松岡静雄、日本古語大辞典 訓詁篇、1031頁、4000円、1929.9.28初版、1970.2.20復刻2刷、刀江書院
 
凡例より、
○本文は佐々木信綱編、校本萬葉集
○原文の誤記錯簡は右旁に△、?入は右旁に▲、字のしたに△は脱漏の疑い。
○參照は本辞典の語誌篇にある。
○入力者において、歌番号は漢数字から洋数字になおした。
○1のみ原文を見本として全部掲載、2以下は訓注の部分のみ。
 
(1)目次〔略〕
(1〜4)凡例〔略〕
(1〜15)訓法〔略〕
(1〜61)古事記〔略〕
(63〜176)日本書紀〔略〕
 
萬葉集(177頁〜894頁)
【卷第一】
 
     雜歌
  泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武(雄畧)天皇
(1)
    天皇御製歌
籠毛與 美籠母乳 布久思毛與  美夫君志持 此岡爾 菜採須兒 家吉閑(一) 名告沙根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曾居 師吉名倍手 吾己曾座 我許背者〔右▲〕齒(二)告目 家乎毛名雄母
籠《コ》もよ 御籠もち 生串《フクシ》もよ 御ふくしもちす 此岡に 菜|採《ツ》ま子 家きかむ 名のらさね 空みつ 大和の國は おしなべて 吾こそ居れ 敷きなべて 吾こそませ 我《ア》こそはのらめ 家をも名をも
(一)吉閑を誤字として色々に訓みかへたものもあるが、、字の通り訓してもよく意は通ずる。
(二)者〔右▲〕の字元暦校本及類聚古集に之なきを可とする。目〔右○〕を自〔右△〕の誤としてノラジと訓した本もあるが、打消を用ひるとせばノラネ〔右○〕又はノラズアラメ〔四字右○〕といはねば意が通ぜぬ。
參照 コ、フクシ、ソラミツ〔枕〕
 
(2)
(一)煙立龍
(一)刊本には籠〔右△〕とあるが、元暦校本等に龍〔右○〕としたのを正しとする。
 
(3)
(一)伊縁立之
(二)奈加〔右△〕弭乃
 奈加〔右△〕弭
(一)イヨリタタシ、イヨリタタシシ、イヨリタテリシ等の訓があるが、之〔右○〕は前續字が動格に用ひられたことを示す助字であるから(記、紀にも其例が多い(第二四頁參照)。之を省きイヨリタタス〔右○〕と訓むべきであらう。
(二)ナカハズ又はナガハズは意をなさぬから、宣長説に従うて加〔右△〕は利〔右○〕の誤としナリ〔右○〕ハズと訓んで置く。
參照 ヤスミシシ〔枕〕、ミトラシ、アヅサ弓、ナリハズ
 
(4)
(一)其草深野
(一)草深は借字で草生毛野《クサフケヌ》の意である。
參照 タマキハル〔枕〕、クサフケヌ
 
(5)
(一)和豆肝之良受(二)卜歎居者(三)行幸能(四)綱能浦之
(一)和〔右○〕を手の誤としてタツキと訓み、若くは豆〔右○〕を衍字とするのは未だ考の精しからざるものである。
(二)舊訓ウラナゲ〔右△〕ヲレバとあるが、ナゲといふ動詞はあり得ぬ、眞淵説の如く、ウラナキ〔右○〕と訓むべきである。歎は泣に通はして用ひたので、十七卷に奴要鳥能宇良奈氣之都追とある奈氣も亦ナキの假字である。――氣をキの假字に用ひた例は他にもある。
(三)ミユキとも訓み得るが、雅澄説の如くイデマシを可とする。山越風は反歌と同樣にヤマコシのカゼであらねばならぬ。ヤマコスカゼとは意味が違ふ。
(四)網〔右△〕浦とした本もあるが、其らしい地點を物色し得ぬから、姑く刊本に從うて綱〔右○〕として置く。
參照 ワツキ、ムラキモ〔枕〕、ヌエコトリ〔枕〕、ウラナキ、タマダスキ〔枕〕、ツナの浦
 
(6)
參照 トキジミ
 
(7)
(一)借五百磯
(一)字についてよめばカリイホであるが、尚カリホと發音せられたものとおもはれる。
 
(8)(一)今者許藝乞菜
(一)田中道麻呂説に從うてコギテナと訓む〔玉小琴〕。但し乞菜〔二字右○〕は必しも弖菜〔二字傍点〕の誤ではたく、コキテナといふ語にも乞求の意があるのである。――語法要録參照。
 
(9)
(一)莫囂圓隣之(二)大相七〔右△〕兄〔右○〕爪謁〔二字右△〕氣
(一)初二句は從來訓み得たものがない。雅澄に莫囂〔二字右○〕を奠器〔二字右△〕の誤記として初句をミモロと訓したが、奠器があるのは必しも三諸ばかりではなく、假にミモロと訓み得るとしても、高市郡の飛鳥の京から紀伊温泉(今の田邊)に行く道中に三輪山が見える筈がない。――飛鳥にも三諸山があるが、奠器といふ字を以て共と了解せられるほど有名な社があつたとも思はれぬ。――案ずるに莫囂は喧《カマ》の反對即ちシヅ(靜)の義譯、圓隣はマク(卷)の戯書で、此四字を合はせてシヅマキ(倭文卷)と訓むのであらう。
(二)第二句には誤字があるものと思ほれる。――古寫本にも區々に書かれて居る――上の句のつゞき合ひを以て推察するに、七〔右△〕は士〔右○〕の誤、大相士は占相者の大なるもので古は祠官が之を兼ねたから、ユミ(齋身)と訓み、――イミ又はオミ(忌)と同語――ユミ(弓)の假字に充てられたものであらう。兄はアニ〔右○〕と訓むから、異例ではあるがニの假字、爪謁氣(一本には湯〔右○〕氣とある)は恐らくは玄波〔二字右○〕氣の誤寫でツラハケと訓むのであらう。――弦を畧して玄〔右○〕とした例は古事記にもある。
 両句を合はせると「倭文卷の弓に弦はけ」となり、第四句のイタタシケムの序であると同時に、額田王から吾夫子と呼ばれた貴人の面影が髣髴せられるのである。シヅキマの弓が用ひられたといふ證據はないが、雄畧天皇がシヅマキの呉床《アクラ》に召されたともあるから〔記〕、貴人用の弓の束を綵絲で卷いたことも極めてあり得べきである。
參照 シヅマキ、オミ(イミ)、イツカシ
 
(10)
(一)吾代毛所知哉
(一)宣長が哉〔右○〕か武〔右△〕の誤字として、シラムと訓した〔畧解〕のは從はれぬ。シレヤ(ヤは感動詞)は「知れば」の意である。
 
(11)
 
(12)
(一)野島波見世〔右△〕追
(一)字について訓めばミセツであらねばならぬが、恐らくは延〔右○〕の字の誤寫でミエツと讀むのであらう。
 
(13)
(一)高山波(二)雲根火雄男志等(三)有良之(四)然爾有處曾
(一)高、香字音相通。
(二)男を曳〔右△〕の誤とする古義の説は非。ヲシは愛惜の意である。
(三)字について訓めばカクニアルラシ(約してカクナルラシ)とすべきであるが、カクといふ語が既に副詞形であるから、更にニを添へる必要がない。こゝは中世の歌ならばカクコソアルラシといふべき所であるから、カクシ〔右○〕アルラシと訓まねばならぬ。爾は必しも誤字ではなく、字音によりシの假字に用ひられたのであらう。〔一六二〕にも同例がある。
(四)ニアレコソを約してナレコソといふこともあるが、其はアリが助動詞に用ひられた場合に限るもので、此場合の如きはアリは動詞であるから、音を約せざる事を通則とする。――語法要録參照――さればこそシカニアレコソというて七音になるやうに詠まれたのである。動詞のアリと助動詞のアリとは古語では嚴重に區別せられたのであるが、後世の學者多くは之に氣がつかなかつたやうで、集中にも誤訓せられた例が少くはない。以下一々は指摘せぬが、常に此差別を念頭に置くことを要する。
參照 ヲシ、ウツセミ
 
(14)
 
(15)
(一)清明己曾
(一)清くテリコソ又は清くアカリコソと訓するものもあるが、其場合には月に對つて希望する意になるから、入日の光景を叙する上三句との間に接續語(句)が入用である。換言すれば第三句に「入日サシ」といふ連用形は用ひられぬ筈である。こゝの道理を飲みこめば、コソが乞欲を意味する動詞ではなく、普通の助語で、下にアラメを含ませたものであることが會得せられる。さればこそ舊訓はアキラケクコソとあるのであるが、清〔右○〕明は寧ろキヨラケク(キヨラ、アカク)の假字と見るべきである。
參照 ワタツミ、トヨハタクモ、ツクヨ
 
(16)
(一)冬木成〔右△〕(二)曾許之恨之
(一)成〔右△〕は盛〔右○〕の省畫とする高橋正元説〔古義〕を可とする。
(二)恨〔右○〕を怜〔右△〕の誤とする宣長説〔玉小琴〕はとらぬ。恨は借字で、ウラミは愁見《ウレミ》の意である。此歌は題詞にもある通り、春花と秋葉とどちらが憐《アハレ》と見るかといふことの裁斷で、どちらが怜《オモシ》ろいかといふのではない。終の二句は「秋山ソコシ(其をぞ)吾は愁見シ」と轉置して會得すべきである。
參照 モミヂ
 
(17)
(一)山際(二)伊積流萬代爾(三)委曲毛
(一)此句をヤマノハニ〔右○〕、ヤマキハニ〔右○〕、ヤマノマニ〔右○〕、ヤマノマユ〔右○〕の如く訓したのは之を補足格と見、隱れるものは三輪の山及奈良の山のことゝ解した爲であらうが、遠山が端山にかくれることはあるとしても、道の隈に積るといふ事はあり得ぬから、積るものは「道の隈」であらねばならぬ。之と同樣に隱れるものも亦三輪山、奈良山の山際即ち山の瑞《ハ》で、「山際」は主格と見るべきである。飛鳥の京から奈良坂を越え、山城を行くに従うて、道は幾度か迂廻し、大和の山岳の麓はかくれるが、尚山頂をつくづくと眺め、屡々ふリかへつて見やらうと思うたのに、無情の雲が隱したことを悲しんだのである。されば「山際」にニ(又はユ)を添へるのは蛇足で、ヤマノマと四音に訓まねばならね。次句がイカクルマデといふ六音であるのは之が爲である。――古歌には五、七調の代りに往々四、六調が用ひられたことを忘てはならぬ。
(二)マテニはマデの原語で、約濁によつてマデともいふが、マデに助語のニをそへてマデニとしたのではない。其故に本集には後世ならばマデといふべき場合にマテニと用ひた例が多い。されば殊更に濁音としてマデ〔右△〕ニと訓するのは誤りである。舊訓には此誤が多いが、以下一々は指摘はせぬ。
(三)舊訓マクハシモとあるが、マクハシは委曲の意ではない。古義に毛〔右○〕を爾〔右△〕の誤としたのは無用の辯である。
參照 ウマサケ、アヲニヨシ、クマ、マテニ、ツバラ、ミサケ
 
(18)
 
(19)
(一)綜麻形之
(一)綜麻を舊訓ソマとしたが、契沖の説に從うてヘソと訓むべきである。ヘソ(卷子)の形をした林といふことである。
 
(20)(21)
 
(22)
(一)河上乃
(一)河上は舊訓の如くカハカミと訓むべきである。略解にカハノヘと改訓したが、カハノヘ即ち川邊の岩ならば草が生ひることもあり得るから譬喩にならぬ。此は河中にあつて絶えず水に洗はれる爲めいつも清淨なる磐を見て、齋宮に奉仕せらるべき皇女に譬へまゐらせたのである。――ユツを五百の義とするものがあるが、其では歌の情趣が没却せられる。
參照 ユツイハムラ
 
(23)
(一)打麻乎
(一)舊訓ウツアサヲとあるが、ウツソ〔三字傍点〕ヤシ麻續とある例〔一六卷〕によりウツソヲと四音に讀むを可とする〔古義〕。――ソヲはサヲ(麻緒)の音便である。
(二)麻須は異本に「食」とあり〔拾穗〕、字のまゝでもヲスと訓み得られぬことはないが、カリマスというてよく意が通ずるのみならず、縱ひ食用せられたのが事實であるとしても、打つけにヲス(食)といふよりもカリマスの方が哀が深やうに思はれる。
 
(24)
紀に因幡とあるは昔の印幡國(後の下總の一部分)で、イラゴは其對岸の常陸國板來のことである。
參照 イラゴの島、ウツセミ
 
(25)
(一)耳我嶺爾
(一)舊訓ミカノミネとあるが、十三卷にも三吉野之御念嵩とあるから守部説に從うて姑くミカネノタケと訓んで置く。或はミミガタケニと六音に訓むのかもしれぬ。
參照 ミカネのタケ
 
(26)
 
(27)
(一)良人四來三
(一)奮訓ヨキ〔右△〕ミとあり、ヨクミツと訓したものもあるが、之は第四句の意を反復したのであるから、春滿の説の如くヨクミを可とする。
 
(28)
 
(29)
(一)御念食可(二)夷者雖有(三)春草之
(一)括弧内に記したのは本文に或云として分註した語句である。いづれを執るも妨はないが、(一)はオモホシケメカとする方が次のシロシメシケムと時格が一致してよいやうである。
(ニ)夷者雖不〔右△〕有の不〔右△〕を脱したものとしてヒナニハアラネドと訓めといふ大神景井の説〔古義〕は非。ヒナに此場合單に田舍といふ程の意に用ひられたのである。
(三)ハルクサとも訓み得ることは勿論であるが、次句に「春日のきれる」とあるから、ハルといふ語をいひかへてワカクサと訓む方がよいやうである。
參照 ヒジリ、ソラニミツ〔枕〕、アマサカルヒナ、イハハシル、モモシキ、キレル
 
(30)(31)
 
(32)
(一)人爾和禮有哉
(一)舊訓フルヒトニ我アルラメヤとあるが、契冲に從うて「古」で句を切るべきである。――初句をフリニシと四音に訓むのは理由のないことである。
 
(33)(34)
 
(35)
參照 セの山
 
(36)
(一)激瀧之宮子
(一)珠水激瀧之宮子の七字は舊訓タマミツのタキノ〔右△〕ミヤコとあり、眞淵は珠水激の三字をイハハシルと訓し、雅澄は珠〔右○〕を殞〔右△〕の誤としてオチタギツと訓んだ。瀧のある宮といふ意を以てタキの宮といふ稱呼はあり得ることであるが、宮處(都)の修飾語としてはタキは不適當であるから、元暦校本、神田本の訓の如く、激瀧之の三字を合はせてタギツとよむべきで、――「之」は屡々述べたやうに前續字が動詞に用ひられたことを表示する助字である――タギツものは玉水であらねばならぬ。されば之をイハハシル又はオチタギツと訓めといふのは甚無理である。
參照 ヤスミシシ〔枕〕、カフチ、フトシキマス
 
(37)
(一)常滑乃
(一)舊訓トニ〔右△〕ナメとあるは誤寫であらう。其他ササナメ、トコナツ〔右△〕、イハナミ、シキナミ等の訓があるが論ずるに足らぬ。
參照 トコナメ
 
(38)
(一)國見乎爲勢波(二)疊有(三)山神乃(四)遊副
(一)刊本爲波〔二字右△〕とあるが、爲勢〔右○〕波とある本を正しとする。シセバはシマセバと同じく敬語である。國見は臣民のすることではないから、天皇の御事をいふものとせねばならね。上句高知|座而《マシテ》とあるつゞきから見ても然《シカ》あるべきである。
(二)舊訓タタナハルとあるが次句がアヲカキヤマの六音であるから、タタメると四音に讀むがよい。五七、四六は和歌の基調である。強て景行紀(記)の歌と一致させる爲に有〔右○〕を付〔右△〕又は著〔右△〕の誤として、タタナツクと訓した春滿、眞淵、雅澄等の説は從はれぬ。
(三)舊訓ヤマツミ〔右△〕とあり、或はさう誦したのかも知れぬが、山神の古語はヤマツチであらねばならぬ。
(四)遊副川之神母の六字も從來一句lこ讀み、ユフカハノカミモとし、其上又は「川之」の下に一句を脱したものとしたが、遊をメグリと訓むのは例のあることであるから、メグリソフ・川ノカミモと二句に讀むがよい。
參照 カムナガラ、カムサビ、タカシリ、ヤマツチ、ウカハ、サデ
 
(39)
 
(40)
(一)嗚呼兒〔右△〕乃
(一)舊訓アミのウラとあるが、十五卷には安胡乃宇良爾布奈仍里須良牟と假字書してあるから、見〔右△〕は兒〔右○〕の誤寫なることは疑かない〔僻案抄、古義〕。アゴは和名抄に志麻國英虞(阿呉)郡とある地である。
 
(41)
(一)釼著
(一)刊本には劔〔右△〕といふ字になつて居るが釼(釵の變體)とあるを正しとする。古義にクシロマクと訓したのは誤である。クシロはサスもので、マクものではない。
參照 クシロ、クシロツク
 
(42)
(一)荒烏回乎
(一)舊訓シマワとあるが、回は巡回といふ意味を以て借りた字で、島末、磯麻、浦箕などある例に倣うてマ又はミと訓すべきである。但し雅澄がミはモトホリの重約――モトの約モ、モホの約もモ、モリの約ミ――としたのは大なる邪説で、マ(間)は地域を意味し、ミは其轉音である。以下語調によつてミともマとも訓することがあるが、一々は説明せぬ。
參照 シマミ
 
(43)
參照 オキツモ、ナバリ
 
(44)
 
(45)
(一)高照(二)荒山道乎(三)古昔念而
(一)舊訓タカテラスとあり、眞淵は記の古歌によつてタカヒカルと改訓した。ヒカルに照をあてた例はないから、次の四音の句との均衡上、ヒカルと同義のテルといふ語を用ひ、タカテルと四音に稱へたので、誤讀を恐れて特に「照」の字を用ひたものと思はれる。敬語としてテラス(テリマスの意)と訓めぬこともないが、高ヒカルもヤスミシシも敬語でない所を見ると、此枕詞に限つて敬語ならざるべからずとする理由がない。
(二)マキタツといふ四音の枕詞との均衡上六音を可とするのみならずヤマミチは古言ではないから、アラヤマヂヲと訓むべきである。
(三)舊訓オモヒテとあるが、此は皇子の御事であるから眞淵説の如くオボシテ(オモホシテの約)と訓むを可とする。前句との權衡からいうても然あるべきである。
參照 コモリク、マキタツ、サカトリ、タマカギル、ハタススキ〔枕〕
 
(46)
 
(47)
(一)葉
(一)第三句契冲にこ從うて葉の上に黄〔右○〕の字を脱したものとしてモミヂバノと訓すべきである。
 
(48)
 
(49)
(一)日雙斯
(一)舊訓ヒナシとあるが、之は日並の皇子即ち草壁皇子の御事を意味するのであるから、ヒナミといはねばならぬ。古義に斯〔右△〕を能〔右○〕の誤としてヒナミノ〔右○〕と訓したのは從はれね。シは「其」の意から出た接尾語で、アラチシ〔右○〕、タラチシ〔右○〕、ヤスミシシ〔右○〕の如くも用ひられる枕詞の一形式である。
 
(50)
(一)都宮者(二)不知國(三)神隨爾有之
(一)舊訓ミヤコニハとあり、其他ミヤコヲバ、ミアラカハ等の訓があるが、春滿に從うてオホミヤハと訓すべきである。
(二)舊訓イソのクニとあるが意が通ぜぬ。契冲に從うてシラヌクニと訓むべきである。
(三)神カラナラシと訓んでもよい。カミナガラ(カミノ〔右○〕カラ)もカミカラも同義である。
參照 アラタヘ、ナベ、コロモデ、マキサク〔枕〕、ツマテ、モノノフ、タナシラズ、鴨ジモノ、百タラズ〔枕〕、イソハク
 
(51)
(一)?女乃
(一)舊訓タヲヤメとあり、タワヤメ又はヲトメと改訓したものもあるが、尋常の美人又は少女としては歌の情趣を没却する。之は宮人のことであらねばならぬ。其故に春滿はミヤビメと改訓したのであらうが、?女といふ字が用ひてある所を見ると、ウネメノと四音に讀むのであらう。門人熊谷直好の説をいれてウネメと訓した香川景樹はさすがに歌よみである。
參照 ウネメ、アスカ
 
(52)
(一)見之賜者(二)春山跡(三)耳高〔右△〕之(四)常爾有米
(一)舊訓ミシタマヘレバとあるが、繼續格を用ひる必要がないから、御杖説の如くミシタマヘバと讀むべきである。眞淵、雅澄がメ〔右△〕シタマヘバとしたのは穿鑿に過ぎる嫌がある。
(二)春〔右○〕は青〔右△〕の誤字とする説もあるが〔玉小琴〕、瑞山に對立する語としては青山はもの足らぬのみならず、次に耳梨山も青菅山とせられて居るから重複の嫌がある。或は他に訓があるか、又は誤記であるかも知れぬが、尚之を考へ得ぬ。
(三)高〔右○〕の字眞淵は「爲《ナシ》」の誤とし、雅澄は「無」と改記した。耳成山をいふものなることは地理上疑がないが、此山は上古ミミ嵩《タケ》とも稱へられた形跡があるから、――語誌參照――こゝもミミタケノと訓ませるつもりであつたかも知れぬ。
(四)舊訓トキハニアラメとあるが、トキハの原義は床磐であるから、水の形容には適はしくない。之に反して水の絶えざることを祝した綱長井(ツネ、ナガヰの意)などいふ呼稱のある所を見ると〔神名帳〕、ツネと訓む方がよいやうである。
參照 ハニヤス、日のタテ、日のヨコ、カゲトモ、ソトモ、ミミナシ山、ナクハシ〔枕〕、ヨロシナベ、ミカゲ
 
(53)
(一)安禮衝裁(二)之〔右△〕吉呂貿聞
(一)舊訓アレセムヤとあるが、古義にアレツクヤとあるを可とする。但し同書の語釋は從ひかねる。
(二)呂〔右○〕を刊本に召〔右△〕として、シキリメスカモと訓して居るが、田中道麻呂説の如く之〔右△〕を乏〔右○〕の誤字として、トモシキロカモと訓むべきであらう〔玉小琴〕。
參照 アレ、トモシ、ロカモ
 
(54)
(一)列列椿(二)見乍思奈
(一)椿はツバキであるが、音便によつてツマ〔右○〕キとも稱へられた。こゝは妻《ツマ》にきかせたのであるから、ツマキと訓まねばならぬ。――〔七三〕參照。
(二)舊訓オモフナとあるが、雅澄説の如くシヌバナと訓む方がよい。但し同人が春の歌としたのは誤りで、題詞の如く秋月こゝをすぎ、椿の列を見て婦女子の行樂する春野を偲ばうというたのである。
參照 ツバキ、コセ
 
(55)(56)
 
(57)
參照 ヒクマ野、ニホフ
 
(58)
參照 アレの崎、タナナシ小舟
 
(59)
(一)妻吹
(一)流經妻は誤記であらうと思はれるが、強て解釋すればツマはツマ屋に通はせたもので、「久しい留守の嬬屋を吹く風が寒いのに」云々といふ意であらう。妻〔右○〕を雪〔右△〕の誤として「流るる雪」の意とする説は尚心ゆかぬやうである。
 
(60)
 從駕の皇子が名張といふ地名にことよせて坐興に詠まれた歌と解すべきである。
參照 ケナガキイモ、ナマリ、ナバリ
 
(61)
(一)得物矢
(一)舊訓トモヤとあるが春滿に從うてサツヤと訓むべきであらう。
 
(62)
(一)在根良
(一)此語義を明にし得ぬので百船能〔眞淵〕、布根竟《フネハツル》〔大平〕、大夫根之《オホフネノ》〔雅澄〕等の誤寫であるとする説も出たのであるが、其證據はなく又いづれの本によるも誤寫と見るべき痕跡がたい。尚原字について訓方及意義を考究するのが學者の義務であらう。私見は語誌に述べた。――其項下參照。
 
(63)
(一)早日本邊
(一)ハヤクヤマトヘ、ハヤモヤマトヘ、ハヤヤマトヘニなど讀みあらためたものが多いが、こゝは憶良が在唐中に詠んだのであるから、特にヒのモトといふ語を用ひたものと思はれる。條辭學の見地からいうても、舊訓の方が遙に勝つて居る。ヒノモトといふ語は赤人の不盡山の歌〔三一九〕にも見える。
參照 オホトモ〔枕〕
 
(64)
 
(65)
(一)霰打
(一)舊訓ミゾレフリとあるが、理由のないことで、契冲に從うてアラレウツ〔右○〕と訓すべきである。
參照 オトヒ
 
(66)
(一)難波宮(二)枕宿杼
(一)雅澄は此行幸を文武天皇三年の事として以下五首を〔五三〕の次に移した。
(二)宣長は杼〔右○〕を夜〔右△〕の誤としてマキテヌルヨハと訓した。其は此句が家を偲ふ原因ならざるべからずと解した爲であらうが、若し高師濱が都人のあこがれた名所であつたとすれば、マキテイヌレというても差支はない筈である。――眞淵がマキテシ〔右○〕ヌレドと訓したのは次句の「家シ〔右○〕」と同一助語が重複するのみならず、語義上マキテシ〔右○〕といふことは出來ぬ。シの語義を究めずして音の足らぬ所に任意に挿入し得るものとするのは大なる誤りで、國語には無意義の措辭といふものは一つもない。――語法要録參照――以下にも此種の誤訓は多いけれどもー々は指摘せぬ。
參照 タカシの濱
 
(67)
(一)物戀之伎乃(二)不所聞有世者
(一)伎乃の二字には疑があるが、法性寺殿御自筆本といふ古寫本にあるといふことであるから、魯魚の衍でないことは明である。コホシキニにコバシギ(鴫の一種)をいひかけたものと思はれる。
(二)舊訓キコエザリセバとあるが、こゝは繼續格ではなく、アリを動詞として用ひたものであるから、キコエズアリセバと讀まねばならぬ(語法要録參照)。
 
(68)
 
(69)
(一)仁賓播散麻思乎
(一)字の通り讀めば舊訓の如くニホハサマシヲであるが、脱字があるものとして元暦校本及古葉略類聚鈔の訓によつてニホハザラマシヲと訓むべきである。埴生にニホス、黄土粉にこホフ〔九三二〕などいふのは此當時の慣用語で色香に染まるといふほどの意である。――皇子の御衣を埴生の色土《ハニ》で染める意とするのは誤解である。
 
(70)
參照 ヨブコ鳥、キサ
 
(71)
 
(72)
參照 シキタヘ
 
(73)
(一)吾松椿(二)不吹有勿勤
(一)舊訓ワガマツツバキとあるが、ツバキと讀んでは情趣がなくなるから、春滿に從うてワヲマツツマキ(春滿はワレとしたがワヲの方がよい)と訓み、松は全く借字で「待」を意味し、ツマキは妻を椿にいひかけたものと解すべきである。古義が大井景元の説によつて椿を樹の誤とし、アヲマツノキニと訓したのは論ずるに足らぬ。――〔五四〕參照
(二)舊訓フカナルナユメとあり、古寫本の多くにフカザルナユメとしてあるが、勿は借字とみて契冲説の如く〔代匠記初稿書入〕フカザラナユメと訓すべきである。
 
(74)
參照 ハタ
 
(75)
 
(76)
(一)物部乃
(一)舊訓モノノフとあるが、朝廷の大典に物部族《モノノベ》の首長が楯を建てるのは神武朝以來の古例で〔舊〕、文武天皇の踐詐大甞祭にも榎井朝臣倭麻呂(物部族員)が大楯を建てゝ奉仕したとあるから、〔續紀〕契冲説の如く此年施行せられた大甞祭の時の大御歌で、物部の大臣《オホマヘツキミ》は左大臣石上朝臣麻侶(物部宗家)であらう。物部大臣を一般に大將軍を意味するものとし、此翌年蝦夷征討に向つた軍隊の演武の光景と説くが如きは言葉といふものを超越した空想といはねばならぬ。――トモの音を弓ひく音とするのは同じく大誤解である。
參照 トモ、モノノベ
 
(77)
(一)吾大王(二)吾〔右△〕莫
(一)舊訓ワガミカトとあるが、契冲に從うてワガオホキミと訓むべきである。
(二)吾〔右△〕の誤字たることはいふまでもないが、君〔右△〕〔宣長〕、告〔右△〕〔守部〕とする説には同意しかねる。此は文武天皇に先立たれ賜うた元明天皇を慰めまゐらせて倒孫皇子(聖武天皇)もおはしますから、御安心遊ばせといはれたので、ミコナケナクニであらねばならぬ。恐らくは吾〔右△〕は王子〔二字右○〕(ミコの假字)の二字の誤寫であらう。
參照 スメカミ
 
(78)
 元明朝には太上天皇はおはしまさぬ筈であるから、此太上天皇は持統天皇の御事で、御製も亦別の機會に詠まれたものであらねばならぬ。雅澄は「從飛鳥宮遷于藤原宮時」の十字を脱したものであらうというたが〔古義〕、之なくとも其意味に了解せられる。
 
(79)
(一)或本〔二字右△〕(二)天皇乃(三)家乎擇(四)清爾見者(五)川之水凝(六)冷夜乎(七)息言無(八)千代二手來(九)座多公
(一)或本の二字は拾穗抄に之を削つたのがよいやうである。
(二)舊訓スメロギとあるが、宣長説の如く、オホキミと訓むを可とする。
(三)擇〔右△〕は釋〔右○〕の誤としてステと訓むのであらう。
(四)舊訓サヤカニミレバとあるを可とする。衣の上を照す有明の月のサヤカなる光の下に見ればといふ意味で、決して無理な省語ではない。眞淵説の如くサヤニミユレバとすると、月光の清らかに見えることが霜降り水凝る前提又は原因と聞えて理に合はぬ。
(五)凝は刊本には疑とあるが、凝とした本が多く、又水は冷泉本の外皆氷とあるが、其は古語ヒは水の意なることに氣付かず、ヒの訓によつて氷とかき攻めたものと思はれるから訂正した。氷凝は意をなさぬ。
(六)舊訓サユルヨとあるが、眞淵説の如くサムキヨを可とする。
(七)舊訓ヤムコトモナクとあり、ヤスムコトナクといふ訓もあるが、春滿訓のイコフコトナクが最よいやうである。
(八)眞淵に從ひ來〔右△〕は爾〔右○〕の誤で上の句につくものとする。
(九)多〔右△〕は牟〔右○〕の誤とする眞淵説を可とする。
此は奈良の都に奉仕する人が佐保の郷に妻の住む家を作つて此から其處へ通はうといふ意味を詠じたので、此當時の結婚生活に通曉せぬものに少しわかり惡い所があるが、後世の住宅とは性質を異にすることを知らねばならぬ。
參照 ニギビ、タマホコ〔枕〕、朝ツクヨ、タヘのホ、ヒ(水)
 
(80)
 
(81)
(一)山邊乃
(一)舊訓ヤマノヘとあるが、宣長の攷證に從うて〔玉勝間〕ヤマヘノと四音に訓んで置く。
參照 ヤマベの御井、ガテリ
 
(82)
(一)情佐麻彌〔右△〕之(二)天之四具禮能(三)流相見者
(一)彌〔右△〕の字契冲は禰の誤としてサマネシ(サ普《マネ》シ)と訓した。
(二)從來アマ又はアメと訓して居るが、こゝではソラと讀むがよいやうである。
(三)舊訓ナガレアフミバとあるが、ナガラフミレバとする眞淵訓を可とする。
參照 ウラサビ、サマネシ、シグレ
 
(83)
(一)海底
(一)古點ミナソコとあり、仙覺はワタツミと改めたが、五卷にも和多能曾許意枳都布加延乃云々とつゞけた例とあるから、ワタノソコと訓むべきである〔古義〕。
 
(84)
(一)秋去者(二)鹿將〔右▲〕鳴山曾
(一)假に第四句を鹿ナカム山ゾと訓むとしても、此句法サレバというて然るべきである。――秋サリハの音便。
(二)字について訓めば鹿ナカム〔右△〕山ゾであらねばならぬが、類聚抄、神田本、細井本等にシカナクヤマゾと訓してあるのは何か據があつたのであらう。或は將〔右△〕を衍字とする傳承が存したのではあるまいか。第二句に今モ見ルゴトとある所を見ると、現實のことをいひ、「秋サレバ鹿ナク山ゾ高野原の上は」と詠まれたものと解せられるのみならず、カナカム山ゾといふ語も、あり得ぬことはないとしても、甚拙い言ひ廻しであるから、支持することが出來ぬ。
遷都梶Xのことで夫人を飛鳥の舊都に殘じて供奉せられた兩皇子が佐紀郷に會合せられ、折から其地の高野原(稱徳天皇の御陵となつた地)の上に鹿のなくのを聞いて此やうな述懷せられたことは極めて有り得べきことのやうに思はれる。來む秋を豫想しての詠としては甚だ感興が乏しい。
 
 〔卷第二〕
 
(85)(86)
 
(87)
(一)霜乃置萬代
(一)の二字はマテの音を表はし、萬代日の三字はマテニ(マデ)の意を示したものであるが、特に霜乃〔右○〕と書いた所を見ると、萬代日の三字をマデと訓ませるつもりと思はれる。マテニと訓するのは妨はないが、マデニとよむのは誤である。――〔一七〕參照。
 
(88)
參照 キラフ
 
(89)(90)
 
(91)
(一)鏡王女(二)家居麻之乎
(一)温故堂本に鏡(ノ)王(ノ)女と點してある。次に鏡王女又曰額田姫王也とあるを見ると、事實はともかくも編纂者は其意を以て王女の字を用ひたのであらう。眞淵の説の如く「王女」は「女王」の誤と速斷することは出來ぬ。但し次の鎌足との贈答の歌に鏡王女とあるは天武紀に鏡姫王とあると何人である。
(二)イヘヲラマシヲと訓したものもあるが〔眞淵、雅澄〕、姑く神田本、細井本の訓に從ふ。
參照 カガミの王、ヌカタの王
 
(92)
(一)御念從者
(一)雅澄は下二句をアコソマサラメ・オモホサムユはと改訓したが、マサル(マシ、アルの約)をも古語ではマスというたやうであり、末句はモヒ(眞水)にいひおかけたものであるから、舊訓を可とする。
參照 モヒ
 
(93)
(一)覆乎安美
(一)覆は從來オホフ(ヲヲフ)と訓して居るが、之は逢日にかけたのであるから、オホヒ〔右○〕であらねばならぬ。滋賀の大坂を夙に逢坂と通はせたやうに、アフ、オフは共に此頃既にオウと發音せられたのであらう。古義に「安」の上に「不」を脱したものとしてカヘルヲイナミと訓したのは問題にならぬ。
 
(94)
(一)將見圓山乃(二)有勝麻之自
(一)舊訓ミムマトヤマとあるが、荷田信名の説の如く、將見圓がミムロ(ミムマロの約)の借字なることは一傳に三室戸山とあるによつても明白である。
(二)刊本及諸本に自〔右○〕を目〔右△〕に誤つて居る。元暦校本及類聚集を正しとすべきである。
勝麻之自をカテ〔右○〕マシジと訓したものがあるが、マシジ(後世のマジ)は常に動格に接續するものであることを知らねばならぬ。――語法要録參照。
 
(95)
(一)吾者毛也
(一)舊訓の如くワレハモヤというてもよいが、古義に從うてアハモヤと訓する方がよいやうである。
參照 ヤスミコ
 
(96)
(一)水薦苅
(一)ミクサカル〔仙覺〕、ミスズカル〔眞淵〕などいふ訓もあるが、古點によりミコモカルと訓むを可とする。
參照 ミコモカル〔枕〕、ウマヒト
 
(97)
(一)強〔右△〕作流行事乎
(一)強〔右△〕は代匠記に從うて弦〔右○〕の誤とし、眞淵説の如くヲハクルワザヲと訓すべきである。――次の歌にも都良弦《ツラヲ》取波氣とある――ヲは絃と男の意とにかけたのであらう。
 
(98)(99)
 
(100)
參照 ノサキ
 
(101)
參照 チハヤフル〔枕〕
 
(102)
(一)不成有(二)誰戀爾有
(一)代匠記に舊訓を改めてナラザルハとしたのは非。こゝのアルは動詞であるから約することは出來ぬ。
(二)舊訓を可とする。「誰が戀にかあらむ」といふ意の古語法で、タガコヒナラモと訓むのは誤である。
 
(103)
 
(104)
(一)於可美爾言(二)雪之摧之
(一)雅澄は言〔右○〕を乞〔右△〕の誤とした。或は然らん。さりながら「言而とありては聞こえぬことなり」としたのは過言である。令v落とあるを見ても乞祈〔右○〕つたのではない。オカミに言ひつけたと解しても差支はないのである。オカミ(大神)は狼及蛇?を呼稱するにも用られる語であるから、必しも最高敬意を表明する必要はないのである。
(二)從來クダケシ〔右○〕と訓し、畧解の如きはシは過去の表現であるとすら説いて居るが、此歌は天皇から「其方はまだ大雪は降るまい」と仰せられたのに對し、「此處の大神にいひつけて降らせた大雪で、其方《ソチラ》のは恐らくは其の摧(碎)でございませう」と御答申上げたのであるから、過去助動詞とすることの非なるは勿論、シ〔右○〕といふ指定的助語を用ひる場合ではない。「之」の字がノの假字に用ひられたのは、上にも雲之〔右○〕とあるを始め例の多いことである。
參照 オカミ
 
(105)(106)(107)(108)
 
(109)
(一)益爲〔右△〕爾知
(一)舊訓マサシ〔右△〕ニとあるが、右の如き語法はない。古義には兼而乎の誤寫としてカネテヲと訓してあるけれども、間違としては餘りに念が入り過ぎて居る。恐らくは爲〔右△〕は香〔右○〕の誤記でマサカニと讀むのであらう。マサカニは口語のマサニと同義である。
 
(110)
 
(111)
參照 ユツルハの御井
 
(112)
 
(113)
(一)蘿生松柯
(一)コケムセルと訓してもよいが、ヒカゲ(蘿)と普通の苔との間に語義に相違のあることを知らねばならぬ。――語誌參照。
 
(114)
(一)異所縁
(一)舊訓カタヨリニとあるが、異v所v縁といふ文字から見ても、歌意からいうてもヨリヨリニであらねばならぬ。稻の穗は決して一方にのみ片よりするものではない。既に高市皇子に身を寄せながら、穗積皇子にも寄らんと思ふが故に、秋の田の稻穗のやうに風次第で思ひ思ひの方に寄りたいといふ意であらう。
 
(115)
(一)道之阿回爾
(一)舊訓クマワとあるが五卷に道乃久麻尾〔右○〕と假字書した例にならひクマミと訓むを可とする〔古義〕。
 
(116)
(一)己母〔右▲〕世爾
(一)元暦校本其他には母の字がない。舊訓もオノガヨニとあるから衍字とすべきである。高市皇子の宮から他へ移られる時の詠とすれば意はよく通ずる。イモセニ〔契冲〕、イモセガハ〔宣長〕、イケルヨニ〔雅澄〕等の訓は解讀ではなく、寧ろ改作である。
 
(117)
 
(118)
(一)吾髪結乃
(一)髪結は結髪の倒置であらう。舊訓ユフカミとあるが、髪結ふことを古はタクと稱へたものゝやうである。――次の三方沙彌の歌參照――契冲はモトユヒと改訓したが、モトユヒといふ語も物も此時代にあり得たとは思はれぬ。
參照 タキ
 
(119)
(一)須臾毛(二)不通事無
(一)シマシクモ又はシバラクモと訓んでもよい。
(二)契冲はヨドムコトナクかというたが、尚舊訓を可とする。〔舊訓、絶ゆることなく、入力者〕
 
(120)
(一)花爾有猿尾
(一)ナラマシヲと訓むのは後代の詞つかひである。
 
(121)
參照 ユフサリ
 
(122)
參照 タユタヒ
 
(123)
(一)掻入〔右△〕
(一)舊訓ミタリとあり、契冲はカキレとしたが、宣長説の如く入〔右△〕は上〔右○〕の誤としてカカゲと訓むのがよいやうである。
 
(124)(125)
 
(126)
(一)遊士跡
(一)舊訓タハレヲとあるが、宣長説の如くミヤビヲと訓する方がよい〔玉小琴〕。
(二)拘〔右△〕は狎〔右○〕の誤寫であらう。
參照 ミヤビテ、オソ
 
(127)
(一)風流士者有
(一)略解の訓に從ふ。古義は者〔右△〕を※[者/火]〔右△〕の誤としてミヤビヲニ〔右○〕アルと訓したが、假に煮(又は爾)の字が書いてあつても、語法上こゝはハといふ助語が必要である。
 
(128)
(一)耳爾好似(二)葦若末乃(三)足病吾勢(四)勤多扶倍思
(一)舊訓ヨクニバとあるが、雅澄説のやうにヨクニツと訓まねばならぬ。「我耳に聞きしに違はなかつた」といふことである。
(二)十卷に小松之若未《ウレ》爾とあるを證としてアシのウレと改訓したものがあるが、枝のない葦にありつてはウレ(梢)は即ちカビ(心芽)のことである。
(三)舊訓による。和名抄に蹇行不v正也アシナヘ、此云2ナヘク1とあつて、ナヘグは跛行の意である。恐らくは田主は片足が少し短かつたのであらう。葦カビといふ語を以て修飾したのも葦の葉の互生に譬へたものと思はれる。足痛といふ文字についてアナヤムと改訓したのは誤でないとしても尚、舊訓を不可とすべき理由はない。否アナヘクの方が此場合アナヤムよりも一層適切のやうである。
(四)舊訓ツトメタブベシとあるが、こゝの勤は謹の意で(温故堂本には勤の左旁にツヽシ【ムミ】と點してある)、ユメ(忌)といふ語を以て表現せられればならぬ。ユメはユミの命令法で、ユミはユマヒとも活用せられること勿論である。
參照 カビ、ユメ
 
(129)
(一)古之
(一)此句をトシヘニシ〔信名〕又はフリニシ〔雅澄〕と訓したものもあるが、此歌の意は「昔の女ならば決して小兒のやうに手を束ねて戀に沈んでは居まい」といふことであるから、イニシヘノと讀まねばならぬ。
參照 タワラハ
 
(130)
(一)戀痛吾弟(二)乞通來禰
(一)吾弟は舊訓ワガセとあるが、第二句にセといふ語を用ひて瀬《セ》と兄《セ》とをいひかけて居るから、弟はオトであらねばならぬ。オトのオが上の母親に接せられてトとなるのは上代の發音法の通則であるのみならず、オト(弟)の原語はト(オは接頭語)であるから、結合語としてはオが約せられるのが當然である。――アオトと訓した古義の説は非
(二)乞の字舊訓コチとあるが、契冲訓の如くイデを可とする。――コチ(此方)へといふ意を畧してコチとすることは出來ぬ。
參照 ニフの川、ユクユク
 
(131)
(一)和多豆乃(二)香青生〔右△〕(三)風社依米(四)浪社來縁
(一)舊訓ニギタツとあるが、前續句とのつづき合ひからいうてもワタツ(渡津)であらねばならぬ。
(二)生〔右△〕は在〔右○〕の誤字とする眞淵説を可とする。
(三)をヨセメ又はキヨセ、(四)をキヨセと改訓したものがあるが、風波共にヨルといへぬことはなく、次句カヨり〔右○〕カクヨリ〔右○〕の序であるから、ヨスよりもヨルを可とする。
參照 カタ、ヨシヱヤシ、イサナトリ〔枕〕、朝ハフル、夕ハフル、ツユジモノ
 
(132)(133)(134)
 
(135)
(一)深目手思騰(二)佐宿夜者(三)散之亂爾(四)雖惜
(一)舊訓フカメテオモフトとあるが、フカメテモヘドを可とする。
(二)舊訓サヌルヨとあるが、上に靡キ寢シ〔右○〕子とあると時格が一致せぬから、雅澄の訓を可とする。
(三)雅澄はチリのミダリニと訓めというたが、チリのマガヒは第五卷、一五卷にも用ひられた慣用句であるから、尚之に從ふべきである。――但し反歌の勿散亂(又は知里勿亂)は字についてチリナミダリと訓むのであらう。
(四)眞淵はヲシケドモと改訓したが、こゝは雲間を渡る月を惜しむが如く惜しむ〔二字右○〕けれどもといふ意で、惜シイケレドモではないから、舊訓の如くヲシメドモであらねばならぬ。
參照 ツヌサハフ〔枕詞〕、コトサヘグ〔枕詞〕、イクリ、ミル、キモムカフ、マガヒ、シキタヘ
 
(136)(137)
 
(138)
(一)柔田津乃
(一)和多豆をニギタツと讀んで柔とかきあらためたもので、ニギタツといふ地名はないのみならず、「海邊をさして」といふ句につゞかぬこと上述の通りである。
 
(139)
(一)打歌山乃
(一)ウツタといふ地名は今の石見國には見あたらぬ。タカツヌと讀まうとして色々穿鑿するものもあるが、異傳なるが故に重載したのであるから、無用の業とせねばならぬ。
 
(140)
(一)吾不戀有乎〔右△〕
(一)乎〔右△〕の字金澤本に牟〔右○〕とあるを可とする。
 
(141)(142)
 
(143)
(一)將結(二)復將見鴨
(一)將結はムスビケムとはよめぬから、訓に誤なしとすれば誤字とせねばならぬ。
(二)舊訓の如くミケムカモとしては意が通ぜぬ。「まさきくあらば又かへり見む」と詠まれた皇子の再び還り給はぬ事を悲しんだのであるから、見メヤモといふ意の反語であらねばなたらぬ。字の通りミメカモと訓むのであらう。
 
(144)
 
(145)
(一)鳥翔成
(一)舊訓トリハナス、古義ツバサナスとあるが、ナスの原義は「の如」で、「鳥のやうに」とはいひ得るが、トリハのやうに又はツバサのやうに有通ふとはいへぬ。此は「皇子の御靈が鳥の如く天翔り來往して曾て結んだ松を見られようとは人は知らぬが、松は知つて居るだらう」といふ意であるから、義によつて天《アマ》ガケリと訓むがよい。
參照 ナス
 
(146)
(一)一首(二)君〔右○〕之
(一)金澤本には柿本朝臣人麻呂歌集中出といふ註記がある。
(二)刊本に若〔右△〕とあるのは誤寫であらう。元暦校本に據る。
(三)舊訓ミケムカモとあるが、將見をミケムとは訓めぬから、字の通りミムカモと訓み、供奉の官人が此悲しい物語のある松を又見るだらうと詠じたものと解釋すべきであらう。
 
(147)
(一)長久天足有
(一)下二句ミヨハトコシク・アマタラシヌル〔眞淵〕、ミイノチハナガクアマタラシタリ〔宣長〕などといふ訓もあるが、代匠妃の訓も可とする。天皇に對する敬語は大御〔二字右○〕を用ひるを例とする。
 
(148)
(一)木旗能上乎
(一)眞淵が之を天皇殯宮の時と憶斷し、木〔右○〕旗を小〔右△〕旗と改記してヲハタと訓したのみならず、青旗は白旗をいふと註したのは甚しい誤解である。これは庭前の樹梢が徐に動くのを見そなはして、大御|靈《タマ》が今高天原に神上りますと感ぜられたことを詠まれたので、ハタはハタススキともいふやうに青葉の茂りあうて居ることをいひ、何時に大御葬具《オホミハフリツモノ》の青旗を聯想せしめるものである。されば上の字もウレと訓むことを可とする。
 
(149)
(一)倭太后
(一)倭太后は皇后倭姫王のことであるが、倭と書するのは例のないことであるから、契冲は衍字か、然らずば下に姫を脱したのであらうというた〔代匠記〕。
參照 タマカツラ
 
(150)
(一)婦人(二)離居而(三)放居而
(一)此女性は入内しなかつたが、天皇が通はせ給うた相當身分のある人と思はれる。されば之をタヲヤメ又はヲミナメと讀むは不當である。案ずるに婦人は夫人に通じ、オトジと訓するのであらう。
(二)舊訓はいづれもハナレヰテとあるが、契冲、雅澄説の如く、一方をサカリヰテと訓むことを可とする。ハナレ〔右○〕も古語はハナリ〔右○〕であるから、ハナリ〔右○〕ヰテと訓むのかも知れぬ。
參照 ウツセミ、キソ
 
(151)
(一)如是有乃〔右△〕
(一)乃〔右△〕は刀〔右○〕の誤寫〔代匠紀〕。
參照 オホミフネ
 
(152)
(一)待可將戀
(一)マチカコヒナム〔舊訓〕、又はマチカコフラム〔古義〕として辛崎が天皇の玉舟を戀ひ佗びるであらうといふ意と説くものもあるが、其意味ならば御代に榮えます天皇の御事とも解せられるから、挽歌にはならぬ。此に辛崎が靈柩を待ち奉つて後は其地を戀ひむといふ意で、主格は作者自身、コヒムは意嚮法《ヴオリチーヴ》である。
 
(153)
(一)念鳥立
(一)舊訓オモフ〔右△〕トリとあるは誤で、オモヒ鳥であらねばならぬ。其は「思」に「居喪《オモヒ》」をいひかけたものであるからである。宣長が嬬之の次に命之の二字脱としたのは八千矛の神の歌に「若草の妻の命」とあるによるものであらうが、近江朝の頃には自分をらミコトと名乘ることはなかつたやうである。
參照 イサナトリ〔枕〕、オキツカヒ、ヘツカヒ、オモヒ鳥
 
(154)(155)
 
(156)
(一)巳具〔右△〕耳矣自〔二字右△〕 得見監乍共〔右△〕
(一)巳具〔右△〕耳矣自〔二字右△〕得見監乍共〔二字右△〕の十字については色々の説があるが、首肯すべきものがない。假にイメニダニミエケムモノヲと訓した理由は次の通りである。
 (イ) 第三句には神杉の縁語があるべき筈であるから、巳具を巳目の誤としてイメ(忌)と讀み、夢《イメ》にいひかけたものとする。
 (ロ) 耳は珥に通ずるからニの假字に用ひられたのであらう。
 (ハ) 矣自〔二字右△〕の二字が「谷」一字の寫し誤りであるとする推定は無理であるが、恐らくは矣〔右△〕は六字目の共〔右△〕が錯置せられたので、共自は谷〔右○〕の字を寫し誤り、之を二つい分けたものと思はれる。
 (ニ) 得見監は當然ミエケムと訓むべきである。
 (ホ) 乍共をモノヲと訓するは無理であるが、共は六字前の矣《ヲ》と錯置せられたことも有り得るし、乍は物の扁?に似て居る。前の語のつゞき具合から推してこゝはモノヲであらねばならぬ。
 
(157)
(一)神山之(二)如此耳故爾
(一)舊訓ミワヤマとあるが、三輪に限つたことでないから、カミヤマとした契冲訓に從ふ。
(二)カクノミユヱニ〔舊訓〕と讀んでもよいが、カクノミカラ〔千蔭〕の方がよい。
參照 マソユフ
 
(158)
(一)立儀足
(一)儀の字を靡〔右△〕又は茂〔右△〕の誤字とする説もあるが、タチシナヒ、タチシミ共に面白からぬ語づかひであるから、姑く契冲訓による。
 
(159)
 
(160)
(一)太上天皇(二)燃火物(三)智男雲
(一)太上天皇は持統天皇の御事で、後日の御稱號を遡つて用ひたのである。
(二)燃火はトモシの借字、トモシモノは貴重品の意である。「トモシ火の」と訓したのは大なる誤解といはねばならぬ。火を袋につゝむことは手品の外は不可能である。
(三)智〔右△〕は知〔契冲〕又は知曰〔眞淵〕又は知日〔守部〕の誤とするものがあるが、恐らくは知四〔二字右◎〕の二字を寫し誤つたので、シルシと訓むのであらう。男雲がナクモの假字であることは勿論である。
此御歌の意は大切のものは袋に入れてしまつて置くものであるが、大御靈にはシルシがないと嘆かれたので、首句の誤讀の結果、從來何人もよみ得なかつたのである。
參照 トモシ、トモシ火、フクロ
 
(161)
(一)陣雲(一)星離
(一)金澤本には陳〔右△〕とあり、類聚古集にはツラナルと訓してある。雲のツラナルことは古語ではたなびくというたから、陳〔右○〕が正字であるとしても尚、タナビクと訓むのであらう。
(二)星は日毛の二字の訣寫でヒモサカリユクであらうといふ説がある〔新考〕。上三句は星の落ちる形容(又は譬喩)としては不適當であるから、月日の經過と解する方が適切であるが、挽歌としては物足らぬ氣がする。或は上二句は序で、青雲の星は晴夜の辰宿を意味し、實景を詠まれたものではあるまいか。尚一考を要する。
 
(162)
(一)靡足波爾(二)味凝
(一)ナビキシナミニ〔舊訓〕、ナビカフナミニ〔古義〕、ナミタルナミニ〔新訓〕としたのは爾線ニの假字とした爲であらうが、意をなさぬ。爾をシの假字に用ひた例は〔一三〕にもあるのである。
(二)アヂコリ〔舊訓〕、ウマゴリ〔考〕などいふ訓があるが、此はアヤ(綾)の枕詞ウマシコリ(味絹織)にウマ(味)シキ(數)ヲリ(居)をいひかけられたのである。
參照 ウマシコリ〔枕〕
 
(163)
(一)?何可
(一)イカニカと訓しても妨はない。ナニとイカニとは別語であるが、殆ど同義である。――語法要録參照。
 
(164)
(一)馬疲爾
(一)馬ツカルルニと訓したものがあるが〔宣長〕、尚舊訓を可とする。古語ではツカルルモノ(ヲ)といふ意をツカルルニとはいはなかつたものゝやうである。
 
(165)
(一)弟世
(一)舊訓イモセとあるが、假に弟の字が誤であるとしてもイモセといふべき理由がない。弟を奈〔右△〕又は吾〔右△〕の誤りとする説もあるが、セは一般的に男子の敬稱であるから(アセ、アソともいふ)、オトセといふ語もあり得た筈である。
 
(166)
(一)路上見v花〔右△〕盛
(一)盛〔右△〕は金澤本に感〔右○〕とある方がよいやうである。
參照 アシビ
 
(167)
(一)初時之(二)由縁母無(三)不知爾爲
(一)舊訓ハシメのトキシ〔右△〕とあるが、こゝは「初の時の〔右○〕……分ちし時に〔右○〕」といふ二句を結びつけたので、「風まじり雨ふる夜の雨〔右○〕まじり雪ふる夜は」〔萬五〕、「天地にくやしきことの〔右○〕世の中にくやしきことは」〔萬一三〕の如く、必ずの〔右○〕とあるべきである。
(二)宣長説に從うてツレモナキと讀んでもよいが、尚由縁〔二字右○〕といふ字を尊重してヨシモナキ〔契冲〕の訓をとる。次の〔一八七〕にも所由無《ヨシモナキ》佐太乃岡邊とある。
(三)不知爾〔右△〕爲の爾〔右△〕は蛇足であるが、シラズ〔右○〕シテと訓まぬや〔右○〕うに附加へた一種の送假字で、本集には他にも例のあることである。
參照 タカシリ、フトシク、シキマス、サスタケ
 
(168)(169)
 
(170)
(一)池爾不潜
(一)舊訓カツガスとあるが、新考の説の如くカツガヌとあらねばならぬ。――語法要録參照。
 
(171)
 
(172)
(一)上池有
(一)神田本には池上とあるが、諸本皆上池としてあるから、ウヘのイケと訓すべきである。上の歌の勾の池と同所であるかも知れぬが、上〔右○〕を勾〔右△〕の誤、有〔右○〕を之〔右△〕の誤と斷定するのは早計である。
 
(173)
(一)不荒者蓋〔右△〕乎
(一)金澤本に益〔右○〕とあるを可とする。
 
(174)
 
(175)
參照 オホホシク、ミヤデ、サヒのクマ
 
(176)(177)
 
(178)
(一)御立爲之
(一)ミタチセ〔二字右△〕シと訓するのは古言でない。
參照 ニハタツミ
 
(179)
(一)不飽鴨
(一)舊訓アカズカモとあるが、守部に從うてアカネカモと讀むべきである。飽カネバ〔右○〕カといふ意である。
 
(180)(181)
 
(182)
(一)鳥※[土+而+一]立
(一)代匠記に※[土+而+一]〔右△〕は栖〔右○〕の誤、一本に塒〔右○〕に作るとある。
 
(183)
參照 トコトハ
 
(184)
 
(185)
參照 モク
 
(186)
(一)大寸御門
(一)眞淵はオホキミカトと改訓したけれども、前出〔一八四〕の例もあるから、舊訓の如くタキのミカドと訓むべきである。
 
(187)
(一)所由無
(一)舊訓ツレモナキとあるが、由一字をツレと訓む筈もなく、語義からいうてもツレ(連)とするは不適當である。
參照 ツレモナク
 
(188)
(一)旦覆
(一)舊訓アサクモリとあり、アサカヘリと訓したものもあるが〔守部〕意をなさぬ。雅澄が茜刺の誤寫としたのは根據のないことである。アシタ覆ふと訓めば意がよく通ずる。即ち皇子を世を覆ふ日に譬へたのである。
 
(189)(190)
 
(191)
(一)春冬片設而(二)幸之
(一)春は借字「毛衣を張る」は冬の序である。片設は舊訓マケテとあるに從ふべきである。片設といふ字を用ひたのは此マケが片設の意のマケなるが故で(マケには他にも色々意味がある)、カタマケと讀んでは聞きにくい字餘りになる。
(二)イデマシシとする雅澄訓を可とする。
參照 マケ、カタマケ
 
(192)
(一)夜鳴變布
(一)舊訓はカヘラフとあるが、眞淵説の如くカハラフと訓むべきである。即ち皇子を葬つた此年ごろ(ヲは感動詞)は佐太の岡に夜鳴く鳥の聲が悲しげに變つたといふことであらう。
 
(193)
(一)八多籠良家(二)吾者皆悉
(一)舊訓ヤタとあるが.之は高市郡波多郷のことで、眞弓の南方一里の所にあり、藤原の京に通ふには眞弓を通るのである。ヤツコ(奴)と改訓したのは論ずるに足らぬ。
(二)眞淵かコトコトと改訓したのは非。舊訓を可とする。
 
(194)
(一)短歌(二)流觸經(三)名具鮫魚〔右△〕天氣留〔右△〕敷藻
(一)此題詞は意義明白をかくので、反歌の左註に或る本を引いて説明を加へてあるが、誤傳であつても誤記ではないのであるから、猥に筆を加へる事は慎まねばならぬ。歌意も亦夫を失うた女の嘆と解する事は困難である。上九句は男性に對する序としては甚適しからぬもので、終の九句も女性、ことに貴女の行動とは思はれぬから、――玉裳とあるが故に婦人の事と思ふものがあるかも知れぬが、モは下衣の總稱で、男子の用ひるマヘモ〔右○〕(褌)ハカマ〔右○〕(袴)もモの一種である――妃を失はれた忍坂部(忍壁)皇子に献つた歌とすべきである。忍壁皇子の妃は明日香皇女であるから、此歌も次の挽歌と同じく明日香川を起句としたので、殯宮は城戸《キノヘ》に設けられたにしても陵墓は越智に定められたのであらう。泊瀬部皇女は忍壁皇子と御同腹であるから、併せ献じたと見ても差支はたい。歌意を究はめずして猥に題詞を改めんとするは指彈すべきことである。
(二)雄畧記の三重の采女の歌に准じてフラハフと訓むべきである。
(三)舊訓ナグサメテ・ケルシキモとあるが、久老説の如く魚〔右△〕は兼〔右○〕、留〔右△〕は田〔右○〕の誤としてナグサメカネテ・ケダシクモと訓むを可とする。
參照 フラハヘ、タタナヅク、ケダシ、モ
 
(195)
(一)歌也
(一)此左註に疑があることは上に述べた通りである。
 
(196)
(一)打橋渡(二)生乎爲〔右△〕禮流(三)許呂臥者(四)片戀嬬〔右△〕(五)爲便知之也(六)形見何此焉
(一)從來ウチハシと訓して居るが、ウツ〔右○〕ハシであらねばならぬことは語誌に詳論した通りである。
(二)爲〔右△〕を烏〔右○〕の誤としてヲヲレルと訓した眞淵説をとる。
(三)金澤本には玉藻之母〔右△〕許呂臥者とある。タマモのモコロコヤセバと訓むのであらうが、尚刊本に從ひ四、六、五、七の四句とする方が調がよいやうである。
(四)次のカヨハス君の對句としてカタコフツマ(夫)と訓むのかも知れぬが、舊訓はカタコヒ〔右○〕ツマとある。
(五)舊訓スベモシラシヤとあり、眞淵はスベシラマシヤと改めたが、いづれも心行かぬ語づかひである。誤字があるものとして、雅澄に從ひ、姑くセムスベシラニと訓して置く。
(六)何〔右△〕は荷〔右○〕の誤としてカタミニ〔右○〕ココヲと訓した宣長説〔畧解〕が當を得て居るやうである。
參照 ウツハシ、ミケムカフ、ヌエ鳥、ユフヅツ、ハシキヤシ
 
(197)
參照 シガラミ
 
(198)
 
(199)
(一)綾爾畏伎(二)小角(三)弓波受乃驟(四)大〔右△〕雪乎(五)遣便〔右△〕(六)佐母良比不得者〔右△〕(七)高之奉〔三字右△〕而
(一)こゝで文が切れることは勿論であるが、咏嘆の意を含めて、わざとカシコキ〔右○〕というたので、カシコシ〔右△〕の誤寫ではない。――語法要録參照。
(二)舊訓ヲツノとあるが、和名抄に小角はクダのフエとあるによつてクダと訓むべきである。
(三)舊訓ウゴキとあるが、契冲訓に從ふ。
(四)金澤本にに天〔右○〕雲とあり、舊訓もアマグモである。天雲ヲ日ノ目モ見セズとあるつゞき合を不可解とするものもあるが、此ヲは「國を〔右○〕離れ」「家を〔右○〕出づ」などいふヲで、ヨに通ずるのである。――語法要録參照。
(五)遣便〔右△〕は遣使〔右○〕の誤記とする契冲説に從ひ、畧解の訓の如くツカハシシとよむべきである。
(六)舊訓サモラヒエネバとあるが、宣長説の如く者〔右△〕は天〔右○〕の誤で、カネテと訓むのであらう。
(七)高之〔二字右△〕の二字は定〔右○〕一字の誤とする宣説祝〔玉小琴〕可。
參照 ユユシ、コマツルギ〔枕〕、チハヤフル〔枕〕、イクサ、クダ、ユフ花、シシジモノ〔枕〕、ウヅラナス〔枕〕、タマダスキ〔枕〕、ツユジモノ〔枕〕
 
(200)
(一)天所知流
(一)アメニシラルルといふ舊訓の非なることは勿論であるが、アメシラシヌル〔眞淵〕も亦穩當でない。完了時格を用ひる場合ではないのである。
 
(201)
 
(202)
(一)雖祷祈
(一)舊訓イノレドモとあるが、雅澄説の如くミワ(神酒)の縁語としてノムといふ語を用ひた筈である。――〔九八九〕參照――但しノマメドモとしては末句と時格があはぬから、宣長訓に從ひコヒノメド〔三字右○〕といふべきであらう。
(二)舊訓シラレヌとあるが、童蒙抄に從うてシラシ〔右○〕ヌと訓むべきである。高日知は天所知と同じく薨去を意味するのである。
參照 ミワ、ノミ
 
(203)
(一)塞爲卷爾
(一)セキニ〔右○〕セマクニと訓してもよいが、セキト〔右○〕の方が一層適切である。――金澤本には塞〔右○〕を寒〔右△〕としてあるが、サムカラマクニと讀んでは意が通ぜぬ。
參照 セキ、ヨナバリ
 
(204)
 
(205)
(一)五百重之下爾
(一)舊訓シタとあるので、不可解として上〔右△〕の誤寫とするものがあるが〔考〕、下はモトの假字で、上下の下《シタ》を意味するのではあるまい。
 
(206)
 
(207)
(一)玉蜻(二)遣悶流
(一)タマカギルと訓むべしとする雅澄説〔古義玉蜻考〕を可とする。
(二)舊訓オモヒヤルとあるが、宣長に從うてナクサモル(又はナクサムル)と訓むべきである〔玉小琴〕。
參照 ネモコロ、サネカツラ〔枕〕、タマカギル〔枕〕、イハガキフチ
 
(208)
 
(209)
(一)落去?倍爾
(一)眞淵がチリヌルと改訓したのは非。其はナベニの意を解し得なかつた爲である。上三句の意味は「黄葉のやうに散り行くのは必然であるのに」といふことで、チリはタマヅサの縁語である。
參照 ナベ、タマヅサ
 
(210)
(一)取持而(二)若兒乃(三)鳥穗〔右△〕自物(四)珠蜻
(一)嘗訓トリモチテとあるが、攷證の説の如くタヅサヒテを可とする。
(二)代匠記にミドリコとある舊訓を非として字によつてワカコと訓したのは理に合うて居るが、ワクコと訓む方がよい。
(三)穗〔右△〕》は徳〔右○〕》誤であらう〔考〕。
(四)上記の玉蜻と同じくタマカギルであらねばならぬ。
參照 ハシリデ、アマヒレ、ヲトコジモノ、サクミ、ナヅミ、ヨケクモゾナキ
 
(211)(212)
 
(213)
(一)取委(二)旦者(三)灰而座者
(一)舊訓マカスとあるが、緑兒をあやすにマカスといふ語を用ひたとは思はれず、原義上轉用不可能であるから、マタ〔右○〕スを寫し誤まつたものと思はれる。マタスは令v持の義であるから、委の字をあてることは不當ではない。
(二)從來ヒルハ、ヨルハと三音に訓んで居るが、旦はヒルといふ訓に不適當であるのみならず、三、七音の排列は甚調のよろしからぬものであるから、アシタハ、ユフベハと訓むべきであらう。
(三)舊訓ハヒレテマセバとあるが、ハヒレといふ語があり得たとも思はれぬ。眞淵以來灰〔右○〕を仄〔右△〕の誤とし、更に數字を改めて前掲の本歌と一致せしめんと試みたものがあるが、此の如きは解讀ではなく、改作と稱すべきで慎まねばならぬ。火葬は此當時既に行はれて居たから、――〔四二九〕參照――此女性も荼毘に附せられたものと見るべきで、香切火之、燎流荒野爾、白栲、天領巾隱の四句が之を暗示して居る。されば而をシの假字と見て灰ニシマセバと訓めば容易く會得せられるのである。――ハヒニテ〔右△〕マセバと訓するは非。此やうな場合にこそシといふ指定助語が必要であるのである。
參照 ミドリコ、マタシ
 
(214)(215)
 
(216)
(一)吾〔右△〕家
(一)吾〔右△〕は妻〔右○〕の誤とする眞淵説が當を得て居ると思ふ。
參照 ツマヤ
 
(217〕
(一)吉備津(二)下部留妹(三)髣髴見之
(一)反歌に志我津子又は大津子とある所を見ると、吉備は志賀の誤であらうといふ雅澄説を可とする。吉備津といふ地名稱呼もないやうである。
(二)宣長がシタブ〔右○〕ルと訓めというたのは〔記傳〕、シタビの語義を誤解した爲であるから問題にならぬ。此語の原形はシタビで、之にアリを添へて繼續格とする場合には國語の通則に從ひ、舊訓の如くシタベルであらねばならぬ。――語法要録參照。
(三)眞淵訓の如くオホニ見シを可とする。
(四)也の字訓むべからずとする宣長説可。
參照 シタビ、トヲヨル、タクナハ〔枕〕
 
(218)
(一)罷道之
(一)舊訓ユクミチノとあるが、道〔右△〕を邇〔右○〕の誤としてマカリニシと訓した宣長説がよいやうである。
 
(219)
(一)天數(二)凡津子之〔二字右△〕(三)見敷者
(一)天數の字について解釋しようとした爲、説きわづらうて之を誤字とする説〔古義〕も出たのであるが、アマガスム(海人が住む)大津といひかけたのを、夙にアマガスブと訛り、之に天數の字をあてたものと見るべきである。
(二)「子が」又は「子ノ」としては「凡津子」か主格になるから下の句とあはぬ。恐らくは女〔右○〕之子とあつたのが女〔右○〕を脱《オト》して之と子とを顛倒したのであらう。
(三)敷にシクの假字に用ひられたのであらう。「そがひに寢シク〔右○〕今ぞくやしき」〔萬七〕とある語法を考へ合はすべきである。
 
(220)
(一)次來(二)跡位浪立(三)廬作而見者
(一)ツギテクルは「言次而來」の意であるが、――ツゲ(告)といふ語も之から出た――「言」の字を脱したのでもなく、又イヒツグル〔古義〕と訓むのでもない。
(二)シキナミとする眞淵訓を可とする。十三卷にも跡座《シキ》浪立|塞道麻《サフミチヲ》とある。
(三)舊訓イホリツクリテミレバとあるが、古義の訓を可とする。イホリはイホ(廬)の活用語である。
參照 クニカラ、カミカラ、ナクハシ〔枕〕
 
(221)
參照 タヘ、ウハギ
 
(222)
 
(223)
(一)不知等
(一)此トはテと同語で、シラズテ〔二字傍点〕を古はシラニトというたのである。――語法要録參照。
 
(224)
 
(225)
(一)直 相者相不勝
(一)上二句は從來「直相者」を第一句、「相不勝」を第二句として、第一句はタダノアヒハ、第二句はアヒモカネテム〔舊訓〕、アヒカテマシヲ〔考〕、アヒカツマシジ〔新訓〕などと訓したが、不勝もカテマシヲ又はカツマシジと訓み得ぬことは勿論で、カネテムは未來完了格であるから、第四句と呼應せぬ。此歌は直面不可能であらうがせめてに石川の雲と立わたれといふ意であるから、第二句は単純時格であらねばならぬ。案ずるに「直」一字が一句で、タダカニハと訓み、第二句はアヒハアヒカテジ(「逢ひは逢ひ得じ」といふ意)と訓むのであらう。此の如き語法は他にも例のあることである。
 
(226)
(一)誰將告
(一)ツゲマシ、ツゲケムと訓むは非。舊訓を可とする。ナムは希望の意か助動詞と解すべきである。
 
(227)
參照 アマサカル
 
(228)(229)
 
(230)
(一)本名言(二)御駕之
(一)イヒツル又はイヘルと訓するは非。こゝは完了又は繼續格を用ひる場合ではないから、新考の説の如くモトナイフと五音によむべきである。
(二)仙覺はオホムタノと訓したが、ムタといふ語は不可解である。眞淵に從うてイデマシノと訓して置く。
參照 ヒサメ、モトナ
(231)
參照 イタヅラ
 
(232)(233)(234)
 
【卷第三】
 
(235)
(一)廬爲流〔右△〕鴨
(一)流〔右△〕は須〔右○〕の誤とする或る人の説〔略解〕を可しとする。
參照 カミヲカ
 
(236)(237)
 
(238)
(一)海人之呼聲
(一)ヨビコヱと訓むと網子トトノフル呼聲即ち號令の聲をいふものゝやうに聞えるが、こゝは海人の声高に叫ぶ聲が大宮に達するといふことであるから、「網子トトノフル」は「海人」のみにかゝる修飾語として、ヨブ〔右○〕聲と訓むべきである。一音の相違によつても意味の大なる差異を生ずることに注意せねばならぬ。
參照 トトノフル
 
(239)
(一)獵路
(一)從來カリヂと訓して居るが、獵路は借字で、カルチとよみ、輕市の意であらう。題詞に獵路池〔右○〕(久老、雅澄等が野〔右○〕と改記したのはさかしらである)とあり、反歌にも「荒山中に海をなすかも」とあるから、輕池の附近と思はれる。「若|薦《コモ》を」といふ枕を用ひたのを見ても、カルと讀む方が適はしいやうである。
參照 カルの池、マソカガミ
 
(240)(241)(242)(243)(244)(245)(246)(247)
 
(248)
參照 ハヤヒト
 
(249)
(一)宣奴島爾
(一)下二句舊訓フネコグキミガユクカヌシマニとあるが、契冲は脱字があるかと疑ひ、眞淵以來の學匠思ひ/\に數字を補うて訓して居る。舟公は舟人即ち「舟こぐ人」の意、末句は字の通りノロフヌシマニと訓み、「近づきぬ」といふ意味を含ませたものとすれば原文の儘でもよく意が通ずるから、強て改作するにも及ぶまい。
 
(250)(251)
 
(252)
參照 アラタヘ〔枕〕
 
(253)
(一)去過勝爾(二)潮見
(一)一爾は打消のニ(不)にあてた假字であるから、カテニと訓むべきで、ガテニと濁り「難きに」の意とするは誤である。
(二)潮〔右△〕の字は諸本に湖〔右○〕とある。いづれにしてもミナト又はミトの假字である。
參照 イナビ野
 
(254四)
(一)家當不見〔右△〕
(一)不見とあるにも拘はらす、諸本ミユ又はミテと訓してある。姑く舊訓に從うてミユとして置く。コギワカレナムを日没の大陽に別れることゝし、西から歸着の際の作と見れば意が通ずる。次の歌と照し合はせて心得べきである。
 
(255)
 
(256)
(一)亂出所見(二)舶爾波有之
(一)ミダレイデミユ〔舊訓〕、ミダレイヅミユ〔古義〕其他類似の訓があるが、類聚抄其他の古寫本の訓の如く出〔右△〕は假字としてミダレテミユルとすべきであらう。但し十五卷には古歌として一本の歌をあげ、左註に柿本朝臣人麿歌として第四句を美太禮?出見由としてある。此によればミダレテイヅミユと訓まねばならぬが、ミダレテイヅといふ語は耳ざはりであるのみならず、亂れて出る光景ならば出發地が示され(又は暗示にせられ)て居らねばならぬ。恐らくは傳誦の誤であらう。
(二)右の十五卷に掲げた歌には第二句爾波余久安良之とあるが、本集編纂の際彼此の異同を校訂したものとは思はれぬから、こゝの舶爾波有之を誤寫なりと斷定することは出來ぬ。フネニハアラシと訓しても歌の意はよく通ずる。
參照 ケヒの海、ニハ
 
(257)
(一)木晩茂爾(二)奧邊波(三)鴨妻喚(四)邊津方爾
(一)舊訓シゲニとあるは從はれぬ。爾《ニ》は彌《ミ》の誤字とする説もあるが、寧ろシジニと訓むべきであらう。
(二)古義にオキヘニ〔右○〕ハと改訓したのは從はれぬ。オキヘハといふのが古語である。
(三)舊訓カモメヨバヒテとあり、カモメツマヨビ〔久老〕、カモツマヨバヒ〔雅澄〕と訓したものがあるが、鴨妻もカモメ(?)と訓むことの非なるは勿論、ヨビとヨバヒとを同一視することは出來ぬ。
(四)ヘツヘニと四音に訓むを可とする。
參照 コノクレ、アヂムラ、ヨバヒ、モモシキ〔枕〕
 
(258)
參照 ヲシ、タカベ
 
(259)
(一)何時間毛
(一)イツノマモは「何時の間にかも」の意と思はれる。
 
(260)
 
(261)
(一)高輝
(二)益及常〔右△〕世
(一)タカテルと四音に訓むを可とする。――〔五〇〕參照
(二)常〔右△〕は座〔右○〕の誤とする久老説可。シキイマセと讀むべきである。
 
(262)
(一)雪驪
(一)仙覺訓にハダラとあるが、驪(クロウマ)をハダラと訓むべき理由を詳にせぬ。さりながら何か根據があつた事と思はれるから、姑く之に從うてハダレ〔右○〕と訓して置く。――キホヒテ、サワギテ、コマウツなど訓したものがあるが、意をなさぬ。
參照 ハダレ
 
(263)
(一)馬莫疾
(一)古義に馬莫〔二字右○〕を吾馬〔二字右△〕の誤としたのは不當である。此ナは後世ならば「馬ナモ〔二字右○〕トク」といふナモ〔二字右○〕に該當するものである。此歌の意は志我から京へかへる人が見送りに來た情人に「相並べて志賀(汝《シ》にいひかけたのである)を見て行くことが出來ぬのであるから駒を早めるな」というたのである。――疾はイタクと訓してもよいが.イタクの原語はトクであることを知らねばならぬ。
 
(264)
參照 モノノフ、イザヨフ
 
(265)
(一)神之埼
(一)舊訓ミワノサキとあるは誤である。ミワといふ語を神の意に用ひることがあるが、其は或る場合に限られ、カミと全然同義語とすることは出來ぬ。――其は恰も大神君をオホミワの君と稱へることの故を以て、天照大神をアマテラスオホミワといひ得ざると同じ理である。――此神ノ崎に近江の神崎郡のことであらう。
參照 カミのサキ
 
(266)
 
(267)
參照 ムササビ
 
(268)
(一)古家(二)島〔右△〕待
(一)フルヘ、イニシヘといふ訓もあるが、久老説の如くフルヤと訓むべきであらう。
(二)島〔右△〕は君〔右○〕の誤とする説〔眞淵〕を可とする。
 
(269)
(一)所燒乍〔右△〕可將有
(一)乍はテにあたる字の誤としてヤカエテカアラムと訓むべしとする説がある〔新考〕。或は然らむ。
參照 アヘ坂
 
(270)
(一)奧※[手偏+旁]所見
(一)オキニ〔右○〕コグ見ユ又はオキヲコグミユと訓して居るが、タナビケリ見ユ〔三五三〕、船出セリ見ユ〔一〇〇五〕などいふ例によれば沖コゲリミユと訓むのであらう。
 
(271)
 
(272)
參照 シハツ山、タナナシヲフネ
 
(273)(274)(275)
 
(276)
參照 フタミの道
 
(277)
(一)速來(二)高槻村
(一)久老はハヤと改訓した。或は然らむ。
(二)高き槻|群《ムラ》の意とする説〔久老〕は非。其意ならば山背といふ大名を用ひずして郷名又は其界隈の稱呼を冠した筈である。
 
(278)
(一)軍布(一)髪梳
(一)メに軍布といふ字をあてた理由は判明せぬ。或は昆〔右○〕布の誤記か。
(二)此二字をクシゲと訓むことについて疑を挾むものもあるが、弓削〔右○〕をユゲと稱へるところを見ると、クシケヅルをクシゲというたこともあり得たとせねばならぬ。但し髪梳は借字で、櫛匣《クシゲ》の意なることは勿論である〔古義〕。ケヅリ〔新考〕、カミスキ〔新訓〕の如き訓は餘りに今やうめきて居る。
 
(279)(280)(282)(283)(284)
 
(285)
參照 タクヒレ、セノヤマ
 
(286)
(一)妹者不喚
(一)從來ヨバス、ヨバジ等と訓したが、第一句にナベとあるから、「妹と喚ばぬことは」といふ意としてヨバナクと訓まねばならぬ。セの山は本來山脊の意を以て號けたのであるが〔語誌參照〕、兄《セ》、※[女+夫]《セ》にも通ずるので、「兄《セ》の君の(名に)負はれた此セの山を妹と呼ばぬのは當然である」というたのである。――山が兄(※[女+夫])の名を負うたと解するは非。從つて弟二句も君ガ〔右○〕と訓むよりも、同義ではあるが君ノ〔右○〕と訓した方が誤解が少いやうである。
參照 ナベ、ヨロシナベ、ク
 
(287)(288)(289)(290)
 
(291)
(一)小田事
(一)刊本には訓をかき、他の本にはヲタのツカフと訓してあるが、雅澄が六帖を引いて事の下に「主」を脱したものとし、コトヌシとしたのが當を得て居るやうである。
參照 シナフ
 
(292)
(一)角〔右△〕摩
(一)角は?《ロク》の誤で、文武朝の還俗僧|録《ロク》ノ兄麻呂〔續紀〕のことであらうといはれる〔契沖、雅澄〕。
參照 アマのサグメ
 
(293)
(一)三津之海女
(一)舊訓アマメとあるが、神田本に女の字がないのを正しとしてアマと訓むべきである。雅澄説の如くアマメといふ語の用例がないのみならず、こゝは女人に限つたことではない。
參照 シホヒ〔枕〕、クグツ
 
(294)
(一)濱※[眷の目が日]〔右△〕奴
(一)※[眷の目が日]は他の本には眷〔右△〕としてある。いづれにしてもカヘリと訓む筈がないから、「皈」の誤字ではあるまいか。
 
(295)(一)木笶
(一)笶〔右○〕を失〔右△〕とした本もあるが、其上に「志」の字を脱したもので、笶はノの假字なりとする畧解の説を可とする。
 
(296)(297)
 
(298)
參照 マツチ山、イホサキ、スミダ河原
 
(299)
(一)雨莫零行年
(一)舊訓にはフリコネとあるが、宣長説の如くフリソネであらねばならぬ。但し行〔右○〕を所〔右△〕の誤とすることについて尚一考を要する。集中ソネに行年の字をあてた例は他にもあるから、行年をソネと訓む理由があるのかもしれぬ。
 
(300)
參照 タムケ、ヌサ
 
(301)
參照 ナキイサチ、ナシ
 
(302)
(一)競
(一)舊訓キホヒとあるが、千蔭の訓の如くキソヒを可とする。
參照 キホヒ、キソヒ
 
(303)
參照 ナクハシキ
 
(304)
(一)神代之所念
(一)舊訓カミヨシゾオモフとあるが、契冲訓のカミヨシオモホユの方がよい。
參照 アリカヨフ、シマト
 
(305)
參照 モトナ
 
(306)
 
(307)
(一)皮爲酢寸
(一)舊訓にはシノススキとあるが、皮は「肌」の假字でハタと訓むのであらう。
參照 ハタススキ、クメのワクゴ
 
(308)(309)
 
(310)
(一)宇倍
(一)類聚集、神田本に吾〔右△〕の字なきを可とする。
 
(311)
 
(312)
(一)堵(二)今者京引
(一)堵は都に通ずる。
(二)舊訓下二句をイマハミヤビトソナハリニケリとあるが、都は下の句につけ、京引は春海説の如く京刀〔右○〕又は京斗〔右○〕の誤としてミヤコトと訓むべきである。
參照 ヰナカ
 
(313)
(314)
(一)小浪
(一)舊訓サザレナミとあるが、ササナミノと訓んで差支がないのみならず、此ノトセ川は或は近江の地名かとも思はれるから、姑くササナミノと訓して置く。
參照 のとせ川
 
(315)(316)(317)
 
(318)
(一)田兒之浦從
(一)從來タゴのウラ〔右○〕ユと訓して居るが、こゝは特にウラヨ〔右○〕と訓まねばならぬ。此ヨはヲに通ずるのである。――語法要録參照。
 
(319)
(一)國之三中從(二)出之〔右△〕有(一)水乃當焉
(一)舊訓サカヒニとあるが、眞淵に從うてミナカニと讀むべきである。
(二)古葉略類聚抄に立〔右○〕とあるを可とする。
(三)當の字舊訓アタリとあるが、雅澄説の如くタギチと訓すべきである。但し必しも知〔右○〕の字を補ふことを要せぬ。
參照 ナマヨミ〔枕〕、ウチヨスル〔枕〕、セの海
 
(320)
(一)十五日消者
(一)從來ケヌレバと訓して居るが、之を口語に直すと、「六月十五日に消えると〔二字傍点〕其晩降る」といふ意になる。さりながらこゝは前提を用ひては都合の惡い所で、「消えては其晩に(又も)降る」とあるべきであるから、キエテハと改訓した。此場合のハは語勢を強める助語である。――語法要録參照。
 
(321)
 
(322)
(一)皇神祖之(二)神乃御言〔右△〕乃(三)國之盡(四)極此疑
(一)舊訓スメロギ(眞淵)訓カムロギ)とあるが、スメロギ(カムロギ)には祖〔右○〕の意は少しも含まれて居らぬ。こゝは祖の字が大切であるからスメミオヤノと訓まねばならぬ。
(二)乃〔右△〕は刀〔右○〕の誤であらう。ミコトトでなくては意が通ぜぬ。
(三)舊訓クニシレあるのは不可解である。契冲に從うてクニノコトゴトと讀むを可とする。
(四)舊訓コゴシキ、其他キハメシカ(契冲)、キハメケン(信名)、コゴシカモ(眞淵)などの訓があるが、前句とつづかぬ。極2此疑1といふ意とおもはれるから、此三字をサダメ(定)の意譯と見、次の句との續合を考へて、假にサタマレル(定マリ、アルの約)と譯した。或はサタメタル(定メテ、アルの約)と訓む方がよいかも知れぬ。
此歌はイヨ(伊豫)といふ國名の語原と、伊豫の湯に關する古事を知れば會得することが容易である。
參照 スメロギ、カムロギ、イヨの湯泉、イサニハ、オミの木
 
(323)
(一)飽田津爾
(一)舊訓による。眞淵は飽は饒〔右○〕の誤寫であらうというた。いづれにしても〔八〕の歌にもとづくものと思はれるから、ニギタヅであらねばならぬ。未句の年〔右△〕は何か誤記かあつたのではないかと思はれるが、之を詳にし得ぬ。
 
(324)
參照 カムナビ、カハヅ
 
(325)
 
(326)
(一)燒火乃
(一)舊訓タケルヒとあるが、繼續格を用ひる場合でないので、長流はトモスヒとあらためた〔古義同斷〕。
 
(327)
(一)此之將死還生
(一)舊訓シニカヘリイキムとあるが、死還生はヨミカヘリの意譯と見るべきである〔信名〕。さりながらヨミカヘリナム〔二字傍点〕としたのは〔考〕正しい時格ではない。――其場合には第三句も放チヌ〔二字右○〕トモであらねばならぬ。
參照 ウレムゾ
 
(328)(329)
 
(330)
參照 フヂナミ
 
(331)
(一)後將變八方
(一)舊訓カヘレとあるが宣長に從うてヲチと訓むべきである。
將 ヲチ、ホトホトニ
 
(332)
 
(333))
參照 アサチ原、ツバラ
 
(334)
 
(335)
(一)淵有毛
(一)舊訓フチトアリトモとあるが、久老に從うてフチニテアレモと讀むを可とする。モは感動詞である。
參照 イメのワタ
 
(336)
參照 シラヌヒ〔枕〕、ワタ
 
(337)
(一)其彼〔右△〕母毛
(一)彼〔右△〕の字類聚鈔に子〔右○〕とあるに從うてソノコノハハモと訓むべきである。久老に原字の儘ソモソノ母モと訓したが、古典にソモといふ語を此やうに用ひた例がない。
 
(338)(339)(340)
 
(341)
(一)賢跡
(一)サカシミトと訓するものがあるが、サカシミトといへばサカシミテといふ意となり、此場合にはあたらぬ。こゝは賢だてといふことであるから、サカシラであらねばならぬ。ト〔右○〕はニ〔右○〕と同樣に用ひられるものである。――語法要録參照。
參照 サカシラ
 
(342)
 
(343)
(一)成而
(一)舊訓ナリテシカモとあるが、畧解に從ひナリニテシガモと七音に訓む方が口調がよい。完了助動詞ニとテとを重ねた例は第一四卷にも「物いはず來ニテ」〔三四八一〕とあり、古い語法である。ニテシとテシとの時格上の相違は極めて僅微で、この場合の如きはいづれでもよいのであるが、強て六音に讀まねばならぬ理由がない。
參照 ナカナカニ
 
(344)
參照 ※[就/火]〔右△〕は熟〔右○〕の變體であろう。
 
(345)
(一)豈益目八
(一)類聚古集に豈益目八方とあるによる。
 
(346)
 
(347)
(一)冷〔右△〕者(二)可有良師
(一)宣長は冷〔右△〕を怜〔右○〕の誤とした〔玉小琴〕。但し訓は契冲に從うてオカシとする方がよいやうである。
(二)舊訓アリヌベカラシとあるが、此場合にはアリヌといふ完了格を用ひる必要がない。アルベクアラシとも、アルベカルラシとも訓むべきである。
 
(348)
 
(349)
(一)生者(二)死物爾有者(三)今生在間者
(一)字についてよめばイケルモノ〔二字右○〕であらねばならぬが、第二句のモノと重複する嫌があるのみならず、生人といふ意で生者の二字を用ひることも決して不當ではないから、舊訓の如くイケルヒトと訓むべきである。
(二)生者必滅は自然の理であるが、こゝは態と假定前提を用ひたのでシヌルモノナレバと訓しては理由を示す意になつて、甚堅くるしいのみならず、末句とも釣合がとれぬ。
(三)舊訓コノヨナルマハとあり、類聚古集には今在間者(イマアルホドハ)とあるが、或はイマイケルマハと訓むのかも知れぬ。
 
(350)(351)
 
(352)
(一)湖風
(一)一本には潮〔右○〕とある。いづれもミナト(水門)の假字に用られたのである。
 
(353)(354)
 
(355)
參照 シヅの石室
 
(356)
 
(357〕
(一)釣爲良下
(一)舊訓ツリヲ〔右○〕スラシモとあるが、ヲの字蛇足である。宣長はツリセスラシモ、雅澄はツリシ〔右○〕スラシモと改めた。シといふ助語は此場合には不適當である。又セスラシモといふべき理由がない。釣はナツリ(魚釣)と訓むのであらう。
 
(358)(359)
 
(360)
(一)玉藻苅藏
(一)カリツメを誤訓又は藏〔右△〕を誤字とする説があるが、カリツメは苅集めといふ意、藏は借字であらう。
 
(361)
(一)佐農能崗
(一)舊訓サノノヲカとあるが、之は「寒き朝明《アサケ》をさ寢《ヌ》」に「狹野」をいひかけたのであるから、サヌと訓まねばならぬ。
 
(362)
(一)名者告志〔右△〕五尓
(一)五〔右△〕は弖〔右○〕の誤とする契冲説可。
 
(363)
(一)告〔右△〕名者
(一)告〔右△〕は吉〔右○〕の誤とする千蔭説可。
 
(364)(365)
 
(366)
參照 アヘキ、タユヒの浦
 
(367)(368)
 
(369)
 
(370)
(一)殿雲流夜之〔右△〕
(一)之〔右△〕を乎〔右○〕の誤とする古義の説可。
 
(371)
(一)※[食+拔の旁]海
(一)意宇〔右○〕郡のことであるが必しも脱字ではない。
 
(372)
(一)春日乎
(一)眞淵はハルヒヲと四音に訓した。語義からいへばどちらでも差支はない。ヲはヨに通ずる感動助語である。
參照 カホトリ、タカクラ
 
(373)
(一)止者繼流(二)戀哭〔右△〕爲鴨
(一)ヤメバツガルルと訓するは非。ツガルルは口語に直せばツギ得ルであるが、こゝは鳥の音のやうに斷續するといふ意であるから、ヤミテハツゲルといはねばならぬ。ツゲルはツヅクと畧々仝義である。
(二)哭は喪の誤とする眞淵説可。
 
(374)(375)(376)(377)
 
(378)
(一)昔者之
(一)者〔右△〕の字は看〔右○〕の誤寫で、ムカシミシと訓むのであらうといふ説がある〔玉小琴〕。或は然らむ。
 
(379)
(一)君爾不相可聞
(一)舊訓アハジカモとあるが、アハザラムことを祈る筈がないから、久老説の如く、不相は借字として、アハヌカモと訓み、アハネと希する意と解すべきである。
參照 シラカツク、イハヒベ、シシジモノ
 
(380)(381)
 
(382)
(一)明〔右△〕神之(二)冬木成(三)時敷時跡(四)名積敍吾來前〔右△〕二
(一)明〔右△〕を朋〔右○〕の誤としてフタカミと訓した童蒙抄の説を可とする。
(二)契冲は此句と次の句との間にハルクレドモ・シラユキノといふ二句を脱したものとし、久老はハルニハアレド・フルユキノでらうというた。いづれにしても誤寫のあることは疑がないが、次句にトキジク時とある所を見ると、フル〔二字右○〕ユキに左袒せざるを得ぬ。其は降雪が時ジクので、雪其ものがトキジクといふのではないからである。赤人の不盡山の歌にも時ジグゾ雪ハフリ〔二字右○〕ケルとあるのである〔三一七〕。
(三)トキジキ〔二字右△〕と訓したものがあるが〔新考、新訓〕、此語は形容詞ではない。
(四)前〔右△〕は並〔右○〕の誤で、並二は四を意味し、シの假字なりとする契冲説に從ふべきである。
參照 トキジク
 
(383)
 
(384)
(一)幹藍種生之
(一)舊訓ツミハヤシとあり、種の字を蘇又は※[草がんむり/(禾+魚)]とした本も多いが、之を助字としてタネオフと訓むのであらう。
參照 カラヰ
 
(385)
(一)草取可奈和(二)柘枝仙媛
(一)舊訓カナヤとあるが意が通ぜぬ。久老説に從うて假にカネテと訓して置く。肥前風土記の杵島《キシマ》曲にも類歌があるが、其歌にはクサトリカネテとある。
(二)仙媛はヤマヒメと訓むのであらう。代匠記には仙をヒジリと訓したが、由豆流の訓の如くヤマヒトを可とする。
參照 キシマブリ
 
(386)
 
(387)
(一)此間毛
(一)舊訓ココモとあり、古義はココニモと改訓したが、新考に景樹説によつてイマモと訓したのを可とする。古語のイには「此」といふ意もあつたのである。――語法要録參照。
 
(388)
(一)待從爾
(一)舊訓マツヨトニとあるが、契冲に從うてマツカラニと訓むを可とする。從〔右△〕を候〔右○〕の誤としてサモラフニと訓した宣長説も惡くはない。
參照 アベテ、ニハ
 
(389)
 
