南方熊楠全集第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)、620頁、平凡社、1971.04.27(93.09.20.17p)
      〔振り仮名には編集者のつけたものがかなりあるようなので易しいものは除いた。「出づ」などは「出ず」にした。改行の最初の「「」は一字下げにした。入力者注〕
 
南方閑話
 
(5)    伝吉お六の話
 
       一
 
 津村正恭の『譚海』巻七に次の話を出す。
 武州熊谷の農夫、母妻三人住んだが、身代不如意となり、江戸に出で三、四年奉公して金を蓄え、帰って質地をも取り還し安堵すべしとて、母の孝養を妻に頼みて出立す。その夜、桶川に宿ろうとするに一人旅ゆえ駅に宿るを得ず。宿外れの小農家について次第を語り歎くと、憐れんで宿《と》めてくれた。その家夫婦と十三、四の少女子の三人暮しで、その女子まことに怜悧でよく世話してくれたから、この男ことに愛憐を覚え、翌朝ねんごろにその厚意を謝し、特に銭二百文を紙に包んで強いて渡して打ち立った。それより江戸に着して新吉原の妓館丁子屋の米|舂き男に採用され、一年給金二両で居つき、金を受くるごとに故郷へ送り、万事律義に働くにより、おいおい転職増給され、妓女嫖客よりの気付けも多く、六年ばかりに金百七十両を儲けたから、ひとまず帰郷して質に入れた田地等を取り返し、母妻に安堵させた上、また帰参して奉公したいと望み、主人に許容された。よってその旨郷里へ告げやり荷物も先立って送り、例の金子を肌に着けて故郷に向かうと、板橋の辺より怪しい男子離れず付き来たる。これ盗人と知って一計を案じ、酒屋に入って銭を払い、酒を暖めしむると、盗人もまた然する。用足しと見せかけて背戸に往くに外に通う道あ(6)り、それを一走りに遁れてようやく桶川に到り、日なお高けれど新設の駅舎に着き、草鞋も脱ぎあえず一室に潜まり臥す。初夜過ぐるころ門の戸けわしく敲き、今宵ここに宿った一人旅の男に用あればここ明けよと言って内に入るを、襖の隙より窺えば、昼われに付き纏いし盗人で、やがて竈の側に臥したようなり。
 ところがここに二十一、二の優しい女あって宵より賄いしたが、この時来たって、御方は何とやらん見たようなり、六年前この宿外れの家に宿った方でないか、と問う。さてはその時十三、四でわれを懇待された娘か、何とてこの家にあるやと言えば、両親も歿したので縁に触れてここに奉公す、と答う。さては縁あらば不思議の再会もぞする、ついては今夜一大難儀に逢いおる、そもじの働きで救いたまわれとて盗賊に付けられた仔細を語ると、かの盗人はこの街道著名の兇漢で、それを厭うて追い出さばこの家に仇をするからやむをえず宿しおいた、所詮金を持ちおっては命も危うし、妾に一策あれど申しがたしと言うに、この男嬉しく、万事その方の教えに随うべしと言う。女いかがなる申しごとだが、その金をしばらく妾に預け夜更けて脱れ走りたまえ、金を預った印はこの外になしとて髪にさした櫛を取って、この櫛だに持ち来たらば金を渡そうと言った。男悦んで肌の金を女に渡し、その櫛を懐中し、女の教えのままに明朝六つ時に立つべしと勝手へ告げ、寅の刻まで俟つと女ひそかに来て戸を開いて押し出す。それより教えられた道をしるべに遁れて早くおのれが在所へ着いた。
 村人こもごも来たって無事を悦ぶこと大方ならず。夜更け、人も来たらずなって、この男母妻に櫛を示し仔細を語り、明朝親しき人に持たせ遣わして金子と引き替え来たらしめんとて神棚へ納めて臥た。翌朝起きて神棚を開くに櫛なし。百方捜索してもいよいよ見えず。やむをえず知人二、三輩同道して、その日の暮方桶川の駅舎に着し、櫛は紛失したれど自分対談せば疑わずに金を渡さるべしと思うて来たと言うに、先刻あなたの使いとてくわしく口上あったゆえ金を渡した、すなわち櫛はここにありとて頭より取って示すに、男大いに驚き失望す。女熟考して、ひとまず村に帰り必ず騒ぎ惑うた体《てい》を見せず、しばしほどへて、久々で江戸より還った祝いに村人残らず饗応に招きたまえ、金(7)を渡した人の顔をよく覚えおれば、饗応の日定まらばひそかに知らせたまえ、妾往きてひそかに覗わばその人を見出だすこともあるべし、これ必ず遠方の人の所業でなく、村中の者が騙《かた》ったのであろう、と言った。男、理に服し帰村し、一、二日あって村中へ礼に廻り、一同を招請したしと述ぶ。その後村人申し合わせて何の日参るべしと申し来たり、当日名主以下ことごとく来会した。宴半ばなるころ、かの女ひそかに勝手へ来たり覗うて、かの上客の次の男こそ前日金受け取った人なれと言うを見れば、名主の子なり。さもあれ今この席で申し出でんもいかがと躊躇する。この女、杏、この席を過ぎなば後に糺さん証拠なし、唯今その人を捉えてその由を言いたまえ、その人承服せずば妾みずから出て断わり申すべしと言う。男教えのまま名主の子を捉えて、この人わが金子を騙り取ったと委細話すと、名主大いに怒り、確かなる証拠ありやと問うた。男すなわち女を呼ぶと、女進み出てこの人に違いなしという。名主もかく確かな証人ある上は、ひとまず立ち帰り悴が器物を穿鑿すべし、それまでこの悴を動かさぬようと言って家に帰り、しばらくあって立ち帰り、さてさて面目なき次第、この悴が箪笥の底にこの金子言わるるごとく百七十両あり、不届き至極なることとて財布を亭主に渡す。やがて名主の子その座を立って跡を晦まし、その家の妻また行方知れず。そこで村人一同申しけるは、これまでは包んだが、かくある上は述ぶるなり。亭主江戸へ行き不在六年のあいだに名主の息この家の妻女とねんごろ眼に余る次第、誰知らぬ者もなかったが、今日まで知らせず、さればこそ櫛の一条も起こったと言い続けた。かくて人々帰りて後、この男も独身なり、老母を介抱すべき人もなければ、幸い桶川のかの女、発明な上これまで再宿の奇縁もあり、年はよほど違うが妻として然るべしと人々が取り持って夫婦とした、とある。
 
       二
 
 右の話は『大岡仁政録』のうち「越後孝子伝」の中にもあり、男を伝吉、女をお六と言う。それを仕組んだ芝居が、(8)予らの幼時上方でしばしば演ぜられ、またチョンガレすなわち浮れ節にも語られた。お六は平素父母に孝行な上この侠気な行いがあったので、大岡忠相が賞讃して伝吉に添わしたとかあった、と覚える。『守貞浸稿』九編に、「今世木曽路藪原駅辺にて木製の麁なる指し櫛を製し、もっばらこれを売るなり。号けて於六櫛と言う。古えお六という孝女これを始む、故に名とす、と言い伝えり。また東海道土山駅にてもこれに似る櫛を売る。多くは素にあらず。粗なる朱塗または藍色のちゃん塗り等にて、鍮粉の蒔絵等ある物なり。三都の人は用いず。もっばら鄙用なり」とあり、文化元年成った『木曽路名所図会』三に、「名造お六櫛、宮腰、藪原、奈良井等にこの店多し。そもそもこのお六櫛は木曽の山中の名造にして、山間に田圃少なければ多く諸品を造り、これを貨《う》りて業とす。特に近年お六櫛と銘して諸州に商う。木は棟梁《むねはら》というを製す」と記す。ムネハラはミネバリの木を指すものか。拙妻の話しに、以前は厚く丈夫な櫛の棟側にお六と銘したのが熊野までも弘まりおったが、昨今さらに見受けず、と。他国には今も行なわるるにや。木曽の孝女と桶川の侠女と別人ながら、いずれも櫛に縁あるゆえ、孝女の名を採って侠女に付けたと見える。
 上に長く引いた『譚海』は、安永四、五年の交、筆を起こした書という。しからば『譚海』より少なくとも六十年前の出板、『本朝藤陰比事』一に次の話ありて、疑いなくお六、伝吉の話はこれから化出したと思わる。いわく、城州鷺坂村の大工彦六、妻を思い置いて関東へ下り、五年間稼いで金子百両三分拵え、故郷へ還る途中、宮の渡し辺より二人の大男に付けられはなはだ困り、水口宿で人定まって後ひそかに古い片手拭に金を包んで宿後の藪に埋め、印に箸一本を立て置く。翌朝宿を出て町外れの松原で大男どもに捕えられ、金を強求さる。彦六裸になってただ三十文を出すと、盗賊憫れんで二百文くれた。在所へ帰ってこのことを妻に語り、明日早々水口の藪に往き、掘って見るに金なければ家に帰って自殺を図る。ところへ隣人来たって地頭へ訴えしむ。地頭、汝家内はと問うに、われら夫婦と妻が愛育せる猫一疋と答う。地頭命じて、急ぎ酒を調え、無事帰郷を祝いて村中一同を饗し、その席へ猫を放って猫が誰かの膝の上に登らばその者の名を申し出でよ、と言った。
(9) さて宴席で猫を放つに、誰の膝へも上らず、日傭の与五八後れ到るに猫たちまちその膝に上る、よって翌朝申し出る。与五八、老母とただ二人貧しく暮らし母に孝なりと聞き、老母のみ御前へ召し問わるるに、わが子|頃日《このごろ》少々仕合せしたる初穂とて銭五百文参詣の散銭《ちりせん》にとてくれし、と申す。一時ばかり門前に控えさせた後、彦六に古片手拭の土付きたるに包みながら下さるる百両のうち、一両は拾いたる者はや遣いたりと思う、村中の者ども馳走された礼に償いやるぺし、彦六が女房は思案の上にて離別するとも勝手次第、与五八は今後も孝行し、その孝行の志をもって他人に難儀を掛くるようなる非道の心を改むべし、と言い渡された。実は門前に控えさせたあいだに役人を与五八方へ遣わされ、諸道具を改めしめしに、金子−包を古き片手拭に土付きながら包んだのを古長持の底より見出だし持ち帰ったのだ、と。この話には櫛のこと一切見えぬ。しかし、姦夫が姦婦から本夫の秘事を聞き取り、本夫よりも手廻しよく金を手に入れた趣きは、全くお六伝吉譚と同型だ。畜生が日ごろ愛しくれる主婦と心安い男子に狎れ親しんで、その姦慝《かんとく》を露顕せしめた譚は外国にもある。
 
       三
 
 古インドの※[革+卑]提醯《びだいけい》国の重興王が賢相大薬に国政を委ねた時、一婆羅門早く書論に閑《なら》い、妻を娶るために多く財賄を費やした。これではならぬと気がついて、金儲けのため旅行し、ようやく五百金銭を獲、還って自村近くなって考えたは、自分の妻は年若く貌美しい、久々の留守中にわが褄ならぬ褄を重ねおるも知れねば、むやみにこの金を見せるは禍いの本と合点して、林中に趣き多根樹下に埋めて宅へ帰った。その艶妻は夫の不在に洗濯と、善聴と名づくる婆羅門と情を通じ、洗濯の仕合いを続けおった。当夜も盛んに芳饌を設け食いおわって一夜を千夜といちゃつくうち、突然夫が帰って門を敲く。誰ぞと問うに亭主なり。妻|忙《いそ》ぎ善聴を臥牀下に隠し、門を開き夫を見て大悦の体を現じ、(10)房内に入れて余饌を振れ舞い飽満せしめた。夫これは妻が他の男と私通しおるらしい、さなくば夜中かかる美食を設くるはずなしと考え、今日は吉日でも節句でもなきに何故こんな上等な食事をするかと問うと、妻、最近天神より汝の夫は帰り来たるべしと夢の告げがあったから、特に馳走を設けて待っておりました、と答えた。夫聞いて、われまことに福力あり、豪いものだ、家に帰ろうとすれば天神が妻に夢で知らす、と言った。食を済ませ身を洗うて久しぶりに妻と同寝して不在中のことどもを問ううち、妻、夫に、君われに離れて久しく求めた財銭は手に入って帰ったか問うと、少々は持ち帰った、と答えた。その時妻、牀下に隠れおる善聴に合図で謹聴を促し、夫に幾許金銭を持って来たかと尋ねると、五百と答う。どこに置いたかと問うと、明日見せようと言った。妻いわく、われと君と同一体なるに何故秘するや、と。夫いわく、城外に隠した、と。妻また合図で情夫の留意を促し、城外のどこへ隠したかと問うに、某林中多根樹下に、と答えた。ずいぶん旅行と私の身の心配とで労れたでしょう、速く息みなさいと言われて、夫は眠ってしまう。善聴は情婦の勧めにさっそくその宅を出て、件の樹下を掘って、五百金銭を盗み自宅へ還った。
 翌暁、婆羅門林下へ往って見ると金銭なし。みずから頭を拍ち胸をたたき、大いに哭いて還る。親類朋友らの勧めに随い泣いて賢相大薬に訴えると、大薬暫時無言の後、いつどこへその銭を隠したか、誰か見ておったか、誰かに話したかと問わるるまま一々答えた。大薬これは妻が情夫を持ちその男の所為だと察したが、まず婆羅門を慰めてその金銭の見当たらない日には自分償いやるべしと語り、さて汝が宅に犬ありやと問うに、あると答えた。しからば宅に帰りかくかくせよと計を授けた。婆羅門その教えのままに帰宅し妻に向かって、わが旅へ立つ時、この旅成功せば八人の婆羅門を供養すべしと大自在天に立願した、今度無事に還ったから左様せにゃならぬ、ついては婆羅門八人のうち四人を予が招待するから汝も四人を招待せよ、と言った。それからまた大薬の所に至ると、大薬その家来一人を婆羅門に副えて、その宅へ八客人来たる時門側にこの男を立たしめ、彼ら飲食中この者を戸内に立たしめよと教え、その男には、何ごとによれ注意を怠らず、八客人のうち誰に犬が吠えかかり、誰に尾を掉り向かうかをつまびらかに視(11)よと命じ、さらに婆羅門に教えて毎客に饌を据えることを自分なさずに要に任せおけと言い、家来に命じて饗応中妻の動作に注意せしめ、誰に向かって合図をなし、誰と言いうに顔色変ぜず、誰と語るに笑顔よく、誰に最好の饌を据えるかをよく覚えてわれに報ぜよと言い含めた。それより婆羅門その家来を連れ帰宅し、門口に立番せしめ、自分と妻とがおのおの四人の客を招くに、七客前後して到るごとに犬吠えた。それに引き換え善聴入り来たると犬吠えず。その面を眺め耳を垂れ尾を掉って後に随い行った。座定まって諸客に膳を据える時、主婦眉を揺かして善聴に相図し、また微笑しまた注視し、一番好い饌を彼に据えた。かく見届けて家来は大薬に注進した。大薬聞きおわって善聴果たして五百金銭を盗んだと知り、召し責むれど服せず。死ぬまで禁獄すべしと脅かされて、ついに白状した。善聴すなわち帰宅し、包みのままに五百金銭持ち来たって大薬に渡せば、大薬これを婆羅門に復《かえ》し、婆羅門謝恩のためにその半ばを大薬に寄せたのをひとまず受けてただちにこれを返戻した。この報城内に聞こゆると、王相臣民挙って大薬の智を称せざるなく、いずれもかかる名人を得て政事を任せたるを相賀した。(『根本説一切有部毘奈耶雑事』二七。シェフネル訳『西蔵諸譚』八章)
 
       四
 
 これによってかれを惜しむを、漢語に屋を愛して烏に及ぼすと言う。上に述べた猫と犬は奥様を愛してその情夫に及ぼし、かえって恩人の密事を暴露したのだ。しかし、数多の畜生の中には、相応によい謀を運らして恩人の情事を遂げさせた例もある。西鶴の『好色二代男』六に、伏見の廓桔梗屋の遊女最中という者、京役者山川という美男に心を移し浮名を立てて、おのずから勤め淋しくなるを親方折檻して春雨の夜桃林に追い出せば、惜しまぬ曙は深く、なおしきりに車軸して、泡沫の今にも命の消えるに山川の音もせぬかと歎く。世に情はかけておくまじきものにはあら(12)ず、犬さえわれを悲しみ宵よりともに濡れて、物こそ言わね伽ともなれり。竹垣を潜りて行方知らず見えねばこれもうたてかりしに、常の別れに跡を慕いて、京の道筋を覚えて、山川が住家の板戸に近く声の忙《せわ》しきに寝覚めを驚き、門に立ち出でて見ればかの里の犬なり。いかさまにも心得がたしとその夜を籠めて、一番鶏の二の橋で鳴く時ようよう駆けつけ、揚屋の清右衛門に様子を聞いて、とかくは命があるゆえに、由なき思いと心底極むるを、いろいろ異見申しつくして、親方にも内証申して、またむかしのごとく逢わせけるに、なお二世までと申し交し、互いに小指の先に燈心を束ねて油に浸し、おのずと消ゆるまで顔見合わせて固めけるは例《ためし》なきことなり。後には見るも怖ろしく、いずれも親方に残る年を貰いて、山川を請け出して日ごろの思い出これぞかし、とある。
 ハラムやヒュームが言った通り、中古から欧人が喋々する艶道《ガラントリー》は、本邦の平安朝に盛えたそれと等しく、姦通私奔十の七、八におったれば美名で非行を蓋うたのだ。それに引き替え、一双の朱唇万客嘗め次第と定まった近古の日本遊女に、義理を立て節操を守り身を黄白に任せなんだ者西洋に比して格段多かったは、その志例の武士道を立て通した武士にも劣らず、東海姫氏国の精英は男子に存せずして妓女に存すとも謂うべし。勧学院の雀は『蒙求』を囀り、スパルタの豕《ぶた》は鈴音を聞けば隊伍を正して立った。それから南方先生方の銭亀、ヒキガイルは斗酒だも辞せぬ。道理で遊女道の壮んだった世には犬までも義理を知りおったことと惟う。
 
       五
 
 西鶴がこの犬について、世に情はかけておくまじきものにはあらず、と言えるは至言だ。それについて珍譚があるて。ラテンの古文を考うる者の必ず読むなるアプレイウスの『金驢篇』は、西暦紀元後二世紀の筆に係り、その九篇にこの話を出す。アフリカのマダウラに生まれた青年ルシウス、戯れに異薬を用いて驢に変じ種々の人の手に渡って(13)労苦やまず、かつて麪包《パン》焼きを営業する人に買われて麥舂き場に働く。亭主は方正、その妻は悪人で、淫酒に耽り驢を虐使すること言語に絶えたり。驢怨恨のあまりその行為に注意しおると、一日老婆あり、来たって主婦に一風流少年を推薦し、その夜亭主隣家へ夕飯に招かれた留守に乗じ、その少年頬滑らかに紅くきわめて美なるを連れ来たる。主婦歓んでともに飲み始めたところへ主人不慮に還り来たった。主婦大いに周章しながらにわかに謀って、近くにあった大きな麦櫃を覆《かぶ》せて情夫を匿し、平気を装うて何故早く帰ったかと問うに、亭主長歎息することやや久しく、さて次の話をした。
 「今夜夕飯に招かれ出かけたところ、怪しからぬことを見て座に堪えず逃げ帰った。あんなに行儀よく見えた女が、あんな不品行をするとは全く思いがけなんだ。今夜予を招いた晒し屋は年来の旧交で、その妻は正直で何一つ申し分なく、ひたすら夫の家業を内助の功多く見えた。しかるにいつどうしたものか情夫を拵え、今夜晒し屋と予と風呂へ往っていよいよ夕飯と帰って見れば、かの内儀が男を引き入れてまさに雲雨の最中、幸い高く釣り上げた大籃の周りに布を懸けて下で硫黄を焼きその煙で布を晒しおるのが目に着き、取りあえずその籃に男を隠れ入れしめ、さて尋常な体で妻も吾輩とともに夕飯を賞翫した。ところが信濃なる浅間の嶽に立つ煙同然、硫黄の煙が休まず燻《ふす》べるゆえ、情夫は繰り返し嚔《くさめ》するをおち方人の見やは咎めぬはずなく、亭主は初め女房が風ひいたと思いおったが、おいおいやみごなしに聞こえるを怪しみ、出処を大籃と尋ねあて、ひっくりかえすとほとんど気絶した男が出た。亭主これを見て無明の業火直上三千丈、ただちに刀を呼んでその男の吭《のど》を切ろうとした。そうされては一同の難儀になるから、吭を切らずとも硫黄に中った結果ほどなく命終わるはずと鋭いて到頭亭主を押し宥め、亭主は半死の姦夫を次の小路へ曳きずり去った。次には妻も殺され、亭主も自決という段取りと察し、妻を勧めて急ぎ友人方へ逃げ匿れしめた。まことにとんだ馳走に逢い過ぎて帰って来た。」
 右の通り麪包屋の主人が話を聞くうち、その妻しばしば呆れ返って晒し屋の主婦を罵り、その阿魔めこそ婦女一同(14)の面汚しなれ、女房でなくて惣嫁《そうか》だ、火焙りにしても勘定が足らぬなどと言う。しかし、現に自分の情夫が櫃中に困っておるから、何とぞ早く助けたいとあせって、話が済んだ、もう寝ましょうと勧めたが、亭主は晒し屋の騒動で夕飯はフイになり、空腹に堪えず、とにかく飯を食わせと言う。妻も詮方なく不承不承に情夫に食わすため用意した饌を亭主に供える。始終を立ち聴いておった驢は、平生虐待の返報この時なり、何とかあそこの櫃の下に石亀乎としてへたばりおる姦夫を露わして亭主に見せてやろうと思案最中に、都合よくこの家の飼馬の世話焼き爺が最寄りの池へ馬驢一同に水飲ますべく連れ出しに来た。驢が歩みながら件の櫃を観ると、中に匿れた奴の指が出ておる。それを蹄で蹈んで圧さえ潰したから耐《たま》らず、大いに叫んで狂い出て踊り立ったので、淫婦の虚偽がまるで引っ剥がれた。亭主は存外冷静で、死んだほど青くなって全身戦慄しおる少年を慰撫し、わが童子よ、恐るるなかれ、予は開けない人物でも蛮人でもない、硫黄で燻べる気もなければ汝ほどの美少年を姦夫と称し訴えて重刑に処すべくも思わぬ。妻と相談の上、身代を分かつことは成らぬが、せめてはわれら三人一牀に安んじうるよう謀らうべし、われら夫婦平生なかよく、そのうち一人の好くことは他の一人もまた好くのだ。しかし、妻の主張が夫を圧しないはもちろんのことと徐かに笑語したのち、進まぬ少年を自室に連れ行き、いと面白く復讐した。翌朝日高くなって、職場から強力の者二人を呼んでかの少年を引っ張らせ、亭主自身棒を取ってその臀を打ち、汝ごとく生柔らかい童子が夫ある女に付け廻るとは早過ぎると罵り、飽くまで打って門外へ投げ出した。徹夜衝き嬲《なぶ》られた上、朝から続け打たれて二重に痛み劇しき尻を抱えて、少年は命ばかりを拾うて逃げ去った。
 
       六
 
 十六世紀に出た伊人モルリニの『新話』三一は、大要この『金驢篇』を沿襲したものながら、驢が恨み晴しに姦夫(15)を露わすのことなし。それより前、十四世紀にボッカチオが書いJた『十日譚《デカメロン》』の五日一〇譚は全く『金驢篇』と同事異文だ。しかし、麪包屋の主人が内儀に親《ちかづ》いた少年に面白い復讐をしたことだけはそれほど明記せず。
 『宇治拾遺』(日本文学全書本、七六章)に、一乗寺僧正増誉、愛童呪師小院を寵するあまり、法師になって夜昼離れず付きてあれとて剃髪せしめ、一日春雨の徒然に童だった時の装束着て戯を演ぜしめ、その芸のうまきに、「こちこよと呼び寄せて打ち撫でつつ、何しに出家をさせけんとて泣かれければ、小院もさればこそ今しばしと申し候いしものをと言いて、装束脱がせて障子の内へ具して入れにけり。その後はいかなることかありけん、知らず」と結んだ同前の筆法で、「主人夫婦と少年と夕飯食ったのち、どうして三人等しく満足したか、その仕方は譚者忘失した。しかして翌朝まで少年が室内にあったと知れど、もっぱら夫婦のいずれとともにあったかを知らぬ、云々」と婉曲に仕舞いおり、その前文に驢が少年を露わして亭主大いに怒り妻を罵ると、夫が美少年に甘い顔色を見て取った妻が、晒し屋の妻こそいつも夫に可愛がられながら情夫を引き入れたから真の姦婦だ、君は妾を美服美靴せしむるのみ、夫婦の語らいが遠ざかりおるから、妾も女なり、女人の等しく望むところを自給自足するに何ごとかある、まだしも売り者や醜い者を親けないだけ妾の苦節で君の面目だと論じ、いつ果つべしとも見えないから、亭主も我を折りこの少年もまだ食事せぬ様子、何とぞ一同に夕飯食わせて欲しい、その後汝にも不足ないよう取り計らおうと言ったので、妻も機嫌よく夕食を出し三人和熟して食いにかかったとある上に、翌朝少年を打って押し出したとなきだけ『金驢篇』と異《かわ》りおる。
 
       七
 
 予がかかることについてかく長々しく書いたのは、何と心得てか跡先|拘《かま》わず、西洋に行なわるることはなるべく東(16)洋にも行なわるるがよいと思わぬまでも、西洋にままあるからこちらでも大目に看過するがよいという風が近ごろ大流行らしいからで、日本で従来口にも出さぬことをあちらでは存外平気で書きも説きもする例が多い。
 英国人は外色を無名罪と称えて無類潔白の国民たるよう誇るを、仏人笑うて、罪に名はないがその罪そのものは英国に盛行さる、と言った。現に竹の園生の尊勝と生まれながら、この犯罪を掩わんとてみずから宮した方も吾輩かの国におった少し前にあった。『聖書』すでに、二個の天使ロトの家に宿りしを、ソドムの老若大挙してその舎を囲み捉えてこれを犯さんとし、ロトその素娘二人をもってこれに代える由を載せ(創世記、一九章)、またギベアの老人宅に宿ったレビ人を所の者ども犯さんとするより、その人その妾を押し出して終夜身代りに輪姦せしめて死に致した記事あり(土師記、一九章)。早くよりこんな物を読み聞き暗記して口に無名罪と卑しみながら知ってこれを犯す風盛んに、その極みついに一五三七年に、ローマ法皇パウルス三世の実子で、パルマおよびブレーザンス公だったピエール・ルギイ・ダ・ファルネセが、博文厚徳の名高き僧正コシモ・ゲリ・ダ・ピストヤ(二十四歳)を僧正服を着たまま強辱して黴毒を伝え、四十日を経て遷化せしむるに至った。真に破天荒の珍事で、ために新しい動詞一つでき、史家呆れて殉教に新様生ずと評した(一七二一年コロニア板、ベネデット・ヴァルキ『フィオレンチナ史』六三九頁以下)。
 かかる次第ゆえ、外色に関しては東洋人の見も聞きも及ばぬ異事多く、夫が望む少年を妻を囮として制服するを指す称呼さえ、伊、仏、西等の諸国にある(フラムマリオン訂出、ブラントーム『艶婦伝』一の註)。もってその大流行を察するに足る。支那には衛公や隋帝の嬖童がその妻妾に通じたことあれど、その認可を経てしたとは記憶せぬ。『聊斎志異』に、王喜二という青年桑冲の邪術を伝え、女装して良家に出入しその室を汚す。馬万宝その風格を愛し、妻と謀って疾と称し、招いて按摩を乞い、みずから妻に代わり臥し、その親しみ来たるを待ち、これを捕えて男子たるを発見し、郡に告げんと思うたがその美を憐れみ、これを宮して、婢使|狎処《こうしよ》し一生を終わらしめた話あり。日本には北尾辰宣筆だろうという『異態百人一首』に、三人共狎のところあれどほんの空想の作らしい。
(17) 終りに述ぶ。『金驢篇』に出た驢は人間が化けた者ゆえ、復讐に主婦の姦を露わすはありうることだが、そんなに巧みの深い動物は実際ないと思う。しかし、猴類には男女の親しきを見てきわめて嫉妬するものあるを親《まのあた》り目撃した。犬、猫等にも多少そんなものあり。ハーバート・スペンサーの著書で、露国の田舎の男女は事を企つる前に必ず壁画の上帝の面を被うて見られぬ用心を専一にする、と読んだが、上帝や小児はもちろん、畜生の見るところで秘事を行なうは慎むべしだ。不測の禍いを招くかもしれぬ。         (大正十二年六月『土の鈴』一九輯)
 
(18)    犬が姦夫を殺した話
 
 前文、犬が主婦の情夫に懐《なつ》きおるよりこれに好愛の情を表わして反って主婦の姦を露わしたのと反対に、主人に忠誠な真情一偏よりその妻の姦を暴《さら》した例もある。
 寛文七年に成った『隠州視聴合記』二に、「周吉《しきつ》郡犬来村、村老語っていわく、むかしこの村に犬を養う者あり。その婦隣の少年と通ず。来たる時に犬吠ゆ。婦これを愁いて夫に謂っていわく、この犬よく人を吠ゆ、故に賈客わが門に入らず、云々。夫これを然りとし、他方に遣り放ちけり。婦、犬の道を知って帰らんことを計りて、嚢に盛りてこれを送る。すでにして少年来たる。犬また帰りてこれを吠ゆ。夫|寤《さ》めて窓より見てついにその姦を得たり。故に犬来と書く。「むかし、会稽の張然、都にあって年を経たり。その婦、奴《ど》と通ず。然、一犬のはなはだ快《さかし》きを養う。然のち家に帰る。奴、婦と謀って然を殺さんと欲す。犬吠えて咋《か》む。然ともに奴を殺し、婦をもって官に付す。」」これは『続捜神記』の文をいたく省略したのだ。(五月十四日)     (大正十二年六月『土の鈴』一九輯)
 
 『続捜神記』の張然の犬が姦夫を殺した話に似たのが、南インドにもある。キングスコート夫人およぴナテーサ・サストリー師合纂『日の話』(ロンドンで一八九〇年出板)一五五−一六〇頁に出ておるのを大要のみ訳出しよう。「正直ながら気早過ぎた狩人とその忠犬の話」という題号のものである。
 ある森にウグラヴィラなる狩人住み、その国の王に定額の税を払う取極めだったところ、ある時、王から不意に千(19)五百ポン払えと命ぜられ、あらゆる財産を売ったがようやく千ポンだけ手に入れた。不足分の拵え方がないので、他に掛替えのない愛犬を近所の町へ牽き行き、クベラという商人に質入れし、証文ともに渡して五百ボンを借り入れた。さて眼に涙を浮かべてその犬の名を呼び、「ムリガシムハ(獣中の獅子)よ、わが忠犬よ、借金を返してしまうまで汝の新主人方を去るなく、これまでわれに仕えたと同様忠勤を励んでくれ」と教訓して、名残惜しげに立ち去った。
 その後、しばらくあって、クベラ商用のため外国へ旅行に出るに臨み、件の犬を呼び寄せ、よく戸を守って盗賊やその他の悪人を禦げと言うと、犬承知の由を眼と尾で知らせた。それから毎日三度ずつ米と牛乳をこの犬に飼えと妻に吩付《いいつけ》て出で立った。爾後犬よく門を守り、妻も数日間は夫の命の通りこれを飼ったが永くは続かず。全体この女表面と大違いで、男なくては一夜も過ごされぬという大淫婦だから、夫往ってその夜からいろいろおかしな夢を見て辛抱がならず。セッチ部の若い悪漢を招いて情夫とし、毎々の入来に昼も箪笥の鐶《かん》が鳴り止まず。忠犬ムリガシムハ、わが新主は主婦のかかる悪行を喜ばぬに相違ないと断定し、一夜かの男雲雨のこと果てて立ち帰るところを、その名の獅子奮迅の勢いで吭《のど》に食いつき殺してしまった。姦婦驚いて姦夫を助けに走り出たが及ばなんだ。
 姦婦何と愁歎しても臍《ほぞ》を噬《か》んでも及ばず、それより下へはなお及ばないから、気を取り直して裏の畑へ屍骸を運び、只今まで掘ってもろうた返しに、自分で大きな穴を掘り姦夫を埋め土と葉で蓋うたは、是非も内証で済ますつもりのところを犬は十分見知りおったので、主婦これを忌むこと一方ならず。一切食物をくれないゆえ、やむをえず食後飯粒のついた葉を抛り出すを拾うてわずかに生を聊《りよう》しながら、依然主命通り門を守った。これは『万葉集』などにも見えるごとく、むかしはわが邦でも樹の葉に食物を盛って喫したから膳の字をカシワデと訓ますごとく、南インドでは古来膳の代りに葉を用いるから、かく言ったものだ。
 それから二月たって商人クベラが帰って来ると、犬は悦んで走りついてその足元に転げ廻り、その裾を銜えて畑へ引き往き、姦夫を埋めた所の土を掻いて主人の顔を瞰《みつ》め呻吟した。さてはここを掘って見よと知らすことと察して、(20)ただちに掘れば壮漢の屍骸が出たから、これは間男に明巣を振舞ったと判じて家に飛び入り妻を捉え、白状せずば殺すと威して逐一自白せしめ、畜生さえこの通り忠義なるに、かかる大罪を犯した上、犬を餓えしめて仕返しとは、犬の糞で仇討ち以上の仕方、もっての外の人畜生とは汝のこった。子のないだけが切られ与三郎の面疵《おもてきず》同前もっけの幸いだ、二度と顔を見せてくれるなと、自団太踏んで突き出したので、身から出た錆何とも言いわけのしようなく一言も出ないから、せめて尻から詫び言と屁を七つほどひって逃げ去った。飛ぶ鳥跡を濁さぬと聞くに、亭主の留守に大それたことをするのみか、逃げざまにも仰山な屁を手向けて往くなど怪しからぬにもほどのある阿魔だ。人をもって犬にしかざるべけんやと、牛乳と飯と砂糖を取り出してタラフク犬に食わせたのち、「獣中の獅子よ、汝の忠義を謝すべき詞がない。今度汝の尽力に比べて見ると、汝の旧主に貸した五百ポンぐらいは帳消しにしてなお余借ありだ。持つまじきものは多婬の妻で持つべき者は犬なりけり。かかる忠犬に離れた狩人の心根が糸惜しければ、只今汝に暇をやるから速やかに旧主へ帰るがよい」と語り、狩人が差し入れた証文の端を少しく裂いて事済みの印とし犬の口に銜えしめて放ちやると、犬は悦んで森に向かい走った。
 この時狩人はやっと五百ポンの金を拵え利息を揃えて仕払うため商人方へやってくる途上で犬に逢うと、大悦びで走りかかった。狩人これを見て、さてはこの犬予の教えに背き予に逢いたさのあまり商人方を逃げ出した、不埒な奴だ、殺してやろうと葛《かずら》を取ってその首に締めつけ木の枝に懸けた。犬はせっかく悦ばしょうと走りついてこんなに縊《くく》られたからさっぱり勘定が合わず。狩人やがて商人の家に到り持参の金をさらけ出すを見て商人いわく、「それには決して及ばない。貴公の犬が、拙妻といったら本当の拙妻で、予の不在中に素性の知れぬ男を引き入れ家名を汚した上、屁を七つまで尻から言いわけなどと洒落て、ひり逃げにするほどの不貞腐れの姦夫を殺しくれた忠節、すでに五百金を償うて余りあり。よって先刻かねて預り置いた証文をその口に銜えさせて放ち遣ったに、貴公は逢わずや。何かしたと見えて恐ろしい顔つきだ。かの犬に凶事でもあったのか」と聞きも果てずに、狩人は五体を地に抛ち、ハア(21)早まったり、そんな訳と知らずに、犬を殺してしまった。定めて予を恨んでがな居るだろうと言うかと思えば、たちまち短刀でみずから突いてやにわに死してんけり。商人も先刻ようやく家に帰って女房の不貞を知り、屁を七つまで発射される、せめて狩人が来るまで俟ったら犬も人も死なすまいにと悲しさと臭さに気を取りつめ、狩人の手からもぎ取った刃でこれまた自殺した。
 このことほどなく森中に聞こえ、狩人の妻、古い川柳に「奥様は夕べせぬのが無念なり」とある通り、こちの人は正直で永らく不在で、ようやく金を拵え帰って久しぶりの睦言も交えないうちに仕払いに出たばかりに、自他を連ねてこんな憂き目を見るというは何たる因果ぞ、自分この上永らえておかしな夢など見るも物笑いの種なれば生き延びて何かせんと、これまた身を井戸に投げて死んでしまう。商人の妻も、自分一人の心得違いから三人一疋という人と犬の落命を惹き起こし、町へ出ればそりゃ無類の助兵衛女が通るは、屁を七つまでさても根《こん》強くよくひったり、定めて腰がしたたかであろうなど、子供が罵り付いて来るので、今さら世にある望みも絶えて、これまた自殺したということだ。
 キングスコート夫人、右の談に付記してその書二九二−三頁に述べたは、「一八三四年出板、『アジアチク・ジョーナル新輯』巻一五に、カウンポールの一新聞紙から次の噺を引きおる」と序して、ダペ−と名づくる行商人ビロという犬を持つ。この犬、主人の旅行に伴して主人の眠るあいだによくその貨物を香した。時にダベー、穀を遠方へ売りに行かんとすれど資本なし。熟考の末、その犬を千金に質入れして用を足さんと奔走するを皆人笑うて顧みず。ジャラムという富商、その犬を質に取って十二月を限って千金を貸した。十一ヵ月たってこんな詰まらない物を抵当に千金も貸したは愚の骨張と悔やめど甲斐なし。しかるところ真闇で恐ろしい一夜、おびただしく刀の音と犬の声するに眼を醒ますと、一群の盗賊闖入するを犬が必死になって防戦最中だった。ジャラム何とか犬を助勢しょうと思ううち、犬すでに二賊を噛み殺した。第三の賊がジャラム来たるを見てその頭に打ってかかるところを、犬その吭に喰いつい(22)てこれも斃してしまった。騒動おわってジャラムよくもこの犬を質に取り置いたと大悦び、翌日犬を呼んで撫で廻し、汝昨夜の功は千金に優る、褒美に今より暇を取らすぞと言うと、ビロ首を振って本主ダベーが帰って来ないうちにここを去ることはならぬという意を表わした。ジャラムすなわち事由を書きつけ千金は消し帳と記して犬の頸に結びつけると、犬は悦んで飛び廻り、ジャラムの手を舐《ねぶ》ったのち本主を尋ねに立ち去った。一方ダベーは期限も遠からず、何とか借金を済まさんと心配した事業が中って金ができたので、一刻も早く犬を受け出そうと金を持って急ぎ帰る。今一足でわが家という処でバッタリ犬が悦んで近寄るに出逢った。もとより正直一徹の気象とて犬を蹴飛ばし額に皺よせ、この恩知らずめ、いつも可愛がってやったにとんだことをしやあがる、十一ヵ月のあいだ奉公したのに今三十日の辛抱がならぬか、約束の日数を勤めないで予の信用を失わしめた奴は殺さにゃならぬと言うや否、抜刀してビロを斬り殺した。殺しおわって頸に結びつけた紙に気がつき、なになにこの犬昨夜白刃を冒して三賊を殪し、予の命を全うした功千金に優る、よってその主人に貸した千金を消し帳とし犬を解放する、とジャラムの手筆だ。そんなこととは露知らず、焼芋の一つもやらずに殺したは、さても恩知らずめとこの主人を蔑しむことであろうと、悔の八千度繰り返しても跡の祭り、せめていくぶんの罪滅しにと、只今犬が殺されたその所へ埋めおわり、その上に立派な碑を立てた。今もその辺の土人が犬に噛まるるとその墓に詣り、墓辺の塵を取り帰って創に当つればたちまち平癒すということだ。(大正十二年六月十四日早朝)    (大正十三年五月『日本土俗資料』一輯)
 
 人の情事に犬が関係した件を今一つ見出だしたから申し上ぐる。和鋼ごろの筆という『播磨風土記』に、むかし景行天皇、播磨の印南別嬢《いなみのわきいらつめ》を訪わんと赤石郡《あかしのこおり》に到りたまう。その時別嬢聞いて驚き畏れ南※[田+比]都麻《なびつま》島に遁れ度《わた》る。ここにおいて天皇すなわち賀古の松原に到りて覓《もと》め訪いたまう。ここにおいて白犬海に向きて長く吠ゆ。天皇問うていわく、これ誰《た》が犬ぞや、と。須受武良首《すずむらのおぴと》対《こた》えていわく、こは別嬢養うところの犬なり、と。天皇勅していわく、好く(23)告ぐるかな、と。故に告《つぐ》の首《おびと》と号《なづ》く、と。それより海を渡って嬢に遇い、睦事《むつびごと》をなしたまいし次第を述べておる。畢竟この嬢海島に遁れ隠れたのを犬が吠えてその所を知らせたので、天皇ことのほか御機嫌だったと見える。(五月二十八日)    (大正十二年六月『土の鈴』一九輯)
 
(24)    死んだ女が子を産んだ話
 
       一
 
 「奇異雑談』下巻に、「世俗にいわく、懐妊不産《はらみてうまず》して死せる者、そのまま野捨てにすれば、胎内の子死せずして野にて生まるれば、母の魂魄、形に化して子を抱き養うて夜|行《ある》く。その赤子の泣くをうぶめ〔三字傍点〕啼くというなり。その形腰より下は血に浸って力弱きなり。人もしこれに遭えば負うてたまわれと言うを、厭わずして負えば人を福祐になすと言い伝えたり、云々」とある。うぶめのことは、予『東京人頬学会雑誌』明治四十二年五月の分、三〇五−六頁に、何か実在する、ある鳥の外貌《すがた》が婦女に似たるより生じたる訛伝だろうと言っておいたが、その後林道春の『梅村載筆』天巻に、「夜中に小児の啼き声のようなるものを、うぶめと名づくといえども、それをひそかに伺いしかば、青鷺なりとある人語りき」とあるを見出だした。また鯢魚《さんしよううお》も鼈《すつぽん》も啼き声赤児に酷似するを、永々これを扱うた人から聴いた。ポリネシア人が胎児の幽霊をことのほか恐るる由、繰り返しヴァイツおよびゲルラントの『未開
民史《ゲシヒテ・デル・ナチユルフオルケル》』(一八七二年板、巻六)に言えり。
 また『奇異雑談』下巻に、京都霊山正法寺の開山国阿上人、もと足利義満に仕え、伊勢へ出陣の間に、懐妊中の妻死す。その訃を聞いて、陣中作善を営む代りに、毎日銭を非人に施す。軍おえて帰京し、妻を埋めた処へ往き見ると、(25)塚下に赤子の声聞こゆ。近処の茶屋の亭主に聞くに、その辺よりこのごろ毎日婦人の霊来たり、銭をもって餅を買う、と。日数も銭の数も伊勢で施したところと合うから、必定亡妻が施銭をもって餅を求め赤子を養うたに相違なしと判じて塚を掘ると、赤子は活きおったが、母の屍は腐れ果ておった。よってその子をかの亭主に養わせ、おのれは藤沢寺で出家し、五十年間修行弘道した、とある。 (大正二年九月『郷土研究』一巻七号)
 この話の出処と思わるるのが、『淵鑑類函』三二一に出でおる。いわく、「『間居録』にいう、宋の末年、姑蘇の餅《だんご》を売る家にて、鬻《あきな》いしところの銭を検するに冥幣を得たり。よってこれを怪しみ、餅を鬻《ひさ》ぐごとに、必ずその人とその銭とを識《しる》す。これを久しうするに、すなわち一婦人なり。その婦を跡つくるに、一塚に至って滅す。ついにこれを官に白《もう》す。塚を啓くに、婦人、柩のなかに臥し、小児あってその側に坐せるを見る。その人に覚らるるところとなりしかば、必ずやふたたぴ出でずして、小児を餓死せしむるにいたらんことを恐る。好事の者あって、収《いだ》き帰ってこれを養う。すでに長じては常人と異《かわ》るなし。その姓を知らず、郷人これを呼びて鬼官人という。元《げん》の初めになお在きてあり。のち数年にして方《はじ》めて死す」とある。 (大正五年六月『郷土研究』四巻三号)
 
       二
 
 死んだ母がその子を育てた話は日本に多いが、支那にもインドにもある。
 劉宋の沮渠京声が訳した『旃陀越国王経』にいわく、旃陀王が特に寵愛した小夫人孕む。他の諸夫人がこれを妬み、王が信用した梵志《ぼんじ》に賂いし、この子生まれたらきっと国の患いとなると讒したから、王その小夫人を殺し埋めしめた。塚の中で男児生まれしを母の半身朽ちずして乳育す。三年を経て塚崩れ、その児出でて鳥獣と戯れ夜分塚に還る。六歳の時、仏これを愍れみ、出家せしめ、のち羅漢となった。仏命じて往いてその父王を教化せしむ。この僧、王を見(26)て何を憂うるぞと問うと、嗣子なきを憂うと言った。僧聞いて笑うてのみおるので、王怒って殺さんとす。僧察し知ってすなわち軽く空中に飛び上がり、分身散体して無間に出入した。王見て恐れ入り、僧を伴い仏を訪うと仏すなわち因縁を説いた。この僧前身貧人たりし時比丘に酪酥《らくそ》を施した功徳で王に生まれたが、人の好き母牛が犢を孕めるを見てその牛を殺さしめた。王の夫人、王を諌めて犢のみを助命せしめ、牛主還って死んだ牛の腹を破り、犢を取り出し養い、怒りのあまり後世王をしてこの犢のごとくならしめんと詛《のろ》うた。それより王の後身この僧となり、生まれぬ前にその母殺された。母は前世の王夫人なり、梵志は牛主なり、この僧は前世に酪酥を比丘に施したので、今生にも死んだ母の乳で育った、と。王の夫人は慈悲深い人で、犢を助命せしむるほどなら、定めて母牛を助命するよう願うたのだろうが、王が到底二つながら助命せしめぬゆえ、やむをえず、然る上は子牛だけでもと諌めて助命せしめたらしいが、牛主の男も王に等しい分らず屋で、子牛を助命さするほどの力がある上は、今少し力を入れて母牛をも助けてくれそうなものと恨んで詛うたため、王は墓の中で生まるる無残な目に逢い、王夫人は傍杖を食って、牛主の後身たる梵志に讒殺せられた上、墓中で王の後身たる子を産み、前生に閨中に抱き楽しんだ因縁で今度は抱き育てた。重ね重ね死んだ後までの面倒を見たので、古い都々逸に「掛けてよいもの衣桁にすだれ、掛けてわるいは薄情」とあるごとく、いっそ生半可な諌言をせずに、母牛も子牛も王命是非なしと黙って見捨ておったら良かったかもしれない。
 さてサウゼイの『随得手録』(一八七六年ロンドン板)四輯一三六頁に、ドイツの紳士が美しい若い妻に死なれ、当座は哀愁に余念もなかったが、去るもの日に疎しで、永く立たぬうちについつい下女の尻を抓り靡けてある夜共寝とやらかしおると、死んだ妻が寝台に凭《よ》って夫と話したそうな顔つき、二、三晩同様なるを見て下女も気味悪く主人に話すと、そうか、二、三晩続けてそんなものが出るか、俺はまた二、三番続けて出すから草臥れて一向知らなんだ。衣は新にしかず、友は旧にしかずで、下女もよいがどうも昔馴染の妻にしかずだ、餓うれば食を択ばず窮すれば妻を択ばず、幽霊でも構わない、来たら引き留めて見ようと、次の夜まんじりともせず守りおると、例刻になって果たして(27)寝台近く逼り来た。汝は誰ぞと尋ねると、あなたの妻でござんすと答う。わが妻は死んで埋められてしまったと言うと、まことにあなたが毎度上帝の名を引いて誓言を吐いた罪により心ならずも早く死に別れたが、あなたが今一度妻にしようという思し召しあって、今後いつもする、殊に悪い誓言をせぬなら再び妻となって語らいましょうと言ったので、夫も踊り上がって打ち喜び、何がさてそなたのような若い美人と二度添えるならオンでもないこと、どんな誓言でも以後決してしませぬと言った。それから妻の幽公家に留まって消えず、昼は諸用を司り、夫とともに飲食し、夜はかの件を怠らず夫を慰むること一方ならず、ついに若干の子まで産んだ。しかるにこの夫の旧い癖が失せきらず、一日客を招き夕餐を供えたのち、自分の櫃から何か出し来たれと命ずると、妻が取りに往って急に持ち来たらぬを腹立ち、例の誓言を発した。これによって妻たちまち消え失せてまた見えず、空しく妻の打掛けが半ば櫃の内半ばその外に留まりあるを見るのみだった。この幽霊が産んだ子供が貴族となった。サクソン公ジョン・フレデリクこのことを聞いてマルチン・ルーテルに意見を徴した時、ルーテル答えに、この女もこの女が産んだ子も正しい人間でなく、全く悪魔だと述べた由、ルーテルの『食案法論』に出ておる、とある。
 すでに幽霊が夫と交わって子を産む咄ある上は、墓中で子を養うた談も必ず欧州にあるはずと、拙生も二、三晩捜し続けたが見当たらない。しかし同書二輯五二一頁に、コンスタンチノープル近傍に聖人メイツァデの墓あり。この人の父エルラの城攻めに往くとて、その時妻の腹にあった子を上帝に祈り頼んで出で立った。その後まもなく妻が死んで埋葬された。墓の中で子が産まれたが、上帝の加護あって死んだ母の乳で育った。夫帰り来たって妻が死んだと聞き、せめて死顔なりと今一目見たいとて墓を尋ね、開いてみるとその子が死骸の乳を吸いおり、死骸さらに腐らずあったから、夫大いに上帝に感謝し、その子を伴って帰る。それが大学者となったのが、すなわちこの聖人だとあれば、回教国には頭白上人と同一の譚が行なわれおると知った。(六月十一日午前五時稿)          (大正十三年八月『日本土俗資料』四輯)
(28) 前話はインド譚の例を仏経から引いたのだが、仏教が現に行なわれぬインドの地方にもまたこの類の話がある。その一例を、一八六八年ロンドン板、フレールの『オールド・デッカン・デイス』の二六二−二七二頁より、左に抄訳する。
 むかし国王と王后のあいだにきわめて美しい女子を生んで、ソデワ・ベイ(吉祥女)と名づけた。生まれた時国中の占師を残らず呼んで卜わすと、彼輩一同に、この女成人に随い富貴幸運一切の女に優るべしと言ったはそのはずで、この女生まれ落ちるなり、美容麗質の無類なるが上に、唇を開けば珠玉地に落ち、歩を運べば珍宝湧き出で、父王そのお蔭で天下一の大長者となった。かつまた吉祥女生まれながらにして頸に金の瓔珞を纏いおったのを占者が見て、この姫君の魂はこの瓔珞の中に蔵まりおるから、しごく注意してその頸に着けおかれたい、一度これを取って他人の身に著くれば姫はたちまち死ぬるはずと言った。よって王母は固くその瓔珞を姫君の頸に結びつけ、やや物が分かるころより姫に教えて、何ごとあってもこれを取り外さざらしめた。
 やがて十四歳になったが、王も后も婚儀を勧めず、姫の勝手次第と放任した。諸邦の大王貴人争うて結婚を申し込んだが、姫は一切拒絶した。時に父王その姫君の誕生日の祝いに金玉作りの履、片足ごとに百万金という高価の物を姫に与えた。姫愛重のあまり居常離さず穿いておったが、一日女中どもと山腹に花を採るうち、足を滑らせて片足の履を落とした。それから父王国中に令し大金を懸賞して求めたが、一向出てこない。山下のある国の王の若い子が一日狩に出て深林中にいと小さい無類の麗《うつく》しい履を拾い帰って母后に示すと、これは必ずよほど愛らしい王女の穿き物に相違ない。何とかその主を尋ねて王子の妻にしたいものと、国中に勅して探索したがさらに分からず。しかるとこ(29)ろ、人あり、遠方より来たって、山奥の遠い国の王女が美しい履を落としたのをその父王重賞を懸けて求めていると、その履の容体を巨細に告げたのがてっきり王子の拾得品に符合するので、母后は王子に汝その履を持ってかの国に往き渡すべし。さて約束の賞品を遣ろうと言ったら、金も銀も貰うて何かせん、ただ姫君をわが妻に賜えと言え、と教えて出で立たせた。
 王子母の教えのままに長途を執り、吉祥女の父王を訪ねて履を呈し褒美の品を望むと、金か銀か何を望みかと問わる。われは低地の一国王の子ゆえ金銀などに飽いておる、望むところは王の姫君を妻に欲しいと言うと、それはちょっと即答はできない、娘の心一つによることといううち、吉祥女は窓から王子の容子を見ており、あの王子ならわが夫として不足なしと言ったので、さてはどこかによいところがあるのだろう、善は急げと言うままに荘厳盛飾して婚姻を済ましめた。その後久しからず王子舅王に向かい、この上は妃を伴れて故郷へ帰りたいと言うと王これを諾し、くれぐれも新妃を大事にし、取り分けその頸より瓔珞を離さぬよう、それを他人に渡すと新妃は死ぬからと誨え、多くの象、馬、駱駝、臣僕や無量の金玉等を与えて出で立たしめた。
 すでに故郷へ着いて父王母妃の悦び譬うるに物なく、そのまま永く幸福に暮らしうべかりしに、とかく浮世は思うに任せず、一大事|出来《しゆつたい》した。というはこの王子(名はラウジー)は幼時すでに第一妃を娶りあった。その第一妃の人となり陰鬱としていつも悒《いぶせ》く、ことに大の焼き餅家たり。されば父王母后は第一妃よりも新妃を愛するから、第一妃心大いに新妃を悪《にく》んだが少しも外に現わさず、表向きははなはだこれを愛好した。無邪一遍の新妃は少しもそんな気がつかず、第一妃を姉のように親しみ睦ぶ。一日、王子父王の領内ながら遠隔の地へ用あって往くとて、よくよく新妃のことを両親に頼み、毎朝その安否を見に往って下されと嘱して出で立った。暫時経て吉祥女の室へ第一妃が来て、夫王子が旅立ったので寂しいから、これより毎度ここへ来て面白く遊びましょうという。この詞に甘えて吉祥女種々の珍玩を取り出し第一妃の目を慰めるうち、第一妃、吉祥女に貴女はいつも頸に金の珠を貫いた環を懸けておるが、(10)あれは何ですと問うた。これは私が産まれた時胎内から頸に懸けて生まれた物で、占者が父王に私の魂はこの頸環に繁りおるから他人に取り用いらるると私は即座に死ぬと申された。それゆえ牡鹿の角の束の間も取り外したことはござらぬと答えた。第一妃これを聞いて心中大ホクホク物だったが、自分で窃む訳に参らず、自分の部屋に立ち帰って平素自分に忠誠な黒女婢を召し、かくかくと命ずると、その夜吉祥女の熟睡中その部屋に入って瓔珞を外し自分の頸に巻きつけると同時に吉祥女は死んだ。
 翌朝、老王天妻が例によって吉祥女の部屋を訪うと音もせず。怪しんで入って見れば、容顔は平日通りながら身体大理石のごとく冷えて事切れおり。医者に示すとこれはもはや死にきっておらるると言うので、老王夫妻お定りの愁歎場を演じたが、せめては死顔だに今一度王子に見せやりたいとあって、吉祥女を土に埋めず、小池の側に美麗な廟を構え、天蓋をかぶせてその下に屍体を置き日々見に往った。ところが未曽有の椿事というは、その屍少しも腐らず、顔色生時に異《かわ》らず、一月経って夫王子帰り来たるまでかくのごとく、唇色|頻婆果《びんばか》のごとく頼は紅蓮のごとし。太子これを見てなんぞ惨傷せざらん、朝から晩までかの墓へ妻の屍を見に、あれいくよ、それまたいくと、行きかう者の言の葉に上るまでも往き続けにぞ往きたりける。父母はかく往き続けにやったら精|竭《つ》き気疲れて死にはせぬかと案じ出し、そうそう往くなと留むれども聴けばこそ、糸惜《いとお》し妻の顔を見ずにおっては玉の緒の命あっても何かせんと、墓詣りばかり出精した。
 
       四
 
 一方、吉祥女の瓔珞を盗んだ黒女は終日これを頸に懸けたが、毎夜寝る前に取り外し明朝までこれをかたわらに置く。そのあいだに吉祥女の魂は本身に帰るから生き返る。さて翌日黒女起きてまた自分の頸に着くると吉祥女は死ん(31)だ。老王夫妻も王子も毎度墓へ往ったが昼間に限ったゆえ、夜分吉祥女が甦るを知らず。吉祥女かくして最初甦った時はあたりが真闇で誰一人側におらない。ついてはこれは知らぬうちに牢に入れられたことと想うたが、おいおい慣れて来るに随い気を落ちつけて考えるに、どうも自分は死んだらしい、何とか夜の明けるを俟ちてここはどこと見極め、王宮へ還って瓔珞を捜し出そうと思うたが、夜は決して明けぬ。朝になると、黒女がそれを自分の頸に絡うと同時に吉祥女は死ぬのだ。しかし、毎夜蘇ると廟から出て池の水を飲み廟へ還ったが、食物がないのでヘコ垂れた。この女生来|言《こと》いうごとに珠玉口より落ちるのだが、話し相手がないのでその儀に及ばず。ただ毎夜水を飲みに出歩くその跡に足から涌き出た珠が散らばっておった。それが一日王子の眼についたので奇妙に思い、出処を見届けんと番しおったが、死んだ妻は夜分だけ活きて出歩くのだから珠の出し主は分からぬ。しかるにその日は吉祥女を葬ってよりちょうど二月めで、王子が珠の出処を見届けんと日暮るるまで番した当夜、廟中で男児が生まれたに次いで夜が明け、母はまた死んだ。生まれた児は誰も取り上げる者がなし、終日啼いたが聞きつける人もなかった。その日は王子事あって墓を訪わず、夜分に初めて珠の出処を見つけに出かけたところ、廟中で児の啼き声がする。化物でないかと訝るうち、廟の戸を開けて児を抱いた女が出で来たり池の方へ歩むと、歩々珠を生ずと来た。鳥羽玉の夢じゃないかと怪しみ見ると、水を飲みおわって廟に還る様子、それ引き留めんと追いかけるに驚いて、吉祥女は廟に走り入り、内より戸を鎖した。ちょっと開けてと戸を敲くと、汝は何物ぞ、鬼でないか、ただしは幽霊かと問う。そういう汝こそ児まで抱いて念の入った二人前の幽霊でないか、われこそ汝生前草葉の蔭までも離れないと盟うた汝の夫だ、とにかくここを開けと言うを、気をつけて聞けばわが夫だから戸を開いた。見れば嬰児を膝に匿いて母が坐りおる。これは夢でないかと尋ねると、イエイエ夢ではござんせぬ、こんな処で昨晩この児を産みましたが、夜が明けると私は死にます、誰か私の金の瓔珞を盗んだから、と告げた。
 そこで初めて金の瓔珞が女の頸に懸ってないに気がつき、取りあえず王宮へ還り、宮中の男女を一切召集すると、(32)第一妃の使う黒女がその頸飾りをしておるから、番兵をして捕えて投獄せしめると、大いに恐れて第一妃に頼まれて盗んだと白状した。そこで第一妃を終身投獄に処し、父王母后共に廟へ往って頸飾りを吉祥女に著けしめ、その子と共に王宮へ還り、一同めでたいめでたいと大祝賀をやらかし、行く末長く繁昌し、吉祥女は正妃となって、今度は日が暮るるごとに面白く死にます死にますと言ったそうだ。(大正十二年六月十七日早朝稿)
(追記)ギリシアの古伝に、テッサリア王プレギアースの娘コローニス、医神アポルロと通じて子を孕むうち、アルカジア人イスクスと通じた。アポルロかねて監視に付け置いた鴉がこれを告げたので、アポルロ大いにその不貞を怒り、その妹アルテミスをしてコローニスの宅でこれを殺さしめた。一説にはアポルロみずから姦夫婦を殺したという。コローニスの屍火葬されかけた時、アポルロ焔中よりその胎児を取り出し、半獣形の神ケイロンに授けて医道と狩法を学ばしめた。その児が医聖アスクレーピオスで、妙技をもって死んだ者をも活かすから死人跡を絶ち、地獄大不景気と訴え出たので、大神ゼウス霹靂してこれを殺し、アポルロその復仇に電鋒を作った一眼鬼どもを鏖殺《おうさつ》したという。
(一八四四年板、スミス『希臘羅馬人伝神誌名彙』一巻四四章と、一九〇八年板、サイッフェルト『古学辞彙』英訳七五頁を参取す。)
(追記)仏経に見えたこの話のおそらくもっとも古いのは、西晋の沙門釈法立・法炬共訳の『諸徳福田経』にある。仏在世に須陀耶という比丘あり。先世に維耶離国の小民だった時、世に仏なく衆僧が教化した。この人市へ酪を売りに行く途上、衆僧大会の講法を立ちて聴き、歓喜してことごとく持つところの酪を施した。その功徳で九十一劫のあいだ、生まれ変わるごとに豪貴尊栄だったが、最末に余罪あったため自分を孕んだ数月後に母が死んで塚中に埋められた。月満ちて塚中に生まれ、死んだ母の乳を七年間飲んで成長し、仏の説法を聞いて得道したという。(七月十五日早朝)  (大正十三年五月『日本土俗資料』一輯)
 
(33)    神様の問答を立聞きした話
 
 西鶴の『男色大鑑』七の三章に、「袖も通さぬ形見の衣、子安地蔵は偽りなし、思わくの紋楊枝は口に入る物、正月二日の曙の灰よせ」という題辞で、「大阪道頓堀の真斎橋に人形屋の新六といえる人、手細工に獅子笛あるいは張貰の虎、またはふんどしなしの赤鬼、太鼓持たぬ安|神鳴《かみなり》、これみな童子《わらべ》たらしの様々拵えて、年中丹波通いして、その戻りには竹の皮、荒布に肩替えて静かなる心なく、元日より大晦日まで、夫婦の口過ぎばかりに、さりとはせわしく、橋一つ南へ渡れば常芝居のあるについに見たこともなし。燈台本油のへるを嘆き、始末心よりこれなり。この人ある時、道に行き暮れて里遠く、村雲山も時雨もよおして凰は松をさわがせて次第に淋しくなれば、ようよう子安の地蔵堂に立ち寄りて寒き一夜を明かしぬ。すでに夜半と思う時、駒の鈴音けわしく耳驚かし、旅人かと立聞きせしに、形も見えずして御声《みこえ》新たに、お地蔵お地蔵と呼び給いて、今夜の産所へ見舞い給わずや、丹後の切戸の文珠じゃと宣えば、戸帳のうちより今宵は思い寄らざる泊り客あり、役々の諸神諸仏によきに心え給えと言い別れ給い、その夜の暁《あかつき》方にまた文珠の声し給いて、今宵五畿内ばかりの平産一万二千百十六人、このうち八千七十三人娘なり、中にも摂津国三津寺八幡の氏子、道頓堀の楊枝屋に願いのままなる男子平産せし。母喜ぶこと浅からず。大きなる顔して味噌汁の餅食うなど、人間行く末の身のほど知らぬは浅まし。この子美形に育ちて、後には芸子になりて諸見物に思いつかれ、これ盛んの時至りて、十八歳の正月二日の曙の夢と限りの命、世間の義理ゆえに棄つる若衆ぞと、先を見開きての御物語り、ありありと聞きしに、ほどなく常の夜も明け白み、新六、地蔵堂を起き別れ、丹波より難波に帰り(34)て見しに、南隣り楊枝屋に日も時も違わず男子産み出して、今日六日とて親類集まり、始めて髪垂るる祝言よりこの子は備わりて野郎下地なり」。それから戸川早之丞と名乗って若衆形の役者になり、当時の名優「藤田小平次に揉まれて武道ことさらにしこなして尾上源太郎が替りにもなるべき者と」言われたが、同輩中の一人を兄分として客人に疏《うと》くなり、正月衣裳に事欠いて二日の初芝居に出ることならず自殺した。「さても死なれぬところを少しの義理に詰まりて武士もなるまじき最後、末々の世の語り句ぞかし。物は争われぬこと、子安の地蔵の御詞思い合わすればまことに正月二日の骨仏《こつほとけ》とはなりぬ」とある。
 この書が出た貞享四年より二十三年後宝永八年に成った自笑の『傾城禁短気』二にも、「難波の戸川早之丞は勤め子なれども、同じ役者に念友ありて、この兄分が仕過しのたたまり、大晦日に一度に起こって来て借銭ゆえに一命捨つる眼色を見て念者の命を助けんため、初狂言の舞台衣裳その外の道具まで質に置いて兄分の難儀を救い、その身は正月二日の朝、衣裳なくて芝居の勤まらぬことを思いやり、念友の役者の方へ一筆を残し、あえなく自害して果てぬ。しかもこの兄分末の役者にしてわれを引き廻すほどのためになる男にもあらぬに、かかる志女房の方は怪我にもあるまい、ただ勤めの身を捨てて男を助けしためしある」と川原寺の日尻が論じあるを見ても、早之丞の自殺が長く人口に膾炙したと判る。
 子安の地蔵がその堂に泊った旅人保護のために、出産の所々を見舞いあたわなんだ訳は、『地蔵菩薩本願経』(于※[門/眞]国の三蔵沙門学喜が唐に入りて訳せしところ)「見聞利益品」に、「もし未来世に、善男子、善女子あって、あるいは治生により、あるいは公私により、あるいは生死により、あるいは急事により、山林の中に入り、河海および大水を過ぎ渡り、あるいは険しき道を経るとき、この人まずまさに地蔵菩薩の名を念ずること万遍なるべし。過ぐるところの土地《うぶすな》の鬼神、衛護して、行住坐臥につねに安楽を得。たとい虎、狼、御子に逢うとも、一切の毒害これを損うあたわず」とあり、「閻羅王衆讃歎品」には、「主命という名の鬼王、仏にもうしていわく、世尊よ、われはもと業縁《ごうえん》あって、閻浮《えんぶ》(35)の人名を主《つかさど》り、生死の時はわれみなこれを主る。わが本願においては、はなはだ利益《りやく》せんと欲するなり。(中略)産難の時は、無数の悪鬼および魍魎精魅あって、腥き血を食らわんと欲す。ここに、われは早《つと》に舎宅土地の霊祇《かみ》をして子と母を荷護せしめ、安楽にして利益を得せしむ」とあって、もと地蔵菩薩の眷属諸鬼神がその命によって出産をも旅客をも守ったのを、おいおい菩薩自分が旅人看護と産褥訪問に忙殺さると信ずるに至ったのだ。
 地蔵堂に泊った旅人が、文珠と地蔵の話を聞いたに似た支那譚は、元の陶宗儀の『輟耕録』九に出ず。臨海の章安鎮の蔡姓の木匠、一夕斧を持って家に帰る途上、東山の葬地に至り、沈酔中のこととて自分の家に着いたと惟い、そこにあった棺を寝台と心得て、その上に寝た。夜半酒醒めたが真の闇で行くことならぬから、依然棺の上に坐して夜明けを待つうち、誰か来たって高く呼ぶと、棺の中より答えてわれを喚ぶは何の用事ぞと問うた。かれいわく、某氏の娘は損証を病む、これはその家の後園の著大哥《かつたいか》がその娘を淫しおるのだ。ところが、今夜かの家に法師を請うて鬼を捉えしめると聞くゆえ伴うて見に行こうでないか、と。棺中よりいわく、われに客あり、泊りおるから行くことはならぬ、と。夜明けて蔡かの家に詣《いた》り、娘子の病はわれ癒すべしと言うと、主人、果たして然らば厚く礼しょうと言った。よってこの家の後園に葛を植えありやと問うに左様と答う。そこでその根を掘ると、はなはだ大きく斫《き》れば血を出す。それを煮て娘に食わすと病が癒えたそうだ。葛とはクズらしい。佐々木君が述べられた葛の精が栗の大木を伐る法を人に告げた譚の葛はカツラと訓ませあって、何のカツラか知らぬが(閑話叢書のうち『東奥異聞』参照)、クズを意味するなら、和漢共に葛に精ありと信ぜられた証になる。(大正十一年二月七日稿) (大正十一年四月『土の鈴』一二輯)
 
 『浪邪代酔縮』三三に『蜀檮※[木+兀]』を引いて、晋暉、初め王建と盗をなし、夜武陽古墓中に泊り、人の基中の鬼を呼ぶを聞くに、頴州に無遮会を設くれば同行すべしという。墓中より応えていわく、蜀王ここにあれば相従うを得ず、と。二人相謂って、蜀王とはわれらのうちいずれだろう、と。暉いわく、行哥状貌人に異なれば必ず不常のことあらん、(36)と。のち建蜀王となって暉と飲み旧を叙ぶ。暉いわく、武陽で墓中より言った通り中った、と。建笑っていわく、われ初めの望みは王となろうとまでは思わなんだ、と。
 また『西樵野記』から、錫山の民蒋容、素行善し。一日恵山に往きて神に祷り、帰る半途で風雨晦冥し、進むあたわず、道傍の荒墓に宿る。夜半一人来たって、呉照よ、前村某の家に酒食あり、なんぞ同じく往かざる、と呼ばわる。林間に人の声して、善人あってここに止宿すれば同行を得ず、と答う。翌朝その墓を拝して出で立ち、村中に至ってこれは呉照の墓と聞き知った。人の善き者は鬼もこれを訶護《かご》すると見える、と引きある。王建は後に王たるべき偉人、蒋容は著しい善人、前に述べた人形屋新六は平凡ながら悪人とも聞こえず、左様の人を、泊った処の鬼神が在宿して保護するという信念は和漢共通だったのだ。
 『今昔物語』一三に、天王寺の僧道公、熊野参りの途中樹下に宿って、騎馬せる行疫神《ぎようやくじん》がその樹下に立てる道祖神を催《うなが》しに来ると、馬の足損じたれば行くあたわずと答えて行かざる始終を聞きおり、翌朝見れば道祖神の前に掛けた絵馬の足欠けおったので画き足しやり、その後も泊っておると、行疫神また来たり催すに伴って道祖神も騎馬し同行したという譚あり。客人を言い立てて同行せなんだと見えぬが、神の住所に泊ってその会語を聞いただけは上の数例に同じ。
 同書二六に、東国に趣く者往き暮れてある家に泊ると、夜更けて家の娘、子を産む。時にその人の宿った室を過ぎて身長八尺ばかりの怖ろしい者が年は八歳自害して果てると言って出で去った。そのまま夜明けて出で立ち、八年経ってまたその家に泊り、前年生まれた子はと尋ねると、彼女泣いて、美しい男児だったが去年の某日高い木に登って枝を切るとて誤って落ち、手に持った鎌で傷つき死んだ、と答えた。その時治めて往年の怪事を話すといよいよ泣いたとあるは、かの戸川早之丞の寿命と死にざまを菩薩が予報したに同一轍だ。(二月七日)  (大正十一年六月『土の鈴』一三輯)
(37) 文珠大士が地蔵菩薩を誘いに来たと同趣向の話が『醒睡笑』四に出ず。いわく、「山科の道づらに四の宮川原という所、袖競べとて商人の集まる宿の下司《げす》ありけり(熊楠いわく、袖競べは市で袖の内で指を触れて物価を示し取引する、いわゆる黙商を指すらしい)。地蔵を一体作り、開眼をせず櫃に入れ、世の営みに紛れほどへて忘れけるに、三、四年過ぎ、夢に、大路を過ぐる者声高に人を呼ぶ。何ごとぞと聞けば地蔵を呼ぶ。奥の方より答《いら》うるなり。明日、天の帝釈の地蔵会したまうに参らせ給えと言えば、小屋の内より、参るべけれど眼も見えねば、いかでか参らんという声すなり。打ち驚き、何のかくは夢に見ゆると思い廻すに怪しく、夜あけ奥をよくよく見れば、置きたりし地蔵を思い出でて見出だしたりけり。これが見えたまうにこそと思い、いそぎ開眼し奉りけるとなん」と。  (大正十一年四月『土の鈴』一二輯)
 
(38)    巨樹の翁の話
 
       一
 
 紀州日高郡上山路村大字丹生川の西面導氏より大正九年に聞いたは、同郡竜神村小又川の二不思議なることあり。その地に西のコウ、東のコウとて谷二つあり。西のコウに滝あり、その下にオエガウラ淵あり。むかしこの淵にコサメ小女郎という怪あり。何百年経しとも知れぬ大きな小サメあって美女に化け、ホタ(薪)山へ往く者、淵辺へ来るを見れば、オエゴウラ(一所に泳ぐべし)と勧め水中で殺して食う。ある時小四郎なる男に逢って、運の尽きにや、七年|通《とお》スの鵜をマキの手ダイをもって入れたらわれも叶わぬと泄した。小四郎その通りして淵を探るに、魚大きなゆえ鵜の口で※[口+敢]《くわ》ゆるあたわず、嘴もてその眼を抉る。翌日大きなコサメが死んで浮き上がる。その腹を剖くとキザミナタ七本あり。樵夫が腰に挿したまま呑まれ、その身溶けて鉈のみ残ったと知れた、と。
 畔田伴存の『水族志』に、紀州安宅の方言アメノ魚をコサメと言う、と見ゆ。ここに言うところもアメノ魚であろう。七年通スの鵜とは七年通しの鵜で、すべてこの鳥陽暦の六月初より九月末まで使い、已後は飼い餌困難ゆえ放ち飛ばす。されど絶好の逸物は放たず飼い続く。しかし、七年も続けて飼う例はきわめて少なし。マキの手ダイはマキの手炬《テダイマツ》で、マキを炬に用ゆれば煙少なくはなはだ明るし。キザミナタは樵天が樹をハツルに用ゆる鉈である。
(39) 第二の不思議というは、東のコウ(谷)のセキ(谷奥で行き尽きるところ)に大ジャという地に、古え数千年の大欅あり。性根のある木ゆえ切られぬと言うたが、ある時やむをえずこれを伐るに決し、一人の組親《くみおや》に命ずると八人して伐ることに定めた。カシキ(炊夫)と合して九人その辺に小屋がけして伐ると、樹まさに倒れんとする前に一同たちまち空腹で疲れ忍ぶべからず。切り果たさずに帰り、翌日往き見れば切疵もとのごとく合いあり。二日ほど続いてかくのごとし。夜往き見ると、坊主一人来たり、木の切屑を一々拾うて、これはここ、それはそこと継ぎ合わす。よって夜通し伐らんと謀れど事|協わず。一人発議して屑片《こつぱ》を焼き尽すに、坊主もその上は継ぎ合わすことならず、翌日往き見るに樹は倒れかかりてあり。ついに倒しおわり、その夜山小屋で大酒宴の末酔い臥す。
 夜中に炊夫|寤《さ》めて見れば、坊主一人戸を開いて入り来たり、臥したる人々の蒲団を一々まくり、コイツは組親か、コイツは次の奴かと言うて手を突き出す。さてコイツはカシキ(炊夫)か、置いてやれと言うて失せ去る。翌朝、炊夫朝飯を調え呼べど応ぜず、一同死しおったので、かの怪憎が捻り殺しただろうという。今に伝えてかの欅は山の大神様の立て木または遊び木であったろうという。(以上、西面氏直話)
 
       二
 
 大正十年四月十八日、同郡中山路村大字東の人、五味清三郎氏より聞いたは必定同事異伝だろう。竜神村小又川の奥に枕返しの壇という、やや大きな壇あり。壇とは山中に樵夫等が廬居すべく地を平らに小高く開いた処だ。そこに十四、五年前まで古い檜の株の、木は失せて心のみ残りおった。むかしこの壇へ杣人多く聚まりこの檜を伐る。その木一本で上は七本に分かる。毎日伐れど夜のあいだに疵全く癒えて元のごとし。よって忍び伺うに、夜中に僧七人来たり、木の屑片を集めこれはここ、それはそこと言うて継ぎ合わす。さて人間は足らぬ者なり、何度伐ってもかく継(40)ぎ合うなり、この木片どもを焼いてしまえば継ぎ合わすことならぬと気づかずと言う。そこで気づいて翌日木を伐り、ことごとくその切層を焼いた。その夜僧七人山小屋に入り来たり、ことごとく仙人の鼻を捻る。炊夫一人これも捻られたが、これのみは釈《ゆる》すべしという。翌朝炊夫起きて見れば、一同枕を顛《かえ》し外して死しあった。よってそこを枕返しの壇と呼ぶ、と。 また大正四年十一月三十日、只今大阪控訴院書記福田権八氏より聞いたは、ミソギ矢之助なる人、日高郡串本の大社|阿田木《あたぎ》神社の神木なる大樟を伐るに、幾日伐っても夜中にその瘡合う。よって屑片として細分し、ついに伐りおわった。のちこの人罰せられ斬罪に処せられた時遺言して、何とぞ野山を自在に人民に伐らせやられたいと願うたので、爾来その野山は人民自在に伐採を許された、と。この話ことに史実らしいが委細詳悉ならず。詳悉ならぬところが反って俚説の真を存する物として記しおき、なおかの辺の人々に聞いて見よう。
 樹木の霊がその樹を伐りおわるべき名案を洩れ聞かれて自滅を招いた譚は、支那にもある。『淵鑑類函』四一五に『元中記』を引いて、秦の文公長安宮を造った時、終南山に大きさ数百囲の梓樹ありて、蔭が宮中を暗くするを悪み、連日伐れど伐れず、すなわち大風雨を起こすので手古摺っておった。ある夜、鬼あって梓樹と語る。樹神誇って誰もわれを平らげえぬと言うと、鬼がもし三百人をして披頭して糸で樹を繞らさしめたらどうだと言うと、樹神ギョッと詰まって答えなんだ。それを忍び聞いた人が公に告げたので、その通りして樹を伐ると、樹神青牛に化して※[さんずい+豊]水《れいすい》に逃げ入ったとある。馬琴の『三七全伝南柯夢』の初めにこの譚を翻案し出しあったと記臆する。(二月七日早朝稿)
 また『淵鑑類函』四四〇に『異苑』にいわく、孫権の時、永康の人山中で大亀を捕え持ち帰るうち、亀われはうっかり遊んで君に得られたと言った。その人怪しんで呉王に献ぜんとし、夜、越里に泊り、船を大桑樹につなぐ。樹の霊、亀の名を呼んで、元緒何ごとぞと問うに、われ捉われて烹らるるはずだが、南山の樵を尽しても煮|爛らしえぬ、と答う。樹の霊、諸葛元遜は博識ゆえ必ず名案を出すだろう、われらを求めて焚いたら如何と言うと、亀、樹霊の名(41)を呼んで、子明、多辞するな、汝も禍に罹ろう、と言ったので黙ってしまった。呉王その亀を煮るに柴を万車まで焚いても煮え切らず、諸葛恪、字は元遜、いわく、老桑の木を燃せばたちまち熟すべし、と.献じた者も亀と樹の話を述べたので、王かの大桑を伐って煮るに立ちどころに熟した.今も亀を煮るに桑の木を焚く、と。(二月七日夜)
 『高原旧事』に、「飛騨の石浦白山に三抱えばかりの杉あり。延宝中、舟津大橋に用木すべしとて役人番匠検分の折に、この木二つ割きになり用木にあらずとてみな帰りけるに、翌日割目癒えて元のごとくなるという」とある。これは伐られぬ前に木がみずから拆《さ》けて用に堪えずと示し、厄難を免れてまたみずから合うて生存したので、樹の霊としてはしばしば痛い目も見ず、人も殺さずに済む。最も賢い仕方というべし。(二月十三曰朝)
 藤沢衛彦君の『日本伝説叢書』下総の巻にも、『椿新田濫觴記』を引いて、本文に似た譚を出しておる。神代三本の大木の一つたる栗の大樹、丹波大江山麓にあって鬼神城廓の要害とす。源頼光、酒呑童子退治の時、太守より百姓に命じてこの木を伐らするに、一夜のうちに肉生じ合い伐りえず。ある時その親が子に教えて切屑を火に焚かしむ。その言に従い、ついに伐り満つ。教えし親はなはだ悦び木の元へ立ち寄ると、この木たちまち倒れ親父打たれて死す。よって諺に丹波の爺打《ててう》ち栗という、とあり。『本草図譜』五九に、栗、丹波より出ずるもの名産にて大なり。『重訂本草啓蒙』二五に、栗の形至って大なるを丹波栗という、一名料理栗、大栗、テテウチ栗。テテウチ栗に数鋭あり。一はテンデにとるという意と言い、一は握りて手中に満つるの意にて手内栗と言う。これは丹波の名産にて柏原侯より献上あり。一は時珍の説「その苞おのずから裂けて子《み》堕つ」の意を取って出テ落チ栗と名づくと言う。丹波栗は形大にして料理に用うるに堪えたれども味は劣れり、とある。この名より如上の譚を生じたらしい。不孝の子この栗を投げて父を打ち傷つけたともいう(『広益俗説弁』三〇)。(二月十四日)
 
