科に屬し、ヤマラン及ジヤノヒゲ(リウノヒゲ又はジヤウガヒゲともいふ)と稱する宿根草で、さのみ根の長いものではなく.且結實するから、本集に山菅ノ根シ長クハアリケリ【四四八四】、山菅ノ實ナラヌコトヲ【五六四】とあると抵觸する。恐らくは別に山地に生ひる草でヤマスガ(ヤマスゲ)と稱するものが存したのであらう。白石は「莎といふもの此にしては山菅などいひて蓑となせしものと見えたり」といひ【東雅】、莎は和名抄に久具と訓せられ、俗にハマスゲと稱するものをいふやうである。いづれにしてもスガタタミの原料で、山地に多く生ひるものと了解すればよい。ネモコロとかゝる理由は既に上に述べた(第一八八頁)。――以上四句は序であ(206)るが、三芳野を引合に出したのは、同地に所縁があつたからであらう。
ねもころに(慇懃)
わがもふきみは(吾念君者)
すめろぎの(天皇之)――おほきみの(王) 略解以下は天皇をオホキミと改訓し、古義は天〔右○〕を大〔右△〕の誤記と斷定して居るが、スメロギはスメラキミの約轉で、大君のオホ(大)に代へるにスメラといふ最高美稱【語誌】を以てしたものであるから、之を非とすべき理由はなく、集中にも假字書した例が少くはない。殊に此歌に於ては前句に吾念君〔右○〕者とあるので、更に君〔右○〕といふ語を重ねることを嫌うて、スメロギと言ひかへたことも有り得る。――雅澄が當代天皇をスメロギと稱ふべからずと主張したのは(子義一――一七六頁)、此語を皇祖の意と誤解した結果と思はれるから論ずるに足らぬ――或本歌に王とあるのは借字で、オホキミと訓むべきことは云ふまでもない。以下八句は第九卷笠朝臣金村の歌【一七八五】にも用ひられて居る。
まけのまにまに(遣之萬萬)――みことかしこみ(命恐) 古義訓に從ふ。ツカハシシママ【舊訓】又はツカハシノママ【新訓】というても意は通ずるが、律調に協はぬ憾がある。マケはマキ(求)の意の作爲動詞で、マカセ(使動詞)とほゞ同義であるから任の義を生じ、更に遣の字をあてるやうになつたのであらう。――或本に此二句が大君ノ命恐ミとあるのは傳承の相違で、意に於ては異りはない。
ひなさかる(夷離)――あまさかる(天踈) 天踈は借字で、ウミ人《アマ》(ニ)離《サカ》ル即ちアマを避けるといふ意により、此種族によつて驅逐せられたヒナ(夷)の枕詞に用ひられるやうになつたのであるから、ヒナサカルも亦夷(207)(ニ)離ルの謂であらねばならず、之をシ〔右○〕ナサカルと轉呼してコシ(越)即ち高志(族名)の冠詞とした例は、集中【三九六九】【四〇七一】【四一五四】【四二二〇】【四二五〇】に見える。されば本歌にクニ(國)とつゞけたのも越國を略稱したものとすべきである。
くにをさめにと(國治爾登)――ひなをさめにと(夷治爾等) クニが趨國を意味することは上述の通りであるが、異傳のヒナは必しも夷族の占住する國といふ意ではなく、鄙の義に轉用して邊鄙を意味したのであるかも知れぬ。
むらとりの(群烏之) 群鳥のやうにといふ意で、タチ(立)にかゝる比況的枕詞である。
あさたちゆけば(朝立行者) 略解がユカバと改訓したのは誤りで、次句にオクレタル〔二字右○〕とあるのを見ても、假設條件とすることは出來ず、理由表示即ち朝立チ行くが故にといふ意であらねばならぬ。
おくれたる(後有) オクレテア〔二字右○〕ルの第二次的連約で、オクレは後に殘留することを意味し、其事實の現存を表示するのである。
われかこひむな(我可將戀奈) カもナも感動詞で、我戀ヒムカナ〔二字右○〕といふ意である。之を疑問句と解するのは不穿鑿で、我|戀慕《コヒシタ》ハムカ、汝偲バムカというては理窟に落ちて情味がない。殊に此句をコヒナムと訓するが如きは時格の調和を無視するもので、次の君カ偲バムの對句なるが故に未來完了格ではあり得ぬ。
たびなれば(客有者) 旅ニアレバの連約で、同じく理由表示である。
きみかしぬばむ(君可將思) 君(モ)偲バムカナ〔二字右○〕といふ意。
(208)いはむすべ(言牟爲便)
 せむすべしらに(將爲須便不知) 不知は舊訓シラズとあるが、此は慣用に從ひシラニと唱へる方がよい。
あしびきの(足日木)
やまのこぬれに(山之木末爾) コヌレはコ(木)ノ(之)ウレ(末)の連約。――此兩句は註記であるが、之あるを可とするから、恐らくは本傳が之を漏脱したのであらう。
はふつたの(延津田乃) 結縛材料たる葛、即ち繩葛はツナと呼ばれ【顯宗紀】、ツタ(蔦)はその轉呼である。此は延ふ蔦の末が分岐するやうにといふ意を以て、ワカレ(別)の枕詞に用ひたのである。
わかれのあまた(別之數) アマタはマタ(又)から分化した語で多數を意味し、惜シの修飾(副詞)である。
をしくもあるかも(惜物《△》可聞) 字によればヲシキモノカモ【舊訓】であるが、前句別之〔右○〕を惜シキモノといふ名詞節の性質を表示する屬格(限定語)と見ることは出來ず、アマタも亦形容詞ではあり得ぬから、此句は必然活用形態であらねばならぬ。されば眞淵の推定の如く「物」の下に「有」の宇脱としてヲシクモアルカモと訓むのであらう。
【大意】――首四句は序――誠心誠意思慕する君は、天皇の御任命次第に(越の)國(マタハ邊鄙)を治めに朝立行くから、後に殘る自分は戀ひこがれるであらうよ。旅のことゝて君も案ずるであらうよ。言ひやうもなく、せん方もなく、山の木の末に延ふ蔦のやうに、別が甚惜しくあるよ
(209)反歌
 
3292 打蝉之《ウツセミノ》 命乎長《イノチヲナガク》 有社等《アリコソト》 留吾者《トマレルワレハ》 五十羽旱將待《イハヒテマタム》【三二九二】
うつせみの 命をながく ありこそと 留まれる吾は いはひて待たむ
 
右二首
 
うつせみの(打蝉之) ウツセミはウツシ(現)ミ(身)の轉呼で、生人の意であるが、世、人、命等の枕詞として用ひられた。
いのちをながく(命乎長) ヲはヨに通じ、こゝでは間投詞として用ひられたのである。
ありこそと(有社等) コソは強い願望を表示する助語で(第三〇頁)、連用形に接合することを例とするのであるから、舊訓のやうにアレコソと訓むことは出來ぬ。
とまれるわれは(留吾者) 眞淵に從ふ。舊訓トドマルとあるが、此は現在繼續格即ち留まつて居るといふ意であらねばならぬから、トマレル〔二字右○〕といふべきである。第八卷贈2入唐使1歌【一四五三】にもトドマレル〔三字右○〕吾ハ幣トリ齋ヒツツ公ヲバ待タムといふ例がある。
いはひてまたむ(五十羽旱將待) 第十一卷【二五八九】にもウケビテ〔二字右○〕を受旱〔右○〕と表記した例があり、旱にはヒデ〔二字右○〕リといふ意があるが、ヒテの假字とすることは聊か無理であるから、雅澄は日手の二字を誤寫したのであ(210)らうと推定した。イハヒの語幹はイ(忌)であるから――ハヒは活用語尾で、チ(靈)ハヒ、サキ(幸)ハヒの如くも用ひられる――奉齋の外に齋戒の意もあり、此は潔齋戒謹して待たうといふのである。
【大意】(君の)生命長かれかしと留守して居る私は齋戒して待たう
 
3293 三吉野之《ミヨシヌノ》 御金高爾《ミガネノタケニ》 
ヒマナクゾアメハフルトフトキナクゾユキハフルトフソノアメノヒマナキガゴトソノユキノトキナキガゴトヒマモオチズワレハゾコフルイモガマサカニ【三二九三】
みよし野の みがねの嶽に ひまなくぞ 雨は降るとふ 時なくぞ 雪はふるとふ 其雨の ひまなきがごと 其雪の 時なきがごと ひまもおちず 吾はぞこふる 妹がまさかに
 
此歌は第一卷に清御原(天武)天皇の御製としてあげた左記の一首【二五】及其異傳【二六】と酷似して居る。――括弧内にをさめたのは【二六】の所傳である。
  みよし野の 耳我嶺(山)に 時なく(じく)ぞ 雪は落りける(落《フル》等言) 間《ヒマ》なくぞ 雨はふりける(落等〔右○〕言) 其雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ來る 其山道を
之を偶然の暗合と見ることは至難であるから、同一原歌が色々に傳へられたものとすべきであるが、必しも御製と斷定することは出來ず、古事記に速總別王の歌としてあげた「椅立の倉橋山」、または輕太子の御作とある「こもりくの初瀬の川」等の例によると【古代歌謠參照】、讀人不知の古歌を史實に附會する傾向の存したことを認(211)めねばならぬから、右の【二五】若くは其よりも一層此歌に近い【二六】を以て之が原歌と推斷することも早計である。殊に此には反歌すら附屬して居るのであるから、假令歌詞の大部分が剽竊であつたとしても、一個獨立した歌と見ることは可能で、第一卷の兩首に拘泥することなく論究を進める必要があると信ずる。
みよしぬの(三吉野之)
みがねのたけに(御金高爾) 吉野山彙中の一高嶺金峰山をいふものと思はれるが、此山をコガネのミネ【夫木集】又はカネのミタケと稱へ、山中に黄金を藏し、之を盗むものは祟を受けると説くやうになつたのは【宇治拾遺】寧ろ後世のことで、金はキム〔二字右○〕――山の意の古言、今もアイヌ語ではキム〔二字右○〕イといひ、山奥の住民をキム〔二字右○〕カアイヌと稱へる――の音を寫したものと思はれ、金〔右○〕華(陸前)(美濃)、金〔右○〕時(相模)(信濃)、金〔右○〕峯(大和)(肥後)(甲斐)(羽後)其他キムを冠稱する山名は少くはない。加之筑前の金之三崎【萬七】をミ〔右○〕カネの崎と呼びかへた例のない所を見ても、カネのミ〔右○〕タケをミ〔右○〕カネのタケと稱へたとは思はれず、カネ(金)にミといふ美稱乃至接頭語を冠することも異例であるから、名の義は之を他に求めずばなるまい。案ずるに此名號の主體はミミ又は其約縮なるミで、磯城郡(以前の十市郡)耳成山は允恭紀によればミミ山とも呼ばれたとあり、カコ(鹿)の棲む山をカグヤマ(香山)といふに對し、マミ(※[獣偏+端の旁]類)が多いといふ意を以てミミ山又はミミ之栖《ナス》山とよばれたことも有り得るから、吉野の此山もキム〔二字右○〕タケともミ〔右○〕(ミミ)之嶺《ガネ》とも稱へられたのであらう。さればこそ上掲第一卷の歌にはミミ〔二字右○〕ガ嶺《タケ》(山)と傳誦せられたのである。
ひまなくぞ(間無序) 既出(第一二九頁)。――以下八句は上掲【三二六〇】の歌と全然同一趣向であるが、必し(212)も一方が他を模倣したのではなく、或時代に於て此やうな譬喩形式が好んで用ひられたのであらう。
あめはふるとふ(雨者落云) 舊訓フルトイ〔右○〕フとあるが、一音が過剰であるのみならず、トイフはトフ、チフ、テフと約せられることを例とする。三者いづれを用ひても差支はないが、集中にはトフと假字書した例が最も多いのみならず、上掲【二六】の歌には落等〔右○〕云と表記せられ、雄略天皇の御製にも阿岐豆志麻登布〔二字右○〕と詠まれた例があり【紀】、繼體紀の歌にニイフを※[人偏+爾]輔と約して居る所を見ると、飛鳥朝以前には連結の場合に限りイフのイを省略したものと思はれるから、此もフルトフ〔二字右○〕と訓ませるつもりであつたのであらう。後句雪者落云〔二字右○〕も同樣である。
ときなくぞ(不時曾) 不時をトキジクと訓むことの非なるは上記の通りである(第一三〇頁)。
ゆきはふるとふ(雪者落云)
そのあめの(其雨)
ひまなきがごと(無間如)
そのゆきの(彼雪)
ときなきがごと(不時如) 舊訓トキナラヌゴトとあるが、上句の對語としても同一語法を可とするのみならず、【三二六〇】には不時之如としてトキナキガゴトと旁訓し、【二五】には時無〔右○〕如と表記せられて居るから其に從ふべきである。
ひまもおちず(間不落) オチズは殘さずといふに同じい。一音過剰であるが、記の須勢理毘賣の歌にもイソ(213)ノサキオチズ〔三字右○〕(八音)とした例がある。間を盡くマと訓むべしとする雅澄説の固陋なることは既述の通りである。
われはぞこふる(吾者曾戀) 吾は鯉フルゾ〔右○〕といふに同じく、ゾを上に移したが故に連體法を以て終結したかのやうに誤解せられ、所謂係り結びの法則が案出せられたのである。
いもがまさかに(妹之正香爾) マサカはマサ(正)の名詞形で(カは恐らくは處の意のカの轉用であらう)、正眞又は現實を意味するから、イモガマサカといへば彼女自身 herserf といふ意になるのである。戀フは目的格又は與格を支配する動詞なるが故に、妹ヲ〔右○〕戀ヒとも妹ニ〔右○〕コヒともいふのである。第九卷【一七八七】の結句に吾ハゾ戀フル妹ガ直香仁《タダカニ》とあるのもほゞ同意であるが、之によつて正香をもタダカと訓むべしとするのは【略】誤りで、マサカの用例は集中にも少くはなく、眞坂【二九八五】【二九九六】、麻左香【《三四〇三】、麻左可【三四一〇】【三四九〇】【四〇八八】とも表記せられて居る。
【大意】 三芳野のミガネの嶽に間斷なく雨は降るといふ。時を定めず雪は降るといふ。其雨の間斷がないやうに、其雪の時を定めぬやうに、絶間なく自分は彼女自身を戀する
新考にも論じたやうに、聞なき雨と時なき雪とを譬喩に用ひながら、其一方のみについて聞《ヒマ》モ落チズと承けたのは巧妙なる手法とはいひ難く、次の反歌も吉野之高といふ一句を除いては、本歌と縁が乏しいから、恐らくは古歌を燒き直したものであらう。
 
(214)反歌
 
3294 三雪落《ミユキフル》 吉野之高二《ヨシヌノタケニ》 居雲之《ヰルクモノ》 外丹見子爾《ヨソニミシコニ》 戀度可聞《コヒワタルカモ》【三二九四】
み雪ふる よし野の嵩に 居る雲の よそに見し子に 戀ひ渡るかも
 
右二首
 
みゆきふる(三雪落) ミはマ(眞)の轉呼であるが、原義を失ひ、虚斷辭として接頭せられたもので、單に雪フルといふに同じい。
よしぬのたけに(吉野之高二) 吉野山をいふのであらう。上掲のミガネのタケは其一嶺である。
ゐるくもの(居雲之) 雲の起ることをタツといひ、之に對し停滯することをヰルといふ語を以て表示したものゝやうである。――以上三句はヨソにいひかけた序である(第一二七頁參照)。
よそにみしこに(外丹見子爾) 集中の諸例によるにヨソニ見ルは看過スル、等閑視スル、無關心ニ見ルといふやうな意味に用ひられたのであるが、此は雲外にチラと見たといふことゝ7解すべきである。
こひわたるかも(戀度可聞) 戀ひて世を渡る又は戀ひ暮すといふ意。
【大意】雪のふる吉野の山に低※[人偏+回]する雲の(以上序)その雲の外に瞥見した彼女に戀ひ暮すことよ
 
(215)3295 打久津《ウツヒサツ》 三宅乃原從《ミヤケノハラヨ》 當土《ヒタツチニ》 足迹貫《アシフミヌキ》 夏草乎《ナツクサヲ》 腰爾莫積《コシニナヅミテ》 如何有哉《イカナルヤ》 人子故曾《ヒトノコユヱゾ》 通簀文《カヨハスモ》 吾子《アゴ》」 諾諾名《ウベナウベナ》 母者不知《ハハハシラズ》 諾諾名《ウベナウベナ》 父者不知《チチハシラズ》 蜷腸《ミナノワタ》 香黒髪丹《カグロキカミニ》 眞木綿持《マユフモチ》 阿邪左結垂《アザサユヒタレ》 日本之《ヤマトノ》 黄楊乃小櫛乎《ツゲノヲクシヲ》 抑刺《オサヘサス》 刺細子《サスタベノコ》 彼曾吾※[女+麗]《ソレゾワガツマ》【三二九五】
うつひさつ 三宅の原よ ひた土に 足ふみぬき 夏くさを 腰になづみて いかなるや 人の子故ぞ 通はすも吾子《アゴ》』 うべなうべな 母は知らず うべなうべな 父は知らず みなのわた か黒き髪に ま木綿もち あざさ結ひたれ やまとの つげの小櫛を おさへさす さすたべの子 それぞ吾がつま
 
これは前後二段より成り前段は問、後段は其に對する答に擬したもので、後掲【三三〇九】と同一形式であるから、當然問答歌中に編入せられるべきものであるが、誤つて此部類に掲げられたのであらう。
うつひさつ(打久津) 舊訓ウツクツノとあるが、其やうな熟語はなく、次句ともつかかぬから、ウツ〔右○〕ヒサツと訓み、ウツ(珍)ヒ(日)サス(射)の轉呼とし、ミヤ(宮)の修飾的枕詞として用ひられたものと了解すべきであらう。集中に宇知〔右○〕ヒサス【五、十四、二十卷】、字知〔右○〕比佐都【十四卷】と假字書した例のある所を見ると、ウチ〔右○〕ヒとも稱へたのであらうが、其は音便轉呼で、原語は疑もなくウツ(珍)で、打がウツの假宇なることは上掲【三二九二】の打蝉(ウツ〔右○〕セミ)の例によつても分明である。内日と表記せられた例もあり、内は記の神代卷にウツヌキ(全拔)が内〔右○〕拔、ウツハギ(全剥)が内〔右○〕剥と書かれて居るやうに、ウツの假字に用ひられるの(216)である。ウツの原義は「全」であるか、完美の義に轉じて珍の字をあてたので【語誌】、珍日即ち快い日光の射入するのは高屋に限るから、ミヤ(宮)の枕詞に轉用せられたのである。
みやけのはらよ(三宅乃原從) ハラユ〔右○〕とも訓み得られるが、此は原ヲ〔右○〕といふ意であるから、其通音なるヨを以て唱へられたものとすべきである。屯倉《ミヤケ》の存する(若くは存した)地なるが故にミヤケの原と呼ばれたので或は和名抄に擧げた大和國城下郡三宅(美也介)とある地(今の磯城郡三宅村)のことであるかも知れぬ。
ひたつちに(當土) ヒタツチは第五巻貧窮問答歌に直土〔二字右○〕と表記せられて居るやうに地面の謂であるが、ヒタ土を蹈むは裸足で歩むことゝなるから、當土の字をあてたのであらう。――西本願寺本其他に常土とあるのは、常陸をヒタチと訓むやうにヒタの假字に常を用ひたものと思はれるが、尚當土の方が適切である。
あしふみぬき(足迹貫) 略解訓による。迹の字は後掲【三三一三】にもフミといふ語に充てられ、上記【三二四二】には跡をフミと訓ませた例がある(第八四頁)。フミの原義は擧足であるが、――之に對して擧手をフ〔右○〕リと稱へる――足を擧げ地につけることをいふにも用ひられ、地上から足を離すのをヌクと稱へたやうで、今もヌキ〔二字右○〕足サシ足などゝいふのである。されば足フミヌキは徐に足を運ぶことをいひ、人目を忍んで歩み來る光景を敍したのである。
なつくさを(夏草乎)
こしになづみて(腰爾莫積) ナヅミは上記の如く渋滯の意の自動詞であるが(第一一六頁)、古は作爲動詞としても用ひたのであらう。夏草ヲ腰ニ〔右○〕絡マセ〔右○〕といふ意と了解すべきである。
(217)いかなるや(如何有哉) ヤは間投詞で、如何ナル人ノ子とつゞくのである。
ひとのこゆゑぞ(人子故曾) 何人の子故ぞといふ意。ゾは指定助語であるが、不定代名詞ナニ、タレ、イカニ等と并用すると疑問表示となり、カと効力を同じうする。例へば何ゾは何カといふと大差はない。
かよはすもあご(通簀文吾子) カヨハスはカヨフ(通)の敬語形で、アゴ(阿子)も亦アゴネ(第六〇頁)と同じく郎君を意味し、吾〔右△〕子とあるのは借字である――以上を前段とする。短長二句四聯に一長句をそへたのは獨立した一齣の形式を備へしめんが爲で、或人の問に擬したのである。此句の口吻によつて察するに問者は路傍の人とすべきで、吾子〔二字右○〕といふ字によつて親の問とする説【新考】は誤解である。其場合には後段の答に於ても必然母ハ知リ給ハジ、父ハ知リ給ハジといふが如く、敬語が用ひられねばならぬ。
うべなうべな(諾諾名) 上の諾には送假字がついて居らぬが、美夜受比賣の歌【記】の例によればウベナ〔右○〕ウベナと唱ふべきで、父母の知らぬのは當然【ウベ】なりといふ意である。ウベの語根ベはベシとも活用せられるが、清音として用ひられた例のない所を見ると、原語は恐らくは mpe で、其故にウベとも表記せられたものと思はれる。ナは感動詞である。
はははしらず(母者不知) 舊訓シラレズとあるは非。新考がシラジと改訓したのは、上記の如く問者が親であるといふ誤解にもとづくものである。
うべなうべな(諾諾名) 同じ句を繰反したのは格調を整へんが爲で、母と父とに別けて此語を用ひる必要があるのではない。
(218)ちちはしらず(父者不知)
みなのわた(蜷腸) 次句の枕詞。ミナの原義はミ(肉)ナ(肴)であるが、ミといふ語が魚介就中貝類の肉をいふに用ひられるので、之に食品を意味するナを連ねたミナも或種の貝の名と了解せられ、和名抄には河貝子の字を充て、寄居子《ヤドカリ》をもカミナ〔二字右○〕と訓して居る。其腸が黒色の比況的枕詞に用ひられた所を見ると、田中螺《タニシ》(太都比)も亦之に含まれたのであらう。
かぐろきかみに(香黒髪丹) カは顯著を意味する接頭語で、漆黒の意を以てカグロキと形容したのである。丹〔右○〕は新考説の如く乎〔右○〕の誤記であるかも知れぬ。
まゆふもち(眞木綿持) 接頭語マには尋常といふ義もあるから、特に加工したのではない普通の木質繊維をマユフと稱へたのであらう。後述の如く身分の低い田部の少女のことであるから、頭飾も簡素で、尋常のユフ(木綿)を以て結髪して居たものと思はれる。
あざさゆひたれ(阿邪左結垂) 用例はないがアザサがアサアサ(淺々)の連約なることは分明で、髻を淺くとり、換言すれば根を深く詰めることなく、結ひ垂れて鬢を膨ませた少女の結髪樣式をいふのであらう。さればこそ亂髪にならぬやうに櫛を以て抑へたとあるのである。
やまとの(日本之) 當時舶來の唐櫛《カラクシ》といふものが貴女の間に愛用せられ、其に對して和製の櫛をヤマトクシと稱へたのかも知れぬ。或は日本は借字で、大和國山邊郡にツゲといふ舊地があるから【紀】【記】【和】、次句の枕詞として用ひられたことも有り得る。
(219)つげのをくしを(黄楊乃小櫛乎) 黄楊は和名抄に都介と訓せられ、木質緻密にして細工を施すに適するが故に、今も櫛材として用ひられる。クシは本來ツマクシ(尖串)の略稱で、男子の髻《ミヅラ》を留《ゝ》める爲に用ひたものであるが【語誌】》、此ころには婦人も亦遍く之を装著したと見え、播磨風土記には石龍比賣が挿揃を以て水源を塞いだといふ傳説があり、催馬樂にも「サシ櫛は十まり七つありしかど」云々といふ歌がある。但し其製式形状は不明で、少くとも後世のやうに目の詰つた精巧なものでなかつたと思はれる。
おさへさす(抑刺) 上記のやうに、頭髪が亂れぬ爲の抑としたのであるから、後頭部に挿したものとせねばならぬ。
さすたべのこ(刺細子) 前句尾と韻を疊んだのであるが、此サスは挿苗を意味する。稻挿を略してサシとも或は單にサとも稱へたことは、サナヘ(挿苗)、サヲトメ(挿少女)、サヒラキ(挿苗開始)、サノボリ(挿苗終了)の如き用語によつても分明で、此サスはタベ(田部)のコ(子)にかゝる修飾語である。田部は屯倉《ミヤケ》所屬の公有地を耕作する農民部の謂であるが、此制度が廢れた後に於ても名稱のみは殘り、農家といふと同義に用ひられたものゝやうでコ(子)はここでは女《メ》の子《コ》を意味するから、サスタベノコは挿少女《サヲトメ》といふに同じい。名家の若殿は人もあらうに身分の低い農家の女に戀したのであるから、母にも父にも打明け得なかつたのは當然である。先學之を察し得ず、紬布をタヘといふにより借り用ひた細の字に捉はれて、刺〔右○〕を敷〔右△〕の誤寫としてシキタヘノ子ハと訓み【考】、或は腰〔右△〕と推定してコシボソノコと訓したのは【新考】、甚しき杜撰といはねばならぬ。――舊訓は句尾に助語ハを添へて居るが、次句にソレゾと強く指定したのと重複す(220)るから、新考の説の如く之を除くことを可とする。
それぞわがつま(彼曾吾※[女+麗])
【大意】 三宅の原を(踝足で)地面を蹈み、夏草をわけて通ひ給ふは如何なる人の子の故ぞ(問)。母の知らぬのも當然。父の知らぬのも當然。蜷の腸のやうな黒髪を眞木綿で淺く結ひ垂れ、和製の黄楊の小櫛を抑へにさした田部の挿少女《サヲトメ》、其が自分の妻であるよ
貴族の子と農家の娘との戀愛といふ詩的題材を捉へて問答體に巧に敍したもので、集中の傑作の一たることを失はぬ。然るにサスタベノコといふ一句を解き得なかつた爲に、從來此名歌の趣を没却したのは殘念なことで、作者もさぞ地下で恨んで居るであらう。
 
反歌
 
3296 父母爾《チチハハニ》 不令知子故《シラセヌコユエ》 三宅道乃《ミヤケヂノ》 夏野草乎《ナツノノクサヲ》 菜積來鴨《ナヅミクルカモ》【三二九六】
父母に知らせぬ子故三宅道の夏野の草をなづみ來るかも
 
右二首
 
ちちははに(父母爾)
(221)しらせぬこゆゑ(不令知子故) コは上記の如く女之子《メノコ》を意味する。
みやけぢの(三宅道乃) ミヤケ(屯倉)の原を貫通する道路をいふ。
なつののくさを(夏野草乎) ナツヌ〔右○〕と訓んでもよい。
なづみくるかも(葉積來鴨) 草を分けて行きなやむことよといふ意である。クルが來往いづれの意にも用ひられたことは既記の通りである。
【大意】父母にも知らせぬ愛人の故に、三宅路の夏野の草を分けて行き悩むことよ
 
3297 玉田次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナク》 吾念《ワガオモフ》 妹西不會波《イモニシアハネバ》 赤根刺《アカネサス》 日者之爾良爾《ヒルハシミラニ》 鳥玉之《ヌバタマノ》 夜者酢辛二《ヨルハスガラニ》 眠不睡爾《イモネズニ》 妹戀丹《イモヲコフルニ》 生流爲便無《イケルスベナシ》【三二九七】
玉だすき かけぬ時なく 吾が思ふ 妹にしあはねば あかねさす 晝はしみらに ぬばたまの 夜はすがらに いもねずに 妹を戀ふるに 生けるすべなし
 
たまだすき(玉田次)
かけぬときなく(不懸時無) 既出(第一九四頁)〔入力者注、二行一緒にして〕。
わがおもふ(吾念)
いもにしあはねば(妹西不會波) シは張意の爲に挿入せられたので、妹に會はねばといふ意である。
(222)あかねさす(赤根刺)
ひるはしみらに(日者之彌良爾)
ぬばたまの(鳥玉之)〔三行に括弧して、既出(第一四九頁)。〕
よるはすがらに(夜者酢辛二)
いもねずに(眠不睡爾) 夜も寢ずにといふ意(第一四六頁)。眠も睡も借字で、此と同じ表記法は【三二七四】にも例がある。
いもをこふるに(妹戀丹) イモニ〔右△〕と改訓したのは【古】賢しらで、上記の如くコヒ(戀)は與格をも目的格をも支配する動詞であるが(第二一二頁)、此は句尾をニで結んで居るから、同一助語の重複を避ける爲に作者もイモヲ〔右○〕と唱へたのであらう。
いけるすべなし(生流爲便無) 生きて居るよすがも無いといふ意である。
【意】 心に懸けぬ時なく自分が想ふ彼女に會はぬから、終日終夜寢もやらず戀ひこがれて、生きて居るかひもない
 
反歌
 
3298 縱惠八師《ヨシヱヤシ》 二二火〔左△〕四吾妹《シナムヨワギモ》 生友《イケリトモ》 各鑿社吾《カクノミゾワガ》 戀度七日〔左△〕《コヒワタリナメ》【三二九八】
(223)よしゑやし 死なむよ吾妹 いけりとも かくのみぞ吾が 戀ひわたりなめ
 
右二首
 
よしゑやし(縱惠八師) ヤシは間投詞で、ヨシヱは縱《ヨシ》ヤの意なること既記の通りであるが(第二〇頁)、此は第二句の次に排列すべきを、句法上こゝに移したのである。
しなむよわぎも(二二火〔右△〕四吾妹) 二二が四なるによりシの假字に用ひられたことは勿論で、八十一をククと訓ませたと同工異曲であるが、火をナムと訓する理由はないから、契沖は陰陽五行説に於て火〔右○〕は南〔右○〕方に配當せられるが故に南《ナム》に通はせたものと推定した。第十卷【一九九八】にもツゲナムと解讀すべき場合に告火と表記した例があるから、無理な宛字ではあるが、筆録者は火をナムと訓み得ると信じ、意識して之を用ひたことも有り得る。或は兩處共に原文には韓語ナム(※[ハングルで木の意味のナム])に當る木〔右○〕の字が書かれて居たのかもしれぬ。此は飛鳥朝時代によく知られた外來語であつたやうであるから(第一〇〇頁)、之を借り用ひたことは有り得べきであるが、一時の流行語に過ぎぬから早く忘却せられ、傳寫にあたり之を不可讀として阿闍梨の説の如き考察に基き、木を火と書きかへたのではあるまいか。シヌは本來|死去《シイヌ》の意で、シ(死)の現在完了形であるが、夙に死スと同義に轉用せられ、此句に於ても死センといふ意味に用ひられたのである。
いけりとも(生友) 生きて居てもといふ意で、首句のヨシヱヤシ(縱ヤ)は之に前行すべきである
かくのみぞ〔右○〕わが(各鑿社吾) 社は通例コソの假字として用ひられるので、從來カクノミコソワガと八音に唱(224)へて居るが、甚口調がわるいから、此はゾの音符と認定すべきであらう。次句がナメ〔二字右○〕と結ばれて居るからコソといふ係りを必要とするといふものも有るかも知れぬが、屡々述べたやうに係り結びの法則は人爲的で、其やうな拘束は國語には存在せぬ。カクは此やうにといふ意である(第八五頁)。
こひわたりなめ(戀度七日〔右△〕) 日〔右△〕は元暦校本に目とあるを正しとする。コヒワタリは戀ひ暮すといふに同じく(第二一四頁參照)、ナメといふ已然格を用ひたのは戀渡るなればといふ意を表示する爲で、第二句の前提なるが故である。
【大意】よしや生きて居ても、此やうに彼女に焦がれてのみ世を亙るやうなれば、(いつそ)死なうよ
 
3299 見渡爾《ミワタシニ》 妹等者立志《イモラハタタシ》 是方爾《コノカタニ》 吾者立而《ワレハタチテ》 思虚《オモフソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 嘆虚《ナゲクソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 左丹※[染の九が七]之《サニヌリノ》 小舟毛鴨《ヲフネモガモ》 玉纏之《タママキノ》 小※[楫+戈]毛鴨《ヲカイモガモ》 ※[手偏+旁]渡乍毛《コギワタリツツモ》 相語妻遠《アヒカタラメヲ》【三二九九】
 
或本歌頭句云
 
己母理久乃《コモリクノ》 波都世乃加波乃《ハツセノカハノ》 乎知可多爾《ヲチカタニ》 伊母良波多多志《イモラハタタシ》 己乃加多爾《コノカタニ》 和禮波多知底《ワレハタチテ》
見渡しに 妹らは立たし 此のかたに 吾は立ちて(こもりくの初瀬の川のをち方に妹らは立たし此かたに我は立ちて)思ふそら 安からなくに なげくそら 安からなく にさ丹ぬり(225)の 小舟もがも 玉まきの をかいもがも こぎ渡りつつも 相かたらめを
 
右一首
 
こもりくの(己母理久乃) 枕詞(第一九頁)
はつせのかはの(波都世乃加波乃) 此二句は本傳には見えぬが、先づ河川を敍することは此場合至當であるから、之を逸したものと認定すべきであらう。
みわたしに(見渡爾)――をちかたに(乎知可多爾) ミワタシは見渡す向といふ意であるから、ヲチカタ(彼方)ともいひ得られる。ヲチはヲ(小)の接頭形ヲツ〔右○〕の轉呼で、遠方のものは小く見えるから、ヲチカタといへば遠方の義と了解せられ、轉じて彼方といふ意になつたのである。
いもらはたたし(妹等者立志――伊母良波多多志) ラは虚辭で、單にイモといふに同じい。本集第三卷にも山上臣憶良が自身のことを憶良ラ〔右○〕ハ今ハマカラム云々と詠じた例がある【三三七】。タタシはタチ(立)の敬語形である。
このかたに(是方爾――己乃加多爾)
われはたちて(吾者立而――和禮波多知底)
おもふそら(思虚) 既出(第一五四頁)
やすからなくに(不安國) ナクは無キコトの謂で、之に助語ニをそへたのであるから、口語に直せば安からぬのに〔二字右○〕といふにあたるが、必しも反接の意ではなく、副詞形表示に過ぎぬからナイノデと解してもよい。
(226)なげくそら(嘆虚) 既出(第一五五頁)
やすからなくに(不安國)
さにぬりの(左丹※[染の九が七]之) ※[染の九が七]は漆の變體で(第一二三頁)、ヌリ(塗)の義もあり、サは接頭語であるから、丹塗ノといふ意を以て小舟の潤飾語に用ひられたのである。
をふねもがも(小舟毛鴨) ガモは希求の意の助語カに感動詞モを添へたものであるが、詠歎のカ及カモと區別する爲にガ及ガモと濁り、之を他語に連結する爲には活用形態にあつてはシ、體言にはモを介することを例とする。
たままきの(玉纏之) 玉を卷いてあるといふ意で、是も小※[楫+戈]の潤飾である。
をかいもがも(小※[楫+戈]毛鴨) ※[楫+戈]はカヂと訓しても差支はないが【代】【考】、カヂも亦カイのことであるから(第四三頁)、強ひて舊訓を改めるにも及ぶまい。丹塗はともかくも、小※[楫+戈]を玉纏と修飾したのは誇張に過ぎるやうであるが、此は舟楫を美化する爲の慣用句で、思フソラ以下四句と共に第八卷山上臣憶良の七夕の長歌【一五二〇】にも用ひられて居るのである。
こぎわたりつつも(※[手偏+旁]渡乍毛) ツツは動作行爲の反復を表示する助語で、漕ギワタリ漕ギワタリといふと同意である(第四三頁)。
あひかたらめを(相語妻遠) カタル(語)はコト(言)の派成語で言辭を述べることを意味し、アヒカタルはカタラフ(語リアフの約)とほゞ同義である。未來格に已然形を用ひたのは反接表示の爲で、相語ラムモノヲ(227)といふに同じい。――カタラハマシと讀まんが爲に妻〔右○〕を益〔右△〕と改記したのは【略】理由のないことである。
【大意】初瀬川の彼方に彼女は立ちたまひ、此方に自分が立つて、思ふすら安くはないので、嘆くすら安くはないので、丹塗の小舟もあれかし、玉を卷いた小※[楫+戈]もあれかし。漕ぎ渡り漕ぎ渡りして相語らうものを
 
3300 忍照《オシテル》 難波乃埼爾《ナニハノサキニ》 引登《ヒキノボル》 赤曾朋舟《アケノソボフネ》 曾朋舟爾《ソボフネニ》 綱取繋《ツナトリカケテ》 引豆良比《ヒコヅラヒ》 有雙雖爲《アリナミスレド》 曰豆良賓《イヒヅラヒ》 有雙雖爲《アリナミスレド》 有雙不得敍《アリナミエズゾ》 所言西我身《イハエニシワガミ》【三三〇〇】
おしてる 難波の崎に 引きのぼる 赤《アケ》のそぼ舟 そぼ舟に 綱とりかけて ひこづらひ ありなみすれど いひづらひ 有なみすれど ありなみ得ずぞ 言はえにし我が身
 
右一首
 
おしてる(忍照) 難波の枕詞である。語義については定説がないが、私見によればオシはオホシ(大)の約縮で、大にテル(光)といふ意を以てナ(名)一音にいひかけたものと信する。今も何某の名が最も光《ヒカ》つて居るなどともいふことがある。舊訓にはヤをそへて居るが、仁徳紀に於辭※[氏/一]屡那珥破能瑳耆能《オシテルナニハノサキノ》とつゞけた例もあるから、必しも此間投詞を必要とせぬ。
(228)なにはのさきに〔右△〕(難波乃埼爾) 難波即ち今の大阪附近の地形は大變遷を經たものゝやうであるから、當時此名を以て呼ばれた現地は、今日之を指點することが出來ぬが、大川口の陸嘴を意味したものと推定せられる。ニといふ助語によれば此地まで舟を引登せたものとも聞えるが、恐らくは上陸地點は難波埼ではなく更に上流まで曳行せられたものとすべきで、舞臺面を此處に求めた爲に埼ニ〔右○〕というたのであらう。或は爾〔右△〕は自〔右○〕の誤記で、ヨと訓むのかも知れぬ。
ひきのぼる(引登) 舟を曳いて川を泝るといふ意。
ぁけのそぼふね(赤曾朋舟) アケノソボフネといふ語は第三卷【二七〇】にも用例があり、ソボはソム(染)の縛訛で、赤色に塗つた舟をいふ。前の歌にも玉卷の小※[楫+戈]に對してサ丹塗の小舟と敍して居るから、赤塗が舟體の最上装飾であつたことは疑なく、此も官用船若くは貴人の乘用と想像せられる。
そぼふねに(曾朋舟爾) 格調を整へる爲に前句を反誦したに過ぎぬ。
つなとりかけて(綱取繋) 送假字は省かれて居るが、綱取カケと引《ヒコ》ヅラヒとは同時になされる行爲ではないから、此句には完了分詞テを訓みそへることを要する。
ひこづらひ(引豆良比) ヒキツレ(引連)といふ行爲の延長(進行)を意味する。即ち綱を取りかけて多人數が連曳《ツレヒキ》することをいふ。八千矛神の歌に比許〔右○〕豆良比と假字書した例があるから【記】、其に準じて引の字はヒコと訓むべきであるが、意義には多少の相違がある。即ち彼に在つては連《ツレ》の原義を固守せず、引張るといふ意に用ひられたのであるが、此は如實の連曳を表示する。仁徳天皇の御製にも「難波人スズ舟とらせ、腰(229)なづみ其舟とらせ大御舟とれ」【紀】とあるから、往昔貴人の坐乘の舟は難波の埼から所在の男女を狩り催して曳き泝ることを例としたのであらう。
ありなみすれど(有雙雖爲) アリは現在の意を以てナミ(竝)に冠したのであるが(第六一頁)、半ば接頭語的で、タチ〔二字右○〕交レドといふに同じい。以下は作者自身のことである。
いひづらひ(曰豆良賓) 言ヒ連レの進行格で、人々と口を合はせるといふほどの意である。
ありなみすれど(有雙雖爲)
ありなみえずぞ(有雙不得敍) 立チ交リ得ズといふ意。ゾは強意助語である。有ナミ得ざる理由は次句によつて明である。
いはえにしわがみ(所言西我身) 或人との戀愛關係がもれて、群衆の口の端にかゝり、居たゝまらなかつたといふ意である。されば此歌は女性の作であらねばならぬ。或は曳船のやうな劇しい勞働は婦女子の任にあらずと考へるものがあるかも知れぬが、播磨風土記に神功皇后の御舟を曳くとき、一女人が負うた子を江《カハ》に落したとある所を見ても、徴發人夫中には、勿論身分のあるものではあるまいが、女性が雜つて居たこともあり得べきである。
【大意】難波の埼を引のぼる赤い塗船に綱を取かけて、連曳する(人々の中に)立交り、口を合はせて立交つたが、尚居たたまらぬ程いひはやされた
此は歌中の女人の自作か、或は詞客が想像を以て村孃に代はつて詠じたのか判明せぬが、いづ(230)れにしても趣のある題材で、今も漁村の地曳などの際に起りさうな事實である。手法措辭も亦巧妙で、めでたい歌であるが、從來正解せられなかつた。
 
3301 神風之《カムカゼノ》 伊勢乃海之《イセノウミノ》 朝奈伎爾《アサナギニ》 來依深海松《キヨルフカミル》 暮奈藝爾《ユフナギニ》 來因侯海松《キヨルマタミル》 深海松乃《フカミルノ》 深目師吾乎《フカメシワレヲ》 俟海松乃《マタミルノ》 復去反《マタユキカヘリ》 都麻等《ツマト》 不言登可聞《イハジトカモ》 思保世流君《オモホセルキミ》【三三〇一】
神かぜの 伊勢の海の 朝なぎに 來よる深みる 夕なぎに 來よる俣海松《マタミル》 ふか海松の 深めし吾を またみるの 又行きかへり つまと言はじとかも 思ほせるきみ
 
右一首
 
かむかぜの(神風之) 枕詞(第四九頁)
いせのうみの(伊勢乃海之)
あさなぎに(朝奈伎爾) 既出(第八八頁)
きよるふかみか(來依深海松) ミルは恐らくはミラ(韮)の轉呼で、其形状韮蒜類に相似する海藻なるが故にミルメ(ミル藻)と稱へたのを、略してミルとのみも呼ぶやうになつたのであらう。フカミルは深水に産するが故に此名を負うたものゝやうで、宮内省式の諸國例貢の御贄中、志摩國の項下に深海松を擧げて居るが、恐らくは種名ではあるまい。
(231)ゆふなぎに(暮奈藝爾) 既出(第八八頁)
きよるまたみる(來因俟海松) マタミルも亦種名ではなく、普通のミル(水松)は股の多いものであるから、修飾的にマタといふ語を冠したのであらう。――以上六句は次にフカミル及マタミルを枕詞とせんが爲の序で、後掲【三三〇二】にも同一手法が用ひられて居る。但し特に伊勢海を擧げたのは何か理由のあることと思はれる。
ふかみるの(深海松乃) 上句の反誦で、フカといふ語を導かんが爲の序的枕詞である。
ふかめしわれを(深目師吾乎) フカメは深くするといふ意の他動詞で、其對格(目的格)に立つものは明示せられて居らぬが、「心」であらねばならず、深く思ひ込んだ自分をといふ意と了解せられる。第二卷人麻呂の歌にも「深海松のふかめて思へど」といふ用例がある【一三五】。
またみるの(俟海松乃) 上の深ミルと同一用法である。
またゆきかへり(復去反) ユキはキ(來)とも相通じて用ひられるから(第二七頁)、來歸即ち歸り來といふに同じい。
つまと(都麻等) 三音一句で、五音句に相當する。ツマは妻の意である。
いはじとかも(不言登可聞) 自分を妻と云ふまいといふ意で、カモは感動詞である。
おもほせるきみ(思保世流君) オモホスはオモヒ(思)の敬語形オモハ〔右○〕スの轉呼で、其繼續格(連體法)はオモホセルである。此は男の久しく通ひ來ぬことを怨んで詠み贈つたものゝやうで、思うて居たまふ君と結ん(232)で餘情を含めたのである。
【大意】――首六句及フカミルとマタミルとの兩句は序及枕詞――深く思ひ込んだ自分を復び歸り來て妻といふまいと思召して居る君!
 