(390)
(一)※[さんずい+内]囘
(一)刊本納〔右△〕回とあるが、西本願寺本に※[さんずい+内]囘とあるを可とする。訓は攷證に從うてウラマユキメグルと八音に讀むべきである。――古義のモトホルは非。
 
(391)
參照 トブサタテ
 
(393)
 
(394)
(一)金明軍
(一)神田本には余〔右△〕とあるが、金といふ姓は新羅歸化人で、元明朝にも伯耆守從五位下金上元といふ名が見える。明軍は恐らくは其一族で、旅人卿の資人に任ぜられたものであらう。
 
(395)
(一)未服而
(一)從來イマダキズシテと訓して居るが、ケズテの代りにキズシテを用ひるのは後世の語づかびである。――語法要録參照。――イマダハと用ひた例は〔三三六〕にもある。
參照 ムラサキ
 
(396)(397)(398)(399)(400)(401)(402)
 
(403)
(一)從手不離有牟
(一)サケズ〔舊訓〕をカレズと改訓したのは非。但しサケズアラムと八音に釧むべきである。――語法要録參照。
 
(404)
 
(405)
(一)待鹿爾(二)社師留鳥
(一)古點マツシカニとある。雅澄に從つてシシマチニと訓むべきであらう。
(二)留鳥〔二字右○△〕の二字はアミ(羅)の假字に用ひられた例があるから、トナミ(鳥の網)とも訓み得るが、尚シトナミといふ語を釋き得ぬから姑く古義の訓に從ふ。さりながら次の歌によると此句に神を輕視する意味が含まれて居たものと思はれる。
 
(406)
(一)認有
(一)認は第十六卷にツナグの假字に用ひてあるから、こゝもツナガルと訓すべきである。畧解にツナゲルと訓したのを雅澄が片腹痛しと罵倒し、「いかで神をツナグとはいはむ」と論じたのは固陋である。ツナガル縁などともいうて必しも繩で縛ることのみをツナグといふのではない。
(二)第四句で切り、結句は「よくまつれ」というたのであるから、マツルベシと訓まねばならぬ。
 
(407)
參照 ナギ
 
(408)(409)
 
(410)
(一)屋前爾
(一)拾穗本には屋戸〔右○〕とある。いづれにしても舊訓の如くヤドの假字とすべきである。新訓には集中屋前とある字を盡くニハと改訓してあるが、ヤドの語義は屋處《ヤト》で、宿ではないから、草木をヤドに植ゑたというても少しも妨はないのである。――以下一々は註記せぬ。
 
(411)
(一)殖而師故二
(一)舊訓ユヱニとあり、故の字は通例ユヱと訓み、且ユヱといふ語も既に雄略紀の歌に見え、古言と思はれるが、古典の用字例によれば故は多くはカレ(カラ)の假字に充てられて居るから、こゝもカラと訓むのでもらう。語義上ユヱといふべき場合ではない。
參照 ユヱ
 
(412)
(一)此方彼方毛
(一)舊訓コナタカナタモとあるが、宣長の説の如くカニモカクニモと訓むのであらう。
參照 キスミ、イナダキ
 
(413)(414)(415)
 
(416)
(一)百傳
(一)磐の枕詞はツヌサハフを例とし、「百傳ふ」を用ひた例は他に見えぬから誤記であらうといふ説もあるが〔宣長〕、尚百|集《ツトフ》イハミ(屯聚)とかゝるものと思はれる。
參照 モモツタフ〔枕〕、イハミ
 
(417)
參照 スメムツ
 
(418)
 
(419)
(一)女有者
(一)舊訓テヲヨワキ・ヲトメニシアレバとあるが、テヲヨワキといふ語はない。女はヲトメともヲミナとも訓み得られぬことはないが、ここは四六調としてタヨワキ・メニシアレバと訓むのであらう。
 
(420)
(一)神佐備爾〔右△〕(二)枉言加(三)無間貫(四)七相
(一)爾〔右△〕は誤字で、テに相當する假字であらう〔宣長、雅澄〕。
(二)枉〔右○〕の字を狂〔右○〕とした本もある。狂言ならば宣長説の如くタワコトと訓むのであらう。
(三)宣長は無間をシジニと意訓した。いづれでもよい。
(四)七〔右△〕相に石〔右○〕相の誤としてイハヒスゲと訓した雅澄説を可とする。ナナニスゲ〔舊訓〕、ナナマスゲ〔眞淵〕、ナナフスゲ〔宣長〕などいふ訓があるが、こゝはイハヒスゲであらねばならぬ。
參照 サニヅラフ〔枕〕、オヨヅレ、ソグヘ、ユフケ、石ウラ、ミモロ、ユフダスキ、イハヒ菅
 
(421)
(一)枉言等
(一)枉〔右○〕を狂〔右△〕とする本のあることは上記の通りである。
 
(422)
 
(423)
(一)通計萬口波(二)鳴五月者
(一)口の字刊本には四〔右△〕とあるが、類聚古集lこよる。
(二)雅澄は句頭に「來」一字を脱したものとしてキナクサツキハと訓した。或は然らむ。
參照 ツヌサハフ〔枕〕、ナガツキ
 
(424)(425)
 
(426)
(一)家待莫國
(一)莫〔右△〕の字類聚古集には眞〔右○〕とある。
 
(427)
(一)八十隅〔右△〕坂爾
(一)隅〔右△〕は隈と通ずる。坂を路の誤としてクマヂと訓したものがあるがクマサカ(隈境)といふ語もあり得た筈である。――スミサカと訓するは非。
 
(428)(429)
 
(430)
(一)八雲刺
(一)舊訓ヤクモタツとある所を見ると刺を誤字とせねばならぬが、恐らくはヤツモサスと訓むのであらう。出雲の枕詞はヤクモタツとヤクモサスと二種あるが、此場合には後者の方が適はしいやうである。ヤクモタツをヤクモサスと轉呼したとする説は牽強である。
參照 ヤクモサス、ヤツモサス
 
(431)
(一)茂有良武
(一)以下四句曖昧であるが、「訪ふ人のなきは」といふ意を補うて解すべきで、從つて此句はシゲクアルラムと訓み、假想と見るべきであらう。――シゲリタルラムといふべを理由がなく、次句の遠ク久シキとも時格が一致せぬ。眞木の葉ヤ〔右○〕、松が根ヤ〔右○〕のヤ〔右○〕はいづれも感動詞である。――語法要録參照。
 
(432)(433)
 
(434)
(一)作歌四首
(一)此題詞が以下四首の歌に副はぬものであることは左註にも記されて居る通りで、此歌と次の一首とに紀伊國の三保の石屋の歌、――〔三〇七〕參照――後の二首は全く別題の歌である。雅澄は之を〔四一二〕の次に移した。
 
(435)
參照 イブリ
 
(436)(437)(438)
 
(439)
(一)時者成來(二)吾將枕
(一)舊訓による。宣長の説の如く來〔右△〕は去〔右○〕の誤寫であるかも知れぬ。キニケリ又はナリケリとしては末句と時格が呼應せぬ。――語法要録參照。
(二)舊訓マクラカムとあり、五卷にも摩久良加武と假字書した例があるから、此時代マクラクといふ俚言の存したことは疑がないが、カツラクと同じく正しい語法でないから、假字書せられて居らぬものまでも之に準じて訓する必要はあるまい。昔の語は皆雅、後世の語は皆俚とするのは誤つた觀念で、此歌の如きはマキナムとあつて然るべきである。
參照 マキ、マクラキ
 
(440)
 
(441)
參照 オホアラキ
 
(442)
 
(443)
(一)平間幸座與(二)牛留鳥
(一)刊本乎〔右△〕とあるが、神田本に平〔右○〕としたのをを正しとすべきであらう。
(二)牛留〔二字右△〕は爾富〔二字右○〕の誤としてニホ鳥と訓した久老説を可とする。
參照 ツツジバナ、タラチネ、オシテル〔枕〕
 
(444)(445)
 
(446)
參照 ムロの木
 
(447)(448)(449)(450)(451)
 
(452)
(一)吾山齋者
(一)舊訓ヤマとあり、類聚集、神田本、細井本等にもヤマと訓してあるが、宣長及雅澄は廿卷屬2目山齋1作歌に「をしの住む君がこのシマ」とあるを引いてシマと改めた。庭園をシマと稱へたことは有り得るが、山齋即島なりとする論理は成立せぬ。齋の字についていへばヤマと訓む方がよいかも知れぬが、尚ヤマのヤドを畧してヤマと稱へた――シマの宮を單にシマと呼んだやうに――ものとして舊訓に從ふべきであらう。
 
(453)
 
(454)
(一)愛八師
(一)舊訓ヨシヱヤシとあるが、契冲に從うてハシキヤシと訓むべきであらう。
參照 ハシキヤシ
 
(455)(456)
 
(457)
(一)心神毛
(一)舊訓タマシヒとあるが、ココロドと訓した久老説可。
參照 ココロド
 
(458)
(一)若子乃(二)仕人(三)中感緒
(一)ワカキコノとする訓もある。
(二)仕人は資人に通ずる。
(三)中〔右△〕は申〔右○〕の誤でノベテと訓むのであらう〔久老〕。
 
(459)
 
(460)
(一)新羅國從(二)生者
(一)舊訓シラギ〔右△〕ノクニニ〔右△〕(ニはユの誤寫であらう)とある。正しくはシラのクニであるが、シラギとシラとは古くから混同せられて居たから、作者自身もシラギと詠んだのであらう。
(二)雅澄はウマルレバと改訓したが、舊訓の方がよい。
參照 タクツヌ〔枕〕、シラ、シラギ
 
(461)
(一)尼
(一)諸本尼の下に「名」の字がある。
 
(462)(463)(464)
 
(465)
(一)寒
(一)サムミは契冲訓による。
 
(466)
(一)借有身在者
(一)刊本惜有〔二字右△〕としてカリノと訓してある。惜〔右△〕は諸本に借〔右○〕とあるを正しとすること勿論で、有〔右△〕も亦誤字であるかも知れぬが、證據がないから姑く契冲に從うてカレルと訓して置く。
參照 ミカモナス
 
(467)
(一)若子乎
(一)若子をワカキコ又はミドリコと訓まねばならぬとするは固陋である。古典の用例によればワカコ、ワクコ、ワキコいづれとも訓み得られるが、假にワクコとして置く。
 
(468)
(一)豫
(一)眞淵はアラカジメと改訓したが、舊訓のまゝで妨はない。
 
(469)
 
(470)
(一)憑有來
(一)舊訓を可とする。タリケリと改訓しては〔童蒙抄、古義〕情趣が乏しくなる。
 
(471)
 
(472)
(一)世間之
(一)ヨノナカシ〔右○〕と訓するは非。「世の常」の意であるのみならず、シといふ助語はこゝには適當せぬ。
 
(473)
(474)
(475)
(一)花咲乎爲〔右△〕里
(一)爲〔右△〕は烏〔右○〕の誤としてヲヲリと訓した眞淵説可。
(二)枉〔右○〕の字を狂とした本もある。狂言を正しとすればタワコトと訓すべきであるが、尚舊訓を可とする――〔四二〇〕參照――逆言をオヨヅレ(妖)とする宣長説は、次の句が狂〔右△〕言である場合にのみ許さるべきことであるが、其にしてもオヨヅレコトといはねば意が通ぜぬ。
參照 ユユシ、イヤヒケニ、オヲヅレ
 
(476)
參照 ワツカ山 ソマ
 
(477)
(一)散去如寸
(一)チリヌルゴトキといふ訓もあるが〔玉小琴〕、舊訓の方がよい。
 
(478)
(一)鶉雉履立(二)口抑駐
(一)舊訓トリとある。シシ(獣)に鹿猪、トリ(鳥)に鶉雉をあてたのはいづれも借字である。
(二)童蒙抄にオシトトメとしたのが正訓である。オサヘ(抑)は古語オシであつた。
參照 オシ、サバヘ
 
(479)
(一)見之
(一)舊訓ミシとあるが、久老に從うてミシシと訓むべきである。若し眞淵説のやうにメシシと稱へたとすれば其は音便である。
 
(480)
(一)名負靱帶
(一)類聚集に之をトモと訓したのは一理はあるが、尚字の如くユキと訓すべきである。靭負伴男〔大祓祝詞〕といふ語の縁によるものであらう。或は帶はオヒ(負)の借字であるかも知れぬ。
 
(481)
(一)入居嘆舍(二)兒乃泣母
(一)舍〔右△〕は合〔右○〕又會〔右○〕の誤としてナゲカヒと訓むべきである〔眞淵、久老〕。
(二)母〔右△〕は毎〔右○〕の誤字なること勿論である。久老に從うてナクコトニに訓むを可とする。
 
(482)
(483)
 
【卷第四】
 
(一)人母待吉(二)有不得勝
(一)刊本告〔右△〕に作り、マチツゲと訓してあるが、意をなさぬから、元暦本、神田本、細井本等に吉とあるに從うてマチキとした。或は目〔右○〕の誤でヒトヲモマタメ〔右○〕と讀むのかも知れぬ。
(二)舊訓アリエタヘズモとあり、アリガテナクモ〔眞淵〕、アリカテヌカモ〔宣長〕等の訓もあるが、有不得勝が誤字でないとすればアリカツマシジの外に訓みやうがない。
 
(485)
(一)去來者行跡(二)寐宿難爾登
(一)古點サリキハユケドとあつたから仙覺はイサトハユケドと改め、拾穗抄にはサハキとあるが、此場合イサ又はサハキといふ語は適當せぬ。古點の意を汲んでユキキと訓すべきである〔新訓〕。ユキキをユク〔二字右○〕といふのは古い語法である。
(二)舊訓を可とする。ネカテニト〔二字右○〕は寢|勝《カテ》ズデ〔二字右○〕の意、トテを通はして用ひるのは古歌に例のあることである。――ガテニとするに非。難は借字である。――此義を解し得ずして或は句を補ひ〔宣長〕、或は登〔右○〕を乃三〔二字右△〕の誤として訓した〔雅澄〕のは論ずるに足らぬ。
 
(486)
參照 アヂムラ
 
(487)
(一)氣乃己呂其侶波
(一)宣長は呂〔右○〕を乃〔右△〕の誤寫としてコノゴロと訓めというたが〔畧解〕、コロゴロは頃々で毛《ケ》の衣《コロモ》にいひかけ上のである。
參照 トコの山
 
(488)(489)(490)
 
(491)
(一)河上乃
(一)カハノヘと訓むは非。藻は川の上《ヘ》に生ひるものではない。
參照 トキジク
 
(492)
(一)置而如何將爲
(一)類聚集、元暦本其他に舍人吉年の四字を註記してある。此は都に留まる人の歌であらねばならぬから、之あるを可とする。
 
(493)(494)(495)(496)(497)(198)
 
(499)
(一)來及毳常(二)念鴨(三)雖見不飽有哉
(一)古義の訓による。
(二)オモフカモと訓む理由は次に述べる。
(三)元暦校本には哉〔右○〕の字を武〔右△〕と攻めてある。之に從へばアカズアラム(アカザラムは非)で、第三句もオモヘカモと訓み得るが、尚刊本によつてアカズアレヤと訓むを可とする。――ヤは感動詞で.アカズアルカナの意――從て第三句もオモフカ〔右○〕モであらねばならぬ。
 
(500)(501)(502)
 
(503)
(一)珠衣乃
(一)舊訓タマキヌとあるが、サヰサヰにかゝるべき理由がないから、眞淵説の如くアリキヌと訓すべきである。第十四卷には同じ歌を安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美として掲げて居る。珠は借字であらう――雅澄は「蟻」の誤とした。
參照 アリギヌ、サヰサヰ
 
(504)
參照 スミ坂
 
(505)(506)
 
(507)
參照 クキ
 
(508)
 
(509)
(一)臣女乃(二)匣爾乘有(三)夷乃國邊爾直向
(一)舊訓マウトメとあるが聞なれぬ語である。春滿に從うてオミノメと訓むべきである。オミノヲトメといふ語が仁徳紀及記の雄略卷に見え、オミノコといふ用例もあるから、貴女をオミノメと稱へたことも有り得べきである。
(二)雅澄は乘有〔二字右○〕を齋〔右△〕の誤としてイツクと訓したが、匣に鏡を齋くことがあり得たとは思はれぬ。舊訓ノスルとああるけれども、乘有の字が誤寫でないとすれば宣長訓の如くノレルと訓む外はない。いづれにしても尚心行かぬ點がある。或は玉篋有〔三字右○〕とあつたのを寫し誤つたのではあるまいか。次の〔五二二〕の歌にも「ヲトメ等か玉クシゲナル」といふ句が用ひられて居る。
(三)夷の國邊を任地(筑紫)又は四國のことゝして此句を解かうとするのは無理である。六卷に「淡路の島にタダ向フ敏馬の浦」〔九四六〕とあり、倭建命の御歌にも「尾張にタダに向ヘル尾津崎」とあるから、タダ向フが對向地を意味することは勿論である。此ヒナは攝津國爲奈郷のことで、ヰナの原語はヒナである。
(四)我〔右△〕は能〔右○〕の誤のとする雅澄説に從ふ。
參照 アケクレ、ヰナ
 
(510)
(一)月日乎數而
(一)舊訓ホドヲカゾヘテとあるが、契冲訓の如くツキヒヲヨミテとすべきである。
 
(511)
參照 オキツモ〔枕〕
 
(512)
(一)草孃(二)彼所毛加
(一)草孃は牧童に對する字で、田舍娘といふことではあるまいか。カヤノヒメ、クサノイラツメ等と訓して人名とし、眞淵の如きは「草」の下に「香」を脱するものとしてクサカのイラツメとしたが、穿鑿に過ぎる嫌がある。古義に別府信榮の説として輟※[田+井録に娼婦曰2花娘1達且又謂2草娘1とあるを引いてウカレメと訓したのはおもしろい説であるが、歌意から見ると娼婦の作とすべき形跡がない。
(二)舊訓ソコモカとあるが、カ〔右○〕ヨリアハバといふ語の頭韻を踏んでカクモカと誦したものと思はれる。彼所がカクと訓み得ること勿論で、「かうもいふだらう」といふ意である。
參照 カリバカ、コトナサム
 
(513)
參照 イツシバ
 
(514)
(一)入爾家良之
(一)舊訓ケラシナとあるから、之〔右○〕の下に奈〔右○〕又は那〔右○〕といふ字があつたものと思はれる。
 
(515)
參照 ユユシ
 
(516)
 
(517)
(一)神樹
(一)舊訓サカキとあるが、神木の意であるから、宣長説の如くカミキ(又はカムキ)を可とする。
參照 サカキ、ウツタヘ
 
(518)
參照 ヨソリ
 
(519)
(一)雨障(二)昨夜
(一)舊訓アマサハリとあるが、長流の説の如くアマツツミであらねばならぬ。次の歌にも雨乍見とかいてある。
(二)舊訓ヨフヘとあるのはユフベの原形であるから、勿論誤訓ではないが、ユフ(夕)の形が普く用ひられて居たのであるから、尚ユフベを可とする。キノフ〔畧解〕又はキソ(古義)としたのは改惡である。昨日としては情緒が乏しい。昨夜をもユフベ又はヨヒと稱へるのは明日をアス(アサの轉)といふと同じく、極めて自然の轉義で、夙に上代から行はれて居たことである。
參照 アマツツミ、ユフベ
 
(520)
參照 タグヒ
 
(521)
(一)麻手
(一)古義は眞淵、千蔭の説を取りあはせて、上二句をハニタチ〔右△〕アサヲ〔右△〕カリホシと訓したが、第十四卷に爾波爾多都〔右△〕安佐提《アサテ》古夫須麻と假名書してある所を見ると、舊訓に從はざるを得ぬ。ニハニタツはアサにかかる枕詞で、アサテは麻茅の訛である。
參照 アサテ
 
(522)
(一)神家武毛
(一)舊訓メヅラシケムモとあり、古義は今村樂の説に從うてタマシヒケ(消)ムモと訓したが、「玉櫛の」はカミ(髪)の縁語であるから、メヅラシ又はタマヒシヒと訓するは不可である。契冲は神サビケムモとしたけれども、餘りに文字に離れすぎて居る。家〔右△〕は宿〔右○〕の誤寫又は通用とすべきである。
 
(523)
 
(524)
(一)奈胡也
(一)古事記須勢理比賣命の歌を根據として奈〔右○〕を爾〔右△〕の誤記とするは非。ナゴ、ニゴは通音で柔《ヤハラ》といふ意の名詞形である。ムシを蒸の義としてニコヤ(ナコヤ)lこ※[火+爰]の意があるとするのは當推量に過ぎぬ。
參照 ムシフスマ
 
(525)
(一)小石踐渡
(一)舊訓サザレとあるを非としてコイシと訓まざるべからずとするのは、サザレを些小の意と誤解した爲で、これは擬聲語であるから、今もザリといふやうに、サザレイシ(サザレシ)をサザレとのみもいひ得た筈である。――參照 サザレ、サザレイシ
 
(526)
(一)吾戀爾
(一)舊訓コフラクニ〔右△〕とあるが、元暦本以下コフラクハ〔右○〕と改め、爾〔右△〕は者〔右○〕としてある。
 
(527)
 
(528)
參照 ウツハシ
 
(529)
(一)小歴木
(一)古點ワカクヌギナカリソネとあつたのを仙覺が意によつてシバと改訓したのである。烏〔右△〕は古寫本には多く焉〔右○〕とあるを正しとする。
 
(530)
(一)之越馬
(一)伴友は之〔右△〕を不〔右○〕の誤として下の句につけコサヌ(コエヌか)と訓した〔比古婆衣〕。或は然らむ。
參照 ウマセ
 
(531)
(一)聞之好毛
(一)舊訓にはキクハシとあるが、契冲説に從うてキカクシと訓むべきである。
 
(532)
(一)聽去者
(一)トドム(トムル)ハクルシ・ヤルハスベナシと訓したものもあるが、舊訓を不可とすべき理由がない。
參照 ウツヒサス〔枕〕
 
(533)
(一)人之見兒乎
(一)舊訓ミルコとある。ミムコと改訓したものもあるが、其は上の歌をヤルハスベナシと訓んだと同樣に、まだ宮仕に出ぬ前の歌と解した爲であらうが、しか斷定すべき根據はないやうである。
 
(534)
(一)安莫國
(一)宣長はヤスケナクニと改訓したが、ヤスケヌ(ヤスケバ)といふ語づかひはあり得ぬ。ヤスシの打消はヤスクアラヌ即ちヤスカラヌである。舊訓に從ひヤスカラナクニと訓むべきである。
 
(534)
參照 オモフソラ、ナゲクソラ
 
(535)
(一)間置而
(一)宣長がアヒダと改訓したのは「間」の字によるものであらうが、ここは事實年を經たのではなく、ヘダテ(隔障)を置いてせかれたので久しい年月を經たやうに思ふといふ意であるから、アヒダオキテというては意をなさぬ。ヘダタリテと改めたのも〔新考〕同斷である。ヘダタリは古語ではヘナリ(ヘダリ)というた筈である。
 
(536)
 
(537)
(一)君伊之哭者(二)痛寸取物
(一)哭者は「無くば」の借字であらう〔古義〕。
(二)舊訓イタキキズゾモとあるは意をなさぬ。シヌビアヘヌモノとした古義も餘りに字を離れ過ぎて居る。案ずるに取物はトアルノの借字で、或はトルモノと約めて發音したのかも知れぬ。痛寸はツラキと訓んでもよい。後世ならば此場合イタシとあるべきをイタキ(イタケ)というたのは古の語法である。――語法要録參照。
 
(538)(539)(540)(541)(542)
 
(543)
(一)親
(一)舊訓訓ムツマシキとあるが、言葉のつゞきから考へてもムツマシミであらねばならぬ。シタシクモ〔宣長〕。シタシケク〔雅澄〕と改訓したものがあるけれど、假に字についてシタシと訓むべきものとするも、モ〔右○〕といふ助語は不用であり、ケクというては名詞形になり、助語なしには下の句につゞかぬ。――語法要録助語クの項下參照。
參照 アソソ
 
(544)(545)
 
(546)
參照 ムセ
 
(547)
 
(548)
(一)早開者
(一) ハヤアケヌレバ〔略解〕、ハヤクアケナバ〔古義〕といふ訓もあるが、口語でいへげ「明けるから」といふ意で「明けたから」でも「明けるなら」でもないから、アクレバであらねばならぬ。
 
(549)(550)
 
(551)
(一)縁浪
(一)舊訓ヨスルナミとあり、十五卷にも與須流奈美マナクとつゞけて用ひた例があるが、「波のやうに」といふ意であるから、可能なる限りノといふ助語を介することを可とする。――語法要録參照。
 
(552)
(一)二走良武
(一)古點はヨマゼナルラムとある。夜交《ヨマゼ》即ち隔夜の意であらうと思ふが、尚字について訓する方がよい。仙覺はフタユクナラム、眞淵はフタユキヌラムと訓したけれども、ナラム、ヌラムといふ時格を用ひる場合でない。フタツユクラム〔古義〕、フタハシルラム〔新訓〕、といふ訓もあるが、ナラビユクラム〔新考〕が最もよいやうである。
參照 ワケ
 
(553)
 
(554)
(一)古(二)令食有
(一)古義はフリニシと訓した。フリニケルというてもよからう。イニシヘのヒトといふ語は今では往古の人の意に了解せられるが、語義はフリニシ(フリニケル)と變りはない。或は舊時は昔馴染の人といふことをもイニシヘのヒトと稱へたのではなからうかと思はれるから舊訓を存する。
(二)舊訓ノマセルとあるが、飲酒をヲスというた例は神功皇后の御製〔記、紀〕にもあるから、令食にヲサセと訓すべきである(玉小琴)。古義にタバセルとあるは語をなさぬ。
參照 ヌキス
 
(555)
參照 マチサケ
 
(556)
 
(557)
參照 ススミ
 
(558)
 
(559)
(一)生〔右△〕來之
(一)舊訓にアリコシツとある所を見ると、生〔右△〕は在〔右○〕の誤字ではあるよいか〔童蒙抄〕。契冲はアレコシと改訓したが、尚アリコシの方がよいやうである。
 
(560)(561)(562)(563)(564)
 
(565)
參照 オホトモ〔枕〕
 
(566)
(一)愛見
(一)舊訓サツクシミとあり、ナツカシミ、オモハシミ〔代匠記〕などいふ訓もあるが、恐らくはイトホシ三と讀むのであらう。
參照 ウツクシ
 
(567)
(一)周防在
(一)和名抄には周防にスハウと訓してあるが、本來スハといふ地名であるのみならず、ス、ハ、ウと三語音にわけて讀むべきものでないから(ハウは一語音である)、此作者はスハニアルと詠じたことは勿論である。
參照 スハ
 
(568)
 
(569)
(一)辛人之
(一)舊訓アラヒト(アはカの誤寫か)とあり、古寫本も多くはカラヒトと訓してある。眞淵以來辛〔右△〕を誤字として淑、宇方、宮などをあて居るが、何故にカラヒトと訓むことを不可とするのか了解に苦しむ。紅花は我日本に生ひたものでも尚カラ〔二字右○〕ヰ、クレ〔二字右○〕ナヰといふやうに、本初捺染はカラから學んだから、此當時は遍く知られた工業であつたけれども、尚「韓人の衣梁と云」とおぼめかしていうたのであらう。
 
(570)
(一)近者
(一)諸本近〔右○〕の下に付〔右○〕の字がある。チカヅケハと訓ませる爲であらう。
 
(572)
(573)
參照 シラク
 
(574)
 
(575)
 
(576)
(一)城山道
(一)舊訓キヤマのミチとあるが、古義の説の如くキのヤマミチと訓む方がよい。肥前國甚肄郡をいふので、筑後から太宰府に出る山道である。
 
(577)(578)(579)(580)(581)(582)(583)(584)(585)
 
(586)
參照 モトナ
 
(587)
 
(588)
 
(589)
(一)打〔右△〕廻乃
(一)宣長は打〔右△〕を折〔右○〕の誤とした。衣手といふ枕詞を用ひた所を見ても然るべく思はれる。但し乃〔右△〕を衍字としてヲリタムサトとしたのは十一卷の折(同じく打〔右△〕と書いてある)廻前乃とあるに準據したものであらうが、崎なればこそあれ、里にヲリタムといふ形容は不適當であるから、ヲリタムノサトニと八音に訓むのであらう。恐らくは十市郡タム(田身)の郷にいひかけたのであらう。
 
(590)(591)(592)(593)
 
(594)
參照 ガニ、モトナ
 
(595)
 
(596)
(一)濱之沙毛
(一)砂は和名抄に水中細礫也和名イサゴ又はスナゴとある。イサゴのイは接頭語で、語義は石粉《サコ》であるから、マサゴというてもよい。同書に日本紀私紀を引いて繊砂をマナコとし訓てあるが〔眞土粉の意)、こゝは舊訓の如くマサゴ(又はイサゴ)であらねばならぬ。
參照 マサゴ、マナゴ、アニ
 
(597)
(一)石走
(一)舊訓イシハシとあるが、イハハシ〔眞淵訓〕を可とする。イハハシルと改訓したのは〔新訓〕理由のないことである。
參照 イハハシ、イハハシル
 
(598)(599)(600)(601)(602)(603)
 
(604)
(一)怪(二)相爲
(一)舊訓サトシとあり、サガ〔眞淵〕、シルシ〔由豆流〕と訓したものもあるが、怪は借字でケとよみ、ユフケ(夕衢占)のケと同じく兆《ケ》の意であらう。
(二)舊訓アハムタメとあるが、之に從へば自問自答と解釋するの外はなく、戀歌としては餘り樂觀に過ぎる。恐らくは爲〔右△〕は莫〔右○〕の誤で、キキニアハナクニと訓むのであらう。字をかへて訓むことは最忌むべきであるが、之を敢てせざるを得ぬ。
 
(605)
 
(606)
(一)多奈和丹
(一)舊訓オホナワニとあるが意義を明にせぬ。宣長は旦爾氣丹《アサニケニ》の誤と推定したが、妥當ともおもはれぬ。次に「心ゆも我に思はざりき又更に吾が故郷に歸り來むとは」とあるから、タナワニは笠女郎の郷里の地名とも解せられる。此女性が近江國栗太郡笠の庄を名に負うたのであるとすれば、其對岸滋賀郡|和邇《ワニ》驛〔兵部式〕の一地區名であるかも知れぬ。タナは「中」の意とも解せられ〔語誌參照〕、今も同村に和邇中といふ大字があるのである。いづれにしてもタナワニ〔右○〕ノと詠まれたものと思はれる。
(二)舊訓ナカレとあるが、ヤムの主格は戀であらうと思はれるから、命令法を用ひることは不適當である。タナワニの浦吹く風のやうに吾が戀はヤム時ナシの意として、ナカリ(ナク、アリ)と訓むべきであらう。――ナクアレバの意と牽強するものがあるかも知れぬが、其場合にはナケバとあるべきで、ナケレバといふ語づかひは、此頃には存在しなかつた。
 
(607)
(一)打禮杼
(一)古葉類聚抄には打の下に奈の字がある。
 
(608)
(609)
(610)
(一)有不勝自
(一)アリテモタエジ〔舊訓〕、アリカテマシモ〔契冲〕、アリモカテズモ〔同〕等の訓があるが、アリカツマシジと訓むべきである。不〔右○〕と自〔右○〕とは重複の嫌があるが、シラニを不知爾とかくと同様に、マシジと訓ませる爲に自〔右○〕の字を添へたのであらう。
 
(611)(612)
 
(613)
參照 ナマジヒ
 
(614)(615)(616)(617)(618)(619)
 
(一)神哉將離(二)禁良武
(一)舊訓カレナムとあるが、サクラム〔契沖訓〕を可とする。
(二)舊訓イムラムとあり、契沖は障《サ》フラムと訓したが、童蒙抄の如くトムラムとする方が一層適切である。
參照 オシテル〔枕〕、アカラビク〔枕〕、タワラハ
 
(620)
(一)長謂管
(一)從來ナガクイヒツツと訓して居るが、トといふ助語が必要である。本歌のナガクシイヘバは男が氣長に言ひ寄つたとも解せられるが、これは女の述懷であるから、ナガクイヒヨル譯はない。
 
(621)
(一)戀爾可
(一)コフレニカと改訓したものがあるが、ニといふ助語は其本質上準名詞にあらざる既定格に連接することは出來ぬ。コフレカといへるからコフレニカともいひ得ると考へるのは未だ語法を解せざるものといはねばならぬ――語法要録參照。
 
(622)
 
(623)
(一)不相夜多焉
(一)四句をスギシヤとし、五句をオホミと改訓したものがあるが〔宣長以下〕、却りて意味がわからなくたる。舊訓に從ひ「逢はぬ夜多ク過ギヌ」(ヤは感動詞)と解すべきである。
參照 ユツリ
 
(624)
(一)戀云〔右△〕吾妹
(一)云〔右△〕は念〔右○〕の誤としてコヒモフと訓した宣長説を可とする。
 
(625)
(一)藻臥束鮒
(一)藻臥束は借字で、モフシツといふ地の鮒といふことであらう。此津の名は殘つて居らぬが、河内國惠賀の藻伏であらうといふ説がある〔記傳〕。高安は其北隣であるから或は然らむ。
參照 ヱガのモフシ
 
(626)
 
(627)
(一)戀〔右△〕水定〔右△〕
(一)舊訓ナミダニシヅミとあるが意をなさぬから、元暦校本に變〔右○〕水求〔右○〕とあるに從ふ。變はヲチ(若變)の假字に用ひられたのであらうが、ミツ(水)につゞける場合にはヲトミと稱ふべきである。ヲトミは出雲國造神賀詞にも見える語である。――此贈答歌ではヲトメ(少女)にいひかけたことは勿論である。
參照 ヲトミの水
 
(628)(629)
 
(630)
(一)止息
(一)宣長はヨドムと改訓したが、ヨドムは花の縁語としては甚不適當である。或はヤスムと訓むのかも知れぬ。此時代にはヤスムは躊躇の意にも用ひられた。
 
(631)
(一)令還念者
(一)略解はカヘスオモヘバと改訓したが、こゝは不定法を用ひる場合でない。換言すればカヘスのが常習ではなく、或時會見を拒絶した事があつたものとせねばならぬ。〔六九二〕の歌は動詞の性質が違つて居るから例にならぬ。
參照 ウハヘナキ
 
(632)
(一)妹乎奈何責
(一)責は字の通りセメと讀むがよい。下に感動詞カモ又はヤモ等を含ませたのである。セムと改訓するは非。――語法要録參照。
 
(633)(634)(635)
 
(636)
(一)形見爾奉
(一)マツルと改訓したのはさかしらである。マタスは今の語でいへば「持たせてあげる」といふことである。
參照 マタシ、マツル
 
(637)
參照 マコトトハズ
 
(638)
(一)心遮
(一)舊訓オモホユルカモとあるを正しとすれば心遮は誤字とせねばならぬ。遮を迷の誤としてココロマドヒヌ〔新考〕ココロハマドフ〔新訓〕と改訓したものもある。姑く疑を存する。
 
(639)(640)
 
(641))
(一)絶常(二)責跡(三)幸也
(一)諸訓皆タユとあるが、燒大刀の縁語としてタツと訓まねばならぬ。
(二)責跡はセメトである。之をセムト讀むと意が反對になる。セメと訓ませる爲に徳に責の字を用ひて誤解を避けたものと思はれる。
(三)舊訓ヨシヤとあるが、サキクヤの方が一層適切である。幸を辛〔右△〕又は苛〔右△〕の誤としてカラシヤと訓するものもあるが〔略解、古義〕、其は第二句をセムト〔三字傍点〕と讀んだ爲で、前提が反對であるから歸結も幸〔右○〕の反對の意に解釋せねばならなくなつたのであらう。
參照 ヤキタチ、ヘツカフ
 
(642)
(一)戀而亂在
(一)舊訓ミダルル、萬葉考ミダレバとあるが、次句クルベキはクルヒにいひかけたものであるから、ミダレテとして次へ續けねばならぬ。
參照 クルベキ
 
(643)
(一)女
(一)女をヲミナ又はヲトメと訓するのは古義の説の如く穩當でない。こゝは世間の女人といふ意であるから、メニシアラバ、又はメノコニシアラバと訓すべきである。男ならばヲノコといふべき場合であるから、之に對するメノコを可とする。
參照 ヲミナ、ヲトメ
 
(644)
(一)佐思〔右△〕者
(一)金澤本に縱左久〔右○〕思者とあるを可とする。
 
(645)(646)(647)(648)
 
(649)
(一)夏〔右△〕葛
(一)夏〔右△〕は蔓〔右○〕の誤としてハフクズと訓した宣長説〔略解〕に從ふべきであらう。
 
(650)(651)
 
(652)
參照 カツカツ
 
(653)
參照 タマタマモ
 
(654)
參照 ヲソ、ヲソロ
 
(655)
(一)知寒(二)邑禮左變
(一)舊訓シルカニとあるが、次の句から推してもシラサムであらねばならぬ〔代匠記〕。
(二)舊訓サトレサカハリとあり、信友以下之を不可解として文字をかへて色々に讀みあらためたが、牽強附會の譏を免かれぬ。字についてイフササカハリと訓すべきである。邑は悒に通じ、イフは字音であるが、夙にイフシミ、イフセシの如く日本語化して用ひられたものである。
參照 イフレサカハリ
 
(656)
參照 ナグサ
 
(657)
參照 ハネズ
 
(658)
(一)奈何幾許
(一)ナニカココバク〔代匠記〕、ナゾココバクモ〔畧解〕、イカデココバク〔古義〕、イカニココダ〔右△〕ク〔新訓〕の如くいろ/\の訓があるが、契冲訓を優れりとする。但しナニカはナニゾとあるべきである。――語法要録參照。
 
(659)
(一)荒海藻
(一)舊訓アラモ〔右○〕とあるが、雅澄がアラメ〔右○〕と改訓したのは卓見である。校本萬葉集に古義の此説を逸したのは遺憾である。
參照 シヱヤ
 
(660)
(一)聞起名
(一)舊訓キキタツナとあるが、キキコスナとした雅證訓を可とする。但し起〔右○〕を越〔右△〕の誤と斷したのは非。原の儘でキキコスナと訓み得る。ユメナキキコソの意である。
 
(661)
 
(662)
參照 サデ
 
(663)
(一)佐穗度(二)愛妻之兒
(一)第一句は從來佐保川を渡る意としてサホワタリと訓して居るが、家の所在地と解しサホノワタリと讀むのであるかも知れぬ。姑く疑を存する。
(二)舊訓にはオモヒツマノコとあり、契冲はハシキツマノコとあらためた。ツマノコの用例を見るに寧ろ男性をいうたものゝ方が多いやうであるから、こゝはメノコと訓む方がよい。
 
(664)
(一)將關哉
(一)舊訓サハラメヤとあるが、セカレメヤと訓ませる爲に特に關の字を用ひたのであらう。上句「雨に」とあるから受動詞と解すべきで、サヘといふ語を用ひるとすればサヘラレメヤといはねばならぬ。
 
(665)
(一)立離
(一)タチワカレユカムと讀んでもよい。
 
(666)(667)
 
(668)
參照 アサニケニ
 
(669)
(一)色丹出而〔右△〕(二)語言〔右△〕繼而
(一)元暦校本には色丹出與〔右○〕とあるに從ふ〔新訓〕。
(二)宣長はは言〔右○〕を者〔右△〕の誤として、カタラバツギテと訓むかというたが〔畧解〕、尚舊訓の儘でも解し得られる。
 
(670)
參照 ツクヨ、ツクヨミ
 
(671)
(一)不堪念
(一)下二句畧解はマドヘルココロタヘジトゾオモフと訓み、新考には六帖によりてココロヅマドフタヘヌオモヒニと改訓したが、此は湯原王から或る知人(男性)に月光が清であるから遊ひに來よといひやられた返事と解すれば舊訓の方がよいやうである。月は明いが心中になやみがあつて參上致しがたく思はれまするといふことである。
 
(672)
(一)壽持
(一)イノチを不可として壽〔右○〕は身〔右△〕〔眞淵〕又は吾身〔二字右△〕〔千蔭〕の誤とするものがあるが、理由のないことである。
參照 シヅタマキ
 
(673)
 
(674)
(一)悔二〔右▲〕破
(一)二〔右▲〕の字は衍とする畧解の説可。
 
(675)
參照 カツミ
 
(676)(679)
 
(680)
(一)幾許
(一)ココバクと訓むを可とする。ココダクとココバクとに語義上相違のあることを知らねばならぬ。――語誌參照。
 
(681)
參照 ナカナカ
 
(682)(683)(684)
 
(685)
參照 フタサヤ
 
(686)
(一)過與(二)欲見鴨
(一)種々の訓があるが、第二十巻にも「相見ては千年やイヌルいなをかも吾《アレ》やしか思ふ君まちがてに」とあるから、コノコロハ〔右○〕千年ヤ行キモ過ヌル〔二字右○〕トと訓むを可とする。
(二)末句は君を見むことを欲して吾やしか思ふといふ意であらねばならぬから、見マクホリ〔右○〕カモ〔古義〕と訓すべきである。ホレカモと訓み、欲スレバカの意(即ち第四句の動因)と解するのは聊か無理である。――其場合にはホリスレカといふのが好適で、ホリ(欲)といふ語はホラム、ホレバの如く用ひられた例がない。恐らくはホシ(欲)、アリ(在)の意の不完全動詞であつたのであらう。
 
(687)
(一)雖塞々友
(一)舊訓セクトセクトモとあり、諸説皆假設前提として此句を解して居るが、こゝは既定前提として結句をクエナム〔古義〕と讀むべきであらう。――但し古義の如くセキハセクト〔二字傍点〕モ、ナホヤクエナムとしては時格か一致せぬ。――校本萬葉集に古義のクエナムといふ訓を逸して居る。
參照 ウツクシ
 
(688)(689)(690)(691)
 
(692)
(一)令盡念者
(一)畧解の訓可。ツクスは今の語でいへばツクサシメルである。心をツクスは連續的に行はれることであるから、不定法を用ひることを然るべしとする。――ツクセルと訓するは非。
參照 ウハヘナキ
 
(693)(694)(695)(696)
 
(697)
參照 タダカ
 
(698)(699)(700)
 
(701)
參照 ハツハツ
 
(702)
(703)
 
(704)
(一)欲見社
(一)ホレコソと訓むは非。假にホリセバコソをホレコソといひ得るにしても、其義ならば第三句はホリシタレ又はホリシツレであらねばならぬ。ホシケクハは「欲しいのは」といふ意であるから、末句のコソは希求の意とぜざるを得ぬ。――語法要録クの條下參照。
 
(705)
參照 ハネカツラ
 
(706)
(一)無四乎(二)何妹其
(一)宣長は四〔右△〕を物〔右○〕の誤としナキモノヲと訓した〔畧解〕。或は然らむ。
(二)ヲといふ助語は省いてもよい場合が多いけれども、こゝでは主格と誤たれる虞があるから、必ず之を用ひた筈である。――古語ならばタレヤシイモヲとあるべきであるが、字によつて假にナニのイモヲゾ〔二字右○〕と訓して置く。ナニとイツラ又はイカとは系統を異にする同義語である。――語法要録參照。
 
(707)
參照 モヒ
 
(708)(709)(710)(711)(712)(715)(716)
 
(717)
(一)惑毛
(一)マドヒを不可なりとして惑〔右○〕を※[戚
 
/心]〔右△〕〔考〕、愍〔右△〕〔古義〕の誤字とする説もあるが、字は其まゝにして契冲訓の如くワビシクと訓むのがよいやうである。
 
(718)
 
(719)
(一)念流吾乎
(一)舊訓ワレヲとあるが、ワレヤとした略解の訓を可とする。但し乎〔右○〕の字は必しも也〔右△〕の誤寫とするを要せぬ。
參照 ミツレ
 
(720)
參照 ムラキモ
 
(721)
(一)歌一首(二)風流
(一)元暦校本には大伴坂上郎女在2佐保宅1作v之と註してある。
(二)舊訓ヨシヲナミとあるが、契冲訓の如くミヤビを可とする。雅澄は靈異記を引いてミサヲと訓したが、ミサヲといふ語の原義からいうても此場合にあたらぬ。
參照 ミヤビ、ミサヲ
 
(722〕
 
(723)
(一)常呼〔右△〕二
(一)トコヨとある舊訓に從へば呼〔右△〕の字は誤寫であらう。
參照 カナト、トジ、モトナ
 
(724)
(一)名姉之戀曾
(一)舊訓ナニノコヒゾモとあるが意が通ぜぬ。契冲に從うてナネガコフレゾと訓すべきである。
 
(725)
(一)二首
(一)元暦校本其他の古寫本には此下に小字で「大伴坂上郎女在春日里作也」の十二字が註記してある。
 
(726)(727)(728)(729)(730)
 
(731)
(一)雖立
(一)舊訓タチヌトモとあるが、タタメドモと訓む方がよい。口語でいへば「立たうとも」といふべき場合で「立つにしても」ではない。
 
(732)(733)(734)
 
(735)
參照 ココログシ
 
(736)
(一)足占
(一)眞淵がアウラと改訓したのは誤である。古の發音法ではアウの如き母韻の重疊を厭うたから、アシウラを約してアウラと稱へるやうなことはなかった。――アシのシがあつて差支のあるものならばアノ〔右○〕ウラというた筈である。第十四卷には安能於登(足音)と假字書した例〔三三八七〕もあるのである。――足は借字で葦占ではなかつたかと考へて見る必要もある。
參照 ユフケ、アシウラ
 
(737)
(一)復毛將念〔右△〕君
(一)舊訓アハムとあるから念〔右△〕は合〔右○〕又は會〔右○〕の誤であらう。
 
(738)
(一)有家良久
(一)アリケラクと讀んでは意をなさぬ。元暦校本に之〔右○〕とあるのが正字であらう。從つて結句(二)はシヌベクオモフハと訓まねばならぬ。
 
(739)
(一)生有
(一)舊訓生有の二字をアレ〔右○〕とし、契冲がイケレと訓したのはコソのかかりに對する結びの約束と稱するものに捉はれたのであらうが、右の如き約束の存せぬことは次卷語法要録中にのべる通りで、こゝは既定格を用ひる場合ではないから、イケリと訓まねばならぬ。
 
(740)
(一)不相可聞
(一)舊訓アハザラメ〔右△〕カモとあるは語格を誤つて居る。宣長が相〔右○〕の下に「妹」又は「有」の字脱としたのは理由のないことで、アハザラム〔右○〕カmと訓むのであらう。――或はアハナケムカモと吟誦せられたのかも知れぬ。
 
(741)
(一)覺而
(一)舊訓オドロキテとあるを共儘踏襲して居るが、覺はオドロキと訓むべき字ではないのみたらず、語義上オドロキといふ語は此場合に用ひることが出來ぬ。案ずるに覺はメサメで、ユメ(又はイメ)は夜目の意であるから、此一事を以て夜目サメテ即ち夢サメテと訓ませるつもりであらう。――寢はネであるがイネ(夜寢《ヨネ》の意)の假字にも用ひられると同例である。
參照 イメ、ユメ
 
(742)
 
(743)
(一)諸伏
(一)雅澄が諸伏〔二字右○〕を隨似〔二字右△〕の誤としてマニマニと訓したのは曲解である。モロフシとしてよく了解せられる。
參照 カミのモロフシ
 
(744)(745)(746)(747)(748)(749)(750)(751)(752)(753)
 
(754)
參照 ホドロ、オモヘリシクシ
 
(755)(756)(757)(758)
 
(759)
(一)穢屋(二)入將座
(一)紀の訓註によりキタナキ、又は十九卷に牟具良波布伊夜之伎屋戸母とあるによつてイヤシキと訓したのはいづれも根據のあることではあるが、、イヤシ(鄙)と穢とは意を異にし、キタナキが古語でないことは記紀の訓詁に詳論した通りであるから、字によつてケガシキと訓むを可とする。
(二)舊訓イリマサシメムとある。イリハマスラム、イリマサセナム、イリイマセナム等いろいろの訓があるが、イリテマセナムがよいやうに思ふ。
參照 キタナキ、ケガ
 
(760)(761)
 
(762)
(一)八也多八
(一)八多也八多の誤記とする宣長説〔畧解〕に從ふべきであらう。ヤヤ多クヤと訓んでは意をなさぬ。
參照 ハタヤハタ
 
(763)
參照 アハヲ
 
(764)
(一)老舌
(一)オイシタ(又はオキシタ)は紡織の用語で、オイ(老)にいひかけたものと思はれるが、之を明にし得ぬ。――ヨヨムの語釋參照。
 
(765)
參照 ヘダテ、ヘナリ
 
(766)(767)(768)(769)
 
(770)
(一)不相耳曾
(一)アハナクとするは非。アハナクは「逢はぬこと」といふ意であるがこゝは單に「逢はぬのみ」といふべき所である。
 
(771)
(一)打布裳
(一)ウツシクと訓しては意が通ぜぬ。布はタヘの假字である。
參照 ウツタヘ
 
(772)
(一)保杼毛友〔右△〕(二)不相志思
(一)舊訓ホドケトモとあるが意をなさぬ。古義の訓ウケベドモを可とする。但し得〔右△〕毛輕〔右△〕友の誤寫とするは非。友を衍字として保〔右○〕をウケベと訓すべきである。
(二)舊訓アヒシ〔右○〕オモハネバとあるが、シは右の如く用ひることが出來ぬ。女が「逢はじ」と思うて居るので夢に見え來ぬといふ意であるから、アハズシモヘバであらねばならぬ。このズはジの音便である。――語法要録參照。
 
(773)
(一)村戸二
(一)從來ムラトと訓して不可解としてゐるが、叢生の意で、ムラヘ(ムラフの轉呼)と訓むべきである。語義を明にすれば歌の意は自ら明白である。
參照 アヂサヰ、モロチ、ネリノムラヘ
 
(774)(775)〔776)(777)(778)(779)
 
(780)
參照 ワケ、イソシ
 
(781)
(一)咋夜者
(一)昨夜はヨフベと訓むべし。ヨフベ(ユフベ)はヨヒ(夜)方《ヘ》の義であるが、前夜の意に用ひられる。之に對し今日の夜をコヨヒといふ。――此は日本語に限らず周圍民族語に於ても見る表現法である――キソと訓み改めたものがあるが、此歌に於ては其やうな漠然たる表現を用ひることは許されぬ(キソは昨日から以前を意味する一般的稱呼で、去年の義にも用ひられる)。ヨフベが今も尚口語に用ひられる故を以て俗なりとするが如きは論するに足らぬ。
參照 キソ、ヨヒ
 
(782)(783)
 
(784)
(一)更毛不得〔右▲〕言
(一)得〔右▲〕は契冲説の如く衍字であらう。
 
(786)(787)(788)
 
(789)
參照 ココログシ
 
(790)アリサリテ
 
(791)(792)
 
 【卷第五】
 
(793)
 
(794)
(一)(七九四)
(一)反歌によれば山上臣憶良が亡妻を悲しむ歌であるが、題詞を逸したものとおもはれる
(795)
 
(796)
參照 ハシキヤシ
 
(797)
參照 アヲニヨシ
 
(798)
 
(799)
(一)於伎蘇乃可是爾
(一)オキソは息嘯《オキウソ》の義なりとする説があるが〔宣長〕、オキ(息)に沖磯《オキソ》をいひかけたものであらう。
 
(800)
(一)米具斯宇都久志(二)由久弊斯良禰婆(三)宇既具都遠(四)奈何名能良佐禰
(一)代匠記には此句の下に「遁路得奴兄弟親族遁路得奴老見幼見朋友乃言問交之」の六句あるを可としたが、校本萬葉集にあげた諸本中一も此句を挿入したものがない所を見ると、後人の案出したものと思はれる。
(二)契冲は此上に五言の一句脱とし、雅澄はハヤカハノといふ一句を補うたが、此長歌は新考説の如く、長短不同の三節から成立するもので、此句を以て第一節の終とする。
(三)舊訓の如くウキタツと訓も妨はない。
(四)第二節の終である。
參照 コトワリ、モチドリ、タニグク、クニノホ、マホロバ
 
(801)
(一)奈利乎斯麻佐爾
(一)爾《ニ》はネの音便と解することも出來るが、尚禰〔右○〕の誤寫としてネと訓む方がよい。
參照 ナリ
 
(802)
(803)
 
(804)
(一)意余斯遠波
(一)オヨ〔右○〕シヲ〔右○〕ハをオホ〔右△〕シヨ〔右△〕ハの誤記なりとする新考説には從はれぬ。オヨシは現代語のオヨソ(凡)、ヲはヨ(世)の音便で、「凡そ世は」といふ意と思はれる。
參照 モモクサ、ヲトメサビ、ヨチコ、ミナノワタ、ニノホナス、ヲトコサビ、シヅクラ、タガネ
 
(805)(806)(807)
 
(808)
參照 ダニ
 
(809)(810)(811)(812)(813)(814)
 
(815)
(一)短詠
(一)舊刊本の誤字は新訓の校訂によつて改めた。
 
(816)(817)(818)
 
(819)
(一)古飛斯宜志惠夜
(一)第二句をコヒシケシヱヤと切つて訓するものもあるが、ヱヤといふ感動詞は原義上この場合には不適當である。コヒシケ(戀しい)、シヱヤ(此場合にはサテモといふ程の意)と訓めば意がよく通ずる。誤字を云々するのは論外である。
參照 ヱヤ、シヱヤ
 
(820)(821)(822)(823)(824)(825)(826)(827)(828)(829)(830)(831)(832)(833)(834)(835)(836)(837)
 
(838)
參照 カタマケ
 
(839)(840)(841)(842)(843)(844)(845)(846)
 
(847)
參照 ヲチ
 
(848)
參照 イヤシ
 
(849)(850)(851)(852)(853)
 
(854)
參照 ヤサシ
 
(855)(856)(857)(858)(859)(860)(861)(862)(863)
 
(864)
(一)宜啓(一)宜謹啓不次
(一)和歌眞字序によれば此書は吉田連宜〔右○〕から送つたものである。雅澄の説の如く題詞一行を脱したのであるかも知れぬ。
 
(865)
 
(866)
(一)智弊仁邊多天留
(一)類聚集に敝太津〔右△〕と改めたのは誤である。ヘダテ在《ア》ルの約で、アルは助動詞でないから、ヘダツルとはならぬのである。
 
(867)(868)(869)(870)
 
(871)
參照 ヒレ
 
(872)(873)(874)(875)(876)
 
(877)
(一)比等母禰能
(一)人皆の意であるが、宣長が母禰〔二字右○〕は彌那〔二字右△〕の誤としてミナと改訓した〔畧解〕のは速斷である。モネはミナの原語で、九州地方に殘つて居たのかも知れぬ。
參照 ミナ
 
(878)
(一)等乃斯(二)伊麻佐受斯弖
(一)等乃を志万の誤とする或人の説〔宣長紹介〕は從はれぬ。トノシクはタノシク(樂)の音便で、「寂しいことはあるまい」など今は楽しく語らうて居るが、「別れた後には寂しさがわかるだらう」といふ意である。四、三、一、二句の順をかへて味はふべきである。酒宴の席の即興なるが故に、目前に寂しさを感ぜぬので、此やうな吟詠が出たのであらう。
(二)斯の字を衍としてイマサズテと訓するは非。こゝは「イマサズナリ〔二字右○〕テ後こそ知らめ」といふ意で、餘り用例はないが、イマサズテとは表現を異にするから、此やうな言ひ方をしたのであらう。後世のズシテ(即ち古語のズテ)とは別義である。――語法要録參照。
 
(879)(880)(881)(882)(883)
 
(884)
(一)計布夜
(一)刊本計〔右○〕を許〔右△〕に作り、コフと訓して居るが、契沖説の如くケフを可とする。
 
(885)
 
(886)
(一)多羅知斯夜(二)久〔右○〕麻尾爾(三)等計〔二字右△〕自母能
(一)斯夜〔二字右○〕を禰能〔二字右▲〕〔眞淵〕、斯能〔右△〕〔雅澄〕の誤とするは理由のないことである。ヤは嘆聲として副へられたのでタラチシといふと同義である。
(二)刊本に二は久〔右○〕の字がないが、類聚古集によづて補ふ。
(三)契冲は計〔右△〕を許〔右○〕の誤とした。さりながらトコジモノといふ語の不適當であることは新考説の通りであるから、等〔右△〕も亦筒〔右○〕の誤寫としてカコジモノと訓むのでねらう。略解にも此説があげてある。
參照 タラチシ、カコジモノ、イヌジモノ
 
(887)
(一)多良知遲〔右△〕能
(一)舊訓タラチシ〔右△〕とあるによれば遲〔右△〕は誤字とせねばならぬ。類聚抄其他の古寫本に「子」としたものもあるが、恐らくは九州方言でシをチと發音したのをわざと其儘用ひたのであらう。熊凝に代つて作つた歌であるからである。
 
(888)
參照 クレクレト、カリテ
 
(889)(890)(891)
 
(892)
(一)之可〔右△〕夫可比(二)乞乞〔右△〕泣(三)汝代者和多流(四)五十戸良〔右○〕我
(一)可を波の誤とした眞淵訓を可とする。
(二))舊訓コヒテとある。契冲は下の乞〔右△〕を弖〔右○〕の誤とした。
(三)此歌は二節から成るもので、此句を以て前節の終とする。
(四)童蒙抄に良〔右△〕を長〔右○〕の誤とし、戸令に以2五十戸〔右○〕1爲v里とあるにより、五十戸を里の借字としてサトヲサと訓したのは當を得て居る。但し五十戸良を其ままでサトヲサと訓み得る。
參照 ツヅシロヒ、シハブカヒ、ハナヒシヒシ、ホコロビ、カガフリ、ワクラバ、ワワケ、カカフ、ヌエドリ、ノドヨビ、イトノキテ
 
(893)
參照 ヤサシ
 
(894)
(一)見在地在(二)載〔右△〕持弖(三)道引麻志遠〔右▲〕(四)阿庭〔右△〕可遠志
(一)舊訓ミマチマ(ミマシシリマシの畧か)とあるが、宣長に從うてミタリシリタリと訓むべきである。
(二)載〔右△〕の字戴〔右○〕の誤としてイタダキモチテと訓した契冲説可。
(三)舊訓ミチビカマシヲとあるを、眞淵は一本に從うて志遠を遠志の倒置とし、ミチビキマヲシと訓したが、新考説の如く、遠〔右▲〕を衍字として、ミチビキマシと六音に訓むべきものゝやうである。
(四)此句原字の儘でも、神田本、細井本等によって庭〔右△〕を遲〔右○〕としても不可解である。從來色々の説があるが假に庭〔右△〕を麻〔右○〕の誤としてアマカヲシと訓して置く。値賀はアマ族の根據地であるから、アマカ(海人處)といひ得る。ヲシは「愛し」の義であらう。或はヨシの音便で、麻裳ヨシのヨシの如く、感動詞としてに用ひたのかも知れぬ。
參照 アマカヲシ、ツツミ
 
(896)
 
(897)
參照 タマキハル〔枕〕、ウチノカギリ、モナク
 
(898)(899)(900)(901)(902)
 
(903)
參照 シヅタマキ
 
(904)
(一)何爲(二)居禮杼毛(三)表者奈(四)愛久(五)爾母〔右▲〕布敷可〔右▲〕爾(六)我(七)例乞能米登(八)可多知都久保里
(一)此歌には脱簡が多い。こゝも一句脱ちたものと思はれる。但し其句はなくとも意は通ずる。
(二)こゝにも脱句がある。或は登母爾の次に五音一句と三音とが存したのかも知れぬ。
(三)オモハナサカリ又は遠クハナサカリ(表〔右○〕の遠〔右△〕の誤として)等の訓があるが、尚奮訓を尊重すべきである。ウヘはヘ(邊)に通ずる。
(四)舊訓オモワシクとあり、神田本細井本ににウツクシクとあるが、語義上古義の如くウルハシクと訓むべきである。
(五)刊本布敷可爾〔四字右△〕の四字が重複して居るが、古本にはないと西本願寺本に註記してある。上句「横風乃」は契冲説の如くヨコシマカゼノと訓まねばならぬから、爾母布敷可爾は五音又は六音一句に讀むのであらうが、ニモフフカ(又はニモフカ)はどう考へても語をなさぬから、西本願寺本に爾布敷可〔右△〕爾とあるに據り、可〔右△〕を衍字として姑くニハシキニ(布はハの音便とする)と訓して置く。ニハシキは「俄」の形容動詞形で、二十卷にニハシクモと用ひた例がある〔四三八九〕。
(六)例〔右○〕を衍字とする説もあるが、シラニか不知爾〔右○〕とかくと同樣に、ワレと訓ませる爲に送り僻字として例を添へたものとも解し得られるから、舊訓を尊重する。
(七)こゝにも脱字がある。或はカカリモの次に脱語及脱句があるとする説もある。
(八)契冲は郁久〔二字右○〕を久都〔二字右△〕の誤としたが、諸本皆都久〔二字右○〕としてあるから、尚原のまゝで解き試むべきものである。
參照 ウサルハシ、ウツクシ、ニハシ、タチアザリ、ツクホリ
 
(905)
參照マヒ、シタヘの使
 
(906)
 
 〔卷第六〕
 
(907)
(一)清清
(一)舊訓サヤケクスメリとあり、契冲はサヤニサヤケミと訓し、其他タカクサヤケミ〔眞淵〕、フカミサヤケミ〔濱臣〕、アツクサヤケミ〔雅澄〕の如き訓があるがキヨミサヤケミとした新考の説を可とする。此次に一句を脱とする説もある。標準形式からいへば最後の句は五、七、七であらねばならぬが、「大宮ト」「常宮ト」の如き句を挿むのは蛇足である。
參照 ツガの木、カミカラ、クニカラ
 
(908)
參照 カフチ
 
(909)(910)(911)
 
(912)
參照 ユフハナ
 
(913)
(一)味凍
(一)ウマシコリと訓むべきよしは〔一六二〕の歌について述べた通りである。
參照 ウマシコリ、ナベ、カハヅ
 
(914)
 
(915)
(一)川音成
(一)刊本には川の字がないが金澤本によつて補うた。
 
(916)
 
(917)
(一)常宮等(二)仕奉流
(一)舊訓トコミヤとあるを非なりとして宣長がトツミヤと改訓したのは道理であるが、常はトツと讀み得ぬのみならず、次に六音の句がある所を見ると、四六調と思はれるから、トミヤと讀むべきであらう。ツは連續助語であるから、之を省くも妨はない。
(二)ツカヘマツレルと訓むは非。奉仕するのは恒久不變の雜賀野であるから、不定法を以て修飾せらるべきである。
 
(918)
(一)潮干滿(二)伊隱去者
(一)舊訓シホミチテとあるが、契冲に從うてシホヒミチと訓すべきである。
(二)舊訓イカクレユカバとあるが、イカクレイナバと訓む方が口調がよい。玉藻は譬喩に用ひられたに過ぎず、「所念」ものは人であらねばならぬから、イカクロヒ〔四字傍点〕ナバと訓むのはよくない。――新訓に潮干滿チテ〔右△〕隱ロヒユカバとあるのは誤植であらう。
參照 シホヒミチ
 
(919)
 
(920)
(一)思自仁思有者(二)恐有等毛
(一)萬葉考の書入にシジニモヘレバとあるを可とする。舊訓の如くシシニシアレ〔三字傍点〕バというては上下の句につづかぬ。大宮人のうちには作者自身も含まれて居るのである。
(二)眞淵がカシコカ〔右△〕レドモと改訓したのにカシコクア〔二字右○〕レドモのクアの約カ〔右△〕であらねばならぬと考へたのであらうが、國語の約音法は支那の反切と※[車+几]を一にするものではない。咲有はサケ〔右○〕リでサカ〔右△〕リと約せられることはないのである。アヤニカシコシ(キ)をカシコカリ(ル)というた例のない所を見ると、舊訓の如くカシコケレドモであらねばならぬ。
 
(921)
 
(922)
(一)壽毛吾母
(一)ワレモ(アレモ)と訓するは誤、「我命も」の略であるから、吾がモといはねばならぬ。
 
(923)(924)
 
(925)
參照 ヒサキ
 
(926)
參照 イメ、シシ
 
(927)
(一)散動而有所見
(一)舊訓ミダレとあるが、岸本由豆流の説の如くサワギと讀むべきである。散の字を用ひたのは動をドヨミと訓むことなからしめんが爲で、送り假字の一種である。但しサワギタルミユではなく、必ずサワギテアル〔二字傍点〕見ユといはねばならぬ。而有とかいたのも其爲で、此有は助動詞ではなく、存在を意味する動詞「在」である。――語法要録參照。
參照 サツヤ
 
(928)(929)
 
(930)
參照 タナナシヲフネ
 
(931)
 
(932)
(一)黄土粉
(一)舊訓ハニフニとあり、黄土はハニともよみ、粉はフニの假字と見ることが出來るのみならず、一卷にも「草枕旅行く君と知らませば岸の埴生に匂はざらましを」〔六九〕とあるので、從來此訓に就て疑を抱いたものがないが、一卷の歌は少女の戀心の穗に出ることを色土《ハニ》の匂ひに譬へたので、此は言葉の裏に住吉の「少女に戀をして行かう」といふ意を含ませたものであるから、一列に見ることは出來ぬ。ことに文飾とはいへ、白波の來寄する濱邊に埴生があらうとも思はれぬから、此黄土粉はマナコ(繊沙)の義譯で、マナコ(愛子)にいひかけ、可愛い女の子に馴染んで行かうといふことを「繊沙に匂はむ」といひなしたのであらう。――〔一〇〇二〕の歌も同例である。――古葉類聚鈔に「粉」の下が二二と書かれて居るのも粉がコの假字であることの一證で、九卷にに磯の浦まの眞名(子〔三字右○〕の字脱)二文《ニモ》にほひて行かな〔一七九九〕と假名書した例がある。
參照 マナコ、ハニ、ハニフ
 
(933)
(一)御食都國
(二)貴見禮者
(一)「ミケツ國淡路の野島の海人の日の御調」と仕へ奉るといふことで調の上から句を轉倒したのである。
(二)「仕奉之見禮者貴」の意、ツカヘマツル〔右○〕シタフト〔右○〕キミレバと訓してもよいが、ツカヘマツルシ〔右○〕タウトシ〔契冲〕と訓むのは正しい語法ではない。こゝは「仕奉ルガ〔右○〕貴サ〔右○〕」といふと同一語であるから、舊訓の如〔右○〕く「之」はガの假字とすべきであらう。
參照 ミケツクニ、イクリ
 
(934)
 
(935)
參照 ナキスミ、フナセ
 
(936)
 
(937)
(一)往回
(一)舊訓ユキカヘリ、攷證にユキメグりとあるが、タモトホリと訓すべきであらう。徘徊の意である。
 
(938)
(一)海人船散動(二)御覽毛
(一)舊訓はミダレとあるが、次の反歌にもドヨメルと詠まれて居るから、古義の説の如くサワグと訓すべきである。「散」の字は上記の如く一種の送り假字で、此集に屡々見る例である。
(二)舊訓による。ミマス〔眞淵〕、メサク〔雅澄〕等の訓もあるが、天皇の御事ならばアリカヨヒもアリカヨハシといはねばならず、次の三首の反歌にも其趣があらはれて居らねばならぬ筈であるから、御覽はミラムの借字と見て「(人の)見らむも著《シル》し」の意と解すべきである。
 
(939)(940)(941)
 
(942)
(一)妹目不數見而
(一)宣長に從うてイモガメカレテと訓むがよい。
 
(943)
(一)島回爲流
(一)島回をアザリと訓むことは無理のやうに思はれるので、雅澄がシマミと改訓したのは一應尤ではあるが、水鳥をウと訓むべきものとすれば、シマミでは釣合はぬのみなたず、「島ニ島ミスル」といふ語づかひも拙であるから、姑く舊訓に從ふ。シマミはクニミ(國見)に對する語であるから島回ともかくが、求食といふ意は少しもない。
 
(944)
 
(945)
(一)伺候爾
(一)舊訓マツホドニとあり、サモロフと訓するものもあるが、〔一三八七〕の歌に「去益物乎|間守爾《マモラヒ》」とあると同じ趣きであるから、マモラヒニと訓むのであらう。マモラヒニ(マモラフニではない)はイザヨヒに、タメラヒになどと同義である。
 
(946)
參照 マツカヒ
 
(947)
 
(948)
(一)折木四哭之(二)來繼習石(三)此續(四)決卷毛
(一)契冲始てカリガネノと解讀した。折木四は四木を以てする樗蒲《チヨボ》の采で、和名抄雜藝具に※[手偏+〓]は音軒、加利《カリ》とあるものである。
(二)此句は未だ讀み得たものがない。案ずるに習〔右△〕は暮〔右○〕の誤で、句頭に發聲のイを添へてイキヅキクラシと訓むのであらう。即ち「鴈のやうに來續く」に「息づき」をいひかけたのである。――「鴈ガネノ來續」を實景とすることの時節ちがひなるはいふまでもない。
(三)上句の來續の縁によりカクツギテというたのであらう。友ナメテと重複する嫌があるが、意はよく通ずる。
(四)舊訓カケマクモとある。決〔右△〕は缺〔右○〕の誤寫か、若くは之に通ずるのであらう。
參照 ウチナピク〔枕〕、カリガネ、ユユシ、シヌブクサ
 
(949)(950)(951)
 
(952)
(一)島待爾
(一)島〔右○〕を君〔右△〕の誤字とする宣長説〔畧解〕は妄斷である。其はシママチといふ語を解し得ず、且きならの里を奈良の里と誤信した爲である。――此頃は帝都であつたから、ミサトと稱へ、奈良の里とはいはなかつた筈である。
參照 カヲコロモ〔枕〕、シママチ、キナラの里
 
(953)
(一)日谷八君當
(一)舊訓當〔右○〕を次句につけハタアハザラム(契冲アタリミザラム)と訓したが、「當」をハタと訓むべき理由がないのみならず、元暦校本、神田本には此字がない。恐らくは上の句につきトの假字に用ひられたのであらう(或は常〔右○〕の誤寫かも知れぬ)。
 
 
(954)(955)(955)
 
(956)
(一)御食國者
(一)「御」が衍字にあらずとすればミケクニと訓まねばならぬ。ミケツクニと同じく、御領土の意である。
 
(957)(958)(959)(960)(961)(962)
 
(963)
(一)宗形部(二)奈具佐末〔右△〕七國
(一)元暦校本には郡〔右△〕とあるが、部《ムレ》はムラ(邑)に通じ、郡の原語コウル(※[ハングルでコウル])も亦大邑の義であるから、コホリと訓ませるつもりで部と書いたのかも知れぬ。必しも誤記ではあるまい。
(二)元暦校本に米〔右○〕とあるを可とする。
參照 コホリ、ナグサミ
 
(964)(965)
 
(966)
(一)無禮
(一)契冲はナメシと訓したが、フル(降)、ナガレ(流)は共に雨の縁語で第二句雲ガクリタリに照應するものである。
 
(967)
 
(968)
參照 ミヅクキ、ミヅキ
 
(969)
(一)淵者淺而
(一)雅證はアセニテと改訓したが、アセニテは完了複時格で、次句のナルラムと呼應せぬから、舊訓を可とする。アサビ(アセビ)は淺くなることを意味する古語である。
 
(970)
(一)指進乃
(一)舊訓の如くサシスキと讀むべきものとせば進〔右△〕は誤字であるかも知れぬ。元暦校本には草字で書いてある爲め讀み得ぬ。サシスキの語義は不明であるが、地點名又は栗林に關係のある語であらう。――古義にムラタマではないかとあるは理由のないことである。
 
(971)
(一)春去行者(二)早御來
(一)春去行者は春去來者と同義で、行は助動詞的に用ひられたのであるから、舊訓の如く春サリユケバと訓むがよい。之を假定條件としてユカバと訓するのは誤である。
(二)歸がユクとも訓せられるやうに、來はカヘルとも訓み得る。御は敬語の表示である。
參照 ソギ、タニグク、ヤマタヅ
 
(972)
(一)言擧
(一)コトアゲは古の發音法からいへばコトゲと約せられた筈で、この歌の如きもコトアゲセズと讀むのは甚耳だちて聞えるから、或はコトゲセズと訓するのかと思ふが、確證がないから姑く舊訓による。
 
(973)
(一)禰宜賜
(一)從來ネギタマフ〔右○〕と訓して居るが、上の句にマカリナバとあり、アソバム、イマサムとあるを見れば、これも未來格とせねばならぬ。
參照 ネギ、スメヲアガ
 
(974)
 
(975)
(一)短命乎
(一)命の字は或はサチと訓むのかも知れぬ――〔八九七〕參照。
 
(967)
(一)委曲見
(一)舊訓マクハシミ、雅澄訓ヨクミテムとあるが、細井本の訓に從ふ。ナゴリ、ナゴクと韻を重ねたのである。他に用例はないが、ナガク(長)の轉呼で、ナガメ(長目)が眺の意に用ひられるやうに、委曲に見ることをナゴク見ルというたことはあり得る。
 
(977)(978)(979)
 
(980)
(一)更降管
(一)クダチツツといふ訓もあるが、假にツツといふ語尾を除いて見ると、クダツといふよりもフケヌといふ完了格を用ひる方が當つて居る。――三卷〔二八二〕にもフケニツツといふ例はある。之に反して十九卷、五卷のクダチテ、クダチニ、クダチヌ等は此場合とは趣を異にする。
 
(981)
 
(982)
(一)不清
(一)舊訓スマザルニとあり、其外オホロニモ、オホシクなどいふ訓があるが、オホロカニが語義上最も適して居るやうである。
參照 オホロ、オホロカ
 
(983)
參照 ササラエヲノコ
 
(984)(985)
 
(986)
(一)大能備爾
(一)諸説此句を誤字とし、思ひ思ひの訓を與へて居るが、ノビは野邊に延《ノヒ》をいひかけたので、「間近き里〔四字右○〕の君が來るとて大|延《ノビ》に月が照る」と戯《サ》れたのである。――洒落のわからね人には萬葉集を説く資格はない。
 
(987)
(一)隱而有來
(一)カクレ(又はコモリ)タリケリ〔四字傍点〕と讀んでは「かくれた」といふことになり、三笠山に月が没したかのやうに解せられる。アリといふ動詞と同じ助動詞との使ひわけを注意せねばならぬ。
 
(988)
(一)春草者
(一)契冲は草は花の誤ではないかというた。著し然りとぜば第二句の落はチリと訓まねばならぬ。――舊訓カレヤスシとある。
 
(989)
(一)打酒(二)加度打放(三)祷
(一)打〔右○〕の字祈〔右△〕又は折〔右△〕の誤とする説もあり、契冲はサケニウタルと訓したが.打酒《ウツキ》はウタゲに通ずる借字であらう。
(二)從來ウチハナチ〔三字傍点〕と訓して不可解として居るが、カドウチハフリ〔三字右○〕と訓めばよく意が通ずる。
(三)祷は「飲」にいびかけたものであるから、古葉類聚鈔の訓の如く、ノムとよまねばならぬ。
參照 ヤキタチ、カドウチハフリ
 
(990)(991)(992)(993)(994)
 
(995)
(一)春者生管
(一)オヒツツと訓してもよいが、舊訓を尊重してモエツツとして置く。
 
(996)
 
(997)
(一)粉濱之四時美(二)開藻不見
(一)美の字元暦校本に華とあるが、住吉の濱に四時さく華があつたと思はれぬから、舊の如くシジミ(蜆)のことを解すべきであらう。アケもコモリも貝の縁語である。
(二)契冲訓に從ふ。
 
(998)
 
(999)
(一)網手綱
(一)網手綱は即ちツナデである。古義に下の綱を衍としたのは同意しかねる。
參照 ツナデ
 
(1000)(1001)
 
(1002)
(一)岸乃黄土
(一)下二句は〔九三二〕の歌に類する。恐らくは黄土の下に粉〔右○〕の字を脱したのであらう。黄土だけでは舊訓の如くハニフニと訓むことも無理である。
 
(1003)(1004)(1005)(1006)(1007)(1008)(1009)(1010)(1011)
 
(1012)
參照 ヲヲリ
 
(1013)(1014)
 
(1015)
(一)待益欲(二)多鷄〔右△〕蘇香仁
(一)舊訓マタマシとあり、雅澄はマタエ〔右△〕シと改訓したが、いづれも誤である。主人の王が「珠しかましを」というたに對する酬和であるから、マチマスであらねばならぬ。
(二)從來字についてタケ〔右○〕ソカニと訓して居るが.タケソカといふ語は考へ得ぬ。恐らくは鷄は誤字で、タマソカと訓むのであらう。タマソカはタマサカ(邂逅)の音便である。
 
(1016)
(一)所v嚢
(一)古葉略類聚鈔には「所」の下lこ「作」の字があるが、其にしても意が通ぜぬ。誤脱があるのであらう。
 
(1017)
(一)賀茂神社
(一)大和の坂上里から山城の賀茂の社に參拜する途中逢坂山を超えたとあるは地理があはぬ。何か誤傳があるものと見はれる。
參照 ユフタタム〔枕〕
 
(1018)
 
(1019)
(一)又打山
(一)こゝに眞土山とある外に次の反歌に、大崎(紀伊國海草郡)から船出したとあるから、古は土佐に行くには紀伊國に出て其から海路についたものと思はれる。次の長歌に「恐《カシコ》の坂の神に幣を奉つる」とあるのも立田の懼坂のことではあるまい。
 
(1020及1021)
(一)國爾(二)吾背乃公矣(三)草菅見(四)不有
(一)「國の上」に土左の二字脱とする吉田正準説〔古義〕可。サシサミはト(戸)の枕詞である。
(二))刊本に此句までを別の一首としたことの誤なるはいふ迄もない。元暦校本其他の古寫本には次の句をつづけてかいてある。
(三)草〔右○〕を莫〔右△〕の誤としてツツミナクとする説〔宣長〕は從はれぬ。クサツツミは瘡を意味する古語である。
(四)舊訓アラセズとある所を見ると「有」の上に「令」の字が脱ちたのではあるまいか。――ミヤマヒアラズとする訓は非。
參照 サシナミノ〔枕〕、クサツツミ
 
(1022)
(一)爲等(二)叙追〔右△〕
(一)等〔右△〕の字元暦校本、細井本等に之なきを可とする。
(二)追〔右△〕を退〔右○〕の誤字としてマカルと訓した眞淵説可。
 
(1023)
 
(1024)
參照 オキマヘテ
 
(1025)(1026)(1027)(1028)(1029)
 
(1030)
(一)吾乃松原
(一)宣長は乃〔右○〕を自〔右△〕の誤としてアガマツバラユと改訓したが、原文舊訓のままでもよく聞える和歌であるから、猥に改竄することは謹まねばならぬ。
 
(1031)
(一)將住〔右△〕跡其念
(一)將〔右○〕の字元暦校本以下多くの本に好〔右○〕とある。其に從へば好住の二字をサキクと訓むのかも知れぬが、尚童蒙抄の説の如く住〔右△〕を往〔右○〕の誤としてユカムと訓すべきであらう。
 
(1032)
(一)狹殘《サザナミ》行宮
(一)古義には狹〔右○〕を獨〔右△〕の誤としてあるが、續紀によれば還幸の御路次志賀郡|禾津《アハヅ》頓宮に二泊せられたとあるから、狹殘はサザナミの假字で滋貨の行宮をいふのであらう。
 
(1033)
參照 マクマヌ
 
(1034)
參照 ヲチ
 
(1035)(1036)(1037)(1038)(1039)(1040)(1041)(1042)(1043)(1044)(1045)(1046)
 
(1047)
參照 イハツナ、ヲチ
 
(1048)
(一)皇祖乃(二)射駒山(三)妻呼令動(四)思並敷者
(一)從來スメロギと訓して居るが、語義上こゝはスメミオヤであらねばならぬ。
(二)刊本射〔右○〕鉤〔右△〕とあるが、元暦校本、類聚集を始め多くの寫本に駒〔右○〕とあるを正しとするべきである。
(三)舊訓ドヨメとあるが、こゝは句の切れ目であらねばならぬから、ツマヨビドヨモスと八音に訓すべきである。――ドヨムと訓するは不可。
(四)並〔右○〕は在〔右△〕の誤字か。契冲訓に從ひオモヘリシクハとすべきである。四句を隔てゝ思ヒニシとあるに照應するもので、上代の正しい語法である。――語法要録を見よ。
參照 カギロヒ〔枕)、カホドリ、サスタケ〔枕〕
 
(1048)(1049)
 
(1050)
(一)鳥賀喝慟(二)痛※[立心偏+可]怜(三)君之隨
(一)舊訓イタムとあるが、此語も慟の字もこゝには不適當であるから、畧解の説の如く慟〔右△〕は動の誤字と見るべきであらう。但し之をドヨムと訓むことは次のトドロ、ドヨメ(ドヨマセと同語)と重複する嫌があるから、サワグと訓むを可とする。
(二)舊訓イトアハレとあるが、古義のアナオモシロの方がようやうである。
(三)從來キミノマニと訓してあるが、第二卷高市皇子追悼の人麻呂の歌に皇子ナガラとある例によれば、キミナガラと訓まねばならぬ。「大君なる因《カラ》」といふ意である。――語法要録參照。
 
(1051)
 
(1052)
(一)弓高來
(一)舊訓ヤマタカクとあるによれば弓〔右△〕は誤字であらう。
 
(1053)
(一)百樹成
(一)舊訓モモキナスを非としてモモキナル〔眞淵〕、モモキモル〔宣長〕と改訓したものがあるが、其はナスの原義を明にせず、全然「如」と同義語と見るからで、こゝは次の「錦〔右○〕成」と同じく、ナスと訓して然るべきである。
參照 アレツク
 
(1054)(1055)
 
(1056)
(一)時之徃者
(一)從來ユケレバと訓して居るが、末句にナリヌとあるから、來ヌレバの意であらあらねばならぬ。從つて行キヌレバ又は行ケバといふべきで、ユケレバというては時格が一致せぬ。接頭語イを冠してイユケバと訓むべきである。
 
(1057)
 
(1058)
(一)不通
(一)カヨハズと訓するは非。カヨハヌというて餘情を殘さねばならぬ所である。
 
(1059)
(一)在〔右△〕吉迹
(一)在〔右△〕の字累聚古集lこ住〔右○〕とあるに從ふ。
參照 ミモロツク
 
(1060)
(1061)
 
(1062)
(一)海石之(二)納〔右△〕渚爾波
(一)舊訓ウミイシの不可なることは勿論であるが、ウナバラ〔眞淵〕、ワタツミ〔千蔭〕、ウミチカミ〔宣長〕等の訓も皆從はれぬ。海石之といふ文字によつてイクリノと四音に訓むべきものである。イクリは岩礁の意である。――次句六音なるは四六調によるものである。
(二)納〔右△〕は※[さんずい+内]〔右○〕の誤とし、ウラスと訓した千蔭説可。
參照 イサナトリ〔枕〕、カタツキ、イクリ
(1063)
 
(1064)
(一)鹽干者
(一)從來シホヒレバと訓して居るが、こゝは既定的前提ではなく、一般的叙述とおもはれるから、シホヒニハと訓む方がよい。
 
(1066)(1067)
 
 【卷第七】
 
(1069)(1070)(1071)(1072)(1073)(1074)
 
(1075)
(一)明少
(一)ヒカリスクナキ〔右△〕(又はアカリスクナキ〔右△〕)と訓み、夜の修飾語とするから不可解にこなるので、「月光少ク〔右○〕夜深けぬ」といふ意である。
 
(1076)(1077)(1078)(1079)(1080)(1081)(1082)(1083)(1084)(1085)
 
(1086)
參照 オホトモ、ユキ
 
(1087)(1088)
 
(1089)
(一)大海
(一)從來オホウミと訓して居るが、上代の發音法ではオホミ(又はオフミ)とたって甚口調が惡いから、ワダツミと詠じたものと思はれる。――ワダツミを大海とかいた例は他にもある。――歌は讀むものではなく吟ずるものであつたものである。
 
(1090)
(一)吾共所沾者
(一)元暦校本に所沾名〔右△〕とあるによつてワレサヘヌレナと訓したものがあるが、女性が故なくして雨中を徘徊するとは考へられぬことであるから、後朝の別を惜んで雨をも厭はずついて來ようとする女を、赤裳の裙が濡るからというて抑へ止める趣と解すべきで、舊訓の如く吾トヌレナバと讀むべきである。古義に第三句をヒヅツラムと訓み、末句をヌレテ〔右○〕バ又はヌレテ〔右○〕ナとしたのは時格の相違をも解せざるものと言はねばならぬ。
參照 コサメ
 
(1091)
(一)著有
(一)ケリは着アリの意。キタリと訓むのは非。キタリは口語でいへば「着た」で、「着てある」ではない。――語法要録參照。
 
(1092)
 
(1093)
(一)繼之宜霜
(一)舊訓ツギテシヨシモとあるが、ツキは繼、就にいひかけたもので、今の語にいふツキガヨイと同意であるから、名詞形として用ひればならぬ。――ツクノヨロシモと訓むは非。
 
(1094)
(一)色服染(二)三室山(三)黄葉爲在
(一)色服をイロツキと訓した眞淵説可。但しソメツというては時格がちがふ。
(二)三、四兩句は四六調である。ウマサケノ〔右○〕ミムロノヤマハ〔右○〕と五、七調にすることは作者の本意ではあるまい。少くともノ〔右○〕とハ〔右○〕とは蛇足である。
(三)宣長がモミヂシニケリと訓したのは卓見であるが、第二句との時格照應上シニタリ〔四字右○〕と讀む方がよい。
 
(1095)
參照 ミモロツク
 
(1096)
(一)事波不知乎
(一)細井本の訓シラズヲとあるに従ふべきである。ヲ〔右○〕はヨ〔右○〕に通ずる感動詞である。
 
(1097)
 
(1098)
(一)櫛上
(一)舊訓カツラギノとある。二上山は葛城にあるけれども、櫛上をカツラギ(鬘被)と訓ませることはいかにも苦しい。古寫本に櫛の上に「三三」又は「三」の字がある所を見ると三は玉の誤で玉|櫛上《クシアゲ》即ちタマクシゲと訓むのであらう〔眞淵〕。――ミクシヘノと訓めといふ説もある――文字を離れて考へてもカツラギよりもタマクシゲの方が聯想が遙に優美である。――クシゲノの四音に訓むことも可能ではあるが、次の七音の句とのつきがわるい。
參照 フタカミ山
 
(1099)
(一)陰爾將比疑
(一)比は成〔畧解〕又は化〔古義〕の誤とする説もある。椎はさう急速に生長するものでないから、寧ろ生〔右○〕の誤としてオヒムカではないかとも考へられるが、確證のないことであるから、姑く舊訓に從ふ。但しナミムカモ〔右△〕とあるモは不用である。
 
(1100)
 
(1101)
(一)夜去來者
(一)從來ヨリサリクレバと訓して居るが、ヨルサといふ語はないから、ユフ〔二字右○〕サリクレバと改訓すべきである。ユフはヨヒと同語で夜の字は今夜《コヨヒ》の如く、ヨヒとも訓むのである。
 
(1102)
 
(1103)
(一)今敷者
(一)舊訓可。イマシキハ〔契冲〕、イマシカバ〔信名〕としたのは語義を解し得なかつた爲である。
參照 イマシクハ
 
(1104)(1105)(1106)
 
(1107)
參照 ユフハナ
 
(1108)
 
(1109)
(一)將縁言毳
(一)舊訓ヨラムテフカモとあり、ヨラムワレカモ〔契冲〕、コトヨセムカモ〔眞淵〕、ヨセイハムカモ〔畧解〕、コラムコトカモ〔新訓〕等の訓があるが、ヨルトイハムカモと訓むのであらう。女の歌である。
 
(1110)
(一)足結出〔右△〕所沾
(一)出〔右△〕は者〔右○〕の誤とする本居説に從ふべきである。
參照 アラキ田、ユタネ
 
(1111)
 
(1112)
參照 ハネカヅラ
 
(1113)
(一)瀧至〔右△〕(二)八信井(三)事上
(一)舊訓タギチユクとあるが、古義の説の如く至〔右△〕は落〔右○〕又は墮〔右○〕の誤字または其意の借字であらねばならぬ。
(二)信はシリの假字である(ンとリとは相通ずる)。雅澄がハシヰと訓したのは誤りである。
(三)新考には言擧によつて霧が立つと詠じた例なきに反し、ナゲキ(長息)が霧にたると歌はれた例は少くはないから、事上〔二字右○〕は嗟〔右△〕一字を寫し誤つたものであらうと論じたが、これは倭建命の古事をおもひ寄せたものらしいから〔古事記日代宮〕、言擧であらねばならぬ。此句は「白氣結」の上に移して「瀧ち落つ走井の上に言擧はせぬのに霧がたつ」と解すべきである。
 
(1114)
(一)結八川
(一)結八は刊本にユフハとあり、元暦校本にはユフヤとある。所在が判明せぬのでいづれとも定め得ぬが、次の歌の結八河内はユフヤカフチと訓む方が口調がよいから、姑く此訓に從うて置く。
 
(1115)
(一)誰知
(一)第四、第五句は甚拙い言ひまはしであるから、何か誤記があるのであらうが之を明にし得ぬ。――種々の推定説があるが、根據が確實でないから姑く舊訓を存する。
 
(1116)
 
(1117)
參照 シマミ
 
(1118)(1119)(1120)
 
(1121)
(一)類聚古集に   とあるによる。妹ガリと訓んでは第二句カヨヒヂとつゞかぬ。此句をユクミチ〔古義〕、カヨフミチ〔新考〕と改訓するよりも、古集の如く初句を改める方がよいやうである〔新訓〕。
 
(1122)
參照 アキサ
 
(1123)
 
(1124)
(一)小驟千鳥(二)衣三更而(三)爾音聞者(四)宿不難爾
(一)舊訓アソブチドリノとあるが、アソブといふ語が不適當であるのみならず、ノ〔右○〕は蛇足である。古義、新訓に採用したサヲドルチドリといふ訓は、假に千鳥がヲドルものであるとしても、餘りに文字とは縁が遠い。又驟鳴の誤寫とする新考説は意はよく通ずるけれども、改作の譏を免かれね。案ずるに三卷にサワグトネリに驟騷舍人の字をあてた例もあり〔四七八〕、驟は騷と同義に用ひられたものゝやうであるから、こゝも千鳥のサワグことを意味するのであらう。之に小の字を冠したのは騷の大ならざることを表示する爲と思はれるから、其意を汲んでサワメクと訓むべきである。
(二)ヨタダチテと改訓したのは理由のないことである。吟誦に佳ならざるのみならず、「更」にクダチの義はない。此歌は頭韻を蹈んであることに注意すべきである。
(三)從來ナガと訓して居るが、千鳥にいひかけたのではないから、ナガとはいへぬ。字の通りシガと訓むべきである。
(四)カテを濁つてガテと訓むは非。難は借字である。若し不離の意とすれば、よく寢られることになる。
參照 カテ
 
(1125)(1126)(1127)
 
(1128)
參照 アシビ
 
(1129)
參照 ケダシ、シタヒ
 
(1130)(1131)(1132)
 
(1133)
(一)彌常敷爾
(一)トコシクニと改訓したのはさかしらである。動詞ならばトコシクこともいひ得るが、語義からいうても語構成から見てもかゝる動詞は存立し得ぬ。トコシといふ形容詞とすればトコシクニといへぬ。其は悲シをカナシクニと用ひられぬと同一の理である。
參照 トコ、トコロヅラ
 
(1134)
參照 イハトカシハト
 
(1135)
(一)與杼湍無之
(一)舊訓ヨドセナカラシとあるについて、水の淀む所を淀瀬といふと説くものもあるが〔古義〕、無理な釋明である。ヨドモセモナシと訓み、主として瀬のないことを意味し、其故に遠方に舟呼ぶ聲が聞えるというたものと解すべきである。
 
(1136)
 
(1137)
(一)今齒王〔右△〕良増(二)木積不來
(一)王は與の誤決りとする考の説に從ふ。
(二)古葉略類聚鈔に來〔右○〕の字を成〔右△〕に改めてあるが、原文を可とする。コツミは出水の際流れて來るもので、魚と共に網代にかゝるのであるが、自分なら其を待たずによるというたのである。
參照 アシロギ、コツミ
 
(1138)
(一)船令渡呼跡
(一)ワタセヲ〔右○〕はワタセヨ〔右○〕の意である。――語法要録參照。
 
(1139)
 
(1140)
參照 シナガトリ〔枕〕、ヰナ
 
(1141)
(一)水尾急嘉
(一)舊訓ミツヲハヤミカとあるが、新考訓を可とする。
參照 ミヲ
 
(1142)
(一)幸久吉〔右△〕
(一)舊訓幸を第一句につけて訓して居るが、宣長に從うて吉〔右△〕を在〔右○〕の誤とし、イノチノ・サキクアラムトと訓すべきである。
 
(1143)
參照 マツラフネ
 
(1144)(1145)
 
(1146)
(一)岸乃黄土
(一)下に粉を脱したものとしてマナコと訓むべきよしは〔九三二〕〔一〇〇二〕の歌について述べた通りである。
 
(1147)
 
(1148)
參照 〔九三二〕〔一〇〇三〕〔一一四七〕
 
(1149)(1150)(1151)(1152)(1153)(1154)
 
(1155)
(一)朝開之
(一)アサケは次の〔一一五七〕の歌によればアサケの潮〔右○〕の畧語であらう。潮干〔二字右△〕の誤寫なりとする新考説は早計である。
 
(1156)
(一)遠里小野(二)盛過去
(一)宣長は今の稱呼ヲリなるによりヲリのヲヌノと六音に訓めというたが、吟誦上不可能のことである。舊訓の如くトホサトヲヌと訓むべきである。
(二)古義にスギヌルと改訓したのは衣を詠じたものと解した爲であらうが、スレル衣ノは「揩衣のやうに」といふことであるから、――換言すれば末句は衣の述語ではないから――舊訓の如くスギユクといふ現在格を用ひるを可とする。
參照 トホサトヲヌ、ハリ
 
