南方熊楠全集10(初期文集他)、563頁(ただし139頁以降の英文は入力せず)、平凡社、1973.11.12(91.11.25.11p)
 
(5) 作文三題
 
     祝文
 
 当今開化文明ノ域ニ進入シ、積年ノ旧慣晒習ヲ一洗シ、文学ノ大ニ行ハルルヤ、僻陬ノ村落ト雖モ聖教ニ沐シ、徳化ニ浴セザルハ無ク、各其業トスル所ヲ得ル。嗚呼、是焉ンゾ朝廷ノ明正、人民ノ懇親ニ因ラザルヲ得ンヤ。近日、我町内有志輩ノ懇親会ヲ創始スル、実ニ衆庶ノ幸福、盛業ノ基礎タルニアラズヤ。余モ亦此美事ニ逢ヒ欣喜ニ堪ヱズ。因テ此席二臨ミ聊カ拙辞ヲ吐露シ、以テ祝意ヲ陳述セザルヲ得ズ。
  明治十二年十二月十三日
                   中学校第七級生
                     南方熊楠
                       十二年九ケ月
 
(6)     火ヲ慎ム文
 
 人世外来ノ災禍多クシテ測ル可ラズ。就中、旱魃、洪水、地震等ハ天ノ造成セル災ニシテ、人ノ防禦ス可ラザルモノナリ。然レドモ火ノ災ニ至テハ即チ之ニ異ナリ。夫レ火ハ之ヲ以テ諸品ヲ煮、之ヲ以テ諸物ヲ製造スル等、其人ニ益アル事莫大ナリ。是レ造物主ノ人ニ授与スルニ火ヲ以テスル所以ナリ。然リ而シテ彼ノ火ノ災ナル者ハ、到底人ノ之ヲ使用スルノ軽シキニ出デ、止《タダ》ニ其家ニ害アルノミナラズ、隣家ニ延焼シ、近人ヲ擾乱セシムルニ至ル。嗚呼、人タルモノ火ヲ使用スルニ慎謹ノ二字ヲ以テセザル可ケンヤ。
  明治十二年十二月十三日
                   中学校第七級生
                     南方熊楠
                       十二年九ヶ月
     教育ヲ主トスル文
 
 夫レ国ハ人民ノ群居シテ成レルニシテ、其人民ハ皆父母ノ遺体ナリ。是ヲ以テ、凡ソ国家ノ盛衰ハ人民ノ賢愚善悪ニ関シ、人民ノ賢愚善悪ハ其父母ノ之ヲ教育セルト否トニ係ル。人ノ性質タルヤ、素ヨリ賢愚善悪ノ別ヲ有セザルナリ。而シテ、其性ヲ誘《ミチビ》クニ善ヲ以テスレバ即其性善、之ヲ導クニ悪心ヲ以テスレバ即其質悪、是ニ於テヤ、始メテ善悪ノ別チアリ。是ヲ以テ墨子衢ニ泣ケリ。之ニ教ルニ道ヲ以テスレバ即其性賢、之ニ訓ルニ無道ヲ以テスレバ即其性愚、(7)是ニ於テヤ、始メテ賢愚ノ分アリ。是ヲ以テ孟母三遷ノ択アリ。故ニ人ノ性、其原同一ニシテ、他ヨリ之ヲ教導スルノ法ニ由テ、始テ善悪賢愚ノ差別アルナリ。之ヲ物ニ喩フルニ、猶ホ水ヲ盛ルニ方円ノ器ニ従テ、其形状亦変スルガ如シ。是ヲ以テ人ノ父母タルモノ、子ニ旨味ヲ食セシメ  繍錦ヲ着セシムル事ニ注意センヨリハ、当ニ幼時ヨリ学術ヲ勉励セシメ、人道ヲ了知セシムル事ヲ務ムベキナリ。
  明治十三年四月十五日
                     南方熊楠
(8)     江島記行
 
 予東京に来てより越二年、塵に吸い埃に?し、足いまだ一たび市外に出でざるなり。今年四月、大学、例により十数日の休業あり。予すなわちこの間をもって江島に一過せんと欲し、俄然行李を治す。不幸にして曇天雨天続いて止まざるもの十数日、十六日に至り天ようやく晴る。すなわち宿を出でて新橋に至り、十一時発列車に搭して神奈川に至る途上、男女の海辺に徒歩して蛤藻の属を採るを観る。神奈川より程ヶ谷へ行かんと思いしに、先日来の雨にて道路すこぶる泥濘なりと聞き、すなわち足を転じて横浜に趣き、道を東南に取って進むこと二里余、日野に至る。この地、横浜、鎌倉の中央に位すという。この辺、道路狭窄、泥濘はなはだし。また迂廻にして歩を浪費すること多し。すでにして切通坂に至る。道路の悪しきこと極まれり。聞く、往年、横浜の悪漢、ここにおいて車客に向かって種々の暴行を加えたり、と。ただそれ寥落の地なるをもって、方今といえどもそれあるいはこれあらん。坂の下り口の左傍に土の崩れたるあり。近づいてこれを案じて一化石を得たり。第一図に示すがごとく、青白の土上に褐色の印痕あるものなり。
 坂を下りて往くこと数百歩、公田《くでん》村に至る。村内の老若、手に苞を持(9)し、腕に数珠を掛けて囁喃《しようなん》歩し来たる。これを問うに、すなわちいわく、円覚寺、本日法会を修せるに詣せるなり、と。山内《やまのうち》村を通り行くに円覚寺道路の衝に当たれり。寺内を通りながら一見するに、青松蓊鬱として許由の瓢を鳴らして、堂宇甍を列べていたずらに蜂房を懸下せり。やがて寺門を通りぬけ進み行くに、当日法会の某所に在りし故にや、僧徒数十人頭に笠を戴き、手に杖を鳴らしつつ数十人列を成して歩み来たれり。道を右傍に屈して坂路あり、走り下るに道傍|延胡索《えんごさく》の属、小なるものはなはだ多きを見る。行くこと数町、道の左傍に小祠を見る、佐助稲荷と書せり。西南の山側小村落を見る、すなわち長谷なり。余ここにおいて旅舎の近きに在るを知り、歩を早くして行く。道の岐分する所に碑石あり、芭蕉翁が詠、夏艸やつはものどもが夢の跡、というを刻せり。長谷村に入りて街道の右に小祠あり、甘繩《あまなわ》神社という。この村の鎮守にして天照大神を奉祀せり。往時文治のころ、頼朝この祠に詣して幣を奉《ささ》げたりという。当時それあるいは荘美の祠殿なりしや知らざれども、現今は矮陋何の見所もなき小祠なり。
 道の左傍に旅宿あり、三橋与八という村の比較に取りてはすこぶる壮美の家なり。一室に入りて茶を喫み、婢に何時と問えば、すなわち答えて五時過ぎなりと言えり。毎年今ごろは京浜の士女続々とこの辺へ出掛くるなるに、今年は陰雨の永《とこし》えに続きて止まざるがために、右幕府の故趾を訪うの士もはなはだ少なしとみえ、この宿舎のごときも寥々として各室おおむね人なし。いまだ晩には早ければ、暫時その辺へ遊びに行かんと宿を出で、東に趣き由井浜に至る。この浜あまり長からず、またあまり広からざるように見受けたり。渚抄の辺を緩歩して何がな奇物をと探れども別に奇しきものなし。ただ一魚歯(第二図)および一、二の介殻を拾えるのみ。ウミヒバ多く浪に打ち上げられたり。また海星《シースタール》の属を見る。浜の上辺にはハマヒルガオ、ハマビシ等生ぜり。六時ごろ宿に帰り晩餐を執る。その後、燈前に兀坐し、無聊な(10)すところなし。隣室に人多く集まり、酒を飲みて快談す。その音|鴃舌《げきぜつ》とまでにはあらねども、なにやら一向解するに苦しみLが、静かにこれを詳悉するに、彼らの内五人は婦人にて一人は男なり。陸中の人なるが、今回東京を見おわり、ついでにこの辺を見に来たれるにて、五人の婦女一向東京語を暁《さと》らず、故にこの男を雇い来たりて通弁をなさしめ、買物などを調えるなり。この男また国許に在りし時、鎌倉節を習い、すこぶる熟せり。今鎌倉に来たりて鎌倉節を謳うは声の所に応ずるなりなどいいて揚々と謳いしに、衆婦みな笑いののしれり。余ここにおいてまた婢を喚びて酒三合を命じ、立ちどころに尽す。すなわち傴臥して独り浩々、夜半眼さめ、まさに雨滴の石を打つを聞く。心これがために呆然たり。
 十七日
 朝六時起きて戸を開けばすなわち一天曇陰、一隙の陽光り漏らすなし。十時草鞋を穿ちて出ず。道路膏のごとく一歩ことごとく意を注す。道傍に空地あり、石碑に刻して日蓮上人牢屋敷の跡という。北に向かい行くこと数町、仏頭の高く門上に聳えたるを見る。すなわち知る、その果たして鎌倉大仏なるを。門に額を掲げて大異山と書せり。門を入りて大仏の前に至り、仰瞻艮久、右側の家に鎌倉地図、大仏写真等を売るあり、すなわち就いて地図と写真とを購う。僧、予を延いて仏の体内に入り、階を上りて三尊および観音を見せしむ。この観音像は徳川家康の納進するところという。
 それより鶴岡八幡宮に詣す。宮は南に向かいて立てり。社殿美なりといえども、すこぶる聞くところより小なり。「百聞は一見に如《し》かず」の言、洵《まこと》に欺かざるなり。石壇を上りてこれを見、下りて若宮を見る。若宮は本社の下右方に在り、また下の宮という。仁徳天皇を奉祀す。静女が袖を飜して「しづやしづ」の吟詠ありしは、この神前においてせりという。この近傍に双枝の竹を栽えたり。鶴岡の東方に頼朝の邸址あり。その地、方六町ばかり、瓦片田圃の中に磊?《らいら》として、いたずらに古色の日々古えを増すを致せり。北方の丘上に頼朝の墓あり。苔むし蘿纏い、字々読む(11)ぺからず。その東に大江広元、島津忠久の墓あり。二階堂村に至り鎌倉宮を見る。およそ鎌倉の名所と称するもの、その数多しといえども、その実一坪の墟、禾麦、箕子《きし》を泣かしめ、一个《いつこ》の穴、狐を棲まわしめ狸を息《いこ》わしむるものに過ぎず。これを尋ねこれを弁ずること、まことに難く、人をして識別に苦しましむ。名所か迷所か、われそのいずれか当たれるを知らず。たとい終日杖を牽き足を痛ましむるも、その益を得ること実に少々ならん。かつ降雨ますます盆を傾け、鞋損じ、衣霑うをもって久しく止まる能わず、歩を却《かえ》して宿に帰る。時すでに二時なり。五、六時の交に至り雨|?《ようや》く止む。しかれども、一天の陰闇少しも決隙なし。夜九時に至り寝す。
 十八日
 黎明天を望むに、ようやく南方の白きを見る。午前八時宿を出で、西方に向かう。長谷観音の境内を過ぐ。この観音は行基菩薩の開眼するところにして、ずいぶん大?なりと聞きしが、堂宇の小なるは実に驚くべし。ここを過ぎて御霊神社あり、後三年の役に奮闘せる平景政を祭る。建久五年正月、八田知家この社へ奉幣使をつとめたることありという。それより切通坂を経て七里ヶ浜に出ず。道傍に蛞蝓の交尾するを見る。雌雄円状をなして草葉の上にあり、白涎のごときものを出だせり。七里ヶ浜は関東一里をもって計《かぞ》うるものにして、南に大洋を眺め、西に江島を見る、風景やや喜ぶべし。サンドホッパーの属多し。一箇の木塊の化石せるを得たり。長さ四寸、幅三寸ばかり、杭頭の化せるものならん、木理鮮明にして体重多し。浜の中途に小流あり、行合川と名づく。僧日蓮の刑に遭うや、奇怪のこと多きをもって、その状を具するの使と時頼が赦免状を持てる使者と、この辺に行き合いたるをもってこの名を伝うという。この辺、海綿、ウミヒバ等多く打ち上げられたり。また、両虎《あめふらし》の多く死せるあり。七里ヶ浜の終わる処腰越村なり。すなわち源廷尉が兄のために追い反《かえ》されたる処にして、村内万福寺今なお腰越状の草案を蔵すという。海辺に小?あり、岩上の松常に揺《うご》くをもって、これを小動《こゆるぎ》と名づけたり。北条氏康の歌に、「きのふ立ちけふ小ゆるぎのいその波いそゐでゆかん夕ぐれのみち」とある、これなり。村を出てまた沙浜あり、ここに寄居虫《やどかり》の大いさ三、四寸(12)なるもの数個を見る。思うに、この辺かかる種に富めるならん。
 浜と江島の間、潮水これを遮る、その間半町に足らず、渉人、往来を弁す。島の北端は平沙浜をなせり。海?群飛して悲鳴す。海鮮の漁はなはだ多し。鳥居を過ぎて一丁ばかり人家対列す、旅舎多し。これを西の町という。すなわち恵比須屋茂八方に宿し、出で島上に遊ぶ。介貝を売る肆多し。毎肆みなホッスガイを列示す。この島専有の名産なり。坊の衝く所石壇あり、上れば正面に石碑あり。東都吉原妓家の建つるところ、書していわく、「最勝の銘。最勝|匹《たぐい》なく、至妙名に匪《あら》ず。起滅|来去《らいこ》、香味|色声《しきしよう》。事物は蕭寂《しようじやく》、真空は崢エ《そうこう》たり。顕処は漠々、暗裡は明々たり。明治甲申、原担山撰」とあり。この辺に案内者あり、すなわち一人を雇い伴い行く。辺津社は旧下ノ宮と称し、建永元年僧良真が源実朝の命を請うて開くところなり。中津社は旧上ノ宮と号し、文徳帝の時慈覚大師の創造するところなり。中津社より奥津宮に至る、その間の道を山二つという。進みて行けば介肆多し。奥津社、旧岩屋本宮の御殿という。養和二年文覚が頼朝の祈願により竜窟の神をここに勧請せるなり。社前に酒井雅楽頭の真向きの亀と号する画額あり。ただし余の見をもってすれば、むしろ真抜けの亀と称するが佳ならん。
 奥津宮以下を窟道という。店頭|拳螺《さざえ》を焼き茶をすすむるもの数軒、余一店に入り望遠鏡をもって南方を覘うに、一岩傑然波上に兀出す、これ烏帽子岩と名づく。その距離三里なりという。この辺形勝すこぶる佳なり。その島の東南に斗出せるの地、これを三崎となす。伊豆大島また見るべし。やや下りて常夜燈の碑あり。また下りて海崖に至る。大磐平臥して拡布はなはだ広きものあり、まないた岩と呼ぶ。これよりさき、岩石突兀、行歩注意を要す。ついに岩屋に入る。入ること一町ばかり、人あり、神符を売り、また燈を具して人に貸す。ここにて手を洗い燈を点して進行す。洞の大いさ進むに従ってようやく減じ、ついに頭を注意するを要するに至る。左右小祠多し。一々名を聞きたれどもことごとく記せず。窟の衝く所に弁天祠あり、すなわち役小角の祭る所にして、この島の本神なり。入り口よりここに至る、二町二間という。他の一道を経て出で、手を洗いし所に至り、ついに洞口に出で帰る。漁夫五、六人海(13)に入りて蝦を取るを観よと勧む。余聴かず。けだし彼らあらかじめ蝦を捕えて筐籠に盛り崖下におき、岩下を探るを似してこれを取り出だすなり。故にその蝦多くは活動跳躍せず。奥津宮前に来たり、案内者に別れ、介肆数軒に入り、魚蝦蟹貝の属数十品を買う。時すでに正午に近きをもって、ひとまず足を回してかえる。
 午餐後|復《また》出で、島の西岸に至る。漁戸あり、人みな網を乾し藻介を取る。この時天ようやく晴れ、海潮退き尽きて岩上青苔滑らかに、和風吹き来て松声朗たり。歩して崖岸を探れば蟹螺立ちどころに拾うべし。思わず歩すること数町、ついに弁天窟の前に至る。この辺処々にショウジンガニを見る。アカムシより少しく大にして、沙中に群生し、捲曲動揺してその餌を資《と》るあり。海菟葵《いそぎんちやく》多し。その一種腕形あたかも羽毛のごとく褐色にしてはなはだ美なるものあり。また雨虎《あめふらし》多し。カッタイガニ多く、みな背上に青苔を生じて、青苔の中に棲む。これを識ることはなはだ難し。しかして多くはその足一、二本を欠けり。ここにおいて百方探索、その足の全きものを取れり。その形を支離するものの益それ大なるかな。また歩して児《ちご》が淵《ふち》に至る。岩屋ここに至りて竭きたり。碧水潭々として怒浪奮撃し、苔藻の靡き動くありさま、あたかも喬木の大風に動くを上より見る心地せり。
  児が淵の由来。往昔、建長寺広徳庵に自休蔵主といえる沙門あり。陸奥国|信夫《しのぶ》の人にて、ある時宿願ありて江島に詣する山中にて、美艶紅顔少年にあう。蔵主迷いの心を生じ、恋慕止まず。伴う僕に問えば、これなん雪の下相承院の白菊という児なり、と答う。爾後人づてに文もて言いよれど、さらに随う気色なければ、月日を累ね切なる思いを通じければ、白菊もその情にや忍びかねけん、扇に二首の和歌を記し、渉船人にわたし、われを尋ぬる人あらばこれを与えよ、と言い別れて入水せし名残の歌に、「白菊としのぶの里の人とはばおもひ入江の島とこたへよ」、「うきことをおもひ入江のしまかげにすつるいのちは波のしたくさ」。かく辞世してこの淵に沈み終わりしを、蔵主慕い来て、この歌を見つつ涙にむせびつつ詩を賦す。いわく、「懸崖|嶮《けわ》しき所に生涯を捨て、十有余霜は刹那にあり。花質の紅顔は岩石に砕け、蛾眉翠黛は塵砂に委《ゆだ》ぬ。衣襟ただ湿おす千行の涙、扇子空しく留(14)む二首の歌。相対して言なく愁思切なり、暮鐘|孰《たれ》がために家に帰るを促す」、白菊の花の情のふかき海にともに入江の島ぞうれしき、と詠じて自休も共にこの淵に身を投げ、死したり。(このこと『南畝莠言』等に出ず。)
 それよりまた歩をかえすに、潮水なおいまだ満ち来たらず、天気朗晴にして相豆の形色ことごとく備わる。男は巌崕の上に踞して釣竿を斜にし、女は汀際に僻して藻介を覓む。児童が蟹甲を剥いで舟となし、※[貝+亭]虫《ていちゆう》を客として水に浮かべてなぐさむもまた目新し。かくて旅舎へ帰りしに、時なお四時に早きをもって、また出でて山上に至り介肆に就いて諸種の介蠏数十個を購収せり。介またヤギをもって簪箸など種々の細工をなす。美にして雅なり、すこぶる愛すべし。また店頭にインド、薩隅および北海道の所産をも列すること少なからず。これを問うに、これみなこの島所産をもって彼と交易するなりといえり。この夜一天片雲なく、星茫煌々として、金波爛揚、価値千両とも謂いつべし。夜九時に臥す。
 十九日 快晴(ただし朝の間島内に霧あり。)
 朝六時起き、すこぶる爽快、朝餐後島上に至り、介類二十種ばかりを購収す。九時ごろ宿を出でて沙浜を徐歩し、片瀬村に至る。富嶽天に聳えて密雲囲擁し、箱根、足柄、翠のごとく黛のごとく風景絶佳なり。藤沢駅中、道を誤って東すべきを西し、行くこと一里ばかり、これを人に問うて初めてその小田原街道たるを知り、歩を却《かえ》して復《また》藤沢に出で、ここに腕車に乗り、戸塚に至る。道の左右松樹を列栽す。人家の屋上多くイチハツを生ぜるを見る(このことかつて某書にて見たりき)。戸塚を過ぎて腕車を下り、保土ヶ谷に至る。それより神奈川に着きしは四時三十分にして、四時五十一分急行列車に乗り帰京す。
 
     江島採集購収品(採集品へは朱圏を付す
 植物
(15)   胡*桃科 実核一個 江島海浜にて拾う。
 動物
  無脊髄動物 Invertebrata
    海綿類 Spongida
 (一)海*綿 Spongidasp.(二)ホッスガイ Hyalonema Sieboldii
    射形動物Actinozoa
 (三)ヤギ一種 Gorgonia sp.(四)キンヤギ Gorgonia sp.(五)ヒラタケイシ(石芝)Fungia sp.(六)ウミボウキ (七)トクサイシ Isis sp.
    棘皮動物 Echinodermata
     (1) 海百合類 Crinoidea
  (八)海百合一種大なるもの (九)同* 一種小なるもの 江島海浜にて採る。
     (2) 海胆類 Echinoidea
  (一〇)タコノマクラの類 案ずるに『本草啓蒙』にいわゆるキンツバならんか。
     (3) 海星類 Asteroidea
  (一一)ヒ*トデ一種 Asteriassp.(一二)ヒトデ一種 Asterias sp.
     (4) クモヒトデ類 Ophiuroidea
  (一三)クモヒトデ Ophiura sp.
    被殻動物 Crustacea
     (1) 異足類 Amphipoda
(16)  (一四)ト*ビムシ一種 七里浜にてとる。
     (2) 十足類 Decapoda
  (一五)イセエビ Panulirus japonicus (一六)ヒゲガニ この種の小なるもの先年紀州加太浦にて獲たり、全体やや蜘妹に似たり。(一七)大マンジュウガニ (一八)マンジュウガニ (一九)同一種 (二〇)同一種 (二一)  (二二)チカラガニPhylira sp.(二三)ツトガニ(二四)  (二五)ショウジンガニ(二六)  (二七)*  (二八)  (二九)イバラガニ Pisa(Paramaija)spinigera (三〇)セミガニ Lyreidus tridentatus n.sp.(三一)エ*ビの一種
    六肢虫類 lnsecta
  (三二)瓢虫*《ななほしてんとうむしい》Coccinella 7-punctata (三三)コ*ガネの一種小なるもの (三四)地*胆 Meloe sp.この三虫は藤沢近傍にて獲。
    蘚辞状虫類 Polyzoa
  (三五)  (三六)
    臂足類 Brachiopoda
  (三七)ホオズキガイ Terebratula (三八)同一種T.sp.
    平鰓類 Lamellibranchiata
  (三九)ニシキガイ (四〇)ツキヒガイ Pecten japonicus Gmel.
    角貝類 Scaphopoda
  (四一)ツノガイ Dentalium octogonum Lam.
    腹足類 Gasteropoda
(17)  (四二)ジ*イガセ Chiton sp.(四三)鰒魚*《とこぶし》 Haliotis Tokobushi (四四)Troghus sp/コシダカガンガラ (四五)クマサカガイ Xenophora pallidulla (四六)Conus sp/(四七)  (四八)  (四九)クリガイ (五〇)キセルガイ (五一)ヨウラク Typhis sp.? (五二)同一種 Typhis (五三)ホシダカラ Cypraea sp.(五四)同一種 Cypraea sp.(五五)タカラガイ一種Cypraea sp.(五六)同一種Cypraea sp.(五七)同*一種 Cypraea sp.(五八)ウズラガイ一種 (五九)*  (六〇)ガ*ンガラ (六一)  接尾螺 小なるもの Triton sp.(六二)アミガサガイ (六三)クルマガイ (六四)ツトガイ Ovulum volva
    魚類 Pisces
  (六五)ネコザメCestracion philippi Lasepの歯(江島にて名荷貝と呼ぶ)および  緬《はらご》(方言ナミマクラ) (六六)ウ*ミスズメ (六七)タイムコノゲンパチMonocentris japonicus Hout.(方言エビスダイ)介肆の主、この魚の胸鰭あるいは開きあるいはたたむとも毫も折損せずとて示したり。(六八)海馬(リュウノコマと呼ぶ)
 その他ヤギにて作れる箸、指輪、車渠をもって作れる球、青螺盃および球、石決明の珠、栄螺の盃等をも購収せり。
 化石二つおよび鉄砂を得たり。江島にて介細工中、往々この沙もて黒色をなせり。七里浜辺にあり、取り来て水に晒し用ゆとぞ。
 ホッスガイ、同大にして価大いに異なるものあり。これを問うに、塩気を去れると去らざるとなり。塩気を去らざれば、その綿脱落すという。そのこれを去るの法、これを浄(塩)水に浸すこと数分時にして日光に晒し、幾回もかくするなり、と。
 (付) 余が購いし介種の中、ヒゲダイモク、郎君子《こまのつめ》等二十品ばかり、倉卒の際旅舎へおき忘れて出でたり。今に至り悵憾詮方なし。
   右明治十八年五月二日記畢。
 
(18)     日光山記行
 
 予一たび日光の地を探らんと欲す宿志三年、今夏休暇をもって、野尻貞一、松下友吉二氏とこれに遊ぶ。見践事躰、左にその略を述ぶ。
 明治十八年七月十二日
 これより先数日、天陰、小雨休日なし。この日朝また陰曇、正午ようやく晴る。すなわち行李を装し三人同衣、宅を出で徒歩千住に至る。この月の始め霪雨暴至、河水大いに漲溢、大梁これがために?落《きらく》せるにより、官特に舟棹を具し人民に便す。草加駅に至り乗車し、越ヶ谷に至りて下り、また乗車して粕壁に達す。時すでに七点鐘、旅廛高橋七右衛門方に宿す。この家蚊はなはだ多く困苦少なからざりき。この日経るところの地ことごとく平坦、田沢の間蓮藕を植うるもの多し。?洫《とくきよく》の辺多く赤楊を栽えたり。車上目撃するところの植物、ことごとく尋常種の一斑に過ぎざれども、またその鶏肋たるをもってここに臚列す。ヨメナ、メナモミ、マオ、ノベラノキ、イトモ、ドチカガミ、ビンボカズラ、センダン、ネム、トキワツタ、カタシロクサ、オオヘビイチゴ、玄参《げんさん》、ヒツジゲサ、ツヅラフジ、ゴキズル、カラスウリ、キカラスウリ、アマチャズル、イヌガラシ、ツタ、ウツギ、トコロ、カンゾウ、ムラサキケマン、キケマン、アズサ、ヒサギ、クサギ。
 十三日 半晴
 午前六時宿を出で、徒歩。粕壁駅に中学校あり。杉戸駅より幸手《さつて》駅の間、里許、街道正直にして両傍松樹を列栽す。(19)幸手より栗橋の間二里余、長堤連続、人をして歩に倦ましむ。この辺御猟場にして、堤上に行幸堤碑あり。明治十年一月四日撰岩倉具視、篆額近藤芳樹撰岡守節書、とあり。栗橋に至りて中餐を執り、利根川を渡る。ここに中田駅あり。栗橋駅を去る、わずかに五町という。中田、妓房多し。千住より日光に至る各駅おおむね妓院あり。しかして中田はすなわち全駅大半妓房なり。中田より古河に趣《おもむ》く、この間里許。道傍、松樹を植え、陰影行客を蔽い、清風吹き至って一流の風致あり。古河は駅中の錚々たるものにして、街衢人家甍を連ぬ。古河を過ぎて乗車し、野木を経て間々田《ままだ》に至り下車し、行くこと数町、二人また乗車。予独り徒歩、小山に達す。時すでに五時、本日所過道傍各駅の間ことごとく植うるに松樹をもってす。本日目するところの植物。ウコギ、オニウコギ、ミゾカクシ、アマドコロ、ワニグチソウ、食茱萸《しよくしゆゆ》、オニアザミ、タチツボスミレ、チャンバギク、フナワラ、タカトウダイ、ホルトソウ、サワウルシ、ナツトウダイ、トウダイグサ、ヤイトバナ、ミゾソバ、ウナギツカミ、イシミカワ、ミズカシワ、三葉升麻《みつばしようま》、ヒオウギ、ウツボグサ、ジュウニヒトエ、ノニンジン、ノゼリ、ヤクモソウ、野決明《やけつめい》、ナガバヤブマオ、サルトリイバラ。
 十四日 半時
 午前六時宿を出で、一里八町を歩して羽川に至る。路上古瓦一片を得たり。羽川より小金井に至る道傍、平林にして櫟、?の属を栽ゆ。小金井より一里二十丁にして石橋あり。また一里二十四丁にして雀宮あり。ここに中餐し、宇都宮に至り二条町に如《ゆ》き、富谷金三郎氏を訪う(氏は東京山林学校生徒なり)、氏在らず。すなわち稲屋庄平方に宿す。この家壮大にして賓客の待接はなはだよし。時すでに四点鐘、野尻氏と二人出でて富谷氏を訪い、氏の父君と談話す。暫時にして氏帰り来る。酬酒良久、共に出でて駅中を略見す。市街通達、県庁、学黌、病院、はなはだ美なり。しかして、その監獄署、すなわち特に宏麗を専らにす。二荒山神社高丘上に在り。四望景色よし。かくて市街を巡れる後帰宿し、行李数個を富谷氏に托す。この日、富谷氏より当駅県庁の後山に産する化石二個を与えらる。聞く、この山、化石に富めり、蛤螺の外また竜の爪というものありという。石牙の類なるべし。また当国塩原村所産の木葉石を示さ(20)る。紋理鮮明、はなはだ佳品なり。その地に多くこれありという。この日道傍所見植物。天南星《てんなんしよう》、ワレモコウ、ショウジョウバカマ、ヒメハギ、竜胆《りゆうたん》、ウマノスズクサ、モジズリ、ノカラマツ、タラノキ、ハリギリ、オミナメシ、オトコメシ、カノコソウ、カナヒキソウ、ミズアサガオ、ジョウガヒゲ。
 十五日 曇
 午前六時後、宿を出で北向す。各駅の間多く道傍に植うるに松杉をもってせり。しかして道路ようやく悪し。四顧崗巒の次第に起出するをみる。北方はすなわち雄嶽、剣峰、重畳鱗次、黝雲暗霧、囲繞抱絡す。徳二郎駅を経て大沢駅に至り、中餐を喫す。今市を経、七里村を過ぎて日光町に入る。人家多けれども、さまで繁鬧にもあらず、風俗おのずから仁に近きがごとし。石屋町、御幸町、鉢石町等あり。入り口に履屐を売る店数家、多く黄貂《てん》の皮を列す。その他熊、狸、狐、狼およびかもしか等の皮あり。みな当山所獲なり。鉢石町の会津屋方に宿す。この日松下氏乗車、二人徒歩九里、宿に就く。すでに五時後なり。宇都宮よりこの地に至る土面ようやく隆起、寒喧おのずから異あるがごとく、草木また異種多し。ミツバアケビ、カシワバハグマ、クルマバハグマ、モミジバハグマ、ウバユリ、クルマバユリ、スミレサイシソ、サイシン、カンアオイ、チダケサシ、ギポウシ、キンラン、ギンラン、ツタウルシ、シオデ、ホトトギス、クチナワジョウゴ、アマチャノキ、クマツヅラ、ノゼリ、ダケブキ、シモツケ、ニンドウ、キイチゴ、ササユリ、イカリソウ、ガンピ、ヨシノシズカ、ツリガネソウ、ウラジロ、ヤマベンケイソウ、エビネ、フタリシズカ、フタバハギ。
 日光人家|挽物《ひきもの》を売るを業とするもの多し。箱、杓子、茶台等にして、みな当山所産諸木をもってこれを作る。素朴にして雅趣あり。また紫蘇、いわなし、すぎのこ、山椒等を調理して箱に入れ、漬蕃椒《つけとうがらし》と記名して販《ひさ》ぐ。価はなはだ廉なり。煉羊羹もまたこの地の名産とす。この夜雨ふる。(行きか帰りか知らず、野尻氏、給仕女に茶碗のふたを出し、飯盛ること成らず、次いで大いに笑う。また法事か何かで鉦たたき念仏高く眠られず。予らも高声にそのまね(21)せしを気の毒がり、主婦馳走をもち来たりくれたり。大正十四年五月九日早朝四時追記。)
 十六日 曇
 旦褥中、水声、磬のごときを聞く。以為《おもえらく》、前夜来降雨いまだ止まざるなり、と。起きて障を開けば雨すでに止む。鎬々の声、渓水のなすところのみ。八点鐘の後、宿を出で事務所に至り参拝料を納む。案内者伴い来たる。すなわち共に往く。神橋、名づけて山すげの橋と名づく。急湍激搏その下を過ぐ、華厳滝の末流なり。本宮権現境内に勝道上人笈掛石あり。護摩堂の前に紫雲石あり。勝道、護摩をここに修め、紫雲下り蓋えり、と。その石今草中に埋没し、見るべからざるなり。三仏堂、弥陀、薬師、不動を安ず。身長各二丈余。堂後相輪塔、すなわち天海僧正の建つるところ、青銅をもって作る。金を鍍することはなはだ厚し。曩者《さきに》、東照宮中に在り、神仏判分の時これをここに移す。十数日、数千金を費やせりという。東照宮の入り口に大石鳥居あり。黒田長政の献ずるところ、すこぶる壮観たり。五重の塔あり、五智如来を安置す。閣上十二支獣を彫り、各その方位に向かわしむ。二王門を過ぎて三神庫あり、その一、玄象白象を画す、また壮観と称す。一大金松あり、名づけて神木となす。陽明門、一に日暮しの門と称す。その宏麗、注視終日なお尽す能わざるをもってこの名ありという。門上彫るに児童四季の遊び、および東坡、琴高、王喬等をもってす。後藤のけしななこぼりとて、名高きほりものあり。唐門屋上二竜および一獣、獣の形|?猊《さんげい》に同じ、名づけて※[獣偏+恙]《よう》という(『唐韻』、「※[獣偏+恙]《よう》、状《かたち》は獅子のごとく、虎豹および人を食らう」)。天井に二竜を画く、一、八方竜と呼び、一、四方竜と呼ぶ。元信、守信の筆なり。門傍松竹梅および虎豹の形、紫檀、黒檀、ツグ、タガヤサン、黒柿等を集めてこれを成す。木理をもって虎紋に充てたる、はなはだ妙なり。唐門の内これを拝殿とす。その左傍、築石中絶大の花崗石あり。世人の熟知するところなり。殿中、結構すこぶる壮厳、供具饌器、黄金をもって飾らざるはなし。みな諸侯伯の献ぜしところとす。親王、将軍の待室のごとき、異木を聚めて孔雀、鷲Gを飾成す、はなはだ美なり。ここに守信の画、獅子の牡丹に戯るるあり。筆意面に溢る。
(22) 殿を出でて右し、舞屋に如《ゆ》く。ここに宝物を陳列して衆に示す。けだし庫中所蓄、汗牛充棟に止まらず。ここにはただその一斑を列するのみ。雲母製燈炉、純金狸時辰儀、木葉石(余の所見をもってすれば、一種の石刀ならんか)、錦旗、永井勝孝、東照公より賜わりし菓子盆(長湫《ながくて》の役勝孝、池田信輝を獲たり、公感賞手に果子《かし》およびこの盆を賜う)、諸将(謙信、信長、秀吉、家康等)華押、諸代将軍所献の太刀、『矩術新書』、造宮の時用いし工具、前世界大象牙、その他太刀、書画、楽器、舞器等、はなはだ多し。猫の門、門上睡猫を彫る。この作はなはだよしという。往時この門を称して不明門《あかずのもん》とし、常に鎖して開かざりしという。猫の門を過ぎ石壇を上り、公の墓を見る。墓表中、薬師仏を納むという。およそ宮内造構きわめて美、諸侯所献石燈炉はなはだ多し。朝鮮、琉球および和蘭《オランダ》所献燈炉またあり。その伊達氏所寄鉄燈のごとき、南蛮鉄と称す、三年間聚斂して成るところという。二王門を出でて右し、二荒山神社に詣す。神前宝物を列す。絶大の刀あり。慈眼大師の『新古今集』、小山朝政の兜?、古瓶(六、七年前男体山にて掘り出す)、古鉄箭頭、水晶珠、白玉木、曲玉、古石剣、台石具(雷の撥と称す。雷のばち、青色石にて造る)、鯨牙等あり。(また赤珊瑚あり、光潤瑩徹すこぶる優美、およそ七百年来のものと称す。重量四百七十匁、洋客かつて一見大いにこれを賞すという。)社を出でて大猷院廟に詣す。壮麗東照宮に次ぐ。ただ、その門傍、天王、夜叉、風雷神を安んずるがごとき状貌獰醜、たまたまもって神威を汚すに足る。拝殿構営、また壮美なり。かくて寓に帰る。
 時すでに一点を過ぐ。中餐を喫し、直ちに宿を出で中禅寺に趣く。清滝村を過ぎて道ますます嶮、これに加うるに前日来の雨をもって土地泥濘、ほとんど行くに堪えざる所あり。馬返しを過ぎてより、岩石突兀、砂礫磊?、碧水滾流、自沫憤飛、奇磐雄崖、藤蔓柯を束し、もって桟梁を作り架するもの数次、これより上ること二十余町、行前歩後、悉皆一掃白霧の布《し》くところとなる。高峰雄岳、一の目に触るるなし。道傍|?《はる》かに岸を隔てて二瀑布を観る。 と名づく。歩ますます進みて道ようやく下る。目前たちまち見る、育黛白帯を擁するを。一驚、目を定めてこれを瞻、すなわちその南湖たるを知る。快ここにおいてはなはだし。すなわち中禅寺に達し、旅塵米屋(大正十一年また米屋にとまる。ただし別の地にあり)に宿す。湖面風寒く障を開くべからず。室内温度F六十二を示す。玻?を隔てて湖景を眺む。漣?岸を打ちてほぼ海に似たり。遠山鳥|※[口+夜]《な》きて林巣に帰る。風勝きわめて佳なり。この地旅廛みな日光の人これをなす。秋冬すなわち宅を閉じて去る。盛夏すなわち諸国修行者ここに行法を修め、男体山頂に登るもの麕至《きんし》群集、熱鬧すこぶる盛んなりという。土地の男女みな袷衣を著す。山間異候ここにおいて瞭然。この夜暴風あり。本日途上所視。ツユザエモン、サルオガセ、ウリハノキ、マルバノキ、アブラギク、ヨウラクツツジ、ハナイカダ、マツムシソウ、ブナノキ、イヌブナ、トガノキ、シモツケ、リョウブ、ヤマナシ、ツチグリ、フジマツ、シャクナゲ、キブネギク、キツリフネ、イケマ、クマヤナギ、ヤマオダマキ、シラン、イワタバコ、キツリフネソウ、ダイモンジソウ、マンネンソウ、ミセバヤ、クロモジ、アカジシャ、シロジシャ、キクバドコロ、クリンソウ、半夏《はんげ》、山芍薬《やましやくやく》、ズダヤクシュ、コプシ、ホオノキ。
 この地大黒天の堂あり、波之利《はしり》大黒と号す。また?石をもって大黒天の像を雕製す。長さ一寸に足らず。甲子の日のみこれを作るという。
 十七日
 朝起きて天晴、楼に凭りて湖を瞻る。聞く、この湖近歳まで一鱗なし、と。しかして湖辺の岩石ことごとくこれ火山岩なり(浮石もあり)。宿を出で行くこと里許、竜頭滝あり。懸下するにあらず、斜流奔潰の大なるもののみ。坂を登りて林あり、林を過ぎてすなわち戦場が原に入る。一目広袤数里に竟《わた》り、男体山東方に聳え、白根山北方に峙つ。平沙渺茫、藪沢散在、渓?《けいそん》の碧また紫なるもの、?牛児《ぼうぎゆうじ》の紫花なるものと艶を競い美を衒い、互いに研秀を争う。遠くこれを望めばあたかも縁?彩(24)紋を点ずるに異ならず。原上崩砂の中輝耀返照するものあり、採りてこれを見ればすなわち鉄沙なり。戦場原、一に浅茅原と名づけ、また赤沼原とも名づく、世に伝う、太古ここに神戦あり、よってもって名づく、と。『雲根志』、石鏃の産地を挙ぐ、その中またこの原あり、然らばすなわち太古人種この原に住めるものありしなるべし。しかして中古、小山義政、足利氏の兵と戦う。また、この原においてせりという。原の北方、林あり、林尽きて山を上る。道傍湯瀑布あり、また一奇観なり。輓近の発見に係る故に『日光山志』等の書これを載せざるなり。大槻文彦氏の碑文あり、一六居士の筆、瑰偉雄麗の四字を額書す。その文にいわく、
     晃山湯瀑記                               復軒学人大槻文彦撰
「晃山の瀑《たき》は、その数七十有二。世にいわゆる三大漠とは、いわく華厳、いわく霧降、いわく観背。観背は幽奇をもって勝り、霧降は綺麗をもって勝り、華厳は雄壮をもって勝る。しかれども、こは特《ただ》その顕われたるものを言えるのみにて、その榛莽荊棘の中に隠れたるものの最も奇なるを知らざるなり。中禅湖の北に竜頭瀑《りゆうずのたき》あり、久しく林莽に没す。天保中、?宇|林子《はやしし》、一たび観て激賞し、その名始めて顕わる。しかれども、その最も奇なるは竜頭の上流の湯瀑《ゆたき》に若《し》くはなし。しかして、その名の顕われたるは、けだし北越三条の人笠原文平より始まる。白根山は?然《きぜん》として湖の北二十里に峙《そばだ》つ。麓より温泉を出だし、匯《あつま》りて湖を成し、湯の湖という。湖の流れに委《ゆだ》ねて潰決し、奔りて南壑に注ぐ、これを湯瀑となす。高さ四十五丈、幅十丈にして、その水は一大断崖より傾瀉し、盤旋して下る。殷殷然、轟轟然として、千万の白?の蜿蜒として飛躍し、雪を噴《ふ》き霧を吐き、相拏攫《だかく》して降《くだ》るがごとし。草木|震盪《しんとう》し、山鳴り壑《たに》撼《ゆら》ぎ、真に瑰偉《かいい》絶特の観なり。明治八年乙亥八月、文平は、その郷人源川、小坂井、山田の諸子と温泉に遊び、一日、山に入りてこれを見、絶驚していわく、すでにこの大奇観あり、豈《あ》に、荊榛をして路を塞《ふさ》ぎその美を没せしむべけんや、と。慨然として相|偕《とも》に資を捐《えん》し、榛莽を剪《き》り刑棘を除きて新たに一径を開く。爾後、ここに遊ぶ者はみなその便を得、湯瀑の名始めて顕わるという。その幽を闡《ひら》き微を顕わすの功、なんぞ翅《ただ》に?宇氏の比《たぐい》のみならんや。偉なりと(25))謂うぺし。客歳、余晃山に遊び、また来たりてこれを見、すなわち評していわく、その麗なること霧降に似、その大なること華厳の雄あり、竜頭、観背のごときはその下《しも》に瞠乎たり。ここにおいて晃山の五名瀑として、華厳の雄大、湯瀑の偉麗、霧降の綺麗、竜頭の勇壮、観背の奇峭を創選す。しかして他の凡庸なる飛泉はこれに与《あずか》らず、と。すでにして、人のその記を伝えて新聞紙に入るる者あり。時に笠原氏すでに没し、嗣子これを覧、その父の美を表章せるを喜ぶ。終《つい》に遠道して都に出で、来たり謁していわく、湯瀑の奇は先人に発す、しかして先人の志は先生の文を藉《か》りて、もって世に顕わる、悲喜|交《こもご》も集まる。ために一碑を瀑下に建て不朽を図らんと欲す、願わくはさらにこれを記せ、と。余、その孝思と奇遇に感ずるあり、ここにおいて辞せずしてこの記を作る。」
  明治十五年八月    古研斎主人杉華題額一六居士巌谷修書
 湯瀑の上源すなわち湯湖、広袤十四、五町に二十町という。足ここに至りて鼻異臭を感ず。けだし温泉の気、硫化水素なり。人言う、湖中の鯉鮒また硫臭食うに堪えず、と。湖辺湯本村、地形平坦、白根山西北に聳立し、谿間なお白雪の堆積せるを見る。毎年積雪おおむね絶えず、前釆雨水洗滌して去る、と。浴場所数箇、各その名を異にす。その質、硫を含む。痛風、下腹諸充血、ヘイステリ、ヘポコンデル、慢性下痢、皮膚病、子宮および膣カタル等に奏功すという。この日、浴湯三回。途上所見植物。ウバニレ、山荷葉《さんかよう》、エンレイソウ、ミソガワソウ、ミツバウツギ、トリモチノキ(ウコギに似たり)、伏牛花《ふくぎゆうか》、タラノキ、エイザンカタバミ、ゴゼンタチバナ、キンバイソウ、マタタビ、トチノキ、ツガサクラ、マイズルソウ、イブキヨモギ、シュロソウ等あり。
 十八日
 朝晴、すでにしてまた曇、この日浴湯一回、温を験してF百二十二度を得たり。噴湯の処に趣き、これを見るに、気体滾沸湯中を脱す。硫臭鼻を襲う、久しくおるべからず。灰花の物に着きて異状をなすもの数品を拾う。午前十一時、宿を出でて中禅寺に往く。松下氏、男体山に登らんことを事務所に請う。許さる。しかして時すでに三時を過ぎ、(26)密雲半腹を擁して登るべからず。行きて馬返し辺に至り、雨滴急に下る。清滝に至りて溢々《いついつ》降る。余輩みな所携の薦《こも》をもって身を被い、笠を戴いて急歩す。道険地泥仄歩すこぶる苦しむ。日光に着きしはすなわち七時に過ぐ。会津屋に宿す。この日道傍の家多くヤシャビシャクを栽えたるを見る。また、ニクジオー、紫芝等あり。紫芝のいまだ乾かざるもの、碧彩塗るがごとくはなはだ美なり。
 十九日
 旦起、雨すでに止む。馬車に乗り、今市に至る。ここに松下氏乗車し、悉皆荷物を載せ、余輩単身にして歩す。大沢に中餐す。午後六時、宇都宮に達す。松下氏稲屋に宿し、余、野尻氏と富谷氏に投ず。夜富谷氏と街衢を??す。たまたま祇園神社祭典を行ない、人女群集熱鬧せり。
 二十日
 旦雨ふる。すでにして止む。すなわち停車場に至る。本月十六日開業、俟つこと良久、八時二十五分まさに出発、すなわち富谷氏に訣れ、※口+急]急乗車、噴声一発南を指して走る。石橋、小山、古河を経、途上轟々の音、蜩蝉の鳴声に和し、好景また一種の殺風を添う。汽車、中田に至りて乗客を下ろす。けだし当時利(27)根川橋梁いまだ設けざれはなり。舟楫川を渡り、汽車の大宮より来たるを俟つ。すでに到りてすなわち乗り、久喜、蓮田を経て大宮に至り、中山道の汽車、後に付合し、浦和、赤羽、王子を経て上野に著す。まさにこれ午後一時二十七分なり。
 付記
 今市、宇都宮辺、蟻、胸および腹の上部赤色なるもの多し(図l)。
 日光名産茶台、つた、黄檗、?猴桃、槐等をもってこれを作る。上に印を焼いて日光名木とあり(図2)。
 徳二郎と大沢との間、松樹に一種の菌(Polyporus volvatusなり)生ぜり(図3)。裏に一孔あり、これを剖けば虫出ず。一菌一虫、あるいは四、五虫に至る(図4)。全身黒色、ゴミムシに似たり。腹少々赤を帯ぶ。
 湯本にて聞きしに、日光より湯本まで米を運ぶに馬を用いて、二斗に付き運賃半円なり、と。しかして、その道程わずかに六里。
 湯本の温泉湧く処のあたりに一種の虫あり、熱湯中に生を営むこと奇と称すべし。余いまだこの虫の何たるを知らねども、思うにニューロプテラの一種いまだ羽化せざる、もしくは生涯羽化せざるものならん。
 中禅寺と馬返しの間にクマザサ多く実を結べり。
 