(42)       三
 
 佐々木喜善君が書かれた近江の栗の大木の話(閑話叢書のうち『東奥異聞』参照)は予には耳新しいが、これは『今昔物語』の最末語に、「近江国|栗太《くるもと》郡に大きなる柞《ははそ》の樹生いたりけり。その囲《めぐり》五百尋なり。さればその木の高さ枝を差したるほどを思い遣るべし。その影、朝には丹故国に差し、夕には伊勢国に差す。霹靂する時にも動かず。大風吹く時にも揺がず。しかる間その国の志賀・栗太・甲賀三郡の百姓、この木の蔭を覆いて日当たらざるゆえに田畠を作りうることなし。これによりてその郡々の百姓等、天皇にこの由を奏す。天皇すなわち掃守宿禰等を遣わして百姓の申すに随いてこの樹を伐り倒してけり。しかればその樹伐り倒してのち、百姓田畠を作るに豊饒なることを得たりけり。かの奏したる百姓の子孫、今にその郡々にあり。昔はかかる大きなる木なんありける。これ希有のことなりとなむ語り伝えたるとや」とありて、何帝の御時と明示せず。『先代旧事本紀』には、「景行天皇四年の春二月の甲寅に、天皇、箕野《みの》路に幸《みゆき》す。淡海を経《す》ぐるに、一の枯木より殖《お》いし梢は空《くう》を穿《ぬ》きて空《そら》に入る。国老に問うに、いわく、神代の栗の木なり。この木の栄ゆる時は、枝は嶽に並ぶ、ゆえに並枝山《ひえのやま》という。また並びて高峰に聯《つら》なる、故に並聯山《ひらのやま》という。毎年葉落ちて土となる。土中ことごとく栗の葉なり、云々」とあるが、これは有名の偽書で、『和漢三才図会』六一に、「按ずるに、燃土《すくも》は江州栗本郡の石部・武佐二村のあたりにて山野を掘りてこれを取る。土塊は黒色にして微赤を帯ぶ。もって薪に代うるにまた臭し。理《きめ》は腐木《くちき》に似て硬く、また石にあらざるなり。越後にも、寺泊・柿崎二村の交にまたこれあり。相伝うらく、むかし神代に栗の大木あり、枯れ倒れて地に埋もること数十里にわたる。よってその処を栗本郡と名づく。故にこの物あり、と。しかるに、越州にもまたこれありとは、すなわちおそらくこれ付会の説ならん」と見えるごとく、栗本郡の名とその地に泥炭を出すより、むかしは柞と伝えしを栗として捏造した説だ。
(43) 『今昔物語』の文も、『日本紀』に「景行帝十八年、秋七月、筑紫の後国《みちのしりのくに》御木《みけ》に到りて高田の行宮に居《まし》ます。時に僵《たお》れたる樹あり。長さ九百七十丈なり。百寮《つかさつかさ》、その樹を蹈みて往来す。時の人、歌いていわく、云々。ここに天皇、問いてのたまわく、『これ何の樹ぞ』と。一老夫ありてもうさく、『この樹は歴木《くぬぎ》なり。かつていまだ僵れざる先に、朝日の暉《ひかり》に当たりては、すなわち杵島山を隠しき。夕日の時に当たりては阿蘇山を覆《かく》しき』と。天皇ののたまわく、『この木は神木なり。故、この国をよろしく御木の国と号くべし』と」とあるを沿襲したらしく、『旧事本紀』また同様と見える。『東海道名所図会』また、近江の目川と梅木のあいだに古え大栗の樹あり、朝日に影を湖南に宿し、夕日には伊勢路に移す、ために数十里があいだ農事を営みえず、朝廷命じてこれを伐り、焼き尽した灰で灰塚山という山ができた、と記す。『近江輿地誌略』四一には、この山栗太郡川辺村にあり、高さ二十間ばかり、掘ればことごとく灰なりという、と載す。ここまでは単に大木の話だ。(二月七日稿)
 藤沢氏の『日本伝説叢書』和泉の巻に、『泉のひびき』を引いて、泉南郡新家村兎田の兎才田川の西に、むかし大木あり。その影朝日に淡路島に到り、夕日には高安山を越ゆ。これを伐って船とし、いと速く走ったので舟を軽野と名づく、云々。その木の跡今も存す、とある。(大正十一年六月『土の鈴』一三輯)
 
       四
 
 佐々木君が引いた『東奥古伝』にある説に言うとて挙げた話は、奇態にも君と同姓の『佐々木家記』より出たらしい。それは予未見の書だが、芳賀博士の『攷致証今昔物語集』本朝部下巻六五五頁に『古風土記逸文考証』から又引きしてある。いわく、「『佐々木家記』に、天文辛丑六月二日、今日武佐より言上、地の三、四尺あるいは一丈下に木葉枝の朽ちたるを掘り出だす。稀有のことなりとて、数箇所掘り返し見るにみな同じ。その物を献ぜり。黒く朽ち(44)たる木の葉の塊りたるなり。屋形(佐々木義賢)希代のことなりとて、国の旧き日記を見給うに、その記にいわく、景行天皇六十年十月、帝はなはだ悩むことあり。これによって諸天に病悩を祈れどついにその験なし。ここに一覚という占者あり。彼に命ぜしに一覚いわく、当国の東に大木あり、この木はなはだ帝に敵するあり、早くこの木を退治さるれば帝の病悩平治す、と、云々。これによってこの木を伐るに、毎夜伐るところの木もとのごとくなる。ついに尽くることなし。しかしてかの一覚を召して問うに、伐るところの木屑、毎日これを焼けば果たして尽く、と言う。われはかの木に敵対する葛なり、数年威を争うこと久し、その志、帝に差し向くと言うて、即時に掻き消すごとく失せぬ。かの言のごとく行ない、木屑を焼き毎日に及び、七十余日を終えてかの木倒る。この木、枝葉九里四方に盛え、木の太さ数百丈なり。これによって帝の病悩平治す。すなわちかの木のありし郡を栗本郡と号し、栗木の実みのらず、云々」と。
 ここにいわゆる国の旧記の筆者、景行帝の御時仏法いまだ渡らずと知って諸天に病悩を祈るとことさらに書いたのを、『東奥古伝』にはこれに気づかず、ある者諸寺諸山に祈祷ありと替えたのは不学の至りだ。ただし諸天という詞またかの帝の世にわが邦になかったから、いずれを用いても五十歩百歩で、等しく尻っ穂を出しおる。
 また『攷証今昔物語集』に『三国伝記』を引いて、「和にいわく、近江国栗太郡と申すは栗の木一本の下なりけり。枝葉繁栄して、梢天に覆えり。秋風西より吹く時は伊勢の国まで果落つ。七栗という処はそのゆえなり。またこの木の隠《かげ》はるかに若狭の国に移るあいだ、田畠作毛の不熱によりてかの国の訴訟ありてこの樹を切る。この木は天竺栴檀の種より生じたるゆえに西木と書けり。釿※[金+夫]を持してかの木を截れども、切り口夜は愈《い》え合いけり。しかるあいだ自国他国の輩奇異の思いをなして仙人を集め、日ごとにこれを切れども連夜もとの樹となる。そのゆえはこの栗の木は樹木の中の王たるによりて、諸草木夜々訪い来てこけらを取りて合わせつけけるゆえなり。秋釆たれば一葉落ちて春至りて白花開く、などかは心のなかるべき、ここに一草、蔓(カズラで『佐々木家記』の葛に当たる)という物訪い来る(45)由を言いければ、草木の数とも思わぬ物の推参すること奇怪とて追い返しけり。よりてこの蔓腹を立てて、同じ国土に栖みながら侮られけるこそ口惜しけれと瞋り、人々の夢に示しけるは、この大木を切り顛《たお》し給うべきならば、こけら火にたき給え、しからざれば千草万木夜な夜な切れ目を合わせて差《いや》すゆえに、この木顛倒することあるまじ、と語る。諸人相談話して教えのごとくするに、ほどなくこの木倒れにけり。その梢、湖水の汀《みぎわ》に至る。今の木の浜という所なり。侮る蔓に倒れするとはこの謂いなるべし」とある。
 井沢長秀の『広益俗説弁』五に、景行天皇に栗樹祟りをなす説と題して、『佐々木家記』と大同の話を出してある。著者は『今昔物語』近江の大柞樹の譚と『玄中記』の始皇終南山の梓を伐らしめた談とを取り合わして妄作したものと弁じおる。
 大正十一年十一月、高山町発行『飛騨史壇』七巻七号、千虎某氏の「白川奇談」(二九頁)にいわく、新淵《あらぶち》より二丁ほど行きて新田中畑《あらたなかはた》という、この村の上にむかし神代杉あり。大なること十二抱えという。杉の梢、越前の花くらの田に影をうちける。杣人伐りけるに一夜のうち愈え合いて切ることあたわず。のち火を焚いてこわし〔三字傍点〕を焼きければ愈ゆることなし。数十日かかりて切り倒しけるに、二丁ほどなる川向うへ梢が届きけるとなり。今の世にも切榾《きりほた》水まかとなりて眼前に見るとなり。いつの時代切りけるということも知りたる人はなし、と。
 
       五
 
 『古風土記逸文考証』に、『釈日本紀』より孫引された『筑後風土記』に、三毛郡、云々、むかし一つの楝木(クヌギ)あり。郡家の南に生じ、その高さ九百七十丈。朝日の影、肥前の国藤津郡多良の峰を蔽い、暮日《ゆうひ》の影、肥後の国山鹿郡荒爪の山を蔽う、云々。よりて御木《みき》の国という。後人誤りて三毛《みけ》という。今もって郡名となす、とあり。高木敏雄(46)君の『日本伝説集』四七頁に、肥後国阿蘇郡高森町の上にむかしあった木は、朝日にはその影が俵山を隠し、夕日には祖母山を隠したが、風に折れてその枝地に埋もれたのを今に掘り出すことがある、と見えるは似たことだ。『筑後風土記』に、むかしあった木をクヌギとしたのは『日本紀』景行帝十八年の記と同じだが、『書紀』にクヌギを歴木と書きあるに変わり、『風土記』には楝と作りおる。楝は和名オウチ、近俗センダンという、栴檀にはあらず(『大和本草』巻一一)。楝の俗称センダンによって、天竺の栴檀の種より栗の大木が近江に生えたと言い出たもので、たまたまもって『三国伝記』のできた時すでにオウチをセンダンとも呼んだと分かる。またそのころ何でもない物と侮って不意に足を巻かれて人が仆れるから思いついて、侮る蔓に倒れするという諺があったことも知れる。その諺を釈くために葛の教えで大木を倒した話を作ったと見える。『三国伝記』は予見たことなし。いつ誰が著わしたのか教えを俟つ。
 高木君の『日本伝説集』四八頁に、丹波国何鹿郡志賀郷村の滴り松は、雨ふる時|滴《しずく》が落ちず、晴天に限って滴が落ちるので、近所の田は水に困らなかったのを、光秀築城に際し伐って棟木とするため多くの人足をして伐らせたが、大木ゆえ一日で事叶わず。次日往って見ると、前日切った木片散乱したのが一つ残らず元へ戻って樹もとのごとくなりおる。かくて幾日かかるも仕事捗らず。光秀人足を増し力めて一日に伐り倒して城の棟木にした由を載す。
 『攷証今昔物語集』に、若干の大木の話を列ねてある。すなわち『古事記』に、仁徳帝の御世、免寸河の西に一高樹あり。その樹の影|旦日《あさひ》に当たって淡道島に逮び、夕日に当たっては高安山を越ゆ。故にこの樹を切って船となす。いと捷く行く船なり。時にその船を号けて枯野という、云々。これは熊桶思うに、樹の蔭日光を遮ってその下に草木の生えるを妨げたので、野を枯らした木という意味で付けた名らしい。『播磨風土記』には、明石の駅家《うまや》、駒手の御井は、難波高津宮(仁徳)天皇の御世、楠(の木)井の口に生え、朝日には淡路島を蔭い、夕日には大和島根を覆う。よってその楠を伐って舟を造り、その迅きこと飛ぶがごとし。一※[楫+戈]《ひとかじ》去れば七浪を越ゆ。よって速鳥と名づく、云々。『肥前風土記』には、佐嘉郡にむかし樟の樹一株、この村に生え幹枝《もとえ》秀で高く葉繁茂す。朝日の影は杵島郡蒲川山を蔽い、暮(47)日《ゆうひ》の影は養父郡草横山を蔽う。日本武尊巡幸のの時、楠の茂り栄えけるを御覧じていわく、この国は栄《さか》の国というべし、と。よって栄郡といい、のち改めて佐嘉郡と号く、云々。
 外国にも古フィンランド国のヴァイナモイネンが蒔いた※[木+解]《かしわ》の実より大木を生じ、その梢天に届き、行く雲を妨げ、日光月光を遮ったのを、一寸法師海中より出で、たちまち巨人に化して伐り倒したので農作始めてできたといい、エストニアの旧伝また、カレヴィデが到着した島の※[木+解]は日月を蔽い、その枝の蔭が全国を暗くしたのを一寸法師が伐り僵したという(亡友ウィリアム・フォーセル・カービー氏英訳『カレヴァラ』二段。同氏英訳『カレヴィポエグ』六段)。
 
       六
 
 予が現住宅地に大きな樟の樹あり。その下が快晴にも薄暗いばかり枝葉繁茂しおり、炎天にも熱からず、屋根も大風に損ぜず、急雨の節書斎から本宅へ走り往くを掩護する、その功抜群だ。日傘雨傘足駄全く無用で、衣類もというところだが、予は年中多く裸暮しゆえ皮膚も沾れず。こんな貧人に都合のよいことはまたとないから、樹が盛えるよう朝夕なるべく根本に小便を垂れてお礼を申しおる。物語や軍記を読むと樹下に憩うて勢いを盛り返したの、大木の本に雨宿りしたのということ多く、何でもないことのようなものの、その当人に取っては実に再生の想いがあったので、ために一生に新活路を開き、無上の幸運に向かうた例も少なくあるまい。
 されば上に引いた、日本武尊が樟の大木を讃えてその国に名づけ給うたも、いくぶんこの辺の理由もあったことなるべく、サー・サミュール・ベイカーの『ゼ・アルバート・ニアンザ』一九章に、バーバーよりスワキムへ行く途中で、著者の一行とアラブ人の一行と一樹の蔭を争うて戦闘した記事あり。いと大人気ないことのようだが、本人どもに取っては、無水の沙漢に長途を取った場合、一本の大樹を見てその蔭に憩うは万金よりも渇望のあまりここに及ん(48)だので、一樹の蔭一河の流れに宿り飲むを深い宿縁とした詞もその理あり。インドのある民は沙漢中たまたま見る孤樹の蔭を絶やさぬため、旅客つねにその樹に布片を懸けて樹精マーモを祀る(エントホヴエン編『グジャラット民俗記』五六頁)。
 仏説に、世界諸洲に大樹ありて各地民を快楽慰安せしむる由を述ぶ。北洲の安住樹は高さ六|拘盧舎《くろしや》(一拘盧舎は五里)、その葉密に重なり、次第に相接して草で屋根を葺いたようで、雨滴り洩らず、諸人その下に安住す。劫波娑《こうはしや》樹は高さ六乃至五万四千三百二十一拘盧舎で、その果より自然に衣服瓔珞出で樹間に懸け置かる。また人の欲するままに、種々の鬘や器物や楽器を果実から出す鬘樹、器樹、楽樹あり。諸仏みな大樹下に成道説法する。拘留孫仏は尸利沙樹、倶那含牟尼仏は烏暫婆羅門樹、迦葉仏は尼倶律樹、釈迦牟尼仏は菩提樹、弥勒仏は竜華樹だ(『起世因本経』一。『仏祖統紀』三〇。『諸経要集』一)。大樹の蔭に日熱雨露を避け、安坐黙念してようやく悟道したのだ。
 かく大木は用材、柴薪、果実からその蔭までも人世に大必要であったから、これを神や神物として尊崇し、切ろうなどとは思いもつかぬありさまだったゆえ、インドその他に樹神の話多く、本邦にも上古樹を神に崇めたらしいのも見え、支那でも『抱朴子』に、山中の大樹よく語るは樹が語るのでなく樹の精が語るのだ、その精の名を雲陽という、その名をもってこれを呼べばすなわち吉、とある。これは樹の精の名を知りおいてこれを呼べば害をなしえぬというので、大法螺吹きも素性を知った人の前ではへこたれてしまうごとく、いかな樹神も名を知られたら怪力を揮いえぬというのだ(『郷土研究』一巻七号、拙文「呼名の霊」参照)。それがおいおい人間も殖え、生活上の必要から家を建てて田畠を開くに大木が必要となり、または邪魔になるよりこれを伐らねばならぬ場合に及んで、旧想を守る者は樹神が祟りをなすを恐るるところから巨樹の翁の譚などできたのだ。北欧諸国へ耶蘇教が入った時などは、家を建つとか田畠を開くの必要に迫られざるに、単に樹神崇拝を絶やすために大木を伐らせたことが多かった。
(49) この北欧の例に似たのが支那にもあって、周の武王は樹神崇拝を禁絶しようとて大木を伐った譚が、晋の干宝の『捜神記』三に出ず。
 むかし武王の時、雍州城南に高さ十丈で廻り一里の地を蔭にした大神樹一本あり。人民ことごとく奉崇し、四時八節に羊を牽き酒を負い祭祀絶えず。武王これを見てこの樹神何ぞわが百姓を損ずべきやとて、兵をもって囲んで伐らんとすると、神、砂を飛ばし石を走らせ大雷電と来た。兵士ども瓦解して逃げ去った跡に、脚を損じた者二人、樹から百歩距った地に臥して去るをえず。その夜赤い衣きて乗馬した者来たって樹神に向かい、朝から武王汝を伐ったが損傷を受けたか、と問う。樹神いわく、われ雷電を起こし砂石を飛ばし兵士を傷つけたので、兵士分散してわれに近づかなんだ、何とわが威力はきついものだろう、と。赤衣の人怒って、われもし王に教えて、兵士の面に朱を塗り、披髪して朱衣を着、赤繩で樹を縛り、灰を百度もまわりに撒いて斧で伐らせたら伐れぬものか、と。問われてギックリ樹神答なし。それ見たかと言わぬばかりに、赤衣の人は轡を縦《ゆるく》して去った。翌日その軍人、郷中の父老に聞いたままを語り、王まで聞こえる。王その言の通り種々用意して斧で伐らしむると何の変事もなく、樹から血が出て一の牝牛が飛び出して豊水中に走り入った。故に樹の精は百年たてば青牛に化けると知った。それより大木を伐るには赤い物と灰を用いて樹精を追い出すこととなったということじゃ。前に引いた通り、秦の文公が終南山の梓の大木の蔭が宮中を暗くするを悪《にく》んで伐らしめた時も、樹精青牛に化けて※[さんずい+豊]水に入った、とある。※[さんずい+豊]水は豊水と一所で、古くこんな話があったのを、武王、文公といろいろに伝えたらしい。
 木が傷ついて血を流すの、樹を伐れば樹の精が遁げ去るのなどいうことは支那の外にも多い。エストニアやシルカ(50)ッシアに樹神が牛を繁殖せしむという俗信行なわれるより考えると、支那でもかかる想像から樹神が牝牛に化けるとしたものか(フレザー『金椏篇』一巻一章参照)。本邦にも丑の時詣りを大牛が道に横たわって遮るというは、もと樹精は牛形で、自分が宿る木幹に釘を打たるるを防がんとての行為という意味かも知れんて。梁の任※[日+方]の『述異記』上に千年の樹の精は青牛となるとあるは、『捜神記』に百年と見ゆると違う。
 
       八
 
 木を伐ってもその創がもとのごとく合うという例を、唐の段成式の『酉陽雑俎』から後藤氏が見出だして『土の鈴』一三輯八四頁に載せられたが、他の支那書にも例なきにあらず。『淵鑑類函』四一五に『神異経』を引いて、東方に予章樹あり、高さ千丈、工あり、斧を操り旋り斫れば旋り合わす。『増訂漢魏叢書』八八に収めた『神異経』の文はこれに同じからず。東方荒外に予章樹あり。この樹九州を主《つかさど》る。その高さ千丈、周み百尺、云々。枝ごとに一州を主り、南北に並列し面西南に向かう。九力士あって斧を操ってこれを伐り、もって九州の吉凶を占う。これを折ればまた生ず。生ずればその州福あり、創つけば州伯病むあり、歳を積んで復せざるものはその州滅亡す、とある。これは東方未開の地に大きな樟樹あり、九つの枝あってそれぞれ九州の一つを代表する。力士九人、斧でこの枝を斫って九州の吉凶を占うに、斫られた枝がまた生ずればその枝に当たった州に福あり、創つく時はその州の領主が病む、斫り取られて歳がたっても生ぜざればその枝に代表さるる州が亡びるというので、『五雑俎』一〇に、曲阜孔廟中の檜の盛衰は天地の気運、国家の安危を示すごとく論じ、『大英百科全書』に、ある木が枯るればある人が死すという迷信を列ねおる類だ(一一板、二七巻二三六頁)。
 さて馬琴が『燕石雑志』に言っておったと記臆する通り、古書の文を孫引きして、その現存の本を見ると多少違い(51)おったり、あるいは全く見えぬ例が多い。右述『神異経』の文も現存のよりは『類函』に引いた方が古いらしく、『神異経』果たして東方朔の作なら、切れた木の疵がまた合う譚中これが最も古いものであろう。またこれも増訂漢魏叢書本に見えぬが、『類函』には『高士伝』から、巣父、許由が堯の徴辟を辞して耳を河に洗うを見て由に語り、予章の木高山に生ず、工巧みなりといえども得るあたわず、子、世を避くるに何ぞ深く蔵《かく》さざると言った、とある。古支那で樟の木は至って得がたい物だったので、神怪の説も特に多かったと見える。件の巣父は年老いて樹をもって巣となしその上に寝たゆえ、時人巣父と号《なづ》けたという。支那の上古有巣民あり、木を構えて巣となし住み、木実を食うた(『十八史略』一)。今も木の上に小屋を作り住む民族あり(一九〇六年板、スキートおよびブラグデン『マレー半島野教民種篇』一の一八一と一八三頁に面する図参照)。そんな人間はことに大木を重んずるはずだ。
 『酉陽雑俎』にいわく、「旧くよりいう、月中に桂あり、蟾蜍《ひきがえる》あり、と。故に異書にいう、月の桂は高さ五百丈、下に一人あって常にこれを斫《き》るに、樹の創はしたがいて合す。その人、姓は呉、名は剛、西河の人なり。仙を学びて過ちあり、謫せられて樹を伐らしめらる、と。釈氏の書にいう、須弥山の南面に閻扶樹あり。月の樹を過《よぎ》るに、影は月中に入る、と。あるいはいう、月中の蟾《せん》と桂は地の影なり、空なる処は水の影なり、と。この語やや近《あた》れり。」
 
       九
 
 『法苑珠林』八〇にいわく、漢の哀帝の建平三年、零陵に樹あり。量地(何のことか分からぬがまずは根本のという義か)囲み一丈六尺、長さ十四丈七尺。民その本長さ九尺余を断つにみな枯る。三月ののち樹本おのずから故処に立つ、と。根本を切っておいたのが元の処へ戻っておのずから立ったのだ。
 一八七六年板、ギル師の『南太平洋の神誌およぴ歌謡』八一頁已下に、鉄木の話あり。鉄木はわが邦にまれに栽え(52)る木麻黄や常磐御柳の一類で、南太平洋ではその木の堅きを武器に利用する。
 彼の話は、むかしトンガ島から始めて鉄木をマンガイヤ島に移植し年を経て大きくなった時、オアランギなる者、四友とこれを伐って武器に作ろうと企て、ヴォテレ鬼この木の精だからよせと諫める人あるも聞き入れず。夜、炬《たいまつ》を燃やしてその四つの大根を四人して切って廻るに、ほとんど断えた根が往って見ればまた合いおる。親分オアランギに告げると、四人があちこち切って廻らず、毎人一根を斧で切ってしまうまでやり続けろと言った。その通り実行して切り倒し終わり明日また来るつもりで帰ろうとすると、四人とも血を吐き始めその血鉄木の内膚の赤きに異ならず。二人は死んでしもうた。あとの二人と親分と昨夜木を切った所を望むと、木は切らぬむかしと変わらず聳えおる。立ち帰って吟味するに、斧の痕もなければ散りあった屑も見えず。ただ前に異なったは幹も枝も葉も赤く光りて、気孔ごとに血を流して怒るもののごとし。一同驚いて家に帰るうち生き残った二人も死んだ。オアランギ、今度は昼間伐るべしとて、多くの友を伴ってその木を尋ねたが、一向見えず、空しく帰って直後死んでしまった。
 かかるところに、この木の原産地よりオノという人が来た。この人出立に臨み、父より鉄木作りの鍬一本授かり携えた。この人その鍬をもって鉄木の廻りを掘り廻るに、四の大根を傷つけず他の細根をくわしく尋ねてことごとく切った。そこで樹が搖《うご》き出すに及び、ついに残った親根を切ると、樹精ヴォテレ、怒りの面貌恐ろしく、口を開き歯を露わして飛びかかるを、オノ鍬をもってその頭顱《とうろ》を打ち破った。それより四本の大根を切り離す。これ実はヴォテレの肱だった。さてヴォテレの体を三分して、長鎗と頭顱割りと木剣とを作った。この鉄木の細根を切った時飛び散った屑片が諸処に飛び落ちて、現在の多くの鉄木が生えたというのだ。
 外国の話で、これがもっともよくわが巨樹の翁譚に似ておる。
(53) 『攷証今昔物語集』に孫引きした『孫綽子』に、海辺と山中の住民が逢っておのおのその地方の名物を誇る。海人は、衡海に魚あり、頭、華山の頂のごとく万頃の波を一吸いにすと言い、山客は、ケ林に木あって、囲み三万尋、直上千里、かたわら数国を蔭《おお》うと言った、とある。高木氏の『日本伝説集』四六頁に、長門国船木むかし一面の沼地で、中央に一本の大樟あり。その枝二里四方に拡がり、その下は昼さえ暗く、この村は年中日光を見ないので真闇と呼ばれ、西の村は年中朝日を拝まないので朝蔭と呼ばれた。真闇いまは万倉と改む。神功皇后三韓征伐のおり、この樟一本で四十幾艘の船を作ったという。西沢一鳳の『皇都午睡』初篇中巻にいわく、寛政六年の春、紀州熊野の深山より三十里奥山へ御用木見立てに行きて、榎の大木を見出だしぬ。これまで折に来る者もあれど、ただ山とのみ思いしが、このたび大木あることを見出だし、すなわち人夫の杣人ら、その大きさを見積もり太守へ上覧に奉りぬ。一、榎の木一株百二十抱え(六十丈なり)、高さ三百二十四、五間(百九十五丈余なり)、枝三本に分かれ、南方の枝およそ八十二廻り大にして(四十一丈なり)宿り木。一、杉、長さ七間半、二本あり。−、椎、長さ五間二尺、七本あり。一、檜、長さ五間半、十二本あり。一、黄楊、長さ四間半、九本あり。一、松、長さ四間半、七本あり。一、柳、長さ四間半、六本あり。一、竹、十八本あり。一、南天、長さ二間半、七本あり。右紀州表より申し来たる、云々、とは大きな噺だ。
 外国にも滅法界な大木譚が少なくない。古カルジア人は宇宙に大樹あって天を頂とし地を足とすと信じ、インドのカーシア人はむかし人が高樹を攀じ昇天して星となったと言い、パラガイ国のムボカビ人は死んだ人は木を攀じて登天すと言い、ニュージーランド人は太古天地連接せしを神木生えて推し開いたと伝う(一八九九年パリ板、コンスタンタン『熱帯景物篇』二八五頁)。
(54) 『山海経』に、西海の外、大荒の中に方山あり。その上に青樹あって※[木+巨]格《くかく》の松という。これ日月の出入する所なり。『淮南子』の地形訓に、建木は都広(註にいわく、南方の山名)にあり。衆帝の自って上下する所、日中影なく呼んで響きなし。けだし天地の中なり。若木は、建木の西にあり、末に十日あり。その華、下地を照らす(註にいわく、若木の瑞に十日あって、状《かたち》蓮華のごとく光り、その下を照らすなり)。漢の王充の『論衡』説日篇に、儒者論ずるは、日、旦《あした》に扶桑を出で暮に細柳に入る、云々。桑柳は天地の際、日月常に出入するところの処、と。また禹貢『山海経』にいわく、日、十ありて海外にあり。東方に湯谷あり、上に扶桑あり、十日水中に浴沐す。水中に大木あり、九日下枝におり、一日上枝におる、と。唐の敬括の賦に、建木大きさ五千|囲《めぐり》、高さ八千尺。漢の東方朔作という『海内十洲記』には、扶桑は東方碧海の中にあり、地方万里、云々。椹樹あり(『康煕字典』に椹は桑実なり)、長きもの数千丈、大きさ二千余囲。樹両々同根あり偶生し、かわるがわる相依る、これをもって扶桑と名づくとありて、その葉中国の桑のごとく、その椹、稀にして色赤く、九千歳にただ一度生じ、仙人これを食らう時は全体金光色となって空を飛び翔けるという。よって考うるに、扶桑は桑に似た大木で、したがってそれが生ずる地をも扶桑と呼び、毎|旦《あさ》日が出る処としたので、古支那人は、日はすべて十あり、交替して一日出勤するあいだに九日は扶桑の下枝にあって休む、としたのだ。
 同様の信念がアッシリアにもあったは、コンスタンタンの『熱帯景物篇』一五五図、古銭に印した大木の実がことごとく日たる画が証する。この世界を照らす太陽は一つしかなきは誰も知りきったことだが、むかしの人は金銭や訴訟や広告や虚栄に悩殺されず、多閑のあまり天文に留心すること、芸妓買う銭ない男が女房の顔ばかり無料で見続けて楽しむごとく、したがって日の行路等が日々同じからぬを観たり、気象の工合で暈環に数個の日が現わるるを視たりして、十日交替説を生じたので、毎日一の太陽が扶桑樹の上枝から出動し、他の九つは下枝に休むというは、日を鳥虫同然の生物と見たのだ。さてこそ『山海経』に、帝俊の妻が十日を生んだとか、『准南子』に、堯の時十日並び出で草木焦げ枯れたから、※[羽−廾]に十日を射せしむると九日中の烏が殺されて羽を落としたなど載せたのだ。「建木、日(55)中に影なし」というから、日よりも木の方が高いのだ。
 『神異経』に大木を多く載す。東南荒中の邪木は高さ三千丈、南方大荒中の※[木+且]稼※[木+匿]《そかじつ》樹は、高さ百丈あるいは千丈、三千年に花さき九千歳で実る。如何《じよか》という木は、高さ五十丈、三百年に花さき九百歳で実る。その実を食らえば水火白刃に犯されず。南方荒中の涕竹は、長さ数百丈、囲み三丈六尺、厚さ八、九寸、船にできる。晋の張華の『博物志』三にいわく、止些《しし》山に竹多く、長さ千仞、鳳その実を食らう、と。仞は四尺また八尺という(『康煕字典』。『和漢三才図会』一五)。いずれにしても高い竹だ。わが邦にも津村正恭の『譚海』一に、越中黒部川原に沿うて山中に入ること三里ばかりは、人跡至る所なり。両岸みな桃の花なり。それより奥へ限りなく竹林ありて、人の至りがたき所なり。自然に川上より流れくる竹の筒の朽ちたるなど、径《わたり》一尺四、五寸ほどなるあり。井戸の側《かわ》にしたることあり、と吹いておる。これに似たこと、『東海道名所図会』に、参河の鳳来寺山に神代よりあった大木の桐は、高さ四十九丈、囲《めぐり》三十九尋、その西の枝に、長さ八咫(尋は八尺、咫は八寸)で長さ一丈余の尾あり、全身五色で金光あり、美声を出す鳥が住んだ。それを聖徳太子が鳳凰と鑑定された由記す。
 晋の王嘉の『拾遺記』一に、窮桑は西海の浜に生じた一本立ちの桑で、直上千尋、葉紅に実紫だ。万歳に一度実る。これを食うと天に後れて老ゆ、とはなかなかの長生だ。巻の三に、周の霊王、※[山+咢]谷陰生の樹、長さ千尋なるを得たり。この一樹をもって昆昭台を建てた。巻五には、祈淪国に寿木の林あり。樹の高さ千尋で日月を陰蔽す。その下に憩えばみな死せず病まず。他国から来てその葉を懐中して帰る者は終身老いず〔五字傍点〕、とは妙な言い様だが、一生衰弱の色なく長生ののち、卒中で死ぬか朝日平吾に刺殺さるるのだろう。梁の任※[日+方]の『述異記』上にいわく、磅※[石+唐]礑山の地はなはだ寒し、千囲の桃の樹あって万年に一度実る、と。桃栗三年恥かき年を洒落て、日本には桃の老木はとんと見当たらぬが、支那にはあるのかしら。その下巻にいわく、東南に桃都山あり。上に大樹あって桃都と名づく。枝相去ること三千里。上に天鶏あり。日初めて出でてこの木を照らせば天鶏が鳴く。天下の鶏みな随って鳴く、と。以前、七草の囃(56)しにトウトの鳥云々と言ったは、桃都の鶏が渡り来たって日本の衆鶏随い鳴かぬうちに七草を囃せとの意義と牽強しうべきか。鵜川政明の『華実年浪草』一上に、倭俗七草を打つ唱えに、唐土の鳥と日本の鳥の渡らぬ先に七草なずなと言うは、『歳時記』に、正月七日(原書には正月夜とあり)鬼車鳥多く渡るを禳《はら》うため、家々門を槌《つちう》ち燈燭を滅す、とある支那俗を伝えたので、鬼車は悪鳥の名、とあるが、唐土の鳥と見ても、意味十分に判らない。唐の李石作という『続博物志』五に、海中に庭朔山あり、上に桃木あって三千里に蟠屈す、その東北に向かうた枝が鬼門で万鬼の出入り所なり、と言うも、一事別伝でがなあろう。『毘沙門の本地』に、金色太子、黄金の筒井を尋ねて川を渡るに、高さ一由旬の鉄の木三本あり、下に長《たけ》十六丈の鬼あって罪人の衣を剥ぐ、と記す。アイテルの『梵漢語彙』に、一由旬は三十三マイル半または十マイル、または五マイル半、と見ゆ。『拾遺記』十に、岱輿山に長さ千尋の沙棠、予章の木あり。細枝を舟とするに、なお長《たけ》十丈という。
 
       十一
 
 プリニウスの『博物志』は、耶蘇紀元一世紀の筆で、虚実にかかわらず当時見聞した智識を遺さず網羅した物だが、あまりゾッとさせるような大木譚は見えない。だが、本篇を述ぶるにかかる高名の書を逸しては男が立たぬから一条を引くと、その一六巻三章に、北欧ヒルキニアの林中に、巨大の※[木+解]ほとんど不死なるがあり。その根相逢うて大なる山を持ち上ぐる。持ち上ぐるべき土がない処では、尋常枝のあるべき処まで高く起こりて大門をなし、騎兵一大隊を通すに差し支えない、と。
 十六世紀の伊人ピガフェッタの『世界周航記』(ピンカートン『水陸旅行全集』一一巻所収)四巻に、小ジャワの北なる支那湾にカムバンガンギという大木あり。ガルダなる巨鳥これに棲み、水牛や象を攫んで樹上で食らう。一船その辺(57)の大渦に巻かれて樹辺で破れ乗員みな没して童児一人助かり、その樹に登って巨鳥に知れずにその翼の下に隠れおった。翌日、巨鳥陸地へ飛び下って水牛を攫む時童児翼より脱して逃げ去った。それまでは大渦のため島に近づく者もなかったが、この時始めて大木と巨鳥の栖家が知れた、と。象や水牛を攫み去ってその上で喫《く》うほどの木はよほど大きい物だ。ガルダは迦楼羅《かるら》で、いわゆる金翅鳥《こんじちよう》王だ。『摩訶僧祇律』に、爾時《じじ》金翅鳥王あり。その身きわめて大、両翅相去ること六千余里、常に海中に入って竜を取り食らう。仏教に八関斎を行なう起りは、金翅鳥王、身長八千由旬、左右の翅おのおの長さ四千由旬、大海縦横三百三十六万里だ。ところが金翅鳥王、翅で水を切って、その水まだ合わぬ時に竜を銜えて飛び出で、須弥山北の大鉄樹十六万里高きにとまり、毎度の例通り尾から食らわんとすれど尾見えず、訝《いぶか》って日夜を経た。翌日、竜、尻っ穂を出し金翅鳥に告げて、われは化生竜だ、つねに八関斎を持するから尻っ穂を見せず、汝に滅ぼされぬ、と言った。鳥王なるほどと悔悟し、竜に随ってその斎法を受け、殺生を止めたそうだ(『菩薩処胎経』四)。
 八関斎とは、毎月八日、十四日、十五日に如来斎八禁戒法を授け、殺、盗、婬、妄言、綺語、飲酒、戯楽、非時食を禁じ、聖賢の八法を奉持するのだ。この話から転じて『今昔物語』に、阿修羅王が金翅鳥の子を食わんとするを哀れんで仏に訴うると、仏教えて、人死して四十九日目に仏事を修し、僧に施す飯を取って巣のある山の角に置かしむると、阿修羅王、山を動かせども動かず、鳥王の子落ちず、無難に生い立ったと出しおる。金翅鳥王が栖む大鉄樹、高さ十六万里とはずいぶんえらい。芳賀博士の『攷証今昔物語集』にはこの一話のところに『菩薩処胎経』を引きおらぬ。全く予が始めて気づいたのだ。
 それから、漢の趙嘩の『呉越春秋』巻九に、越王勾践大夫いろいろの謀を用い、呉王を驕らしめんため名山の神材を献じてその建築を助けたく思ううち、一夜、天、神木を二本生じ、大きさ二十|囲《めぐり》、長さ五十尋(四十丈)とは一夜できの親玉だ。
 
(58)       十二
 
 仏説の巨樹若干を上に挙げたが、まだたんとあります。例せば、尼拘類樹は、高さ百二十里、枝葉方円六十里を覆い、その樹上の子《み》数千万斛、これを食らうに香甘く、その味わい蜜のごとく甘し。果熟し落ち、人民これを食らえば衆病除き癒え、眼目精明なり(『仏説輪転五道罪福報応経』)。すなわち前述、迦葉仏がその下で説法した尼倶律樹だ。釈尊がその下に坐して成道した菩提樹は、『翻訳名義集』三一篇に、仏在世に高さ数百尺、しばしば残伐を経てなお四、五丈。釈尊がその下で寂滅した裟羅《しやら》双樹は、『大般涅槃経疏』一に、高さ五丈、とある。もちっと誇大に書きそうなものだが、後世までその実物というのがあったのであまりな懸値も言えなんだのだ。これに反して、釈尊に次いで出世すべき弥勒仏は、何さま五十六億七千万歳という長い未来に生まれるのだから、何を言うても構わずとあって、その下に坐して説法する竜華樹は、高さも広さも四十里だそうな(『諸経要集』一)。須弥の四洲の大樹とりどりなうちに吾人が住む南閻浮洲なる名の本づくところたる閻浮樹は、『立世阿毘曇論』一に、その高さ百由旬で五十由旬めから始めて枝を分かつ。径《わたり》五由旬、囲み十五由旬、その一々の枝、横に出ること五十由旬で、枝の端から端まで二百由旬、周廻三百由旬、と見ゆ。この論二に、諸聖山を説き、善立、善見という二樹王、高さおのおの一由旬、とある。その辺は四宝合成した景勝地で、金堂、銀堂あり。まずは極楽浄土のような物らしい。  こんなことを聞きかじってか、大英博物館所蔵の中古の写本に、極楽はこの世界の東に立ち、熱さも飢渇も夜もなくて昼ばかりありとは、何かしたい時困るだろう。さて、日がこの世界より七倍明るく、無数の天人ありて最終裁判を俟つ。衆鳥の主宰たる鳳凰住み、地に凸凹なく、霜雪雨霰なし。月改まるごとに井水溢れて、ほどよく地面を流るるラジオン・サルツスなる叢樹あり。その木、矢のごとく直立して人その高さを知るあたわず。また何の種類と察し(59)あたわず。その葉落つることなく、常緑美快多幸だ、とある(ベーリング・グールド『中世志怪』二五六頁)。『仏説観無量寿仏経』に、仏、阿難と韋提希《いだいけ》夫人に告げて、地想成しおわって次に宝樹観をなせ、これを観ずるに七重行樹の想をなせ、一々の樹高さ八千由旬、その諸宝樹七宝花葉具足せざるなし、云々、と説きおって、すなわち弥陀の浄土にそんな高い大木が列びおるというのだ。
 
       十三
 
 ビザンチン帝国より露国に伝わり残った物語に、最初この世界に生じた木は鉄の木で、根は上帝の力、その頂に天と地と地獄の三界を戴いたという(一八七八年板、グベルナチス『植物志怪』一巻一〇二頁)。古スカンジナヴィアの宗教に著われたイグラッドシルは素敵に大きなトネリコの木で、諸木の大きさこれに勝るものなし。その枝地上を蓋い、その梢最高天に届き、下に三大根ありてその一は第九の世界に達す。これは死人が住む第八界の下にあって大叫喚する熱鼎と死の浜ここにありというから、地獄のどん底、まずは仏説の阿鼻地獄に相当する。また竜もこれに住み、その子供ら不断この根を噛む。第二の根は、巨人の世界に達す。ここに智恵の泉あり。第三の根は、諸神の世界に達す。ここにウルト泉ありて諸神会議し、三人の素女《きむすめ》常に駐まって宝水を汲み、トネリコを養う。この水この木を盛えしめ、水は葉を養うたのち土に還りて露となり、それより蜜蜂が蜜を作る。件の三素女が人間の年齢と運命を司り定める。この木は、天と地と地獄を結びつらね、その最高梢は鷲一羽棲んで下なる事物を視通すところへ、樹下より一疋の栗鼠往復して新聞を報告するを、根下の竜子ら不断殺そうと勉めるそうだ(『大英百科全書』一一板、二八巻九二〇頁。マレー『北地考古篇』、ボーンス文庫本九六頁)。このイグラッドシル巨樹の話は、耶蘇教の十字架の伝から多少付会しおるとヨーク・パウルなどは言ったが、予が考えにインド説多少混入したようで、『琅邪代酔編』三二に、仏書に、人死を(60)逃るる者あり。井に入ればすなわち四蛇足を傷つくるに遇いて下るあたわず。樹に上ればすなわち二鼠および藤に逢いて昇るあたわず。四蛇はもって四時に喩え、二鼠はもって日月に譬う。『太平記』三三、新田義興主従わずかに十四人、敵に謀られたと知らずに栓をさした船に乗って矢口の渡しに押し出す。「これを三途の大河とは思い寄らぬぞ哀れなる。つらつらこれを譬うれば、無常の虎に追われて煩悩の大河を渡れば、三毒の大蛇浮かび出でて、これを呑まんと舌を暢べ、その残害を遁れんと岸の額なる草の根に命をかけて取り著きたれば、黒白二つの月の鼠がその草の根をかぶるなる。無常の喩えに異ならず。」慶安二年刊『立圃句集』に、「わが頼む草の根をはむ鼠ぞと、思へば月の恨めしきかな」という心詞の哀れさを思いて、ざれ言を「見る月の鼠戸開け天の原」。この仏教の譬喩譚と古スカンジナヴィアの世界名体志とは趣意大分違えど、双方とも鼠や栗鼠と竜や蛇を出しおるところが、ただの偶合とも見えない。件のイグラッドシルに象った、ウェストファリアに立った巨大な木柱イルミンスルは、実にサクソン人の崇拝を集中したものだったが、西暦七七二年シャーレマン大王に破壊された(グリンム『ドイチェ・ミトロギエ』二板、六章等)。
 
       十四
 
 過去の地質世期に種々巨大な植物があったことはその化石で分かる(一九〇二年板、エングレルおよびプラントル『プランツェン・ファミリエン』初篇、四巻七一八頁の図を見よ)。現地質世期に入っては素質上そんな物もないに加えて、おいおい人間がその生命を絶ち妨ぐるから、とても昔話のような物は実在せぬ。フェーの説に、木で一番高いのはセロキシロンなる椰子類の物で二百五十フィートに及ぶ、一番太いのはバオパブ、これはわが邦の梧桐の近類で、周り九十フィートのものあり、と。前者は中米・南米の産、後者はアフリカの原産だが、前者は高いばかりで広からず、後者は厚い割合に高からぬ。フムボルトは、五千百五十年老いたバオパブを観たそうだ(ポーンス文庫本、プリニウス『博物(61)志』三巻四一九頁註。バルフォア『印度辞彙』一巻二七六頁)。米国産の松柏科樹セクォイア・セムペルヴィレンスは高さ三、四百フィート、厚さ二十八フィートに及び、セクォイア・ギガンテナは高さ三百二十フィート、厚さ三十五フィートに及ぶ(『大英百科全書』一一板、二四巻六五九−六六〇頁)。予がロンドンで見たのは後者の横截りで、年輪を算えて実に千三百三十五年を経たものと知る。米人のいわゆるビグ・トリー(巨木)で、まずは現在大木の元締めであろう。
(追記)巨樹の翁の話に、葛が占者に化けて巨木の伐り方を人に告げたとか、大樹の切口を諸草木が合わせ愈すところへ蔓が往って追い返された返報にその伐り方を人に教えたとかいうは、蔓生植物よく木を枯らすからで、『中阿含経』四五に、葛藤子、日に熱せられ拆けて娑羅樹下に落つるを見て樹神恐怖し、朋友諸樹の神往ってそのわけを聞く話あり。『江談抄』一に、藤原佐世始めて献策した時、従前このことをして来た紀家の輩が藤に巻き立てられてわれら(木家)が流は成り立たじと愁いた、とあり。『源平盛衰記』二四、『大鏡』七道長伝に、藤原冬嗣、南円堂の壇を築いた時、春日大明神、北の藤波今ぞさかゆると詠じ、供養の日、他姓の人六人まで失せたと見ゆるも似たことじゃ。
 (大正十一年十二月『土の鈴』一六輯)
 
       十五
 
 巨樹の翁の話を距ることは遠いが、木を斫るに随って創口が合うという談は北欧にもある。一八五九年エジンバラ板、ダセントの『北欧人俚談』四六章に、七頁にわたり述べられおる。
 長々しいから概要を述べると、むかしピーター、ポール、ジョンという三子を持った人あり。貧乏ゆえ、つねづねどこへなり往って生活せよと訓えた。この人の小屋近く王宮あり。その窓に対して大きな※[木+解]《かしわ》が生え、蔭で全く王宮を暗くした。王大金を懸賞してこれを伐らしめたが、この木を一片斫り去ると跡へ二片が生えるから誰も伐りえなんだ。(62)近処の人々はおのおの井あるに王は井を有せず、王これを恥じ、金や物を懸賞して井を掘らしめたが、王宮高丘上にあってちょっと掘るとたちまち岩となるので、誰も掘りえなんだ。そこで、王は国内に募って、この二事を仕遂げた者には王女を娶《めあわ》せ半国を与えると勅した。これを聞いた者おびただしく来たって取りかかったが、伐れば伐るほど木が大きくなり、掘れば掘るほど岩が堅くなった。三人兄弟またこれを聞いて運だめしに出かける途中、樅林の一方に峻しい山あり、山上の森の中で木を伐る音がした。末弟怪しんで二兄の留めるをも聞かず登り往き見れば、一本の斧が誰も使う者なきに独りで樅の幹を祈りおる。声をかけると、われは汝を待っておった、と答える。よって取り収めてもとの処へ還り、二兄に伴い進むと、岩壁の上に掘る音がする。また二兄の留めるを聴かずに登ってみると、人はなくて一本の鍬が岩を掘っておる。問うてみると、われ多日汝を待ってかく掘りおった、と答えた。またそれをも収めて二兄と伴い往くうち、小川に出逢った。三人とも渇しおったので、その水を飲むつもりで休んだ。末弟その水源を尋ね、二兄の諫めを開かずに上り往くと、川だんだん小さくなり、ついにこの流れは一つの大きな胡桃から出ると知れた。これも、われ久しく汝を待っておった、と語る。よってその胡桃を拾い、水の流れを止めるためその穴を苔で詰めて収め還り、それより三人で王宮に詣った。
 王宮へは半国と王女をせしめんとおびただしく人が来たので、大木はますます大きくなった。という仔細は、多くの人が斫れば木の一片が斫り去らるるごとに二片に殖えるから、木の全体が二倍の大きさになったのだ。よって王、新令を出し、この※[木+解]の木を伐り試して伐り僵しえぬ者は、その両耳を切り去った上、荒れた島へ流す、と定めた。ピーターまず伐ってみたが、例の通り木が長ずるばかりゆえ、すなわち耳を切られて島流しにされた。ポールも同様だ。ただし、兄の例を見て懲りなんだ罰に耳を一層深く切られた。最後に末弟ジョン、かの斧を取り出し柄を嵌めて、サア切れと命ずると、斧自身で働いてたちまち大木を伐ってしまった。次に鍬を取り出し柄を嵌めてサア掘れと言うと、即時におのずから働いてたちまち井を掘り殆めた。井戸の深さと広さが頃合になった時、例の胡桃を取り出して井の(63)片隅に置き、孔に詰めた苔を取り、サア流れよというと、清水迸り出て見る間に井に満ちた。この大功により、王その女をジョンに娶《めあわ》し、ために半国を頒ったという。
 
       十六
 
 次の話は、東インドのアッサム国に住むカーシ人これを伝え、翁の代りに虎が伐られた樹をつぎ合わすとしたものだ。
 ジンギエイ山はカーシ国で最も高い山の一つで、その上に多くの村あり。むかしこの山の巓に大木生えて全世界を蔭にし、カ・ジンギエイと呼ばれる。カーシ人ら、この木あるあいだは世界が闇で作物ならず、これを伐らば世界明るくよくなろうと議して、これを伐るに決した。それから、昼のあいだにこれを切って明朝往き見ると創が癒えておる。毎日毎日この通りで驚き入った。一体どうしたことと詮議の最中に、はなはだ小さい鳥(名はカ・フレイド)教えて、これは毎夜木の根元へ虎が来てその創を舐《ねぶ》るから創が癒えるのだ、と言った。そこで一同、終日木を切った上、斧や刀を持ち去らずにその刃を外に向けて創口に括りつけて去った。例の通り夜分に虎来たって創口を舐ると、思いがけなく刃物でその舌を切った。それから虎は来たらず、創口も癒え合わず、得たり賢しと伐りつづけて巨樹ついに仆れた。
 さて世界が明るくなれば、日月の光りも徹し、耕作自在となった。それよりこの山をウ・ルム・ジンギエイ(ジンギエイ山)と名づけた。この木はどうなったか誰も知らぬ。切り倒された時絶え果てたので、地上にその種が残らなんだからだ(ガールドン中佐『ゼ・カーシス』一九一四年ロンドン板、一六四−一六六頁)。
 熊楠案ずるに、本邦の伝説にある葛のごとく、件の小鳥は平素虎に宿怨あって人に巨樹を伐る方を教えたものであ(64)ろう。その辺を今のカーシ人は忘れてこの話に逸したらしい。 (大正十二年二月『土の鈴』一七輯)
 
(65)    妖怪が他の妖怪を滅ぼす法を洩らした話
 
 「巨樹の翁の話」の中にしばしば出した、妖怪が他の妖怪を滅ぼす方法を人に聞かせ洩らした話は、もっぱら日本と支那に例を取ったが、ここではさらにインドの一例を挙げておこう。これはチベットに現在する仏典中にあって、もとインド説に係る。
 医王耆婆、ロヒタカ国に往った時、花果泉水美わしく具えた園の持主が病死し、その執着が深いので鬼となってその園に棲んだ。その子家を嗣いで、園に番人を置くと鬼に殺されたから、また番人を置くとまた殺された。不祥に呆れて主人はその園を荒れはつるままに捨て置いたところが、医者どもがとても直らぬと匙を地げた水腫患者がここへ来て、鬼に殺されたがましという量見で園中に夜を過ごし、行旅中の耆婆も同じくここで明くるを俟った。夜半に例の鬼が出て水腫患者を脅かしにかかると、水腫の病鬼が進み出で、われまずこの者を占領しおるに何とてさし出るかと詰《なじ》り、誰か山羊の毛を焼いてこの鬼を燻ぶればよい、そうしたら十二由旬の外へ汝は逃げ去るはず、と罵った。園の持主の死霊も負けてはおらず、然いう貴様こそ、この病人に大根の種子の粉をバターで捏ねた奴を食わされたら、微塵木っ葉に砕け散るはず、と罵った。静かにこの問答を聞いておった耆婆は、翌朝園主を尋ね、あんな結構な庭園をなぜ捨て置くかと問うと、怪物が毎夜出て人を殺すから、と答えた。耆婆、それは不心得だ、山羊の毛で園の隅から隅まで燻べなされ、そしたらその鬼は十二由旬の外へ飛び去って再び来ぬはずと教え、園主教えのままに行なうと、果たして鬼の害は熄み、報恩として耆婆に五百金を贈ったのを、耆婆受けてその師|阿提梨《アートレヤ》に送った。次に耆婆、かの(66)水腫病人に対し、君はなぜこんな怪物臭い園におったかと問うと、巨細に病歴を述べた。耆婆、オホンそれは何でもないこと、バターで大根種の粉を捏ねて食うがよいと教え、その法を用いてたちまち平癒したので、この人また五百金をくれたのを、耆婆受けてまた師に送った――と、一九〇六年ロンドン板、英訳シェフネルの『西蔵《チベツト》諸譚』六章に出おる。予一切経を通覧したが、右の話は支那に伝わりおらぬようだ。(一月十二日午前三時) (大正十二年二月『土の鈴』一七輯)
 
 明の陸応陽の『広輿記』二にいわく、直涜は南京の幕府山の東北にあり。呉主孫皓が掘らせたので、長さ十四里あり。初め開いた時、昼穿てば夜中にまた塞《ふさが》り、数月を経て成らず。一人の役天、夜分その側に臥しおると、見物来たって瞋《いか》り歎じて、吾輩毎夜この涜《ほり》を塞ぐため苦役されて困る、布嚢に掘り取った土を盛って江中に棄てたらよいに、と言った。その言を役天が届け出で、役人その通り行なわしめて涜が成就した、と。木を伐った屑片が残りおるうちは、幾度でもその屑片を拾い合わせて伐られた木を再活せしむることができれど、一たび屑片を焼き失わるるともはや創口を愈《いや》すことがならぬと等しく、涜を掘った土を布嚢に入れて江中に投げ入れらるると、夜分嚢のまま持ち来たっても一々嚢を開いて土を取り出すに手間がかかるから、その地の神も毎晩の埋立を見切り、神に苦役さるる鬼物も助かるはずといった意味らしい。
 一八八三年ロンドン板、ウィリアム・ギル大尉の『金沙江記』一一四頁に、四川のパンチャオ付近に、大蛇に似た長い沙丘あり。今もその下に怪しい動物住む。人力を竭《つく》して日暮れまでにその一部分を除き、明朝往ってみると、沙がもとの通り積もりおり、何度労苦したって一向効がないという。これは虚説でなく、この沙丘の裏に岩の背骨があって、谷より吹き出す風が砂を吹き寄すから、何度除き去ってもまた積み上げらるるのだ、とある。 (大正十三年六月『日本土俗資料』二輯)
(67) 唐の堪然の『止観輔行伝弘訣』八の一に、李子預という人に病鬼が付いて膏肓におる。張華をして治せしむるに療法がないから、華が逐電した。子預これを留めんと騎馬で追いかくる。華、道を下り身を隠すため草を開き入ると、中に両鬼あり、一人の鬼が今一つの鬼に汝はなぜ隠れ去らないかと問うと、われは病人の膏肓に住むから針も灸も届かぬ、よって隠れ去るに及ばぬ、ただし八毒丸を用いられては叶わぬからはなはだ心配だ、と言った。しばらくして子預来たり、華を捉えぜひ療治せよと迫るので、八竜丸を与えるとその鬼が叫喚して走り去った、と出ず。 (大正十四年四月『日本土俗資料』一〇輯)
 
(68)    大岡越前守子裁判の話
 
   子供のとき、大岡越前守の裁断を面白く書きたてた小本を読んだことがある。書名は忘れたが、明治二十五年前後の刊行物であったよう記臆する。その中に子裁判の咄が出て、一人の子供を左右から女が引張凧にする挿絵がつき、筋書は、さる女、子供を里子にやったが、のちこれを取り返そうとすると、先方ではこの子は里子で預っているのじゃない、わしの子じゃと刎ねつけたので争いとなり、大岡に持ち出すと、越前、子は愛情のある方になつくものなれば双方より手を引っ張ってみよ、うまく連れ帰られた方が真の母じゃと言ったので、両女立ち上がり左右より子の手を引いたが、子供はその痛さでワッと泣いたので、一方はすぐ手を離すと、他の女は得意気にその子を連れ帰ろうとした。その時、越前呼び止めて言うよう、真の母はそなたではあるまい、その故なんとならは、子供を引き摺るとき引かるる者の痛さを思えば手離すこそ母子の情ではないか、と見事に鑑識裁決した、と言うのである。この噺はいつごろから唱え出されたものか知らないが、察するに講談師などの手輩が新機軸に編み出したものなるべく、種は外国物なるにうまく大岡越前に結びつけたところに非凡の腕前があると、私は興味津津に感じているのである。
 大正十年十月の米国雑誌『エジア』誌上にダブリユー・ノルマソ・ブラウンという人が、「亜米利加黒人の伝説中に現わるる印度物語」という標題で、一つの物語が出ている。東方の一寒村に生まれ、海越え山越え諸国にさすらえつつ、あう人々に感動を与えつつ行脚するを述べて、民間伝説のこの種のように美しい旅行ぐらい人を魅する題材はないと言い、何人がその本国から……たとえば東洋から西洋に伝えたか……またどういう機会でこれを持参したものか、どんなにわれわれは知りたいと思うているかしれないとて、前述の大岡越前守の子裁判の種となるべき、ソロモンがひとりの子をわが子なりとたがいに主張する二人に対し下した裁定を挙げ、この咄は、ギリシア聖典にも古くより見えているが、仏典にも同様古く出ているとて……(69)さる女、子供を水槽《タンク》の傍に放《ほ》つけなしにせしを、魔術師《ウイツチ》が見て、そのやわらかそうな人肉が食いたくなり、人間の姿に化《な》りて子守をしてみたいと母親に言い近づきつつ、やにわにその子を攫り浚おうとしたので、母親は吃驚して飛び来たり、オノレはどこへ俺の子を拉《つ》れ行こうとするかと詰ると、魔術使、コレが汝《おまえ》の子じゃと、よくも言えたの、わしの子じゃないか、と逆捻じ喰わしたので大悶着となり、ついに二人は未来の仏陀たるべき大菩薩の前に曲事に及んだ。そこで大菩薩、争議を聴きたるのち床上に線をひき、その上に小児を置かしめ、ひとりの女に子の腕を、他の女に脚を握らしめ、号令一下、双方より引っ張れ、いずれなりとも線内にひき入れた方わが子とすべきなり、と宣した。しかるに真の母親たるべき女は、子供の痛さに気を悩め手を放したので、菩薩周囲の人に訊ねて言うよう、子を慈しむ者はその母親なりやまたは以外の人なりやとききしに、いずれもそれは母親なりと答えしかば、さらば今子を手にする者母親にや、それとも手放している者母親にや、と重ねて質問せしに、みな後者母親なりと明答したと言うを掲げ、この語はギリシア翻訳の伝承か、ソレともこちらが本家本元でギリシアの方へ伝えたものか、あるいは種は別途にあるものか、誰も明言できないと語り、それは南方アラビア、またはアフリカ西北部の一交易地であったオファイアから象牙や猿猴、孔雀などが到来したソロモン時代以降、インドとメソポタミアとのあいだには絶えず海陸とも交通があって、インドから伝来したと思わるる言葉がギリシアの教典にもあらわれ、この時代を遡っては例のソロモンの裁決のごとき咄は両国ともに伝わっていないからじやと言い、その他ヘロドタスの物語にインタフレルネスの妻が夫と息子とよりもおのれが兄弟の助命を欲した咄のごときも、インド物語にあり(宮武いう、ケンブリッチ大学出版、エイチ・チ・フランシス並びにイ・ゼ・トーマス撰 Jatka Tales 七〇−七一頁 The Value of Brpther 参照のこと)。これなどはアレキサンダ東征時代インダス河を渡りて伝来したものだろうといい、最後に遠く離れてアメリカ黒人の伝説中にも六十種以上はインド物語に似寄りのものあること、並びにバスコダガマが一四九四年インド初航のとき東部アフリカに寄航したことなど、この両国にも交通のあったことをいろいろ面白く書きたてている。そしてブラウン氏は口碑伝説がそれからそれへと分布する径路は実に面白い問題だが、さてその起原はと言うと誰も返事のできないのがまた一段興趣があるとて Fascinating questions these, and all the more facinating because unanswerable!と言っている。
 咄の筋は多少異うが、文禄旧訳『伊曽保物語』付録で、新村博士も「ギリシアの智者アイソーホスの作と仮託され、プラヌーデースの撰といわれる『伊曽保伝』も、やはり新ギリシアから伝わったもの、共にギリシアの多島海から起こった波が地中(70)海を出て喜望峰を回り、インド洋から支那海へと八重の潮路を辿り来たってわが天草の洋に打ち寄せた藻屑である。……この物語の由来感興を惹かぬことはあるまい」と結んでいられるが、実際われらにとりてはこれぐらい fascinating subjectはない。すなわち前記子裁判のごときわが国にてはいつごろよりとなえ出でられしものかまだ取調の遑なきも、種は外国物なるに外国ものとはせず、さながら本国自生のものとして、あるいは名判官大岡に結びつけられ、里子などとうまく仕組まれているところに言うべからざる妙味があって、かりにこれを講談師の案出とするも、さすがは噺専門だけにその機敏なるに感服せらるると同時に、饒舌なる彼らの談片中にも、研究題材のひそむことあるにロ−マンスを感ぜらるるのである。(以上、宮武省三記)
 
 米国雑誌にこの譚のことを書いた人がある由は、前記宮武氏の訳文を見て始めて知った。しかるに、予は明治四十四年三月と六月発行の『東京人類学会雑誌』へ、件の米人のよりは多くこの譚の類話を掲げおいたから、ここに暇潰しに古いやつを繰り返すこととする。
 ソロモン裁判の話の欧州における多くの類話および仏本生譚(ジャータカス)に出た譚は、一八八七年エジンバラおよびロンドン出板、クラウストンの『俗譚および小説の移動および変化』一巻一六頁に列挙してある。それからこの譚の最も古いのはエジプトのパピリ書にあると聞いたが、その委細はまだ承らぬ。
 クラウストンが挙げた仏本生譚は、ライス・ダヴィズ教授の翻訳で一八八〇年の出板だ。この本只今座右にないが、たぶん一九〇七年ケンブリッジ板、カウエルおよびラウス訳の『仏本生譚』巻六の一六三頁所載と同話であろう。その文はすなわち宮武氏が件の米人の文を訳したのと大抵同一だが、ただ魔術師の代りに鬼とあるだけが異《かわ》りおる。鬼が人に化けて人の子を争う譚は、『今昔物語』二七巻二九語に、源雅通中将の二歳ばかりの子を乳母が抱いて遊ばせおるところ、その児急におびただしく泣き出したので、中将大刀を提げて走り行き見れば、同じ形の乳母二人が中にその児を置いて左右に引っ張り争うのだった。中将定めてその一人は狐などであろうと思い、大刀を閃かして走りかか(71)ると、一人は消失した。児も乳母も死んだように臥しおるを、加持などさせて起き上がった。仔細を尋ぬるに、乳母が若君を遊ばせおるほどに、奥の方より知らぬ女房がにわかに来てこれはわが子だと取りにかかるゆえ、奪われじと争うところへ殿が走りかかったので、その女は奥へ往った、と言った。されば人離れた処に幼児を遊ばすぺからず。その女房は狐が化けたか物の霊か知れぬ、なんぞとある。芳賀博士の考証本にこの話の類話を一つも載せおらぬが、すべからく件の仏本生譚を載せ添うべしだ。
 件の仏本生譚は、本邦現在一切経中に見えないようだ。その代りに同様の譚ながら鬼の代りに女人があって、ほとんどソロモンの話と異らぬ物がある。『賢愚因縁経』巻一一、檀膩※[革+奇]品がそれだ。その文は「時に檀膩※[革+奇]、云々、王の前にあって、二母人ともに一児を諍うを見る。王に詣って相言う、時に王(名は端正)明黠《めいかつ》にして知をもって権計し、二母人に語る、今ただ一児、二母これを召す、汝二人におのおの一手を挽くを聴す、誰かよく得る者ぞ、すなわちこれその子たり、と。その母にあらざる者は児において慈なく、力を尽してとみに牽き傷損を恐れず、所生の母は児において慈深く、随従愛護し、※[手偏+世]挽《えいばん》に忍びず。王真偽を監し、力を出す者に語る、実は汝が子にあらず、強いて他の児を謀る、今王の前において汝の事実を言え、と。すなわち王に向かって、われ審《あき》らかに虚妄、名を他児に枉《ま》ぐと首《もう》す。大王聰聖、幸いに虚過を恕し、児その母に還り、各爾《かくじ》放ち去らしむ」というので、米人の引いたのよりこの経文の方がずっとソロモンの裁判に近い。
 『改定史籍集覧』に収めた『左大史小槻季継記』に、「大政大臣実基公(嘉禄元年十一月十日補せらる)検非違使別当の時、八歳の男子を、二人の女、面々にわが子の由を称しけるあいだ、法曹輩、計り申していわく、法の意旨に任せ、三人が血を出だして流水に流す時、真実の骨肉の血、未にて一つになり、他人の血気は末にて別なり、かくのごとく沙汰すべきの由計り申すところ、大理いわく、八歳の者血を出だすべきの条、もっとも不便のことなり、今度沙汰の時、かの三人並びに諸官等参るべきの由仰せられて、その日ついに雌雄を決せられず。のち沙汰の日、かの三人諸官等参(72)ぜしむるの時、数刻ののち大理出座し、仰せられていわく、件の女性両人して、この男子を引いて、引き取りたらんを母と申すべき由計られける時、二人してこの子を引きけるに、引かれて損ぜんとする時に、一人の女は放ち、今一人はただ引き勝たんとす。かくのごとくすることたぴたぴ、その時大理いわく、放つる女は実母なり、労わるによりてかくのごとく放つ者なり、今一人は労わる心なく、ただ勝たんと思う心ばかりにて引くなり、云々。相違なく、放つる女は母なり、当座引かるるは荒《やぶ》るには似たれども思慮の深きところなり。実基公は法曹に達する人なり」と記す。
 一九一九年四月五日、ファーネル氏が英国アカデミーで論じたごとく、世界古今同一のことが幾度も幾度も繰り返さるる例最も多ければ、こんな話が必ずしもただ一方処から始まったと断ずることもなるまじ。しかし本文に「実基公は法曹に達する人なり」とあるを見ると、そのころの法曹書に二婦が一子を争う時はかようにして裁決すべしという秘訣を載せてあったらしく、むかしは子宝と称うるほど、子を有価の財産としていろいろ融通したものゆえ、子を争う訟《うつたえ》ははなはだ頻繁、したがってこんな騒ぎは毎度あったについてその裁判の心得書も秘訣として伝わりおったと見える。
 されば『古事類苑』法律部第一冊一一七三頁に、件の『季継記』の文を引いた次に『風俗通』を引いて、前漢の潁川の太守黄覇、本郡に富室あって兄弟同居す。弟婦懐妊し、その長※[女+以]《あによめ》亦懐妊し、胎傷してこれを匿す。弟婦男を生み、長※[女+以]すなわち奪い取って、もっておのれが子となす。論争三年にして覇に付す。覇、人をして児を庭中に抱かしめ、すなわち※[女+弟]《おとうとよめ》、※[女+以]《あによめ》をして競うてこれを取らしむ。すでにしてともに至り、※[女+以]これを※[手偏+将の旁]《ひ》くことはなはだ猛し。弟婦手に傷つくあらんと恐れ、しかして情はなはだ棲惨たり。覇、すなわち長※[女+以]を叱していわく、汝家財を貪りこの子を得んと欲す、いずくんぞ頓《とみ》に傷つくるところあるを慮り意《おも》わんや、このこと審《あき》らかなり、と。※[女+以]罪に伏す、とある。前漢のころ『旧約全書』や仏経はまだ漢土に伝わりおらなんだから、黄覇は自分独得の智恵でこの裁判をやったものか。もしインドやジュデアの古語を心得ておってやったものとすれば、それは種々の邦土を経て漸々伝わりおった俚談に(73)よったもので、決して訳文訳書によらなかったこともちろんだ。 ソロモン裁判の譚よりも「季継記』の方によく似たのが、アラビアに行なわれた.一八九四年板、バートンの『千一夜補遺』一一巻五一−五三頁にいわく、一人両妻を持ち、同時に同室で同一の産婆に助けられて分娩し、一妻の生んだ男児は活き、他の妾が生んだ女児は即時に死んだ。生存する一男児を二妻が争うて方《かた》つかず賢相に訴う。賢相、二婦の乳汁を卵の空殻に盛り、秤り比べて汁の重い方を男児の母と断定したが、一妻承知せず、喧嘩やまないから、賢相今はその児を二つに割いておのおのに一半を与えることと定めると、汁重かった女はもはや争いをやめるからその子を他の女に与えてほしいというに、汁軽かった女は平気でいかにも半分貰うからその子を割いてくれという。賢相これ自分が産まない証拠と断じて、汁軽かった女を絞刑に処し、重かった女にその児を与えた、と。
 この類の話から巧みに転化したらしいのは、西鶴の『本朝桜陰比事』一「※[子+子]《ふたご》は他人のはじまり」の条で、京の大きな売薬舗の主人死して三十五日内にその妻双生児を産み、いずれも十三になった歳、母頓死す。二人の乳母おのおのその守り立てた子を相続人とせんと訴訟してやまず。判官命じて持仏堂の仏を取り来たらしめ、財産を両分する手始めにまず乳母二人の手で、その仏を真二つに割いてのちまた来たらしむると、なんぼなんでも仏を半分とはできかねると二人とも閉口したので、後に産まれた子を相続人、先に産まれた子を分家と立てて落着した、とある。(四月十三日午後三時) (大正十二年六月『土の鈴』一九輯)
 
 一九一八年ロンドン出板、サー・ジェームス・フレザーの『旧約全書俚俗学』一一章は、ソロモソの子裁判を論じたもので、フレザーの博綜に相応せず、短く二頁足らずで済ませておる。その大要は、「このソロモンの話が勝教(ジャイン教)の浩瀚な古伝典籍に入りおり、近ごろこのソロモンの話のインド伝説四つまでも欧人が見出だした、いずれも相似ており、またヘブリウの本話にも似ておるから、その一つを挙げればたくさんだ」と前置きしていわく、「商(74)人あって二妻をもつ。一妻は一男児を挙げたが、他の一妻は子なし。しかるに、子なき妻また他の妻の子をよく扱うのあまり、その子ついにいずれを本当の母と知らなくなった。その商人、二妻と一男児を伴いて他国に行き、その国に到るとたちまち死んだ。そこで二妻その男児を争い、いずれもこれはわが子だと言い罵る。またわれこそ主婦なれ、わが身こそ主婦なれと論じて果たさず、ついに国王の判廷へ訴えた。裁判官すなわち役人を呼び、まずその商人の所有物を二つに平分し、次に鋸でその児を二つに挽き割り二人の妻女に分け与えよ、と命じた。真にその児を産んだ女これを聞いて、霹靂一千の猛火に包まれて頭上に落ち、鉤槍で貫かれたほど心臓動悸して口から出かねる言葉を発し、お役人さまに申し上げます、その子は私のではござりません、私は金銭は入りません、どうぞあの女を主婦としてその子の母と認め下されませ、いかな穢ない家に住み、どんな貧乏を仕続けたって私はさらに構いません、せめて遠くからなりとその子の無事な様子さえ眺めたら一生の本望が叶います、その子が殺されては、今から私も死んだ同然にござります、と言った。これに反して、今一人の女は何にも言わず。判官啼きき悲しむ女を指し、この児は彼女の子に極まった、今一人の女の子でないと判決し、その児の真の母をその家の主母と定め、今一人の女を呵《しか》りつけた」と。これは一九一三年の『インジアン・アンチクワリー』に伊人テッシトリ氏が出したもので、勝教のラジャセクハラが述べた『アンタラカターサムグラハ』から訳した。この書は西暦十四世紀のものらしいとあるから、さきに予が引いた元魏の沙門慧覚が訳した『賢愚因縁経』の話の方が九百年ほど早い。 (大正十三年八月『日本土俗資料』四輯)
 