(1157)(1158)
 
(1159)
(一)音之清羅〔右△〕
(一)舊訓の如くサヤケサとよむべくは羅は誤字とせねばならぬ。
 
(1160)(1161)(1162)(1163)(1164)(1165)(1166)(1167)
 
(1168)
(一)亂而將有
(一)契冲に從うてアルラムと訓むべきである。タルラム、アラムというては意味が相違する。こゝのアルは在の意の動詞である。
 
(1169)
(一)湖者〔右△〕八十
(一)者〔右△〕は在〔右○〕の誤としてヤソアリと訓むべしとする説〔代匠記〕可。
 
(1170)(1171)(1172)(1173)
 
(1174)
參照 アラレフリ、アラレフル〔枕〕
 
(1175)
參照 トモシ
 
(1176)
(一)不爲
(一)雅澄は「セヌと訓むはわろし」というたが、セズというては餘韻がない。吟誦には必セヌといひ、歎聲を含めた筈である。
參照 ナツソビク〔枕〕
 
(1177)(1178)(1179)(1180)(1181)(1182)
 
(1183)
參照 トモ
 
(1184)
參照 トリジモノ
 
(1185)(1186)
 
(1187)
(一)飽浦
(一)飽海の所在が不明であるので、之を既知の地におしあてる爲にアコノウラ、アクラ、アクラノミ、アクウラ等改訓したものがあるが、アキノウラといふ語が存立し得ぬといふ證據のない限り、舊訓を尊重すべきである。石見の地名であつたかも知れぬ。
 
(1188)
(一)迄吾來
(一)雅澄は吾〔右○〕を返〔右△〕の誤としてカヘリコムマデと改訓したが.他の歌にカヘリコムマデといふ句があるといふことの外には論據がないもののやうである。作者が遠津之濱の里人であることが判明して居るならばともかくも、猥に假想を以て改記することは慎まねばならぬ。來《クル》は往《ユク》と相通じて用ひられる語であるから、こゝも「私が行くまで蕾んで居れ」といふ意と解すべきある。此場合コムといふ未來路の代りにクルといふ不定法を用ひるのは本集にも多くの例があることで、作者の心に豫期する所がある場合の論法でみる。キタルをクルと同義に用ひるやうにたったのは稍々後世のことであるから、古語としては此句はワガクルマテニとあるべきであるが、舊訓の如くば此ころ既にキタルというたのであらう。
參照 カシ
 
(1189)
參照 シナカトリ〔枕〕、ヰナ
 
(1190)
(一)名子江
(一)雅澄が名をの上句につけ、江を潟の誤としてコカタのハマベと訓したのは奇を好むものといふべきである。仙覺契冲等の先學の説の如く、住吉の奈兒の江と解して毫も差支のないことである。
參照 カシ
 
(1191)
(一)出入乃河之
(一)イデイリに上代發音の原則によりイデリと誦へはばならぬ。此川の所在は不明であるが、其故を以て改竄を加へるのはよろしくない――妹門出までが序で入野川とする説〔古義〕もある。或はさうかも知れぬが、入野川といふ川名の存在も立證せられぬ。
 
(1192)(1193)(1194)
 
(1195)
(一)右七首
(一)元暦校本によれば七首は此歌と前の〔一一九四〕の外に〔一二八二〕――〔三二二〕の五首である。
 
(1196)(1197)
 
(1198)
(一)曉〔右△〕去者
(一)曉去者では理窟にあはぬ。曉〔右△〕は晩〔右○〕の誤寫でクレヌレバと訓むのではあるまいか。
 
(1199)
 
(1200)
參照 カタマチ、ガテリ
 
(1201)(1202)(1203)(1204)
 
(1205)
(一)漸々志夫乎
(一)此上句を解き得ずして誤字と速断し、文字をかへて讀むものもあるが、オキツカヂは取舵、シフはオサヘルといふことである。ヲは感動詞ヨに通ずる。
參照 オキツカヂ
 
(1206)(1207)(1208)(1209)(1210)(1211)
 
(1212)
參照 アテ〔地〕、イトカ〔地〕
 
(1213)
 
(1214)
參照 アダ〔地〕、ヲステ〔地〕
 
(1215)
 
(1216)
(一)方便海之
(一)舊訓三四兩句をワタツミノ神ガテワタルとよませてある。神ガテワタルでは意をなさぬから、長流は夙にト〔右○〕ワタルとし、契冲以下之に從うて居るが、上句によれば歩渡りをいふものとせねばならぬから、ト即ちミトを渡る義と解することは出來ぬ。我手はガタと訓すべきである。カミガタは必しも固有名詞なることを要せず、神地の潟を意味し、之と同じ由縁で其海をスベ(神聖)の海と稱へた事もあり得る。恐らくは和歌浦の干潟を海人少女が歩渡りする光景を詠じたので、神は玉津島の神であらう。スペの海、カミ潟といふ名稱が殘つて居らぬので、確説しかねるが、從來の訓を繼承することは斷じて不可であるから、假にスベのウミのカミガタワタルと改訓した。
參照 スメ、カタ
 
(1217)(1218)(1219)(1220)(1221)(1222)(1223)(1224)
 
(1225)
(一)夜中
(一)宣長はヨナカを不可解としてトナカ(門中)の誤であらうといひ、守部は門人某の説によつて近江の高島郡の地名としたが、いづれも確説ではない。後考をまつとして姑く舊訓を存する。
 
(1226)
(一)神前
(一)舊訓ミワノサキとあるが、カミとミワとは同義語でないから、元暦校本、類聚鈔等の訓をとる。
參照 ヨキ
 
(1227)
(一)船人動
 
(1228)
(一)船人動
(一)舊訓サワグとあるが、新考説の如くドヨムの方がよい。
參照 カザハヤ
 
(1229)
(一)明旦〔右△〕石之潮爾
(一)旦の字は元暦校本に之なきを可とする。潮の字元暦校本、類聚古集神田本等には湖とある。湖、潮共に此集にはミナトの假字に用ひられて居る。ミナトは水之門《ミナト》であるからミトと同義である。――舊訓ハマとあり、其他ウラ、カタと訓したのは理由のないことである。ミナトとしたのは誤ではないが、吟誦に適せぬ。
 
(1230)
 
(1231)
參照 アマキラヒ、ヒカタ、ミヅグキ
 
(1232)
 
(1233)
參照 タキ
 
(1234)
(一)入潮〔二字右△〕爲
(一)アザリといふ訓に誤なしとすれば入潮〔二字右△〕は朝入〔二字右○〕の誤寫であらう。
 
(1235)
 
(1236)
(一)繼而所見小〔右△〕
(一)舊訓ササシマとあり、シヌ島とも訓み得るが、小は八の誤字で上の句につき、ツギテ見ユレバタカシマノと訓むべしとする宣長の説〔略解〕を可とする。九卷に曉之夢|所見乍《ミエツツ》梶島乃石越浪乃|敷弖志《シキテシ》所念とある歌を證として、雅澄が小〔右○〕は乍〔右△〕の誤なりと斷じたのは早計である。夢を見つゝ重《シ》きて思ふこともあらうし、夢に屡々見るが故に切《シキリ》に念ふこともあり得る。類歌は必ず同一着想から出たものとするは固陋である。初句をイメノミニと改訓したのも憶斷で、古語ではイメノミニといふのが慣例であつたが、イメニノミというては惡いといふ理由は語法上少しもあり得ぬ。
 
(1237)
 
(1238)
(一)阿戸白波者
(一)カハナミといふ訓に誤なしとすれば白〔右△〕は誤字であらねばならぬ。
 
(1239)
(一)大海之
(一)此大海は近江のことである。近江がアハミ(淡海)の意ではなく、本來オフミ(大水)の意であることは語誌に述べた通りである。上にあげた「大海の水底どよみ」といふ歌〔一二〇一〕と下三句に全然同一であるが、其は外洋を詠じ、此は内海を歌うたものであることは第二句の用語によつて區別せられるのである。
參照 アフミ
 
(1240)(1241)(1242)
 
(1243)
(一)今衣吾來禮
 
(1244)
(一)放髪乎
(一)舊訓フリワケガミとあるが、契冲ハナリのカミを可とす。
參照 ハナリ
 
(1245)
(一)釣船之綱不堪
(一)舊訓ツリフネノツナ、タヘズシテとあるが、契冲訓を可とする。ツナまでは序、ツナはツネ(常)の原語で、常に堪へがたく心に思うて出て來る(女の家から)といふ意である。
參照 シカノアマ
 
(1246)
 
(1247)
參照 スクナミカミ
 
(1248)
(一)見偲
(一)此二句のやうな略したかきやうは色々に訓めるが、舊訓ワキモコガ〔右△〕見ツツシヌバムとあるは從はれぬ。假に上記の如く訓して置く。
 
(1249)
(一)我染袖
(一)袖〔右△〕を衣〔右○〕の誤とする説もあるが、十七卷にも「豐國の企玖の池なる菱のうれを採とや妹が御袖〔右○〕ぬれけむ」とあり、衣が濡れるといふのも大袈娑であるから、尚袖とすべきである。但し染は借字でシメシとよみ、「浸」を意味するのであらう。
 
(1250)
(一)行吾
(一)ユキシワレと改訓したのは非。ワレヲのヲはヨ(ヤ)に通ずる感動詞である。
 
(1251)(1252)(1253)
 
(1254)
(一)梶之母有奈牟
(一)初二句は大船が梶を恃むが如く君を恃むといふ意を以て譬に用ひたので、アラナムはあれかしと希望する意。――アリナンと改訓したのは誤である。
 
(1255)
(一)綵衣
(一)眞淵はマダラと改訓したが、本卷〔一三三九〕に服色取といふ用例があるから、尚舊訓を可とする。
參照 ツキクサ
 
(1256)
 
(1257)
(一)咲之柄二
(一)ヱマシシカラニ〔略解〕と改訓したのは非。これは女の歌である。
 
(1258)
(一)少可者〔二字右△〕有來
(一)舊訓の如くば可者〔二字右△〕の二字は衍とせねばならぬ。契冲以下此句を不可解として色々に改訓したが、原訓にまさるものがない。「口實にいふことを聞知らむもの〔二字右○〕は少い」といふ意としてよくわかる歌である。先學第四句のクといふ助語を解き得なかつたやうである。――語法要録參照。
參照 ナグサ
 
(1259)
(一)佐伯〔右△〕山(二)于花以之(三)子〔右△〕鴛
(一)舊訓サヘキヤマとあり、類聚古集、神田本にはサホヤマノと改訓してあるが、眞淵説の如く伯〔右△〕を附〔右○〕の誤としてサツキヤマと讀むべきであらう。
(二)舊訓による。モタシはマタシ(奉)と同語で、歌の意は「卯の花をもたせて可愛い子の手をとらうといふことである。モチシ〔畧解〕、モテチ〔新考〕等と改訓したのは非。
(三)契冲に從うて子〔右△〕は手〔右○〕の誤として訓して置く。舊訓の如くアハレワガ、コと讀んでも意は通ぜぬことはないが、飛鳥、奈良朝時代の語法ではない。――但し契冲訓についても尚一考を加へる必要がある。
參照 サツキ山、マタシ
 
(1260)
(一)衣服〔二字右△〕針原
(一)舊訓コロモハリハラとあるが、合點が行かぬ。元暦校本には「衣服」の二字なく、針の右肩に嶋と旁書し、シマのハリハラと訓してある。類聚古集の訓も同樣であるから姑く之に從ふ。尚可考。
 
(1261)
 
(1262)
參照 イハヒツマ
 
(1263)
 
(1264)
參照 アキジコリ
 
(1265)
參照 サキモリ、マヨヒ
 
(1266)
(一)八船多氣
(一)從來タケと訓して居るが、氣はキの假字に用ひられたのである。――タケというたとすれば音便である。
參照 タキ。
 
(1267)(1268)(1269)
 
(1270)
(一)盈昃爲烏
(一)舊訓シテゾとあるが、月に盈虧のあるのは常〔右○〕であるから、こゝは字の通りスルヲと訓めげよく意が通ずる。
 
(1271)
 
(1272)
(一)鞘納(二)著點等鴨
(一)從來サヤニ〔右△〕入野と訓し、大刀のシリサヤニまでを入野の枕又は序として居るが、餘り唐突な聯想とせねばならぬ。鞘は地名と解してサヤ(讃揚)のイリヌと讀むのであらう。
(二)舊訓キテムトテカモとあり、契冲はキセントテカモと改めたが、キはこの場合にはあたらぬ語である。兩腕のあらはなるを見てマ袖即ち兩袖をもちつけてむとかも葛引く(夏草かるも同じ意味)と戯れたのである。大刀の後を枕詞に用ひたのはアルの縁語であるからであらう。されば著をツケと訓むことは一點の疑もない。
參照 サヤのイリヌ
 
(1273)
(一)波豆麻(二)漢女
(一)ハツマの語義を詳にせぬ。宣長は數字をかへて第二第三句をハリスリツケシ・マダラのコロモと訓したが、改作に等しいものであるのみならず、歌として何等の妙趣もないたゞ言に過ぎぬ。或は住吉の神事の競馬の騎手をハツマのキミと稱へたのではあるまいか。ハスマ(ハセ、ウマ)をハツ〔右○〕マと轉呼したことはあり得べきである。
(二)舊訓による。漢女といふ字をあてたのは漢衣縫の意をにほはせる爲であらう。
 
(1274)
(一)柴(二)閏將徃見
(一)柴は借字で芝である。
(二)畧解の訓に從ふ。或はヌレユカムミムと訓むのかも知れぬが、契冲訓の如くヌレテ〔右○〕ユカムミムといふことは出來ぬ。其はカヘリ來ム日をカヘリテ〔右△〕來ム日といへぬと同樣に、テといふ分詞を用ひた以上一複合動詞と見なすことが出來ぬからである。――語法要録參照。
 
(1275)
(一)賤鴨無(一)私田苅
(一)舊訓イヤシカモナシとあるが、契冲説の如くヤツコと訓すべきである。
(二)舊訓シノビタとあり、其他色々の訓があるが、ワタクシタとよめばよく意が通ずる。
參照 ヤツコ、ワタクシ
 
(1276)
 
(1277)
參照 ミナノワタ〔枕〕
 
(1278)
(一)房之下庭
(一)舊訓はネヤノシタニテ〔右○〕とあり、元暦校本には庭〔右○〕は邇〔右△〕と改めてあるが、尚源字の通りニハと訓むがよい。夏影は庭にかゝるものと思はれる。狹い妻屋の中は暑いから夏日は庭の木影に出て裁縫などして居るのを見て詠じたのであらう。
參照 ウラマケ
 
(1279)
 
(1280)
(一)念委
(一)刊本にはオモヒステテモと訓し、元暦校本、神田本、類聚古集等にミダレテとあるが。委〔右△〕は萎〔右○〕に通じ、シナエと訓むのであらう。
 
(1281)
(一)衣服?(二)何何
(一)刊本?〔右○〕を斜〔右△〕につくりキナナメと訓してあるが、?は斗に通事マスの假字と思ふからマサネと改訓した。
(二)下の何は諸本に「々」とある。宜長の説の如く「色」の誤りであらう〔畧解〕。春サレバとあるから、何〔右△〕花の誤であらうといふ説もあるが〔新考〕、染料の花は春さくものとは限らず、且花ニ〔右○〕スルといふことはあり得ぬ。
 
(1282)
 
(1283)
(一)壯子時
(一)舊訓ミサカリニとあるが、姑く略解の訓に從ふ。
 
(1284)(1285)(1286)
 
(1287)
參照 アヲミツラ、ヨサミの原
 
(1288)
(一)振手見
(一)「振」の下に「衣」を脱したりとする干蔭の説可。
 
(1289)
(一)犬召越(二)葉茂山邊
(一)舊訓コシテとあるが、コセテと訓み令v來而の意とした古義の説に從ふ。新考にヨビタテテの誤寫としたのも一説であるが、尚原字を尊重すべきである。
(二)舊訓ハシゲキヤマベニ〔右○〕と八音に訓んで居るが、此歌は山麓に邸宅を構へた人(恐らくは女性)が垣の外に鳥獵する風流男を見かけて詠じたものと思はれるから、「こゝは葉茂き山邊ぞ」といふ意と解し、ハシゲキヤマベと訓むを可とする。
 
(1290)此何〔右△〕有跡
(一)舊訓ココニ〔右○〕とある所を見ると、何〔右△〕は荷〔右○〕の誤であらう。
 
(1291)
(一)君來座
(一)從來キマサム〔右○〕と訓して居るが、馬の修飾語としては來マサムは不當であり、こゝで文が切れるとも思はれぬから、キマサバと改訓すべきである。
 
(1292)
(一)次完
(一)舊訓ヤドルとあり、宣長が伏〔右△〕の誤とした外は諸説皆之に從うて居るが、歌意が通ぜぬ。案ずるに次はツナグ(追尾)の假字で、齊明天皇の御製に「射ゆシシをツナグ河邊」とあり、本集十六卷にも同じ句が見え、、ツナグに認の字を充てゝ居る。認、次共に意譯で、獣を追跡することをツナグというたのである。初句江林とあるのも「川邊」と同じく、江邊の林の意であらう。此歌のシシが女性に譬へたものであることは勿論である。
參照 シシ、ツナグ
 
(1293)
(一)雖苅
(一)カレレドモ〔畧解〕、カリツレド〔新考〕、カレドモ〔新訓〕などいふ訓があるが、不定法としてカルトモと四言に訓むべきであらう。或る一定の「時」をさしたのではなく、一般的にいうたものと思はれる。
參照 アラレフリ〔枕〕、アド川
 
(1294)
參照 アサヅクヒ
 
(1295)
 
(1296)
(一)面就(二)吾爾所念
(一)契冲はメニツキテ、宣長はオモツキテと訓したが、オモハエ(所念)といふ動詞を支配する副詞としては不適當のやうである。恐らくは面〔右△〕は易〔右○〕の誤寫で、ナレヤスクと訓むのであらう。ナレは衣の縁語で狎の意をも含むから、いひかけたものと思はれる。字を更へる事は本意ではないが、從來の訓にあきたらぬから、止むを得ず改めた。
(二)雅澄がワレハ〔右○〕であらねばならぬとしたのは第二句をメニツキテと訓んだからで、上記の如くナレヤスクとせば、ワレニ〔右○〕といはねばなならぬ。「ナレ易く自分に思はれる」といふことである。
 
(1297)
(一)著丹穗哉
(一)舊訓キテニホハバヤとあり、其他の諸訓も「丹穗」を活用言として訓んで居るが、眞淵説の如くニノホと訓するのであらう。――ヤは感動詞である。――但し着をキナバと訓したのは非。ツケルであらねばならぬ。
 
(1298)
(一)千名〔二字右△〕
(一)名の字神田本、類聚古集には各とある。雅澄が干各〔二字右○〕の誤としたカニカクと訓したのは當を得て居る。元暦校本にもトニカクと訓してある。
 
(1299)(1300)(1301)
 
(1302)
(一)千遍告
(一)契冲訓に從ふ。次の〔一三一八〕にも千遍曾告〔右○〕之潜〔右○〕爲白水郎とある。
 
(1303)
(一)所見不云
(一)舊訓イハナクニ〔右○〕とあるが、ニは蛇足である。
 
(1304)
(一)吾志〔右△〕
(一)忘〔右△〕は下心〔二字右○〕の二字の誤寫とする宣長説〔畧解〕可。
 
(1305)
(一)己心
(一)宣長は此「己心」も「下心《シタノココロ》」であらうというた〔畧解〕。或は然らむ。
 
(1306)
(一)反戀
(一)宣長は花矣を咲花の誤寫とし、下の句をワレハツハツニミツツココヒシモと訓した。新訓には末句更ニ〔二字右△〕コヒシモとある。いづれも一わたりよく聞えるが、契冲訓を不可とすべき理由もないから、姑く之に從ふ。
 
(1307)
(一)守人有
(一)モル人アルヲ〔畧解〕、モル人アリテ〔新考〕といふ訓もあるが、第三句の前提に呼應する爲め終止法を用ひたものと思はれる。
 
(1308)
(一)大海(二)從何方君
(一)海〔右○〕の字元暦校本には船〔右△〕とあるが、次句のミナトは港津ではなく、字の通り水路のことゝ思はれるから、大船の候《サモラ》ふことはあり得ぬ。オホウミヲマモルミナト〔畧解〕、オホウミハミナトヲマモル〔宣長〕と訓したのも同じ誤解にもとづくやうであるが、大海は借字で、ワダツミとよみ、海神の守る水路の意と解すべきであらう。
(二)君ヲ〔右△〕吾が〔右△〕とすれば男の歌になるが、これは女から男に對つて「萬一事があつたらどうしてくれる」と問うたのであらう。
 
(1309)(1310)
 
(1311)
(一)衣人者
(一)元暦校本には者〔右○〕を皆〔右△〕としてある。之によれば第二句はキヌハ人ミナ〔二字右○〕と訓むべきであらう。
參照 ツルバミ
 
(1312)
參照 オホロカ
 
(1313)(1314)
 
(1315)
參照 タチバナ〔地〕
 
(1316)
 
(1317)
參照 シヅク
 
(1318)
參照 〔一三〇二〕
 
(1319)(1320)(1321)
 
(1322)
參照 シマツ
 
(1323)(1324)
 
(1325)
(一)玉令泳流
(一)オボラスルと改訓したものがあり〔畧解〕、元暦校本に詠〔右△〕とあるに從うてナゲカスルと訓したのもあるが〔新訓〕、意が通ぜぬ。新考に泳を溢と改めてハフラスルと訓したのは後代の語つかひで、ハフリといふ語の構成上溢の意の使動詞をハフラスというたとは考へられぬ。――舊訓の如くタマオボレスルと訓み、海幸山幸傳説の古事にもとづき玉によつてオボレル意と解すべきである。
參照 ハフリ、オボレ
 
(1326)
參照 テルサツ
 
(1327)
 
(1328)
(一)甚裁許
(一)姑く吉義の訓に從ふ。ハナハダの原語はハタハタであるから、或はハタ〔右○〕ハタココダと訓むのかも知れぬ。
參照 ハナハダ
 
(1329)
參照 アダタラ眞弓、ツラ
 
(1330)
(一)束級〔右△〕
(一)級〔右△〕の字類聚古集には纒及〔二字右○〕とある。
 
(1331)
(一)同等
(一)舊訓による。「儕輩ならぬにといふ」意であるから、或はモコと訓する方がよいかも知れぬ。――ナゾヘラナクニ〔古義〕、ナミナラナクニとするは非。
 
(1332)(1333)(1334)
 
(1335)
(一)思?
(一)眞淵?〔右○〕を勝〔右△〕の誤としたのは大なる誤である。勝の字は打消のガタ(難)の假字に用ひられた例はない。
 
(1336)(1337)
 
(1338)
參照 ツチバリ
 
(1339)
(1340)
 
(1341)
〔参照〕 マタマツク〔枕〕
 
(1342)(1343)
 
(1344)
參照 マトリ、ウナデ
 
(1345)
(一)常不
(一)「不」の下に「知」を脱すとする契冲説可なるが如し。
 
(1346)(1347)(1348)(1349)
 
(1350)
參照 ヤハシ、ヤハギ
 
(1351)
 
(1352)
參照 ヌナハ、タユタ
 
(1353)
 
(1354)
(一)衣爾摺
(一)元暦校本の一訓にスラユナとあるを正しとすれば、勿〔右△〕の字を脱したのであらうが、キヌニスラユルと訓し、下にヨ又はカモといふ嘆聲を含むものと解する方がよい。――コロモニゾスル〔舊訓〕、コロモニスリヌ〔眞淵〕、コロモニスリツ〔雅澄〕の如くも讀み得ぬことはないが、情緒が乏しい。
 
(1355)
參照 ソマ、イササメ
 
(1356)
(一)人曾耳言爲
(一)舊訓ササキメシ〔右○〕とあるが、耳言爲三字を以てササメクといふ語を譯したものとすべきであらう。
第三句のヤは感動詞である。
 
(1357)
(一)桑尚
(一)契冲が「桑」の下に「子」脱としてクハコスラと訓したのは第二句を字によつて其業《ソノナリ》と解した爲であらうが、尚甚拙なる修辭とせねばならぬ。畧解の説の如く「其業」は「園在」の借字とせば第三句はクハスラモであらねばならぬ。〔新考〕。
 
(1358)
參照 ハシキヤシ、ケモモ
 
(1359)
 
(1360)
參照 チサ
 
(1361)
 
(1362)
(一)影毛
(一)彰を不可解として移に改め、ウツシモセムと改めたものがあるが〔宣長〕、影は借字で、カケは※[草冠/縵]である。――語誌參照。
 
(1363)(1364)(1365)(1366)
 
(1367)
(一)此〔右▲〕待鳥如
(一)舊訓の如くば「此」は衍字であらう。
參照 ムササビ
 
(1368)(1369)
 
(1370)
參照 ニハタツミ
 
(1371)(1372)(1373)(1374)(1375)(1376)
 
(1377)
(一)祭三諸
(一)祭はイハフとも訓み得るが、尚舊訓に從ふ。イツクと訓するは非。
 
(1378)
(一)此神社
(一)類聚古集の訓に從ふ。
 
(1379)(1380)(1381)
 
(1382)
(一)流水沫〔右△〕之
(一)雅澄が沫〔右△〕を脈〔右○〕の誤としてナガルルミヲと訓したのは卓見である。〔一一八〇〕にも「泊瀬川流水尾之」とある。――校本萬葉集が此説を捨てた理由は了解に苦しむ。
 
(1383)
(一)塞敢而有鴨
(一)舊訓セカヘタルカモとあるが、セカヘといふ語があり得たとは思はれぬ。敢は送假字で二字をあはせてサヘと訓すべきである。
 
(1384)(1385)(1386)
 
(1387)
(一)間守爾
(一)仙覺訓ヒマモリニとあるは非。マモロフニとする雅澄訓もまた聊誤つて居る。副詞であらねばならぬ。――〔九四五〕參照。
 
(1388)
(一)石灑(二)縁浪
(一)舊訓イハソソグとあり、イハガクリ、イソガクリなどいふ訓もあるが、灑はアラフと訓むのであらう。石は磯に通ずる。
(二)從來ヨスルナミと訓して居るが、「ヨスル波のやうに」といふ譬喩であるからヨルナミノ〔右○〕と訓まねばならぬ。
(1389)
(一)過不勝者
(一)契冲訓による。
 
(1390)(1391)
 
(1392)
(一)愛子地
(一)古義にマナコツチ〔二字右△〕と改訓したのはマナコの語義を明にしなかつた爲で論ずるに足らぬ。チは道の義とすべきである。次の款にマナコヂの眞直〔二字右○〕之有者とあるによっても之を證する。
 
(1393)
(一)間〔右△〕之濱邊之
(一)間〔右△〕は古寫本にも聞〔右○〕歟と註してあるといふことである。豐前國|企救《キク》であらう。
 
(1394)
(一)入流礒之
(一)舊訓イリヌルとあるが、時格が適當せぬのみならず、入るといふ語も拙いから、童蒙抄に從うて姑くカクルルと訓して置く。――或は「入」の上に「潜」の字を脱したもので、クキイルと訓むのではあるまいか。
 
(1395)
(一)疾跡
(一)舊訓トクトナリタリとあり、契冲はヤマヒトナレリと訓し、眞淵以下は例によつて字をかへて讀むことに腐心したが、聞くべき説はない。古語瘡をクサともいうたから、草にいひかけてナノリソの藻が心の中でクサになつたと詠じたものとすべきである。
參照 クサ
 
(1396)
 
(1397)
參照 シカスガニ
 
(1398)(1399)
 
(1400)
(一)足速
(一)從來アシハヤ又はアハヤと訓して居るが、此は近江のアト川の事で、足速《アト》の意をも含めたのであらうが、尚アトと訓むものと思はれる。小舟ノというて「小舟のやうに」といふ意を表示したのである。――語法要録參照。
參照 アト川
 
(1401)
 
(1402)
(一)奧從酒甞
(一)放、酒は古義の訓の如く、サカと訓むべきことは勿論である。サケならざるべからずとする説〔薪考〕はコトサカといふ古語のあることを無視したものである。
參照 コトサカ、ヘツカフ
 
(1403)
(一)三幣帛取
(一)此句はミワのハフリの準枕詞であるから、ミヌサトルと訓まねばならぬ。イハフにかゝるとするは非。ヌサは捧げてイハフもので、トリテ齋ふことはない。此トリは神樂のトリモノと同じく祝が置座《オキクラ》(案)からトルことないふのである。
 
(1404)
(一)雜挽
(一)此題辭は元暦校本等に之なきを可とする。
 
(1405)
(一)朝蒔
(一)舊酬マヰデマクとあるが、類聚古集の如くアサマキシと訓するを可とする。マキは蒔と枕、キミは黍と君とにいひかけられたのである。カクルは亦駈と隱とをいひかけたもので、懸は借字である。
 
(1406)
(一)前裳今裳
(一)舊訓による。契冲はキノフモケフモと改訓したが、「昔も今も故人を思ふ情にかはりはない」といふ意にも解せられるから、強ひてよみ改めるにも及ぶまい〔新考〕。
 
(1407)
 
(1408)
(一)逆言哉
(一)上二句をタワコト(妄言)、オヨヅレコト(妖言)と改訓したものもあるが、原作者の意ではあるまい。何故にマガコト、サカシマコトと訓しては惡いかといふ理由を知るに苦しむ。
 
(1409)
參照 ウラブリ
 
(1410)(1411)(1412)(1413)(1414)(1415)(1416)
 
(1417)
(一)鹿子曾鳴成
(一)鳴〔右○〕の字|喚〔右△〕〔略解〕、呼〔右△〕〔古義〕の誤としてヨブナルと訓したのは水手《カコ》は鳴くものにあらず、鹿兒は海中に住むものにあらずとの理由によるのであらうが、水手、鹿兒音通ずるによつて海中の鹿鳴と聞つるは水手の呼聲であつたと詠じたものと思はれるから、尚字によつてナクナルと訓むべきである。
 
     【卷第八】
 
(1418)
參照 イハハシル〔枕〕、タルミ
 
(1419)
 
(1420)
參照 ハダレ
 
(1421)
(一)爲黒〔二字右△〕爾
(一)眞淵説に從うて爲黒〔二字右△〕は烏里〔二字右○〕の誤とし、ヲヲリと訓すべきである。宜長に乎〔右○〕をも手〔右△〕の誤として「崎のタヲリ」と訓めというたが、サキのタヲリといふ語には疑がある。
參照 ヲヲリ
 
(1422)
 
(1423)
參照 コジ
 
(1424)
 
(1425)
(一)如是開有者
(一)從來カクサキタラバと訓して居るが.完了時格を用ひる場合でないことは末句によっても明である。サカバといふべきを上に「日ならべて」といふ句があるので、サケラバといふ現在繼續格を用ひたのである。――語法要録參照。
 
(1426)(1427)
 
(1428)
參照 オシテル〔枕〕、アシビ
 
(1429)
參照 シキマス、ハタテ
 
(1430)
(一)戀爾手師
(一)テシをテキ〔古義〕、シヲ〔新考〕と改訓したものがあるが、第二句を逢ヘリシ君ニト〔二字右○〕の意とすれば原字、舊訓の儘でよく聞える。――ニテ
 
(1431)
 
(1432)
(一)見綵〔右△〕欲得
(一)綵〔右△〕は縁〔右○〕の誤とする契冲説可。
 
(1433)(1434)(1435)
 
(1436)
(一)將開可聞
(一)從來サキヌ〔右○〕ラムと訓して居るが、こゝはサキテ〔右○〕アラムカモといふ意で.サキニテ〔二字右○〕アラムカモではないから、サキツラムと訓むを可とする。同じく完了時格であるが、ツとヌとの用法上の區別を求むべしとするならげ此やうな點にあるのである。
 
(1437)(1438)(1439)(1440)(1441)(1442)
 
(1443)
(一)野上乃
(一)舊訓によりヌカミ(ノカミ)とすべきである。眞淵説の如く野ノヘノカタとするは重複の嫌がある。――野上は地名ではなく、上方の意である。
 
(1444)
參照 ツボスミレ
 
(1445)
 
(1446)
(一)養〔右△〕雉
(一)神田本には春〔右○〕雉とある。
 
(1447)
 
(1448)
(一)咲奈武
(一)契冲はサカナムではイツカにかけあはぬというてサキナムと改訓したが、イツカには疑問用法と不定用法とがあることを知らねばならぬ。舊訓に從ふべきである。――語法要録參照
 
(1449)
參照 アサチ、ツボスミレ
 
(1450)
參照 ココログシ
 
(1451)(1452)
 
(1453)
(一)虚蝉之(二)吾者幣〔右△〕引(三)公乎者將徃
(一)此次には脱句があるとせねばならぬ。契冲は「世の人なれば大君の」といふ二句を補うた。
(二)引〔右△〕は取〔右○〕の誤とする眞淵説可。
(三)契冲に從ひ往〔右△〕を待〔右○〕の誤としてマタムと訓すべきである。
 
(1454)
 
(1455)
參照 タマキハル〔枕〕、カヂ
 
(1456)(1457)(1458)
 
(1459)
(一)不所
(一)舊訓チレルとあるが契冲に從うてウツルと訓むべきであらう。
 
(1460)
參照 ワケ、チ
 
(1461)
(一)君〔右△〕耳
(一)君〔右△〕は吾〔右○〕の誤とする童蒙抄の説可。
 
(1462)
 
(1463)
(一)咲而盖
(一)略解にケダシクと改訓したのは非、モシクと言ひ得ぬやうにケタシクといふ語はない。其はモシ〔右○〕、ケタシ〔右○〕は形容動詞でないからである。
 
(1464)(1465)
 
(1466)
(一)毛無
(一)舊訓による。毛無の字をあてた理由を明にせぬ。
參照 カムナビ
 
(1467)(1468)(1469)
 
(1470)
(一)今毛鳴奴
(一)舊訓の如くば「奴」の下に「可」又は「香」を脱したものと思はれる。
 
(1471)
參照 フヂナミ
 
(1472)
(一)并贈
(一)神田本には贈〔右△〕を賜〔右○〕とあらためてある。
 
(1474)
(一)鳴令響良武
(一)令響の字に誤なしとすればドヨメと訓むのであらう。ドヨメはドヨモスと同義である。
 
(1475)(1476)(1477)(1478)(1479)
 
(1480)
(一)心有
(一)舊訓心アルとあるが、姑く眞淵訓に從ふ。
 
(1481)(1482)(1483)(1484)
 
(1485)
參照 ハネズ
 
(1486)(1487)(1488)(1489)(1490)(1491)
 
(1492)
(一)花乃有事
(一)ハナナルトキ〔代匠記〕、ハナノアルトキ〔新考〕といふ訓もあるが、有事は借字として舊訓の如くサカリとよむべきであらう。
 
(1493)
(一)本爾
(一)字の通りモトニと訓しても意は通ずるが、或は爾は誤字でモトナではあるまいか。モトナは「徒に」といふ意である。――語誌參照。
 
(1494)
 
(1495)
參照 クキ
 
(1496)(1497)
 
(1498)
(一)不來之
(一)舊訓コザリシとあるが、末句と時格が齟齬する。略解に從ひてキマサヌと訓むべきである。但し「之」の字は必しも誤ではなく、動詞を表示する助字とも解せられる。
 
(1499)(1500)(1501)
 
(1502)
(一)珠爾貫
(一)一本に「社」の字が加へてあるといふことであるが〔古義〕、こゝはタマニコソヌケとあるべき場合でない。――は逆の歸結が豫想せられるからである。――タマニツラヌクと訓むのも拙い修辭であるから、原字の儘タマニゾヌキシと訓すべきである。
 
(1503)
(一)不謌
(一)謌〔右△〕の字は許〔右○〕の誤とする説〔略解〕可。イナチフニニルと訓むべきである。第三句はユリトイヘレバ〔雅澄〕、ユリトイヘルハ〔宣長〕ともよみ得られるが、これは必しも女がユリというたのではなく、一般的の意味と解してユリトシ〔右○〕イヘバと訓む方がよい。
參照 ユリ
 
(1504)(1505)(1506)
 
(1507)
(一)有吾
(一)有〔右△〕は待〔右△〕の誤とする説もあるが〔大平〕、橘の開花を待つ意とは思はれず婦人の來訪を待つことは此時代の風習としてはあり得ぬから、思ヒツツ在ル意として舊訓に從ふべきであらう。
參照 イカトイカト、アエ、アサニケニ
 
(1508)
 
(1509)
(一)將鳴
(一)舊訓ナカナムとあるが、ナカムヲといはねばならぬ所であるから改訓した。或は「乎」の字を脱したのかも知れぬ。
 
(1510)(1511)(1512)(1513)(1514)(1515)
 
(1516)
(一)黄變
(一)ニホフ〔考〕、モミヅ〔畧解〕と改訓したものもあるが、ニホフは餘りに字に遠く、モミヂといふ語が此頃既に四段又は二段に活用せられ居た意とも思はれぬから、――語誌參照――姑く舊訓に從ふ。
 
(1517)
(一)三輪乃祝〔右△〕之
(一)祝〔右△〕の字類聚古集に社〔右○〕とあるを正しとすべきであらう。但しヤシロではなくモリと訓まねばなるまい。語義上「三輪の社《ヤシロ》」といふ語は成立せぬのみならず、初句の四音に應ずる爲にも六音を可とする。
 
(1518)(1519)
 
(1520)
(一)伊奈宇〔右△〕(二)餘宿毛
(一)童蒙抄に宇〔右△〕は牟〔右○〕の誤とあるを可とする。
(二)舊訓次の句をあはせてヨイモネテシカモと七音一句としたが、餘をアマタと訓むべしとする眞淵説を可とする。
參照 タナバタツメ、イナムシロ〔枕〕、オモフソラ、ナゲクソラ
 
(1521)
 
(1522)
參照 タブテ
 
(1523)(1524)(1525)(1526)(1527)
 
(1528)
(一)伊往還程〔右▲〕爾
(一)程〔右▲〕の字類聚古集に之なきを可とすそ。舊訓イカヨフホドニとあるが、カヨフは原義上往還の意にはならぬ。
 
(1529)
(一)浮津
(一)浮〔右○〕を御〔右△〕又は渡〔右△〕の誤とする説もあるが、ウキツといふ語もあるから(大《ウ》き津の意)尚原文舊訓を可とする。
 
(1530)(1531)(1532)(1533)
 
(1534)
(一)折禮
(一)宣長は禮を那〔右△〕の誤としてヲラナと訓したが、折るものは路行く人ではないから、舊訓の如くタヲレとよみ、花園の主に「折れ」というたものと解すべきである。
 
(1535)
(一)何時曾旦今登(二)於毛也者將見
(一)從來イツゾイマカト〔右△〕と訓して居るが、カといふ助語にあたる文字を畧した例はなく、又イツゾとイマカとは同じく疑問句であつても用途を異にするから、之を重ねて「イツカ〔右○〕來まさむイマカ來まさむ」の意〔古義〕とすることは出來ぬ。アゼゾ〔右○〕モコヨヒ〔三四六九〕などいふ例によつて、イツゾハイマと訓み、「何時其は今」の意味と解すべきである。――且今はイマの假字に用ひられたのであらう。
(二)舊訓に從ふ。ヤハは反語ではなく感動詞である〔新考〕。オモヤをオモワ(面輪)の轉呼とし〔千蔭〕、或は於〔右○〕を聲〔右△〕、也〔右○〕を世〔右△〕の誤としてオトモセバミムと改訓した〔宜長〕のは從はれぬ。新考に見〔右○〕を痩〔右△〕の誤としてヤセムと訓したのは考へ過ぎで、秋風の吹くのを待つ人の出現する前兆と見るといふことであらう。
 
(1536)(1537)(1538)
 
(1539)
參照 ホドロ
 
(1540)(1541)(1542)(1543)(1544)
 
(1545)
(一)袖續
(一)雅澄は續〔右○〕は纒〔右○〕の誤寫であらうというた。或は然らむ。――三更はヨヒと訓むでもよい。ヨヒとヨルとは木來同義である(語誌參照)。
 
(1546)
(一)附目〔右△〕緘結
(一)目〔右△〕は神田本に固〔右○〕とある。附固緘は密絡《シカラミ》の意を以てシガラミ(柵)の假字に用ひられたものであらう。附〔右○〕を脚〔右△〕の誤としてアユヒムスブト〔眞淵〕又はアユヒツクルト〔宣長〕と訓したものがあるが、脚結を結ひ又は装《ツク》るに夜の更けるまで時間がかゝるとは考へられぬことである。此誤訓をもととして第三句を河シアレバ(或は去道《イヌミチ》ニ河シアレバ)と改訓したのは苦々しいことで、「河が〔右○〕あるから」といふ意を川シ〔右△〕アレバといふことは出來ぬ。これはシはどこまでも都合のよい所に挿入し得られるものとする俗解に捉はれたものといはねばならぬ。――語法要録參照。
參照 シガラミ
 
(1547)
參照 アフサワニ
 
(1548)
(一)宇都呂波※[厭のがんだれなし](二)長意爾
(一)ウツロハはウツラバの音便である。――類聚古集に乎曾呂波と改めたのは意をなさぬ。
(二)從來ナゲキココロと訓して居るが、オモヒと改訓すれば歌の意は明になる。オクテは晩開に奧道《オクチ》をいひかけ、「長き」の枕としたのである。
一首の意は咲く花のウツル(移落)はいやなものであるが、待長くおもふのは尚堪へられぬといふことであらう。――從來此平凡な歌を解し得たものがなかつた。
 
(1549)
參照 イメタテテ、フサタヲリ
 
(1550)
 
(1551)
(一)雨令零收(二)朝香山
(一)令零收をヤミテと訓することは無理であるから、色々改訓したものがあるが、舊訓が最もよいやうである。或はヤメテと訓むのかも知れぬ。若し然りとすれば時雨をヤメサセたのは朝香の山の精と了解すべきであらう。又案ずるに類聚古集に雨令の二字を併せて零としてあるに從へばフリヤミテとよみ得られ、時雨を單にシグレというた例も集中に見えるが、シグレの原義は陰雲であるから、シグレの雨とあるを可とする。
(二)類聚古集に開〔右△〕朝とあるによつて新訓は下二句アケムアシタカ山のモミヂムと改訓したが、餘りに新し過ぎるやうに思はれる。モミヂ〔右○〕ムと活用し得たかといふことすら疑問である。
參照 シグレ、モミヂ、アサカ山
 
(1552)
參照 コホロギ
 
(1553)
(一)無間零者
(一)十卷に四具禮能雨無間之〔右○〕零者〔二一九六〕とした例もあるが、こゝはシを補うて訓まねばならぬ理由がない。フレバとフレレバとの相違は「降る故」と「降れる故」との差と同じく、前者は一般的理由で、後者は實際に原因が存したことを表示する。此場合はどちらであつたか作者を地下から喚び越して聞いて見ぬと判明せぬが、十卷の歌の例によれば、マナクシフレバと訓ませる爲ににシに相當する假字を加へた筈である。語義を研めずして類推のみを以てするのは決して眞の歌學ではない。
 
(1554)(1555)(1556)(1557)(1558)
 
(1599)
(一)頭刺不搖〔右△〕
(一)搖〔右△〕の字は挿〔右○〕の誤字であらう。古寫本には挿に似た字をかいたものが多い。
 
(1560)
(一)始見之埼
(一)舊訓ミソメシサキとあるが、始見は地名であらねばならぬ。眞淵は此句を跡見之丘邊乃の誤としてトミノヲカヘノと訓したが、誤寫としては餘りに念がいり過ぎて居る。古義のトミノサキナルも聞苦しい。案ずるにハツはホトと同語で發音も近いから始《ハツ》見を鳥見にいひかけたのであらう。
 
(1561)
 
(1562)
(一)之知〔二字右△〕佐寸
(一)舊訓ユクヲシラサズとあるが意をなさぬ。宣長は乏蜘在可の誤寫としてトモシクモアルカと訓し、雅澄は乏左右爾の誤としてトモシキマデニと訓んだが、初句「誰聞きつ」は「誰かきゝつる」といふ事であるから、「聞く」といふ動詞の目的格が與へられねばならぬ。假に第三句又は第四句の「乃」をヲと訓み、若くはヲ、ソノの意と解し得るとしても尚末句がトモシクモアルカ又はトモシキマテニでは文をなさぬ。案ずるに之〔右△〕は兩先學の説の如く乏〔右○〕の誤字とし、知〔右△〕佐寸〔右△〕は和〔右○〕佐乎〔右○〕の誤りとすべきであらう。ワザ(態)は見るもので聞く事は出來ぬといふものもあるかも知れぬが、メス(見)とキコス(聞)とが同義に用ひられるやうに、キクといふ語を廣義に解すればワザを聞知るともいひ得られるやうに思はれる。されば假にトモシキワザヲと改訓したが、尚一考を要する。
 
(1563)(1564)(1565)(1566)(1567)(1568)(1569)
 
(1570)
參照 アマツツミ
 
(1571)(1572)
 
(1573)
(一)大伴利〔右△〕上
(一)契冲は利〔右△〕を村〔右○〕の誤と斷定した。
參照 イヤシ
 
(1574)(1575)
 
(1576)
(一)可聞可開〔右△〕爲良久
(一)代匠記に開〔右△〕は聞〔右○〕の談としてカモカモと訓してある。
參照 ウカネヲヒ
 
(1577)(1578)
 
(1579)
參照 モトナ
 
(1580)
 
(1581)
(一)橘朝臣
(一)類聚古集には宿禰とある。朝臣の姓を給はつたのは孝謙朝のことであるから、此時は尚宿禰であつたが、本集には後の稱號を遡つて用ひた例は多いから.必ずしも誤寓とすることは出來ぬ。
 
(1582)
(一)布將見
(一)宣長は布〔右△〕を希〔右○〕の誤としてメヅラシキと訓した。或は然らむ。
 
(1583)
 
(1584)
(一)布將見跡
(一)此布〔右△〕も宜長は希〔右○〕の誤としてメヅラシトと訓した。
 
(1585)(1586)
 
(1587)
(一)ウカビユクラム〔古義〕、ウカビイヌラム〔新考、新訓〕といふ訓もある。いづれでも大差はないから舊訓に從ふ。
 
(1588)(1589)(1590)(1591)
 
(1592)
(一)然不有
(一)タダナラジといふ舊訓を非としてシカトアラズ〔契冲〕、シカナラデ〔信名〕、ナホモアヲズ〔眞淵〕、モダアラズ〔宣長〕の如く改訓したものがあるが、タダはチチ(千々)に通じ、五百代小田の枕に用ひられたのである。但し然をタダと訓むべき理由はないから、誤寫又は脱字があつたのかも知れぬ。
參照 タブセ
 
(1593)(1594)(1595)(1596)(1597)(1598)(1599)(1600)(1601)(1602)(1603)(1604)(1605)(1606)(1607)(1608)(1609)
 
(1610)
(一)于壯〔二字右△〕香見
(一)ウラワカミと訓べしとすれば于壯は何か誤があるのであらう。西本願寺本には丁〔右○〕壯香見とある。
 
(1611)
 
(1612)
(一)解者悲哭
(一)トカバ〔契冲〕トクハ〔雅澄〕といふ改訓もあるが、トカバならばカナシケムと結ぶべき筈で、不定法を用ひるとせばトクガカナシサというたであらうと思はれる。カナシモといふ結びに對しては舊訓の如くトケバが相當である。
 
(1613)(1614)(1615)(1616)(1617)
 
(1618)
參照 ワワラハ
 
(1619)
參照 ハシキヤシ
 
(1620)(1621)(1622)
 
(1623)
(一)黄變蝦手
(一)舊訓はモミヅルカヘデとあり、契冲はモミヅカヘルデと改訓したが、モミヂといふ語を其儘活用(四段にもあれ、二段にもあれ)することについては疑があるから(語誌參照)、古義に從うてニホフカヘルデと訓して置く。
參照 カヘルデ、モミヂ
 
(1624)
(一)吾之蒔有(二)早田之穗立
(一)舊訓ワガワザナルとあり、類聚古集に吾之業〔右△〕有とあるによつてワガナレル〔略解〕、ワガナリナル〔新訓〕としたものもあるが、蒔〔右○〕を正字としてマケルと訓むを可とする〔代匠記、古義〕。
(二)立〔右△〕は用〔右○〕又は以〔右○〕の誤とし、モチと訓した新考説可。
 
(1625)
(一)業跡
(一)略解にナル、古義にナリと改訓してあるが、坂上郎女が田又は鬘を作ることを業とLたといふ意ではなく、業は借字でワザと訓み、ワザウタ(童謠)、ワザオキ(俳優)のワサで眞似て作つたといふことである。勿論カヅラlこかゝるのである。
 
(1626)
 
(1627)
(一)非時
(一)千蔭説の如くトキジク(トキジキは非、此語は形容動詞ではない)と訓めぬことはないが、第三句のメヅラシク〔二字右○〕と重なつて聞苦しいのみならず、語義からいうても舊訓のトキナラヌの方がよい。
參照 トキジク
 
(1628)
參照 モミヂ
 
(1629)
(一)叩々(二)花耳
(一)神田本に叮〔右○〕とあるを正しとする。訓は雅澄説の如くネモコロニであらう。
(二)眞淵はハナノミと四音に改訓したが、ニホフは本來色ニ〔右○〕ニホフ、香ニ〔右○〕ニホフの如く用ひられた語であるから、舊訓ハナノミニ〔右○〕とあるを正しとする。――雅證がハナノミシ〔右△〕とよみ改めたのはシの語義を無視したもので論ずるに足らぬ。
參照 ネモコロ、ニホフ
 
(1630)
參照 カホハナ
 
(1631)
 
(1632)
參照 ヒニケニ
 
(1633)
參照 テモスマ
 
(1634)
參照 ヒキタ
 
(1635)
(一)末句等(二)獨奈良図書館流
(一)等の字一本に之なきを可とする。
(二)奈流を古義に奈武〔右△〕の誤たるべしとしたのはイヒを熟飯の義に解した爲であらうが、此イヒは稻穂のことであるから、ナムといふことは出來ぬ。舊訓可
參照 ワザイヒ
 
(1636)
 
(1637)
(一)造用室者
(一)室の字によつてムロと訓するは誤である。假にムロ作りであつたとしても、第二句に尾花逆葺とあるのを見ると、ムロヤと訓まねばならず、次の御製に室戸の二字を用ひてあるのを見ても室は借字とせねばならぬ。
參照 ハタススキ、ムロ、ムロヤ
 
(1638)
 
(1639)
參照 ホドロ
 
(1640)(1641)(1642)(1643)
 
(1644)
參照 コキレ
 
(1645)(1646)(1647)
 
(1648)
(一)含不有而
(一)フフメラズシテと訓むは非。こゝの有は動詞であらねばならぬのみならず、ズテをズシテといふのは後代の語づかびである。――語法要録參照。
 
(1649)
(一)ユキ爾競而
(一)舊訓キホヒテとあるが、細井本の訓キソヒテを可とする。
參照 キソヒ、キホヒ
 
(1650)(1651)
 
(1652)
參照 ズケリ
 
(1653)
 
(1654)
(一)言者可
(一)宣長は言を吉の誤とし、新考は之によつてヨシモカ〔右○〕モナキと改訓したが、略解に從うてコトハカモナキと訓むべきである。コトハカはコトハカリと同じく謀《ハカリゴト》の意である。
參照 コトハカリ
 
(1655)
 
(1656)
(一)飲而後者
(一)舊訓ノミテノノチハとあるが、古義の訓に從ふ
 
(1657)
 
(1658)
(一)幾許香
(一)從來イクバクカと訓して居るが、第二句ミマセ〔右○〕バとある(ミマサ〔右○〕バでない)所を見ると、此は皇后が天皇と御同列で雪を賞せられむとする時の御歌のやうであるから、イクといふ疑問代名詞を用ひるべき場合でない。カを感動詞と見て幾許はココバクと訓むのであらう。ウレシカラマシといふ推量の言葉を用ひられたのはまだ御出座に至らぬ前の御作であつた爲と思はれる。
 
(1659)(1660)(1661)(1662)(1663)(1664)(1665)(1666)(1667)(1668)
 
(1669)
參照 ミナベの浦
 
(1670)(1671)(1672)
 
(1673)
(一)風莫乃
(一)舊訓カザナギとあるが、日の御崎附近のカザハヤを詠じたものと思はれる〔略解〕。
 
(1674)
 
(1675)
(一)所沾香裳
(一)所沾をヌレニケルと讀むことは出來ぬから、何か誤謬があるものとせねばならぬ。
 
(1676)
(一)黄葉常敷
(一)常〔右○〕は落〔右△〕又は散〔右△〕の誤とする説もあるが〔宣長〕、トコシク(床敷)とも解せられるから、尚舊訓に從ふ。
 
(1677)
(一)大我野之
(一)宜長は我〔右△〕の字草を案〔右○〕の誤として、和名抄に紀伊國名草郡大屋郷とある地とした。或は然らむ。
 
(1678)
(一)昔弓雄之(二)響矢用(三)鹿取靡
(一)古義の訓に從ふ。舊訓ユミヲとあるが、古語とは思はれぬ。新考は昔の字を倒置としてサツヲガムカシと改訓したが、ムカシ男などいふ用例によれば、此ムカシが形容語として用ひられたものと思はれる。カナシの妹をカナシ妹といふやうに、ムカシのサツヲをムカシサツヲというたこともあり得る。
(二)舊訓カブラとあるが、響矢にカブラといふ訓はあり得ぬから、略解に從うてナリヤと訓むべきである。ナリヤといふ用例がないから不可なりとする古義の説はあたらぬことで、既にナリカブラといふ語が存する以上、之をナリヤと稱へたこともあり得べきである。
(三)シカトリナベシ〔略解〕、カトリナビケシ〔古義〕といふ訓があるが、鹿はシシ(獣)、靡はナメ(並)の假字と見てシシトリナペシと訓むのであらう。
參照 ナリカブラ
 
(1679)
(一)妻社(二)嬬賜爾毛
(一)舊訓ツマモコソとあるが、契冲説の如くツマノモリと訓むべきである。
(二)爾〔右△〕を南〔右○〕の誤字とする千蔭説可。
參照 ナガラ
 
(1680)(1681)(1682)
 
(1683)
(一)吾刺可
(一)眞淵は「刺」の上に「頭」の字脱としたが、「頭」なくともカザスとよみ得る。
 
(1684)
(一)春山者(二)散過去鞆
(一)春山は春日山の日を脱したのであらうといふ説もある〔新考〕。   ユケドモ〔略解〕、チリスギヌレドモ〔古義〕と八音に訓んで居るが、これは三輪山に於て詠じた作で、春山(春日山)のことを想像したものとして、チリスギヌトモと訓むのであらう。
 
(1685)
(一)玉藻鴨
(一)藍紙萬葉に玉鴨とあるによつて、新訓は二、三句をタマヲカモチリミダシタルと訓したが、藻は助語モの假字であるから玉鴨とかいてもタマモ〔右○〕カモと訓み得る。藍紙には末句に此〔右○〕の字がないといふことであるが、其にしてもチリミダシタルと訓んでは川床の行爲のやうに聞える。
 
(1686)(1687)(1688)
 
(1689)
(一)著而榜尼(二)杏人
(一)尼を海人の假字に用ひたる例がないといふ理由を以て、コガサネと改訓したものもあるが〔宣長〕、アリソに在衣の假字を用ひたのも特例であるから、絶無のことゝはいへぬ。
(二)杏人をカラヒトと訓む所以を詳にせぬ。カラヒトといふ地名も亦聞えぬが、アマに對する語としては縁があるやうである。巨椋池の舊地名であつたかも知れぬ。舊訓のまゝでもよく意は通ずるから、猥に改字改訓せぬ方がよい。
 
(1690)
(一)宿加奈之彌
(一)舊訓による。略解に「宿」の上に「旅」の字を脱したのであらうとある。或は然らむ。
 
(1691)
(一)三更刺而
(一)從來ヨナカヲ〔右○〕サシテと訓み、之を不可解としてヨナカは地名であるといふ説〔守部〕さへ生まれたのであるが、サヨナカサシテと訓めばよく聞える。夕日サス、ウツ日サスの如くも用ひられるから、月光をサスというても少しも差支はない。
 
(1692)(1693)
 
(1694)
(一)細比禮乃(二)吾爾尼保波※[氏/一]〔右△〕
(一)ホソヒレと改訓したは〔拾穗抄〕非。
(二)※[氏/一]〔右△〕を尼〔右○〕の誤としてニホハネと訓した契冲説に從ふべきである。藍紙本にも尼保波尼〔右○〕とあるといふことである〔新訓〕。
參照 タクヒレ
 
(1695)(1696)(1697)
 
(1698)
參照 マツカヒ
 
(1699)
參照 イメヒト、タヰ
 
(1700)
(一)鴈相〔右△〕鴨
(一)相〔右△〕は互〔右○〕の誤としてワタルと訓すべしとする宣長説〔略解〕可。新訓の如くアマクモカケル鴈ヲミルカモと訓してはナベといふ助語のをさまり所がない。
參照 ナベ
 
(1701)(1702)
 
(1703)
(一)時者雖過
(一)過の上に不〔右△〕を補うてスキネドと訓み〔宣長〕、或はスクレドと訓したものもあるが〔雅澄〕、時未だきをスギネドとはいへず、スグレドといふ既定格を用ひるとすれば、第四句カタマツでは時格が一致せぬ。こゝは口語の「過ぎても」といふ意であるから、スグトモと訓まねばならぬ。雖はイヘ〔二字右○〕ドモともイフ〔二字右○〕】トモとも訓み得る字である。
 
(1704)(1705)(1706)(1707)
 
(1708)
(一)春草(二)宿過奈利
(一)春草がウマクヒ山といふ地の枕詞であるとするならば、ハルクサ(又はワカタサ)と四音に訓まねばならぬ。眞淵は「春草ヲ」と訓み、之を序として咋山即ち神名帳に山城國綴喜郡咋岡神社とある地のことゝ解した。
(二)舊訓ヤドリスグナリとあるが、ヤドリをヤドと同義に用ひるのは古語ではないから、ヤドをスグナリ又はヤトスグル〔右○〕ナリと訓すべきである。連體形からナリへつゞけることは少しも違法ではない。
 
(1709)
(一)削〔右△〕遺有
(一)削〔右△〕は消〔右○〕の誤とする眞淵説に從ふ。
參照 ミケムカフ〔枕〕、ハダレ
 
(1710)(1711)(1712)
 
(1713)
參照 ヨブコドリ
 
(1714)(1715)(1716)
 
(1717)
(一)春日(二)三河之(三)衣手湖
(一)春日は春日藏首老のことであらうといはれて居る。
(二)舊訓はミツカハとあり、滋賀の一地名であらうといふ説があるが〔略解〕、新考は山河〔二字右○〕の誤字であらうというた。或は然らむ。
(三)舊訓の如くば湖〔右△〕は誤字とせねばならぬ。西本願寺本附箋に「他本濕」とある。
 
(1718)
(一)高市歌(二)足利思代〔二字右△〕
(一)高市連黒人のことであらう〔古義〕。
(二)思は岡《ヲ》、代は伐《バ》とかいた本もあるから、舊訓の如くヲバの借字であらう。足利は舊訓アシリとあるが、アシトとよみ、アシツの轉呼とすべきである。契冲がアドモヒテと訓したのはアドモヒの語義を明にしなかつた爲で、此場合には決してアドモヒテといふことは出來ぬ。アシト(地名)に足疾をいひかけたればこそ歌のおもしろみがあるのである。
參照 アシト、アト〔地〕
 
(1719)
(一)春日藏
(一)此も藏首老の歌であらう。
 
(1720)(1721)(1722)
 
(1723)
(一)不飽君鴨
(一)新訓は壘聚古集に河〔右△〕とあるによつてカハカモと訓したが、河の譬喩に川楊を用ひたとは考へられぬことである。恐らくは「川柳ノ〔右○〕」のノといふ助語の用法を誤解したのであらう。――語法要録參照。
參照 ムツタ〔地〕、ネモコロ
 
(1724)
(一)見二友敷
(一)新考及新訓にトモシクと改訓したのはトモシキといふ結びの形を不可としたのであらうが、トモシクといへば副詞になり、之によつて支配せられる動詞の存在を必要とすることを知らねばならぬ。少くとも見ルといふ動詞は羨シクといふ語を以て修飾せられるには不適當である。新考に第七卷の「濱のサヤケク」〔一二三九〕を引證したのは筋ちがひである。クか「事」の意であるならばトモシケク〔二字右○〕といはねばならぬ。サヤはサヤカといひ得るが、トモシはトモカと用ひることの出來ぬ語である。
 
(1725)(1726)
 
(1727)
(一)人〔右△〕跡乎(二)妻〔右△〕者不敷
(一)舊訓ヒトトヲミマセとあるが、契冲説のやうにアマトヲミマセであらねばならぬ。
(二)敷〔右△〕は教〔右○〕誤としてノラジと訓した千蔭説可。妻〔右△〕の字類聚古集に妾〔右○〕とある。新考説の如くワガナハノラジと訓むべきである。奮訓のやうにツマニハシカジ、又は略解古義の如くツマトハノラジというては意をなさぬ。
 
(1728)(1729)
 
(1730)
參照ハハソ
 
(1731)
(一)布靡越者
(一)眞淵、千蔭、雅澄等いろ/\に字をあらためてタムケセバと訓したが、尚舊訓を可とする。ハハソ原を踏み越えばの意で、「母の妻を冐せば」といふことにたとへたのである。
 
(1732)
(一)母山
(一)七卷に大葉山霞蒙とある歌と全然同一であるから、母山は上に一字を脱したのでオホハヤマと訓むのであらう〔宜長〕。
 
(1734)
(一)今者將※[手偏+旁]
(一)藍紙本に今香〔右○〕とあるに從ふ〔新訓〕。
 
(1735)
(一)如是鴨跡
(一)古義の訓に從ふ。舊訓カバカリガモとあるが如是をカバカリとは訓み得られぬのみならず、意が通ぜぬ憾がある。
參照 ワガタタミ
 
(1736)
參照 ユフハナ
 
(1737)
(一)傍爲〔右△〕而
(一)宜長説の如く爲〔右△〕は居〔右○〕の誤りであらう。奮訓ソヒテヰテとあり、ソハリヰテとするものもあるが、語法上右の如き言葉づかひは成立し得ぬ。
 
(1738)
(一)水長鳥(二)鎰佐倍奉(三)人乃皆(四)容艶
(一)舊訓シナカトリとあるが、水をシと訓むことは出來ぬから、神田本の訓ミ〔右○〕ナカトリとあるに從はねばならぬ。
(二)舊訓マタシとあるが、こゝは句の切れる所であるからマタスであらねばならぬ(マダスは非)。――マツル、ササグと改訓したものもあるが、其はマタスの語義を解し得なかつたからであらう。
(三)類聚集に「人皆乃」とあるを可とする。
(四)ウツシナヒ〔略解〕、トリヨソヒ〔古義〕とふ訓もあるが、尚疑がある。姑く舊訓による。
參照 ミナカトリ、スガル、サシナミノ〔枕〕、マタス
 
(1739)
(一)夜中母
(一)從來ヨナカニモと訓して居るが、サヨナカモと訓む方がよい。
參照 カナド、タナシラズ
 
(1740)
(一)水江浦島子(二)得乎良布(三)事曾所念(四)水江之(五)鯛釣〓〔右△〕(六)神之女爾(七)相誂比良(八)愚人之(九)家滅八跡(一〇)家者將有登(一一)由奈由奈波(一二)家地見
(一)丹後風土記(釋日本紀所引)によれば筒川(ノ)嶼子とあるから、シマコといふ名の人であつたことは疑はないが〔伴信友〕、ウラシマのコとして古來人口に膾炙し、風土記の歌にもミヅノエノウラシマ〔四字右○〕ノコと假名書してあるから、こゝは舊訓の通り、ウラシマノコと訓む方がよい。
(二)字を改めてトホラフ〔眞淵〕、タユタフ〔大平〕と訓したものもあるが、トヲラヒ(トヲリ)といふ言葉もあり得た筈である〔新考〕。
(三)コトゾ〔右○〕とあるが故に第二終止形で結ばねばならぬと考へ、コトゾオモホユルと八音に訓したのは誤である。コトシ〔右○〕ならばオモホユと結ぶことについて異存はない筈で、シとソとは同意である。――語法要録參照。
(四)舊訓スミノエとあり、上句の墨吉《スミノエ》と同地であることは後の語句によつても明であるが、(一)に引用した風土記の歌にもミヅノエと假名書してあるから、二名があつたものとせねばならぬ。
(五)〓〔右○〕は類聚集には「〓」とある。恐らくは疑の草書「〓」の誤寫であらう。舊訓の如くタヒツリカネテ、又は契冲訓タヒツリホコリとしては心ゆかぬ。タヒツルトカモ〔三字右○〕であらねばならぬ。
(六)神田本にムスメといふ訓があるが、語義上此場合にはムスメといふことが出來ぬ。
(七)此二句舊訓イコギワシラヒ・カタラヒと七、四音に訓み、契冲以下色々の説があるが、※[走+多]は眞淵説に從うてムカヒとし、誂は契冲訓の如くアトラヒとよみ、イコギムカヒ・アヒアトラヒと六、六句に吟詠せられたものと思はれる。
(八)舊訓シレタルとあり、雅澄はカタクナと訓したが、字義に最近い日本語はオロカシである。オロカシはオロカシキと活用する語であるが、カナシ妹、カナシ子のやうにオロカシヒトともいひ得る。
(九)跡〔右△〕は裳〔右○〕の誤とする雅澄設可。
(一〇)古語法によればアラメトとせねばならぬ。
(一一)古義に奈〔右○〕を李〔右△〕の談としてユリユリと訓したのは誤である。ユリユリはユルユルといふことでこゝには適當せぬ。舊訓ユナユナとあるに從ふべきである。
(一二)舊訓ミムとあるは非、略解の訓を可とする。
參照 トヲラフ、ソコラク、シラケ、ユナユナ
 
(1741)
(一)己之心柄
(一)刊本サ〔右△〕ガココロカラとあるが、サ〔右△〕がワ〔右○〕の誤寫なるは古寫本の大部分がワガ〔右○〕と訓して居ることによつても明白である。略解にシガと改めたが、劔太刀といふ枕詞にそぐはぬ。又ナガと訓するのも惡くはないが〔新考〕、こゝは浦島子にいひかけた歌ではないから、やはりワガココロであらねばならぬ。――劔太刀がワの枕詞なることは語誌にのべた通りである。
 
(1742)
參照 シナテル〔枕〕、カタシハ川
 
(1743)
(一)頭爾家有者(二)心悲久
(一)頭をツメ、(二)心悲久をマカナシクとした略解の訓可。
 
(1744)(1745)(1746)
 
(1747)
(一)開乎爲〔右△〕流
(一)童蒙抄に爲〔右△〕は烏〔右○〕の誤としヲヲルと訓した。可從。
 
(1748)
參照 タツタヒコ
 
(1749)
(一)見左右
(一)舊訓ミネドマテとあるが意が通ぜぬ。先學は語句を補うて解讀して居るが、「左右」はマの假字で、送り假字に用ひられたのである。其故に壘聚集、神田本等には此二字がない。此字の有無にかかはらず、此句はミマサネドと訓すべきであらう。花の盛は御覽にならぬけれども、行幸に今が然るべき時であるといふ意で、供奉の一員の詠である。
 
(1750)
 
(1751)
(一)落墮(二)山下之
(一)オチテナガル、タギチテナガルと訓したものもあるが、第二終止法を用ひたものと見てオチテナガルルと訓むべきであらう。
(二)舊訓ヤマオロシとあるが、古語にあらずとして雅澄はアラシノと四音に改訓した。或は然らむ。
 
(1752)
(一)坂上〔右△〕之(二)開乎爲〔右△〕流
(一)神田本、類聚集等に上〔右△〕の字なきを可とする。
(二)烏〔右○〕を爲〔右△〕とかいた例は他にもある。誤寫と見るべきであらう。
 
(1753)
(一)君來座登(二)熱爾(三)可伎奈氣(四)木根取(五)言借之(六)委曲爾
(一)キミ來マセリ又は來マシヌと改訓したものがあるが、五句を隔だてた「君ニ見スレバ」と同時格であらねばならぬから、舊訓を優れりとする。
(二)舊訓アツケキ〔右△〕ニとあるを非として雅澄はアツケク〔右○〕ニであらねばならぬというたが、クといふ助語は必要がない。恐らくは次の六音句との均衡上、アツキニと四音に訓むのであらう。此歌四六調が多く用ひられて居ることに注意せねばならぬ。
(三)氣はキの假字に用ひられたので、――其例は他にもある必ずケと訓まねばならぬとするは速斷である――カキナキは掻薙である。從て「木」の字は次の句に屬するものとして
(四)木の根トリと訓すべきである。
(五)舊訓コトトヒシとあるが、契冲訓イフカリシを可とする。
(六)マクハシニ〔舊訓〕、ツバラニ〔眞淵〕、ツバラカニ〔千蔭〕などいふ訓があるが、マ〔右○〕ツバラニと訓むべきである。マを接頭しおのは頭韻を履む爲で、吟誦にはかくあらねばならぬ。
參照 ウソブキ、チハヒ、イブカリシ、マホラ、マツバラ
 
(1754)
(一)何如將及
(一)舊訓イカガオヨバムとあるが、「新考」の訓を可とする。
 
(1755)
(一)住度鳥〔右△〕
(一)鳥〔右△〕は鳴〔右○〕の誤字とする古義の説可從。
參照 ヒネモス、マヒ
 
(1756)
 
(1757)
(一)事毛有武跡
(一)武を誤字としてアレヤ〔古義〕又はアリヤ〔新考〕と訓すべしといふものもある。漫然アラムといふ未來路を用ひることは不可能ではないとしても、此場合には心行かぬ氣がせられるが、アレヤ(希望)とアリヤ(疑問)とは全然意を異にするから、いづれを正しとするかは作者にきかねばわからぬ。或はアラメ(推定)ではなかつたかとも思はれるが、原字を尊重して姑くアラムと訓して置く。
參照 シヅクのタヰ、タヰ
 
(1758)
 
(1759)
(一)裳羽服津(二)率而(三)吾毛交牟
(一)假に舊訓による。筑波の山に津〔右○〕があるべき筈はないから、澤〔右○〕の誤であらうといふ説〔新考〕は一應尤ではあるが、ツは本來チ(道、市)と同語から分化した語であるから、常陸の方言では市をツというたことも有り得る。猥に改竄すべきではない。
(二)雅澄がアドモヒテと改訓したのはさかしらである。アドモヒは引率であるが、こゝは誘ひ合はせたことをいふのである。
(三)舊訓カヨハムとあるを不可とし、マジラム〔信名〕、マキナム〔眞淵〕アハム〔雅澄〕などと改訓したのもあるが、カヨフは來往のみを意味するのではなく、原義は寧ろ「娉《ヨバフ》」であるから、カヨハムとあつて極めて然るべきである。
參照 モハキツ、アドモヒ、カガヒ、カヨフ、ウシハク、イサメ、メグシ
 
(1760)
(一)男神爾
(一)山名であるから、ヲカミニと四音に詠じたのであらう。
 
(1761)
(一)秋芽子之
(一)此句は舊訓の通りでは意が通ぜぬ。アケマク惜シミしたものは鹿であらねばならぬが、之を畧することは出來ぬ筈であるから、秋芽子之はサヲシカノとあるべきを誤り傳へたのであらう。
 
(1762)(1763)
 
(1764)
(一)風不吹(二)雨不落
(一)宣長は或人の説として二つの不〔右○〕は者〔右△〕の誤としたが〔畧解〕、こゝは雨が降つても風が吹いてもといふことを四句にいひのべたのであるから、畧解のやうに訓しては却りて両白味を失ふ。もとの儘で然るべきである。
 
(1765)
 
(1766)
參照 クシロ、ヒダリ
 
(1767)
參照 イツガリ
 
(1768)(1769)(1770)(1771)(1772)
 
(1773)
參照 カミヨリイタ
 
(1774)
(一)言爾有者
(一)新考は「有者」を「不〔右○〕有者」の誤、此句の次にアラタマノといふ一句脱として旋頭歌によみかへた。面白い説ではあるが、其は解讀ではなく添削である。當時の事情は判明せぬが、、コトニアレ〔右○〕バとしても、意はよく通ずる。「母人の言なれば之を恃として年を過さむかな」といふ意で、ヤは感動詞として添付せられたのであらう。
參照 タラチネ〔枕〕
 
(1775)
 
(1776)
參照 タユラキ
 
(1777)
 
(1778)
(一)名欲山
(一)古義に此娘子を前の歌と同じく播磨の人として名欲は名〔右△〕次(攝津の山)の誤としたのは稍々曲解の嫌がある。契冲、千蔭の説の如く豐前國|直入《ナホリ》郡の山とすべきであらう。
 
(1779)
(一)麻勢久可願(二)復亦毛來武
(一)第二句は古來種々の訓があるが、初句のシを無意義の助辭としたが故に解きわづらうたので、之を命《イノチ》ヲゾの意とすれば第二句はマセクトイノレの外は訓みやうがない。――語法要録參照。――マセ〔右○〕クはマタ〔右○〕ク(全)の音便で誤寫ではない。
(二)亦毛〔二字右△〕の二字を變〔右○〕の誤字とする雅澄説可。
 
(1780)
(一)牝〔右△〕牛乃(二)三宅之酒爾(三)反側
(一)舊訓によれば牝〔右△〕牛は牡〔右○〕牛の誤とせねばならぬが、――元暦校本、神田本等には牡〔右○〕とある――コトヒウシとよむことについても疑がある。和名抄には特牛をコトヒと訓し、集中十六卷に事負《コトヒ》乃〔右○〕牛とある。古の發音法によればコトヒノウシといふか、然らざればコトヒシとあるべきで、コトヒウシとはいひ得なかつた筈である。其故に初句はコトヒノと四音に訓むのではあるまいか。姑く疑を存する。
(二)酒の字は浦《ウラ》〔契冲〕、滷《カタ》〔眞淵〕、※[さんずい+内]《ウラ》〔雅澄〕などの誤字とする説があるが、他に證據のない限り原字を尊重するのが學者の義務ではあるまいか。酒はサカと訓み得る字で、坂に通ずる。
(三)奈〔右△〕は並〔右○〕の誤字又は美〔右○〕の字脱としてナミヰテと訓めといふ説〔略解、古義〕可。
參照 コトヒウシ、アドモヒ
 
(1781)
(一)海津路乃
(一)ウミツチは口調がわるいから、吟誦にはウメツチというたのかも知れぬ。崇神紀「東海」にもウメツミチといふ訓が施してある。
 
(1782)
 
(1783)
(一)四臂而有八羽〔右△〕(二)中上〔右△〕不來
(一)シヒ(誣)は名詞として用ひられたのであるから、助語ニを補うてシヒニ〔右○〕テと訓む方がよい。十七卷にも之比爾底〔二字右○〕》安禮可母と假字書した例がある〔四〇一四〕。男から「心さへ消うせたれや」といひ越したのを誣妾の甚しきものとしたので、字の如くヤハと訓んでは反語となるから、古義の説の如く羽〔右△〕を誤字としてシヒニテアレヤモと訓むべきである。
(二)上〔右△〕は止〔右○〕の誤としてタエテと訓すべしとする木村正辭説に從ふ。
(三)呂〔右△〕は弖〔右○〕の誤りで、マテトイフヤコと訓むのであらう。コは夫子《セコ》、汝《ナ》せの子《コ》のコで、こゝでは夫を意味するのである。「中絶して置いて待てといひ給ふか」といふことである。――此句從來解讀し得たものがなかつた。
參照 マツカヘリ
 
(1784)
 
(1785)
參照 ワクラバ
 
(1786)
 
(1787)
(一)明毛不得呼〔右▲〕
(一)舊訓アカシモエヌヲとあり、或は呼〔右▲〕を啼〔右△〕の誤としてカネテと訓し〔眞淵〕、呼の下に鷄〔右△〕の字を加へてアケモカネツツと訓するものもあるが、テ又はツツは蛇足である。呼〔右△〕を衍としてカテズと訓すべきで次の句イモネズニとあるに對應するものである。
參照 タタカ
 
(1788)(1789)
 
(1790)
(一)一子二子(二)眞好去〔右△〕有欲得
(一)一子二子は誤寫であらねばならぬ。カゴジモノが「獨」の枕詞に用ひられる所を見ても一子を正しとするが、ヒトツコと讀んでもヒトリコ〔古義〕としても次句のヒトリコと重なつて聞苦しいから、コヒトツと吟し、子一子とかいたのを、後人が一〔右△〕子二〔右△〕子と改記したのであらう。――こゝは四、六調であるから、コヒトツと四音によまねばならぬ。ヲの添へるのは蛇足である。
(二)宣長訓マサキクアリコソ〔畧解〕を可とする。去〔右△〕の字は註記から推するも衍字であらう。
(三)上の奴〔右△〕の字は好〔右○〕の誤り、又「古本」の次に无(又は無)の字を脱したのであらう。
參照 カコジモノ
 
(1791)
 
(1792)
(一)辭締不延(二)目爾不視者(三)安虚〔右△〕歟毛
(一)コトノヲハヘズ〔契冲〕、コトヲノバヘズ〔眞淵〕、コトヲシタハヘ〔新考〕、コトノヲシタハヘ〔新訓〕等の訓があるが、舊訓が最も穩當である。ハヘとノベとは義は同じいけれども自他が相違する。こはコトノ緒〔右○〕とあるから他動詞を用ひることを可とする。
(二)舊訓ミズバとあるが、千蔭がミネバと改めたのは卓見である。上の句にもスグレバ、ユケバの如き已然格が用ひられて居るのであるから、此場合のみ假定條件とすべき理由がない。
(三)虚〔右△〕を不在〔二字右○〕の誤としてヤスカラヌと訓した雅澄説可。舊訓の如きヤスキソラといふ語は成立せぬ。
參照 タマクシロ〔枕〕、クシロ、シタビ山
 
(1793)
 
(1794)
參照 サネ
 
(1795)
參照 イマキの嶺
 
(1796)
(一)遊礒麻
(一)雅澄がイソヲと改訓したのは大なる誤りである。イソマ(磯間)を音便によつてイソミといふことはあるが、原語のイソマを用ひてはならぬといふ理由はない。畢竟語の原義を詳にしようとせぬから、此やうな憶斷が生まれるのである。――語誌ウラマの項下參照。
 
(1797)
 
(1798)
(一)古家丹
(一)舊訓フルイヘニとあるが、拾穗集に從つてイニシヘニと訓すべ
 
(1799)
(一)礒之裏未(二)眞名二(三)妹觸險
(一)末〔右○〕を未〔右△〕と改め、ウラミと訓する事の誤たるは上記の通りである。
(二)舊訓の如くば「名」の字の下にコにあたる字を脱したものとせねばならぬ。
(三)舊訓妹モフレケムとあり、妹が〔右△〕〔畧解、古義〕、妹ノ〔右△〕〔新考〕と訓したものもあるが、「妹ぞ〔右○〕觸れたらむ」といふ意であるから、イモシであらねばならぬ。フレは上古四段活に用ひられたやうであるから、畧解の如くフリと訓む方がよい。
參照 ウラマ、〔九三二〕
 
(1800)
(一)苦侍〔二字右△〕伐爾(二)和靈乃(三)服寒等丹(四)此間偃有
(一)元暦校本及神田本には苦伎爾とあり、從來クルシキニと訓んで誰も異としなかつたやうであるが、苦痛を忍んでといふ意とすれば甚拙い修辭であるといはねばならぬ。今も昔もクルシキニ仕へ奉りてといふ語づかひはあり得ぬ。案ずるに侍〔右△〕は元暦校本の如く之なきを可とし、苦伎〔二字右△〕は且夜〔二字右○〕の誤寫で、アサヨヒと訓むのであらう。今の語でいへば「畫夜」の意と思はれる。
(二)眞淵は靈〔右○〕を細布〔二字右△〕の二字の誤寫としてニギタヘと訓した。死人がニギタヘの衣を着て居たことも絶無とはいへず、ニギタヘを衣の枕詞に用ひたものとも解せられぬことはないが、少くともニギタヘのコロモとつゞけた例はない。否、和細布の衣を着る程の人が行倒れになって棄て置かれたとは考へられぬことで、枕詞としては次句ヌバタマノ髪ハミダレテに對して倫を失する。加之細布の如きありふれ にもせよ、靈と誤寫せられ、一千年の間何人も之に氣づかなかつたといふことも常識を超越した推定である。案ずるに此の句の次に若干の脱落があるので、試にいへば「守リマサネカ、白タヘノ」といふやうな意味が詠まれて居たのであらう。脱句は本集中他にも例のあることである。
(三)舊訓コロモノ〔右△〕ムラとあるが、コロモサ〔右○〕ムラの語寫なることはいふまでもない。
(四)從來コヤセ〔右○〕ルと訓して居るが、コヤスは他動詞であるから、ここはコヤレルと訓む方がよい。
參照 ススミ、コヤシ、コヤリ
 
(1801)
(一)惑〔右△〕人者(二)古思者
(一)惑〔右△〕の字元暦校本に或〔右○〕とあるに從ふ。
(二)者〔右○〕を爾〔右△〕の誤寫とする新考説は非、見レバ悲シモ、思ヘバ悲シモといふべきを次の「悲シモ」を省いて餘情を殘したのである。
參照キソヒ、オクツキ
 
(1802)
(一)丁子
(一)ウナヒヲトメニに対する語であるからヲトコとあるべきであるが丁子にはヲト(壯又は少)といふ意はなく、本歌にも益荒丁子をマスラヲノコと訓して居るから、姑く舊訓に從ふ。
 
(1803)
 
(1804)
(一)凄別〔右△〕焉
(一)別〔右△〕を我〔右○〕の誤とする雅澄説可〔古義〕、但し訓は新考lこ従うてカナシムワレゾとすべきである。
參照 ハシムカフ〔枕〕、ムタ、アヂサハフ
 
(1805)(1806)
 
(1807)
(一)青衿著(二)幾時毛
(一)舊訓アヲフスマキテとあり、アヲクビ〔契冲〕、アヲエリ〔信名〕、などいふ訓もあるが、衿はヒモ〔二字右○〕と訓むべきよしは拙著日本古俗誌一三〇頁に論じた通りである。
(二)時〔右△〕を誤字としてイクバクと訓した契冲説可。
參照 ヒモ、ヒタサヲ、ユキカクレ、タナシリ
 
(1808)
 
(1809)
(一)廬八燎(二)須酒師競(三)爲家類時〔右△〕者(四)冬※[草がんむり/叙]蕷都良
(一)廬八は舊訓フセヤとあるが、フセヤを燎《タ》く筈もなし、廬一字をフセとは訓み得られぬから、蘆火〔二字右○〕の誤とする大井景元説を可とする〔古義〕。
(二)師は味の誤でススミと訓むのであらうといふ説もあるが、尚ソソリの轉呼ススシといふ語もあり得た筈である。競はキソヒと訓む方がよい。荒競をアラソヒ〔二字右○〕にあてた例もある。
(三)者〔右○〕は煮〔右△〕の誤とする説もあるが〔畧解〕、こゝはノ〔右○〕であらねばならぬ。上句「見てしかといふせむ時之〔右○〕(舊訓イフセキトキシ〔右○〕とあるは誤)かきほなす人のとふ時」とあるのと同位格を示すもので.其用例は極めて多い(語法要録及「日本言語學参照」)。
(四)舊訓訓サネカヅラとあるが、※[草がんむり/叙]蕷は薯蕷に通ずるから、古義の説の如くトコロヅラであらう。
參照 ヲハナリ、ウツユフ〔枕〕、イフセム、ススシキソヒ、ヤキタチ、シヅタマキ〔枕〕、シシクシロ〔枕〕、モコロヲ、カキハキ、トコロツラ、ツカサ
 
(1810)(1811)
 
     【卷第十】
 
(1812)
 
(1813)
(一)名積米八方
(−)雅澄は米〔右○〕は來〔右△〕の誤であらうというたが、米をコメの假字に用ひたのは至當である。
 
(1814)
(一)杉枝
(一)新考には枝〔右△〕は村〔右○〕の誤でスギムラではないかとある。或は然らむ。
 
(1815)(1816)
 
(1817)
(一)云子鹿丹
(一)丹の字元暦校本に之なきを可とする。此句從來解讀し得たものがなく、誤寫と豫斷して、文字を改めて訓を施して居るが、イヒコシシとしてよく意は通ずる。上三句は朝ツマのツマ(夫)にかゝるのである。
 
(1818)
(一)開〔右△〕之宜
(一)開〔右△〕の字は元暦校本其他の古寫本に闕の草書らしい字があるから、童蒙抄の説のやうにカケと訓むべきであらう。
 
(1819)
 
(1820)
(一)家居者
(一)イヘヲレバとも訓み得るが、イヘヲルといふ語が用ひられたとも思はれぬから、イヘヰセバと訓む方がよい。〔一八四二〕にも家居爲流と用ひた例がある。
 
(1821)
(一)流共爾
(一)舊訓ナガルルトモニとあるのが誤なることはいふまでもないが、千蔭がナガルルナベと訓み改め、雅澄以下之に從うたのは不可解である。「共」にはナベといふ訓も意もない。契冲に從うてムタと訓むべきである。
參照 ムタ、ナベ
 
(1822)
參照 コセ〔地〕
 
(1823)
(一)時不終鳴
(一)舊訓トキヲヘズとある。新考に之を非として終〔右○〕を定〔右△〕の誤としトキワカズと訓したが、原字のまゝで時ヤマズと讀むべきであらう。
參照 カホトリ
 
(1824)(1825)
 
(1826)
(一)春之〔右△〕去者
(一)舊訓にも春サレバとある所を見ると、之〔右▲〕は衍字であらう。之を省いた本もある。
參照 ハルサリ、モトナ
 
(1827)(1828)
 
(1829)
(一)家居之
(一)舊訓による。契冲は「之」字の下に「※[氏/一]」の字脱とした。イヘヰセバ〔童蒙抄〕、イヘヲレバ〔考〕、イヘヲラシ〔古義〕などと訓したものがあるが、舊訓に優れりともおもはれぬ。――イヘヲルといふ語に疑のあることは〔一八二〇〕に述べた。
 
(1830)
(一)小竹之米〔右△〕丹
(一)米〔右△〕の字元暦校本等に末〔右○〕とあるを可とする。
 
(1831)
(1832)
參照 シカスガ、キラヒ
 
(1833)
 
(1834)
(一)零重管
(一)古義はシキリツツと改訓したが、シクをシキリと活用するやうになつたのは後世のことである。――シキニツツはフケニツツなどゝ同一語法である。
 
(1835)(1836)(1837)(1838)
 
(1839)
參照 ヱグ
 
(1840)(1841)
 
(1842)
(一)家居爲流君
(一)舊訓イヘヰセルキミとあり、雅澄は「流」の字を衍としてイヘヲラスキミと訓したが、家居を一つの熟語と見てイヘヰスルと訓むべきである。
參照 カタツキ
 
(1843)
 
(1844)
(一)暖來良思
(一)薔訓による。雅澄は持統天皇御製の春過而夏|來良之《キタルラシ》を例に引いてキタルラシと改訓したが、其御製は四句が「衣乾シタリ〔二字右○〕」とあるに反し、此歌は「霞タナビク」といふ現在格で結んであることに注意しなかつたのは不念千萬である。之に從ふものゝ多いのは新奇を好む群衆心理の作用であらう。
 
(1845)
(一)春成良思
(一)眞淵が成〔右○〕を來〔右△〕の誤としてキタルラシと訓したのは改惡である。理由上に同じい。
 
(1846)
(一)見〔右○〕人之(二)目生來鴨
(一)ミルヒトは然るべからすとして眞淵は見〔右△〕を良〔右○〕の誤とし、雅澄は見〔右△〕の下に八〔右○〕の字を補うてミヤヒトと訓した。姑く眞淵に從ふ。
(二)舊訓モエニケルカモとあるが、字について訓めばメハエケルカモであらねばならぬ。モエ(萠)とメハエ(芽生)とは畧々同義であるがメハエの約モエなりとする雅澄説は從はれぬ。
 
(1847)(1848)
 
(1849)
(一)水飯〔右△〕合(二)川之副〔右△〕者
(一)眞淵は飯〔右△〕を激〔右○〕の誤として水ギラフと訓したが、或は霧〔右○〕の誤ではあるまいか。
(二)副〔右△〕は楊〔右○〕の誤とする古義の説可。
 
(1850)
 
(1851)
(一)絲之細紗
(一)舊訓ホソサヲとあるが、姑く古義の説に從うてクハシサと訓して置く。
 
(1852)
(一)※[草冠/縵]有
(一)舊訓カツラケルとあり、十九卷には可都良久麻泥爾〔四一七五〕、可豆良久波〔四二九八〕の如く假字書した用例も見えるが、カヅラの語幹ツラはクを添へて活用し得る語ではないから、正しい古語とはいへぬ。四垂柳之※[草冠/縵]爲〔右△〕吾妹〔一九二四〕とある例に從うてカツラセルと訓むべきである。
 
(1853)
 
(1854)
參照 カタマケ
 
(1855)
 
(1856)
(一)我刺
(一)舊訓カザスとあり、契冲サセルと訓したが、新考説の如くサシシと過去格を以て訓むべきである。
 
(1857)
(一)毎年(二)世人君〔右△〕羊蹄
(一)十九卷家持自註に毎年謂2之等之乃波1とあるによつて此「毎年」をもトシノハと訓み、トシノハと毎年とは同義なりとするものもあるが、語義上肯定せられぬことで、一八卷にも年能波其登爾〔四一二五〕と用ひた例のある所を見ると、毎年をトシノハと訓するはイヤトシノハ〔一八八一〕の略とせねばならぬ。こゝはトシノハよりもトシゴトの方がよい。
(二)君〔右△〕は吾〔右○〕の誤とする契冲説可。――君としては挽歌になる。
 
(1858)
 
(1859)
(一)馬並而
(一)馬〔右△〕は忍〔右○〕の誤とする宣長説に從ふ。
 
(1860)(1861)(1862)
 
(1863)
(一)久木今開
(一)ヒサキは夏日花咲くものであるから、春の歌に入れることは穩でない。其故に久木〔二字右○〕を誤としてフユキ、サクラ、ウメ、アシビ、ワカキなどと訓したものもあるが、「徒に土にや墮ちむ」とある所を見ると、長莢に結實するヒサキとするが適はしい。姑く舊訓に從ふ。
參照 ヒサキ
 
(1864)
 
(1865)
(一)最木末之
(一)舊訓ヒサキノスヱとあるが、ヒサキの花は春さくものにあらざること上述の通である。眞淵がトホキコヌレと訓したのは八卷に用例があるからであらうが、最にトホキといふ訓はない。最はホテともいひ、ハツ、ハテと通ずるから、こゝではハテノコヌレと訓むのであらう。
 
(1866)
 
(1867)
(一)阿保山之(二)佐宿木花者
(一)阿保山といふ地の存否を明にせぬ。――地名辭書には佐保の不退寺の岡陵を之に擬して居るが推測に過ぎぬ。――其故に阿〔右○〕は佐〔右△〕の誤なりとする説〔考〕もあるが、阿保山といふ地名が絶無であるといふ證據もなし、佐保山であらねばならぬ理由もないから、輕々しく改竄することは出來ぬ。
(二)佐宿木は舊訓サネキとあるが、意味をなさぬから、サクラの假字を寫し誤つたものとして、色々な字が推定せられて居るが、いづれも根據が乏しい。或はサヌキとよみ地名又は狹野處《サヌキ》の意であるかも知れぬ。尚攻究を要する。
 
(1868)
(一)置末勿勤
(一)舊訓オクニマモナキとあるが、意が通ぜぬ。古義は末〔右○〕を土〔右△〕の誤としてツチニオクナと改訓したけれども、字の通りオキスヱナユメと訓むのであらう。――馬醉木の花を土産《ツト》に持つて來て遠方から將來したのであるから、下にも置くなというたものと思はれる。
 
(1869)
 
(1870)
(一)未見爾
(一)舊訓ミナクニとあり、諸家今之に從うて居るが、平安朝以降の歌ならばいざ知らず、ミヌの同義語としてミナクを用ひたことは古歌にはあり得ぬ。ことに次句にチラマクといふ語があつて甚聞くるしい。イマダモミヌニと讀むべきである。――語法要録助語クの項下參照。
 
(1871)
(一)櫻〔右△〕花
(一)櫻〔右△〕は類聚古集の外諸本に梅〔右○〕とあるを可とする。冬の中から咲く花なるが故に、春サレバ散ラマク惜シキというたので、サクラとしては初句が氣意義になる。此はまだ散らぬ前に詠じた歌なることは勿論であるが、其故を以て初句を春サラバと訓む〔新考〕のは誤りである。春サレバといへば散ることの現實の理由となるが、春サラバとすると假定理由になるから、惜シキをも惜シカラムといはねばならぬ。散ラマク(散らむこと)と呼應するといふ論は聊か筋違ひで、チラマクは口語に直せばチルコトである。
 
(1872)(1873)(1874)
 
(1875)
(一)紀之許能〔右▲〕暮之(二)木陰多
(一)舊訓キノコノクレノとあるは不可解で、他に之を解讀し得たものはない。考及古義は全然此句を排斥し、新考は紀之の二字を衍字、次の之を多〔右△〕の誤としてコノクレオホミと訓したが、六字中三字をかへることが許されるならば、大抵の歌は好きなやうにかへて讀むことが出來るであらう。案ずるに衍字は「能」一字で、字についてキノモトクラシ(木許暗)と訓むのであらう。
(二)舊訓コガクレオホキとあるが、夕月夜の修飾語としては不適當である。新考にキノカゲオホミ〔右○〕としたのは稍々優つて居るが、尚本歌の如くキノカゲオホシと句を切るべきである。
 