(28)     日高郡記行
 
 明治十九年春二月、予、疾を脳漿に感ずるをもって東京大学予備門を退き、帰省もっぱら修養を事とす。羽山繁太郎君は倶《とも》に白頭を吟ずるの友なり。親しく書を寄せて日高郡に遊ぶを促すもの五回。しかして日高郡入野村は実にわが父出生の地なり。余、遊意ここにおいて決す。すなわちまさに四月五日をもって途に着かんとす。たまたまその日雨ふり大風、頭痛はなはだし。六日をもって途に着く。
 四月六日
 晴、朝八時後乗車、家を出ず。藤白浦に至り天|陰《くも》る。小僮を雇い行李を負わしめ嶺に上る。筆捨松の辺、海面の眺望好景なり。嶺上茶店の人相語りていわく、誰は某堂の下に死し、彼は那所に斃る、と。けだし頃年世事困難を極め、餓?の民しきりにこれあるなり。嶺を下る道傍、蛇紋石多し。加茂谷を経る頃《ころおい》また晴る。蕪坂を上る。路上また蛇紋石多し。嶺上に中餐し、宮原村に至り、小僮を遣帰し、有田川を渡る。架橋人ごとに三厘を課す。この辺長堤|樹《う》うるに黄櫨をもってす。山慈姑《さんじこ》Orithia edulis Miq.まさに花を聞開り。湯浅に行かんには左すべきを、右して行くこと
十町ばかり、道の違えるをさとり、さらに左して歩すること殆里、水尻村に至り松下氏蜜柑酒製造所に至り、谷六兵衛に面す。本日あたかも旧暦の三月三日に当たるをもつて午後傭夫休業せり。よって六兵衛を東道とし、吉川村松下荘次郎に之《ゆ》き、藤助および秀助に面す。荘次郎氏、酒類数種を出だし示さる。すでにして藤助ために行李を負い湯浅駅に至り、仲町に之き清原彰甫氏を訪う。たまたま氏往きて傀儡を観、在らず。よって広久(旅宿の名)に授宿す。藤(29)助去を。書を遣りて戯場に如《ゆ》き、清原氏を招く。しばらくして来たる。婢を呼びて一酌を命ず。款語数刻、更闌けて寝ぬ。この家、業、旅宿と会席とを兼ぬ。階上、酔客、婢と共に躍唄す。鄙夫田舎漢の酔戯は殺風景ことに悪《にく》むべし。
 湯浅駅二流あり、北川、広川という。みなシロウオを産す。この魚の性パッシイブにして潮の来去に随う。よって竹籠をもって流れを受け、あるいは提?をもってこれを取るという。
 七日
 朝七時起きて天を瞻れば快朗、旭輝金波に映じ、風光明媚。喫飯の後、清庶氏と伴い行くこと七、八町、水谷に至り岩石を鎚摧して化石を採る。岩石軟にして保存全からず、好箇の標本を獲ること難し。少《しばら》くして清原氏の寓に如《ゆ》き一茶、同氏に訣れ広久に帰れば、家伴秀助すでに来たり俟ちおり、すなわち行李を負わしめ歩して五の瀬に至る。山路隘にして唆、石礫磊々、歩を艱《なやま》すことはなはだし。渓流の辺、石菖蒲 Acorus gramineus Ait.多し。この辺石灰礦を産すると見え、路傍に積畳せり。この辺石竜胆多し、みな大なり(日高郡中到る処多し。方言キツネノショーベンタゴ)。嶺上、向畑庄三郎氏来たり迎うに会す。よって休憩すること少時、すなわち秀助を帰し、庄三郎氏に行李を托し、藤滝嶺を登る。この嶺、道険にして、かつ長し。嶺の中腹に小瀑あり、すなわち藤滝なり。この辺にカッジイス・フライの黒くして、双尾長く優美なるもの飛べり。またトリー・ホッパールの縁翼なるもの多し。渓声、淅瀝《せきれき》として、風景はなはだ幽なり。嶺を下る渓辺にヒメガニ一を獲たり。まさに蟄を出でしと見え、行動活?ならず。その甲赤褐、螯と脚と紅き桜桃に似たり。和歌山にショウジョウガニと称うるものの一種とみゆ。嶺上見るところ、植物、石竜胆、ツチガキ、?、楊梅、馬酔木、フクベラ、海桐、?、ニッケイグス、キイチゴ、ジゴクノカマノフタ、ヤマツゲ、ミツマタ等なり。まさに艶を競うは、菫々菜と石竜胆のみ。ヒツンジョと方言する木あり、その葉狭長蛋円なり。日高海辺にて石蓴《わかめ》を付くるに最良なりという。嶺下入野村に至るは三十余町なるべし。入野村は一寒村、人家わずかに五十に過ぎず。向畑氏に着きしは四時ごろなるべし。夕、入浴す。浴室竹簀の下に大桶を埋め、汗垢を蓄えて肥料に供(30)す。臭気鼻を衝き、久しく留まるべからず。この辺はみなかくすると見えたり。この朝、日高川にて溺死するものあり、二人死し、一人活す。一屍流下してこの村に着す。村内ために騒囂。夜寝に在りて水声の連《しき》りに止まざるを聞く。日高川流の疾きを知る。庄三郎氏より当郡三十木川の産、銅鉱および石麻を受く。また近村中津川村に満俺《マンガン》鉱を産すという。庄三郎氏へ美人写真六枚、足袋一足、蜜柑酒一罎を贈る。
 八日
 夜来雨止まず。朝、野尻貞一氏の父利助氏来る。領《えり》あて一封を贈る。貞一氏の従弟花田米吉子も来る。午後、庄三郎、米吉二人と河を渡り、和佐村に之《ゆ》き、生連寺所蔵の石品を観る。前住職某の諸国を遍歴して集むるところにして、大小合して三十箱ばかり、雷環、天狗食匙、石鐔、石?(十余あり)等、人をして流涎せしむ。円石塊に蛇鱗印付せるものあり、爪もて剥ぎ取るを得べし。丹波国の桜花石あり、銀色雲母様、桜花状はなはだ真に似たり。馬の鮓荅もあり。その他は銅鉱、玉髄、馬瑙《めのう》、石英、黒曜石、土殷?《どいんげつ》、大理石の属のみ。また化石多く、中には貴重すべきもの少なからず。(この寺、玉置氏の建つるところなり。門辺に権頭法体の像ありという。)余見ること能わざりし。この僻寒の地にして採蒐かくのごとくなるは、その熱心想起すべし。箱に寛政云々の字を書せるを見れば、その人けだし寛政ごろの人ならん。諸人|毎《つね》にこの寺に来たり、石のために銭を擲つこと仏にも優れりという。噫、一はこれをもってみずから楽の資となし、一はこれをもって人を娯むるの具となす。跖曽《せきそう》、糖を使うにおのおの方を異《こと》にすとはこれの謂か。就中《なかんずく》、シラガ石 Hyalonema Sieboldii 最も高評を博すという。予これを見るに、尋常見るところより大なり。箱を入れたる棚の紙戸に数句を貼せり。
  その名ある蕪も今ぞ鏃石
  世の人の言のたねと瓢石
  いくとせをふるとも朽ちじ白髪石
(31) この村に あり、古社なり。
 ここの社辺に老樟樹三、四株あり。長き鑿様のものにて、その根皮を削る者三、四人あり。樟脳を製するには根際もっとも佳なりという。
 九日
 朝起、花田与吉氏来たる。談話|畢《おわ》りて庄三郎氏を東道とし川を渡り〔以下欠〕
 
(32)     明治十九年十月二十三日松寿亭送別会上演説草稿
 
          (1)序辞 (2)社会の変遷 (3)学問の必要 (4)全力の必要、洋行の主意 (5)和歌山今日の景況をもって後葉を推す (6)ラジカル主義 (7)人生の目的、諸氏への忠告 (8)謝辞 (9)唄
 
 はや諸氏の御演舌もだんだんと承りましたが、いずれもなかなかの御出来で、小生の身に爛?五色の彩光を添えたる心地ぞせらる。誠にもって「君子相送るに言をもってす」とは、ありがたしありがたし。そこで予も何か珍論もがなと思えども、別になし。さりとて今日は別れのこの宴に何か申し上げぬも坐興の薄いことと存ぜらるるゆえ、小生今回洋行の主意がかったことをちょっと弁じて、もって諸氏の耳に講《と》かんとす。野人の言、君子採るとか申せば、万一にも諸君のこれを聴きて何か益せらるるところあらんことを望むなり。
 諸君も定めて御承知ならん。西洋にはアーケーオロジーといえる学問あり、日本では古物学と訳定せり。これは人間草創の始まり徙《うつ》りかわりて今日に至れる長き年月のその間に、人間が作り為せる品物としいえば、建築にまれ、衣服にまれ、器械にまれ、銭貨にまれ、乃至《ないし》彼らが食い残せし介殻、魚の骨までも注意して穿鑿し、もって人間社会の変遷を考うる学なり。さて古物学では、社会変遷の時代を三期に分かちたり。まず一番は石の時代にて、人間蒙昧の太古には固《もと》より金属の如何なるものということは夢にだも知らざりしかば、平常、自然に地面に顕れある石を取りて、これを切り、これを研き、種々の器械を作りたり。しかるに火を砕く時、偶然、石中火を発するを見て、火の功用を認め得たるより、従って鉱石をとかして金属をもってどーぐを成すの発明ありたり。これすなわち第二期なり。(33)しかるに、鉱石の中いかなる物がもっともその時代に用いられしやというに、銅また錫が一番用いられたり。その故は他の金属とはちがい、この二物は天然純粋に地上に存し、また他物と化合していても、孔雀石やストリーム・チンのごとく、光彩、色沢を有して、いかなる蛮民の目でみても一《ひと》くせあるべき鉱石としらるればなり。されば、この時期の人間はみな銅もしくは錫をもって器械を作り、もしくは鋼錫の合金すなわちからかねをもって器械を作れり。『日本紀』などにも山の鋼を取りて鏡を作る、とあり。また欧州にても、シーザルごろの剣はからかねなりき。(和銅の弁)
 さて第三期は、鉄の道具を用うる時代なり。けだし鉄は天然自然に地上に存することははなはだ稀にして、その他物と化合して成す。鉱石の溶かして鉄を取るべきものは、その色尋常の土石とさまでかわらず、かつまたこれをとろかすこと銅錫に比すればはなはだ容易ならざれば、到底蒙昧なる人民の気の付かぬことなり。しかるに世が漸々進むに従い、銅錫の外になにか道具を作るべきものを求むるの必要に感ずるに従い、やっとこの発明ありしなり。されば、石をもって道具とする人民はすこぶる蒙昧にて、鉄を自由に使う人民は、今日の最も開化せる人民なり。このことたるや、世界至る処の人間みなこの三期の外に出ずるなし。わが日本のごときも、今日こそ鉄をもって道具を作ることの盛んなれ、二、三千年の古えに当たっては、全国中の人間みな石をもって道具となし、鉄という名も知らざりしならん。現に今日といえども、北海道土人のごときはみな石をもって道具となしおれり。今まで述ぶるところは、古物学上人間三期の話にて、ただただ奇とよび珍と呼ぶだけの咄ではあなれど、これが本日小生演舌の大序発端鶴が岡にして、また小生洋行の一大源因を成すものなり。
 さて、ここに一物あり、その形、斧に似たり。また一物あり、その形、鏃に似たり。前者は沙岩石をもって作り、後者はジャスパーをもって為《つく》れり。そもそもこれは何であるか。前者はこれを雷斧と呼び、後者はこれを雷鏃とよぶ。諸君はすでに今日雷の何物たるやを御存知なれば、固《もと》より雷のかかるものを作る理由なきを知るならん。しかるに、往古人民は雷雨後土欠け崩れなどせる場所より不意に見出だすをもって、雷公所持の道具をわすれていったものと見(34)做《みな》し、別に天へ還すわけにもゆかぬゆえ、これを祠に祭り、あるいはこれを箱におさめ、綿に裹《つつ》み、その形状の異れるに従い、ばちとか斧とか刀とか鏃とか、いろいろに名をつけたるなり。しかしながら、これは決して雷公の遺失品ではなく、全く前に申した石期時代の人民が命のたからと使いたる道具にして、時代をふるに従い、その人も死し死体も亡せ、その社会のありさままで伝わらねども、ただ堅い性質の故をもって、石で作れる道具のみ残り止まり、時代をふるに従い土中に埋れおりもがなと思いおるところへ、幸いに雷がおち、雨がふり、あるいはその他の事故で土をあばかれて顕れ出ずるなり。現にこの斧は、小生みずから東京山林学校内で掘り出し、鎌は美濃国うぬまのごうの間各務野で拾いしを購収せり。今日の蛮民のこれらの道具をつかうを聴くに、鹿の皮にて斧の頭をつつみ、その鹿皮へ柯《え》をさしこむという。また矢の根も同じく鹿の皮の紐にて、やがらへ縛り付くるとなり。さて、この斧は東京で掘り出したものゆえ、定めてべらぼー連江戸子の御前組の使われたるものなりや、と問われんには、決して然らず、と答えん。日本歴史を手に取って見られよ。一日一考すれば、直ちに現日本人民はこれ本来この土に固有の人種にあらざるを知らん。何となれば、その歴史、西部のことに委《くわ》しく東部のことに疎なればなり。
 すでにわれわれの人種すなわち現日本人種の外には、国栖といい佐伯といい、熊襲といい隼人といい、土蜘妹といい蝦夷といい、種々|薩?《さつた》の人間の蕃殖せしを知るべし。しかるに、これらの人種はみな滅亡して跡だに見えず、わずかに蝦夷人種のみ北海道に残存せり。けだし、わが日本はそのかみ数多の人種ありしを、おのおの生存のために人種と人種の間に競争を生じ、そのきょーそーに強かりし吾人の種族はことごとく他の種族を平らげたるなり。されば光仁、桓武のころ、しばしば大いなる兵事を興して駿河辺にある蝦夷を討ちとり、坂上田村麻呂の軍功を顕わせしは諸君の知るところなり。このわけを知りてこの斧を鑑定する時は、何の苦もなく何人のこれを作りしかを知らん。すなわち今こそなけれ、むかしは武蔵辺にわが現日本人種の住まざりしころ、はびこりおりし蝦夷人がこれを作りしことの明らかなるべく、また鏃もかつて美濃辺に住みし蛮民の作りしこと明らかなり。さて、何故にわが日本人種がよく(35)他の人種を平らげたりやと問うに、全く当時他の種族の開明の度は遠く日本人種の開明の度に及ぼばりしにあり。わが朝廷には官文武を別てり。しかるに、彼ら蛮族中には政府だもなかりき。わが将士は立派なる甲冑を着け、利鋭なる兵器を提《と》りたり。彼ら蛮族はわずかに石斧、石鏃を用いしのみ。わが人民は農桑の業を務め、儲畜、運輸の法を知れり。彼ら蛮民は天然の果実、獣鳥を取り、その場で食い、みずからとり、みずから用いたるのみ。その他何にまれかにまれ、彼ら蛮族社会のありさまがわが日本人種に及ばざりし故に、ついにかくのごとく滅亡あとを絶つに至れるなり。
 談ここに至れば、吾人初めて一大憂苦の吾人心中に浮かび出ずるを覚えん。この心配たるや、自分一人、首の座へすわるほどのことならば、さまでにもあらねど、わが日本人一般の運命に関することと知るべし。前日われわれの先祖が蝦夷などの人種に向かいてなせる競争は、今日転じて、わが日本人と欧米人との競争となれり。吾人にして、このままうかうかくらさば、四世五世を経ずして、ついに彼らのために蹂躙絶滅さるるに至らんことは鏡にかけて見るごとし。力は権力なりとは彼らのしばしば称うるところなれば、いかなる万国公法が完全であろうが、世界一般一政府の下に帰しょうが、人種間の競争は別なものゆえ到底絶滅は免れざるべし。しからば、今日いかにしてその絶滅を免れ、さらに彼らをふみ従えんとならば、試みに見よ。前日、蝦夷人の日本人にまけしは何故なるや。日本人の制度物事の美なるを見ながら、資《と》りてもってこれに傚《なら》い、みずから勤《つと》むべきを了《さと》らず、頑然かかる石器などを用いおりし故ならずや。されば今日、日本人が欧米に入りて、その土をふみ、その物をみ、その人間の内情を探り、資るべきはすなわちとり、傚うべきはすなわち傚い、もってみずから?むることははなはだ要用なりとす。これ余の今回米国行を思い立ちし故にして、時期もあらばなおまた欧州へも渡らんことを欲しおれり。
 多少のきずなを切りて、かの土にありても勉めて時刻と金銭を浪費せずに、身体強固に勉強すべし。しかして諸君が日本に在りて、勉めて眼を社会の動静に注ぎ、よくその身を保つに、始めて国家を泰山の安きに置き、僕帰朝の日(36)に当たり、わが大八洲をして呉下の阿蒙たらざらしめんことは、これ余が諸君に向かいて願うところなり。諸君、何分その身を自重し、よく勉強なされて、もってわが国社会開明の度を進められよ。
 何分、今後なお一層親密に願いたく、今日の会はまことに愉快、諸君に向かいて感謝に堪えざるところなり。いずれ遠からず帰朝の上、御目にかかるが、しばしの間は今日ぎりの分れゆえ、面白くゆっくりと遊ばれんことを望む。
 
(39)     上京日記
 
大正十一年四月十六日午後一時前認め始め、
 (この状は、雑賀君宛として、なるべく早く『牟婁新報』へ御連載下さるべく候。遅々としては役に立たぬべき性質のものゆえ、「鳥を食うて王になった話」などは中止として、この状をなるべく僅少の回数にて御掲げ尽し下されたく候。)
 