   南方随筆
 
(77)     本邦にお於ける動物崇拝
 
 『東京人類学会雑誌』二八八号二一六−二二九頁に、山中|笑《えみ》君「本邦における動物崇拝」の一篇あり。読んですこぶる感興を催し、往年在英中アストン、ジキンス諸氏のために、このことについて聚録せる材料中より、追加すること次のごとし。
 本邦上古、蛇、狼、虎等を神とし、はなはだしきは皇極天皇の御時、東国民が、大生部多《おおいくべのおおし》に勧められて、橘樹等に生ずる常世の虫を神とし、祭って富と寿を求めたること、伴信友の『験の杉』に述べられたり。されど後世にいたっては、直接動物そのものを神とし拝するは稀にて、多くは神仏、法術等によって、多少の宗教的畏敬を加えらるるに過ぎざること、まことに山中氏が述べられたるごとく、それすら、目今旧を破り故を忘るるの急なるに当たり、この辺僻の地(紀伊田辺)にあって、いずれが果たしてすでに過去の夢となりおわり、いずれが今も行なわれおるかを判断するは、望むべからざることたるをもって、しばらく管見のまま、現時なお多少そのかつて崇拝されたる痕跡を留存するらしいと思わるるものをここに挙ぐべし。動物名の右に○を印せるは、山中君の論文すでに列記せるものにて、山何頁と書せるは、同論文の何頁めにこの説ありという意なり。
 猿○。 猿は産の安きものとて、今は知らず、二十年ばかり前まで、和歌山より大阪へ往く街道側に、猿の土偶をおびただしく祭れる小祠あり。婦人産月近づくごとにこれに詣って、礼拝してその像を借り受け枕頭に祭り、安産しおわれば、同様の猿像一を添え、礼賽《らいさい》して件の祠へ返納せり。
(78) 古え猿と蛇を神として斎きて、美作の国人美女を牲とし、毎年これを祭れるを、東国の猟犬来てこの弊風を止めしこと、『宇治拾遺』に見えたり。
 わが国猿舞いの基因は、馬のために病を禳いしにありという説あり。『五雑俎』巻九に、「狙を馬厩《うまや》に置き、馬をして疫にかからざらしむ。『西遊記』に、天帝、孫行者を封じて弼馬温となす、と謂えるは、けだし戯詞なり」と見え、古くより猴舞し行なわれしを、後にかかる支那鋭より故事付けたるべし。一八二一年、シャムに使節たりしクローフォード、王の白象厩に二猿を蓄《か》えるを見、厩人に問うてその象の病難予防のためなるを知りし由、自記せり(J.CraWford,‘Joumal on an Embassy to the Courts of Siam and Cochinchinaa,’1828,p.97)。
 熊 『古事記』に、神武天皇熊野村にて大熊に遇いたまいしことを載せ、伴蒿蹊の説に、栂尾山所蔵「熊野縁起」に、同帝三十一年辛卯、高倉下尊、紀南にて長《たけ》一丈余にて金光を放てる熊を見、また悪夢を感じ、宝剣を得たりとある由。熊野の名これに始まるという。今も紀州に予のごとく熊を名とする者多きは、古え熊をトテムとせる民族ありしやらん。蝦夷人が熊を崇めて神とすると考え合わすべし。『北越雪譜』初編巻上に、「山家の人の話に、熊を殺すこと二、三疋、あるいは年歴たる熊一疋を殺すも、その山必ず荒るることなり。山家の人これを熊荒《くまあれ》という。このゆえに山村の農婦は需めて熊を捕ることなし」と言い、『想山著聞奇集』巻四に、熊を殺す者、その報いにて常に貧乏する由記せるも、古え熊を崇めし痕跡なるべし。
 鼬 『和漢三才図会』巻三九に、鼬群鳴すれば、不祥となすとは、今も然信ずる人あり。「あるいは夜中に焔気あり.高く昇ること柱を立つるがごとし。呼んで火柱と称す。その消え倒るる処かならず火災あり。けだし群鼬の妖をなすなり」と。かかる迷信今も存するや否を知らず。ややこれに似たるは、デンマーク国等に建築中材木より火出で飛ぷは、その家火災に罹る兆なりと伝うることなれども、鼬の所為《しわざ》たりと言わず(H.F.Feilbery,“Ghostly Lights,”Folk-Lore,vol.vi,p.288 seqq.,1896)。『源平盛裳記』巻一三に、鼬躍り鳴きてほどなく、後白河法皇、鳥羽殿より還御の(79)ことあり。また『義経記』か『曽我物語』に、泰山府君の法を修して、成就の徴《しるし》に鼬現わるる話ありしと記臆すれば、別に崇拝されしと聞かざるも、古来邦人の迷信上、鼬はなかなか一癖ある獣と知られたり。
 犬○ 犬を祀りし例は『峰相記』に、「また粟賀の犬寺は、当所の本主秀府という者ありき。高名の猟師なり。かの僕、秀府の妻女を犯し、あまっさえ秀府を殺して夫婦とならんという密契あり。郎従、秀府を狩場へ誘い出して、山中にて弓を引き、矢を放たんとす。すでに害に及ぶ時、秀府が秘蔵の犬、大黒、小黒とて二疋あり、かの郎從に飛びかかり、左右の手を喰わえて引っ張る。秀府刀を抜き飛びかかりて仔細を尋ぬるところに、ありのままに承伏す。郎従を殺害し、妻妾を厭却して、道心を発し出家入道す。臨終に及ぶ時、男女子のなき間、所帯を二疋の犬に譲り与えおわる。犬二疋死後、領家の計らいとして、かの田畠をもって一院を建立し、秀府並びに二疋の犬の菩提を訪う(?)。堂塔僧房繁昌し仏法を行ず。炎上の時、尊像十一面観音、秀府二疋の犬の影像、北山へ飛び移る。その所を崇めて法楽寺と号す、云々。本寺の跡に一堂一宇、今にあり」と。これ貞和四年(五百六十二年前)の記なり。これに似たること、アゾールスに犬の記念に建てし寺あり。天主教の尊者ロクス、黒死病者を救うこと数万にして、みずからこれに罹り困《くる》しみし時、この犬、食を運びてこれを助けしという(Notes and Queries, 9th ser.,xii, PP.189,236,Sept.1903)。アラビアおよび欧州に行なわれし、犬が僧正に遺産を進ぜしという譚については Axon,“The Dog who made a Will,”N.& Q.,Dec.24,1904, p.501 を見よ。
 『和漢三才図会』巻六九にも、忠犬を祀れる話あり。いわく、「犬頭社は参河国上和田森崎にあり。社領四十三石。犬尾社は下和田にあり。天正年中に領主宇津左門五郎忠茂、ある時、猟《かり》して山に入る。家に白犬あって従って走り行《ある》く。一樹の下に到って、忠茂にわかに睡眠を催す。犬かたわらにあって、衣の裾を吸えて引く。ようやく寤めてまた寝るに、犬しきりに枕頭に吠ゆ。忠茂、熟睡を妨ぐるを怒って、腰の刀を抜いて犬の頸を斬る。頭は樹の梢に飛んで大蛇の頸に噛みつく。主これを見て驚き、蛇を切り裂いて家に還り、犬の忠情に感じ、頭尾を両和田村に埋め、祠を(80)立ててこれを祭る。家康公これを聞しめして、はなはだ感嘆す。かつ往々にして霊験あるをもって、采地を賜う、云云」、これを作り替えたりと覚しき譚、馬文耕の『近世江都著聞集』にあり。吉原の遊女薄雲、厠に入らんとするに、日ごろ愛せし猫、ともに入らんとするを亭主その首を斬りしに、たちまち厠の下隅に落ちて、薄雲を見込みし蛇を咬殺せしより、薄雲そのために猫塚を築けり、となり。
 『続捜神記』(『淵鑑類函』巻四三六に引けり)に、会稽の張然、年久しく家に帰らぬうち、その妻、奴《ど》と私通し、夫の帰るを俟ち、殺さんとて毒を飯肉に加えて供せしを、然その飯肉を狗に与えしに食らわず、「ただ睛《ひとみ》を注ぎ唇を舐りて奴を視るのみ」。奴、「食を催《うなが》すことうたた急」なりしかば、然、大いに狗の名を呼び烏竜といいしに、狗たちまち奴の頭に咋《く》いつくところを、然、奴を斬り、婦を官に付して殺せる条あり。『法苑珠林』巻四五に、『僧祇律』を引いて、那倶羅《なくら》虫、梵士の子を救いて毒蛇を殺せしに、梵士その虫の口血に塗《まみ》れたるを見、誤ってその子を害せるものとし、これを殺せし誕《はなし》あり。動物が主人に忠を尽し、かえって害をなすものと誤られ、殺さるる話多く Clouston,‘Popular Tales and Fictions,’1887 に挙げたり。古話には、本来その土に特生せると他邦より伝来せると二樣ありて、これを判ずることすこぶる容易ならざるあるも(『早稲田文学』明治四十一年六月の巻に掲げたる、予の「大日本時代史に載する古話三則」参照)、話の始末符合せること多きより攷うれば、犬寺および犬頭社の伝記は『今昔物語』巻二九「陸奥国|狗山《いぬやま》の狗、大蛇を咋い殺す語《こと》」などを通じて、明らかに支那、インドの譚より出たるを知るべし。付言、郡倶羅(ナクラ)、実は獣、イクニューモンの梵名なり。 また山二二四頁に、四国に今も存する犬神の迷信を記し落とされたり。備前の人に聞くに、「この迷信もっとも伊予に熾んに行なわれ、諸部落に犬神筋の家一、二軒ずつあり。その家主、家族に悪感を懐かしむることあらば、必ず犬神加害者に憑り、発熱して犬の挙動をなさしむ。よって財物を寄付してようやくその害を解くという。この病に罹る者、備前邑久郡朝日村、一里沖にある犬島の犬石宮に祈るにはなはだ験《ため》しありとて、参詣多し。もとは特立の一社(81)なりしが、例の合祠のため、同島天満宮に合併されおわりしも、犬形の神石は、依然島側の一嶼にあり。この犬島は、菅公流罪の時、風波を避けて船を寄せしに、犬別れを惜しみて鳴き、化して石となれりという。よって天満宮と犬石宮を建てたり、云々」。
 狼○ 『日本紀』巻一九に、秦大津父《はだのおおつち》、二狼相闘い血に汚れたるを見、下馬して口手を洗漱し、祈請して、汝これ貴神、云々、と言いし由見えたれば、「おおかみ」に大神の義あるなるべし。古え欧州にも、狼を神使となせしこと、Gubernatis,‘Zoological Mythology,’1872,vol.ii,p.145 に出ず。丹後国加佐郡、大川大明神は狼を使者とす。あるいは狼大明神とも呼べり。その近辺の山々に狼多きも、人を害せず。諸国に猪、鹿出て田穀を害する時、かの神に申し、日数を限りて狼を仮したまわんことを祈れば、浪速やかにその郷の山に来たりおって、猪、鹿を追い治むとぞ。武州秩父、三峰神社、その山に狼多し。その神に祈れば、狼来たりて猪、鹿を治め、またその護符を賜わり持つ人は、その身|殃害に遭わず盗難なしという(伴信友『験の杉』)。大和の玉置山の神、狼を使いとすること、くわしく昨年五月の『東京人類学会雑誌』に予これを述べたり。
 山二二四頁に、武州御嶽より出す札守に、狼を画き盗火の難を禦ぐとせるは、犬を誤りしものとせり。家犬の祖先が狼またジャッカルより出でたるは、学者間すでに定論あり。熊野で猟犬として珍重さるる太地犬《たいじいぬ》という種は、もと狼を畜《か》ってできしと言い伝う。往年予在英の時、故ハックスレー氏の講話に、人間将来多望の由を述ぶるとて、牧畜の大阻害者たる狼を畜うて、これに大利益ある牧羊犬を化成せる、人間の忍耐を称讃せるを聴けり。されば玉置山に犬吠の杉あるも、実は狼吼の杉の意にて、太古犬狼いまだ分立せざりし時の薫習を存する名なるべく、御嶽の札守に狼を画いて盗火を禦ぐとするも、その基因なきにあらじ。予は動物学に暗けれども、毎度山民に質すに、本邦の狼に、本種の外に山犬と称する亜種あるもののごとし。日本犬はこれよりや分かれつらん。普通にこれに豺の字を充つ。モレンドルフの現に、豺はもと清俗いわゆる小紅狼とて、ジャッカルの一種 Canis rutilus Pallas を指せしも、今は狼(82)をもジャッカルをも、支那人豺狼と通称す、と言えり(Journal of the North China Branch of the Royal Assiatic Society, new ser.xi,pp.49-50, Shanghai,1877)。されば日本の山犬は正しき豺にあらず。また英語ジャッカルは、ペルシア語シャガール、梵語スルガーラに出ず。支那で野干と音訳せる、その獣の性はなはだ狡智あるよう仏経に見ゆるより、推量もて日本で狐も野干と心得るに及びしなり。
 牛○ 紀州日高郡矢田村大山は、形の似たるより小富士と言い、大山祇命を祭れる古社あり。この山の精、夜分大なる牛となり、道に横たわる由にて、むかし孝子あり、孝の徳にて、親を省せんため道を急ぎて件の牛を飛び踰えしも祟りなかりしと言い伝う。予十九歳の時、その牛を見んと、夜間独りこの山を越えしも見るところなかりし。
 牛の腹より出る毛玉を帶ぶれば、博奕、頼母子などに利ありと聞く。マルコ・ポロの紀行に、鮓荅《さとう》(韃靼語ヤダー・タシュの音訳)をもって雨を祷ることを載せ(Yule,‘The Book of Sir Marco Polo,’1871,vol.i,p.273)、本邦古来牛黄を霊物とし(『和漢三才図会』巻三七)、『日本紀』巻六に貉《むじな》の腹より出たる玉を神宝とせし由見えたれば、古え多少専崇の念を禽獣腹中の頑石に寄せたること知るべし。知人ウエストン氏は、信州大河原でカモシカの鮓荅を見たる記に、この物往時諸難を避け、鉄砲をさえ防ぐと信ぜられたり、と言えり(W.Weston,‘Mountirneering and Exploration in the Japanese Alps,’1896,p.112)。これ、そのかつて毒鏃《どくや》等の毒を吸い去るに神効ありと思われたるに起これるならんか(Navarette,‘Tratados Historicos de la Monarchia de China,’Madrid、1676,p.323)。
 野猪○○ 『嬉遊笑覧』付録にいわく、蛇の怖るる歌「あくまだち、わがたつ道に横たへば、山なし姫にありと伝へん」。こは北沢村の北見伊右衛門が伝えの歌なるべし。その歌は、「この路に錦まだらの虫あらば、山立姫に告げて取らせん」。『四神地名録』、多摩郡喜多見村条下に、この村に蛇除伊右衛門とて、毒蛇に食われし時に呪いをする首姓あり。土人の言えるには、蛇多き草中に入るには、伊右衛門、伊右衛門と唱えて入らば毒蛇に食われずという。守りも出す。蛇多き所は、三里も五里も守りを受けに来るとのことなり。奇と謂うべし、と。さてかの歌は、その守りなるべし。(83)「アクマダチ」は赤まだらなるべく、山なしお姫は山立姫なるべし、野豬《いのしし》を言うとなん。蛇を好んで食らう。ことに蝮を好む由なり、と。熊楠在米のころ、ペンシルヴァニア州へ蛇を除かんがために欧州の野猪を移し放ちし、と聞く。
 ‘Diary of Richard Cocks,’ed.Thompson,1883,vol.ii,p,87 に、コックス、元和中、江戸愛宕権現と愛宕八幡像を拝せしに、いずれも野猪に騎せり。愛宕権現社の登り口に大なる野猪を圏《おり》に飼えり、とあり。勝軍地蔵も、摩利支天と同じく、この獣を使者とするにや。古え欧州にも、野猪をマルスの使者とし、マルス嫉妬のあまり、みずから野猪となりて女神ヴィヌス所嬖の少年アドニスを殺せしこと、沙翁の戯作によって名高し。インドにもヴィシュニュ神、野猪の形を現ずる誕《はなし》あり。帝釈生まれてただちに野猪形を現ぜりという(Gubernatis,op.cit.,vol,ii,p.7 seqq.)。
 海豚(イルカ) 海豚は人の友たり。人溺れんとする時これを救うとて、これを殺すを忌む欧州人多し(Ramusio,‘Navigationi e Viaggi,’Venetia,1606,tom,iii,fol.348)。安南人また、海豚好んで難船を救い、よく人をも船をも背に乗せて陸に致すと信じ、官これに南海大魚仙の号を与う。海豚の尸《しかばね》を得れば鄭重にこれを葬り、その墓に漁利を祷る。海浜に風雨数日続けば、海豚死せる徴なりとして、村中の船競い出でてその尸を求め、尸を見出だせし船の持主、海豚の子となりてこれを葬る。一村すでに海豚の墓多き時はその火葬のさい他村より礼を厚くして、これを求めえて帰り葬る。ただし、鬮《くじ》拈《と》りてその霊の諾否を伺うを要す(A・Lndes,“Notes sur les Moeurs et Superstitions Populaires des Annamites,”Cochinchine Francaise,vol.i,pp.458-459,Saigon,1880)。
 わが邦には、『源平盛衰記』巻四三に、壇の浦の戦いに前《さきだ》ち、安倍晴延、海豚、群をなして平家の船を過ぎて、一も返らぬを見て、その敗を予告せることあれども、別に海豚を崇拝せし記文を見ず。この辺には魚群を追い散らせばとて、帚と名づけて、これを忌む。しかし『玄同放言』巻三に、入鹿は海豚に基づける名とし、蘇我氏の外にも同名者多し、と言えるを考うるに、古え邦人の名とせし諸動物の名とともに、本邦にも古えトテミズム大いに行なわれ、これら諸動物、おのおのこれを名とせる人々より特別の専敬を受けたるにあらざるか、その遺風と覚しく、予の家(84)代々幼名に楠を称し、藤白王子社内の楠神を尊敬せること、予かつて『東京人類学会雑誌』に述べたり。
 梟○ 梟は夜よく視るをもって、ギリシア人これを智慧の女神アテーネの使者とし、アテネ人梟飛ぶをもって吉兆とせり(Gubernatis,l.c.,p.247)。『書紀』巻一一、「仁徳帝の生日、木菟《みみずく》産殿に入りしを、武内宿禰、吉祥なりと奏せしことあれば、古え邦俗必ずしもこの属を忌まざりしにや。支那に古くこれを忌みしこと賈誼の賦に著われ、竺土にも、世尊四種の鳥を鋭くに「三に、あるいは鳥あり。声醜く形もまた醜し。いわく、土梟これなりと」(『増一阿含経』)、「また物怪の鬼は、物消え報尽きて世間に生まれ多く梟類となる、云々。物を貪るの致すところなり」(『首楞厳経義疏注経』)など言えり。梟属をあるいは神としあるいは怪とする諸例および理由は、Herbert Spencer,‘Principles of Sociology’について明らむべし。
 烏○ 熊野の神の外に烏を使者とする例、信濃諏訪の宮(『諏訪訪大明神絵詞』上)、江州日吉山王(『山王利生記』巻一)等あり。『隠州視聴合記』巻二、「知夫郡の焼火山に双鴉あり。その外《ほか》を見ず。常に堂前に遊び、山樹に巣くう。客の来たるを見れば、すなわち屋上に啼き、庭の柯《えだ》に噪《さわ》ぐ。ここにおいて社僧、祠人あらかじめこれを知り、神前に出でもってこれを待つ、云々」。この他なおありぬべし。古え女神ジュノまず烏を、次に孔雀を使者とせり。神武帝、熊野の山道に迷いたまいし時、天照大神、八咫烏をして嚮導せしめたまえることあれば、熊野に烏は古くより所縁ありしなり。ギリシアに、アポロ神、烏に化することあり。『ラーマーヤナ』に、神軍、鬼軍と戦って敗走する時、閻魔烏に助けらる。その報酬に、葬饌を烏の得分とし、烏その食を受くる時、死人の霊、楽土に往き得と定む。ギリシアの古諺に、死ぬことを烏の許に往くと言えり。予思うに、烏は好んで屍肉を食うものなれば、インドまたはエジプトのヴァルチュール同然、人、死に臨める上を飛び廻り、また人尸を食わんとて従軍せしなるべく、自然あらかじめ人の死を知らすとか、烏鳴きが悪いとかいう言も起こると同時に、神使と看なされたるなり(Gubernatis,1.c.,pp.198-199,253-254;Budge,‘The Gods of the Egyptians,’1904,vol.ii,p.372参看)。
(85) 『元亨釈書』に、某大后遺令して玉体を野に棄てしめしことあり。『雍州府志』に、京都紫野古阿弥谷に林葬行なわれ、死人を石上に置き去り、狐狸に食わせし由を載せ、長名の『発心集』巻四に、死せしと思いて、病人を野に棄てけるに、烏その両眼を食せし話あり。熊野は伊奘冊尊御陵のある地にて、もとより死に縁あり。古伝に、死者の霊必ずうしろ向きまたさかさま立ちしてこれに詣ずと言いしは、濃霧に行人の反影などを幻映せるより生ぜしならん(近松の『傾城反魂香』に出ず)。今も近村の人死すれば、妙法山に亡者登り、鐘おのずから鳴るなど言い伝う。予毎度植物採集にゆき、夜に入って独り死出の山路といえる所を歩み那智へ還りしが、あまり心持よろしきことなかりし。されば烏を熊野の神使とするはおのずから訳あり。ただこの山に烏多きのみに由来するにあらじ。
 鶴 志摩国大歳の神は本体鶴にて、内宮の末社なり。故に、神宮の社司、鶴を食わずとぞ(『倭姫命世記』、『弘安九年大神宮参詣記』、『兼邦首首歌抄』参看)。
 鷺○ 『太平記』に、気比宮の神使と言えり。山二二六頁所載、鷺大明神は、『懐橘談』によれば、出雲にあり。素盞嗚尊の娘美女なりしが、天瘡にて醜くなる。神社に誓うて、末世の人民に疱瘡を免れしめんという、云々。惟うに、驚の羽、軽く柔らかにして、疱瘡を撫づるに快きより、鷺の宮の名に思い寄せて生ぜる話なるべし。
 鳩○ 鳩を神物とし、独、伊、和、露の民これを食わず。古えシリアおよぴパレスチナの民はなはだこれを敬せり(Gubernatis,1.c.,ch.x)。したがって、天主徒またこれを崇め、ラヴェンナの寺へ、聖魂十一度|鴿形を現じ、来たりて十一僧正を撰定し(Careri,‘Travels through Europe,’1886,in Churchill's ‘Collection,’vol.iv,p.574」)、東京で鳩を殺さしめて、キリスト教徒か否を検定せる(Marini,‘Historia et Relatione del Tunchino e del Giappone,’Roma,1665,p.7)等、珍譚多し。わが邦にも、八幡の氏子ならでも、一生これを食わぬ人多ければ、八幡山に多きゆえのみが鳩を神物とする理由ならじ。
 燕 紀州にて、秋葉の神使なれば、これを殺さば火災ありと言い伝う。太古より、諸国に燕を神物とする例、多く(86)予未刊の著『燕石考』に集めたり.
 鶺鴒 伴信友の『比古婆衣』巻一八に、黄鶺鴒を「ニワクナギ」、背黒きものを「石クナギ」という。男女交接の時、男の行いを「クナグ」と唱うるなり、と言えり。諾・冊の二尊に男女の大道を教え奉れる鳥なれば、和泉式部も、「逢ふことを稲負せ鳥の教へずば、人を恋路に惑はましやは」と詠じ、川柳にも、「鶺鴒も一度教へて呆れ果て」とよめり。古え西アジアのアスタルテ神の秘密儀は、神林中にて行なわれしが、その林に信徒より献納せる鶺鴒鳴き遊べり。術著その肉を媚薬に作れり(Dufour,‘Histoire de la Prostitution,’tom.i,p.40,Bruxeslls,1851)というに、わが邦に古来この鳥を尊崇せしことを聞かぬは、恩に負くのはなはだしきものなり。支那には諸本草これを載せず。『大清一統志』に、その名ある産地を挙げたり。媚薬に用いたるにやあらむ。ただし予が現住する紀州田辺では、小児この鳥を見るごとに、「ミコチョウ尾を振れ、杓に一盃金やろう」と呼ぶ。子細をつまびらかにせざれども、古えこの鳥を見る時祝して、われにもやがて汝のごとくクナガ〔三字傍点〕しめよと望むを常習とせる遺風にやと思わる。伴氏は、山城辺の児童、鶺鴒を尾びこ鳥と言えり、と述べたり。尾をピコピコ揺《うご》かすの義か。熊楠謹んで案ずるに、交合を「マク」という詞、『古今著聞集』に見え、『南留別志』に「、ミトノマクワイという詞、ミとはメオトなり。マクワイ今も田舎にてメグスというなり」といえれば、これらよりミコチョウの名出で来たれるか。支那の厩神像、鶺鴒を踏めるも(『類聚名物考』巻一四四)、この鳥の動作、乗馬に似たるに基づくならん。
 鳶 『和漢三才図会』巻四四に、愛宕神、鳶を使者とすと言い、『十訓抄』に、天狗鳶の形を現わして小児に苦《なぶ》られし話あり。『今昔物語』に、源光公、五条道祖神祠の柿樹に現ぜる仏を睨み詰めたるに大鳶となって落ちたり、と載せ、『戴恩記』に、魔法成就の時、鳶来たり鳴くと言ったり、あまり評判のよろしからぬようなれど、金鵄、瑞を呈して長髄彦伏誅せし例もあれば、ずっと大昔は、鳶も多少尊崇されしと見ゆ。インドには、ラーマ王の美后シーター、悪鬼王ラーヴァナに奪い去らるる途上、鳶出でてラーヴァナと闘う話あり(Raevenshaw, Journal of the Asiatic (87)Society of Bengal,vol.xi,p.1124,1842)フィリッピン島は鳶が水を蹴って作りし所という古伝あり(F.Colin,‘Historia Filipinas,’Madrid,1663,p.64)。
 蛇○ 紀州に、歯痛む者、他人の打ち殺せる蛇を貰い受け、埋めてこれに線香を供え、拝し念じて効あり、と信ずる人あり。山二二七頁に、白蛇崇拝は偽経より出たることなり、とあり。されど『轍耕録』巻七に、趙生、薪を伐って業とし貧なりけるが、山に入って巨蛇章質ことごとく白きを見、逃げ帰りしが、白鼠、白蛇は宝物の変成せるなりということを思い出し、往って捜して金銀をおびただしく得たる由見ゆれば、白鼠、白蛇を大黒と弁財天の使令とするは、漢土にも世々言うことらしし、と『類聚名物考』巻三三七に言えり。
 野槌 『沙石集』五巻三章に、叡山の二学匠相契りて、先立つことあらば必ず生所を告ぐべしとなり。さて一人死して夢に告げていわく、われは野槌というものに生まれたり、と。これ常になき獣、深山の中にまれにあり、と言えり。形大にして目鼻手足なく、ただ口あり。人を取って食らう。これは仏法を一向名利のために学びて、勝負諍論して、口ばかりさかしけれども、智恵の眼も信の手も戒の足もなきゆえに、かかる恐ろしき物に生まれたり、と言えり。予、熊野の山人に聞きしに、野槌はムグラモチ樣の小獣にて、悪臭あり、と言えり。この説『沙石集』の文に近し。しかるに『和漢三才図会』巻四五には、これを蛇の属としいわく、「深山、木の竅の中にこれあり。大なるもの径五寸、長さ三尺。頭尾均等にして尾尖らず。槌の柯《え》なきものに似たり。故に俗呼びて野槌と名づく。和州吉野山中の菜摘川、清明の滝のあたりに往々これを見る。その口大にして人の脚を※[口+盍]《か》む。坂より走り下ることはなはだ速く、人を逐う。ただし、登行はきわめて遅し。故にもしこれに逢えば、すなわち急に高き処に登るべし、逐い著くことあたわず」。今もこの物、大和にはさしてまれならず。丹波市近所に、むかし補え来て牀下に畜いしに、只今眼小さく、その体、俵のごとく短大なるものとなり、握り飯を与うるに転がり来て食うことすこぶる迂鈍なるを目撃せる人、これを予に話せり。前年、『大阪朝日』か『大阪毎日』の地方通信に、和泉の山中にこの物あり、土俗ノロと言う、と見えし。(88)当国日高郡川又にて聞きしは、この物|倉廩《くら》に籠りおることあり、さまでまれならず、と言えり。
 また田辺湾の沿岸堅田の地に、古え陥り成れると覚しき、至って嶮しき谷穴(方言ホラ)あり、ノーヅツと名づく。俚伝にいわく、むかし野槌といえる蛇これに住み、長およそ五、六尺、太さ面桶《めんつう》のごとく、頭、体と直角をなす状、あたかも槌のごとく、急に落ち下りて人を咬めり、と。よって今も人惶れてこの谷穴に入らず。案ずるに、山本亡羊の『百品考』に、蛟出ずれば山崩るという漢土の鋭を挙げ、蛟をホラと訓ぜり。かかる地崩れの際、古爬虫の巨大なる遺骸、化石して顕出せるを蛟と名づけしにて、ホラはもと洞の意なるを、転じて地崩れより生ぜる谷穴をも呼びしならん。また『東海道名所記』三にいわく、今切の渡し、むかしは山に続きたる陸地なりしが、百余年ばかり以前に、山の中より螺の貝おびただしく脱け出でて海へ飛び入り、その跡ことの外崩れて、荒井の浜より五里ばかり一つ海になりたるゆえに、今切と申すなり。『和漢三才図会』巻四七にも、「およそ地震にあらずして、山岳にわかに崩れ裂くるものあり。相伝えていわく、宝螺《ほらのかい》の跳り出でて然るなり、と。遠州荒井の今切のごときは、処々に大小これあり。竜か螺か、いまだその実を知らず」。洞も宝螺もホラに訓ずるゆえ、混じて生ぜし説にや。もしくは地崩るる時、螺類の化石露出するによれるか。古え堅田に、山崩れて件の谷、穴をなす際、異様の爬虫化石出でしより、これを野槌蛇と心得て件の譚を生ぜしにや。
  丹波市の野槌の話に似たる外国の例は、一七六六年、インド山間の諸王が、世界と伴《つ》れて生死すと信じ、崇拝せる神蛇ナイク・ペンスを見し人の記に、この蛇、岩窟に住み、一週に一度出でて、詣者が奉れる山羊児また鶏を食う。それより、堀に入って水を呑み、泥中に転び廻り、さてまた窟に入る。吾輩その海上に印せる跡より推すに、この蛇長さに比して厚きこと非常にて、径《わたり》二尺を踰ゆ、と(V.Ball,‘Jungle Life in lndia,’1880,P.491)。また『淵鑑類函』巻四三九に、『夷堅志』を引いて、南宋の紹興二十三年(近衛帝仁平三年)建康に現われし豬豚蛇のことを言えるに「竹叢より出ず。その長さ三丈、面大きくして杵のごとく、四足を生ず。遍身に毛あり、声をなすに(89)豬《ぶた》のごとし。行《ある》き趨《はし》ることはなはだ疾《はや》く、人を逐い呑噬《どんぜい》するの勢をなし、云々、人を齧《か》めば立ちどころに死す」とあるは、野槌を獣とするも蛇とするも、多少似たるところあるようなり。
 野槌の意義については、『東京人類学会雑誌』二八二号四六三頁以下に、出口君の論あり。予一向不案内のことながら、『古事記伝』五に、『和名抄』、水神また蛟を和名美豆知と訓せり、豆《つ》は之《の》に通う辞、知は尊称にて、野槌などの例のごとし、とあれば、ミヅチは俗にいう水の主また蛇の主、野槌は野の主ということなるべし。『日本紀』によれば、諾・冊二尊、日神を生みたまえる前に、野槌を生めり。鈴鹿連胤の『神社覈録』を検するに、『延喜式神名帳』、加賀国加賀郡に野蛟神社二ヵ所にあり、一は金山彦命を祭り、一は高皇産霊尊等三神を祭る、野蛟はノヅチと読むべし、とあり。また下総国に蛟※[虫+罔]神社あり、ミヅチと読む、水神罔象女を祭る、とあるをもって考うれば、加賀の二社はもと野槌を祭れるにて、野槌は蛇の属たりしこと明らけし。神が蛇までも産みし例は、ギリシアの大地女神ガイアの子に、怪蛇ピゾンあり(Seyffert,‘A Dictionary of Classical Antiquities,’London,1908,p.531)
 『類聚名物考』巻三三七に、野仲「ノヅチ」、『文選』の訓に言えり、その義註にもつまびらかならず。「張平子は野仲を殪《たお》して遊光(ツキガミ)を殲《ほろぼ》す。注にいわく、野仲、遊光は悪鬼なり。兄弟八人、常に人間《じんかん》にあって怪害をなす、と」とあれば、後世野槌は、支那の悪鬼野仲に宛てらるるほど評判悪くなり、神より降って怪物となりしなり。思うにミヅチ、ノヅチ、いずれも古えありし大蛇を、水に住むと野に棲むに従いて、その主とせる名ならん。大和、和泉等に現在すといえる野槌蛇は、予親しく見ざればその虚実を知らず。あるいはある種の蛇、病に罹りて、人間の象皮
病のごとく、かかる畸形を生ずるにあらざるか。無脚|蜥蜴に“Uropeltidae”の一群あり。みな蛇に似ながら、身体短く、尾端太くして頭と等しく、その状あたかも斜めに切って、体の後部を取り除けるがごとく、その截断せるごとき表面の尖鱗を地に押しつけて行動す(Tennent,‘Sketche so ftbe Natural History of Ceylon,’1861,p.302.図あり)。本邦まれに両足の蛇を出し、『蒹葭堂雑録』等にその図を載す。これ両脚蜥蜴の一種なるべし。よって推すに、野槌と称(90)するもののうち、あるいは一種の無脚蜥蜴の頭尾均等に後体截り去られたる形を具するもの、全くなきを保せずとや言わまし。とにかく、野槌は古えの神蛇で野の神として崇拝されしを、後世その伝を失い、異様畸形の蛇を呼ぶこととなり、種々の怪談を生ずるに※[しんにょう+台]べるならん。
  (追加) レオ・アフリカヌスいわく、アトランテ山に毒竜多く、窟内に住む。胴はなはだ大、頭尾細きゆえ、身体重く、行動はなはだ遅し、と(Ramusio,oP.cit.,tom.i,fol.94;Lacroix,‘Scienca and Literature of the Middle Ages,’London.N.D.,p.221.図あり)。また竜の歩行すこぶる迂鈍にして、大雨の時、谷に落ちて多く死すと、何か中古の欧州書で見たるも、今その名を記せず。かかる由来にや、今日ギリシアで竜(ドラコス)と呼ぶは、人を食う巨人にて、力強きも智はなはだ鈍く、人間に欺かれし珍譚多し(Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’vol.ii,p.293 seqq.,1869)。本文、和泉にて野槌をノロと言うこと效え合わすべし。
 海亀○○ 紀州田辺にて、海亀を獲るも殺さず。酒を飲ませて放ちやるを常とす。海に入って暫時して浮き上がり、恩を謝して去るという。実は呼吸に暇とるなり。この海亀を食う人多きも、これを殺す者古来その業を世伝し、他人これを殺さず。余が知れる新宮の船頭、持ち船を浮宝丸と号せり。その人みずから見しことなけれども、海亀まれに緑色ではなはだ光る異宝を抱き浮く。これを亀の浮宝と名づけ、見る者もっとも幸運の兆なりとす。只野真葛の『磯通太比《いそつたひ》』に、奥州の漁夫、二年続けて同一の亀を得、酒多く呑ませ放ちやりしに、第三年めにその亀、鸚鵡螺一を負い来たり贈り、たちまち死し、その螺を宝としその亀を葬りしに、官命じて亀霊明神と号せしめたる話あり。『和漢三才図会』巻七六に、淡路の由良島に、毎年六月三日、社僧竜王を祭る時、大小の海亀必ず来游群をなす、と言えり。神代に、豊玉姫亀に乗り、海を渡ることあり。安南のトラオス人の祖も、亀に乗り水を渉り来しという(Neis et Septans,“Rapport sur un Voyage d'exploration aux Sources du Dpng-Nai,”Cochinchine Francaise,no.10,1882,p.44)。また、鹿島明神、早亀という亀に乗り、長門豊浦に到りし由、『類聚名物考』巻三一一に見ゆ。これら諸例より推して、古えわ(91)が邦に、亀を神もしくは神使とする風盛んなりしを察すべし。また、海坊主とて、海亀を漁事に不祥なりとすること、『和漢三才図会』巻四六に出で、その「たまたま捕えうることあって、すなわちこれを殺さんとす。時にこの物、手を拱いて涙を落とし、救いを乞うもののごとし、云々」と言えるは、十七世紀の終りに英国学士会員フライヤーがスラットで、海亀を捕るを記して、この物全く蟾蜍の愛すべきに似たり、婦女のごとく長大息し、小児のごとく啼く、裏返しおく時は行くあたわず、と言えるに近し(Fryer,‘A New Account of East India and Persia,’1698,P.122)。
 蟾蜍 蟾蜍は、耶蘇教国一汎に、これを大毒あり、罪悪あるものとして忌み嫌う(A.C.Lee,‘The Decameron,its Sources and Analogues,’1909,p.139)。予かつて英国学士会員ブーランゼー氏にこのことを質せしに、蟾蜍の皮下に毒物あるは事実なりと語られ、昨年ごろこのことを学士会院で論ぜられたり。しかるに、支那に多くこれを食い、本邦にも九州に然する所ありと聞く。山座円次郎氏の直話に、学生の時貧にしてしばしばこれを烹食せしが、ずいぶんかなりの味はある。しかし、爪を去らずに食えばすこぶる苦かりし、と。わが邦には、欧州とかわりこのものを福と名づけ、人家に幸福をもたらすものとす。たしか、『風俗文選』にも記せり、と覚ゆ。和漢ともその霊物なるを言い(『和漢三才図会』巻五四)、Huc(‘L’Empire chinois,’1854)、支那にこれを祠れる廟あるをいえり、と記憶す。『古事記』に、大国主神、始めて少名毘古那神を見、その誰たるを知らず、蟾蜍の言に従い、久延毘古を召し問うてその名を知りしことあり。くわしくは『古事記伝』巻一二を見よ。
 イワナ魚 『想山著聞奇集』巻三に、美濃、信濃にこの魚坊主に化けるという迷信多き由言えり。ただし、その僧に化し来て、人に漁を止めんことを訓え、食事して去り、獲らるるに及んで、腹に先刻人に饗せられたる団子存せしという話は、『荘子』に、孔子が 「神亀《しんき》よく夢に元君に見《あらわ》るれども、予且《よしよ》の網を避くるあたわず」と言いけるに基づき作れるか。
 鰻○ 紀州の某所に片目の鰻あり、これに祈れば必ず雨ふるということ、『紀伊国名所図会』にありしと覚ゆ。伊豆(92)三島の神、鰻を神使とする由、『明良洪範』、『東海道名所記』等に見えたり。多島海《ポリネシア》人、鰻およびハモを神とすること、Waitz und Gerland,‘Anthropologie der Naturvolker,’6te Teil, Leipzig,1872,S.280,296 に出でたり。『老媼茶話』に、慶長十六年、蒲生秀行只見川に毒を流す前に、大鰻僧に化け来てこれを止めんとせしことを載す。今も紀州に大鰻池の主なりと伝うる所あり。
 鮫(サメまたフカ) 東インド諸島およびアフリカで鮫をいたく尊崇すること、F.Schultze,‘Fetichism,’trans.,New York,1885,p.79 に出で、セイロソ、トレス峡等には、漁に臨んで種々に鮫を厭勝《まじない》してその害を免れんと力む(Tennent,op.cit.,p.398;Frobenius,‘The Childhood of Man,’London,1999,p.242)。タヒチ島のダツア・マットは、海の大神にて、鮫を使う。ただし青鮫にかぎり、この鮫、祠官の令に随って進退し、舟覆える時、他人を食うも祠官を食わず。これを乗せて二十マイルも游ぐことあり。この神の信者を食わず、この鮫を舟行の神とし、社を建つ。古伝に、タヒチ島、もとは鮫たりしということ、わが邦|蜻※[虫+廷]の形ありというに似たり。ハワイのモロカイ島には、古え海角ごとに鮫を神とせる祠立てり。諸魚おのおの定期あって、年々この島に到る。その種ごとに初物を取りて鮫神に献ぜり。思うに古え定まれる季節に、鮫これらの魚を追い到りしを見て、神魚人を利すと心得、これを神とせるならん、とエリス言えり(Ellis,‘Polynesian Researches,’1831,o,p.166 seqq.,C,p.90;Waitz,1.c.,S.319)。
  魚、人を乗せて游ぐこと、支那に、琴高、鯉に乗り、陳侯の子元みずから水に投ぜしを魚負うて救いしなどの例あり(『淵鑑類函』巻四四二)。泰西にも、ギリシアの美少年神エロス、海豚《いるか》に乗ることあり(Gubernatis,1.c.,p.340)。ハイチ島発見の時、人を乗せて湖を渡すマナクス獣ありしなど、似たることなり(Ramusio,tom,B,fol.33)。
 本邦には伊勢国磯部大明神は、今も船夫漁師に重く崇めらる。鮫を使者とし、厚く信ずる者、海に溺れんとする時、鮫来たり負うて陸に達す、という。参詣の徒、神木の樟の皮を申し受け所持し、鮫、船を襲う時これを投ずれば、たちまち去るとぞ。タヒチ島の例と均しく、神使の鮫は、長さ四、五間、頭細長く、体に斑紋あり。エビスと名づくる(93)種に限る。毎年祭礼の日、この鮫五、七頭、社に近き海浜に游ぎ来たる。もし前年中人を害せし鮫ある時はこれを陸に追い上げ、数時間これを苦しめて罰す。この鮫海上に現わるる時、漁夫これを祭り祝う。「エビス付キ」と名づく。毎日一定の海路を游ぎ来たるに、無数の堅魚これに随行するを捕え、利を得ること莫大なり。信心厚き漁夫の船下に潜み游ぐ。信薄き輩の船来たればたちまち去る。これに漁を祈る者、五日、七日と日数を限りて漁獲を求む。日限おわるまで漁しつづくる時は破船す。その船底を見るに、煎餅のごとく薄く削り成せり。これこの鮫の背の麁皮をもって磨《こす》り去れるなり、と。古老の漁人の話に、海浜に夷子の祠多きは実にこのエビス鮫を斎き祀れるなり、と。
 古書に鮫を神とせしこと見当たらず。ただし、※[魚+〓]《わに》を神とせしこと多し。十余年前、ある人『日本』新聞に奇書して、わが邦の「ワニ」は「ワニザメ」と称する一種の鮫なり、その形多少漢文※[魚+〓]の記載に似たるをもって、杜撰にこれを充てたるなり、とありし。真に卓見なり。『大和本草』、『和漢三才図会』等、※[魚+〓]を記せる、いずれも海中の鮫類と見ゆ。今日パレスチナの海辺に※[魚+〓]あり、羊を害すというは、実は鮫ならんという説参考すべし(Pierotti,‘Customs and Tradition of Palestine,’1864,p.39)。また実際※[魚+〓]なき韓国の海にて、筑紫の商人、虎が海に入って※[魚+〓]を補うるを見し話あり(『宇治拾遺』三九章)。十七世紀に、韓国に漂着して十三年留まりおりし蘭人の記にも、その水に※[魚+〓]多き由筆せるは、いずれも鮫のことと思わる(Churchill,op.cit.,vol.C,1752,p.735)。
「神代巻」に、海神一尋の※[魚+〓]に、彦火々出見尊を送り還さしむることあり。また豊玉姫、産場を天神に覗われしを憤り、化して八尋の大※[魚+〓]となり、海を渉りて去る、と言えり。鮫を神霊ありとする由緒古きを見るに足れり。
  上に言える、鮫が罪ある鮫を罰する話も、古くありしにや。『懐橘談』に、出雲国安来の北海にて、天武帝二年七月、一女※[魚+〓]に脛を食わる。その父哀しみて神祇に祈りしに、須臾にして百余の※[魚+〓]、一の※[魚+〓]を囲繞し来たる。父これを突き殺すに諸※[魚+〓]去る。殺せし※[魚+〓]を割くに女の脛出でし、と見ゆ。真葛女の『磯通太比』に、奥州の海士、ワニザメに足を食い去られ死せしを、十三年目に、その子年ごろ飼いし犬を殺し、その肉を餌として※[魚+〓]を捉え、(94)復讐せり、という譚はこれより出でたるならん。
 蜜蜂 蜜蜂は神に捧ぐる蜜酒《ミード》を原造するをもって神使となし、今も欧州に死人あれば、すなわち家に飼える蜜蜂に訃を伝えて、楽土に報ぜしむる風あり(Notes and Queries,May 30,1908,p.433)。英国には、蜜蜂故なくして巣を捐つるは、家主死すべき前兆と信ずる者多く(Hazlitt,‘Faiths and Folklore,’1905,vol,i,p.38)、支那には、蜂の分かるる日を吉日として、婚姻、造作始めし、また市を立つる所あり(予の“Bees and Lucky Days,”N.& Q.,Oct.10,1908,p.285)。本邦には、かかることを聞かず。深山に石蜜、木蜜あれど、古くはこれを採らざりしにや。その名は美知というも、実は漢音なり。推古帝の朝、百済の王子豊埠、蜜蜂を三輪山に放ち飼わんとせしも蕃殖せず(藤岡・平出二氏『日本風俗史』上編六三頁)。『延喜式』、諸州の貢物を列せるに、蜜蜂を挙げずと記憶す。後世にもその産いと稀なりしにや。予が大英博物館にて閲せし‘Breve Ragguaglio del’Isola del Giapone ristampato in Firenze,’1585(天正十三年、九州の諸族がローマに派遣せる使節より聞くところを板行せるなり)に、日本に蜜蜂なければ蜜も蜜蝋もなし、その代りに一種の木あり、好季節をもってこれを傷つけ、出る汁を蒸溜して蝋代りの品を採れども、蜜蝋ほど稠厚ならずとあるは、漆のことを言えるにや。とにかく蜜蜂を飼うこと稀なりしゆえ、蜜蜂を神異とせる譚も聞かざるなり。ただ『日吉山王利生記』巻三に、蜂は山王の使者と見え、『十訓抄』一に、余五太夫、蜂が蜘蛛の巣にかかれるを救いし返酬に、蜂群来て助勢し、敵を亡ぼしければ、死したる蜂の跡弔わんとて、寺を建てたる話あれども、特に蜜蜂とは記さず。
 蝶○ 『和漢三才図会』巻六八いわく、「立山の地獄道に、追分地蔵堂あり。毎歳、七月十五日の夜、胡蝶あまた出でて遊び、この原に舞う。呼んで生霊《しようりよう》の市という」。この蝶は生霊の化するところという義にや。 蟹尾○ 金毘羅を信ずる者、蟹を食わず。その神使は蟹なりという。『本草綱目』に「『筆談』にいわく、関中には蟹なし、土人その形状を怪しむ。乾せしものを収め、門の上に懸けて瘧を辟く。ただに人の識らざるのみならず、鬼もまた識らざるなり、と」。紀州の人家、戸口に平家蟹、麒麟貝、コバンウオ等を懸けて、邪鬼を禦ぐことあり。
(95) 田螺○○ この物多少神異とせられしにや。『常山紀談』(続帝国文庫本、六三七頁)に、大阪陣に田螺をもって軍の勝負を占いせし由を載せ、『武備志』にも、この兆を出したり、とあり。日本、支那のみならず、カンボジアにも行なわるること、予の“On Augury from Combat of Shell-fish,”Nature,1897 に出せり。またこれについて、あるインド人同雑誌に奇書して、ポルネラにもこの占法あり、と報ぜり。また『奥羽永慶軍記』巻三六に、羽州山北の城主小野寺義通、封を奪われし前に、その小姓早朝登城の途中、大手門内の池より、大石を引き出せるごとく一尺あまり積もれる初雪を左右に分かち、土を顕わしたる跡あるを慕い行くに、土堰を上がり、塀三重を打ち破り、坪の中に入って雪垣を破り、縁より上がり座敷に入れる跡あり。入って見るに、床の上に五尺ばかりの丸き物あって磐石のごとし。よくよく見るに田貝という物なり。元の池へ捨つるに、六、七人にて持ち行けり。翌年、城主遠流となる、と。田貝は蚌《どぶがい》かと思えど、すでに丸しと言い、這い行きしと言えば、これも田螺を指せると見ゆ。
(追記)
 狸。熱田の大神は狸を愛したまうにや。師長公、社前に琵琶を奏でし時、明神白狸に騎し現われたまいしと、『源平盛衰記』巻一二に見ゆ。
 建部綾足の『折々草』夏の上の巻に、信濃の人、野守という虫を殺せし話あり。頭は常なる小蛇のようにて、指六つある足六所に付き、長さ一丈に足らざるに、太さ桶のごとく頭尾はるかに細し、悪臭を放つ、と。野守は、野槌と等しく、野の主の意なるべし。本文列挙せる諸例と併せ考うべし。またかかる蛇の譚、西半球にも古くより存せし証は、十六世紀に、スペインのアルヴァール・ヌニェツ、艦隊を率いペルーに入りし時、八千戸ある一村に円塔あり。一大怪蛇これに凄み、戦死の尸《しかばね》を享け食らう。魔この蛇に託して予言を発すと信ぜらる。その蛇、長《たけ》二丈五尺、胴の厚さ牛のごとく、眼すこぶる小にして輝くこと、頭至って厚く短きに相応せず、歯、鎌のごときが二列あり、尾滑らかなれども、他はことごとく大皿樣の巨鱗もて被わる。兵士これを銃撃するに及び、大いに吼え、尾をもって地を(96)叩き震動せしむ。一同大いに驚きしが、ついにこれを殺しおわる、と言えり(F.N.del Techo,‘The History of Paraguay,’etc.,in Churchill,op.cit.,vol.C,1752,p.14)。すでに東西両半球にかくまで相似たる譚多きを攷うれば、野槌の誕《はなし》は、たとい多くの虚言を混じあるにせよ、多少の事実に基づけるを知るべし。 (明治四十三年七月『東京人類学会雑誌』二五巻二九一号)
 
【補遺】
 『東京人類学会雑誌』二九一号三二九頁に、予は御嶽、玉置山等で狼に犬の功ありとするは、狼犬同源の遺跡を留むるものならん、と論ぜり。その後、上垣守国の『養蚕秘録』を見るに、但馬の養父大明神も狼を使者とす、と記せり。近ごろ柳田氏の『遠野物語』を覧るに、「猿の経立《ふつたち》、御犬の経立は、恐しきものなり。御犬とは狼のことなり」と見ゆ(三六章)。前日、予何の心もなく、ウッド氏の『動物画譜』中のコルスン(Cuon dukhuensis. インドの西疆に産する野犬なり。よく群団して猛虎を殺すをもって著名なり。この獣、体色赭く、足、喙、耳と尾尖黒し、とあれど、『本草網目』に、黄腰獣、豹より小さく、腰以上は黄、以下は黒し。形、犬に類す。小なりといえども、よく虎と牛鹿を食らう、と言えるは、この獣のことを多少誤聞せる記載かとも思わる)の図を、画家川島友吉氏に示せしに、むかし唐人が倭犬を画きたる物あり、はなはだこの図に似たり。今の倭犬はことごとく洋種を混じたれば、すこぶる固有の倭犬と異なるに及べり、と言われたり。本邦の狼と犬との関係に多少縁あることなれば付記す。
 同号三三三頁に、予『大清一統志』に鶺鴒の産地を挙げたるは、婚薬に用いしならんと言えり。再び案ずるに、これ籠鳥として弄びしならん。本邦にもその例あり。『碧山日録』巻一、「長禄三年四月五日。摂州の太守幸公、春公と相率いて来たる。予、礼をもってこれを待《もてな》す。余に一石あり、高峻にして双尖をなす。幸公いわく、金吾《きんご》宗全の孫、その呼んで十次郎となす者、鶺鴒を好んでこれを籠にかう。この鳥は石をもって居となすなり。しかれども、よろしきものなし、この石もってこれに当つべしと言い、よってこれを欲するの色あり。すなわち、これを納る。幸公これ(97)を悦ぶ」と記せり。
 三三七頁に、古え日本人、海亀を神または神使とせし由を述べたり。今も然する所あるは、今年七月三十日の「紀伊毎日新聞』に、「淡路志筑町の海岸へ、毎年土用に、甲の幅三尺余の大亀、一定の場所に来たり産卵するを、町民、神として敬う。今年七月二十六日、該町弁財天祭にて人多く賑いしに、夜十一時ごろ、亀出で来しを見出だし、海岸に人の山を築き、さっそく神官を呼び、町民はもったいなしとて、遠くより打ち眺むる由。亀、穴を掘ったるまま、卵を産まずに去れり。この大亀例年来るは、久しき以前よりのことにて、一定の場所へ、毎年必ず十二列十二重に、百四十八(四か)箇を産む。約三ヵ月のちに孵化するまで、子供近づけず。産卵後ただちにその周囲に注連《しめ》を張り、神官をしてその発育を祈らしむる例なり。しからざれば、狂波にわかに起こって、海岸に居合わしたる者を巻き込む、と。さて孵化せし亀は、母亀ともに遠く海に出で去る。その時町民打ち守り、鄭重なる言葉を遣い、神酒を呑ませ帰すを例とす」と載せたるにて証すべし。紀州田辺辺の漁民は、海亀卵を下す地が波際を去る遠近を見て、その秋波の高低を卜うなり。
 蜈蚣は、今日もっぱら毘沙門の使者と信ぜらるれども、古えは他の神の使者ともなせしにや。『続群書類從』巻三〇所収『八幡愚童訓』巻下に、淀の住人八幡に参り祈りしに、宝蔵の内より大なる百足這い懸かりければ、これ福の種なりと仰いで、袖に裹んで宿所へ還り、深く崇め祝いしに、所々より大名ども来て問丸となり、当時まで淀第一の徳人なり、と見え、『神宮雑用先規録』巻下に、皇太神宮神主荒木田氏の祖の名を列せる中に、牟賀手あり。これは蜈蚣を吉祥として名とせしにや。
 蟹(同号三四一頁参照)。越中放生津の諏訪社に白蛇あり。諏訪様と名づく。蟹多く引き連れ出で遊ぶ。沢蟹多く出て諸人を迎うるは、この地の不思議にて、大要使わしめというものに似たり、と。『三州奇談』後篇一に見ゆ。
 蜻※[虫+廷]。『類聚名物考』巻二五八、銭を数うる異称の条々、礼家に言い伝うるは、蜻蛉結びを武家に用ゆ、この虫を(98)将軍虫と言う、とあり。拙妻の亡父の話に、蜻蛉を勝ち虫と名づけ、武士の襦袢等の模様に用ゆ。自身も長州征伐の時然せり、と。神武帝、蜻蛉によって国に名づけたまいしことあり。雄略帝、この虫が虫を誅せしを褒め言いしこともあり。崇拝とまでなくとも、古来吉祥の虫と見なされたるを知るべし。
 (明治四十三年十一月『東京人類学会雑誌』二六巻二九六号)
 
【付記】
『東京人類学会雑誌』二九一号に、予が載せたる野槌に似たること、橘南谿の『西遊記』巻一に出ず。その略にいわく、肥後の五日町、求麻川端の大いなる榎木の空洞に、年久しく大蛇住めり。時々出で現わるるを見れば病むとて、木の下を通る者必ず低頭す。太さ二、三尺、総身白く、長さわずかに三尺余、たとえば犬の足なきごとく、また芋虫に似たり。土俗これを一寸坊蛇と言う、下略。 (明治四十四年三月『東京人類学会雑誌』二六巻三〇〇号)
 
(99)    小児と魔除
 
 『東京人類学会雑誌』二七四号、出口君の所篇を読み、思い中りしことども書き留めて送呈すること左のごとし。
 人名を穢物もて付くること(出口論文一三七頁)
 滝沢解の『玄同放言』巻三上、姓名称謂の条に国史を引いて、押坂部史毛尿《おしさかべのふびとくそ》、錦織首久僧《にしこりのおびとくそ》、倉臣小屎《くらのおみおくそ》、阿部朝臣男屎《あべのあそみおくそ》、卜部乙屎麿《うらべのおとくそまろ》、節婦|巨勢朝臣屎子《こせのあそみくそこ》、下野屎子《しもつけのくそこ》等の名を列し、いとも異なる名なれども、時俗の習いまた怪しむに足らず、と言えり。今案ずるに Panjab Notes and Querie,vol.i,note 219(Allahabad,1883)にいわく、インド・パンジャブの俗、小神輩が児童の美を嫉むを避けんがため、これに命ずるに卑蔑の意ある名をもってす。例せば、一児痘を病んで死すれば、次に生まるる児に名づくるに、マル(悪)、ルブリア(漂蕩人)、クリア(掃除人)、チュラ(探塵人)、チハジュ(篩ほど賤しき奴)等の諸名の一をもってするなり、と。わが国の丸の語に悪の意なければ、パンジャプのマルと同原ならで、偶合ならんも、邪鬼を避けんがために、人名に屎、丸等の穢きを撰べりと言える『消閑雑記』の鋭は、件のインドの例によって強味を増すなり。
 また右に引ける『パンジャプ随筆質問雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』note 447 に、父母その子のために視害(ナザル)を予防せんとて、マラ(死人)、サラ(腐物)、ルラ(不具)、チョッツ(盗賊)、ビカ(乞丐)等の悪称をもってこれを呼ぶ由を載す。神代に、葦原醜男あり(『書紀』巻一)。延暦のころ、美濃国人村岡連悪人(『玄同放言』三、『類聚国史』を引く)あり。今日視害を懼るること最もインドに行なわれ、邪視(evil eye)の迷信はきわめて南欧、西アジア、北アフリカに盛んにて、本邦(100)にはこれらに相当する詞すら存せずといえども、古書を閲し俚俗を察するに、二者の蹤《あと》と覚らるるもの全くなきにあらざれば、醜男、悪人等の名は、日本にもいと古く視害また邪視を避けんとて、いたずらに子に悪名を命ずる風ありし跡を留めしものと思わる(今も厄年生れの児に捨の字を名とするなど、これに似る)。
 邪視のことは F.T.Elworthy,‘The Evil Eye,’1895 に諸国の例をあげて詳説せり。予もしばしば読みたれども、忘れおわりたるをもって、只今身近く蔵せる多少の書籍と、自分の日記手抄とによってその一環を筆せんに、ブリチッシュ博物館人類学部長チャーレス・ヘルキュルス・リード氏の直話に、氏の本国なるアイルランドには、今も貪慾、憎悪、嫉妬等の邪念をもって人畜、物件を見れば、見らるる者に害ありと信ずる輩多く、往古邪視の力よく高厦を焼き亡ぼすとさえ伝えたれば、古寺観の前に女人陰を露わせる像を立てたるあり。こは一生懸命にその建物を睨み詰めんとするうち、女陰を見て、たちまち視力の過半をその方に減じ去らるべき仕組、あたかも落雷のさい避雷柱よく電力を導散して、災禍なからしむるに同じ、と(Ramusio,‘Navigationi e Viaggi,’Venetia,1588,vol.i,fol.92 F. にレオ・アフリカヌスが、婦女山中に獅子に出くわせたる時、陰を示せばたちまち眼を低くして去る、と言えるも似たることなり)。ベ−コンの説に、好事家あり、居常注意して調査せしに、人盛勝なる時、最も多くこれを羨む者の邪視に害せらる、と。
 スコットランドには十八世紀まで邪視を信ずる人多く、おもえらく、ある特殊の人邪視して、小児、牛畜これに中れば必ず病み、時として落命す、と。そのハリス島にモラスカ・ビーンスと名づくる果あり。白きものすこぶる巫蠱およぴ邪視を防ぐの効ありとて、小児の頸に懸くるに、みずからその害を受け引きて黒く変ずという(W.C.Hazlit,‘Faiths and Folklore,’1905,i,216-217)。鎌田栄吉氏、欧州漫遊のあいだ見聞せるところを予に話せしに、オランダとかの一小島の俗、男児を女装する所あり、と言えり。そは、たぶんエジプトと同じく、女児邪視に中てらるること男児より稀なり、との観念に出でしならん(Lane,‘Manners and Customs of the Modern Egyptians,’1871,p.70)。『八犬伝』に、番作がその子の安寧を冀うて、信乃を童時女装せしめしは、これに類せり。J.T.Bent,‘The Cyclades,’(101)1885,p.15 に、ギリシアの一島にて、百歳ばかりの老嫗来訪せしに、さしも生き過ぎたる身のなお生を貪りけむ、著者の邪眼を慮り、しきりに十字を画せし由見ゆ。古えローマにこの迷信ありしは、ヴァーギルの詩に明らかにして、一八四六至七八年のあいだ法王たりしピウス九世邪視の聞え高かりければ、その祝を受くる者、面を背け唾吐きてその害を防げり(Hazlit,i,217;A,561)。
 イタリア人今日、表面はキリスト教徒ながら、邪視を惧るる風少しも非キリスト教徒たりし上世に異ならず。邪視の嫌いある者に逢うごとに、ひそかに手を握り固めて、拇指を食指と中指の間に挟み露わす。これをフィコ(無花果)と呼び、フィコを仕向けらるるもの、大いに怒りて仕向けるものを殺すことすらあり。リード氏話に、これ陰嚢の間より男根の顕われたるに象る、と。思うにこの果いまだ開かざるときの形状、またその皮白汁に富めるなどより、この称呼を生ぜしか。ただしわが邦には、フィコを男根ならで女陰に象るとし、邪視に関することと見ずして仕向けらるるものの好婬なるを意味するものとす。また思うに、山岡明阿弥陀仏の戯作に係るという『逸著聞集』に、好色博士女陰の四具を説ける中に、石榴に資《よ》って名づけたる箇処あるごとく、無花果の熟し裂けて、多くの赤色|※[襄+瓜]子《じようし》を露わせる姿にちなみ、これに女陰の意を遇せしこと、古欧州にもありしならん。そは、無花果は、ハールメス、プリアプス等の男神の好むところたりしと同時に、女神ジュノ、デメター等にも捧げられたればなり(A.de Gubernatis,‘La Mythologie des Piantes,’1882,tom.A,PP.138-140 参取)。アシュビー氏の説に、イタリアの民、上下とも、邪視を禦ぐため、護りを佩ぶることすこぶる盛んなれども、そのことを話し、ことに外国人に説明するを不祥なりとするゆえ、容易に知れがたし。ペルシアのベルッチ教授、最も広くこのことを研究せるその説に、これら護りのもっとも古きは隕石なり。そのうち多く星および点を具えたるありて、その数定かならず。邪視する者これを算え尽すの後にあらざればその力利かず。故に最も珍とせらる。砂、穀粒を無数袋に盛れるを尊ぶもまた同理に出づ、と(Notes and Queries,Feb.22,1908pp.145-146)。種彦の『用捨箱』巻上の九、守貞の『近世風俗志』二三編に見えたる、二月八日籠を掲(102)げて鬼を避くるには、いろいろの理由もありなんが、一つは鬼が籠目の数をよみ尽すうちに、その邪力耗散すとの意もなきにあらじ。
 トルコ人また邪視の用心周到にして、家の外部に『コラン』の文を題し、天井よりは玻※[王+黎]球を懸下し、また馬の息災のために、その飭具《ちよくぐ》を美にしてこれを防ぐ(Hazlitt,@,217)。レヴァント地方に、蚕を他人に見すれば、全く絹を成さず、と信ずというも、その眼力を怖るるによるなるべし(Hasselquist,‘Voyages and Travels in the Levant,’1766,p.167)。西方アジアと北アフリカにこの迷信弘く深く行なわるるは衆の知悉するところにして、『アラビア夜譚』にも、鉄また抜刀をもって邪視を除くことあり(Burton,‘The Book of the Thousand Nights and a Night,’ed.1894,vol.p.209;vol.I,p.105)。またカイロの賈長シャムサッジンその子の邪視に犯されんことを憂え、七歳より成人近くなるまで地窖《ちこう》中に育て、のち始めて相伴うて外出するに及び、市人一同その親子たるを知らず、年がいもなく美童の艶色に惑溺せる者と心得、退職を強勧する話あり(vol,B,pp.157-165)。カイロには、近年も盛装の富豪婦人、襤褸を絡《まと》い面に泥塗れる児女を伴い歩むを見ること少なからず。これその生むところにして、家内にあっては錦衣玉食しながら、外出するごとに、邪視に打たれざるようにとて、ことさらに相好を損ぜるなり(同上一六五頁注)。けだし、その害を受くること男児は女児より多く、児童は成人よりはなはだし、という。現時エジプト人およびスーダン人堅く回教を奉じて一神を尊信すと称すれども、実際沙漠を旅行するに当たり、邪神の眼力を懼るることはなはだしく、種々にその馬を華飾してその災いを薄くせんとす(Budge,‘The Gods of the Egyptians,’1904,vol.@,pp.13-14)。パートンいわく、邪視の迷信は古エジプトに始まったらしい、と(I,393,note)。これ現存の文献中このことを徴すべきもの、エジプトより
旧きはなきをもってなり。間嘗《つねづね》、右に引けるバッジ氏の書を繙いて攷うるに、わが国にも眼に縁して神を神明と呼び、仏像に性根入れるを開眼と称し、神仏の精力威勢、特に眼に集まると心得たるごとく、エジプトの古民、神の眼を恐れ敬うあまり、これに神自身と等しき力を付し、諸神はケペラ神の口より出で、人間はその眼より生ぜりなど、神の(103)眼に造化の力を賦すると同時に、諸大神の眼また大破壊力を具せりと謂えるに似たり。これを例するに、ホルスは日を右眼とし、月を左眼とす。その眼力よくアペプの首を切り落とす(アペプは大蛇にして神敵たり)。また神怒りてその眼叢林を剿蕩す。またラー神の眼、魔を平らぐるに足る。諸神、ラーに申す。汝の眼をして、進んで汝のために、汝の悪言する者を破滅せしめよ、汝の眼ハトール形を現ずる時、諸眼一つもこれに抗しえず、と。これ取りも直さず、ラーの邪視異常に強きをいえるものなり。
 ちなみに言う、ニューヨーク出板、ハムボルト文庫に収めたる、某氏の『ヒプノチズム篇』に、仏国の術士、村女を睨んで、たちまち身を動かすことあたわざらしめ、すなわち就いて姦婬しおわれる由、載せたるを見しことあり。かかること他にも聞き及びし例あり。こは、魅視とも訳すべきファッシネーションに属し、理則の如何はさて置き、まま実事としてあることと承り及ぶ。人間に限らず、蛇が蛙、鰻※[魚+麗]《うなぎ》などを魅視して逃げ去るあたわざらしむと聞けり。古え欧州人が信ぜるバシリスクの譚、わが国に今も残存する牛鬼の誕《はなし》など、こんなことを大層にして伝えしにあらざるか。バシリスク、一名コッカトリスは、蛇もしくは蟾蜍《ひき》が鶏卵を伏せ孵して生じ、蛇形にして翼と脚あり。鶏冠を戴くとも、単に白点を頂にせる蛇王なりともいう。諸動物および人、これに睨まるれば死せざるなく、諸植物もまた凋枯せざるなきも、鼬と芸香《うんこう》のみその害を受けず。古人これを猟《と》りし唯一の法は、毎人鏡を手にしてこれに向かうに、バシリスクの眼力、鑑のためにその身に返り、やにわに斃れおわるにあり(Hazlitt,@,p.133;J.Scoffern,‘Stray Leaves of Science and Folk-lore,’1870,pp.342-346)。牛鬼わが邦に存せしこと、『今昔物語』『東鑑』等に出ずれども、予が熊野地方にて聞けるは大いにこれと異なり、すなわち一種の有蹄獣にて、山中、人に遭えば見詰めて去らず。その人ついに疲労して死す。これを影を呑まるという。その時、「石は流れる、木の葉は沈む、牛は嘶き馬吼ゆる」と、逆さまごとを述べたる歌を誦すれば、その患を免る。しかして牛鬼が草木の葉を食いたる跡を見れば、箭羽《やばね》頭の状をなし、他の諸獣の食いし跡に異なる、と。予至って不案内のことながら、種々聞き及びしところを併せ考うるに、あるいは(104)無識の徒、本州唯一の羚羊(かもしか)を誤解して、件の怪談を生ぜしかとも思う。二年ばかり都智に僑居せし時、牛鬼出で吼ゆるという幽谷へ、いわゆる蓬う魔が時(神代に大まがつみの神あるを見れば大禍時《おおまがとき》の意か)を撰み、夜に入るまでその辺にたたずみしことしばしばなりしも、境静かにして、小瀑布の深淵に落つる音の、岩壁に響きて、異様に聴き取らるるありしのみ。他に何物をも見ることなかりき。「ナザル」(nazar 今かりに視害と訳す)は、コックバーン氏の説に、その義、邪視(イヴル・アイ)より広し。すなわち何の悪意邪念なくて、もしくは最も愛敬親切に、人および有生無生の物を、心足り意満つるまで視るにより、視られたる人物に害患を惹き起こすことなり。『パンジャブ随筆質問雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』(前出)より要を撮《つま》んで述べんに、コックバーン氏、インド・アグラ地方にて、この迷信の原因を調査して報ずらく、人慾故意に出でざるもの多し。たとえば、眇人《すがめのひと》いかに寡欲の天稟なりとも、双眼優麗なる人を見れば、何心なくこれを羨望し、たちまち視害を双眼の人に加えてその身を損ずるに及ぶ。今、双眠いかに美なりとも、その瞼にカジャルを塗って黒汚し、あるいは瘢痕を眉辺に留め、また白糸を懸下してその貌を傷つけたるを見れば、これを瑕とするの念、知らず知らず、これを羨むの念と相剋して視害起こらず。ことにカジャルをつけたる眼は、眼力ために減障せられて、視害を他人に及ぼすの嫌いを免るるの利を兼ぬとて、この地方の男女好んでこれを用ゆ。エジプトの婦人がコール粉を眼の縁に塗って黒くするも、装飾のためとはいえ、実は同理に基づくならん、と。けだし、婦人は成女期に達せるのち視害を受けず、視害を他に加え得、と信ぜらるればなり。父母その児の初めて片言いい、また歩み出すを見て満足せば、必ずその児に視害を及ぼすをもって、額の一側、また匍匐中ならば左足底に煙墨(カジャル)を塗ってこれに備う。不具、六指等の児は視害を受くることなければ、大吉として親に悦ばるとはよほど変なことなり。肥健の壮年は、痩せ男の視害を防がんとて、左臂に赤布を絡《まと》い、頸に青糸を巻きつけなどし、はなはだしきはその疑いある場合に臨み、突然卒倒痙攣の真似して、痩せ男の執念を擾《みだ》すに力む。文人はその筆跡見事にして人に羨まれんことを憂い、わざと一字を汚点して邪視を避く。ただ(105)し、巧みに仕組んで汚点せりと知れるようでは、これまた人にほめらるるの惧れあり。故に一枚書きおわりて、最後の字の墨汁まだ乾かぬうち、急にこれを巻きて、汚点は実に不慮の過失に出でしと見するを要すとは、呆れ返った次第と言わざるをえず.また布帛の模様なども、一ヵ所をわざと不出来にして邪視を防ぐ。黄金珠玉は人の欲するところなれば、最も邪視を避くるに功あり、小王(ラジャ)輩の書翰に、金箔をちらせるも、飾りとせるにあらずして、これがためなり。児童が盗に遭い命を失うまでも、珠※[王+幾]《たま》を飾れる、またこれがためなり。すべての海産物、ことに珊瑚、このゆえに重んぜられ、これを買うあたわざる貧民は、銀の楊枝あるいは環を佩ぶ。また安物店に、三角あるいは金剛石形に金箔を切って韋《なめしがわ》に貼《ちよう》じて売る。これ、正三角形に霊妙の力ありと信ぜらるるに出ず。はなはだしきは三角形の小さき羅紗袋を小児の頸に懸けて護りとす。しかして、金剛石形は正三角形を二ツ底を摂して生ずるをもって、また護身の功ありとす、云々。
 『用捨箱』巻上の九、二月八日、目籠を出すことをいいて、むかしより目籠は鬼の懼るるところと言い習わせり。こは、目籠の底の角々《すみずみ》は〓かくのごとく、晴明九字(あるいはいう、晴明の判)というものなればなりといい、また方相の目になぞらえ、邪気を攘うことなりといえりといえども、類をもって推すに、これもインドあたりに、古く邪視を防ぐに用いたるを伝習したらしく思わる。(柳亭の考証に、件の日、目籠を出す江戸の風は、もと遠州、参州にて節分の日出すを摸し誤れるなり、と。東京《トンキン》の俗、除夜に金箔もて飾れる籠を長竿頭に掲げて、戸前に樹て、鬼を追うと、F.de Marini,‘Historia et Relatione del Tunchino e del Giappone,’Roma,1665,p.133 に出ず。『古今要覧稿』巻七一に、むかし追儺は除夜に限り行なわれしを、後世、節分の豆撒きと同事と心得たるを弁ぜるを参考するに、遠・参の俗も、もと東京のと同源に出でたるがごとし。)わが邦の事歴に関係最厚き支那に、視害およぴ邪視の迷信の有無は、予従来指を染めざるをもって一言も出しえず。その※[獣偏+果]※[獣偏+羅]《から》間に邪視(evil ege を十の九まで evil eye の謬刊として)の信あるは、『東京人類学会雑誌』三月の分、二一六頁においてわずかに知りえたり。今案ずるに、歴代の「本草」、諸(106)品の薬効を序して、「狼の皮は邪を辟く。狼の牙はこれを佩ぶれば邪を辟く。狼の尾は馬の胸前に繋げば邪気を辟け、馬をして驚かしめず。羚羊《れいよう》の角は邪気不祥を避く。辰砂は鬼魅を殺し、雄黄《ゆうおう》は百邪を避く」などいい、『酉陽雑俎』続集八に、「衛公いわく、鵝は鬼を警しめ、云々、孔雀は悪を辟く」、『交広志』に、「西南夷の土《くに》に異犀あり、三角にして、云々。王者その異《めず》らしきを貴び、もって簪《しん》となすに、よく凶逆を消除す」と筆せる、邪といい悪といえるは、主として邪気の義に解せらるれども、遠き世には邪視を意味せしもあるべし。英国のサー・トマス・ブラウン(一六〇五−八二)すら、コッカトリス(上出)が睨むばかりでよく人物を殺すと、人間同士触れざるに疾を伝染し、伝※[魚+賁]《でんふん》が身外に電気を及ぼすを同似の例として、この爬虫の眼、極微の毒分子を現出して、これに対せる人物の眼より、その脳、次にその心を犯し、命を致さしむるにほかならずと謂いたれば、上古の支那人、邪視と邪気を混同したればとて怪しむに足らず(Hazlitt,@,133 参照)。その西南夷が犀角をもって凶逆を消除すといえるは、疑いなくインド、アフリカ辺に行なわるる邪視のことと見ゆ。ただし支那の古史に、孟費・項籍の瞋って恐ろしき、伍子胥の執念深き眼、盧※[木+巳]《ろき》の忌わしき顔相など多く挙げたるに、視害、邪視の俗伝すら見当たらず。苑雎《はんすい》の列伝に、睚※[目+此]《がいさい》の怨をも必ず報ずとて、人に視らるるを至って些細なこととせるを見れば、邪視の信よほど古く亡びて邪気の観念早くこれに代わりしを知る。
 貝子は、今もトルコ、アラビア、ヌビア等にて広く邪視を避くるに用いられ(Elworthy,op.cit,p.250)、わが国にも子安貝と称し、産婦に握らせてその難を防ぐ(『男色大鑑』巻四第一章)。これ古ギリシア人がこれを女神アフロジテの印《しるし》とせしごとく、その形|甚《いと》女陰に似たる故、最も人と鬼の邪視を避くるに効ありとせるに基づくならん(Otto Jahn,“Uber einige griechischen Terrcottengefass des archaeologischen Museums in Jena,”Berichte uber die Verhandlungen der Koniglich-Sachsischen Gesellschaft der Wissenschaften zu Leipzig,Phhilologisc-Historische Classe,I,S.18,Leipzig,1853 参照)。
 支那に臂足《ひそく》類の介化石を石燕と呼び、産婦に握らせて平産を助け、欧州諸地に燕※[穴/果]中の石を持てば幸福あり(107)といい、『竹取物語』に、赫耀姫《かぐやひめ》、燕の子安貝をくれなん人に妻たるべしと望めるなど、合わせ攷うべし(予未刊の著「燕石考」、師友F.V.Dickins,‘Primitive and Mediaeval Japanese Texts,’Oxford ,1906,p.361)に抄出さる)。しかして漢の朱仲作というなる『相貝経』に、一種の貝子を産婦に示せば流産せしむるとあるより推して、支那の古え、またこれを安産の助けとせるを知り、それから遠廻りながら、一層古え邪視の信ありしを知る。Forlong,‘Short Studies in the Science of Comparative Religions,’1897,p.108 に、セイロン、シャム等の仏場に、足と眼を岩に彫れるは、実は陰陽の相に形《かたど》れるにて、邪視の防ぎなりとあるを参するに、支那に仏仙の足跡多きは、わが邦にて門戸に元三大師の手形を貼ると共に、根源は邪視に備えたるにやあらん(予の“Footprint so fGods,etc.,”Note sand Queries,1900 およぴ去年四月の『東洋学芸雑誌』、「ダイダラホウシの足跡」参看)。
 また『酉陽雑俎』巻一四に、晋の大治中、劉伯玉の妻、夫が洛水の女神の美を称せるを恨んで水死し、のち七日、夢に託して伯玉に語って、君もと神を願う、われ今神たるを得たりといいければ、伯玉、終身また水を渡らず。美人この津を渡る者は、みな衣を壊《やぶ》り粧を枉《ま》げてあえて済る。然せずんば風波暴発す。醜婦は粧飾すとも、神妬まざれば無難に渡り得。婦人この妬婦津を渡るに、風浪なき者は不器量ゆえ、水神怒らざると心得、みなみずから形容を毀《こぼ》ちて嗤笑《ししよう》を塞がざるなし。故に斉人の語に、「好婦を求めんと欲し、立って津口にあり。婦、水のかたわらに立てば、好醜おのずから彰わる」とあるも、いわば妬神の邪視を畏れて、貌を損ぜしに帰す。同書巻八に、百姓《ひやくせい》の間に、面に青|痣《あざ》を戴くこと黥のごときあり。難産にて妻に死なれたる夫の面に墨を点ぜるなり。かくせずんば、後妻に不利なる由言えるは、やはり死霊の邪視を怖れしに基づくか。
 読者予に、何をもって日本にも邪視と視害との蹤ありというかと問わば、予は答えて言わん。『書紀』皇孫天降の条に一書を引いて、「先駆の者還りていわく、一の神ありて天八達之衢《あまのやちまた》におり、その鼻の長さ七咫《ななあた》、背の長さ七尺《ななさか》、云々、また口尻明かり耀《て》り、眼は八咫《やたの》鏡のごとく、※[赤+色]然《てりかがやけること》赤酸醤《あかかがち》に似たり、と。すなわち従神《みとものかみ》を遣わして往き(108)て問わしむ。時に八十万《やそよろず》の神あり。みな目勝《まか》ちて相問うこと得ず。天鈿女すなわちその胸乳《むなぢ》を露わにかきいでて、裳帯《もひも》を臍の下に抑《おした》れて、咲※[口+據の旁]《あざわら》いて向きて立つ」。その名を問うて猿田彦大神なるを知り、「天鈿女また問いていわく、汝《いまし》やはたわれに先だちて行かむ。はたわれや汝に先だちて行かむ、と。対えていわく、われ先だちて啓《みちひら》き行かむ、と云々。よりていわく、われを発顕《あらわ》しつるは汝なり、故、汝われを送りてこれを致すべし、と」とて、伊勢の狭長田《さなだ》の五十鈴川上に送られ行くとあるは、前出エジプトのラー神同様、猿田彦の邪視、八十万神の眼の堪えあたわざるところなりしを、天鈿女醜を露わしてこれに打ち勝ち、これをして皇孫の一行を避けてみずから遠地に竄《かく》れしめたるなり。
 今は知らず、三十年はかり前まで、紀州那賀郡岩手の大宮の祭礼、神輿《みこし》渡御の間、観者、例として閉眼せしは、もとインド人と同じく、神も邪視を忌むと思いしを示す(Dubois,‘Hindu Manners,’1897,p.151)。しかしてこれらにも優りて、邪視の信、かつてわが邦に存せしを証する最好例は、近松門左の戯曲『大織冠』に、忠臣山上次官有風、逆臣入鹿と眼力を角《すまえ》るを述べて、前者|睥《にら》めば一双の鴉、念力の眼に気を打たれ落ちて死し、後者睨めば南門の棟瓦、作り据えたる赤銅の唐獅子揺らぎ鎔け湯となり、軒に滴り流れしは恐ろしかりける眼力なりと作られ、予も幼時常に、不文至極なりし母が、入鹿大臣よく人を睨み殺せりと語るを聞きたれば、かかる俗話古く行なわれしことなりやとおぼし。また柳原紀光の『閑窓自語』に、裏辻公風少将、姿艶に、男女老若ことごとくこれを慕い、参内の日を計りて街に出でて待ち見る人もありけるが、ようやく二十歳にて元文三年四位にも陞らず死せり、恋したる人々の執念付けるにやと人言えりとあるは、詞こそかわれ、視害に中って早世せりと謂えるにあらずや。インドの礼、いかに健壮の友に逢うも、これをほめず。かえって卿は一向痩せて来た、よほど悪いんじゃないか、気の毒千万でござるなどいうが常式にて、他人の子供、邸苑、牛羊の美にして繁栄するを見るも、その人の仕合せよきを知るも、一言なりとも誉めたが最期、即座に妬念および視害の嫌疑を受くるを参考せよ(Dubois,p,331)。
 されば、ちと故事付けならんも、西鶴の『胸算用』巻四に載る、祇園殿にて、除夜に詣衆左右に分かれて悪口言い(109)合い、松浦侯の『武功雑記』に出ずる、同夜千葉寺に諸人集まり、執権奉行等の邪儀を言い出でて哄笑せるなど、詮じ詰めれば、言わるる者の幸福を増進せんためにて、結局その人に邪視を避けしめんため、傷をつけるものにあらざるを保しがたしとやいわまし。しかしながら、支那の邪気、釈教の執念の思想到来してより、判然たる邪視、視害の迷信は蚤くほとんど消え失せしと見え、一汎俗伝に、大沢主水、また佐久間盛政、人馬ともに秀吉の眼光に敗られしとか(『片廂』後篇、『懲録』に、「秀吉は、容貌|矮陋、面色※[犂の牛が黒]黒《りこく》、異表なく、ただ微《すこ》しく目の光の閃々として光を射《はな》つを覚ゆ」とありと聞く)、和田賢秀を斬りし湯浅某、その末期の眼ざしを怖れて、病みつき死んだとか(『太平記』二六)、眼そのものよりも、もっばらその人の威勢、怨念の強大なるを指せるようなり。降って、本町二丁目の糸屋の娘、姉が二十一妹が二十、この女二人は眼元で殺すという唄文句は、支那の「蛾眉は性を伐るの斧」の類で、譬辞なり。別嬪どものために累をなすに足らず。
 これより邪視と視害を予防する本意に起これりと思わるる本朝風習を列示せんに、まず『嬉遊笑覧』巻八にいわく、「中古陰陽家の説行なわれて、物忌を付くることあり。男子は烏帽子、女房は頭に付けしこと、古物語に往々あり。『拾芥抄』に、迦毘羅《かびら》国に桃林あり。その下に一人の鬼王あり、物忌と号す。その鬼王の辺に他の鬼神寄らず。鬼王誓願して、云々、わが名を書き持たん人には、願いのごとく守護すべしと『儀軌』に出でたり、とあり。こは物忌二字を細紙に書いて付くるなり。『河海抄』に、むかしは忍草に物忌を書いて、御簾にも冠にもさしけるなり、事なし草というについてなり。また柳の枝三寸ばかり簡《ふだ》に作りて、物忌と書いて御冠の纓《よう》に付けられ、また白紙に書いて付けらるることあり。こは禁中のことなり、とあり」。『類聚雑要抄』三の五節の童女頭物忌付くること、「二所にこれを付く、左は耳の上ほど、右は頬後に寄せてこれを付く、云々。物忌の薄様は弘三分にこれを切る(紅一重、短手をば後にこれを結ぶ)、云々」。『満佐須計装束抄』一に筆せるはこれよりつまびらかにて、末に、「もとは物忌は右を先として、後にも付け、三つ付けたれども、この家の習いにてかく二つを付くるなり。左の前に寄せて、物忌の首の差し出でた(110)るを、ひねり反して赤く見せて付くる人あり、云々。されども、今は白がしらになりにたり、云々。常に人知らず、幼なからん者の額髪など透きなどしたらんに、物忌を付けんおり隠すべし。人知らず秘すべし」。これにて、あるいほ顕著なる色を用いて邪視を惹き、その力を消すこと、インドの田園に外を白く塗れる大碗を高竿に掲げて、もっぱら悪眼力を吸収せしむるごとくせると(Dubois,p.152)、あるいは前述パンジャブの文人、紙を巻いて字を汚すごとく、ことさらに辟邪の具を設けたるを悟られて、さらにその備えの巧なるを羨まるるを避けんとて、かえってこれを目立たぬように装いしと、二風ともに並び行なわれたるを見るべし。
 また『笑覧』巻八に、嚔《はなひ》る時結ぶ糸(『産所記』に長《たけ》一尺三寸ばかりと言えり、と)を長命縷の類ならんという、今小児の衣の背に守り縫いとて付くるこれにや、と言えり。熊楠案ずるに、『酉陽雑俎』巻一、「北朝の婦人、五月、云々、また長命縷、宛転繩を進む。みな結んで人の像をつくりてこれを帯ぶ」とあれば、大いに守り縫いと異なり。守り縫い、この辺(紀州田辺)にて背縫い、背紋などいい、衣に固著して結びうる物ならず。『近世風俗志』一二編に、何とも名をいわずにこれを記せり。いわく、「児服に一つ身四つ身というあり。一幅を身として左右を兼ぬるを一つ身という。背縫目なきゆえに一つ身という。衣と異色の糸をもってこれを縫う。あるいは〓《図有り》この類を縫うもあり。また江戸は緋縮緬《ひちりめん》等の小裁《こだち》をもって袷にくけ、〓※[図有り]かくのごとく結び背に付くるもあり。ともに定紋の座に付くるなり。やや長じて四つ身を著す。四つ身は背の縫目あるゆえにこれを製せず」。この辺の俚伝に、一つ身は縫目なくて不祥なれば、その厭勝《まじない》に背紋を縫い付くる。菊、桐、松葉、鶴、兜などを衣と異色の糸もて、女児十二、男児十三針にぬい付く。また舌と称し、長方形の切れを背紋の代りに縫い付け、一端自在に動きうること舌のごとくす。今はいろいろなれども、予の幼時は主として赤を尚べり。古老謂う、小児|躓《つまず》き倒れんとするを、神この舌を援《ひ》いて起立せしむるに便せるとは、何かで見たる、後インドの民、頭頂に長髪束を留むるは、地獄に堕ちかかる時、神に牽き上げもらうためというと同規にて、ずいぶん面白いが、中古欧州諸名族の紋章に、諸獣舌を出す像多きは邪視を避くるため(E.(111)Peacock,in Notes and Queries,March 14,1908)なると、支那に「赤口日《しやつくにち》は凶神にて、百事、用によろしからず」(『和漢三才図絵』五)などいうを参して、背縫いも邪視を防がんとて創製せりと見るが優れり。
 また仏教入りて後、インドの神も邪視に害せらるとてその予防具を捧ぐる風を輸入しながら、原意を忘却せりと思わるるは、庚申、淡島等の神前に美しき浮世袋を掛くることにて、インドの王公、アラッチ(不幸の義)とて避邪視式を行なわんがため、特に妓女を蓄え、神廟にも一日二度、妓女神のためにこの式を行なうなど思い合わすべし。『用捨箱』中巻の一三に、「友人いわく、真言の壇門の金剛|※[木+厥]《けつ》(四方の柱なり)に掛くる金剛|宝幢《ほうとう》という物あり。錦をもって火形を象り、三角に縫い、裏《うち》に香を入るる(また入れざるもあり)。浮世袋その形に似たるゆえ、宝幢になぞらえて神仏に捧ぐるなるべし、と、云々」。上に言える、パンジャブで三角袋を小児の守りとすること参看すべし。また下巻の四に、「むかしは遊女に戯るるを浮世狂いと言いしなり。傾城の宅前には、云々、布簾を掛け、それに遊女の名を書きて、下に三角なる袋を自分の細工にして付けしなり。これを浮世袋と言い習わしたるなり、ということを載せられたり。これ匂い袋なるべし、云々。むかしは、云々、遊女は、云々、伽羅を衣に留めざるはなきさまなれば、かかる余情もなしたるにやあらん。それが、云々、後には香類を入れず、布簾の縫留となりしなるべし」。妓女に縁多きインド神より転化せる金剛のために、邪視を防がん本意もて捧げし三角袋が、わが邦遊女屋の装飾となりたるなり。推古帝の時、支那に摸して始めて行なえる薬猟に伴えりという、続命縷すなわち薬玉(久米氏『日本古代史』八一五頁)は、欧州諸民もこれを仲夏の式事とし、邪気を除き古病を癒し、好夢を招き、牛畜を安んず(Lloyd,‘Peasant Life in Sweden,’1870,p.267 seqq.;Gubernatis,tom.@,p.181 seqq.)と言えば、多分は例の邪視の用心に発端せるならん。この辺の若き男女、不慮に煤など飛び来たり、顔を汚すを恋墨と名づけ、艶福の兆とするも、もとは邪視、邪害の迷信より出でたるにて、奴の小万が、顔に墨ぬり、痣作りて、貌を見尽されぬよう計らいしと、趣は帰一す。
(112) 鬼車、小児を害すること(出口論文一四一頁)
 『酉陽雑盤』一六にいわく、「鬼車鳥。相伝う、この鳥むかしは十の首《かしら》あり、よく人の魂を収む。一の首は犬の噬《か》むところとなる。秦中にて天|陰《かげ》れば時あって声あり。声は力車の鳴るがごとし。あるいは言う、これ水鶏の過ぐるなり、と」。水鶏は Vanells cristatus Mey.et Woif.(Mollendorff,“The Vertebrata of the Province of Chichi,”The Journal of the North China Branch of the Royal Asiaic Society,New Series ]T,Shanghai,1877,p.97)。その鳴き声怪しきよりかかる訛語を生ぜしこと、わが邦の鵺のごときにや。セイロンにも似たる話あるは Knox,‘An Historical Relation of the lsland of Ceylon,’1684,p.78 に、島の高地部に魔鳴くことあり、低地にはなし。その声、犬の鋭く吠ゆるがごとく、たちまち一方にあると思えば、たちまち他方に聞こゆること、常の鳥類に異なる。故に魔の所行たるを知る。この声聞こゆるすぐまた後に、王、人を刑死するを奇とす。犬これを聴けば戦慄す。シンガリース人これを聞くごとに、悪言を放って罵れば、しばらく止め遠く去るもののごとし、と言えり。一三三〇年ころの書 Fr.Jordanus,‘Mirabilia descripta,’trans.Yule,1863,p.37 にも、セイロンにて夜しばしば魔、人と語ると言えり。ユール、これをその地に只今いわゆる魔鳥に充て、褐色の梟なりと言えれども、ミトフォードは、魔鳥は夜鷹の一種、その声童子が経《けい》せられて息絶ゆるまで苦吟するごとく、悽愴極まりて聞くに堪えずといい、テンネントは、村近くこれを聞けば不祥の兆とて、民これを悩むと言えり(Tennent,‘Sketches of Natural History of Ceylon,’1861,pp,246-248)。しかして古えセイロンを虐治せし兄王キスツアカン、鬼車と同じく十頭ありしというは奇遇すこぶる妙なり(James Low,in the Jouynal of the lndian Archipelago and Eastern Asia,vol.C,p.203,Singapore,1850)。ミンチラ人が信ずるハンツ・サブロ(猟師鬼)は、湖およぴ川の淵に棲み、体黒く、黒口と名づけたる三犬を随う。この犬人家に近づけば、住人は木片を打ち大|噪《さわ》ぎしてこれを駆り、小児を緊《きつ》く抱いてその去るを俟つ。マレー人が伝うるソコム鬼、行くときはべりべり鳥まず飛ぶ。この鳥、家に近づくとき、家内声かぎりに喧呼してこれを厭《まじない》す(ibid.,vol.D,p.308)。これ鬼車と事は(113)なはだ相|肖《に》たり。姑獲がことは、『和漢三才図絵』に『本草綱目』を引いて、「一に夜行の遊女、また天帝の少女とも名づく。鬼神の類なり、云々。荊州に多くこれあり。毛を衣《き》ては飛鳥となり、毛を脱《ぬ》いでは女人となる。こは産婦の死してのち化してなるところ、ゆえに胸の前に両乳あり。喜《この》んで人の子を取り、養いておのが子となす.およそ小児のある家にては、夜に衣物を露わすべからず。この鳥、夜飛んで、血をもってこれに点して誌《しるし》となす。児すなわち病む、云々。これを無辜の疳というなり。けだし、この鳥はもっばら雌にして雄なし。七、八月の夜に飛んで人を害す」。しかして、著者寺島氏これを西国海浜に多しというウプメドリにあて、「九州の人謂いていわく、小雨ふり闇《くら》き夜、不時に出ずることあり。そのおるところ必ず燐火あり。はるかにこれを視るに状《かたち》は鴎のごとくして大きく、鳴き声もまた鴎に似たり。よく変じて婦となり、子を携え、人に遇えば、すなわち子を負わんことを人に請う。これを怕れて逃ぐれば、すなわち憎寒・壮熱はなはだしくして死に至る者あり。強剛の者諾してこれを負えば、すなわち害なし。まさに人家に近づかんとすれば、すなわち背軽くして物なし。いまだ畿内近国には狐狸のほかにかくのごときものを聞かず」と述ぷ。
 わが国には例なきことなれど、実際梟族が嬰児を殺すこと世にあると見え、Hasselquist,op.cit.,p.196 によれば、シリアの※[休+鳥]※[留+鳥]《きゆうりゆう》Strix otus 貪戻《たんれい》にして、夜窓を閉ずるを遺《わす》れたるに乗じ、室に入って孩子《おさなご》を殺す。婦女これを怖るることはなはだし。梟の巣に、時として羽毛を混ぜる異様の塊物あるを G.White,‘The Natural History and Antiquities of Selborne’に記せるを見れば、その成分等は別に研究することとして、とにかく倭漢とも、梟が土を化してその子となす(陸佃『蘭雅新義』一七。古歌にも「梟の暖め土に毛がはえて、昔の情今の寇なり」)と言えるに、核子《たね》なきにあらず。鳥の形色をもって容易に雌雄を別つぺからざるや多し。故に一種の夜鳥、胸前の斑紋、両乳に似て、多少女人の相あるを純雌無雄とするももっともにて(欧人ジュゴンを遠望して海女となし(Tennent,p.68)、兎の陰部異常なるより、ことごとく両性を兼ぬとし(C,de Pauw,‘Recherches Philosophiquees sur les Americaines,’Cleves,1772,p.92)、『異物誌』、「霊(114)猫は、一体にしておのずから陰陽をなす」と謂うなど見合わすべし)、これに件の※[休+鳥]※[留+鳥]嬰児を食らうこと、「土梟は塊を抱いて児となす」の語などを和して、「姑獲は人の子を養う」の迷信を生ぜるやらん。邦土により、鳥が毛羽を人家中庭に落とし、児の衣中に置くぐらいのことはしばしばなるべく、家外に露わせる衣布、たちまち黴菌等を生じて、血点に酷似せる斑を生ずるは余も親しく見たり。「夜飛んで、血を点して誌《しるし》となす」の語も、ジャワに、男女の魑魅、檳榔噬し赤唾を人の衣に塗り汚す(Ratzel,‘History of Mankind,’trans.Butler,1896,vol.@,p.474)というも、これに基づくならん。とにかく、支那の鳥類の精査遂げられん日、必ずこの誕《はなし》の由来を明知すべし、と信ぜらる。ダイヤック人、カミヤック魔、鳥のごとく飛んで孕婦を害し子生まるるを妨げ、クロアー魔は、胸の正中に一乳房のみあり、児産まるるや否、来たりてその頸を掴み、これを不具にす、と信ぜるも似たことなり(T.F.Beeker,“The Mythology of the Dyaks,”The Journal of the lndian Archipelago and Eastern Asia,vol.B,pp.106,113,1849)。しかして、鬼物が人の子を隠し養い、あるいはこれを不具にし、あるいは醜くし、あるいは痴にするはこの他例多し。スコットランド等のフェヤリース、ギリシアのネレイズ(Hazlitt,vol.@,p.102;Bent,p.14)、本邦の天狗(『老媼茶話』一七章、『著聞集』アコ法師のこと)等なり。
 惟うに婦女が産褥に苦しむは、いわゆる宍食った報いで、誰を怨みんようなしとは申せ、人間繁殖という大義務のために粉骨するものなれば、たとい事遂げずとも、その社会のために尽すの功は、たしかに燦爛たる勲章を値す。これをもって、苗民、コラヴァンバスクの諸民、産ごとに夫「クーヴァード」して、妻と苦楽をともにするの意を示し、北ボルネオには、産死の女、極楽へ直ぐ通りとす(Ratzel,A,p.479)。ただし、男の身は苦しまずして女のみ生死の境に出入すとは、至って割の悪い儀なれば、これがために命を殞《おと》せる者姑獲となり、ウプメドリとなり、啾々として夜哭し、他の安く子を挙げたる婦人を羨んで、その母子に禍せんと欲すとは、理の詰んだところもあるなり。パンジャプにて、産死の女、チュレル魔となり、顔は女ながら甚《いと》怖ろしく、乳長くして肩上にかかげ、反踵黒衣、長くて黒き(115)両牙あり、廃塁墓塚に住み、小児を食う(Panjab Notes and Queries,vol@,notes 334)と伝え、安南にて、わが児を続け亡い。第六児産まんとて死せる女、白衣にして樹上に死児を抱き、他の産室に入って流産せしむ(Landes,“Notes sur less Moeurs et Superstitions Populaires des Annamites,”Cochinchine Francaise,vol.@,p.448,Saigon,1880)と信ず。
 わが国また古くより産女霊の迷信ありしは、『今昔物語』巻一三、平季武これに値う話あり。『和漢三才図会』巻六七、鎌倉産女宝塔の談あり。『耳袋』中編に、産後死せる女、人に預けたる嬰児を抱きに来たりしことを載す。肥後の人に聞きしは、その地に「安かろう」という怪あり。産婦の霊にして、雨夜に安かろうと呼ぶ、と。こは難産を心配せし執念の残りしという意か。蒼鷺など夜燐光を放つを、上に引ける『和漢三才図会』の文とくらぶるに、何か、九州には夜燐光あって鳴き声宜しからぬ鳥あるを、産死の女霊に付会して「うぶめ鳥」の話を生ぜるにやあらん。小児の衣類、何なりとも戸外に遺《わす》るるときは、夜その児安眠せず、またそれに鳥糞かかるときは出世を妨ぐとは、この辺にもいうことにして、Bent,op.cit,p.181 にも、ギリシアのシキノス島にて、夜戸外に乾せし衣は、香爐にて薫べし後ならでは、決して産婦と嬰児に着せず。この島湿気はなはだしければ、全く無稽の冗談にあらじ、と言えり。 この辺にて、小児夜驚き啼くを防がんとて、今も玄米を撒く人あり。豆粒様とて、甲冑着けたる小さき者来たり襲うが、米を畏れて去るとなり。むかしよりの風と見えて、『今昔物語』二七巻三〇章に、「今は昔、ある人方違えに、下京辺に幼児を具して行けり。その家に霊ありしをかの人は知らざりけり。幼児の枕の上に火を近くとぼして、側に二、三人ばかり寝たり。乳母は目をさまして、児に乳を含めていたりけるに、夜半ばかりに塗籠の戸を細目に開けて、長《たけ》五寸ばかりの男の装束したるが、馬に乗りて十人ばかり、枕の辺を渡りければ、乳母怖ろしと思いながら、打撒の米を掴んで擲げ懸けけるに、この渡る者ども颯《さ》と散りて失せけり。打撒の米ごとに血付けり。幼き児どものあたりには、必ず打まきを置くことなりとなん語り伝えたるとなり」と見ゆ。御伽草子の『一寸法師』に、一寸法師、「ある時みつ物のうちまき取り、茶袋に入れ、姫君の臥しておわしましけるに、謀を運らし、姫君の御口にぬる」ことあり。(116)みつ物の打ちまきとは、姫君の父の領分より収むる貢米の落ち散りたるをいいしにて、今俗にいう「つつお」米を指すか。しからば、米を打ちまきというに、「つつお」米と、鬼に擲《なげう》ち撒く二原意ありと思わる。豆穀を擲ちて鬼魅を奔らすこと、Frazaer,‘Golden Bough’その他に、例多く挙げ、理由をも弁じたればここに繰り返さず。
 児啼きを止むるに偉人の姓名を呼ぶこと(出口論文一四三頁)
 欧州各部、古来タークィン、ブラック・ダグラス、ハソニアヂス、マールポロ、ナポレオン、ウェリントン、英皇リチヤード一世、ナルセス、ラミア、リリッス、ジョン・ニッコルソン、クルボット卿などの名をもって児啼きを止め、ケンタッキー州の一部にクレーヴァーハウス、メキシコでドレークと呼んで、躁児を静むる風(Notes and Queries,10th ser.,x,p.509,1908;xi,p.53,1909;Rundall,‘Memorials of the Empire of Jaoan,’1850,p.54)今に残れり。近時の小説に、グラッドストーンと呼んで児をおどすことすらあり。吾輩幼時、殿様、親爺など来たれりと聞いて、騒動を止めしこと毎度なりき。Rundall,l.c.に、慶長十八年六月、英艦長サリス、平戸侯に饗せらるる記あり。(この時、英艦長の私室に、ローマの婬神ヴィヌス美童クピッドと戯るる図を掲げたるを、日本上流婦人、ポルトガル人に天主教化されおったるもの、帰命頂礼して、マリアとキリスト母子なりとせる珍談あり。『百家説林』第一板所収、司馬江漢の『春波楼筆記』八八頁にも摘出せらる。)中に、平戸人、イギリス黒船とて歌唄い、剣舞して、英人スペイン船を掠むるの状をなし、小児輩を威《おど》す、とあり。後年、難波に黒船忠右衛門ありしも、人に怖れらるること黒船のごとくなりしゆえならん。多少の誇張はあるべきも、近年石川県の遠藤秀景氏、名、児啼きを止むるに足れりということ新紙にて見たり。蒙昧の蕃民、敵襲来するを憚り黙静を重んずれば、サビムバ人の祖先、鶏鳴のために在処を知られて、たびたび海賊に犯されしゆえ、全く林中の浪民となり、鶏を忌むことはなはだしく(Logan,“The Oramg Binua of Lohor,”The Journal of the Indian Archipelago and Eastern Asia,vol.i,Nov.,p.296,1847)、ブラジルのツピ族の一酋長、朝早く村中の廬《いえ》を廻りあるき、鋭き魚歯もて小児の脛をヒッカク。これ小児従順ならぬ時、父母、酋長掻きに(117)来ると言ってこれを脅さんがためなり(Hans Stade,‘Captivity in Brazilin A.D.1547-1555,’1874,p.144)。近世イタリアの山賊ビッツァロが、官軍を寒洞中に避けし時、児 いてこれを殺しけれは、その書これを恨んで、翌夜夫の睡りに乗じ、これを銃殺し、その首を献じて重賞を得、さらに他人に嫁して良婦慈母たりしという(D.Hilton,‘Brigandage in S.I1taly,’1864,vol.i,pp.171-172)。
 古スパルタ、またことにわが邦など、尚武の俗、男は泣かぬものと幼少より教えしは、主として女々しき振舞いなからしめんとの心がけながら、兼ねて軽躁事を敗らざるべき訓練にて、戦闘多き世には、児啼きを戒めて敵寇に見顕わされぬこと、一人にも一社会にも、大緊要の件なるべし。趙の始祖と源義滴、幼少ながら啼かずして身を全うせし由、『風俗通』と『碧山日録』に出ず。今、『三国志』旧注、『和漢三才図会』、『世事百談』などを案ずるに、張遼、合※[さんずい+肥]の戦に呉人を震懾せしめしゆえ、その名を呼んで児啼きを止めしまでにて、上述の諸例と比較して、理はよく通ぜり。別に出口氏の言のごとき、児のために魔を威し去るの意と見えず。しかのみならず支那に麻胡、ギリシアにラミア(Bent,p.98)など、鬼来ると言って児を脅し静むること少なからず。これをも魔を去らんがために、さらに小児が好まざる他の魔の名を呼んで、これを招くと言わば、その弁は迂にして、その説は鑿《さく》せりとやいわまし。『事物紀原』には、「会稽に鬼あり、麻胡と号く。好んで小児の脳を食らう。ついに、もって小児の啼くあれほ、すなわち麻胡来たれりと謂いて、これを恐《おど》すに、すなわち啼き声絶ゆ」とあって、鬼なれども、『空華日工集』一には『広記』を引いて、石勒の将、太原の胡人麻姓のもの、大悪人なりしゆえ、母その名を号して啼く児をおどすとせり。わが邦に元興寺と唱えて小児をおどすもこの類にて、もし元興寺の鬼を呼び来て、他の児に害ある鬼を嚇すと言わば、ただちにその元興寺の鬼を平らげたる道場法師の名を呼んで、強弱の諸鬼を合わせてこれを駆るの手段を、何故その時代の父母が気づかざりしにや(『群書類従』巻六九 『道場法師伝』参看)。ちなみに言う、嬰児をあやしてレロレロと言うは、今も紀州一汎に行なわる。これは英語にいわゆるtongue-twister(舌|捩《もじ》り)の最も簡単なるもので、小児に早く言語を(118)発せしめんとの一助なり。わが邦の小児、親を困らすほど成長せんに、レロレロぐらいで啼き止むべきかは。レロレロと遼来とやや音近きゆえ、博識を衒わんとて、前者後者に出ずと説き出だせるなるべし。実際レロレロと呼んで小児を怖《おど》し賺すことありしにあらじ。
 狼を魔除とすること(出口論文一四四頁)
 この辺に、今もさびしき所にて、狼来たとて小児をおどすこと多し。欧州にもありと覚ゆ。『世事百談』に言える、虎狼来たるとて小児をすかすも、上の張遼、麻胡と同じく、単に啼けば狼来たり噬むというに過ぎず。ただし出口氏、狼は一般に恐るるところなれど、いまだ魔除として用いられたるを聞かずとはいかが。狼に大噬の意あると同時にまた大神の義を臭う。『書紀』巻一九、秦大津父《はだのおつち》、山中に狼の血闘するを解くとき、「馬より下りて口手を洗い漱ぎて、祈請していわく、汝はこれ貴《かしこ》き神にして、云々」。今もこの辺に送り狼とて、人を害せず、守衛せし狼の古語残り、大台原山に、神使の狼現存すという。突厥、高昌二国の祖は、人と狼と、狼と人との間種と称し(『淵鑑類函』四二九巻)、欧州にも狼の子孫といえる人あること、ハーパート・スペンサーの『社会学原理』に見え、北米のインジアン族、造世主を狼形とするもの多し(Ratzel、op.cit.,vol.ii,p.148)。
 この地(紀州田辺)に、寡聞なる吾輩名を聞きしことなき物語絵を蔵する人あり。土佐絵にて屏風に貼《ちよう》せるが、前半ばかりのみ存し、山神なる狼、海中のオコゼ魚の美なるに懸想し、これを娶るに臨み、鮹の入道大いにこれを憤り、烏賊などを頼んで軍を起こし、オコゼ姫の駕を奪わんとする話なり。『大和本草』に見ゆる通り、舟師、山神を祈って風を求むるに、今もオコゼを捧ぐること、ギリシア海島の山神に捧ぐるとて、麪包を海に投じ、もって漁を乞うに同じ(Beut,p.65)。近ごろまで熊野地方にて、狼を獣類の長とし、鼠に咬まれて重患なる時、特に狼肉を求めて煮喫せしを参するに、古えわが邦に狼を山神とする風ありしならん。虎骨、虎爪と等しく、狼皮、狼牙、狼尾、辟邪の功ありという支那鋭、上の邪視と視害のついでに言えり。大和吉野郡十津川の玉置山は海抜三千二百尺という。予も咋(119)秋末詣りしが、紀州桐畑より上るは、すこぶる険にして水なく、はなはだしき難所なり。頂上近く大いなる社あり。その神狼を神い者とし、以前は狐に付かれしもの、いかに難症なりとも、この神に祈り蟇目《ひきめ》を行なうに退治せずということなく、また狐人を魅《ばか》し、猪鹿田圃を損ずるとき、この社について神使を借るに、あるいは封のまま、あるいは正体のまま渡しくれる。正体のままの場合には、使いの者の帰路、これに先だち神使狼の足跡を印し続くるを見、その人家に達する前、家領の諸獣ことごとく逃げおわるという。また伝うるは、夜行する者、自宅出ずるに臨み、「熊野なる玉置の山の弓神楽」と歌の上半を唱うれば、途上恐ろしき物一切近づかず。さて志す方へ着したる時、「弦音きけば悪魔退く」とやらかすなり、と。前述、送り狼の譚は、これを言えるか。社畔に犬吠の杉あり。その皮を削り来て、田畑に挿《さしはさ》み悪獣を避けしという。守禦の功、犬に等しという意か。事体かくのごとくなれば、虎狼をもって小児をすかすは、魔除と何の関係なきと同時に、わが邦従来狼を魔除に用うる風ありしは、疑いを容れずと断言しおく。
 ついでに一言するは、今日は知らず、二十年ばかり前まで、紀伊藤白王子社畔に、楠神と号し、いと古き楠の木に、注連結びたるが立てりき。当国、ことに海草郡、なかんずく予が氏とする南方苗字の民など、子産まるるごとにこれに詣で祈り、祠官より名の一字を受く。楠、藤、熊などこれなり。この名を受けし者、病あるつど、件の楠神に平癒を祷る。知名の士、中井芳楠、森下岩楠など、みなこの風俗によって名づけられたるものと察せられ、今も海草郡に楠をもって名とせる者多く、熊楠などは幾百人あるか知れぬほどなり。予思うに、こは本邦上世トテミズム行なわれし遺址の残存せるにあらざるか。三島の神池に鰻を捕るを禁じ、祇園の氏子胡瓜を食わず、金毘羅に詣る者蟹を食わず、富士に登る人※[魚+祭]《このしろ》を食わざる等の特別食忌と併せ攷うるを要す。上文、玉置山の狼もまた、その地に多き玉置一族のトテムたりしにあらざるか。
(後筆)本文認めおわってのち Ulrich Schmidt,‘The Conquest of the River Plate,’trans.Dominguez,1891,pp.42,43 を繙くに、ラブラタに鰐あり、兵刃破るあたわず。その気人にかかれば必ず死す。この魚、井中にある時、鏡を(120)示し、みずからその影を見て、その顔の獰悪なるに驚き死せしむ、とあり。鰐のあるところ瘴気あるゆえ、邪気人を殺すと看做せしならん(『本草』、〓《だ》すなわち鰐、「長さ一丈なるは、よく気を吐き、雲を成し、雨を致す」)。邪気と邪眼の両信、一源なるを見るべし。ただし、この話白人入らぬ先すでに南米に行なわれしにや。あるいは欧人、上文に述べたるコッカトリス鏡を見て死する談を齎来《せいらい》して、ラプラタの鰐に付会せるにあらざるをえんや。後考を俟つ。また『三州奇談』三、加賀白山、群梟と人と相|詈《ののし》って、声まず止む人は死する話あり。故に梟鳴に答えぬこと、と見えたり。パンジヤブにも、梟鳴に応ずれば必ず人死すという(North India Notes and Queris,ap.Folklore,vol.v,p.84,1890)。狸腹鼓打つに応じて、人火鉢をたたき、続け勝つとき狸死すというはこれに似たり。『爾雅』に、「市人争いて犬声をなし、鬼車を逐う」、本文に引けるマレー人大喧呼して、ベリベリ鳥を厭《まじない》するなど、同様の迷信より出でたるか。
 本文、児啼きがその身と父母一族の安危に大影響を及ぼすことを述ぶるに、次のわが邦における好例を引くを遺したればここに付記す。塙保己一の『螢蠅抄』巻四にいわく、「『日蓮注画賛』いわく、「弘安四年五月、また蒙吉、高麗以下の国々の軍兵駆り具し、七万余艘の大船に乗って責め来たる、云々。壱岐、対馬より下って、見合う者は打ち殺す。人民、堪えずして、脱れて妻子をひきいて深山に逃げ隠る。赤子の泣き声を聞けば、押し寄せて打ち殺す。父母はわが命を惜しみ、赤子を刺し殺して隠れおる、云々」。『八幡愚童訓』云々、高麗の兵船五百艘、壱岐、対馬に上がって見合う者をば打ち殺す。人民堪えかねて、妻子を引き具し深山に逃げ籠る処に、赤子の鳴き声を聞きつけて押し零せ殺しけるほどに、片時の命惜しければ、さしも愛する嬰児を、われと泣く泣く差し殺してぞ隠れける。子を失う親ばかり、いつまであらん命ぞと、身ながらうたてしく泣き歎く心中をいかにせん。世の中に、糸惜しき物は子なりけり、それにまさるはわが身なりけり、と読み置きし、人のすさみを今ぞ知る、云々」。 (明治四十二年五月『東京人類学会雑誌』二四巻二七八号)
 