3302 紀伊國之《キノクニノ》 宝之江邊爾《ムロノエノヘニ》 千年爾《チトセニ》 障事無《サハルコトナク》 萬世爾《ヨロヅヨニ》 如是將有登《カクシアラムト》 大舟乃《オホフネノ》 思恃而《オモヒタノミテ》 出立之《イデタチノ》 清瀲爾《キヨキナギサニ》 朝名寸二《アサナギニ》 來依深海松《キヨルフカミル》 夕難伎爾《ユフナギニ》 來依繩法《キヨルナハノリ》 深海松之《フカミルノ》 深目思子等遠《フカメシコラヲ》 繩法之《ナハノリノ》 引者絶登夜《ヒケバタユトヤ》 散度人之《サトヒトノ》 行之長〔左△〕爾《ユキノツドヒニ》 鳴兒成《ナクコナス》 行取左具利《ユキトリサグリ》 梓弓《アヅサユミ》 弓腹振起《ユバラフリオコシ》 志之岐羽矣《シシキバヲ》 二手挾《フタツタバサミ》 離兼《ハナチケム》 人斯悔《ヒトシクヤシモ》 戀思者《コホシクオモヘバ》【三三〇二】
きの國の むろの江の邊に 千とせに さはることなく 萬代に かくし在らむと 大舟の 思ひたのみて いでたちの 清きなぎさに 朝なぎに 來よる深みる 夕なぎに 來よるなは苔《ノリ》 ふか海松の 深めし子等を 繩のりの 引けば絶ゆとや 里人の 行のつどひに なく兒なす ゆき取りさぐり あづさ弓 弓ばら振りおこし ししき羽を 二つ手ばさみ はなちけむ 人しくやしも 戀しく思へば
 
右一首
 
(233)きのくにの(紀伊國之) 文字は紀伊とかいても尚キと稱へたのである。
むろのえのへに(室之江邊爾) ムロは和名抄に紀伊國牟婁郡牟婁(無呂)とある地で、今の田邊附近をいふ。江の字義はカハ(川)で、河流の大なるものゝ稱呼であるが、我國では河海湖沼等の支脈彎入を意味するニ(支)といふ語にあてることを例とするから、此も田邊灣内の入江を指したのであらう。舊訓にウミとあるに從へば江〔右○〕は誤字とせねばならぬが、いづれの古本にも誤寫の形跡はない。江邊は恐らくは女の住宅の存した地點であらう。
ちとせに(千年爾)
さはることなく(障事無) 雅澄がサハルをツツミと改訓したのは、恐らくは其語義を詳にしなかつた爲で(第一一一頁參照)、其例證としたアマツツミ(雨障)は雨をツツシム(戒謹)ことをいひ、雨が〔右○〕サハル(障)といふ意ではない。此は千歳に至るまでも支障なくといふのである。
よろづよに(萬世爾)
かくしあらむと(如是將有登) カクアラムといふことで、シは強意の爲に添へられたのである。シカモ〔右○〕アラムト【考】、カクシモ〔右○〕アラムト【古】の如くモを挿入したものもあるが、之を絶對必要とすべき理由がない。
おほふねの(大舟乃)
おもひたのみて(思恃而)〔二行に括弧して、既出(第一〇八頁)〕
いでたちの(出立之) イデ(出)とタチ(立)との結合語であるが、前續語に重きをおくと、第九卷【一六七四】(234)に使來ムカト出立〔二字右○〕之此松原ヲとあるやうに出向くといふ意となり、後續語を主とすると、今も扮装をイデタチといふが如く、姿態の義を生じ、本卷【三三三一】にも出立之クハシキ山ゾと用ひられて居る。此はキヨキ(清)といふ形容詞につゞけて居るのであるから、後者に屬するものと思はれる。――以下六句は前の歌の首六句と同工異曲の序である。
きよきなぎさに(清瀲爾) 姿態の清々しき渚《ナギサ》といふ意であるが、暗に戀人の美貌に況へ、次のキヨル(來寄)といふ語をきかせたのである。
あさなぎに(朝名寸二)
きよるふかみる(來依深海松)
ゆふなぎに(夕難伎爾) 〔三行に括弧して、前出〕
きよるなはのり(來依繩法) ナハノリは繩状の海苔の謂で、大和本草に索麪苔《サウメンノリ》とあるものをいふのであらう【品物解】。
ふかみるの(深海松之) 上記の如くフカメの序的枕詞である。
ふかめしこらを(深目思子等遠) フカメシは既述のやうに深く思ひ込んだといふ意。コラは女《メ》ノ子《コ》の謂で、ラは虚辭である。
なはのりの(繩法之) ナハ苔の如くといふ意で、比況的枕詞である。
ひけばたゆとや(引者絶登夜) 繩苔を引張るやうに離間すれば戀中が絶えるかと思うてといふ意味と了解せ(235)られる。八句を隔てゝ離チケムにかゝるのである。
さとひとの(散度人之) 室の江の里人の謂で、即ち離間者である。
ゆきのつどひに(行之長〔右△〕爾) 舊訓ユキシツドフ〔三字右○〕ニあるが、長をツドフとは訓み得ず、天治本及類聚古集等には屯とあるから、眞淵説の如く屯を長の草書と寫し誤つたものとして、ユキノツドヒニ訓み改むべきである。道に行あひ相集ひてといふ意であらう。
なくこなす(鳴兒成) 以下六句はハナチ(放)の序で、此は序中の枕詞、即ち泣子のやうにといふ意である。
ゆきとりさぐり(行取左具利) 行は借字。ユキは通例靱の謂と了解せられて居るが、其はヤ(箭)ケ(笥)の轉呼で、其外に湯笥も亦ユケと稱へられたことが有り得る。ユは温湯の謂であるが、紀の高千穗傳説に乳母《チオモ》湯母《ユオモ》とあるが如く、母乳に代はるもの、即ち今いふオモユ〔右○〕のことをも意味したから(神代第六−二一三頁)、之を容れる器をもユケと稱へ、ユキとも轉呼したと想定することは不當ではあるまい。此は泣ク子(嬰兒)の如く湯笥を取さぐることを、靱を探り箭を二つ取出したといふ意に言ひかけたので、當時は何人も直に了解し得た語戯である。然るに先學之を解き得ずして、牽強附會の辯を弄し、或は誤字脱句ありとしたのは笑止千萬である。
あづさゆみ(梓弓) アヅサ弓は射器の一種の稱呼であるが(第一二三、二九八頁)、此歌の趣によると羽箭を番へて引放つたものゝやうで、尋常の弓即ち眞弓と同樣に見なされて居る。此はヒキ(引)、ハル(張)等の枕詞に用ひられたアヅサ弓も同樣で、歌詞は語音數に制限があるから、便宜上混用するやうになつたのであ(236)らう。弓制が統一せられた後も名稱のみが殘り、恰も弓材の名であるかのやうに誤解せられ、兵庫式にも梓弓の下に槻、柘、檀、准此、と分註せられて居るが、萬葉時代には尚本初の意義が判明して居たものと思はれる。
ゆばらふりおこし(弓腹振起) ユハラは弓の腹部の義で、恐らくはユツカ(※[弓+付])のあたりをいふのであらう。記の高天原傳説にも弓腹振立とあり、紀に之を振2起弓※[弓+肅]1と記述して居るので、宣長は弓の末に腹と稱へる部分があるのであらうと推測したが、ハラの語義からいふも、語感からするも端末を意味したものとは思はれぬ。フリは準接頭語で、オコシ(起)は持ち上げることをいふのであるから、中腹の謂としても少しも差支はない。
ししきばを(志之岐羽矣) 舊訓シノ〔右○〕キとあるが、志も岐も音符であるのに、中間に訓假字を挾むことは異例であるのみならず、シノキ羽といふ名稱も聞こえぬから、代匠記に從ひシシキと訓み、シキ(重)の疊頭語と解すべきである。即ち羽を重ねて作《ハ》いだ箭の謂で、シシキ羽ノ矢といふべきを略稱したのであらう。古義にも引用した夫木集の歌に「シキリ〔三字右○〕羽のやさしきものは」とあるのも之を意味するものと思はれる。
ふたつたばさみ(二手挾) ユキ(靱)から取出して矢を二本手にはさみといふ意。
はなちけむ(離兼) 「矢を放ち」に「戀中を離ち」といふことを言ひかけたので、ケムは過去時に於ける未來表示であるから、推量の意になるのである。
ひとしくやしも(人斯悔) 人は上の里人のことで、其人々が離間したことが悔しいよといふ意である。悔の(237)下にはモに相當する一字があつて然るべきである。
こほしくおもへば(戀思者) 舊訓の如くコヒシト〔右○〕思ヘバというても意は通ずるが、前句のクヤシは終止形で一段落を構成して居るのであるから、更にコヒシを一語一文と見、之をトで受けて副詞形とすることは拙い語法である。コヒシは古語ではコホシといひ、本集第五卷【八七五】にも故保斯苦〔四字右○〕阿利家武と假字書した例もあるから、之に準じて訓み改めることにした。古義がコフラクモヘバと訓し、新考及新訓が之に賛同した理由は明示せられて居らぬが、其は戀ふることを思へばといふ意で、此場合には聊か言葉が足らず、少くともカクバカリといふやうな副詞を必要とするから、作者の本意には協ふまい。
【大意】紀伊國の牟婁の江の邊に、千歳も變ることなく、萬世までも此やうに有りたいと恃に思うて、――以下七句は序及枕詞――深く思ひ込んだ婦人(があつたの)を、繩苔のやうに引けば絶えるかと思うて、(其)里人が行あひの集に――以下六句は序――離間したのであつたらう。戀しく思ふにつけ其人々(の仕方)が悔しい
此歌の後半は從來正解せられず、或は挽歌なりとし【眞淵】、或は紀の國から歸京するものゝ歌であるといひ【宣長】、古義は後の序六句を事實描寫と誤解して廻りくどい説明を與へて居るが、上述の如く解説すると歌意は極めて明白で、人の爲に離間せられた(若くは然《シカ》信じた)男が、之を恨んで詠じたものとせねばならぬ。前の歌と同型の序を用ひた所を見ると、想像に過ぎぬけ(238)れども、或は中絶えた女から前の歌を寄せられたに對し、男が罪を里人の離間に歸して返歌したのであるかも知れぬ。若し然りとすれば、男は伊勢から紀伊に來住したものであつたので、女の歌に殊さらに伊勢海を序に用ひたものとも了解せられる。修辭の煩瑣であるのも、眞情の乏しい證據で、要するに戀の遊戯と直感せられるのである。
 
3303 里人之《サトヒトノ》 吾丹告樂《ワレニツグラク》 汝戀《ナガコフル》 愛妻者《ウツクシツマハ》 黄葉之《モミヂバノ》 散亂有《チリマガヒタル》 神名火之《カムナビノ》 此山邊柄《コノヤマベカラ》【或翻云彼山邊】 烏玉之《ヌバタマノ》 黒馬爾乘而《クロマニノリテ》 河瀬乎《カハノセヲ》 七湍渡而《ナナセワタリテ》 裏觸而《ウラブレテ》 妻者會登《ツマハアヒキト》 人曾告鶴《ヒトゾツゲツル》【三三〇三】
里人の 吾につぐらく 汝が戀ふる うつくし妻は もみぢ葉の 散りまがひたる 神なびの 此山邊から(その山べから) ぬばたまの 黒馬《クロマ》にのりて 河の瀬を 七瀬かたりて うらぶれて 妻はあひきと 人ぞつげつる
 
此歌は第二卷【二一三】柿本朝臣人麿の亡妻を哀悼した作中「大鳥の羽易の山に汝が戀ふる妹は座すと人のいへば」とある一節と趣を同じうする所を見ても、眞淵説の如く挽歌たることは疑がない。宣長が之を女性の作とし、戀したふ男に或人が道で逢うたと聞いて詠じたものと説いたのは、相聞中に收録せられて居るからであらうが、「上記【三二九五】の如く、當然問答歌に屬するものが、此部類に紛れ込んで居るやうに、編輯者の誤解又(239)は粗漏から錯置せられたものも少くはないのであるから、之に拘泥することは出來ぬ。
さとひとの(里人之)
あれにつぐらく(吾丹告樂) ツグラクは告《ツ》ぐる事(は)といふ意で、末句の人ゾ告ツルと呼應するのである。
ながこふる(汝戀)
うつくしつまは(愛妻者) 既出(第一六五頁)。妻を借宇として愛夫の謂なりとする宣長説の非なることは上記の通りである。
もみぢばの(黄葉之) 既出(第一五頁)
ちりまがひたる(散亂有) チリミダリ(レ)と改訓したものもあるが、亂をマガヒと訓ませた例は第八卷【一六四〇】にもあり、知利麻我比と假字書した語例が第五卷【八三八】、第十七卷【三九九三】にも見えるから、舊訓を非とすべき理由がない。義に於て大差のない場合に往々異訓を與へることを手柄としたやうな形跡のあるのは歎かはしいことである。
かむなびの(神名火之) 上掲の諸歌に見えた飛鳥の神名備山のことであらう。飛鳥は推古朝以來百年に亙る舊都であるから、其時代の歌に多く詠まれて居るので、後句の河瀬《カハノセ》云々も飛鳥川を遡つて葬場たる羽狹【履中紀】に赴くことをいうたものとすれば、よく地の理に合致する(「古代歌謠」下第四二頁參照)。
こ(そ)のやまべから(此(彼)山邊柄) 飛鳥で詠じた歌とすれば、此でも彼でも差支はない。カラは自の意である。
(240)ぬばたまの(烏玉之) 黒の枕詞(第一四五頁)
くろまにのりて(黒馬爾乘而) ウマの原義は大獣《ウマ》で、マを語根とするから、クロ(黒)と連ねる場合にはクロマと云はねばならぬ。表面の意は愛妻が黒馬で騎行したといふのであるが、其は現實でも幻視でもなく、柩を馬に載せて葬場に運搬したことをいふのであらう。當時は尚夫妻氏族を異にしたので、夫は妻の葬列に加はらず、人傳に耳にしたのを、現身《ウツシミ》のことに取なして悲懷を敍したものと思はれる。
かはのせを(河瀬乎)
ななせわたりて(七湍渡而) 此は河流の曲折が甚しく屡々徑路と交叉することを表示したので、七は必しも實數ではあるまい。
うらぶれて(裏觸而) ウラはウレヒ(愁)の語幹ウレの轉呼で、ウラサビの如くも用ひられるから、上古愁容を示すことをウラビと稱へたと推定せられ、ウラプレは其状態の實在を意味するものゝやうであるから、ウラビアリの約即ちウラブリ〔右○〕であらねばならぬが、字良夫禮と假字書した例のある所を見ると【八七七】【三九七八】【四一六六】、フリ(觸)がフレと轉呼せられた結果之に準じたのであらう。されば此も悄然としてといふ意に用ひられたものとせねばならぬ。――ウラを心裏の意とするのは誤解である。
つまはあひきと(妻者會登) アフは來會、往會、相(出)會の三義を有し、其々の場合に應じて妻ノ〔右○〕アフ(逢)、妻ニ〔右○〕アフ(遭)、妻ト〔右○〕アフ(遇)の如く用ひられるのであるが、此は第一の場合に該當するからツマハ〔右○〕アフというたのである。舊訓アヒツ〔右○〕とあり、考以下にアヘリ〔二字右○〕とあるが、此は不定過去を以て表示することを要す(241)るから、新考説の如くアヒキ〔右○〕と訓まねばならぬ。
ひとぞつげつる(人曾告鶴) 句尾に感動の意を寓する爲に連體法を用ひたので、ゾは指定助語であるが、之あるが爲にツルと結んだのではない。反歌の人之〔右○〕告鶴も同樣である。
【大意】里人の自分に告げるには、汝の焦がれる愛妻は此(其)神名火山の邊から、黒い馬に乘つて河の瀬を七つ渡つて悄然として來り會うたと人はいうたよ
 
反歌
 
3304 不聞而《キカズシテ》 然黙〔二字左△〕有益乎《モダアラマシヲ》 何如文《ナニシカモ》 公之正香乎《キミガマサカヲ》 人之告鶴《ヒトノツゲツル》【三三〇四】
聞かずして 黙あらましを 何しかも 君がまさかを 人のつげつる
 
右二首
 
きかずして(不聞而)
もだあらましを(然黙〔二字右△〕有益乎) 然黙は倒置であらう。舊訓モダシ〔右○〕とあるが、其は作爲動詞で此場合には適當せぬから、モダ居りテ【三五〇】、モダ在ラジト【一二五八】とある例に準じ、此もモダアラマシヲと訓むべきである。
なにしかも(何如文) イカニカモとも訓み得る。
(242)きみがまさかを(公之正香乎) 君は亡妻をいひ、マサカは正體の義である(第二一三頁)。
ひとのつげつる(人之告鶴)
【大意】 口を噤んで聞かねばよかつたのに、何としたことか君の正體を人が告げたよ
 
(243)問答 十八首(長七、短十一)
 
3305 物不念《モノオモハズ》 道行去毛《ミチユキユキモ》 青山乎《アヲヤマヲ》 振放見者《フリサケミレバ》 茵花《ツツジバナ》 香未通女《ニホヘルヲトメ》 櫻花《サクラバナ》 盛未通女《サカヘルヲトメ》 汝乎曾母《ナレヲゾモ》 吾丹依云《ワレニヨストフ》 吾※[口+立刀]毛曾《ワレヲモゾ》 汝丹依云《ナレニヨストフ》 荒山毛《アラヤマモ》 人師依者《ヒトシヨスレバ》 余所留跡序云《ヨソルトゾイフ》 汝心勤《ナガココロユメ》【三三〇五】
もの思はず 道行き行きも 青山を ふりさけ見れば つつじ花 にほへるをとめ 櫻花 さかへるをとめ 汝《ナレ》をぞも 吾によすとふ 吾《ワレ》をもぞ 汝《ナレ》によすとふ 荒山も 人しよすれば よそるとぞ言ふ 汝《ナ》が心ゆめ
 
ものおもはず(物不念)
みちゆきゆき〔二字右○〕も(道行去毛) 舊訓ミチユキナム〔二字右○〕モとあり、代匠記にミチユキヌル〔二字右○〕モと改めた外、先學多くは之に從ひ、「行きなましものを」の意とし【古】、新考は毛〔右○〕を乎〔右△〕の誤寫としたが、之に對應する結句のない所を見ると、此は前提ではなく、振放見の副詞であらねばならぬから、去をユキの假字として、――此字をユキ又はユクの假字に用ひた例は集中に少くはない――道ユキユキモ即ち道を行きつつといふ意とせねばならぬ。
あをやまを(青山乎) 眞淵は「春山をといはんが如し」といひ、雅澄は青は春の色なるが故に借字と見てハル〔二字右○〕(244)ヤマと改訓した。春山を意味することは勿論であるが、後句の茵花及櫻花から紅色が聯想せられるから、其對照としてはアヲ(青)山と稱へる方が感じがよいやうである。
ふりさけみれば(振放見者) 既出(第一七八頁)。――以上四句は茵花及櫻花をいはんが爲の序である。
つつじばな(茵花) 茵はシトネ(褥)又はヨモギ(蒿)の意であるが、茵芋にヲカツツジ及イハツツジといふ訓があるので【字鏡】、ツツジの假字に用ひられたのであらう。次の異傳にも都追慈《ツツジ》と表記せられて居るのである。原義は之を詳にし得ぬが、比況的枕詞に用ひられたことは云ふまでもない。
にほへるをとめ(香未通女) 匂うて居る少女といふ意、ニホヒヲトメ【古】と訓むのは不當で、其やうな複合名詞は成立せず、ニホフヲトメといふべきであるが、不定時格を以て修飾すると、一般に妙齡の女子をいふものと了解せられるから、此場合のやうに一定の女子を指稱する爲には舊訓の如くニホヘル(現在繼續格)即ち匂うて居るといはねばならぬ。
さくらばな(櫻花) 此も比況的枕詞である。
さかへかをとめ(盛未通女) サカ(榮)の活用形としては後世專らサカリ及サカエ〔右○〕を用ひるが、サカヘと活用したことも有り得るから、サカヘルとある舊訓を非なりと斷定することは出來ぬ。假にサカヘといふ動詞が成立し得ぬ理由があるとしても、上句ニホヘル少女の對句であるから、類化によつてサカエ〔右○〕ルをサカヘルと轉呼したものとも解釋せられる。不定時格のサカユ〔右△〕ル【考】又は名詞形サカエ〔右○〕【古】を此訓に充當することは上述の理由によつて非とせねばならぬ。
(245)なれをぞも(汝乎曾母) 以下の汝及吾の訓を雅澄は盡くナ及アと改め、四音及六音句としたが、其は聊か奇を好むもので、集中ナレ及ワレといふ代名詞を用ひた例は決して少くはないのに、此歌に限り之を非とすべき理由がない。古義訓も意に於ては變りはなく且律調にも協うて居るが、其いづれを採るべきかは、作者を地下から叩き起して之に聞くの外はあるまい。ゾは強意助語、モは感動詞であるから、汝《ナレ》ヲといふ意に過ぎぬ。
もわによすとふ(吾丹依云) 眞淵訓に從ふ。舊訓ヨル〔右△〕トイ〔右△〕フとあるが、ヨルは自動詞であるから前句汝ヲを受けることが出來ず、トイフは約縮可能であるのに殊更に八音に唱へる必要がない(第二一二頁)。ワ(ア)ニヨスチフ〔二字右○〕と改訓したものもあるが、第十四卷【三三八四】に和禮〔右○〕爾余須等布〔二字右○〕と假字書せるに準據すべきである。依せるものは何人であるか明示せられて居らぬので、從來解釋に悩み、眞淵は相手が言ひ寄せる意なりと釋き、雅澄は依ルと同義として第三者の言と解したけれども、後句及答歌によれば既に直接交渉が存し、若くは存したと風評せられて居たとは思はれぬ。其故に新考は人が取持ツことをヨスというたと説いたのであるが、原義から考へても、本集及紀記に數多い用例によるも其やうな轉義は不可能である。案ずるに此ヨスは寄與の意で世人が以て良縁なりとし、若くは神祇が冥々に縁を結ぶといふことを意味したのであらう。
あれをもぞ(吾※[口+立刀]毛曾) ※[口+立刀]は呼の變體で【字鏡】刊本の呼〔右○〕を元暦校本等に※[口+立刀]と表記した例は少くはない。――叫に代用したことも既記の通りで、拾穗本には叫〔右○〕とある――ヲの音符なる呼に通用せられたのである。此(246)モは匹偶を表示する助語であるから、吾ヲモ〔右○〕といふべきをゾを添へて語勢を強めたので、拾穗本が曾毛と改記し、先學之に從うて吾ヲゾモと訓したのは輕率といはねばならぬ。
なれによすとふ(汝丹依云)
あらやまも(荒山毛)
ひとしよすれば(人師依者) シは強意助語。
よそるとぞいふ(余所留跡序云) 舊訓ワガモトニ・トドムトゾイフとあり、句格からいへば短長二句を配すべき所であるが、假に荒山を人が片寄せるといふ諺又は譬喩が存したとしても、吾許と限定するのは穩でないから、宣長説の如く之を一句と見なして頭記の如く訓むべきであらう。ヨソルはヨソリ妻【三五一二】、ヨソル濱邊【四三七九】の如くも用ひ、ヨセアルの約、即ち寄せて在る〔四字右○〕といふことで、寄せるならば寄る〔二字右○〕といふ意ではないから、或畸形乃至偏位の山嶺が實在し、其は故あつて人が片寄せたものであるといふやうな口碑が存したので、之を譬喩に用ひたものと推定せられる。
ながこころゆめ(汝心勤) ユメはイミ(忌)と同義の動詞ユミ(齋見)の命令法で、戒謹せよといふに同じく、忽にするなといふことである。句法からいへば此一句は餘剰のやうであるが、次の【三三一〇】にも長三句を連ねて終結した例があるから、五七七音三句一聯の外に、更に獨立一長句を添付する歌形も存したのであらう。此歌は自分との間には宿縁が結ばれてあるのであるから、更に違背してはならぬといふ脅喝的求愛であるが、勿論眞實さう信じたのではなく、一種の諧謔に過ぎず、戀の遊戯であることは返歌によつて(247)も明である。
【大意】――首四句は序――茵花のやうに匂うて居る少女よ、櫻花の如く榮えて居る少女よ。汝をば(神が)自分に下さるといふ。自分をも汝に寄與するといふ。荒山も人が寄せるならば寄つて居るといはれる。(此事を)ゆるがせにすな
後掲人麿集の歌と稱せられる別傳によれば、此は一首の歌の前段で、憶良の貧窮問答歌及上掲【三二九五】の例によるも、分割せぬことを可とするのであるが、誤つて問と答とを別首として傳承し、更に反歌をも添加して全然獨立の歌に作りかへたものと思はれる。さればこそ反歌は各其本歌の内容に副はぬのである。人磨集の所傳を以て原歌と認定することも亦困難であるが、少くとも形式上に於ては此歌よりも優つて居る。
 
反歌
 
3306 何爲而《イカニシテ》 戀止物序《コヒヤムモノゾ》 天地乃《アメツチノ》 神乎祷迹《カミヲイノレド》 吾八思益《ワハオモヒマス》【三三〇六】
いかにして 戀やむものぞ 天地の 神をいのれど 吾《ワ》はおもひます
 
いかにして(何爲而)
(248)こひやむものぞ(戀止物序)
あめつちの(天地乃)
かみをいのれど(神乎祷迹)
わほおもひます(吾八思益) 略解訓による。舊訓のやうにワレヤ〔右△〕オモハマシとしては意をなさぬのみならず前句イノレドとある既定條件と呼應せぬ。
【大意】何として戀が止まうぞ。天地の神を祈るけれども自分の想は益々つのる
 
3307 然有社《シカレコソ》 歳乃八歳※[口+立刀]《トシノヤトセヲ》 鑽髪乃《キリカミノ》 吾同子※[口+立刀]過《ワガモコヲスギ》 橘《タチバナノ》 末枝乎過而《ホツエヲスギテ》 此河能《コノカハノ》 下文長《シタニモナガク》 汝情待《ナガココロマテ》【三三〇七】
しかれこそ 年の八とせを きりかみの 吾がもこを過ぎ 橘の ほつえをすぎて 此河の 下にもながく 汝がこころまて
 
しかれこそ(然有社) さればこそといふ意。シカレ(已然形)の原形シカリは、シカ(然)とアリ(有)とから構成せられたものであるが、一個の成語であるから、舊訓のやうに之を復元してシカアレとすることは許されぬ。
としのやとせを(歳乃八歳※[口+立刀]) 八年《ヤトセ》といふ意をトシのヤトセの如く敍するのは古語法の一形式で、莊重なる(249)表現である。八年は勿論實數を意味するのではなく、年久しくといふことである。
きりかみの(鑽髪乃) 從來キルカミと訓して居るが、前句の續合上キルといふ活用形態(連體法)を用ひることが出來ぬのみならず、此は後句の枕詞であるから、キり〔二字右○〕カミといふ複合名詞とせねばならぬ。キリカミ(斬髪)はワラハ(童)と同じく童形をいふのであるから、幼馴染といふ意を以て次句の吾同子に言かけたので、「くらべこし振分髪」といふと同じ趣である。
わがもこ〔四字右○〕をすぎ(吾同子※[口+立刀]過) 舊訓ワガミ〔右△〕ヲスギテとあるを不條理とし、字を改めて、ワガカタ〔二字右△〕ヲスギ【考】【略】【古】、ワガメ〔右△〕ヲスギ【新考】と訓したものもあるが、其は上句鑽髪を實敍とする誤解から出發したもので、次の橘ノ(枕詞)ホツエの對句であるから、同子は同輩の謂とせねばならぬ。新訓が人麿集の歌に準じてヨチコと改めたのはやゝ當を得て居るが、ヨチコの義譯としては同子(同輩)だけで十分で、吾の字が過剰となり、ワガヨチコヲスギとすれば極めて口調の惡い字餘りになるから、他に適切なる訓を求めねばならぬ。案ずるに同子の字義に最も近い古言はモコ〔二字右○〕で、衆子《モコ》の意から儕輩の義に轉じ、其男性をモコロヲといひ、集中にも「如己男《モコロヲ》に負けてはあらじ」【一八〇九】、「モコロヲの事としいへばいやかたましに」【三四八六】の如く用ひられて居る。――モコロのロ〔右○〕はラに通ずる虚辭である――さればキリ髪のワガモコと云へば幼馴染の同輩と丁解せられる。スギ(過)は看過といふに同じく、之に心を惹かれることがないといふ意味である。
たちばなの(橘) ホツエ(末技)にかゝる序的枕詞で、此木に限つたことではないが、キリカミの對句として(250)キリ〔二字右○〕(切)に配するにタチ〔二字右○〕(斷)を以てしたのである。技巧に過ぎる嫌はあるが、本來眞情を吐露したのではなく、遊戯的氣分の歌であるから、いろ/\と巧を弄したのであらう。
ほつえをすぎて(末枝乎過而) ホツエは末枝《ホツエ》にホツ(秀)エ(兄)をいひかけたので、當時同世代の年長者をホツエと呼稱したものと思はれる。儕輩に眼もくれず、年長者の誘惑にも應ぜずといふ意味であるが、先學之を察し得ず、或は省語なりとし【古】、或は誤寫なりとした【新考】。
このかはの(此河能) 此川のやうにといふ意で、作者の家の邊を川が流れて居たから、此と指示して下ニモ長クの比況的枕詞に用ひたのであらう。
したにもながく(下文長) シタはシタハエ(下延)などいふ場合と同じく、表面にあらはさずといふ意で、心裏に長く汝の情の動くのを待つたといふのである。
ながこころまて(汝情待) 此は宿縁ありとする男の主張をわざと肯定して、さればこそ多年君が言ひ寄るのを待つたといふので、マテといふ已然形を用ひたのは、其が本來至今格即ち現在完了より以前の「時」を表示する形態なるが故である(要録九四一頁)。此用法は八千矛神歌のアサカヨハセ【記】を始め、本集にも往々見える古言の名殘である。
【大意】 さればこそ(自分も)歳の八年を傍輩に眼もくれず、年長者の誘惑にも應ぜず、此河(水)の下を行くやうに、(表面にはあらはさず)久しく汝の心(を寄せるの)を待つた
 
(251)反歌
 
3308 天地之《アメツチノ》 神尾母吾者《カミヲモワレハ》 祷而寸《イノリテキ》 戀云物者《コヒテフモノハ》 都不止來《カツテヤマズケリ》【三三〇八】
天地の 神をも吾は いのりでき 戀てふものは かつて止まずけり
 
ああつちの(天地之)
かみをもわれは(神尾母吾者) 神ヲ祷レド吾ハ思マスといふ歌に對する返歌としては、新考説の如く神ヲバ〔二字右○〕吾モ〔右○〕とあるべきである。
いのりてき(祷而寸) イノリ(祷)テといふ完了事項が過去に於て實現したことを表示する爲に、特にテキといふ過去完了形を用ひたのである。
こひてふものは(戀云物者) 舊訓による。集中には音符文字を以てテフと表記した例はないが、テフは必しも後世の約縮とは限られず、且此反歌は上述の如く後人が追加したものゝやうであるから、原作に於てもテフと唱へられたことも有り得る。チフ又はトフと訓んでも差支はないが、舊訓を誤と斷定することも出來ぬから姑く之に從ふ。
かつてやまずけり(都不止來) カツテは克《カ》テテの轉呼で、本來|可能性《ポテンシヤル》を表示する副詞であるが、之に相當する漢語がないので、曾又は都の字をかりて表記することを例とした。然るに曾には「以前」といふ字義もあ(252)るので、其意にも轉用せられ、都は字書に總也とあるが故に、此も舊訓はスベテとあるのであるが、第四卷の花勝見都〔右○〕毛知ラヌ【六七五】はカツテと唱へたこと疑なく、古事記にも釣v魚都〔右○〕不v得2一魚1等の如くカツテと訓ませた例が多いから、此場合も亦之に準ずべきで、敢而又は得而といふとほゞ同義である。ズケリはナケリと通じ、助動詞ナシ(無)がナケとのみ活用せられた時代には(第一〇八頁)、ナクアリはナケ〔右○〕リと表現せられたのであるが、ナを同義語のズと入かへて、ズケリとも用ひたので、否定事實の現存を意味する。此複合助動詞は仁徳天皇の御製にもマカズケバコソの如く用ひられ、ズケムの形に於ては本集第二十卷【四三二三】に咲キ出來《デコ》ズケムといふ例がある。此等は過去助動詞キの活用形なるケリ、ケムとは異り、現在格を表示するもので、家持の逸鷹歌【四〇一四】にザリケムの意を以て求メ逢ハズケムと詠じたのは誤用である。されば此ヤマズケリも止マナクアリ即ち止まずに居るといふ意と丁解せねばならぬ。
【大意】天地の神を自分も祷りはした。(しかし)戀といふものは得やまずに居る
 
柿本朝臣人麿之集歌
 
3309 物不念《モノオモハズ》 路行去裳《ミチユキユキモ》 青山乎《アヲヤマヲ》 振酒見者《フリサケミレバ》 都追慈花《ツツジバナ》 爾太遙越賣《ニホヘルヲトメ》 作樂花《サクラバナ》 在〔左△〕可遙越賣《サカヘルヲトメ》 汝乎敍母《ナレヲゾモ》 吾爾依云《ワレニヨストフ》 吾乎敍物《ワレヲゾモ》 汝爾依云《ナレニヨストフ》 汝者如何念也《ナハイカニモフヤ》」 念社《オモヘコソ》 歳八年乎《トシノヤトセヲ》 斬髪《キリカミノ》 與和〔左△〕子乎過《ヨチコヲスギ》 橘之《タチバナノ》 末枝乎須具里《ホツエヲスグリ》 此川之《コノカハノ》 下母長久《シタニモナガク》 汝心待《ナガココロマテ》」【三三〇九】
(253)もの思はず 道行き行きも 青山を ふりさけ見れば つつじ花 にほへるをとめ さくら花 さかへるをとめ 汝《ナレ》をぞも 吾によすとふ 吾をぞも 汝によすとふ 汝《ナ》はいかに思《モ》ふや」 おもへこそ 年の八年《トセ》を きり髪の よち子をすぎ 橘の ほつえをすぐり 此の川の 下にもながく 汝が心まて
 
右五首
 
ものおもはず(物不念)
みちゆきゆきも(路行去裳)
あをやまを(青山乎)
ふりさけみれば(振酒見者)
つつじばな(都追慈花) 〔五行に括弧して、前出〕
にほへるをとめ(爾太遙越賣) 太はオホとも訓むからホの假字に用ひられたので、アナホを穴太と表記した例もある【舊事紀】。遙も亦ハル〔二字右○〕といふ訓によりヘル〔二字右○〕の假字に用ひられたものとすべきで、之をエの音符としてニホエヲトメと稱へることは【古】、假にニホヒ〔右○〕をニホエ〔右○〕と訛つたものとしても、此場合には上述の如く不當とせねばならぬ。其他遙〔右○〕を逕〔右△〕の誤記とし【考】、或は爾〔右○〕を彌〔右△〕とあらためてミダエと訓したものもあるが【新考】、誤寫の形跡はない。
(254)さくらばな(作樂花)
さかへるをとめ(在〔右△〕可遙越賣) 前出。在〔右△〕は元暦校本等に左〔右○〕とあるを可とする。
なれをぞも(汝乎敍母)
われによすとふ(吾爾依云) 〔二行に括弧して、前出〕
われをぞも(吾手敍物) 前の歌に吾ヲモゾ〔二字右○〕とあるを可とするが、此句の儘でも意は通ずるから、必しも誤記ではなく、異傳と見るべきである。
なれによすとふ(汝爾依云)
なはいかにもふや(汝者如何念也) 舊訓ナレハイカニオモヘヤ(十音)とある所を見ると、或はナレハとイカニオモヘヤとの二句とし、短長一聯と見なしたのかも知れぬが、以上は問で、一段落をなすが故に、獨立の長句を配することを正格とする。
おもへこそ(念社) 思ヘバ〔右○〕コソの謂で、已然形オモヘは助語バがなくとも理由表示となることは、ド(ドモ)を添へずとも反接表示となると同理である。
としのやとせを(歳八年乎)
きりかみの(斬髪) 〔二行に括弧して、既出〕
よちこをすぎ(與和〔右△〕子乎過) 從來種々の訓があるが、和〔右△〕は元暦校本及天治本以下に知〔右○〕とあるを正しとすべきで、新訓がヨチコと改めたのは卓見である。語例としては第五卷【八〇四】に「ヨチコラと手たづさはりて遊(255)びけむ時の盛を」云々とあり、ヲチ(若)コ(子)の轉呼で、トコ(少年)、ヲトメ(少女)の總稱として用ひられたものゝやうである。仙覺律師も同じ程の子等といふ意と解して居るが、第十四卷【三四四〇】に「汝《ナレ》も吾《アレ》もヨチをぞもてる、いでコたばりに」とある所を見ても、ヨチに同輩の意のないことは分明で、從つて前の長歌の吾同子をヨチコとした佐佐木訓には從ひかねるのである。過の字を舊訓にスグリとしたのは、後句の末技乎須具利に準じたのであらうが、スギ(過)はスグリとは活用せられず、假字としても無理であるから、前の長歌の如くスギと訓み、看過といふ意と了解すべきである。
たちばなの(橘之) 枕詞(前出)
ほつえをすぐり(末枝乎須具里) 上枝に秀兄《ホツエ》即ち年長者の意をいひかけたものと思はれることは上述の通りで、スグリはスギと同原から出た動詞ではあるが、選擇の義であるから、年長者中より汝を選び出したといふのであらう。
このかはの(此川之)
したにもながく(下母長久)
ながこころまて(汝心待) 〔三行に括弧して、前出〕
【大意】――上四句は序――躑躅花のやうに匂うて居る少女よ、櫻花のやうに榮えて居る少女よ汝をば(神が)自分に下さるといふ。自分をば汝に寄せるといふ。汝はどう思ふか(以上問)。(さう)思へばこそ歳の八年を同年輩の男達には目もくれず、年長者中から(汝を)擇《スグ》り出し、(256)此川(水)の下行くやうに、久しい間汝の心(を寄せるの)を待つた(答)
上述の如く形式上からは此歌の方が原作に近いと思はれるが、汝者如何念也の上に聊か言葉が足りぬやうであるから、或は若干の脱漏が存したのかも知れぬ。
 
3310 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬乃國爾《ハツセノクニニ》 左結婚丹《サヨバヒニ》 吾來者《ワガキタレバ》 棚雲利《タナクモリ》 雪者零來奴《ユキハフリキヌ》 左雲理《サクモリ》 雨者落來《アメハフリキヌ》 野鳥《ヌツトリ》 雉動《キギスドヨミ》 家鳥《イヘツトリ》 可鷄毛鳴《カケモナク》 左夜者明《サヨハアケ》 此夜者旭奴《コノヨハアケヌ》 入而且〔左△〕將眠《イリテアサネム》 此戸開爲《コノトヒラカセ》【三三一〇】
こもりくの 初瀬の國に さよばひに 吾が來たれば たなくもり 雪は降り來《キ》ぬ さくもり 雨は降り來《き》 野つ鳥 きざすどよみ 家つ鳥 かけも鳴く さ夜はあけ 此夜はあけぬ 入りてあさ寢む 此戸ひらかせ
 