 大正十一年四月十七日午前二時前認め始む。
   雑賀貞次郎君
             東京市京橋区銀座二ノ一四
                  高田屋旅館にて  南方熊楠
 拝呈。小生田辺出立およびその後の様子を妻子知人へ報ぜんにも、日々多忙なるため一々筆を操る能わず、本状をもって貴下に報知申し上げ候間、何とぞ然るべく『牟婁新報』紙をもって御披露願い上げ奉り候。けだし小生今回の東上は実に三十六年めのことに有之《これあり》、妻子知人すこぶる小生のために心配すること少なからざる儀と存じ申され候につれて、ほぼ本日までの事歴を一同の前にさらけ出すは、その厚意に酬ゆるの最便法と存ずるをもってなり。
(40) 大正十一年三月二十六日 快晴
 田辺の自宅にあって朝八時起きる。荷物を調え、午下りに及び成る。金崎宇吉氏と石友《いしとも》の細君と、予のために船切符を買わんとて先発す。一時過ぐるころ、予、人力車に乗らんとする時、雑賀貞次郎氏に遇う。よって留守中のことを同氏に頼み、小幡捐氏門より乗車し、もと鈴木久枝女がお茶屋を営んだ家の前に至る時、尾崎象三郎氏追っ懸け来たり、波荒くかつ満員なれば明朝出立せよと勧むること切なり。よって引き還し尾崎氏の細説を聞き、本日の出立を思い止まる。ところへ金崎氏と石友細君来たり、商船会社支店松本氏の好意もて三等切符手に入れたと告ぐ。よってまた歩し出で、江戸松氏の船を傭い室井厳氏と同乗上船、二等室に入る。雑賀平三郎氏も来会す。室井氏より和歌山聯隊司令官塩谷義太郎氏(静岡県人、陸軍大佐)船長室にありと聞き、室井、雑賀二氏とその室に往き、軍政等のことに付き談論す。夜八時に少し前、和歌浦着。水上警察署の小舸で上陸、聯隊長に別れ、舎弟方より迎いに来たりし男と雑賀氏を伴い、茶店に入って一盃飲み、電車で汀町に至り雑賀氏と別れ、迎いの男と予の姉の宅に往くに、姉は東京へ往きたる由で姪夫婦あり。しばらく休みたる上、舎弟方に往き直ちに臥し眠る。眠る前に舎弟妻より大阪筆の屋毛利氏へ電話かける。十時過ぎ毛利氏より返事あり、今夜鐘淵紡績会社、毛利氏と予を迎え演舌会を開き、毛利氏一人出席、演説後饗を受けしとのことなり。舎弟妻、このことを予に伝えんとせしも、予熟眠中にて一向耳に入らず。
 三月二十七日 時
 朝九時前起く。十時過ぎ県庁に往く。途上湊橋西詰にて舎弟常楠大阪より還るに遇い立談す。それより県庁に之《ゆ》き、まず水産試験場に詣《いた》り、岩井隼平氏に面し、藻の標品を貰い受く。これは東京に持ち行きて、岡村金太郎博士にその藻の名を聞かんためなり。岩井氏案内にて小原知事に遇い、半時ばかり談話、それより県庁を辞し公園を遊歩し、一時過ぎ小人町に武津真彦氏(撃剣家)を訪い、共に舎弟方に至りしばらく話す。二人予を見送り、市駅に至り、予は舎弟の男常太郎と同乗し、点灯後梅田駅に至り、電話にて聞き合わすに、毛利氏はすでに自動車で当駅に向かい宿所を(41)出立せりとのこと。しばらく俟つうち同氏来たる。毛利氏先だって乗車し、予は後れて乗る。ところへ毛利氏来たり合す。常太郎より金を受けんとせしも、ちょうど発車し双方の手が届かず。車内満員、言語に絶するの雑踏ゆえ、止むを得ず毛利氏と共に洗面場に箕踞す。毛利氏何とか仕方もあるべきかと車内に入って立ちおるうち、一人あり、予の名を雑誌どもにて知りおり、毛利氏より子細を聞いて大いに気の毒がり、妻子を寝台に移し、予の坐り場所を拵えくれる。次に毛利氏また椅子に坐するを得たり。この時、車はすでに京都に着せり。それより後も車内の混雑ますますはなはだしく、予の背後に立ち終夜困りおる人あり、予の左足の上に坐し、夜を明かす人あり。予は小便迫れども動くこと能わず。ラテン語の動詞変化などを暗誦して徹夜眠らず。
 三月二十八日 晴、やや寒
 夜明けに國府津駅を過ぐ。八時ごろ東京駅に着し、毛利氏その荷物を駅に預け、予の信玄袋を持ち、電車に乗り、予の姉方に向かう。この間の風物全く三十六年前と異なり、ただ常盤橋辺の旧城壁、予が明治十六年岩倉公の葬儀を見しときと変わらずに少し残存するを見る。神田神保町より小石川に至る間も、建築は全く旧に異なりたれども、町形は旧のままなるを覚ゆ。小石川砲兵工廠前で電車を乗り替うる。ここまではやや旧態あるも、それより先は全く知らぬ所のみ。けだし新開の道路たり。竹早町に至り下車、姉の宅を尋ぬるに半時以上かかる。ようやく尋ね当たったは、予が在京のおり竹藪ばかりで道もなかった所で、故菊池大麓男の持地たり。姉の宅の向うは大麓男の聟美濃部達吉博士の宅たり。大麓男は生平予のことを特に賞揚されたと、去年拙宅へ成られた徳川頼倫侯より親しく承った。今姉の一族がその旧宅跡に住むこと、何かの因縁であろう。
 予は咋朝食後全く絶食で、車中少しも眠らず、今朝毛利氏が食堂から牛乳一合持ち来たりくれたのを用いたばかりゆえ疲労はなはだし。よって姉に乞うて白粥を拵え貰い、ようやく人心地付く。姉の子は医科大学助手たり、黴菌学を専門にす、まさに大学に往かんとするところへ予訪い到りしなり。毛利氏もここで午餐、この間種々評議して、こ(42)の辺は東京市の中心を距ること遠く諸事不便なれば、予は舎弟の商店主管永武寿三郎氏の宿所に移ることと決せしも、その町名番地分からず。それを明らめんがため、姉の子垣内善八、毛利氏と同伴して近処なる神谷文太氏方へ出掛ける。この人は三河生れ、年来東京方面における舎弟商売取引の世話をなし、現に舎弟が深川に建設中のアイヨン・ビール製造工場を監督さる。当日児女をつれ博覧会見物に出でたる由で、永武氏宿所分からず。毛利氏はそのまま自分の宿所新橋館に向かって去る。予は姉と長話して夜に入る。八時に及び神谷氏来たり、明日は横浜に之《ゆ》くとのことで、この上凝滞すべきにあらざれば、四十時間以上一睡だもせざる疲労の身心をもってまたまた電車に乗り、京橋区富島町の真鶴館に至り、永武氏に面会。たまたま舎弟東京における最古の取引先、増本氏店の支配人浅川氏も来たりあり、十一時過ぎまで話し、神谷、浅井氏は去り、予も始めて就寝安眠す。
 三月二十九日 快晴
 朝七時起く。中村啓次郎氏より電話あり。よって八時過ぎタキシーに乗り毛利氏を訪い、同乗して、床次内務大臣官舎に赴けば門前に中村氏の自動車あり。氏は前着して予輩を俟ちあり。早朝より大臣に面会を求め、竢ち合わす人多く秘書官沢氏応接に遑《いとま》なき様子、洋服着たる六十七、八の老人に向かい三十歳ばかりの書生風の人霊魂に付いて熱心に講釈する。老人また屈せず弁難もっとも力めしが、やがて老人の順番となり、内相に謁し了り帰りさまに件《くだん》の書生風の人に向かい、この議論決して負けたるにあらず、後日摂州住吉に来たれ、必ず汝の迷妄を解き遣るぞと言い捨てて去る。跡で聞けば、この老人は金光教会の頭分某で、書生風の人は内相の実弟某氏とか。内務大臣はすこぶる劇職で、したがって来客中に異種奇態の人多しと承った。そのうち予の番が廻って来たり、中村氏紹介、毛利氏の序辞で内相に面謁、内相最も予を歓待され、研究所趣意賛成、また寄付金を承諾さる。それから中村氏の自動車で築地三丁目堂野前種松氏に詣り、中村氏は去る。午後二時過ぎまで堂野前氏と快談大笑の末、毛利氏と予の旅館に帰り、毛利氏はひとまずその宿へ帰る。この夜、平林甚輔氏より招待され、木挽町花屋に赴く。相客中村啓次郎、竹中治三郎、(43)毛利清雅三氏、この夜の様子はすでに本紙に載せられたと察するから繰り返さず。多くの芸妓の中、八官町の竹新《たけしん》相模《さがみ》の咲香《さきか》というが、もっともお眼に留まった。咲香という名を入れてナニかと望まれたので、
  惚れたのはお前がさきか春の雁
 これは「花を見捨てて往く雁よりも思ひ思ひは人心」という古いどど一に拠ったものじゃと云爾《しかいう》て置く。この家の女中頭はなかなかの美女と見受けた。以前の女中頭は原前首相の思い者たりしと聞く。
 三月三十日 晴
 朝七時半タキシーに乗り堂野前氏を訪う。毛利氏来たり俟つ約束なりしに来たりおらず。よって堂野前氏とその自動車にて毛利氏を訪い、同乗して中橋文部大臣私邸を訪うに、半時ばかり前すでに出で往くとのこと。よって電話を仮り、内田外務大臣に面会を求むるに、久しく俟つも埒明かず。堂野前氏の分別にて中村啓次郎氏を訪う。昨夜初対面の竹中治三郎氏も来たる。氏は和歌山出の人なるも、和歌山のことは知らずという。主人も出で来たり、予の降三世明王や大喜楽仏定に関する真言密教談を傾聴し、また予が画き出だせる高野山丹生明神の眼は、無上の閨怨を表現せるを見て、一同随喜渇仰せずということなし。この間、中村氏より高橋総理大臣、内田外務大臣へ電話で懸け合い在所を確め、十時半中村、堂野前、毛利三氏と首相官邸に詣り、面謁。首相は明治十六年より十七年まで共立学校で予に英語を授けられたる縁あるにより往事を談じ、一笑ののち寄付金あり。堀越書記官を大蔵省に訪い、目録書き渡さる。十二時過ぎ外務省に往き、内田外相に謁す。ロンドンにありし日とかわり、外相鬚髪すでに霜を帯びたり。一番に問わるるところは近ごろ酒は如何となり。寄付金を自署されてのち追出し、堂野前氏方に帰り、食事し、人力車に乗り真鶴館に帰れば、不在中へ小畔四郎氏来たりしとのこと。しばらくして『東京朝日』記者中川という法学士来たり、植物学の初歩を話し聞かせという。左様のことは学士とか博士とかいう輩に聞くべしと打ち返す。ずいぶんえらい見幕に駭《おどろ》いて早々去る。夕に及び、小畔四郎、上松蓊、毛利、神谷諸氏来たる。上松氏に頼み酒を求むるに、す(44)べて東京の商人宿は客に酒を出さず、飲むならば外へ出て飲んでくれとのことなり。酒なくては談も成らずとて一同を帰り去らしめ、明朝三時まで諸事始末してわずかに眠りに就く。
 三月三十一日 雨
 朝六時起きる。七時過ぎ堂野前氏の自動車迎いに来たり、永武氏と同乗堂野前氏に詣り、予の自動車費として二百円、永武氏より堂野前氏へ預ける。予は往年キュバ島へ行った時、身体不相応の重量ある深靴を穿ち、岩山を歩き廻った。それは、かの島到る処、ジゴ一名ジッガーなる虫多し。蚤に似た細《こま》かい物で、好んで足の指の爪の下に食い入り、最初は何も覚えぬが、肉中で豌豆《えんどう》のごとく膨脹し、何とも言えぬ痒痛《かゆいた》さを起こし、人をして苦悩のため起《た》つことも伏すことも成らざらしめる。島人これを防ぐとてみな跣足で歩き、家に還るごとに足の爪の下を探って一々これを駆除する。靴をはけば反って虫の侵入が多いと言うた。しかるに、予は跣足で岩山を歩行は至難と考え、あらかじめ至って深い靴を拵えて往った。かの島にはかようの靴を修繕など思いも寄らぬから、一両年は行《ある》き通しに行いても減《へ》らぬように、きわめて厚く靴の底を打たせたので、虫の患は防ぎ得た代りに、靴の重さに堪え兼ねて足が脱疽のごとくなり、のち英国に渡ってより寒冷の日ごとに足がしばしば脱け落ちるように感じ、一時は全く両足を切り除かにゃならぬなど聞いたが、種々養生して、幸いに事なきを得た。しかるに十四年前の秋末、大和国玉置山に登り、東牟婁郡三里村へ下らんとする途中、山崩れのあった跡で目が暮れ、止むを得ず霜中に一夜を臥し明かしてより、足がまたまた悪くなり、時に消長あるものの到底健全に復せず。今度上京後ますます痛み出して、車でなくば外出し得ず、訪問先はいずれも官衙や会社に出勤さるる人々ゆえ、早朝より八時までならでは面会を遂げ得ぬから、自動車で駆け付けてからが、わずかに一、二氏に謁し得るに過ぎぬは困り切ったことである。
 永武氏は今夜和歌山に帰るはずで別れ去る。この人天性篤実、堂野前氏筆写中の法隆寺壁画菩薩像を覧るとて跪坐膜拝《きざぼはい》せり。それより堂野前氏と自動車に乗り、毛利氏を訪い同乗。中橋文部大臣を訪えば中村啓次郎氏も来たりあり、(45)二階にて文相に謁し、寄付金の約あり、文相狸を好むをもつて田辺湾辺の豆狸のことを話し、退出。文相特に戸の口まで見送らる。毛利、堂野前二氏と同乗して、浜口吉右衛門氏を訪うに不在。小竹岩楠氏も来合わせしと聞く。ひとまず堂野前氏宅に引き上げ、日本酒二盃飲み笑話す。午下り、毛利、堂野前二氏と同乗、銀座二ノ一四、高田屋旅館に至り、この宿きわめて閑静なるを見極め、今夜より移り寓することに定め、また同乗して交詢社に至る。大広間で名は知らず、けだし著名の作者らしき人と浄瑠璃のことを話す。一老紳士あり、予ともと共立学校で予が高橋首相より英語を学びしころのことを話す。また杉村広太郎氏と岸敬次郎氏に遇う。三十六年めと四十四年めの再会なり。やがて階上の食堂にて、竹越与三郎氏と双び坐し饗を享く。竹越氏、予を一同に紹介の演説あり。予短く述ぶるところあり。馳走了って階下に退く。階上には相馬、伊集院二子爵の蘭類に関する演舌あり、蘭花多種を瓶に挿し並べたり。予は階下の大広間にて種々標品を示し、研究所の必要を説く。鈴木富士弥、古島一雄等諸氏環り聞く。その梗概は四月十五日の『日本及日本人』「雲間寸観」に見えたり。柳宗太郎氏後れ到りしきりに残念がるゆえ、また標品を出し示す。竹越氏も来たり、足利氏の末、堺に商人の組合猛勢なりしことに付き、予と話す。これより先、饗席にても前年氏の高著『二千五百年史』に加藤清正のことを書かれたるに付き、外人より疑問を予に出されたることに付き話せり。このうち理事長鎌田栄吉氏来たり、しばらく対談す。予の講釈いまだ始まらざるに、毛利氏は記者大会へゆく。予は堂野前氏と同車してその宅にゆき、堂野前氏の浄瑠璃十段目腹切り場を聴く。小畔四郎氏来たり、しばらく話して去る。夜、堂野前氏と自動車で小石川なる予の姉を訪う。不在中へ『太陽』主筆浅田彦一氏来たる。高田屋へ帰りしところへ、三井物産の六鵜保氏釆たる。五年前田辺に予を訪いし人なり。この夜より毛利氏、予と同宿す。
 四月一日 晴
 朝十一時山本農相を訪うはずのところ、中村啓次郎氏朝早く出たまま帰宅せずとのことで止めとなる。銀座の果子《かし》商千本三冬氏来たり寄付金あり。これより先、昨日交詢社にて講話ようやく済みし跡へ木村駿吉博士より即達《そくたつ》郵便に(46)て寄付金あり。当日の『東京朝日』紙で予の上京を知りしとのことなり。すなわち今度寄付金の先登は木村博士、第二番は千本氏なり。午下り毛利氏、堂野前氏方より帰るに、紋章学の大家沼田頼輔氏を同伴せり。二時ごろまで話すと木村博士来たる。二十九年めで再会。博士鬚髪すでに白し。ロンドンの拙宅を尋ね一宿されし夜、ビールを大飲して小便のあけ所なく、誤って尿器を覆し下の部屋に寝た客の口に予輩の小便が入り、いわゆる「小便をこぼれし酒と思ひしは、徳利見ざる不調法なり」で大争動となりしことなど話し大笑せり。誰も知る通り、この博士の兄は浩吉中将で、往年北白川宮の御遺骸を台湾より奉じ還りし人、父は幕末の名士芥舟先生で、威臨丸に乗って米国に使いするとき、故福沢翁を従僕中に加えてその志を遂げしめたる偉人なり。夜上松蓊氏来たる。次に堂野前氏の長男来たる、今年医学士になるはずとのこと。この日午前十時半、和歌山県前知事鹿子木小五郎氏、五十六歳で荏原郡大崎自邸で卒去。
 四月二日 半晴
 毛利氏朝早く出で午下り還り、総理大臣の全国新聞記者招待会へ往く。夜八時過ぎ、井戸鈴女、堂野前氏の末男つれ来たり、久しく毛利氏をまてども還らず、十時過ぎまで予の室で話して去る。十三年前、牟婁新報社の書記たりし南翁の孫で、久しく田辺小学校に教師たりしが、前年東上して筑土小学校にあり、はなはだ評判好き由。
 四月三日 晴
 午下り、毛利氏帰り来たる。昨日総理大臣の招待会で雄弁を揮い大喝采の由。それよりまた精養軒の招待会に之く。午後、小畔四郎氏、十六、十二になる女子二人と六歳になる男子つれ来たり、三時間ばかり話して去る。この人、予、明治三十四年冬落魄して那智にあり、厳寒中に単衣を着、繩を帯にして岩を砕き検査するところへ来合わせ、傾蓋たちまち旧友のごとく、予の宿所に伴れ還り、快談して別れし。その後毎度、予の学問に援助を与えられ、一昨夏共に高野に登山したり。今度郵船会社北海道支店長となり、近日赴任に付き、その子供が予の学才にあやかるようにとてつれ来たりしなり。この夜予の姪、横浜のサミエール商会の主管たりし柴田家に嫁しある者、その夫と弟をつれ来訪さる。
(47) 四月四日 晴
 午後、毛利氏、中村古峡氏を伴い来る。この人年若きに変態心理学に通じ、近く大本教を撃破して生色なからしめたること、あまねく世の知るところなり。四時に及び、堂野前氏と日本興業銀行副総裁小野英二郎氏を訪い、寄付金を受く。実に三十二年めの再会なり。
 四月五日 晴
 午前十時、中島滋太郎氏、次に小畔四郎氏来たり、二氏および二氏斡旋の日本郵船会社員よりの寄付金を交付さる。夕、毛利氏帰宿、予を手伝い、右諸氏への受領証を出す。夕飯後、毛利氏は新富座へ観劇にゆく。夜九時過ぎ、小畔氏来たり、また寄付金あり。十一時ごろまで話して去る。中島氏は甲斐の人、二十六年前ロンドンにて毎度予と往復せり。
 四月六日 陰
 朝八時過ぎ、兄の第三男栄一、今度予と初対面なるが、札幌農科大学に入学合格の由告げ来たる。九時過ぎ、集古会長三村清三郎氏来訪。十二年前、林若樹氏と予を田辺に訪れしも、予安堵峰にゆき不在なりし。東京で有名の人格者なり。次に堂野前氏夫妻来たる。昨日毛利氏に托して茶一箱呈せし箱に書き付けたる狂詠を短冊に書けと望まれ、すなわち禿筆を馳す。
  もり岩井宇文字川下せきの山、奥は静かに琴をひくなり
 午後三時過ぎ、堂野前氏と早稲田大学に往き、高田早苗氏に面会、市島謙吉氏にも初対面。高田氏より京浜の人々へ紹介書受けることとし、四時過ぎ帰る。この辺の風物全く三十六年前と異なり、人家櫛比して、もと和歌山学生会を開きし筑土八幡社など全く見る影もなし。途上鶴巻町とかいう所に失火あり、大騒ぎなり。不在中に東京控訴院判事尾佐竹猛氏来訪あり。夕、白井光太郎博士来訪二時間ばかり話すうち、姪の聟来たり白井博士は去る。昨夜、旧友(48)武藤武金氏へ出せし状、本人死去の由付箋して帰り来たる。この人はハーバード大学で園芸学を卒業した人なり。
 四月七日 晴
 堂野前氏世話にて、上京以来集まりし寄付金を十五銀行へ預ける。午後二時過ぎより堂野前氏宅にて義太夫本の講釈する。毛利、中村二氏なども聴聞さる。
 四月八日 半晴
 朝、堂野前氏と自動車で目黒に至り、鎌田栄吉氏を訪う。その居邸宏壮にして優雅、けだし地の理を得たる上、人力を尽せるものなり。英国田舎華族の別荘に遊ぶかと疑わる。氏の邸に到る一町ばかり前の小橋辺のみ、三十七、八年前の眺望を存し、その他は全く隔世の観あり。主人と対話三十分ばかり、旧藩主侯より寄付金のことを受け合わる。別れ出でて赤坂見付より麹町に入り、浜口担氏を訪うに不在、午後三時前より堂野前氏宅で義太夫講釈、聴衆座に満つ。夜、中島滋太郎氏夫妻および二女つれ来たる。
 四月九日 晴
 朝九時起く。堂野前氏より電話あり。今日は日曜なれば、すべからく安心して高臥すべしとのこと。午後毛利氏、津浦徳太郎氏同伴、堂野前家総支配人長瀬氏を招き、寄付金を精算す。毛利氏は本日限り予と同宿を止め、津浦氏方に移る。(明晩帰路に就くはずなり。)夜、三村清三郎、林若樹二氏来たり、三時間ばかり話し、二時ごろ去る。林氏より集古会誌予従来蔵せざりし分五十七冊、外に慶長十五年京都板耶蘇教本『こんてむつすむんぢ』和訳の摸刻一冊贈らる。三村氏、年来諸名家の書画を蒐めたる判取り帳を示し、予に一筆を望まれしも、以ての外の大儀たるにより、後日別に認めて贈ることとして別れ去る。
 四月十日 晴
 朝八時過ぎ、堂野前氏と自動車に乗り、浜口担氏を訪い、二階にて快談。三人同乗、虎の門のケンブリジ・オクス(49)フォード学生倶楽部に至り、浜口氏は下車。これは本月十二日入京すべき英皇太子歓迎に付いての協議のためにて、当日奉呈すべき赤地錦で装うたる巻物を見る。予は赤地よりも緑と紺を雑えたる方優りしはずと思う。それより野田逓信大臣を官邸に訪う。大臣予の研究所を国庫補助とすべきの議あり。このことに付き、堂野前氏は中村氏その他へ相談に奔走さる。予は宿所に帰る。(不在中、毛利氏来たる。)午後、中島滋太郎氏が郵船会社員より集めし再度の寄付金を送らる。上松蓊氏来たり合わせ、領収証を認め送る。この間、陸軍中将押上森蔵氏(小石川砲兵工廠長)より電話あり、今夕七時来訪とのこと。七時まで俟つも来たらざるゆえ、上松氏とまさに出でんとするところへ押上氏来たり、宿の入口にてしばらく談じて別れ、予は上松氏と精養軒に行き、兼ねて上松氏より注文し置きたる羊肉を食うに、思いしほど旨からず。堂野前氏を訪い、上松氏に別れ帰る。(この夜、毛利氏、東京を出発す。)
 四月十一日 雨
 朝、『太陽』主筆浅田江村氏来たる。この人、神戸の関西学塾出身、二十年ほど前、聘せられて新宮にあり、新聞に従事せしが、半年ならぬうち金主死し、東上して十六年来博文館にあり。今少しく新宮におったら飛んでもなき眼にあうところなりし由。午後三時過ぎ、堂野前氏自動車にて迎えに来たり、上松氏と同乗してゆき、義太夫の講釈す。夜、露人ネフスキー氏来談、大阪行きの汽車に乗り後れ、蒼皇辞し去る。
 四月十二日 晴
 朝九時前、堂野前氏と同乗、山本農相を訪う。中村啓次郎氏すでに来たり俟つ。農相ほか一人と快談。また議論一時に余る。奉加帳を留めて出で還る。明治二十九年、農相、日本銀行のために英国に便いせし時、予その随行員今西豊氏と旧ありしをもって、農相を大英博物館に案内し、農相と並座して食を賜いしことあるなり。この日、英皇太子入京、奉迎の人出おびただしく、自動車通路を断たれ、止むを得ず神田辺を迂廻して帰るうち、泣き面に蜂で自動車に故障を生じ、二人車より出でて立つこと久しくして修復叶い、始めて帰り得たり。夜、弘学館主江藤邦松氏来話、(50)予の著書出板に付いてなり。
 四月十三日 晴
 和歌山出身南満鉄道会社理事官島安次郎氏より若干金を寄付さる。
 四月十四日 雨
 宿の下女して乾酪を買い来たらしめ食う。きわめて美味なり。
 四月十五日 晴
 午後三時、堂野前氏と山本農相邸に詣り、寄付金を受く。それより堂野前氏宅に至り、頷下の鬚剃りもらう。予は多年鬚を抜く癖あり、したがってその剛きこと野猪の鬣《たてがみ》のごとく、剃刀が反って壊《こわ》れる。氏も大いに驚く。むかし山中鹿之助の鬚がちょうどこんなのだった由。中村啓次郎氏来たり、梅本香伯氏の三絃に乗せて、勘平腹切り場を語る。予は酔うて強く眠る。この間に中村氏は大阪へ出発す。夜|寤《さ》めて宿に帰る。神谷氏来たり、共に銀座通りの露店を見る。上京来始めての歩行なり。
 四月十六日 晴
 午後、『読売新聞』記者内田栄氏来話。次に観音普門舎の土居秋水氏来訪。内田氏また来たり予の横面を写真して去る。十八日の『読売』紙に出る。この間、帝国ホテル出火、ギリシア人一人焼死。夜七時過ぎ、政教社三田村鳶魚氏来たり、十時過ぎまで話して去る。島田蕃根翁や中江篤介氏に学びしことあり、土宜僧正知人なり。この人江戸の文学に精通し、軟文学についての著述多きこと世の洽《あまね》く知るところたり。
 四月十七日 晴
 午後一時半、堂野前氏と床次内相を訪うに、なお官邸にありという。よって官邸に赴き、沢秘書官に面す。やや久しくして内相に謁し、寄付の自署を得、また大久保利武氏等への紹介状を受く。それより沢秘書官と話して帰る。宿(51)にて堂野前氏と話すうち、浜口担氏来たる。次に、摂陽汽船会社で田辺で討死の親分杉山康智氏、サイト製紙会社の主任金本万吉、興業銀行の工藤昭四郎氏と伴れ来たる。夜に入り、共に堂野前氏に詣り壁画を見んと、予まず人力車にてゆく。かの人々来たらず、よって帰る。この夜久しく大雨雷鳴、また夜半に雹降り安眠し得ず。
 四月十八日 晴
 午後、博文館『太陽』編輯部一同を代表して、浅田江村、中山太郎二氏来たり、寄付金あり、長話して去る。夜、三井の六鵜保氏来たり、七時より十一時まで話して去る。それよりこの状書き終われば、十八日の午前三時ごろなり。この日、予浅田氏に話せしは、以前は予ごときもの上京せば学生押し来たって論難をしかけしものなるに、今度一向そんなことなきは、学生がおとなしくなったとや言わん、はた卑屈になったとや言わん、と。上京中感じたることども、きわめて多きも次便に延ばすこととせん。
 四月十九日 晴
 朝九時前、長瀬福治氏来たる。予ちょうど朝飯中なり。自動車を待たせ食事終わり同乗、四谷南伊賀町に大久保利武氏を訪う。狭き町にて、ちょっと分からず、遅参、ようやく尋ね当たりて客間に一時間近く待つ。やがて主人出で来たり、予の説明を聞いて大いに感心され、啓明会理事鶴見左吉雄氏へ叮嚀なる紹介状を認め渡さる。宿に帰りて昼寝熟睡中へ下女来たり、北野博美氏訪わると告ぐ。よって起きて面談す。この人、齢三十歳、至って篤実温厚の人なり。前年より『性之研究』を発行し、ずいぶんよく売れるが、生来病身にて一月来休刊、しかるに某呉服店の主管同情して出資し、来月よりまた刊行を続けるよし。その妻千加女二十六歳との間に子二人あり。千加女は才姿兼備の人、去年接吻のことを妙筆で書きしより二百円の罰金に処せられ、すでに入監せんとせしも、博美氏田舎の持宅を売って償いしと聞く。いずこにも化物と金とはなきものと浩歎これを久しうす。
(52) かかるところへ、「汝と幼年の友たりし井林なり、これより行くつもり、可なりや」と電話で聞き合わすものあり。「猶予なく来たれ」と返事するに、たちまちその人来たるを見れば、明治十九年十二月十四日、新橋まで予を見送りくれた切り一信だになかった井林広政氏なり。伊予の大洲の士族の子で、当時大学予備門にあり、予と名を斉しうした乱暴少年なりし。かつて共立学校の寄宿舎で賄征伐をやったとき、予は飯二十八椀食い最高点を博し、井林氏は次点で二十六椀を食いしが、二人ともこれがため胃病となり大いに苦しんだ。只今逢い見るに、井林氏は頭髪すでに半白となりおる。予は昔日と少しも変わらぬよし、井林氏言う。北海道の鉱山で儲けたが、追い追い失敗し、只今は年に三ヵ月ずつ漁業権を得て十二万円ずつかかるという。道楽は浄瑠璃で、日々市外大井町から銀座辺へその稽古に来る。これより一所に大飲みに出かくべしとすすめらる。その言動活?にして、三十六年前と少しも異ならず。よって互に健康を祝し快談す。上松蓊氏夕刻来たり、北野、井林二氏は去り行く。上松氏その友人どもより集めたる寄付金を渡さる。
 四月二十日 時
 午後三時、長瀬氏来たる。人力車にて農商務省にゆき、大久保利武氏の紹介状を出し、農務局長鶴見左吉雄氏を訪う。面会すれば、本月十二日朝、山本農相と笑談するを側にて聞きおりたる人なり。かつて水産局長たりし由。赤星家が学術奨励のために立てたる、啓明会より補助金を得べき手続きに付き懇話さる。それより帰宿すると、理科大学助教授田中茂穂氏より夕飯後来談すべしとの電話に接す。夜七時過ぎ同氏来訪。この人、本邦の魚類学にくわしく、啓明会の出資で『日本魚類図譜』を出しおる。一昨年末、宇井縫蔵氏とつれ、予の田辺の宅へ来たれり。好酒家なるをもって酒四合ほど出し、飲み、十時過ぎまで話して去る。
 この間、木村仙秀氏来たる。弘前の人で、学を好み好古の癖あり、修学のため上京せしも子細あって表具師となれり。大正四年、米国植物興産局主任スウィングル氏田辺拙宅へ来たりしとき、予の本町ぬし惣家蔵「山の神草紙」の(53)写しを見て垂涎千丈、是非にとその模本を望まれたので、広畠幾太郎氏に原図を写させ、予みずからその全文を書いて送りLを、ス氏日本出発前二、三日、大忙ぎでこれを表装して銀梨地の巻物とすべく表具師を募りしも、応ずる者なし。時に白井博士、木村氏を薦め、その丹誠で立派に仕上げたるに二十五円かかったと聞く。集古会誌上久しくその名を聞くが、面会は今夜始めで、きわめて美麗なる人なり。予の研究所寄付金の奉加帳折本は、毛利氏が大阪で去年買うて寄付されたものだが、寄付人名多きため、白い場面が乏しくなりぬ。よって第二篇として、萩原製極美本の寄付帳を上松氏より寄付されたが、中村啓次郎君いわく、寄付というものは十方檀那で、甲乙を別つべきものにあらず、誰も彼も大臣や巨紳と同帳に記入を好むものなれば、一、二と編を分かつは不可なり、と。よって上松氏を介して木村氏を招致せるなり。しかるに木村氏言うようは、毛利氏が買うた折本と同じ幅、また同じ紙質のもの、当地になければ、今一本を買い入れて二本を一本に継ぎ合わすことはきわめて難事なり、紙質の異同はしばらく措き、長さは裁ちて整え得べきも、幅の不同を同一に変ずることは決して成らず、と。その時傍にありし田中氏、そんなことは構わず、南方さんの物に構わぬところを示すが却って愛嬌になるから、紙幅不同のまま二本を一に合すべし、奉加帳一にして事足らず、続本を継ぎ合わすこと、企業成功のため吉祥の兆ならずや、と言われたので、木村氏も不体裁に構わず幅の異なる別本を継ぎ合わすことに決して、十一時過ぎ去る。
 この人、民俗学に注意深く、年来予の書きたるものを精読せし由にて、種々奥羽の民俗につき話さる。奇談多かりし中から一を挙ぐれば、氏が生まれたる弘前市には、毎年三月二十五日、積雪始めてとけ春色始めて現わる。手習い子ら競うて天神祠に詣り、社辺の壁に習字を掛け示す。この日社畔に小店を並べ、特異なる小壺に子蟹一疋ずつ入れて売る。これをマメガニと呼ぶ。小児これを買い帰り、糸をくくり遊ばせなどして慰みとす。習字に出精せし褒賞なるべきが、今はこのことも追い追い廃れ忘られ行く、と。熊桶謂う、琉球で子が生まれたとき、子蟹をその体に這い行《ある》かすることあり。蟹のようにすこやかになれという祝儀のよし。この弘前の風と併せ考うべし。また西鶴『一代女』(54)か何かに、出羽最上の豪富が、吉原の高名の遊君に通ううち、一つの小箱を贈る。それを開くと無数の豆蟹這い出ずるを見れば、そのころ江戸に傑出した蒔絵師に、その客自分とその遊君の紋所を金泥で描かせあった、とあった。紀州などでは蟹の子を何とも思わず、魚釣の餌《えさ》とするばかりだが、奥羽地方ではいろいろと風雅な方に用いたと見える。
 四月二十二日 晴
 午後三時ごろ、理科大学教授渡瀬庄三郎博士来訪。この人、予米国にありしころ、ジョンスホプキンス大学にあり、カブトガニの研究をもって名を欧米に馳せ、その他高名の論文多く出だせり。紀州の豆狸その他について、予の話を聞き筆記さる。予、また去年の『牟婁新報』に載せたる、『広東新語』その他の支那書にカブトガニの血は碧色となることにつき氏に質すに、カブトガニの血は無色なるも、空気に触れば必ず淡青緑色となる、その理由については今に一定の論なし、と教えらる。氏またいわく、タヌキは支那語の直訳なるべし、南支那の商人より前日タヌキの皮を買いしとき、これは何と名づくるぞと問うに、「田ぬ皮《ひ》」と答えた、「田ぬ」をそのままタヌキと直したので、ヌキは狗ということならん、と。予いわく、『源氏物語』に童僕の名イヌキというあり、狗の子という義ならん、ヌキは狗子で、タヌキは田狗子の義なるべし、田辺の俗、今も熊公八公というところを熊キ八キと呼ぶ、と。氏またいわく、本邦特産のムグラモチ近属にヒミズムグラ、また山ムグラという物あり。ウゴロモチに似て小さく、毛が金色に光る。本邦にあって金属光の毛ある獣はこれ一個のみ、他の国になきものゆえ特別保護法をも適用すべきはずだが、少なからぬ物ゆえそのままに置く、と。予いわく、熊野の山中には到る所に多く、炎夏しばしば山道の岸より出でて死におる、日高郡|山路《さんじ》辺でツヅミネと呼ぶ、思うにその手が両方に背き鼓を打たんとする勢いを示すに似たればならん、と。それより、史蹟名勝天然記念物保護のことに付き、種々質問あり。予いわく、前年予らこのことを主唱せしとき、大学の人々その他等一向気に留めず、予らを見殺しにし、喧嘩過ぎの棒千切りなり、今となってそんなことを聞くは六日の菖蒲ならざるを得んや、と。その論、大体前日毛利氏が県庁で三好学博士に向かい述べしに同じ。三時間ばかり(55)長談して点燈後教授は去る。
 その前に三田村鳶魚氏来たり、近日神田青年会館で、頭山満、三宅雄二郎二氏と熊楠を聘し、政教社同人主催で講演を請わんため参れり、と。予いわく、講演などいうことは予に不向きなるも、砂画師然と畳に坐して衆人環視の内に標品を示しての座談ならば致すべし。頭山満は当代の巨傑、筑紫西郷の名あり。三宅氏また威望王侯に駕す。予はかかる人々と伍すべきにあらざれど、出まかせの座談ならば致すべし、その準備して拵え話を述べんも如何なれば、明日を除きいつでも宜し、呼びにさえ来たらば参上して不準備のまま出まかせに述ぶべし、と。けだし啓明会へ淡水藻譜出板の補助費請願書を出さんため、たぶん明日岡村博士が東道太郎氏に面会し、その書きようを伝授するつもりでかくは言いたるなり。渡瀬教授去って後、神谷氏来たり、しばらく談じて上松氏と共に去る。夜、南満鉄道会社理事島安次郎氏より懇書あり、氏は近く大連へ向け出立す、と。
 四月二十三日 晴
 日曜ゆえ遅く起く。午後三時過ぎ、岡村金太郎博士より葉書着、「博覧会多忙、次いで近々地方歴遊のため今度は面晤を得ず、いずれ書面にて諸事相談すべし」とのことなり。午後五時、木村捨三氏(仙秀)来たり、本月二十日夜頼み置きたる寄付帳を二倍以上に継ぎ足したるを渡さる。氏みずからはまことに不出来と謙遜せられたが、その手並は実に驚くべく、まことに学問ある人の芸能はまた別な物と感心した。共に紅茶をすすって、いろいろ民俗学、考古学の話をなす。只今『集古』紙上で沼田頼輔氏と予との「軍配団扇論」はどうも南方さんに団扇があがりそうだと、過日京都の考古大家小泉氏とかの噂だったとのこと。これは、近日『集古』へ出るはずだが、その大要を述べると、
 予が、軍配団扇は戦国ごろより文献に見ゆると言ったのに対し、沼田氏は、児玉党の諸氏はいずれも軍配団扇を紋に付ける、さて『平家物語』などに児玉党は団扇を旗印に付けたよしを記しおるが、源平ごろには尋常の円い団扇を旗印にし、足利氏の中葉以後これを軍配団扇に変じたと言わば言い得るが、足利氏の中葉以後は児玉党の諸氏が遠隔(56)せる諸国に分かれおった。乱雑混戦の世の中に、諸国の児玉党の諸氏がことごとく揃うて円い団扇の紋を軍配団扇の紋に変じたりとは思われず。故に、児玉党は源平ごろすでに軍配団扇をその紋としたと見るが至当で、軍配団扇は源平合戦の当時すでに日本にあった、と論ぜられた。
 これに対し予は、軍配団扇の最も古きは、京都太秦広隆寺にある聖徳太子の持ったという物を『古今要覧稿』に載せある。自分見ぬゆえ真偽は知らぬ。また護良親王が用いたという軍配団扇が熊野にあるよしをも聞いた。故に、戦国以前に軍配団扇がなかったと断言はせぬが、軍配団扇が文献に明記されたのは戦国以前に見えないというのである。
 さて紀州粉河に粉河団扇とて名産を出した。これは児玉氏にちなんだものらしい。紀州那賀郡とその隣郡には、南北軍の時他国より討ち入った武士がそのまま土着した者少なからず。山名、一色、土岐、畠山、桃井、その他多かるべし。児玉氏もその一つで、近代高名の児玉仲児、その子亮太郎氏の一家は粉河に住み、その他にも児玉氏ありと聞く。粉河祭へ児玉党の人々が大なる団扇を携えて行列に加わる図が『紀伊国名所図会』に出でおり。また、これを見た人より聞いたは、ことのほかなる団扇を持った者が、騎馬武装せる児玉氏の人々に随うて練り行《ある》いた由。田辺の中学校長伊藤宣将氏は粉河町の生れなるを幸い、故老等に聞き合わせ貰いしに、この祭、維新後断絶せるが、近来また再興せり。その旧儀、口伝等を知ったる老人は、死に絶えて詳しきことは分からねども、児玉氏は粉河町外に住む者もこれに参列する権利あり。大団扇は尋常の団扇大の物で、柄の長さ二、三間あり、屈強の壮漢二人、各一本を担《かた》げて出ずるなり。その団扇に馬という字を大書し、「伯楽講」という講中よりこれを寄進す。馬商売する者を伯楽(バクロ)というから、その辺の馬商連から寄進したと見ゆるとのことなり。
 粉河は観音第三番の札所で、観音が白馬王と化して羅刹の手から五百商人を救うたことは仏経に見える。したがって、むかしは江戸の浅草を始め、観音を馬の守り本尊とし、その寺で馬市を催した例が多い。南北車の際、児玉党が足利方として紀州に打ち入り、土着して郷士様のものとなり、粉河付近に住み付き、その家の子郎党は東国で得意だ(57)った馬の輸出や売買を営業して多く博労になり了り、または主人の指物にちなんで粉河団扇を作り売つたので、件《くだん》の祭礼に児玉氏の子孫が粉河外に住む者までも参列権あり、その家の子郎従は、むかしを忘れず、博労組より二本の大団扇にその売買品たる馬の字を書して持ち従うたものと見える。
 また『太平記』の武蔵の合戦の条にも、尊氏の寵童、当時無双の美少年の饗庭命鶴丸、生年十八歳、花一揆の大将として梅の花を兜にかざし、打って出ると、官軍の大将の新田義宗が、花を散らすはウチワに限ると言って、団扇の指物した児玉党の軍兵を差し向け、これを打ち破った、とある。軍配団扇は、『和漢三才図会』に、俗にいわく、唐ウチワ、漢名方扇とあって、現に予ら少時和歌山や京阪では、もっぱらこれをトウチワ(唐団扇)と称え、軍配ウチワと言っては分からなかった。本邦でいと古く外国渡りの物を、クレノハジカミ、カラナデシコなどと、呉や韓をもって名付けたが、唐朝最も最大を極めてから後は、トウガラシ、トウケンなどと唐をもって呼んだ。カラウチワと言わずに、トウウチワまたトウチワと呼んだところから考えると、軍配ウチワすなわち方扇は、在来のウチワに比べてはるか後に支那より伝来したと見える。
 軍配ウチワはずいぶん重いもので、軽々しくあおぐべきものでなく、これに加うるに、粉河祭の児玉党の遺風が尋常のウチワの大なるものを用いるところから見ると、どうも児玉党は源平の時はおろか、南北朝のころまでも尋常のウチワを指物に用いたらしいというのが、予の論の主旨である。
 四月一日、沼田氏余の宿に訪われしとき、鎌倉時代とか足利初世とかの絵巻物に軍配ウチワが描かれあるを見出だしたとのことだが、予も右に述べた通り、聖徳太子の用いたという軍配ウチワの画を見たこともあり、決して戦国以前に軍配ウチワなしというにあらず、ただ戦国以前文献に見えぬと言ったまでで、絵巻物の画も文献の外に出でずと言わばそれまでだが、児玉党の紋は右述ぶるごとく、初めは尋常のウチワで軍配ウチワでなかったはず、と今も重ねて主張する。一昨年春は、予、沼田氏の肩を持って、釘貫紋のことで黒川氏の説を被り、今春はまた沼田氏と軍配団(58)扇で筆戦を重ねる。世の廻り合せは不思議なものである。
 木村氏は午後五時から十時まで長話して去られた。いろいろと珍しい話を聞いた。その中の一つを挙げると、氏が生まれた陸奥の弘前市で、毎年三月二十五日、雪始めてとけ春色ようやく萌すを期し、郊外の大円寺という真言宗の寺にある天神様へ、衆人参詣引きも切らず。この日、市中の児童兼ねて習い置きし文字を清書して、堂の内外、壁といわず垣といわず貼り付けて展覧会を開く。この寺に仙台以北唯一という特別保護の五重の塔あり。元来懐紙の半分を半切というので、半切紙の長さ一尺六寸ほどに極まりおる。その半切を百枚続くればちょうどこの塔の頂きから地に達する。千字文を書けば百枚の半切をあたかもふさぎ得るゆえ、能筆の児童は千字文を半切百枚に書いて塔頂から懸け下ろすを規模とした。また杉の大木の頂きより頂きへ綱を渡し、時々その繩を上下して清書の紙を掛け示した。これらの清書を見るため市中の士女酒肴を携え、一見の後、この寺眺望よき勝地ゆえ初春の景色を賞し飲んだ。ここにもっとも面白いは、この参詣の道中に小店多く出て、特にそのために製した小さい壺に豆蟹一疋ずつ入れて売る。沢蟹の子で、小さいものがようやく春気に乗じて山中の石の下などに出たものだ。沢蟹は紀州日高郡でヒメガニといい、行動遅緩でまことにおとなしく、躁ぎ奔らず、柿の核のような茶色でウルシを塗ったように奇麗に光る物だ。田辺近傍にも、稲成村その他の谷に多い。それを壺に入れたまま清書を見せた児童が父兄に買い貰い、みやげとして持ち帰り、弄んで楽しんだ。近年|件《くだん》の蟹を入れ売る壺が高値に付くとて釜元が廃業したので、この風が廃れ、蟹も売れなくなったということじゃ。熊楠いわく、『三州奇談』という書に、加賀か能登か越中の某の天神社では、毎度蟹多く出ずるを小児が弄ぶ。それを大人どもが戒めると、夢の告げに、小児が面白がることを止めるのはいけないとのことで、以後小児のするままに弄ばせた、とあった。むかし玩具など行き渡らぬ辺地では、小児が蟹をもっぱら弄んだらしい。
 それから沢蟹の子を豆蟹というは始めて承るが、西鶴の『一代女』に羽州最上の某大尽が吉原の遊君を悦ばしょうとて数十疋の蟹を贈ったことは前にも書いたが、書き漏らしたから補遺して置く。この蟹の甲に大尽と遊君の紋所を(59)金泥で蒔絵にしてあって、あんまり可愛らしいから、その遊君悦んで始めて笑顔を見せた、とあったと記臆するが、この蒔絵師は当時江戸第一の称ある塗師吉兵衛という者じゃ。予の知るところでは、これが豆ガニという名の最も古く見えた物で、何に致せ、辺地では風雅なことが行なわれたものと感心した。
 この夜、神戸の藤岡長和氏へ久々で一書を出し、寄付金の景況を報じた。
 四月二十四日 陰中後雨
 朝八時過ぎ、堂野前氏へ電話して、徳川頼倫侯は南葵文庫で本日開催の図書館会議に臨まるる由、昨日の新聞で見たが、すでに上京されたかと聞き合わすと、いまだ上京されず、と返事あった。午後三時、上松氏来たり、諸友よりの寄付金を交付さる。精養軒の分店カフェー・シンバシの主人も来たり、点燈後まで話して去った。この人は二年前愛妻に死なれ、それより世を果敢《はか》なみ、もっぱら霊知学を修む。よって斯学に必要な書名を数えくれとのことなり。予いわく、そんなことを研究するに及ばず、さほど恋しくば、その亡妻が毎夜貴公の前に逢いにくる法を教ゆべしとて、『観仏三昧海経』の大要を説き聞かすに、大いに満足して去った。何か御礼に差し上げんとのことゆえ、羊の肉を煮て持ち来たれば足る、と言い置いた。それから寝に就かんとするところへ、帝大の田中茂穂氏来たり、啓明会への補助金請願書式を示され、十時過ぎまで話して去る。
 四月二十五日 快晴
 朝八時四十五分、ちと遅いと思うたが、堂野前氏方、長瀬氏と自動車に同乗し、もし留守だったら面会を得るまで毎朝訪問する決心で高輪の岡崎邦輔氏を訪うと、主人折よく居合わせ、即急の不意撃ちに大いに驚き対面、寄付金を快く渡された。それより予新発見の珍物一覧に供すると、すでに山本農相より問いたりとて快話の末、今夜大阪へ下る、大阪表で勧誘集金の上、二十九日夜一度熊桶宿所を訪うべしとのことで、帰れば岸敬太郎氏より大枚の寄付金を贈らる。それより岡崎氏今夜汽車中で読み笑うべきため、同氏と農相に宛てたる珍文一篇即達郵便で出す。夕六時過(60)ぎ、興業銀行副総裁小野氏の息俊一氏来訪、この人三十歳、大戦争まさに始まらんとするときドイツへ留学、予とは未見の人ながら馬関より書籍数冊贈られた。それは伊藤貫一氏へ寄贈した。氏はドイツに入ることならず、露国に趣き修学中大乱となり、大正七年に辛うじて逃げ帰り、今は帝大にあり、動物組織学を修めおる。好学の人にて、この夜六時間、生物学や心理学や哲学の話を予より聞き、満足して十二時過ぎ帰った。
 四月二十六日 陰午後晴
 七時半起きて長瀬氏を俟つに、九時五分同氏ようやく来たる。自動車に乗り、中橋文相を訪う。来客二人、話し了るを待ち大臣に謁見す。しごく懇待され、寄付金は明日現金で長瀬氏を召喚して手渡すべしとのこと。食事を供しゆるゆる話して聞きたきも、何様政務多端ゆえその意を果たさず遺憾なりとて、戸の口まで見送られ帰る。この時、予と入違いに鶴見農務局長来たる。去年徳川頼倫侯より親しく承りしは、前文部大臣菊池大麓男は生存中毎度侯に向かい予のことを話され、日本のために惜しい人物と称揚された、と。しかるに、上京以来中橋文相の予を懇待さるること尋常一様のことでないは、すこぶる感鳴するところである。別るるに臨み、種々注意するところあり、また堀啓次郎氏へ紹介の旨認められた。堀氏はもと予と同級生たりしも親交なきゆえなり。
 宿所に帰れば神谷氏来たり俟つ。長瀬氏と三人話すうち、十時十分より十五分間大地震あり、予は別段何とも思わなんだが、宿の下女など泣き出し来たり惑う。女将は持仏堂に走り入り、『法華経』を高らかに唱う。女は定《じよう》が慧《え》に勝るというが、まことに胆の坐った婦人と感心した。予の室の一隅も天井より土落ちることしきりで、室に遠からぬ鴨居は上の壁から五寸ほど揺り下がり、堅く両柱間に挟まって容易に動かず、今二十八日までそのまま残りおる。屋根の瓦も諸所ずれ流れあり。近来|稀《まれ》な大地震で、京浜に死人もあり、壊れ崩れたる家や石垣も多く、水道も諸所で潰れたよし。しばらくして新川の酒商浅川常章氏来たる。いわく、自分の倉の中の醤油三十樽落ち敗れ、倉中まるで川のごとくなれり、と。予いわく、酒樽がそんなになったのなら、片付けは予一人で受け合いましょうと、一同大笑す。(61)帝国酒醤油新報社長塚本氏も来たり、標本等一覧。五時間ほど話し、午後四時前去る。浅井誌氏肝煎りにて酒商連より大枚の寄付金を受く。この話中、静岡より原摂祐氏、予に面会のため来たる。この人世界に名高き菌学者なるも、例の予言者は郷国に識られずで、静岡県農会の書記たり。俗務多忙のため十分に研究を続け得ず、昨年五月十五日田辺へ来たり一宿、菌学のことを話し、翌日去れり。予かかる篤学者の研究を何とぞ助成せんと思い、自分の研究所より補助せんと思いしが、差し当たり啓明会の補助を請い、一日も早くその業を成さしめんとて招きたるなり。しばらく話して去る。今朝の大地震の際、氏は汽車行進中にあって少しも知らざりしという。
 浅川氏ら去ってのち竹川寅次郎来たる。この人は摂津灘の酒造家の子、もと大学予備門で予と同級生たり。今の医学博士樫田十次郎氏の父君の家に同宿し、三十六年前、予洋行出発の節、新橋停車場まで見送られた。大学は卒業しなかったが、自分で哲学や心理学を修め、只今大塚の奥田裁縫学校にいるよし。奥田夫人は紀州東牟婁郡大島の産、かつてインドに渡り、只今は裁縫を教えおるよし。次に上松氏、諸氏よりの寄付金を持ち来たる。次に水産講習所の東道太郎氏来たる。岡村金太郎博士の助手で、多年淡水藻を研究し、九年ばかり前しばしば予と文通した。今度研究所確定の上、予、日本淡水藻図譜と日本淡水藻品彙を出板するに付き、この人と商議を要すること多くて招きしなり。東氏と対談中、竹川氏去る。去るに臨み、上松氏を別室に伴れ行き、竹川氏実家で醸造せし特別の美酒二升を上松氏の手を経て旅館帳場へ預けて去る。濫用せぬよう時をもって予に差し出せとのことなり。もって旧友交情の厚きを見るべし。
 夜、三村清三郎氏来たる。本月九日夜、「判取帳」と題し、あたかも商売の判取帳同様のものを出し、諸名士の書画多かる中へ予の加筆を求められたのでその夜は辞退したが、二十一日夜、女が琴を調ぶるところを画き、
  かがなべてかかアほど可愛ものぞなき
  なきものは南方さんの相府蓮
(62)  子安貝をば宝貝と呼ぶ
 発句は連歌の鼻祖と唱えらる、日本武等の「ニヒバリ筑波をへて幾夜か来ぬる」との御問に、「かがなべて、云々」と燭をとる老夫が答えまいらせし故事に拠ったので、故森田思軒などは日本に尾韻を踏んだ歌は多いが首韻を踏んだ例はないと言ったが、『万葉集』すでに「網《あ》びきすと、アゴトトノフル、アマノ、云々」と首韻を踏んだ例あり。後世、英一蝶の「タガカケヤ、タガタガカケテカヘルラン」など、首韻だらけの俳句もある。その例に倣うて、カの音の首韻で満ちた発句をやって見たのだ。これが三村氏の気に大層入ったと見えて、高尚な?石にみずから「南方植物研究所」の七字をほって持ち来たり贈られた。氏の話に、先日横浜で春意の絵画から白楽独弄の具に至る一切の品物の展覧会を催せし者二人、おのおの五百円の罰金に処せられ、当時の観客は一人も漏らさず証人として喚び出だされた由。東氏去って原氏来る。九時過ぎに、三村、上松二氏去り、十時前に原氏去る。竹川氏が呉れた酒を一本帳場より徴発して飲み臥す。
 四月二十七日 快晴