(121)    西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語
        (異なれる民族間に存する類似昔話の比較研究)
 
 明治四十一年六月の『早稲田文学』、予の「大日本時代史に載する古話三則」中に述べしごとく、古話にその土特有のものと、他邦より伝来のものとあり、また古く各民族いまだ分立せざりし時代すでに世に存せしと覚しく、広く諸方に弘通されおりたるものあり。一々これを識別するは、十分材料を集め、整理研究せる後ならで叶わぬことなり。しかして、故イサアク・テロロルの『原殆アリアン人篇』に、レッツ、リチェアニアンス等の諸語は、由来すこぶる古きものながら、記録なく、文章なかりしため、ギリシア、ラテンほどに古く思わぬ人多し、と論ぜると等しく、古話においても、記録せる時代の先後は、必ずしもその話が出来《しゆつたい》せし早晩と偕《ともな》わず。しかしながら、斉しく文筆の用を知りおりたる諸国民について、同種古話の記録の先後と、類似せる諸点の多寡を察すれば、大要その譚の、先だっていずれの国にもっぱら行なわれ出でたるを知るに難からじ。
 外国の舌話をわが国に輸入せしと思わるる「一、二の例を挙げんに、『左大史小槻季継記』に、「太政大臣実基公(嘉禄元年十一月十日補せらる)検非違使別当の時、八歳の男子を、二人の女、面々にわが子の由を称しけるあいだ、法曹輩、計り申していわく、法の意旨に任せ、三人が血を出だして流水に流す時、真実の骨肉の血、末にて一つになり、他人の血気は末にて別なり、「かくのごとく沙汰すべきの由計り申すところ、大理いわく、八歳の者血を出だすべきの条、もっとも不便のことなり。今度沙汰の時、かの三人並びに諸官等参るべきの由仰せられて、その日ついに雌雄(122)を決せられず」。「のち沙汰の日、かの三人諸官等参ぜしむるの時、数刻ののち大理出産し、仰せられていわく」、件の女性両人して、この男子を引いて、引き取りたらんを母と申すべき由計られける時、二人してこの子を引きけるに、引かれて損ぜんとする時に、一人の女は放ち、今一人はただ引き勝たんとす。かくのごとくすること度々、その時大理いわく、放つる女は実母なり、労わるによりてかくのごとく放つ者なり、今一人は労わる心なく、ただ勝たんと思う心ばかりにて引くなり、云々。相違なく、放つる女は母なり、当座引かるるは、荒《やぶ》るには似たれども、思慮の深きところなり。実基公は法曹に達する人なり」と見ゆ。『古事類苑』法律部第一冊一一七三頁に、この記を引き、次に『風俗通』を引いていわく、「前漢の潁川の太守|黄覇《こうは》のとき、本郡に富室あって兄弟同居す。弟の婦《よめ》懐妊す。その長※[女+以]《あによめ》また懐妊し、胎|傷《やぶ》れてこれを匿《かく》す。弟の婦男を生みしに、長※[女+以]すなわち奪い取って、もっておのれが子となす。論争三年にして、覇に付す。覇、人をして児を庭中に抱かしめ、すなわち※[女+弟](稚婦《おとうとよめ》)と※[女+以]《あによめ》をして競うてこれを取らしむ。すでにしてともに至り、※[女+以]これを※[手偏+埒の旁]《ひ》くことはなはだ猛し。弟の婦は手を傷つくるあらんと恐れ、しかして情はなはだ凄惨たり。覇、すなわち長※[女+以]を叱していわく、汝家財を貪りこの子を得んと欲す、いずくんぞ頓に傷つくるところあるを慮り意《おも》わんや、このこと審《あき》らかなり、と。※[女+以]、罪に伏す」。『アラビア夜譚』には、一人両妻を具せしが、両妻同時同室に、一産婆に助けられて分挽し、生まれたる男児は活き、女児は即座に死しければ、両妻一男児を争うて賢相に訴う。賢相、二婦の乳汁を空卵殻に盛り、秤り比べて、汁の重き方を男児の母と断定せしも、他の一婦服せず、喧嘩やまざりければ、賢相、今はその児を二つに割いて、一半をおのおのに与えんと言うに、乳汁重き女、もはや争いを止むべければ、子を他の女に与えたまえと言うに反し、今一人の女は、願わくは児の一半を与えよ、と言う。賢相すなわち汁軽き女を絞殺せしめ、児を汁重き女に付す、とあり(Burton,‘Supplemental Nights,’1894,vol.xi,pp.51-53)。
 皆人の知るごとく、『旧約全書』(1 Kings iii,16-20)に載せたるソロモンの裁判は、この話の最古く伝われるものにて、いろいろの補刪を経て漢土、本邦までも入り来たれるなるべし。また前年、坪内博士が、『早稲田文学』に(123)て公表せられし、幸若の舞曲、それから浄瑠璃等に名高き百合若の話は、ギリシアのウリッセスの傳に基づくという考説など、素人が日本固有の美譚と思い込んだるものにも、実は舶来の焼直しなきにあらざるを証するに余りあり。
 予は田舎におり、件の坪内博士の論を見ず、わずかにその概略を友人より聞きしのみなれば、しばらくその後、自分の思い中りしことどもを記さんに、百合若の譚、本邦の古物語や謡曲に見えず、江戸幕府初まりて後、しばしば聞こゆ。(甫庵の『豊臣記』巻五に、天正十五年正月二日、秀吉朝飯後休むこと、百合若大臣軍に疲れ、熟睡せられしにも越えたり。『宗像軍記』に、大宮司氏重、高向某に、織幡山神社の来歴を問う。答うる詞の中に、百合若大臣の、故郷に放つ鷹島や、とあり。延文三年すなわち尊氏死せし歳のことながら、この詞は、はるか後に編者が潤色せるならん。)戦国時代、幸若の舞あまねく持て囃され、談客援いてもって話柄となせしことおびただし(『甲陽軍鑑』、湯浅常山の『文会雑記』等を見よ)。されば百合若の伝に、ウリッセスの伝と相似の点多きのみならず、主人公の名また相似たるを見れは、まことに博士の説のごとく、そのころ南蛮人が齎したるギリシアの旧譚が、日本に転化されて、百合若の物語となり、幸若の舞題に用いられて、盛んに人口に膾炙したるなるべし。
  ウリッセス故郷に帰りて、不在中その妻ペネロペを競望せし輩と、射を試み、勝って彼輩を射殺せし弓は、無双の射手ウリッセスが手馴らせし物なり。そのことほぼ射場某が、寛文中、備前酒折の社所蔵の、百合若の鉄弓箭を試しおおせたるに似たり(『和漢三才図会』巻七八)。ウリッセスの名また百合若に近し。奸人の張本別府とあるは、たまたまアンチノウスとペネロペを混じ違えたるやらん。
 ただし南蛮人の名は、必ずしも欧州人に限らず。欧人初めて来たりしより百五十余年前、南アジアの回教国民、若狭に着せし等の例、渡辺世祐氏の『室町時代史』三二〇−二三頁に見えたり。『采覧異言』巻三に、明の章※[さんずい+黄]の「回回館の記」を引き、「占城《チヤンパ》、日本、真臘(カンボジア)、瓜哇《ジヤワ》、満刺加《マラツカ》の諸国のごときは、みな回々教を習う。進貢の番文あるに遇えば、ま.た本館に属《たの》みて代訳せしむ」と言えり。回教国ならぬ日本の仮字書も、都合上回々館にて扱いし(124)と見え(『大英類典』二二巻六五九頁に、日本を回教国とせり。四年前三月二日の『ノーツ・エンド・キーリス』に、予一書を投じ、その出所を問いしも、今まで答うる者なし。件の明人の記などによる誤伝ならんか)、『允澎入唐記』、「享徳二年十月十三日、南蛮の瓜哇国人百余人、館にあって、通信を日本に求む」とあれば、邦人当時、海外で回教民と交わりしを知るべし。爾前、回教勃興して、アラビア人全盛の時、古ギリシア・ローマの文字、欧州に亡びて、彼輩に保存されたりというほどなれば、邦人海外に赴きて回教民より伝えたる、古欧州の物語少々にはあらじ。『棚守房顕手記』に、百合若の父公光の篳篥、厳島に存すと言い、『塩尻』帝国書院刊本、上巻六六四頁に、百合若、豊後国船居に伝わる故事なりとて、これに関せる遺跡を列ね、『紫の一本』に、肥後に百合若塚あり。土人言う、百合若は賤き者なり。世に大臣と言うは、大人なり、大太とも言う。大人にて、大力ありて強弓を引き、よく礫を打つ。今大太ぼっちとは、百合若のことなり、ぼっちとは礫のことなりとぞ、と言えり(明治四十一年四月十五日の『東洋学芸雑誌』、予の「ダイダラホウシの足跡」参看)。これらは、本邦もとよりかかる巨人の俚伝ありしに、後世百合若の名を付会し、したがって遺物、遺跡などと故事付けたるにや。『松屋筆記』巻九三、『豊後国志』に、百合若は、大分君稚臣《おおきだのきみわかみ》がこと、これ「天武紀」に見えたる勇士、豊後大分郡の人なり、と言えるも、その名より臆測したる牽強らしく思わる。
 次に、古話の同似せるものの記録、東洋が西洋より古き二、三の例を挙げんに、一五二五年ごろ初めて刊行され、残欠本のみ現存せる英文‘A Hundred Merry Tales’(ed.Hazlit,London,1881,pp.123-124)にいわく、「むかしロンドンに画工あり。若き艶妻を持てるが、用あって旅するに臨み、かねてその妻の心底を疑いければ、その腹に羊を画き、おのれが帰り来るまで、消え失せぬよう注意せよと命じて出で行きぬ。不在中に、いまだ妻を持たざる、好色の若き商人来たり、画工の妻を説き落とし、しばしば室に入ってこれと婬す。婬しおわって女の腹にまた羊を画きける。夫在外一年ばかりして帰り来たり、妻と同臥し、件の所を覧て大いに驚きいわく、予が汝の腹に画けるは角なき羊なりしに、今この羊に二角あり、必定予の不在中不貞の行いぞありつらめ、と。ここにおいて、妻、夫に向かい短く」(125)とあって、下文かけたり。友人エー・コリングウッド・リー氏、予の嘱托に応じ、この話に似たる伊、仏、独諸国の譚を聚め、報じ来たりしを見るに、いずれも十六世紀より古きはなし。
 しかるに、西暦十三世紀に筆せる、無住の『沙石集』七巻六章に、この話あるのみならず、その前後の結構、欧州の諸話に比して一層詳細なり。惟うに、根本は小乗仏典より出でしならん。予目下多忙にて、蔵経を調査する暇なければ、しばらく無住の所筆を引かんに言う。「遠江国、池田の辺に庄官ありけり。かの妻きわめたる嫉妬心の者にて、男を取り詰めて、あからさまにも差し出ださず。所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて遊びけるに、見参のため宿へ行かんとするを、例の許さず、云々。いかが見参せざらん、許せと言うに、さらば印を付けんとて、陰れたる所に、すり粉を塗りてけり。さて宿へ行きぬ。地頭みな子細知りて、いみじく女房に許されておわしたり。遊女呼びて遊びたまえと言うに、人にも似ぬ者にて、むつかしく候、しかも符《しるし》を付けられて候というて、しかじかと語りければ、冠者ばらに見せて、本のごとく塗るべしとて、遊びて後、もとのように違《たが》えず、摺粉を塗りて家へ帰りぬ。妻、云々、摺粉をこそげて嘗めてみて、さればこそしてけり。わが摺粉には塩を加えぬるに、これは塩がなきとて、引き伏せて縛りけり。心深きあまりにうとましく覚えて、やがて打ち捨てて鎌倉へ下りけり。近きことなり。旧き物語に、ある男他行の時、間男持てる妻を符付けんとて、隠れたる所に牛を描きてけり。さるほどに、まめ男の来たるに、かかることなんありと語りければ、われも絵はかけば描くべしとて、さらば能々まみて、もとのごとくも描かで、実の男は臥せる牛を描けるに、間男は立てる牛を描きてけり。さて夫帰りて見て、さればこそ、間男の所為にこそ、わが描ける牛は臥せる牛なるに、これは立てる牛なりと叱りければ、あわれやみ給え、臥せる牛は一生臥せるかと言いければ、さもあらんとて許しつ。男の心は浅く大様《おおよう》なる習いにや。嗚呼《おこ》がましき方もあれども、情量の浅き方は、罪も浅くや。池田の女人にはことの外に似ざりけり。」委細は、予の“Man who painted the Lamb upon his Wife's Body,”Vragen en Mededeelingen,Arnhem,I ser.,i,pp.261-262,1910 に載せたり。
(126) また三年前刊行 G.L.Gomme,‘Folklore as an Historical Science,
’p.67 seqq.に、スコットランドの古語出ず。いわく、富める老翁、多くの子成長したるに畑地を分け与えたり。老妻死しければ、財産をことごとく諸子に分かち、みずから巡廻して諸子の家に客たり。諸子、父を倦厭し、これを除き去らんと謀る。老翁大いに悲しみ、道傍に哭くを見て、旧友一人問うてそのゆえを知り、伴って自家に置き、黄金一鉢を授け、云々せよと教ゆ。翁その言に従い、諸子寺へ詣で、孫どもが留まって塚上に遊べる所へ往き、日向で大石上に黄金を拡げ出し、呟いていわく、「ああ黄金、汝は久しく蓄えられて、黴が生えそうだ。どりや日に乾してやろう」と。孫ども塚に上りこれを窺い、走り来て問う、「じいさま何じゃ」と。翁応うらく、「おまえらの構うことでない。こらこら触れちぁいけねー」と。言い終わりて黄金を大袋に盛り、旧友のもとへ去る。諸子、寺より還って、孫の報告に接し、何とか老翁の金を得んと、争って機嫌を取ることはなはだ勉む。老翁また友の訓えによって、小作りな頑丈な箱を造り、常に随身して歩く。みなみなその何たるやを尋ぬるごとに、翁ただ「この箱を開く時が釆たらおのずから知れる」と答うるのみ。さて児孫の追従一方ならぬうちに、老翁没しければ、一族争い飭《かざ》りて、善美を尽せる葬式済まして後、相会してその箱を開き見れば、茶碗の破片と、石数塊と、長柄の槌あるのみ。一同宛込み大外れながら、槌の頭の銘を読むに、
  この槌は、子に分け尽し、鵜の毛だに、身に添えぬ馬鹿の、頭をぞ打つ。 ゴム氏いわく、この話馬鹿気たりといえども、次の史実を包存せり。(一)古え諸国に、地面持ちの子供長ずる時、おのおのに地面を分与し、子供別れ住み、親はわずかに一小地片を自有する風ありしこと。(二)父老ゆれば、財産を挙げて子に譲る凰ありしこと。(三)むかしこの話の本国(スコットランド)には、同源の諸家一団に群立し、近傍の畑地を諸家通じてともに耕せる風ありしゆえに、老翁産を子供に分かちつくし、巡廻して諸子に客たりしと言うなり。(四)古え欧州のある部に、人老ゆれば子に打ち殺さるる俗ありし等これなり、と。
 熊楠按ずるに、『史記』陸賈伝に、呂后|擅政《せんせい》の際、「陸生、みずからこれと争うあたわざるを度《はか》って、すなわち病も(127)て免ぜられて家居し、おもえらく、好畤《こうじ》の田地よければ、もって家すべし、と。五男あり。すなわち越に使いして得るところの?中の装を出だし、千金に売ってその子に分つ。子ごとに二百金、生産をなさしむ。陸生、つねに安車|駟馬《しば》もて、歌舞し琴瑟を鼓する侍者十人を従え、宝剣の価百金なるをもつ。その子に謂いていわく、汝と約す。汝に過《たちよ》らば、汝わが人馬に酒食を給せよ。欲をきわむること十日にして更《か》えん。死するところの家は、宝剣、車騎、侍従の者を得よ。一歳のうち、往来して他に過って客たらば、おおむね再三過るにすぎざるべし。しばしば見《あ》えば鮮ならず。久しく公《きみ》を※[溷の旁/心]《みだ》すことをなすなからん、と」。予はこれ史実なるか小説なるかを知らず。また決して、にわかに、スコットランドの古話が、支那の陸賈伝に基づくと断ぜずといえども、子が成長して親を厭うの情状を叙せるこの類の記録は、東洋が西洋より早く、しかして老父を槌殺せし風習の痕跡だに留めざる支那の徳化が、はるかに北欧より古く進めるを認む(予の“The Neglected Old Father:Chinese Parallel,”Notes and Queries,Aug.20,1910,p.145 に出ず)。
 また伊国の大文豪ボッカチオの『デカメロン』第七日第九譚に、淫婦リジア、老夫の気力乏しきを嘆《かこ》ち、美少年ピロに懸想し、幽情勃動、病んで死せんとするの状を通じけるに、男三難題を出だし、夫人よくことごとくこれを成就せば恋を叶うべし、と答う。その第三の難題は、夫人すべからくその夫の歯を抜き、われに贈るべし、となり。ここにおいて、リジア計って、両侍童に訓《おし》ゆらく、主翁汝らの口臭を忌む、汝ら給侍するごとに、顔を横向けよ、と。両童然くせしかば、夫これを怪しむ。夫人進んで説いていわく、君の歯朽ち臭はなはだしきゆえなり、と。すなわちためにその歯を抜き、情人に遣る。クラウストン氏この類の譚を集めしに、欧州に十二世紀より前にこれを記せしものなし(W,A.Clouston,‘Popular Tales and Fictions,’1887、vol.ii,p.444 seqq,;A.C.Lee,’The Decameron,its Sources and Analogues,’1909,p.231 seqq.)。
 しかるに、予、『韓非子』(西暦紀元前三世紀の作)巻一〇に、これに似たる話あるを見出だせり。いわく、「荊王愛するところの妾に、鄭袖なる者あり。荊王あらたに美女を得。鄭袖よってこれに教えていわく、王ははなはだ人の口を(128)掩うを喜ぶ、もし王に近づかば、必ず口を掩え、と。美女入って見《まみ》え王に近づき、よって口を掩う。王そのゆえを問う。鄭袖いわく、これもとより言う、王の臭を悪む、と。王、鄭袖・美女と三人坐するに及び、袖よってまず御者を誡めていわく、王たまたま言あらば、必ずすみやかに王の言を聴従せよ、と。美女前んで王に近づき、はなはだしばしば口を掩う。王、勃然として怒っていわく、これを※[鼻+立刀]《はなき》れ、と。御者、よって刀を揄《ひ》いて美人を※[鼻+立刀]れり」。よってこれを訳し、Notes and Queries,Dec.24,1904,p/505 に掲げしに、リー氏評して、これこの類の諸譚中最も古きものたり、古話の学する者、一斉に南方氏の発見を感謝すべし、と言われたるは、不慮の過賞、予慙汗三斗たらざるをえんや(A.C.Lee,“The Envied Favorite,”N.&Q.,Jan.28,1905,pp.71-73 を見よ)。
 晋朝に成る『三輔故事』には、「漢の衛太子嶽鼻、来たって疾《やまい》を省《みま》いて甘泉宮に至る。江充、太子に告ぐ、入るなかれ、陛下より詔あり、太子の嶽鼻を悪むと、ねがわくは紙をもってその鼻を蔽え、と。充、武帝に語っていわく、太子は陛下の膿臭を聞《か》ぐを欲せず、ゆえに鼻を蔽う、と。武帝、太子を怒る」、太子走り還り、ついに殺されし由言えり。
 ついでに述ぶ。『デカメロン』第七日第六譚、武士の妻、その夫の不在に若き男と密会するところへ、平素この女を慕える荒武者来たり逼る。女やむをえず、男を牀下に慝し、荒武者を引き入る。にわかにその夫帰り来たり、荒武者の馬を維《つな》ぎたるを見、大いに怪しむ。妻頓智もて荒武者に訓え、抜刀して、「必ずどこかで思い知らせん」と叫びながら出で去らしめ、夫入り来たるに先だち寝室に退き、密夫に聞こゆるよう、高声に夫に語りけるは、かの荒武者狂気して、見知らぬ若き男を追い、その男たちまちこの室に逃げ籠れり、と。夫すなわちかの男を捜し出し、飲食させ、その宅へ送り届けたり、と。この話に多少似たるもの、また『韓非子』巻一〇に出ず。いわく、「燕人の李季、遠出を好む。その妻ひそかに士に通じるあり。季にわかに至る。士は内《へや》の中にあり。妻これを患《うれ》う。その室婦いわく、公子を裸にし髪を解いて直ちに門より出でしめよ、わが属《ともがら》見ずと佯《いつわ》らん、と。ここにおいて、公子その計に従い、(129)疾走して門を出ず。季いわく、これ何人ぞや、と。家室みないわく、あるなし、と。季いわく、われ鬼を見たるか、と。婦人いわく、然り、と。これをいかんとなす。いわく、五牲の失《くそ》をとってこれに浴せよ、と。季いわく、諾と。すなわち浴するに矢《くそ》をもってす」(A.C.Lee,op cit.,p.184. 武士幽霊の体にて夫を紿き、妻に謝罪する譚、参看すべし)。
 シンダレラ物語は、何人も知らぬ者なき通り、欧米で最も盛んに行なわるる仙姑伝《フエヤリーテイル》なり。シンダレラ、継母に悪まれ、常に灰中に坐し、厮役《しえき》厨務に苦しめられ、生活全く異母妹の盛飾遊食するに反せり。一旦仙姑の助けにより、貴公子に見初められしが、公子これを執えんとするごとに、駛く去って影を留めず。しかるに、ある夕、例のごとく公子眼前に舞踏済み、遁れ去らんとして、仙姑がくれたる履を落とす。公子これを拾い、衆女を試むるに、シンダレラの足のみこれに合う。公子よって意中の人を認め、これを契る。この譚西洋に弘く行なわるるだけ、その作り替えも多きは、例せば C.Pedroso,‘Portuguese Folk-Tales’(London,1882)、ポルトガルの古話三十を載せたるうち、シンダレラ物語に属するもの、三つまであるにて知るべし。
 さて予二十三年前在米の間、『酉陽雑俎』続集巻一に、支那のシンダレラ物語あるを見出だし、備忘録に記しおき、その後土宜法竜師などに報ぜしことあり。英国の俚俗学会、かつて広く諸国に存するシンダレラ物語の諸種を集め、出版せし一冊あり。予在外中、好機会多かりしも、多事なりしため、ついにこれを閲せざりしぞ遺憾なる。近日ロンドンの学友を頼み、右の書に支那のシンダレラ譚ありやと調べもらいたるに、全くなしとの返事なり。しかし、その人かかることに趣味を持たざれば、実際は知れず。とにかく、自分せっかく久しく取っておきの物を、そのまま埋め去ることの惜しまるれば、ここにその文を載す。たとい、すでに学者間に知悉されしことなりとも、この物語を、欧州特有の物と思いおる人々の、耳目を広むるの少益ありなんか。いわく、「南人相伝う。秦・漢の前に洞主の呉氏あり。土人、呼んで呉洞となす。両妻を娶る。一妻卒し、女あり、葉限と名づく。少《おさ》なきより恵《さと》く、よく金を鉤《と》る。父これ(130)を愛す。末歳に父卒し、後母《ままはは》の苦しむるところとなる。常に険しきに樵《きこsり》し、深きに汲ましむ。時に、かつて一の鱗《さかな》を得たり。二寸余にして、※[赤+貞]《あか》き※[髪の友が耆]《ひれ》、金の目なり。ついにひそかに盆水に養う。日々に長じ、数器を易《か》うるも、大きくして受くるあたわず。すなわち、うしろの池の中に投ず。女《むすめ》は、得るところの余食あれば、すなわち沈めてもってこれに食らわす。女の池に至れば、魚は必ず首を露わし、岸に枕す。他人至らば、また出でず。その母、これを知って、つねにこれを伺うも、魚いまだかつて見われず。よって女を詐《いつわ》っていわく、なんじ労するなからんや、われ、なんじがためにその襦《うわぎ》を新たにせん、と。すなわち、その弊《やぶ》れし衣を易え、のち他の泉に汲ましむ。里を計れば数百なり。母は徐《おもむ》ろにその女の衣をつけ、利き刃を袖にし、行きて池に向かい魚を呼ぶ。魚すなわち首を出だす。よってこれを斫り殺す。魚すでに長さ丈余、その肉を膳《くら》うに味は常の魚に倍す。その骨を鬱棲《つみごえ》の下に蔵《かく》す。日を逾《こ》えて女至り、池に向かえどもまた魚を見ず。すなわち野に哭す。たちまち人あり、被髪、粗衣にして、天より降って女を慰めていわく、なんじ哭すなかれ、なんじの母はなんじの魚を殺せり、骨は糞の下にあり。なんじは帰りて、魚の骨を取って室に蔵すべし、須むるところ、ただこれに祈れば、まさになんじに随うべし、と。女、その言を用い、金※[王+幾]《きんき》衣食、欲するに随って具わる。洞の節《さいじつ》に及び、母は往きて、女をして庭の果を守らしむ。女は母の行くこと遠きを伺い、また往く。翠紡の上衣をつけ、金の履《くつ》を躡《は》く。母の生みしところの女これを認め、母に謂いていわく、これはなはだ姉に似たり、と。母もまたこれを疑う。女覚りてにわかに反り、ついに一隻《ひとつ》の履を遺し、洞人の得るところとなる。母は帰って、ただ女の庭樹を抱いて眠れるを見て、またこれを慮《おもんばか》らず。その洞は海島に隣りす。島中に国あり、陀汗と名づく。兵強くして、数十の島、水界数千里に王たり。洞人ついにその履を陀汗国に貨《う》る。国主これを得て、その左右に命じてこれを履かしむ。足の小なる者履けば一寸を減ず。すなわち一国の婦人をしてこれを履かしむるに、ついに一として称《あ》う者なし。その軽きこと毛のごとく、石を履むに声なし。陀汗王、その洞人の非道をもってこれを得しかと意《おも》い、ついに禁錮して、これを拷掠《こうりやく》すれども、ついによって来たるところを知らず。すなわち、この履をもって(131)これを道旁に棄て、すなわち人家を遍歴してこれを捕えんとす。ここに、女の履く者あり、これを捕えてもって告ぐ。陀汗王これを怪しみ、すなわちその室を捜して葉限を得たり。これを履かしむるに信なり。葉限、よって翠紡の衣をつけ、履を躡いて進むに、その色《すがた》天人のごとし。始めて事を王に具《もう》し、魚骨と葉限とを載せて、ともに国に還る。その母および女は、すなわち飛石のために撃たれて死す。洞人これを哀しみ、石坑に埋め、命けて懊女塚という。洞人もって※[示+某]祀《ないし》をなし、女を求むれば必ず応ず。陀汗王は国に至り、葉限をもって上婦となす。一年、王貪り求めて魚骨に祈り、宝玉限りなし。年を逾えてまた応ぜず。王すなわち魚骨を海岸に葬り、珠百斛を用いてこれに蔵し、金を際《わく》となす。徴卒の叛する時に至り、まさに発《あば》いてもって軍を贍《たす》けんとするに、一夕、海潮の淪《しず》むるところとなる。成式の旧家人、李士元の説くところなり。士元はもと※[災の火が邑]州《ようしゆう》の洞中の人、多く南中の怪事を記し得たり。」
 ペドロソの『葡萄牙里談』第二四、すこぶるこれに似たり。いわく、鰥夫《やもめ》あり、三女を有せるが、長女、次女は衣裳飾りのみし、季女《すえむすめ》は好んで厨事を務めけるを、両姉嘲って竈猫《かまどねこ》と呼べり。一日、その父一魚を獲、季女に料理を命ぜしに、季女その魚の色黄に美なるを愛し、父に乞うてこれを自分の室に置き、水中に養う。夜に及び、魚、女に向かい、われを井に放て、と言いしかば、起ってこれを井に投ず。翌日、季女魚見んとて井に近づくに、魚「娘子、井に来たれ」と連呼す。女、大いに惧れて去る。次日、二姉宴会に趣《おもむ》ける不在中、季女また井に近づけば、魚呼ぶこと昨日のごとし。よって進んで井に入りしに、魚、女の手を牽いて、金玉の殿に導き、無比の美服を着け、一双の金履を踏《は》かせ、輅車《ろしや》に乗って宴会に趨《おもむ》かしむ。戒めていわく、必ず二姉に先だって退き、この所に来て衣飾を脱せよ、と。宴会に趣くに及び、満堂季女の美を驚嘆せざるなし。宴おわり急ぎ去らんとせしに、履一を落とし、王に拾わる。王すなわち国中に令し、この履の本主を娶らんという。季女、家に還って、井中の王殿に上り、衣を脱せる時、魚来て、問うべきことあれば今宵また来たれ、と言う。二姉還りて、季女の厨事に急がしきを見、その日宴会で、無上の美人、金履を落とし、王その持主を娶らんと熱望する由を語る。またいわく、われらこれより王宮に詣り、かの履を試みん(132)に、一人の足必ずこれを合うべければ、后とならんこと必定なり、その時厨猫に一新衣を遣わさん、と。二姉出で行くを見て、季女井に到るに、魚たちまち「汝わが妻たるべし」と勧むることはなはだ力めければ、ついに従いぬ。その時魚すなわち化して人となり、いわく、われは当国王の子、久しく呪封されてこの井にあり。われ今日、汝が履を落とせるより、わが父令して履主を娶らんと望むを知る。汝ただちに王宮に趣き、妾すでに婚を君の子に約せりと言え、と。季女、井を出で家に入れば、二姉還りて、二人の足いかにするもかの履に適せざりしと嘆き、季女われも行きて試みんと言うを聴き、大いにこれを嘲る。季女王宮に詣り、履を試むるに、合うて寸分を差えざりければ、王これを娶らんと言う。季女よって王子の告げしままに答えて、これを辞せしに、王驚喜措くところを知らず、百官を遣わして井より王子を迎え、竈猫女を娶らしめければ、両姉羨み嫉み、恐言を放って罰せらる。その後、王子父に嗣いで立ち、竈猫は后たり、と。
 按ずるに、古今魚類を崇め神とせる民族多し(F.Schultze,‘Fetichizm,’trans.,New York,1885,p.79;Frazer,‘The Golden Bough,’1890,vol.ii,pp.118-122;Leo Frobenius,‘The Childhood of Man,’1909,p.243 seqq.)。例せば、鯉、神変あり、山湖を飛び越え、鱧《れい》、夜北斗に朝し、これを殺さば罪を益す等、支那に霊魚の談多し(『淵鑑類函』巻四四一)。本邦で魚を崇めし通俗については、『東京人類学会雑誌』二八八および二九一号を見よ。また古え鮪、鰹、目黒、鯛、鮒、オコゼ、コノシロ、鯖(『玄同放言』巻三)、鎌足《かます》、房前《はぜ》(石野広通著『絵そら言』)等、魚に資《よ》れる人名多く、神仏が特種の魚を好悪する伝説すこぶる少なからざるは、今日までスコットランド、アイルランドに、地方に随って魚を食うに好悪ある(Gomme,op.cit.,p.290)に同じく、古えトテミズム盛んなりし遺風と見ゆ。古欧州およびインドの諸神、魚形なりし例多く Gubernatis,‘Zoological Mythology,’p.329 seqq.に出ず。古エジプトに、魚神レミあり、また鰻※[魚+麗]《うなぎ》等諸魚を神とし(Budge,‘The Gods of the Egyptians,’1904,vol.i,p.303;vol.ii,p.382)、日神ラアは二魚アブツ、アントを使う(‘The Book of the Dead,’trans.Budge,1898,p.4)。古カルデア人、無智にて禽(133)獣と別なかりしを、智神エア、昼間のみ海を出でて、上陸して、言語、農工、書画万般を教えたり。この神は魚形なり。その前後にも、かかる魚形神出で、民を開導せること、仏教に一仏・二仏あるがごとし(Maspero,‘The Dawn of civilization,’London,1894,p.565,&c;Boscawern,‘The First of Empires,’1903,pp.67-68)。しかして、魚属その他動物の骨を尊敬する民族しばしばあるは Frazaer,op.cit.,pp.118-120,122 seqq. にその論あり。されば『雑俎』、葉限、魚骨に祈って福を得し話は、支那南部に、旧くかかる崇拝、迷信行なわれたる痕跡ならんか。履を手懸りとして美女を求むる譚は、ストラボン(耶蘇とほとんど同時)の書に出ず。西暦紀元前六百年ごろの名妓ロドペ浴する間に、鷲その履を捉み去り、メムフィスの王の前に落とせしを、王拾って、その履の美にして小さきに惚れ込み、履主を捜索して、ついにロドペを娶れりとなり。
 予、現に参考書を欠くをもって、欧州シンダレラ物語の最も古きは、何時代に記されたるをつまびらかにせず。したがって、この譚の早く筆せられしは、東西いずれにあるを断ずるあたわずといえども、とにかく、千余年前に成りし『酉陽雑俎』に、この特色あるシンダレラ物語を書きつけたる、唐の太常卿、段成式の注意深かりしを感謝するものなり。この人相国文昌の子、詩名高く、宏学博物、ほとんど張華、プリニウスの流なり(尉遅枢の『南楚新聞』に、今より千四十八年前、咸通四年六月、卒せる後、その霊書を友人温庭※[竹/均]に贈りし由載せたり)。平素好んで書を蔵し、また下問を恥じず。天上天下、方内方外の異譚奇事を録して、『酉陽雑俎』二十巻、続集十巻を撰せり。唐代の事物、これによつて初めて見るべきものすこぶる多し。しかるに、楊慎の『丹鉛総録』巻五、「段成式は虚大の言を張るを好む。その著『酉陽雑俎』は、また郭子横の『洞冥記』、唐人の『杜陽雑編』に似て、全く虚誑《きよきよう》を構え、ことに一の実もなきなり」と評し、江村北海もまた、『雑俎』を丸啌《まるうそ》なりと排せり。こは後世支那人が、書籍の穿鑿のみに腐心して、実際に迂なると、わが邦の儒者が、世界の広きことを知らざる僻言にて、なるほど段氏の記述に怪異のこと多きも、これかえって、当時唐土に行なわれたる迷信、錯誤の実況を直筆せるものなれば、そのころ支那における一汎人智の程(134)度を察するに最も便益あること、欧州にも、遠くアリストテレス、プリニウスより、中ごろ天主教諸大徳を歴て、近くゲスネル、アルドロヴァンズスに至るまで、牛屍を埋むれば蜜蜂に化し、人の脊髄死して蛇となり、露《つゆ》海に入って真珠と変じ、航魚《たこふね》を見れば凶事あり、印魚《こばんふね》は訴訟事件を長引かし、インドの象は毎度竜と闘って相討ちて果つる。その外、人魚、山男など、呆れ返ったことどもをあくまでおびただしく書き連ねたるに異ならず。
 段氏が智識を求むる用意きわめて周到なりしは、巻一八に、諸外国の植物を載せたるに、ただに記文のくわしきのみならず、多くはその本国名称を添えたり。紫※[金+丱]《しこう》の真臘名勒※[人偏+去](ラック)、汲斯棗のペルシア名窟莽(クルマ)、偏桃のペルシア名婆淡(バダム)、無花果のペルシア名阿※[馬+且](アンジル)、払林名底珍(アラビア名ティン)等なり(De Candolle,‘Origin of Cultivated Pkants,’1890,passim.)。従来エゴノキにあてたる斉※[土+敦]果ごとき、その記載の正確なるが上、『雑俎』に、ペルシア名斉※[土敦]、払林名斉※[まだれ/虚]と挙げたるはペルシア語 seitun ヘブリウ語 sait に恰当すれば、実はオリーブ樹のことなり(明治四十年十二月『東洋学芸雑誌』、拙文「オリーヴ樹の漢名」に出ず)。その巻一九に見ゆる、梁の延香園の異薗のごとき、詳細の記載、明らかにコムソウダケのある種を眼前に想見せしむ(予の“The Earliest Mention of Dictyophora,”Nature,vol.1,1894)。その「仙書を験するに、威喜芝と相|類《たぐい》す」と言えるは、たまたまもって、支那の古道士輩が、自然に窒素分多き菌類の畜肉と等しく滋養分に富めるを覚って、これを嗜み重んじ、したがって菌類について智識広かりしを、諒するに足れり(仙書に、上帝肉芝を某仙に賜うとあるは、紀州などに多き Fistulina hepatica ならん。形色牛肉に酷似し、かつ鮮血樣の紅液を瀝《したた》るゆえ、英語に牛肉蔬《ヴエジテーブル・ビーフ・ステーキ》と呼ぶ)。同巻に見ゆる昆明池、水網藻の記は、支那人が欧人に前《さきだ》って、アミミドロ(英語 waler net)を識りしを証す(予の”The Earliest Mention of Hydrodictyon,”Nature,vol.1xx,1904)。
 また松下見林の『異称日本伝』巻上にも引けるごとく、『雑俎』三に、「国初、僧玄奘五印に往きて経を取《もと》め、西域これを敬す。成式、倭国の僧金剛三昧に見うに、いわく、かつて中天に至りしに、寺中に画多く、玄奘の麻の※[尸/(行人偏+蕎)]《くつ》(135)および匙と※[竹/助]《はし》、綵雲ををもってこれを乗す。けだし西域にはなきところにして、斎日に至るごとに、すなわちこれを膜拝《ぼはい》す、と」とあり。見林これを評して、真如親王羅越にて遷化し給いけるを、師錬賛していわく、「推古より今に至るまで七百歳.学者の西遊を事とするや、千百をもって数う。しかして印度に※[足+支]《わた》る者は、ただ一人のみのごとし、と。けだし、金剛三昧のことを考えざりしなり」と言えり。件の千余年前に渡天の壮行を遂げたる日本僧は、その姓名すら本国に伝存せざれども、わが邦かつてかかる偉人を出だせしを知りうるは、一に親しくこれに遇いし話を、『雑俎』に載せたる段氏の賜物なり(予の“The Discovery of Japan,”Nature,vol.1xvii,p.611,1903 参照)。わが邦の高僧、海外に名を馳せながら、本国に知られざる例少なからず。これを例するに、慈覚大師『入唐求法巡礼行記』に見えたる、日本国霊仙三蔵ごとき、なかなかの学僧にて、淳和帝より学資を賜わりしが、支那にて毒殺され、異国の緇徒その跡を弔いしのみ。その詳伝は伝わらず。『茅亭客話』(『五代詩話』巻八に引く)に、「瓦屋和尚、名は能光、日本国の人なり。洞山悟本禅師を嗣ぐ。天復の年、初めて蜀に入る。偽永泰軍節度使の鹿虔※[戸/衣]《ろくけんい》、碧鶏坊の宅を捨《ほどこ》し、禅院となしてこれに居らしむ。孟蜀の長興の年の末に至って遷化す。時に歯一百六十三なり」。この僧徳望高かりしのみならず、海外で二百歳近くまで長生とは、ひとえに日本の面目なり。はるか降って十七世紀の初めに、イタリアの旅行家ピエトロ・デラ・ヴァレが、ペルシア国イスパハンで逢いし日本の碩学、ピエトロ・バオリノ・キベ(木部か)ごとき、自在にラテン語を使い、道を求めてローマに留学したり、と(‘Viaggi di Pietro della Valle,’Brighton,1843,vol.i,p.492)。
 これを要するに、段氏決して全く虚構して『酉陽雑俎』を著わしたるにあらず。またいわんや、上に引ける葉限の物語は、往古南支那土俗の特色を写せる点多く、これを談りし人の姓名までも明記したれば、その里俗古話学上の価値は、優に近時欧米また本邦に持て囃さるる仙姑譚、御伽草紙が、多く後人任意の文飾脚色を加え含めるに駕するものと知るべし。
       (明治四十四年三月『東京人類学会雑誌』二六巻三〇〇号)
 
(136)    ペルー国に漂着せる日本人
 
 英訳 Ratzel,‘The History of Mankind,’1896,vol.i,p.164 に、東西南半球間過去の交通を論じ、「日本と支那より西北アメリカに漂着せる人あり。また米国の貨品がハワイに漂到せる例あり。しかれども南半球に至っては、高緯度にあって風と潮流が西より南米大陸に向かい、赤道近くに随い、風潮並びに南米より東方に赴き去り、すべて東半球と南米間に人類の彼此往来ありし確証実例なし。ただ民俗相似の点多きより推して、かつてかかる交通ありたるを知るのみ」と述べたり。
 未開の民が、風と潮流に逆らうて弘まり行きし例あるは、第二板『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』二二巻三四頁に、多島海《ポリネシア》人、古え航海に長じ、その辺の風と潮流、主として東よりすれども、時に西よりすることあるを利用し、インド洋島より発程して、ついに遠く多島海諸島に移住せる由を言えり。Daniel Wilson,‘Prehistoric Man,’1862,ch.vi & xxv に、南太平洋に太古今よりもはるかに島数多かりしが、漸々海底に沈みし由を論じ、多島海人が往昔航海術に長ぜる記述に及ぼし、人間が東半球より西半球に弘まりしは、第一に多島海より南米に移りてペルー、中米等の開化を建立し、第二に大西洋を経て西インド、中米、ブラジル等に及ぼし、第三にベーリング海峡および北太平洋諸島より北米に入りしもののごとし、と説きたり。
 今東半球の赤道以北よりすら、かつて南米に漂到せる人の絶無ならざるを証するために、予の日記の一節を、ほぼ原文のまま写し出すこと次のごとし。
(137) 明治二十六年七月十一日夕、ロンドン市クラパム区トレマドク街二十八番舘主|美津田《みつた》滝次郎氏を訪う。この月六日、皇太孫ジョールジ(現在位英皇)の婚儀行列を見んとて、ビショプスゲイト街、横浜正金銀行支店に往きし時相識となりしなり。この人武州の産、四十余歳、壮快なる気質、足芸を業とし、毎度水晶宮等にて演じ、今は活計豊足すと見ゆ。近日スペインに赴き興行ののち帰朝すべしと言う。子二人、実子はすでに帰朝、養子のみ留まりあり、その人日本料理を調え饗せらる。主人、明治四年十一月本邦出立、支那、インド等に旅すること数年、帰朝して三年間京浜間に興行し、再び北米を経て欧州各国より英国に来たり、三年前より今の家に住すと、云々。旅行中見聞の種々の奇談を聞く。西インド諸島等のこと、大抵予が三、四年前親しく見しところに合えり。
 氏ペルー国に住みしは明治八年十二月にて、六週間ばかり留まりしうち奇事あり。平田某次郎という人、七十余歳と見え、その甥三十余と見えたり。この老人字は書けども、本朝の言語多く忘却しぬ。美津田氏一行、本邦人十四人あって、毎日話し相手になりしゆえ、のちには九分まで本邦の語をよくするに及び、この物かの品を日本にて何と言えりや、など問うたり。兵庫辺の海にて、風に遭い漂流しつ。三十一人乗りたる船中、三人は死し、他は安全にてペルーに着せり。甥なる男、当時十一歳なりし。その後他はことごとく歿し、二人のみ残り、老人は政府より給助され、銀行に預金して暮らし、甥はかなり奇麗なる古着商を営みおれり、と。老人も、以前は手工を営みし由、健全長寿の相あって、スペイン人を妻《めと》れり、と。その乗り来たりし船は、美津田氏一行が着せし三年前まで、公園に由来を記して列しありしが、ついに朽ち失せぬ。美津田氏一行、出立に臨み、醵金してかの人に与え、かつ手書して履歴を記せしめ、のちサンフランシスコに着するに及び、領事館へ出だせしに、ペルー政府に照会の上送還せしむべしとなり。以後のことを聞き及ばずという。一行リマ市を立ち離るる時、老人も送り来たり、名残惜しげに手巾を振り廻しおりし、と。美津田氏らサンフランシスコに着せし時、在留の邦人わずかに三人、領事柳谷という人みずから旅館へ来訪されたり、云々。
(138)  美津田氏は、質直不文の人なれど、仮名つきの小説をよく読みたり。その談話は一に記憶より出でしゆえに、誤謬も多少あるべきと同時に、虚構潤色を加うることなしと知らる。また予が日記には書かざれど、確かに美津田氏の言として覚ゆるは、件の老人に帰国を勧めしに、最初なかなか承引せず。われらすでに牛肉を食いたれば身穢れたり、日本に帰るべきにあらず、と言いしとか。
 件の美津田氏は、その後二子(ともに養子なり。日記右の文に、一人は実子とせるは謬りなり)ともに違背して重き家累を生じ、おのずから帰朝するをえず。さらに「もと」と名づくる一女(邦人と英婦の間種。芳紀十五、六、なかなかの美人なり)を養い、ロンドンに二、三年留まりおり、予も一、二回訪ねしが、その後のことを知らず。右の日記に書き留めたる外にも、種々平田父子のことを聞きたるも、予只今記臆悪くなって、一事を留めざるは遺憾はなはだし。近ごろ柳田国男氏に問い合わせしに、柳谷謙太郎氏は明治九年十月九日より十六年三月三十一日まで、サンフランシスコ領事として留任せり、と答えらる。よって考うるに、美津田氏一行、九年正月中リマを出立し、諸方を興行し廻り、その年十月後サンフランシスコに着きたるならん。ブラジル、アルゼンチナ等に到りし話も聞きたれば、かく思わるるなり。
 ついでに述ぶ。右の日記二十六年七月二十二日の条に、「美津田氏宅にて玉村|仲吉《ちゆうきち》に面会す。埼玉県あたりの人。少時足芸師の子分となり、外遊中病で置き去られ、アフリカ沿岸の地諸処多く流寓、十七年のあいだ、あるいは金剛石坑に働き、またペンキ塗りなどを業とせし由。ズールーの戦争に、英軍に従い出で、賞牌三つばかり受用す、と。予もその一を見たり。白蟻の大※[穴/果]等のこと話さる。日本語全く忘れしを、近ごろ日本人と往復し、少しく話すようになれり、と。ロンドンの西南区に、英人を妻とし棲み二年ありとなり」とあり。いわゆるズールーの戦争は、明治十二年のことにて、ナポレオン三世のただ一子、二十三歳にてこの軍中蛮民に襲われ犬死せり。当時従軍の玉村氏、二十歳ばかりのことと察せらる。日本人が早く南阿の軍に加わり、多少の功ありしも珍しければ付記す。明治二十四年(139)ごろ、予、西インドにありし時、京都の長谷川長次郎とて、十七、八歳の足芸師、肺病にてジャマイカ島の病院に単身呻吟しいたりし。かかることなお多からん。    (大正元年十月『人類学雑誌』二八巻一〇号)
 
(140)    厠神
 
 自分の抄録中より出口君の所輯(『人類学雑誌』二九券一号)を補わんに、君が『玉手襁』より引かれし、流行眼病を厠神《かわやがみ》に祈ること今も紀州にあり。田辺辺には、眼病流行の際、厠前に線香を焚き、両側に小さき赤旗を樹てて祈り、また家内の人数ほど小さき赤旗を作り、厠壁に挿し祈れば、かの病に罹らずという。厠神盲目なるゆえ、そのために厠を掃除すれば神悦ぶ。孕婦しばしば手ずから掃除すれば美貌の子を生むと伝う。『諸経要集』巻八下、「『福田経』にいわく、仏みずから宿命の行ずるところを説くらく、むかしわれ、前生に婆羅奈《はらな》国のために、大道のほとりに近く※[くにがまえの中に青]厠《せいし》を安設す。国中の人衆にして軽安を得る者、義に感ぜざるなし。この功徳によりて世々清浄なり。劫を累ねて道を行じ、穢染も汚《けが》さず。金色《こんじき》晃々として塵垢も著かず。食おのずから消化し、便利の患なし、と」。これは厠を立てて公衆に便せし福報を述べたるなれど、由来、除糞人をきわめて卑しめしインドにも不浄の掃除を必要とせしは、『賢愚経』に、除糞人尼提出家を許され得道せしこと、『除恐災患経』に、無類の美妓奈女、前身塔地の狗糞を除きし功徳もて、後身つねに胞胎臭処より生まれず、花中より生まれしことを記せり。
 四十年ばかり前和歌山で聞きしは、厠神、一手で大便、他の一手で小便を受く。もし人、厠中に唾吐けばやむをえず口もてこれを受く。ゆえに厠中に唾吐けば神怒る、と。また伝う、厠神盲にして人に見らるるを忌めば、厠に入る者必ず燈を携え咳してのち入るべし、と。これ、その作法出口君が上の四一頁に引ける朝鮮の風に同じ。『毘尼母経』に、「もし厠に上りいく時は、まさに籌草《ちゆうそう》を取って戸前に至り、三たび弾指《つまはじき》して声をなすべし。もし人にても非人に(141)ても、覚知するを得しむ」とあれば、インドにも古く厠に入る前、声を発して人と鬼神に知らしむる教えありしなり。『雑譬喩経』に、「一比丘あり、弾指して来たらず。大小便を中鬼の面上に※[月+賛]汚す。魔鬼大いに恚《いか》って沙門を殺さんと欲す、云々」。『大灌頂神呪経』に、厠溷《しこん》中鬼を載せ、巻七に※[口+敢]人《たんじん》屎尿鬼《しにようき》を載す。『正法念処経』一六に、「男もしくは女にして、慳嫉《けんしつ》もて心を覆《ふさ》ぎ、不浄食をもって、もろもろの出家、沙門、道士を誑《あざむ》き、これ清浄なりと言い、信用せしめてすなわちこれを食らわしめ、ある時はまた食うべきところにあらざるものをもって浄行人に施し、しばしばこの業《おこない》をなし、また他人をして誑惑を行ない、布施を行なわず、禁戒を持せず、善友に近づかず、正法に順わざらしめ、不浄をもって持して人に与うるを楽しむ。かくのごとき悪人は、身|壊《やぶ》れ命終われば、悪道中に生まれ、※[口+企]托《きた》(魏にて唾を食《の》むを言う)餓鬼の身を受く。飢渇の火のために常にその身を焼かれ、不浄の処、壁もしくは地において、もって人の唾を求め、これを食《の》んで命を活《い》かす。余《ほか》の一切の食はことごとく食らうを得ず。かくて悪業は、尽きず壊れず朽ちず、ゆえに脱《のが》るるを得ず、云々。もし人中に生まるるも、貧窮にして下賤、多病にして消《おとろ》え痩せ、鼻|※[鼻+(災の火が邑)]《ふさが》つて膿み爛れ、除厠《くみとり》の家に生まれ、あるいは僧中において、残食を乞い求めて、もってみずから命を済《たす》く」と言い、「かくのごとき衆生は貪嫉もて心を覆ぎ、あるいは沙門となるも、受くるところの戒を破り、しかして法服《ころも》を被《き》てみずから衆落に遊び、諂い誑いて財を求心。病者のために病に随って供給すと言いて、ついに施与せず、すなわちみずからこれを食らう。乞求のためのゆえに、衣服を厳飾し、諸城邑を遍めぐって広く須うるところを求め、病者に施さず。この因縁をもって、云々、阿毘遮羅(魏にて疾く行《ある》くを言う)餓鬼に生まれ、鬼身を受けおわって、不浄の処において不浄を※[口+敢]食《くら》い、常に飢渇に患《くるし》み、みずからその身を焼く。もし衆生の不浄を行ずる者あれば、かくのごとき餓鬼すなわち多くこれを悩まし、みずからその身を現じ、ために怖畏をなして人の便《すき》を求《うかが》い、あるいは悪夢を示してそれを恐怖せしむ。塚《はか》の間を遊行して死屍に近づくを楽しみ、その身は火となって燃え煙焔ともに起こる。もし世間に疫病流行し、死亡する者衆きを見れば、心すなわち喜悦す。もし悪呪あってこれを喚べはすなわち来たり、よく衆生のために不饒益《ふにようやく》をなす。(142)その行くこと迅疾にして、一たぴ念ずればよく百千由旬を走る。このゆえに名づけて疾行餓鬼となす。およそ世の愚人、共に供養するところにして、あまねくみなこれを号え、もって大力神通夜叉となす。かくのごとく種々に人に殃禍《わざわい》し、人をして怖畏せしめ、かくて悪業は尽きず壊れず朽ちず、ゆえに脱るるを得ず、云々。もし人中に生まるるも、呪師の家に生まれ、諸鬼神に属して、鬼神の廟を守る」。
 かかる食不浄悪鬼を祀るより、自然厠神の観念を生ぜしやらん。劉宋訳『弥沙塞五分律』二七に、「一比丘あり、小便をすべからざる処において小便す。鬼神その男根をとらえ、牽いて屏処《こかげ》に至り、語っていわく、大徳まさにこの処において小便すべし、と」。これは厠神にあらず。僧が厠外に放尿したるをその処の鬼神が戒めたるなり。『増壱阿含経』四四に、仏未来弥勒仏の世界を記す。「鶏頭城中に羅刹鬼あり、名づけて葉華という。行なうところ法に順い、正教に違わず、常に人民の寝寐したる後を伺い、穢悪したる諸不浄のものを除き去り、また香汁をもってその地に灑《そそ》ぎ、きわめて香浄となす」。これは好意もて人糞を掃除する鬼神なり。インドの呪法中、厠に関するものあり。例せば、不空訳『大薬叉女歓喜母並愛子成就法』に、「貴人の歓喜を得るには、かの人の門下の土を取って、唾をもって和して丸《たま》となし、加持すること一百八遍して厠中に置けば、かの人必ず相敬順し歓喜せん」。支那にも、厠中に秘法を行ないし例、明の祝穆の『事類全書』続集一〇に、「郭璞はもと桓彜《かんい》と友として善し。つねにこれに造《いた》り、あるいは璞の婦間にあるに値うもすなわち入る。璞いわく、卿の他処に来たるときは、おのずから径《すぐ》に前《すす》むべし。ただし厠上のみは相尋ぬべからず、必ず客主に殃《わざわい》あらん、と。彜のちに酔うによって璞のもとに詣《いた》るに、まさに厠にあるに逢い、掩《かく》れてこれを観るに、璞が※[身+果]身被髪して、刀を銜え※[酉+輟の旁]《てつ》を設くるを見る。璞、彜を見て心《むね》を撫《う》ち大いに驚いていわく、われつねに卿に来たるなかれと嘱せるに、反ってさらにかくのごとし。ただにわれに禍《わざわい》するのみならず、卿もまた免れざらん、と。璞はついに王敦の禍を受け、彜もまた蘇峻の難に死す」。※[酉+輟の旁]は、字典に祭※[酉+将の旁]なりと見ゆれば、厠中に神酒を供えて祀り行ないしなり。『甲陽軍鑑』に、武田信玄つねに軍謀を厠中に運らせしとあるごとく、秘処(143)ではあり、かつ臭穢にして本主神外の鬼神忌みて近づかざるより、密法を修むるに便とせしならん。
 『普明王経』に、阿群、仏法に帰し比丘となり、王一たびこれを見んと望むも、この比丘眼睛耀射にして当たりがたきをもって、王これを厠中に請じ見ることあり。『書紀』二に、猿田彦大神、眼力強く、八十万神みな目勝《まか》ちて相問うをえず、とあるごとし。糞穢をもって邪視を破ることは、かつて『東京人類学会雑誌』に述べたり。無能勝三蔵が訳せる『穢跡金剛説神通大満陀羅尼法術霊要門経』には、仏、涅槃に入って諸天大衆みな来て供養せるも、螺髻《らけい》梵王のみ来たらず。千万の天女に囲繞されて相娯楽す。諸大衆その我慢を悪み、百千衆、呪仙をして往って取り来たらしむるに、梵王、種々不浄をもって城塹となし、諸仙おのおの犯呪(呪破らるること)されて死す。また無量の金剛衆をして往かしむるも、七日まで取りえず。如来、大遍知力もてその左心より不壊金剛を化出し、不壊金剛往って梵王所を指させば、種々穢物変じて大地となり、螺髻梵王、発心して如来所に至る、とあり。梵王、糞穢もて呪仙を破りしなり。『酉陽雑俎』一四、「厠鬼の名は※[王+頁]天竺《きよくてんじく》(竺は一に笙という)」。 『人類学雑誌』二九巻二号の八三頁に『淵鑑類函』より引かれし「厠神の状《かたち》は大猪《おおぶた》のごとし」と言える話は、支那にも朝鮮、琉球等と斉しく、厠に家猪を畜って糞を食わしむる風ありしに基づくなるべく、『漢書』に、「賈姫《かき》、厠に如《ゆ》く。野〓《いのしし》あり、厠中に入る」、また呂后が戚天人を傷害して厠中に置き人〓《じんてい》と名づけしことあり。『事類全書』続一〇に、「侍御史の銭義方、常楽第におり、夜、厠に如く。たちまち蓬頭・青衣のもの数尺に来たり迫るを見る。義方いわく、汝は郭登にあらずや、と。いわく、然り、余はすなわち厠神なり、毎月出でて巡る、と(『続玄怪録』)」。『類函』厠の条に、「『晋書』にいう。陶侃、かつて厠に如き、一人の朱衣をつけ介※[巾+責]《かいさく》をかぶり剣をつけ履《くつ》をはけるものを見る。いわく、君の長者なるをもって、ゆえに来たって相報ず、君のちにまさに公侯となるべし、と。侃、八州の都督に至れり。また、※[まだれ/臾]翼《ゆよく》、荊州に鎮たり。厠に如き一物を見る。頭は方相のごとく、両眼大いに光あり。翼これを撃てば地に入る。よって病みて薨ず」。これ人死して厠神となり、厠中に吉凶を告ぐる神あり、また人を驚かす鬼物ありと(144)せるなり。『類函』巻一七と二五八に『歳時記』と『異録伝』を引いて、厠の女神の伝を載す。文やや相異なるをもって綜合して記さんに、「廬陵の欧明、賈客に従い、道の彭沢湖を経しとき、つねに舟中にあるところをもって湖中に投じ、礼をなす。のちまた湖を過ぐ。たちまち一人あり、※[衣+單]衣《たんい》をつけ馬に乗り、来たって明に候《うかが》いていわく、こは青湖君の使いなり。青湖君、君の礼あるに感じ、ゆえに君を※[しんにょう+激の旁]《むか》う。必ず重き遺《おくりもの》あらん。君みな取るなかれ、ただ如願のみを求めよ、と。明、すでに青湖君にまみえ、すなわち如願を求む。如願は青湖君の神婢なり。青湖君やむをえず、如願を呼んで明を送って去らしむ。明、如願を将《つ》れて帰り、願うところあればすなわち得て、数年にして大いに富む。のち正旦《がんじつ》に如願の晩《おそ》く起くるによって、明、酔ってこれを撻《う》つ。走って糞壌の中に入って見えず。今人、正旦に繩をもって偶人《にんぎよう》に繋《むす》び、糞壌の中に投じて、『願のごとくならしめよ』と言うは、これをもってなり」。清湖君、一に青洪君に作る。『事類全書』前集六には、「商人あって青湖を過ぎ、清湖君に見う、云々」とせり。
 予幼かりし時亡母つねに語りしは、厠を軽んずるは礼にあらず、むかし泉州の飯《めし》と呼ぶ富家は、その祖先が元旦雪隠の踏板に飯三粒落ちたるを見、戴いて食いしより打ち続き幸運を得て、大いに繁昌に及べり、と。『平賀鳩渓実記』巻一、三井八郎右衛門、源内へ対面のことの条、源内の詞に、「この三井家は、まことに日本一の金持にして、鴻池などよりも名誉の家筋なり、云々。およそ富貴人と申すは、泉州岸和田に住居いたす飯の弥三郎と三井ばかりと存ずるなり」とある、飯氏なるべし。これも厠を敬せしより、その神幸運を与えしとせしならん。『和漢三才図会』八一に、「『白沢《はくたく》図』にいわく、厠の精は倚と名づく(上の三〇頁、出口君が引きしには「停衣と名づく」とあり)。青衣をつけ、白き杖を持つ。その名を知ってこれを呼ぶ者は除く。その名を知らずしてこれを呼べばすなわち死す、と。またいわく、室を築いて三年なれば、その中に居らず。人を見ればすなわち面を掩い、これを見れば福あり、と。『居家必用』にいわく、厠の神、姓は廓、名は登、これ庭天飛騎大殺将軍なり。触れ犯すべからず。よく災福を賜う、と」。鬼神その名を人に知られて敗亡せし諸例は、『郷土研究』一巻七号に挙げたり。廓登すなわち上に引け(145)る『事類全書』の郭登なるべし。
 厠神人を見て面を多う掩うは、日本で厠神に見らるるを忌むと言うに近きも、その面を見れば福ありと言うはこの辺で伝うるところに反せり。熊野のある部分には、今も厠をしごく清浄にし、四壁に棚を設け、干瓢、椎茸、麪粉《むぎこ》、氷豆腐等の食物および挽臼等を置き貯え、上に玉萄黍、蕃椒《とうがらし》等を懸下す。その体、一見のみでは不浄処と信ぜられず。予、夜分始めてこれに入り、みずから夢裡にあるかと疑い、燈を携えて見廻り、また身体諸部を撚《ねじ》り験せしほどなり。のちその辺の人来るごとに子細を尋ぬるも、恥ずると見えて一向然ることなしと答う。去年、酒井忠一子にこのことを語りしに、日向とかにもかかる風ある地方あり、古え厠をことのほかに重んぜし遺俗と聞けり、と話されつ。件の熊野山村の俗語に放蕩息子を罵りて、汝は親の雪隠に糞垂るべき者にあらずと言うを攷うれば、酒井子の言のごとく、厠を家の重要部と尊ぶ土俗も存せしにや。定めてかの諸村には多少厠神崇拝の遺風も伝わりおることなるべければ、再度みずから往って調査せんと欲す。
 ついでに言う。南洋のツイトンガ島民は、死人の魂が諸神に食われ竟《おわ》れば得脱すと信じ、島中最も重んぜらるる人の葬礼後、貴族の男六十人、十四夜続けて死人の墓に大便し、その人々の妻女来てこれを取り除く。これ死人の魂、諸神に食われて浄化しつくされたるを表わす。また速やかに得脱するを促すものならんとは椿事なり(Waitz und Gerland,‘Geschichte der Naturvolker,’Band 6,S.329,Leipzig,1872)。また同巻三〇五頁に、ニュージーランドの人、死して楽土に行かざる魂は糞と蠅を常食とすと言い、かつてこの世なる幼児を育てんとて楽土より還る婦人、途中その親族の死霊が住める村を通るに、彼輩これに人糞を食えと迫る。その亡父の霊独りこれを制禦し、クマラ根二本を与えて遁れ去らしむるに、悪霊二個なお追い来たるを、件の二根を抛げて遮り帰りし話あり、と載せたり。そのこと、『書紀』巻一、伊奘冊尊すでに黄泉之竈してこの世に還るをえず、伊奘諾尊これを見て黄泉より逃げ出ずるを、醜女八人追いければ、尊|黒鬘《くろきみかずら》と湯津爪櫛を投げて葡萄と筍を化成し、醜女これを食うあいだに泉津平坂に到りたまえる(146)に似たり。ニュージーランドの神話葬儀が糞に縁あることかくのごとくなれば、必ず厠神に関する譚も行なわれしことと察すれど、予の筆記不備にして、只今その詳を知るに由なし。
(追記)種々の物を用いて追う者を妨げし譚は、日本とニュージーランドの外にもあり。支那には、梁の慧皎の『高僧伝』八に、劉宋の釈玄暢、北虜滅法のさい平城より逃れ、「路に幽・冀を経、南に転じて孟津に至らんとす。ただ
手には一束の楊枝と一扼の葱葉とを把《も》てるのみ。虜騎逐追して、まさにこれに及ばんとす。すなわち楊枝をもって沙を撃つに、沙起って天闇く人馬前むあたわず。しばらくあって沙息み、騎すでにまた至る。ここにおいて身を河中に投じ、ただ葱葉をもって鼻孔中に内《い》れ、気を通じて水を度る。(元嘉二十二年の)八月一日をもって揚州に達す」。欧州には、ギリシア譚に、継母魔質にして、一男一女童を殺し食わんとし、二童、犬の教えにより逃るるを魔母追い来たる。その時、童男小刀を投ぐれば広原となり、次に櫛を投ぐれば密林となり、最後に塩を投ぐれば浩海となって、ついに遁れ去るを得、とあり。スカンジナヴィア譚に、一童子|巨鬼《トロル》に逐われ走る時、その騎馬に教えられて三物を携う。鬼逐うこと急なるに臨み、まず山査子の枝を投ぐればかの木の密林生じ、石を投ぐれば大巌となり、瓶水を投ぐれば大湖となって兄を障え、童子脱するを得、とあり(Tozer,‘Researches in the Highlands of Turkey,’1869,vol,ii,pp.276-274)。スコットランド、インド等にも似たる譚ありて、Clouston,‘Populaar Tales and Fictions,’1887,vol.i,pp.439-443 に委細載せたり。  (大正三年五月『人類学雑誌』二九巻五号)
 