(1876)
(一)朝霞
(一)初句を從來アサカスミ〔右○〕とよみ難解としたのは無念である。朝霞ムと動詞に活用したもので實景を叙したのである。朝霞が立つやうな日の夕は曇りがちなものであるから、「木の間よりうつらふ月をいつとか待たむ」というたのであらう。――朝霞を枕詞と誤解して「霞立」と改めたるが如きは論ずるに足らぬ。
 
(1877)(1878)
 
(1879)
參照 ウハギ
 
(1880)
(一)遊今日
(一)古義の訓に從ふ。
 
(1881)
 
(1882)
(一)述跡(二)不脱〔右△〕毛
(一)舊訓の如くは述〔右△〕は遣〔右○〕の誤字(二)、脱〔右△〕は晩〔右○〕の誤字であらねばならぬ。
 
(1883)(1884)
 
(1885)
(一)舊之
(一)舊之の二字をフリヌルノミゾとに訓み得ぬから、誤脱があつたものとせねばならぬ。
 
(1886)
(一)里得〔右△〕之(一)益希見
(一)得〔右△〕は行〔右○〕の誤とする契冲説に從ふ。
(二)舊訓メヅラシミとあるが、メヅラシキ君とつづかねばならぬ。希見の二字をメヅラシの假字に充てたものであらう。
 
(1887)
 
(1888)
(一)※[(貝+貝)/鳥]鳴烏
(一)雅澄は常〔右○〕を落〔右△〕の誤としてフリシクと訓したが、原文原訓のまゝでも意は通ずる。
(二)烏は焉〔右○〕とした本もある。
 
(1889)
(一)毛桃之下爾
(一)下を花〔右○〕の誤とし〔新考〕、或は(二)吉〔右○〕を無〔右△〕又は苦の誤としてシヅココロナシ〔考〕、シタナヤマシモ〔略解〕と訓たものもあるが、其はウタテを「憂」の意と解するからで、ウタテには二義があつて、こゝのはウタタ(轉)の意であるから、原文原訓の通りで十分に歌意をなすのである。
參照 ケモモ、シクヨ
 
(1890)
(一)犬?(二)思御吾
(一)舊訓イヌルウグヒスとあるが、去ヌは此當時に四段括用であつたのみならず、此句は譬喩に用ひられたのであるから、必ウグヒスノ〔右○〕といはねばならぬ。類聚古集には友〔右△〕鶯とあるが、トモウグヒスノと訓しては聊か意味が曖昧である。
(二)代匠記の訓による。
 
(1891)(1892)
 
(1893)
(一)開在花
(一)略解に在花〔二字右○〕を毛桃〔二字右△〕の誤としたが、七卷に「毛桃本繁く花のみさきて成らざらめやも」、十一卷に「毛桃本しげくいひてしものを成らずばやまじ」と詠じた例があるからというて、「本繁」「成る」といふ語を「毛桃」の外には用ひてはならねといふ理由はない。此歌は咲キタルといふ修飾語があるから、花〔右△〕を毛桃〔二字右△〕(又は桃)にかへる事は出來ぬ。花はなるものでないといふ論も一理はあるが、花の「實に」なるといふ語を省略したものといひ得られる。次の〔一九〇二〕にも「咲花〔右○〕のかくナル〔二字右○〕までに」と用ひた例があるのである。
 
(1894)
(一)妹相鴨
(一)下二句舊訓ヨノフケユケバ〔二字傍点〕、イモニアヘルカモとある。眞淵はユケバ〔二字傍点〕を不可とし、フケユキテ〔二字傍点〕と改め、後の學者多くは之に從うて居るが、「相」一字をアヘ〔傍点〕ルと訓む例は絶無でないとしても無理であるから、宣長説の如くアハヌカモ(希望)と訓むを可とする〔玉勝間一三卷〕。但し第四句をヨノフケユクヲとするからぬ無理に聞えるので、――ユクヲといへば反對の歸結を導くのが普通である――ヨルハフケユクと訓み、句を切るべきである。語法上疑のないことであるから、敢て訓をあらためた。
 
(1895)
 
(1896)
(一)爲垂柳
(一)雅澄がシダル〔右○〕ヤナギと改訓したのは非。シダリヤナギは複合名詞である。
 
(1897)(1898)(1899)(1900)
 
(1901)
(一)蔓葛(一)久雲在
(一)三句をハフカヅラと改訓した〔新考、新訓〕のは理由のないことで、藤波の花を女に、其下を延ふ葛《クズ》を自分にたとへたのであるから、必ずノ〔右○〕といふ助語をそへて訓むべきである。葛を藤の代名詞なりとする説は未だ歌の趣か解せざるものといはねばならぬ。
(二)宣長はは久〔右○〕を乏〔右△〕の誤としてトモシクモアラムと訓したが、原字の方が意が明である。但し舊訓の如くヒサシクモアリとしては餘韻がないから、感動詞カを添へてアルカと訓むべきであらう。
參照 フヂナミ、クズ、カヅラ
 
(1902)(1903)
 
(1904)
(一)花爾供養者
(一)略解に花〔右○〕を神〔右△〕の誤としてカミニタムケバと訓み、新考は花〔右○〕は佛〔右△〕の誤寫で供養といふ文字によるもブツニソナヘバであらねばならぬとした。後説頗る理に合うて居るが、尚原文を改訂するには聊か根據が薄弱であるから、姑く舊訓を掲げて置くことにした。
 
(1905)(1906)
 
(1907)
(一)如是有者
(一)初句を何カウヱケムの前提とすれば時格が相違するが、之をカクシアレバ〔略解〕、コトナラバ〔古義〕、カクナルニ〔新考〕の如く改訓しても、末句の戀ラク念ヘバと前提が重複する。案ずるに此句は第四句の止ム時モナクにかゝるので、「此んな状態なら止む時もなく戀ふであらう。其事を思へば何故に植ゑたのであらう」といふ意と解すべきである。
 
(1908)(1909)
 
(1910)
(一)本之無家波
(一)新考に末句を戀〔右△〕之繁家玖〔右△〕の誤としたのは大僻事である。モトは源の意で、コヒ(水)の縁語。繁ケバは繁ケレバの古語である。
 
(1911)
參照 サニヅラフ
 
(1912)
(一)靈寸春(二)雖立雖居
(一)タマキハルをワカ(アガ)の枕詞に用ひた例はなく、語義からいうても「吾」とはつづかぬ。されば吾〔右△〕は内又は氏の誤字で宇治山とのことであらう。確證がないが、吾山(若くは宣長説の如く春山)とするはいかにも無理であるから、潜越ながら改訓した。――新考に愛〔右△〕寸吉〔右△〕吾家と改作したのは理由のないことである。
(二)崇神紀に急居此云2菟岐于1とあるによつて雖居をウトモと訓するものがあるが.ヰがヱともウとも活用せられ、ヲ〔右○〕ルといふ動詞を派成したことは事實であるとしても、ミトモ〔三字右○〕アカメヤ〔九二一〕などいふ例に從うてヰトモと訓する方がよい。少くともワ行のウが既に獨立を失うて居た飛鳥奈良朝に「得トモ」とまぎれ易い語をわざ/\選んで用ひたとは考へられぬことである。
參照 タマキハル
 
(1913)(1914)
 
(1915)
(一)吾背子爾
(一)略解に背〔右△〕を妹〔右○〕の誤とL、男の歌と解したのは尤であるが、改訓するには證據が薄弱である。
 
(1916)
(一)君者伊不徃
(一)舊訓による。第三者の歌とすれば意は通ずるが、伊不往なイユクナと訓むことは無理であるから、宣長説のやうに君〔右△〕は吾〔右○〕の誤で、ワレハイユカジとあつたのかも知れぬ。但し前の款と同一人の同じ機會の作とするのは穿ち過ぎである。君はイユカジと訓しては純未來格となつて末句の知ラザラナク〔二字右○〕ニと呼應せぬ。
 
(1917)(1918)
 
(1919)
參照 シバの野
 
(1920)
(一)方徃浪之
(一)眞淵は往〔右△〕を依〔右○〕の誤としてヘニヨルと訓した或は然らむ。大海はワダツミと訓むを可とする由は既に度々邊べた。――〔三六九〕参照。
 
(1921)
(一)不明(二)孤戀渡鴨
(一)舊訓ホノカニモとあるが、略解の訓を可とする。
 
(1922)(1923)
 
(1924)
(一)※[草冠/縵]爲吾妹
(一)カヅラケ〔古義〕、カヅラゾ〔新考〕と改訓したのは理由のないことで、カヅラヲセヨ〔右○〕といふ意である。
參照 〔一八五二〕
 
(1925)
 
(1926)
(一)所因友
(一)從來ヨセヌと訓してゐるが、佐々木氏新訓にヨソルとしたのに從ふべきである。ヨソルは「ヨソリ妻」などとも用ひられ、女の方が男に身を寄せることをいふのである。
參照 アシビ、ヨソリツマ
 
(1927)
(一)神備而
(一)元暦校本には神備西〔右△〕とあるが、而〔右○〕を可とする。カムサビテはこゝでは「人間ばなれがして」といふほどの意、年老いて後更に戀にあひにけるよといふことである。上二句は序。
 
(1928)
(一)秋野方波(二)實爾雖不成
(一)童蒙抄に方〔右○〕を万〔右△〕の誤としてサヌハリと訓したのは誤である。サヌカ田はサヌ田と同義で、種田の意である。さればこそ結句にナグサといふ語を用ひたのである。
(二)元暦校本に爾の字がない。其有無に拘はらず、舊訓のやうにミニナラズトモと訓むべきである。ミハ〔右○〕ナラズトモ花ノミニ〔右○〕としたのは〔新訓〕奇を好むもので、ミハ〔右○〕に對立する句としてハナ(ノミ)ニ〔右○〕といふ語を用ひるの甚拙い修辭であるといはねばならぬ。
參照 サヌカタ
 
(1929)(1930)
 
(1931)
參照 〔四五一〕
 
(1932)
(一)不止零零(二)不令相見
(一)舊訓による。契冲はフリフルと改めたが、「いらごの島に玉藻かるかる」をカリカルと訓むものはない。フルフルはフリツツと同意、宣長が下の零を乍の誤としたのは一を知つて未だ二を知らざるものである。
(二)雅澄がアヒミセナクニと改訓したのは非。ミセナクニは反對の歸結を導く前提で、述語ではないからミセヌコトカナと同意に用ひられる〔新考〕ことはあり得ぬ。
 
(1933)
(一)彼毛知如
(一)從來カレモと訓んで居たが、新考はソレモ、新訓はソモと改めた。春雨モといふべきを語音を補ふ爲にハルサメ其モと詠ずることはあり得るが、春雨ノ〔右○〕其モとはいへぬ。それは其場合のソ(ソレ)はノに代はるもので、尋常の代名詞とは異るからである。――語法要録助語シの項下參照。――此句はソコモシルゴトと訓むべきで、意は自ら明である。
 
(1934)
 
(1935)
(一)事先立之〔右△〕
(一)舊訓サキダテシとあり、略解にサキダチシと改めたが、新考の説の如く之〔右△〕は弖〔右○〕の誤寫と見て、コトサキタチテと訓むべきであらう。――但し「事」を「如」の借字とするは從はれぬ。ウグヒスノ〔右○〕とあるノ〔右○〕に如の意が含まれて居るから、更に「如」を重ぬべき筈がない。
 
(1936)
 
(1937)
(一)大夫丹〔右△〕(二)答響萬田
(一)丹〔右△〕の字元暦校本に之〔右○〕とあるに從うてマスラヲノ〔右○〕と訓むがよい。第一句と第二句とつづきあひを不可解するものがあるのは〔新考〕寧ろ不可解である。ますらをが狩などの目的で奈良の都から飛鳥の神なび山に出立向ふ事があったので修飾語として用ひられたのである。
(二)コタヘスルマデ又はアヒドヨムマデといふ訓もあるが、響は意を以て添へたものとしてコタフルマテニ(マデ〔右△〕ニにはあらず)と訓むのであらう。マデ(萬田)の原語はマテニである。
參照 カムナビ、ツミ、マテニ
 
(1938)
 
(1939)
(一)於吾
(一)古義に吾〔右△〕は花〔右○〕の誤ではないかとある。若し然りとすればハナニモガ〔二字右○〕と訓むのであらう。
 
(1940)
 
(1941)
(一)吟八汝來
(一)舊訓クルとあるが、現在格を用ふべき場合でないから、新考の説の如くコシであらねばならぬ。
 
(1942)
(一)田草引※[女+感]嬬
(一)※[女+感]嬬は多くはヲトメの假字に充てられて居るが、字に少女の義があるのではない。此句の如きはタクサヒクヲトメと八音に誦することはいかにも拙いからイモと訓むべきであらう。イモは男子から婦人に對する一般的稱呼である。
 
(1943)
(一)見人毛
(一)新考に人は由〔右○〕の誤とある。一説として聞くべきである。
 
(1944)
 
(1945)
(一)鳴越來
(一)舊訓コユラシとあるが、來をラシと訓むわけはなく、且上に八重由越〔右○〕エテとあるから、此コエは接頭語的に添へられたもので、「來」に主な意があるものとせねばならぬ。
 
(1946)(1947)(1948)(1949)(1950)
 
(1951)
(一)慨哉四
(一)代匠記に四を次の句につけてウレタキヤ、シコホトトギスと訓し、先學之に從うて居るが、其意ならばどこかにシコといはれる因を示  結句の來ナキドヨマメとも照應せぬ。舊訓を可とする。
 
(1952)
(一)喧奈流
(一)新考には聲〔右○〕と音〔右○〕とを重複なりとして添削してあるが、我々は日常の語にも聲音《コワネ》と用ひて居るほどで問題にならぬ。歌は朗誦するもので、之を筆に寫した漢字の末について論ずべきものではない。
 
(1953)
 
(1954)
(一)來居裳鳴香
 
(1955)(1956)(1957)(1958)(1959)(1960)
 
(1961)
(一)吾乎領
(一)舊訓シラセテとあり、其他種々の訓があるが、新考に從うてウナガシ(ウナガスは非)と訓むべきである。ウナガシはウナ即頸筋といふ語から導かれたものであるから領《エリ》の字をあてたのは適當である。――新訓にはウシハキとあるが.小禽が人間をウシハクとは前代未聞の珍事である。恐らくはウシハクの語義を誤解したのであらう。
 
(1962)
此歌の意は「故人《モトツヒト》を戀ひ慕うて居たら霍公鳥が來た。故人が此鳥をめつらしがりはしまいし」といふことで、霍公鳥に厭味を述べたのである。めづらしい思ひつきであるので、多くの人が解しわづらひ、色々に訓みあらため、甚しきは第二、三句と第四句の頭とを添削したものがあるが〔新考〕、原歌よりも一層わけのわからぬものになつたのは笑止である。
 
(1963)
 
(1964)
參照 モトナ
 
(1965)
(一)思子之
(一)舊訓オモヒコとあり、オモフコと改訓したものもあるが、これは愛人を意味するのであるから、カナシ妹に對する言葉としてカナシコ(子は男子の稱號)と訓むのであらう。記の輕大子の御歌に「オモヒ妻あはれ」といふ句があるが、其は天智皇后の和歌の「若草のつまのオモヒ鳥立つ」と同じく、喪《オモヒ》にいひかけたので、こゝの例にはならぬ。又意中の人の義ならば「吾念フ子」といふべきで、「吾」を略しては「人の思ふ子」の意味にも聞えて言葉をなさぬ。「思ふ御方」などいふのは後世の語法である。
參照 オモヒトリ
 
(1966)
(一)爲君御跡
(一)舊訓君ガミタメトとあるが、言葉が屆かぬ憾がある。新考にタテマツラムトと意譯したのは餘りに文字を離れ過ぎて居り、新訓に四、五句を君ガミアトトシヌビツルカモとあるのも第三句の語義を無視した訓である。案ずるに爲2君御1は「君のものにする」といふ意で、御の字音をきかせて、君ガ〔右○〕ニセムと訓ませるつもりで書かれたのであらう。
參照 ハナタチバナ
 
(1967)
參照 ミツレ
 
(1968)(1969)(1970)
 
(1971)
(一)雨間開而
(一)開は「朝|開《ヒラ》き」の開の意であらうが、アケテといひ得るか疑問である。――雨ヤミテ又はハレテといふ意味を雨マアケテとはいはぬ。――其故に神田本にはアマハレテと點し、眞淵もアメハレテと訓んだのであるが、其意ならばハレタラバであらねばならぬ。ハレテと稱へてハレタラバの意と了解することは困難である。別に訓があるかと思ふが、未だ考へ得ぬから姑く舊訓に從ふ。
 
(1972)
 
(1973)
參照 アフチ
 
(1974)
(一)藤者散去而
(一)舊訓チリユキテとあるが、契冲説の如くチリニテと訓むべきである。ニテは時の助動詞の一形で「物いはす來にて〔二字右○〕おもひくるしも」のニテと同格である。――チリニキとする眞淵説は非。
 
(1975)(1976)
 
(1977)
參照 シヌヌ
 
(1978)
 
(1979)
(一)酢輕成野之
(一)成をナスとよみ〔吉義〕、又は鳴の誤としてナクと訓する〔新考〕は非。ナルはナクに通じ、いづれも「鳴」の意の自動詞である。
參照 スガル
 
(1980)(1981)
 
(1982)
(一)我戀(二)不定哭
(一)我〔右△〕の字元暦校本、類聚古集、神田本には於〔右△〕とある。考には君〔右△〕の誤寫として君コフルと訓み、新考は於君戀としてキミニコフルと訓し、又元暦本に「イ物」とあるによつて千蔭、雅澄ほモノコフルとした。於戀を正しとすればコフルガヘと訓むのではないかと思ふが、姑く舊訓に從ふ。
(二)契冲は「不定」の上に「時」の字脱として時ワカズナクと訓した。或は然らむ。
 
(1983)(1984)
 
(1985)
(一)信吾命
(一)舊訓マコトワガイノチとあるが、童蒙抄のの訓を可とする。サネは葛の縁語である。
 
(1986)
(一)丹類令〔二字右△〕妹者
(一)類令〔二字右△〕の二字元暦校本、類聚古集には頬合〔二字右○〕とあるを可とする。
參照 ニヅラフ
 
(1987)
(一)吾背兒之
(一)此句は意を盡さぬ嫌がある。新考には背兒之爲り誤寫とした。或は然らむ。
 
(1988)(1991)(1992)(1993)
 
(1994)
(一)不著爾
(一)舊訓キミセヌニとあり、キセナクニ〔略解〕、ケセナクニ〔古義〕、キタラヌニ〔新考〕等の訓もあるが、新訓のやうにツケナクニと訓むのであらう。衣をツクといふ用例は古歌には見えぬやうであるが、語義上之を用ひて差支がないのみならず、此頃から使ひ始めたとも説明し得られる。
此歌のツユワケコロモは露をかきわけた衣といふ意で、露を別ける爲の特製の衣即ち合羽のやうなものでないことは勿論であるが、露をわけた事實があつていふのではないから、複合名詞として用ひたので、ツユワケシキヌと訓まねばならぬとする説〔新考〕は從はれぬ。
 
(1995)
 
(1996)
(一)水左閉而〔右▲〕照(二)舟竟
(一)舊訓水サヘニテリとあるが、意をなさぬから、假に「而」を除いて水サヘテラシと訓んで置く。而〔右△〕は今の誤であるかも知れぬ。
(二)神田本其他三四の寫本の訓による。此歌童蒙抄以下殆んど全部を改訓して居るが、必しも原訓に優れりともおもはれぬ。舟人は彦星をさし、妹等〔右△〕所見寸哉は妹即ち織女星に〔右○〕見えたかといふことであらう。トとニとが混用せられた例は少くはないが、此等〔右△〕は或は誤字であるかも知れぬ。
 
(1997)
(一)裏歎座津
(一)裏歎はウラナキと訓むべきことは既に一卷に論じた〔二〕。ヌエドリノは「鵺のやうに」といふ意、ウラナキするのは織女星で、其睦言が羨しいといふのである。
參照 ヌエトリ、ウラナキ
 
(1998)
(一)事毛告火〔右△〕
(一)童蒙抄には火〔右△〕は哭〔右○〕の誤としてツゲナクと訓した。姑く之に從ふ。「傳言もせずに過ぎ行くべしや」といふ意。――「來」と「行」とは屡々相通じて用ひられる――織女星に代はつて詠じたのである。
 
(1999)
(一)色妙子(二)數見者
(一)拾穗抄にイロタヘノコと訓し、之に從ふものもあるが、耳なれぬ語であるから、舊訓の如くシキタヘの子と讀むべきである。シキタヘノ子は布《タヘ》を重《シキ》で身につけて居る子即ち盛装の女といふことであらう。――美女の意とするは非。
(二)舊訓シバミレ〔右△〕バとあるが、新考説の如くミナ〔右○〕バと訓むを可とする。
 
(2000)
(一)秋立待等(二)妹告與具
(一)眞淵訓による。
(二)舊訓ツゲヨクとあるが、與具をコソの假字に用ひた例は十三卷にもある。與はコソの假字であるから、與具としても同意になるのであらう。
 ヤスのワタリはヤス(彌栖)のある地點の渡といふ意で、天漢を天安河に擬したのである。
參照 ヤス
 
(2001)(2002)
 
(2003)
(一)丹穗面(二)石枕卷
(一)オモハをオモワと改訓して面の意とするは〔古義〕非。オモはイモ(妹)に通ずるのである。
(二)マクラカムと改訓したのは〔考〕非。舊訓によるべきである。マクラクと活用した例はあるが、決して準據とすべき言葉ではない。
參照 オモ、イモ、マクラキ
 
(2004)
(一)竟津(二)卷而寐
(一)舊訓アラソヒツとあり、其他ハツルツ、ハテムツなどいふ訓もあるが、竟はワタリと訓むのであらう。第一九九六號の歌の竟舟も舊訓はワタリフネとあるのである。
(二)舊訓寐の字を末句につけてネマクマチガテとしたのは無理である。眞淵説の如く第四句につけて讀むべきである。――マキテネムと訓むは非。其場合にはマキネムといはねばならぬ。
 
(2005)
(一)金持吾者
(一)舊訓アキマツワレハとあるが、三四句の訓に誤なしとすれば「吾には」であらねばならぬ。
 
(2006)
(一)告余叙來鶴
(一)舊訓ツゲニゾキツルとあるが、告《ツゲ》は古へ四段に活用せられたもののやうであるから、――上の〔二〇〇二〕の歌にツギの假字に「告」を用ひたのも其一證である――字の通りツグヨゾとと訓むべきである。
此歌の終の句は作者の述懷で、彦星は言葉だけでも交はす夜が來たが戀人から便のない自分は之を見るさへ苦みであるといふのである。
 
(2007)
 
(2008)
(一)妹傳
(一)古義の訓による。
 
(2009)
(一)飽足爾
(一)舊訓アクマテニとあるが、假に古義説のやうに足〔右○〕が迄〔右△〕の誤字であるとしても、三句と五句とにマデを重ねるのは拙い修辭であるから、爾は打消の不《ニ》と解すべきである。――新訓に飽キ足リ〔右△〕ニとしたのは何の事かわからぬ。誤植ならんことを冀ふのである。
 
(2010)
 
(2011)
(一)己向立而(二)戀等爾
(一)古義の訓による。
(二)舊訓コフラクニとあるが、等をラクと訓むことは無理であるのみならず、意味をなさぬ。雅澄は等爾を從者〔二字右△〕又は自者〔二字右○△〕の誤としてコヒムヨハと訓したが、第四句と調和せぬ。契冲訓の如くコフルトニとよみ、「戀ふる人《ト》に」の意と解すべきである。
織女星に代つて詠じた歌で、末句は「夫《ツマ》と言ふまでは」、即ち如實に夫妻の契を結ぶまではといふ意であらう。
 
(2012)
(一)吾者干可太奴
(一)此句説き得たものがない。多くは難《カタ》ヌと譯して居るが、難はシ、キ活用であるから、カタヌとは決して用ひられぬのみならず、完了助動詞又は未來分詞に連る事はない。或は不克の意とするものがあるかも知れぬが、其場合にはカタズ又はカテズといはねばならぬ。右の如く論究するとヌは「寢」の意とする外はなく、ヒカタは斥鹵をいふのであらう。五百都集(ツトヒと訓むは非)、即ち聯殊を解きも見ずに寢るとふのは假寢をいふものと思はれる。
參照 ミスマル
 
(2013)
(一)時來之
(一)「來」の下に「良」の字を補うて訓むべしとする眞淵説可。但し時ハ來ヌラシであらねばならぬ。時來タルラシならば第四句もナビキタル見レバといはぬと調和せぬ。――來ニケリと訓むのは聊か無理のやうである。
 
(2014)(2015)
 
(2016)
(一)妹〔右△〕音所聽(二)紐解往〔右△〕名
(一)妹〔右△〕は梶〔右○〕の誤とする新考説可。これは織女に代つて詠じた歌であるから、妹〔右△〕としては意が通ぜぬ。
(二)往〔右△〕は待〔右○〕の誤とする宣長説〔畧解〕に從ふ。
 
(2017)
(一)戀敷者
(一)從來コヒシクハとよみ、「戀しかる事は」の意と解して居るが、其やうな語法はない。「戀ひこがるれば」の意でコヒシケ(重、及)バというたのであらう。
參照 トモシ
 
(2018)
(一)伐〔右△〕遷閉
(一)伐〔右△〕の字元暦校本以下諸本に代〔右○〕とある。童蒙抄の説の如く下につけて讀むべきである。
 
(2019)
參照 ハタ
 
(2020)
(一)袖易受將有
(一)舊訓袖カヘズアレヤ〔右○〕とあるが、若しヤを補うて訓むべきものとすれば古義の説の如く、アラメヤの方がよい。
 
(2021)
(一)寐夜
(一)舊訓タマクラカヘテ〔右○〕ネタル〔二字右○〕夜とあるが、完了格を用ひては下の句と調和せぬから、イヌル夜であらねばならぬ。從つてカヘテもカハシとすべきである。
 
(2022)
參照 イナノメ
 
(2023)
(一)戀毛不遏者
(一)遏〔右○〕の字元暦校本には過〔右△〕としてあるが、尚スギネバよりツキネバの方がよい。
 
(2024)
(一)戀奈〔右△〕有莫
(一)奈〔右△〕の字元暦校本、類聚古集に爾〔右○〕とあるを可とする。
 
(2025)(2026)
 
(2027)
參照 タナバタツメ
 
(2028)
(一)久時〔右△〕
(一)舊訓には久シキトキニとあり、此句及第三句を種々改訓したものがあるが、いづれも釋然たるを得ぬ。新考に時を誤字として久シクナリヌと訓したのは、證據はないが、極めて然るべきことで、末句の垢ツクマテニは之が副詞であらねばならぬ。但し第三句をオリキセシと訓して織女が牽牛に着せた衣と説いたのは從はれぬ。國語の法則として特に行爲者が示されて居らぬ場合には主格が行爲者と了解せられるから、新考説の如く牽牛の歌として着せたものは織女とする事は出來ぬ。例へば「見せたいものがある」といふ言葉を「或人が私に見せたいものがある」と解するものはあるまい。使動詞、受動詞に於ては此差別は最も嚴重に行はれて居るのである。されば三句は舊訓の如くオリキタルと訓み、織女の歌とすべきである。
 
(2029)
 
(2030)
(一)河霧
(一)温故堂本には「霧」の下に「立」の字がある。――或はカハギリゾタツと訓むのであらうと思ふが、姑く舊訓による。新考には霧立渡と改作し、新訓には川ゾキラヘルとあるがキラフは霧のタツことではない。
 
(2031)(2032)
 
(2033)
(一)神競者(二)磨待無
(一)舊訓クラベバとあるが、競はキソヒ(來添)の借字であらう。
(二)舊訓トキマツナクニとあるが、マツナクニといふ語法はなく又ニ〔右○〕を添へる場合でもないから、トキヲマタナクと訓むのであらう。磨はトキ(時)のあて字である。
此下二句不可解なりとして宣長以下いろ/\に改訓して居るが、競をキソヘと訓めば意はよく通ずる。即ち心が來そへば定まつた時を待つを要せぬことよといふので、第三句と第四句とを置きかへて心得べきである。
 
(2034)
(一)秋去衣
(一)秋去衣を不可解として色々改訓したものがあるが、秋サリ衣は秋邊の衣即「秋きる衣」といふことである。
參照 アキサリ
 
(2035)(2036)(2037)(2038)(2039)(2040)(2041)(2042)(2043)(2044)(2045)(2046)(2047)(2048)(2049)(2050)
 
(2051)
(一)往射跡(二)挽而隱在
(一)舊訓にはユキテヤ〔右△〕イルとあるが、ユキテハ〔右○〕イルの方がよいやうである。他に色々改訓したものがあるが、イル(入)は月の縁語であるから動かせぬ。
(二)舊訓カクセルとあるが、作因と詔むべきものがないから、「隱」は自動詞であらねばならぬ。「引こもれる」の意で、コモレルと訓むのであらう。
 
(2052)
參照 ――チリ
 
(2053)
(一)八十瀬霧合
(一)ヤソセキラヘリ〔古義〕、ヤソセキラヒヌ〔新考〕と訓したものもあるが、こゝは繼續格又は完了格を用ひる場合でない。ヤソノセキラフと訓むのであらう。――新訓にキリアフとしたが、其のやうな語つかひはない。
 
(2054)
(一)夜不降〔右△〕間爾
(一)降〔右△〕の字神田本には深〔右○〕とある。
 
(2055)
 
(2056)
(一)打橋度
(一)從來ウチ〔右△〕ハシワタセ〔右△〕と訓してあるが、打橋はウツ〔右○〕ハシであらねばならず、又ワタセと人に命ずるのではなく、ワタシテ通ハムといふ意のやうであるから、ワタシ〔右○〕と訓む方がよい。
參照 ウツハシ
 
(2057)
(一)會夜者(二)今之七夕
(一)舊訓アヘル夜とあるが、上句吾思フ〔二字右○〕妹と調和せぬから。眞淵説に從つて逢フヨヒハと訓すべきである。
(二)イマシナナヨヲ〔畧解、古義〕、イマノナナノヨ〔新考〕と改訓したものもあるが、舊訓を遙にまされりとする。――此は寄2七夕1戀の歌で、直接牽牛織女を詠じたのではあるまい。
 
(2058)(2059)(2062)
 
(2061)
(一)今爲下
(一)イマシ〔右○〕スラシモと訓してもよい。新訓の如く今セスラシモと訓み得ぬことはないが、律《リズム》にあはぬ。
 
(2062)
(一)機
(一)舊訓による。但しハタモノを機の意味に用ひた例は他に見えぬから、タナバタと訓むのかも知れぬが、――ハタのうちには今も臺灣紅頭嶼南洋諸島に用ひて居るやうな蹈木も棚もたいものがある――歌としてはハタモノでも意は通ずるから姑く舊訓を存する。
參照 ハタ、タナバタ
 
(2063)(2064)(2065)
 
(2066)
(一)別乃
(一)乃〔右△〕は久〔右○〕の誤でワカレマクと訓めといふ略解説はきくべきである。
 
(2067)
(一)棹來
(一)舊訓サシクルとあるが、神田本の一訓によつてコギクルといふを可とする。
 
(2068)
(一)公者來良志
(一)從來來ヌ〔右△〕ラシと訓して居るが、完了格を用ひる場合でない。來るのだらうといふ意であるから、クラシといふべきであるが、古はクラシともクルヲシともいうた。クは終止法、クルは連體法と限られるやうになったのは稍々後のことである。――語法要録参照。
 
(2069)
(一)瀬毎幣
(一)雅澄は「瀬」の上に「渡」の字脱としてワリセゴトニヌサマツルと訓した。或は「川」の字を脱したものでカハノセゴトニヌサマツルであつたかも知れぬ。
 
(2070)
 
(2071)
(一)夜之深去良久
(一)舊訓ヌラシとあるが、字についていふも歌意から推すもヌラクであらねばならぬ。
 
(2072)
 
(2073)
(一)念之吉沙
(一)舊訓オモヘルガヨサとあるは時格を誤つて居る。色々訓を改めたものがあるが、いづれも首肯せられぬ。吉沙はヨロシサと訓むべきである。
 
(2074)(2075)(2076)(2077)(2078)
 
(2079)
(一)可相物呼
(一)舊訓の如くアフベキモノテとすると、モノヲといふ言葉が二つ重つて聞苦しい。アヘルモノカラといふべきであるが、誤寫と斷定すべき根據が乏しいから尚改訓を憚るのである。――〔二〇三九〕の歌によつて可相夜谷の誤寫なりとする説があるが〔新考〕、若し右の如き推斷が許されるなら、相物可良〔右△〕の誤記ともいひ得られる。
(2080)
(一)明日乎阻而
(一)このへダテテは界トシテといふ意である。
 
(2081)(2082)(2083)
 
(2084)
(一)有二家里(二)君將來
(一)有をアレ(荒)の假字にあてたことは他に例がないから、之を誤字として考には絶《タエ》ニケリとし、新考は失《ウセ》ニケリと讀んだ。アレ(荒)はアラともいふから、古はアリとも活用したらしく、「有」の字をあてたのに決して不都合でない。
(二)新考にキタラムと改訓したのは理由のないことで、キタルはクルと同義語ではない。
 
(2085)(2086)
 
(2087)
(一)舟出爲將出〔右△〕(二)不相物可毛
(一)出〔右△〕は去〔右○〕の誤とする眞淵説可。但し畧解の如くイナムと訓すべきである。流人集にはフナデシユカムとある。
(二)アハジモノカモと訓するものがあるが、打消のジは連體法に用ひることは出來ぬ。――語法要録參照。
 
(2088)
 
(2089)
(一)出出〔二字右△〕乃渡丹(二)具〔右△〕穗船乃(三)旗荒〔右△〕(四)本葉裳具〔右△〕世丹(五)妻手枕迹
(一)童蒙抄に從うて出出〔二字右△〕は世々〔二字右○〕の誤とし、セセのワタリと訓すべきである。
(二)及(四)の具〔右△〕は曾〔右○〕又は其〔右○〕の誤としてソと訓すべしとする説を可とする〔眞淵、宣長〕。
(三)荒〔右△〕は芒〔右○〕の訓としてススキと訓するを可とする〔眞淵〕。本は次の句の上に冠すべきもの。
(四)本〔右△〕は末〔右○〕の誤としてウラバモソヨニと訓むを可とする〔新考〕。
(五)手〔右○〕を乎の誤として、ツマヲ〔右△〕マカムと訓したのもあるが〔古義〕、「眞玉手の玉手さしまき」などいふ用例に照しても手の字を存する方がよい。
(六)古義の訓による。
(七)元暦校本にフツキ、神田本にも「フムツキ」とあるが、舊訓を可とする。フミツキは後代の語である。
參照 ソボ、ハタススキ
 
(2090)
(一)天人乃
(一)舊訓による。契冲はアメヒトと改訓したが、アメヒトといふ語があり得たとはおもはれぬ。
 
(2091)
(一)得行
(一)エ行キテはイ行キテの訛なりとする新考説可。――新訓に行行而と改作してあるが根據を詳にせぬ。
 
(2092)
(一)弖大王(二)妹爾相(三)吹反者(四)立坐(五)心不欲(六)行長
(一)舊訓アマツシルシトテ〔右△〕とあるが、弖は元暦校本、類聚古集等に定〔右○〕とあるを可とし、次の句につけて眞淵訓の如くサダメテシとよむべきである。
(二)イモニアハムと六音に訓むを可とする〔新考〕。
(三)フキシカヘレバと訓したのもあるが〔古義〕、シは無用である。第一卷〔五〕には「吾衣手に朝夕にカヘラヘぬれば」ともあるから、フキカヘラヘバと訓むのであらう。
(四)新考の訓に從ふ。
(五)諸説區々であるが、「不欲」はオボエズと訓むのであらう。
(六)終の二句に脱字ありとする説は從はれぬ。原文の儘でよく意は通ずる。即ち「此川の流のやうに永久にあれかし」といふことであるから、此句は行ノケナガク、――新訓にナガケクとあるが、其では「長いこと」といふ意になつて次句につゞかぬ――次句はアリカテヌカモと訓むのであらう。アリカテは有得の意、ヌカモは希望を表示する語尾である。
 
(2093)
 
(2094)
(一)落僧〔右△〕惜毛
(一)元暦校本及類聚古集の訓による。僧〔右△〕は誤字であらう。古義にチラクシヲシモと改めたのは不可解である。ヲシモと結んである所を見ても確定事實とせぬ方が趣がある。――シを言葉の足らぬとき埋草にする助語と解することの誤なるは既述の通りである。――語法要録參照。
 
(2095)
(一)金待難
(一)舊訓露ニシカレテ秋マチガタシとあるが、客觀的に秋萩を詠じながら待チガタシと斷定すべき筈はないから、末句を副詞句と見て第四句を枯レムと訓むべきである。――新考に枯〔右○〕は折〔右△〕の誤としたのは一説として聞くべきである。
 
(2096)(2097)(2098)(2099)(2100)
 
(2101)
(一)野邊行之者
(一)代匠記の訓による。
參照 タカマト〔地〕
 
(2102)
(一)白露爾(二)明日將咲見
(一)後世ならば白露トといふ所であるが、古はニとトとは相通はして用ひた。
(二 サカムミムは正しくはサカマクミムといはねばならぬことは既述の通りであるが、此作者はサカムミムと詠じたものと思はれる。
 
(2103)
 
(2104)
參照 アサガホ
 
(2105)
參照 ハルサリ
 
(2106)
參照 サヌカタ
 
(2107)
 
(2108)
(一)競竟〔右△〕
(一)竟〔右△〕の字眞淵は立見の合字とし、千蔭は弖見〔二字右○〕、新考は覽〔右○〕の誤寫とした。姑く後者に從うてキホヒテヲミムと訓する。
 
(2109)
(一)將開跡思乎〔右△〕
(一)乎〔右△〕の字類聚古集に手〔右○〕とあるを可とする。
 
(2110)
 
(2111)
(一)手折來有
(一)新考は手〔右△〕を衍字とし折〔右○〕を持〔右△〕の誤としてモチキタルと訓したが、タヲリケルとしても十分意が通ずる。但しケルは過去助動詞で、千蔭、雅澄説の如くキタル、キケルを約してケルというたのではない。
 
(2112)
 
(2113)
(一)手寸十名相〔四字右△〕 殖之名〔右△〕知久
(一) 一、二句を仙覺がタキソナヘ・ウエシナシルクと改訓したのは文字によつたのであらうが、意が通ぜぬから、古點テモスマニ・ウエシモシルクを復活せしむべきである。文字に副はぬのは誤寫の爲とせねばならぬ。
參照 テモスマ、スマ
 
(2114)(2115)(2116)(2117)(2118)(2119)
 
(2120)
參照 シヱヤ
 
(2121)(2122)
 
(2123)
參照 ズケリ
 
(2124)
參照 シミ
 
(2125)(2126)(2127)(2128)
 
(2129)
(一)鴈者言戀
(一)首は詩經に「吾」の意に用ひてあるから、舊訓の如くワガコヒと訓
 
(2130)
(一)遊群
(一)遊群の二字を別行としたのは誤りで.末句につづけて国ヘカモユクと訓むべきことは童蒙抄の説の通りである。
 
(2131)(2132)(2133)(2134)
 
(2135)
(一)霜乃零爾
(一)舊訓フラクニとあるが、霜の降るのは眼に見えぬものであるから現在格は用ひられぬ。
 
(2136)
 
(2137)
(一)朝爾往
(一)舊訓に誤なしとすれば此ころ既にツト(韓語「日出」の意)が用ひられて居たのであらう。但し「ツトニ行ク」といふ修飾語はあまり適切とは思はれぬ。新考はアサニケニと訓して毎朝の義としたが、遺憾ながら日本語では得物をアサヌケニとはいはぬ。新訓にはアサニユクとあるが、然らばニは蛇足である。他に訓があるのかも知れぬが尚之を詳にせぬから、姑く舊訓に從糅ふ。
參照 ツト。
 
(2138)
參照 タヅガネ、カリガネ
 
(2139)(2140)(2141)
 
(2142)
參照 トトナフ
 
(2143)
參照 ウラブリ
 
(2144)
(一)芽子者散跡
(一)舊訓カリハキヌ〔右△〕、ハギハチリヌ〔右△〕とあるが、こゝは外面的描寫であるから、キツ〔右○〕、チリツ〔右○〕であらねばならぬ――語法要録參照。
 
(2145)(2146)(2147)(2148)(2149)
 
(2150)
(一)鬱三
(一)鬱はオホホシの假字にも用ひられるが、こゝは牡鹿が秋萩の散り行くを見て(チリヌルミレバと訓するは非)悒々たりといふ意であるから、イフカシミの方がよい。
參照 イフカシ、オホホシク
 
(2151)(2152)(2153)
 
(2154)
參照 ケダシ
 
(2155)(2156)(2157)
 
(2158)
參照 コホロギ
 
(2159)(2160)
 
(2161)
參照 カハヅ
 
(2162)(2163)(2164)(2165)
 
(2166)
參照 トラシの池、ケ
 
(2167)
(一)片聞吾妹
(一)宣長は聞〔右○〕を待〔右○〕の誤とし〔畧解〕、新考は片附居〔二字右△〕妹と改作した。いづれもカタギクといふ語を不可解としたのであらうが、片は接頭語で重い意味はなく、キク吾妹は「耳を傾けて居る我妹子」といふほどの意であらう。
 
(2168)
(一)珠斗曾見流
(一)舊訓タマトゾミユルとあるが、第二(第五)句がオケル白露と訓むべきものとすれば、ミツルといはねば時格が調和せぬ。――元暦校本に殊年〔右△〕曾見流とあるのは誤寫であらう。シゾといふ指定助語を用ひる場合でない。
 
(2169)(2170)
 
(2171)
(一)秋芽子者
(一)新考に二、三句を秋芽子花與入〔三字右△〕亂の誤字としたが、必しも實景を叙したわけではないから、原のまゝの方が却つて風情がある。「露は尾花と寢たといふ」と同じ趣である。
 
(2172)(2173)
 
(2174)
(一)秋田苅
(一)新考はアキタカルト〔右△〕と改訓したけれども、トなくとも意はよく通ずる。其は「秋田カル」というて「秋田の稻を〔二字右○〕カル」と了解せられると同し理である。女の〔二二四八〕にも同じ例がある。
 
(2175)
 
(2176)
(一)※[草がんむり/店]手搖奈利
(一)舊訓による。※[草がんむり/店]の字神田飜には苫〔右○〕とある。宣長は※[草がんむり/店]手搖を衣〔右△〕手※[さんずい+搖の旁]の誤としてソデヒヂヌナリと訓み、雅澄は之に同意し、新考、新訓も衣手説を採り、ソデソボツナリ〔新考〕、ソデユルグナリ〔新訓〕と訓したが、奈良朝の人が稻を苅るに「袖つけ衣」をきて居たとは考へられぬことであり、、又夜間に稻苅をしたものと思はれぬ。これはかり廬の夜の景を詠した歌で、眞淵がイホリウゴクナリと訓したのは遙に優つて居る。但し※[草がんむり/店]手を菴の誤とするは非で、※[草がんむり/店]は雨露をしのぐに用ひるもの、テは「物」を意する接尾語である。――例へば綱をツナデといふが如し――原文舊訓のまゝでよく意が通ずるのに猥に改記改訓するは悲むべきことである。
 
(2177)
(一)綵色
(一)舊訓ニシキとあるが、姑く古義の訓に從ふ。或はシヅビ(又はシタビ)と訓むのかも知れぬ。
參照 シヅ、シタビ
 
(2178)(2179)(2180)
 
(2181)
(一)令黄物者
(一)刊本モミダスとあるが、元暦校本の訓に從ふ。ニホハスは色に染めることをいふのである。――モミダスといふ用例は後選にも見えるが、少くともモミダムと用ひた例はなく、古語とは思はれぬ。
參照 モミチ、ニホヒ
 
(2182)
 
(2183)
(一)今者(二)待者辛苦母
(一)新考にイマハと訓しては耳だつからというてイマシと改訓したのは語義に通ぜぬ説である。こゝは取いてていふ爲に特にハを添へたのである。
(二)舊訓マテバとあり、古義にはマタバと改めてあるが、之は假設條件でも、既定條件でもなく、「待つことが苦しい」といふ意であるからマツハと訓まねばならぬ。
 
(2184)(2185)(2186)
 
(2187)
(一)卷來乃〔右△〕山之
(一)元暦校本の訓による。乃〔右△〕の字は向〔右○〕の誤か、若くは卷來をマキキと訓した爲に〔舊訓〕さかしらに挿入せられたものであらう。
 
(2188)
(一)丹穏日者繁
(一)新考に繁〔右△〕は薄〔右○〕の誤寫で匂ハウスシであらねばならぬとある。尤な説ではあるが、尚シゲシを諸色雜然たる意とも解し得られるから姑く舊訓lこ從ふ。――ニホヒは色澤の義である。
參照 ツマナシ
 
(2189)
(一)露霜聞〔右△〕
(一)聞〔右△〕の字元暦校本に乃〔右○〕とあるを可とする。
 
(2190)
參照 ヨナバリ〔地〕
 
(2191)
 
(2192)
(一)應染毛
(一)舊訓ウツリヌベクモとあるが、古義の訓を可とする。
參照 ニホヒ
 
(2193)
參照 ヒニケニ、ミツクキ
 
(2194)
(一)來鳴之共
(一)共は通例ムタの假字に用ひられ、ナベといふ意はないが、こゝは來鳴シガムタ(來鳴シムタニ〔右△〕といふことは出來ぬ)の意ではなく、來鳴シナベニであらねばならぬ。
參照 ムタ、ナベ
 
(2195)(2196)(2197)
 
(2198)
(−)舊訓ワガマツバラハとあり、本居は吾を君の誤として改訓したが新訓の如く伊勢のアガの松原を詠じたものとおもはれる。
參照 アガの松原
 
(2199)(2200)(2201)
 
(2202)
(一)月人〔右△〕
(一)人〔右△〕を内〔右△〕の誤とする古義の説可v從。
 
(2203)
(一)里異(二)高松野
(一)里〔右○〕は且の誤寫なりとする説もあるが〔宣長〕、尚サトモケニに訓み、「里村も顯著《ケ》に」といふ意と解すべきである。――新訓にサト毎ニと訓したのは從はれぬ。
(二)契冲は野を次句につけて野山ツカサと訓したが、ツカサは野山到る所にあるものではないから.右の如き複合名詞があり得たとは思はれぬ。野をノの假字と見ることは異例ではあるが、此歌では上の句につけタカマトノと訓むのであらう。
參照 ツカサ
 
(2204)
(一)露重
(一)重はシゲミ〔古義〕、シミ〔新考〕.シキリ〔新訓〕と改訓したものもあるが、次句に下葉とある所を見ると、舊訓のやうにツユオモミと訓む方がよいやうである。
 
(2205)(2206)(2207)(2208)(2209)(2210)
 
(2211)
(一)解登
(一)此句を解しがたしとして、トクトムスブト〔右△〕と訓したものもあり〔奧儀抄〕、新考には解〔右○〕を率〔右△〕の誤としてイザトムスブと訓したが、此場合のトクトはトキテに通ずる(テ、ト相通はして用ひるのは古語には例のあることである)。單に「紐を結びて立つ」といへば足るのに、トクト(トキテ)結びてというたのに「梅の花サキチル」「潮干ミチ」等と同一語法である。
 
(2212)
(一)喧之從
(一)契冲訓による。恐らくは「喧」の下に日〔右○〕の字を脱したのであらう。
 
(2213)(2214)(2215)
 
(2216)
(一)手折以而〔右▲〕(二)今日曾吾來
(一)而〔右▲〕の字元暦校本に之なきを可とする。舊訓もタヲリモチとのみあるのである。
(二)舊訓による。クルはユクと相通ずるのである。――今も九州地方では行くことをクルといふ。
 
(2217)
(一)君之家乃之〔右▲〕(二)落
(一)之〔右▲〕の字元暦校本に之なきを可とする。
(二)落一字をチリニケリと訓むのも無理であるのみならず、上の「者」も所も得ぬから誤脱があるものと見ねばならぬ。新訓に二、三句をハツモミヂバハ・ハヤクフルと改めたのはおもしろいけれども、根據を詳にせぬ。恐らくは想像であらうが、原文を尊重すべしとする同氏の主張に反するやうである。
 
(2218)
 
(2219)
(一)水田
(一)和名抄に漢語抄云水田古奈太とあり、字鏡にも墾をコナダと訓してあるが、コナダはコノタ即ち繊沙之田といふ意で、必しも水田には限らぬものゝやうである。
 
(2220)(2221)(2222)
 
(2223)
(一)天海
(一)從來アメノウミニと六音に訓して居るが、ニは蛇足である。若し助語を省いてはならぬといふならば、第三句もカツラカヂヲ〔右△〕といはねばならぬ。
 
(2224)(2225)(2226)
 
(2227)
(一)月夜清烏
(一)舊訓キヨキヲとあるが、烏は焉の變體でヲと訓むべき場合ではない。姑く契冲訓に從ふ。キヨシモ(新考)と訓むも可。
 
(2228)
(一)再は々に同じ、乎乎入即ちヲヲリと訓むべきである。
參照 ヲヲリ
 
(2229)
(一)玉作有
(一)從來タマニナシタルと訓して居るが、記紀の訓に從ひ玉作はタマスリと訓むべきである。
參照 タマスリ
 
(2230)
(一)家居者
(一)イヘヲレバとも訓み得るが、イヘヰセバを可とする事既に〔一八二〇〕に述べた通りである。新考にはワガクレバと改めてあるが、其は第二句に捉はれたもので、此句は四句の上に移して聞くべきである。
 
(2231)
(一)鳴奈流共
(一)〔二一九四〕の如く共はナベに訓むを可とする。
 
(2232)
(一)今日〔右△〕風
(一)元暦校本に今且とあるを可とする。
 
(2233)
(一)芳〔右△〕(二)笠立而
(一)芳〔右△〕は茸〔右○〕の誤とする宣長説可。
(二)カサタテテと改訓したものがあるが〔古義〕.尚舊訓を可とする。
 
(2234)
(一)爲暮零禮〔右△〕見
(一)略解に禮〔右△〕は所〔右○〕の誤とある。いづれにしてもフルミユといはねばならぬ。
 
(2235)
(一)秋田苅
(一)新考に「秋野行く」と改訓したのは理由のないことである。旅行中「秋田苅る廬」を見て詠じたものと了解すべきである。
 
(2236)
(一)吾戀
(一)舊訓カケヌトキナシ我コヒハとあるが、この主語をうける述語がないから.第三句を吾ハコフとよみ、句が切れるものとせねばならぬ。――旋頭歌の一句を脱したものとする説もあるが〔新考〕、確證がない。
 
(2237)
(一)夜副衣寒
(一)元暦校本にはフスマモサムシといふ一訓をあげて居る。夜副衣の三字をフスマと解讀したのであらうが、尚舊訓を可とする。――「サヘの詞平穩ならす」とする雅澄説は理由のないことである。
 
(2238)
 
(2239)
(一)音聞
(一)元暦校本には音〔右○〕の次に「谷」の字がある。
參照 シタビ
 
(2240)
 
(2241)
(一)夙夙〔二字右△〕
(一)夙〔右△〕凡〔右○〕の誤とする眞淵説に從ふ。
 
(2242)
(一)生靡
(一)略解は生〔右○〕を打〔右△〕の誤とした。或は然らむ。
 
(2243)
 
(2244)
(一)乃〔右△〕而及
(一)乃〔右△〕を秀〔右○〕の誤とする宣長説〔略解〕可。
 
(2245)
(一)玉纒田井爾(二)家戀
(一)「劔後玉」までは序、マクタは馬來田即ち茨田であらう。マクタの田ゐをマクタヰというたのである。
(二)家〔右△〕は我〔右○〕の誤とする説がある〔童蒙抄〕。
參照 マムタ
 
(2246)(2247)
 
(2248)
(一)秋田※[口+立刀]〔右△〕借廬作
(一)舊訓アキノタヲカリイホツクリとあるが、古の發音ではカリイホは必ずカリホと約せられねばならぬから、眞淵の説の如く※[口+立刀]〔右△〕は刈〔右○〕の誤なること疑がない。秋田|苅《カル》カリホヲツクリといふ語例は〔二一七四〕にもある。
 
(2249)
(一)吾客有跡
(一)新考には客有を家戀〔二字右△〕の誤字としたが、いづれの本にも其やうな形跡を發見せぬ。舊訓のまゝでもよく意は通ずる。
 
(2250)
(一)廬付〔右△〕而
(一)舊訓による。付の字は或は爲の誤かも知れぬ。新考に廬付を種蒔〔二字右△〕の誤字としたのは却つて誤つて居る。タヰは田所といふことで、田と同意ではない。田舍に寓居したことをタヰニカリホシテというたのである。
參照 タヰ
 
(2251)(2252)
 
(2253)
(一)色付相
(一)色ヅカフは秋の枕詞に用ひられたのである。
 
(2254)
(一)戀爾〔右△〕不有者
(一)爾〔右△〕は乍〔右○〕〔眞淵〕、又は筒〔右○〕〔千蔭〕の誤で、コヒツツアラズバと訓むを可とする。
 
(2255)(2256)(2257)(2258)(2259)(2260)
 
(2261)
(一)如是吹三更者〔右△〕
(一)者〔右△〕は乎〔右○〕の誤ならんとする略解説可。三更をヨヒと改訓した〔新考、新訓〕のは非。ヨヒは一般に夜間を意味するから、特にアカトキを五更、ヨハを三更とかいて區別したのである。
 
(2262)
 
(2263)
(一)煙寸吾告※[匈/月]
(一)舊訓ケブキワガムネとあるが、煙寸は童蒙抄の訓の如くイブセキと讀むを可とする。但し末句ヤマムとあるによると、イブセキ吾ムネとはいひ得られぬ。案ずるに告※[匈/月]はコヒ(戀)の戯書でわらう。
 
(2264)
(一)枕與吾者
(一〜新考に此句を不可解とし、吾〔右○〕を寐〔右△〕の誤としてマクラトヌレバと訓した。或は然らむ。
 
(2265)
參照 カヒヤ
 
(2266)(2267)
 
(2268)
(一)吾不問爾
(一)舊訓トハザルニとあるが、ここは「言問はぬに〔二字右○〕」といふ意であるから、トハナクニと訓むを可とする。――トハザルとトハヌとは決して同義ではない(語法要録參照)。――或は吾〔右△〕は言〔右○〕の誤りでコトトハナクニであるかも知れぬ。
 
(2269)
 
(2270)
(一)今更
(一)「何」を次の句へつけ、イマサラサラニ〔略解、古義〕、イマサラニハタ〔新考〕と訓したものがあるが、原文を誤記なりと斷定すべき證據はないから、舊訓によるべきである。
 
(2271)
 
(2272)
(一)思跡
(一)從來オモヘドと訓して居るが、其場合には直接シラジにつゞけることは無理であるから、オモフトを訓むべきである。
 
(2273)(2274)(2275)(2276)
 
(2277)
(一)妹之將手枕
(一)四、五句契冲訓を可とする。
 
(2278)
參照 カラヰ
 
(2279)
(一)今咲花乃
(一)新考には上二句不可解として添削してあるが、戀に堪へかねて里中を逍遥して居る中に恰も咲いた女郎花を見て一層戀を増したといふ意味とすればよくわかる。
 
(2280)
 
(2281)
(一)鴨頭草之
(一)新考にツユクサと改訓したのは非。ツキクサ〔鴨頭草〕とツユクサ〔鴨跖草〕とは同−物ではない。
參照 ツキクサ
 
(2282)
(一)花有益乎
(一)從來ハナナラマシヲと訓して居るが、若し然りとせば上句サキテチルであらねばならぬ。サキテチリニシ〔二字右○〕と過去格が用ひてある所を見ると「花であつたらうものを」といふ意と思はれるから、アリを動詞と見てハナニア〔二字右○〕ラシと訓むべきである。――語法要録參照。
 
(2283)
 
(2284)
(一)率爾(二)四搓二〔右△〕將有
(一)眞淵の訓による。舊訓イサナミニとあるは從はれぬ。
(二)宣長は二〔右△〕を弖〔右○〕の誤とした〔略解〕。
參照 イササメ
 
(2285)
 
(2286)
(一)實成及丹
(一)新考に丹〔右△〕は母〔右△〕の誤としてマデモ改訓したのはさかしらである。マテニ(マデ〔右△〕ニにあらず)はマテの原語である。
參照 マデ、マテニ
 
(2287)
 
 
(2288)
(一)石走
(一)新訓にイハハシルと改めたのは理由のないことである。急湍落流ならばいざ知らず、ママが岩を走るべき筈はない。
參照 イハハシ、ママ、カホバナ
 
(2289)
 
(2290)
(一)君西不有者
(一)新考訓による。但し西〔右○〕は必しも四〔右△〕の誤ではなく、原音シであるから、異例ではあるがシの假字にも用ひ得られる。
 
(2291)
(一)朝開(二)鴨頭草
(一)アシタサキとも訓み得るが、律《リズム》の上からアサヒラキを可とする。特に開の字を用ひたのもヒラキと訓ませる爲の用意であったのであらう。
(二)ツユクサと訓むは非。――〔二二八一〕参照。
 
(2292)
(一)尾花苅副
(一)新考にカヤニカリソヘと改訓したのは理由のないことである。實際には秋荻の花は葺料となるものではないから、「尾花に苅りそへ」といひ改める必要もなく、又カヤを尾花というてこそ萩の花の對照としておもしろいので、之をカヤと改めては屋根屋の歌のやうに聞える。
 
(2293)
參照 モトナ
 
(2294)
 
(2295)
(一)不座
(一)舊訓による。元暦校本、類聚古集、神田本には「不」の下に「來」の字がある。
 
(2296)(2297)
 
(2298)
參照 ウラブリ
 
(2299)(2300)
 
(2301)
(一)忍〔右△〕咲八師(二)登爲跡
(一)舊訓による。或は忍〔右△〕は吉〔右○〕の誤であらう〔畧解〕。
(二)新考に爲〔右○〕を念〔右△〕の誤にあらざらべからずとしたのはヨシヱヤシおヨシ(縱)と同義と解したからであらうが、こゝはサモアラバアレの意に用ひたので、原文舊訓を可とする。
 
(2302)
(一)惑者之(二)寐師耳〔右△〕
(一)宣長が惑をサドフの語幹サドと訓み、里《サト》の假字としたのはサドフの原語原義を詳にしなかつたが爲で、惑はマドフとも訓み得るが、其故を以てマドの假字には用ひた例はない。新考にミナヒトガと改訓したのは末句をネテアカスベシヤと添削し、其から逆推した訓であるから、意は通ずるけれども全然別の歌になる。
(二)舊訓ネサメシテノミとあり.寐〔右○〕を寤〔右△〕とした本もあるが、寢ざめした故を以て無情といはれる筈がない。元暦校本に寐臥〔右△〕耳とあるによれば、イネフシテノミ〔新訓〕ともよみ得られるが、寐臥可の誤としてイネフスベシヤ〔代匠記〕、ネテアカスベシヤ〔新考〕と訓するのは無理である。畧解は不〔右△〕寐師在〔右△〕の訓としてイネズシアレバと訓み、雅澄は寒〔右△〕師有〔右○〕の誤としてサムクシアレバと訓したが、いづれも意が通ぜぬ。案ずるに耳〔右△〕は有〔右○〕の誤でイネテシアレバと訓むのであらう。思ひに堪へかねて秋の長夜を宵から寢て居るのを知らぬワビ人(風雅人)が心なき奴と思ふであらうといふ意である。元暦校本によつてイネフシテノミとよんでも同じ意味になる。
參照 サドフ
 
(2303)
 
(2304)
(一)於君奉者(二)夜毛著金
(一)マツラバ〔古義〕、マツラム〔新考〕と改訓したのはさかしらである。舊訓の如くマタサバと訓まねばならぬ。
(二)キルガネはキルガニの音便で、「隼別のミオスヒガネ〔二字右○〕」なといふガネとは別語である。
參照 マタス、ガネ、ガニ
 
(2305)
(一)丸宿吾爲
(一)新訓に「マルネ吾《ワレ》ハス」と改めたのはリズムを解せざるものといはねればならぬ。
 
(2306)
(一)曉月夜(二)戀君跡
(一)舊訓による。或はアリアケツクヨと訓むのかも知れぬ。
(二)舊訓コヒシキキミとあるが、契冲訓を可とする。
 
(2307)
(一)色葉二毛(二)不出跡念者〔右△〕
(一)舊訓イロハニモとあるは語をなさぬから、眞淵に從うてニホヒニモと訓むべきである。宣長は葉と二とを轉置として色ニハモと訓したが、單に色といふよりもニホヒ(色澤)といふ方が此場合にあたつて居る。
(二)者〔右△〕は煮〔右○〕の誤とする古義説可。
參照 ニホヒ
 
(2308)
(一)君之摧
(一)從來クダカムと訓み、「君が心をくだかむ」といふ意と説いて居るが、言葉が足らぬ。「君が挫折するやうな」といふ意としてクダケムと訓むのであらう。新考に第三卷の「妹も吾もきよみの河の川岸の妹がクユベキ心はもたじ」とあるを〔四三七〕證として、キミガクユベキと訓したが、ベキといふ語をそへて訓むのは異例であり、岩が水の爲にクエ(潰)ることはあるが、山河が岩に觸れてタダケル(摧)ことをクエルとはいはぬやうである。
 
(2309)
 
(2310)
(一)君爾戀爾
(一)コフルトとある方がよいやうlこ思ふが姑く原字に從ふ。ニとトとは屡々相通じて用ひられたから、コフルニとよんでもコフルトの意であるかも知れぬ。
參照 モトナ
 
(2311)
(一)玉蜻
(一)舊訓による。玉蜻をタマカギルと訓したのは雅澄の卓見であるが其語義を釋明し得なかつた。其故に此歌の玉蜻をも一列に見たのであるが、タマカギル直人目とかゝるべき理由がない。こゝは「陽炎《カギロヒ》のやうにちらと見た子故」といふ意とせねば情趣がないから、或は誤寫であるかも知れぬが、舊訓の如くカギロヒノとよまねばらぬ。新考、新訓にタマカギルと改記したのは雅澄の玉蜻考盲信の結果で、枕詞といふものゝ味を解せざるものといはねばならぬ。
 
(2312)
 
(2313)
(一)山鴨高
(一)新考に高〔右○〕を寒〔右△〕の語としてサムキと訓み、末句をフリクルと改訓してあるが、「高」は「小松」の對語として用ひられたのであるから、猥に改定することは出來ぬ。末句も亦卷向川の岸の小松に雪のつもつて居るのを見て詠じたものと思はれるから、舊訓の如くフリケリの方が適切である。卷向山は餘り高い山でないのに其麓に雪が降つたから反語を用ひたので、サムキと改めては其山に住む人でもあるかのやうに聞えて、――何となれば暑さ寒さは人身の感覺からいふものであるから――青い小松の末に白雪がつもつて居る景色を賞る氣もちが乏しくなる。
 
(2314)
 
(2315)
(一)白杜材(二)但
(一)舊訓による。但し杜材を〓〓《カシ》の誤とする眞淵説は非。杜の木(材)といふ意を以てカシ(橿)にあてたのであらう。
(二)元暦校本l二はこゝに「件」の字が補うてある。
 
(2316)
(一)峯尚霧合
(一)舊訓ミネナホとあるが、古義の訓に從ふ。スラの原語はシ(其)でサヘの意となつたのは轉義である。こゝは「峯ゾきらふ」といふ意。新考に尚〔右○〕を曾〔右△〕の誤としてミネゾキヲヘルと訓したのはスラといふ語義を詳にしなかつた爲であらう。
 
(2317)
(一)殊落者
(一)「殊」は或はケニと訓むのかも知れぬ。此コトを如是の意なりとする古義の誼は七卷の殊故者《コトサカバ》奥從酒甞といふ歌から案出したもので、語義上其やうな意味にはなり得ぬ。コトと訓むべしとすれば字の如く「殊」の意と解すべきである。
參照 コトサカ
 
(2318)(2319)(2320)
(2321)
(一)袖纒將干(二)人毛不有惡
(一)古義は纒〔右△〕を衍字としてコロモデホサムと訓した。或は然らむ。
(二)惡〔右△〕の字元暦校本に君〔右○〕とあるを可とする。
 
(2322)
(一)言〔右△〕多毛(二)隱相管
(一)言〔右△〕を許〔右○〕の誤とする眞淵説可從。
(二)隱の字元暦校本には陰とある。
 
(2323)
 
(2324)
(一)山爾〔右△〕白者(二)昨日暮
(一)爾〔右△〕を乃〔右○〕の誤字とする新考説可。「山に白い所があるのは」といふ意を山ニ〔右△〕シロキハといふことは出來ぬ。
(二)從來ユフベと訓して居るが、ユフベの語義は夜又は昨夜であるから、キノフのユフベといふ古語はない。クレと訓ませる爲にわざわざ暮の字を用ひたのである。
參照 ユフベ
 
(2325)(2326)
 
(2327)
(一)梅爾可有家〔右△〕武(二)見我欲左右手二
(一)家〔右△〕は良〔右○〕の誤とする宣長説可從。末句(二)はミガホルマデニ、又はミガホシキマデニと訓するものがあるが、マデはマテニの連約であるから(語誌參照)、ミガホシキマデと訓むべきである。
 
(2328)(2329)(2330)(2331)
 
(2332)
(一)將隱鴨
(一)冬の歌らしくないといふ理由を以て新考に末二句を白雪〔右△〕將水〔右△〕隱鴨と改め、シヲユキミガクラムカモと訓したのは妄誕である。隱をカクの假字に用ひた例はなく、假にしか訓み得るとしても雪が月を磨くといふ着想があり得たとすれば雪が月(の塵)を拂ふともいひ得た筈であるが、いまだ聞も及ばぬことである。
 
(2333)
(一)相依無(二)月經在
(一)舊訓による。アフヨシモナク〔古義〕、アフヨシナクテ〔新考〕と改訓した理由を詳にせぬ。
(二)經在はヘニケルと訓めぬことはないが、其場合にはツキハ〔右○〕ヘニケルといはねばならぬ。古義訓の如く月ゾ〔右△〕ヘニケ〔右△〕ルとしてはゾといふ助語が活きて來ぬ。
 
(2334)
(一)千里零
(一)元暦校本には里の字「重」とあるが、雪は層をかされて降るものではないから、千里〔右○〕を可とする。
 
(2335)
(一)咲出照
(一)花の咲き誇ることをテルというた例に古事記の仁徳及雄畧天皇の卷にも見える。サキデテルは聞よい句ではないが、照を烏〔右△〕の誤として下の句へつけ〔濱臣〕、或は有〔右△〕の誤として初句をサキデタルと訓むべLとする説〔雅澄〕は從はれぬ。
參照 テリイマシ
 
(2336)
(一)湯小竹
(一)ユササに五百小竹の字を當てるのは〔新訓〕大なる誤である。ユは齋の義である。
參照 ユツ
 
(2337)
(一)將忘云者〔右△〕
(一)者〔右△〕は※[者/火]〔右○〕の誤とする新考説に從ふ。
 
(2338)
(一)霰落(二)板敢〔右△〕風吹(三)旗野爾
(一)元暦校本にはアラレフリと訓してある。いづれにても可。
(二)敢〔右△〕は聞〔右○〕の誤としてイタモと訓した雅澄説がよいやうである。
(三)新考に旗野爾の三字を於野上〔三字右△〕と改めたのは改作であるから問題にならぬ。
 
(2339)
 
(2340)
(一)人爾戀良久
(一)コフラクとかゝつてケヌベクオモホユと結んでは文にならぬ。恐らくは第二句は戀フレバ又はコフルトとあつたのであらう。新考は末句をケナバケヌベクと改訓したが、コフラクを述語と見ることは困難である。
 
(2341)(2342)
 
(2343)
(一)言愛美
(一)舊訓ウツクシミとあるが、こゝは「嬉しく思うて」といふ意であるから、畧解の訓の如くウルハシミを可とする。
(二)契冲訓による。新訓にはモヒキシラエムとあるが、將知をシヲエムと訓み得べきか疑問である。新考には三、四句を出立煮〔右△〕、裳下將沾と改めイデタチニ・モノスソヌレムと訓したけれども、濡るを厭うたものとすれば末句雪〔右○〕よりも雨〔右△〕の方が適切である。こゝは積雪を裳で掃くことをいうたのであらう。
參照 ウルハシ、ウツクシ
 
(2344)
 
(2345)
(一)消友
(一)「消」の上に「將」の字脱として畧解、古義はケナメドモとよみ、新考 はキエメドモと訓した。「消去とも」の意として舊訓の如くキエヌトモと訓む方がよいやうである。
 
(2346)
(一)見山雪之
(一)舊訓ミルヤマユキとあり、眞淵以下上句の「跡」を次句に移してウカネ〔右○〕ラフトミ山ユキと訓して居るが、慣例によれば山の雪のヤマユキとはいはずウカネラフといふ言葉も熟せぬやうに思はれる。案ずるにウカラフトは「見」の序でミヤマのミは接頭語であらう。
參照 ウカラフ
 
(2347)
 
(2348)
(一)※[厭のがんだれなし]毛
(一)舊訓ウトミとあり、ウケク、イトヒと訓み、或は字を改めてケナガクシキテと訓したものもあるが、ツツミと解讀した新考説に從ふべきである。ツツミは障の意であるが、雨ツツミなどともいふから、雪の縁語と見られる。―― 但し※[厭のがんだれなし]を恙〔右△〕の誤字としたのは蛇足で、例はなくとも※[厭のがんだれなし]の字義にはツツミの意が含まれて居るのである。
參照 ツツミ
 
(2349)
(一)君乎祚待也
(一)契沖訓に從ふ。
 
(2350)
 
     【卷第十一】
 
(2351)
(一)御座
(一)オハシ〔畧解〕、イマシ〔古義〕と訓するは非。字の如くミマシと訓 むべきである。ミは敬語、壁草(壁葺料の草)苅りにマセといふ意、マセは「御座《ゴザ》れ」の意にもなるのである。
 
(2352)
(一)蹈靜子
(一)古義にフミシヅム子と改訓したのは從はれぬ。シヅノコは賤の子で、珠の如照せる君の對照に用ひられたものと思はれる。恐らくは新室フミといふ行事があつたのであらう。更に想像すると新室フミは新室ホメ(讃)の訛かも知れぬ。
 
(2353)(2354)
 
(2355)
(一)惠得
(一)新考の訓に從ふ。但しメグシを體言にすればメグミとなるといふ説はとらぬ。メグミはメグクミの約であらう。
參照 メグシ
 
(2356)
(一)床落邇祁〔右△〕留
(一)オチニケルでは時格がちがふ。新考の説の如く祁〔右△〕を誤字としてオチニタ〔右○〕ルと讀むべきである。
(二)舊訓キナムトイハバとあり、或本にはコムトイヒセバとあるが、假定條件と見ると取捨ようとする下意があるかに思はれて情趣がないから、少し無理ではあるが、コムトイヘレバと訓むのであらう。
 
(2357)
(一)早起
(一)ツトニオキテ〔新考〕と訓んでもよいが、ツトは其頃既に用ひられては居たけれども外來語で、ハヤクの方が古い語であることを知らねばならぬ。――語誌參照。
 
(2358)
(一)雖生
(一)新考は三、四句をナガクホリセシ〔右△〕・イケレドモ〔三字右△〕と改訓した。若し然りとせば初句もナニストカ又はナニシカモと改めねはならぬ。加之改訓の理由とする「モナとホリセムは相副はす、又生ケリトモと逢ハナクニは相副はず」とする議論は語義及語法上少しも理由のないことであるから、尚舊訓に從ふ。
參照 モトナ
 
(2359)(2360)
 
(2361)
(一)一棚橋
(一)新考には一棚橋を乙〔右△〕棚織〔右△〕の誤とし、以下多くの字を改めて全然歌の姿をかへてしまうてあるが、タナハシといふ語は第十卷の七夕の歌中にも見えるから〔二〇八一〕、天漢の棚橋を思ひ寄せて「天なる」といふ枕詞的修飾語を用ひれのは決して怪しむに足らぬ。――大和の香山を天香山といひ、或は第十六卷に天ナル・ササラの小野と用ひたのと同例である。
(二)童蒙抄の訓による。新訓には末二句をツマガイヘラク足ヨソヒセヨと改訓してあるが、家庭の對話を見るよりも、通路の丸木橋を渡るときの思を述べたものとする方が情趣が深いやうである。――次の〔二四三五〕にも妹所云〔二字右○〕をイモガリトイハバと訓ませてある。
參照 タナハシ
 
(2362)
(一)開木代來背
(一)山シロのクゼは山シロのクゼのワクコを略したものであらうが、新考の説のやうに誤字ではあるまい。
參照 アフサワニ
 
(2363)
 
(2364)
參照 スケキ
 
(2365)(2366)(2367)
 
(2368)
(一)未爲國
(一)新考に爲〔右○〕相〔右△〕の誤としたのは從はれぬ。相〔右△〕なりとせば第四句をも「事ニ」又は「事ニハ」と改めねばならぬ。「爲」は戀をスルといふ意である。
(2369)
 
(2370)
(一)事告兼〔右△〕
(一)兼〔右△〕は無〔右○〕の誤とする本居説可。嘉暦本にも事告無とある。
(2371)
(2372)
(一)戀物(二)有物
(一)舊訓による。畧解、古義にコヒムモノトシ、コヒムモノゾトと改訓したのは下二句を訓み改めた結果である。
(二)下二句トホクミルベクアリケルモノヲ〔畧解〕、トホクミツベクアリケルモノヲ〔古義〕、トホクミテノミアラマシモノヲ〔新考〕等の訓があるが、「遠」はヨソニの假字で、第三句に對し、結句はアラマシモノヲであらねばならぬ。
 
(2373)
(一)戀無乏
(一)眞淵訓による。新考には戀社益〔二字右△〕の誤寫としたが、尚一考を要する。
 
(2374)(2375)(2376)(2377)
 
(2378)
(一)不厭苦
(一)新考訓による。
 
(2379)
(一)近渡乎
(一)新考は七卷〔一二四三〕に「見渡せば近き里廻をたもとほり」とあるによつて渡〔右○〕を里廻〔二字右△〕の誤としたが、界隈をワタリともいふことは伊勢の度會《ワタラヒ》(ワタリ、アヒの約)といふ舊地名からも推定せられる。ワタリじゃアタリと同語である。
參照 ワリタラヒ
 
(2380)
(一)早敷哉(二)誰障鴨(三)路見遺
(一)ハジキヤシを不可解として早敷〔二字右○〕は慨〔右△〕の誤りで、ウレタキヤと訓むのであらうというたものがあるが〔新考〕、ハシキヤシはヨシヱヤシと同樣に、「さもあらばあれ」の意に用ひられたのである。――ハシ(好)、ヨシ(吉)は畧々同義である。
(二)舊訓サヘテカとあり、サフルといふ訓もあるが〔古義〕、障はツツミの假字で、罪障(ツツミの語釋を見よ)に包圍をいひかけたのである。「支」としてはワスレといふ語がきかぬ。
(三)新考に四句脱字ありとしてミチハチカキと訓したのは第二句をサフレカモと訓みちがへた爲の推斷で論ずるに足らぬ。
參照 ハシキヤシ、ヨシヱヤシ、ツツミ
 
(2381)
(一)見欲
(一)ミマクホシケミ〔古義〕、ミマクホシキニ〔新考〕といふ訓もあるが、舊の如くミマクホリシテというても少しも妨はない。
 
(2382)
 
(2383)
(一)常如(二)半〔右△〕手不忘
(一)眞淵の訓に從ふ。
(二)半〔右△〕は哥〔右○〕の誤としてウタテと訓した新考説に從ふべきである。
 
(2384)
(一)我告來〔右△〕
(一)新考訓による。來〔右△〕は誤字であう。
 
(2385)
(一)五〔右△〕年雖經(二)不止恠
(一)五〔右△〕は衍字たりとする説もある〔濱臣〕。若し然りとせば、トシハフレドモと訓むべきであらう。
(二)古義の訓による。
 
(2386)
(一)行應通(二)建男(三)後悔在
(一)磐を披《オシワ》けたといふ古事はあるが〔神武紀〕、行通とはいひ得られぬやうに思はれる。或は行〔右△〕は射〔右○〕の誤で、イトホシヌベキと訓むのではないかと考へられるが、確證がないから姑く舊訓を存する。
(二)舊訓マスラヲモとあるが、末句によればマスラヲニモ〔二字右○〕であらねばならぬ。新考に從ひ健男はタケヲと訓むを可とする。
(三)舊訓による、古義にノチクイニケリと改訓したのは第三句をマスラヲモと訓み.之にあはせる爲であらうが、此歌を過去の事實を詠じたものと見ることは困難である。
 
(2387)
(一)日位
(一)童蒙抄に位〔右△〕は竝〔右○〕の誤とあるに從ふ。西本願寺本に日促〔右△〕とあるによつて新訓はヒクレナバと解讀したが、日中の戀を詠じたものとは考へられぬ。
 
(2388)
(一)態不知
(一)初二句をタチテヰテタドキモシラズ〔古義〕、タナテヰムタドキヲシラニ〔新考〕と改訓したものもあるが、タドキ(手著)を態と譯する筈もなく、舊訓の通りでも解しがたくはないから、強ひて改めるにも及ぶまい。
參照 ワザ。
 
(2389)
(一)
待苦
(一)舊訓マテバクルシモとあり、契冲はマタバクルシモと改めたが、いづれにしても意が通ぜぬ。其故に新考は待〔右○〕を看〔右△〕の誤としたが、朝歸り行く君の再來を待つのが苦しいといふ意であるから、マツガクルシサと訓むべきで、わざ/\改作するにも當るまい。
 
(2390)
 
(2391)
(一)玉響〔右△〕
(一)舊訓タマユラとあるが、たとひ右の如き語があり得たとしても、次の句とは關係がなく、木に竹をついだやうな憾がある。雅澄は之を夕の枕詞としてヌバタマノと訓み、鬼の首をとつたやうに自慢したが、夕の枕詞はヌバタマには限らぬ。此歌の情趣からいへば響〔右△〕を誤字としてタマカギルとすべきである。――恐らくは隔〔右○〕を寫し誤つたのであらう。
參照 タマカギル、ヌバタマ
 
(2392)
 
(2393)
(一)惻隱
(一)舊訓シノビニとあるけれど、此場合には不穩當である。眞淵はネモコロと訓したが、惻隱といふ文字にあたらぬのみならず、シヌビニよりもなほ不適當とせねばならぬ。新考に惻隱の二字を衍として削つたのは餘りに無雜作である。案ずるに惻隱はいたみ哀むといふ意を以てウタテの假字に用ひられたのであらう。假にウタテカカラムと訓して置く。或は此有は此日〔二字右○〕の誤譲でウタテコノゴロと訓むのかも知れぬ。語例は第十卷〔一八八九〕、本卷〔二四六四〕、第十二卷〔二八七七〕にもある。
參照 ウタテ
 
(2394)
(一)風所見
(一)古義の訓に從ふ。
 
(2395)
(一)行行
(一)新考に行々〔二字右○〕待々〔二字右△〕に改めたのは非。家で待てば露霜にはぬれぬ筈で、野合の待合所に女の來ぬ場合の歌と限定するには言葉が不足である。
 
(2396)(2397)
 
(2398)
(一)年切
(一)略解以下年を玉の誤として居るが、タマキハルといふ語の外に年キハルもあり得た筈である。――世の枕詞である。
參照 トシキハル
 
(2399)
(一)心異
(一)古義の訓による。
 
(2400)
(一)極太甚
(一)ココダハナハダ〔舊訓〕、ネモコロゴロニ〔宣長〕、ココダクモワガ〔新考〕等の訓があるが、尚心ゆかぬ。字についていへばココダハナハダが當を得て居るやうであるが、語義からいへば甚拙い修辭とせねばならぬ。ネモコロは戀フの修飾語にならず、「吾」といふ字を脱したとする證據もない。頭韻を押してイ〔右○〕デイ〔右○〕カニイ〔右○〕トモというたものと思はれるから、太甚はコチタクの假字であらう。
 
(2401)
 
(2402)
(一)相依無
(一)眞淵訓による。
 
(2403)
(一)玉久世
(一)新考にクセについて考證があげてあるが、此歌に對しては無用のことである。久世をほめてタマクゼともいひ得るし、又久世のうちにタマクゼの河原といふ地點があつたとも解せられる。原文原訓のまゝでよくわかる歌である。
 
(2404)
(一)忘念
(一)舊訓「思フヨリ見ルヨリ物ハアルモノヲ一日ヘダツル忘ルト思フナ」とあるが、意が通ぜぬから、下二句は契冲訓により、第二句に誤脱あるものとして假に訓して見た。△△△は「欲シキ」といふやうな語であらう。
 
(2405)
(一)公無
(一)末句眞淵の訓による。
 
(2406)
(一)紐解開(二)夕戸〔右△〕(三)戀邑
(一)新考訓による。
(二)戸〔右△〕は谷〔右○〕の誤とする略解の説可。
(三)下二句從來シラザルイノチ・コヒツツカアラムと訓して居るが、單にイノチというて「生命なるものを」〔吉義〕又は「命もて」〔新考〕の意とすることは無理である。案ずるに四句の有〔右▲〕を衍字としてシラヌイノチゾと句を切り、末句はコヒツアツアレバと訓むのであらう。
 
(2407)
(一)百積船(二)潜納八〔右△〕
(一)舊訓モモサカフネとあり、雅澄はモモツミノフネと訓したが、細井本、西本願寺本の訓の如くオホフネノと訓み、百積船は其意譯とすべきである。オホフネはカツキ(※[楫+戈]着)にかゝる枕詞であらう。
(二)八〔右○〕は恐らくは人〔右○〕の誤字で「潜入する人」といふことをカツキイル人というたものと思はれる。――但しカツキの原義は「潜む」といふことではないから、轉義によるものとせねばならぬ。
 
(2408)
(一)待哉
(一)舊訓マツラムヤとあるが、これは作者(女性)の意嚮をいふのであるから、マタムであらねばならぬ。哉をカモの假字に用ひた例は此集には乏しいが、字義上可能である。
先學は、「待つ」の主格が「吾君」(男性)であると解したやうであるが、女が男の許に通ふといふ習俗は此時代にはなかつた筈であるから、末句の「吾君」は目的格であらねばならぬ。此卷〔二八〇八〕は之と同一の歌であるかのやうに註記せられて居るが、末句が相違して居るから、其に準じて解くことは出來ぬ。
 
(1409)
(一)結手徒
(一)徒〔右○〕の字舊訓タダニとあるが、イタヅラニの意であらねばならぬから、モトナと訓すべきである(語誌參照)。――歌の意は下紐のとけるのは思ふ人が來る兆(前出の歌參照)であるといふ俗信に反し、戀ひわびて居るにも拘はらず徒に紐が結ばれる(古語では「結び」は自動詞にも用ひられた)といふことである。
考に第三句以下をアヤシクモ我下紐ヲユフ手タユシモとし、新考にアヤシクモ下紐トケテ結フ手タユシモとしたのは解讀以上で、寧ろ作りかへといふべきものであるから、「如何やうにも御隨意に」と評する外はない。
參照 モトナ
 
(2410)
(一)年者竟杼
(一)舊訓クルルとあるが、竟の字は十卷にもワタルの假字に用ひられた例がある〔二〇〇四〕。
 
(2411)
 
(2412)
(一)戀無之〔右△〕(二)不所寐
(一)之〔右△〕の字嘉暦本、神田本其他に乏〔右○〕とあるを可とする。
(二)末句イネラレナクニ〔右○〕とあるは非、ニといふ助語がつくと反對の歸結を導く前提句にたる。
 
(2413)
(一)令解
(一)令解はトケの假字であらう。トケは本來トキ(解)の使動詞なるが故に、令の字を用ひたのである。古義に之を今〔右△〕の誤としたのは從はれぬ。
 
(2414)
(一)意追〔右△〕不得(一)不知來
(一)追〔右△〕の字は契冲説の如く遣〔右○〕の誤であらう。――遣〔右○〕と貼紙別記した本もある。
(二)四、五句眞淵訓による。
 
(2415)(2416)(2417)
 
(2418)
(一)何名負
(一)名負の二字を下の句につけてイカナラム.ナニオフ神と訓するものもあるが、名負の二字は此歌には必須のものではないから、舊訓のやうに何名負の三字をイカナラムの義譯としてもよし、又此三字をナニトイフ〔五字右○〕と讀んでもよい。姑く舊訓に從ふ。
 
(2419)(2420)
 
(2421)
(一)※[糸+參]〔右△〕路者
(一)※[糸+參]〔右△〕は繰〔右○〕の誤か〔契冲〕。
 
(2422)(2423)
 
(2424)
(一)能登香山(二)誰故
(一)舊訓ノトカの山ハ〔右○〕とあるが、此はノトカ(莫解の意を含む)の山のやうにといふ意であるから、ノトカの山ノ〔右○〕と訓まねばならぬ。
(二)新考に故を言〔右△〕の誤とし、末句をヒモアケザレヤと改訓したのはタガユヱ(何故の意)といふ語を解し得なかつた爲であらう。原字舊訓の儘でよく意の通ずる歌である。――語法要録代名詞の項下參照。
參照 ノトカの山
 
(2425)(2426)
 
(2427)
(一)是川
(一)是《シ》は氏に通ずるから是川はウヂカハの假字にあてられたものであるといふ説もある〔春滿〕。さりながら此歌は必しも宇治川たることを要せぬから、コノカハを穩ならずとせば寧ろ是〔右△〕を早〔右○〕の誤としてハヤカハと訓むかとも思はれるが、姑く舊訓に從ふ。
 
(2428)
 
(2429)
(一)裳襴潤
(一)類聚古集の訓による。
 
(2430)(2431)
 
(2432)
(一)塞耐在
(一)セキアヘテケリ〔畧解〕、セカヘタリケリ〔古義〕、セキゾアヘタル〔新考〕、セキアヘニケリ〔新訓〕等區々であるが、舊訓の如くセキゾカテタルと訓むべきである。カツは克の義である。
 
(2433)
參照 ウケビ
(2434)
(一)外往
(一)外の字舊訓にはホカとあるが、語義上此場合にはホカとはいひ得られぬ。
參照 ホカ、ヨソ
 
(2435)
(一)七日〔二字右△〕越來
(一)七日〔二字右△〕は直〔右○〕の誤字とする或人説〔畧解〕に從ふ。新考には越ゆべきものを示さざるべからずとして、七日は山母の誤字であらうというたが、此コエは接頭的用法で、其意は單に「來」といふと大差はないから必しも目的格を必要とせぬ。
 
(2436)
參照 イカリ
 
(2437)
 
(2438)
(一)暫〔右△〕吾妹
(一)
(一)暫〔右△〕は繁〔右○〕の誤とする宣長説に從ふ。
 
(2439)
 
(2440)
(一)藏公之
(一)西本願寺本其他の訓による。「イカリおろし」とつゞかぬやうであるが.碇綱の伸びて出ることにいひかけたものであらう。
 
(2441)(2442)
 
(2443)
(一)隱處(二)澤泉在
(一)舊訓による。但しヅはト(處)の音便であらう。或はコモリク〔右○〕と訓む方がよいかも知れぬ。
(二)新考に澤泉を不可解として澤立水の誤としたが、イヅミは出水の意で、サハは谿のことである。
 
(2444)
 
(2445)
(一)今益
(一)新考は此訓を不可として、「その益るものをいはざるべからず」といひ、第四句を改作したが、今ゾマサレルは「戀ひまされる」の意で上にコヒといふ動詞が用ひてあるから、省畧したのである。此やうな省語は歌にも文にも多いことで、初學者が外國文語も學ぶときのやうにどこに目的格があると詮議するほどのことはない。――但し新訓のやうに第四句をコヒセシ〔二字右○〕ヨリハと改めると或は右の如き非難も起るであらう。
參照 シヅク
 
(2446)
 
(2447)
(一)念
(一)舊訓にはワスレジト・オモヒシコトハとあるが、契冲及宣長の訓に從ふ。
 
(2448)
(一)間開乍
(一)ヌバタマノアヒダとつゞく理由が不明であるので、眞淵は烏〔右△〕を白〔右○〕の誤としてシラタマヲと訓したが、若し實在の殊をいふならば赤玉でも、青玉でも、或は烏玉《クロタマ》でもよい筈であるから、輕率には從はれぬ。或はヌバタマの夜の間〔右○〕の意で、「夜」を畧したのではあるまいか。
 
(2449)(2450)(2451)
 
(2452)
(一)意追〔右△〕(二)見乍爲〔右△〕
(一)追〔右△〕は上記〔二四一四〕の如く遣〔右○〕の誤であらう。
(二)爲〔右△〕は居〔右○〕の誤とする眞淵説可v從。
 
(2453)(2454)(2455)
 
(2456)
(一)山草(二)益益所思
(一)舊訓の如くならば草〔右△〕は菅〔右○〕の誤字であらう。
(二)古義がシクシクオモホユと改訓したのは上にフリシキとある音を重ねたものと見たのであらうが、益々をシクシクと訓むのは無理である。
 
(2457)
(一)時〔右△〕依來
(一)時〔右△〕は恃〔右○〕の誤とする新考説可。
 
(2458)
(一)何此夜
(一)宣長は何〔右○〕を待〔右△〕の誤とし、マツニコノヨヲと訓したが、原字の儘イツシカコノヨとしても意はよく通ずる。
 
(2459)
(一)濱行風(二)急事益
(一)行〔右△〕は吹〔右○〕の誤とする説もある〔古義〕。
(二)舊訓ハヤコトマシテとあり、略解、古義はハヤコトナサバと訓み、益を末句に移して居るが、原のまゝ又は急事の二字を轉置してコトセカマセバと訓すべきである。
歌の意は「濱風のやうに我背子が事を急いだたら、逢はぬといふことはなかつたであらう」といふのである。畧解以下誤解があるやうである。
 
(2460)
 
(2461)
(一)追〔右△〕出月
(一)追〔右△〕の字金澤文庫本には進〔右○〕とある。
 
(2462)(2463)(2464)
 
(2465)
(一)草佐倍思
(一)舊訓オモヒとあるが、シヌビであらねばならぬ。シヌビは下延に通じ、草の縁語である。
 
(2466)
(一)何在云
(一)舊訓イカナリトイヒテとあり、イツナリトイハバ〔童蒙抄〕、イカニイヒテカ〔新考〕と訓したものもあるが、ナニナリと訓すべきである。ナニナリが後撰、源氏などに多く用ひられた慣用句ではあるが、後世に發生したものではなく、古い語法である。
古義が淺茅原小野を曠野原の意としたのは曲解である。播磨風土記飾磨郡の條下にも、稱2枚野《ヒラヌ》1者昔爲2小野1故號2枚野1、稱2大野〔二字右○〕1者本爲2荒野〔二字右○〕1故號2大野1とあり、大野即ち荒野にあらざる平野をいひ、アサヂ即ち「つばな」の生ひた野合に適する地形である。されば歌の意は「小野を占めて君を待たう。縱ひ逢はうというたのが空言であつても何かあらむ」といふことで、之をムナコトの序とするのは誤である。――〔二七五五〕の歌も同様の趣を詠じたのである。
參照 アサチ、ムナコト
 
(2467)
(一)後云
(一)さゆり花ユリとつゞけた例があるので、宣長はユリを後の意なりとし、ユリニチフと改訓したが、ユリは緩《ユリ》の義で、「後」といふ意味はないのみならず、こゝはノチ、イノチと言葉をかさねたので、單に「妹が命を我知らめや」というては餘りに露骨である。「草深百合の〔右△〕」とあるは譬喩で、ユリといはんが爲ならばノが蛇足となる。
 
(2468)
(一)交在草
(一)上の草〔右△〕は衍で、ミナトノ・葦ニマジレル・シシクサノと詠じたのではあるまいかと思ふが、今之を立證し得ぬ。
 
(2469)
參照 チサ
 
(2470)
(一)核延子菅(二)不竊隱(三)有不勝鴨
(一)舊訓ネハフコスゲノとある。此訓を正しとせば核〔右○〕は根〔右△〕の誤とせねばならぬが〔宜長〕、サ根バフ小菅(サは接頭語)とも訓み得るから、原字や尊重して訓をあらためた。
(二)宣長は不〔右○〕を之〔右△〕の誤として上の句につけ、竊隱をネモコロニと訓したが、ネモコロの語義を解せざるものといはねばならぬ。舊訓に從ふべきで、シヌビは菅の根の縁語である。
(三)不勝はカテヌ(不克)である。カにわざ/\濁點を附し〔新考〕、或は「難ぬ」と譯したのは大なる誤である。若しガテの完了格とぜばガテヌル〔二字右○〕カモといはねばならぬが、ガテ(難)はガタの音便で、動詞としてガテン、ガツ、ガツル、ガツレと活用せられるものではない。
 
(2471)
(一)凡浪
(一)浪は借字、並の意である。
 
(2472)
(一)見渡(二)惻隱吾
(一)ウマサケノ〔古義〕又はミワタシノ〔新考〕と改字改訓したのは非。「見渡セバ見」といひかけたのである。
(二)惻隱をネモコロと訓することの誤なるは既記の通りで〔二三九三〕、ここはシヌビと訓むべきである。
 
(2473)
(一)惻隱君
 
(2474)(2475)
 