此歌は句釋中に指摘するやうに、古歌の成句を綴り合はせて一首にまとめたものと思はれるが、句格は極めてよく整ひ、上十二句は各四句づゝの三聯に分たれ、之に五七七音三句一聯を配し、更に獨立一長句を添へたもので、上掲【三三〇五】と手法を同じうする。唯第二聯に
  棚雲利 雪者零來奴 左雲理 雨着落來
とあるのは聊か不可解で、雪のみを完了時格を以て表示し、降雨を不定時格(現在格)とすべき理由はないから(257)來ヌ〔右○〕といふ終止形は當然聯末にあるべきである。其故に舊訓及古義以前の諸釋は落來〔二字右○〕にもヌを訓みそへ、新考及新訓は零來奴〔右○〕の奴を衍として、兩句共に不定時格を以て訓して居るが、來ヌといふ形態を重ねることは煩はしく、雪も降り同時に雨も降つて來ると解することも因難であり、事實に於ても宵の雨が曉の寒さに雪となるのが普通であるから、或は誤つて前後転倒したのであるかも知れぬ。即ち原歌には、
  サクモリ 雨ハフリ來 タナクモリ 雪ハ零リ來ヌ
とあつたのであらう。古寫本にも此順序を以て記述したものはないが、夙に誤傳を生じたものとすれば敢て怪しむに足らぬことで、若干の疑が存したればこそ、元暦校本、天治本、類聚古集等には奴〔右○〕の字が除かれて居るのである。加之右の如く序次を修正すると、四音と六音、五音と七音との組合せとなり、律調にもよく協ふから敢て還元して釋述することにした。
こもりくの(隱口乃) 枕詞(第一九頁)
はつせのくにに(泊瀬乃國爾) クニは郷土の意。
さよばひに(左結婚丹) サは接頭語で、ヨバヒはヨビ(呼)の進行格であるが、少しく含蓄を異にするやうになつた。抑もヨビは呼格表示のヨの活用形で、呼びかけることを意味し、方向には拘泥しなかつたから、英語の call と同じく、訪問の意にも用ひられたのであるが、之を呼び寄せ又は呼び出す謂と了解するやうになつた後は、相手を呼ぶ爲に出向くことを專らヨバヒといひ、更にカヨヒ〔二字右○〕(通)といふ語をも派生したのである。此も女の許に通ふことをいひ、八千矛神歌にも同じ句が用ひられて居る。
(258)わがきたれば(吾來者) 舊訓のやうにキタレレバと唱へることは少くとも古語の活用ではない。キタリがキ(來)と同一視せられるやうになつたのは後世のことで、本來キテアリの約であるから、來タレレリ即ち來タリアリといふことは出來ぬのである。其故にクレバと改訓したものもあるが、來レバと來タレバとの間には時格上の相違があることを知らねばならぬ。此は勿論來テアレバといふ意である。
さくもり(左雲理) サは接頭語で、單にクモリ(曇)といふに同じい。
あめはふりき(雨者落來)
たなくもり(棚雲利) トノクモリと同語(第一四三頁)。
ゆきはふりきぬ(雪者零來奴) 此二句は【三二六八】の登能陰雨〔右○〕者落來奴と同一手法である。
ぬつとり(野鳥) 野ノ鳥の謂であるが、助語ノをツにかへると複合名詞形となり、之を略してヌトリ(野鳥)といへば、或種の禽鳥の名稱と了解せられるのである。國語に於ては一助語をも忽にすべからざることに留意を要する。
きぎすどよみ(雉動) 舊訓はキギスの次にモをよみそへ、考以下キギシハ〔二字右○〕と改訓して居るが、新考説の如く助語を挿入する必要はないのみならず、上句の四音に對しても六音に唱へることを可とする。雉は八千矛神歌には岐藝斯とあり、繼體紀及皇極紀の歌並に本集第十四卷にも音符を以てキギシと表記せられて居るが、和名抄に岐々須とあるやうに、スはカラス〔右○〕(烏)、カケス〔右○〕(懸巣)、ウグヒス〔右○〕(※[(貝+貝)/鳥])、ホトトギス〔右○〕(子規)の如くも用ひられ、朝鮮語|※[ハングルでセ、鳥のこと]《セ》(鳥)と同じく、本來禽鳥を意味したものゝやうで(ボヌ語アス)、キギは擬聲語(259)であるから、キギスを原語とすべきであらう。ドヨムは鳴響の意である。
いへつとり(家鳥) 家禽の謂。
かけもなく(可鷄毛鳴) カケも亦鳴聲を摸したもので、神樂歌にも「庭鳥はカケ〔二字右○〕ロと鳴きぬなり」とある。以上四句は八千矛神歌に、サ野ツ鳥キギシハドヨミ庭ツ鳥カケハ鳴クとあるを模倣したものゝやうで、五音を以て長句に充當したのも先例によるものと思はれる。――繼體紀の春日山田皇女の歌にも類似の句がある――鳴をナキ〔右○〕と訓み【考】、此夜ハアケヌ〔右○〕に續くものと解するのも一理はあるが、尚作者の氣もちを正解せざるものと云はねばならぬ。
さよはあけ(左夜者明) サは接頭語で、夜は明けといふに同じい。
このよはあけぬ(此夜者旭奴)
いりてあさねむ(入而且〔右△〕將眠) 舊訓に從へば且〔右△〕は旦〔右○〕の誤寫であらねばならず、京大本及西本願寺本には旦〔右○〕と書かれて居るさうである。契沖が字によつてカツネムと改訓したのは、カツ〔二字右○〕に苟且の意があると臆斷した爲であらうが、此語に且の字をあてるのは字書に又也とある義によるもので、此字によつて表示せられる他の總ての意味に及ぶものではない。カツはカテ(加)とも活用し、「其上にも」といふ意であるから、此場合には適合せぬ。既に夜が明けたとある所を見ても、アサ寢ムとあつて然るべきで、古義が之を非として且〔右△〕を吾〔右△〕の誤寫としたのは理由のないととである。
このとひらかせ(此戸開爲) ヒラカセ(命令法)の原形ヒラカシにはヒラキマシ(敬語)とヒラキナシ(複合動詞)(260)との二義があるが、此はどちらでもよい。舊訓コノトアケセヨ〔四字右△〕とあるのは、反歌に吾大皇寸〔右△〕と記された貴人が目下のものに對して敬語を用ひられた筈がないと考へた爲かも知れぬが、アケセヨといふ語法はあり得ぬ。
【大意】初瀬の郷《クニ》に自分が通うて來ると、(空が)曇つて雨が降り、黒雲が棚引いて雪が降つて來た。野には雉の聲が響き、家には鷄が鳴く。夜は明け、此夜はあけた。屋中に入つて朝寢よう。此戸を開けよ
上述の如く此歌は古謡の成句をよせ集めたもので、偶感を即吟したものとは思はれぬから、恐らくは次の古歌を答歌と見なして、之に迎合する爲に脚色したものであらう。兩反歌も亦追詠と思はれる。
 
反歌
 
3311 隱來乃《コモリクノ》 泊瀬少國爾《ハツセヲグニニ》 妻有者《ツマシアレバ》 石者履友《イシハフメドモ》 猶來來《ナホゾキニケル》【三三一一】
こもりくの はつせ小國に 妻しあれば 石はふめども 尚ぞ來にける
 
こもりくの(隱來乃) 枕詞(第一九頁)
(261)はつせをぐにに(泊瀬少國爾) ヲは小の義から轉じた愛稱で、人里に近い開けた田野をヲ〔右○〕ヌといふやうに(第一五二頁)、風光明媚の郷なるが故にヲグニと稱したのである。
つましあれば(妻有者) 妻があるが故にといふ意で、表記せられては居らぬが、シを訓み添へて語勢を強める必要がある。
いしはふめども(石者履友) 答酬の反歌に川瀬〔右○〕之石迹渡〔二字右○〕とあるやうに、初瀬川を徒渉して通うたものとせられたのであらう。其は難澁であるけれどもといふ意である。
なほぞきにける(猶來來) ケリは過去時に於ける動作行爲の繼續を表示する助動詞であるから、極めて現在に近い場合にも用ひられることがある(要録九六八頁)。此例の如きは其で、單に來ヌ〔右○〕といふと大差はない。ゾといふ指定助語は本來句尾につくもので、來ニケルゾ〔三字右○〕即ち口語に直せば來タゾといふべきであるが、排列の順序をかへた結果、連體法を以て終止したかのやうな觀を呈するのである。係り結びと稱するものは恐らくは此等の關係の誤認から案出せられたものであらう(要録九九〇頁)。
【大意】初瀬の美郷に妻があるので、(川原の)石をふむ(のはつらい)けれども、なほ(通うて)來たぞ
 
3312 隱口乃《コモリクノ》 長谷小國《ハツセヲグニニ》 夜延爲《ヨバヒセス》 吾大皇寸〔左△〕與《ワガオホミコヨ》 奥床仁《オクトコニ》 母者睡有《ハハハネテアリ》 外床丹《ヘツトコニ》 父者寢有《チチハネテアリ》 起立(262)者《オキタタバ》 母可知《ハハシリヌベシ》 出行者《イデユカバ》 父可知《チチシリヌベシ》 野干玉之《ヌバタマノ》 夜者昶去奴《ヨハアケユキヌ》 幾許雲《ココバクモ》 不念如《オモフゴトナラヌ》 隱※[女+麗]香聞《コモリツマカモ》【三三一二】
こもりくの 初瀬をぐにに よばひせす 吾が大皇子〔右○〕よ おく床に 母はねてあり 外《ヘツ》床に 父はねてあり おきたたば 母知りぬべし 出で行かば 父知りぬべし ぬばたまの 夜はあけ行きぬ ここばくも 思ふごとならぬ こもりつまかも
 
こもりくの(隱口乃) 枕詞(第一九頁)
はつせをぐにに(長谷小國) 前出
よばひせす(夜延爲) 略解訓に從ふ。セスはス(爲)の敬語形である。
わがおほみこよ(吾大皇寸〔右△〕與) 舊訓スメロギヨとあるが、寸の字が剰るのみならず、假そめにも天皇が一婦人の許に御微行あらせられたといふやうな事は考へられぬから、誤訓とせざるを得ぬ。其故に先學は之を吾夫〔右△〕寸美〔右△〕【考】、吾夫〔右△〕寸三〔右△〕【古】、吾夫尊〔二字右△〕【略】の誤寫として、ワ(ア)ガセノキミ又はアガセノミコトと改めたのであるが、餘り甚しい改竄で、確實なる根據が存したものとは思はれぬ。案ずるに寸〔右△〕は字劃の相似により子〔右○〕を寫し誤つたものと見て、爾餘は原字に從ひワガオホミコ〔三字右○〕ヨと訓むべきであらう。作者たる女性が相當身分のあるものであつたとすれば、皇子が通はれたことも有り得べく、ミコといふ敬稱は皇族以外にも用ひられるから、或は皇子〔二字右○〕は借字であつたかも知れぬ。オホ(大)は長子の謂か又は單に美稱であらう。
おくとこに(奥床仁) トコは勿論寢床の謂である。
(263)はははねてあり(母者睡有) 古義以下がネタリと改訓したのは賢しらで、ネテアリは寢て居るといふ意であるが、ネタリは現在完了であるから寢た〔二字右○〕といふことになる。テアリをタリと約縮することもあり、後世に於てはタリとテアリとを混同したが、標準句長を無視してまでも此第二次的連約に從うたとは考へられぬことである。
へつとこに(外床丹) 舊訓ソトトコとあるが、ソトの本義は背處《ソト》で、屋内戸側の意にはならぬ。考にト〔右○〕ツトコ、古義にト〔右○〕トコとあるのは其故であらうが、トの原義も亦遠で、トツミヤといへば離宮、トツクニは外國と了解せられるやうに、少くとも戸外をいふものとせねばならぬ。雅澄はオク(奥)に對してト(外)を用ひた例として後撰集及枕艸子を引用したが、其は明に外の意に用ひられたもので、此場合の例證にはならぬやうである。案ずるにオク(オキ)に對立する語はヘ(邊)であるから、外は借字として此もヘツトコと訓むべきであらう。即ち端近又は戸邊に設けた床をいふのである。
ちちはねてあり(父者寢有)
おきたたば(起立者)
ははしりぬべし(母可知)
いでゆかば(出行者)
ちちしりぬべし(父可知)
ぬばたまの(野干玉之) 枕詞(第一四五頁)
(264)よはあけゆきぬ(夜者昶去奴) 昶は旭に代用せられたのであらう。類聚古集其他には旭〔右○〕とある。
ここばくも(幾許雲) ココは大の意の古言コを重ねたもので多數を意味し、ヤ(彌)即ち八の上位を示すにも轉用してココ〔二字右○〕ノツ(九)ともいひ、ココラ、ココダ、コキシ、コキダの形に於ては許多の義と了解せられる。ココダは又形容詞に準じて活用せられたと見え、本集第十七卷にも「ココダクモしげき戀かも」【四〇一九】といふ例があるから、此ココバクも恐らくは其轉呼であらう。幾許の字をあてたのは此語幹にハカ(許)を連ねたコキバクは幾干をも意味するからであらうが、こゝは大に又は甚しくといふ意であらねばならぬから、借字とすべきである」
おもふごとならぬ(不念如) 思ふやうにならぬといふ意。宣長は此句及次句を思ハヌガ如《ゴト》シヌブツマカモとよみ【略】、雅澄は思ハヌゴトクと改め、次句は宣長訓を繼承して、相思はぬ人のやうに隱す夫〔右○〕であるよといふ意と釋したが、舊訓に從うて思フゴトナラヌは不如意の謂、コモリツマは新考説の如く作者たる女性自身のこととすべきである。
こもりつまかも(隱※[女+麗]香聞) 既出(第一四一頁)
【大意】 初瀬の美郷に通ひたまふ吾大御子(公子)よ。奥の床には母が寢て居り、戸邊の床には父が寢て居る(から)、起上ると母が知るであらうし、立出ると父が知るであらう。夜は明けた。甚おもふやうにならぬ内妻《コモリツマ》(の身である)よ
 
(265)反歌
 
3313 川瀬之《カハノセノ》 石迹渡《イシフミワタリ》 野干玉之《ヌバタマノ》 黒馬之來夜者《クロマノクヨハ》 常二有沼鴨《ツネニアラヌカモ》【三三一三】
川のせの 石ふみわたり ぬばたまの 黒馬の來夜は 常にあらぬかも
 
右四首
 
かはのせの(川瀬之)
いしふみわたり(石迹渡) 略解訓による。迹(跡)をフミの假字に用ひた例は【三二四二】【三二九五】にも、後掲【三三四四】にもあり、前の反歌の石者履〔右○〕友と呼應するものであるから、舊訓の如くイハト〔右○〕ヲワタリと訓むのは不當である。
ぬばたまの(野干玉之) 枕詞【三二六九】
くろまのくよは(黒馬之來夜者) 古義訓に從ふ。黒馬をクロマと稱ふべきことは既述の通りで(第二三九頁)、ク(來)は終止形であるが、語音數の關係上、連體形に代用せられたのである(第九五頁參照)。
つねにあらぬかも(常二有沼鴨) カモは感動詞、アラヌはアラネ〔右○〕の轉呼で、希望表示である。
【大意】 川の瀬の石を蹈み渡つて(公子の)黒馬の來る夜は常に(絶えず)ありたい
此は前の歌の反歌に答へたものであるが、長歌とは何等關聯のない所を見ると、後人の追詠と(266)せねばならぬ。第四卷大伴郎女の歌にも
  佐保川の小石《サザレ》ふみ渡りぬばたまの黒馬の來夜は年にもあらぬか
とあるが【五二五】、其を摸倣したものと見ることは出來ぬ。右の歌は大伴旅人の妹なる此作者と藤原の麻呂との贈答歌七首中の一で、次の【五二六】も本卷【三二四四】に類し、麻呂の歌【五二三】も【三二六四】と同工異曲で、若し之を剽竊したものとすれば、ほゞ時代を同じうする此卷の編者が看破し得なかつた筈はないから、恐らくは兩者ともに傳誦の古歌に倣うたか、若くは【三二四三】【三二六三】及【三三一二】の長歌に反歌をそへたのは坂上郎女其人であつたのであらう。
 
3314 次嶺經《ツギネフ》 山背道乎《ヤマシロヂヲ》 人都未乃《ヒトヅマノ》 馬從行爾《ウマヨリユクニ》 己夫之《オノヅマノ》 歩從行者《カチヨリユケバ》 毎見《ミルゴトニ》 哭耳之所泣《ネノミシナカユ》 曾許思爾《ソコモフニ》 心之痛之《ココロシイタシ》 垂乳根乃《タラチネノ》 母之形見跡《ハハガカタミト》 吾特有《ワガモタル》 眞十見鏡爾《マソミカガミニ》 蜻領巾《アキツヒレ》 負並持而《オヒナメモチテ》 馬替吾背《ウマカヘワガセ》【三三一四】
つぎねふ 山城道を 人づまの 馬より行くに おのづまの かちより行けば 見る毎に 音《ネ》のみし泣かゆ そこ思ふに 心しいたし たらちねの 母が形見と 吾がもたる まそみ鏡に あきつ領布《ヒレ》 おひなめもちて 馬かへ吾がせ
 
つぎねふ(次嶺經) 山城の枕詞で、仁徳紀(記)にも用例がある。フは生産地を意味し、アハフ(粟畑)、カシ(267)ノフ(橿林)、ヨモギフ(蓬生)等の如く用ひられるから、此もツギネといふ植物の生ひる地といふ意であらう。福井久藏氏著「枕詞の研究と釋義」には和名抄のツキネグサ(及已)を之に擬して居るが、其が山城又は山乃至ヤにかゝる理由を詳にせぬ。或はツツキ(綴喜)といふ地名のツキと關係があるのではあるまいか。待後考。
やましろぢを(山背道乎) 舊訓ヤマシロノミチヲとあるは非。上句が四音であるから、釣合上六音に唱へることを可とする。
ひとづまの(人都末乃) 他人《ヒト》の夫といふことである。
うまよりゆくに(馬從行爾) 馬ニヨリテ行クニといふ意。口語では此場合馬で〔右○〕行くといふが、其デも亦ニヨリテの略ニテを更に約濁したものである。
おのづまの(己夫之) 刊本には己をサと旁訓してあるが、此場合は第一人稱として己の字を用ひたのであるから、オノと訓まねばならぬ。
かちよりゆけば(歩從行者) カチは朝鮮語※[ハングルで行くという動詞のカダ]《カタ》(行ク)の轉呼で、本來動詞であるにも拘はらず、外來語なるが故に、其まゝ活用することはなく、更に行クといふ動詞を添へることを必要としたのである。
みるごとに(毎見)
ねのみしなかゆ(哭耳之所泣) ナカユはナカルの古形で、泣キ得《ウ》といふ意から可能法の表示となり(要録九八七頁)、此場合の如く涕泣を禁じ得ぬといふ意にも用ひられるのである。ナク(泣)はナリ(鳴)と同じく、ネ(268)(音)の音便ナから出た語で、本來音をたてることをいひ、鳴《ナク》の義にも用ひられるから、特に流涕呼號を表示せんが爲には若干の標識を必要とした。此目的を以て採用せられた法式は、餘り適切とはいへぬが、更にネを冠することで、ネナクと釋へることを例としたけれども、固く熟合することはなく、イネ(第一四六頁)と同樣に分離可能とせられ、兩語分子間に助語の介在を許し、ネヲ〔右○〕ナク、ネニ〔右○〕ナク、ネノミ〔二字右○〕ナクの如くも用ひられるのである。シはゾに通じ語勢を強める爲の助語である。
そこもふに(曾許思爾) ソコは其處の義であるが、コレをココともいふやうに、ソレ(其)に通はして用ひられる。
こころしいたし(心之痛之) 心が痛いといふ意。上のシは強意助語である。
たらちねの(垂乳根乃) 枕詞(第一二四頁)
ははがかたみと(母之形見跡) カタミはカタ(像)即ち風采を囘顧する料の謂で、故人の身につけたもの就中服装具の如きも其用に供せられたが、最も通當な品物としては鏡が選ばれた。其は肉親の相貌を受繼いだ我姿を寫して、今は世になき人の面影を髣髴することが出來るからである。恐多いことであるが、天照大御神が皇孫に神鏡を授けられたといふのも其意味であつたのであらう。
わがもたる(吾持有) モクルはモテルの音便で、持つて居るといふ意(第一五頁)。
まそみかがみに(眞十見鏡爾) マ(眞)スミ(澄)鏡の謂で、マソカガミとも稱へられる(第一〇六頁)。
あきつひれ(蜻領巾) アキツ(蜻蛉)の羽のやうな薄絹の領巾(第九一頁)といふ意であらうが、省略に過ぎる(269)から、或は當時此名を以て呼ばれた一種の領巾が存したのかも知れぬ。
おひなめもちて(負並持而) マソ鏡にアキツ領巾を副へて負行きといふ意である。いづれも背に負はねばならぬ程の重量のあるものとも思はれぬので、此オヒをオヒ錢又はオヒメ(負債)のオヒと解したものもあるが【略】【古】、負は借字で、オヒは本來身につけることを意味し、オビ(佩)(帶)といふ語も之から出たのであるから、携帶といふ意に外ならず、必しも背負又は肩に負ふことのみをいふのではない。さればイタテ(重傷)オフ〔二字右○〕の如き用例【神功紀】もあるのである。
うまかへわがせ(馬替吾背) 馬買へ(命令法)吾夫《ワガセ》といふ意。カヒは交會の義から交易の謂にも轉用せられたのであるが、賣買といふ觀念が發達し、此語を以て買の意を表示するやうになつてから、之と區別する爲に下二段活のカヘ(替)といふ語を派生した。命令法としては買、替(易)ともにカヘといふが、此は賣買行爲が普及した後の歌であるから、替は借字で、買への意であらねばならぬ。
【大意】山城路を人の夫は馬で行くのに、自分の夫は徒歩《カチ》で行くから、(其を)見る毎に涕泣を禁じ得ず、其を思ふと胸が痛い。母の形見として自分の持つて居る明鏡にアキツ領巾を副へ、持つて行つて馬を買へ、吾夫よ
 
反歌
 
(270)3315 泉河《イツミカハ》 渡瀬深見《ワタルセフカミ》 吾世古我《ワガセコガ》 旅行衣《タビユキコロモ》 蒙沾鴨《ヌレニテムカモ》【三三一五】
いづみ河 わたる瀬ふかみ 吾がせこが 旅行ころも 濡れにてむかも
 
いづみかは(泉河) 既出(第七六頁)
わたるせふかみ(渡瀬深見) 略解以下にワタリセと改訓したのは從はれぬ。記の和紀郎子の御歌にワタリゼニといふ句があるが、其は紀にワタリデとあるを可とするものゝやうで【《古代歌謠上卷二二〇頁】、本集第十七卷に可波能和多理〔右○〕と假字書した例もあるけれども【四〇二四】、淺瀬、早瀬、廣瀬と同樣にワタリセといふ複合名詞が常用せられたかは疑はしく、現に上野の渡瀬川はワタラセ(ワタル〔右○〕セの轉か)と稱へられる。況して此歌に於ては或一定の瀬をさしたのではないから、渡の字はワタル〔右○〕せとふ連體形を表示したものと見るべきである。古義に引用した延喜雜武の山城國泉川樺井渡瀬が假にワタリ〔右○〕セと稱へられたとしても、此歌には關係のない地點であるから例證にはならぬ。フカミとあるのは作者が體驗したのではなく、想像に過ぎぬからで、口語に直せば深さうでといふことである。
わがせこが(吾世古我) 既出(第一七七頁)
たびゆきころも(旅行衣) 外出著を口語でヨソユキ〔二字右○〕といふやうに、旅装をクビユキ〔二字右○〕衣と稱へたのであらう。舊訓タビユク〔二字右○〕コロモとあるが、ユクは衣の修飾となるべき語ではない。
ぬれにてむ〔三字右○〕かも(蒙沾鴨) 舊訓を缺いて居るのは蒙の字を解讀不能とした爲であらう。拾穗抄にはキテヌラ(271)スカモとヌレヌラムカモとの二訓をあげ、契沖はヌレニケルカモとし、眞淵以下蒙を裳の誤寫又は假字としてスソ〔二字右○〕ヌレムカモ【考】【略】、モ〔右○〕ヌラサムカモ【古】、モ〔右○〕ノヌレムカモ【新考】と訓して居るが、コロモ(着《ケ》ル裳《モ》の轉呼)モ(裳)と重ねることは有り得ず、旅行には少くとも裾を高く※[塞の土が衣]げた筈で、特に其部分だけが濡れようとも思はれぬ。案ずるに蒙沾は所沾と同じくヌレの假字で、助動詞を省略したのであらう。若し然りとすれば之を訓みそへる爲には先づ如何なる時格と語法とを適切とするかを研究せねばならぬ。其が過去時格であり得ぬことは云ふまでもないから、契沖訓は問題にならず、深い瀬を徒渉するに於ては著衣の濡れることは免かれぬが故に、季吟訓のやうに推量法を用ひることは不當で、ヌラスといふ作爲動詞は一層無稽である。されば未來時格直敍法を以て表現するの外はないのであるが、ヌレムカモでは語音が不足であるのみならず、語勢が弱いから、此は口語の濡れてしまふだらうといふ意味であらねばならぬ。即ちヌレニテ〔二字右○〕ムカモといふ一形態を剰すのみである。――新訓のヒヅチナムカモは最も此意に近いが、集中沾をヒヅチと訓ませた例がない。
【大意】泉河の渡る瀬が深さうで、夫君の旅行衣が濡れてしまふだらうよ
 
或本反歌曰
 
3316 清鏡《マソカガミ》 雖持吾者《モタレドワレハ》 記無《シルシナシ》 君之歩行《キミガカチヨリ》 名積去見者《ナヅミユクミバ》【三三一六】
(272)まそ鏡 もたれど吾は しるしなし 君がかちより なづみ行く見ば
 
まそかがみ(清鏡) 既出(第一〇六、二六八頁)
もたれどあれは(雖持吾者) 長歌にも母ガ形見ト吾モタルとあるから、雖持はモタレドと訓むべきこと疑を容れぬ。――新考がモツトモと改訓したのは末句の誤解にもとづくものである(後記參照)――吾は持つて居れどといふ意であるが、之を倒敍したのは律調の爲である。
しるしなし(記無) 記は借字で、驗無シの意である(第一四一頁)。鏡は神幣に供せられ、時として靈代《ミタマシロ》ともなり、或る靈驗を有すと信ぜられたのであるが、かく萬事不如意なる所を見ると、其効なしといふのである。益ナシ又は詮ナシの意ではない。
きみがかちより(君之歩行) ヨリといふ助語を訓み添へることは聊か無理であるから、或は從〔右○〕の草書を寫し誤つて行〔右△〕としたのかも知れぬ。
なづみゆくみば(名積去見者) ナヅミユクは行きなやむといふことで、ミバは見ルトモをミトモともいふやうに見ルハの古形と了解せられる。考以下がミレバと改訓したのは之を既定條件句と認定した爲であらうが、口調の惡い字餘りとなるので、新考は上記の如く第二句をモツトモと訓み、第三句をシルシナケムと改めて此ミバを假設條件と見ようとした。さりながら其等は第二句の倒敍に氣がつかなかつた爲で、吾ハ持タレド驗ナシといふ敍述に對しては必しも條件句の存在を必要とせず、拾穗訓のやうにナヅミユクミレ(又はミル)というてもよいのであるが、者の字が剰るから尚舊訓に從うてミバとよみ、見ルハといふ意と(273) すべきである。
【大意】 自分は名鏡を持つて居るけれども(何の)効驗もない。君が徒歩で行きなやむのを見(るに於)ては
前の反歌と同樣に、此歌も亦馬を買へといふ意を詠じたのではなく、單に夫の行旅になやむことを悲しんだのである。然るにマソ鏡といふ語があるので、先學が第二第三句を持つて居ても仕方がないと説きなさうと試みたのは輕率の嫌を免かれぬ。
 
3317 馬替者《ウマカハバ》 妹歩行將有《イモカチナラム》 縱惠八子《ヨシヱヤシ》 石者雖履《イシハフムトモ》 吾二行《ワレフタリユカム》【三三一七】
馬かはば 妹かちならむ よしゑやし 石はふむとも われ二人行かむ
 
右四首
 
此一首は前の長歌に對する應答であるにも拘はらず、反歌には(本傳異傳ともに)觸れて居らぬ。文人墨客の詞藻であるならば決して此やうな畸形に甘んじなかつた筈であるから、前の長歌と此一首とは無名の作者が偶感を詠じたもので、本初の問答であつたのを、後の傳誦者又は筆録者が形式に捉はれて、長歌に一反歌を作りそへたのであらう。さればこそ全然異つた傳もあるので、上記の如く反歌が買馬といふ主題に觸れて居らぬの(274)も之に因るものである。
うまかはば(馬替者) 馬買〔右○〕ハバといふ意。
いもかちならむ(妹歩行將有) 買馬は妻の徒歩の直接原因にはならぬから、「自分は其でよいけれども」といふやうな意味が含まれて居るものとせねばならぬ。其は決して上手な話術とはいへぬが、相手に通じたのは當事者の間に以心傳心の作用が存したからで、歌人の戯作でないことの一證である。
よしゑやし(縱惠八子) 既出(第二〇頁)
いしはふむとも(石者雖履) 岩石の磊々たる道路は歩行最も困難なるものなるが故に、勞苦を共にすることの譬喩に用ひたのである。
われふたりゆかむ(吾二行) 記の大久米命の歌に大和ノ高佐士野ヲ七《ナナ》行ク少女ドモとある例によれば、作者は或はワレフタユカムと吟じたのかも知れぬが、此時代には既に人フタリの如き表現が用ひられたのであるから(第一〇二頁)、標準句長を逸するけれども、ワレ(ワガ又はワハではない)フタリというたことも有り得る。長歌によれば此行には妻は同伴しなかつた筈であるのに、此處に吾二とあるのは、他日の場合を豫想したものとも、馬は買はずともよいから一緒に行かうと誘うたものとも了解せられる。
【大意】馬を買はば(自分はよけれども)妻は(依然)徒歩であらう。よしや石を履んでも我々二人(ならんで)行かうよ
 
(275)3318 木國之《キノクニノ》 濱因云《ハマニヨルトフ》 鰒珠《アハビタマ》 將拾跡云而《ヒリハムトイヒテ》 妹乃山《イモノヤマ》 勢能山越而《セノヤマコエテ》 行之君《ユキシキミ》 何時來座跡《イツキマサムト》 玉桙之《タマホコノ》 道爾出立《ミチニイデタチ》 夕卜乎《ユフウラヲ》 吾問之可婆《ワガトヒシカバ》 夕卜之《ユフウラノ》 吾爾告良久《ワレニツグラク》 吾妹兒哉《ワギモコヤ》 汝待君者《ナガマツキミハ》 奥浪《オキツナミ》 來因白殊《キヨルシラタマ》 邊浪之《ヘツナミノ》 縁流白殊《ヨスルシラタマ》 求跡曾《モトムトゾ》 君之不來益《キミガキマサヌ》 拾登曾《ヒリフトゾ》 公者不来益《キミハキマサヌ》 久有《ヒサナラバ》 今七日許《イマナヌカバカリ》 早有者《ハヤカラバ》 今二日許《イマフツカバカリ》 將有等曾《アラムトゾ》 君者聞之二二《キミハキコシシ》 勿戀吾妹《ナコヒソワギモ》【三三一八】
紀の國の 濱によるとふ あはび珠 拾はむといひて 妹の山 せの山越えて 行きし君 いつ來まさむと 玉桙の 道にいでたち 夕|卜《ウラ》を 吾が問ひしかば 夕うらの 吾に告《ヅグ》らく 吾妹子や 汝がまつ君は 沖つ波 來よる白玉 邊《へ》つ波の よする白たま 求むとぞ 君が來まさぬ 拾《ヒリ》ふとぞ 君は來まさぬ 久ならば 今七日ばかり 早からば 今二日ばかり あらむとぞ 君は聞《キコ》しし な戀ひそ吾妹《ワギモ》
 
きのくにの(木國之) 紀伊國ノ
はまによるとふ(濱因云) 舊訓ヨルトイフとあり、ヨルチフと改訓したものもあるが、トフと訓むを可とすること既記の通りである(第二一二、二四二頁)。
あはびたま(鰒珠) 眞珠のことで、古語では通例シラタマと稱へた。
ひりはむといひて(將拾跡云而) 舊訓ヒロ〔右○〕ハムとあるが、ヒリ〔右○〕ハムの方がよい(第九八頁)。
(276)いものやま(妹乃山) 宣長説の如く實在地名ではなく、セの山に對して假想せられた山名のやうである【玉勝間】。後記背山村と紀伊川を隔てゝ相對する丘陵をイモ山と稱へるのは後の好事家の命名で、此はセの山の序として用ひられたのである。後者を本集にイモセの山【五四四】【一一九五】【一二四七】又はイモとセの山【一二〇九】【一二一〇】としたのも同工異曲であらねばならぬ。
せのやまこえで(勢能山越而) 孝徳紀に南自2紀伊兄山1以來……爲2畿内國1とある所を見ると、セは山脊を意味し、和泉と紀伊との國境を西走する金剛山の一支脈の稱呼であつたと思はれるが、大和から紀伊の海岸に出る爲に此山嶺を超えた筈はないから、此名は夙に街道の要衝にある一地方乃至一地點に轉用せられたものとすべきで、今も紀伊國伊都郡|笠田《カセタ》村大字背ノ山に其名殘を留めて居る。但し其地の鉢伏山の舊稱なりとする説【名所圖會】は妹山と同じく後人の案出であらう。
ゆきしきみ(行之君)
いつきまさむと(何時來座跡) 旅から歸つて通ひ來たまはむとといふ意。
たまほこの(玉梓之) 枕詞(第一六頁)
みちにいでたち(道爾出立)
ゆふうらを(夕卜乎) 夕卜は第十一卷【二六一三】【二六二五】にユフケ〔右○〕と訓ませてあり、他にユフウラといふ語例も見えぬから、此もユフケと唱へたのではないかと思はれるが、夕ウラといふ語も成立し得るから、姑く舊訓を存する。第三卷石田王哀悼歌【四二〇】に夕衢〔右○〕占問とあり、或は八十ノ衢ニ夕占問《ユフケトヒ》【二五〇六】、月夜(277)ニハ門ニ出立夕占問【七三六】と詠まれて居る所を見ると、夕刻チマタ(衢)に出て或るケ(兆)を捉へ、之によつて卜することを意味し、後世の辻占といふ語も之から出たものと思はれる。集中に例の多いのは此當時遍く行はれて居たからであらう。
あがとひしかば(吾問之可婆) 上例の如くユフケ(夕兆)によつて卜占することはトフ(問)といふ述語を以て表現せられたので、右の外にも夕卜《ユフケ》乎問〔右○〕常【二六二五】、由布氣刀比〔二字右○〕都追【三九七八】等の如き例がある。崇神紀にも乃幸2于神淺茅原1而會2八十萬神1以卜問〔二字右○〕之とある所を見ると、ユフケには限らず一般に卜占をウラトヒ〔二字右○〕と稱へたものとすべきで、ウラ(卜)に問フといふ意であるが、トフは古言では間接目的の第四格をも支配し、少女ヲ〔右○〕道問フの如くも用ひられたから、こゝにも夕卜乎〔右○〕吾問としたのである。
ゆふうらの(夕卜之)
あれにつぐらく(吾爾告良久) 舊訓に從ふ。第十四卷【三四六九】に由布氣爾毛許余比登乃良路〔三字右○〕と假字書した例があり、告はノルとも訓み得る字であるが、ノルはナル(鳴)と同源から分化し、聲を立てゝ物いふことを意味するに反し、ツゲはタガログ語のツグン(答ふ)、フィジ語ツクナ(報告する)と同源から出たものゝやうで、此場合には上に吾問ヒシカバとあるから、ツグラクと訓むを可とする。
わぎもこや(吾妹兒哉) ワギモ(吾味)は通例妻又は愛人に對する呼稱と了解せられて居るが、イモは本來セと對立する語で、男子から女性を呼ぶに用ひられ、之にワガを冠したのは英語の my dear Miss 等の my と同じく、親密を表現するものであるから、昵近者間には情交關係がなくとも此呼稱を用ひたのである。コ(278)(兒)も亦愛稱で、ヤはヨに通ずる呼格表示であるから、極めて狃々しい呼びかけとすべきで、年老いた卜者が少婦をとらへて懇に言ひ諭す光景が髣髴せられる。
ながまつきみは(汝待君者)
おきつなみ(奥浪) 沖ツ浪のやうにといふ意で、比況的枕詞である。
きよるしらたま(來因白珠) 因をヨスと改訓したのは【古】、前句が枕詞であることに氣づかす、沖波之〔右○〕といふ實敍と解した爲であらうが、ヨセといふ作爲動詞は下二段活用であるから、其連體法としてはヨスルといふべきで、來ヨスルシラタマが標準句長に合はぬとならば、後句のやうにキ(來)を省くことも出来るのであるから、張ひて終止形を代用する必要を認めぬ。さればキヨスは明に誤訓で、舊訓に從ひキヨルと唱へ、沖ツ波のやうに來り寄る白珠といふ意と解すべきである。
へつなみの(邊浪之) 此も比況的枕詞と解し得られぬことはないが、尚實敍と見るを可とする。前句奥浪と比倫を失するやうであるが、語義上では尚對句たることを失はぬのである。
よするしらたま(縁流白珠)
もとむとぞ(求跡曾)
きみがきまさぬ(君之不來益) 白珠を求むとて君は來たまはぬぞ〔右○〕といふ意(第一七一頁)。
ひりふとぞ(拾登曾)
きみはきまさぬ(公者不來益) 君ハ〔右○〕としたのは語勢を強める爲で、上句の君ガ〔右○〕と意に於て大差はない。
(279)ひさならば(久有) ヒサ(久)ニアラバ【舊訓】の約であるが、此場合のアリは助動詞で、「在」の義はないのであるから、還元せざることを例とする。後句に早有者とある所を見ると、眞淵説の如く「有」の下に「者」の字を脱したのかも知れぬ。
いまなぬかばかり(今七日許) ナヌカ及フツカの原語はナナ(七)カ(日)、フタ(二)カ(日)であるが、本集第十七巻の逸鷹歌【四〇一一】にも伊麻布都可〔三字右○〕太未……奈奴可〔三字右○〕乃宇知波と假字書せられて居るから、此ころ既にナヌ〔右○〕カ、フツ〔右○〕カと轉訛して居たものと思はれる。
はやからば(早有者) 舊訓トクアラバとあるが、仮にハヤカリといふ動詞形が尚未だ出現して居なかったとしても、ハヤケバといふべき場合であるから、トクアラバの如き異様の表現を用ひたとは考へられぬ。
いまふつかばかり(今二日許)
あらむとぞ(將有等曾)
きみはきこしし(君者聞之二二) キコシシはのたまひしといふ意(第二〇一頁)。
なこひそわぎも(勿戀吾妹) 上の吾妹兒哉以下十七句はすべて卜者の言である。
【大意】 紀伊國の濱に寄るといふ鰒珠(眞珠)を拾はうというて、背(ノ)山を越えて行った君が何時來られるかと道に出て夕卜に問うたら、夕占(よみ)が自分にいふには、吾妹子よ汝の待つ君は沖つ波のやうに來り寄る白珠、邊つ波の寄せる白珠を求めて拾ふ爲に(歸り)來たまはぬのであるぞ。長くば今七日ばかり、早くば今二日ばかりで(歸るで)あらうと君はいはれたぞ。(280)さのみ焦がれるな吾妹(というた)
 
反歌
 
3319 枚衝毛《ツエツキモ》 不衝毛吾者《ツカズモワレハ》 行目友《ユカメドモ》 公之將來《キミガキマサム》 道之不知苦《ミチノシラナク》【三三一九】
つえつきも 衝かずも 吾は行かめども 君が來まさむ 道の知らなく
 
つえつきも(杖衝毛) 杖は第五卷【八〇四】に多都加豆惠〔二字右○〕と假字書した例があり、和名抄にも都惠〔右○〕と訓せられて居るが、其は母韻の重疊を避ける爲に e を半母韻化して we と轉呼したので、原義は衝枝《ツエ》であるから、ツエと表記することは決して不當ではない。現に吹枝《フエ》の意から出た笛はフエと發音せられるのである。
つかずもあれは(不衝毛吾者) 第三卷石田王追悼歌にも杖ツキモ衝カズモ行キテ【四二〇】とあるが、此は物の相違を異同〔右○〕といひ、鼎の重さといふべきを輕〔右○〕重と稱すると同一話法に屬し、衝カズモは言葉の文《アヤ》に過ぎず、杖(ヲ)ツキ(テ)モ行クといふ意で、忠臣藏の白《セリフ》に酒は飲んでも飲まい〔三字右○〕でも勤ある所は吃と勤めるとあると趣を同じうする。
ゆかめども(行目友) 行カウガ〔右○〕といふ意。
きみがきまさむ(公之將來) キタラムと訓むことの非なるは既述の通りである(第一七一頁)。
(281)みちのしらなく(道之不知苦) シラナクは知レヌコト(ヨ)といふ意。知レ(下二段活)といふ自動詞が分岐する以前には知り(四段治)は自他兩用であつたのである。
【大意】 杖を衝いても自分は(迎に)行かうけれども、君が(歸り)來たまふ道の知れぬことよ
 
3320 直不往《タダニユカズ》 此從巨勢道柄《コユコセヂカラ》 石瀕蹈《イハセフミ》 求曾吾來《モトメゾワガクル》 戀而爲便奈見《コヒテスベナミ》【三三二〇】
ただに行かず 此《コ》ゆ巨勢道から いはせ踏み もとめぞ吾が來る 戀ひてすべなみ
 
ただにゆかず(直不往) 舊訓タダニコズとあるのは上掲【三二五七】に準じたのであらうが、後記の如く句々多少の異同があり、必しも同一の歌と認めることが出來ぬのみならず、不來とせねばならぬ理由もないから、字によつて往《ユ》カズと訓むべきである。
こゆこせぢから(此從巨勢道柄) 既出(第一一九頁)。首句とコユとは序である。
いはせふみ(石瀬蹈) 巨勢道から紀伊方面に向ふ爲には曾我川の上流を跋渉することを要したから、岩瀬蹈みというたのである。
もとめぞわがくる(求曾吾來) 此句は【三二五七】の歌には名積序吾來とあり、吾來はワガコシと訓んだが、此は實際求めに行つたのではないから、舊訓の如くクルといふ不定時格を以て表現すべきで、さればこそ初句にも不來〔右○〕と不往〔右○〕との相違があるのである。考以下の如くコシとしては他の反歌及答歌の趣旨とも抵觸(282)する。求は舊訓トメとあるが、古義訓の如くモトメとすべきである。
こひてすべなみ(戀而爲便奈見) 既出(第一二〇頁)。
【大意】戀しさに堪へかねて巨勢道から岩瀬を蹈み(君を)求めに行く
 