(147)    四神と十二獣について
 
 『人類学雑誌』三四巻六号に出でたる、八木君の「四神と十二肖属の古画」を拝読して、大いに未聞を聞きしを厚謝す。その中について、予に分かりがたき条々と、いささか気づいたることどもを列ねて、八木君および読者諸彦の高教を乞い、参考にも供せんとす。
 一 一八三頁下段に、玄武の文字を釈して『和漢名数』より朱子の語を孫引して、「「女武とは亀蛇《きじや》を謂う。位、北方に住す、ゆえに玄という。身に鱗甲あり、ゆえに武という」とあれば、云々」と述べらる。按ずるに、『淵鑑類函』四四〇に、「『緯略』にいわく、玄武はすなわち亀の異名。亀は水族なり。水は北に属し、その色黒し。ゆえに玄という。亀は甲あり、よく捍禦す。ゆえに武という。世人知らず。すなわち玄武をもって亀と蛇の二物となす」。この『緯略』という書、いつ誰が作りしか知らねど、その先後に引ける書どもの時代から推すに、朱子より古く筆せられしもののごとし。とにかく一説なるにつき、ここに挙ぐ。
 二 一八四頁下段にいわく、「また『尚書』以下の書を按ずるに、五行の水火木金土を中央およぴ四方に配し、また木火金水を東西南北春夏秋冬に当てしことは『書経』『楽記』『管子』以下の書に見ゆれども、青赤黒白の色をいわず。ただ『周礼』に方位と色とを記せし例あり。しかれども、この書世に漢儒の作と称せらるれば、したがって『爾雅』のごときもその漢初に出でしことはほぼ推測するに足るべく、また色と方位、色と四神名との起源も、かの漢代にあることを察するに足るべし。中略。また「始皇本紀」に、云々、と記すれば、水徳と黒、水と北方との関係上、(148)方位と色彩の結合はすでに秦代に行なわれしありさまなれども、これらは根本資料を明らかにする必要あり、またたとい右が秦代にあること疑いなしとするも、なお周代の分は不明なり。故に、予はその確実と信ずる点に従いて漢代といえり」と。
 八木君のこの文中、予をして疑いを抱かしむるもの少なからず。まず君のいわゆる『楽記』が『礼記』中にあるものならば、君の言は謬《あやま》れり。『礼記』の楽記・第一九に、五行とか木火土金水とかいうこと少しも見えず。さて『礼記』の月令・第六に、「孟春の月、天子は青陽の左|个《か》におり、鸞路《らんろ》に乗り、蒼竜を駕し、青|※[旗の其が斤]《き》を載《た》て、青衣を衣《き》、蒼玉を服し、云々。大史これを天子に謁《つ》げていわく、某日立春、盛徳木にあり、云々。天子みずから三公、九卿、諸侯、大夫を帥《ひき》い、もって春を東郊に迎う」、「孟夏の月、天子は明堂の左个におり、朱路に乗り、赤|※[馬+留]《りゆう》を賀し、赤※[旗の其が斤]を載て、朱衣を衣、赤玉を服し、云々。大史これを天子に謁げていわく、某日立夏、盛徳火にあり、云々。天子、云々、夏を南郊に迎う」、次に「中央は土なり、その日は戊巳《のし》、その帝は黄帝、云々」、それから「孟秋の月は、天子、白|輅《らく》を駕し、白※[旗の其が斤]を載て、白衣を衣、白玉を服し、立秋の日、秋を西郊に迎う」、「孟冬の月、天子は玄堂の左个におり、玄路に乗り、鉄|驪《り》を駕し、玄※[旗の其が斤]を載て、黒衣を衣、玄玉を服す。立冬、盛徳水にあり。天子、冬を北郊に迎う」という風に、五行を、春夏中央秋冬の五時や、東南中央西北の五方や、青赤黄白黒の五色に当て配れり。『呂氏春秋』は、『史記』に「呂不韋は十二紀、八覧、六論の二十余万言を作り、号けて『呂氏春秋』という」とあり。その十二紀は、孟春紀、仲春紀、季春紀という体に、毎紀まず十二月の月令を載せ、これに次ぐに他の四篇をもってし、紀ごとに五篇、ただし季冬紀のみは六篇よりなるゆえ、六十一篇で十二紀をなす。この呂氏の月令を通覧するに、全く『礼記』の月令に基づいて述べしもののごとく、ことに五行、五時、五方、五色の配当は、文字に些少の差《ちが》いあるのみ大要は相同じ。これ周代すでに方位の配当ありし証拠にあらずや。
 しかのみならず、一八四頁上段に、八木君は「四神の名称は、漢以前の書に見えざれば同(周?)代にこの称呼あり(149)しや否やは明らかならず」と言われたれど、『礼記』の発端、曲礼・上第一、すでに行くに朱鳥を前にして玄武を後にす、青竜を左にして白虎を右にす、とあり。これらはただそんな動物を画いた旗を立てたまでで、これを四方の神としたるにあらじと謂う人もあらんが、次文に「招揺(北斗第七星なり)上にあり、急《かた》くその怒りを繕《つよく》す」とあれば、件の四動物を北斗と等しく、神像としたるや疑いなし。ただし、『礼記』も『呂氏春秋』もまた漢儒の作るところといわばそれまでなれど、果たして左様の説もあるものにや。大方の高教を竢つ。
 予は支那書を読むことを廃してすでに二十年、今に※[しんにょう+台]んでは何の知るところもなし。しかれども、わずかに記臆に存するところによるも、なお多少の言うべきものなきにあらず。よって記臆に基づき、座右の書を捜って一、二を述べんに、『左伝』、「襄公二十八年、蛇、竜に乗る」、『集解』に「蛇は、玄武の宿《しゆく》、虚危の星なり。竜は歳星にして、歳星は木なり。木は青竜となす。次《やどり》を失って虚危の下に出で、蛇の乗るところとなれるなり」。ここに見る竜は、東方の星宿ならで木星なれど、虚危の星を蛇とせるは、『史記』天官書に「北宮は玄武、虚危なり」といえると同様、周代すでに蛇をもって北方の神玄武の標識としたるなり。また『墨子』貴義篇に、「子墨子、北して斉に之き日者に通う。日者いわく、帝、今日をもって黒竜を北方に殺す、しかるに先生の色黒し、もって北すべからず、と。子墨子、聴かずして、ついに北して※[さんずい+緇の旁]水《しすい》に至り、遂《と》げずして反る。日者いわく、われは先生もって北すべからずと謂えり、と。子墨子いわく、南の人、北することを得ずんば、北の人、南することを得ず。それ色は黒きものあり白きものあり、何のゆえにかみな遂げざらん。かつ帝は甲乙をもって青竜を東方に殺し、丙丁をもって赤竜を南方に殺し、庚辛をもって白竜を西方に殺し、壬癸をもって黒竜を北方に殺し、戊己をもって黄竜を中方に殺す。もし子の言を用うれば、すなわちこれ天下の行く者を禁ずるなり、と」。『墨子』の時代は確かならねど、『孟子』や『荀子』にその説を載せたれば、この二子より前の人と見ゆ。またもって周代すでに五行にちなめる十干を、五方位と五色とに配当せる説行なわれたるを知るべし。もっとも、これとても『左伝』も『墨子』も漢儒の仮作と言わば詮方なし。しかる上は、(150)予は左様の見を抱く人に向かって、全体今にあって漢以前の事実を観るべき支那書は何々なるやを示されんことを乞うの外なし。
 三 一八六頁に、八木君は「十二支に十二獣名を当てしことは、かの『事物紀原』に『事始』を引いて、「黄帝は子・丑の十二辰を立ててもって月を名づく。また十二をもって名づけ、獣これに属す」とあれども、これは支那人側の解釈にて、実はインドの十二獣が支那に移りてかの十二支と結合せるがごとし」と言わる。いわゆるインドの十二獣のことは、次の四の条に論ずべし。今はただ支那の十二獣について言わんに、一九一一年板『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』二八巻九九五頁に、クラーク女史は、支那で日の黄道を十二に分かち、十二獣に資《よ》ってこれに名づけ、順次日の進行に逆らうて進むものとせるは、特種奇異の組織で、支那自国に起こりしや疑いなしとあるはもっともながら、これは十二支の支那固有なるを言いしまでにて、十二獣を十二支に当つるの支那固有なるを言いたるにあらず。しかれども、十二獣を十二支に当つるもまた実に支那固有のものと見ゆ。『古今要覧稿』五三一に、「およそ十二辰に生物を配当せしは、王充『論衡』に初めて見えたれども、『淮南子』に「山中、未《ひつじ》の日に主人と称うるは羊なり」といい、『荘子』に「いまだかつて牧をなさずして、※[將の旁が羊]《めひつじ》、奥に生ず」と言えるを、『釈文』に「西南隅の未の地」と言えれば、羊をもって未に配当せしもその由来古し」とあり。銭綺いわく、「十二辰もまた列宿によって定まる。周の時の星紀のごときは、中に牛宿あり、ゆえに丑は牛に属す。しかして今はすなわち牛宿は子宮にあって、丑宮にあらず。周の時の元|※[木+号]《きよう》は、中に虚宿あり、※[木+号]《きよう》は、中に虚宿あり、※[木+号]《きよう》は耗《もう》の名となす。鼠はよく物を耗《へら》す、ゆえに子は鼠に属す。し丑は牛に属す。しかして今は、月初交宮の法によってこれを推せば、すなわち虚宿は亥宮にあって、子宮にあらず。※[女+取]※[此/言]《しゆし》はまた豕韋《しい》とも名づく、ゆえに亥は豬に属す。今は古法によって、すなわち※[女+取]※[此/言]を亥宮となさずして戌宮となす」(竹添氏『左氏会箋』一四巻五六頁)。もって十二獣を十二支に当つるは周時に始まりしを知るに足る。
 四 前条の始めに引ける八木君の文の続きにいわく、「こは『宿曜経』などに記載しあれども、云々。山岡俊明の(151)『類聚名物考』にいわく、『翻訳名義集』に「この十二支法は、中乗の達観なり」と見えたり。経には鼠、牛、虎、兎、竜、蛇、馬、羊、猿、鶏、狗、猪の字を用い、この十二物は大権の聖者にして、年月日時に四天下を巡りて同類形の衆生を済度す、と説けり。この十二獣の名を支那にて古く用いおりたる子、丑等の字に配当したるをもって、わが国にて、ね、うしの訓を充てたるなり、と。山岡の説は、当時において卓見と謂うべく、かの鼠、牛以下の獣名は確かにインド伝来に相違なく、それが支那の子、丑、寅、卯と結合せしことは疑いなかるべきも、この点についてはなお研究の余地あるにより五行の起源の論に移る」と(以上、八木君の文)。相違なく疑いなかるべき由言って、さてなお研究の余地ありと言わるるほどゆえ、一九一頁の結論にも、「しかしてこの類の智識が、最初支那よりインドに伝われるや否やは、今にわかに決することあたわざれども、その十二支に鼠、牛、虎の類がインドより流伝し、これによって絵画上に現われしとすれば、云々」と、結局支那よりインドに伝えしや、インドより支那へ伝えしや、どちらとも片づけずに終わられたるは、すこぶる物足らぬ心地ぞする。
 予は全くインド古今の暦象、天文、方位について学びしことなけれど、種々読書のさい注意せしに、インドに十二支もなければ、十二獣を十二支に充つることもなきようなり。フムボルトの論説に、インド、メキシコともに、古く蛇や管や劇刀や日の跡や犬の尾や家等の名を暦日に配当する由見え、そのことすこぶる支那の十二獣を日に配当するに似たれど、インド、メキシコに右等の物名を方位に配せしを聞かず。またインドの二十七宿の名のうち、支那十二獣のある物に偶合せるあれど、偶合せぬものの方多ければ、もと同源より出でたりと惟われず。『類聚名物考』に略説されたる十二動物のことは、『大集経』巻二四に出ず。その文難解また冗長のところ少なからねば、『仏教大辞彙』二巻一六〇〇頁に載せたる撮要文を、本経に照らし多少校訂してここに出だす。いわく、「閻浮提外東方海中の琉璃山に蛇、馬、羊住み、南方海中の玻※[王+黎]山に猴、鶏、犬住み、西方海中の銀山に猪、鼠、牛住む。北方海中の金山に師子、兎、竜住み、東方の樹神、南方の火神、西方の風神、北方の水神、いずれも一羅刹女とともに各五百眷属を有し、各(152)自に三獣を供養す。その一々の獣は窟内に住み、声聞慈を修し、昼夜常に閻浮提内を行き、人天に恭敬さる。かつて過去仏において深重願を発し、一日一夜常に一獣をして遊行、教化し、余の十一獣は安住修慈し、周りてまた始めしむ。七月一日鼠初めて遊行し、声聞乗をもって一切鼠身衆生を教化し、悪業を離れ善事を勧修せしむ。かくのごとく次第して、十三日に至り鼠また遊行す。かくて十二月を尽し十二歳に至り、またまたかくのごとし。この故に、この土多く功徳あり、乃至畜獣もまたよく教化し、無上菩提の道を演説す、下略」。件の『大集経』は、東晋の代に北涼に入りし天竺僧曇無讖訳せるところ。この僧『涅槃』等の経を携えて※[横目/(炎+立刀)]賓《けいひん》に之きしに、かの国多く小乗を学び、大乗を信ぜず。よって流転して北涼に来たれり(『高僧伝』二)。小乗徒の大乗を信ぜざるは、主として大乗の所説が小乗ほど純ならず、ややもすれば仏在世後のことどもを書き加えたるによる。されば『大集経』所説の十二獣のごときも、クラーク女史が、西暦六世紀にインドの天文家が支那二十八宿を参照してインドの二十七あるいは二十八宿を定めたりと言えるごとく(『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一一板、二八巻九九六頁)、インドもしくはその近辺にて、インドと支那との両説を混合して作り出だせりと惟わる。
 まず『大集経』の十二獣には、インドに多く産し、その経文にしきりに見ゆる犀、象、孔雀、鸚鵡等を入れず。その十一獣はインドにも支那にも生ずるものなるは、暗合としてはあまりに過分ならずや。またこの十二獣をインドに起こって支那に伝えしものとせんには、従来支那の十二支に恰好適応すべきを予知して、その十二分の十一なる多数までも支那に産する動物を選定せるインド人の神智に驚かざるをえず。それよりも真面目に攷うるに、須弥は四宝より成るという経説によって、四海中の四宝山を作り、山ごとに三獣で四山に十二獣住むと立てたるにて、虎なくて獅子あるは、ことさらにインド臭く匂わさんとて、支那になき獣を採ったること、虎の代りに蒙古で豹、メキシコで豹に近きオセロットを入れたるに等し(ボーンス文庫本、プレスコット『墨西哥征服史』三巻三七六−七頁の注)。
 さて支那の十二支と本来別流のものたるよう見せんため、支那で北にある鼠がインドで西、支部で南にある馬がイ(153)ンドで東という風に捩《もじ》りおきながら、、十二獣を供養する樹神は東、火神は南、風神は西、水神は北におるとせるは、支那特有の五行説に東木、南火、西金、北水と定めたるに基づきし馬脚を露わす、要するに、『大集経』の十二獣は支那の五行や十二支を聞き及べるインドもしくはインドと支那の道中にありし、ある国の人が作り出だせること疑いなし。また『摩訶止観』に載せたる三十六禽は、寅に狸、豹、虎、戌に狗、狼、豺などと、十二獣の獣一ごとに類似の動物二を添え、十二を三倍して三十六禽とせり。密教の『星曼陀羅』などに出ずるを見てインド産のよう思う人もあらんが、三十六という多数中に、獅子ごとき支那になきもの一つもなきが不審と言うまでもなく、『止観』の本文すでに寅、卯、辰の九獣は東方木に、巳、午、未の九獣は南方火に属すなどと、支那特有の五行説を述べ、おのずから三十六禽は支那出来たるを立証せり。およそ十二獣ということ『ヴェーダ』等の梵典にも、仏在世を拒ること遠からざる時編まれたる仏経等にも見えず。八木君がいえる『宿曜経』は『大集経』より三百余年後れて訳されしものなれば、支那の思想を加えしこと一層多かるべく、かつ只今座右にこれなきをもって、ここに論ずるに及ばず。
 三と四の条に述べたる理由をもって、予は十二獣を十二支に当つるは支那国有の法にて、その周時に始まり、その思想後年支那以外に伝わり、仏経に載せらるるに及びしも、決して支那以外に起こりて支那に入りしものならずと断ずるなり。
 五 ついでに述ぶ。『五雑俎』一五に、「真武はすなわち玄武なり。朱雀、青竜、白虎とともに四方の神たり。宋に諱を避け改めて真武となす。後に地を掘って亀蛇《きじや》を得しにより、ついに廟を建て、もって北方を鎮む。今に至るまで香火ほとんど天下に遍し。しかして朱雀等の神は、たえて崇奉する者なし。これ理の暁るべからざるものなり」。『琅邪代酔編』二九に、「『真仙通鑑』に載す。宋の道君、林霊素に問《たず》ね、真武の聖像を見んことを願う。霊素いわく、臣の張浄虚天師と同《とも》に奉請するを容《ゆる》したまえ、と。すなわち殿に宿し斎を致す。正午の時において、黒雲日を覆い、大雷霹靂し、火光の中に蒼亀・巨蛇の殿下を塞ぐを見る、云々」。これらには見えねど、古来玄武を画くに、必ず蛇が(154)亀を纏い、舌を出して見詰むる体をもってす。予惟うに、こは蛇と亀と交わる相なるべし。『博物志』四に、「大腰は雄なし。亀《き》・〓《だ》の類なり。雄なくして蛇と気を通ずれば、すなわち孕む。細腰は雌なし。蜂の類なり」。これはジガ蜂が蜘蛛などをその穴に引き入れ、卵を産付するを見て、この虫雌なく他の虫を養い子とすと誤解し、また亀の生殖器はちょっと見えぬゆえ、かく甲装したるもののいかに交尾すべきと思案に尽きて、亀に雄なく蛇と気を通じて孕むと信じたるなり。『類函』四四〇に、「『化書』にいわく、牝牡の道、亀と亀の相顧みるは神交するなり。亀は蛇と合すといえども、またもって神交するものあり」。これは亀に牝牡あれども、その交わるは身を合わさず、相顧みたばかりで事済み、蛇と交わる時は身を合し、もしくは眼で視合うて事成るとす。『本草網目』四五、「時珍いわく、亀は雌雄の尾をもって交わり、また蛇と匹をなす。あるいは、大腰に雄なしと云うは謬りなり」とあって、明代すでに亀、雌雄あり、尾裏の生殖器を重ね交わるを知れるも、なお旧説に泥んでまた蛇とも交わると信ぜり。亀のドイツ名 Schildkrote が、被甲蟾蜍の義なるごとく、すべて爬虫どもの面貌一般に相似るゆえ、支那人、亀を蛇頭、竜頸など形容し、亀、蛇至って近きものと見、さてこそ「亀は蛇より長し」の弁もありしなれ(『荘子』天下篇)。この亀、蛇と交わるという謬説久しく支那人の心に浸潤せしは、『五雑俎』八に、「今人、妻の外淫する者をもって、その夫を目して烏亀《うき》となす。けだし、亀は交わるあたわず、しかして牝者《めす》の蛇と交わるを縦《ゆる》すなり」と見るにて知らる。
 古欧州人も、この二物を好淫とせしにや。アポロが亀となり蛇と化して王女ドルオペを犯す譚あり。七年前の夏、予の宅に亀を飼いし池辺の垣下より、一蛇舌を出し、しきりに亀に近づかんとするを、予竹竿もて撲殺せしことあり。その何のためたりしを知るに由なきも、蛇と亀多き地には、蛇が亀を纏いにかかるぐらいのこと絶無と謂うべからず。支那に、摂亀また鴦亀とて、腹甲横折してよくみずから開闔し、蛇を見ればたちまちこれを啖う亀ある由、『本草網目』に出ず。予、北米東南部の松林でしばしば見たるクーター(箱亀)は、腹甲折半して前後自在に動き、敵に遇えば全く首尾四肢を甲内に閉じて間隙なし。明治十八年ごろ、かようの亀を八重山島より東京へ持ち来たり飼えるを見し(155)ことあり。のち英国学士会員ブーランゼー氏に質せしに、箱亀の種族一ならざれど、ことごとく西半球の産なり、米国の航客など米国またメキシコや中米地方の箱亀を八重山島に遺せしものなるべし、と答えられたり。しかれどもコロンブスの新世界発見より九百数十年前、陶弘景が「鴦は小亀なり。処々にこれあり。狭小にして長尾。甲は吉凶を占う。まさに亀と相反す」と述べ、新世界発見より五百数十年前、韓保昇が「摂亀は腹小にして、中心横折し、よくみずから開闔す。好んで蛇を食らうなり」と言えるを稽うるに、西半球のものと種属を同じくせざるまでも、一種の箱亀好んで蛇を食らうものが支那に産すること疑いを容れず。ユリノ木など、長距離を隔てて米国東部と支那内地に産する例あれば、西半球に限ると惟われたる箱亀が支那にも産すればとて怪しむに足らず。果たして然らば、亀が蛇と闘うてこれを殺し食らうところを画きて、厳寒|劾殺《がいさつ》の北方の神を表示せるが玄武の本義ならん(『説苑』一九に「孔子いわく、南は生育の郷、北は殺伐の域なり、と」)。予かつて小蛇また蜥蜴を殺して自宅の亀に与えしに、たちまち食いおわりしことなり。支那の摂亀に限らず、亀が蛇を殺し食う例は少なからじ。
 さて蛇が亀に食われ争ううち亀を纏い、しきりに舌を出す。その態、淫念熾盛にしてこれと交わるごとくなるより、これを陰陽和合、子孫蕃殖の相として、四神のうち玄武独り永く享祀されたるなり。死殺を司る北方の神を子孫蕃殖の神とは受けがたきようなれど、子生まるると同時に親死するは原始生物の通規で、『類函』一六に引ける『尚書大伝』に、「冬は中なり。物まさに中に蔵《かく》るるなり。故にいわく、北方は冬なり、と。陽盛んなれば万物を吁舒《くじよ》して、これを外に養う。陰盛んなれば万物を呼吸して、これを内に蔵《おさ》む。故にいわく、呼吸は陰陽の交接にして、万物の始終なり、と」と言えるは一理あり。ニュージーランド土人は男女根は人命を壊《やぶ》るとし(Eisdon Best,“Maori Beliefs concerning the Human Orgaans of Generation,”Man,vol.xiv,no.8,pp.132-133,1914)、インド人はシヴァ神を幸福尊者と称す。死は生を新たに始め、破壊者実に再創者たればなり(『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一一板、二五巻一六二頁)。
 ちなみに言う。世間に舌を出すを、猥褻の意に取る人多きも、チベット人などは然らず。舌を出すを敬礼の作法と(156)す(Sven Hedin,‘Trans-Himalaya,’vol.i,p.1vcix,1909)。これもと親愛を表するに起こり、親愛の極は男女歓会の際に存するは言うを俟たず。
 さて古今東西、蛇を陰相となす例、到る処に多し(Westropp and Wake,‘Ancient Symbol Worship,’2nd ded.,New York,1875,passim)。『観仏三昧海経』巻八に」「仏、阿難に告ぐ。われ、むかし初めて成道せし時、伽耶《がや》城のあたり煕連河の側《ほとり》に住む。時に五《いつ》たりの尼※[牛+建]《にけん》あり、共に七百五十の弟子を領す。みずから道を得たりと称し、来たってわが所に至り、その身根をもって身を七|匝《めぐり》し、云々、すなわちこの語をなす、われは欲なきがゆえに身根かくのごとく、自在天のごとし、云々と。時に世尊、諸尼※[牛+建]に告ぐ、汝らは如来の身分を知らず、云々、今まさに汝がために少しく身分を現わすべし、と。その時、世尊、空より下り、すなわち地上において化して四水となるに、四大海のごとし。四海の中に須弥山あり。仏は山下にあって、身を正しくして仰臥し、金色の光を放ち、云々、おもむろに馬蔵を出して山を遶ること七匝、金蓮花のごとく、花々は相次いで、上《のぼ》って梵世に至る」。尼※[牛+建]がその根をもって自身を七匝せしに、仏はその根を伸ばして須弥大山を七匝し、さらに宝蓮花を現わしてこれを蔽うを見て、尼※[牛+建]輩降伏出家せりという(蓮花を女根の標識とすること Westropp and Wake に見ゆ)。この七匝の一件は、もと根を蛇に擬したること疑いなし。蛇を婬事の標識とする理由は多々あるべきも、その舌を出してしきりに歓を求むるの状あるも、またその一大理由なるべし。知れきったことのようながら、東西の学者この説を出だせるあるを聞かず。よってここに記して、その参考に供す。
 またちなみに言う。交会のさい口を接する動物は、蛇に限らず。『類函』四二三に、「俗に言う、鴛《おしどり》は頸を交えて感じ、烏は涎を伝えて孕む、と」。プリニウスの『博物志』にも、世に鴉は嘴をもって交わるゆえに、その卵を食う婦人は口より産す、と伝う。アリストテレスこれを駁して、鴉も鳩も同様雌雄好愛して口を接するを誤認せるなりと言えり、と載す。(紀州東牟婁郡請川村辺で、孕婦、鳩の巣を見れば難産す。鳩は口より子を産むゆえというも、雌(157)雄の鳩しばしば接口するより謬り来たれるなり。)烏が相愛して口を接するは、予も見たり。また予の宅に今も四十疋ばかり亀を飼えるが、情慾発する時、雌雄見て啄き合う。その交会は泥水中でするらしく、やだ一度陸上で会うを見しことあるのみ。上に引ける『化書』に「牝牡の道、亀と亀の相顧みるは神交するなり」とあるも、もっともなるところあり。古え支部人、烏が口を接するを見るの多きより、嗚の字をもってキッスを表わす。『康煕字典』、嗚の字にこの義あるを言わず。思うに、仏経にこのこと多きより訳経者が用い始めたるものか。例せば、『根本説一切有部毘奈耶』に「※[烏+こざと]陀夷《うだい》、かの童女の顔容《かんばせ》姿媚《あでやか》なるを覩《み》て、ついに染心《ぜんしん》を起こし、すなわちかの身《からだ》を摩触《なでさわ》り、その口を嗚※[口+妾]《おしよう》す」、『四分律蔵』に「時に比丘尼あり、白衣の家内にあって住み、かの夫主《あるじ》が婦と共に口を嗚《お》し、身体を捫摸《なでさわ》り、乳を捉《つか》み捺《お》すを見る」、『仏説目連問戒律中五百軽重事経』下に「聚落中にて、三歳の小児を抱いて口を嗚す。何ごとを犯せるか。答え、堕を犯せり」、外典にも「賈充の妻郭氏はなはだ※[女+戸]《ねた》む。男児あって黎民と名づく。生まれて載《とし》周《めぐ》る。充、外より還るに、乳母の児を抱いて中庭にあり。児、充を見て專び踊る。充、乳母の手中に就いてこれに嗚す。郭はるかに望み見て、充は乳母を愛すと謂《おも》い、すなわちこれを殺す。児は悲思啼泣し、ほかの乳を飲まずして、ついに死す。郭のちついに子なし」(『世説』惑溺篇)。これ晋朝すでに小児や婦女を愛して、これに接口する風ありしなり。また『説郛』三一所収『玄池説林』にいわく、「狐の相婚ぶるや、必ず※[口/口]を先にす。注に、口をもって相接するなり」。これはわが邦の笑本に「跡は無言で口と口」などとある、口と口を合わせ作れるもの、『康煕字典』に見えねど、その音クと記臆す。かかる簡単なる字あるに気づかず、接吻などむつかしく訳せしは遺憾なり。
 明治十九年、赤峰瀬一郎氏がサンフランシスコの景物を誇張して吹聴せし『世界之大不思議』とか言える書に、欧米人のキッスは唇をもっばらとし、日本人のは舌を主とすとありしよう覚ゆるが、ルキアノスの『妓女対話』に、妓女レエナ、富家の婦人メギラと対食の次第を述ぶるうち、ギリシアには男女|親※[日+匿]《しんじつ》の際に限り、日本流に嗚口せしを徴すべき句あり。調査せば、なお多々例あるべし。アラビア人、ペルシア人等また然りしは『千一夜譚』の処々に散見(158)す。インドには『カマ経《ストラ》』に嗚すべき箇所八を拳ぐ。その第七はその唇、第八は口内とあれば、いわゆる欧米、日本の両流を兼ね行なうなり(‘Le Kama Soutra,’tran.E.Lamairesse,Paris,1891,p.41)。最後に述ぶ。欧米人の書に、日本人本来キッスを知らずということしばしば見るが、これほど大きな間違いはあるまじ。その古く文章に見える一、二を挙げんに、徳川幕府の初世に成る『醒睡笑』に、「児《ちご》と寝《いね》たるに、法師口を吸うとていかがありけん、歯を一つ吸い抜きたり」。足利氏の時編まれたる『犬筑波集』恋部に、「首をのべたる曙の空」、「きぬぎぬに大若衆と口吸ひて」。御伽草子は、当時児女のあまねく玩読せし物なるに、その中の物草太郎、妻となすべき女を辻取りせんと清水の大門に立つに、十七、八歳の美女来たる。太郎見て、ここにこそわが北の方は出で来ぬれ、天晴疾く近づけかし、抱きつかん、口をも吸わばやと思いて待ちいたり。女、太郎に捉えられて、「離せかし網の糸目のしげければ、この手を離れ物語せん」。太郎、返歌に、「何かこの、あみの糸目はしげくとも、口を吸はせよ、手をばゆるさん」とあり。もって当時、情人と別るるに嗚し、戯れに強いて嗚するの風、今日の欧米同然本邦にも行なわれしを知るべし。鎌倉覇府の代に成りし『東北院職人歌合』に、巫女、「君と我、口を寄せてぞねまほしき、鼓も腹も打ち敲きつつ」。それより前、平安朝の書『今昔物語』一九に、大江定基、愛するところの美婦死せるその屍を葬らず、抱き臥して日を経るうち口を吸いけるに、女の口より悪臭出でしに発起してついに出家せり、とあり。   (大正八年八月『人類学雑誌』三四巻八号)
 
(159)    詛言について
 
 『人類学雑誌』二九巻一二号四九五−七頁に、誓言(英語で swearing)のことを述べたが、ここには詛言《そげん》(英語で curse)について少しく述べよう。詛言とは、他人が凶事に遭えと自分が望む由罵り言うので、邦俗「早くくたばれ」、「死んじまえ」などいうのがそれだ。今日何の気もなくそんな語を吐く人があるようだが、実ははなはだよろしくない。英米に最も盛んなゴッデム(神、汝を罰す)またデム何某(罰当りの何某)などは、厳戒の神名を呼ぶ上に詛を兼ねたものゆえ、きわめて聞き苦しい。これもあちらで幼年から口癖になって止められぬ人が多いらしい。しかし、往古は詛言は必ず詛する人の望み通りの凶事を詛《のろ》われた者に生ぜしむると信じ、したがってはなはだ詛言を怖れた。
 例せば『古事記』に、天若日子、葦原中国に到って下照比売を娶り、八年に至るまで復奏せず。雉名鳴女、天神の命を奉じ視に往きしを天若日子射殺し、その矢、天の安河の河原に達す。これを検して高木神いわく、こは天若日子に賜いし矢なり、と。すなわち諸神に示し、今この矢を返し下さんに、もし天若日子、命を違《たが》えず、悪神を射し矢の来つるならばこの矢かれに中らじ。もしかれ邪心あらばこの矢に麻賀礼と言いて、矢の穴からその矢を返すと、天若日子の胸に中って死んだ、とある。本居宣長いわく、「まず万の吉善《よき》を直《なお》と言うに対いて、万の凶悪《あしき》を麻賀《まが》と言う。故に、御祓の段に禍《まが》と書けり。さてそは体言なるを、用言にしては麻賀流と言う。物の形の枉曲《まが》るもその中の一つなり。されば、麻賀礼と言うは、言《こと》は凶《あし》くなれということにて、意はすなわち死ねと詔うなり(麻賀礼、すなわち今の「く(160)たばれ」だ)。『書紀』には 「時に天つ神、すなわち矢を取ってこれを呪《とこ》いていわく、もし悪《きたなき》心をもって射つるならば、すなわち天稚彦は必ず当遭害《まじこれなむ》、云々」、この当遭害を麻自許礼那牟と訓めるは、御門祭詞に天能麻我都比登云神乃言武悪事爾相麻自許理云々とあるに同じ。上に「呪いていわく」とある呪は字書に詛なりとある意にて、俗にいわゆる麻自那布なれば、麻自許流はまじなわるるなり。凶《あし》くまじなうを俗言にまじくるというもこれなり。さればかの当選害とここの麻賀礼とは、言は別なれども、末は一つ意に落つめり。故れ当遭害と書かれたる字は麻賀礼によく当たれり」(『古事記伝』一三)。
 また『書紀』巻l一に、天津彦火瓊々杵尊、大山祇神の女木花開耶姫の美貌を見初め召されしに、大山祇、その二女姉妹を進む。皇孫、姉の方は醜しとて、妹木花開耶姫のみ幸《みことあたわ》し、一夜で孕ませたまいしかば、「姉の磐長姫は大いに慙じ、これを詛《とこ》いていわく、もし天孫《あめみま》、妾を斥けずして御《め》さば、生める児は寿《いのち》永くして、磐石の常《とわ》に存するがごとくありなん。今はすでに然らず、ただ弟《いろど》をのみ独り御されたり。故、その生まん児は、必ず木の花の移《ち》り落つるがごとくならん、と。一にいわく、磐長姫は恥じ恨みて、唾し泣きていわく、顕見蒼生は、木の花のにわかに遷転《うつろ》うがごとく、まさに衰え去るべし、と。これ世人の短折《いのちもろ》き縁《えにし》なり、と」。『古事記』には、この時大山祇神、長女が納れられざりしを恥じて詛《のろ》うたので、今に至るまで天皇命等《すめらみことたち》の御命長くまさざるなり、とある。
 『伊勢物語』に、秋来れば逢わんと約せし女に逃げられた男、天の逆手を拍って呪うこと見ゆ。本居氏現に、上古は呪を行なうに吉事凶事共に天の逆手を打ったが、『伊勢物語』のころは人を詛うのみに用いたらしい、と(『古事記伝』一四)。上古の呪いにはかかる作法も種々あっただろうが、おいおい作法を廃して口ばかりで詛言を吐くこととなったは、同じ物語に、むかし男、宮の中にてある御達《ごたち》の局の前を渡りけるに、何の仇にか思いけん。よしや草葉のならんさが見んと言いければ、男、「罪もなき人をうけへば忘れ草おのが上にぞおふといふなる」。これは『一話一言』一八に、童都の誓言に、大誓文歯腐れ、親の頭に松三本と言えるは、頭に松を生ずることにはあらじ、墓の木の拱せるを(161)言えるなるべしとあるごとく、身死し墓の上に忘れ草が茂れと詛うためだろう。忘れ草を墓に栽えた話は『今昔物語』三一に出ず。それから大分のち建長四年に成った『十訓抄』第七に、「太宰大弐高遠の、物へおわしける道に、女房車をやりて過ぎける、牛飼|童《わらんべ》の、詛《のろ》い言《ごと》しけるを聞きて、かの車を止めて尋ね聞きければ、ある殿上人の車を、女房たちの借りて物詣せられけるが、約束のほど過ぎて、道の遠くなるを腹立つなりけり。大弐言われけるは、女房に車貸すほどの人なれば、主はよも左様の情なきことは思われじ、おのれが不当にこそとて、牛飼をば縛らせて、主の許へ遣りてけり、云々」。これは今日欧米の車夫などが客を侮り辱しめて詛言するごとく、わが邦にも中世下等人はややもすれば輕々しく詛言した証でもあれば、また欧米と等しくそのころは詛言者を犯罪として縛り罰しえた徴でもある。
 インドにも古く詛言を太く怖れたは、『根本説一切有部毘奈耶雑事』九に、悪生王《あくしようおう》が苦母、怖勧めにより、釈種の男子を殺し尽し、五百釈女おのれを罵るを瞋り、ことごとくその手足を截らしめた時、仏その因縁を説いて、迦葉仏の世に、この五百釈女、出家しながら常に諸他の尼輩に、手を截られよ、足を截られよと罵詈したので、無量歳のあいだ地獄で焼かれ、のち人間に生まれても五百年中常に手足を截らる、と言った。悪生王伝え聞いて、きわめて憂う。苦母対うらく、婆羅門輩が人家に物を乞うてくれぬ時は、その家に百千種の不祥事を生ぜしめんと欲す。いわんや沙門|喬答摩《ゴータマ》(仏のこと)、その親族を王に誅尽されたから、その悪心のままにどんな深重の呪詛をするかしれぬとて、王を池中の一柱楼に住ませ避難せしめた、と出るで分かる。十九世紀にも、インド人が瞋れば怖ろしい詛言を吐く風盛んだと Dubois,‘Hindu Manners,Customs and Ceremonies’(Oxford,1897)に見え、古インド仙人の詛言のいかに怖るべきものなりしは、『西域記』五に、大樹仙人、梵授王の諸女の実に惚れ、みずから王宮に詣《いた》り求めしに一人も応ぜず。王の最幼女、王憂うるを見兼ねて、請うてみずから行きしに、仙人その「妍《うるわ》しからざる」を見、怒ってすなわち悪呪し、王の九十九女、一時腰曲り形毀れて誰も婚する者なかれと罵ると、たちまちその通り腰曲ったので、王当(162)時住んだ花宮城を曲女城と改名した、とあるを見て知るべし。
 支那にも古く詛言が盛んだった。『淵鑑類函』三一五に、「厥《そ》の口呪詛すとは、上を怨むを言うなり」、「子罕いわく、宋国区々として詛あり呪あるは乱の本なり、と」。『康煕字典』に『書無逸』を引いて、「民、否《ひ》とせばすなわち厥の心違怨し、否とせばすなわち厥の口|詛祝《じゆしゆく》す」。これらは悪政に堪えざる民が為政者を詛うので、『詩』に「この三物を出だして、もって爾を詛う」。また「晏子いわく、祝は益するあるなり。詛もまた損うあり。そのよく祝すといえども、あに億兆人のゾう者に勝たんや」ともある。「范文子、祝宗をして死を祈らしめ、いわく、われを愛する者は、ただわれを呪せ。われをして速やかに死せしめ、難に及ぶなからしむれば、范氏の福なり、と」。これは死ねと詛われて、速やかに死なんと望んだのだ。
 古アッシリア人は、詛言が人を殺すこと罕を殺すごとく容易なり、その言を除くは日神と海神の力を借るあるのみと信じ、太古グデアの代よりダリウスの時までも石碑に詛詞を鐫《ほ》って墓を犯す者を防いだ(C.R.Conder,‘The Rise of Man,’1908,pp.174-175)。東トルキスタンの最大都会ヤルカンドの住民は、四分の三まで必ず喉突起《のどぶし》に※[病垂/嬰]《こぶ》を生ず。これはその地の河水を飲むからで、井水を用うる者はこの病なし。古伝に、サレー・ペイガムバール上人ここを通った時、所の人その駱駝を盗みて喉を切り河岸に残せしを、上人怒ってここの民つねにこの病に罹るべしと詛うたのが起りだという(Sven Hedin,‘Through Assia,’1898,vol.ii,p.728)。同巻七八一頁に、むかしホラオロキア城に毎夜光を放つ栴檀の大仏像があったのを、住民驕奢にして尊ばず。時に一阿羅漢あり、来たってこれを拝せしを、住民怒って沙に埋めその唇に達す。ただ一人、仏を奉ずる者あってひそかに食を与う。阿羅漢脱れ去るに※[草がんむり/(さんずい+位)]み、彼に語るらく、一週内に沙と土が降って全城を※[病垂/(夾/土)]《うず》め住民みな死ぬが、汝一人は助かるべし、と。羅漢すなわち消えて見えず。かの人城に帰って親族に語るに、信ぜずして嘲笑す。よって独り去って身を洞中に隠すと、七日めの夜半から沙の雨が治まって全城を埋めた、と載す。熊楠いわく、これはむかし全盛だった市街が沙漠となったに付会した仏説で、その原話(163)は元魏訳『雑宝蔵経』八に、優陀羨王の子、軍王立って父出家したるを弑し、仏法を信ぜず。遊びに出た帰路、迦旃延《かせんねん》が坐禅するを見、群臣と共にこれを埋む。一大臣仏を奉ずる者のちに至って土を除く。尊者いわく、却後七日、天土を雨《あめふ》らして土山城内に満ち、王および人民みな覆滅せん、と。大臣これを王に白し、またみずから地道を造り、出でて城外に向かう。七日満ちて、天、香花、珍宝、衣服を雨らす。城内歓喜せぬ者なく、悪縁ある者、善瑞ありと聞き、みな来たり集まる。その時城の四門ことごとく鉄関下り逃るるに地なし。天すなわち土を雨らし、かの大臣一人の外ことごとく埋滅さる、と出ず。
 E.Pierotti,‘Customs and Traditions of Palestine,‘1864,pp.79-80 に、予言者エリアスがカルメル山を通った時、渇して瓜畑の番人に瓜一つ乞うと、これは石なりとて与えず。エリアス、彼に、石と言った瓜は石になるぞ、と言って去った。爾後その辺の瓜みな石となった。また死海近所にアブラハム池あり。底に石灰質の結晶充満す。これはアブラハム、一日ここに来たり塩を求めると、住民塩なしと詐る。アブラハム瞋って、この後この地よりヘブロンへの道絶え塩全くなくなるべしと詛うたが、果たして道絶え塩は食いえぬ物になった、とある(『郷土研究』一巻一一号、予の「石芋」参照)。
 これらいずれも現存の人や物を詛うのだが、回教には死んだ人を詛うのがある。ペルシア人は、毎歳マホメットの外孫フッサインが殺された当日追弔大会を修する前夜、彼を殺したオマー等の像を広場で焼きながら、詛言を吐く(‘Viaggi di Pietro dellua Vall,’Brighton,1843,vol.i,p,556)。けだし回教にシアとスンニの二大派あって、ペルシア等のシア派徒はアリとその子フッサインを正統の回主とするに、トルコ、アフリカ等のスンニ派徒はアリ父子の敵だったオマー等を奉崇す。よってペルシア人はオマーを、トルコ人はアリ父子を魔のごとく忌み、ペルシア人悪人を※[言+山]《そし》るに彼はオマーだなど言い、祈祷の終りに必ずオマーを詛い、オマーを一口詛うは徹夜の誦経に勝るとし、スンニ派よりシア派に改宗する者に、アリの敵アブベックルとオスマンとオマ−三人を詛わしむ(Chardin,‘Voyage en Perse,’ed.(164)Langles,1811,tom/ix,p.36)。
 インドのトダ人、水牛の牧場を移す式に司僧《パロール》の助手童《カルトモク》を詛い、次にたちまちその詛を除くことあり。ちょっとここに述べえぬから、Rivers,‘The Todas,’1906,p.140 に就いて読め。同書一九四−六頁に、クォテンの妻パールデンと通じ夫を愛せぬゆえ、クォテン怒って奸夫を殺さんとて逐い廻るを見て、クォテンの母、パールデン荊棘に鉤《か》けられて留まれと詛うと、果たして棘に留められたところをクォテンが殺した。パールデンと同村の住民クォテンを懼れ、みな立ち退き老夫婦一対のみ残る。クォテン襲い来たるを見て詛うと、クォテンは蜂に螫し殺され、その従類は石となった、とある。スマトラのバッタス族は、子を生まぬのは他人に詛われたゆえと信じ、いわゆる詛いを飛び去らしむる式を行なう。まず子なき女、「ばった」三疋、牛頭と水牛頭と馬頭に見ゆるものを神として牲を献じ、さて燕一羽を放つと同時に、詛いがその燕に移って鳥とともに飛び去らしめよと祈るのだ(Frazer,‘The Golden Bough,’1890,vol.ii,p.150)。
 南洋ジューク・オヴ・ヨーク島の人は、邪視《イヴルアイ》を怕れぬが、詛言は被詛者に禍いすと信じ、多くのサモア島人は、今も詛言を懼れ、しばしば重病を受く。よって一人他人を犯し、続いて数児を亡《うしな》う時は必定かの者に詛われたと察し、その人に聞き合わせ、果たして然らば、その詛いを取り消しくだされと哀願す。彼輩はその所有の樹園で果蔬を盗む者を捕うるも怒らず、「おまえはよいことをした。たんとお持ちください」と挨拶す。しかるに、自分の不在中に盗まるると、大いに瞋って樹一本切り、また椰子一顆打ち破る。これは盗人を詛うのだという(George Brown,‘Melanesians and Polynesians,’1910,pp.240,248,264)。中央メラネシアのある島民は、人殺しに往く前に、自分の守護鬼の名を援《ひ》いて敵手を詛う。ジューク・オヴ・ヨーク島で、有力家を葬るに、覡師《げきし》来たって樹葉に唾吐き、数多の毒物とともに塞穴に投じ、死人を詛殺せし者を高声に詛い、一たび去って浴し、返ってまた詛う。かの者たとい第一詛を受けずとも、第二詛必ずよく彼を殺すと信じ、老覡、敵を詛うにその父や伯叔父や兄弟の魂を喚び、敵の眼、耳、口を塞(165)いで、庚申さんの猿そのまま、見も聞きも叫びもできざらしめて、たやすく詛われ死なしむ。(Frazer,‘The Belief in Inmorality,’1913,vol.i,pp.370,403-404)。
 東欧州にありと信ぜらるる吸血鬼《ヴアムパヤー》は、父母または僧に詛言されし者死してなるところという(『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一一板、二七巻八七六頁)。したがって、葬式の誄《ダージ》に、子が母に詛われて死ぬところを悲しく作ったのもある。マセドニアの妖巫《ウイツチ》は、インドのと同じく、人を詛う時その人のうしろに灰を撒く。また詛害を除く水を調え、これを詛うた者に飲ませ、もしくはその戸前に注ぐべしという。かつてサロニカの大僧正、怒って一人を詛い、地汝を容れざれ、というた。この大僧正、後年キリスト教を退き回教に帰し、その僧主となった。以前詛われた者死し、三年経ってその墓を開くに、尸《しかばね》壊れず。また埋めて三年して掘り見るに依然たり。死人の後家、かの僧主を頼み僧主官許を得て、今は回教僧だがむかし取った杵柄と丹誠を凝らし、上帝に祈ることわずかに数分、その時尸肉たちまち落ち失せ、白骨のみ存った。また十五世紀に、コンスタンチノプルの最初サルタン珍事を好む。キリスト教の大僧正に詛われた者は、地もその尸を壊《やぶ》らず。数千年経るも、太鼓のごとく膨れ、色黒くて存するが、詛い一たび取り消ゆれば尸たちまち壊るを聞き、コ府の門跡をして実試せしむ。門跡、衆僧と審議してようやく一人を得た。それはある僧の妻、妖麗他に優《すぐ》れ淫縦度なかったので、門跡これを叱ると、汝もまたわれと歓楽したでないかと反詰したので、世評区々と起こり、門跡大いに困って、やむをえず大会式の場でその女を宗門放逐に処すと宣言した。やがてその女死して多年埋もれおるゆえ、恰好の試験材料ということで掘り出して見れば、髪落ちず肉骨と離れず、今死にたるがごとし。これを聞いてサルタン人を使わし見せしむるに、報告に違わず。ひとまず堂円に封じ置き、定日サルタンの使い到ってこれを開き、門跡、特に追善して赦罪の詞を読むと、尸の手脚の関節砕け始めた。再び封じ置きて三日歴て開いて見ると、尸全く解けて埃塵のみ残っちょったので、サルタンさすがにキリスト教の真の道たるに敬伏したそうじゃ(G.F.Abbott,‘Macedonian Folklore,’1903,pp.195,211,212,226)。『古今著聞集』巻八に、多情の女、葬(166)後二十余年にして尸を掘り見るに影も見えず。黄色の油ごとき水のみ漏れ出で、底に頭骨ちょっとばかり残る。「好色の道罪深きことなれば、跡までもかくぞありける。その女の母をも同時改葬しけるに、はるかに先だち死にたるものなれども、その体変わらで続きながらにありける。」キリスト教と反対に、わが仏教では罪深い者の尸は葬後早く消失するとしたらしい。
 グリンムの『独逸童話篇』に、父が水汲みに往った子供の帰り遅きを憤り、みな鴉になれと詛うと、七人ことごとくたちまち鴉となって飛び去った、とあり。Kirby,‘The Hero of Esthonia,’1895,vol.ii,p.45 se指qq.に、エストニアの勇士カレヴィデ酔って鍛工の子を殺し、鍛工恨んで前刻カレヴィデに与えた名刀を援《ひ》いて彼を詛うと、後年果たしてその刀に両膝以下を載られてこの世を去った、と出ず。ローマ法皇ジャン二十一世の時、サキソン国の不信心の輩、一法師の持てる尊像を礼せず。法師これを詛いしより、彼輩一年のあいだ踊りて少しも輟めえなんだ(Henri Estienne,‘Apologie pour Herodote,’n.e.,Paris,1879,tom.ii,p.79)。北ウェールスのデムビシャヤーのエリアン尊者の井近く尼樣の女住む。人を詛わんと欲する者、少しの金を捧げると、その女被詛者の名を簿に注し、その名を呼びながら留針一本井に落とすと詛いが利いた(Gomme,‘Ethnologiy in Folklore,’1892,p.87)。『リグヴェダ』には、梟痛く鳴くを聞く者死と死の神を詛うべしとあり、『ラーマーヤナ』には、梵授王、肉と魚を瞿曇仙人に捧げ、仙人瞋って王を詛いG《ヴアルチユール》と化《な》す譚あり。
 以上の諸例を稽《かんが》えて、むかし重大だった呪詛術が、今日軽々しく発する詛言となったと知るべし。  (大正四年四月『人類学雑誌』三〇巻四号)
 
(167)    牛王の名義と烏の俗信
 
       一
 
 『郷土研究』に出た「守札考」の中に、清原君は、牛王の名の起原を論じて、「要するに牛王の符は、牛黄なる霊楽を密教でその儀軌に収用し、一種の加持を作成したことから起こったものであろう」と言われた。すなわち旧説に、牛王は牛玉であって、また牛黄、牛宝とも称し、牛胆の中から得るところの最も貴き薬である、これを印色として符の上に印するより牛王宝印と称す、というに拠ったものだ(『郷土研究』三巻四号一九七、一九九頁)。
 『和漢三才図会』三七に、「牛黄は俗に宇之乃太末と言う」とあり。田辺付近下芳養村字ガケという部落の大将、予と年来相識の者の話に、牛の腹よりきわめて貴き黄色の物稀に出で、芬香比類なし、ゴーインと名づく、と言うたのは、牛王印の訛りだろう。『東鑑』に、建保五年五月二十五日、将軍実朝、年来所持の牛玉を寿福寺の長老行勇律師に布施せしことを載す。格別上品で大きい牛黄だったものか。また牛胆中より得る、きわめて香《かぐわ》しき牛黄の外に、韋皮《なめしがわ》のような臭いある牛の毛玉というものを腸から出すことあり。『和漢三才図会』に、「俗間に牛宝あり。形は玉石のごとく、外面に毛あり。けだし、これは狗宝・酢荅《さくとう》のごときの類ならん。牛の病塊は牛黄と一類二種なり。庸愚なる売僧の輩、霊物となし、あるいは重価《たかね》をもってこれを索む。その惑えること、はなはだしきかな」と言えるはこれ(168)だ。この辺でこれを懐中すれば勝負事に運強いという。実朝が布施したのは、この毛玉かとも思う。
 『曽我物語』巻七第八章、三井寺の智興大師重病の時、その弟子証空これに代わり死なんとて、晴明を請うて祀り替えしむるところに、「晴明礼拝恭敬して、云々。すでに祭文に及びければ、牛王の渡ると見えて、種々のさんせん幣帛、あるいは空に舞い上がりて舞い遊び、あるいは壇上を跳り廻る。絵像の大聖不動明王は利剣を振り給いければ、その時晴明座を立って、珠数をもって証空の頭を撫で、平等大慧、一乗妙典と言いければ、すなわち上人の苦悩さめて証空に移りけり」と出ず。ここに牛王と言えるは牛黄では分からず。たとい牛黄また牛王宝印とするも、文の前後より推すと、牛黄また牛王宝印そのものを指さずして、その物の精霊すなわち牛黄神また牛王宝印神とも称すべきものを意味し、修法成就のさい右様の神が渡り降《くだ》ると同時に供物がおのずから動き出すこと、あたかも今日の稲荷下げにいよいよ神が降る時、幣帛揺れ廻るごとくだったのであろう。例せば、唐訳『不空羂索神変真言経』に見えた薬精味神が、「状《かたち》は天の形のごとく、衆宝の衣服|備《つぶ》さに荘厳し、身手にはすなわち倶延枝《ぐえんし》果を執り持つ。無垢薬精は大毒威あって、云々、力よく人の精気を吸い奪う」。それを畏れずに、持真言者が呪を誦し打ち伏せると薬精の身から甘露を出す。それを採って眼と身に塗れば金色仙となり得、また薬精の髪を取って繩として腰に繋くればどこに行くも障礙なし、とあり。芳賀博士も予も出処を見出だしえぬが、『今昔物語』四に「靂旦国王の前に阿竭陀薬《あかだやく》来たれる語《こと》あり(『郷土研究』一巻六号三六四頁および九号五五二頁参照)。『徒然革』に大根が人と現じて人の急難を救う譚出で、欧州の曼陀羅花《マンドラゴラ》(A.de Gubernatis,‘La Mythologie des Plantes,’1882,tom.ii,p.213 seqq.)、インドのツラシ草(同書同巻三六五頁)、チェロキー・インジアンの人参(Reports of the Bureau of American Ethnology,XIX,425)等、いずれも植物ながら人体に象れる根また全体を具し、霊妙の精神を有すと信ぜられ、それほどにはないが、熊野で疝気等の妙薬と伝えらるる「つちあけび」(山の神の錫杖と方言で呼ぶ)も、これを見出だした即時採らずに帰宅してまた往くと隠れ去って見えぬと言う。
(169) しかしながら、予は件の『曾我物語』に見えた修法成就の時渡り来て尊前に供えた物を動かす牛王を、牛黄や牛王宝印の精霊と見るよりは、牛王という特別な鬼神と見るを一層実に近いと惟う。清原君が言われた通り(『郷土研究』三巻一九八頁)、牛の勝妙なるもの、すなわち牛群の首魁を牛王と言うは、諸経にしばしば見え、例せば『仏鋭生経』四に、「時に水牛王は、衆くの眷属とともに至り湊《あつ》まる所あって、独りその前にあり。顔貌は※[女+朱]好《しゆこう》にして、威神は巍々《ぎぎ》、名徳は異《ほか》を超《ぬきん》で、忍辱にして和雅、行止《たちい》は安詳《おちつき》たり」と、田辺中の芸妓どもが南方君を讃めるように、やたらに述べてあり、北涼訳『大般涅槃経』一二には、「転輪王の、主兵大臣常に前導にあって、王は後に随って行くがごとく、また魚王、蟻王、螺王、牛王、商主の前にあって行く時のごとく、かくのごとく諸衆悉皆く随従し、捨離する者なし」と、吹く法螺から吼ゆる牛までもそれぞれ王ある由を鋭かれた。『十誦律』四〇に、仏、芻摩国にあって五陰法を祝いた時、「諸比丘、鉢を持って露地に著《お》く。天魔変じて大牛の身となり、来たって鉢に向かう。一比丘あり、はるかに牛の来たって鉢に向かうを見、比座《となり》の比丘に語っていわく、看よ、この大牛来たってわが鉢に向かう、わが鉢を破《わ》らずや、と。仏、諸比丘に語っていわく、こは牛にあらず、こは魔のなすところにして、汝らの心を壊《やぶ》らんと欲するなり、と。仏いわく、今より房舎中に鉢を安《お》く処を作るべし、と」。同律二一に、「仏、王舎城にあり。この時、諸闘将の婦、夫の征行すること久しく、非人と通ず。この諸《もろもろ》の非人は形体不具にして、あるいは象頭、馬頭、牛頭、※[獣偏+彌]猴頭、鹿頭、贅《こぶ》頭、平頭と、頭七|分《とおり》に現ず。生まれし子もまたかくのごとし。諸母の愛するゆえに、養い畜《か》いて長大となりしも、執作《とりあつか》うことあたわず、諸《これら》の子を駆棄《おいはら》い、天祠論譲堂に詣《いた》り出家せしめ、これを諸処に舎《お》くに、飲食を覓めて遊行す、云々」。出征軍将の不在にその妻どもが牛馬頭等の非人と通じて、そんな異体で遊び好きの子を生んだのだ。非人は、英語アウト・キャストの義で、人類に歯《よわい》せられぬ賤民で、人種もインド高等の人々と違い、頭が畜生諸種に似ておっただろう。牛頭馬頭の鬼などいうも、これらから出たらしい。仏在世すでに天魔が大牛身を現じたというから見ると、牛形の鬼類を信ずること古く梵土にあったので、それが仏教に随順せるものを牛王と言ったのだろ(170)う。
 今日もセイロンでは、牛群つねに一|聖牛《ひじりのうし》ありてその繁栄を司り、その角を羽束《はなえたば》で飾り、また小鈴を加うることあり。常に衆牛を牧場に導く。毎朝牛舎を出る時、土人聖牛に向かい、必ず衆牛を監守し※[牛+悖の旁]輩《めうしども》をして群に離れず最《いと》好き牧野に導いて乳汁多く生じしめたまえと請う(Balfour,‘The Cyclopaedia of India,’1885,vol.i,p.512)。インド人が牛を最上の神獣として尊崇、恭敬するは誰も知るところで、ことにこれをシヴァ大神の使い物とし、優待到らざるなき様子と理由は A.de Gubenatis,‘Zoological Mythology,’1871,voli,pp.1-89;Dubois,‘Hindu Manners,Customs and Ceremonies,’1897,vol.ii,pp.644-646 を見れば判る。すでにこれを神視するから、したがってこれを神同様の役目に立つることも多く、『マヌの法典』に、牡牛を裁判の標識とし、諸神世間の法を濫《みだ》す者をヴリシヤラすなわち殺牡牛者と見なす、とあり。今日もシヴァの騎《の》る純白《ましろ》き牛(名はナンジ)は裁判の標識と言う者あり(Balfour,vol.ii,p.1057)。予がかつて睹《み》た、他人の地面を取り込むインド人を戒むるため、その家内の婦女が牡牛に犯さるるところを彫った石碑のこと、すでに本誌に述べおいた(『郷土研究』一巻一〇号六一四頁)。地面の境標を建つるインド人の誓言には、牛の生皮または自分の悴を援《ひ》いて証とする。他にまた牛の尾を持って誓うこともある(Balfour,vol.iii,p.2)。
 シヴァは、すなわち仏経にいわゆる摩醯首羅《マヘスヴァラ》王また大自在天また大天で、仏教諸他の教に専奉する諸神を寛容するところから、胎蔵界曼荼羅にも入り、観音二十八部衆中にもあれば、『速疾立験摩醯首羅天説阿尾奢法』などが一切経中にあり、ジャワの仏跡は実に仏教と大天教の融和せしを示す。また仏教にもヒンズー教にもある閻魔《ヤマ》王や、それから化成されたらしい瑜伽宗の大威徳明王は、いずれも青牛すなわち水牛に騎る。この二尊はしばしばチベットの仏画に見るより推すと、『衛蔵図識』に見えた牛魔王やわが邦の牛鬼の伝説は、多少それに縁あるのでなかろうか。『日吉社神道秘密記』に、「一牛尊石。(八王子)御殿の下の牛尊を、石上にこれを安んず」とあって、地図に「牛尊は牽牛なり、寵御前は織女なり」とあるは牛王に関係ないが、ついでに書きつけておく。実はこの解説は後日の付会で、そ(171)の初めは何尊かの使い物たる牛の像を石上に安んじたのであろうと思う。西晋訳『修行道地経』六に、織女三星地獄に属すとあれば、牽牛も閻魔の騎乗《のりもの》か。とにかく仏教に混じてヒンズー教の事相もずいぶん多く本邦に伝わったから、牛を裁判の標識として誓言の証拠に立つるインドの風を伝えて、何尊かの使い物たる牛をを牛王と称し、その牛王の印を据え、もしくは捉えられたと信ずる物を、誓言にも引けば、門戸に貼って辟邪の符《まもり》とも做《し》たのであろう。
 『類聚名物考』一三に『垂加文集』の跋より、「御霊八所、云々。当社は嘉(垂加の俗名嘉右衛門)の牛王神なり」と引けり。これは、例の生土《うぶすな》を訛って牛王となったという説に随うたのか。また似たことながら、誓文を書く時に牛王として名を援く神ということか。
 予は熊野牛王の外の牛王を見たことないゆえ、何とも言いえぬが、熊野の牛王は幼時たびたび見もすれば、小学校で紛失品あるごとに牛王を呑ますと威されたので、その概略の容体を覚えおる。烏を何羽点じあったか記憶せぬが、まずは『和漢三才図会』に書いた通りのものだった。盗人などを検出するには、これを焼いて灰とし水で服《の》むと、熊野の社におる烏が焼いた数だけ死ぬ。その罰が有罪《うざい》の本人に中って、即座に血を吐くとか聞いた。血を吐くのが怖くて、牛王を呑ますと言うと、呑むどころか牛王の影をも見ぬうち既《はや》く罪人が自白するを常とした。支那で狼巾《ろうきん》を炙って盗を見出だし(『酉陽雑俎』続集八)、朝鮮人やオッセテ人が猫を殺すべしと威して窃まれた物を取り返し(『人類学雑誌』三〇巻一号二四頁、中島生の寄書、同巻三号一○八頁なる拙文を見よ)、西アフリカのビニ人が妖巫を露わすに、イニイ樹皮の擣汁《ツキシル》を呑ませ、嘔く者を無罪、嘔かぬ者を有罪とする(Dennett,‘At the Back of the Black Man's Mind,’1906,p.191)など、似た例だ。西鶴か自笑・其磧か誰かの戯曲、いずれにしても帝国もしくは続帝国文庫中に出版された物にも、遊女が起請するたびに烏が死ぬるを歎《かこ》つ詞があったと記憶する。これに近似した例、西鶴の『万の文反古』三巻三章に、盲僧《めくらほうし》の懺悔話を載せ、在俗の時紙店を営むところへ、武士買物に来たり大金を店頭に遺《わす》れ去りしが、やがて気づいて尋ね来たるを、慾に眼が暮れてなしと答え通す。詮方なく立ち帰り、ややあってま(172)たかの武士、烏一羽生きたるを持ち来たり、行く末を見よと言いながら、その烏の両目を脇指で鑿《ほ》り出し抛げつけて往ったが、後にその侍は自殺したと知る。それより店主不運続き到り、盲目の乞食僧となった、とある。 畠山箕山の『色道大鏡』六に、「起請文を書く料紙は、まず熊野牛王をもって本とす。中村屋の鳳子小藤は、白紙なしに二月堂の牛王七枚張りにして細字にこれを書く。上林家の二世|薫《かおる》倹子も白紙なしに三山の牛王九枚綴にして書けり、云々。明暦のころ中京の何某、傾城に起請書かするために怖ろしき鬼形の牛王を新たに彫らせてこれを用ゆ。もっとも作意働きて面白し、故ありと覚ゆ」とあり。これら牛王は、もと起請を背かば牛形の鬼に罰せらるべしという意から起こった証たるべきにや。
 烏を神鳥とすること本邦に限らず.ギリシアに神アポロ烏に化る話あり。女神ジュノは、烏を使者とし、次に孔雀に改めた。インドには、『ラーマーヤナ』に、神軍、鬼軍と戦うて敗走する時、烏来たって閻魔《ヤマ》を助く。その報酬に葬饌を烏の得分とし、烏これを享くる時、死人の霊、楽土に往き得と定む。ギリシアの古諺に、死ぬことを烏の許に往くと言った。今日もペルシアやボンベイのパーシー人やチベット人は、死屍を支解し、また全体のまま禿G《ヴアルチユール》に食わす(『衛蔵図識』巻下。また Sven Hedin,‘Trans-Himalaya,’1909,pp.371-372;‘Encyclopaedia Britannica,’11th ed.,vol.xx,p/867)。必ず烏腹に葬るを期せずとも、熱地で死屍や半死の人畜が鳥獣に食われ終わるに任すこと多きは、予もみずから賭た。ことに悪疫流行して、埋葬に人手乏しき時然り。『雍州府志』に、京都紫野古阿弥谷に林葬行なわれ、死人を石上に置き去り、狐狸の食うに任せし由を載せ、『元亨釈書』に、某皇后遺命して五体を野に棄てしめ給いしと見え、『発心集』には、死せしと思いて野に棄てたる病女の両眼を烏が食うた潭あり。これらよりもずっと古く、埋葬の法簡略に過ぎた地方には、烏等に人屍を食わるること珍しからず。烏また人のまさに死なんとするをよく知ってその辺を飛び廻り、あるいは鳴いて群を集むるより、これを死を予告する鳥また死を司る神使など言うに及んだのであろう。十五年前、予熊野の勝浦にありし時、平見《ひらみ》という所の一松に烏来たり鳴くと、必ず近きうちに死人ありて少(173)しも錯《あやまり》なし、と。かかることに一向無頓着な老人の経験譚を聞いた。
 されば、本邦で烏を使い物とするは必ずしも熊野の神たちに限らず。信州諏訪の宮(『諏訪大明神絵詞』上)、江州日吉山王(『山王利生記』一)、隠岐の焼火山(『隠州視聴合記』二)、越後の伊夜彦明神(『東洋口碑大全』一〇一〇頁)、肥前の安満嶽(『甲子夜話』二三および八七)、その他例多かるべきが、熊野は伊奘冊尊御陵のある地で、古くより死に縁あり。中世、本宮を現世の浄土としたる様子は『源平盛衰記』等に見え、今も妙法山を近郡の死人の霊が枕飯《まくらめし》できるあいだに必ず一たび詣るべき所とするなど、仏法渡来前より死霊に大関係ある地としたなるべく、もとよりその地烏鴉多かったので、前述閻魔と烏との関係、また仏説に冥界後生のことを記するに必ず烏のことある(例せば、『正法念処経』七に、辺地夷人、その国法のままに姉妹と婬する者、死して合地獄に生じ、烏丘山《うきゆうせん》の鉄烏に苦しめられ、沙門にして梵行しながら涅槃行を笑う者、命終わって大紅蓮獄に堕ち、烏に眼と舌根を抜き、耳を割き、身を分散さる。『大勇菩薩分別業報略経』に「強顔にして羞恥少なく、無節にして言説多ければ、業に随いて果報を得て、後に烏鳥の身を受く」)等より、仏典渡来後、熊野の烏は一層死と死後の裁判に関係厚く信ぜらるるに及んだだろう。支那にも、「洞庭に神鴉あり。客帆過ぐれば、必ず飛び噪いで食を求む。人、肉をもって擲《なげう》てば、空中にこれを哺《とら》う。あえて捕えざるなり」(『五雑俎』九)とある。
 かつそれ梵土にあっては、烏と牛とのあいだに深縁あり。バルフォールの『印度事彙』(上出、一巻八四四頁)に、インドの大黒烏(学名コルヴス・クルミナツス)は水牛ある処に必ずあってその背に駐《と》まり、小ミナ烏と協力して牛蝨を除く、と見ゆ。アリストテレスの『動物志』九巻六章に、エジプト・ニル河に小蛭多くて※[魚+(王の隙間に口4つ)]の喉に入りこれを苦しむ。トロキルスという小島、※[魚+(王の隙間に口4つ)]口に入ってその蛭を食う。※[魚+(王の隙間に口4つ)]これを徳とし、つねに口を満開して烏の入るに便にすとあるは、今日も目撃しうる事実で、インドの烏と牛との関係に似ておる。古ペルシアのミツラ教は、日神ミツラを祀り、牛と鴉を聖禽とした。烏と牛は本邦では双《ふたつ》ながら、主として著しく黒く人里離れぬ動物たるところへ、インドにもか(174)く二者親密の関係あるを伝承して、烏形を点じて牛王宝印を作成したのであろう。しかして、烏を援いて誓言することは舌アテネにもあった由、グベルナチスがアリストファネスの詩を引いて言われた(Gubernatis,‘Zoological Mythology,’vol.ii,p.252)。
(追記)長門本『平家物語』五に、藤原成経、硫黄が島に流されしを、その情婦で渚盛に仕えた伯耆局慕うて止まず。かねて心がけおった鳩脇八幡宮中の馬場執印清道、奇貨置くべしと考え、成経方へ伴いやるべしとしてかの婦人同道で大隅に下り説けども三年間随わぬうち成経と再会した譚あり。この女童名牛王殿とある。これは仏典に牛王、蟻王、烏王、馬王などある、牛群中の王を指す名で、起請の牛王とは関せぬだろう。俊寛の侍童有王の外に、蟻王という名の少年もあったと記憶する。『類聚名物考』三九に、『徒然革』上、太秦殿に侍りける女房の名ひささち、ことつち、はうはら、おとうし。同考に、ひささちは膝幸、ことつちは如槌の意、はうはらは腹の大きく垂れて地を匍うごとくに見ゆるゆえ言うならん。乙牛は字のごとく小さきを言うか、と記す。これらは、単に下女どもを牛の健にしてよく働くに比べて号けたものだろう。     (大正五年二月『郷土研究』三巻一一考)
 
