有由縁歌と防人歌(續萬葉集論究)、松岡靜雄、瑞穗書院、532頁、3圓50錢、1935.6.1(6.15.再版)
 
(1)有由縁歌と防人歌
     (續萬葉集論究)
 
       序
 
 嚢に「萬葉集論究」と題する小著二卷を公表し、同集第十三卷及第十四卷について主として言語學方面から釋明を試みたが、上代の歌謠を味ふには、語釋ばかりではなく、民族誌的考察をも必要とする場合が.少くない。其は世態風俗を異にするのみならず、信仰及思想上にも今を以て古を律することの出來ぬものがあるからである。此見地から私は更に第十六卷の有由縁歌と第二十卷の防人歌とを論究して見ることにした。兩卷は一見縁がないやうであるが、ほゞ年代を同じうし、いづれも世事を吟詠(2)したもので、彼此を見くらべると、都鄙兩面の實生活を知る便があるから組合はせたのである。この兩群約二百首の短長歌から吾人の學ぶ所は極めて多く、文書に殘された律令は必しも當時の法的生活を語るものではなく、金銅盧舍那佛が建立せられた天平年代の民衆中には、佛教の存在をすら知らぬものが多かつた事實をさへ發見するのである。防人歌は勿論、第十六卷にも無名作家の詠が多いので、奈良朝大衆文藝の粹を遺憾なく味ふことが出來るのみならず、歌型・風格・用語等に於ても參考となるものが少くない。此意味に於てこの小著は歌壇及國語國文學界だけではなく、一般社會科學にも若干の貢献たり得べしと信ずるのである。
        於相州鵠沼神樂舍 松岡靜雄
 
(3)目次
 
     前編 有由縁歌
 
概説…………………………一
  二壯士挑2娘子1、遂嫌v適2壯士1入2林中1死、時各陳2心緒1作歌二首…………………………一二
  三男共娉2一女1、娘子嘆息沈2沈水底1、時不v勝2哀傷1各陳v心作歌三首…………………………一八
 竹取翁偶逢2九箇神女1贖2近狎之罪1作歌一首并短歌娘子等和歌九首…………………………二四
 娘子竊交2接壯士1時、欲v令v知v親與2其夫1歌一首…………………………九〇
 壯子專2使節1赴2遠境1、娘子累年悲嘆、姿容疲羸、壯子還來、流涙口號歌一首…………………………九三
 娘子聞2夫君歌1應v聲和歌一首……………………………九五
 女子竊接2壯子1其親呵嘖、壯子〓〓時、娘子贈2與夫1歌一首…………………………九八
 葛城王發2陸奥1時、祗承緩怠、王意不v悦、釆女捧v觴詠歌一首…………………………一〇〇
 男女衆集野遊、時有2鄙人夫婦1、(其婦の二字脱か)容姿秀2衆諸1仍賛2嘆美貌1歌一首…………………………一〇三
(4) 所v幸娘子寵薄還2賜寄物1時、娘子怨恨歌一首…………………………一〇七
 時娘子相2別夫1、後夫正身不v來、徒賜2※[果/衣]物1娘子還酬歌一首…………………………一〇九
 戀2夫君1歌一首并短歌…………………………一一一
 時娘子戀2夫君1沈2臥痾痩1喚2其夫1逝没時口號歌一首贈歌一首…………………………一二〇
 娘子見v棄2夫君1改2適他氏1壯子不v知2改適1(以下脱字歟)顯2改適之縁1歌一首…………………………一二一
 穂積親王宴飲日酒酣御歌一首…………………………一二四
 河村主宴居彈v琴先誦歌二首…………………………一二七
 小鯛《ヲタヒ》王宴居取v琴先詠歌二首…………………………一三二
 兒部女王嗤歌一首…………………………一三七
 椎野連長年歌一首…………………………一四〇
 又和歌一首…………………………一四二
 長忌寸意吉麻呂歌八首…………………………一四四
 忌部首詠2数種物1歌一首…………………………一六九
 境部王詠2數種物1歌一首…………………………一七三
(5) 作主未詳歌一首…………………………一七六
 獻2新田部親王1歌一首…………………………一七八
 行文大夫謗2佞人1歌一首…………………………一八三
 府官設2酒食1誘2右兵衛1【名失】關2荷葉1作v歌、登時應v聲歌一首…………………………一八五
 無2心所1v著歌二首…………………………一八八
 池田朝臣嗤2大神朝臣奧守1歌一首…………………………一九三
 大神朝臣奥守報嗤歌一首…………………………一九五
 平群朝臣嗤歌一首…………………………一九八
 穂積朝臣和歌一首…………………………一九九
 土師宿禰水道嗤2咲巨勢朝臣豊人等黒色1歌一首…………………………二〇一
 巨勢朝臣豊人聞v之酬嗤歌一首…………………………二〇三
 戯嗤v僧歌一首…………………………二〇七
 法師報歌一首…………………………二〇九
 忌部黒麻呂夢裡作歌一首…………………………二一一
(6) 河原寺和琴面無常歌二首…………………………二一三
 又無常歌二首…………………………二一六
 大伴宿禰家持嗤2咲吉田連石麿疲1歌二首…………………………二二〇
 高宮王詠2數種物1歌二首…………………………二二五
 戀2夫君1歌一首…………………………二三〇
 又戀歌二首…………………………二三三
 筑前國志賀白水郎歌十首…………………………二三六
 無名歌六首…………………………二五七
 豊前國白水郎歌一首…………………………二七三
 豊後國歌一首…………………………二七五
 能登國歌三首…………………………二七七
 越中國歌四首…………………………二八八
 乞食者詠歌二首…………………………二九六
 怕物歌三首…………………………三三〇
(7)  備考 歌の目録は寛永版本所載のもので、魯魚の衍は訂正したけれども、本來原編者の記注ではなく、後人が前書及左註によつて調製したものと見え、歌の内容と一致せぬ場合がある。此事は「古義」の總論にも詳説せられて居るが、私に改修することも憚があるから之を存した。讀者が之に拘泥せざらんことを希望する。
 
餘録…………………………三三八
 
    後篇 防人歌
 
概説…………………………三四七
天平勝賓七歳乙未二月相替遣筑紫國諸國防人等歌…………………………三五七
  遠江歌七首…………………………三五八
  相模歌三首…………………………三七〇
  駿河歌十首…………………………三七五
  上總歌十三首…………………………三九一
  常陸歌十首…………………………四〇八
(8)  下野歌十一首…………………………四二三
  下總歌十一首…………………………四三八
  信濃歌三首…………………………四五六
  上野歌四首…………………………四六〇
  武藏歌十二首…………………………四六六
昔年防人歌八首…………………………四八三
昔年相替防人歌一首…………………………四九二
餘録…………………………四九四
語句人名索引…………………………五〇七
 
(9)   凡例
一、歌詞・前書・左注の原文は仙覺本(寛永版)に據り、「校本萬葉集」及「萬葉集総索引」を以て考異し、誤字は△、衍字は▲を旁記して表示する。
二、穿訓は仙覺點(本篇では舊訓と稱へる)を出来るだけ尊重することにしたけれども、明かに誤訓と認められるものは、契沖以下の諸學匠の説を參照して、その可なるものに從ひ、いづれも採るに足らざる場合には新に考定した。釋義の標目に圏點を附したのは私の新訓である。
三、?々引用する文獻には便宜のため、左記の略字を用ひた。
〔紀〕 日本書紀 〔釋紀〕 釋日本紀 〔記〕 古事記 〔記傳〕 古事記傳 〔舊〕 舊事本紀 〔姓〕 新撰姓氏録 〔字鏡〕 新撰字鏡(天治本) 〔和〕 倭名類聚鈔 〔拾〕 萬葉集拾穗抄 〔代〕 萬葉集代匠記 〔童〕 萬葉集童蒙抄 〔考〕 萬葉考 〔略〕 萬葉集略解 〔古〕 萬葉集古義――同上附録 〔新考〕 萬葉集新考 〔新訓〕 新訓萬葉集 〔地辭〕 大日本地名辭書
右の外は全書名と、要すれば著者名とを掲げる。
(10)四、既刊の拙著中に掲げた所説は、參照の労を省く爲、成るべく要點を摘記したが、長文のもの又は直接關係の少いものは、左記の略符を用ひて所出を示すに止めた。
 〔神代篇〕 紀記論究(神代篇) 〔建國篇〕 同上(建國篇)
 〔語誌〕 日本古語大辭典(語誌篇) 〔訓詁〕 同上(訓詁篇)
 〔要録〕 右同附録(語法要録)
五、集中の歌を指示するには、便宜上「國歌大観」の番號を用ひた。
 
(1)前篇
 
有由縁歌 萬葉集卷第十六
 
    概説
 
 寛永刊本には有由縁并雜歌と題してあるが、有由縁と雜とは漢文としても國語でも、并(マタ)を以て連繋することの出來ぬ異類の表現である。其故に由縁の下に歌の字脱とする説もあるのであるが、卷中に少しも其區別がないのみならず、此卷の目次には并の字はなく、西本願寺本以下にも之を消してある所を見ると、もとは有由縁雜歌とあり、由も縁も紀の舊訓にはヨシとよませてあるから、ヨシアル雜歌《ザフノウタ》と稱へたのであらう。他の卷の歌詠は大體に於で雜歌〔二字右○〕・相聞・譬喩・問答・挽歌に區別してあるので、これも有由縁歌だけでは物足らぬとして雜の字を加へたのであらうが、文字に拘泥する必(2)要はなく、今の言葉でいへば、わけ〔二字傍点〕のある歌といふ程の意と解すべきである。
 この卷に收められたのは長短百三首(外に改作一首)であるが、筑前國志賀白水郎歌十首、長門國角嶋の歌、豐前及豐後の白水郎歌各一首、能登歌三首、越中歌四首、合計二十首を除いては、盡く都會生活を詠じたもの、若しくは都會人の吟懷で、上は高貴に關するものから、下は乞食者の歌に至るまで、あらゆる社會相が描寫せられて居る。就中著目に値するのは、竹取翁歌及娘子等和歌と題した長歌一篇短歌十一首で、宛然たる一歌劇であることは本文に詳述する通りである。古事記の八千矛神贈答歌(神語)も、劇的場面を詠じたものであるが、其は所作事(多分黙劇であつたらう)が先行し、之に基いて作歌したものと思はれるに反し、これは律語を以て詩的空想を敍したもので、登場人物が生氣にみちて居るから、巧に脚色して舞臺に上せたら、ローヘングリン以上に面白いものが出來るかも知れぬ。最近源氏物語上演の計畫が熟したところ、餘りにも露骨に戀愛生活が描寫せられて居るといふ理由の下に、官憲から禁止せられたといふことであるが、假に許可を得て上演したにしても、衣装調度に平安朝盛時の絢爛たる物質文化を髣髴せしめることの外、劇的には果して偐《エセ》紫田舍源氏以上の感興を、見物人に與へ得たか疑問である。其に比べると、この歌の方が遙に演出價値に富んで居るやうに思はれる、
(3) 乞食者の歌二首も亦他に類を見ざる珍らしいもので、私が之を三河萬歳にたぐへたのは(本文參照)、或は過言かも知れぬが、明日香宮時代に既にこのやうな物貰ひがあつたといふ事實を知るだけでも愉快なことである。詞の運びは巧であるが、後世の口合ひ又は駄酒落と同じく雅味の乏しいのは、無教育者の作なるが故で、俚謠の臭ひの高いのも之に因るものである。兩首はいづれも意匠を同うし、鹿または蟹の述懷をかりて祝賀の意を表はすことが目的であり、「まことにめでたう候ひける」といはんが爲に、面白をかしく言ひ立てたのであるが、鹿の歌の初十句が一種の囃詞であるのは型破りといふべきで、山の枕詞なるアシビキ(足引)といふ語を、字の通りに足を引張るといふ意にとりなして、其對照として蟹をして「馬にこそふもだしかくもの牛にこそ鼻繩はくれ」と言はしめたるが如きは、文人墨客には思ひもよらぬ放れ業である。このやうに埒《ラチ》もない所に時人の頤を解くに足るものがあつたのは、庶民藝術の本領を發揮した痛快な作であるといはねばならぬ。
 爾餘の六十九首を私は試に次の如く分類した。
  悲別歌 十首 〔三七八六−九〇〕〔三八〇四、五〕〔三八一一−一三〕
  戀愛生活 七首 〔三八〇三〕〔三八〇六〕〔三八二二〕〔三八五七〕〔三八七二−七四〕
  述懷 八首 〔三八〇七〕〔三八〇九〕〔三八一〇〕〔三八四八−五二〕
(4)  偶感 十五首 〔三八〇八〕〔三八一六−二一〕〔三八三五−三七〕〔三八五三、五四〕〔三八五八、五九〕〔三八七〇〕
  贈答 十首 〔三八一四、一五〕〔三八四〇−四七〕
  題詠 十八首 〔三八二四−三四〕〔三八三八、三九〕〔三八五五、五六〕〔三八八七−八九〕
  問答歌一首 〔三八七五〕
右のうち正式の長歌(反歌の附屬するもの)は〔三八一一〕の唯一首だけで、外に聯立(問答)體一首〔三八七五〕、七句歌〔三八五七〕及旋頭歌〔三八五二〕が各一首あるが、他は盡く五句短歌である。思ふにこの時代には坂上郎女、大伴家持、同池主のやうな典型的歌人の外は、長歌を詠むものが稀であつたのであらう。同時に題詠といふものが發生したやうで、上記の如く本卷にも十八首を算するが、後世のやうに兼題を詠じたのではなく、其座に於て即吟したのであるから、長歌を作り得なかつたことは寧ろ當然である。内容からいふと揶揄嘲弄の歌が多く、十首の贈答歌は盡くそれで、外に偶感中に入れた〔三八二一〕〔三八三五〕〔三八三六〕〔三八五三〕〔三八五四〕も、調戯にあらずとすれば飜弄である。さりながら其は必しも相手に憎惡怨恨の念を起さしめる底のものではなく、何となく滑稽味を帶びて居るのは、此時代の都人士かたぎの發露であらう。同じく偶感に入れた〔三八一六〕〔三八一八〕〔三八二〇〕(5)〔三八五八〕〔三八五九〕〔三八七〇〕の如きも、輕快なるユーモアである。
 地方生活の歌では何というでも志賀嶋の白水郎を詠じた十首が壓卷である。難破した船員の妻子の悲吟に擬して、舟乘|氣質《カタギ》と海村の生活とを描寫し、實在の事物にことよせて、痛恨を敍した手腕は、憶良以外には之を求めることが出來ない。この一群の歌詠は、收録者が序次を忽にしたため、個々獨立の哀悼歌であるがのやうに解するものをすら生じだが、本文のやうに之を整理して讀み直して見ると、各首聯絡のある一篇の哀史で、〔三八六〇〕と〔三八六四〕とは併せて一首をなし、五句聯立體とでも名づくべき一新歌形と見ることも出來る。短歌が行きづまりとなつた今日では、吾人は須らく憶良の古智に倣うて、現代に適する歌形と句法とを工夫すべきではあるまいか。萬葉集時代に於てすら、此作者のやうに五句短歌の固定形式を脱しようと努力したものがあり、傳統に捉はれことの少かつた地方人は、思ひ思ひの形式で吟詠したと見え、本卷の能登歌及越中歌中にも短歌は二首のみで、三首は旋頭歌及その變形、一首は六句歌、他の一首の長歌は標準句長を無視した民謠式のものである。――東歌及防人歌がたゞ一首のほか盡く短歌であるのは、特にこの形のものゝみが採録せられたからで、東國には短歌のみが全盛であつたといふ證據にはならぬ。いな民衆の口に上つたのは寧ろ東遊または風俗歌のやうなものであつたかも知れぬ――此等の歌に含まれて居る諧謔が、都人士のそれに比(6)して露骨であるのも、地方色が見られて却つて面白く感ぜられる。熊木の二首〔三八七八〕〔三八七九〕と伊夜彦の一首〔三八八四〕とが戯歌であることは云ふまでもないが、二上山の鷲の歌〔三八八二〕が皮肉な洒落であるといふことには氣づかねものが多いやうである。
 特に一言を要するものは角嶋の歌〔三八七一〕である。契沖以下が文字に泥んで古訓を無視した結果、歌意を難解にしたが、次のやうに解すれば不可解ではない。
  つの〔右○〕島の せとのわかめ〔三字右○〕は 人のとも〔二字右○〕 荒かりしかど 吾がとも〔二字右○〕はにぎめ〔三字右○〕
これは僻陬の社會生活を如實に描出したもので、文化史料としても極めて有用である。近畿諸國は勿論、地方に於ても中枢地には、大化大寶の二令が徹底し、部族制度は當時すでに後を絶ち、民衆は里坊長の催驅に服して居たが、遠地に在つては古來の遺習により、依然としてトモ〔二字右○〕ガラ(部族)を以て社會の機構とし、共同生活を營んで居たものゝやうで、この歌主の如きも初は角嶋の女の許に通うて居たが、部族が違ふので折合がつかずして別れ、新に自分の部族の女子を得て大に滿悦したといふのである。電信電話の便のある今日のやうに、一令が發布せられると直に日本全國に普遍したかのやうに此時代をも想像して居る人たちには、或はこの趣はわからぬかも知れぬが斷髪令が出てから十餘年を經た私の少年時代にも、なほ丁髷を頭に載せた年寄も若い衆も、到る所で見られたことを思ひ合はせ(7)ると、舊社會組織か奈良朝ころまでも長門の西北隅に殘つて居たことは、私には少しも不思議には感ぜられない。
 上記の外本卷を通じて、豐富とはいへぬが、尚若干の文化史料を拾ひ集めることが出來る。帝都及その附近には既に佛法が隆盛であつたので、卷中にも佛・寺・僧を題材とした歌が六首見え〔三八二二〕〔三八四〇〕〔三八四一〕〔三八四六〕〔三八四七〕〔三八五六〕、その教から出た厭世思想も謳歌せられて居るが〔三八四九〕〔三八五〇〕、之を以て當時の國民思潮を代表するものと思ふのは誤りで、莊子の無何有觀にかぶれた歌と同樣に〔三八五一〕、智識階級の模倣的思想に外ならず、僻遠の地に在つては寺院僧房の設もない國郡があり、民衆は佛道の存在をすら知らぬものが多く、都人士というても心から歸依信頼するものは少かつたやうである。されば臨終に際しても請僧や讀經の儀はなく、病患は神靈の祟なりとして、卜者を招いて龜甲を灼き、、薄暮辻占に問うて其病源を探求したのであつた〔三八一一〕〔三八一二〕。人魂や骸骨を怕れたのは〔三八八七〕〔三八八九〕古來の民族信仰によるもので、遺體を水葬にすることは〔三八八八〕、決して佛徒の慣例ではあり得ぬ。
 寺の長屋に女を連込んだのが事實としても〔三八二二〕、推野連長年がいふほどけしからぬことではなく、若草を褥として野合することもあり〔三八七四〕、一夜|夫《ツマ》を引入れたことすら歌に詠まれて居る(8)のである〔三八七三〕。今日の目から見ると、甚しく放縱淫奔のやうであるが、其は上代社會組織上已むを得なかつた戀愛生活樣式の遺習で、童貞といふことが問題にならなかつたのみか、或る時機までは男女ともに、情交を嚴秘にすることを掟とし〔三八〇三〕、當初から仲人を立てゝ迎へ取るといふやうなことはなく、夜に入つてから竊に女の許に通ふのを例としたのである〔三八一〇〕〔三八八一〕。されば父《テテ》なし子を孕むことも決して稀有ではなかつたが〔三八八二〕、其曉には人目にもつき、隱しおほせねから、家長の許を乞うて公然夫婦となるのであつた。其場合の儀式らしいことが能登歌〔三八八〇〕に詠まれて居る。
 生業および衣食住に關する資料は餘り多くはない。題材に用ひられた人物中には、既記の外に寺婢〔三八二八〕、社奴〔三八七九〕、僮〔三八二三〕、海少女〔三八七〇〕、クシ(藥)作る刀自〔三八三二〕等があるが、特にこの時代に出現した職業と思はれるのは藥屋だけである。櫛の字が充てゝあるので、先學は注意しなかつたが、本文に論ずるやうに櫛ひきは、刀自と呼ばれる身分の女性が從事する職業とは考へられぬから、藥を意味する古言クシの假字とすべきで、クスリもまた本來クシ(奇)アリ(有)の約轉である。藥用は前代人も知つて居たことではあるが、古老の教に從ひ自給したものゝやうで、醫者をクスシ(藥師)と稱へ、之を業とするものもあつたけれども、其數は尚極めて少く、諸國の國衙にも配(9)員するに足らぬ程であつたから、庶民がその診療を受ける機會は稀で、世の需要が先づ藥舗の出現を促したものと思はれる。製藥の如きは無智のものには出來ぬ仕事であるが、さりとて筋肉勞働を要するほどのものでないから、有識階級の婦人が之に任じたことは有り得べきである。
 上流の男子の服装は竹取翁の歌〔三七九一〕に詳敍せられて居り、小兒は袖のついた木綿《ユフ》の著物を纏うたが、まだ這ひ廻るころには襁褓《モツキ》と肩衣即ち袖なしを著せられたことが知られるが、男女ともに被りものは用ひなかつたやうで、挿頭《カザシ》〔三七八六〕及|縵《カヅラ》〔三七八九〕といふ品名が見えるけれども、實用に供したかは疑問である。本卷に於て始めて現はれる服装具は右のモツキ〔三七九一〕の外にはムカハギ〔三八二五〕、即ち行騰があるだけで、いづれも此時代の産物と思はれる。食品の初見は棗〔三八三〇〕〔三八三四〕、氷魚《ヒヲ》〔三八三九〕、鰻《ムナギ》〔三八五三〕〔三八五四〕及びモム楡《ニレ》〔三八八六〕で、タヒ(鯛)及びフナ(鮒)は後記の如く第二次的外來語であるが、實物は夙に知られて居たやうである。調理法が漸く進歩してヒシホズ(二杯酢)及びシホヒシホ(醢)即ち鹽辛が食膳に上つた事が、〔三八二九〕〔三八八五〕〔三八八六〕の歌に見える。
 當時の民家には後世のカハヤ〔右○〕即ち屋蓋を備へた便所はなく、屋隅《カハクマ》〔三八二八〕または屋裏に於て用を達したものゝやうで、上掲の藥《クシ》作る刀自の如き身分のある女性すらも、尚屎遠く〔三字傍点〕まらねばならなかつ(10)た〔三八三二〕。恐らくは他の設備も不完全で、家屋の構造はなほ古風であつたのであらう。家具什器について聞く所の少いのも之によるもので、大陸文化の輸入が始まつてから、既に多年を經たことであるから、器物等も面目を改めで居た筈で、正倉院の御物を拜見しても、物質的に躍進したことは疑がないが、其は宮廷乃至寺院の備品であつたからで、一般民衆には及ばなかつたのではあるまいか。農村に於ては近年まで、穀物の調製のために連枷《カラサヲ》や箕《ミ》のやうな原始的器具を用ひて居たが、其と同樣に新しい器械の便益は知つて居ても、購買力のない限り、之を利用することの出來ぬ事情もあつたのであらう。本卷にあらはれた器具中、舶來品または新發明品と思はれるものは、〔三八七八〕の新羅斧と、〔三八八六〕の辛碓《カラウス》だけである。雜藝具としては雙六《スグロク》〔三八二七〕〔三八三八〕をあげ得る。
 以上は本卷の概觀で、本文に於てそれぞれ詳細に説明するけれども、尚豫備智識があつた方が通讀に便利であらうと思うて略敍したのである。但しこれらの智識は語義と句釋とを基として集め得られるもので、語學的研究を疎かにして、氣分のみを以て歌を味はうとする輩には、本卷の歌謠が無意義にも、愚かしくも見えるかも知れぬが、其はいまだ歌の眞諦を解せざるものといはねばならぬ。言葉を超越した詩藻といふものは絶對にあり得ない。〔三八五八〕〔三八五九〕の如きも、チカラといふ語に租税といふ意があるから歌になるので、戀力一點ばりて感服して居る人たちは、酒の粕で上機嫌にな(11)つた與大公の仲間で、未だ醍醐上味を解せざるものと云はねばならぬ。
 
 
(12)  昔者有娘子。字曰櫻兒也。于時有二壯士。共誂此娘。而捐生挌競。貪死相敵。於是娘子歔欷曰。從古來于今。未聞未見一女之身往適二門矣。方今壯士之意有難和平不。如妾死。相害永息。爾乃尋入林中。懸樹經死。其兩壯士不敢哀慟。血泣漣襟。各陳心緒作歌二首
 
 前書及左注の漢文に逐語和訓を與へ、之を純和文に引直すことは至難で、且無意味である。蓋し其用字法によつても明白なるが如く、筆者も決して之を庶幾しなかつたので、音讀せねば語感のあらはれぬ場合も少くはない。恐らくは達意を主とし、訓法についてはさのみ意を勞せず、讀む人の好みにまかせるつもりであつたのであらう。されば訓點を施さぬことを最も穩當とするのであるが、尚讀み下しをつけた方が便利であるといふ意見もあるので、以下左記の方針の下に、假字まじり文に書き和げたものを添付する。
 (イ)動詞の終止法は、已むを得ざる場合の外、不定時格(通例現在格と呼ばれて居るもの)を以て表現することにする。其は所謂歴史過去としても用ひられるもので、漢語の如き時格活用を備へざる文章を譯するには、最適當して居るからである。例へば昔者有娘子は、國語に直せばムカシヲトメアリキといはねばならぬが、キを略して單にヲトメアリとする類である。
(13) (ロ)國語としては排列の序次不當なるものも、語勢上之を容認せねばならぬ場合がある。例へば未聞未見はこれを和譯するとせば、次句の下に移して、未ダ一女ノ身ガ二門ニ往適フコトヲ聞キモセズ見モセズ〔九字右○〕》といふべきであるが、未の字が一つ剰る所を見ると、筆者はさう讀まれることを希望しなかつたものとせねばならぬ。
 (ハ)音讀を可とする場合には左邊に旁線を劃して之を標識する。
 (ニ)語釋・考異其他記註を要するものは、原文又は譯文に番號を施し、其順序に説述する。
     ――――――――――
  昔者《ムカシ》娘子《ヲトメ》あり、字《ナ》を櫻兒《サクラコ》(一)と曰ふ。時に二《フタリ》の壯士《ヲトコ》あり、共に此|娘《ヲトメ》を誂へ(二)て、生を捐てゝ挌競《アラソ》(三)ひ、死を貪りて相|敵《アダ》す(四)。是に娘子歔欷〔二字左傍線〕して曰く、古より今に至るまで、未だ聞かず、未だ見ず、一女〔二字左傍線〕の身二門〔二字左傍線〕に往き適《ムカ》ふことを。方今《イマ》壯士の意《ココロ》和平〔二字左傍線〕し難きあり。如《シ》かず、妾《ワレ》死なむには、相害〔二字左傍線〕永に息まむと、爾乃《スナハチ》林の中に尋ね入りて、樹に懸り經《ワナ》(五)き死す。其|兩《フタリ》の壯士|哀慟《カナシビ》に敢《カテ》(六)ず、血の泣《ナミダ》襟《コロモノクビ》に漣《ナガ》る(七)。各々心緒〔二字左傍線〕を陳べて作《ヨ》みける歌《ウタ》二首《フタツ》
(一)雅澄がサクラノ〔右○〕コと唱ふべしと説いたのは、次の歌に山縵之〔右○〕兒または玉縵之〔右○〕兒とあるによるものであらうが、其は七音によむ爲で、尋常の呼稱にはノ〔右○〕を不要としたことは、梅豆羅古《メヅラコ》〔總體紀〕、於譜磨故《オフバコ》〔欽明紀〕の例によつても疑なく、前者は目頼子、後者は大葉子とも表記せられて居る。
(二)舊訓イドムとあり、略解は挑〔右△〕の誤記として居るが、イドムはイヒ(言)タム(廻)の約濁と思はれるから、語義上(14)この場合には不適當である。其故に古義はトフ、新考はツマトフと訓むべしとしたのであるが、紀記の訓によつてアトラヘとすべきである。其はアタリ(當)アヘ(敢)の連約で、「當つて見る」といふ意である。
(三)古義訓による。
(四)敵の字の舊訓カタキナム〔二字右△〕とあるのは、語をなさぬ嫌があり、古義はイドミタリキと改めたが、語義上不適當なることは上述の通りである。尋常にアダスと讀むべきであらう。
(五)ワナキは古義訓による。
(六)タヘズ〔古義〕又はアへズ〔新考〕と訓んでもよいが、古言はカテズ〔三字右○〕である。
(七)古義が哀慟血泣漣襟の六字をカナシミニと訓したのは無理で、少くとも筆者の本意であるまい。泣は新考説の如く涙の謂で、漣襟は舊訓に從ひコロモノクビニナガルと讀むを可とする、
(八)刊本に作歌二首の四字を別行に記したのは、恐らくは誤寫であらう、作歌を古義がヨメル〔二字右△〕ウタと訓したのは誤りである。劈頭に昔者〔二字右○〕云々とあるから、過去格を以て表現せねばならぬ。古今集の歌の前書にも、ヨメルとヨミケル〔二字右○〕とが遣ひわけてある。
 
3786 春去者《ハルサラバ》 挿頭爾將爲跡《カザシニセムト》 我念之《アガモヒシ》 櫻花者《サクラノハナハ》 散去流香聞《チリニケル カモ》
 
〔三七八六〕 はるさらば かざしにせむと 我がもひし さくらの花は ちりにけるかも
 
(15)はるさらば(春去者) ハルサ(春邊)にならばといふ意。
かざしにせむと(挿頭爾將爲跡) カはカシラ(頭)、カホ(顔)、カミ(髪)等の語根であるが、此は頭髪の意に用ひられたので、サシは勿論挿の意、今のカンザシ(釵)もカザシと同語である。上世は男子も亦頭飾として花葉などを髪に挿したのである〔三二二三〕。是は手折つて我ものにしようといふ意を萬したものなること云ふまでもない。
あがもひし(我念之) 舊訓ワガオ〔右△〕モヒシとあるが、オモヒのオを略した例は極めて多いから、強ひて六音に誦む必要はあるまい。我の字の朝鮮音はアである。
さくらのはなは(櫻花者)
ちりにけるかも(散去流香聞) 舊訓による。字に從へばチリヌルカモで、ケ音は表記せられて居らぬのみならず、流の字を除いた本〔類聚古集〕すらあるので、新訓はチリイニシカモ〔五字右△〕と改めだが、イニ(去)のイはi母韻が前行する場合には、脱落するのが例であるから、チリイ〔右△〕ニシと吟じたとは思はれぬ。略解がチリユケルカモと訓したのは時格不調で、チリニタ〔右△〕ルともよめぬから、舊訓に從ふ外はない。但し必しもケ音を表示する一字を脱したのではなく、第三句に我念ヒシ〔右○〕とあるに對しても、過去格であらねばならぬから、特に表現する必要なしとせられたのかも知れぬ。
(16)〔大意〕春邊になつたら、(手折つて)簪にしようと、自分が思うた櫻の花は散つてしまうたよ
 
3787 妹之名爾《イモガナニ》 繋有櫻《カケタルサクラ》 花開者《ハナサカバ》 常哉將戀《ツネニヤコヒム》 彌年之羽爾《イヤトシノハニ》
 
〔三七八七〕 いもが名に かけたる櫻 花さかば 常にやこひむ いや年のはに
 
いもがなに(妹之名爾) イモは本來男子から女性に對する一般的呼稱で、妻又は妹に限らぬことは?々述べた通りである。
かけたるさくら(繋有櫻) 女人の名をサクラ兒といふから、其名に負うて居るといふ意でカケタルと表現したので、賂解及古義がカカセ〔三字右△〕ルと改訓したことの非なるは、既に新考が論破した通りである。
はなさかば(花開着) 刊本に開者をチラバと訓したのは、不注意の過誤であらう。
つねにやこひむ(常哉將戀) ヤは間投詞で、常に戀ひるであらうといふのである。之を疑問句としては意が通らぬので、古葉賂類聚鈔には哉〔右△〕を者〔右△〕と改記してあるが、尚ヤの方がよい。
いやとしのはに(彌年之羽爾) 年ノハは山ノハと同一構成で、ハ(端)はヘ(邊)と通ずるから、年の邊を意味し、春ベ、夕ベと同じ用例に屬する。之に彌《イヤ》といふ語を冠することによつて毎年の義を(17)生じ、第十卷〔一八八一〕にも其意味に用ひてある。然るに家持は此イヤを省いて、トシノハのみで毎年の義を表示したが〔四一六八〕、尚不安であつたと見えて、毎年謂2之等之乃波1と自註して居る。後人之を察せず、語義を究めることなくして、漫然毎年をトシノハといふものと心得、トシゴト〔二字右△〕に宛てた毎年〔九〇八〕〔一八五七〕〔四一五八〕をもトシノハと訓して居る。若しさう唱へたのなら、上記の註は少くとも同じく家持の作なる〔四一五八〕の下にあるべきであるから、〔四一六八〕は特例とせねばならぬしトシノハ〔二字右○〕と假字書せられて居る若干例のうち、ユキカハル年能波ゴトニ〔四一二五〕、立ツ年之葉ニ〔四二六七〕は、往更ハル毎年ニ、立ツ毎年ニと譯することは出來ず、第五卷〔八三三〕の得志能波ニ春ノ來タラバ云々は、年毎〔右○〕ニ春ガ來レバといふ意とも釋けぬことはないが、春は毎年來るに定つて居るから、尚「年の邊」の謂と解する方がよい。右によればトシノハに毎年の義ありとするのは大なる誤で、〔四一六八〕の歌は、同時に詠じた他の一首にトキゴトニ(毎時)といふ句を用ひたので、類似表現を避け、イヤトシノハというては字餘りとなるから、イヤを略してトシノハといふ表現を用ひ、念の爲に註を施したものとすべきである。
〔大意〕彼女が名に負うた櫻の花が咲くと、常に戀ひるであらう。來る年も來る年も
 
(18)  或曰。昔有三男。同娉一女也。娘子嘆息曰。一女之身易滅如露。三雄之志難平如石。遂乃??池上。沈没水底。於時其壯士等。不勝哀頽之至。各陳所心作歌三首【娘子字曰鬘兒也】
 
  或はいふ。昔|三《ミタリ》の男《ヲノコ》ありて、同じく一《ヒトリ》の女《メノコ》を娉《ヨバ》ひき。娘子《ヲトメ》嘆息《ナゲ》きて曰く、一女〔二字左傍線〕の身は滅び易きこと露の如く、三雄〔二字左傍線〕の志|平《タヒラ》ぎ難きこと石の如し。遂乃《ツヒニ》池の上《ホトリ》に??《ユキモトホ》り、水底《ミナソコ》に沈没《シヅ》みき。時に其|壯士等《ヲトコラ》、哀頽〔二字左傍線〕の至りに勝へず、各々所心〔二字左傍線〕を陳べて作《ヨ》みける歌|三首《ミツ》 娘子の名は鬘兒《カツラコ》といふなり。
 
3788 無耳之《ミミナシノ》 池羊蹄恨之《イケシウラメシ》 吾妹兒之《ワギモコガ》 來乍潜者《キツヽカヅカバ》 水波將涸《ミヅハカレナム》
 
〔三七八八〕 みみなしの 池しうらめし わぎも子が 來つゝかづかば 水はかれなむ
 
みみなしの(無耳之)、今の大和國磯城郡|耳成《ミミナリ》村をいふ。耳成《ミミナシ》山を以て有名である。ミミはマミ(猯)に通じ、或種の野獣の謂で、其が多く棲息したからミミ之巣《ノス》と稱へたのを、ミミナシと轉訛したのであらう。附近にカグ(麑)を名とする山のあることを思ひあはすべきである。
いけしうらめし(池羊蹄恨之) シはゾの原語で、「其」の意から指定語に轉じ、本初はゾと相通したものゝやうであるが、慣用により句尾にはゾのみを充當し、前續語が用言である場合には、之が連體法〔三字右○〕につゞけた。其から一轉して句中に位する場合にも、連體形で結ぶやうになつたのである(19)が、シに對しては尚尋常の終止形を用ひる。此句は池〔右○〕其ガ恨メシイといふ意であるが、口語にはシ(ゾ)が廢れたから、池ハ〔右○〕と譯さねはならぬ。ミミナシの池といふ名は他に所見がないが、今も耳成山の南麓に一池が存する。
わぎもこが(吾妹兒之) ワガ(吾)イモ(妹)コ(子)の連呼。イモは上記の如く婦人の呼稱、コは愛稱で、男女いづれに對しても用ひられるが、此場合は我が愛する女人といふほどの意味である。
きつつかづかば(來乍潜者) 潜は舊訓カクレとあるが、先學がよみ改めたやうに、勿論カヅカバであらねばならぬ。カヅクは髪(又は頭)附くの謂で、潜水を意味する。キツツといふ進行格を用ひたのは、前書の??に對應するもので、驀地《マツシクラ》に池に跳び込んだのではなく、池の上《ホトリ》を行きつ戻りつして、結局入水したとせられたからであらう。
みづはかれなむ(水波將涸) ナムはナモの轉呼で、希望と歎息との意を含む複合感動詞である。されば「水は涸れてくれよ」といふ意になるのであるが、こゝでは「涸れてくれたらよいのに」と言ひたい所であるから、聊か物足らぬ心地がする。其故に新考は「カレナムはカレナムヲ〔右○〕といはむにひとし」と説いたのであるが、――古義に「存生《イキ》てある妹が潜《カヅキ》するやうに見なし」とあるのは從はれぬ――此場合のヲは省略し得べき助語ではなく、之が飜案と思はれる大和物語の歌も「我妹子(20)が玉藻かづかば水ぞひなまし〔四字右○〕」とあり、反接助語を用ひて居らぬ所を見ると、原作者の粗漏であらう。萬葉歌人だからというて、必しも盡く頭脳明敏であつたとは限らぬから、此やうな不念も有り得べきで、正しくは水カレナムヲ〔右○〕と詠むべきであつたと思ふ。其場合には大和物語の編者も亦水ヒナマシヲ〔右○〕と譯したであらう。
〔大意〕耳成の池はうらめしい。私の愛人が來て入水するならば、水が涸れて呉れゝばよいのに
 
3789 足曳之《アシヒキノ》 山縵之兒《ヤマカツラノコ》 今日往跡《ケフユクト》 吾爾告世婆《ワレニツゲセバ》 還來麻之乎《カヘリコマシヲ》
 
〔三七八九〕あしひきの 山かつらの兒 今日ゆくと 吾に告げせば 歸り來ましを
 
あしひきの(足曳之) 山、丘、野等の枕詞で、原義は遊ビ處《キ》と思はれることは既に前々輯〔三二七六〕に述べた通りである。
やまかつらのこ(山縵之兒) 山葛に鬘兒をいひかけたのであるが、ヤマは歌意に關係がないから、短い序と見るべきである。助語ノを挿入してカツラノ〔右○〕コと詠じたのは、上述のやうに標準音數に合はせる爲と思はれる。
けふゆくと(今日往跡) 此ユクは逝去の意に用ひられたのであらう。
(21)われにつげせば(吾爾告世婆) 古義は告をノリと改訓したが、其理由乃至根據を示さなかつた所を見ると、或は漫然集中の他の例に傚うたのかも知れぬ。ツゲの原義は第一輯〔三三一八〕に逃べたやうに、報告スルといふことであるから、此場合にはノリ(宣)よりも適切である。ツゲセバは、ツゲ(告)を準名詞としてこれに動詞動尾スルを添へたツゲスルの假設形で、ツゲバと同義であるが、少しく重々しい感じがある。
かへりこましを(還來麻之乎) 還つて來ようものをといふ意で、自分さへ歸つて居たら、カツラ兒の無分別をとめることが出來たに違ひないといふ自信があつて、述懷したのであらうが、前書によれば三人の男子中、其ほど深い關係のものがあつたとは思はれず、此だけては言ひ足らぬ氣がする。還を誤字としてハヤクコマシヲ〔略〕〔古〕〔新考〕又はトクキテマシヲ〔略〕と改訓したのも、五十歩百歩の差である。人に見せる爲の歌ではなかつたとすれば、此作者が「殘念な事をした。自分が歸つて居たら死なせるのではなかたのに」といふ己惚を、其まゝ詠じたことも有り得べきである。
〔大意〕鬘兒が今日逝くと自分に告げさへしたら歸つて來ようものを
 
(22)3790 足曳之《アシヒキノ》 玉縵之兒《タマカツラノコ》 如今日《ケフノゴト》 何隈乎《イヅレノクマヲ》 見管來爾監《ミツツキニケム》
 
〔三七九〇〕あしひきの 玉かつらの兒 けふのごと いづれのくまを 見つつ來にけむ
 
あしひきの(足曳之) 前出
たまかつらのこ(玉縵之兒) 玉の字は古葉略類聚鈔にヤマといふ訓があり、拾穗抄にも一訓ヤマカゲとあるが、其は宣長説の如く、上句足曳之とあるに對し、玉を非なりとし〔玉勝間十三〕、誤寫と見た爲であらう。さりながら此枕詞は山の外に丘にも野にもかゝることがあり、嵐又は岩とつゞけて用ひられた例もあるから、山若しくは野の葛といふ意を以て、タマを隔てゝカツラに言ひかけたものと解することも可能なるが故に、確證のあがらぬ限り、猥りに改訓することは出來ぬ。――宣長は本集第二卷〔一四九〕の玉蘰影〔右○〕爾|所見乍《ミエツツ》の玉をも山〔右△〕の誤としたが、其は山カツラをヒカゲの葛の異名と臆斷し、之によつて影とつゞく理由を説明しようとしたもので、蘰(縵)を古語ではカゲとも稱へたことを忘れたものゝやうである。古事記の橘子渡來傳説中に見える縵八縵は記傳にも垂仁紀の訓に準じてカゲヤカゲと訓して居るのである――タマカツラのタマは美稱であるが、こゝでは鬘兒の美貌を聯想せしめる爲に用ひたのである。
けふのごと(如今日) 此歌は故人を弔ふとて、男の一人が池畔を吟行中に詠じたのであらう。其故(23)に自分の現在の如くといふ意を以て、今日ノゴトというたのである。
いづれのくまを(何隈乎) 世をはかなむ身は、木立物蔭などにも感傷を催すものであるから、作者自身も今、とある隈に眼をやりつゝ、少女も定めしさうであつたらうが、ハテどの隈を見ながら此道を辿つて來たのか知らぬと、又しても悲嘆の涙にくれたのであらう。「池上の隈々を廻りつゝ何の隈よりか身を投むと見つゝ來にけむ」といふ意なりとする古義説は穿ち過ぎで、變死事件の現場臨檢のやうな氣がして不快な感がある。クマの原義は木間《クマ》で、物蔭をいふにも用ひ、轉じて「曲」「隈」の義を生じたのである。
みつつきにけむ(見管來爾監) 「見ながら來たらうか」といふ意。新考が下二句を何時可思〔三字右△〕管の誤記として、イヅレノ時カ〔右△〕モヒツツ來ニケムと訓み、從つて第二句をカツラノコヲ〔右△〕の謂としたのは、理由のないことで、誤記と見るべき形跡がないのみならず、ヲを省いて無用のノを加へ、タマカツラノ〔右○〕コと誦するが如きことは有り得ぬ。前二首と同じく巧な歌ではないが、原文舊訓のまゝで意はよく通ずるのである。
〔大意〕玉のやうな鬘兒も今日の(自分の)やうに、どの隈を見ながら(此道を)來たらうか
 
(24)  昔有老翁。號曰竹取翁也。此翁季春之月。登丘遠望。忽値煮羮之九箇女子也。百嬌無儔。花容無止〔右△〕(三)。于時娘子等呼老翁嗤曰。叔父來乎。吹此燭火也。於是翁曰唯々。漸?徐行。著接座上。良久娘子等皆共含咲相推讓之曰。阿誰呼此翁哉。爾乃竹取翁謝之曰。非慮之外。偶逢神仙。迷惑之心無敢所禁。近狎之罪希贖以謌。即作歌一首并短歌
 
  昔老翁〔二字左傍線〕あり。號《ナ》を竹取翁《タカトリノオキナ》(一)いひき。この翁季春〔二字左傍線〕の月、丘に登りて遠く望み、忽ち羮を煮る九箇《ココツ》(二)の女子《メノコ》に値ひき。百の矯《コビ》儔《タグヒ》なく、花の容《カホバセ》比《ナラビ》なし。時に娘子《ヲトメ》ら老翁を呼び、嗤《ワラ》ひて曰はく、叔父《ヲヂ》來たるか。此|燭火《トモシヒ》(四)を吹けといふ。是に翁|唯々《ヲヲ》と曰ひて漸く?《オモム》き、徐に行きて座《ムシロ》の上《ホトリ》に著き接《マジ》はる。良《ヤヤ》久しくして娘子ら皆共に咲《ヱミ》を含み相|推讓《セメ》(五)て、阿誰《タレ》此翁を呼びしといふ。爾乃《スナハチ》竹取の翁|謝《ワ》びて曰はく、慮はざるの外(六)たまたま神仙《ヤマヒメ》(七)に逢ひ、迷惑《マヨヒ》の心敢て禁《イサ》むる所なし。近狎〔二字左傍線〕の罪は謌《ウタ》を以て贖はむと希ふといひて作《よ》める(八)一首《ヒトツ》、并短歌《マタミジカウタ》
(一)竹取は借字で、契沖も注意したやうに、タカトリといふ地名なることは疑なく、今の大和國高市郡高取町大字高取のことであらう。オキナのオは大、キはコ(子)と同じく男子の稱號、ナはネ(禰)に通ずる敬語であるから、後世宿老をオトナ(大人禰)と稱へたと同樣に、長老に對する敬稱で、――之に對し女性にはオミナ(ミはメの轉)(25)といふ稱呼を用ひ、其が女の義に轉じた後に於ても、オウナの形に於て老婦人を表示した――此は高取の里老の謂と思はれる、
(二)舊訓ココノノとあるは非。箇はツに充てた字であるからココノツ〔右○〕ノと訓まねばならぬ。語根はココ(多大)で、ノは連繋助語である)
(三)原文止〔右△〕とあるが、契沖は匹の誤寫とし、千蔭は比〔右○〕と推定した。姑く後説に從ひナラビと訓んで置く。
(四)略解は燭〔右○〕を鍋〔右△〕の誤記としたが、爐火とはいひ得ても、鍋火は意をなさぬから、字に從つてトモシビと訓すべきである。トモシはタキ(焚)モシ(燃)の連約で、此場合に適當する。
(五)刊本には推にシテといふ假宇を送つてあるから、推シテ讓りと訓ませるつもりであつたかも知れぬが、此場合の讓はセメ又はナジリの意であらねばならぬ。恐らくは推の字と合はせてセメと訓むのであらう。音讀しても妨はない。
(六)オモハザル外と訓むべきである。東鑑其他にも用例があり、思ヒノ外と同義であるが、決して誤記ではなく、生マレル前を生マレヌ〔右○〕前といふと同一語法である。ザルが打消の効力を失ふ理由は前輯〔三三九六〕に詳述した。
(七)音讀してもよいが、若し和訓を施すとせばヤマヒメであらねばならぬ。
(八)この場合は現在時格であるから、ヨミアル即ちヨメルといふべきである。ヨムといふ行爲の現存を表示するのである。
 
(26)3791 緑子之《ミドリコノ》 若子蚊見庭《ワカゴガミニハ》 垂乳爲《タラチシ》 母所懐《ハハニイダカエ》 搓〔左△〕襁《スソモツキ》 平生〔二字左△〕蚊見庭《ハフコガミニハ》 結經方衣《ユフカタギヌ》 氷津裡丹縫服《ヒツラニヌヒキ》 頸著之《ウナツキノ》 童子蚊見庭《ワラハガミニハ》 結幡之《ユフハタノ》 袂著衣《ソデツキゴロモ》 服我矣《キシアレヲ》 丹因子《イロコ》等〔右▲〕何四千庭《ガヨチニハ》 三名之綿《ミナノワタ》 蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》 信櫛持《マグシモチ》 於是〔左△〕蚊寸垂《カタニカキタレ》 取束《トリツカネ》 擧而裳纏見《アゲテモマキミ》 解亂《トキミダリ》 童兒丹成見《ワラハニナシミ》 羅〔左△〕丹津蚊〔左△〕經《サニヅラフ》 色丹名著來《イロニナヅケル》 紫之《ムラサキノ》 大綾之衣《オホアヤノコロモ》 墨江之《スミノエノ》 遠里小野之《トホザトヲヌノ》 眞榛持《マハリモチ》 丹穗之爲衣丹《ニホシシキヌニ》 狛錦《コマニシキ》 紐丹縫著《ヒモニヌヒツケ》 刺《サシ》部〔左▲〕重《カサネ》〔左▲〕 波累服《ナミカサネキテ》 打十八爲《ウツソヤシ》 麻續兒等《ヲミノコラ》 蟻衣之《アリギヌノ》 寶之子等蚊《タカラノコラガ》 打栲者《ウツタヘハ》 經而織布《ヘテオルヌノ》 日暴之《ヒザラシノ》 朝手作尾《アサテヅクリヲ》 信巾裳成《シキモナス》 者〔左△〕|之寸丹取爲〔左▲〕支《シキニトリハキ》 屋所經《ヤドニフル》 稻寸丁女蚊《イナキヲトメガ》 妻問迹《ツマドフト》 我丹所來〔左△〕爲《アレニタバリシ》 彼方之《ヲチカタノ》 二綾裏沓《フタヤシタグツ》 飛鳥《トブトリノ》 飛鳥壯蚊《アスカヲトコガ》 霖禁《ナガメイミ》 縫爲黒沓《ヌヒシクログツ》 刺佩而《サシハキテ》 庭立住《ニハニタタアズミ》 退莫立《ナタチソ》 禁尾迹女蚊《イミノヲトメガ》 髣髴聞而《ホノキキテ》 我丹所來〔左△〕爲《アレニタバリシ》 水縹《ミハナダノ》 絹帶尾《キヌノオビヲ》 引帶成《ヒコビナス》 韓帶丹取爲《カロビニトリナシ》 海神之《ワダツミノ》 殿蓋丹《トノノイラカニ》 飛翔《トビカケル》 爲輕如來《スガルノゴトキ》 腰細丹《コシボソニ》 取餝氷《トリカザラヒ》 眞十鏡《マソカガミ》 取雙懸而《トリナミカケテ》 己蚊果〔左△〕《オノガカホ》 還氷見乍《カヘラヒミツツ》 春避而《ハルサリテ》 野邊尾回者《ノベヲメグレバ》 面白見《オモシロミ》 我矣思經蚊《アレヲオモヘカ》 狹野津鳥《サヌツドリ》 來鳴翔經《キナキカケラフ》 秋避而《アキサリテ》 山邊尾往者《ヤマベヲユケバ》 名津蚊爲迹《ナツカシト》 我矣思經蚊《アレヲオモヘカ》 天雲裳《アマグモモ》 行田菜引《ユキタナビク》 還立《カヘリタチ》 路尾所來者《ミチヲキタレバ》 打氷刺《ウツヒサス》 宮尾見名《ミヤノヲミナ》 刺竹之《サスタケノ》 舍人壯裳《トネリヲトコモ》 忍經等氷《シヌブラヒ》 還氷見乍《カヘラヒミツツ》 誰子其迹《タガコゾト》哉〔左▲〕 所思而在《オモハエテアリ》 如是《カクノゴト》 所爲〔左△〕故爲《メデラエコシ》 古部《イニシヘノ》 狹狹寸爲我哉《ササキシアレヤ》 端寸八爲《ハシキヤシ》 今日八方子等丹《ケフハモコラニ》 五十狹邇迹哉《イサニトヤ》 所思而在《オモハエテアル》 如是《カクノゴト》 所爲〔左△〕故爲《メデラエコシ》 (27)古部之《イニシヘノ》 賢人藻《サカシキヒトモ》 後之世之《ノチノヨノ》 堅監將爲迹《カガミニセムト》 老人矣《オイビトヲ》 送爲車《オクリシクルマ》 持還來《モチカヘリコシ》
 
〔三七九一〕みどり子の わか子が身には たらちし 母にいだかえ
すそもつき〔五字右○〕 はふ兒が身には ゆふ肩衣 ひつらにぬひ著
うなつきの 童がみには 木綿《ユフ》はたの 袖つき衣 きし我《アレ》を
いろこが〔四字右○〕よちには 蜷のわた か黒し髪を まぐしもち 肩にかきたれ
とり束ね あげでも卷き見 ときみだり わらはになし見
さにづらふ〔三字右○〕 色になづける〔四字右○〕 むらさきの 大綾のころも
墨の江の とほざと小野の ま榛《ハリ》もち にほしし衣に
こま錦 紐に縫ひつけ、さし重ね なみかさね著て
うそつやし をみの子ら ありぎぬの たからの子らが
うつたへは へて織るぬの 日ざらしの 麻てづくりを しき裳なす しきに取りはき
やどにふる 稻寸をとめが つまどふと 我にたばりし をちかたの 二綾《フタヤ》した沓
とぶとりの 明日香をとこが ながめ忌み 縫ひし黒ぐつ きしはきて 庭にたたずみ
なたちそ いみの〔七字右○〕少女が ほの聞きて あれにたばりし みはなだの 絹の帶を ひこびなす かろ(28)びに取りなし
綿つみの 殿のいらかに 飛び翔ける すがるの如き 腰ぽそに とり飾らひ まそ鏡 とりなみかけて 己が顔 かへらひ見つつ
春さりて 野べをめぐれば 面白み 我を思へか さ野つどり 來なき翔らふ 秋さりて 山べを往けば なつかしと あれを思へか 天雲も ゆきたなびく かへり立ち 路を來たれは うつ日さす 宮のをみな さす竹の 舍人をとこも しぬぶらひ かへらひ見つつ 誰が子ぞと〔右○〕 思はえてあり
かくの如 めでらえ〔八字右○〕來《コ》し いにしへの ささきし我や
はしきやし 今日はも子らに いさにとや 思はえてある
かくのごと めでらえ〔九字右○〕こし いにしへの さかしき人も 後の世の かがみにせむと 老びとを 送りし車 もち歸りこし
 
 此歌は仙覺律師が解讀になやんだものゝ一つであるが、其は十分な校合を遂げることが出來ず、原文に還元し得なかつたからであらう。仙覺本及其底本となつた忠兼本の校合に用ひた諸古寫本は、必しも盡く完本であつたとは考へられぬから、或る卷又は或る歌については校合の資料が乏しかつたこ(29)とも有り得る。從つて衍誤と思はれる文字もあり、拾穗抄以下いろいろと改字改訓を試みたが、未だ氷釋するに至らなかつた。不幸にして元暦校本及其以前の古寫本には此卷を缺いて居るので、即今之を考證する道がないけれども、意義不明の儘にして置くわけには行かぬから、先學の所説を參照し、私の推測を加へて、上掲の如く解讀した。但し原文の改竄は極度に廻避し、四百二十九字中衍字六、誤字七、錯簡二、脱字一を指摘したのみで、其も大部分は先學が認めたものである。
 私の解讀によれば、此歌は大體に於て五七音二句一聯を以て基調とし、二聯乃至四聯を以て一|行《ライン》としたもので、絶計二十三行、百十三句より成り、第三行と末行とに異例があるが、其は單調を破る爲の變化に外ならず、句法上毫も間然する所のない整然たる一大雄篇である。解讀の當否は、他日善本が發見せられたら、自ら判明するであらうが、さしあたり通釋を下し得たことを本懷とする。歌詞は比較的平易で、斯道に親しむ人ならば、一吟して大意を悟り得られるが、左記の二點だけは、讀誦に先ち豫め念頭に入れて置かねばならぬ。
 一、作中の主人公竹取翁は、上記の如く高市郡高取郷の長老で、決して常人ではなく、名門の出と思はれる、此歌が翁の自作とあるのは、恐らくは事實であらう。
 二、翁は壯時イロコと呼ばれたものゝやうである。其は本名ではなく、名門の子に與へられた通稱(30)なることは後述の通りである。
序文によれば、此翁は季春の月、九人の美女の野遊するに逢ひ、頼まれて火を吹いて居る中に、誰が此やうな老ぼれを呼んで來たのかと、爪彈きするので、陳謝に託して此歌を詠じたとあるけれど、其は勿論虚構に過ぎぬ。以下句々の釋明を試みるに當り、要すれば仙覺本及諸註釋書の誤訓誤解を指摘するが、微細の相違は極めて多いから、煩を避ける爲に黙殺した。
みどりこの(緑子之) ミドリは恐らくはメ(芽)タリ(垂)の轉であらう。本來草木の緑芽を意味したのであるが、轉じて其色の稱呼となり、嬰兒をもミドリコといふやうになつたものと思はれる。和名抄には辨色立成を引いて嬰兒を美都利古とし、字鏡にも阿孩兒に此訓を與へて居るが、漢語赤子とは異り、色から出た稱呼ではあるまい。
わかごがみには(若子蚊見庭) 若はワキともワクとも訓むが、ワキは特例で、ワクコは通例「若樣」といふやうな意味を以て、敬稱的に用ひられるから、之と區別する爲に、幼兒をさすには特にワカ〔右○〕ゴと稱へたのであらう。古語拾遺にも今俗號2稚子1謂2和可〔右○〕古1云々とあるのである。口語のアカゴも必しも赤子の直譯ではなく、ワ〔右○〕カゴの轉訛であるかも知れぬ。ミニハは次にもハフコがミニハ、童子《ワラハ》がミニハとあり、ミは身の意なること勿論であるが、必しも肉體をいふのではなく、(31)「頃」又は「時分」といふ意味とも了解せられる。
たらちし(垂乳爲) タラチはタルチ(足主)の謂で〔三二五八〕、シの原義は「其」であるが、「其の」といふ意を以て、連繋助語に代用せられることがある。アラチシ〔右○〕(顯主其〔右○〕)、ヤスミシシ〔右○〕(彌栖主《ヤスミチ》其〔右○〕)等のシも之に屬する。
ははにいだかえ(母所懷) ウダカエと唱へてもよいが、イダキを非とする古義説の根據は、腕纏の義なりといふにあるのだから問題にならぬ。ウデマ〔二字右○〕キが音韻變化法則上、ウダ〔右○〕キとならぬことは勿論で、此語は今も單にダキといふやうに、ダキを語根とし、イ又はウは接頭語に過ぎぬ。――魚をイ〔右○〕ヲともウ〔右○〕ヲとも稱すると同例――されば八千矛神贈答歌には「手抱」を多多岐と連約し、本集〔三四〇四〕には可伎武太伎(ムはウに通ずる)と用ひた例があり、紀にもイダキとウダキとの兩訓を擧げで居るのである。イダカエは又、舊訓の如くイダカレ〔右○〕と唱へられたのかも知れぬ。受動助動詞の原語はエ(得)であるが、奈良朝末には既にレとも轉呼せられたものゝやうである。
すそもつき〔五字右○〕(槎〔右△〕繦) 字劃が明瞭でないが、槎ならばイカダ(筏)、搓ならはヨル(縒)といふ意で、此場合には縁がなく、舊訓の、やうにタマ〔二字右○〕タスキと解すべき理由があり得ぬ、代匠記はヨリタスキと改訓したけれども、其やうな品物名は前代未聞であるから、必然誤字とせねばならぬ。其故に古(32)義は挂〔右△〕と改記してスキカクルと訓み、新考以下之に從うて居るが、無稽の甚しきものである。襁懸《スキカクル》〔大殿祭祝詞〕は伴緒の服飾で、手襁〔二字右○〕挂ともいひ〔大祓祝詞〕、襁即ち幼兒を負ふ爲の紐――之をもスキと稱へるのは事實である――をかけるといふ意ではなく、襁を結《ユ》ふことをスキカクルと表現した例もないのみならず、之を漢文流に挂襁と表記することも違法である。假に一歩を讓つて、之を此歌に限る特別表現と見るにしても、襁をかけるのは其母又は?母で、ハフコ〔三字右○〕の修飾とはなり得ぬ。雅澄が引證した例は皆タスキ〔三字右○〕とあり、繦〔右○〕即ち襷〔右○〕の意で、背負紐のことではない。案ずるに襁〔右○〕(繦ではない)は、和名抄装束部に小兒被也として、无豆岐《ムツキ》と訓せられた襁褓〔二字右○〕にあたり、原語はモツキ〔三字右○〕(裳著)であらう。上代はソ(上衣)とモ(裳)とは別々であつたが、まだ歩行も不十分な幼兒には、裳の一種なるハカマ(褌即ち穿裳《ハクモ》)を取附けた上衣を著せたから、小兒の衣を意味する褓をモツキといひ、ムツキと轉呼して、終にシメシ(濕布)と混同せられるやうになつたのである。槎〔右△〕は類聚古集、西本願寺本及神田本等には示又は衣扁に作られて居る所を見ると、字劃の極めて近似する裙〔右○〕の誤寫とすべきで、此字は本集第七卷〔一〇九〇〕にもスソと訓ませてあるから、此一句はスソモツキと解讀すべく、ハフコの修飾としては極めて適切である。
はふこがみには(平生〔二字右△〕蚊見庭) ハフコ(舊訓)を平生と表記する理由はないから、或は平〔右△〕は半〔右○〕の誤記(33)ではあるまいか。温故堂本に乎〔右△〕としたのも、半〔右○〕を寫し誤つたものと見ることが出來る。若し然りとすれば半はハ〔右○〕の假字で、生はフと訓む字であるから、其の下に「子」又は「兒」を脱したものと見ねばならぬ。類聚古集及西本願寺以下に、「生」の次に不判明の一字を加へて居るのも、原文は三字であつた證據とすべきである。ハフコは勿論這兒の意で、漸く乳難したが尚歩行し得ぬ幼兒をいふのである。
ゆふかたぎぬ(結經方衣) 結一字でもユフと訓み得るが、送り假字として經《フ》を添へたので、本集には他にも例のあることである。結經方は借字で、木綿肩衣の意なることは云ふまでもなく、其ころは大和に於ても、ユフ即ち木質繊維を以て衣服の材料とすることが普通であつたのであらう。肩衣は次の袂著衣《ソデツキゴロモ》に對し、袂即ち袖のない肩までの衣服をいひ、後世のジンベ又はチャンチャンの類である。上古の上衣は一般に此制であつたやうであるが、當時は既に幼兒又は下級者の服装と見られたやうで、第五卷貧窮問答の歌にも、布《ヌノ》肩衣を有るだけ著ても寒いといふ意味が詠まれて居る〔八九二〕。
ひつらにぬひき(氷津裡丹縫服) 氷津裡の裡はウラの意を以てラの假字に用ひられたのであらうが(舊訓ヒツリとあるが、意をなさぬ)、ヒツラは宣長のいふヒタウラ(純裏)のことではなく〔略〕、ヒ(34)トツラ(一聯)の約、即ち上記の裳ツキの肩衣が一ツヾキ(聯)であることを意味するものとせねばならぬ。袷衣は此當時既に出現して居たけれども〔二九六五〕、這ひ廻るほどの幼兒に著せたとも思はれず、第十二卷に長クの比況として用ひた赤帛之純裏衣〔二九七二〕も、袷の裏では意が通ぜぬから、純裏は借字としてヒツラと訓み、一聯《ヒトツラ》の謂とすべきである。
うなつきの(頸著之) 舊訓クビ〔二字右△〕ツキノとあり、古義は之に從うて居るが、字鏡に?の字を髪至v肩垂貌としてウナ〔二字右○〕ヰと訓し、和名抄にも髫髪に同訓を與へ、謂2童子垂髪1也とある所を見ると、尚眞淵訓のウナツキ〔四字右○〕を可とする。即ちウナヰ〔右○〕と同じく、童子の髪が頸につくといふ意である。
わらはがみには(童子蚊見庭) ワラハの原義は藁葉《ワラハ》で、ワラは本來カラ(莖)から分化したのであるから、禾本を束ねて本を縛《クク》り、其葉未を下にしたやうな形状から、童髪の謂となつたので、口語に於てオカツパ又はカツパといふのも、カラ(莖)ハ(葉)の轉呼である。髪形から再轉して兒童の意に用ひられ、複數表示のべ(群《ムレ》の意)を接尾してワラハベともいひ、音便によつてワランベまたはワラベとも稱へ、ワラハの形に於ては主として男童をいふものと了解せられ、童女に對しては多くは上記のウナヰを用ひるやうになつた。僮僕をワラハといふのは、英語のボーイと同じく轉義である。
(35)ゆふはたの(結幡之) 結幡は借字で、木綿布《ユフハタ》の意なること勿論である。ハタの語根はハ(葉)で、翩翩たるものをいひ、鰭、旗、帆等の義もあるが、之は布〔右○〕を意味し、轉じて服又は織機をもハタと稱へる。上句のユフには結經の二字が充てられて居るので、其と差別する爲に、古義以下ユヒハタと訓して夾纈の謂として居るが、假に此染法が既に奈良朝にも存し、兒童の衣服にも用ひられる程普及して居たとしても、此結幡が其ものを意味し、且ユヒ〔右○〕ハタと唱へられたとすれば、勅を奉じて本集の訓點を施したといはれる源順朝臣が、之を知らなかつた筈はないのに、其著和名類聚抄中夾纈の條下に此間云2加宇介知1とのみ注して、和訓を與へて居らず、細工具の革の條下には纈は即是夾纈之纈字也として、由〔右○〕波太と訓したことを不可解とせねばならぬ。案ずるに表記法に多少の差があつても、纈は結經と同じくユフ(木綿)の假字とすべく、後出の麻、絹、錦に對し、材料の名を擧げだものと見ねばならぬ。まだ漸く肩衣を袖著衣に更へた童子のことであるから、絞り染の絹もの著用などは思ひも寄らぬことである。
そでつきごろも(袂著衣) 上述の如く肩衣から一段進歩した兩袖のある衣服をいふ。袂は今ではタモトと訓み、專ら袖の垂下部をいふものと了解せられて居るが、字書には袖也とあるから、ソデ又はコロモデ(衣手)と同義で、タモトの原義も亦|手本《タモト》、即ちソデワキ(※[衣+夜])のことである。舊訓の(36)ソデツキ〔右○〕をわざ/\ソデツケと改訓したものもあるけれど〔略〕〔古〕、其は「袖のついて居る〔五字右○〕衣」と「袖をつけた〔三字右○〕衣」との差異と同樣に、孰れを是、いづれを非とすることの出來ぬもので、舊訓に從ふのが穩當であるのみならず、上句モツキ〔右○〕(ムツキ〔右○〕)の例によれば、寧ろソデツキ〔右○〕の方が古い形であらう。但し〔四三一五〕に蘇泥都氣〔右○〕其呂母とした例もある。
きしあれを(服我矣) 矣の字をヲにあてた例は極めて多いが、こゝのヲは寧ろヨに通ずる感動詞と見るべきで、我ナルヨといふ意であらう。以上十三句は竹取翁に限る描寫ではなく、一般に幼少時代のことをいふものとも了解し得られるから、一種の序と見てもよい。
いろこが〔四字右○〕よちには(丹因子|等〔右▲〕何四千庭) 從來此八字を二句に分ち、ニヨレルコラガ・ヨチニハ〔四字右○〕〔舊訓〕、ニヨレル・コラガミニハ〔考〕、ニヨレル・ヨチコラガミニハ〔略、宣長説〕、アニヨルコラガ・ヨチニハ〔古〕、ニツラフ・ヨチコラガミニハ〔新考〕、ニヨルコラガ・ヨチニハ〔新訓〕等と訓んで居る。全篇を通觀するに、此歌は比較的後期の作に屬し、五七調を墨守したものであるから、此部分に限り律外句を用ひたとは考へられぬ。假に必要上已むを得なかつたとしても、上記諸訓の如き不調の語句を用ひずとも、今少し巧な言ひ廻しをなし得た筈である。案ずるに此は八音乃至九音一句とすべきで、姑く等〔右▲〕の字を衍とすれば、頭記の如くイロコガヨチニハと訓み得られる。即ち丹因は(37)戯書で、丹ノ因はイロ(色)である。イロコはイラツコ(郎子)と同語で、――ツは連繋助語であるから、これを省いても意に於ては變りはない――イラはイロとも轉呼せられて、イロハ(母)、イロエ(兄)、イロト(弟)、イロネ(姉)、イロモ(妹)のごとくも用ひられ、野伊呂賣の如き人名もある〔記〕。此語は夙に廢用となつたけれども、名門豪族を意味したやうであるから、イロコといへば名家の子息と了解せられるのであるが、山城風土記の殘筒に秦公伊呂具〔三字右○〕と人名を擧げて居る所を見ると(グはコと通ずる)、恐らくは竹取翁の通稱であつたのであらう。然らずとも翁自身が其少時イロコと稱へられたことは有り得べきである。憶良等〔右○〕者今者將罷〔三三七〕の如く詠まれた例もあるから、複數表示としてではなく、虚辭としてラを接尾したことも絶無ではないが、吟調上之なきを可とするから、等〔右●〕の字は?入であらう。ヨチは第十三卷〔三三〇九〕にも見えるやうに、ヲチ(若)の轉呼で、こゝでは「イロコが若い時には」といふ意と了解せられる。此句が字餘りであるのは、前行が五句より成り、五音句(律外)を以て段落として居るからで、律調上二節に分けることを必要としたのである。服我矣を以て一齣とし、之を四音二句と見ることも可能であるが尚句法上からは一長句に相當するものと見なさざるを得ぬ。
みなのわた(三名之綿) ミナ(蜷)といふ貝の腸を意味し、クロ(黒)といふ語の修飾的枕詞であるこ(38)とは、前々輯〔三二九五〕に述べた通りである。
かぐろしかみを(蚊黒爲髪尾) 右の〔三二九五〕にも見え、カグロキ〔右○〕カミといふが、此は特に爲〔右○〕の字を添へて居るから、カグロシ〔右○〕と訓まねばならぬ。――舊訓カグロナル〔二字右△〕は非――「爲」を衍字とし〔代〕若しくは「伎」〔考〕または「支」〔新考〕の誤として、カグロ〔右△〕キと訓まざる可からずとするのは、甚理由のないことで、凡河内をオホシ〔右○〕カフチと稱へるやうに、複合語には終止形を用ひるのが古語の正格である。
まぐしもち(信櫛持) マは接頭語で、單に櫛を以てといふ意である。舊訓モテ〔右△〕とあり、略解は之に從うて居るが、仁徳天皇の御製に久波茂知〔二字右○〕〔紀〕又は母知〔二字右○〕〔記〕とあり、雄略天皇の大御歌にも美弖母知〔二字右○〕〔記〕とあるによればモチを可とする。但しモチにモチテといふ意があるのではなく、手にトリテ〔二字右○〕ミルをトリ〔右△〕ミルともいひ得るが如く、テの有無によつて多少時格表現が異るのである。モチテをモテともいうたとすれば、其はニシテがニテとなつたと同一省略であるが、或はモチの語幹モが尚未だ語尾チと結びつかず、無活用動詞として用ひられた時代の古形であつたかも知れぬ。ミ(見)、イ(射)等がミテ〔右○〕、イチ〔右○〕となると同樣に、語幹モに直接テを連ねてモテとしたことも有り得べく、其が音便にようモチ〔右○〕となつたことも絶無とはいへぬから、古歌に用例がないといふ事の故(39)を以て、モテを古言にあらずと斷ずることも早計のやうに思はれる。琉球語に於て登リ〔右○〕テをノボテ、通ヒ〔右○〕テをカヨテなど云ふのも、古語法の名殘ではあるまいか。
かたにかきたれ(於是〔右△〕蚊寸垂) 舊訓ココ〔二字右△〕ニとあるが、是〔右△〕を肩〔右○〕の誤寫とする古義説が當を得て居るやうである。頸著《ウナツキ》の童髪が漸く伸びて、肩の上までかゝるやうになつたのであらう。但し上句に櫛モチとあるから、垂は他動詞として、カキタレ〔右○〕と唱ふべきで(舊訓タル〔右△〕とあるは誤記か)、考及古義にタリとしだのは從はれぬ。
とりつかね(取束) ツカネはツカ(握)の活用形で、握《ニギ》りと同義である。古義がタガネと改訓したのは第二卷〔一二三〕にタケバ濡レタカネバ長キ妹ガ髪云々とあるによるものゝやうであるが、其タキは操作といふ意で〔三四〇三〕、この場合にはあたらぬのみならず、タガネはツガヘ(番)と同根から分化したもので、束といふ意義はない。
あげてもまきみ(擧而裳纏見) 髪をあげて捲いて見るといふ意。アゲマキ(總角)をいふのである。
ときみだり(解亂) 舊訓トキミダレとあるのは、次句の誤讀に基くもので、ミダり〔右○〕〔考〕若くはミダシ〔右○〕〔古〕であらねばならぬ。前者は他動詞、後者は作爲動詞である。
わらはになしみ(童兒丹成見) 契沖訓に從ふ。童兒は借字で、ワラハ即ち放髪をいふのである。仙(40)覺本には童兒丹をウナヒ〔右△〕コニし、訓み、一句としてあるが、五音句の重疊は好ましからぬことであり、若しウナヰ(ウナヒ〔右△〕は誤記)であつたとしたら、上句のやうに擧ゲテマキ見ることは出來なかつた筈である。
さにづらふ〔五字右○〕(羅〔右△〕丹津蚊〔右△〕經) 散〔右○〕丹津羅〔右○〕經とあつたのを、散〔右○〕を蚊〔右△〕に誤り、羅と轉置したのであらう。上記の如く童兒丹を一句とし、成見の二字を下へつゞけて讀む爲には、羅の字は見の直下にあつた方が都合がよく、ミツラ(見羅)といふ試訓を與へることが可能であるので、賢しらに置きかへたのではあるまいか。可なり古い時代の錯簡と見えて、現存の諸本いづれも同じ序次に從うて居るが、宣長のいふが如く羅をサの假字と見ることは困難で、又サニツカ〔右△〕フといふ語も成立せぬ。正訓を發見したのは新考で、蚊〔右△〕を狹〔右○〕の誤記と推定したのであるが、それよりも旁《ツクリ》を同じうする散の寫し誤りと見る方がよいやうである。サニヅラフは「赤映」の意で、「色」とつゞけた例は第十一卷〔二五二三〕にも見える。――羅をクレナヰニ〔古義〕又はウスモノニ〔新訓〕といふ五音一句と見なし、丹津蚊經の次の色丹の二字を加へて七音句としたものもあるが、之に從へば五音一句が過剰となり、律調を破壞する結果を來すのである。
いろになづける〔四字右○〕(色丹名著來) と記の如く剰句を加へた讀み方は論外であるが、丹を衍〔宣長〕〔新考〕(41)とし、著の字の下に爲の字脱として〔新考〕、イロナツカシキと解讀したのも聊か速斷の嫌がある。ナツカシキとナツケルとは語根を同じうし、ナミ(並)のナと、ツキ(著)のツとから出たのであるが〔三二三四〕、ナツカシはナツキの形容詞形で、「懷」の意なるに反し、此ナツケルは原義に基き、「觸接せる」といふ意を以て、次句ムラサキの修飾に用ひられたのである。其は上にニツラフ(赤映)といふ語があるからで、紫は青と赤との間色なるが故に、「赤色に接觸せる紫」とつゞけたのであらう。漢籍引用僻のある作者のことであるから、或は論語に惡2紫之奪1v朱也とあるを思ひ合はせたのかも知れぬ。
むらさきの(紫之) ムラサキの原義は叢咲で、花の形状により紫草の名となり、更に其根が染め出す色の稱呼に轉用せられたのである。
おほあやのころも(大綾之衣) 綾は條紋のある潤sキヌ》の謂で〔令義解〕、大の字を冠したのは、其|文目《アヤメ》の太いことを意味するのであらう。この「衣」を四句後の其と同樣に、キヌと訓めといふものもあるが、此は後述の如く襖子のやうなものをいふのであるから、紀の舊訓に從ひコロモと唱へねばならぬ。但しコロモヲ〔右○〕といふ意である。
すみのえの(墨江之) スミノエは今の住吉で、本初は洲回之江《スミノエ》の義を以て、舊大和川河口の彎入部(42)に名づけたのであるが、此頃は既に其地方の總名と了解せられた。
とほざとをぬの(遠里小野之) 小野のヲは愛稱で、大野(荒野)に對し、里に近い開けた田野を意味する〔三二七二〕。大和からいへば住吉は近くないから、遠い里の小野というたので、普通名詞であるが、第七卷〔一一五六〕にも同じ二句が用ひられて居るので、固有地名と誤解せられ、終には住吉の一小地區に配し、遠里を音讀してヲリ小野と稱するやうになつた。――今の大阪市住吉區遠里小野町――宣長は之に基いてヲリヲヌと訓むべしといひ、雅澄も之に從うたが、吉田東伍博士によれば、其は古名ではなく、中世は瓜生野と稱したといふことである〔地名辭書〕。
まはりもち(眞榛持) 舊訓マハギ〔右△〕モテ〔右△〕とあるが、榛をハギと訓むべき理由がないから、誤寫とすべきで、モテは上記の如くモチと稱ふるを可とする。マハリのマは「眞」の義で、ハリを以て名とする染料植物は他にも存するから〔三四一〇〕、其純眞なるものといふ意を以て榛即ちハンノ木をマハリと稱へたのであらう。墨江附近は此木が多かつたものと思はれる。
にほししきぬに(丹穗之爲衣丹) ニホシの語幹ニホはニ(赭土)のホ(秀)、即ち丹(辰砂)の意で、ニホヒの形に於ては色澤を放つことをいふから、其作爲動詞形ニホシは、或ものを以て色澤をつける意になるのである。
(43)こまにしき(狛錦) 高麗から渡來した錦、若しくは之に模したものをいふ。次句によれば高麗錦ヲといふ意とせねばならぬ。
ひもにぬひつけ(紐丹縫著) 衣の紐として縫ひつけといふ意。
さしかさね(刺部〔右▲〕重部〔右▲〕) 舊訓サシヘ〔右△〕カサネヘ〔右△〕の外、色々讀み改めたものがあるが、新考訓サシカサネを可とする。即ち部〔右▲〕の字は二つとも衍とするのである。是は大綾の襖子《コロモ》を〔右○〕、墨の江の眞榛で匂した衣《キヌ》(衫)に〔右○〕さし重ね、なみ重ね著たといふのであるが、卒爾に讀むとカサネの目的語がないやうに思はれるので、刺と重との右旁に邪《カ》又は耶《カ》と細書したのが、一本文に紛れ込み、部〔右▲〕と誤寫せられたのではあるまいか。餘り穿ち過ぎるやうであるが、今の所他に考案がないから、記して以て善本の發見を待つのである。古義は字に即してササヘカサナヘと訓み、サシカサネを伸べたる言なりと説き、從來これを訓み得た人がないと自慢したが、假に其やうな音便變化が許されるとしても、ナシはササヘ〔右△〕とはならず、――雅橙が例證としたオシ(押)とオサヘ(抑)とは、同根ではあるが別語で、口をオサヘといふ意を口をオシと表現することは出來ぬ――カサネをカサナへというたとすれば、後句にも之を繰かへした筈であるのに、累一字を以て表現して居る所を見ると、兩句いづれもカサネと唱へたものとせねばならぬ。要するに部〔右▲〕の字二つが?入であることは疑の(44)餘地がない。
なみかさねきて(波累服) 波は借字で、ナミ(並)の意である。ナミは後世專ら自動詞として用ひられて居るが、「時の盛を等等尾〔右○〕かね」〔八〇四〕のトトミ(止)と同じく、往昔は自他兩用であつたのである。句末のヲは必しも之を要せず、且其に相當する文字もないので、眞淵以下がナミカサネキと六音に訓んだのも理由があるが、姑く舊訓に從うて置く。嚴密にいへはキテとキとの間には語法上相違があり、單純なる連用形を以て接續する場合には、二つの行爲が時間的序次に拘はらず發生したことを意味し、語分子テを加へると、其までが一段落として實現し、更に以下の行爲に移ることを表示するのであるが、往々其間にさしたる差別のない場合がある。此例の如きも衣を著、且〔右○〕裳をかさねたとしても、衣を著了つて裳をつけたことをいふものと解しても差支はないのであるから、強ひて改訓するにも及ぶまい。――新考がイトリ〔三字右△〕カサネキと訓んだのは、上句の下の部〔右▲〕を伊〔右△〕の韻寫とし、且ナミは自動詞なるが故に語をなさずとの理由の下に、波〔右○〕を取〔右△〕と改作した結果であるから論外である。
うつそやし(打十八爲) 舊訓ウチ〔右△〕ソハ〔右△〕シとあるが、次にもウツ〔右○〕タヘを打〔右○〕拷と麦記して居るから、打はウツ〔右○〕と訓して「全」の義とすべきで、ソはサヲ(麻緒)の約であるから、ウツソは未だ分割せざる(45)麻緒の謂である。打麻乎《ウツソヲ》といふ形に於てヲミ(麻績)の枕詞に用ひた例もあるから〔二三〕・八爲は必然感動詞であらねばならず、古義訓の如くヤシと唱ふべきである。新考が打十を打チタル麻の謂としで、ウチ〔右△〕ソを可とすと論じたのは、語構成法上理由のないことで、打物を打チタル〔三字右○〕物、飲水を飲ミタル〔三字右○〕水と解することが出來ぬと同樣に、ウチといふ形(名詞形)を用ひた場合には、複合語と了解せねばならず、從つてウチ麻といふ語は成立しない。
をみのこら(麻績兒等) ヲミは麻緒を績《ウ》むことであるが、古は之を專業とする麻績部《ヲミベ》といふ民部が存したので、ヲミのコといへば其部民の子女をいふものと了解せられたのである。部曲廢止後のことであるから、此は必しも其意味ではないが、次のタカラのコと共に勞作階級の謂に用ひられたのである。ラは複數表示。
ありぎぬの(蟻衣之) アリギヌはアラキヌ(新衣)の轉呼で、それは財寶とするに足るものであるから、タカラの枕詞として用ひられたのである。
たからのこらが(寶之子等蚊) 上句は如實の寶にかゝるのであるが、タカラの子といふ場合のタカラは百姓の謂で、寶は借字である。此語は殆ど廢用となつたが、尚オホミタカラ〔三字右○〕の形に於ては臣民の義と了解せられて居り、オホミ(大御)は最上敬語であるから、語義はタカラに在りとせねば(46)ならぬ。俗説では之を未開人が牛馬其他の家畜を以て財寶とすると同樣に、庶民は其首長のタカラ(寶)と目せられたに因るというて居るが、我上古の社會制度は氏族集團を單位としたのであるから、氏長が同一血族の氏人を物件又は奴隷視するやうなことは斷じて有り得なかつた。案ずるにタカラのタは田即ち土地の意で、カラはウカラ(族)、ヤカラ(家族)の如くも用ひられ、團體の義があるから田團若くは局地的集團といふ意を以てタカラと稱へられたのであらう。さればタベ(田部)とほゞ同義で、タカラ〔三字右○〕ベとも稱へられたと見え、下野、肥前、日向等の郷名に此稱呼が殘つて居る〔和〕。――宮崎縣の高鍋も恐らくはタカラベの轉呼であらう。ラとナとは相通であるのみならず、地方人の發音によると、タカラ〔右○〕ベとも聞こえる――此は上句の麻績の子と同じく、勞働婦人といふほどの意で、先學が臆斷したやうに美稱として寶といふ語を用ひたのではなく、新考が麻績の子に對して、寶は服部《ハトリ》の誤記ならざるべからすとしたのも、甚しい見當違ひである。
うつたへは(打拷者) ウツは上記の如く「完全」の意。拷は借字で、タヘと訓むべきこと並に其語義については、既に前々輯〔三二四三〕に詳述した。されば之は全布を意味し、裳の料として一枚に織り上げられたものをいふので、常陸風土記にも、裁縫を須ひずして衣となる布をウツハタ(内幡)と稱へたとある。者〔右○〕をニ〔右△〕と訓む文字の誤寫とし、ヒタスラの意なりする新考説は誤りで、ウツタ(47)ヘニといふ語はあるが〔萬四、十〕、其は顯然といふほどの意で、ヒタスラの謂ではない。
へておるぬの(經而織布) 經線《タツイト》の間に緯線《ヨコイト》を通すことをへ〔右○〕といひ、其に用ひる道具をヒ(梭)と稱へる。此句は倒敍で、ヲミの子等とタカラの子等とがヘテ織ル布《ヌノ》ハ〔右○〕全布《ウツタヘ》であるといふ意である。
ひざらしの(日暴之) 繊維抽出の爲に、水に浸した麻を日光の下に曝すことをいふのであらう。織上げた布を漂白することをもサラス(晒)といふが、其は水を以て洗ふことを主とするのであるから、特に日〔右○〕ザラシとはいふまい。されば此はアサ(麻)だけにかゝる修飾語と思はれる。
あさてづくりを(朝手作尾) 朝は借字で、麻の謂なること勿論である。テツクリは前輯〔三三七三〕に詳述したやうに、手製の布のことで、新撰字鏡に紵の訓として居ることによつて、新考が苧布《カラムシ》ならざるべからずとしたのは、同書に?《セキ》〔細布〕にも同じ訓を與へてあることを無視したもので、偏狹といはねばならぬ。
しきもなす(信巾裳成) 重裳《シキモ》即ち袷の裳のやうにといふ意。比況助語ナスについては、既に?々述べた通りである。次句に錯簡が存し、者〔右△〕の字が成につゞいて居るので、此句にそへてナセバ〔舊訓〕又はナレバ〔代〕と訓したものもあるが、之を條件句と解することは不可能である。
しきにとりはき〔四字右○〕(者〔右△〕之寸丹取爲〔右▲〕支) 古義は者〔右△〕の字を衍としてシキニトリシキと訓したが、新考は更(48)に爲をも衍字として、シキニトリキと六音によんだ。其は理由のあることで、シキには著用といふ意がなく、麻手作ヲといふ句の收め所に窮するからである。さりながら衍字を云々するには其衍の由つて來る所を考察する義務がある筈で、任意に増減することは許されぬ。案ずるに此句の原文は之寸丹取者〔右○〕支とあり、頭記の如くシキニトリハ〔右○〕キと誦へたのを、者をハの假字に用ひた例が少いので、後人が賢しらに之を前句に移し、其後を埋める爲に爲の字を補うたのであらう。しかし後掲〔三八〇〇〕の歌にも者田爲爲寸とかいて、ハ〔右○〕タススキと訓ませてあるから、ハキを者〔右○〕支と表記することは決して不當でも異例でもない。シキニトリハキは「重ねて穿き」といふ意で――トリは接頭語的に用ひられたので、重い意味はない――袷裳のやうに全布《ウツタヘ》と麻手作とを重ねて、腰にまとうたといふのである。
やどにふる(屋所經) 前々句以來の誤釋が累をなして此句に至つては古義以降の訓は妄誕の極であるが、一々之を論破することは餘りに煩はしいから、唯私が頭書のやうに訓んだ理由を述べるに止める。舊訓はヤドニヘテ〔二字右△〕であるが、此は次句イナキ少女の修飾語であるから、連體形であらねばならず、宿ニ經ルと訓むべきで、籠居を意味すると同時に、稻寸のナキ(莫來)の縁語として用ひられたものと思ふ。略解の訓は當を得て居るが、其は第二卷〔一九四〕の歌の誤讀を根據と(49)て「いなきをとめが閨の樣を推はかりて」此表現を用ひたものと解して居るのであるから、まぐれ當りとせねばならぬ。
いなきをとめが(稻寸丁女蚊) 深窓の稻寸少女がといふ意。イナキは古いカバネで、天武朝に制定せられた八色之姓中にも、其最下位として保存せられ、稻置と表記せられて居る。原義は字の如く集團共有の稻〔右○〕を置〔右○〕く倉稟の謂で、――垂仁紀に稻城とあるのも之を意味する〔建國篇四−一四三頁〕――之が管理者の稱號にも轉用せられ、カバネ(榮稱)となつたのであるが、允恭紀に闘?國造といふものが罪を皇后に得て、貶2其姓1謂2稻置1とある所を見ても、小酋長の稱號であつたことが明白である。天武朝以降昇格が許されたので、此カバネを用ひるものは希有になつたが、高取に於ては尚之を保有するものが存し、郷黨の上流階級に屬したのであらう。イナキヲトメは勿論其一族の女性の謂である。
つまどふと(妻問迹) ツマドヒといふ語は、通例求妻〔右○〕の意に用ひられて居るが、之は主語が稻寸少女であるから、妻は借字で、原義により連身《ツマ》即ち配偶を意味し、求婚〔右○〕の義に用ひられたのであらう。トはトシテに同じく、求婚するとて〔二字右○〕といふ意である。
あれにたばりし(我丹所來〔右△〕爲) 雅澄が來〔右△〕を賚〔右○〕の誤寫としたのは卓見であるが、所を助詞ソの假字と(50)斷じたのは不當で、新考説の如く受動法表示と見て、アレニタバリシと訓むべきである。タバリはタマハリの約濁であるが、此當時すでに用ひられて居たやうで、本集にも用例が少くはない。新訓が來〔右△〕を復活して、アニゾ來リシと改めたのは、原文尊重の趣旨によるものであらうが、少女が翁自身の許へ來たといふ意としては、次句とつゞかぬのみならず、當時の習俗では、押かけ嫁入は許されなかつた筈である。再考するに、來は必しも誤記ではなく、賚の略書であつたかも知れぬ。
をちかたの(彼方之) 遠方といふ意。ヲチ(遠)に「彼」の字をあてた例は、本集第二卷及第十一卷にもあり、宇治の彼方神社〔式〕もヲチカタと稱へられる。此は次の二綾の限定語で、遠方から渡來したことをいふのである。
ふたやしたぐつ(二綾裏沓) 舊訓フタア〔右△〕ヤウラ〔二字右△〕クツとあるが、アは此場合前續のタ音の母韻に攝せられることを例とするから、フタヤと唱へたことは疑なく〔古義訓〕、裏は本集にはシダに充てた例が多いから、シタグツ〔眞淵訓〕とよむべきである。和名抄には襪に此訓を與へ、――新撰字鏡には韈も同訓――足衣也と註してある。即ち足袋やうのものをいひ、二綾を以て製したのである。二綾は恐らくは二條紋の潤sキヌ》をいふのであらう。
(51)とぶとりの(飛鳥) 今は此名を失うたが、往昔明日香附近の地點稱呼であつたやうである。アスカはスカ(栖處)に接頭語アを冠したもので、聚落の意に用ひられた普通名詞であるから、本初はトブトリの里〔右○〕といふと同意を以て、トブトリのアスカ〔三字右○〕(聚落)と呼ばれたのであらうが、後日有名となるに從ひ、單にアスカとのみも稱へられ、飛鳥とさへ表記し、トブトリの名は枕詞にのみ殘つたのであらう。播磨國赤穗郡にも飛取といふ郷名があり〔和〕、山城國紀伊郡飛鳥里も、東寺古文書にはとぶ〔二字右○〕とり里と記されて居るといふことであるから〔地名辭書〕、大和にも此地名が存したことは有り得べきである。
あすかをとこが(飛鳥壯蚊) 明日香は當時の帝都であるから、諸工藝が盛であつたことは勿論で、靴工も此地に居住したものと思はれる。ヲトコは本來少年の義であるが、壯丁をいふにも轉用せられ、更に一般の男子の稱呼となつたもので、此は工人を意味するのである。
ながめいみ(霖禁) 霖雨の頃には葦革類が濕つて、加工に不便であるから、靴工等は之を厭ひ忌んだのであらう。されば次句には原料を示して居らぬが、草履を意味したことが想定せられる。
ぬひしくろぐつ(縫爲黒沓) 履は勿論革を縫ひ合はせて作るものであるが、作笠者をカサヌヒ〔二字右○〕、作盾者をタテヌヒ〔二字右○〕といふやうに〔紀〕、或種の工作はヌヒといふ動詞を以て表現したのである。黒沓(52)は古義訓のやうにクリ〔右○〕クツと唱へても妨はないが、クロを不可とする理由がないから、舊訓に從ふことにする。此は稻寸少女の進物ではなく、本人が買ひ求めたものと解すべきである。
さしはきて(刺佩而) サシは接頭語。佩は借字で、ハキ(穿)テといふ意である。
にはにたたずみ(庭立住) 舊訓による。タタズミは紀に彷徨(??])の訓とせられて居るやうに、停留〔二字右○〕を意味し、タチ〔右○〕スミの母韻類化と思はれる。此は沓を穿《ハ》きて庭に停立して居るといふ意であるが、實敍ではなく、次句を導かんが爲に殊更に此やうに言ひ廻したのである。さりながら眞淵訓の如く強ひてバといふ助詞をよみ添へる必要はない。次句の「退」の字を繰り上げ、住〔右○〕を往〔右△〕の誤記として、庭ニ立チ・ユキモトホレバの二句とし〔古〕、或は立〔右○〕の字を衍として、庭ユキカヘリ〔新考〕と訓したのは、未だ歌の趣を解せざるものと謂はねばならぬ。
なたちそ〔四字右○〕(退莫立) 舊訓イデナタチとあり、退はマカリ〔新訓〕とも訓み得られるが、其場合にはナ〔右○〕イデタチ又はナ〔右○〕マカリタチと表現するのが我國語の常法で、「退」を副詞と見るならば、イデテ〔右○〕又はマカリテ〔右○〕と訓まねばならぬ。案ずるに退の字は補意の爲に挿入したので退ケ、立ツナといふ意味を表示するのであるが、字を逐うて讀む必要はなく、ナタチソといへば十分である。此やうな贅字は本集には珍らしからぬことで、後掲〔三八〇八〕にも其例があるから、略解が退を衍字とし(53)たのは、尚考の至らざるものといはねばならぬ。同書は又ナタチソネ〔右△〕と訓したが、此は次句の枕詞であるから、感動詞ネを添へるのは蛇足であるのみならず、却つて誤解を招く處がある。莫立〔二字右○〕の二字を母負之〔三字右△〕の誤記とする古義説は、牽強論ずるに足らぬ。
いみの〔三字右○〕をとめが(禁尾迹女蚊) 禁の字は前句にもイミと訓ませてあるが、此は齋の意のイミにあてた借字で、妙齡の齋女をイミのヲトメというたのである。恐らくは後出の海神の社の女祝で、稻寸少女と共に當時の高取郷中の淑女として知られ、イロコと對等の身分であつたのであらう。舊訓イサムとあるに捉はれて、イサムル〔略〕、モラス〔古〕、イサメ〔新考〕、サフル〔新訓〕としたのは無稽である。退け立つな、其は禁忌《イミ》であるといふことを、齋《イミ》にいひかけたので巧妙なる修辭といはねばならぬ。
ほのききて(髣髴聞而) 仄に聞いてといふ意。此は稻寸少女のやうな在俗の身ではないから、はしたなく求婚はせず、進物に託して戀情を寄せたと描寫したので、作者の用意を察すべきである。
あれにたばりし(我丹所來〔右△〕爲) 前出
みはなだの(水縹) 縹は字書に青白色の帛とあり、字鏡に波奈太と訓してある。語原は恐らくはハ(葉)(ノ)(之)ハダ(膚)で、ノの母義oとハの子音hとが脱落したのであらう。今では水色といふけ(54)れども、ハナダに水といふ語を冠するのは重複であり、修飾としても不適當であるから、水はミの假字で、マ(眞)に通ずる接頭語として用ひられたのであらう。
きぬのおびを(絹帶尾) 略解の第二訓に絹をタヘとしたのは理由のないことである。大綾之衣から黒沓に至るまで、装束を細敍した上に、更に帶に言及したのであるから、此は飾帶の謂で、縹色の絹〔右○〕の帶とせねばならぬ。
ひこびなす(引帶成) 舊訓ヒキオビとあるが、此は五音句であるから、連約してヒコビと唱へたとする今村某の説〔古義〕を可とする。次のカロビ(韓帶)も同斷である。ヒキオビは和名抄によれば衿をいひ、胸のあかぬやうに上衣に取つける小帶のことであるが、此は其ヒキオビのやうに〔三字右○〕といふ意で、衿帶そのものを指すのではない。恐らくは襖子の上に装著したことを此やうに形容したのであらう。
かろびにとりなし(韓帶丹取爲) トリナシは眞淵訓による。韓は唐の意のカラの借字でもあり得るが、如何なる制式のものをカラ帶と稱へたか判明せぬ。上古に於ては腰に纏ふ飾帶といふものは存せず、衣のヒモ即ち上記の衿帶を錦等を以て製し、飾としたものゝやうであるから、紳(大帶)を始め、外國風の帶は皆カラ帶と稱へられたのかも知れぬ。此は齋女から贈られた絹帶をカラ帶(55)風に装著して、衿帶のやうに取飾つたといふのであらう。ヒコビナスといふ句は韓帶のみにかゝるとする新考説は從はれぬ。
わだつみの(海神之) 海神の意を表示する古言は、ワタツチ〔右○〕(海《ワタ》ツ靈《チ》)であらねばならぬが、此時代には既にワタツミ〔右○〕(海)のカミ〔二字右○〕と混同し、錦津海〔三字右○〕ノ手ニマカシタル〔三六六〕、和多都美〔右○〕ノ手卷ノ玉ヲ〔三六二七〕の如く用ひた例もあるから、此も舊訓の如くワダツミノと唱へたのであらう。當時高取には此神が祭られて居たものと思はれるが、今も其社が存するかは、其地の人について聞くべきである。
とののいらかに(殿蓋丹) 蓋をミカサとした舊訓は勿論誤りで、眞淵訓に從ひイラカと改むべきである。イラカは本來ウロコ(鱗)と通じ、記の神代卷に如魚鱗〔右○〕所造之宮室とあるによれば、鱗形に葺いた屋根をいふものゝやうである。和名抄には釋名を引いて屋脊曰v甍、和名伊良賀とあるが、甍は字形によつても明なるが如く瓦屋の部分的稱呼で、我上古の家屋に存した筈はないから、古言のイラカは寧ろ同書に在v上覆2家屋1也とあるが如く、屋蓋〔右○〕を意味したものとせねばならぬ。されば蓋〔右○〕一字をイラカと訓するのは決して不當ではなく、ヒサシと訓めといふ新考説には從ひかねる。トノが海神の神殿〔右○〕を意味することは云ふまでもない。
(56)とびかける(飛翔)
すがるのごとき(爲輕如來) 雄略紀に?羸此云須我?とあり、今ジガ蜂と稱へる。其一種をスガリともいふ所を見ると、ルはリの轉呼で、リはアリ〔右○〕(蟻)、サソリ〔右○〕(蠍)の如くも用ひられ、或種の昆虫を意味する外來語である。又スガは栖處の謂であるから、蜂窩によつて名を負うたものとすべきで、ジガは其訛であらう。新考に「スガルが大厦の甍に飛ばむこと如何あるべき」とあるのは、其一名を土蜂と稱するからであらうが、本草の陶注にも雖v名2土蜂1不d就2土中1爲uv窟、謂2?v土作1v房爾とあるやうに、屋蓋に近く巣を構へることも有り得べきで、屋上を飛翔し得ずと斷定することは出來ぬ。
こしぼそに(腰細丹) スガルは特に腰の細いものなるが故に、一名を細腰と稱する〔本草和名〕。之をホソコシといはずして、コシボソと稱へたのは、メジロ(目白)、ハラアカ(腹赤)と同例で、我上代には南方語と同じく、修飾語が後續することもあつたのであらう。此は細腰にといふ意であるが、新考が主張するやうに上下を顛倒したのではなく、コシボソといふ成語を其まゝ用ひたので、第九卷〔一七三八〕にも例がある。
とりかざらひ(取餝氷) トリは接頭語、カザラヒはカザリ(飾)の進行格形で、其行爲が現刹那から(57)尚若干時間繼續することを表示する。この時格を好んで用ひたのは山上憶良臣で、其貧窮問答歌に於て最も顯著であるが、語義上果して之を用ひねばならなかつたかは疑問である。此句及次の二箇所に見えるカヘラヒ中、後出のものゝ如きは、寧ろカザリ又はカヘリといふ不定時格を用ひることを可とするのであるが、標準語音數に充たぬから、此形態を充當したのではないかとさへ考へられる。其はスミ(住)をスマヒ、ヨソヒ(装)をヨソホヒともいふが如く、後世の歌文には例の多いことであるが、古歌には濫用せられて居らぬから、聊か耳立つて聞える。此句の如きも五音を不可とするならば、イ〔右○〕トリカザリとあつて然るべきで、――此トリは接頭語であるから、舊訓のやうにトリテ〔右○〕とすることは出來ぬ――私は決して古歌を是非するのではないが、納得が行きかねるから、記して後考をまつのである。
まそかがみ(眞十鏡) マソはマス(眞淨)の轉で、眞澄《マスミ》の鏡の謂である。
とりなみかけて(取雙懸而) ナミが他動詞にも用ひられることは上述の通りで(第四四頁)、ナミカケは並《ナラ》べ懸けといふ意であるが、何處にかけたか判明しない。古義は前後に懸けることをいふと説明したが、其場合にはムカヘ〔三字右○〕カケといふべきで、雙ミ懸ケと表現することは許されぬ。當時は尚貴重品であつたと思はれる白銅鏡をならべ掛けたといふのは、イロコの豪奢を敍する爲で、其(58)かけ場所の如きは問ふ所ではなかつたのであらう。
おのがかほ(巳蚊果〔右△〕) 果〔右△〕は契沖説の如く杲の誤記として、カホと訓むべきで、集中には此字をカホに充てた例が少くない。
かへらひみつつ(還氷見乍) 次にも同一語句が顧ミツツといふ意に用ひられて居るが、此は鏡に寫した自分の顔を見るといふのであるから、顧ミといふことは出來ぬ、案ずるに還は借字で、カヘラヒはカハ〔右○〕ラヒの轉呼、即ち代リアヒの意とすべきであらう。――類聚古集、西本願寺本等には後句は還等氷見乍として區別してある――鏡を一つならず幾つも並べかけてカハリカハリ(交々)見たといふことを、カハラヒ見ツツと表現しても差支はなく、文意はこゝで一段落を告げるのであるから、少くとも助動詞アリの終止形(時格適宜)を添へねばならぬのであるが、一|連《ツヅキ》の物語とする爲に、之を避けて連用法を用ひたのである。ツツは場合によつてナガラと同義と解せられることもあるが、此は決して鏡を見ながら〔三字傍点〕春の野を散歩したといふのではなく、口語の見イ見イスルといふ表現に相當するのである。仙覺が「果〔右△〕」をミノと訓したのは、華美なる装束をつけて、風釆が一變〔右○〕したのを鏡に寫して見るといふ意に解したものらしく、雅澄が雙縣を合はせ鏡の謂であるかのやうに牽強したのも、此還氷見乍といふ語句を正解し得なかつた爲と思はれる。
(59)はるさりて(春避而) 春邊に於てといふ意〔三二二一〕。
のべをめぐれば(野邊尾回者) 野の字はヌと訓してもよい。
おもしろみ(面白見) オモシロシの語幹に、動詞語尾ミを連ねたもので、興趣ありと見るといふ意であるが、こゝでは風流《ミヤビ》たりといふのとほゞ同義に用ひられたので、口語に直せば優シイトといふことである。
あれをおもへか(我矣思經蚊) 略解訓に從ふ。オモヘカは思ヘバカといふに同じい。
さぬつどり(狹野津鳥) サは接頭語で、野ツ鳥即ち野禽をいふ。?《カケ》を庭ツ鳥といふに對し、雉《キギシ》の枕詞としても用ひられるが、此は必しも雉をいふのではあるまい。少くとも此鳥は人間の目の前で鳴翔するものではない。
きなきかけらふ(來鳴翔經) カケラフは上記の如くカケル(翔)の進行格で、其行動の未來に亙ることを意味するから、此場合には適切である。
あきさりて(秋避而) 秋に於てといふ意。
やまべをゆけば(山邊尾往者)
なつかしと(名津蚊爲迹) 上述の如くナツキの形容詞形で(第四一頁)、可親といふ意である。
(60)あれをおもへか(我矣思經蚊) 前出
あまぐもも(天雲裳) 大空の雲もといふ意。
ゆきたなびく(行田菜引) 舊訓タナビキ〔右△〕とあるが、上句カケラフに對立するのであるから、新考説の如くタナビク〔右○〕であらねばならぬ。語音不足の場合ユキにはイを冠してイユキとする例が少くないから、此も伊の字脱として改訓したものがあるが〔古〕〔新考〕、これは少しく趣が違ふやうである。行進の意のユキとタナビク(靉靆)とは兩立しないから、このユキは原義を離れて上掲のトリ(第五六頁)等と同じく、接頭語として用ひられたものとせねばならず、從つて更にイを接頭することを厭ひ六音に唱へられたものと信ずる。之を不盡山歌の天雲毛イ〔右○〕ユキハバカリ〔四字右○〕田菜引物緒と同一視するのは無理である。
かへりたち(還立) 此タチはイデタチ(出發)のタチと同一用法で、イデ(出)に換へるにカヘリ(還)を以てしたに過きず、野を還發しといふ意である。
みちをきたれば(路尾所來者) 眞淵訓による。古義はオホ〔二字右△〕ヂヲケレバと訓み、新考は大の字を補うて、オホヂヲクレバと訓したが、此はイロコの在所附近のことであるから、大路が敷かれてあつたかも頗る疑問とすべきで、且クレバを所來者と表記すべき理由がない。所の字は通例受動表示(61)に用ひられるが、所照をテラセル〔二字右○〕〔二三五二〕、所獲をトリエタル〔二字右○〕〔欽明紀〕と訓した例のある所を見ると、行爲または事態の現存を表示するにも用ひられたものとすべきで、古義がケレバとしたのは理由のあることであるが、尚來テアレバといふ意を以てキタレバと唱へたものとすべきであらう。舊訓クルニハは意をなさぬ。
うつひさす(打氷刺) ウツ(珍)ヒ(日)サス(射)の意。ミヤ(御屋)即ち宮の枕詞である。
みやのをみな(宮尾見名) 契沖訓による。ミヤは神宮を始め、貴人の邸宅をいふにも用ひられ、必しも大宮即ち皇居に限るのではないから、此句を宮女の謂と速斷することは出來ぬ。ヲミナの原義はヲ(小)メ(女)ナ(敬稱)で、年少婦人に對する敬稱であつたから、――之を女性の一般的稱呼と了解するやうになつたのはやゝ後世のことで、上記のヲトコ(少年)が男性の義に轉じたのと趣を同じうする(第五一頁)。ヲミナに對して貴公子をヲ(小)グ(子)ナ(敬稱)というた――年少貴婦人の謂なることは疑がなく、恐らくは高取界隈の名門の婦女を意味したのであらう。舊訓ミヤヲミテモナとあるのは論外で、略解以下助語ノを不用として、ミヤヲミナと訓したのは、官女又は宮嬪の公稱と解した爲であらうが、其やうな用例はない。
さすたけの(刺竹之) サスは枝又は根等の射出を意味し、竹の中には幹から直接葉柄を生ずるもの(62)もあるので、小枝をサス竹、即ちマダケ(苦竹)をサスタケと呼稱したのであらう。通例實を結ばぬから、厩戸皇子の御歌にはキミ〔右○〕ハヤナキ〔二字右○〕といふ語句の枕詞として用ひられて居るが〔推古紀〕、本集には皇子《ミコ》ノ宮人〔一六七〕、皇子ノ御門〔一九九〕、大宮〔九五五〕〔一〇四七〕〔一〇五〇〕〔三七五八〕とつづけられて居る。其はミ(實)一音にいひかけたのか、或は、葉隱《ハコモ》リ〔二七七三〕の比況に用ひたと同一趣意を以て、竹園の故事に基き、皇室の御繁榮に喩へたのかも知れぬ。此場合は大宮舍人といひかけ、其大宮を省賂したものとも了解し得られぬことはないが、繁榮の比況としてトノ(殿)に言ひかけたものと見る方が妥當のやうである。トネリの原義はトノ(殿)リ(入)で、宮廷奉仕者に限らず、右族子弟の稱呼であつたから、右の宮ノヲミナと對立させたのではあるまいか。
とねりをとこも(舍人壯裳) 此ヲトコは原義により少年を意味するものゝやうで、右族の子弟の謂と思はれる。宮廷奉仕者の義ならばミヤノトネリモといふべきで、殊更に宮(大宮)を略し、ヲトコといふ語を添加したとは考へられぬ。
しぬぶらひ(忍經等氷) シヌビ(思慕)の意と思はれるが、其進行格はシヌバヒであらねばならぬから、若しこのやうな活用形態が存したとすれば、ハヤビからハヤブリといふ語を分派したと同樣に、――チハヤ〔二字右○〕ブルの如く用ひられる――シヌビアリといふ意を以てシヌブリといふ自動詞を派(63)生し、其進行格をシヌブラヒと稱へたものと思はれる。シヌブリといふ用例はないが、シノ〔右○〕ブル及シノ〔右○〕ブシといふ中世上二段に活用したのは或は其影響であるかも知れぬ。
かへらひみつつ(還氷見乍) 上記の如くカヘラヒミはカヘリミ(顧)の意で、反復進行を表示するツツといふ助語が附加せられて居るのであるから、カヘリをカヘラヒ(進行格)と表現する必要はないのであるが、此作者の口僻と思はれる。此やうな例があるので、ラヒはリの延言なりとする説を生じたのであるが、反切といふ音便變化が行はれたとすれば、ラキ、ラシ、ラチ等も亦リとなるに拘はらず、カヘラキ等の如く延べた例のない所を見ると、徒に引伸ばしたのではなく、リをラヒと變化することによつて、若干意義が加はつたものとせねばならぬ。其故に私は之を動詞原形にハヒ(延)といふ語を接尾し、連約によつて一母韻と子音とが脱落したものと見、行爲の延伸を意味するものとして、進行格と名づけたのである。
たがこぞと(誰子其迹哉〔右▲〕) 哉〔右▲》は?入か、若くは後句のイサニトヤ〔右○〕と對立させる爲に、後人が賢しらに補うたものと見て除去すべきである。從來字に即してタガコゾトヤ〔右▲〕と訓んで居るが、タガコゾは誰の子か〔右○〕といふに同じいから、更に疑問助詞ヤを添へる筈はなく、若し感動詞とすれば誰ガ子ゾヤ〔右○〕トといふべきである。さりながら其は五音句としては甚口調が惡く、感動詞(間投詞)といふ(64)ものは、其性質上無理をしてまで挿入すべきものではないから、之を衍字と見ねばならぬ。タガコゾは何處の息子か知らぬといふほどの意である。
おもはえてあり(所思而在) 舊訓オモヒ〔右△〕テア〔右△〕ラム〔右△〕とあるのは、前句のヤを疑問助詞と解した爲であらうが、其非なることは上述の通りで、且オモヒを所思と表記することも有り得ぬ。此は名門の子女から何處の子ぞと自分が思はれてあるといふので、過去の事ではあるが、物語の一部分をなすものであるから、上掲語句と同じく不定時格を以て敍したのである。古義がアリケルの意なるが故にアルと訓めというたのは妄誕で、新考は「在」の下に「爲」の字脱としてアリシと訓み、アリシガの意と解したけれども、根據のないことであるのみならず、次句の來シと重複する嫌があるから、否定せねばならぬ。
かくのごと〔五字右○〕(如是) 從來次の四字と合併して、六音乃至七音一句として居るが、既述の如く此歌は句法固定後の作で、以上九十六句も私の讀彼した所によれば、正しく基調を遵守して居るのであるから、此も五七音二句一聯とすべきで、三長句連續といふやうな破格があり得たとは考へられぬ。奔放自在と見える本集第十三卷及記紀の古歌にも、律調は自ら備はり、散文としてすらも讀みにくい語句が、節過しによつて強ひて朗吟せられたとは考へられぬことである。其故に私は右(65)の六字を二句に分解したので、カクノゴトを如是と表記した例は後掲の反歌〔三七九三〕にもある。「此」はイロコガヨチ以下八十三句を受けたのである。
めてらえ〔四字右○〕こし(所爲〔右△〕故爲) 爲〔右△〕の字は原文愛〔右○〕とあつたのを字劃の類似によつて誤寫したのか、若しくは如是所〔三字右○〕》の三字を漫然カクゾと訓した結果、難讀に陷つたから改記したのであらう。其はかなり古い錯誤と見えて、現存の諸本には一樣に「爲」の字となつて居るが、句法から見ても、意義から考へても、之をシの假字と見ることは不可能てある。されば聊か臆斷ではあるが、頭記の如く訓み、此やうに諸人から愛せられて來たといふ意を以て、次句につゞくものと解して置く。
いにしへの(古部) 次にはイニシヘノを古部之〔右○〕と表記してあるから、此は四音に訓むか或はイニシヘハ〔右○〕と唱へたのではないがとも思はれるが、昔ノ〔右○〕我というても意は通ずるから、舊訓を尊重して姑く之に從うた。
ささきしあれや(狹狹寸爲我哉) ササキはサキ(幸)の疊頭語、即ち幸福なりし我といふ意で、ヤは感動詞である。――ササキをソソメキ又はササメキと同義語とする宣長及雅澄説は取らぬ。
はしきやし(端寸八爲) ハシキは好キ、ヤシは感動詞で、善哉《ヨイカナ》の意であるが、歌謠に在つてはさしたる意味もなく、間投詞的に用ひられたのである。
(66)けふは〔右○〕もこらに(今日八方子等丹) このコは女子〔右○〕をいひ、ラは複數表示で、九人の仙媛のことである。八方の二字は從來ヤモと訓して居るが、此場合は口語に於ても、今日ハ〔右○〕と取わきていふことを要するのであるから、ハ〔右○〕モと訓まねばならぬ。モは感動詞で「今日はヨウ女の子達に」といふ意である。
いさにとや(五十狹邇迹哉) イサニといふ語は、此作の後遠からずして廢絶したと見えて、他に用例はないが、誤記又は誤寫とも思はれぬから、當時世上に通用したものとすべきで、誰ガ子ゾといふ語句と對立的に用ひられて居る所を見ると、厭ナ奴《ヤツ》といふやうな意味と推測せられる。語原は判明せねが、二つの想像が成立する。其一はイサメ(禁)の語幹イサとアニ(兄)とを結合したものと見ることで、イサは本來イ(忌)から出たのであるから、忌むべき年長者といふ意になつたことも有り得るが、聊か牽強の嫌がある。第二は此數世代前から好奇の輩が用ひ出した外來語の一つとすることで、國語化するに至らずして廢用になつたのかも知れぬ。後説に從へは恐らくは異産の謂で、朝鮮發音では※[ハングルでイサン]《イサン》であるから、イサニ〔右○〕と和げたのは不當ではなく、――後記の散追良布《サニヅラフ》〔三八一三〕の散〔右○〕と同例――左傳にも用例があり、自國産にあらざることを意味するから、今の罵語の外道《ゲドウ》にあたるのである。トヤはトカと同じく、疑の意を含めたのである。
(67)おもはえてある(所思而在) 前のはオモハエテアリと訓したが、これは餘韻を剰すことを要するから、アル〔右○〕といはねばならぬ。
かくのごと〔五字右○〕(如是) 前出
めでらえ〔四字右○〕こし(所爲〔右△〕故爲) 前出。此二句を反復したのは、下に古ノササキシ我ナルヲといふ意を含めんが爲で、イニシヘノまで言ひさし、之を活《ハタラ》かして賢シキ人の修飾に用ひたのは、面白い手法といねばならぬ。
いにしへの(古部之)
さかしきひとも(賢人藻) 此は後述の如く棄老傳説の主人公をさすのである。
のちのよの(後之世之)
かがみにせむと(堅監將爲迹) 堅監の二字は舊訓カタミとあり、新考及新訓は之に從うて居るが、若し記念の意ならば、この場合には不通當である。但し本集には監をミの假字に用ひた例があり〔一二七六〕、鏡をカタ(像)ミ(見)というたこともあり得るが、他に用例がないから、尚宣長及雅澄訓の如くカガミとよむべきである。作2後〔右○〕王之鑒〔右○〕1などいふ用例もあるから〔韻府〕、後の世の鑑とつゞけることは決して不當ではない。監は鑑に通じ、堅は上句|退莫立《ナタチソ》の退〔右○〕と同じく補意的贅字か(68)(第五二頁)、然らずばカタミと訓ませんが爲に、――監はミと訓み得るから――後人が補入したのであらう。
おいびとを(老人矣)
おくりしくるま(送爲車) オクリシだけでは意味が判然せぬが、契沖によれば、此は孝子傳といふ漢籍に掲げた故事に基くもので、原穀といふ孝子が、父母の嚴命に抗しがたく、老祖母を輿〔右○〕にのせ之を舁い〔二字右○〕で棄てに行つたが、其輿を持ち歸り、次回の用に立てようというたので、頑父も飜然として悟り、老人を迎へ歸つて孝養を盡したといふことである。此は古代いづれの民族にも行はれた棄老といふ惡習の廢絶した由來を説明する民譚の一樣式で、布哇にも現に之に類する話が傳へられ〔太平洋民族誌三〇二頁〕、必しも原穀の傳奇には限らず、新考も指摘したやうに、輿と車との相違があるのであるから、或は當時我國にも同樣な傳説が流布し、載せて行つた車を持つて歸つたと傳へられて居たのかも知れぬ。之を支那の故事と斷定するのは早計であるのみならず、此歌に漢意を含むことの證據として、解讀不能の言ひわけにしようとしたのは陋といはねばならぬ。
もちかへりこし(持還來) 古義訓による。句末に感動詞のあるべき所であるから、コシ(連體形)とよむを可とし、持ち還つて來たよ〔右○〕といふ意と解すべきである。――「來」はケルとも訓み得られる(69)が、上句が過去格を以て敍してあるから、之と調和を保つことを要する。
〔大意〕緑子の赤子のころは母に抱かれ、繦《ムツキ》をつけて這ふ時分には、木綿《ユフ》の袖なしの長いのを著こみ、童髪が頸につく頃は、袖のついた木綿の衣を著た自分であるよ。――以上は一種の序――我《ワレ》イロコが若い時には、漆黒な髪を櫛で肩にかきおろし、取束ねて總角《アゲマキ》にして見たり、解き亂して敢髪《ワラハ》にしたり、赤色に近い紫の大綾の襖《コロモ》を、遠い墨江の里の小野の榛を以て染めた上衣に、高麗錦を紐として取つけたものと重ね著て、麻績部の娘や田部《タカラベ》の娘が、緯《ヨコイト》を通して織つた一枚布と、太陽に曝した麻の手作りとを、袷の裳のやうに重ねて穿き、深窓の稻寸の息女が求婚の爲に自分に贈つた二綾の襪《シタグヅ》と、明日香《アスカ》の工人が霖雨を避けて作つた黒革沓とを穿いて庭に佇み、年若い齋女が(自分の事を)仄に聞いて贈つてくれた水色の絹を、ひき帶のやうに唐帶風にしめ、海神の宮の屋根を飛び翔けるジガ蜂のやうな細腰に飾りつけ、白銅鏡をかけ並べて自分の顔をかはる/”\寫して見た。春邊は野を巡ると、野禽すらも自分をやさしいと思ふのか、來ては鳴きかけり、秋のころ山を行くと、自分をなつかしいと思ふのか、空の雲もたなびく。立ちかへつて路に來たら、姫たち殿ばらも心の中に慕ひ、かへり見かへり見、どこの子かと思はれてあつた。此やうに愛せられた昔の幸服な自分も、今日は女の子達に外道のやうに思はれて居る。此やうに愛せられた昔の自分が。(其)昔の賢い人は(70)老人を送つて行つた車を持つて歸つたではないか
 右の如く解讀釋明すると、この歌は題材の性質上深刻な味こそないが、よく韻律にかなひ、修辭も亦頗る巧妙で、架空の事蹟に託した老人の述懷としては上乘の作である。然るに語句推究の勞を吝み、「あやしき詞多し」〔略〕、「人麻呂赤人の餘風は失せ果て」〔古〕、「漢文學に耽りし異俗先生の作」〔新考〕などゝ貶して顧みなかつたのは、聊か輕率ではあるまいか。勿論飛鳥朝以前の古歌とも思はれぬが、奈良朝時代に此だけの大作をものしたとすれば、其は當代の巨匠と推稱すべきで、其故に私は之を山上憶良臣の作と想定するのであるが、其根據は左記諸項にある。
 一、構想が憶良の哀世間難住歌〔八〇四〕及遊2於松浦河1贈答歌〔八五三以下〕と類して居る。
 二、序文が頗る此歌人の筆致に似て居る。
 三、カザラヒ、カヘラヒ、カケラフ、シヌブラヒの如き進行格形を好んで用ひたのは此作者の僻で貧窮問答歌〔八九二〕に於て最も顯著である。
 四、第十三句目に於て五音句を以て一段落とし、次句を八音句(四音二節)を以て起した手ぎはは、スタンザ(齣)について特別の注意を拂うて居た憶良の外には企て及ばぬことである。
 山上氏は姓氏録によれば春日朝臣(臣)の一族であるが、山邊(ヤマノヘ)氏と用字を異にする所を見(71)ると、ヤマノウヘと稱へたのではないかと思はれる。若し然りとすれば、同族小野氏と同じく、近江國を本貫とし、今の蒲生郡苗村大字山之上に占住したのであらうが、其族人中の仕宦者が帝都附近に移住したことは有り得るから、憶良臣は或は明日香を距ること遠からぬ高取の里に於て成人したのかも知れず、此歌も亦我身の上を詠じたのではないかと考へられる。本集第五卷所載の沈痾自哀文によれば、天平五年に是時年七十有四とあるから、其少時は明日香朝にあたり、此歌の内容と合致するのである。春日氏は皇別てあるけれども、其族母はアマ(海人)旅員であつたと信すべき理由があるから〔建國篇二−一二〇頁〕、海神の宮が高取に存したことも偶然ではないやうである。
 假に私の想像が外れて居るとしても、此歌に詠み込まれた服装が、當時の年少貴族の風俗を描寫したものなることは疑がないから、貴重なる民俗誌料といはねばならぬ。即ち
 襖《コロモ》 紫色の大綾
 衣《ソ》(上半身に纏ふもの) 榛を以て染めた潤sキヌ》――高麗錦の紐を縫ひつけたもの
 裳《モ》(袴) 細布《タヘ》の一枚織と麻の手作とを重ねて著用
 襪《シタグツ》 遠來の二綾――此は稻寸氏の女が求婚のため贈遺したもの
 沓 黒革製
(72) 飾帶 水色の絹――此は海神社の齋女の贈遺品で、細腰にまきつけ、衿帶のやうに前方で結び垂れたやうである。
 装髪 總角又は放髪――冠または頭被を用ひなかつたものと思はれる。
  (外に這ひ廻る頃には襁を縫ひつけた袖無を著、少童時代には袖のある衣服を用ひたとあるが、其は一般風俗で、イロコに限つたことではあるまい)
調度類としては白銅鏡をあげたのみであるが、雙懸とあるによつて豪奢な生活が想像せられ、登場人物が上記稻置(小里正)氏の女子、海神の宮の女祝の外に、大家の婦女、右族の子弟である所を見ても、交際の範圍が察知せられる。――麻績の子、田部《タカラ》の子、飛鳥|壯《ヲトコ》は工人である――されば神仙譚ではあるが、尚當時の社會相を實寫したものとせねばならぬ。
 