3321 左夜深而《サヨフケテ》 今者明奴登《イマハアケヌト》 開戸手《トヲアケテ》 木部行君乎《キヘユクキミヲ》 何時可將待《イツシカマタム》【三三二一】
さ夜ふけて 今はあけぬと 戸をあけて 紀へ行く君を いつしか待たむ
 
さよふけて(左夜深而) 既出(第一七八頁)
いまはあけぬと(今者明奴登)
とをあけて(開戸手) 略解がトヒラキテと改訓したのは、戸扉等についてアケといふ連語を用ひることを非とし、ヒラクと云はねばならぬというた宜長の主張に從うたのであらうが、語義上からは理由のないことで、此處に特に開戸と表記したのは戸ヲ〔右○〕と訓ましめんが爲であるのみならず【新考】、トヒラキテと唱へては律調にあはぬ。三代實録貞觀七年の紀に見える太政大臣東京第旡位天石戸開〔二字右○〕神は、イハトヒラキの神と稱へたとは思はれぬから、イハトアケ(又はワケ)と稱したものとすべきで、記の天孫降臨章下に見える天石戸別神も亦、皇組神の幽居せられた天石窟の戸を開《ア》ケた神なるが故にイハトアケといふべきを、母韻の重疊をさける爲に、上記ツヱ(杖)と同じく、半母韻を挿入してイハトワケと稱へたものと推定せられる(神代第六−三八頁)。
(283)きへゆくきみを(木部行君乎) キヘは紀伊《キ》(國)へといふ意。行に過去助動詞シを訓みそへてユキシ〔右○〕と謂はねばならぬとする新考説は、一應道理のあることで、私も以前は之に從うたが【訓詁】、ユクは不定時格で、必しも現刹那のみを意味するのではないのみならず、出發當時に立歸つて詠じたものとも了解し得られるから、尚舊訓を存すべきであらう。
いつしかまたむ(何時可將待) イツカ待タムといふ意で、イツト〔右△〕カと訓むことの非なるは既述の通りである(第一〇九頁)。
【大意】夜が更けたので、今は曉になつたと(して)戸を開けて紀伊へ行く君を、何れの日か待ち迎へよう
 
3322 門座《カドニヲル》 郎〔左△〕子内爾《ヲトメハウチニ》 雖至《イタルトモ》 痛之戀者《イタクシコヒバ》 今還金《イマカヘリコム》【三三二二】
門にをる をとめは内に いたるとも いたくし戀ひば 今かへりこむ
 
右五首
 
かどにをる(門座) 新考はヰシと改訓したが、此も其必要はなく、自分の歸來を待つて絶えず門に出て居るといふ意と解すべきで、古義が男を見おくる爲としたのは誤解である。
をとめはうちに(郎〔右△〕子内爾) ヲトメといふ舊訓に誤なしとすれば、眞淵説のやうに郎〔右△〕は娘〔右○〕の誤寫とせねばな(284)らぬ。
いたるとも(雖至) イタルは今では專ら或點に達する意と了解せられて居るが、クル(來)に對する來タルと同じく(第一七一頁)、本來イル(入)から分化した語で、入リテアルといふ意であるから、此も内に入つて居るともといふのである。新考訓のイリヌは此に近いが、尚時格に相違があるのみならず、イタ〔二字右○〕ル・イタ〔二字右○〕クと韻を蹈んで居るのであるから、猥に改訓することは出來ぬ。先學はイタルの語義を究めなかつた爲に歌意を誤解したものゝやうである。
いたくしこひば(痛之戀者) シは強意の助語で、娘子が甚しく戀ひ慕ふとならばといふ意である。
いまかへりこむ(今還金) 此イマはインマと訛つて現に常用せられて居る。間もなく又は直《スグ》といふとほゞ同意である。
【大意】門に(出て待つて)居る少女は(家の)内に這入つて居ても、甚しく(自分を)戀ひ慕ふとならば直に歸つて來よう
此は前の長歌に對する答歌で、反歌三首の内容には觸れて居らぬ。察するに此も上掲の買馬の歌と同じく、長歌一篇と之に答へた短歌一首との一組であつたのを、傳誦者が形式を整へる爲に、三首の反歌を追加したのであらう。されば直不往云々の歌の如きは寧ろ【三二五七】を模倣したものとすべきである。
 
(285)譬喩歌一首
 
3223 師名立《シナタツ》 都久麻左野方《ツクマサヌカタ》 息長之《オキナガノ》 遠智能小菅《ヲチノコスゲ》 不連爾《アマナクニ》 伊苅持來《イカリモチキ》 不敷爾《シカナクニ》 伊苅持來而《イカリモチキテ》 置而《オキテ》 吾乎令偲《アヲシヌバシム》 息長之《オキナガノ》 遠智能子菅《ヲチノコスゲ》【三三二三】
しなたつ つくまさぬかた おきながの をちの小菅 編まなくに い苅りもち來 敷かなくに い苅りもち來て おきて 吾《ア》をしぬばしむ 息長の をちの小菅
 
右一首
 
しなたつ(師名立) 舊訓シナタテルとあるが、此は枕詞と思はれるから、タツといふ不定時格を用ひねばならぬ。他に用例がないので、眞淵及雅澄澤はシナテルといふ枕詞と混同し【冠辭考】【枕詞解】、仙覺はシナヒタテルといふ意と説き、契沖は級立の謂とし【厚顔抄】、其他撓立有とする説【黒川眞頼】もあるが、孰れも次句との續合を明確に論述して居らぬ。案ずるに此に類するシナテル〔二字右○〕(ヤ)といふ枕詞が片〔右○〕岡山【推古紀】及片〔右○〕足羽河【萬九】とつゞく所を見ると、此もツクマサヌの五音を隔てゝカタ〔二字右○〕にかゝる枕詞と推測するのが當然の順序で、「片」又は「方」と關聯がないとするならば、カタといふ語音に他に相當の意義がないかと考へて見(286)る必要がある。カタには「肩」「形」「像」「兆」「潟」等の意があるが適切とはいひ難く、其外には私の知る限りに於ては、應神天皇降誕地の名稱に用ひられたカタ(蚊田)といふ語があるのみで、其が神田《カタ》を意味することは紀記論究建國篇(五−一九九頁以下)に述べた通りでたる。ツクマ(筑摩)は仁壽二年に從五位下に授けられた筑摩神社【文徳實録】の所在地であるから、其サヌ(榮野)に有名なる神田《カタ》が存したことは有り得べきで、後記の如く其名は今日まで殘つて居る。さればシナタツは其名立《シナタツ》の謂で、有名なるといふ意を以てカタ(神田)とつゞけたものなることは疑の餘地がなく、上掲シナテル(其名光)も亦同じ趣意を以てカタの枕詞とせられたものと思はれる。
つくまさぬかた(都久麻左野方) 坂田郡筑麻は中古の御厨所在地で【延喜式】、現在は米原町大字朝妻筑摩に其名餞を留めて居るのみであるが、和名抄には朝妻郷とあり、古は此地方を總稱したものと思はれる。息長川(天野川)の北岸なる神田村には加田といふ大字があるから、往昔カタと呼ばれたことは疑なく、恐らくはサヌ(榮野)カタ(神田)の遺跡で、其當時には筑摩神社も此附近に存したのであらう。此は小菅を苅りて將來した場所とせねばならぬから、句末に助語ニを含むものと心得べきである。
おきながの(息長之) 坂田郡の舊地名で、今も息長村とよばれ、筑摩(朝妻郷)と隣接して居る。
をちのこすげ(遠智能小菅) 所在は判明せぬが、ヲチも亦息長郷中の地點名なることは疑がない。舊訓トホチとあるけれども、其は標準句長に合はさんが爲の當てよみで、第七卷【一三四一】に「眞珠つく越〔右○〕の菅原われ刈らず人のからまく惜しき菅原」とある歌も、後記の如く同一人の同時の作と推定せられるから、越智と(287)越とは同地であらねばならず、いづれもヲチの假字とすべきである――越をコシとした舊訓は非――ヲチには「若」の義もあるので(第九四頁)、小菅に況へた女性の年少なることをも暗示したのであらう。此句も末尾に助語ヲを添へて解することを要する。
あまなくに(不運爾) 舊訓による。連をアムと訓するのは異例であるが、菅を編むには之を並連することを要するから、假りて用ひたのであらう。編マヌコト〔三字右○〕ニ即ち編まぬの〔右○〕にといふ意である。
いかりもちき(伊苅持來) イは接頭語で、被接頭語の意義には増減を加へぬから、苅り(て)持ち來といふに過ぎぬ。
しかなくに(不敷爾) 敷かぬの〔右○〕にといふ意。
いかりもちきて(伊苅持來而)
おきて(置而) 三音一句。編みもせず敷きもせぬ小菅を苅りて持ち來り置くといふのは、自分の手出しすることの出來ぬ美少女を眼前に控へていふ意味の譬喩である。戀することを許されぬ理由は明示せられて居らぬが、此筑摩神社の祭には古來有名なる鍋被りと稱する行事が存し、女性は曾て逢うた男の數だけの土※[土+鍋の旁]を作つて奉納せぬと神罰を蒙ると信ぜられた【雜和集】所を見ると、情交に闘する或種の禁忌が行はれて居たことは有り得べきで、潔齋を守らねばならぬ祠官などが、美貌の巫女を見て意の儘にならぬことを歎じた吟詠と想像せられる。上に引用した【一三四一】の歌に「吾からず人の苅らまく惜しき菅原」とあるのも同じ趣であるから、此歌の反歌か若くは同時の作であつたのを、編者が誤解して引離し、單に小菅を詠じ(288)たものとして第七卷の「寄草」中にをさめたのではあるまいか。
あをしぬばしむ(吾乎令偲) 舊訓ワレヲシヌバム〔右△〕とあるのは字に副はぬから勿論誤記であらうが、代匠記以下に改訂したやうに、ワレヲシヌバス〔右○〕であつたかも疑問で、此場合には使動詞たることを明示する必要があるから、契沖の擬訓の如くシヌバシム〔二字右○〕とよむ方がよい。從つて吾はア又はワと唱ふべきであるが、口調上私はアを採る。意義は上述により極めて明瞭で、シヌブ(下延)といふ語も處を得て居る。然るに新考が之〔右▲〕を枯の誤記としてワレヲカレシムと訓したのは、此歌を女性の作と豫斷し、男の愛の衰へたのを恨んだ歌と説きなさんが爲の改作であるから問題とするに足らぬ。第二句を都久麻佐野柄〔右△〕と改めたのも、師名立といふ枕詞を無視した結果である。
おきながの(息長之)
をちのこすげ(遠智能子管) 第三第四句の反誦であるが、此は感歎の意を含めた呼格である。
【大意】 筑摩|榮野《サヌ》の神田《カタ》(に)、息長の遠智の小菅(を)編みもせぬのに苅りて持ち來て(我眼の前に)置いて、自分をして物思ひをさせる。アア息長の遠智の小菅よ
右の如く釋明すると、極めて興趣のある主題であるのみならず、歌形もまた整然たる四句三聯より成り、ことに第一聯四句の如き凡人の企て及ばぬ巧妙なる措辭であるから、作者は不明であるが、名歌として人口に膾炙したものと思はれる。之を譬喩歌としたのは、遠智の小菅に美(289)少女を況へた爲なること勿論であるが、上掲雜歌中の【三二四七】及相聞中の【三二七二】が、同じく或る女性を沼名河の珠、里近き小野に譬へたものであるにも拘はらず、此部類に入れられなかつた所を見ると、編者が此歌の眞意を解しかねて類別に窮した結果ではないかとも推測せられる。されば後の學者が之を正解し得なかつたのも無理のないことであるが、名歌の爲に惜しみても餘りありといはねばならぬ。
 
(290)挽歌 二十四首(長十三、短十一)
 
挂纏毛《カケマクモ》 文恐《アヤニカシコシ》 藤原《フヂハラノ》 王都志彌美爾《ミヤコシミミニ》 人下《ヒトハシモ》 滿雖有《ミチテアレドモ》 君下《キミハシモ》 大座常《オホクイマセド》 往向《ユキムカフ》 年緒長《トシノヲナガク》 仕來《ツカヘコシ》 君之御門乎《キミノミカフォヲ》 如天《アメノゴト》 仰而見乍《アフギテミツツ》 雖畏《カシコケド》 思憑而《オモヒタノミテ》 何時可聞《イツシカモ》 曰〔左△〕足座而《ヒタリマシテ》 十五月之《モチツキノ》 多田波思家武登《タダハシケムト》 吾思《ワガモヘル》 皇子命者《ミコノミコトハ》 春避者《ハルサレバ》 殖槻於之《ウヱツキノヘノ》 遠人《トホツヒト》 待之下道湯《マツノシタヂユ》 登之而《ノボラシテ》 國見所遊《クニミアソバシ》 九月之《ナガツキノ》 四具禮之秋者《シグレノアキハ》 大殿之《オホトノノ》 砌志美彌爾《ミギリシミミニ》 露負而《ツユオヒテ》 靡芽子乎《ナビケルハギヲ》 珠手次《タマダスキ》 懸而所偲《カケテシヌバシ》 三雪零《ミユキフル》 冬朝者《フユノアシタハ》 刺楊《サスヤナギ》 根張梓矣《ネハリアヅサヲ》 御手二《オホミテニ》 所取賜而《トラシタマヒテ》 所遊《アソバシシ》 我王矣《ワガオホキミヲ》 煙立《カスミタツ》 春日暮《ハルヒノユフベ》 喚犬追馬鏡《マソカガミ》 雖見不飽者《ミレドアカネバ》 萬歳《ヨロヅヨニ》 如是霜欲得常《カクシモガモト》 大船之《オホフネノ》 憑有時爾《タノメルトキニ》 涙言《ナクワレガ》 目鴨迷《メカモマヨヘル》 大殿矣《オホトノヲ》 振放見者《フリサケミレバ》 白細布《シロタヘニ》 飾奉而《カザリマツリテ》 内日刺《ウツヒサス》 宮舍人方《ミヤノトネリモ》 【一云者】 雪穂《ユキノホノ》 麻衣服者《アサキヌケルハ》 夢鴨《ユメカモ》 現前鴨跡《ウツツカモト》 雲入夜之《クモリヨノ》 迷間《マヨヘルホドニ》 朝裳吉《アサモヨシ》 城於道從《キノヘノミチヨ》 角障經《ツヌサハフ》 石村乎見乍《イハレヲミツツ》 神葬《カムハフリ》 葬奉者《ハフリマツレバ》 往道之《ユクミチノ》 田付※[口+立刀]不知《タヅキヲシラニ》 雖思《オモヘドモ》 印乎無見《シルシヲナミ》 雖嘆《ナゲケドモ》 奥香乎無見《オクカヲナミ》 御袖《オホミソデノ》 往觸之松矣《ユキフリノマツヲ》 言不問《コトトハヌ》 木雖在《キニハアレドモ》 荒玉之《アラタマノ》 立月毎《タツツキゴトニ》 天原《アマノハラ》 振放見管《フリサケミツツ》 珠手次《タマダスキ》 懸而思名《カケテシヌバナ》 雖恐有《カシコカレドモ》【三三二四】
かけまくも あやに惶し ふぢ原の 郡しみみに 人はしも みちてあれども 君はしも 多くい(291)ませど 行きむかふ 年の緒ながく 仕へ來し 君の御門を 天のごと 仰ぎて見つつ かしこけど 思ひたのみて いつしかも 日〔右○〕たりまして もち月の ただはしけむと 吾が思へる 御子の命は 春されば うゑつきのへの 遠つ人 まつの下道ゆ のぼらして 國見あそばし なが月の しぐれの秋は 大殿の みぎりしみみに 露おひて 靡ける萩を 玉だすき かけてしぬばし み雪降る 冬の朝は さす柳 根はり梓を 大御手に 執らしたまひて 遊ばしし わが大君を 霞たつ 春日の夕 まそ鏡 見れど飽かねば 萬世に かくしもがもと 大舟の たのめる時に なく吾が 目かも迷へる 大殿を ふりさけ見れば 白たへに 飾りまつりて うつ日さす 宮の舍人も(は) 雪の穗の 麻|衣《キヌ》けるは 夢かも うつつかもと くもり夜の 迷へる間《ホド》に あさ裳よし きのへの道よ つぬさはふ 石村《イハレ》を見つつ 神はふり 葬りまつれば 行く道の たづきを知らに 思へども しるしをなみ 嘆けども おくかを無み 大御袖の 行きふりの松を 言とはぬ 木にはあれども からたまの 立つ月ごとに 天の原 ふりさけ見つつ 珠だすき かけてしぬばな かしこかれども
 
かけまくも(桂纏毛)
あやにかしこし(文恐) 〔二行に括弧して、既出(第五二頁)〕
ふぢはらの(藤原) 持統天皇の八年から元明天皇の和銅三年に至るまで、三代十六ケ年間の皇居の地で、今(292)の高市郡|鴨公《カモキミ》村大字高殿附近である。
みやこしみみに(王都志彌美爾) ミヤコは宮處の謂。シミミはシミ(第一四九頁)の疊尾語で、稠密といふ意である。
ひとはしも(人下) シモは其《シ》モの義であるが、此は人ハといふ意を更に強める爲にシを添加したのである。次句の君下〔二字右○〕も同斷。
みちてあれども(滿雖有)
きみはしも(君下) キミ(君)は一般に貴人をさしたのである。
おほくいませど(大座常)
ゆきむかふ(往向) 年にかゝる準枕詞と了解せられる。ユキとキとは屡々述べたやうに相通じて用ひられるから、來向フといふに同じく、第一卷【四九】にも時者來向〔二字右○〕と用ひた例がある。宜長はユキムカヒ〔右○〕と改訓して一句を隔てゝ仕來にかゝるものとし【略】、雅澄は向〔右○〕を易〔右△〕の誤寫としてユキカハルと訓み【古】、其他ユキマケル【考】、ユキカヘル【古】といふ訓もあるが、舊訓を非とすべき理由がない。
としのをながく(年緒長) 歳月久しくといふ意。年の連續を緒でつらねた珠に見たてゝ其年の緒ながくというたのである。
つかへこし(仕來) 古義訓に從ひ、次句の修飾と見るべきである。舊訓のやうに仕へ來〔右○〕テとしては前二句に附けてよまねばならず、短長二句一聯の基調が崩れて古今集以下の長歌の如く品が落ちるのみならず、君(293)之御門乎といふ次の句との續合が餘りに突飛である。作者が皇子の舍人などであつたとすれば、眞淵訓の如く仕ヘ來ルというたことも有り得べきであるが、此は明に外樣《トザマ》の人で、朝夕側近に奉仕したのではないから、今日まで仕へて來た〔二字右○〕といふ意を以て仕へコシ〔二字右○〕といふを妥當とする。コシは過去格であるけれども御門のみにかゝるのであるから少しも差支はない。
きみのみかどを(君之御門乎)
あめのごと(如天)
あふぎてみつつ(仰而見乍) 第二卷の高市皇子殯宮之時の歌【一九九】にも「香來山之宮〔五字右○〕よろづ世に過ぎむと念へや天之如振放見乍〔七字右○〕」云々とあり、皇子の宮殿を仰ぎ見つゝといふことである。
かしこけど(雖畏) カシコケレ〔右○〕ドの古言である。オソルレドとある舊訓の非なることは云ふまでもない。
おもひたのみて(思憑而)
いつしかも(何時可聞) 【三二五二】の歌に準じて強意助語シを訓みそへることを要する。モは感動詞であるから、イツカといふ意である。
ひたり〔二字右○〕まして(曰〔右△〕足座而) 曰〔右△〕の字は神田本に日〔右△〕とあるを正しとすべきであらう。眞淵以下ヒタラシ〔二字右△〕マシテと訓して居るが、既にマシといふ敬語がある以上、更にヒタリをも敬語形とする必要がないから、ヒタリマシテと六音に唱ふべきである。ヒタリはヒタシ(日足)の自動詞形で、紀に養、子養、長養、持養、視養及膝養をヒタシと訓して居る所を見ると、ヒ(靈能)を加へ與へることをヒタシといひ、自ら充實することをヒタ(294)リと稱へたのであらう。口語に於て病後又は産後の快復をヒダチといふのも、之から出たものと思はれるから、此も御悩本復といふ意であらぬばならぬ。――古義が曰〔右△〕足を白之〔二字右△〕の誤寫とし、上に吾王之天下といふ二句脱としてシロシイマシテと訓したのは、第二卷【一九九】によつたものであらうが、此は全然別個の歌であるから、其やうな類推は許されぬ。
もちつきの(十五月之) モチはミチ(滿)の轉呼で、滿月のやうにといふ意を以て次句の枕詞に用ひられたのである。
ただはしけむと(多田波思家武登) タダハシはタタヘ(湛)から出た形容詞形で、滿々たることを意味し、其未来格(古形)はタダハシケムである。
わがもへる(吾思) 略解訓による。舊訓の如くオモフとするよりも、口語の思うて居るに相當する(オ)モヘルの方が此場合適切である。
みこのみことは(皇子命者) ミコの原義は御子であるから、廣く神及貴人の子を意味するのであるが、此時代には字の如く皇子のことゝ了解せられ、之に對して諸王はオホギミ〔二字右○〕と稱へられた(第四七頁)。此は上句に藤原の王都とあるから、持統−元明朝に薨去せられた皇子であらねばならず、紀及續紀によれば之に該當するものは、高市皇子(持統十年薨)、弓削皇子(文武三年薨)及忍壁皇子(慶雲二年薨)の三柱である。――皇女も亦ミコと稱へるが、此は皇子とあるのみならず、後句に狩獵のことが見えるから、男性とせねばならぬ。諸王に在つては日向王、春日王(文武三年)、高野王(慶雲二年)、美努王(和銅元年)等の卒去が傳へられて(295)居るが、歌意からいうても親王のことゝ思はれる――弓削、忍壁二皇子の墳墓の地は不明であるが、キノヘ(城上)に殯斂せられたのは、本集第二卷【一九九】の歡によれば高市皇子で、持統紀にも此皇子に限り草壁皇子と同じく皇子尊〔右○〕薨と記述せられて居るから、此ミコのミコトが高市皇子をさすことは分明である。新考が此皇子の御事にあらずと斷定したのは、後記の如く種々の誤解に基くものであるが、第三卷【四七五】の歌に、大伴の家持が薨後の安積皇子を吾王御子乃命〔右○〕と稱へたことを例として、皇太子にあらずともミコのミコトといひ得べしと主張したのは聊か考察が足らぬやうである。我國に於ては貴賤に拘はらず人間は死後神になると信ぜられたが故に、死者に對しては妹ノ命【七九四】、弟ノ命【一八〇四】の如く追尊することはあつたが、生人をミコトと呼ぶことは此時代に在つては既に特例に屬した。されば宣長の如きも自ら秋津彦美豆櫻根大人命〔右○〕と謚したが、生前にミコトと名乘つたことも、門人等にさう呼ばせたこともない。尊稱として生存の貴人に對しミコトを用ひた例は上記兩太子の外に、皇極天皇の御母吉備姫王を皇祖母《スメミオヤノ》命〔右○〕と稱し、天皇御自身をも御讓位後は皇祖母尊と申上げたとある【紀】。本集第一卷【三】に中皇命〔右○〕とあるのは天智天皇の御妹で、御叔父孝徳天皇に嫁せられた間人《ハシヒト》皇后をいふものゝやうで、御夫天皇の崩後特に此尊稱を授けられたものと思はれる。――之を皇極天皇なりと説くものもあるが、天皇を皇命と書いた例はなく、其尊號は右の如く皇祖母尊である――存生の父母を父ノ命又は母ノ命と稱したのも【四四三】【一七七四】【三八一一】【三九六二】【四一六四】【四四〇八】、同じく最高敬稱で、父|御《ゴ》、母|御《ゴ》といふに同じい。唯一つ大伴家持が在世の坂上大孃をさしてツマのミコト〔三字右○〕というた例があるが、此歌人の用語には往々準據すべからざるもの(296)があるのみならず、妻ではあるけれども本來從姉であつたので特に敬稱を用ひたのかも知れぬ。右の如く考察すると、此ミコのミコト〔三字右○〕も決して漫然用ひたものとすることは出來ぬ。
はるされば(春避者) 既出(第一三九頁)
うゑつきのへの(殖槻於之) 神樂歌にウエツキや田中の杜やとあるのは、今の生駒郡郡山町の殖槻八幡宮所在地を意味したものゝやうで、田中といふ地名も其南隣片桐町に殘つて居るが、皇子との所縁を詳にせぬのみならず、其附近には登臨に可なる高地もない。其外でも槻を殖ゑた處ならばウエツキと呼び得られるから、或は此は別地で、用明天皇の池邊|雙《ナミ》槻宮の所在地を此名を以て呼稱したのであるかも知れぬ。此皇居は宮2于磐余1とあり【紀】、大和志によれば安部の長門邑(今の磯城郡安倍村大字阿部)にあたるとあるから、此皇子の宮居せられた香久山(後記參照)を距ること速からざる地で、後句に角サハフ石村《イハレ》ヲ見ツツとあり、往觸ノ松ヲとある趣にも協ふやうである。於の字は舊訓ウヘとあり、廣瀬那於神社【式】もウヘと稱へられるが、後句の如くキノヘをも城於と表記して居るから、此もウエツキノヘ〔右○〕とよみ、殖槻の邊の意と解すべきであらう。
とほつひと(遠人) マツ(待)の枕詞。
まつのしたぢゆ(待之下道湯) 待及湯は借字で、松之下道從の謂なることは勿論である。
のぽらして(登之而) ノボラシはノボリの敬語形である。登臨地は明示せられて居らぬが、殖槻が磐余の一地點名であるとすれば、其背後の丘陵であらう。繼體紀の春日山田皇女の歌によるも、登臨に可なる高地(297)が存したものゝやうである。
くにみあそばし(國見所遊) クニミが統治權設定を表示する一儀禮であつたことは既述の通りであるが(第四九頁)、此は皇太子の遊幸なるが故に巡狩に擬したのであらう。アソバシはアソビ(遊)の一活用形態で、今も用ひる敬語助動詞である。
ながつきの(九月之) 既出(第一三頁)
しぐれのあきは(四具禮之秋者) シグレが陰雲重疊する晩秋の空をいふことは既述の通りであるから(第一三頁)、之を秋の修飾語としたのである。
おほとのの(大殿之) 皇子の宮殿をいふ。第二卷【一九九】高市皇子尊城上殯宮之時の歌には「吾大王の萬代とおもほしめして作らしし香來山〔三字右○〕の宮」とあるから、今の磯城郡香久山村に存したことは疑がない。其東方は上古磐余と總稱せられた地域である。
みぎりしみみに(砌志美彌爾) ミギリは水限の意で、上古|承※[雨/留]《トヒ》の設のなかつた時代には屋蓋の雨滴落《アマタレオチ》の稱呼としても用ひられた。砌又は甃の字をあてるのは其部分まで前庭の石(又は瓦)疊が敷つめられて居たからであらう。シミミは上記の如く稠密の義であるが、此は砌に密接してといふ意である。
つゆおひて(露負而)
なびけるはぎを(靡芽子乎) なびいて居る萩をといふ意。和名抄鹿鳴草の條に爾誰集注云萩とし、波岐と訓して居る。語義は恐らくはハ(齒)キ(木)で、其小い葉が齒牙に似て居るから名を負はせたのであらう。芽(298)とかくのも艸に从ひ牙に从ふ會意字で、妻喚ぶ鹿の聲の聞える秋季に花がさくから鹿嶋草と稱へ、萩の字をあてたのであるが、鹿嶋といふ名は漢籍に見えず、萩の字義はヨモギ(蕭)又はヒサギ(楸)である。
たまだすき(珠手次) 枕詞(第一九四頁)
かけてしぬばし(懸而所偲) 上掲【三二八六】及【三二九七】の用例によれば、カケテは心にかけての謂であるが、芽子に對しさのみ執着せられたとは考へられぬから、此はハギ(齒木)といふ名にかけて意中の明眸皓齒〔二字右○〕を偲ばれたといふ意とすべきである。舊訓シヌバム〔右△〕とあるのは、カケテの意義を明にせず、作者自身が偲ぶことゝ解した爲と思はれるが、此は上句國見所遊と對聯をなし、後句我王にかゝるのである。
みゆきふる(三雪零) 既出(第二一三頁)
ふゆのあしたは(冬朝者)
さすやなぎ(刺楊) 契沖はサシ〔右△〕ヤナギと改訓し、略解以下之に從うて居るが、刺竹をサシタケといはぬ所を見ても、之と同型の刺楊がサス〔右○〕ヤナギの假字なることは疑がない、サスは枝葉の射出を意味し、次句の根張の準枕詞であるが、ヤナギの、原義が矢之木なるにより、其縁によつてサス(刺)といふ語を冠し、アヅサを導いたのである。されば柳の枝を土に挿せば容易に根が張る故に云ひかけたとする冠辭考の説は附會とせねばならぬ。
ねはりあづさを(根張梓乎) 略解訓による。上句からネ(根)までは序で、根張をハリアヅサにいひかけたのであるが、ハリアヅサを弦を張つた梓弓の謂なりとする在來の説には大なる疑がある。アヅサ(梓)が弓材(299)の名にあらざることは既述の通りであるが【三二五八】【三三〇二】、假に一歩を讓つて山田氏のいふヅサの木(學名不明)が弓材として用ひられた事實が存し、之を以て製した弓をアヅサ弓と稱へたとしても、アヅサは弓の限定語に過ぎず、名の主體はユミであるから、アヅサと略稱することは語構成の原則上許されず、梔弓をハジ、槻弓をツク、鹿兒弓をカゴとのみいひ得ぬと同じく、其やうな用例は古典にも絶無である。其故に吾人は漢語と豫斷とから離れてアヅサといふ單語の原義を研究することを先とせねばならぬ。案ずるに此語はアヅとサとに分析することが可能で、サは天武紀に一箭をヒトサ〔右○〕と訓し、後掲【三三三〇】の投左〔二字右○〕も投箭の義と了解せられるから、刺の意から矢の義に轉じたものなることは分明で、アツは「中」を意味し、ウツ(抛)といふ語をも分派した。さればアヅサといへば投箭乃至投槍の意となり、當時すでに出現して居た羽箭とは少くとも樣式を異にするものゝ稱呼であつたと思はれる。其製式は判明せぬが、單なる木(竹)桿ではなく、人工を加へたものなるが故にハリといふ語を冠したのであらう。此ハリは牽張の意ではなく、後世に於ても銃器煙管等を製作することをハルといふから、或種の細工を意味し、矢を作ること即ちヤハギ〔二字右○〕をヤハリ〔二字右○〕とも稱へたのかも知れぬ。ヤハリ又はハリヤといふ語例は見えぬが、稱徳朝の伊豫國守に中臣|丸《ワニ》連張弓〔二字右○〕といふ人がある所を見ると、張矢といふ用語が存したことも有り得べきである。之を要するに此句はアヅサと呼ばれた矢を敍するに止まり、梓弓のことをいふのではあるまい。アヅサを發射する器具をアヅサ弓と稱へたことは勿論で、ユミはイ(射)ミ(身)の轉呼であるが、必しも現在の大弓状のものばかりではなく、鉄砲をすらも本初はツツユミ(筒弓)と稱した程であるから、アヅサユミも特種の型式に(300)屬し、投〔右○〕射器といふ意を以て此名を與へられたのであらう。アイヌ語に於ては槍を投げることを atchiu(nhiu は刺スといふ意)といひ、チャモ口語では投石機を atupat(pat は石)といふのも、或は之と關係があるのではあるまいか。其形式は之を詳にし得ぬが、此名によれば彈弓《ハジユミ》の一種と想像せられる。本集の用例によると、「引」「張」「寄」「末」「音」等の枕詞に供せられ、上掲【三三〇二】及第二卷【二三〇】に「梓弓手に取持ちてますらをの得物《サツ》矢手ばさみ」とあるやうに、眞弓との差別は現はれて居らぬが、其は語音數の關係上單にユミ(弓)又はマユミ(眞弓)といふことの代りに此語を用ひたので、第一卷中皇命から舒明天皇に獻られた歌【三】に「御|執《トラシ》のアヅサ〔三字右○〕の弓の奈加弭の音すなり」とあるのは、大弓としては解しかねるから、尚本式のアヅサ弓を指したものとせねばならぬ。されば其より二代後の高市皇子がアヅサといふ矢を用ひられたとしても少しも怪しむに足らぬことで、上に引用したやうに他の歌にもナグルサ即ち投箭(投槍)を使用したとあるのである。
おほみてに(御手二) 舊訓ミテニとあるが、律調に協はぬのみならず、高市皇子の御事とすれば第一卷【一九九】の例に準じ、オホミテと稱へねばならぬ。御の字をオホム(オホミの音便)に用ひた例は古今集の前書にもある。
とらしたまひて(所取賜而) トラシはトル(執)の敬語であるが、更に之にタマヒを添へたのは、上句の大御手と同じく最高敬語とする爲であらう。
あそばしし(所遊) 上句國見所遊〔二字右○〕のアソバシとは意を異にし、此は射獵を意味することは雄略紀(記)の歌に(301)我大君のアソバシシ獣《シシ》之云々とあるによつても分明であるが、遊の意から轉用せられたものとも思はれぬから、或は別にアソビ又は之に近く發音する獵の意の動詞が存したのかも知れぬ。案ずるに漁獵を意味するアサリは其活用語尾リをヒにかへても、行動と行爲との相違はあるが、義に於て大差はないから、上古アサヒとも稱へ、之をアソビと轉呼したことも有り得る。但し語幹アサの原義を詳にせぬから、尚斷言を憚るのである。――以上春秋冬の興趣を敍べて居るにも拘はらず、夏季に言及しなかつたのは此皇子が夏以來の御病の爲に、七月初旬に薨去せられたからであらう。
わがおほきみを(我王矣) 王は借字で、オホキミ(大君)は上記皇子命をいふ。
かすみたつ(煙立) 既出(第一二四頁)。煙霞といふ熟語もあるから、カスミに煙の字を充てたものと思はれる。略解以下の改訓のやうにケブリタツというても意は通ずるが、尚舊訓を尊重すべきであらう。
はるひのゆふべ〔三字右○〕(春日暮) 舊訓に從うてハルノヒグラシとすれば、長い日を終日見ても見あかぬといふ意になるが、最高貴人を凝視するが如きは、此時代に於ても無禮とせられた筈であるから、春宵の宴に召された時御姿を拜したことの追憶と解して、ハルヒノユフベと改訓すべきである。略解訓のハルヒノクレニは言葉が拙い。
まそかがみ(喚犬追馬鏡) 既出の枕詞で(第一〇六頁)、次句見ルにかゝるのである。
みれどあかねば(雖見不飽者)
よろづよに(萬歳)
(302)かくしもがもと(如是霜欲得常) シは強意助語、モガモは願望表示の一形式で(第二二五頁)、此やうにあれかしといふ意である。
おほふねの(大船之) 枕詞(第一〇八頁)
たのめるときに(憑有時爾)憑として居る時にといふ意。
なくわれが(涙言) 舊訓による。言は詩經に言《ワレ》告2師氏1の如く吾〔右○〕に通用せられて居るので、本集にもワレの假字に用ひられた例があり【二五三三】【二五三四】、字書によれば涙にはナクといふ訓もあるが、いづれも異例に屬するが故に、或は妖【考】或は訝《ウタテ》【新考】の誤字とし、宜長は言涙の倒置と見なしてワガナミダと改訓した【略】。さりながらナミダとしては次句の目につゞかず、改字が許されるとすれば外にも訓みやうがあらうが、此は上に皇子の御病重らせたまふと聞きてといふ意を補へば、ナクワレガとあつて然るべきであるから改訓を必要とせぬ。
めかもまよへる(目鴨迷) 此句も考以下にマド〔右△〕ヘルと改めてあるが、マヨフは紀にも紛〔右○〕の訓にあてられて居り、サマヨヒの形に於ては本集にも用ひられた古言であるから、之を非とすべき理由がない。――古義がメカモマドハス〔右△〕と訓んだのは前句を言涙の倒置とする誤斷に基くものであるから問題とするに足らぬーーカモは疑問助語で、眼迷へルカ〔右○〕といふに同じい。
おほとのを(大殿矣) 上記の如く香來山の宮をいふ。
ふりさけみれば(振放見者) 既出(第一七八頁)
(303)しろたへに(白細布) 此は枕詞ではなく、白布(第九一頁)を引廻したことをいふのであらう。
かざりまつりて(飾奉而) 人麿の歌【一九九】に皇子之御門乎神宮爾装束奉而とあると同じ趣で、發喪の爲に宮殿を白布を以て覆うたことをいふものと思はれる。
うつひさす(内日刺) 枕詞(第二一五頁)
みやのとねりも(宮舍人方) 一云者とあるのは「とねりは〔右○〕」とした傳もあるといふのである。方もまたハ〔右○〕と訓み得られるが【略】、ハ〔右○〕を異傳とした所を見てもモであらねばならず【新考】、上掲【三二八七】にもヤモ〔右○〕を八方〔右○〕と表記した例がある。トネリはトネ(刀禰)と同じく本來名門の子弟に對する敬稱であつたが、一般に宮中奉仕者の稱呼と了解せられるやうになり、大寶令には東宮に舍人監を置き、舍人六百人を配屬せしめられるとあるから、此皇子にも多數の舍人が從屬して居たのであらう。
ゆきのほの〔五字右○〕(雪穗) 舊訓タヘノホニとあるが、雪をタヘと訓むべき理由はなく、タヘ(第九一頁)は必しも白いものではない。恐らくは第一卷【七九】に「拷〔右○〕の穗に夜の霜ふり」とある拷がタヘ(田邊)にあてた假字であることに想到せずして白妙の意と即斷し、語句の相似の故を以て之に倣うたのであらうが、タヘ(布)に穗のあるべき筈はなく、假に其一局部をタヘのホと稱したことがあつたとしても、麻衣とはつゞかぬから、字の通りユキノホと訓み、――ホは秀の義で、浪ノホ〔右○〕の如くも用ひられる――雪白の意を以て枕詞とせられたものと解すべきである。
あさきぬけるは(麻衣服者) 古義訓に從ふ。其はキ(著)の古言がケなるが故ではなく、キアルを約すればケ(304)ルとなるからで、即ち著て居るのはといふ意である。【一九九】の歌にも「御門の人も白たへの麻ころも着て」とある。白衣は當時喪服であつたと思はれる。
ゆめかも(夢鴨) カモは疑問表示。
うつつかもと(現前鴨跡) ウツツは現實の意(第一八〇頁)。刊本には此兩句をユメカモヤ〔右○〕ウツツカモヤ〔右○〕と訓してあるが、ヤを疑の助語とすればカと重複し、感動詞としては既にモがあるから蛇足の嫌がある。されば拾穗訓に從ひ頭記の如く四六音一聯とすべきである。
くもりよの(雲入夜之) 曇夜のやうにといふ意で、比況的枕詞である。
まよへるほどに(迷間)
あさもよし(朝真吉) ヨシは青丹ヨシ〔二字右○〕の例の如く(第五八頁)、感動詞として添付せられた枕詞の一形式で、麻裳キ(著)とかゝるのである。
きのへのみちよ〔右○〕(城於道從) キノヘは和名抄に大和國廣瀬郡城戸郷とある地で、本集には城上、木上、木※[瓦+缶]とも表記せられ、今の北葛城都馬見村附近の稱である。第二卷【一九六】によれば此皇子の外に明日香皇女(天智天皇の御女)も此地に殯斂せられたとあるから、當時皇室の陵墓の地に充てられて居たのであらう。皇子の御陵三立岡墓も廣瀬郡にあり【諸陸式】、大和志によれば大|垣内《カイト》村(今の馬見村の小字)に存すとあるから、殯處に近く收※[病垂/(夾/土)]せられたものと思はれる。從は借字で、大御葬の歌に「濱つ千鳥濱ヨは行かず」【記】とあるヨと同じく、後世ならばヲといふべき場合であるから、舊訓ヨリは勿論不當で、ユと訓むよりもヨ(305)を可とする。此は轜車が香來山の宮を出て城上道を行進することを詠じたので、次句に石村ヲ見ツツとあるによつても途上を意味することは分明である。然るに新考がキノヘノ道ユと訓み、城上を通りてといふ意と速斷して、此皇子命が高市皇子にあらざることの證據としたのは曲解といはねばならぬ。――但し【一九九】に百濟之原從〔右○〕神葬葬伊座而とあるのは百濟原から〔二字右○〕といふ意である。
つぬさはふ(角障經) サハフはサフ(障)の進行格で、ササヘ(支)とほゞ同義であるから、角(ヲ)支フといふ意である。其は鹿の習性から出た熟語で、此獣は角を以て岩石を摩することを例とするから、角サハフ磐とつゞけて枕詞に用ひたものと思はれる。――仁徳紀に岩|崩《クヤ》スをカ(鹿)の枕詞としたのと同じ趣である。
いはれをみつつ(石村乎見乍) 村は神武紀以下にアレと訓してあるから、石村をイハレと訓むべきことは勿論で、磐余とかくのも借字に過ぎず、原義は石像《イハアレ》なること建國篇(一−一九五頁)に説述した通りである。――舊訓イハムラとあるは非――其は十市及高市郡の東方一帶の總稱で、神武天皇が最初に領有せられた地域であるが、上記の如く皇子の香山宮に近いので、轜車が宮邸を發し城上に向ふ途中から、此地(磐余)が望見せられたことは當然である。
かむはふり(神葬) ハフリは本來放出の義であるが、轉じて葬送の意にも用ひられるやうになつたので、カム(神)は美稱として冠せられたのである。
はふりまつれば(葬奉者)
ゆくみちの(往道之)
(306)たづきをしらに(田付※[口+立刀]不知) 既出(第一五九頁)。※[口+立刀]をヲと訓む理由も既に述べた(第二四四頁)。
おもへども(雖思)
しるしをなみ(印乎無見) シルシは驗の謂。思慕すれども無効であるといふのである。
なげけども(雖嘆)
おくかをなみ(奥香乎無見) オクカは措虚《オクカ》の謂である(第一五三頁)。
おほみそでの(御袖) 舊訓ミソデノとあるが、オホを訓みそへねばならぬことは上記の通りである(第三〇〇頁)。八音の次句との釣合上六音に訓むことを可とする。
ゆきふりのまつを(往觸之松矣) 舊訓ユキフレシマツヲとあるが、單純なる敍述としては、袖についてユキ(行)といふ動詞を用ひることは不適當であり、且興味も乏しいから、道すがら御袖の觸れた松といふ意にユキフリ(雪降の謂か)といふ名を負うた一老松をいひかけたものとせねばならぬ。前句に松ノ下道とあるのは之が伏線で、其松が即ちユキフリの松であつたのであらう。――古義が行〔右○〕持〔右△〕の誤寫として上句につけ、御袖〔右△〕モチ觸リテシ松ヲと改訓したのは、右の趣を解せざる賢しらである。
こととはぬ(言不問) 物いはぬといふ意。
きにはあれども(木雖在)
あらたまの(荒玉之) 枕詞(第一二一頁)
たつつきごとに(立月毎) タツには經過の意もあるが、晦をツゴモリ(ツキコモリの約濁)といふに對し、朔(307)をツキタチ(ツイタチ)といふ所を見ると、此も月頭の謂と思はれる。皇子の薨去は持統天皇の九年七月十日であるから【紀】、新月の頃になると悲を新にし、ユキフリの松を仰ぎ見て偲ばうといふのであらう。
あまのはら(天原) 既出(第一七七頁)。但し此は天空の如くといふ意を以て次句の枕詞として用ひたので、天上を見やるといふ意ではあるまい。【−九九】にも天之如〔三字右○〕フリサケ見ツツ玉手次カケテ偲バム恐ケレドモとある。
ふりさけみつつ(振放見管) 既出(第一七八頁)
たまだすき(珠手次)、枕詞(第一九四頁)
かけてしぬはな(懸而思名) 舊訓オモハナとあるは非。ナは感動詞で、シヌバは未然形であるから、助動詞ムを添へずとも偲ばうといふ意になるのである。カケテは心にかけてといふ意。
かしこかれども(雖恐有) 此は前句の條件であるから、假設なることを要し、舊訓の如くカシコケレドモといふことは出來ぬ。
【大意】 申上げることも恐多いが、藤原の都に人間は充滿し、貴人も多く御座るけれども、年ごろ仕へて來た君の御門を天のやうに仰ぎ見つゝ、恐れながら憑みまゐらせて、何時かは御本復なされ、望月のやうに豐滿になられるであらうと、白分の思うて居る皇子の命(高市皇子)は、春になれば殖槻の邊の松の下道から(磐余の山に)登つて國見を遊ばし、九月の時雨する(308)秋のころには、宮殿の砌に接して露を負うて靡いて居る萩に思を寄せたまひ、雪降りの冬の朝には張アヅサ(投箭)を御手にして狩せられた皇子を、春の日の夕(の宴)に見上げても見上げでも飽足らぬので、萬世まで此やうにおはしませと心だのみして居る時に、(御悩重らせ給ふと聞いて)泣く自分の眼の迷ではあるまいか、大殿を見やれば、白布を以て飾り立て、宮中の舎人等も雪白の麻衣(喪服)を著て居るので、夢か現實《ウツツ》かと迷つて居る間に、城上(殯處)の道を、磐余(の山)をかへり見つゝ轜車が渡御するから、往道の便を知らず、(悲み)思うても驗はなく、嘆いても施す策がなく、(曾て)御道すがら御袖の觸れたユキフリの松を、物いはぬ木ではあるけれども、(皇子の御形見として)月頭毎に見やりつゝ、恐多いけれども心にかけて偲びまゐらせよう
上述の如く此は高市皇子追悼の歌なることは分明で、第二巻【一九九】に掲げた人麿の作の後段と趣向もほゞ同じく、相似た語句が少くはない。其は決して偶然ではなく、挽歌といふものゝ性質上、名歌を模倣するが如き遊戯的氣分の發動を信ずることは困難であるから、私は同一人の同時の作と認めたい。案ずるに人麻呂朝臣は最初此歌を作つたが、尚意に充たずして、皇子の武勲を擧げた一大雄篇を詠出して之を發表したけれども、此習作をも放棄するに忍びず、筐底に藏せられたのが、後日讀人不知として世に出たのであらう。草案とはいへ、さすがに歌聖(309)の作だけあって句法、律調共に間然する所なく、豊富なる詩想と洗練せられた修辭とは、到底凡庸歌人の追随を許さぬものがある。一篇中に文恐、雖畏、雖恐有といふ類似表現が三ケ所に用ひられ、珠手次カケヲ偲ブといふ成句が重複して居るのは、不用意のやうに見えるが、【一九九】の歌にも吾大君といふ語を数句の間に重ねて用ひ、振放見といふ語句が二ケ所に出て居る所を見ると、人麻呂は之を意に介しなかったものとすべきで、長篇に於ては免かれぬことであり、事實に於て少しも朗吟の妨とはならぬのである。本巻の挽歌中此歌を第一に掲げたのも時代が古いといふばかりではなく、名作とせられた爲であらねばならぬ。
 