 午前十一時、堂野前氏と自動車に同乗し、木村平右衛門氏を訪い、寄付金を受く。氏の亡父君も兄君も予は知人で、三十六年前渡米に前《さき》だち、予の携帯金を亡父君に預け置いたことがある。明日帰県すると語られた。堂野前氏話に、氏の義太夫の師匠梅本香伯氏、今夜新橋の小松屋の女将(東京で有名な美人で、浄瑠璃の名人)とつれ予を訪わるるはず、と。これは前日堂野前氏宅で予が義太夫の講釈したとき、毛利氏と梅本氏が『名木伽羅千代萩』などいう伽羅とはどんな物かと問われた、よって実物教授に限ると思い、上松氏に伽羅を求め来たるよう頼んだところ、数日間横浜で探し、ようやく長さも幅も二寸足らずの伽羅の一片を持ち来たり呉れたので、長瀬氏に托して梅本氏に贈った、その礼にこられるとのことだ。
 この伽羅というは、インド語でアガロチ、このガロを伽羅と漢訳したのを、日本でキャラと読んだらしい。西洋で(63)アキラというたもアガロチより出たので、アキラはラテン語で鷲のことだから、その意に取り成して英語で伽羅を鷲の木(イーグル・ウッド)というに及んだ。後インド地方に産する「やどり木」、寄生木といっても田辺近傍に多いマツグミが松の枝に生えたり、チョウズノキが木犀に生えたり、木が直《じか》に他の木に生えるのでなく、見たところ一本立ちで生えおる。伽羅の木の根をよく吟味すると、その端がそれと離れて生えおる別種の木の根に連なりおり、それから甘《うま》く汁を吸うて生きるので、終《つい》には伽羅のために他の木は精分を吸われて枯死する理窟だ。仏前に焚く白檀また檀香というのも同類で、同様の生活を営む。これも熱帯アジアに産する。この類の植物は、主として熱帯地に産し、温帯の諸国には至って少なく、英国には一種しかなく、日本内地には、日光山等に生ずるコギノコという潅木と、諸国の堤防や原野に生ずるカナビキソウという小草と二種しかない。伽羅と沈香とは一物じゃが、普通には沈香の木の瘤になって、堅く最良の部分をキャラというらしい。このキャラを「奇南」と書くこともある。これは、むかし後インドに占城(チャンパ)という王国があった、その国の詞で伽羅をキーナムといったのを、音訳したのだ。
 むかしは、今日のアフリカ、アラビア諸国と同じく、日本でも湯をあびるというは、以ての外の大儀と心得、日常湯を浴びる代りに身体や衣服を煙でくすべた。これは垢を去るよりは、シラミ、ノミや、種々の邪気、病毒の伝染を防ぐに大功あったのだ。高貴の家になると種々の香類を焚いてその煙でくすべたので、後には身をくすべ病毒をふせぐという半実用、半装飾の本意から遠ざかって、香道という特異の芸道をさえ生じた。香には合せ香とか焚き物とか、いろいろの法も伝授もあるが、もっとも重んぜられたのはキャラで、遊君など黄金白銀を蔑視するに反し、キャラを貰うてことに悦んだ。したがって、有名な嫖客大尽をキャラ様と称えた。また善尽し美尽した物を伽羅と唱えた。『名木伽羅仙台萩』の名は人口に膾炙し、大内義隆が亡びたときキャラの橋が焼けて幾里も香気が達した、という話あり。伊達・細川両家の武士がキャラを長崎で競買して、負けた方が主人への言い訳に切腹したと伝う。かくまで重んぜられたキャラも、徳川氏の中葉以降は追い追い重用されず、今では梅本氏ごとき義太夫の名人すら何のことやら分から(64)ずして、予に質問さるるに及んだ。予よって上松氏に頼み、横浜で捜し貰うと、方二寸にも及ばぬ一片を手に入れ持ち来たり呉れたので、堂野前氏を経て梅本氏に贈った。非常に悦ばれ、守りとなして佩ぶることとし、さてこそ今夜小松屋女将と共に礼を述べに来るとの知らせがあったのだ。ただし、女将頭痛起こったため三十日に及ぶも来たらず。予、女将にも一片を贈らんと上松氏に頼んだが、後にも前にも右の梅本氏に贈ったものが横浜にあった最終のキャラで、もはやどんなにもがいても手に入らぬ物のよし。これより前《さき》、二十四日の夜、帝大の田中茂穂氏来たり、試みに件《くだん》のキャラを少し欠いて火鉢に投じたが、キナ臭いばかりで何のかわったこともなかった。これは乱暴なやり方で、香道はそんな無茶な物にあらず、それぞれいろいろの物を合わせ焚いて始めて佳香を生ずるのだ。すなわち甲香《かいこう》といって、田辺では酒屋の男衆が粥に入れて食うと裸でも身に寒気を感ぜぬ、コウカイ(香螺)という介のヘタがある、それを焼いて灰としたのを加えなどするのだ。これは日本、支那に限らず、今もアフリカなどで香をもって身をくすべるに必ず用うる。それから直《じか》に炭にのせてはいかな名香も佳香を発せぬゆえ、銀葉すなわちキララを焼いたやつに載せ、穏やかな火で漸々あぶりて始めて佳香を発するのである。こんな講釈を聞いた後、堂野前氏は去った。
 四時過ぎ平沼大三郎氏来たり、次に上松氏集めた寄付金を持ち来たられた。平沼氏は、横浜の故平沼専蔵氏の孫で、貴公子然たる若者だ。去年『東京日々』紙で、平瀬作五郎先生と予が年久しく松葉蘭の発生を研究しおると知り、全く未知の予に、『松葉蘭譜』一冊を贈られた。氏は人類学を好み、明日あたりより信州諏訪へ有史前の住民の遺跡を調べに行くよし、また秋田県の某地方の郡誌を編みおる。出来たら一本贈ると言われた。四時間ほど談して辞し去られた。
 四月二十八日 快晴
 朝八時過ぎ、堂野前氏より電話あり、昨晩遅く中橋文相より寄付金取りに来たれと電話あり、長瀬氏出頭して拝受せり、と。また今夕六時、楠本武俊氏大阪へ出発、とても熊楠に面会は成るまじとのこと。それより毛利氏へ状認め(65)るところへ上松氏来たり、仙台の鴻儒故岡千仞先生の二男高橋本枝氏等よりの寄付金を交付さる。夕、原摂祐氏来たる。次に昨年まで明治大学長だった木下友三郎氏来たる。大正三年七月、徳川侯田辺へこられた時、侯の名代として小山邦松氏案内で予の宅へ来られし、朝十時過ぎから夕の七時過ぎまで長話して去られた。それから八年めで今夜の面会だ。種々珍談中、原氏は去る。啓明会より原氏の菌学研究費を請願する件を予が話すと、幸い同会理事長枢密顧問官平山成信氏は木下氏と懇交あれば、請願書に白井博士や予の証明状を添えて木下氏より取り次ぐべしとのことだ。
 明治十九年十二月、予、米国へ渡る前に、湯島で諸友より送別会を開かれた写真が今も田辺にある。それに見えた出席者三十一人の中、現存するは、舎弟常楠、竹川寅二郎、角谷大三郎、木下友三郎、今井義香、浜口吉兵衛、井林広政、中松盛雄、平岩内蔵太郎、野尻貞一、江上喜三郎、田岡正樹、小松省吾、神谷豊太郎の十四人で、宇治田虎之助、長尾駿郎、木野誉之助、寺村昇、谷友吉、谷富次郎、吉田永次郎、中駒次郎、津田安麿、津田藤麿、島崎静太郎、志賀信三郎、渥美卯杖、園田宗恵、池田元太郎、井上幸太郎の十六名は死亡した。就中《なかんずく》、吉田永次郎氏は大戦争の最中大分成金だったと聞いたが、今度予の上京を聞いて竹川、井林等他県人すら義兵を挙げて馳せ来たるに、この人音沙汰なきは予九歳のときからの旧知なるに比して不審と思いおったところ、今夜木下氏より始めて数年前はや物故されたと聞いて驚いた。この人の兄吉田直太郎氏も湯島の送別会に出られたが、早稲田大学第二回の最優等卒業生で、予より一年後れて渡米し、いかなる故にか今に行衛も生死も不明と聞く。これは亡父が常に紀州第一の人物と賞揚した人であった。それから木下氏話に、去年南葵育英会で日高郡富安村の生れで明治十二年ごろ木下氏と共に出京した古田実氏に会うた。年老い貌も変わりたるが、われを見識れりやと問うに木下氏一向知らずと答うると、名乗ったので始めてその人と分かった。埼玉県の某高等女学校長だが、もはや職に堪えず悴をして代わり勤めしめおる、と言ったよし。この人の父佐四郎というはかの村の庄屋で、予幼時毎度亡父を尋ね来宿した。明治七、八年ごろすでに西洋の事情を暗《そら》んじ、ちょうど田辺の今の原秀氏の祖父同様の開進家であった。
(66) 木下氏またいわく、故菊池海荘翁の孫三九郎氏は、詩文を能くし、現に早稲田大学に教えおる。この人祖父の建白書類を集め出板せんと思うも、某年某月のものは見当たらず、故瀬見善水翁と不断文通したからその家にあるべし、何とか手蔓を探しおる、と。予いわく、善水翁は予幼時毎度父の宅へ来られ、予が五歳で猫や三味線を書くを見て、これは佐助(亡父の若い時の名)に不似合な麒麟児なり、後世畏るべし、と常に言われた。翁の孫があまり人が善かったので家産傾き、ついに北海道に移って間もなく死なれ、その家は断絶と聞く。その人が妾として愛した田辺菱屋の種子という女は、三、四年前まで和歌山丸の内で福助といって四十歳ばかりで依然左褄を取りおった。瀬見氏を傾け、その他幾多の人々を興廃させた関ヶ原同様の古戦場的の美女だというと、木下氏、俺なんかはこの通り白髪になっておるが、貴公は今に髪が全く黒い、何か妙術があるのか、四十余って芸妓を営業する美女よりも、貴公の若々しい仙術を聞きたい。熊楠いわく、それがそれあんまり関ヶ原ならぬ女の腹で戦わぬからだ、一体貴公らは古戦場を好き過ぎるから早く腰に梓の弓を張る次第だと、相顧りみて一笑した。さて菊池翁の建白書はことごとく予が写しを持っておる。それは、予と遠い姻戚になる北塩屋浦の羽山大学翁と海荘翁と瀬見翁とは、桃園に準じた三人同盟の友で、維新前後の珍事奇聞を毎日海荘翁から瀬見氏に飛脚して報じ、大学翁は至って筆まめな人で、ことごとくそれを筆記した。近年羽山氏衰えてその筆記が蠹食し尽さるるを憂い、予これを翁の孫芳樹氏より借り受け、全部六十余冊を写し置いた。三九郎氏入用の建白書は、何年何月何日と指して告げられたらさっそく田辺で写して差し上ぐべし、と。木下氏大いに悦ぶ。
 八時から十二時まで長話して名残り惜し気に立ち去られた。故津田出氏全盛のころ、二男安麿氏と予と親交あり。三男藤麿氏は木下氏同級で、日曜ごとに予木下氏と伴うてその邸に出入したが、前日浜口担氏を訪うとて自動車でかの邸のあたりを通ると、邸はほぼ依然だったが、出氏父子は全くあの世へ転宿されおるには、有為転変、無常迅速と歎息した。この夕六時過ぎ、楠本武俊氏来たり、半時間ほど話して倉皇大阪行きの途に就かれた。田辺へ行くはずと(67)のこと。
 四月二十九日 晴
 朝四時四十五分、また地震、やや強し。予眼さめ立ち出でたが、宿の主婦も起きたが、やがて静まった。下女は三人とも白河夜船で一向知らなんだ由。昨夜木下氏話に、二十六日に徳川侯に謁せしに、三十六年目で熊楠上京は珍し、麻布の邸で会食すべしと言われたが、政治上のゴタゴタその他でちょっと適当な時がないらしいとのこと。よって今朝堂野前氏へ電話し、侯は東京へ帰られたらしいから近日御屋敷へ推参しょうというと、しばらくして返事に、そのこととなく、今日午後四時に氏は予の宿へ来たるべしと返答された。それから下村宏氏を尋ねんと聞き合わすと、咋大阪へ下り、五月八日ごろ帰京のはずと知れた。五時ごろ堂野前氏袴を着し、威儀厳重に来たり、只今鎌田栄吉氏より電話あり、徳川頼倫侯より南方研究所へ寄付の件確定すと、よって明後五月一日朝同行して御礼申し上ぐべし、と。次に上松氏、次に木村仙秀氏来たり、奉加帳を修復し呉れる。夜九時、上松氏、十一時、木村氏去る。それより弟と妻へ徳川侯寄付金確定のことを報ずるため状を認め、また毛利氏へこの状を書き始め、朝四時に至りて臥す。
 四月三十日
 午後、毛利氏へこの状書き続くる。三時ごろ、竹川寅二郎氏、早稲田大学の英語教師脇地氏を伴い来たる。おのおの寄付金あり。脇地氏は東牟婁郡下里村の人なり。点燈時まで話して去る。予、竹川氏をして先日同氏が宿の帳場に預けたる酒を三盃取り来たらしめ、飲みながら快談す。昨夜、安部磯雄氏へ即達郵便で一書を出し置いたが、今日ついに来たらず、脇地氏は日々同校で出逢うというから伝語を頼む。竹川氏はみずから哲学者と称するに、点燈時に至り、これより  へ行くとて脇地氏を勧めて出で去る。    予は早く臥した。ところへ原摂祐氏来たりしも遠慮して立ち帰る。九時過ぎ、しきりに三味線の音が聞こえるので、さては梅本師匠が小松屋の女将と予を尋ね来たり、熟睡を乱すを憚り、階下の一室で美声を揮いおることと思い聞くうち、十時に至り義太夫が止んだ。これは予が先日(68)数回堂野前氏方で義太夫の講釈せしと聞き、宿の主婦の妹二十四、五歳なるが、予に聞かさんとて久し振りで取って置きの大阪仕込みの浄瑠璃を語ったものと分かった。それから起きて、この状を書き終わる。時に五月一日午前二時半なり。
 この日、三村竹清氏より五月の『集古』雑誌を送らる。予の「再び軍配団扇について」、「長野県のなぞなぞ」の二篇が載っている。また竹川氏より聞いたは、宝集屋金之助は今も都下の寄席に出ずるよし。明治十七、八年ごろすでに鳴らした女で、亡友秋山真之、正岡子規など、いつもその真似をなしおりたり。今は六十近かろう。竹川は早くより無双の女好きで、予洋行の送別会にも芸妓を入れねば面白からずと主張して予に撲られた男である。三歳のとき乳母の不注意で、自分の手で針を眼に入れ、片眼となった。いつも鏡を見て、「僕の男のよさといったら、まず髪は黒く長く、面《おもて》に愛嬌あり、威あって猛からず。口もとシャンと締まり、耳は福耳ときておるから頼もしい。鼻高からず、また低からず」と述べるから、「おい、眼はどうだ」と問うと、「さァこの眼だねェ、天道は満つるを欠く、こまったことをしたものだ」と、長歎これを久しうして、「仕方がない、親に貰った二つの眼をば一つの眼には誰がした、これも主への心中立て」と謡うた。今もその通りの気楽千万な男である。
 五月一日 快晴
 終日誰も来たらず。
 五月二日 微雨
 朝、神谷氏来たりて、午後二時過ぎまで話して去る。
 五月三日 晴
 夜、風強く吹く。五時ごろ宿の主婦来たり、連日外出もせず、また客人も来たらず、退屈で病気を生ずべし、宿の二階の前の一室明きたればそれへ移り、車馬の行き通いを見れば慰みともなるべし、と勧む。予、それに及ばずと辞(69)退す。この夜神谷氏来訪さる。この夜、早大教授安部磯雄氏より来状あり、一度参りて種々伺いたきことあるも、ハワイより野球団来たり、それに伴うて京阪地方へ出立するに付き失敬するとのことなり。
 五月四日 快晴
 本日一日、朝来たるべく約せし堂野前氏一向来たらず、また何の音沙汰なし。連日事なきに苦しむところへ六鵜保氏より電話あり、今夕来訪さるべし、と。また静岡の原摂祐氏、多年みずから集むるところと、予が多年集めたる分とを合し研究して、核菌の日本に産するものの図譜の第一着に、日本産冬虫夏草図譜を出板すべく、啓明会の出資を仰がんため請願書を送り来たる。すなわち木下友三郎博士へ廻致し、会の理事長平山成信氏へ申達を求め、別に大久保利武、鶴見左吉雄二氏に添書して原氏の学力を証し、その賛助を乞う。
 午後、上松氏来たる。過ぐる四日見えなんだこととて、予大いに悦び話すうち、木下博士も来たる。京橋区役所に用件あって、今朝早く宿を出で来たりしという。よって原氏のことを語り頼む。けだし啓明会の規則として、一事項についての研究費を助成すれど箇立せる研究所へ寄付金を出すことなし。予は自分の研究所より、第一着に菌類と淡水藻の図譜を出板せんとするものなるに、また別にある一類の菌や、ある一群の淡水藻の研究を一事項として、その出資を啓明会に求めなば、研究所の事業と啓明会補助の事業の区別が判然たらざるの嫌いあるを慮る。ところが原氏は菌類の内、予が全く無関係なる核菌類ピレノミケテスを専門とし、その筋にかけては世界に聞こえた名人で、サッガルトの『菌類図譜』の巻頭に若干の世界的歯学大家の名を列ねたる随一にもあれば、ドイツの学者が原氏の学問上の令誉を不朽に伝えんために、ハラエアなる菌の一新属を設立したこともあり。かたがた予が何も知らずにむやみに集め置いた核菌と、原氏が専門学識をもって集め置いた核菌とを合わせて研究発表し貰うたら、それだけ本邦産菌類の学識も大いに進む訳で、菌類中の最難物たる核菌の精細なる図譜を出し得る者は原氏の外にまずはないと思われる。
 この日木下氏、菊池三九郎氏の委嘱で、その著『黄花片影』と『風景人物二百詠』を渡さる。氏、名は武貞、号は(70)晩香、すこぶるその祖父渓琴の風あり。『片影』の一書は菊池家が旧郡栖原村へ移住してよりの家業を序し、『二百詠』は紀伊とその他諸国の風物人材を詠んだ物だ。
    岡本柳之助
 晴光如電挾霊邪 兵略能凌李左車 晴光は電《いなずま》のごとく霊邪を挾《さしはさ》み、兵略は能《よ》く李左車を凌ぐ。
 藩閥擅権才失用 雲台絶路士無家 藩閥|権《けん》を擅《ほしいま》まにして、才は用を失い、雲台|路《みち》を絶って、士は家なし。
 韓山風雨鉄竜躍 紀海烟波仙棹遐 韓山の風雨に鉄竜躍り、紀海の烟波に仙棹|遐《とお》し。
 薄夜荒邱掃苔石 白楊蕭颯見飛花 薄夜、荒邱に苔石を掃い、白楊蕭颯として、飛花を見る。
など、はなはだ面白い。木下博士は二時間ばかり話して五時ごろ去る。六時、六鵜保氏来たり、自分および三井物産社員また北海道炭鉱汽船会社の鈴木春樹氏(和歌山人)等の寄付金を渡さる。コッペーパンを買い来たらせ、上松氏と三人茶を呑んで談話す。伊藤篤太郎博士、久しく不遇なりしが今度聘されて東北大学へ赴任する由、六鵜氏へ告げ来たりしという。六鵜氏また七年前、伊予の青垂山四千尺の高さの処で採りしキレンゲショウマの標品を呉れる。故矢田部良吉博士が同国石槌山で発見した奇草で予今夜始めて見る。上松氏は九時ごろ、六鵜氏は十一時過ぐるころまで話して去る。この人、豊前宇佐の人、予が諸雑誌へ出す拙文を愛読すること多年、過ぐる大正六年六月、予を田辺に訪われた。その時三十二歳なりしが十八、九に見えた。諸種の運動の達人、すこぶる膂肉《りよにく》に富む。古ギリシアの彫刻に見るごとき体格で、本邦で多く見ぬ美丈夫だ。妻君は今年女子大学卒業のはず、すでに二子ありという。本郷の須賀町とて、むかしの根津遊廓の近辺、昼も淋しい処に住む。これより帰るに電車で一時間かかるといいながら、遅々別れを惜しんで去られた。
 前日来誰も来たらず、無聊の極、病をなさんとするところへ、今日、上松、六鵜氏、いずれももと見ず知らずの人で、年来何かに付け予を扶助さるる人が、期せずして予方で出会ったので面白く長話をした。今はただその一を挙げ(71)る。そは四月二十五日夜、帝大の小野俊一氏来訪された時、予が語ったのを、今夜くり返したのだ。近来、西洋の変態心理学者がレトロスペクションということを言い出し、至極新奇なように述べるが、何たる詳論を聞かぬ。われら仏教を学んだ者には何の珍しくもない陳腐なことで、経文に宿命通というものの一種だ。宿命通には、予の見解がちゃんとある。
 かつてインドに駐在した英国領事が私宅の庭を眺めて、一夕納涼しておると、忽然と庭の芝生の上に昔の軍服を着た老人が愁い顔で立って、その前に跪坐した若い美嬢が歎き悲しみ、あやまり入る体、茫然と見ておるうち、風に攘わるる霧のごとく二人の形がそこここと消え失せ、ついに跡も留めず。その時夢の醒めたように気付いたが、空しく芝生の存するのみ。まさしくありありと見たものが、なくなったは不思議と、どう考えてもさっぱり判らず、日をふるまま全く忘れ了った。その後、ある家の宴会に招かれ往って宴席の間の入口に掲げた絵像を見ると、何だか見覚えがあるようだから、いろいろ思いめぐらすと、先日自邸の芝生の上に現われた老人に相違なく、古風の軍服もそっくり符合しておった。それからいろいろ隠密に尋ね合わすと、これは昔この地に駐在した英国の将官で、かつてこの宴会の開かれおる家に住み、その前に自分が現に住する邸にも住んだと分かった。一人の娘あったが、自分より劣れる男と心安くしたを、父将軍が憤って不仲になったとの風聞が、かすかに遺るとまで分かったが、今は縁類とても留まらぬから、前後の事情が一向分からず。さりながら、どうやら当町老将軍が左右に人なき折から、宅の芝生の上で娘を折檻し、娘が泣いて自分の不始末を詑びたことがあったらしく、その時の光景がありありとその芝生に付いて今に遺りおるを、この領事にかかる過去の事蹟を感覚すべき特質があって、かの夕、偶然その光景がこの領事の眼前に幻出したと解するの外なしというのだ。
 熊楠いわく、かような事相が芝生に付いて永存するとは浅墓な見解じゃ。芝草は年々枯れ失せ去るもので、かかる事相を年々替わりゆく芝草が伝え存するはずなきこと、庭の椿の葉に字を書いても、その菓枯れ散つては跡を留めざ(72)ると同様だ。しからば、その芝生のあたり空気にかかる事相を印し留めたのが、これを感覚すべき質を備えた人に遇えばたちまち幻出するといわんか。空気は絶えず動いて一所に留まらぬものゆえ、その空気に印したものが永年そこに留まるべき訳がない。つまるところ、かかる事相の一たびあった空間に、その事相を印し留めて永年に伝えたという外ないが、この地球は不断動いて止まぬから、今そのことこのことが起こった空間はたちまち移り去ってもとの空間にあらず。されば、空間にもあらず、また空間にもあらざる特種の幻気とでも称すべき物があって、事相起こるごとにこれを印し留めおり、然るべき相性の人にあえる時、その相を幻出すといわねばならぬ。
 さて妙なことは、われら時々、一向自分一生にかつて経験もなく、縁もゆかりもない人や事物を夢に見ることある。熊楠は身に覚えのないことながら、右様の夢が中《あた》った例も世に少なくない。殺人の場を夢に見て、精細に調べると、何たる凶器も遺骸その他の物は少しも残留せぬに、以前そこで人殺しがあったと分かる類だ。これらは夢と現の差違こそあれ、前述のごとくその夢を見た所の幻気とでもいうべき物に、殺人場の事相を印し留めたのを、のちそこに眠った人が感受して夢に見たと解するの外はない。果たして然らば、無線電信は何人も何物も感受せぬが、それ相応の設備した受信機に感受さるるごとく、右述の幻想や夢想は、それに相応した性質の人々には容易《たやす》く感受さるるので、研究さえ進まば不思議でも何でもなく、無線電話同様、物理学上の一事項たるを出でずと思わる。それを何の研究の手掛りも求めず、空しく不思議呼ばわりするは学者の所為でないと述べて、それから手掛りを求むる方法を論じたが、話が素敵に長くなるから、ここには細説せぬ。
 この夜六鵜氏話に、大分《おおいた》以前は碩田(オユキタ)と書く、また府内ともいうた。大友氏のおった所で山本農相の生処だ。大分と別府との間にイズ原八幡あり、社辺の樟の木にゴウナ住む。ゴウナとは、ニナ(紀州でゴソナイ)の形した小螺の海の泥中に生ずるをも、木の空洞に生ずるをも、この名で呼ぶ。その海泥に生ずるははなはだうまい。古伝に、神功皇后、応神帝を海浜に生み置き、征伐に出でたまう。その跡でゴウナ集まり、飴をもって養い参らせた。それよ(73)り宇佐八幡の境内の大樟の木の空洞の中にゴウナ住む。すなわちキセルガイだ。これを古来八幡神の眷属とし、飴を宇佐の名物とす。一説に神武帝この地に来たまいし時、宇佐津彦、宇佐津媛、これを川辺の足一つ騰《あがり》の宮に迎え、飴を献ぜりと、云々。熊楠いわく、雲をつかむような咄《はなし》だが、田螺を煉れば立派な糊ができるなどいうと同類で、多少の拠《よりどころ》がある咄らしい。どうやらゴウナの肉には多少飴になる成分か、麦を飴にする?酵素を含んだから出た咄らしく思われる。試験して見るべき問題だ。
 五月五日 雨
 昨夜六鵜氏より聞いた話を筆記して今暁四時に至り臥したから、十時にようやく起きる。午後二時過ぎ、堂野前氏より久し振りで電話あり、いわく、四、五日来病臥のため無沙汰せり、明朝参上すべし、と。上松氏来たり、予の奉加帳持ち出で、古川会社の支配人昆田文次郎君その他より寄付金受領し還る。氏いわく、小畔四郎氏の舅、摂津国宝塚で死去、小畔氏の妻君会葬のため二女と下女と甥に家を守らせ出立せり、と。
 この日、三村清三郎氏より書信あり。仔細は、前月二十六日の夜同君来訪され、数日前芝の増上寺山門の楼上で、阿弥陀仏の前に五百羅漢列なる中に、鳥の嘴で狐に乗った飯綱の像に並んで、三宝荒神ごとき忿怒尊が四臂か六臂で黒斑ある白犬に乗りおるを見た、何であろうか、と。予いわく、飯綱と並んだなら、それは飯綱と等しく日本出来の犬神の像であろう、と。五月二日、三村氏より告げられたは、今日木村仙秀氏より聞く、幼時永平寺より受けたるウスサマ明王の御影は犬に乗りあった、と。よって、試みに『秘密辞林』を見るに、この明王の種々の形相を挙げた内に、浄土宗では二臂で犬に乗りたるを伝う、とあり。しかし、小生見たのは四臂か六臂だった、と。予返書に、『仏像図彙』を見ば委細分かるべし。仏、アカニタ天で正覚を成し、大衆を招きしに大自在天のみ来たらず、糞をもって墻壁となし、招使を拒む。不動明王すなわちウスサマ身を現じてその糞を食い尽し、大自在天を引き出し来たる、と経文にあり。今日といえどもエジプトその他街路の掃除不行届きの国では、犬が糞やもろもろの不浄物を食い尽すを(74)もって、これを不浄物とし、はなはだしく忌む。インドまた然り。しかるにまた、その掃除の大功あるゆえ、これを憐れみ家ごとにその飲料の水を戸外に備え、時の残食を与う。トルコの首都コンスタンチノープルに犬群が無数跋扈して往来を妨ぐるもこれに基づく。奉天府などでも、犬がもっぱら人の大便を食う役を務めるよし。されば仏法でカワヤの守り本尊とする件《くだん》の明王は、その実、犬を祀ったものであろう、と。今日三村氏より返書に、『仏像図彙』の像では犬なし。増上寺へ問い合わせた返事には、山門楼上の像は文政十三年の記録あって右明王に相違なし、放生会にこの明王を祀るは畜類の染穢を除き、勝縁を結ばしむることの由。台密にては金剛夜叉明王の座へこの明王を置くよし、いずれも大カン食の本誓ゆえという、とあり。熊楠いわく、これは後世のこじ付けで、本意はやはり犬が糞を喰らい掃除の役を務むるからだ。
 五月六日 快晴
 朝起きるとて頭を電燈に打ちあて、その蓋ひびわれ少し砕け落ち、予の頭に少しく疵がつき血出ずる。宿の主婦驚き来たり膏薬塗り呉れる。さていわく、只今池袋の川瀬善太郎博士より電話あり、三十六年前渡米を見送って以来一度も逢わぬから、ぜひ三、四日内に往訪せん、と。これは川瀬、木下友三郎、中松盛雄の三氏、往年予と和歌山学生会を創立し、ことに懇交あり。(創立者の十二人の内、野尻貞一、角谷大三郎二氏は当地におらず。園田宗恵、吉田永次郎、佐々木米三郎、宇治田虎之助、津田安麿、津田藤麿六氏はすでに物故した。)別後の話は少時間の尽すべきにあらざれは、寄付金一条纏まったのち案内人をつれ歴訪しょうと思いおったが、寄付金なかなかちょっと思うたように片付かず。それがひとまず方付けば直ちに帰郷を要するゆえ、歴訪の見込みも立たず。かれこれ案じ煩ううち、木下博士すでに二度まで来訪されたから、中松氏の事務所は予の宿の近所なれば訪うも容易なり、まず川瀬氏に遇うべしと思い、一書を三日前に出し置いた。
 明治十九年十二月、予渡米の途に着いたその前、八月、予川瀬氏と高野山へ登り、川瀬氏親類に頼まれ立里の荒神(75)へ剣を納めに行くに同行した。それから帰りに九度山で別れて、氏は歩して和歌山へ還り、予は東行して川を渡り、東家村に一色富之進氏を尋ね一宿し、翌日歩して和歌山へ還った。昨年十一月、高野山へ上り、また下る中、注意して穿鑿したが何一つ旧観を留めぬに驚いた。ただ一つ、神谷に近づく上り坂のまがり角に草葺の一軒家あり、予が川瀬氏に後れてその坂を登り行くと、そのまがり角より二十一、二の若い女が手に甲かけして鎌と籠とを持ち、機嫌よく声張りあげて、
  そんならお前も巡礼衆で、定めて連衆は女ご達
と呼ばわりながら、身振りおかしく踊り出で過ぎ行いた。その女は色黒くて顔の好悪《よしあし》さっぱり分からず、服装とても如法の田舎娘の模型極まるものだったが、ことのほかの美声が心肝に銘じ、また踊り出でた姿が面白かったので、フロリダ南部の淋しき砂浜の暁、西インド林中で雲かと疑わる蚊群の中を走り過ぐる夕、それから孤燈掲げ尽して眠りをなさざるロンドンの深夜にも、折々このどんな面相やらさらに分からなんだ女の声と姿だけは髣髴として現実のごとく浮かみ出でたことで、その女の音容を思い出すたびに川瀬氏を連想し出でたのだ。
 それからまた、川瀬氏がわれらよりはよほど親交のあった宇治田虎之助氏は、予六、七歳のころよりの友で、その名の示すごとく寅年生れで、予より一歳の年長だった。小さい米屋の倅から身を起こして陸軍大佐までなったが、奉天の戦いに一戸将軍の副官として奮戦中、大砲のために胴より上を粉砕され、壮烈なる戦死を遂げた。そのころ予那智より田辺へ移る途中、大瀬の大黒屋という宿に留まると、夜中たちまち電燈を点じたように明るくなり、眼を醒まして見ると、宇治田氏が軍服きて洋刀を鳴らして室内を横切り去ると同時に真の闇となった。同行した荷持男は全く熟睡しおり、へんなこととは思うたが、そのまま打ち過ぎおるうち、田辺へ来たり氏の戦没を聞き知った。これらのことを年内秘し置いたのを、今度始めて川瀬氏へ告げたので、氏も感慨少なからず近く来訪されるらしい。
 電燈で頭を傷つけて少々痛むので寝にかかるところへ、十二時過ぎ沼田頼輔氏、一時過ぎ横浜から辻源蔵氏来訪さ(76)れた。この辻氏の妻は中松盛雄、鳥山岑雄氏等と従姉弟に当たり、予の兄の妻は辻氏の従妹に当たる。田辺にあったとき、予と懇交あり、よってわざわざ来訪されたので、沼田氏と三人珍談に耽るうち、堂野前家の支配人長瀬福治氏も来たる。前月三十日より脳悪しく、昨日まで引き籠った、それゆえ堂野前氏非常に多忙で、予と音沙汰を絶ちおったという。さて今朝、徳川侯邸なる三浦英太郎男より電話あり、明朝十一時ごろ来たれとあったよし。長瀬氏気の利いた人で、日本酒二本買い来たり呉れる。それを一本呑みながら、沼田、辻二氏と快話する。四時半、二氏打ち揃い去ると同時に神谷氏来たる。数日前、伊藤篤太郎博士、滝の川の僑居を払い東北大学に赴任さるるとき、沼田氏面会し、予のことを伝えしに、たまたま東上されしに今回得逢わぬは遺憾なり、何とぞ将来機会を得ば行動を共にしたしとの伝言なりしという。(この人は、九十九歳で卒去の時先帝より一万円を特賜され、特に男爵に叙せられた圭介翁の令孫なり。)予が英国に渡った時、すでにケンブリッジ大学を卒業して帰朝され、久しく鹿児島の造士館に聘せられおった高名篤学の植物学者で、十年ばかり前、三宅雪嶺が本邦の生物学者を叙述したとき、この博士と予を特に私学者の領袖として挙げられたことあり。また明治二十六年、ロンドンの『ネーチュール』雑誌創立記念の祝い号に、諸国よりの特別寄書家を列した内に、日本人とては、ただこの博士と予とを挙げられたので、これまた一面識はないながら予と宿縁深い方である。予のごときは出処すでに語るに足らず、泥土に身を委すること、もとよりその処なるに反し、累代の名家にして轗軻《かんか》不遇なる、この博士のごときを悲しまざるを得ぬ。しかし、今度東北大学に赴任されたから、三日ならずして大いに成すところあるの報に接することと確信する。
 五月七日 微雨
 朝十一時、堂野前氏自動車で来たる。この七日間さらに見えなんだのだ。長瀬氏病んで引き籠りし上、友人のことで奔走に暇なかったよし。それから同乗して麻布の徳川侯邸に参る。邸の宏壮まずは比類なし。三浦英太郎男出で来たり、一万五千円寄付の書き入れあり。小切手の記手今明日は不在ゆえに、明後九日堂野前氏に手渡しすべしとのこ(77)と、君侯は大磯にあって対面し得ざるはことに遺憾のよしを代わり述べられ、あわせて君侯多年特に熊楠の学問を敬愛さるるにより、この破格の寄付ある旨を告げられ、堂野前氏もろとも感銘して御受けを申せり。それから男爵より、数日前、戸川氏、鈴木茂一氏ら、田辺湾内畠島を視察せし話出ず。よって前月二十二日、渡瀬博士と相談せるかの島辺の動植物保護の件を話し、男爵それぞれ筆記さる。広間に飾れる藤、つつじ等一覧、また硝子鉢に養える北海道阿寒湖の毬藻(クラドニヤ・エカグロピラ)の水飼様につき述ぶるところあり。退出、宿に帰り少頃の後、堂野前氏は去る。君侯賜うところの葵紋形の干菓子を宿の主婦に与え、保存せしむ。その妹二人と娘一人、一万五千円の御墨付を拝み、予一盃やらかすを見ても、この日に限り四の五の言わぬはよほど感心したものと見える。午後七時過ぎ、中山太郎、金田一京助、折口信夫三氏伴い来たる。いずれも『郷土研究』、『土俗と伝説』以来の通信上の知己なり。柳田国男氏、今夜欧州へ出立、また二年ほど留まるはずという。次に竹川虎次郎氏も来たる。十一時過ぎまで珍談湧出し、中山氏ら三人、予に郷土会で一講演せんことを頼まれたのち退出。竹川氏も尋いで去る。宿の下女、安房の東条生れ杉山菊というもの、生年十八にして二十四、五ほどに見えることのほかの大女なり。毎度入り来たる人々が予に短冊を望むを見まね、一首書きくれと望む。半紙にこの女の似顔を描いて、
  東条ときくも懐し戊戌《いぬ》の星
『里見八犬伝』を読んで誰も知ってるだろう、神余、金丸、麻呂、安西の四家が古く安房を分かち領し、その内の一つはお前の生まれた東条に城守したのだ。きくは聞くだ、お前の名の菊にも通ずだ。なつかしで夏という季節を現わし、戌は今年が『八犬伝』に縁ある犬の年だ。それから、それローマでは犬星というやつが天に現われるとき、犬が舌を出して暑がるという。すなわち日本でいう土用をいうのだ。お前がなかなかの別嬪だから、誰もかもお前に熱くなって、嫁になって星《ほし》いということじゃと、例の斎藤中将に与えた、
  事とふもむかし馴染の力かな(78)一流のこじつけを即席にやらかし、悦ばせたは、権多実少の大功徳と存ずる。
 五月八日 晴
 午後、上松氏来たる。帝大の田中茂穂氏へ電話かけしも講義中とて返事なし。原摂祐氏より来状あり、啓明会の請願書に対し学歴を述べよ、また身体健康の診断書を添えよと申し来たりたれども、独学のことなれば学歴など述ぶるに足るものなし、今日まで健康なりとも明日病気になるも知れず、かかる形式的のことをかれこれいわるること嫌いなれば、ぜひ入用といわるれば請願書を撤回せん、ただし研究は何としてなりとも続くべければ、熊楠多年集めたる冬虫夏草の標品は貸し用いさせくれとのことなり。予大いにその言を壮なりとし、木下博士まで進言す。その大略は、
  『史記』を見るに、韓信とか張良とか著名の人の伝に些末な履歴書を添えず、傅?《ふきん》とか?成《かいせい》とか一向聞こえぬ人の伝には巨細な履歴書を長々しく書き立て、どこの戦いに首いくつ取ったの旗いくつ奪ったの傷を何ヵ処受けたのと、統計表や相場付けようのものを列ねあり。日本でも左様で、石田三成は関ヶ原で天下分目の一決戦し、加藤清正は蔚山の籠城、福島正則は岐阜の城攻め、それだけで十分だ。しかるに、今も華族にありながら何の由緒やらどこの出身やらさらに分からぬ西尾、建部、分部、市橋などいう家の祖先の履歴は、ずいぶん巨細に書いてあるほど恥の上塗りで、信長、秀吉から家康と気勢を伺うてあちこちと追従しありき、去就定まらず、どこで首を三つ取ったとか、そこで小指を射落とされたとか、兵糧三百石納めてほめられたとか、埒もなきことを長々と書きあるは全くの紙つぶしだ。原氏の学歴は、原氏のいう通り独学ゆえ、何学校に入り何度落第して尻から何番に卒業したとか、褒賞にソバカス一升貰うたなどいうことはさらにないが、サッカルドの『菌譜大全』すでに巻頭の碩学人名中にその名を掲げ、ドイツの先輩が原なる苗字によってハラエアなる一新属を建てたのが、すでに立派な学歴功名にあらずや。かかる独学薄資の偉人を推し進めてこそ、啓明会のききめが顕わるるにあらずや。それ菌学は植物学中の難件にして、核菌の一族は洵《まこと》に菌中の最難物たり。しこうして農桑樹林に及ぼす菌害は、(79)実に核菌を最とす。欧米諸国すでにおのおのその核菌の図譜備わり、害菌取扱いの基礎学を成せるに、わが国には外国のことを聞きかじり、いたずらに説くのみ、害菌処分の基礎学なきは、核菌についての図譜あることなければなり。しこうして、原氏を措いて差し当たりその人なきなり。二卵をもって干城を捐《す》つるは賢者のなさざるところなり。いわんや、何の埒もなき学歴や診断書をもって、かかる稀有の人材を逸するをや、云々。
と書いたのだ。それよりこの通信を認め、五月一日より八日夜に至る記事を載せ、明朝早く『牟婁新報』社へ発送せしむ。また中松盛雄氏へ一書だす。
 五月九日 陰
 朝十時ごろ、入浴しおるところへ、林学博士川瀬善太郎氏来訪さる。三十六年めの対顔なり。この人、今年六十一歳ばかり。幼年の折きわめて多力乱暴にて、毎度和歌山城隍辺に立てる同輩の児童を泥中に突き落とし、師匠赤城友次郎氏大いに迷惑せしと聞く。和歌山師範学校にありし時もしばしば相撲を取り、夷島という素人相撲の名人を手ひどく投げ付けたことあり。明治十七年ごろ上京して、同県人谷友吉、木村正雄、野尻貞一、佐々木米三郎諸氏と共に山林学校に入り、それより林学士となり、予が在英のころドイツへ官費留学を命ぜられ、帰朝後林学博士となり、今も農科大学教授たり。毎日すこぶる多忙で、本日も本郷の帝大へ講義に出る途上立ち寄られたるなり。多忙のため四十分ばかり話して去る。博士の父母も妻君も予知るところで、父君はもと江戸詰めの紀州侍で、博士は今の赤坂離宮のある所、昔の紀州屋敷で生まれた。父君は和歌山県庁の何等かの出仕で、予の姉の舅垣内善平などと名を斉しうせる和歌山屈指の碁手だった。川瀬博士が留学中、父母両方とも死なれたと聞いたが、予も同様の悲運に逢うたもので、この点から常に他に異なる同感を持しおった。予在国のみぎり、博士の和歌山の宅は今の同公園の直ぐ東隣にあって、毎度訪問すると、十歳前後の小弟が二人あったが、その一人は只今輜重兵少将で、その方に抜群の誉ありと聞いたが、何分時刻が逼迫ゆえ種々聞きたいことも聞かずに、再会を期してこの日も別れた。それから零時半にやや強い地震あ(80)り、前日のゆり直しという。午後一時、堂野前氏と同車、麻布の徳川侯爵邸にまいり、中村和三郎氏より寄付金を拝領。暫時田辺湾内の動植物に付き話して辞し出で、大蔵省にゆき、堀切秘書官に面会。それより日本興業銀行に小野副総裁を訪う。只今重役会議を開きしところとのことで面会を得ず。帰って午後七時ごろ博文館の『太陽』主筆浅田江村、『婦人世界』主筆鈴木徳太郎、『家庭雑誌』主筆中山太郎三氏打ちつれて来訪、十時過ぎまで談笑して去る。珍話きわめて多かった。
 五月十日 晴
 朝五時起きる。九時過ぎ、中松盛雄氏来たり、十二時過ぎまで話して去る。去る大正四年十一月初め、安藤男に陪して田辺へ来たりしとき、夫妻打ちつれ弊廬を尋ねられた以後の初面会なり。この人は田辺生え抜きの士族で、その父勝政と聞こえLは、豪傑風の人で、勝太郎、号松翠という兄あり、美貌の聞こえ高い人だった。予、明治十六年三月初めて上京したとき、関直彦君をたよると、ちょうど中松氏が共立学校に寄宿しおったので、そのつてで自分も同校に寄宿した。以前和歌山中学校におったときはさまで懇意でなかったが、共立学校時代よりきわめて懇意となり、十九年夏同氏帰省中は毎度雑賀屋町の松翠氏宅へ尋ね行った。そのころ予の父より魚とアワビを松翠氏に贈ると、松翠氏より県知事に贈り、それがどこかへ贈られ、その家よりまた一巡して予の家へ贈られてきたなどという珍談があった。松翠氏はあまりの大酒で、予洋行後程なく死なれた。予米国へ出立のときも、家弟と野尻貞一、羽山蕃次郎と中松氏は、特に横浜まで見送られたが、宿を別にしたため出帆の際中松氏のみは逢い得なんだ。
 午後、上松氏、夕、長瀬氏来たる。二氏去ってのち七時ごろ中山太郎氏来たり、十時まで話して去る。宮武外骨氏の近著『半男女考』を示さる。これは数日後に発売禁止となる。その中に予が『現代』に出した「類似半男女」の一項を転載しある。
 五月十一日 半晴
(81) 終日在宿、誰も来たらず。
 五月十二日 時
 午下、神谷文太氏来たる。一時半ごろ、神谷氏と出ちがいに堂野前氏来たる。共に自動車にて三菱会社にゆき、故田岡嶺雲氏実兄木村久寿弥太氏に面会、即座に寄付金あり。種々談話中、氏の話に、酒屋の印に杉の葉を出すことはわが国に限らず、支那の内地でたしかに見たとのことなり。予いわく、支那に杉の木なし、杉というは別の木なり。その記載文が多少似おるゆえ日本で杉の字をスギと読む。木村氏が見たるは何か杉に似た同属の木ならん。ただし杉檜等が属する針葉樹は、いずれもメチル・アルコールを産するから、この類の葉を酒屋の印とするは和漢一途と見える。英語でジンといい、日本の薬局方に杜松子酒と訳したものも、針葉樹なる杜松、和名ネズまたムロ、紀州でモロンドと呼ぶものの実から取る。欧米の、ことにオランダの水夫これを好む。これを飲む者は眼がうるみ暗む。それを水でぬらした手拭いでふきながら、また飲む。故にこの酒を飲むとき、また一盃ぬらそうじゃないか、と言い掛ける。田辺今福町の博多為吉氏の店頭にかかげた洋画に、乞食ごとき者がこの酒を飲むに片眼を閉じたところを書いてある。誰の筆か知れぬが実によく出来おる。定めて古名手の原画によったものであろう。メチル・アルコールは能く眼を害するから考えると、杉や檜で樽を作ったり、杉や檜の木屑を酒に投ずるは眼のためにはなはだしく害あることと思う、と。
 それより日本興業銀行に小野副総裁を訪い、しばらく話す。不景気はなはだしきため債券も思わしく売れぬ由で、その不景気中に予の研究所へ寄付金の集まるはこれ至誠の致すところ、と感心された。
 それより帰れば上松氏来たる。中山氏へ電話して明十三日の夜、国学院大学へ余出講すべき約束のところ、明朝十時半より大磯徳川侯爵邸に伺候することとなったから、明後夜に延期すと告ぐ。夕六時過ぎ、六鵜保氏来たる。上松氏は九時ごろ、六鵜氏は十一時前まで話して去る。前日後藤粛堂氏より近ごろ本邦の茶の歴史を編むに付き種々の疑(82)問生じたるも、誰も答え得ざればとて六鵜氏を経て予の答えを求められた。この夜ことごとくこれを即答した。
○茶の歴史問答(問は後藤粛堂、答は南方)
(問)インド古代、飲茶の風もしくはこれに似たることありや。普通インドにはその風なしという。しかれども、水また湯の外に何か香味を添えたる飲料ありしは必至のことと思う。仏典やインド古代記事中それに該当することなきか。
(答)インドは熱国なれば、湯に香味を添えしことは薬用の外はあるべからず。ただし、一度湯で香味を煮出し、冷やして用いしことはあると記憶す。座右に書なきゆえ確かに言い得ざるも、豆水ということあり。これはある豆を煮沸したる湯を冷やして用いたと見える。その豆はたぷんタマリンドというて、わが国の槐(エンジュ)に似た木に豆のような実がなる、味わいは甘酸の間で、今も賞味さる、その実を煮だした湯をさまして用いたらしい。目連尊者の目連は、たしか胡豆と訳し、すなわちタマリンドのことと思う。この外にも、わが国の西京の祇園の名物だった香煎ようのものを茶同様に用いた例はあったと思う。
(問)徳川綱吉将軍の時、江戸に入ったケンペルの『日本志』付録に、日本人の言として達磨の眼から茶の木がはえたと見え、多くの西洋人はこれをもって茶がインドから支那に渡った証拠とすれども、和漢の書籍にこのこと一向見えず。ケンペルの書に誤聞多く載せたれは、これもその類かと思われる。何か類似のこと、和漢の書にありや。ただし、鎌倉将軍の世に宋国より茶を将来した栄西禅師の『喫茶養生記』には、皐盧《こうろ》を茶のこととして、それがインドより渡ったよう記したり。
(答)『和漢三才図会』に、達磨が九年面壁の際眠くてならず、それを防ぐためみずから眼の皮すなわちマブタをはさんで切り去り、地に捨てた。それから草がはえて美花を開いた。その草を、眼の皮からはえたから眼皮(ガンピ)と呼んだ、とある。また『大和本草』に、山城の嵯峨の仙翁寺から始めて美花を仙翁花と呼んだ、とある。これは『続(83)群書類従』に収めた五山の僧の詩集中にも出ておるから見ると、足利ごろ禅僧が言い出した説と見える。たしか「剪春羅」がガンピ、「剪秋羅」がセンノウゲの漢名で、これら石竹類の花弁はいずれも石竹やナデシコ同様、鋏の痕のようにその前端を切り刻みある。それより支那で、羅すなわち紗のような薄い切れをハサミできり飾ったという意味で剪羅と名づけたが、一つは春、一つは秋もっぱら盛んに咲くから、剪春雁、剪秋羅と名づけたらしい。この剪の字から思い付いて、眼の皮をハサミで切って捨てたら、剪春羅すなわちガンピがはえたと俗説を生じたのであろう。剪秋羅も花の状は変りがないが、すでにガンピの名を剪春羅に取られた後だから、仙翁寺に初めて植えたから仙翁花と名づけたであろう。これに似た例は、紀州日方町辺では石蒜《せきさん》(ヒガンバナ、田辺ではゴーラバナ)をマッシャケと呼ぶ。『訓蒙図彙』にはマンシュシャケとある。仏経にしばしば見える曼珠沙華を、そのまま和称としたのだ。インド本当の曼珠沙華は赤い美花を開く木だが、日本にそれがないからヒガンバナを曼珠沙華に当てたので、欧州の古典に名高い美花や薬草や、香木がとんと米国にないから、米国では多少花や香味がそれらしくてまるで別類の草木を、古典の欧亜産草木に当てて呼びおる。例せば、『聖書』に名高いマンドレイクという毒草は、西アジアに産する茄子科の物だが、米国でマンドレイクと称するは全く別類で、メギ科の物だ。それと等しくインドの曼珠沙華は、たしか豆科の木だが、日本の曼珠沙華すなわちヒガン花はヒガン花科の草である。
 森林太郎博士はヒガン花を日本で詠んだ唯一の例として、井沢蘭軒の詩を挙げられた。実は予が先年『日本及日本人』で述べたごとく、足利時代の五山の僧の詩にはヒガン花を曼珠沙華として多く詠んである。外国の草木の花を賞翫することは、もっぱら足利氏の初期に兼好が筆した『徒然草』にも、近ごろ薬にもならぬいろいろの物を外国から輸入して玩ぶは無益の至り、と書きあるので分かる。また『庭訓往来』など、そのころ輸入し初めたらしい外来園花の名を多く挙げあるのでも分かる。したがって足利氏の世にいろいろの美花を輸入して、種々の俗説も生じ、また輸入し得ぬインドの美花には、日本在来の美花や支那伝来の美花を当てたのであろう。
(84) さて達磨の眼の皮からガンピの美花が生じたというと前後して、達磨の眼から茶が生じたという俗説を生じ、綱吉将軍の時まで辺地に行なわれたのであろう。謡曲に名高い、潯陽江辺の孝子を愛して海中の猩々が酒を与えたなどいう話も、一向支那の書に見えぬが、支那の書とて必ず支那中一切のことを記した物でもなければ、必ず足利ごろに支那の辺地で行なわれた俗説を、日本人がその辺へ渡って聞き伝え帰ったのであろう。吾輩広東人の中に住んだとき、汝は日本にあったとき三杯さんを祀ったかなどと毎度問われた。何のことか分からなんだ。しかるに、柳田国男氏などより聞くと、日本の辺土にはサンバイサンという俗仏を祀る所あるよし。すべて下民は種々その国の書物に見えぬ凡俗の信仰や伝説を専らとするものゆえ、外国人がその国に来たり、下民よりいろんな俗話を聞きて、その国一般に行なわるる正説と心得、筆したのが、かえってその国の学者や上流社会に初耳となること多しと知るべし。
 故に、ケムペルの記事は決して誤聞にあらず。ただそのころわが国辺土に行なわれた俗伝を直筆したに相違ないと考う。
(問)右述の皐盧、帝大の小石川植物園には唐茶と立札によませあり。支那では『茶経』にもすでにこれを茶とせず。これを茶として唐茶というは不倫はなはだし。この件、直接園長松村任三博士に聞き合わせしも何も分からず。『和漢三才図会』には蛮茶とあり、最も適当の名なり。皐盧を唐茶ということ古書にありや。また小石川植物園先生たちの新命名なりや。
(答)皐盧の名は支那南部の蛮族の語で、それを音訳したものと思わる。果たして日本で唐茶というものに当たるや否や、知れ難し。いわゆるトウチャを皐盧に当てしは、決して植物園先生の手製にあらず、『大和本草図譜』その他旧幕時代の書にも出でおると記臆す。
(問)右皐盧、古く日本にて茶に代用せし形跡ありや。また本邦自然生なりや。インド等に現在するや。
(答)トウチャは苦味はなはだしく飲用すべからずと聞く。ただし、これも薬用等のため支那南部より伝来せしかと(85)思わる。インドの唯一の種すなわちアッサム茶は、ツバキごとき大木で、トウチャごとき小木にあらざれば別物なり。
(問)本邦自生の茶というもの原産なりや。また移植せるものなりや。
(答)支那より伝来と思う。ただし、栄西が茶を持ち来たりし前に茶を支那より伝えしこと幾度もあれば、割合に古く野生となりし所もあることと思う。
 