反歌二首
 
3792 死者水〔左△〕苑《シナバコソ》 相不見在目《アヒミズアラメ》 生而在者《イキテアラバ》 白髪子等丹《シラカミコラニ》 不生在目八方《オヒズアラメヤモ》
 
〔三七九二〕死なばこそ あひ見ずあらめ 生きてあらば 白髪子らに おひずあらめやも
 
しなばこそ(死者水〔右△〕苑) 水〔右△〕は類聚古集及西本願寺本等に木〔右○〕とあるを可とする。木苑は杜《モリ》で、社に通(73)じ、社は本集にはモリ〔二字右○〕の外にコソ〔二字右○〕とも訓ませてあるから、此も助語コソ〔二字右○〕にあてた假字とすべきである。古義は木〔右○〕はコ、苑はソの假字とし、崇神紀の羽振苑をハフリソと訓してあることを引いて證としたが、その地は記に波布理曾能〔右○〕とあり、和名抄にも祝園とかいて波布曾乃〔右○〕と訓してあるから、苑をソ〔右○〕とのみ稱へた證據にはならぬ。
あひみずあらめ(相不見在目) アヒは接頭語として用ひられたので、相互といふ意ではない。死なば見ないであらうが〔右○〕といふので、已然形を用ひたことに注意すべきである。
いきてあらば(生而在者) 生きて居るならばといふ意である。
しらかみこらに(白髪子等丹) 白髪は本集第十七卷〔三九二二〕には之路〔右○〕髪と假字書してあるが、其は上句に布流由吉乃とあり、降雪のやうにシロ〔右○〕イ白髪とつゞける爲に、殊更にシロ〔右○〕カミと唱へたので、之に準據して常にシロと發音せねばならぬといふ古義説は偏狹である。白雪をシロ〔右○〕ユキと訓した例もなく、シラガ(白髪)といふのもシラ〔右○〕カミの約濁であるから、此もシラカミとある舊訓を可とする。コラは上述のやうに仙女等をいふのである。
おひずあらめやも(不生在目八方) 舊訓オヒザラメヤモとあるが、第二句の相不〔右○〕見在目〔二字右○〕と同一書法であるから、「生ひない〔二字右○〕で居ようや」といふ意を以て、八音に誦したものとすべきで、之を連約し(74)て生ヒザラ〔二字右△〕メヤモといふと、「生ひなからう」といふ意と誤たれる虞があるのである。兩者を混同するやうになつたのは、やゝ後世のことで、此時代までは動詞のアリ(在)と助動詞アリとは判然區別せられ、前者は已むを得ざる場合の外、連約せざることを例とした。されば此處にも特に在の字を加へてあるので、生ヒザラメならば不生目だけで十分なのである。
〔大意〕死なば見ないであらうが、生きて居るなら、白髪が少女達にも生ひないで居るものか
 
3793 白髪爲《シラカミシ》 子等母生名者《コラモオヒナバ》 如是《カクノゴト》 將若異子等丹《ワカケムコラニ》 所詈金目八《ノラエカネネヤ》
 
〔三七九三〕白かみし 子らも生ひなば かくのごと 若けむこらに 詈らえかねめや
 
しらかみし(白髪爲) 古義訓による。シはソと同じく指定の効力を有するが、此は「白髪|其《シ》が」といふ意である。
こらもおひなば(子等母生名者) 此も古義訓に從ふべきで、コラモは兒等ニモ〔二字右○〕の謂である。
かくのごと(如是) 「此やうに」といふ意であるが、下二句全體にかゝるのである。
わかけむこらに(將若異子等丹) 異は一種の送り假字で、ワカケ〔右○〕ムと訓ませんが爲に、特に添へられたものである。このケムはキ、ク、ケレ活用が未だ發展せぬ以前の語法の名殘で、本初ケ一形で(75)あつたから、未來時格を表示する爲に、直接ケに助動詞ムを結びつけたのである。即ち若カラムといふと同意で、大山守皇子の歌にハヤケム〔二字右○〕人シ〔紀〕〔記〕とあると同一語法に屬する。此コラは九人の仙女以外の女子の謂である。
のらえかねめや(所詈金目八) ノラエは勿論ノル(宣)の受動形であるが、轉義によつて罵ラレといふ意になつたので、本集〔三〇九六〕〔三〇九八〕にも用例がある。其はノリ(宣)の進行格形ノロヒが咒咀の義に轉じたのと趣を同じうするものである。カネはカテ(克)の語幹カに打消のネを連ねたもので、不克または不能の意であるから、本集には不得の二字をも充てゝ居るのである。此はメヤといふ反語表示を添へてあるから、罵られることが有り得るだらうといふ意になるので、今も「爲《シ》かね〔二字右○〕るものか」の如く用ひられることがある。
〔大意〕白髪が仙女たちにも生ひたなら、此やうに更に若い人達から罵られることがあり得るだらう
 
娘子等|和《コタフル》歌九首
 
3794 端寸八爲《ハシキヤシ》 老夫之歌丹《オキナノウタニ》 大欲寸《オホホシキ》 九兒等哉《ココツノコラヤ》 蚊間毛而將居《カマケテヲラム》
 
〔三七九四〕はしきやし おきなの歌に おほほしき ここつの兒らや かまけてをらむ
 
(76)はしきやし(端寸八爲) 此は前にも述べたやうに一種の間投詞であるが、強ひて譯すればヨシ!即ち英語のwell!にあたり、サテモといふ意にもなるのである。
おきなのうたに(老夫之歌丹)
おほほしき(大欲寸) オホホはオホ(凡)の疊尾語で、其活用形オホホシには鬱悒の二字をあてた例もあるが〔一七五〕、此は神氣の清朗ならざること、即ち凡愚《オホロカ》の意に用ひたのである。
ここつ〔三字右○〕のこらや(九兒等哉) 序文の語釋に述べたやうに、九をココノ〔右△〕ノと訓むのは誤りである。ココノツの語根はココ〔二字右○〕で、ノは連繋助語であるから、更に之を重ねることは許されず、第三卷の讃酒歌〔三四〇〕に七賢人をナナノ賢シキ人と訓ませたやうに、ココノといふべきであるが、標準語音數にみたねから、恐らくはツ(箇)を加へて、ココツ〔右○〕ノと誦したのであらう。序文にも九箇〔右○〕女子とあるのである。
かまけてをらむ(蚊間毛而將居) 皇極紀に感の字をカマケと訓して居る所を見ると、或時代に此意味に用ひられた語と思はれるが、語原を大和言葉の範圍内に求めることが出來ぬから、或は感の朝鮮音|※[ハングルでカム]《カム》を活用したのかも知れぬ。口語に於て「手前にカマケまして」などのやうに、カカヅラフの意に用ひるのは其轉義であらう。これは翁の歌に感心して居ようといふので、居ラムは未來時(77)格であるが、ここでは意嚮表示に用ひられたのである。
〔大意〕よろしい。翁の歌に愚な(我々)九人の少女も感心して居よう
 
3795 辱尾忍《ハヂヲシヌビ》 辱尾黙《ハヂヲモダシテ》 無事《コトモナク》 物不言先丹《モノイハヌサキニ》 我者將依《アレハヨリナム》
 
〔三七九五〕 はぢを忍ひ 耻をもだして 事もなく 物いはぬさきに 我はよりなむ
 
はぢをしぬび(辱尾忍)
はぢをもだして(辱尾黙) 初二句を契沖は女誡といふ書に忍辱含垢常若2畏懼1とあるに據るものとした。作者を山上憶良とすれば、其くらゐの物好はありさうに思はれる。翁にいひ伏せられ、耻をこらへてといふ意を二句に述べたので、末句の我ハ依リナムにかゝるのである。――黙字は舊訓モダシ〔右○〕テとあり、古義は之を非としてモダリ〔右○〕ならざるべからずといひ、新考はモダリは自動詞であるから、辱ヲ〔右○〕とはいひ得ずとの理由の下に舊訓を復活した。これは極めて興味のある問題であるから、聊か專門に走る嫌があるが、此機會に攻究して見たい。兩語の語幹モダは、母太毛安良牟〔三九七六〕の如く、獨立體言として用ひられるものであるから、これを動詞とするには、漢語|黙《モク》が黙《モク》シと活用せられると同樣に、モダシ〔右○〕とするのが普通であるが、其は決して作爲(他動)表(78)示ではなく、坐シの如き純然たる自動詞にも同型があるのである。一方に於ては雲リ(曇)、蔭リ(昃)、宿リ(泊)等の如く、動詞語尾リを接著したモダリ〔右○〕といふ語も成立することは勿論で、この形は多くの場合自動詞と了解せられるが、古語に於ては恐《オソ》リ、亂リ等の如く自他兩用のものもあり、或る目的語と連用することは差支なしとせられた。口語でも耻をダマリ〔右○〕といひ、耻をダマシ〔右○〕と表現することのないのも之に因るものである。但しモダシも自他共に用ひられるから、此場合はモダシ〔右○〕でもモダリ〔右○〕でも差支はないのであるが、本集には常にモダアリ〔二字右○〕又はモダ居リ〔二字右○〕と用ひて居る所を見ると、此時代にはモダリといふ形は尚未だ存立して居なかつたのかも知れぬから、舊訓を尊重してモダシ〔右○〕と唱ふべきであらう、
こともなく(無事) 何事もなくといふ意。
ものいはぬさきに(物不言先丹) 此モノイハヌは紛議にならぬといふことで、今も論事をモノイヒと稱する。到底及びがたいことを悟つて、物イヒにならぬ前に和解しようといふのである。新考は第三第四句を顛倒として、物イハズ事ナキ先ニと改訓したが、此場合の序次は作者の心もちによるもので、上句のモダシも物言ハヌことであるから、重複の嫌をさけて殊更に事モナクといふ句を挿入したのであるかも知れぬ。
(79)あれはよりなむ(我者將依)、將依をヨリナムと訓むのは、決して語音の不足を補ふ爲ではなく、依去《ヨリナ》ム即ち依行カム〔四字右○〕といはねばならぬ場合なるが故で、さればこそナに相當する假字はなくとも、ヨラム又はヨリテムと訓むことは出來ぬのである。此は一旦翁から遠ざかつた少女等が、説き伏せられて復近寄つて行くこと意味し、議論に屈伏または枕席に侍らんといふことではない。古義及新考は誤解して居るやうである。
〔大意〕耻を忍び、耻を黙して、何事もなく、物いひの起らぬ前に、自分は(翁の)側に寄らう
 
3796 否藻諾藻《イナモウモ》 隨欲《ホシキマニマニ》 可赦《ユルスベキ》 貌所見哉《カタチミユレヤ》 我藻將依《アレモヨリナム》
 
〔三七九六〕 否もうも ほしきまにまに〔七字右○〕 ゆるすべき かたち見ゆれや〔四字右○〕 我もよりなむ
 
いなもうも(否藻諸藻) 諾聲は古語ヲ〔右○〕又はウ〔右○〕で、――今もオ〔右○〕ウ又はウ〔右○〕ンといふ――イナモウモは否《イヤ》モ應《オウ》モといふ意である。
ほしきまにまに〔七字右○〕(隨欲) 舊訓オモハムママニとあるが、欲をオモフとよむことは無理であるから、ホリスルママニ〔略〕、ホリノマニマニ〔久老〕と改訓したものもある。其でも意は通ずるけれども、本集の書例によれば、助語ノを以て他語と連繋する場合、隨の字を下にすることはなく、ホリス(80)ルは欲爲と表記するのが普通であるから、此は第五卷の令反惑情歌〔八〇〇〕に保志伎麻爾麻爾とあるに準じ、ホシキマニマニと訓み、恣ニ即ち「諾否を勝手にする」といふ意と解すべきであらう。――其歌も亦憶良の詠で祈るから、此作者を同人なりとする上述の推定説にも適ふやうである。――新考は欲〔右○〕を伴〔右△〕の誤記としてトモノマニマニと訓み、次の二首に引つけて説いたが、其は次句を肌身を許すことゝする臆斷から出發したもので論ずるに足らぬ。上記の如くヨリナムは九人共に翁の女房にならうといふ意ではない。
ゆるすべき(可赦) 眞淵訓による。諾否の自由を許すべきといふ意で、次句につゞくのである。
かたちみゆれや〔四字右○〕(貌所見哉) 所見哉の三字についても訓釋區々であるが、所見の二字は本集に於ては多くはミユル又はミユレと訓ませ、本卷にも其例があるから〔三八〇七〕、我とつゞけてミユレヤと訓し、反語と解すべきである。即ち許すべき樣子が(翁に)見ゆればこそ、否、見えぬといふのである。何故に此やうな簡易なことが先學に判らなかつたのかと、私は寧ろ不思議に思ふ。
あれもよりなむ(我藻將依) 第二女が我ハ〔右○〕依リナムというたから、次々の少女の歌には我モ〔右○〕としたのである。
〔大意〕否も應も恣に許すやうな樣子が見ゆればこそ。自分も側に寄らう
 
(81)3797 死藻生藻《シニモイキモ》 同心跡《オナジココロト》 結而爲《ムスビテシ》 友八違《トモヤタガハム》 我藻將依《アレモヨリナム》
 
〔三七九七〕 しにも生きも 同じこころと むすぴてし 友やたがはむ 我もよりなむ
 
しにもいきも(死藻生藻) 生死共にといふ意。
おなじこころと(同心跡) 同を意味する形容詞はオ(吾)ナ(汝)から出たのであるから、オナ〔右○〕ジを原形とし、オヤジは其訛である。古義が之をオヤ〔右○〕ジと改訓したのは、耳遠い方が古言らしいと考へた爲のやうで、今もよくあることであるが、無稽の好奇といはねばならぬ。
むすぴて|し《アル》(結而爲) 誤字でない限り、ムスビテシ〔右△〕と訓まねばならぬが、その友情はまだ解消せられて居らぬのであるから、過去時格を以て表現するのは違法である。或は爲〔右△〕は在〔右○〕の誤記で、ムスビテアル〔二字右○〕と詠まれたのではあるまいか。テアルは後世連約してタルと發音せられるやうになり、完了連體形と混同したので、或時代の人が輕率にも過去と同一視し、在〔右○〕を爲〔右△〕と改記したことも有り得る。
ともやたがはむ(友八違) 古義訓による、トモヤは友ニ〔右○〕ヤの謂で、助語の發達が尚不完全であつた時代の語法の名殘である。之も反語で、友ニ違ハウヤ、否、違フマイといふ意である。タガヒは(82)カヒ(交)の派生語で、タは接頭語に過ぎず、チガヒとも轉呼せられ、並行せぬことを意味する。
あれもよりなむ(我藻將依) 前出
〔大意〕生死共に同じ心と約束した友に違はうや。自分も側に寄らう
 
3798 何爲迹《ナニセムト》 違將居《タガヒハヲラム》 否藻諾藻《イナモウモ》 友之波波《トモノナミナミ》 我裳將依《アレモヨリナム》
 
〔三七九八〕何せんと たがひは居らむ 否もうも 友のなみなみ あれもよりなむ
 
なにせんと(何爲迹) 集中にはナニセムトといふ語例がないので、宣長は迹〔右○〕を邇〔右△〕の誤寫とし、雅澄は句末に蚊の字脱としてナニストカと改訓したが、舊訓を不可とすべき理由がない。トは古語に於てはテと通用せられ、又未來格の此用法(連體法)は口語では不定時(現在)格を以て表現せられるから、今の言葉に直せば「どうして」となるのである。誤脱を云々する前には、先づ原文が語又は語形態として存立不可能なることを立證する義務がある筈で、自己の智識の不足を顧ずして、濫に古書を添刪するのは、?々論じたやうに、學問上の罪人である。
たがひはをらむ(違將居) 違ヒ居ラム即ち一致せずに居るものかといふ意で、タガヒテ〔右○〕居ラムと表現することも出來るが、此は特に語意を強める爲にハ〔右○〕を加へたのであらう。
(83)いなもうも(否藻諾藻) 前出
とものなみなみ(友之波波) 波々は借字、並々の謂で、友達ナミニといふことである。
あれもよりなむ(我裳將依) 前出
〔大意〕どうして一致せずに居られるものか。否も應も友達なみに、自分も側へ寄らう
 
3799 豈藻不在《アニモアラヌ》 自身之柄《オノガミノカラ》 人子之《ヒトノコノ》 事藻不盡《コトモツクサジ》 我藻將依《アレモヨリナム》
 
〔三七九九〕豈もあらぬ おのが身のから 人の子の こともつくさじ 我もよりなむ
 
あにもあらぬ(豈藻不在) 此アニは仁徳紀の磐之媛皇后の御歌に、アニ〔二字右○〕ヨクモアラズとあると同一用法で、本來朝鮮語の※[ハングルでアニ]《アニ》又は※[ハングルでアン]《アン》と同じく、「然らず」といふ意の「豈」に相當するのであるが、打消形態に冠する時は其効力を失うて、單に否定を強めるに過ぎぬことがある。其はフランス語のneの用法と趣を同じうするもので、neもpasと同じく打消語であるが、兩者を併用しても打消の打消、即ち肯定的とはならず、其一個を用ひた場合と同一の効力を有するのである。本集第四卷〔五九六〕の「我戀に豈不〔二字右○〕益歟沖つ島守」といふ用例についていふも、豈不益歟は島守に對する問で、反語表示ではないから、益ラザルカといふ意とせねばならぬ。されば此句もモアラヌといふこと(84)を強く表現したので、モはマガ(凶)の語根マの轉呼であるから、凶事を意味し、憶良の老身重病經年辛苦歌〔八九七〕には、事モナク裳無クモアラムヲとあり、第十五卷の遣新羅使一行の歌にも用例がある〔三六九四〕〔三七一七〕。即ち「何の故障もない」といふ意を以て次句につゞくのである。從來アニを「何」と同義とし〔略〕〔古〕、或は親〔右△〕の誤寫と見たのは〔新考〕、モを助語と速斷した爲であるが、尚アニモ〔右○〕アラヌといふ表現樣式が異常であることも、學者を惑はす一因であつたと推察せられる。此好奇僻も亦、作者を憶良臣とすれは點頭《ウナヅ》かれることである。
おのがみのから(自身之柄) カラにはユヱ(故)といふ意もあるから、此は我身には故障もない(翁)自身の故にといふ意と了解せられる。
ひとのこの(人子之) 人ノ子はこゝでは他人といふに同じい。此も翁をいふのである。
こともつくさじ(事藻不盡) 事は借字で、言《コト》モツクサジは「くどくどと言ふまい」といふ意である。やゝ異樣な言ひ廻しではあるが、何の故障もない他人(翁)が自身の爲にする所があつて諄々として説くのではあるまい。否、少女達の爲の異見と思はれるからといふ意と了解せられる。一人一人の女子によつて聽從の理由をかへたのは、作者の苦心のある所である。
あれもよりなむ(我藻將依) 前出
(85)〔大意〕何の故障もない自身のために他人(即ち翁)が言葉をつくしはすまい。(それ故に)自分も側へ寄らう
 
3800 者田爲爲寸《ハタススキ》 穗庭莫出《ホニハナイデソ》 思而有《シヌビテアル》 情者所知《ココロハシラユ》 我藻將依《アレモヨリナム》
 
〔三八〇〇〕 はたすすき 穗にはな出でそ 偲びてある 心はしらゆ 我もよりなむ
 
はたすすき(者田爲爲寸) ホ(穗)の枕詞。
ほにはないでそ(穩庭莫出) 心の想を表に出すなといふ意で、老翁に對していうたのである。從來イヅナト〔右△〕〔仙覺〕、ナイデソト〔右△〕〔考〕、イデジト〔右△〕〔略〕〔古〕、ナイデト〔右△〕〔新訓〕等と訓したのは、次句につゞくものと解した爲であらうが、トは蛇足で、此句で切れるのである。
しぬびてある(思而有) 舊訓オモヒ〔三字右△〕テアルとあるが、此はシヌビ(偲)であらねばならぬ。シヌビに思の字をあてた例は本集にはめづらしくない。即ち色に出さずとも翁の心中はわかるといふのである。而有は上記の如く連約することなくしてテアルと唱へるのが古語法で、考以下にタルと改訓したのは賢しらと云はねばならぬ。
こころはしらゆ(情者所知) 佐佐木訓を可とする。所見の所は上述の如く行爲の現存(繼續)を表示(86)するにも用ひられるから(第六四頁)、舊訓通り知レリ(知リアリの約)とよみ、「情を〔右○〕ば知つて居る」の意と見ることも可能であるが、此は終止法であるから、其場合には知有〔二字右○〕(知在)と表記するのが 例で、所有とある以上、尋常にシラユと訓み、「情は知られる」といふ意とすべきである。
あれもよりなむ(我藻將依)
〔大意〕表には出すな。潜に思慕して居る(翁の)心は知られる。自分も側へ寄らう
 
3801 墨之江之《スミノエノ》 岸野之榛丹《キシヌノハリニ》 丹穗所經迹《ニホフレド》 丹穗葉寐我八《ニホハヌアレヤ》 丹穗氷而將居《ニホヒテヲラム》
 
〔三八〇一〕住の江の きし野のはりに にほふれど 匂はぬ我や にはひて居らむ
 
すみのえの(量之江之) 前出(第四一頁)
きしぬのはりに(岸野之榛丹) 榛は貞觀式に榛藍〔右○〕摺とあり、藍黒色の染料であるが〔萬葉染色考〕、末句によれば此は淡紅色を意味したものとせねばならぬから、榛は借字で、サヌハリ〔萬一〕又はツチバリ〔萬七〕の謂であらう。舊訓ハギとあるのも之を芽子と解したからで、萩もまたハリと稱へられたのである。墨江に限るものではないが、長歌に墨江〔二字右○〕之遠里小野之眞榛〔右○〕持と詠じた由縁もあり、其岸に野生した事實があつたか、若くは野生するとの想定が可能であつたので、此地名を用ひた(87)のであらう。其が眞榛と異ることは、榛持〔右○〕即ち榛を以て〔三字右○〕とは云はず、ハリニ〔右○〕と表現したことによつても明白で、其が物に觸れて色をつけることを比況としたのであるから、花の咲く草本とせねばならぬ。
にほふれど(丹穗所經迹) ニホヒは既述の如く色澤を放つことであるが(第四二頁)、これを下二段活に轉用すると他動詞となり、――立チ〔右○〕(自動)から立テ〔右○〕(他動)が分派せられたのと同例――ニホシ〔右○〕(作爲動詞)と同じく、色澤をつけるといふ意味であるから、上句の後に「我を」といふ意を補うて解すべきである。――舊訓ニホハセはニホヒの使動詞形で此場合には當らず、古義訓のニホヘレドはニホトアレドの謂であるから、上句を榛ハ〔右○〕と改めぬ限り、意味をなさぬことになる。
にほはぬあれや(丹穗葉寐我八) ハリの花で著色しようとしても色が出ぬ自分も〔右○〕といふ意で、ヤは感動詞である。
にほひてをらむ(丹穗氷而將居) 赤くなつて居ようといふ意。翁の理づめに辭《コトバ》窮して赤面するといふのである。されば此榛摺を藍黒色としては比況の倫を先することになる。この句も先學は聊か解き誤つて居るやうである。
〔大意〕墨江の岸の野のハリに染めても色が出ぬ自分も、翁にいひまくられて赤くなつて居よう
 
(88)3802 春之野乃《ハルノノノ》 下草靡《シタクサナビケ》 我藻依《アレモヨリ》 丹穗氷因將《ニホヒヨリナム》 友之隨意《)トモノマニマニ》
 
〔三八〇二〕春の野の した草なびけ 我もより にほひよりなむ 友のまにまに
 
はるののの(春之野乃) 前輯已來?々述べたやうに、奈良朝時代には既に野をノと稱へたのみならず、殊に此場合の如く春ノ〔右○〕につゞくと、類化によつてもノ〔右○〕となるのが至當であるから、路解及古義の如く態々ハルノヌ〔右○〕ノと改訓するにも及ぶまい。
したくさなびけ〔右○〕(下草靡) 舊訓の如く靡をナビキ〔右△〕とよむとすれば、上句及下草までをナビキ寄りの序とせねはならぬが、上述のやうに此一群の短歌に於ては、ヨリは情を寄せるといふ意ではなく如實の動作即ち側へ寄ることをいふのであるから、此句も草の上を躙り寄ることゝ解すべきで、從つてナビケと訓まねばならぬ。
あれもより(我藻依) 自分も側へ寄らうといふ意。助動詞ナムを次の句に讓つたのである。
にほひよりなむ(丹穗氷因將) 上の七首にはヨリナムを將因と表記して居るので、新考は因將をヨリナムと訓むことを非とし、而〔右△〕將居〔右▲〕の誤脱としてニホヒテ居ラ〔三字右△〕ムと改訓したが、古義説の如く此やうな倒記は集中例のあることであるから〔三二三六參照〕、原文に從ひ、潮紅して寄り行かむとい(89)ふ意と解すべきである。同じことを少しく趣をかへ、反復して敍するのは古歌に?々用ひられた手法である。
とものまにまに(友之隨意) 友に隨ひといふ意。ヨリナムだけにかゝる倒敍副詞で、ニホヒ(潮紅)の如き生理的現象は、任意に模倣することの出來るものでないから、友の隨にといふ句を以て修飾することは有り得ぬ。
〔大意〕春の野の下草を靡かし、友に隨うて自分も側へ寄らう。赤くなつて寄つて行かう
 以上九首は勿論作者の空想から出た詞藻で、實際に九女によつて詠出せられたのではないが、各自の性格が歌詞に現はれて居る所に作者の苦心が存する。之を現代語で描寫すると、其趣がよくあらはれる。即ち
 第一の女子(穩健な氣質) 御老人のお歌には愚かな私達もホトホト感心致しました
 第二の女子(怖がりや) 耻を抑へて物いひの起らぬうちに側へ寄りませう
 第三の女子(悔《クヤ》しがり) 否應をいはせぬけんまくだから、私も側へ寄りませう
 第四の女子(お人よし) 皆さんがなさるやうに私も側へ寄りませう
 第五の女子(大勢順應家) 私一人反對もなりますまい。御一緒に側へ寄りませう
(90) 第六の女子(理くつや) 御自身の爲にくどくど言はれのではあるまいから、私も側へ寄りませう
 第七の女子(ふざけもの) 露骨におつしやるな、御心の中は判つて居ます。私も側へ寄りませう
 第八の女子(内氣もの) 野ハリの色には染まらぬ私も赤くなつて居ませう
 第九の女子(やゝ鈍い性質) 皆さんについて私も躙り寄りませう。赤くなつて寄りませう
右の如く九人とも態度を改めたものとして、作者は獨よがりしたのであるが、一首も出たらめではなく、想を凝らし詞を練つたもので、前の長歌及反歌をあはせ、オペラにでも仕組んだら、面白い美しい舞臺面が見られると思ふ。古歌の鑑賞といふことは、近來?々文學者の口に上るけれども、未だこの一大篇の藝術的價値を稱讃したものゝあることを聞かぬのは遺憾千萬で、先學の糟粕をなめて一首一首をひねくり廻し、したり顔する所謂萬葉學者があるとしたら、氣の毒なことゝ言はねばならぬ。國文學は國語に精通して後、始めて味ひ得られるものであるといふことを、私は此機會に於て一言したい。
 
昔者有壯士與美女也【姓名未詳】。不告2親竊爲交接(一)。於時娘子之意。欲親令知。因作歌詠。送與其父〔右△〕(二)。歌曰
 
(91)むかし壯士《ヲトコ》と美女《ヲトメ》ありき。姓名《ナカバネ》をしらず。二親《オモタチ》に告げずて竊に交接《トツギ》す。時に娘子《ヲトメ》の意《ココロ》、親に知らせまく欲りし、因りて歌詠《ウタ》を作りて其の夫《セ》に送り與ふ。歌にいふ
(一)交接はトツギと訓ませんが爲に特に選ばれた字と思はれる。トツギは床就《トコツキ》で、同衾を意味する。
(二)類聚古集及西本願寺本等に夫〔右○〕とあるを可とする。原文の如く父〔右△〕としては歌意にも左注にも抵觸する。
 
3803 隱耳《シヌビノミ》 戀者辛苦《コフルハクルシ》 山葉從《ヤマノハユ》 出來月之《イデクルツキノ》 顯著如何《アラハサバイカニ》
 
〔三八〇三〕しぬび〔三字右○〕のみ 戀ふる〔右○〕は苦し 山の端ゆ いでくる月の あらはさばいかに
 
しぬび〔三字右○〕のみ(隱耳) 舊訓シタニノミとあるが、字義に遠いのみならず、此は心裏に戀するといふ意ではなく、人目を忍ぶことであるから、シタニといふことは出來ぬ。第十卷〔一九九二〕の隱耳戀者苦の初句がカクシノミと訓せられて居るのも之に因るのであらうが、カクシは穩でないので、契沖はコモリと改訓して居る。古義は之を證として此歌に於てもコモリならざるべからずと主張したが、コモリは籠居の意で、シタニと五十歩百歩の差であるから、此は第十二卷〔二九一一〕に人目|多見《オホミ》眼社忍禮〔二字右○〕とあるに準じ、シヌビと訓むべきであらう。隱の字をシヌビと訓した例は本集〔二七五二〕〔二七八四〕にもある。――雅澄は後者の隱庭戀而死鞆をもコモリと改訓して一證に供したけ(92)れども、籠居が死因となる筈もないから、これも片戀の意を以てシヌビというたものと解すべきである。
こふるは〔二字右○〕くるし(戀者辛苦) 從來コフレバと訓して居るが、此は理由表示ではなく、苦シの主語と思はれるから、戀フルコトハの意としてコフルハと訓む方がよいやうである。
やまのはゆ(山葉從) 山ノ端が山ノ邊《ハ》の謂なることは既述の通りで(第三頁)、從の字はヨともユとも訓み得られるが、舊訓ニ〔右△〕とあるのは誤りとせねばならぬ。山の邊《ホトリ》からといふ意を以て次句につづくのである。
いでくるつきの(出來月之) 出て來る月のやうにといふ意。助語ノ〔右○〕は?々述べたやうに、比況表示として用ひられたのである。
あらはさばいかに(顯者如何) 月は人間の意志によつて顯ハスことの出來るものではないから、前句との續き合からいへば、舊訓の如くアラハレバであらねばならぬが、前書の趣意に反するから「明白に」といふ一句を補うてアラハサバと誦すべきであらう。
〔大意〕人目を忍んでばかり戀をするのは苦しい。山の端から出て來る月のやうに、(明白に)發表したらどうでせうか
 
(93)右或曰。男有答歌者。未得探求也
 
右或は曰はく、男に答歌ありといへり。未だ探り求むるを得ざるなり
 
右の如く注してあるが、或は上に引いた第十卷〔一九九二〕の歌は之が返歌ではあるまいか。其歌
  隱耳《シヌビノミ》 戀者若《コフルハクルシ》 瞿麥之《ナデシコノ》 花爾開出與《ハナニサキイデヨ》 朝旦將見《アサナサナミム》
  しぬびのみ 戀ふるは苦し なでしこの 花に咲きいでよ 朝な朝な見む
即ちこの女の提言はその夫によつて賛成せられたのであつて、瞿麥の花のやうに開放してしまへ、毎朝(毎夜といふに同じい)逢はうといふのである。上二句が全然同一であるのは、返歌の一樣式で、ナデシコ(撫子)といふ語がよくきいて居る。
 
昔者有壯士。新成婚禮也。未經幾時。忽爲驛使被遣遠境。公事有限。曾期無日。於是娘子。感慟悽愴。沈臥疾※[病垂/尓]。累年之後。壯士還來。覆命既了。乃詣相視。而娘子之姿容。疲羸甚異。言語哽咽。于時壯士哀嘆流涙。裁歌口號。其歌一首
むかし壯士あり、新に婚禮《ヅマドヒ》を成しき。いくだもあらぬに、忽ち驛使《ハユヤツカヒ》として遠き境に遣はさる。公《オホヤケ》の事限りあり、會ふ期《トキ》日なし。こゝに娘子感慟悽愴《ナキイタミ》て疾※[病垂/尓]《ヤマヒ》に沈み臥す。年を累ねて後、壯士還(94)り來りてかへりごとまをし了へ、すなはち詣きて相視る。而して娘子の姿容《スガタ》痩せ羸れ甚《イト》異《ケ》にして言語《コトバ》哽咽《ムセ》ぶ。時に壯士哀み嘆きて涙を流し、歌を裁《ツク》りて口號《クチズサ》ぶ。其《ソノ》歌《ウタ》一首《ヒトツ》
 
3804 如是耳爾《カクノミニ》 有家流物乎《アリケルモノヲ》 猪名川之《ヰナカハノ》 奧乎深目而《オキヲフカメテ》 吾念有來《ワガモヘリケル》
 
〔三八〇四〕 かくのみに 有りけるものを ゐな川の 沖を深めて わが念《モ》へりける
 
かくのみに(如是耳爾) 「かくばかりに」即ち「かほどに」といふ意。
ありけるものを(有家流物乎) 「あつたものを」といふ意。即ちか程で有つたのにといふのである。
ゐなかはの(猪名川之) 攝津國爲奈郷〔和〕を流れる川で、今池田川と稱し、神崎川の一支流である。序の一部分として用ひられたのであるが、恐らくはこの夫婦の郷里が此河岸に近く存したのであらう。
おきをふかめて(奧乎深目而) 猪名川ノ沖ヲまではフカ(深)といはんが爲の序で、此川の沖は水が深いとせられたのであらう。フカメは深くなしてといふ意であるが、此場合は「前途の幸福を」といふ目的語を言外に含めたのであらう。
わがもへりける(吾念有來) 自分が思つて居たよといふ意。モヘリはオモヒアリの約であるから、オ〔右○〕モヘリケルと誦してもよいが、吟調上オを省いた方がよいやうである。句末に餘情を含めねば(95)ならぬ場合であるから、連體法ケルを以て結んだのであらう。
〔大意〕此ほどであつたものを(知らずに、行末の樂しさを)深めて自分が思うて居たことよ
 
娘子臥聞夫君之歌。從枕擧頭。應聲和歌一首
 
をとめ伏して夫君《ヅマ》の歌を聞き、枕より頭を擧げ、聲に應じて和《コタ》へける歌|一首《ヒトツ》
 
3805 烏玉之《ヌバタマノ》 黒髪所沾而《クロカミヌレテ》 沫雪之《アワユキノ》 零也來座《フリヤキマシシ》 幾許戀者《ココダコフレバ》
 
〔三八〇五〕 ぬばたまの 黒かみ濡れて あわ雪の ふりや來ましし こゝだ戀ふれば
 
今案此歌。其夫被使既經累載。而當還時雪落之冬也。因斯娘子作此沫雪之句歟
 
今此歌を案ずるに、其夫使を被りて既に載《トシ》を經累《ヘカサ》ぬ。而して還り來たる時に當りて雪|落《フ》る冬なり。斯によつて娘子この沫雪の句を作りしか
 
ぬばたまの(鳥玉之) ヌ(ウ)バタマともいひ、其語義については區々の説かあるが、私は既に機會のある度ごとに論じたやうに、ヌをオニ(幽鬼)の原語(南方系)とし、外來語なるが故に發音が確實ではなく、ウともムとも轉じたものと解して居る。バタマはマタマ(眞魂)の音便で、兩者を併せて幽魂の意を表示し、暮夜暗黒界に出没するものであるから、夕・夜・黒・暗等の枕詞となつた(96)のである。
くろかみぬれて(黒髪所沾而) 男の黒髪の濡れたのは沫雪が降りかゝつた爲ではなく、涙に濕つたのであるが、既に精神朦朧たる女は、之を見て季節から沫雪を聯想したのである。
あわゆきの(沫雪之) 雪片が甚しく凍凝するに至らず、水泡の如くふくらかに降りつむ雪をいふ。概して寒氣のやゝ弛い時に降るので、春の沫雪などとも稱へるので、春季に限るものであるかのやうに了解して居るものもあるが、冬の季節にもこれを見ることがあり、本集には冬の歌中にも?々此語を用ひて居るのである。但し此句は沫雪のやうにといふ意の比況で、必しも實景たることを要しないから、左注の文は聊か蛇足の嫌がある。恐らくは原注ではなく、後人がさかしらに加へたものであらう。以下の左注も多くは此類である。然るに先學が之に捉はれで、次句の判讀を誤つたのは笑止といはねばならぬ。
ふりやきましし(零也來座) 沫雪のやうに天からでも降つてござつたかといふのである。――連體法を用ひたのは句尾に疑問の意を含める爲である――思ひがけなく夫の聲を聞いて、瀕死の幼婦が此一言を以て驚喜の情を表現したものとすべきで、傷心斷腸の感がある。舊訓フリテヤキマスとあるテは蛇足で、之が爲に語音がつまり、キマシシをキマスとせねばならなかつたのであらう(97)が、後記の如く時格にも語法にも違反する。略解以下が降ルニ〔右△〕ヤキマス〔右△〕と改回したのは一層不可で、ニに相當する文字がないのみならず、假に意を以てよみ添へることが許されるにしても、ニにはニモ拘ハラズといふやうな意味がないから、來マスとつゞけることは出來ぬ。其故に新考は來マスを來マセルと心得べしと説いたのであるが、さばかり無理な言葉づかひをしてまで、ヤを挿入する必要はない筈で、又來マセルは來マシシと同意ではなく、「來て居られる」といふ意の現在時格であるから、來マスと五十歩百歩である。從來助語ヤの語原と語義とを究めず、何處にあつても疑問を表示するものと心得て居たやうであるが、本集幾多の例の示すが如く、句中のヤは多くは感動詞(間投詞)で、此句に於ても若しヤを以て疑問を表示しようとするなら、降ルニ來マス(セル)ニヤと言はねばならず、降ルニ〔右○〕ヤ〔疑〕來マス(セル)は「降るのか、來なさる」(又は來て居なさる)といふ意になるのである。此やうな普通語法の問題を、本篇に於て説きたくはないのであるが、先學の餘りにも無頓着な態度に慊らぬのみならず、之を盲信して居るものも少くはないやうであるから一言するのである。孰れにしても此場合は幼婦が「いつ來なさつた〔右○〕のか」と問うたのであるから、キマス(カ)又はキマセル(カ)といふ現在格を用ひることは出來ぬ。但しマセルがマスの過去であると考へて居る人達には此議論はわかるまい。
(98)ここだこふれは(幾許戀者) 幾許はコキバクと訓むのが至當であるが、舊訓の如くはこれは借字とすべきで、ココダ(許多)の謂であらう。甚しく戀ふるが故にといふのである。
〔大意〕黒髪が濡れて、沫雪のやうに降つて來なされたか。(私が)餘りこひしがるので
 
3806 事之有者《コトシアラバ》 小泊瀬山乃《ヲハツセヤマノ》 石城爾母《イハキニモ》 隱者共爾《コモラバトモニ》 莫思吾背《ナモヒソワガセ》
 
〔三八〇六〕事しあらは 小はつせ山の 石城にも こもらば共に なもひそ吾が夫《セ》
 
右傳云。時有女子。不知父母。竊接壯士也。壯士〓〓其親呵嘖。稍有猶豫之意。因此娘子裁作斯謌。贈與其克也
 
右傳へいふ。時に女《メ》の子あり。父母に知らせず、竊に壯士《ヲトコ》に接《トツ》ぎき。壯士その親の呵嘖《コロビ》を〓〓《カシコ》みてやゝ猶豫《タユタヒ》の意《ココロ》あり。此に因りて娘子この謌を裁作《ツク》りて其|夫《セ》に贈り與へしなり
 
右の如く注せられて居るが、此歌は常陸風土記の新治郡笠間村葦穗山の條下に擧げられた。
 
こちたけば をはつせ山の 石城にも ゐて籠らなむ な戀ひそ我妹
 
と同じ歌が二樣に傳へられたものなることは疑の餘地がない。常陸國には今ヲハツセ山といふ名を傳へて居らぬが、歌としては此方が優れて居り、編纂の年代も古いから、風土記のものを原歌とすべき(99)で、聊か辭句をかへて大和にも傳へられ、左注のやうな物語が附會せられたのかも知れぬ。さりながら此處では風土記の所傳に拘泥することなく、別個の歌として釋明する。
 
ことしあらば(事之有者) 事アラバの謂で、シは強意助語である。
をはつせやまの(小泊瀬山乃) ハツセはハツ(太)セ(瀬)即ち大溪水の謂であるが、大和に於ては一河流の名稱として用ひられ、其水源地一帶の山岳をハツセ山と稱へた。ヲを冠したのはヲ筑波、ヲ新田山等と同じく愛稱としてゞあらう。――武烈天皇を小泊瀬尊と申上げたのは、御祖父雄略天皇の御號大〔右○〕泊瀬と區別する爲である――常陸にも此名の山が存したとすれば、信筑川(今の戀瀬川)の水源をいふのであらう。
いはきにも(石城爾母) イハキは石造城塞の謂で、ウバラキ(茨城)と對立する稱呼であるが、大和の泊瀬に石城と名づくべきものが存した形跡もないから、或は岩窟の謂であるかも知れぬ。常陸のは往昔油置賣といふ女酋の石屋であつたといはれて居る。
こもらばともに(隱者共爾) 上に事シアラバといふ假設條件があるから、更にコモラバとはいふべからずとの理由の下に、者〔右○〕を名〔右△〕の誤としてコモラナと訓めといふ新考説は一應尤であるが、其場合には共ニコモラナとあるべきで、態々倒敍する筈がないから、上句の後にコモラムといふ歸結(100)を略したものとして舊訓に從ふべきである。即ち事が起つたら小泊瀬山の石城にでも籠らう。籠らば諸共にといふので、九尺二間の佗住居に手鍋をさげてもといふと同じ心いきである。
なもひそわがせ(莫思吾背) 眞淵訓に從ふ。常陸歌にナ戀ヒソ我妹とあると同一語氣である。心配なさるな我|夫《ツマ》よといふ意。
〔大意〕事があるなら小初瀬山の岩窟《イハヤ》にでも(籠らう)、籠らば諸共に、心配なさるな我夫よ
 
3807 安積香山《アサカヤマ》 影副所見《カゲサヘミユル》 山井之《ヤマノヰノ》 淺心乎《アサキココロヲ》 吾念莫國《ワガモハナクニ》
 
〔三八〇七〕あさか山 かげさへ見ゆる 山の井の 淺き心を わが念はなくに
 
右歌傳云。葛城王遣于陸奥國之時。國司祗承緩怠異甚。於時王意不悦。怒色顯面。雖設飲饌。不肯宴樂。於是有前釆女。風流娘子。左手捧觴右手持水〔右△〕。撃之王膝而詠其〔右△〕歌。爾乃王意解脱〔右△〕。樂飲終日
 
右の歌は傳へ云ふ。葛城《カツラギ》の王《オホギミ》陸奥《ミチノク》國に遣はされし時、國司〔二字左傍線〕の祗承緩怠〔四字左傍線〕異に甚し。王の意《ココロ》悦ばず、怒の色面にあらはれ、飲餞《ミアヘ》を設くれども敢て宴樂《ウタゲ》せず、是《ココ》に前の釆女あり。風流《ミヤビ》たる娘子《タワヤメ》なり。左の手に觴を捧げ、右の手に木(一)を持ち、王の膝を撃ちて此(二)歌を詠みき。爾乃《スナハチ》王の意解け(101)悦(三)びて、終日《ヒネモス》樂しく飲みけり。
(一)原文水〔右△〕とあるので、種々の臆測が行はれて居るが、いづれも理に合はないから、新考は持水〔二字右○〕の二字を衍とした。さりながら掌で對手の膝をうつ爲には餘ほど接近せねばならず、且左手に觴を捧げた姿勢が崩れる筈であるから、若し王の膝を撃つたことが事實とするならば、笏のやうなものを用ひたとせねばならぬ。さらば水〔右△〕は木〔右○〕の誤寫とすべきで後掲〔三八三〇〕にも例があり、木笏を略して木《キ》とのみ稱へたこともあり得る。――女人が檜扇(衵扇)を携へるやうになつたのは平安朝以降のことである。
(二)原文其〔右△〕とあるが、類聚古集及西本願寺本等に從ひ、此〔右○〕とすべきであらう。
(三)悦〔右○〕も亦右兩本による。
 
 葛城王は左大臣橘諸兄の前名である。此王子は和銅三年に初めて從五位下に敍せられ、――天平寶字元年七十四歳で薨去の時から逆算すると、當時二十六歳であつた――天平八年(五十三歳)臣籍に下つたのであるから、國史には見えずとも、其間に陸奥國に派遣せられたことはあり得る。契沖は、諸兄卿とは知り合の仲なる家持が、右歌傳云と注した筈がないといふ理由の下に、之を天武天皇の八年に卒した別の葛城王なりと説いたが、其は左注が家持の起草であるといふ前提の下にのみ成立する論で、前三首及以下の左注によつても分明なるが如く、やゝ後の人によつて記入せられたものであらねばならぬから、――第十三卷に?々入道殿讀出給と注したのと同一人の手になつたのであらう――論(102)據とするに足らぬ。古義は大寶二年の紀に、四月壬子令d筑紫七國及越後國簡2點釆女兵衛1貢uv之、但陸奥國勿v貢とあるを引いて、此年以後陸奥より釆女を貢る事止たるべしと述べて居るが、この制令は決して未來を拘束するものではなく、假に一歩を讓つて爾來廢絶したとしても、諸兄の前身たる葛城王の時代まで、前〔右○〕釆女と稱するものが、此地方に在住したことは有り得る。釆女は十六歳以上三十歳以下の女性に限られたのであるから〔令〕、退任の釆女が其後二三十年生存したとしても敢て怪しむに足らず、年老いても娘子(タワヤメ)と呼稱することは妨なく、之をヲトメと訓み、年少女子ならざるべからずと考へるのは誤である。國郡司表によれば陸奥國司の初見は和銅元年で、天武朝以前にも在任したかと云ふことすら疑問である。
あさかやま(安積香山) アサカ山は今の岩代國安積郡の山峯の名なることは疑がないが、此は眼前の風物を序の一部分として用ひ、同時にアサカ(淺處)にいひかけて、第四句のアサキと呼應せしめたのである。、此歌がアサカ山の視界内に於て詠ぜられたものとすれば、陸奥國府は宮城郡多賀郷に置かれた以前には安積郡に存したか、若しくは此王子が特に巡廻せられたものと了解すべきで、孰れにしても當時の要地であつたものと思はれる。
かげさへみゆる(影副所見) アサカ山の影さへ水面に浮んで見えるといふ意。
(103)やまのゐの(山井之) 山の井は山地の井の謂である。ヰ(井)は本來湧泉の水の溢逸を防止する爲に築設せられた堤堰をいひ、上古は深く掘鑿することが希であつたから、相當の廣さを有すると同時に、水底もさのみ深くはなく、殊に山地に於ては地下水の露頭を利用し得る場合が多く、淺いことを例としたから、山の井のやうにといふ意を以てアサキ(淺)にいひかけたので、以上三句は序である。
あさきこころを(淺心乎) 王に對して緩怠の念をといふ意。
わがもはなくに(吾念莫國) 心ヲ思フは念慮をいだくといふとほゞ同意で、第十四卷〔三四八二〕にも同じ用例がある。
〔大意〕アサカ山の影さへ見える山の井のやうに、淺い心を自分はもたぬのに
 
3808 墨江之《スミノエノ》 小集樂爾出而《ヲツメニイデテ》 寤爾毛《ウツツニモ》 己妻尚乎《サガツマスラヲ》 鏡登見津藻《カガミトミツモ》
 
〔三八〇八〕 住の江の をつめに出でて うつつにも さが妻すらを かがみと見つも
 
右傳云。昔者鄙人。姓名未詳也。于時郷里男女。衆集野遊。是會衆之中。有鄙人夫婦。其婦容姿端正。秀於衆諸。乃彼鄙人之意。彌増愛妻之情。而作斯歌讀嘆美貌也
 
(104)右傳へ云ふ。昔日《ムカシ》鄙人《ヒナヒト》あり、姓名《ナカバネ》を未詳《シラズ》也。時に郷里《サト》の男女、衆く集りて野遊びす。是の會集《ツドヒ》の中に鄙人|夫婦《メヲ》あり。其|婦《メ》容姿《カホ》端正《キラキラ》しく、衆諸《モロモロ》に秀《スグ》れたり。乃ち彼《ソノ》鄙人の意《ココロ》に妻を愛《メ》づる情《オモヒ》彌増して、斯《コ》の歌を作り、美貌《カホヨキ》を讃嘆《タタヘ》たりき
 左注が編纂者の手になつたものでないことは上述の通りで、此歌の如きも鄙人の自作としては甚興趣が乏しいから、後人が歌意によつて附會したものと見るべく、しかも誤解に基くものなることは以下の句釋中に論ずる通りである。
 
すみのえの(墨江之) 前出
をつめにいてて(小集樂爾出而) 矢集〔右○〕連〔紀〕〔舊〕、箭集〔右○〕宿禰〔姓〕はヤヅメ〔二字右○〕の連(宿禰)と稱へ、薦集部首及薦集造〔紀〕の薦集も亦コモヅメ〔二字右○〕と訓み、和名抄の山城國乙訓郡物集は毛豆女〔二字右○〕、駿河國駿河郡矢集は也都女〔二字右○〕と訓註してあるから、集をツメとよむことは疑なく、樂はアソビの意を以て添加せられた補意的贅字と思はれる。――後出〔三八三二〕の歌にも類例が見える――ツメはアツメの語根で、ツミ(積)から分化したのであるが、こゝでは集樂即ちツメのアソビを略稱したのであらう。天智朝の童謠にも「宇治橋のツメのアソビに出でませ子」とある。之を橋詰の遊と解して居るものもあるやうであるが、近江朝時代の宇治橋の袂は、決して多人數の集會に適するやうな廣場では(105)なかつた筈で、其處に市があつた形跡もないから、此も當時宇治橋附近の野で催された集樂であつたとせねばならぬ。略解は中院本・袖中抄・類聚萬葉等にヲベラと訓してあるといひ、袖中抄によれば住吉には毎年ヲベラヒといふ遊があるとの事であるが、此は明にツメと訓むべき字を用ひてあるのであるから、舊訓に從ふべきである。新考はヲスラと改訓し、ヲシクラ(食座)の意と説いたが、假にヲシクラといふ古語が存したとしても、之を約してヲスラとすることは、日本語の音便原則上許されぬことであり、又集會の主なる目的は飲食にあるのではないから、牽強といはねばならぬ。
うつつにも(寤爾毛) ウツツはウツ(現)の疊合語で、現實を意味するから、夢幻ではないといふ意を以て寤の字を充てたのは必しも不當ではない。宣長がウツツでは聞えぬというたのは〔略〕、之を夢ニモ現ニモ即ち寤寐ニモといふ意と速斷したからであらうが、現實の義とすれば強ひて阿の字を補うてアサメと訓み、或は古義の如く眞の字脱としてマサメと改めるにも及ぶまい。
さが〔二字右○〕つますらを(己妻尚乎) サがメイメイ(各自)の意の古言で本集には?々見え、竹取物語にも用例がある。之が梨壺の人々によつて與へられた古點であるとすれば、左注に拘泥することなく從來の改訓を斥けて考察せねばならぬ。スラはシ(其)に虚辭的接尾語ラをそへたシラの轉呼で、本(106)義は「其」又は「其もの」であるが、こゝでは單に強意の爲に用ひられたものと見て「各自の妻を」といふ意と了解せられる。己の字をあてたのは吾汝《オナ》の轉なるオノが、サと同じく自他稱(吾と汝)を表示し、我等といふ意があるからで、之によれば「身共〔二字右○〕の女房」といふと同樣に、サを一人稱單數にかりたものと見ることも可能であるが、左注は上述のやうに後人の追記で、解釋の根據とすることは危險であり、歌としても一人の述懷と見るよりも、人情を道破したものと解する方が興味がある。川柳に「元日やおのが女房にちよいど惚れ」とあると同じ趣があるから、若し此意味に解するならば代匠記以下の如くオノツマと訓しても差支はないが、――ワガ〔考〕は非――舊訓サガを不可とすべき理由はない。左注に捉はれて或る一人の男が鼻の下を伸ばして詠じたものと解するのは陋である。
かがみとみつも(鏡登見津藻) 鏡は光彩燦然たることの譬喩で、玉というても同じことであるが、語音數の關係上之を選んだのであらう。要するに美しいと見たといふことで、平素は眼になれて居る女房も飾り立てゝ集《ツメ》の遊に出た所を見ると、現實にも其夫の目に美しく見えるといふ輕いユーモアである。
〔大意〕墨の江の小集《ヲツメ》の遊に出でゝ現實にもめい/\の女房を鏡のやうに美しく見たよ
 
(107)3809 商變《アキカハリ》 領爲跡之御法《シラストノミノリ》 有者許曾《アラバコソ》 吾下衣《ワガシタコロモ》 變賜米《カヘシタマハメ》
 
〔三八〇九〕あきかはり しらすとのみのり あらばこそ 吾したころも かへし賜はめ
 
右傳云。時有所幸娘子也【姓名未詳】。寵薄之後。還賜寄物【俗云可多美】。於是娘子怨恨。聊作斯歌獻上
 
右傳へいふ。時に幸せられし娘子《ヲトメ》ありき。姓名《ナカバネ》を知らず。寵薄〔二字左傍線〕らぎて後、寄物《カタミ》を還し賜ふ。是に娘子|怨恨《ウラ》みて聊《カリソメ》に斯の歌を作て獻上《タテマツ》りき
 
あきかはり(商變) 他に用例はないが、この當時商行爲上の違約をアキカハリと稱へたものと思はれる。新考は口語で之をシヤウベンするといふのは、此二字の音讀であらうと推定した。アキはワキ(分)から分化した語で、轉じて販賣の意となつたのである。
しらすとのみのり(領爲跡之御法) 領は字書に統也理也とあるによつてシル(知)の假字に用ひたので、シラスは認知の意の敬語である。契沖が「恣にせよ」と解してから、メセ〔考〕、シメセ〔略〕、シラセ〔古〕と改訓したものもあるが、いづれも其意を表現するには不通當であり、領の字によるも「自由ならしむる」といふ意はない。ミノリはミコトノリ(勅)と同じく、宣示の義であるが、朝命(法令)の意に轉用せられたので、次句と併せて違約を認知したまふとの朝命があらばこそと解す(108)べきである。
あらばこそ(有者許曾)
わがしたころも(吾下衣) 下養は下に著る衣、即ち襯衣の謂なることは勿論で、左注に從へば之を記念《カタミ》として天皇に奉つたものとせねばならぬが、如何に寵幸に狎れたからというて、褻衣を奉獻するといふやうな大不敬は、此當時に於ても許されなかつた筈である。既に新考が注意したやうに、商變を云々した所を見ても、上流階級の作とは思はれず、恐らくは市井の少婦の怨言で、其相手も封等の身分のものであつたのであらう。次句のタマフといふ敬語は常人の間にも用ひられるものであるから、高貴の御許に奉つた歌ならざる可からずとする根據にはならぬ。この左注も恐らくはミノリを勅語と誤解した後人が案出附會したものであらう。
かへしたまはめ(變賜米) 變は借字で、返の意なることは勿論である。已然形を以て結んだのは、反接の意を含める爲で、商變をしてもよいといふ法令の出ぬ限り、返還は受けられぬ。否、兼約を反古にはさせねといふのである。
〔大意〕商なひの變《ヘン》がへを認めるといふ法令があるなら、自分の(贈遺した)襯衣《シタギ》を返されることもあらうが
 
(109)3810 味飯乎《ウマイヒヲ》 水爾釀成《ミヅニカミナシ》 吾待之《ワガマチシ》 代者曾無《カヒハカツテナシ》 直爾之不有者《タダニシアラネバ》
 
〔三八一〇〕うま飯を 水にかみなし わが待ちし かひはかつて無し ただにしあらねば
 
右傳云。昔有娘子也。相別其夫。望戀經年。爾時夫君吏娶他妻。正身不來。徒贈※[果/衣]物。因此娘子作此恨歌。還酬之也
 
右傳へ云ふ。昔|娘子《ヲトメ》ありき。其|夫《セ》と相別れ、望み戀ひて年を經。その時|夫君《ヲヒト》更に他妻《アダシツマ》に娶《ア》ひて正身《ムザネ》は來ず、徒《タダ》※[果/衣]物《ツト》を贈る。此に因りて娘子此恨の歌を作りて還し酬いき
 
うまいひを(味飯乎) 飯は字書に炊穀也とあるが、國語のイヒの原義は穀芽で、カヒ(頴)と同じく語根はヒである。されは炊穀はカシイヒともカシヒともいひ、カシ(炊)の語根はカなるが故にカヒとも稱へられたやうで、クユ(粥)といふ語も其轉訛ではないかと考へられる。祈年祭の祝詞に汁ニモ頴ニモとある頴は借字で、恐らくは汁(米汁即ち酒)に對し炊穀を意味したのであらう。されば飯は借字で、ウマイヒは美質の穀物をいひ、こゝでは米をさすものと思はれる。此時代に於ては既に支那式の造酒法が普及して居た筈で、熟飯に水を和し、或方法を以て醗酵させて酒としたものゝやうであるが、尚神酒の釀造には舊式を踏襲したことも有り得べきで、其は生米を噛ん(110)で作つた所謂クチガミの酒〔日向風土記〕である。――「紀記論究」神代篇第六卷一四二頁參照――此歌の場合も、事實は或は熟飯を醗酵させた急造酒即ち甘酒であつたかも知れぬが、歌詞の表面からはクチガミの酒と了解せねばならぬ。
みづにかみなし(水爾釀成) 水は上に引用した祈年祭の祝詞の汁〔右○〕にあたり、液體性食料即ち酒をいふのである。カミといふ語はカモシの形に於て一般に造酒の意に用ひられるやうになつたが、其原義が「噛」であることは上記の通りである。但し此句は「酒を作り」といふ意を解すればよい。
わがまちし(吾待之) 酒を作つて自分が待つたといふことであるが、古は壽祝の爲の神酒《ミキ》をマチサケと稱へたから、其縁によつてマチといふ語を用ひたのであらう。本集第四卷の太宰帥大伴卿贈大貳丹比縣守卿遷任民部卿歌に「君が爲かみしマチ酒やすの野にひとりや飲まむ友なしにして」とあるのも之を意味するのであるが、待〔右○〕酒と表記せられて居り、且古事記の應神天皇角賀より還幸の條下にも、其御祖息長帶日賣命釀待酒〔二字右○〕以殿とあるので、從來人の歸るのを待〔右○〕受の酒の意と了解せられ、縣守の場合をも宣長は、大貳として公用の爲出京、歸任を見ずして民部卿に轉任したのであらうと説いて居るが、其は想像に過ぎぬことで、前書にも歌にも縣守を待つといふ意は少しもあらはれで居らぬから、待〔右○〕は借字とせねばならぬ。恐らくはマツリ(祭)の語根マチ(眞靈)を意(111)味し、マチ酒は神酒の謂であらう。直接歌意には關係のないことであるが、前註釋書中に待酒に觸れたものがあるから附記するのである。
かひはかつてなし(代者曾無) 契沖訓に從ふ。代はカヘ又はカハリと訓む字であるが、其原語はカヒで、交を意味する。効(シルシ又はキキメ)をカヒと釋へるのも、本來カハリ(代)の義から出たのであらう。本集には其意味のカヒといふ語を用ひた例は此外には見えぬが、此は上記の如くウマイヒの縁語なるが故に言ひかけたものと思はれる。カツテは克《カ》テテの轉呼であるが、こゝでは敢而または斷而の意に用ひられたのである。
ただにしあらねば(直爾之不有者) 「直接でないから」といふ意で、左注の如く待ちわびた人が自身訪れ來ず、人を介して音信を寄せたことを恨むものと思はれるが、他に妻の出來たのを嫉むやうな口吻は少しもない所を見ると、此傳も亦後人の附會で、歌意を誇張したのではあるまいか。
〔大意〕米から酒を造つて自分が待つた効は全くない。直接でないから
 
戀夫君歌一首并短歌
 
3811 左耳通良布《サニヅラフ》 君之三言等《キミガミコトト》 玉梓乃《タマヅサノ》 使毛不來者《ツカヒモコネバ》 憶病《オモヒヤム》 吾身一曾《ワガミヒトツゾ》 千磐破《チハヤブル》 神爾毛莫負《カミニモナタノミ》 (112)卜部座《ウラベマセ》 龜毛莫燒曾《カメモナヤキソ》 戀之久爾《コヒシクニ》 痛吾身曾《イタムワガミゾ》 伊知白苦《イチジロク》 身爾染保里《ミニシミトホリ》 村肝乃《ムラキモノ》 心碎而《ココロクダケテ》 將死命《シナムイノチ》 爾波可爾成奴《ニハカニナリヌ》 今更《イマサラニ》 君可吾乎喚《キミカワヲヨブ》 足千根乃《タラチネノ》 母之御事歟《ハハノミコトカ》 百不足《モモタラズ》 八十乃衝爾《ヤソノチマタニ》 夕占爾毛《ユフケニモ》 卜爾毛曾問《ウラニモゾトフ》 應死吾之故《シヌベキワガユヱ》
 
〔三八一一〕さにづらふ 君がみことと 玉梓の 使も來ねば
思ひやむ 吾が身ひとつぞ
ちはやぶる 神にもなたのみ 卜部ませ 龜もなやきそ
戀しくに いたむわが身ぞ
いちじろく 身に染《シ》み透り 村きもの 心くだけて 死なむいのち にはかになりぬ
今さらに 君か吾《ワ》をよぶ
たらちねの 母のみことか 百たらず 八十の道俣に 夕けにも うらにもぞ問ふ しぬべきわが故
 
右のやうに行《ライン》に分割すると、頗る長短參差たる觀があるが、尚脈理がよく通つて居るから、瀕死の人の作に擬する爲に、故意に此やうな形態を選んだのかも知れぬ。
 
さにづらふ(左耳通良布) 上記の如くサニヅラフの原義は赤映であるが(第四〇頁)、紅顔の意に轉用(113)して修飾語としたのである。
きみがみことと(君之三言等) ミコトは御言の謂で、トはトテにの意に用ひられたのである。
たまづさの(玉梓乃) 使の枕詞で、語義は第一輯〔三二五八〕に詳説した通りである。
つかひもこねば(使毛不來者)
おもひやむ(憶病) 其を思うて患ふといふ意。
わがみひとつぞ(吾身一曾) 我一人ぞといふに同じい。此場合ヒトツはなくてもよいのであるが、吾身一〔右○〕者君之隨意〔二六九一〕、「我身ひとつ〔三字右○〕はもとの身にして」〔古今〕の如き例もあり、「我身」といふ表現を強めるために添加したのである。新考が一〔右○〕を衍、上句憶の下に西〔右△〕の字脱とし、オモフニシ〔右△〕病メル吾身ゾと訓したのは、助語シが本來ゾと同語で、効用もほゞ同一であることに想ひ到らなかつた爲で、憶フニゾ〔右△〕病メル吾身ゾといへぬと同樣に、シとゾとの重複も避けねばならぬ。
ちはやぶる(千磐破) カミ(神)の枕詞。チ(靈)ハヤ(捷)ブル(振)の謂である。
かみにもなたのみ〔三字右○〕(神爾毛莫負) 莫負の二字は舊訓オホスナとあり、ナオフセ〔考〕、ナオホセ〔略〕とも訓まれて居るが、負の訓はオヒで、オホセ(オフセ)といふ意を表示するには、令の字を冠する必要がある。――第三卷〔三三九〕の酒名乎聖跡負師とある負師も舊訓はオヒシとあるのである――(114)のみならず、之をオホセ(オフセ)としては、次の二句との釣合もとれぬから、恐らくはナタノミと訓み、神にも頼むなといふ意に用ひたのであらう。本集には他に負をタノミと訓した例はないが、字書によれは有所恃也とあるのである。
うらべませ(卜部座) 古義訓による。ウラベは卜を掌る部人の謂であるが、此はウラヨミ(卜占者)の同義語として用ひたのである。マセは四段活のマシ(坐)から分化した下二段活他動詞(原形)で「招待し」といふ意を以て連用法を充當したのである。
かめもなやきそ(龜毛莫燒曾) 龜甲を灼いて占ふ方法即ち龜卜は、本朝固有のものではないが、此當時は既に普く世に行はれて居たのであらう。但し後世に於けるが如く重要な行事とせられたことは言ふまでもない。
こひしくに(戀之久爾) 形容詞コヒシの活用形態コヒシクは助語ニで受ける事が出來ぬので、略解はシクを詞(虚辭の謂か)なりといひ、――卷第七に玉拾之久と言へる之久に同じと説いたが、其シは過去〔二字右○〕助動詞、クは「事」の意であるから、やはりニとつゞけることは出來ぬ――古義は寒久爾《サムケクニ》と同例としたが、然らば集中他にも例があるやうに、戀シケ〔右○〕クといふべきで、シ、キ活用とシ、シキ活用とを同一視することは許されぬ。戀爲來《コヒシク》ノケナガキ我ハ〔二三三四〕、故非之久能オホカル(115)我ハ〔四四七五〕の如く用ひた例もあるけれども、其は準名詞で戀シキコト〔二字右○〕といふ意であるから、此場合とは別である。案ずるに此シクはシキ(重)の終止形で、戀の重なるにといふ意であらう。若し然りとすれば「戀」は名詞として用ひられたのであるから、必ずコヒ〔二字右○〕と唱ふべきで、コホ〔右△〕と改訓したのは〔古義〕〔新考〕不當である。
いたむわがみぞ(痛吾身曾) 略解以下イタキと改訓して居るが、上句の病ムに對立するのであるから、同一形態を用ひイタム〔右○〕と言はねばならぬ。惱ムとほゞ同義である。
いちじろく(伊知白苦) イト(甚)シルク(顯著)の轉呼である。
みにしみとほり(身爾染保里) 染の下に登〔代〕又は等〔考〕の字脱とする説に從ふ。痛が身に浸み込むといふのである。
むらきもの(村肝乃) キモは臓腑の總稱で、ムラギモは其|叢《ムラ》々したもの、即ち腸の謂である。上代人は心を固形物と考へ、下腹部に占位するものと信じて居たから、肝向フ心〔一三五〕とも修飾したので、是も心の枕詞として用ひられたのである。
こころくだけて(心碎而) 右の如く心は固形物とせられたから、其が碎けると生命を失ふものと考へられた。
(116)しなむいのち(將死命)
にはかになりぬ(爾波可爾成奴) カは形容語尾であるから、ニハカの語根はニハで、ニヒ(新)から分化したものと思はれるが、專ら急遽、突然等の意に用ひられる。此も上句と併せて臨終が急に迫つたことを言ふのである。
いまさらに(今更) 此は次句ばかりではなく、末句までかゝるものと了解すべきである。
きみかわをよぶ(君可吾乎喚) 後掲の左注によれば、臨終の床に夫を呼んで來たとあるから、其聲が瀕死の病人の耳に通じて、自分を喚ぶのは我|夫君《キミ》か、今更何とせうといふ意にも解せられぬことはないが、必ずあるべき男の哀傷歌を缺くのみならず、反歌に君ヲ相見ムタドキ知ラズモとある所を見ると、左注の傳は例により後人の附會で、男は遂に來なかつたものと思はれる。末期に近く精神が朦朧として、何かの音を戀人が呼ぶ聲と聞いたことは有り得べきである。但し重病者が即坐に此やうな長い歌を誦したとも考へられぬから、作中の主人公の自詠ではなく、悶死した少婦に代つて、或人が其懷を述べたのであらう。
たらちねの(足千根乃) 枕詞。第一輯〔三二五八〕に用例がある。
ははのみことか(母之御車歟) 上古人名にそへて用ひたミコト(命)も「御事」の意から出たのである(117)が、此當時は既に生人に對しては之を用ひなかつたやうであるから、此は原義によつて敬稱として添へたものとすべきで、今もオンコトといふ形に於て用ひられる。母上樣カ〔三字右○〕といふ程の意であるが、古義及新考が解したやうに、自分を喚ぶのは夫か母かといふ意味としては、後句トニモゾ問フの主語がなくなるから、略解説の如く此句は次につゞくものと了解すべきである。御事歟と毛曾問とは相應せずとする雅澄説の理由薄弱なることは、以下の説明によつて自ら判明する。
ももたらず(百不足) 百に足らぬといふ意を以て八十にいひかけたのである。
やそのちまたに(八十乃衢爾) チマタは道俣即ち道路の交叉點をいひ、多數の路線が集中する場合には、之にヤ(彌)といふ語を冠してヤチマタ(八衢)とも稱へた。ヤソ(八十)のチマタは更に之を誇張したもので、海石榴市《ヅバイチ》ノ八十ノ衢〔二九五一〕〔三一〇一〕などいふ所を見ても、決して多數の交叉點を意味するのではない。
ゆふけにも(夕占爾毛) ユフケは第一輯〔三三一八〕に述べたやうに、夕刻衢頭に於て遭遇又は發見する占兆《ケ》の謂である。
うらにもぞとふ(卜爾毛曾問) ウラはケ(兆)を判斷することで、之を聞くことをウラドヒといひ、其兆がユフケである場合にはユフケトヒ〔七三六〕ともいふので、修辭上此二表現を重ねて用ひた(118)に過ぎず、二句を併せて夕兆にウラドフといふ意味と解すべきである。卜にも問ふぞ〔右○〕といふべきを、ウタニモゾ〔右○〕トフと敍したので、「何故に」といふ語を補うて了解することを要する。之を敢てしたのは母親らしいと考へたから、上句に母ノミコトカ〔右○〕というたのであるが、必しも其事實が存し、若しくは其形跡があつたのではなく、上の君カ吾ヲ喚ブと同じく、瀕死者の幻想を描寫したものと見るべきである。
しぬべきわがゆゑ(應死吾之故) 此は倒敍で、百不足の上に移して心得ることを要する。
〔大意〕紅顔の郎君の仰せと(いうて)使者の來ることもないから、思ひ患ふ自身ぞ。神にも頼むな。卜者を招いて龜(の甲)を灼くにも及ばぬ。戀が重なつて惱む自分ぞよ。(其痛が)著く身に浸み込み心が碎けて、臨終が急に迫つた。今更自分を呼ぶのは郎君《キミ》か。母上であらうか、(何故に)八衢で夕兆に占どひ給ふぞ。死ぬべき自分の故に
 新考は此歌錯誤多しとして、數ケ所に改字改訓を敢てしたが、上記の如く釋明すると、契沖等が指摘した「染」の下の一脱字を補ふだけで、原文に改修を加へずとも、よくわかる歌である。左注に捉はれて之を此女人の自作と解することの非なるは上述の通りで、第三者の賦詠とせねばならぬ。
 