反歌
 
3325 角障經《ツヌサハフ》 石村山丹《イハレノヤマニ》 白拷《シロタヘノ》 懸有雲者《カカレルクモハ》 皇可聞《オホキミロカモ》【三三二五】
つぬさはふ いはれの山に 白たへの かかれる雲は 大君ろかも
 
右二首
 
つぬさはふ(角障經) 枕詞(第三〇五頁)
いはれのやまに(石村山丹)
(310)しろたへの(白拷) 枕詞(第九一頁)。但し此は白布のやうにといふ比況である。
かかれるくもは(懸有雲者) 磐余の山に白布のやうに懸つて居る雲、換言すれば白布を懸けたやうな雲といふ意で、長歌に大殿ヲ振サケ見レバ白細布ニ飾リ奉リテとある縁によつて、山頂を包む白雲から皇子を聯想したのである。眞淵が引用したやうに齊明天皇の建皇子追憶の御製にも「今木なるをむれが上に雲だにもしるくし立たば何かなげかむ」とあり、山雲を見て故人の面影を偲ぶといふ詩想は決して突飛ではない。新考は之を火葬の煙と解し、磐余の山を葬處と斷定して、高市皇子を悼み奉る歌にあらざることの證據としたが、荼※[田+比]の煙は決して白布のやうに山のはにかゝるものではなく、集中火葬を詠じた左記二首の如きも此歌とは全然趣を異にする。
  土形娘子火2葬泊瀬山1時、柿本朝臣人麻呂作歌一首
○こもりくの初潮の山の山のまにいざよふ雲〔五字右○〕は妹にかもあらむ【四二八】
  溺死出雲娘子火2葬吉野1時柿本朝臣人麻呂作歌二首(一首略)
○山のまゆいづもの兒らは霧〔右○〕なれや吉野の山の嶺にたなびく【四二九】
即ちいざよふ雲といひ、たなびく霧とあるから、一抹の白煙が立のぼる光景が眼前に展開するのであるが之を白布をかけたやうな雲というては山火事の烟のやうな感じがするであらう。
おほきみろかも(皇可聞) 古義訓による。ロカモは古い複合語尾で、仁徳紀(記)にも用例がある。但しロは虚辭的接尾語ラの轉呼で、カモは疑問助語と解する方がよい。
(311)【大意】磐余の山に白布のやうに懸つて居る雲は大君(にておはします)か
 
3326 磯城島之《シキシマノ》 日本國爾《ヤマトノクニニ》 何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》 津禮毛無《ツレモナキ》 城上宮爾《キノヘノミヤニ》 大殿乎《オホトノヲ》 都可倍奉而《ツカヘマツリテ》 殿隱《トノゴモリ》 隱在者《コモリイマセバ》 朝者《アシタニハ》 召而使《メシテツカハシ》 夕者《ユフベニハ》 召而使《メシテツカハシ》 遣之《ツカハシシ》 舍人之子等者《トネリノコラハ》 行鳥之《ユクトリノ》 羣而待〔左△〕《ムレテサモラヒ》 有雖待《アリマテド》 不召賜者《メシタマハネバ》 劔刀《ツルギタチ》 磨之心乎《トギシココロヲ》 天雲爾《アマクモニ》 念散之《オモヒハララシ》 展轉《コイマロビ》 土打哭杼母《ヒヅチナケドモ》 飽不足可聞《アキタラヌカモ》【三三二六】
しき島の大和の國に いかさまに おもほしめせか つれもなき 城の上の宮に 大殿を つかへまつりて とのごもり こもりいませば 朝には 召してつかはし 夕には 召してつかはし 使はしし 舍人の子らは 行く鳥の むれてさもらひ あり待てど 召したまはねば つるぎ太刀 とぎし心を天雲に おもひはららし こいまろび ひづち泣けども 飽きたらぬかも
 
右一首
 
しきしまの(磯城島之) 枕詞(第一〇〇頁)。
やまとのくにに(日本國爾) 字に從へば此句は位置表示《ロカチーヴ》とせねばならぬが、之を受ける述語がない所を見ると、雅澄の推測のやうに爾〔右△〕はヲに相當する假字を誤寫したのであらう。二句脱とする説もあるが【新考】、(312)姑くヤマトのクニヲ〔右○〕といふ意と解して置く。若し然りとすれば此はヤマトといふ名の起原たる磐余方面の郷土をさすものとせねばならぬ。
いかさまに(何方) 方はサマといふ訓もあるから借りて用ひたので、如何樣にといふ意である。
おもほしめせか(御念食可) 食は通例ヲスと訓む宇であるが、敬語としてはヲス(食)、キコス(聞爲)、メス(目爲)は相通じて用ひられるから、メスの假字に流用したのである。メセカはメセバ〔右○〕カといふに同じく、其語氣は已然形に備はり、バは強意の助語たるに過ぎぬから、古言では之を略しても妨なしとせられたのである。
つれもなき(津禮毛無) 連《ツレ》(モ)無シは孤獨の意の消極的表現であるから、無情の義にも轉用せられるやうになつたが、此は尚原義により寂寥を意味するのである。
きのへのみやに(城上宮爾) ミヤは殯宮《モガリノミヤ》を意味する。されば此も高市皇子追悼の歌とせねばならぬ。
おほとのを(大殿乎) 此大殿も殯宮の謂であらぬばならぬが、前句と重複するばかりではなく、上六句及殿隱以下六句が皇子について敍述せられて居るのに、全然主語を異にする大殿乎都可倍奉而といふ兩句を挿入したのは思想の脈絡を破るものであるから、錯簡とせざるを得ぬ。恐らくは此二句は本初舍人之子等者の次に序次したのであらう。
つかへまつりて(都可倍奉而) 大殿ヲ仕奉ルといふのは殿舍構築の謂で、上掲【三二三四】にも用例がある。
とのごもり(殿隱) 上記の如く此句は城上宮爾につゞくので、トノ(殿)は即ちミヤ(殯宮)のことである。何(313)と思召されたか、ヤマトの郷《クニ》を見すてゝ寥しい城上の殯宮に隱り坐すといふのである。
こもりいませば(隱在者) 在の字は元暦校本、天治本、類聚古集等には座〔右○〕とあるが、在でもイマスと訓むには差支はない。隱《カク》れ坐《イマ》すが故にといふ意である。
あしたには(朝者) ニに當る送假字はないが、五音句であるから之を訓みそへることを可とする。次の夕者も同樣である。
めしてつかはし(召而使) 眞淵訓による。ツカハシはツカフ(使)の敬語形である。
ゆふべには(夕者)
めしてつかはし(召而使)
つかはしし(遣之) 格調の爲にツカハシといふ語を重ねたので、朝には召して使ひたまひ、夕には召し使ひ給ひしといふ意に外ならぬのである。
とねりのこらは(舍人之子等者) トネリは上記の如く皇子の家人で、コ(ラは虚辭)は男子の謂である。之に對してヒメトネ(命婦)といふ稱呼もある。――此次に大殿乎都可倍奉而といふ二句を移すべきこと上記の通りである。
ゆくとりの(行鳥之) 空行く鳥の群《ムレ》といふ意を以て枕詞に用ひたものと思はれる。
むれてさもらひ(羣而待〔右△〕) 待〔右△〕を侍〔右○〕の誤記とする略解説を可とする。大殿即ち殯宮を造營して未だ退散に至らず、服喪奉仕することをいふ。サモラヒのサは接頭語で、モラヒはモリ(守)の進行格であるが、近侍の義(314)とも了解せられるやうになつたのである。
ありまでど(有雖待) 如實に待てどもといふ意(第六九頁參照)。
めしたまはねば(不召賜者)
つるぎたち(劔刀) 既出(第三一頁)。但し此は次句のトギ(磨)にかゝる枕詞として用ひられたのである。
とぎしこころを(磨之心乎) トギはト(鋭利)の意の動詞で、研磨の義もあるが、此は緊張した氣分をといふことである。
あまくもに(天雲爾) 天雲は文飾で、空間にというてもよい。
おもひはららし(念散之) 契沖訓による。緊張した氣分を空間に放散するといふ意味と思はれるから、チラシ【舊訓】、ハフラシ《考》というても差支はないが、チラシ(散)では語音が足らず、ハフラシ(放爲)には散の意がないから、ハラ(散)の疊尾語ハララ――口語のバラバラに相當する――の作爲動詞ハララシを以て最も適切とする。以上の四句は氣ぬけがしたことをいふのである。
こいまろび(展轉) コイはコヤリ(偃臥)、コヤシ(横置)の語幹コヤの原形で、恐らくはクエ(潰)と同語から分化したのであらう。マロビはマル(丸)の活用形で.輾轉を意味する。
ひづちなけども(土打哭杼母) ヒヅチはヒ(水)ツチ(土)の謂で、之を約縮したヒヂ(※[泥/土])と同じく、動詞としても用ひられ(但し不完全活用)、水分の浸漬する意と了解せられて居るが、この歌に於ては浸漬するもの(例へば袖袂の如き)を示して居らぬのみならず、哭きヒヅチと云はずして排列順序を轉倒して居る所を見(315)ても、涙に濡れるといふ意とは解せられぬから、恐らくは原義により※[泥/土]にまみれることをいひ、コイマロビ(輾轉)をうけたのであらう。
あきたらぬかも(飽不足可聞)
【大意】ヤマトの郷《クニ》を〔右○〕如何樣に思召してか、寂しい城上の(殯)宮に引籠つておいでになるので、朝には召して使ひたまひ、夕には召して使はれた舍人等は殯殿を造營し奉り、群居伺候して(御召を)待つてゐるが、御召がないので、緊張した氣分を空中に放散し(氣ぬけがして)輾轉※[泥/土]にまみれて哭くけれども(哭いても泣いても)飽足らぬことよ
此歌が舍人の一員の作なることは歌詞によつても分明で、御存生中の事實にも發喪葬送にも言及して居らぬ所を見ると、殯宮奉仕中に詠出したものと思はれる。上記の誤記錯簡を正してよむと意味もよく通り、各四句より成る六聯と、三句一聯とを配合した極めて正しい句法で、修辭上にも遺憾のない名歌である。反歌を添へる代りに五七七音三句一聯を以て長歌を結んだのは寧ろ古い形式で(「歌學」一三二頁)、此歌が後人の追詠若くは文人墨客の吟懷ではなく、偶感即詠なることを證するものである。釋義中にも詳論したことではあるが、尚次の如く吟誦して風趣を味ふことを要する。
  敷島のやまとのくにを〔右○〕 いかさまに思ほしめせか(316) つれもなき 城上の宮に とのごもり 隱《コ》りいませば 朝《アシタ》には 召して使はし ゆふべには めしてつかはし つかはしし 舍人の子らは 大殿を 仕へまつりて 行く鳥の むれてさもらひ あり待てど 召し給はねば つるぎ大刀 とぎし心を 天雲に おもひはららし こいまろび ひづちなけども 飽足らぬかも
 
3327 百小竹之《モモシヌノ》 三野王《ミヌノオホギミ》 金厩《ニシノウマヤ》 立而飼駒《タテテカフコマ》 角厩《ヒガシノウマヤ》 立而飼駒《タテテカフコマ》 草社者《クサコソハ》 取而飼旱〔左△〕《トリテカヘルモノ》 水社者《ミヅコソハ》 ※[手偏+邑]而飼旱〔左△〕《クミテカヘルモノ》 何然《ナニシカモ》 大分青馬之《ツキゲノウマノ》 鳴立鶴《イバエタテツル》【三三二七】
ももしぬの 三|野《ヌ》の王《オホギミ》 西のうまや 建てて飼ふ駒 東の厩 建ててかふ駒 草こそは 取りてかへるもの〔二字右○〕 水こそは くみてかへるもの〔二字右○〕 何にしかも つきげ〔三字右○〕の馬の いばえたてつる
 
ももしぬの(百小竹之) 百小竹は篠即ちシヌ(舊訓ササとあるは非)が多いといふことで、野の枕詞である。上掲【三二四二】にモモキネ三野とあると趣を同うする。
みぬのおほぎみ(三野王) 此王については既に述べたが(第八二頁)、續紀和鋼元年五月の條下に辛酉從四位(317)下美努王卒とあるから、此歌も其當時の作とせねばならぬ。王はオホギミと訓むべきである。
にしのうまや(金厩) 五行説に於ては金を西方に配するから、ニシ(西)の假字に用ひたのである。ウマヤは吟誦に際しては之を約してマヤと發音したのであらう。
たててかふこま(立而飼駒) 駒は字書に二歳の馬とあるから、ウ(大)マ(馬)に對し、コ(小)マ(馬)の意を以て呼稱せられたものと思はれるが、多くの場合兩者は同義語として用ひられた。
ひがしのうまや(角厩) 角は五音の一で、禮記に孟春之月其音角とあり、春は東方に配せられるからヒガシの假字に用ひられたのである。――從來ヒム〔右△〕カシと訓して居るが、其はヒガシ(東)の原義をヒムカ(日向)なりとする誤解(少くともシの説明を缺く)に基くもので、ミナミ(南)をミム〔右△〕ナミといふが如く、音便に過ぎぬのであるから、標準句長が之を要求せぬ限り、ヒガシと稱へねばならぬ。殊に此場合は五音句に當るのであるから、わざわざムをそへて七音に稱へるのは律調上甚好もしからぬことである。
たててかふこま(立而飼駒) 厩を東西にわけたのは、上掲【三二七八】の赤駒ノ廠ヲ立、黒駒ノ厩ヲ立テテと同じく潤色に過ぎず、假に二厩を必要としたとしても東西には限らぬのであるが、作者は此によつて美努王の裕福を暗示する意嚮をも有したのかも知れぬ。――以上四句は大分青馬を云はんが爲の序で、此馬は後述の如く王の愛用の一頭を意味し、兩厩に於て交々之を飼うたといふのではあるまい。
くさこそは(草社者) 草はマクサ(秣)を意味する。コソハといふ強い指定語を用ひたのは、秣と水とが殊に飼養に必要なものであるからである。
(318)とりてかへるもの〔二字右○〕(取而飼旱〔右△〕) 舊訓トリテカヘカニ〔三字右△〕とあり、天治本及類聚古集等には旱〔右△〕を早とし、眞淵は※[日/千]の字形を以て表記してカヒと旁訓しながら、註には「※[日/千]ハ歟爾に借たり」と説き、宜長は嘗〔右△〕の誤記としてカヒナメと訓したが、カヘカニ「カヘハヤ、カヘカヒは意をなさず、カヒナメは未來格で、末句と呼應せぬから、――末句も亦イバエナムカモの誤傳とすれば語法上の缺陷を免かれるが、何シカモといふ句が前行して居るから、之を改めることは出來ぬし他に良訓を求めねばならぬ。字を改めて解讀することは私の甚好まぬ所であるが、旱は集中【二五八九】【三二九二】にヒテの假字にあてた外には用例はなく、其も日手の誤記であらうといふ説もあるほどで【宣長】【雅澄】、到底原字の儘ではよみ得ぬから、假に鬼〔右○〕の誤寫としてトリテカヘルモノと八音に訓むものと推定する。モノはドモと同じく反對の歸結を導く語分子で(第九五頁參照)、コソと呼應して用ひられた例は第十六卷【三八八六】にもあり、「馬にコソふもだしかくモノ」と詠まれて居る。草は飼うてあるのに〔六字右○〕何故に嘶いたか〔三字右○〕といふ意であるから、飼フ〔右○〕モノ又は飼ハム〔二字右○〕モノといふことは時格上不可能で、語音が剰るけれども飼はカヘルと訓まねばならぬ。
みづこそは(水社者)
くみてかへるもの(※[手偏+邑]而飼旱〔右△〕) 飼旱をカヘルモノと訓む理由は上述の通りで、飲《ミヅカ》ヘドモといふ意である。
なにしかも(何然) シはゾに通ずる助語、カモは感動詞であるから、何ゾといふに同じい。
つきげ〔三字右○〕のうまの(大分青馬之) 舊訓アシゲノウマとあり、マシロノコマ【考】、ヒタヲノコマ【略】、マカタノコマ【新考】等の訓もあるが、ツキゲノウマと訓まねばならぬ理由は反歌に於て論ずる。
(319)いばえたてつる(鳴立鶴) 舊訓による。――但しイバヘ〔右△〕とあるのは平安朝以降 e と he とが混同せられた爲の誤記で、他にも例のあることである。近世の學徒中にはh子音は三百年前までは我國には存せず、ハ行の假字はP音又はF音の表示であると主張するものもあるが、 e を pe 又は fe と訛つたことは有り得ぬから、少くとも別にh音が嚴存したことの證左とすべきである――和名抄に嘶(ハ)馬鳴也とし、訓2以波由1俗云2伊奈々久1と註してあるが、イは接頭語、ハユはホユ(吠)の轉呼で、ナナクも亦ナク(鳴)の疊頭語である。立は勿論タテ(他動詞)と訓むべきで、考にタチとしたのは或は書損であるかも知れぬ。今も犬が吠タテルというて吠タツとは云はぬのである。又多くの馬が鳴立たと解した古義の説も非とすべく、此句は大分青馬のみにかゝり、王の愛用の乘馬が秣も水も十分に與へてあるのに袁號するのは、主人の卒去を悲しむ爲であらうといふ意で、畜生ですら此通りであるから、況して側近の自分達は悲嘆を禁ずることが出來ぬといふ意味を言外に含めたものと思はれる。言筒にして恨は長しと評すべきである。
【大意】 アア美努王! 東の厩を建てゝ飼ふ駒、西の厩を建てゝ飼ふ駒、(其駒には)秣は(十分)與へてあるのに、水は(十分)飲ませてあるのに、(何故か)大分青《ツキゲ》の馬が嘶き立てたよ
 
反歌
 
3328 衣袖《コロモデ》 大分青馬之《ツキゲノウマノ》 嘶音《イバユコヱ》 情有鳧《ココロアリケリ》 常從異鳴《ツネユケニナク》【三三二八】
(320)ころもで つきげの馬の いばゆこゑ 心ありけり 常ゆけになく
右二首
 
ころもで(衣袖) 次句との續合上四音句とせねばならぬ。袖附衣《ソデツケコロモ》といふ言葉の縁により、ツキに云ひかけた枕詞である。
つきげのうまの(大分青馬之) 舊訓アシゲノウマとあるのは、和名抄に毛詩注云、騅(ハ)蒼白雜毛馬也、爾雅注云、※[草冠/炎]騅(ハ)青白如2※[草冠/炎]色1也とし、今案※[草冠/炎]者蘆初生也、吐敢反、俗云2葦毛〔二字右○〕1是と註してあるのに據つたのであらうが、青白と大分青とは同義と認めがたく、且コロモデといふ枕詞とも縁がないやうである。其故に上記のやうに種々の擬訓があらはれたのであるが、マシロもヒタヲも大分青の訓としては適切と云へぬ。案ずるに和名抄に説文云、※[馬+總の旁](ハ)青白雜毛馬也、漢語抄云、※[馬+總の旁](ハ)青〔右○〕馬也、黄※[馬+總の旁]馬(ハ)葦花毛〔三字右○〕馬也、日本紀私記云、美太良乎乃宇萬とあり、又辨色立成云、桃花鳥葦花毛之紅色者也とある所を見ると、青馬をアシノハナゲ(アシゲにあらず)といひ、共に赤味を加へたものをツキ(桃花)毛と稱へたもので、言ひかへると鴇《トキ》色に青を混へたものゝ謂であるから、大分青と戯書したのであらう。新考は西厩(白方)東厩(青方)兩方〔二字右○〕の馬の謂として大分青馬は白方〔二字右△〕青方〔右△〕馬の誤記と斷じ、マカタ(兩方)と訓したのであるが、東西厩を敍したのは上述の如く一種の序で、假に二厩が實存したとしても、兩方をマカタと稱へた例はなく、――方はコナタ(此方)、ソナタ(其方)及ハタ〔右○〕(端方)の如く結合語に在つてはカタといはぬことを例とする――白方青方を大分〔二字右○〕青と誤寫する(321)やうなことが有り得たとも思はれぬ。加之此大分青馬は王の乘用の愛馬としてこそ哀も深いが、東西の厩の馬が一齊に嘶き立てたというては、異變とは了解せられるが、挽歌としての趣がない。要するに此説は衣袖をマ(兩)の枕詞であらねばならぬと豫斷して牽強したものゝやうであるから、問題とするに足らぬ。
いばゆこゑ(嘶音) 古義訓に從ふ。イバユの連體形はイバユルであるが、語音の制限上終止形を以て之に代用したので、他にも例のあることである(第九五頁參照)。イバエコヱと訓まざるべからずとする新考説は理由のないことで、ナキゴエ(鳴聲)、ウナリゴヱ(呻聲)などいふ複合名詞はあるが、犬のホエ〔右○〕コヱとは云はぬやうに、發音上熟合し得ぬのみならず、此はナキ聲ではなく、ナク聲といはねばならぬ場合である。
こころありけり(情有鳧) 舊訓ココロアルカモとあるが、カモを感動詞とすれば、長歌にイバエ立ツル〔二字右○〕とあると時格が一致せず、之を疑問助語として常よりも異に鳴くのは心アル歟と解すると、上句嘶音のつゞく所がなくなる。略解訓に從うてアレカモ即ちアレバカモとしても此矛盾は免かれぬ。されば有鳧をアリケリと訓み、嘶く聲は心があつたのであるといふ意と解すべきである。鳧は集中常にカモの雁字に用ひられて居るが、ケリといふ水禽を意味する字である。
つねゆけになく(常從異鳴) ケは顯の意のカの轉呼で兆《ケ》の義にも用ひられ、異常の謂である。イ又はユ(齋)と相反する概念を表示するにもケといふ語音を用ひ、ケガの形に於ては罪穢を意味し、褻衣をケ〔右○〕のコロモといひ、怪の字をあてることもあるが,此は怪異を表示するのではないから、異常の意のケとせねばならぬ。常從をツネニ〔右△〕とした舊訓は誤りで、從はユ又はヨと訓み、ヨリ(モ)の意と了解すべきである。
(322)【大意】 大分青の馬の嘶く聲は心あつてのことであつた。常よりも異つて鳴くよ
此長歌及反歌は作者を詳にせぬが、上述の如く王の眷屬の一員の偶感とすべきで、くだくだしく悲嘆追慕を敍することなくして、無限の恨を遺憾なく表現したのは、至情の發露とはいへ、尚非凡の手腕で、倭姫皇后の御歌【一五三】に匹敵すべき名歌である。此當時には無名の作家中にも尚此やうな名手が存し、人麻呂及赤人のみが歌聖の名を擅にすることは出來なかつたのである。
 
3329 白雲之《シラクモノ》 棚曳國之《タナビククニノ》 青雲之《アヲクモノ》 向伏國乃《ムカフスクニノ》 天雲《アマグモノ》 下有人者《シタナルヒトハ》 妾耳鴨《ワノミカモ》 君爾戀濫《キミニコフラム》 吾耳鴨《ワノミカモ》 夫君爾戀禮薄《ツマニコフレバ》 天地《アメツチニ》 滿言《ミツルガゴト》 戀鴨《コフレカモ》 胸之病有《ムネノヤメル》 念鴨《オモヘカモ》 意之痛《ココロノイタキ》 妾戀敍《ワガコヒゾ》 日爾異爾益《ヒニケニマサル》 何時橋物《イツハシモ》 不戀時等者《コヒヌトキトハ》 不有友《アラネドモ》 是九月乎《コノナガツキヲ》吾背子之《ワガセコガ》 偲丹爲與得《シヌビニセヨト》 千世爾物《チトセニモ》 偲渡登《シヌビワタレト》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 語都我部等《カタリツガヘト》 始而之《ハジメテシ》 此九月之《コノナガツキノ》 過莫乎《スギマクヲ》 伊多母爲使無見《イタモスベナミ》 荒玉之《アラタマノ》 月乃易者《ツキノカハラバ》 將爲須部乃《セムスベノ》 田度伎乎不知《タドキヲシラニ》 石根之《イハガネノ》 許凝敷道之《コゴシキミチノ》 石床之《イハトコノ》 根延門爾《ネバフカナドニ》 朝庭《アシタニハ》 出居而嘆《イデヰテナゲキ》 夕庭《ユフベニハ》 入座戀乍《イリヰコヒツツ》 烏玉之《ヌバタマノ》 黒髪敷而《クロカミシキテ》 人寢《ヒトノヌル》 味寢者不宿爾《ウマイハネズニ》 大船之《オホフネノ》 行良行良爾《ユクラユクラニ》 思乍《オモヒツツ》 吾寢夜等者《ワガヌルヨラハ》 數物不敢鳴〔左△〕《ヨミモアヘヌカモ》【三三二九】
(323)白雲の たなびく國の あを雲の むか伏す國の 天雲の 下なる人は 妾《ワ》のみかも 君に戀ふらむ 吾《ワ》のみかも つまに戀ふれば 天地に みつるがごと〔二字右○〕 戀ふれかも 胸のやめる 思へかも 心のいたき 吾《ワ》が戀ぞ 日にけにまさる いつはしも 戀ひぬ時とは あらねども このなが月を 吾がせこが しぬびにせよと 千とせにも しぬび渡れと 萬代に かたりつがへと 始めてし 此なが月の すぎまくを いたもすべなみ あらたまの 月のかはらば せむすべの たどきを知らに 岩が根の こごしき道の いは床の 根ばふ門《カナド》に 朝には いで居てなげき 夕には入り居こひつつ ぬばたまの 黒髪しきて 人のぬる うまいは寢ずに 大舟の ゆくらゆくらに 思ひつつ 吾がぬる夜らは よみもあへぬかも
 
右一首
 
此一首中終の十九句は上掲【三二七四】の一部分と句々殆ど同一であるので、之を別個の歌(若くは其一部分)の混入とし、原歌に還元せんとする試が先學によつて行はれた。即ち考は烏玉之以下九句を除き、古義は右の外首十句をも相聞歌なりと斷定した。さりながら之を除いた殘餘も一篇の挽歌と見ることは困難であるので、若干の脱句があるものとし、要するに完璧ではないといふ決論に到達したのであるが、本卷の編輯者が上掲を以て之を一連の長歌と見なしたことは掩ふべからざる事實で、多少不可解の點もあり、甚拙い句法があるけれ(324)ども、尚十分の脈絡が存し、決して支離滅裂ではなく、若し【三二七四】の歌がなかつたとしたら、眞淵雅澄以下の學匠も何とか理窟をつけて之を承認したであらう。古歌をつぎ合はせて一篇にまとめることを一種の技巧とした形跡は、紀記の歌謠に於てすらも之を見ることで、此歌の如きも其に屬するものゝやうであるが、眞贋を鑑定することは今日に於ては殆ど不可能であるから、我々は一々語句を檢討して註釋を加へることだけを以て滿足せねばなるまい。
しらくもの(白雲之)
たなびくくにの(棚曳國之) 既出(第八頁)
あをくもの(青雲之) 青雲と白雲とは對句で、嚴密なる意味に於ては青雲といふものは有り得ず、青白二色に區別することも此場合には無意義であるから、兩句とも單に雲をいふものと了解すべきである。
むかふすくにの(向伏國乃) 地平線に向ひ俯伏すといふことで、ハフ(延)といふと大差はない。祈年祭の祝詞にも青雲 能 靄極《タナビクキハミ》白雲〔二字右○〕 能 墮坐《オリヰ》向伏限云々とあり、天の下といふ意に用ひられて居る。此歌に在りては以上四句は次に天雲といはんが爲の序に用ひられたものと解すべきである。
あまぐもの(天雲) 上句の調子に乘つて天グモ〔二字右○〕というたので、單にアメ(天)ノといふと大差はない。
したなるひとは(下有人者) 天下の人はといふのであるが、此は世間の人の中でといふほどの意に用ひたのである。
わのみかも(妾耳鴨) カモを感動詞と見て妾ノミといふ意とすべきで、後句も同樣である。著し疑問助語で(325)あるならば次句は君ニ戀フルといはねばならぬ。
きみにこふらむ(君爾戀濫) 君に戀ふるは妾のみならんといふべきを、對句とする爲に倒敍したので、君は故人、戀は追慕の意と了解すべきである。
あのみかも(吾耳鴨) 古義に鴨〔右○〕を師〔右△〕の誤寫としたのは、之を疑問助語と速斷した爲で、此は感動詞とすべきこと上記の通りである。
つまにこふれば(夫君爾戀禮薄) 夫君は眞淵訓の如くセコを唱へたのかも知れぬ。いづれにしても亡夫を意味し、上句の君と同じく第三人稱と解すべきである。――雅澄が以上十句を相聞調と認めた理由は明示せられて居らぬが、或は君(夫君)ニ戀〔右○〕ヒといふ語句から得た印象によるのではあるまいか。若し然りとすれば大なる誤解で、妾耳鴨君爾戀濫といふやうな表現は、之を如何樣に解するにしても生存の夫に對して用ひることは有り得ぬ。蓋し現實の戀情を敍するに推量法を以てすることは餘所々々しい嫌があり、さればとて反語的表示と見ることも此場合は困難であるからである。キミ又はツマは第二人稱、コヒは戀愛をいふに限るとするのは固陋である。
あめつちに(天地)
みつるがごと〔六字右○〕(滿言) 舊訓コトバヲミテテとあり、眞淵はイヒタラハシと改め、宣長以下言〔右○〕を足〔右△〕の誤記としてミチタラハシと訓んで居るが、上句と聯絡せぬので、上記の如く夫君爾戀禮薄までを別首なりとする説【古】も生まれたのであるが、言をゴト(如)の借字とするに於ては續合が明白になる。即ち天の下に故人を(326)追慕するのは自分一人らしいから、悲痛の情が天地の間に充滿するかのやうに戀ひ念ふといふのである。
こふれかも(戀鴨) 戀フレバ歟、即ち戀ふる故かといふ意。モは感動詞である。
むねのやめる(胸之病有) 略解により病んで居る〔三字右○〕といふ意とすべきで、舊訓の如くヤミタルとしては病みてある〔三字右○〕の意となり、次の意《ココロ》ノ痛キと時格が一致しない。連體形を以て終止したのは戀フルガ故ニ胸ノ病メルカ〔右○〕といふべきを、便宜上助語カを上に移したからである。
おもへかも(念鴨) 念ヘバ歟といふ意。
こころのいたき(意之痛)
わがこひぞ(妾戀敍)
ひにけにまさる(日爾異爾益) 異は借字で、カ(日)の轉呼ケを表示し、ヒニケ〔右○〕ニは日日にといふ意である。此二句も亦コヒを戀愛の義とするに於ては相聞調と見ねばならぬが、上句と同じく追慕をいふものと解すべきであらう。自分の追慕は日々増進するゾ〔右○〕といふ意である。
いつはしも(何時橋物) 何時ハ其《シ》モの謂で、ハは強意の助語に過ぎぬから、何時抑もといふに同じい。
こひぬときとは(不戀時等者) 追慕せざる時とては〔三字右○〕といふ意。
あらねども(不有友) 此は意味から三句連續と見ねばならぬが、ヤマト歌は短長二句一聯を基調とするものであるから【歌學一一九頁】、此やうな句法は破格に屬し、古今集以下の長歌には其例を見るけれども、古調とすることは出來ぬ。恐らくは作者は奈良朝後期の人で、吟誦を旨とせず、文字を通して眼に訴へるこ(327)とを主とした文人墨客の亞流であつたのであらう。古歌の成句を踏襲することによつて風趣を添へんと企圖したのも、後代の歌詠に於て屡々見うける技巧である。
このながつきを(是九月乎) コノとあるから九月《ナガツキ》(第一三頁)の作歌と見ねばならぬが、此句は次に此九月之|過莫《スギマク》乎とあるに對立し、共に伊多母爲便無見にかゝるものであるから、故人の記念の月であつたのであらう。其事由は次の七句に於て説明せられて居る。
わがせこが(吾背子之) 既出(第一七七頁)
しぬびにせよと(偲丹爲與得) 思出にせよとといふ意。
ちとせにも(千世爾物) チヨニモと訓んでもよい。
しぬびわたれと(偲渡登)
よろづよに(萬代爾)
かたりつがへと(語都我部等) ツガヘはツギ(續)の進行格ツガヒの命令法で、語續げといふと大差はない。
はじめてし(始而之) 語原的にいへば、ハジメはハシ(端)ミ(見)の他動詞形で、端緒を開くといふ意であるが、此は逢始めといふ意に用ひられたものゝやうで、上五句は初夜の睦言と了解すべきであらう。長恨歌に七月七日長生殿、夜半無人私語時、在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝とあると趣を同じうするもので、眞淵以下の説のやうに之を遺言と解することは無理であるのみならず、死去をハジメテシと表現することは出來ぬ。假に一歩を讓つて九月に物故したものとしても、新喪の歌としては其月の過ぎ行くことを惜し(328)むといふのは人情の自然にそむくもので、新考説のやうに翌年の祥月に詠んだものとすれば、少くとも歳月の流るゝが如く過ぎ去つたことについて若干の感懷があらはれて居らぬばならぬ。其故に私は新愁の婦が逢ひそめた其月に際會して、涙の中に情痴になやむ複雜な感想を敍したものと想像するのである。雅澄等によつて歌の一部分が戀を詠じたものと誤解せられた原因もこゝに存する。
このながつきの(此九月之)
すぎまくを(過莫乎) 過ギムコトヲといふ意。
いたもすべなみ(伊多母爲便無見) 甚やるせなく思うてといふのである。
あらたまの(荒玉之) 枕詞(第一二一頁)
つきのかはらば(月乃易者) 新考訓による。次の二句によれば、十月になると都合が惡い事情が存したもののやうに思はれるが、其一端をももらして居らぬので、推斷の手がゝりがない。恐らくは一般信仰又は習俗をいふのではなく、此女性の個人的見地に基くのであらう。一周忌の作とする新考説に從へば、歿後一ケ年の間に夢にすら逢見ることがなくば、未來永劫縁が絶えるといふ俗信が存したものとも牽強し得られぬことはないが、集中數多き亡妻哀悼の歌にも之に言及した例はなく、此ころの婦人は再※[酉+焦]を當然のこととして居たやうであるから、二世の契といふことをさのみ念頭に置いたかは疑問である。私は寧ろ上記初夜の秘言中に、たとひ死別することがあつても、此月には必ず會はうといふやうな盟が存したものと解したい。
(329)せむすべの(將爲須部乃) 以下十九句は【三二七四】の歌にも見え、原歌は不明であるが、此作者の獨創でないことだけは確實である。さりながら決して無意義の剽竊ではなく、此成句の活用といひ得ることは以下に論述する通りである。
たどきをしらに(田度伎手不知) タドキはタヅキの轉呼で(第一三一頁)、タヅキヲシラニは便を知らずといふことを意味し、既に屡々用ひられた慣用句である(第一五三頁)。
いはがねの(石根之) 以下八句は兼約により故人が歸來することもあらうかと思うて、門を出入して待ちわびる光景を敍したもので、句々の釋明は【三二七四】の歌に於て述べた通りである。
こごしきみちの(許凝敷道之)
いはとこの(石床之)
ねばふかなどに(根延門爾)
あしたには(朝庭)
いでゐてなげき(出居而嘆)
ゆふべには(夕庭)
いりゐこひつつ(入座戀乍)【三二七四】には入居而思とあり、次に白拷乃、吾衣袖呼、折反、獨之寢者といふ四句がある。之を除いて次のヌバタマノ以下に續ける爲には、入居テシヌビでは都合がわるいから、少しく改修を加へたのであらう。
(330)ぬばたまの(烏玉之)
くろかみしきて(黒髪敷而)
ひとのぬる(人寢) 以上三句がウマイにかゝる序なることは既述の通りである(第一六一頁)。眞淵等がヌバタマノ似下を挽歌調にあらずとしたのは、之を實敍と誤認した爲であらう。原作はともかくも此歌に於ては故人の再現を信じて待ち焦がれる心もちを述べたもので、縱ひ悲傷の感が乏しいとしても、必しも矛盾抵觸といふことは出來ぬ。
うまいはねずに(味寢者不宿爾) 以下五句既出(第一六一頁以下)。寢テ〔右○〕フを寢ニ〔右△〕思フといひ得ぬから、不宿爾〔右△〕は【三二七四】の如くネズテ〔右○〕とあるべきであるが、萬葉後期にはズニをズテに代用するやうになつたと見え、後掲【三三三六】にも着ズテとあるべきを、着ズニ〔右○〕に用ひた例があるのである。
おほふねの(大船之)
ゆくらゆくらに(行良行良爾)
おもひつつ(思乍)
わがぬるよらは(吾寢夜等者)
よみもあへぬかも(數物不敢鳴〔右△〕) 舊訓アヘズナク〔二字右△〕とあるが、鳴〔右△〕は元暦校本の朱書の如く鴨〔右○〕の誤記なることは疑がない。【三二七四】には續〔右○〕文將〔右○〕敢鴨とあり、添加セム哉といふ意なるに反し、此は數へきれぬよといふに同じく、此一句に關する限り、全然意味が相違する。其は【三二七四】が閨愁を敍した作であるのに、此(331)は追悼の歌なるが故で、九月を以て期限とするから、未來には言及せず、今までに寢ぬ夜の多かつたことを訴へたのである。此場合ヨミモアヘヌ即ち數へきれぬといふ誇張的表現を用ひたのは、他にも例のあることで、敢て怪しむに足らぬ。
【大意】 ――首四句は序――天の下なる人(の中で)は君を追慕するのは自分のみであらう。自分のみ(亡)夫を追慕するので、天地の間に一杯になる程戀ひ焦がれる爲か、胸が痞へ、思ひわづらふ爲か、心が痛い。自分の追慕は日に日に加はる。抑も何時とても焦がれぬ時はないけれども、此九月、即ち夫が思出にせよといひ、千世かけて偲べ、萬代までも語りつげと(いうて)逢ひ始めた此九月の過ぎることを甚やるせなく思うて、月が易はると何ともならぬから、朝は岩石の磊々たる道に出て居て嘆き、夕は岩が根の延うた門内に引込んで、戀ひ偲びつゝ、――以下三句序――快くは寢られず、鬱々として物思ひながら、自分の寢る夜はかぞへきれぬことよ
右の如く説明すると、句法語法に缺陷があり、末の十九句が借ものであるにしても、嚴然たる一篇の哀詩である。唯故人の兼約を信じ、再會を庶幾する旨を述べたことが、普通の挽歌とは大に趣を異にする點で、之が爲に一部分は閨愁であると誤解せられたのであつた。慟哭悲傷の切なる氣分があらはれて居らぬのも之によるものであるが、一つは此歌が眞情から溢れ出たも(332)のでなく、想を練つて作りあげた詞藻なるが故で、作者は或は新愁の寡婦ではなく、文人墨客が之に擬して此好題材を諷詠したものではあるまいか。縱ひ當人の自作であつたとしても、此だけ頭を捻る餘裕を生じて居たとすれば、既に新しい愛人の半分くらゐは出來かゝつて居たかもしれぬ。
 