(2476)
(一)夜一人宿
(一)四、五句舊訓エラレシワレヲ、ヨル一人ヌルとあり、エラレシをエラエシ〔畧解〕、エラシシ〔新考〕としたものもあるが、擇んだものは作者であらねばならぬ。稗を捨ててよき稻を擇んたが故に一人寢る結果になつたといふのである。ヨルヌルは古語ではイヲヌルといふを例とした。
參照 ウツタ
 
(2477)
(一)名負山菅
(一)宣長が名負の二字をヤマノと訓したのを新考は非として、名に負フは「實になるといふ名に負ふ」義としたのは卓見である。
 
(2478)
(一)潤和川邊(二)細竹目(三)公無勝
(一)舊訓ヌルヤとあるが、アキカシハとつづかぬのみならず、潤はウルと訓むのが例であるから(ヌラスとはいひ得られるかも知れぬが、ヌルと訓するのは無理である)、童蒙抄の訓の如く、ウルワとすべきである。――所在不明。
(二)從來シノノメと訓して居るが、東雲と限定すべき理由がない。――次の〔二七五四〕の歌を以て推すことは出來ぬ。案ずるに細竹はササの假字で、之に接頭語イを添へてイササメと訓むのであらう。
(三)舊訓人モ〔右○〕アヒミジ君モマサラジとあるが、拙い修辭であるのみならず、意をなさぬ。顔面(對面と同義)といふ字から推しても第四句は人ト〔右○〕アヒ見ジであらねばならず、末句はカテナクニと訓むのであらう。カテは「加」の意である。
參照 ウルヤ川、アキカシハ、イササメ
 
(2479)
 
(2480)
參照 イチシの花
 
(2481)
(一)吾眷
(一)下二句宣長訓に從ふ。但し眷の字を戀の誤としたのは從はれぬ。雅澄説の如く眷は戀に通ずるのである。
 
(2482)
(一)心依
(一)新考はココロユ〔右○〕ヨリテ、新訓はココロハ〔右○〕ヨリテと改訓したが、舊訓を非とすべき理由を詳にせぬ。
 
(2483)
 
(2484)
(一)君乎待出牟〔右△〕
(一)牟〔右△〕の字は奈〔右○〕〔眞淵〕又は年〔右○〕の誤〔宣長〕であらうといはれる。どちらでもよい。
 
(2485)
(一)可見限
(一)舊訓カギリとあるが、キハニと訓む方がよい。
 
(2486)
 
(2487)
(一)不相止者〔右△〕
(一)舊訓による。――者〔右△〕は誤字であらう――ヤミナム〔右△〕と改めたのは柱に膠するものである。
參照 ウレムゾ
 
(2488)
(一)立回香瀧
(一)舊訓タチマフとあるが、瀧の形容にタチマフは不當であるから、立回(廻とした本が多い)はタチワ即ち絶壁(ワは廓の意)で取まくことをいひ、其から懸垂する瀑布といふ意味で、タチワガ瀧と詠じたのであらう。瀧を※[木+龍]〔右△〕又は樹〔右△〕の誤として、ワカマツ〔契冲〕、ムロノキ〔眞淵〕と訓したものがあるが、甚しく牽強であるのみならず、次のイタク〔二字右○〕、フカ〔二字右○〕メといふ語との縁を考へると、瀧〔右○〕の字を動かすことは出來ぬ。
 
(2489)(2490)
 
(2491)
(一)從是此度
(一)舊訓はココニ〔右△〕ワタルと六音に訓してあるが、從をニと訓むことは不穩當である。眞淵が此を飛〔右△〕の誤としたのは雁と間違へたのであらう。鴛鴦の飛びわたるのを見ることは萬葉時分でも恐らくは絶無に近かつたであらう。
 
(2492)
(一)人見鴨
(一)舊訓アシヌレクルヲとあるが、ヌルと自動詞にいふよりもヌラシと他動詞に用ひる方がよい。宣長が沾〔右○〕を脳〔右△〕の誤としてアナヤミとしたのはナヅサヒとアナヤミとを同義語としたものであらうが、語義に通ぜぬことも甚しい。――女人の歌である。
 
(2493)
 
(2494)
(一)極太戀
(一)略解古義に極太をネモコモと訓したのは大僻事である。新考説の如くココダの外にはよみやうがない。
 
(2495)
 
(2496)
(一)肥人(二)額髪結在(三)染心
(一)舊訓コマヒトとあり、ウマヒト〔拾穗抄〕、クマヒト〔喜田〕などいふ訓があるが、篤胤がヒノヒトとよめというたは  稍々當を得たもので、正しくはヒナヒトであらねばならぬ。ヒナヒトは夷人の意で、肥とかいたのは此民族の原稱呼がヒであるからである。
(二)和名抄に髻額前髪也、俗云奴加加美とあるによつて、ヌカカミと訓めといふものもあるが、同書容飾具に蔽髪釋名云2髪前1爲v飾、和名比多飛とあり、ヒタは鮮語※[ハングルでピス](櫛)から出た語であるから、此場合はヒタヒガミといふ方がよいやうである。
(三)新考の訓による。染木綿の如く「しめた」といふ意である。
參照 ヒナ、ヒ、ヒタヒ
 
(2497)
(一)吾名謂
(一)女性の歌と思はれる。――末句の※[女+麗]は借字で夫《ツマ》であらう――宣長が吾〔右○〕を君〔右△〕の誤としたのは一理のあることであるが、女が人中で自分の名を判然というてくれと男に迫つたこともないとはいへぬから、尚舊訓に從ふ。
ヨコヱは矢聲即ち矢※[口+斗]の意であらう。
 
(2498)
 
(2499)
(一)念不得
(一)從來オモヒカネツモと訓して居るが、「名の惜しいことも思ひかねた」とは――いひ得られぬ車はないにしても――弱い言ひ方である。
不念得の轉置としてオモホエヌカモと訓む方がよいやうである。
 
(2500)
(一)向黄楊櫛(二)見不飽
(一)朝ツク日は向フの枕詞ではあるが、ムカフツゲ櫛とつづく理由を明にせぬ。新考に向〔右△〕は射〔右○〕などの誤りでサスヤツゲグシではなからうかとあるのは名説である。
(二)從來ミルニアカザラムと訓して居るが、上二句から受ける連想によれば、フリヌレドは女性が自分のことをいうたものゝやうであるから、見不飽も亦自身のことであらねばならぬ。されば見ルニはミテ〔二字右○〕と改訓すべきでわらう。――新考に見ルニアカレヌと訓したのは「君が(私によつて)見飽かれね」といふ意に解したものと思はれるが、昔も今も餘り用ひぬ表現法である。
 
(2501)
(一)眷浦經
(一)古義の訓による。
 
(2502)
 
(2503)
(一)射然汝
(一)舊訓イツシカとあり、眞淵は射を何〔右△〕の誤として、ナニシカナレガと訓した。いづれも妥當と思はれぬ。細井本の訓によりイシカと誦すべきであらう。イは接頭語でシカといふに同じく、イ〔右○〕シカイ〔右○〕マシと頭韻を押したのである。
 
(2504)
(一)浮沙生〔二字右△〕吾
(一)三、四句は舊訓ウキテノミ・マナコナスワガとあるが意が通ぜぬ。嘉暦本、類聚古集等にはウキクサノ・イ〔右○〕キテモワレハとあるから、眞淵訓に從ひウキクサノウキテモと誦すべきである。生〔右△〕は浮〔右○〕、沙〔右△〕は莎〔右○〕の誤であらう。
 
(2505)
 
(2506)
(一)事靈(二)妹相依
(一)コトタマヲ又はコトタマニと訓するは非。コトタマは八十のちまたの枕詞である。――ユフケトヒは或人(神に問ふ義と解するのは誤で、他の用例によるも問はれる神(又は人)をさしたものはない。此トヒは言問、妻問なとゝ同一用例である。
(二)新考、新訓の改訓は從はれぬ。
參照 コトタマ〔枕〕、ユフケ
 
(2507)(2508)
 
(2509)
(一)隱而在※[女+麗]
(一)從來コモリタルツマとよみ、しのび妻の意と解したるは非。此は前の歌に對し「神の御門に籠つてゐる婦人」といふ意であるから、字の如くコモリテ在ルツマと訓まねばならぬ。動詞として用ひられたアリ(在)と前續語とは連約せぬのが例である。――語法要録參照。タマカギルは石垣の枕訓、イハカキフチは譬喩で、コモリの序に用ひられたのであるが、此兩語によつて婦人の隱れて居る所が神の玉垣の中であることが連想せられる。古人が枕詞又は序に意を用ひたことの適例とすべきである。マソカガミも亦神に縁のあるものである。
參照 マソカガミ〔枕〕、クマガキル〔枕〕、イハガキフチ
 
(2510)
(一)袖卷〔右△〕吾妹
(一)卷〔右△〕を擧〔右○〕の誤としてソデフレと訓した宣長説に從ふ。
 
(2511)
(一)戀由眼
(一)字を改めて改訓したものが多いが、原字、舊訓を最も可とする。
 
(2512)(2513)(2514)
 
(2515)
(一)夜不寐
(一)夜ヲモネズ〔畧解〕、ヨイモネズ〔古義〕、ヨルモネズ〔新考〕、ヨモイネズ〔新訓〕等の訓があるが、イ〔右○〕ヲヌル又はイヌルは複合動詞で、夜寢《イネ》の意であるから、ヨイモネズ、ヨモイネズとはいへず、ヨルネズも亦穩でない。こゝはヨモネズの意として、慣例に從ひイヲ〔二字右○〕モネズと訓むべきである。
 
(2516)
(一)枕人(二)苔生負〔右△〕爲
(一)新考、新訓にマクラキシヒトとあるが、マクラキは古語ではなく、調の上からも不可である。苔むすまで久しく打絶えた(其間に他に情人が出來たことを言外に含ませてある)枕を人は問訊せんやといふ意であるから、マクラヲヒトハと訓むべきである。――マクラニ〔右△〕人ハ〔畧解、古義〕とするは非。
(二)古義は負を二〔右△〕の假字としてコケムシニタリと訓した。或は苔生爲有〔右○〕の誤記ではあるまいか。
 
(2517)(2518)
 
(2519)
參照 シヱヤ
 
(2520)
 
(2521)
(一)率爾
(一)舊訓イザナミニとあり、類聚古集にはタチマチニとあるが、眞淵訓を可とする。
 
(2522)
(一)思狹名〔右△〕盤(二)外耳見之
(一)舊訓オモフガセナハとあるが意をなさぬ。其他思名積而〔三字右△〕〔古義〕、惜〔右△〕登思 我〔右△〕名既立〔二字右△〕之者〔新考〕の如く字を變へて訓したものもあるが、説き得たりとも思はれぬ。案ずるに盤狹占の轉置で、名〔右△〕を占〔右○〕の誤記とし、オモフマサウラと訓むのであらう。上記〔二五〇六〕の歌にも占マサニノレとあり、マサウラといふ語の用ひられたことは疑がない。或は盤〔右△〕は眞〔右○〕の誤寫かも知れぬ。
(二)從來ヨソノミゾ〔右△〕ミシと訓して居るが、其はシ〔右○〕といふ第二終止法に捉はれたものでこゝは「外々しくして居る」といふ意であるから、ぞと指定することは出來ぬ。第二終止法を用ひたのは下に感動詞を含めたのである。或はヨソノミニ〔右△〕ミシであらねばならぬと言ふものがあるかも知れぬが、ニはノミの上下いづれに置いても差支のない助語で、こゝは調の上からヨソニノミミシを可とする。
 
(2523)
參照 スクナクモ
 
(2524)
 
(2525)
參照 ココロド
 
(2526)
 
(2527)
參照 コロビ
 
(2528)
 
(2529)
(一)雖來
(一)舊訓による。「來」の上に「往」の字脱か〔契冲)。
 
(2530)
參照 キヘ
 
(2531)
 
(2532)
(一)凡者
(一)眞淵訓による。オホカタハ〔古義〕、オホロカニ〔新考〕は非。尋常ならば誰も見まいから、黒髪をなひかせて居ようといふのである。
 
(2533)
(一)言者
(一〕言〔右○〕は吾〔右○〕に通じて用ひられる〔  〕。
 
(2534)
 
(2535)
(一)行者
(一)新考には乃行〔二字右○〕を爾妹〔二字右△〕と改め、オホロカニ・イモハオモハズと訓してある。或は然らむ。
 
(2536)(2537)(2538)
 
(2539)
參照 イナヲカモ
 
(2540)
參照 タキ
 
(2541)
(一)往箕
(一)ユキミの里所在不明。
 
(2542)(2543)
 
(2544)
(一)間無見君
(一)舊訓マナクミムキミとあるが.意が通ぜぬので、宣長は君〔右○〕を社〔右△〕の誤としてマナクミエコソと訓み、雅澄はミエキミと改めた。案ずるに間〔右○〕はシバシの假字で、シバシミナクニと訓むのであらう。
 
(2545)(2546)(2547)
 
(2548)
(一)嘉暦本には玉桙〔右△〕之とあるが、タマボコのツカヒとかゝる理由がない。奇を好んで之に從うたものもあるから一言する。
此歌の第二句を不可解としてナムに祈《ノム》の意ありとし〔契冲、雅澄〕、戀ナミスル意〔宣長〕と説くものがあるが、「君が使を待つても待ち得ぬだらうから、唯此やうに〔五字右○〕戀ひて居よう」といふ意で、コヒナムは普通の未來完了である。
 
〔2549)
(一)木〔右▲〕枕通而
(一)シキタヘ〔二字右○〕とあるから木は衍字とせねばならぬ。眞淵は之〔右○〕の誤で上の句につくとした。
 
(2550)(2551)(2552)(2553)
 
(2554)
(一)對面者
(一)嘉暦本の訓による。
 
(2555)
(一)旦戸遣〔右▲〕乎(二)目之乏流君
(一)やる〔右▲〕の字嘉暦本其他の諸本に之なきを可とする。細井本にはアサノトヲと訓してあるが、新考訓の如く四音に讀む方がよい。
(二)略解以下メヅラシと改訓してあるが、舊訓を可とする。
參照 アヂサハフ〔枕〕
 
(2556)
(一)徃褐(二)不眠友
(一)褐〔右△〕は掲〔右○〕の誤なること分明であるが、徃〔右△〕は持〔右○〕とするもの〔眞淵〕と引〔右○〕の誤とするもの〔雅澄〕とがある。姑う前者に從ふ。
(二)古義の訓による。
 
(2557)
(一)年可經
(一)トシゾヘヌベキと訓むは非。ゾといふ助語を用ひる必要がない。
 
(2558)
(一)愛等(二)莫志登
(一)ウツクシといふ訓もあるが、此場合にはウルハシを可とする。ウルハシは「嬉し」である。
(二)ナワスレソと訓むは非。古歌は目で見るためのものではなかつたから、調を重んじて特にワスルナトと誦すべきである。
參照 ウルハシ、ウツクシ
 
(2559)
(一)見卷欲毛
(一)「我妹兒の見まく欲しき哉《カモ》」といふ意であるから、ミマクシホシモ〔古義〕とはいへぬ。ミマクホシカモ〔新考〕は耳なれぬ言葉である。
 
(2560)(2561)
 
(2562)
(一)言縁
(一)新考の訓による。
 
(2563)
參照 ツトニ
 
(2564)
(一)靡而
(一)ナビケテ〔考〕、ヌラシテ〔古義〕と改訓したのは非。ナビキ〔右○〕テ寢るのは獨寢の女のことで、黒髪は景物にそへたのである。
 
(2565)
 
(2566)
(一)應知
(一)從來シリヌベミと訓して居るが、若し然らば新考説の如く末句心ノ中ニ〔右△〕シヌブ妻ハモであらねばならぬ。原字を尊重して心ノ中ノ〔右○〕コモリツマハモと訓むべしとすれば第三句は當然シリヌベシである。
 
(2567)(2568)(2569)(2570)(2571)
 
(2572)
(一)人之死爲
(一)シニセシと訓するは非。其場合には第四句も亦過去格又は既定前提であらねばならぬ。
 
(2573)
(一)不云言此跡
(一)舊訓による。イハズテイヒシト〔畧、古〕、イフベカラズト〔新考〕と改訓したのは從はれぬ。
參照 マタス
 
(2574)
(一)戀之奴
(一)新訓に嘉暦本によりてコヒトイフヤツコと改訓したのは調といふことを無視したものである。
 
(2575)
(一)希將見(二)眉根掻禮
(一)舊訓マレニミムとあるが、次句の君ヲ見ムと重複して耳障りであるから、契冲説の如く希將見なメヅラシキの義と譯すべきである。
(二)禮〔右○〕を類〔右△〕の誤とする説は非。
 
(2576)
(一)事曾左太多寸
(一)サタ多キは「定多き」の意としても「沙汰多き」としても上代には例のない語法である。サネオホキの尼〔右○〕の字を太〔右△〕に誤つたのではあるまいか。新考にはコチタキとあるが、コチタキに「言痛き」の約であるから、上のコトと重複する嫌がある。
 
(2577)
(一)目莫令乏(一)久家莫國
(一)細井本の訓による。トモシメソと訓したものがあるが、トモシムの使動詞をトモシメというたか疑問である。
(二)舊訓久シケナクニとあるが、こゝは「久しからむ事に」といふ意であるから、新考説の如くヒサシケマクニと訓まねばならぬ。
 
(2578)(2579)
 
(2580)
(一)面形之
(一)代匠記の訓による。
參照 アヂキナク、ヲトコジモノ
 
(2581)
參照 スクナクモ
(2582)
(一)何枉言
(一)舊訓の如くタワコトと訓むとすれば枉〔右△〕は狂〔右○〕の誤であらう。
 
(2583)
(一)幾久毛
(一)イクヒササニモ又はイクバクヒサモと訓むべしとする説〔記傳〕は從はれぬ。イクヒサといふ語は崇神妃の歌にも見えるから、之を形容動詞に活用することは勿論可能である。
 
(2584)
(一)小可者在來
(一)小可は舊訓ウベとあるが、小をウと訓するのは無理である。恐らくは可は哥に通じヲコと訓むのであらう。――小可を苛の誤としてカラクハアリケリとした眞淵訓は從はれぬ。
參照 ヲコ
 
(2585)(2586)(2587)(2588)
 
(2589)
(一)受旱〔右△〕宿跡
(一)舊訓の如くならば旱〔右△〕は日手〔二字右○〕の誤寫であらう〔宣長〕。
 
(2590)(2591)(2592)(2593)(2594)(2596)(2597)(2598)(2599)
 
(2600)
(一)置嘆
(一)新考に置〔右○〕を不見〔二字右○〕の誤としてミズテナゲカクと訓したが、上句の趣にそぐはぬことは同斷である。案ずるにナゲキ(嘆息)は長生《ナガイキ》に通ずるから、「妹を置きて長生せむや」といふ意に「嘆かむ」をいひかけたのであらう。
 
(2601)
 
(2602)
(一)白髪左右跡(二)心一乎
(一)新考は髪を變〔右○〕の誤としてシロクナルマデトと訓した。一應尤であるが、此八音一句は甚朗誦に不便であるから、尚舊訓に從ふべきである。――シラカミは雅澄説の如くシロカミと訓んでもよい。
(二)新考は心一〔右△〕乎を心紐〔右○〕乎の誤記であらうと説いた。或は然らむ。
 
(2603)
歌の意は「心を君に委ねるといふ覺悟であるから此ごろはこひ渡る」といふので、コヒは戀と乞とにかゝり、乞はマタスの縁語である。――新考の改訓は理由のないことである。
參照 マタス
 
(2604)
(一)嘆爲勿謹
(一)末句を古義には人ノ知ルベク〔右△〕ナゲカス〔二字右△〕ナユメと訓してあるが、イチジロク、シルベクと形容詞の副詞形を重ねるのは拙い修辭である。嘆を名詞と見るべきである。
 
(2605)(2606)(2607)(2608)
 
(2609)
參照 マヨヒ
 
(2610)
(一)亂而反
(一)ミダルルマデ〔宣長〕、ミダレテノミモ〔春海〕、ミタレテアレバ〔古義〕、ミダレテサラニ〔新訓〕と改めたものがあるが、舊訓のまゝでもよく意は通ずる。
 
(2611)
參照 モトナ
 
(2612)
(一)袖觸而夜
(一)舊訓袖ヲフレテヤとあるが、夜はヨリ(從)の借字に充てられたものであらう。――眞淵は從の誤字とした。
 
(2613)
參照 ユフケ
 
(2614)(2615)
 
(2616)
(一)音速見
(一)新考はオトハヤミを不可解としてオシカタミと改訓したが、其でも言葉が足らぬ。速〔右△〕は高〔右○〕などの誤記ではあるまいか。
 
(2617)
(一)開置而
(一)從來アケオキテと訓してゐるが、上句との釣合上、ヒラキオキテと六音によむ方がよいやうである。
 
(2619)
 
(2620)
(一)何如汝之故跡
(一)眞淵の訓に從ふ。
 
(2621)
(一)寐〔右△〕者(二)孰人之
(一)訓によれば寐〔右△〕は寤〔右○〕の誤であらねばならぬ。
(二)舊訓イヅレノヒトとあるが、「どの人の」といふ意ではなく、何人のといふことであるから、タレヤシヒトノと訓むを可とする。語例は武烈紀、繼體紀にある。
 
(2622)
(一)雖穢
(一)神田本、細井本の訓による。
 
(2623)(2624)(2625)
 
(2626)
(一)打棄人者
(一)舊訓ウチステヒトとあり、ウチスツルヒト、ウチスツヒト、ステラエヒトなどいふ訓もあるが、略解にウツテシヒトとあるを可とする。ウツテシはウチ(打)ウテシ(棄)の約であらう。
 
(2627)
參照 ハネカヅラ
(一)孰云人毛
(一)舊訓タレトイフとあり、誰トフ、誰チフなどいふ訓があるが、何人といふ意であるから、武烈紀の本歌の如く誰ヤシと訓すべきである。――〔二六二一〕參照。
 
(2629)
 
(2630)
(一)結紐(二)吾木枕
(一)嘉暦本の訓による。
(二)シキタヘはマクラの枕詞であるが、本來枕の原料から之を冠するやうになつたのであるから、コマクラを字の通り木製の枕と解することは出來ぬ。小枕の義であらう。但し文字の上では木の縁によつてコケにも蘿(ヒカゲ)といふ字を用ひたのである。
 
(2631)(2632)
 
(2633)
(一)見人〔右△〕
(一)人〔右○〕の字嘉暦本に之なきを可とする。類聚古集には將〔右○〕見時禁屋とあるからミムトキと訓むべきである。
 
(2634)(2635)(2636)
 
(2637)
(一)※[口+酉]〔右△〕
(一)※[口+酉]〔右△〕の字多くの本には晒とある。舊訓ウチナゲキ(一本ウチナビキ)とあり、ウレシクモ、ウチワラヒ、又はウチヱミテと改訓し.或は※[口+煙の旁]〔右△〕の誤字としてシハブカヒと訓したものがあるが、新考に訓義辯證の説を引いて晒は〓の誤りで嚔に通ずるものとし(同書にはウチハナヒと訓してある)、ヒシヒシニと訓んだのが頗る當を得て居る。
 
(2638)
(一)君之弓食〔右△〕之
(一)舊訓によれば食〔右△〕は誤字であらねばならぬ。
 
(2639)
(一)新考に荒木を誤字としてヨルベと改訓したのは非。アラキはアラハといふことで、荒木にいひかけたのである。
參照 ソツヒコ
 
(2640)
(一)來者其〔右△〕其
(一)上の「其」の字古葉類聚鈔に「來」とあるを可とする。
 
(2641)
 
(2642)
參照 カガヨフ
 
(2643)
 
(2644)
(一)板田(二)從桁
(一)板田は坂田の誤寫で小墾田の坂田尼寺〔推古紀〕の所在地であるといふ説を可とする。
(二)嘉暦本の訓による。
 
(2645)
參照 イヅミ河
 
(2646)
 
(2647)
(一)絶跡間也
(一)類聚古集には問〔右○〕也とある。之によらばタユトトハズヤ〔新訓〕とよむのであらう。
 
(2648)(2649)
 
(2650)
(一)不令〔右△〕相者
(一)令〔右△〕の字に嘉暦本以下に合〔右○〕につくり、或は之なき本もある。アハセズバと訓み、「親が逢はしめずば」と釋くのは無理で、上二句の序からいうてもアハザラバであらねばならぬ。
 
(2651)
參照 スシ
 
(2652)
(一)上小〔右▲〕竹葉野之
(一)小〔右▲〕は衍字としてアゲタカハ野なりとする説〔古義〕可。「髪あげたく」とつゞけたのである。
 
(2653)
(一)若君
(一)古義の訓に從ふ。
 
(2654)
 
(2655)
 
(2656)
參照 アマトブヤ〔枕〕
 
(2657)
(一)問守不敢物
(一)舊訓による。アヘヌモノと訓んでは第三句と抵觸する。
參照 ヒモロギ
 
(2658)(2659)(2660)
 
(2661)
參照 タマチハフ〔枕〕、シヱヤ
 
(2662)
 
(2663)
(一)可越
(一)コエヌベシと訓するは非。ヌとツとの差別の好適例である。――語法要録参照。
 
(2664)
(一)汝乎念金丹
(一)舊訓ナレヲ念フカニとあり、雅澄は丹〔右○〕を手〔右△〕の誤としてナヲ思ヒカネテと訓したが、こゝの意は「思ふが爲に」といふことであらねばならぬから、字の通り思《モフ》カネニ〔三字右○〕と訓すべきである。
 
(2665)(2667)(2667)
 
(2668)
參照 フタカミ山
 
(2669)
 
(2670)
參照 ユツリ
 
(2671)(2672)(2673)
 
(2674)
(一)薄徃者
(一)薄〔右○〕を轉〔右△〕又は發〔右△〕の誤としてユツリナバ又はタチイナバと訓したものもあるが、末句にメヲホリとあるのに照應するものであるから、原字舊訓の如くウスラガバであらねばならぬ。クモを網の目にたとへたことはシノノメ〔右○〕などの例もある。
參照 クタミ山
 
(2675)(2676)
 
(2677)
(一)還者
(一)舊訓には從ひかねる。還者〔二字右△〕の字幸は誤字であらうといふ説もあるが、姑く字によつてカヘルサと訓して置く。――比は佐保の里人で他の地(おそらくは奈良)に滯在する人が.口説のあつた女の許へおくつた歌とおもはれる
 
(2678)
(一)級子八師
(一)級子はハシゴであるからハシキの假字に用ひられたのである。
參照 ハシキヤシ
 
(2679)
 
(2680)
(一)住〔右△〕澤上爾
(一)舊訓スムサハとあるが、住〔右△〕は泣〔右○〕の誤字でナキサハであらうといふ新考の説を可とする。――スムサハ又はスミサハといふ地名もあり得ぬことはないが、ナキサハは有名な地であるのみならず、千鳥スムといふよりは千鳥ナクとかゝる方が穏當である。
參照 ナキサハ
 
(2681)
(2682)
參照 カラコロモ
 
(2683)(2684)(2685)
 
(2686)
(一)取者消管
(一)ケニツツと訓するは非。完了格を用ひる場合ではない。
 
(2687)
(一)櫻麻乃
(一)舊訓サクラア〔右△〕サとあるが、此場合アは上の音に攝せられる例であるのみならず、麻は本來サといふもので、アは接頭語であるから當然消滅せねばならぬ。――サクラヲと訓するは非、麻にヲといふ意はない。麻をヲと訓むのは轉義によるものである。
參照 サクラサ
 
(2688)
 
(2699)
參照 ヲチ
 
(2690)
(一)露者置
(一)古義の訓による。
 
(2691)
 
(2692)
(一)甚踐而
(一)舊訓アトフミツケテとあるが、甚〔右△〕を跡〔右○〕又は足〔右△〕の誤寫と推定すべき根據がない。恐らくはハナハダと訓しては惡いと考へたのであらうが、ハナハダはハタハタの音便で、此場合には最ふさはしい語である。第一六卷に「ハタヤハタむなぎを取ると川に流るな」とあると同じ用法である。
參照 ハタ、ハナハダ
 
(2693)
 
(2694)
(一)一峯越
(一)新考は一〔右○〕を衍字として「山鳥の雄の峯越《ミネコシ》に」の意としたが、峯越に一目見たといふことは山鳥はともかくも人間にはあり得ぬ。――ミネコシニまでを一目の序とすることも亦無理である。――舊訓に從ひヒトヲを一峯と「人を」とにいひかけたものとすべきであらう。ヒト峯、ヒト目は頭韻である。山鳥を序に用ひたのは此鳥が雌を戀ふことを以て有名であるからで、「尾」をそへたのは次句ヒトヲ〔右○〕をいはんが爲であらう。
 
(2695)
 
(2696)
參照 シハセ山
 
(2697)
 
(2698)
(一)來戀敷
(一)舊訓キテゾコヒシキとあり、千蔭以來クレバと訓して居るが、キテモであらねばならぬ。住吉に住む戀人に逢うて歸つて來ても(大和へ)尚戀しさに寢られぬといふ意で、アサカガタは勿論「朝」にいひかけたのである。
參照 アサカ潟
 
(2699)
參照 アダのウカヒ、ヤナ
 
(2700)
(一)隱庭(二)伏以死
(一)舊訓カクレニハとあり、雅澄はシヌビニハと訓したが、新考説の如くコモリニハを可とする。
(二)舊訓フシテとあるが、斃死の意であるから、コイテと訓まねばならぬ。かな違ひではあるが、コヒ(戀)にも通ずる。
參照 タマカギル〔枕〕、イハガキフチ
 
(2701)
參照 イハハシ
 
(2702)
(一)水徃増(二)在勝申目
(一)新考に往〔右○〕を如〔右○〕の誤としてマサルゴトと訓したのはとらぬ。ユキマサルはマサリユクと同義である。――アリカヨフ、アリタツ等と同じ語法と思はれる。
(二)目〔右△〕は自〔右○〕の誤とする橋本説可。
參照 イヤヒケニ
 
(2703)(2704)
 
(2705)
參照 ハシキヤシ
 
(2706)(2707)
 
(2708)
(一)居名山響爾〔右△〕(二)名耳所縁之
(一)爾〔右△〕は彌〔右○〕の誤とする略解の説可v從。
(二)新考は上三句の序にあはずとして此句を添削したが、ナ(名)とネ(音)とが通韻であることに心づかなかつたものと見える。新訓にナノミヨソリシとあるは誤植ではあるまいか。ヨソリをヨリと同義とすることは出來ぬ。
參照 シナガドリ〔枕〕、ヰナ〔地〕
 
(2709)
 
(2710)
(一)不知二五寸許須〔右△〕
(一)須〔右△〕は瀬〔右○〕の誤とする略解説に從ふ。
參照 トコの山、イザヤ川
 
(2711)(2712)
 
(2713)
(一)將速登
(一)舊訓の如くならば「速」の下に「見」の字を脱したのであらう。新訓にはハヤケ〔右△〕ムトと改めてあるが、調からいうても歌意から考へても舊訓の方がよい。
 
(2714)
 
(2715)
(一)打〔右△〕廻前乃
(一)打〔右△〕を折〔右○〕の誤とする宣長説に從ふ。
 
(2716)
 
(2717)
(一)世蝶〔二字右△〕似裳
(一)仙覺古點タヤスを非としてセテウと改めたが、セテウといふ語は考へ得ぬ。タヤスも亦堰の縁語としては聞きなれぬが、池水の田に汎濫することを防ぐ爲の施設をタヤスと稱へたことはあり得る。江戸の田安臺といふ地名も何か其に縁があつたのであらう。之を容易《タヤス》に云かけたのではあるまいか。然らば世蝶〔二字右△〕は田※[土+蝶の旁]〔二字右○〕の誤寫であらう。セコシ、ヨソメ〔眞淵〕、カツカツ〔宣長〕、マサカ〔略解〕、サヤカ〔古義〕、ハツカ〔新考〕等いろ/\に推定せられて居るが、上二句及末句の「瀧もとどろに」に副ぐはぬやうに思はれる。
 
(2718)(2719)
 
(2720)
參照 シタビ
 
(2721)
(一)薄可毛
(一)新考は薄の上に「不」の字を脱すとしてアツミカモと訓み、「我思の過ぎがたきは外部の障の多ければにや」といふ意としたが、聊牽強の憾がある。舊訓に從うて「涙のあふるる」説明とすべきであらう。
參照 シガラミ
 
(2722)
參照 カリテワ、ザミ野
 
(2723)
 
(2724)
參照 ウラマ、コツミ
 
(2725)
參照 マナゴ
 
(2727)
參照 スガ島
 
(2728)
(一)言繁
(一)嘉暦本、類聚古集等には繁の下に「苦」の字がある。
參照 オキマヘテ
 
(2729)
(一)縱毛〔右△〕依十方
(一)毛〔右△〕を惠〔右○〕の誤とする古義の攝可。
參照 ヨシ、アラレフリ〔枕〕
 
(2730)
 
(2731)
參照 ウシマド〔地〕、シホサヰ
 
(2732)
參照 サダ、サダの浦
 
(2733)
 
(2734)
(一)細砂裳(二)生鹿
(一)マナゴと改訓したは非。マナゴとマサゴとの聞に差別のあることを知らねばならぬ。
(二)畧解、古義にはイケルカと改訓してあるが、「細砂に生く」といふことは意をなさぬ。ワハナリテシカと訓むのであらう。
參照 マサゴ、マナゴ
 
(2735)
參照 ウラミ
 
(2736)
參照 イタブル
 
(2737)(2738)
 
(2739)
參照 ミサゴ
 
(2740)(2741)
 
(2742)
(一)火氣燒立而
(一)舊訓ヤキタテとあり.ヤキタテテ、タキタテテと訓したのもあるが、煙はヤキ得べきものでも、タキ得べきものでもないから、モエタチテと訓すべきであらう。第一句と轉置して解すべきである。
參照 シカのアマ
 
(2743)
參照 ヒラの浦、アミの浦
 
(2744)(2745)
 
(2746)
參照 ニハ、カヂ
 
(2747)
參照 アヂカマ
 
(2748)
 
(2749)
參照 ハユマ
 
(2750)
參照 ウマシモノ〔枕〕、アベタチバナ
 
(2751)
參照 アヂ〔鳥〕、スサの入江
 
(2752)
(一)靡合歡木
(一)童蒙抄にシナヒネムと改訓し眞淵以下之に從うたのは誤である。「靡き寢を聞き傳へた妹を忍び得ず」といふことを菟餓野の合歡木にいひかけたので、第一句は第三句の次にまわして解くべきである。
參照 ツガ野、ネム
 
(2753)
(一)君爾不相四〔右▲〕手
(一)ズシテは古語法ではない。ましてこゝは八音になり、甚調が悪いから、四〔右▲〕は衍字とすべきである。――語法要録参照。
參照 ヒサギ
 
(2754)
(一)朝柏(二)閏八
(一)考、畧解、古義にアキカシハと改訓したが、「朝」を「秋」の誤寫と推定すべき痕跡もたく、明《アケ》の意を以てアキと訓むといふが如きは牽強も甚しいものである。新考はアサカシハとしたが、朝摘みたる木葉で「潤ひ」にかゝるとする説は從はれぬ。
(二)舊訓ヌルヤとあるが、童蒙抄の説の如くウルヤと訓むを可とする。〔二七四八〕のウルワ河と同地である。――ワ、ヤ相通。
參照 アサカシハ、ウリヤ河、シノノメ
 
(2755)
(一)所縁之
(一)ヨサエシ〔新考〕、ヨソリシ〔新訓〕と改訓したのは理由のないことである。「嘘にもせよ淺茅原を苅り之を占めて便をまたう」といふ意であるから、舊訓の如くヨセテシであらねばならぬ。――〔二四六六〕と趣の似た歌である、
 
(2756)
(一)在人乎
(−)二三句をカリナルイノチ・ナルヒトヲと訓したのは誤である。ナルを句頭に置くことに語構成の原則上許されぬ。
 
(2757)
 
(2758)
(一)益卜思而〔二字右△〕心
(一)思而〔二字右△〕の二字を男〔右○〕の誤とする宣長説に從ふ。
參照 ネモコロ
 
(2759)
(一)採生之
(一)眞淵訓に從ふ。新考に咲花之〔三字右△〕の誤としたのは理由のないことであるが、考の説明も亦當を得て居らぬやうである。古莖を植ゑたとて花が咲き實が成るものではないが、無限に君を待たうといふ意であらう。ホタテと古カラとの間にヲの字を補うて解くべきである。
 
(2760)
參照 ヱグ
 
(2761)
 
(2762)
參照 ニコクサ
 
(2763)
參照 アサハ野
 
(2764)(2765)(2766)
 
(2767)
(一)八目難爲名
(一)類聚古集の訓による。人目カタシナ〔考〕、ヒトメイマスナ〔宣長〕、相カタミスナ〔新考〕等の訓があるが、未だいづれを可とするかを知らぬ。
 
(2768)
(一)知爲〔右△〕等
(一)末二句舊訓シラレムタメト・コヒイタムカモとあり、コチタカルトモ又はコチタカルカモと改訓したものもあるが、古の發音上コヒイタムといへぬことは勿論、乞痛をコチタク(言痛)と訓むは無理である。恐らくはコヒナヤムであらう。又第四句も爲〔右△〕を「爲々」の誤寫としてシラセム爲トと訓むのが妥當とおもふ。
 
(2769)
 
(2770)
參照 イツシバ
 
(2771)
 
(2772)
(一)眞野池之
(一) 上の歌によつて池は※[さんずい+内]〔右○〕の誤りでウラとよむのであらうといふ説がある〔宣長〕。
(二)遠名を不可解として新考は遠〔右○〕は著〔右○〕の誤でキルナと訓むのであらうというたが、キルナは一層耳遠い。姑く舊訓に從ふ。
 
(2773)
(一)齒隱有
(一)舊訓ハニカクレタルもありハゴモリニタル〔眞淵〕。ハゴモリテアレ〔千蔭〕としたものもあるが、ハゴモリタルは作者(女性)のことであらねばならぬから、ヲを添へて訓むべきであらう。
參照 サスタケ
 
(2774)
(一)美妾
(一)舊訓ヲミナヘシとあるが、美妾をしか訓むべき理由はない。其故に宣長は「美」の下に脱字ありとして、「妾」を次句につけ、ヲミナヘシ妾《ワ》がモフ公《キミ》がと訓したが、女の歌としてはヲミナヘシといふ語が自讃のやうに聞え、序としての趣がない。雅澄は美の上下に字を補うて繁美《シミミ》似裳と訓したけれども、其のやうな誤脱があり得たとも思はれぬ。案ずるに美妾はタワヤメトよみ、上二句はダワにかゝる序と見るべきであらう。――男の歌である。
 
(2775)(2776)(2777)
 
(2778)
(一)生不出
(一)新考に生〔右○〕を上〔右△〕の誤としてウヘニイデスと訓したが、「上に出でずかくて通はむ」といふことも不可解である。或は「生」をナリと訓み、戀の成ることにいひかけたものかとも思はれるが、オヒモイデスとしても其意に取られぬことはないから、妬く舊訓に從ふ。――オヒイデズとして助語モを除くのは不當である。
 
(2779)
參照 ナハノリ
 
(2780)
參照 ムラサキ〔枕〕、ナダカの浦
 
(2781)
 
(2782)
(一)左寐蟹齒
參照 サネカニハ
 
(2783)
(一)奈何跡裳吾
(一)イカニトモワヲと訓み得るが、調の上からいうとナニトモワレヲであらねばならぬ。
 
(2784)
參照 カラヰ、ツキクサ
 
(2785)
(一)雖過時有
(一)スグルトキと訓むも可。
 
(2786)
參照 ハネズ
 
(2787)(2788)
 
(2789)
(一)亂者
(一)舊訓ミダルレバとあるは時格を誤つてゐる。ミダレナバであらねばならぬ。「中絶えたる玉の緒のやうに戀の亂れなば」死〔右○〕むのみぞといふことで、ミダレは玉の緒の縁語である。新考に之を誤字としてクルシキハと改めたのは非。
 
(2790)
(一)玉緒之
(一)タマノヲソ〔右○〕は「玉の緒のやうに」といふ意であるから、タマノヲヲ〔右△〕の誤とする説〔新考〕はとらぬ。次句もユキハワカレズと主語を同うせねばならぬから、ククリヨセツツと訓むことは出來ぬ。
 
(2791)
 
(2792)
(一)島〔右△〕意哉
(一)宣長は島〔右△〕を寫〔右△〕の誤としてウツシココロと訓した。玉の緒のウツシココロと用ひた例もあるが(第十二卷)、こゝでは意が通ぜぬ。絶の草體〓は鳥の草書〓と似て居るから寫し誤つたのであらう。
 
(2793)
 
(1794)
(一)隱津之
(二)遠而
(一)新考に津〔右○〕を沼〔右△〕の誤としたのは根據のないことで、タツミを溜水の意と速斷した爲とおもはれる。――コモリツといふ語は〔二四四三〕にも用例がある――二句をサハタツミナラバと訓したのも妄斷である。
(二)遠〔右△〕の字嘉暦本以下諸本には達〔右○〕とある。
參照 サハタツミ
 
(2795)
參照 アクラの濱
 
(2796)
(一)水泳
(一)舊訓ミナソコノとあり、泳〔右○〕を流〔右△〕の誤としてミナソソグと訓したものもあるが。眞淵説の如くミヅククルを可とする。
 
(2797)(2798)(2799)(2800)(2801)
 
(2802)
(一)長永夜乎
(一)宣長は此句をナガキナガヨと改訓し、其後の學者多くは之に從うたが、極めて古い時代にはナガキ〔右△〕といふ活用形は存せず、ナガシ又はナガケ〔右○〕とのみいうた〔語法要録參照〕。之に反してナガナガシは最も原始的の語法である。此場合はいづれでも差支はないが.舊訓を排してまで、ナガキナガキヨと訓むにもあたるまい。――否人丸ならば恐らくはナガナガシといふ古い形をとつたであらう。
 
(2803)
 
(2804)
參照 タカベ
 
(2805)
(一)音杼侶〔二字右△〕毛(二)君之所聞者
(一)舊訓オトドロモとあるによつて音信《オトヅレ》の意と解き〔古義、新考〕、眞淵は字をかへてオトダニ〔二字右△〕モと訓したが、鶴唳は通例タヅカネ〔右○〕又はタヅノコヱというてタツノオトと云はず、カリのオトヅレ(雁信)といふ句はあるが、タヅのオトヅレ(鶴信)は耳新しい。案ずるに音はコヱと訓み、杼侶〔二字右○〕は眞淵説の如く※[手偏+陀の旁]※[人偏+爾]の誤とすべきであらう。
(二)新考訓による。キコサバはキキマサバの意、我がなく音(コヱ)をだに聞き給はゞ此やうに戀ひはすまいといふことであらう。
 
(2806)(2807)(2808)
 
(2809)
(一)今日有者(二)鼻之〔右△〕鼻之火〔二字右△〕
(一)舊訓ケフナレバとあり、ケフニシアレバ〔古義〕、ケフトイヘバ〔新考〕といふ訓もあるが、ユフサリに對してケフサリといふ語もあり得た筈で、口語のケフビ(ケフベの轉呼)と義を同うし、――ユフサリはユフベともいふ――ケフサリハを音便によつてケフサレバというたものと思はれる。
(二)之〔右○〕は火〔右○〕、火〔右○〕は之〔右○〕の誤とする新考説に從ふ。
 
(2810)
(一)目直〔二字右△〕相而
(一)戀卷裳太口
(一)舊訓の如くメニタダニ見テとしても意は通ずるが、調の上から目直を倒置とし、相は字の如くアヒテと訓む方がよいやうである。
(二)「太《イタ》く戀ひむことよ」といふ意であるから、コヒマクモイタクと訓まねばならぬ。――オホク〔舊訓〕とよみ、或は太〔右○〕は大〔右△〕の誤とするは從はれぬ。
 
(2811)
(一)聞跡乎(二)闇耳見
(一)古義の訓に從ふ。乎〔右△〕を平〔右○〕の誤とするのである。
(二)「消息ばかりでは戀はせぬ」というた前の歌に對する返歌で、「其やうな薄情な言葉を聞く爲であらう、明月も闇と見える」といふ意であるから、ヤミトノミ見ユ〔右○〕と訓まねばならぬ。ミシ又はミツとしてはテレル(照在)と時格があはぬ。
 
(2812)(2813)(2814)(2815)(2816)
 
(2817)
(一)舊訓ミヅとあり、先學皆之に從うて居るが、山水をコヒといふことに氣がつかなかつたのであらう。
參照 クヒ
 
(2818)(2819)(2820)(2821)(2822)
 
(2823)
參照 カヘラマ
 
(2824)
參照 ヤヘムグラ、ムグラ
 
(2825)(2826)(2827)
 
(2828)
(一)人者〔右△〕見久爾
(一)者〔右△〕の字拾穂抄に之〔右△〕とあるに從ふ。
 
(2829)
 
(2830)
(一)中見判〔右△〕
(一)舊訓ナカミテバとあるは從はれぬ。判〔右△〕の字類聚古集、神田本等に※[夾+立刀]〔右○〕とあるからサシの假字で、中身挿の意であらう。第三句までを序とすべきである。見判を廻而〔二字右△〕の誤とする新考説は意をなさぬ。
 
(2831)
(一)氷〔右△〕沙兒居(二)渚座船之
(一)氷〔右△〕は水〔右○〕の誤であらう。
(二)渚座は擱坐即ち※[舟+鑁の旁]の意であるから、和名抄によつてヰルと訓むべきであるが。首句ミサゴヰルとあると重複する嫌がある。恐らくはスニツケルフネノと八音に訓むのであらう。
參照 ミサゴ
 
(2832)
(一)筌乎伏而
(一)舊訓による。恐らくは「伏」の下に「置」の字を脱したのであらう〔契冲〕。
 
(2833)
 
(2834)
參照 ムロフ、ケモモ
 
(2835)(2836)(2837)(2838)
 
(2839)
(一)猶八成牛鳴
(一)舊訓にナリナムとあるが、何に成りなむか明白ならぬ憾がある。神田本に戍〔右○〕とある所を見ると此成は盛〔右○〕の畧字で、モリ(守)の假字に用ひられたものであらう〔新訓〕。フユコモリを冬木成〔右○〕とかいた例もある――「シメでもないのにいつまで番をして居ることであらう」といふ意である。
 
(2840)
 
     【卷第十二】
 
(2841)
 
(2842)
(一)我心等(二)新夜(三)夢見
(一)首、二句舊訓による。我心トは我心ニといふと略々同じい。――語法要録參照。
(二)舊訓に從ふ。
(三)眞淵訓による。元暦校本には見與〔右○〕とあるが、若し之に從ふとせば第二句をも改めねばならぬ。
 
(2843)
(一)如去見耶
(一)略解の訓による。
 
(2844)
(一)寢欲
(一)古義の訓による。
 
(2845)
 
(2846)
(一)夜不寢
(一)舊訓ヨルモネズとあり、諸家みな「夜」をヨル又はヨと訓して居るが、夜寢ることを古語ではイヌ又はイヲヌというたのであるから、こゝもイヲネズテであらねばならぬ。
參照 ネ
 
(2847)
(一)吾莫戀
(一)新考訓に從ふ。
 
(2848)
(一)有諾(二)何人(三)寢〔右△〕者
(一)契冲訓による
(二)略解訓を可とする。
(三)舊訓の如くは寢〔右△〕は寤〔右○〕の誤寫であらねばならぬ。
 
以下未入力部分有り
 
 
(2849)
(一)
 
(二)古義の訓に從ふ。
(2850)
(一)直不相
(一)コソ、ケレの僞則に※[手偏+勾]はれて居る人たちは此場合アハザラメといふを不可とするかも知れぬが、之が古い語法である。
(2851)
 上三句の訓諸家異説區々であるが、然るべく取捨した。但し表結をウハヒモ〔二字右○〕ムスビとしたのは著者の新訓である。
參照 ヒモ
(2852)
(2853)
(一)眞珠
(2855)
(2856)
(2857)
(一)惻隱惻隱
(一)惻隱をシヌビと訓むべきことは既に屡々述べた。ネモコロと訓んでは意をなさぬ。
(2858)
(一)吾共經
 
(一)紫〔右△〕越
(一)紫〔右△〕の字細井本等に柴〔右○〕とあるに從ふ。――此歌も諸訓甚區々であるから、私見を以て訓み下した。
(2860)
(2861)
(2862)
(一)水陰生
(一)舊訓ミカゲとあるが、このやうな場合にはクマといふのが古語である。
(2863)
(一)立神古(二)惻隱
(一)契冲は古〔右○〕を占〔右△〕の誤としてカムウラノと訓み、雅澄は「古」の上に左〔右△〕の字脱としてカムサブルと訓したが、字のまゝにカムフレルと訓むのであらう。
(二)惻隱をシヌビと訓むべき由は既に述べた。ネモコロと訓すべき理由がないのみならず、この歌に在つては意味をなさぬ。
參照 アサハ野、タカハ野
(2865)
(2866)
(一)酢衣乃
(一)舊訓による。酢〔右○〕をサの假字に用ひたのは異例である。或は誤寫であるかも知れぬ。
(2867)
(2868)
(2869)
(一)宣長は常云〔二字右○〕を絶去〔二字右△〕の誤として下の句につけ、タエニシワギモと訓み、其他イヒコシワギモ〔新考〕、イヘリシワギモ〔新訓〕と訓したものもあるが、「吾妹」とかいてワギモコ〔右○〕と訓ませた例も少くはないから、此もイヘルワギモコと訓むのであらう。
參照 ヨコシ
(2872)
(2873)
(2874)
(2875)
(一)甚耳ざはりの惡い語づかひであるが、意義は字の通りであらう。
(2877)
(一)何時奈毛
(一)古義に奈〔右○〕を志〔右△〕の誤としたのは理由のないことである。ナモは感動助語で平安朝にはうるさいほど用ひられた語であるから、奈良朝でも勿論つかはれたのであらう。語義からいうてもイツハナモで少しも差支はない。
 
(2878)(2879)(2880)(2881)
 
(2882)
參照 イヤヒニケニ
 
(2883)
(一)命不死者〔右△〕
(一)者〔右△〕を弖〔右○〕の誤とする新考説に從ふ。
 
(2884)(2885)(2886)(2887)(2888)
 
(2889)
(一)吾幾許戀流
(一)幾許は契冲説の如くココダと訓むのが普通であるが、こゝは意からいうても律から推しても舊訓の如くカクであらねばならぬ。
 
(2890)
 
(2891)
(一)信吾命
(一)新考訓による。
 
(2892)(2893)(2894)(2895)
 
(2896)
(一)地庭不落(二)空消生
(一)舊訓オチジとあるが、次の句につゞけて一つに結ぶ方がよい。
(二)舊訓による。考以下にいろ/\改訓したのはウタカタの意義を誤解したからで、ケウトクの意とすれば末句も舊訓の通りでよく解せられるのである。
參照 ウタカタ
 
(2897)
參照 アサニケニ
 
(2898)
(一) 言量欲
(一)契冲訓による。
參照 コトハカリ
 
(2899)
參照 アヂキナク
 
2900)
參照 モトナ
 
(2901)(2902)
 
(2903〕
(一)五十殿寸太〔右△〕
(一)舊訓の如くならば太〔右△〕は天〔右○〕の誤寫であらう。
 
(2904)(2905)(2906)(2907)(2908)(2909)(2910)(2911)(2912)
 
(2913)
(一)凡者
(一)略解以下にオホカタと改訓せられて居るが、オホカタとオホヨソといづれが古語か不明であるから、強て舊訓をあらためるにも及ぶまい。
 
(2914)
 
(2915)
(一)妹登曰者
(一)契冲訓による。古義にイフハとあるが、こゝはイハムハので意であらねばならぬ。イハムハはイフハとはならぬ。
 
(2916)
(一)面隱爲
(一)眞淵がオモカクシ〔右○〕スルと改めたのは理窟であるが、オモガクリを複合語と見れば舊訓の儘でよい。
參照 カツマ
 
(2917)
(一)吾香
(一)新考にはワレカ〔右○〕のカを上句のカモと重複するとして香〔右○〕を者〔右△〕の誤と斷したが、こゝのカモは疑問標識ではない。
 
(2918)
(一)年者近侵〔右△〕
(一)舊訓の如くは侵〔右△〕は誤字であらう。千蔭は寢〔右△〕の誤としてトシチカツキヌ〔右○〕と訓したが、舊訓の方がよいやうである。
參照 コトアゲ
 
(2919)
 
(2920)
(一)唯毛
(一)舊訓タダシクモとあり、眞淵はタダニシモと改訓したが、こゝはタダニモといふ意で、タダシクモ(唯其モ)ではない。又タダニシモというては末句のシゾと重複する。タダタダモ、マタダニモ、ヒタスラモと訓み得るが、假に後者をとる。
 
(2921)
(一)幼婦者(二)將見
(一)宣長が或人の説によつて幼婦者〔三字右○〕を紐緒之〔三字右△〕の誤としたのは妄斷の甚しきものである。者〔右○〕を與《ト》の誤とした新考の説も非、其は末句の誤解によるものである。
(二)舊訓ミナムとあるが、ミラムと訓まねば歌意が通ぜぬ。何を見るのか判明せねのは題詞を逸した爲であらう。
 
(2922)
 
(2623)
(一)君爾波相目跡
(一)跡は清音の假字であるから、アハメドと訓むのは無理であり、且八音になるから、原歌はキミニハアハメ〔右○〕とあつたのを、後の思想に捉はれコソのかゝりなくしてメと結ぶべからずとして、「跡」の字を加へたのではないかとも考へれるが、證據のないことであるから、姑く舊訓を存する。――新考に跡〔右○〕を乎〔右△〕の誤としたのは從はれぬ。
 
(2924)
(一)世間爾
 
(2925)
(一)爲杜〔右△〕乳母者
(一)上三句は契冲及眞淵の訓による。杜〔右△〕は元暦校本に社〔右○〕とあるを可とする。
 末句のオモは乳母にイモ(妹)をいひかけたのである。イモの原語はモで、イは接頭語なるが故に、オ〔右○〕モとも通ずるのである。
參照 モ、チ、ミドリコ
 
(2926)
 
(2927)
(一)過西戀也〔右△〕
(一)元暦校本には也〔右△〕を以〔右○〕としてある。感動詞であるから、ヤ、イいづれでもよいが、イの方が吟誦上よく聞える。――新考に之〔右△〕の誤としたのは從はれぬ。
 
(2928)
(一)各寺師
(一)新考にオノガジシとしては意通せずとしてカクシツツと改訓したのは次句を人シナスラシと訓んだからで、人シニスラシと訓めば初句はオノガジシとあつて少しも差支はなく、字を改めてカクシツツと訓する必要もあるまい。
參照 ヒニケニ
 
(2929)
(一)夕夕(二)若雲
(一)眞淵の訓による。舊訓の如くヨヒヨヒニとしても義はかはらぬが次句のニと重つて聞苦しい。
(二)古義の訓可。
 
(2930)
(一)下二句新考訓による。
 
(2931)(2932)
 
(2933)
(一)公者雖座
 
(2934)
(一)不問事毛
(一)舊訓トハレヌコトモとあり、眞淵はコトトハナクモと改訓したがトフはコトトフの意になるから「言問はぬこと其《シ》も」の意としてトハヌコトシモと訓むべきであらう。此場合シといふ助語は極めて必要である。
參照 アヂサハフ〔枕〕
 
(2935)(2936)(2637)(2938)
 
(2939)
(一)薄事有
(一)眞淵の訓可。コヒはクヒ(樹水)に通じ、アサキは其縁語である。
參照 クヒ
 
(2940)
 
(2941)
(一)跡状毛
(一)契冲訓による。眞淵はタドキと改めたが、跡状をタドキと訓することは字義上不可能である。
 
(2942)
 
(2943)
(一)執許乎
(一)新考の訓による。但しトルは「捕」の意ばかりではなく、「殺」の義を含むものと解すべきである。
 
(2944)(2945)
 
(2946)
(一)何時鹿將待
(一)契冲訓による。
 
(2947)
(一)可〔右△〕v云(二)家當見
(一)元暦校本其他に可〔右△〕を一〔右○〕に改めてあるを可とする。
(二)契冲訓による。
 
(2948)
(一)明日者
(一)古義の訓をとる。
 
(2949)
(一)得田價異
(一)古義の訓による。
參照 ウタテケニ、コトハカリ
 
(2950)
參照 ヨトデ
 
(2951)
參照 ツバイチ
 
(2952)
(一)吾齡之〔右▲〕(二)君乎母〔右△〕
(一)舊訓によれば之〔右▲〕は衍字であらう。
(二)母〔右▲〕の字もまた衍か。
 
(2953)
(一)袖兼所漬
(一)舊訓ヒヂテとあるを契冲にヌレテと改訓し、雅澄はヌレヌとしたが、字に從うてヒヅチと訓すべきである。
 
(2954)
 
(2955)
(一)情班〔右△〕(二)多二〔右▲〕
(一)古義の訓による。班は斑〔右○〕の誤であらうといはれる。
(二)二〔右▲〕の字元暦校本其他に之なきを可とする。
 
(2956)(2957)(2958)
 
(2959)
(一)言絶有(二)所見而
(一)略解にコトタエニ〔傍点〕タリとし、古義にタエテケリ〔三字傍点〕としたが、末句によると今絶えて居るだけで斷絶してしまうたのではないから、タエテアリといはねばならぬ。此場合のアリは在の意で助動詞ではない。
(二)而〔右△〕の字元暦校本其他に與〔右○〕とあるを可とする。
 
(2960)
 
(2961)
(一)心遮焉
(一)舊訓ココロハナキヌとあり、マヨヒヌ、マドヒヌと訓したものもあるが、遮を誤字にあらずとすればサヤリと訓むべきで、胸が塞がることであらう。
 
(2962)
(一)袖不數而
(一)數〔右△〕は敷〔右○〕の誤であらう。而〔右△〕の字温古堂本には除いてあるが、縱ひある方が正しいとしても助字と見ることが出來る。ソデシカズヌルと訓むのであらう。
 
(2963)(2964)
 
(2965)
(一)裹爾爲〔右△〕者
(一)爲〔右△〕を有〔右○〕の誤として姑く古義の訓による。但し其語釋は從はれぬ。表裏あらばといふことであらう。ツルバミといふ語を用ひたのはシヒ(椎)の縁語であるからである。
參照 ツルバミ
 
(2966)
(一)汚染衣(二)淺爾
(一)新考の訓可v從。クレナヰはアサの枕詞にも用ひられる。
(二)舊訓アサハカとあり、眞淵はアサラカと改めた。アサハカ、アサラカ共にアサ(淺)から出た語ではあるが、アサとは少し意味がちがふ。アサラニモと訓すべきである。アサラはアサの名詞形である。――語法要録參照。
 
(2967)(2968)(2969)
 
(2970)
(一)桃花褐(二)淺爾
(一)舊訓アラソメとある。林花を染色の稱呼とみて義訓したのであらうが、褐をソメと訓むのは無理であり、アサラの衣の修飾語としても物足らぬ。神田本の訓にモモソメとあり、古義、新考は之に從うて居るが、モモイロ(淺紅色)をモモとのみはいはず、桃花でそめるのではないから、モモソメといふ語は成立せぬ。桃花色の古語はツキ(又はトキ)であり、褐は粗布のことであるから、字によつてツキヌノと訓すべきである。
(二)アサラニモと訓むべき由は〔二九六六〕に述べた。
 
(2971)
(一)穢者雖爲
(一)古義の訓をとる。
 
(2972)
(一)純裏衣
(一)古義の訓に從ふ。ヒトウラ〔考〕、ヒタウラ〔略解〕と訓したものもあるが、國語の通則として其場合には連約が行はれた弭であるのみならず.ウラツキ衣即ち袷が特に「長く」の譬喩に適するとはおもはれぬ。ヒツラは一連の意で、ゾ(上衣)、モ(裳)一つゞきの衣をいふのであらう。純裏は借字。――〔三七九一〕參照。
 
(2973)
參照 マタマツク〔枕〕
 
(2974)
參照 モトナ
 
(2975)(2976)(2977)(2978)(2979)(2980)
 
(2981)
(一)懸而偲
(一)新考の訓を可とする。「逢ふ人毎にかけてしぬばむ」といふ意であらう。
 
(2982)
 
(2983)
參照 コマツルギ〔枕〕
 
(2984)(2985)
 
(2986)
(一)引見縱見
(一)舊訓による。
 
(2987)
(一)引而不縱
(一)姑く契冲訓による。
 
(2988)(2989)
 
(2990)
參照 タタリ、ウツソ
 
(2991)
參照 マユ、タラチネ〔枕〕
 
(2992)
 
(2993)
(一)綵色之※[草冠/縵](二)今日見人爾
(一)古義の訓による。綵色は或はシドリと訓むのかもしれぬ。
(二)見人は新考の説の如くミシヒトであらねばならぬ。
 
(2994)
 
(2995)
(一)重編數
(一)舊訓による。數〔右○〕は或は敷〔右△〕の誤で、カサネアミシキではないかとも思ふが、十一卷にも「たゝみこもへだて編む數かよはさば」と用ひた例がある。
參照 タタミコモ
 
(2996)
(一)何時之眞枝〔右△〕毛
(一)枝〔右△〕の字を坂〔右○〕の誤としてイツノマサカと訓した眞淵説がよいやうである。
參照 シラカツク
 
(2997)(2998)
 
(2999)
(一)業〔右△〕曾
(一)舊訓による。業〔右△〕は恐らくは誤字であらう。字によつてワザと訓しては意が通ぜぬ。
 
(3000)
參照 タマ(即今)
 
(3001)(3002)(3003)
 
(3004)
(一)照日之
(一)元暦校本及類聚古集に日〔右○〕を月〔右△〕としてある。此歌の前後はみな月の歌であるから、月〔右△〕とすることも一理はあるが、多くの本に日〔右○〕とあるのみならず、日であつては惡いといふ理由は少しもない。否、月の半は姿をかくす太陰よりも恒久に空にてる太陽の方が此歌の意によく通ふやうである。――但しテレル太陽と訓するは非。太陽の如き恒久性のものに對しては不定法を用ひねばならぬ。
 
(3005)
(一)十五日
(一)古義の訓に從ふ。
 
(3006)
參照 アシウラ
 
(3007)(3008)
 
(3009)
參照 ツルバミ、マツチ山、ズケリ
 
(3010)
 
(3011)
參照 ヨシキ河
 
(3012)
參照 トノグモル
 
(3013)
 
(3014)
(一)水尾不絶者
(一)ミヲは澪に「見を」(又は「目を」)をいひかけたのであらう。「水尾」までを序とするものもあるが〔古義〕、タエのみでは何が絶えるのかわからぬ。「生命」「音信」「中」等何か主語が示されねばならぬ。修辭上からいうても、上にユクミヅノといふ句をおいてミチまでを序とすることは甚拙劣である。――從つてミヲノ〔右○〕と訓まざるべからずとする説は成立せぬ。
 
(3015)(3016)(3017)
 
(3018)
(一)高湍爾有
(一)眞淵訓による。但しコセナルと四音によむよりもコセニアルといふを可とする。
參照 ノトセ河
 
(3019)
 
(3020)
(一)宜毛 (二)君乎〔右△〕不言者
(一)新考訓に從ふ。
(二)乎〔右△〕を之〔右○〕の誤として君がイハネバと訓した古義の説可。
參照 イカルガ〔地〕、ヨルカの池
 
(3021)
(一)絶〔右△〕沼之
(一)舊訓の如くば絶〔右△〕は誤字であらう。
 
(3022)
(一)隱有小沼乃
(一)契冲訓による。
 
(3023)(3024)
 
(3025)
參照 タルミ、ハシケヤシ
 
(3026)
(一)吾者故無(二)數和備思
(一)ユヱの原義はヨリドコロである。之を不可解としてコトナミと改訓すべしとする新考説は從はれぬ。
(二)眞淵訓に從ふ。シバシバ〔古義〕は非。
參照 ユヱ、シキ
 
(3027)
參照 ヘタ
 
(3028)
(一)大海之
(一)舊訓オホウミとあるが、オホウミとは誦すべからざることは既述の通りで、オホミ(又にオフミ)ノと四音によむか、或はワダツミ(ノ)といはねばならぬ。
 
(3029)
(一)貞能納〔右△〕爾
(一)納〔右△〕は※[さんずい+内]〔右○〕の誤。類聚抄には浦〔右○〕とある。
 
(3030)(3031)(3032)
 
(3033)
(一)吾〔右△〕山爾
(一)吾〔右△〕は春〔右○〕の誤なるべしといふ宣長説可v從〔略解〕。
 
(3034)
(一)戀爲便名鴈
(一) コヒスベナカリは戀スル方ナカリといふ意。ムネの原義はミ(身)である。
 
(3035)
(一)反羽二(二)如何戀乃
(一)眞淵の説に從ひ姑くカヘリシニと訓して置く。舊訓にはカヘルサニとある。
(二)舊訓による。イカニテカの連約である。ナドカモ〔新考〕、イカニカ〔新訓〕といふ訓もあり、或はナニシカともよみ得る。いづれでも大差はない。
 
(3036)
 
(3037)
(一)徃反
(一)愛人の許に來往の途中の實景を詠じたものとしてユキカヘルと改訓したものもあるが、上三句は序であるから、常に來往する道の意で不定法を用ひたものと解すべきである。
參照 キリメ山
 
(3038)(3039)(3040)(3041)(3042)
 
(3043)
參照 ヲチ、ツユシモノ〔枕詞〕
 
(3044)
(一)庭耳〔右△〕
(一)舊訓による。耳〔右△〕は西〔右○〕の誤であらう。
 
(3045)
 
(3046)
(一)波越安暫仁
(一)第二句ナミコスアサニとある舊訓のまゝでは解し得ぬので、いろいろ解き試みたものがあるが、首句のサザナミは地名で、波越のアザも亦地點名であらう。
參照 ナコシのアザ
 
(3047)
 
(3048)
(一)鴈羽
(一)古義はカリヂの小野の誤記とした。或は然らむ。
 
(3049)
(一)不解
(一)トカ〔右△〕ザラマシヲ〔畧解〕と訓するは非。麻の下草はよく生長して通路の妨となるものであるから、其が早く生ひたら女も人に靡く機會がなかつたのであらうといふ意。従つてトケザラマシヲといはねばならぬ。――〔二六八七〕參照。
參照 サクラサ
 
(3050)(3051)(3052)(3053)
 
(3054)
(一)吾念有良武
(一)モヘルラムと訓するは非。オモヘルはオモヒ・アルの約であるから、オモヘラムといふべきで、オモヘルラムといへば純粹の推量となり、ワガといふ主語に抵觸する。
 
(3055)
(一)吾心神之
(一)舊訓による。三卷に心神又は精神をココロトと訓した例があるから、古義説の如くこゝもココロトと訓み得るが、タマシヒとしても(若し此語が當時既に發生して居たとすれば)差支はない。
參照 タマシヒ、ココロト
 
(3056)
 
(3057)
參照 ココログミ
 
(3058)
(3059)
(一)百爾千爾
(一)新考はカニカクニと意訓したが、モモニチニ(舊訓)でも意はよく通ずる。
 
(3060)
(一)吾紐爾著
(一)眞淵訓による。
 
(3061)
 
(3062)
(一)鬼之
(一)童蒙抄の訓による。
 
(3063)
(一)小野爾標結(二)令聞
(一)シメユフ〔舊訓〕、シメユヒ〔古義〕と訓せられて居るが、ここはユハムであらねばならぬ。
(二)令聞はキカセと訓み、「聞かしめよ」の意と解すればよくわかる歌である。
 
(3064)
(一)皆人之
(一)舊訓による。元暦校本にも人皆とある。
 
(3065)
參照 アキツ野
 
(3066)
 
(3067)
參照 イハツナ
 
(3068)
參照 ミヅクキ
 
(3069)
 
(3070)
(一)不令〔二字右△〕
(一)不令の二字元暦校本其他に今不〔二字右○〕とあるを可とする。
參照 ユフタタム〔枕〕、タナカミ山、サナカヅラ
 
(3071)
 
(3072)
(一)渡
(一)此ワタリを不可解とするものがあるが、アタリの音便と解すべきである。――〔二三七九〕參照。
 
(3073)
(一)白月山
(一)眞淵は白月を田上の誤とした。或は然らむと思はれるが、シラツキ山といふ地名が絶無であるとはいへず、シラツクは木綿に縁のある語――シラカツク木綿といふ慣用句がある――であるから、誤字と斷定することは困難である。
 
(3074)
參照 ハネズイロ
 
(3075)
(一)藤浪乃
(一)藤波が「ただ一目のみ」にかゝることは疑義とせられて居る。恐らくは誤傳があるのであらう。
 
(3076)
 
(3077)
參照 ミサゴ、ナノリソ
 
(3078)(3079)
 
(3080)
(一)名者曾不告
(一)契冲は名ハカツテノラジと訓したが、カツテは語義上將來の行爲を限定する用に適せぬ。舊訓に從ふべきである。
參照 ナハノリ
 
(3081)
(一)亂時〔右△〕爾
(一)薪考に時〔右△〕を不可解として計〔右○〕の誤とした。或は然らむ。
 
(3082)(3083)(3084)
 
(3085)
參照 タマカギル〔枕〕
 
(3086)
 
(3087)
參照 マスガヨシ〔枕〕
 
(3088)
(一)戀衣
(一)コヒ衣といふ衣服はなかつた筈であるから、雅澄は辛〔右○〕衣の誤であらうというた。
參照 キナラの山
 
(3089)
(一)立毛居毛
(一)新考にタチニモ居ニモと訓まねばならぬとしたが、其理由を示さぬのは遺憾である。問題は立居が名詞として用ひられたか、動詞とせられたかといふにあるが、こゝは後者らしい。
參照 カリヂの池
 
(3090)
 
(3091)
(一)爾〔右△〕
(一)爾〔右△〕を谷〔右○〕の誤字とする新考の説可v從。
 
(3092)
(一)菅鳥乃
(一)眞淵は菅を管〔右△〕の誤としてツツと訓したが、ツツトリといふものゝ存在も甚怪まれる。スガは渚所の意としてス(渚)鳥と解すべきであらう。
シラマユミヒダと續く理由を詳にせぬ。――引《ヒク》にかゝるとする冠僻考の説は從はれぬーー或は飛騨人が常に之を用ひたのかも知れぬ。
參照 ヒダの細江、シラマユミ〔枕〕
 
(3093)
(一)小竹
(一)眞淵はシヌと改訓したが、ササと訓むことを不可なりとする理由を詳にせぬ。ササもシヌも原義は小竹ではないが、萬葉集時代には普く此意に用ひられた。こゝでは鳥の鳴く音にきかせてササと訓む方がよい。
參照 ササ、シヌ
 
(3094)
(一)鷄左倍
(一)契冲訓による。
 
(3095)
 
(3096)
(一)思不勝烏
(一)舊訓オモヒカテヌヲとあり、オモヒアヘナク〔契冲〕、シヌビカネツモ〔雅澄〕といふ訓もあるが、思に不堪といふ意であるから、字の通すモヒカテズモと訓むべきであらう。――〔五〇三〕參照――但し第四句と入れかへて聞くべきで、「思に堪へかねて尚も戀ふることよ」といふ意である。ナホシ〔右△〕コフラク・シヌビカネツツ〔二字右△〕〔新考〕、ナホシ〔右△〕コヒシク・シヌビガテナク〔四字右△〕〔新訓〕と改めたのは歌意にも語義にも通ぜざるものである。
參照 ウマセ
 
(3097)
參照 サヒのクマ、ヒノクマ
 
(3098)
(一)※[馬+總の旁]馬之
(一)舊訓アシゲウマとあるが、新考の説の如くアヲウマと訓すべきである。和名抄にも※[馬+總の旁]青馬也とあつて、アシゲには※[草がんむり/炎]騅の字があてゝある。
參照 オモダカブダ
 
(3099)
(一)紫草乎、
(一)初、二句のつづき判明せぬ。――古義に中山嚴水の説によつて紫を柴の誤としたが、解讀には何等資する所がない。――次句句頭の草の字類聚古集に之を除いてある所を見ると衍字とせられたのであらう。或は妻〔右○〕の誤ではあるまいか。「妻と別々に伏す鹿の」とすれば意味は判明する。著し然りとせば初句紫草乎は「若草の」とあるべきである。試に次の如く解讀した。
わかくさの妻とわけわけ伏す鹿の野はことにして心はおなじ
ワケワケはワカレワカレと同義である。
 
(3100)
參照 マトリ、ウナデ〔地〕
 
(3101)
參照 ハヒサス、ツバイチ
 
(3102)(3103)(3104)(3105)
 
(3106)
(一)欲爲者
(一)ホシケクスレバ〔考〕、ホリスルコトハ〔畧解〕、ホシケクアレバ〔古義〕、ホシキタメニハ〔新考〕等の訓があるが、舊訓が最すぐれて居るやうである。
 
(3107)(3108)(3109)(3110)(3111)(3112)
 
(3113)
(一)在有而
(−)古義はアリサリと訓し、新考之に同したが、アリサリはアリシアリの約で、此場合にはあたらぬ。
 
(3114)
(一)極而
(一)古義にキハメテであらねばならぬとした理由を明にせね。舊訓の如くキハマリテと訓むを可とする。新考に在去而の誤としたのは根據のない憶斷で、アリサリテは語義上此場合にはあたらぬ。
 
(3115)(3116)(3117)(3118)(3119)
 
(3120)
(一)荒田麻〔右△〕之
(一)麻〔右△〕の字元暦校本に夜〔右○〕とあるに從ふ。
 
(3121)
 
(3122)
(一)今日谷相牟〔右△〕
(一)元暦校本には相乎〔右○〕とある。
 
(3123)
 
(3124)
(一)君將行哉
(一)古義は次に印南《イナミ》を將行とかいたのを例として、イナメヤモと改訓したが、此歌は女が前の歌に對しわざと空とぼけて「戸まどひかも知れませんが、此から又お出かけなさるにも及ぶまい」というたのであるから、舊訓の如くキミハユカメヤモと訓む方がよい。
 
(3125)
 
(3126)
參照 アナシの山
 
(3127)
(一)若歴木
(一)眞淵訓による。
參照 ワタラヒ〔地〕
 
(3128)(3129)
 
(3130)
(一)心喪〔右△〕(二)相之〔右△〕始
(一)宣長説の如くこゝはネモコロとあるべき所である。略解に春海説として喪〔右△〕は衷〔右○〕の誤とあるを可とする。――元暦校本に心哀〔右△〕とあるによつて心イタクと訓したものもあるが〔古義〕、前後と相應ぜぬ。
(二)之〔右△〕の字元暦校本其他に云〔右○〕とあるを可とする。
參照 キク〔地〕
 
(3131)(3132)(3133)(3134)(3135)(3136)(3137)
 
(3138)
(一)朝影爾
(一)眞淵調による。
參照 アサニケニ
 
(3139)
 
(3140)
參照 ハシキヤシ
 
(3141)(3142)(3143)
 
(3144)
參照 ニヅラフ
 
(3145)
 
(3146)
(一)紐解
(一)ヒモトケツ〔古義〕、又はトケヌ〔新考〕と句を切り、次句をオモホセルカモ〔古義〕又はオモオユルカモイモニ〔三字右△〕コノゴロ〔新考〕と改訓して、前後の歌と同義に解きなさんとするものがあるが聊か無理である。オモフものは作者自身で、紐の解けるのは一回ではなく、解ける度に家人を思ふから、紐トケテ・オモホユルカモというたのではあるまいか。或は解〔右△〕は絶〔右○〕の誤寫として、タエテと訓む方がよいかも知れぬ。尚可考。
 
(3147)
(一)客之紐解(二)吾之〔右△〕待(三)嘆良霜
(一)新考説の如くタビノヒモトケヌと八音に訓むを可とする。次の六音句と對偶して音律をなすものである。
(二)元暦校水に吾乎〔右○〕とあるを可とする。
(三)ナゲカスラシモとも訓み得るが、之も音律の上からナゲキスラシモと訓む方がよい。
 
(3148)
(一)此山岫
(一)岫〔右△〕は岬〔右○〕の誤とする説(畧解)可。
 
(3149)
 
(3150)
(一)奧香無
(一)オクカナクは奥處無で、今の言葉でいへば「奥底なく」といふ意であらう。
 
(3151)
參照 ユフタタム
 
(3152)
(一)古義の訓による。
參照 タマカツマ〔枕〕
 
(3153)(3154)
 
(3155)
參照 アシキ山
 
(3156)(3157)(3158)
 
(3159)
(一)湖轉爾
(一)ミナトミ〔右△〕と訓してもよいが、ミはマ〔右○〕(間)の轉呼であることを知らねばならぬ。ミナトワと訓むは非。
參照  ウラマ
 
(3160)
參照 サダ
 
(3161)
參照 アリチガタ、イフカシミ
 
(3162)
(一)水咫〔右△〕衝石(二)此間毛本名
(一)舊訓の如くは咫〔右△〕は誤字であらう。
(二)童蒙抄の訓による。
參照 ミヲツクシ、モトナ
 
(3163)
 
(3164)
(一)略解の訓可。
 
(3165)
參照 トバタの浦
 
(3166)
參照 コカタのウミ
 
(3167)
(一)吾爾所依
(一)新考の訓を可とする。
 
(3168)
參照 コロモテ〔枕〕、マナコ
 
(3169)
(一)契沖はイユケ、千蔭はイユクと訓した。姑く舊訓に從ふ。
 
(3170)
(一)釣爲燭有
(一)舊訓ツリニ〔右○〕とあるに從へば、爲〔右△〕は誤字とせねばならぬが、釣する爲にともすことをツリニトモスとはいひ得ぬから、字の如くツリシトモセルと訓むのであらう。
參照 シカのアマ
 
(3171)
(一)水手出
(一)コギデシと訓むは非。其場合には第四句はワカレ來《コ》シカドといはねばならぬ。
 
(3172)
(一)能〔右△〕野舟附
(一)能〔右△〕は熊〔右○〕の誤とする契冲接可。附〔右○〕をツキと訓み或は泊〔右△〕の誤記としてハテと訓し〔畧解〕、能〔右△〕の誤としてクマヌノフネノ〔新考〕と改めたものもあるが、此歌は熊野舟がめづらしいのではなく、遠航船が浦についたのをめづらしがるといふ意で、ツク〔右○〕メツラシク〔右○〕と韻を押したものであるから、クマヌフネツク〔右○〕と訓むべきである。
參照 マクマヌの舟、クマヌのモロタ舟
 
(3173)
參照 マツラ舟
 
(3174)
參照 ユクユクト、ユクラユクラ
 
(3175)(3176)(3177)(3178)(3179)(3180)(3181)(3182)
 
(3183)
(一)結手懈毛
(一)契冲はユフテタユシモと訓し、古義はタユキモと改めたが、タユシといふ語が當時懈〔右△〕の意に用ひられたか疑問である。之に反して懈は〔三一六六〕の歌にはウミ〔二字右○〕の假字に用ひられて居るから、契冲の一訓に從ひてムスブテウムモと訓むべきである。
 
(3184)(3185)(3186)
 
(3187)
(一)言不問可聞
(一)從來此句をコトトハジ〔右△〕カモと訓み、之に合はせる爲め第三句をヘダタラバ又はヘナリナバと訓して居るが、青垣山の隔在することは事實的原由で、末句はコトトハヌカモと訓むのであらう。
參照 タタナヅク〔枕〕
 
(3188)(3189)(3190)
 
(3191)
(一)不欲惠八跡〔右△〕
(一)跡〔右△〕の字元暦校本及神田本に師〔右○〕とあるを可とする。
參照 ヨシヱヤシ、ユフマ山
 
(3192)
參照 アラヰの崎
 
(3193)
參照 タマカツマ〔枕〕、シマクマ山
 
(3194)
參照 イハキ山、コヌミの濱
 
(3195)
參照 イハキ山、コヌミの濱
 
(3196)(3197)
 
(3198)
參照 イナミ〔地〕
 
(3199)(3200)
 
(3201)
參照 フケヒの濱
 
(3202)
(一)聞之苗
(一)此句の次に「見ゆべき筈であるのに」といふ意味を含めたのであらう。無理な言葉づかひであるが、之をキコエシヲ(聞之乎〔右△〕)の誤として「告げやりたるを」の意に解いた新考説は從はれぬ。當時の女性が舟着場まで見送りに來る例があつたとは考へられぬ事である。――此歌は第一卷〔八〕をよみ込んだものと思はれる。
參照 ニギタツ〔地〕
 
(3203)
參照 ミサゴ
(3204)
(一)無怠〔右△〕行核
(一)元暦校本に無恙〔右○〕とあるによつてサキクとした新訓に從ふ。
 
(3205)
 
(3206)
(一)待不來
(一)童蒙抄の訓による。
 
(3207)(3208)(3209)
 
(3210)
參照 ウツシ
 
(3211)(3212)
 
(3213)
參照 カミナヅキ
 
(3214)
(一)雨之間〔右△〕毛不置
(一)舊訓の如くならば之〔右△〕は衍字とすべきである。――元暦校本には之を除いてある――新考は「雨之」の二字を「置」の下に移しマモオカズアメノと改訓したが、雨間《アママ》モオカズは「雨の絶間もなく」といふ意と解し得られる。
 
(3215)
參照 アラツの海
 
(3216)
(一)送來
(一)童蒙抄の訓による。
 
(3217)(3218)(3219)(3220)
 
     【卷第十三】
 
(3221)
(一)※[さんずい+于]湍〔右△〕能振(二)
(一)舊訓アメノフルとあり、契冲以下いろ/\訓したものがあるが從はれぬ。湍〔右△〕を微〔右○〕の誤としてウメのチルと訓むべきである。――振は零《フル》に通じ、散るをふるともいふから、かりて用ひられたものと思はれる。或は古語ではウメノフルと誦したのかも知れぬ。
參照 フユコモリ〔枕詞〕
 
(3222)
(一)新考に末句を泣兒成人之〔三字右△〕守山の二句としたのは改惡である。ナクコモル山即ち泣兒禁山の意としてよくわかる。
參照 ミモロ、アシビ
 
(3223)
(一)日香天之(二)来來鳴(三)三〔右△〕十槻枝(四)眞割持(五)峯〔右△〕文十
(一)初二兩句を先學いろ/\に訓みかへることに腐心したが、舊訓は日香をヒカルとしたのが誤で、恐らくはヒカク(目虧)を寫し誤つたものらしく、其外には不可解とすべき點はない。霹靂をカムドキ、又はカムドケと訓した例は書紀に多く、和名抄にも霹靂に加美度岐の訓を與へて居る。
(二)此句を改作したものがあるが、此はキナカヌとよみ垣内《カキツ》田にかゝる修飾語である。
(三)三〔右△〕は五〔右○〕の誤とする眞淵説可從。
(四)眞淵訓による。
(五)峯〔右△〕の字は誤であらねばならぬ。舊訓ミネモトヲヲとあるが、眞淵の説の如くエダモトヲヲであらう。
參照 カムドキ、ナガツキ、ミタヤ
 
(3224)
(一)手折來君
(一)舊訓コムとあり、考はケリ、新考はキツと改めたが、「黄葉を折つて來ました、我君」といふ意としてタヲリコシ・キミと訓むのであらう。來《キ》を來《コ》ソといふのは古語の例である。
 
(3225)
(一)影寒(二)淨〔右△〕※[手偏+旁]
(一)寒〔右△〕は元暦校本に塞〔右○〕とあるを可とする。
(二)舊訓イソヒコギイリコとあるが、淨をイソヒ又はソヒ(イを接頭語として)と訓むわけがない。類聚抄に爭〔右○〕、西本願寺本に諍〔右○〕とあるによつてキソヒ又はキホヒと訓したものもあるが、「沖つ波」といふ枕詞にそぐはぬ。恐らくは淨〔右△〕は重〔右○〕などの誤で、シキテコギリコ(コギ、イリの約コギリ)と訓すべきであらう。「沖つ波しき」と用ひた例は第十一卷にもある。
參照 ヨシヱヤシ
 
(3226)
 
(3227)
(一)手向爲跡(二)石枕〔右△〕(三)好去通牟
(一)新考に國乎事〔二字右△〕向跡の誤としてミヅホノクニヲコトムクトと訓したのは寧ろ改作で議論にならぬ。タは接頭語として「水穗の國に向爲と」の意と解すべきである。
(二)枕〔右△〕を根〔右○〕の誤とする眞淵説可從。
(三)略解の訓による。
參照 カムナビ、コトハカリ、ツルギタチ
 
(3228)
(一)隱藏杉
(一)眞淵訓による。
 
(3229)
(一)神酒座奉
(一)神酒はミキ、神主部はカムトモと訓む方がよいやうであるが、姑く舊訓に從ふ。
參照 ミワ、ミキ、イクシ、カムトモ、ウズ
 
(3230)
(一)帛※[口+立刀]
(一)宣長は内日刺の誤寫とし、雅澄は※[口+立刀]〔右○〕を奉〔右△〕」の誤としてヌサマツルと訓したが、舊訓を可とする。ミテグラヲ鳴《ナラ》スといふ意によつて奈良にいひかけたのであるが、之によつて此行幸が諸神巡祭の爲であつたことが連想せられる。
參照 ミテグラ、イハハシ
 
(3231)
(一)攝友
(一)初二句舊訓による。ツキヒモ・ユキカハレトモ〔古義〕、ツキヒハ行ケドモ久ニナガラフル〔新訓〕と改めたものもあるが、舊訓を不可とすべき理由がない。
 
(3232)
(一)機〔右△〕爾作
(一)舊訓フネ〔二字右△〕にツクリあり、契冲は機を※[木+伐]〔右△〕の誤としてイカダとよみ、元暦校本には※[木+義]〔右○〕と改めてあるが、、同書に赭字で、※[楫+戈]〔右○〕とあるを正しとしカヒと訓むのであらう。此四句はマカヂヌキをいはむが爲の序である。――此序は十六卷乞丐者の歌の句法とよく似て居る。
 
(3233)
(一)妹見卷
(一)契冲訓による。
 
(3234)
(一)國見者之〔右△〕毛(二)海毛廣之(三)島名高之(四)大宮都可倍
(一)契冲は 國見者〔右○〕之毛の者の下に五音脱とし、眞淵は阿夜爾久波の五字を補うてクニミレバ、アヤニクハシモと訓み、千蔭は之〔右△〕を乏〔右○〕の誤りで、外に二字脱としてアヤニクハシモと訓し、雅澄は此一句を衍文として削つた。案ずるに之〔右△〕は之〔右○〕の誤りなること略解の説の通りで、クニミバトモシモと八音によみ、之を第一|節《スタンザ》の終とすべきであらう。一首の歌を若干節に分けることは第五卷山上憶良の歌〔八〇〇〕にも例がある。
(二)舊訓ユタケシとあるが、若し之を正しとすれば廣〔右○〕は誤字であらねばならぬ。恐らくはウミモヒロシと六音によみ、之を對して次句をミワタスと四音に誦したのであらう。――六−四、四−六は古歌に屡用ひられた句法である。
(三)此句も上の四音をうけてシマナダカシと六音に訓むべきである。――雅澄は此句の次に曾許乎志毛浦細美香の二句を補ふべしと説いたが、無用の添削である。
(四)新考は此一句を大宮處〔右△〕都可倍麻都禮流〔四字右△〕の誤脱として一段の終であると説いた。言葉は果して其通であつたかどうか知らぬが、節末《スタンザ》にあたり、七音脱とすることには同意ぜせるを得ぬ。
參照 タカテル、イシの原、シナヒ
 
(3235)
 
(3236)
(一)闕事無
(一)カクコトナクと六音に訓むべきである。上の四音句と對偶をなすものである。
參照 タキノヤのアゴネの原、イハタ〔地〕
 
(3237)
(一)絲取置而
(一)絲の字一本に綵とあるが、イトでもマダラでもシドリでもこゝに當て嵌まらぬから、眞淵説の如くヌサと訓むべきであらう。ヌサは野麻《ヌサ》で手向草である。
參照 モノノフ〔枕〕、クレクレト
 
(3238)
參照 ユフハナ
 
(3239)
(一)己之母乎
(一)字についてよめば本居説の如くワガであらねばならぬが、こゝは上句はシ〔右○〕ツエニ、シ〔右○〕メヲカケとあつて、シの韻を押してあるから、雅澄に從ひシガ〔二字右○〕ハハ、シ〔右○〕ガチチと訓む方がよいやうである。シは其の意である。――ナガ〔二字右△〕と訓むは非。
參照 イカルガ、シメ
 
(3240)
參照 カラサキ、イカゴ山
 
(3241)
(一)難〔右△〕乞祷
(一)ナゲキと訓むべしとすれば、難〔右△〕は歎〔右○〕の誤であらう〔考〕。
 
(3242)
(一)百岐年(二)日向爾(三)吾通道之
(一)舊訓モモクキネとあり、モモシネ、モモツタフなど改訓したものもあるが、いづれも文字に無頓着な當推量である。字によつてモモキネと訓むのであらう。ネは接尾語で木が多いといふ意を以て「野」の枕詞に用ひられたのである。本卷〔三三二七〕にも百小竹之三野といひかけた例がある。
(二)日向爾は不可解とせられて居るが、ヒメムカヒニの約ではあるまいか。若し然りとせば前後の數句もよくわかる。之は景行天皇|泳《ククリ》宮行幸の故事を引あひに出したのであらう。
(三)舊訓ワガカヒヨヂとあるが、前句のつゞきによると、ワガカヨフミチノと八音に訓まねばならぬ〔新考〕。
參照 ククリの宮、オキソ山
 
(3243)
(一)纓有
(一)古義の訓による。ウナギタル又はウナガケルとするは非。
參照 アゴの浦、ガニ〔助〕
 
(3244)
 
(3245)
(一)超得之早〔右△〕物
(一)早〔右△〕は牟〔右○〕の誤とする久考説可。
參照 ヲチ、ヲトミ
 
(3246)
 
(3247)
此歌五七の常套句法に從はざるが故に歌意の明なるにも拘はらす、從來句讀を誤り、新考の如きは三、四句の玉の字を衍として除き棄てた。要するに律調を解せざるが爲で、共に「うた」を談ずるに足らぬ。此は次の如き六句より成るものである。
 五、六、四−六、四−六、四−三、四−三
即ち短長、短長、短長――長短、長短の音律にかなひ、三四句と五六句とは偕調をなすものである。
上四句はアタラシキ(貴重なる)キミをヌナ川(石川)の珠に譬へたので、歌の意はあでやかな君の年をとられることが惜しいといふのである。
參照 カムヌナカハ、タケヌナカハ、アタラシ
 
(3248)
(一)君自二〔二字右△〕
(一)元暦校本に目〔右△〕二〔右○〕とあるにより從來キミガメニと訓し、六帖小長歌中にもキミガメヲ〔二字右△〕と改めて收録せられて居るが、「人の目に戀ふ」といふ言葉があり得たとは思はれぬから、――メをミエ(所見)の約とするが如きは反切法に捉はれたもので論ずるに足らぬ――二目〔二字右○〕の轉置としてキミニヨリと訓むのであらう。
參照 シキシマ〔枕〕、フヂナミ
 
(3249)
 
(3250)
(一)徃影乃(二)正目君
(一)影はカタであるからヒサカタと訓ませるつもりであることは疑がないが、往をヒサと訓することは聊か無理であるから、從來解讀し得なかつたのである。
(二)マサメはタダメと略々同義であるが、タダメと訓まざるべからずとするは理由のないことである。
參照 アキツシマ〔枕〕、コトアゲ、ヒサカタ〔枕〕、タマカギル〔枕〕、マソカガミ
 
(3251)
(一)情〔右△〕雲梨
(一)情〔右△〕は誤字であらう。元暦校本には?〔右○〕とある。
 
(3252)
 
(3253)
(一) 百重浪(二)重浪爾敷
(一)百の上に五〔右○〕の字を脱とする契冲説可。
(二)眞淵訓による。
言幸眞編座跡の二句は從來辭擧叙吾爲の上にかへるものと説いて恠し  言擧したやうになり、且マサキクマセトで一段とすることは歌の姿の上からいうても甚おもしろくない。案ずるにマセトはマシテ〔二字右○〕の音便で次の句につゞくのであらう。シがセと轉呼せられた例は極めて多く、上古はトとテとを相通じて用ひた證跡があるのである。――語法要録參照。
參照 カムナガラ、ツツミ
 
(3254)
(一)眞福在與具〔右△〕
(一)具〔右△〕は其〔右○〕の誤か〔木村〕。
參照 コトダマ
 
(3255)
(一)心乎胡粉(二)命號貯
(一)契冲訓による。
(一)舊訓ミコトヲツミテとし、契冲はイノチナヅミテと改めたが、貯は紀の舊訓によればアザヒとも訓むから、號《ナ》貯がナヅサヒの假字なるべきことは疑がない。夏麻引はイ(糸)にかゝるのである。――從來此に氣がつかず、命號貯の一句をよみわづらひ、雅澄はオモヒナヅミと牽強し、眞淵はウナカブシマケとこぢつけ、新考は之に從うてウナカタブケと訓したけれども、古義説は論ずるに足らず、ナツソビクはウミ(績)の枕詞ではあるが、ウ一音にかゝる理由はない。新訓は元暦校本に方〔右△〕貯とあるによつてイノチカタマケと訓したが、カタマケには傾くといふ意はないから言葉ををなさぬのみならず、方〔右△〕は號〔右○〕の誤寫とも見ることが出來る。之を要するに枕詞の語義を究めずして歌を説くほど危険なることはない。
參照 ナツソビク〔枕〕、ナヅサヒ、モトナ、ウナカブシ、カタマケ
 