(119)反歌
 
3812 卜部乎毛《ウラベヲモ》 八十乃衢毛《ヤソノチマタモ》 占雖問《ウラドヘド》 君乎相見《キミヲアヒミム》 多時不知毛《タドキシラズモ》
 
〔三八一二〕 うらべをも 八十のちまたも 占どへど 君を相見む たどき知らずも
 
うらべをも(卜部乎毛) 動詞トフ(問)の對象を表示するに、上古助語ヲをも用ひたことは、我ヲ〔右○〕問ハスナ〔仁徳紀〕、逢フヤ少女ヲ〔右○〕道トヘバ〔履中紀〕の如き用例の明示する所で、後世ならば卜部ニ〔右○〕問フといふべきであるが、此歌のやうに卜部ヲ〔右○〕問フともいうたのである。されば乎〔右○〕を爾〔右△〕の誤記とする新考説は無稽といはねばならぬ。
やそのちまたも(八十乃衢毛) 八十ノ衢ノユフケヲ〔五字右○〕モとあるべきを略したのである。其は本歌に用ひてある語句なるが故に、言葉を省いても妨なしとせられたのであらう。
うらどへど(占雖問) 卜部にも夕兆にも列斷を問うたけれどもといふ意。長歌に、占部を招いて龜を灼くなといひ、何故に夕兆《ユフケ》に占どふぞとあるのと抵觸するやうであるが、其は療病の爲の卜占で、此は夫の來否を問ふものであるから、差支なしと作者は考へたのであらう。蓋し此歌が第三者の詠なるが故で、薄命の佳人の自作としては、たとひ新考説のやうに罹病以前のことを敍したものとしても、氣分がそぐはぬから反歌たり得ぬ。古義が之を蘇生の兆なしといふ意に解したの(120)は無理である。
きみをあひみむ(君乎相見) 此アヒは準接頭語で、單に君ヲ見ムといふに同じい。
たどきしらずも(多時不知毛) タドキはタヅキともいひ、道しるべの木であるが、「便」といふ意に轉用せられたので、モは感動詞である。
〔大意〕卜占者にも八衢の夕兆にも占なうたが、君を見る便が知れぬよ
或本反歌曰
 
3813 吾命者《ワガイノチハ》 惜雲不有《ヲシクモアラズ》 散追良布《サニヅラフ》 君爾依而曾《キミニヨリテゾ》 長欲爲《ナガクトホリセシ》
 
〔三八一三〕 吾がいのちは をしくもあらず さにづらふ 君によりてぞ 長くと欲りせし
 
わがいのちは(吾命者)
をしくもあらず(惜雲不有)
さにづらふ(散追良布) 前出
きみによりてぞ(君爾依而曾) 「あなたの故にこそ」といふ意。
ながくとほりせし(長欲爲) 此三字をナガクホリスルと訓した例もあるが〔二四一六〕、此は第二卷(121)の高市皇子の御歌に如此耳故爾《カクノミカラニ》長等思伎〔一五七〕とあると同一語氣であるから、長にトをよみ添へ、頭記の如く誦するを可とする。句末に餘情を含める爲に連體形を用ひたのである。
〔大意〕自分の命は惜くはないが、紅顔の郎君あるによつて、長く(あれ)と希望したよ
 前掲の長歌に對する反歌としては、此方が寧ろ適切のやうに思はれる。以上三首に關しては次のやうな左注があるが、上述の如く理に合はぬ點があるから、後人の附會か、若しくは潤色が加はつたのであらう。
 
右傳云。時有娘子。姓車持氏也。其夫久逕年序。不作往來。于時娘子係戀傷心。沈臥痾※[病垂/尓]。〓羸日異。忽臨泉路。於是遣使喚其夫君來。而乃歔欷流涕。口號斯歌。登時逝歿也
 
右傳へ云ふ。時に娘子あり、姓《カバネ》車持氏なり。其|夫《セ》久しく年序《トシゴロ》を經て、不作往來《ユキカヨハズ》。時に娘子|係戀《コヒシヌ》びて心を傷め、痾※[病垂/尓]《ヤマヒ》に沈み臥し、〓せ羸れ日に異《ケ》にして忽ち泉路《ヨミヂ》に臨む。是に使を遣はして其|夫《セ》の君を喚び來る。而乃《スナハチ》歔欷〔二字左傍線〕して涕を流し、この歌を口號《クチズサ》み、登時《スナハチ》逝歿《ミマカ》りき
 
贈歌一首
 
3814 眞珠者《シラタマハ》 緒絶爲爾伎登《ヲダエシニキト》 聞之故爾《キキシユヱニ》 其緒復貫《ソノヲマタヌキ》 吾玉爾將爲《ワガタマニセム》
 
(122)〔三八一四〕白たまは 緒だえしにきと 聞きし故に その緒またぬき 我が玉にせむ
 
しらたまは(眞珠者) 白玉の謂であるが、古は主として鰒珠〔三三一八〕即ち眞珠の稱呼に用ひたから、此字をあてたのである。
をだえしにきと(緒絶爲爾伎登) 珠玉は緒に貫通して装身具に供することを例としたので、其緒の切斷することをヲダエ(緒絶)と表現したのである。シニキは過去完了で、してしまうたといふ意――此は次の左注に見えるやうに、或男との縁が絶えてしまうたことの譬喩である。
ききしゆゑに(聞之故爾) 故はカラと訓んでも差支はないが、ユヱを不可とすべき理由はないから舊訓を存する。
そのをまたぬき(其緒復貫) ヌキは緒を通すことをいふ。再縁を結びといふ意を寓したのである。
わがたまにせむ(吾玉爾將爲) 緒のきれた珠に再び緒を通して自分のものにしようといふので、女房にしようとの意なることは勿論である。
〔大意〕白珠は緒が斷えてしまうたと聞いたから、其緒を再び通して自分の玉にしよう
 
答歌一首
 
(123)3815 白玉之《シラタマノ》 緒絶者信《ヲダエハマコト》 雖然《シカレドモ》 其緒又貫《ソノヲマタヌキ》 人持去家有《ヒトモチイニケリ》
 
〔三八一五〕 しら珠の をだえはまこと 然れども 其緒またぬき 人もちいにけり
 
しらたまの(白玉之)
をだえはまこと(緒絶者信) 白珠の緒絶は上記の如く絶縁の譬喩で、其は信實であると肯定したのである。
しかれども(雖然)
そのをまたぬき(其緒又貫) 前出
ひとももちいにけり(人持去家有) 舊訓モテ〔右○〕イニケリとあるに從へば持而去といふ意になるが〔第三八頁)、此は取去というても大差はなく、時間的の序次を表示する必要を認めぬから、古義訓の如くモチ〔右○〕イニを可とする。家有の有〔右○〕を略解は里〔右△〕の誤寫とし、後の學者之に從うて居るが、此家はイニケリ〔四字右○〕と誦へしめんが爲に、特に挿入せられた所謂迎假字で、有一字でもケリと訓み得られるのであるが、此場合去有としてはユケリと誤讀せられる虞があるから、之を補うたのである。
〔大意〕白玉の緒が斷えたのは事實であるけれども、其緒を再び通して人が持ち去つた
 
右傳云。時有娘子。夫君見棄。改適(一)他氏也。于時或有壯士。不知改適。此歌贈遣。請誂(二)於女之(124)父母考者。於是父母之意。壯士未聞委曲之旨。乃依〔右△〕彼《(三)》歌報送。以顯改適之縁也
右傳へいふ。時に娘子あり、夫君《ヲヒト》に棄てられて他氏〔二字左傍線〕に改適〔二字左傍線〕す。時に或壯士あり、改適を〔三字左傍線〕知らず此歌を贈り遣はして女の父母に請ひ誂ふといふ。是に父母《チチハハ》の意《オモ》ふに、壯士未だ委曲《ヅバラ》なる旨を聞かずと、乃ち彼の歌を作りて報へ送り、改適の縁《コトノヨシ》を顯はしき
(一)改適他氏は漢文式表現で、適は字書に往也嫁也とあり、入嫁することをいふのであるが、我が上代に於ては結婚は必しも入嫁を條件としなかつたから、ユクといふ語が結婚の意に用ひられた例がないのである。されば強ひて此一句を和訓するとせば、アラタニ〔四字右○〕(アラタメテは非)他氏《アダシヒト》ニアフ〔二字右○〕といふべきであるが、次に改適を準名詞として用ひて居る所を見ると、注者も此四字を音讀したものと思はれる。
(二)誂は既述の如くアトラフと訓まねばならぬ(第一三頁參照)。
(三)依の字は類聚古集・西本願寺本等に「作」とあるを可とする。
 
穗積親王御謌一首
 
3816 家爾有之《イヘニアル》 櫃爾?刺《ヒツニサラサシ》 藏而師《ヲサメテシ》 戀乃奴之《コヒノヤツコノ》 束見懸而《ツカミカカリテ》
 
〔三八一六〕家にある〔二字右○〕 ひつにさらさし をさめてし 戀のやつこの つかみかかりて
 
右歌一首。穗積親王宴飲之日。酒酣之時。好誦斯歌。以爲恒賞也
(125)右の歌|一首《ヒトツ》は、穗積親王《ホヅミノミコ》宴飲《ウタゲ》の日、酒酣なる時、好みて斯の歌を誦《ズ》して恒の賞《メデ》としたまひき
 
いへにある(家爾有之) 舊訓イヘニアリシ〔右○〕とあるが、此は過去時格を以て表現することを許さぬ場合であるから、「之」は前續語が連體法に用ひられたことを表示する助字を見るべきで、本集には用例がないが、記にはタダヨヘルトキを多陀用弊琉之〔右○〕時と表記してあり、紀にも我所生之〔右○〕國をウメルクニと訓する等、其例が少くはないから、――引擧《ヒキアグ》之〔右○〕、饗《ミアヘス》之〔右○〕等の之は終止法表示で、現代に於てもカクを書之、エガクを畫之と表記して、書又は畫といふ名詞と區別することがある――決して不當の用字ではない。新考が之〔右○〕を也〔右△〕の誤記として、イヘナルヤと訓したのは一理はあるけれど、我々は出來る限り原文を改修せずに、解讀することを努めねばならぬ。
ひつにさら〔二字傍点〕さし(櫃爾?刺) 櫃は和名抄に比豆と訓し、向上開闔器也とあり、被蓋のある木箱の謂であるが、之をヒツと稱へたのは、ハチ(鉢)と同じく梵語パトラ Patra の轉訛とすべきで、さればこそオヒツ〔二字右○〕即ちメシビツ(飯櫃)を關東ではオハチ〔二字右○〕と稱へるのである。?は鎖に同じく、クサリの外に錠を意味するが、――和名抄に藏乃賀岐と訓した?〔右○〕子は、錠を開閉する器の謂で、母體即ち?そのものと區別する爲に子〔右○〕の字をそへたのである――舊訓の如く之をサラ〔二字右○〕と稱へたとすればヂヤウといふ字音(韓音※[ハングルでチョン。ヂャウの音に近い])を用ひる以前には、此名を以て呼ばれたからであらう。今も雨戸の枢(126)機をサルといひ、之を装著した戸をサルドと稱へるのは其名殘ではあるまいか。ヰロリ(爐)の自在|鉤《カギ》の鑰をもサルといふ所を見ると、恐らくは朝鮮語|※[ハングルでサムル]《サムル》(?)と同語であらう。先學之を察せず誤訓と速斷して、拾穗抄は字音によつてサウと訓み、略解は防人歌に久留爾久枳作之〔四三九〇〕とあるを例證としてクギと改訓した。其他カギとよんだものもあるが〔考〕、?は鎖の俗字であるから、其音はサで(朝鮮音※[ハングルでサ])、サウとは發音せず、クギには釘といふ字があるのに〔和〕、縁の遠い?の字を借りて用ひた筈はなく、カギは?子〔右○〕で、?そのものゝ謂にあらざることは上述の通りである。されは舊訓を復活させることが必要で、サウサシは錠をおろしといふことである。
をさめてし(藏而師) をさめて〔右○〕あつたといふ意である。ヲサメシ(藏めた)若しくはヲサメニシ即ち「藏めてしまうた」との相違に留意すべきである。
こひのやつこの(戀乃奴之) ヤツコは家ツ子即ち家隷《ケライ》の謂であるが、轉じて目下のものゝ稱呼にも用ひられ、記の出雲傳説にもスサノヲの命が大國主神に對ひ、是奴《コノヤツコ》というたとある。此は戀を人格化して蔑んだのである。
つかみかかりて(束見懸而) ツカミはツカ(拳)の活用形態で、把握することをいひ、其行爲に著手するといふ意を以てカカリといふ動詞をそへたので、目的は示されて居らぬが、自身をといふ意(127)なることは勿論であ。――口語のツカミカカル又はツカミアフ等のツカミは轉義で、格闘を意味する自動詞である――句末のテはテアリと同じく、前輯〔三五三八〕に詳論したやうに、述語として用ひられたのである。
〔大意〕家にある櫃に錠をおろして藏めてあつた戀の奴が(自身を)捉へかゝつて居る
 さしたる名歌とも思はれぬが、左注の如く此皇子が愛吟せられたとすれば、其ころ何ものかを櫃に入れて錠をおろして置いたのに拔け出したといふやうな筋の物語でも行はれて居たのではないかと想像せられる。其を巧に利用した外に、ヒツ及サラなどいふ當時の新流行語を取り入れたことも亦御自慢の種であつたのであらう。
 
3817 可流羽須波《カルウスハ》 田廬乃毛等爾《タブセノモトニ》 吾兄子者《ワガセコハ》 二布夫爾咲而《ニフブニヱミテ》 立麻爲所見《タチマセルミユ》【[田廬者多夫世反】
 
〔三八−七〕 かるうすは 田ぶせのもとに 吾がせこは にふぶにゑみて 立ちませる見ゆ
 
かるうすは(可流羽須波) 舊訓カルハスとあるが、他の四字は皆音符であるから、羽だけが訓假字とは考へられず、又カルハスといふ名の品物も思ひあたらぬ。されば先學はカルウスとよみ、柄《カラ》臼を意味するカラ〔右○〕ウスの轉訛としたが、尚一考を要するものがある。和名抄に碓の字をあてたカ(128)ラウスは踏舂具也とあるから、足踏臼を意味するものゝやうで、後掲乞食者の歌にサヒヅルヤ辛碓爾舂とあるのも楡の皮を擣碎するに用ひたのであるから、之をいふのであらうが、一時的の假小舍なる田廬に装備したとは考へられぬから、別にカルウスと稱するものがあつたとせねばならぬ。案ずるに字鏡に加良宇須と訓した磑〔右○〕は、籾|磨《スリ》臼のことであるから、穀臼の謂とすべきで、今も相模地方では此名稱を用ひ、之と區別する爲に足踏臼は特にヂカラ(地カラ臼の略)と稱へる。磑は石造を意味するのであるが、脱穀用のカラウスには材料を限定する必要はないから、田廬にも持出すことの出來る輕便なものもあつたのであらう。新考はカルウスハを主語としては、其かかりつく所なしとの理由の下に、波〔右○〕を伎〔右△〕の誤としてカルウスキと訓み、輕薄なるといふ意を以て田廬の屬格(屬性表示の謂か)と見ざるべからずと説いたが、假にカルウスシといふ複合形容語が存立し得るとしても、ウスキは廬の修飾には不適當であるのみならず、フセ屋の軒は男子の立つことを許すほど高くはなかつた筈であるから、其下に立つて居たのは臼であらねばならぬ。
たぶせのもとに(田廬乃毛等爾) 分註のない本もあるが、假に其は後人の記入としても、此田廬はタブセと訓むの外はあるまい。フセはフセ屋〔四三一〕又はフセ廬〔八九二〕の略稱で、フシ(柴)を以て屋壁を葺いた假屋即ちフシ屋の轉訛である。秋の收穫時には、遠くに在る田まで往來する時間(129)を節約するために、假小舍ずまひすることが多かつたと見えて、天智天皇の御製には「秋の田のかりほの廬の」とあり〔後撰〕、本集にも秋田刈借廬といふ句が?々用ひられて居る〔一五五六〕〔二一〇〇〕〔二一七四〕〔二二四八〕。
わがせこは(吾兄子者) ワガセコはワギモコ(吾妹子)に對立し、婦人が親みを以て男子を呼稱する語である〔三二八〇〕。
にふぶにゑみて(二布夫爾咲而) ニフブはニフの疊尾語で、ニフは恐らくはニホヒ(匂)の語幹ニホ(第四二頁)の轉呼であらう。疊合は副詞形を作る一樣式であるから、――カルガルの如きは其一例である――此も匂ヤカニ咲ミテといふ意と了解せられる。
たちませるみゆ(立麻爲所見) 略解以下タチマセリ〔右○〕と改訓して居る。其は終止形アリから連體形アルが分立しなかつた時代の古い語法の名殘で、集中にも?々用ひられて居るが、此ころにはマセルといふ形態も既に儼存したのであるから、必ずマセリ見ユと唱へねばならぬとするのは偏狹である。作者自身は何と吟誦したか不明であるが、其場合には舊訓を尊重するのが妥當であると信ずる。立つて居られるのが見えるといふことである。
〔大意〕カル臼(殻臼)は稻刈小屋の軒下に(立つて居る)。あの御方は匂やかに微咲して立つてござるの(130)が見える
 此は第十卷に「秋田かる假廬をつくりいほりして在るらむ君を見むよしもがも」〔二二四八〕とあると、同じやうな場面で、或る美男が秋田刈のため假小舍ずまひして居ると聞いて、垣間見に往つた少女が殻臼があんな處に置いてあるなどゝ取りつくらうて近寄つた光景を詠じたのである。左注に河村王が之を愛誦したとあるのは、此趣をおもしろがつた爲であらねばならぬ。
 
3818 朝霞《アサガスミ》 香火屋之下乃《カヒヤガシタノ》 鳴川津《ナクカハヅ》 之努比管有當《シヌビツツアリト》 將告兒毛欲得《ツゲムコモガモ》
 
〔三八一八〕あさがすみ 峽谷《カヒヤ》が下の なくかはづ しぬびつつありと 告げむ兒もがも
右歌二首。)河村王宴居之時。彈琴而即先誦此歌。以爲常行也
右の歌|二首《フタツ》は、河村王|宴居《ウタゲ》の時、琴を彈きて即ち先づ此歌を誦《ズ》す。以て常の行《ワザ》と爲しき
 
あさがすみ(朝霞) 次句カヒヤの潤飾的枕詞で、朝霞のかゝる峽谷といふ意であらう。第十卷にも用例がある〔二二六五〕。
かひやがしたの(香火屋之下乃) カヒヤについては色々の説があるが、私は峽谷の謂と信ずる。顯昭の袖中抄第一卷に「登蓮法師云、ひたちの國の風土記に、あさくひろきをば澤といふ。ふかく(131)せばきをかひや〔三字右○〕といふと見えたりと申し侍りしかど、彼風土記未v見ばおぼつかなし(古風土記逸文による)とあるのも、峽谷の意から深谿の稱呼となつたものと思はれる。其義とすれば此歌も第十卷のもよく判るのである。シタ(下)は下方即ち谿底を意味し、句末の乃〔右○〕は舊訓ニ〔右○〕とあるにより、略解以下尓〔右△〕の誤記として居るが、原文に從うてノと訓むを可とする。第十卷の歌に鹿火屋之下爾〔右○〕鳴蝦とあるのは下の句が全然相違して居るのであるから、準據すべきものではなく、峽谷ガ下ノ(下ナルといふに同じい)カハヅというても意はよく通ずるのである。
なくかはづ(鳴川津) カハヅの原語原義はカハ(河)チ〔右○〕(靈)で、――秋の靈といふ意を以て蜻蛉をアキヅと稱へるのと類を同じうする〔三二五〇〕――水の精をいふのであるが、蛙類の稱呼に轉用せられたのである。集中に詠まれたカハヅは、蝦又は河蝦の字をあてた例もあるが、必しも蝦蟇の謂ではなく、よく鳴くものとせられ、妻喚ブ〔九二〇〕〔二一六五〕とも詠まれて居るから、今カジカ(河鹿)とよばれる種類(赤蛙科)のことゝ思はれる。――以上三句は比況で、深い谿谷のカハヅは其聲が幽であるから、其のやうにシヌビと續けたのである。
しぬびつつありと(之努比管有常) 竊に思慕して居るとといふ意。之をカハヅの聲を賞でつゝありの謂とした古義説は、第二句カヒヤといふ語の誤釋にもとづくものであるが、シヌビには賞の義(132)はない。
つげむこもがも(將告兒毛欲得) 欲得の二字は舊訓ガナとあるが、本集にはガナと假字書した例は一つもないから、當時いまだ此形態は出現しなかつたものとせねばならぬ。コは?々述べたやうに女子の謂で、こゝでは意中の人を意味し、逢うたら思慕の切なることを告げようものをと、逢ひたいナアといふ氣持を乞望の意の感動詞ガモに寓したので、第十卷に春風ニ亂レヌイ間ニ見セム子裳欲得〔四字右○〕〔一八五一〕とあると同用例に屬する。
〔大意〕朝霞のかゝつた峽谷の下の鳴くカハヅのやうに、偲び偲んで居ると告げようと思ふあの兒に逢ひたや
 河村王の名は績紀寶龜八年から延暦九年までの間に散見するが、備後守從五位上を終見とするから、餘り身分の高くない諸王であつたのであらう。第十卷の歌の下句に聲ダニ聞カバ吾戀メヤモとあるのを改めて、全く異つた所懷を表現した技巧が、此王の興味をひきつけたのであらう。
 
3819 暮立之《ユフダチノ》 雨打零者《アメウチフレバ》 春日野之《カスガノノ》 草花之末乃《ヲバナガウレノ》 白露於母保遊《シラツユオモホユ》
 
〔三八一九〕夕だちの 雨うちふれば 春日野の をばながうれの 白露おもほゆ
 
(133)ゆふだちの(暮立之) ユフダチは此歌及之が再録と思はれる第十卷〔二一六九〕の歌に見えるのみであるから、比較的新しく生まれた表現であらうと思はれる。タチは恐らくは常陸風土記に立雨零行方《タツサメフルナメカタ》之國とある立〔右○〕と同語で、イヅミ(出水)即ち涌泉に對して雨水をタツミ(立水)とも稱へたやうであるから、降雨をタツといひ、夕刻に降る驟雨の意を以て夕立之雨と表現したのであるかも知れぬ。今ユフダチとのみ稱へるのは、シグレの雨を單にシグレといふと同樣の略語で、夏日に最も多く起る現象であるから、その季節の驟雨を意味するものと了解せられるやうになつたけれども、此歌によれば本初は必しも夏の雨と限られて居なかつたのである。
あめうちふれば(雨打零者) ウチは接頭語で、「打」の義は失はれたけれども、尚語勢を強める効力があるから、夕立の雨に對してウチフルというたのは、適はしく感ぜられる。
かすがのの(春日野之) カスガは奈良の都の一地區で、古來著名な地であるが、此ころは茅の生ひ茂つた野原であつたのであらう。
をばながうれの(草花之末乃) 草はカヤとも訓み、茅の穗の尾のやうなのをヲバナと稱へるから、草花の二字をヲバナと訓ませたので、集中第八卷及第十卷にも書例がある。末は舊訓スヱとあるが、此歌は第十卷にも掲載せられ、尾花之上乃とあり〔二一六九〕、ウヘとウレとは音が近く、い(134)づれを原歌としても有り得べき轉訛であるから、略解に從ひウレと訓むを可とする。
しらつゆおもほゆ(白露於母保遊) 白露が思ひやられるといふ意。
〔大意〕夕立の雨が降ると、春日野の尾花の末の白露が思ひやられる
 驟雨が通りすぎて、尾花の上に殘つた露の白玉が夕日に燦めいて居るのは、美しい眺には相違ないが、夕立から直に其光景を聯想したことゝいひ、尾花は到所にあるものであるにも拘はらず、特に春日野と指定した所を見ると、此歌の作者は曾て其地に於て、尾花の上に白露の宿つた實景を目撃し、深く感興にうたれたことがあつたか、或は春日野の尾花に何か寓意があるのかも知れぬ。これは作者以外にはよく判らぬことであるから、小鯛王が好んで此歌を吟誦したといふ左注が事實であるとすれば、同人の自作ではあるまいか。上述のやうに第十卷にも暮立之雨落毎【一云打零者】春日野之尾花之上乃白露所念として收録せられて居るが、其故を以て小鯛王が之を傳誦したものと斷定することは出來ぬ。
 
3820 夕附日《ユフツクヒ》 指哉河邊爾《サスヤカハベニ》 構屋之《ツクルヤノ》 形乎宜美《カタヲヨロシミ》 諸所因來《ウベゾヨリコシ》
 
〔三八二〇〕 ゆふつくひ さすや河邊に つくるやの 形をよろしみ うべぞ寄り來し
 
右歌二首。小鯛王宴居之日。取琴登時。必先吟詠此歌也。其小鯛王者。更名置始多久美斯人也
(135)右の歌|二首《フタツ》。小鯛王|宴居《ウタゲ》の日、琴を取るすなはち必ず先づ此歌を吟詠しき。其小鯛王は名を置始の多久美と更へし斯《ソ》の人也。
 
ゆふつくひ(夕附日) 夕附〔右○〕日に對して朝月〔右○〕日といふ用例もあるが〔七卷〕〔十一卷〕、附及月を字の義としては意をなさず、且朝の月、夕の月を朝ツクヨ〔右○〕、夕ツクヨ〔右○〕と表現した例も多いから、ツクヨはツキ(太陰)と同義語とすべく、從つてヒ(太陽)をツクヒとも稱へたものとせねばならぬ。案ずるにツクはツクリ(作)の語幹であるから、昼間《ヒル》を作り、夜間《ヨル》を作るといふ意を以て命名せられたのであらう。ヒには火の義もあるから、日輪をヒと稱へたのは古言であらうが、月輪をツキといふのは、寧ろツクヨの略言ではあるまいか。月神の名を月讀尊といふのも〔紀〕、ツクヨ(太陰)ミミ(御身)の意と思はれる。されば此ユフツクヒも亦夕陽をいふものと解すべきである。
さすやかはべに(指哉河邊爾) ヤは間投詞で、夕陽の射《サ》す川邊にといふ意。實景を其まゝ次句の修飾に用ひたのである。
つくるやの(構屋之) 構を舊訓の如くツクルと唱へたとすれば、不定時格なるが故に、一般的叙述か、然らずば即今尚構築中とせねばならぬが、此は實景を詠じたものゝやうであるから、後者の見解をとるべきである。
(136)かたをよろしみ(形乎宜美) 拾穗抄の第二訓による。家の恰好がよいと思うてといふ意であるが、之は次句に因來とあるやうに、新築中の家に近寄る口實に過ぎず、恐らくは其家に美しい娘が居るのを見に來たのであらうが、露骨にさうもいへぬから、結構な御普請ですから拜見に出ましたとごまかしたのであらう。
うべぞよりこし〔右○〕(諸所因來) 舊訓シカゾヨリクルとあるが、諸は本集には常にウベ(又はヲ)と訓ませてあり、紀の舊訓もウベ(又はウメ)であるから、契沖に從ひウベゾと改訓すべきである。句末の來は歌意から推すとコシであらねばならぬ。コシ(來《キ》の過去形)を來一字を以て表示した例は、本集には極めて多い。其故に寄つて來たぞといふ意である。
〔大意〕夕日のさす河邊に作つて居る家の形がよいので(自分は)寄つて來たぞ
 此は上掲の「カル臼はたぶせの下に」〔三八一七〕又は第十二卷の「足ひきの山より出づる月待つと人にはいひて妹まつ吾を」〔三〇〇二〕とほゞ趣を同じうするもので、小鯛王の自作か或は他人の作か判明せぬが、情趣のある歌であるから愛誦したのであらう。小鯛王の名は史書には見えぬが、新考が指摘したやうに、持統天皇七年の紀に典鎰置始〔二字右○〕多久與2菟野大伴1亦坐v贓降2位一階1……然置始多久有v勤2勞於壬申年之役1之、故赦v之とある多久と同人のやうで、罪を得たが故に臣籍に下され、此姓名を賜(137)はつたのではあるまいか。其やうな事例は此後にも少くはなかつたやうである。置始は借字で、大木曾部の謂らしく、――本集第十三卷にも大木曾を奧十または奧磯と表記した例がある〔三二四二〕――タク(手工)またはタクミ(匠)といふ名も由縁があるやうである。紀及本集には置始連〔右○〕といふ姓が見えるが、皇別に連姓を賜はることはないから、恐らくは別氏であらう。之に反し靈異記中卷に奈良の富の尼寺の上座尼法邇の女置染臣〔右○〕鯛女とある女性は、此多久美の家族の一員であるかも知れぬ。鯛といふ語を名としたのも小鯛王と縁故があるやうに思はれる。
 
兒部女王|嗤《アザケリ》歌一首
 
3821 美麗物《ウマシモノ》 何所不飽矣《ナニゾアカジヲ》 坂門等之《サカトラシ》 角乃布久禮爾《ツヌノフクレニ》 四具比相爾計六《シグヒアヒニケム》
 
〔三八二一〕 うましもの 何ぞ〔二字右○〕あかじを さかとらし 角《ツヌ》のふくれに しぐひあひにけむ
 
右時有娘子。姓尺度氏(一)也。此娘子不聽高姓美人(二)之所誂。應許下姓?(三)士之所誂也。於是兒部女王裁作此歌。嗤咲彼愚也
右、時に娘子あり。姓〔左傍線〕|尺度《サカト》氏なり。此娘子高き姓《ウヂ》の美人《ウマヒト》の誂《アトラ》へるに聽《ア》はずて、下《ヒキ》き姓の?士〔二字左傍線〕の誂へるに應へ許しき。ここに兒部の女王《オホギミ》この歌を裁作《ツク》りて、彼《ソ》の愚なるを嗤《アザケ》り咲ひき
 
(138)(一)尺度は借字で、歌詞に坂門とあるやうに、本集第一卷に見えた坂門人足〔五四〕等と族を同じうし、坂戸造〔舊〕の後裔であらう。
(二)美人は新訓の如くウマヒトに充てられたので、ウマヒトは本集第二卷〔九六〕にも見え、「良い人」といふほどの意に用ひられたのである。
(三)?は醜の變體。
 この左注は後述の如く聊か誇張がある所を見ると、恐らくは題詞と歌意とによつて後人が追補したのであらう。
うましもの(美麗物) 略解に從ふ。舊訓はヨキモノノとあり、クハシモノと改訓したものもあるが〔新考〕、助語ノは次句によれば蛇足であり、クハシは精妙の意で、美麗の訓には不適當であるから、紀にウマシを可美と表記した例に準じ、麗は補意的贅字と見るを可とする。但し良キ物といふ意ではなく、美味物の義なることは、次に不飽とあるによつても明白である。
なにぞ〔三字右○〕あかじを(何所不飽矣) 不飽矣は古義にアカジヲと訓したのが當を得て居るやうである。アカザラムヲといふに同じく、飽くまいものをといふ意で、反接的表現である。從つて所の字も前の歌の諾所〔右○〕に準じ、ゾの假字としてナニゾと唱へたのであらう。舊訓のナゾモ(ナニゾモの連約)(139)もほゞ同意ではあるが、モを添へて訓むべき理由がない。字義によつて何所をイヅク〔代〕又はイヅコ〔考〕とよみ得られぬこともないが、ニモといふ助語をそへぬと、不飽矣とつゞかぬやうに思はれる。此は何ゾ飽カム否飽カジヲといふべきを省略したのである。
さかとらし〔右○〕(坂門等之) サカトが嗤咲の相手の氏名なることは左注の通りで、ラは憶良等〔右○〕者〔三三七〕と同一用例に屬し、虚辭的接尾語である〔第一〇三頁〕。之の字は從來ガと訓まれて居るが、是は上の反接條件に對し、坂門コソハと強く指定せねばならぬ場合であるから、當然シの假字として用ひられたのであらう。
つぬのふくれに(角乃布久禮爾) ツヌ(角)は新考説の如く坂門氏の女が夫とした人の氏名であらねばならぬ。本集第八卷にも角朝臣|廣辨《ヒロベ》といふ名が見え、若し之と同族とすれば、皇別であるから決して下姓とはいへぬが、注記者が戯に之を貶したのであらう。フクレが膨の意なることは勿論で、肥大漢であつたかも知れねが、フクレといふ實名の人であつたが故に、膨にいひかけて揶揄したものとも了解せられる。左注の如くば惡罵に近く、餘りはしたないやうで、女王とも呼ばれる身分の人の歌とも思はれない。
しぐひあひにけむ(四具比相爾計六) シグヒといふ語は他に用例がないが、シは緊密の意の原語、(140)クヒは噛の義から轉じて嵌合の謂にも用ひられるから、緊密に嵌合するといふ意を以て、意氣投合をシグヒと表現したことは有り得る。今もソグヒ(副)といふ形に於て用ひられ、ソクヒ(飯糊)シツクヒ(漆喰)といふ語も之から出たものゝやうである。四〔右○〕を田〔右△〕の誤寫としてタグヒと訓したものもあるが〔新考〕、尚輕率には改められぬ。
〔大意〕味いものは何ぞ(飽かうや)、飽くまいものを、坂門(の女子)は角(氏)のフクレに配偶したのであらうか。
 
古歌曰
 
3822 橘《タチバナノ》 寺之長屋爾《テラノナガヤニ》 吾率宿之《ワガヰネシ》 童女波奈理波《ウナヰハナリハ》髪上都良武可《カミアゲツラムカ》
 
〔三八二二〕 たちばなの 寺のなが屋に わがゐ寢し うなゐはなりは 髪あげつらむか
 
たちばなの(橘) タチバナは大和國高市郡の一舊地名で、允恭天皇の皇女橘大郎女〔記〕以下、之を稱號に用ひられた皇族も多く、蘇我氏一族もこゝに占住したものゝやうで、今も同郡高市村の大字として殘つて居る。
てらのながやに(寺之長屋爾) 橘寺は上宮太子の創設と傳へられる菩提寺のことで、今佛頭山上宮(141)院と稱する。天武紀九年に橘寺尼房失火以焚2十房1とあるから、此ころは尼院であつたらしく、長屋は其附屬建築物をいふのであらう。現代語のナガヤと同樣に、多くの房室に劃した棟の長い建築の稱に用ひられたことはあり得べきである。
わがゐねし(吾率宿之) ヰネは女性を率ゐて寢ること即ち同衾を意味し、神代紀(記)の彦火火出見尊の和歌にも用例がある。寺の長屋に女を引こんで寢たといふのは、甚不謹慎なことで、後記の如く椎野連長年が不審したのも尤であるが、上代の尼院の綱紀はさのみ嚴肅ではなく、契沖も指摘したやうに、境部《サカベ》臣摩理勢の長子毛津は、尼寺に潜伏中一二の尼僧と通じたので、他のものゝ嫉妬により告發せられ、畝火山に於て自盡したことが、舒明紀に記録せられて居り、高市皇子の御外祖母※[匈/月]形君徳善及上掲置染臣鯛女の母法邇の如く、子持の尼も少くはなかつたのであるから、參詣の少年少女が戀に落ち、空房で密會したとしても、決して有り得ぬことではなく、或は尼僧若しくは奴婢などが媒介したのであるかも知れぬ。
うなゐはなりは(童女波奈理波) ウナヰは上記の如く髫髪(?)の謂で(第三四頁)、ハナリは放髪の意であるから、此兩語をあはぜて年少の女性をいふものと解すべく、老女は借字である。
かみあげつらむか(髪上都良武可) 神代紀に結〔右○〕髪をカミヲアグ〔二字右○〕と訓してあり、景行紀にも椎結〔右○〕に同(142)訓を與へ、今も髪をアゲルといふから、此カミアゲが結髪の謂なることは疑がない。天武天皇八年の紀に自今以後男女盡結髪とあるのは、勿論成人についていふのであるから、此も益々髪がのぴて上げるほど年が長けたらうといふ意で、後掲椎野連の説にも著冠(元服の謂)とあるのであるが、或はカミアゲ(結髪)といふ語に、既に人妻となつたといふ意が含まれて居るのかも知れぬ。 此は年少のころ情交のあつた婦人に對し、或機會に詠み贈つた歌であらう。
〔大意〕橘寺の長屋に連れ込んで寢た(ことのある)童髪の少女は結髪したであらうか
 
 石歌椎野連(一)長年脉〔右△〕曰(二)。夫寺家之屋者。不有俗人寢處。亦?若冠女曰放髪仆〔右△〕矣(三)。然則腹句已云放髪仆〔右△〕者。尾句不可重云著冠之辭哉
   決曰(四)
橘之 光有長屋爾 吾率宿之 宇奈爲放爾 髪擧都良武香 3823
 
 右の歌、椎野連長年の説〔右○〕に曰はく、夫《ソレ》寺家《テラ》の屋《イヘ》は俗人《ヨノヒト》の寢る處にあらず。亦いふ。若冠〔二字左傍線〕の女を放髪丱〔三字左傍線〕といふ。然らば則ち腹句〔二字左傍線〕に已に放髪丱〔三字左傍線〕といへば、尾句に重ねて著冠の辭《コトバ》をいふ可からざるか
   決して曰ふ
(143)たちばなの 光れる長屋に 吾がゐねし うなゐはなりに 髪あげつらむか〔三八二三〕
 (一)椎野連といふ姓については他に所見がなく、新撰姓氏録(嵯峨天皇弘仁五年萬多親王上)にも擧げられて居らぬから、若し同書編纂以前から存する舊姓とすれば、誤傳又は誤記とせねばならぬ。野〔右○〕を助語ノにあてた假字として、志斐連または中臣志斐連をいふものとも推測し得られぬことはないが、本集以後の人なることは疑なく、既に文字に重きを置くやうになつた時代に屬するから、猥に姓氏の用字を變吏したとも考へられず、或は弘仁以後に賜はつた新姓であるかも知れぬ。若し然りとすれば此左注は上掲の諸傳と同じく、後人の手になつたもので、長年は注記者とほゞ時代を同じうした人ではあるまいか。いづれにしても此注は、既に契沖阿閣梨も難じたやうに、荒唐無稽で、學識のすぐれた人物ではなかつたやうである。
 (二)脉〔右△〕は拾穗本に説〔右○〕とあるを可とする。
 (三)放の字は歌にもハナリと訓ませてあり、之に髪をそへるとハナリのカミで、本集第七卷にも用例がある。又仆〔右△〕は官本に丱〔右○〕とあるといふことであり〔略〕、西本願寺本に艸と書かれて居る所を見ると、丱の誤寫なることは疑なく、童丱(子ドモの謂)の如くも用ひられるから、強ひて和訓を施すとせば、略解説の如く三字を併はせてウナヰハナリとでもいふのであらうが、筆者は音讀させるつもりであつたのであらう。但し之を若冠(弱冠)女の稱なりとしたのは長年の誤解である。
 (四)古義によれば、古寫小本及落穗本には改曰とあるといふことであるが、決定の意とすれば決とあつても意は通ずる。之を決定したのは椎野連か、或は左注の筆者であつたか判明せぬが、いづれにしても妄斷である。
(144) 歌は原傳とは聊か表記を異にするだけで、實質的には第二句の寺之〔二字右○〕を光有〔二字右△〕、第四句末の助語ハ〔右○〕(波)をニ〔右△〕(爾)に改めたのみであるが、意味の上には大なる相違を來した。恐らくは本初は此やうに誦せられたといふのであらうが、假にナガヤといふ建築樣式が、當時|在家《ザイケ》にも用ひられて居たとしても、橘(子)のテレルといふ修飾に適するものであつたとは考へられぬ。第四第五句も不當で、此ではハナリが結髪の一樣式であるかのやうに聞えるが、それは語義上あり得ぬことである。要するに後人の邪説で、寧ろ改惡といはねばならぬ――仙覺本に此歌を本文としたのは誤で、左注の一部分である。
 
長忌寸意吉麻呂歌八首
 
長忌寸姓についても、意吉麻呂の官歴についても所見がないが、本集第一・第二・第三及第九卷にも同人の作六首をのせて居り、持統−文武朝の歌人であつたことは疑がない。第八卷に掲げた天平十年橘宿禰奈良麻呂集宴の歌の一作者に長忌寸娘とあるのは、恐らくは同人の女であらう。集中には奧麿・意吉麿または奧麻呂とも記されて居る。
 
3824 刺名倍爾《サスナベニ》 湯和可世子等《ユワカセコドモ》 櫟津乃《イチヒヅノ》 檜橋從來《ヒバシヨリコム》許武〔二字右▲〕 狐爾安牟佐武《キツニアムサム》
 
〔三八二四〕さすなべに 湯わかせ子ども いちひ津の 檜橋より來む きつにあむさむ
(145)右一首傳云。一時衆集宴飲也。於時夜漏三更。所聞狐聲。爾乃衆諸誘奧麿曰。關此饌具雜器狐聲河橋等物。但作歌者。即應聲作此歌也
右の一首は傳へいふ。一時《アルトキ》衆《モロヒト》集ひて宴飲《ウタゲ》しき。時に夜漏三更〔四字左傍線〕狐の聲聞こゆ。衆諸《モロモロ》奧麿を誘《サソ》ひて曰はく、此饌具〔二字左傍線〕、雜器〔二字左傍線〕、狐聲〔二字左傍線〕、河橋〔二字左傍線〕等《ナド》の物に關《カ》けて但《タダ》歌を作れといふ。即ち聲に應じて此歌を作りき
(一)饌具ノ雜器とよみ、歌のサス鍋の謂とすべしといふ新考説は一應尤であるが、他が皆二字を以て表現せられて居るのに、此だけは四字を用ひることは均衡を失するから、饌具と雜器との二物とすべきである。具は必しも器具のみをいふのでないから、歌の湯を意味したものと思はれる。
 
さすなべに(刺名倍爾) 和名抄には辨色立成を引いて銚子を左之〔二字右○〕奈閇と訓し、俗に佐須〔二字右○〕奈閇と云ふとあり、字鏡にも鍋及※[金+奄]にこの訓を與へて居る。銚・鍋・※[金+奄]はいづれも物を煖める器であるが、サシ又はサスといふ語を以て表示した理由は未だ説明せられて居らぬ。白石が注《ツ》ぐ道のある器なりと推斷してから、諸説多くは之に從うて居るのは、水をサス、油をサスの如く、注の意をサスといふに因るものゝやうであるが、然らばサシケ〔右○〕又はサスケ〔右○〕とでも稱ふべきで、ナベは注器の呼稱には不適當である。假に當時片口〔右○〕状の鍋が存したとしても、注道即ちサシクチ〔二字右○〕をサシとのみ表現(146)することは出來ぬ。案ずるに此も上掲サラ(?)と同じく此時代の新語で、サシは金屬を意味する朝鮮語のソイ(※[ハングルでソイ])の轉呼ではあるまいか。ソイがサイと發音せられ、更に類化によつてサシ〔右○〕となり、サスとも變化したことは有り得べきである。若し然りとすれば金屬製の鍋の謂で、ナベは本來|土瓮《ナヘ》の義であるから、和名抄が鍋をカナナヘと訓したのはやゝ後世の名稱で、正しくはカナヘ(金瓮)といふべきであるが、此名は既に釜に與へられたので〔和〕、之と區別する爲に故意に外來語をかりてサシ(金)ナ(之)ヘ(瓮)と稱へたのであらう。刺は勿論借字で、舊訓サスとあるのを、契沖は和名抄によつてサシと改め、雅澄は新撰字鏡に基いてサスを古しとし、新考は之を注器なりとする豫斷の下に、サシナベならざる可からずと主張したが、原義に觸れざる論諍は無用の業で、此やうな場合には舊訓に從ふことを妥當とする。
ゆわかせこども(湯和可世子等) このコドモ(子供)はワラハと同じく、僮即ちボーイの意に用ひられ、湯沸かせといふ命令を受けたものを指したのである。
いちひづの(櫟津乃) 大和國添上郡に今も櫟本町大字櫟之本といふ地があり、大字和爾に隣して居る。應神天皇の御製に見えるイチヒヰもワニ〔二字右○〕サの土《ニ》とつゞけであるから〔記〕、此處に存したものとすべきで、和邇部氏と同祖に櫟井朝臣といふ氏もあるが、イチヒヰは本來榎井・櫻井・藤井と同(147)じく、井邊に生ひた樹木によつて名を負うたものであるから、イチヒ津〔右○〕は必しも之と同地ではなく、此木の生ひた或河津を意味するのかも知れぬ。所在は詳でないが、少くとも和邇附近には津と名づくべき地形はない。
ひはしよりこむ(檜橋從來許武〔二字右▲〕) 許の字は過剰であるが、其が?入したわけは、原文に在つては來一字だけでコムと訓ませたのを、クルと誤讀する虞ありとして、後人が許武と旁書したのが紛れ込んだものと思はれる。されば許〔右▲〕の字のみならず、武〔右▲〕も亦衍とすべきで、類聚古集には二字共除かれて居る。來一字をコムと訓ませた例は第十三卷〔三三三七〕にもあり、其他集中所々に散見する。ヒバシは檜材をかけ渡した橋の謂で、此木の幹は往々長さ十餘丈に達するから、幅二三十米の川ならば、一材を以て岸から岸に架することが可能であり、然らざるも橋杙を節約することが出來るから、架橋工事の幼稚であつた上代に於ては、好んで之を用ひたのであらう。勿論丸木をかけ並べたもので、檜の橋坂を桁の上にわたしたのではない。
きつにあむさむ(狐爾安牟佐武) 狐は和名抄には岐豆禰、本草和名には岐都禰と訓せられ、靈異記にも女人に化けた野干が、露顯の後に於ても、夫の希望により來て寐たから岐都禰(來ツ寢)といふと牽強せられて居る所を見ると、キツネと稱へたことは疑がないが、此歌に於ては語音が剰る(148)から、舊訓の如くキツと唱へられたものとせねばならぬ。但し必しも片言ではなく、キツが原語であつたのではないかとも考へられる。キツネといふ語の初見は舒明紀で、天狗といふ字にアマキツネ〔三字右○〕といふ訓が與へられて居る。太子傳暦には天狗を天狐と改め、アマク〔右○〕ツネと訓ませてあるが、其は遙に後代の書で、典據とするに足らぬから、紀の文に從ひ、狗《イヌ》もまたキツネと呼ばれた時代があつたとせねばならぬ。案ずるに印度山地方言では犬をクチュまたはクッツといひ、南洋廳管下のポナペ島ではキチ〔二字右○〕と稱へるから、夙に我國に輸入せられ、犬科動物(狐も亦之に屬する)の總稱に用ひられたのではあるまいか。ネはハ(羽)ネ〔右○〕、ヤ(屋)ネ〔右○〕の如くも用ひられる接尾語であるから、之が有無は問題にならぬ。イヌといふのも亦古言で、紀の舊訓には犬及狗の字に對し、常に之を用ひて居り、和名抄にも※[獣偏+農]は无久介以沼〔二字右○〕、犬?は以奴〔二字右○〕乃太末比と訓してあるが、犬そのもの對しては和名を與へて居らぬのは(字鏡にも訓なし)、世人周知であつたからであらうが、イヌといふ語も亦漢字※[獣偏+農]の字音ヌ〔右○〕から出たので、ウヌともいひ(イ及ウは接頭語)本來ムクイヌ(尨)のことであるから、一般的にはキツ(又はキツネ)と稱したのが、イヌといふ語の普及後、その一種なる狐の名にのみ殘つたものと思はれる。さりながら伊勢物語に陸奥の女の歌として擧げだ「夜もあけばキツにはめなむくだかけのまだきに鳴きてせなを遣りつる」のキツの如きは、之を狐の(149)ことゝするは早計で縱ひ憎い鷄を狐の餌食とする爲にもせよ、態々この野獣をさがし求めるのは餘りに物好といはねばならぬから、其當時まで奥州には尚キツといふ語が犬の意に用ひられたものと思はれる。アムサムはアミ(浴)の作爲動詞(未來格)形で、口語のアビセヨウに相當する。
〔大意〕鐵鍋に湯をわかせ子供よ。櫟津の檜橋から來る狐に浴びせよう
 此歌及以下の敷首は、古今集等に見える物名といふ一體の先驅をなすもので、歌になりさうもない多くの品物を即席に三十一文字に詠み入れることを以て技巧としたものゝやうで、落語家の三題話と同樣に、奇智頓才の稱すべきものはあるが、藝術的價値は乏しく、和歌の墮落の第一歩であつた。其が藤原朝に始まつたといふことは、文學史就中和歌史研究家の注意を要する問題であらねばならぬ。本卷には短歌ばかりではなく、長歌にも右のやうな遊戯的氣分の作が多く、第十三卷及第十四卷に於て見るやうな眞情吐露は稀になつたと同時に、歌の品も聊か下落したやうに感ぜられる。
 
詠|行騰《ムカハギ》蔓菁《アヲナ》食薦《スゴモ》屋?《ウツハリ》歌
 
3825 食薦敷《スゴモシキ》 蔓菁煮將來《アヲナニモチコ》 ?爾《ウツハリニ》 行騰懸而《ムカハギカケテ》 息此公《ヤスムコノキミ》
 
〔三八二五〕すごも敷き 青菜煮もちこ うつはりに むかはぎかけて やすむこの君
 
(150)すごもしき(食薦敷) 和名抄厨膳具中に、漢語抄を引いて食單を須古毛と訓してある。西宮記には簀〔右△〕薦の二手を充てゝ居るので、類聚雜要抄は編v竹如v簾、生半絹爲v背と説いたが(箋注倭名類聚抄)、假に後世簾状に編んだ竹製のものをスゴモと稱へたことがあつたとしても、若し制式の名ならば食單には限らぬことであるから、簀は借字で、スといふ語音には別に意義があつたものとせねばならぬ。案ずるにスは食物を意味する原語シ〔右○〕の轉呼で、漢語の食《シ》(詳吏反)、朝鮮語※[ハングルでチョダ](飼)の語幹※[ハングルでチョ]と源を同じうし、上古東亞各地に弘通したものと思はれる。國語には單獨で用ひられた例はないが、シ〔右○〕ル(汁)、シ〔右○〕ネ(稻)、シシ〔二字右○〕(宍)等は之から出たものゝやうであるから、食薦をスゴモと稱へたとしても奇とするに足らず、恐らくはツクヱ(卓)に代はる簡單なる膳具として、此時代まで普く用ひられたのであらう。
あをなにもちこ(蔓菁煮將來) 憂菁は本草和名及び和名抄には蕪菁の別名として阿乎奈と訓してある。アヲナは仁徳天皇の御製にも見え〔記〕、前文には菘菜と記されて居るが、タウナ(菘)又はカブラ(蕪)を意味する種名ではなく、蔬菜類の總稱で、上掲シとは系統を異にするナ〔右○〕といふ語が、一般に食物を意味し、魚・菜・果は盡く之に含まれるので、魚をマナというて區別すると同樣に、葉色に因んでアヲ(青)といふ語を冠し、蔬菜を表示したのである。此句は之を煮て持ち來れとい(151)ふので、受命者は明示せられて居らぬが、僮僕なることは、其語氣によつても推定せられる。
うつはりに(?爾) ?は梁と同じく、和名抄には宇都波利と訓してあるが、ハリの原義は張で、屋蓋の内屈を支へるものなるが故に此名を負うたのであらう。ウツは「空」を意味し、柱頭の桁上に空に架することの故を以て、ハリに冠したものと思はれる。天井を貼らぬ屋造りに在つては、梁材が露出して居るから、之に物をかけたことは有り得る。
むかはぎかけて(行騰懸而) 行騰は靈異記下卷(第七)にムカ波支とあり、和名抄にも行縢に此訓を與へ、釋名を引いて行騰(ハ)、騰也、言裹v脚可2以跳騰輕便1也と記注して居る(箋注)。後世ムカハギと稱へるのは兩脚の前面のみを覆ふもので、多くは獣皮を以て製するが、恐らくは古式ではあるまい。行縢と行纏即ちハハキ(脛巾)との相違は判明せぬが、後者は天武紀に脛裳と記し、ハキモとも訓せられて居るから、裁著《タチツケ》状のものをいひ、ハキ(穿)を疊頭してハハキと稱へたのであらう。ムカハギは之に對し下脚のみに装著したものゝやうで、向穿の謂とおもはれる。休息する爲に之を脱ぎ、染にかけたことをいふものと了解せられるが、其だけでは餘り無味乾燥であるから、或は向脛にいひかけ、アゲクラ(榻)に仰臥し、兩脚を空《ソラ》にして梁に足をかけたことを意味するのかも知れぬ。屋根の低い家ならば有り得ぬことではない。記して疑を存する。
(152)やすむこのきみ(息此公) 息をイコフと改訓したものもあるが、原義上ヤスムを不可とすべき理由がないから、舊訓に從ふべきである。此君は三人稱と見ねばならぬから、契沖説の如く此君ノ爲ニといふ意なること疑なく、略解及古義が此公を受命者としたのは從はれぬ。
〔大意〕食薦を敷き、青菜を煮て持ち來れ(僮《コドモ》よ)。梁にムカハギをかけて息む此君に
 
詠荷葉歌
 
3826 蓮葉者《ハチスバハ》 如是許曾有物《カクコソアルモノ》 意吉麻呂之《オキマロガ》 家在物者《イヘナルモノハ》 宇毛乃葉爾有之《ウモノハニアラシ》
 
〔三八二六〕 はちす葉は かくこそあるもの 意吉麻呂が 家なるものは うもの葉にあらし
 
はちすばは(蓮葉者) ハチスは本來蓮子の謂であるから、其葉を指示するには特にハチスバ〔右○〕といふことを要したので、題詞に用ひた荷の字は、字書には蓮花〔右○〕也とあり、和名抄にも爾雅の郭註を引いて、芙蓉(ハ)江東呼爲v荷也と記されて居る。
かくこそあるもの(如是許曾有物) 矣沖訓に從ふ。舊訓はアレモとあるが、モを間投詞と見ることは困難で、必然アレヤ〔右○〕といはねばならぬ所であるから、此くこそあるものを〔右○〕の意として、アルモノと訓むを可とする。モノは反接を表示し、助語ヲを添へずともモノヲの意となることは、既に(153)?々述べた通りである。
おきまろが(意吉麻呂之) オキマロは作者の名であるが、語義は大《す》キ麻呂で、マろといふ語は今の郎〔右○〕と同樣に用ひられたのであるから、オキマロは太郎〔二字右○〕に相當する。
いへなるものは(家在物者) 在は借字で、此ナルは助語ノと同一職能を有する。家ノ〔右○〕ハといふ意である。
うものはにあらし(宇毛乃葉爾有之) ウモはタガログゲ語のウビと同原で(バ行マ行相通)、本來藷蕷の名であるが、――今も沖繩諸島ではウンム、ウン、ン、ムム等と發音する――我國に於ては廣く芋類の總稱として用ひられ、イ〔右○〕モとも轉呼せられた。此は其葉が蓮葉に似て居るといふのであるから、里芋のことであらねばならぬ。和名抄には芋を以倍乃伊毛(流布本には以倍都伊毛)と訓し、葉似v荷其根可v食之とあり、薯蕷の夜万乃伊毛と區別して居る。本草和名にも署蕷一名山芋は山ツ〔右○〕イモ、芋は家ツ〔右○〕イモとあり、家の代りに里を以て限定するやうになつたが、いづれにしても山〔右○〕ノ芋に對する稱呼である。アラシは推量表示であるが、アラムよりは聊か想定的である。
〔大意〕蓮の葉は此やうなものでこそあるものを、自分の家のは芋の葉であらう
 此は他家で見事な蓮を見せられて、蓮の葉は此やうに大きいものでございますか。手前宅にも蓮が(154)ごさりますが、とても及びも寄りませぬ。大かた芋の葉でごさいませうといふ意味を三十一文字にまとめたので、其家の蓮を賞めたのであるが、聊か追從めく嫌がある。この意吉麻呂は第三卷にあげた「苦しくも降來る雨か神《カミ》の崎さ野のわたりに家もあらなくに」といふ歌〔二六五〕によるも、作家として非凡の技能を備へて居たものとせねばならぬが、高い身分の人ではないやうであるから、顯門に出入し、或機會に於て此やうな謙遜な歌を詠じたこともあり得べきで、第三卷の應詔歌〔二三八〕も、或は才伎としての召歌であつたかも知れぬ。
 
詠雙六|頭〔右△〕謌
 
一二之《ヒトフタノ》 目耳不有《メノミニハアラズ》 五六《イツツムツ》 三四佐倍有《ミツヨツサヘアリ》 雙六乃佐叡《スグロクノサエ》
 
〔三八二七〕 ひとふたの 目のみにはあらず 五つ六つ 三つ四つさへあり すぐろくのさえ
 
 題詞の頭〔右△〕の字はメといふ舊訓に誤なしとせば、眼〔右○〕の行書を頭〔右△〕の其と誤寫したものとすべきである。歌詞は舊訓
  イチニノメ ノミニハ〔右○〕アラズ ゴロクサム ツサヘアリケリ〔二字右△〕 スグロクノサイ
とあるのを眞淵が上記の如く和語に改讀したのである。漢語數詞は夙に常用せられたと信ずべき理由(155)があり、スグロクといふ名稱そのものが、既に漢語であるから、目を稱へるにも字音を用ひたことは有り得べきで、少くとも始めて訓點を施した人々の時代には、固有數詞は用ひられなかつたのであらう。新訓が字音を復活したのは之に因るものと思はれるが、第四句の有一字をアリケリと訓むのは無理で、本集の書例にもないことである。其故に古葉略類聚鈔には有の下に來の字を補うたので、有來ならばアリケリと讀めるが、此歌に於てはケリといふ助動詞は全く蛇足である。後世の歌人ならば語音が不足するからというて、ケリを補ひ、感動表示であるといふやうな言語學上肯定の出來ぬ理窟をつけたかも知れぬが、意吉麻呂時代にはまだ、日常語と歌語との間に大差はなかつた筈であるから、其やうな濫用はあり得ず、事の性質上此は不定時格を用ひることを要するから、必ずアリと言ひ切らねばならぬ。されば假に音讀するにしても、三の字は下句につけて、サムシサヘアリと唱ふべきであるが、それでは五六の二字を吟誦することが出來ぬから、作者意吉麻呂は和語を以て詠じたものとして、斷然改訓に從ふことにした。
ひとふたの(一二之) 第三句以下のイツツ〔右○〕・ムツ〔右○〕等に對し、今ならばヒトツ〔右○〕・フタツ〔右○〕ノと唱へねば調和せぬといふ議論も起り得べきで、舊訓が音讀した理由も或に之にあつたかも知れぬが、ヒト、フタのト〔右○〕及タ〔右○〕はミツ、ヨツ、ムツ等のツ〔右○〕の音便で、語根はヒ及フであるから、古はヒトツ、フタ(156)ツといふ形は存在しなかつたのかも知れず、或はイツツ(語根イ)と同じく既に疊尾した形が出現して居たとしても、少くともヒト、フタがヒトツ、フタツと併立して、名詞としても用ひられたものと思はれる。
めのみにはあらず(目耳不有) 略解以下ハ〔右○〕を除いて、メノミニアラズと改訓して居るが、口語でも「目ばかりでは〔右○〕ない」と言ひたい所であるから、ハ〔右○〕に相當する文字はないけれども、舊訓の如く之をよみ添へることを可とする。八音としても少しも耳ざはりとはならぬ。此は上句のフタと合はせて兩眼といふ意をきかせたのである。
いつつむつ(五六)
みつよつさへあり(三四佐倍有)
すぐろくのさえ(雙六乃佐叡) 雙六は和名抄にも俗云須久呂久とあり、本來漢語で、雙は韓音※[ハングルでサン]であるから、※[ngの発音記号]をグと寫音したので、香をカグと發音するのと同例である。中世以降スゴ〔右○〕ロクと稱へるのは再轉であらう。之に用ひる釆(骰子)も、和名抄に佐以とあるやうに、サイ(韓音※[ハングルでチョェ])を正音とするが、才をサエともいふやうに、我國に於て訛つてサエとしたのである。
〔大意〕一二の目ばかりではなく、五、六、三、四(の目)さへある。雙六の釆は
(157) 眼《メ》は二つと極つて居るのに、三つ乃至六つもあるといふ戯《サレ》を除いては、一から六に至る數詞を詠み入れたといふに過ぎぬけれども、尚時人の一粲を博するには餘りがあつたのであらう。
 
詠香塔厠屎鮒奴歌
 
3828 香塗流《カウヌレル》 塔爾莫依《タフニナヨリソ》 川隅乃《カハクマノ》 屎鮒喫有〔左△〕《クソフナハミテ》 痛女奴《ナヤムメヤツコ》
 
〔三八二八〕香ぬれる 塔になよりそ 川くまの くそ鮒はみて〔右○〕 なやむ女やつこ
 
かうぬれる(香塗流) 香の字は皇極紀及齋宮式にコリと訓してあるので、雅澄は之を古言と見て、カヲリの切なりと説いたが、カヲリといふ語が既に第二次生で、本集には香乎禮流といふ形を以て用ひた一例〔一六二〕があるに過ぎず、ことにカヲを約してコ〔右○〕とするが如きは、國語の音韻變化法則上あり得ぬことである。若しコリといふ語が中世一般に用ひられたとすれば、推定唐音コン(鮮音※[ハングルでヒャン])の轉呼と解すべきであるが、――ンとリとは相通ずる――本卷には他にも漢語を用ひた例があり、殊に此歌に於ては次句の塔も字音を以て詠まれて居るのであるから、タウと唱へては惡いといふ理由がない。和名抄にも香〔右○〕爐には和訓を施して居らぬ所を見ると、香《カウ》は夙に國語化したものであらう。或は塔に香を塗つたとは思はれぬとの理由の下に、塗〔右○〕を焚〔右△〕の誤記としてタケル(158)と改訓したものもあるが、塔は、必しも五重の塔、石塔乃至五輪塔ばかりをいふのではなく、佛舍利を收藏する寶塔もまたタフで、金玉の飾を施したものもあるのであるから、香を塗つたことが無いとはいへぬ。新考も之に言及して居るが、尚聊か物足らぬ憾があるから補足したのである。此ヌレルは塗つて居るといふ意ではなく、塗つてあると了解せねばならぬ。
たふになよりそ(塔爾莫依) 塔は梵語スツーパの漢譯で、和名抄には塔(佛塔具)と?塔婆(伽藍具)とに區別してあるが、本來同一語である。此は上記の如く寺院中に安置した舍利塔をいふのであらう。後句に言及したやうな臭い躰《カラダ》で塔の傍へ寄るなといふのである。
かはくまの(川隅乃) 川隅は舊訓カハスミ〔二字右△〕とあるが、語例がないから、略解に從うてカハクマと改むべきで、本集第六卷〔九四二〕にも隅の字をクマと訓ませた例がある。カハクマは川曲の謂で、仁徳紀の歌にも、本集第一卷〔七九〕にも見え、次句のフナ(鮒)の限定語であるが、題詞によれば厠にいひかけたものとせねばならぬ。厠は和名抄の訓の如く古來カハヤと稱へられたものゝやうであるが、語根はカハ〔二字右○〕で、現代語に於ても便所をウラ(裏)といふやうに、屋裏〔右○〕または屋側〔右○〕に於て用を辨じだから、此稱呼が生まれたものと思はれる。幼兒用の便器(虎子《オマル》)をカハ又はオカハと稱へるのも之に因るもので、廁の字にも側《カハ》の義があるのである。さりながら隨所にまり散らしては(159)不用意に踏みつける虞があるから、ほゞ場所を定めて溜を穿ちなどしたことも有り得べきで、若し其が側隅に位したとすれば、縱ひ常用語でなくとも、之をカハクマ〔四字右○〕と稱へることを妨げぬ筈である。カハヤ〔右○〕は汚物の露出を惡み、其上を覆ふに屋根を以てしたものをいひ、其壯麗なものをミカハ〔二字右○〕ドノ(廁殿)と稱へた(延喜四時祭式)。吏に精密を期するためには、カハヤ内にヒ(槭)と稱する褻器を備へ、之を以て糞尿をうけ、一回毎に持出して處分せしめたやうであるが、其は顯門富家に限ることで、常人の住宅のものにはヤ(屋)がなかつたから、單にカハ〔二字右○〕又はカハクマと呼稱したのであらう。カハヤの語義は右の如く明白であるのに、室町時代に出來た下學集といふ書物に、、高野山‥‥不v令3人々留2不潔於此山1故糞屋必架2河上1而流2不淨1也、由v是高野一山呼2東司1曰2河屋1也とあるので、碩學本居宣長すら之を盲信し、古事記の勢夜陀多良比賣神婚傳説に、目d其爲2大便1之溝流下uとある句をカハヤノシタヨリと訓み、「古(ヘ)廁は溝流の上に造りてまりたる屎はやがて其水に流失る如く構へたる故に河屋とはいふなり」と説明し、爾來殆ど通説のやうになつたが、其無稽なることは曩に拙著「日本古俗誌」に論じた通りで、「大言海」も河屋説を斥け、側屋の義として居る。右の溝流は堀溜を意味し、丹塗失の潜在所を示したのであるから、上掲の句もクソマルミゾ〔二字右○〕ノ下ヨリと訓むべきで、さればこそ大碓命が早朝廁に行く途中、小碓命に捉へら(160)れたことを敍する條下には、爲大便之溝流といふ表現を用ひず、卒直に廁〔右○〕の字をあてゝあるのである。汚物を肥料に利用することが發明せられるまでは、ウラ又はカハ(タハクマ)は尚常設的のものではなく、堆積に至らぬ前に之を近隣に移して、糞穴には土を埋めたのではないかと思はれる。二十年前ミクロネシアのポナペ島滯在中、私の宿舍にあてた島司の官邸の後庭に、此種の廁の設けてあるのを見たが、私は始めて後架といふ語の由來を知つた。此は腐敗の急速な熱帶地方に於ては最も衛生的な設備といふべきで、庶民は海中に於て水浴中に用を便ずるといふことであるが、聚落附近に存する溪流等に廁を設けるやうなことは絶無といはれて居る。蓋し使ひ水に用ひ、時としては飲料にも供する貴い流の水を穢すことを欲せぬからで、我上代に於ても恐らくは同樣であつたであらう。カハクマは勿論後句クソ(屎)の縁語であるが、上述のやうに川曲《カハクマ》にいひかけて之を詠み入れだだけで、廁は少しも歌意に關係せぬのである。
くそふなはみて〔右○〕(屎鮒喫有〔右△〕) 字に從へば舊訓の如くハメルと唱へねばならぬが、ハメルはハミアルの連約で「食うて居る」又は「食うである」といふ意の現在時格表示であるから、此場合には不適當である。されば新考に從ひハミテと訓まねばならぬが、有〔右△〕は同書にいふやうに而〔右△〕の誤ではなく、弖(?の字の變體)が有の草書※[有の草書]と似て居るので寫し誤つたのであらう。鮒は和名抄及本草和名に(161)布奈と訓してあるが、ナは魚の謂であるから、フは鮒の字音、フの魚の意を以て之をフナと稱へたのであらう。朝鮮語に於ても魚の字音※[ハングルでオ]と連ねて※[ハングルでプオ]といふのである。但しクソブナといふ一種があつたのではなく、屎は與へられた題なるが故に、上句カハクマ(廁)の縁によりいひかけたに過ぎず、クソの原語及原義はクサ(臭)であるから、腥臭のある鮒といふ意を以てこの表現を用ひたのである。
なやむ〔三字右○〕めやつこ(痛女奴) 舊訓イタキとあるのは、上句の喫有〔右△〕をハメルと訓んだ結果であるが、イタキは「甚」の義としても女奴の修飾には不適當である。痛は病に通じ、類聚古集には病と改記してあるから、新考説の如くヤメルとも讀み得られるが、其場合には初句の表記例の如く流の字を添へるか、若くは痛有又は所痛とあるべきである。加之病人が態々塔のある所まで出かけたとも思はれぬから、恐らくはナヤムと訓ませるつもりであつたのであらう。其は鮒を過食して胸が痞へることをいひ、生臭い?氣《オクビ》はたまらぬものであるから、香を塗つた〔五字右○〕塔に近寄るなと制止する趣を詠じたものと思はれる。此メヤツコは寺院の婢をいひ、清掃等の爲に内陣にも立入ることがあつたのであらう。
〔大意〕香を塗つてある塔に寄るな。川曲の臭鮒をくうてなやむ女奴よ
(162) 藝術味の乏しい歌ではあるが、廁及屎といふ忌はしい語を巧に紛らはして川曲の臭鮒とした所に、作者の奇智頓才が閃めいて居る。在來の諸註のやうに廁と屎とに即しては、惡趣味のたゞ言になり、作者もうかばれず、屎でも喰へと地下で憤慨して居ることであらう。
 
詠酢醤※[草がんむり/(禾+禾)]鯛水葱歌
 
3829 醤酢爾《ヒシホスニ》 ※[草がんむり/(禾+禾)]都伎合而《ヒルツキカテテ》 鯛願《タヒネガフ》 吾爾勿所見《ワレニナミエソ》 水葱乃煮物《ナギノアツモノ》
 
〔三八二九〕 ひしほ酢に 蒜つきかてて 鯛ねがふ 吾にな見え〔右○〕そ、なぎのあつもの
 
ひしほすに(醤酢爾) 和名抄に四聲字苑云、醤(ハ)豆〓也とあり、〓はシシヒシホ即ちシホカラのことであるから、シシ(肉)に代へるに豆を以てしたもの、即ち豆を鹽にあへたものゝ謂で、今いふモロミに當り、之を搾つた液が醤油〔右○〕である。ヒシホと稱したのはヒ(秀)シホ(鹽)の義で、鹽よりは上等なるが故であらう。スは酢の字音から韓じた語で(朝鮮音※[ハングルでチョ])、字書に酸漿也とあり、今もスと稱へて居るが、此二物を和したヒシホスは今いふ酢モロミで、酢味噌のやうなものである。
ひるつきかてて(※[草がんむり/(禾+禾)]都伎合而) ※[草がんむり/(禾+禾)]は蒜の變體で、干録字書にも※[草がんむり/(禾+禾)]蒜【上俗下正】とある。ツキは搗の義であるが、口語でもツキマゼルといふやうに、半ば接頭語的に用ひられたものとすべきで、次のカテ(163)は「加」の意の原語カの活用形、カテテは加へてといふことである。又ヒルは臭菜の總名で、和名抄によれば、大蒜、小蒜、獨子蒜、澤蒜等に分れ、今もノビル(山蒜)、ニンニク(葫)、ラツキヤウ(辣薑)等の種別がある。これは其いづれを指すか判明せぬが、要するに蒜を酢みそに※[草がんむり/齊の上半と韮の下半]へてといふことである。
たひねがふ(鯛願) 鯛は和名抄に多比と訓してあるが、和語としては原義を解き得ぬから、恐らくは朝鮮語|※[ハングルでトミ]《トミ》の轉呼であらう。蒜の酢味噌あへに鯛の切身を加へたら、絶好のヌタが出來るから之を欲しがつたのは、さも有りぬべきことである。
われになみえ〔右○〕そ(吾爾勿所見) 舊訓ミセ〔右△〕ソとあるが、此場合「所」の字を使動表示に用ひたとは考へられぬから、ミエ〔右○〕ソと訓まねばならぬ。我眼に映ずるなといふ意である。
なぎのあつもの(水葱乃煮物) ナギは食用水菜の一種で、今もコナギ又はササナギと稱するが、特に上代人の嗜好に適したものゝやうであるから、其羮を見たら、鯛にも増して慾望が起らうかと氣づかうて、自分の眼に觸れなというたのである。水葱の汁などは欲しからずといふ意なりとする賂解以下の推定は未熟で、鯛は希望するけれども、未だ入手したのではないから、水葱の羮を斥ける理由にならぬ。されば宣長は願〔右○〕を餔〔右△〕の誤記として鯛クラフと訓むのであらうというたが、(164)右の臆斷を去れば、原字のまゝでよくわかる歌である。但しナギはナキキ(莫聞)に通ふから、上句のナ見エに對立させたので、是だけが此歌の技巧である。
〔大意〕ひしほ酢(酢モロミ)に蒜をつきまぜて、鯛を欲しがつて居る自分(の眼)に見えるな。水葱のあつものは
 
詠玉掃鎌天水〔右△〕香棗歌
 
3830 玉掃《タマハハキ》 苅來鎌麻呂《カリコカママロ》 室乃樹與《ムロノキト》 棗本《ナツメガモトヲ》 可吉將掃爲《カキハカムタメ》
 
〔三八三〇〕 玉ははき かりこ鎌まろ むろの木と なつめがもとを かき掃かむため
 課題の玉掃は本集第二十卷に、二年(天平寶字)春正月三日、召2侍從竪子、王臣等1、令v侍2於内裏之東屋垣下1即賜2玉箒〔二字右○〕1肆宴云々と題し、「はつ春の初子の今日の多麻婆波伎手にとるからにゆらぐ玉の緒」〔四四九三〕と詠じたタマハハキのことで、初子に之を下賜せられた理由、並に其材料制式については所傳があるやうであるが〔袖中抄〕、必しも子の日のみに用ひるものではなく、タマは美稱で、若干装飾を施した箒をかく呼稱したのであらう。天水〔右△〕香は勿論天木〔右○〕香の誤記で、――木〔右○〕を水〔右△〕と誤つた例は上掲淺香山の歌〔三八〇七〕にもあり、類聚古集・西本願寺本等には木〔右○〕と改記してある――之をムロと訓(165)ませた例は本集第三卷にも見える。
たまははき(玉掃) ハハキはハキ(掃)の疊頭語で、動詞原形を疊合して其意の器物名を表示することはミクロネシア語にも例がある。從來タマハハキを以て今いふハウキ草(地膚)の謂とし、略解は「其形丸らかに生出づれば玉の詞をそふるか」と牽強し、品物解にも多識篇といふ書を引いて、地膚異名玉帚、玉〓等とある漢名をあげ、之が直譯であるかのやうに説いて居るが、同書にも和名は波波幾岐とあるのみで、タマハハキといふ名稱は見えず、和名抄には本草云地膚一名地葵とし、邇波久佐一云末岐久散の二訓を與へて居るのみであるから、之をタマハハキと稱したといふ證據にはならず、今も此名は用ひられて居らぬ。此タマハハキを植物種名と速斷したのは、第二十卷の玉帚が、俊頼の口傳によれば、實用にはならぬものと思はれるからであらうが、假に其ものでないとしても、玉は美稱であるから、高家の使用する帚を讃へたものと見ても差支はなく、決してハハキ草なることを必要とせぬ。いづれにしても此歌に於ては單に帚を借り來れといふに過ぎぬ。
かりこかままろ(苅來鎌麻呂) 苅が借字で、借〔右○〕來の意なることはいふまでもない。鎌といふ品物を人名にうつして詠み入れたのは、作者の手腕といふべきで、勿論架空の人物であるが、此時代に(166)は僮僕も何マロと名乘ることがあつたものと思はれる。第二十卷によれば防人の名にもマロを用ひたものが少くない。
むろのきと(室乃樹與) 和名抄には?一名河柳を牟呂乃岐と訓し、字鏡にも?と?とに同じ訓を與へて居るが、小野蘭山によれば、?柳は寛保中初めて渡來した漢種であるといふことであるから〔品物解〕、天木香とかくムロの木は今もムロ(又はネズ)と稱する松杉科の喬木のことであらう。この木は中國地方ではブロンともいひ、之を焚くと異薫を發するから、近世まで蚊遣火の材料とした。天木香といふのも此意味から出た和製漢語ではあるまいか。ムロの語原は恐らくは朝鮮語の※[ハングルでプル、火のこと]《プル》(火)であらう。
なつめがもとを(棗本) 古義訓による。棗は和名抄に奈都米と訓し、名の義は東雅によれば、他の樹木よりも發芽がおそいから、夏芽の謂ならんとあるが、尚一考を要する。メは恐らくはミ(實)の轉呼で、晩夏成熟するが故に夏實《ナツメ》と呼ばれたのではあるまいか。樹幹は往々高さ二丈に達することがある。
かきはかむため(可吉將掃爲) カキは接頭語で、單に掃かんが爲といふに同じい。
〔大意〕玉帚を借り來れ鎌麻呂よ。ムロの木と棗の木との下を掃く爲に
 
(167)詠2白鷺啄v木飛1歌
 
3831 池神《イケガミノ》 力士?可母《リキシマヒカモ》 白鷺乃《シラサギノ》 桙啄持而《ホコクヒモチテ》 飛渡良武《トビワタルラム》
 
〔三八三一〕 いけがみの 力士まひかも しら鷺の ほこくひもちて 飛びわたるらむ
 
いけがみの(池神) 池上は延喜神名式の大和國城下郡池〔右○〕坐朝霧黄幡比賣神〔右○〕をいふものゝやうで、今も磯城郡川東村大字大安寺に其社が存する。現在祭神を六萬拷幡比賣命と稱へて居るが、いづれにしても織布を以て有名であつた或氏の族母を祭祀したものであることは疑がない。
りきしまひかも(力士?可母) 右の社の祭に力士舞といふ踊が擧行せられたものと思はれる。後句によれはホコ(桙)即ち長い杖を携へて踊つたものゝやうで、今の薩摩の棒踊が聯想せられる。其は南洋諸島に於ても行はれる原始的な踊で、ハヤヒト(南人)によつて傳來せられたものと思はれるから、大和に於てはめづらしかつたに相違なく、其所作の勇壯なるによつて力士?の名を負うたのであらうが、力士といふ漢語が輸入せられぬ以前には、何と稱へたか判明せぬ。此地方には饒速日命の供奉員の後裔と稱する阿刀氏及坂戸氏が占住したやうであるから、其故郷から將來した踊が後世まで傳へられたことも有り得べきである。若し然りとすれば、上記の黄幡比賣も此等(168)の氏族の遠祖であらねばならぬ。カモは疑問助語で、此句は力士?ニ行クトカモといふべきを、省略したものと思はれる。
しらさぎの(白鷺乃)
ほこくひももて(桙啄持而) ホコ(桙)はホ(秀)とコ(木)との二語分子より成り、上記の如く杖の長いものゝ稱呼で、矛尖を取附けた兵器の名にも轉用せられたが、其外に穗木《ホコ》の義によつて菓柄乃至小枝をもホコと稱へたものゝやうである。内膳式正月三節の條下に、桙〔右○〕橘子十五枝〔右○〕?橘子一斗〔右○〕とある桙は共で、?橘子即ち裸實《ハダカミ》に對し、枝つきの橘子を意味するのであらう。――記の玉垣宮(垂仁)の卷に縵八縵矛〔右○〕八矛の橘を常世國から將來したとあるホコ(矛)は、紀に八〔右○〕竿とあるやうに運搬用の竿の謂と解すべきこと紀記論究第二篇第三卷二四三頁に述べた通りである――白鷺が啄へたホコは題詞に啄木〔右○〕とある所を見ると、勿論小技即ち穗木の謂であるが、音を同じうするにより之を桙の意にとりなした所に、此歌の面白味があるのである。クヒ(啄)は後世專らクハヘと稱へるが、其は本來クヒの一活用形態(進行格)で、古は喫をも銜をもクヒと表現したのである。蓋しクはクチ(口)の語根、ヒは行爲を表示する動詞語尾なるが故である。
とびわたるらむ(飛渡良武) 飛び渡るのであらうといふ意。
(169)〔大意〕池神の力士?に行くというて、白鷺が木を咥へて飛び渡るのであらうか
 以上八首は孰れも註文に應じて即座に詠出したものゝやうで、然も物名よみ込みといふ條件附であるから、歌詞の洗練せられて居らぬのは已むを得ぬが、達者に詠みこなしたものと言はねばならぬ。後出の諸歌にも見えるやうに、此頃には既に漢語佛語が盛に常用せられたので、口語で詠むとすれば之を廻避することが出來なかつたのであらう。サスナベ、ムカハギ等も亦當時の口語と思はれる。
 
忌部首詠2數種物1歌一首 名忘失也
 
3832 枳《カラタチバナ》 棘原苅除《ウバラカソゲ》曾氣〔二字右▲〕 倉將立《クラタテム》 屎遠麻禮《クソトホクマレ》 櫛造刀自《クシツクルトジ》
 
〔三八三二〕 からたちばな〔二字右○〕 うばら苅りそげ 倉だてむ 屎とほくまれ くし造る刀自
 明示せられて居らぬが、題詞の數種の物は「枳」「棘」「倉」「屎」「櫛」「刀自」であつたのであらう。忌部首はカバネで、其名は注記の如く不明とせられたのである。古義は之を本卷及六卷と八卷とに見える忌部首黒麻呂ならざるべからすとしたが、當時忌部首と稱したものは黒麻呂一人ではなかつた筈であるから、右の如く斷定することは聊か早計である。
 
からたちばな〔二字右○〕(枳) 新撰字鏡には枳は加良立花〔二字右○〕也、枳實は辛橘也とあり、本草和名には枳實を加良(170)多知とし、和名抄にも枳?の二字に同訓を與へて居る。今もカラタチと稱する芸香科植物であるが、原名は字鏡の如くカラ(韓)タチバナ(橘)で、カラタチは其略稱であらう。從來此句をカラタチノ〔右△〕と訓み、次句のウバラ(棘)の限定語として、荊棘中に枳ノウバラといふ一種が存するか、枳をカラタチのウバラと稱へたかのやうに解して居るが、其やうな呼稱は他に用例もなく、又成立しさうにも考へられぬのみならず、歌意からいへば枳はどうでもよいのであるから、枳や棘の意として、カラタチと四音に讀むか、若くはカラタチバナと六音に誦すべきである。但し上述の如く後者を原語とするが故に、私は之を選ぶことにした。枳棘とつゞけて用ひた例は、後漢書岑彭傳に我有2枳〔右○〕棘1岑君伐之とあり、李白の詩にも梧桐棲2燕雀1枳棘〔二字右○〕2鴛鸞1とあるが、其は荊棘と同義に用ひられたので、決してカラタチのウバラといふ意ではない。
うばらかりそげ(棘原苅除曾氣〔二字右▲〕) 舊訓ム〔右○〕バラとあるけれども、其はウメ(梅)をムメといふと同一の音便で、イ〔右○〕バラ(茨)とも稱へ、語根はハリ(刺)の轉呼ハラであるから、ウバラを正とすべきである(ウは接頭語か又は「大」の意)。雅澄は防人歌に宇萬良能ウレニ〔四三五二〕と假字書した例に準じてウマラと改訓したが、マは明にバの訛で、當時の標準發音と見るべきものではない。棘に原の字をそへたのは、竹取翁の歌の結經〔右△〕方衣(第三三頁)、將若異〔右△〕(第七四頁)と同じく、一種の送り假(171)字であると同時に、棘が二本三本に止まらず、一面に原のやうに生ひて居るといふ印象を與へる爲の補意的贅字で、上掲の小集樂〔右△〕と同工異曲である〔三八〇八〕。倉を建てる爲とあるのであるから、相當に廣い面積を要したと認むべきで、其處に枳や棘が生ひ繁つて居る光景を胸中に描いて詠じたのであらう。曾氣は除の字の旁訓が?入したので、上掲〔三八二四〕の歌の許武〔二字右▲〕と趣を同じうする。カリソゲといふ語例は卷十四〔三四七九〕にも見える。
くらたてむ(倉將立) 立テムは未來時格であるが、此は意嚮表示に轉用せられたので、今もタテヨウといへば欲建といふ意と了解せられるのである。
くそとほくまれ(屎遠麻禮) マレは勿論命令法で、神代紀一書に送糞此云2倶※[草がんむり/(木+魚)]|摩?《マル》1と註せられ、記にも屎麻理〔二字右○〕散とあるから、脱糞をマリと稱へたことは疑なく、上記のオカハ(虎子)をオマル〔二字右○〕とも呼ぶのは其名殘であるが、放尿をもユマリ〔二字右○〕又はユバリといふ所を見ると、――和名抄に尿を由波利と訓したのは、ツ(唾)ハキ(吐)をツ(唾)と同義とし、バク(博)ウチ(打)の約バクチが賭博の意に用ひられると同例で、尿を意味する原語はユであらねばならぬ。、體内から出る温湯なるが故に、之をユ(湯)と稱へたことは決して怪しむに足らず、釋紀が放※[尸/(水+毛)]をユバリマルと訓したのは、バクチウチ、ツバキハキと同じく後代式表現で、古語では右の如き重複を許さなかつた筈である(172)――マリはモリ(漏)と同語から分化し、排泄を意味したものとすべきである。上記の如くカハヤ(側屋)の設のなかつた上代の民家では、脱糞はウラ(屋裏)又はカハクマ(側隅)に於て行うたのであるが、其處に倉を建てる爲に枳棘を苅り拓く場合、屎をふみつけては穢はしいから、遠方に於て用便せよといふのである。
くしつくるとじ(櫛造刀自) トジのトはトミ(富)、トヨ(豐)等の語根で、ジはチ(主)の音便であるから、本來は富家の主人を呼ぶ敬稱であるが、上古の母系承統制に於ては、家長は多くは女性であつたから、主婦の義に轉じ、延いては一般に婦人に對する敬稱となり、允恭紀には戸母〔右○〕とさへ表記せられ、之に對して身分のある男子はトネ(刀禰)と呼ばれるやうになつたのである。されば此句は櫛つくる奥さんといふ程の意で、課題の櫛を詠み入れる爲に、刀自に結びつけたものと思はれるが、其にしても上四句と餘りに縁がなさ過ぎるのみならず、次の如き疑が起る。
 (一)櫛製造といふやうな工作が、此當時果して女性の手によつて行はれたが
 (二)假に其やうな事實があり得たとしても、刀自と呼ばれる身分のものが之に從事したとも考へられず、工女を刀自といふ敬稱を以て呼んだかも疑問である。
 されば此クシも亦上掲意吉麻呂の歌のカハクマ及ホコと同樣に、同名異物にいひかけたのではな(173)いかと考へて見る必要がある。案ずるにクシには靈奇といふ意があり、轉じて靈藥をもクシといひ、神功皇后の御歌にもクシ〔二字右○〕の神とよまれ〔紀〕〔記〕、應神天皇の御製〔記〕にコトナグシ(事無藥)ヱグシ(快藥)とも用ひられ、クスリといふのもクシ(靈驗)アリ(有)の連約であるから、藥造る刀自といふ意ではあるまいか。本草和名によれば枳實一名枳殻とあり、――今では別種と見られて居るが、――キコクは漢法の藥剤に供せられるものであるから、藥造る刀自と縁があり、倉を建てるとあるのを見ても、相當の富家とせねばならぬから、櫛造よりも藥造の方が適當する。先學が之に氣づかなかつたのは、頭から駄作ときめてかゝつたからで、作者に對し甚氣の毒なことゝ言はねばならぬ。
〔大意〕枳や棘の生ひた原を刈り拓いて倉を建てよう。大便は遠くの方でなされよ。藥造りの奥さん
 
境部王詠2數種物1歌 穗積親王之子也
 
3833 虎爾乘《トラニノリ》 古屋乎越而《フルヤヲコエテ》 青淵爾《アヲフチニ》 鮫龍取將來《ミヅチトリコム》 劔刀毛我《ツルギタチモガ》
 
〔三八三三〕虎にのり ふるやを越えて 青ふちに みづち取來む つるぎたちもが
 境部王は續紀に養老五年六月治部卿に任ぜられたとある從四位下坂合部王のことで、註記の如くば(174)天武天皇の御孫であるが、大に榮進するに至らなかつた所を見ると、天折せられたのであらう。此歌は「虎」「古屋」「青淵」「鮫龍」「劔刀」の五物を詠み込んだものと思はれる。
 
とらにのり(虎爾乘) 虎は我國には生産せぬ野獣であるにも拘はらず、トラといふ特別の名稱がある所を見ると、韓國から來往した人士によつて夙に其ものゝ存在と、獰猛性とが傳へられたのであらう。但しトラといふ語は、朝鮮語に於て猪を意味する※[ハングルでトッ]《ト》と同源から出たものゝやうで、ラは南方系の虚辭的接尾語であるが、左傳にも楚人謂2虎於菟〔右○〕1とある所を見ると、トの原義は或は猛獣をいひ、上古東亞各地に弘通した稱呼であつたかも知れぬ。虎は馴育すべき動物ではないが、武勇を形容する爲に此句を用ひたので、隋書にも騎虎といふ熟字がある。
ふるやをこえて(古屋乎越而) フルヤは課題の古屋に此名の地點を結びつけたものとすべきで、斷言は出來ぬが、紀伊國日高郡切目川村に古屋といふ大字があるから、或は其地をさしたのかも知れぬ。切目川に瀕して居るから、青淵と呼ばれる深淵の存したことも有り得べく、キリ〔二字右○〕メといふ名稱も縁があるやうに思はれる。本集第十二卷にも殺目《キリメ》山行カフ道ノ云々とある所を見ると、當時熊野街道として都人士にも知られて居たのであらう。――新考は履中紀の鷲住王の古事によつて古〔右○〕を高〔右△〕と改め、タカヤと訓したが、フルは後記の如く劔の縁語で、末句と呼應するのである。
(175)あをふちに(青淵爾) 水深くして碧をたゞへた淵といふ意で、必ずしも固有名詞たることを要せぬが、上述のやうに古屋に近い殺目《キリメ》川の淵を意味したのかも知れぬ。
みづちとりこむ(鮫龍取將來) 舊訓サメ〔二字右△〕トリテコムとあるが、鮫〔右△〕は蛟の異文として、和名抄に美都知とある訓に從ふべきである。龍の屬とせられたが故に蚊龍とも稱へるのであるが、ミヅチの原義は水靈《ミヅチ》で、蝮蛇の類を靈物なりとする觀念が發生してから、山にすむものを丘《ヲ》ロチ〔右○〕、野に居るものをヌツチ〔右○〕〔字鏡〕、田を宿とするものをタチ〔右○〕(蝮)と稱へたと同樣に、水に棲息する蛇といふ意を以てミヅチと稱したので、南山經の注に蛟似蛇四足〔二字右○〕とあるものゝ謂ではなく、又仁徳紀にミヅチと訓した?(?の俗字で角のある龍)をいふのでもない。トリは捕の謂であるが、捕殺の義にも用ひられるから、新考葦の如く此は殺して來ようといふ意嚮表示とすべきで、次句にかゝる連體法ではない。
つるぎたちもが(劔刀毛我) ツルギタチは刀劔といふに同じく、短兵の總稱で、二つのものをいふのではない。モガは希望表示であるから、刀劔が欲しいといふことであるが、第二句にフルといふ語があり、大和國の布留御魂社は刀劔を以て神體とするから、之と呼應させたのであらう。神樂の採物歌にも
(176) いそのかみ フルヤ男の 太刀もがな〔五字右○〕 くみの緒しでて みや路かよはむ
とある。但し此フルヤは布留宮の謂で、青淵のある古屋のことではない。
〔大意〕虎に乘りフルヤ(地名)を越えて青淵の水妖《ミヅチ》を殺して來よう。刀劔が欲しい
 
作者未詳歌一首
 
3834 成棗《ナシナツメ》 寸三二粟嗣《キミニアハツギ》 延由〔左△〕葛乃《ハフクズノ》 後毛將相跡《ノチモアハムト》 葵花咲《アフヒハナサク》
 
〔三八三四〕 なしなつめ きみに粟つぎ はふ葛の 後もあはむと あふひ花さく
 此歌もまた「梨」「棗」「黍」「粟」「葛」「葵」といふ六種の植物名を詠み込んだものと思はれるから、題詞に詠數種物とあつて然るべきで、恐らくは之を脱したのであらう。
 
なしなつめ(成棗) 梨と棗との謂で、次句キミのミ(實)にいひかけたのである。古義は木實《キミ》、新考は黄實の枕詞としたが、キを隔てゝミ一音にかけることはサスタケのキミ(第六二頁)の例もあつて敢て奇とするに足らぬ。ナシは和名抄に果名也とあり、梨子〔右○〕の二字を充てゝ居るから、シは或は字音で、ナは「食」をいひ(第一五〇頁)、食用果實の意を以て命名せられたのかも知れぬ。
きみにあはつぎ(寸三二粟嗣) キミはキビ〔右○〕(黍)の原語で、ケ(禾)ミ(實)の轉呼であらう。――黄實(177)の謂とする「大言海」の説は從はれぬ。和名抄に赤黍及黒黍をそれぞれ阿賀岐岐〔右○〕比、久呂岐〔右○〕比と訓して居る所を見ると、キが黄を意味せぬことは明白である――アハ(粟)は其細粒が飛沫に似て居るから名を負うたのではあるまいか。アハ〔右○〕とアワ〔右○〕とに書きわけられて居るが、ハとワとが相通する例は少くはない。嗣は借字で、黍に次ぐに粟を以てすることを謂ひ、かねて君ニ逢フといふことをほのめかせたのである。代匠記以下君ニ逢續に言ひかけたものとし、新考は嗣〔右○〕を蒔〔右△〕の誤記としてアハマクと訓み、「逢はむことは」と解したが、アヒツギ(逢續)をアハ〔右○〕ツギとは言はず、黍と粟とを蒔くことを黍ニ〔右○〕粟マクといふのは今世の表現法で、此時代に用ひられたとは考へられぬ。加之それまで言うてしまうては、次句以下に興味がなくなるから、唯にほはせる程度に止めたものとすべきである。
はふくずの(延由〔右△〕葛乃) 舊訓ハフクズノとあるによれば、由〔右△〕は田の誤寫なること疑なく、類聚古集西本願寺本等には田〔右○〕とあり、クズに田葛の二字をあてた例は、本集第三、第十、第十二卷にもある。上句とのつゞき合がおぽつかないが、當時の水田耕作に於ては、最も肥沃なる新墾地には黍を植ゑ、之に次ぐに粟を以てし、古い燒畑は休耕して田葛の延ふに委せたものとも想像せられるから、作者及同時人の觀念では十分の聯絡がついて居り、唯後人が容易に想倒し得ぬまでゝあら(178)う。此は延フ葛ノヤウニといふ比況で、後モ逢ハムの枕詞に用ひたのである。サナカヅラといふ慣用語〔三二八〇〕をとることが出來なかつたのは、課題が田葛なるが故である。
のちもあはむと(後毛將相跡) 「後にも逢はうかと」といふ意。
あふひはなさく(葵花咲) 葵は和名抄蔬菜部菜類〔二字右○〕中に阿布比と訓し、味甘寒無毒者也とあり、本草和名には冬葵子に阿布比乃美といふ訓を與へて居る。即ち其葉を食用とした冬葵のことで、今もフユアフヒとよぴ、現在我々がアフヒと稱へて居る蜀葵即ちタチアフヒ又はオホアフヒのことではない。説文に黄葵常傾v葉向v日とあるにより、東雅以後アフヒは迎日の意と説いて居るが、雅澄も指摘したやうに、國語に於ては迎日はヒアフギといふべきで〔品物解〕、アフ(ギ)ヒとはならぬから、恐らくは葵(菜名)の韓語※[ハングルでアウク]《アウク》の轉呼であらう。語尾のch(フ)音は、獨逸語に於けるが如く、ヒとも變化することがあり得る。逢フ日にいひかけたことは勿論である。
〔大意〕――初二句は「梨」「棗」「黍」「粟:の四物を取り入れた序――延ふ葛《クズ》のやうに後にも逢はうかと、逢日の名に負ふ葵花が咲く
 