 大正十一年六月十日朝七時半書き始めしが、序文のみにて九時ごろより眠り、午後五時また書き始む。
   雑賀貞次郎様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。上京日記のつづき、左に差し上げ申し候。○○○を入れたり大字を挿んだりせぬよう願い上げ候。○○○はことさらに挑発的になるとて、このごろは一向当地方にはこれを施さず。小生また○○○を入れねばならぬような文は認めおらず。これを入れらるれば小生の本意に背く。また諸処に特に大字を用いらるるも、小生の本意に背くこと多し。すなわち小生が力を込めしところに大字はなくて、何の気もなく書きしところに大字を入れらるること多し。これまたつまらず。故にかかることは一切御止めになし下されたく候。もっともこれは貴下の知るところにあらず。主として毛利氏の所為と存じ申し候が、念のため申し上げ置き候。要は小生の「上京日記」ゆえ、小生の筆したままに印刷を願うなり。日記の文は、その人の手筆のままを印刷すべきものにて、いささかたりとも改竄を加うべきにあらず。毛利という人は、かようの入らぬところに人の感情を害すること多き癖ある人と存ぜられ候。今午後着『新報』第一頁二段の末行、『大和本草図譜』とあるは誤刊、小生はたしかに『大和本草』、『本草図譜』とかきおき候。何とぞ小智を用いず、小生書きし通りに印刷を乞う。あまり小生の本旨に違う印刷をなさるれば、小生は止むを得ず日記発送を止むべし。
(86) 五月十三日 半晴
 昨夜眠らず、今朝少しく眠る。午前九時半、堂野前氏来たる。自動車に同乗し、東京駅に至る。堂野前氏、急ぎのあまり大磯まで買うべき切符を小田原まで買い、たちまち気付き、さらに変更する。駅場にてことに気付くは、露国より来たれる朦朧体の男女多く徘徊することで、中にはずいぶん裸体同然の風をした者も少なからず。警官の戒飭もっとも多煩なことと察せらる。十時過ぎの汽車で大磯に向かう。徳川侯爵|高麗寺村《こまじむら》の山荘に詣り、寄付金下賜の御礼を陳ぶるためなり。沿道の春色まさに夏に移らんとし、卯の花、薔薇、真垣《まがき》を点綴せるありさまは、行くとして明媚ならざるなし。堂野前氏より前日予報し置いたから、大磯駅で下車すると、山荘より迎え車二輌と外に一人出張して竢ちあり、それに乗って町通りを馳せ高麗山麓に至る。明治十八年春、予独り鎌倉に遊びし帰途、大磯まで歩んだことあり。さすが田舎のこととて今もその時の趣きを変ぜざる家もあり。すべてこの辺の家の屋根にイチハツを群栽した古風が今に残りおるも面白し。これは落雷を避くるまじないと聞く。雷は刀剣を畏るということで、明治九年ごろ紀州那賀郡のある土豪の家に落雷の際、主人やにわに刀を抜いてふりまわしたということを聞いたが、イチハツの葉が刀剣状をなすから、かように屋上に栽うると承った。ただし予の知るところでは、この風は神奈川県に限るようだ。紀州有田郡より高野山に詣る間の山村に、古く狼を禦がんとて墓前に刀剣を植えし風ありと聞くも、似通うたことである。大磯の町から高麗山に至る間の松林、昔とかわらず、ほぼ和歌浦街道に類し、春蝉しきりに鳴いて、聞く人を惰《なま》けしむることまた同じ。
  うつせみの世を空しくも過ごしけん、人に知らるる銭《ぜに》もなくして
 銭も蝉も漢音を和名としたと聞くからの名吟だ。高麗寺山は和歌浦の御坊山よりやや高いと思われたが、峻嶮は確かにこれに過ぎたり。樹木の鬱蒼たるは、さらに同日の談にあらず。侯爵の別荘は、その麓より山腹に及ぶ。ただこれ喬木老樹のきわめて多きがゆえに、一寸見《ちよとみ》にはさまで広からぬようなれど、歩み廻れば日もまた足らざるを覚ゆ。(87)車を下りて坂路を登るに、両側の名木奇花それぞれ札を立ててこれを標示す。その中途にいと神さびたる古祠あり。もと和歌山城内に斎《いつ》かれた稲荷神社をここに移したりと承る。別荘の入り口は二階立ちで、その一方に平屋立ち広く続けり。執事(後日、中松盛雄氏より聞くに、片岡氏ならん、と)の若き人玄関に出迎え、廊下を廻りて一室に延かれ、午時近ければとて食事を薦めらるるに、鎌倉蝦やカツオのさしみ、善尽し、また美を尽されたり。食事中また麦酒をすすめらる。畢《おわ》りてまた廻廊を歩し、前述の平屋に入る。入口の一室におびただしく陶器を陳列す。これこの山荘で焼いたものだ。平屋の広間には竹類の製品を無数集めたり。侯爵ここに立ちて予らを竢たれ会釈さる。
 その室の一隅にサイハイラン一鉢まさに満開せり。侯爵、一長竿を執り示していわく、これ予が特許製品なり、と。熟視するに、竹で作った球突き竿で、手工精妙を極む。これを載せた球突き台も、その上に懸かったランプ笠も、ことごとく竹で作る。予いわく、酒を天の美禄というが、竹はそれにも優れる天の美禄で、かつてビルマの人がロンドンの盛大なる模様を英人から聞いて、そんなに繁昌な所は定めてよほど好い竹が多くあるのだろう、と言うた。これはビルマ等の熱国では、実際家を建つるにも壁を掛くるにも、道具から紙まで人間一切の用を足すもの、もっぱら竹を離れてはできぬからのことだ。したがって、欧州には竹が少しもないと聞いて、そんな不自由な邦にかかる文化ができるはずがない、と怪しむのだ。しかるにここに珍妙なことは、前年田辺の喜多幅武三郎氏話に、竹ほど結構なものはないに、あまり普通過ぎたものゆえか、わが邦でこれを精確なる科学上の用途に使った例を聞かぬ、医術上にもわずかに担架に用いたばかり、といわれた。予は四十年ほど前、後藤牧太先生が、海外の博覧会へ出すとて物理機械を作るに多く竹を用いあったを見たが、今の人は往年の人より智恵が劣るのか、外国にのみ心酔模倣するのか、近来とんと竹を利用した、これぞというべき器械を見ぬは遺憾で、キュウ皇立植物園にも、誰かの日本の竹類製品の広博なる集彙を列しあった内にも、何たる込み入った器械を見ず、ただ手桶とか提燈とか手近い手工品のみだった。実にわが国に取って残念なことと申すと、侯爵仰せに、竹は虫の食い易い物ゆえ、よくよく精撰せぬと久しく用ゆるに堪(88)えず、と。なるほど、これも竹類があまり込み入った器械に用いられぬ一つの理由であろう。
 ここには竹の製造品のみを聚め、その天然品は麻布邸に蔵せらるる由。予タバシールの標本の有無を尋ね上げしに、そは一つもなしとのこと。タバシールはアラビア語で、和名タケミソ、漢名は天竹黄《てんちくおう》、『大智度論』に竹玉と訳しあるを予が見出だしたが、さすが博覧の『本草綱目』にも逸しある。竹の節の間の汁が固まって石となったので、砂粒様に細《こま》かいのから、馬脳《めのう》のごとき大塊の白くまたは透明ですこぶる美麗なもある。去年春、田辺紺屋町大森氏の息が、団扇を製するとて竹を剖《さ》くと出て来たのを金崎宇吉氏に托して贈られた。それは東京に多く用ゆる常陸出の火打石のごとき淡鼠色の堅い石で、砕け易い。インドには氷砂糖ほどきれいにすき通ったのがあり、はなはだ高価の由。前日白井博士来談のおり言われしは、朝鮮へ往ったとき多く買って来た、価も廉なものなり、と。和漢ともこれを血止めに用い、金創の妙薬とした。天主僧オドリクスの『東遊記』に、インド諸島に竹より玉を出だすことあり、これを帯ぶれば一切の兵刃に創《きず》付けられず、と。マルコ・ポロの記行にいわく、元寇が日本の大きな島に上陸して空地を占領した時、降らざる島人の立て籠った塔を襲うてことごとくその首を斬ったが、ただ八人だけは傷つくることさえできず、この八人は肉と皮との間にある石を納めおった。その石は外から見えぬように巧みに入れた物で、その石の徳でこれを持った人は、鋼鉄に害せられず。元の大将、これを知るに及び、棒でその八人を打ち殺し、その死後その身体から石を抜き取って宝とした、とある。この石は何だか分からぬが、オドリクスの記せるところは天竹黄に違いない。そのころ日本にもなにか身に蔵め置けば、兵刃に傷つけられぬという守りがあって、それを蒙古人がインド諸島の俗信から推して、竹玉のような石と合点したのらしい。とにかく、天竹黄、一名竹玉が、和漢その他で金創の妙薬と尊ばれたところから、ついにこれを身に帯ぶれば傷つかぬと信ぜらるるに及んだらしい。真珠は介《かい》から、天竹黄は竹から、いずれも生物から出る礦物で、有機分をきわめて少量に含有する物だ。
 侯、また仏手柑四、五顆、芳香烈しきを示し、いわく、これはこの山荘で種々苦辛してようやく出来したもので、(89)この辺の気候では希有の獲物ゆえ、先日叡覧に供せしに御嘉納あった残り物だ、と。それより一揖して予らを椅子に坐せしめ、種々の問題について話し出された。侯の博通にして多方なるをもって、話題百出、一々、予ら記臆の及ぶべきでないから、ただその什一を記すとしよう。(未完)
 あとは食事をすませてすぐ出すから、なるべくは右全文またはその大部分を一度に出し下されたく候。
 