(3256)
(一)數數丹
(一)シクシクニ〔略解〕、シバシバニ〔古義〕とも訓み得るが、カズは古語でもあり、カズカズというても意味は通ずるから、姑く舊訓を存する。
 
(3257)
(一)石椅跡
(一)跡〔右○〕を踏〔右△〕の誤としてイハハシフミと訓する説は從はれぬ。此トはニと略々同義である(語法要録參照)。――イハハシは地名であらう。
參照 コセ、イハハシ、ナヅミ
 
(3258)
(一)白木綿之
(一)眞淵訓に從ふ。
 
(3259)
 
(3260)
(一)小沼〔右△〕田之(二)不時之如
(一)沼の字元暦校本に治〔右○〕とあるを可とする。
(二)トキジキ〔右△〕ガゴトと訓むは非、トキジクは形容詞ではない。
參照 ヲハリダ、アユチ、トキジク
 
(3261)
(一)於v妹不v相」1也
(一)左註は理由のないことである。男より女をキミというた例は集中數多く見える。
 
(3262)
(一)吾帶綾〔右△〕
(一)元暦校本に緩〔右○〕とあるを可とする。
 
(3263)
左註の如く古事記遠飛鳥宮の段に此歌が見えるが、終末の句々には多少相違がある。
參照 イクヒ、マクヒ
 
(3264)
(一)何時之間
(一)新考訓による。
 
(3265)
 
(3266)
(一)知久毛相
(一)舊訓アヘルとあり、先學皆之に從うて居るが、逢ひての後の歌としては情趣が乏しい。一度逢はば生命の消ぬべく戀ふることはしるくとも逢ひたいといふ意らしいから、アハムと訓むべきである。新考に此二句を戀久乎〔右△〕知弖〔右△〕毛相と改作したのも右の誤解にもとづくものである。
參照 ヲヲリ、ニノホ、ウマサケ〔枕〕
 
(3267)
 
(3268)
(一)童蒙抄の訓による。
參照 トノグモリ、オホクチ〔枕〕、マカミが原
 
(3269)
 
(3270)
(一)所掻將折
(一)舊訓カカレとあるが、所の字衍たらずとするもカキと訓するに妨はない。掻〔右○〕は元暦校本に格〔右○〕とあるによらばウナヲラムと訓むべきである。
參照 シミラ、スガラ
 
(3271)
參照 ハシキヤシ
 
(3272)
(一)立良〔右△〕久乃(二)親親(三)行莫莫(四)麻笥乎無登
(一)良〔右△〕は麻〔右○〕又は萬〔右○〕の誤としてタタマクと訓すべしとする古義の説河。從つて次句もヰマクと讀むべきである。
(二)ムツバヒシ、ニキビニシ〔略解〕、ムツマシキ〔代匠記〕、シタシキ〔新訓〕等と改訓せられて居るが、オヤオヤノとある舊訓を非とすべき理由がない。――オヤの原義は大屋である。
(三)眞淵の訓による。但し脱字ありとするは非。行莫々はユクラユクラの漢譯である。
(四)元暦校本に司乎無登とあるによつて新訓はツカサヲナミトと改訓したが、餘りに縁の遠い言葉である。舊訓の方が遙かによい。――ヲケはワケに通ずる。
參照 オモフソラ、ナゲクソラ、ユクラユクラ、モトナ
 
(3273)
 
(3274)
(一)續〔右△〕文將〔右△〕敢鴨
(一)續〔右△〕の字元暦校本、類聚古集に讀〔右○〕とあるを可とする。但しヨミモアヘムカモとしては「數へ得られるだらう」といふ意になり、心行かぬのみならず反歌にも合はぬから、將〔右△〕もまた不〔右○〕の誤としてヨミモアヘヌ〔右○〕カモと訓むのであらう。〔二三九四〕の歌にも數物不〔右○〕敢鴨とある。
此歌の首十句及末九句は後記〔二三三九〕の挽歌にも出て居る。一つの歌が紛れたものともいひ得るが、此歌の儘でも意はよく通ずるから、夙に傳誦を異にしたものと解すべきであらう。記の八千矛神の歌が繼體紀に太子の御作として少しく詞をかへて擧げられて居るやうに、古歌の名句が前後をちがへて色々に傳へられたことは極めてあり得べきで、いづれを原歌と定めることは出來ぬ。
參照 ヨゴシ、ユクラユクラ
 
(3275)
 
(3276)
(一)百不足(二)浪雲乃(三)念足橋
(一)アシビキ〔宣長〕又はモモキモル〔雅澄〕と改訓したのは非。モモタラズはヤ(彌、多數)にもいひかけ得るのである。
(二)古義は浪雪〔右△〕の誤としてシキタヘと訓み、新考は朝〔右△〕雲と改作したが尚契冲攝の如く波状の雲と解することを可とする。此は枕詞ではなく、折からの風景を其儘譬喩に用ひたもので、「波雲のやうに」といふ意と解すべきである。
(三)此歌前半と後半とは相應ぜぬから、二首の歌がまぎれて一首となつたのであるとは夙に宣長のいひ出したことで、然るべしと思はれるが、さてどこか切目が判明せぬ。姑く新考によつて此句までを前の歌とする。
參照 モモタラズ〔枕〕、ウマジモノ、モノノフ〔枕〕、サニヅラフ〔枕〕
(一)舊訓コノミタレトカとあるが、身〔右△〕は夜〔右○〕の誤寫であろう。
 
(3277)
(一)今身〔右△〕誰
(一)舊訓コノミタレトカとあるが、身〔右△〕は夜〔右○〕の誤寫であらう。
 
(3278)
(一)「吾が其を飼ひゆく如」の意。上の四音句に對しワガユクゴトと六音に訓むのであらう。新考に吾〔右○〕を乘〔右△〕と改めたのは誤りで、以上六句は「思妻心に」といふ言葉を隔ててノリにかゝる序であるから、此句に於てノリというては重複する。
(二)オモヒツマと訓するは非。末句の吾待公と對偶するのであるからオモフツマと訓まねばならぬ。妻は借字で夫《ツマ》の意、次句の「心に乗りて」と轉置して聞くべきである。
 
(3279)
(一)事者棚知
(一)タナシレと訓するは非。「者棚」はあて字でハタ莫知《ナシリ》の意、コトは「逢ふこと」である。
 
(3280)
(一)三袖持
(一)ミソデはマテデ(兩袖)の音便であらう。
參照 サナカヅラ〔枕〕
 
(3281)
(一)左夜深跡
(一)上古トとテとは通はして用ひたから、フクトと訓み、フケテの意と解することも出來るが、誤解を避ける爲、こゝはフケテと訓むを可とする。――跡は必しも誤字ではない。
 
(3282)(3283)
 
(3284)
(一)妹爾
(一)註記の如く妹〔右△〕は公〔右○〕又は君〔右○〕とあるべきである。
參照 イハヒヘ
 
(3285)(3286)(3287)
 
(3288)
(一)或本反〔右▲〕歌(二)木始(三)依而有〔右△〕
(一)反〔右▲〕の字は衍であらう〔契冲〕。
(二)始〔右△〕の字元暦校本には妨〔右○〕とある。防〔右○〕の誤とする大井景井説〔古義〕を可とする。但しアヲカヅラとよむは非。新考の如くサナカヅラと訓すべきである。
(三)有〔右△〕は者〔右○〕の誤であらう〔古義〕。
參照 サナカヅラ、ユフダスキ
 
(3289)
(一)相有君乎(二)吾者不忍〔右△〕
(一)眞淵訓による。
(二)忍〔右△〕は忘〔右○〕の誤とする童蒙抄の訓による。元暦校本の字も忘〔右○〕とよみ得られる。
參照 ミハカシ、ハチス、キヨスミの池
 
(3290)
(一)今心文〔二字右△〕(二)不所念〔右△〕
(一)今文心〔二字右○〕の倒置とする新考説可。――但し上句の曾〔右○〕を念〔右△〕の誤とする意見には從はれぬ。此は「宿世の契であらう」といふ意であるから、アヒケラシとあるべきである。
(二)舊訓の如くば念〔右△〕は忘〔右○〕の誤〔契冲〕。
 
(3291)
(一)青〔右△〕生(二)歸〔右△〕之
(備考)此歌に限り括弧内に細書したのは前二句に代はるべきもの、大書したのは補うて誦むべきものである。
(一)青〔右△〕は重〔右○〕の誤とする眞淵説に從ふ。
(二)此二字は分註の如く※[手偏+讒の旁]入として削るべきである。
參照 ヒナサカル、アマサカル〔枕〕
 
(3292)
 
(3293)
參照 ミカネの嵩、トキジク
 
(3294)
 
(3295)
(一)打久津(二)足跡貫(三)諾諾名(四)阿邪左結垂(五)刺細子
(一)舊訓ウツクシとあるが、宮の枕であるから、ウツヒサツであらねばならぬ。
(二)跡〔右△〕は踏〔右○〕と屡々書きちがへられた字であるから、こゝもアシフミヌキと訓すべきであらう。ヌキは今もヌキ足サシ足などいふヌキである。フミツラネと訓むは〔古義〕非。
(三)眞淵訓による。
(四)舊訓による。カツラユヒタリ〔考〕、アサネユヒタレ〔略解〕、カザシユヒタレ〔古訓〕等字をかへて改訓したものがあるが從はれぬ。アザサはアザシの訛、「絆ひ」と同義である。
(五)刺〔右○〕を敷〔右△〕〔考〕又は腰〔右△〕〔新考〕の誤としてシキタヘノコ、又はコシホソの子と訓したのはサスタヘといふ語を解し得なかつた爲であるが、上句オサヘサスといふ句のつゞきをも考へず、勝手に改竄したのは無謀であるこゝはサス〔二字右○〕タヘの子であらねばならぬ。貴族の若殿が早乙女に戀したことを詠んだ此めでたい歌も一字の改竄によつてめちやめちやになる。作者もさぞ地下でないて居ることあらう。
此歌は問答體で、上九句即ち「吾子」までが一節《スタンザ》である。
參照 ウツヒサス(ウツヒサツ)、ミナノワタ〔枕〕サスタヘの子
 
(3296)
 
(3297)
參照 タマダスキ〔枕〕、シミラ、スガラ
 
(3298)
(一)二二火〔右△〕
(一)火〔右△〕は去〔右○〕の誤としてシナムと訓むべしとする眞淵説に従ふ。
參照  ヨシヱヤシ
 
(3299)
(一)左丹〓〔右△〕之(二)相語妻遠
(一)元暦校本には漆〔右○〕とある。
(二)舊訓による。――略解は妻〔右○〕を益〔右△〕の誤としてカタラハマシと改訓したが、アヒカタラメヲを不可とすべき理由がない。
參照 コモリク〔枕〕、オモフソラ、ナゲクソラ
 
(3300)
參照 オシテル〔枕〕、ソボ、ヒコヅラヒ、イヒヅラヒ
 
(3301)
參照 カムカゼ〔枕〕、ミル
 
(3302)
(一)行之長爾(二)志之岐羽矣
(一)諸本に〓〔右○〕又は屯とあるを可とする。長〔右△〕は屯〔右○〕の草字〓を寫し誤つたものであらう。
(二)舊訓による。矢の種名と思はれるが語義を詳にせぬ。
人に女との中をさかれた男の恨んで詠じたものである。餘り修辭が多いので、或は挽歌とし〔眞淵〕、或は紀の國から歸郷するものゝ歌とし〔宣長〕、古義はまわりくどい説明を與へて今まで解き得たるものなしと誇り、新考は數ケ所に多くの句を補うて添削を試みたが、いづれも誤である。原文の通りでよくわかる。結末の數句によく注意すべきである。
參照 ムロ〔地〕、ナハノリ、ユキ
 
(3303)
(一)妻者會登
(一)舊訓アヒツとあり、眞淵はアヘリと訓したが、新考にアヒキとあるを可とする。其は完了時格又は繼續格を用ひることの出來ぬ場合であるからである。
參照 ウラブリ
 
(3304)
 
(3305)
(一)道行去毛(二)香未通女
(一)舊訓にユキナムモとあり、契冲はユキヌルモと訓したが、こゝは道を行き行き(モは感動詞)青山に眼を放つて偶然見かけた少女を詠じたものとせねば趣がない。
(二)古義に之をニホヒヲトメ.次句をサカエヲトメとしたのは古語法でないのみならず、わざ/\六音の句とする必要がない。
 
(3306)
 
(3307)
(一)吾同子※[口+立刀]過
(一)同子は舊訓ミとあり、宣長、雅澄等は字をかへてカタ(肩)又はメ(目)と訓したが、ホツエ(長兄)に對する語で、モコ(同輩)とよむのではあるまいか。キリカミ、タチバナ、此河は皆次の句の准枕詞であらう。歌の意は「此年の程同輩にも眼上の人lこも戀せずして汝の情を待つた」といふことと思はれる。キリカミの(吾)モコとつゞけたのは筒井筒振分髪とを趣を同うし、童髪の昔から親しい儕輩といふことで、キリに對してタチといひ起したのであらう。極めて巧な修辭である。
此歌は前の長歌の答であることは勿論であるが、シカレコソといひ起した所を見ると、〔三二九五〕と同じく問答體の一首であつたのが二分せられ、後人がさかしらに反歌を添へたものゝやうにおもはれる。次の柿本朝臣人麿集所載のものは其原形に近いやうであるが、必しも原歌と斷ずることは出來ぬ。言葉づかひからいうても餘ほど古い歌で、色々に傳へられたものとせねばならぬ。
參照 モコ、タチバナ
 
(3308)
參照 ズケリ
此歌は〔三三〇六〕と對偶をなすもので、前の長歌の反歌ではあるまい。
 
(3309)
(一)路行去(二)爾太遙(二)佐可遙(三)與和〔右△〕子(四)汝心
(一)ユキユキモと訓むべきよしは〔三三〇五〕に註した通りである。
(二)遙はハルと訓む字で、こゝではヘル又はエル(音便)の假字に用ひられたのである。之をヒ又はエと訓するのは無理である。
(三)與〔右○〕を之〔右△〕又は乃〔右△〕の誤として上句につけてよみ、和子を和我同《ワガミ》子〔代匠記〕、加多《カタ》〔考〕、我肩《ワガカタ》〔古義〕、我目子《ワハメコ》〔新考〕と字をかへて訓したものがあるが、元暦校本に與知〔右○〕子とあるを可とし、ヨチコと訓み〔新訓〕、「散髪《キリカミ》の少年《ヨチコ》を擇《スグ》り、年長《ホツエ》者を擇《スリ》」といふ意と解すべきである。
(四)新考に末技〔二字右○〕を等伎〔二字右△〕の誤とし、汝〔右○〕を吾〔右△〕と改記したが、歌意を誤解しての添削であるから問題にならぬ。
參照 ヨチコ、〔三三〇五〕〔三三〇七〕
 
(3310)
(一)雪者零來奴(二)入而且將眠
(一)元暦校本には奴〔右△〕の字を除いてある。語法からいうても然るべきである。
(二)アガネム〔古義〕、カツネム〔新考〕と改訓したのは徒に異論を立つるものである。此夜はアケヌとある句のつゞきから見てもアサ〔二字右○〕ネムとあつて然るべきである。
古事記八千矛神の歌と同一の原歌が形をかへて傳へられたものであらう。第六句以下四句は六、四、六、四の律を用ひ、第十一句以下三句は五音を連ねたのである。
參照 ハツセ〔地〕、サヨバヒ、タナクモリ
 
(3311)
 
(3312)
(一)吾大皇寸〔右△〕與(二)母者睡有(三)外床丹(四)不念如(五)隱※[女+麗]
(一)舊訓スメロギとあるが、寸〔右△〕の字が餘るから、從來|吾夫寸美《ワガセノキミ》〔眞淵〕吾夫尊《アセノミコト》〔春海〕、吾夫寸三《アガセノキミ》〔雅澄〕等と改讀した。案ずるに寸〔右△〕は子〔右○〕の誤記で、ワガオホミコヨと訓むのであらう。作者が貴婦人であるとすれば、皇子が忍んで通はれたことも異とするに足らぬ。
(二)ハハハネテアリと七音に訓むべきである。ネタリと訓むと完了格になり、此場合にはあたらぬ。
(三)オクに對立する語はへであるから、ヘトコといふべきであるが、「外」の字をあてた所を見るとセトコと訓むのであらう。ト〔右△〕トコと訓むことは原義上あり得ぬ。
(四)舊訓による。オモハヌガゴト〔宣長〕、オモハヌゴトク〔雅澄〕としたのは寧ろ改惡である。上のココダクモがオモフにかゝることは勿論で、句を隔てゝ隱※[女+麗]にかゝるものとして之をシヌブツマと訓したのは〔古義〕牽強であるのみならず、シヌブツマといふ抽象的の言葉を用ひては上句の描寫と一致せぬ。
(五)舊訓コモリツマとあるが、※[女+麗]は借字で夫《ツマ》の意であらねばならぬから、シヌビツマと訓む方がよい。
參照 ヨバヒ、セ
 
(3313)
(一)石迹渡
(一)略解の訓による。迹は踏に代用せられたのである。
 
(3314)
參照 ツギネフ〔枕〕、カチ、マスミ鏡、アキツ
 
(3315)
(一)蒙沾鴨
(一)蒙を不可解としてモとよみ〔古義〕、或は裳の誤としてスソと訓したものもあるが〔考〕、コロモ(着る裳の意)モとつづくことはなく、旅行衣は裾を引くものではない。案ずるに蒙v沾といふ意でヌレニテムの假字に用ひたのであらう。
 
(3316)
(一)見者
(一)新考訓による。但し第二、第三句をモツトモ、シルシナケムと訓まざるべからずとする説には從はれぬ。其は末句を假設前提と解した爲であらうが、ミルトモをミトモといふやうに古はミルハの意をもミバというたのである。
參照 マソカガミ
 
(3317)
 
(3318)
(一)夕卜乎
(一)從來ユフウラと訓して居るが、古語では此場合にはユフラと連約した筈であり、他に用例もないから、尋常にユフケと訓むのであらう。ユフケノといふ四音句に對し、ワレニノラクといふ六音句を用ひた所を見ても思半に過ぎる。
參照 イモ山、セ山
 
(3319)
 
(3320)
 
(3321)
(一)木部徃君
(一)新考の訓による。
 
(3322)
(一)門座(二)郎〔右△〕子内
(一)新考訓に從ふ。
(二)郎〔右△〕は娘〔右○〕の誤とする眞淵説可。
 
(3323)
(一)師名立(二)都久麻左野方(三)置而吾乎(四)令偲
(一)舊訓シナタテルとあり、眞淵はシナテルと改訓したが、語義上シナタツであらねばならぬ。
(二)新考に方〔右○〕を柄〔右△〕の誤としてサヌカラと訓したのは之を地名とすることを不可とした爲であるが、サヌカタは地名ではないが、他にも用例があり、決して誤記ではない。語義を究めざる攷證は無用の業といはねばならぬ。
(三)吾乎を次の句につけて訓むは非。こゝは五音句を三つ重ねたので他にも例のあることである。――〔三二一〇〕参照。
(四)新考にカレシムと改訓したのは非。シヌブは菅の縁語で、本集には屡々用ひられて居る。
參照 シナタツ〔枕〕.ツクマサヌカタ、オキナガ、ヲチ〔地〕
 
(3324)
(一)満雖有(二)曰〔右△〕足座而(三)吾思(四)刺楊(五)御手二(六)春日暮(七)涙言(八)雪穗(九)雖嘆(一〇)徃觸之松矣(一一)天〔右△〕原
(一)ミチテアレドモとも訓み得るが、次の「多クイマセド」といふ句と韻を合はせるために、ミチテハアレドと訓む方がよい。
(二)曰〔右△〕は神田本に日〔右○〕とあるを可とする。ヒタリマシテと訓むべきである。――ヒタラシ〔二字右○〕マシテとするは非。敬語はマシだけで十分である。――「御平癒なされて」といふ意である。古義に白〔右△〕の誤としてシロシイマシテと訓み、之に合はせる爲に此句の前に更に二句を補うたのは改惡である。
(三)從來ワガオモフと訓してあるが、不定法を用ひる場合でないからワカ思《モ》ヘルであらねばならぬ。
(四)サシ〔右△〕ヤナギと訓むは非。サス竹というてサシタケとは言はぬから此もサス〔右○〕ヤナギと訓むべきである。
(五)ミテだけでは最高敬語にならぬからオホミテといはねばならぬ。「大」の字を脱したのではなく、「御」一字をオホミ(オホム)の假字にあてることは後世に於ても屡々見る例である。
(六)舊訓ハルノヒグラシとあり、ハルヒモクレ〔考〕、ハルヒノクレニ〔千蔭〕といふ訓もあるが、こゝは夜宴などを連想させたので、ハルヒノユフベと訓むのであらう。
る。
(七)舊訓による。ワガナミダ〔宣長〕、ウタテワガ〔新考〕、オヨヅレニ〔新訓〕と改めたものもあるが、「涙に目が曇つた」といふ意としてナクワレガと訓むのであらう。まだ薨去を叙せざる以前であるからナクともナミダともいへぬといふ論〔新考〕は理窟に捉はれたもので、歌は其やうな窮屈な論理ではない。挽歌といふことは作者自身には初からわかつて居るのである。
(八)舊訓タヘノホニとあるが、タヘを布の意とすれば共に穗があるわけはなく、假に或る部分をタ<ノホと稱したとしても、麻衣の枕詞とすべき縁がない。此は第一卷〔七九〕に「拷〔右○〕の穗に夜の霜降り」とある拷〔右○〕がタベ(田邊)のあて字であることを辨《ワキマ》へずして白妙と同樣の枕詞と速斷し、之を雪穂にうつしたものらしく、文字から見ても無理な訓である。こゝは字の通り雪のホとよみ(ホは秀の意で波のホとも用ひられる)、麻衣の枕詞と見るべきである。
(九)雖思、雖嘆は次に六音句があるから、オモヘド、ナゲケドと四音に訓むを可とする。
(一〇)此二句はオホミソデノ・ユキフリノマツヲといふ六八調である。御袖をミソデノと訓むことの非なるは(五)に述べた通りで、新考の如くユキフリシマツと訓しては複數のやうに聞える。此はユキフリの松と名を負うた一老松で、恐らくは城上《キノヘ》又は石村《イハレ》に存したのであらう。
(一一)天の原はフリサケミツツの準枕詞であらう。アメのゴトと訓むべしとする眞淵説は從はれぬ。前續句の立ツ月ゴト〔二字右○〕ニと重複して聞き苦しい。
參照 ヒタシ、タダハシ、ウヱツキ〔地〕、ミギリ、シミミ、サスヤナギ〔枕〕、キノヘ〔地〕、ツヌサハフ〔枕〕、イハレ〔地〕
 
(3325)
(一)皇可聞
(一)古義の訓による。
 
(3326)
(一)召而使(二)羣而待〔右△〕
(一)契冲訓による。
(二)待〔右△〕を侍〔右○〕の誤とする略解の説可。
參照 ツレモナク、トネリ
 
(3327)
(一)百小竹之(二)取而飼旱〔右△〕(三)※[手偏+邑]而飼旱〔右△〕(四)大分青馬之(四)鳴立鶴
(一)百小竹は小竹の多いといふことで、野の枕詞である。〔三二四二〕のモモキネ三野といひかけたのと趣を同うする。
(二)字音によつてカニと訓しては意をなさぬ。宣長は旱〔右△〕を甞〔右△〕の誤としてカヒナメと訓み、古義、新考皆之に從うたが、時格からいうても語義から見ても不當である。こゝは草水はかへれども何故に嘶きつる(王の薨去を悲しむ故)といふ意味であらねばならぬから旱〔右△〕を鬼〔右○〕又は者〔右○〕の誤としてカヘルモノと訓まねばならぬ。モノはドモと同じく反對の歸結を導く助語で、コソの結びに用ひた例は「馬にコソふもだしかくモノ」〔三八八六〕などがある。――語法要録參照。
(三)舊訓アシゲのウマとあり、考にマシロのコマ、略解にヒタチのコマ、新考にマカタのコマと改訓したが、ツキゲのウマと訓むべきことは反歌について述べる。
(四)舊訓による。和名抄に嘶(ハ)馬鳴也、訓2以波由《イバユ》1俗云|以奈奈久《イナナク》とありイは接頭語で、ハユはホユ(吠)の轉呼である。イナナクも亦「鳴《ナク》」から出た語であることはいふまでもない。
 
(3328)
(一)衣袖(二)大分青馬之(三)情有鳧
(一)次句とのつゞき合上四音によむを可とする。
(二)大分青馬をアシゲノウマとと訓したのは和名抄に騅ハ蒼白雜毛馬也云々、俗云葦毛是とあるによるものであらうが、コロモデといふ枕詞とは縁がないやうである。其故に上記の如く先學が色々に改訓したのであるが、マシロにもせよ、ヒタヲにもせよ大分青の訓としては甚牽強である。案ずるに和名抄に※[馬+總の旁]ハ青白雜色馬也、漢語抄云※[馬+總の旁]ハ青馬也、黄に※[馬+總の旁]馬葦花毛馬〔四字右○〕也とあり、又桃花馬ハ葦花毛〔三字右○〕之紅色者也とある所を見ると、葦花毛の大分が青いといふ意を以て大分青をツキゲ(桃花毛)の假字にあてたのであらう。ツキは衣手《ソデ》の縁語でソデツケ衣などいふ用例もある。――新考に西厩東厩とあるから両方の馬ならざるべからずとし、大分青を白方〔二字右△〕青方〔右△〕の誤記としてマカタ(兩方)と訓したのは小理窟といふもので、東西の厩を叙したのは文飾であつたかも知れず、又事實二厩が對立して居たにしても双方に桃花馬を飼うた事もあり得るが、こゝは其やうな論をすべき場合でなく、馬の悲しげな嘶を以て無限の怨をのべたのである。加之「青」一字によつて白方青〔右○〕方の誤記と推斷することは無謀であり、マカタ〔三字右△〕といふ言葉の用例も古書には見えぬ。――令義解に左右廂猶2左右方1也とあり、古事記にソナタ〔右○〕に彼廂の字をあてた例があるから、強ひていはゞマ〔右○〕タであらねばならぬ。――畢竟するに衣袖マとつゞくものと豫斷して牽強したものであるから論ずるに足らぬ。
(三)アレカモと訓するは非。常よりも悲しく嘶くことを疑問とするよりも情あつてのことと斷定する方が一層哀が深い。
參照 コロモデ〔枕〕、ケ
 
(3329)
(一)夫君爾戀禮薄〔右▲〕(二)満言(三)月乃易者(四)敷物不敢鳴〔右△〕
(一)舊訓コフレバとあるが、之を條件句としては次の「天地」以下につづかぬから、薄〔右▲〕を衍字としてツマニ戀フレと六音によみ切り、序説と見るべきであらう(註三參照)。コフルといふべきをコフレとしたのは強くいふ爲である。――第三卷〔五九三〕に「見えずとも誰こひざらめ〔右△〕」とあると同例である。
(二)舊訓コトノハミチテとあり、イヒタラハシテ〔眞淵〕、ミチタラハシテ〔宣長〕、コトヲミテテ〔新訓〕と改めたものもあるが、言は借字で、ミツルガゴトと六音に訓むのであらう。
(三)セムスベノ以下十句及ヌバタマノ以下九句は〔三二七四〕の歌の大部分を構成する辭句であるから、之を挽歌の一部分に用ふることを非とし、又起句以下十句即ち「夫君爾戀禮薄」までを別の歌のまぎれ込んだものとして、挽歌は「天地」から「月乃易者」までゞ其後には他の句がついて居たのであるといふ説もあるが〔新考〕、――古義は「入座戀乍」までとした――熟讀するに此歌は多少不可解の點があるにしても一首のまとまつた歌と見ることが出來るから、同一の數句があることの故を以てつぎはぎなりとするは速斷である。古事記の八千矛神の歌と相似の作が繼體紀にも本集〔三三一〇〕にも見えて居るやうに、文字のなかつた時代には古歌がいろ/\傳承せられたことはあり得べきである。要するに吾人は語句と歌意とを明にすることを以て足れりとし、眞贋の鑑定は之を斷念せねばならぬ。
(四)鳴〔右△〕は元暦校本に鴨〔右○〕とあるを可とする。
參照〔三二七四〕、ユクラユクラ、ヨミ
 
(3330)
(一)麗妹爾(二)鮎遠惜(三)投左乃(四)其〔右△〕破者(五)縫〔右△〕乍物(六)山〔右△〕志
(一)從來クハシイモと訓して居るが、クハシメ、クハシ女《メ》と言葉を疊んだものと思はれるから、字に拘はらずクハシメと訓む方がよい。
(二)舊訓アユヲアタラシとあるが、愛シミトと訓むべきである。
(三)下河邊長流の訓による。
(四)其〔右△〕を袖〔右○〕の誤とする新考説可。
(五)元暦校本に繼〔右○〕とあるに從ふ。
(六)山〔右△〕の字元暦校本其他多くの本に尓〔右○〕とあるを可とする。
參照 ナグルサ、オモフソラ、ナゲクソラ
 
(3331)
參照 ハシリデ、イデタチ、オサカ〔地〕
 
(3332)
(一)如此毛現(二)然直〔右△〕有(三)人者充〔右△〕物
(一)舊訓ウツナヒとあり、眞淵はウツシクと改めたが、ウツナヒでは意が通ぜず、ウツシクといふ副詞を用ひるべき場合でない。アラの假字で、メをそへてアラメと訓むべきである。
(二)直〔右△〕の字元暦校本以下多くの本に眞〔右○〕とあるに從ひ、シカモアラメと訓むを可とする。
(三)充〔右△〕の字も亦元暦校本に花〔右○〕とあるを可とする。山ナガラ、海ナガラは山カラ、海カラに同じい。――語誌參照。
 
(3333)
(一)水手之音爲乍〔二字右△〕(二)大夕卜(三)枉言哉(四)公之正香乎
(一)爲乍〔二字右△〕は喚などの誤で、カコノコヱヨビと訓すべしとする古義の説に從ふ。
(二)夕〔右△〕の字元暦校本及類聚古集に之なきを可とする。大卜の二字をウラと訓むべきである。古義に之をヌサと訓し、新考にユフケとよみ次に脱字脱句ありとしたのはイハフといふ語を祭祀の義と誤解した爲で、ウラを置き且物忌をしたといふ意である。
(三)タハコトと改訓したものもあるが、字に誤なしとすれば舊訓を不可とすべき理由がない。
(四)略解にタダカと改訓したが、マサカでも少しも差支はない。マサカは「正」の義で、こゝでは「正眞」を意味する。
參照 オホトモ〔枕〕、タハ、マガ、マサカ
 
(3334)
 
(3335)
(一)直見推(二)跡座浪
(一)直海はタタウミ即ちタツミの假字であるから、直の上に庭を脱したものとしてニハタツミと訓すべきである。ニハタツミの本義は平地の溜水といふことである。――次の別傳にも潦《ニハタツミ》とある。――眞淵以來タダワタリと訓したが、末句にもタダワタリといふ語があり、冥界に渡ることを暗示して居るのであるから、こゝに同一語句を用ひることは甚拙い。
(二)「跡」の字を次の句につけてシキナミと訓むべしとする眞淵の説に従ふ。
此歌は水死した人を悼んだものゝやうに思はれる。神の渡に〔三八八八〕の〔神の門〕と同じく、冥神のうしはく海路を意味するのであらう。
參照 ニハタツミ
 
(3336)
(一)所聞海爾(二)障所(三)蛾葉之(四)衣浴〔右△〕不(五)所宿(六)思布(七)言谷不語(八)思鞆(九)世間有
(一)眞淵は上句の之〔右○〕を不〔右△〕の誤として下の句につけ、キコエヌ海と訓したがこゝは海岸をいふのであるから、鳥聲が達せぬ筈はなく、寧ろ死屍を見て鴎の類が鳴きさわぐ光景を其儘序に用ひたものと思はれるから、原文、舊訓を可とする。
(二)障は隔爲《ヘダシ》の假字で帷帳《スクリン》の意。次の別傳には部立とあり、東歌にはヘダシとよまれて居るから〔三四四五〕、ヘダシ又はヘダチであらねばならぬ。ヘダテと訓しては誤解を來す虞がある。
(三)舊訓ガハノキヌとあるが、蛾葉をガハと訓むことは妥當でないのみならず、此場合「皮の衣」は不釣合である。次註の如く「衣」は下の句につくべきもので、字の通りヒヒルハと訓むべきである。――新訓にヒムシハとしたのも理由はあるが、尚ヒヒルハを可とする。
(四)浴〔右△〕を谷〔右○〕の誤とし、「衣」を此句につけてキヌダニキズニとした古義の訓をとる。
(五)字によればイネタル〔古義〕又はヤドレル〔略解〕と訓むべきであるが、語義上イネ又はヤドリは此場合不適當であるから、コイタルと訓むべきである。
(六)「死者の思ひしことを家に言傳てやらうと思うて」といふ意であるから、オモヒシク〔右○〕と訓まねばならぬ。從來のやうにオモハシキ〔舊訓〕、オモホシキ〔考〕としては意が通ぜぬ。
(七)コトダニトハヌ〔右○〕と訓むべきである。トハズとしては上の二つのノラズと重複して耳ざはりであるのみならず、「物いはぬことよ」と感動詞を含めねばならぬ所であるからトハヌであらねばならぬ。――カタラズと訓することの誤なるはいふまでもない。
(八)新考訓に從ふ。――但し柄〔右△〕を誤つて鞆としたのではなく、鞆は舊事紀にもカラと訓せられて居るのである。
(九)眞淵はヨノナカニゾアルと訓し、新考に有〔右○〕を道〔右△〕の誤としてヨノナカのミチと改めたが、略解のやうにヨノナカニアリと訓むのが最も適切である。
參照 ヘダチ、ヒヒル、イサナトリ〔枕〕
 
(3337)(3338)
 
(3339)
(一)潦(二)母〔右△〕穗丹(三)※[竹/昆]跡丹(四)※[さんずい+内]潭矣(五)腫〔右△〕浪能
(一)潦はニハタツミとよみ、川の枕由である。從來之を解し得ずして誤字と斷定し、思ひ思ひの訓をあてたのは苦々しいことである。
(二)母〔右△〕を於〔右○〕の誤とする眞淵説に從ふ。新訓にノドとしたのは恐らくは誤植であらう。
(三)※[竹/昆]〔右△〕の字元暦校本に箆〔右○〕とあるを可とする。
(四)舊訓イルフチとあるが、童蒙抄によつてイリフチと改めた。フチはヘと同源から出た語で、入海の岸といふ意である。※[さんずい+内]〔右○〕を正字とすれば、イリ(又はイル)と訓むことは出來ぬが、此歌も次の反歌にも多くの本(天治本、類聚古集、古葉類聚抄、西本願寺本、温故堂本、大矢本、京本)には納〔右○〕とあるから、舊訓は據のあるものとせねばならぬ。――ウラス〔宣長〕、ウラノヘ〔新考〕と訓したのも理由があるが、尚舊訓を尊重すべきである。
(五)腫〔右△〕を重〔右○〕の誤としてシキナミとした略解の訓をとる。
參照 ニハタツミ〔枕〕、〔三三三五〕〔三三三六〕
 
(3340)
 
(3341)
(一)津煎〔右△〕裳無
(一)煎〔右△〕は烈〔右○〕の誤とする童蒙抄の説可。
 
(3342)
(一)※[さんずい+内]潭
(一)イリフチと訓む理由は長歌に註した。
 
(3343)
(一)※[さんずい+内]浪(二)津煎〔右△〕裳
(一)眞淵は※[さんずい+内]〔右△〕を澳〔右○〕の誤とし、オキツナミと訓したが、上記の如く、多くの本に納〔右○〕とあるから、姑くイリナミと讀んで置く。――ウラナミでは意をなさぬ。
(二)煎〔右△〕は烈〔右○〕の誤。
 
(3344)
(一)太穗跡
(一)此二句舊訓マスラヲヲハタ〔二字傍点〕トトノフトとあるが意が通ぜぬ。諸家の改作又は訓詁も一として首肯するに足るものがない。大士〔右△〕は眞淵の説の如く大土〔右○〕の誤で、オホツチ(又はヒタノツチ)と訓むものらしく、跡は蹈に通ずるから、「大土を△の穗にふみ」なることは略々疑がないが、、「太」の訓を明にせぬ。舊訓にハタ〔二字右○〕というた所を見ると、「太」の上に脱字があるか、又はフトの音便で、ハタの假字にあてられたものらしく思はれるから、假にハタノホ(畑乃秀)ニフミと訓して置く。畑の秀は波の秀と同用例で、ここは「足が土につかぬ」といふ意の形容であらう。
參照 ホタル、ツヱタラズ〔枕〕
 
(3345)
(一)見別
(一)童蒙抄の訓による。
 
(3346)
(一)欲〔右△〕見者(二)愛(三)少子等
(一)欲〔右△〕は放〔右○〕の誤とする宣長説可。
(二)舊訓ウツクシキとあるが「愛」はハシキヤシの假字であらう。
(三)古義の訓による。
參照 ハシキヤシ、トバの松原、イザワ、コトサカ、ケ(日)
 
(3347)
 
     【卷第十四】
 
(3348)
參照 ナツソビク〔枕〕、ウナカミ〔地〕
 
(3349)
參照 ウラマ.カツシカ〔地〕
 
(3350)
參照 マヨ、ミケシ
 
(3351)
參照 イナヲカモ
 
(3352)
參照 スガノ荒野
 
(3353)
(一)移乎〔右△〕佐
(一)乎〔右○〕は邪〔右△〕の誤でイザと訓めといふ新考説に従ふ。
參照 アラタマ、キヘ
 
(3354)
(一)和多佐波太
(一)太〔右○〕を爾〔右△〕の誤とする眞淵説は非。ココダ(許多)のタと同じく接尾語である。――語法要録參照。
參照 キヘ、マダラ
 
(3355)
參照 フジの柴山、ユツリ
 
(3356)
參照 ケニヨハズ
 
(3357)
 
(3358)
(一)波〔右▲〕思家良久(二)佐〔右○〕奈良久波(三)多麻乃乎思家也
(一)波〔右▲〕の字細井本にはない。雅澄は家〔右○〕を末〔右△〕の誤字としたが、ヌラクシマラクといふのは餘り拙い語づかびであるから、恐らくはシは助語としてヌラクにつけてよみ、「寢らくシ辛《カラ》く」というたのであらう。家〔右○〕をカの假字に用ひた例は本卷〔三三八五〕〔三三九二〕〔三四六〇〕にもある。
(二)刊本佐〔右○〕の字がないが、多くの本に之あるを可とする。サナラクのサは接頭語でナラクは「鳴らく」の意である。――新考にカナラクとしたのも惡くはないが、八種の古寫本に佐〔右○〕奈良久とあるを排して異説を立てるにも及ぶまい。
(三)新考は家也〔二字右○〕を末之〔二字右△〕の誤としてシマシと訓したが、字の通りシケヤ(シカメヤに同じ)と訓するを不可とする理由が分らぬ。
參照 ナルサハ
 
(3359)
參照 イマシ
 
(3360)
 
(3361)
(一)許呂安禮
(一)新考に安禮〔二字右○〕の二字を我〔右△〕の誤記としたのは從はれぬ。
參照 アシガラ〔地〕、ヲテモ、カナル
 
(3362)
(一)乎美禰見所久思
(一)新考は所久〔二字右○〕を都々〔二字右△〕の誤としてミツツシと訓したが、ミツツシといふ日本語はない。字の通りに讀んで「見過し」の意とすべきである。――異傳の歌のミカクシは「見隱シ」即ち眼に觸れぬやうにするといふ意である。
參照 アヲネシナク
 
(3363)
(一)須疑乃木能末可
(一)可〔右○〕の字を耳〔右△〕の誤字としてマツシタニと訓めといふ説〔新考〕は從はれぬ。其は第三句を「待シ立ツ」の訛とする〔契冲〕前提に於てのみ成立つ論であるが、マツシ立ツ又はマチ〔右○〕シ立ツといふ語法もなく、又マツシタツがマツシタスと轉じたといふのも推測に過ぎぬことである。シダはサタと同じく「頃」の意で、スはシと同じく其《ソ》の意、大和語ならばマツサタゾといふ所である。結句は「此の間《マ》の過ぎ〔二字右○〕むかも」といふ意を「杉の木間」にいひかけたのであるから、コノマカ〔右○〕であらねばならぬ。
 
(3364)
(一)比可利與利
(一)利〔右○〕の字元暦校本には波〔右△〕とあり、眞淵は判〔右△〕の誤としてヒカバと訓したが、ヒカレ〔右○〕ヨリコネの訛と解する方がよい。
 
(3365)
參照 ミコシの崎
 
(3366)
(一)美奈能瀬河泊爾
(一)刊本に余〔右○〕とあるが、諸本に從ひ爾〔右○〕にあらためた。
參照 ミナノセ川
 
(3367)
 
(3368)
參照 トヒ〔地〕、カフチ
 
(3369)
(一)許呂勢
(一)新考に勢〔右○〕を能〔右△〕の誤とし、上三句をマクの序としたのは從はれぬ。コロセをコロノと改めるとさういはねばならぬことになるが、序なら今少し有意義で且興趣あるものを用ひねばならぬ。「何故菅枕をし給はむ、手枕したまへ」の意と解すべきである。
參照 ママ
 
(3370)
參照 ニコクサ、ハナヅマ
 
(3371)
(一)久毛利欲能
(一)略解は欲〔右○〕の字を奴〔右△〕の誤としてコモリヌと改訓したが、元暦校本には「夜」の字があててあるから、尚舊訓によりクモリヨ(曇夜)と解すべきである。神威の恐ろしさにかくしかねて暗夜の密會を自白したといふことである。
 
(3372)
(一)兒良久〔右△〕
(一)久〔右△〕は之〔右○〕の誤とする略解の説可。
參照 ヨロギの濱、マナコ
 
(3373)
參照 サラサラニ、テツクリ
 
(3374)
參照 ウラヘ、カタヤキ、マサデ
 
(3375)
參照 セロ、ナフ
 
(3376)
參照 ウケラ
 
(3377)
(一)久佐波母呂武吉
(一) モロムキは一かたに向くことである。思ひ思ひに向くの意と説いたものがあるが、モロの語原を知らなかつた爲であらう。
 
(3378)
(一)比可婆奴流奴流
(一)ヌルはノル(伸)の轉呼で蔓草の延びる形容である。〔三四一六〕によつて「濡」の意とするは非。
參照 イリマ〔地〕、オホヤが原
 
(3379)
參照 ウケラ
 
(3380)
 
(3381)
參照 ナツソビク〔枕〕、ウナビ
 
(3382)
(一)奴禮※[氏/一]和伎(二)汝波故布婆曾母
(一)新考には第四句の奈〔右○〕をヌの字の誤として「我《ワ》來《キ》ぬは」即ち「來ぬるは」の意と解釋して居るけれども、其は末句を次註のやうに作りかへて其にあはせたものであるから問題にはならぬ。ワキは下二段活のワケ(他動詞)の自動詞形として此頃東國に於て用ひられたものと思はれる。
(二)上記の如く新考に字を改めてをナニ〔右△〕コフレ〔右△〕ゾモと訓したのは妄誕である。舊訓によつてナハコフハゾモと訓むべきである。コフハはコフルハといふに同じく、めづらしからぬ語づかひである。
參照 ウマクタ〔地〕
 
(3383)
(一)禰呂爾可久里爲
(一)新考にカスミヰと改めたのは不可。カク〔二字右○〕リヰ、カク〔二字右○〕ダニモと韻を疊んであることに注意すべきである。
 
(3384)
參照 カツシカのママ、テコナ
 
(3385)
(一)奈家
(二)可婆
(一)家〔右○〕の字元暦校本に我〔右△〕とあるが、家〔右△〕をカの假字に用ひた例は〔三三五八〕〔三三九二〕〔三四六〇〕にもある。
(二)新考は里〔右△〕を誤字としてアヒシカバと訓した。或はさうであつたかも知れぬが、アリシカバでも歌の意はよく聞える。即「手古奈ありし故に眞間は有名だ」といふことである。我々は古歌を改作する權限は少しも與へられて居らぬから、止むを得ぬ場合の外原字舊訓を尊重すべきである。
 
(3386)
參照 ニホトリ〔枕〕、ニヘ
 
(3387)
(一)安能於登世受
(一)此場合大和人ならばアノト〔三字傍点〕セズと吟咏した筈である。東國ではアノオトというたと見える。
參照 ツギハシ、カツシカのママ
 
(3388)
(一)可提爾
(一)カテニは不v克(不能)の意であるからガテニと濁らぬ方がよい。
 
(3389)
 
(3390)
參照 カガナク
 
(3391)
參照 アシホ山、サネ
 
(3392)
(一)和家
(一)元暦校本には家〔右○〕を我〔右△〕に改めてあるが、家〔右○〕は東歌ではカの假字に用ひられたものゝやうである〔三三五八、三三八五、三四六〇〕。
 
(3393)
(一)波播巳〔右△〕毛禮杼
(一)巳〔右△〕は巴〔右○〕の誤としてハハハ〔右○〕と訓する説〔略解〕可從。イと訓するものもあるが、イといふ感動詞は此場合には用ひることが出來ぬ。
參照 ヲテモ
 
(3394)
參照 サゴロモ〔枕〕、ナヲカケナハメ
 
(3395)
(一)安比太欲(二)佐波太
(一)太〔右○〕を古義には之〔右△〕、新考は努〔右△〕の誤としたが、東國では此ごろ既に後世の口語と同じくタリ(タル)を約してタとのみいうたものと思はれる。次句のナリヌヲも當時の標準語によればナリヌルヲ〔右○〕であらねばならぬが、ルが略せられて居るのである。
(二)此太〔右○〕を爾〔右△〕の誤とする眞淵説は從はれね。タは接尾語で、ココダ〔右○〕などとも用ひられるのである。
 
(3396)
(一)目由
(一)新考に由〔右○〕を誤字としてノミと改訓したのは從はれぬ。「空は行かず足ヨ行く」(大御葬の歌)のヨと同一用法で、「目デ見ル」といふことである。
上三句は鳥の群《メ》を目にいひかけた序、歌の意は「寢ないのでもないのに目で見ようや」といふことである。恐らくは餘所々々しいといふ非難を女から受けた返歌であらう。
 
(3397)
參照 ナサカの海
 
(3398)
參照 ハニシナのイシヰ、テコ
 
(3399)
(一)安思布麻之牟奈
(一)牟奈〔二字右△〕は元暦校本lこ奈牟〔二字右○〕に作り、フマシナムと訓してあるが、第三句カリバネニ〔右○〕とある所を見ると、尚舊訓を可とする。慙株に足をふますなといふことである。
參照 カリバネ、ハリ
 
(3400)
參照 サザレイシ
 
(3401)
(一)中麻奈爾
(一)眞淵はナカヲ〔右△〕と訓み、雅澄は麻奈〔二字右○〕を志麻〔二字右△〕の誤としたが、丘《ヲ》又は島に舟が浮いて居る筈がないから、原字、舊訓にもとづき地名と解すべきである。所在は判明せぬが、和名抄によれば水内郡にフムナ〔二字右○〕(古野)、更級郡にヲウナ〔二字右○〕(小谷)、高井郡にヲウナ〔二字右○〕(小内)といふ地があるから.マナはムナ(身)又はウネ(畝)に通じ、河身を意味する方言であらう。其地の人について尋ぬべきである。―― 播磨風土記にも長ウネ川(今の市川)といふ名稱が見える。
 
(3402)
(一)布〔右△〕良思都
(一)布〔右△〕は帝〔右○〕の誤としてテラシツと訓した新考説可。
參照 ウスヒ
 
(3403)
(一)於父
(一)父〔右△〕は久〔右○〕の誤寫とする契冲説可v從。
參照 マサカ、タゴの入野
 
(3404)
參照 アソ〔地〕.マソムラ
 
(3405)
(一)安波
(一)安は河又は可の誤であるかも知れぬ。若し然りとせばカハヂと訓むべきである。
參照 ヲドのタドリ
 
(3406)
(一)九久多知
(一)ククタチはコタチ(木立)の疊頭語で、和名抄にクタタチと訓した※[草がんむり/豐](菜のトウ)とは別語である。――ククダチと濁つて訓むは非。
參照 ククタチ、サヌ〔地〕
 
(3407)
(一)麻具波思麻度爾
(一)マクハシマドが地點を意味することは勿論であるが、所在を明に せぬのみならず、マグハ、シマドかマグハシ、マドか不明である。略解に眞桑といふ地があると記されて居るが、地名辭書の著者も探索し得なかつたやうであるのみならず、目《マ》精シにいひかけたものとせねば歌にならぬ。マドはミト(御處、水門)の轉呼とも解し得られ、マグハシもまた橋によつて負うた地名であるかも知れぬ。或は厩橋(今の前橋)の古名をマグハシと稱へたのではあるまいか。
參照 マグハシマド
 
(3408)
(一)都可奈那
(一)ツカナナは大和語に直せばツカジ〔右○〕ナである。
參照 ニヒタ山
 
(3409)
(一)比等登於多波布(二)伊射禰志米刀羅
(一)ヒトゾオタハフ〔代匠記、ヒトトオロハフ若くはヒトゾオロハフ〔古義〕といふ訓もあるが、奮訓を可とする。「人々歌ハフ」の訛とおもはれる。
(二)刀〔右○〕を古〔右△〕の誤なりとする説もあるが〔略解〕、上の句のつゞき合から見ると、原字の通りトラと訓み、トヤの訛とせねばならぬ。
參照 カヌマ、ヒトトオタハフ
 
(3410)
參照 ソヒのハリハラ、ネモコロ、マサカ
 
(3411)
(一)斯豆之(二)把〔右△〕與
(一)舊訓シツノ〔右△〕とあるが、之をノの假字とすることは此卷の書例でない。考には久〔右△〕の誤とし、新考は豆〔右○〕をシの假字の誤記としてシシノと訓し.獲ニクヤ獣《シシ》ノの意として結句を「其皮ヨキニ」と解いたが、餘りに奇抜な説明といはねばならぬ。
(二)把〔右○〕の字一本に抱〔右○〕とある。其に從うてカホ〔二字右○〕と訓むべきである。
此歌の意は「寄綱を張り互して獣を寄せるやうに異性をよせて見たが、生憎彼美しい人に劣る」といふことである。
參照 タゴの入野、アニクヤシヅシ
 
(3412)
參照 クロホの峯
 
(3413)
參照 ノス
 
(3414)
參照 ヌジ、ニジ、ヤサカのヰデ
 
(3415)
(一)伊可保乃奴麻爾〔右○〕
(一)爾をノとよめといふ新考説は妾斷。引用の諸例も盡くあたらぬ。
參照 イカホの沼、コナギ
 
(3416)
(一)比可波奴
(一)ヌレはヌルと同じくノル(伸)の轉呼で、「濡」の意とするは非〔三三七八參照〕。
參照 カホヤが沼
 
(3417)
參照 イナラの沼、オホヰ草
 
(3418)
參照 サヌダ
 
(3419)
(一)奈可中次下
(一)此句は舊訓及諸家の訓一も可とすべきものがない。違例であるが音訓併用と見てナカス〔右○〕シモと訓すべきである。次〔右○〕は元暦校本其他に〓とあるから、須の草字を寫し誤つたものであるかも知れぬが縱ひ次〔右○〕を正しとしても尚ナカス〔右○〕シモと訓み得る。
此わかり易い歌を先學が解讀し得なかつたのは寧ろ不思議とすべきで之を當時の大和語に直せば次のやうになる。
 伊香保※[女+夫]よ汝が泣《ナカ》すしも思ひ出づる隈こそしつれわすれなさずも
クマをスルは陰《クマ》を作ることで今の言葉でいへる「垣をすゑる」といふ意である。
 
(3420)
(一)左可禮〔右△〕
(一)禮〔右△〕の字元暦校本に流〔右○〕とあるを可とする。
參照 サヌ〔地〕
 
(3421)(3422)(3423)
 
(3424)
(一)多賀家可
(一)新考に家〔右○〕をタの假字の誤寫としてタカタカモタム(待タム)と解したのは從はれぬ。ケモ亦コ(子)の音便で「目細兒(女)は誰家の子(男子)が持たむ」といふことである。――ケを笥の意とする説〔古義〕に至つては論外である。
參照 ミカモの山
 
(3425)
(一)蘇良由登伎
(一)新考に登〔右○〕を楚〔右△〕の誤として空ヨゾキヌヨと訓したのは非。ツキ(着)をトキといふのは古語で、記紀の歌にも例のあることである。安蘇川原ヲ(ヨ、ヲ相通)石踏マズツイタといふのは大急で來たことであらうが、或は之に因む諺又は俗信があつたのかも知れぬ。
 
(3426)
 
(3427)
參照 ニホヒ、カトリ
 
(3428)
參照 アダタラ〔地〕
 
(3429)
(一)安佐麻之物能乎
(一)結句の乎は違例ではあるがカと訓まねばならぬ。モノヲといへば結句「我をタノミ〔右○〕テアラ〔右○〕マシ」であらねばならぬが〔新考〕、さうすると折角「細江のみをつくし」の縁語として用ひたアセルといふ語を捨てねばならぬことになり、修辭上からおもしろくない。
參照 イナサ細江、ミヲツクシ
 
(3430)
(一)奈〔右△〕志
(一)奈〔右△〕の字元暦校本に余〔右○〕とあるを正しとする。
參照 シダの浦
 
(3431)
參照 アシガリ〔地〕、アキナの山
 
(3432)
(一)可頭(二)可〔右△〕受等母
(一)白膠木《ヌルテ》をカツノ木ともカチノ木とも稱へるが、これはカヂ(楮)の木の訛であらう。罠の材料ともなるので、ワ(吾)とカツ(且)とに二重にいひかけたものと思はれる。
(二)童蒙抄に可〔右△〕を誤としてカツサネズトモと訓したのを可とする。山の名は契冲説の如くカケ山であらうが所在を詳にせぬ。歌の意は私と寢〔右○〕るにしても寢ぬにしても(戀には變りはない)といふ事で、第四句の和乎はワト〔右○〕といふべきであるが、ヲといふ助語の原義は今よりも遙に廣く、一般に補足格表示に用ひられたものゝやうである。新考にワハ〔右△〕カツサネモナハ〔二字右△〕サネズトモと改訓したのは理由のない推測である。
參照 カヂ
 
(3433)
參照 コダル
 
(3434)
參照 アソ〔地〕、ツヅラ
 
(3435)
 
(3436)
(一)志艮登保布
(一)此語義が未だ明にせられて居らぬので、之を登保之刀布の誤記であらうとする説もあるが〔新考〕、常陸風土記にも「白遠新治」とあるから、尚シラトホフ(又はシラトホ)といふ語が存したものとせねばならぬ。
參照 シラトホフ〔枕〕、ヲニヒタ山、ナナ
 
(3437)
(一)都良波可馬可毛
(一)之を男の歌と解せんとするのは無理である。第四句はセラ(男)が(弓束を)卷クを求《マ》クにいひかけたのであるから、ツラハカムカモ即ち縁を續けようというたのは女であらねばならぬ。
參照 アダタラ眞弓、セラシマキナバ
 
(3438)
參照 ツムガ野、ミツガ野、カムシダ〔地〕、ナカチ
 
(3439)
參照 ハユマ
 
(3440)
(一)知余〔二字右△〕乎(二)伊[氏/一]兒〔右○〕多婆里爾
(一)知余〔二字右△〕は元暦校本及諸本に余知〔二字右△〕とあるを可とする。ヨチコといふ語を二つにわけ、ヨチ(少)はめい/\もつて居るからコ(子)をくれというたので、朝菜洗ふ少女に戯れたのである。
(二)新考に兒〔右○〕を曾〔右△〕の誤として「其(菜)をくれ」といふ意に解したのは從はれぬ。――古義に親同志の許婚相談としたのは沙汰の限である。
參照 ヨチ、マシ
 
(3441)
 
(3442)
參照 テコのヨビ坂
 
(3443)
(一)物能毛比豆都
(一)豆を弖と改めた本もあるが、豆であつても出《デ》の訛である。
 
(3444)
(一)故爾毛乃〔右△〕(二)西奈等〔右△〕都
(一)乃〔右△〕の字を美〔眞渕〕又は民〔右○〕〔雅澄〕の誤としてミタナフと訓むべきである。
(二)等〔右△〕は毛にあたる字の誤とする新考説可。
參照 キハツクの岡、ミラ
 
(3445)
參照 ヘダシ
 
(3446)
(一)安志等比登其等
(一)新考に等〔右○〕を比〔右△〕の誤とし、アシトヒ(葦といひ)トゴヒ(たぐひの訛)としたのは牽強である。「アシ(凶)と一言」の意。妹ナロ(女祝)が一言を寄せるといふことで、荻の縁によつてアシ(葦)といひかけたのである。ササラ荻は神樂に用ひる荻をいふ。
參照 イモナロ、ササ
 
(3447)
(一)安努弩奈〔右△〕由
(一)元暦校本には第二第四句の弩の字がない。若し之を正しとすれば第二句はアヌナ〔右△〕行カムト、第四句はアヌハ行カズテと訓むべきであるが〔古義〕、――宣長はアヌナ〔右△〕のナ〔右△〕をニの音便とし、雅澄はヌ(野)の轉呼とした――アヌといふ地の野をアヌ野《ヌ》というたこともあり得るから、弩の字を存し第二句の奈〔右△〕を衍字として兩句ともに假にアヌヌと訓んで置く。――新考は第四句のアヌヌも亦アヌニ〔右○〕の訛としたが、末句「荒草立ちぬ」の主語であらねばならぬから、「アヌには〔二字右△〕」とはいひ得られぬやうである。
參照 クサカゲ〔枕〕、アヌヌ
 
(3448)
(一)久住麻提
(一)元暦校本其他「左」の字のない本が多いが、ツクマデとツクサマデとは各異つた意味があるから、衍字と斷定することは早計である。姑く舊訓に從ふ。
參照 ヒジニツクサマデ
 
(3449)
參照 マクラガ〔地〕
 
(3450)
(一)斯乎〔右△〕
(二)利〔右△〕馬利
(一)乎〔右△〕の字神田本其地に抱〔右○〕とある。此卷にこ「思保夫禰のおかれはかなし」云々、第二十卷に「志富夫禰にまかぢしじぬき」などともあるから、シホブネを正しとすべきである。
(二)上の利〔右△〕の字元暦校本朱筆「知」とあるを可とする。
參照 ヲグサヲ、シホフネ
 
(3451)
(一)古麻波多具(二)素登毛波自
(一)タギ(操馬)、タゲ(喫)ともにタグと活用とられるが、今播かんとする粟を駒が食うても追はぬといふ法はないから、タギの意とすべきである。
(二)ソは追馬の聲、ソトモハジは「ソとも追はじ」の意。
參照 サナヅラの岡、タギ
 
(3452)
參照 ガニ
 
(3453)
參照 クダリ、マヨヒ
 
(3454)
參照 ニハニタツ〔枕〕、アサデ
 
(3455)
 
(3456)
參照 ウツセミ
 
(3457)
 
(3458)
(一)奈可太乎禮
(一)第二第三句を新考は等能〔右△〕乃奈〔右△〕如耻志安耳〔二字右△〕太波〔右△〕禮とあらためて「殿の仲子吾に※[女+搖の旁]はれ」と訓したが、此の如きは解讀ではなく、寧ろ改作(しかも甚拙い)であるから論ずるに足らぬ。舊訓の通りで意はよく通ずるのである。
參照 トリノヲカチシ、ナカタヲレ
 
(3459)
參照 カガリ
 
(3460)
(一)和家
(一)元暦校本には和我〔右△〕と改記してあるが、家〔右○〕は本卷に於ては屡々カの假字に用ひられて居るのである。――〔二三五八〕〔二三八五〕〔二三九二〕参照。
參照 オソブリ、ニフナミ
 
(3461)
(一)許奈爾
(一)コナニは大和語に直せば來コズニである。
參照 サネ、シダ
 
(3462)
(一)夜末左波妣登乃(二)麻奈
(一)新考に妣登〔二字右○〕を彌豆〔二字右△〕の誤としたのはいはれのないことである。
(二)マナは「眞魚」に「愛」をいひかけたのである。
參照 マナコ
 
(3463)(3464)(3465)
 
(3466)
(一)佐禰奈敝波
(一)サネナヘバは大和語に直すとサ(接頭語)寢《ネ》ねばである。
 
(3467)
 
(3468)
此歌の解釋は從來甚誤まつて居る。詳しくは語誌ハツヲの項下に述べた通である。
參照 ハツヲ、トナヘ
 
(3469)
(一)與斯呂
(一)ヨシロを依《ヨシ》〔古義〕、ヨソリ〔新考〕の意とするのは誤である。
 
(3470)
(一)伎美末知我※[氏/一]爾
 
(3471)
參照 モトナ、アヲネシナクル
 
(3472)
(一)安是可曾乎伊波牟(二)可里※[氏/一]伎奈波毛
(一)新考には波〔右○〕は麻〔右△〕誤で、イマム(忌まむ)であらうとあるが。忌といふ語が此意味に用ひられるやうにたったのは稍後代のことで、萬葉集には一つも用例がない。
(二)着ナハムは大和語に直すと着ザラムとなる。
 
(3473)
(一)於由〔右△〕爾
(一)由〔右△〕は母〔右○〕の誤りとする眞淵説に從ふ。新考は面〔右△〕の誤としてオメと讀みイメ(夢)の訛であるとあるが、イメのイはヤ行のイであるから、オと通ずることはない。
國土未勘中の歌であるが、サヌ山は恐らくは下野國安蘇郡佐野の山をいふのであらう。
 
(3474)
(一)奈藝〔右△〕可牟
(一)藝〔右△〕の字元暦校本其他にに氣〔右○〕とある。
 
(3475)
參照 ユフマヤマ
 
(3476)
(一)賀由〔二字右△〕(二)兒|な《ラ》は(三)行か|の《ナ》へば
(一)賀由〔二字右△〕は由賀〔二字右○〕の轉置とする説可。
(二)此ナは汝又はネと同じ敬稱とする説もあるが、次のナが皆ラの訛である所を見ると、「兒ら」の訛とすべきであらう〔略解〕。
(三)ユカノヘバは大和語に直せば「行かねば」である。
參照 ワヌ
 
(3477)
參照 テコのヨビサカ
 
(3478)
(一)故奈(二)禰爾
(一)雅澄は奈〔右△〕の字は志〔右○〕の誤りでコシと訓むのではあるまいかというた〔古義〕。古奈の白嶺といふ山は聞も及ばぬから、此説に從ふべきであらう。白嶺を白山のことゝすれば東國ではないが、アツマ歌は必しも東國の歌といふことではないから、加賀の歌が收録せられたとしても不思議はない。白山は靈山で、山頂には白山神社がある。此歌によれば筑波峯と同様に歌垣が催されたことがあつたのではあるまいか。
(二)新考には爾をノと訓めとあるが、其は上二句を序なりと解したからで、聊無理である。
參照 シダ。
 
(3479)
(一)安良〔右△〕蘇布
(一)良〔右△〕はヒの假字の誤寫であらうといふ新考説に從ふ。
參照 アカミ山
 
(3480)
 
(3481)
(一)毛乃伊
(一)刊本乃の字二つあるが、元暦校本其他の古寫本に唯一つなるを可とする。――六、八調である。
參照 アリキヌ〔枕〕、サヱサヱ
 
(3482)
(一)禰奈敝乃
(一)アハナヘバは「逢はねは」、ネナヘは「寢ぬ」である。
參照 カラコロモ
 
(3483)
(一)家也須流〔右△〕
(一)流〔右△〕の字元暦校本に家〔右○〕とあるに從ふ。
 
(3484)
(一)着《キ》せさめや
(一)キセサはキセスの活用。キセスは口語のキサス(令着)である。
參照 フスサ
 
(3485)
(一)手兒
(一)舊訓テコとあるが、タワラハと同義で、タは接頭語であるから、タコと訓むを可とする。――母の手に抱かれる子なるが故にテコであるといふは俗説である。
 
(3486)
參照 モコロヲ、イヤカタマシニ
 
(3487)
(一)可久須酒曾
(二)宿奈莫
(一)新考は須を那〔右△〕の誤で、ナスゾと訓したが、古義の説の如く爲爲の意と解する方がよい。今もスルスルといふ。シツツと同意である。
(二)元暦校本其他に莫奈と倒置して居るが、刊本の方がよい。宿はイの假字に用ひられたので、イナナは大和語に直せばイネズである。――宿をイの假字に用ひた例は〔一九四九〕にもある。
 
(3488)
(一)許乃母登
(一)新考には乃〔右○〕は利などの誤で、コリモト山であらうとある。一應尤もに聞えるが、乃は元暦校本には「能」とかかれて居て、利又は里を誤寫した形跡は少しもなく、又コリモト山といふ地名も見えぬ。木の本山としても意はよく通ずるのである。
參照 シモト
 
(3489)
參照 ヨラの山
 
(3490)
參照 マサカ
 
(3491)
 
(3492)
(一)奈等布多里波母
(一)新考は波〔右○〕を宿〔右△〕の誤として、ネモ即ち寢むの意としたが從はれぬ。上の句にナリモナラズもあるから、尚成否不明で添寝するまで話が進んで居らぬのである。――小山田にさした柳のやうに唯二人差向ひで居たいといふことである。ナリモナラズモも穀物の豐否を戀の成否にいひかけたので、柳の枝をさすのは實のりを祈る爲である。契冲以下柳が芽生することと解したのは土俗に暗いものといはねばならぬ。
 
(3493)
(一)安比波多家
(−)元暦枚本、類聚集には家〔右△〕を我〔右○〕として居る。いづれにしてもタカハジと訓むべきである。
 
(3494)
參照 コモチ山、カヘルデ
 
(3495)
(一)伊波保
(一)波〔右○〕は何〔右△〕などの誤でイカホロと訓むのであらうといふ説〔眞淵〕は尤らしく聞えるが、イカホならば有名な地であるから、國土未勘の中に入れる筈もなく、又岩に添うた若松であるからカゲリ(蔭)の意を以てカギリ(限)にいひかけたので、イカホのソヒといふ地の若松としては序にならぬ。――歌の意は男の來ぬのは縁の限かと心《ウラ》もとなく思ふといふのである。
 
(3496)
參照 タチバナのコバ〔地〕、ハナリ
 
(3497)
(一)高萱
(一)上二句はサネ(小根)にかゝる序である。
參照 アヤニアヤニ
 
(3498)
(一)須流禮夜
(一)新考に此場合は未來格にていふが常なりと論じたのは理由のないことで、上句ハ忘ラスといふ現在格を用ひたに對し同じ時格を以 忘ルルカハといはずして忘ルレヤとしたのは決定的に表現したので(語法要録參照)、今の言葉に直せば「私が忘レタ〔右○〕カイ」といふに當る。新考は又忘ルレヤといへば忘ルレバ〔右△〕ヤといふ意になるといふ理由を以て、四格活用により忘レヤ〔三字右△〕の誤とすべしと斷じ、改記改訓したのは自家撞着である。忘ルレヤが忘ルレバ〔右△〕ヤの意になるものとすれば忘レヤも亦志レバ〔右△〕ヤの意にならねばならぬ。否、ワスレヤとしてはワス〔右○〕ラバヤと誤またれる虞があるから作者はワスルレヤというたのである。語法に通じたものゝ眼から見れば極めて明瞭なことであるが、新考の如き僻説は一般の讀者を誤ることが多いから、特に一言して置く。
參照 ウナバラ
 
(3499)
(一)乎可爾與世(二)佐禰加夜能(三)麻許等奈其夜波
(一)與世〔二字右○〕を支※[氏/一]〔二字右△〕の誤記とする新考説は非。ヨセでもよく意は通ずる。
(二)新訓にはサネカヤに狭萎草といふ譯が與へてあるが、サは接頭語で、ネカヤは眞淵説の如く根萱の意と解すべきである。
(三)新考に此句を信〔右△〕奈其夜爾〔右△〕波と改記し、サネナゴヤニハと訓したのはサネカヤノといふ序のかゝる所がないと考へた爲でちらうが.之はマコトといふ語を隔て、ナゴヤ(和)にかゝリ、且未句のネロにかかるのである。ナゴヤハは勿論ナゴヤニ〔右○〕ハの意であるが、かゝる場合にニを略する例は昔も今も極めて多く、不思議とするに足らぬ。
 
(3500)
參照 ネヲヲヘナクニ
 
(3501)
(一)安波
(一)類聚古集に本文の下に「不弁國」と細書してある。アハは諸國に多い地名であるが、こゝのアハは安房ではあるまいか。
參照 タハミヅラ、〔三三七八〕
 
(3502)
(一)等思佐倍己其登
(一)新訓にはコソトと訓してあるが、「年さへこそと」では意が通ぜぬ。
參照 メヅマ、アサガホ
 
(3503)
參照 アセカ潟、ウケラ
 
(3504)
 
(3505)
參照 ウヒチサス(枕)、ミヤノセ川、カホバナ
 
(3506)
參照 コドキ、ハタススキ
 
(3507)
 
(3508)
(一)根都古具佐
(一)舊訓ネツコクサとあり、諸家皆之に從うて居るが、ネトコグサと訓まねば歌にならぬ。
參照 シバツキ、ネトコグサ
 
(3509)
(一)宿奈敝杼母(二)安路許曾要志母
(一)新考に宿奈敝〔三字右○〕を寒牟敬〔三字右△〕の誤記としてサムケドモと訓した。第二句とのつづきは頗るよいやうであるが、誤寫の形跡を發見することが出來ぬのみならず、白山風を一句を距ててオソキ(襲來)にかゝるものとせば、「寢なへども」とあつて少しも差支ないことである。――ネナヘドモは大和語でいへばネネドモである。
(二)雅澄が志〔右○〕は吉〔右△〕の誤りで、エキモであらねばならぬとしたのは語法上理由のないことで、かゝりにコソがあるからエシ(ヨシ)と結ぶことが出來ぬとするのは妄想である。――語法要録參照。
參照 タクブスマ〔枕〕、シラヤマ〔地〕
 
(3510)
 
(3511)
(一)物能安〔右▲〕乎
(一)安〔右▲〕の字類聚古集に之なきを可とする。
參照 イザヨヒ
 
(3512)
(一)比登禰呂爾(二)余曾里都麻波母
(一)新考に禰呂〔二字右○〕は彌奈〔二字右△〕の誤と説いてあるが、ヒトネロ、アヲネロと韻を疊んだので歌におもしろみがあるのである。――新訓にヒトネを一嶺と譯したのは非。
(二)新考は又「里」の次に「之」を脱すとしてヨソリシツマと訓したが、恐らくはヨソリツマといふ語を解し得なかつたのであらう。
參照 ヒトネロ、ヨソリツマ
 
(3513)
 
(3514)
(一)都吉奈那
(一)ツキナナは未來完了ツキナ(ム)に希望の意のナを添へたもので、大和語に直せばツキナナムである。
參照 ノス
 
(3515)
參照 シダ
 
(3516)
 
(3517)
(一)阿是西呂等
(一)新考にアゼセロトカといふ六音の句なりしをカを脱したのであると説いたのは柱に膠するものである。
 
(3518)
此の歌の下三句は上にあげた「伊香保ろに天雲いつぎ」〔三四〇九〕と略々同一であるが、いづれを原歌とするか不明である。此歌の上二句を衍とする説〔眞淵〕は非。
參照 カヌマツク、オタハフ
 
(3519)
參照 コラレ
 
(3520)
參照 シダ
 
(3521)
參照 マサデ
 
(3522)
參照 キソ
 
(3523)
參照 アベ〔地〕、トモシ
 
(3524)
(一)安波奈敝波
(一)アハナヘバは大和語に直せばアハネ〔右○〕バである。
 
(3525)
(一)水久君野爾(二)許等於呂(三)伊麻太宿奈布母
(一)ミクク野は水が漬《クク》る野といふことで、地名にも轉用せられたことがあるかも知れぬが、こゝは語義によつて説かねば鴨のはふ理由がわからぬ。
(二)於〔右○〕の字を乎〔右△〕とした本が多いが、刊本を正しとする。オロはオホロの約、ハヘは活用語尾であるから、口語に直せばウロウロ〔四字右○〕することである。
(三)ネナフはネヌに同じい。
 
(3526)
(一)可欲波等里我栖(二)奈與〔右△〕母
(一)從來鳥之巣の意としたのは誤りで鳥ノス(又はナス)の義なることは新考説の通りであるが、我〔右○〕は誤記ではなく東國では大和語のナスをノスともガスともいうたのであらう。其はノス(ナス)といふ語の構成から見れば極めて容易に了解せられる事で、助語としてもノはガとも轉呼せられるのである。――語法要録參照。
(二)與〔右△〕を於〔右○〕の誤とする古義説に從ふ。ナオモハリソネは莫《ナ》思ヒアリソネの約である。
參照 ノス
 
(3527)
(一)也左可杼〔右△〕利(一)久久〔右▲〕伊毛
(一)杼〔右△〕はマ〔右○〕の假字の誤記で、ヤサカ餘《マ》りであらうといふ新考説可v從。――ヤサカのナゲキといふ用例がある。
(二)久の一つは衍字である。類聚古集には伊伎豆久伊毛乎とある。
參照 モコロ
 
(3528)
(一)伊母能良爾
(一)イモネのネ〔右○〕はアネ〔右○〕(姉)のネ〔右○〕と同じく敬稱である。
 
(3529)
(一)禰奈敝
(一)ネナヘはネナフの訛で、大和語に直せばネヌである。
參照 トヤの野、コロビ
 
(3530)
(一)兒呂家
(一)家がカの假字であることは既に屡々述べた〔三四五八〕。
 
(3531)
(一)思之奈須於母敝流
(一)新考には末句を麻母禮流の誤でないかとあるが、「獣の如く守る」とはいへぬから、原文の通り「獣の(來た)やうに思うか」の意とすべきである。
參照 マヨビキ、シシ
 
(3532)(3533)(3534)
 
(3535)
(一)古麻爾
(一)初句のオノガヲヲを馬の尾の意とし、古麻〔右○〕を古呂〔右△〕の誤とした新考説は杜選である。末句のコマをコロに改訓すると馬又は駒を詠じたものと推定せしめる語句は一つもなくなるから、初句を馬の尾と斷定することは出來ぬ筈である。――眞淵が古庇〔右△〕の誤としたのも亦從はれぬ。
此歌は第三者にいひかけた體にしたもので、上二句は「私の男をなほざりに思うてくれな」といふ意。下句は世なれぬ少女が羞澁して馬にものいふ痴態を叙したのである。
 
(3536)
 
(3537)
(一)古宇馬能
(一)宇を衍字としてコマと訓めといふ説もあるが、本來仔馬を意味したコマといふ語が馬と同義語として用ひられるやうにたったので、之を區別するためにわざ/\コウマというたのかも知れぬ。
(二)ニヒハダとすれば新肌と解せられるが、肌の修飾語としては新は少し變であるかた、ニキハタの音便と解すべきであらう。――第二卷にも「たたなづく柔膚すらを」〔一九四〕と用ひた例がある。
參照 タヘ、ハツハツ
 
(3538)
(一)波之
(一)波之を湍呂〔二字右△〕の誤とする新考説は非。ハシを後世のやうに高橋と速斷する爲に、廣い橋なら馬が渡れぬ筈はないといふ理窟が出で、古《フル》橋〔契冲〕、枚《ヒラ》橋〔眞淵〕、飜橋〔雅澄〕などとも解釋したのであるが、此は廣い川に架したウキハシ(浮橋)をいふのであらう。――語誌ウツハシの項下参照。
 
(3539)
(一)夜抱可等(二)麻都〔二字右△〕古呂
(一)麻都〔二字右△〕は諸本都麻〔二字右○〕又は豆麻〔二字右○〕とあるを可とする。
參照 アズ
 
(3540)
參照 サワタリ、テコ
 
(3541)
(一)安也波刀文
(一)アヤハトモを「危かれども」の意とするは誤である。「危ふくとも」〔假設〕といはねば末句と時格が合はぬのみならず、アヤフカレドモがアヤハトモと轉訛することはあり得ぬ。
參照 アズ、アヤフシ、マユカセラフモ
 
(3542)
參照 サザレイシ
 
(3543)
參照 ムロガヤ、ツルの堤
 
(3544)
(一)新考にフタリといふ語は無用としてフタヨと改訓したのは妄斷である。〔二一〇〕の長歌にも「吾妹子と二人〔二字右○〕吾がねし」とあり、「吾妹子」若しくは「せな」と「二人」とが重複することは少しも妨はない。
參照 アスカ河
 
(3545)(3546)
 
(3547)
參照 スサの入江
 
(3548)
參照 イトノキテコツヽ
 
(3549)
(一)伊由可母
(一)新考には由〔右○〕の上に「久」の字を脱したもので、イツクユモカ或はイツクユカであらうとあるが、イツ(何)が今では何時〔右○〕の意に用ひられるやうに、方言では何處の意でイツというたこともあり得る。加之調の上からいうてもイツクといふ語は用ひられぬ。此は歌よむものの心すべきことである。
參照 タユヒ潟
 
(3550)
(一)新考には初句を於吉〔右△〕※[氏/一]伊末〔右△〕等の誤として「起きて未だ」の意と説いたが、原文のまゝでよくわかるから改作に及ばぬ。「しひて厭がつて稻をついて居るのではないが」といふ意である。
參照 イタブル
 
(3551)
(一)比良湍爾母
(一)新考に母〔右△〕は波〔右○〕の誤であらうとある。或は然らむ。ヒラセは平瀬に平男《ヒラセ》をいひかけたのであらう。
參照 アヂカマ〔地〕
 
(3552)
上句を從來松が浦といふ地に人又は波が騒き群れ立つ意として共に都合のよいやうに下句を附會して居るが、十分に解き得たものがない。案ずるに下句は「我思ふ如く思ほすらむ」といふ意で、其主語はマヒトゴ(眞人子)であらねばならぬから、第三句の「等」は違例ではあるがラと訓むのであらう。若し然りとぜば初二句は「松が末《ウラ》に南風《サハエ》ふれたち」の訛で、「心騷ぎして」或は「胸ときめきて思ふ」といふことの形容と思はれる。
參照 サハヘ、ハエ、マヒト
 
(3553)
(一)許※[氏/一]多受〔右△〕久毛可
(一)受〔右△〕は家〔右○〕の誤とする眞淵説に從ふ。コテタズシモカ、コトヤスクモカと訓したものもあるが、前者は語をなさず、後者はコトが剰つて來る。――コテタケクモは許多の意で、水門に潮が入り込むやうに女の床に入りて寢たいといふのである。
參照 アヂカマ、カケの水門《ミナト》
 
(3554)
 
(3555)
(一)宿莫敝兒由惠爾
(一)ネナヘ兒はネヌ兒といふに同じい。
參照 マクラガ〔地〕、コガ〔地〕
 
(3556)
參照 シホフネ
 
(3557)
(一)母比麻須爾〔右○〕(二)舟の
(一)新考に爾〔右○〕を毛〔右△〕の誤としたのはナナといふ語の誤解によるもので、之を大和語のズシテに當ると斷じたのは理由のないことである。ナナはジナといふ意で、大和語ならばセジナといふべきをセナナというたのである。
(二)此語を先學説きわづらうたやうであるが、モヒ(水)が増すといふ縁によつて準枕詞に用ひたのである。
 
(3558)
 
(3559)
(一)許曾〔右△〕能
(一)曾〔右△〕は賀〔右○〕の誤とする畧解説を採る。恐らくは上の〔三五五五〕に對する返歌であらう。
參照 コガ〔地〕
 
(3560)
參照 マガネフク〔枕〕.ニフ、マソボ
 
(3561)
(一)安良我伎麻由美
(一)考は由美〔二字右○〕を河幾〔二字右△〕の誤とし、アラ掻に對するマ掻の意と説き、新考 と讀んで居るが、マギキもマイミも曾て耳にせぬ言葉である。其他マユミを土の割れることをいふ方言とし〔大平〕、或は「間ゆ見」と譯した〔新訓〕ものもあるが意が通ぜぬ。麻由美は恐らくはマユビと訓み(或はマユミと訛り)、ユヒにマを接頭としたものであらう。ユヒは農事を助け合ふことを意味し、地方によつては今も尚用ひられて居る語である。
參照 カナト、ノス
 
(3562)
(一)安里疎蘇夜〔右△〕爾
(一)夜〔右△〕は麻〔右○〕の誤とする眞淵説可。――新考は美〔右△〕の誤としたが、イソミはイソマの音便である。
參照 ウラマ、ウラミ
 
(3563)
參照 ヒダカタ
 
(3564)
參照 コスゲロ〔地〕
 
(3565)
參照 ハタススキ
 
(3566)
(一)曾和敝〔二字右△〕可毛
(一)古義に和敝〔二字右△〕は故遠〔二字右○〕の誤寫とした。姑く之に從ふ。
 
(3567)(3568)
 
(3569)
參照 サキモリ、カナト
 
(3570)
 
(3571)
參照 オオホシク
 
(3572)
參照 アジクマ山、ユヅルハ
 
(3573)
(一)かづら※[草冠/縵]《カゲ》
(一)カゲを蘿《ヒカゲ》と説くは誤、ヒカゲのカゲはコケ(苔)の轉で、サルヲカセをヒカゲのカヅラとはいふが、之をカツラカゲとした例はない。
參照 カゲ
 
(3574)
 
(3575)
(一)緒可敝
(一)訓によつて緒をヲの假字に用ひたのは異例でもる。渚〔右△〕又は須〔右△〕とした本もあり、洲之上の義と釋いたものもあるが、ミヤジロ(御屋尻)といふ語のつづきからいへばやはり岡邊であらねばならぬ。
參照 かほ花
 
(3576)
參照 ナギ
 
(3577)
 
     【卷第十五】
 
(3578)
參照 ハグクミ
 
(3579)(3580)(3581)
 
(3582)
參照 ツツミ
 
(3583)
(一)眞幸而〔右△〕
(一)而〔右△〕は誤字ではないかも知れぬが、――古語テとトとは相通じて用ひられた――こゝではトと訓する方がよい。
 
(3584)(3585)(3586)
 
(3587)
參照 タクフスマ〔枕〕
 
(3588)(3589)(3590)(3591)(3592)
 
(3593)
參照 オホトモ〔枕〕
 
(3594)(3595)
 
(3596)
參照 イナミヅマ
 
(3597)
(3598)
參照 タマの浦
 
(3599)
(一)末〔右○〕を未〔右△〕の誤寫としてイソミとよまざるべからずとする説〔新考〕は固陋である。イソミ〔右△〕、ウラミ〔右△〕、シマミ〔右△〕等のミ〔右△〕はマ〔右○〕の音便で、次の〔三六一九〕にに伊蘇の間〔右○〕ともかゝれて居る。
 
(3600)
參照 ムロの木、ウタカタ
 
(3601)
(3602)
 
(3603)
參照 ユタネマク
 
(3604)
 
(3605)
參照 シカマ川
 
(3606)
參照〔二五〇〕
 
(3607)
參照 フヂエの浦、〔二五二〕
 
(3608)
參照 〔二五五〕
 
(3609)
參照 ムコの浦、ニハ、〔二五六〕
 
(3610)
參照 アコの浦、〔四〇〕
 
(3611)(3612)(3613)(3614)
 
(3615)
參照 カザハヤの浦
 
(3616)(3617)(3618)
 
(3619)
參照 カタマケ
 
(3620)
 
(3621)
參照 ナガトの島、カムサビ
 
(3622)
(一)宇良末
(一)末〔右○〕を未〔右△〕の誤とするは〔古義〕は非。ウラマはウラミの原語である。
參照 ウラマ
 
(3623)
參照 ナヅサヒ
 
(3624)
 
(3625)
(一)右〔右△〕挽歌(二)和我尾(三)安刀毛奈吉
(一)右〔右△〕の字西本願寺本神田本等に古〔右○〕とあるを可とする。
(二)尾〔右△〕は借字で雄〔右○〕の意であらう。
(三)此句の次に脱字があつたのであらう。新考には「世の中ながら、うつせみの」の二句を補ふべしとある。或は然らむ。
參照 ナヅサフ、タグヒ
 
(3626)
 
(3627)
(一)宇良末
(一)末〔右○〕を未〔右△〕の誤とする古義の説は一を知つて未だ二か知らざるものである。ウラマ〔右○〕はウラミ〔右△〕の原語である。
參照 ミヌメ〔地〕、ウラマ、ツララキ、ニホトリ〔枕〕、ナヅサヒ、タマの浦、タマキ
 
(3628)
(一)見流比等
(一)新考の改訓はいはれのないことである。「人」は「妹」の意である。
 
(3629)
(一)於家禮
(一)オケレはオキアレの約。――オキテ〔右△〕アレとするは非。
 
(3630)
(一)麻之牟〔右△〕
(一)牟〔右△〕の字類聚古巣に乎〔右○〕とあるに從ふ。
參照 マリフの浦
 
(3631)
參照 アハ島
 
(3632)
參照 カシ
 
(3633)
 
(3634)
參照 カタの大島
 
(3635)
 
(3636)
參照 イハヒ島
 
(3637)
 
(3638)
參照 オホシマの鳴戸
 
(3639)
 
(3640)
參照 カリコモ〔枕〕
 
(3641)
(一)宇良末
(一)末〔右○〕を未〔右△〕と改めることの非なるは既に屡々述べた。
 
(3642)
參照 カラの浦
 
(3643)
 
(3644)
(一)分間浦
(一)分〔右△〕は万〔右○〕の誤でママの浦であらう。ママ崎は今の下毛郡和田村大字田尻の岬角である(地名辭書)。
 
(3645)
 
(3646)
(一)宇良末
(一)末〔右○〕を未〔右△〕とするは誤なること上記の通りである。
參照 ウラマ
 
(3647)
 
(3648)
(一)伊射流火波
(一)後世ならばトモス〔傍点〕イサリ〔傍点〕火といふべきをトモシ〔右○〕イサルヒとしたから耳なれず聞えるが、語義上少しも妨のないことである。新考にイザルトモシビとしたのは何等理由のない添削である。
參照 イザリ、トモシビ
 
(3649)
參照 カモジモノ、ミナノワタ〔枕〕
 
(3650)(3651)
 
(3652)
參照 シカのアマ
 
(3653)
(一)宇乎
(一)新考に宇乎は可毛の誤であらうとある。或は然らむ。
參照 シカの浦
 
(3654)
參照 カシフ江
 
(3655)
(一)奴良〔右△〕之
(一)良〔右△〕はベの假字の誤寫とする新考説可。ラシでは末句のナキヌと時格が一致せぬ。
 
(3656)(3657)(3658)
 
(3659)
參照 ヒニケニ
 
(3660)
參照 カムサビ、アラツの崎
 
(3661)
參照 ムタ
 
(3662)
參照 ナハノリ
 
(3663)
參照 ナハノリ
 
(3664)
參照 シカの浦、ウラマ
 
(3665)(3666)(3667)
 
(3668)
參照 トホのミカド
 
(3669)
參照 トモシ
 
(3670)
參照 カラトマリ、ノコの浦
 
(3671)
 
(3672)
(一)射里波〔右△〕
(一)波〔右△〕を火〔右○〕の誤とする新考説可從。
 
(3673)
 
(3674)
參照 カヤの山
 
(3675)(3676)(3677)(3678)(3679)(3680)
 
(3681)
參照 コマシマの泊
 
(3682)(3683)(3684)(3685)(3686)(3687)
 
(3688)
(一)多大末〔二字右△〕可母(二)可敝里麻左牟
(一)大末〔二字右△〕は類聚古集に太未〔二字右○〕とあるに從ふ。
(二)麻左牟を「座さむ」の意としては穩でない。マヲサム(申さむ)の約であらう。今も陸中ではマウスをマスと用ひて居る。――新考には麻爲己牟の誤ではないかとあるが、カヘリマヰコムトと誦しては調をなさぬ。
參照 タタミ、ワガタタミユメ
 
(3689)
參照 イハタ野
 
(3690)
參照 モトナ
 
(3691)
參照 ハシケヤシ
 
(3692)(3693)
 
(3694)
(一)乃宇良(二)夜伎弖
(一)古義に乎〔右○〕の字を手〔右△〕の誤かとし、新考に乎〔右○〕を削り、乃〔右○〕を乎〔右○〕のり誤としてホツテヲウラヘと訓したのは共に誤解である。舊訓の通りで意はよく通ずる。
(二)カタヤキを肩灼と釋するは俗解である。
參照 モナク、ユキの海人、ホツテのウラヘ
 
(3695)
(一)祁〔右△〕流
(二)等乃
(一)祁〔右△〕の字西本願寺本等に都〔右○〕とあるを可とする。
(二)乃〔右○〕を久〔右△〕の誤とする新考説は非。「このやうに」といふ意で、特に脚韻を踏んだのである。
 
(3696)
 
(3697)
參照 アサヂ山、モミヂ
 
(3698)
參照 アマサカル〔枕〕
 
(3699)
參照 アヘテ
 
(3700)
 
(3701)
參照 タカシキ〔地〕
 
(3702)
參照 ウラマ
 
(3703)
參照 ウヘカタ山、ヤシホ
 
(3704)(3705)(3706)(3707)(3708)(3709)
 
(3710)
參照 シホサヰ
 
(3711)
 
(3712)
(一)奴波多麻能
(一)初句を不可解として宣長は「ヌバタマの妹が黒髪」などいふ用例を作者がはき違へたのであらうといひ、雅澄は志岐太閇の誤寫であらうというたが、眞淵説の如くイにかゝるのである。但しイは「寢」の意ではなく、ヨ(夜)の轉音である。恐らくは作者は黒衣をつけて居たので、特に此語を用ひたのであらう。
(二)此ヲは感動詞として用ひられたのである。――ヲとヨとは相通する(語法要録參照)。
 
(3713)(3714)(3715)
 
(3716)
參照 ナガツキ
 
(3717)
參照 モナク
 
(3718)(3719)(3720)(3721)
 
(3722)
參照 オホトモ〔枕〕
 
(3723)
(一)第〔右△〕上
(一)第〔右△〕上は一本に茅〔右○〕上とあるを可とする〔契沖〕
參照 サヌのチカミの娘子
 
(3724)
(一)多多禰〔右△〕
(一)禰〔右△〕の字古葉畧類聚鈔に彌〔右○〕とあるを可とする。
 
(3725)
參照 ケダシ
 
(3726)
(一)乎知欲利
(一)明朝以後即ち宅守が出發後といふ意。ヲチは遠である。
 
(3727)(3728)
 
(3729)
參照 モトナ
 
(3730)
參照 タムケ
 
(3731)
 
(3732)
參照 アカネサス〔枕〕、スガラ
 
(3733)(3734)(3735)(3736)(3737)
 
(3738)
參照 モトナ
 
(3739)
 
(3740)
 
(3741)
(一)乎之〔二字右○〕を之毛〔二字右○〕の誤とする新考説は非。イノチヲシは「生命を其が」といふ意で、ヲはヨに通ずる感動詞である。
其 アリギヌ
(3742)
 
(3743)
參照 スクナクモ
 
(3744)
參照 タマキハル〔枕〕
 
(3745)
參照 ハタ
 
(3746)
(一)安禮波伊可爾勢武
(一)此句は吾ハ君ヲ如何ニセムといふ意である〔新考〕。
 
(3747)(3748)(3749)
 
(3750)
參照 サネ
 
(3751)
 
(3752)
參照 ウツシ
 
(3753)
 
(3754)
(一)過所(二)多我〔二字右△〕子爾毛
(一)類聚古集、西本願寺本、大矢本及温故堂本の訓に從ふ。過所は關所手がたで、字音を以て稱へられた〔新考〕。
(二)眞淵は和〔右△〕我未〔右△〕爾毛我毛〔二字右△〕の誤脱としたが、此卷には誤脱は極めて稀で、此の如き錯簡があり得たとも思はれず、ホトトギス、ワカミニモガモと續けることは甚拙いから、多〔右△〕は思〔右○〕の誤で、――草書〓は〓と類して居る――我と倒置せられたものと見てワガモフ子ニモと訓すべきである。上句は「ホトトギスのやうに」といふ意に解せられる。――新訓にはマネク我子ニモとした。
 
(3755)
(一)伊毛乎
(一)乎〔右○〕は等〔右△〕の誤とする説もある〔新考〕。或は然らむ。
 
(3756)(3757)(3758)
 
(3759)
(一)和夫禮弖
(一)ワブレテはワビアリテの約轉である。ワビテの意とし、上古下二段活に用ひたとする説〔新考〕は出たら目で、ワブレン、ワブレルの如き語は絶對にあり得ぬ。
 
(3760)
參照 サネ
 
(3761)
 
(3762)
 
(3763)
(一)麻左米也母
(一)極めて苦しい旅も言葉の上からはやはりタビで増減する所はないといふ意。
 
(3764)
參照 ヘダチ、ヘナリ
 
(3765)
(一)麻都里太須〔右△〕
(一)從來字によつてマツリタスとよみ「奉出」の義として怪しまぬやうであるが、「奉出」といふ語を用ひ得べしとするも、マツリダセル〔二字右○〕といはねば時格があはぬ。案ずるに須〔右△〕は流〔右○〕の誤字でマツリタル〔右○〕と訓むのであらう。
 
(3766)
 
(3767)
參照 タマシヒ、タマフル
 
(3768)
 
(3769)
參照 アハズマ
 
(3770)
參照 アヂマ野
 
(3771)
(一)宮人能
(一)宮〔右○〕人を家〔右△〕人の誤とする説〔略解〕は此女性が大藏女嬬即ち宮人であることに思ひ至らなかつたのであらう。
 
(3772)(3773)(3774)(3775)
 