獻2新田部親王1歌一首
 
(179)3835 勝間田之《カツマタノ》 池者我知《イケハアレシル》 蓮無《ハチスナシ》 然言君之《シカイフキミガ》 鬚無如之〔二字左△〕《ヒゲナキガゴト》
 
〔三八三五〕 かつまたの 池はあれ知る はちす無し 然《シカ》いふきみが ひげなきがごと
右或有人聞之曰(一)。新田部親王(二)。出遊于堵裡(三)。御見勝間田之池。感緒(四)御心之中。還自彼池不忍憐愛(五)。於時語婦人曰(六)。今日遊行見勝間田池。水彩濤々。蓬花灼々。可憐斷腸不可得言。爾乃婦人作此戯歌。專輙極吟詠也
右或人の聞けるは、新田部親王《ニヒタベノミコ》堵《ミヤコ》の裡《ウチ》に出で遊び、勝間田の池を見たまひて、御《ミ》心の中に感緒《メデ》たまひ、彼《ソ》の池より還りて愛憐《イトホシサ》に忍《タ》へず、時に婦人《オトジ》に語りたまはく、今日|遊行《イデアル》きて勝間田の池を見しに、水の影|濤々《ウネリ》、蓮の花|灼々《カガヤキ》、可憐《オモシロサ》斷腸《アハレサ》得いふべからずと、爾乃《スナハチ》婦人この戯の歌を作りて專輙《モハラ》吟詠《うた》ひきといふ
(一)或人有聞之曰の意(又は倒記)として聞ケルハと訓み、曰フは終末に移すことを可とする。
(二)天武天皇第七の皇子である。
(三)堵字義は垣であるが、先學が指摘したやうに、本集第一及第三卷にも「都」に通用して居る。恐らくは音を同じうするからであらう。
(四)古義は袖中抄によつて緒〔右○〕を諸〔右△〕と改め、コレの意としたが、本集には他にも感緒といふ熟字の用例があるから、(180)原文のまゝメデと訓すべきである。
(五)憐の字は類聚古集・西本願寺本以下には怜と改記してある。若し之に從ふとすればアハレサと訓む方がよい。
(六)婦人は舊訓の如くタヲヤメとも、或は古義に從うてヲミナとも訓み得られぬことはないが、夫〔右○〕人に通用したものと見て、オトジと訓むを可とする。オトジは大刀自の謂である。
かつまたの(勝間田之) 萬葉緯に引いた阿波風土記には勝間井といふ名稱の由來としで、櫛笥者勝間云也とあり、美作風土記にも日本式尊が櫛(笥の字脱か)を落し入れられたによつて勝間田池と號したといふ傳説を掲げ、筐をカツマと稱へた形跡もあるが(神代篇六−一六二頁)、田の限定又は修飾語としては櫛笥は不適當であるから、カツミ〔右○〕即ち菰草の生ひた田の謂ではないかと思ふ。古今集に「淺香の沼の花かつみ」とあるによつて、陸奥に限り生育するものゝやうに解するのは誤りで、本集第四卷に咲澤ニ生フル花勝見とある咲澤は、和名抄の大和國添下郡佐紀郷、即ち今の生駒郡|都跡《ミアト》村大字佐紀の溪流《サハ》(秋篠川)のことと思はれるから、大和に於ても菰草をカツミと稱へたものとせねばならぬ。朝鮮語でも薦(藉)を※[ハングルでカル]といひ、※[ハングルでカル]は國語に直せばカツ〔右○〕であるから、ミは恐らくはモ(藻)の轉呼であらう。
いけはあれしる(池者我知) 勝間田の池は枕草子にも見えるが、夙に廢《スタ》れたものゝやうで、現在其(181)名は殘つて居らぬ。大日本地名辭書に引用した勝地吐懷篇頭注に、近世藥師寺の傍の水田から勝間田池の斷碑を發堀したといふことであるから、藥師寺の所在地、即ち上記のサキ澤に近い今の都跡《ミアト》村大字六條砂村に此名の池が存したのであらう。其は古の右京七條三坊にあたり、左注に堵裡(都内)とあるにも一致する。以上二句は勝間田の池は自分も知つて居るといふ意である。
はちすなし(蓮無) ハチスは既述の如く蓮子の謂であるが、此はこの植物の名として用ひたのである。しかるに左注に蓮花灼々とあるので、ハチスナシは反語なりと解したものもあるが、左注は?々述べたやうに後人の手になつたものであるから、信憑するに足らず、恐らくは臆測を以て文飾したので、事實は此歌の如く蓮はなかつたのであらう。カツマタといふ地名から推察するに、池中にも花カツミが茂生して居たものと思はれる。此は皇子が今日蓮を見て來たと言はれたのに對し、いやさうではございますまい。そんじよ其處らの美しい花を御覽になつたのでせう。勝間田池は私も知つて居りますが、蓮は生ひては居りませぬと、嫉妬の情をもらしたものと解す可きである。
しかいふきみが(然言君之) 蓮が咲いて居たと言はれる皇子がといふ意。
ひげなきがごと(鬢無如之〔二字右△〕) 舊訓による。鬢は説文に頬髪也とあり、釋名に在頬耳穿曰髯、其上連(182)髪曰鬢とあるが、ビンといふ字音が國語化する以前には、之も亦ヒゲと稱へられたことは有り得べく、原義はホ(頬)ケ(毛)と思はれる。但し之は特に鬢をさしたのではなく、面毛即ち須の代りに用ひたので、西本願寺本に鬚と改記したのは賢しらではあるまいか。無如之はナキゴトシ〔代〕ナキガ如シ〔略〕と改訓せられて居るが、さうすると第三句をも蓮ナキハ〔二字右○〕と言はねばならぬから、新考説の如く如之〔二字右△〕は之知〔二字右○〕の倒記とすべきである。皇子は無髯であつたから戯に之を比況としたのであらう。從來左注に捉はれて勝間田池は蓮花灼々たりしものと輕信した結果、ナシといふ語を説き惱み、有りの裏をいうたものとし、皇子の多髯をヒゲナシと戯れたのであると牽強して居るが、假に黒いものをわざと白といひ、よく見えるのにちつとも見えないと空とぼけるやうな話語が此當時にも流行したとしても、其にはおのづから語氣といふものがあり、單にアリをナシと言ひかへればよいのではない。加之此歌の第三句を蓮アリ、末句を鬚アルガゴトの意としては、何の興趣もなく、傳誦の價値ある歌とは考へられぬ。されば上記の如く此池に蓮がなかつたのは事實で、物もあらうに之を皇子の無髯にたとへたのは、極めて親狎の間がらなるが故に、無遠慮に揶揄したのであらう。案ずるに皇子が花カツミを蓮花と誤認せられたのか、或は夫人の推察の通り、其は籍口に過ぎず、實は物いふ花を觀賞せられたのであるかも知れぬ。
(183)〔大意〕勝間田の池は妾も知つて居るが、蓮はない。さう仰せられる皇子にお鬚がないやうに
 
夢2佞人1歌一首
 
3836 奈良山乃《ナラヤマノ》 兒手柏之《コノテカシハノ》 兩面爾〔左▲〕《フタオモテ》 左毛右毛《カニモカクニモ》 佞人之友《ネヂケビトノトモ》
 
〔三八三六〕 なら山の このて柏の ふたおもて かにもかくにも ねぢけ人のとも
 右歌一首)博士消〔右△〕奈(一)行文大夫作之
 
 右の歌|一首《ヒトツ》は、博士背奈行文《ハカセセナユキフム》の大夫《マヘツキミ》之を作る。
(一)國史には背〔右○〕奈とあるから、略解説の如く消〔右△〕は誤記であらう。類聚古集には清と書かれて居るが、本集には之をセの假字に用ひた例はなく、消は決してセと發音することが出來ぬ。行文は高麗王族で、同國滅亡後父福徳皇朝に歸化し、背奈公といふ姓を給はつた。恐らくは歸化の當時、駿河國廬原郡西奈郷〔和〕に收容せられたからであらう。契沖以下が「奈」の下に公の字脱としたのは無稽で、第四卷に藤原麻呂大夫〔二字右○〕とあるやうに、マヘツキミ(卿)といふ敬稱を添へた場合には、カバネを略するのが本集の書例である。この人は養老五年に明經第二博士に召され、從五位下大學助に進んだ。
 
ならやまの(奈良山乃) 奈良の北に接し、山城との境をなす一帶の山地をいふ。
(184)このてかしはの(兒手柏之) コノテカシハは貝原益軒以來側柏の稱とし、今もこの名を用ひて居るが、其木は兒の手といふ語を以て形容するには適當せぬから、別物と思はれる。字鏡、本草和名、和名抄等には見えぬが、本集第二十卷にも千葉の野のコノテカシハと用ひた例があり、相模集には箱根權現と題して、「二方に我この神を祈るかなコノテカシハの平手たゝきて」とあるから、此名の植物の存したことは疑がない。然るに夙に其實物について異論を生じたと見え、略解によれば、能因法師の「歌枕」には、かしはをこのてがしはと言ふ、ひらでともいふとある由であるが、今いふカシハ(?)を意味するものとも思はれない。カシハは本來種名ではなく、カシ即ち炊事に用ひる樹葉の謂であるから、?以外のものをも包含することは勿論で、コノテカシハを大トチなりとする袖中抄の記事が當を得て居るやうである。同書によれば範長朝臣といふ人が、大和守として赴任の途中、奈良坂の邊に於て、白い花の密攅して居るのを、伴廻りの人が見て、美事に咲いたコノテカシハぢやというたのを聞きつけ、馬を駐めて尋ねた所が、それは大トチといふもので、其葉が子供の手のやうであるから、此國ではコノテカシハと呼ぶと答へたとある(大意)。實際トチノキ(七葉樹)の葉は掌状複葉で、兩面色を異にするから、此歌の趣にもよく合致する。本集の植物については近時大に考證が進んだやうであるから、既に世に知られて居ることゝは思ふ(185)が、私は專ら言語から考へて敢て之を斷定するのである。
ふたおもて(兩面爾〔右▲〕) 字によればフタオモニ〔右○〕であらねばならず、仙覺本その他にもさう訓してあるが、其は副詞形であるから、必然被修飾語を要する。然るに前後各句中どこにも之を見出し得ぬ所を見ると、上二句は比況的序で、眞淵説の如く爾〔右▲〕を衍としてフタオモテと訓むの外はない。此葉は兩面甚しく相違するものであるから、表裏のあることに譬へたのであらう。
かにもかくにも(左毛右毛) 左右は會意字で、彼《カ》ニモ斯《カ》クニモ即ち孰れにしてもといふ意である、
ねぢけびとのとも(佞人之友) ネヂケはネヂ(捩)の形容詞形で、本集及紀記にはこの外に用例がないが、其形から見ると古言であらう。佞をアシケ(眞淵)、又はコビ(宣長)と訓むのは、餘りに字義を離れすぎて居る。舊訓はネジケビトカモとあるが、之友をカモの假字とすることは無理であるから、略解に從ひ、佞人の輩〔右○〕の意としてノトモ〔二字右○〕と唱ふべきである。新考が爾有の誤記としたのは根據のない臆測に過ぎぬ。
〔大意〕奈良山の兒手柏のやうに表裏があり、孰れにしても佞人の輩であるよ
 
久堅之《ヒサカタノ》 雨毛落奴可《アメモフラヌカ》 蓮荷爾《ハチスバニ》 渟在水乃《タマレルミヅノ》 玉爾似將〔左△〕有見《タマニニタルミム》
 
(186)〔三八三七〕 ひさかたの 雨もふらぬか はちす葉に たまれる水の 玉に似たる見む
 右歌一首傳云。有右兵衛【姓氏未詳】。多能歌作之藝也。于時府家備設酒食。饗宴府官人等。於是饌食盛之。皆用荷葉。諸人酒酣。謌舞駱驛(一)。乃誘兵衛云。開〔右△〕其(二)荷葉而作此〔右▲〕歌(三)者。登時應聲作斯歌也
 右の歌|一首《ヒトツ》は傳へいふ。右の兵衛《ツハモノトネリ》あり。姓氏《ウヂカバネ》を詳《シ》らず。多く歌作《ウタツクリ》の藝に能《タヘ》たり。時に府家《カミ》酒食〔二字左傍線〕を備へ設け、府〔左傍線〕の官人《ツカサヒト》を饗宴《アヘ》き。こゝに饌食を盛るに皆|荷葉《ハチスバ》を用ふ。諸人《モロヒト》酒酣にして謌舞駱驛《ウタヒマヒアヒツギ》き。乃ち兵衛《トネリ》を誘ひて云はく、その荷葉《ハチスバ》に關けて歌を作れといふ。登時《スナハチ》聲に應〔左傍線〕じてこの歌を作りき
(一)駱驛は絡繹に通ず〔後漢書〕。
(二)開〔右△〕の字温故堂本に關〔右○〕とあるによる。
(三)此〔右△〕は衍字であらねばならぬ。
 
ひさかたの(久堅之) ヒ(日)サ(射)カタ(方)ノ(之)の謂で、天《アメ》の枕詞であるが、同音なるが故にアメ(雨)に冠せられたのである。
あめもふらぬか(雨毛落奴可) ヌカはネ〔〔右○〕カの轉呼で、ネは希望表示、カは感動詞であるから、雨も降れよかしといふ意になるのである。
(187)はちすばに(蓮荷爾) 上述の如く蓮はハスノミ〔右○〕、荷はハスのハナ〔二字右○〕の義であるから〔三八二六〕、この二字を連ねてハチスバ〔右○〕と訓むべき理由はなく、蓮葉または荷葉と表記せねばならない。之を誤寫と斷定する證跡はないが、左注に荷葉〔二字右○〕とある所を見ると、原文も其やうに書かれて居たのかも知れぬ。
たまれるみづの(渟在水乃)
たまににたるみむ(玉爾似將有〔二字右△〕見) 類聚古集には爾の字が除かれて居るので、新訓は似をニ〔右○〕の假字として玉ニアラム見ムと改訓して居るが、縱ひ語法上では誤でないとしても、舊訓の玉ニ似ム見ムと同じく、決して優雅な吟調とはいへぬ。若し類聚古集に從ふとすれば、玉ナスアリ見ムと唱ふべきで、アリはアリ立ツ、アリ待ツの如く接頭的にも用ひられるから、玉の如き(を)見むといふ意とも了解せられるが、仙覺本の原文によれば、眞淵説の如く將有を轉倒として、玉ニ似タル見ムと訓むのが最も適切であらう。似タルは似テアルの約で、完了事項の現存を意味し、まだ雨の降らぬ前の歌としては、聊か時格が相違するやうであるが、上句にもタマレル(溜リアル)とあり、降雨の後の光景を想像して詠じたものとすれば、さのみ尤むべきことではない。
〔大意〕雨も降れかし、蓮の葉に溜つて居る水が玉に似たのを見よう
 
(188)無2心所1v著歌二首
 
無心所著歌については、古義は契沖説により、濱成式の雜會體なりとして、詳に考證して居るが、新考説の如く、左注に無所由之歌とあるに同じく、態と捉へ所のないやうに詠じたものをいひ、後世天狗俳諧といふものを作つて笑ひ興ずると同樣の遊戯であらう。文學としては外道であるが、ウタといふものゝ本旨が、其語義の示すが如く(古語大辭典參照)、面白いことにあるのであるから、此やうな坐興も催されたので、後世の和歌を以て律すべきではない。
 
3838 吾妹兒之《ワギモコガ》 額爾生流《ヒタヒニオフル》 雙六乃《スグロクノ》 事負乃牛之《コトヒノウシノ》 倉上之瘡《クラノウヘノカサ》
 
〔三八三八〕 わぎもこが ひたひに生ふる すぐろくの ことひの牛の くらの上のかさ
 
わぎもこが(吾妹兒之) ワギモコは親善なる女子に對する呼稱。
ひたひにおふる(額爾生流) 和名抄形體部頭面類には額を比太比と訓し、又調度部容飾具に釋名云蔽髪 比太飛 蔽2髪前1爲v飾とあるから、前髪又は其一部分の謂なることは明白で、恐らくは韓語|※[ハングルでピッ]《ピト》(櫛)から導かれた語であらう。前髪がヌカカミとも稱へられたことは、同書形體部毛髪類の※[髪の友が首]の條下によつても明白であり、古典に於ては額の字は多くヌカと訓ませてある所を見ると、ヒタヒ(189)は恐らくは第二次的輸入語であらう。さりながら其故を以て此額をもヌカと改訓し、生流の二字を(新考は生の下に有を補ひ)オヒタル〔二字傍点〕とよむのは誤りで、オヒタルといへば上記の如く、其事態が現存することになるから、無心所著の本意に叶はぬ。
すぐろくの(雙六乃) スグロクについては既に上に述べた(第一五六頁)。「吾妹子の額に生ふる」といへば、何人も次に「髪」もしくは之に類する語の來ることを期待するのに、何の縁もない雙六をもち來つて意表に出でたのである。
ことひのうしの(事負乃牛之) 和名抄に辨色立成云特牛、俗語云2古止比1頭大牛也とあるが、特は漢鮮玉篇に※[ハングルでソ](牛)※[ハングルでハン](一)※[ハングルでピル](匹)と訓し、一牲獨也と釋せられて居る所を見ると、一匹の牛といふ義もあつたらしいから、群生に對する獨生の意を以て、コト(特)オヒ(生)といふ名を負はせたのかも知れぬ。宣長が殊負の義とし、雅澄がココダモノオヒの約言としたのは無稽で、負荷量の多少によつて命名したのではあるまい。今も方言ではコツトヒといひ、專ら牡牛の義と了解せられて居る。雙六と特牛との間には勿論何の關係もない。
くらのうへのかさ(倉上之瘡) 倉は借字で、鞍《クラ》の謂であらねばならぬ。瘡は鞍下に生ずるものであるのに、クラの上とした所がとぼけて居るのである。カサは今では花柳病性皮膚病の謂と了解せ(190)られて居るが、本來クサ(臭)から轉化した語で、腫物は化膿すると臭氣を發するから、此名を負はせたのである。クサの形に於ては本集第六卷にもクサ〔二字右○〕ツツミ疾アラセズと詠まれて居る。
 この歌には一貫した意味がないのであるから、大意を擧示することも不可能である。之を要するに「吾妹子のひたひに生ふる」「雙六」「ことひ牛の鞍」「かさ」といふ語句を、思ひも寄らぬ突飛な樣式を以て並列したに過ぎぬ。
 
3839 吾見子之《ワガセコガ》 犢鼻爾爲流《タブサキニスル》 都夫禮石之《ツブレイシノ》 吉野乃山爾《ヨシノノヤマニ》 水魚曾懸有《ヒヲゾサガレル》 懸有反云佐家禮流
 
〔三八三九〕 わがせこが たぶさきにする つぶれ石の 吉野の山に ひをぞさがれる
 
わがせこが(吾兄子之) ワガセコは右のワギモコに對立する語で、女性から昵近の男子を呼びかけるに用ひられた。
たぶさきにする(犢鼻爾爲流) 犢鼻は神代紀にもタブサキと訓せられ、漢籍に在つては史記の司馬相如傳を初見とし、自著2犢鼻褌〔右○〕1とあり、後世之に從うて多くは褌の字をそへて用ひるが、晋書阮成傳には咸以v竿挂2大布犢鼻1と見え、其他錢神論、呉越春秋等にも單に犢鼻とした例のある所を見ると〔韻府〕、本來二字名の品物とすべく、字義に即しては意味をなさぬから、原名の音を寫(191)したものと思はれる。――南山經の注に蝮の一名を反鼻といふとあるのも、ヘビ(蛇)の原語の寫音である――恐らくはトピに近く發音し(韓音※[ハングルでトクピ]《トクピ》)、國語タブサキのタブと語源を同うするのであらう。然るに彼土にあつては褌の字を連ねて意を補うた爲、犢鼻を褌の限定又は形容語と誤解するものを生じ、字によつて牽強説をたて、朝鮮に於ても之を直譯して※[ハングルでセコチャンパンイ](牛の鼻褌)と稱へて居るが、國語のタブには其やうな意味はない。案ずるにタブはタブの木またはタブクスと呼ばれる樟科喬木の名稱で、其木の皮を裂き取り、敲き柔げて作つた原始的布片、即ちタクヌノ(拷布)をもタブと稱へたのであらう。――ポリネシア語ではタパといふ――今のタビ(足袋)といふ語も、本初此材料を以て製したが故に、其名を負うたのではあるまいか。若し然りとすればタブサキも亦、タブ樹皮を裂〔右○〕いて作つた裳といふ意で、南方島民間には此やうな褌を用ひた形跡が顯著であるから(ミクロネシア民族誌第四一一頁以下)、或は上古彼等によつて其名稱と共に我國にも支那にも將來せられたのかも知れぬ。和名抄は楊氏漢語抄を引いて、※[衣+松]子は毛乃之太乃太不佐岐〔四字右○〕一云水子と記し、字鏡には?にタブサキといふ訓を與へてあるが、※[衣+松]及?は字書によれば褌又は袴の一種の名で、犢鼻のことではなく、――但し朝鮮では?を犢鼻褌の略字と解して居るやうである――タブサキを手塞または股塞の義とするが如きは、無稽の甚しきものである。
(192)つぶれいしの(都夫禮石之) ツブレは先學の説の如くツブラ(圓)の轉呼であらう。圓石はタブサキになるものではないから、態と取りあはせたので、とりとめのない事を言ふのが目的であるからである。
よしののやまに(吉野乃山爾) ヨシヌと訓んでもよい。
ひをぞさがれる(氷魚曾懸有) 和名抄に※[魚+小](ハ)白小、魚名也、似2※[魚+白]魚《シラウヲ》1、長一二寸者也とし、俗云2氷魚1是也とある。白魚の一種であるが、琵琶湖に産するものを今も特に此名を以て呼んで居る。ヲは漢字魚の朝鮮音であるが、ヒの原義は尚之を詳にせぬ。懸をサガリと訓ませることは、古事記の玉垣宮(垂仁)の懸木(サガリキ)の例もある。
 此歌も亦勿論まとまつた意味はなく、唯おもひがけぬ語句をつゞけだと云ふに過ぎず、終に次の如き注文がある。
 右歌者。舍人親王(一)令侍座曰。或有作無〔右○〕所由之歌人者。賜以錢帛。于時大舍人安倍朝臣子祖父乃(二)作斯歌獻上。登時以所募物錢二千文給之也
 右の歌は、舍人(ノ)親王《ミコ》侍座《オモトヒト》に令《オフ》せたまはく、或《モシ》由る所なき歌を作る人のあらば、賜ふに餞帛《セニキヌ》を以てせんとのりたまふ。時に大舍人阿倍朝臣|子祖父《コオヂ》、乃ち斯の歌を作りて獻上《タテマツ》る。登時《スナハチ》募れる(193)物錢二千文を以て之に給ひき
 (一)舍人親王は天武天皇の第三皇子で、淳仁天皇の御父なるが故に御謚を崇道盡敬天皇と申上げる。養老二年知太政官事に任せられ、天平七年に薨去せられた。
 (二)官暦を詳にせぬ。或は大寶三年に武藏守に任ぜられた引田朝臣祖父(慶雲元年阿部朝臣と改姓)と同人なりとするものもあるが、武藏守から大舍人に轉任することは有り得ぬから、假に其人が大舍人に奉仕したことがあつたとしても、其は大寶以前で、まだ阿倍朝臣と名乘らなかつた時のことゝせねばならぬ。されば此は別人なること疑なく、恐らくは右のオチ(祖父)の子で、父の名を繼承してコ(小)オチと稱したのであらう。
 
池田朝臣|嗤《アザケル》2大神朝臣奥守1歌一首 池田朝臣名忘失也 
 
3840 寺寺之《テラテラノ》 女餓鬼申久《メガキマヲサク》 大神乃《オホミワノ》 男餓鬼被給而《ヲガキタバリテ》 其子將播《ソノコタネマカム》
 
〔三八四〇〕 寺々の 女がき申さく 大三輪の 男がきたばりて その子たねまかむ〔五字右○〕
 
てらてらの(寺寺之) 語原を詳にせぬが、ヲラは今の朝鮮語※[ハングルでチョル]《チヨル》(僧房)と同語と思はれる。我國に於ては廣く伽藍寺院等の意に用ひられて居る。
めがきまをさく(女餓鬼申久) 餓鬼は佛道にいふ三途の一で、常に飢餓に苦しみ、刀杖の苛責を受ける有情と説かれて居る。其雌を女餓鬼というたので、寺院に居るものとは限らぬが、此ころに(194)は壁畫などに之を描き、若くは木彫に其形を寫したものがあつたと見え、契沖が指摘したやうに本集第四卷笠女郎の歌にも、「大寺の餓鬼のしりへにぬかづく如し」とあるのである。マヲサクは申スコトといふ意。
おほみわの(大神乃) 大神は大三輪とも表記せられ、崇神朝の人大田田禰古の後と傳へられて居る〔舊〕。大は美稱、ミワは大物壬の神廟(ミワ)所在地に負はせた地名で、今も大和國磯城郡三輪町に其名を存する。大神とかくのは、ミワといへば即ち大物主神〔右○〕と了解せられるほど有名な社であつたからで、神の字にミワの義があるのではない。奧守は天平寶字八年に從五位下に敍せられた人であるから〔續紀〕、この歌も奈良朝末期の作であらう。
をがきたばりて(男餓鬼被給而) 大神朝臣奧守は非常に瘠せた人であつたので、餓鬼に況へて嘲つたのである。給ハリを急呼してタバリと稱へたことは既に上に述べた(第五〇頁)。
そのこたねまかむ〔五字右○〕(其子將播) 舊訓ハラマムとあり、拾穗抄は之に基いて播の下に良の字を加へたが、契沖は之を否とし、紀に産兒、蕃息、殖焉等をウマハリ又はウマハルと訓したのに準じてウマハムと訓み、略解以下之に從うた。さりながらウマハリが動詞ウミ(産)の進行格形ウマヒにアリを連結したものとすれば、當然自動詞で、この場合には不適當であるから、少くともその他動詞(195)(作爲動詞)形ウマハシ〔右○〕を用ひねばならぬ。此語は靈異記中卷に一例を見るのみで、利の字の訓とせられて居るが、其は利殖〔右○〕の意であるから、増殖をもウマハシといひ得ることは勿論である。更に案ずるに、假にウマハサムといふ形態が存立するにしても、之を將播〔右○〕と表記すべき理由がないから、別に字義に相當する訓があつたのかも知れぬ。播は字書に種〔右○〕也とあるやうに、タネマクといふ意があるから、或は其訓を借りて子種|求《マ》カムに充てたのではあるまいか。若し然りとすれば大神朝臣を給はつて典型的な餓鬼の子種を求めようといふ意と了解せられる。舊訓ハラマムも決して多産蕃息を意味するのではない。ソノコタネマカムといふと一音が剰るけれど、ハラマム、ウマハムの二訓に滿足することが出來ぬから、敢て改訓を試みたのである。
〔大意〕寺々の女餓鬼が申すことには、大三輪の男餓鬼を貰つて其子種を求めよう(と申す)
 
大神朝臣奥守|報《コタヘ》嗤歌一首
 
3841 佛造《ホトケツクル》 眞朱不足者《アカニタラズバ》 水渟《ミヅタマル》 池田乃阿曾我《イケダノアソガ》 鼻上乎穿禮《ハナノウヘヲホレ》
 
〔三八四一〕 ほとけつくる あか土《ニ》たらずば 水たまる 池田のあそが 鼻の上をほれ
 
ほとけつくる(佛造) 舊訓による。紀にも佛及三寶をホトケと訓してあるが、此語は本來智者また(196)は覺者を意味する梵語ブツドハ(佛陀)から出たもので、單にブツ(佛)とも稱へる。ホトはブツの轉呼であらうが、これにケといふ音をそへた理由については異説區々で肯定するに足るものがない。試にいへば、朝鮮語でも之を※[ハングルでプチョ〔入力者注、ハングルではプルチョだろう〕](佛處〔右○〕)と稱へるから、ホトケも或は浮屠處《フトカ》の謂であつたのではあるまいか。但し此語が當時ブツよりも弘く用ひられて居たかは疑問で、靈異記にも此訓は見えず、新撰字鏡及和名抄にも擧げられて居らぬ所を見ると、此歌に於ても或はブツツクルと誦へたのかも知れぬ。
あかにたらずば(眞朱不足者) 舊訓に從ふ。略解は眞朱をマソボと改訓し、或はマハニと訓むべしと注して居るが、ソボ又はハニに朱の字を充てる理由がない。之に反し丹の字は常にニの假字に用ひられて居るから、同義語の朱を以て之に代へたことは有り得べきであるが、ニの原義は土石で、アヲニ〔右○〕と呼ばれる塗料もあるから、眞の赤土即ちアカニ〔三字右○〕を眞朱と略書したのは決して不當でない。ハニは本來ヘ(容器)を製するニ(土)即ち粘土の意なるが故に、之を用ひたとすれば、此佛は土偶であらねはならず、マソボは〔三五六〇〕の用例によると、鉛丹または辰砂をいふものゝやうであるから、漆に加へて使用したものと解釋することも出來るが、此は木彫に赭土を以て彩色することを言ふものと見る方が妥當で、いづれにしても舊訓を非とすべき理由がない。
(197)みづたまる(水渟) 池の修飾的枕詞である。
いけだのあそが(池田乃阿曾我) 池田朝臣は豐城入彦命十世の孫佐太公の後で〔姓〕、本初のカバネはキミ(君)であつたが、天武朝朝臣に昇格したのである。名忘失也とあるが、雅澄説の如く、東夷征討副將として敗軍の故を以て朝譴を蒙つた池田朝臣|眞枚《マヒラ》のことであらう。奥守と同じく天平寶字八年に從五位下を授けられて居るから〔續紀〕、儕輩であつたことは疑がない。朝臣《アソミ》は本來アソオミの約であるから、略してアソとのみも稱へたものと思はれる。アソはアセ(吾兄)から轉化した語であるが、武内宿禰をウチのアソと稱へたやうに〔神功紀及仁徳紀〕、貴族の呼稱にも用ひられたのである。之を朝臣といふカバネとは無關係として、吾兄子《アセコ》〔古義〕または吾兄〔新考〕の約とするのは承服の出來ぬ説で、吾兄子は上掲の歌にも明徴があるやうに、此當時は常にワガセコと稱へてアソとは言はず、新考が例證とした星の神香香背男は、決して輝く兄男の謂ではなく、カガシヲ(耀石男《カガシヲ》)の轉呼で、カガシはホシ(火石)と同義語である。――「紀記論究」第一篇第五卷一四一頁參照。
はなのうへをほれ(鼻上乎穿禮) 上の字はへの假字にも用ひられるが、其は邊を意味し、ウヘとは同義語ではなく、古語では之を混用するやうなことはなかつた。この歌に於ては鼻のウヘ(上)で(198)も鼻のへ(邊)でも意は通ずるが、其やうな場合には舊訓を尊重すべきで、賂解及古義が漫然改訓したのは穩當でない。此朝臣は赤鼻即ち酒※[さんずい+査]鼻《スサビ》であつたので、之を揶揄したのであらう。
〔大意〕佛を造る赭土が不足なら、池田朝臣の鼻の上を掘れ
 
或云
 
平群朝臣嗤歌一首
 
3842 小兒等《ワラハドモ》 草者勿苅《クサハナカリソ》 八穗蓼乎《ヤホタデヲ》 穗積乃阿曾我《ホヅミノアソガ》 腋草乎可禮《ワキクサヲカレ》
 
〔三八四二〕 わらはども 草はな刈りそ 彌穗《ヤホ》たでを 穗づみのあそが 腋くさをかれ
 
わらはども(小兒等) 契沖訓に從ふ。舊訓はワラハベモとあるが、上掲の湯和可世子等(第一四六頁)の例に準じ、ワラハドモ〔二字右○〕と訓み、僮の意とすべきである。古義がワクコドモと改訓したのは、ワクコといふ語の用例を無親し、之を小兒の謂と解した爲であらうが、蕘童をワクコと呼ぶが如きことは有り得ぬ。
くさはなかりそ(草者勿苅) 草をば苅るなといふ意。
やほたでを(八穗蓼乎) 蓼は本草和名以下多天と訓して居るが、原義原語を詳にせぬ。ヤホは彌穗(199)で、穗の多いことをいひ、之を積むといふ意を以てホヅミに言ひかけた序的枕詞である、第十三卷にも水蓼穗積と用ひた例がある。
ほづみのあそが(穗積乃阿曾我) 穗積朝臣の租は鬱色雄命〔紀〕〔記〕または大水口宿禰〔舊〕〔姓〕とあり、物部連と同一系の舊氏で、古義は此朝臣を天平九年外從五位下を授けられ、同十八年從五位下内藏頭に任ぜられた穗積老人であらうと考定した。アソは上記の如く朝臣の略稱である。
わきくさをかれ(腋草乎可禮) 草と臭とは同音であるから言ひかけたので、穗積胡臣のワキクサは腋臭即ち今いふワキガである。此人は之を患うて居たのであらう。
〔大意〕僮《ワラベ》たち草を苅るな(其よりも)穗積の朝臣の腋臭《ワキクサ》をかれ
 
穗積朝臣|和《コタフル》歌一首
 
3843 何所曾《イヅコニゾ》 眞朱穿岳《アカニホルヲカ》 薦疊《コモタタミ》 平羣乃阿曾我《ヘグリノアソガ》 鼻上乎穿禮《ハナノウヘヲホレ》
 
〔三八四三〕 いづこにぞ あかにほる岡 こもたたみ 平群のあそが 鼻のうへを掘れ
 
いづこにぞ(何所曾) 拾穗抄の訓に從ふ。仙覺本にイト〔右△〕コニゾとあるのは誤記又は訛傳ではあるまいか。此は次句と倒敍したので、眞朱をほる岡は何處ニゾ(アル)といふのであるから、助語ニを(200)訓み添へることは不當でない。古義はニを除いて殊さらに四音に讀んだが、其は理由のないことで、ことに毛の字脱としてイヅクゾモと訓めといふ新考説は肯定しがたい。口語でも此場合には何處ゾニ〔右○〕又は何處カニ〔右○〕といふのが普通で、何處ゾ(又は何處カ)としても意は通ずるが、助語ニを過剰なりとすることは出來ぬ。
あかにほるをか(眞朱穿岳) 舊訓による。眞朱をアカニと訓むべき理由は既に述べた。上記の如く初句と倒敍せられたのであるから、之を以て一段落とし、以下三句は之に對する答と了解すべきである。
こもたたみ(薦疊) 景行紀(記)の思邦歌にはタタミコモ〔五字右○〕平群ノ山とあり、本集第十一卷及十二卷に疊薦と表記せられたものと同一物であるが、語排列の序次の相反して居るのは、兩横成分子の語義が變遷したからである。タタミはタ(手)アミ(編)のアが順同化によつてタと變化したものゝやうで、本來工作樣式を意味したのであるが、編んで作つた敷物の名となり、コモはケ(著)モ(裳)の轉呼で、服装具の謂であつたが、衾褥用にも供せられたので薦の謂となり、再轉して其材料たる蒋(菰)草の名稱となつたのである。さればタタミコモといふ複合語に在つては、原義によりコモが品名で、タタミは其工作樣式の表示であるが、コモタタミに於てはコモを原料名として疊の(201)限定語に用ひて居る。此歌及後出〔三八八五〕の八重疊平羣乃山によつて察するに、奈良朝に於てはタタミもコモも轉義の方が主となり、原義は忘れられんとして居たものと思はれる。孰れにしてもへ(縁)一音にかゝる枕詞で、タタミは縁を取つけて繊維の解亂を防止したからであらう。
へぐりのあそが(平羣乃阿曾我) 平群朝臣は武内宿禰の後裔で、大和の平群(今の生駒郡の一部分)を本貫とした名族であるが、此人は古義説の如く、天平九年外從五位下に敍せられ、從四位上武藏守まで昇進した平群朝臣廣成のことであらう。
はなのうへをほれ(鼻上乎穿禮) 既出
〔大意〕眞朱《アカニ》(赭土)を掘る岡は何處にあるか。平群の朝臣の鼻の上をほれ
 
嗤2咲黒色1歌一首
 
3844 烏玉之《ヌバタマノ》 斐太力大黒《ヒダノオホクロ》 毎見《ミルゴトニ》 巨勢乃小黒之《コセノヲグロシ》 所念可聞《オモホユルカモ》
〔三八四日〕 ぬばたまの ひだの大くろ 見るごとに 巨勢のをぐろし おもほゆるかも
 
ぬばたまの(烏玉之) 黒の枕詞で(第九五頁)、此歌では「斐太乃大」を隔てゝかゝつて居る。
ひだのおほくろ(斐太乃大黒) 左注によれば巨勢斐太朝臣某といふものゝ面色畏きことをいふもの(202)とせねばならぬが、新考説の如く、此は飛騨産の大黒駒を意味したのであらう。此國に馬牧が存したといふ明徴はないが、國名に飛騨〔二字右○〕の字をあてたのも、駿馬を産出したからではあるまいか。字書に野馬を騨〔右○〕?といふとある。當時音に聞えた黒駒があつたので、其を見る毎に巨勢朝臣豐人の色の黒いことが思ひ出されると揶揄したものと解すべきである。嘲られた相手が豐人一人であつたればこそ、應酬もまた同一人によつてなされたので、其歌に造駒云々とあるのを見ても、馬に況へたのに對し、駒を以て應じたものなること疑なく、其は契沖も氣づいたことであるが、尚左注に捉はれて居る。傳云とある記事の必しも信ずべからざることは、既に?々述べた通りで、此も偶々巨勢斐太〔二字右○〕朝臣といふ氏があるので、後人が牽強したものと思はれる。色の黒い人を見て他の色の黒い人を思ひ出したといふのでは、歌の興趣がない。
みるごとに(毎見)
こせのをぐろし(巨勢乃小黒之) 左注によれば巨勢朝臣豐人をいひ、色が黒いからクロと綽名せられたものゝやうで、ヲ(小)は上句のオホ(大)に對立させる爲に用ひられた文飾的接頭語と思はれる。豐人の傳は詳でないが、當時大舍人であつたといひ、正月《ムツキ》麻呂といふ幼名を以て呼ばれたとある所を見ると、まだ若年で、大舍人寮に勤務して居たのであらう。ムツキ麻呂といふ名は、正(203)月に生れたから負はせたものとも釋明することが出來るが、或は正月は借字で襁褓を意味するムツキ(第三三頁)の謂であるかも知れぬ。上代に於では幼名にはクソ(尿)、ホド(陰)または後記のシビの如く、穢語を選ぶ風習が存したものゝやうで、――恐らくは厭勝の爲であらう――成人に及び佳名にかへることを例としたが、儕輩の間に於ては、今も尚然るやうに、互に幼名を以て呼稱したものと思はれる。
おもほゆるかも(所念可聞) 思ハレルカナ即ち思ひ出すよといふのである。
〔大意〕飛騨の大黒駒を見るごとに、巨勢の小黒が思ひ出されるよ
 
答歌一首
 
3845 造駒《コマツクル》 土師乃志婢麻呂《ハジノシビマロ》 白爾有者《シロニアレバ》 諾欲將有《ウベホシカラム》 其黒色乎《ソノクロイロヲ》
 
〔三八四五〕 駒つくる 土師のしび麻呂 白にあれば うべほしからむ その黒色を
 
こまつくる(造駒) 此駒は土馬を意味し、副葬具として土師部氏が製作するものであるから、侮蔑の意を含めた修飾的枕詞として用ひ、同時に贈歌の斐太の大黒(駒)に對應したのである。
はじのしびまろ(土師乃志婢麻呂) 左注によれば志婢麻呂は大舍人土師宿禰水通の字とある。土師(204)氏の祖先は野見宿禰で、垂仁朝埴輪を獻上した功により、土師臣の姓を賜はり、――のち連と改稱し、天武朝宿禰に昇格した――土部の職に任じ、皇室の葬事を管掌した。ハジはハニ(粘土)シ(爲)の連濁で、粘土加工即ち陶工の義であるが、連家は其部民の首長であるから、自身工作に手を下したのではなく、民部制度廢止後は、名義だけを保有したに過ぎず、此人もまた巨勢朝臣豐人と同じく、大舍人寮に勤務したのである。シビ麻呂のシビはツビ(玉門)の原語で、今も沖繩語ではチビ(尻の意に用ひる)、朝鮮語ではシプ(※[ハングルでシプ])といひ、ホド(陰)といふに同じく、上記の如く厭勝の目的を以て號けられた幼名であるが(古代歌謠下卷一九八頁參照)、惡罵の歌なるが故に、特に之を詠み入れたものと思はれる、此は次句以下にも關係のあることである。
しろにあれば(白爾有者) 舊訓による。白ナルが故にといふ意であるが、シロニ〔右○〕(白土)にもきかせたのであるから、連約せぬ方がよい。類聚古集に白久〔右△〕とあるに從うて、古義がシロク〔右△〕アレバと改訓したのは、志婢麻呂の面色の白いことの謂なりとする契沖説に據つたものであらうが、色が生白いからというて、黒色顔料を要望するやうなことは、ネグロ人ならばいざ知らず、我朝に於ては前代未聞である。白クが形容詞の一活用形態なるに反し、白ニ〔右○〕アレバといへば白は名詞であらねばならぬが、何の白を意味するかを明示して居らぬから、先學も解き惱んだやうで、新考は之(205)を白馬の謂とした。さりながら其場合には上二句も志婢麻呂ガ造ルハニ駒とでもあるべきで、駒造ルといふ形式を以て主語を表示することは違格であるから、他に意味があつたものとせねばならぬ。私も色々に考慮した結果、漸く一案を得た。其はシロには素〔右○〕即ち無色の義があるから、上句シビといふ語から推測し、此人が陰部無毛または白毛であつたことを暗示したのであらうといふことで、或は當時此やうな體質をシロ又はシラと稱へたのではあるまいか。俗に之をカハラケ(土器)と稱するのも、素〔右○〕燒即ち無色の意から出たものゝやうである。右の外推古紀に白癩をシラ〔二字右○〕ハタケと訓し、和名抄には白瘢に之良〔二字右○〕波太といふ名を與へて居るから、之を略稱したものと見ることも可能であるが、下二句によれば尚黒毛〔右○〕を欲しがると解する方が興趣がある。或は典雅にあらずと考へるものもあらうが、他人の腋臭を※[言+干]いた歌をすら憚りもなく收録した所を見ると、編者がこの惡洒落を斥けなかつたことも敢て怪しむに足らぬ。
うべほしからむ(諾欲將有) 諾の字舊訓にはサモとあるが、ウベと訓むべきこと既述の通りである(第一三六頁)。欲しがるのは當然であるといふ意。
そのくろいろを(其黒色乎)
〔大意〕駒造りの土師のシビマロは白(耻毛異常)であるから、黒色を欲しがるのは當然である。
(206) 聊か卑猥にわたる嫌はあるが、右の如く解釋することによつて嘲罵が徹底し、馬に況へられた正月麻呂の鬱も之がために一度に散じたであらうと思はれる。從來この趣を解し得なかつたのは、言語學考證が幼稚であつた爲で、已むを得ぬことであるが、極めて判り易い贈歌をさへも、左注に捉はれて誤釋したのは遺憾とすべきで、獨り新考が其傳に誤謬のあることを指摘したのは卓見といはねばならぬ。左注には次の如く記されて居る。
  右歌者傳云。有大舍人士師宿禰水道(一)。字曰志婢麻呂也。於時大舍人巨勢朝臣豐人。字曰正月麻呂。與巨勢斐太朝臣。【名字忘之也。島△大(四)夫之男也】兩人並此彼貌黒色烏〔右△〕(五)。於是土師宿禰水通作斯歌嗤咲者。而巨勢朝臣豐人聞之。即作和歌酬咲也
  右の歌は傳へ云ふ。大舍人士帥宿禰|水通《ミミチ》、字を(二)志婢麻呂といひき。時に大舍人巨勢朝臣|豐人《トヨヒト》、字を正月麻呂といふ。巨勢の斐太朝臣(三)【名字を忘る。島村|大夫《マヘツキミ》の男《ヲノコ》なり】と兩人《フタリ》、並此彼貌黒色《コレモカレモクロイロ》なり。是に土師宿禰水通、斯の歌を作り嗤り咲ふといふ。而して巨勢朝臣豐人之を聞き、即ち和ふる歌を作りて咲に酬いき
 (一)通の字類聚古集には道とあるから、ミミチと稱へたのであらう。第四卷及び第五卷にも同人の歌が見えるが、其によれば大宰府の官人として大伴旅人の下に在任したことは疑がなく、此歌は其よりも以前の作であらねばな(207)らぬ。
 (二)アザナは本名以外の別名で、支那に於ては本名を以て他人を呼ぶことは失禮とせられたから、冠するに至れば別號をつけ、之を字と稱したのであるが、此は上記の如く幼名をいふものゝやうで、字義によらず、單にアザナ(綽名)の意と解すべきである。
 (三)後人が追補した架空の人物と思はれることは上記の通りである。
 (四)類聚古集及び西本願寺本等に島村大夫とあるを可とする。巨勢斐太朝臣島村は、聖武紀にも?々見える廷臣である。
 (五)烏〔右△〕は類聚古集以下によれば焉〔右○〕の字の誤記とすべきで、大矢本と京大本には焉と改めてある。
 
戯嗤v僧歌一首
 
3846 法師等之《ホフシラガ》 鬢乃剃杭《ヒゲノソリクヒ》 馬繋《ウマツナギ》 痛勿引曾《イタクナヒキソ》 僧半甘《ホフシナカンカモ》
 
〔三八四六〕 法師らが ひげのそりくひ 馬つなぎ いたくな引きそ 法師なかん〔三字右○〕かも
 
ほふしらが(法師等之) ホフシは勿論漢語で、ラは接尾語であるが、必しも複數を意味するのではない。恐らくは或る頬鬚の濃い一人の法師に對つて、戯れに詠み送つたのであらう。
ひげのそりくひ(鬢乃剃杭) 鬢をヒゲと訓む理由は既に述べた(第一八一頁)。ソリクヒは剃り殘した(208)鬚が針のやうに生ひて居るのを、木の切株に況へたのである。舊訓ソリクヒニ〔右○〕とあり、次句との續合上、其意なることは疑ないが、之を略しても意は通ずるから、標準句長を無視してまでも、之を訓みそへる必要はない。
うまつなぎ(馬繋) 誇張に過ぎるやうであるが、クヒといふ語の縁によつて、其に馬を繋いだと敍し、次句の意を強めたのであらう。
いたくなひきそ(痛勿引曾) 甚しく曳くなといふ意。
ほふしなかん〔三字右○〕かも(僧半甘) 舊訓ホウ〔傍点〕シとあるのは音便であるが、初句と一樣にする方がよい。半はナカラ、甘の字音はカム(朝鮮音※[ハングルでカム])であるが、これをナカラカムと訓み、半ラニナラムの意とし〔略〕、或は半ラ缺カムの約と釋するのは〔古〕無理である。それ故に新考は半〔右○〕を歎〔右△〕の誤記としてナゲカムと訓み、新訓はホウシハ〔右△〕ナカムとしたのであるが、改竄牽強を敢てせずとも、半はナカン(將泣)、甘は舊訓の如くカモ(感動詞)の假字とすれば意はよく通ずる。ン(ん)といふ假字が作られたのは平安朝のことであるが、語音は其よりも以前に發生し、未來表示のムをもンと發音したことは有り得べきで、ラ行語音をもンと轉呼し、アルをアン〔右○〕、ノコリをノコン〔右○〕の如く稱へた例が多いから、ナカラも亦ナカン〔右○〕と發音せられたのであらう。カモを甘と表記した例は本集には見え(209)ぬが、菅家萬葉には店《テム》をテモの假字に充てゝ居り、ムとモとは相通するから、之をカモとよむことは決して不當ではない。されば半甘二字をあはせて、「泣かむかも」即ち泣くだらうよといふ意を表示したのである。
〔大意〕法師が杭のやうに剃り殘した鬚に馬をつないで張く曳くな。法師が泣くだらうよ
 
法師報歌一首
 
3847 檀越也《ダムヲチヤ》 然勿言?《シカナイヒソネ》 戸等〔左△〕我《サトヲサガ》 課役徴者《エタチハタラバ》 汝毛半甘《ナレモナカンカモ》
 
〔三八四七〕 だむをちや しかないひそね 里をさが えたちはたらば 汝《ナレ》もなかん〔三字右○〕かも
 
だむをちや(檀越也) ダムヲチは梵語ダーナパチ(陀那鉢底)の訛で、施主を意味するのであるが、出家から在家を呼ぶ名稱に轉用せられ、今も檀家といふのである。ヤはヨに通ずる呼格表示。
しかないひそね〔右○〕(然勿言?) 從來?の字を次の句につけ、然勿言の三字をシカモ〔傍点〕ナイヒソと訓したが、?は柢の省扁で、ネ(根)の意があるから、他に用例はないけれども、ネの假字として希望表示に用ひたものと思はれる。シカ(然)にモを訓みそへることは必しも不可ではないが、此場合は「さうも〔右○〕いふな」よりも「さう云うてくれるな」の方が適切である。
(210)さとをさが(戸等〔右△〕我) 等は長の草書※[草書]を※[草書](等の草體)と讀み誤つたのであらう。本集第五卷貧窮問答歌にサトヲサを五十戸長と表記した例によれば、五十を略して戸長と記したことも有り得る。戸長といふ熟字は五代史楚世家に出典があり、明治初年にも里正を戸長と稱へた。
えたちはたらば(課役徴者) 契沖訓による。エは役の原語で、之につくこと即ち就役をエタチ(役)といひ、役に指名すること即ち課役をエサスと稱へたものゝやうである。――第二十卷に防人に指名することをサスというた例がある〔四三八二〕――舊訓エタ〔右△〕スは此兩語の交錯と認むべきで、課役とある字に從へばエサスを可とするが、此は次にハタル(徴)といふ動詞が用ひられて居り、就役を促す意であらねばならぬから、課は補意的贅字としてエタチと訓まねばならぬ。古義以下天武紀の訓を證としで、エ(役)とツキ(課)との兩者と解して居るが、其は意訓であるから、仁徳紀にはオホセツカフと訓み、欽明天皇三十年の紀の課一字も一訓エツキとあるのである。しかのみならず課だけをツキと訓ませた例はない。
なれもなかん〔三字右○〕かも(汝毛半甘) 半甘をナカンカモと訓むべき理由は上述の通りである。新訓は二字をナカムとよんだ結果、標準語音數に達せぬので、汝をイマシと改訓したが、ナレを不可とすべき理由はなく、お前もといふ意である。
 
(211)〔大意〕檀家よ。さういうて呉れるな。里長が就役《エタチ》を催促するなら、お前も泣くだらうよ
 
夢裡作歌一首
 
3848 荒城田乃《アラキダノ》 子師田乃稻乎《シシダノイネヲ》 倉爾擧藏而《クラニツミテ》 阿奈于〔左△〕稻于〔左△〕稻志《アナヒネヒネシ》 吾戀良久者《ワガコフラクハ》
 
〔三八四八〕 あらきだの しし田の宿を 倉につみて あなひねひねし 吾《ワ》がこふらくは
   右歌一首。忌部首黒麿。夢裡作此戀歌贈友。覺而不誦(二)習如前
   右の歌|一首《ヒトツ》は、忌部首黒麿(一)夢の裡に此歌を作りて友に贈りしが、覺めて誦み習ふこと前の如くならず
 (一)此人の歌は本集第六卷及第八卷にも三首をのせて居るが、續紀によれば天平寶宇三年に連に昇格したとあるから、いづれも其以前の作であらう。上掲〔三八三二〕の歌も雅澄は同人の作と推定して居る。
 (二)不の字を令と改めた本もなるが(大矢本及京大本)、原字のまゝ句讀を改めて右の如く解讀すべきであらう。即ち夢中の原歌は記憶がおぼろげであつたので、覺めて後手を入れたものと思はれる。
 
あらきだの(荒城田乃) アラキは新處を意味し、新墾田の謂であらう。契沖は神名帳に大和國宇智郡荒木神社とある地であらうと推定したが、若し然りとすれば田の字は蛇足で、アラキナル〔二字右○〕とあ(212)るべきである。
ししだのいねを(子帥田乃稻乎) シシダは第十二卷に小山田之|鹿猪田《シシダ》とあるやうに〔三〇〇〇〕、獣《シシ》の出没する田といふ意で、里に遠いことが想像せられ、從つて餘り手入も屆かなかつた筈であるから、其稻も下等米であつたと思はれる。ヒネヒネシといふ語を強く響かせるやうに、稻の産地をアラキ田のシシ田と限定したのであらう。
くらにつみて(倉爾擧藏而) 此倉はタナ(板擧)クラ(倉)を意味したので、穀物を收藏することをもツミといひ、擧藏と表記したのである。ヒネヒネシの序とすれば、テ(而)といふ語分子をそへる必要はなく、而も語音が剰るから、或は衍字字で、後人がヒネにつづける爲に賢しらに加へたものであるかも知れぬ。記して疑を存する。
あなひねひねし(阿奈于〔右△〕稻于〔右△〕稻志) 于の字は契沖説の如く干〔右○〕の誤寫としてヒネヒネシと訓むのであらう。和名抄(箋注本)には晩稻に比禰といふ和名を與へて居るが、とに晩の義は有り得ぬから、或は此用例の如く干稻の謂ではあるまいか。流布本には晩稻は於久天とあるのみであり、ヒネといへば今も舊穀と了解せられるのである。ヒネヒネシの語幹ヒネは、ヒネリ(拈)といふ形に於て動詞としても用ひられ、本來ハネ(撥)から分化したものゝやうで、反りかへること、即ち物の平(213)滑ならざることをいふから、是も戀のもつれの形容で、收藏舊米のヒネにいひかけたものと思はれる。アナはアア(於戯)といふと同樣の感動詞である。
わがこふらくは(吾戀良久者) 自分が戀することはといふ意である。
〔大意〕新墾田《アラキダ》の野獣《シシ》の出る田の稻を倉に積み、――以上ヒネといはんが爲の序――すらすらとは行かぬ。自分の戀することはアア
 
厭2世間無常1歌二首
 
3849 生死之《イキシニノ》 二海乎《フタツノウミヲ》 厭見《イトハシミ》 潮干乃山乎《シホヒノヤマヲ》 之努比鶴鴨《シヌビツルカモ》
 
〔三八四九〕 いき死《シニ》の 二つの海を いとはしみ しほひの山を しぬびつるかも
 
いきしにの(生死之) 新訓はシヤウジと音讀して居るが、次句との釣合上ヤマト言葉に直すことを可とする。
ふたつのうみを(二海乎) フタツ(二)は文飾で、生の海、死の海といふ二海の存在が信ぜられたのではなく、生死の迷苦涯際なきを以て、大海の深廣なるに況へ、之を苦海《クガイ》と稱へたので、華嚴經にも度2生死海1入2佛智海1とあるといふことである〔代〕。
(214)いとはしみ(厭見) いとはしく思ひといふ意。
しほひのやまを(潮干乃山乎) 潮に没せぬ(島)山といふ意であらうが、山の修飾語としてはシホヒは不適當であるから、契沖阿閤梨は涅槃をさすものとし、是彼岸也と説いて居る。其道の人の言であるから、傾聽すべきで、歌意から考へても淨土の謂であらねばならぬが、涅槃又は彼岸をシホヒの山と表現することは聊か無理のやうに思はれる。或は須彌山の異稱であつたのではあるまいか。シユミとシホヒとは多少語音も近いやうである。
しぬびつるかも(之努比鶴鴨) 生死の海を渡ることの厭はしさに、潮の達せぬ山を思慕するといふ意であるが、完了時格を用ひたのは聊か當を得ぬやうである。
〔大意〕生死の苦海を厭はしく思ひ、その潮の干た山にあこがれるよ
 
3850 世間之《ヨノナカノ》 繁借廬爾《シゲキカリホニ》 住々而《スミスミテ》 將至國之《イタラムクニノ》 多附不知聞《タヅキシラズモ》
 
〔三八五〇0〕 世の中の しげきかりほに すみすみて 至らむ國の たづき知らずも
 
よのなかの(世間之)
しげきかりほに(繁借廬爾) 略解及古義は宣長説に從うてシキカリイホニと訓み、シキはシコ(醜)(215)に通じ、繁は借字に過ぎぬとして居るが、其は既に新考の論破したやうに無稽の説で、神武天皇の御製に志祁志岐袁夜邇〔記〕とあるのは、宣長のいふやうに志去〔右△〕(醜)志岐の謂でないと同時に、之を所狹き意なりとする新考説もまた肯定することが出來ぬ、――此シゲシキが清《スガ》シキの轉呼と思はれることは、拙著「古代歌謠」上卷八七頁に論じた通りである――案ずるに此は憂キコトといふ一語句を補うて聞くべきで、正當なる省語法とはいへぬが、歌謠には例のないことでもなく、前の歌にも聊か無理な言葉づかひのある所を見ても、作者の獨合點と思はれる。詞藻の豐《ユタカ》でない僧侶が、佛教思想を詠じたものとすれば、此くらゐの瑕疵は敢て怪しとするに足らぬ。カリホの意義は字の通りで、此世は假の宿であるといふのである。
すみすみて(住々而) 住マヒテといふに同じく、スミ(住)の進行格の一樣式である。
いたらむくにの(將至國之) 赴カム國ノといふ意であるが、此は特に西方淨士をさしたのである。
たづきしらずも(多附不知聞) タヅキのタヅはタヅネ(尋)の語幹で、之にキ(木)を連ねると道標の意となるから、道の案内も知らぬことよといふのである。
〔大意〕世の中の憂きことの多い借の宿に住まうて、安樂國に往生する道しるべさへも知らぬことよ
  右歌二首。河原寺之佛堂裡。在侫〔右△〕琴面之〔二字右△〕(三)
(216)右の歌|二首《フタツ》は、河原寺(一)の佛堂〔二字左傍線〕の裡の倭琴(二)の面にあり
 (一)大和國高市郡高市村大字川原にある古刹で、創設歳月は詳でないが、孝徳紀によれば、白雉四年六月多くの佛菩薩を作つて安置せられたとあり、天武紀以下諸書に其名が見える。
 (二)侫〔右△〕は誤字で、類聚古集や西本願寺本等に倭〔右○〕とあるを可とする。
 (三)之〔右○〕の字は類聚鈔にはなく、略解古義は※[之の草書]の誤寫と認めたものゝやうで、也と改記してあるが、恐らくは之面〔二字右○〕の倒記であらう。新考がカケリと訓したのは、上の在の字を裡につゞけてウチナルと讀んだ爲で、之は書の字の草書※[書の草書]に似て居るが、若しカケリと訓ませるつもりなら、少くとも書之、又は書矣と表記した筈である。
 
3851 心乎之《ココロヲシ》 無何有乃郷爾《ムカウノサトニ》 置而有者《オキテアラバ》 藐孤※[身+矢]能山乎《ハコヤノヤマヲ》 見末久知香谿務《ミマクチカケム》
 
〔三八五一〕 心をし むかうのさとに 置きてあらば はこやの山を 見まく近けむ
   右歌一首
 
こころをし(心乎之) シは強意助語。
むかうのさとに(無何有乃郷爾) 無何有は字の如く虚無を意味し、莊子にあげた理想郷である。
おきてあらば(置而有者) 古義訓による。急呼するとオキタラバ(舊訓)となるが、完了助動詞のア(217)リと紛れる虞があるから、古語ではテアリと發音したことは既に?々述べた通りである。心を虚無の境に置いてあるならばといふ意。
はこやのやまを(藐孤※[身+矢]能山乎) ハコヤの山もまた莊子に見える神人の居處で、藐姑射とかゝれて居るけれど、勿論寫音で字義には關係はないから、姑射を孤※[身+矢](※[身+矢]は射の變體)としても少しも差支はない。案ずるにハコは箱根のハコ即ち朝鮮語の※[ハングルでパルク]《パルク》と同じく、「神明」の義で、ヤはヤマ(山)、ヤツ(谷)の原語であるから、神地を意味する漢土先住民の言語で、莊子はたゞ漢字を以て表記したに過ぎぬ。
みまくちかけむ(見末久知香谿務) ミマクは見ムコトといふに同じく、チカケムは近カラムといふ意の古語であるから、見ることも近からうといふことを意味する。
〔大意〕心を無何有の郷に置いてあるならば、ハコヤの仙境を見ることも近からう
 
3852 鯨魚取《イサナトリ》 海哉死爲流《ウミヤシニスル》 山哉死爲流《ヤマヤシニスル》」 死許曾《シネコソ》 海者潮干《ウミハシホヒ》而〔右▲〕 山者枯爲禮《ヤマハカレスレ》
 
〔三八五二〕 いさなとり 海や死にする 山や死にする」 死ねこそ 海は潮ひ〔二字右○〕 山は枯れすれ
   右歌一首
 
(218)いさなとり(鯨魚取) 磯菜または磯魚取の謂で、海の枕詞である。
うみやしにする(海哉死爲流) 死の意の原語は我國に於てもシで、漢語|死《シ》と語原を同うするが、決して之を輸入したのでないことは宣長の論じた通りである〔記傳〕。ニはイニ(去)の語根であるから、シ(死)に對して死去をシニと稱へ、ナ行變格にも活用せられるが、體言に準じ助動詞ス(爲)を連ねて動詞としたので、シニスルは死去ヌルと全然同義である。ヤは間投詞であるが、連體形を用ひた爲に疑問句となり、海ガ死ヌルカといふ意と了解せられる。雅澄が之を反語法と説いたのは誤りで、其場合には死ヌレヤ又は死ネヤ、若くは死ニセメといはねばならぬ。
やまやしにする(山哉死爲流) 海が死去するか、山が死去するかといふ意。
しねこそ(死許曾) 略解訓による。仙覺本にはバをよみそへてシネバコソとあるが、、古語では此場合助語バを必要としなかつたのみならず、次の六音句との釣合上四音に誦することを可とする。シニの已然形にはシネの外にシヌレといふ形もあるから、新考訓の如くシヌレコソともいへぬことはないが、其は打消の「ヌ」「ネ」との混亂を避ける爲の第二次生形態のやうであるから、尚シネコソと訓み、死ねばこその意と解すべきである。
うみはしほひ(海者潮干而〔右▲〕) 干潮を海の死去によつて起る現象と見なしたのである。而はテの假字(219)と思はれるが、此語分子は前續語の事實が了つて後、次の事實に移ることを表示するもので、是は海ハ潮干スレ〔二字右○〕、山ハ枯レスレ〔二字右○〕とあるべきを、前句のスレを省略し二つの助動詞で括つたものであるから、聯立樣式に從ひ、海ハ潮ヒ、山は枯スレと表現せねばならぬ。恐らくは「而」の字は後人が賢しらに加へたものであらう。
やまはかれすれ(山者枯爲禮) これも亦山の木の葉が枯れ落ちるのを、其死滅に擬したのである。スレといふ已然形を以て結んだのは決定的表現の爲である。
〔大意〕海が死去するか。山が死去するか(間)。死ぬるからこそ海は潮干し、山は(木の葉が)枯れ落ちるのである(答)。
 此は旋頭歌形であるが、前聯と後聯とは互に獨立し、問答体をなすものであるから、寧ろ二首の片歌と見るべきで、酒折宮の唱和〔景行紀〕と趣を同じうする。是も無常を詠じたものであることは言ふまでもなく、出家の作と推定せられるが、雅澄が古寫本に從ひ河原寺の倭琴に録せられた歌と同一群に屬するものとして、前の歌と順序をかへ、題詞及左注に二首とあるのを三首と改めたのは早計で、此歌には少しも厭世の意はない。
 
(220)嗤2咲痩人1歌二首
 
3853石麻呂爾《イシマロニ》 吾物申《ワレモノマウス》 夏痩爾《ナツヤセニ》 吉跡云物曾《ヨシトフモノゾ》 武奈伎取食《ムナギトリメセ》 賣世反也
 
〔三八五三〕 石まろに われ物まをす 夏やせに よしとふものぞ むなぎとりめせ
 
いしまろに(石麻呂爾) 左注によれば石麻呂は吉田連老の字(幼名)で、仁教といふ人の子とある。吉田連は聖武天皇の神龜元年五月、從五位上吉(ノ)宜、從五位下吉(ノ)智首に給はつた姓で、宜はもと惠俊といふ僧であつたが、文武天皇の四年八月に、その藝を用ひんが爲に還俗せしめられたのである〔續紀〕。養老五年の紀に醫術〔二字右○〕從五位上吉(ノ)宜云々とあり、文徳實録嘉群三年の記事中、興世朝臣書主の傳にも、祖正五位上圖書頭兼内藥〔右○〕正相模介吉田連宜、父内藥〔右○〕正正五位下古麻呂並爲2侍醫1とあるから、右の藝の中には醫療も含まれ、其技能を以て宮廷に奉仕したものと思はれる。懷風藻に正五位下圖書頭吉田連宜の詠二首をあげ、年七十と注せられて居るが、此位階及官職を授けられたのは天平九年のことであるから、家持の朋輩なる石麻呂とは年齡に大差がある。されば其父仁教も此人の謂ではなく、或は上掲の智首または古麻呂のことではあるまいか。智首は姓氏録に男〔右○〕從五位下知須とあるから、父の名を明示して居らぬけれども、宜の子と推定せられ、家業を續いで仁教(類聚石集に從へば仁敬)といふ漢名を用ひたこともあり得べきである。同書によれば(221)其遠祖鹽乘津彦命は彦國葺命の孫で、頭上に松の樹のやうな三岐の贅肉があつたから松樹君と號し、力衆に優れ、性もまた勇敢であつたが故に、崇神朝三巴?地方の鎭守に任ぜられ、彼地の俗に宰《ミコトモチ》を吉といふにより、其苗裔が吉氏を名乘つたとあるが、頗る疑とすべきである。吉は新羅官階十七等中第十四級の吉士《キシ》をいふのであらうが、欽命を帶びた大官の稱號としては低きに過ぎる。松樹君のことも國史に見えぬのみならず、時代錯誤の嫌があるから、恐らくは吉田連氏が其祖先を皇別に附會する爲に案出したのであらう。從つて右の吉と居住地田村里の田とを取つて吉田連の姓を給はつたといふ家傳も、無條件に肯定すべきものではなく、之を根據として吉田をキチダ又はキシダと讀むのも早計である。假に吉田といふ氏名が舊姓吉から出たとしても、タ(田)といふ和語と結びつけた以上、之を訓讀するのが至當で、或は吉と縁のある吉田《ヨシダ》といふ地名によつて新姓を給はつたのかも知れぬ。石麻呂は舊訓に從つてイシマロと稱ふべきで、イシは醫師に通じ、醫家の子なるが故に此名を負はせたのではあるまいか。之をイハマロ〔古義〕〔新訓〕、又はイソマロ〔新考〕と訓み改めたのは根據のないことのやうである。
われものまをす(吾物申) モノは不定代名詞的にも用ひられる語で、或事を申すといふほどの意。仁徳紀の國依媛の歌にも用例がある。
(222)なつやせに(夏痩爾)
よしとふものぞ(吉跡云物曾) 何々の病にヨシといふのは今も用ひる表現で、キクと同意である。舊訓ヨシトイフとあるが、イ音を約してトフと唱へることを例としたものゝやうである。
むなぎとりあせ(武奈伎取食) 和名抄には?、本草和名には※[魚+且]、新撰字鏡には?、?、※[魚+且]及※[魚+夫]にムナギといふ訓を與へて居るが、※[魚+夫]は浦娯反?〔右○〕とあるから、魴または?と同じく、朝鮮に於て※[ハングルでパンヨ]《パンヨ》(魴魚の字音)と呼ばれるブリ(鰤)の一種で、問題にならず、※[魚+且]と?とは?の別名に過ぎぬ。?は和名抄に引用した文字集略の説の如く、黄魚とも稱せられるが、爾雅郭注によれば、其は?《エヒ》に似た大魚で、短鼻、口在2顎下1とあるから、ムナギ即ち今いふウナギとは似ても似つかぬもので、掖齋の考證の如く?に通用せられたものとすべく、漢鮮文新玉篇にも?同とあるのである。然らば?は何かといふに、和名抄に爾雅注云、?魚似v蛇とあるやうに、――流布本の爾雅には見えぬが、北山經の郭注に此文がある――海蛇の謂で、今ウツボと稱へられ、鰻?に似て居るが、漁村に於て稀に食用せられるのみで、しかも淡水に産するものではない。之をムナギと訓したのは、恐らくは輔仁等の誤解で、此歌のムナギは鰻の謂であらねばならぬ。此名稱も正しく鰻の字音から出たもので、マンナキ(鰻之子)の約轉と思はれる。キ(子)は蛇足のやうであるが、本集にも鮎(223)をアユコ〔卷三、五、十九〕とした例があり、愛稱的に添附したものとすべきで、東北地方に於ては今も盛に用ひられる接尾語である。食の字は賣世反也とある註に從ひ、メセと訓むべきことは勿論であるが、その語根はメ(目)で、シ(セは其命令法)は敬語々尾であるから、目で合圖をなさるといふ意味から「召」の義の動詞となつたので、更に一般的敬語として、知ロシメシ〔二字右○〕、聞シメシ〔二字右○〕の如く用ひられ、同樣に食《ヲ》シメシ〔二字右○〕の意を以て、「食」を意味する敬語動詞に轉用せられたのである。されば上古に於ては此場合メセとは言はなかつたやうで、神功皇后の御歌には「あさずヲセ〔二字右○〕」とあるのである〔紀〕〔記〕。
〔大意〕石麻呂に自分は進言する。夏痩によいといふものださうな。鰻を捕つてめし上がれ
 
3854 痩々母《ヤスヤスモ》 生有者將在乎《イケラバアラムヲ》 波多也波多《ハタヤハタ》 武奈伎乎漁取跡《ムナギヲトルト》 河爾流勿《カハニナガルナ》
 
〔三八五四〕やすやすも 生けらばあらむを はたやはた むなぎを捕ると 河に流るな
 
やすやすも(痩々母) 痩せつゝもといふ意。略解訓による。
いけらはあらむを(生有者將在乎) 生きて居らばかひがあらうものといふ意であらう。詮《カヒ》または之に相當する語を略したのではなく、此表現が當時右の意味に用ひられたのである。
(224)はたやはた(波多也波多) ハタは、同類接續(連繋)詞マタに對し、異類接續(連繋)を表示する語で(要録九五一頁)、こゝでは上句反接助語ヲ(モノヲの意)を強める爲に用ひたのである。ヤは間投詞で、ハタを反復したのも強意の爲であるから、此句は「然るに」と譯すべきである。この語については從來解釋を衍り、古義の如きは甚しく説きひがめて居る。
むなぎをとると(武奈伎乎漁取跡) 鰻を捕るとて〔右○〕といふ意。
かはにながるな(河爾流勿)
〔大意〕瘠せながらも生きて居るなら其かひもあらうものを、鰻を捕るというて川に流れるな
 右有吉田連老。字曰石麻呂。所謂仁教之子也。其老爲人身體甚疲〔右△〕(一)。雖多喫飲(二)。形似飢饉(三)。因此大伴宿彌家持。聊作斯歌以爲戯咲也
 右、吉田連|老《オイ》といふものあり、字を石麻呂といふ。所謂《イハユル》仁教の子なり。其老|人《ヒト》と爲り身鰹《ミ》いたく痩せたり。多く喫ひ飲めども、形|飢饉《ウウ》るに似たり。此に因つて大伴宿禰家持、聊か斯の歌を作りて戯咲《アザワラ》ひき
 (一)類聚古集に痩〔右○〕とあるを可とする。
 (二)略解に飯の誤ならむとあるが、今も此やうな場合には「多く飯をくふ」といふよりも、「多く飲み食ひする」とい(225)ふ方が普通である。
 (三)古義によれば、拾穗本には飢人、古寫本には飢饉人とあるといふことであるが、原文のまゝでもウウルニと訓めば意が通するから、強ひて改記するにも及ぶまい。
 前十數首官の左註とは文體が聊か相違して居るから、此は作者家持の自注であらう。
 
高宮王詠2數種物1歌二首
 
3855 葛英爾《フヂバナニ》 延於保登禮流《ハヒオホドレル》 屎葛《クソカヅラ》絶事無《タユルコトナク》 官〔左△〕將爲《ミヤヅカヘセム》
 
〔三八五五〕 ふぢばな〔二字右○〕に 延ひおほどれる くそかづら 絶ゆることなく 宮づかへせむ
 
ふぢはな〔二字右○〕に(葛英爾) 肥前國藤津郡〔風〕〔和〕は、國造本紀に葛〔右○〕津國とあり、藤原朝臣大嶋は紀に葛原朝臣とも記され、本集の作家|葛〔右○〕井連廣成等はフヂヰの連と稱へられるから、葛をフヂと訓むことは疑なく、和名抄にも爾雅の注を引いて、?(ハ)藤也、似v葛而大とあり、草本と木本との相違はあるが、いづれも荳科植物であるから、古は兩者は同一名を以て呼稱せられたのであらう。英は字書に華也とあるから、葛英は藤花をいふものとしてフヂバナと訓むの外はなく、原義は斑花《フチハナ》即ち花色斑なるものゝ謂と思はれる。其は花ばかりではなく、植物そのものゝ名としても用ひられた(226)ことも有り得べきで、アサチ〔右○〕をチバナ〔二字右○〕といふと趣を同じうする。舊訓フヂノキとあるのは、英に初生草木の義があるからであらうが、之は幼木をいふものとは思はれぬのみならず、藤の木といふ語例はなく、布遲葛〔記、伊豆志神話〕、又はフヂナミ(ナミは鮮語※[ハングルでナム]《ナム》の轉で、木の意)と表現するのが普通である。類聚古集及西本願寺本等には、葛英の二字が※[草がんむり/皀]英と改めてあり、之に從へば和名抄に加波良不知、俗云蛇結、本草和名に加波良布知乃岐とある皀の變體と思はれるが、其は寧ろ異傳と見るべきもので、仙覺が皀を葛英と誤寫したのではあるまい。皀もまた荳科植物であるが、現今サイカチと呼ばれる喬木で、蛇結は今もジヤケツイバラ(雲貴)と稱へられ、高さ十尺内外の灌木であるから〔植物圖鑑〕、既に契沖が指摘したやうに、和名抄が之を葛類中にあげたのは錯誤とせねばならぬ。孰れにしても此歌の趣にはかなはぬものであるから、類聚古集の編者が、葛英を不可讀として和名抄に藤と並記せられて居る皀に書きかへたのではないかと思はれる。從つて皀を正字と斷定してサウケフと音讀すべしとした新考説(新訓も之に從ふ)は尚再考を要する。後述の如く藤花の謂としてこそ、歌意も明白になるのであるから、假に類聚古集の傳が據があるとしても、尚仙覺本に基くことを可とすると信ずるにより、私は頭記の如く改訓を敢てしたのである。
(227)はひおほどれる(延於保登禮流) オホドレはオホ(凡)に「連」の意のツレを結合したオホツレの轉呼で、口語のボヤケに當り、源氏物語にも「おほどれたる聲して」(東屋)、「おほどれたるやうにしどけなく」(手習)など用ひてあるのである。此も屎葛の延ひボヤケて居ることを意味する。
くそかづら(屎葛) 和名抄には細子草にこの訓を與へて居る。現今へクソカヅラまたはヤイトバナ(灸花)と稱する蔓草で(漢名牛皮凍)、春日簇生花を聞き、灰白色を呈し、内面は紫色、小壺状をなし、一種の惡臭を放つが故に、此名を負はせたのである。以上三句は序であるが、カヅラの縁によつて絶ユルといふ語を導いただけではなく、高宮王(傳不詳)が朝廷に奉仕する誠意をもらしたのである。即ち同じく蔓性ではあるが、繊弱なる屎葛は、藤の幹にたよることによつて僅に生ひ立ち、其花も莊麗な藤とは比べものにならぬのは、同じく皇族ではあるが、微々たる自分が、皇室の庇護によつて世を渡るやうなものであるといふ意味を含めたものと思はれる。表面の意義だけでは縱ひ物名を詠み入れたものとしても、餘りに趣が乏しく、第二句のオホドレルといふ語が用をなさぬ。
たゆることなく(絶事無)
みやづかへせむ(官〔右△〕將爲) 官〔右△〕は類聚古集等によれば、宦〔右○〕の誤寫とすべきである。
(228)〔大意〕藤に延ひまとふボヤケた灸花のやうに、いつまでも朝廷に奉仕しよう
 
3856 婆羅門乃《バラモンノ》 作有流小田乎《ツクレルヲダヲ》 喫烏《ハムカラス》 瞼腫而《マナブタハレテ》 幡憧〔左△〕爾居《ハタホコニヲリ》
 
〔三八五六〕 ばらもんの 作れる小田を はむ烏 まなぶた腫れて はたほこに居り
 
ばらもんの(婆羅門乃) バラモンは印度四姓|階級《クラーン》中の第一位で(僧侶は之に屬するのであるが、我國には此制度は移入せられず、從つて此名を以て呼ばれる階級もなかつたから、これは眞淵説の如く、天平八年七月印度から唐土を經て來朝し、東大寺の大佛開眼導師を勤めた功により僧正に任ぜられ、世人から婆羅門僧正と呼ばれた菩提犀那のことではあるまいか。此僧は大安寺に居住し、在留二十五年の後、天平寶字四年に示寂したといふことであるから〔元亨釋書〕、特に供養田を給はり、之を人に作らせて居たことも有り得べきである。
つくれるをだを(作有流小田乎) 小田のヲは美稱で、良田を謂ふ。作りある田をといふ意である。
はむからす(喫鳥) 田の稻穗を啄む烏といふことで、次句との間に「罰が中り」といふ意を補うて會得すべきである。
まなぶたはれて(瞼腫而) 刊本臉とあるのは、勿論誤記であらねばならぬから改記した。マナブタ(229)は目之蓋の謂で、今ではマブタと稱へる。契沖は烏は實に瞼のはれたるやうに見ゆる鳥也と説いたが、假に其が事實であるとしても、此異状を認知することが出來るほど、接近して視察することは、自由な鳥に對しては不可能であるから、此歌に詠まれたのは彫刻の烏ではなかつたかと思はれるら大安寺の幡橦中、竿頭に烏の像を装著したものがあり、參詣人がよく知つて居たとすれば、縱ひ其が婆羅門僧正の製作もしくは所有でないとしても、課題と結びつけて詠出したことは有り得べきで、點睛を施してない木彫は瞼が腫れたやうに見えるものである。
はたほこにをり(幡憧〔右△〕爾居) 憧〔右△〕は橦の誤寫に違ひない。後漢書馬融傳の注にも橦者旗之竿也とあり〔箋注〕、竿をホコと稱へたことは、垂仁紀の非時香葉八竿〔右○〕を、記には矛〔右○〕八矛〔右○〕と傳へて居るのを見ても明白で、靈異記上卷には小子部《ワカコベ》の栖輕《スガル》が赤幡桙〔右○〕を擧げて使したとある。但し和名抄の伽藍具中に波多保古と訓した寶幢は幡のことで、ホコに取附けたものではあるが、ハタホコといふと旗竿の義となるから、或はホコハタと稱へたのを混同したのかも知れぬ。細井本以下が之によつて憧を幢〔右△〕と改めたのは早計といふべきである。上述の如く烏は木彫で、竿頭の飾であつたと思はれるが、婆羅門の稻穗を啄んだ烏と見て、※[手偏+妻]つて居ることをヲリと表現したのであらう。
〔大意〕婆羅門の作つた良田(の稻穗)を啄む烏は(罰が中り)瞼が腫れて幡竿にとまつて居る
(230) 題詞に詠2數種物1歌二首とあるから、前の歌は藤花と、屎葛との二品、後の歌は「波羅門」「田」「烏」「瞼」「幡桙」を詠み入れたものとすべきで、孰れも巧にこなされて居り、殊に後の歌の如きは、其時代の事物に託したおもしろい思ひつきと言はねばならぬ。從來之を察し得ず、單に品名を羅列したものと解したのは遺憾である。
 
戀2夫君1歌一首
 
3857 飯喫騰《イヒハメド》 味母不在《ウマクモアラズ》 雖行往《アルケドモ》 安久毛不有《ヤスクモアラズ》 赤根佐須《アカネサス》 君之情志《キミガココロシ》 忘可禰津藻《ワスレカネツモ》
 
〔三八五七〕 飯はめど うまくもあらず あるけども 安くもあらず あかねさす 君がこころし 忘れかねつも
  右歌一首傳云。佐爲王(一)有近習婢也。于時宿直不遑。夫君難遇。感情馳結。係戀實深。於是當宿之夜。夢裡相見。覺寤探抱。曾無觸手。爾乃哽※[口+周]〔右△〕歔欷。高聲吟詠此歌。因王聞之哀慟。永免侍宿也
  右の歌一首は傳へいふ。佐爲《サヰ》王に近習婢《マカタチ》ありき。時に宿直《トノヰ》遑なく、夫《セ》の君に遇ひ難し。感情《ココロ》馳せ結ぼほれ、係戀實に深し。是に當直《トノヰ》の夜、夢の裡に相見、覺め寤めて探り抱くに曾て手に觸(231)るゝものなし。爾乃《スナハチ》哽咽(二)歔欷〔四字左傍線〕して高聲《タカゴヱ》に此歌を吟詠〔二字左傍線〕す。因《カレ》王之を聞きて哀み慟《ナゲ》きて、永く侍宿《トノヰ》を免しき
 (一)佐爲王は葛城王(橘諸兄)の弟で、天平八年兄王と共に臣籍に降り、橘宿禰の姓を給はり、翌九年卒去した。佐爲は仙覺本にスケタメと旁訓してあるが、他の諸王の名號に鑑みるに、大和の狹井といふ地名を負うたものと思はれるから、サヰと訓まねばならぬ。但し葛城王が諸兄と改名したやうに、佐爲の二字をよみかへてスケタメと名乘つたことは有り得べきである。
 (二)※[口+周]〔右△〕はエツと旁訓せられて居る所を見ると、古葉略類聚鈔、西本願寺本等に〓とあるやうに、咽の誤記とすべきである。
 
いひはめど(飯喫騰) 略解がクヘドと改めたのは、前の歌に喫をクフと訓したからであらうが、クヒはクチ(口)の語根クから出た動詞で、口にすることをいひ、ハミはハ(齒)を語幹とし、阻嚼することであるから、此場合いづれを用ひても差支はなく、強ひて舊訓を改めるにも及ぶまい。
うまくもあらず(味母不在)
あるけども(雖行往) 舊訓アリケとあるが、これは南方語系のアル(道)を活用したのであるから、アル〔右○〕キを原形とする。散歩をしても氣が安まらぬといふので、新訓の如くユキユケドとしては、(232)「行つても行つても」といふ意となり、少しく感じが違つて來る。やすくもあらず(安久毛不有)
あかねさす(赤根佐須) 光線射出の形容で、日、晝、月等の枕詞であるが、既記のサニヅラフと同じく、赤映の意から紅顔の義に轉用し、キミ(君)とつゞけたのである。
きみがこころし(君之情志) 此場合のココロは愛情の意で、今ではナサケといふが、記紀萬葉にこれを用ひて居らぬ所を見ると、後代の發生とすべく、古は七情共にココロ(意)と稱へたのであらう。シは強意助語で、ゾといふに同じい。
わすれかねつも(忘可禰津藻) カネはカテ(克《アタフ》)の語根カの打消形で、不克といふ意となり、原形の外にカネテ又はカネテムといふ形態は?々用ひられるが、カヌと活用した例はなく、終止形は常にカネツとある。兼(豫)の意のカヌと紛れる處があるから、故意に之を避けたのであらう。されば此カネツ(モは感動詞)も完了表示ではなく、現在終止形と見なすべきで、第十二卷〔三一七五〕の末句|不所忘爾《ワスラエナクニ》(忘れられぬのにといふ意)も、或本歌には忘可禰都〔三字右○〕母とあるのである。
〔大意〕飯をくへど味くもなく、歩行《アル》いでも氣が安まらず、君の情を忘れかねるよ
 
(233)3858 比來之《コノゴロノ》 吾戀力《ワガコヒチカラ》 記集《シルシアツメ》 功爾申者《クウニマヲサバ》 五位乃冠《ゴヰノカウブリ》
 
〔三八五八〕 此ごろの 吾がこひちから しるしあつめ 功《クウ》にまをさば 五位のかうぶり
 
このごろの(比來之)
わがこひちから(吾戀力) チカラは力に貢税《チカラ》をいひかけたのである。後者の原義はチ(靈)カラ(莖)で、稻禾の謂であるが、上古は租として其まゝ上納したから、税の義に轉じたのである。力の意のチカラは聊か異なり、チ(神秘力)カラ(因)の義から出たものと思はれる。
しるしあつめ(記集) アツメの語根は上記の如くツメで(第一〇四頁)、アは接頭語であるから複合の際は之を除くのであるが、動詞として連用する場合にはア〔右○〕ツメと云はねばならぬ。古義は大和及源氏物語の語例を證として、此もシルシツメ〔二字傍点〕ならざる可からずと論じたが、縱ひ掻キアツメをカキツメ〔二字傍点〕等としたことがあつたとしても、其は急呼によつて促まつたので、決して通則と見るべきものではなく、今でもヒロヒ(拾)アツメ(集)をヒロヒツメ〔二字傍点〕と云うては誤解を生ずる。
くうにまをさば(功爾申者) 功は古紅切で、コウであるが(朝鮮音※[ハングルでコン]《コン》)、我國に於ては古へクウと發音し、ウを省いてクとのみも稱へた。紀には常にイサヲシと訓してあるが、こゝに特に字音を用(234)ひたのは、當時の公稱であつたからであらう。功ニ申スは手柄として申立てるといふことで、徴税の功によつて位階を賜はることがあつたのである。
ごゐのかうぶり(五位乃冠) カウブリの原形はカガブリで、カブリ(被)の疊頭語であるが、官階の標識たる冠《クワン》をいふに用ひられ、轉じて官階と同義語と了解せられた。音便によつてカウム〔右△〕リ又はカンム〔二字右△〕リともいふが、、此ころは舊訓の如くカウブリと稱へたのであらう。紀の旁訓にも盡くカウブリとある。賂解以下がカガブリと改訓したのは、其が原形であるからであらうが、此時代にはタマハリをタバリといふやうに(第五〇頁)、音便も行はれて居たのみならず、「被」「蒙」の意のカガブリと區別する爲に、特にカウブリと轉呼したことも有り得るから、輕々しく改訓することは出來ぬ。ゴヰも亦當時の公稱に從うだので、イツツノクラヰとは稱へなかつたのであらう。此は恐らくは所謂外位で、郡司、主張、主政その他の外官に給はる位は、特に外の字を冠し、小初位上より始まり正五位下を以て最高としたから、自分のチカラは多大なるにより、申上げたら高級の五位を賜はるかも知れぬと戯れたのである。
〔大意〕此ごろの自分の戀力を(貢税《チカラ》として)功に申立てたら、五位の冠(に値するであらう)
 從來チカラの語義を一元的に解して、戀の勞苦の謂としだが、チカラには勞の義はなく、戀力を功(235)に申立てるといふことは、假に譬喩としても倫を失する。次の歌はこれと關聯するもので、省語が多く、獨立しては意をなさぬから、寧ろ此歌の後半齣と見るべきである。
 
3859 頃者之《コノゴロノ》 吾戀力《ワガコヒチカラ》 不給者《タバラズバ》 京〓爾出而《ミヤコニイデテ》 將訴《ウタヘマヲサム》
 
〔三八五九〕 此ごろの 吾が戀ちから たばらすば みやこに出《イデ》て うだへまをさむ
 
   右歌二首
 
このごろの(頃者之)
わがこひちから(吾戀力)} 前出
たばらずば(不給者) 前句との間に「功に申立てゝも位階を」といふ意が含まれて居るのである。
みやこにいてて(京〓爾出而) 〓は兆の字の變體で、京兆は帝都を意味する漢語であるから、ミヤコ(宮處)に充てられたのである。外官が功多くして賞を得ぬ場合、朝廷に出頭して愁訴するやうな事もあつたので、以下兩句を詠出したのであらう。然るに京兆尹といふ漢式官名の尹を略書することがあるので〔漢書張敝傳〕、眞淵が此京兆を京職の謂なりとし、出而の二字を次句につけて、ミサトツカサに出デヽ訴ヘムと訓して以來、之に雷同するものが多いが、文官の選敍は式部省の(236)管掌で、京職は之に關する訴を聽くべき所ではないから、斷じて誤訓とすべきである。此やうな無稽の説に惑はされたのも、畢竟チカラに貢税の意のあることに氣づかす、ウタヘの原義を明にしなかつた爲であるが、一面には新奇を好む學者|氣質《カタギ》が現はれて居るやうである。
うたへまをさむ(將訴) ウタヘは本集に打細(打妙)と表記せられたウツタヘと同じく、ウツ(現)又はウツツ(現實)の他動詞形で(ヘは活用語尾)、――今もウツタヘといふ――「公にする」といふ意であるから、ウツタヘニ〔右○〕といへば「公然」、ウタヘマヲスは「上申」の義となるのである。後世ウタヘマヲスを略してウタヘといひ、和名抄にも刑部省に宇多倍〔三字右○〕多々須都加佐と訓註して居るが、此歌の時代には訴一字をウタヘマヲスと訓んだのであらう。眞淵が上句の出而の二字を繰りおろして出デテウタヘムと改訓したのは、――私も古語大辭典の訓詁篇に於ては之に從うたが、其は考の至らぬものであつた――上記の如く歌意を誤解し、且此語の原義を明にしなかつた爲である。
〔大意〕此ごろの自分の戀チカラを(申上げても位を)給はらずば、都に出て上訴しよう
 
筑前國志賀白水郎歌十首
 
白水郎をアマと訓むのは支那の白水といふ地の土人が能く水中に潜つて物を探ぐるといはれたから(237)で〔和名抄箋注〕筑前國志賀(今の糟屋郡志賀島村)は古來海人族の占住地として有名で、此當時はもはや種族的差別待遇は受けて居なかつたと思はれるが、尚祖先の血を承けて、特に航海の術に長じて居たやうである。此十首の歌の詠出せられた動機は左注に詳であるが、其は他の左注とは異り、作者山上憶良臣の自記と思はれるから、寧ろ序と見るべきもので(多少抵觸する所はあるが)、或は底本には本集第五卷の爲2熊凝1述2其志1歌六首〔八八六−八九一〕と同一形式を以て録せられて居たのを、本卷の編者または後の左注記入者が書きあらためたのではないかと思はれる。假令然らずとも記事を先に讀む方が歌の解釋にも便利であるから、特に繰り上げてこゝに掲出する。
  右以〔二字右▲〕(一)。神龜年中。太宰府差筑前國宗像郡之百姓宗形部津麿。充對馬送粮舶〓〔左△〕師(二)也。于時津摩詣於澤〔左△〕(三)屋郡志賀村白水郎荒雄之許語曰。僕有小事若疑不許歟。荒雄答曰。走(四)雖異郡。同船日久。志篤兄(五)弟。在於殉死。豈復辭裁。津麿曰。府官差僕。充對馬送粮舶〓〔左△〕師。容齒衰老不堪海路。故來※[示+弖]侯〔左△〕(七)。願垂相賛〔左△〕矣(八)。於是荒雄許諾。遂從彼事。自肥前國松浦縣美禰良久埼(九)發舶。直射對馬渡海。登時忽天暗冥。暴風交雨。竟無順風。沈没海中焉。因斯妻子等不勝犢暴〔二字左△〕(一〇)。裁作此謌(一一)。或云筑前國守山上憶良臣。悲感妻子之傷(一二)。述志而作此歌
憶良は當代の漢學者であつたから、此文の如きも頗る整然たるもので、讀み下しをつけずとも、よ(238)く了解せられるが、前例により假字を交へて和げることにする。但し差支のない限り、漢語を存置し強ひて和訓せぬことにした。
  神龜年中、大宰府は筑前國宗像郡の百姓〔二字左傍線〕宗像部の津麿を差して、對馬に粮を送る舶《フネ》の〓師《タイシ》に充てき。時に津麿滓屋郡志賀村の白水《アマ》邸の荒雄が許に詣り、語りて曰ふ、僕小事〔二字左傍線〕あり。若疑《ケダシ》許さじか。荒雄答へて曰く。走《ワレ》郡を異にすれど、船を同じうすること日久し。志は兄弟より篤く、死に殉ふにあり。豈また辭まむやと。津麿曰く、府官|僕《ワレ》を差〔左傍線〕して對馬に粮〔左傍線〕を送る舶《フネ》の〓師《タイシ》に充つ。容衰へ齒老いて海路〔二字左傍線〕に堪へず、故に來りて祗候〔右○〕〔二字左傍線〕す。願垂《ネガハ》くは相替はれといふ。是に荒雄|許諾《ウベナ》ひて遂にその事に從ひ、肥前國松浦の縣《アガタ》美禰良久崎より舶《フネ》を發《ヒラ》き、直に對馬を射して海を渡る。其時忽ち天《ソラ》晴冥《クラク》、暴風《ハヤチ》雨を交へ、竟《ツヒ》に順風《オヒテ》なく、海中〔二字左傍線〕に沈没《シヅミ》き。斯に因りて妻子《メコ》等懷慕〔二字右○〕〔二字左傍線〕に勝へず、此謌を裁作《ツク》る。或は云はく、筑前守山上憶良臣、妻子《メコ》の傷《イタミ》を悲み感じ、志を述べて此歌を作るといふ
 (一)右以〔二字右▲〕の二字が類聚古集にないのは、此が序文であったらうといふ吾人の推測を裏書するものである。左注の例としては右傳云または右歌十首傳云とあるべきであるが、此は其型を破り、神龜年中云々と書き起してあったので、其體を得ずとして轉寫の際之を追記したものと思はれる。
(239) (二)和名抄舟具中舵の條下に、柁、船尾也、或作v〓、和語云太以之、今案舟人呼2挾※[木+少]1爲2〓師1是とあるから、〓は〓の誤寫で、挾抄即ち楫取をいふのである。
 (三)澤〔右△〕は京大本に滓〔右○〕とあるを正とする。
 (四)走は字書に僕也とあるから、ワレと訓むべきである。
 (五)新考説の如く篤の下に於の字を必要とする。恐らくは錯簡で、次句在於〔右○〕殉死の於はこ1にあつたのであらう。然らば其は在v殉v死と點すべきである。
 (六)容衰齒老を故意に轉置したので、年々歳々を年歳々々と書くと同一筆法である。
 (七)侯〔右△〕は候の行書を誤寫したのであらう。
 (八)賛〔右△〕の字は西本願寺本以下に替〔右○〕とあるを可とする。此一句を國語に直すとせば、願垂の二字をネガハクハの外はない。
 (九)此は從來肥前風土記に値嘉島(今の五島)美禰〔右○〕良久之濟とある地に擬せられ、續後記承和四年七月の記事に松浦郡旻樂(現今三井樂と稱へ、福江島の北岸にある一小灣である)とあるを正とし、禰は彌の誤寫とせられて居るが、肥筑方面の粮米を對馬に輸送するに、福江島から發船する筈はなく、寄港地としても餘りに甚しい迂廻であるから、ミミ〔右○〕ラクの外に、ミネ〔右○〕ラクといふ港が壹岐に對向する東松浦郡沿岸に存したのではないかと考へられる。同郡の西岸に値賀といふ村があり、――村名としては近年附與せられたのであるが、由緒のあることゝ思はれる。其地方人士について尋ぬべきである――チカとミネ〔右○〕ラクとは何か關係がありさうである。記して疑を存する。
(240) (一〇)暴〔右△〕類聚古集や西本願寺本等に慕〔右△〕とあるを正しとすべきで、犢〔右△〕は類聚古集には憤〔傍点〕、温故堂本には※[立心偏+賣]〔傍点〕とあるけれども、意をなさぬから肯定しかねる。其故に或は恃慕〔二字傍点〕と改記し〔略〕、或は特〔傍点〕と改め〔古〕、或は原の儘として〔新考〕、小牛が母牛を慕ふが如くする意と説かれたのであるが、いづれも曾て見ぬ熟字で、前後の用字から見ても其やうな濫記を敢てしたとは者へられぬ。或は懷慕〔二字右○〕とあつたのを段々に寫し誤つたのではあるまいか。斷言は出來ぬけれど姑くさうして置く。
 (一一)憶良の自記とすれば、裁作此謌の四字は聊か矛盾するやうであるが、上記の爲熊凝述其志歌は明に憶良の作であるにも拘はらず、其序文には乃作歌六首而死とある所を見ると、代作といふ氣もちで、態と妻子の歌としたのかも知れぬ。若し然りとすれば、或云以下は蛇足であるから、編者または注者の追記とすべきである。
(三)薪考が感妻子之悲〔右○〕傷の錯簡としたのは當を得て居るやうであるが、姑く原文に即して讀んで置く。
 