3330 隱來之《コモリクノ》 長谷之川之《ハツセノカハノ》 上瀕爾《カミツセニ》 鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》 下瀬爾《シモツセニ》 鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》 上瀬之《カミツセノ》 年魚矣令咋《アユヲクハシメ》 下瀬之《シモツセノ》 鮎矣令咋《アユヲクハシメ》 麗妹爾《クハシメニ》 點遠惜《アユヲヲシミト》 投左乃《ナグルサノ》 遠離居而《トホサカリヰテ》 思空《オモフソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 嘆空《ナゲクソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 衣社薄《キヌコソハ》 其破者《ソレヤレヌレバ》 縫乍物《ヌヒツツモ》 又母相登言《マタモアフトイヘ》 玉社者《タマコソハ》 緒之絶薄《ヲノタエヌレバ》 八十一里喚鷄《ククリツツ》 又物逢登曰《マタモアフトイヘ》 又毛《マタモ》 不相物者《アハヌモハ》 ※[女+麗]山〔左△〕志有來《ツマニシアリケリ》【三三三〇】
こもりくの 初瀬の川の 上つせに 鵜を八つかづけ 下つ瀬に うをやつかづけ かみつ瀬の あゆを咋はしめ しもつせの 鮎をくはしめ くはしめに 鮎を惜しみと なぐるさの 遠さかり居て 思ふそら 安からなくに 嘆げくそら 安からなくに 衣《キヌ》こそは それやれぬれば ぬひつつも またもあふといへ 玉こそは 緒のたえぬれば くくりつつ 又もあふと言へ またも逢はぬものは 妻にしありけり
 
(333)こもりくの(隱來之) 枕詞(第一九頁)
はつせのかはの(長谷之川之)
かみつせに(上瀬爾)
うをやつかづけ(鵜矣八頭漬) 漬は舊訓ヒタシとあるが、カヅケ(契沖訓)の方がよい。潜水の意の自動詞カヅキ(四段活)を下二段活に轉用して他動詞としたのである。
しもつせに(下瀬爾)
うをやつかづけ(鵜矣八頭漬)
かみつせの(上瀬之)
あゆをくはしめ(年魚矣令咋) 鵜を放つて年魚を啣へ來らしめるといふ意。
しもつせの(下瀬之)
あゆをくはしめ(鮎矣令咋) 以上十句は序であるが、物故した麗人をいひおこす爲だけに用ひたとしては餘り突飛であり、假令若干事實に關係があるとしても、嚴肅なるべき追悼歌には不釣合であるから、此歌こそ或は相聞の部類に屬すべきものかも知れぬ。之と一組としてあげられた次の二首は、全然無關係の各個獨立の歌であるのみならず、いづれも挽歌と見ることの出來ぬものである。
くはしめに(麗妹爾) 眞淵以下クハシイモ〔二字右△〕ニと改訓して居るが、妹をメと意訓することは可能で、クハシメは記の八千矛神の歌にも用例があるのみならず、此はクハシメ・クハシメと異義同音の語を疊んで興を添(334)へたものと思はれる。クハシメは崇美なる婦人といふ意。
あゆををしみと(鮎遠惜) 舊訓アユヲアタラシとあるが、語法に協はぬから、惜を愛シミの假字とし、助語トを訓み添へることを要する。此句及次句も亦短い序で、年魚を愛シミ即ち可愛い年魚だというて麗人の方に投げやるといふ意をナグルサ(投箭)にいひかけ、其縁によつて遠サカリといふ語を導いたのである。――眞淵が辭〔右△〕遠借〔右△〕の誤記としてコトトホサカリと訓み、雅澄が副猿緒〔三字右△〕と改めてタグヒテマシヲと訓したのは、右の口合を解し得なかつた爲で、三字中の二字乃至三字を誤寫と見ることが許されるとすれば、本集の歌謠はいづれも全部作りかへることが可能であらう。――元暦校本、天治本、類聚古集に此下に更に麗妹尓鮎矣惜とあるのは重複であるが、尚此句がアユヲヲシミ〔四字右○〕(ト)と唱へられたことの一證とすべきである。
なぐるさの(投左乃) 拾穗訓による。サは上記の如く箭の謂で(第二九九頁)、本卷及第十九卷にも投箭(矢)といふ語例があるから、投槍《ナゲヤリ》の短いものをナグルサ又はナゲ〔右△〕ヤ(ナグヤとある舊訓は非)と稱へたものと思はれる。鴈の翅を見て投箭を佩びた故人を思ひ出し【三三四五】、投矢を以て千尋射わたす【四十六四】とある所を見ると、かなり遠く飛ばしたものとすべきで、其故に遠サカリの枕詞に用ひられたのであらう。
とほさかりゐて(遠離居而) 右の二句を省いて麗人に遠さかり居てといふ意と解すべきである。
おもふそら(思空) 以下四句は上掲【三二九九】にも用例がある。
やすからなくに(不安國)
なげくそら(嘆空)
(335)やすからなくに(不安國) 以上五句は遠く離れて思ひ嘆くことすら不安であるのにといふ意で、八句を隔てて、又モ逢ハヌモノハと續くのである。新考が此句の下に妻の死亡を敍した數句が脱落したのであると斷定したのは、挽歌としては此だけでは物足らぬからであらうが、語法上何等の缺陷もなく、思想も連絡して居るのであるから、猥に亂脱錯簡を云々することは出來ぬ。上述の如く此歌は元來誤つて此部に編入せられたので、挽歌ではないのである。
きぬこそは(衣社薄) 衣ハといふ意を極めて強く表現したのである。
それやれぬれば(其破者)、送假字が省かれて居るから、ヤブルレバともヤレタラバとも訓むことが出來るが文脈上ヤレヌレバ即ち破れてしまへばといぶ意とするを可とする。次の緒ノタエヌレバも同樣である。
ぬひつつも(縫乍物) 縫の字は元暦校本に繼とあるが、ヌヒというても差支はなく、後句ククリの對語としてはツギよりも優つて居る。ヌヒツツモは縫ひ縫ひてもといふ意であるが、前後の句がキヌ(衣)の述語であるのに、突如として主語を變更することは正しい語法ではなく、縫ハレテモといふ受動的表現を用ふべきで、恐らくは不用意の措辭であらう。後句ククリツツも亦同樣である。
またもあふといへ(又母相登言) 已然形イヘはイヘドモといふに同じい。後句も同斷。
たまこそは(玉社者)
をのたえぬれば(緒之絶薄)
くくりつつ(八十一里喚鷄) ククは九九に通ずるから八十一と戯書したので、其例は上掲【三二四二】の歌に(336)もある。喚鷄も亦鷄をよぶにツツというたから假用せられたので、今もトトといふ。
またもあふといへ(又物逢登曰) 以上八句は再會可能の譬で、其期なきことの憾を強調する爲に用ひられたのである。
またも(又毛) 三音一句。五音句に相當する。
あはぬものは(不相物者)
つまにしありけり(※[女+麗]山〔右△〕志有來) 山〔右△〕は元暦校本、天治本、類聚古集等に爾〔右○〕とあるを正しとする。恐らくは尓〔右○〕を誤寫したのであらう。眞淵がイモ〔二字右△〕ニシアリケりと改訓したのは如何なる理由に基くか説明せられて居らぬが、※[女+麗]は本集に於ては常にツマの假字に用ひられて居る(第二九一頁參照)。――此歌に追悼の意があるとすれば此一句だけであるが、其場合にはアリケリといふ過去時格は不當で、必然不定時格で表現せねばならぬから、此は生別した舊妻に贈つた歌とすべきである。上記の如く此歌は本來相聞であつたのを編者が誤つて此部類に收録したのであらう。其例は上掲【三二九五】【三三〇三】にもあるのである。
【大意】 ――上十句は序――投げた箭のやうに愛人と遠ざかつて居て、思ふすら安からぬのに、嘆くすら不安であるに、衣は破れたら縫ひ縫うて復も縫ふといふが、玉の緒は絶えたら※[糸+邦]り※[糸+邦]つて復び合ふといふが、復びあはぬものは(もとの)妻であつた
 
(337)3331 隱來之《コモリクノ》 長谷之山《ハツセノヤマ》 青幡之《アヲハタノ》 忍坂山者《オサカノヤマハ》 走出之《ハシリデノ》 宜山之《ヨロシキヤマノ》 出立之《イデタチノ》 妙山敍《クハシキヤマゾ》 惜《アタラシキ》 山之《ヤマノ》 荒卷惜毛《アレマクヲシモ》【三三三一】
こもりくの 初瀬の山 青はたの おさかの山は 走り出の よろしき山の いでたちの 妙《クハ》しき山ぞ あたらしき 山の あれまく惜しも
 
こもりくの(隱來之) 前出
はつせのやま(長谷之山) 卷向山に隣する標高五四八米の一峯を現在初瀬山と稱へて居るが、此歌に於ては初潮町に近い河北一帶の山地を呼稱したのかも知れぬ。
あをはたの(青幡之) 青|布《ハタ》のやうなといふ意で、樹木の鬱蒼たることの形容である。第二卷に青旗〔二字右○〕ノ未旗ノ上ヲ【一四八】、第四卷に青旗〔二字右○〕ノ葛木山【五〇九】とあるのも同樣で、特に忍坂、葛木山乃至木旗にかゝる仔細があるのではない。
おさかのやまは(忍坂山者) 忍坂は神武紀にも見える舊地で、和名抄に城上郡恩坂(於佐加)とあり、今も磯城都|城島《シキシマ》村に忍坂《オシサカ》といふ大字が存する。特に此名を以て呼ばれる山嶺はないが、附近一帶の丘陵地をいふのであらう。川を隔てゝ初瀬山と對立する。
はしりでの(走出之) 雄略天皇の御製に和〔右○〕斯里底能と假字書せられた例があるから、此もワ〔右○〕シリデと唱へたのかも知れぬ。本集第二卷にも※[走+多]出ノ堤ニ立テル【二一〇】とあり、字の如く走出を意味し、こゝでは山の(338)尾の擴伸をいふものと了解せられるが、或は後句イデタチ(姿態)に對し、俗語の「おし出し」と同意を以て用ひられたことも有り得る。
よろしきやまの(宜山之) 助語ノは句と句との連繋の用にも供せられ、「天地に悔しきことノ〔右○〕、世の中の悔しきことは」【四二〇】、「風まじり雨降る夜ノ〔右○〕、雨雜り雪ふる夜は」【八九二】の例によるも、前後兩聯相倚つて一群を形成することを表示するものであるから、此二句は初瀬山のみについていひ、次の二句は專ら忍坂山にかゝるとする眞淵以下の説は非とすべきで、いづれも兩山を并稱したのである。
いでたちの(出立之) 既述の如く此イデタチは扮装即ち姿態を意味する(第二三三頁)。
くはしきやまぞ(妙山敍) クハシは精妙といふ意(第一○頁)。
あたらしき(惜) 既出(弟九八頁)
やまの(山之) 三音一句。五三七音三句一聯を以て終結するのは既記の如く上代に用ひられた一種の歌形である(第一一頁)。
あれまくをしも(荒卷惜毛) アレマクは荒レムコトといふに同じく、あたら美しい山の荒廢することが惜しいといふのである。
【大意】 幽邃なる初瀬の山、鬱蒼たる忍坂の山は押出の立派な山で、姿の美妙なる山ぞ。あたら(此)山の荒れることが惜しい
右の如く釋述すると、此歌には哀悼の意はあらはれて居らず、從來色々に牽強せられて居る末(339)三句も、山に譬へられた或人が年老い行くことを惜しんだものと了解せられ、上掲【三二四七】の歌と形態格調共に極めてよく類似して居る。參照のため左に之を再掲する。
  ぬな河の底なる珠
  求めて得したまかも拾ひて得し玉かも
  あたらしき君が老いらく惜しも
君之と直指することの代りに、比況に用ひた山を以て終始した結果、老イラクを荒マクと表現することを要したので、舊説の如く貴人の死去に譬へたものならば、荒マク(未來格)とはいふべからず、其名又は功績の荒行かむことをといふ意と解するには【考】【古】餘りに語が足らぬ。されば新考は或貴人の死によつて其保護を受けて居た山が荒行くだらうといふ意と説いたのであるが、庭園などならばいざ知らず、山野の如きは縱ひ領主が交迭したとしても、之が爲に特に荒廢すべきものではない。要するに之を挽歌の部に掲げたのは、前の歌と同じく編者の粗漏とせねばならぬ。
 
3332 高山與《タカヤマト》 海社者《ウミコソハ》 山隨《ヤマナガラ》 如此毛現《カクモアレ》 海隨《ウミナガラ》 然直〔左△〕有目《シカモアラメ》 人者《ヒトハ》 充〔左△〕物曾《ハナモノゾ》 空蝉《ウツセミノ》 與人《ヨヒト》【三三三二】
(340)高山と 海こそは 山ながら かくもあれ 海ながら しかも〔右○〕あらめ 人は 花〔右○〕ものぞ うつせみの 世ひと
 
右三首
 
たかやまと(高山與)
うみこそは(海社者) 高〔右○〕山の對語であるから、大〔右○〕海とあつて然るべしといふ説もあるが、此歌には七音句を用ひず、一母韻を交へた六音一句の外は、盡く五音及三音より構成せられ、此句の如きもウミトコソハというてもよいのであるが、特に五音に詠じたものゝやうである。
やまながら(山隨) 舊訓ヤマノマニとあるが、マニとマニマニ(ママニ)とは必しも同義ではなく、字を離れて聞くと、山ノ際《マ》ニと誤解せられるから、宣長に從うてヤマナガラと訓み【略】、山のママの意と解すべきである(第一九三頁)。次の海隨も同斷。
かくもあれ〔二字右○〕(如此毛規) 現の字は從來ウヅナヒ【舊訓】、ウツシキ【考】、ウツシク【略】と訓んで居るが、アレ即ちアリ(在)の已然形にあてた借字で、アレドといふ意なることは寸毫の疑もない。然らずば後句シカモアラメと對句にならぬ。
うみながら(海隨)
しかもあらめ(然直〔右△〕有目) 直〔右△〕は元暦校本及類聚古集に眞〔右○〕とあるを可とし、マはモと音通なるを以てモの音符(341)に代用せられたものと思はれる。――天治本に莫としたのも同じくモと訓ませたのであらう――アラメはアラメドといふ意で、屡々述べたやうに已然形の一用法である。六音句であるが、一母韻が混入して居るから、五音と同價値と見ることが出來る。
ひとは(人者) 三音一句。
はなものぞ(充〔右△〕者曾) 舊訓アタモノゾとあり、契沖は仇者の意と解したやうであるが、元暦校本、天治本、類聚古集等により、花〔右○〕の誤寫としてハナモノゾと訓むべきである【考】。花のやうなものといふ意で、散り易いことに譬へたものと了解せられる。
うつせみの(空蝉) 枕詞(第二〇八頁)
よひと(與人) 與を世の假字に用ひたのは異例であるが、其外には解讀のしやうがない。ヨノ〔右○〕ヒト、ヨヒトハ〔右○〕又はヨノ〔右○〕ヒトハ〔右○〕と四音乃至五音にも訓み得られるが、後世の句法には拘はらぬ奔放自在の歌であるから、舊訓に從うて三五五三音四句一聯をなすものと見るべきであらう。
【大意】 高山と海とは、山のままかうも在れど、海のままさうも在るだらうが、人は花(のやうにはかない)ものぞ、現身《ウツシミ》の世の人(は)
左註に右三首とあり、今までの例に從へば一群に屬するものとせねばならぬが、上述のやうに此三首は各自獨立の歌で、いづれも挽歌と見ることは困難である。最後の歌には人世の無常を(342)嘆ずる氣分は十分現はれて居るが、特に或一人の死亡を哀悼するものとも思はれぬから、挽歌と名づけることは不適當であらう。五音乃至三音を連用し、而も律調を失はぬ此一首は、記の吉野國主の歌及紀記の枯野の歌に匹偶すべきもので、長歌の句格が尚未だ固定するに至らなか
つた以前の作と思はれる。
 
3333 王之《オホキミノ》 御命恐《ミコトカシコミ》 秋津島《アキツシマ》 倭雄過而《ヤマトヲスギテ》 大伴之《オホトモノ》 御津之濱邊從《ミツノハマベユ》 大舟爾《オホフネニ》 眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》 且〔左△〕名伎爾《アサナギニ》、水手之音爲乍《カイノトシツツ》 夕名寸爾《ユフナギニ》 梶音爲乍《カヂノトシツツ》 行師君《ユキシキミ》 何時來座登《イツキマサムト》 大夕〔左△〕卜置而《ウラオキテ》 齋度爾《イハヒワタルニ》 枉言哉《マガコトヤ》 人之言鈎〔左△〕《ヒトノイヒツル》 我心《ワガココロ》 盡之山之《ツクシノヤマノ》 黄葉之《モミヂバノ》 散過去常《チリスギニキト》 公之正香乎《キミガマサカヲ》【三三三三】
大君の みこと惶み 秋つ島 大知をすぎて 大ともの 三津の濱邊ゆ 大舟に まかぢしじぬき 朝なぎに かいのとしつつ 夕なぎに 梶の音《ト》しつつ 行きし君 いつ來まさむと うら置きて いはひ渡るに まがことや 人のいひつる 我が心 つくしの山の もみぢ葉の 散過ぎにきと 君がまさかを
 
おほきみの(王之) 此オホキミは天皇の御事である(第四七頁)。
みことかしこみ(御命恐) ミコト(命)はミ(御)コト(言)の謂で、既に敬語であるから、之に御の字を冠する(343)のは蛇足であるが、命にはイノチといふ訓もあるから、萬一の誤讀を避ける爲、迎假字(第一五五頁)として用ひられたのであらう。
あきつしま(秋津島) 枕詞(第一〇三頁)
やまとをすぎて(倭雄過而) 此スギは經由の意ではなく、後《アト》にしてといふことであらう。新考説のやうに置の誤寫とするにも及ぶまい。
おほともの(大伴之) オホトモの原義は大部隊で、特に皇軍を意味するから【語誌】、ミイヅ(稜威)の約なるミツの枕詞として用ひられたのであらう。第四卷にも大伴ノ見ツトは云ハジ【五六五】と用ひた例がある。
みつのはまべゆ(御津之濱邊從) ミ(御)は美稱で、津は諸國に少くはないから、帝國の公定要津たる難波の津を特にミツと稱したのである。濱邊從とある所を見ると、大船は河身に進入せず、海岸に碇泊したものと思はれる。
おほふねに(大舟爾)
まかぢしじぬき(眞梶繁貫) マカヂは左右の※[木+虜]を意味し、之を装著することをヌキと稱したことは既述の通りで(第四三頁)、シジ(繁密)といふ語を冠したのは、大船なるが故に兩舷に多數を備へたことを表示する爲であらう。
あさなぎに(且〔右△〕名伎爾) 既出(第八八頁)。且〔右△〕は天治本及類聚古集に旦〔右○〕とあるを正しとする。
かいのと〔四字右○〕しつつ(水手之音爲乍) 舊訓カコノオトシツツとあり、略解はオトとコヱとは相通ずると説いて居(344)るが、人ゴヱを人オトとはいはぬ。其故に雅澄は第四卷【五〇九】及第十六卷【三六二二】の歌を例證としてカコのコヱヨビ〔二字右○〕ならざるべからすと斷定したのであるが、爲乍の二字を誤記と認むべき形跡がないから、假に古義訓が理に合うて居るとしても、添刪といはざるを得ぬ。新訓が更にカコのコヱシツツと改めたのは之によるものであらうが、カコ(水夫)の聲とカヂ(※[木+虜])の音とは同樣に取扱はれるべき性質のものではないから、尚一考を要する。水子は漢語に於ても※[竹/高]師を意味し、日本紀にも常にカコと訓ませてあるが、手は肢であるから、カエ(漕柄)即ちカイ(第四三頁)を水手と戯書したこともあり得る。若し然りとすれば當然カイノト〔四字右○〕シツツと訓むべきで、オト(音)のオは接頭語であるから、複合の際には省略せられることを例とする。――西本願寺本に水干〔右○〕とあるによれば、干は竿の省劃とみてカシ即ち水竿の謂かとも思はれるが、其は高い音を立てるものではないから、此場合には適當せぬやうである。
ゆふなぎに(夕名寸爾) 既出(第八八頁)
かぢのとしつつ(梶音爲乍) カヂが本來カイと同義語なることは既述の通りであるから(第四三頁)、※[木+虜]楫の音を立て立てといふ意を以上四句に分敍したに過ぎず、朝凪と夕凪との兩度に出船したのではない。此やうな修辭は歌謠にはめづらしからぬことである。
ゆきしきみ(行師君) 筑紫に行つた君といふ意であるが、後句にツクシといふ語を用ひんが爲に、こゝには之を省いたのである。
いつきまさむと(何時來座登) 何時歸り來たまふかといふ意。
(345)うらおきて(大夕〔右△〕卜置而) 夕卜《ユフケ》は置くものではないから(第二七七頁)、夕〔右△〕の字は※[手偏+讒の旁]入とすべきで、元暦校本及類聚古集に之なきを可とする。太占は紀にフトマニと訓してあるが、此大卜は其をいふものとも思はれぬから、大は補意的添字と見てウラオキテと訓むのであらう。舊訓オホユフケオキテとある外、ユフケオキテ【代】、オホウラオキテ【新訓】といふ訓もあるが、佳調といふことは出來ぬ。されば幣置而【考】【略】【古】と改め、或は夕卜問幸來座登幣〔六字右△〕置而の誤脱なりとする説【新考】もあるが、改字補字は出來る限り避けることにしたい。
いはひわたるに(齋度爾) イハヒの語例は上掲【三二九二】に見えた。ワタルは日を亙るといふ意で、卜を置いて其告に從ひ、齋戒して日を過して居るのにといふのである。
まがことや(枉言哉) マガはサガ(祥)と反對する概念を表示する語であるから【語誌】、マガコトは不祥の言即ち凶報を意味する。ヤは感動詞で、夫が筑紫に於て死亡したと人の我に言ヒツルハ凶報なるかなと痛嘆したのである。――先學は多くは此ヤを疑問助語と誤解したやうである――枉〔右○〕を狂〔右△〕とした本もあり、其に從へば宣長説の如くタハコトとも訓み得られるが、此は決して狂言綺語ではなく、事實に於て不幸が發生したのであるから、タハコト(妄語)といふことは出來ぬ。恐らくは狂は誤寫であらう。
ひとのいひつる(人之言鈎〔右△〕) 鈎〔右△〕は天治本に釣〔右○〕とあるを可とする。
わがこころ(我心)
つくしのやまの(盡之山之) 我心をツクシ(盡)に筑紫を言ひかけたのである。
(346)もみぢばの(黄葉之) 紅葉のやうにといふ意。
ちりすぎにきと(散過去常) 略解訓による。舊訓チリテスギヌトとあるが、此は人の死亡に況へたのであるから、口語の散り過ぎてしまうたに相當する過去完了格即ちチリスギニキトであらぬばならぬ。眞淵が句尾に云の字を補うて、チリスギヌトフ〔三字右△〕と改訓したのは、枉言哉のヤを疑問表示と見たからで、人之言釣が之を受けた述語であるとすれば、散過去常の次にも更に述語を必要とするからであるが、上述のやうに解讀すると、こゝに云を添へるのは蛇足である。
きみがまさかを(公之正香乎) 正香をタダカを改訓【略】することの非なるは既述の通りで(第二一二頁)、マサカは正體といふ意である。此句は人ノ言ツルの上にあるべきであるが、句法の關係上こゝに移したもので、新考の説のやうに此下に更に人ノ言ツルといふ一句を略したのではない。
【大意】勅命を畏んで大和を後にし、難波の濱から大船に多數の※[木+虜]楫を装著し、カイ、カヂの音を立てゝ(筑紫に向つて漕ぎ)去つた君は何時歸り來たまふかと、大卜を置いて(其誨に從ひ)齋戒して日を暮して居るのに、筑紫の山の紅葉のやうに散つてしまうたと、君の正體を人の告げたのは不祥の報道であるよ
 
反歌
 
(347)3334 枉言哉《マガコトヤ》 人之云鶴《ヒトノイヒツル》 玉緒乃《タマノヲノ》 長登君者《ナガクトキミハ》 言手師物乎《イヒテシモノヲ》【三三三四】
まがことや 人のいひつる 玉の緒の ながくと君は いひてしものを
 
右二首
 
まがことや(枉言哉) 此ヤは間投詞と見るべきである。
ひとのいひつる(人之云鶴) 句末に感動詞を添へて聞くべきで、凶言ヲ人ノ言ヒツルヨといふ意である。此二句は長歌にも用ひられて居るが、少しく表現を異にすることに注意すべきで、其は末句の語勢によるものである。
たまのをの(玉緒乃) ナガ(長)の枕詞で、長春日乎【一九三六】、長命之惜雲無【三〇八二】等とつゞけた例もあるが、タマには靈魂の義もあるから、イキノヲ〔二字右○〕(第一一七頁)に準じて生命といふ意とも解せられ、此も兩方に言ひかけたものと思はれる。
ながくときみは(長登君者) 生命長くといふと同時に、妹背の縁の永續の意をも含めたのであらう。
いひてしものを(言手師物乎) テシといふ複合助動詞を用ひたのは、テといふ語分子を添付することによつて表示せられる事態が過去に起つたからで、モノヲは豫期に反することを表示する接續詞であるから、初二句にかへつて讀むべきである。
【大意】 凶報を人がいひ聞かせたよ。生命も妹背の縁も長くと君はいうて居たものを
 
(348)3335 玉桙之《タマホコノ》 道去人者《ミチユクヒトハ》 足檜木之《アシヒキノ》 山行野往《ヤマユキヌユキ》 直海《ヒタウミノ》 川往渡《カハユキワタリ》 不知魚取《イサナトリ》 海道荷出而《ウミヂニイデテ》 惶八《カシコシヤ》 神之渡者《カミノワタリハ》 吹風母《フクカゼモ》 和者不吹《ノドニハフカズ》 立浪母《タツナミモ》 疎不立跡《オホニタタズト》 座浪之《シキナミノ》 立塞道麻《タチサフミチヲ》 誰心《タガココロ》 勞跡鴨《イタハシトカモ》 直渡異六《タダワタリケム》【三三三五】
3336 鳥音之《トリノネノ》 所聞海爾《キコユルウミニ》 高山麻《タカヤマヲ》 障所爲而《ヘダテトシテ》 奥藻麻《オキツモヲ》 枕所爲《マクラトナシテ》 蛾葉之《ヒヒルハノ》 衣浴〔左△〕不服《コロモダニキズ》爾〔右△〕 不知魚取《イサナトリ》 海之濱邊爾《ウミノハマベニ》 浦裳無《ウラモナク》 所宿有人者《ヤドレルヒトハ》 母父爾《オモチチニ》 眞名子爾可有六《マナコニカアラム》 若蒭之《ワカクサノ》 妻香有異六《ツマカアリケム》 思布《オモヒシク》 言傳八跡《コトツテムヤト》 家問者《イヘトヘバ》 家乎母不告《イヘヲモツゲズ》 名問跡《ナヲトヘド》 名谷母不告《ナダニモツゲズ》 哭兒如《ナクコナス》 言谷不語《コトダニトハヌ》 思鞆《オモフカラ》 悲物者《カナシキモノハ》 世間有《ヨノナカニアリ》【三三三六】
玉桙の 道行く人は あしひきの 山行き野《ヌ》行き ひたうみ〔四字右○〕の 川ゆき渡り いさなとり 海道にいでて かしこしや 神のわたりは 吹く風も のどには吹かず 立つ波も おほに立たずと しき波の 立ち塞《サ》ふ道を たが心 いたはしとかも 直《タダ》わたりけむ
鳥の音の 聞ゆる海に 高山を へだちとなして 沖つ藻を 枕となして ひひる羽の 衣《コロモ》だに着ず いさなとり海の濱邊に うらもなく やどれる人は 母《オモ》父に 愛子《マナコ》にかあらむ 若草の 妻か(349)ありけむ 思ひしく 言つてむやと 家とへば 家をもつげず 名をとへど 名だにもつげず 泣く子なす 言だにとはぬ 思ふから〔二字右○〕 かなしきものは 世の中にあり
 
 此は二首として分載せられて居り、後掲或本歌の反歌の後に右九首とある數によるも、編者によつて別個の歌と見なされたことは疑がないが、【三三三五】だけでは獨立した挽歌にはならぬから、【三三三六】と并せた一篇の長歌の前齣と見なすべきで、其は問答體の外にも若干例のあることである【三二三四】。各齣の末に一長句を配したのは此歌形の特色で、段落を明にせんが爲に外ならず、其故を以て各個獨立の歌なりとする論據にはならぬ。さればこそ或本の歌には之を一首にまとめてあるのである。其故にこゝには兩歌を一首として續けざまに説述する。
 
たまほこの(玉桙之) 枕詞(第一六八頁)
みちゆくひとは(道去人者)
あしひきの(足檜木之) 枕詞(第一六九頁)
やまゆきぬゆき(山行野往)
ひたうみ〔四字右○〕の(直海) 舊訓のヒタスは假令次句の川をそへて讀むとしても意をなさぬので、契沖はタタミカハと訓し、眞淵は水激〔二字右△〕の誤寫としてミナギラヒと改めた。略解は眞淵の非なりとした直渉《タダワタリ》説を採り、古義は直渡〔右△〕の誤寫とし、新訓にはタダウミニとある。私も或本の歌に潦《ニハタツミ》川往渉とあるに準じて庭〔右△〕直海の庭の字を脱したのではないかと考へ、ニハタツミといふ訓を與へたことがあるが【訓詁】、其後諸校本を檢覈する(350)に、誤脱の存した形跡は見えぬから、前日の輕率を悔い、更に良訓を求めることに腐心した結果、ヒタウミノと唱へたのであらうと推定し得た。此は次のイサナトリ海に對して川の枕詞と思はれ、ヒタヲ(頓丘)といふ語例【神代紀】によればヒタウミといふ語も存立し得た筈で、ヒタに直の字をあてた例は上掲の如く第五卷【八九二】の歌にもあるが(第二一五頁)、此は借字で、ヒタウミは俗語でいへばピタ一面の海である。ウミの原義は大水であるから(第六四頁)、漫々たる大湖のやうにといふ意を以てヒタウミノを川の枕詞としたことは有り得べきである。
かはゆきわたり(川往渡)
いさなとり(不知魚取) 海の枕詞である。イサナは本集には勇魚又は鯨名の如くも表記せられて居るが、鯨鯢を意味するのではなく、イソナ(磯菜又は磯魚)の轉呼であるから、淡海《アフミ》の海【一五三】とも濱邊【九三一】ともつゞけられたので、壹岐風土記(殘簡)によれば、俗云v鯨爲2伊佐1とあり(萬葉抄所引),勇魚は鯨の謂と了解せられて居るが、琵琶湖に鯨魚が棲息したことは有り得ず、單にウミ(海)といふ語の縁によつて用ひたといふ冠辭考の説は強辯で、近江朝のころには枕詞は一品詞とは認められて居なかつたのであるから其やうな濫用は許されなかつた筈である。――允恭紀の歌に異社儺等利〔右○〕と假字書せられて居るので、從來取〔右○〕をトリと訓して居るが、其は「磯菜取る人」といふ意を以て特に名詞形を用ひたものとも了解せられるから、此場合の如きは或はイサナトル〔右○〕と唱へたのかも知れぬ。本集には常に取の字をあて、音符を以て表記した例がないから、トリと訓まねばならぬと斷定することは出來ぬ。
(351)うみぢにいでて(海道荷出而) 海上をウナ〔右○〕カミ、海原をウナ〔右○〕ハラといひ、齊明天皇の御製には海下リを于那〔右○〕倶娜梨と假字書してある所を見ると【紀】、之もウナ〔右○〕ヂと唱へたのかも知れぬ。
かしこしや(惶八) 萬葉考による。舊訓カシコミ〔右△〕ヤとあり、略解はカシコキヤと改めたが、此は次句以下立チ塞フ道ヲまでの事實をいひ、神だけにかゝるのではないから、カシコミ〔右△〕といふべからざることは勿論、連體法を用ひることも決して穩當とはいへぬ。ヤは感動詞で、口語に於ても此場合にはオソロシヤといふのである。
かみのわたりは(神之渡者) 神靈の領《ウシハ》く渡航海面の謂で、第十六卷【三八八八】に神之門とあると同意である。此歌も亦或本の傳のやうに、備後國神島(今の備中國小田郡神島)で詠じたものとすれば、備後の鞆津《トモノツ》から此島に渡航する海面を神ノワクリと稱へたのかも知れぬ。
ふくかぜも(吹風母)
のどにはふかず(和者不吹) ノドはナダラカ(和平)の語幹ナダの轉呼で、風が荒いといふことを消極的に表現する爲にノドニハ吹カズというたのである。
たつなみも(立浪母)
おほにたたずと(疎不立跡) 舊訓はよる。オホはオホロカ(疎略)の語幹であるから、オホニ立タズは念入に立つといふことの消極的表現である。此にトをそへたのは此助語がテと通ずるからで、知ラズテを知ラニト〔右○〕、寢ズテ〔右○〕を寢ズト〔右○〕の如く稱へた例は紀記及本集の歌にも少くはない(要録九八〇、一〇〇〇頁)。然るに契沖(352)以來この跡の字を次句に移し、疎に助語ハを訓みそへてオホニハ〔右△〕と改めたが、疎不立に對して前句は和者〔右○〕不吹と表記し、特に者〔右○〕の字を挿入して居ることによつても、此は單にオホニと唱へられたものとせねばならぬ。立タズト(テ)とあるのは次句に接續する爲である。
しきなみの(座浪之) 舊訓クカナミノとあるが、座をタカと訓むのは聊か無理であるから、眞淵訓に從うてシキナミと唱ふべきである。但し此學匠の説の如く跡座が第二卷【二二〇】に跡位《シキ》浪立とある跡位と通ずる爲ではなく、――此も舊訓アトヰナミタチとあるが、跡はフムとも訓む字であるから(第八四頁)、蹈襲の意を以て此二字をシキの假字にあてたのであらう。跡をアトの意とし、之に位の字を連ねるとシキの義を生ずるとする説は牽強である――尻にシクなどいふシクには座の義があるからである。アトヰナミ【代】又はトヰナミ【新訓】などいふ訓は、上記の如く誤つた句讀に基くものであるから論ずるに足らぬ。
たちさふみちを(立塞道麻) 略解訓による。舊訓フサゲリ(フサゲルの誤記か)ミチヲとあり、元暦校本以下立〔右○〕の字を除いた本もあるが、前句シキの縁語であるからタチは存置する方がよい。ミチは勿論海路を意味し、立塞ク道ナルヲ〔右○〕といふ意である。
たがこころ(誰心)
いたはしとかも(勞跡鴨) 眞淵はイト〔右○〕ホシと改訓して「故郷人の待ちわぶらんを勞しみていそぐまゝに此重浪の立時に歩わたりしけん」といふ意と釋したが、其意とするには聊か言葉が足らぬのみならず、タガ(誰)といふべき筈がない。案ずるに勞は借字で、イト(甚)をイタとも稱へるやうに(第一九二頁)、イト、イタ(353)は相通であるから、イトハシ(厭)を意味し、世を厭うて歟といふと同意を以て、何人の心を厭ハシトカモというたので、カモは疑問助語である。
ただわたりけむ(直渡異六) 異をケの假字に用ひたのは上掲【三三二八】の歌に於て説明した理由に基く。タダワタリは新考説の如く海路直航の意であるが、歌に詠まれた地點を神島とすれば、其は當航路の寄泊地ではないから事實は漂著であつたかも知れぬ。――以上は上記の如く一首の歌の前段である。然るに眞淵が次の反歌の一つをこゝに引上げて、獨立した一篇の形式を備へしめようとしたのは由なき賢しらと言はねばならぬ。
とりのねの(鳥音之) 之の字を不〔右△〕の誤として次句に移すべしとする眞淵説に從うてトリガネモ〔右△〕と改訓したものもあるが【略】【古】、左記の如く原字舊訓を正しとする。
きこゆるうみに(所聞海爾) 眞淵は「人氣遠き磯などには鳥もすまず、魚だになし」として、上句の之の字を不〔右△〕と改め、此句につけてキコエヌ〔右△〕海と訓み、新訓以外の諸註は皆之に從うてゐるが、遠き異國のはてはいざ知らず、瀬戸内の島嶼海岸に魚鳥の棲息せぬやうな處は一つもない。ことに此地は高山を負うて居るとあるのであるから、人氣の少い濱邊まで野禽の聲が聞えたのは當然で、鴎の如き水禽が腐肉を啄む爲に來聚したことも有り得る。此一事を見ても國學者と稱するものが、如何に事理に疎かつたかといふことが思ひやられるのである。
たかやまを(高山麻)
(354)へだち〔右○〕となして(障所爲而) 障は後句の枕の對語であるから、品物名なることは疑なく、ヘダ(隔)シ(爲)の意を以て帷帳の類を呼稱したのであらう。東歌にも床ノ敝太思と用ひた例があり【三四四五】、ヘダチは其音便と思はれる。次の長歌に部立〔右○〕丹置而とあるのもヘダチ〔二字右○〕の假字であらねばならぬ。之を下二段活に轉用してヘダテといふ他動詞をも派生したが、舊訓のやうにヘダテというては阻隔の義と誤たれる處がある。高山は實際に於て帷張に代用せらるべきものではないから、障《ヘダチ》と見なし〔二字右○〕てといふ意と解すべきで、所爲と表記したのも障ニシ〔二字右△〕テと訓み誤らざらんが爲の用意に外ならず、シ(爲)だけでは行爲〔二字右○〕の義とも了解せられ作爲〔二字右○〕(factitive)の意が十分に現はれぬからである。此場合のトは「流るる川を花ト見て」【古今】などいふトと用法を同うし、ニと言ひかへることは出來ぬ。然るに眞淵が上掲の異傳に準據し、漫然ニと改訓して以來之に盲從するものが多く、所〔右○〕の字を丹〔右△〕の誤寫としてヘダテニシ〔三字右△〕テと訓み改めたものすらあるが【新考】、其はヘダテとヘダチ(ヘダシ)との混同が累をなしたので、帷帳の謂とすればヘダチトナ〔三字右○〕シテといふか、然らずは全然空想的描寫法を以てヘダチニ置キ〔四字右○〕テと敍するの外はない。但し此歌に於ては前者を可とすること上述の通りである。
おきつもを(奥藻麻) オキ(沖)は潤色で、邊ツ藻であつても事に於て異りはないのであるから、單に藻をいふものと解すべきである。
まくらとなして(枕所爲) マクラニ〔右△〕ナシテ【略】【古】又はマクラニシ〔二字右△〕テ【新考】と訓むことの非なるは上記の通りで、眞淵が或本の歌により枕丹卷而と改記したのは輕率の譏を負かれぬ。其は後記の如く※[さんずい+内]潭《イリフチ》を枕にし(355)たことをいひ、部立《ヘダチ》丹置而の對句として用ひられたのであるから、其半隻のみを此に移すことは出來ぬ。爲の字の下に而を脱したか、或は上句障所爲而〔右○〕の而を※[手偏+讒の旁]入とすべきで、類聚古集には之を除いてある。
ひひるはの〔五字右○〕(蛾葉之) 次句の衣の字を此句につけ、ガハノキヌとした舊訓の非なるは云ふまでもないが、葉〔右○〕を糸〔右△〕の誤寫として、マユノキヌと訓むべしとする春海説【略】並にアキツバノ【考】【新考】――蛾を蜻又は※[虫+廷]の誤記とする――又はヒムシバノ【新訓】といふ訓もまた首肯することが困難である。此は必しも薄絹をいふのではないから、繭の衣《コロモ》又はアキツバと形容することを要せず、仁徳紀の歌のヒムシの衣はヒムシ(蛾)にムシ(※[台/木]麻)衣をいひかけたのであるから、此場合の例にはならぬ。案ずるに蛾は和名抄に比々流と訓せられて居るから、葉は借字としてヒヒル羽と解讀し、蛾翅の如きといふ意を以て、僅に身を掩ふに足るといふことの比況と解すべきであらう。此死人は其衣裳を波に攫はれたか、若くは漁人に奪はれて、裸體で偃臥して居たものと思はれる。
ころも〔三字右○〕だにきず(衣浴〔右△〕不服爾〔右△〕) 上記の誤訓をうけて衣の字を除き、浴をススギ【舊訓】又はアラヒ【代】としたのは、古義説の如く無稽といふべきで、浴〔右△〕は類聚古集に谷〔右○〕とあるに從ひ、助語ダニの假字とすべきであるが、尚キズニといふのは此時代の語法ではない。打消ズの分詞は本初ズテばかりで、之を助語のニと連ねたズニと混同するやうになつたのは遙に後世のことに屬し、雅澄が例に引いた本卷【三二九七】の眠不睡爾《イモネズニ》はイモネズといふ複合動詞の一形態に格助語ニ〔四字右○〕を連ねた一副詞形で、分詞ではないから、動詞を修飾するけれども、之と連用することは出來ぬのである。されば爾〔右△〕の字は後人が賢しらに添付したものとして之を(356)削るべきで、從つて衣はコロモと訓んで標準語音數に合はせねばならぬ。
いさなとり(不知魚取) 前出。一首中に同じ枕詞を二つ重ねて用ひるのは好もしからざることのやうであるが、古謠には右の如き例も絶無ではなく(第三〇九頁參照)、攻の或本の歌にもシキナミ及カシコキといふ語が重複して居る。
うみのはまべに(海之濱邊爾)
うらもなく(浦裳無) ウラには裏又は心裏といふ意もあるので、從來何心ナク若くは無心ニと解釋せられて居るが、此場合は其やうな意味を以て修飾するに適せず、眼前死屍を見た作者の氣もちを表現するものであるから、少くとも若干の感傷的主觀があらはれねばならぬ。案ずるに此ウラはウラギ(歡喜)、ウララカ(朗々)等の語幹で、ウラモナクは其反對を意味し、之をイラと巓呼してイラナケクと用ひた例が稚郎子皇子の御歌にもあるから、此も佗シクといふ程の意に用ひられたものとせねばならぬ。さればこそ或本の反歌にはツレモナク偃有《コヤレル》公賀とあるのである――ウラモナクの語例は第十二卷(二ケ所)及十四卷にもあり、其等は無心又は無邪氣と解してもほゞ意が通ずるので、從來人の注意を惹かなかつたのであるが、ワビシクといふ語にかへて讀むと歌の哀さが益るやうである。即ち「ウラモナクあるらむ兒ゆゑ戀ひわたるかも」【二九六八】は佗しがつて居ようと思ふが故に戀ひくらすといふ意で、「ウラモナクいにし君」【三一八〇】は佗しく立去つた男をいひ、「ウラモナク吾が行く道に青柳のはりて立てれば物思ひづつも」【三四四三】は結句から見ても、無心に歩み行く途中に突然心境に變化を來したといふのではなく、侘しく足を運ぶ道の邊の青(357)柳を見て、情緒がかき亂れたと了解する方がよい。
やどれるひとは(所宿有人者) 略解訓による。舊訓ネテアルヒトハとあるが、所の字の用例によれば寐ル、寐《ナ》ス、寐《ネ》ラユとは訓み得るけれぜも、ネテを所宿と表記すべき理由はなく、――上記ナシを所爲と書いたのは特例である――イネタル【古】と訓することも、新考のやうに所〔右○〕を伊〔右△〕の誤記とせぬ限り不可能事である。其故に眞淵は或本歌に偃爲となるに準じてフシタルとよみ、私も曾てはコイタ〔三字右△〕ルといふ試訓を與へて見たが【訓詁】、字によれば尚ヤドレルであらねばならぬ。砂上に横臥することをヤドルといふのは不合理のやうであるが、上に高山を障となし、奥藻を枕となしたとあるから、海之濱邊を宿と見たてたのであらう。
おもちちに(母父爾) 舊訓ハハチチとあるが、本集假字書例には知知波波または意毛知知とのみあつて、波波知々は見えぬから、此も略解訓の如くオモチチと稱へたのであらう。父母にとりてはといふ意である。
まなこにかあらむ(眞名子爾可有六) マナコは愛子の謂であるが、マコとも用ひた例があるから【四四一四】、目之子《マナコ》の義から出たものと思はれる。メ〔右○〕デ(愛賞)、ホメ〔右○〕(褒賞)の原義も目出《メデ》、秀目《ホメ》である。
わかくさの(若蒭之) ツマの枕詞である。若草は其芽が尖状を呈して居るので、ツム(尖)をツマにいひかけたのであらう。若草|摘《ツム》といふ縁によるとする説もあるが、常に助語ノを添へてある所を見ると、恐らくはさうではあるまい。
つまかありけむ(妻香有異六) 前句には愛子ニカアラムといひ、此はアリケムといふ過去時に於ける末來格を以て表現したことに注意を拂はねばならぬ。何人も兩親のないものはないから、其愛子であらうと推量(358)することは差支はないが、妻の有無は想定の限りではないので、有つたかも知れぬといふ意味を以てアリケムというたのであらう。カはいづれも感動詞である。
おもひしく(思布) オモハシキ【舊訓】又はオモホシキ【考】と訓むは非。此は死に臨んで心中に思うたことといふ意であらねばならぬから、思ヒシク(第四五頁參照)と訓ませる爲に思布の二字を用ひたのである。――第十七卷【三九六二】に於母保之伎許登都底夜良受とあるのは、思はしい音信もせぬといふ意で、此と同一視することは出來ぬ。
ことつてむやと(言傳八跡) 傳言しようかといふ意。上に引用した家持の歌にはコトツテは音信の意の名詞として用ひられたのであるが、此は複合動詞の一活用形憩であることに注意すべきである。
いへとへば(家問者)
いへをもつけず(家乎母不告) 眞淵がノラズと改訓したのは誤りで、上記【三三一八】に述べた理由により舊訓の如くツゲズとあらねばならぬ。
なをとへど(名問跡)
なだにもつげず(名谷母不告)
なくこなす(哭兒如) 泣ク兒即ち嬰兒のやうにといふ意で、次句の枕詞である(第二三四頁參照)。
ことだにとはぬ(言谷不語) 舊訓コトダニツゲズとあるが、質問に答へぬといふことではなく、物がいへぬといふ意であるから、言と語とをあはせてコトトフと訓まねばならぬ。上掲【三三二四】にも言不問|木雖在《キニハアレドモ》(359)とあり、記の本牟智和氣傳説には此皇子の發語不能であつたことを、マコトトハズと表現して居るのである。トハズとするのは【考】尚完全ではなく、此處は思想の一段落で、且詠歎の情を寓せねばならぬ所であるから、物を言はぬことよといふ意を以てコトダニトハヌ〔右○〕と訓むべきである。
おもふから(思鞆) 新考訓による。但し柄〔右○〕を誤つて鞆としたのではなく、神代紀及釋紀には高鞆をタカカラと旁訓し、舊事本紀にも同じ訓が與へてあるのである。鞆をカラと稱へる理由は神代篇(三−二七頁)に論じた通りであるが、此は借字で見ルカラ、聞クカラのカラに同じく、思へばといふ程の意である。――以下三句は一聯をなし、一般的感想を述べたもので、長一句の代りに片歌乃至短歌形を以て終結するのは、古い形式に屬し、或は其が分離して反歌となつたのではないかと思はれる(歌學一三一頁參照)。
かなしきものは(悲物者)
よのなかにあり(世間有) 略解訓による。奮訓ヨノナカナレヤ〔右△〕とあり、眞淵はヨノナカニゾ〔右△〕アルと改訓したが、ヤ又はゾを訓みそへることは此字面に於ては困難であり、世ノ中ナラシとした佐佐木訓は如何なる論據に基くのか知らぬが、口語に直しても「思へば悲しいものは世の中であるらしい〔三字右○〕」というては語勢が摧けるから、此は世の中であると言ひ切らねばならぬ。
【大意】道行く人は山を行き野を行き川を徒渉して海路に出で、恐ろしや神の渡(と稱する海面)は吹く風も穩ではなく、立つ浪も念入で、折重る波の立塞ぐ道であるのに、何人の心を厭うて直航したのであらうか(第一齣)
(360)鳥の音《ネ》の聞える海に、高山を隔障と見なし、(打上げる)沖つ藻を枕と見なして、蛾の翅《ハネ》ほどの衣だに著ず、海の渡邊に佗しく宿つて居る人は、父母にとつては愛子であらう。女房があつたかも知れぬ。(臨終に)思うたことを傳言してやらうかと、家を問うても家を告げず、名を問うても名を名乘らず、嬰兒のやうに物もいはぬことよ」思へば悲しいものは世の中である(第二齣)
右の如く説明すると、此一篇(二齣)が或海濱に於て溺死者を見て詠じた歌なることは明白で、之を二首に分けると不具になるけれども、一連として見る時は整然たる敍事詩である。後掲調使首の作と同一の歌が二樣に傳へられたものと思はれるが、雅澄等のいふが如く後者を以て原作と見ることが出來ぬと同時に、之を訛傳と斷定することも困難である。口誦によつて傳へられた古歌には若干の脱漏もあり、傳誦者の追補もあり得るから、歳月を經るに從ひ兩傳の間に少からざる差異を生じたのであるが、其は一面に於ては此歌が相當に古いものであることの證據になるのである。但し反歌として擧げられた六首は慥に後人の追詠で、同じ作者の口から出たものとは思はれぬ。ことに此長歌は上記の如く末尾に片歌一首が添加せられて居るのであるから、更に反歌を附加することは形態の上からいうても蛇足で、其が机上の構想たることは歌詞によつても分明である。恐らくは第五卷の松浦河の吟詠及佐用媛の歌と同じく、文人墨客が聞(361)傳へて追和したのであらう。若し兩異傳中いづれを可とするかといへば、私は上掲の一篇を採ることに躊躇せぬ。其理由は後述の通りである。
 