 紀伊田辺町牟婁新報社
   雑賀貞次郎様行
                          南方熊楠拝呈
 
  (六月十一日便にて差し上げし五月十三日の日記のつづきなり)
 徳川侯爵仰せられしは、現下、国民思想の紛々たるは、あたかも仏教初めて入りし当時に異ならず。その時、聖徳太子の尽瘁して神仏を調和し、儒道を宣揚されたるの偉業は、実に前に前者なきものたり。今の時に当たって何とぞ太子の功徳を讃揚敬礼するの美風を興したくて、前年来、大和諸遺蹟の保存を心懸くるも十分に志が遂《とど》かぬは遺憾はなはだし、と。それより壁画保存の談に及び、堂野前氏、得手物の壁画摸写のことについて詳述さる。予申せしは、ギリシアの盛時や支那の周秦の際、異説百出して相論難し、かつて余力を残さず。その時に当たっては互いに危険思想呼ばわりをしたが、正はおのずから正に、邪はおのずから邪に、いかに弁口するも行なわれぬことは行なわれず。後世よりこれを見れば、諸説みな等しく幾分の道理あり。後進文化を助けしこと多し。黄老虚無の説など取り様によれば、まことに危険至極のようなれど、漢初文景の世はもっぱらこれによりて国を治め太平を致せり。楊朱の、父は子に求めず子は父に求めぬの説ごとき、取りも直さず、人々の依頼心を絶やし、各箇の独立自進を勧めたもので、東洋の人能く早くこれを用いたなら、発憤自憤を励ますにおいて大功あったことなるべし。
(90) 紀州の藩祖頼宣卿の御母お万の方の異父兄弟の兄が三浦為春で、これが三浦男の先祖たり。弟は影山氏を名乗った。先日英太郎男より承りしに、今は和歌山の新留町に住し、金物屋となりおるとのこと。この影山氏の分れと思う影山源七という人あり。元質と名乗つたは源七をそのまま音訳したものか。伊藤仁斎を師とし、一廉の見識あり。仁斎も影山氏をわが家の千里駒と称揚された由で、『元禄太平記』という書に、堀河門《ほりかわもん》の四天王、独り武者とて先生の高弟を列した内に、影山氏を独り武者と立てておる。誰も知るごとく、頼光の四天王、綱、公時、貞道、季武の外に、藤原保昌を四天王にも優る勇士として独り武者と言うたのだ。されば影山氏ほどの高弟はなかったのだ。この人の説に、因果応報ということさっぱりないことで、加藤清正などずいぶん無類の高風な人で忠も義も一代の標準だったが、その子忠広の代にわずか二代で亡びた。その跡へ移封されて肥後の国主となった細川忠興は、父藤孝とも長子利隆とも不和で、次男に腹を切らせ、また弟興元とも絶交し、また姉聟の一色義定を誘殺した。すべて藤孝、忠興父子とも、足利、織田、豊臣、徳川と四度まで主人を替え、詐謀と阿諛の多い人で、十分狡猾に世を立ち廻った見下げ果てた人間であったが、その子孫が熊本侯として今に繁栄しおる。して見れば、忠義の人の後が必ずしも栄えず、不義者の跡も隆盛を極め行く。とかく因果の応報のということはないものじゃ、と言うたそうだ。定めてこればかりのわずかの例により説を立てたのでなく、堀河門の独り武者と言われたほどあって、いろいろと深く研究して述べられた言だろうが、世に因果応報なく、不忠不義でも子孫が繁栄すると主張したのは、もってのほかの危険説で、悪いこともやり次第というように聞こえるから、影山氏の説は単に後人の随筆などに散見するのみで、その全書は伝わらなんだらしい。
 しかしながら、これとても全くの危険説ではない。支那人も古く、果報を求むるの心をもって修むれば仏道|竟《つい》に成らずといい、カントも地獄を畏ろしくて悪事を成さず、極楽へ往きたくて念仏を唱うるは真の善行にあらず、たとい地獄に堕つるとも善は行なうべく、極楽へやって呉れても悪は念ずべからず、人はただただ道理の判断に従うて振れ舞うべく、懸賞に惑い、危難を怖れて良心に背いたことをするな、と言うた。しからば因果応報などに迷わず、進ん(91)で天地の大道を行き大義に従うて動くべきは、もっとも正当の理屈で、少しも危険説でない。差し当たった身の成り行きを心配するから、ややもすれば義理を誤り、行いを汚すと鋭くは、実に堂々たる正説だ。されば一寸聞きには危険のようなれど、よく糺《ただ》して見れば何の危険でもなきことの多き場合もあるべく、言論は言論で酬ゆるが穏当だから、できるだけその説を述べたら、間違った点あらば十分言論を振るって説き破って可なり。それに彼方が言論で来るを、此方から暴力をもって鎮圧をのみこれ事とするはきわめて不穏と思う。まず言論を闘わした上、彼方が乱暴狼藉をもって来たりてこそ、始めて此方も暴力を用ゆべけれ、いかな間違った説を述ぶればとて、その間違いを指摘せずに頭から威圧にかかるは賢い仕方にあらじ。
 さて、今日の社会論説は多く科学ことに生物学に基礎を置いたものというが、マルクスとかクロポトキンとかの論説に誤謬多き生物伝説に基づけるもの多ければ、正確なる生物学上の事実に拠れるにあらざること多し。(ここで四月二十二日渡瀬博士来訪の際の談話を引いたが、事煩わしければ略す。)ただ一、二事を挙げんに、クロポトキンの『互助論』に、蟹が手負うと他の蟹がこれを扶《たす》け担《かつ》いで避難せしむとか、蟻が戦死したら友蟻が来てこれを銜《くわ》え去って厚く葬むるなどあったが、予かつて那智山に住んだとき、蟹がワサビの芽を?んで損害おびただしきより、小石を飛ばして蟹を傷つけるごとに他の蟹が来たってこれを運び去る。奇特の志と徐《しず》かにその側に近づき詳らかに観るに、健やかな蟹が傷ついた奴を介抱するとは思いきや、全くその創口から出る旨《うま》い汁を吸うのであった。また蟻の死骸を他の蟻が片付くるは、これを葬るのでも何でもなく、全くその尸骸を穴中に蓄え置いて食物とするのだ。これらは鳩に三枝の礼ありとか、羊の子は跪いて乳を飲むとか、支那人が言ったと同じく、一寸眼にほんのさように見えるので、鳩の子は高い処に上れば危いから親鳥より下の枝に留まり、羊の子は足を折らねば巧みに乳を飲むことができぬのだ。全体、人は万物の霊というに、畜生がかくかくするから、人も畜生を見まねに孝行せにゃならぬ、忠義を励まにゃならぬというは、人を畜生に劣った物と見た誤論である。すでに万物の霊として畜生と懸絶した上は、できるだけ畜生(92)にかつて見ざる行いをしてこそ、人の人たる特長を発揮するというものだ。例せば、いかな畜生も先祖を崇むるの長老を敬礼するのということはない。したがって、かかることに気付いてこれを行なう人間ほど、畜生を距たること遠くて人中の人というべきものだ。
 先日死んだ岡村司博士、在仏のころ一論を草し、昨今欧米人が急《にわ》かに思い付いたごとく、互助の相済のと社会主義の輩などが喋々するところは、東洋には古くからありふれた陳腐なことで、韓退之が義は利の和なりと言った、義という語さえ西洋にはない。ようやくそれに似寄ったことを考え出してそれを強行せんとて、反ってますます過激な騒ぎを惹き起こすは気の毒じゃ、と書いたのを前大統領アノトー氏が一見して、まことに欧米人に取り頂門の一針だと深く感心して、その論を乞い受け熟読したと聞くが、万事この通りで東洋に古来ありふれたことを自分の不学不穿鑿ゆえに気付かず、さてようやく似寄ったことが西洋人によって唱え出さるると、もってのほかの新説新思想と心得、その通りにせねば明日にも天地が亡びるかのごとくに周章し出すは何という軽率なことだろう。維新前わが国に信用組合の制度歴然とあったのを、蘭人などの書にきわめて称讃しある。しかるに維新の直後、当事者軽忽にもかかるものは西洋になきものゆえ潰すべしとてまるで潰し了り、大いに財界をも社会をも乱擾せしめたが、明治十四年ごろより追い追い西洋にも右様のものあるに気付き、また大骨折りでこれを組織したことがある。今少しく慎重に考えたら、潰すにも及ばねば再組織の労を執るにも及ばなんだのだ。前年神社合祀や山林乱伐などを詩sしたとき、吾輩蟷螂の臂を揮うて抗議し、きわめてその人心を険悪ならしむべきを言ったが、一向聞かれず。さて今となっては、その弊膏肓に入って収拾すべからず。てこずり切るの極み為政者も途方に暮れ、足元から鳥の立つように、やれ汽車賃を値下げするから伊勢へ参れの、チョンガレ節を盛んに興行して男伊達《おとこだて》気分を発揮せよのと説きまわったって、いたずらに博徒、喧嘩師を強梁せしめたり、お半長右衛門流の駆け落ちを奨励するに外ならぬところが、まさしく、これ的面《てきめん》の神罰じゃ。
(93) 歴史を読むに、ローマ帝政隆盛の極に達すると同時に、天下の人気堕落することはなはだしく、帝王大官の荒淫無道一通り真に受けられぬようのこと多く、上を見真似の人民も廃徳不倫その極に達したようだが、当時の事歴に精通した学者の説には、これはただそのころの三面記事の文章の面白さに後世に伝唱さるること盛んなるより、いわゆる言《こと》、実《じつ》に過ぎたるもので、実際どこもここもことごとく不徳敗行の男女ばかりで盈たされおったなら、かの帝国は一日もたまるべきにあらず。しかるに、なお数百年の久しきその社会が持ち耐《こた》えたのは、やはり実際尋常満足な人間が非常畸態の怪物よりはるかに多かったによるということだ。わが邦目下のありさまとても同様で、孔子が十室の邑にも必ず忠信丘がごときものありと言われた通り、一汎民衆の内には依然人情も義理も不人情、不義理よりは多く存し行なわれおるが、上に立つ人々の志操行為があまりに乱れて眼に立つこと多きより、世間ことごとく悪い者ばかりのように見えるのだ。予、往年有賀長雄氏の著書を読んで、上に立つ僅数の人々が言行を正しくしたりとて、社会にさしたる感化はなきものとあるを信じ、故フランクス男(大英博物館長で有名な豪富兼大学者)の前で、上に立つ人の品行がよかったりとて悪かったりとて一向社会に何の功能もない、と論じた。それは主としてバックル氏の『英国文明史』の所論をよみかじっての言で、同氏の論にアントニウスとかマルクス・オーレリウスとか、ごく品行の峻厳な帝王は、己れが身|九五《きゆうご》の尊位を践みながら、酒も飲まずに坐が暖まるまで佇《たたず》まずに走り廻り、ろくに眠りもせずに民安かれと心配するに、それを察せずに少しく懐中が温《ぬく》ければ遊びあるき、乏しければたちまち小言を述べるは、身分を知らざる不埒千万の奴じゃと、万事生まれながらにして聖賢たる自身を標準として、凡民を責めるから至って健壮なる父母がまだ骨も肉も固まらぬ子供に、それ掃除が済んだら門へ水を撒け、飯を食う前になぜちょっと郵便局へ走らぬか、そんなに豆を多く食うと袖口が切れる、鼻糞を火にくべるということがあるものか、雪隠へ持って往って抛げ込めば自然と畑の肥しになると気が付かぬか、これ父に口を聞かせながら、そんな大きな欠《あくび》をすると提燈が消える。貴様ほどの大馬鹿は平和博覧会へ阿房の標準として陳列されたらよい日当が取れると、頭から蒸気を立てて叱り散らすごと(94)く、周章呆《あわてあき》れるのみで何たる感化も受けぬ。またエラガバルス帝などは、婦女に荒婬して色事にあきはて、何か奇抜無類のことをやらかそうとてみずから女装し、婦女同前の方法をもって男子に売淫したが、売り物に買い物で、そんな相手にはそのようの非凡のものが相手になるばかり、要は気違い同然の行いゆえ、誰もその真似をしたがらず、反って相戒めて近寄らず、狗鼠同然の人物と、娯楽さえ極まればよいという覚悟で万事大やりで細事にこせ付かぬゆえ、一汎民衆は反って気楽に暮らし得たというような論であった。
 その時フランクス男、予の所説を聞き畢りて、さては日本にバックルなどの書が読まれてそんな了見を開く人もできたと見えるが、気の毒千万なことである。バックルの論はみずからためにするところありての言で、あまりに堅くるしき道徳主義をふりまわして節介をやりつづけると、民がその繁に堪えぬということを説いたまでで、決して上に立つ人の不品行不誠実が人民のためになると誉めたのでない。近く親しく予が目撃したところをもってするも、この英国前皇の時まで、飲酒の過度にして一国を靡爛することおびただしく、酒を使うての奢侈淫乱、上流社会に普?したので、中下の諸流またこれに倣い、満酔して嘔吐した上、その家主人の閨に運ばれて一夜を眠り果《おお》すを美徳のごとく考えた者多かった。それに今のヴィクトリア女皇即位してより、まず宮中に酒を用ゆることをきわめて節せられ、多飲の人々はいかに異才あるも何となく覚え目出度からず。皇太子の尊きをもってしてもいかがわしき聞えあらば、少しも仮《ゆる》すところなく裁判庁に喚起、叱責せしめられた。ここにおいて上下共に、なかなか信賞必罰少しも油断のならぬ世の中となったと恐れ入って、行いを慎み出し、もって今日のごとき欧州第一の紳士国となったわけである。誰が治国者となりどんな者が被治者となるとも、悪い者は悪い、それを悪いと叱り戒しむべき者自身が悪くて、何条《なんじよう》他の悪しきを極言し得んやと言われて、熊楠大いに閉口した次第であった。
 すべて世間のこと一概に言えず、時に応じ世を済《すく》うの方さまざまなるべきが、現下日本の状態に臨んでは、ことにフランクス男の言の適切なるを覚ゆ。さていわゆる現時の危険思想は昔の諸子異端などとかわり、いずれも科学上の(95)実証に基づいたものとして、これを称揚し受売りするもの、果たしてそのことごとく正確なる科学的実証に基づけりや否を知らざる向きも多い様子で、わが邦にも山田繁雄氏や故遠藤喜三郎氏、その外海外に聞こえた科学者で、彼輩の誤謬を余地なきまで難詰するに十分なる人士も少なからねば、何とぞ言論は言論として、あくまで自由に攻難追究せしめ、かれこれとも遺憾なくその所見を闘わせ、謬れる者をしてみずからその謬りを覚らしめられたいことであると、熊楠が長々と侯爵の御前で論説し了ると、堂野前君|徐《おもむ》ろに口を開いて次のごとく語り出でられた。  (未完)
  小生この数日間ちょっと多忙なることあり。これよりまたその方にかかるゆえに、あまり長く凝滞するはいかがと存じ候。右のところだけ差し上げ申し候。用事はたぶん今日中にすむべく、然る上、徳川侯山荘訪問の日記だけにても、今夜一気呵成し、明朝差し上ぐべく候。おくれても二、三日中に多少の分は差し上ぐべき間、只今送る分をさっそく出し下されたく候。
 
(99)     神島の調査報告
        (原題「和歌山県田辺湾内神島を史蹟名勝天然記念物保護区域に指定申請書」)
 
一、名称 神島(カシマ)
一、所在地 和歌山県西牟婁郡新庄村字北鳥ノ巣三九七二番地
一、地目および地積 山林土地台帳に面積参町六畝弐拾壱歩とあり、昭和九年三月田辺営林署の実測により、面積二ヘクタール九九と分明す。
一、所有者 西牟宴郡新庄村
一、管理者 新庄村長
一、申請 御省より史蹟名勝天然記念物保護区域に指定を申請す。
一、現状および由来 本島は新庄村字鳥ノ巣の西方約三丁の海上に在りて、田辺湾内諸島中のすこぶる大なるもの、その周囲約九町という。この島主として岩石より成り、おのずから東西大小の二島に分かれ、東島に多少の土壌と沙浜あるも、西島はほとんどこれを欠き、巌磯その間に拡がりて二島を聯ぬるも、月の晦ごとに潮水巌磯を浴してこれを中断す。遠近の眺望絶佳なれば、『建保三年内裏名所百首』恋の二十首の内、順徳天皇、僧正行意、家隆朝臣、忠定朝臣の詠歌、いずれも紀伊国磯間浦(現時田辺町の内)に合わせてこの神島を読みたり。
 古来紀州の沿海八十里と称せられし、その多くの島嶼中、樹木密生して波打ち際に接せること、よくこの島に及ぶ(100)ものあらず。東島の島頂に古来健御雷之男命と武夷鳥命を祀り、海上鎮護の霊祇として、本村は勿論近隣町村民の尊崇はなはだ厚く、除夜にその神竜身を現じて海を渡るよう信じたり。
 明治四十二年本村村社を合祀してすでに二十五年を経る今日といえども、素朴の漁民賽拝を絶たず、供品腐るに及ぶも掠め去らず。この輩島内の一木一石だに犯さず、もっぱら畏敬して近日に及べり。上述のごとくこの島名勝をもって古く聞こえたるが上に、また特にその絶好の彎珠《わんじゆ》を産するをもって著わる。これは豆科の大攀登植物にて、『紀伊続風土記』九四に、「彎珠一名ハカマカズラ、大蔓にしてその茎の周二尺に及ぶ。長さ数丈にして喬木上に蔓う。葉矢筈のごとくして互生す。花はいまだ見ず。莢の形扁豆に似て闊《ひろ》く、中に二黒子あり、至りて堅し。形《かたち》羅望子(ワニグチモダマ)に似て小さし。根は黒色大塊なり。俗にこの実を帯びて悪気を辟くという」とあり。琉球と九州南部、四国南端にもあれど、本州にあって紀伊のみに産し、古来この神島と西牟婁郡江住村二、三所と和深村の江田の双島とがその産地として著わる。就中《なかんずく》神島の物|形《かたち》最も円く肌細かに光強く外面凹凸なきをもって、念珠を作るに最も貴ばる。古伝に、神島に毒虫あるも人を害せず、これ島神の誓願による。
 故に夏期に熊野に詣ずる者、多く島神に祈り彎珠一粒を申し受け、これを佩びて悪気と毒虫を避けしという。宇井縫蔵の『紀州植物誌』にいわく、神島産の彎珠は、幹の最も太きもの周囲一尺ばかり、蜿蜒として長蛇のごとく、鬱蒼たる樹間を縫うて繁茂せり、と。これよく形容せるの辞、単独林下に在りてはいと気味悪く覚ゆるほどなり。したがって古く島神を竜蛇身を具え悪気毒虫を制すと信ぜしなるべし。過ぐる明治四十四年六、七月の交、新庄村小学校舎改築費に充てんがため、この旧神林を売却して択伐に取り懸かると聞き及び、毛利、南方二人、当時の村長榎本宇三郎に説くところあり、榎本その道理あるを認め、村会の議決を経て売却せる林木を買い戻し、もっぱら神林の保護に力む。その時南方神林に入りて彎珠のはなはだしく衰頽せるを見、その再興の方案を建て、当時の知事川上親晴に申請して、翌四十五年五月五日保安林に編入さるるを得、同月十日入山禁止を標示し、力めてその花の受精を盛んな(101)らしめること十六、七年にして、一旦絶滅に瀕せる彎珠が復《ま》た全盛するのみならず、かつてこれを産せざりし西部小島また彎珠を生ずるに及べり。この彎珠再興の方案は、五年前御召艦長門に召されし節、南方が聖聴に達し奉りしところなり。
 また、上述のごとく神島の神は近年まで諸人に畏敬されたるをもって、神林が人為の改変を受けしことほとんど絶無なれば、林中の生物思うままに発育を遂げ得、また近地に全滅してここにのみ残存する物多く、往々今までこの島にのみ見出だされて全く他所に見えざるもあり。現時確かに知れたる神島産顕花植物および羊歯類|総《すべ》て一百八十五種、その内リユウキュウカラスウリはかつて琉球特産と聞こえしが、近年宇井縫蔵これを神島に見出だす。ハマヤイトバナ、オオマンリョウ、バクチノキ、タキキビ、キシュウスゲ、クスドイゲ、ハマポウ、イヌガシ、タチバナ、ヤマゴボウ等は田辺湾付近にこの島以外に全く見ず、あるいは絶滅に瀬しあり。この島のチョウジカズラは、その実の長さ時に他地の物の二倍に及ぶあり。南方が立てたる新菌属シクロドンは、この島と日高郡川上村のみに産し、新菌種ストロファリア・スグサルサは海水近く生ずる稀有の物にて、この島のみに生ず。
 聖上御研究の粘菌類に在りても、アルクリア・カンナメアナ、アルクリア・マサアキイ、ジアケア・ナカザワイ、ステモニチス・フスカ・ウイフェラ四品の中、二種はこの島に限って生じ、二種は各この島の外一地に限って生ず。この例のものこの他なお少なからず。これらのこと聖聴に達せしにや、昭和四年六月一日田辺湾行幸の節神島に御上陸、直ちに南方に拝謁を許され、旧神祠蹟辺に御登臨また神林を雨中御採集あり。後刻御召艦長門に南方を召され、彎珠に関すること等について進講せしめ給い、特に金弐百円を新庄村へ御下賜あり。村民等欣喜無限、これを基本として醵集するところあり、当日御上陸後まず御野立ち遊ばされたる地点に行幸記念碑を立て、翌昭和五年六月一日県知事友部泉蔵多数の村民とその場に臨んで除幕式を行なえり。碑高さ九尺幅三尺、左の四十八字を刻む。
(102)  昭和四年六月一日
  至尊登臨之聖蹟
 一枝もこころして吹け沖つ風
 わか天皇のめてましし森そ
         南方熊楠謹詠并書
 爾来毎年六月一日を行幸記念日と定め、村内各戸国旗を掲げ、小学校にて記念式典を挙行し、校長等より訓話をなし、一に誠心もて奉祝し来たれり。然るところ近年道路の開通、土地会社の宣伝等により、爰《ここ》に遠からざる湯崎、白良浜《しららはま》等隣村温泉等への遊覧者、しばしば温泉等に無関係のこの島に濫入し、はなはだしきは学校職員、官公吏など種々の方便を仮り、この島監視人の眼を掠め、天然記念諸物を偸み去り、破損するもの多し。例せば聖上島頂に御登臨の際、南方は足跛たるゆえ雨中に御随行叶わず、浜辺に残りて野口侍従に説明申し上げし物あり。そは海生の植物が進んで陸生植物となる径路を暗示するものとして、二十余年来故平瀬作五郎、またその死後英国の一学友と協同研究しおる物なり。しかるに当日南方が乗り渡りし御用船中にこのことをいささか洩れ聞きし者ありて語り伝えたるにや、一年の中にその物取り尽されて跡を留めず。ことに不埒なるは、最近猥りに入林し手に任せて植物を抜き取りその場に捨て去る者ありしこと数回なり。これを上述素朴の漁民が旧祠趾に捧げある餞物錆び腐るを見るも盗まざるに比して、人心に霄壌の差あるを見る。碑の歌も読み得ざるものは盗まず、能く読む者は故《ことさ》らに盗む。右の次第に付き、何とぞ閣下の御同情と御英断をもって、一日も速く本島全部を史蹟名勝天然記念物区域に御指定相成りたく、この島の形相と事歴を徴するに必要なる別紙図面三枚(番号(1)(2)(3))、写真六枚((4)より(9)に至る)で説明要略を書き付け、この申請書に相添え、従来の関係者四人連署の上、県知事を経由し右の段至急申請仕り候なり。本島は昭和五(103)年五月三十一日県告示二二八号をもって、本県史蹟名勝天然記念物保存顕彰規定により指定されおり、その後しばしば本省へ指定申請致すべく県庁の人々より勧められたるも、従前伝え釆たりし地積は正確を保し難く、ことに林樹の直径階別本数は一切不明なりしをもって、最近正確なる調査を遂げようやく申請仕り候。今年九月二十一日の大暴風にて本島の樹木多くは流され去り、彎珠の老木は十の九まで海中へ飛散したれば、このまま人の侵入するに任せては遠からず全滅すべしと惟わる。
 昭和九年十二月二十一日
             和歌山県西牟婁郡新庄村長 坂本菊松
             同県同郡新庄村前村長 田上次郎吉
             調査主著 西牟婁郡田辺町中屋敷町三六 南方熊楠
             調査者 和歌山県史蹟名勝天然記念物調査委員 毛利清雅
 文部大臣 松田源治殿
 
(107)     鷲石考
 
 これは一九二三年三月十日ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』一二輯一二卷一八九頁に出た質問に対し、七月二十一日、二十八日、八月四日、十一日、十八日、二十五日の同誌上に載せた熊楠の答文を、本書のためにみずから復訳したものである。ただし、大意をとる。また『性之研究』拙文「孕石のこと」より取ったところもある。ここには便宜上「鷲石について」「禹余糧等について」の二篇に分かち述べる。
 
       第一篇 鷲石について
 
         質問
 
   一六三三年付でリチャード・アンドリュースがニューキャッスル女伯に出した状は、史料手筆調査会第一三報に収め、出板された。その内に「予はまた貴女へ鷲石一つを送った。これは出産の節、腿に括り付くると安産せしむ」とある。この石の性質、効力について一層詳知したし。(ロンドン、ウィルフレッド・ジェー・チャムバース)
 