3860 王之《オホキミノ》 不遣爾《ツカハサナクニ》 情進爾《サカシラニ》 行之荒雄良《ユキシアラヲラ》 奧爾袖振《オキニソデフル》
 
〔三八六〇〕 大君の つかはさなくに さかしらに 行きし荒雄ら 沖に袖ふる
 
おほきみの(王之) 大君の謂で、天皇を意味する。
つかはさなくに(不遣爾) 遣ハサヌノニといふ意。即ち朝命でもないのにと云ふのである。
さかしらに(情進爾) サカシラは形容詞サカシ(賢)に接尾語ラを添へて名詞形としたもので、賢き(241)ことゝいふ意であるが「賢立」の義に轉用せられるやうになつた。情進の二字は恐らくは心ノスサビといふ意を以てサカシラに充てたのであらう。次に情出と書いて同じ訓を與へたのは、俗語の出シヤバリといふ意を含める爲の譯字と思はれる。
ゆきしあらをら(行之荒雄良) 句尾のラは上掲の坂門等〔右○〕(第一三九頁)と同じく、虚辭的接尾語と見ることも出來るが、舟出したのは荒雄一人ではないから、複數表示と見る方がよい。
おきにそでふる(奥爾袖振) 奥は借字で、沖の意なることはいふまでもない。袖振を、山幸海幸の擧手飄掌〔紀〕と同じく、溺苦之状なりとすることの非なるは、新考の道彼した通りであるが、惜別の形容なりとする同書の説にも疑がある。その爲ならば浦邊に於て振るべきで、特に沖と敍する必要はなく、次の歌には波に袖振ともあるから、海上で勇ましく立働いて居るさまを想像して詠じたのではあるまいか。この時代の男子が振るに足るほどの長袖の衣裳を書けたとは考へられず、ことに波上に活躍せねばならぬ男子の服装としては、長袖は甚不適當であるから、此日事實袖を振つたといふのではなく、現代語で腕〔右○〕ヲ振フといふと同じ意味を、此形式を以て表現したのであらう。
〔大意〕朝廷から遣はされるのではないのに、賢だてに舟出した荒雄らが沖で腕を振ふ(よ)
 
(242)3861 荒雄良乎《アラヲラヲ》 將來可不來可等《コムカコジカト》 飯盛而《イヒモリテ》 門爾出立《カドニイデタチ》 雖待不來座《マテドキマサヌ》
 
〔三八六一〕 あら雄らを 來むか來じかと 飯もりて 門に出立ち 待てど來まきぬ
 
あらをらを(荒雄良乎) 前出。第五句に敬語を用ひて居るから、卑屬の作に擬したものとせねばならず、飯盛而とある所を見ると、妻らしくも思はれるから、此時代には夫の名を呼びずてにすることは、――西洋に於て然るが如く――敢て不敬とはせられなかつたものとせねばならぬ。其は荒雄といふ名が、支那人の字と同じく、多少敬意を含むものであつたからで、幼名乃至實名は別に存したのであらう。些細な事のやうであるが、人名に關する古今觀念の相違を證するに足るものである。
こむかこじかと(將來可不來可等) 來《コ》ようか來《コ》まいかといふ意であるが、第十三卷〔三三一九〕の杖衝毛不衝毛と同じく、コジカは修辭のために添付せられたので、句意は單に「來むか」といふことである。
いひもりて(飯盛而)
かどにいでたち(門爾出立) 門に出たものは勿論荒雄らの家人である。
(243)まてどきまさぬ(雖待不來座) 新考訓による。從來來マサズ〔右△〕と訓んで居るが、感動詞を含めねばならぬ場合であるから、來マサヌヨ〔右○〕(又はコトヨ)といふ意を以て來マサヌ〔右○〕と誦すべきで、十三卷〔三二七七〕にも例がある。
〔大意〕荒雄らが歸つて來ようかと飯を盛つて、門に出て待てども歸つて來られぬよ
 
3862 志賀乃山《シガノヤマ》 痛勿伐《イタクナキリソ》 荒雄良我《アラヲラガ》 余須可乃山跡《ヨスガノヤマト》 見管將偲《ミツツシヌバム》
 
〔三八六二〕 しがの山 いたくな伐りそ 荒雄らが よすがの山と 見つゝしぬばむ
 
しがのやま(志賀乃山) 志賀村の山をいふ。
いたくなきりそ(痛勿伐) 山の木をむやみに伐るなといふ意。
あらをらが(荒雄良我)
よすがのやまと(余須可乃山跡) ヨスガは寄處の謂であるが、轉じて因《チナミ》または縁《ユカリ》の意ともなり、本集第三卷にも「吾妹子が入りにし山をヨスガとぞ念ふ」〔四八一〕と用ひた例もあるけれど、此は原義により舟を寄する處と解すべきである。遙な沖合から歸つて來る舟人は、特徴のある山丘を唯一の目標とするものであるから、之をヨスガ(寄處)又はヨルベ(寄邊)と稱へたのである。荒雄を(244)葬つた山〔略〕、若しくは同人が觀賞又は來往した山〔古〕〔新考〕とするのは、海上生活に疎い學者の僻案で、留守の間にしるしの大木を伐られた爲、遠方から歸つて來た船が航路を失うて、坐礁または難破の厄に遭うたといふやうな話は、今も臨海の各地に殘つて居るのである。
みつつしぬばむ(見管將偲) 荒雄らがヨスガとした樹木の茂つた志賀の山を見て、思ひ出にしようといふのである。
〔大意〕志賀の山(の木)を餘り伐るな。荒雄らがヨスガの山と見て思ひ出にしよう
 
3863 荒雄良我《アラヲラガ》 去爾之日從《ユキニシヒヨリ》 志賀乃安麻乃《シガノアマノ》 大浦田沼者《オホウラタヌハ》 不樂有哉《サブシクモアルカ》
 
〔三八六三〕荒雄らが 行きにし目より 志賀の海人の 大浦たぬは さぶしくもあるか
 
あらをらが(荒雄良我)
ゆきにしひより(去爾之日從) 「行つてしまうた日から」といふ意。この故に特にニシといふ複合助動詞を用ひたのである。
しがのあまの(志賀乃安麻乃) 志賀村のアマ(海人)のといふ意。
おほうらたぬは(大浦田沼者) オホウラは志賀村中最も大きい浦のことで、其處で日を定めてタヌ(245)といふ行事があつたのであらう。タヌ夙に廢語となつたので、先學この句を解きなやみ、甚しきは大浦沼の三字を盡く誤記としてソノナ〔三字右△○〕ハタ〔右△〕ギハと改訓したものもあるが〔新考〕、大和に於ては亡びて居ても、筑紫には尚殘つて居た古言か、もしくは此地方獨特の名稱でも有り得る。案ずるにタヌは團の字音タンと同原で、朝鮮語に於でも※[ハングルでタニョ]《タニヨ》(連用形)は「寄」の意に用ひられるから、集樂《ツメノアソビ》を意味したのであらう。荒雄が行方不明になつた後は、大浦に於て催される其集樂も火が消えたやうな氣がするといふので、其は荒雄の家人ばかりの感想ではなく、之と運命を共にした舟子どもの遺族も多かつた筈であるから、さも有りぬべきである。更に案ずるにタヌシ(樂)といふ語も此タヌに形容詞語尾シを連ねて轉義したのてあるかも知れぬ。從來タ(手)ノシ(伸)の義とする古語拾遺の説が一般に信ぜられ、私も之に從うたことがあり〔語誌〕、或はタはタリ(足)の語幹で、ヌシ(ノシ)は延伸の義かと考へて見たこともあるが〔神代篇三稱一五九頁〕、ノシは使動詞形であるから、形容詞活用に從ふことは有り得ぬ。團欒は上代人の最大快樂としたことであるから、之を語幹とした形容詞が「樂」の意に用ひられるやうになつたとする方が、寧ろ穩當のやうで、從つてタヌといふ原語は、筑紫ばかりではなく、上古一般に通じ、憶良は其原義を知つて之を用ひたものとすべきである。
(246)さぶしくもある〔四字右○〕か(不樂有哉) 不樂は舊訓カナシとあるが、此場合には不適當な語であるから、本集第二卷〔二五七〕、第四卷〔五七六〕に不樂をサビシと訓した例に從ふべきである。但しサビシと假字書したのは〔三七三四〕の異傳のみで、他はみな左夫〔右○〕思〔第一、四卷〕、佐夫〔右○〕之〔第三、四、一五、一七、一八卷〕、左夫〔右○〕之〔第一七、一八卷〕、佐夫〔右○〕斯、佐夫〔右○〕志〔第五卷〕、佐府〔右○〕下〔第九卷〕と表記せられて居るから、新考に從ひサブ〔右○〕シクモアルカと訓むべきであらう。更に一考するに、此場合の樂は上句のタヌを重ねてタヌシと唱へたい所であるから、原歌は或はタヌシクアレヤといふ反語的表現を用ひたのかも知れぬ。不の字が剰るやうであるが、?入とも或は補意的贅字とも見ることが出來る。
〔大意〕荒雄らが行つてしまうた日から、志賀の海人の大浦の集樂《タヌ》は寂しいことよ
 
3864 官許曾《ツカサコソ》 指弖毛遣光《サシテモヤラメ》 情出爾《サカシラニ》 行之荒雄良《ユキシアラヲラ》 波爾袖振《ナミニソデフル》
〔三八六四〕 つかさこそ さしてもやらめ 賢しらに 行きし荒雄ら 波に袖ふる
 
つかさこそ(官許曾) ツカサの原義は冢であるが〔語誌〕、上古文書の具備しなかつた時代に於て、法令その他所要の布告をするには、民衆を市に集め、官人が一段小高い冢の上に立つて、大聲に宣示することを例としたから、其職司をもツカサと稱へるやうになつたので、法をノリ(宣)とい(247)ふのも之に因るものである。
さしてもやらめ(指弖毛遣米) サシテは名指してといふ意で、防人歌〔四三八二〕にも「防人ニサス」と用ひた例がある。已然形を以て終止したのは、例の如く反接の意を寓する爲である。
さかしらに(情出爾) 前出
ゆきしあらをら(行之荒雄良) 前出
なみにそでふる(波爾袖振) 波濤の間に腕を振ふといふ意なることは既述の通りである。
〔大意〕官人こそ名を指して差遣することもあらうが、出しやばつて舟出した荒雄らが海上で奮闘することよ
 此は上掲〔三八六〇〕と趣向を同じうするが、決して之が異傳ではなく、故意に上二句をかへ、且末句の沖を波と改めて歌ひかへしたものと思はれる。上記の爲熊凝述其志歌の反歌四首が、末句を少しかへて、一云として附記せられて居るのも、同じく一種の反誦で、憶良は固定した五句短歌形に若干の變改を加へようと努力したものゝやうであるから、この歌の如きも古の五句聯立體、即ち輕太子の「笹葉にうつや霞の」〔記〕及天智朝の童謠「宇治橋のつめの遊」〔紀〕の風格を模倣したのであるかも知れぬ。――上掲の〔三八五八〕〔三八五九〕の二首も同一型であるから、或は同じく憶良臣の作ではあるま(248)いか――いづれにしても此歌は〔三八六〇〕の次に位すべきで、序次をかへた歌は編者または傳誦者のさかしらであらう。
 
3865 荒雄良者《アラヲラハ》 妻子之産業乎婆《メコノナリヲバ》 不念呂《オモハズロ》 年之八歳乎《トシノヤトセヲ》 待騰來不座《マテドキマサヌ》
 
〔三八六五〕 あら雄らは 妻子のなりをば 念はずろ 年のやとせを 待てど來まきぬ
 
あらをらは(荒雄良者)
めこのなりをば(妻子之産業乎婆) 産業は舊訓ワザとあるが、勿論ナリであらねばならぬ。――紀にも業、農業、産業等は當にナリ〔二字右○〕ハヒと訓してある――ナリの原義は「成」であるが、成實(結實)の意を以て五穀成就の謂にも用ひられ、轉じて産業(生業)の義を生じ、之を營むこと即ち生計をナリハヒといふやうになつたのである。
おもはずろ(不念呂) このロはヨの轉呼で、見ヨ、射ヨの如き一段活用の命令法は見ロ〔右○〕、射ロ〔右○〕ともいひ、爲《セ》ヨは九州地方ではセロ〔右○〕と稱へる。ヨの形に於ては通例終止法にはつゞかぬが、此はヨから分岐したヤと同じく、間投詞的に用ひられたので、思ハズヤといふにあたり、次句以下につゞくのである。雅澄がこのロをアルラムの意としたのは、土佐では、今もラムをロと急呼し、アルロ(249)(アルラム)、行クロ(行クラム)の如く表現するからであらうが、ラムは直接ズに連ることなく、アルラムをロと約することも絶無で、同國人もアルロといふを例とする。
としのやとせを(年之八歳乎) トシといふ語を重ねたのは莊重に表現する爲で、單に八年ヲといふに同じく、第十三卷〔三三〇七〕にも用例があるが、八は必しも實數ではなく、數年といふほどの意であらう。此場合のヲ〔右○〕の職能については從來明解が與へられて居なかつたが、語群構成法上から私が最近推究し得た所によれば、此句は次の待〔右○〕といふ動詞の限定的表現〔五字右○〕で、――「國語と民族思想」第二輯拙文參照――助語ヲは之を表示する一樣式に過ぎぬ。
まてどきまさぬ(待騰來不座) 新考が之を來マサヌハ〔右△〕のハを略したものとしだのは誤解で、倒敍ではない。但し來マサズとした從來の訓の非なることは上述の通りで、來マサヌ〔右○〕であらねばならぬ(第二四三頁)。
〔大意〕荒雄らは妻子の生計をおもはず、八年まてども歸つて來なさらぬよ
 
3866 奥鳥《オキツトリ》 鴨云船之《カモトフフネノ》 還來者《カヘリコバ》 也良乃埼守《ヤラノサキモリ》 早告許曾《ハヤクツゲコソ》
 
〔三八六六〕 おきつとり 鴨とふ船の かへり來ば やらの崎もり 早く告げこそ
 
(250)おきつとり(奧鳥) 沖ノ鳥といふ意を以て、鴨の枕詞に用ひたので、本集にはアヂ(鴨の一種)とつゞけた例もある〔九二八〕。
かもとふふねの(鴨云船之) 鴨は船名である。古は?をもカモと呼稱したのであるから、船の名としては其義と解する方がよい。今も和船には此名を負うたものが少くはない。云は舊訓トイフとあるが、イを省いてトフと訓むのが古語の例である。
かへりこば(還來者)
やらのさきもり(也良乃埼守) 福岡灣内|殘《ノコノ》島の北角|荒《アラ》埼が之に擬せられて居り〔名寄〕、ヤラとアラとは音も近いが、同地は志賀嶋よりもやゝ内方に位し、此歌及次の一首の趣にあはぬから、或は志賀島の西側なる今の大埼などを、往昔この名を以て呼稱したのではあるまいか。名の義は斷言を憚るけれども東歌のヨラの山と同じく〔三四八九〕、或は鮮語|※[ハングルでヨル]《ヨル》(靈)の轉で、或る神靈が鎭座したが故に名を負うたのかも知れぬ。山(丘)の埼と同樣に、陸地の岬角にも神を祭つて、水路の安寧を祈願したことは有り得べきである。此サキモリが官より配置せられた防人を意味するか、或は私設の監視員であつたかは之を詳にせぬが、いづれにしても出入の船舶を見はる爲の望樓のやうなものが存したのであらう。
(251)はやくつげこそ(早告許曾) 此コソは希望表示で早く告げよといふ意である。
〔大意〕?《カモ》といふ名の船が歸つて來たら早く知らせて欲しい。ヤラの埼守よ
 
3867 奧鳥《オキツトリ》 鴨云舟者《カモトフフネハ》 也良乃埼《ヤラノサキ》 多束弖※[手偏+旁]來跡《タミテコギクト》 所聞禮許奴可聞《キカレコヌカモ》
 
〔三八六七〕 沖つとり 鴨とふ舟は やらの埼 たみてこぎ來と 聞かれこぬかも
 
おきつとり(奧鳥)
かもとふふねは(鴨云舟者)
やらのさき(也良乃埼)    }前出
たみてこぎくと(多未弖※[手偏+旁]來跡) タミは廻の意。ヤラの崎を廻つて漕ぎ來るといふのである。
きかれこぬかも(所聞禮許奴可聞) 禮の字古葉略類聚鈔に衣〔傍点〕とあるにより、古義以下キコエと改訓して居るが、キコエも本初はキカエ(聞得)から轉化したもので、キカエは音便により夙にキカレと轉呼せられたのであるから、強ひて改訓するにも及ぶまい。コヌは勿論來ルの否定表示で、聞えて來ぬかなといふ意である。
〔大意〕?《カモ》といふ船がヤラの埼を廻つて漕いで來ると風聞せぬことよ
 
(252)3868 奥去哉《オキユクヤ》 赤羅小船爾《アカラヲフネニ》 ※[果/衣]遣者《ツトヤラバ》 若人見而《ケダシヒトミテ》 解披見鴨《トキアケムカモ》
 
〔三八六八〕 沖行くや あから小舟に つとやらば 蓋し人見て ときあけむ〔五字右○〕かも
 
おきゆくや(奧去哉) ヤは間投詞で、オキユクは沖に出て行くといふ意なるが故に、特に去〔右○〕の字をあてたので、上の各首にユキシ及ユキニシとあると同一用法である。
あからをふねに(赤羅小船爾) アカラはアカ(赤)の名詞形であるから、アカラヲフネは赤い小舟の意の複合名詞で、或種の船の名稱として用ひられたものとせねばならぬ。思ふに當時の官船は赤塗であつたので、アカラヲフネといへば直に官用小船と了解せられたのであらう。靈異記上卷に勅命を奉じた小子部《ワカコベ》の栖輕《スガル》が赤〔右○〕い鬘をつけ、赤〔右○〕幡の桙を携へたとある所を見ると、上古から赤色を以て官用を標識したものと思はれる。令集解にも古記を引いて公船以朱〔右○〕漆之とあるのである。更に案ずるに此官船は荒雄らの船の安否を尋ねる爲に太宰府から特派せられたもので、萬一を※[人偏+堯]倖して乘員の家族から後送品の委託を受けたのではあるまいか。荒雄の妻も數にもれず、※[果/衣]の中に思慕の情をこめた贈もの又は書きものを入れようとして、若し人が見たらと心づき、思はず顔を赤めた趣を詠じたものと思はれる。新考も論じたやうに此十首は頗る序次を誤つて居るから、(253)この歌の如きも遭難が尚確認せられぬ以前の詠とすべきである。之に關しては更に次の歌の後に述べる。
つとやらば(※[果/衣]遣者) ツトはツツミ(包)の語根ツと、「物」の意のトから成る複合名詞で、「包み物」の謂である。官船に之を委託しようとした理由は上記の通りで、新考が※[果/衣]〔右○〕を傳の誤として、ツテと訓み、消息を書きて送ることゝ解したのは無稽と謂はねばならぬ。ツテゴト〔天智紀〕〔萬一二〕を略してツヲと言ひ得られぬことはないが、書状をツテと稱へた例はなく、傳言ならば次句も人聞テとあるべきで、見るものではない。
けだしひとみて(若人見而) 略解の第二訓による。ケダシはモシ(若)と同義の古言で、本集にも多くの用例があり、新撰字鏡には儻の字に此訓を與へ、設也若也云々と註してある。恐らくはキザシ(兆)の轉呼轉義であらう。
ときあけむ〔五字右○〕かも(解披見〔右▲〕鴨) 從來字に即してトキアケミ〔右△〕ムカモと訓み、新考は解披の二字をヒラキと改訓したが、見《ミ》といふ語が重複するから、衍とすべきである。末句に之を必要とするならば、第四句はケダシ人知リ〔二字右○〕とでもあるべきで、其が※[果/衣]を見つけて〔四字右○〕といふ意とすれば、此句の見はない方がよい。在中品は必しも書状なることを要せず、トキアケムカモだけで意はよく通ずるから、(254)標準語音數を超過してまでも――新考が改訓を試みたのも之に因るものである――ミ(見)を加へる必要がない。恐らくは上句の見〔右○〕が再び?入したのであらう。
〔大意〕沖へ出て行く赤小舟(官用舶)に包み物を託してやると、もしや人が見て解き披《ア》けはすまいか
 
3869 大舶爾《オホフネニ》 小船引副《ヲフネヒキソヘ》 可豆久登毛《カヅクトモ》 志賀乃荒雄爾《シガノアラヲニ》 潜將相八方《》カヅキアハメヤモ
 
〔三八六九〕 大ふねに 小舟ひきそへ かづくとも 志賀の荒雄に かづき逢はめやも
 
おほふねに(大舶爾)
をふねひきそへ(小船引副)
かづくとも(可豆久登毛) 以上三句は沖中のクリ(暗礁)に於て潜水漁業を營む光景を敍したので、魏志時代から眞珠を以て有名であつた此地方では(建國篇二−二六一頁)、既に治岸のものを捕りつくして、漁場を沖合に求めねばならなかつたので、大船を以て漕ぎ出し、適宜な所に錨をいれ、小舟をおろして潜水したのであらう。殊に此歌では海中に沈没した荒雄に關聯するから、磯廻の作業としては趣にかなはぬので、大船に小舟引きそへと詠じたのである。作者の此細心なる用意は、從來の註釋者によつて認められずに過ぎたやうである。
(255)しがのあらをに(志賀乃荒雄爾)
かづきあはめやも(潜將相八方) 略解訓による、海底に於て志賀の荒雄に邂逅することがあらうやといふ意。荒雄は海難によつて溺死したもの、此は生ある潜水漁人であるから、縱ひめぐり逢うても幽明境を隔て、言傳《コトヅテ》るよしもないのであるが、せめて遺骸だけでも發見したいといふ家人の希望も、空だのめであつたことを、此形式を以て表現したので、哀の深い歌である。
〔大意〕大舶に小舟を引きそへて潜水しても、志賀の荒雄と(水底で)めぐり逢ふことがあらうや
 以上十首は上述の如く頗る序次が前後して居る。其は新考説の如く、成るに隨ひて記し附け、其順序をとゝのふるに及ばざりし爲ではなく、傳寫または編輯の際に生じた錯簡で、或は之を妻子等數人の詠出と了解し、順序にはさのみ重きを置くことを要せぬと考へたのかも知れぬが、此十首は序文と共に、全部憶良の作と認むべきこと、上述の通りであるから、二首づゝきれぎれに詠じたとは考へられぬ。恐らくは憶良の手記には左記の順序を以て排列せられて居たのであらう。
 一 〔三八六〇〕
 二 〔三八六四〕 }海上の活躍を想像した歌
 此二首が五句聯立形と思はれることは上記の通りである。
(256) 三 〔三八六八〕行方不明のため捜索船進發の光景
 四 〔三八六六〕萬一を僥倖し、尚生還の望を繋いで居る氣もちを詠じたもの
 五 〔三八六七〕
 六 〔三八六一〕}やゝ絶望の淵に沈倫
 七 〔三八六九〕
 八 〔三八六三〕}遭難確定、悲痛無限
 九 〔三八六五〕歳月を經て哀愁愈よつのる趣を詠じたもの
 十 〔三八六二〕追懷
右の如く序次すると、久しい歳月に亙る一篇の哀史で、結構に於ても修辭上にも、間然する所のない非凡の作である。憶良の歌才は人麻呂の壘を摩するものがあり、赤人以下の到底企て及ぶ所ではないが、聊か時代が後れたのと、歌形歌詞に新し味を加へようとした爲に、典雅の趣が乏しいかのやうに感ぜられ、貫之等にも認められず、歌聖の名を擅にすることが出來なかつたのは、遺憾と云はねばならぬ。此は憶良が筑前守在任中の作なることは疑なく、神龜年中から「年の八とせ」を過ぎたとあるのであるから、縱ひ其が概數であるにしても、天平初年の作とせねばならず、上掲の爲熊凝述其志歌と(257)ほゞ年代を同じうするのであらう。好去好來歌及老身重病歌によれば、憶良は天平五年には既に歸京して居たものゝやうである。
 
3870 紫乃《ムラサキノ》 粉滷乃海爾《コカタノウミニ》 潜鳥《カヅクトリ》 珠潜出者《タマカヅキイデバ》 吾玉爾將爲《ワガタマニセム》
 
〔三八七〇〕 むらさきの こかたの海に かづく鳥 珠かづきいでば わが玉にせむ
  右歌一首
 
むらさきの(紫乃) コ(濃)にかゝる枕詞であるが、後述のやうにコカタが岬角名であるとすれば、村前《ムラサキ》にいひかけたのかも知れぬ。
こかたのうみに(粉滷乃海爾) 第十二卷〔三一六六〕に、吾妹兒乎外耳哉將見《ヨソノミヤミム》越〔右○〕懈乃《ウミノ》子難〔二字右○〕懈《ウミ》乃島|楢名君《ナラナクニ》とある子難をコカタと訓むとすれば越〔右○〕の國であらねばならぬと説かれて居るが、三越地方には此名を存せず、且仙覺本には越をオチ(ヲ〔右○〕チの誤記)と訓してある。吾妹子の縁によるもヲチ(若)の方が適はしく、また越を地名としては、越の海〔右○〕のコカタの海といふ表現樣式は重複の嫌があるから、或は遠《ヲチ》の海なる〔二字右○〕コカタの海の謂ではあるまいか。契沖は元輔集を引いて、伊勢に此地名があると考證したが、伊勢は都に近く、ヲチ(遠方)とはいへぬから、或は薩摩國出水郡阿久根町小潟(258)崎の海面のことであるかも知れす。岸に面して大島(母子島)といふ島のあるのも十二卷の歌の趣に適うて居る。コカタは小潟の意であるが、此歌に於ては子形即ち女子の容といふ意味をも含めたもののやうである。
かづくとり(潜鳥) 神功紀の歌にカヅクトリとあるのはニホドリ(鳩鳥)即ちカイツムリ(※[辟/鳥]※[虎+鳥])のことであるが、是は海人《アマ》少女を水禽に見たてたので、或は其名をトリと稱へたのかも知れぬ。
たまかづきいでは(珠潜出者) タマは白玉即ち眞珠のことで、海底に潜つて取來らばといふ意。
わがたまにせむ(吾玉爾將爲) 自分の玉にしようといふのであるが、其裏には掌中の珠即ち愛人にしようといふ意が含まれて居る。名を鳥といふ容色すぐれた海人少女を見て、眞珠を取つて來たら女房にしてやらうと戯れたので、恐らくは都下りの若人の作であらう。單に鳥を詠じたものと解しては興味が失はれる。
〔大意〕邨の崎(?)のコカタの海に潜水する鳥(海人少女)よ。潜つて珠を取つて來たら自分のものにしよう
 以下六首は前書も左注もないが、いづれも有由縁歌と想はれる。恐らくは傳を逸し、註者も之を詳にしなかつたのであらうが、此歌の如きは次の如くあつて然るべきである。
 
(259)右歌一首傳云。薩摩國出水小潟埼。有一白水少婦。字曰鳥也。容姿端正。能堪潜水漁撈。于時有一壯士【姓氏未詳之】聊作斯歌而誂之也
 
3871 角島之《ツノシマノ》 追門乃稚海藻者《セトノワカメハ》 人之共《ヒトノトモ》 荒有之可杼《アラカリシカド》 吾共者和海藻《ワガトモハニギメ》
 
〔三八七一〕 つのしまの せとのわかめは 人のとも〔二字傍点〕 あらかりしかど 吾《ワ》がとも〔二字傍点〕はにぎめ
 
 右歌一首
 
つのしまの(角島之) 兵部式に長門國角島牛牧とある地であらう。今の山口縣豐浦郡角島村で、本洲との間に一|迫門《セト》を隔てた離島で、恐らくは津之島の謂であらう。特に此島名をあげたのは、作者によつて荒カリシと云はれた女性の居住地であつたからであらう。
せとのわかめは(迫門乃稚海藻者) セトは迫《セマ》い水門をいひ、ヲド(小門)とほゞ同義である。此は角島と本洲との間の小海峽のことで、事實に於てワカメ(裙帶菜)が生産したのであらうが、こゝでは吾之妻《ワガメ》に言ひかけたのである。
ひとのとも〔二字傍点〕(人之共) 舊訓による。共は借字で、トモガラ(部族)のトモ(伴)即ち族員を意味する。契沖以下字義に即してヒトノムタ〔二字右△〕と改訓し、歌意を釋きなやんだ結果、古義は「人の爲に」といふ(260)程の意なりといひ、新考は共〔右○〕を谷〔右△〕と改めてタニ(爲ニの意)と訓み、ヒトノタニは「人の誂ふには」の謂としだが、其等はこの歌を人には辛らく、我にはやさしいといふ意と豫斷して牽強したもので、ムタ及タニといふ語にはそのやうな意味はない。案ずるに以上三句は、角嶋なる我妻《ワカメ》は(他)人の族員であるといふ意で、次句のアラカリシ理由を説明するものである。
あらかりしかど(荒有之可杼) 略解訓に從ふ。邪見であつたがといふ意。部族を異にする爲に、とかく折あひが惡く、自分につらく當るので、終に絶縁して新に同部旅の女を娶つた男の歌と思はれる。
わがとも〔二字傍点〕はにぎめ(吾共者和海藻) 自分のトモ(伴)即ち同族人なる今の女房はやさしい女(和妻《ニギメ》)であるといふことを、上句ワカメの縁によつてニギメ(和布)にいひかけたのである。和名抄には邇岐米を海藻の和名とし、之に對して滑海藻を阿良米と訓して居るが、メはモ(藻)の轉呼で、一般に海草を意味し、ヒロメ〔右○〕(昆布)、ミルメ〔右○〕(水松)等の如くも用ひられるから、ニギメも柔い藻といふ意であらう。
〔大意〕角島の迫門《セト》なるワカメ(我|妻《メ》)は(他)人の部員《トモ》で、荒かつたけれども、(今度の妻なる)自分の同族員《トモ》はニギメ(やさしい女)である
(261) 從來「共」が借字であることに氣づかず、字義に即して色々に牽強せられて居たが、右の如くトモを部族員の意とすれば、改訓を敢てせずとも歌の意は明白で、ワカメ及ニギメといふ品物に託して所懷を述べた所に、地方色がよく現はれて居る。トモガラ即ち部族制は、大化令によつて廢止せられたけれども、近畿の外には尚久しく存續したやうで、本集防人歌の作者中にも、何々部〔右○〕某といふ名が多く見える。部の字もまた紀にはトモと訓せられて居り、部員を意味するのである。――此歌の趣をよく會得せんが爲には、少しく上代の社會組織を説明する必要があるのであるが、湘南國語研究會から刊行した「國語と民族思想」第三輯に於て、聊か之に言及したから、こゝには省略する。
 
3782 吾門之《ワガカドノ》 榎實毛利喫《エノミモリハム》 百千鳥《モモチドリ》 千鳥者雖來《チドリハクレド》 君曾不來座《キミゾキマサヌ》
 
〔三八七二〕 わが門《カド》の 榎の實もりはむ ももちどり ちどりは來れど 君ぞ來まさぬ
 
わがかどの(吾門之)
えのみもりはむ(榎實毛利喫) 榎は和名抄に衣《エ》と訓せられ、今もエノキ(朴樹)と稱する楡科の喬木で、恐らくはヱ(柄)の材料とするに適するが故に此名を負うたのであらう。モリはホリ(欲)の音便で、次句のモモチドリと頭韻を押す爲に轉呼せられたものと思はれ、後代語のムサボ〔右○〕リに相當(262)する。ムレの轉または「守」の義とするのは當らぬやうである。
ももちどり(百千鳥) 次句のチドリと同じく、多數の鳥といふ意。
ちどりはくれど(千鳥者雖來) モモチドリ、チドリと重ねたのは整調の爲にすぎぬ。衆鳥は來れどもというて、男の來ぬことの對照としたのである。
きみぞきまさぬ(君曾不來座) 君ハ來マサヌ(コトヨ)といふ意。ハの代りに指定助語ゾを用ひたのは強意の爲である。
〔大意〕吾が門の榎の實を貪り喫む百千鳥は來るが、君は來まさぬことよ
 
3873 吾門爾《ワガカドニ》 千鳥敷鳴《チドリシバナク》 起余起余《オキヨオキヨ》 我一夜妻《アガヒトヨヅマ》 人爾所知名《ヒトニシラユナ》
 
〔三八七三〕 わが門に ちどりしば鳴く おきよ起きよ あが一夜づま 人にしらゆな
   右歌二首
 
わがかどに(吾門爾)
ちどりしばなく(千鳥數鳴) 衆鳥が?々鳴く即ち囀るといふ意で、夜のあけたことを此形式を以て表現したのである。
(263)おきよおきよ(起余起余)
あがひとよづま(我一夜妻) 妻は借字で、夫《ツマ》の意なるべきことは雅澄説の通りである。?々述べたやうに此時代には、女を自家に引入れて寢るといふやうなことは嚴禁であつたから、女の許にとまりに行つたものとせねばならず、朝寢をすると人目に觸れるから、百千鳥の聲も聞えます、早く起きて歸つて下されと、女がいうたものと思はれる。ヒトヨヅマといふ表現を用ひた所を見ると、定まる夫ではなく、一時の浮氣から引入れた男であつたとすべきで、既婚又は可婚婦人は、ツマヤ(嬬屋)と稱する別棟に獨居(若くは幼兒と同居)して居たから、此やうな冒險も容易に行はれたのである。神樂歌に「庭鳥はカケロと鳴きぬなり起きよおきよ吾が一夜づま人もこそ見れ」とあるのも同じ趣で、當時の戀愛生活には此のやうな場面は?々起り得た筈であるから、必しも本卷の歌を誤傳または燒き直したのではあるまい。
ひとにしらゆな(人爾所知名) 略解訓による。此密事を人に知られるなといふ意である。古義が此句の意味を長々と演釋し、新考が「かりそめに女を引き入れて逢ひしなり」と説いたのは、餘りにも上代習俗に無關心といふべきで、本集に數多い相聞歌を少しく注意して讀んで居るものには、少しも疑義のない歌である。
(264)〔大意〕吾が門に衆鳥《チドリ》が囀る。起きよ起きよ。かりそめの夫よ。人に知られるな
 
3874 所※[身+矢]鹿乎《イルシシヲ》 認河邊之《ツナグカハベノ》 和 〔左△〕草《ワカクサノ》 身若可〔左▲〕倍爾《ミノワカキヘニ》 佐宿之兒等波母《サネシコラハモ》
 
〔三八七四〕 射るししを つなぐ河邊の わかくさの 身のわかき〔右○〕へに さねし兒らはも
   右歌一首
 
いるししを(所※[身+矢]鹿乎) 鹿の字舊訓シカとあるが、齊明天皇の御製に伊喩之之〔二字右○〕乎|都那遇何播抔能《ツナグカハヘノ》あると同一成句で、本集にも所射十六〔二字右○〕乃〔一八〇四〕所射完乃〔三三四四〕といふ句が見え、いづれもシシと訓むべき字(完は宍の變體)を用ひてあるから、此もシシであらねばならず、鹿は借字で、廣く食用野獣を意味するのである。イル(所※[身+矢])は射アルといふ意で、齊明紀のイユは其音便に過ぎず、イラルル(受身)といふ意ではないから、之に準じて改訓する必要はない。
つなぐかはべの(認河邊之) 眞淵訓に從ふ。認は舊訓トムルとあり、本集には尋をトメと訓した例があるから〔四一四六〕、之に代用したものと見ることも不可能ではないが、尚齊明紀の例に從ふべきで、字鏡集には認にツナグといふ訓を與へて居る。ツナグはツナ(綱)から導かれた語で、綱をたぐるやうに尋ね求めることをいひ、來目歌にもソネメツナギ〔三字右○〕テと用ひた例がある。手を負うた(265)野獣は、水を飲みに川に降りて行くことがあるので、川邊とつゞげたのであらう。
わかくさの(和 〔右△〕草) 新考訓による。字に從へば仙覺本の如くニコクサと訓まねばならぬが、此句も上記齊明紀の歌には倭柯矩娑能《ワカクサノ》とあり、次句のワカといふ語を導き出す爲には、ワカ草の方が適當で、雄賂天皇の御製に「ワカくるす原ワカクヘに」〔記〕とあるのを見ても、原文には和可〔右○〕草とあつたのを錯つて可の字を次句に移したのであらう。他日正しい古寫本の出るのを待つて校合すべきである。――以上三句は序であるが、尚問題の女子との野合の場面が髣髴せられる。其意味からいうても、ツマの詞としても用ひられるワカクサの方が、ニコクサよりも適切である。
みのわかき〔右○〕へに(身若可〔右▲〕倍爾) 上述の如く可〔右▲〕の字は前句から?入したものとして、ミノワカキ〔右○〕ヘニと訓むを可とする。舊訓ミワカキカ〔右△〕ヘニとあるので、契沖は身若きカヒにと解し、眞淵はワカキカウヘ(於)ニの約で、若い時にといふ意としたが、假に其やうな轉呼または解釋が可能であるとしても、此歌には適合せぬやうである。其故に古義はミノワカ〔右△〕カヘニと改訓し、新考は可を久〔右▲〕の誤記として、上掲雄略天皇の御製に準じ、ワカク〔右△〕ヘと訓んだけれども、其は本來ワカキの古形ワカケ〔右○〕の音便で、――?々述べたやうに上古の形容詞活用語尾はケ一形で、無變化であつた――範とすべきものではなく、當時はすでにワカキ〔右○〕といふ連體形が發生して居たのであるから、強ひて(266)變體を用ひたとは思はれぬ。太キ〔右○〕、細キ〔右○〕等は九州方言ではフトカ〔右○〕モノ、ホソカ〔右○〕モノの如くも用ひられるから、若キ〔右○〕をワカカ〔右○〕と轉呼したことも絶無とはいへぬが、其は可〔右▲〕が錯簡でないことを前提としての推定で、此場合には上記の如く錯簡の疑が十分であるから、之を除いて尋常にワカキ〔右○〕ヘニと訓み、若いころにといふ意と解すべきである。
さねしこらはも(佐宿之兒等波母) サネは東歌にも多くの用例があり、ネ(寢)に發聲を促す爲の接頭語サを冠したに過ぎず、コラのラも亦虚辭的接尾語で、單にコ(兒)といふと同義であるが、此場合には女子を意味するのである。モは感動詞で、今もマーの形に於て用ひられ、名古屋方言ではモシともいふから、此は寢た子はマーといふに同じい。ハといふ絶對的表現を用ひたので、其女性の意外の變り方に驚いた氣もちが味はれる。
〔大意〕――上三句は序(河邊の若草を褥としてといふ意が含まれて居る)――(自分が)若いころに相寢た女の子はマー
 
3875 琴酒乎《コトサケヲ》 押垂小〔左△〕野從《オシタルミヌユ》 出流水《イヅルミヅ》 奴流久波不出《ヌルクハイデズ》 寒水之《マシミヅノ》 心毛計夜爾《ココロモケヤニ》 所念《オモホユル》 音之少寸《オトノスクナキ》 道爾相奴鴨《ミチニアハヌカモ》」 少寸四《スクナキヨ》 道爾相佐婆《ミチニアハサバ》 伊呂雅世流《イロケセル》 菅笠小笠《スガカサヲガサ》 吾宇奈雅流《ワガウナゲル》 珠乃七條《タマノナナツヲ》 取(267)替毛《トリカヘモ》 將申物乎《マヲサムモノヲ》 少寸《スクナキ》 道爾相我鴨《ミチニアハヌカモ》
 
〔三八七五〕 ことさけを おしたるみぬゆ いづる水 ぬるくはいでず ましみづの 心もけやに おもほゆる 音の少き 道にあはぬかも」すくなきよ 道にあはさば いろけせる すが笠を笠 わがうなげる 珠の七つ緒 とりかへも 申さむものを すくなき 道にあはぬかも
 此歌は卷十三〔三二九五〕〔三三〇九〕と同一樣式に屬する問答體で、前齣は男の詞、後半は女の應酬に擬したものである。
 
ことさけを(琴酒乎) 漢籍に琴酒といふ熟字があるので、契沖は琴を押へ、酒を垂れるといふ意を以て琴酒乎押垂とつゞけたものと解し、或は美酒《ウマサケ》〔略〕又は釀酒《カミサケ》〔新考〕の誤記とする説もあるが、恐らくは琴は借字で、殊酒《コトサケ》即ち上酒といふ意であらう。上酒(醇)は壓して搾り垂れるものであるから、オシタルの枕詞に用ひられたものと思はれる。
おしたるみぬゆ(押垂小〔右△〕野從) 字に從へば古義訓の如くオシタルヲ〔右○〕ヌユ(舊訓オシタレ〔右△〕は非)であらねばならぬが、假に之を大足《オシタル》の意としても、小野の修飾語には不通當であるから、宣長説に從ひ小〔右△〕を水〔右○〕の誤字として、タルミ〔右○〕野といふ地名と見るべきであらう。開化天皇の妃※[壇の旁+鳥]比賣の父は葛城(268)之垂見宿禰と稱したとあるから〔記〕、大和の葛城に此名の地點が存したことは疑がない(建國篇二−九二頁)。タルミは瀑布を意味するから、その地に冷泉が存したことも不自然ではない。若し然りとすればオシはオシタル(壓垂)に言ひかけるために添加せられたので、この句の範圍内では序語である。
いづるみづ(出流水) イヅミ(泉)の謂である。
ぬるくはいでず(奴流久波不出) 本集〔二五七九〕に水葱小熱とかいてナギヌル〔三字右○〕と訓ませた例があるから、此ころ既に微温をヌルシというたものと思はれるが、本來緩の義のヌルから轉じたのであらう。神代紀に弱をヌルシと訓したのも原義によるのである。ヌルカラズといふべきを、ヌルクハ出デズとしたのは、上句にイヅル水とあるからで、同じ動詞を繰かへして用ひることは古語の一樣式である。
ましみづの(寒水之) 古義訓による。景行紀にも寒泉をシミヅと訓した例があり、風土記その他の古書に見える寒泉または寒水も多くはシミヅ又はマシミヅと訓むものゝやうである。舊訓のヒヤミヅは後代語めきて居る。同じく景行紀に冷水をサム〔二字右○〕キミモヒと訓し、催馬樂にもミモヒモサムシと詠じた歌があるから、新考説のやうにサムミヅノと訓むことも不當ではないが、以上三句は(269)凍結《コホリ》の意を以て次句のココロ(コホリの原語のコリの疊頭轉化)にかゝるものゝやうであるから、此句では寒冷の意を表現せぬ方が趣がある。
こころもけやに(心毛計夜爾) ケヤは顯著の意の原語ケに名詞語尾ヤをそへたものであるから、ケヤニは單にケニといふと意に於て大差はない。雄略紀に貴をケヤカと訓したのも、顯〔右○〕貴の義によるものである(カは形容詞語尾)。されば仁賢紀には尤切をケヤケク、欽明紀には異の字をケヤケキと訓してあるので、兼好法師もハツキリといふ意をケヤケクと表現して居る(徒然草一四一段)。然るに本集の註釋者は之を曲解し、消《ケ》ヤ〔代〕、爽《サヤ》〔考〕、潔ク〔古義〕の意とし、ことに雅澄の如きはケサヤカと混同して、此句及次句を寒水之の上にめぐらして心得べしと説いて居るのであるが、「心も顯著に」即ち心モシルクの意とすれば、念ホユルの副詞と見ても少しも差支はない。
おもほゆる(所念)
おとのすくなき(音之少寸) オトはイヅミ(泉)又はマシミヅ(寒水)の縁語であるが、此はオト〔二字右○〕ヅレ即ち消息の意に用ひられたので、心モ顯著《ケヤ》に思念する音信が少いといふのである。新考が此句の上にワガセノ君ヨといふ一句脱としたのは、契沖説に從つてケヤニを消ユパカといふ意と誤解し、且オトを人目〔宣長〕または人音〔雅澄〕の謂とする説に盲從したからで、音信の意とすれば、(270)オモホユルといふ形態を以て修飾したのは何等不思議ではない。少キの下には後の初句の如く、感動詞が含まれて居るものと解すべきで、連體法として次句へつゞくのではあるまい。
みちにあはぬかも(道爾相奴鴨) ヌカモはネカモの轉呼で、希望と感動とを表示する慣用語尾である。此ごろは消息が絶えたから、路上に邂逅することもあれかしと言ふのである。――以上は前記の如く男の述懷で、新考が之をも女の作としたのは、句々の誤解の結果である。
すくなきよ(少寸四) 前齣の意をうけたので、オトノといふ辭が省かれて居るが、仰せのやうに音信が少うございますよといふ意である。
みちにあはさば(道爾相佐婆) アハサバは逢ハバの敬語形で、道に於て妾と逢ひ給はゞといふ意である。アフといふ動詞は、自分が人に逢ふ場合にも、人が自分に逢ふといふ意味にも用ひられるのである。
いろけせる(伊呂雅世流) 舊訓チ〔右△〕セルとあるのは、チとケと字畫が類似して居るから、轉寫の際に誤つたのであらう。此訓に從うて雅を稚〔右△〕と改記した本もあるが、チセルといふ語乃至語形態は存在せぬ。雅は五下切で、清濁音であるから、清音ケの假字としても差支はなく、雅澄のいふやうな?の誤字ではあるまい。イロは上記のイロコ(第三六頁)の略稱で、名門の子弟を意味するから、(271)第二人稱敬語または親愛稱呼に轉用せられたことも有り得べきで、六帖に「女郎花イロにもあるか松蟲を下に宿して誰を呼ぶらん」とあるやうに、中世以降情人をイロといふのも之から出たものと思はれる。イには汝(卑稱)といふ意もあるので、――記の白檮原宮の章下に道臣命が兄宇迦斯を罵つて伊〔右○〕ガ作リ仕ヘ奉レル大殿ノ内ニ意禮先ヅ入レというたとある――之に接尾語ロをそへたのではないかとも考へて見たが、前後の文脈上これは卑語と見ることが出來ぬ。ケセルはケル(著)の敬語形ケスの繼續格であるから、著て居るといふに同じく、倭建命の御歌〔記〕にも用例がある。
すがかさをがさ(菅笠小笠) スゲ(菅)製の小い笠といふ意。カサ(笠)といふ語を反復したのは古語法である。此句には助語ヲをそへて會得すべきである。
わがうなげる(吾宇奈雅流) ウナゲルはウナギアルの約。ウナギはウナ(頸)の活用形で、頸にかけることを意味する。
たまのななつを(珠乃七條) 珠の數稱にヲ(緒)といふ語を用ひたのは、緒に通した珠七條の意なるがゆゑで、上掲の小笠(ヲ)に對し、此は七條《ナナツヲ》(ト)といふ意と解すべきである。
とりかへも(取替毛) 舊訓トリステ〔二字右△〕モとあるは非。勿論交換の意であらねばならぬ。
(272)まをさむものを(將申物乎) マヲスは本來口供の意であるが、此は後代語に於けると同じく、長者に對して自己の言行をいふ敬語法の一形式として用ひられたので、本集には此外に都マデ送リマヲシテ〔四字右○〕〔八七六〕といふ一例があるのみである。モノヲは?々述べたやうに、實現に至らざりしことを悔いる意を表現する。
すくなき(少寸) 前句の反誦であるが、調の變化を求める爲に句末の感動詞を略して、わざと四音に唱へたので、ヨに當る文字脱〔古義〕又は句頭にあつた音之二字を逸した〔新考〕のではあるまい。さりながら意に於ても調に於ても反誦の必要を認めぬから、或は?入であつたかも知れぬ。
みちにあはぬかも(道爾相奴鴨)
〔大意〕――上五句はココロにかゝる序――心中いちじるく思念せられる音信の少いことよ。途上で逢ひたいものである(男の詞)。(まことに)少いことよ。途上で自分と逢はれたら、おまへ樣の著てごさる菅の小笠を、私の頸にかけて居る七|條《カケ》の珠と取換へて上げようものを、途で逢ひたいものである(女の詞)
上記の如く末から二番目の句を、?入として除去すると、此歌は次のやうに整然たる聯立體になる。
  こと酒を おしたるみ野ゆ いづる水 ぬるくはいでず ましみづの 心もけやに おもほゆる (273)おとのすくなき 道にあはぬかも
  すくなきよ 道にあはさば いろけせる 菅かさ小笠 わがうなげる たまの七つ緒 とりかへも 申さむものを 道にあはぬかも
 此は※[言+灰]謔味を帶びた敍情詩で、申サムモノヲといふが如き後代式の表現が用ひられて居る所を見ても、句法が固定しなかつた以前の古歌とも、後掲能登歌のやうな童謠風なものとも思はれぬから、後齣の末尾を五七(新考によれば七七)二句で結ぶが如きことは殆ど有り得ぬ。されば少寸の二字を衍とする我見は肯定せらるべきで、反歌の添へられて居らぬのは、小唄式のものであつたからであらう。
 
豐前國白水郎歌一首
 
3876 豐國《トヨクニノ》 企玖乃池奈流《キクノイケナル》 菱之宇禮乎《ヒシノウレヲ》 採跡也妹之《ツムトヤイモガ》 御袖所沾計武《ミソデヌレケム》
 
〔三八七六〕 とよ國の きくの池なる 菱のうれを 摘むとや妹が み袖ぬれけむ
 
とよくにの(豐國) 今の豐前豐後をあはせてトヨクニと稱したので、分割は文武朝であるが、その後に於ても兩國ともに此稱呼を用ひたことはあり得る。此は題詞に豐前國と明記せられ、次句にも企救といふ地名があらはれて居るから、同地方人の作とせねばならぬ。
(274)きくのいけなる(企玖乃池奈流) キクは和名抄に豐前國企救郡とあり、長野及蒲生の二郷をあげて居るのみであるが、恐らくはキクと呼ばれる地域も存在したのであらう。本集にも聞之濱(卷七、一二)、聞之長濱(卷一二)、聞乃高濱(同上)などゝ詠まれて居り、今の大里驛から小倉市街に至る海岸地方をさしたものゝやうである〔地名辭書〕。池の跡は殘つて居らぬが、當時有名であつたのであらう。此ナルは連繋助語の一形態で、ノと職能を同じうする。
ひしのうれを(菱之宇禮乎) 菱は水面に葉を出し、葉間に實を結ぶものであるから、之を摘採することをウレ(末)をツムと稱へたのであらう。
つむとやいもが(採跡也妹之) ヤは間投詞で、實際に摘んだのではないから、ツミテ〔右○〕とは云はず、ツムトといふ不定時格を用ひたのである。但し菱摘は女人の仕事であつたものと思はれる。
みそでぬれけむ(御袖所沾計武) ミはミ空、ミ雲、ミ山の如く用ひられる接頭語で、マ(眞)と同語から分化したのであるが、原義は殆ど失はれ、虚辭的に冠せられたのである。御は借字で、美稱ではなく、兩の意のマの轉呼とするのも當らぬやうである。女の袖が涙に濡れたであらうといふ意を、菱摘に假託したものと思はれる。此は海上に出た白水郎が留守の妻の上を思ひやつて詠じたもので、巧な言ひ廻しであるから、人口に膾炙したのであらうが、白水郎の棹歌なりとする新考(275)説はいひ過ぎのやうである。
〔大意〕豐前の企救の池の菱の實を摘むとて彼女の袖は濡れたであらう
 
豐後國白水郎歌一首
 
3877 紅爾《クレナヰニ》 染而之衣《ソメテシコロモ》 雨零而《アメフリテ》 爾保比波雖爲《ニホヒハストモ》 移波米也毛《ウツロハメヤモ》
 
〔三八七七〕 くれなゐに 染めてし衣 雨ふりて にほひはすとも 移ろはめやも
 
くれなゐに(紅爾) 和名抄に紅藍(ハ)久禮乃阿井、呉藍同上、本朝式云紅花、俗用之とある草で、今もベニバナとして知られて居る。其花が紅緋色の染料となるが故に、色の名と了解せられるやうなつたので、色から出た語ではない。ベニは和名抄に※[赤+徑の旁]の和名としてあるが、※[赤+徑の旁]は赤也、染v粉使v赤、所2以着1v頬〔右○〕也と説かれて居るやうに、恐らくはホニ(頻丹)の轉呼であらう。
そめてしころも(染而之衣) ソメテシはソメテ(アル)といふ事態が過去に起つたことを表示し、染めてあつたといふことで、染めてしまうたといふ意のソメニ〔右○〕シとは聊か趣を異にする。此時代に於ては一助動詞の用法も決して忽にせられなかつたのである。――以上は第四句以下の比況的序である。
(276)あめふりて(雨零而) 前句の末に助詞ガを加へて聞くべきで、クレナヰ染の衣が雨兩にぬれてといふ意である。
にほひはすとも(爾保比波雖爲) ニホヒはニホ(丹穗)の活用形で、色澤を放つことをいひ、紅草で染めた衣は、濕氣を帶びると光澤を益すが、退色するには至らなかつたのであらう。但し此句は思慕の情の加はることの譬喩である。
うつろはめやも(移波米也毛) ウツロフはウツリ(移)の進行格形であるが、轉義により褪色の意となつたので、此歌に於ては心がはりに況へたのである。メヤモは反語表示で、移らうや、否決して移らぬといふのである。
〔大意〕くれなゐで染めた衣のやうに、兩に濡れて更に色澤を加へることはあつても、褪色(變心)するやうなことがあらうや
 此二首は次の能登歌以下七首と同じく、地方人の作ではあるが、當時大和に於て傳誦せられたもので、其措辭の妙により、或は落想の奇により、都人士を魅した歌謠であつたから、本卷に收録せられたのであらう。殊に右の二首の如きは、アマ(海人)と呼ばれて或る程度まで異俗視せられた邊疆人の詠でありながら、宮廷人も企て及ばぬ名歌で、有由縁歌とするのは聊か當を缺くやうであるが、尚東(277)歌防人歌と共に、當時の民衆藝術の精華と見るべきである。
 
能登國歌三吉
 
3878 ※[土+皆]楯《ハシダテノ》 熊來乃夜良爾《クマキノヤラニ》 新羅斧堕入和之《シラギヲノオトシイルワシ》」 河毛※[人偏+弖]河毛※[人偏+弖]《カモテカモテナ》 勿鳴爲曾禰《ナカシソネ》 浮出流夜登將見和之《ウキイヅルヤトミムワシ》
 
〔三八七八〕 はしだての くまきのやらに 新羅斧おとし入るワシ
 かもてかもて な泣しそね うきいづるやと見むワシ
  右歌一首傳云。或有愚人。斧墮海底。而不解鐵沈無理浮水。聊作此歌口吟爲喩也(一)
  右の歌|一首《ヒトツ》は傳へいふ。或る愚人《シレビト》あり。斧を海底に墮して、鐡の沈みて水に浮ぶ理《コトハリ》なきを解《サト》らず、聊か此歌を作り、口吟《クチスサ》びて喩《ナグサメ》と爲しき
 (一)喩は慰諭の謂で、ナグサメと訓むのであらうが、この傳は明に歌意と抵觸するから、後人の附會と見るべきである。
 仙覺本には之を次の如く訓し、四句づゝ二聯より成るものとして居る。
  はしだての くまきのやらに しらぎをの おとしいるる〔右▲〕わし
  かけ〔右△〕てかけ〔右△〕て ななかしそね うきいづるやと はた〔二字右▲〕みて〔右▲〕むわし
(278) 爾來若干改訓を施し、ことに將見和之は賂解以下ミムワシと四言に誦んで居るにも拘はらず、尚句法は之に順うて居るが、――新考は七句と見たやうである――濱臣説の如く施頭歌の一變体とすべきで〔活字本略解頭書〕、各聯の末句は標準に合はぬけれど、ワシは後記の如く囃であるから、前聯は十音(母韻二)、後聯は九音(母韻一)で甚しい不調ではない。
はしだての(※[土+皆]楯) ※[土+皆]は階の變体、楯は借字で、ハシダテの原義は椅《ハシ》の經《タテ》、即ち梯の親柱の謂であるが、之に横架するコ(棧)を意味するハシゴが、梯そのものゝ意と了解せられるやうに、ハシダテも亦梯となつたのである。此は次句の熊來の枕詞で、クマキはクミキ(組木)と通じ、コ(棧)の謂なるが故である。
くまきのやらに(熊來乃夜良爾) クマキは和名抄に能登國能登郡熊來(久萬岐)とある地で、今も鹿島郡の一村名に殘り、熊木川は此處を過ぎて鹿島灣に注ぐから、古は海岸に至るまでの大名であつたのであらう。ヤラはヤナ(梁)と同語で、捕魚の爲に水中に設ける柵をいひ、後世ヤライと訛つて竹柵の謂と了解せられるやうになつた。梁を敷設する爲に斧を携へて海上に出たことは極めて有り得べきである。
しらぎをのおとしいるワシ(新羅斧墮入和之) 舊訓イルルとあり、略解以下イレと改訓したが、右(279)の如き連體形又は連用形は此場合に不適當で、終止形を用ひることを要する。されば新考は都の字脱としてイレツと訓したのであるが、其はシラギヲノを獨立五音句と見、終句の語音の不足を補ふ爲のやうで、この場合の如きは完了時格を絶對的必要とせず、不定時格を用ひても差支はない。シラギヲノは新羅式または新羅から輸入せられた斧の謂で、當時上等品とせられたのであらう。ワシは囃の一種で、紀の來目歌に「神風の伊勢の海の大石《オヒシ》にヤイはひもとへるしただみの」とあるヤイと頗る用法を同じうする。サワ〔右○〕サワ〔右○〕をサヤ〔右○〕サヤ〔右○〕とも言ふやうに、ワとヤとは往々相通ずることがあるから、此も大和語のヤシに相當するのではあるまいか。ヤシはヨシヱヤシ〔二字右○〕、ハシケヤシ〔二字右○〕、誰ヤシ〔二字右○〕人の如く用ひられる間投詞である。
かもてかもて(河毛※[人偏+弖]河毛※[人偏+弖]) 眞淵訓による。舊訓カケ〔右○〕テカケ〔右○〕テとあり、類聚古聚には河の代りに阿と表記してあるので、新考はア〔右△〕モテア〔右△〕モテと訓み、アリマテがアンモ〔二字傍点〕テと轉呼せられ、ンの假字が尚未だ出現しなかつたから、表記法に窮し、之を省いたのであると説いて居るが、カケテでは意をなさず、アリマテをアモテと訛つたといふのも、他に類例のない限り、肯定困難である。案ずるにカモはカマヘ(構)の語幹カマの轉呼で、沖繩語のノボテ(登リテ)、カヨテ(通ヒテ)の如く、之に直接語分子テを連ねたものとすべきで、構ヘ〔傍点〕テといふ意と思はれる。カマヘテは江戸時(280)代には決シテといふ意に用ひられたが、沖繩語ではサガシテといふ意がある。
ななかしそね(勿鳴爲曾禰〕 ナカシはナキ(泣)の敬語形で、「泣きなさるなよ」といふ意である。
うきいづるやとみむワシ(浮出流夜登將見和之) 略解訓に從ふ。
〔大意〕熊木のやらに新羅斧をおとし入れた。決して決して泣きなさるなよ。浮き出すか見よう
 
3879 ※[土+皆]楯《ハシダテノ》 熊來酒屋爾《クマキサカヤニ》 眞奴良留奴和之《マヌラルヤツコワシ》」 佐須比立《サスヒタテ》 率而來奈麻之乎《ヰテキナマシヲ》 眞奴良留奴和之《マヌラルヤツコワシ》
 
〔三八七九〕 はしだての 熊木さかやに まぬらる奴ワシ
 さすひたて ゐて來なましを まぬらるやつこワシ
   右一首
 
はしだての(※[土+皆]楯) 前出
くまきさかやに(熊來酒屋爾) 上掲の熊來郷に存した酒造屋をいふのであるが、サカヤは決して現今のやぅな營利を目的とする造酒家または酒亭のことではなく、神名帳にあげた能登國羽咋郡久麻加夫都阿良加志比古神批(今も熊木村大字宮埼に存する)の神酒を造る酒殿《サカドノ》をいふのであらう。商品として酒類を釀造し、之を販賣するやうになつたのは、やゝ後世のことのやうで、少くとも(281)熊木のやうな片田舍に酒店が存したとは考へられぬ。餘事ではあるが、この神々は熊木|太顯明主《フトアラカチ》彦の謂で、クマ族の一祖神を鎭祭したものと思はれる。クマキ又はクマカもクマ(族名)コ(裔)の意ではあるまいか。
まぬらるやつこワシ(眞奴良留奴和之) 舊訓にマヌラルノ〔右△〕ワシとしたのは、ワシが囃であることに氣がつかず、強ひて七音に誦へようとした爲のやうで、意味をなさぬから、略解訓に從ふべきであらう。古義がこれを二句に分割したことの非なるは、既に新考も難じたことで、囃のワシを除けば、整然たる旋頭歌調である。前の歌に於ても此語を句外に置き、字餘りの旋頭歌とした私見の不當ならざることは、これによつても立證せられる。マヌラルのマは接頭語、ヌラルはノ〔右○〕ラル(被罵)の轉呼で、尋常の語法に從へばノラルルと云はねはならぬが、終止形と連體形との區別が固定する以前に於ては、兩者は通用せられたと信ずべき根據があるから(要録九四三頁)、當時この地方ではわざわざマを接頭して、語音數を補うてまでも終止形を以て連體法を表示し、ヌラルと稱へたのであらう。ヤツコは既記の如く家隷の意であるが(第一二六頁)、此は神社に使役せられる賤民、即ち社奴をいふものと思はれる。酒の香をかいでたまりかね、酒殿に忍び込んだのが露顯して、罵られたことをいふのである。新考がマヌラルを罵リ使ハレル意と解したのは、この酒屋(282)を官衙〔二字右○〕の一と見て、「中間が居酒屋にてゑひしるゝ如き態あるべきにあらず」といふ論據にもとづくものであるが、神社の酒殿に其社の奴が忍び込んだものとすれば、罵しられたことは寧ろ當然である。
さすひたて(佐須比立) サスヒは契沖説の如くサソヒ(誘)と同語なることは疑なく、新撰字鏡は誘を佐曾布と訓し、古今集以下にもサソフといふ用例があるが、此語は本集にも紀の舊訓にも見えぬから、或は第二次生で、第十四卷〔三四八四〕のイザセ(終止形イザス〔右○〕)の接頭語イを省き、語尾にヒを添へて再活用したのであるかも知れぬ。若し然りとすれば、サス〔右○〕ヒの形を以て用ひられたこともあり得べきで、必しも訛言ではない。タテ〔二字右○〕は催シタテなどいふと同一用法である。
ゐてきなましを(率而來奈麻之乎) 連れて來てしまはうものをといふ意。助語ヲは反接を表示し、故あつて實現に至らなかつたといふ意を含めたのである。
まぬらるやつこワシ(眞奴良留奴和之) 第三句の反誦で、本集及紀記の旋頭歌に其例が多く、一標準形式といひ得られる。
〔大意〕熊木の酒屋で罵られて居る奴。つれて來てしまはうものを、罵られて居る奴
 
(283)3880 所聞多禰乃《カシマネノ》 机之島能《ツクヱノシマノ》 小螺乎《シタダミヲ》 伊拾持來而《イヒリヒモチキテ》 石以《イシモチ》 都追使破夫利《ツツキヤブリ》 早川爾《ハヤカハニ》 洗濯《アラヒススギ》 辛鹽爾《カラシホニ》 古胡登毛芙《ココトモミ》 高杯爾盛《タカツキニモリ》 机爾立而《ツクエニタテテ》 母爾奉都也《ハハニマツリツヤ》 目豆兒乃負《メヅコノトジ》 父爾獻都也《チチニマツリツヤ》 身女兒乃負《ミメコノトジ》
 
〔三八八〇〕 かしまねの 机の島の しただみを い拾ひもち來て 石もち つつき破り 早川に あらひすすぎ からしほに ここともみ 高つきに盛り つくゑに立てて 母にまつりつや めづこの刀自 父にまつりつや みめ兒の刀自
 
かしまねの(所聞多禰乃) 異淵訓による。所聞多はカシマシ(囂)の義によつて、其語幹カシマの假字に用ひたので、和名抄に能登國能登郡加島(加之萬)とある地、即ち今の鹿島郡七尾町附近をいふのである。カシマシといふ語は古典には見えぬが、カラカラ、カヤカヤと同じく語根はカで、本來は擬聲語であつたらしく、カマ及カマシの形に於ても用ひられる。カシマシは右のカマシの語音を轉倒してカシマといひ、之を語幹として活用語尾シを連ねたのであるかも知れぬ。加島は恐らくはカスマ(神栖地區)の轉訛で、離島の謂ではないから、ネ(根)を連ねてシマネと呼稱した(284)ので、大和島根などゝ同一例に屬する。
つくゑのしまの(机之島能) 所在を詳にせぬが、加島に近い離島の名であらう。或は今の能登島を古はツクヱの島と稱へたのかも知れぬ。カシマの本義が上記の如く聖地の謂であつたとすれば、神案《ツクヱ》といふ意を以て、其前面に横はつて居る島に此名を負はせたことも有り得べきである。
しただみを(小螺乎) 和名抄には細螺に此訓を與へて居り、小い螺の貝のことであるが、ミは肉《ミ》の意から魚介就中貝類の稱呼に用ひられるから、シタダは恐らくは舌出《シタダ》シの謂で、此貝がツボ(螺)にかくれて、折々舌のやうな姿をあらはすから、此名を負はせたのであらう。
いひりひもちきて(伊拾持來而) イは接頭語であるが、八音になるにも拘はらず之を冠したのは、吟調上の要求によるものであらう。拾は舊訓の如くヒロ〔右○〕ヒと唱へてもよいが、原形はヒリヒであらう。
いしもち(石以) 石を以てといふ意。
つつきやぶり(都追伎破夫利) ツツキはツキ(突)の疊頭語で、今でもヤブリ(破)といふ動詞と連用する場合にはツツキ又はツツツキといふ。但し此はタタキ破リといふ意に用ひられたのである。
はやかはに(早川爾)
(285)あらひすすぎ(洗濯) ススギはソソギ(注)と同語で、水をかけることをいふ。
からしほに(辛鹽爾) 鹹潮即ち潮水の謂であらう。我製鹽業の發達は比較的遲々として居たから、沿海の地に於ては此ころまで、潮水を其まゝ調味に用ひたものと思はれる。今も漁人などはさうすることも有るのである。
ここともみ(古胡登毛美) コトコトと揉みといふ意で、ココトは擬態語である。口語のクチヤクチヤも同語から出たのであらう。
たかつきにもり(高杯爾盛) 杯の字は類聚古集・西本願寺本等には坏〔右○〕とある。いづれもツキと訓み、其材料によつて或は木扁、或は土扁を用ひたので、此は土器であつたと推測せられるから、坏〔右○〕を可とするが、字は勿論かりものであるから、必しも誤寫と認定することは出來ぬ。ツキの原義は恐らくはツチケ(士笥)で、カハラケ(瓦笥)に對し、土器を意味したのであらう。――土器の字音とする白石説には從ひかねる――その脚のついたものをタカ(高)ツキ(坏)といひ、酒を容れる爲のものをサカツキ(盞)、飯を盛るものをメシツキなどゝ稱へる。
つくゑにたてて(机爾立而) 高坏を机に立てゝといふ意。ツクヱはツク(築)(作)ヱ(座)の謂であるが、此は食物を陳ねる卓、即ち膳のやうなものを意味したのであらう。
(286)ははにまつりつや(母爾奉都也) 母に獻じたかといふ意。小螺の肉を兩親に供するといふことが、或種の儀禮であつたものと察せられるが、之を詳にし得ない。或は結婚の許可を得るための儀式として、此地方に行はれた慣例であつたかも知れぬ。
めづこのとじ(目豆兒乃負) 略解の第二訓による。メヅは賞美の謂で、この女姓を賞めて他人の與へた通稱であらう。負は和名抄に老母の義とし、今案和名度之、俗用2刀自二字1者訛也と注してあるが、既に狩谷※[木+夜]齋が詳論したやうに、其は順朝臣の錯誤で、婦人に對する敬稱トジを刀自と表記し、二字を合はせて※[刀/自]とも書くから、武負〔右○〕(漢書)、曲沃負〔右○〕(列女傳)の如く、老女の呼稱に用ひる負の字と混同したものとせねばならず、此歌が原文の通りであるとすれば、交錯は和名抄以前から存したものと思はれる。トジは上記の如く婦人に對する一般的敬稱で(第一七二頁)、必しも老女に限るものではなく、天智紀の童謠の八重子ノ刀自の如きも、高齡者とは考へられず、允恭紀の戸母が訓註の如く覩自《トジ》と訓むものとすれば、尚未だ入内前の大中姫命をさしたのであるから、妙齡の女子をもトジと呼稱したものとせねばならぬ。此歌に於ても父母が健在で、且事がらが許婚に關するやうであるから、年長者ではあり得ない。
ちちにまつりつや(父爾獻都也) オモチチニマツリツヤというても濟むのに、二つに分割して敍し(287)たのは、歌形をとゝのへんが爲である。
みめこ〔三字右○〕のとじ(身女兒乃負) 身女兒は舊訓ミメチ〔右△〕コとあり、其他ミメヅ〔右△〕コ〔考以下〕及マナ〔二字右△〕コ〔新考〕といふ訓もあるが、字に從へばミメコであらねばならず、意味からいうても御女子《ミメコ》を可とする。部民が敬愛の意を以て、同一人をミメコともメヅコとも呼稱したことは有り得べきで、豆〔右△〕の字を補ひ、又は眞名〔二字右△〕兒の誤記としてまでも、ミメヅ〔右△〕コ又はマナ〔二字右△〕コと稱へねばならぬ理由がない。
〔大意〕加島根の机の島の細螺《シタダミ》を拾うて來て、石を以て敲き破り、早川で洗ひすゝぎ、潮水でコトコトと揉み、高坏に盛り、机に立てゝ、(其高坏を)母に獻上したか、メヅコの刀自よ。父に獻上したか、御女《ミメ》子の刀自よ
 細螺を呈上するのは許婚を乞ふ儀禮ではあるまいかといふ上掲の推測が當つて居るとしたら、此は村主などの女子の許に通ふ男が現はれて、をさ/\人の口にもかゝり、近く表向に披露せられるだらうといふ噂が立つた時、村娘などが揶揄《カラカヒ》ごゝろに詠んだか、若しくは其に擬して作つた民謠風のものと思はれる。標準句法に從はず、第九句以下五五、七七、八六、八六と疊んだのも民謠の特色で、神樂催馬樂乃至東遊などにも、同じやうな曲調がある、此は本集には他に例のないことで、珍とすべきである。
 
(288)越中國歌四首
 
 越中とはあるが、後の二首は越後國西蒲原郡彌彦山を詠じたものである。この郡が頸城・魚沼・古志の三郡と共に、越中から越後に移管せられたのは、大寶二年のことであるから、契沖は此歌を以て其以前の作なりとしたが、縱ひ詠出は古くとも、本卷編輯のころには既に越後國に屬して居たのであるから、越中歌中に入るべきものではない。但し越後の神山に關する歌が、越中國に於て傳誦せられたこともあり得べきで、必しも誤傳と斷ずることは出來ぬ。
 
3881 大野路者《オホノヂハ》 繁道森徑《シゲチモリミチ》 之氣久登毛《シゲクトモ》 君志通者《キミシカヨハバ》 徑者廣計武《ミチハヒロケム》
 
〔三八八一〕 おほのぢは しげち森みち 繁くとも 君し通はば みちは廣けむ
 
おほのぢは(大野路者) 此大野は和名抄にあげた越中國蠣波郡の郷名で、於保乃と訓してあるが、今は其名を存して居らぬ。國府(射水郡伏木町)から此地に通ずる街道のことであらう。
しげちもりみち(繁道森徑) 森徑を舊訓ハシケチとしだのは、葉茂路の謂であらうが、聊か無理であるから、新考に從うてシゲチモリミチと訓むべきであらう。末句の徑の字もミチと訓むの外は(289)ない。シゲチは樹木の繁つた道といふことで、森徑と意に於て大差はないが、之を重ねたのは文飾である。
しげくとも(之氣久登毛) 繁クトモ
きみしかよはば(君志通者) シは強意助語で、君が通ふならといふ意である。
みちはひろけむ(徑者廣計武) ヒロケムは廣カラムといふ意の古形態で、男が頻々來往するなら、徑《コミチ》はおのづから廣がるだらうといふのであるが、反語的表現と了解せられる。此は國府の小吏を情夫とした大野里の女人が、男の通路の絶えたことを怨んで詠じたのであらう。
〔大意〕大野路は繁つた道の森の徑《コミチ》(である)。(木立が)繁くとも君が通ふなら廣がるだらう
 
2882 澁溪乃《シブタニノ》 二上山爾《フタカミヤマニ》 鷲曾子産跡云《ワシゾコムトフ》」 指羽爾毛《サシハニモ》 君之御爲爾《キミガミタメニ》 鷲曾子生跡云《ワシゾコムトフ》
 
〔三八八二〕 しぶたにの 二上山に 鷲ぞこむとふ」 さしはにも 君がみために わしぞ子むとふ
 
しぶたにの(澁溪乃) シブタニは國府に近い氷見郡の一地で、今も太田村の大字に殘つて居る。
ふたかみやまに(二上山爾) 氷見と射水との二郡に跨る一丘で、本集第十七卷の二上山賦〔三九八五〕には此山者有2射水郡1也と注せられて居るが、澁谷を距ること一里餘に過ぎぬから、シブタニの(290)フタカミ山とも稱へられたのであらう。標高三百米の低い丘であるが、二上神社の所在地として當時有名であつたと見え、越中守大伴宿禰家持の歌にも?々詠まれて居る。フタカミは恐らくはフト(太)カミ(神)の謂であらう、
わしぞこむとふ(鷲曾子産跡云) 子産は仁徳紀(記)の歌にならひ、コムと訓むべきで、跡云はトイフであるが、前に述べたやうに、此時代にはトフと連約せられたものゝやうである(第二二二頁)。――舊訓コウ〔右△〕ムトイ〔右△〕フは非――以上は此旋頭歌の上半である。
さしはにも(指羽爾毛) サシハは神宮儀式帳に※[夾+立刀]羽とあり、延喜式には翳の字をあて、玉座の上にかざす團扇状のものゝ名稱で、和名抄に翳を單にハと訓して居る所を見ると、鳥羽就中鷲の羽を以て製作したことも有り得べきであるが、次句のキミを大君即ち天皇の御上と解することは聊か困難であるから、此サシハは必しも翳の謂ではなく、挿頭《カザシ》の羽を意味したのかも知れぬ。サシハニモの下には勿論トといふ助語が含まれて居るのである。
きみがみために(君之御爲爾) キミは男女相互の敬稱にも用ひられる語で、就中女人から其夫または情人を指してキミというた例が本集には極めて多いから、或は此も作者は女性で、實のない男に騙されて懷胎し、出産に當つて此歌をよみ、相手に贈つたのではあるまいか。サシハニモとい(291)ふ一句を除くと、其意味に解せざるを得ず、天皇の御爲に御料たる翳の材料供給者として鷲が子を産むさうなといふ意とすることは餘りに突飛で、少くとも幼禽の羽毛は直接その用に立つとは思はれぬ。然らば何の爲にサシハに言及したかといふに、此語がないとワ(我)の意のワシに鷲をいひかけたことが判明せぬからであらう。ワシといふ第一人稱代名詞は、ワタクシ(私)の略で、近代の俗語とのみ了解せられて居るが、或は越中地方では此時代から用ひられて居たのかも知れぬ。若し然りとすれば、ワはワレ(吾)の原語で、シはイシ(汝)のシと同じく、「其《シ》」から出たのであらう。
わしぞこむとふ(鷲曾子生跡云) 前聯未句の反誦であるが、ワシ(私)が子を産むといふ意をきかせたものなることは上述の通りである。
〔大意〕澁谷の二上山に鷲が卵(子)を産むさうな。挿頭の羽にもと、君の御爲にワシ(私)が子を産むさうな
 
3883 伊夜彦《イヤヒコ》 於能禮神佐備《オノレカムサビ》 青雲乃《アヲクモノ》 田名引日△良《タナビクヒスラ》 ※[雨/沐]曾保零《コサメソボフル》 一云 安奈爾可武佐備《アナニカムサビ》
 
〔三八八三〕 いやひこ おのれ(あなに)神さび 青雲の たなびく日すら こさめそぼふる
 
(292)いやひこ(伊夜彦) 上記の如くイヤヒコは今の越後國西蒲原郡彌彦山をいふ。イヤ(ヤ)は上級を意味する接頭語で、山名の主體はヒコであつたらしく、豐前國にも同名の山があり、英彦山とも稱へられる。現今エイヒコというて居るが、播磨國飾磨郡の郷名英賀、英保をアガ、アボと發音するやうに〔風〕、以前はア〔右○〕ヒコと稱へたのではあるまいか、アもまた接頭語であるから、ヒコを字によつて彦(日子または秀子)の義とすることは困難で、恐らくは箱根のハコと同じく、神明を意味し(第二一七頁)、神嶺なるが故にヒコ山と呼ばれたのであらう。但し此歌に於てはイヤヒコを擬人名と見なし、次句にもオノレ(己)といふ語を用ひて居るのであるから、舊訓のやうに之に助語ノをよみ添へることは出來ぬ。
おのれかむさび(於能禮神佐備)――あなにかむさぴ(安奈爾可武佐備) オノレは本來第一人稱原語オ(吾)と第二人稱のナ(汝)とを連結して、之に接尾語ラを添付したオナラの轉訛で、自他稱即ち「吾と汝と」といふ意であるが、――西洋人は之を含他的《インクルシーヴ》第一人稱複數と稱する――國語に於てはこの人稱は夙に意識せられねやうになり、オノレといへば我の意とも、汝の義とも了解せられた。是は汝の意に用ひられたので、イヤヒコを擬人名と見なした爲なること上述の通りである。異傳のアナニは感動詞アナにニをそへて副詞形としたもので、こゝでは感歎の意を表示する。ま(293)た神サビのサビは樣子ブルといふ意の複合語尾で(要録九三二頁參照)、神山なるが故に神の威容を示すといふのである。さればオノレよりもアナニの方が適切で、或はオノレも亦アナニと同義のアハレ(アツパレ)の訛又は誤傳であるかも知れぬ。
あをくもの(青雲乃) 青天の白雲をいふ。
たなびくひすら(田名引日△良) 舊訓によれば、契沖説の如く、日の下にスに相當する假字を脱したものとせねばならぬ。
こさめそぼふる(※[雨/沐]曾保零) 字書に〓※[雨/沐]は小雨也とある。ソボはシホ(萎)の轉呼で、口語ではシヨボといひ、シヨボシヨボフルといふが如く用ひられる。細雨霏々たることをいふのである。
〔大意〕彌彦(山)よ。己は神さび――異傳によれば「アツパレ神さび」――青空に雲がたなびく日にも小雨がシヨボシヨボと降る
 
3884 伊夜彦乃《イヤヒコノ》 神乃布本《カミノフモトニ》 今日良毛加《ケフラモカ》 鹿乃伏良武《シカノフスラム》 皮服著而《カハノキヌキテ》 角附奈我良《ツノツキナガラ》
 
〔三八八四〕 いやひこの 神のふもとに 今日《ケフ》らもか 鹿《シカ》の伏すらむ 皮のきぬ著て つのつきながら
 
いやひこの(伊夜彦乃) 西本願寺本に乃の字がないので、新訓はイヤヒコといふ四音句としたが、(294)前の歌の初句と同一視することは出來ぬ。
かみのふもとに(神乃布本) 神は神山のことで、フモト(麓)の語原は恐らくはヘ(邊)モト(本)であらう。
けふらもか(今日良毛加) ラは虚辭的接尾語、カは感動詞であるから、今日モといふに同じい。口語では今日アタリといふことをも今日ラと稱へるが、此は決して其意ではない。略解及古義が之を旋頭歌なりとして、次句の鹿乃を此につけ、ケフラモカ鹿《カ》ノと訓したのは、既に新考が説破したやうに大なる誤りで、旋頭歌は五七七三句二聯から成り、各聯獨立することを要し、前聯末の七音を次聯の首句につゞけることを許さぬ。
しかのふすらむ(鹿乃伏良武) 彌彦山の麓には鹿が多く蕃息して居たので、今日も寢て居るだらうというたのである。――略解及古義は上記の誤解にもとづいて之を五音句とし、コヤスラム或はフセルラムと訓して居るが、其は旋頭歌の本質を解せざるものといはねばならぬ。
かはのきぬきて(皮服著而) 古義はカハゴロモキテと改訓したが、これは必しも裘なることを要せず、著物をぬがずに寢るといふことが本旨で、鹿なるが故にカハ(皮)ノといふ限定語を冠したのであるから、舊訓を不可とすべき理由がない。
(295)つのつきながら(角附奈我良) 角はツヌの假字にも用ひられるが、獣體の部分名としては、美稱または地名のツヌと區別する爲に、此當時すでにツノと稱へられて居たかも知れぬから、――和名抄にも豆能とある――強ひて改訓するにも及ぶまい。附の字も古義はツケと訓み改めたが、其は上掲〔三七九一〕のソデツキ〔右○〕コロモ(袂著衣)をソデツケ〔右△〕としたのと同一の賢しらで、殊に鹿の角の如きは任意に装脱の出來るものでないから、ツケといふ他動詞を用ひることは不當である。此は角がついて居ながらといふ意で、人間は就寢に際し、上衣をぬぎ、頭被をとり去ることを例とするが、鹿には其が出來ぬので、皮の衣を著て角がついた儘横臥するといふ輕いユーモアである。
〔大意〕彌彦の神山の麓に今日も鹿が臥すであらう。皮の衣を著て角がついたまま
 是は表面の客觀的措寫の外に、何か寓意があるのかも知れぬが、前の歌と同じく一種の民謠で、何人が如何なる機會に詠出したかも不明のまゝで、此地方に傳誦せられたものと思はれる。尋常の短歌に比し、一長句多いのは、此ころの小唄の句法であつたと見え、神樂の「朝倉」「其駒」「竈殿」「酒殿」及催馬樂の「伊勢海」も同形である。憶良の歌にも其形跡の存することは既述の通りで(第二四七頁)、南都藥師寺の佛足石の歌はみな此句法を用ひて居るから、佛足石體と稱せられるが、恐らくはこれは古い歌型の名殘であらう。
 
(296)乞食者詠二首
 
3885 伊刀古《イトコ》 名兄乃君《ナセノキミ》 居居而《ヲリヲリテ》 物爾伊行跡波《モノニイユクトハ》」 韓國乃《カラクニノ》 虎云神乎《トラチフカミヲ》 生取爾《イケドリニ》 八頭取持來《ヤツトリモチキ》 其皮乎《ソノカハヲ》 多多彌爾刺《タタミニサシ》 八重疊《ヤヘダタミ》 平羣乃山爾《ヘグリノヤマニ》 四月與《ウヅキト》 五月間爾《サツキノホドニ》 藥獵《クスリガリ》 仕流時爾《ツカフルトキニ》 足引乃《アシヒキノ》 此片山爾《コノカタヤマニ》 二立《フタツタツ》 伊智比何本爾《イチヒガモトニ》 梓弓《アヅサユミ》 八多婆佐彌《ヤツタバサミ》 比米加夫良《ヒメカブラ》 八多婆左彌《ヤツタバサミテ》 完待跡《シシマツト》 吾居時爾《ワガヲルトキニ》 佐男鹿乃《サヲシカノ》 來立來嘆久《キタチ▲ナゲカク》 頓爾《タチマチニ》 吾可死《ワレハシヌベシ》 王爾《オホキミニ》 吾仕牟《ワレハツカヘム》 吾角者《ワガツノハ》 御笠乃波夜詩《ミカサノハヤシ》 吾耳者《ワガミミハ》 御墨坩《ミスミノツボ》 吾目良波《ワガメラハ》 眞墨乃鏡《マスミノカガミ》 吾爪者《ワガツメハ》 御弓之弓波受《ミユミノユハズ》 吾毛等者《ワガケラハ》 御筆波夜斯《ミフデノハヤシ》 吾皮者《ワガカハハ》 御箱皮爾《ミハコノカハニ》 吾完者《ワガシシハ》 御奈麻須波夜志《ミナマスハヤシ》 吾伎毛母《ワガキモモ》 御奈麻須波夜之《ミナマスハヤシ》 吾美義波《ワガミギハ》 御鹽乃波夜之《ミシホノハヤシ》 耆矣奴《オイハテヌ》 吾身一爾《ワガミヒトツニ》 七重花佐久《ナナヘハナサク》 八重花生跡《ヤヘハナサクト》 白賞尼《マヲシハヤサネ》 白賞尼《マヲシハヤサネ》
   右歌一首爲v鹿述v痛作之也
 