       二
 
 人間は勝手きわまるもので、烏が定刻に鳴いて晨《あした》を告げると、露宿する者は寒夜の過ぐるを欣び、流連する者は飽かぬ別れの近づくを哀しむ。「柿食ひにくるは烏の道理かな」で、実は烏の知ったことでない。謝在杭の言に、「鴉鳴くを、俗に凶事あるを主《つかさ》ると言う。故に女子・小人は、その声を聞けば必ずこれに唾す。たとい縉紳の中にも、またこれを忌む者あり。それ人をして、あらかじめ凶あるを知って、言を慎しみ動を謹《いま》しめ、患《わざわい》を思いて、預《あらか》じめ防がしむれば、またわれの忠臣にあらずや」。時鳥なども、初音を厠で聞けば禍あり、芋畑で聞けば福あり。故にその(175)鳴くころ、高貴の厠には芋の鉢植を入れて置くと、『夏山雑談』に出る由(『嬉遊笑覧』八に引く。予の蔵本にはこのこと見えず)。グリンムの『独逸鬼神誌』(一八四四年、ギョッチンゲン板、六三七頁)に、最初烏は後世ほど悪鳥と謂われなんだとあると同時に、氏の『独逸童話』に、水汲みに出て帰り遅い子供を、その父が烏になれと詛うとたちまちみな鳥になった譚あるを見ると、欧州でもいと古くより烏を機会《おり》と相場によって、あるいは吉祥、あるいは凶鳥としたらしい。『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一一板二二巻に、鴉は鳥類中最も高く発育したもので、胆勇、明敏、智慧、三つながら他鳥に傑出す、とある。
 ここにいう鴉は、英語でラヴェン、わが邦で従来「はしぶとがらす」に宛てておる。実は「わたりがらす」、学名コルヴス・コラクスがラヴェンに正当する。「わたりがらす」は北アジア(わが千島にもあり)と全欧州、西半球では北氷洋よりガテマラ国まで棲み、烏属中もっとも分布広いものだ。またこの篇に烏と書くのは、英語でクロウ、本邦で普通に「はしぼそがらす」に宛てておる。英国でもクロウと呼んだは、なるほど「はしぼそ」だが、今日は正名ルク、学名コルヴス・フルギレグスたるべきもの(わが国の「みやまがらす」に近い)をクロウと言いおる。『本草網目』に、烏鴉を四種に分かつ。O.F.von Mollendorff,“The Vertebrata of the Province of Chihli with Notes on Chinese Zoological Nomenckatyre,”in The Journal of the North China Branch of the Royal Asiatic Societ,New Seties XI,Shanghai,1877,pp.88-89 に、その四種を釈して、紅嘴鴉また山烏また鷁《げき》とは、英語で chough《チヤフ》これは嘴細長くて鉤《まが》り、脚と嘴が紅《あか》い。英語で紅脚烏《レツド・レグド・クロウ》ともいう。学名ピロコラクス・グラクルス。次の燕烏また鬼雀は、学名コルヴス・トルクワツス。この二種は日本にないらしい。次に慈烏また慈鴉また寒鴉また孝烏は、英名ブラック・ジャクドー、学名コルヴス・ネグレクツスだろ、とある。故小川氏の『日本鳥類目録』に大阪・長崎産とあるが、和名を挙げぬを見ると、日本に少ないものか。次に鴉烏また烏鴉また大嘴鴉は、「はしぼそ」とルクと「わたりがらす」を併称するらしいという。さて『本草』には見えぬが、カルガ地方で老※[舌+鳥]《ワオクワ》と呼ぶのが、日本の「はしぶとがらす」と(176)同物らしい。
 『広韻』に、鴉は烏の別名。『格物論』に「烏は雅(鴉)の別名にて、種類また繁《おお》し。小にして多く群がり、腹下の白きものあり、鴉鳥となす。小|嘴《し》にして白く、他鳥に比し徽小《すこ》しく長くして、その母に反哺《はんぽ》するものあり、慈烏となす。大喙および白頸にして、反哺するあたわざるものは、南人これを鬼雀と謂い、またこれを老鴉と謂う。鳴けばすなわち凶咎《きようきゆう》あり」。これとモレンドルフの釈と合わせ攷うるに、支那でもっぱらその鳴くを忌む烏は、日本にない燕烏で、反哺の孝で名高い慈烏は、大阪・長崎等にあるも、今に日本名も付かぬほど尋常見られぬもの、したがって自分の孝行は口ばかりで、たまたま四十九歳まで飲み続けて孝を励む吾輩を見るも、いたずらに嘲笑するもの、世間みな然りだ。それから鴉烏また烏鴉は大嘴とも言わるるから、『訓蒙図彙』や『和漢三才図会』や須川氏訳の『具氏博物学』等に、烏を「はしぼそ」、鴉を「はしぶと」としおるが、その実、支那の鴉烏また烏鴉は、主として本邦の「はしぼそ」に当たる。本邦の「はしぶと」は、支那の大嘴鴉すなわち「はしぼそ」より一層嘴が太い。比戟上付けられた名で、学名を、ボナパルト親王がコルヴス・ヤポネンシスと付けたは、日本にもっぱら固有なから、またワグレルがコルヴス・マクロリンクスと付けたは「はしぶと」をそのまま直訳したのだろ。かく本家本元の支那で、烏と鴉を通用したり、烏鴉とか寒鴉とか老鴉とか種別も多きに、普通の書史には一々何程の烏と判って書かず、本邦にも地方により「はしぶと」多く、また「はしぼそ」が多い。この二つの外に、烏の一類で、日本で「からす」と名の付く鳥が、小川氏の目録を一瞥しても十一種ある。『本草啓蒙』に、熊野烏は一名那智烏、大きさ白頭鳥《ひよどり》のごとく、全身黒く、頂毛立って白頭鳥のごとしとあるから、牛王に印した烏は、「はしぼそ」でも「はしぶと」でもない特種と見える。
 一八五一年板、モニエル・ウィリアムスの『英梵字典』に、クロウの梵名三十ばかり、ラヴェンのを十三出せるが、これまた支那同様多種に渉った名で混雑も少なからじと察する。インドの家辺に多き烏《クロウ》は、学名コルヴス・スプレン(177)デンス。これはその羽が特に光るからで、『経律異相』二一に引いた『野狐経』に、野狐が烏を讃めて、「ひとり尊くして樹上にあり。智慧もっとも第一にして、明るく十方を照らし、紫磨金《しまきん》を積むがごとし」とあるも過誉《ほめすぎ》でない。水牛と仲よい烏のことは、上に述べた。鴉《ラヴェン》に相当するインド種は、まず「わたりがらす」の多少変わったものらしい。それから濠州やアフリカ、南・北アメリカの烏や、烏と通称さるるものは、またそれぞれ異っておる。一口に、烏また鴉、クロウまたラヴェンというものの実際かく込み入っておるところへ、仏経を漢訳する輩は、クロウ(梵名カーカ)、ラヴェン(梵名カーカーラ)の区別もせず、烏鴉通用で遣って除《の》けたらしく、『翻訳名義集』などに、烏鴉の梵名の沙汰一向見えぬ。こんな次第だから、本篇には、本邦の「はしぼそ」はもとより、支那の本文の訳経の烏、また英文でクロウおよびルクとある「からす」を一切烏と書き、本邦の「はしぼそ」と支那の本文や訳経の鴉、また英文でラヴェンとある「からす」を、すべて鴉と書いておく。動物学上の議論でなく、要は口碑や風俗に関する語を書くのだから、ただ烏《クロウ》と鴉《ラヴエン》が別物とさえ判れば足るんじゃ。
 さて鴉や烏が胆勇に富めるは、『和漢三才図会』烏の条に、「その肉は味|酸《す》く鹹臭《かんしゆう》あり。人食らわず。ゆえに常に人を恐れず。鷹、※[搖の旁+鳥]《はしだか》をも屑しとせず、ほしいままに園圃の果※[草がんむり/(瓜+瓜)]《から》・穀実を啄《ついば》み、人家にて晒《ほ》せるところの魚肉・餅※[米+羔]《へいこう》等を竊み、郊野の屍肉を※[口+敢]う。これ貪悪のはなはだしきものなり」と読むと、人が忌んで殺さぬゆえ不敵になったようだが、ワラスの著『ダーウィニズム』に言った通り、氷雪断えぬ所に住む鳥は、多くは肉食動物に見露わされぬように、その体が氷雪同様白い。しかるに、烏だけは常に進んで他の動物を侵すのだから、卑怯千万な擬似色を要せず、かつ群棲するものゆえ、色が黒いと氷雪の白いに対照して反って友を集むるに便あるのだ。烏が本来大胆なので、決して人が忌んで殺さぬゆえ大胆になったのでない。
 烏が明敏にして 黠智《かつち》なるは、『食経』に「烏の巨嘴なるは、善く※[矢+曾]弋《そうよく》・弾射を避く」。Tennent,‘Sketches of the Natural History of Ceylonm’1861,pp,254-255 に、セイロンの烏が籃の蓋を留めおいた栓を抜いて、その中を覗いた(178)り、人が肉を切るとて油断するところへ付け入って、その血塗れな庖丁を奪うたり、ことに椿事なは、犬が骨を噛むを奪わんとて、一羽の烏がその前に下りて奇態に踊り廻れども犬油断せぬゆえ、しばらく飛び去って棒組一羽連れ来たり二人して踊れども効なし。その時あとで来た烏一計を案じ出し、一たび空中に飛び謄ってたちまち直下し、その嘴の全力を竭《つく》して太《いた》く犬の背を啄く。犬仰天して振り向くところを、最初よりおった烏たやすく彼が食いおった骨を奪った等の諸例を出しおる。Romanes,‘Animal Intelligence,’1881 にも、烏の狡智非常な例を陳べある。これほど智慧あるものゆえ、上に引いた野狐が烏を智慧最第一と讃めたインド譚や、母に叱り出された少女が情夫に急を報《つ》げんと烏に助けを乞う辞に、「智慧の鳥よ、鳥中のいと賢き者よ」と言うたエストニア誕《ばなし》がある(Kirby,‘The Hero of Esthonia,’1895,vol.i,p.215))。Southey,‘Common-Place Book,’ed.Warter,1876,3rd Seris,p.638 に、英国で烏群、地に小孔を喙《つつ》き開け※[木+解]《かしわ》の実を埋めながら前進するを見たが、後日烏が巣を架けるに足る密林となった、と記す。眉唾なような咄だが、米国に穀を蒔いて収穫する蟻あり。また※[木+解]の実を大木の幹にみずから穿《ほ》った孔に填《うず》め置き、後日実の中に生じた虫を食う用意とする啄木鳥もあるというから丸|啌《うそ》でもなかろう。
 烏は朝早く起き、捷《すばや》く飛んで諸方に之き、暮に栖《すみか》に帰るから、世間雑多のことを見聞すというところから言ったものか、古スカンジナヴィアの大神オジンの肩に留まる鴉二つ、一は考思《かんがえ》、一は記憶《おぼえ》と名づく。大神、毎朝これを放てば世界を廻り帰って悉皆の報告す。大神よってあまねく天下のことを知るゆえに鴉神の名あり、と(Collin de Plancy,‘Dictionnaire inferaal,’Bruxells,1845,p.347)。かく烏は飛ぷこと捷く世間を広く知るというより、いわゆる往を推して来を知る力ありとせられ、古ギリシアでは、烏をアポロ神予言の標識とし(‘Encyclopaedia Britannnica,’11th ed.,vol.ii,art.“Apollo”)、支那でも、『本草集解』に、「古え『鴉経』あり、もって吉凶を占う。しかも、北人は鴉を喜び鵲を悪み、南人は鵲を喜び鴉を悪む。ただ師曠(『禽経』)は、白き項《うなじ》なるもの(すなわち燕烏)をもって不祥となし、これに近づかず」。『酉陽雑俎』に、「世に『陰陽局鴉経』を伝うるあり。東方朔の著わすところという。大略は、まずそ(179)の声を数え、もしこれ甲の声ならば、十干をもってこれを数え、その急緩を弁じ、もって吉凶を定む」。日本でも、烏鳴きは必ずしもみな凶ならず。例せば、巳《み》の時は女によって口舌あり、卯の時は財を得、午の時は「財を得ること吉、また口舌ありし」。なお委細は『二中歴』第九を覧《み》なさい。セイロンでは、烏は常に家辺にあるものなればとて、今日もその行動、鳴き声から棲《とま》った樹の種類まで考え合わせて吉凶を占う(Tennent 上に引いたところ)。
 また烏はよく方角を知るゆえ、人が知らぬ地へ往く嚮導や遠地へ遣《おく》る使者とした例が多い。『酉陽雑俎』に、烏地上に鳴けば凶《あ》しく、人行くに臨み烏が鳴いて前引すれば喜び多し、とあり。八咫烏が神武帝の軍勢を導きしこと『日本紀』に見え、古ギリシア、テーラの貴人バットスが未知の地に安着して殖民しえたのも、実に鴉の案内に憑ったので、鴉の義に基づいてその地をキレーネーと命じた(Cox,‘An Introduction tO Folk-Lore,’1895,p.104)。ただし『宣室志』には、軍出ずるに鳶や烏が後に随うは敗亡の徴、とある。ヘブリウの古伝に、ノア大洪水に漂うた時、三つの鳥を放つに三度目の鴉が陸地を見出だした。三つの鳥は鴉、鴿《いえばと》、鴿というのと、鴿、燕、鴉というのと二説あるが、チェーンは、鴉が最後に陸を発見した説を正とした。北米土人の話にも似たことがあれど、鴉の代りに他の鳥としておる(‘Encyclopaedia Britannica,’vol.vii,p.978)。また、ノルウェーのフロキ、アイスランドに航せんと出立の際、三羽の鴉を諸神に捧げ、遠く海に浮かんでまず一羽を放つと、もと来し方へ飛び往くを見て、前途なお遙かなりと知り、進行中また一羽を放つと空を飛び廻って船に戻ったので、鳥も通わぬ絶海にありと了《さと》った。三度目に飛ばした奴が、仔細構わず前進す。それを蹤《あとつ》けて船を進めて到頭アイスランドの東浜に著いたというが、そのころノルウェーにはオジン大神の使い物たる鴉を特別に訓練して神物とし、航海中陸地の遠近を験《ため》すに用いたらしい(Mallet,‘Northern Autiquties,’in Bohn's Library,1847,p.188)。これに同軌の例、『長阿含経』一六、「商人、鷹を臂にして海に入り、海中において放す。かの鷹、空を飛んで東西南北にいたり、もし陸地を得ればすなわち停止し、もし陸地なければ、さらに船に還帰《かえ》る」。『経律異相』三六には、大富人が海辺に茂林を作り、烏多く栖む。その烏、朝ごとに飛んで遠隔の海渚(180)に往き、明月の珠を※[口+敢]い暮に必ず還る。件の長者謀って百味の食を烏に与うると、烏飽き満ちて珠を吐き出すことおびただし。長者これを得て大富となった、と載す。『※[木+奈]女耆城因縁経』に、耆婆《ぎば》が勝光王に殺さるるを免れんとて、日行八千里の象に乗って逃げるを、神足よくその象に追いつくぺき勇士して逐わしむる、その士の名は烏、とある。これインドで烏を捷く飛ぶこと他鳥に超ゆとしたのだ。『続群書類從』の『厳島御本地』に、五色の烏が恋の使いして六年かかる路を八十五日で往き著くことあり。古英国のオスワルド尊者の使者も烏だった(Gubernatis,vol.ii,p.257)。『淵鑑類函』四二三に、「俗に言う、鴛《おしどり》は頸を交えて感じ、烏ほ涎を伝えて孕む、と」。プリニウスの『博物志』にも、世に鴉は嘴もて交わるゆえに、その卵を食った婦人は口から産すると言う。アリストテレスこれを駁して、鴉が鳩同様雌雄相愛して口を接するを誤認したのだと言った、とある。熊楠しばしば烏の雌雄相愛して口を接するを見る。また自宅に亀を十六疋畜いあるが、発情《さか》る時、雄が雌に対して啄《つつ》き始めると雌も啄き返す。喙衝き到るを避けては啄き、啄かれては避けること、取組前の力士の気合を見るごとし。交会は水中でするを、ロンドンの動物園で一度見た。予の庭のなどは泥水ゆえ決して見えぬ。かかる処を誤認したと見えて、『化書』(『類函』四四〇所引)に「牝牡の道、亀と亀の相顧みるは神交するなり」と載す。また仏経に接吻を鳴と書いたところ多い。例せば『根本説一切有部毘奈耶』三九に、「※[烏+こざと]陀夷、かの童女の顔容《かんばせ》姿媚《あでやか》なるを睹《み》て、ついに染心《ぜんしん》を起こし、すなわちかの身《からだ》を摩触《なでさわ》り、その口を嗚※[口+妾]《おしよう》す」、『四分律蔵』四九に、「時に比丘尼あり、白衣の家内にあって住み、かの夫主が婦と共に口を嗚し、身体を捫摸《なでさわ》り、乳を捉《つか》み捺《お》すを見る」。『康煕字典』、嗚の字に接吻の義を示さぬが、想うに烏は雌雄しばしば口を接して愛を示すから、訳経者が烏と口とより成る嗚の一字で接吻を表わしたのだろ。これはさして本篇に係らぬが、近来の大発明ゆえ洩しおく。
 さてプリニウスいわく、諸鳥のうち烏《コルニクス》ばかりが、その子飛び始めてのちしばらくこれを哺《やしな》う。鴉《コルヴス》は子がやや長ずれば逼って飛び去らしむ、と。本邦の烏属中にも、やや長じた子を追うのと哺うのとありや。閑多き人の精査を冀(182)う。『甲子夜話』二三に出た、平戸安満嶽の神鴉、常に雌雄一双にて年々子に跡を譲り去るとは、鴉《ラヴエン》の本種「わたりがらす」だろう。こんなことから反哺の孝など言い出したんだろ。『本草』に「烏、この鳥初めて生まるるや、母これを哺《やしな》うこと六十日、長ずればすなわち反《かえ》し哺《やしな》うこと六十日、慈孝と謂うぺし」、慈烏、孝烏の名これより出ず、とある。自分飛びうるまで羽生えたるに、依然親の臑囓りをしおるのを反哺の孝とは大間違いだ。また思うに、和漢ともに産するコルヴス・パスチナトル(みやまがらす)は、年長ずれば顔の毛禿げ落ちて灰白く、その痕遠く望みうる。それが子と同棲するを見て、子が親に反哺すと言い出したのか。
 そんな法螺話は西洋にもあって、Southey,op.cit.,4th ser.,p.109 に、一三六〇年(正平十五年)フランシスカン僧バーテルミウ・グラントヴィルが筆した物を引いていわく、烏老いて羽毛禿げ落ち裸となれば、その子ら自分の羽もって他《かれ》を被い肉を集め来て哺う、云々、と。これは支那の『礼記』の句などを聞き伝えたのか、それよりは多分北アフリカの禿G《ヴァルチユール》の咄を聴いて、烏と同じく腐肉を食い、熱国で掃除の大功あるものゆえ烏と誤認したのであろう。Leo Africanus,“Descrizione dell’Affrica”in Ramusio,‘Navigationi Viaggi,’Venetia,1588,tom.i,fol.94D に、禿G年老いて頭の羽毛落ち竭して剃ったごとし。巣にばかり籠りおるを、その子らこれを哺うと聞いた、と記す。記者は、グラントヴィルより百年以上後の人だが、禿G反哺の話は以前から行なわれたものだろう。予、熱地で禿Gを多く見たるに、鷲・鷹の類ながら動作烏に似たこと多し。これにやや似たは Sir Thomas Browne(十七世紀の人)の‘Pseudodoxia,’bk.v,ch.I や Thomas Wright の‘Popular Treatises on Science,’1841,pp.115-156 に、中世欧州の俗信に、鵜※[胡+鳥]《オエリカン》自分の胸を喙《つつ》き裂いて血を出し、その愛児に哺《くわ》す、と言った。注者ウィルキンいわく、これはこの鳥、頷《あご》の下なる大※[口+素]嚢《おおのどぶくろ》に魚多く食い蓄え、子に哺さんとて※[口+素]嚢を胸に押しっけて吐き出すを、みずから胸を破ると想うた謬鋭じゃ、と。
 『類函』に、「『瑞応図』にいわく、烏は至孝の応なり、と。『異苑』にいわく、東陽の顔烏《がんう》は純孝をもって著聞す。(182)のち群烏あって、鼓を銜えて顔のおるところの村に集まる。烏の口みな傷つく。一境《むらびと》おもえらく、顔は至孝なれば、ゆえに慈烏来たり萃り、鼓を銜うるの異あり、聾者をして遠く聞かしめんと欲するなり、と。すなわち鼓の所において県を立て、名づけて烏傷となす。王莽、改めて烏孝となし、もってその行迹を彰《あらわ》すという」。世間の聾までも顔烏という者の孝行を聞き知るよう、烏輩が鼓を持って来て広告したのだ。イスラエルの伝説に、エリジャがアハブの難を遁るる途に、餓えた時、烏これを哺うたと言い、したがってキリスト教の俗人も烏を敬する者あり(Hazlitt,‘Faiths and Folklore,’1905,vol.ii,p.508)。烏が不意の取持で貧女が国王の后となった譚は、「貧女国王夫人となるの経」(『経律異相』二三)に出ず。グベルナチス(Gubernatis,‘Zoological Mythology,’vol.ii,p.257)いわく、ドイツとスカンジナヴィアの俚謡に、烏が美女を救う話多く、いずれもその女の兄弟と呼ばれあり、また烏が身を殺してまでも人を助くる談多し、と。日本にも、出羽の有也無也《うやむや》の関に、むかし鬼出でて人を捉《と》る、烏鳴いて鬼の有無を告げ、往来《ゆきき》の人を助けたという(『和漢三才図会』六五)。
 烏がよく慈によく孝に、また人を助くる譚、かくのごときものある上に、忠義譚も『仏本行集経』五二に出ず。善子と名づくる烏王の后が孕んで、梵徳王の食を得んと思う。一烏ために王宮に至り、一婦女銀器に王の食を盛るを見、飛び下ってその鼻を啄くと、驚いて食を地に翻《かや》す。烏取り持ち去って烏后に奉る。それから味をしめて、毎日宮女の鼻を啄きに来たので、王、人をしてこれを捕えしめると、かの烏仔細を説き王大いに感じ入り、人臣たる者すべからくこの猛健《たけき》烏《からす》が主のために食を求めて命を惜しまざるがごとくなるべしとて、以後常に来て食を取らしめた、という。Collin de Plancy,‘Dictionnaire infernal,’p.144 に、古人婚前に烏を祝したは、烏夫婦のうちどちらかが死ぬと、存《のこ》った方がある定期間独居して貞を守ったからだと見えるが、日本の烏には夫も子もあるに※[(女/女)+干]通するのもあります。『日本霊異記』中に、信厳《しんごん》禅師出家の因縁は、家の樹に棲む烏の雄が雌と子を養うために遠く食を覓《あさ》る間に、他の雄鳥が来てその雌に通じ、西東もまだ知らぬ子を捨てて、鳥が鳴く吾妻か不知火の筑紫かへ梅忠もどきに立ち退いた跡(183)へ、雄烏還り来たり、その子を抱いて鬱ぎ死んだのを見て浮世が嫌《いや》になり、行基の弟子となって剃髪修行したしたのでござる、と説きおる。こんなに種々調べると、マーク・トウェーンが人間にはなるほど人情が大分あると皮肉った通り、人も烏も心性にあまり差異がなさそうだ。さばこそ、衆経撰『雑譬喩経』下には、烏が常に樹下の沙門の誦経を一心に聴いて、のち猟師に殺さるるも心乱れず天上に生まれた、と説かれた。
 コラン・ド・プランシー(上に引いた書、一四三頁)は、古ギリシアの詩聖ヘシオドスの言を引いて、人の極寿は九十七歳なるに、烏は八百六十四歳、鴉はその三倍すなわち二千五百九十二歳生きる、と述べた。インドにも烏鴉を長寿としたは、『法華文句』に『文珠問経』を引いて八※[立心偏+喬]を八鳥に比せるに、「寿命※[立心偏+喬]は烏のごとし。烏は命長くして死せず」。烏は死なぬ物と信じたのだ。『五雑俎』に、「旧説に、烏の性きわめて寿《いのちなが》し。三鹿死してのち、よく一松を倒す。三松死してのち、よく一烏を倒す。しかるに世にかえってこれを悪むは何ぞや」。『抱朴子』に、丹を牛肉に和《ま》ぜていまだ毛羽を生ぜぬ烏に呑ませると、成長して毛羽みな赤し、それを殺し陰乾《かげぼし》にし擣服《つきの》むこと百日すると五百歳の寿を得、と載せたのも、烏きわめて寿しという俗伝から割り出したのじゃろ。スコットランドの古諺にも、「犬の命三つ合わせて馬の命、馬の命三つ合わせて人の命」、それから鹿、鷲、※[木+解]と三倍ずつで進み増す。これには烏はないが、東西ともに鹿を寿いものとする証には立つ。また人が馬と鹿のあいだにあるも面白い(John Scoffern,‘Stray Leaves of Science and Folk-Lore,‘1870p.462)。予は烏を畜《か》うたことないが、しばしば烏を銃《う》ったのを見ると、頭脳に丸《たま》が入っておっても半日や一日は生きおり、はなはだしきは吾輩が獲物の雉で例の強者《つわもの》の交りを始め、玉山傾倒に臨んで烏でもいいからモー一升などと見に行くと、苦労墨絵のと洒落て飛び去った跡で、せっかくの興も醒めたことが数回ある。何しろ非常に生力の強いものだから、ずいぶん長生きもさしゃんしょう。しかし八百歳の二千五百歳のなどは大法螺で、Gurmey,‘On thr Comparativr Ages to which Birds Live,’Ibis,1899,p.19 に、鳥類の命数を実査報告せるを見ると、天鵞《はくちよう》と鸚哥《いんこ》は八十歳以上、鴉と梟は八十に足らず、鷲と鷹は百年以上、駝鳥は体大きい割に夭《わかじに》(184)で最高齢が五十歳、とある。とにかく寿命が短かからず、妙に死人のある処へ飛んで来るより、衆望帰仰する英雄が烏となって永存するという迷信もままある。英国の一部で、アーサー王鴉となって現在すと信じ(Cox,op.cit.,p.71)、ドイツの伝説、フレデリク・バルバロッサ帝の山陵上を烏が飛び廻るあいだは帝再び起きずと言い(Gubernaatis,vol.ii,p.235)、フィニステラの民は、その王グラロン、娘ダフット、ともに鴉に化って現存す、と伝う(collin de Plancy,p.143)。
 支那で烏を太陽の精とする。三足の烏は『准南子』に最《いと》古く筆せられたと、井上哲次郎博士が大正二年五月一日の『日本及日本人』で言われた。その本文は「日中に※[足+俊の旁]烏《しゆんう》あり。※[足+俊の旁]はなお蹲のごとし、三足の烏を謂う」だ。しかし、『楚辞』に 「※[羽/廾]はいずくに日を※[弓+畢]《い》たる、烏はいずくに羽を解《おと》せる」とあり、『准南子』に「堯の時、十の日並び出でて草木焦げ枯る。堯は※[羽/廾]に命じて十の日を仰ぎ射しむ。その九の烏みな死して羽翼を堕とす」と出ずるを見ると、三足はとにかく、烏が日に棲むという迷信は、漢代よりはずっと古くあって、戦国の時すでに記されたのだ。明治四十五年八月一日の『日本及日本人』に予が言った通り、太陽に烏ありとは日中の黒点が似たからだが、その上に烏が定《き》まって暁を告げるからである。バッジいわく、古エジプト人の『幽冥経《ブツク・オブ・ゼ・デツド》』に、六、七の狗頭猴《チノケフアルス》旭に対《むか》い手を挙げて呼ぶところを画けるは暁の精で、日が地平より上りおわれば化して狗頭猴となる、と付載した。けだし、アフリカの林中にこの猴日出前ごとに喧呼するを、暁の精が旭日を歓迎頌讃すると心得たるに由る、と。これすこぶる支那で烏を日精とするに似おる。予しばしば猴を畜《か》うたのを観ると、日が暮れればたちまち身を屈め頭を垂れて眠りおわり、何度起こすもしばらくも覚めおらず、さて暁近く天が白むと歓び起きて大|噪《さわ》ぎす。日吉《ひえ》の神が猴を使い物とするはこの由《わけ》であろう。
 猴と烏は仲悪いものらしく、『古今著聞集』に、文覚、清滝川の上で猴謀って烏を捕え、使い殺すを見たと載せ、tavernie,‘Travels in India,’trans.Ball,1889,vol.ii,p.294 に、ベンガルで母に乳づかぬ子を三日続けて朝から晩《くれ》(185)まで樹間に露《さら》し、なお乳づかねばこれを鬼子《おにご》と做してガンジス河に擲げ入る。かく曝さるるあいだ烏来たって眼を啄き抜くこと多く、ためのこの地方に瞎《かため》また盲人《めくら》多し。しかるに、猴多き樹間に曝された児はこの難を免《のが》る。猴ははなはだ烏を悪み、その巣を見れば必ずこれを覆《かえ》して卵を破るゆえ、烏がその辺に巣くわぬからだ、と出ず。日吉《ひえ》と熊野と仲悪きに(『厳神鈔』)、その使い物の猴と烏と仲悪きも面白い。ただし、『日吉山王利生記』に、烏も日吉の使いとあるは、例の日に縁あるからだろう。『塩尻』四一、伊勢矢野の神香良洲の御前は天照大神の妹と言うも、日と烏にちなんだのか。『台今図書集成』の辺裔典・巻二八に、「『朝鮮史略』にいわく、新羅の東海の浜に二人あり、夫は迎烏といい、妻は細烏という。迎烏は漂いて日本国の小島に至り主《あるじ》となる。その妻細烏はその夫を尋ね、漂いてその国に至り、立ちて妃となる。人、迎烏・細烏をもって日月の精となす」。また新羅の官制十七品の中に、大烏、小烏あり。何とか烏に関する名か知らぬ。古ペルシアから起こって一時大いに欧州に行なわれたミツラ教で、光の神ミツラみずから聖牛を牲する雕像に、旭日の伝令使として鴉を付した(‘Encyclopaedia Britannica,’vol.xviii,p.623)。その像は予|親《まなおあた》り視たことあり。写《うつし》は Seyffert,‘A Dictionary of Classical Antiquities,’trans.,1908,p.396 に出ず。Frobenius,‘The Childhood of Man,’1909,pp.255-256 に、鴉、死人の霊を負って太陽に送りつけるところを、西北米土人が刻んだ楽器の図あり。
 ツリンキート人は、最初火を持ち来たり、光を人に与えしは、烏と信ず(‘Encyc. Brit.,’ii,51)。西南濠州諸部土人の伝説にも、烏初めて火を得て人に伝えた話が多い。例せば、ヤラ河北方の古伝に、カール・アク・アール・ウク女、独り火を出す法を知れど他に伝えず。薯蕷《やまのいも》を掘る棒の瑞に火を保存す。烏《ワウング》これを取らんとし、その蟻の卵を嗜むを知れば、多くの蛇を作って蟻※[土+至]《ありづか》の下に置き、かの女を招く。女少しく掘るに蛇多く出ず。烏教えてかの棒で蛇を殺さしむ。すなわち蛇を打つと棒より火堕つるを、烏拾い去った。大神パンゼル、かの女を天に置き星となす。烏、火を得て吝みて人に与えず。黒人のために食を煮てやるはよいが、賃として最好の肉をみずから取り食らう。大神大いに怒(186)り、黒人を聚めて烏に麁《はげ》しく言わしむ。烏|瞋《いか》って黒人を焼亡せんとて、火を抛げ散らす。黒人おのおの火を得て去り、チェルト・チェルトとテラルの二人、乾草もて烏を囲み火をつけて焚き殺すとあって、この烏も星と化《な》って天にあるらしい(Smyth,‘The Aborigines of Victoria,’1878,vol.ii,pp.434,459)。その他鷲と烏合戦物語など、西南濠州の神話に烏おおく参加せり。
 烏が火を伝うとは、日と火と日と烏が相係るによったらしく、支那にも、武王紂を伐つ時、「孟津を渡る。火あり、天よりし、王屋に止まり、赤烏となる」(『尚書中候』)、「※[螢の虫が火]惑は火の精にして朱烏を生む」(『抱朴子』)、「蜀の徼《さかい》に火鴉あり、よく火を銜む」(『本草集解』)など、『類函』四二三に引きおり、中山白川、営中問答の講談を幼時聴きたるに、このことの起りは、白烏を朝廷へ献じたのを郊外に放つとたちまち火に化し、京師火災に及んだから、と言った。『酉陽雑俎』に、「烏は陽物なり。陰気を感ずれば翅重し。ゆえに、俗これをもってその雨ふるや否やを占う」。『和漢三才図会』に「鴉鳴いて、還《もど》る声あれば、これを呼婦と謂い、晴を主る。還る声なければ、これを逐婦と謂い、雨を主る」という支那説を引き、またいわく「按ずるに、夏月に鴉浴すれば雨に近し。毎に試むるに然り。およそ雨ならんとすれば気鬱蒸す。ゆえに翅を浴するなり」。こんな訳にもよるか、濠州で烏初めて雨を下《ふら》したと信ずる土人あり(Smyth,ii,462)。
 烏鴉ともに胆勇、智慧、敏捷、鳥中に傑出し、寿命も長く、また多少の間違いはあるにせよ、親子・夫妻・友儕《ともがら》間の愛情も非常に厚いというところより、慈孝・忠信の話もでき、ことに太陽に縁ある霊鳥と仰がるるより、あるいは神、あるいは神使として専敬された。したがってこれを吉鳥とした例も少なからず。すでに上文に散見するが、なお一、二を挙ぐれば、沙漠を旅行するうち鳶や烏が見当たれば必ず村落が近いというから、これを吉相とするは必定だ(Burton,‘Pilgrimage to Al-Madinah and Meccah,’in The York Library,vol.ii,p.294)。『南史』に、「高昌国に朝烏あり。旦々《あさあさ》王の殿前に集まり、行列をなし、人を畏れず。日出でて、しかる後に散じ去る」。これはナポレオン三世が鷲を(187)馴らして兵士の人気を自身に集めたごとく、烏が毎旦参朝するを王威の徴としたのだ。『類函』に、「海塩の南三里に烏夜村あり。晋の何準のおりしところなり。一夕群烏啼き噪ぎ、たまたま女《むすめ》を生めり。他日、後夜に啼く。すなわち穆帝が準の女を立てて后となせし日なり」。烏啼きもこんなに吉いのがあろうとは、お釈迦さんでも気がつくめ−。また『唐書』にいわく、「柳仲郢《りゆうちゆうえい》、諫議を拝せしより後、官を遷るごとに、群烏大いに昇平里の第《やしき》に集まり、云々、およそ五日にして散ず。詔下ればまた集まらず。家人もって候《しるし》となす。ただ天下の節度を除いて、烏また集まらず。ついに鎮に卒す」。官が昇る前ごとに集まった烏が来ないのが、死亡の前兆だったんじゃ。
 『酉陽雑俎』に「邑《むら》中に終歳烏なければ寇あり。郡中にわかに烏なければ烏亡《うぼう》という」。婦女の不毛同様、あるべきものが具《そな》わらぬを不吉とするので、邦俗鼠多い家は繁昌し、火事あるべき家に燕巣くわぬと信ずるに同じ。古ギリシア等で、鴉を予言者とせるも必ず凶事のみ告げたのでなく、むかしアイスランドでは鴉鳴きの通事あって吉凶を判じ、国政を鴉鳴きに諮《と》うた(Collin de Plancy,p.143)。マコレーもその『セント・キルダ』誌に、鴉が歓呼して好天気を予告し中つるを称揚した。支那の『鴉経』(上出)も、鴉鳴きが凶事ばかりでなく、吉事をも告ぐるとしたのだ。『類函』二四三と二四四に『邵氏聞見録』を引き言う、邵康節の母、山を行き一黒猿を見、感じて娠み、娩するに臨み烏庭に満ちければ人もって瑞とす、と。これは康節先生が色あまり黒かった言いわけに作り出した言らしいが、とにかく烏を瑞鳥とした例にはなる。また「王知遠の母、昼寝ねて、鴉その身に集まるを夢み、よって娠むあり。宝誌いわく、子《おとこ》を生まば、当世の文士とならん、と」。鴉にちなんで文章に黒人《くろうと》という洒落かね。ブレタンでは、家ごとに二鴉番し人の生死を告ぐという(Collin de Plancy,p.143)。
 烏や鴉を凶鳥とするのも最《いと》古いことで、『五雑俎』九に、「『詩』にいわく、赤くして狐にあらざるはなく、黒くして烏にあらざるはなし、と。二物の不祥なるは、古えよりすでにこれを忌む」。『日本紀』神代下に、天稚彦横死の時、その父天国玉諸鳥を役割して、八日八夜啼哭悲歌する。異伝に、「烏をもって宍人者《ししひと》となす」、『古事記』に「翠鳥《そに》を(188)御食人《みけびと》とし」とある。宣長いわく、御食人は殯《あがり》の間死者に供《むく》る饌《け》を執り行なう人なり、『書紀』に宍人者とある、これに当たれり、と(『古事紀伝』一三)。翠鳥すなわち※[立+鳥]《かわせび》はよく魚を捕うるゆえ御食人としたという谷川士清の説より推すと、わが神代には烏もっぱら生肉を食い、弱い鳥獣を捕うるをもって著われたもので、その後ごとく腐肉、死屍を啖《くら》い田圃を荒らすとて忌まれなんだんだろ。しかるに 『書紀』神武巻に、「さらに頭八咫烏《やたのからす》を遣わしてこれ(兄磯城)を召す。時に烏その営《いおり》に到って鳴いていわく、天つ神の子、汝を召す」恰奘過《いざわ》、恰奘過《いざわ》、と。兄磯城これを忿っていわく、天圧神《あめおすのかみ》の至ると聞いてわが慨憤《いきどおり》をなす時に、いかにぞ烏鳥《からす》のかくのごとく悪しく鳴く、と。すなわち弓を彎《ひ》いてこれを射る」。次に弟磯城方に往き、前同様に鳴くと、弟公《おとこう》容を改め、「臣、天圧神の至ると聞いて、旦夕《あしたゆうべ》に畏《お》じ懼《おそ》る。善きかな、烏、汝のかくのごとく鳴く」と言って、これを饗し、随って帰順した、と見ゆ。さすれば、そのころはこちらの気の持ちよう次第、烏鳴きを吉とも凶ともしたのだ。しかるに、おいおい烏を忌む邦俗となったは、本釆腐肉、死屍を啖う上に、村里、田園拡がるに伴れて烏の抄掠侵害も劇しくなったからであろう。腐肉、死屍を食うて掃除人の役を勤むる功を賞して禿※[周+鳥]《ヴアルチユール》などを神とし尊んだ国もあるから、それだけならかく忌み嫌わるるはずがない。古ハドリアのヴェネチア人は、年々二人の欽差大臣を烏群に遣わし、油と麦粉を煉り合わせて贈り、圃《はたけ》を荒らさぬよう懇願し、烏輩これを享け食えば吉相とした(Gubernatis,vol.ii,p.254)。わが邦でも、初めは腐屍や害虫を除き朝起きを奨《はげま》しくれる等の諸点から神視した烏が、田圃開くるに及び嫌われだしたので、今日では欧米で烏鴉が跡を絶った地もある。本邦もご多分に洩れない始末となるだろうが、飛鳥尽きて良弓蔵まる気の毒の至りなり。
 仏説にも、夫長旅の留守宅に釆て面白く鳴く烏に、その妻がわが天無難に還るの日汝に金冠を与えんと誓うたところ、夫果たして息災に戻ったので、烏来たり金盃を眺めて好音《よいこえ》を出す。よって妻これを烏に与え、烏金盃を戴いて去る。鷹金盃を欲しさに烏の頭を裂いた。神これを見て偈を述ぶらく、すべからく無用の物を持つことなかれ、黄金烏頭に上つて盗これを望む、と(F.A.von Schiefner,‘Tibetan Tales,’trans.Ralston,1906,p.355)。これインドでも烏を(189)時として吉鳥としたのだ。しかし『経律異相』四四に『譬喩経』を引いて、「むかし、一のきわめて貧しき人あり、よく鳥語を解す。賈客のために賃担《ちんかつぎ》をし、水辺を過ぎて飯くう。烏鳴いて賈客怖るるに作人《やといど》反《かえ》って笑う。家に到って問うていわく、云々。答えていわく、烏さきにわれに語りぬ、賈人の身上によき白珠あり、汝これを殺して珠を取るべし、われはその肉を食らわんと欲す、と。このゆえにわれは笑いしのみ、と」とあれば、ずいぶん古くすでに人肉を食う鳥として烏鳴きを忌んだと知らる。今日もインドで烏を不祥とす。しかしてラバルの婦女にカカと名づくる例あり。梵語およびラバル語で烏の義なり(Balfour,‘The Cyclopaedia of lndia,’vol.i,p.843)とあるが、日本で妻をカカと呼ぶはこれと関係なし。かく不祥としながら、インド人は一向烏を殺さず放置するから、家辺に蕃殖することおびただしく、在留の洋人大いに困る(‘Encyclopaedia Britannica,’vol.vii,p.513)。これはちょうどトルコで犬を罪業あるものが化ったと信じながらも、これを愍れんで蕃殖をほしいままにせしむると一般だ。『摩訶僧祇律』一六に、神に供えた食を、婦人が賢烏来たれと呼んで烏に施すことあり。パーシー輩が烏を殺さぬは、例の太陽に縁あり、また屍肉を片づけくれるからだろう。
 ペルシア人は、烏二つ双ぶを見れば吉とす(Burton,‘The Book of the Thousand Nights and a Nigh,’ed.Smithers,1894,vol.vi,p.382,n)。回教国とギリシア、キリスト教国には烏を不祥とし、カリラー・ワ・ジムナー書には、これを罪業|纏《まと》わり臭気|穢《きたな》き鳥と呼べり(同書五巻八頁注)。アラブ人も烏を朝起き最も早き鳥とし、グラブ・アル・バイン(別れの烏)と言う。よって別離の兆として、和合、平安、幸福の印相たる鳩と反対とす。主として黒白色の差《ちが》いから想いついたらしく、俗伝にマホメット敵を避けて洞に潜んだ時、烏追手に向かいガール・ガール(洞々《ほらほら》)と鳴いたので、マホメットこれを恨み、以後常にガール・ガールと鳴いて自分の罪を白《あらわ》し、また尽未来際《じんみらいざい》黒い喪服を著て不祥の鳥たるを示さしめたということでござる(同上三巻一七八頁注二)。古ギリシア神話にも、光の神アポロ、情をテッサリアの王女コローニスに通じ妊めるを、烏して番せしむるうち、王女またイスクスの恋を叶えてその妻たらんと契ったので、(190)鴉その由を光神に告げると、何さま、べた惚れ頸ったけな女の不実と聞いて騰《のぼ》せ揚げ、せっかく忠勤した鴉その時まで白かったのを永世黒くした(Grote,‘History of Greece,’London,John Murray,1869,vol.i,174)。また女神パラス、その義兄へフアイストスの子蛇形なるを養うに、三侍女をして決して開き見るなからしむ。しかるに、三女好奇のあまりひそかにこれを見て乱心して死す。鴉その由を告げたので、永くパラスに勘当されたという(Gubernatus,vol.ii,p.254;Smith,‘Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,’1846,vol.iip.48)。
 かくどこでも評判が悪くなっても、アラビア人は今も鴉を|占候の父《アブ・ザジル》と呼び、右に飛べば吉、左に飛べば凶とす(Burton,vol.iii,p.178,n.)。プリニウスの『博物志』一〇巻一五章に、鴉の卵を屋根下に置くと、その家の女難産す、と載す。一六〇八年出板、ホールの『キャラクタース』に、迷信の人、隣屋に鴉鳴くを聞けばただちに遺言をなす、とある由(Hazlitt,vol.ii,p.508)。また古欧人は事始めに鴉鳴きを聞くを大凶とした(Collin de Plancy,p.144)。ブラウンの『プセウドドキシア』の注者ウィルキンいわく、鴉は※[鼻+臭]覚非常に発達せるゆえ、人死する前に特異の臭を放つを、煙突を通じて聞き知り鳴き噪ぐ。実は死の前兆を示すでなくて、死につつある人あって、しかしてのち鳴くのじゃとはもっとも千万な論だ。
 『爾雅』に「鳶烏は醜し、その飛ぶや翔《はばた》く。烏鵲は醜し、その掌《あし》を縮む。烏も一たび悪まれだすと、飛ぶ時に脚を腹下に縮めることまでも御意に入らぬのじゃ。『※[土+卑]雅』に「今の人は烏の噪ぐを聞けばすなわち唾す。烏は異を見ればすなわち噪ぐをもって、ゆえにその凶に唾するなり」。唾吐いて凶事を厭うは欧州ことに盛んだ。『水滸伝』第六回、魯智深、大相国寺の菜園で破落戸《ごろつき》どもを集め遊ぶ時、楊柳上老鴉鳴噪すると、「衆人歯を扣《たた》くものあり、斉しく道う、赤口天に上り、白舌地に入る、と。智深道う、※[人偏+爾]ら何故鳥乱をなすや、と。衆人道う、老鴉叫ぶ、怕《おそ》らくは口舌あらん、と」。宋・元のころは、かかる烏鳴きの禁法《まじない》もあったんじゃ。『周俗通』に、「『明帝起居注』を案ずるにいわく、帝、東して泰山を巡り、※[螢の虫が水]陽《けいよう》に至る。烏の飛んで乗輿の上に鳴くあり。虎賁中郎将の王吉、射てこれに(191)中つ。辞をなしていわく、烏々唖々《ううああ》、弓を引き射て左腋を洞《つらぬ》く、陛下は万歳を寿《ことほ》ぎ、臣は二千石とならん、と。帝、銭二百万を賜い、亭壁にみな烏を画きなさしむ」。また烏のために人民大いに困った例は、『古今図書集成』辺裔典・巻二一に『朝鮮史略』を引いて、「高麗の忠烈王二十七年、云々。これに先だち朱悦の子印遠は慶尚の按廉となり、二十升の黄麻の布を貫す。また烏鵲《うじやく》の声を悪んで、人をして嚇《おど》すに弓矢をもってせしむ。一たびその声を聞けば、すなわち銀瓶(銭の名)を徴し、民はなはだこれに苦しむ」。Tavernier,‘Travels in India,’vol.ii,p.294 に、シャムで娼妓死すれば常の婦女通り火葬せしめず、必ず郊外に棄てて犬や鴉に食わす、とあり。わが国また徳川氏の初世まで妓家の主人死すれば藁の※[彊の弓が革]《たづな》を口にくわえ、死んだ時|著《き》たままの衣《きもの》で町を引きずり野において烏、狗に餌《か》うた、と一六一三年(慶長十八年)英艦長サリスの『平戸日記』に出づ(Astley,‘A New General Collection of Voyages and Travels,’1745,vol.i,p.482)。妓主長者さえこうだから、賤妓などは常に烏腹に葬られたなるべく、したがって彼輩烏を通じて熊野を尊び、それから熊野比丘尼が横行するに及んだのだろう。
 ついでに言う。牛黄を秘密法に用いること仏教に限らぬ。摩利支天はもと梵教の神で、唐朝にわが邦へ伝えた『両界曼陀羅』には見えぬ。趙宋の朝に訳された『仏説大摩里支菩薩経』に、牛黄をもって真言を書くとあるなど、明らかに梵教から出た作法だ。馬鳴大士の『大荘厳経論』一〇に、牛黄を額に塗ってわれ吉相をなすという者に仏僧が問うと、吉相はよく死すべき者を死なざらしめ、鞭繋《うちくく》らるべき者を解脱せしむ、この牛黄は牛の心肺の間より出ず、と答う。僧いわく、牛自身に牛黄を持ちながら耕稼の苦を救うあたわず、何ぞよく汝をして吉ならしめんや、と。またそれよりずっと前にできた『根本説一切有部毘奈耶雑事』一に、諸婆羅門、額に白土や白灰を点画することあり。また「六衆(六人の悪僧、毎度釈尊に叱らるる者)、城に入って食を乞う。諸婆羅門を見るに、牛黄をもって額に点ず。その乞い求むるところは、多く美味を獲《う》」、六衆これを真似して、仏に越法罪を科せらる、とあり。密教に牛黄を眉間に点ずるは梵教から移れるので、もと仏教徒の所作でなかったのじゃ。牛黄、梵名ゴロチヤナ、支那のみならずイン(192)ドでも薬用する(Balfour,vpl.ii,p.547)。諸派のヒンズー教徒が今も額に祀神の印相を点画する様子一斑は Dubois,‘Hindu Manners,.Customs and Ceremonies,’ch.ix について見るべし。
 結論 というと大層だが、こんなに長く書いては何とか締りを付けざならぬ。本篇牛王のことをちょっと書くつもりで、烏のことがもってのほか長くなった。上述の外に、烏に関する俗信、古話ははなはだ多く、それはそれは山烏の頭が白くなるまでかかっても書きつくされぬから、よい加減にこれで果《はて》として結論めきたものを短く口上といたそう。文献乏しき世のことが永くあとへ伝わらぬは、北米のインジアン、インドのトダ人、南洋やアフリカにその例すこぶる多きは先輩の定論あり。しかしながら、いかな未開の民とてもすでに人間たる上は、多少の信念も習慣、風俗もあったに相違ないから、後日おいおい他方から種々と文化を輸入しても、固有の習慣、信念全くは滅びず、いくぶんか残り留まる。かかる事物を総称してフォークロール(俚俗)、これを研覈する学をもフォークロール(俚俗学)という。旧俗の一朝にして亡びがたきは、旧暦の正月祝いや盆踊がいかに禁制しても跡を絶たず、ややもすれば再興せらるるで知れる。
 されば、熊野烏の尊ばれたなども、これに関して外国と異なることども多きより推すと、もと熊野に烏を神視する固有の古俗あって、そのことあるいは外国に類例あり、あるいはこれがなかった。しかるところへ、外国から牛王の崇拝入り来たったので、本来烏を引いて誓言すると、新来牛王を縁いて盟託するとちょうど似たところから、烏像を点じて牛王宝印とし、牛王といえば烏の画札《えふだ》と解するまで因習流行したことと惟う。さて偶然の符合ながら、インドで烏と牛と親愛する事実話なども大いにこの融通を助成しただろう。その牛王というは、インドに牛を裁判の標識とし、したがって誓言の証拠に立つることあり。また大自在天や大威徳明王ごとき強勢な神も、閻魔王ごとき冥罰を宰《つかさど》る神も、みな牛を使い物とするところから、本邦に仏法入ってより、牛を誓言や冥罰の神としたので、『曽我物語』に「牛王の渡ると見えて」とあるも、祈祷が聴かれた標《しるし》に祭神の裁可通り法を執行し来る神を指したもので、ま(193)ずは牛頭馬頭が人の死にぎわに火の車もて迎いに来るようなことと思う。    (大正五年三月『郷土研究』三巻一二号)
【追記】
一、牛王について。牛黄を確かに牛王と書いた例は、『川角太閤記』巻四、「慶長元年遊撃(遊撃将軍沈惟敬)参る時、秀吉へ進物は、沈香のほた一かいあまり、具さ二間、間中《まんなか》高さ三寸、廻り一尺の香箱《こうばこ》に入れ申し候。八畳釣りの蚊帳、ただし、色は蝉の羽毛(蝉とはカワセミなるべし)、薬種、竜脳、麝香、人参、牛王の由、以上七色、その外巻物、綾、羅、錦紗の類なり、云々」とある。このついでに申す。インドの烏が水牛のために牛虱を除く由を述べたが、十八世紀の英人ギルパート・ホワイトの『セルボーン博物志』にも、「白種、灰色種の鶺鴒が牛の腹や鼻辺から脚辺に走り廻り、牛にとまる蠅を食う。また足下に踏み殺された虫をも食うならん。造化経済の妙、すなわちかかる不近縁の二物をしてよく相利用せしむ」とある。わが邦の鶺鴒にも、またかくのごとき行為ありや否。    (大正五年四月『郷土研究』四巻一号)
二、『曽我物語』から、病気を人に移す修法成就の際、牛王という神が渡ると同時に供物がおのずから動き出す一条を引いた。頃日、『義経記』巻五「吉野法師、判官を追っ掛け奉ること」を読むと、義経、衆徒を追い却けて後、餅を取り出だして徒者に頒つに、「弁慶を召してこれ一つずつと仰せければ、直垂の袖の上に置きてゆずりばを折りて敷き、一つをば一乗の仏に奉る、一つをば菩提の仏に奉る、一つをば道の神に奉る、一つをばさんじんごおう〔七字傍点〕にとて置きたりけり」。これは山神牛王で、牛王という特種の神が中古崇敬せられた今一つの証拠と見える。あるいはごおう〔三字傍点〕は護法の仮名を誤写したのかとも惟うが、『曽我物語』に牛王と香き、インドで牛を神視することすでに述べたごとくだから、たぶんはやはり牛王であろう。
 また烏で占う例を種々挙げたが、多くはその鳴き声によるもので、その坐位を察《み》て卜うのは J.Theodore Bent,‘The Cyckades,’1885,p.394 に一つ見える。いわく、ギリシアのアンチパロス島は史書載することなく、ただ海賊の(194)巣栖《すみか》なりし。また、只今もろくな者棲まず。パロス島人、この島民を蔑んで烏と呼ぶ。以前はもっとも迷信深く、主として烏を相《み》て占えり。例せば、烏が樹に止まるに、北側ならばよろず無事だが、南側ならば海賊海峡に入れる徴と断じ、忙ぎ走って邑の諸門を閉じた、と。熊楠謂うに、烏は眼至って明らかに、かつ注意深いものゆえ、自然海賊の来るのを怪しんでその方を守り坐るのだろう。したがって、この占いなどを単に迷信と笑うてのみ過ごすべきでない。
 地獄で烏が罪人を食うという仏説を挙げたが、現世に烏に人を食わせたキリスト教国の例もある。十三世紀に、クーロンジュの大僧正アンリ一世は、フリデリク伯の手足、頸、脊を輾《し》き折り、さて余喘《よぜん》あるまま烏に与えてますます苦しんで死せしめた(Henri Estienne,‘Apologie pour Herodote,’ed.1879,Paris,tom.i,p.65)。次に、比丘尼等賤妓と烏の関係をちょっと述べたが、延宝四年板『談林十百韻』第十の百韻のうち、「比丘尼宿はやきぬぎぬに帰る雁、卜尺」、「かはす誓紙のからす鳴くなり、一朝」、「終《つひ》はこれ死尸《しかばね》さらす衆道ごと、志計」。売色比丘尼や男色の徒が烏を画いた牛王で誓うを詠んだものたることもちろんだが、当初熊野比丘尼が牛王を売りあるいたにちなんだ作意でもあろう。西鶴の『好色一代女』に、大阪川口の碇泊船を宛て込んで婬を鬻いだ歌比丘尼を記して、「絹の二布《ふたの》の裾短く、とりなり一つに拵え、文台に入れしは、熊野の牛王、酢貝《すがい》、耳|姦《かしま》しき四つ竹、小比丘尼に定まりての一升|干杓《びしやく》」と言えるがその証拠だ。  (大正五年十月『郷土研究』四巻七号)
 
(195)    竜燈について
 
       一
 
 尾芝君の「竜燈松伝説」に、「竜燈という漢語は、もと水辺の怪火《あやしび》を意味しておる。日本でならば、筑紫の不知火《しらぬい》、河内の姥《うば》が火等に該当する」とあるが(『郷土研究』三巻四号二〇六頁)、果たして左様な意味の竜燈という漢語ありや。『類聚名物考』巻三三八に、「竜燈のこと古書にも、和漢ともに見当たらず。似たることはあり。『中山伝信録』に『天妃霊応記』のことをいううちに、「康煕四年、※[さんずい+眉]州嶼に昇化す。時に霊応を顕わす。あるいは夢に示し、あるいは神燈に示す。漁舟の庇《まもり》を獲《う》ること無数なり」。光武、暗夜火光を見、皇朝不知火の類も似たれども、竜燈の名はかつて見えず」とあるがこれも間違いで、『佩文韻府』二五を見ると、夏竦《かしよう》の「上元応制」の詩、「宝坊、月|皎《しろ》くして竜燈淡し。紫館、風微かにして鶴焔平らかなり」とある。その全詩を知らぬから何のことか判らぬが、とにかく古書に竜燈の字がないと言われぬ。また『仏名経』や『諸仏世尊如来菩薩尊著名称歌曲』などにも、竜燈の字があったと記憶するが、今座右にないから仕方がない。
 『五雑俎』九に、「またいわく、竜火は人火と相反し、湿を得ればすなわち※[餡の旁+炎]《も》え、水を得ればすなわち燔《や》く。ただ火をもってこれに投ずれは、すなわち反って熄《き》ゆ、と。これまたその信《まこと》か否かを知らず」。この竜火(竜燈と言わず)は(196)水辺の怪火らしいが、『本草網目』に、火を分類して、天火四、人火三、地火五、共に十二とす。天火四とは、太陽の真火、星精の飛火、この二つが天の陽火で、竜火と雷火、この二つが天の陰火とあって、竜火を天のものとしおるから考うると、『本草』にいわゆる竜火は水辺の怪火よりも、主として高く空中に現ずる、欧州でいわゆるエルモ尊者の火や日本で呼ぶ竜燈を指したらしく、すなわち水湿の地の燐、一名鬼火と別ちて、高空中の怪火を竜火と言ったらしく、『綱目』に、人の陰火二(命門《めいもん》の相火《しようか》、三昧《さんまい》の火)、地の陰火二(石油の火、水中の火)、竜火はこれらに隷《つ》いたものと見立てたのだろう。果たしてしからば、高空中に現ずる怪火を竜燈と言うは、竜火と同源もしくはそれより出た名で、尾芝君が五山の学僧の倭製のごとく謂われたは誤見かと惟う。
 橘南谿の『東遊記』後編二に、大徹禅師、越中の眼目山《さつかさん》を開いた時、山神、竜神、助力していろいろ奇特あり。今も毎七月十三夜、その庭の松の梢に燈火二つ留まる。一は立山の巓《いただき》より、一は海中より飛び来たる。これを山燈、竜燈と言って、この辺の人例年見る。世に海中より竜燈出ずること多きも、これらのごとく山燈、竜燈一度に来るは稀有じゃ、と載す。大徹の師、永平寺の開祖道元は宋に遊んだ人だから、そのころ支那で、山に出ずるこの類の火を山燈、海より現ずるを竜燈と言うこと、ちょうど蜃気楼が山また海に顕わるるに随って山市《さんし》また海市と呼んだごとくだったのかと惟う。土佐の蹉※[足+它]《あしずり》明神にも、同時に山燈、竜燈出で、伊勢安濃、津辺にも山上より火出で、塔世浦《とうせいがうら》より来たる火と闘うて後、一つは山の方へ、一つは沖の方へ飛び去るという(『諸国里人談』三)。『淵鑑類函』三六〇に『孔帖』を引いて、「于※[由+頁]《うてき》、襄陽を為《をさ》めしとき、山燈を点《とも》す」。これは人民便利のため山上に燈台を設けたのか、もしくは京都東山の大文字のように火を点したのを山燈と呼んだらしいが、明の陸応陽の『広輿記』一六に、「山燈、蓬州に現わるることすべて五ヵ処なり。初めは三、四点に過ぎず。しだいに数十に至る。蓬山にあるもの最も異なり。土人呼んで聖燈となす」と載せたは、疑いなく越中眼目山の山燈同様の火で、最初は山から出ずるを山燈、海より来たるを竜燈と、眼目山同様支那で言ったのが、日本に伝わりてのち山燈では山の燈火《ともしび》と聞こえて一向神異はないから、こ(197)れを神異にする念より、もっぱら竜燈とのみ呼ぶ風となったのであろう。
 ただし、支那の山嶽また広い内地、一向海ない処にも竜は棲むと信ぜられたから(例せば、慈覚大師『入唐求法巡礼行記』二に、「老俗等いわく、古来相伝う、この山に多く竜宮あり、と」)、山燈を竜燈と呼ぶこと、古くよりかの国にあったのかとも惟う。現に、一八九六年板、ヨングハズバンド大尉の『大陸の心臓』(Capt.Younghusband,‘The Heart of a Continent’)三〇二頁に、支那トルキスタンのランクル湖辺でチラグ・タシュ(燈巌《ランプ・ロツク》の義)を見る。その巓に不断燃えおる燈ありて、竜の眼より出ずる光とも、竜の頭上の宝珠より生ずる光とも言う。著者往きて仰ぎ視るに、洞の天井に弱い白光あって燐光のごとし。よって苦辛して徒者とともに巌を登り見れば、洞と思いしは実は巌頂を横貫した孔《あな》で、他方より通る日光が孔の天井に著いた白い堆積層に反射して白く光る。それを数百年来ことごとしく不断燈の窟《いわや》と伝唱したのだとあって、特に竜燈の号《な》は挙げぬが、竜の眼や珠から出ずる燈と言うところを見ると、竜燈の種類・起因は種々異なりとするも、竜が燈火を出だすという迷信は日本で始まったのでも、日本ばかりに存するものでもなく、どうもアジア大陸から伝来のものらしう見える。とにかく越中で山燈、竜燈を併称する、その山燈が支那の書に見えおる上、竜より生ずる燈の話が支那の領地にある上は、竜燈という称はわが邦五山の僧などの手製でなく、全く山燈と等しく、支那伝来と定めて大過なかるべしだ。なお『大清一統志』など片端から調べたら、かかる火を呼んだ竜燈なる名が支那にあった例もあるだろうと、著手はしたが事多くてちょっと済まぬ。
 古インドに竜燈という名の有無は知らぬが、燈が竜のおる上の樹にかかる話はある(後文を見よ)。『釈迦方誌』巻中に、尼波羅《にはら》国の熱水池底の慈氏仏の冠を火竜が護ることあるが、火竜は小説『西遊記』等にも見え、火を吐き、物を焼き散らす竜で、竜火とは別だ。『神僧伝』四に、劉宋の竺道生、呉の虎丘山に講経した時、「雷、青園の仏殿に震《ふる》い、竜、天に昇る。光、西壁に影《えい》す。よって寺の名を改めて竜光という」と見ゆ。『宗鏡録』九七に、燈と光と二名あれどもその体別ならず。すなわち燈これ光、光これ燈とあるが、ここの竜光は落雷の閃光が寺壁に映ったので竜燈(198)ではない。また『仏祖統記』四、「唐の代宗、大明宮において道場を建て、仏光の現わるるを感ず。諸王、公主、近侍諸臣、みな光相を視る。子夜より鶏鳴に至る」。また憲宗、仏骨を禁中に迎え入れた時の記に、「初め舎利、大内に入るや、夜、光明を放つ。早朝、群臣みな賀していわく、聖徳の感ずるところなり、と。韓愈独り言わず。上、愈に問う。愈いわく、微臣かつて仏経を見るに、仏の光は青、黄、赤、白などの相あらず、と。これは竜神衛護の光なり、云々」。このいわゆる仏光は、僧輩が方術もて仏舎利から夜分光明出るよう見せたらしい。それを韓愈は真の仏光とは信ぜなんだが、舎利を衝護する竜の体から出る光と信じたので、まずは人造の竜燈だ。それから『韻府』拾遺二五に、「『拾遺記』に、海人、霞舟に乗り、雕嚢《ちようのう》をもって数升の竜膏を盛り、燕の昭王に献ず。王、通雲台に坐し、竜膏を然やして燈火となす。光、日に曜《かがや》き、煙の色は丹《に》のごとし、と」。この竜膏燈は何か鯨族の油膏《あぶら》を燈に用いたのを誇張した譚だろう。字が竜燈と混《まぎ》れやすいから記しおく。さて予が知りえたところ、本邦でもっぱら竜燈と呼ぶものの異名を列ねて見よう。
 山燈 上に述べた通り。
 天燈 趙宋の范成大の詩、「山頭は一《ひとえ》に天燈の現わるるに任す」、楊万里の詩、「澄※[さんずい+弘]《ちようおう》としてまた天燈の現わるることなし」(『韻府』二五)。南宋末の劉※[土+薫]《りゆうけん》が書いた『隠居通議』三〇に「神怪|窈冥《ようめい》」と題して、「廬阜《ろふ》の天池には、すなわち文珠の天燈を見、西蜀の峨眉には、すなわち普賢の天燈を見る」。竜火と竜燈と同じきに反し、天火と天燈とは別だ。「人火は火といい、天火は災という」(『淵鑑類函』三五九、『左伝』を引く)。天火は人為に出でず、天然に生ずるすべての火を言うた名だろうが、主として天より落つる隕石の火を言うたらしく、すなわち日本でも俗にテンビと呼ぶ。上に引いた『本草網目』火の分類中いわゆる星精の飛火だ。『異苑』、「晋の義煕十一年、京都に火災大いに行なわれ、呉界もっともはなはだし。火防はなはだ峻《きび》しけれど、なお絶えず。時に王弘、呉郡に守たり。昼、庁に坐して事を視るに、たちまち天上より一の赤き物の下つるあるを見る。状《かたち》は信幡のごとし。はるかに南人の家屋に集まり、須臾に(199)して火ついに大いに発す。弘、天この災をなすを知り、ゆえに火を始むるの家を罪せず。識者、晋室の微弱となれる象《きざし》と知る」(『類聚名物考』三三七、「天火」)。『佩文韻府』五〇に、『史記』孝景紀、「三年、長星《ほうきぼし》西方に出でて、天火、※[各+隹]陽の東宮大殿城室を燔く」、『蜀志』劉焉伝、「劉焉、益州の刺史となる。志意ようやく盛んにして、乗輿の車具、千余乗を造作《ぞうさく》す。のち天火のために城を焼かれ、車具蕩尽す」。『竹書紀年』、「武王、紂を伐たんとするや、天火流れ下る。応じてもって告ぐるなり、云々」、『易林』、「天火大いに起こり、飛鳥|驚駭《けいがい》す」等の例を挙げたは、いずれも奔星が飛び隕《お》ちて火災を生じ、もしくは人畜を騒がせたのだ。『東鏡』一二に、「建久三年四月三十日、丑の刻、若宮職掌紀藤太夫の宅、焼け亡ぶ。他所には移らず。諸人走り集まるの処、家主いわく、これ失火、放火等の疑いあらず、ひとえに天火に存するの由、云々」。後文によると、翌日藤太夫狂乱して、実はある女を口説いたが、鶴が岡の宮に納むべき神鏡が自宅にあるを憚るとて聴き入れぬゆえ、彼女の宅と思い放火したら自宅じゃったと自白したので、頼朝、神威の厳重なるに驚き、鶴岡上下宮へ神馬二疋を献じた、とある。さて福本日南にかつて聞いたは、筑前の俗伝に、隕星が落ちた人家はいたく衰えるか、きわめて繁昌するかだと言う、と。
 神燈 唐の釈道宣の『列塔像神瑞迹』に、「簡州の三学山寺に仏跡あり。毎夜、神燈空にあり。遠きは見え、近きは滅《き》ゆ。大斎の夜に至れば、その燈すなわち多し」。『淵鑑類函』三六〇に、『孔帖』、「唐の玄宗、[〓]州《はくしゆう》の太清に朝謁し、尊号を上《たてまつ》る。この夜、神燈見わる」。『韻府』二五に、朱子の方広聖燈の詩、「神燈夜を照らすこと、ただ聞説《ぶんせつ》するのみ。皎月空に当たれり、尋ぬるを用いず」。これで聖燈、神燈は同一物と判る。
 仙燈 『韻府』二五、丁復の「僧の應山を過ぐるを送る」詩に、「仙燈、夜半に天人落ち、仏屋春深くして海客過ぐ」。『隠居通議』の、廬阜の文珠の天燈を言うのだ。
 文珠燈 『韻府』二五に、周必大の「天池に文珠燈を観る」詩を抄載す。『和漢三才図会』七七、天の橋立の「松林の中に文珠堂あり。海底より出現ありし、云々。毎月十六日、夜半ののちに、丑寅の方の海澳《おき》より竜火を出だし、堂の(200)北辺に浮き寄る。正五九月の十六夜には、すなわち一火、天より降る、これを天燈と謂う。また一燈の伊勢の御燈と名づくるものあり。堂の前に松一株あり、御燈の松と名づく(『拾芥抄』にいう、智恩寺は丹後九世の戸の文珠、天竜六斎、燈明を供す、云々)」。『妙法蓮華経』の提婆達多品に、智積菩薩、多宝如来に本土宝浄国に還らんことを勧めると、「釈迦牟尼仏、智積に告げていわく、善男子、かつ須臾《しばらく》待て、ここに菩薩あり、文珠師利と名づく、ともに相見るべく、妙法を論説して本土に還るべし、と。その時、文珠師利は、千葉の蓮華、大なること車輪のごときに坐す。倶に来たりし菩薩も、また宝蓮華に坐し、大海の裟喝羅竜宮より自然に涌出し、虚空の中に住んで霊鷺山に詣《いた》る」。それから智積が『法華経』の力を問うに答えて、娑喝羅竜王の女《むすめ》八歳なるが、この経を持した功徳でたちまち男子と化り成仏した由を述べおる。この他にも、諸経に天と竜が文珠を敬礼する話多く、ネパール国の古伝に、初め毘婆尸仏《ヴイバシイぶつ》が竜住池《ナガヴアサ》に蓮を種えると、独一法身《アジブツダ》がその蓮華から火焔身《ジヨチルブブツダ》を化出《けしゆつ》し、この火今に燃えおる。唯一法身の后《きさき》般若水《プラジユナ》と現じた時、火焔仏出て来たので、文珠菩薩かの聖火(すなわち火焔仏)の上に無骨身塔《チアイチア》を建てんとするに、水出でて止まず、石を据えることならず。文珠、精誠念誦して甫めて水止まり、塔を築《つ》きえた、とある(一八四二年板『ベンガル亜細亜協会雑誌』巻一二、ホジソン訳『ネパール国経』四〇二頁)。何だか夢のような譚だが、かの国でも文珠は多少竜と火に関係ある証《あかし》とはなる。こんなに文珠と竜と縁が切れぬところから、切戸《キレド》(一名|九世戸《くせのと》)へ天燈など点《とぼ》ると言うたので、これらの名は文珠燈とともに支那伝来に外ならじ。
 聖燈 田中由恭の『祇園南海先生詩集』三、「紀三井山に遊ぶ」詩、「昌国の一燈、聖※[餡の旁+炎]を伝う」の句の注に、「補陀落山は昌国県の海中にあり。その八景の中に、洛伽の燈火、蓮洋の古渡あり」。この洛伽燈は果たして紀三井山の竜燈と同様の物か否か分からぬが、とにかく南海が紀三の竜燈を聖※[餡の旁+炎]と做《し》たのは、支那で竜燈を聖燈と呼ぶ例あるによったので、上に引いた『広輿記』に、蓬州の山燈の最も異なる奴を「土人呼んで聖燈となす」とあり、朱子の方広聖燈の詩も、上の神燈の条にすでに言うた。『韻府』二五、『宋史」渤海国伝、「聖燈を五台の上に拝す」、また『盧山(201)紀事』、「天池の文殊院の西に、聖燈巌あり」、また『清涼山志』、「張商英」、来游して真容院に至る。僧いわく、ここに聖燈ありと。商英すなわち稽首黙祷す。酉《とりのとき》も後に黄金の宝※[土+皆]を見、戌《いぬのとき》の初めに北山に大火炬あり。僧いわく、聖燈なりと」、孔武仲の「天池に宿る」詩、「聖燈は稍々《しようしよう》と出で、影を弄ぶこと何ぞ窈窕《ようちよう》たる」。慈覚大師『入唐求法巡礼行記』三に、五台山に上った時、「初夜台の東、一谷を隔つる嶺上、空中に聖燈一盞あるを見る。衆人同じく見て礼拝す。その燈光初め大きさ鉢ほどのごとく、のちしだいに大きさ小屋のごとし。大衆は至心もて高声に大聖の号《みな》を唱《とな》う。さらに一盞の燈あり、谷に近く現ず。また初め笠のごとくして、のちしだいに大となる。両燈相去ること遠く望むに十丈ばかり。燈火焔然として、そのまま半夜に至り、没して現ぜず」。これはロ−マ人のいわゆるカストルおよびポルクスの火だろう(下を見よ)。『大清一統志』一四八、「商州の聖燈龕は鎮安県の北三十里にあり。相伝う、良夜ごとに常に燈の崖畔に懸かるを見る、よって名づく、と」。前述、支那トルキスタンの燈巌《ランプ・ロツク》のごとく、月明らかな夜ごとにその光を反射して点燈したよう見えるのであろう。
 菩薩燈 こんな名はないが、竜燈を菩薩が空中に放光すと見たのだから、この名を用いても差し支えなかろう。『宋高僧伝』一五、唐朝の僧鑑源の伝に、「その山寺(漢州開照寺)、云々、慧観《えかん》禅師あり、三百余の僧の、蓮燈を持して空を凌《わた》って去るを見る。歴々として流星のごとし。開元中、崔冀《さいき》公かつてその妖妄なるを疑い、躬自《みずから》山に入って宿し、あらかじめ山の四方面各三十里の火光を禁ず。第三夜に至って、百余支の燈あって現じ、かねて紅光千尺余ばかりなり。冀公、蹶然として礼をなし、いまだかつてあらず、と歎ず。時に松のあいだに、金色の手、長さ七尺ばかりなるが出ず。二菩薩あって、黄白の金色|閃爍《せんしやく》。しかるに、また庭前の柏樹の上に、昼に一燈を現ず。その明るきこと日のごとく、横ざまに玻※[王+藜]《はり》を布く。山の三里ばかりの所に宝珠一顆あり、円さ一丈、※[火+習]※[火+龠]《ゆうやく》として愛すべし。西嶺の山門には大虹橋懸かり、橋上に梵僧、老叟、童子|間《まじ》わり出《あら》わる。二炬あり、空中に爛然として、相迎送して交わり過ぐる状《さま》のごとし。下に四菩薩あって、両々偶びて立ち、通身《ぜんしん》の光を放つ。高さ六、七十尺ばかりなり。また大松林の(202)うしろに、たちまち寺額あるを見る。『三学』の字を篆書し、また燈下に繍《ぬいとり》の帯二条を垂る。東林のあいだには、夜に金山を出だす。月の午《みなみ》するに当たって、金銀二色の燈、知鉉《ちげん》師の墳《はか》の側に列ぶ。韋南康皐《いなんこうこう》、三月ごとに寺に就《お》いて三百菩薩の大斎を設くるに、菩薩、形を現じて燈を捧ぐ。僧、香燈を持して引き※[手偏+邑]《うつ》したる鑪《ろ》、寺門にあり」。あんまり大層な話で、どうも僧輩が結構《しくん》でしたこととしか解《げ》しえぬが、菩薩が燈を捧げて出た時、僧が香燈(線香か)をもってその火を香爐に※[手偏+邑]し、今に寺門に存すというのは、後文に出すべきエルサレムの聖火のことと同じである。
 かく種々の支那名があり、また本邦と同物を指す竜燈なる名が確かに支那にあったという証拠はまだ見出ださぬが、便宜のため以下書物から引くごとにおのおのその書に用いた通りの火の名を用い、一汎にこの類の火を指す時は竜燈の名を用いることとする。
 さて竜燈は、多くは高空中または樹とか塔とか高い物の尖《さき》へ出るようだ。わが邦の例は尾芝君すでに挙げたから今さらまた言わずとして、『続高僧伝』四に、摩竭陀国の鶏足山、「頂に大塔を樹つ。夜、神炬を放って光明|通《あまね》く照らす。すなわち大迦葉波《だいかしようは》の寂定《じやくじよう》せる所なり」。『西域記』九には、山上に塔を建つ、静かな夜これを遠望すると炬《たいまつ》のごとき明光あるも、山を登れば何も見えぬ、とある。『三宝感通録』二に、「簡州の三学山寺に仏跡あり。常に神燈の空よりして現ずるあり。毎夕常にしかり。斎日はすなわち多し。州宰あり、これを尋ねんと意欲《ほつ》し、馬に乗って寺に来たる。十里已外より空燈列び現じ、しだいに近づけばしだいに昧《くら》く、ついにみなこれを失う。返還すること十里、前《さき》のごとくまた現ず。今に至るも絶えず」。隋の王劭の『舎利感応記』に、「蒲州、栖厳《せいがん》寺に塔を起つ(仁寿元年のこと)。十月の十三夜、浮図の上にまた光あり、三仏の像のごとく、みな高さ尺にして、停住することこれを久しうす」。この塔より夜分光を出す。「諸光多く紫赤にして、見る者によって色状必ずしも同じからず。あるいは大電《いなずま》のごとしと言い、あるいは燎火《かがりび》のごとしと言う。その都べて見ることなき者は十に二、三なり。婦人あり、新たに死せる小児を抱き、来たって救護を乞うに、夜に至ってすなわち蘇《よみがえ》る。光の照らすに遇いてもって疾を愈《いや》せる者、一のみにあら(203)ず」。見る人の説も一定せず、まるで見ぬ人もあり、また光に照らされて病愈えたなど群集錯誤が流染したと見える。またいわく、「鄭州、定覚寺に塔を起つ。舎利まさに寺の東に至らんとして、光あり、大流星のごとく、入って仏堂の前に至って没す。輿《こし》この処に到って、故なくしておのずから止まる。すでにして塔基を西岸に定む。その東岸の旧舎利塔に三光あり、西に流れて基所に入る、云々」。これは流星の花火でも仕掛けて、愚人どもを欺いたのであろう。『続高僧伝』四、「烏荼国の東境、海に臨んで発行城あり、云々。次いで南の大海中に僧伽羅《そうぎやら》国あり、云々。相去ることおよそ推するに二万余里。毎夜南望すれば、かの国中の仏牙塔上の宝珠の、光明《かがや》いて焔を騰げ、暉《て》り赫《きら》めいて天際に現ずるを見る」。これも高塔上に強い光を仕掛で出したことと見えるが、塔が時に異光を放つということ、古くより人心に浸潤しおったは、『高僧伝』一に、「晋の咸和中、蘇峻乱をなし、康僧会《こうそうかい》の建てしところの塔を焚《や》く。司空の何充またさらに修道す。平西将軍の趙誘、世に法を奉ぜず。夢にこの寺に入って諸道人に謂う、『久しく聞く、この塔しばしば光明を放つ、と。虚誕不経にして、いまだ信ずるあたわざるところなり。もし必ずみずから覩れば、論ぜざるところなるのみ』と。言い竟るや、塔すなわち五色の光を出だし、堂刹を照り耀かす。誘、粛然として毛竪つ。これによって信敬す」。居常《いつも》、塔頂放光のことを聞いて自然心に浸《し》んでおったから、疑いながらも夢に見たのだ。
 『甲子夜話』続一四、崇徳上皇、白峰陵へ天より御霊《みたま》降《くだ》って夜光を放つゆえ光堂《ひかりどう》と言う、とある。上に『類聚名物考』から孫引した『中山伝信録』いわゆる天妃の神燈は、『五雑俎』四に、「海上に天妃あり、神はなはだ霊《あらたか》なり。航海者に応験|著《あらわ》るるもの多し。もし風濤の中にあって、たちまち蝴蝶の双び飛ぶあり、夜半たちまち紅燈の現わるることあれば、はなはだ危うしといえども必ず済わるるを獲《う》」と出ずると同物だ。『諸国里人談』三に、隠岐の海中に夜火海上に現ず。こは焼火《たくひ》権現の神霊なり、いずれの国でも難風に遭うた船、夜中方角を別たざるに、この神に立願し神号を唱うればこの火現じて助けくれる、とあって、後鳥羽上皇流されたまいし時、この火に風難を救われたまいし節の御詠を載す。『甲子夜話』続九七には、備後木梨の海のこととし、後醍醐帝の御歌を出だす。同書六〇に、寛政の(204)ころ長崎に向かう支那船、海上悪風四方闇黒なるに遭いて方角を弁ぜず、折ふし神あり舳に現じ、洋中火光を見る方に向かえ、われは日本金毘羅神なりと告げたので、火光を尋ねて行き、舶を全くした。その報賽《がんほどき》に額を讃州金毘羅に捧げた、とある。
 これらの火光はむろんことごとく一類のものでなく、原因種々あるべきも、概して言えば西洋でエルモ尊者の火と称うるものを指すのだろう。『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一一板、巻二および二四によると、この火は空中から徐々と地上に向かい発する雷気に伴う光で、その性質は物理試験室で行なう刷毛出《ブラシユで》の摩擦電気に伴う光と同じく、物がひびわれたり、また竈の火が嘯き鳴るような音これに伴うこと多く、これを最も多く見るは冬月風雪中およびその後、また迅雷中にもしばしば生ず。オーストリアのソンブリク山ことにこの火多きを、エルスターおよぴガイテルが調べて一八九一年に報告せしは、その発電、時として陰性で光赤く、時として陽性で光青し。ゴッケルいわく、雪中にこの光出ずるを検するに、雪片大なれば、その電気陽性、雪片細かければその電気陰性だ、と。しかしてこの光|主《むね》と現ずるは尖った物の末で、塔頂、檣端《しようたん》、また人が手を拡げた指尖にすら付くことあり(以上『エンサイクロペジア』)。同書に、エルモ尊者の名はイタリア人がエラスムスを訛ったので、エラスムス尊者は紀元三百四年車裂きされて殉教したが、永く地中海航者の守本尊と仰がれ、舟人この火を尊者庇護し賜う徴とす。英国水夫これをコルポサンツと呼ぶは、伊語のコルポ・サント(聖体)より訛ったのだ、と見ゆ。
 一九〇五年板、ハズリットの『諸信およぴ俚伝』(Hazliitt,‘Faiths and Folklore’)一巻九四頁に、スペイン人、フランス人はこれをヘルメスまたテルメス尊者の火、イタリア人はペトロまたニコラス尊者の火と言うとあって、一五九八年板、ハクロイトの『航記集』からこの火の実視譚を引きいわく、「予、船上大風波に遭うた夜、小蝋燭に点《とぼ》したほどの小光、スペイン人のいわゆる聖体《ケルポ・サント》が中檣《メーン・マスト》の頂に来たり、それより他の檣頂へ飛び移りまた飛び戻り、あるいは二、三檣一時に光り出した」と。また一七〇四年板『暴風誌』(‘History of Storms’)等を引いて、俗信に、こ(205)の火一つ現ずれば風浪の兆《しらせ》、二つ相近づいて出ずれば晴天の徴という。あるいはいわく、この火五つ群がり出ずれば風浪まさに息《や》まんとするを示す。ポルトガル人これを|救世主の頸《コラ・デ・ノノストラ・セニヨラ》と名づく、と。古ローマのプリニウスの『博物志』(‘Historia Naturalis’)巻二の三七章にこの火を説いていわく、「この星、海陸ともに出ず。予かつて夜警兵卒の槍上に星樣の光を見た。また鳥が飛び廻るような音して進航中の舟の帆架《ほげた》等に留まる。一つ見ゆれば難破の兆で、船体の下部に触るれば火を燃出《ねんしゆつ》することあり。しかるに二つ現ずれば吉兆で、ヘレナという悪星を逐い攘うと信ぜられ、これを神としてカストルおよびポルクスと称う。また時として夜分人の頭の周りに輝くことあって、ある大事件を前示す」と。カストルとポルクスは大神ゼウスの二子で、カストル人と闘って死せしを悲しみ、ポルクスその身不死なるに、ゼウスに請うて自分また死せんとす。ゼウスその悌心を賞し、隔日に冥界に降ってカストルを見せしむ。あるいはいわく、ゼウス二人を天上にゥき、太白《あけのみようじよう》と長庚《よいのみようじよう》たらしむ、と。アテネの人これを神と崇め守護尊《アナーケース》と号《なづ》け、航海に軍旅にその助力を頼み、難風に逢う舟人、檣頭に焔光を見ればこの神霊なりとて、白羊児《しろいひつじのこ》を牲《いけにえ》し奉らんと祈念すれば風浪たちまち静まる、と信じた(一九〇八年板、サイッフェルト『希臘羅馬考古辞典』英訳‘A Dictionary of Classical Antiquities,’p.194)。  (大正四年九月『郷土研究』三巻七号)
 