(3776)
(一)爾之能御馬屋乃
(一)奈良の内裡の大藏は西厩即ち右馬寮の附近にあつたものと思はれる。娘子の家が右馬寮に近かつたとする説〔略解、古義〕、宅守が右馬寮の職員であつたのであらうといふ推測は從はれね。其は目録の誤記に氣がつかず、此女性を普通の婦人と見たからであらうが、當時の習俗としては重婚の爲に朝譴を得たものは一人もなく、之に反して采女に通ずることは雄略朝以來の嚴禁で、舒明朝にも之を處分せられたことが史書に見える。此は宅守が采女たる此女性の許に通ふために右馬寮の側に佇んで機會をうかゞふを例としたことを詠じたのである。
 
(3777)(37778)(3779)(3780)
 
(3781)
參照 モトナ
 
(3782)(3783)(3784)(3785)
 
     【卷第十六】
 
(3786)(3787)
 
(3788)
參照 ミミナシ、カツギ
 
(3789)
(一)還來
(一)略解は還を迅〔右○〕の誤としてハヤクコマシヲと訓した。或はマタモコマシヲと訓むのかも知れぬ。
 
(3790)
(一)玉〔右△〕縵
(一)古點ヤマカツラとあつたのを仙覺が字について改訓したのであるが、玉〔右△〕は山〔右○〕の誤字なりといふ宣長説を可とする。
 
(3791)
(一)無v止〔右△〕(二)燭火(三)非慮之外(四)搓襁(五)平生(六)經方衣(七)氷津裡丹(八)結幡之(九)等〔右▲〕何四千庭(一〇)黒爲髪尾(一一)於是〔右△〕蚊寸(一二)羅〔右△〕丹津蚊〔右△〕經(一三)刺部〔右▲〕重部〔右▲〕(一四)打拷者(一五)信巾裳成者〔右▲〕(一六)屋所經(一七)我丹所來〔右△〕爲(一八)二綾裏沓(一九)退莫立(一七)所來〔右△〕爲(二〇)殿蓋丹(二一)己蚊果(二二)所來者(二三)還見乍(二四)思而在(二五)爲〔右△〕故爲(二六)爲〔右△〕故爲(二七)堅監〔右△〕將爲(二八)持還來
(一)止〔右△〕は匹〔右○〕の誤記〔契冲〕。
(二)燭〔右○〕を鍋〔右△〕の誤とする説もあるが〔略解〕、トモシの假字にあてたもので、トモシの原義はタキモシである。
(三)非慮之外は字についていへば意をなさぬが、或は當時此やうな表現が用ひられたことがあったのかも知れぬ。續後紀第十二卷の宣命にも不慮〔二字右○〕外(ニ)太上天皇崩(ルニ)依(テ)とあり、外二ケ所に同用例がある。
(四)槎〔右△〕の字類聚古集以下多くの本に縒〔右○〕とある。恐らくは裾〔右○〕の誤寫で、裾襁はスソモツキであるが、こゝではスソモツクと訓むのであらう――略解にタスキカク、古義にスキカクルとあるが、襁を負兒帶とすれば之をかけるものは「はふ子」以外のものであらねばならぬから枕詞にならぬ。
(五)舊訓による。恐らくは平生はハフの假字で、其下に子〔右○〕の字を脱したのであらう。
(六)眞淵説による。ユフ(木綿)製の肩衣即ち袖無衣(口語チヤンチヤン)をいふのであらう。
(七)裡は借字で、ヒツラは一連《ヒトツラ》の意であらう。ヒタウラ(純裏)の約とし〔宣長〕、或は「通し裏」のことゝする説〔新考〕は從はれぬ。――〔二九七二〕にも用例がある。
(八)古義にはユヒハタと訓み.夾纈《カウケチ》の意と説いて居るが、上記結經方衣のユフと同じく木綿布《ユフハタ》の意であらう。夾纈が此當時兒童の着衣に用ひられたとは考へられぬことである。
(九)舊訓ニヨレルコラガ・ヨチニハとあり、從來補字、改記して色々の訓を與へて居るが、こゝは七音一句に相當し、之を二句に別けることは調の上からいうても許されぬ。案ずるに丹因をイロ(色)の假字としてイロコガヨチニハと八音に訓むのであらう。葛城の野《ヌ》の伊呂賣といふ人名も見えるから〔記〕、之に對してイロコといふ稱呼もあり得た筈で、秦公|伊侶具《イログ》といふ名も之から出たのであらう。イロメ、イロコはイラツメ、イラツコと同義で、今の言葉でいへば息男、息女である。「等」の字は不要であるのみならず、之を加へると九音になり、音律に合はぬから衍字とする。ヨチが年少の意の名詞なることはおいふまでもない。
(一〇)カ黒キ髪をカクロシ髪〔右○〕といふのは古語法である。契冲は爲〔右○〕を衍字とし、眞淵は伎〔右△〕と改めたが、オフシ〔右○〕河内を不可なりとしてオホキ〔右△〕河内と訓み改めることは出來まい。――語法要録參照。
(一一)是〔右△〕は肩〔右○〕の誤とする古義の説に從ふ。
(一二)羅丹津蚊〔右△〕經を狹〔右○〕丹津羅經の誤記として、サニヅラフと訓した新考説可v從。サニヅラフは色の枕詞である。――羅を一句としてウスモノノと訓み〔新訓〕、或は紅の誤としてクレナヰノと訓する説〔古義〕は從はれぬ。其結果五音一句が餘ることを意に介せぬのは未だ歌と散文との區別を解せざるものといはねばならぬ。――次句はイロニナツケルと訓むべきである。ナツカシキ又はイロナツカシキと訓んでは紫の修飾語としては不備の感がある。
(一三)二(ツ)の部〔右△〕を衍字としてサシカサネと訓むべきである。――古義にササヘカサナヘと七音によみ、サシカサネの伸言としたのは延約説の濫用で論ずるに足らぬ〔語法要録參照〕。
(一四)ウツタヘは全布《ウツタヘ》である。ウツを打の意とするは誤であるが、ウツタヘをヒタスラの義とするは更に妄である。
(一五)者〔右▲〕の字は衍とすべきである〔新考〕。
(一六)舊訓ヤドニヘテとあるが、イナキヲトメの枕詞であるから、ヤドニフルであらねばならぬ(イ莫來《ナキ》にかゝる)。――ホコロベル〔古義〕ヤドカクフ〔新考〕、シキヤフル〔新訓〕などと訓したのは聊か牽強である。
(一七)來〔右△〕を賚〔右○〕の誤として、ワレニタバリシとした古義の訓を可とする。アニゾ來りし〔新訓〕としては意をなさぬ。
(一八)眞淵訓による。
(一九)舊訓による。或はマキナタチと訓むのかも知れぬ。イムキ(イ向)の枕詞に用ひられたものと思はれる。次句の「禁」は舊訓イサムとあり、雅澄はモラスと訓したが、イム(忌)の宛字で、こゝではイムキ(忌子)即ち巫の意と解すべきである。――恐らくは「禁」の下に子又は兒の字を脱したのであらう。
(二〇)眞淵訓による。新考はヒサシと訓したが、甍の意とする方が適切である。
(二一)果〔右△〕を杲〔右○〕の誤としてオノガカホと訓めといふ契冲説に從ふ。
(二二)略解に「路」の上に大〔右○〕の字脱としたのがよいやうである。
(二三)從來カヘラヒミツと訓して居るが、カヘラヒといふ進行格と見ツツとは重複するから、カヘリミシツツと訓むを可とする。
(二四)上句が六音であるから、オモハエテアリシと八音に訓むべきである。次の所思而在は五音の後をうけるものであるのみならず、目前のことをいふのであるから、オモハエテアルと訓むべきこと勿論である。
(二五)如是所爲故爲を一句としてカクゾシコシ〔舊訓〕、カクゾシコ(醜)ナル〔眞淵〕と訓したが、こゝのも次のも五、七二句に訓まねば音律にあはぬ。字に從へばカクノゴト・ナサエコシであるが、意をなさぬから、上の爲〔右△〕は愛〔右○〕の誤字として假にメデラエコシと訓した。
(二六)右によりこゝむ爲〔右△〕を惡〔右○〕の誤としてニクマエコシと訓むものと思はれる。
(二七)古義の解釋及訓に從ふ。舊訓にはカタミとある。
(二八)契冲訓を可とする。これは孝子傳の原穀の故事であるから〔代匠記による〕、わざと過去完了格を用ひたのである。過去として叙述せんとならばモチカヘリタリキ(又はタリシ)といふべきで、略解の訓の如くカヘリコシ〔右△〕といふ場合ではない。
此歌從來難解とせられ、或は俗惡とせられたのは句讀を誤り、語釋を忽にしたからで、名歌ではないとしても、さのみ聞き惡い作ではない。左記の諸語の意義を明にした上で精讀するを要する。
參照 ミドリコ、タラチシ〔枕〕、モツキ、ワラハ、カツラギのヌのイロメ、イログ、イラツコ、ヨチ、ミナノワタ〔枕〕、サニヅラフ〔枕〕、トホサト小野、ニホス、ウツソ、ヲミ、アリキヌ、タカラ、テツクリ、イナキ、トブトリ、アスカ、ヒコビ、カロビ、スガル、マソカガミ、ウツヒサス〔枕〕、ヲミナ、サスタケ〔枕〕、ササキシ、ハシキヤシ、イサニトヤ
 
(3792)(3793)
 
(3794)
參照 ハシキヤシ、カマケ
 
(3795)
(一)無事
(一)事は借字でコト(言)もなく、即ち次句の物不言と同義を重ねたのであらう。上二句辱をシヌビ辱をモダシとあるに對應するものである。――物不言と無事とを顛倒とした新考説は從はれぬ。
 
(3796)
(一)随欲〔右△〕(一)所見哉
(一)欲〔右△〕は友〔右○〕の誤であらうといふ新考の説は聞くべきである。〔三八〇二〕の歌にも「友のまにまに」といふ句がある。
(二)眞淵訓を可とする。
 
(3797)
 
(3798)
(一)何爲迹
(一)宣長は迹〔右○〕を邇〔右△〕の誤と斷定したが、古語ではニとトとは往々相通じて用ひられたのであらう。
 
(3799)
(一)豈藻
(一)豈〔右△〕は親〔右○〕の誤でオヤモアラヌと訓すべしとする新考の説はよく聞えるが、尚確証を得がたいから、姑く舊訓に從ふ。アニモ〔右○〕アラジといふ語は「豈|凶《モ》事ならむや」といふ意とも解せられる。
參照 アニ、モ
 
(3800)
(一)穂庭莫出(二)情者所知
(一)從來莫でをイデジト〔右△〕、イヅナト〔右△〕、ナ出デト〔右△〕の如くトを添へて訓して居るが、こゝは句を切り、次句は思《モ》ヒテアルと訓むのであらう。
(二)古義にシレツと訓したのは從はれぬ。
 
(3801)
(一)丹穂所経迹
(一)舊訓ニホハセドとあるが、ニホヒアレドの意としてニホヘレドと訓する方がよい。
 
(3802)
 
(3803)
(一)其父〔右△〕
(一)父〔右△〕の字類聚古集に夫〔右○〕とあるを可とする。
 
(3804)
(一)臥疾※[病垂/尓]
(一)※[病垂/尓]は※[病垂/火]の變體であらう〔新考〕。
參照 ヰナ川
 
(3805)
 
(3806)
(一)隱者
(一)上にもコトシアラバといふ假定條件があるから、此句はコモラナと訓むべしとある新考説は一應尤であるが、「コモラム其時ハ」を約してコモラバとしたこともあり得る。
 
(3807)
(一)持v水撃〔右△〕(二)詠2其〔右△〕歌1(三)意解脱
(一)撃〔右△〕は略解の拙の如く※[敬/手]〔右○〕の誤であらう。膝は膝下の意か。
(二)類聚古集には此〔右○〕歌とある。
(三)脱〔右△〕の字類聚古集には悦〔右○〕とある。
 
(3808)
(一)小集樂爾
(一)仙覺抄には或抄にはヲヘラとあると記し、袖中抄にもヲヘラと旁訓してある。ヲヘラとも稱へたことがあつたのかも知れぬが語義を詳にせぬ。天智紀の童謠に「宇治橋のツメ〔二字右○〕の遊」とあるのも集樂の義で、ヲツメは「小集《ヲツメ》の樂《アソビ》」の略語であらう。新考にヲスラと訓してヲシクラ(食座)の意としたのは據のない妄説である。
參照 ヲツメ
 
(3809)
(一)領爲
(一)舊訓による。セヨ、メセ、シメセ、シラセ等と改訓したものもあるが、これは認知の意とおもはれるから、シルの敬語シラスが最よく當つて居る。
 
(3810)
(一)代者
(一)契冲訓に從ふ。カヒは頴にいひかけたのである。
 
(3811)
(一)身爾染保里(二)爾毛曾〔右△〕問
(一)「染」の下に登〔右○〕の字脱とする契冲説可。
(二)曾は莫〔右○〕の誤とする新考説可。
右の外新考には數ケ所に改字改訓を施してある、いづれも理に合うて居るやうであるが、原字舊訓の儘でも意はよく通ずるから強ひて改めるにも及ぶまい。
參照 サニヅラフ〔枕〕、ウラベ、チハヤブル〔枕〕、タラチネ〔枕〕、ユフケ、ムラキモ〔枕〕
 
(3812)(3813)(3714)(3815)
 
(3816)
(一)※[金+巣]刺
(一)諸本皆サウと訓して居る。カギ、クロ、クギなどと改訓したものもあるが、當時の語で字音サウが用ひられたのであらう。
 
(3817)
(一)可流羽須波
(一)童蒙抄の訓による。
參照 カルウス、タブセ、ニフブ
 
(3818)
(一)香火屋之下乃〔右△〕
(一)舊訓シタニ〔右○〕とある所を見ると乃〔右△〕は誤字であらねばならぬ。
參照 カヒヤ
 
(3819)
參照 ユフダチ
 
(3820)
(一)形乎宜美(二)諸所因來
(一)眞淵訓による。
(二)古義の訓に從ふ。
參照 アサヅクヒ、ウベ
 
(3821)
(一)美麗物(二)四具比(三)姓※[女+鬼]〔右△〕士
(一)眞淵訓に從ふ。舊訓ヨキモノノとあり、新考にクハシモノとしてある。いづれでも意は通ずるが、末句のシグヒのクヒ(食)に對應する句であるから、ウマシモノ(味物に通ずる)と訓ませるつもりで此字を用ひたのであらう。
(二)新考には四〔右○〕を田〔右△〕の誤としたが、シグヒといふ語もあり得たと思はれるから(口語ではソグヒといふ)。輕卒には改められぬ。
(三)※[女+鬼]〔右△〕は醜〔右○〕に通ずるのであらう〔契冲〕。
參照 ウマシモノ、シグヒ
 
(3822)
(一)長年脉〔右△〕(二)放髪仆
(一)脉〔右△〕は説〔右○〕の誤か〔契冲〕。
(二)仆の字類聚古集には丱とある。
參照 タチバナ〔地〕、ウナヰ、ハナリ
 
(3823)
決〔右△〕
(一)決〔右△〕は改〔右○〕の誤とする吉義の説可。
(一)舊訓による。和名抄に銚子はサシナベ俗曰サスナベとあるによつて此もサシナベと訓まねばならぬといふものもあるが、字鏡にはサスナベとのみあり.サシともサスとも稱へられたものとすれば強ひて舊訓を改めるにも及ぶまい。
(二)古葉略類聚鈔には許武の二字がない。來、許いづれか一方を衍字とすべきである。
(三)諸本皆但〔右○〕を誤字として居るが、これはタダ(直)の假字で、今の語でいへばタダチニである。
參照 サスナベ、イチヒ津、キツ
 
(3825)
(一)行騰
(一)騰は滕に通ずる。
參照 スゴモ、アヲナ、ウツバリ、ムカハギ
 
(3826)
參照 ハチス、ウモ
 
(3827)
(一)六頭(二)一二之
(一)頭の字刊本にはメと訓してあるが、畧解は和名抄に頭子〔右○〕(ハ)雙六乃佐以〔二字右○〕とあるによつて「頭」の下に「子」の字脱としサイと訓むべしと説いた。
(二)舊訓「イチニの、目のみはあらず、ゴロクサム、シさへありけり、すごろくのさい〔右○〕」とあるが、口調が惡く朗誦に適せぬから、眞淵の訓に從うた。
 
(3828)
(一)川隅〔右△〕乃(二)喫有〔右△〕
(一)隅〔右△〕は隈〔右○〕の誤としてカハクマと訓した畧解の説可。――隅の字が誤まつて居らぬとしても尚カハクマと訓すべきである。カハスミといふは古語ではない。――カハクマは屎をまる所と河曲《カハクマ》とをいひかけたのである〔古俗誌〕。
(二)有〔右△〕を而〔右○〕の誤として屎鮒ハミテヤメル女奴と訓した新考説可。類聚古集には痛を病〔右○〕としてある。
 
(3829)
(一)※[草がんむり/(禾+朮)]
(一)※[草がんむり/(禾+朮)]は※[草がんむり/(禾+禾)]即ち蒜の變體である。
參照 ヒル、ナギ
 
(3830)
參照 ムロの木
 
(3831)
參照 イケガミ、ホコ
 
(3832)
(一)棘原
(一)原〔右△〕の字及曾氣〔二字右△〕の二字は棘〔右○〕及除〔右○〕と重複し無用のやうに見えるが、誤讀なからしめる爲の一種の送假字で、本集には他にも例のあることである。
參照 カラタチ、ウバラ
 
(3833)
(一)鮫〔右△〕龍取
(一)鮫〔右△〕の字を蛟の誤として鮫龍の二字をミヅチと訓すべしとする契冲説可。
參照 フルヤ〔地〕、ミヅチ
 
(3834)
(一)寸三二粟嗣〔右△〕
(一)新考には嗣を蒔〔右○〕の誤寫としてアハマク(君に「逢はまく」に通ずる)と訓してある。此説可從。――梨棗はキミ(木實)をいはんが爲の序である。
 
(3835)
(一)鬢無如之
(一)鬢〔右△〕は鬚〔右○〕の誤か〔契冲〕。如之〔二字右△〕は新考に從ひ之加〔二字右○〕の轉置としてヒゲナキガゴトと訓むべきである。
參照 カツマタの池、ハチス
 
(3836)
參照 コノテカシハ
 
(3837)
(一)似將有見
(一)將有〔二字右△〕の二字を轉置とする契冲説可。
 
(3838)
參照 ヒタヒ、コトヒ、カサ
 
(3839)
參照 ヒヲ、タブサキ
 
(3840)
(一)其子將播
(一)契冲訓による。
 
(3841)
(一)眞朱
(一)眞淵がマソボと改訓したのは從はれぬ。
參照 マソボ、アソ
 
(3842)
(一)八穗蓼
(一)ヤホタテはホツミ(穗積)にかゝる枕詞で、ヲはヨに通ずる感動詞である。――第十三卷には水蓼穗積とつゞけた例もある。
 
(3843)
(一)何所曾
(一)イヅクゾ〔古義〕、イツクゾモ〔新考〕といふ訓もあるが、赤土を穿る丘は何處に〔右○〕あるかといふ意であるから、舊訓の如くイヅクニゾを可とする。
參照 タタミコモ〔枕〕
 
(3844)
 
(3845)
(一)白爾
(一)爾〔右○〕の字類聚古集に久〔右△〕とあるが、、尚原文を可とする。白土《シロニ》にいひかけたのである。――シロナレバと訓するは非。
 
(3846)
(一)鬢〔右△〕乃
(二)僧半甘
(一)鬢〔右△〕は鬚〔右○〕の誤であらう〔古義〕。
(二)舊訓ナカラカモとあり、ナカラカム、ナキナム、ナカナム、ナゲカム等改訓したものもあるが語をなさぬ。半はナカの假字で、之に例の如く助動詞ムをそへてナカムと訓み、甘《カム》は舊訓の如くカモの假字とすべきである。
 
(3847)
(一)※[氏/一]〔右△〕戸等我(二)譯役徴者
(一)※[氏/一]〔右△〕戸等は先學の説の如くサトヲサと訓すべきであらう。但し如何様に字を誤つたか不明である。
(二)課と役とをわけてツキエと訓めといふ説もあるが〔古義〕、課v役の意としてエダチとよむ方がよいやうである。――ツキには調の字を用ひるのが例である。
參照 エダチ
 
(3848)
(一)阿奈于〔右△〕稻于稲志(二)不〔右△〕2誦習1
(一)于〔右△〕は干〔右○〕の誤とする契冲説に從ふ。
(二)不〔右△〕の字一本に令〔右○〕とあるを可とする。
參照 アラキダ、シシダ
 
(3849)
(一)潮干乃山乎
(一)新考に此句を彼岸の意なたりとし、山〔右○〕を岸〔右△〕と改めたが、海中にありといはれる須彌山のことゝも解せられるから、猥に添削することは出來ぬ。
 
(3850)
(一)侫〔右△〕琴面之〔右△〕
(一)侫〔右△〕は古葉畧類聚に倭〔右○〕とある。之〔右△〕は也〔右○〕の誤であらう〔眞淵〕。
 
(3851)
參照 ムカウの里、ハコヤの山
 
(3852)
(一)死許曾
(一)畧解にはシネコソと四音に訓してあるが、シネコソもシネバコソの意であるから、バを補うて五音に訓む方がよい。新考にシヌレコソと改めたのはシネとシヌレとの間に古は相違の存したことを考へなかつたのであらう。
參照 イサナトリ〔枕〕
 
(3853)
參照 ムナギ
 
(3854)
(一)疲〔右△〕の字類聚古集には痩〔右○〕とある。
參照 ハタ
 
(3855)
(一)葛英爾(二)官將爲
(一)舊訓フヂノキとあり、一本に葛莢に似た字がかいてあるので、クズハナ〔眞淵〕、サウケウ〔新考〕と訓したものもあるが、葛莢がカハラフヂ〔和名抄、和名本草〕であるにしても、サイカチであるにしても、クソカヅラとの取あはせにならぬ。クソカヅラの花はやゝ藤に似たものであるから、「葛英」を正字としてフヂノハナと訓すべきであらう。――或は英〔右○〕の字に捉はれることなく、フヂナミニと讀むのかも知れぬ。
(二)官〔右○〕は宦〔右○〕の誤とする契冲説可。
參照 オホドレ、クソカヅラ
 
(3856)
(一)幡幢爾居
(一)新考説の如くハタサヲと訓してもよいが、ハタサヲを古語ではハタボコとも稱へたのである。ホコの上には烏がとまれぬといふ非難はカマボコで怪我するだらうといふと同じく論ずるに足らぬ。
參照 ハタボコ
 
(3857)
(一)爾乃※[口+更]※[口+周]
(一)※[口+周]〔右△〕の字類聚鈔等に咽〔右○〕とあるを可とする。
アカネサス君とつゞけた例がないので、新考は其下に脱句ありとしたが、サニツラフが君(又は妹)の枕詞として用ひられたやうに紅顔の意を以て「君」につゞけたのであらう。
參照 アカネサス〔枕〕
 
(3858)
 
(3859)
(一)京〓爾
(一)〓〔右△〕は童蒙抄の説の如く兆〔右○〕の誤であらう。眞淵は和名抄によつてミサトツカサと訓した。
參照 ウタヘ、ウツタヘ、ミサトツカサ
(3860)
(一)不遣爾
(一)契冲訓による。或はマケナラナクニと讀む方がよいかも知れぬ。
參照 シガの海人、サカシラ
 
(3861−)
(一)雖待不來座
(一)新考訓による。キマサズとするは斷じて不可。
 
(3862)
 
(3863)
(一)大浦田沼者(一)不樂有哉
(一)大浦田沼の意義解し得ぬ。アマの大浦の田に注く沼とする説は勿論無稽であるが、新考の如く夫繩〔二字右△〕田服〔右△〕と改作しても牽強たることは同一である。案ずるにタヌは或る行事の名で早く廢れて傳はらなかつたのであらう。
(二)舊訓カナシクモアルカとあり、サビシクモアレヤ、サブシクモアルカ、サブシカルカモ、サブシカラズヤなどと改訓したものがあるが、上の句のタヌを重ねてタヌシカラメヤと誦したのであらう。
 
(3864)
 
(3865)
參照 ナリ
 
(3866)
參照 オキツトリ〔枕〕、ヤラの崎
 
(3867)
(一)所聞禮
(一)古義に禮〔右△〕を衣〔右○〕の誤としキコエと訓したが、キカレもキコエも原義は同一である。
 
(3868)
(一)若人(二)解披見
(一)古義の訓による。
(二)眞淵訓による。
 
(3869)
(一)相賛(二)美禰〔右△〕良(三)犢暴〔二字右△〕
(一)賛〔右○〕の字西本願寺には替〔右○〕とあるが、垂2相替1とするも心行かぬから尚原字に從ひタスケの意と解すべきであらう。
(二)禰〔右△〕は彌〔右○〕の誤であらう〔契冲〕。ミミラクは旻樂ともかき、今三井樂と稱へる。
(三)暴〔右△〕は類聚古集に慕〔右○〕とあるを可とする。犢〔右△〕の字も憤〔右△〕又は※[立心偏+賣]〔右△〕とした本があるが、恐らくは憬〔右○〕の誤字であらう。
參照 ミミラク〔地〕
 
(3870)
參照 ムラサキ〔枕〕、コカタの海
 
(3871)
參照 ツヌ島、メ
 
(3872)
(一)榎實毛利
(一)モリに群《ムレ》の轉呼又は「守」の意と説かれて居るが〔契冲〕、恐らくはホリ(欲)の音便で、次句モモチドリと頭韻を押すために故意に轉呼したのであらう。
 
(3873)
 
(3874)
(一)認河
(一)眞淵訓による。
(二)新考は古事記雄畧天皇の御製を引いてワカクヘであらねばならぬとし.可〔右○〕を久〔右○〕の誤寫としたが、古語法からいへばワカケヘであらねばならぬ。ワカカヘもワカクヘも共に音便である。――語法要録形容語尾の項下參照。
參照 ツナグ、ニコクサ
 
(3875)
(一)琴酒(二)押垂小野(三)寒水之(四)呂雅(五)少寸
るが、瀧のある野といふことである。
(一)舊訓による。琴は借字で殊《コト》酒は上酒の意。――ウマサケ又はカミサケと訓するは據のない臆斷である。
(二)小〔右○〕を水〔右○〕の誤とする宣長説に從ふ。タルミ(垂水)野は所在不明であるが、瀧のある野といふことである。
(三)舊訓にヒヤミヅとあり、契冲はサムミツと改めた。いづれでも可。
(四)イロガセルと訓むべきか。「汝《イ》ロがせる」の意。ロは子ロのロと同じく接尾語である。――新考に呂〔右○〕を之〔右△〕の誤としてイガケセルと訓したも一説として聞くべきである。
(五)新考に「少」の上に「音之」二字を補うて訓み下したが、こゝは五音句であらねばならぬから、「寸」の下に「四」の字脱としてスクナキヨと訓むのであらう。
右の外新考に「音之」の上にワガセノ君ヨといふ七音一句を脱したものと推定したのは「心もケヤに」を「心も聞ゆばかりに」といふ意と誤解した結果で、古義に心毛計夜爾所念といふ二句を寒水之の上にめぐらして心得べしと説いたのはケヤをイザキヨクと誤譯した爲である。寒水之までは序でココリ(凍)にかゝリ.ケヤのケは願著の義、ヤは名詞語尾であるから、――語法要録参照――此二句は「特に心に思ふ」といふことで、オト(音)即ち消息にかゝることはいふまでもない。斬考説の如く七音句をこゝに挿入しては、散文ならばともかく、歌詠として律調が全然破壞せられる。
 此歌は上段は男の言、下段は女の言で、問答體である。
參照 タルミ、イ〔代〕
 
(3876)
參照 キク〔地〕、ヒシ
 
(3877)
 
(3878)
(一)河毛※[人偏+弖]
(一)舊訓カケテカケテとあるが、重箱訓であるのみならず、カケテでは聞へぬから、カモテと讀むべきで、口語に直せばカマヘテカマヘテである。――新考にアモテアモテと訓み、アリマテの約としたのは從はれぬ。アリ(有)を畧してアとするが如きは國語の原則上絶對にあり得ぬことである。
參照 ハシタテ〔枕〕、クマキ〔地〕、ヤラ、カモテカモテ、ワシ
 
(3879)
參照 マヌラル
 
(3880)
(一)所聞多禰乃(二)目豆兒乃負〔右△〕(三)身女兒乃負〔右△〕
(一)代匠記書入に契冲は既にカシマネと記して居る。眞淵は之によつて訓したのであらう、
(二)契冲訓による。負〔右△〕は刀自の合字を誤まつたのである。
(三)舊訓ミメチコとあるによる。ミメコ、ミメツコ、マナコ等改記したものもあるが、ミメチコを非とすべき理由は示されて居らぬ。恐らくはチコといふ語を解しかねたのであらう。
參照 カシマネ〔地〕、ツクヱの島.シタダミ、メヅコ、トジ、ミメチコ
 
(3881)
 
(3882)
參照 シブタニ〔地〕、サシハ、フタカミ山
 
(3883)
(一)田名引日良
(一)「日」の下に「須」の字を脱したのであらう〔畧解〕。
參照 イヤヒコ〔山〕、カムサビ
 
(3884)
 
(3885)
(一)來立來(一)白賞尼
(一)類聚古集には上の來〔右○〕の字がない。之を正しとすればタチキナゲカクと訓まねばならぬ。契冲は下の來〔右○〕を衍としてキタチナゲカクとした。古語法からいへばどちらでもよい。
(二)略解の訓による。
參照 イトコ、ウツキ、サツキ、クスリガリ、ヒメカブラ、ハヤシ、ナマス、ミギ
 
(3886)
(一)彼毛(二)令〔右△〕受牟等(三)碓子爾(四)時賞毛
(一)「彼毛」の下に「此毛」の二字脱としてカモカクモと訓すべしとする略解の説可。
(二)令〔右○〕の字類聚古集に命〔右○〕とあるを可とする。
(三)「立」の下に「々」の字脱としてタテウスと訓むべきであらう。カラウスとする舊訓は重複であり、スリウスニツキとする古義の訓は無理である。スリウスは舂くものではない。
(四)古義の訓に從ふ。
參照 オシテルヤ〔枕〕、ナマリ、オキナ〔地〕、ツクヌ〔地〕、フモダシ、
參照 モムニレ、サヒヅルヤ〔枕〕、カラウス
 
(3887)
參照 アメナルヤ〔枕〕、ササラの小野、カリバカ、ウツラヲ
 
(3888)
(一)領君之
(一)舊訓シラセシとあり、シラス又はシラセルと改訓したものがあるが、之は黄染の屋形舟(喪船)に乘つて神の門を渡り奧つ國(冥界)を支配に行くことを詠じたのであるから、未來格を用ひねばならぬ。
參照 ヤカタ
 
(3889)
(一)佐青有公之(二)非左思所念
(一)初二句は「亡魂のやうな眞青の君之」といふ意。之はがと訓してもよいが、主格を表示するのではなく次句に連續することを意味するので、「但獨」の下に「あるに」といふ言葉を補うて心得べきである。新考に之〔右○〕を爾〔右△〕の誤、第四句の有〔右○〕を衍字として君ニタダヒトリ相シ雨夜と改訓したのは「但獨」を作者自身のことゝした誤解にもとづくもので、輕率の※[言+此]を免かれぬ。
(二)契沖は「思」の下に久〔右○〕の字脱としてヒサシクオモホユと訓した。新考に更に非左の二字を轉置としてサビシクと改めたか、契冲訓の方がよい。
 
     【卷第十七】
 
(3890)
(一)安我松
(一)アガは「吾」の意をふくむことは勿論であるが、阿賀、英賀、阿我、我鹿、安賀等とかき〔和名抄〕、諸國に多い地名であるから、筑前の國にもアガの松原と稱せられる地點が存したことは絶無とはいへぬ。――伊勢の國にも同名の松原があつた――見送りの時の歌であるから、「吾が待つ」といひかけたとは思はれず、単に「松原から吾が見渡す」といふ意としては餘り單純で、且修辭から見ても拙劣といはねばならぬ。
 
(3891)
參照 アラツの海
 
(3892)
 
(3893)
參照 ヒヂキの灘、イサナトリ〔枕〕
 
(3894)
 
(3895)
參照 タマハヤス〔枕〕、ムコ〔地〕
 
(3896)
(一)思〔右△〕之
(一)ウカビシといはねばならぬ所である。思〔右○〕は恐らくは誤字であらう〔新考〕。
 
(3897)
(一)大海乃
(一)舊訓オホウミとあるが、古語の發音法によればオホウミはオフミ又はオホミならざるべからざることは既に屡々述べた通りである。こゝは海洋を意味するのであるから、ワダツミノと吟誦せられたのであらう。
 
(3898)
(一)歌乞〔右△〕和
(一)乞〔右○〕は方〔右○〕の誤とする眞淵の説可。新考に之を難じたのはウタカタといふ語義の誤解によるものである。
參照 ウタカタ
 
(3899)
參照 ツヌの松原
 
(3900)(3901)
 
(3902)
(一)未君波(二)登安可爾
(一)新考に君〔右○〕を吾〔右△〕と改めたのは、次句をアカニセ〔右△〕ムと訓み、飽カザリセムの意と解釋した爲であるが、其誤なることは次に述べる通りである。
(二)元暦校本、類聚古集等に氣〔右○〕を勢〔右△〕と改めてあるが、ニ(不《ズ》)スルとする語法はない。ニ(不《ズ》)ケムも亦無理な語法であるが、此作者(家持)は次の逸鷹の歌の反歌〔四〇一四〕にもモトメアハズケム〔三字傍点〕と用ひ、ズケムをザリケムと同義と解して居たやうであるから、飽カザリケムをアカニ〔右○〕ケムというたこともあり得る。若し然りとすれば歌の意はよく通ずる。之をアカニセ〔右△〕ムとして飽カザリセムの意と解することは無理であるのみならず、君は飽カザリセムとはいひ得られぬ。其故に新考は君〔右○〕を吾〔右△〕の誤寫なりとしたのであるが、當時家持は筑紫に居なかつたのであるから、吾〔右△〕はとしては追和の歌にならぬ。
參照 トシミ
 
(3903)
此歌意は頗る曖昧であるが、第五卷の梅花の歌三十二首中に青柳を詠み入れたものが數首あり、柳の萌出でるのは通例春雨が降り出して後のことで、梅の花より後れるものであるから、「春雨に萌え出した柳か、若し然りとせば梅の花は柳と共〔二字右○〕におくれた普通のものか」というたのであらう。オクレヌはオクレヌルと同義に用ひられたので古語法である。但し甚理窟ぽい歌であるのみならず、律調からいうても決して名作とすることは出來ぬ。此作者の詠には往々此種のものがある。
 
(3904)
(一) 伊都波乎良自等
(一)「イツは折るまいというて厭ふにあらねどとといふ意であるが、幼い修辭である。
 
(3905)
(一)遊内乃
(一)宣長は内〔右○〕を日の誤字としてアソブヒノと訓し〔畧解〕、新考は遊〔右○〕を春〔右○〕の誤としてハルノウチと讀んだが、舊訓の方がよいやうである。
 
(3906)
 
(3907)
參照 クニの原、ウチハシ、イヅミ河
 
(3908)
參照 タタナメテ、ミヲ
 
(3909)
 
(3910)
參照 アフチ
 
(3911)(3912)(3913)(3914)
 
(3915)
(一)今者
(一)古義に者〔右○〕は香〔右○〕の誤かとある。或は然らむ。
參照 ツカサ
 
(3916)(3917)(3918)
 
(3919)
(一)安良久爾
(一)契冲説の如く「良」の下に奈〔右○〕の字脱とすべきである。
 
(3920)
(一)布流
(一)畧解に初句をウヅラナク〔右○〕と訓み、新考は之に從うて二句の「之」を誤字とし古家《フルヘ》と改訓した。或は然らむ。
參照 ウツラナク
 
(3921)
 
(3922)
(一)其謌
(一)刊本には誤字が多いが、元暦校本によつて改めた。
 
(3923)
參照 スデニ
 
(3924)(3925)
 
(3926)
(一)零須〔右△〕白雪
(一)須〔右○〕の字類聚古集に流〔右○〕とあるを可とする。
 
(3927)
參照 イハヒベ
 
(3928)(3929)(3930)(3931)(3932)(3934)(3935)(3936)(3937)(3938)
 
(3939)
參照 モトナ
 
(3940)
(一)餘呂豆代爾(二)都美之乎〔右△〕
(一)爾〔右○〕の字元暦校本には等〔右△〕と書かれて居る。此場合はニ、トいづれでも妨はない。
(二)乎〔右△〕の字元暦校本に手〔右○〕とあるを可とする。「抓みし手」の意である。
 
(3941)
(一)多爾之
(一)之の字舊訓シと轉し元暦校本等には々〔右○〕とあるが、クラタニノ〔右○〕と訓み、「クラタニの如く」の意と解すべきである。ウチハメテ(打込んで)燒け死ぬともといふことの譬喩に、家持の行く途中の一地點で熱湯の涌くクラタニを用ひたに過ぎぬ。鶯のナクはクラ(暮)にかゝる序である。――新考に※[(貝+貝)/鳥]〔右○〕を惡鳥〔二字右△〕の誤字としたのは論にならぬ。
參照 クラタニ〔地〕
 
(3942)
 
(3943)
參照 フサ
 
(3944)(3945)(3946)(3947)
 
(3948)
參照 アマサカル
 
(3949)
(一)底
(一)底を受〔右△〕の誤とする古義の説は非。紐トキサケは待人のまじなひである。元暦校本には比母登吉佐氣底とし、毛〔右○〕の字を除いてある。
參照 ウタカタ
 
(3950)
 
(3951)
(一)八千〔右△〕島
(一)千〔右△〕の字元暦校本には十〔右○〕とある。
 
(3952)
參照 イクリの森
 
(3953)
 
(3954)
(一)伊蘇末爾
(一)末〔右○〕を未〔右△〕の誤とする説は語義を知らざるものである。イソミといふ語もあるが、其はイソマ(磯間)の轉呼である。
參照 シブタニ〔地〕
 
(3955)
參照 フタカミ山
 
(3956)
參照 ナゴの浦、タナ、アベテ
 
(3957)
參照 アマサカル、マケ、イヅミ川、オヨヅレ、タハ、ハシキヨシ
 
(3958)(3959)(3960)(3961)
 
(3962)
(一)夜流余之母奈之〔右△〕
(一)之〔右△〕を久〔右○〕の誤とする新考説可。
參照 アマサカル〔枕〕、タラチネ〔枕〕、ヒニケニ、ユクラユクラ、ハシキヨシ、マヅカヒ、タマキハル〔枕〕
 
(3963)
 
(3964)
參照 ソギ、ソグヘノキハミ
 
(3965)(3966)(3967)
 
(3968)
(一)沽〔右△〕洗
(一)契冲によれば沽〔右△〕は姑〔右○〕の誤記で、姑洗は三月をいふ。
參照 ウタカタ
 
(3969)
(一)載2荷未春1(二)奈久爾(三)牟〔右△〕流波之美
(一)此句不可解。新訓は代匠記及畧解の説を參酌して末眷〔二字右○〕と改めた。或は然らむ。
(二)契冲が「家」の字の下に久〔右△〕の字脱としたのは非。ヤスケクナクといふ言葉はあり得ぬ。ヤスケナクはヤスカラナクの古語で、六音となつて面白くないが、家持はことさらに之を用ひたものと思はれる。――語法要録參照。
(三)牟〔右△〕の字元暦校本に宇〔右○〕とあるを可とする。
參照 マケ、シナサカル〔枕〕、ヒニケニ、イラナケク、ナゲクソラ、オモフソヲ、マツカヒ、タマキハル〔枕〕、スガラ、シミラ(シメラ)
 
(3970)
 
(3971)
參照 クキ
 
(3972)
參照 ココロド
 
(3973)
(一)遊覽(二)照v瞼〔右△〕(三)含v苔(四)遏〔右△〕2野(五)開※[缶+尊]
(一)契冲は遊覽の次に詩の字脱とし、新考は「七言」の二字を遊覽の下に移すべしとした。新考説がよいやうである。
(二)瞼〔右△〕は※[月+僉]《カホ》の誤とする新考説可。
(三)略解に含苔〔右△〕は含黛〔右○〕の誤とある。或は然らむ。
(四)遏〔右△〕は畧解に過〔右○〕の誤とあるを可とする。
(五)元暦校本には琴〔右○〕※[缶+尊]とある。
 
(一)之多毛比余(二)毛能賀〔右△〕(三)多奈由比
(一)余〔右△〕は尓〔右○〕の誤とする眞淵説に從ふ。
(二)賀〔右△〕は曾〔右○〕の誤寫てあらう〔畧解〕。
(三)宣長は由比〔二字右○〕を志禮〔二字右△〕の誤としたが、コトハタナシレでは意が通ぜぬ。案ずるに「言ハタ莫イ〔右○〕ヒ」の意であらう。ユ、イは相通ずる。
參照 アサマカル〔枕〕、カホ鳥、ココログシ、スミレ
 
(3974)(3975)
 
(3976)
(一)終日因流(二)石同v(三)瓊唱(四)賀v宇入(五)廻〔右△〕赴v瀛(六)尋良此宴
(一)西本願寺本には目〔右○〕流とある。
(二)同書には問〔右○〕瓊とある
(三)聲遊は遊聲の轉置で、走曲に對するものではあるまいか。次の一句は「抑も小兒の譬は濫※[言+稻の旁]か」とよむのであらう。
(四)宇入〔二字右○〕入宇〔二字右○〕の轉置か〔畧解〕。
(五)廻〔右○〕の字元暦校本に※[しんにょう+向]〔右○〕とあるを可とする。
(六)良此〔二字右△〕宴は此良〔二字右○〕宴の誤記とする説がある〔畧解〕。
參照 モトナ
 
(3977)
 
(3978)
(一)於久豆麻
(一)ハシケヤシは囃詞であるから、オクは目グシモナシニにつゞき、置いて來た妻の意とせねばならぬが、言葉が足らぬ憾がある。加之新考説の如く「妻ヲ〔右○〕」とあるべき所であるから、六音ならばヲ〔右○〕を畧く理由がない。或はオクはオキク(置來)の誤記ではあるまいか。――オキクルを古語ではオキクというた――奥の意とし心の奥に思ふ妻と説くことの誤なるは勿論で、其やうな畧語は成立し得ぬ。
右の外新考には字をかへて改訓した所が二、三見えるが、原字、舊訓の儘でも意はよく通ずる。
參照 オヤジ.タグヒ、ココログシ、メグシ、ハシケヤシ、アマサカル〔枕〕、ヨシヱヤシ、ヌエトリ、ウラナキ、ユフケ
 
(3979)
 
(3980)
參照 モトナ.ズケリ
 
(3981)(3982)
 
(3983)
(一)孟夏四月
(一)左註によれば三月二十九日の作とあるにも拘はらす、立夏四月既經2累日1としては齟齬するから、新考は四月〔二字右○〕を己來〔二字右○〕の誤であらうというたが、恐らくは作者家持が四月に發表するやうに豫め作つて置いたのであらう。
 
(3984)
參照 ハナタチバナ、トモシ
 
(3985)
(一)之努波米
(一)新考に末句現在格ならざるべからずとして米〔右○〕を幣〔右△〕の誤字と断斷したのは道理のあることであるが、作者は意嚮法としてシヌバメ(シヌバム)といふ語を用ひたのかも知れぬ。
參照 フタカミ山、フリサケミレバ、神カラ、ヤマカラ、スメカミ、シブタニ〔地〕、ヲツツ
 
(3986)(3987)(3988)
 
(3989)
參照 ナゴ〔地〕
 
(3990)
 
(3991)
(一)宇知久知夫利乃
(一)舊訓はウチコチフリとあり、ヲチコチフリ〔神田本〕といふ訓もあるが、――契冲は之に從ひ、新考は宇知牟禮來〔三字右△〕利の誤寫と推定した――「馬なめてうち來《ク》」とかゝるのであるから、久は字の通り讀まねばならぬ。案ずるにウチはオチ(落)の音便、ブリはベ(邊)の變形で――アキサ(秋頃)をアキサリといふと同例――川口の邊といふ事であらう。さればこそ次句に「白波の荒磯に寄する」とあるのである。
參照 フセの海、ヤソトモノヲ、ウチ川、マツダエ、ウナヒ河、ウカハ、アヂムラ、シママ
 
(3992)
 
(3993)
(一)宇知奈妣久(二)伎美我麻爾麻等
(一)新考に久〔右○〕を伎〔右△〕とし、
(二)等〔右△〕を爾〔右△〕と改めたのはあらずもがなである。
參照 イミヅ河、ミナト、トモシ、アドモヒ、ヲフの崎
 
(3994)
 
(3995)
(一)見奴日佐等〔右▲〕麻禰美
(一)等〔右▲〕】の宇元暦校本以下諸本にない。舊訓もまた此字を除いて居る。
 
(3996)(3997)(3998)(3999)
 
(4000)
參照 タチヤマ〔地〕、ニヒカハ〔地〕、アマサカル〔枕〕、シ(滋)、スメカミ、ウシハキ、カタカヒ川、アリガヨフ、フリサケミレバ、トモシ、ガネ
 
(4001)
參照 カミカラ
 
(4002)
 
(4003)
(一)久毛爲多奈※[田+比]吉
(一)吉〔右△〕は新考説の如く久〔右○〕であらねばならぬ。
參照 ソソリ、カムサビ、タマキハル〔枕〕、アヤ〔感〕、カフチ
 
(4004)(4005)
 
(4006)
(一)和我多知
(一)新考に「出タチて我がタチ見れば」ではタチが重複するから、ウチの誤記であらうとある。或は然らむ。其外に一二改訓した所があるが、其は作者と新考の著者との意見の相違と見るべきものである。
參照 ツガノキ、オヤジ、ハシキヨシ、イヅミ河、カフチ.アユの風、ミナト、アヤ〔感〕、トモシ、ケ〔日〕
 
(4007)
 
(4008)
參照 アマサカル、アユヒタツクリ、オモフソラ、ユユシ、トナミ山、タムケ、ハシケヤシ、タダカ
 
(4009)(4010)
 
(4011)
(一)等保能美可度曾(二)左加利等(三)乎知母可(四)名乃未乎能里底(五)之波夫禮都具禮(六)之都(七)都可太未(八)伊麻〔右△〕爾
(一)古義に曾〔右△〕は登〔右○〕の誤とあるを可とする。トはトテの意。――字の通りゾと訓み切るべしとする説は從はれぬ。こゝは指定語を用ひて句を切る所ではない。
(二)新考に等〔右○〕を爾〔右△〕の誤としたのは不可。九句を隔て、「鳥スダケリト〔右○〕」とあるに對立するものであるから、原字舊訓を可とする。
(三)ヲチモカヤスキとあるヲチを從來ヲチカヘリ(若變)のヲチと同語とし、拳にかへる意と説いたが、ヲチ(若)だけに復歸の意があるべき筈はなく、語義を解し得ざる爲の當推量に過ぎぬ。廢用となつた放鷹術語であるといふものもあるかも知れぬが、語原の不明なる限り肯定することは出來ぬ。案ずる此作者(家特)はウをヲと訛る僻を有したらしく、ウツツをヲ〔右○〕ツツと用ひた例もあるから〔三九八五〕、此ヲチもウチ(搏)の訛であらう。カは感動詞である。――ゾの誤とする新考説はとらぬ。
(四)次句とのつづきが不明であるので、新考はこゝに脱句ありとしたが、或は七句を隔て、シハブレツグレにかゝるのではあるまいか。――三島野は和名抄に射水郡三島とある地――次の山〔右○〕トビコエテは元暦校本に上〔右△〕とあるが、原字を可とする。
(五)シハブレはシハブク(咳)の意であらうが、此形にこ於て用ひられた例はない。
(六)シヅは今のシデ(幣)の原語である。
(七)春海は未〔右△〕を尓〔右○〕の誤としたが二日ダニといふべき場合ではない。ダミは回の意でバカリに相當する方言であらう。
(八)麻〔右△〕は米〔右○〕の誤とする眞淵説可從。
參照 トホのミカド、アマサカル〔枕〕、シマツトリ〔枕〕、ヤカタヲ、トノクモリ、フタカミ山、ヲチ、ケダシ、ヲテモ、マツダ江、ツナシ、ヒミの江、タコの島
 
(4012)(4013)
 
(4014)
參照 マツガヘリ〔枕〕
 
(4015)
(一)奧〔右△〕以
(一)奧〔右△〕は略解の説の如く粤〔右○〕の誤であらう。
參照 スガの山、スガナシ
 
(4016)
(一)毛倍遊
(一)舊訓オモヘユとあるが、新考の訓を可とする。――倍〔右○〕は保〔右△〕の誤なりとするいふ契冲説によつて古義に保遊と改記したのは輕卒の誹をまぬかれぬ。
參照 メヒの野
 
(4017)
參照 アユの風、ナゴ〔地〕
 
(4018)
 
(4019)
參照 アマサカル〔枕〕
 
(4020)
 
(4021)
參照 トナミ〔地〕、ヲカミ川
 
(4022)
參照 ウサカ川
 
(4023)
參照 メヒ〔地〕、ヤソトモノヲ、ウカハ
 
(4024)
(一)之〔右△〕久良
(一)之〔右△〕は止〔右○〕の誤とする眞淵説に從ふ。
參照 ハヒツキ河
 
(4025)
參照 ケヒの大神、ハグヒ〔地〕
 
(4026)
(一)行於〔二字右▲〕射(二)等伊有〔右△〕
(一)元暦校本に行於〔二字右▲〕の二字がない。恐らくは※[手偏+讒の旁]入であらう。
(二)有〔右△〕の字元暦校本に布〔右○〕とあるを可とする。
參照 トブサタテ
 
(4027)
參照 カシマネ、クマキ
 
(4028)
(一)凰至《フゲシ》(二)美奈宇良波倍
(一)凰〔右△〕は元暦校本には鳳〔右○〕と改めてある。
(二)ウラヘ(卜相)をウラハヘともいうたものと思はれる。從來ミナウラ(水占)を名詞とし、ハヘを獨立動詞と解して牽強し〔正卜考〕、或は波〔右○〕を安〔右△〕の誤としたのは從はれぬ。水で占ふことであるは、ミナは皆にもかゝるのである。
參照 ニギシ河
 
(4029)
(一)太沼郡
(一)太沼郡は所在を詳にせぬ。恐らくは誤記であらう。元暦校本には治布とあるが、治布といふ地も亦所在不明である。
參照 スズの海、アサビラキ、ナガハマの浦
 
(4030)
參照 カタマチ
 
(4031)
(一)多我多米爾奈禮
(一)結句をタガタメカナレ、タガタメゾ〔右△〕ナレ、タカタメニトカ〔三字右△〕などと改訓したものがあるが、古義に或人説としてあげた奈〔右△〕を阿〔右○〕の誤とする説が最も近いやうである。タガタメニは「何が故に」といふ意で、タに誰の字をあて、其字に捉はれて解くのは固陋である。タは「何」の意にも「誰」の義も通ずる語であるから、――語法要録参照――ここは「何が爲にあれ」といふ意で、ニアレを約してナレと稱へたものと見て姑く舊訓に從ふ。
此歌「造酒歌」とあるが故に疑を來し、珍説奇説が多いが、之は神酒を釀む儀式にうたふ爲の歌で、普通の酒造とは全然趣を異にするものである。此頃までは國々に於ても神酒を釀む式が殘つて居たものと思はれる。
參照 ナカトミ、フトノリトゴト、ハラヘ
 
     【卷第十八】
 
(4032)
(一)令史田邊(二)爰新歌(三)奈呉乃宇美爾
(一)西本願寺本に「田邊」の下に史〔右○〕の字がある。此人のカバネはフヒト(史)であるが、之を略して田邊福麿とのみ稱へることも此當時にあつてはめづらしからぬ例である。
(二)「爰」の次に西本願寺本、神田本其他に作〔右○〕の字あるを可とする。
(三)初句は聊か無理な語づかひである。爾〔右○〕を乃〔右○〕の誤とする説もあるが〔新考〕、ナゴの海ノ〔右△〕舟といふのも妥當ではない。
參照 ナゴ〔地〕
 
(4033)
參照 ウラマ
 
(4034)(4035)
 
(4036)
參照 フセの海
 
(4037)
(一)等波須母
(一)一云は第二句の外に入れる所がないが、其にしても頭句とのつづきがおもしろくない。或は五句の終につけたのではあるまい佛足石歌にも例のあることである。
參照 ヲフの崎、ヒネモス
 
(4038)(4039)(4040)
 
(4041)
參照 カタマチ、ガテラ
 
(4042)
參照 フヂナミ
 
(4043)
參照 ウラマ、ケダシ
 
(4044)(4055)
 
(4046)
參照 タルヒメの浦
 
(4047)(4048)
 
(4049)
(一)於呂可爾
(一)オロカはオホロカの約
參照 オホロカ、ヲフの崎、ズケリ
 
(4050)
 
(4051)
(一)之氣爾
(一)シゲニはシゲミの轉呼であらう。――ニ、ミ相通。
 
(4052)(4053)(4054)
 
(4055)
(一)可敝流末能
(一)カヘルは地名であるが、末〔右○〕の字について古義に未〔右△〕の誤としたのはミがマの訛なることを知らざるものである。新考に「夜」の字脱としてカヘルヤマノであらねばならぬと斷定したのは從はれぬ。カヘルヤマノ道行カム日とはいへぬことはないが、カヘルマを不なりとすべき理由がない。舊訓を尊重すべきである。
參照 カヘル〔地〕、イツハタ〔地〕
 
(4056)
(一)大皇乎
(一)眞淵が乎〔右○〕を之〔右○〕の誤としたのは却つて誤である。天皇ヲ乗セ奉リテといふやうな意で、ことさらにヲとしたのである。此ヲの語法は古語にはめづらしくない。
 
(4057)
(一)多麻古伎
(一)コキはココ(許多)の轉呼であらう。
 
(4058)
(一)登乎〔右△〕能
(一)眞淵以來乎〔右△〕は之〔右○〕、能〔右○〕又は乃〔右○〕の誤として「殿の橘」の意と解して居る。次の歌にもトノノタチバナといふ言葉が用ひてあるから、姑く之に従ふ。
 
(4059)
參照 サカミヅキ
 
(4060)
 
(4061)
(一)水乎妣吉之都追
(一)ミヲビキは澪導引と解した新考説可。ただしシツツをセサセツツの意とする説は從はれぬ。ミフネサスは御舟の操針をすることであるから、字の通りミチビキシツツと解してよい。
 
(4062)
參照 タヅタヅシ
 
(4063)(4064)
 
(4065)
參照 アサビラキ、ツバラ
(4066)
(一)布里〔右△〕多里登母
(一)里〔右△〕は美〔右○〕の誤とする略解説可。
 
(4067)
參照 フタカミ山
 
(4068)(4069)(4070)
 
(4071)
(一)故之能吉美能〔右△〕等
(一)能〔右△〕の字元暦校本以下諸本に良〔右○〕とあるを可とする。
 
(4072)
 
(4073)
(一)忽増v戀(二)以2先書1云
(一)「戀」の下脱字あるか。古義は戀緒〔二字右○〕とした。
(二)元暦校本には云々〔二字右○〕とある。
 
(4074)
 
(4075)
(一)所心耳〔右△〕
(一)耳〔右△〕の字西本願寺本にに歌〔右○〕と改めてあるが、尚一考を要する。
 
(4076)(4078)(4079)(4080)
 
(4081)
(一)多〔右▲〕波牟可母
(一)多〔右▲〕を衍字として「人買はむかも」の意とした新考説可從。
 
(4082)
(一)比奈能都夜〔二字右△〕故爾
(一)都夜〔二字右△〕の二字轉置とする宣長説〔略解〕可。
 
(4083)
(一)爾古非許婆
(一)「馬ニ戀來バ」の意なりとせば甚拙い修辭といはねばならぬ。新考は古非〔二字右○〕をツミ〔二字右△〕の誤記としたが、或は贈歌に「人カハムカモ」とあるにより、カヒ〔二字右○〕來バといふべきをわざと訛つてコヒコバとしたのであるかも知れぬ。
 
(4084)
 
(4085)
參照 ヤキタチ〔枕〕、トナミの關
 
(4086)
 
(4087)
參照 ユリ
 
(4088)
 
(4089)
(一)許己呂豆呉
(一)豆〔右○〕の字都〔右○〕とした本が多い。いづれにしてもツの假字で、心ト、ウゴキテを約してココロツゴキテと誦したのであらう。累聚古集に呉〔右○〕を美〔右○〕に作り、契冲、眞淵が豆〔右○〕を宇〔右△〕の誤としたのは從はれぬ。
參照 クニノホ、マホロバ
 
(4090)
 
(4091)
(一)開爾之奈〔右△〕氣婆
(一)舊訓サクニシナケバとあり、新考及新訓は元暦校本に登聞〔二字右△〕爾之とあるによつてトモ〔二字右○〕ニシナケバと改訓したが、結句によればナケバといふことは出來ぬ。――新考はナベの語義を誤解して居るやうである。――案ずるに奈〔右△〕は左〔右○〕の誤記で、サキニシサ〔右○〕ケバと訓むのであらう。卯の花が咲きに咲くから霍公鳥が名乘り鳴くのは尤だといふ意である。
參照 ナベ
 
(4092)
 
(4093)
參照 アヲの浦、アユの風
 
(4094)
(一)多能〔右▲〕之家久安(二)皇御祖乃(三)可〔右△〕可里之(四)且比等波安良自等(五)伊夜多弖(六)御言能左吉乃
(一)能〔右▲〕の字元暦校本に之なきも可とする。タシクに足《タ》シク即ち潤澤の意である。――舊訓の如くタノシケクとしては「樂いこと」といふ意になる。其故に古義はタヌシを少の意とし(あり得ぬことである)、新考は氣〔右○〕を衍字として其上にスクナクアラム・ソヲエテバの二句を補うたのであるが、いづれも甚しい邪説であるといはねばならぬ。
(二)スメミオヤノと六音に訓むべきである。スメロギと訓しては上句の「神」と重複する嫌がある。次にも神祖とかいてカムオヤ〔二字右○〕と訓ませた例があるのである。
(三)可〔右△〕可は奈〔右○〕】可の誤とする略解説可。
(四)旦〔右▲〕を衍字とする新考説可從。マタヒトハアラジトと九音に訓むことは律調が之を許さぬ。
(五)弖〔右○〕の下に々〔右○〕の一字脱とする契冲説をとる。言ダテを彌立テテといふ意である。
(六)吉〔右○〕の字元暦校本及類聚古集に右〔右○〕とあるによつて新考はミコトノサマ〔二字右○〕と訓したが、尚原字舊訓を可とする。勅のサキは「御言葉の端《ハシ》」といふことで、――幸《サキ》と譯するは非――乃、乎兩傳は結句二案のいづれにも適合せしめんが爲に乃〔右○〕を取るべきであらう。
參照 シキマス、トリガナク〔枕〕、スメミオヤ、スメロギ、ウツナヒ、モノノフ〔枕〕、オホクメの命、コトダテ、ヲツツ
 
(4095)(4096)(4097)
 
(4098)
(一)於能我〔三字右▲〕名負〔右△〕名負(二)麻氣能麻久〔右△〕麻久〔右△〕
(一)舊訓オノガナニナニとあり、オノガナナオヒ〔古義〕、オヤノナナオヒ〔新考〕、オノガナオヒ〔新訓〕などゝ改めたものもあるが、上句にオノガ負ヘルといひ、更に負ヒといふ言葉を用ひることは、縱ひ語法上許されるとしても、歌詞の修辭としては甚拙劣であるから、家持と雖之を敢てしなかつたらうと思はれる。案ずるに於能我〔三字右▲〕の三字は上句のものが※[手偏+讒の旁]入したので、原文は名名不〔右○〕負とあつたのを名名負負と誤り、更に名負名負とかき改められたのであらう。若し然りとせばナナニソムカズ〔四字右○〕と訓むべきである。
(二)久〔右△〕は尓〔右○〕の誤とする眞淵説可從。――新訓に字によつて任ノマクマクとしたのは任《マ》ク任《マ》クの意と解した爲であらうが、言葉をなさぬ。
參照 アリガヨヒ、モノノフ〔枕〕
 
(4099)(4100)
 
(4101)
(一)夜床加多古里(二)心奈具佐余〔右△〕
(一)契冲が古〔右△〕は左〔右○〕の誤としたのは從はれぬ。夫を待つ爲ならば「床を片去り」といふこともあらうが、此場合にはあたらぬから、原字の通りカタフリと訓むべきであらう。カタは接頭語で、單に古くなるといふ意である。
(二)余〔右△〕を尓〔右○〕の誤とする契冲説可。
參照 ススの海、カタ、ハシキヨシ、ハナタチバナ
 
(4102)
(一)都々美※[氏/一]夜良波〔右△〕
(一)波〔右△〕は那〔右○〕の誤とする古義の説可從。
 
(4103)(4104)
 
(4105)
(一)我家〔右△〕牟
(一)家〔右△〕の字累聚古集には宇〔右○〕とある。ウムギはムガシの原形ウムガシと白蛤《ウムギ》とをいひかけたもので、ウムガシがウムギの形に於て用ひられたのではあるまい。
參照 ムガシ、ウムガシ、ウムギ
 
(4106)
(一)一家同財〔右△〕(二)伊比都藝家良之〔右△〕(三)佐可里裳安良多之〔右△〕(四)等吉能沙加利曾〔右△〕(五)波〔右△〕雪消
(一)財〔右△〕は躰〔右○〕の誤であらう〔新考〕。
(二)之〔右△〕の字元暦校本に久〔右○〕とあるを可とする。
(三)「安良」の次に脱字のあることは疑がない。契冲は最初波〔右○〕の字とし「多」の下に能〔右○〕の字を補うてサカリモアラバ・タノシケムと訓し、後官本により、牟等末〔三字右△〕の三字脱としてサカサモアラムト・マタシケムと改めた。後の學者之に從うて異としなかつたが、「長にかくしもあらめや」といふ上句から推しても、「盛もあらむと待たしけむ」とはいひ得ぬ筈であり、カタリケマクハといふ一句の結び所がない。案ずるに本初は安良婆可〔二字右○〕多利〔右○〕家牟とあつたのを婆可〔二字右○〕を逸した爲め、後人がさかしらに利〔右○〕を之〔右△〕に改めたのであらう。されば此サカリは離《サカリ》の意で、「春花の盛《サカリ》」にいひかけたものと解すべきである。
(四)曾〔右△〕は宣長説の如く乎〔右○〕の誤、波〔右△〕は眞淵に從うて放〔右○〕の誤記としてトキノサカリヲ・サカリ〔四字右○〕ヰテと訓むべきである。
(五)〔四一一六〕に雪消溢とある所を見ると、古義の説の如く益〔右△〕は溢〔右○〕の誤記又は省劃としてハフリと訓むのであらう。
參照 ミツカフツミ(徒)、メグシ.コトダテ、チサ、ハシキヨシ、サブル兒、イツガリ、ニホ鳥、ナゴ〔地〕、サドハス
 
(4107)
 
(4108)
參照 ミヤデ、シリフリ
 
(4109)
參照 ツルバミ
 
 
(4110)
參照 ハユマ
 
(4111)
(一)皇神祖能(二)麻爲泥許之(三)孫枝毛伊(四)氣騰母〔右▲〕(五)波延爾
(一)田道間守が常世國に派遣せられたのは垂仁朝のことであるから、スメロギの神の御代といふことは出來ぬ。字によつてスメミオヤノと六音に訓むべきである。さればこそ次句は八音であるのである。
(二)契冲以下諸家種々解讀して居るが、支〔右△〕を久〔右○〕の誤として新訓の如くマヰデコシ・トキジグノと五音二句に訓むべきである。七音句に代ふる五音を以てすることは家持時代にあつては異例であるが、此場合は語音の性質上少しも耳立たぬのである。
(三)モイ〔右○〕ツツは萌エ〔右○〕ツツの意なること勿論である。恐らくは音便であらう。
(四)母〔右▲〕の字は蛇足である。新考説の如く之を衍とすべきであらう。
(五)爾〔右△〕は奴〔右○〕の誤か〔新考〕。或はニと誦へてもヌの音便と心得べきものであらう。
參照 スメミオヤ、タヂマモリ〔人〕、ホコ、トキジク、カグノコノミ、コキレ、アエ、ヨロシナベ
 
(4112)
 
(4113)
(一)庭中花(二)末伎太
(一)「庭」の上に見〔右○〕の字を脱したのであらう〔代匠記〕。
(二) マケ(任)であらねばならぬが、マキ〔右○〕としたのは音便であらう。
參照 マケ、イフセミ、ハナヅマ、ユリ、アマサカル〔枕〕
 
(4114)
參照 ユリ
 
(4115)
參照 ユリ
 
(4116)
參照 カタネ、コフルソラ、アヤメ草、ヨモギ、ナゴ〔地〕、サカミヅキ、ニフブ
 
(4117)
(一)安比見之末末爾
(一)元暦校本には末爾末とある。
 
(4118)
(一)家禮夜母
(一)コヒシケレヤモは戀シクアレヤモといふに同じく、モは感動詞でアレヤはアルカナといふ意の古語である。先學之を解し得ずして猥りに改字改訓を施したのは歎ずべきことである。歌の意は「かうして再會することもあるに少し年月を隔てると戀しいことよ」といふのである。
參照 スクナクモ
 
(4119)
 
(4120)
(一)加都良賀氣
(一)カツラは鬘の意であるから、轉じて鬘の材料とたる植物の名となり、香木等の字をあてる。カゲも亦頭飾を意味し、佐々冠の訓に用ひられて居るから、カツラカゲは香木の鬘の意で、こゝではカグハシの序に用ひられ、且カ〔右○〕ツラ、カ〔右○〕ゲ、カ〔右○〕グハシと頭韻を押してあるのである。――之をカツヲ掛ケと釋し〔新訓〕、或は宇〔右△〕都良都良〔二字右△〕の誤記とするが如きは妄誕論ずるに足らぬ。
參照 カツラ、カゲ
 
(4121)
(一)朝參乃
(一)マデイリノと訓した本もある。契冲はアサマヰ、眞淵はマヰリ、宣長はアサトデ(朝戸〔二字右△〕出の誤字として)、新考はテウサンと訓したが舊訓が最も適切である。マヰリと約せずに用ひられたのは當初マヰ(御居).イリ(入)といふ二單語であつたからであらう。――勿論家持時代には既にマヰリ、マヰデといにふ複合語は存したのであるが、マヰイリというても耳立たなかつたものと思はれる。
 
(4122)
參照 シキマス、ヲツツ、ナリ、タヲリ、トノグモリ
 
(4123)(4124)
 
(4125)
(一)許己宇〔右△〕之母
(一)宇〔右△〕は乎〔右○〕を誤とする契冲説に從ふ。
參照 アメのヤスの河、ウナガケリ、トモシ
 
(4126)
 
(4127)
(一) 許〔右△〕牟
(一)許〔右△〕は伊〔右○〕の誤とする古義説可。
 
(4128)
(一)爾作策歟(二)知加v言(三)奴波牟物能毛負〔右△〕
(一)新考に策〔右△〕は錯〔右○〕の誤又は通用とある。或は然らむ。
(二)略解には加〔右○〕を如〔右△〕の誤とし、新考には言〔右△〕は意〔右○〕の誤寫で、「明に知つて意を加へた」いふことであらうと解してある。
(三)負〔右△〕の字元暦校本に賀〔右○〕とあるを可とする。
 
(4129)
參照 オノトモオノヤ
 
(4130)
(一)應稗都〔右△〕都
(一)上の都〔右△〕は爾〔右○〕の誤とする新考説可。
 
(4131)
參照 フサヘ
 
(4132)
(一)云著〔二字右△〕者(二)論v時
(一)云著〔二字右△〕の二字元暦校本に云々〔二字右○〕とあるを可とする。其辭云々|者《トイヘリ》と訓むのである〔新考〕。
(二)〔右△〕は事〔右○〕の誤とする新考説可。
 
(4133)
參照 スリブクロ、オキナ、サビ
 
(4134)(4135)
 
(4136)
參照 ホヨ
 
(4137)
參照 ムツキ、トキジク
 
(4138)
參照 ヤブナミ〔地〕、アマツツミ
 
     【卷第十九】
 
(4139)
 
(4140)
參照 ハダレ
 
(4141)
(一)飛〔右▲〕飜鴫(二)羽振
(一)飛〔右▲〕の字元暦校本等に之なきを可とする。
(二)舊訓による。ハブキと讀んでも差支はないが、フキとフリとは語義が違ふからハブキであらねばならぬとする古義の説は陋である。古事記神代卷に「後手に布伎つつ」とあるフキをフリの意でないと解することが出來るであらうか。
 
(4142)
 
(4143)
(一)八十乃〔右▲〕
(一)乃〔右▲〕の字元暦校本等に之なきを可とする。
參照 カタカゴ
 
(4144)
(一)本郷思
(一)古義の訓に從ふ。
 
(4145)
(一)黄葉山
(一)モミヂム〔略解〕、モミヂム〔古義〕、モミヅル〔新考〕といふ訓があるが、此場合現在格(不定法)を用ひるか、未來格でいふかは作者の氣もちによるもので、語法からいへばどちらでもよい。但し此語が上二段活か、下二段活であるかは尚決しかねる點があり(四段に活用せられた例もある)、且こゝでは動詞として用ひられたと斷定すべき理由もないから、モミヂのヤマと訓むのが最も無難なやうに思はれる。――若し動詞とすればモミデムを取る。其は山には常葉の山もあり必ず紅葉するものとは限らず、活用は下二段の方が古いやうに思はれるからである。
因に記す。語誌にはモミヂの語原を不明とL、或はモエ(萠)のモと關係があるかも知れぬと記したが、再考するに應神紀に吉野の國※[木+巣]は煮2蝦蟆《カヘル》1爲2上味1名曰2毛瀰《モミ》1とあるから、カヘルデ(楓)と同義を以て吉野土人がモミデと稱へたのが、大和語に採用せられたのであるともいひ得られる。斷言はしがたいが一考に値すると思ふ。
參照 モミヂ
 
(4146)
 
(4147)
參照 ウベ
 
(4148)
參照 スギの野
 
(4149)(4150)(4151)(4152)
 
(4153)
(一)〓浮而
(一)〓〔右△〕は※[楫+戈]〔右○〕又は筏〔右○〕の誤寫なることは勿論であるが、契冲がイカダと訓したのは從はれぬ。筏もまた古語ではフネと稱し、イカダは竹製の筏に限つて用ひられる語である。其故に新古今及朗詠にもフネヲとして轉載せられて居るのである。
參照 イカダ、フネ
 
(4154)
參照 シナサカル〔枕〕、シキマス、オヤジ、ミサケ、トモシ、イハセ野、タギ、マクラヅク〔枕〕、ツマヤ
 
(4155)
參照 ヤカタヲ
 
(4156)
(一)潜《カヅクル》v※[盧+鳥]歌一首(二)花耳〔右△〕爾保布
(一)元暦校本には「並短歌」とある。
(二)耳〔右△〕は開〔右○〕の誤とする眞淵説に從ふ。
參照 サキタ川、シマツトリ〔枕〕、ナヅサヒ、ヤシホ
 
(4157)
(一)吾等看〔右△〕牟
(一)看〔右△〕の字諸本に眷〔右○〕とあるを可とする。
 
(4158)
 
(4159)
(一)詠并興〔右△〕(二)樹名都萬麻
(一)興〔右△〕を輿〔右○〕の誤記とする新考の説可なるが如し。
(二)ツママの語義、實物並に不明。犬楠なりとする截がある〔新考〕。
 
(4160)
(一)等騰米
(一)米〔右○〕の字元暦校本には未〔右○〕とあるが、どちらでもよい。
參照 フリサケミレバ、ニハタツミ
 
(4161)
 
(4162)
(一)情都氣
(一)此句には種々の解釋があるが、氣をゲと訓み、「心告げずで」の意とすべきである。
 
(4163)
 
(4164)
(一)左之麻久流(二)後代乃
(一)此次に落句あるべしとする略解の説は非。マクルは「春マケテ」などいふマケの活用で、向、設と同語。こゝでは「差向かふ心が障をうけず」といふ意である。但しサシが劍大刀の縁語であることはいふまでもない。
(二)乃〔右○〕を爾〔右△〕の誤とする説もあるが〔新考〕、後人ノ〔右○〕語リ續クベキ名とも解せられるから、強ひて改めるにも及ぶまい。
參照 チヽノミ〔枕〕.ハハソハ〔枕〕、ナゲヤ
 
(4165)
 
(4166)
(一)有爭波之
(一)舊訓による。有〔右○〕は發音を示す爲に添へた假字で、相競《アラサウ》の相と周一用法である。宣長が爭〔右○〕も來〔右△〕の誤字とし、アリクルハシニと改訓したのはアラソフを「爭」の義として之を不可解とした爲と思はれるが、こゝのアラソフは原義にもとづき「アリ添フ」ことを意味したのであらう。
(二)罷〔右△〕は能〔右○〕の誤記とする古義説に從ふ。コノクレの繁き〔二字右○〕四月《ウヅキ》といふ意であらう。
(三)新考に此處二句脱としたのは次句のマテニに捉はれた爲で、來自を意味する言葉なくしてマテニ(又はマデ)を用ひた例は少くないから、脱句の理由とすることは出來ぬ。但しタマヌクマテニは拙い語法で、タマニヌクマテの方が遙によいのであるが、〔四一七七〕にも同一用例があるから、家特が特に好んで之を用ひたものと思はれる。
(四)何如の二字を略解はイカガ、古義はイカデと訓し、新考はイカガ、イカデは古語に非ずとしてナドカと改めた。イカガはイカイカ又はイカニカの約、イカデはイカニシテの促つたものであるが、ナドカも亦ナニトカの約であるから、五十歩百歩の差である。ナニカと訓むのが最も無難のやうである。
參照 ウラブリ、コノクレ、ウツシ.マコ、シミラ、スガラ
 
(4167)(4168)
 
(4169)
(一)於夜能御言(二)夜須家久〔右△〕奈
(一)新考説の如く乎〔右○〕の字を補うてミコトヲと訓むべきである。ヲを略解してオヤのミコトと六音に誦すべき理由がない。
(二)ヤスケナクニといふ語法はない。元暦校本に上の久〔右△〕を削つたのは之が爲で、ヤスケナクニと訓ませるつもりであつたらうと思はれるが、こゝは六音に訓むべき場合ではないから、家〔右○〕をカの假字とし(一四卷に多くの例がある)、久〔右△〕を良〔右○〕の誤としてヤスカラナクニと訓まねばならぬ。
參照 ハナタチバナ、アマサカル〔枕〕、タヲリ、ナゲクソラ、オモフソラ、ナゴ〔地〕、カヘ(柏)
 
(4170)
(一)伊家流
(一)古義に流〔右○〕は理〔右△〕又は利〔右△〕の誤としたのは今を以て古を律せんとするもので、古語では此場合イケリ、イケルいづれを用ひてもよかつたのである。
 
(4171)
(一)起都追聞曾
(一)舊訓にはキクゾとあり、結句もキナク初コヱとあるから、格は一致して居るけれども、題にあはぬ。眞淵が結句をキナケ〔右○〕と改めたのは當を得て居るが.第二句が其まゝではとゝのはぬ。宜しく神田本の訓の如くキカムゾと改むべきである。
 
(4172)(一)爾波不殖而
(一)此歌は第十卷の「月夜よみ鳴く霍公鳥見まく欲り吾草とれり見む人もがも」〔一九四二〕に基づくものたることは新考の説の通りであるが、不〔右○〕を衍字としたのは從はれね。橘の蔭が鳥影を遮ることをいとへばこそウヱズテというたので、ウヱデとしては月光に鳥影を見んとする情趣が破壞せられる。特にハといふ助語を加へて八音に誦したのも附近には植〔右○〕ゑても庭前だけには植ゑないでといふ意を表示する爲とせねばならぬ。
 
(4173)
(一)經年婆
(一)舊訓による。トシフレバと改訓したのは賢らで、書體から見ても律の上からいうてもトシヲヘバであらねばならぬ。
 
(4174)
(一)春花〔右△〕梅(二)樂終(三)手折乎〔右△〕伎都(四)遊爾可有
(一)花〔右△〕は苑〔右○〕の誤寫であらう〔略解〕。
(二)契冲訓による。「樂の極は」といふ意である。
(三)乎の字元暦校本及類聚古集に手〔右○〕とあるを可とする。
(四)契冲訓可。
 
(4175)
 
(4176)
(一)雖聞飽不足
(一)舊訓アキタラズ〔右○〕とあるが、咏嘆の意をふくませてアキタラヌとあるべきである。
 
(4177)
(一)念鴨
(一)鴨〔右△〕の字元暦校本及類聚古集に暢〔右○〕とあるに從ひ、オモヒノベと訓むべきであらう〔略解〕。
參照 トナミ山
 
(4178)
(一)吾耳(二)爾〔右△〕毛
(一)類聚古集及細井本の訓にに從ふ。古義に舊訓ヒトリノミとあるを改めてワレノミシ〔右○〕としたのは從はれぬ。此場合シといふ助語は用ひられぬ。
(二)爾〔右△〕は南〔右○〕の誤とする略解説可。
參照 ニフ山
 
(4179)
參照 ユメ
 
(4180)
(一)尚之(二)可頭良沼〔右▲〕久
(一)沼〔右▲〕は衍字とする契冲説可。
(二)從來尚をナホシ〔右△〕と訓して居る。其は助語シの原義用途を解せず、シといへば古歌らしく聞えると思うて不用意にそへたもので、こゝではシは助語ゾと同語とせねばならぬが、ナホゾと指定することを要せぬ場合であるから、尚々の意を以てナホモ〔右○〕と訓む方がよい。
 
(4181)
 
(4182)
參照 ガネ
 
(4183)
(一)麻豆將喧乎
(一)類聚古集の訓による。舊訓の如くナキナムヲともいひ得るが、上
にニカヒトホセラバ(口語、飼ひ通したら〔二字右○〕)とあるから、ナキテムヲ(口語、鳴くだらうものを〔六字右○〕)を可とする。乎〔右○〕をカと訓むべしとする説は此歌では從はれぬ。
 
(4184)
(一)從2留v女〔右△〕(二)之女良所v送
(一)女〔右△〕の字を京〔右○〕の誤とする略解の説可。
(二)元暦校本には女郎〔右○〕とある。
參照 ツレモナク
 
(4185)
(一)江家
(一)此二字は元暦校本にはない。次の〔四一八九〕も同様である。
 
(4186)
 
(4187)
(一)許能久禮
(一)古義は能〔右○〕の字(新考は乃〔右○〕の字)脱とした。いづれにもあれコノクレノ〔右○〕と訓むべきことは勿論で、シゲキの枕詞に用ひられたのである。
參照 タルヒメの浦、アリガヨヒ
 
(4188)
 
(4189)
(一)遊波〔右△〕之母(二)等毛〔右▲〕毛奈(三)潜都追(四)月〔右△〕爾日
(一)舊訓タハルレバシモとあり、アソベレバシモ、アソバクヨシモなどいふ訓もあるが、こゝは一段落とすべき所ではない。案ずるに波〔右△〕は比〔右○〕の誤記でアサブコロシモと訓むのであらう。鵜を贈與する歌であることを忘れてはならぬ。
(二)毛〔右△〕の一つを衍とする代匠記の説可從。
(三)契冲訓による。
(四)月〔右△〕を旦〔右○〕の誤とする新考説可。
參照 アマサカル〔枕〕、ウツセミ、ナグサ、シクラ川、ナヅサヒ、アサニケニ
 
(4190)(4191)
 
(4192)
(一)紅色爾(二)呼等米爾〔二字右△〕
(一)從來クレナヰイロニと訓んで異としなかつたけれども、色が紅に匂ふといふのが普通の表現法で、特にクレナヰ・イロニ匂フといはねばならぬ理由もないやうであるから、或は色紅〔二字右○〕の轉置であるかも知れぬ。
(二)米爾〔二字右△〕を余米〔二字右○〕の誤とする契冲説に從ふ。
參照 フタカミ山、コキレ
 
(4193)
(一)盛過良志
(一)從來スグラシと訓して居るが、時格からいへばスギヌラシであらねばならぬ。
 
(4194)(4195)(4196)(4197)
 
(4198)
(一)留v女〔右△〕
(一)女〔右△〕の字京〔右○〕の誤なるべきこと上記の通りである。
 
(4199)
參照 フセの水海、タコの浦、シヅク
 
(4200)
 
(4201)
(一)伊佐左可〔右△〕爾
(一)可〔右△〕を目〔右○〕の誤とする新考説を可とする。古義はイササカと訓みイササメと同義であると説いたが、語尾メなるとカたるとによつて意の異なることは勿論である。
 
(4202)
(一)灣廻
(一)古義の訓に從ふ。灣はウラ(浦)の假字で.國を巡廻することをクニミ(國見)といふと同義に、浦を巡廻することをウラミ(浦見)というたから、廻〔右○〕をミの假字にあてたのである。――ウラマの轉呼なるウラミとは別語である。
(二)爾は不知をシラニと訓ませるやうに送り假字として用ひたのであらう。
 
(4202)(4203)
 
(4204)
參照 ホホカシハ
 
(4205)
(一)皇祖神之(二)射布折(三)酒飲等
(一)祖神とはあるが、ミオヤと訓むのであらう。
(二)契冲訓による。或は折布の轉置かと記したのは蛇足である。新考に打手〔二字右△〕折の誤記とし、ウチタヲリと改訓したのは酒柏といふものが葉を重ね折つて作つた匣状の飲器であることに氣がつかなかつたからであらう。
(三)飲をノミキと訓めといふ新考説可。
參照 キノカシハ
 
(4206)
參照 シブタニ〔地〕
 
(4207)
(二)許波不怨(三)家居有
(一)歌によれば霍公について怨を述べたものであるから.此一句には誤記があらねばならぬ。西本願寺には上の歌〔右△〕の字が削られて居るが尚妥當なりと思はれぬ。
(二)此句は意嚮を述べたものであるから、ウラミジとせねばならぬ。ウラミズと訓むは非。
(三)家ヲレルとも訓み得るが、イヘヰスルの方がよい。
參照 カタツキ
 
(4208)(4209)(4210)
 
(4211)
(一)爭爾〔右▲〕(二)爾太要(三)秋葉之(四)身之(五)之賀
(一)アラソフといふ語が重複するから、爾〔右▲〕を衍字としてアヒキホヒと訓めといふ新考説に從ふ。
(二)舊訓による。ニホエはニホ(丹穂)ハエ(映)の約であらう。――シダエ又はシナエと訓するは非。
(三)字について訓めばアキノハであるが、或はモミヂバと訓ませるつもりであつたかも知れぬ。
(四)舊訓ヲシキミノ・サカリヲスラモとあり、略解に上句をアタラノと改めたが、新考の説の如く身之の二字を下の句につけ、アタラシキミノサカリスラと訓むべきである。――莊の字金澤本には「壮」とある。
(五)古義にシガと訓み、菟原處女が土に挿したといふ意味に説き、新考はシカ(然)の意としたが、シガは「其《シ》が」で、黄楊小櫛の代名詞、サシケラシは根サシケラシといふことである。
參照 〔一八〇九〕、ニホヒ、ウツセミ
 
(4212)
 
(4213)
參照 アユ、ウラミ、ナゴの浦
 
(4214)
(一)嘆息伊麻須(二)枉言哉(三)逆越言乎(四)爪夜音之
(一)舊訓による。略解の訓の如くナゲカヒ〔二字右○〕イマスともいひ得られるがこゝは口語に直せば「歎いてゴサルゾ〔右○〕」といふ所であるから、ゾと強く指定することを可とする。新考はナゲキイマスト〔右△〕と改訓して使人の口上は之で終ると説いたが、其では二十二句後の留不得常〔右○〕とあるトのかゝる所がない。
(二)枉〔右○〕を狂〔右△〕の誤としてタハコトと改訓したものがあるが、何故に字の通りマガコトと訓んでは惡いか理由を知るに苦しむ。
(三)オヨヅレカと訓するものがあるが、逆言には少しもオヨヅレといふ意味はない。字の通りサカコトと訓むべきである。マガコト、サカコト共に訃報の意である。――乎〔右○〕はカの假字に用ひられたので他にも例のあることである。
(四)爪〔右○〕の下に引〔右○〕の字脱とした契冲説に從ふ。〔五三一〕にもツマヒクヨトといふ用例がある。
參照 ウツソミ、ヤソトモノヲ、ヒナサカル〔枕〕、ハシキヨシ、ニハタツミ
 
(4215)(4216)
 
(4217)
(一)始水逝
(一)舊訓に誤なしとすれば契冲説の如く逝〔右△〕は邇〔右○〕の誤であらう。水ハナは水頭の意とも解し得られるが、尚「霖雨の水ハナ」といひ得られるかは疑問である。元暦校本にはミヅマサリと訓してある。
 
(4218)
(一)保爾可將出
(一)舊訓による。古義はイダサムと改訓したが、イデは古語では自他兩用で思ヒ出スを思ヒ出《ヅ》といふを例としたのであるから、此場合に限り特に改める必要もあるまい。
參照 シビ
 
(4219)
 
(4220)
(一)志安倍牟
(一)アヘは原義により「差加へる」といふ意を以て用ひられたので、之を「敢」「堪」の義としては意をなさぬ。其故に新考は牟〔右○〕を自〔右△〕の誤記としたのであるが、恐らくは作者の本意ではあるまい。
參照 シナサカル〔枕〕、ユクラユクラ、モトナ、アヘ、ケダシ
 
(4221)
(一)之久志〔右▲〕
(一)元暦校本に志〔右▲〕の字之なきを可とする。新考に久〔右○〕を登〔右△〕の誤とし安を衍として戀シト〔右△〕シラバと改めたは新古今以下の格調で、古語では其場合にはコヒム〔右○〕トシラバというた筈である。
 
(4222)(4223)
 
(4224)
(一)留得哉
(一)トドメエムカモ〔略解〕、トドメエメヤモ〔古義〕と訓したものもあるが、こゝは「留め得よう」又は「留め得まい」といふ意ではなく、「留め得るだらうか」と疑をかけられた御作と思はれるから、古訓の如くトドメ得テムヤとあるべきである。
參照 タヰ
 
(4225)
(一)山黄葉爾〔右△〕
(一)第四句將落の主語は黄葉と思はれるから爾〔右△〕は新考説の如くノ〔右○〕であらねばならぬ。次句シヅクアヒテは「雫にあひて」の意と解すべきある。新考に雨耳相而の誤寫としたのは據を詳にせぬ。
參照 シヅク
 
(4226)
 
(4227)
(一)此廻之(二)不零雪(三)零之雪(四)人哉
(一)廻は反歌にも大殿の此母等保利と假字書してあるから、モトホリと訓むのであらうが、廻即ちメグリとタチモトホリ(徘徊)の意のモトホリとを同一視することは出來ぬ。こゝのモトホリは恐らくはモトヘ(本邊)の意であらう。
(二)舊訓フラザル雪ゾとあり.諸家之に従うて居るが、フラザルとフラヌとを混用するやうにたつたのは後世のことで、原義上時格に相違がある。――語法要録参照――こゝはフラヌといはねばならぬ。次のフリシユキゾといふ六音句に對立するのである。
(三)眞淵訓による。
(四)從來ヒトヤと訓み來り、或は上句につけて八音に誦するものもあるが、ヒトカモと訓み四音一句とするを可とする。カは感動詞で人モといふ意である。次のナフミソネ雪ハも五音、三音二句にわけて誦する方げ律調にかなふやうである。
此歌は作者が古風《イニシヘブリ》に擬して詠じたものであらうが、律調の上からいへば寧ろ失敗といはねばならぬ。句法の不整を以て古調なりとするものがあらば大なる誤である。
(4228)
(一)御見多
(一)ミシタマハム又はメシタマハムと訓むも可。
 
(4229)(4230)(4231)
 
(4232)
(一)雪島(二)巖爾殖有
(一)舊訓による。ユキノ〔右○〕シマと訓むべしとする古義の説は從はれぬ。正しくは「雪ノ島ノ巖」といふべきであるが、五音句とするためノを一つ略する必要があるとすれば上のものを削るのが至當である。下のノを除くと呼格と誤たれる虞がある。
(二)字について訓めばウヱタルであらねばならぬが、ウヱタルといふ語を用ふべき場合ではなく、タテル〔略解〕といふ訓も心ゆかぬ。尚舊訓によるべきである。
 
(4233)
 
(4234)
(一)鳴鷄者
(一)新考に鷄鳴〔二字右△〕者の顛倒としてトリガネハと訓したの理由のあることであるが、ナクトリハ・イヤシキ鳴ケドといひ得ぬこともないから、尚原字舊訓を尊重すべきである。
 
(4235)
參照 ホロニフミアタシ
 
(4236)
(一)不知爾
(一)爾は送假字である。
參照 ナリハタ
 
(4237)
(一)寢〔右△〕爾等
(一)舊訓の如くば寢〔右△〕は誤字であらう。元暦校本には寤〔右○〕とある。新考に二句オモヒテシカモを不適當として、寤爾毛今毛見〔四字右△〕※[氏/一]之吋の誤としたのは理由のないことである。テシカモはタリシカモといふに同じく、カモは感動詞で、「思うたよ」といふ意であるから、間然する所のない語法である。――希望を表示するテシカモはカモに其意があるので此テシカモとは別語である。
 
(4238)
 
(4239)
(一)許毛爾之
(一)第三句以下類聚古集にはコモリニシカ〔右△〕ノホトトギスマテド來ナカズと訓してある。即ち「毛」の下に「里」の字脱、波〔右△〕は彼〔右○〕の誤、未〔右▲〕は衍字とするものである。但し「彼」はソノと訓する方がよい〔新考〕。
 
(4240)
(二)此吾子乎
(一)吾子は或はアギと訓むのかも知れぬ。
參照 アギ
 
(4241)(4242)
 
(4243)
(一)古作(二)伊都久祝之
(一)古〔右△〕の字は元暦校本其他に土〔右○〕とあるを正とする。續紀天平十二年の條下に丹治比の眞人|土作《ハニシ》といふ名が見える。――「治」の下に「比」脱とするは〔契冲〕誤。タチヒの原語はタチであるから丹治ともかくのである。
(二)祝〔右○〕を社〔右△〕の誤とする新考説は理由のないことである。古事記開化天皇の卷にも近淡海之御上祝〔右○〕以伊都玖といふ用例が見え、祝が託宣をするのは常のことであつた。
 
(4244)
 
(4245)
(一)由由志恐伎(二)毛等能國家爾
(一)伎〔右○〕を侍〔右△〕の誤としてユユシカシコシと訓まざるべからずとした新考の説は一を知つて二を知らざるものである。形容語尾シとキとは本初は同價値のものとして彼此通用せられたのである。――語法要録参照。
(二)舊訓による。
參照 ソラミツ〔枕〕、アヲニヨシ、オシテル〔枕〕、ウシハキ
 
(4246)
 
(4247)
參照 ソキ、ソクヘのキハミ
 
(4248)
 
(4249)
參照 イハセ野
 
(4250)
參照 シナサカル
(4251)
參照 コトド
 
(4252)
 
(4253)
 
(4254)
(一)京洛上(二)安天左波受(三)手拱而
(一)洛〔右△〕の字元暦校本に路〔右○〕とあるを可とする。
(二)天〔右○〕を誤字として眞淵はアマサハズ、宣長はアブサハズと訓したが、「餘さず」をアマサズといふことは語法上あり得ず、アブサハズといふやうな語が存在したとも思はれぬ。アテサハズもまた無理な誤づかひであるが、尚右兩者に勝るやうである。
(三)古義の訓に從ふ。
參照 アテサハズ、ヤスミシシ〔枕〕、サカミヅク
 
(4255)
 
(4256)
(一)吾大王波
(一)王の字類聚古集其他諸本に主〔右△〕とあらため、ワカオホヌシハと訓してある。吾大君はといふと天皇とあやまる虞があるとしたのであらうが、當時は諸王をもオホキミと稱へたから、之に「吾」といふ語を冠したのである。天皇の御事を申上ぐるワガオホキミとは發音又はアクセントによつて區別せられたのであらう。
 
(4257)
(一)君者立去〔右△〕奴
(一)去〔右△〕の字元暦校本に之〔右○〕とあるに從ふ。
參照 タナクラ野
 
(4258)
 
(4259)
參照 カムナ月
 
(4260)
參照 タヰ
 
(4261)(4262)(4263)
 
(4264)
(一)鎭在國
(一)略解の訓に從ふ。
參照 ソラミツ〔枕〕
 
(4265)
(一)白香著
(一)從來シラカツキ〔右○〕又はシラカツケ〔右○〕】と讀まれて居るが、イハフ(エフに通ず)の枕詞で、シラカツクとよむのであらう。
參照 シラカツク
 
(4266)
(一)今日者(二)保伎〔右▲〕吉
(一)古義の訓による。
(二)伎〔右△〕の字元暦校本に之なきを可とする。ホギドヨモシと六音に訓むべきであらう。――雅澄が伎〔右△〕を佐〔右○〕の誤としてホザキドヨモシと訓したのも當を得て居るやうであるが、尚ホギといふ語を重ねたものと見る方がよい。
參照 ツガノキ、ヤスミシシ〔枕〕、ウズ、ヱラヱラ
 
(4267)(4268)
 
(4269)
(一)今日見者
(一)古義に者〔右○〕を乍〔右△〕の誤としてミツツと訓したのは從はれぬ。ミツツは見ル見ルと同義であるが、「他所に見る」は反復すべきことではない。――語法要録参照。
 
(4270)
 