〔三八八五〕 いとこ なせのきみ をりをりて 物にいゆくとは からくにの 虎ちふ神を いけどりに 八つ取りもち來 その皮を たたみにさし 八重だたみ へぐりの山に 卯月と さ月のほどに くすり獵 つかふる時に(297) あしひきの 此かたやまに 二つたつ いちひがもとに
あづさ弓 八つたばさみ ひめかぶら 八つ手挾みて〔右○〕 しし待つと 吾が居るときに
さ男鹿の 來立ちなげかく たちまちに われは死ぬべし
大きみに 吾はつかへむ わが角は 御かさのはやし
わが耳は み墨のつぼ 吾が目らは ますみの鏡
吾が爪は 御弓のゆはず わが毛らは み筆のはやし
わが皮は み箱のかはに 吾が肉《シシ》は みなますはやし
吾がきもも 御鱠はやし わがみぎは みしほのはやし
おいはてぬ わが身一つに 七重花さく 八重花さくと 白しはやさね 白しはやさね
   右の歌一つは鹿の爲に痛を述べて作《ヨ》めるなり
 此歌を解説するには、先づ之が性質を明にせねばならぬ。これは純文藝作品でないと同時に、上掲能登歌及越中歌の如き民謠的なものとも選を異にし、乞食者詠と題せられて居るやうに、ホガヒヒト(和名抄乞兒)が人家の前に立つて謠うた歌である。ホガヒはホギ(壽)から出た語で、壽を述べて物を乞ふにより乞食者と譯せられたのであるが、必しも今日のコジキの謂ではなく、大道藝人や門附など(298)と同樣に、一種の職業と見るべきで、憐を乞ふといふよりは寧ろ藝を賣りつけたものゝやうである。されば此はホギウタ(祝歌)であらねばならぬが、三河萬歳と同じく、祝意は終末の兩三句によつて表明せられるので、此も「まことにめでたう候ひける」に相當する末四句が眼目である。爾餘の部分は殆ど口から出まかせに、節おもしろく拍子をかしく歌うたものとすべきであるが、遺憾ながら節と拍子とは紙面から感知することは出來ない。全篇五十六句中、少くとも上十句は歌詞ではなく、物ニイユクトハまでは、居留守をつかはさぬ爲に釘をさした尋常の言辭で、次の六句は人の意表に出で、注意を引つける爲の序であるが、ヤヘダタミ以下とは全く別の調子で誦せられたものと思はれるから、寧ろ囃詞といふべく、之を早口で唱へ、乃で八重だたみイイイと謠ひ出したのであらう。此場面を脳中に描かぬ限り、此歌を正解することは困難である。
いとこ(伊刀古) 此句及次句は略解訓による。イトコといふ語には次の如き用例がある。
 (一)古事記八千矛神の歌――「イトコヤの妹の命」
 (二)神功紀熊之凝の歌――「うま人はうま人どちや、イトコはもイトコドチ、いざあはな吾は」
 (三)神樂「篠波」――「イトコセのマイトコセにせん」
 (四)東遊「知々良々」――「イトコセの門に調度ひさげて」
(299) (五)琴歌譜「庭立曲」――「イトコセ我が夫〔右○〕」
 (二)の例の外は親近者相互の稱呼と了解せられ、今も從兄弟姉妹の謂に用ひられるのは之に因るものであるが、此語に其意のある所以を明にせねばならぬ。案ずるにイトコはイツ(齋)コ(子)の轉で、上古に於ては同母系骨肉は通婚を禁ぜられて居たから、之をイ(齋)――イミ(忌)の語根、イツは之が接頭形である――とし、互にイツコと呼稱したので、其禁が弛緩した後に於ても、近親血族間には之を用ひ、其男性をイトコセと呼び、轉じて情人の謂ともなつたのである。されば限られた範圍内に於ては同世代のものは殆ど皆イトコであつたから、――會津方言では今も親類をイドゴといふ――神功紀の歌の如くウマビト(長老)に對し、次世代の若ものゝ意にも用ひられた。さればこゝのイトコも同年輩のものを呼びかける言葉と解すべきである。口語には之に相當する表現がないから、強ひて譯すればモウシ又はモシモシとでも云ふのであらう。
なせのきみ(名兄乃君) 名は借字で、第二人稱の汝《ナ》を意味し、セは男性の呼稱であるから、之にキミ(君)といふ語をそへると、口語の檀那樣といふほどの意になるのである。
をりをりて(居居而) 行キ行キテなどゝ形態を同じうするが、此は動作の反復を意味するのではなく、ヲリニ〔右○〕ヲリテといふに同じく、上のヲリは副詞的職能を有し、強意約に用ひられたので、屋(300)内に居りてといふ意である。
ものにいゆくとは(物爾伊行跡波) モノは不定代名詞的に用ひられる語で、此場合には或〔右○〕場所といふに同じい。イは接頭語、行クトハは疑問の一形式で、下に「是如何」といふ意を含み、口語に於ても一羽ノ鳥ヲニハ〔二字右○〕トリトハ〔二字右○〕の如く用ひられる。此も家に居り居つて物にまかるとは如何と咎めたので、この時代にも居留守をつかふことがあつたと見える。毎戸必しもさうではなかつたであらうが、先づ斯う云うて釘をさしたのであらう。――以上四句は上述の如く歌詞の一部分ではなく、前おきのやうなものである。
からくにの(韓國乃) 韓の字を用ひて居るが、必しも朝鮮に限るのではなく、漠然外國を意味するものと解する方がよい。
とらちふかみを(虎云神乎) 舊訓トラトイフとあるが、トイフはトフ又はチフ(テフ)と連約することを例とし、本集では多くはト〔右○〕フを用ひたやうであるが、此は上にトラといふ語がある爲にトフとしては耳立つて聞えるから、新考訓の如くチフと稱へただのと思はれる。上掲〔三八八二〕には鷲曾子産跡〔右○〕云と表記せられて居るに反し、此はトに相當する文字のないのも、其のためであるかも知れぬ。狼をマカミと稱へたやうに、獣類でも威力のあるものはカミと呼ばれたので、欽明紀(301)にも膳臣|巴提便《ハスビ》が虎に對つて汝威神〔右○〕というたとある。それは國語のカミの原義が「上」で、必しもgodまたはdeityを意味せぬからである。
いけどりに(生取爾) 擒にしてといふ意。
やつとりもちき(八頭取持來) 八匹を補へて持ち來りといふのである。
そのかはを(其皮乎)
たたみにさし(多多彌爾刺) タタミは既述のやうに、本來禾草を編んで作つた蓆をいふのであるが(第二〇〇頁)、一般に敷物の謂に轉用せられ、記の綿津見傳説及倭建命東征傳説にも皮〔右○〕疊八重と用ひた例がある。此は虎の皮の敷物をいひ、其を作製することをサシと表現したので、今も疊をサスと稱へ、針を刺し締める意と了解せられて居るが〔大言海〕、皮疊の場合には當らぬやうであるから、恐らくは刃物を以て工作するが故に此語を用ひたのであらう。衣をタツ〔二字右○〕といふと趣を同じうするもので、箱や机などを製作することをもサスといひ、其職人をサシ物師と呼ぶのも之に因るのである。――以上六句は上述の如く八重疊といふ語を導かんが爲の序であるが、次句以下と同一の節と拍子とを以て謠はれたものとは考へられず、一種の囃詞として朗誦せられたものとすべきで、之を口語に譯すれば次のやうになる。
(302)  虎とつた 八つ取つた 韓の虎八つとつた 取つた皮の疊
やへだたみ(八重疊) 皮疊八重といふ縁によつて此語を導いたのであるが、此は次句ヘグリの枕詞で、疊のへ(緑)とかゝるのである。上掲〔三八四三〕の歌には薦疊とあるのである。
へぐりのやまに(平羣乃山爾) ヘグリは和名抄に大和國平群(倍久利)郡とある地で、既記の如く今の生駒郡平群村界隈をいふ。河内の國境に近く位するから、ヘ(邊)クニ(郷)とよばれたので、羣(音クン)の字を充てたのも之に因るものである。ニがリと轉ずるのは他にも多くの例のあることである。
うづきと(四月與) 四月をウヅキと稱へることについては種々の説があるが、私は田ウツ(※[耕の井が少])ツキ(月)、即ちウツツキの約濁であると信ずる。月名は主として稼穡に因んで與へられたものゝやうで、五月をサツキ(挿《サ》月)、七月をフツキ(穗《ホ》月の轉)、九月をナガツキ(食之《ナガ》月)等と稱へるのも之に因るものであらねばならぬ。卯の字をあてるのは、其が十二辰の第四位なるが故で、之を十二支に配すると兎にあたるから、卯をウとも訓むけれど、國語の月名が干支輸入前から存したとすれば、兎の月の意を以て命名せられたものとすることは出來ず、ネズミ月、ウシ月、トラ月といふやうな稱呼が古典に現はれて居らぬ所を見ても偶合とすべきである。
(303)さつきのほどに(五月間爾) 五月をサツキと稱へる理由は上述の通りである。ホドはホトリ(邊)の語幹で、あらましの見當を意味するから、間の字をあてたものと思はれるが、或はカヒ(交)と訓ませるつもりであつたかも知れぬ。上句と合はせて四五月の交といふ意と了解すべきである。
くすりがり(藥獵) 藥用となる鹿茸即ち鹿の若角――和名抄には鹿茸をカノワカツノと訓して居る――を取る爲の狩をクスリガリと稱へる。推古天皇十九年の紀には五月五日藥2獵於兎田野1とあり、二十年及二十二年にも同月同日に催されたとあるが、事の性質上必しも其日に限つたのではあるまい。
つかふるときに(仕流時爾) 藥獵は公の行事であつたから、之に參加することをツカフル(奉仕)と表現したのである。
あしひきの(足引乃) 枕詞(第二〇頁)。コノ(此)とカタ(片)との二語を隔てゝヤマ(山)にかゝるのである。
このかたやまに(此片山爾) カタヤマは傍の山の謂であるが、片〔右○〕田舍等の如く、片鄙の意を以てカタを冠することがあるから、都よりやゝ離れた平群の山をカタヤマと稱へたのかも知れぬ。
ふたつたつ(二立) 二本生ひ立つて居るといふ意。
(304)いちひがもとに(伊智比何本爾) イチヒは上掲の長忌寸意吉麻呂の歌に擽の字をあてゝあるやうに(第一四六頁)、殻斗科に屬する喬木で、赤檮または櫪とも書き、今では專らクヌギと稱へる。
あづさゆみ(梓弓) マユミ(眞弓)即ち尋常の大弓をもアヅサ弓といふことがあるが〔三三〇二〕、次句にヤツタバサミとある所を見ると、原義により彈弓または投箭器を意味したのであらう。
やつたばさみ(八多婆佐彌) タバサミは手挾と表記せられることもあるが、タは接頭語で、手の意ではなく、單にハサミ(挾)もつことのやうである。ヤツは概數表示で、必しも實數の八を意味するのではないが、其にしてもマ弓即ち弦を張つて兩手で彎く弓を多數携へるのは無用のことで、豫備の爲ならば、儲弦《ヲサユヅル》だけで十分の筈であるから、このアヅサ弓は上記の如く、彈弓《ハジユミ》または投箭器の謂と思はれる。或は之を目して、ホガヒ人が出たらめに口にした歌詞であるから、軍談よみが張扇でたゝき出した誇張と同じく、事實の穿鑿は無用の業であるといふものがあるかも知れぬが、冑《カブト》三重をザツクと著こなし、五匹の馬をならべて打跨りというては、聽衆《キキテ》が承知せぬと同樣に、誇張も事によるもので、千手觀音の申子ならぬ限り、多數の大弓を携へて獵に出るものはあるまい。
ひめかぶら(比米加夫良) ヒビカブラの轉呼ではあるまいか。ヒビはヒビキ(響)の語幹で、劈また(305)は※[病垂/豕]の意にも用ひられるが、和名抄に※[病垂/豕]を比美、字鏡に皹を比彌と訓してある所を見ると、ヒメと轉呼したことも有り得べきで、カブラは鏑矢のことであるから、記の出雲傳説に鳴鏑とあるのと同一物をいふのであらう。眞淵はヒメを姫の意とし、小鏑矢のことなりといひ、宣長は鏑に樋をゑりたるもの、即ち樋目鏑の謂なりと説いたが〔略〕、刀劔のミゾ(刻條)をヒと稱へるのも、ヒメ(姫)を示小語として用ひるやうになつたのも、遙に後世のことのやうである。樋は通木〔二字右○〕の二合字で(漢字樋は木名)、之をヒと稱へるのはシタビ(※[木+威])の略稱に外ならず、水を通〔右○〕す木〔右○〕管の意に轉用せられた爲であるから、字鏡にも和名抄にも之を擧げず、延喜内匠寮式に見える樋は、和名抄の※[木+威]〓即ち便器のことである。鳴鏑は征矢《ソヤ》乃至|獵矢《サツヤ》としてよりも、寧ろ厭勝の具に用ひられたもののやうであるから(神代篇−二四〇頁)、鹿狩に供用したとは考へられぬが、藥獵は鹿を射殺することが目的ではなく、若角を取ればよいのであるから、之を追ひすくめて補へる爲に、鳴鏑を以て脅したことも有り得べきである。
やつたばさみて〔右○〕(八多婆左彌) テにあたる文字はないが、上掲竹取翁の歌にも例のあることであるから(第四四頁)、之を詠みそへることを可とする。第十三卷〔三二七八〕に掲げた歌に「赤駒の厩をたて黒駒の厩を立而〔右○〕」とあることを思ひ合はすべきである。
(306)ししまつと(完待跡) 完は宍〔右○〕の變體であるが、これは食用野獣乃至鹿を意味するシシにかりて用ひられたのである。
わがをるときに(吾居時爾) 五句を隔てゝ上のイチヒガ本ニにつゞく。
さをしかの(佐男鹿乃) サは接頭語で、牡鹿の謂である。この形は牝牡に拘はらず一般的に鹿をいふに用ひられることもあるが、此は後句に吾角者云々にあるから、雄であらねばならぬ。
きたちなげかく(來立來〔右▲〕嘆久) 契沖説のやうに下の來は衍字であらう。類聚古集には之を除いて居る。ナゲカクのクはコトの意の語分子であるから、嘆く事といふに同じく、助語ハを添へて心得べきである。但し嘆は借字で、此ナゲク(長息)は慷慨といふ程の意である。
たちまちに(頓爾) タチマチを立待の意とすれば、タチマツニと云はねばならぬので、畧解はニハカニと改訓したが、――天武紀にも其例がある――ニハカはニハシとも用ひられ、語幹ニハはニヒ(新)から轉化したものゝやうで、突然といふ意はあるが、此場合には當らぬから、タチマチを名詞と見て、タチドコロに準用したものと了解すべきである。本集第九卷〔一七四〇〕にも頓一字をタチマチニと訓ませた例がある。
われはしぬべし(吾可死) 舊訓ワレシニ〔右△〕スベシとあるが、シヌの原義は死去で、此場合にはニ(去)(307)は蛇足であるから之を除き、ワレの次にハを読みそへる方がよい。略解がワハシヌベシと六音句にしたのは、上句を四音によんで、之と釣合をとる爲と思はれるが、タチマテニとすれば此句も當然七音であらねばならぬ。以上二句は立所に死ぬに違ひないといふ意で、獵人の矢を免かれぬことを覺悟して遺言するさまにいひなしたのである。
おほきみに(王爾) 大君即ち天皇にといふ意。
われはつかへむ(吾仕牟) 死後の御奉公申上げようといふのである。
わがつのは(吾角者) 以下鹿の肢體各部が人間社會を益することが多い事實を述べたので、必しも天皇の御爲ばかりをいふのではない。
みかさのはやし(御笠乃波夜詩) ミカサは和名抄の華蓋即ちキヌガサ(葢)をいふのであらうが、これに鹿角を用ひたとすれば、其長柄の部分品であらう。從來笠頂の飾なりと説かれて居たが、キヌガサ(葢)にせよ、オホカサ(※[竹/登])にせよ、展舒したら見えなくなる部分に物々しい飾を施したとは考へられぬことである。ハヤシの原義は映爲または榮爲なること諸説の一致する所であるが、歌謠にそへる語句をハヤシといふやうに、添加物の義に轉用せられたので、樹林をハヤシといふのも、神の社の風景をそへるものなるが故である。新考が以下語句の用例から推して料の意なり(308)とし、新訓が之に從うて料の字を充てたのは早計で、此も傘(葢または※[竹/登])の主要材料ではなく、其部分品即ち添加物を意味し、ロクロ(傘椿)またはバネ(彈子)などに鹿角を供用することをいふのではあるまいか。藥獵云々とあるによれば、角については藥用を第一に擧ぐべきであるが、其に縁の遠い傘のハヤシを説いたのは、藥物以外の効用を述べる爲であらう。
わがみみは(吾耳者)
みすみのつぽ(御墨坩) 坩は和名抄にも都保と訓せられ、スミツボは細工具の墨斗の和名として居るが、此は必しもスミナハ(墨繩)の墨池の謂ではなく、一般に墨汁を容れる器をさしたのであらう。鹿耳は勿論その材料となり得べきものではないが、恐らくは竹製の※[竹筒の花生けのような圖あり]の如き形のものを用ひたから、之に擬へたのであらう。
わがめらは(吾目良波) ラは處辭的接尾語で、上のワガミミハの例によれば、單にワガメハとあつて然るべきであるが、吟調の爲に之をそへたのであらう。後句のワガ毛ラ〔右○〕も同樣である。
ますみのかがみ(眞墨乃鏡) 眞鐙の鏡の謂で、本集では多くはマソカガミと稱へて居る(第五七頁)。これも比況で、鹿の眼は特に炯々として、よく燈火を反射するが故に、往昔獵人は夜中炬火を點じて之に近づき、閃光を目あてに矢を放つて之を射とめた。――此方法をトモシ(照射)と稱する(309)――鏡に擬したのも之に由るものであらう。
わがつめは(吾爪者)
みゆみのゆはず(御弓之弓波受) ユハズはユミノハズ(弓弭)またはユミハズ(※[弓+肅])ともいひ、和名抄に弓末曰※[弓+肅]とあるやうに、ハズはハシ(端)から分化した語である。後世の弓弭は※[矛先の三出した刃のような圖]の如き形状を呈し、弓幹《ユホコ》の一部分であるが、他の物質を以て之を被覆または装著した所謂角筈の如きものも存した。さりながら鹿の爪が之に適したとも考へられぬ。鹿は偶蹄であるから、今の弓弭とは似ても似つかぬが、或は往昔※[万年筆の筆先のような圖]のやうな形に作られたが故に、之に擬へたのかも知れぬ。
わがけらは(吾毛等者)
みふでのはやし(御筆波夜斯) 助語ノを表示する文字がないので、新考はミフミテ〔三字右△〕ハヤシと改訓したが、上句御笠乃〔右○〕波夜諸の例によればノを添へて讀むべきで、其例は本集には極めて多く、後句にもミハコノ〔右○〕カハを御箱皮と表記してある。フデの原語はフム(文)テ(手)――文の字音は無分切ブン〔右○〕であるが、國語化してフムともフミとも稱へられた――であるから、フミテの形に於ても用ひられたことは疑がないが、フミヒト(史)が此當時フビト(不比等)とも稱へられた所を見ると、約濁により夙にフデと轉呼せられたものと推定せられる。筆は毛のみから成るものではなく、管(310)を主體とするから、此も部分品の意を以てハヤシというたのである。
わがかはは(吾皮者)
みはこのかはに(御箱皮爾) カハには皮〔右○〕の外に側〔右○〕の義もあり、本來同原から分化したのであるが、此は側をいひ、皮は借字とすべきである。略解は之を覆の意とし、古義は※[巾+巴]または※[代/巾]の義なりと説き、新考は「毛を除きたる皮を箱に貼りしならむ」というたが、さうむつかしく解せずとも、皮箱にといふ意とすれば十分である。之をミハコのハヤシと言はなかつたのを見ても、ハヤシが料を意味せぬことを知るべきで、上に列擧したスミツボ(墨斗)、カガミ(鏡)、ユハズ(弓弭)とは異り、之は比況ではないから、特に助語ニを添へたのである。
わがししは(吾完者) 此シシは如實の宍、即ち獣肉をいふのである。鹿及猪をシシと呼ぶのも、其肉が食用になるからである。
みなますはやし(御奈麻須波夜志) ナマスは雄略紀に鮮一字を以て表示してあるやうに、本來はナマシシ(生肉)即ち鮮肉の謂で、之を酢であへ、大根の繊切《センギリ》を取あはせて食するから、中國邊では肉の入らぬものをもナマスと稱へる。此も野菜に獣肉を混じたものであつたとしたら、シシ(肉)をハヤシ(添加物)というたことは敢て怪しむに足らぬ。
(311)わがきもも(吾伎毛母)
みなますはやし(御奈麻須波夜之)
わがみぎは(吾美義波) 古義以前には、和名抄に反蒭、邇介加旡《ニゲカム》、今案俗人謂2麋鹿屎1爲2味〔右○〕氣1是とあるによつて、――靈異記にも※[齒+台]※[齒+司]をニゲカムと訓してある――此ミギをも同語とし、新訓の如きは美義を態々ミゲ〔右△〕と改訓して居るが、新考も非難したやうに、如何に上代なればとて、反蒭や屎を食用とした筈がない。しかし之を鹿の脳なりとする同書の説も臆測に過ぎず、根據はないやうである。三河人のいふ所によれば、設樂地方では鹿の胃袋の傍にある長さ五寸ばかりの黒色のものをミギと稱へ、山の神に供へるといふことであるから、臓腑の一部分で食用となるものゝ名稱であつたのであらう。或はマ(眞)キモ(肝)の略轉ではあるまいか。キモは臓腑の總稱であるから、其中最も肝要なものをマギモといひ、轉じてミギと稱へたことも有り得べきである。
みしほのはやし(御鹽乃波夜之) 此シホは和名抄に比之保〔二字右○〕と訓した醤のことで、之に肉を加へた肉醤即ち醢は之々比之保《シシヒシホ》と呼ばれ、今シホカラと稱するものである。此も肉の代りに、若しくは肉と共にミギを用ひたので、ハヤシ(添加物)と表現したのであらう。
おいてはてぬ(耆矣奴) オイハテに耆矣をあてたのは、漢文式表現である。尋常ならばオイハテヌ(312)ル〔二字右○〕といふべきを、語音數に制限があるから、連體形に代へるに終止形を以てしたので、本集には其例が少くはなく、寧ろ古語の常である。新訓がオイタルヤツコと改めたのは從はれぬ。
わがみひとつに(吾身一爾)
ななへはなさく(七重花佐久) 遺體の各部が大君の御用に立つことを名譽として、幾重にも花が咲くと形容したのであるが、上述の如く眞のホギコトは此句以下にあり、「枝も祭える葉もしげる」と祝ひをさめたので、吾身一爾までは序にrしい文句である。古義が「よろこぶやうにいひて裏《シタ》には痛《ナゲ》くなり」と釋したのは、左注に捉はれた蛇足で、此歌には少しも怨嗟悲嘆の趣はないのみならず、此句と次の句とは、鹿の叙述の一部分であるが、トマヲシハヤサネとつゞくのであるから、鹿が自賛するのではない。
やへはなさくと(八重花生跡) 上の七重を八重にかへて反誦し、トを以て次句に繋いだのである。七重八重は幾重にもといふ意で、必しも實數ではない。
まをしはやさね(白賞尼) マヲシの原義は口供で、長上に對して物いふことを意味するから、上奏または上申の義にも用ひふれることがあるが、此はその意ではなく、鹿が獵人に對して要望する趣に託して祝意を述べたのである。ハヤサネはハヤセ(命令法)の敬語形で、ハヤシは上記の如く(313)榮爲の義であるから、メデハヤシの如くも用ひられ、メデを略しても尚|賞《ホ》め立てることゝ了解せられるのであるが、其意を明白にする爲に、特に賞の字をあてたのである。
まをしはやさね(白賞尼) 前句の反誦。タチマチニ以下は盡く鹿の敍述に擬したものであるから、文章ならばト(歎キヌ)といふやつな結語があるべきであるが、歌謠なるが故に白シハヤサネと言ひ放したのである。
〔大意〕モウシ檀那さま。家《ウチ》に居ながら餘所《ヨソ》へ行くとは(聞こえませぬ)――以上はまへ置――外國の虎といふ神を生擒にして、八疋捕へて來て其皮を疊(敷物)に作り、其八重疊の――以上は序及枕詞――ヘグリの山に四月と五月の交に、藥獵に奉仕する時、此|傍《カタ》山に二本生ひた櫟《イチヒ》の下に、アヅサ弓を八つ掖ばさみ、ヒメ鏑を八つ掖ばさんで、鹿を待つて居る所へ、牡鹿が來て(自分の前に)立ち、歎息していふには、程なく自分は死ぬに違ひない。自分は天皇に御奉公しよう、自分の角は御葢《ミカサ》の附著品、自分の耳は御墨壺、自分の眼は眞澄の鏡、自分の爪は御弓の弓弭《ユハズ》、自分の毛は御筆の部分品、自分の皮は御箱の側《カハ》に(なり)、自分の肉は御鱠のそへもの、自分の肝も御鱠の添へもの、自分のミギは御|醢《シホカラ》のそへもの。老いはてた自分の身一つに、七重に花が咲き、八重に花が咲くと(いうて)、賞めたてゝ下され、賞め立てゝ下され
(314) 左注に爲鹿述痛作之也とあるのは例の賢しらで、句釋中に述べたやうに、此歌には少しも痛苦又は憂愁を訴へる意はなく、來立嘆久とはあるが、ナゲクが憤慨の意にも用ひられるのは上記の通りで、悲嘆にくれたのでないことは末四句によつても明白である。要するに人家の前に立つたホガヒ人が、鹿の述懷にことよせて、おもしろ可笑く祝儀を述べたてたものと了解せねばならぬ。
 
3866 忍照八《オシテルヤ》 難波乃小江爾《ナニハノヲエニ》 廬作《イホツクリ》 難麻理弖居《ナマリテヲル》 葦河爾乎《アシガニヲ》 王召跡《オホキミメスト》 何爲牟爾《ナニセムニ》 吾乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》 明久《アキラケク》 吾知事乎《ワガシルコトヲ》 歌人跡《ウタヒトト》 和乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》 笛吹跡《フエフキト》 和乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》 琴引跡《コトヒキト》 和乎召良光夜《ワヲメスラメヤ》 彼毛〔左△〕《カモカクモ》 命受牟等《オホセウケムト》 今日今日跡《ケフケフト》 飛鳥爾到《アスカニイタリ》 雖立《タテレドモ》 置勿爾到《オキナニイタリ》 雖不策《ツカネドモ》 都久怒爾到《ツクヌニイタリ》 東《ヒムガシノ》 中門由《ナカノミカドユ》 參納來弖《マヰリキテ》 命受例婆《オホセウクレバ》 馬爾己曾《ウマニコソ》 布毛太志可久物《フモダシカクモノ》 牛爾己曾《ウシニコソ》 鼻繩波久例《ハナナハハクレ》 足引乃《アシヒキノ》 此片山乃《カノカタヤマノ》 毛武爾禮乎《モムニレヲ》 五百枝波伎垂《イホエハギタレ》 天光夜《アマテルヤ》 日乃異爾干《ヒノケニホシ》 佐比豆留夜《サヒヅルヤ》 辛碓爾春〔左△〕《カラウスニツキ》 庭立《ニハニタツ》 碓子〔二字左△〕爾舂〔左△〕《タテウスニツキ》 忍光八《オシテルヤ》 難波乃小江乃《ナニハノヲエノ》 始垂乎《ハツタリヲ》 辛久垂來弖《カラクタレキテ》 陶人乃《スヱヒトノ》 所作瓶乎《ツクレルカメヲ》 今日往《ケフユキテ》 明日取持來《アストリモチキ》 吾目良爾《ワガメラニ》 鹽漆給《シホヌリタマヒ》 時〔左△〕賞毛《モテハヤサスモ》 時〔左△〕賞毛《モテハヤサスモ》
  右歌一首。爲v蟹述v痛作之也
 
(315)〔三八六六〕 おしてるや 難波の小江に 廬《イホ》つくり なまりて居る 葦蟹を 大君めすと 
何せむに 吾を召すらめや あきらけく 吾《ワ》が知ることを
うた人と わをめすらめや 笛ふきと わをめすらめや 琴ひきと わを召すらめや
かもかくも おほせ〔三字右○〕うけむと 今日今日と 明日香にいたり
立てれども おきなに到り つかねども つく野にいたり
ひむがしの 中のみかどゆ まゐり來て おほせ〔三字右○〕うくれば
馬にこそ ふもだしかくもの 牛にこそ 鼻なははくれ
あしひきの この片山の もむにれを 五百枝はぎたれ
天てるや 日のけにほし さひづるや から臼につき 庭にたつ たてうすに舂き
おしてるや 難波の小江の はつたりを からく垂れきて
すゑ人の つくれる瓶《カメ》を 今日行きて 明日とり持ち來
吾が目らに 鹽ぬりたまひ もてはやさす〔二字右○〕も もてはやさす〔二字右○〕も
   右歌|一首《ヒトツ》は蟹の爲に痛を述べて作《ヨ》めるなり
 此は前の歌と同じく、ホガヒヒト(乞食者)の作とあるが、頗る形式を異にし、まへ置もなく、ホギ(316)ゴトも不備で、殺されて行く蟹の述懷に過ぎぬやうであるが、末尾二句が前の歌と類して居る所を見ると、尚ホギ歌の一變形と見るべきである。恐らくはハヤス(賞)といふ語だけでも祝意を表示するに十分であると考へられたのであらう。
おしてるや(忍照八) オシテルは難波の枕詞で、大ニ光ルといふ意からナ(名)一音にかゝるのである。ヤは間投詞。
なにはのをえに(難波乃小江爾) ヲエは此場合海水の小彎入を意味する。
いほつくり(廬作) 蟹の穴を廬に況へたのである。
なまりてをる(難麻理弖居) ナマリかナ(無)ミ(見)アリ(在)の約(i母韻脱落)で、「見えず在り」といふ意から「隱」の義を生じたのであるが、音便によりナバ〔右○〕リともいひ、天武紀に伊賀の名張を隱〔右○〕郡隱〔右○〕驛家と表記した例があり、本葉にも隱〔一卷〕、隱ノ山〔一、四卷〕、隱野〔八卷〕等と記されて居る。此は蟹が穴に隱れて居ることをいふのである。
あしがにを(葦河爾乎) 海邊の葦原などに蕃息する蟹なるが故に此名を負はせたので、漢名を※[虫+彭]※[虫+骨]といひ、和名抄には葦原蟹と譯してあり、今も此稱呼を用ひて居る。眼柄が特に長く、眼球を突き出すことがあるから、後段の眼に鹽をぬるといふ敍述をきかす爲に、特に此種類を選んだので(317)あらう。
おほきみめすと(王召跡) 大君召ストフ(トイフの約)といふべきを、フの音を呑んで七音に唱へたのである。――以上六句(一|行《ライン》)は所謂「地の文」に屬するもので、蟹の述懷は次句から始まるのである。
なにせむに(何爲牟爾) 口語の「何しに」に同じい(第八二頁參照)。
わをめすらめや(吾乎召良米夜) 反語的表示で、醢にされることを豫想して、其外に何しに自分を召されるものかと云うたのである。――新考は上句と相諧はずとの理由を以て、良米夜の三字を陪伎〔二字右△〕の誤とし、ワレヲメスベキと訓んだが、其は上掲〔三七九八〕の歌の誤釋に因するもので、同書は其初句の何セムト〔右○〕を何セムニ〔右△〕の誤記とし、次句以下の意から逆推して何セムニは何ノ爲ニといふに同じいと臆斷したから、此歌に於ても語氣上メスベキを可としたのみならず、此句の下に召スベキ用ナキ事ヲといふ意が含まれて居ると説いたのである。きりながら上記の如く此二句を「何しに〔二字右○〕自分を召されようや」と解すれば、少しも抵觸する所はなく、次の二句ともよく諧うて居るのである。
あきらけく(明久) アキ(明)といふ形容詞にラを添へて名詞形とし、更に形容語尾カを連ねたアキ(318)ラカは原語アキとは聊か語感を異にし、明白といふやうな意味の形容詞であるが、之を活用する爲には語尾のカをケに變化し、之にシ、キ、クを添加することを要する。アキラケクはその副詞形で、アキラカニといふに同じい。
わがしることを(吾知事乎) 自分が知つて居ることなるを〔三字右○〕といふ意で、上記の如く醢にせられることを承知して居るといふのである。
うたひとと(歌人跡) ウタヒトは口語のウタヒテ〔右○〕で、歌うたひの謂である。
わをめすらめや(和乎召良米夜) 上記の如く自分を歌手として召されるものかといふ意で、次の二聯に於ても同樣である。
ふえふきと(笛吹跡)
わをめすらめや(和乎召良米夜)
ことひきと(琴引跡) 從來蟹の抱ふく聲を歌笛の音にたとへ、長い爪があるから、琴ひきを思ひよせたのであらうと説かれて居るが、聊か穿ち過ぎる嫌がある。蟹の形體・動作・習性を比況を以て表現するとせば、此外にも一層顯著なものがあるのに、此だけを取たてゝ問題にしたとは考へられぬことであるから、恐らくは御遊の御用に召されるのではあるまいといふことを、六句に分敍(319)したに過ぎぬのであらう。
わをめすらめや(和乎召良米夜)
かもかくも(彼毛〔右△〕) 刊本には此二字を次句とつゞけてカレモウケムと訓して居るが、語脈がたどたどしいから、略解は毛の下に此毛の二字脱とし、古義は彼の次に此の字を補うて、いづれもカモカクモと訓した。第三卷〔三九九〕に左右と書いてカモカクモと訓ませた例によれば、或は毛は是の草書※[是の草書]の誤寫であつたかも知れぬ。カモカクモは口語のトモカクモに同じい。
おほせ〔三字右○〕うけむと(令受牟等) 令の字は類聚古集には命〔右○〕となつて居るが、いづれにしてもオホセと訓み、命令または負課の意と解すべきである。契沖以下ミコトと訓して居るけれども、此歌にはミコト(御言)即ち勅詔を受けた趣は見えぬ。
けふけふと(今日今日跡) アス(明日)といふ語を導く爲に挿入せられたので、普通の枕詞とは聊か趣を異にし、後世の口合である。次句にも類例のある所を見ると、此ころ既にこのやうな語戯が流行したのかも知れぬ。
あすかにいたり(飛鳥爾到) アスカは天武天皇の即位以來持統天皇八年までの帝都である。其以前にも此附近に都せられたことはあるが、此はさのみ古い歌でもないやうである、略解及古義には(320)藤原宮をも含むかのやうに説いて居るが、本集第一卷〔二一〕に明日香宮御宇天皇とあるのは、明に天武天皇の御事で、同卷には從明日香宮遷居藤原宮云々とあり〔五一〕――第三卷〔二六八〕にも同樣の左注がある――第十三卷〔三三二四〕には藤原|王都《ミヤコ》シミミニと詠まれて居るが、此朝以降を明日香宮と記述した例はない。此句によつて此作の年代がほゞ明になつた。
たてれども(雖立) 舊訓による。タチタレド〔略〕、タチツレド〔新考〕、タテドモ〔新訓〕とよみ改め、或は立〔右○〕を不置〔二字右○〕の誤脱としてオカネドモと訓したものもあるが〔古義〕、立テと置キとは正反對であるから、次のツカネドモツクヌと同樣に準枕詞として用ひられたので、タテレドモは立テアレドモの約である。
おきなにいたり(置勿爾到) オキナは地名であらうといふことに諸説一致して居るが、縱ひ地名としても無意義の名號はあり得ぬから、その本義を詳にした上、明日寄附近に此名の地點があり得たかを推究せねばならぬ。案ずるにオキは置〔右○〕女(老女の意)、息長命一名大〔右○〕中伊志治〔播風〕のオキと同じくオホキ(大)の謂で、ナは名(字)であるから、現代語大字〔二字右○〕に當り、恐らくはアスカといふ郷名の本なるアスカといふ地區をよぶに此名を以てしたのであらう。皇居はアスカの里の淨御原《キヨミガハラ》(今の高市村大字|上居《ジヤウゴ》)に存したから、之に達するには同じ里中のオキナと呼ばれる地、即ち固有(321)のアスカを通過することを要したものと思はれる。
つかねども(雖不策) 杖をつかねどもといふ意。其故にツクに策の字をあてたのである。
つくぬにいたり(都久怒爾到) ツクは作(築)の意で、ツクダ(營田)、ツクマ(構築地區)の如く用ひられ、ヌは勿論「野」の謂であるから、構築した野といふことであるが、恐らくは皇宮の外苑を意味したのであらう。此名は殘つて居らず、其所在も不明ではあるが、上記のオキナから皇宮に達する途中か、又は皇居に接在したのであらう。桃花鳥坂(築坂)を以て之に擬するものもあるが、同地をツクヌ〔右○〕と稱へた例はなく、又明日香から淨御原に行くに築坂(今の白橿村の一部分)まで引かへしたことは有り得ぬ。
ひむがしの(東) ミナミ(南)をミム〔右○〕ナミといふやうに、ヒムガシは音便で、原語はヒガシである。
なかのみかどゆ(中門由)
まゐりきて(參納來弖) 中の御門から參入してといふ意。
おほせ〔三字右○〕うくれば(命受例婆) 此もミコトと訓むことの非なるは前記の通りである。オホスレバとした舊訓は勿論誤りであるが、尚古點にオホセ〔三字右○〕ウクレバとあつた名殘であらう、現代語に直すと此は「御用を承ると」といふことで、最終句までかゝるのである。
(322)うまにこそ(馬爾己曾) コソといふ強指定語を用ひたのは、絆をかけるのは馬に限るからである。次の牛ニコソ〔二字右○〕も同斷。
ふもだしかくもの(布毛太志可久物) フモダシは先學の説の如く、和名抄の鞍馬具申に保太之といふ訓を與へた絆のことで、フモダシとホダシとが同一語なることは疑がないが、語原的には今日まで釋明せられて居らぬ。案ずるに語根フモ(又はホ)は、絆の朝鮮音※[ハングルでパン]《パン》の轉呼で、之に接尾語ダを添へ、――エ(枝)をエダ〔右○〕ともいふと同例――更に動詞語尾シ(爲)を連ねたのであらう。さればホダシはホダス、ホダセ、ホダサレの如く活用せられるのである。カクは連體形カクルに代用せられたので、前の歌のオイハテヌ〔右○〕と同一用例である(第三一一頁)。モノは反接〔二字右○〕を表示する助語であるから「絆をかけるが〔右○〕」といふ意を以て用ひられたので、新考が物の下にあるべきナレを略したものとしたのは聊か誤解である。
うしにこそ(牛爾巳曾)
はななははくれ(鼻繩波久例) ハナナハは牛の鼻に通す繩のことで、和名抄車具中に波奈豆良と訓した牛縻と同物である。ハクレはハキ(穿)から出た他動詞ハケの已然形で、反接の効力を有し、ハクレドモ即ち口語の「はげるけれども」にあたり、上句カクモノ(かけるが)と同一語氣である。(323)此四句は次の足引の序で、「馬には絆をかけ馬には鼻繩を通すのに足を引く〔四字右○〕」と戯れて、アシヒキノといふ句を導いたのである。序が枕詞だけにかゝることを怪しむものが有るかも知れぬが、前の歌のカラクニノ以下六句も同例で、此二首は口合を以て終始した非文學的のものであるから、理路を辿ることにはさのみ意を用ひなかつたのであらう。古義が之を「吾はさる類にあらねば、何も苦しめらるることはあらじと安むじ居しに、思はず辛き目にあふよ」といふ意と説き、新考が此次に我ヲ縛《ユ》ヒテといふ意の二句脱としたのは、共に洒落を解せざるものといはねばならぬ。
あしひきの(足引乃) 枕詞
このかたやまの(此片山乃) 此皇居の傍なる山といふ意。
もむにれを(毛武爾禮乎) モムは恐らくはモモ(桃)の原義と同じく、ミ(實)の轉訛モとムとを重ねたもので、果實を意味するのであらう。楡は朝鮮語でもヌルム〔三字右○〕(※[ハングルでヌルム])といひ、多くの種類があるが、結實するものを特にモムニレというたものと思はれる。此歌によれば樹皮を搗き碎いて用ひたものとすべきで、内膳式にも楡皮〔右○〕一千枚搗得粉二石とあるが、支那では楡仁〔右○〕醤と稱し、此木の實〔右○〕の仁をいれて製した醤《ヒシホ》もあるといふことである〔品物解〕。
いほえはぎたれ(五百枝波伎垂) ハギタレは剥ぎおろしといふに同じい。タレは上古自他ともにタ(324)リといひ、四段に活用したやうであるが、――ワスリ(忘)、オソリ(恐)、カクリ(隱)等と同例――この時代には既に下二段活他動詞を分派して居たやうであるから、古義訓のやうに強ひてタリ〔右○〕と改めるにも及ぶまい。後句の辛久垂〔右○〕來弖の垂も同斷である。
あまてるや(天光夜) 天上ニ光《テ》ルといふ意を以て日(太陽)の枕詞に用ひられたので、此句及次のサヒヅルヤのヤ〔右○〕は間投詞である。
ひのけにほし(日乃異爾干) ヒノケは是まで日之氣の義と説いて居るが、氣をケと稱へるのは字音(所謂呉音)で、日光を意味する※[日+見]も詩經の註には日氣也とあるけれども、之を湯桶よみにしたものとも思はれぬから、ヒ(日)ノ(之)カ〔右○〕(耀)の轉呼とすべきであらう。光線をカゲ〔右○〕といふのもカガ(耀)の意から轉じたのである。干されるものは勿論楡の皮で、舂碎の準備作業である。
さひづるや(佐比豆留夜) サヒヅルは鳥吟(囀)を意味する朝鮮語※[ハングルでチジョグィル]と同原から出たのではあるまいか。外國人の言語は鴃舌のやうに聞えるので、カラといふ言葉の冠詞として用ひられたのである。
からうすにつき(辛碓爾春〔右△〕) 春は此も次のも類聚古集に舂〔右○〕とあるを正しとする。カラウスは既記の如く柄臼の謂で(第一二七頁)、此は楡の皮を舂碎することをいふのである。
(325)にはにたつ(庭立) 次句の準枕詞として用ひられたのであるが、ニハニタテ〔右△〕〔舊訓〕と唱へるよりもタツ〔右○〕の方がよい。
たて〔二字右○〕うすにつき(△碓子〔右△〕爾春〔右△〕) 碓子は舊訓カラウスとあるが、上句と重複するのみならず、同語を辛碓と碓子との二樣に書きわける筈もないから、宣長は碓子を磑子の誤記とし、古義及新訓は之に從うてスリウスと訓み、新考は若しスリウスならばツキ(舂)の代りにスリ(磨)といふ動詞を用ひねばならぬといふ理由の下に舊訓を支持し、但し此二句は前の二句の異傳で、旁書であつたのが本文に紛れ込んだものとして之を削つた。案ずるにカラウスにせよ、スリウスにせよ庭立〔右○〕といふ修飾は不似合であるから、此はタテウス(竪臼)の謂で、庭ニタツタテ〔四字右○〕ウスと韻を疊んだのではあるまいか。恐らくは庭立々碓とあつたのを、々を子〔右△〕と寫し誤り、子碓では意をなさぬから、賢しらに之を顛倒したのであらう。上二句と同じく、楡を臼に入れて搗くことをいふのであるが、之を二樣に敍したのは、古歌に例の多い修辭法で、決して新考がいふやうな一作または異傳ではない。――以上十句は楡粉について敍べたものであるが、其を何に用ひたかは明示せられて居らず、語脈からいうてもをさまり所がない。少くとも後段の鹽漆給といふ句の前後に、楡粉に關する描寫があつて然るべきであるが、若し脱文誤字がないとすれば、之を初垂に加味したものを、(326)シホ(鹽)といふ一語で表現したものとすべきであらう。尚後句に於て更に若干の説明を加へる。
おしてるや(忍光八) 前出。同じ枕詞を反覆して用ひるのは好ましいことではないが、此は前句未にツキといふ語があるから、突《ツキ》に對してオシ(押)といひかける心もちもあつたのであらう。
なにはのをえの(難波乃小江乃) 前出
はつたりを(始垂乎) タリは滴滷の謂で、御料に供する爲に、特に最初に汲んだも、のといふ意を以て、ハツホ(初穗)に準じ、ハツタリというたのである。潮水のまゝでは鹹味が足らぬから、今も鹽田作業に於て見るが如く、一旦滷士に浸潤せしめて濃厚となるを待ち、涓下せしめて鹵汁を製したのである。鹽田は播磨風土記にも見えるから、難波の海濱にも此時代には設置せられて居たのであらう。藻を燒いて固形鹽をとることも古來行はれて居たが、尚滴鹵製造の方が輕便であるから、運搬の容易なる地方には、液體を以て供給せられて居たのであらう。新考が此ハツタリを「藻に海水をそゝぎて始めて垂りたるにて最鹹きをいへるならむ」と説いたのは、兩製法を混同した爲である。
からくたれきて(辛久垂來弖) 右のタリ(滴鹵)をとることをタレと稱へたので、カラクは修飾に過ぎず、始垂をとり來つてといふ意である。
(327)すゑひとの(陶人乃) 土器を作る土師《ハニシ》に對して、陶磁器工人をスヱヒトといふのであるが、スヱといふ語はシ(石)ヱ(座)の轉呼で、座《ヱ》は後世の金座、銀座、朱座等の如く工場を意味する。その生産品はスヱモノ〔和〕と呼ばれ、瓦器の一種であるが、製法によつて區別し、專ら陶の字をあてる。――これを据物の意と解するものもあるが、若し然らばスヱヒトといふ語は成立せぬ筈である。――後句に今日行キテ明日トリ持來とある所を見ると、この陶は崇神紀に茅渟縣陶邑とある地かも知れぬ。神名帳にも和泉國大鳥郡陶〔右○〕荒田神社とあり、今の泉北郡東西陶器村である。
つくれるかめを(所作瓶乎) 和名抄に瓶子を賀米と訓して居る。カはケ(笥)の轉呼で、ミカ〔右○〕(甕)、ヒラカ〔右○〕(平※[分/瓦])の如く用ひられ、メも亦ヘ(容器)の音便である。ツクレルは作リアルの約。
けふゆきて(今日往) 新考が弖の字脱かといひ、新訓にケフユキと四音に讀み下したのは共に早計でテを訓みそへた例は本集に少くはない(第三〇五頁參照)。
あすとりもちき(明日取持來) 前句のケフを此事件のあつた日としては、明日は未來のことに屬し以下の時格表現と一致せぬから、此は取りに行つた日の其翌日持ち歸り來といふ意とせねばならぬ。無用の描寫のやうであるが、口拍子にのつて駄辯を弄したのであらう。
わがめらに(吾目良爾) ラが虚辭的接尾語なることは前の歌に於て述べた通りである。
(328)しほぬりたまひ(鹽漆給) 古義訓による。給は舊訓タベとあり、タベトまたはタビト〔略〕、タブト〔新考〕とも訓せられて居るが、其等は後句の解讀の相違によるもので、私が古義訓を可とする理由もまた次句について述べる。シホは上記の如く始垂に楡粉を和したものゝ謂で、前の歌の御鹽と同じく、ヒシホ(醤)の略稱と思はれる(第三一一頁)。目にヒシホを塗るといふのは言葉の文《アヤ》で、其肉を醢にすることを意味するが、新考説の如く身〔右△〕を目と誤寫したのではなく、上述の如く葦蟹の眼球は特に突出して居るから、之を以て?體の代表としたのであらう。
もてはやさす〔二字右○〕も(時〔右△〕賞毛) 時〔右△〕を持〔右○〕の誤記として、宣長に從ひモテと訓むべきである。古義はモチと改めだが、共は上掲〔三七九一〕の信櫛《マクシ》〔右○〕の如き場合に限ることで(第三八頁參照)、モテ〔右○〕アソブ(翫)、モテ〔右○〕アマス(持餘)、モテ〔右○〕ナス(?待)等のモテをモチとはいへない。賞の字は前の歌によれば、ハヤスといふ語に充當せられたものと思はれるが、此は蟹または乞食者の行爲をいふのではなく、上句鹽漆給につゞくのであるから、敬語的表現としてハヤサス〔二字右○〕モと訓むべきである。即ち目に醤《ヒシホ》を御塗りなされて(醢《シホカラ》に遊されて)、賞味あらせられるよといふ意である。仙覺本は上の時の字を前句につけて、鹽塗リタベト〔右△〕と訓み以下五字をマヲサモマヲサモといふ八音一句として居るが、賞にマヲスといふ義がないのみならず、次の時の字が過剰になる。然るに眞淵は之に捉はれて、(329)時は聞〔右△〕の誤記で、奏聞の意を以てマヲスと訓むと牽強し、千蔭も之に從ひ〔略〕、新考は時を白〔右△〕、毛〔右○〕を尼〔右△〕と改めてマヲシハヤサネと訓したが、いづれも其意を得ぬ解釋である。趣向が相違して居るのに、此一句のみを強ひて前の歌に準ずるのは無意味のことであるのみならず、奏聞をマヲシと訓み得るとしても、其意は奏に存し、聞に此訓を與へることは不可能であり、又三字中の二字まで取換ふるに於ては、如何やうにも訓めるが、其は改作であつて解讀ではない。強ひてマヲスといふ語をよみ加へた結果、上句をもタベト(タビト)又はタブトと唱へねばならぬやうになつたのであるが、マヲスものを蟹としては、上の命受例婆といふ句のをさまり所がなくなり、之を第三者とするにはどこかに其人の存在を示さねばならぬ。要するに此等の解釋は文脈を無視した空想といふべきで、古義が「今までは世に隱れ居て何の賞《ハエ》なくありしに、料らずも此度天皇にめされて供御となり、吾身の榮さるゝ事嗚呼さても懽しや辱しやと深く喜べる謂なり」と説いたのは、ハヤスを受動法と見なしての解釋で、語法無視といはねばならぬ。
もてはやさす〔二字右○〕も(時〔右△〕賞毛) 前句反誦
〔大意〕難波の小江に隱れて居る葦(原)蟹を、天皇が御召しになると(いふ)。何しに自分を召されようや。明に自分が承知して居ることであるのに。歌うたひとしで自分を召さうや。笛吹として自分(330)を召さうや。琴ひきとしで自分を召さうや。ともかくも仰せを受けようと、明日香に到り、(其)大字《オキナ》に到り、外園《ツクヌ》に到著し、東の中の御門から參入して仰せをうけると、――馬には絆をかけ、牛には鼻繩を通す法もあれ、足を引くといふ(以上序及枕詞)――此|傍《カタ》山の楡(の木の皮)を五百枝分剥ぎおろし、日光に乾し、柄《カラ》臼でつき、竪臼で搗き、難波の小さい江の初滴鹵《ハツタリ》を鹹く垂らして來て、陶工が作つた瓶を、取りに行つた日の翌日持つて歸つて(楡粉と合せて醤《ヒシホ》を作り、其)醤《ヒシホ》を自分の眼に御塗りなされて(醢《シホカラ》にして)賞味あらせられるよ。賞味あらせられるよ
 左注は前の歌に於けると同樣に後人の記入で、此歌が蟹の爲に痛を述べたものでないことは、歌詞中に一言も不平をならべて居らぬのを見ても明白で、勿論古義説のやうに喜悦の意を表したものでもなく、たゞ葦原蟹が供御の料になつたことを、蟹自身の言説として敍べたに過ぎぬ。此がホギ歌として謠はれたのは、上述の如く歌そのものゝ性質と、末句にモテハヤスといふ語を用ひたことによるのであらう。
 
※[立心偏+自]〔右△〕物歌三首
 
※[立心偏+自]〔右△〕は類聚古集以下に怕〔右○〕とあるを可とし、懼の義である。古義はオドロシキ、新考はオソロシキと(331)訓し、モノ(物)の修飾語としたが、恐らくは物ニオソルル歌といふ意であらう。
 
3887 天爾有哉《アメナルヤ》 神樂良能小野爾《ササラノヲヌニ》 茅草苅《チカヤカリ》 草苅婆可爾《カヤカリバカニ》 鶉乎立毛《ウツラヲタツモ》
 
〔三八八七〕 あめなるや ささらの小野に ちかや刈り かやかりばかに うつら男立つも
 
あめなるや(天爾有哉) ニアルを約するとナルとなるから、爾有と表記したのであるが、此ナルは連繋助語の一形態で、天ノといふに同じく、ヤは間投詞である。神代紀(記)の歌にも天ナルヤ弟棚機ノ云々といふ用例があるが、此はササ(神樂)にかゝる枕詞として用ひられたのである。
ささらのをぬに(神樂良能小野爾) 神樂をササと訓むのは、太古笹または荻茅〔右○〕の類を神樂《カグラ》の樂器として用ひ、打振るごとにササ(サラサラ)と音をたてたからで、此ササラ野は右の如き禾草の生ひた野の謂である。さりながら若し實在地をさしたものとすれば、和名抄の河内國讃良(佐良々)郡を以てこれに擬すべきで、同地はサアラ(更荒)、サハラ(早良)又はササラ〔三字右○〕(佐々良)とも稱へられた。今北河内郡に屬する。
ちかやかり(茅草苅) カヤの原義は上屋《カヤ》即ち屋蓋で、之を葺く草の意に轉じ、草の字をもあてたのであるが、就中チ(茅)は最も之に適するので、チカヤとも呼ばれたのである。次句のカヤと併せ(332)てカリバカといふ語を導くための序を兼ねて居る。
かやかりばかに(草苅婆可爾) カリバカは禾穀または草を刈る場合の分擔區劃をいひ、宣長によれば今世まで用ひられたとのことである〔略〕。恐らくはバカはマ(地區)カ(處)の轉呼であらう。但し此句に於ては假墓にいひかけたのである。新考が可〔右○〕を司〔右△〕の誤寫としてカヤカルハシ〔右△〕ニと改訓したのは、次句を解讀し得なかつた爲であるから問題にならぬ。
うつらをたつも(鶉乎立毛) 鶉乎は借字で、ウツラ(空)ヲ(男)即ち魂の空になつた男を意味し、死體または骸骨をいふものゝやうである。身長を没する茅を刈つて行くうちに、突然立ち姿の遺體を發見し、恐怖に捉はれたといふので、題意によく叶うて居る。從來字に即してウヅラといふ小禽が飛び立つたことゝ解し、乎〔右○〕の字が邪魔になるので之〔右△〕の誤記とし〔考〕〔略〕〔新考〕、或は鶉ヲ令v立といふ意と説いたが〔古〕、足もとから鳥が立つといふ諺もあるやうに、突然に喫驚することはあるにしても、之を怕れるほど上代人は弱蟲ではなかつた筈である。
〔大意〕ササラの小野に茅を刈つて居ると、假墓に死んだ男が立つ(て居た)
 
3888 奥國《オキツクニ》 領君之《シラサムキミガ》 染屋形《ソメヤカタ》 黄染乃屋形《キソメノヤカタ》 神之門渡《カミノトワタル》
 
(333)〔三八八八〕 おきつくに しらさむ君が そめやかた 黄染のやかた 神の門わたる
 
おきつくに(奧國) 沖つ國の意で、海を距てた彼方の國土をいふのであるが、此は死者の行く國を意味したものゝやうである。上古に於ては土葬の外、風化葬及水葬が行はれたが、――死體を木乃伊にすることは我古俗には存せず、火葬は本集第三卷梯本朝臣人麿の歌〔四二八〕〔四二九〕によれば、其時代(藤原宮)には既に行はれて居たことは疑がないが、本來僧徒によつて紹介せられたもので、その起原は餘り古くはない――本集〔四二〇〕の歌に詠まれた高山の巖の上に安置する處理法、即ち風化葬は靈魂の歸天に便にする爲で、水葬の場合には沖つ國に永住するものと考へられたのであらう。――紀記論究神代篇二−二三二頁以下參照。
しらさむ〔四字右○〕きみが(領君之) 領の字舊訓シラセシとあり、シラセル〔考〕〔新考〕、シラス〔略〕、ウシハク〔新訓〕等と改めたものもあるが、此は眼前に漂うて居る喪船に乘せられて居る人(遺體)が、今から行つて支配することをいふのであるから、未來格であらねばならず、從つてシラサムと訓むの外はない。――未來助動詞を讀みそへることは、見をミム〔右○〕、來をコム〔右○〕と訓する等めづらしからぬことで、本卷〔三七九七〕にもタガハム〔右○〕を違一字で表示した例がある――沖の國の領主となるといふからには、此死者は身分の高い人であつたとすべきで、其故にキミ(君)といふ敬稱を用ひたの(334)である。
そめやかた(染屋形) 次句のキソメノヤカタの一部分を重疊して律調を整へたもので、此ソメも黄染のことである。ヤカタは和名抄に車蓋を夜賀太、篷?を舶上屋也、布奈夜賀太〔三字右○〕と訓してあるやうに、屋〔右○〕蓋の形〔右○〕をしたものゝ謂であるが、ヤカタを備へた舟即ち屋形船をもヤカタと稱へたものと思はれる。
きそめのやかた(黄染乃屋形) 黄色に染めた屋形船の謂なることは疑がないが、キソメといふ語は他に用例がなく、黄色の舟についても所見がない。單に想像に過ぎぬが、官船を赤塗とするに反し(第二五二頁)、喪船には黄色を用ひる慣習が存したのかも知れぬ。若し然りとすれば此は貴人の柩をのせた舟をいふのであらう。
かみのとわたる(神之門渡) 或神の祭られて居る迫門《セト》をカミノトと稱へたのであらう。所在は判明せぬけれど、名稱によつて幽邃神秘な海峽といふ印象が與へられる。上代人は死者に對して一種の恐怖觀念を有し、こ守に高貴な人の遺體は畏るべきものとして居たやうであるから、今眼前を黄染の屋形船が徐に流れて行くのを見て、慄然としたことは想像に餘りがある。さればこそ之を怕物歌の中に加へたのであらう。
(335)〔大意〕神の國を支配すべき君の(遺體をのせた)黄色な屋形船が神の迫門を渡つて行く
 從來この歌を海神または龍神若しくは魔王に對する恐怖を詠じたるものとし、其理由について取々に臆測を試みて居るが、是は客觀的描寫で、作者は舟中の人ではない。從つて如何なる事件が想像せられるにしても、陸上にある傍觀者を恐怖せしめることは有り得ぬ。水葬の習俗は早く絶滅したやうであるが、尚第九卷の詠勝鹿眞間娘子歌〔一八〇七〕に浪ノ音《ト》ノサワグ〔三字右○〕ミナトノ奧津城ニ妹ガコヤセルとあるのも、陸地に土葬したことをいふものとは解せられぬから、萬葉集時代に在つても海濱の地に於ては其遺習を存したものと思はれる。此歌の如きも水葬の光景を敍したものと解することによつてのみ、合理的の釋明を與へ得られるのである。
 
3889 人魂乃《ヒトダマノ》 佐青有公之《サヲナルキミガ》 但獨《タダヒトリ》 相有之雨夜葉《アヘリシアマヨハ》 非左思〔左△〕所念《ヒサニモホエシ》
 
〔三八八九〕 人だまの さをなる君が ただひとり 逢へりし雨夜は ひさにもほえし〔五字右○〕
 
ひとだまの(人魂乃) ヒトダマは人間の魂魄の示現と信ぜられた燐火をいひ、青白い?を放つが故に次句の比況として用ひられたので、人魂ノヤウナといふ意である。
さをなるきみが(佐青有公之) サは接頭語で、サアヲといふべきを連呼によりサヲと發音したので(336)ある。口語のマツサヲ〔二字右○〕も正に之にマ(眞)を冠したものであらぬばならぬ。キミは第二人敬稱であるから、此歌を詠み贈つた相手の人をさすものと思はれる。
ただひとり(但獨)
あへりしあまよは(相有之雨夜葉) アヘリは逢ヒアリの連約で、アヒは來會の意に用ひられる場合には、其相手を主格を以て敍することを例とするから、此も色青ざめた君が來り會した雨夜はといふ意とすべきである。
ひさにもほえし〔五字右○〕》(非左思〔右△〕所念) 舊訓はヒサシトゾオモフとあり、代匠記以下思〔右△〕の下に久の字脱として、ヒサシクオモホユと讀み、新考は右の外に非左を顯倒としてサビシクと訓したが、上句にアヘリシ〔右○〕といふ退去時格を用ひたことが誤にあらずとすれば、此句を現在(不定時格)を以て敍することは矛盾であるから、思の字は錯簡で句末にあらねばならず、非左の次にニに相當する文字を脱したか、若くは之を訓みそへることを要したものとするの外はない。ヒサニオモホエシと八音に訓んでもよいが、オモヒのオは字餘りになる場合には省略することを例とするのみならず、假に之を存するにしても、吟誦に際してはおのづから前續母韻に攝せられるのである。句意は時間が長いやうに思はれたといふのである。
(337)〔大意〕人魂のやうな眞青な君が唯一人で來會した(其)雨夜は夜長に思はれた
 此は眞實おそろしかつたのではなく、相手の人をからかふ氣もちが含まれて居るのであるが、上述の如くオソロシキ物の歌ではなく物ニ怕レル歌であるから、決して傍題といふことは出來ぬ。此歌も亦從來正解せられて居なかつたやうである。
 
(338)   餘録
 
 本卷の歌は大部分即興即詠で、秀句を古歌に漁り、或は強ひて古意を摸倣しようとはせず、先學によつて俗臭ありとせられたほど世話にくだけ、その當時の常用語を以て、心にうかんだまゝを律語的に表現したものが多い。作の年月は明示せられて居らぬが、乞食者の詠二首中、後の歌に「今日今日と明日香〔三字右○〕に至り」とあるによれば、飛鳥の淨御原宮(天武−持統)の御代に謠はれたものゝやうである。しかし共は特例で、大部分が奈良朝、就中その後期の歌であることは、作者、傳誦者もしくは關係者として名の擧げられて居る左記の三十餘人の經歴によつても推定せられる。
 葛城王 橘宿禰諸兄の前名である。此貴人は天武天皇の元年に誕生、天平八年(年五十三)臣籍に降つたのであるから、諸王として陸奥に差遣せられたのは、其以前のことであらねばならぬ。之を天武朝に卒去した葛城王なりとするのは誤である。
 穗積親王 天武天皇第五の皇子で、靈龜元年に薨去せられた(御年不明)。
 河村王 寶龜八年に從五位下に初敍せられた河村王といふ人があるが、世代が新し過ぎるから、或(339)は同名異人であるいかも知れぬ。傳不明。
 小鯛王 更名置始多久美と注せられて居るから、持統天皇の七年の紀に見える置始多久〔二字右○〕と同人であらう。
 兒部女王 傳不明。
 長忌寸意吉麻呂 官歴は詳でないが、本集諸卷に收録せられた歌詠によれば、持統−文武朝の人なることは疑がない。
 忌部首(通名) 傳不明。
 境部王 穗積親王之子也とある。養老元年從四位下に敍せられ、翌五年治部卿に任じた。壞風藻には此王の作二首をあげ、――從四位上〔右○〕治部卿とある――年二十五と注記せられて居る。
 新田部親王 天武天皇第七の皇子。天平七年薨。
 消奈行文大夫 背〔右○〕奈公行文のことであらう。高麗朝臣福信の伯父で、養老五年明經第二博士として出仕した人である。
 舍人親王 天武天皇第三の皇子で、天平七年に薨去せられた。御年六十。
 安倍朝臣子祖父 傳不明。大舍人〔三字右○〕として舍人親王に侍坐したとあるから、名家の子なることは疑な(340)く、恐らくは文武朝の人引田朝臣祖父〔二字右○〕の子であらう。此氏は慶雲元年阿部朝臣と改稱した。
 池田朝臣(逸名) 延暦八年鎭守府副將軍として東夷征討に赴き、逗留敗軍の故を以て官職を褫奪せられた池田朝臣|眞枚《マヒラ》のことで、天平寶字八年從八位上から從五位下に昇敍せられ、少納言、長門守等に歴任した。
大|神《ミワ》朝臣奧守 天平寶字八年正六位下から從五位下に昇敍せられたとあるから、右の池田朝臣と同年輩であつたと思はれる。
 平群朝臣(逸名) 天平勝寶五年從四位上武藏守を以て卒去した廣成のことであらう。天平九年在唐中に從五位下を授けられたとあるから、年少にして遣唐使隨員に任ぜられたのであらう。
 穗積朝臣(逸名) 右の平群朝臣の傍輩であらねばならぬから、同じく天平九年に從五位下を授けられた穗積朝臣老人のことであらう。
 巨勢朝臣豐人 傳不明。次の土師宿禰の朋輩である。――左註には島(村)大夫の男巨勢斐太朝臣といふものをも擧げで居るが、此人は此歌の經緯には關與しなかつたと思はれることは、本文に論じた通りである。
 土師宿禰水通 本集第四卷及第五卷によれば、此人は天平初年大宰府の小官人であつたやうである(341)が、官歴を詳にせぬ。
 忌部首黒麿 天平寶字二年正六位上から外〔右○〕從五位下に敍せられたとあり、翌年同族七十四人と共に連に昇格して居るから、本卷の歌はその以前の作とせねばならぬ。
 大伴宿禰家持 大納言旅人の子。天平十三年の歌には内舍人とあるから、其ころは尚弱冠であつた筈であるのに、本集第八卷に天平八年九月の作四首を載せて居る所を見ると、幼少から歌才に秀でゝ居たものと思はれる。この卷の歌には姓名だけを掲げ、肩書がないが、其はまだ内舍人をも拜命せぬ以前の詠であつたからであらう。同十七年從五位下に敍せられ、爾來諸官を歴任して延暦四年中納言で薨去した。
 吉田連老 傳を詳にせぬが、家持の幼友達であつたと思はれる。
 高宮王 傳不明。
 波羅門(僧正) 天竺僧。本名を菩提犀那といふ。天平八年唐土を經て來朝し、大佛開眼の導師を勤めた功により僧正に任ぜられ、在留二十五年にして天平寶字四年示寂した。
 佐爲王 上記葛城王(橘諸兄)の同母弟で、天平八年兄王と共に臣籍に降り、その翌年卒去した。
外に山上憶良臣の詠と推定せられる長歌一篇、短歌二十一首があるが、いづれも天平初年の作のやう(342)である。
 この時代の常用語が前代と比べてどの位違つて居るかを調べて見ることは、語學上無益ではあるまい。我々に先づ目につくのは、第二次的外來語の多いことで、之を列擧すると次の通りである。
   漢語または其から轉出したもの
 イサニ〔三七九一〕 異産の字音で、外道《ゲド》といふほどの意に用ひられて居る。
 カマケ〔三七九四〕 感の字音カムから導かれたので、ケは活用語尾である。
 フナ〔三八二八〕 フは鮒の字音で、ナは魚を意味する古言である。朝鮮語で之を※[ハングルでプヲ]《プヲ》といふのも、※[ハングルでオ]が魚の字の韓音なるが故で、右のフナと構成を同じうする。
 ス〔三八一九〕 酢の字の朝鮮音※[ハングルでチョ]《ソ〔入力者注、ハングルと発音があわない、ハングルは明らかにソではない〕》から轉じたのであらう。
 雙六《スグロク》〔三八二七〕〔三八三八〕 香《カウ》〔三八二八〕  力士〔三八三一〕  餓鬼〔三八四〇〕 無何有《ムカウ》、貌姑※[身+矢]《ハコヤ》〔三八五一〕 法師〔三八四六〕  功《クウ》、五位〔三八五八〕
   朝鮮語並にその轉用
 アニ〔三七九九〕 「然らず」といふ意の語幹であるが、漢字豈〔右○〕にも「非然」の義があるので、其訓にあてられたのである。但し現代の朝鮮語では※[ハングルでオッチ]《オツチ》といふ。
(343) サラ〔三八一六〕 ?即ち鍵鑰を意味する※[ハングルでサムル]《サムル》の轉化であらう。今でも棧をさすやうにした雨戸をサル〔二字右○〕ド。自在鉤の鑰をサル〔二字右○〕といふのは其名殘である。
 テラ〔三八二二〕〔三八四〇〕 ※[ハングルでチョル]《チヨル》(僧房)の轉呼。
 サシ〔三八二四〕 金屬を意味するソイ(※[ハングルでソイ])がサ〔右○〕イとなり、更に類化によつてs音を補入し、サシと轉じたのであらう。
 タヒ〔三八二九〕 同じく此魚をいふ※[ハングルでトイ]《トミ》〔入力者注ハングルの発音とあわない、ハングルはトイである〕と同源か。
 ムロ〔三八三〇〕 天木香をいふ。蚊遣火〔右○〕に用ひられる木で、ブロンとも稱へる所を見ると、※[ハングルでプル]《プル》(火)から出たのであらう。
   梵語起原
 ヒツ〔三八一六〕 パートラの略ハチ(鉢)から分化した語である。
 塔〔三八二八〕 スツーパ(?塔婆)の略。
 檀越《ダンヲチ》〔三八四七〕 ダーナパチ(施主)の略轉。
 婆羅門〔三八五六〕 原語ブラーフマナ。
   南方語起原
(344) キツ〔三八二四〕 ポナペ語キチ(犬)と同源。本來犬科動物の總稱であるが、接尾語ネを添へて狐をいふに專用せられるやうになつた。舒明紀には天狗〔右○〕をアマキツ〔二字右○〕ネと訓してある。
 右諸語の大部分は後世まで殘り、全く國語化したので、今日でも通例漢字を以て表記せられる雙六以下、並に塔、檀越、波羅門を除いては、外來語と氣づかれて居らぬものさへあるのであるが、フナ(鮒)、ス(酢)、ヲラ(寺)なども當時の人には、今日のサーデン、ソース、アパート等と同樣に耳新しく聞えたに違ひない。イサニ(異産)、サラ(?)、サシ(金屬)の如きは、夙に廢語となつたため、甚しく注釋者を惱ましたけれども、後世に傳はらなかつた外來語が、或る時代に用ひられたとしても、何等怪しむに足らぬことで、江戸時代に輸入せられたギヤマン、カーヘル、ドンタクの如きも、現に忘れられようとして居るのである。
 純ヤマト語(或は早期外來語)であつても、前代又は後世とは違つた意味に用ひられたものがある。例へば竹取索の歌のイロコ〔三七九一〕は、イロセ(兄)、イロモ(妹)等と同一構成で、イロ(名門)とコ(子)とから成立して居るのであるが、マロ(麻呂)と同樣に、上流男子の自稱として用ひられ、更に轉じて個人名もしくはアザナ(字)と了解せられた形跡があり、メヅコ及ミメコ〔三八八〇〕も、愛稱または敬稱から出た人名のやうである。イロコの略なるイロは、此時代に於ても既に愛人の呼稱であつたが(345)〔三八七五〕、後世女色の意に轉用せられた。乞食者の歌に見えるイトコは、同世代人を意味したものゝやうで〔三八八五〕、古事記の八千矛神の歌及び神功紀の熊之|凝《コリ》の歌に用ひられた同語とも聊か異なり、後代語のイトコ(從兄弟姉妹)とは全然別義である。其外アキカヘリ(商變)の如きも〔三八〇九〕、他に用例の見えぬ言葉で、其意味は新考説の如く、今ではシヤウベンといふ字音を以て表現せられる。
 大體に於て前代の口吻は尚多く保存せられて居るが、平安朝文語への過渡期にあることも見過せない。形容詞の如きも古い形態、即ちカナシケ〔右○〕、遠ケ〔右○〕バ、遠ケ〔右○〕ドモのやうな用法は一つもなく、――防人歌には尚多く殘つて居るが――繁道《シゲチ》森みちシゲク〔右○〕トモ〔三八八一〕の如く用ひられて居る。又ンの音が發生しかゝつて居たと見え、ナカムカモといふ意を半廿と表記した二例がある〔三八四六〕〔三八四七〕。それはナカラ(半)を音便によつてナカン〔右○〕と發音したからで、未來助動詞のムがンに近づいて來たことの證據である。
 
 
(347)   後篇
 
 防人歌 萬葉集卷第二十の一部
 
    概説
 
 防人歌として知られて居る萬葉集第二十卷所載の長歌一首短歌九十二首は、遠江、駿河、相模、兩總、武藏、常陸、兩毛及信濃の防人と部領使の隨員、並にその家族の詠じたもので、題材の性質上悲別思郷の歌が多きを占めて居るが、東歌が戀愛生活謳歌に終始するに反し、之は公事を主題とするだけに、仔細に研究すると、色々ちがつた思想が現はれて居る。左に之を概觀する。
 遠く家郷を離れて三年に亙る心づくしの勤務は、防人自身は勿論、その家族にとつても大なる苦痛であつたに違ひない。しかし彼等は之を臣民の義務としてかしこまつて出て行き、出してやつた。其(348)氣もちは次のやうな言葉を以て表現せられて居る。
 大君ノミコトカシコミ〔四三二八〕〔四三五八〕〔四三九四〕〔四四〇三〕〔四四一四〕
 カシコキヤ命《ミコト》カガブリ〔四三二一〕
 大君ノミコトニサレバ〔四三九三〕
 サヘナヘヌ命ニアレバ〔四四三二〕
しかもこの任務につくことを名譽として、勇ましく出發したものもあつたのである。次の歌が之を證する。
 〔四三七〇〕あられ降り鹿島の神をいのりつゝ皇《スメ》ら軍《ミクサ》に吾は來にし|を《ヨ》
 〔四三七三〕今日よりはかへり見なくて大君のしこの御楯と出立つ我は
尤もつらいことは辛いのであるから、今の人が徴兵をのがれて「まアよがつた」といふのと同じやうな氣もちがあつたのは已むを得ぬことで、思ひがけなく其選にあたり、怨嗟といふほどではなくとも、愚痴をこぼしたと解せられる歌がないでもない。即ち
 〔四三八九〕潮舟《シホフネ》の袖《ヘ》こ|そ《ス》白なみ俄《ニハ》しくも課《オフ》せたま|ほ《フ》か思はへなくに
 〔四三八二〕大祝《フタホガミ》あしけ人なりあだ|ゆ《ヤ》まひわがする時に防人にさす
(349)後の歌はこの役をのがれようとして假病《ケビヤウ》をつかうて居たのを、大祝(大神主)に見破られ、防人にさゝれたといふので、惡い(アシケ)人だと罵つては居るが、ひどく腹を立てた樣子もなく、寧ろ滑稽味を帶びて居るのである。其はともかくも此歌によつて神職が防人選拔に參與したことが分つたのを私の欣快とする。律令には施行細則がついて居ないから、歴名簿の順次を以て差遣するとあるけれども、上番、衛士、防人のふりあて、死病者が出た場合のくり上げ方その他について判明せぬ點が多いが、この例から類推すると、一郷毎に同資格者が神社に集まり、神主が神託と稱して適當なものを指名したものゝやうである。それは恰も今日の徴兵抽籤のやうなもので、昔の人は籤よりも神託の方が公平だと考へたのであらう。
 東國に於てはこの時代までも、神祇のみが民心を支配して居たので、諸佛の加護を祈つた例は一つもないけれども、天地の神〔四三七四〕〔四三九二〕〔四四二六〕または國々の社の神〔四三九一〕といふやうな漠然たる信仰の外に、次の如き特殊の神をさした例がある。
 鹿島神 上掲〔四三七〇〕の歌に見えるが、それは作者が常陸の人である爲ばかりではなく、この神宮に祭祀せられて居るタケミカヅチの命が軍神なるが故である。
 阿須波神〔四三五〇〕 アスハは聚落の謂である。
(350) 足柄の御坂の神〔四三七二〕〔四四二三〕 足柄峠はその山神の領《ウシハ》く坂なるが故にミサカといふ。この神の許をうけねば峠を越すことが出來ぬと信ぜられて居たらしく、御坂タバリ(タマハリ)と詠まれたのであも。
 神の御坂〔四四〇二〕 信濃の下伊那から筑摩郡南部に越える峠で、こゝにも神が鎭座して、――恐らくは阿智の神であらう――行路を守護するとせられたものと思はれる。
神を祭り又は齋《イハ》ふ爲にはマヒ(幣)をせねばならず、其にはヌサ(野麻)をタテ〔二字傍点〕マツリ若しくはオキ〔二字傍点〕マツルことを例としたが、尚サカキ(榊)として小柴をさすこともあつたやうである〔四三五〇〕。
 上記九十三首中、偶感十三首、家人の歌十二首を除いた六十八首は、皆悲別思郷の情を詠じたものであるが、思慕の相手によつて之を次の如く分類することが出來る。
 父母 二十六首――内、母のみをあげたもの十首、父のみをいふもの一首
 妻子 三十六首――内、妻または愛人のみをいふもの三十四首、子のみのもの一首
 一般的 十一首
父母を思慕する歌が比較的多く、之に反して子に言及したものが二首に過ぎぬのは、青年防人が多數を占めた事實を暗示するもので、左記の二首の如きはその好適例である。
(351) 〔四三四六〕父母がかしらかき撫で幸《サ》くあれ|て《ト》いひし言葉ぞ忘れかねつる
 〔四三五六〕わが母の袖もちなでて吾がからになきし心を忘らえぬかも
母のみをあげた十例に對し、特に父をさしたものが一例〔四三四一〕だけであるのは、上代社會制度の遺習により父は他に別居し、母の手一つで養育せられ、その親しみが殊に深いからであるが、決して父を疎外したのではなく、オモチチ(母父)といふ古い表現よりも、今も用ひるチチハハ(父母)といふ形の方が遙に多い(三對七)所を見ると、父を重しとせねばならぬことは、既によく知られて居たのであらう。されば父の慈愛も決して母におとらず、上總國の國造丁日下部三中の父が
  家にしてこひつつあらずは汝《ナ》が佩ける太刀になりてもいそひてしがも
と詠じたるが如きは〔四三四七〕、有ふれた思想ではあるが、尚慈父の至情を察するに足るものである。同樣に愛兒を後に殘して行く親心のやるせなさも、次の歌によくあらはれて居る。
 〔四四〇一〕韓ごろも裾にとりつき泣く兒らを置きでぞきぬやおもなしにして
オモ(母)ナシニシテといふ一句は、我々も涙なしに讀むことが出來ない。
 妻または愛人との別離の苦を詠じたものゝうちには、同情に値するものも多いが、當時の戀愛生活のあらはれとして、痴情とのみ片づけてしまふことが出來ないまでも、中等學校の教材にはならぬも(352)のがある。最も極端なのは次の歌であらう。
 〔四三八七〕千葉の野のこのて柏のほほまれどあやにかなしみおきて誰が來ぬ
オキはオカシ(?)の古言で、まだ蕾の花を手折つて來たのは誰かいなと、頤を撫でて得意がつたといふので、けしからぬ男もあつたものである。之に反し顯はに妻とは言はないで、思慕の情を表示した次のやうな歌もある。
 〔四三七一〕たちばなの下吹く風のかぐはしき筑波の山をこひずあらめかも
意味は極めて簡單であるが、その調のうつくしさ、含蓄の深さは家持、蟲麻呂、福《サキ》麻呂の如き當代の大家の作に比べても遜色がない。更に深刻なものは
  あらしをの箭《イ》をさたばさみ向ひたちかなるましづみ出でて|と《ゾ》あが來る
といふ歌である〔四四三〇〕。丈夫戻ナキニ非ズ灑ガズ別離ノ間といふやうな氣分で、出發の装ひ嚴《オゴソ》かに出て行かうとする前に跪いて、女子どもの聞わけなく泣き號ぶのを遉《サスガ》に押しのけても行かれず、正面《マトモ》に見おろして暗涙を呑んで居るうち、やがて觀念したと見え、泣き聲の少し靜まつたのをしほに、「さらばさらば健固でくらせ」と一言を後に殘して立ち出づる勇士の姿を、私はこの歌から髣髴するのである。泣言をいふばかりが歌ではない。涙のない所に血涙は流れる。私は近松門左等によつて顯揚(353)せられた我國の武士かたぎを、それよりも九百年まへに見出したこゝちがした。頽廢氣分の平安朝宮廷文學に渇仰して之を今の世に活かさうとするやうな輩には、この歌の趣はわかるまいと思ふが、藝術にはいくらも剛健なものがあるといふ一例として、私はこの歌を推奨したいと思ふ。
  非出征者十二名中男性の作家は、上掲上總の國造丁|三中《ミナカ》の父〔四三四七〕の外、同じ國の主帳丁若麻績部諸人だけで、――恐らくは防人の兄弟または友人であらう――あとの十名は皆女人である。
その一人武藏國の上丁服部於由の妻、同姓|呰女《アサメ》の詠としてあげられた
  わかせなを筑紫へやりてうつくしみ帶はとか|な《ジ》なあやにかも寢も
といふ歌〔四四二二〕は、前年の防人歌〔四四二八〕と殆ど同一であるから、恐らくは自作ではなく、人口に膾炙したものを吟誦したのであらう。爾餘の八首中左記の如きは當時の東國婦人かたぎの發露で、面白い歌でみる。
 〔四四二〇〕くさまくら旅のまる寢のひもたえば我《ア》が手とつけろこれの針以《ハルモシ》
ヒモは上衣の衿帶をいひ、この時代の慣ひとして、配偶者の外には手を觸れさせてはならぬとせられたことは、ヤマト歌にも?々見える通りであるが、旅の丸寢のねがへりの拍子に、はからず切れたといふ口實の下に、あだし女に解かせまいものでもないから、その場合には自分の手で縫ひつけなされ(354)というて、この作者|椋椅《クラハシ》部の弟女は旅立つ夫に針と糸とを渡したので、手廻しのよい燒もちといふべきである。
 出て行く防人が、混雜のために女房にナル〔二字右○〕ベキコト即ち生業をいひ渡さずに來たことを悔み〔四三六四〕、母のナリ〔二字右○〕(業)が増すことを悲んだ〔四三八六〕とあるのは、生活苦を語るもので、この頃には既に婦人も耕作に從事して居たことの證據である。これは東國ばかりではなかつたかも知れぬが、大伴宿禰家持がその妻坂上大娘に酬いた歌に、吾妹兒が業《ナリ》ト造レル云々〔一六二五〕とあるのは、自身手を下したことを意味するのではない。
 兩毛及信濃から難波の津に赴くには、東山道を經由したことは勿論で、武藏及常陸の防人歌には足柄峠を越え、不破關を經たとあるから、東海道を下り、尾張から美濃に出たものと思はれるが、爾餘の諸國からは或は海路をとつたのではないかといふことが、〔四三二四〕〔二八〕〔五九〕〔八五〕の歌によつて想像せられる。難波から先は盡く舟行であつたので、其津に於て舟カザリ〔四三二九〕又は舟ヨソヒ(艤装)した〔四三三〇〕〔四三六五〕。主として※[木+堯]漕したと見え、八十楫《ヤソカ》ヌキ〔四三六三〕、マカヂ繁貫《シジヌ》キ〔四三六八〕といふ表現を用ひて居るが、帆走については一言も述べて居らぬ。
 右の外、物質方面については、防人歌から學ぶ所は極めて乏しいが、左記の如く語句から推定し得(355)られる一二の資料もある。
 トノ〔四三二六〕〔四三四二〕 通例この語に殿〔右○〕の字をあてるので、大厦高樓の謂と了解せられて居るが、東國の庶民の居宅を意味するトノは其やうなものではなく、原義により地上から一段高く建設した家屋、即ちトノ(棚)造りをいふのである。東國には遙に後世まで、土を掘り下げて其上に屋根を葺いたムロ造り――その遺阯は考古家によつて竪穴と呼ばれて居る――が多かつたのであるが、此ころには南島式のトノ造りが、既に民家にも採用せられて居たのであらう。これは文化史上の好材料である。
マキ柱ホメヲ造レル〔四三四二〕 マキバシラは檜の柱のことで、その堅牢を賞めて建てたといふ意味である。家屋または其一部分を讃美する祝儀は、今も或地方には殘つて居るが、東國では此時代建立に際しても柱ほめ乃至家ほめを行うたものと思はれる。
マクラタチ〔四四一三〕 マクラはメ(目)キリ(切)の訛で、之にタチ(刀)――原義は斷《タチ》――をそへると彫刻刀の意となる。アイヌ語で今もマキリと稱へるのが其で、東國人も日常之を腰に佩び、工作具としての外、護身の用にも供したものと思はれる。
イ〔四四三〇〕 東國では箭をイ〔右○〕とも稱へたやうであるが、其はサシ(刺)の語幹サが箭の意に用ひら(356)れると同樣に、射〔右○〕の義のイから轉じたもので、アイヌ語のアイ〔右○〕(矢)も同源であらう。イ〔右○〕(射)、ヤ〔右○〕(箭)並にユ〔右○〕ミ(弓)は本來エ(柄)から分化したものゝやうであるから、ヤ(箭)よりもイ〔右○〕の方が古い形であつたかも知れない。防人が家郷から箭を携へたのは、隨身兵器が自辨であつたからで(軍防令)、胡?にサツヤ(獵箭)をヌキ(さして)出發したといふ歌〔四三七四〕もあるのである。
 右のイ及マクラタチ、並に上掲のフタホガミ(太祝)は、いづれも私が語原と音韻變化法則の研究によつて發見した新釋である。防人歌は東歌に比し遙に訛音が少く、――ある國のものは進達者が筆を加へて、正音に直したのではないかと思はれる――わかり易い歌が多いので、從來語義の研究には餘り力を用ひず、先づ一首の大意を假想して、其に合ふやうに牽強した嫌がないでもないが、尚〔四三三八〕に多多美氣米ムラジガ磯とつゞけた理由の如きは之を明にし得たものがなかつた。其はタタミケメがムラ(群)の枕詞であると氣づいたら、すぐに分つた筈のことで、ミケメ〔二字右△〕はミカモ〔二字右○〕(水鴨)の訛音タタ〔右△〕は立ツ〔右○〕の訛であらねばならぬ。a及oからe、aからuに轉ずることは、國語の母電變化の通則で、ミカモ(水鴨)といふ語例も本集に二つもある。一音の判讀を誤つても歌意が不明になる例としては、私は次の一首〔四三八五〕を擧げて論じて見たい。
(357)由古作枳爾《ユコサキニ》 奈美奈等惠良比《ナミナトヱラヒ》 志流敝爾波《シルヘニハ》 古乎等都麻乎等《コヲラツマヲラ》 於枳弖等母枳奴《オキテラモキヌ》
旁訓は寛永刊本による。從來之を不可解として色々に改訓して居るが、その四音を訛として次のやうに讀み下すとよく判る歌である。――圏點は正音に改めたものを標示する。
  行く〔右○〕さきに 波の〔右○〕音《ト》ゑらひ しり〔右○〕へには 子をら妻をら 置きてな〔右○〕も來ぬ
ヱラヒはヱラギ(※[口+謔の旁]樂)の活用語尾ギをヒに取かへただけで、意義には變りはなく、浮かれ〔三字傍点〕騷ぐことである。之に反し後方には泣きしづむ〔三字傍点〕妻や子を置いて來たことよといふので、末句の等母は元暦校本には良毛〔二字右○〕とさへ表記せられて居るのに、之をト〔右△〕モと訓みかへて不思議がつた人たちの氣がしれぬ。ナモは本集には例が少いが、この時代の宣命《センミヨウ》には?々用ひられて居る感動詞で、ラとナとは人のよく知つて居る音通である。
 上述の如く防人歌は、今日まで尚精讀せられて居ないというてもよいので、私は本篇に於て言語學と民族誌學との兩方面から聊か解説を試みようとするのである。
 
天平勝寶七歳乙未二月相替遣2筑紫1諸國防人等歌
 
(358) 天平勝寶は孝謙天皇の御治世でこの年正月勅して、年《ネン》を歳《サイ》と改稱せられた。その二月交替として筑紫に赴く爲に難波に參集した防人等の歌を、其々の部領使《コトリノツカヒ》をして進達せしめられたのが、以下の八十四首である。其は今回に始まつたことではないと見えて、後掲のやうに昔年交替の防人の歌も殘つて居るのであるが、此度の事務を管掌した兵部少輔大伴宿禰家持は、當代第一流の歌人で、且本卷の編輯者でもあつたから、比較的多くの歌が保存せられたのである。其中には編者家持が防人に代つて悲別の情を陳べた長歌三首短歌十一首、並に難波懷古その他の雜詠長一首短五首が混入して居るが、本篇で説かうとするのは防人歌及之に準ずべきものであるから、家持の作は除外した。
 
  ○二月六日防人|部領使《コトリノツカヒ》遠江國|史生《シヤウ》坂本朝臣人上進歌數十八首。但有2拙劣歌十一首1不v取2載之1
 
 この記事は原本には一群の歌の後にのせてあるが、甚不便であるから、以下盡く前に移すことにした。コトリ(部領)はコト(事)トリ(執)の約で宰領の謂、軍防令には防人至v津之間、皆令2國司親自部領1とあるが、史生くらゐの微官でもよかつたのであらう。サカモト(坂本)の朝臣は武内宿禰の兒木(ノ)角(ノ)宿禰の裔である。
 
(359)4321 可之古伎夜《カシコキヤ》 美許等加我布理《ミコトカガブリ》 阿須由利也《アスユリヤ》 加曳我伊牟多禰乎〔左△〕《カエガムムタネム》伊牟奈之爾志弖《イムナシニシテ》
 
〔四三二一〕 かしこきや みことかがぶり 明日ゆりや か|え《ヤ》がむた寢む〔右○〕 い|む《モ》なしにして
 右一首國造丁長下郡物部秋持
 
可之古伎夜 惶キヤ。ヤは間投詞で、單にカシコキといふに同じく、ミコト(勅命)に續くのである。
美許等加我布理 命蒙りの謂である。カガブリはカブ(頭)の活用形なるカブリの疊頭語で、「蒙」の意の外に「冠」(頭被)をいふにも用ひられ、音便によつてカウムリとなり、更にカンムリ(冠)といふ形をも派生した。
阿須由利也 アスはアサ(朝)と同語で、ドイツ語に於てMorgenが朝の謂にも明日の義にも用ひられると同樣に翌日をも意味するのである。アはアケ(曉)の語根、サは頃間の意の原語で、接尾語タを連ねたサタは「時」と同義に用ひられ、ソと轉呼してはキソといふ語を派生した。コゾ(去年)は其轉呼轉義で、キは過去を表示する語分子である(南方起原)。助詞ヨからヨリ(自)といふ形が生まれたやうに、ヨの變形ユがユリとなつたのは怪しむに足らぬことであるが、集中にはこの歌の外には用例がない。此句のヤも亦間投詞である。
(360)加曳我伊〔右▲〕牟多禰乎〔右△〕 元暦校本には伊の字はなく、乎は牟となつて居る。此まゝでは讀めぬから之に從ふべきであらう。ムタはマ々(亦)と源を同うし、「共」の意であるが、波のムタ〔二字右○〕〔一三一〕〔六一九〕〔三〇七八〕、風のムタ〔二字右○〕〔一九九〕〔一八三八〕〔三一七八〕の如く、ニ〔右○〕又はト〔右○〕を添へずとも副詞の用をする特種語で、ゴト(如)及モコロ(同樣)と同類である。――之を名詞と見て共の字をムタニ〔右○〕〔二八五八〕ムタハ〔右○〕〔三八七一〕と改訓したのは賢しらとせねばならぬ――要するに此句は茅と一緒に寢ようといふことである。
伊牟奈之爾志弖 妹ナシニシテ。イム〔右○〕はイモ〔右○〕の訛。
〔大意〕惶き命を蒙つて明日からは茅と共に寢よう。女房なしで
 作者物部秋持は舊物部々員の子孫であらう。民部は大化朝に廃止せられたが、その部員は解體後も苗字と同樣にこの稱號を用ひたものと思はれる。以下の諸民部も同樣である。遠江には遠淡海國造及久努國造の如き物部氏出の豪族が配置せられて居たから、その都民の主著したものも多かつた筈である。國造の丁とあるのも、尚國造の肩書を有する名門があつて、――恐らくは郡領であつたのであらう――其仕丁を意味したのではあるまいか。防人ではないが、部領使の雜役として同行したのかも知れぬ。長《ナガノ》下郡は今の濱名郡の一部分である。
 
(361)4322 和我都麻波《ワガツマハ》 伊多久古比良之《イタクコヒラシ》 乃牟美豆爾《ノムミヅニ》 加其佐倍美曳弖《カゴサヘミエテ》 余爾和須良禮受《ヨニワスラレズ》
 
〔四三二二〕 わがつまは いたくこ|ひ《フ》らし 飲む水に か|ご《ゲ》さへ見えて 世に忘られず
   右一首主張〔右△〕丁麁玉郡若倭部|身磨《ムマロ》
 
和我都麻波 ワガ妻ハ
伊多久古比良之 元暦校本には古非とあるが、いづれにしてもコヒ〔右△〕はコフ〔右○〕(戀)の訛音であらればならぬ。
乃牟美豆爾 飲ム水ニ
加其佐倍美曳弖 影サヘ見エテの謂で、カゴ〔右△〕はカゲ〔右△〕の訛である。
余爾和須良禮受 ワスレ(忘)は古語では四段活用であつたから、其受動形はワスラレ、ワスラレム等といはれたのである。このヨニの用ひ方は現代の口語にも殘り「世にもめづらし」などいふことがある。
〔大意〕自分の妻は甚だ戀ひ思うて居るらしい。(自分の)飲む水にその面かげが見えて世にも忘れられない
(362) 作者若倭部の身麿《ムマロ》は、主帳(張〔右△〕は誤字)丁とあるから、前の歌の國造丁と同樣に、麁玉郡(今引佐外二郡に分屬)の主帳《サクワン》の仕丁であらう。若倭部は姓氏録に尾張連系(右京)と神牟須比命の後(左京)とをあげて居るが、之は恐らくは後者と同氏で、祖神は假託に過ぎず、海人系と思はれる。この種族中には神皇産靈尊の後と稱するものが少くない。
 
4323 等伎騰吉乃《トキドキノ》 波奈波佐家登母《ハナハサケドモ》 奈爾須禮曾《ナニスレゾ》 波波登布波奈乃《ハハトフハナノ》 佐吉低巳〔左△〕受祁牟《サキデコズケム》
 
〔四三二三〕 ときどきの 花は咲けども 何すれぞ 母とふはなの 吹き出來ずけむ
   右一首防人山名郡丈部眞麿
 
等伎騰吉乃 時々ノ
波奈波佐家登母 花ハ咲ケドモ
奈爾須禮曾 何スレゾは今も漢文訓讀口調には用ひて居るが、後世の語法に從へば何スレバ〔右○〕ゾといふべきで、助詞ハを省くのは古語の名殘である。如何ナレバといふに同じく、ゾは強意の爲に添へたのである。
渡波登布波奈乃 母トフは母トイ〔右○〕フのイ母韻脱落で、チフ又はテフよりも古い形である。母といふ(363)花がの謂。
佐吉低巳〔右△〕受祁牟 低は元暦校本に泥とあるやうに、濁音假字とすべきで、「咲き出」の意であるが、コズケムは來ズに過去助動詞キの未來形態ケムを連ねたもの、即ち來ザリケムの意としては任地に於て慈母の死に會うた場合の追憶のやうに聞え、出發前の歌にはならぬから、此は時々の花は咲くけれど(事實前提)、母といふ花は咲出すまい〔二字傍点〕といふ意味とせねばならず、從つてズケムは推量表示なることを要する。案ずるにズは南方系の打消語分子を活用した第二次生の助動詞で、東國では當時なほ十分に普及するに至らず、往々ナヒ、ナフといふ形がその代りに用ひられた程であるから、ズをナと全然同一と心得て、ナケム(ナカラムの古形)といふべきを、ヤマト語めかしてズケムと表現したことも有り得べきである。若し然りとすれば、咲キ出《イデ》ナカラムといふ意になり、此歌の情緒にしつくり合ふやうに思ふ。これは東國ばかりでなく、ヤマト歌にも次のやうな用例がある。
 (萬八)梅の花折りも折らずも見つれどもこよひの花に尚しかズケリ
 (同十)奈良山の峰さへきらふうべしこそまがきの下の雪は消ズケレ
これらのズケリ(ズケレ)を過去表現としては條理が立たぬから、尚シカナ〔右○〕ケリ(ナクアリ)、消エ(364)ナ〔右○〕ケレ(ナクアレバ)の謂とせねばならぬ。
〔大意〕時々の花は咲くけれども、母といふ花は咲き出ないだらう
 作者は山名郡(今の磐田郡の一部)のハセツカベ(丈部)の眞麿《ママロ》とある。ハセツカベは走使部即ち飛脚の意の古語で、常に杖を携へたが故に丈部(杖の省扁)といふ字をあてたのであるから、公役民部として諸國に置かれたものと考へても差支はなく、防人歌の作者にもこの部名を名乘るものが、遠・駿・相並に兩總及下野に亙り、十一人を算するが、其中に造又は直のカバネを有するものもあるから、或は部族名として用ひられたのかも知れぬ。稱徳−光仁朝間に阿倍臣姓を給はつた東國及陸奥人十五名中の十人は丈部――其うち一名は直――である所を見ると、或は駿河の阿倍氏の部衆が故あつて此部名を用ひたのではあるまいか。記して後考をまつ。
 
4324 等倍多保美《トヘタホミ》 志留波乃伊宗等《シルハノイソト》 爾閉乃宇良等《ニヘノウラト》 安比弖之阿良婆《アヒテシアラバ》 巳〔左△〕等母加由波牟《コトモカユハム》
 
〔四三二四)|と《ホ》へた|ほ《フ》み しるはの磯と にへの浦と あひてしあらば 言もか|ゆ《ヨ》はむ
   右一首同郡丈部川相・
 
等倍多保美 遠江のことである。原語はトホ(遠)ツ(連繋)アフ(大)ミ(水)であるから、音韻變化の(365)原則によりトホタ(ツアのu韻脱)フミとなるべきで、倍の字はホとも訓み得られるが、舊訓の如くヘと稱へたとすれば、ホの訛とすべきで、次のホ(保)は勿論フの轉訛である。
志留波乃伊宗等 シルハのイソは遠江の一地名と思はれるから、恐らくは御前崎の西に接する榛原郡白羽村の海濱のことであらう。作者はこの地に由縁を有したものと思はれる。
爾閉乃宇良等 ニヘノウラは今の伊勢國度會郡鵜倉村大字|贄浦《ニヘウラ》(もと志摩國に屬した)のことではあるまいか。航海中の一寄航地で詠じた歌とすれば、地の理にも合ふやうである。
安比弖之阿良婆 アヒテアラバといふ意。アヒは接合をいひ、シは強意助語として用ひられたのである。
巳〔右△〕等母加由波牟 カユハムはカヨ〔右○〕ハムの訛。言モ通フは音信の通ずることを意味する、贄ノ浦の風待ちの徒然に、兩地がつゞき合ひなら言とふすべもあらうと望郷の情をもらしたのである。
〔大意〕遠江のシルハ(白羽)の磯と贄ノ浦とが續いて居るなら、音信も通ふであらう
 この作者も同じく丈部で、カハヒ(川相)といふ名の防人である。
 
4325 知知波々母《チチハハモ》 波奈爾母我毛夜《ハナニモガモヤ》 久佐麻久良《クサマクラ》 多妣波由久等母《タビハユクトモ》 佐佐巳〔左△〕弖由加牟《ササゴテユカム》
 
(366)〔四三二五〕 父母も 花にもがもや 草まくら 旅はゆくとも ささ|ご《ゲ》て行かむ
   右一首佐野郡丈部|黒當《クロマサ》
 
知知波々母 防人歌には兩親をいふに、オモチチ又はその變形アモシシ及アモチチを用ひた三例があるが〔四三七六〕〔四三七八〕〔四四〇二〕、之に對しチチハハと表現したのは七例を算する。之は注意を要することで、オモチチといふ形は、第十三卷の古歌を除いては、天平元年大伴宿禰三中の作〔四四三〕に見えるだけであるから、ヤマト言葉としては此ころすでに亡びかゝつて居たものとせねばならぬが、東國でも下野及信濃の防人の外これを用ひなかつたのは、オモといふ語が廢れ、ハハチチでは口調がわるいから置きかへたのではなく、母よりも父を重しとする觀念が普及した爲ではあるまいか。其は父母同居の例が多くなつた事實を語るもので、京畿と交通の頻繁であつた駿遠相及下總の防人歌のみに見えるのも決して偶然ではあるまい。――父母モ〔右○〕というたのは、他に花にたとへたいものがあることを暗示するのであらう。さうでなければ次句にモといふ音が二つもあるから、之を避けて父母ハ〔右○〕といひたい所である。
波奈爾母我毛夜 ヤは例の間投詞で、ガモは希望表示のガと、感動詞モとが結びついた複合助詞であるが、之を非活用形に連ねる爲には語分子モを介することを例とする。――活用形につゞく場(367)合には、見シ〔右○〕ガ、咲キテシ〔右○〕ガモの如くシを挿入する――花であつて欲しいといふ意である。
久佐麻久良 クサマクラは草を枕とするといふ意で、旅の枕詞である。
多妣波由久等母 旅行クトモといふ意、助語ハをそへたのは強意のためである。
佐佐巳〔右△〕弖由加牟 ササゲ〔右○〕テ行カムの訛。このユカムは意嚮表示である。
〔大意〕兩親も〔右○〕花であつて欲しい、旅行しても捧げて行かうもの
 作者の本貫|佐野《サヤ》郡は今の小笠郡の北部で、佐益《サヤ》の中山界隈である。
 
4326 父母我《チチハハガ》 等能能志利弊乃《トノノシリヘノ》 母母余具佐《モモヨグサ》 母母與伊弖麻勢《モモヨイデマセ》 和我伎多流麻弖《ワガキタルマデ》
 
〔四三二六〕 ちちははが とののしりへの ももよ草 もも代いでませ わが來たるまで
   右一首同郡生玉部足國
 
父母我 ガはノ(之)に通ずるが、これは父母ハソノ〔右○〕といふ意であるから、その氣もちを表はす爲に父母ガとしたのかも知れぬ。しかし語法上には其やうな區別はない。
等能能志利弊乃 トノノ後方《シリヘ》ノ。これは夫婦共棲して居たから父母ガトノというたので、前の歌について述べた説を裏がきするものである。トノには殿の字をあてるので、大厦高樓を意味するか(368)のやうに考へるものもあるが、原語はタナ(棚)と同じく、平地よりも一段高く構へた家をいふのであるから、庶民の住宅もムロ(窖)作り、即ち土を掘り下げて屋根を蔽うたものでない限り、トノと呼ばれたので、これも其シリヘ(後方)はすぐに草原であつたのである。
母母会具佐 百代草の謂であらうが、今ある植物にはこの名は殘つて居らぬ。恐らくは宿根多年生なるが故に與へられた名で、毛莨科の大蓼をセンニンゲサ(仙人草)といふのと〔植物圖鑑〕趣を同じうするものと思はれる。これは百代草のやうにといふ比況的序である。
母母與伊弖麻勢 モモヨ(百代)はチヨ(千代)、ヤチヨ(八千代)と同じく、長くといふはどの意。イデ(出)マセは口語の「おいでなされ」に相當する。イデばかりではなく、イリ(入)も亦「おりやる」(オイリアル)、「いらつしやる」(入ラセラル)の如く用ひられ、應神天皇の御製にもイキ座スの意がイマスと表現せられて居る所を見ると、メ(目)シ、キコ(聞)シ及ヲシ(食)が相通ずるのと同樣に、イ(語根)、イデ(出)、イリ(入)も相通ずる所があつたのであらう。
和我伎多流麻弖 キタル〔三字右○〕マデは決してクルマデを引伸ばしたのでなく、原義によつて來テア〔二字右○〕ルの意に用ひられたので、勿論歸り來てあるまでといふことである。
〔大意〕父母はその住居の背後の百代草のやうに、長生して下され。自分が歸つて來るまで
(369) 作者の姓生玉部は他に所見がないが、當國にはアラタマ〔二字右○〕(麁玉)に對してイクタマ〔二字右○〕(生玉)といふ地があつたのかも知れぬ。其ならばベ(部)はムレ即ちムラ(村)の意で、苗字に轉用せられたのである。駿河の防人歌その他にも同例がある。
 
4327 和我都麻母《ワガツマモ》 畫爾可伎等良無《ヱニカキトラム》 伊豆麻母加《イツマモガ》 多比由久阿禮波《タビユクアレハ》 美都都志努波牟《ミツツシヌバム》
 
〔四三二七〕わがつまも 繪にかきとらむ い|つ《ト》まもが 旅ゆくあれは 見つつしぬばむ
   右一首長下郡物部|古麿《コマロ》
 
和我都麻母 吾妻ヲ〔右○〕モといふ意。モは上記の如く對偶のある場合に用ひられる助語であるから、心おぼえに何か繪にかきとつた序《ツイデ》に女房もかいて置きたいといふのであらう。
畫爾可伎等良無 ヱ(畫)は呉音(鮮音)から出た語で、形象の意である。畫の一音クワクもまたカク(書)の原語であるかも知れぬ。「掻」の義も之から轉じたものと見ることが出來る。
伊豆麻母加 イツマ(暇)は大和言葉ではイト〔右○〕マといふが、原語はイ(接頭)タマ(足間)であるから、イトマともイツマとも轉じたことは有り得べく、必しも訛言と斷ずることは出來ぬ、モガは上掲のモガモと効力を同じうする〔四三二五〕。
(370)多比由久阿禮波 旅行ク我ハ
美都都志努波牟 見ツツ偲バム。即ち見ながら思ひ出にしようといふのである。
〔大意〕自分の妻をも繪にかきとるだけの暇が欲しい。旅に出る目身は(其を)見ながら思ひ出にしよう
 これも上掲〔四三二一〕の作者と同郡同族の人である。
 
  ○二月七日相模國防人部領使守從五位下藤原朝臣宿奈麿進歌數八首。但拙劣歌五首者不v取2載之1
 
 遠江國が微官の史生を部領便として居るのに、この國では國守みづから之に任じたのは出京のついでがあつたからであらう、宿奈麿は良繼の前名で、諸官を歴任した後内大臣となり、寶龜九年薨去した。藤原馬養の第二子である。
 
4328於保吉美能《オホキミノ》 美許等可之古美《ミコトカシコミ》 伊蘇爾布理《イソニフリ》 宇乃波良和多流《ウノハラワタル》 知知波波乎於伎弖《チチハハヲオキテ》
 
〔四三二八〕 おほきみの みこと惶こみ 磯にふり う|の《ナ》原わたる 父母をおきて
   右二首助丁丈部造人麿
 
(371)於保吉美能 大君ノ
美許等可之古美 大君ノ命カシコミは天皇に對して忠誠を表示する慣用句で、本集には二十三例を算する。,
伊蘇爾布理 磯ニ觸リは沿岸航行を意味する。遠江の防人と同じく本國からも海路をとつたものと思はれる。
宇乃波良和多流 ウノハラはウナ〔右○〕ハラ(海原)の訛である。本來ウミ〔右○〕ハラといふべきを音便によつてウニ〔右○〕ハラとし(n m相通)更にウナ〔右○〕ハラと轉呼したので、――國語ではiからaに轉ずることは、アリ(在)カ(處)をアラ〔右○〕カ(舍)といふやうに、例のないことではなく、其は兩母韻の中間に位するe母韻が本來第二次生であるからである――再轉してウノ〔右△〕ハラとなつたのである。海原渡ルは航海の意。
知知波波乎於伎弖 父母ヲ(郷里ニ)置キテといふことである。
〔大意〕天皇の勅命を惶んで磯に沿うて航海する(よ)、父母を(郷里に)置いて
 作者は丈部造とあるから、この國のハセツカベの首長の家がらであつたのであらうが、此ころには既に名ばかりで其実權はなく、庶民に伍して居たものと思はれる。助丁はスケヲと訓み、次丁のこと(372)で、戸令には老殘并爲2次丁1とあるが、中男も亦スケヲと呼ばれたのであらう。
 