       二
 
 田辺の絲川恒太夫という老人、中年まで熊野諸村を毎度行商した(『郷土研究』一巻三号一七四頁参照)。この翁今年七十五。二十七、八歳の時新鹿村の湊に宿す。湊川の上に一里余続ける浅谷という谷あり。それと並んで、二木島《にぎしま》、片村曽根と続く谷あり。この二谷間の山を古来天狗道と呼び懼るるも、誰一人天狗を見た者なし。絲川氏湊に宿った夜、大風雨で屋根板飛び、その圧えに置いた大石堕ち下るを避けんために古胴著等を被《かぶ》り、鴨居の下に頭を突(206)っ張り柱を抱き立っておった。家主老夫婦は天井張った三畳の室《ま》に楯籠る。老主人の甥、羽島に住む者、茶の木原に住む従弟を訪い、裸になり褌の上に帯しめて、川二つ渡り来たり著いたは夜二時なり。暁に及び凰ようやく止んだ。二人大闇黒中、件の山上を大なる炬《たいまつ》二十ばかり列なり行くを見て、始めてむかしもかかることあったゆえ天狗道と名づけたと暁ったという。
 かようの時は小さな火も大きく見ゆるは、熊楠、先年西牟婁郡安堵峰下より坂泰《さかたい》の巓《いただき》を踰えて日高郡|丹生川《にうのかわ》に著き憩いおったるを、安堵の山小屋より大勢捜しに来るに提燈一つ点せり。それがこちらの眼には、炬火数十本末ね合わせて燃やすほど大きく見えた。されば右述天狗の炬も、実はエルモ尊者の火だろう。一九の『善光寺道中続膝栗毛』九に、弥次と北八が天狗を悪口するうち、火繩が高き樹の上に飛び揚がり、今まで吸殻ほどの火がたちまち松明大となり、風もなきに樹の枝ざわざわ鳴り出すことあり。戯作ながら、これも山中にエルモ尊者の火現ずる由を伝聞して書いたであろう。一九〇六年板、レオナード少佐の『下ニゲルおよびその諸民族《ゼ・ラワー・ニジエル・エンド・イツ・トライブス》』四八六頁に、藪榛《こもり》中の高樹上に夜分大なる火出で燃ゆるを、翌朝見るに焼けおらぬことあり。土人これを妖巫《ウイツチ》その樹下に集まり踊ると信ずと見え、英領中央アフリカでも、妖男巫《アフイチ》空中を飛ぶ時、大なる羽音して樹梢《こずえ》に留まり行く、その携うる火遠方より見うるが人近づけば消してしまうという(ワーナー『英領中央亜非利加土人《ゼ・ネチヴス・オヴ・ブリチシユ・セントラル・アフリカ》』一九〇六年板、八八頁)。いずれも天狗の炬に似たことだ。
 エルモ尊者の火が多く風浪中の舟人の眼について、海中の竜の所為《しわざ》と想われたは自然の成行きで、その上すでに慈覚大師の行記から例示した通り、山にも竜宮ありとする処もあり、竜が塔を守るという寺もあるから、山上や塔の頂に現ずるエルモ尊者の火をも竜燈と呼んだだろう。竜が塔を守る例は経中に少なくないが、最も奇抜なは『三宝感通録』一にいわく、「益州の道卓は名僧なり。隋の大業の初、※[名+隹]《らく》県の寺塔、人の修葺《しゆうしゆう》するなく、わずかに下基あるのみ。卓、すなわち四部を率化《おしえなび》け、木の浮図を造り、荘飾備われり。塔は竜に護られ、西南角の井中に居《す》め(207)り。時に相《すがた》の現ずるあり。側に三池あり、深浅を知るなし。三竜これにおり、人あえて臨み視るものなし。貞観十三年、三竜大いに闘い、雷霆|震《ふる》い撃ち、水火こもごも飛ぶ。これを久しうして静まり、塔はもとのごとし。住人みな竜の毛を拾い取るに、長さ三尺ばかり、黄赤にして愛すべし」。わが邦に貴人の三婦嫉妬で乱闘して三目錐の名を獲た話があるが、これはまた正法護持のために、仏塔を守る三竜が毛を落とすまで混戦したのだ。根来の大塔焼けた時、竜が水を吐いて防いだこと、『紀伊国名所図会』に画添えて出しある。
 さて最初竜燈はみな天然生の火だったが、後には衆心を帰依させるため、竜燈や舎利光、仏光を僧侶が秘する方術をもって出すこととなったは疑いを容れず。現今もインドやチベットの僧は、室内に皓月《こうげつ》真に逼れるを出したり、空中に神燈R耀するを現じたり、なかなか欧州の幻師《てじなつかい》の思いも寄らぬことを仕出かすと、毎々その輩から聞いた。『付法蔵因縁伝』五に、馬鳴大士、十一祖|富那奢《ふなしや》に議論で負けて弟子となったが、心なお愧じ恨みて死せんと欲す。富那奢これを察知し、馬鳴をして闇室中に経典を取らしむ。闇くて取れないと言うと、師告ぐらく、「ただ去け、まさに汝をして見しむべし。時に尊者すなわち神力をもって、はるかに右手を伸べ、室内に徹《とお》し入る。五指光を放ち、その明り照り耀き、室中にあるところのものみなことごとく顕現す。時に馬鳴、心にこれ幻ならんと疑う。およそ幻の法は、これを知ればすなわち滅す。しかるにこの光明はいよいよさらに熾盛《さかん》なり。その技術を尽してこの光を滅せんと欲するも、これがためにすでに疲れ、ついに異相なし。師のなすところなるを知って、すなわち摧伏《さいふく》す」。それから懸命に勉強して、ついに仏法第十二祖とまでなった、と出ず。この文を見て、当時方術で指端に光を出したことあったと知る。辟支仏や羅漢が、人を教化したり身の潔白を託するに口弁を用いず、黙《だんまり》りで身体から火光を出した例はすこぶる多い。何かその秘術があったのだろう。
 『続高僧伝』一〇に、周の太祖の時、「西域より仏舎利を献ず」、帝、僧道妙をして供養せしむるに、「一年を経て、たちまち中宵《よなか》に光を放って室に満つ。螺旋して窓を出で、漸《すす》みて外に延び、須臾にして光四遠を照らし、その焔を騰(208)扇《とうせん》して、天地を照燭す。当《そのとき》見る者あり、寺家火を失せりと謂《おも》いて、競い来たってこれを救う。神光のすなわち金瓶より出ずるを覩るに及び、みないまだかつてあらずと歎ず」。一四に、隋の文帝、舎利を梓州華林寺に送らしむ、「すでにして州館に至れば、夜大光を放ち、屋上に明るく徹って、火焔の発するがごとし。食頃《しばらく》してはじめて滅す」。『三宝感通録』二、「梁の武帝、同奉寺に幸《みゆき》し、始めて瑞像殿に到る。帝わずかに階《きざはし》を登れば、像、大いに光を放ち、竹樹山水を照らし、みな金色をなし、ついに夜半まで休《や》まず」。
 『慈恩伝』四に、玄奘天竺に在った時、「西国の法、この(正)月をもって、菩提寺より仏舎利を出だし、諸国の道俗みな来たって観礼す」。玄奘、その師勝軍居士と共に往き見る、「夜、一更ばかりを過ぐるに至り、勝軍、法師と共に舎利の大小不同を論ず、云々。さらに少時を経て、たちまち室中の燈を見ず。内外大いに明るし。怪しみて出で望めば、すなわち舎利塔より光暉《こうき》上り発し、飛焔の天に属《つらな》り、色は五彩を含み、天地|洞朗《どうろう》として、また星月のなきを見る。あわせて異香の氛※[氛の分が慍の旁]《ふんうん》として院に溢るるを聞《か》ぐ。ここにおいてたがいに相告げ、報じて言う、舎利に大神変あり、と。諸衆すなわち知り、重ねて集まって礼拝し、希有なりと称嘆す。食頃経って光すなわちようやく収まり、余《のこり》尽きんとするに至り、覆鉢を遶ること数|匝《めぐり》し、しかして始めてすべて入る。天地ふたたび闇《くら》く、辰象また出ず。衆これを覩おわって、みな疑網を除く」。『続高僧伝』四には、「かの土の十二月三十日は、此方《こなた》の正月十五日に当たり、世に大神変月と称す。もしその夕に至れば、(舎利)必ず光瑞を放ち、天、奇花を雨《あめふ》らす」。その夜、玄奘その師と対話するうち、「たちまち燈明を失う。また佩ぶるところの珠※[王+當]《しゆとう》瓔珞《ようらく》を見るに、光彩を見ず。ただ通明して晃朗《こうろう》、内外洞然たるあり。しかしてその由《いわれ》を測《はか》らず。この所以を怪しみ、共に草廬を出でて菩提樹を望むに、すなわち僧あって手に舎利を※[敬/手]《ささ》ぐるを見る。大きさは人の指のごとし。樹基の上にあって、あまねく大衆に示し、放つところの光明は天地を照燭《しようしよく》す。時に衆|鬧《かまびす》しく、ただはるかに礼するを得るのみ。目に瑞を覩るといえども、心にその火を疑う。合掌し虔《つつし》んで跪き、すなわち明る晨《あさ》に至る。心ようやく萎頓《つか》れ、光もまた歇《つ》き滅す。居士対いていわく、すでに霊瑞を覩る、(209)心に疑いなからんや、と。奘、つぶさに意を陳ぶ。居士いわく、余のむかしの疑いも、またこれに同じかりき、その瑞すでに現じたれば、疑いおのずから通じたり、と」。
 この珍事は「西域記」には出ていなかったと記憶するが、玄奘の弟子が書いた『慈恩伝』には、一同この瑞光を覩て疑網を除いたとあるに、道宣が親しく玄奘から聞書した『続高僧伝』を案ずると、遠方から礼しえたと言い、目に光を見ながら心それを火たるかと疑うたと言い、玄奘が充分その瑞光たるを信ぜぬに、勝軍が、予もむかし汝のごとく疑うたが、実際見た上は疑うに及ばぬじゃないかとさまざま諭したなど、ずいぶん怪しいことで、ビールの『慈恩伝』英訳にここを註して、そのころインドすでにかかる信教上の詐騙《だまし》行なわれたをこの文で知りうるとあるが、氏が件の『続高僧伝』の文を見たなら、一層その然るを知りえたはずだ。この玄奘はルナンが言った通り、仏を奉ずること驚きあまり奇瑞神異なことは味噌も糞も信じた人なるに、なお舎利光を目撃しながらそれを火でないかと疑うた由、後年道宣に話したところから推すに、この光は大仕掛の人工で出したものに相違ない。エルサレムの聖墓に、毎年|聖土曜日《ホリー・サターデー》(三月下旬にあり)天より神火降り、詣衆《まいりしゆ》押し合うて大混雑中にその火を移し点じ、持ち帰って旧火を更《あらた》む。その時一番に新火を移し点した者を大吉と羨むこと、備前西大寺の会式のごとく、この火点した蝋燭の蝋で十字を画いた経帷子を著せて死人を埋むれば、楽土に往くこと受合いなりと言い、その他種々の吉祥ありとす(一入四三年ブライトン板、ピエトロ・デラ・ヴァレ『紀行《ヴイアツジ》』一巻二九五頁)。この夜信心の輩、夫妻打ち連れて聖墓を取り廻らせる円堂《ロトンド》に集まり秘密のことを行ない、かくて孕むところの子心身完全なりと信ず。翌朝その跡を見るに、口筆述べがたき体たらくだ(ゴダール『埃及および巴列斯丁《エジプト・エ・パレスチン》』一八六七年板、三八七頁)。ピニトロこの式を見た時、すでに心ある者は、むかしは真の天火が降ったが当世のは人作だと言った。しかるに、近時に至るまで僧輩依然その人作にあらざるを主張し、当日|法主《パトリアーク》、脱衣露頭跣足して身に一物を仕掛けざるを示し、単衣墓に入って神火たちまち出ず。その体手品師の箱改めに異ならず。ある説に、墓内の秘部に教百年点し続けた晶燈《ランプ》あり、法主それから聖火(210)を拵え出す、と。また言う、何のことはない、マッチを蔵《かく》し置いて火を作るのだ、と。ギリシア教でこの式を廃すると、聖週七日《ホリー・ウイーク》にエルサレムへ巡礼する最富の徒の半分が来なくなり土地衰微すべしと、一八七五年板、バートン夫人の『西里亜巴列斯丁および聖地の内情《ゼ・インナ・ライフ・オヴ・サイリア・パレスチナ・エンド・ゼ・ホリー・ランド》』二巻一一〇頁に説きおる。
 本論こう長くなって南方先生も三升五合ばかり欲しくなり、読者諸君も倦んで来ただろうから、中入りに実歴の椿譚を述べんに、予が現にこの文を草するところは学問に最も適した閑静な地所の隅の炭部屋だが、その横町は夜分至って淋しく、数年前まで特種民が芝居見に往った還りがけに、もったいなくも予が人天を化度せんと寂想に耽りおる壁一つ隔てて、行きがけの駄賃に大便を垂れおくこと毎度なれば、人呼んで糞横町となす。しかるに、一夏連夜あまり暑さに丸裸になって庭に立ち天文を察しおると、壁外に芝居帰りの特種殿原|喧々喃々《けんけんなんなん》するを妻が怪しんで立ち聴くと、町を隔てた隣家の庭に密生した「まさき」の大木の上に、幽霊とかねて古くより噂ある火の玉が出ておるというのだ。不審はなはだしくて、その輩立ち去った後、妻を彼輩の蹟《あと》に立たせ、いろいろ試し見ると、「何のこっちゃ阿呆らしい、火の玉でのうて睾丸でんす」と田辺詞で吐《ぬ》かすから、子細を聞くと、顕微鏡を夜見るとてランプの周辺《ぐるり》を闇くし、一方に喇叭のような紙筒をあてた口から光が強くかの「まさき」の上の方に向かい出た。燈《ひ》と木との間に予が裸で立って天文を考えおる股と陰嚢の影が、かの樹の枝葉間に髣髴と映ったが幽霊の正体で、佐青有公《さおなるきみ》の提燈たる人魂と擬《まが》いしは、先尅《せんこく》降った雨の余滴がこっちの光を反射するのと判ったので、予も陰嚢のついでに電燈でなくって竜をも出して映そうかと苦笑したことだった。それから気がついて種々自宅で試験の末、樹の位置、葉の性質に随って、尋常のランプや蝋燭の火でもちょっと竜燈様の物を出かし得、それがあまり近づくと見えず、適宜に遠ざかるとよく見えるを知った。上にワーナーの著や『三宝感通録』二から引いた妖男巫《アフイチ》の火や簡州の神燈が、遠方から見ゆるに近方から見えぬとあるも似たことで、何に致せ暇少ない吾輩さえ、不慮に陰嚢の影からこれだけの発明をしたくらいゆえ、俗信を起こし固むる方便《てだて》に永代苦辛した仏僧中には、種々の機巧《からくり》や材料もて竜燈、舎利光、仏光を現出した(211)り、またヨングハズバンドが覩た燈巖《ランプ・ロツク》ごとき天然に異光を発する場所を見出だした者少なくなかったと知らる。
 ついでに言う。むかしペルシアのケルマン州の汗が、拝火教徒《ガウル》の尊奉する聖火堂に押し入って、その聖火を見るに尋常の火だったので、悪言してその火に唾を吐くと、火が穢《けがれ》を怒って白鳩と化って飛び去ったので、僧ども不信の汗に聖火を覩せたのを悔過し、信徒とともに祈祷しまた大施行をすると、白鳩復り来たって再び聖火と現じた(タヴェルニエー『汝斯紀行《ヴオヤージユ・ド・ペルス》』一六七六年板、四三九頁)。尾芝君が『越後野志』より引かれた、八海山頂の神に山麓で捧げた火が飛び行く話に似たことで、火が心あってみずから飛び行くのか、神が霊験もって火を動かすのか、いずれにしても全く虚構の言か、多少このような自然現象あるか、見る人一同精神錯誤に陥ったのか、または何かの設備《こしらえ》でかかる手品を現ずる法があったか、四つの一つを出でじ。
 上に出した眼目山《さつかさん》の山燈竜燈は毎七月十三夜、九世戸《くせのと》の天燈竜燈は正五九月と毎月の十六夜、三学山寺の神燈は大斎の夜多く出で、玄奘が目撃した菩提寺の舎利光はインドの大晦日(支那の上元の日)、エルサレムの神火は聖土曜日《ホリー・サターデー》という風に、出る時が定まっており(尾芝君の文、二〇七頁参照)、『続高僧伝』二六に、五台山南仏光山寺の仏光は「華彩はなはだ盛んにして、夏に至って大いに発し、人の眼目に※[日/立]《あきらか》なり」とある。天主教のシメオン尊者は紀元四六二年に六十九で円寂したが、四十七年の長いあいだ高さ五十四フィートの柱の尖に径三フィートの台を造り、その上で行ない澄ましたありがたい聖人じゃったとあるが、あのそれ川柳とやらに「大仏の××の長さは書き落とし」の格で、大小便をどう始末したと肝心のことを伝えていない。ある人終日《ひねもす》視察すると、右の柱上台で朝から暮まで額を踵《きびす》に加えて跪拝千二百四十回したが、南方先生同前無類の女嫌いで、若い時遁世してから一向会わなんだ老母が、命のあるうちに一度会わんと来たのを会わずに卻《かえ》した一方に、入らぬ処へ大悲を垂れて、かつて瘡《かさ》を生じた中に蛆生じたのを大切に養育し、蛆が※[虫+支]《は》い落ちたのを飯運びに来た弟子して瘡中へ拾い入れさせたとは不届きな聖人じゃ。その永年苦行した一柱観は今に安息城近傍に存し、難有屋《ありがたや》連これを渇仰するが、毎年正月五日その柱上に一大星輝くを見るとい(212)う(一八二二年板、コラン・ド・プランシー『遺宝霊像評彙《ジクシヨネール・クリチク・デ・レリク・エ・デ・イマージ・ミラクローズ》』三巻八九−九〇頁)。
 『嬉遊笑覧』一〇いわく、「『隴蜀余聞』に、蜀の金堂県の三学山に、古樹三、四株あり、年代を記《しる》さず。春月ごとに、その葉に夜すなわち光あり、炬《たいまつ》に似たり。遠近数百里、もって仏光となし、粮《かて》を裹んで往きてこれを観る」。春に限って光ったのは、生理また病理学上説明しうべしと想う。わが邦では山茶《つばき》の朽幹《くちき》が夜光を放つこと、他の朽木より多い。予幼時和歌山城近く山茶屋敷とて天方《あまがた》という侍の邸あり。なぜか年中戸を閉めず、夜分人通れば天狗高笑するとてその辺行く人稀だった。熊野には山茶の木の槌は怪《ば》けるとて今に製《つく》らぬ所あり。その理由は前日来訪せられたスウィングル氏が、本年八月上旬サンフランシスコで催す米国科学奨励会で代読さるる予の論文で公けにするはずだが、『嬉遊笑覧』に言える通り、朽木が光を発することも山茶を怪木と言う理由の一つに相違ない。  (大正四年十月『郷土研究』三巻八号)
 
       三
 
 『諸国里人談』三や『和漢三才図会』四一に、※[交+鳥]※[青+鳥]《ごいさぎ》夜飛べば火のごとく光るとあり、『大和本草』には蒼鷺《みどさぎ》を妖怪とするは夜光るからと言う。七、八年前、田辺近所岩城山稲荷の神林から、夏の夜ほぼ定まった時刻に光り物低く飛び下るを、数夜予も橋上の納涼《すずみ》衆とともに見た。狩猟に年を積んだ人が、あれは蒼鷺が田に餌を求め下るんじゃと言うた。林羅山の説に、夜中に小児の啼き声のようなる怪を「うぶめ」と名づくるを、ひそかに伺うと青鷺だったとある人語った、とある(『梅村載筆』天巻)。『和漢三才図会』には、九州海浜に多い鴎のようで夜光る特種の鳥だ、とある。イタリア人は鬼火を山のと平野のと二種に分かち、いずれも腹部等が螢のごとく光る鳥だと信ず。プリニウスの『博物志』一〇巻六七章に、ドイツのヘルキニアの林中にその羽、夜、火のごとく光る鳥住むと言い、一八八五年板、ベ(213)ント『希臘諸島住記《ゼ・シクラデス》』四八頁には、ギリシアの舟人、今もエルモ尊者の火を悪兆を示す鳥が来て檣に止まるものとなすをもって考うれば、ウリッセスが航海中ハルピースなる怪鳥に悩まされたと伝うるも、同じくこの火を鳥と見立てたのだろう、と述べておる。ペンナントが十八世紀に出した『動物学』には、冬鴎《ウインター・ガル》、冬中海を去って遠く英国内地の湿原に食を覓む。星弾《スター・シヨツト》または星膠《スター・ジエリー》とて膠様の光り物は、その実この鳥等が食って消化不十分な蚯蚓を吐き出したのだとあるが(ハズリット『諸信および俚伝』二巻六三六頁)、それが本当なら樹梢に吐き懸けて光らすこともあろう。
 本篇の首に引いた夏竦「上元応制」詩に竜燈に対して用いた鶴焔も、あるいは鶴に似た鳥の羽が火のごとく夜光るを指したものか。新井白石が室鳩巣に話せしそのころ、常陸の鹿島の社への鳳凰来義ということ、「一夕夜|深《ふけ》てサワサワと社も鳴動仕り候うて、しばらくこれあり。何かは不分明に候えども、広庭の中ひしと宝珠のごとくなるもの敷き候、光り輝き申し候。ややあってのし申すと見え、また最前のごとく鳴動これあり。右の珠一所により候様に見え候て飛び去り申し候。怪異の義と社人ども駭き候うて鳳凰などと申す義は存《おもい》も寄らず。翌日託宣を上《たてまつ》り候処、神託に夜前鳳凰来賓嬉しく思し召さるとの義候、云々」とあって、白石、鳩巣ともにこれを真実と心得たらしい書振りだ(『鳩巣小説』下)。これは何か光り物を見た者が、おぼろげに孔雀が尾を開きまた摺《たた》むことなどに思い合わせて言い出したことらしく、託宣を聞いて治めて分かるようではあまりあてにならぬが、鳥が夜光る例のついでに書いておく。一九〇五年板、フレザーの『王職古史《アーリー・ヒストリー・オヴ・キングシプ》』に、インド洋マルジヴ島において、毎年定期にマレという所に鬼を乗せた光る船が夜来るに一室女《ひとりのむすめ》を供えたことを述べて、カイウス大学のガージナー氏親しくかの島に遊び著者に報ぜしは、今もその潟どもの浅瀬に時々光り物を見るに、磨《すり》ガラスで覆うた晶燈《ランプ》の火のごとしとあるを、老友ジキンスこれはいまだ学者に精査せられざる動物が一疋ごとにかかる無類の大きな光を出すのだろうと説いた(一九〇六年板、『上古・中古の日本文《プリミチヴ・エンド・メジエヴアル・ジヤパニース・テキスツ》』翻訳の巻、八八頁)。わが邦なども古え諸処に森林あり。煙突、鉄砲はおろか竈の煙や(214)弓矢さえ知らぬような人少ない地多かった世には、今日すでに跡を絶った生物も多かったはずで、※[交+鳥]※[青+鳥]、蒼鷺、斑蜘蛛《じよろうぐも》、螢等現存する僅々諸種の外に、夜光る動物も数あったなるべく、その光を目撃する機会は今よりはるかに多かっただろう。これら生物が光を出すは、雨夜とか月夜とかそれぞれ得意の時あり。螢は初夏という風に、季節の定まったものも多かったろう。さればその最も盛んな夜を多年の経験で心得おいて、当夜《そのよ》を待ち設けて眺めてその霊異を讃歎し、種々の迷説を付会したのが竜燈崇拝の起りだろう。似た譚は、巌谷君の『東洋口碑大全』に、『本朝怪談雑事』から、出雲|佐田《さだ》の社に毎年十月初卯の日、竜宮から牲《》として竜子《たつのこ》一疋上る由引きおるが、『懐橘談』には、「十月十一日より十七日までを斎《さい》という。その間に風波烈しく寄せ来る波に、化度革《けどそう》という藻に乗れる竜蛇、竜宮より貢ぐ、云々」とある。予かの辺に毎々航せし船頭に聞きしは、何の日と定まらず、そのころ風波烈しくなって多少の海蛇打ち上げるを、初めて見出だしたるを吉兆とする例と言うた。故に天然の竜燈すなわちエルモ尊者の火、また鳥虫朽木から起こる光も、必ずしも年中一日を限らず、ただ季節が向いて来ると毎夜現わるるを、その月の満月または十六夜とか斎日の夜とか、神仏に縁ある夜を人が特定して、その夜もっとも見るに都合よきを、その夜しか出ぬように言い伝えたに外ならじ。特定の木の上に竜燈が懸かるも、天然を人為で抂《ま》ぐれば成ることで、古え地峡あって今海となりおわったに、渡鳥が依然地峡の蹟の海を後生大事と守って飛ぶという話も多く、兎や猪、鹿や鴨などの路が定まりおるは狩人の熟知するところで、比年《としごろ》予自宅の庭園へ夕に天蛾《ゆうがおべつとう》など来て花を吸うを視るに、その行路から花を尋ぬる順序まで一定せるもののごとく、また自宅の近街いずれも陰嚢の影を火玉と間違え怖るるほど淋しい処へ、電線の柱が多く立ち並びおる。その頂へ夏の夜ごとに角鴟《みみずく》が来たり鳴くを見聞するに、その行路と順序がちゃんと定まりある。まずは不景気ゆえ方法を立て替えるなどいう考えの出ぬところが畜生で、古く慣習づいたことをできうる限り改変せぬ。
 エルモ尊者の火もまた電気の作用というから、適当した駐り木はほぼ定まっておるだろう。されば他へ飛び反れぬ(215)ようにこれらの光にもっとも適した高木を保存して、徐々《そろそろ》その傍《わき》の高木を伐り去るとか何とか、竜燈を一定の木に懸くる方法はおいおい案出実行されただろう。かくてその後、世の中も事繁く人煙も濃くなり、天然の竜燈閉口して跡を絶つに及び、種々の秘計もて人為の電燈を点すとなると、サア旨い物で、雨が降ろうが鎗が飛ぼうが興業主の決心次第で、何月何日何時何分と期しても、確かに竜燈を一つでも五つでも出しうるはずで、尾芝君が想うほどの人間界の不思議では決してなく、ただ吾輩ごときどんな妙案でも腹蔵なくみずから言い散らし書き散らして一文にもならぬに紙や暇を潰す者どもと異なり、むかしの坊主などが秘事妙訣ということを首が飛んでも世間へ洩らさなんだから、億万の生霊が竜燈ごとき手近い神変で感化せられて、仏教や天主教を根限り信仰帰依した一件は、今の人の大いに留意して勇猛に反省すべきところと、この二、三日飲まぬを幸い、柄にもないことを演べておく。
 結論 仏教は――実はその他多くの宗教も――光をもって仏徳の表識とし、したがって仏菩薩に光を名とせるが多い。『仏説大阿弥陀経』に、弥陀の十三異号を説く(『郷土研究』三巻三号一七〇頁参照)。その号いずれも光の字あり。いわく、この仏の光、「日月の明るさに勝ること、千万億倍にして、諸仏光明の王たり。ゆえに無量寿仏と号《なづ》け、また無量光仏、無辺光仏、無礙光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、難称光仏、超日月光仏とも号く」。『起世因本経』には、人間の営火《しごとのひ》、燈焔《ともしび》、炬火《たいまつ》、火聚《かしゆう》、星宿、月宮、日宮、四天王天と次第して、長たらしく諸天光明の甲乙を述べ、世間所有光明よりも如来の光が最も勝妙、とある。さて最も手近く光明を標示するものは燈火だから、『維摩経』の仏国品の執宝炬菩薩などよりは、宝燈世界(『大宝広博秘密陀羅尼経』)、須弥燈仏(『阿闍世王決疑経』)、燃燈仏など、燈を名とした仏士、仏菩薩の名が多い。かくて仏の勢力が光明で顕われる。その光明に滋養分を加え奉る考えで仏に燈を献ずるを大功徳としたので、いわば竈に薪を添えるようじゃ。
 されば『涅槃経』には、「もし仏法僧において、一の香燈を供養し、乃至一花を献ずれば、すなわち不動国に生(216)まる、云々。ここはすなわち浄土|常厳《じようごん》にして、三災の動かすところとならざるなり」。東晋訳『大方広華厳経』一五に、諸光明の由来と功徳を説いた中に、「勝|三昧《さんまい》あり、安楽と名づく。また光明を放ち、昭曜と名づく。一切の諸天の光を映《つつ》み蔽い、あらゆる暗障を除かざるなく、あまねく衆生のために饒益《にようやく》をなす。この光は一切の衆を覚悟《めざめ》しめ、燈明を執って仏を供養せしむ。燈をもって諸仏を供養するゆえに、世上の無上の燈となるを得。もろもろの油燈および酥燈を然《も》やし、また種々もろもろの明炬、衆香妙薬上の宝燭をも然やし、これをもって仏に供えこの光を獲《う》」と説かれ、『超日月三昧経』には、日天、前生施を好み行を慎み戒を奉じ仏寺に燃燈し、月天、前生貧に施し戒を持し三尊に事え君父師等に燈を設けたから、今生、日天、月天となったとあり。『悲華経』には「転輪王は頂に一燈を戴き、肩に二燈あり、左右の手中に四燈を執り持ち、その二つの膝の上に各一燈を置き、両足の上にまた各一燈あり。夜の竟《おわ》るまで如来を供養す」とは、寄席の落語家が頭と口と両手足に扇一つずつ持って、「チッ、一本め−には」と松尽しを碁盤の上で舞うより以上の珍芸だ。
 『月燈三昧経』こそ大法螺吹きなれ。いわく、声徳如来涅槃に入りしを徳音王供養すとて、八十四千万億の塔を起こし、一々塔前に百千万那由他の燈明を燃す。安穏徳比丘負嫌いでみずから臂を断って燈を燃して献ぜしに、今まで※[火+〓]然たる紅焔四方に遍照せし王の無量百千の燈一時に光を奪われ、王を始め後宮、眷属、妃后、采女、すべて八万の別嬪、急いでかの比丘に見えんとて、千肘の高殿より飛び下りるを、天竜夜叉、乾闥婆等の鬼神護持して落ちざらしめた。島田の宿の朝顔盲女の川留の場のごとし、とある。さて、とかく女ならでは夜が暁けぬから、かの比丘を貧女と作り換えて、『阿闍世王決疑経』や『今昔物語』一五の貧女の一燈の譚を作ったのだ(芳賀博士の攷証本には、本邦の類話を挙げおるが、『決疑経』等を引いていない)。例の『法華経』の薬王菩薩本事品は、菩薩が燈供養のために身を焼いた話で、臂ばかり焼いたどころの騒ぎにあらず。これに傚うて頭燈、臂燈等の外に全身を焼き失う者もあったのだ。『今昔物語』に、天智帝が志賀寺の燈を掲げた指を切って、燈とともに仏に供えたまうとあるも、指を燃す御心で行(217)ないたまいしことと知らる。
 けだし人間のみが燈を仏に奉るを大功徳としたのでなく、鬼人や竜王もまた争うてこの功徳を修めたので、例せば『法顕伝』に、舎衛域の外道が天神を祀る寺で燈を供うると、明旦燈が近処の仏寺に移る。これ仏僧の所為《しわざ》ならんと疑うて夜みずから伺うと、自分が祀るところの天神その燈を持ち、仏寺を三|匝《めぐり》して仏に供えて消え失せた。よってなるほど仏は天神より勝《えら》いと知って出家入道した、とある。竜が燈を仏に供養した例を只今出しえぬが、それは例乏しくて引きあたわざるにあらず、あまり多いから蔵経通覧のさい書き留めなんだのだ。さて手近い『梵語字彙』を二、三種見るも、竜燈という意の語を見出でぬが、三国の呉の領内来住の天竺僧康僧会が訳した『六度集経』五に、槃達《はんだ》竜王世を厭い陸地に登り、「私黎樹《ぼだいじゆ》の下において、形を隠し変じて蛇身となり、蟠屈して臥す。夜はすなわち燈火の明あり、かの樹上にあって、数十|枚《ばい》あり。日々若干種の華を雨《あめふら》らす。色耀き香美にして、世の覩るところにあらず。国人よく竜を厭《まじない》する者あり、陂図《はと》と名づく。山に入って竜を求め、もって乞《きつ》を行なわんと欲す。牧牛の児を覩て、その有無を問うに、児いわく、われ一蛇の蟠屈してこの樹下に臥すを見る、夜、樹上に数十の燈あり、火明るく※[火+韋]《ひか》り※[目+華]《かがや》き、華の下《ふ》ること雪のごとし。色耀き香美なること、それ喩えがたしとなす。われ身をもってこれに付《ちかづ》くに、また賊害の心なし、と」。それからその竜使いの見世物師に捉えられて歯を抜かれ、所々へ伴れ行きて舞わさるるを竜王の母が来て救うた、とある。これ取りも直さず竜燈で、インドに古く竜の上に燈火が樹に懸るという迷信ありしを知るに足る。
 また『大集大雲請雨経』に、電光、大電光、炎光、炎肩、火光など、光字のついた竜王の名多し。すなわち古インドも支那と同じく竜は種々の光を発すると信じたので、支那に仏教入らぬ時すでに竜が光を点すとしたは、『楚辞』の「燭竜何ぞ照らせる」の語を、王逸注していわく、「大荒の西北、山あって合せず、よってこれを不周山と名づく。ゆえに神竜あって、燭を銜えてこれを照らす」(『淵鑑類函』四三八)。『康煕字典』に『楚辞』天問を引いて、「日出でて(218)到らず、燭竜何ぞ耀《かがや》ける」。日出でぬうちに竜が燭を銜えて光らせ行くというのだから、燭竜すなわち竜燈だ。かく古来燭竜の話や前述竜火の迷信があった支那へ、インドから仏教とともに竜燈の譚が伝わったので、諸州の道観、仏精舎や大小名嶽に天然の竜燈多く見出だされ、おいおい人造の物もできたところへ、日本から渡海の僧など、そのことを聞きその現象を睹て帰る船中海上の竜燈すなわちエルモ尊者の火に遭うも少なからず。帰朝して尋ね廻ると自国もずいぶん竜燈に乏しからず。よって弘教《ぐきよう》の方便《てだて》として種々の伝説を付会して、俗衆をアッと言わせ続くるうち、海埋まり林伐られて自然の竜燈少なくなりゆく。これではならぬと、困却は発明の母とはよく言ったもので、種々計策して人造の竜燈を出しても、因襲の久しき習慣天性をなして誰もその人造たるに気づかず、たまたま玄奘が菩提寺の舎利光におけるごとく、臭いことと気がついても、勝軍居士が玄奘を諭した通り、誰も彼も睹て信ずる上は一人かれこれいうは野暮の骨頂という論法で差し控えたことと見える。
 さてダーウィンは蘚虫《プリオゾア》と海亀と鳥がはなはだ相異なる動物で何の近縁なきに、三者の喙《くちばし》の結構がすこぶる酷似しおるを指摘し、予もある菌族と男女根の組織と、機械力が全く同一轍なることを二十五年来研究して、ずいぶん有益な考案を持っておるが、かかる外目《よそめ》に詰まらぬことも学術上非常に大切だということだけを一昨年『不二新聞』へ掲げて大枚百円の科料に処せられ、前に火の玉幻出法の発明に間に合うた陰嚢を大きに縮めたことである。まず千年や二千年でとても変更のならぬ動植物の構造や組織にすら、相似た範囲に応じて永久のうちにはかくよく似合うた物もできる。
 されば、風俗作法など変化万態なる人間界の現象が、因|異《こと》にしてたまたま同一また極似の果を生出するあるも、もとより怪しむに足らず。例せば、わが邦婦女が歯を染めたのは東南アジアの土人が檳榔を咬むに起因したということを森三渓氏など唱え、故坪井博士も同意の気味らしかった。しかるに、二十年ほど前、予大英博物館でいろいろ調ぶると、インドの梵志《ぼんじ》種やカンボジア土人の女子が、月経初めて到る時、非常に歯に注意する。また中央アジアの(219)ブハラ人、欧州の大ロシア人など、一向檳榔を吃せぬにその妻は歯を涅《くろ》くした。それから攷《かんが》えて、広い世界には南米のある部分の土人のごとく、歯の健康を気遣うばかりで歯を染めるもあり。マダガスカルのある種族のごとく装飾をのみ心懸けて歯を染めを者、アジア東南諸島民のごとく檳榔を咀《か》むから自然に染まる者、日本やインド・ジーウ辺の婦女のごとき成女期や既婚や葬喪を標示する斎忌《タブー》の上から涅歯《はぐろめ》した者と、同じ涅歯にも種々格別の目的ありてこの風が生じたと暁り、英国科学奨励会《ブリチシユ・アツソシエーシヨン》で論文を読んだことであった。
 それから類推すると、尾芝君は盆の燈籠も柱松《はしらまつ》も竜燈も同一系統、すなわち同じ目的をもって一つの起原から生出したように言わるるが、それは形骸を察して神髄を遺《わす》れた見《けん》でなかろうか。磁石に鉄を拾うと北を指すと二つの別の力あるごとく――究竟の原因は一に帰すと言わば、人が生まるるも焦げ死ぬも太陽のなすところと言うごとくで、それまでながら――火には熱と光との二つの異なる力あり。わが邦の柱松や欧州の辟牛疫火《ニード・フアイヤー》など、主としてその火の熱をもって凶災を避け吉利を迎うるの慾願に創まりたるに、盆燈籠や人作の竜燈は、もとその火の光を仮りて神仏の勢威を助成し、死人の冥福を修する信切から起こったもので、言わば斉しく火でありながら、火鉢の火と行燈の火ほど意味と所用に差別《けじめ》ありと愚存す。その上、柱松はその式何の秘することなく初めから仕組を公開するに、竜燈は自然、人造ともにそのこと曖昧で、凡衆に解しえぬところを妙としたのも大いに相異なり。(大正四年六月二十三日起稿。多用中に時々書き綴り、三十日夜半終切。ただ一度閲してすなわち発送。故に意を尽さぬところや跡先揃わぬ言なきを保せず。読者その大体を了せらるれば幸甚。)
(付言)この稿を終わる少し前に、湯屋に往って和歌山生れの六十ばかりの人に逢うて、七月九日夜、紀三井寺に上る竜燈のことを問うに、八、九歳の時父に負われて一度往き見たことあり。夜半に喚び起こされて眠たきを忍び待っておると、山上に忽然燈点るを見たばかり覚えおる、と言うた。その辺に人が忍びおって、何かの方法で高い所へ燈を点じ素速く隠れ去ったのらしい。貞享四年の自序ある『懐硯』三の二に、紀三井寺の竜燈を見に夜更くるまで人群(220)集する由を述べて、「むかしより所の人の言い伝えしは、この光を見ること人の中にも稀なり。ずいぶんの後生願い、人事《ひとごと》を言わず、腹立てず、生仏様と言わるるほどの者が、仕合せよければちらと拝み奉ると聞きしところに、云々」とあって、十人のうち七、八人は磯に釣する火を竜燈と心得て拝し、その他は観音堂に通夜して、夢に竜燈布引の松に上るを見たとあり。布引の松は紀三井寺から大分離れた所で、それを後年山内の千手谷へ竜燈の場所換えをしたらしい。
(後記)前文記しおわって四日後、『人類学雑誌』昨年十二月号原田淑人君の「新疆発掘壁画に見えたる燈樹の風俗について」を読み、はなはだ益を得た。氏が臚列《ろれつ》せる諸材料によって考うれば、『史記』楽書、「漢家、太一を祀る。昏るる時をもって祀り、明くるに至る」等。古く神を祀るに燈を献ずることありし一方には、インド燃燈供仏の風を伝え、唐人上元の夜、華燈、宝炬、燈樹、火山を設け、宋に至って上中下元みな張燈し、わが邦これに倣うてまた中元燈籠を点ずるに及んだので、まず盆燈籠は華燈、柱松は宝炬、火山は熊野浜の宮等中元に墓場で焚火を盛んにするに相|肖《に》た物、燈樹は原田君が引いた図や説によると、まず七夕に俗間竹の枝葉間に多く小挑燈《こちようちん》を点ずるような奴の至って大層なものだろう。これらいずれも設備者その人巧に出ずるを隠さず、むしろ自慢で作ったので、観る者も初めからその心で見たるに反し、人造電燈は始終設備者これを神異に托し、観る者また霊物としてこれを恭敬礼拝したのである。(七月五日)
 この篇書きおわって後、七月七日の『大阪毎日新聞』、独石馬、清末の秘史を見ると、長髪賊魁洪秀全と楊秀清を月水に汚れた布の冠で呪うた趨碧嬢は、事顕われて楊のために天燈の極刑に処すべく命ぜられた。天燈とは罪人に油を泌ませた単衣を著せ、高き梁上に倒懸して下よりおもむろに肉体を油煎にする五右衛門以上の酷刑だが、碧嬢は刑前自殺したとある。(七月七日)    (大正四年十一月『郷土研究』三巻九号)
(221)【補遺】
 椋梨《むくなし》一雪の『新著聞集』往生篇第一三に、上総|福津《ふつつ》のじゃじゃ庄右衛門という大若党者、一心の念仏者となり、人多く導いた.みずから死期を知り、三日前から日ごろ頼んだ寺に在って、本堂弥陀の前に端坐合掌唱名して、眠るごとく往生した。信者輩に七日間死骸を拝ませると、「虚空に花ふり夜は竜燈上りて堂内に入りしを拝みし人多かりし」と載す。死んで間もなく竜燈まで上ったのは、予に取って未聞なればちょっと記して補遺とする。(十二月三日)
 『松屋筆記』巻七八に『佐渡奇談』より引いた、寛永のころ鈴木源吾なる浪人が根本寺祖師堂側の桜の台木より夏の夜竜燈来ると聞き行きて射たるところ、たちまち消え翌日見れば鷺なり。寺僧、電燈の奇瑞を妨げられしを含み、寺内で殺生せし罪を訴えると、竜燈を射たり鷺を射ずと弁じて事解けた由は、尾芝君も短く引かれた。しかるに十月十六日の『ノーツ・エンド・キーリス』に、英国のイー・イー・コープ氏が書かれたは、あちらでも鷺が夜光ると言うについて、同氏かつて一九〇六年十二月の『カナリアおよび小鳥飼養雑誌』に載せ、またバーチングの『レクリエイション・オヴ・ア・ナチュラリスト』という書にも出であるとのことだ。(十二月四日)
 また、前号四五八乃至九頁に載せた天狗の炬火は不定時に出たものらしいが、竜燈同様に定日の夜出た天狗火もある。『紀伊続風土記』巻八一に、今の東牟婁郡三輪崎村の丑の方十七町、往還の下海辺平らかなる岩の上に、輿《こし》のごとく窪みたる所が三つあるを、三所洗岩と謂う。この岩に毎月七日、二十八日ごろ天狗来たって身を清むると言い伝えて、天狗の火、時に見ゆ、と言うてある。(十二月四日)   (大正五年一月『郷土研究』三巻一○号)
【追記】
 竜燈というもの、始めのほどは知らず、後年目撃せられたのはほんのちょっとの間の現象で、至極曖昧な物だった(『郷土研究』三巻九号五三二−三頁参照)。高名なる丹後切戸の竜燈、天燈などもまたそうであったと見えて、寛永十年に成った『犬子集』一七にも、貞徳(?)の「有りとは見えてまた無かりけり」、「橋立や竜《たつ》の燈あぐる夜に」という(222)句がある、このついでに言う。同書一四、また貞徳の「びやうびやうとせし与謝の海づら」、「竜燈のかげに驚く犬の声」という句がある。そのころは犬の鳴き声を邦人がびょうびょうと聞いたので、狂言記にも犬の声を皆かく記してある。たまたま英語のバウワウ、仏語のブーブー(いずれも犬吠の名)に似ておるのが面白い。(四月十一日)  (大正五年十二月『郷土研究』四巻九号)
 
(223)     今昔物語の研究
 
       一
 
〇『今昔物語集』巻四「羅漢比丘、国王に太子の死を教えたる語《こと》、第一二」の本話が、芳賀博士の纂訂本に出ておらぬ。ただこの話に緑の遠い、『史記』の西門豹が河伯のために民の娘を川に沈むるを禁じた話を参看せよ、とあるのみだ。
 しかしこの話の出所は玄奘の『西域記』巻一二、達摩悉鉄帝国、「昏駄多《こんだた》城は国の都なり。中に伽藍あり、この国の先王の建立するところなり。崖を疏《ほ》り谷を奠《うず》めて、もって堂字を建つ。この国の先は、いまだ仏教を被《う》けず、ただ邪神に事う。数首年前に肇めて法化を弘む。初めこの国王の愛子、疾に嬰《かか》る。いたずらに医術を究め、加うるあれども※[病垂/繆の旁]《い》ゆるなし。王すなわちみずから天祠に往き、礼もて請うて救いを求む。時にかの祠主は神となって語《おつげ》を下すらく、必ずまさに痊復《せんぷく》すべし、まこと他慮なかれ、と。王、聞いて喜び慰め、駕を廻らして帰る。路に沙門に逢う。容止観るべし。その形服に駭いて、従《よ》って至る所を問う。この沙門は、すでに聖果を証し、仏法を弘めんと欲するがゆえにこの儀形あるなり。しかして王に報じていわく、われは如来の弟子、いわゆる※[草がんむり/必]芻《ぴつしゆ》なり、と。王はすでに心に憂いあれば、すなわちまず問うていわく、わが子は疾に嬰り、生死いまだ分かたず、と。沙門いわく、王の先霊は起こすべ(224)きも、愛子は済いがたし、と(これは、王の死んだ先祖の霊を復生《いきかえ》らす術ありとも、王の愛子の死を救う方はないという意なるを、『物語集』の筆者解し損ねて、沙門答えていわく、御子必ず死に給いなんとす、助け給わんに力及ばず、これ天皇の御霊の所為なり、と訳しおる)。王いわく、天神はその死せざるをつまびらかにす、と。沙門いわく、そはまさに終わるべし、俗を詭《いつわ》る人の言、何ぞ信ずべけんや、と。宮中に至るころおい、愛子はすでに死せり。匿《かく》して喪を発せず。さらに神主に問うに、なおいわく、死せず、疹疾《しんしつ》まさに※[病垂/繆の旁]ゆべし、と。王すなわち怒りを発し、神主を縛って数《せ》めていわく、汝曹《なんじら》は群居して悪を長じ、みだりに威福を行なう。わが子はすでに死せるに、なおまさに※[病垂/繆の旁]ゆべしと言う。かくのごときなんじの繆惑、いずくんぞ忍ぶべからざらん。よろしく神主を戮《ころ》し、霊廟を殄滅《てんめつ》すべし、と。ここにおいて神主を殺し、神像を除いて、縛芻《オキサス》河に投じ、駕を廻して帰る。また沙門に遇い、見て敬《つつし》み悦び、稽首して謝していわく、さきに明導なくば、足を邪途に佇《とど》めしならん、弊を澆《そそ》ぐこと久しといえども、沿革ここにあり、願わくはよく顧《いつくしみ》を垂れ、降臨して室におれ、と。沙門、請いを受け、随って中宮に至る。子を葬ることすでに已り、沙門に謂いていわく、人世は糺紛《きゆうふん》して、生死流転す、わが子疾に嬰ってその去留を問うに、神はまさに必ず痊差《いゆ》べしと妄言せり。先に指告を承くるに、果たして虚説なし。これすなわちその法は奉ずべきなり、ただ哀愍《あわれみ》を垂れて、この迷徒を導け、と。ついに沙門に請うて伽藍を揆度《はか》り、その規矩によってすなわち建立す。これより後、仏法はじめて盛んなり、云々。伽藍の大精舎中には石仏像あり。像の上には金銅の円蓋を懸け、衆《おお》くの宝もて荘厳《しようごん》す。人の旋《まわ》り繞るものあれば、蓋もまた随って転《まわ》る。人止まれば蓋も止まり、霊鑒を測るなし。これを耆旧に聞くにいう、あるいはいわく、聖人の願力の持するところなり、と。あるいはいわく、機関《からくり》の秘術の致すところなり、と。その堂宇を観るに、石壁は竪峻なり。その衆議を考うるに、実録を知るものなし」。
 『慈恩伝』巻五には、「昏駄多城中、伽藍あり。この国の先王の立つるところなり。伽藍中の石仏像の上に金銅の円蓋あり。雑宝|荘《けだか》く瑩《かがや》き、自然に空に住《とどま》り、仏頂に当たる。人の礼し旋《めぐ》るあれば、蓋もまた随って転る。人停まれば蓋(225)も止まる。その霊を測るなし」とばかりあって縁起を説いてない(一九〇六年板、ピール英訳『西域記』二の二九三頁と一九一一年板、同氏訳『玄奘伝』一九七頁をも併せ見よ)。
〇『物語集』巻四「天竺の人、海中において悪竜に値う人、比丘の教えにより害を免れたる語《こと》、第一三」は、『三国伝記』に出た同話異文を芳賀博士は引いておるが、この話の根本を挙げておらぬ。
 その根本話は、比丘道略集・羅什訳、衆経撰『雑譬喩経』下に、「むかし屠児あり、道人を供養せんと欲す。その悪者なるをもってのゆえに、往《おもむ》く者なし。のち一《ひとり》の新学沙門の威儀詳序なるを見て、請い帰って種々の※[食+肴]※[食+善]《ごちそう》を飯食せしめ、食い訖ってまたこの道人に請う、願わくは終身わが家にあって食せんことを、と。道人すなわちこれを受く。玩習《なれしたし》むことすでに久しくして、しきりにその前にあって殺生するを見る。あえてこれを呵《せ》めず。積もって年歳あり。のち屠児の父死し、河中の鬼となり、刀をもって身を割き、すなわちまた還る。のち道人河を渡るに、鬼、船を捉えていわく、この道人を没して河中に著《お》けば、すなわち去るを得べし、と。船人怖れて白す。鬼いわく、わが家昔日この道人を供養す、積年わが殺生を呵《せ》めず、今この殃《わざわい》を受く、恚《うら》むがゆえに殺すのみ、と。船人いわく、殺生すらなおこの殃を受く、いわんや道人をや、と。鬼いわく、われ爾を知る、恚むがゆえのみ、もしよくわがために布施して福をなし、名を呼びて呪顧せば、われすなわち相|放《ゆる》さん、と。船人ことごとく、ために福をなすことを許《やくそく》す。鬼すなわちこれを放つ。道人すなわち鬼のために会《え》をなし、名を呼んで呪願す。余人次にまたために会をなし、河中に詣《いた》り、鬼を呼んでいわく、卿《けい》、福を得しや未《いな》や、と。鬼いわく、すなわち得たり、また苦痛なし、と。船人いわく、明日まさに卿のために福をなすべし、みずから来たるを得るや不や、と。鬼いわく、得と。鬼、旦《あした》に化して婆羅門の像《すがた》となって来たり、手ずから供養し、みずから呪願を受く。上座、ために説経し、鬼すなわち須陀※[さんずい+亘]《すだおん》道を得、歓喜して去る。ここをもって主客の宜《よしみ》には、理として諫正するあるべし。悪道に堕つといえども、もと善縁あり。書知識と謂うべきものはこれ大因縁なり」。
(226) 次に、「むかし賈客あり、海に入って宝を採る。大竜神の船を挙げて翻《くつがえ》さんとするに逢う。諸人恐怖す。亀いわく、汝らすこぶるかの国に遊行するや不や、と。報えていわく、かつて行き、これを過《よぎ》るなり、と。竜、一大卵の五升瓶のごときを与え、汝この卵を持って、かの国の市中の大樹下に埋めよ、もし然せずんば、のちに汝を殺すべし、と。その人これを許す。のちかの国を過り、卵を埋めて市中の大樹下に著《お》く。これより以後、国に災疫疾気多し。国王、道術を召してこれを占う。いわく、蟒卵《ぼうらん》の国中に在るあり、故に災疫をあらしむ、と。すなわち推《たず》ねて掘りこれを焼くに、病ことごとく除愈《いえ》たり。賈客人、のち海に入って、ことさらに竜神に見《あ》う。重ねて事状を問わる。賈人いわく、むかし神の教えしごとく、卵を市中に埋むるに、国中多く疾疫あり。王、梵志《ぼんじ》を召してこれを占い、推ねて焚焼《やきはら》い、病む者ことごとく除《い》ゆ、と。神いわく、恨むらくは奴輩を殺さざるを、と。船人間う、神は何故にすなわち然するや、と。神いわく、卿かつて某国に健児|某甲《それがし》のありしを聞けるや不や、と。いわく、これを聞けり、すでに終亡《なくな》れり、と。神いわく、われはこれなり、われ乎存《いきてあ》りし時、喜《この》んで国中の人民を陵擽《ふみにじ》るに、初めよりわれを教え呵《せ》むる者なし、ただわれに奨《すす》め、われをして蟒蛇中に堕せしむ、ことごとくこれを殺しつくさんと欲するのみ、と。ここをもって、人はまさに相諫め、善に従って相|順《やわら》ぐべし。みずから勢力を恃んで人を陵擽り、坐してその患《わざわい》を招くなかれ。三悪道《さんあくどう》は苦し、ただ声は聞くべくも、形《からだ》処《お》るべからず」。この二つの相似た談が、この経に相双んで出ておるを見て、作り合わせて『今昔』の四の一三語を生じたのだろう。
 東晋の訳ならんという『仏説目連問戒律中五百軽重事経』には、竜の旧師が免るべからざるを知って、みずから進んで水に投じて死んだとして、いわく、「むかし迦葉仏の時、一比丘あり。弟子を度して教戒せず、多く非法をなす。命終えて竜中に生まる。竜の法、七日に一たび対《むくい》を受くる時、
火その身を焼き、肉尽きて骨あり。尋いでのちまた復《かえ》り、復ればすなわちまた焼かれ苦しみに堪うるあたわず。すなわちみずから思惟す、われ宿《むかし》何の罪あってかくのごとき苦しみを致すや、と。すなわち宿命を観ずるに、みずから見る、もと沙門となって禁戒を持せず、師もまた教えざ(227)りき、と。すなわち毒念をなし、その本師を恚《うら》み、傷害せんと念欲《ほつ》す。たまたまのち、その師、五百人とともに船に乗り、海を渡る。竜すなわち水を出でて船を捉う。衆人すなわち問う、汝はこれ誰となす、と。答う、われはこれ竜なり、と。問う、汝何をもって船を捉うるや、と。答う、汝もしこの比丘を下ろせば、汝を放ちて去らしめん、と。問う、この比丘何ぞ汝のことに予るや、まったく余人を索めずして、ひとりこの比丘のみを索むるは何ぞや、と。竜いわく、もとこれわが師なり、われを教戒せず、今に苦痛を受く、これをもってこれを索む、と。衆人、事やむをえずして、すなわちこの比丘を捉えて水中に著《お》かんとす。比丘いわく、われみずから水に入らん、捉えらるるを須いず、と。すなわち水に投じ、命を喪う。ここをもってこれを験すれば、人を度するには教戒せざるべからず」。
 また東晋ごろの訳本という『阿育王譬喩経』には、平素|豕《ぶた》を殺した者、恒水《ガンジスがわ》の鬼となり、かつて豕を殺すを諫めなんだ道人を捉り殺そうとしたとし、いわく、「むかし賢者あり、舎衛国の東南三十里におる。家内、法を奉じ、道人に供養す。家公|好喜《この》んで猪《ぶた》を殺し肉を売る。道人|漸々《ようやく》にこれを知れども、まだ呵め誡《いま》しむるに及ばず。老公ついにすなわち命終え、恒水の中にあって鬼神の形を受く、云々。後日、道人恒水を渡り、まさに鬼神と相値う。その鬼、すなわち半身を出だして水上にあり、船を捉えて顧みて言う、道人を捉えて水中に著け、しからずんば、ことごとく船上の人を殺さん、と。時に一賢者あり、すなわち鬼神に問う、何をもってのゆえにこの道人を索むるや、と。鬼神言う、われ世間にありし時、道人を供養す、道人は心にわが豚を殺し肉を売るを知れども、われを呵め誡めず、ここをもって道人を殺すのみ、と。賢者すなわち言う、君、豚を殺せしに坐《よ》って、すなわちこの罪を致す、今また道人を殺さんとす、罪あに多からざらんや、と。鬼神思惟するに、実に賢者の言のごとし。すなわち放《ゆる》して去らしめ、道人去るを得たり。還ってその家に語り、子孫ために追福をなす。神すなわち苦しみを免《のが》るるを得たり。後世の人に示す、道人供養を受くれば教誡せざるべからず、と」。
〇『物語集』巻四の「震旦の国王の前に阿竭陀薬《あかだやく》来たれる語《こと》、第三二」は、『徒然草』に見えた、土大根を万にいみ(228)じき薬とて、毎朝二つずつ焼いて食った筑紫の某押領使の急難の時、大根が二人の兵と現じて、敵を撃ち卻《しりぞ》けた話にやや似ておるが、芳賀博士と同様、予もその出処を見出だしおらぬ。ただし阿竭陀薬そのものについては多少調べたから、この物語研究者の参考までに書いておく。『翔訳名義集』九に、阿伽陀はあまねく去るの意で、一切の病を去るゆえ名づく、『華厳』に、この薬を見さえすると、衆病ことごとく除くとある、と見ゆ。唐の菩提流志訳『不空羂索神変真言経』巻二一に、如意阿伽陀薬品あり。あまり長いからここに引きえぬが、この薬は種々の病のみならず、王難(虐王に困《くる》しめらるること)、賊難、虎狼・水火・刀杖等の難を避け、諍論に勝ち、人民に敬われ、寿《とし》を長くし、一切の神をして護らしめ、一切鬼魔に害されぬという無類の効験ありとて、これを調合する薬剤の名を挙げておるが、梵語ばかりで分からぬものが多い。かつ加持の秘法がなかなか込み入ったもので、ちょっと行ないがたいようだ。ただし、この品《ほん》に製法を出したのは、大無勝宝阿伽陀首と名づけ、「あらゆる諸法ことごとく過ぐるものなし」とあるから、この外に劣等の阿伽陀薬もいろいろあったらしい。北涼訳『大般涅槃経』一二に、摩羅毒蛇に螫さるると、どんな呪も薬も効かぬが、阿竭多星の呪のみこれを除愈す、とあるを見ると、阿竭陀また阿伽陀は、もと星の名で、もっばら療病を司った星らしい。
〇『今昔物語集』巻一〇、「聖人、后を犯して国王の咎を蒙り、天狗となれる語《こと》、第三四」は、今度出版の芳賀博士の攷証本に出所も類語も出ておらぬ。あるいはそこに示された巻二〇、「染殿の后、天狗のために※[女+堯]乱《にようらん》せられたる語《こと》」の所が出たら、載っておるかと思うが、ちょっと管見を記すと、趙宋の法賢訳『瑜伽大教王経』三に、不動尊大忿怒明王の真言を法通り持誦すれば、よく諸童女を鉤召《こうしよう》し、種々所欲のことをなす。唐の金剛菩提三蔵が訳せる『不動使者陀羅尼秘密法』、矜羯羅《こんがら》(=宮迦羅《くがら》)を招く法を載す。「矜《こん》とは事を問うなり、羯羅とは駆使なり。もし現ぜざれば、心決定して不動使者を念誦《ねんじゆ》す。必須ず見るを得べし、狐疑を生ずるなかれ。ただちに平明に至れば、来たらざる者なし。現じおわって種々に駆使すれば、処分《めいれい》することみな得《かな》う。乃至は手を洗い、あるいは柳枝《ようじ》を用いんとするに、(229)取らしむれば、みな得。天に上り山に入らんと欲得《ほつ》せば、また行人を扶けて将い去く。欲界上の天女等を見んと欲得し、将い来たらしめて相見んとすれば、また得《かな》う。何ぞいわんや、人間《じんかん》にて、人および物、乃至種々の飲食を取るをや。この神は、小童子の形をなし、両種あり.一は矜羯羅と名づく、恭敬にして小心なる者はこれなり。一に制※[口+托の旁]迦《せいたか》と名づく、共に語りがたくして悪性なる者はこれなり。なお人間の悪性のごとし。下にあって駆使を受くといえども、常に過失多きなり、云々」。唐の李無諂訳『不空羂索陀羅尼経』にも、この二童子を使う法を記す。唐の不空訳『大宝広博秘密陀羅尼経』中巻に、随心陀羅尼を五万遍誦すれば、※[女+采]女《おつぼね》や王后などを鉤召し得、とあり。趙宋の法天訳『金剛手菩薩降伏一切部多大教王経』上に、部多《ヴエーターラ》女を真言で招き妹となし、千由旬内に所要の女人を即時取り来たらしむることを載す。矜羯羅も天女をすら取り来るほどだから、王后ぐらいはお茶の子だろう。
 かかる迷信が今日の欧州にも隠れ行なわるるは、例せば、米人リーランドの『巫蠱経《アラジヤ》』(一八九九年板、三五頁)に、今もイタリアに月神ジアナを祀る者、自分が望む貴族女をして犬形に変じ、万事を忘失してその家に来たり、たちまちもとの女となってその思いを晴らさせ、また犬となって自宅へ還ると、本来の女となるが、何を他人の家でされたか一向覚えず、もしくは夢ほどにかすかに覚えしむる呪法を載せておる。また今日もタナ女神を念じて、睡れる男女と情交を遂ぐる誦言を出しておる。
〇『物語』同巻、「国王、百丈の石の卒堵婆を造りて、工《たくみ》を殺さんとせる語《こと》、第三五」も、芳賀博士は出所を挙げおらぬが、これは羅什訳、馬鳴菩薩の『大荘厳経論』巻一五に見ゆ。いわく、「われ昔かつて聞く、一国あり、中に石柱を施設し、きわめて高大となす。梯磴《ていとう》、※[木+鹿]櫨《ろくろ》、繩索《じようさく》を除き去り、かの工匠を置いて柱頭にあり。何をもっての故に。彼もし存治せば、あるいはさらに余処に石柱を造立し、これに勝《まさ》らしめん、と。時にかの石匠の親族宗眷、その夜中において柱辺に集い聚る。しかして、これに語っていわく、汝今いかにして下るを得べきか、と。時に、石匠にもろもろの方便多し。すなわち衣縷を※[手偏+適]《さ》き、二縷《ふたすじ》の※[糸+錢の旁]《いと》を垂らして、柱下に至る。その諸宗眷、尋いで麁《ふと》き※[糸+錢の旁]をもってかの(230)衣縷に繋ぐ。匠すなわち挽いて取り、すでに上に至れば、手に麁き※[糸+錢の旁]を捉え、諸親族に語る、汝ら今はさらに小《すこ》しく麁き繩索を繋ぎ著《と》むべし、と。彼の諸親族すなわちその語に随い、かくのごとく展転《くりかえ》し、最後に麁大の繩索を繋ぐを得たり。時に石匠、繩を尋《つた》いて来たり下る」。石柱は生死、梯磴・※[木+鹿]櫨は「過去仏すでに滅せしの言」などと、くだくだしく仏教にあてて喩を鋭きおるところを見ると、仏教前から行なわれおった物語らしい。  (大正二年八月『郷土研究』一巻六号)
 
       二
 
〇百済河成(『郷土研究』一巻一号五〇頁と三号一六六頁)が写生に巧みだったのは(巻二四第五語)、この人が死んだ年からわずか二十五年後に成った『文徳実録』五に、「写すところの古人の真《かお》、および山水草木など、みな自生するがごとし。むかし宮中にあり、ある人をして従者を喚ばしむ。ある人辞するにいまだ顔容を見ざるをもってす。河成、すなわち一紙を取ってその形体を図す。ある人ついに験し得。その機妙なること、おおむねかくのごとし。今の画を言う者、みなこれに則《てほん》を取る」とあるので知れる。これに似た話、『五雑俎』七に、「相伝う、戴文進、金陵に至りしとき、行李を一の傭《にんぷ》に肩《にな》い去られ、杳として識るべからず。すなわち酒家より紙筆を借りて、その状貌《かおかたち》を図し、衆くの傭を集めてこれを示すに、衆いわく、これは某人なり、と。随ってその家に至り、行李を得たり」。戴文進は明朝の初の人だから、河成が死んでより五百年も後の人だ。
〇「震旦の国王の前に阿竭陀薬来たれる語(『郷土研究』一巻六号三六四頁に追加す。本語に、「国王、阿竭陀薬と聞き給いてその薬は服する人死ぬること无かなり。鼓に塗りて打つに、その音を聞く人みな病を失うこと疑い无しと聞く」。このことは予いまだ出処を見出だしえぬ。ただし、似たことはある。北涼訳『大般涅槃経』九に、「人あ(231)り、雑《もろもろ》の毒薬をもって、用いて太鼓に塗り、衆人の中において、これを撃って声を発す。聞かんと欲する心なしといえども、これを聞けばみな死す」と見ゆ。また姚秦ごろ訳せしという『無明羅刹経』に、折叱王が疫鬼を平らげに往く出立を記して、「阿伽陀薬をもってあまねく身体に塗る」とある。この薬は通常樹葉に包まれおったと見えて、蕭斉の朝に訳せる『百喩経』下の末に、編者僧伽斯那この経を譬えて、「阿伽陀薬のごときは、樹の葉にてこれを裹《つつ》む。薬を取って毒に塗りおわれば、樹の葉はまたこれを棄つ。戯笑は葉の裹むがごとし、実義はその中にあり。智者は正義を取り、戯笑はすなわちまさに棄つべし」とある。
 これらの文によると、最初もっぱら毒を防ぎ毒を解く薬だったのが、おいおい誇大して、どんな病人でもこの薬を見せたらたちまち治ると持て囃され(『華厳』)、それから鼓に塗って打つ音聞いても病が去ると信ぜられたらしい。似た例を一、二挙げんに、『本草網目』に、※[鼠+吾]鼠《むささび》を一に飛生鳥と名づける訳は、このもの飛びながら子を産むからだ、その皮毛を臨産の婦女に持たせ、またその上に寝させ、またその爪を懐《いだ》かせても催生《はやめ》の効ある、と見えおる。実は子に乳を飲ませながら飛び行くを見て、飛びつつ子を産むと速断したのだ。かかる信念は、今に熊野の山地にも存し、二年前拙妻妊娠中、予、安堵峰で※[鼠+吾]鼠を獲、肉を抜き去り持ち帰った。皮を室の壁へ懸け置いたところへ山民《やまびと》が来て、これは怪しからぬことをする、このものは見ても催生の力が烈しい、臨月でもない妊婦が毎々見ると流産すると話され、大いに気味悪くなり棄ててしまうた。また熊野や十津川の深山大樹に寓生する蔦《やしお》の実は、血を清むるので、血道に大効あると言うのみか、眺むるばかりでも婦女を無病にする由で、微《ちいさ》い小屋住居にさえ栽えられおる。
〇「金翅鳥の子、修羅の難を免れたる語」(巻三第一〇) 芳賀博士の纂訂本一九三頁に、『私聚百因縁集』より少しく異文の同話を挙げたばかりで、出処も類語も載せず。予もこの語の出処を見出だしえぬが、同態の類語が、姚秦竺仏念訳『菩薩処胎経』四に出でたるを知る。いわく、仏、智積菩薩の問に対うらく、「われ、むかし一時、無央数劫《むおうしゆごう》のあいだ金翅鳥王となり、云々、百千万劫の時に、すなわち海に入って竜を求め食となす。時に、かの海中に化生せる竜子(232)あり。八日、十四日、十五日に、如来の八の禁戒を斎《さい》する法を受く。殺さず、盗まず、婬せず、妄言綺語せず、酒を飲まず、倡伎の楽・香花・脂粉・高広の床をなすを聴かず、非時に食せず、賢聖の八法を奉持す。時に、金翅鳥王は身の長八千由旬、左右の金翅おのおの長さ四千由旬、大海は縦広《じゆうこう》三百三十六万里なり。金翅鳥は翅をもって水を斫《き》り、竜を取る。水いまだ合せざるうちに竜を銜えて飛び出ず。金翅鳥の法は、竜を食らわんとする時は、まず尾よりして呑む。須弥山の北に到れば、大鉄樹の高さ十六万里なるあり。竜を銜えてそこに至り、食※[口+敢]《くら》わんと欲得《ほつ》す。すなわち竜の尾を求むるに、ついに処を知らず、もって日夜を経《ふ》。明日、竜、尾を出して金翅鳥に語る、化生竜はわが身これなり、もし八関の斎法を持せざれば、汝すなわちわれを灰滅せしならん、と。金翅鳥、これを聞いて過ちを悔いて自責す」。それより鳥王その宮殿に化生竜を請じ、八開斎法を受け、誓うて自後殺生せなんだ、とある。『中阿含経』に見えた聖八支斎はすなわち八関斎で、仏教の初生時代にはもっとも信徒間に重んじ行なわれたものだ。『大智度論』に、六斎日に八戒を受け、福徳を修むる訳は、「この日、悪鬼人を逐い、人命を奪わんと欲し、疾病凶衰もて、人をして不吉ならしむ。このゆえに、劫初の聖人は、人に斎を持するを教え、善を修め福をなし、もって凶衰を避けしむ。この時の斎法は、八戒を受けずして、ただ一日食らわざるをもって斎となす。のち仏出世し、教えてこれに語っていわく、汝まさに一日一夜は諸仏のごとく八戒を持し、中《ひる》を過ぎて食わざるべし、と。この功徳、人を将いて涅槃に至らしむ」とある。しかるに仏教支那に入って後、この八関斎は如法に行なわれず、自分の戒行を慎み修めて涅槃を願うよりも、死人の追善を重んじ、四十九日の仏事をもっばら営むこととなったので、八関斎を七七日の施に切り替え、竜と金翅鳥を(類似重複の話が経中に多きを厭い)金翅鳥と阿修羅王と作ったのだろう。『釈氏要覧』に、「『瑜伽論』にいわく、人死して中有の身あり。もしいまだ生縁を得ざれば、七日を極《かぎり》として住し、死してまた生く。かくのごとく展転として生死し、七七日に至って決定して生を得。もし生縁あればすなわち定まらず。今、経旨を尋ぬるに、極善悪のものは中有なし(極善はすなわち浄土に生まれ、極悪はすなわち地獄に生まる)。今、人|亡《ぼう》じて七日ごとに斎を営み追福(233)するは、中有の種子をして悪趣に転生せざらしむるなり」とあるを見ても、七七日の仏事ということは、後世仏教徒間に起こったことらしい。
〇「王宮焼くるに歎かざりし比丘の語」(巻五第一五)芳賀博士の『今昔物語集』の四二九頁に、この語の出処、類話一切出ておらない。予も出処を知らぬが、類話を、趙宋の初め智覚禅師が集めた『宗鏡録』巻六四より見出だした。この書は『今昔物語』の作者という源隆国の薨去よりまず百二十年前に成った。その文は、「諸苦の困しむところは、貪欲を本となす。もし貪心|瞥《ちら》と起これば、五欲の火に焚焼され、覚意わずかに生ずれば、三界の輪に繋縛せらる。如《たと》えば帝釈、修羅との戦いに勝ち、勝堂を造りえて、七宝の楼観、荘厳奇特にして、云々。天福の妙力よくかくのごとし。目連飛び往くに、帝釈、目連を将いて堂を看しむ。諸天女みな目連に羞じ、ことごとく隠れ逃れて出でず。目連念う、帝釈は楽《たのしみ》に著《おぼ》れ、道の本を修めず、と。すなわち火を変化《へんげ》して、勝堂を焼き得、※[火+赫]然《かくぜん》として崩壊す。よって帝釈のために無常を広説す。帝釈歓喜す。のち堂は儼然として灰煙の色なし」というので、多分『四阿含』などの中に出た語と思うが、多忙ゆえ今ちょっと見出だしえぬ。
〇「四国の辺地を通りし僧、知らぬ所に行きて馬に打ち成されたる語(巻三一第一四、『郷土研究』一巻五〇頁参照) 人を馬にする談は諸国に多く、一八八七年板、クラウストンの『俗話小説の移化《ポピユラル・テイルス・エンド・フイクシヨンズ》』一巻四一三至四六〇頁におびただしくアジア、ヨーロッパの諸伝を列ねおるが、アフリカにもその例あるは、一八五三年板、パーキンスの『亜比西尼亜住記《ライフ・イン・アビシニア》』二巻三三章にその証いず。アビシニアでは、ブーダと呼んで、鍛工《かじや》が自分をも他人をも獣に化する力ありとす。著者が遇った人々親しく、片足は人、片足は驢蹄の婦人を観たと言う。この婦死して埋めた墓辺へ一人来たり、僧を語らい、その屍を購《か》い、掘り出し持ち去った。将来《これまで》死人の家の門を過ぎて市へ往く鍛工が、このころから驢に乗って往くこととなったが、その驢がこの家を過《よぎ》り、また家の子供を見ると高声を発し近づき来たらんとする。子なる一人、何となくこれは自分の母だろうと思いつき、人をも驢をも執えると、驢、涙を流し、子に鼻を擦(234)りつける。いろいろ鞫問すると鍛工ついに白状したは、この婦を魔法で死人同様にし、さて埋後購い去って驢に化した、と。それならもとへ復したら罪を赦すと約して、魔法でようようもとへ復し、片足だけ驢蹄だった時、鬱憤爆発してその子が鍛工を槍《つ》き殺したので、その母一生一足驢蹄で終わったという。
 『嬉遊笑覧』一二に、「四国を巡りて猿となるといえる諺は、風来が『放屁論』に、今童謡に、一つ長屋の佐次兵衛殿、四国を廻《めぐ》りて猿となるんの、二人の連れ衆は帰れども、お猿の身なれば置いて来たんの、と言えり。そのころ言いそめしにはあるべからず。諺はもとよりありしにや。さてこの諺は誤ならむ。四国猿ということより移りしか。『旧本今昔物語』に、「四国の辺地を通りし僧、知らぬ所に行きて馬に打ち成されたる語」あり。『奇異雑談』に、丹波奥郡に人を馬になして売りしこと、また越中にて人、馬になるに、尊勝陀羅尼の奇特にて助かりしことなど見ゆ。みな昔物語より言い出でしことなり。さればこの諺久しきことと知らる。後人、これを※[獣偏+暇の旁]と言い替えたりと思わる。また按ずるに『捜神記』に、「蜀中の西南、高山の上に物あり、猿と相類す。長《たけ》七尺、よく人のごとく行《ある》くことをなし、善く走る。※[獣偏+暇の旁]国と名づけ、一に馬化《ばか》とも名づく。あるいは※[獣偏+攫の旁]猿《かくえん》ともいう、云々。女を取って去り、共に室家をなす。その子なきは終身還るを得ず。十年の後、形みなこれに類す」とあり、これなどより出でたることか知るべからず。猿に類すと言えば、猴の方《かた》に似つかわしく、また馬化ともいう名を曲《ひが》めては、馬とも言うべくや」とある。
 諸国の人を馬や驢と作《な》した話について、この方法を按ずるに、あるいは魔力ある薬料を身に塗りつけたり(アプレイウス『金驢篇《デ・アシノ・アウレオ・リプリ》』、西暦二世紀作、巻三)、あるいは魔力ある飲食を与えたり(『奇異雑談』上、一八章。コラン・ド・プランシー『妖怪事彙《ジクシヨネール・アンフエルナル》』一八四五年板、二八頁。クラウストン、上出)、あるいは手綱や轡を加えるのだ(クラウストン、同上。グベルナチス『動物譚原《ゾーロジカル・ミソロジー》』一八七二年板、一巻三四二頁)。いずれもかくして畜《けだもの》となされた後で、鞭笞《むちうち》苦困さるるが、この『今昔物語』の一条のみ、笞をもって打ち据えて、引き起こすと馬になっておったとあるは、この物語の特色と見える。ただし高木君は『幻異志』の板橋三娘子の譚がこの語の本源たること疑いなしと言われたが、そ(235)れに果たして笞で打って驢と作《な》すとありや。予も『幻異志』を見たことがあるが、十九年前のことゆえ、一向記憶せぬ。もし笞で打って驢と作すとあらば、この話の本源たること疑いなきも、そのことなくば、単に類話というべきのみ。高木君は本文を出さぬゆえ詳を知るあたわざるも、その略叙するところを見ると、件の『幻異志』中の譚は、クラウストン一巻九七頁に引いたローマの俗話と同源のものにあらざるか。
 いわく、貧人の二子、林中で大鳥が卵を落としたるを拾うと字を書きつけある。庄屋に見せると、「わが頭を食う者、帝たらん。わが心臓を食う者、金《かね》常に乏しからじ」とある。庄屋、自身頭も心臓も食わんと思い、二人に、これはこの鳥を食うとうまいと書いておる、だから強《したたか》な棒を準備して、かの鳥を俟ち受けて殺せと命ず。かくて翌日二人その鳥を殺し、庄屋を待ち受けて食わんと炙る内、鳥の頭が火の中へ落ちた。焦げたものを庄屋に呈《あげ》るべきでないと思い、弟が拾うて食ってしまう。次に心臓が火の中へ落ちて焦げたから、兄が食ってしまう。ところへ庄屋が来て、大いに失望して怒り散らして去る。父に話すと、かかる上は他国へ出よと言うので、二人あてもなく旅立つ。それから毎夜旅舎で睡ると、兄の枕の下に金が出て来る。弟その金を持って兄より前に都に入ると、ちょうど国王が死んで嗣王を擁立するところだったが、金の光でこの弟がたちまち王と立てられた。かくとも知らず、兄も都に入って、母と娘二人暮しの家に宿ると、例のごとく枕の下から金が毎夜出る。娘この男を賺《すか》して事実を知り、吐剤を酒に入れて飲ませて、かの鳥の心臓を吐き出さしめ、男を追い出す。詮方なく川畔に歎きおると、仙女三人現われ愍れんで、手を探るごとに金を出す袂ある衣をくれる。男愚かにもその金で餽《おく》り物を求め、またかの家へ往く。娘諜してその出処を知り、偽衣を作り、男が睡った間に掏り替える。明旦起き出でてその奸を知れども及ばず。また河畔に往くと、仙女来て、案《つくえ》を打てば何でも出る棒をくれる。また娘の宅へ往き窃《ぬす》まれる。例により例の川辺で、何でも望の叶う指環をもらう。これが最終だから、取られぬよう注意せよと言われたが、懲りずに娘の宅に往き問い落とされる。娘いわく、そんならわれら二人向うの山へ飛び往き、鱈腹珍味を飲食しようと望んで見なさいな。よって男その通り、環に(236)向かって望むとたちまち望み叶う。この時娘、酒に麻薬《しびれぐすり》を入れて男を昏睡せしめ、指環を盗み、自宅へ還ろうと望むと、たちまち還り去る。男眼覚めて大いに弱り、三日泣き続けておびただしく腹空けるゆえ、無鉄砲に手近く生えた草を食うと、即座に驢身に化し、両傍に二籃懸かれり。心だけは確かで、その草を採って籃に容れ、麓まで下りてそこな草を抜くと、たちまち人身に復《かえ》った。よってその草をも籃に入れ、姿を替えてかの娘の宅前に往き、莱を買わぬかと呼ぶ。娘、菜は大好きで、その草を執って嘗《こころ》みると、すなわち驢形に変ず。男これを打ち追って街を通る。その打ちようがあまり酷いゆえ、町人これを捕え王に訴え出る。男その王を見ると骨肉の弟だから、乞うて人を退け事由を談《かた》る。そこで王命じて驢化した女に、兄とともに宅に帰って、従来盗んだ物をことごとく返さしめ、その後霊草を食わせると、もとの人身に復した。  (大正二年十一月『郷土研究』一巻九号)
 