(4271)
(一)君伎麻
(一)新考は君〔右○〕を※[夕/れっか]〔右△〕の誤として.マタと訓したが、原字舊訓を可とする。
 
(4272)
(一)之伎(二)樂伎小里
(一)眞淵訓に從ふ。
(二)契冲訓による。
 
(4273)
(一)貴久宇禮之伎
(一)結句の伎〔右○〕を衍とする新考説は從はれぬ。感動の意を含めてウレシキというたのである。
 
(4274)(4275)
 
(4276)
參照 ウズ、マヘツキミ
 
(4277)
 
(4278)
參照 ヒカゲ
 
(4279)
(一)後者相牟
(一)舊訓ノチニハアハムとあるが、上二句は前提と思はれるから、新考説の如く「牟」の下に乎を補うてノチハアハムヲと訓すべきである。
參照 ノト川
 
(4280)
(一)之奇島能
(一)ワレジクは我其人の意。こゝでは「のやうに」といふ語をそへて聞くべきである。――語法要録参照。
 
(4281)
參照 モトナ
 
(4282)
(一)辭繁
(一)從來「辭」を「事」の意の借字としてシゲミと訓して居るが、若し其意とせば二句をアヒトハナクニとしては意が通ぜぬ。其故に新考は「問」の下lこ「間」の字脱として、アヒトハヌマ〔右○〕ニと改訓したのであるが、字の如く辭シゲクと訓めば増補を加へずとも解讀し得られる。即ちアヒトハナクニは「相訪はね爲に」の意と見ることが出來るのである。いづれを可とするかは讀者の判斷にまかせる。
 
(4283)(4284)(4285)(4286)(4287)
 
(4288)
(一)雪波布禮禮之〔右△〕
(一)契冲訓による。フレレヤと訓むも妨はないが、フレレゾ〔新考〕としては現實のことゝ聞え題詞にあはぬ。――フレレシ〔新訓〕といふ語法は古語にもかつて例がない。
 
(4289)(4290)
 
(4291)
參照 イササ、ササ、カス
 
(4292)
 
     【卷第二十】
 
(4293)
(一)山人
(一)山人は仙の字を二つにわけて訓をつけたものである。
 
(4294)
(一)情母之良受〔右△〕
(一)受〔右△〕は奴〔右○〕の誤とする新考説可從。
(二)問〔右△〕の字西本顔寺本に間〔右○〕とあるを可とする。
 
(4295)
參照 タカマト〔地〕、タダナラズトモ
 
(4296)(4297)
 
(4298)
(一)千里
(一)元暦校本に千室〔右○〕とあるを可とする。
 
(4299)
(一)安多良〔二字右△〕安多良〔二字右△〕爾
(一)元暦校本以下諸本安良多〔二字右○〕安良太とあるを可とする。「新に新に」といふ意であらう。
 
(4300)
 
(4301)
參照 イナミ野、サネ
 
(4302)(4303)(4304)(4305)(4306)(4307)(4308)
 
(4309)
參照 ニコクサ
 
(4310)(4311)
 
(4312)
(一)月乎
(一)此月〔右○〕を七月の意としても心行かぬので、新考は年爾可〔三字右△〕の誤としたが、トシニカマタムというて一年中待タムカ〔右△〕といふ意になるとも考へられぬから、此ツキは太陰の義とし、月光の下に白露のやうに彦星を飽かず見たいといふ意と解すべきであらう。
 
(4313)
參照 カシ
 
(4314)
 
(4315)
參照 タカマト〔地〕
 
(4316)
參照 ツカサ
 
(4317)
參照 モノノフ
 
(4318)(4319)
 
(4320)
(一)安伎野
(一)秋野ノ萩原の意か〔新考〕。或は「野」はノの假字かも知れぬ。
 
(4321)
(一)伊〔右▲〕牟多禰乎
(一)伊〔右▲〕の字元暦校本及古葉略類聚鈔に之なきを可とする。次の乎〔右△〕も兩書に牟〔右○〕とあるのが正しいやうである。此二句元暦校本の訓はカエガムタネモ・イムナシニシテとある。
加曳我を新考は多〔右△〕曳我の誤としてタエガは「誰が」の訛であるというたが、東國に於ても誰ガムタはタガムタというた筈でワレガ(アレガ)、タレガといふやうな語づかひは比較的後の世のことである。加之「誰と共に寢む」といふ意ならば「誰と寢む」「誰と相寢む」といふ筈であるから、多曳と改めることには從はれぬ。カエはカヤ草の訛とする佐々木説可。
參照 サキモリ
 
(4322)
參照 ワカヤマトベ
 
(4323)
參照 ズケム、ハセツカベ
 
(4324)
參照 シルハの磯.ニヘの浦
 
(4325)
(一)知知波波母〔右△〕
(一)新考に母〔右△〕は巴〔右○〕などの誤ではないかとある。いづれにしても父母モ〔右△〕とある舊訓は誤りで、父母ハ〔右○〕であらねばならぬ。
 
(4326)
參照 モモヨ草
 
(4327)
參照 コトリ
 
(4328)
參照 イソニフリ
 
(4329)
(一)夜蘇久爾波
(−)新考に波〔右○〕は由〔右△〕の誤であらうとあるが、尚原のまゝで「八十國人〔右○〕は」といふべきを略したものと見る方がよい。
 
(4330)
 
(4331)
參照 シラヌヒ〔枕〕、トリガナク〔枕〕、イクサ、ネギ、タラチチネ〔枕〕、サグクミ、ツツミ、イハヒベ
 
(4332)(4333)(4334)(4335)
 
(4336)
參照 イヅタ舟
 
(4337)
(一)有度郡〔右△〕
(一)元暦校本には有度部〔右○〕とある。有度郡の人で無姓又は之を逸したものと解せられぬこともないが、此の國の防人はいづれも郡名を掲げて居らぬから、地名に因む有鹿部〔右△〕といふ部又は姓とする方がよいやうである。
 
(4338〕
(一)多多美氣米
(一)契冲はタタミコモ(疊薦)の訛であらうといひ、雅澄は米を布〔右△〕又は不〔右△〕の誤字としてタダミケフと讀み、タダムカフ(直向)の訛としたがいづれもムラジとのつゞき合ひが覺束ない。或はタダミは地名で、ケメはキミ(君)の轉訛ではあるまいか。和名抄駿河國有度郡に託美(多久美)といふ郷名があげられて居る。多久美と多多美とは相誤ることはありそうに思はれる。
參照 ムラジが磯
 
(4339)
(一)阿等利加麻氣利
(一)※[獣偏+葛]子鳥、鴨、鳧と三種の鳥名をならべたもので、「行めぐり」の序である。
參照 ケリ、アトリ
 
(4340)
(一)知知波波江〔右△〕
(一)江〔右△〕の字古葉類聚抄に波〔右○〕とあるを正しとする。父母ハと訓まねば意が通ぜぬ。
 
(4341)(一)美衣利乃
(一)或る地名の訛音であらうが.正しい呼稱を考へ得ぬ。タチバナはミ(實)にかゝる枕詞〔新考〕。
 
(4342)
 
(4343)
(一)古〔右△〕米知夜
(一)古〔右△〕は於〔右○〕の誤でオメチと訓むべしとする眞淵説に從ふ。オメチはオモテ(面)の訛である。
歌の意は「私は旅を旅と思うて居るのであるが、實は戀であると見えて面やつれのする自身が哀である」といふのであらう。
 
(4344)
 
(4345)
參照 ウチヨスル〔枕〕
 
(4346)
 
(4347)
(一)伊波〔右△〕非(二)早〔右△〕部
(一)波〔右△〕はソの音の假字を寫し誤つたのであらうといふ新考の説可從。イハヒではいかに強辯しても意が通ぜぬ。
(二)早〔右○〕は元暦校本に日下〔二字右○〕とあるを可とする。
 
(4348)
(一)早〔右△〕部
(一)早〔右△〕は日下〔二字右○〕の誤〔前出〕。
 
(4349)
 
(4350)
(一)諸人
(一)此作者は諸人の家族のものであらねばならぬ。歌に敬語が用ひてないから尊屬と見るを可とする。恐らくは父又は母の字を脱したのであらう。「帳」は主帳の略。
參照 アスハの神
 
(4351)
(一)夜豆伎(二)伊母爾志
(一)豆〔右○〕の字元暦校本に部〔右△〕、他の諸本に倍〔右△〕とあるが、キ重ネテとあるを見てもヤツの方がよいやうである。
(二)新考に爾〔右○〕を等〔右△〕の誤とし、妹トシアラネバと訓したのはシといふ助語を無視した結果である。其意味ならば妹トナ〔右○〕ラネバといはねばならぬ。――語法要録参照。
 
(4352)
 
(4353)
參照 マリコの連
 
(4354)(4355)
 
(4356)
(一)許己呂乎(二)須良廷〔右△〕努
(一)心を忘ラレヌとはいへぬから、雅澄は乎〔右△〕を乃〔右△〕又は能〔右△〕の誤寫ではないかといひ、新考は之〔右△〕の誤として心シとよめと斷定した。兩説共に理はあるが、此ヲは感動詞に通ずるものともいひ得られるから、姑く原訓に從ふ。
(二)廷〔右△〕は元暦校本に延〔右○〕とあるを可とする。
 
(4357)
參照 シホホ
 
(4358)
(一)※[さんずい+此]〔右△〕郡
(一)契冲は※[さんずい+此]〔右△〕を淮〔右○〕の誤としてスヱと訓した。和名抄上總國周淮(季)郡とある地である。
 
(4359)
 
(4360)
(一)麻能乎爾(二)多要受伊比都都
(一)伊麻能乎は「今の世」の意なることはいふまでもない。其故に眞淵は乎〔右○〕は與〔右○〕の誤とし後の學者皆之に從うて居るが、ヨ、ヲは相通音であるから、音便によつて態とイマノヲと吟じたのであるかも知れぬ。後の句にも「白波の八重ヲルがうへに」とある。八重折る意とも解釋せられぬことはないが、其意ならば八重折リ〔右○〕ノウヘニ(〔一一六八〕参照)といはねばならぬから、これも「八重寄る」の音便と解すべきであらう。末句にソキダクモ、オギロナキカモ、コキバクなどいふ語を用ひた所を見ても、わざと防人の歌らしく詠じたものと思はれる。
(二)新考に上の都〔右○〕を伎〔右△〕の誤とし、タエズイヒキツと訓むべしとしたのは誤である。句を切るとすればイヒクル〔二字右○〕といふべきで、キツといふ完了格を用ひる筈もなく、其例も見えぬ。イヒツツはイヒイヒと同義でカケに言ひかけたのである。
(三)弖〔右○〕を奴〔右△〕の誤としたのは從はれぬ。上句アヂムラノとあるはアヂ鴨の群のやうにといふ意で騒いで濱に出るといふことの譬喩である。――實際に水鳥のさわぐ叙景ならばアヂムラハ〔右○〕といはねばならぬ。
參照 オシテル〔枕〕、シキマス、ミヲ、アジムラ、ハララカシ、ソキダク、オギロナキカモ、コキバクモ
 
(4361)
參照 オシテル、ナベ
 
(4362)(4363)
 
(4364)
參照 ナリ
 
(4365)
參照 オシテルヤ
 
(4366)
 
(4367)
參照 シダ、フリサケミレバ
 
(4368)
參照 クジ川、シホフネ
 
(4369)
 
(4370)
參照 アラレフリ〔枕〕、カシマの大神、イクサ
 
(4371)
 
(4372)
(一)佐祁久等麻乎須
(一)須〔右○〕を西〔右△〕の誤ならむとしたは新考説は非。マウスは作者自身の言である。
參照 ミサカタマハリ、フハ〔地〕
 
(4373)
(一)之許乃
(一)シコは勇猛の義、醜の意とするは誤解である。――語誌參照。
 
(4374)
參照 サツヤ
 
(4375)
參照 モコロ
 
(4376)
 
(4377〕
(一)阿母刀自母
(一)母〔右○〕を巴〔右△〕の誤とする説もあるが〔新考〕、こゝはモというても少しも差支はない。
參照 ミヅラ
 
(4378)
(一)都久夜波(二)奈布母
(一)月日ハヤといふに同じい。ヤは感動詞である。――月日|夜《ヨ》の意とする説〔新考〕は非。
(二)セナフは大和語に直せばセヌである。
 
(4379)(4380)(4381)
 
(4382)
參照 フタホガミ、アダユマヒ
 
(4383)
 
(4384)
參照 カハタレトキ
 
(4385)
(一)惠良比
(一)惠良比はオラビ(叫)の訛であらう。同行ではたいが、オがヱと訛ることはあり得る。歌の意は行く先では濤がオラビ、後方では別れた妻子がドヨメクといふのである。
參照 キサイベ
 
(4386)
(一)比須奈(二)之都之〔右△〕母
(一)舊訓コヒススとあり、元暦校本以下諸本「須々」とかいてあるから奈は須の誤なること明である。恐らくは須の下にあるべき「々」を誤つて次の奈の下に移した結果であらう。
(二)契冲説に從つて都之〔右△〕母は都々〔右○〕母の誤とすべきである。
 
(4387)
(一)他加〔右△〕枳奴
(一)加〔右△〕は知〔右○〕の誤とする古義説を可とする。第三句ホホマレドは逆の歸結を導く前提であるから、オキテを「置て」の意と解することは出來ぬ。新考はマ〔右○〕キチの誤であらうと説いたが、オキはオコシ(※[(女/女)+干])の語幹であるから、オキテと訓み蕾の花を散らしたといふ意と解すべきであらう。
參照 チバ、コノチカシハ、オコシ
 
(4388)
參照 タビ
 
(4389)
參照 シホフネ
 
(4390)
(一)牟浪〔右△〕他麻乃(二)あ|よ《ヤ》く|な《ラ》めかも
(一)浪〔右○〕を波〔右○〕の誤としてムバタマノと訓した略解の説可c從。クル(黒に通ず)にかゝる枕詞であらう。
(二)アヨクナメカモはアヤシクアラメカモの訛であらう。
參照 クル
 
(4391)
(一)こひすな|む《ル》
(一)贖祈《アガコヒ》スラムの意なりとする説〔宣長〕は從はれぬ。又國々の神を祀るものを留守の妻であるとする解釋にも同意しかねる。吾が戀スナル〔右○〕の訛とすれば極めてよくわかる歌である。ルをムと訛ることは現在の關東方言にも行はれて居る。
 
(4392)
 
(4393)
(一)枳枚麻〔右△〕之乎
(一)麻〔右△〕の字元暦校本等に尓〔右○〕とあることを可とする。キニシヲと訓むべきである〔略解〕。
參照 イハヒベ
 
(4394)
 
(4395)
(一)流刀禰
(一)彌〔右△〕の字元暦校本其他に爾〔右○〕とあるを可とする。「我還る時に」の意である。
 
(4396)
參照 コヅミ、ツト
(4397)
 
(4398)
(一)奈※[泥/土]泥〔右△〕(二)都麻波(三)加貞爾(四)之麻米〔右△〕爾
(一)元暦校本には泥〔右△〕の字がない。之に從へばハハカキナデと訓むべきであるが、六音とする必要のない所であるから、新考の説の如く母ハ〔右○〕カキナデとあつれたが、刊本にも元暦校本にも誤寫せられたのであらう。
(二)元暦校本には波〔右△〕の字がないが、刊本に從ひツマハ〔右○〕トリツキと七音に訓むを可とする。
(三)ガテニと訓するは非。ニはシラニ(不知)のニで、不《ズ》の意である。
(四)米〔右△〕は末〔右○〕又は未〔右○〕の誤とする契冲説可。音便によりシマミといふ方がよい。
參照 タラチネ〔枕〕、ワカクサ〔枕〕、シマミ、ソヤ
 
(4399)
 
(4400)
 
(4401)
參照 カラコロモ
 
(4402)
參照 チハヤブル〔枕〕
 
(4403)(4404)(4405)(4406)
 
(4407)
(一)池〔右△〕田
(一)池〔右△〕の字元暦校本に他とあるを可とする。
參照 ウスヒの坂、シダ
 
(4408)
(一)我〔右△〕我多(二)加弖爾等(三)天皇乃(四)麻宇〔右△〕之
(一)元暦校本に和〔右○〕我とあるを可とする。
(二)ワカレカテニトは「別|不v克《カテズ》テ」の轉呼である。「別レ難《ガテ》ニト」と讀むは非。其やうな語づかひはあり得ぬ。
(三)古義の訓による。
(四)宇〔右△〕の字神田本其他の古寫本に乎〔右○〕とあるを可とする。
參照 ハハソハ〔枕〕、ナチノミ〔枕〕、タクヅヌ〔枕〕、カコジモノ〔枕〕、ワカクサ〔枕〕、オモフソラ、コフルソラ、ウツセミ〔枕〕、タマキハル〔枕〕、ツツミ、ワサビラキ
 
(4409)
(一)宇〔右△〕佐禰
(一)宇〔右△〕の字諸本に乎〔右○〕とあるを可とする。
 
(4410)(4411)(4412)
 
(4413)
(一)眞足母〔右△〕
(一)母〔右△〕は古寫本の多くに女〔右○〕とあるを可とする。マタリといふ名の女人をマタリメと呼稱したのである。
參照 マクラタチ、マキ
 
(4414)
參照 マコ
 
(4415)
(一)毛母也
(一)母也〔二字右○〕を契冲は也母〔二字右△〕の顛倒、眞淵は我母〔二字右△〕の誤記としたが、ヤモは反語を表示するものであるから、マタモミム〔二字右○〕ヤモとあるべきで、ガモならばミテシ〔二字右○〕ガモであらねばならぬ。特にテムといふ未來完了格が用ひられて居る以上、ヤモ又はガモを添へるのは穩でない。字の通りモヤとよみ感動詞と見て「又見るだらうよ」の意と解すべきである。
參照 ノス
 
(4416)
 
(4417)
參照 タマ〔地〕
 
(4418)
(一)等奈禮
(一)ナレを「汝」の意と解するは誤。フレナナは大和語に直せば觸レジナである。
 
(4419)
 
(4420)
(一)波流母志
(一)ハルモシは「針持ち」の訛である。
 
(4421)
(一)部於田〔右△〕
(一)田〔右△〕は由〔右○〕の誤か〔古義〕。
 
(4422)
(一)宇都久之美
(一)此ウツクシミはイトホシミの意に用ひられたのであらうが、ウツクシには其意はないから、方言とおもはれる。
(二)トカナナは大和語に直せばトカジナである。
(三)アヤは不正の意。アヤニネは假寢といふことである。
參照 ウツクシ、ナナ、アヤ
 
(4423)
 
(4424)
參照 ミサカタマハリ
 
(4425)
參照 トモシ
 
(4426)(4427)
 
(4428)
(一)登加奈奈
(一)トカナナは解カジナ、アヤに寝るは假寢の意なること既に〔四四二三〕に述べた。
 
(4429)
參照 ガベ
 
(4430)
(一)伊乎
(一)略解に乎〔右○〕を本〔右△〕の誤として五百箭《イホサ》と訓み、新考に留〔右△〕と改めて射ル箭《サ》と訓したのはイがヤ(箭)の訛であることに氣づかなかつたのであらう。――古義にイを接頭語としてイヲサを小箭《ヲサ》の義としたのは最も牽強附會である。――サタバサミのサが接頭語なることはいふまでもない。
參照 カナルマシヅミ
 
(4431)(4432)(4433)
 
(4434)
(一)佐夜〔右△〕爾
(一)考には夜〔右△〕は倍〔右○〕の誤としてサヘにと訓し、新考は良〔右△〕の誤とした。姑く眞淵訓に從ふ。
 
(4435)(4436)
 
(4437)
參照 モトナ、アヲネシナク
 
(4438)
(一)※[こざと+經の旁]〔右△〕妙觀
(一)※[こざと+經の旁]〔右△〕は元暦校本に薩〔右○〕とあるを可とする。
 
(4439)
(一)色〔右△〕婆
(一)西本願寺本には邑〔右○〕婆とあるを可とする。
參照 ユゲの河原
 
(4440)(4441)(4442)(4443)(4444)(4445)
 
(4446)
參照 ヲヲ、マヒ
 
(4447)
(一)伎美奈
(一)伎美の二字に誤なしとすれば「花のみを訪うて止むべき君ではない」といふ意であらうが、まぎらはしい語づかひである。其故に新考は阿禮〔二字右△〕の誤寫としたが、尚花の縁語としてキミ〔右○〕(ミは實に通ずる)というたものとも解せられるから猥りに改竄することは出來ぬ。
 
(4448)
參照 アヂサヰ
 
(4449)
(一)宇都良
(一)ウツラウツラのラに接尾語、ウツは「全」の意であらう。ツラツラ(熟)といふ語は之から出たものと思はれる。
 
(4450)(4451)(4452)(4453)
 
(4454)
(一)贈2薩妙觀命
(一)薩〔右○〕は西本願寺本による。刊本※[こざと+經の旁]〔右△〕とある。
參照 タタビ
 
(4456)
參照 カニハのタヰ
 
(4457)
 
(4458)
參照 ニホトリサ〔枕〕、オキナガ川
 
(4459)
(一)蘆苅爾
(一)雅澄は爾〔右○〕を等〔右△〕の誤として葦カルトと訓したが、原のままでも差支はない。
 
(4460)
(一)可治都久米
(一)「都久米」といふ語は不可解である。雅澄は中山嚴水の説によつて「※[楫+戈]を船のつくへかけて彼方へ引うごかすを都久牟流といふべし」と述べたが、聞なれぬ語であるのみならず、此かぢを後世の舵器と同一のものと斷ずることは出來ぬ。新考には都可布の誤ではないかとあるが、上の句のコグと重複する嫌がある。――ローロックに當る部分を其ころツクメと稱したのではあるまいか。ツクメはツクヘ(着く邊)の音便とも解せられる。尚可v考。
參照 イヅタの舟
 
(4461)
(一)奈良波
(一)鳴ラバに奈良ハをいひかけたのである。
 
(4462)
 
(4463)
(一)須疑自
(一)元暦校本には自〔右○〕を目〔右△〕と改めてある。目(モ又はメと訓むとして)では勿論意をなさぬが、スギジといふ語が語法に外れて居るが故に、疑を生じたのである。家持に「人に語り告ぐまでどうすれば我門を(通り)過ギズ、アラム」といふ意味でスギジといふ語を用ひたのであらうが、口語で「通り過ぎないだらう〔四字傍点〕」といふと「通り過ぎなからう」との間に相違があると同様に、過ギズ、アラムと同義語として過ギジを用ひることは出來ぬ。スギジといへば寧ろ「過ぎまい」といふ意に聞えるのである。
 
(4464)
(一)伎美我
(一)雅澄が我〔右○〕を乎〔右△〕の誤として君ヲ待ツ意を説いたのは從はれぬ。此歌は「待」と「松」との外に「暦月」と「太陰」とをいひかけた語の戯で必しも待たるゝ人を明示するを要せぬ。
 
(4465)
(一)麻敝流(二)都伎爾(三)藝弓※[氏/一](四)世武乎
(一)新考に「授け給へる産の子」とはつゞき難しといふ理由を以て流《ル》を禮《レ》と讀めというたのは誤で、七句を隔てて「授け給へる清き其名」とかかるのである。レとしてに句が切れるか、又はレバの意として次に續くものとせねばならぬが、「授けたまへれば」といふ筈はなく、又句を切つては授けられたものは何かわからなくなる。
(二)こゝに二句脱落せりと斷定〔二字右○〕した新考の説は臆斷である。「見る人」「聞く人」が即ち愈次々に生まれた「産の子」である。
(三)※[氏/一]〔右○〕を婆〔右△〕の誤とする新考説は非。ツギテハ即ち語り繼ぎたらばといふやうな假設前提を用ひる場合でない。カタリツギテといふべき所を七音にする爲にツギデテといふ拙い語を用ひたので、此のやうな誤解をすら生じたのである。
(四)此乎〔右△〕は語法上こゝに存することを許さぬ。カガミニヲ〔右○〕セムとあつたのが、誤つて轉置せられたのではあるまいか。或は原歌は見ル人ノ・語リツギテ〔五字傍点〕・聞ク人ノ・鏡ニセム〔四字傍点〕と六音の二句を用ひた――此例は集中にも折々見受ける――のを後人がさかしらに※[氏/一]〔右△〕と乎〔右△〕とを加へたのであらう。
參照 ハジ弓、マカゴ矢、オホクメ、ユキ、サクミ、マツロフ、アキツシマ、フトシリ、コトダテ、ムナコト
 
(4466)
參照 シキシマ
 
(4467)
 
(4468)
(一)加受奈吉
(一)カズナキは「物の數にもあらぬ」といふ意であらう。
 
(4469)
 
(4470)
(一)美都煩
(一)ミツボは泡沫の意であらう。
 
(4471)
 
(4472)
(一)於保乃
(一)オホは出雲國意宇郡|意宇《オウ》の訛であらう〔略解〕。
 
(4473)
(一)此〔右▲〕歌
(一)此〔右▲〕の字元考暦校本に之なきを可とする。
參照 ウチヒサス〔枕〕
 
(4474)(4475)
 
(4476)
(一)波奈能
(一)「奈能」の下には、元暦校本其他に更に奈能〔二字右○〕の二字がある。之に從ふべきである。
參照 シキミ
 
(4477)(4478)
 
(4479)
(一)歌一首
(一)次の作者不祥とあるのも此夫人の歌らしく思はれるので、新考には一〔右△〕は二〔右○〕の誤であらうとある。
參照 ヤキタチ
 
(4480)
 
(4481)
參照 ツバキ、ツラツラ
 
(4482)
(一)麻之目〔右△〕
(一)目〔右△〕の字元暦校本に自〔右○〕とあるを可とする。マシモと誦しては意が通ぜぬ。
 
(4483)
 
(4484)
(一)須我乃禰
(一)新考に禰〔右○〕を葉〔右○〕の誤としたのは從はれぬ。山菅の葉も長いものではあるが、スゲの根は「長」の枕詞にすら用ひられて居るから、強ひて葉〔右△〕と改めるにも及ぶまい。
參照 ヤマスゲ
 
(4485)(4486)
 
(4487)
參照 タハ
 
(4488)
 
(4489)
參照 ヌバタマ〔枕〕
 
(4490)
 
(4491)
參照 スガハラ〔地〕
 
(4492)
 
(4493)
(一)多麻能乎
(一)新考に乎〔右△〕を等〔右○〕の誤としてタマノト即ち玉の音の意とし「ユラグはもと玉の鳴るを云ひしが、うつりて搖くこととなれるにて、ユラグといひてタマノ緒とはいふべからず」と説いたのは恐らくは記の誓の段に見ゆる奴那登母母由良を紀に瓊音※[王+倉]々と譯したことを根據とするものであらうが、甚しい誤解である。記の三貴子出生の條下には其頸珠の〔右○〕緒もモユラに取りユラ〔二字右○〕ガシとあり、ユラグものは玉の緒で、誓の段のヌナトも瓊音の意ではない。――語誌參照――ユラグのユラはユリ(搖)と同語で、ナヰユリ(地震)の如くも用意ひられ、舊辭本紀にも天神御祖の教として「フルヘ、ユラユラ〔四字右○〕とフルヘ」とある。ユラに活用語尾グが接着したことの故を以て「玉の緒ユラグとはいひ得ず」とする論理はいかに讓歩しても成立せぬ。思ひ違は誰もあることであるが、之は雅澄がユラグとユラクとは別義の語ユラクは玉の鳴りひびく意なりとした邪説に迷はされたもかの思ふから、世を誤らんことを恐れて一言するのである。
參照 ヌナトモモユラニ
 
(4494)
(一)七日
(一)白馬《アヲウマ》節會をいふ
 
(4495)
(一)木之樹間
(一)樹間はコマともよみ得るが、恐らくは當時はクマと發音したのであらう。隈の意のクマも亦|木間《クマ》から出たのである。
 
(4496)
 
(4497)
(一)麻世波〔二字右△〕
(一)世波〔二字右△〕は元暦校本以下諸本に左奴〔二字右○〕とあるを可とする。
 
(4498)
參照 ハシキヨシ、アロジ
 
(4499)
(一)和我勢故之
(一)舊訓ワガセコガとあるが、契冲説の如くセコシ〔右○〕と訓む方がよい。――語法要録参照。
 
(4500)(4501)(4502)(4503)
 
(4504)
參照 イヤヒケニ
 
(4505)
(一)都禰欲
(一)新考には都禰は都麻の誤であらうとある。或は然らむ。
 
(4506)
(一)多多志伎々美
(一)類聚集其他多くの本に多多志々伎美とあるを可とする。
參照 タカマト〔地〕
 
(4507)
(一)治部少輔今城
(一)元暦校本に大原〔二字右○〕今城眞人とあるを可とする。
 
(4508)(4509)
 
(4510)
(一)賣須良之
(一)此句は時格を誤つて居る。メスベカリシといふ意であらうが、之をメスラシといふことは出來ぬ。誤寫と推定すべき根據もないから語の誤用と見ざるを得ぬ〔新考〕。
 
(4511)
參照 シマ、アシビ
 
(4512)
參照 アシビ、コキレ
 
(4513)
 
(4514)
(一)由久左久佐
(一)ユクサクサは往く時、來る時の意である。――語法要録接尾語の項下參照。
 
(4515)(4516)
 
(895)附録 語法要録
 
〔896〜1023、略〕
 
(1024) 此語が常にハを濁るのは原語ハカリ(計)と區別する爲であらう。――次のダケも同樣である――口語ではバツカリ、バカシ、バツカシ、パチ、バチとも轉呼せられる。
 タケ(丈)といふ語もまたハカリ(量)と同じく丈量の意を以て「てゝらは膝ダケある着るものなり」〔醒醉笑〕の如く助語的に用ひられ、バカリがノミに轉用せられて以來、之に代つて標準即ちホド(程)の意を表示し、「勉強するダケ學問が進む」「近いダケよく聞える」の如く用ひられる。
 口語では又此ダケにシカといふ助語を添へて「一つダケシカない」「私ダケシカ知らぬ」の如く用ひることがある。此シカは助語ヨリとも連なり、或は單獨でも同じ意味を表示することがあるが、――例「小錢ヨリシカ持たぬ」「小錢シカ持たぬ」――恐らくはダケシカの畧で、シカ其ものに局限の意があるのではあるまい。土佐日記に「一文字をダニ知らぬものシカ足は十文字に踏みてぞ遊ぶ」とあるシカと同一用法で、原義は「其《シ》ガ」であらう。
ナド。 ナニゾの約である。ナニゾは不定の事物をさす語で、京畿地方では「ナンゾ欲しい」のやうに用ひる(關東では此場合ナニカ〔右○〕といふ)。助語のナドも同じ意味で、或る語(句)について「其他」「等」といふ意を表示し、或はわざとおぼめかしていふに用ひる。例
(枕草子)覺ある人の子供ナドは雜色ナドおりて馬の口ナドしてをかし、馬にナド乘りて
(川柳)釣れますかナドと文王そばへ寄り
「お茶ナドめしあがれ」のやうに用ひるナドはナリトモの約濁である。
               校正責任者 中川恭次郎
 
(1025)跋
 
 前篇語誌を起草し始めてから此篇の筆を擱くまでに正に二ケ年を要した。二十四ケ月七百三十日の月日は短いとはいへぬが、原稿の嵩は身長の二倍に達し、紙數一萬八千枚を算するから、一日の平均功程二十五枚になる勘定で、「遠くも來にけるかな」の感がある。此のやうに功を急ぐ必要はないのであるが、宿痾になやむ身であるから、何時執筆不能に陷るかも知れず、其が爲に刊行書肆に迷惑を及ぼすことがあつてはならぬといふ懸念から、一氣呵成に書き終へたのであつた。幸に健康上大なる障害もなく、不備を免かれぬことは勿論であるが、とにもかくにも完結を見たことは著者の欣幸とする所で、重荷をおろしたやうな氣もちがせられるのである。
 語誌篇は文案の記憶が散逸せぬ以前に書き上げたが故に此種の著作に免かれ難い重複矛盾を最少限度に止めることが出來たが、一萬二百有除の語(句)を收録したに拘はらず、尚之を漏したものも少くはない。例へばサヘキ(佐伯)の直アガノコ(阿俄能胡)の如きは草案には認めて置いたのであるが、つひに書き落とした。此等の誤脱は他日平安朝以降の語誌を續篇として公にする機會があつたら追補す(1026)るつもりである。
 又語誌篇中排列の噸序を誤まつた筒所が少くはない。ことに三二四頁オノゴロ島から次頁のオフシアマまでは三二八頁のオノガヲヲの次に入るべきもので、發行前に氣づいたけれども、既に訂正の機を逸し如何ともすることが出來なかつた。本書の如く植字に大なる技巧を要するものに在つては一部の改版は至難であるから、粗漏の罪を謝して宥免を請ふの外はないのである。
 當初の計畫は語誌篇のみであつたが、前篇の序文に述べたやうに、訓讀が正しくなければ語釋は無意義になり、語法を明にせねは訓讀を誤る虞が多いので、此二者を合はせて續篇として發表することにしたのである。古訓乃至先學の訓は尊重すべきこと勿論であるが、寸毫も誤なきものとする事は出來ぬ。否、萬葉集の如きは今日まで尚訓讀不能とせられて居る歌さへあるのであるから、之が改訂、補正を試みるのは決して冒涜ではなく、契冲、眞淵、宣長等の學匠も敢てしたやうに、寧ろ後學の義務である。さりながら之を決行するには單に可否の論ばかりではなく、碓乎たる學術的根據を有せねばならぬ。上代の言語思想が後代人に不可解なのは當然であるとして放置する事は決して學術に忠なる所以でないが、近代的思想と後世の言語とを以て古書を説かうとするのは更に甚しい妄擧である。或は個人哲學的空理論から出發し、或は自己の感觸にのみ訴へて理由なき改訓を試みるが如きは極めて危(1027)險なる獨斷といはねばならぬ。獨斷又は憶斷といふ語は往々他人の説を中傷するに惡用せられることがあるが、相當の論據があるものであれば、假令世の通説に反するものであつても、或は自己の所信と相違しても猥に獨斷呼ばりをすることは許されぬ。其論據を不當なりとするならば正々堂々と之を論破すべきで、口不v能v言然期々知2其不可1といふが如き論理は周昌のやうな不具者に限つて容認せられることである。
 著者が訓詁篇を執筆するに當り苦心したのも此點であつた。舊訓又は先學の訓は非理の極めて顯著なる場合の外、決して「不可」といふ一言を以て葬り去るべきものではなく、同意し得ざる場合には必ず其理由を擧示するを要し、著者の創見も亦其論據を盡さねばならぬのであるが、冗漫に流れず、議論に走らぬやうに簡明に記述するは至難の業であるから、技工的には語誌篇よりも遙に多くの勞を費した。平素尊敬私淑する先學の名を擧げ、若くは著書を掲げて其誤謬を指摘するのは私情に於ては忍びぬことであるが、簡約を期する爲にも、讀者の嚴正なる批判を仰ぐについても止むを得ぬことであつた。
 自説の論據も亦能ふ限り簡單に記述したが、語法論に亘るものは一々之を擧げることの煩を避け、卷末の語法要録中に一括して論ずることにした。此一篇は兩三年前世に公にした拙著「日本言語學」の(1028)要點を叙述の順序を變へ、若干の改修を施して讀み易いやうにしたもので、現行の文法書とは頗る説を異にする點もあるが、既に世の批判を問うて後、年を經たものであるから、少くとも一説として認められたものと信じ、詳論は省略した。著書が江湖に對つて特に留意を要望するのは動詞の諸形、就中時格活用と助語の用法とは古今頗る趣を異にするといふことで、之を無視して古典を讀むことは殆ど不可能というてもよいのである。
 歌詠に在つては語釋語法の外に風格情趣を考慮に入れて解讀せねばならぬ。從來之に關する準繩が示されなかつたので、往々句法、韻律、囃詞、枕詞の味等には無頓着に讀み下された嫌があるが、作者の本意に背くことはいふまでもない。例へば佐保河爾小驟千鳥夜三更〔三字右○〕而〔一一二四〕を「さ〔右○〕ほ川にさ〔右○〕わめく千鳥さ〔右○〕夜ふけて」と訓めば律調にも叶ひ、且頭韻の美をも發揮するのであるが、第三句をヨクダチテと訓しては意は通ずるけれども風格を損し、吟誦にも快くはない。又五七音の代りに四六調が用ひられたことは掩ふべからざる事實であるが、之に留意したものは少い。人麻呂の名歌「石見の海」〔一三一〕中に見える「渡津《ワタツ》の荒磯《アりソ》の上《ヘ》に」といふ句の如きすらワタツノ・アリソノウヘ〔二字右△〕ニと態々ウ音を加へ、四七音に訓して怪しとしなかつたのである。此ことについては別に一文を草して一括して論ずる必要があり、著者にも聊か準備はあるのであるが、今回の出版の間に合はなかつたから、心づいた限りよみ改(1029)めて簡單に其理由を註記した。詳しい議論は遠からず發表する拙著「歌學」中に述べる。
 私は舊訓乃至諸家の訓に少からぬ改訂を加へたけれども、決して三大古典を完全に讀破し得たりとするものではなく、且自説に誤なしと主張するものでもない。管見の及ばざる所のあることは勿論、世を欺く氣は少しもないが、若干の誤信は免かれぬ所であるから、世の識者、後の學者の指摘、訂正を切望する。此くして一歩一歩眞實に近いて行くことは斯界の爲に最も慶賀すべきで、本著の目的もここにあるのである。
 異説が紛出して古典の訓が定まらぬのは實に歎はしいことではあるが、之が統一は學問の發達に待つの外はない。世には或る妥協的な一定訓を設け、國民をして無批判に之に據らしめようと努力して居る人もあるやうであるが、明治初年以來の問題たる字音假字遣の統一すらも尚實現せぬのは學術的論究を忽にして俗論によつて決を執らうとしたからで、權威あるべき國語調査會の決定が一朝にして覆るといふやうな醜態をすら演じたのである。定訓設定を主張する人の眼から見たら、著者のやうに新に異説を提出するものゝあるのは迷惑な事でもあり、又苦々しくもあらうが、其人々がいふ定訓は決して價値のあるものではなく、非學術的統一は人心に加へる大なる壓制である。眞に正しい訓を得たいといふ意ならば少くとも萬葉集の歌を一つも殘らず讀み下し得るだけの研究を第一歩とする。
(1030) 本篇には檢出に便にする爲に索引を添へたらよからうといふ意見もあつたが、訓によつて出典を求める爲には語誌篇が略々其目的に適するから、更に之を添付することは屋上屋を架する嫌があり、字によつて訓又は出典を檢出する索引は必要ではあるが、漢字其ものゝ性質上、扁旁によるも劃數を以て引くにしても餘り便利なものではなく、文部省假字遣による字音索引は古典には不適當であり、舊假字遣は現代人には煩はしく、いづれにしても索引の目的には適はぬやうに思はれるので、他日の攷究に讓ることにした。ローマ字索引の如きは假字遣問題が解決した曉でなければ到底望まれぬことである。
 上述一萬八千枚の原稿は私に取つては思ひ出の多い大切なものであるから、適當な保存法を講じたいと考へて居た所、知己京都御影堂住職木本學樹師の斡旋により、木本學漸老師の快諾を得て、近江國伊香郡の名刹長祈山淨信寺(木本寺)の書庫に收藏せられたることになつたのは私としては本懷此上もないことである。
 終に臨みて本書について推薦、紹介又は批評の勞を執られた先輩同學諸氏の好意に對し篤く感謝の意を表する。いづれの學銃にも屬せぬ私は獨自の立場から忌憚なく所信を披?したので、或は忌諱に觸れはせぬかとの懸念をも有して居たのであるが、諸大家が斯學の發達の爲に寛容の襟度を示された(1031)ことは私の深く感銘する所である。
 
   昭和四年九月
                    於鵠沼 松岡靜雄
 
(1)  日本古語大辭典の序、紹介、推薦、批評 (【順位不同】)
 
           三上參次
 
 予と郷國を同じうせる友人松岡靜雄君は一の奇才である。君の長兄松岡鼎君の醫學に於ける、次兄井上通泰博士の眼科と歌學とに於ける、三兄柳田國男君の土俗學・民族學に於ける、令弟松岡映丘君の繪畫に於ける、孰れも第一流の大家である。一家兄弟此の如き人材揃ひはまことに稀有の例である。その中にありて、靜堆君は夙に海軍軍人となられ、大佐とまで昇進せられたが、病痾の爲めに致仕せられた時には、可惜人物を遺憾千萬だと思つたが、君は病を養ひながら、兼ねて深く研究して居られた南洋地方の言語・習俗等に關する書を著はされ、次いで日本言語學・日本古俗誌・播磨風土記物語・常陸風土記物語・ミクロネシア民族誌・カロリン語の研究等を公にして、いづれも識者の好評を博せられた。其の播磨風土記物語を出だされたるときには、予は之に序して、書名は物語として謙遜して居られるが、實は史學・考古學・言語學等の深邃なる研究の報告であると、敬服せるまゝを識したことである。續々として學術界にかかる好成續を擧げられるので、曩に海軍生活を罷められしときに、可惜と思つたのは誤りであつて、君の本領は、或はこの方面に在るのでは無からうかと考へるようになつた。今や、君が新たに公にせられたる日本古語大辭典を一閲するに及んで、彌よこの考を深くするのである。
 君は既に言語學の素養があり、南洋語の智織があり、史學・考古學・人類學・地理學等に造詣の深きものがある。之を基礎として、博く古典を渉獵して、?く我が古語・人名・地名等を捜り、之を解釋せられたるものが即ちこの日本古語大辭典である。近年國語の研究が甚だ盛んであつて、隨つて辭書の編纂せられたるものも尠くない。そは孰れも大なる努力の結果と認めらるべきものである。されども君のこの大辭典は、從來の辭典の型を(2)破つた一種獨創的のものである。古事記・日本紀・萬葉集等は勿論、奈良朝・平安朝の典籍に見はれたる言語を解釋し、其語源を詮索したものであつて、眞に言葉の研究である。また是等古典の集約的註釋書とも看做されて、かた/”\學者の參考とすべき奇書であると同時に、自己の研究に古典を引用せんとする一般學徒の爲めに、便利なる案内者となるものである。況んや、各方面に亘れる席汎なる智識に基いての言語の解釋は、人名・地名等の説明と相須つて、我々の祖先の信仰生活・社會生活・經濟生活等をも紙上に髣髴せしむるものがある。
 就中訓詁篇に於ける萬葉集の如きは、四千五百餘首のすべての原歌を掲げて、之に訓詁を加へ、從來の誤讀の個所をも突破せられたる手際の如きは、令兄井上博士の壘を摩せられたかの感がある。
 君は從來、我が國語は格・時・法の精緻微妙なる點に於て、インド、ゲルマン語に比較して優れるものあるに、國民が之を尊重せざるを慨いて居られるが、言靈の幸ふ國といふ古き言葉も、かゝる見地より論ぜられてこそ、彌有難味を覺える。又君は、昔、漢字が用ひられてから、人々、國語を知るよりも文字を知ることが當面の急であつたから、そこに國語に對する國民の觀念の誤りがある。その弊は今日に至つても依然として著るしい、須く文字と言葉とを區別して、國語の整理を圖るべきであると言つて居られるが、是等の用意も、この大辭書の所々に窺はれるように思ふ。そも/\學者が言葉の解釋をするに當つては、或は國語それ自身の分析説明を主とし、或はアイヌ語・朝鮮語・支那語・滿洲語、若くはそれより南方・西方の諸國語のうちに、同一語又は類似語を求めて説明する。それは當然の事である。然るにその方面の研究に没頭すると、どんな人でも、之に釣り込まれて、その方面の説明を主張し過ぎる傾があるようである、この陷穽には、殆んどすべての語源學者が足を踏み入れるように思はれる。或は全く穽に陷つてしまつて、出ることが出來ず、この學者にしてこの態度はと訝らしめる人さへある。如何に博識にして穩健なる松岡君といへども、此の種の疵瑕が絶えて無いとは思はれない。如何となれば、これはこの難事業に於ては、何人といへども免れることの出來ない困厄であるからである。是に於て、君は、この書を公にするは請ふ隗より始めよの自薦の類であつて、以て、完全なる標準辭典の出現するのを待つのであると、奥ゆかしく謙遜して居られる。彼れといひ此れといひ、予はこの書の公にせられるのを喜び、この(3)同郷の友人のために、又廣く學界のために、茲に推奨の言葉を敢てするのである。
 
           上田萬年
 
 明治廿年頃の事と思ふ、私は思師チヤンブレン氏の助手として、萬葉集語彙を集めたことがある。其の當時から、萬葉集以外の古典の上にある、總ての日本語彙を完全に集めたいと思つて居たが、此の仕事は、材料の蒐集から分類まで、自分で目を通さなければ承知が出來ぬのでつい今日までそのまゝになつて居た。然るに此度松岡君の日本古語大尉典が出版される事になり、刀江書院主から其の假綴本を見せていたゞいて、私は我事のやうに非常に嬉しく感じると同時に、松岡君の周到な用意と基礎的な取扱方に、滿腔の敬意を表する事である。昭和の御代の國語學界は、かゝる專門的辭書の出現によつて、一大光明を得たと申してよからう。猶、よけいな小言かは知らぬが、一寸書き添へておきたいのは、近頃だん/\と種々の學者が、種々の日本語起源論を出されるが、日本語の上で、先づ此の松岡君の研究を豫め讀破してから、出直してもらひたい事である。
 
           新村出
 
 多年の海洋生活より一轉して南洋の艮族言語の研究と日本の古言古俗の考察とに進出し、既に是等兩方面の業績少からぬ松岡靜雄氏は、いま日本古語大辭典を公刊し、曠古の大事業の完成に向つて一歩を履みすゝめられた。之に由て著者は、將來に對して、規範的見地よりすれば、皇國の標準語辭典の礎石を置いたもの、歴史的研究としては、日本の語原辭書の素材を供したものと云はれようが、また現代に即してなら、古典學的には、古語解釋の根抵を作つたもの、實用的には、國語の研究者教育者の指針を授けたものと稱することが出來よう。即ち此の辭書が日本の語史學上未曾有ともいふべき一大編著たることは多言を要しない。
 殊に語原の攷證に關して、精緻なる分析、犀利なる洞察、透徹せる識見、高邁なる論斷、恂に敬服に價するものがある。訓詁の採定、原語の分解、出典の引擧、先説の參照、異論の檢討、それぞれ要諦を得てをり、且つ古語中の固有要素と外來要素との識別判定も亦穩當に近い。尤も語原論などについて、著者の(4)所見と私一個の所見とは、相違せる場合も往々存するを免れないけれども、それはそれとして、私は向後自分の語原研究を進むるに當つて、此の書より受くべき稗益の決して少からざるべきことを豫め期待する。假りに著者獨創の新異なる見解から離れて見ても、此の辭典が、普く人々に種々の便益と啓發とを與へて、國語學界に貢獻する所甚だ大なるべきことは、何人も否むことが出來まいと思ふ。(昭和四年四月九日、東京にて、新村生)
 
           幣原坦
 
 日本古語大辭典の編纂は最も困難にして、又最も忍耐を要する事業である。然しながら、我が國語を完全にし、語義を明かにし、又國語の獨立的獻威を樹立する上には、多大の頁獻をなすべきことを期待せらる。
 從來多くは文字の事にのみ注意して、言語の事を閑却し、又たとひ言語の事に注意するとしても、寧ろ外國に通じて、我が國を閑却するやうな傾向があつた。隨つて、日本に有る言葉でありながら、それを使はないで、態々外國の言葉を用ふる人々も少くない。
 然らば、外國の言葉が尊くして、日本の言葉が卑しいのかといふと、斷じてさういふ道理はない。外國の言葉が豐富にして、日本の言葉が不完全なのかといふと、これまたさうでもないことは、昔から言靈のさきはふ國とまでいひならはして來てゐる。萬一不足を感ずるやうな場合がありとするならば、新にそれを我が言葉で工夫するまでのことである。それをしないで、唯漫に外國の言葉を使用するのは、これ國民の一の恥辱ともいふべきである。
 かやうな次第で、我が國語の淵源を尋ね、語義を明かにし、古今の連絡を諒解し、言語を純潔ならしめ、又それを豐富ならしめる爲めには、日本古語大辭典の如きものゝ完成は、實に有益であるといはねはならぬ。
 日本古語大辭典は、このやうな方面に貴重なる價値を有するのみならず、更に成句の説明をも試み、叉訓讀をも正すといふのであるから、言語以外の學問にも、大なる稗益を與へるであらう。自分はこの大辭典の編纂によつて、學界は勿論、その他種々の方面において、自覺と進歩とが、促がされることを推想して、慶賀するものである。
 
(5)          幸田露伴
 
 國語の尊重せねばならぬことは言ふまでもない。國語は吾人の生命であり系統であり歴史であり精神であり體?であり家であり邦である。
 然し言語は活體である、死物ではない、そこで原始のまゝに化石したやうに永存恒在するものではない。發達もする、變遷推移もする、進化もする、退化もする、外のものを同化もする内みづから分裂したり複合したり、抽出したり伸展したり、或は侵蝕、汚染、溷濁を、時間より蒙つたり風氣より被つたり、地方關係より受けたり、種々の因や縁より種々の相や果を生じて、あらゆる錯綜せる事情の下に、あらゆる應酬の作用を爲して、そして父母となつては兒孫を遺し、兒孫と遺されては又父母となつてゆくのが、言語其物の常である。いづくの國語も此の約束には漏れない。
 此の意味からして國語の本眞の姿を見ようといふ上からも、又國語の推移の迹を考へようといふ上からも、又國語に對して懷くべき深い/\尊重の情と敬愛の念とより其の本然的發達を望む上からも、又現在の國語に對して正當な解釋と判斷とを下さうとする上からも、我が國語の正系的源頭たる古語を見詰め見決める要のあることは自明の事である。
 自分も我が國語の檢討研究に就いて或企圖を懷いて居るが、今や松岡氏の此の古語大辭典を見て欣快の念に堪へぬのである。もとより書中の細部の一々に就いては見を異にすることも有らうが、其の多大の勞苦より成る網羅蒐集の豐富と、其の解釋批判が從來の學者の取つた?徑以外に出て居ることの多いのと、又普通には埒外に置かれた固有名詞を包含しての檢覈とは、自分をして手を額にし眉を揚げて其の欣慶の情を露はすを敢てせしむるに足るものである。
 不快にも今日は國語を溷濁と混亂とに導かんとする風氣が動いて居る。此時に當り此書の成つたことは、特に又或意義の冥冥の中に萠してゐることを思はせる。これも又一快心の事である。
 
           坪井九馬三
 
 本邦に於ても學術は明治年間に至り進歩の氣運に向ひ百般の(6)學科は新規の機軸を出だして古來未踏の境地を拓いたが獨り國語學のみは此の氣運に觸れず世界文化の刺戟を被らず契冲宣長の舊態を守り其の範疇を脱する能はず其研究法を轉ずる能はず他の諸學科が日進する波動の裏に獨り靜寂を樂み徒に歳月を經たれば今に及びて甚しき落伍を示す姿である。國語の先覺松岡靜雄君は夙に一般國語家が其の專攻の學科に精進する氣力を缺くを慨きドイツ流の近世エウロパ語言語學を參考するも國語の研究にはさしたる補益なかるべきを洞見して國語研究の爲に獨特の方鍼を立て頃日日本古語大辭典の纂述を計畫し書林刀江書院其公刊を擔任したれば此の書は世に出でんとす。松岡君は嚮きにマリアナ、マアシアル、カロリナの如き僻遠なる新版圖の方言をさへ國語の範疇に收めて研究せられ尚ほ進んでインドネシア、前インド各地の方言を參照せられんとする道程にあり。抑も千年後の今語に基きて千年以上も昔の古語を遡りて學術上に研究せんとするは至難の業である。此業を遂行せんとするには種々の準備を要するが取り敢へず先づ以て行ふべきは國内の各地に殘存する諸方言の調査である次では神代の太古より奈良朝時代の頃に至るまで海を隔てたりとは申しながら隣接の位置にある諸國より内地に移住したるべき同系又は異系の諸國語の比較調査である。然に契冲宣長等の諸先輩は此の二種の調査を行ふ素養もなければ便宜もなく只古書を讀みて自己一流の狹隘なる見解を下すより他に研究の途なかりしなり。されば今日より觀て維新前の先輩の學説にいかゞにや思はるゝ臆斷ありたりとて妄に之れを怪むべきに非ず。明治昭和の國語家が依然として舊説を遵奉し子弟に授くるを見るとするもあながち之を咎むべきに非ず明治昭和の國語學は實質に於て元禄寛政の國語學と異なるところがないからである。今や世界文化の刺戟の裏に人知れず靜に研鑽を遂げられたる松岡君は其の底蘊を盡して日本古語大辭典を纂述し之れを刀江書院に託して世に公にせらる。元禄以來おどみ固りたる國語家の陋説は之れに由りて消散すべく諸科學に追隨する活氣なき今日の國語學も之れに由りて幾許か元氣を養成するを得ん歟。日本古語大辭典の出づるを喜ぶのあまり一言を述ぶること斯の如し。
 
          金澤庄三郎
 
 我國語の語原に關する著述といへば、古今を通じて、兎角獨斷の弊に陷り易く、牽強附會の譏を免れるものは殆んどないと(7)いつてもよい。これは我國にまだ比較言語學といふものが發達してゐないで、同一系統の言語が組織的に調査せられてをらぬといふことが、主なる原因であるといはねばならぬ。それ故、語原辭書として多少とも信頼すべきものゝ出現は、まだ/\遠き未來のことであらうと考へてをつた。私自身も、年來アイヌ・朝鮮を始とし、滿蒙などの諸語の研究に没頭してゐながらも、語原辭書としては、漸く倭名抄を底本として上記の諸語との比較探究を試みてゐるに過ぎない。しかも其公表までにはまだ兩三年を費さねばならぬといふ程度のものである。然るに、今日松岡氏の力作「日本古語大辭典」の出版を見て、私の豫想が全く裏切られたことを、我學界のために深く喜ばざるを得ないのである。氏と私とは我國民族の起原などに就ては必ずしも説を同じうしてゐないやうであるにも關らす、氏の語誌中の所説に往々私見と符を合するが如きもの――例へば童《おぐな》と翁《おきな》とを對立せしめたことや、伊弉諾、伊弉册二尊の御名義をイザノアギ、イザノアミ〔十字傍線〕と解してあるなど――のあるのを見て、私は其研究の眞摯にして態度の中正なることを感ぜずにはゐられない。もとよりこの種の著作に於て全部意見の合致するといふことは到底望み得られぬところで、私の見解と異なる簡處の多いことは勿論であるが、私は本書を以て近來稀に見る名著であつてこれを我學界の一大收穫なりと斷言して憚らないものである。
 
          藤村作
 
 日本の古語を知ることは、日本國語の眞の相を知り、現代日本語の眞の理解の爲に必要なことである。又日本の古典を讀む爲に、隨つて日本人我々の自身を知る爲に必要なことである。古語の研究をば死語の無益な好事的な閑事業と解するのは、甚だしい短見であるといはねばならぬ。今松岡靜雄君獨力を以て日本古語大辭典を編纂された。その勞、その功誠に稱すべく、嘉すべきである。
 思ふに、漢字を用ひて記録する我が國語に在つては、辭書と共に字書の必要がある。本書が「語誌」篇と共に「訓詁」篇を有する所以はこゝに在る。
 古語を解することは容易ならぬ難事である。如何なる人がなしても、釋に訓に多少の獨斷は到底免るべからざる所である。よしそれが獨斷であつても、全體の考察、推斷にして眞摯な學者的態度を有する以上、尊敬すべき獨斷であるといへよう。本(8)書が一般に有益であることは言ふまでもなく、專門學徒の爲にも幾多の斷定と、暗示と、問題とを與ふることも疑なきことと信ずる。
 
          松井簡治
 
 今回松岡氏の日本古語大辭典が發刊された。氏は曩に日本言語學・日本古俗誌・常陸、播磨兩國の風土記物語等諸種の書を著はされて、既に世に好評があり、今亦此の辭典を編纂されたのである。
 此の書の特色は普通の語彙ばかりでなく、人名、地名等の固有名詞をも擧げ、氏獨特の見解を以つて語源に遡り親切に説明されたものである。尚別に古典の訓詁及語法要録が續刊されたことは古典研究者にとつての福音であつて座右に缺くべからざるものであらう。
 辭書の編纂は實際に從事したものでなければ、其の苦心の程は解らない。自分も其の事に多少經驗があるから、此著に對して深い同情をもつて敬意を表するのである。
 
          山田孝雄
 
 松岡靜雄氏の日本古語大群典成りて意見を徴せらる。余、松岡氏と面識なし。然れども夙くその著を通じて尊敬すべき學者なりと思へり。面識の有無を以て遽に辭すべからざるなり。
 抑も本書の如きは精到なる學織と多大の刻苦とを要するものにして、何人も之を企て何人も之を成しうべしといふ性質のものにあらざるなり。余は先づ之をわが學界に得たることを慶賀せむとす。本書を閲するに普通の語はもとより神名、人名、地名等に及びて、古典にあらはれたる語を網羅して、一々著者の研究の結果を記載したるものにして、世に所謂辭典と稍性質を異にし寧ろ辭典の形式に整頓せられたる研究録といふべきものなるべし。この故に、その著作の勞苦は尋常の辭典の比にあらざるなり。
 余は茲に再びいはむとす。余は實に國家の爲にこの不急の書を得たること慶賀するものなり。余は敢へて本書を不急の書といふ。今の所謂思想の善導思導に狂奔する徒にとりては眞に不急といはざるべからざるを以てなり。されど、かゝる不急の書の著述に歿頭する著者と、かゝる不急の書を刊行する書肆とを有することはわが國家の健康を證するものとしてこの點よりしても慶賀すべきものたりといふなり。
 余は敢へて本書を不急の書といへり。不急の書たることは一面に於いて永遠の生命を有するを語るものたり。本書は上にいへる如く、著者の研究録たれば、そのある部分につきては世の賛否さま/”\なるべし。然れども、著者以前に何人かこの事を企てし、又何人か著者以前にこの事を成したりし。この點に於いて本書はわが古典研究に、はた古代研究の爲に投ぜし一大炬火といふべきなり。これ余が敢へて本書の推薦を辭せざる所以なり。
 
          吉澤義則
 
 曩に日本言語學を著はして國語研究上に獨自の見地を建設せられた松岡靜雄氏は、今また語源探求に基礎をおいて日本古語大辭典を著はして、多年の蘊蓄を公表せられた。
 本書は語誌、訓詁の二篇より成り、別に附録として語法要録一篇を添へ、記・紀・萬葉・風土記以下日本靈異記に至る諸書の中から難解又は未解決の語句を殆ど收録し盡して、それに忠實な釋義と攷證とを加へたもので、あらゆる新知誠を應用した著者獨特の新見解と新提言とに充ちた良書である。
 勿論「はた」は「また」と同根の言葉であるかも知れぬ。が、普通説かれてゐるやうに「また」「または」「或は」といふのではなく、別に特異の意味に於て用ひられてゐたやうに思はれるし、また「いつしか」といふ言葉は「いつか」といふ言葉と同じやうに説かれてゐるのが常ではあるが、王朝時代にはさうは用ひられてゐなかつたやうであるし、萬葉時代にも、同斷であつたらしいのであるから、それらに就いても考ふべきものがあるのでは無かつたか、と思はれるといふやうな些少な望蜀感の一二が無いではないけれども、著者もいつてゐられるやうに、學界の現状では、遺憾ながらその解決に完全を望むべき時機に至つてゐない今日にあつて、一人の力を以てして、かくまでに成果を收められたといふことは寧ろ不可思議とさへ思はれるのである。
 この頃、助辭の「だに」「すら」の用例研究を學生に課したのであるが、何れも、期せずして、その語源を考へることによつて、最後の斷案を求めようとしてゐるといふ事實を見た。語源(10)探求といふことは、國語を徹底的に理解しようとする者の必ず趨かざる可からざる境地のやうである。國語を徹底的に理解することは國語愛着の念を燃えしめる所以である。國語愛着心は國民親和の力を強める所以である。國語教育の重大視せられる所以もまたこゝにあるのであつて、國語の教育は、諸外國語のそれのやうに思想交換の一具として授けられるのが、終局の目的では無いのである。
 本書は學者や教育家が精讀しなければならないものであることは言ふまでもないが、また如上の意味に於て、この一本を弘く國民一般の座右に奨めて、以て國語を徹底的に會得せしめたいと思ふのは自分一人ではあるまい。
 
          米田庄太郎
 
 開國以來數十年間、現代世界文化を吸收して、我國民文化を眞に世界的國民文化として發展させる、最とも有効なる一手段として、我國民は今日まで歐米の諸國語を學ぶ爲めに、實に多大な勞力を費やして來た。そうして同じ目的の爲めに、今日も亦今後もヤハリ歐米諸國の國語の學修を怠つてはならない。併し今や我國民は世界的一文化國民として、世界女化に積極的に貢獻す可き時機に達して居る。そうして此の新しき目的を實現する爲めには、吾人はよく我國民精神の本質、我國民性格の特性を意識せねばならない。然るに之を十分明確に意識するには、國語の研究は最とも有效なる一手段である。
 此際國語研究に於て、我が松岡氏の如き稀代な篤學者の現はれたことは、我國民發展の新機運の一象徴として、余は之れに多大の興味を感じ、又同氏の勞に對して大に感謝するのである。同氏はさきに「日本言語學」を公にして、國語研究上幾多の卓越せる創見を發表されたが、今や更に進んで、畢世の大事業として、「日本古語大辭典」を編纂し刊行されんとするを、發行者刀江書院主尾高氏より聞知し、同書大成の上は、我古語の研究に、更に我國民精神、我國民性格の淵源の闡明に、貢獻する處甚だ多大なるを確信して、余は松岡氏に深甚な敬意を表すると同時に、同氏の健康と成功を希願するのである。
 
          濱田青陵
 
 言語は生命を有し、發達變化すると共に、古代語は過去の遺(11)物として、一種の考古學的資料と云ふことが出來る。私共は言語の學に全く門外漢である丈けそれ丈け、斯の如き古代語辭典の出現に由つて利益することが大である。世間が若し從來考古學者が其の研究に、古代語を資料として使用することに充分でなかつたと我々を責めるならば、斯の如き辭典の出現が其の道の學者に由つて早くなされなかつたことが一因であると、遁辭を設けることが出來たのであるが、今後は之を許されなくなつたとも云へやう。
 
          高野辰之
 
 わが古典の普通品詞以外に、人名神名地名や成句までも收めてある此の日本古語大辭典は甚だ以て實用に合ふ。實用に合ふ辭典は、とかく在り來りの説の取合せに終始するのであるが、此の書には堂々と自説を述べてあつて、それが創見に富んでゐる。創見は、とかく奇矯に走りたがるが、此の書のは正確妥當のやうに見受ける。
 此の書が現代辭典界に於ける地位に關しては、辭典に苦勞された諸家から批判と推薦とがあるべきを思ひ、私は歌謠舞技音樂といつたやうな方面から見て、大いに研究上の授助を蒙り得ることを叫ぶ。敢て記紀萬葉の訓詁註解の書が堆高い量を有してゐるが爲に、かういふのでない。神樂や催馬樂の歌にしても、分厚な註釋書になつてゐる。其の幾十册を机邊に並べたり積んだりする煩しさは、此の特殊辭典によつて一掃されるのである。之を思ふと、推薦どころか感謝の意を表したい。
 
          津田左右吉
 
 言語の學について何の知識をも有たない僕には、此の書に對して云爲すべき資格は、全然、無い。たゞ僕のいひ得るところは、古典を研究し又は取扱ふ場合に此の上も無く便利な書物であるといふ一事である。此の書を座右に備へることによつて、どれだけか檢索の勞を省かれ、どれだけか比較對照の便が與へられ、どれだけか考察の手かゞりが得られることであらう。よし此の書の解釋に於いて同意しかねる點を發見する人であつても、このことには毫しの異論があるまい。僕の如きは、まつさきに此の書を利用して、著者が苦心の賜を享受しようとする一人である。
 
(12)         島崎藤村
 
 自分はこれまで人のもとめによつて推薦の言葉を述べたことがない。その自分が進んで松岡氏の新著のために、僅かの言葉をこゝに書き添へようとするのも、この書の著者に對する深い感謝の念からである。
 言葉の研究は我國に於いては最も惠まれなかつた學問の一つであるし著者はその見地から出發して、古語の研究が現代生活と直接の交渉がないと考へるものがあるならばそれこそ大なる誤であるとの結論に達した。『日本古語大辭典』は單なる辭典でもなく、語誌でもない。この書の中にあふるゝものは好學探求の新精神である。著者はその光景を私達に指摘して見せて呉れた世にも稀な篤學の人だ。假令この書の中には幾多の宿題として殘さるべきものがあるとしても、私達はこれほど大きな仕事をした著者に對して感謝しなくてはならぬ。
 
          窪田空穗
 
 從來「古語」に封する解釋書は幾種類も出版されたが、凡て一長一短の譏をまぬかれず、その道の者をして隔靴掻痒の感を抱かせて居たが、こゝに古代研究の造詣研讃深き松岡氏の日本古語大辭典を得て從來の不備が一掃され、後學に益する事の多大なるを信じ誠に喜びに堪えない。
 
          保科孝一
 
 我國體の精華を發揮し、國民的精神の養成を達成するに當り、古典の研究より急要なるものはない。古典の研究を閑却して國民思想の善導を期するがごとき、おそらく水中に畫くに類するものであらう。わが古典の研究はもとより決して容易な業でない。徳川時代に至りて國學大に興起し、訓詁の學にわかに發達して來たので、はじめて記紀萬葉祝詞宣命風土記等を通誦することが出來るようになつたものの、あまねく訓詁に關する典籍を集めてふかくこれを改究することは常人のきわめて困難とするところで、今日古典の學の振わないのもあながち無理とはいえない。しかしながらもし古典に關する一大辭典を編述してこれをひろく世に頒つことが出來たならば、如上の困難を救うことがかならずしも難しとしないのである。
(13) 今日わが古典を研究するに當り、數多の註釋等を集めて比較參照するの勞苦は實に大なるものであり、しかもその間當を得ない訓詁や正しからざる語釋に誤まられる恐があるのみならず、語學上低級な常識によつて獨斷に陷るような禍も少なくないのであるが、もし古典に關する一大辭典が出現すればはじめてこの疾患から免れることが出來るのである。
 古來わが國においては各種の辭典があらわれて居るが、古典の研究を目的として編述されたものはまつたくない。しかるにこのたび松岡靜雄君が古典の研究を目的として編述した日本古語大辭典を公にせられるに至つたことは實に學界の一大慶事であつて、かねて古典の研究に志ある人に取りてはまさに暗夜の燈火より以上の福音であると信ずる。
 本辭典は正續二卷より成り、正編は語誌篇、續編は訓詁篇であるが、その語誌篇に採取された語數は約一萬二百餘で記紀萬葉・祝詞宣命・風土記・神樂・催馬樂等の古典から取集めたものである。採録の語には神名・人名・地名等まであまねくこれに網羅し、これに語訓・原語・語義・釋明・出典および考證の數項を設けて、説明を與へ、その訓詁篇には記紀萬葉等の訓詁を掲げもつぱら先哲の解明釋義を紹介してゐる。
 以上に於ける、本辭典の大綱を見るに、普通一般の辭書においては語義を簡潔に説明し、これに多少の出典を掲げ、一とうりの理解を與へるに過ぎないから、その語義に對して各種の異説の存するもののごときこれを檢討攻究するに由ないのであるが、本辭典では語の構成を研究してその原語原義を明にし、さらに進んで轉義轉用を詳にしてこれに對する正當な理解を與へようと努め、尚その間先哲の訓釋にして異説の存するもの、あるいはその當を得ないと認められるものがあれば、比較檢討して嚴正な批判を與へ、これに改訂を加えて居るから、語義に對する理解とともに語學上の識見を養ふことが出來るのである。もちろんわが國に於ける語原論は今尚すこぶる幼稚で、語學的の研究が未だ十分に進んで居ないからやゝもすれば私見臆測の獨斷に陷り易い傾きがあるが、それは今日のところけだし止を得ないことであらう。
 本辭典は古語に對する一とうりの理解を與へるのが目的でなく、むしろこれを批判的に研究考慮せしめようとして居るところに著者の一大苦心が潜み、本辭典の一大特色が存するのである。ただしいさゝか望蜀の嫌はあるが、出典をもう少しく豐富に採録せられたならばいよ/\以て至寶たるに至るであらう。(14)たとへば「オクツキ」のごとき萬葉その他における用例をあまねく提示せられたならば研究者に取つて一層便利なものになることは言うまでもない。本辭典はすでに語誌篇だけで千四百有餘ペ―ジの大卷であるからあまねく出典を掲げることはあるひは無理な要望であるかも知れないがしかしこの種の辭典としては是非これを實現せられんことをあへて希望する。
 著者松岡君は身を海軍に起し、後職を退いて日蘭親交事業に從事されたのであるが、その間國語の研究に心を潜め、さきに日本言語學を著わし、斬新にして卓絶せる識見によてこの道の學者に一大刺戟を與えられ、あるいは日本文法についても、傳統的な舊來の定型を打破して著者獨自の創説を發表せられたるがごとき、われ/\の深く多とするところである。きくならく著者近來ひさしく病床にあり、しかもその間たえす病苦と戰いつゝ一日片時も無爲に居ることなく、先進の未だ企て及ばざる本辭典のごとき空前の一大事業を完成せられるに至つたことは、まつたく著者不斷の努力と不屈の精神の致すところでまことに敬服に堪えない。
 
          小倉進平
 
 松岡靜雄氏はもと海軍々人であり、夙に南洋方面の言語土俗の研究に没頭し、ミクロネシア族カロリン語に關する著作あり、又日本の言語、習俗の領域に犂鋤を入れて『日本言語學』『日本古俗誌』常陸、播磨兩風土記物語その他の大著を公にせられたことは世人のあまねく知る所であらう。その矢つぎ早なる發表、しかも毫も世のいはゆる賣文の徒の類にあらず、材料の蒐集豐富にして組織の上に統制あり、言々こと/”\く透徹せる識見の發露にあらざるなく一たびこれ等の書をひもとく者をして正に澄泉より滾々として湧き出づる清冽なる流水をくむの思ひあらしめる。今回公刊せられた『日本古語大辭典』の如きもその盡きざる流れの一飛沫と見るをうべく氏の底の知れぬ蘊蓄の程も察せられて傾慕の念やみ難いものがある。近時國語の研究が盛んになつて來て、各種の辭書が編纂せられるが、本書の如きはそれ等と餘程おもむきをことにするものであつて、古事記、日本書紀、萬葉集、各種風土記その他奈良朝平安朝の典籍にあらはれた普通名詞は勿論神名、人名、地名等に至るまで(15)これを採録し廣く先學の意見をも參照してその構成、原語、原義につき著者一流の犀利なる攷證と力強き論斷とを加へられたものであり、我國語學にはたまた文獻擧上最も價値ある勞作の一たりといふを失はぬ。そのうち語原に關する部分は學者によりなほ異論は多からうが著者の最も精力を注ぎかつ最も自信の存する部分と稱することが出來よう。著者は序説において國語研究の方法につき論じてをられるがそのうちに、我國にありては漢字傳來以來、世間は言葉を研究するよりも文字を知ることが當面の急となり文字を學べば言葉は自ら判るといふ誤つた考へが國民の頭に植つけられ、それが今日の國語教育にもわざはひしてゐる。語原を説くに當つても、漢字に捕へられた解釋乃至從來の反切延約、音義説に偏し過ぎた説は無條件に受入れることが出來ぬといふ意味のことを述べられて居る。これは耳新らしい意見のやうにも聞えるが、寧ろ當然の理論である。自分も常に考へて居る。凡そ漢字を使用する東洋の諸言語、殊に日本語、朝鮮語等の語原を檢討するに當つては漢字といふものから全然絶縁して考察する必要があると。言葉は精神であり、肉體である文字は着物であり装飾である。着物や装飾が同一であるからといつて直にこれを同一物とするのは誤りである。記紀萬葉等の古典を、それにあてはめた漢字にのみ意味あるものゝやうに考へて解釋を施すのは一種の迷ひである。日本語の語原を論ずるに當つてはすべからく漢字といふ着物を脱ぎ棄てゝかからぬばならぬ。國語なるものを赤裸々にして客觀的に冷靜に見直す必要があるのである。かくしてうつはぎにせられた日本語なるものが、その結果において、いづれかの卑俗なる言語と關係を持つに至らうとも、それは最初から覺悟せねばならぬ事なのである。國語の語原を國語内においてのみ求めようとするのは、たしかに從來の國學一點ばかりの學者の通弊であつたといはねばならぬ。著者が本書の語原を説くに當たり、南洋語、朝鮮語、アイヌ語をも廣く參取したのは、著者が平素抱懷せらるゝ學問上の主義を實現せられたものといふことが出來よう。
 國語々原の詮索は難事中の難事である。到底一ケ人の力を以て一朝一夕に片つけうべき性質のものでないことは著者も自ら告白せられて居る所である。にも拘らず著者は多年の研究を傾注して本書内において幾多の語原の新解釋を試みられた。國語を以て試みられた解釋中には、從來の學説にとらはれざる著者獨特の創見も少からす存して居るやうであるが、近來その方面の研究に遠ざかつて居る自分は、敢てそれ等に對する批評がま(16)しい事を述べる事を遠慮する。唯自分は朝鮮在住のゆえをもつて朝鮮語關係の部を通覽する義務を有するものゝ如く感ぜられた。よつて一わたりその部をひろひ讀みしたが著者はその方面においても幾多の新開拓を試みられて居ることを發見した。ここにその若干の例を擧げるならば『あぎ』(小兒)『あに』(豈)『あや』(漢)『ありなれ河』『いを』(魚)『かさ』(笠)『から』(韓唐)『き』(寸)『こほり』(郡)『そしもり』(曾尸茂理)『たひ』(鯛)『てら』(寺)『ぬま』(沼)『はた』『はたけ』(瘢)『むれ』(山)『むろ』(窖室)『わた』(海)等の語を朝鮮語と關係させて説くことは、從來もしば/\學者によつて唱へられた所であつて(著者とすべてが意見を同じうする譯ではないやうだが)敢て珍しいとも思はれぬが『あみ』(女性の尊稱)は※[ハングルでアミ](母)と『おみ』(使主)『は』※[ハングルでイム](敬稱)と『おりかも』(※[榻の旁+毛]※[登+毛])は※[ハングルでオッカム](布の材料たる毛)と、『かち』(歩)は※[ハングルでカダ](行く)と、『かむなび』(神名備)は神の※[ハングルでメ](山)又は神の※[ハングルでナム](木)と、『くだら』(百濟)は『樂浪』の韓音と、『さ』(間)は※[ハングルでセ]、※[ハングルでサイ](間)と。『し』(食)は※[ハングルでsの子音](飼の音)と、『ひ』(水、氷)は※[ハングルでピ](雨水)と、『ひたひ』(額)は※[ハングルでミッ](櫛)と、藤浪の『なみ』(浪)は※[ハングルでナム](木)と、『みさを』(風聲)は※[ハングルでミソン](微聲)と、『もだ』(黙)は※[ハングルでモッ](打消の語分子)と、『もとな』(本名)は※[ハングルでモンナ](愚)と、『よぼろ』(丁)は※[ハングルでヨボ](呼びかけの語)と、『をさ』(譯語)は※[ハングルでオサ](語師)と關係ありとせるなど、中には賛同しかねるものもあるけれども、未だ先人の説きおよばなかつた所に斧鉞を加へられたものもある。又本書に載せられて居る語の中『うし』(牛)、『かぶと』(冑)『かもめ』(鴎)、『くも』(雲)、『しま』(島)、『たく』(拷)、『なべ』(堝鳥)の如き語は從來可なり一般的に朝鮮語と關係あるものと考へられてゐるが、著者がその旨を何等註記せられなかつたのはその説をとらぬといふことを漏らされて居るものと見てよからうか。
 余は目下のところ日鮮兩語の比較といふことを研究の直接對象とはしてをらぬ。しかしながらその研究の道程において兩語の間にいちじるしき類似の存することを發見することが、しばしばある。著者が本書に採録し、國語を以て語原を説けるものの中にも朝鮮語と共通ではあるまいかと思はれるものが時々發見される。たとへば『あふひ』(葵)は朝鮮語※[ハングルでアユク]又は※[ハングルでアモッ](方言)と、『なつな』(薺)は※[ハングルでナイ]、※[ハングルでナシ]と關係が存しないか又『おそひ』(衣)なる語は※[ハングルでオッ]、※[ハングルでウッテ](何れも『衣』の義、後者は主として北鮮地方に行はる)と關係あり、更に滿洲語etuku、(17)aduにも餘脈をひいてゐるやうであり又『みづち』(※[虫+糺の旁]、蛟)なる語の『みづ』は朝鮮語※[ハングルでミリ]、※[ハングルでミル](龍、辰)に當たり更に滿洲語のmu dui(穆都哩、龍、辰)にも血縁をひいてゐるやうにも考へられる。又著者は『さちや』『さつや』(獵矢)『さつを』(獵男)における『さち』の原義をサ(刺)チ(靈)とし『そや』(征箭)の原義を直箭とせられてゐるが、これ等の語にある『さち』『さつ』『そ』等は朝鮮語※[ハングルでサル](矢)に當たるものと解せられまいか。『さつや〔右・〕』『そや〔右・〕』の『や〔右・〕』は、本來『矢』を意味する『さつ』『そ』更に國語の『や』(矢)が添加せられたものではなからうか。こんな種類の語原の詮索を夏の日長にやつてをつたら、何時埒が明きさうにも見えない。
 こゝについでながら述べさせて貰ひたいことは、言語の比較研究は言語の歴史を稽へ、その時代を考慮の中に置かねはならぬことである。從來の日鮮語比較研究論の多くは、かゝる方面の用意が足らず、やゝもすれば思ひつき主義、御都合主義に傾いた弊がある。今後研究法としては是非ともグリムその他が印歐語乃至ゲルマン語において試みた如き音韻變化の法則の如きものが確立せられねばならぬと信ずる。朝鮮字音の頭にあるハ行音は國語字音では力行音になるとか朝鮮字音の末尾にあるグ音は國字音ではウ音で現れるなどいふのは一つの音韻法則に相違はないがかゝる種類の規則が隱れたるものとしてなほ存在しないからこれ等を十分究めねばなるまい。今その假説の一例を擧げるならば朝鮮字音の頭にあるチヤ行音はいふまでもなく日本字音では大體に於てサ行音であらはれる即(ち)『作』(※[ハングルでチャク])は『サク』、『子』(ハングルでチャ)は『シ』、『全』(※[ハングルでチョン])は『ゼン』、『眞』(ハングルでチン)は(シン)となるが如きこれである。この音現象は字音についてのみならず、一般の語の現象にもそのまゝ適用せられないだらうか。日本語『さし』(城)、『さる』(猿)なる語の語原に關しては兎角の論があらうが、余はチヤ行の頭音を有する朝鮮語※[ハングルでチャッ](城)、※[ハングルでチャッ](猿)と源を同じうするものと考へる。『さし』は『草羅城』『己叱己利城』『避城』など三韓の地名においてのみ用ひられるのを見ても、著者の意見の如く朝鮮語となすを至當とするが、猿の語原を『サアリ』(然有り)の約とせられたるは如何にも苦しい説明法と評せねばならぬ。余は※[ハングルでチャッ]と猿との間に直接の語原的關係が存することを認めんとする者である。たゞこの際朝鮮語※[ハングルでチャッ]の語尾にあるSの音が、日本語にて『サル』の如くラ行音であらはれるのを疑ふ人があるかも知れぬが、これまた兩語の上に存する末音の規則とでも稱すべきものにより十(18)分説明せられるやうに思ふ。
 要するに本書のもたらす使命は我國語の語原學の方面のみならず廣く文獻上國語教育上にもおよんで居て、その範圍頗る廣汎である從つて以上余の試みた紹介妄評は未だ以て價値ある本書の全局を察するに足るものではない事はいふまでもない。しかも余が敢てこゝに禿筆を執つて一部の妄評を試みた所以は著者の勇邁なる學究的態度に深甚なる敬意を表するが爲である。今後の國語學界はますます多事である余は本書が斯界に貢獻する所頗る多かるべきを信ずると共に、著者がます/\自重自愛この方面の開拓に精進せられんことを希望するものである。
 
          藤田元春
 
 我國の古代、漢字渡來以前、既に言靈の幸はふ國と我等の祖先が自讃したゞけあつて、豐富にして婉曲典雅な大和言葉なるものが大成されてゐた。しかしさうした古語は永い間言ひつぎ語り傳へられたのであつたから、口から耳へ移つてゆく間にいろ/\變化もすれば、或は全く忘れられたのも出來たけれどもその轉訛變遷の間には、自から音韻學上の約束もしくは語法上の習慣が出來て、今日にして猶過去の言葉を用ひる場合が多い。就中地名として或土地に一つの名が與へられるといふ場合には、その定着性は著しいものであつて容易に遷らないものである。面白いことには多くのさうした地名には、その名のついた原因を語るものである。
 例令ば上古の御名代、王朝の郷、里、中世の莊、保、名等をはじめ國府、別府、新田、何條、何里、一の宮、西の宮、二日町、四日市、さては天下茶屋、三軒屋、八軒屋などいふ地名が永存し、それが直ちに過去に存在した聚落の構成要素乃至はその部落の職分迄をも告ぐるもあれば、安曇、海部、犬山、鳥飼などの如く、古代の一民族の分布もしくは職業の差異などを現はすものもあり、同地名の分布によつて民族移動の跡を證すること洛北の出雲路、播磨のシラクニ、大阪の百濟の如きものがある。これ又數へ來れば限りがないと思はれる。
 茲に於てか人文地理學に於ては地名の研究は重要な一部門を形成する。しかし不幸にして今日迄にさうした方面の研究に手をつけるものが少いのは、實は材料の蒐集が容易でなかつたためでもあるが同時に我國の古語が十分に闡明されてゐなかつた結果でもある。近頃になつて栗里先生の郷名同唱考や、柳田國(19)男氏の地名の研究(地學雜誌)の如きものが出てゐるけれども、何れも不十分であることを免かれない。これは單に内地語のみでなく、三韓の古語やアイヌ語などの關係もあるので、愈問題が困難になるからであつた。しかしこれら類似の古語を隣の接觸民族に求めるよりもさきに、我等は我國の古語を知り、それによつて我國の地名を解釋し得る丈けの極めて當然なフアーストステツプを踏まねばならぬ。さうした意味に於て本書は實に古事記傳以後の試みであるといつても或は過言でない。
 栗田先生の郷名同唱考の安藝といふ地名には、その證を得ずとあるが、本書を見るとアキは秋又は阿藝とは全然別の語であつて、安藝、土佐、筑前、近江、美濃さては大和の秋津等アキの地名は多いのみでなく同音異字のアキの分布が廣いと同時に、シキ、カツラギ、オタキ、サヌキ、ハヽキ、オキ、イキ等の類似語も多い蓋し上代キ族の占據地であつたことを表示するといふ新解釋を出してゐる。又足柄を解説して、足利、足鏡別との類似をのべ、飛鳥を解して、ア(接頭語)スカ(住所)即人住む所で、春日はカ(神)スカ(住所)神の住所、だと斷定するの類の如き蓋し著者獨特の創意斷解である。恐らく在來の地名研究者に取りては由々しき挑戰ではなからうか。予はかうした本當の創見を、すべて妥當なりとは考へないけれども、アキのキ、紀伊のキがアイヌ語の葦といふ語で解釋されるといふ説などを棄てゝ、今こゝに全く一家の見誠を立てた著者の勞苦を尊敬せずには居れない。
 予は本書によつて古語の機構が明に知られると同時に、古い地名が正當に解釋さるゝ栞となるべきを期待して、江湖に本書を推奨する一人である。
 勿論本書は古語を明にするための辭書であるから直接國語學者、史學者などの必讀の書であるけれども、予は予の專門的見地から、單に本書に收蒐された地名とその地名研究の方法とに深い興味をもち、本書の世に出たことを慶賀すると同時に、本書を出版した刀江書院に對して賛辭を呈することを當然だと考へる。
 
          次田潤
 
 松岡靜雄氏は現代の我が古典研究家の中で、最も特色のある學者の一人である。私は、同氏が近年矢繼早に發表せられた、日本古俗誌・日本言語學・常陸風土記物語・播磨風土記物語・東歌(20)と防人歌などを讀んで、其の研究の態度や方法に敬服すると共に、先人未發の新説に驚き、且それによつて蒙を啓いたことが尠くない。此の度また多年の研究の結果を傾けて「日本古語大辭典」の如き大著を公にせられたのは、更に我が學界に大貢獻をせられたものであつて、古典の研究にたづさはる吾々にとつては、直接に多大の便益を與へられたことを感謝しなければならぬ。
 日本の古典、殊に記紀萬葉等に關する文學としての研究や、文化史的若くは思想史的な研究は、近年著しく進歩して來たのであるが、其基礎的研究ともいふべき訓詁註釋の研究は、未だ江戸時代の研究の範圍を出るものが尠く、語源的解釋や語法上の説明を始めとして、なほ開拓しなければならぬ餘地の多くが殘されて居るのである。私は現代の古典研究に從事する人々の便宜をはかる爲に、さしあたり、記紀萬葉風土記祝詞宣命等の古典の訓義に關する先人の研究の結果を、各語彙によつて自由に檢索する事が出來るやうな辭書を編纂する事が、目下の急務であると考へてゐた。而して其の辭典には、出典を原形のままに示し、其の言語の訓義に關する學者の諸説は、これを古今に亙つて、年代順に原文のまま掲載し、なほ採録すべき語彙は、神名人名地名物名の如きものにまで及ぶことが肝要であると思つてゐた。然るにこの度松岡氏が公にせられた「日本古語大辭典」は、右の如き希望條件を滿足させた上に、更に一歩を進めて、現代の諸科學を參考し、而も科學的研究法に基づいた著者獨創の意見を詳密に掲げられたのである。
 即ち此の辭典に收録せられた語彙は、記紀萬葉風土記舊事記續紀祝詞宣命古語拾遺日本靈異記神樂催馬樂等に現はれた言語を網羅し、其の語彙の種類は、一般の國語辭典や歴史地理人名等の辭書によつて、檢索することの出來ない神名人名地名動植物名から、語法上の形式語にまで及んで居る。而して其の解釋は、著者の深切にして用意周到な考から立案せられた、獨特の方法と形式によつたものであつて、各語彙に就いて訓・語源・意義・出典・攷證等の各項に亙つて之を解説し、其の解釋には先づ古人の研究の概要を記した後に、先人の諸説に全然捉はれない所の、自由にして科擧的の新説を詳細に述べられて居る。其の新研究は、氏が是までに發表せられた諸研究によつても窺はれるやうに、時には學者の異議を挾む餘地が無いでもないが、併し長く因襲的に尊信せられてゐた從來の諸説に對して其の缺陷を指摘し、又現代の科學的知識に立脚した新研究には確かに學(21)ぶべき所があり、學徒に對しては、少からず刺戟を與へられるものであると信ずる。
 要するに此の辭典は、從來の辭典の缺陷を十分に補ふものであるばかりでなく總ての古典に現れたあらゆる種類の言語に、精細且獨創的な新解釋を下したものであつて、近時の學界に稀に見る大事業である。此の辭典によつて、今後擧徒が、得る便益は莫大であり、又我が古典研究は、この書の出現によつて、多大の刺戟を受けるであらうと思ふ、私は著者とは一面識のない者であるが、此の好著の出版を學界の慶事として喜ぶと共に、之を廣く紹介したいと思つてこの一文を草した次第である。
 
          久松潜一
 
 辭書の發達の上で、一般的な國語辭書の必要なる事は言ふまでもないが、國語の如き時代によりまたは作家により特殊の形態と意義とを有するものに於ては、一般的な國語辭書ですべてを網羅することは困難であるために、種々の特殊の辭書を要するのである。かくて主なる古典や作家の作品によつた萬葉辭典、源氏物語辭典、近松辭典、西鶴辭典が編まれるべきであり、同時に時代を中心とした平安文學辭典、元禄文學辭典等も現れるべきである。かういふ特殊辭書は近時漸く着手され刊行されるに至つて居るのはまことに喜ぶべきことゝ思ふ。今それらの一として當然出づべきであつた奈良朝以前の古典語の辭典が松岡靜雄氏によつて完成されたことは何たる喜びであらう。松岡氏は既に日本言語學その他の著書によつて言語學や民俗學の豐富な知識と創見の多い學説とを提唱されたのであるがかくの如き氏によつて記・紀・萬葉・風土記を始め十數種の古典の中から一萬二百餘語の語彙を集めてこれに精細な解義を施された本書が編まれたことはまことにその人を得た感がある。
 本書の組織を見ると、語誌篇と訓詁篇とに分ち、訓詁篇には古事記、日本記、萬葉集の訓を擧げ、語法要録を附してあるが、これは記、紀、萬葉の重要なるテキストとなるであらう。語詩篇は、語彙の解釋であるが、普通名詞のみならず人名をも擧げてあるのは特殊辭書として至當なる用意である。殊に各語に就いて訓・原語・語義・出典や攷證等に分けて精細に解説してあり、その間に從來の諸説をも檢討し、著者の創見が隨所に見られるのは本書を學問的に重からしむるものである。もとより是等の古典に現れる語彙の意義を歸納的に決定するには必ずしも多く(22)の資料があるのではないから、自然その解釋に主觀的批判を要する點が多く、そのために未だ定説とすべきに至らないものもあらうが、なほ氏の創見が、一説として重要なる意義と價値とを有することは疑はれない。
 さうしてこの種の難解な語彙を一々丹念に解釋された氏の精根と博き學識とはまことに驚嘆すべきものがある。末輩私の如きはたゞ/”\氏の業績に對して滿腔の敬意を表するのみである。
 
          折口信夫
 
 日本の古代研究に從事してゐる學者の中、本書の著者松岡氏ほど、其の方面の廣く、没頭する事の深い人は、今の處他にない。此まで出た數種の著述は、そのあらゆる方面から、最も古い日本の俤を再起する事に努められた業績である。其等の書物には、松岡氏の個性が顯れ過ぎるほど著しい獨自のものがあつた。此が松岡氏の學説の強みでもなり、稍缺陷を作つてゐる傾きもあつた。ところが今度の古語大辭典には、頗る客觀的態度が加へられて來てゐる。
 在來の學説に考へ直さぬばならぬ餘地の存する事を示すと言つた暗示が、豐富になつてゐる。此書物を利用する人々の得る利益の第一は、かう言ふ處にある。傳襲的の學説が新しい學説の前には如何に批判せらるべきものかと言ふ自覺を抱かせられ、眞の意味の個性に限らず學問に進み入る昂奮を感じさせられるであらう。
 松岡氏の家系には、かうした學問に對する情熱が傳つてゐる樣である。現に其の父君より始めて、一族の間に五六人の古代を對象とする學者や藝術家が揃うてゐる。此は、其血がさうさせるのである。さうして我々は、其點に最も此の著者の信頼すべき素質を見てゐるのである。その上、松岡氏の最もよい態度は、「古代研究」を構成するにまづ地ならし作業として、言語研究文獻研究からはじめられた事である。さうして其結晶として現れたのが語誌篇、訓詁篇の二部から成り立つ此古語大辭典である。
 
          中村孝也
 
 松岡靜雄先生の大著「日本古語大辭典」を卓上に置いて、私(23)は異常な感動の大浪に漂はされるのを覺える。鵠沼の病床に端座して、一ぱいに積上げた圖書を抽取《ぬきと》りながら、學んで倦まず、教へて已まざる先生の姿は、昔の先哲の再現としか思はれない。而して、多くの論策を公けにされて、國語と古典との闇黒を照映せられ、終に此大著を成された。正續二卷二千數百頁の大册は、卓上に在つて、「御前は何をしてゐるのか」と警告を發してゐる。我輩健全にして、徒らに毎日のビジネスに精力を費し、而して會心の業績を出だすことの少きもの、顧みて赧然たらざることを得ない。
 日本古語大辭典は、正編語誌篇と續編訓詁篇とより成り別に語法要録一篇を附載し、卷頭十四頁の序説において、本書著述の趣旨を詳説してある。この序説を熟讀すれば成程と首肯けることではあるが、本書は所謂辭典の常型に當嵌まらぬ程に清新の氣に滿ち、啻に単語の解釋、出典の例示にとゞまらず、その解説を誘導せる根據及び推論の過程を明示し、語の構成を分析して之を還元し、その原義に徹到することを努めてゐる。そして固有名詞も、普通名詞から出て居るといふ見解によつて、神名・人名・地名の語釋をなし、枕詞・歌詞の一句・その他の成句にも説明を加へ、本書をして普通の辭典と異る「語誌」たらしめるに至つた。即ち一見すれば、國語辭典と、神名辭典と、人名辭典と、地名辭典と、成句辭典とを合成せるやうに思はれるけれど、その語の構成を解析して原義を尋究することにおいて、言語學者としての著者の面目が、躍如として全卷に生動するを覺える。
 私は古典文學と古代史とに對して已みがたきあこがれ〔四字傍点〕の情を有し、これを通じて知り得る古代民族の素朴なる生活と、純眞なる氣分との裡《うち》に、自分自身を見出すことを樂しむものである。今やこの大著の案内に隨ひながら輕快にして幽玄なる世界に逍遥することが出來ると思へば、心は悦びに滿たされる。併しながら「著者は餘命のあらん限り研究を續けて行くつもりである」といふ句を讀んでは、深く自ら慙づると共に、先生の健康を思はざるを得ない。冀くは斯道の爲に自重自愛せられんことを。
 深甚なる感激を以て、本書を世間に紹介するに當り、特に、上天の庇護の先生の上に豐かならんことを祈る次第である。