4329 夜蘇久爾波《ヤソグニハ》 那爾波爾都度比《ナニハニツドヒ》 布奈可射里《フナカザリ》 安我世武比呂乎《アガセムヒロヲ》 美毛比等母我母《ミモヒトモガモ》
 
〔四三二九〕 やそ國は 難波につどひ 舟かざり あがせむ日ろを 見|も《ム》人もがも
    右一首足下郡上丁丹比部國人
 
夜蘇久爾波 八十國人〔右○〕ハといふ意。八十は勿論概數を意味し、國々の人はといふに同じい。
那爾波爾都度比 ツドヒ(集)はツト(苞)の活用形で、語根はツ(連)である。
布奈可射里 舟カザリは舟装ヒといふに同じい。カザリは本來カザシ(頭挿)から分化した語であるが、装飾の義に轉じたのである。
安我世武比呂乎 自分が舟装ヒ(艤装)する日をといふことである。ヒロのロは虚辭的接尾語ラの變形で、兒ロ、嶺ロ、夜ロ等と用ひられ、アヅマ言葉の一特色である。
美毛比等母我母 ミモ〔右△〕は見ム〔右○〕の音便であるが、東人はことに多く之を用ひた。ヒトは意中の人の謂で、見てくれる人があつて欲しいといふのである。この歌に聊か得意の心もちが現はれて居るのは、作者自身は防人ではなく、部領使の仕丁で、たとへ筑紫まで送つて行くにしても、直に引返(373)すのであるから、他の人が悄然たるに反し、甲斐々々しく立働き、其さまをあの人に見せたいというたのではあるまいか。
〔大意〕八十國人は難波に集り、船装ひを自分がする日を見る人があつて欲しい
 作者は足下(足柄下)郡の上丁で、丹比部國人とある。タチヒ(蝮)部は仁徳朝に皇子多遲比ノ瑞齒別命(後の反正天皇)の御名代として定められた民部で、その部長には尾張連氏の人が任命せられたと傳へられて居るが〔記〕、御名部ならばその地區に限度がある筈であるのに、姓氏録右京神別丹比宿禰の條下に此民部を諸國に置かれたとあり、本集にはこの作者の外に、越中國の主帳多治比部の北里といふ名が見え、出雲にも蝮部臣と稱するものがあつた〔風〕所を見ると、或は御名代以外にタチヒ部といふ民部があつたのではあるまいか。ヒは伸音表示で、タチ――蝮も本來タ(田)チ(靈)の義である――には横刀の意もあるから、後記の丸子部(槍隊)に對し、横刀部(太刀佩部の類)といふ部隊があつたのであらう。本集第三卷に筑波山登臨の歌を殘した丹比眞人國人〔二字右○〕は、この作者と同名であるが、其は皇別で型式朝民部小輔に任せられた廷臣であるから、全然別個の人である。
 
奈爾波都爾《ナニハヅニ》 余曾比余曾比弖《ヨソヒヨソヒテ》 氣布能日夜《ケフノヒヤ》 伊田弖麻可良武《イデテマカラム》 美流波波奈之爾《ミルハハナシニ》
 
(374)〔四三三〇〕なには津に よそひよそひて 今日の日や いでてまからむ 見る母なしに
   右一首鎌倉郡上丁丸子部多麿
 
奈爾波都爾 難波津ニ
余曾比余曾比弖 ヨソヒは上記の如く艤装をいふ。之を二つ重ねたのは其事の進行を表示するためで、ヨソヒツツアリテといふに同じい。
氣布能日夜 今日ノ日ハ〔右○〕といふべきを感動の意を含ませる爲にハをヤにかへたのである。
伊田弖麻可良武 出デテ罷ラムの謂であるが、上句に感動詞があるから、出デ行カムカナ〔二字右○〕といふ意味になる。[四三二五〕のササゴテ行カムと同じく意嚮表示と解すべきで、之を疑問句とするのは誤りである。
美流波波奈之爾 見ル母ナシニは母の見送りを受けずしてといふ意で、郷國を出る時には鎌倉からわざわざ國府の津まで見おくりに來たことが言外にあらはれて居る。
〔大意〕難波の津に舟装ひしつゝあつたが、今日は(いよいよ)出て行かうよ。(此度は)母の見送りもなくして
 この作者がマリコ(丸子)の連と名乘つたのは、マリコといふ地の村主《ムラヂ》と了解することも可能で、酒(375)勾川は以前丸子川とも稱へたやうであり、武藏の多摩河畔にも丸子といふ地があるが、鎌倉郡にはその名が聞えぬから、これは原義によりマリ(槍)コ(卒)ベ(部)、即ち槍隊の部長の謂とすべきである。前の歌について述べたタチヒ(横刀)部に對して、マリコといふ部隊の存立したことは極めて有り得べきで、常陸の防人歌にも丸子部の佐壯といふ名が見えるが、その實體は早く解消して、名稱ばかりが殘つたので、右の相模及武藏の地名も亦之から出たのである。
 
  ○二月七日駿河國防人部領使守從五位下布勢朝臣人主。實進九日、歌數二十首、但拙劣歌者不v取2載之1
 
 布勢朝臣は阿部朝臣の分家で、文武朝右大臣を以て薨去した阿倍朝臣|御主人《ミアルジ》も持統紀には布勢朝臣とある所を見ると、兩名を通用した時代もあつたのであらう。
 
4337 美豆等利乃《ミヅトリノ》 多知能巳〔左△〕蘇伎爾《タチノイソギニ》 父母爾《チチハハニ》 毛能波須價爾弖《モノハズケニテ》 巳〔左△〕麻叙久夜志伎《イマゾクヤシキ》
 
〔四三三七〕 みづとりの 立ちのいそぎに 父母に 物はず|け《キ》にて いまぞ悔しき
 
(376)美豆等利乃 水鳥ノ。タチの序的枕詞。
多知能巳〔右△〕蘇伎爾 立チノ急ギニ、即ち出發のいそがしきにといふ意である。
父母爾
宅能波須價爾弖 モノハズは物イ〔右○〕ハズのイ音脱落、價の字は舊訓キとあり 來ニテの謂なることは疑がないが、之をキの假字とすることは出來ぬから、――眞淵のやうに伎〔右△〕の誤寫とする場合は論外である――契沖説の如くケ〔右○〕と訓み、キ(來)をケと訛つたものとすべきであらう。キニテは來テとは異り、「來てしま〔二字傍点〕うて」といふことで、その用例は東歌〔三四八一〕にもある。
巳〔右△〕麻叙久夜志伎 今ゾ悔シキ。ゾは強意のために挿入したので、今となつては悔しいといふことである。
〔大意〕出發のいそがしさに(取まぎれて)、父母に物(も)いはず(に)來てしまうて、今となつてはくやしい
 これは第十四卷の國土未勘の東歌中に水鳥ノ立タム〔六字左傍線〕ヨソヒニ妹ノラニモノイハズ來ニテ〔八字左傍線〕思ヒカネツモ〔三五二八〕とある歌と、偶合以上の相似點がある所を見ると、或は牛麿の自作ではなく、此やうな古歌のあることを知つて居て、少しく文句をかへて吟誦したのかも知れぬ。有度郡〔右△〕は元暦校本以下に(377)有度部〔右○〕とあるのを正しとすべきで、此國の防人歌には郡をあげたものはなく、假に例外としても有度郡上丁とあるべきであるから、ウド部といふ部名とせねばならぬ。駿河國有度濱の村人といふ意で、上掲の生玉部と同例である〔四三二六〕。
 
多多美氣米《タタミケメ》 牟良自加巳〔左△〕蘇乃《ムラジガイソノ》 波奈利蘇乃《ハナリソノ》 波波乎波奈例弖《ハハヲハナレテ》 由久我加奈之佐《ユクガカナシサ》
 
〔四三三八〕 た|た《ツ》み|けめ《カモ》 むらじが磯の はなりその ははをはなれて 行くが悲しさ
   右一首助丁|生部《ミフベ》道麿
 
多多美氣米 ムラにかゝる所を見ると、ケメ〔二字右△〕はカモ(鴨)の訛と思はれる。タタミ鴨といふ用例はないが、ミカモ(水鴨)といふ語が第三卷〔四六六〕及第十四卷〔三四二四〕にもあるから、タタ〔右△〕はタツ〔右○〕の訛で、立ツ〔右○〕水カモ〔二字右○〕の謂なること疑なく、後掲〔四三五四〕にもタチコモ(立ツ鴨の訛)のタチ(立)とつゞけて用ひて居る。此句は勿論ムラ(群)の枕詞であるが、「小鴨のもころ息づく」などいふ所を見ると〔三五二七〕、歎息を聯想せしめる爲に用ひたのであらう。
牟良自加巳〔右△〕蘇乃 ムラジ(連)が磯の謂であらう。此名は殘つて居らぬが、古義の頭書に、總國風土記によれば、烏渡郡建崇寺、蘇我稻見連之願也とあり、この連の縁によつて名づけたかとあるの(378)は、一考を要することで、若し然りとすればムラジの磯は有度濱の一部分であらぬばならぬ、
波奈利蘇乃 ハナレイソの意であるが、ハナレ(放)はもと四段活用で、ハナリを原形(名詞形)としたから、ハナリイソのイが脱落してハナリソとなつたのである。ノは「のやうに」といふ意で、以上三句が序であることを表示する。
波波乎波奈例弖 母ヲ離レテ
由久我加奈之佐 行クガ悲シサ。サは「然」の義から轉出したもので、ケ(顯)が活用に供せられるに對し、形容詞語幹について、クロ(黒)サ〔右○〕、サビシ(寂)サ〔右○〕の如く名詞形を作るに用ひられる。この例の如きは行クを主語とすれば、其述語であるがのやうに見えるが、悲シサ〔右○〕マサルなどいふ場合には主語である。
〔大意〕ムラジの磯の放れ磯のやうに、母から離れて行くことの悲しさよ
 作者の部名《トモナ》生部をイクベと訓むのは誤りで、これは後出の大生部(オホフベ)の「大」を除いたものであるから、フベであらねばならぬが、田部とかいてミ〔右○〕タベとよむやうに、これも美稱ミ(御)を冠してミフベと稱へたものとすべく、壬生部と同義である。其は皇室または神社の御生《ミフ》の經營に任ずる民部あつたが、此頃には既に解散して居た筈であるから、他の部名《トモナ》と同じく苗字に相當するのである。(379)皇極朝蠱道を以て天下を騷がせた大生部|多《オホ》も亦駿河國人とあるから、この國には生部または大生部を名乘る民衆があつたのであらう。
 
4339 久爾米具留《クニメグル》 阿等利加麻氣利《アトリカマケリ》 由伎米具利《ユキメグリ》 可比利久麻弖爾《カヒリクマテニ》 巳〔左△〕波比弖麻多禰《イハヒテマタネ》
 
〔四三三九〕 くにめぐる あとりか|ま《モ》けり 行きめぐり か|ひ《ヘ》りくまてに いはひて待たね
   右一首刑部虫麿
 
 久爾來具留 國巡ル。渡鳥が季節によつて來往することをメグルと表現したのであるが、メグはマク(卷)の轉で、之を再活用して巡廻の義としたのであるから、ユキキ(往來)の意はない。
阿等利加麻氣利 カマはカモ〔右○〕(鴨)の訛、それとアトリ(?子島)及びケリ(鳧)との三禽をならべたので、いづれも渡り鳥である。アトリは雀科、カモは雁鴨科、ケリは鷸科に屬し、よく知られて居る鳥であるが〔動物圖鑑〕、語義については聊か説明を要するものがある。案ずるにアトリはワタリ(渡)の轉呼で、カモは本來カリ(雁)と同じく水禽の總稱なる原語カンから分化したもので、更にケリ(鳧)といふ名稱をも派生したのである。此句は比況であるから「のやうに」といふ意を補うて聞かねばならぬ。
(380)由伎米具利 筑紫三界まで行キ巡リといふ意。
可比利久麻弖爾 カヒリはカヘ〔右○〕リ(歸)の訛。マテニはマデ(迄)の原形で、之を約濁としてマデ〔右○〕と發音するのであるから、清音に唱へればならぬ。それ故に本集では三音たることを要する場合にも「及」「迄」と表記した例が多いのである。この助語は普通連體形につゞき、オビユル〔右○〕マデ、スル〔右○〕マデ、無キ〔右○〕マテニ、トモシキ〔右○〕マテニの如く用ひられるから、此場合にも來ルマデとあつて然るべきで、本集〔三七〇二〕〔四二四一〕〔四四〇八〕にも其例があるが、防人歌にはこの一首を始め、〔四三五〇〕〔四三七二〕〔四四〇四〕の各首いづれもク〔右○〕マテニ、ク〔右○〕マデとある。其は終止形と連體形とが區別せられなかつた時代の名殘で、ヤマト歌にも黒馬《クロマ》ノク(來)夜ハ〔五二五〕の如き用例があるのである。
巳〔右△〕波比弖麻多禰 イハヒは今では專ら祝福の意に用ひられるが、本來ユ(齋)と同義のイ(忌)から導かれた語で、自動詞としては齋戒を意味し、他動詞としては淨化の義から轉じて神をイハフ(齋)の如く用ひられ、更に轉じて祝福の意となつたので、此は恐らくは戒謹して待つて欲しいといふことであらう。マタネのネは希望表示である。
〔大意〕國中を來往するアトリ(?子鳥)、カマ(鴨)、ケリ(鳧)の如く(自分が)筑紫を巡行して(歸つて)(381)來るまで戒謹して待つて欲しい
 作者の部名《トモナ》刑部はオサカベと稱へるが、この語には二つの違つた起原がある。それは大和のオサカ(忍坂)といふ地名から出たオサカ部又は神オサカ部と、オシ(壓)カ(處)即ち刑務所の轉呼のオサカの事務を管掌するオサカベ(刑部)とで、此は字の如くもと國衙に屬したオシカの吏員の後であらう。
 
4340 知知波々江〔左△〕《チチハハハ》 巳〔左△〕波比弖麻多禰《イハヒテマタネ》 豆久志奈流《ツクシナル》 美豆久白玉《ミツクシラタマ》 等里弖久麻弖爾《トリテクマテニ》
 
〔四三四〇〕 父母は〔右○〕 いはひてまたね 筑紫なる みつく白珠 とりてくまてに
   右一首川原虫麿
 
知知波々江〔右△〕 江の字は古葉略類聚鈔に波〔右○〕とあるを可とする。舊訓はカ〔右△〕とあり、エ〔右△〕と訓んでヨ又はイの訛とする説もあるが、兩親を呼びかけたものとせば、第二句は敬語を以て表現せねばならず、「此」の意のイは第二次的外來語であるから、エと訛つて東國に於て用ひられたとは考へられぬ。
巳〔右△〕波比弖麻多禰 前出
豆久志奈流 このナルはノと同一價値で、筑紫の〔右○〕といふ意である。
美豆久白玉 ミツクは水著、即ち水に漬ることをいふ。シラタマは字の義であるが、主として鮑珠(382)即ち眞珠をいふに用ひられるから、海水に漬つて盾ると修飾したのである。
等里弖久麻弖爾 取つて來るまでといふ意。クマデについては前の歌の第四句參照。
〔大意〕父母は戒謹して待つて欲しい。筑紫の海底の眞珠を取つて來るまで
 作者が川原と名乘つたのは、中世以降のやうに地名を其まゝ苗字としたのであらう。外にも一二同例がある。
 
4341 多知波奈能《タチバナノ》 美衣利乃佐刀爾《ミエリノサトニ》 父乎於伎弖《チチヲオキテ》 道乃長道波《ミチノナガチハ》 由伎加弖努加毛《ユキカテヌカモ》
 
〔四三四一〕 たちばなの みえりの里に 父をおきて 道の長道は 行きかてぬかも
   右一首丈部足麿
 
多知波奈能 橘ノは次句ミ(實の意がある)の枕詞と思はれるが、其だけでは餘り物足らぬから、或はその木が、實在したか若くは其附近にタチバナと呼ばれる地區があつたのかも知れぬ。今の庵原郡小島村にも立花といふ大名があるが、舊い地名だといふ證據はなく、且界隈にミエリ若しくは之に類した地名も無い。
美衣利乃佐刀爾 古義説の如くミまでが序で、ミ(實)エリ〔二字右○〕(擇)にエリといふ地名をいひかけたもの(383)とすれば、由比町大字入〔右○〕山が右の立花といふ地に最も近い。しかしさのみ古い聚落とも思はれぬから、尚他に物色すべきであらう。ミエリの里はこの作者の郷里である。
父乎於伎弖 父ヲ置キテ
道乃長道波 長い道はといふ意、ミチ〔二字右○〕の長チ〔右○〕のやうに同義語を二つ重ねたのは古い語法である。
由伎加弖努加毛 行キカヲヌ即ち行き得ぬといふ意。カモは複合感動詞である。
〔大意〕橘のミエリの里に父を(殘し)置いて、長い道中(旅)に出かねるよ
 作者については別にいふことはない。丈部は既述の通りである〔四三二四〕。
 
4342 麻氣波之良《マキバシラ》 寶米弖豆久禮留《ホメテツクレル》 等乃能其等《トノノゴト》 巳〔左△〕麻勢波波刀自《イマセハハトジ》 於米加波利勢受《オメカハリセズ》
 
〔四三四二〕 まきばしら ほめて造れる とののごと いませはゝ刀自 お|め《モ》かはりせず
   右一首坂田部首麿
 
麻氣波之良 氣の字は通例呉音によりケの假字に用ひられるが、本集及紀には之をキの音にあてた例も少くはない。されば舊訓にもキとあるので、態々ケと訓み改めた上、キの訛とするにも及ぶまい。古語のマキは※[木+皮]ばかりではなく、眞材《マキ》の意を以て廣く建築用材をいふに用ひられた。檜も(384)亦その一つであるから、マキ〔二字右○〕サク又はマキ〔二字右○〕モクが其枕詞に用ひられるので、此マキバシラも亦檜柱のことであらう。
寶米弖豆久禮留 賞メテ造レル。家屋または其一部分を賛美する祝儀は、今も尚地方に殘つて居る古習であるが、古へは建築に際しても家ほめ乃至柱ほめをしたのであらう。こゝのツクレルは造リアルの約。
等乃能其等 トノは棚造りの家を意味すること既述の通りである〔四三二六〕。柱の太い頑丈な家の如クといふ意の比況。
巳〔右△〕勢波波刀自 イマセ母トジ。刀自は婦人に對する敬稱で、柱の太い家のやうにしつかりして御坐れ母御よといふ意。
於米加波利勢受 オメカハリはオモ〔右○〕(面)カハリ(變)の訛。容貌の衰へることで、今も用ひる表現である。
〔大意〕眞木柱を賞めて造つた家のやうに(しつかりして)御坐れ母御よ。面がはりせずに
 作者は坂田部首|麿《マロ》とある。坂田部も亦上記の有度部と同じく、坂田村といふことであらう。所在を詳にしないが、源頼光が足柄山で見出したといふ怪童に、坂田〔二字右○〕金時といふものがあるから、西麓駿東(385)郡北部にこの名を負ふ舊地があつたのではあるまいか。マロ(麿)はその村の主立つたものであつたから、オビト(大人)即ち首と名乘つたので、首麿といふ名とするのは誤りである。後記の商長首麿も同樣で、マロだけを名とした人は多く、後出の春日部麿の如きは明白な例である。――姓氏録右京蕃別の坂田村主とは關係はあるまい。
 
4343 和呂多比波《ワロタビハ》 多比等於米保等《タビトオメホド》 巳〔左△〕比爾志弖《コヒニシテ》 古〔左△〕米知夜須良牟《コメチヤスラム》 和可美可奈志母《ワカミガナシモ》
 
〔四三四三〕 わ|ろ《レ》旅は たびとお|めほ《モヘ》ど 戀にして お〔右○〕めち《モテ》やす|らむ《ナル》 わが身かなしも
   右一首玉作部廣目
 この歌の作者を、私も以前は先學の説に從うて、防人なる男性と解して居たが、合點の行かぬ點があり、若しヒロメの目を女《メ》の假字であるとすれば、後出の武藏の防人歌の作者椋椅部荒虫之妻〔右○〕宇遲部黒女〔四四一七〕、物部眞根の妻〔右○〕椋椅部|弟女《オトメ》〔四四二〇〕、服部於由の妻同|呰女《アザメ》〔四四二二〕と同じく、婦人の名とせねばならぬ。少くとも女性の歌とする方が趣がある。
 
和呂多比波 ワロのロはレと同じく接尾語ラの轉呼であるが、本卷にも東歌にも用例がないから、この作者個人の訛とせねばならぬ。ワタシ(ハ)といふ意に用ひたのである。
(386)多比等於米俣等 オメホドは勿論オモヘ〔二字右○〕ドの訛で、上句と併せて、自分は旅は旅と思ふけれどもといふ意、
巳〔右△〕比爾志弖 巳は音シであるが、本篇の底本にした寛永刊本には己〔右○〕と混同した例が多いから、此も舊訓の如くコヒ(戀)ニシテとよむべきである。旅ではなく戀であつてといふ意で、上句との間に「意外にも」といふ言葉をはさむとよくわかる。
古〔右△〕米知夜須良牟 古〔右△〕は於〔右○〕の誤寫とする眞淵説に從ふ。兩字の草書※[古の草書]と※[於の草書]〔右○〕とは紛れ易い。メは第二句の例によるもモの訛音で、知は類聚古集には※[人偏+弖]にあらためてあるが、原文のまゝでも尚テ〔右○〕の訛と見ることが可能で、三字を以てオモテ(面)といふ語を表示したのである。ヤスラムは瘠せるだらうといふ意で、夫の出發前に詠じた歌とすれば、推量法を用ひたのも不當ではないが、或はラはナの訛で、ムは〔四三九一〕の例にもあるやうにルに通じ、瘠スナルといふべきを訛つたのかも知れぬ。
和可美可奈志母 我身悲シモ。モは感動詞である。
〔大意〕自分は旅は旅(だ)と思ふけれど、(意外にも)戀であつて、面やつれのする自分が哀であるよ
 作者廣目が玉作部と名乘つたのは、和名抄に駿河郡玉造(多萬都久里)とある地、即ち今の沼津市大(387)字上|香貫《カヌキ》の部落民なるが故で、上掲の有度部の類である。
 
4344 和須良牟砥《ワスラムト》 努由伎夜麻由伎《ヌユキヤマユキ》 和例久禮等《ワレクレド》 和我知知波波波《ワガチチハハハ》 和須例勢努加毛《ワスレセヌカモ》
 
〔四三四四〕 わすらむと 野ゆき山ゆき われ來れど わが父母は 忘れせぬかも
   右一首商長首麿
 
和須良牟砥 ワスラムはワスレムの古形である〔四三二二〕。
努由伎夜麻由伎 野行キ山行キ
和例久禮等 吾來レド。山野を逍遥して見たけれどもといふ意である。
和我知知波波波 ワガ父母ハ
和須例勢努加毛 忘レセヌカモ。初句に於て四段活に用ひたワスリ(忘)を、この句に下二段に活用したのは、それが變遷の過渡期にあつたからであらう。ワスレセヌ(カモは感動詞)は原形ワスレを準名詞として、助動詞〔三字右○〕シ(爲)を連ねて活用形としたもので、意に於てはワスレヌといふと變りはなく、朝鮮語に於で※[ハングルでハオ](爲ル)を用ひると同じく、四段活が尚十分に發達しなかつた時代の名殘である。さればワスレス、ワスレシタリなどゝ用ひることは殆ど稀であるが、古歌にアリセバ(388)といふ用例もあるから(倭建命の御歌)、アリスといふ形も曾ては使はれたものと推定せられる。現代語で「つらい思する〔二字傍点〕」などいふスルは動詞〔二字右○〕であるから、思フの意の思ヒスルとは語氣を異にするけれども、戀スルは文語のコフと全然同義で、コフといふ形は口語では用ひられない。
〔大意〕忘れようとて山野を逍遥するけれども、父母は忘れられない。アヽ
 商長首といふ姓は姓氏録左京皇別にも見え、上毛野君多奇波世(豐城入彦命五代の後胤)の三世の孫久比といふものが、崇峻朝に外國貿易に從事したにより、其子宗麻呂が舒明天皇の御代にこの姓を賜はつたとある。麿は其氏人で父親の代に官吏として此國(駿河)に來り、其まゝ土著したのであらう。其故にこの歌には少しも訛がなく、都人の作のやうにすらすらとして居るのである。
 
4345 和伎米故等《ワギメコト》 不多利和我見之《フタリワガミシ》 宇知江須流《ウチエスル》 須流河乃禰良波《スルガノネラハ》 苦不志久米阿流可《クフシクメアルカ》
 
〔四三四五〕 わぎ|め《モ》こと 二人わが見し うち|え《ヨ》する するがのねらは くふ《コホ》しく|め《モ》あるか
   右一首春日部麿
 
和伎米故等 この歌には訛が多いが、殊に此句と末句にはモをメ〔右△〕としで居る。其は駿河に共通な訛音であつたと見え、上掲〔四三三八、四二、四三〕にも四例がある。此ワギメコがワギモ〔右○〕コ(吾妹子)(389)の意なることはいふ迄もない。
不多利和我見之 二人ワガ見シ
宇知江須流 エはヨ〔右○〕の訛で、打ヨスルは駿河の枕詞である。其はスルガがス(洲)アル(有)カ(處)の約濁なるが故で、その名が國の東部に殘つて居る所を見ると、――今の駿東郡はもと駿河〔二字右○〕郡と稱した――富士川から吐出す砂が、其東方の田子浦に打寄せられて出來た洲が陸地となつたから、この名を負うたのであらう。同郡浮島も昔は離洲であつたとおもはれる。
須流河乃禰良波、ネラはネ(嶺)に虚辭的接尾語ラを添へたもので、ネロの原形であるが、阪東では專らネロを用ひたので、此歌の方が訛であるかのやうに感じられるのである。駿河ノ嶺ラは勿論富士山のことである。
苦不志久米阿流可 クフシクは戀シクの謂で、クは勿論コ〔右○〕の訛であるが、フは必しもコホシのホ〔右○〕を訛つたのではなく、サビ(寂)からサブ〔右○〕シ(不樂)といふ語が生まれ、ニヒ〔右○〕タ(新田)をニフタとも發音したやうに、コヒ(戀)から派生せられたコフシといふ形もあり得た筈で、東歌〔三四七六〕及後出の武藏國の防人歌〔四四一九〕にもコフ〔右○〕シと用ひた例がある。メは上述のやうにモ〔右○〕の訛で、句末のカは感動詞であるから、戀しくもあるかなといふ意になるのである。これは勿論山のみが戀し(390)いのではなく、その謂ふ所のワギメコをも含むのである。
〔大意〕自分の女と自分とが二人で見た駿河の嶺(富士山)は戀しくもあるよ
 春日部は上掲坂田部と同種の部名《トモナ》であらう。今の駿河には此地名は殘つて居らぬが、カスガは本來カ(神の原語)ス(栖)カ(處)の意であるから、現在の大宮町を昔はカスガと稱へたこともあり得る。歌によるも作者麿はその附近の人のやうである。
 
4346 知知波波我《チチハハガ》 可之良加伎奈弖《カシラカキナデ》 佐久安禮天《サクアレテ》 伊比之古度婆曾《イヒシコトバゾ》 和須禮加禰津流《ワスレカネツル》
 
〔四三四六〕 ちちははが かしらかき撫で さくあれ|て《ト》 いひしことばぞ 忘れかねつる
   右一首丈部稻麿
 
知知波波我 父母ガ
可之良加伎奈弖 頭カキ撫デ。カシラの語根はカで、カホといふ語をも派生し、その端なるが故にシリ(尻)といふ語をそへてカシリといふべきを、カシラと轉呼したのである。カキは準接頭語で強い意味はない。
佐久安禮天 サクはサキ(幸)クと同じく語根はサで、之に形容接尾語カをそへたサカの形を活用し(391)てサケ〔右○〕ク又はサキ〔右○〕クといふのであるが、サキ、サクと活《ハタラ》かすことも決して不當ではなく、或は其方が古い形式であるかも知れぬ。アレテはアレト〔右○〕の訛で、幸福であれと〔右○〕といふ意。
伊比之古度婆曾 云ヒシ言葉ゾ
和須禮加禰津流 忘レカネツル。カネはカテ(克)の打消形で、忘れられなかつたといふ意である。
〔大意〕父母が(自分の)頭を撫でゝ、無事で居れというた言葉を忘れかねたぞよ
 丈部については既に〔四三二三〕に述べた。
 
  ○二月九日上總國防人部領使少|目《サクワン》從七位下茨田連沙彌麿進歌敷十九首。但拙劣歌者不v取2載之1
 
 茨田連は姓氏録右京皇別に神八井耳命之男彦八井耳命之後也とあり、マムダと稱へて居るが、當國の望陀(末宇太)郡も本來同一語から出たのであるから、或は其地の部落長がムラ(村)チ(主)の意を以て茨田連と名乘つたのかも知れぬ。沙彌麿については他に所見がないから、地方の小官吏に終つたものと思はれる。
 
(392)4347 伊閉爾之弖《イヘニシテ》 古非都都安良受波《コヒツツアラズバ》 奈我波氣流《ナガハケル》 多知爾奈里弖母《タチニナリテモ》 伊波〔左△〕非弖之加母《イソヒテシガモ》
 
〔四三四七〕 いへにして 戀ひつゝあらずば 汝《ナ》がはける 太刀になりても いそ〔右○〕ひてしがも
  右一首國造丁早〔右△〕部使主三中之文〔右△〕歌
 
伊閉爾之弖 家ニシテは家でといふ意。
古非都都安良受波 戀ヒツヽアラズバ。ズバはナクバと同じく「ないならば」といふ假設前提であるが、轉じてアルマイ其ナラバ又はアラウヨリハといふ意にもなるので、此歌の如きも、戀ひながら居らうよりはと解してもよいが、尚戀ヒツツアラムユ〔右○〕ハとは語氣の上に相違のあることを知らねばならぬ。是は寧ろ「戀ひつゝ居れぬとならば〔三字傍点〕」と譯した方がよいかも知れぬ。
奈我波氣流 汝ガ佩ケル、即ちおまへがさして居るといふ意。
多知爾奈里弖母 太刀ニナリテモ
伊波〔右△〕非弖之加母 ガモは希望と感動とを表示する複合助語で、活用形態に連ねるには語分子シの介在を必要とすること上述の通りである〔四三二五〕。上四字はイハ〔右△〕ヒテと訓むの外はないが、イハヒは齋戒、淨化(奉齋)、祝福の三義中いづれにしても、太刀ニナリテ〔三字右○〕するものではないから、新(393)考説の如く波〔右△〕を誤字としてイソ〔右○〕ヒ(副)の意とすべきであらう。誤寫の痕跡はないけれども、所の草書※[所の草書]を※[波の草書]と見誤つたことはあり得べきである。
〔大意〕家で戀ひこがれて居れないならば(せめて)おまへのさして居る太刀になつてついて行きたい
 作者は西本願寺本に※[日/下]〔右○〕部使主三中之父〔右○〕とあるを可とする。※[日/下]は日下の合字でクサカとよむ。日下|使主《オミ》といふ姓は他に所見がないが、河内の草香に住した歸化人などが之を名乘つたことがないとも云へない。此人も亦駿河の商長首と同樣に京畿から移住したのであらう。國造丁については〔四三二一〕に述べた。
 
4348 多良知禰乃《タラチネノ》 波々乎和加例弖《ハハヲワカレテ》 麻許等和例《マコトワレ》 多非乃加里保爾《タビノカリホニ》 夜須久禰牟加母《ヤスクネムカモ》
 
〔四三四八〕 たらちねの 母をわかれて まことわれ 旅のかりほに やすく寢むかも
   右一首國造丁早〔右△〕部使主三中
 
多良知禰乃 タラ(足)チ(壬)ネ(敬稱)は家長に對する尊稱であるが、上代氏族制度に於ては、兒女は母氏に屬したから、此語も母または親《オヤ》の枕詞にのみ用ひられるやうになつたのである。
波々乎和加例弖 母ヲ別レテ。ヲは國ヲ離レ等のヲと同一用法で、母から別れてといふのである。
(394)麻許等和例 マコトワレは吾はまことにといふ意。
多非乃加里保爾 タビ(旅)のカリホ(假廬)にといふことで、筑紫までの旅は大半舟行であつたやうであるが、當時は已むを得ぬ場合の外は夜航する事はなく、水門に泊りを重ねたのであるから、天候の都合等で滯留せねばならぬ場合には、陸岸に假廬を造つて宿泊したのである。私營旅館といふものゝなかつた時代には、陸行でも各自假小屋を作つたことは、平安朝時代の日記文にも見えて居る。カリホはカリ(假)イ〔右○〕ホ(廬)の約で、イホ〔右○〕はイヘ〔右○〕に對し、眞中に一本の柱を建てゝ穗のやうな形に草などを葺きおろした小舍の謂である。
夜須久禰牟加母 安ク寐ムカモの謂で、カモは疑問語のカと感動詞モとを連ねた複合助語である。是は反語的表現で、今の言葉でも安く寢られぬといふことを、安くねようや〔右○〕とも云ふけれど、この時分の大和語では已然形を用ひてネメ〔右○〕ヤモといふのが普通樣式であつたから、これは此作者獨特の語氣か、若しくは上總邊に限つて此やうな表現を用ひたのかも知れぬ。いづれにしても疑のないことを問の形式で表示するのが反語であるから、語法上少しも差つかへはない。
〔大意〕母親に別れて實際私は旅中の假舍に安く寢ようや(寢られない)
 作者は上總の※[日/下]部(早〔右△〕とあるのは誤寫)の使主三中で、父は子を思ひ、子は母をなつかしがつたので(395)ある。
 
4349 毛母久麻能《モモクマノ》 美知波紀爾志乎《ミチハキニシヲ》 麻多佐良爾《マタサラニ》 夜蘇志麻須義弖《ヤソシマスギテ》 和加例加由可牟《ワカレカユカム》
 
〔四三四九〕 ももくまの 道は來にしを また更に 八十島すぎて わかれか行かむ
   右一首助丁刑部直|三野《ミヌ》
 
毛母久麻能 モモ(百)の原義は衆多で、クマは木間《クマ》であるが、轉じて角・隅・阿等の意にも用ひられるやうになつた。これは曲折の多いことをいふのである。
美知波紀爾志乎 道ハ來ニシヲ、即ち道をば來たのにといふ意。
麻多佐良爾 又更ニ
夜蘇志麻須義弖 八十島過ギテ。ヤソも亦多數を意味する。
和加例加由可牟 カは感動詞で、別レ行カムカナ〔二字右○〕といふに同じい。――疑問助語とするのは誤解である。
〔大意〕無數の屈折のある道を來たのに、又更に多くの嶋を過ぎて別れて行くことよ
 作者三野は刑部直〔右○〕と名乘つて居る所を見ると、この國のオサカ部民中のアタヒ(貴胤)であつたので(396)あらう。
 
4350 爾波奈加能《ニハナカノ》 阿須波乃可美爾《アスハノカミニ 》古志波佐之《コシバサシ》 阿例波伊波波牟《アレハイハハム》 加倍理久麻※[人偏+弖]爾《カヘリクマテニ》
 
〔四三五〇〕 庭中の あすはの神に 小柴さし あれはいははむ 歸りくまてに
  右一首帳丁若麻續部諸人
 
爾波奈加能 このニハは住屋の前庭または後庭をいふものと思はれる。
阿須波乃可美爾 アスハの神は、出雲傳説には大年神(スサノヲの命の兒)の諸子中の一柱としてあるが、それは上古出雲在住諸種族が信仰した神々を、スサノヲの命系に繋ぐための作爲で、實在人の神靈でないことは、同列の他の神名によつても推斷せられる。アスハのアは接頭語分子で、スハはシフを原語とし、スフ又はソフとも轉呼せられたが、朝鮮語の※[ハングルでチプ](家)――今の音はチプであるが、漢字集の音にも之をあてる所を見ると、シフと通じたことは疑がない――と同じく、原義は「住所」であるから、スカ(住處)からア〔右○〕スカ(聚落)といふ語が生まれたと同樣に、アを冠して同じ意味に用ひられ、其處の守護神がアスハの神と呼ばれたのである。されば出雲ばかりではなく、各地に祀られて居たとしても不思議のないことであるが、殊に上總には其國造六家中の半數(397)が出雲系であるやうに、夙にこの國人が多く來住したから、其信仰が普及したものと思はれる。從來この神名の意義を究めずして、想像によつて色々の珍説を述べて居るが、一々論難するにも當るまい。足場〔二字傍点〕(アシバとアスハとは音が近い)の神〔二字傍点〕とするやうな無稽を受け入れることの出來る宏量な人たちは、我々の學問仲間ではない。
古志波佐之 小柴挿シで、この小柴はサカキ(賢木)にかへて幣としたのであらう。
阿例波伊波波牟 我ハイハハム。即ちアスハの神に祈つて自分は祝福しようといふ意である。
加倍理久麻※[人偏+弖]爾 歸リ來マテニ〔四三三九〕。
 
〔大意〕庭中のアスハの神に小柴をさして(幣として祈り)、自分は祝福しよう。(おまへの)歸つて來るまで
 右によれば、先學も既に指摘したやうに、之を旅行く人の歌と見ることは出來ぬ。しかし必しも作者名の下に父、母、妻等の字を脱したのではなく、若麻續部諸人が、防人に徴されて行く兄弟または友人の送別に詠じたのかも知れぬ。帳丁は上掲の主帳丁と同じく、郡吏の仕丁であるから、防人に同行せずとも此肩書を用ひることが出來た筈で、郷里に留まる人の歌は他にも數多くあるのである。麻續部《ヲミベ》は麻を績《ウ》むことを職とした工人部の名で、ワカ(若)は新舊を區別する爲の冠稱であるが、民部その(398)ものは既に解散し、其名のみが苗字同樣に用ひられたものと思はれることは既述の通りである。
 
4351 多比巳〔左△〕呂母《タビコロモ》 夜豆伎可佐禰弖《ヤツキカサネテ》 伊努禮等母《イヌレドモ》 奈保波太佐牟志《ナホハダサムシ》 伊母爾志阿良禰婆《イモニシアラネバ》
 
〔四三五一》 たびころも 八つ著かさねて いぬれども なほ肌さむし いもにしあらねば
   右一首|望陀《マウダ》郡上丁玉作部國忍
 
多比巳〔右△〕呂母 巳は上掲〔四三四三〕にも例がある通り、明に己〔右○〕の誤記で、舊訓もタビゴ〔右○〕ロモ(旅衣)とあるのである。これは全卷に通ずる誤字であるから、以下一々は指摘せぬことにした。
夜豆伎可佐禰弖 八ツ著重ネテ
伊努禮等母 イヌ(寢)レドモのイはヨ(夜)の轉呼で、――イメ(夢)のイと同例――イ〔右○〕ヲヌルの如くも用ひられる。本集には往々寐の字をイと訓ませて居るけれども、其は次に來る宿〔右○〕または眠〔右○〕とあはせて、イ〔右○〕モヌ〔右○〕ル、イ〔右○〕ノネ〔右○〕ラエヌ、イ〔右○〕モネ〔右○〕ズ、イ〔右○〕ハナ〔右○〕ナサズの如く誦へるからで、イ〔右○〕に寐の義があるのではない。動詞ネ(四段活用)は本來身を横へるといふことであるから、就寢の意を明示せんが爲には、イ(夜)を冠することを必要としたのである。
奈保波太佐牟志 ナホ肌寒シ
(399)伊母爾志阿良禰婆 妹ニシアラネバ、即ち族衣は女房そのものではないからといふので、シは強意助語である。
〔大意〕旅衣を八つ著かさねて寢るけれども尚肌が寒い。(旅衣は)女房ではないから
 作者は望陀《マウダ》郡(今の君津郡の一部分)の上丁とある。上丁は正丁のことで、規定の年齡内のものをいふ。以下當國の歌の作者は盡く上丁とある所を見ると、上丁の防人の謂であらう。この玉作部も上掲駿河歌〔四三四三〕に述べたやうに、タマツクリといふ地名を負うたものであらねばならぬ。タマスリ〔二字右○〕ベ(玉作部)といふ古い民部が存したことは事實で、垂仁朝に五十瓊敷《イニシキ》皇子に賜はつたといふ言ひ傳へもあるが〔紀〕、職業の性質上早く分散したものゝやうで、姓氏録にあげた玉作連及玉祖宿禰は舊部長の氏をいひ、大化革新まで諸國の玉工を統轄して居たのではないやうである。玉造といふ郷名は當郡には見えぬが、或は往昔この名の部落があつたかも知れず、隣國下總には、和名抄によれば匝瑳郡と埴生郡とに玉作郷があるから、其から轉住したことも有り得る。
 
4452 美知乃倍乃《ミチノヘノ》 宇萬良能宇禮爾《ウマラノウレニ》 波保麻米乃《ハホマメノ》 可良麻流伎美乎《カラマルキミヲ》 波可禮加由加牟《ハカレカユカム》
 
〔四四五二〕 みちのへの うまらのうれに は|は《フ》豆の からまる君を は《ワ》かれか行かむ
(400)   右一首天羽郡上丁丈部鳥
 
美知乃倍乃 道ノヘノ。このヘ〔右○〕は邊即ちホトリのことである。
宇萬良能宇禮爾 ウマラはウバ〔右○〕ラ(茨)の音便で、其のウレ(末)にといふのである。
波保麻米乃 ハホはハフ〔右○〕(匍)の訛。マメ(豆)ノは比況で、豆のやうにといふ意。
可良麻流伎美乎 搦マル君ヲ。君はこの歌を贈られた人をいひ、男女の性にはよらぬが、カラマルといふ擧動から見ても、妻または愛人たる女性とせねばならぬ。
波可禮加由加牟 ハカレはワ〔右○〕カレ(別)の訛。君ヲ〔右○〕別レは上掲〔四三四八〕の母ヲ〔右○〕別レ、〔四三三八〕の母ヲ〔右○〕ハナレと同一語法であるが、後者に準じて波可禮の可をナの轉訛または誤字として、ハナレと讀めといふ説には從ひかねる。その場合には上句カラマル〔四字傍点〕君に應ずるため、ハナシ(ハナチ)といふ他動詞を用ひねばならぬ。カは感動詞で、別れて行くであらうよ〔右○〕といふのである。
〔大意〕道のほとりの其の上に匍ふ豆の(蔓の)やうに、搦まるおまへ樣から別れて、(自分は)行くだらうよ
 作者の出身地天羽郡は今の君津郡の一部分である。上丁及丈部については上に述べた。
 
(401)4353 伊倍加是波《イヘカゼハ》 比爾比爾布氣等《ヒニヒニフケド》 和伎母古賀《ワギモコガ》 伊倍其登母遲弖《イヘゴトモチテ》 久流比等母奈之《クルヒトモナシ》
 
〔四三五三〕 家かぜは 日に日に吹けど わぎもこが いへごともちて 來る人もなし
   右一首朝夷郡上丁丸子連大歳
 
伊倍加是波 イヘカゼは家の方から吹く風といふ意をつめたので、東歌の伊香保可是〔三四二二〕と同例である。
比爾比爾布氣等 日ニ日ニ吹ケド。本集には日々の意を多くはヒニケ〔右○〕ニと表現して居るが、尚ヒニヒニ又はヒビニとした例もある。
和伎母古賀 吾妹子ガ
伊倍其登母遲弖 イヘゴトは他に用例がないが、家言の謂で、ツテゴト(傳言)と同義なることは疑の餘地がない。東國では當時かういうたものと思はれる。
久流比等母奈之 來ル人モナシ
〔大意〕家郷の方から日々風は吹くけれども、私の女房の傳言を持つて來る人もない
 この作者の郷里朝夷郡及次の長狹郡は今の安房國安房郡の一部分であるが、當時この國は上總に屬(402)して居たのである。丸子連は上掲丸子部〔四三三〇〕の長を意味するが、此作者はカバネとして之を名乘つたに過ぎぬ。
 
4354 多知許毛乃《タチコモノ》 多知乃佐和伎爾《タチノサワギニ》 阿比美弖之《アヒミテシ》 伊母加巳已〔二字左△〕呂波《イモガココロハ》 和須禮世奴可母《ワスレセヌカモ》
 
〔四三五四〕 た|ちこ《ツカ》もの 立ちのさわざに 逢ひ見てし いもが心は 忘れせぬかも
   右一首長狹郡上丁丈部與呂麿
 
多知許毛乃 タチコモは立ツ〔右○〕カモ(鴨)の訛で、〔四三三七〕に「水鳥の立ちのいそぎに」とあると趣を同じうする。
多知乃佐和伎爾 立ノ騷ギニ
阿比美弖之 逢ヒ見テシ。この二句によつて察するに、逢うた女は以前からの馴染ではなく、出發の振まひ酒などが動機となつて契を結んだのであらう。
伊母加巳已〔二字右△〕呂波 ココロは情《ナサケ》の意。次の歌のも同樣である。
利須禮世奴可母 忘レセヌカモ〔四三四四〕。
〔大意〕出發のさわぎに懇になつた女の情は忘れないよ
(403) 作者丈部(既出)與呂麿のヨロは萬〔右○〕の意であらう。ヨロヅのツは數を意味する接尾語であるから、語幹はヨロであらねばならぬ。
 
4355 余曾爾能美《ヨソニノミ》 美弖夜和多良毛《ミテヤワタラモ》 奈爾波我多《ナニハガタ》 久毛爲爾美由流《クモヰニミユル》 志麻奈良奈久爾《シマナラナクニ》
 
〔四三五五〕 よそにのみ 見てやわたら|も《ム》 難波がた 雲ゐに見ゆる 嶋ならなくに
   右一首武※[身+矢]郡上丁丈部山代
 
余曾爾能美 外《ヨソ》ニノミ
美弖夜和多良毛 ワタラモのモ〔右○〕はムの訛で〔四三二九〕、ワタルは渡海と過スといふ意をいひかけたのである。ヤは反語表示で、見て過されるものか、見過せないといふのである。
奈爾波我多 このカタは可航水面を意味する。斥鹵をカタといふのはヒ〔右○〕カタ(干潟)の略語である。
久毛爲爾美由流 クモヰは雲の居ずまひ、即ち星座と同じく雲座の謂であるが、轉じて單にクモの義にも用ひられる。但しこれは尚雲のゐる所すなはち雲際の意とすべきである。
志麻奈良奈久爾 島ニアラナクニの連呼。クはコトの意の語分子であるが、口語でアルコト〔二字右○〕ハをアルノ〔右○〕ハといふやうに、モノ(物)の語幹ノに通ずる場合が多く、これも現代語にいひかへると、島(404)デハナイノ〔右○〕ニの意で、一種の反接表示である。即ち雲際に見える嶋ではないのに、雲煙過眼視せられるものかといふことで、下三句は倒敍である。
〔大意〕外《ヨソ》にばかり見て過さうや。難波潟の雲際に見える嶋ではないのに
 右によれば此は難波少女に與へた戀歌で、防人歌としては異例に屬する。この作者も丈部で武※[身+矢]郡の上丁とある。※[身+矢]は射の變体でムザ〔右○〕とよみ、今は山邊郡と合併して山武郡と稱へる。
 
4356 和我波波能《ワガハハノ》 蘇弖母知奈弖?《ソデモチナデテ》 和我可良爾《ワガカラニ》 奈伎之許己呂乎《ナキシココロヲ》 和須良廷〔左△〕努可毛《ワスラエヌカモ》
 
〔四三五六〕 わが母の 袖もちなでて 吾がからに 泣きしこころを 忘らえぬかも
   右一首山邊郡上丁物部手〔右△〕刀良
 
和我波波能 吾ガ母ノ
蘇弖母知奈弖底 袖モチ撫デテ、即ち袖を以て撫でゝといふ意。次句によれば撫でたのは自分の瞼であらねばならぬ。
和我可良爾 吾ガ故《カラ》ニ、即ち私のゆゑにといふ意。
奈伎之許己呂乎 ココロは上述のやうに情《ナサケ》の意。次句の忘ラエヌの主語とすれば、ココロハ〔右○〕又はコ(405)コロノ〔右○〕であらねばならぬから、改字改訓したものもあるけれど、之はワスリ(忘)の目的語で、自分ガといふ主語が言外に含まれて居るのであるから、原字舊訓を可とする。
和須良廷〔右△〕努可毛 廷《△》は元暦校本以下に延〔右○〕とあるに從ふべきで、ワスラエヌは忘レラレヌの古形、カモは感動詞である。
〔大意〕私の母が袖を以て(瞼を)撫でゝ、自分の爲に泣い(てくれ)た志を(自分は)忘れられぬよ
 作者は物部(既出)手〔右△〕刀良とあるが、手〔右△〕は元暦校本に乎〔右○〕とあるに從ひヲトラと訓み、小虎の謂とすべきであらう。天武紀にも兵衛生部《ツハモノノトネリミフベ》連虎〔右○〕といふ名が見えるから、日本には棲息せぬ動物であるが、龍と相對して之を名とすることは珍しくなかつたのであらう。
 
4357 阿之可伎能《アシガキノ》 久麻刀爾多知弖《クマドニタチテ》 和藝毛古我《ワギモコガ》 蘇弖毛志保々爾《ソデモシホホニ》 奈伎志曾母波由《ナキシゾモハユ》
 
〔四三五七〕 あしがきの くまどに立ちて、わぎもこが 袖もしほほに 泣きしぞもはゆ
   右一首市原郡上丁刑部直千國
 
阿之可伎能 アシガキは葦を植ゑならべて垣としたものをいふ。
久麻刀爾多知弖 クマは上述のやうに角隅の意もあり〔四三四九〕、ドは處の義で、葦垣の隅をいふ(406)のである。
和藝毛古我 吾妹子ガ
蘇弖毛志保々爾 シホホはシホ(萎)の疊尾語で、シホシホといふに同じい。袖が涙にぬれそぼつことをいふ。
奈伎志曾母波由 泣キシゾオ〔右○〕モハユの連呼。泣いたが思ひ出されるぞといふ意で、助詞ゾの位置を泣キシの次に移したのは口調の爲である。
〔大意〕葦垣の隅に立つて私の女房が袖もしとしとに泣いたのが思ひ出されるぞ
 市原郡は今も現存する郡名で、刑部直については既に〔四三四九〕に述べた。
 
4358 於保伎美乃《オホキミノ》 美許等加志古美《ミコトカシコミ》 伊弖久禮婆《イデクレバ》 和努等里都伎弖《ワヌトリツキテ》 伊比之古奈波毛《イヒシコナハモ》
 
〔四三五八〕 大君の みことかしこみ 出でくれば わ|ぬ《ニ》とりつきて 言ひしこ|な《ラ》はも
   右一首種※[さんずい+此]〔右△〕郡上丁物部龍
 
於保伎美乃 大君ノ
美許等加志古美 命カシコミ。以上二句は〔四三二八〕の外以下數首にも見え、忠誠を表示する慣用(407)句である。
伊弖久禮婆 出デ來レバ
和努等里都伎弖 吾《ワ》ニ〔右○〕トリツキテの訛であらう。
伊比之古奈波宅 コナはコラ(兒等)の訛で女子を意味する。イヒシは勿論言ヒの過去形で、何をいうたか明示せられて居らぬが、恐らくは「別がつらい」といふ意に相當する言葉が略せられたのであらう。
〔大意〕 天皇の勅命を惶み出て來ると、自分にとりついて(別がつらい)というた子はよ
 種※[さんずい+此]郡の※[さんずい+此]は元暦校本に淮〔右○〕とあるを正しとし、和名抄の周淮郡をいひ(今の市原郡の南部)、本集には末〔右○〕とも表記せられ、國造本紀には須惠國とある。
 
4359 都久之閉爾《ツクシヘニ》 敝牟加流布禰乃《ヘムカルフネノ》 伊都之加毛《イツシカモ》 都加敝麻都里弖《ツカヘマツリテ》 久爾爾閉牟可毛《クニニヘムカモ》
 
〔四三五九〕 つくしへに へむ|か《ケ》る舟の いつしかも 仕へまつりて 國にへむか|も《ム》
   右一首長柄郡上丁若麻續部羊
 
都久之閉爾 筑紫|方《ヘ》ニ、即ち筑紫の方にといふ意。
(408)敝牟加流布禰乃 ヘは舳の意。ムカ〔右△〕ルはムケ〔右○〕ルの轉訛で、舳先が向いて居るといふことであらう。「今」といふ語を冠して了解すべきである。
伊都之加毛 イツシはイツゾといふに同じく、不定の時機を指示する表現で、口語のイツカに當るから、カモは複合感動詞と見ねばならない。
都加敝麻都里弖 任務を了へてといふ意であらうが、これを仕ヘ奉リテと表現することは聊か穩でない。思ふにしひてヤマト言葉で詠じようとした爲、このやうな不調法な言ひ廻しになつたのであらう。
久爾爾閉牟可宅 國ニ舳向カム〔右○〕の訛。
〔大意〕 (今)筑紫の方へ舳先の向いて居る舟が、いつ任務を了へて國に舳が向くだらうか
 長柄郡は今の長生郡の一部分で、若麻續部については既に〔四三五〇〕に述べた。
以上十三首中訛音は僅に九例を算するのみで、しかも判り易い歌が多いのは、進達者茨田連沙彌麿が若干加筆した爲であるかも知れぬ。
 
   ○二月十四日常陸國部領防人使大目正七位上息長眞人國島進歌數十七首。但拙劣歌(409)者不v取2載之1
 息長眞人は應神皇子|若沼毛二俣《ワカヌケフタマタ》王の後で、繼體天皇と同一出系であるから、天武天皇の御代に眞人(皇別の上席)のカバネを賜はつたのであるが、分派の年代が古いので、國島はさのみ顯要の位置に達せず、寶字六年正六位上から從五位下に敍せられたとあるのみで〔續紀〕、官歴も不明である。
 
4363 奈爾波都爾《ナニハヅニ》 美布禰於呂須惠《ミフネオロスヱ》 夜蘇加奴伎《ヤソカヌキ》 伊麻波許伎奴等《イマハコギヌト》 伊母爾都氣許曾《イモニツゲコソ》
 
〔四三六三〕 なには津に み舟おろすゑ 八十かぬき 今はこぎぬと 妹につげこそ
 
奈爾波都爾 難波津ニ
美布禰於呂須惠 ミフネのミはマに通ずる接頭語分子で、さしたる意義はなく、單にフネといふと變りはない。――ミ山、ミ空等のミ〔右○〕も同例――オロスヱはオロシ(下)スヱ(据)の略語。
夜蘇加奴伎 ヤソカ(八十?)ヌキ(貫)。ヤソは多數の謂で、カはカヂ又はカイの略語である。櫂を装著することをヌキと稱へたのは、鋼製の眼環にさし貫いたからであらう。
伊麻波許伎奴等 今ハ漕ギイ〔右○〕ヌトの連呼。コギの現在完了をもコギヌといふから、通例このやうな連約は避けることにして居る。
(410)伊母爾都氣許曾 コソはコヒ(乞)の語根コに指定助語ソを連ねたもので、希望表示であるが、常に動詞の原形につゞくことを特色とする。妻に告げてくれよといふ意。
〔大意〕難波津に舟をおろしすゑて多くの櫂を取つけ、今は漕いで出ると女房にいうてくれ
 
4364 佐伎牟理爾《サキムリニ》 多多牟佐和伎爾《タタムサワギニ》 伊敝能伊毛何《イヘノイモガ》 奈流敝伎巳〔左△〕等乎《ナルベキコトヲ》 伊波須伎奴可母《イハズキヌカモ》
 
〔四三六四〕 さき|む《モ》りに 立たむさわざに 家の妹が なるべきことを いはず來ぬかも
   右二首茨城郡若舍人部廣足
 
佐伎牟理爾 サキモ〔右○〕リ(防人)の訛。防人をサキモリと假字書した例は本卷〔四三三六〕を初見とし、外にも四例を算するが、日本紀には常にセ〔右○〕キモリと旁訓してある。其は本初關塞の守備兵を意味したからで、後日邊防にあてる人をいふに轉用せられたから、サキ〔二字右○〕モリと言ひがへたものと思はれる。若しそれが公の改稱であつたとすれば、サキは神語歌の國(島)ノサキザキと同じく、國のハテといふ意であらねばならぬ。
多多牟佐和伎爾 立タム騷ギニ
伊敝能伊毛何 家ノ妹はうちの女房といふ意であるが、これは嫁入といふ慣はしが起つた後の表現(411)で、妻の家に通ふことを例とした時代には、妻は他氏族の人間であるから、ヒトノコともいうた〔三五三三〕。
奈流敝伎巳〔右△〕等乎 ナルはナリ(生業)といふ名詞を活用したもので、生業を營むといふ意であるが、元來ナリは成〔右○〕實の義から轉じたもので、之を活用すると、「成」の意に還元するから、餘り用ひられなかつたやうで、この外には例がなく、ナリといふ語も多くはナリハヒといひかへて居る。此はナリハヒを營むことをといふ意である。
伊波須伎奴可母 云ハズ來ヌカモ。當時のヤマト語ではキヌル〔右○〕カモといふのを正格としたが、これは決して誤用ではなく、〔四三三九〕のク〔右○〕マテニと同じく、連體形と終止形とが分離する以前の古い形式である。
〔大意〕防人に立たうとする騷ぎにうちの女房になりはひすべきことを言はずに來たよ
 此二首の作者廣足は若舍人部と名乘つたが、其は後出の大舍人部に對し、區別のために若(新の意)を冠したので、若干のトネリ――ツハモノノトネリ(兵衛)――を出した部落が、これを名譽として、トモナ(部名)に用ひたのではないかと思はれる。直隷民部なる川上舍人、白髪部舍人などゝは性質を異にするやうである。
 
(412)4365 於之弖流夜《オシテルヤ》 奈爾波能津與利《ナニハノツヨリ》 布奈與曾比《フナヨソヒ》 阿例波許藝奴等《アレハコギヌト》 伊母爾都岐許曾《イモニツギコソ》
 
〔四三六五〕 おしてるや なにはの津より 船よそひ あれは漕ぎぬと 妹につ|ぎ《ゲ》こそ
 
於之弖流夜 ヤは間投詞。オシテルは難波の枕詞で、オシ(大)テル(光)の意を以てナ(名)一言にかかるのである。現代語でも名が光つて〔三字傍点〕居るなどゝいふことがある。
奈爾波能津與利 難波ノ津ヨリ
布奈與曾比 船装ヒ即ち艤装の意。フナカザリと同じい〔四三二九〕〔四三三〇〕。
阿例波許藝奴等 我ハ漕ギイ〔右○〕ヌトの連呼〔四三六三〕。
伊母爾都岐許曾 ツギはツゲ〔右○〕(告)の訛。この歌は前々の〔四三六三〕と同一著想で、ことに下二句が類似して居る。
〔大意〕難波の津から舟装ひして自分は漕いで出たと女房にいうてくれ
 
4366 比多知散思《ヒダチサシ》 由可牟加里母我《ユカムカリモガ》 阿我古比乎《アガコヒヲ》 志留志弖都祁弖《シルシテツケテ》 伊母爾志良世牟《イモニシラセム》
 
〔四三六六〕 常陸さし 行かむ雁もが あが戀を しるしてつけて 妹に知らせむ
(413)   右二首信太郡物部道足
 
比多知散思 常陸指シ
由可牟加里母我 行カム雁モガ。ガは希望表示で、モは連繋語分子である〔四三二七〕。これは歸雁を意味する。
阿我古比乎 我ガ戀ヲ
志留志弖都祁弖 シルシツケテといふと、雁の體のどこかに書きつけることになるが、これは先づ(紙に)記して其から〔三字傍点〕雁(の足)に結びつけてといふ意であるから、シルシテ〔右○〕ツケとしたのである。
伊母爾志良世牟 知ラスは四段活用であるから、シラサ〔右○〕ムであらねばならぬが、必しも訛言ではなく現代口語のやうにサ行變格に用ひたのであらう。
〔大意〕常陸さして行く雁があつて欲しい。自分の戀(心)をかいて(雁の足に)結びつけて女房に知らせよう
 作者物部(既出)道足の郷里信太郡は今の稻敷郡の一部分である。
 
 
4367 阿我母弖能《アガモテノ》 和須例母之大波《ワスレモシダハ》 都久波〓乎《ツクバネヲ》 布利佐氣美都都《フリサケミツツ》 伊母波之奴波弖〔左△〕《イモハシヌバネ》
                            
(414)〔四三六七〕 あがもての 忘れ|も《ム》しだは 筑波ねを ふりさけ見つつ 妹はしぬばね〔右○〕
   右一首茨城郡占部小龍
 
阿我母弖能 吾ガオモテ(面)ノの急呼、」
和須例母之太波 ワスレモ〔右△〕は忘レム〔右○〕の訛。シダは頃間を意味する原語サに接尾語分子タを連ねたサタの輯呼で、「時」とほゞ同義である。
都久波〓乎 筑波嶺ヲ
布利佐氣美都都 フリ(振)は準接頭語、サケミ(放見)はミサケと同じく見ヤルといふことで、筑波山を見やりつゝといふのである。
伊母波之奴波弖〔右△〕 弖〔右○〕は元暦校本に〓〔右○〕とあるを正しとする。ネは希望表示であるから、女房は思慕せよといふ意になるのである。
〔大意〕自分の面を忘れる頃は筑波嶺を見やりつゝ女房は(自分を)思うてくれ
 作者の郷里茨城郡は今の新治郡をも含み、筑波山下にあたり、毎日見る山であるから忘れることはあり得まいが、亭主の顔は忘れるかも知れぬから、其時はこの山を見つゝ慕うてくれといふので、聊か皮肉に聞えるけれども、此やうな便りない女房を後に殘して出て行く防人もあつたのであらう。此(415)國には鹿島の大神宮があるので、早くから卜占を專業とする民部が發逢したのであるが、?々述べたやうに部名は必しも現業を意味するのではなく、この作者小龍も祖先の職業によつて卜部と名乘つたのかも知れぬ。
 
4388 久自我波波《クジカハハ》 佐氣久阿利麻弖《サケクアリマテ》 志富夫禰爾《シホブネニ》 麻可知之自奴伎《マカチシジヌキ》 和波可敝里許牟《ワハカヘリコム》
 
〔四三八八〕 久慈川は さけくあり待て しほ舟に まかぢしじぬき わは歸り來む
   右一首久慈郡丸子部佐壯
 
久自我波波 久慈ガ母の意とするは不可。非情の川によびかけたのは、口外ることの出來ぬ意中の人に思を寄せる歌なるが故である。
佐氣久阿利麻弖 幸クアリ待テ。アリは準接頭語で、無事に待てといふことである。サケクについては既に〔四三四六〕に述べた。
志富夫禰爾 シホ(潮)舟は渡海舟のことで、河川沼湖の船と區別する爲に、海水の意のシホを冠したのである。
麻可知之自奴伎 マには左右の意もあるが、これはシジ(繁)ヌキ(貫)即ち多數を貫装しといふので(416)あるから、〔四三六三〕のミ船のミと同じく、マは重い意味のない接頭語分子とせねばならぬ。
和波可敝里許牟 吾ハ歸リ來ム
〔大意〕久慈川は無事で待つて居れ、渡海船に多くの楫を取つけて私は歸つて來よう
 丸子部については既に述べた通りであるが、佐壯はスケヲとよみ、或は實名ではなく、助丁即ち次丁の謂であるかも知れぬ。
 
都久波禰乃《ツクバネノ》 佐由流能波奈能《サユルノハナノ》 由等許爾母《ユドコニモ》 可奈之家伊母曾《カナシケイモゾ》 比留毛可奈之祁《ヒルモカナシケ》
 
〔四三六九〕 つくばねの さゆ|る《リ》の花の ゆ《ヨ》どこにも かなしけ妹ぞ ひるもかなしけ
 
都久波禰乃 筑波嶺ノ
佐由流能波奈能 サはサヲシカ(牡鹿)のサ〔右○〕と同じく 發音を促すための接頭語分子で、ユル〔右○〕はユリ(百合)の訛である。この花は莖に比して甚大きく、常に搖々たるによつてユリといふ名を負うたのであらう。女の美貌を百合にたとへると同時に、次句のユ〔右○〕音を喚び起す序としてサユルの花ノというたのである。
由等許爾母 ユ〔右△〕はヨ〔右○〕(夜)の訛で、、旅寢の夜床にもといふ意。
(417)可奈之家伊母曾 カナシケ〔右○〕はカナシキの舊形で、東歌にも用例が多い。イモゾと強く指定したのは夜床に入つてから思ひ出す女に限るからである。
比留毛可奈之祁 晝モ愛《カナ》シケ
〔大意〕筑波山の百合の花のやうな(美しい)かの女は、旅寢の夜の床でいとしく思ふが晝もいとしい
 これは卒爾に讀むと尋常の戀歌のやうに思はれるが、其は第三句を正解せぬからで、助詞モを無視して、夜床を同衾と早合點すると、卑猥にも感ぜられるのである。しかし旅寢の夜床の謂とすれば、夜中萬籟靜まつた時ばかりではなく、晝間物に紛れ易い時でも、いとしさに堪へかねるといふので、哀の深い羈旅の歌である。言ひ廻しの幼稚なのは防人歌の防人歌たる所以である。
 
4370 阿良例布理《アラレフリ》 可志麻能可美乎《カシマノカミヲ》 伊能利都都《イノリツツ》 須米良美久佐爾《スメラミクサニ》 和例波伎爾之乎《ワレハキニシヲ》
 
〔四三七〇〕 あられ降り かしまの神を いのりつつ すめらみくさに われは來にしを
   右二首那賀郡上丁大舍人部千文
 
阿良例布理 霰降りの謂で、カシマ(囂)にかゝる枕詞である。
可志麻能可美乎 鹿島ノ神ヲ。この神宮は常陸第一の舊社で、皇室の御尊崇も篤く、地方人は勿論(418)神威を畏んで居たから、遠行の際などは殊に無事息災を祈願したのであらうが、其社に祭られて居るタケミカヅチの命が軍神であることも、特にこの神名をあげた一因であらねばならぬ。
伊能利都都 武運長久を祈つたのであらう。
須米良美久佐爾 スメラ(皇)ミ(御)イ〔右○〕クサ(軍)ニのイ音脱落。スメラのラは接尾語分子で、スメの原語はス(淨)ミ(身)であるが、天皇をスメラミコトと尊稱するにより、轉じて皇軍などいふ皇の意になつた。ミは美稱、イクサは射衆《イクサ》の義であるが、軍隊の意にも轉用せられたのである。
和例波伎爾之乎 吾ハ來ニシヲ〔右○〕。このヲを感動詞ヨに通ずる。
〔大意〕鹿島の神に祈りつゝ自分は皇軍に(參加するため)來たよ
 未句「我は來にしを」を逆前提としては、その歸結を缺くのみならず、反對の境地を想像せしめる手がゝりもない。或は同人の作なる前の歌と關聯するのではないかとも考へて見たが、其にしては前の歌に、「何故か」と訝るやうな口吻があらはれる筈であるから、作者は一面に於ては晝夜女の顔を瞼に描きながらも、皇軍に編入せられたことを誇り氣味でこの歌を詠じたものと解すべきであらう。大舍人部に屬したことも此氣もちを起させる一因であつたのであらう。この部は上掲の若舍人部に對立するもので〔四三六四〕、その郷里那賀郡には今の東西茨城郡の一部分も含まれて居た。
 
(419)4371 多知波奈乃《タチバナノ》 之多布久可是乃《シタフクカゼノ》 可具波志伎《カグハシキ》 都久波能夜麻乎《ツクバノヤマヲ》 古比須安良米可毛《コヒズアラメカモ》
 
〔四三七−〕 たちはなの 下吹くかぜの かぐはしき 筑波の山を こひずあらめかも
   右一首助丁占部廣方
 
多知波奈乃 橘ノ
之多布久可是乃 筑波の山腹には今も蜜柑が多いが、この歌によれば昔から栽培して居たものと思はれる。その下を吹いて來る風のといふ意。
可具波志伎 香クハシキのクハシはクシ(奇)とハシ(好)とを結びつけた複合形容詞で、精好の謂である。
都久波能夜麻乎 筑波ノ山ヲ
古比須安良米可毛 八音となるにも拘はらず、コヒザラメと連約しなかつたのは、アリ(在)が助動詞ではなく、動詞として用ひられた爲で、正しい語法である。カモは疑問表示であるが、こゝでは反語的に用ひられたので、戀ひずに居られようかといふ意になり、戀ヒザラメカモ即ちこひないだらうかとは語氣に於て少からぬ相違がある。
(420)〔大意〕柑橘の下を吹く風の香のよい筑波山を戀ひずに居られようか
 これは筑波山を詠じたのでなるが、〔四三六八〕の久慈川と同じく、其うらに思慕する人をふくめて居ることは勿論で、作者占部(既出)廣方はこの山に近い那賀郡の上丁とある。
 
4372 阿志加良能《アシガラノ》 美佐可多麻波理《ミサカタマハリ》 可閉理美須《カヘリミズ》 阿例波久江由久《アレハクエユク》 阿良志乎母《アラシヲモ》 多志夜波婆可流《タシヤハバカル》 不破乃世伎《フハノセキ》 久江弖和波由久《クエテワハユク》 牟麻能都米《ムマノツメ》 都久志能佐伎爾《ツクシノサキニ》 知麻利爲弖《チマリヰテ》 阿例波伊波波牟《アレハイハハム》 母呂母呂波《モロモロハ》 佐祁久等麻乎須《サケクトマヲス》 可閉利久麻弖爾《カヘリクマテニ》
 
〔四三七二〕 あしがらの 御坂たまはり かへり見ず 我は|く《コ》えゆく あらし男も 立し《チ》やはばかる 不破のせき く《コ》えてわは行く むまの爪 つくしのさきに ち《ト》まりゐて あれはいははむ もろもろは さけくと申す 歸り來まてに
   右一首倭父〔右△〕部可良麿
 
阿志加良能 足柄ノ。――此一行は陸路をとつたと見えて、この歌には足柄と不破とを越えたと詠まれて居る。
美佐可多麻波理 ミサカのミは美稀で、足柄峠のことである。其はあらたかな神が鎭り座すとせら(421)れたからで、第九卷〔一八〇〇〕にも、アツマノ國ノカシコキヤ神ノミサカ〔三字右○〕とあり、東歌〔三三七一〕にも足柄ノミサカ〔三字右○〕畏ミと詠まれて居る。さればこの坂を越える許可を神から得ることを、ミサカ給ハリと表現したので、武藏の防人歌にもミサカタバラバといふ句が見え〔四四二四〕、相模人ばかりではなく、坂東諸國では此神の威徳を怖れ敬うたものと思はれる。
可閉理美須 家郷を顧ミズといふ意。
阿例波久江由久 ク〔右△〕エはコエ(越)の訛で、第八句にもク〔右△〕エテ吾ハ行クと用ひられて居る。
阿良志乎母 荒シ男の謂で、アラヲ(荒雄)と同じく、勇士といふ意味である。形容詞原語の代りに活用形態(原形)を用ひたのは、クハシ女《メ》、カナシ妹等と同例である。
多志夜波婆可流 タシ〔右△〕は立チ〔右○〕の訛、ヤは間投詞で、立チ憚カルといふに同じい。ハバカルはハバム(阻)の自動詞であるが、こゝでは勇士も立ちすくむ〔三字傍点〕といふ意に用ひられたのである。
不破乃世伎 不破ノ關は天武天皇美濃に蒙塵の時、近江軍を障へる爲に設けられたのを最初とし、爾來京畿の固めとして鈴鹿《スズカ》及|愛發《アラチ》と共に並置せられ、軍防令にも三關としてあげてある。
久江弖和波由久 コ〔右○〕エ(越)テ吾ハ行クの訛。
牟麻能都米 馬ノ爪の謂で、馬が爪ツク〔二字右○〕といふ意を以てツク〔二字右○〕シ(筑紫)といふ語を導いたのである。
(422)都久志能佐伎爾 サキは特に或る岬角をさしたのではなく、筑紫のハテといふほどの意である。
知麻利爲弖 チ〔右△〕マリはト〔右○〕マリ(留)の訛。滞在してといふのである。
阿例波伊波波牟 我ハイハハム。このイハヒは祝福の意に用ひられたのである。
母呂母呂波 モロモロ(諸)ハ、即ち諸人はといふ意。これは行くものと後に留るものとを包括してモロモロと表現したのであらう。
佐祁久等麻乎須 幸ク(アレ)ト申ス〔四三六八〕。
可閉利久麻弖爾 歸リ來マテニ〔四三三九〕。
〔大意〕足柄の神坂《ミサカ》(越)を許されて、ふりかへりもせず自分は越えて行く。勇士も立ちすくむ(といふ)不破の關を越えて自分は行く。馬も爪づく(山坂を越えて)筑紫のはてに滯在して私は祝福しよう。我も人も幸福であれと申す。(自分)が還つて來るまで
これは東人が作つた唯一の長歌で、幼い言ひ廻はしではあるが、多少歌道の心得があつたものと思はれる。作者は倭文(父〔右△〕は誤字)部の可良麿といひ、アマ系の一部族であるが、倭文は借字で、シヅハタ(綵布)を織ることを業としたシドリ〔三字右○〕ベとは異り、皇極紀にアヅマシドリ〔三字右○〕ベと訓せられた東方?從者をいひ、健人の名とあるやうに健兒《コンデイ》を意味するものと思はれる。シヅはアイヌ語では戰闘用棍棒即ち古(423)語のクブツツイ(頭椎)のことであるから、弓箭を主要兵器とするユギベ(靱部)、鎗隊のマリコベ〔四三三〇〕、太刀を佩びたタチベ〔四三二九〕若しくは太刀佩部等に對し、頭椎を携へて陣に臨む兵種の謂であらう。されば正しくはシヅベといふべきで、安閑紀に大伴大連金村の僮豎をシドベワラハと訓したのも之をいふのであるが、シヅには倭文の二字を充てるので混同を來したのであらう。ハトリ(服部)に對立してシドリ(シヅオリの約)といふ織布民部があつたことも事實らしいが、其は古い昔のことで、これらの工藝が普及した後には其區別はなくなつた筈であり、單に部名《トモナ》として殘つたことも有り得るけれども、是は尚兵種と解する方がよいやうである。實戰では棍棒は太刀よりも有効で、遙に後世に於ても鉢割りと稱して、蛤刃の太刀が用ひられた。
 
   ○二月十四日下野國防人部領使正六位上田口朝臣|大《オホ》戸進歌數十八首。但拙劣歌者不v取2載之1
 
 田口朝臣は孝徳朝の人蘇我田口臣川堀の後で、姓氏録によれば高市郡田口村に居住したが故に、之を氏名としたとある。大戸は――オホトとよみ大人を意味するのであらう――寶字四年從五位下に昇敍、六年日向守となり、兵馬正、上野介を經て寶龜八年從五位上を授けられたことが續紀に見える。(424)この當時の官名が擧げられて居らぬのは誤脱で、難波の津までは國司に於て部領する規定であるから〔軍防令〕、國衙の官人であらねばならぬ。
 
4373 祁布與利波《ケフヨリハ》 可敝里見奈久弖《カヘリミナクテ》 意冨伎美乃《オホキミノ》 之許乃美多弖等《シコノミタテト》 伊??多都和例波《イデタツワレハ》
 
〔四三七三〕 今日よりは かへり見なくて 大君の しこのみ楯と 出で立つ吾は
   右一首火長今奉部與曾布
 
祁布與利波 今日ヨリハ
可敝里見奈久弖 顧ミナクテであるが、カヘリミは名詞形として用ひたので、顧みることなくといふ意である。
意富伎美乃 大君ノ
之許乃美多弖等 シコは醜の意ではなく、葦原色許男のシコで、原義により威嚴の意に用ひたのである。即ちイカメシイ御楯といふことで、國家の干城といふに同じい。
伊??多都和例波 出立ツ吾ハ。吾は出立つといふべきをこのやうに倒敍したのは口調のためで、律外の末句は三−四よりも四−三と分節する方がよいとせられたのであらう。その例は本集には少(425)くはない。
〔大意〕今日からは後ふり向くことなく、天皇のイカメシイ御楯(干城)として自分は出發する
 防人歌中にはめづらしく勇ましい歌である。この作者與曾布は神職または社人であつたから、イマ(忌《イム》の轉呼)マツリ(祀)部と名乘つたので、火長は炊事を共にする十人の長をいふ〔軍防令〕。要するに防人中の智識階級であつたのであらう。
 
阿米都知乃《アメツチノ》 可美乎伊乃里弖《カミヲイノリテ》 佐都夜奴伎《サツヤヌキ》 都久之乃之麻乎《ツクシノシマヲ》 佐之弖伊久和例波《サシテイクワレハ》
 
〔四三七四〕 あめつちの 神をいのりて きつ矢ぬき 筑紫の嶋を さしていくわれは
   右一首火長大田部荒耳
 
阿米都知乃 天地ノ
可美乎伊乃里弖 天地ノ神、即ち天神地祇をイノリテといふ意。
佐都夜奴伎 サツヤは獵箭で、兵士のもつソヤ(征箭)ではないが、當時隨身兵器は自辨とせられて居たから〔軍防令〕、あり合はせたサツヤを胡?《ヤナグヒ》にさし込んだといふのである。
都久之乃之麻乎 筑紫ノ島ヲ
(426)佐之弖伊久和例波 サシテ行ク吾ハの謂で、前の歌の末句と同じく倒敍である。行クは今もイクといふことがあるが、決して訛ではなく、イ〔右○〕デ(出)、イ〔右○〕リ(入)、イ〔右○〕ニ(去)と同系の語で、語根イは多分行動を意味する原語であらう。ユは寧ろ其音便である。
〔大意〕天地の神を祈つて獵箭《サツヤ》を(胡?《ヤナグヒ》に)さし込み、筑紫の島をさして自分は行く作者荒耳の部名大田部はこの國の田部《ミタベ》から出たので、大民部であつたからオホ(大)を冠したのであらう。此人も亦火長とある。
 
4375 麻都能氣乃《マツノキノ》 奈美多流美禮婆《ナミタルミレバ》 伊波妣等乃《イハビトノ》 和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》 多多理之母已〔左△〕呂《タタリシモコロ》
 
〔四三七五〕 松の木の なみたる見れば い|は《ヘ》人の われを見おくると たたりしもころ《△》
   右一首火長物部眞島
 
麻都能氣乃 氣は〔四三四二〕にもキの假字に用ひられた例があるから、舊訓の如くマツノキノと讀むべきであらう。松ノ木の謂。
奈美多流美禮婆 列ミタル見レバ。並んで居るのを見ればといふ意で、道中の風景である。
伊波妣等乃 イハ〔右△〕はイヘ〔右○〕(家)の訛。家人のといふ意である。
(427)和例乎美於久流等 ワヲ見オクルトといへば七音ですむのに、態々ワレとしたのは、この形をワレラ〔右○〕の意に用ひた爲で、出發するのは自分一人ではないからである。ワレのレも本來はラの轉呼であるといふことは、既に〔四三四三〕に述べた。
多多理之母已〔右○〕呂 タタリシは立チアリシの連呼。モ〔右○〕コロはトモ〔右○〕(共)と同根で、モト〔右○〕(許)のト(處)にかへるに同義語のコを以てし、更に接尾語分子ラの變形なるロを連ねたものであるが、「同樣」といふ意となり、單獨でも副詞と了解せられる。前述のやうに出發者が複數であるから、之を見おくる家人も多かつたので、松並木を見て別時の光景を思ひ出したといふのである。
〔大意〕松の木の並んで居るのを見ると、家族が我等を見おくるとて立つて居たのと同じやうだ
 作者の火長物部眞島については今まで異議はなかつたやうであるが、マシマは聞きなれぬ語であるから、或は眞鳥の誤寫ではあるまいか。マトリといふ人名は他にも例がある。
 
多妣由伎爾《タビユキニ》 由久等之良受弖《ユクトシラズテ》 阿母志志爾《アモシシニ》 巳〔左△〕等麻乎佐受弖《コトマヲサズテ》 伊麻叙久夜之氣《イマゾクヤシケ》
 
〔四三七六〕 たび行きに ゆくと知らずて あ《オ》も|しし《チチ》に ことまをさずて 今ぞくやしけ
   右一首寒川郡上丁川上巨老
 
(428)多妣由伎爾 このタビユキ(旅行)は防人として出征することを意味する。
由久等之良受弖 旅行に出ようとは知らないでといふ意。旅行キ〔二字右○〕ニ行ク〔二字右○〕としたのは重複のやうであるが、今も旅行《リヨカウ》に行くといふやうな表現を用ひることがある。
阿母志志爾 シシはチチ(父)の訛であるが、アモは必しもオモ(母)の訛音ではなく、寧ろその原形であつたかも知れぬ。嬰兒が母乳を求めるとて上下の唇を打ち合はせる度に發する唇音モに、接頭語分子アを冠したもので、アモ(餅)、アマ(甘)、アメ(飴)、アン(餡)の如く分化したが、第一義は「母」で、オモとも轉呼せられたのである。漢字の※[女+馬]も、西洋で用ひるママも之と起原を同じうし、同樣に唇音パは漢字では?とかき、羌人呼v父爲v?といはれ、パパの形に於ては歐洲語でも、マレーポリネシア語でも父の意に用ひられるのである。
巳〔右△〕等麻乎佐受弖 言申サズテ。暇乞も言はないでといふ意。父母と離れて住んで居た爲、突然の出發に訪問する餘裕がなかつたといふのであらう。意味はよく通ずるが、ズテといふ語形態が第二句とこゝとに重複するのは、上手な言ひ廻しではない。
伊麻叙久夜之氣 クヤシケはクヤシキ〔右○〕の古形である〔四三六九〕。
〔大意〕旅行に出るとは知らないで、父母に暇乞も申さず、今となつては悔しい
(429) 作者の郷里は寒川郡(今下都賀郡に屬す)で、寒川(永野川)の川上に住したが故にこれを苗字としたのであらう。巨老はオホオユであるが、連呼によつてオホユと稱へたのかも知れぬ。
 
4377 阿母刀自母《アモトジモ》 多麻爾母賀母夜《タマニモガモヤ》 伊多太伎弖《イタダキテ》 美都良乃奈可爾《ミヅラノナカニ》 阿敝麻可麻久母《アヘマカマクモ》
〔四三七七〕 あもとじも 玉にもがもや いただきて みづらのなかに あへまかまくも
   右一首津守宿〔右△〕小黒栖
 
阿母刀自母 母《アモ》トジモ。刀自については〔四三四二〕に述べた。
多麻爾母賀母夜 ヤは間投詞で、玉ニモガ即ち玉であつて欲しいといふ意〔四三二五〕。
伊多太伎弖 イタダキ(戴)はイト(最)タカ(高)の纒呼で、頂の意であるが、頭頂に差上げるといふ意味の動詞になつたのである。
美都良乃奈可爾 ミヅラ(髻)は元來ミミ(耳)ツラ(連)の約で、頭髪を中央から左右にわけ、兩耳の上に於て綰ねる男子の装髪樣式をいふのであるが、此時代にも尚行はれて居たかは不明である。或は語のみが殘つてモトドリ(髻)の意に用ひられたのかも知れない。
阿敝麻可麻久母 アヘはアヒ(合)の他動詞形で、アハセ(令合)の意。卷カマクのクは「事」「物」の意(430)の語分子で、モは感動表示であるから、髻の中に卷込まうものをといふ意になるのである。
〔大意〕母刀自も玉であつて欲しい。戴いて(自分の)髻の中に卷き込まうものを
 作者名の宿の下には元暦校本には禰〔右○〕の字がある。其ならば墨吉の祠官の氏であるから、此神の分靈を奉齋する神職であつたとも了解せられるが、この國にその社があつたことも聞えず、それ程の身分の人なら課役を免かれた筈であり、流寓して庶民に伍したものならば、スクネといふ物々しいカバネを用ひなかつたらうと思はれるから、――朝臣姓の防人が一人もないと同樣に――或は利根川の川津の番人であつたが故に津守と稱へたのかも知れない。然らば宿〔右△〕は衍字である。
 
4378 都久比夜波《ツクヒヤハ》 須具波由氣等毛《スグハユケドモ》 阿母志志可《アモシシガ》 多麻乃須我多波《タマノスガタハ》 和須例西奈布母《ワスレセナフモ》
 
〔四三七八〕 つ|く《キ》ひ|や《ラ》は 過|ぐ《ギ》は行けども あ《オ》も|しし《チチ》が たまのすがたは 忘れせなふも
   右一首都賀郡上丁中臣部足國
 
都久比夜波 舊訓ツクヒ|ヨ〔右△〕ハとあるが、防人歌には夜〔右○〕をヨの正字にも假字にも用ひた例はないのみならず、月日夜(月と日と夜)といふやうな表現は他には見えぬから、古義説の如くヤと訓むべきで、接尾語分子ラの訛であらう。ラをヤと轉訛した例は東歌にもある〔三三五九〕。月日ハといふ(431)に同じい。
須具波由氣等毛 スグ〔右△〕はスギ〔右○〕(過)の訛。過ギ行ケドモの意で、ハは取わけていふ爲に挿入したのである。
阿母志志可 母父ガ(前出)
多麻乃須我多波 玉ノ姿ハ。タマは必しも美貌を形容したのではなく、御姿はといふほどの意の美稱である。
和須例西奈布母 ナフは東國特有の打消助動詞で、東歌にも多くの例があるやうに、原語ナに行爲を表示する語尾ヒを連ねてナハ、ナフ、ナヘと活用する。此は忘れせぬよ〔右○〕といふのである。
〔大意〕月日は過ぎ行くけれども父母の玉の姿は忘れないよ
 中臣部は中臣氏の私有民部で、常陸方面にある同氏の田莊に附屬して居たものゝやうである。都賀郡――今では上下二郡に別れて居る――にもこの民部が棲息したのか、或は常陸から移住した人であつたらう。
 
4379 之良奈美乃《シラナミノ》 與曾流波麻倍爾《ヨソルハマベニ》 和可例奈波《ワカレナバ》 伊刀毛須倍奈美《イトモスベナミ》 夜多妣蘇弖布流《ヤタビソデフル》
 
(432)〔四三七九〕 しら波の よ|そ《ス》る濱べに 別れなば いともすべなみ やたび袖ふる
   右一首足利郡上丁大舍人部禰麿
 
之良奈美乃 白波ノ
與曾流波麻倍爾 ヨソ〔右△〕ルはヨス〔右○〕ルの訛。白波の寄せる濱邊にといふ意。
和可例奈波 別レナバ
伊刀毛須倍奈美 甚《イト》モスベナミ、スベは「爲方《スヘ》」の謂で、セムカタと同義である。ナミは無シト見ル(思フ)といふに同じい。
夜多妣蘇弖布流 ヤタビは度々といふほどの意。ソデ(袖)はこの場合には單に手と解してもよい。
 ――第七卷に手一字をソデと訓ませた例もある。
〔大意〕白波の來寄せる濱邊で別れるなら、甚せん方なく思うて幾度も手を振る
 どこで詠じた歌とも明示せられて居らぬが、下野は海のない國であるから、郷國を出る時の作ではなく、難波を出發する折の情趣を想像して詠じたのであらう。されば幾度も手を振つて別れる相手が誰であるかをも仄めかして居らず、防人歌らしい匂はどこにも出て居らぬのである。作者の大舍人部(既出)禰麿の本貫足利は今も現存する郡名である。
 
(433)4380 奈爾波刀乎《ナニハドヲ》 巳〔左△〕岐??弖美例婆《コギデテミレバ》 可美佐夫流《カミサブル》 伊古麻多可禰爾《イコマタカネニ》 久毛曾多奈妣久《クモゾタナビク》
 
〔四三八〇〕 なにほ|ど《ヅ》を こぎ出て見れば 神さぶる 生駒たかねに 雲ぞたなびく
  右一首梁田郡上丁大田部三成
 
奈爾波刀乎 ナニハドは難波門の謂と解せられぬこともないが、餘り聞きなれぬ表現であるから、ト〔右○〕はツ〔右○〕(津)の訛とすべきであらう。句末のヲはヨ(自)に通ずる。
巳〔右△〕岐??弖美例婆 漕ギ出テ見レバ
可美佐夫流 サブルは連體形で、原形サビは(サマ)の語根サとブル(振)の語根ビとを連結したもので、樣子をするといふ意の複合活用語尾であるから、此も神らしく振舞ふ、即ち神々しいといふのである。
伊古麻多可禰爾 生駒は大和と中河内との國境山脈の名で、タカネは高嶺の意である。
久毛曾多奈妣久 雲ゾタナビク。タナビクは棚のやうに靡くこと、即ち瀰蔓を意味する。
〔大意〕難波津から漕ぎ出して見ると、生駒の高嶺に雲が棚引いて居る
これは實景を詠じたのであらう。作者三成の部名大田部は既述の通りで〔四三七四〕、その本貫|梁田《ヤナダ》(434)郡は今の足利郡の一部分である。
 
4381 具爾具爾乃《クニグニノ》 佐伎毛利都度比《サキモリツドヒ》 布奈能里弖《フナノリテ》 和可流乎美禮婆《ワカルヲミレバ》 伊刀母須弊奈之《イトモスベナシ》
 
〔四三八一〕 くにぐにの さきもりつどひ 舟《フナ》のりて わかるを見れば いともすべなし
   右一首河内郡上丁神麻續部島麿
 
具爾具爾乃 國々ノ
佐伎毛利都度比 防人集ヒ〔四三二九〕。
布奈能里弖 フネ(舟)とノリ(乘)との複合名詞フナノリを其まゝ活用したもので、フネ〔右○〕ニノリテといふ意である。
和可流乎美禮婆 普通はワカルル〔右○〕ヲ見レバといふのであるが、此語もワスリ(忘)、カクリ(隱)と同樣に、以前は四段に活用したのかも知れぬ。其でなくとも東人は終止形と連體形との區別を重要視しなかつたやうで、他にも同樣の例が多い。それは寧ろ古語の名殘と思はれる。
伊刀母須弊奈之 甚《イト》モ爲方《スベ》ナシ〔四三七九〕。但しこれは便りないといふのである。
〔大意〕國々の防人が集り、舟に乘つて別れるのを見ると甚たよりない
(435) 作者島麿が神|麻續部《ヲミベ》と名乘つたのは、其祖先が神幣用の麻を績む民部であつたからで、郷里河内郡は今も其名を存する。
 
4382 布多富我美《フタホガミ》 阿志氣比等奈里《アシケヒトナリ》 阿多由麻比《アタユマヒ》 和我須流等伎爾《ワガスルトキニ》 佐伎母里爾佐酒《サキモリニサス》
 
〔四三八二〕 ふ|た《ト》ほが|み《ヒ》 あしけ人なり あだ|ゆ《ヤ》まひ わがする時に 防人にさす
   右一首那須郡上丁大伴部廣成
 
布多富我美 フト〔右○〕ホガヒ〔右○〕(太祝)の訛と思はれる。フト〔右○〕をフタ〔右△〕としたのは普通の音便であるが、ヒ〔右△〕がミ〔右△〕となつたとすれば、pi又はfiと發音した爲とせねばならぬ。p、f、mはいづれも唇音であるから、彼此相通ずるので、後出〔四四〇四〕にもウシカヒ〔右○〕を牛甘(甘は音カム〔右○〕)と表記してあり、天武紀にも同例がある。ホガヒは本來ホギ(祝)といふ動詞の進行格であるが、スミ(住)をスマヒともいふやうに、殆ど同義語と見なされ、ホギヒト(祝人)の義にも轉用せられるのである。其位置の高いものがフトホガヒで、大神主といふに同じい。
阿志氣比等奈里 アシケは惡シキ〔右○〕の古形。何故に太祝が惡い人であるかといふ理由は、次句以下に説明せられて居る。
(436)阿多由麻比 ユ〔右△〕マヒはヤ〔右○〕マヒ(病)の訛。アダはアザの音便で似而非なることをいふから、アダヤマヒといへは假病《ケビヤウ》の意になるのである。この作者は防人の役を免かれようとして假病をかまへたのであつた。
和我須流等伎爾 吾ガスル時ニ
佐伎母里爾佐酒 防人ニサス。即ち太祝が自分を防人に指名したといふのである。防人となつて筑紫邊まで出て行くことは人情の欲せざる所であるから、今日の甲種合格者の抽籤と同樣に、神託によつてフトホガヒ(大神主)が指名したのである。
〔大意〕フトホガヒ(太祝)は惡い人である。私が假病をかまへて居ると防人にさした
 この歌は從來甚しく曲解せられて居たが、其は初句を解讀し得なかつたのと、今一つは上代世相に關する智識が乏しかつた爲で、歴名簿はあつても若干數の上丁助丁中から防人を選拔せねばならなかつた場合には、このやうな悲喜劇もあり得たのである。其をありのまゝに歌に詠じた此素撲なる作者は、那須郡(現存)の上丁大伴部廣成といふもので、大伴は現代語でいへば軍隊の義であるから、本來は武門であるが、部制が廢せられた後歸農したものと思はれる。本卷には兩毛、武藏、下總に亙り、此部名を有するものが六名を算する。それは景行朝に東國の民を募つて膳之大伴部を置かれたからで、(437)カシハデを略して單に大伴部と稱へたのである。嵯峨朝にも尤邪志直膳〔右○〕大伴部廣勝といふものに大伴直姓を賜はつた例がある〔後紀〕。
 
4383 都乃久爾乃《ツノクニノ》 宇美能奈伎佐爾《ウミノナギサニ》 布奈餘曾比《フナヨソヒ》 多志??毛等伎爾《タシデモトキニ》 阿母我米母我母《アモガメモガモ》
 
〔四三八三〕 津の國の うみのなぎさに 舶よそひ 立し《チ》て|も《ム》ときに あ《オ》もが目もがも
   右一首鹽屋郡上丁丈部足人
 
都乃久爾乃 津ノ國は海外乃至筑紫との交通基地と定められた難波の津のある國といふ意で、その行政は京官が兼攝したから、國司とは呼ばずして攝津職と稱へ、爾餘のツ(津)と區別するために攝津の字をあて、セツツとも稱するやうになつたのであるが、口頭では遙に後世までツノクニというた。
宇美能奈伎佐爾 ナギサ(渚)はナガ(長)イソ(磯)の約轉で、之にウミ(海)といふ語を冠することによつて海濱といふ意義が判然と現はれるのである。
布奈餘曾比 舟装ヒ即ち艤装の意〔四三三〇〕、
多志??毛等伎爾 タシ〔右△〕は立チ〔右○〕、デモ〔右△〕は出ム〔右○〕の訛。立ち出でむ時にといふ意である。
(438)阿母我米母我母 ガモは既述のやうに希望表示であるから〔四三二五〕、母ガ目ヲ欲ルといふと同義で、目は容貌を代表し、後代語のマナザシと同意である。其ゆゑに目モガモと、いへば、お目にかかりたいといふことゝ了解せられるのである。
〔大意〕津の國(攝津)の海の渚(海濱)に舟よそひしで出立する時に母のお目にかゝりたい
 鹽屋郡は今もその名を存し、丈部は既述のやうに此地方に多い部名である。
 
  ○二月十六日下總國防人部領使少目從七位下縣犬養宿禰淨人進歌數二十二首。但拙劣歌者不v取2載之1
 縣犬養宿禰は大御縣に置かれた犬養部の部長で、もとは連をカバネとしたが、天武朝に宿禰に昇格したのである。光明皇后の御母三千代を出したので、此氏人は繁榮した。これも其一人であらう。
 
4384 阿加等伎乃《アカトキノ》 加波多例等枳爾《カハタレドキニ》 之麻加枳乎《シマカギヲ》 巳〔左△〕枳爾之布禰乃《コギニシフネノ》 他都枳之良受母《タツキシラズモ》
 