反歌
 
3337 母父毛《オモチチモ》 妾毛子等毛《ツマモコドモモ》 高高二《タカタカニ》 來跡待異六《コムトマチケム》 人之悲沙《ヒトノカナシサ》【三三三七】
おも父も 妻も子どもも 高々に 來むと待ちけむ 人のかなしさ
 
おもちちも(母父毛)
つまもこどもも(妻毛子等毛) 長歌には妻カアリケムとあるのみで、必しも妻帶者であつたと斷定して居らぬのに、妻の外に子供まで添へたのは、想像に想像が加はつた結果で、此やうな針小棒大は我々の日常生活に於ても屡々見聞する所であるが、原歌と同時の作でないことの一證とすべきである。
たかたかに(高高二) 語義は高ク高クといふに同じく、第十二卷【三〇〇五】に十五日出之《モチノヨニイデニシ》月乃高高爾君乎|座而何物乎加將念《イマセテナニカオモハム》とあるのは、月のやうに仰いで君を招請した以上、何をか思はんやといふ意であらねばならぬから、高々を仰ぎ望む意なりとした宣長説は、不當ではないが、此は其ほど重々しい意味ではなく、本集【七五八】には高高二吾念妹ともあり、其他【二八〇四】【二九九七】【三六九二】【四一〇七】の例によるも、マツ(362)(待)といふ語の修飾に用ひられたに過ぎぬから、現代語のセイゼイ(丈々)といふ程の意であらう。セイも亦身の背丈即ちタケ(タカ)の謂である。
こむとまちけむ(來跡待異六) コムは歸り來むといふ意、マチケムは待つただらうといふことである。
ひとのかなしさ〔人之悲沙) カナシは感動詞のカナ及願望表示のカナ(區別の爲通例ガナと濁つて發音する)の形容詞形で、原義により感傷的にも愛惜の謂にも用ひられる。前者から「悲」の義を生じたのであるが、此は寧ろアハレ(哀)といふ意と了解すべきである。サは然《サ》又は状《サマ》の意の接尾語で、形容詞的名詞を構成する語分子であるが、此形に於ては述語としても用ひられ、此例でいへば悲しいことよといふ意である。
【大意】 父母も妻も子供もせいぜい歸來を待つたであらう。(其待たれる)人の哀さよ
 
3338 葦檜木乃《アシヒキノ》 山道者將行《ヤマヂハユカム》 風吹者《カゼフケバ》 浪之塞《ナミノサヤラフ》 海道者不行《ウミヂハユカジ》【三三三八】
あしひきの 山道は行かむ 風吹けば 浪のさやらふ 海道は行かじ
 
あしひきの(葦檜木乃) 枕詞(第一六九頁)
やまぢはゆかむ(山道者將行) 山道をば行かうといふ意。
かぜふけば(風吹者)
なみのさやらふ〔四字右○〕(浪之塞) 塞をフサゲル【舊訓】、タチサフ【考】、サヘヌル又はタチサフル【略】等と訓したもの(363)もあるが、立の字脱とし、若くは之を立の誤記とするのは【考】【略】、臆測に過ぎず、此はフサゲル(繼續格)又はサヘヌル(完了格)といふ時格を用ひる場合ではなく、現代語ならばササフル【新訓】又はフサグといふべきで、之に相當する古言はサヤラフである。語例は第四卷【六九九】にもあり(舊訓サハラヒは非)、サヤルの進行格である。
うみぢはゆかじ(海道者不行) 海道はウナジとも訓み得ること上述の通りである。
【大意】 山道を行かう。風が吹くと浪の塞ぐ海路は行くまい
 
或本歌
 
備後國神島濱(ニ)調使首見v屍作歌一首并短歌
 
此前書は眞淵も注意したやうに、本卷の書例には反するが、此形式を以て或本に記録せられて居たのを、其まゝ轉載したのであらう。調使首といふ姓は他に所見がないが、必しも調首【天武紀】、調連又は調|曰佐《ヲサ》【姓氏録】と同氏ではなく、徴税使〔右○〕の上官といふ意を以て呼稱したことも有り得る。百濟滅亡前までは、徴税のため朝廷から調告士と稱する官吏を派遣せられて居たやうであるから【鷄體紀】【欽明紀】、此も同樣の官人が朝鮮への往復の途次、故あつて此島に寄泊し、目撃した事實を詠じたのかも知れぬ。若し然りとすれば少くとも近江朝以前の人とすべきで、天武−元明朝に奉仕した調首(連)淡海【紀】【續紀】とは同一人ではあるまい。然るに之に準據(364)して使〔右○〕を衍字とし【古】【新考】、或は首の字を主と改記したのは【考】早計で、坂上系譜によれば一族中に高向調使〔二字右○〕、檜前調使〔二字右○〕、民使〔右○〕主首〔右○〕といふ姓も見えるから、調使首と名乘るものがあつたとしても奇とするに足らぬ。神島は上述の如く備中國小田郡の一島で備後境に位し、鞆津に面して居るから、備後の神島とも呼ばれたのであらう。
 
3339 玉梓之《タマホコノ》 道爾出立《ミチニイデタチ》 葦引乃《アシヒキノ》 野行山行《ヌユキヤマユキ》 潦《ニハタツミ》 川往渉《カハユキワタリ》 鯨名取《イサナトリ》 海路丹出而《ウミヂニイデテ》 吹風裳《フクカゼモ》 母〔左△〕穗丹者不吹《オホニハフカズ》 立浪裳《タツナミモ》 ※[竹/昆]跡丹者不起《ノドニハタタヌ》 恐耶《カシコキヤ》 神之渡乃《カミノワタリノ》 敷浪乃《シキナミノ》 寄濱邊丹《ヨスルハマベニ》 高山矣《タカヤマヲ》 部立丹置而《ヘダチニオキテ》 ※[さんずい+内]潭矣《イリフチヲ》 枕丹卷而《マクラニマキテ》 占裳無《ウラモナク》 偃爲公者《コヤセルキミハ》 母父之《オモチチノ》 愛子丹裳在將《マナコニモアラム》 稚草之《ワカクサノ》 妻裳將有等《ツマモアラムト》 家問跡《イヘトヘド》 家道裳不云《イヘヂモイハズ》 名矣問跡《ナヲトヘド》 名答裳不告《ナダニモツゲズ》 誰之言矣《タガコトヲ》 勞鴨《イタハシトカモ》 腫浪能《シキナミノ》 恐海矣《カシコキウミヲ》 直渉異將《タダワタリケム》【三三三九】
玉梓の 道にいで立ち あしひきの 野ゆき山ゆき にはたつみ 川ゆきわたり いさなとり 海路にいでて吹く風も お〔右○〕ほには吹かず 立つ波も のどには立たぬ かしこきや 神の渡の しき波の よする濱邊に 高山を へだちにおきて いりふちを 枕にまきて うらもなく こやせる君は 母父《オモナチ》の 愛子にもあらむ わかくさの 妻もあらむと 家とへど 家路もいはず 名をと(365)へど 名だにもつげず 誰がことを いたはしとかも しき〔二字右○〕なみの かしこき海を ただ渡りけむ
 
たまほこの(玉桙之) 枕詞(第一六八頁)
みちにいでたち(道爾出立) 旅行に出立ちといふ意であらう。
あしひきの(葦引乃) 枕詞(第一六九頁)
ぬゆきやまゆき(野行山行) 前の長歌には山行野往とある。
にはたつみ(潦) 續冠辭考別記(服部高保著)の説に從ふ。此語を流ルの枕詞に用ひた例が本集【一七八】【四−六〇】【四二一四】に見えるから、カハ(川)の冠辭にも轉用せられたことは有り得べきである。潦は和名抄に雨水也として爾八太豆美と訓し、説文に雨水大※[白/ハ]とあるが如く、降雨汎濫を意味し、之をニハタツミと稱へるのは、ニハ(庭)とタツミ(竪水)との義によるもので、ニハは廣く平坦なる地面をいひ、タツミは雨水の意なるが故に、サハタツミ【二七九四】即ち谿流《サハ》の増水に對して、地上の汎濫をいふのである。次句の川の字を引上げてヒタスカハとし【舊訓】、或は字を改めて、水激《ミナギラヒ》【考】、直渉《タダワタリ》【古】と訓むことの非なるは、既述の通りである。
かはゆきわたり(川往渉)
いさなとり(鯨名取) 枕詞(前出)
うみちにいでて(海路丹出而) 前出。但し此歌に於ては十三句を隔てゝ、偃爲公につゞくのである。
ふくかぜも(吹風裳) 前の長歌【三三三五】には此前に惶シヤ神ノ渡ハといふ二句がある。
(366)おほにはふかず(母〔右△〕穗丹者不吹) 舊訓による。之によれば母〔右△〕はオの假字であらねばならぬが、オモ(母)をオと略稱することは出來ぬから、恐らく誤寫であろう。――眞淵は於と改記したけれども、忍〔右○〕でも凡でも有り得る――前の歌には和〔右○〕者不吹とあり、元暦校本は母穗の代りに※[竹/昆]跡と表記して居るので、新考はノド〔二字右△〕ニハフカズと改訓したが、次にもノドといふ語が用ひられて居るから、此歌ではノドとオホとが入れ替つたものと見るを可とする。
たつなみも(立浪裳) 前出
のどにはたたぬ(※[竹/昆]跡丹者不起) ※[竹/昆]は篦の略字なる〓の變體で、箆の字は我國に於てはノの假字に用ひられて居る。此も前の長歌には踈不立跡とあり、オホとノドが入り替つて居る。從來タタズと訓んで居たが、連用法と見ることも終止法とすることも出來ぬから、新考説の如くタタヌと稱へねばならぬ。
かしこきや(恐耶) 此句及次句は【三三三五】とは排列の序次を異にし、シキ波の限定語として用ひられて居るのであるから、當然カシコキ〔右○〕ヤとよみ、連體法と了解せねばならぬ、ヤは間投詞である。
かみのわたりの(神之渡乃) 前の長歌と句末の助語を異にすることに注意せねばならぬ。
しきなみの(敷浪乃) 前出
よするはまべに(寄濱邊丹) 【三三三六】に海之濱邊爾とある句に相當する。【三三三五】にはシキ浪之の次に四句があるが、此歌に於ては之を終尾に移し、【三三三六】の初頭二句をも除いて居る。其は齣の區分を除いて一連の長歌に組立てられた爲であらう。
(367)たかやまを(高山矣)
へだちにおきて(部立丹置而) 部立をヘダテと訓むことの非なるは上述の通りである。此は前の歌と異り、置而といふ述語を用ひて居るのであるから、作者の空想から出た誇張的描寫とせねばならぬ。
いりふちを(※[さんずい+内]潭矣) 童蒙抄の訓による。潭は字書に水深處也とあつて、國語のフチに當り、※[さんずい+内]は水曲の意であるから、入江をいふものと了解せられる。他に用例がないので、潭を※[さんずい+單](水中の沙渚の意)の誤としてウラスと訓み【宣長説】、或は字を其まゝにしてウラノヘ【新考】又はウラフチ【新訓】と改めたものもあるが、類聚古集以下多くの本に納〔右○〕と書いてある所を見ると、イル(正しくはイリ)フチといふ舊訓は據がかつたのであらう。水中深處は枕に擬するには不適當であるといふものがあるかも知れぬが、國語のフチは縁の義もあり、必しも水中のみをいふのではない。
まくらにまきて(枕丹卷而) 枕ニシテといふ意。――【三三三六】には此次に蛾羽《ヒヒル】ノ衣《コロモ》ダニ服《キ》ズイサナトリ海ノ濱邊ノといふ四句がある。海ノ濱邊は此歌の上句寄スル濱邊に當るのである。
うらもなく(占裳無) 前出
こやせるきみは(偃爲公者) 略解による。舊訓フシタルとあるが、其は偃爲〔右○〕とある表記法に抵觸する。コヤシは上記の如く横置の意の他動詞であるが(第三一四頁)、身ヲといふ目的語を略して自動詞的にも用ひられ、コヤセルは其繼續格で、身を横へて居るといふことを意味し、雅澄のいふが如き敬語法ではなく、又敬語を用ひる場合でもない。――前の長歌には所宿有人者とある。
(368)おもちちの(母父之) 前出。但し句末の助語を異にする。
まなこにもあらむ(愛子丹裳在將) 將在とあつて然るべきで、轉置した本もあるが、末句にもケムを異將と表記して居るから、尚此やうな用字法が容認せられたものとすべきであらう。感動詞カがモとかへられた外は上掲長歌の相當句と變りはない。
わかくさの(稚草之) 枕詞(前出)
つまもあらむと(妻裳將有等) 前の長歌にはツマカ〔右○〕アリケム〔二字右○〕とあるが、其は作者又は傳誦者の考へ方の相違によるもので、どちらでも意は通ずる。トを以て承けたのは、思布言傳八跡といふ二句を省いて、直接家問ヘドとつゞけたからで、此歌に在つては之を必要とするのである。
いへとへど(家問跡)
いへぢもいはず(家道裳不云) イヘヂは家へ行く道の謂で、家の所在を意味する。
なをとへど(名矣問跡)
なだにもつげず(名谷裳不告) 以上四句は多少の相違はあるが、前の長歌にも見える一聯である。然るに以下の五句が一致せぬのは、組立上の相違に因するものである。
たがことを(誰之言矣)
いたはしとかも(勞鴨) 〔二行に括弧して、前出【三三三五】〕
しきなみの(腫浪能) 舊訓ユフナミとあるが、腫をユフと訓むべき理由もないから、略解以下にシキナミと(369)あるに從ふ。腫は鍾の誤寫で、シクの假字か――【三二二三】にはシグレを鍾禮と表記した例がある――又は重の冗割であらう。新訓にタカナミとあるのは、シキ浪といふ語の重複を避ける爲かも知れぬが、聊か無理のやうである。
かしこきうみを(恐海矣) 恐ろしい海をといふ意。
ただわたりけむ(直渉異將) 前出
【大意】旅に出《デ》て野を行き山を行き、川を渡つて海路に出《イ》で、吹風も念入で立波も穩ではなく、恐ろしい神の渡の折重なつた波が打寄せる濱邊に、高山を隔障に置いて、入海の縁を枕にし佗しく横はつて居る君は、父母の愛子でもあらう。妻もあらうと家を問へども家の在處をも云はず、名を問へども名乘をだに揚げず、誰のいふ言を厭うて、波の折り重なる恐ろしい海を直航したのであらうか
以上論述したやうに歌の組立は全然相違して居るが、三十五句中三句の外は、一二音の相違はあるけれども、上掲【三三三五】【三三三六】に出て居る所を見ると、同一原歌に基くものなることは明白で、文脈もよく通つて居るから、眞淵のいふが如き殘虧ではなく、完全なる一篇と見ねばならぬ。さりながら誰之言臭矣以下五句を終末に敍したのは、所を得たものとはいひ難く、溺死が直航の結果であることが説明せられざる限り、聊か達意を缺く憾がある。恐らくは其は前(370)後二齣を一連の長歌に燒き直した結果とすべきで、此點からいへば上掲二首より成る一篇の方が原歌に近いやうである。但し其に添付せられた反歌は、寧ろ此歌について追和せられたものとすべきで、【三三三七】の如きは、次の反歌四首中の一と句々殆ど同一であるが、原歌に附屬して居たものと見ることを得ぬ理由は上述の通りである。
 
反歌
 
3340 母父裳《オモチチモ》 妻裳子等裳《ツマモコドモモ》 高高丹《タカタカニ》 來將跡待〔三字右△〕 人乃悲《ヒトノカナシサ》【三三四〇】
おもちちも 妻も子どもも 高々に 來むとまちけむ 人のかなしさ
 
此は明に上掲【三三三七】と同一の歌であるが、第四句に誤寫乃至脱字が存した爲に疑義を生じた。若し類聚古集の朱字書入の如く典六を脱したものとせば、マチケムと訓まねばならず【舊訓】、雅澄の推測のやうに將跡を跡將の倒記とすれば、マツラムと訓み、連體法として次句の人にかゝるものと解すべきである。意に於ては大差はないが、形の上には重大な相違があり、前者は四句切即ち二聯と一長句とより成り、短歌の正格であるが(歌學−二一頁)、古義訓に從へば五句連續體となるのである。後者の方が判り易いが、歌の趣から見て私は舊訓をとりたいと思ふ。
 
3341 家人乃《イヘヒトノ》 將待物矣《マツラムモノヲ》 津煎〔左△〕裳無《ツレモナキ》 荒礒矣卷而《アリソヲマキテ》 偃有公鴨《フセルキミカモ》【三三四一】
(371)いへ人の まつらむものを つれもなき 荒磯をまきて ふせる君かも
 
いへひとの(家人乃)
まつらむものを(將待物矣)
つれもなき(津煎〔右△〕裳無) 舊訓ツニ〔右△〕モナクとあるが、意をなさぬから、煎〔右△〕を烈〔右○〕の誤記とする眞淵説に從ふ。ツレモナキは上述の如く寂しいといふ意で(第○○○頁)、荒礒《アリソ》(第八九頁)の修飾である。
ありそをまきて(荒礒矣卷而) マキは枕とするといふ意。
ふせるきみかも(偃有公鴨) 伏して居る君かなといふ意である。
【大意】 家族が待つだらうものを、寂しい荒磯を枕にして伏して居る君よ
 
※[さんずい+内]潭《イワブチニ》 偃爲公矣《コヤセルキミヲ》 今日今日跡《ケフケフト》 將來跡將待《コムトマツラム》 妻之可奈思母《ツマシカナシモ》【三三四二】
いりふちに こやせる君を 今日々々と 來むと待らむ 妻しかなしも
 
いりふちに(※[さんずい+内]潭) 前出
こやせるきみを(偃爲公矣) 前出
けふけふと(今日今日跡)
こむとまつらむ(將來跡將待)今日は歸つで來よう今日は歸つて來ようと待つだらうといふ意であるが、今(372)日今日ト〔右○〕來ムト〔右○〕とトを二つ重ねたのは聞ぐるしい。
つましかなしも(妻之可奈思母) 舊訓ツマノ〔右△〕とよませて居るが、然らば【三三四三】のやうにカナシサとあるべきで、モは感動詞に過ぎぬから、カナシは終止法として用ひられたものとせねばならず、前續語ツマとの相對關係は、ハ若くはシを以て表示するを可とする。上掲【三三〇二】にも人斯悔シモとある。
【意】 入江の縁に身を横へて居る君(の歸り)を今日は今日はと待つであらう妻は哀であるよ
 
3343 ※[さんずい+内]浪《イリナミノ》 來依濱丹《キヨスルハマニ》 津煎〔左△〕裳無《ツレモナク》 偃有公賀《コヤレルキミガ》 家道不知裳《イヘヂシラズモ》【三三四三】
いり波の 來よする濱に つれもなく こやれる君が 家道しらずも
 
右九首
 
いりなみの(※[さんずい+内]浪) 舊訓イルナミノとあり、眞淵は※[さんずい+内]〔右○〕を澳〔右△〕の誤寫としてオキツナミと訓み、宜長以下ウラナミと改訓したが、上述の理由により姑くイリナミと訓んで置く。天治本、類聚古集、古葉略類聚鈔以下に納浪とあるのみならず、イリナミの語例は播磨風土記印南郡の條下にも見える。假に※[さんずい+内]をウラと訓み得るとしても、浦浪の連語としては來〔右○〕ヨスルは不適當である。
つれもなく(津煎〔右△〕裳無) 前出。但し此は偃有の修飾(副詞)であるから、ツレモナクであらねばならぬ。
きよするはまに(來依濱丹)
(373)こやれるきみが(偃有公賀) 【三三四一】にはフセルに此字を充てゝ居るが、此は四音に訓むことを可とするから、自動詞コヤリ(横臥)の繼續格としてコヤレルとよまねばならぬ。舊訓の如くフシタルとしても意は通ずるが、上にフセル〔二字右○〕、コヤセル〔二字右○〕とあるに準じ、同一活用形態を用ひたものとすべきである。略解以下がコヤセルと改訓したのは、有〔右○〕と爲〔右○〕との相違を無視したもので、コヤリといふ語のあることに思ひ及ばなかつたのであらう。
いへぢしらずも(家道不知裳) モは感動詞である。
【大意】入波の來り寄せる濱に寂しく横はつて居る君の家の在處を知らぬことよ
 
3344 此月者《コノツキハ》 君將來跡《キミキマサムト》 大舟之《オホフネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 何時可登《イツシカト》 吾待居者〔右▲〕《ワガマチヲルニ》 黄葉之《モミヂバノ》 過行跡《スギユキニキト》 玉梓之《タマヅサノ》 使之云者《ツカヒノイヘバ》 螢成《ホタルナス》 髣髴聞而《ホノカニキキテ》 大士〔左△〕乎《オホツチヲ》 太穗跡《ハタノホニフミ》 立而居而《タチテヰテ》 去方毛不知《ユクヘモシラズ》 朝霧乃《アサギリノ》 思惑而《オモヒマドヒテ》 杖不足《ツエタラズ》 八尺乃嘆《ヤサカノナゲキ》 嘆友《ナゲケドモ》 記乎無見跡〔右▲〕《シルシヲナミ》 何所鹿《イヅクニカ》 君之將座跡《キミガマサムト》 天雲乃《アマクモノ》 行之隨爾《ユキノマニマニ》 所射完乃《イルシシノ》 行文將死跡《ユキモシナムト》 思友《オモヘドモ》 道之不知者《ミチノシラネバ》 獨居而《ヒトリヰテ》 君爾戀爾《キミニコフルニ》 哭耳思所泣《ネノミシナカユ》【三三四四】
此月は 君來まさむと 大舟の おもひたのみて いつしかと 吾が待ち居るに もみぢばの すぎ行きにきと 玉づさの 使のいへば 螢なす ほのかに聞きて おほ土を はた〔二字右○〕の穗にふみ 立(374)ちて居て 行方も知らず 朝ぎりの 思ひまどひて 丈《ツエ》たらず 八尺のなげき 嘆けどもゝ しるしをなみ いづくにか 君がまさむと 天雲の 行きのまにまに 射るししの 行きも死なむと 思へども 道の知らねば 獨ゐて 君にこふるに 音のみしなかゆ
 
このつきは(此月者)
きみきまさむと(君將來跡) 契沖訓による。キミモキナム【舊訓】、キミキタラム【新考】【新訓】とあるのは、マスに當る字がないからであらうが、【三二七七】の例により、之を訓みそへることを可とする。後句にも君之|將座《マサム》跡とあるから、敬語を用ひることは少しも妨はない。
おほふねの(大舟之)
おもひたのみて(思憑而) 〔二行に括弧して、前出(第一〇八頁)〕
いつしかと(何時可登) 前出(第一〇九頁)
わがまちをるに〔右○〕(苦待居者〔右▲〕) 字に從へばヲレバ【舊訓】とよまねばならず、從來改訓を試みたものもないのであるが、後句の使ノイヘバ〔右○〕と同形の條件が重つて聞苦しいから、類聚古集に者〔右△〕の字を除去してあることに鑑み、之を衍字として其代りに助語ニを訓みそへることを可とする。
もみぢばの(黄葉之) 枕詞(第三四六頁)
すぎゆきにきと(過行跡) 舊訓スギテユキヌとあるが、死亡を意味するのであるから、スギテといふ完了分詞形を以て行クに連續すべき理由はなく、上掲【三三三三】の散過去常をチリスギニキトと訓ませた例に準(375)じ、頭記の如く改訓せねばならぬ。過テ〔右△〕行ヌ〔右△〕の如く助動詞を補ふことが可能であるとすれば、ニキを訓みそへても妨はない筈で、過ぎてしまうたといふ意である。
たまづさの(玉梓之) 枕詞(第一二一頁)
つかひのいへば(使之云者)
ほたるなす(螢成) 螢のやうにといふ意で、ホノカの枕詞に用ひられたのである。ホタルの原義は火照《ホテル》であるから、神代紀にも螢火光神《ホタルナスカガヤクカミ》と用ひられて居るのであるが、和名抄に螢一名※[火+習]※[火+習]和名保太流とあるやうに、夜光蟲の名稱に專用せられるやうになつたので、枕詞としての用途も一變したものと思はれる。
ほのかにききて(髣髴聞而) ホノは語原を詳にせぬが、明白ならざることを意味し、ホノ白クの如く接頭的にも用ひられ、獨立形としてはホノカ(幽)の外にホノボノ(微明)、ホノメク(仄)、ホノメカス(諷)といふ語がある。口語のボンヤリ、ボーツト等も同根から出た語と思はれるから、漢語の凡、漠等と關係があるのかも知れぬ。此は仄聞してといふ意である。
おほつちを(大士〔右△〕乎) 舊訓の如くマスラヲヲとしては意が通ぜぬから、士〔右△〕を土〔右○〕の誤記とする眞淵説に從ふべきである。古義は天〔右△〕土の誤としてアメツチヲと訓したが、其は次句改竄の結果逆推したものであるから、論外である。
はたのほにふみ(太穗跡) 舊訓ハタトトノフトとあるのは、前句の大士〔右△〕の縁により旌旗を整ふる意と解した爲と思はれるが、字面を離れ過ぎて居るのみならず、乎の字が邪魔になる。されば眞淵以來種々改訓を試(376)み、足蹈駈〔三字右△〕【考】、乞祷歎〔三字右△〕又は乞祈呼〔三字右△〕【古】、足※[足+昆]〔二字右△〕跡【新考】等の誤記としたが、三字より成る一句を二字乃至三字まで誤寫するが如きは萬が一にも有り得ぬことで、若し右の如き推定が許されるとすれば、鷺を烏といひかへることも可能であらう。我々は出來る限り字について良訓を求める義務があり、自己の考察の足らぬことを掩はんが爲に、誤寫呼ばはりをすることは學問上の罪惡と考へて戒謹する必要がある。新訓は常に此態度を失はず、此句の如きも元暦校本、天治本、類聚古集に火〔右○〕穂跡とあるに從うてホノホフミと訓して居るが、大土を※[火+餡の旁]と跡んで立つといふのは、魔法使か奇術師のすることで、此歌とは少しく縁が遠いやうである。されば代匠記及略解のやうに後考を待つのが最も賢明な態度かも知れぬが、私は敢て一試訓を提出して世の批判を仰ぐことにする。其は舊訓はハタ〔二字右○〕云々とあるにより、太をフトの轉呼ハタの假字か若くは其上に八の字脱として、ハタノホニフミと訓み、畑の秀《ホ》に蹈みの意と解することである。本集第一卷に【七九】にもタヘ(田邊)の秀《ホ》といふ句があり(第三〇三頁)、ナミノホ(浪秀)ヲ蹈ムといふ語例【神代紀】によれば畝の頂上を渉ることを畑ノ秀ヲ蹈ムといひ得べく、大地に足が落つかぬことの譬喩と了解せられ、次の立而居而去方毛不知といふ語句との續合も極めて自然である。集中に他に用例がないから尚斷言を憚るけれども、少くとも後の研究者の一ヒントたり得ると信ずるが故に敢て改訓した。
たちてゐて(立而居而)
ゆくへもしらず(去方毛不知) 不知はシラニと訓んでもよい。
あさぎりの(朝霧乃) 朝霧のやうにといふ意で、比況的枕詞である。
(377)おもひまどひて(思惑而)
つえたらず(杖不足) ツエ又はツヱは既記の如く衝枝の意であるが(第二七九頁)、一尺の十倍即ち一丈の謂に轉用せられ、丈未滿の意を以て八尺の枕詞に用ひられたのである。
やさかのなげき(八尺乃嘆) 既出(第十六七頁)
なげけども(嘆友)
しるしをなみ(記乎無見跡〔右▲〕) 効驗なしと思ひといふ意(第一四〇、二七二頁參照)。字によればナミト〔右△〕と訓まねばならぬが、一句を隔てゝ君ガ座《マ》サムト〔右○〕とあると並立する副詞句と見ることは困難で、連用形であらねばならぬから、諸本皆此字を添へて居るけれども、之を除いて讀むべきである。恐らくは標準語音數に充たす爲に傳誦者が賢しらに添加したものであらう。
いづくにか(何所鹿)
きみがまさむと(君之將座跡) マスの原義は御爲《マス》であるが、夙に「在」の意の敬語としても用ひられ、記の天若日子傳説にも阿遲志貴高日子根神を若日子と誤認した其父が、我子者不死有祁理といひ、其妻が我君者不死坐〔右○〕祁理というたとある。此も何處に御坐らうかといふ意である。
あまぐもの(天雲乃)
ゆきのまにまに(行之隨爾) 天雲の行くにまかせてといふ意に、旅に出て行なり次第にといふ意味をいひかけたのである。
(378)いるししの(所射完乃) 完は宍の變體で、所射は射アルといふ意を表示したのであるが、約してイルと稱へられたことは勿論である。尋常の射ルと紛れ易いので、イユとも轉呼せられたと見え、齊明天皇の御製には伊喩之之と表記せられて居るから、此所射をもイユと訓することは妨はないが、被射の意と解するのは大なる誤で、受身とせばイラユルといはねばならぬ。此は手負猪のやうにといふ意を以て比況に用ひられたのである。
ゆきもしなむと(行文將死跡) 行路病死又は行斃レになるといふ意。上句を受けて行なり次第に行斃にならうと決心したといふのである。新考が將死は將爲の借字で、行モセムといふに同じいといひ、――セムとシナムとは時格が相違する――行の上に伊の宇脱としてイユキモシナムトと訓み、イユシシのイユキとかかると説いたのは聊か奇を好む嫌があるのみならず、上句所射を必ずイユと訓せざるべからずとする理由もない。
おもへども(思友)
みちのしらねば(道之不知者) 眞淵が道シ知ラネバと改めたのは一應理由はあるが、道乃|不知久《シラナク》【二〇八四】といふ用例もあり、古語では道ノ知レ〔右○〕ヌを道ノ知ラヌというたのである(第二八〇頁)。
ひとりゐて(獨居而)
きみにこふるに(君爾戀爾)
ねのみしなかゆ(哭耳思所泣) 既出(第二六七頁)
(379)【大意】此月は君が(歸つて)來られるであらうと憑にして、何時か何時かと自分が待つて居るのに、もみぢ葉のやうに失せでしまうたと使がいふので、僅に聞いただけで、畑の畝の上を蹈むやうに足が地につかず、立つたり坐つたり、途方にくれ思ひ惑うて、長い息を衝いて悲しむけれども其効はなく、何處に君が居たまふかと、行雲にまかせて(探しまわり)、行斃れにならばなれと思ふけれども、道が知れぬので、孑然として夫に戀ひ焦がれて居ると、悲泣を禁じ得ない
一二の衍字がある爲に、率爾に誦むとしどろもどろに聞えるが、第六句の者〔右▲〕第二十句目の跡〔右▲〕を除き、數句の訓を改めると語脈はよく通じ、名歌といふことは出來ぬとしても尚無難の作で、亡夫の跡を追うと思へども黄泉の道を知らぬといふのが山である。
 
反歌
 
3345 葦邊往《アシベユク》 鴈之翅乎《カリノツバサヲ》 見別《ミルゴトニ》 公之佩具之《キミガオバシシ》 投箭之所思《ナゲヤシオモホユ》【三三四五】
あし邊ゆく 雁の翅を 見るごとに 君がおばしし 投箭しおもほゆ
 
右二首。但或云、此短歌者防人妻所作也、然則應v知2長歌亦此同作1焉
 
(380)あしべゆく(葦邊往)
かりのつばさを(鷹之翅乎)
みるごとに(見別) 眞淵訓による。
きみがおばしし(公之佩具之) 略解訓に從ふ。オバシはオビ(佩)の敬語形である。新考に具〔右○〕は思〔右△〕の誤寫ならむとあるが、佩具の二字をオビに充てたものとすべきで、敬語助動詞が表記せられて居らぬ例は前の歌にもあり、珍らしからぬことである。
なげやしおもほゆ(投箭乏所思) 新考訓による。舊訓はナグヤシゾ〔右△〕オモフとあるが、所思(所念)はオモホユと訓むことを例とし、ゾオモフを所思と表記したとは思はれぬ。又こゝの投箭は純然たる品物名で、上掲【三三三〇】の投左の如く活用形態のナグルに言ひかけたのではないから、ナグヤは勿論、ナグルヤともいふことは出來ぬ(第三三四頁參照)。此歌によれば蘆葦の間に出没する鴨雁類は投槍を以て其翅を刺しとめたものと思はれる。鴈は雁の通用字であるが、國語のカリは必しも鴻雁のみをいふのではなく、水禽の總稱としても用ひられたのである。
【大意】 葦邊に下りて居る水鳥の翅を見ると、夫君の佩びて居られた投箭が思ひ出される
左註に或云として此反歌を防人の妻の作なりと説いたのは何か據があつたのであらうが、其故を以て長歌も同一人の作なるべしというたのは同意の出來ぬことで、眞淵も注意したやうに此歌は餘りにも長歌とかけ離れて居るから、或は全然無關係であつたのかも知れぬ。若し然りと(381)すれば挽歌ではなく、尋常思慕の吟であらう。此當時は尚夫婦別居を例としたから、葦邊を逍遙する水禽を見て、曾て狩獵の歸るさに投箭と獲物とを携へて訪れた男の姿を思ひ出したことは有り得べきである。
 