(108)         応答
 
 この答文は、主として大正九年東京刊行『性之研究』二号と三号に出した拙文「孕石のこと」と、予の未刊稿「燕石考」より採り成した物である。
 この石を古ギリシアでエーチテースと言った。その意訳で、独語のアドレル・スタイン、露語のオーリヌイ・カーメン、仏語のピエール・デーグル、西語のピエドラ・デ・アギラ、みな英語のイーグル・ストーンと同じく、鷲石の義だ。独語でまたクラッペル・スタイン、露語でグレムチイ・カーメンというはガラガラ鳴るゆえ、ガラガラ石の意だ。
 西暦一世紀に成ったプリニウスの『博物志』巻一〇の三章に、鷲に六種ありと述べ、四章に、そのうち四種は巣を作るに鷲石を用ゆ。この石は薬効多く、またよく火を禦《ふせ》ぐ。その質あたかも孕んだようで、これをふれば中で鳴る。ちょうど子宮に胎児を蔵《おさ》むるごとく、石中に小石あり。ただし、鷲の巣より採ってすぐに使わねば薬効なし、と記す。また委細を三六巻三九章に述べていわく、「鷲石はいつも雌雄二個揃うて鷲巣にあり。これなければ鷲は蕃殖せず。したがって鷲は一産二子より多からず。鷲石に四種あり。第一、アフリカ産は柔らかで小さく、その腹中に白く甘い粘土を蔵む。その質砕けやすく、通常女性の物とみなさる。第二に、雄なる物はアラビア産で、外見|没食子《もつしよくし》色(暗褐)もしくは帯赤色、その質硬く、中にある石また堅い。第三、キプルス島の産はアフリカ産に似るが、それより大きく扁《ひら》たく、他の円きに異なり、内には好き色の砂と小石が混在し、その小石は指で摘《つ》まめば砕くるほど柔らかい。第四は、ギリシアのタフィウシア産で、タフィウシア鷲石と呼ぶ。川底より見出だされ、白く円く、内にカリムスという一石を蔵む。鷲石種々なれど、これほど外面の滑らかなはない。これらの鷲石、いずれも牲《にえ》に供えた諸獣の皮に包み、妊婦や懐胎中の牛畜に佩《お》びしめ、出産の際まで除かねば流産を防ぐ。もし出産前に取り去れば、子宮落脱す。また出(109)産迫れるに取り去らずば難産する」と。
 一九〇五年板、ハズリットの『諸信および俚伝』一巻にいわく、鷲石は臨産の婦人に奇効ありと信ぜられた。レムニウス説に、左腕に心臓より無名指へ動脈通う処あり。その辺へこの石を括り付けおけば、いかな孕みにくい女も孕む。孕婦に左様に佩びしむれば胎児を強くし、流産も難産もせず、またみずから経験して保証するは、産婦の腿にこれを当つれば速やかに安産す、と。ラプトンいわく、孕婦の左臂または左脇に鷲石を佩びしむれば流産せず、かつ夫婦、相好愛せしむ。また難産の際これを腿に括り付くればたちまち安産す。また蛇の蛻皮《ぬけがら》を腰に巻きつけても安産す、と。これは東西に例多き「似た物は似た思いを救う」という療法で、真珠が魚の眼玉に似るから眼病にきくの、キムラタケは陽物そっくりゆえ壮陽の功著しとか、虎や狼は犬より強いから、その肉や骨は犬咬毒を治すとか、黄金の色が似おるから黄疸に妙だなど信ずるごとく、蛇が皮をぬぎ穴をぬけるのが赤子の産門を出ずるに類し、鷲石の内部に小石を蔵せるが子宮に胎児を蔵むるに似たよりの迷信だ。
 一五六八年ヴェネチア板、マッチオリの『薬物論』には、「鷲石をふれば内部に音すること孕めるがごとく、その腹中に一石あり。これを産婦の左臂に佩ぶれば流産を防ぐ。さていよいよ臨産となれば、臂から取り去り、その腿に括り付くると安産する。この石また盗人を露わす効あり。パンにこれをそっと入れて食わしむるに、盗人?めども嚥《の》み下すあたわず。また鷲石と共に煮た物をも嚥み能わず。その粉を蜜?か油に和し用うれば癲漢癇《てんかん》を治す」と出で、一八四五年第五板、コラン・ド・プランシーの『妖怪辞彙』六頁には、「鷲石を孕婦の腿に付くれば安産すれど、その胸に置かば出産を妨ぐ。ジオスコリデス説に、この石を焼いた粉をパンに混じ、嫌疑ある人々に食わせば、少しでもその粉が入ったパン片を盗人は嚥み能わず。今もギリシア人は呪言を誦して、右様のパンを盗人|穿鑿《せんさく》に用ゆ」と筆す。全く鷲石の内に一石を蔵すると、盗人が取った物を懐中すると似るより、この石よく盗人をみ出だすと信じたものか、とまでは書いたものの、なぜ癲癇にきくかはちょっと解きがたい。まずは気絶した患者が回生すると、鷲や人の子が(110)産まれて世に出るとを一視して、言い出したであろう。
 一八八五年第三板、バルフォールの『印度《インド》事彙』一に、プリニウスは鷲石が治療に効ある外に難船等の災禍を禦ぐと説いたとあるが、プリニウスの書にそんなこと一向みえず。暗記また引用の失だろう。さて「アラビア人これをハジャー・ウル・アカブと称え、タマリンド果の核に似たれど、中空で鷲の巣の内に見出ださる。インドから鷲が持ってくると信ず」と述べたまま、何に用ゆとかきおらぬが、必竟欧人同様もっぱら産婦に有効とするのだろう。そしてまた、アラビア人は鷲石は難船等の災難を予防すと信ずるのであろう。
 プリニウスの『博物志』三七巻五九章に、メジアより来たるガッシナデという石は、その色オロブス豆のごとくで、花紋あり、この石を振るえば子を孕みおると判る。三ヵ月間孕むとあるから、それだけたてば石が子を産むのだ。同巻六六章には、ペアニチスは子を孕む石で婦女の安産を助く、マケドニア産で、外見水がこり固まったようだ、と載す。いずれも構造鷲石に似ながら、鷲に係る話のない品らしい。
 鷲石の外にも、いろいろの物を種々の鳥が用いて繁殖の助けとする話多い。その役目の異同に随い、ざっと分類して説こう。
(一)卵を破れざらしむる物。一八八〇年刊行『ネーチュール』二二巻に、チャテルが引いたごとく、フィロの『避邪方』にいわく、鷲は巣の内に、ある石を匿しおき、その卵の破壊を防ぐ、ちょうど燕がパースレイの頂芽をもって子を護るごとし、その石を孕み女が頸に付くれば子は安々と産まれる、と。またエリアノスの『動物書』三巻二五章にいわく、甲虫が燕の卵を害しにかかると、燕はパースレイの小枝の尖《さき》を投げてこれを防ぐ、と。
(二)塞がれた巣を開通する物。オーブレイの説に、サー・ベンネット・ホスキンスの園丁が、試しに啄木鳥の巣の入口の孔を斜めに釘を打って遮り、その巣のある木の下に清浄な布を広げおくと、数時間へぬうちに鳥が釘を除き、その時用いた葉が布の上に留まりあった。世に伝うヒメハナワラビはかかる障碍物を除くの功あり、と(一九〇〇年板、(111)ベンジャミン・テイロール『ストリオロジー』一五三頁)。ユダヤ説に、ソロモン王、音を立てずに金石を掘り出ださんとて、鬼神の教えにより、ガラス板で鴉《はしぶとがらす》(またシギとも鷲ともいう)の巣を蓋《おお》うと、鴉還ってその卵を護る能わず、飛び去って智石(シャミル)を持ち来たってガラスを被った。これは鉄も力及ばぬ堅い物を容易に切り開く力あり。またアイリアノスは、漆喰《しつくい》でヤツガシラ鳥の巣をぬりこめおくと、たちまちポア草を持ち来たり、漆喰にあて、これを破り開き子に餌を与う、と言った。『ゲスタ・ロマノルム』には、墮駝鳥が同じことをすると見ゆ(ベーリング・グールド『中世志怪』一六章)。日本にも『譚海』一一に、「ギヤマン(金剛石)という物、水晶のごとく堅くて、玉のようなる物なり。オランダ人持ち来たる。また常にギヤマンを、オランダ人無名指にかねの環を掛けて挾み持って、刀剣の代りに用うるなり。石鉄の類、何にても堅き物をこのギヤマンにて磨る時は、微塵に砕けずということなし、云々。全体ギヤマンと言うは鳥の名なる由。この鳥、雛を生じたるをみて、オランダ人その雛を取りて鉄にて拵《こしら》えたる籠に入れおく。時に親鳥、雛の鉄籠にあるを見て、やがてこの玉を含み来たりて、鉄の籠を破り雛を伴れて飛び去る。その落とし置きたる玉ゆえ、鳥の名を呼んでギヤマンということとぞ。この物オランダ人も何国にある物ということを知らず、と言えり」と記す。
(三)卵を暖むる物。支那人は鸛《こう》と鵲《かささぎ》が?石《よせき》で卵を暖め孵《かえ》すという(『博物志』四。『本草綱目』一〇)。日本でも、『善光寺道名所図会』五に、鶴が卵を孵すに朝鮮人参で暖めるという。支那人は、?石の性熱く、むかしこれを埋めた地は乾いて植物生ぜず、と信じ、明朝に南京の乞食その少量を嚥《の》んで冬寒を禦ぎ、春になると数千人死んだという(『本草綱目』一〇。『五雑俎』五)。だから、鳥がそれで卵を孵すと言ったのだ。人参が物を温むるとの信念については、『本草綱目』一二、『大英百科全書』一一板一二巻、その条、一八七二年板、ラインド『植物界史』五二九頁、一八八四年板、フレンド『花および花伝』二巻六二八頁をみよ。
(四)一旦失うた活力を回復する物。『甲子夜話』一七に、お江戸青山新長谷寺の屋上に鸛が巣を構えたのを、和尚の(112)不在に寺男がその卵を盗み煮食わんとした。ところへ和尚帰り、雌雄そろうて庭に立って訴うる体に、和尚、僕を糺《ただ》して仔細を知り、煮た卵をみるに熟しおった。これを還さば心を慰むに足らんとて巣に戻しやると、三、四日のあいだ一つの鸛みえず、しかるに、なにか草を啣《ふく》んで帰り来たり、その卵ついに孵った。その草の実、地に落ちて生ぜしをみると、イカリソウだった、と記す。『本草綱目』の淫羊?はイカリソウで、よく精気を益し、筋骨を堅くし、「真陽の足らざる者はこれを宜《よ》しとす。久しく服すれば、人をして好んで陰陽をなし、子あらしむ。かつて淫羊あり、一日に百遍合す。けだし、この?《かく》を食せるなり。故に名づく」とある。また「丈夫《おとこ》の絶陽にして子なきもの、女人の絶陰にして子なきもの」に功あり、と。鸛けだしこれをもってするか、と静山侯は言った。男女を暖めて子あらしむるから、卵をも暖め雛に孵らしむると心得たのだ。今も件《くだん》の寺にかの草と伝説を伝え、先年三村清三郎氏がその葉を寺僧より買い、予に贈られた。欧州にも、和漢産と別だが、この属の草数種あり。その一つボリガラ・アルピヌムを、英語でバレン・ウォールト、不生殖草という。和漢産と反対で、これを食えば一件を遂行し能わなくなるというより名づけたと承わる。アイスランド人は鴉の卵を煮熟しても、親鴉がある黒石もてよく復活せしむと信じ、スコットランドにも同説あり。今のギリシア人また鷲が伏せおる卵を取って煮た後その巣に返しおけば、親鳥がジョルダン河へ飛び往き、一小石をもたらし、帰って巣に納めて卵を孵すと言い、その石を採って邪視を避け、種々の病を治す。これを緩《ゆる》め石と呼んで、しばしば鍍金《めつき》して珍蔵す、と(ベーリング・グールド『中世志怪』一六章。一九〇一年八月と一九〇四年八月、ロンドン発行『マン』)。
 全体この鷲石とは何物かと尋ぬるに『大英百科全書』一一板一六巻にある通り、その純正品は褐鉄鉱の団塊、中空で砂礫を蓄え、ふればガラガラと鳴る物だ。ポストクとリレイが、英訳本、プリニウス『博物志』三六巻三九章の註に、鷲石は粘土を混じた鉄石の円塊で、あるいは中空、あるいは内に他の石また少しの水またある礦物末を蔵むとあるのが、普通品で、不純の褐鉄鉱だ。日本にも大ありだが、ただこれを鷲と連ねた話はない。古来本草家や玩石家が、(113)漢名太一余糧、和名スズイシ、また漢名禹余糧、和名イシナダンゴとした両品が、もっとも欧州の鷲石に恰当し、漢名卵石黄、和名饅頭石というは、やや似て非なるものらしい。欧州の鷲石に種々あるごとく、支那でも太一余糧と禹余糧の区別判然たらず。よってみだりにこんな石を太一禹余糧と呼んだと『本草綱目』にみえる。『性之研究』一巻六号二三二頁に、鷲石を孕石と書きあつたについては、本話の最末に拙見を述べよう。一八七四年パリ板、スブランとチエールサンの『支那薬材篇』にもすでに、予輩浙江沿岸地方より得た禹余糧という物は、西洋で鷲石と言わるる水酸化鉄で、大きさ鴨卵ほどで、中空に多く小石粒あり、下痢を止むるに薬用さる、とある。
 かかる物を鷲に引き合わした古欧人の心が知れぬようだが、全く解説なきにあらず。この田辺町の北三マイルばかり、岩屋山の頂に近く、岩洞中に観音像を安置し、参詣断えず。洞の内外の岩壁、自然に棚を重ねた状をなし、鷲が巣くうに恰好だ。この岩壁と岩棚に無数の小石を含みあり。いずれも楕円でやや扁《ひら》たく、空なる腹内に黄土満つ。饅頭石と称う。この饅頭石を包んだ岩が軟らかいから、風雨でさらされて饅頭石離れ出で、あるいは洞底にあるいは棚上に時々落ち留まる。信心の輩、拾い帰って記念とし、仏壇などに納め、不信心の者は現滴《みずいれ》に作り、また小児の玩物とし、あるいは中の黄土を画の具に試みたが、うまく行かぬときく。この近処に鷲をみること全くなきにあらねば、鷲がこの岩棚に巣くいしこともなしと限らず。果たして鷲が巣くったなら、かの饅頭石が多少その巣内に見出だされたこともあろう。さてボストックおよびリレイ英訳、プリニウス一〇巻四章註に、鷲石すなわち含鉄子持ち石の片塊が、たまには鷲の巣の中より見出ださるるはありうべきことだと言いおり、すべて人間の判断は、必ずしも一々正確厳峻な論理を踏むをまたず、多くは眼前の遭際に誘われ左右される。すでにもってベーン先生の『論理書』にも、数日間ある地に滞在中、晴天ばかり続いたらその地は年中晴天のみであるよう心得た人多く、かの地はいつも天気のよい所などよくいうもの、と説かれた。それと斉《ひと》しく、当初この石を鷲石と名づけた地が、上述田辺近所の岩屋山のごとく、自然に鈴石多くある岩山に鷲が巣くい、その巣の内に偶然鈴石を見出だすこと一度ならず、阿漕《あこぎ》の浦のたび重(114)なりて注意すると、その石中にまた小石を蔵せるを見て、石が子を孕んだ物と誤認し、延《ひ》いて鷲がこの石にその卵を孵す力ありと知って巣に持ち込んだと合点しただろう。
 こんな石に催生安産の奇効ありと信ずるには、必ずしもその偶然鷲巣内にあるを見るを須《ま》たず。そは和漢ともかかる石を右様の効ある物と信じながら、鷲と何の関係ありと説かぬで知れる。けだし、支那人は烏麦《からすむぎ》が至って生え易く熟して落ち易きをみて催生剤としたごとく、饅頭石の内に土や砂礫を蔵め宛然母の体内に子あるごときをみて、これにも催生安産の効ありとしたのだ。少しく類例を挙げんに、米国のズニ・インジアンの女は、産に臨んで生《なま》で豆を嚥む。豆がやすやすと喉を滑り下るように子も安く産まるるというのだ。ニューギネアのコイタ人は、山の芋の収穫を増すため畑にその種芋《たねいも》の形した石を栽《う》え、バンクス島人は麪包果《バンのみ》を殖やさんとて、呆れるほどこの果に酷似した珊瑚石を植える(『本草綱目』一〇。『重修植物名実図考』一。一九一九年十一月『マン』八六項。一九一四年板、バーン『民俗学必携』二四頁。一八九一年板、コドリングトン『ゼ・メラネシアンス』一一九と一八三頁)。
 そこで、鷲石を石が子を孕んだ物また鷲が子を孵すため巣へ持ち込んだと解して、妊婦に佩びしめ試みるに利く場合もある。さては産婦に偉効ありと判断し、評判高まるについては、催生安産とほとんど同功一体なる、卵を暖めるの、卵の破壊を禦ぐの、煮抜かれたのを再活せしむるのと、雑多の奇験もこの石に付会さるるは知れ切った成行き。人間に取ってもこの石のお蔭で妻が安産すれば、新産婦は一生の大厄を免れて命|維《これ》新たなり。万機改造して特様の妙趣、あなにへやうまして女などの企て及ばぬ備え多し。されば後漢の安世高訳出『仏説明度五十校計経』にいわく、「仏いわく、この人はたとえば淫?妬女《いんいつとじよ》のごとし。上頭《としわか》くして淫?をみずから可とす。すでに妊身《みごも》るも、胞胎児の腹中にあって日に大なるを知らず、幾所《いくばく》の淫?妬女また淫?をなすをみずから可とす。児の成就するに至れば、十月《とつき》にしてまさに生むべし。児まさに転ずべくしていまだ転ぜず、まさに生まるべくしていまだ生まれず。その母、腹痛してみずから慚《は》じみずから悔ゆ。堕つるに当たって痛む時、妬女の啼《な》く声は第七天に聞こゆ。(いやと言ふのにしたからとやっ(115)とうみ。)児の生まれおわって後、その母、痛み癒《い》ゆれば、すなわちまた婬?を念《おも》う。(ねたふりで夫《おつと》にさわる公事《くじ》だくみ。)すなわち慚《はじ》を念わず、痛みを念わず。すなわちまた淫?なること故《もと》のごとし。(あたためてくれなと足をぶっつかみ。)かくのごとき苦しみ言うぺからざるに、妬女はまたみずから苦痛を覚《さと》るあたわず。(ここにおいて夫も、嬶《かかあ》殿ひめはじめだとばかをいひ。)」妻が安産、夫は大悦、苦しんで泣き、産んで苦を忘れ、世にトシゴを引っ切りなくうむすら少なからず。したがって孕んでは鷲石を佩びて安産、産んで後はこれを帯びて夫妻相好愛す。これほど結構なことなく、鷲石ほど重宝な物なし、と信ずるに及んだのだ。
 中世欧州であまねく読まれた『動物譬喩譚(フィシヨログス)』原本の第十九譬喩は、ヴルチュールが石の内にまた石を放在するものをもって安産する話だ。ヴルチュールは種属多般で、支那にもあってGと名づく。高飛で有名な南米アンデス山のコンドルまたこの類だ。いずれも多少禿頭ゆえ、『博物新編』には禿鷲と訳した。鷲と近類だから、鷲石の話を禿鷲が安産を得んため用ゆる石に振り替えたのだ。プリニウスの『博物志』三〇巻四七章また、孕女の足下に禿鷲の羽を置けば出産を早める、と言った。一六四八年ボノニア板、アルドロヴァンジの『礦物集覧』四巻五八章に、大アルベルツスから引いて述べた、禿鷲体内に生ずるクヮンドリなる頑石は、詳説を欠きおるが、禿鷲の安産石であろう。
 ここで、鷲を性慾と蕃殖に関して有勢の物とした話が諸方に少なからぬについて述べ置こう。まず古ギリシアの伝説に、トロイ王トロスの子ガニメデス艶容無双で、大神ゼウスこれに執心のあまり鷲をして取って天上せしめ、これを酒つぎ役の寵童とし、神馬二匹をその父に償うたということで、欧州の美術品に古来大鷲がこの少年を捉って天上するところが多い。ローマで少年の美奴酒の酌を勤めるをガニメデス、それから転じてカタミツスと呼んでより、英語で男色を売る者をカタマイトという(スミス『希臘羅馬《ギリシアローマ》伝記神話辞彙』二、およびウェブスター大字書)。ツラキア生れの名娼ロドピスは、かつて動物訓話作者イソップと共に、サミア人ヤドモンの奴たり。のちサミア人ザンデスの奴とな(116)り、エジプトの大港ナウクラチスで芸妓商売をした。一日この女浴する間に鷲がきて、その靴一つを?み去り、エジプト王が裁判しおる前に落とした。王その事の奇にしてその靴の美しきに迷い、持主を尋ねて息《や》まず、ついにこの女を探り当て后とした。ロドピスは頬赤の義で、わが邦では川柳にも「頬赤の匂ひ嚢で防ぐなり」とあって好評ならぬ。北インドで韋紐《ヴイシユニユ》神は金鷲に乗ると信じ、翼ある美童像もてその鷲を表わすところがギリシアのガニメデスに似おる(一八四八年発行『ベンガル皇立|亜細亜《アジア》協会雑誌』一七巻五九八頁)。
 南インドのトダ人伝うらく、老媼ムラッチの頭に鷲が留まり、それよりこの婆孕み男児を挙げたのがコノドルス族の先祖、と。『羅摩衍《ラーマーヤナ》』に高名な猴王ハヌマンの縁起に、アヨジャー王ダシャラタ、子なきを憂い、牲を供えて?るに、牲火中に神顕われ、天食パーヤスを授けてその三妃に頒たしむ。その時一妃の分を鷲が掠め去ってアンジャニ女の手に落とす。この女また子なきを悲しみ苦行中だった。今天食を得てはなはだ喜び、これを食うとたちまち孕んでハヌマンを生んだ、とある。いわゆる金鷹は仏経の金翅鳥《こんじちよう》で、仏説に、むかしビナレ城にタムバ治世の時、釈尊の前身、金翅鳥王に生まれ、年若し。一日少年に化してビナレに往き王と博戯するを、宮女らその美貌に見とれ、王后に語る。他日化少年また在って王と博戯する時、后盛装して入って見る。少年また王后の麗容に驚き、たちまち象牙の英語で相惚《あいぼ》れときた。鳥王すなわち暴風を起こし、天地晦冥、宮人愕き走り出るに乗じ、后を?んで自分が住む竜島につれ行きて、これと淫楽し続く。王その楽人サッガをしてあまねく海陸に后を捜さしむ。サッガ、海商の船に乗って金島に渡る。船中の徒然を慰むるため商人どもサッガに奏楽を勧めると、易い御用なれど、予が海上で奏楽したら魚驚いて船を破るべし、という。一向信ぜずに強いられ、止むを得ず絃を鳴らすに魚類大騒ぎし、その内の大怪魚一つ飛び揚がって船に落ち、二つに破り了る。鳥王は后を盗んで飽くまでこれと淫楽しながら、知らぬ顔して毎度ビナレ王と博戯にゆく。この時もちょうどそっちへ行った留守中で、后は技癢《ぎよう》の至りに堪えずとあって、所詮女房にゃもちゃなさるまいなどとうなりつつ海浜に出歩くうち、本夫に仕えた楽工が船板を便りにこの島へ流れ寄ったところへ(117)行き合い事情を聞き、猴にかき付かれたんじゃないが、逢いたかったと抱き伴れて宮中に帰り、十分保養し本復せしめ、美装美食に手を尽してこれと淫楽し、「かかりけるところへ亭主帰りけり」の警句を忘れず、注意して匿しおき、鳥王出で行けばまた引き出してサッガと歓楽した。かくて一月半の後、ビナレの海商薪水を求めて島に上りしに便船して王宮に戻り、鳥王来たってタムバ王と遊ぶを見、絃を鼓して王后鳥王に盗まれ海島にあり、自分その島へ漂著して飽くまで王后と歓会したことを謡うた。金翅鳥王、これを聞いて后の好淫厭足なきに呆れ、怒り去って后を伴れ来てタムバ王に返し、再びビナレへ来なんだ、とある。唐訳のこの譚はこれと大分|差《ちが》う。商船難破して商主死し、その妻一板を便り海洲に漂著して金翅鳥王の妻となり、その子を生む譚あり。また梵授王が妙容女を妃とし、その貞操を全うせしめんため、金翅鳥王に命じて、昼はこれを海島に置き一切人間に見られざらしめ、夜はこれを王宮に伴れ来たらしめ、天にあっては願わくは比翼の鳥と契りしうち、速疾という名の楽工がサッガ同然の難に逢うてその島に上り王妃に通じ、共に鳥王を欺き王宮へつれ帰り、姦通のこと露われて阿房払いになり、賊難に遇うて妃は賊魁の妻になり、情夫速疾を殺し、種々と淫婦にありたけの醜行を重ねたのち、野干の謀に遵い恒河《ごうが》に浴して改心易操したと称し、再び王に迎えられて大夫人となった次第を述べある。それから本邦の羽衣伝説に似たギリシアの神話あって、女神アフロジテが川に浴するをその甥ヘルメス神が垣間見《かいまみ》、鷲をしてその衣を攘《かす》め去らしめ、望みを叶《かな》えたら返しやるとてこれに通じたという。セストス市の少女、鷲を育つると、毎度鳥類を捉え来たり返礼した。少女死して屍を焼く火中に鷲が投身して殉死し、市民、碑を建てこれを旌表《せいひよう》したとあって、何にしろ、鷲は美童や婦女ずきとされた物だ。(一九〇六年板、リヴァース『トダ人篇』一九六頁。一九一四年ボンベイ板、エントホヴェン『グジャラット民俗記』五四頁。カウエル『仏本生譚』三巻三六〇語。『根本説一切有部毘奈耶雑事』二九。一八七二年板、グベルナチス『動物志怪』二巻一九七頁。プリニウス 『博物志』一〇巻六章)
 鷲と子孫繁殖を連ねた信念は古ローマにあった。アウグスツス帝がリヴィア・ズルシルラを娶った直後、鷲が白牝(118)鶏を后の前垂れに落とし、その牝鶏が月桂枝を銜《ふく》みおった。卜うと大吉兆と知れ、その枝を植えると大森林となり、牝鶏を畜うと大繁殖した。よってその所を牝鶏荘と号した。ネロ帝の末年、その鶏みな死に、月桂林は萎み亡せたので、帝統絶ゆべしと知ったそうな。鷲に?み去られた幼児が名人となり、あるいは著姓の祖となった例、日本に少なからず。奈良大仏の創立者良弁僧正、摂州高槻の鷲巣見氏の祖等だ。インドにも大王の后となった太陽姫(スリア・バイ)は、貧な牛乳搾り女の娘で、一歳の時老夫婦の鷲に捉り去られ、その巣で養われたという。(グベルナチス、一巻一九六頁。『元亨釈書』本伝。『翁草』三。一八六八年板、フレール『デッカン旧日譚』六章)一九〇九年板、ボムパスの『サンタル・パルガナス民談』九六章は、雌雄の禿鷲が人の双生児を養い、二児歩み得るほどになって高い木の上から地に下ろし、「カーラゆゑアサンの下に残されて、夫婦の鷲に育てられつる」巡礼に御報謝をと唄を教えた。けだし、その母カーラ果を集めに行って林中で双生児を生んだが、せっかく取った果物を持ち還らずば明日が過ごされず、子と果物と両持ちすべき力もなし、ままよ食いさえすれば子はまたできる、運さえよくば引き還し来るまで活きおれと言って、アサンの葉を二児に被せおき果物を負い帰ったあいだに、禿鷲夫婦が取り去って育て上げたのだ。さて二児がひょろつきながら件《くだん》の唄を張り上げ村に入って乞食するとちっとの物になるを、巣に持ち帰って生活した。禿鷲かねて二児に教えてその親の住村へ往かざらしめた。一日、二児乞食に出で、なんと鷲が往くなと言った方へ往ってみようでないかと相談決して、かの村へ往き唄い廻り、生みの両親の家へくるを、見れば小さい巡礼、ドレドレ御報謝進上と盆にしらけの志《こころざし》、イヨーと懸け声までは書いていないが、その母親がお弓もどきに出て聞くと、唄は根っからわがことなり、いよいよ尋ねてわが子と知れ、大悦びで夫と共に二児を大籃にふせおいた体、あたかも安珍を道成寺の鐘下に匿したごとし。禿鷲は執念深いからどうせただはおくまい、ドウモ安珍ならぬと案じたのだ。果たして禿鷲この家へ舞い来たり、屋根を穿って飛び入り籃を覆えして二児を捉えた。父母もやらじと二児を執え、エイ声出して引き合うたので、二児の体が二つに割れ、父母は泣く泣く手に留まった半分の屍(119)骸を火葬した。禿鷹も片割れの死骸を持ち帰ったが、自分が育てた者を食うに忍びず、火葬のつもりで巣に火をかけると、焼けおる屍骸から汁が、迸《ほとばし》りその口に入った。それが無上に旨《うま》かったので、焼いてしまうは惜しい物と、残った屍骸を引き出して食ったのがこの鳥人屍を食う濫觴だという次第を説いたものである。誰も知るごとく、パーシー人は必ずその屍をこの鳥の腹に葬る。
 欧亜ともに獣畜が人の子を育て上げた譚多し。アクランタが牝鹿に、シゲルドが牝熊に、ロムルスとレムスの双児が牝狼に乳せられ、后稷が牛羊に養われ、楚の若穀於択が牝虎に育てられたなどだ(コックス『民俗学入門』二七五頁。スミス『希臘羅馬伝記辞彙』。『琅邪代酔編』七)。こんな例今もなきにあらざれば、鷲や禿鷲が食うつもりで捕え去った人の児を、子細あって食わず、そのうち慈念を生じて養うところを人が見つけ、救うておのれの子とするはまるでないことでないと惟う(一八八〇年板、ボール『印度《インド》藪榛生活』四五七頁以下。拙文「虎に関する史話と伝説、民俗」第四節)。この一事は、鷲が人間繁殖に関し力ありという信念の唯一の源因たらぬまでも、大いにこれを強めたは争うべからず。
 