〔四三八四〕 あかときの 彼は誰どきに 島か|ぎ《ゲ》を こぎにし舟の たつき知らずも
   右一首助丁海上郡海上國造他田日奉直得大理
 
(439)阿加等伎乃 アカトキは今では訛つてアカツキ(曉)といふが、本來アカ(明)トキ(時)の謂である。
加波多例等枳爾 カ(彼)ハ(者)タレ(誰)トキ(時)。即ち光線が乏しくて人の面をわきまへがたく、彼は誰ぞと問はねはならぬやうな時刻をいひ、誰《タ》ソ彼《カレ》トキ(黄昏)と同義であるが、これは曉ノとあるから、アケボノ(黎明)の謂と了解せられる。
之麻加枳乎 カギ〔右△〕はカゲ〔右○〕(蔭)の訛で、島蔭をといふ意である。
巳〔右△〕枳爾之布禰乃 コギ(漕)イ〔右○〕ニシ(去)フネ(船)ノ(之)のイ音脱落。
他都枳之良受母 タツキは道しるべの木の謂であるが、タヨリ(便)の意に轉用せられたので、シラズ(不知)の次のモは感動詞である。
〔大意〕あけぼのに漕ぎ去つた舟の便を知らぬことよ
 これは早曉海岸に於て眼にふれた光景を其まゝ叙したもので、遠からず船出する防人が、自分の身につまされて便なく感じたのであらう。作者は海上郡(現存)の助丁で、海上國造他田日奉直といふ肩書をもつて居る。國造本紀にはこの國の國造の祖は、出雲系の久都伎直とあるが、正倉院所藏天平二十年の文書に海上國造他田日奉部直とあり、續紀〔三十八〕及三代實録〔四十七〕にもこの國造として池〔右△〕田(一本他〔右○〕田)日奉直といふ名が見えるから、後日故あつて交迭したか、若しくはこの姓を名乘るやうに(440)なつたのであらう。池田は和名抄にあげた同國千葉郡の郷名であるが、その故を以て他〔右○〕田を誤寫なりと斷定することは出來ぬ。 ヲサダはヲサ(長)の田の謂であるから、國造家の世襲田をこの名を以て呼び、轉じて地名並に苗字となつたことも有り得べきである。ヒマツリベは日(火)を祀る部衆の謂で、――釋紀には日祀部をヒノ〔右○〕マツリベ、日奉をとヘキと訓して居る。後者は多分日(火)ホギ(祝)の轉呼であらう――敏達朝詔命によつて設置せられた日祀部の外に、財(タカラとよみ、民を意味する)日奉造、肥後葦北日奉部〔續紀詔四八〕、佐伯日奉造〔姓氏録右京神別〕等があるから、幾多の集團に分かれて居たものと思はれる。如何なる動機でこのやうな部《トモ》が出來たか判明せぬが、光孝天皇の御代まで其名が存續した所を見ると、社會組織的の集結ではなく、信仰上の團體であつたのではあるまいか。桓武天皇の四年に正六位下から外從五位下に昇敍せられた海上國造池田(一本他田)日奉直はその名を徳刀自といひ、女性のやうであるが、この作者得大里――第十七卷〔三九二六〕にも太朝臣徳太理といふ人がある――と同じくトク(トコと訓むのであらう)といふ語を用ひて居る所を見ると、同一氏なることは疑なく、三代實録にあげたのは、大領正六位上とあり、百姓に代つて調庸を完納したから外從五位下を借《ユル》されたとあるから、名門富豪であつたとせねばならぬ。然るにこの作者が一介の防人として徴集せられた所を見ると、此ころは無位無官で、庶民に伍して居たのであらう。
 
(441)4385 由古作枳爾《ユコサキニ》 奈美奈等惠良比《ナミナトヱラヒ》 志流敝爾波《シルヘニハ》 古乎等都麻乎等《コヲラツマヲラ》 於枳弖等母枳奴《オキテラモキヌ》
 
〔四三八五〕 行こ《ク》さきに 波なとゑらひ し|る《リ》へには 兒をら妻をら おきて|ら《ナ》も來ぬ
   右一首葛餝郡和〔右△〕部|石島《イハシマ》
 
由古作枳爾 コ〔右△〕はク〔右○〕の訛で、行ク先ニといふ意。
奈美奈等惠良比 ナミナトは波之音の謂であるが、ノ(之)はナを原形とし、マナ〔右○〕コ(眼)、タナ〔右○〕ソコ(掌)の如くも用ひられるから、必しも訛音ではない。ヱラヒはヱラギ(※[口+虐]樂)の活用語尾ギをヒにかへただけで、語義には變りはなく、語根はヱミ(咲)、ヱヒ(醉)のヱ(ラは虚辭的接尾語分子)であるから、浮れさわぐといふ意に用ひられたものと思はれる。下三句と對立して居るが、趣が全く相違するから、「之に反して」といふ意を句末に加へて讀まねばならぬ。
志流敝爾波 シル〔右△〕ヘはシリ〔右○〕ヘ(後方)の訛。
古乎等都麻乎等 子ヲ妻ヲといふに同じい。ラは二つとも虚辭で、之を助詞ヲに接尾した例は、山上憶良臣の歌〔八九七〕及東歌〔三五六一〕にもある。
於枳弖等母枳奴 等をトと改訓したものもあるが、意味をなさぬのみならず、元暦校本には良〔右○〕毛と(442)表記せられて居るから、ヲの假字とせねばならぬ。但しこのラはナの訛で(ラ行ナ行相通)、置キテナモ來ヌの謂である。ナ〔右○〕モは本集には〔二八七七〕に一用例があるのみであるが、此時代の宣命には?々用ひられた感動詞である。
〔大意〕行く先には波の音がうかれ騷〔四字傍点〕ぎ、(之に反して)後方には(泣きしづむ〔三字傍点〕)子や妻を置いて來たよ
 聊か言葉が足らぬ嫌はあるが、意味はよく判り、哀の深い歌である。然るに從來これを解き得たものはなく、私も最近まで第二句と末句との意味を誤解して居たが、ナとラとの轉呼例を發見するに及び、漸く會得したのである。
 作者が私〔右○〕部――元暦校本に從ふ。刊本に和〔右△〕部とあるのは誤記である――と名乘つたのは、有力者の私民部であつたからで、播磨風土記に私部弓束及私部弓取とあるのも此類であるが、敏達朝に上記の日祀部と同時に設置せられた私部は、決して私民部公認を意味するのではなく、後宮(キサキの宮)奉仕の民部をいふものと了解せられる。それ故に姓氏録には大私部(右京皇別)として私民部と區別してあるのである。
 
4386 和加々都乃《ワガカドノ》 以都母等夜奈枳《イツモトヤナギ》 以都母以都母《イツモイツモ》 於母加古比須奈〔左△〕《オモガコヒスス》 奈理麻之都之母《ナリマシトシモ》
 
(443)〔四三八六〕 わがかどの 五本やなぎ いつもいつも おもがこひすす〔右○〕 なりま|し《ス》としも
   右一首結城郡矢作部眞長
 
和加々都乃 都をヅと改訓してドの訛とするものもあるが、此字は本集に於てはトの假字にも用ひられた例があり〔三五〇八〕、末句の都之母もトシモと訓まねばならぬから、舊訓に從ふべきである。我ガ門ノといふ意。
以都母等夜奈枳 五本柳の意。これは實在のものをかりて次句の序としたのであるが、門前の風光を瞼に描いて詠歎した氣もちがよく表はれて居る。
以都母以都母 何時モ何時モ
於母加古比須奈〔右△〕 奈の字は元暦校本以下には々〔右○〕としてある。舊訓もススとある所を見ると、須々〔右○〕奈理とつゞけてあつた々を、誤つて奈の下に移し、轉寫の際さかしらに本字に改めたのであらう。コヒススは戀スを二つ重ねたのと同一効力で、こひに戀ふことをいふ。オモガ〔右○〕はヤマト歌ならば母ヲ〔右○〕といふべき所であるが、現代語に於で茶ガ〔右○〕飲ミタイ、痛ガ〔右○〕忘レラレルなどいふのと同じ語法で、戀するものが作者自身であることは、推量法を用ひなかつたことによつても想定せられる。助語の用途はヤマト言葉に在つては此ころ既に大かた固定して居たけれども、本來個々の格を表(444)示する爲に案出せられたものではなく、殊にガ(ノ)の役目はその前後の語が同一群に屬することを示すにあつたから、母ガというても動詞コヒスの限定的表示――換言すれば何を戀するかを限定する役目――と了解せられたから、アヅマ人は舊により此やうな表現法を用ひたのであらう。〔四四〇七〕にも類例がある。
奈理麻之都之母 上のシ〔右△〕はス〔右○〕の訛。都は初句に述べたやうにト〔右○〕の假字で、自分の留守中に母のナリ(業)即ちナリハヒ〔四三六四〕が益ストシモといふ意である。シモは指定助語シに感動詞モをそへたもので、コソと効力を同じうし(詞の玉緒五卷)、母の仕事が益すとこそといふのである。
〔大意〕自分の家の門の五本柳(を思ひ出すにつけても)、いつも何時も母が戀しい。(自分の留守中)仕事が益すとこそ(思へば)
この歌は從來母がナリ(業)をなされながら、自分を何時も戀しがつてござらうといふ意と豫斷し、其に都合のよいやうに語義を牽強し、若しくは訓みかへて居たのであるが、四五句の間に々〔右○〕の置き所が違つて居る外には誤記がないものとすれば、上述のやうに解釋するの外はない。スをシと訛つた例はアヅマ歌にも〔三四三一〕〔三四四六〕〔三四六九〕の三首があるのであるから、若し第三句の加〔右○〕が乎であつたら、恐らくは誰でも私と同一の解釋を下したであらう。作者は矢を矧ぐことを職業としたヤハギ(445)ベ(矢作部)の後であつたから、之を苗字としたものと思はれる。
 
4387 知波乃奴乃《チバノヌノ》 古乃弖加之波能《コノテカシハノ》 保保麻例等《ホホマレド》 阿夜爾加奈之美《アヤニカナシミ》 於枳弖他加枳奴《オキテタガキヌ》
 
〔四三八七〕 ちばの野の このてかしはの ほほまれど あやにかなしみ おきて誰が來ぬ
   右一首千葉郡大田部足人
 
知波乃奴乃 チバ(千葉)は作者自身の本郷である。
古乃弖加之波能 コノテカシハは前編〔三八三六〕に論述したやうに、トチ(七葉樹)のことで、その葉が小兒の手に似て居るから此名を負うたのであるが、之は少女に況へたのである。
保保麻例等 ホホミ(莟)アレドの連約。音便によつてフフミといふのが普通であるが、本來ホ(穗)のやうに見えるといふ意のホミの疊頭語であるから、ホホミを原形とせねばならぬ。
阿夜爾加奈之美 アヤニはイヤ(彌)ニの轉呼で、愈益々といふに同じい。此カナシミは可愛く思うてといふ意である。
於枳弖他加枳奴 オキは久美度邇|興《オコシ》〔記、神代卷〕、母與子|犯《オカス》罪〔大祓祝詞〕のオコシ又はオカシ、並にオコナヒ(行)の語根で、行爲の意から交接の義をも生じたのである。其は房事を行ふことを單にス(446)ルといふ――皇極紀の童謠にも例がある――のと趣を同じうするもので、東國に此ころ迄この古語が殘つて居たものと思はれる。オコ(?)したのは勿論作者自身であるが、わざと誰カとおぼめかしたので、その反面には頗る得意の色が見える。蕾の花を散して來たのは誰かといふのであるが、此句も從來解き得たものはなく、字をかへて牽強して居た。
〔大意〕千葉の野の兒の手柏のやうな(いたいけな娘を)まだ蕾であるけれども、いや益に可愛くおもうて手折つて來たのは誰だらう
右の如く解すれば、聊か粗野ではあるが、よく列かる歌で、殊に末句の言ひまはしが面白い。オキテを「置きて」の意としては如何に字をがへても第三句の反接表示がきかなくなる。作者については別にいふべきことはなく、大田部は既に〔四三七四〕に述べた通りである。
 
4388 多妣等弊等《タビトヘド》 麻多妣爾奈理奴《マタビニナリヌ》 以弊乃母加《イヘノモガ》 枳世之巳〔左△〕呂母爾《キセシコロモニ》 阿加都枳爾迦理《アカツキニケリ》
 
〔四三八八〕 たびとへど ま旅になりぬ 家のもが きせしころもに 垢つきにけり
   右一首占部虫麿
 
多妣等弊等 旅トイ〔右○〕ヘドのイ音脱落。第四句にも同例がある。一口にタビといふけれどもといふ意(447)味である〔四三三七〕。
麻多妣爾奈理奴 眞旅ニナリヌ、即ち本式の旅になつたといふ意。
以弊乃母加 家ノイモガのイ音脱落。
枳世之巳〔右△〕呂母爾 著セシ衣ニ
阿加都枳爾迦理 迦は通例カの假字に用ひられるが、本卷には其用例はなく、且ケといふ音もあるのであるから、強ひて舊訓を改めてカとよみ、さてケ〔右○〕の訛なりと見なす必要もあるまい。ツキニケリはついてしまうたといふことである。
〔大意〕(一口に)旅とはいふが、本ものゝ旅になつた。家の女房が著せ(てくれ)た衣に垢がついてしまうた
作者の郡名をあげて居らぬのは、この國の歌としては異例であるが、或は香取神社の卜部と了解せられたのかも知れぬ。
 
4389 志保不〓乃《シホブネノ》 弊古祖志良奈美《ヘコソシラナミ》 爾波志久母《ニハシクモ》 於不世他麻保加《オフセタマホカ》 於母波弊奈久爾《オモハヘナクニ》
 
〔四三八九〕 しほ舟の へこ|そ《ス》白なみ にはしくも おふせたま|ほ《フ》か 思はへなくに
(448)   右一首印波郡丈部直大歳
 
志保不〓乃 シホブネは〔四三六八〕に述べたやうに、渡海船のことである。
弊古祖志良奈美 舳《ヘ》コス(越)白波の訛。次句ニハシクの譬で、舟に打込む波は突如たるものなるが故である。
爾波志久母 ニハはニハカ(俄)の語根で、形容詞活用に從へばニハシ、ニハシキ、ニハシクとなるのである。突然にもといふ意。
於不世他麻保加 タマホ〔右△〕カは勿論給フ〔右○〕カの訛であるが、オフセ(課)は必しも訛ではなく、オヒ(負)の使動形オハ〔右○〕セの音便で、オホ〔右○〕セと通用するのである。――オホ(大)をオフといふのと同例――これは防人を課せたまふ哉といふ意、カは感動詞である。
於母波弊奈久爾 オモヒ(思)に助動詞ハヒを連ねてオモハヒとすることは可能で、その他動詞形はオモハヘである。ヤマト言葉には例がないが、東國では之を用ひたのか、或はこの作者獨特の言葉づかひか判明しない。ナクは打消の原語ナ(無)に「事」「物」を意味する語分子クを結びつけたものであるから、「(其を)思はないのに」即ち「思ひも寄らないのに」といふ意になるのである。
〔大意〕しほ舟(渡海船)の舳を越す白波のやうに、突然にも課せられるよ。思ひも寄らないのに
(449) 作者大歳は丈部直とあるから、既記の丈部造〔四三二八〕と同樣に、この部族の名門であつたのであらう。
 
4390 牟浪他麻乃《ムバタマノ》 久留爾久枳作之《クルニクギサシ》 加多米等之《カタメトシ》 以母加去去里波《イモガココリハ》 阿用久奈米加母《アヨクナメカモ》
 
〔四三九〇〕 むばたまの くるに釘さし かため|と《テ》し いもがここ|り《ロ》は あ|よ《ヤ》く|な《アラ》めかも
   右一首?島郡刑部志加麿
 
牟浪他麻乃 略解説の如くムバ〔右○〕タマノと訓むのであらう。浪にはハの音はなく、神田本には良〔右○〕とさへ書かれて居るのであるが、ムラ〔右○〕タマでは意が通ぜぬから、同じくナミと訓む字なるが故に、波〔右○〕を浪〔右△〕と取ちがへたものとすべきである。ムバタマはヌ〔右○〕バタマの音便で、クロ(黒)の枕詞であるから〔前篇三八〇五〕、クルにも轉用せられたのである。
久留爾久枳作之 クギはクキ(莖)の分化語で、こゝでは戸のオトシ(栓)を意味し、之をさす穴をクルと表現したのである。從來クルをクルル(枢)と混同したやうであるが、クルルは「廻」を意味するクルの疊尾語で、戸を開け閉てするしかけ、即ちトマラ(突子)とトボソ(戸臍)とを併稱し、時としては突子だけをいふことがあつても、穴の意はないから、恐らくは之はヤップ語のクル(穴)(450)と同語で、アヅマ人がその本土から將來したのが保存せられて居たのであらう。クル(穴)にクギサシは、開かぬやうに栓をすることをいふのである。
加多米等之 固メテ〔右○〕シの訛。戸をさし固めたといふ意に、固くいひかはしたことを言ひかけたのである。
以母加去去里波 ココリはココロ(心)の訛で、女の心はといふ意。
阿用久奈米加母 アヨ〔右△〕はアヤ〔右○〕の訛音。東國ではアヤシ(怪)をアヤキ、アヤクと活用したものと思はれる。ナメはアラメの約ラメの轉訛で、カモは疑問表示であるが、反語的に用ひられたので、ヤマト言葉に直すと、怪シ〔右○〕クアラ〔二字右○〕メヤ〔右○〕モとなるのである。
〔大意〕穴に栓《クギ》をさしたやうに契り固めた女の心は怪しくあらうや(いや怪しくない)
 作者の部名刑部については既に〔四三三九〕に述べた。
 
4391 久爾具爾乃《クニグニノ》 夜之呂乃加美爾《ヤシロノカミニ》 奴佐麻都理《ヌサマツリ》 阿加古比須奈牟《アガコヒスナム》 伊母賀加奈志作《イモガカナシサ》
 
〔四三九一〕 くにぐにの 社の神に ぬさまつり あが戀ひすな|む《ル》妹がかなしき
   右一首結城郡忍海部五百麿
 
(451)久爾具爾乃 國々ノ
夜之呂乃加美爾 社ノ神ニ。ヤシロ(屋代)は家のシルシといふほどの意に過ぎず、神を祀るために宏壯な殿堂を建立するやうになつたのは後世のことで、上古はシキ(石城)、ヒモロキ(神籬)乃至は一個の木石を以て標識したのである。神木は或る年數を經ると枯れてしまふが、石は不易のものであるから、今も諸方に石神《イシガミ》として殘つて居るのである。佛教の渡來後その堂塔伽藍に倣うて神社もまた往々輪奐の美を競ふやうになつた一方には、石神を音讀してシヤクジと稱へ、其から杓子に渡りをつけてオシヤモジサマと稱し、飯匙を崇拜するものをすら生じたが、斯の如きは沙汰の限りと云はねばならぬ。こゝにいふ社の神は決して其やうないかさまものではなく、諸地方の國つ神を意味するのである。
奴佐麻都理 ヌサは野麻《ヌサ》の謂であるが、神幣に供することが多かつたので幣の義にも轉用したのである。奉納をマツリといふのは、タテマツリ又はオキマツリの略である。
阿加古比須奈牟 請(祈)と戀とは國語ではいづれもコヒであるから言ひかけたので、スナム〔右△〕はスナル〔右○〕の訛である。mとrとは直接相通し得ぬ音であるが、ムは後世のやうに此ころ既にンに近く發音せられ、ルはンと變化するから、之を牟と表記したのであらう。――ンに相當する漢字はない(452)――從來之をスラ〔右○〕ムの訛としたが、其は推量法で、ワガ〔右○〕とはいへぬから、加を爾〔右△〕の誤寫なりとする説さへ生れた。しかし其では郷里に留守して居る筈の女房が諸國遍路に出たやうに聞えて都合がわるいので、初句の國々は處々の意なりとするに至りては窮したりといふべきである。クニは必しも大行政區劃の國(孝徳朝制定)には限らぬけれども、一郷内もしくは女の足のとゞく處々をクニグニと表現するやうなことはあり得ぬ。我コヒスナル〔右○〕の訛とすれば下の句ともよくつゞき、歌意が明白になるのである。
伊母賀加奈志作 妹ガカナシサ、即ち自分が戀する女がいとしいことよといふのである。
〔大意〕(過ぎ行く)國々の社の神に幣を奉納して自分が戀(祈)する女のいとしさよ
 作者の部名忍海はオシ(制)ウミ(海)即ち海上警察部といふ意であるが、海から遠い結城郡に往昔この任務に從事したものがあつたと思はれぬから、多分他の地方から移住したものが舊部名を保持したのであらう。
 
4392 阿米都之乃《アメツシノ》 以都例乃可美乎《イヅレノカミヲ》 以乃良波加《イノラバカ》 有都久之波波爾《ウツクシハハニ》 麻多巳〔左△〕等刀波牟《マタコトトハム》
 
〔四三九二〕 あめつ|し《チ》の いづれの神を いのらばか うつくし母に またこと問はむ
(453)   右一首埴生郡大伴部麻與佐
 
阿米都之乃 ツシ〔右△〕はツチ〔右○〕(地)の訛。天地ノといふ意。
以都例乃可美乎 孰レノ神ヲ
以乃良波加 カは感動詞で、天神地祇のどれを祭るならといふ意である。
有都久之波波爾 このウツクシは原義によりウツ(全)クシ(奇)の意に用ひられたので、「美」または愛の意味ではあるまい。「大切な」と意譯して置く。これは形容詞活用の原形なるが故に、複合名詞の構成分子として用ひられたので、カナシ妹、クハシ女等と同例に屬する。
麻多巳〔右△〕等刀波牟 復言トハム、即ち再び物いふであらうかといふ意。
〔大意〕天地のどの神に祈つたら、大切な母に再び物いふ(ことが出來る)であらうか
 作者は埴生(和名抄には波牟布と訓してある。今の印旛郡の一部分)郡の人で、大伴部員とある、麻與佐といふ名は恐らくは眞|夜邊《ヨサ》の謂であらう。
 
於保伎美能《オホキミノ》 美許等爾作例波《ミコトニサレバ》 知知波波乎《チチハハヲ》 以波比弊等於枳弖《イハヒベトオキテ》 麻爲弖枳麻〔左△〕之乎《マヰデキニシヲ》
 
〔四三九三〕 おほきみの みことに|さ《シア》れば 父母をいはひべと置きて まゐできに〔右○〕しを
(454)   右一首結城郡雀部廣島
 
於保伎美能 大君ノ
美許等爾作例波 ミコト(命)ニシアレバの連呼(i音脱落)。シは張意助語である。
知知波波乎 父母ヲ
以波比弊等於枳弖 イハヒ(齋)ヘ(瓮)とイハヒ〔三字傍点〕置キテといふべきを省言したのである。一風かはつた言ひ廻しであるが、作者の意は、齋瓮即ち神酒を盛つた甕《カメ》をすゑて神を齋《イハ》ふやうに、父母を祝福してといふのであらう。
麻爲弖枳麻〔右△〕之乎 キ〔右△〕マシといふのは異格であるから、――コ〔右○〕マシであらねばならぬ――麻〔右△〕は元暦校本等に爾〔右○〕とあるに從ひ、來ニ〔右○〕シヲと讀むべきである。マヰデのマヰはミ(御)ヰ(座)の轉呼であるが、之にイリ(入)を連ねたマヰリは參入の義となり、イデ(出)を結びつけたマヰデは拜退の意に用ひられる。句末のヲはヨに通ずる感動詞と解すべきで、〔四三七〇〕と同例である。
〔大意〕天皇の勅命であるから、父母を齋瓮とすゑて神を祭するやうに祝福して自分は來たよ
 作者はササキ(陵)部――雀は借字――即ち陵戸の民である。結城郡は上毛野公の占住地であつたから、其遠祖の陸墓を守るためにササキ部が置かれたことはあり得る。イハヒベト置キテなどいふ言葉(455)を用ひた所を見ると、民部は既に解體して居たにしても、作者廣成は尚陵祭に携はつて居たのかも知れぬ。但し後の陵戸のやうに賤民とは見られなかつたものと思はれる。
 
4394 於保伎美能《オホキミノ》 美巳〔左△〕等加之古美《ミコトカシコミ》 由美乃美仁《ユミノミニ》 佐尼加和多良牟《サネカワタラム》 奈賀氣己已〔左△〕用乎《ナガキコノヨヲ》
 
〔四三九四〕 おほ君の みことかしこみ ゆ|み《メ》のみに さ寢かわたらむ 長きこの夜を
   右一首相馬郡大伴部子羊
 
於保伎美能 大君ノ
美巳〔右△〕等加之古美 命惶ミ〔四三二八〕。
由美乃美仁 ユメ〔右○〕ノミニの訛。
佐尼加和多良牟 サは接頭語分子で、夢のみに寢て過すものかといふ意である。
奈賀氣已〔右△〕乃用乎 氣がキの假字であることは既に述べた〔四三四二〕。長キコノ夜ヲサネカ渡ラムといふべきを倒敍したのである。
〔大意〕天皇の勅命を惶み、夢だけに(妻と)寢て過さうか。長いこの夜を
 相馬郡は後世利根川を距てゝ南北二郡にわかれ、近年南相馬郡は東葛飾郡に合併したので、今では(456)北相馬郡だけが殘つて居る。作者の名乘つた大伴部については既に〔四三八二〕に述べた。
 以上十一首中先學が正解し得なかつた歌が半數を占めて居るのは、地方人の思想と表現樣式とが有のまゝに出て居るからで、ヤマト歌を標準として強ひて釋明しようとすると牽強に陷るのである。其だけに言語學上にも民族的にも吾人に多くの資料を供給するものと云はねばならぬ。下總の民だけが特に都會風に染みなかつたといふのではなく、アヅマ人の歌は大かたこのやうなものであつたのであらうが、其では餘り鄙びて居ると考へて、他の國の進達者は多少筆を加へたのではあるまいか。此やうな賢しらは今の役人や教師たちも、折々敢てすることである。
 
  ○二月二十二日信濃國防人部領使上v道得v病不v來。進歌數十二首。但拙劣歌者不v取2載之1
 
 右によれば防人歌は大體在國中または旅中に取まとめられたものとすべきで、部領使が引率すると否とに拘はらず進達せられたものと思はれる。後掲の武藏歌に家人の作の多いのも此事情によるのであらう。
 
4401 可良巳〔左△〕呂茂《カラコロモ》 須曾爾等里都伎《スソニトリツキ》 奈苦古良乎《ナクコラヲ》 意伎弖曾伎怒也《オキテゾキヌヤ》 意母奈之爾志弖《オモナシニシテ》
 
(457)〔四四〇一〕 から衣 すそにとりつき 泣く子らを 置きてぞきぬや おもなしにして
   右一首國造少〔右△〕縣郡他田舍人大島
 
 可良巳〔右△〕呂茂 カラコロモ(韓衣)は、從來餘り注意を惹かなかつたやうであるが、東歌〔三四八二〕に「すそのうちかへあはねども〔五字傍点〕(あはなへば)」と詠まれて居る所を見ると、裾がちらほら開くやうなものとせねばならぬから、今日我々の著て居るキモノの類と思はれる。上古の衣服はソ(上衣)とモ(裳)との二部分品より成り、モは腰卷のやうなもので、裾があはぬ筈はないから、之と違つた制式のものであらねばならない。コロモ(著ル裳)といふ名から判斷するに、上下一つゞきのものを謂ひ、朝鮮の外套|※[ハングル]《ツルマキ》から變化したので、カラ〔二字右○〕コロモと稱へたのであらう。――唐〔右△〕衣の意とするは非。
 須曾爾等里都伎 裾ニ取ツキ
 奈苦古良乎 泣ク子ラヲ。このコラは複數と了解せられる。
 意伎弖曾伎怒也 ヤは感動詞で、置いて來たといふ意。ゾは強意助語である。
 意母奈之爾志弖 母なしでといふのであるが、此オモ(母)は勿論子どもの母、即ち自分の妻の謂である。母がないので殊さら父の出發を悲しみ、著物の裾にとりついて泣く子どもを振り放して、(458)後に殘して來たといふので、哀の深い歌である。
〔大意〕韓衣の裾にとりついて泣く子どもを置いて來たま。母親もなくして
 作者は小〔右○〕(少〔右△〕は誤記)縣郡(現存)の人で、國造とあるから、次の歌主の主帳と同じく常人ではあるまい。或は部領使に代つて此國の防人を引率した人で、郡領であつたかも知れぬ。他田は〔四三七四〕に述べたやうに長《ヲサ》田の謂で、この國造の私有田畑のことであるが、轉じて地名にも苗字にも用ひられたのである。ツハモノノトネリ(兵衛)として在番したこともあるので、歸郷後トネリ〔三字傍点〕を通稱としたのであらう。其は後日の何兵衛、何衛門と趣を同じうするものである。
 
知波夜布留《チハヤブル》 賀美乃美佐賀爾《カミノミサカニ》 怒佐麻都里《ヌサマツリ》 伊波負伊能知波《イハフイノチハ》 意毛知知我多米《オモチチガタメ》
 
〔四四〇二〕 ちはやぶる 神のみ坂に ぬきまつり いはふいのちほ おも父がため
   右一首主帳埴科郡神人部子忍男
 
知波夜布留 チ(靈)ハヤ(捷)ブル(振)の意を以て神の枕詞として用ひられたのである。
賀美乃美佐賀爾 神ノ御坂は當國下伊那郡から筑摩郡南端に越える峠に其名を留めて居るが、これは必しも其地なることを要せず、道中に在る神を祭つてある峠をいふものと解してもよい。
(459)怒佐麻都里 弊奉り〔四三九一〕
伊波負伊能知波 イハフは祝福の意〔四三五〇〕、生命長かれと祈るのはといふのである。
意毛知知我多米 母父ノ爲
〔大意〕神の御坂に幣を奉り、(自分の)生命を祝福するのは父母のため(である)
 作者は主帳とあるから、前の歌の國造と同じく、防人を護送する吏員であらねばならぬ。神人は姓氏録に大國主命五世の孫大田田根子命の後(攝津)、天御中主神の裔可比良命の後(河内)、高麗國人許利都の後(和泉未定)といふ三氏をあげ、ミワヒトと訓ませてあるが、此は必しも其一つと同系であらねばならぬ理由はなく、埴科郡のある舊社の神職で、カムトモと稱へたのかも知れぬ。オシヲ(忍男)は首領の謂で、その子なるが故に子忍男と呼ばれたのであらう。
 
4403 意保伎美能《オホキミノ》 美巳〔左△〕等可之古美《ミコトカシコミ》 阿乎久牟乃《アヲクムノ》 多奈妣久夜麻乎《タナビクヤマヲ》 古江弖伎恕〔左△〕如牟《コエテキヌカム》
 
〔四四〇三〕 おほきみの みこと惶み あをく|む《モ》の たなびく山を 越えて來ぬか|む《モ》
   右一首少〔右△〕長谷部笠磨
 
意保伎美能 大君ノ(既出)
(460)美巳〔右△〕等可之古美 命惶ミ(既出)
阿乎久牟乃 アヲクム〔右△〕はアヲクモ〔右○〕(青雲)の訛で、青天の雲をいふ。
多奈妣久夜麻乎 棚曳ク山ヲ〔四三八〇〕
古江弖伎恕〔右△〕加牟 恕は元暦校本に怒〔右○〕とあるに從ふ。句尾の牟は第三句と同じくモ〔右○〕の訛で、カモは感動詞であるから、來ヌル〔右○〕カモといふのが普通であるが、?々述べたやうにアヅマ人は尚未だ終止形と連體形とを區別しなかつたのである。
〔大意〕勅命を惶み、青雲のたなびく(高い)山を越えて來たよ
 小〔右○〕長谷部(少〔右△〕は誤記であらう)は武烈天皇の御子代部であるが、故あつてこの國に移在したのであらう。此人は尋常の防人で、出身郡名を示されて居らぬのは逸脱と思はれる。
 
  ○二月二十三日下〔右△〕野國防人部領使大目正六位下上毛野君駿河進歌數十二首。但拙劣歌者不v取2載之1
 
 下〔右△〕野は上〔右○〕野(元暦校本)の誤記である。上毛野君は崇神皇子豐城入彦命の後で、東國隨一の名門であるが、宗家は夙に京師に轉任して上毛野朝臣〔二字右○〕と稱し、地方在住の支族のみがキミ(公)といふカバネを(461)保留したものゝやうである。目《サクワン》は國衙の下僚で、少初位乃至從八位下の官階であるが〔官位令〕、この人が正六位上の冠を有したのは、常陸の大目息長眞人と同じく、名流なるが故であらう。官歴については所見がない。
 
4404 奈爾波治乎《ナニハヂヲ》 由伎弖久麻弖等《ユキテクマデト》 和藝毛古賀《ワギモコガ》 都氣之非毛我乎《ツケシヒモガヲ》 多延爾氣流可母《タエニケルカモ》
〔四四〇四〕 なにはぢを 行きてくまでと 吾妹子が つけし紐が緒 たえにけるかも
   右一首助丁上毛野牛甘
 
奈爾波治乎 難波道ヲ
由伎弖久麻弖等 行キテ來《ク》は行きて歸り來ることであるが、首句に難波道ヲとあるから、この作者は防人ではなく、部領使の仕丁であつたのであらう。
和藝毛古賀 吾妹子ガ
都氣之非毛我乎 ヒモは上衣の胸さきをかき合はせるために縫ひつけたものをいひ、本來ヒメ(秘)ヲ(賭)の約であるから、ヒモノヲ〔右○〕というては重複の嫌があるが、三日(ノ)日などゝ云ふと同じ語法である。
(462)多延爾氣流可母 斷エニケルカモ。衣の紐は自身又は配偶者の外は手を觸れることが出來ぬものとせられて居たので、其が切れたといふことは戀愛關係の異變の兆と考へられたのである。これは作者自身が浮氣をした爲とも、留守の女の心がはりとも解せられるが、歌の趣からいふと、偶然の出來事を氣にかけて詠じたものゝやうである。
〔大意〕難波道に行つて(歸り)來るまで(解くなというて)私の女のつけ(てくれ)た衣の紐がきれてしまうたよ
作者は上毛野公の末流で、カバネを失うたか、若しくは公《キミ》家の部衆であつたが故に上毛野を苗字としたものと思はれる。牛廿《ウシカヒ》といふ名が身分に因むものとすれば、農家であつたとすべきであらう。
 
4405 和我伊母古我《ワガイモコガ》 志濃比爾西餘等《シノビニセヨト》 都氣志比毛《ツケシヒモ》 伊刀爾奈流等母《イトニナルトモ》 和波等可自等余《ワハトカジトヨ》
 
〔四四〇五〕 わがいもこが しのびにせよと つけし紐 いとになるとも わは解かじとよ
   右一首朝倉益人
 
和我伊母古我 ワガ(吾)イモ(妹)コ(子)の謂であるが、前の歌をはじめ普通はワギモコと約するのに、何故に六音となるを厭はず、ワガイモコと重々しく唱へたのか判明せぬ。或はこの作者一個(463)人の口僻かも知れない。
志濃比爾西餘等 シノビ(偲)はこの時代のヤマト言葉ではシヌ〔右○〕ビと發音したやうであるが、必しも訛ではなく、このころは大和でもヌはノと轉呼せられて居たのである。シはシタ又はシモ(下)の語根で、下に延フ即ちシタバヘと同義を以てシノ(ヌ)ビといふ語を生じたので、後掲〔四四二七〕にも例がある。
都氣志比毛 附ケシ紐。ヒモについては前の歌に述べた。
伊刀爾奈流等母 絲になるともとある所を見ると、此紐は布で作つた所謂クケ紐で、其|緯《ヨコイト》が切れて經線《タツイト》のみとなつてもといふのであらう。
和波等可自等余 吾ハ解カジト、即ち自分は解くまいとといふ意で、「思ふ」を略したのである。其は旅に出ても決して浮氣はしまいといふことで、ヨは感動詞であるが、ト思フヨといふのであるから、ちと危い決心である。
〔大意〕私の女が思ひ出にせよと(いうて)つけてくれた紐は、よし經線《タツイト》ばかりになつても自分は解くまいと思ふよ
作者の苗字の朝倉は和名抄に那波郡朝倉(阿佐久良」とある地、即ち今の勢多郡上川淵村大字朝倉から(464)出たのであらう。
 
4406 和我伊波呂爾《ワガイハロニ》 由加毛比等母我《ユカモヒトモガ》 久住麻久良《クサマクラ》 多妣波久流之等《タビハクルシト》 都氣夜良麻久母《ツゲヤラマクモ》
 
〔四四〇六〕 わがい|ほ《ヘ》ろに 行か|も《ム》人もが くさまくら 旅はくるしと 告げやらまくも
   右一首大伴部節麿
 
和我伊波呂爾 イハ〔右△〕はイヘ〔右○〕(家)の訛音で、上掲〔四三七五〕の外に次の武藏歌にも例がある。ロは野ロ、夜ロ、嶺ロ等の如くアヅマ言葉の慣用接尾語分子であるが、一音が過剰になるにも拘はらず之を添へたのは、家郷〔右○〕の意を示す爲と思はれるから、或は複數表示のラの轉化かも知れぬ。
由加毛比等母我 ユカモ〔右△〕はユカム〔右○〕(將往)の訛で、之も既に多くの例があつた。行カム人モガは行く人があつて欲しいといふ意〔四三二七〕。
久佐麻久良 草枕、旅の枕詞。
多妣波久流之等 旅ハ苦シト
都氣夜良麻久母 告ゲヤラマクは告げやらむこと〔二字右○〕いふ意。モは感動詞である。
〔大意〕自分の家郷に行く人があつて欲しい。旅は苦しいと(家人に)いひ遣はしたいことよ
(465)作者の部名については既に述べた〔四三八二〕。
 
4407 比奈久母理《ヒナグモリ》 宇須比乃佐可乎《ウスヒノサカヲ》 古延志太爾《コエシダニ》 伊毛賀古比之久《イモガコヒシク》 和須良延奴可母《ワスラエヌカモ》
 
〔四四〇七〕 ひなぐもり うすひの坂を 越えしだに いもが戀しく 忘らえぬかも
   右一首池田部子磐前
 
比奈久母理 ヒ(日)ナ(之)クモリ(曇)の謂で、實景であると同時に、ウス(薄)ヒ(日)の意を以て、碓氷にいひかけたのである。
宇須比乃佐可乎 ウスヒの坂は今の碓井峠をいふ。それは決して訛ではなく、ウスはウサ(儲)の音便、ヒは水の意の古言で、峠に清水を湛へた所があつたので、其水をウスヒ、其堰をウスヰと稱へたのである。
古延志太爾 シダは既述の如く「時」の意の名詞形で〔四三六七〕、コユルシダというてもよいが、是は複合名詞として用ひたので、現代の中國方言に於て行キシナ(シナはシダの訛)、歸りシナなどいふのと同一構成である。
伊毛賀古比之久 この句と次句と併はせて口語に直すと、「女房が〔右○〕戀ひしくて忘れられないよ」とい(466)ふ意になるが、ヤマト歌ではこのやうな場合には妹ヲ〔右○〕戀シミ〔右○〕といふのが例で、妹ガコヒシクでは片言のやうに聞える、アヅマ人の歌であるからといへば其までゝあるが、再考するにこの妹ガは上掲〔四三八六〕と同じく、忘ラエヌの限定的表現(目的語)で、妹ヲバ(自分ガ)戀シク忘ラレヌといふことであらう。記の如く口語でも「女房が〔右○〕こひしくて」といふのは、此古い語法の名殘と思はれる。
和須良延奴可母 忘ラエヌは忘ラレ〔右○〕ヌ即ち口語の忘れられ〔二字傍点〕ぬに同じく、可能法の打消で、カモは複合感動詞である。
〔大意〕日が曇り、碓氷の坂を越える時は、女房が戀しく(て)忘れられないよ
 此歌によれば一行は碓井峠を越え、信濃を横ぎり、木曾路を經て陸行したものと思はれる。作者の池田部は元暦校本には他〔右△〕田とあるが、これは和名抄に那波郡池田〔二字右○〕郷とある部落の人と推定せられるから、池〔右○〕田を正しとすべきである。子磐前は上掲子羊〔四三九四〕、子忍男〔四四〇二〕と同じく、父の名を繼承したが故に子を冠して區別したのであらう。
 
   ○二月二十日武藏國部領防人使|掾《マツリゴトヒト》正六位上安曇宿禰三國進歌數二十首。但拙劣歌(467)者不v取2載之1
 
安曇宿禰はアマ系の名門で、應神朝の人大濱宿禰を始祖とする。三國は寶字八年に從五位下に昇敍せられた人である。
 
4413 麻久良多知《マクラタチ》 巳〔左△〕志爾等里波伎《コシニトリハキ》 麻可奈之伎《マカナシキ》 西呂我馬伎巳〔左△〕無《セロガマキコム》 都久乃之良奈久《ツクノシラナク》
 
〔四四一三〕 まくらたち 腰にとりはき まかなしき せろがまきこむ つ|く《キ》のしらなく
   右一首上丁那珂郡檜前舍人石前之妻大伴眞足母〔右△〕
 
麻久良多知 マクラはマ(目)キリ(切)の轉呼で、タチの原義は「斷」であるから、彫刻に用ひる刃物をマクラタチと稱したのであらうが、東國では男子の必携品として腰に佩き、護身の用にも供したものと思はれる。――アイヌ人は之をマキリと稱し、今も常に携帶する――眞淵は之をマグロ(眞黒)太刀の訛として衣服令に見える烏装横刀(クロツクリのタチ)の謂としたが、其は兵衛の禮裳に佩びるもので、防人が歸郷の装束とは思はれず、妻の許に通ふのに甲冑をつけて行くものもなかつた筈である。又枕太刀と解するのは更に無稽で、枕許に置けばこそ枕太刀ともいへ、之を腰に佩びたらたゞの太刀である。例へばマクラカタナを懷中した場合にはフトコロ〔四字傍点〕カタナという(468)て枕刀と稱へるものはない。
巳〔右△〕志爾等里波伎 腰ニ取佩キ。トリは準接頭語で、腰に佩きといふと大差はない。
 麻可奈之伎 マは接頭語分子で、カナシキは?々述べたやうに「いとしい」といふことである。
西呂我馬伎巳〔右△〕無 セは男性稱呼、ロは接尾語分子ラの變形で、後記の如くセナ〔右○〕ともいひ、今も東國では男子の意に用ひる。マキはムキ(向)の轉呼で、マカリ(マキイリ)、マヰデ(マキイデ)の形を以て?々現はれるが、此は向ひ來るといふことで、歸り來るといふ意に用ひられたのである。
都久乃之良奈久 ツクはツキ〔右○〕(暦月)の訛。シラナクは知らぬことゝいふ意で、感動の意を含むのである。即ち還つて來る目の分らぬことよといふのであるが、語音數の關係上ヒをツクと代へたのである。
〔大意〕マクラタチを腰に佩びていとしい殿御の歸つて來る月のわからぬことよ
 作者大伴〔四三八二〕の眞足女――元暦校本に從ふ。刊本に母〔右△〕とあるのは誤記――の夫、檜前《ヒノクマ》舍人|石前《イハサキ》は那珂郡(今の兒玉郡東部)の人で、兵部式に武藏國檜前馬牧とある地から出身したツハモノノトネリ(兵衛)であつたから、この肩書を用ひたのであらう。檜前の所在は判明せぬが、仁明朝に武藏國加美郡(今の兒玉郡西部)の人、土師氏同祖、正七位檜前舍人直由加麻呂等十人が左京に改貫したとある(469)から(民族誌による)、この地方に存したものとせねばならぬ。外に天武朝に造から昇格した檜前連といふ氏もあるが、姓氏録によれば其は尾張連家から分れたもので、全然別系である。此やうに夫婦姓を異にするのは、假に入嫁したとしても入籍といふことは行はれなかつたからで、古い結婚生活の名殘である。それは京畿に於ても同樣であつたから、橘三千代夫人は不比等の子を生んでも藤原朝臣とは名乘らず、坂上郎女は藤原麻呂の妻であつた時も大伴を氏としたのである。
 
4414 於保伎美乃《オホキミノ》 美已〔左△〕等可之古美《ミコトカシコミ》 宇都久之氣《ウツクシケ》 麻古我弖波奈禮《マコガテハナレ》 之未豆多比由久《シマヅタヒユク》
 
〔四四一四〕 大君の みこと惶み うつくしけ まこが手はなれ 島づたひ行く
   右一首助丁秩父郡大伴部少〔右△〕歳
 
於保伎美乃
美已〔右△〕等可之古美}前出〔四三二八〕
宇都久之氣 ウツクシキの古形で、原義はウツ(全)クシ(奇)即ち端正美妙の謂であるけれど、此はイトシイといふ意に轉用せられたのであらう。イツクシミ(鐘愛)といふ語もこれから派生せられたのである。
(470)麻古我弖波奈禮 元暦校本には禮を利〔右○〕と書いてあり、ハナレの古形はハナリであるが、この頃には既にハナレといふ形も用ひられて居たのであるから〔四三三八〕、どちらでも差支はない。マコはマナコ(目之子)と同じく、愛子(人)を意味し、家持の歌〔四一六六〕にもウツシ眞子と用ひた例がある。
之未豆多比由久 島傳ヒ行ク。後出の歌によればこの國の防人は足柄峠を越えて陸行したものゝやうであるから、此は難波津より先きの旅を豫想して詠じたものと思はれる。行クは不定時格であるから、未來をいふに用ひても差支はないのである。
〔大意〕天皇の命を惶み、いとしい愛人を離れて島傳ひに旅行くよ
 作者の名少〔右△〕歳は元暦校本に小〔右○〕歳とある方がよいやうである。
 
4415 志良多麻乎《シラタマヲ》 弖爾刀里母之弖《テニトリモシテ》 美流乃須母《ミルノスモ》 伊弊奈流伊母乎《イヘナルイモヲ》 麻多美弖毛母也《マタミテモモヤ》
 
〔四四一五〕 しら玉を 手にとりも|し《チ》て 見るのすも 家なるいもを また見て|も《ム》もや
   右一首主帳荏原郡物部歳徳
 
志良多麻乎 白珠ヲ
(471)弖爾刀里母之弖 モシテは持チ〔右○〕テの訛。
美流乃須母 ノスは比況を表示するノといふ語分子から出たもので、ヤマト言葉では通例ナスの形を以て「如」の意に用ひられたが、ナがノとなつたのは古いことであるから、應神朝の吉野の國主《クズ》の歌にもフユキ(冬木)ノ〔右○〕スと用ひられて居るのである。以上は比況で、白珠を手に持つて見るやうにといふ意。
伊弊奈流伊母乎 家ナル(ニアルの約)イモヲ
麻多美弖毛母也 ミヲモ〔右△〕はミテム〔右○〕の訛。拾穗抄にはミデモモヤと訓し、契沖は母也を也母の倒記として反語と解し、眞淵は我毎《ガモ》と改めたが、モヤは感動詞モとヤとを複合したもので、記の顯宗天皇御製および本集第二卷〔九五〕の歌にも用例があるから、倒記又は誤記とするのは早計である。上記の如く上のモ(毛)がム〔右○〕の訛りであるとすれば、之に複合感動詞モヤを連ねたのは少しも違法ではなく、見テムは見テアラムといふに同じく意嚮表示であるから、其に歎息の意が加はるのである。
〔大意〕白玉を手に取つて見るやうに、家にある女房をつくづくと見て居たいなア
 この作者は荏原郡の圭帳とあるから、部領使隨員で、防人ではあるまい。
 
(472)4416 久佐麻久良《クサマクラ》 多比由久世奈我《タビユクセナガ》 麻流禰世婆《マルネセバ》 伊波奈流和禮波《イハナルワレハ》 比毛等加受禰牟《ヒモトカズネム》
 
〔四四一六〕 くさまくら 旅ゆくせなが まるねせば い|は《ヘ》なるわれは 紐とかずねむ
   右一首妻椋椅部刀自賣
 
久佐麻久良 草枕(前出)
多比由久世奈我 セナ〔右○〕は前出のセロと同じく、夫をいふのであるが、本來男性の一般的稱呼であるから、今では兄キ、若イ衆などゝ同義に用ひられ、相模方言では自分の長男をさしてオラがセナなどいふことがある。
麻流禰世婆 マルネ(丸寢)は今も用ひる語で、晝間著のまゝゴロリと横になつて寢ることをいふ。
伊波奈流和禮波 イハはイヘ(家)の訛。家にある自分はといふ意。
比毛等加受禰牟 既述の如くヒモ(紐)は、專ら上衣の胸をあはす衿帶の意に用ひられたのであるから、紐解カズ寢るのは丸寢と同じ結果になる。
〔大意〕旅に行く殿御が丸寢するとなら、家にある自分も(衣の)紐を解かずに寢よう
 作者が刀自女と呼ばれたのは、固有名ではなく、敬稱トジ〔四三四二〕にメ(女)をそへて主婦の意を(473)表示したもので、共は主帳の妻なるが故であらう。肩書の椋椅部は後出の如く他郡の人も用ひて居るから、この國に分布した部名と思はれるが所由を詳にせぬ。或は各地のミヤケ(屯倉)に隷屬したハシヒト(走卒)をクラ(倉)ハシ(走)部と賂稱したのかも知れぬ。姓氏録にあげた伊香我色乎命の後といふ椋椅部連及吉備津彦五十狹芹命の後と稱する椋椅部首も同じ意味の稱呼と思はれるが、血統上の關係はあるまい。
 
4417 阿加胡麻乎《アカコマヲ》 夜麻努爾波賀志《ヤマヌニハガシ》 刀里加爾弖《トリカニテ》 多麻乃余許夜麻《タマノヨコヤマ》 加志由加也良牟《カシユカヤラム》
 
〔四四一七〕 あかこまを 山野には|が《ナ》し とりか|に《ネ》て 多摩の横山 か|し《チ》ゆかやらむ
   右一首豐島郡上丁椋椅部荒虫之妻宇遲部黒女
 
阿加胡麻乎 赤駒ヲ
夜麻努爾波賀志 ハガ〔右△〕シはハナ〔右○〕シ(放)の訛で、赤駒を放し飼にしたことをいふ。
刀里加爾弖 カニ〔右△〕テはカネ〔右△〕(不得)テの訛。放牧の赤駒を必要に臨み捕へようとしたが、捉へかねたといふのである。
多麻乃余許夜麻 タマ(多摩)のヨコヤマ(横山)の名は今も八王寺町元横山町及南多摩郡横山村に殘(474)つて居る。國府から足柄に出る舊街道にあたり、丘陵が構つて居るので此名を與へたのであらう。
加志由加也良牟 力シはカチ〔右○〕(徒歩)の訛音。馬がないので、いとしい夫を歩かせて遣らねばなるまいがといふのである。カは疑問助語。
〔大意〕赤駒を山野に放し(飼にし)捕へかねて多摩の横山路を徒歩で(夫を)やらねばなるまいか
 この作者の夫なる椋椅部荒虫は勿論防人の一人であるが、其歌の見えないのは、提出しなかつたか若しくは拙劣な作で取載せられなかつたのであらう。此女性が字遲部と名乘つたのは、荒虫の郷貫豐嶋郡に隣する北足立郡大宮在の内〔右○〕野部落(今の日進村の大字)の人であつたからと思はれる。姓氏録の和泉神別に伊香我色雄命の後と稱する宇遲部連といふ姓があるが、恐らくは之とは無關係であらう。
 
4418 和我可度乃《ワガカドノ》 可多夜麻都婆伎《カタヤマツバキ》 麻巳〔左△〕等奈禮《マコトナレ》 和我弖布禮奈奈《ワガテフレナナ》 都知爾於知母可毛《ツチニオチモカモ》
 
〔四四一八〕 わが門の かた山つばき まことなれ わが手ふれなな 士におち|も《ム》かも
   右一首荏原郡上丁物部廣足
 
和我可度乃 吾ガ門ノ
可多夜麻都婆伎 カタハラ(傍)ノ山椿といふ意を略してカタヤマツバキと表現したので、片山ノ〔右○〕椿(475)のことではない。傍山をカタヤマというた例もあるが、其ならば我里ノとあるべきで、築山ならいざ知らず、門に接してヤマと名づける程の高地が隆起して居たとは考へられぬ。但しこのカタは蕾ノの堅いことをも匂はせたのである。
麻巳等奈禮 マコト(實)ニアレの約。實に堅くあれといふ意で、山椿は勿論意中の少女にたとへたのである。
和我弖布禮奈奈 ナナの上のナは打消、下のは感動詞で、ヤマト言葉のジナに相當し、自分の手は觸れまいといふ意である。此ナナは東國の慣用語で、次の〔四四二二〕にも見え、東歌にも三例がある。之を明にしなかつたが故に從來この句を解き惱んだのであるが、山椿の花に觸れまいの謂とすれば、歌の趣はよくわかる。
都知爾於知母可毛 オチモ〔右△〕は落チム〔右○〕の訛。カモは疑問表示で、手を觸れたら土に落ちるかも知れないといふに同じく、それは蕾の花を散らすことを意味するのである。
〔大意〕我が門の傍なる山椿(の蕾)よ。まことに固くあつて欲しい。自分の手は細れまい。(觸れたら散つてしまふかも知れぬから)
 この歌は意中の少女の蕾の花を散らすのが惜しさに手折らずに行くといふので、自分の留守中も固く(476)蕾んで待つて居てくれといふ意を含めたのであるが、聊か言葉が足りないので從來正解せられなかつたやうである。作者廣足は物部々衆の後裔として此部名を用ひたのであらう。
 
4419 伊波呂爾波《イハロニハ》 安之布多氣騰母《アシブタケドモ》 須美與氣乎《スミヨケヲ》 都久之爾伊多里?《ツクシニイタリテ》 古布志氣毛波母《コフシケモハモ》
〔四四一九〕 い|は《ヘ》ろには あし|ぶ《ビ》たけども 住みよけを 筑紫にいたりて こふしけ|も《オモ》は|も《ム》
   右一首橘樹郡上丁物部眞根
 
伊波呂爾波 イハはイヘ〔右○〕(家)の訛、ロは虚辭的接尾語分子である。
安之布多氣騰母 アシブ〔右△〕はアシビ〔右○〕(葦火)の訛で、蘆荻を燃料とすることをいふのであらう。火の持ちの惡い最も原始的な焚ものであるから、貧しい生活を形容するために、葦火タケドモというたのである。
須美與氣乎 ヨケはヨキ(良)の古形で、住みよいことをといふ意である。
都久之爾伊多里? 至リテは到著して後といふ意。
古布志氣毛波母 戀シクオ〔右○〕モハム〔右○〕の約轉。コフシはヤマト語のコホシに同じい〔四三四五〕。
〔大意〕(我)家では葦火を焚くけれども住みよい(といふ)ことを筑紫に行つて後こひしく思ふだらう
(477) この歌も亦舊物部々員の作である。
 
4420 久佐麻久良《クサマクラ》 多妣乃麻流禰乃《タビノマルネノ》 比毛多要婆《ヒモタエバ》 安我弖等都氣呂《アガテトツケロ》 許禮乃波流母志《コレノハルモシ》
 
〔四四二〇〕 くさまくら 旅のまるねの 紐たえば あが手とつけろ これのは|る《リ》も|し《チ》
   右一首妻椋椅部弟女
 
久佐麻久良 草枕(前出)
多妣乃麻流禰乃 旅ノ丸寢ノ〔四四一六〕
比毛多要婆 紐斷エバの謂であるが、女房の外には手を觸れさせてはならぬ筈の衣の紐を人に解かせて、つひ切れたと言ひくろめまいものでもないから、其の場合にはというて次のやうな品物を餞にしたのである。
安我弖等都氣呂 アガ手トは自分の手シテといふ意。テをトを轉呼した例は少くないが、シテをトにかへたのはめづらしいので、色々の説が生まれたけれど、現代語ならば手デ〔右○〕といふ所であるから、其をトというたに過ぎぬ。ツケロといふ命令形は今では普く用ひられ、九州方言ではツケレ〔右○〕ともいふから、虚辭ラの轉呼とも説明し得られるが、此時代にはまだ出現して居なかつたやうで(478)あるから、ヨの訛音と解する方が穩當であらう。
許禮乃波流母志 ハルはハリ〔右○〕(針)」モシはモチ〔右○〕(持)の訛。この針を以て自分の手でその斷えた紐をつけろといふのである。
〔大意〕旅のまる寢に衣の紐がきれたら、自分の手でこの針を以てつけなさい
 あだし女に附けて貰うてはならぬといふ意が言外に含まれて居るのみならず、自然に切れたなどゝ言はせまい爲に、針ならぬ釘をさしたので、用意周到といふべきである。その夫の眞根は始終この手で妻君からきめつけられて居たのかと可笑しくなる。弟女は字の如く二女の謂で、今いふ意味の個人名ではあるまい。椋椅部については既に述べた
 
4421 和我由伎乃《ワガユキノ》 伊伎都久之可婆《イキヅクシカバ》 安之我良乃《アシガラノ》 美禰波保久毛乎《ミネハホクモヲ》 美等登志怒波禰《ミトトシヌバネ》
 
〔四四二一〕 わがゆきの 息づくしかば 足柄の みねは|ほ《フ》雲を 見|とと《ツツ》しぬばね
   右一首都筑郡上丁|服部《ハトリベ》於田〔右△〕
 
和我由伎乃 ユキ(行)は旅行の謂で、自分が旅に行くことがといふ意。
伊伎都久之可婆 イキ(息)ツキ(衝)はナゲキ即ちナガ(長)イキ(息)と同義語で、その形容詞形ナゲ(479)カシ(ナゲカハシ)に相當するものがイキヅクシである。さればイキヅカ〔右○〕シと用ひた例もあるのであるが〔三五四七〕、コヒからコフ〔右○〕シといふ語が出たと同樣に〔四三四五〕、イキヅクシともいひ得られる。カバはケレバの舊形ケバの音便であるが必しも訛ではなく、ケは本來カ(非活用形容語尾)から分化したものである。
安之我良乃 足柄ノ
美禰波保久毛乎 ハホはハフ〔右○〕(蔓)の訛。足柄の峯に瀰蔓する雲をといふ意である。
美等登志怒波禰 ミトトは見ツツ〔二字右○〕の訛である。シヌビの原義は〔四四〇五〕に述べたやうに下延であるが、轉じて忍耐の意に用ひられるやうになつた。此も恐らくは辛抱せいといふことであらう。
〔大意〕自分の旅行が歎かはしい時は、足柄山の峯にはふ雲を見ながら辛抱せよ
 作者の郷里都筑郡は武藏國の南境であるから、足柄連山が目睫の間に見えたのであるが、特に此峯をさしたのは自分達が越えて行く先なるが故であらう。服部はハトリベ――ハタ(布)オリ(織)ベ(部)の約――と訓み、古い民部であるが、此ころの機織は既に私營に移つて居たのであるから、唯部名だけが殘つたものと思はれる。於田の田〔右○〕は元暦校本の傍書の如く由〔右○〕の誤寫で、當時の人名によくあるオユ(老)の謂であらう。
 
(480)4422 和我世奈乎《ワガセナヲ》 都久之倍夜里弖《ツクシヘヤリテ》 宇都久之美《ウツクシミ》 於妣波等可奈奈《オビハトカナナ》 阿也爾加母禰毛《アヤニカモネモ》
 
〔四四二二〕 わがせなを 筑紫へやりて うつくしみ 帶はとかなな あやにかも寢|も《ム》
   右一首妻服部呰女
 この歌は後掲の前年の防人歌〔四四二八〕と殆ど同一である所を見ると、服部呰女は其を聞き覺えて吟誦したのではないがと思はれる。されば説明も後に讓ることにする。呰は和名抄の備中國英賀郡呰部(阿多)、參河國碧海郡|呰見《アタミ》等の例によれば、アタと訓むのかも知れぬが、アダの原語はアザであるから、顔面に痣があつたので此名を負はせたのであらう。上掲の宇遲部黒女〔四四一七〕と同じく、容貌上の特徴によつて他人が與へたので、みづから選んだ名ではあるまい。
 
4423 安之我良乃《アシガラノ》 美佐可爾多志弖《ミサカニタシテ》 蘇??布良波《ソデフラバ》 伊波奈流伊毛波《イハナルイモハ》 佐夜爾美毛可母《サヤニミモカモ》
 
〔四四二三〕 あしがらの み坂にた|し《チ》て 袖ふらば いはなる妹は きやに見|も《ム》かも
   右一首埼玉郡上丁藤原部|等母麿《トモマロ》
 
安之我良乃 足柄ノ
(481)美佐可爾多志弖 タシテは立チ〔右○〕テの訛。ミサカは神の御坂の謂である〔四三七二〕。
蘇??布良波 袖振ラバ
伊波奈流伊毛波 イハはイヘ〔右○〕(家)の訛。家にある女房はといふ意である。
佐夜爾美毛可母 サヤ(明)ニ見ムカモの意で、ミモのモは防人歌就中この國の歌に多いム〔右○〕の訛である。足柄から作者の郷里埼玉郡までは直徑二十里餘であるから、袖を振つたとて見える筈はないのであるが、カモのカは疑の意があるから、女房にはつきり見えるかも〔二字右○〕知れぬといふ心もちを表はしたのである。
〔大意〕足柄の神坂に立つて袖を振つたら、家に居る女房にはつきり見えるかも知れない
 藤原部は允恭朝衣通郎女のために諸國に定められた民部であるが、この時代まで存續したとは思はれぬから、或は上記下野の中臣部〔四三七八〕と同じく、藤原氏の私民部であつたかも知れぬ。
 
4244 伊呂夫可久《イロブカク》 世奈我許呂母波《セナガコロモハ》 曾米麻之乎《ソメマシヲ》 美佐可多婆良婆《ミサカタバラバ》 麻佐夜可爾美無《マサヤカニミム》
 
〔四四二四〕色ふかく せなが衣は 染めましを み坂たばらは まさやかに見む
   右一首妻物部刀自賣
 
(482)伊呂夫可久 色深ク
世奈我許呂母波 セナは既述の如くセラの訛で、これは夫のことをいふのである。
曾米麻之乎 ヲはヨに通ずる感動詞で、染めようよといふ意である。
美佐可多婆良婆 タバラバはタマハラバの約濁で、タマヒ(タマヘ)をタビ(タベ)といふと同じ趣である。ミサカをタマフは〔四三七二〕に述べたやうに、足柄の神から此坂を無事に越ゆる許を得ることをいふ。
麻佐夜可爾美無 マは接頭語分子で、サヤカ(明)に見ようといふ意である。これは前の歌に對する應酬で、勿論見えぬことを承知の上、衣服を濃い色に染めたら、一層はつきり見えるだらうというたのである。
〔大意〕色濃く夫の衣を染めようよ。足柄の神《ミ》坂を許されたら、(其袖を振るのを)はつきり見よう
 この作者も刀自賣と呼ばれた所を見ると、尋常の上丁の妻ではあるが、多少身分のあるものであつたのであらう〔四四一六〕。この贈答歌によると、當時の防人一行は足柄を越えて陸行したものとすべきで、寶龜七年まで武藏が東山道に屬したといふ通説を覆すに足るものである。
 以上十二首中留守の妻女の歌が半數を占めて居るのは注意を要することで、この國の部領使が出發(483)に先ち蒐集した爲であらねばならぬ。從つて防人歌進達は當年ばかりの特別の思ひつきではなく、交代の度に行はれた常例であるといふ既記の推斷が裏書されるのである。他の八國からは女性の歌と推定せられるものが唯一首進達せられただけなのは、部領使の見解の相違にもとづくのであらう。
      ○
 勝實七歳の防人歌は上掲八十三首を以て全部とする。以下の九首は以前の歌で、しかも其八首については前書もなく、卷頭の目次にも之を逸して居るが、左註によつて磐余伊美吉諸君が傳へたものであることが知られる。左に原書記載の順序に論述する。
 
4425 佐伎母利爾《サキモリニ》 由久波多我世登《ユクハタガセト》 刀布比登乎《トフヒトヲ》 美流我登毛之佐《ミルガトモシサ》 毛乃母比毛世受《モノモヒモセズ》
 
〔四四二五〕 さきもりに 行くは誰がせと 問ふ人を 見るがともしさ ものもひもせず
 
佐伎母利爾 防人ニ
由久波多我世登 行クハ誰ガセ(夫)ト
刀布比登乎 問フ人ヲ
美流我登毛之佐 トモシは乏少の意から羨望の義に轉じたので、防人に行くのは誰の夫かと氣樂さ(484)うに問ふ人が羨ましいといふのである。
毛乃母比毛世受 物オ〔右△〕モヒモセズといふ意。思ヒのオは連呼の際には往々脱落する。
〔大意〕防人に行くのは誰の夫(か)と問ふ人を見るのが羨しい。物おもひもせずに
 
4426 阿米都之乃《アメツシノ》 可未爾奴佐於伎《カミニヌサオキ》 伊波比都々《イハヒツツ》 伊麻世和我世奈《イマセワガセナ》 阿禮乎之毛波婆《アレヲシモハバ》
〔四四二六〕あめつ|し《チ》の 神にぬさおき、いのりつつ いませ吾がせな あれをしもはば
 
阿米都之乃 ツシはツチ〔右○〕(土)の訛で、天地のといふ意。
可未爾奴佐於伎 神ニ幣置キ。ヌサについては〔四三九一〕に述べた。ヌサはタテ〔二字右○〕マツリも、オキ〔二字右○〕マツリもするものである。
伊波比都々 このイハヒは勿論齋祀の謂である〔四三三九〕、
伊麻世和我世奈 イマセはイ〔右○〕キ(行)マセといふに同じい〔四三二六〕。ワガセナは吾夫といふことである〔四四一三〕。
阿禮乎之毛波婆 我ヲシ思ハバの連呼。
〔大意〕天地の神に幣を起き奉つて祭りながら行きなされ、私の殿御よ。私を思うてくださるなら
(485) 以上二首及後掲〔四四二八〕は出征する防人の妻の惜別の歌である。
 
4427 伊波乃伊毛呂《イハノイモロ》 和乎之乃布良之《ワヲシノブラシ》 麻由須比爾《マユスビニ》 由須比之比毛乃《ユスビシヒモノ》 登久良久毛倍婆《トクラクモヘバ》
 
〔四四二七〕 い|は《ヘ》のいもろ わをしぬぶらし ま|ゆ《ム》すびに ゆ《ム》すぴし紐の とくらくもへば
 
伊波乃伊毛呂 イハは?々述べたやうにイヘ(家)の轉訛で、イモロのロは接尾語分子ラの變形である。同棲の妾を家ノイモといふ由は既に述べた。
和乎之乃布良之 シノブ(偲)は〔四四〇五〕に述べたやうにシヌブと同語で、ヤマト歌にも志乃〔右○〕備と用ひた一例がある〔三九四〇〕。
麻由須比爾 マ(接頭語)ム〔右○〕スビ(結)の謂であらうが、ムがユとなる理由がない。この歌の外には例がないから、或は作者獨特の訛であるかも知れぬ。
由須比之比毛乃 ムスビ(結)シ紐ノ。ユ〔右△〕は前句と同じくム〔右○〕の訛と思はれる。
登久良久毛倍婆 トクラクは解クルコトといふ意。モヘバはオモヘバのオ音脱落である。
〔大意〕家の女房が自分を慕ふらしい。結びに結んだ紐の解けるのを見ると
 
(486)4428 和我世奈乎《ワガセナヲ》 都久志波夜利弖《ツクシハヤリテ》 宇都久之美《ウツクシミ》 叡比波登加奈奈《エビハトカナナ》 阿夜爾可毛禰牟《アヤニカモネム》
 
〔四四二八〕 わがせなを 筑紫は《ヘ》やりて うつくしみ え《オ》びはとかなな あやにかも寢む
 この歌は上掲武藏國都筑郡の上丁服部於由の妻同苗呰女の作としてあげられたとものと一二音の相違があるのみであるが、諸君の記憶に誤がないとすれば、前年の歌であらねばならぬから、こゝに説述する。
 
和我世奈乎 自分の夫をといふ意〔四四一六〕。
都久志波夜利弖 筑紫ハはニハの意とも了解し得られぬことはないが、呰女の歌には都久志倍〔右○〕とあるから、尚ハはヘ〔右○〕の訛音とすべきであらう。
宇都久之美 イ〔右○〕ツクシミの原形で、イトホシミと同義である〔四四一四〕。
叡比波登加奈奈、エ〔右△〕ビはオ〔右○〕ビ(帶)の訛、呰女の歌には於妣とある。ナナは上記の如くヤマト語のジナにあたり〔四四一八〕、帶は解くまいよといふ意。
阿夜爾可毛禰牟 アヤはアヤシ(怪)、アヤマチ(過)、アヤマリ(誤)等の語幹で、アシ(惡)の語根アに名詞語尾ヤを添へたものであるから、其副詞形アヤニは正當でなくといふことで、アヤニ寢ムといへば丸寢しようといふ意になるのである。カモは感動詞。――呰女の歌に禰毛〔右△〕とあるのは訛(487)である。
〔大意〕私の殿御を筑紫へやつていとほしがり、(自分も)帶は解くまい。假寢しようよ
 
4429 宇麻夜奈流《ウマヤナル》 奈波多都古麻乃《ナハタツコマノ》 於久流我弁《オクルガベ》 伊毛我伊比之乎《イモガイヒシヲ》 於伎弖可奈之毛《オキテカナシモ》
 
〔四四二九〕 うまやなる 繩たつ駒の おくるがべ 妹がいひしを おきてかなしも
 
宇麻夜奈流 ウマヤ(厩)ナル
奈波多都古麻乃 ナハ(繩)タツ(絶)コマ(駒)は張切つた馬といふことで、今日出立の乘用と思はれる。句末のノは比況表示で其駒のやうに〔四字傍点〕自分もといふのである。
於久流我弁 ガは連繋助語、ベはウベ(宜)、ベシ(可)等の語根であるから、オクル(送)のが當然といふ意になる。馬がその主人をのせて國府その他の集合地まで送つて行くやうに、自分も夫の出發を見オクル〔三字右○〕のが當りまへだといふのである。
伊毛我伊比之乎 妹ガ言ヒシヲ。前句の終に助詞トを補うて聞くべきである。
於伎弖可奈之宅 オキ(置)テ悲シモ。即ち見送らうといふ女房を、人目もあることだからまアまアというて家に置いて來て悲しいといふ意。本國から發足前の詠と思はれる。
(488)〔大意〕厩にある繩を絶つ(ほど張り切つた)馬が(夫を乘せて集合地まで)送るやうに、(自分も)送るのが當然と女房がいつたのを、(家に)置い(て來)て悲しいよ
括弧を以て示したやうに、此歌は聊か言葉が足らぬ爲、從來の注解者を惑はせたのであるが、特に濁音假字を用ひた第三句の我弁を無視せぬ限り、上記のやうに解讀するの外はない。
 
4430 阿良之乎乃《アラシヲノ》 伊乎佐大波佐美《イヲサダハサミ》 牟可比多知《ムカヒタチ》 可奈流麻之都美《カナルマシヅミ》 伊??弖登阿我久流《イデテトアガクル》
 
〔四四三〇〕 あらし男の いをさだはさみ 向ひ立ち かなるましづみ 出でてとあが來る
 
阿良之乎乃 荒シ男は勇士の謂〔四三七二〕。これは作者自身のことであるが、半ば次句イ(箭)の修飾的枕詞に用ひられたのである。
伊乎佐太波佐美 イは箭のことである。原語はエ(柄)で、分化によつてヤ(箭)とイ(射)との二語を生じたのであるが、イ(射)を箭の義に轉用したことも有り得べきで、――サシ(刺)の語幹サが天武紀に箭の訓に用ひられたのと趣を同じうする。アイヌ語で矢をアイと稱へるのも同源であらう(アは接頭語)。――サダハサミはタバサミ(手挾)に接頭語分子サを冠したので、之が爲に連濁音が一つ上の音に移つた。是は出發の準備をとゝのへ、弓箭をかゝへ持つたことをいふのである。
(489)牟可比多知 別を惜しむ家人に向ヒ立チといふ意。これを的または獲ものに對立する意と解するのは、防人歌の情緒を解せざるものである。
可奈流麻之都美 カは顯著の意の接頭語で、ナルはナク(啼)に通ずるから、カナルといへば劇しく泣くこと、即ち泣き叫ぶ意ともなる。さすがの勇士も目前にこの哀な樣子を見ては立ち去りかねて、其號泣の少しく靜まるのを待つたといふことを、カナル間シヅミと表現したのである。シヅミは今では專ら「沈」の義と了解せられて居るが、シヅカ(靜)の語根シヅの活用形で、シヅマリといふ形も之から派生せられたものであらねばならぬ。
伊??弖登阿我久流 イデテトは出テソ〔右○〕の訛。助詞としては通例ゾと濁るが、原語はソ(其)であるから、記紀の歌謠にも清音假字を用ひた例は少くない。東國ではこの當時なほソとも發音せられたから、トと訛つたのであらう。之を挿入したのは強く指定するためで、出《イデ》テ吾ガ來ルゾ〔右○〕といふに同じい。
〔大意〕勇士(自分)が箭を手挾み(出發の用意を整へて、別を惜しむ家人に)向ひ立ち、(其)泣き叫ぶ間が靜まるのを見て自分は出て來たぞよ
戰國時代の武士かたぎを思ひ出させるやうな歌であるが、第二句の意を明にし得なかつた爲、從來正(490)解せられなんだ。それは前の歌と同じく、少し言葉が足りないからである。
 
4431 佐左賀波乃《ササガハノ》 佐也久志毛用爾《サヤグシモヨニ》 奈奈弁加流《ナナヘカル》 去呂毛爾麻世流《コロモニマセル》 古侶賀波太波毛《コロガハダハモ》
 
〔四四三一〕 ささが葉の さやぐ霜夜に 七重か《ケ》る ころもにま|せ《サ》る 兒ろが肌はも
 
佐左賀波乃 笹ガ葉ノ。通例この場にはガ〔右○〕を用ひず、笹ノ〔右○〕葉といふのであるが、ガもノも本來ナ(之)の變形で、彼此相通ずるから、笹ガ葉というても語法上少しも差支はない。
佐也久志毛用爾 サヤグは擬聲語サヤ(サラに通ず)を活用したもので、笹葉が風に搖られてサヤサヤと音することをいふ。シモヨは霜の下りた夜の謂で、冬の光景である。
奈奈弁加流 カルはケ〔右○〕ル(著)の訛、衣服を七重著るといふ意である。
去呂毛爾麻世流 マセルとあるに從へば、マシアルの約とせねばならず、口語の「まさつて居る」にあたるが、其は現在時格で、この場合には適せぬから、不定時格のマサ〔右○〕ルを訛つたものとせねばならぬ。七重著る衣にまして暖いといふ意を以て、次句の修飾に用ひたのである。
古侶賀波大波毛 後掲昔年相替防人歌〔四四三六〕にはコラを愛人の意に用ひた例もあるが、それはヤマト歌の作りかへで、東國ではその意味には常にコロ〔二字右○〕又はコナ〔二字右○〕というたやうである。或は兒女(491)の意のコラ〔四四〇一〕と區別する爲に特に言ひかへたのかも知れぬ。ハダ(肌)ハモのハは取わけていふ助語、モは感動詞で、之を連ねたのは餘韻を殘す爲に外ならず、こゝでは「どうしたらう」といふ意が含まれて居るのである。
 
〔大意〕笹の葉のさやぐ霜夜に七枚著る衣服にもまさるあの子の(暖い)肌はよ
 
4432 佐弁奈弁奴《サヘナヘヌ》 美許登爾阿禮婆《ミコトニアレバ》 可奈之伊毛我《カナシイモガ》 多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》 阿夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》
 
〔四四三二〕 さへなへぬ みことにあれば かなし妹が 手枕はなれ あやにかなしも
  右八首昔年防人歌矣。圭典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君抄寫、贈2兵部少輔大伴宿禰家持1
 
佐弁奈弁奴 サヘ(拒)アへ(敢)のアヘにn子音を補入してサヘナ〔右○〕ヘとしたので、その打消であるから、抗拒することが出來ぬといふ意である。
美許登爾阿禮婆 ミコト(命)ニアレバ
可奈之伊毛我 カナ(愛)シ妹は可愛い女房といふ意。〔四三七二〕のアラシ男と同一構成である。
多麻久良波奈禮 手枕離レ
阿夜爾可奈之毛 アヤニは彌益にといふ意〔四三八七〕。このカナシは第三句の其とは異なり、悲哀(492)の意で、モは感動詞である。
〔大意〕違背の出來ない勅命であるから、可愛い女房の手枕を離れて彌益に悲しい
 以上八首を家持に傳へた磐余伊美吉諸君は主典といふ肩書があるから、當時の兵部省の專任部領使の下僚(佐官)であつたのであらう。和名抄職官部佐官の條下に勘解由曰2主典1とあり、餘使准之と分註してある。刑部小録は現官であつたと思はれる。この姓は他に所見がないが、イハレはもとヤマトと總稱せられた地域に屬するから、倭漢忌寸の一門で、その地に居住したものと推定せられる。
 
   昔年相替防人歌一首
 
夜未乃欲能《ヤミノヨノ》 由久左伎之良受《ユクサキシラズ》 由久和禮乎《ユクワレヲ》 伊都伎麻左牟等《イツキマサムト》 登比之古良波母《トヒシコラハモ》
 
〔四四三六〕 やみの夜の ゆくさき知らず 行くわれを いつ來まさむと とひし兒らはも
 
夜未乃欲能 闇ノ夜ノやうにといふ意。
由久左伎之良受 行先シラズ
由久和禮乎 行ク吾ヲ
伊都伎麻左牟等 何時カヘリ來マサムトの歸リを略したのである。
(493)登比之古良波母 此コラは上掲のコロ〔四四三一〕と同じく愛人をいひ、ハモも同所に述べた通りである。ワレヲ〔右○〕問フといふのは古語法で、仁徳紀の武内宿禰の歌にも例がある。
〔大意〕暗夜のやうに行先も知らずに出て行く自分に、いつ歸つて來るかと問うたあの子はよ
 この歌は卷第十七にあげた天平二年十一月歸京の大伴旅人の陪從で、筑紫から舟行した姓氏不明の人が作つたといふ悲傷羈旅歌に
  わだつみの おくかも知らず 行く吾を いつ來まさむと 問ひしこらはも〔三八九七〕
とあるのと、第二句の知ラズ以下全く同一である。偶合といふことも有り得るが、或は何人かが改作して防人歌と傳へたのではあるまいか。〔四四三一〕に述べたやうに、コラといふ語形から見ても防人歌がもとであつたとは考へられぬ。
 
 上記の外に卷第十四の東歌中にも防人歌と明記せられた五首があり、其外に防人または其家人の作と思はれるものも數首あるが、既刊の「萬葉集論究」第二輯に論述したから、之を再録することは見合はせる。
 
(494) 餘録
 
 勝寶七歳の防人歌は上述のやうに、國々の部領使が進達したのは百六十六首であつたが、本集は其うち八十四首だけを取載した。之を細別すると次のやうになる。
   遠江 駿河 相模 武藏 上總 下總 常陸 信濃 上野 下野
進達歌一八 二〇  八 二〇 一九 二二 一七 一二 一二 二八
收載歌 七 一〇  三 一二 一三 一一 一〇  三  四 一一
 
選擇は本文によつて明かなるが如く、時の兵部少輔大伴宿禰家持によつてなされたのであるが、家持は敢て添刪せず、――進達者が多少筆を加へた形跡のあることは既述の通りである――表記法にも手をつけなかつたことは、昭和九年一月刊行の「國語國文」に市川寛君によつて論證せられた。之を第十四卷の東歌に比べると、例外と見るべきもの、即ち三度以上用ひられて居ない字(其は後に掲げる)を除き、用字は次の表に於て見るが如く、遙に局限せられて居る。――用例の多寡によつて序次する。(495)柄孤内は其數で、右旁線は清濁兩用、左旁線 濁音假字
ア 阿(三六) 安(一四)
イ 伊(五四) 以(八) 已(六)
ウ 宇(九)
エ 江(五) 延(四)
オ 於(二〇) 意(五)
カ、加〔傍線〕(六四) 可(六一) 我〔左傍線〕(四三) 賀〔傍線〕(九)
キ 伎〔傍線〕(六〇) 枳〔傍線〕(一五) 吉(三) 藝(三)
ク 久〔傍線〕(八三) 具〔傍線〕(八)
ケ 氣(二一) 祁(五)
コ 古(三一) 己〔傍線〕(二四) 許(一七) 其〔左傍線〕(三)
サ 佐(四四) 作(四)
シ 之(七二) 志(五一) 自〔左傍線〕(六)
ス 須〔傍線〕(三五) 受〔左傍線〕(九〕
セ 世(一〇) 勢(因) 西(三)
ソ 曾〔傍線〕(一七) 蘇(一一)
タ 多〔傍線〕(七二) 他(四) 太〔左傍線〕(四)
チ 知〔傍線〕(三八)
ツ 都〔傍線〕(五九) 豆〔傍線〕(八)
ヲ 弖(七五) ??〔左傍線〕(四)
ト 等(六八) 刀〔傍線〕(一一) 登(四) 度〔傍線〕(四)
ナ 奈、?(八一)
ニ 爾(一一〇)
ヌ 奴(一四) 努(八) 怒(四)
ネ 禰(二一) 尼(三)
ノ 乃(七一) 能(三三)
ハ 波(一四一) 婆〔左傍線〕(一四)
(496)ヒ 比(四四) 妣〔左傍線〕(一二) 非〔傍線〕(四)
フ 布〔傍線〕(二三) 不〔傍線〕(五) 夫〔傍線〕(三)
ヘ 倍〔傍線〕(九) 敝(八) 弊(八) 閇(六)
ホ 保(一八) 富(三)
マ 麻(七九)
ミ 美(一二七)
ム 牟(六四) 無(三)
メ 米(二〇)
モ 母(八七) 毛(三九)
ヤ 夜(三二) 也(四)
ユ 由(三一)
ヨ 余(七) 與(六)
ラ 良(五三)
リ 里(二一) 利(一九) 理(二三)
ル 流(三六) 留(七)
レ 例(二二) 禮(二〇)
ロ 呂(一八)
ワ 和(五〇)
ヰ 爲(三)
ヱ 惠(二)――他にこの音標がないから特記する。
ヲ 乎(四二)
 右によれば、安、以、宇、衣、於、加、久、己、之、世、曾、太、知、奈、奴、乃、波、比、不、保、美、毛、也、由、與、良、利、留、禮、呂、和、爲、惠の卅三字は「いろは」源流。阿、伊、江、多、禰、卑、流、乎は「片かな」の原字で、意《オ》、可、我、賀、吉、藝、具、氣、古、許、作、志、自、(497)須、受、勢、西、蘇、豆、刀、登、度、爾、努、怒、能、婆、非、布、夫、倍、敝、弊、閉、麻、無、米、母、夜、余、里、理、例の四十三字も變體がなとして今も用ひられる。殘る所は已《イ》、枳《キ》、祁《ケ》、其《ゴ》、他《タ》、弖《テ》、等《ト》、尼《ネ》、妣《ビ》、富《ホ》の十字であるが、已及妣の外はいづれも記紀に見える慣用字で、この二字とても少しく物學びしたものには不可讀ではない。
 此やうに調べて來ると、この時分には既に常用の音標(音假字)が自然に定まつて居て、物ずきに變つた字を用ひる外は、概ね之に從うたものとせねばならず、後世の草《サウ》かな、示かな、片かなと稱するものは、之をくづし、若しくは賂したものと思はれる。五十音圖、「いろは」歌の作者が、通説の如く吉備大臣、弘法大師であるにしても其は唯これらの假字を整理したといふに過ぎず、發明者の名を擅にすることは出來まいと思ふ。
 用字は國によつて若干の特色がある。上記市川君の調査によると、駿河の已《イ》、下總の以《イ》、枳《キ》、作《サ》、信濃の意《オ》の如きは他の國の歌には見えず、その他、尼《ネ》が下總と常陸、與《ヨ》が常陸と信濃、閉《ヘ》が遠江上總常陸の三國に限られ、例《レ》の字は遠江相模信濃および上野の歌には用ひられて居らぬが、其は進達者の筆ぐせで、別に理由があつたのではあるまい。右の外この年の防人歌には、次のやうな文字が用ひられて居る。
(498) 僅に二例を見るもの。 曳《エ》 苦《ク》 家《ケ》 去《コ》 是《ゼ》 敍《ゾ》 ?《テ》(弖の原字) 都《ト》(清濁) 騰《ド》 武《ム》(平カナむノ源流) 餘 用 惠(前出)
 一例だけのもの。 有《ウ》  衣(平カナえ) 要《エ》 何《ガ》 河《ガ》 紀《キ》 義《ギ》 價《ケ》 迦《カ》 故《コ》 胡《ゴ》 散《サ》 射《ザ》 思《シ》 酒《ス 宗《ソ》 祖《ソ》 遅《チ》 治《ヂ》 天《テ》 低《テ》 ※[人偏+弖]《デ》 田《デ》 砥《ト》 那《ナ》 仁《ニ》(平カナに) 濃《ノ》 破《ハ》 負《フ》 寶《ホ》 萬《マ》 馬《マ》 末《マ》(平カナま) 茂《モ》
正字及訓かな。 道《ヂ》 津《ヅ》 日《ヒ》 見《ミ》 等《ラ》 畫《ヱ》 白《シラ》 玉《タマ》 父《チヽ》 母《ハハ》 道《ミチ》
また前年の防人歌にはこの外に叡《エ》、左《サ》(平カナさ三例)、弁《ヘ》(清濁四例)、未《ミ》(二例)、欲《ヨ》、侶《ロ》の六字が見える。
、以上は防人歌に用ひられた文字の概觀で、その中には訛音も少くないから、之が一覽表をそへることを便とするが、「國語と民族思想」第五輯に一寸木幹愛《マスキマサヨシ》君が、東歌と併せた詳細な訛音研究を發表したから、之を略する。
 
 次に我々の注意せねばならぬのは、勝寶七歳の防人歌にあらはれた人物の名まへである。――前年の歌は盡く詠人不知――歌數は八十四首であるが、二首づゝ詠じたもの三名、作者の名を擧げぬもの(499)が一首、名あつて歌のないものが二名あるから、差引八十二名となり、少數を除くの外、部名または其首長頭目を意味する連《ムラジ》、造《ミヤツコ》、首《オビト》及|直《アタヘ》の肩書をもつて居る。部族乃至民部は大化革新によつて廢止せられたから、假に東國地方では實現がおくれたとしても、爾來百十年を經過したこの當時まで、舊制度がそのまゝ存續したとは考へられず、現に養老令が實施せられて、衛士(舍人)防人が簡拔せられ、仕丁を徴發して公務を辨じて居た所を見ても、右の部名は必しも現職乃至身分を表示するものではなく、昔日の配屬を其まゝ後世の苗字と同樣に用ひたものとせねばならぬ。其故に地名を取つて何々部と稱へたものもあり、純然たる氏名と見るべきものもあるのであるが、何事にも保守的な地方人の間には、大部分の百姓は尚部に分たれ、各部の頭目は、國造が郡の大小領に補せられたと同樣に、里正をかねて居たのかも知れぬ。されば之を分類して見ることも決して無用の業ではあるまい。左に之を列擧する。
 (イ)兵役部        二一名
 物部〔四三二一〕      一〇
 大伴部〔四三八二〕      六
 丸子《マリコ》部〔四三三〇〕 三――槍隊
 丹比《タチ》部〔四三二九〕  一――佩刀隊
 倭文《シヅ》部〔四三七二〕  一――頭推《カブツチ》隊
(500) (ロ)公役部       二三名
 丈部〔四三二四〕        一一
 刑部〔四三三九〕        四
 椋椅《クラハシ》部〔四四一六〕 三
 大田部〔四三七四〕       三
 生《ミフ》部〔四三三八〕    一
 忍 《オシミ》部〔四三九一〕  一
 (ハ)神部           八名
 占部〔四三六七〕        三
 今奉部〔四三七三〕       一
 他田日奉部〔四三八四〕     一
 雀部〔四三九三〕        一
 神人部〔四四〇二〕       一
 神麻續部〔四三八一〕      一
 (ニ)工作部          五名
 若麻續部〔四三五〇〕      二
 服部《ハトリ》〔四四二一〕   二
 矢作《ヤハギ》部〔四三八六〕  一
 (ホ)私民部          三名
 私《キサイ》部〔四三八五〕   一
 中臣部〔四三七八〕       一
 藤原部〔四四二三〕       一
(501) (ヘ)部落名       八名
 玉作部〔四三四三、五一〕    二
 生玉部〔四三二六〕       一
 有度部〔四三三七〕       一
 坂田部〔四三四二〕       一
 春日部〔四三四五〕       一
 池田部〔四四〇七〕       一
 宇遲部〔四四二七〕       一
 (ト)純氏名又は苗字     八名
 若倭部〔四三二二〕       一
 日下部〔四三四七〕       一
 小長谷部〔四四〇三〕      一
 商長音〔四三四四〕       一
 川原〔四三四〇〕        一
 川上〔四三七六〕        一
 上毛野〔四四〇四〕       一
 朝倉〔四四〇五〕        一
 (チ)其他          六名
 津守〔四三七七〕 一−利根川の津守であらう
 大舍人部〔四三六九〕 二
 若舍人部〔四三六三〕 一}これらのトネリはツハモノノトネリ〔三字傍点〕(兵衛)のことで、之を多く出した
(502)他田舍人〔四四〇一〕 一
 檜前舍人〔四四一三〕 一}部落が自負してトネリ部と自稱し、個人は地名を冠して何々のトネリと名乘つたので、後世の源兵衛、平兵衛と同趣である。
個人名には二人乃至三人共有のものがあり、――麿及び蟲麿各三人、大歳、足國、足人、廣足、刀自女各二人――常陸の丸子部|佐壯《スケヲ》(助丁)の如く人名と見ることの出來ぬものがあるから、八十二名の人物に對し、七十三の稱呼を算するのであるが、其うち一字名四人、三字名十三人で、他は皆後世の名乘のやうに二字から成立する。どのやうな語が當時のアヅマ人に喜ばれたかといふことを調べて見るのも一興と思ふから左に之を列擧する。但し漢字はかり物であるから、片カナを以て表記し、用字はその下に括弧してをさめ、要すれば語義を註する。
 二十二例。 マロ(麿)――中三人はこの一語を以て名とする。
 七例。 タリ(足)(太理) メ(女)(目)
 六例。 マ(眞)(麻)――接頭語分子
 五例。 コ(小)(子)(古) シマ(島) ヒト(人) ヒロ(廣)
 三例。イハ(石)(磐) オホ(多)(巨) クニ(國) クロ(黒)――外にクロス(黒栖)といふ複合語を用ひたものが一例ある トシ(歳) ミ(三)――接頭語分子 ムシ(虫) ヲ(小)(乎)
(503) 二例。 アラ(荒) オシ(忍) オユ(老)(於由) サキ(前)――岬の意 タツ(龍) チ(千) トコ(得)(徳)――常《トコ》の意 トジ(刀自) ナリ(成) ネ(禰)(根) ヒツジ(羊) ミチ(道)
 一例づつ。 アキ(秋) アザ(呰) イナ(稻) イホ(五百) ウシ(牛)――外に一名ウシカヒ(牛甘)と名乘るものがある オト(弟) カサ(笠) カタ(方) カハヒ(川相) カラ(可良)――唐又は韓の意 クシ(節)――櫛の略字 シカ(志加)――種族名か ナカ(中) ナガ(長) トモ(等母)――友の意 トリ(鳥) トラ(刀良)――虎であらう ヌ(野) フミ(文) マサ(當)――里|正《マサ》の正か マス(益) ミミ(耳) ム(身) モロ(諸) モチ(持) ヤマシロ(山代) ヨソフ(與曾布)――装の意 ヨサ(與佐)――夜分の意 ヨロ(與呂)――萬の意 ヲ(男)
更に之を次の如く分類することが出來る。
 一、自然、方位。 秋 夜分《ヨサ》 方《カタ》
 二、地理、地物。 國 カラ(唐) ヤマシロ(山城) 島 道 野 カハヒ(川會) イハ(岩) 根 稻
 三、人倫、人文。 シカ(族名) 人 メ(女) ヲ(男) 友 弟 マサ(里正) ム(身) 耳 呰 文
 四、動物。 龍 虎 牛 羊 鳥 虫
 五、品物。 笠 櫛
(504) 六、數詞。 五百《イホ》 千《チ》 ヨロ(萬)
 七、動詞。 ナリ(成) モチ(持) ヨソフ(装)
 八、形容及接頭語。 アラ(荒) オシ(忍) オホ(大) オユ(老) クロ(黒) コ(小) タリ(足) トコ(常) ナカ(中) ナガ(長) マ(眞) マス(益) ミ――マに通ずる接頭語分子 モロ(諸) ヲ(小)
 右によれば最も多きを占めて居るのは形状語で、自然物及動植物の名の比較的少ないのは注意を要する。其はこの頃すでに美名を選ぶ風習を生じて居た爲であらう。之に反して女性作者七名中五名までは、トジメ(二名、奥樣といふほどの意)、オトメ(末女)、クロメ(色黒の女)、アザメ(痣のある女)のやうな通稱を以て呼ばれて居る所を見ると、婦人は實名があつても之を用ひることが稀であつたものと思はれる。男性にあつても左記の如きは寧ろよび名(通稱)で、實名ではあるまい。
 川相《カハヒ》――河川の會流地に居住したから此名を負うたのであらう
 黒當《クロマサ》――色の黒いマサ(里正)の謂か
 眞長《マナガ》――マナコ(愛子)の訛ではあるまいか。今も本名はありながらカナシ子の意を以て、勘ちやん又は勘太郎などゝ呼ばれる人があるのである
(505)動物名の如く見えるものも、或は借字で、別の意があるのかも知れぬ。例へば
 ウシ(牛)は大人《ウシ》
 タツ(龍)はタ(田)チ(主)の轉呼で、地主の謂か
 ヒツジ(羊)はヒト(人)チ(主)、即ちヒトコノカミ(長者)のことではあるまいか。上野國多胡碑に名を録した羊も地方の豪族であつたと思はれる
 トリ(鳥)はト(富)リ(人)の謂
とも了解せられるのである。
      ――――――――――
 正誤
 
 拙著「萬葉集論究」第一輯にをさめた卷第十三〔三三〇五〕〔三三〇九〕の香未通女(爾太遙越賣)、盛未通女(在可遙越賣)を、私は舊訓を參酌してニホヘル〔二字右○△〕ヲトメ、サカヘル〔二字右△〕ヲトメと訓したが、其は誤りで古義訓の如く爾太遙、在可遙の遙(音エウ)をエの音標と見て、ニホエ、サカエとよみ、之を香と盛とにも準用するを可とする。其は孰れも複合名詞形で、サカエはいふまでもなく此動詞の原形(名詞形)(506)であるが、ニホエも亦ニホ(丹穗)ハエ(映)の約即ち丹の穗にはえることをいふのであるから、同じく名詞形である。この動詞は早く廢れたが、本集第十九卷大伴家持の歌〔四二一一〕にも春花乃爾太要〔三字右○〕盛而――要もまた字音エウで、エ〔右○〕の假字である――と用ひた例があるから、其ころまでは通用したのであらう。此は丹穗映の少女、盛りの少女といふことで、つゝじ花の如く芳艶にして、櫻花のやうに爛漫たる美女の謂である。こゝに附記して不明の罪を江湖に謝す。
 
(507)  語句人名索引
 
小序 本索引は語(人名)と句との別なく、一列に五十音順に排列したが、句は漏さす平假名を以て掲げ、語には片假名を用ひ、漢字及平假名を以て所要の註記を加へた。防人歌に在つては原文の誤記は之を訂正して右傍に線を劃し、訛音には片假名を以て標準音を傍記した。ヽ《チユ》點を施したのは仙覺訓の復活で、契沖以下の改訓が賢しらであつたことを表示する。圏點は私の與へた新訓であるが、往々原字を無視して改訓せねばならなかつた理由は、本文の其項下に詳論した。私は決して之を以て決定的だと主張するのではなく、更に適切な訓み方が發見せられた場合には、喜んで自説を抛棄するつもりである。之を要するに今日までの萬葉集研究は、未だ定訓を云々するまでには進んで居らぬといふのが事實で、言語學的根據のある試訓は、斯學のため大に歡迎せらるべきだと思ふ。
 あ 行
あがこひすな|む《ル》   四五一頁
あがこひを         四一三頁
あかこまを         四七三頁
あがせむひろを       三七二頁
縣《アガタノ》犬養宿彌淨人 四三八頁
あかつきにけり       四四七頁
〔以下略〕
 
〔2012年10月27日(土)午後4時入力終了、4頁分未入力有り、2012年11月4日(日)午後6時58分、大坂府立中央図書館の本により4頁の欠を補う。〕