3346 欲〔左△〕見者《ミサクレバ》 雲井所見《クモヰニミユル》 愛《ハシキヤシ》 十羽能松原《トバノマツバラ》 少子等《ワラハドモ》 率和出將見《イザワイデミム》 琴酒者《コトサカバ》 國丹放嘗《クニニサカナム》 別避者《コトサカバ》 宅仁離南《イヘニサカナム》 乾坤之《アメツチノ》 神志恨之《カミシウラメシ》 草枕《クサマクラ》 此覊之氣爾《コノタビノケニ》 妻應離哉《ツマサクベシヤ》【三三四六】》
見さくれば 雲井に見ゆる はしきやし とばの松原 わらはども いざわ出で見む ことさかば 國にさかなむ ことさかば 家にさかなむ 天地の 神しうらめし 草まくら この旅の日《ケ》に 妻さくべしや
 
みさくれば(欲〔右△〕見者) 欲〔右△〕を放〔右○〕の誤字としてミサクレバと訓むべしとする宣長説に從ふ。ミマクホリ【舊訓】、ミマホシハ【考】、ミガホレバ【略】といふ訓もあるが、次句以下に副《ソグ》はぬやうである。ミサク(見放)は見ヤルといふに同じい。
くもゐにみゆる(雲井所見) 眞淵訓による。クモヰは雲のゐる所即ち雲際の意である。――雲の同義語としても用ひられることがあるが、此は尚原義によるものと思はれる。
はしきやし(愛) 眞淵訓に從ふ。舊訓ウツクシキ、古義以下ウルハシキとあるのは、之を次句の修飾語と解(382)したからであらうが、雲際に見える松原をいふには不適當である。ハシキヤシは既述の如く一種の間投詞で(第一五〇頁)、風趣を加へる効力はあるけれども、歌意を増減するものではない。
とばのまつばら(十羽能松原) トバは諸國にある地名であるが、此は旅中の作と聞えるから、大和の飛羽山【五八八】のことではあるまい。トバの原義については確説はないが、或はアイヌ語のトパ(群衆)にあたり、聚落を意味したのかも知れぬ。其附近にある松原は亡妻を收※[病垂/夾/土]した地であるので、之を望んで悲歎したものと思はれる。
わらはども(少子等) 契沖訓による。此は本集第一卷山上憶良臣の歌に「いざコドモ早や日の本へ大伴の御津の濱松まちこひぬらむ」【六三】とあるコドモと同一用法で、特に或童子を指稱したのではなく、不定代名詞的呼格として用ひられたもので、紀の來目歌の阿子《アゴ》ヨ阿子ヨと同じく、一種の間投詞である。さればミドリコといふ舊訓の誤りなることは云ふまでもなく、ワクコドモとした略解訓も尚至らぬ點がある。少子はワクコとも、或は齊明天皇の御製に準じてワカキコとも訓み得られるが、其は當時郎君(若殿)若くは幼兒の意に用ひられた語で、鮪《シビ》のワクゴ【武烈紀】、※[立心偏+豈]那《ケナ》のワクゴ【繼體紀】、氣菟《ケツ》のワクゴ【舒明紀】及東歌の殿のワクゴ【三四三八】【三四五九】は前者に屬し、第十六卷竹取象の歌に緑子《ミドリコ》之|若子《ワカゴ》ガ身ニハ【三七九一】とあるのは嬰兒を意味すること勿論で、齊明天皇の御製に用ひられたワカキコは御齡八才を以て薨去せられた建皇子を指されたのである。いづれにしても此場合には當らぬから、ワラハドモと訓まねばならぬ。
いざわいでみむ(率和出將見) イザワは舊訓の如くイザヤの謂であるが、神武紀にも怡弉過怡弉過《イザワイザワ》と表記せ(383)られて居るから、イザワとも發音せられたものとせねばならぬ。ワ(ヤ)は間投詞で、イザ出て見ようといふ意である。
ことさかば(琴酒者) 古義訓による。以下舊訓にサケ〔右△〕とあるのは盡くサカ〔右○〕と改むべきである。但し雅澄が如是避離《カクサカ》むとならばの意としたのは、殊更に避け離れんとならばと解した眞淵説と同樣に、コトサカといふ熟語の存することに氣がつかなかつた爲であらう。此語は泉津事解《ヨモツコトサカ》之男神【神代紀】、言離《コトサカ》之神【記朝倉宮】、事瑕之婢《コトサカメヤツコ》【孝徳紀】の如く用ひられ、コト(言または事)を難《サ》くこと、即ち拒絶の意から離別の義にも轉用せられ、本集第七卷【一四〇二】にも「殊|放者《サカバ》沖ゆさかなむ湊よりへつかふ時に放くべきものか」とある。即ちサク(別離)といふと同義とせられて居るのであるが、生別のみならず死別をも包含することは勿論で、此歌に於ては神が自分から妻を離すといふ意に用ひられたのである。
くににさかなむ(國丹放嘗) クニニは本國に於てといふ意で、妻を離くべくば郷里に於いて離いて欲しいといふのである。
ことさかば(別離者)
いへにさかなむ(宅仁離南) 此も家郷に於て引離されたらよからうといふことを意味する。――以上四句によれば此は妻を携へて官遊し、任地に於て死別した人の作とすべきで、トバも亦其地にあらねばならぬから、或は常陸風土記に掲げた筑波郡騰波江(今の眞壁郡下妻町の大寶沼が之にあたると稱せられる)の所在地をいふのかも知れぬ。此沼湖は本集第十九卷の筑波山登臨歌【一七五七】にも新治ノ鳥羽ノ淡水《アフミ》と詠まれ、(384)古來有名であつたものゝやうである。
あめつちの(乾坤之)
かみしうらめし(神志恨之)
くさまくら(草枕) 枕詞(第一〇九頁)
このたびのけに(此覊之氣爾) ケはカ(日)の轉呼で【三三二九】、此旅の日即ち旅中に於てといふ意である。
つまさくべしや(妻應離哉) ヤは反語表示で、妻を引離すものではあるまいといふのである。
【大意】 見渡せば遠方に見えるトバの松原をいざや出て見よう。我々の問を割くなら本國で割いて欲しい。家郷に於て割いて欲しい。天地の神も恨めしや。此旅中に於て妻を引離すべきものであらうか
此歌にはハシキヤシとワラハドモといふ間投詞的の二句があるために、從來註釋者を悩ませたが、之を省いて讀めばよく意が通じ、亡妻を葬つたトバの松原を眺めて痛恨する心もちがよく現はれ、哀の深い歌である。コトサカといふ古言は此時代までは尚保存せられ、別離の意に用ひられたことが、上掲第七卷の歌と相待つて明にせられた。此語については從來明解が與へられて居なかつたのである。
 
(385)反歌
 
3347 草枕《クサマクラ》 此覊之氣爾《コノタビノケニ》 妻放《ツマサカリ》 家道思《イヘヂオモヘバ》 生爲使〔左△〕無《イケルスベナシ》鮮【三三四七】
   或本歌曰 覊乃氣二爲而《タビノケニシテ》
くさまくら 此たびのけに(旅のけにして) 妻さかり 家道おもへば 生けるすべなし
 
右二首
 
くさまくら(草枕) 前出
このたびのけに(此覊之氣爾爾――たびのけにして(覊乃氣二爲而) 或本歌のケニシテは日ニシテ即ち日に在りて、といふ意で、本傳とほゞ同義である。
つまさかり(妻放) サカリは離在を意味する自動詞であるから、長歌のやうに神祇が分離したといふのではなく、妻が離去したといふ意とすべきである。
いへぢおもへば(家道思) イヘヂは家に行く道の謂であるが、家郷といふ意に用ひられたのである。思に送假字が添へられて居らぬので、古義以下オモフニと訓み、或は思ふとといふ意とも解せられるが、舊訓の如くオモヘバとしても少しも差支はないから姑く之に從ふ。要するに覊旅にして妻を失うたが故に、特に(386)望郷の念に堪へぬといふのである。
いけるすべなし(生爲使〔右△〕無) 使〔右△〕はいふまでもなく便〔右○〕の誤寫で、元暦校本以下には正書してある。雅澄はイカム〔二字右△〕スベナシと訓まざるべからすと主張したけれども、これは今後生活する方法がないといふ意ではなく、「堪へられぬ」といふことの譬喩であるから、イケル即ち生きて居るかひも無いといふ意と了解すべきで、新考に指摘したやうに、上掲【三二九七】にも生流〔右○〕爲便無といふ例があるのである。
【大意】 旅中に於て妻を失ひ、家郷を想へば生きて居るよすがも無い
 
索引
 
(388)索引
 
緒言。 本索引は語と句との別なく、一列に五十音順位に排列したが、句は漏さす平假名を以て記し、語には片假名を用ひ、漢字を以て所要の註記を加へた。歌句の合旁にゝ《チユ》點を附したのは、仙覺訓の復活で、契沖以下の改訓がさかしらであつたことを表示する。圏點は私の與へた新訓であるが、原字を無視しても改訓せねばならなかつた理由は、各其項下に詳論した。私は決して之を以て動かぬものと主張するのではなく、更に適切なる訓み方が發見せられた曉には、何時でも喜んで之に降參するつもりである。要するに今日までの萬葉研究は、未だ定訓を云々するほどには進んで居らぬといふのが事實で、或人たちのやうに鼻元思案を以て遠斷し、若くは鬼面人を脅すことだけは、斯學の爲に謹んでもらひたいと思ふ。
 
(389) あ行     〔入力者注、頁數は省略、但し主題項目は除く〕
あがかよふみちの  あかこまの  あかねさす  アギ(阿子)  あきたらぬかも  あきづけば  あきつしま  あきつひれ  あきのもみぢば  あきやまの  あきゆけば  あけのそぼふね  アゴ(阿子)  あごねのはらを  あごのうみの  あさきぬけるは  あさぎりの  あさたちゆけば  あさつゆの  あさなぎに  あさひなす  あざさゆひたれ  あさみやに  あさもよし  あさよひごとに  あしがきの  あしたには  あしはらの  あしひきの  あしびはなさき  あしべゆく  あすかがは  あすかのかはの  アソバシ(敬語)  あそばしし  あたらしき  アヅサ(投箭)  あづさゆみ  あはことあげす  あはざらめやも  あはぬものは  あはびたま  あはめやも  あはもちてゆく  あひおもふらしも  あひかたらめを  あひけらし  あひたる〔四字傍点〕きみを  あひみてばこそ  あひもはずあらば  あふぎてみつつ  あふさかやまに  (390)あふさかやまを  あふさかを  あふとみえこそ  あふべしと  あふみのうみ  あふみのうみの  あふみぢの アマ(白水郎)  アマ族 20 90  あまぎらひ  あまくもに  あまくもの  あまさかる  アマタ(數多)  あまづたふ  あまなくに  あまのつりふね  あまのはら  あまはしも  あまをとめども  あめつちと  あめつちに  あめつちの  あめつちを  あめなるや  あめのごと  あめのたるよに  あめはふりき  あめはふりきぬ  あめはふるとふ  あもりましけむ  あやにかしこき  あやにかしこし  あゆちのみづを  あゆをくはしめ  あゆををしみと  あらしのふきて  あらしのふけば  あらたまの  あらたまれ〔五字右○〕ども(攝〔右△〕友)  あらたよの  あらねども  あらむとぞ  あらめども  あらやまも  ありかよはむと  あれこそと  ありそなみ  ありそのうへに  ありそのうへの  ありそをまきて  ありたてる  ありてもみむと  (391)ありと  ありといふを  ありとききて  ありとしおもはば  ありなみえずぞ  ありなみすれど  ありまてど  あるべかりける  あれまくをしも  あをくもの  あをしぬばしむ  あをによし  あをはたの  あをやまを
イ(行動の概念表示) 27  いかがわがせむ  いかごやま  いかさまに  いかなるや  いかにして  いかりもちき  いかりもちきて  いかるがかけ  いかるがとしめと  いきため〔四字傍点〕がたき  いきづきわたり  いきのをにして  いくしたて  いくひには  いくひをうち  いけのそこ  いけのつつみの  いけらむきはみ  いけりとも  いけるすべなし  いさなとり  いざわいでみむ  いしのはらに  いしのみゐは  いしはふむとも  いしはふめども  いしふみわたり  いせのうみの  いせのくには  いそこぎたみつつ  いそなみか  いそはなくとも  いそばひをるよ  いたくしこひば  いたはしとかも  いたもすべなみ  イタリ(至)の原義 283  いたるとも  (392)いつきがえだに  いつきまさむと  いづくにか  いづくへに  いつしかと  いつしかも  いつしかまたむ  いつのまにぞも いつはしも  いづみかは  いづみのかはの  いでたちの  いでゆかば  いでゐてなげき  いとりきて  いにしへおもほゆ  いにしへの  いにしへゆ  いぬなほえそね  いねむきみゆゑ  いのちなづみて  いのちをながく  いのりてき  いはがねの  いはじとかも  いはせふみ  いはたのもりの  いはどこの  いはばこそ  いははしと  いははしの  いはひてまたむ  いはひへを  いはひほりすゑ  いはひまつれる  いはひわたるに  いはまくら  いはむすべ  いばゆこゑ  いばえたてつる  いはえにしわがみ  いはれのやまに  いはれをみつつ  いひつぎくらく  いひつぎてある  いひづらひ  いひてしものを  いへぢしらずも  いへぢをいはず  いへつとり  いへでせし  いへとへど  いへとへば  いへにいたりきや  (393)いへにさかなむ  いへにもゆかめ  いへひとの  いへをもつげず  いほよろづ  いまかへりこむ  いまさらに  いまだきなかぬ  いまなぬかばかり  いまはあけぬと  いまはなし  いまふつかばかり  いまもこころに  イミ(禁忌)  イメ、ユメ(夢)  いめたてて  いもかちならむ  いもがまさか〔三字傍点〕に  いもがめをほり  いもにしあはねば  いもにみせまく  いもによりては  いもねかねてき  いもねずに  いものやま  いもらはたたし  いもをこふるに  いやしくしくに  いやたかに  いやとほながく  いやとほに  いやますますに  いりてあさねむ  いりなみの  いりふちに  いりふちを  いりますみれば  いりゐこひつつ  いりゐてしぬび  いる〔二字傍点〕ししの  いろなつかしき  いろにいでて  いをもねず
うきて〔三字傍点〕ながるる  うぐひすなくも  うしとおもひて  うずのたまかげ  うちいでてみれば  うぢかはわたり  うちたをり  うちなびき  うぢのわたり  うぢのわたりの  (394)うちはへて  うちをらむ  うつくしつまと  うつくしつまは  うつせみの  うつつかもと  うつつには  うつひさす  うつひさつ  うべなうべな  うまいはねずて  うまいはねずに  うまかはば  うまかへわがせ  うまざけを  うまじもの  うまよりゆくに  うまやをたて  うまやをたてて  ウミ(大水)(海)  うみこそは  うみぢにいでて  うみぢはゆかじ  うみながら  うみのはまべにも  うみもひろし  うみをなす  うら〔二字右○〕(大夕卜)おきて  うらくはし  うらくはしも  うらなみか  うらはなくとも  うらぶれて  うらもなく  ウレ(梢)(末)  うゑつきのへの  うをやつかづけ  ニ(江)  えしたまかも  えだもとををに
おいらくをしも  おきそやま  おきたたば  おきつなみ  おきつもを  おきて  おきながの  おくかもしらず  おくかをなみ  おくしもも  おくとこに  おくれたる  (395)おさかのやまは  おさへさす  おしてる  おつるしらなみ  おのづから  おのづまの  おひなめもちて  おびにせる  おふるたまもの  オホキミ(大君)とオホギ〔右○〕ミとの別 47  おほきみの  おほきみろかも  おほくいませど  おほくちの  おほつちを  おほとのの  おほとのを  おほに〔傍点〕たたずと〔傍点〕  おほにはふかず  おほふねに  おほふねの  おほみそでの  おほみてに  おほみやつかへ  おはみやびとは  おもちちに  おもちちの  おもちちも  おもはぬひとは  おもひしく  おもひすぎめや  おもひたのみて  おもひたのめど  おもひたのめる  おもひたらはし  おもひつきにし  おもひつつ  おもひはららし  おもひまつはり  おもひまどひて  おもひみだれて  おもひやる  おもふから  おもふごとならぬ  おもふそら  おもへかも  おもへこそ  おもへども  おもほしめせか  おもほせるきみ  おやおやの
 
(396) か行
 
ガ(願望表示)  カイ、カヂ(※[楫+戈]械)  かいのと〔四字右○〕(水手之音)しつつ  かがみなす  かがみをかけ  係リ結ビの拘束不存立の一證  かかれるくもは  かきすてむ  かきつだの  かくしあらむを  かくしもがもと  かくのみし  かくのみぞわが  かくもあれ〔二字右○〕(如此毛現〔右○〕)  かくよれと  かくることなく  かぐろきかみに  カゲ(※[草冠/縵])  かげさへみゆる  かけてしぬばし  かけてしぬばな  かけぬときなく  かけまくも  かけもなく  カザシ(挿頭)  かざりまつりて  カシコ(惶)  かしこかれども  かしこきうみを  かしこきや  かしこけど  かしこしや  かずかずに  かすみたつ  かすみたなびく  かぜさへふきぬ  かぜのふる  かぜふけば  かたにとりかけ  カタミ(形見)  かたりつがへと  かぢ〔二字右○〕につくり(磯〔右△〕爾作)  かぢのとしつつ  かちよりゆけば  かつてやまずけり  かどにをる  かなしきものは  カナラズ(必)  ガニ(助語)  カネ(不克、不得)  かはのせの  かはのせを  (397)かはみれば  かはゆきわたり  かへりにし  かへりにしひと  かへりてならむ  かへるもしらず  かみからと  かみしうらめし  かみつせに  かみつせの  かみにしまさば  かみにぞわがのむ  かみのみよ〔二字傍点〕より  かみのわたりの  かみのわたりは  かみもはなはだ  かみよより  かみをいのりて  かみをいのれど  かみをぞわがのむ  かみをもわれは  かむかぜの  かむどきの  かむながら  かむなびの  かむなびやまに  かむなびやまの  かむなびやまゆ  かむぬしの  かむはふり  ガモ(願望表示)  かよはすもあご  カヨフ(通)  かりがねも  かりこもの  かりのつばさを
きかずして  きぎす〔傍点〕どよみ  ききてしひより  きこしをす  きこゆるうみに  きこりきて  キタレバとクレバとの差 257  きにはあれども  きぬこそは  きぬさへぎ〔五字右○〕(帛※[口+立刀])  きのくにの  きのへのみちよ〔右○〕  きのへのみやに  きへゆくきみを  きみが  きみがおぼしし  きみがかざしに  (398)きみがかちより  きみがきまさぬ  きみがきまさむ  きみかしぬばむ  きみがないはば  きみがひにけに  きみがまさかを  きみがまさむと  きみがまにまに  きみきまさねば  きみきまさむと  きみきまさめや  きみきますやと  きみこゆと  きみにあはずて  きみにあはずば  きみにかならず  きみにこふらむ  きみにこふるに  きみにこふるも  きみにはあはじ  きみにはあはず  きみにまつりて  きみにより〔三字右○〕(君自二〔二字右△〕  きみによりては  きみのみかどを  きみはきこしし  きみはきまさぬ  きみはしも  キマサズを不來と表記した例 171 181  きみまつわれを  きみゆゑに  キム(山)  きよきなぎさに  きよきみたやの  きよすのいけの  きよするはまに  きよるしらたま  きよるなはのり  きよるはまべを  きよるふかみる  きよるまたみる  きり〔二字右○〕かみの
ク(事又は者の意の語分子) 45 46 73 83  くくりつつ  くくりのみやに  くさこそは  くさまくら  クシ(串)(櫛)  くににさかなむ  くににも  (399)くにみあそばし  くにみはともし〔三字右○〕】も(國見者之〔右△〕毛)  くにをさめにと  クハシ(奇好)  くはしきやまぞ  くはしめに  クマ(隈)(曲)  くみてかへるもの〔二字右○〕(※[手偏+邑]而飼旱〔右△〕)  くむひとの  くもりよの  くもゐにみゆる  くれくれと  くれなゐにほふ  くろかみしきて  くろこまの  くろまにのりて  くろまのくよは
ケ(日)  ケ(顯)(異)  形容詞の連體法(古形) 10  けなばけぬべく  けふけふと
こいまろび  コギリ(漕入)  こけのむすまで  こけむすまてに  こごしきみちの  こごしきみちを  ここばくも  こころありけり  こころしいたし  こころしらずや  こころともなし  こころなきやまの  こころに〔四字右○〕(心)  こころのいたき  こころのうちを  こころはいもに  こころはよしゑ  こころはよりて  こころもしぬに  こころをしらに  こころをもちて  ここをしも  こしになづみて  コセ(巨勢)(地名)  コソ(希望表示)  こたへやる  ことあげすわれ  ことあげせぬくに  ことあげぞわがする  ことさかば  (400)ことさきく  ことだにとはぬ  ことだまの  ことつてむやと  こととはぬ  ことのいみも  ことのゆゑも  ことはかり  ことはたなしり  コヌとキタラヌとの相違 171 181 こぬれがしたに  このかたに  このかはの  このたびのけに  このつきは  このとこの  このとひらかせ  このながつきの  このながつきを  こ(そ)のやまべから  このよはあけぬ  コヒ(乞)−對象を表示する名の第四格を支配する例 81 222  こひすれば  こひせれば  こひつつくれば  こひつつも  こひてすべなみ  こひとふものは  こひぬときとは  こひのしげきに  こひやあかさむ  こひやむものぞ  こひわたりつつも  こひわたりなめ  こひわたるかも  こひをしすれば  こふともきみに  こふらくも  こふれかも  コホシ(戀)  こほしくおもへば  こほりわたりぬ  こむとまちけむ  こむとまつらむ  こもりいませば  こもりくの  こもりづまかも  こもる〔三字右○〕すぎ(隱藏杉)  こやせるきみは  こやせるきみを  こやれるきみが  こゆこせぢから  (401)こよひたれとか  コリ(樵)  ころも〔三字右○〕だにきず(衣浴〔右△〕不服爾〔右▲〕  ころもで  ころもでの  ころもでの
 
 さ行
 
サ(箭)  サ、サリ(邊)(方)  さが〔二字傍点〕いへすらを  さが〔二字傍点〕ちちを  さかてをすぎ  さが〔二字傍点〕ははを  さかへるをとめ  サカリ(隔在)  さきくあらば  さきくいまさば  さくもり  さくらばな  さざなみの  さざらなみ  さざれなみ  さしかへて  さしやかむ  サス(射)  さすたへのこ  さすやなぎ  サツ(サスの轉訛)  さとさかりきぬ  さとひとの  さなかづら  さにづらふ  さにぬりの  三音一句 11  さはることなく  サビシ(不怜)  さむきよを  さやけくきよし  さやよぬきいでて  さよはあけ  さよばひに  さよふくと  さよふけて  さをさしわたり
終止形を連體法に用ひた例 95  しかなくに  しがのからさき  しかもあらめ  しかれこそ  しかれども  しきしまの  しきて〔三字右○〕(淨〔右△〕)こぎりこ  (402)しきなみの  シクシク(重々)  しぐれのあきは  しぐれのふれば  シコ(醜)  しこのしこでを  ししきばを  しじにおふる  しじにぬきたり  ししまつごと  したなるひとは  したにもながく  しづえに  しづぬさを  しで〔二字右○〕(絲〔右△〕)とりおきて  しなたつ  しなひさかえて  しなむよわぎも  シヌ(下延)(忍)  しぬびしをぬは  しぬびつつ  しぬびにせよと  しばしもわれは  しまづたひ  しまなだかし〔四字右○〕(島名高之)  しまのさきざき  シミラ(繁密)  しめゆふと  しめをかけ  しもつせに  しもつせの  しらくもの  しらせぬこゆゑ  しらつゆおき  しらゆふの〔五字傍点〕  しらゆふはなに  しるくもあへる  しるしなし  しるしをなみ  しるしをなみ〔二字右○〕(記乎無見跡〔右▲〕)  しろたへの
ス(鳥)  すうらく〔四字右○〕の(居久乃)  すがのねの  スガラ(刻々)  すぎまくを  すぎゆきにきと  すぐしえぬものを  ズケリ(「なけり」に同じ)  すめかみに  すめろぎ〔四字傍点〕の  スベ(爲方)  すべのたづきも  (403)すゑかきわけて  すゑつひに  すゑへは
セ(瀬)  せぜのたまもの  せのやまこえて  せむすべしらに  せむすべの
そこなるたま  そこもふに  そでふるみえつ  そのあめの  そのさとびとの  そのしほの  そのなみの  そのゆきの  そのよはわれも  ソバヒ(副)  そぼふねに  そらみつ  それぞわがつま  それやれぬれば  そをかひ  そをしらむ
 
 た行
 
たかきたの  たかくたふとし  たかくもがも  たがこころ  たがことを  たかたかに  たかだまを  たかてる〔二字右○〕(高照)  たかやまと  たかやまの  たかやまも  たかやまを  たがゆゑかゆかむ  たぎつせを  たぎのやの  たきもとどろに  タスキ(繦)  たすくるくにぞ  ただにあふまてに  ただにこず  ただにゆかず  ただはしけむと  ただわたりけむ  タチ(斷)(大刀)  たちさふみちを  たちてつまづき  (404)たちてゐて  たちどまり  タチバナ(橘)  たちばなの  たちまつに  タヅキ、タドキ(標木)  たづきもしらず  たづきをしらに  たつつきごとに  たつなみも  タツミ(竪水)  たつらく〔四字右○〕の  タデ(※[草冠/參])  たててかふこま  たどきをしらに  たなくもり  たなびくくにの  たのめるときに  タハコト、(妄語)とマガコト(凶報)との別 345  たびなれば  たびねのごとく  たびゆきごろも  たびゆくきみを  タフトシ(貴)  タヘ(拷)(布)  タヘ(田部)  たまあはば  たまかぎる  タマカゲ(玉※[草冠/縵])  たまこそは  たまだすき  たまづさの  たまのをの  たまぼこの  たままきの  タマモ(玉藻)  たまもゆららに  たまれるみづの  タミ(撓)(廻)  タムケ(手向)  たむけぐさ  たむけして  たむけすと  たらちねの  たわやめに  タヲリ(手折)  たをりこしきみ
ちちしりぬべし  ちちはしらず  ちちはねてあり  ちちははに  ちとせに  (405)ちはやぶる  ちへなみしきに  ちへのひとへも  ちよろづかみの  ちりすぎにきと  ちりまがひたる
つえ〔二字傍点〕たらず  つえ〔二字傍点〕つきも  つかずもわれは  つかはしし  つかひのいへば  つかひのこねば  ツカヘ(仕)  つかへこし  つかへまつりて  ツキ(槻)  つきげ〔三字右○〕のうまの(大分青馬之)  つぎてはいへど  つぎねふ  つきのかはらば  つきひのごとく  つきまつと  つきもひも  つきもへゆけば  つぎも〔三字傍点〕あへむかも  つくしのやまの  つくすこころは  つくまさぬかた  つくよみの  ツゲ(告)とノリ(宣)との別 277  つげのをぐしを  ツツ(助語)  つつがなく  つづきのはら  つつじばな  ツツミ(障)  つつめりし  つなとりかけて  つぬさはふ  つねにあらぬかも  つねのおびを  つねゆけになく  つばきはなさく  つまかありけむ  つましあれば  つましかなしも  つまと  つまにこふれば  つまにしありけり  つまはあひきと  つまもあらむと  つまもこどもも  (406)ツユ(涓滴)  つゆおひて  つゆわすられず  つるぎたち  つるぎのいけの  つれもなき  つれもなく
テアリとタリとの相違 27  朝鮮語襲用例 59 100  てにとりもちて  てにまける
ト(助語)とテの相通 351  とあみ〔三字傍点〕はる  トキ(著)  ときじくぞ  とぎしこころを  ときなきが〔五字傍点〕ごと  ときなくぞ  とこうちはらひ  とこしきて  としのへぬれば  としのやとせを  としのをながく  としはきゆきて  としわたる  とつみやどころ  トドロ(※[鼓/冬]々)  トネリ(舍人)  とねりのこらは  とのくもり  とのごもり  とばのまつばら  トフ、チフ、テフ(ト云)の別 212  とほからぬ  とほさかりゐて  とほつひと  とほりてぬれぬ  とまりにし  とまりやそあり  とまれるわれは  トモシ(乏)(羨)  どよみてさむし  とらくをしらず  とらくをしらに  とらしたまひて  とりてかへるもの〔二字右○〕(取而飼旱〔右△〕)  とりのねの  とをあけて  トヲヲ(撓々)
 
 な行
 
ないねそと  (407)ながきこのよを  ながきはるひを  ながくもがも  ながくときみは  ながこころまて  ながこころゆめ  ながこふる  なかつえに  ながつきの  ながとのうらに  ながまつきみは  ナカユ(被泣)  ナギ(凪)  なきがさびしさ  なくありこそと  なくこなす  なくこもるやま  なぐさむる  なぐるさの  なくわれが  なげきこひのみ  なげきつつ  なげきつるかも  なげくそら  なげけども  なげやしおもほゆ  なこひそわざも  ナス(如)  なだにもつげず  ナツカシ(懷)  なつくさを  なつそひく  なつののくさを  ナヅミ(澁滯)  なづみくるかも  なづみぞわがこし  なづみゆくみば  ななせわたりて  なにかなげかむ  なにしかも  なにぞととへば  なにはのさきに  ナヌカ(七日)  なはいかにもふや  なはのりの  なびけと  なびけるはぎを  なほぞきにける  なみくもの  なみたちわたる  なみのさやらふ〔四字右○〕(塞)  ナム(木)――朝鮮語※[ハングルでナム]  ナラ(國)――朝鮮語※[ハングルでナラ]  (408)ならやまこえて  ならやますぎて  ならよりいでて  ナリ及ナキ(鳴)、ナシ(令鳴)  なりし〔右○〕(成)にしきを  なれによすとふ  ナレルとナリシとの相違 56  なれをぞも なをとへど  ニ(助語)――「のやうに〔右○〕」といふ意に用ひた例 67  ニシキ(錦)  にしのうまや  ニヌリ(丹塗)  にのほにもみづ  にはたつみ  にふのひやまに  ニホヒ(句)  にほへるをとめ
ぬさとりむけて  ぬつどり  ぬなかはの  ぬばたまの  ぬひつつも  ぬゆきやまゆき  ぬるよをおちず  ぬれにてむ〔三字右○〕かも(蒙沾鴨)
ねのみしなかゆ  ねばふかなど〔六字右○〕に  ねばふかなど〔六字右○〕を  ねはりあづさを  ネモコロ(懇)  ねもころごろに  ねもころに
のちもあはむと  のどにはたたぬ  のどにはふかず  のぼらして  ノミ(耳)(而已)  のむひとの  のりてもふつま〔七字右○〕
 
 は行
 
ハギ(芽子)  はしきやし  はしけやし  はじめてし  はしりでの  ハタ(將)  (409)はたのほにふみ〔七字右○〕(太穂蹈)  はちすばに  はつせがは  はつせのかはの  はつせのかはは  はつせのくにに  はつせのやま  はつせをぐにに  はなさきををり  はなたちばなを  はなちけむ  ハナハダ(甚)  はなものぞ  ははがかたみと  ははきこせども  ははしりぬべし  ははにもいはず  ははのかふこの  はははしらず  はははねてあり  はふつたの  はふりまつれば  はまなつむ  はまによるとふ  はやかはの  はやからば  はやきせに  はやきせを  はるかすみたち  はるさりくれば  はるされば  はるひのゆふべ〔三字右○〕(春日暮)  はるやまの  はれるやまかな
ヒカゲ(蘿)  ひがしのうまや  ひかる〔三字傍点〕みそらの  ひきのぼる  ひきよぢて  ひけばたゆとや  ひこづらひ  ひさかたの  ひさかた〔四字右○〕の(往影乃)  ひさしきときゆ  ひさならば  ひさにふる  ひしとなるまで  ひたうみの〔五字右○〕(直海)  ひたつちに  ひたり〔三字右○〕(曰〔右△〕足)まして  ひつきとともに  ひづちなけども  ひとさはに  (410)ひとしくやしも  ひとしよすれば  ひとしりぬべみ  ひとしれず  ひとぞつげつる  ひとづまの  ひとにいはむ  ひとになつげそ  ひとにはいひて  ひとのいひつる  ひとのかなしさ  ひとのこゆゑぞ  ひとのつげつる  ひとのぬる  ひとのもるやま  ひとは  ひとはくむてふ  ひとはしも  ひとはつけども  ひとはのむてふ  ひとはふめど  ひとふたり  ひとりかもねむ  ひとりしぬれば  ひとりぞわがくる  ひとりぬる  ひとりのみ  ひとりゐて  ひとをおもふと  ひなさかる  ひなをさめにと  ひにげにまさる  ひにさえわたり  ひのくれぬれば  ひのみこの  ひひるは〔四字右○〕の(蛾葉之)  ひま〔二字傍点〕なきがごと  ひま〔二字傍点〕なくぞ  ひまもおちず  ひむか〔三字右○〕に(日向爾)  ひもかさなりて  ヒヤマ(檜山)  ひりはむといひて  ひりひて  ひりふとぞ  ひるはしみらに  ひれもてるがに
ふかみるの  ふかめしこらを  ふかめしわれを  ふくかぜも  ふし〔二字右○〕かきの(※[木+若]垣)  ふせるきみかも  (411)ふたつたばさみ  ふたつなき  フタリ(二人)(二在)  ふぢなみの  ふぢはらの  フツカ(二日)  ふねのよりこぬ  フミヌキ(蹈拔)  ふゆごもり  ふゆのあしたは  ふりさけみつつ  ふりさけみれば  ふるゆきは  ふるゆきも
へだち〔右○〕(障)におきて  へだち〔右○〕になして  へつとこ〔四字右○〕に(外床爾)  へつなみの
ほたるなす  ほつえに  ほつえをすぎて  ほつえをすぐり  ほつみにいたり  ほのかにききて
 
 ま行
 
マ(鬼)(神人以外の生物) 107 143  まがことや  まかぢぬき  まかみのはらよ  まきたつやまに  まきつむ  まきもたる  まくはしみかも  まくはしも  まくひには  まくひをうち  マクラ(枕)  まくらとなして  まくらにまきて  まけのまにまに  マサカ(現實)  まさきくありこそ  まさきくませと  まさめにきみを  マス(坐)  まそかがみ  まそみかがみに  またかへりみむ  またまなす  またまをかけ  またみるの  (412)またも  またもあふといへ  またゆきかへり  まつがねの  まつこととほし  まつのしたぢゆ  マツハリ(纏在)  まつらむものを  まつわがそでに  マデ、マテニ(迄)  まてどきまさず  まてどきまさぬ  まてにもひとは  まなくぬきたり  まなこにもあらむ  まゆごもり  まゆふもち  まよへるほどに
みがねのたけに  みぎりしみみに  みけつくに  ミコト(命)(尊)  みことかしこみ  みこのみことは  みさくれば  みそでもち  ミソラ(虚空)  ミタヤ(神田屋)  みだりをの  みちくるしほの  みちくるひとの  みちてあれども  みちにいでたち  みちのくま  みちのしらなく  みちのしらねば  みちゆきゆき〔四字右○〕も(行去毛)  みちゆくひとは  みづえさす  みづこそは  みづたでの  みつつわたりて  みつのはまゆ  みづほのくにに  みづほのくには  みつるがごと〔六字右○〕(滿言)  みなとなす  みなのわた  三野王《ミヌノオホギミ》  みぬのおほぎみ  みぬのくにの  みぬのやま  みねのたをりに  (413)みはかしを  みへにゆふべく  みむろの  みむろのやまに  みもろのかみの  みもろのやまの  みもろのやまは  みもろは  みやけぢの  みやけのはらよ  みやこしみみに  みやこをおきて  みやのとねりも  みゆきふる  みよしぬの  ミル(水松)  みるごとに  みれどあかぬ  みれどあかねば  みれどもあかず  みればこほしみ  みればともしも  みわすゑまつる  みわたしに  みわたす  ミヰ(御井)  みをはやみ
むかふすくにの  迎假字《ムカヘカナ》  むながける〔五字右○〕(纓有)  むねのやめる  むねやすからぬ  むらとりの  むれてさもらひ  ムロ、モロ(※[穴/告])  むろのえのへに
めかもまよへる  めしたまはねば  めしてつかはし
モコ(同輩)、モコロ(共)  もだあらましを  もたるをちみづ  もたれどわれは  もちづきの  もちひきかけ  モテ(以)(持)  もとなぞこふる  もとなやこひむ  もとへは  もとむとぞ  もとめぞわがくる (414)もとめて  ものいはず  ものおもはず  ものにしあらねば  もののふの  モミヂ(紅葉)  もみぢばの  ももきね  ももしきの  ももしぬの  ももたらず  ももへなみ  モル山
 
 や行
 
ヤ(名詞形接尾語)  ヤ(間投詞) やくもわれなり  やさかのなげき  ヤシ、ヨシ(間投詞) 20  やすからなくに  やすからぬものと  やすからぬものを  やすみしし  やそくまごとに  やそしまの  やそのこころを  やどれるひとは  ヤナギ(矢之木)  やましなの  やますがのねの  やまぞ  やましろぢを  やましろの  やまだのみちを  やまぢはゆかむ  やまとの  やまとのくに  やまとのくにに  やまとのくにに〔右△〕――此ニはヲに通する 311  やまとのくには  やまとをすぎて  やまながら  やまの  やまのこぬれに  やまのもみぢば  やまべの  やまみれば  やまもこえきぬ  やまゆきぬゆき  やまよりいづる  やむときもなし  やれこもをしきて  
(415)ゆかめども  ユキ(行)とキ(來) 27  ゆきしきみ  ゆきとりさぐり  ゆきなびかくを  ゆきのつどひに  ゆきのほの〔五字右○〕(雪穗)  ゆきのまにまに  ゆきはふりきぬ  ゆきはふるとふ  ゆきふりのまつを  ゆきむかふ  ゆきもしなむと  ゆくとりの  ゆくへしらずて  ゆくへなみ  ゆくへもしらず  ゆくみちの  ゆくらゆくらに  ゆばらふりおこし  ユフサ、ユフサリ(夕方)  ゆふうらの  ゆふうらを  ゆふだすき  ゆふなぎに  ユフハナ(木綿花)  ゆふひなす  ゆふべには  ユメ(戒謹)  ゆめかも  ゆめにだに  ゆめにみえこそ  ゆめにみせこそ  ユラ、ユリ(搖) 15  ユラユラ(搖々)
ヨサ、ヨサリ(夜間) 8  よさり〔三字右○〕(好去)かよはむ  ヨシ(間投詞) 58  よしぬのたけに  よしぬへと  よしのなければ  よしゑやし  よするしらたま  よするはまべに  よそにぞきみは  よそにみしこに  よそるとぞいふ  ヨヂ(攀)  よちこをすぎ  よのなかにあり  よのなかを  よはあけゆきぬ  (416)ヨバヒ(娉)  よばひせす  よひと  よみもあへぬかも  よもふけにけり  よりくるなみの  よりにけるかも  よるはすがらに  よるべきいその  よろしきやまの  ヨロヅ(萬)  よろづよに  よろづよにもが  よをかぞへむと
 
 ら行
 
ラ(虚辭的接尾語) 115  ロカモ(複語尾) 310
 
 わ行
 
わがいのちの  わがおびゆるぶ  わがおほきみを  わがおほみこ〔四字右○〕よ(吾大皇寸〔右△〕與)  わがおもふ  わがおもへる  わがきたれば  わがこえゆけば  わかくさの  わがこころ  わがこころから  わがこひぞ  わがこひにける  わがこひやまめ  わがこふらくは  わがこふる  わがころもでに  わがころもでも  わがころもでを  わがすぎゆけば  わがせこが  わがせこは  わがせるときに  わがとひしかば  わがなげく  わがぬるよらは  わがぬるよらを  わがまちをるに〔右○〕(吾待居者〔右△〕)  わがまつきみを  わがみはなりぬ  わがもこ〔二字右○〕(同子)をすぎ  わがもたる  わがもふいもも  わがもふきみは  (417)わがもへる  わがゆくごと  わかれしくれば  わかれのあまた  わぎもこに  わぎもこや  ワケ(汝)  わごおほきみ  わすらえぬかも  わたるせふかみ  わのみかも  わはおもひます  わらはども  われかこひむな  われにつぐらく  われによすとふ  われはあれども  われはこえゆく  われはしぬびず  われはぞこふる  われはたちて  われはわたらむ  われふたりゆかむ  われやなににか  われをぞも  われをもぞ
ゐるくもの
ヱ(感動詞)20
をかいもがも  をけにたれたる  をけをなみと  ヲシ(食)  をしくもあるかも  をしけくもなし  をすずもゆらに  ヲチ(小)(若)  をちえしむもの  をちかたに  をちのこすげ  をとめはうちに  をとめらが  をとめらに  をとめらの  ヲヌ(小野)  をのたえぬれば  をのとりて  をはりだの  をふねもがも  をやのしこやに  をりかへし  ヲヲリ(居々)
 
昭和九年二月 五日印刷
昭和九年二月十一日發行
 
萬葉集論究 第一輯
 【定價三圓八〇錢】
 
不許複製
 
著者 松岡静雄
 
發行者  田中清之
      東京市目黒區中目黒二ノ五八二
印刷者  山村孝三
      東京市小石川區關口水道町四一
發行所 【東京市目黒區中目黒二ノ五八二】 章華社
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(山田製本所製本)
 
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     2009年8月21日(金)午前10時45分、入力終了
2009年9月11日(金)午前8時55分、補足入力終了