     第二篇 禹余糧等について
 
 支那の「本草」に、欧人のいわゆる鷲石を禹余糧等に分類せるその区劃、諸家おのおの説を異にして判然せず。小野蘭山が『本草啓蒙』に説くところ、もっとも分明と見受ける。左に『和漢三才図会』六一に『本草綱目』に出た諸家の説を折衷合考して摘要した文と、『重訂本草啓蒙』巻六なる蘭山の説を写し出す。
 『本綱』、「禹余糧は会稽の山中に多く出ず。かの人いわく、むかし禹王ここに会稽して、その余すところの食を江中に棄つ、しかして薬となる、すなわち禹余糧と名づく、と(?草《しそう》もまた禹余糧と名づく、すなわち草の実なり。同名異物なり)。池沢および山島に生ず。石中の細粉は麪《むぎこ》のごとく、黄色なること蒲黄《ほこう》のごとし。その堅く凝って石のご(120)ときものを石中黄と名づく。そのいまだ凝らずして黄濁せる水を石中黄水と名づく。しかして三者は一物なり」。
 蘭山いわく、禹余糧、和名イシナダンゴ、ハッタイイシ、ハッタイセキ、コモチイシ。舶来和産ともにあり。舶来のもの大きさ一、二寸、殻の厚さ一、二分ばかり、はなはだ硬く、黄黒褐色にして、打ち破れば鉄色あり。その内空虚にして、細粉|盈《み》てり。また内に数隔あるものあり。薬にはこの粉を用ゆ。いわゆる糧なり、云々。その粉白色あるいは青白色を良とす。また黄色、黄白色なるものあり。和産は、和、能、甲、泉、日、薩、但、江、作諸州、筑前、越中その余諸国にあり。
 『本綱』、「太一余糧(また石脳、禹哀とも名づく)は、太山の山谷に生ず。その石、形は片々として層畳をなし、深紫色なり。中に黄土あって、その性最も熱す。冬月に余糧のある処は、その雪まず消ゆ」。
 蘭山いわく、太一余糧、イワッボ、ツボイシ、ヨロイイシ、オニノツブテ、フクロイシ、タルイシ、スズイシ。舶来なし、和産諸国にあり。形状、大小一ならず。大なるものは斗のごとく、小なるものは桃栗のごとし。禹余糧の形に似て、外面黄黒褐雑色、質粗くして大小の砂礫|雑《まじ》わり粘すること多し。『雲林石譜』に「外に多く砕せる石を粘綴す」というこれなり。その殻堅硬、打ち破る時は鉄のごとく光あり、裏面は栗殻色にして滑沢なり。殻内は空しくして粉あり。黒褐色なるもの多し。また黄褐色なるものもあり。全きものを用いて一孔を穿ち、粉を去って小なるものは硯滴《みずいれ》となし、大なるものは花瓶《はないけ》となす。およそ禹余糧、太一余糧ともに、初めは内に水あり、のち乾いて粉となり、久しきをへて石となる。その桃栗の大きさにして、内に石あるもの、これを撼《うご》かせば声ありて鈴のごとし。故にスズイシと言う。太一余糧は、泉、紀、讃、和諸州、城州木津辺の山にあり。そのうち和州生駒山に最も多し、名産なり。『本草綱目』巻一〇に、「※[學+攵]《こう》いわく、石中黄ならびに卵石黄は、二石其に相似たり。その石中黄は、句裏は赤黒黄にして、味|淡《あわ》く微《かす》かに?《しよ》なり。卵石黄は昧|酸《す》く、箇々に?々《こうこう》して、内に子の一塊あれば、用うるに堪えず。もし誤ってこれを餌《くら》えば、人をして腸|乾《かわ》かしむ」。
(121) 蘭山いわく、卵石黄は饅頭イシ、ダンゴ石、ダンゴ岩、土ダンゴ、形円にして、大抵大きさ五、六分より一寸ばかりに至る。また長きものもあり。外は黄白色にして、細土を固めたるがごとく、柔らかにして砕けやすし。中心に黒紫色の?《あん》ありて、鰻頭を破りたる状のごとし。豊前中津、房州|氷上《ひかみ》郡、防州、予州、奥州津軽、伯、能、武諸州、甲州荒井村その他諸州に産す。
 ざっとこんなものだが、蘭山説もちょっと解しにくいところなきにあらねば、熊楠、古人が集めた標本を多く蔵するに見比べて蘭山説を概要して申さば、禹余糧は全体を通じて同質の堅い石で、太一余糧も堅いが、多くの小石と砂粒が混在せるものゆえ、全体同一質でない。卵石黄は、上述田辺付近岩屋山の饅頭石等で、石が柔らかく脆《もろ》くて、固まった細土のごとく、中に黒紫色の餡あり。禹余糧も太一余糧も、未成の物は中に黄みを帯びた濁水あり、これを石中黄子と名づけ、三升までのむと千年まで生き延びる、と『抱朴子』一〇に出ず。その水おいおい砂また細土となるを石黄と名づける。彩色に石黄というはこれか。そののちますます固まって石となり、外を包んだ石と離れて、外の石をふればガラガラ鳴るを、日本で鈴石と名づく。『譚海』九に、駿州富士郡伝法村住、吉川氏の先祖は、富士の牧狩に頼朝に供奉したそうで、百五十年ほど前大風が宅後の大木の楠を吹き倒した。その跡より出た石槨《せつかく》を開くと、径七、八寸ほどの石のみあり。その石真中に穴あって内に丸い石を含み、ふると鈴の音に違《たが》わず、鈴石と号し秘蔵し、事あるごとに祈れば験あり。近年は石の霊ようやく薄らいだものか、験|稀《まれ》になった、とあり。惟うに、むかしは鈴石のよくなるものを鈴の代りに神前などで用い、年久しくなってアフリカ人のフィチシュごとく、霊あって人を助くと信じたところも日本にあったらしい。
 禹余糧、太一余糧、共に夏の禹王とその師太一が食い残した穀粉の化石と見立てての名だ。石の中にある砂や土が、穀の粒や粉に似おるからだ。他に?草をも禹余糧と名づく、とある。?草は、本邦の本草家が海浜に多いフデクサ、一名ハマムギに当つるが、当否を知らず。およそ諸邦に、ある箇人の飲み食いの残分が化石し、もしくは不断ふえ増(122)し、もしくは常存し、また代々相嗣ぎ生じて亡びないと信ぜらるる例多し。少々述べてみよう。
 一八五二年カルカッタ刊行『ベンガル皇立亜細亜協会雑誌』二〇巻二四四頁に、ウィルフォード大佐いわく、インド、タムラチレー山に最大種の稷《きび》の大きさな細石多く、麁挽《あらび》きの小麦粉に似おる。土俗伝えいう、むかし大天、十二年の不在中、天妃毎日食を調えて一年|俟《ま》ってもまだ見えぬ、十年俟ってもまだ見えぬときたので、毎夜捨て続けたのがこの石と化した、と。これを研《と》ぎ穴あけ糸を貫いて千粒一ルピーの割で売り、薄黄色だからタムラ(真鍮)と呼び、巡礼の輩至ってこれを尊ぶ、と。支那では、建中の石粟は諸葛武侯が馬を飼った残りの粟の化するところといい、江西の洞中の石田にある石稲も似たものらしい(『淵鑑類函』二五。『大清一統志』二〇六)。日本には『播磨風土記』に、天日槍命《あまのひぼこのみこと》、韓国《からくに》より来たり、「宇頭《うず》の川底《かわじり》に至って、宿処《やどり》を葦原志挙乎命《あしはらのしこおのみこと》に乞う、云々。志挙乎、すなわち海中に許す。その時、客の神、剣をもって海水を攪《か》きて、これに宿る。主《あるじ》の神、すなわち客の神の盛んなる行いを畏《かしこ》みて、先に国を占めんと欲し、巡《めぐ》り上《のぼ》って粒丘に到って、これを?《くら》う。ここにおいて、口より粒《いいぼ》落つ。故に粒丘と名づく。その丘の小石、みなよく粒に似たり」。粒丘はイイボノオカと訓《よ》む。神の口より落ちた飯粒が化石したのだ。『諸国里人談』三には、周防の氷上山は、むかし毎年二月十三日北辰尊星の祭あって、千種百味を備え、日本第一の霊験ある大祭だった。運の祭りとて多々良家千余歳続き祭ったうちは、年ごとに星が降った。天文十八年より降りやみ、(二年後に)義隆亡び、祭は断絶した。むかしの祭供、土石となって地に埋もり、米石餅、土饅頭あり。掘り出だして流行病を防ぎ、瘧を落とすに妙なり、と見ゆ。伊賀の浄福寺辺に大きな集合岩あって御飯石と呼ばれ、異僧が炊《かし》いだ飯の化石という。信濃飯綱山近く黴菌土あって、味麦飯のごとく、食用すべし、餓鬼の飯と呼ぶ。越中新川郡の糟岩は、むかし長者酒糟を捨てたのがこの岩となったとて、神と崇め、祭礼の時南無糟明神と唱うる由。(藤沢君の『日本伝説叢書』伊賀の巻、二三一頁。同、信濃の巻、五九頁。『越中旧事記』上)
 後魏の楊衒之の『洛陽伽藍記』五に、宋雲と恵生と正光元年(西暦五二〇年)乾陀羅《けんだら》国に入り、肉を割《さ》いて鴿《はと》を救う(123)たで名高い尸毘王《しびおう》の倉の焼阯をみるに、焦げた粳米今にあり、一粒を服すれば永く瘧を絶つ、国民禁日を須《ま》ってこれを取る、とあり(一九〇六年板、ピール『仏徒西域記』一卷一二玉章)。インドより支那を経て日本に伝えたものか、日本またむかし焼けた倉|趾《あと》から出る焼米石が熱病を治すという処あり(『郷土研究』四巻三号、中川氏の「白米城の話」)。
 『山州名跡志』六にいわく、毎歳六月十九日の夜、鞍馬寺の法事を左義長谷で行なう。古えは正月左義長のごとく、竹を立てて焼いたり。中ごろより松明のごとくして焼く。伝えていわく、多門天は人道の衆生に福を授くる誓いありて、その福満足せり。しかし、衆生諸煩に遮られて得るに由なし。故にいたずらに朽ちるをもって焼き亡ぼしたまう。その相を擬して衆生にみせしむ、云々。大和志貴山、またこの天の焼きたまうとて土中に焼米あり、そこを米尾という、と。
 唐の末、兵起こった時、山西の趙氏の女が嫂《あによめ》と共に遁るる折から大|旱《ひでり》で、久しく行くうち喉が渇した。ある人見かねて米の洗い水をくれたのを、嫂は飲んだが、その夫の妹は受けず。溝中にぶちあけて渇死した。その溝の水は、今にしろ水のように白いから漿中溝と名づく。日本でも、若狭の大飯郡青海村の山下に三の岩穴おのおの常に水あり。一つは酢、一つは酒、一つは醤油の味あり。野菜、海藻などに和して食えば造醸のものと異《かわ》らねど、魚、鳥を煮ると味必ず変わる。弘法大師ここへ来たり修行の時造ったそうで、大師洞と称える由(『大清一統志』一一〇。『若狭郡県志』三)。故高木敏雄氏の『曰本伝説集』二一〇頁に、飛騨の益田郡中原村の孝行水という小池は路傍にあり。むかし瀕死の父が若い時琵琶湖の水を飲んで旨かったと思い出し、今一度あの水を飲んで死にたいと言った。その子孝心|篤《あつ》く、すぐ出で立って琵琶湖へ急行し、その水を持ち来たり見れば父は死んでおった。大いに失望して水を器に盛ったまま路傍に落とし、そこがたちまち池となり、今に増減澄濁、みなかの湖に応ずという。
 一向宗徒は、越後の八房の梅を祖師の霊験と崇む。親鸞聖人、鳥屋野《とやの》に宿った時、亭主馳走して塩漬の梅を献じた。聖人食って核を取り庭に投げて、わが教ゆる法が繁昌するなら、この核より梅の木が生ぜよ、と言った。のち果たし(124)て生え、その梅千葉の紅花で一朶に八顆あり、味わいやや鹹《しおはゆ》しという(『和漢三才図会』六八)。『本草図譜』五八に図、白井光太郎博士の『植物妖異考』一に説明あり。三度栗また親鸞の霊験という。聖人、分田村を過ぐる時、一婦焼栗を持って餽《おく》った。上野の原で休む時、これを食い、余りを地に埋めてわが法後世に昌《さか》えなばこの焼栗再生すべし、と言った。不日に芽を出し、今は林となり、歳に三度|実《みの》る、と(『和三』その他同前)。天武天皇にも同様の話あり、『宇治拾遺』に出ず。伯耆の後醍醐帝の歯形栗も同類異話だ。常陸鹿島の社の側の栗林も、神の食い残しの焼栗より生えた由。(加藤咄堂『日本風俗志』三、新松氏『神道弁草』)
 ナスロルラー・セムマンドは網打ちに長じ、沙漠の砂上に網打っても必ず魚を獲ったという。予かつてダマスクスより縁玉井(ペール・ゼムロッド)に到った時、巡礼輩、沙原中より大小の魚おびただしく集め持ち来たり煮て食い、むかし回祖がナスロルラー・セムマンドに砂中に網打って取らしめた魚の残りだと言った、とエヴリア・エッフェンジが言った。あるマレー人は、ザンノイオは回祖が豕《ぶた》を食うを禁ぜぬうち食うた豕の残肉より生じたという。熊楠いわく、これは肉味が似たより言うのだ。またシサ・ナビ(回祖の残食)という鰈《かれ》は、最初体の両側に等量の肉あった。その一側を回祖が食って、残りを海に投げ入れると、蘇生して今まで繁殖したが、一側の肉他側より多くて扁魚となりおわったという。西暦五世紀にカムボジアで活動したシャム人ネアイ・ルオングが、クラン魚を食うて残した頭と背骨ばかり、それが復活して今に生きおる(一八七六年、ワーター編纂、サウゼイ『随得手録』二輯五二一頁。一九〇〇年板、スキート『巫来《マレー》方術』三〇六頁以下。一八八三年パリ板、ムラ『柬埔塞《カムボジア》王国誌』二巻一三頁)。支那では、呉王、江を渡る船中で鱠《なます》を食うた残りを中流に棄てたのが鱠片のような魚に化し今にあり、呉王鱠余とも鱠残魚とも王余魚とも名づく。和漢とも王余魚を鰈《かれ》と心得た学者あり。予はその何書によって立説したかを知らねど、支那の一部またマレー人のシサ・ナビ同様、鰈を某王の残食と言い伝える所があるのだ(『和漢三才図会』五一。『?書南産志』二)。『?庭雑録』上に、陸次雲の『繊志志余』に、「半面魚。相伝う、越王、魚を食らいていまだ尽さず、半ばを海中に棄つ。故にその種はた(125)だ半面を具《そな》うるのみ」、ただし呉王、越王また宝誌和尚がことなりともさまざまに言えり、と。寧国府琴渓に一種の小魚あり、仙人琴高、薬滓を投じて化したとて琴高魚という。毎年三月に数十万一日に来たり集まるを、網で取って塩漬にし、乾し土宜《みやげ》となす、と(『琅邪代酔編』八)。
 日本では『?庭雑録』上に、吉野山蔵王権現の堂より左の方、道程二十町ばかり行けば、谷間に亘り十余間の池あり。その内の鯉は身痩せて扁たし、と。土人いわく、むかし義経片身食うて池に放ちたるとぞ、と出ず。義経の兄頼朝は、江州浅井郡高山村の安明淵で鯉をとり、片身の鱗をふき放せしに、今に草野川に存す、と。高野山蓮金院の覚弘の児童、前なる池の魚をとり焙って奉りしを加持すると、かたわら焦げながら蘇り、池に放てばもとのごとく泳ぎ、子孫みな半身焦げたようだ、と。ある東土旅行家のカウカススより黒海に流るる川の記に、この所へ毎歳無数の魚来るを、土民捕えてその片かわの肉を切り取り食い魚を放つと、明年魚また来たって他の側の肉を捧ぐるをみるに、去年切り取られた跡にまた肉を生じあり、と。行基大士、かつて自分の生まれた村にゆくと、村人池のかたわらに飲みおり、鮒の鱠《なます》を上人に奉った。上人|齟《か》んで池へ吐くと、おびただしい小鮒となって数百年繁殖したが、眼一つなかったという。その訳を知らぬ。播磨の腹辟《はらさき》沼は、上古花浪神の妻淡海神が、夫を追ってここまで来ても埒《らち》明かず、怨み怒ってみずから屠腹してこの沼に没した、それから沼中の鮒に五臓なし、と伝えた。熊樟謹んで案ずるに、近松門左、元禄十三年作の『長町女腹切』は、そのころ大阪長町の伽羅細工師甚五郎の妻、その甥柄巻屋半七がお花というメテレツに打ち込んで起こった椿事を苦にし、み事男のする切腹を女の身でした始末を演《や》った。それより二百八十三年前、応永二十四年正月、上杉禅秀敗軍して鎌倉雪下で自殺の後、その妻これを聞いて住国(甲斐か)藤渡の河辺で、守り刀で腹十文字に切って水中に沈む。女腹切ること古今不思議に聞こえし。辞世の歌に「さなきだに五つの障りありときく、親さへ報ふ罪いかにせん、コラサイ」と。熊楠また案ずるに、この夫人の父武田信満は婿禅秀に加勢し敗軍して甲斐に帰り、上杉憲宗に伐たれ衆寡敵せず、同年二月自殺したから、娘が親さえむくう、と詠んだのだ。しかし、こ(126)の上杉夫人よりズットむかし、神代すでに淡海神が切腹した上、五臓を?《つか》み出したればこそ、この女神が沈んだ沼の鮒は後世まで五臓なしと言い伝えたので、はるか下って九郎判官や佐々成政が割腹して腸を繰り出し、三好海雲が顕本寺の天井に腸を投げつけて死んだ等より大分ツリを取らねばならぬ。だから世に多い自殺ずきの男や、りんきで死ぬ死ぬ言い通す女どもは、もっぱらこの女神を開祖と仰ぐべしだ。さて越中礪波郡やち川のざこに腸なし。親鸞京都で寂したのち、この辺にあった俗弟が、たまたまざこの腸を抜きおったが、この報に愕《おどろ》き、ざこをこの川へ捨てたから今に腸なしという。(『近江輿地誌略』八六。『高野山通念集』六。一八九一年板、コプレイ『奇異な迷信』一七頁。『行基年譜』。『元亨釈書』一四。『播磨風土記』。『両武田系図』。『野史』一一一、一一五、一五二。『義経記』八。『川角太閤記』三。『越中旧事記』下)
 高野山御廟橋は有罪者渡り得ずとか。ところが、大正十年十一月、予ここで見おると、殺生犬をつれ鉄砲を肩にし橋の上で屈を三つ放って行く者を見、その体を画いて座主に覧《み》せた。この橋の下に住むハエはみな背に孔あるという。むかしこの魚を捉え、焼きおるところへ弘法大師が来て、その悪業たるを諭《さと》したゆえ、放ったら串の跡が残ったとか。実はジョルダンとトムソンが、学名をレンキスクス・アトリラツスとつけたもので、この田辺付近にもどこにも多く、特に色づけられた背鰭が孤立して、水中で孔のようにみえるのだ。
 「本草」にいわゆる卵石黄は、卵に黄みあるに似たよりの名で、前篇に述べた田辺近所岩屋山の饅頭石はこれに属す。甲州の団子山辺を、むかし弘法大師が通ると、婆が団子を作りおった。一つくれというを断わったので、大師大いに立腹し、呪してことごとく石にしたから、婆はこれを宅後の山に捨てた。石は鶏卵の大きさで、人工が及ばぬほどよくできおり、雪ほど白くすこぶる滑らかで、破って見れば赤い米粒様の物満つ。外用すれば疱瘡を治すという。柳里恭その粉を水飛して画料とし、よい色がでたが、膠水に和し悪《にく》かった由。常陸の足高で、坂の両側の崖の砂中から石饅頭を出す。真円《まんまる》くて中空、普通のモナカの大きさで、表の真中に小孔あり。その周りに六角の花形現わる。掘り出(127)した時は至って脆いが、空気に触れると瀬戸焼のごとく固まる。むかしこの辺泥海だった時、足高観音堂の門前の小屋で饅頭を売る翁あり。ある暮方乞食来たって一つ施《ほどこ》せというと、石饅頭だ食われない、と首った。しからば、真実の石にしてやろうと言って乞食が去った跡で、饅頭みな石となり、いくら造ってもまた石となる。よんどころなく、これを棄てて店を止めた。その時の饅頭が今砂から出るのだ、と。そして件《くだん》の乞食は弘法大師だったそうな(柳里恭『独寝』。高木氏『日本伝説集』二一三頁)。こは『剣橋《ケンブリツジ》動物学』一巻二四一図にみえる、北米産サンド・ダラーごとき蝟状動物(本邦でタコノマクラ、サルノマクラなどいう類)の化石だろう。
 ある食物、またその持主や作り手を悪んで詛《のろ》うてより、その食物が廃物となって今にありという信念も、大いに弘まりおる。例せば、弘法大師が食い能わず海の方へ投げた蕨が石となって、おびただしく阿波のある海岸に群がりあるという。これと反対な話は、羽州黒崎付近に、黒崎の白蕨という特異の物生ず。むかし法師に宿かした女が、海荒れて和布《わかめ》を取り得ず、何を汁種にして旅僧をもてなすべきと思い煩うをみて、僧いわく、ここへ来る路に蕨多かった、あれで十分だ、と。女笑うて、蕨は灰汁でまず煮てぬめりを去らずば食えず、なかなか手のかかる物というと、坊主そんなことはないと言って山へ行って一握り採り来たり、灰を入れずにすぐ煮よというから、不審ながら煮るとはなはだ旨かった。かかる珍品を教示したまうは弘法大師に相違なし、と人もっぱら言った。それから今に、所の者が汁菜とするほどの灰汁入らずの蕨が生えるとのこと。芸州新庄村と佐東村の界《さかい》に、大木の桃一樹あり。南は新庄、北は佐東なり。この桃の南枝の果は苦く、北枝のは甘し。むかし弘法大師、佐東で桃を乞うに苦くて食えないと欺いた。新庄の人は甘いと言って進呈した。故に一木ながら甘苦の果を分かち生ず、と。この田辺町より遠からぬ富田地方は、土地豊饒だが豌豆《えんどう》を栽えず。栽えると莢の中に虫おのずと生じ食い尽すから物にならぬ。大師、豌豆を乞いしに与えなんだ罰という。またこの辺でズバイ桃は毛桃より変成したといい伝うるは、今日科学者の意見によく合う。だが、変成の道筋がはなはだ非科学的に説かれおり、弘法が来て少しの毛桃を乞うと、あれはツバキの実だ、桃なものかと(128)嘲り拒んだので、大師しからば真のツバキの実にしてやろうと言って去ると同時に、桃の毛ことごとく落ちてツバキの実のようになったという。桃に取っては毛を亡《うしの》うて大損だが、毛桃がズバイ桃になったって作り主に何ほどの損になるか。そのころのズバイ桃は全く食えぬ物であったのか。ちょっと分からぬ。何にしろ無毛の桃はツバキの実のようだからツバキ桃、それからズバイ桃、さてはズンバイなどいうに至ったは争われぬから、この村民の伝説は道理に外れ尽しおらぬ。(藤沢氏『日本伝説叢書』阿波の巻、三八三頁。『真澄遊覧記』「小鹿の鈴風」の巻。『諸国里人談』四。ド・カンドル『栽培植物起原』一八九〇年ニューヨーク板、二二七頁。『塵添?嚢抄』五の二三。『箋注倭名類聚抄』九)
 僧に物を乞われて与えなんだ話は、古くよりあり。西行『撰集抄』に、延喜帝の末年、仲算大徳、旱天に近江の山中で女が清水を汲んで頭に戴き行くを見て少しを乞いしに、聖僧みずから水を湧出せしめて飲め、遠路を汲み来たものを煩わしたまうな、と言った。仲算、まことにそうだと言って剣で山の鼻をきると、醒井の清水が湧き出た、と載す。この仲算の仕方は弘法よりはるかに殊勝で、怨みに報ゆるに直きをもってしたものだ。
 弘法大師はまた食用の芋を全く食えないクワズ芋に変じ、また屋島のある梨の実を食えなくした(『葛飾記』下。『日本伝説集』二一二頁。『日本風俗志』三巻三五〇頁。『日本伝説叢書』信濃の巻、三二七頁。『本草図譜』四七巻一六−一七葉。『日本伝説叢書』讃岐の巻、二八四頁。寺石正路氏『南国遺事』一四二頁)。ややこれらに近きは鶏頭豆の話だ。その図は『本草図譜』四〇巻八−九葉にあり。その伝説は山中笑氏が『郷土研究』一巻五号に出された。大要は、往時駿州吉原町付近石坂という小村に老夫婦あり。夫は鶏冠花《けいとう》と豆を年々畑に蒔いて楽しみ、妻は鶏冠花など何の用に立つと毎々罵る。ある年、夫、豆をまくを忘れケイトウばかりまいた。秋に及び、畑一面にケイトウが真赤に咲いた。老婆これを見て火のごとく怒り、鶏頭が味噌になるかと罵る。その時戸に佇《たたず》んだ老僧、そんなに怒るな、鶏頭が豆を生ずることもあると言い、老婆は役に立たぬ草から豆が取れるか、と罵る。法師、いや畑へ往って見られよ、と言ったきり行方しれず。婆、夫を罵り熱くなり、風に当たりに畑へ行けば、鶏頭畑は花をおさめて一面の豆となりおり、夫は例年の通り(129)入用だけを自家へ取って余分を上納し、官より褒美《ほうび》さる。件《くだん》の法師は弘法で、老夫の正直を賞し、老妻の邪見を誡めんとこの奇特を見せた、と。
 一八二一年パリ板、コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』一巻二七〇頁にいわく、聖地のカールメル山に深穴あり、エリア窟と称う。エサペルの追究を避けて、この予言者が隠れた処という。そこから二里に、エリア園という所あり。エリアここを過ぎるに疲れ、また渇した。そこに園人あって甜瓜《まくわうり》多くある畑に息《いこ》うをみて一つくれと望むと、お気の毒だがこれは石だと知らないかと言ったので、エリア石なら石にしておこうと言った。それと同時に、甜瓜が少しも形をかえず、みな石になってしまった。爾来今日までも甜瓜と間違うほど似た石をここで見出だす、と。伊人ピエロッチの『パレスチナ風俗口碑記』(一八六四年ケンブリッジ板)七九頁に、この甜瓜形の石は石灰質で、中空しく、殻の裏が多くの(石灰)結晶で被われた地形石《ジオード》、英国でポテートー・ストーン(ジャガイモ石)という物だ、と言った。
 予言者エリアは、神力ほとんど弘法大師に匹敵したとみえ、回教所伝に次の話がある。いわく、イスラエルの諸子の時、上帝に好愛された善信の回教徒エリツス、一名エリアスなる人あり。上帝、正道を踏み違えた輩を本復せしむるため、この人を予言者たらしめんとて、彼に告げたは、「起って真道を説教せよ、しかしてこれらの頑冥な罪人どもが汝の言を信受しうるように、汝が足で踏むところはどこでも緑草と美花生じ、決して乾き荒《すさ》まざらしむべく、汝が枯木の下に坐らば、それが葉を生じて再び縁(ケデール)なるべし」と。それよりエリアスが諸国を巡って上帝の語を宣《の》ぶるうち、ケデール村に強勢の村老あって猛威四隣を圧した。この人エリアスの説教に、少しも随喜する望みなし。だがエリアスの働きを用いておのれを利せんと欲し、エリアスがソロモンの開いた池に近づくところを捕え、自宅へつれ来たらしめた。「汝の足は神力をもつと聞く。予の領地を歩いてくれ。明日予が案内しょう、一旦予につかまった者は、上帝でも取り離すことはできぬはず」と悪《にく》さげに言い放って、その夜を狭い土牢中に過ごさしめ、明旦(130)エリアスを重い鉄?《てつくさり》で括って引き出し、?の一端を自分が執って件の池の方へ歩かせた。さてエリアスがあるき出す。一歩ごとに草も木も穀類も萎《しぼ》み枯れた。爾来この地永く荒廃し、草木生ぜず。村老、かくと見て大いに怒り、エリアスを池に沈めうと惟ううち、エリアス、喉乾いて池に入って水飲まんと乞うた。村民これを許し、逃がさぬように?を離さず。ところが、エリアス池の底に到ると、狭い水道忽然開いてよき通路となり、鉄?は果てしなく伸び行くから、エリアス思いのままに進み歩く。数歩ののち水をのむと、?付きの足械《あしかせ》が外れ、岩たちまち彼のうしろを塞いで、村老と係累を絶った。それよりエリアスの形、人の眼に見えずに世界中を歩き廻り、到る処草木緑に茂らせ続けるうちにも、年に一度はミノよりメッカへの巡礼を欠かさない。悪性の村老は、エリアスが雲隠れとなるをみて発狂し、まもなく死んだそうな(上に引いたピエロッチの書、七二−七四頁)。
 また聖地の雛豆《チツク・ピース》畑について、イサベル・バートン著『シリア内部生活』二巻一七八頁にいわく、キリストここで雛豆をまく男に何をまくかと尋ねると、石をまくと答えた。キリスト、「汝は石を収穫すべし」と言った。さてこの人の収穫となった時、雛豆はならず、その形した石ばかりあった、と。ピエロッチ説に、これを聖母の所為《しわざ》とし、ここの石灰石が雛豆塊のごとくみえるからこの話を生じた、と解いた。ピエロッチまた死海に近いビルケット・エル・カーリル(アブラハム池)の縁起を記す。いわく、アブラハムは、アラビア語でエル・カーリル(上帝の友)と言われ、ヘブロンに住んだ。この池はその東にあり、住民そこで塩を集め売った。アブラハム、一日、騾を牽いて塩を求めに来ると、製塩工夫が多量の塩を拡げおきながら、売るほど塩がないと言った。すると、アが詛《のろ》うて「今後ここに塩も出でず、ここからヘブロンへゆく道も絶えよ」と言った。それと同時に、塩残らず石に化し、姿のみは塩そのまま、またヘブロンへの道もまるで歩かれなく嶮岨になった、と。
 弘法大師やキリストが、気に食わぬやつの芋や豆を石にしたは大分茶目気がある。アブラハムが塩を売ってくれぬを憤って、、これを化石せしめた上に、万人の通路を廃絶せしめたに至っては過酷もはなはだし。ただし、アフリカに(131)も同様の話あり。デンネットの『黒人の心裏』一九〇六年板、一五二頁に、カコンゴで子を負った老女が畑を栽える女に水を乞うと、ここは水遠く、自分飲むだけあって人にやるほどない、と答えた。老女また行って椰樹《やしのき》の汁をとる男子に乞うと、快く椰子酒を飲ませた。老女はその青年を褒賞し、水を吝《おし》んだ女の畑を湖に化した、と載す。
 『酉陽雑俎』二に、衝国県の西南に瓜穴あり、冬夏常に水を出だし、これを望めば練《ねりぎぬ》のごとし。時に瓜葉あって出ずる。相伝う、苻秦の時、李班なる者あり、すこぶる道術を好む。その穴に入って三百歩ほど行くと、宮殿あり、牀榻上に経書あり、二人対坐して鬚髪白きを見た。班進んで牀下に拝すると、その一人が早く還れという。穴口まで出ると、瓜数個あり。取らんと欲すれば、すなわち石となった。家へ還ると、四十年たっておったという、とあり。『大慈恩寺三蔵法師伝』四には、贍波《チヤンパ》国の南の大山林中に牛を放ち飼った男が、牛の往き処を尋ねて岩穴に入り、金色の香果を取り還るを鬼に取り戻され、再び往って口に入れて出るところを、鬼に喉をつままれ呑んでしまうと、その人の身が大きくなり、首は穴から出たが体は出ず、漸々化石し終わった話を出だす。
 話がこう長くなると、読者のみかは、熊楠自身も何だか跡先が分からなくなる。よって再読校字を兼ねて始終を見通し、結論と出かけよう。
 西洋で鷲石というは、褐鉄鉱またそれより成った岩石が、多少円くて中空、そして空処に土や砂や小石を蔵したもので、地方によりその産地近く鷲が住み、その鷲の巣からこの石を見出だし、気をつけて見れば、多少母胎に子を蔵するの状あるより、鷲が同感作用を心得、自分の卵を安全に孵《かえ》すためにこの石をその巣に納めたと判じ、鷲が卵を孵すも母が子を産むも同じことゆえ、鷲にきく物は人にもきくはずと、試し見ると、三度に一度はよい加減に効あり。よってこれを安産催生の霊品とした。それから敷衍して、種々の効験あると見立てて信じた次第を、第一篇にもっぱら述べた。
 鷲石は鷲が巣内に持ち込んでその孵化を助くるという信念は東洋にない。しかし鷲石その物は和漢ともにあり。太(132)一禹余糧など呼び、その形が母胎に子を蔵するに似るを見て、西洋人と斉《ひと》しくやはり催生安産の霊物とした。また西洋とちがい、この石の中にある砂土が穀物の粉に髣髴《ほうふつ》たるより、これを古聖賢が食い残した糧食と信じ、おいおいこれを食えば長生して仙人になり得、と信じた。それからその成分の鉄等が相当に働くより、これを薬用して、「禹余糧は、甘なり、寒なり、毒なし。牡丹これが使となり、五金を伏し、三黄を制す。主治は、?逆《かいぎやく》、寒熱、煩満なり。赤白、血閉、??《ちようか》、大熱を下し、錬ってこれを餌服すれば、飢えず、身を軽くし、年を延ばす。小腹痛、結煩疼を療す。崩中を主《つかさど》る。邪気および骨節疼、四肢の不仁、痔瘻等の疾を治す。久しく服すれば、寒暑に耐え、生を催《うなが》し、大腸を固《つよ》くす。また太一余糧は、甘なり、平なり、毒なし。杜仲これが使となり、貝母、菖蒲、鉄落を畏る。主治は、?逆、上気、??、血閉、漏下なり。邪気、肢節の不利を除く。久しく服すれば、寒暑に耐え、饑えず、身を軽くし、千里を飛行し、神仙となる。大飽、絶力、身重を治す。脾を益し、臓気を安んず。六腑を定め、五臓を鎮む」と『本草綱目』に見ゆ。これら半分に聞いても多少|拠《よりどこ》ろある法螺《ほら》で、諸方に出る禹余糧、太一余糧を至細に分析でもしたら、実効ある薬物学上の発見もなることだろうが、自分その方はあんまりときているから、立ち入らぬが無手勝流の卜伝だ。
 さて第二篇には、太一禹余糧の外にも、古人の食い残した物が石に化して今にありという現品と伝説は諸邦に存し、はなはだしきは飲み残したしろ水や酒、醤油、酢、また、よそから運んだ水までも、そのままその所に続出するというのも諸処にあり。また古人が食い残した物が化石せず、復活して今に相続蕃殖しおるという現品と伝説も多くある由を述べ、次にはただ食い飽きたり好かなかったりで残した物が石になった外に、ある食物やその持主また作り手を嫌い悪《にく》んでこれを石にしたり、廃物にしたりしたのが、今に存するという信念も諸邦に少なくない次第を例示し、おのれの望む物をくれなんだ奴の生産地を全く不生産にすることもできるという信念に説き及び、終りに自分の愛惜する物を他人が取るとたちまち石となし、またその人を石となした昔話を引き出したのである。
 
(133)     付録
 
 孕石 『性之研究』一巻六号二三二頁に、「ドイツには安産のために、孕石と言ってガラガラ鳴る固形物を包んだ一種の石を真鍮に包み、産婦の左腰部に垂らしおく習慣がある」と誰かが書いた。孕石とはドイツ語で何というか知らず。あるいは別にそんな意味のドイツ語はなきも、本邦に孕石という物あるについて、ドイツでいわゆるアドレル・スタイン(鷲石)、一名クラッペル・スタイン(ガラガラ石)をかく孕石と訳したのかとも推察する。藤沢君の『日本伝説叢書』伊豆の巻に、賀茂郡田子村平野山麓に孕石あり、高さ二丈、周り七、八尺ばかり、出産を祈ると効験ありと信ぜられたが、今は畠に落ち転がりおる由を記す。柳田君が『太陽』一七巻一号「生石伝説」に載せた通り、諸国に小石団結して大岩となったのが、風雨に削られて時々多少の小石を放ち落とすを、石が子をうむと誤り、産婦安産のまじないに用いて子持石と名づく。すでに子持石と言えば、孕み石と唱える例も多々あったことと記臆はすれど、差し当たり確かに孕み石と名づけたは、伊豆の一例しか知らぬ。その例あらば識者の報道を冀う。『雲根志』などみればよいのだが、座右にないから仕方がない。『類聚名物考』付録三に『三河記』を引き、家康幼時駿河に人質たりし時侮辱された仕返しに、後年高天神落城の節、孕石主水に切腹させた、とある。この孕石は多分どこかの地名で、そこに孕石と呼ばれた石があったであろう。
 支那にもそんな石あった証拠は、『淵鑑類函』二六に、「『郡国志』にいわく、乞子石は馬湖の南岸にあり。東の石腹中より一小石を出だし、西の石腹中に一小石を懐《いだ》く。故に?《ほく》人これに子を乞いて験あり、と」と出だす。フィジー島の都バウ近処に一石立てり。高位の婦人子を産む時、この石また小石を産む(バルフォール『印度《インド》事彙』三巻七四二頁)。テオフラスツス、ムキアヌス、デモクリツス、サヴォナロラ、カールダンなどが、石、時として子を生むと説いたは、主としてこんな石から出た話であろう(ボストックおよびリレイ英訳、プリニウス『博物志』六巻三五八頁)。されば『性之(134)研究』にアドレル・スタインを孕石としたは適当ならず。孕石は鷲石と別で、佩びた女に安産せしむるでなく、拝む女に子を授くる石で、一汎に鷲石よりはずっと大きいものだ。
 鷲石に関する一説 英語で書いた版本にn.d.というのがある。no date(日付なし)の略字で、表題紙にも序文にも出板の年を記しおらぬ。これはいつも新刊書とみせて客を釣るためで卑劣な行いだ。チャーレス・デ・カイの『鳥神論』がその一例で、ニューヨークのバーンス会社出板とだけ示してその年記なし。ただ表題紙裏に、細字で一八九八年著者板権認可と出しあり。まずはそのころの著作か。根っから素性のよくない本だが、鷲石のことをちょっと論じあるから、こんな物さえ買う人あらばこそ売る人もあると、欧米崇拝家輩にその議論の詰まらなさ程度を示そう。その略にいわく、フィンランドの古伝に、イルマリネンが鋼、鉄、?の三物で鷲を作る。ポーヨラの醜婆、火の鷲をしてレムミンカイネンを呑ましめんとした。エストニアの旧説に、島母が海底よりかき上げた鷲卵を、昼は日の熱、夜はわが身で温め孵した。インドの教典には、金翅鳥王は日神の馭者アルナと一卵より双生したなど、鷲と日や火を連ねた譚が諸邦にある。さて鷲が老いて動作きかなくなったをみた人なく、その死体を見た者なし。数百年間、鳥類の王とし統制したのち、高く九天を凌《しの》いで日輪の大光明中に入ってまた見えず、それより若返って海中に飛び下りる。火に浄められて二度めの生命を獲ること、ヘラクレスに異ならぬ。されば古エジプト人が日の表章とし、火の力で復活すと信じたフェニクスが鷲のことたるや、論を俟《ま》たず。
  フェニクスは、支那の鳳凰に当て訳したり、マルコ・ポロの『記行』や『千一夜譚』に見えたマダガスカルのロクや、ペルシア書に出た巨鳥シムールや、ヒンズー教仏教の経典にある金翅鳥王と混同された。ヘロドトスの『史書』二巻七三章に、初めてフェニクスを記し、いわく、予はこの神鳥を絵でばかりみた、実はエジプトでも希有の物で、ヘリオポリス(日都)人の説に、その老鳥が死んだ時、五百年に一度この都へ来るという。絵でみたところ、羽毛一部赤、一部金色で、形と大きさはほとんど鷲のごとし。日都人のこの鳥の話はうそらしい。いわく、(135)この鳥の親死したら、その尸《しかばね》を全く没薬でぬりこめてアラビアより日都へ将来してそこに埋める。これを将来するに、まず自分が運びうるだけの大きさに没薬を円め、中を空にして親の屍を納め、穴口を新しい没薬で埋めると、こうしない内と正しく同重量となる。それをエジプトに持ち来たって日堂に納む、と。プリニウスの『博物志』一〇巻二章には、エチオピアとインドに、他に優れて羽色多様で文筆の記述しあたわざる鳥を産す。その第一はフェニクス、これアラビアの名鳥だ。全世界にただ一羽存し、しばしば見える物でない。大きさ鷲のごとく、頸のぐるりの羽毛金色で輝き、その他の諸部は紫で、尾は碧色、それに桃色を雑《まじ》えた長い羽あり、喉に垂嚢、頭に冠毛あり。くわしくこの鳥を初めて記載したローマ人は議官マニリウス、この人は教師なしに博覧の高名を博した。その説に、この鳥食事するを見た者なく、アラビア人は日の神鳥と崇む。寿命は五百四十歳、老ゆればカッシアと香木の枝で巣を作り、諸香を中に満たして、これに臥して死す。すると、その骨と髄より一疋の小虫生じ、ようやく化して小鳥となり、まず死鳥の葬礼を営み、かの巣をそっくりパンカイアに近い日都に運び、日神の壇にこれをおく、と。『フィシヨログス(動物譬喩譚)』は、出処雑駁あるいは不明の怪しい物だが、中世もっとも広く欧州で行なわれた。したがって、その第七譬喩なるフェニクス譚は一番多く世間に伝播されて、今に俗耳を鼓吹しおる。いわく、フェニクスはインドの鳥で、空気を吸って五百年生き、そののち翅に香類を載せて日都に飛び行き、日神廟に入って壇上でみずから焚くと、翌日その灰よりその雛おのずから生じあり。三日目に翅全く成って祠官を礼し飛び去る、云々と。
 鷲は火によってみずから再生するのみならず、また実に火に試されて生存を始む。けだし、鷲、子を生み、その子、日を視て?《まじろ》げば、鷲として生活するに堪えぬ者として殺しおわる、という。鷲の巣より見出ださるる鷲石は、二百年前まで種々奇効ありとて貴ばれた。酸化鉄にさび付かれた粘土質の小石また円い石で、その腹空しき内に石または結晶が離れあり。明らかに火の作用に基づくを示す。惟うに、古人は鷲がこの石を日もしくは火山より持って来た、と(136)考えたのだ。何にしろ鷲石は眼病を治し難産を救い、また奇なことには、盗賊を露わす功あり、とされた。たぶん日より出たものゆえ、盗人がいかに匿《かく》すも日の照覧をゴマカシ得ぬという訳だろう。鷲はその卵を速く孵すため、この石を巣に納めるというのも、またこの石は日の熱を享け持ちおるとしたからだ、と。
 デ・カイ氏は、種々の話を並べ立てて、その出所を明示せず。これまた庸人を驚かし学者を馬鹿にしたやり方で、見よう見まねに、近来本邦にもこんな著書や立論が大流行だ。「鷲が老いて動作きかなくなったをみた人なく、その死骸を見た人なし」とは、プリニウスの『博物志』一〇巻四章に「鷲は老と病と餌で死なず。ただ久しく生きると、上嘴が長く伸び、かつはなはだしく曲って口を開く能わずして死ぬる」(熊楠謂う、そんならやはり老と餓に殺されたのだ)とあるを小刀細工したので、「数百年間、鳥類の王として、云々」と冒頭して、鷲が日の大光明中に入って見えなくなり、それより若返って海中に飛び下る、云々、と言ったは、例の『フィシヨログス』の第六譬喩に、鷲老ゆれば日光にあたり、さて噴泉に浴して若返るとあるを、デ・カイ自身がその書の八章の初めに述べた通り、米国東海岸で米国産の鷲が海から飛んできて山を踰え去った景観から思い付いて、日光に当たりを日輪に直入するごとく吹き増し、噴泉を海中と改作したので、自論を翼《たす》けんとて虚構仮説を何か確かな古書に載りあるように書き立てた、まことに恥なきの至りである。
 さて「フェニクスが鷲のことたるや、論を俟たず」とは、これまた不実で人を欺かんとするものだ。『大英百科全書』一一板二一巻、フェニクスの条に「ホラポルロン(五世紀の初めころ)とタキツス(紀元五五年ごろ−一一七年ごろ)は明らかにフェニクスを日の表章と言った。今吾人はエジプトの諸古文より、ベヌなる水鳥が日都鎮座の神の表章の一で、また旭日の表章たり、したがって日が毎旦《まいあさ》復活するを標示し、曰神ラの魂また新たな日の心臓と称せられた、と知る。されば旭日が東方に出るをベヌが東方より諸香を持ち来たるとしたので、エジプト語でベヌ、ギリシア語のフェニクス、いずれも鳥の名で、ある椰樹の名を兼ねたのをみると、どうもベヌのフェニクスたるを疑うべからず。さ(137)てプリニウスが記した紫がちの羽色なフェニクスに最も恰当するエジプトの水鳥は、アルデア・プルプレア(紫鷺)だ。ヘロドトスがフェニクスの形も大きさもほとんど鷲のごとしと言ったは、全く記臆の失だろう」と論じある。紫鷺は、中南欧州より南阿、またインドより支那、ルソンに産す(『剣橋《ケンブリツジ》動物学』九巻九三頁。バルフォール『印度事彙』アルデアの条)。モレンドルフ説に、支那名天果鳥、天津で花窪子という由。和名ムラサキサギとて石垣島に来るは、同属別種らしい(『皇立|亜細亜《アジア》協会北支那支部雑誌』第二輯一一巻一〇〇頁。故小川実氏『日本鳥類目録』三四四頁)。一九〇四年板、バッジの『埃及《エジブト》神譜』二巻三七一頁には、「ベンヌはおのずから生まれ、日都の神木のペルセア樹の頂に燃ゆる火より出で、生来の日の鳥で、旭の表章で、また死んだ日の神オシリスより生ずるから、それ神鳥たり。毎旦新生する旭を表わすのみならず、つとに人間再活の象徴たり。昨日の没日《いりひ》より今日の旭日が生ずるごとく、物質的の人尸より精神的の人身が生ずるからだ。この鳥はオシリスの心臓より生じ、最も神聖な鳥で、墓内の一室の側に生えた木に宿った体に画かる」とあって、何の種と明言せぬが、鷺の一種としある。一八九四年板、マスペロの『開化の暁』一l三六頁には、ヘロドトスが形と大きさが鷲のごとしと明記せるより、フェニクスは決して鷺類でなく、金色の雀鷂《つみ》で、もと若日神ホルスの現身だ、と言った。しかるにバッジは、いわゆる金色の雀鷂すなわちベンヌに外ならぬを証した(『埃及神譜』二巻三七三頁)。だから、フェニクスは雀鷂だったて鷲と別鳥で、紫鷺だったら一層別鳥だ。
 次に鷲、子を産んで、その子日を視て目がくらめば、鷲の生活に適せずとしてみずからその子を殺すという話は、西暦二世紀に書いたエリアヌスの『動物の天性』二巻二六章に出ず。
 なるほど、かく列し来たれば、鷲と日また火を連ねた話はずいぶん多いようだが、これはことさらに鵜の目鷹の目で大穿鑿をしたからで、すべて火と日は熱の根本で、熱があらゆる動植物の生存に必要大なれば、何の生物でも探索すれば、必ず多少日や火に連ねられた譚はあるはず。しかして、日や火にもっとも顕著な関係ありと見えたフェニクスが、デ・カイ氏の所見と違い、全く鷲でないこと、エジプト学専門の大先生どもの口から揚がった以上は、鷲と日(138)や火の関係を喋々《ちようちよう》して鷲石の諸功験を日や火に帰する論は根拠を失う。しかして鷲石はいかにも酸化鉄より成るが、上に第一篇に引いたスブランとチエルサンの『支那薬材篇』に言った通り、鷲石の酸化鉄は沼鉄などいう水酸化鉄で、磁石ごとき純酸化鉄でない。それを明らかに火の作用に基づくを示すなどいうは、軽挙もまたはなはだしい。『本草綱目』一〇に、「時珍いわく、按ずるに『別録』に言う、禹余糧は東海の池沢および山島に生ず。太一余糧は太山の山谷に生ず。石中黄は余糧を出だす処にこれあり、すなわち殻中のいまだ余糧とならざる黄濁水なり、と。これによれば、すなわち三者は一物なり」。三物みな鷲石だ。そして海、池沢、山島、山谷、黄濁水、いずれも水に縁なきはなし。『大英百科全書』一一板一六巻にも、鷲石は水酸化鉄の由見ゆ。されば、鷲と日や火を連ねた談が多いからとて(和漢等にそんな談なく、インドには上に引いた金翅鳥王が日神の馭者と共に一卵より生まれた譚あるのみ。それも精しく言えば、金翅鳥は鳶に近いもので、学名ハリアスツル・インズス、英語でブラーミニ・カイトまたボンジチェリ・イーグル、鷲とも鳶とも見えるのだ。真の鷲族のものでない)、鷲石を鷲が日から持ってきたと古人が信じ、などはまるっきりの妄断じゃ。
 雄鷲石 一八七六年板、ワーター編纂、サウゼイの『随得手録』一輯五二七頁に、チャーレス一世(十七世紀)の時、バートレットなる人、多くの財宝を抄掠された内に雄鷲石一つあり。かつて一医士、三十金をもってこれを買わんと申し出た、とある。これはすでに第一篇の初めに述べたごとく、プリニウスが鷲石は毎《つね》に雌雄二つ揃うて鷲の巣にあると言った、その二つの内の雄石だろうか。はたまた一六四八年ボノニア板、アルドロヴァンジの『礦物集覧』四巻五八章にみゆる、雄鷲の体内より見出だされた石だろうかと、大正十二年八月二十五日の『ノーツ・エンド・キーリス』一五五頁へ質問をのせたに、誰も答うる者が今日までない。
 偽鷲石 一七四六年板、アストレイの『新編水陸紀行集』三巻三七三頁にいわく、喜望峰地方で小石原や沢辺に偽鷲石あり。ほぼ円く、栗の大きさで、中空に砂等を満てたり。その外面はサビで被わる。この物を大奇品として他邦(139)人に贈る、と。これは日本でいわゆる饅頭石のごとく、石の中に土砂ばかり蔵めた麁末《そまつ》な品で、日本でいわゆるスズイシほど、石中の石が堅くて遊離しおるものを真の鷲石、さもないものを偽鷲石と呼んだのだろう。(大正十五年九月十九日朝十時稿成る)
        〔2020年1月22日(水)午後7時55分、入力終了〕