       三
 
  (「四国の辺地を通りし僧、知らぬ所に行きて馬に打ち成されたる語」出典考、承前)
 予一切経を通覧せしも、このローマ俗話そのままの同話また類話はない。しかし前の部分に酷《よく》似たのと、後の部分に大体似たのが別々にある。すなわち唐の義浄訳『根本説一切有部毘奈耶雑事』二七に、※[革+卑]提醯《ヴイデハー》国の善生王の夫人、男児を生む。この児生まれおわりて国民みな飲食を得やすくなったとて、足飲食《すうおんじき》と名づく。書生王の後また別に夫人を娶り子を生み、立てて太子とす。足飲食王子|住《とど》まれば、必ず誅せらるべしとて、半遮羅《パンチアーラ》国に遯《のが》れ、その王女を娶り男児を生む。その日国中飲食得やすかったので多足食《たすうじき》と名づく。ほどなく父王子歿しければ、王命によりその妃をある大臣に再嫁し、多足食王子も母に随ってその大臣方にあり、時に、「大臣の家に鶏あって栖み宿る。相師見おわって、かくのごとき語をなす、もしそれ人あってこの鶏を食らえば、まさに王となるを得べし、と。大臣聞きおわって、(237)相師に問わず、すなわちその鶏を殺し、その妻に謂いていわく、汝、膳を営んで、わが朝《ちよう》より還るを待つべし、と。夫人すなわち烹煮《ほうしや》せしむ。時に多足食、学堂より来たってその母を見ず。飢えの逼るところとなって、沸く鐺《なべ》のあるを見るや、すなわちこの念いをなす、わが母いまだ来たらず、しばらく鐺《なべ》の内を観ん、食うべきものありや不や、と。ついに鶏の頭を見、すなわち截り取って、もって小食に充つ。母すでに来たり至って、問いて、食せりや未や、と言う。答えて言う、まず鶏の頭を食せり、と。母すなわち食を与え、学所に帰らしむ」。大臣帰り見ると鶏頭なし。妻に問うて児が食って去ったと知る。そもそもこの鶏を全《まる》で食って王となりうるか、少しく食うてもなれるかと疑いを成《しよう》じ、かの相師《にんそうみ》に問うと、答うらく、全身を食わずとも、頭さえ食ったら王になる、もし他人が鶏頭を食ったなら、其奴《そやつ》を殺し、その頭を食うと王になる、と。大臣すなわちかの継子を殺さんとて、妻に夫と子といずれが王になって欲しいかと尋ねる。妻、お座なりに夫の方を望むと答え、ひそかに子をしてその亡父の生国へ逃れしめた。その途上で、ちょうど亡父の弟王病死し、群臣嗣王を求むるに出会い、この児人相非凡だから、選ばれて王になった、とある。
  一八四五年板、デ・ボデ男『ルリスタンおよびアラビスタン紀行』二巻一八頁に、グラニ人、年々鶏の宴を催す。各村の戸主各一鶏を僧方に持ち集《よ》り、大鍋で煮た後、その僧一片ずつ鶏肉を一同へ輪次盛り廻るに、鶏頭を得る者は、その年中、特にアリ聖人の贔屓を受くるとて欣喜す。この輩また墓上に鶏像を安置し、鶏像を形代として諸尊者の祠に捧ぐ、と見ゆ。熊楠謂うに、古インドの ※[革+卑]提醯国民も、このペルシアのグラニ人も、梵教と回教を信じながら、以前鶏を族霊《トテム》として尊崇した故風を残存したのであろう。
 また同書三〇に、老娼他の妓輩と賭して、女嫌いの若き商主を堕とさんとて、自分の子も商用で久しく不在なり、名も貌も同じきゆえ、わが子同然に思うとて親交す。商主、老娼の艶容無双なるに惚れ、一所にならんと言い出すと、汝の財物ことごとくわが家に入れたらまさに汝が心を信ぜんと言う。よってことごとく財物を運び入れしを、後門より他へ移し去り、酒に酔い睡れる商主を薦《こも》に裹んで衢《まち》へ送り出す。大いに悲しんで日傭となり、偶然父の親交ありし(238)長者方に傭われに之くと、その名を聞いて憐れみ慰め、女婿とすべしと言う。商主何とか老娼に詐《かた》り取られた財貨を取り還した上にせんと、暫時婚儀の延期を乞う。「この時、遊方《ゆほう》(商主の名)、城を出でて遊観す。大河の中において、死屍あり、流れに随いて去るを見る。岩上の烏鳥その肉を餐《くら》わんと欲し、嘴《くちばし》を舒《の》ぶれども及ばず。はるかに河辺を望み、ついに爪をもって箸を捉り、その嘴を揩拭《こす》るに、その嘴すなわち長《の》ぶ。去《い》ってその死肉を食らい、肉を食らい足りおわるや、また一つの箸を将って嘴を揩り、縮んで故のごとく異なるなからしむ。遊方見おわって、箸を取って帰る。ついに五百金銭を将って、婬女の舎《いえ》に往く。報げていわく、賢首《そもじ》はさきに、銭なきをもってわれを縛して舁《かつ》ぎ出だせり、今は銭物あり、共に歓を同じくすべし、と。女、銭あるを見て、ついにすなわち共に聚《むつ》む。この時、遊方すでにその便《すき》を得て、すなわち一の箸を将ってかれの鼻梁を揩る。その鼻ついに出でて、長さ十尋ばかりなり。時に家のもの驚き怖れ、すべて諸医に命じ、そを救療せしむ。ついに一人もよく旧《もと》に依《もど》さしむるものなし。医みな棄てて去る。女、医の去るを見て、さらにますます驚き惶《おそ》れ、遊方に報げていわく、聖子よ、慈悲もて幸いに旧過を忘れ、相|負《そむ》くを念うなかれ、わがためにこれを治せよ、と。遊方答えていわく、まずまさに誓いを立つれば、われ汝がために治せん、先に奪いしわが財をみな相|還《かえ》さば、われまさにために療すべし、と。答えて言う、もし差《い》えしむれば、倍してさらに相還さん、衆に対し明言す、敢えて相|欺負《あざむ》かんや、と。すなわち一つの箸を取って、かれの鼻梁を揩るに、平復して故のごとし。女、得しところの物をみな出だして相還す。物を得て家に帰り、広く婚会をなす、云々」。
 この二話は、ラルストン英訳、シェフネル『西蔵説話《チベタン・テイルス》』一九〇六年板、八章と一一章に出おるが、唐訳と少しく異《ちが》う。唐訳、英訳ともに趣向すべてローマ譚に似ておるが、草を食わせて女を驢にし報復する代りに、鼻を揩って高くし困らすとしおる。だから高木氏が、この篇の終りに明記を添えられたいのは、『幻異志』には、娘子に草を食わせて驢とすることありや否で、それがあらば、日本には存せぬが、支那にはローマと同源から出た話があったと見てよい。また前にも言った通り、『幻異志』に娘子を笞うって驢と作すと明記あらば、他にこの例はないのだから、この(239)一事が『今昔物語』のこの話が『幻異志』より出た確証に立つはずだ。
  幼時和歌山で老人に聞いた譚に、ある人鼓を天狗とかより授かり、これを打つとお姫さまの鼻が無性に長くなり、また打ち変えると低くなるということあったが、田辺には知らぬ人がちだ。和歌山へ聞き合わせた上、本誌へ寄すべし。
 草を食わせて人を驢とする話、仏経にもあるは、『出曜経』巻一〇に、「むかし一の僑士《たびびと》あり、南天竺に適く。一人と同伴す。かの奢婆羅《じやばら》呪術家の女人と交通す。その人発意して家へ還帰《かえ》らんと欲すれば、すなわち化して驢となり、帰るを得るあたわず。同伴語っていわく、われら積年家を離れ、吉凶災変永く消息なし、汝の意は云何、そも帰らんと欲するや不や、もし去らんと欲すれば、時に莊厳《しようごん》すべし、と。その人報えていわく、われ遠き慮りなく、悪縁に遭値《めぐりあ》い、呪術の女人と交通す。意たまたま帰らんと欲すれば、すなわち化して驢となる。神識倒錯し、天地|洞然《どうねん》として一となり、東西南北を知らず。このゆえをもって、帰るを得るあたわず、と。同伴報えていわく、汝何ぞ愚惑《おろか》なることかくのごときに至るや、この南山の頂に草あり、遮羅波羅《じやらばら》と名づく。それ人の呪術に鎮厭《ちんよう》せらるる者、かの薬草を食らえば、すなわち形《すがた》を還復《かえ》す、と。その人報えていわく、この事を識らず、知るにはまさにいかにすべき、と。同伴語っていわく、汝|次《じゆん》をもって草を※[口+敢]わば、おのずからこれに遇うべし、と。その人、語《ことば》に随い、かの教誡のごとく設《もくろ》みなして驢となり、すなわち南山に詣《いた》る。次《じゆん》をもって草を※[口+敢]い、また人の形を還復す。奇珍異宝を採取し、同伴とともに安穏に家に帰るを得たり」。すでに驢に化った人を人に復す草ありと言うのだから、人に食わせると驢となす草ありとの信念も行なわれたはずだ。
 紀州田辺の昔話に、夫婦邪見なる家へ異人来たり、祈りてその夫を馬に化す。妻懼れ改過し頼むゆえ、その人また祈り、夫の身体諸部一々|人形《じんけい》に復す、と。これ何のよりどころあるを知らずといえども、外国に似た話あり。例せば、アプレイウスの『金驢篇』巻一〇に、ルシウス過って自身に魔薬を塗り、驢に化し見世物に出で、よく持主の語を解(240)するを見て、一貴婦その主に厚く餽《おく》り、一夜化驢と交会して欽を尽せしより、さらに死刑に中れる悪婦をその驢と衆中で婬せしめんとする話あり。けだしローマが共和国たりし昔、ラチウム辺の法、姦婦を驢に乗せ引き廻せし後、その驢をして公衆環視中にその婦を犯さしめたるが、後には多人をして驢に代わらしめ、しばしばその婦死に至った。その間その人々驢鳴して行刑《しおき》したとぞ(一八五一年坂、ジュフワル『遊女史《イストワ・ド・ラ・プロスチチユチヨン》』一巻三一四頁以下)。ギリシアの古伝に、クレト島王ミノス神罰を受け、その后パシプハエにわかに白牡牛に著《じやく》し、熱情抑えがたく、青銅製の牝牛像内に身を潜めて、牡牛の精を受け、怪物ミノタウロス(牛首人身または人首牛身という)を生み(グロート『希臘史』一八六九年板、一巻二一四頁)、エジプトのメンデスの婦女は神廟付属の牡山羊に身を施し、イスラエルの女人また神牛に身を捨てし徴あり(ダンカーヴィル『希臘巧芸の起原、精神およぴ進歩《ルシヤーシユ・スル・デザルト・ド・ラ・グレク》』一七八五年板、一巻三二二頁)。中世欧州の法に、婦女驢と交わるの罪あり。十九世紀にも、馬、驢、牛等と姦し、その畜とともに焼かれし人多し(ジュフワル、三巻二七六頁、六巻一八−二五頁)。近代医家が実験せる欧州婦女畜と交われる諸例、いずれも狗のみが共犯者たりという(ジャクー編『内外科新事彙《ヌーヴオー・ジクシヨネール・ド・メドシン・エ・ド・シルルジー》』三九巻五〇三頁。オット・ストール『民群心理学上の性慾論《ガス・ゲシユレヒツレーベン・イン・デル・フオルカープシコロギエ》』一九〇八年板、九八三−六頁参照)。
 インドには、星占の大家|驢唇仙人《クハローチトハ》の出生談が、『大方等大集経』にもあるが、『日蔵経』の方がやや精しいからそれを引こう。巻七にいわく、この賢劫初、胆波《チヤンバ》城の大三摩王聖主で、「常に寂静を楽しみ、云々、愛染を楽しまず、常にみずから身を潔《きよ》くす。王に夫人あり、多く色欲を貪る。王すでに幸《みゆき》せず、心を遂ぐるところなし。かつて一時において園苑に遊戯し、独り林下にあって止息《しそく》し、みずから娯《たのし》む。驢の合《あつま》る群を見るに、根相出現す。欲心発動し、衣を脱いでこれに就く。驢見てすなわち交わり、ついに胎蔵をなす。月満ちて子を生む。頭耳口眼、ことごとくみな驢に似るも、ただ身《からだ》は人に類して、また麁渋《ざらつ》き、駿毛体を被《おお》い、畜と殊なるなし」。夫人見て怖れ棄てしに、空中にあって堕ちず。驢神と名づくる羅刹婦拾うて雪山に伴れ行き乳哺す。児の福力により、種々の霊草、霊果を生じ、それを(241)食うて全身また驢ならず、すこぶる美男となったが、唇のみ驢に似たり。苦行上達して天竜鬼神に礼拝されたそうな。
 大英博物館宗教部の秘所に、牡牛が裸女を犯すところを彫った石碑があった。もとインドで田地の境界に立てた物で、もし一方の持主が、他の地面を取り込むと、家婦がこの通りの恥辱に逢うという警戒《いましめ》だそうな。めったに見せぬ物だが、予特許を得て、徳川頼倫、前田正名、鎌田栄吉、野間口兼雄諸氏に見せた。『十誦律』六二に、仏比丘が、象、牛、馬、駱駝、驢、騾、猪、羊、犬、猿猴、※[鹿/章]《くじか》、鹿、鵝、雁、孔雀、鶏等における婬欲罪を判ちおる。西暦紀元ごろ、ヴァチヤ梵士作『色神経《カマ・ストラ》』(ラメーレッス仏訳、一八九一年板、六七−八頁)に、根の大小に従い、男を兎、特《おうし》、※[馬+且]《おうま》、女を※[鹿/章]《のろ》、※[馬+草]《めうま》、象と三等ずつに別ち、交互配偶の優劣を論じおるが、別に畜姦のこと見えず。本邦には上古、畜犯すを国津罪の一に算え、今も外邦と同じく、頑疾の者まれに犬を犯すあるを聞けど、根岸|鎮衝《やすもり》の『耳袋』初巻に、信州の人牝馬と語らいし由出だせる外に、大畜を犯せし者あるを聞かず、ある書に人身御供に立ちたる素女《きむすめ》を、馬頭神来たり享け、終わりてその女水に化せし由記したれど、その本拠確かならず。ただし人が獣装をなして姦を行なうことは、ローマのネロ帝をはじめその例乏しからぬ(ジュフワル、二巻三二二頁。『十誦律』巻五六。『ルヴュー・シアンチフィク』一八八二年一月十四日号に載せたる、ラカッサニュ「動物罪悪論」三八頁)。要するに、わが国に婦女が牛馬等と姦せし証左らしきものなければ、たまたま夫の根馬の大きさで常住せんことを願いし話ありとも、本邦固有のものでなく、外より伝えたか、突然作り出したかだろう。
 鈴木正三の『因果物語』下の三に、参州の僧伯楽を業としたが、病んで馬の行いし、馬桶で水飲み、四足に立つなどして狂死せり、と出ず。畜化狂とも言うべき精神病で(洋名リカンツロピー)、他人に化せられざりしと、身体の変ぜず、精神と動作のみ馬となった点が、『今昔物語』の話と差《ちが》う。もし見る人々の精神もともに錯乱したなら、この人身体までも馬に化したと見えるかもしれぬ。しかる時は『今昔物語』の話を実際に現出するはずだ。故に這般の諸話(242)を全然無実と笑い卻《しりぞ》くべきでない。『因果物語』中の三三にも、馬に辛かった者が、馬の真似して煩うた倒三つまで出しおる。欧州に狼化狂多く、北アフリカに斑狼《ヒエナ》狂多く、今も日本に狐憑き多きごとく、寛永ごろ馬を扱うこと繁かった世には、馬化狂が多かったんだ。また同物語、下一六に、死後馬と生まれし二人の例を列ぬ。これは 変化《メタモルフオシス》ならで転生《トランスミグレーション》だ。仏典に例すこぶる多いが、一つを載せんに、仏教嫌いの梵志、かねて沙門が人の信施を食いながら精進せぬと、死んで牛馬に生まれ、かつて受けた布施を償うと聞き、五百牛馬を得るつもりで、五百僧を請じ、食を供える。その中に一羅漢あり、神通力でその趣向を知り、諸僧に食後専心おのおの一偈を説かしめ、さて梵志に向かい、もはや布施をみな済ましたと言ったので、大いに驚き悟道したと、『経律異相』巻四〇に出ちょる。
 欧州にも馬化狂がある。九年前の『ノーツ・エンド・キーリス』によると、ポルトガルにロビショメとて、若い男女形貌|枯槁《ここう》し、長生せず、夜ごとに馬形を現じ、曙光出るまで休みなく山谷を走り廻る。夜中かれが村を走り過ぐる音を聞く土民、十字を画く真似し、「神ロビショメを愍れみ祐けよ」と言う。これを救う法はただ一つ、勇進してその胸を刺し、血を出しやるのだ。あるいは言う、その人顔青く疲れ果て、形容古怪で、他人これと語らず、怖れかつ憐れむ。婦女続けて七男子を生むと、最末子が魔力によってロビショメとなり、毎土曜日、驢形を受け、犬群に追われつつ沼沢、邑里を走り廻り、いささかも息《やす》みなし。日曜の曙を見てわずかに止む。これに創つくれば永くこの患なし、と。またいわく、同国で狼に化する児をヨビショメと言い、今も地下に住むモール人が、嬰児に新月形(回教徒の徽章)を印し、この物に作《な》す、と。熊楠謂うに、ロビショメ、ヨビショメ名近ければ、もとあるいは驢また馬、あるいは狼に化すとしたのが、後に二様に別れたんだろう。これとやや近いのは、同国の俚譚に、王后が馬頭の子でもいいからと、神に祈って馬頭の太子を産み、後年募に応じその妻となった貧女の尽力で端正の美男となった、とある(一八八二年板、ペドロソ『葡萄国俚譚』二六章)。誰も知る通り、インドの楽神|乾闥婆《ガンダールヴアス》は馬頭の神だ(グベルナチス『動物譚原《ゾーロシカル・ミソロジー》』一巻三六七頁)。  (大正二年十二月『郷土研究』一巻一○号〕
 
(243)     四
 
〇「阿闍世王、父の王を殺せる語」(巻三第二七) この話は経・律・論ともにしばしば繰り返されたところで、それぞれ文句が多少|異《ちが》っておる。芳賀博士の纂訂本二五〇−二頁には、出処として『法苑』から『大智度論』と『未生怨経』と『菩薩本行経』を孫引きしおるが、いずれも確《しか》と精密に物語の本文と合わぬ。
 予が明治二十八、九年書き抜きおいた「課余随筆」という物を捜し出し見ると、物語の前半は『仏説観無量寿経』(劉宋訳)から出たらしい。「かくのごとくわれ聞く。一時、仏、王舎城|著闍崛山《ぎしやくつせん》の中にあって、云々」。時に王舎大城の太子|阿闍世《あじやせ》その父を幽す。「七重の室内に置き、諸群臣を制し、一《ひとり》も往くを得ず。国の大夫人、韋提希《いだいけ》と名づく。大王を恭敬し、澡浴清浄にして、酥《そ》と蜜をもって※[麥+少]《むぎこがし》に和し、もってその身に塗り、諸|瓔珞中に葡萄の漿《しる》を盛り、ひそかにもって王に上《たてまつ》る。その時、大王は※[麥+少]を食らい漿を飲み、水を求めて口を漱ぐ、云々」。大目※[牛+建]連、平生王と親しかりしゆえ、「鷹や隼の飛ぶがごとく疾《はや》く王の所に至り、日々かくのごとくして、王に八戒を授く。世尊、また尊者|富楼那《ふるな》を遣わし、王のために法を説く」。三七日かくのごとし。王、守門者を鞫し子細を聞き、怒って、「すなわち利剣を執り、その母を害せんとす。時に一《ひとり》の臣あり、名づけて月光という。聰明多智なり。耆婆とともに王のために礼をなし、大王に白し言う、臣、昆陀《ヴエーダ》論の経説を聞くに、劫初已来、諸《もろもろ》の悪王あり、国位を貪るゆえにその父を殺害するもの一万八千あるも、いまだかつて無道に母を害せるものあるを聞かず。王、今この殺逆のことをなさば、刹利《せつり》種を汚《けが》さん。臣、この旃陀羅を聞くに忍びず。われらまたここに住まるはよろしからず、と。時に二大臣、この語を説きおわり、手をもって剣を按じ、却行《あとじさり》して退く、云々。王この語を聞いて、懺悔して救いを求め、すなわち剣を捨て、止《や》めて母を害せず。内官に勅語して深宮に閉《とざ》し置き、また出でしめず」とある。『宝物集』には葡萄を蒲桃(244)に作れるが、『本草綱目』に「葡萄、一に蒲桃と名づく」とある。芳賀博士が引いた三経よりは、この経の文がずっとよく物語の文に合っておる。なおこの経の異訳諸本を見たら一層よく合ったのもあるだろうが、座右に只今ないゆえ調査が届かぬ。涅槃部の諸経にも阿闍世王父を害したことが出でおるから、それらの中にもあるだろうが、ちょっと見る訳に行かぬ。
 さて物語本文の後半の出処として予が書き留めおいたは、北涼|曇無讖《どんむせん》が詔を奉じて訳した『大涅槃経』で、その巻一九および二〇の文すこぶる長いからことごとくここに引きえぬが、この後半話の出処は一向芳賀氏の本に見えぬから大要を述べんに、耆婆、王に鋭いて、「大王、汝いま阿鼻地獄の極重《ごくじゆう》の業《ごう》をなす。この業縁を必ず受けんこと疑わず、云々。ただ願わくは大王速やかに仏所へ往け、仏世尊を除いて余《ほか》はよく救うなし。われ今汝を愍れむがゆえに相勧導す」という。この時、故父王の霊、像《すがた》なくして声のみあり、耆婆の勧めに随い、仏に詣《いた》れと教え、王これを聞いて大いに病み出す。仏これを知って、「月愛三昧《がつあいざんまい》に入る。三昧に入りおわって大光明を放つ。その光清涼にして、往いて王の身を照らす。身の瘡すなわち愈え、鬱ついに除滅す。王、耆婆に語って言う、かつて人の説くを聞くらく、劫まさに尽きんとすれば、三の月並び現じ、この時に当たって、一切衆生の患苦《げんく》ことごとく除かる、と。時すでにいまだ至らざるに、この光|何《いず》くより来たって、わが身を照燭《てら》し、瘡苦|除愈《いえ》て身の安楽を得しや、と。」耆婆、これは仏の光明なりと説き、仏に詣るべく勧めると、「王いわく、われ聞くに、如来は悪人と同じく止まり坐起し語言し談論せず、なお大海の死屍を宿《とど》めざるがごとし、と、云々」。それより耆婆、長たらしく諸譬喩を引いた後いわく、「大王、世尊もまた然り、一|闡提《せんだい》(無仏性の奴)の輩に、よく根性を知って、ために法を説く。何をもってのゆえぞ。もしために説かずんば、一切の凡夫まさに言うべし、如来には大慈悲なしと、云々」とて、如来が良医のよくいかなる難症をも治するごとくなるを言う。ここにおいて王、しからば吉日を撰んで仏に詣でんというと、耆婆、吉日も何もいらぬ、即刻往きたまえと勧む。王すなわち夫人と厳駕車乗、大行列を随えて仏に詣る。車一万二千、大象五万、馬騎十八万、(245)人民五十八万、王に随行した、とある。物語に五万二千車五百象とあつは、経文があまりに大層だから、加減して何かの本に出たのを採ったのだろ。「その時、仏もろもろの大衆に告げていわく、一切の衆生、阿耨多羅三藐三菩提の近因縁となる者は、善友より先なるはなし.何をもってのゆえに。阿闍世王もし耆婆の語《ことば》に随順せずんば、未月《びげつ》七日、必定命終わり阿鼻獄に堕ちん。このゆえに近因は善友に若くはなし、と。阿闍世王また前路において聞くらく、舎婆提《しやばだい》の毘瑠璃《びるり》王は乗船して海に入り火に遇って死す、瞿伽離比丘は生身にて地に入り阿鼻獄に至る、須那刹多《すなせつた》は種々の悪をなせしに、仏所に到って衆罪滅するを得たり、と。この語を聞きおわり、耆婆に語っていわく、われ今かくのごとき言を聞くといえども、なおいまだ審定せず。汝来たれ、耆婆よ。われ汝と同じく一象に載らんと欲す。もしわれまさに阿鼻地獄に入るべきなれば、冀《ねが》わくは汝|捉《と》り持って、われをして堕ちしめざれ。何をもってのゆえに。われ昔かつて、得道の人は地獄に入らずと聞けばなり、と。」それより仏の説法を拝聴し、証果得道した次第を長々と説きある。
〇「欧尚、死にける父を恋い、墓に菴《いおり》を造りて居住《いす》める語」(巻九第八) 予もこの語の出処を確かに知らぬが、話中の記事に似た二伝説を『淵鑑類函』四二九から見出だしおいた。すなわち「王孚《おうふ》の『安成記』にいわく、都区宝、父の喪におる。黒人虎を格つ。虎その廬に匿る。宝、簑衣《みの》をもってこれを覆い蔵す。虎ゆえをもって免《のが》るるを得《え》、時に野獣を負ってもって報ゆ。宝これによって名を知らる」とあるのが、はなはだ本話に似ておる。「また晋の郭文、かつて虎あり、たちまち口を張って文に向かう。文その口を見るに、横骨あり。すなわち手をもって探り、これを去る。虎、明日に至って、すなわち一鹿を堂前に献ず。」これはローマ帝国のアンドロクルスが、御子の足に立った刺を抜いた礼返しに食を受け、後日またその獅子に食わるべき罰に中りながら、食われなんだ話に似おるが、虎が鹿を献じただけが『今昔物語』のこの話に似ておる。
〇「宿駅の人、遺言に随いて金《こがね》を死にし人に副《そ》えおき徳を得たる語」(巻一〇第二二) この語も芳賀博士は、出処類話(246)ともに出しておらぬ。その話は「今は昔、震旦の□□代に人ありて他洲へ行く間、日晩れて駅《うまや》という所に宿りしぬ。その所に本より一《ひとり》の人宿りして病む。相互いに誰人と知ることなし。しかるに本より宿りして病む人、今宿りせる人を呼び、語りていわく、われ今夜死なんとす、わが腰に金二十両あり、死後必ずわれを棺に入れて、その金をもって納め置くべし、と。今宿りせる人、その姓名、生所を問いあえざるに、この病む人絶え入りぬれば、死人の腰を見るに、実《まこと》に金二十両あり。この人死人の言いしに随いてその金を取り出だして、少分をもってはこの死人を納め置くべき物の具どもを買い調え、その残りをば約のごとく少しも残さず死人に副えて納め置きてけり。誰人と知らずといえどもかくのごとくして家に還りぬ。その後、思い懸けざるに主を知らざる馬離れて来たれり。この人これ定めて様《よう》あらむと思いて取り繋ぎて飼う。しかるに、われ主なりと言う人なし。その後また※[風+火三つ]《つむじかぜ》のために縫物の衾を巻き持て来たれり。それも様あらんと思いて取り置きつ。そののち人来ていわく、この馬はわが子某と言いし人の馬なり、また衾も彼が衾を※[風+火三つ]のために巻き揚げられにしぞ。すでに君が家に馬も衾も共にあり、これいかなることぞ、と。家の主答えていわく、この馬は思い懸けざるに離れて出で来たれるなり、尋ぬる人なきによりて繋ぎて飼う。衾また※[風+火三つ]のために巻き持て来たれるなり、と。来たれる人いわく、馬もいたずらに離れて来たれり、衾も※[風+火三つ]巻き持て来たれり、君いかなる徳かある、と。家の主答えていわく、われさらに徳なし、ただし然々の駅に夜宿りせりしに、病に煩いし人、本より宿りして絶え入りにき、しかるに彼が言いしに随いて、彼が腰にありし金をもって葬り、残りをば少しをも残さず、彼に副えて納め置きてなん還りにし、その人の姓名、生所を知らず、と。来たれる人、このことを聞きて地に臥し丸《まる》びて泣くこと限りなし、いわく、その死人はわが子なり、この馬も衾もみな彼が物なり、君の彼が遺言を違えたまわざるによりて、隠れたる徳あれば顕われたる験《しるし》ありて、馬も衾も、天の彼が物を給いたるなりけりと言いて、馬も衾も取らずして泣く泣く還るに、家の主、馬をも衾をも還し渡しけれども、ついに取らずして去りにけり。その後このこと世に広く聞えありて、その人|直《ただ》しきなりけりとて世に重く用いられけり。これを殆めとして※[風+火三つ]の巻き(247)持て来たれる物をば本の主に還すことなし。また主もわが物と言うことなし。また巻き持て来たれる所をも吉き所ともせるなりとなん語り伝えたるとや」(略分)とある。この故事から始まったとは付会だろうが、とにかく『今昔物語』の成ったころの風俗として、暴風が飛ばし込んだ主知れぬ物品をその家主の所得となしても、後日、本主が異論を言いえず、したがってその場所を吉相の地としたと見える。
 さてこの話の出処らしきものを往年控えおいたのを、今(三月一日)夜見出でたから書きつける。『後漢書』にいう、「王※[立心偏+屯]《おうじゆん》、かつて京師《けいし》に詣《いた》る。空舎の中において、一書生の疾に困しむを見、愍れみてこれを視る。書生、※[立心偏+屯]に謂いていわく、われはまさに洛陽に到るべくして、病を被《こうむ》り、命は須臾にあり。腰下に金十斤あり、願わくはもって相贈らん、死後に骸骨を蔵められんことを乞う、と。いまだ姓名を問うに及ばずして絶ゆ。※[立心偏+屯]すなわち金一斤を鬻ぎ、その殯葬を営み、余金はことごとく棺の下に置く。人の知る者なし。のち帰って数年、県、※[立心偏+屯]を大度《だいど》の亭長に署す。初めて到るの日、馬あり、亭中に馳せ入って止まる。その日、大風一の繍被《ふとん》を飄《ひるがえ》し、また※[立心偏+屯]の前に堕つ。※[立心偏+屯]、のち馬に乗り洛に至るに、馬ついに奔走し、※[立心偏+屯]を牽いて他舎に入る。主人これを見て喜んでいわく、今盗を擒《とら》えたり、と。※[立心偏+屯]に、馬を得し所由《いわれ》を問う。※[立心偏+屯]つぷさにその状を説き、あわせて繍被に及ぶ。主人悵然たること良久しうして、すなわちいわく、被は旋風に随って馬とともに亡《うしな》えり、卿は何の陰徳あってこの二物を致せるや、と。※[立心偏+屯]みずから、書生を葬りしことあるを念《おも》い、よってこれを説き、あわせて書生の形貌および金を埋めし処を道う。主人大いに驚き、号《さけ》んでいわく、これわが子なり、姓は金、名は彦、さきに京師へ往き、所在を知らず。何ぞ意わん、卿すなわちこれを葬らんとは。大恩久しく報いず、天これをもって卿の徳を彰すのみ、と。※[立心偏+屯]、ことごとく被と馬をもってこれに還す。彦の父取らず、また厚く※[立心偏+屯]に遣る。※[立心偏+屯]、辞譲して去る」。この話の方が『今昔』の方より前後よく纏まっておるが、それを記憶し損ねて『今昔』の話ができたのだろう。  (大正三年五月『郷土研究』二巻三号)
 
(248)   俗伝
 
       山神オコゼ魚を好むということ
 
 滝沢解の『玄同放言』巻三に、国史に見えたる、物部尾輿大連、蘇我臣興志、尾張宿爾乎己志、大神朝臣興志、凡連|男事志《おこし》等の名、すべてオコシ魚の仮字なり、と言えり。『和漢三才図会』巻四八に、この魚、和名|乎古之《おこじ》、俗に乎古世《おこぜ》という、と見ゆ。惟うに、古えオコゼを神霊の物とし、資《よ》ってもって子に名づくる風行なわれたるか、今も舟師山神に風を祷るにこれを捧ぐ。紀州西牟婁郡広見川と、東牟婁郡土小屋とはオコゼもて山神を祭り、大利を得し人の譚を伝う。はなはだ相似たれば、その一のみを述べんに、むかし人あり、十津川の奥白谷の深林で、材木十万を伐りしも、水乏しくて筏を出すあたわず。よって河下なる土小屋の神社に鳥居(現存)を献じ、生きたるオコゼを捧げ祈りければ、翌朝水おおく出でてその鳥居を浸し、件の谷よりここまで、筏陸続して下り、細民生利を得ることこれ多し。その人これを見て大いに歓び、径八寸ある南天の大木に乗り、流れに任せて之く所を知らず、と。
 『東京人類学会雑誌』二八八号二二八頁、山中氏が、柳田氏の記を引きたるを見るに、日向の一村には、今もオコゼを霊ありとし、白紙一枚に包み、祝していわく、オコゼ殿、オコゼ殿、近くわれに一頭の猪を獲させ給わば、紙を解き開きて、世の明りを見せ参らせん、と。さて幸いに一猪を獲たる時、また前のごとく言って、幾重にも包み(249)置き、毎度オコゼを紿《あざむ》きて、山幸を求むる風存すとなり。予が紀州日高郡丹生川の猟師に聞くところは、ややこれと異にして、その辺の民は、オコゼを神異の物としてこれに山幸を祈ることなく、全くオコゼを餌として、山神を欺き、獲物を求むるなり。その話に、山神、居常オコゼを見んと望む念はなはだ切なり。よって猟師これを紙に裹みて懐中し、速やかにわれに一獣を与えよ、必ずオコゼを見せ進《まい》らせんと祈誓し、さて志す獣を獲る時、わずかに魚の尾、また首など、一部分を露わし示す。かくのごとくすれば、山神必ずその全体を見んと、熱望のあまり、幾度誓い、幾度欺かるるも、狩の利を与うること絶えず、と。
 上述、日向村民オコゼを紙に包み、もし獲物を与えくれなば、世の明りを見すべしと祈り、獲物ある後も紙を開かず、毎度誓言し、毎度違約するは、不断闇中に霊物を倦苦せしめ、かつこれを紿き通すものなり。『淵鑑類函』巻四四九、「『倦遊雑録』にいわく、煕寧《きねい》中、京師久しく旱す。古えの法令を按ずるに、坊巷にて甕をもって水を貯え、柳枝を挿し、蜥蜴を泛べて、小児呼んでいわく、蜥蜴よ蜥蜴、雲を興し霧を吐き、雨を降らすこと滂沱たれば、汝を放って帰り去らしめん、と。(下略)」。また『酉陽雑俎』巻一一に、蛇医《いもり》を水甕中に密封し、前後に席を設け、香を焼き、十余の小児をして、小青竹を執り、昼夜甕を撃って止まざらしめしに、雨大いに降れり、とあり。これまた霊物を倦苦せしめて雨を祈りしなり。しごくけしからぬことのようなれど、すべて蒙昧の民のみならず、開明をもって誇れる耶蘇教国にも、近世まで、鬼神を欺弄し、はなはだしきは脅迫して、利運を求めし例少なからず。仏国サン・クルーの橋の工人これを仕上ぐるあたわず、渡り初むる者の命を与うべしと約して、魔を頼みて竣功し、さて最初に一猫を放ち渡せしかば、魔不満十分ながら、これを収め去れりと伝え(Collin de Plancy,‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’tom.ii,p.446,Paris,1821)、十六世紀ごろまで、ナヴァル王国の諸市に、久しく旱するごとに、奇妙な雨乞い式あり。河岸へペテロ尊者の像を舁ぎ出し、民衆同音に、われわれを助けよと三回呼び、何の返事もなければ河水に浸せと詈るに及び、僧これを制止し、ペテロ必ず雨を与うべしと保証す。かくする後、二十四時内に必(250)す雨降ると言えり(lbid.,p.434)。支那にも、『博物志』巻八に、「雨を止むる祝《のりと》にいわく、天は五穀を生《そだ》て、もって人民を養う。今、天雨ふること止まず、用《も》って五穀を傷う、如何如何、と。霊にして幸せざれば、牲を殺してもって神霊を賽《まつ》る。雨すなわち止まざれば、鼓を鳴らしてこれを攻め、朱緑の繩を※[螢の虫が糸]《めぐら》してこれを脅かす」と載せたり。タイラーの『ブリミチヴ・カルチュル篇』第二板二巻一四章に、かかる例多く見え、幸運を祈るとて、神霊の像を縛り脅かすさえある世の中に、オコゼや山神を紿きて、獲物を求むる邦民の迷信は、比戟的軽少なりと謂うべし。
 二年前、西牟婁郡近野村にて、予が創見せる奇異の蘚《こけ》Buxpaumia Minakatae S.Okamura はその後また見ず。よって昨年末、当国最難所と聞こえたる安堵峰辺に登り、四十余日の久しきあいだ、氷雨中にこれを索めしも得ず。ついに、まことに馬鹿げた限りながら、山人輩の勧めに随い、山神に祈願し、もしこれを獲ばオコゼを献ぜんと念ぜしに、数日の後、たちまちかの蘚群生せる処を見出だしたり。されば山神はともかく、自分の子供に渝誓《ゆせい》の例を示すは父たるの道に背くものと慮り、田辺に帰りてただちにかの魚を購い、山神に贈らんとて乾燥最中なり。その節、販魚婦に聞きしは、山神特に好むオコゼは、常品と異なり、これを山の神と名づけ、色ことに美麗に、諸鰭、ことに胸鰭勝れて他の種より長く、漁夫得るごとに乾しおくを、山神祭りの前に、諸山の民争うて買いに来る。海浜の民は、これを家の入口に懸けて悪鬼を禦ぐ、と。
 『東京人頬学会雑誌』二七八号三一〇頁と、二九二号三二八頁に、予が、古えわが邦に狼を山神とせる由の考説を載せたり。したがって勘《かんが》うるに、諸種のオコゼ魚、外に刺《とげ》多けれど、肉味美にして食うに勝《た》えたり。もって山神を祭るはその基づくところ、狼が他の獣類に挺《ぬきん》でて、これを啖い好むこと、猫の鼠におけるがごとくなるにやあらん。切に望むらくは、世間好事の士、機会あらば、生きたる狼について実際試験されんことを。
 安堵峰辺にまた言い伝うるは、山神女形にて、山祭りの日、一山に生ぜる樹木を総算するに、なるべく木の多きよう算えんとて、一品ごとに異名を重ね唱え、「赤木にサルタに猿スベリ、抹香、香《こう》ノ木、香榊《こうさかき》」など読む。樵夫この(251)山に入れば、その内に読み込まるとて、懼れて往かず。またはなはだ弾指が樹陰に手淫するを好む、と。この山神は、獣類の長として狩猟を司どる狩神と別物と見え、すこぶる近世ギリシアの俗間に信ぜらるるナラギダイに似たり。ナラギダイは野原と森林に住み、女体を具し、人その名を避けて呼ばず、美婦人と尊称す。常に群をなして、谷間の樹下、寒流の辺に遊び、好んで桃花の艶色をもって美壮夫を誘い、情事をなす。もし人これを怒らせば、たちまち罰せられて不具、醜貌に変ずという(Thomas Wright,‘Essays on England in the Middle Ages,’1846,vol.ii,pp.283-284)。アラチウスいわく、ナラギダイは古ギリシアのネレイダイより訛《あやま》り出ず、と。これニムフスの一部なり。ニムフスはもと童媛の義、下等の自然神、女体にて森林、洞窟、河泉等、住処の異なるに随い部類を別つ。好んで男神と戯れ、また人と媾《まぐわい》す。しかして、その一部ドリャズの存在は、実に樹木盛枯の由るところと言えり(Seyffert,‘A Dictionary of Classical Antiquities,’London,1908,p.420)。和歌に詠みたる山姫、吉野の柘《やまぐわ》の仙女(『類聚名物考』巻一八と三二一に出ず)など、古え本邦にニムフス相当の信念行なわれしを証すべく、女形の山神、山婆、山女郎など、今も伝話するはその遺風と見ゆ。
 『東京人類学会雑誌』二七八号三一〇頁に述べたる通り、紀州田辺、湯川富三郎氏、屏風一対を蔵す。一方は絵にて土佐凰彩色|細《くわ》しく、一方は御家風の詞書なり。狼形の山神オコゼ魚を恋い、ついにこれを娶るを、章魚大いに憤り、その駕を奪わんとせしも、オコゼ遁れて、ついに狼の妻となる譚《ものがたり》にて、文章ほぼ室町季世の御伽草紙に類せり。前半ばかり存すと報ぜしは予の誤りで、全たき物なり。前日全文を写しえたれば、難読の字に圏点を添え、遼東の豕の譏《そし》りを慮りながら、ここに書きつく。
 
 山ざくらは、わがすむあたりの詠なれば、めづらしからずや、春のうらゝかなるおりからは、浜辺こそ見どころおほけれ、めなみおなみのたがひにうちかはし、岸のたま藻をあらふに、千鳥の浮しづみて、なく音もさら(252)也、沖ゆく船の、風長閑なるに、帆かけてはしる、歌うたふ声かすかに聞えて、思ふことなくみゆるもいとおもしろし、塩やくけぶりの空によこをるゝ〔三字傍点〕(たはる?)は、たが恋ぢにやなびくらん、むかふの山より柴といふものをかりはこぶに、花を手をりてさしそへたるは、心なき海郎《あま》のわざにやさしうもおもほゆるかなと、やまの奥にてはみなれぬことども、山の神あまりの興にぜうじて、一首くはせ〔三字傍点〕たり、をかしげなれども心ばかりはかくなん、
  塩木とる、海郎のこゝろも、春なれや、
  かすみ桜の、袖はやさしも、
とうち詠じて、あそここゝをうそ/\とまどひゆく、
 こゝにおこぜの姫とて、魚の中にはたぐひなきやさものあり、おもてのかゝりは、かながしら、あかめばるとかやいふらんものにゝて、ほねたかく、まなこ大にして、口ひろくみえしが、十二ひとえきて、あまたの魚をともなひ、なみのうへにうかび出つゝ、春のあそびにぞ侍べる、あづま琴かきならし、歌うたふ声をきけば、ほそやかなれどもうちゆがみて、
  ひくあみの、めごとにもろき我なみだ、
  かゝらざりせばかゝらじと、後はくやしきうれし船かも、
とうたひつゝ、つまをとたかくきこえ侍べり、
 山の神つく/”\と立間て、おこぜのすがたをみるよりも、はやものおもひの種らなみ〔三字傍点〕(ならめ?)、せめてそのあたりへもちかづきてとはおもへども、水こゝろをしらね(253)ばそもかなはず、はまべにつくまりてこでまねきしければ、あなこゝろうや、みるものゝありとて、水そこへがば/\とはいりぬ。
 さるにても山の神は、ひくやもすそのあからさまなる、おこぜのすがたいま一めみまほしく、たち帰り侍べれども、またも出ず、日もはや夕ぐれになりければ、しほ/\としてやまの奥にたちかへり、ねたりおきたり、ころびをうてども、このおも影はわすられずして、むねふくれこゝちなやみて、木のみかやのみ取くらへども、のどへもいらず、ただ恋しさはまさり草の、露ときえてもとはおもへども、しなれもせず、其夜もあけゝればまた浜辺に立いでゝ、もしやさりともうきあがるかと、沖のかたをみやれども、しら波のみうちよせて、その君は影も見えず、山の神はなみだのえだをりにて〔七字傍点〕(を栞りにて?)、うとら/\とまたもとのすみかに立帰り、いかならむたまたれのひま、もりくる風のたよりもあれかし、せめては思ひのほどをしらせて、なからむ跡までも、かくとだにいひ出し侍べらば、後の世のつみとがも、すこしはかろくあるべきを、やまにすむ程のものは水のこゝろをしらず、また水にすむやからは山へはきたらず、いかにとかせむことはと、大いきつきて思案する、さればこそ、都のうち、因幡堂の軒の口なる鬼甍〔傍点〕(瓦?)は、故郷の妻がかほにゝて、都なれども、旅なれば恋しく侍るとて、さめ/”\となきけん人の心にて、思出されはべり、こひぞせられ侍べる、
 かかるところへ獺かけまゐり、たそやは、山の神のなくは、いかにもして、(254)神の事しろしめしたり〔七字傍点〕しか/”\の事侍べり、文ひとつゝかはし侍べらんに、とゞけて給はれといふ、かわうそきいて、其おこぜはきわめてみめわろく侍べり、まなこ大にしてほねたかく、口ひろく色あかし、さすがに山の神などのうれし〔三字傍点〕(かれら?)に恋をさせ給ふなんと、よそのきこえもをこがましと申せば、山の神、いやとよ、女の目にはすゞをはれといふこと有、目の大なるは美女のさう也、ほねたかきは又貴人のさう也、口ひろきは知恵のかしこきしるし也、いづくにもけぢめなき姫なれば、誰のみさせたまふとも、心をかけずといふことなからん、さや〔二字傍点〕(左様?)にあしくとりざたするは、世のならひぞかしとて、思ひいれたるありさま、まことにゑんあれば、いくちもえくぼにみゆるかなと、をかしさはかぎりなし、さらば御文かき給へ、つたへてまいらせんといへば、山の神よろこびつゝ、文かゝむとすれども紙はなし、木のかはを引むしりて、思ひのほどをぞかきたりける。
 ぁまりにたへかねて、御はづかしながら一筆〓《まいらせそろ》、いつぞや浜辺にたち出て、春のながめに海つらを見まいらせゝつは、波のうへにうきあがらせ給て、あづま琴をかきならし、歌あそばせし御すがた、花ならば梅桜、たをやかにして、柳の糸の風にみだるゝたとへにも、なをあきたらず、思ひ〓《まいらせそろ》、我身は深山のむもれ木の、くちはてゆかむもちからなし、おもひの末ののこりなば、君が身の上いかにせん、せめて手ふれししるしとて、御返事給はらば、御うれしく〓《まいらせそろ》、(255)とかきておくに、
かながしら、めばるのをよぐ波のうへ、
  みるにつけても、おこぜ恋しき、
とよみて獺にこそわたしけれ、げにも山かたおくふかくすみけるものとて、文のこと葉もいとゞふつゝかに、さるか可〔二字傍点〕(かた? また歌?)のきたなげさよとて〔傍点〕(そ?)、かわうそもこゝろには思ひけらし、
 かくて獺は、いとゞはなうそやき〔二字傍点〕(ぶき?)つゝ、浜辺にたち出で、海の底につぶ/\と水練し、おこぜの姫にたいめんして、しか/”\とかたりければ、おこぜはこれをきゝて、おもひもよらぬ御事かなとて、手にも文をばとらざりけり、
 獺は、あゝつれなの御ことや、藻にすむ虫のわれからと、ぬらすたもとのそのしたにも、なさけは世にすむ身の上に、なくてはいかになら柴の、かりのやどりの契りだに、おもひをはらすならひぞかし、ましてやこれはつねならぬ、後は契りの底ふかく、恋にしづみしそのこゝろを、いかでかたゞにはすごし給はん、しほやく海士《あま》のけぶりだに、思はぬかたになびくらん、春の青柳風吹ば、かならずなびく枝ごとに、みだれ心のあはれさを、すこしはおぼししらせ給へなと、さま/”\に申しければ、おこぜはつく/”\とうち聞て、さすがに岩木ならねば、御はづかしく侍べれどもとて、
 おぼしめしよりたる水くきのすゑ、御こゝろのほどもあはれに思ひまいらせ候へども、たゞかりそめのうはべばかりに、空なさけかけられまいらせして、秋の草(256)葉のかれ/”\に、候はん時は中/\、後にはまくずが原に風さはぎて、恨み候はんもいかゞにて、御入候、とかくさも候はゞ、おもひすてさせしてたまわり〔傍点〕(れ?)かし、あはぬむかしこそはるかのましにて、今のおもひにくらぶればと申すことも、御入候ぞや、まことにかくとおぼしいれさせ給はゞ、我身は青柳の糸、君は春風にて、御入候はんとおもひをき〓《まいらせそろ》。
とかきて、
  おもひあらば、たま藻の影に、ねもしなん、
  ひしきものには、波をしつゝも、
とうち詠じて(熊楠謂う、「ヒジキ」藻を敷物に言い懸けたるなり)、獺にわたしければ、よろこぴて立帰り、山の神に見せければ、うれしなきになみだをこぼして、返事ひらき、よみてみれば、我身は青柳の糸、君は春風と書給ひしは、なびき侍らんといふ事なるべし、さらば今宵おこぜの御もとへまいるべし、とてもの御事にみちしるべして給はれといふ、やすき御事也、御とも申さんといふ、かゝる処にたこの入道、このよしをつたへ聞て、さても無念のことかな、それがしおこぜのもとへたび/\文をつかはすに、手にだにもとらず、なげかへし侍べるに、山の神のをくりし文に返事しけるこそ、やすからね、法師の身なればとかくあなどりて、いかやうにやいたすらん、烏賊の入道はなきか、をしよせてそのおこぜふみころせとぞののしりける、
 烏賊の入道うけたまはり、おなじくは御一門めしあつめて、をしよせたまへと申け(257)れば、しかるべしとて、蘆鮹〔二字傍点〕(足長鮹)、手なが章魚、蛛?〔二字傍点〕(鮹)飯だこ、あをり烏賊、筒烏賊にいたるまで、使をたてゝめしよせ、はやをしよせむとひしめきたり、
 おこぜは此よしきゝつたへ、このまゝこゝにあらむよりは、山のおくにもかくればやとおもひつゝ、波のうへにうきあがり、あかめばる、あかう、かながしらをともなひて、山の奥にわけいりければ、おりふし山の神、かわうそをともなひて、浜べら能遣〔二字傍点〕(の去る?)所に候てはつたと行あふたり、やま神みわあまりのうれしきにうろたへて、おはせて、山々にわおこたりし〔九字傍点〕(?)、山の奥は海の飢上、川うそをおこせけりと〔三字傍点〕(?)、らちもなきことゞもいひちらし、それよりうちつれて、をのがすみかに急場〔二字傍点〕(?)に帰ゑり、連理のかたらひをなしたるとぞきこえし。   (明治四十四年二月『東京人類学会雑誌』二六巻二九九号)
 
     イスノキに関する里伝
 
 イスノキ Distylium racemosum Sieb.et Zucc.は、九州およぴ熊野等、暖地産の常緑樹にて、マンサク科に属す。ヒョンノキとも呼ぶ。『和漢三才図会』巻八四にいわく、「その葉の面《おもて》に、子《み》のごとくなるもの脹《ふく》れ出て、中に小虫あって化出す。殻に孔の口あり、塵埃を吹き去れば空虚《から》となる。大なるものは桃李のごとく、その文理《きめ》は檳榔子《びんろうし》のごとし。人用いて胡椒、秦椒等の末《まつ》を収め、もって匏瓢《ひようたん》に代う。ゆえに俗に瓢《ひよう》の木という。あるいは小児、たわむれにこれを吹いて笛となす。駿州に多くこれあり。祭礼にこの笛を吹いて神輿《みこし》に供奉す、云々」。
(258) 紀州西牟婁郡稲成村大字糸田に、大なるイスノキあり。俗に疣の木と称す。年々小さき網翅虫その葉に子を産みつけ、上記の虫※[穴/巣](没食子)を生ずる。初めその状すこぶる疣に類するゆえなり。疣を病む者、この木のかたわらなる地蔵の石像に祈り、その小枝を折り、葉にて疣を撫で、捨て帰るに必ず平癒すと伝う。疣が人体を離れて木に徙るという。また紀州の里俗、疣ある者、棒をおのが身と木との間に、橋のごとくに渡し、「疣橋渡れ」と三度唱えながら、指にて木を軽く打って橋を渡るに擬すれば、疣速やかに癒ゆ。別に何の木と定まりたることなしという。英国にも、ハンノキの芽を疣の数だけ取って、これを埋むれば、たちまちこの患を除くということ W.G.Black,‘Folk-Medicine,’1883,p.667 に見ゆ。思うにこれらは、最初諸木の葉に生ずる虫※[穴/巣]の疣様なるより、人の疣を樹に移し得と信ずること、件の糸田の疣の木におけるがごとくなりしより起これるならんか。
 支那の先王の八音、金、石、絲、竹、匏、土、革、木の中に、土の楽器は※[土+薫]《けん》なり。『和漢三才図会』巻一八に、「『事物紀原』にいわく、『世本』に※[土+薫]は暴辛公《ぼうしんこう》の造るところと謂うは非なり、徳音の器にして、聖人のつくるところなり。『拾遺記』に、庖犠《ほうぎ》※[土+薫]をつくる、と言えり。けだし、※[土+薫]は土を焼いてこれをつくる。大いさは鵝の卵のごとく、上を鋭くし底を平らにし、称《はかり》の錘《おもり》に似て六孔あり、と」とあり。『白虎通』に、その卦は炊に中り、その方は西南に位す、と言えり。その図を視るにヒョンの笛に似たり。その始めはかかる虫※[穴/巣]を吹きしより起こりしかと惟わる。十七年ばかり前、大英博物館に近き店に、不断斬新の翫具を売り出す所あり。※[土+薫]の図に酷似せる、赤き土製の楽器に、音譜と使用伝授書を添え売り出せしを見るに、ocarina という物なり。よって手近き字書、類典などを捜せしも見当たらず。ウエストミンスターの学僧兼飲仙ジーン・ハーフォードに尋ねしに、これは支那の※[土+薫]のごとき音楽にもあらず、聖作にてもなし、ほんの俗謡に合わせて児童の翫ぶ具なり、と答えられし。昨年出板の『大英類典』一九巻九六五頁に、オカリナの短き一条あり、いわく、イタリア創製の器にて、児戯具また奇品たるに過ぎず、ただし合奏に用ゆべく譜曲を作れるものはあり、普通に十孔を有す、云々、と。されば※[土+薫]と何の関係もなきものなり。愚案に、※[土+薫]、唐音ヒエ(259)ン、イスノキのヒョン、ともにその鳴る声に基づける名たること、わが邦のビヤボン、ポコンポコン、英語のドラム(太鼓)、タムタム(拍鼓)に等しきものか。
 ついでに述ぶ。都智山と高田村のあいだに、烏帽子岩とてはなはだ淋しき処あり、魔所の由。むかし尾張で最上の陶器を焼くに、イスノキの灰を土に和するを要し、この所にイスノキ多ければとて採りに来るを常とせり。ある時その使い一人、この岩に登り四辺を観察して、申の刻を過ごせしに、周囲の草木風なきにおのずから動き出だしければ、狼狽して逃げ還れり、と。咄を聞いて予暮に及んで独りそこに行き見しに、果たして凰吹かずに、水楊《かわやなぎ》、コアカソなど動揺して止まず。気味悪きを我慢して詳察せしに、叢下に多き細流に、水楊の細根おおく浸りおり、水これに激して小木みな揺らげるなり。諸国の里譚に、風なくて草木震動すというは、こんなことから速断して生ぜるなるべし。   (明治四十四年十月『人類学雑誌』二七巻七号)
 
     睡眠中に霊魂抜け出ずとの迷信
 
          谷津直秀「睡眠中に霊魂の抜け出ずとの迷信」参照
          (『東京人類学会雑誌』二五巻二八九号二八二頁)
 
       一
 
 本邦にこの迷信を記せるもの多きうち、顕著なる一例、南溟の『続沙石集』(寛保三年自序あり)一巻六章に、中京のある家の婦、主人の親属なる男と情を通ぜるが、かの男本妻を迎えんとすと聞き、しきりに怨み臥したる夜半、にわかに叫び起き、双び臥したる女どもに語る。某街の門を出でんとするに、向うより人来たるを見て、隠れんとするを、かの人剣を扱いてわれを斬りつくると夢見て寤むる、と。明朝、人来て告ぐ、今日は珍しきことあって、只今までそのことに係りて往反せり。昨夜更けてわが相識れる医者、某街の門を通り過ぎんとする時、髪を乱し、恨めし気なる(260)さましたる若き女、行き違わんとしてまた立ち帰り隠れんとす。影のごとくにて進退に脚音なし、声掛けしも応えず、身の毛いよいよ立って恐しかりければ、剣を抜いて斬りつけたり。たちまち消えてその人なし。医者剣を捨てて帰りしを今朝その街に往って乞うに、かりそめに還すまじと、むつかしくなって、ようやく只今事済みけり、と。その所その町の名もたしかに聞きたれども、なお十年にもならぬことゆえ、わざと記さず。この女、男を恨み、思い寝の一念、影のごとく人目に見ゆるばかり現われ、男の許に往かんとせしこと疑いなし、と。
 七年前厳冬に、予、那智山に孤居し、空腹で臥したるに、終夜自分の頭抜け出で家の横側なる牛部屋の辺を飛び廻り、ありありと闇夜中にその状況をくわしく視る。みずからその精神変態にあるを知るといえども、繰り返し繰り返しかくのごとくなるを禁じえざりし。その後 Frederic W.H.Myeers,‘Human Personality,’1903,vol.ii,pp.193,322 を読んで、世にかかる例尠なからぬを知れり。されば蒙昧の民が、睡中魂抜け出ずと信ずるは、もっともなことにて、ただに魂が人形を現わして抜け出ずるのみならず、蠅、蜥蜴、蟋蟀、鴉、鼠等となりて、睡れる身を離れ遊ぶという迷信、諸方の民間に行なわる(Frazer,‘The Golden Bough,’1890,vol.i,p.126)。したがって急に睡人を驚起せしむれば、その魂帰途を誤り、病みだすとの迷信、ビルマおよびインド洋諸島に行なわれ、セルビア人は、妖巫眠中、その魂蝶となって身を離るるあいだ、その首足の位置を替えて臥せしむれば、魂帰って口より入るあたわず、巫ために死すと伝え、ボンベイにては、眠れる人の面を彩り、睡れる女に鬚を書けば罪殺人に等し、と言えり(同書一二七頁)。二十年前、予広東人の家に宿せし時、彼輩の眠れる顔を描きて鬼形にし、またその頬と額に男棍を画きなどせしに、いずれも起きてのち、鏡に照らして大いに怒れり。その訳を問いしに、魂帰り来たるも、自分の顔を認めず、他人と思って去る虞あるゆえとのことなりし。
 また按ずるに、義浄訳『根本鋭一切有部毘奈耶雑事』巻二七、多足食《たすうじき》王子、仮父に殺さるるを慮り、※[革+卑]提醯国に奔る。途中樹下に困睡す。たまたまその国王|※[歹+且]《そ》して嗣なく、大臣ら、しかるべき人を求むるに、この王子非常の相ある(261)を見て、触れてこれを寤《さ》ます。王子覚めていわく、王を覚ますに然くすべけんや。諸人その法を問う。答えていわく、「まず美音を奏し、ようやく覚悟《めざ》めしむ」と。「群臣いわく、これは貧しき子にあらず、定めて高門に出でしならん、」と」。よって質《ただ》してその先王の甥たるを知り、立てて王となす。これにて、インドに古く、突然貴人を寤まさず、音楽を奏し徐々《そろそろ》これを起こす風ありしを知る。『和漢三才図会』巻七一に、伊勢国安濃郡内田村、長源寺の堂の縁に、土地の人と日向の旅人と、雨を避けて眠れるを、倉卒《にわかに》呼び起こされ、二人の魂入れ替わり、おのおのその家に還りしも、家人承引せず。再び堂の縁に熟眠中、魂入れ替わり復旧せりと述べ、ある紀を引いて、推古帝三十四年、件の両国の人死して蘇生せしに、魂入れ替わりしゆえ、二人を交互転住せしめし由言えり。このある紀とは、有名の偽書、『先代旧事本紀』なりしと記臆す。全くの妄譚なり。ただしこれに似たること、『紀伊続風土記』巻八五に出ず。いわく、東牟婁郡野竹村民弥七郎、元文中七十歳ばかり、病んで悶絶し、しばらくして人々に呼ばれて甦りしも、言語態度とみに変わり、妻子を識らず、木地引の語をなす(木地引者近江の詞多し。本年一月の『文章世界』、柳田国男氏の「木地屋物語」参看)。そのころ、当村の奥山に住みし木地引弥七郎死し、その魂いまだ消失せざるに、同名を呼ばれ、来てこの老人と入れ替わりたるなるべし、蘇生後十余年経て死せり、と。    (明治四十四年八月『人類学雑誌』二七巻五号)
 
       二
 
 『人類学雑誌』二七巻五号三一二頁に拙文出でてのち、石橋臥波君その著『夢』の一篇を贈らる。その五三、九一、一〇七、二〇〇等諸頁に、本題に関する例多く載せたり。今少しく引いて管見を添えんに、まず『伊勢物語』に、情婦の許より、今霄夢になん見え給いつると言えりければ、男、
  思ひ余り出でにし魂のあるならん、夜深く見えば魂結びせよ
と詠みし、とあり.和泉式部が、男の枯れ枯れになりにけるころ、貴船に詣でたるに、螢の飛ぶを見て、
 
       (262)  物思へば沢の螢もわが身なり、あくがれ出づる魂かとぞ見る
と詠めり、と『古今著聞集』に見えたる(『沙石集』巻五には、沢の螢を沢辺の螢とせり。彼女の家集には全く載せず)。また『拾芥抄』に、「玉は見つ主は誰とも知らねども結び留めつ下かへの裾」、「人魂を見る時、この歌を吟じ、著るところの衣裾(男は左、女は右)を結ぶべし」とあるなどと攷合して、中古本邦に、霊魂夢中、また心労はなはだしき時、また死亡前に身を離れて他行するを、他の眼に火の玉と見ゆると信ずる俗習ありしを知り得。
 式部の歌の外に、苦悶極まる時、火の玉外出すと信ぜるを証すべきもの、『義残後覚』巻三、「人ごとに人玉というもののある由を、歴々の人歴然のようにの給えども、しかと受けがたく候いしが、北国の人申されしは、越中の大津の城とやらんを、佐々内蔵介攻め申されしに、城にも強く禦ぐといえども、多勢の寄せて手痛く攻め申さるるほどに、城中弱りて、すでにはや明日は打死せんと、おいおい暇乞いしければ、女|童部《わらんべ》泣き悲しむこと類いなし。まことに哀れに見え侍りし。かかるほどに、すでにはや日も暮れかかりぬれば、城中より天もくほどなる光り玉、いくらという数限りもなく飛び出でけるほどに、寄せ衆これを見て、すわや城中は死に用意しけるぞや、あの人玉の出ずることを見よとて、われもわれもと見物したりけり。かかるによりて、降参して城を渡し、一命を宥《なだ》め候様にとさまざまあつかいを入れられければ、内蔵介この義に同じて事調うたり。さてはとて上下悦ぶこと限りなし。かくてその日も暮れければ、昨日飛びし人玉またことごとくいずくよりかは出でけん、城中さして飛び戻りけり。これを見る人幾許という数を知らず、不思議なることどもなり」とあり。
 死する前に人玉出ずること、『和漢三才図会』巻五八に見ゆ。欧州にもしかく言う由、例せば Hazlitt,‘Faiths and Folklore,’1905vol.ii,p580 に見ゆ。デンマークにて、小児の人玉は小さくて赤く、大人のは大なれど淡赤く、老人のは青しと言い、ウエールスでは、大人のは大にして赤く、小児のは小さくして淡青しと言う(拙文“Life-Star Folk-lore,”Notes and Queries,Luly13,1907,p.34 を見よ)。ギリシア海島には、火の玉を、空中の鬼が死人の魂天に上るを(263)妨ぐる現象とする民あり(Bent,‘The Cyclades,’1885,p.48)。支那の葬法に復の式あり。復は魂を取り戻すの義なり。死人の衣を更うるに先だち、浄衣を持って屋棟に上り、北に向かって還りたまえと三呼し、かくて魂を包める衣を持ち下り、絹紐もて括りて魂去るを防ぎ、飲食を奉ずること生時のごとくし、日数経て尸《しかばね》を葬る。この法今も行なわるる所ありとぞ。『日本紀』巻一一、大鷦鷯尊、菟道稚郎子自殺して三日なるに、みずから髪を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果たして薨じたまえる由を載す。ただし、魂を結び留めしこと見えず。ホス人、バンクス島人、フィジー島人らも、死人の魂を呼び戻して葬りし由なれど、今も然るや否を知らず(予の“On Chinese Beliefs about the North,”Nature,vol.li,p.32,1894)。Geo.Brown,‘Melanesians and Polynesians,’1910,p.399 に、南洋のヨルク公島人、人玉を幽霊とすとあれど、魂結びなどのことを記せず。本邦に嫉妬酷き妻の生魂、火の玉となって、夫の亡者の墓に赴き、その火の玉と闘い勝ちし談ありしと記臆すれど、出所を忘れたり。また『晋書』に、「東海王越死す。帝哀痛す。越の柩は焚かれ、すなわち魂を招いて、越を丹徒《たんと》に葬る。中宗もって礼にあらずとなし、すなわち詔を下していわく、それ冢はもって形を蔵す、廟はもって神を安んず、今の世の招魂葬なるものはこれ神を埋むるなり、それこれを禁ぜよ、と」と見ゆ。
 石橋君、『古今集』の歌に「思ひやる境遙かに成りやする惑ふ夢路に逢ふ人のなき」とあるを、「これ遠ければ夢に入らずとするものにて、近ければ霊魂肉体を離れて、夢に入るとするものなり」と評せり。一両年前歿せし英国稀有の博言家ゼームス・ブラットいわく、支那人は、その幽霊が支那領土と他邦における居留地の外に現ぜずと信ず、と。『五雑俎』巻一五にもいわく、「江北には狐魅多く、江南には山※[鬼+肖]《さんしよう》(人の宅に拠り婦女に婬する鬼)多し。鬼魅のことは、なしと謂うべからざるなり。余の同年の父、安丘の馬大中丞、浙・直を巡按する時、狐の惑わすところとなる。万方これを禁《はら》えども、得べからず。日に※[兀+王]※[病垂/祭]《おうさい》に就き、ついに病と謝《もう》して帰る。魅もまた相随えり。淮を渡って北すれば、すなわちまた至らざりき」。これ妖怪もおのずから繩張りあって、その外に往きえざるなり。日本にも『江談抄』に、(264)唐人、吉備公を密星に幽赦せんとせし時、阿部仲麿の亡魂現われ、一族子孫が故郷における近況を聞かんとて、現わるるごとに、会う人驚死すと語り、公より阿部氏七、八人、当時の官位形勢を聞き知って大悦し、公に秘事を伝えて、その厄を脱せしめし由を筆せるは、幽霊もあまり遠方に到りえずとせる証にて、石橋君の評説に照らして興味あり。
 欧州にも古え夢中に魂抜け出ずるとせる例、スコットランドにて、二人暑を避けて小流辺に憩い、その一人眠りけるに、口より黒蜂ほどの物出でて、苔を踏んで、流れが急下する上に横たわれる枯草茎を歩み、対岸の廃舎に入るを、今一人覩て驚き揺り起こせしに、その人寤めて面白き夢を破られつる、われ眠中沃野を過ぎ、宏河の辺に出で、滝の上なる銀の橋を渡り、大宮殿裏金宝堆積せるを取らんとせるところを起こされきと怨めり、という譚あり。また六世紀にバーガンジー王たりしゴンドラン、狩に憊《つか》れて小流側に睡りしを、一侍臣守りけるうち、王の口より一小獣出で、河を渡らんとしてあたわず。侍臣刀を抜いて流に架すれば、小獣すなわち渡って、彼岸の小丘麓の穴に入り、しばらくしてまた出で、刀を踏んで還って王の口に入る。ここにおいて王寤めて語るらく、われ稀代の夢を見つ。たとえば磨ける鋼の橋を踏んで、飛沫四散する急流を渡り、金宝盈足せる地下宮に入りしと覚ゆ、と。よって衆を集め、その所を掘っておぴただしく財物を獲、信神慈善の業に施せりという(Chambers,‘The Book of Days,’1872,vol.i,p.276)。
 人の魂死して動物と現ずる例、『日本紀』巻二、蝦夷《えみし》、田道《たじ》を殺して後、その墓を掘りしに、田道大蛇となって彼らを咋い殺す、と載せ、『今昔物語』等に、女の怨念蛇に現ぜし話多し。『新著聞集』一一篇に、下女死して貯金に執着し、蠅となって主人の側を離れざりし談あり。英国に、蛾を死人の魂、また魅(フェヤリー)とする地あり。ギリシア語に、蛾も魂も同名なるに似通えり(Keightley,‘The Fairy Mythology,’ed.Bohn,1884,p.298,n.)。
 グリーンランド人、霊魂、睡中体を脱し、狩猟、舞踏、訪交すと言うは、正しくかかる夢を見るに出ず。北米インジアン、夢に魂抜け出でて、物を求むることあらんに、覚めてのち力めてその物を手に入れずば、魂ついに求め煩う(265)て全く身を去り終わる、と言う。ニュージ−ランド人は、魂、夢に死人郷に入り、諸亡友と話すと信じ、カレンスは、夢に見ること、ことごとく魂が親しく見聞するところ、と信ず。濠州土人、コンド人等、その巫祝、夢に神境に遊ぶとす。アウグスチン尊者の書に、人あり、一儒士に難読の書の解釈を求めしも、平素応ぜざりが、ある夜その人就牀に先だち、儒士来てこれを解きくれたり。後日に及び、そのゆえを問い、甫めて儒士の魂が、夢に体を出で問う人の室に現じ、そのいまだ眠らざる間にこれを教えたるを知れり、と載せたり(Tylor,‘Primitive Cultur,’New York,1888,vol.i,pp.437,441)。ニューブリツン島人は、霊魂、人形を具し、常にその体内に棲み、眠中また気絶中のみ抜け出ると信じ、眠たき時、予の魂他行せんと欲すと言う(和歌山市の俗、坐睡を根来詣りと称す。寐と根、国音近きに出ずる洒落ながら、もと睡中魂抜け出ると想いしに出ずるや疑いを容れず)。サモア島民の信、ほぼこれに同じく、夢中見るところ、霊魂実にその地に往きそのことを行なえりとす(Brown,oP.cit.,pp.192,219)。
 熊楠按ずるに、霊魂不断人身内に棲むとは、何人にも知れ切ったことのようなれど、また例外なきにあらず。極地のエスキモーは、魂と身と名と三つ集まりて個人をなす。魂常に身外にありて、身に伴うこと影の身を離れざるごとく、離るれば身死す、と信ず(Rasmussen,‘The People of the Polar North,1908,p.106)。神道に幸魂、奇魂、和魂、荒魂等を列し、支那に魂魄を分かち、仏典に魂識、魄識、神識、倶生神等の名あり。古エジプト人は、バイ(魂)の外にカ(副魂)を認めたり(第一一板『大英類典』九巻五五頁)。これらは、魂の想像進みて、人身に役目と性質異なる数種の魂ありと見たるにて、その内に眠中死後体に留まる魂と、抜け出ずる魂とありとせるやらん。近代まで、多島洋民中には、死後貴人の魂のみ残り、下民の魂は全く消失すと信ぜる者ありたり(Waitz und Gerland,‘Anthropologie der Naturvolker,’1872,Band VI,S.302)。
 アフリカのイボ族の人いわく、祖先来の口碑の外に、霊魂が睡眠中抜け出ずるを証するは、夢もっとも力あり、と(A.G.Leonard,‘The Lower Niger and its Tribes,’1906,p.145)。トマス氏が『大英類典』一一板八巻に筆せる夢の条(266)にいわく、下等人種、夢の源由を説くに二様あり。一は魂が外出して、身外の地処、生人、死人を訪うとし、一は死者等の魂が来てその人に会うとするなり、と。いずれにしても、荘周が「その寐《い》ぬるや魂の交わり、その覚むるや形の開く」と言えるに合えり。またいわく、デカルツの徒は、生存は考思に憑るとす。したがって心は常に考思すれば、睡中夢実に絶えず、と説く。これに反して、ロックは人、夢中のことを常に知るなし。覚醒中の魂、一考過ぐればたちまちこれを記せず。無数の考思、跡を留めず消失するほどなるに、睡中みずから知らざる際、なお考思すとは受け取れず、と難ぜり。ハミルトン等またこれを駁して、睡遊者、睡遊中確かにその識ありながら、常態に復ればただちにこれを忘る。故に睡中不断夢あるも、寤むれば多く忘失するなりと論ぜり、と。下等人種も、ハミルトン同様の見解より、睡中常に夢断えず。したがって睡るごとに必ず魂抜け出ずと信ぜるもあり。また睡中必ずしも不断夢見ざれども、睡人があるいは夢みあるいは夢みずにおるを、傍人正しく識別しあたわず。ただし、夢見る時は必ず魂が抜け出ずるものと心得たるもありて、両説いずれより考えても、急に睡人を攪乱揺起するは、霊魂安全に身に還るを妨ぐるわけと、戒慎するに及びしならん。かくてこそ二七巻五号に、唐訳の仏教律より引きたる、古インド人、睡れる王を急に呼び寤まさず、音楽を奏してようやく覚悟せしめたる風習(この譚 F.A. von Schiefner,‘Tibetan Tales,’trans.Ralston,1906,ch.viii にも出でたれど、「ようやく覚悟せしむ」とはなくて、歌謡、銅※[金+跋の旁]子《どうばつし》、大鼓をもって寤ます、とあり。それでは安眠を暴《にわ》かに擾《みだ》す訳にて、王者に対する作法に背く。チベット訳経の不備か、訳者の麁漏か、何に致せ唐訳の方、正義を得たりと思わる)、往年英国官吏がビルマ人を訪ねて、しばしば睡眠中とて謝絶され、魂の還らざるを惧れて揺り起こせざるという理由に気づかず、むやみに家人の無礼を憤りしこと(‘Hints to Travellers,’Royal Geographical Society,London,1889,p.389)、フィリッピン島のタガル人の、睡中魂不在とて、睡人を起こすを忌む俗(Tylor,oP.cit.,vol.i,p.441)等が生じたるなれ。
(追記)わが邦の魂結びに似たること、ハーパート・スペンセルの『社会学原理』三板七七七頁に出でたり。南洋ロ(267)ヤルチイ島の古風に、人病重くなれば、魂医《ソール・ドクトル》をして病体を脱せる魂を取り戻さしむ。その医二十友を随え、二十女とともに、病家の墓地に赴き、男は鼻笛吹き、女は嘯きて遊魂を誘い出し、時を経て、吹嘯行列して遊魂を病家に伴れ帰る。衆掌を開き、穏やかにこれを扇ぎて家に向かわしめ、家に入るやたちまち一斉に呵して、病人の身に入らしめし、という。予の現住地紀伊田辺に、古来四国の船多く来たる。二、三十年前までみずから見しとて、数人語りけるは、その船員この地で病死し、葬事終わり商売済みて出立に際し、船に踏板を渡し、乗込人を待つ振りすることやや久しくて後、死者の名を高く呼んで早く乗れと催《うなが》し、さてその者すでに乗りたりとて人数を算え、乗員の現数を一人多く増して称えて解纜せり。かくせずば亡魂安処せず、船に凶事あり、と伝えたりとぞ。
 『人琴字雑誌』二七巻五号の拙文差し立てて後、三重県木本町近村の石工来たり、予の悴五歳なるが夜分顔に墨塗り眠りに就くを見、かくすれば必ず魘《おそ》わると語りて去る。その夜悴しばしば寝言いい安眠せず。妻、大いに困れり。田辺近傍ではかくすれば、阿房になると言う由。  (大正元年八月『人類学雑誌』二八巻八号)
 
     通り魔の俗説
                 前田「通り魔の俗祝」参照
                 (『人類学雑誌』二七巻九号五七三頁)
 
 山崎美成の『世事百談』にこのことを記せり。いわく、「前略、ふと狂気するは、何となきに怪しきもの目に遮ることありて、それに驚き魂を奪われ、思わず心の乱るるなり。俗に通り悪魔に逢うと言う、これなり」とて、むかし川井某なる士、庭前を眺めたりしに、縁前の手水鉢下の葉蘭叢中より、焔三尺ばかり、その煙盛んに上るを不審に思い、刀、脇指を別室へ運ばしめ、打ち臥して気を鎮めて見るに、焔の後方の板塀の上より、乱髪白襦袢着たる男躍び降り、鎗打ちふり睨む。心を臍下に鎮め、一睡して見れば焔、男、ともになし。尋いで隣宅の主人発狂し、刃を揮い(268)譫語《うわごと》したり。また四谷辺の人の妻、類焼後留守しおりたるに、焼場の草葉の中を、白髪の老人杖にすがり、蹣跚して笑いながら来たるさま、すこぶる怪し。彼女心得ある者にて、閉眼して『普門品』を誦し、しばらくして見ればすでに消え失せぬ。さて三、四軒隔てたる医師の妻、暴かに狂気せり、とあり(撮要)。
 熊楠按ずるに、『古事談』巻三僧行部に、関東北条の孫なる少女、にわかに気絶、忠快僧都に祈らしめしに、少女に天狗ついて種々のことども言いければ、忠快いわく、これは験者などにて「加持し奉るべきの儀にあらず」、止んごとなきの人、一念の妄心によって、あらぬ道に堕ちたまうこと不便なれば、経を誦んで聞かせ奉って、菩薩をも「祈り奉りたるなり」、去るにても誰にて御坐候かなと言いければ、恥かしければ詞にては得申し出でじ、書きて申さんと言いければ、硯紙など取らせければ、はかばかしく仮名などだに書かざる少女、権少僧都良実と書きたりければ、周防僧都御房|御《おわ》するにこそ侍りなんとて、物語りなどしけり。全く害心も侍らず、これを罷り通ること侍りつるにて候いつるに、きと目を見入れて候いつるなり。今は罷り帰り候いてんとて退散し、少女無為たり、云々、とあり(目を合わせば魔の害を受くること、『塵塚物語』より『東京人類学会雑誌』二八○号四〇六頁に引けるを見よ)。通り悪魔の迷信、中古すでに本邦にありしを知るに足れり。   (大正元年八月『人類学雑誌』二八巻八号)
 
     睡人および死人の魂入れ替わりし譚
 
       一    南方「睡眠中に霊魂抜け出ずとの迷信」一節参照
            『人類学雑誌』二七巻五号三一三頁
 
 『和漢三才図会』巻七一に、「伊勢国安濃郡内田村長源寺。相伝えていわく、むかし当地の人と日向の国の旅人と、たまたま暑を堂の檐《えん》に避く。たがいに知らず。熟睡して日すでに暮る。人あって倉卒《にわか》にこれを呼び起こす。両人|周章《あわ》(269)てて覚《めざ》む。その魂入れ替わって、おのおの家に帰る。面貌はその人にして、心志音声ははなはだ異なれり。家人あえて肯《うけがわ》ず。両人とも然るゆえ、再びここに来てまた熟睡すれば、すなわち夢中に魂入れ替わりて故のごとし。諺にいう伊勢や日向の物語とはこれなり。ある紀(その名は偽書『先代旧事本紀』なりしと記憶す)にいわく、推古天皇三十四年三月壬午の日、五瀬《いせ》の国ならびに日向の国より言《もう》す。五瀬の国黄葉県|佐伯《さえき》の小経来《こふく》、死して三日三夜にして蘇る。日向の国|小畠《こはた》の県|依狭《よさむ》の晴戸《はれと》という者、同日に死して同日に蘇り、妻子および栖むところの郷村《さと》の名をも知らず。五瀬の者は日向のことを語り、日向の者は五瀬のことを語るに、父子郷村の名分明らかなり。その子弟《こども》たがいに至って問うに符《わりふ》合う。何をもって然るや。両人同時に死して、共に冥府に至る。黄泉《よみじ》の大帝議していわく、両人の命いまだし、よろしく郷に還すべし、と。冥使これを率いて来たり、誤りてその魂尸《こんし》を差《たが》う。両家の子弟深くこれを不審《いぶか》り、これを県社に問う。明神、巫《みこ》に託《よ》って告げていわく、冥使は通明なり、何ぞ誤るところあらん、人、魂鬼を知らず、また多く冥府を疑う、と。冥帝これを知ってこれを証し、これを教うることかくのごとくなるのみ。その身《むくろ》はわれらが父といえども、心はすなわちわが実父にあらず。心父にあらざれば身は由《よし》なし。父もまた子を為《おも》わず。願わくは父を替えんと欲す、と。朝廷《みかど》符を下して、父子の願いに任す。よって小経釆は日向に至り、晴戸は五瀬に至り、故《もと》のごとくして、行業《すぎわい》も郷の名もまたこれを替う」。
 この後話の方は、死人の魂他人の尸《しかばね》に入れ替わりて蘇生後、身辺のことを一切知らず、故郷のことのみ語りし、と言えるに反し、前話の方は、睡中両人の魂入れ替わりながら、その体おのおの異人の魂を具して故郷へ帰れりとするものなれば、この話を作りまた信ぜし人々は、人体おのずから特異の方角識《センス・オヴ・ジレクシヨンス》を有し、万一他人の魂本来の魂と入れ替わりてこれに守るとも、その体は在来の方角識のままに故郷を指して帰り去るはずと心得たるを証す。事すこぶる奇怪なるごときも、狂人の精神夢裡の思想全く別人同様変わり果てたるも、なお身体の動作は多少本人在来の通りなる例多きを参すれば、この前話は精神変態学上の面由き材料たりと思わる。
(270) さてこの話を英訳して、一九一二年十一月三十日の『ノーツ・エンド・キーリス』に出だし、西洋にもかかる譚ありやと問いしも、一答文だに出でざりし。ただし、支那に類話あるを近日自分見出だしたればここに掲ぐ。『酉陽雑俎』(著者段成式は西暦八六三年死せり)続集三にいわく、「開元の末、蔡州上蔡県南李村の百姓李簡、癇疾にて卒す。※[病垂/(夾/土)]《うず》めてのち十余日、汝陽県の百姓張弘義、もと李簡と相識らず、おるところ相去ること十余舎(一舎は三十五里)、また病によって死し、宿《よる》を経てかえって活く。また父母妻子を認《みし》らず。かつ言う、われはこれ李簡、家は上蔡県南李村にあり、父の名は亮なり、と。驚いてそのゆえを問う。言う、まさに病む時、夢に二人あり、黄なるを著け、帖を齎す。追《ひつた》てられて行くこと数里、一の大城に至る。署して王城という。引かれて一処に入る、人間《ひとのよ》の六司院のごとし。留まりおること数日、勘責せらるること、ことごとく対《こた》うるあたわず。たちまち一人の外より来たるあり、称すらく、錯《あやま》って李簡を追《ひつた》つ、ただちに放還すべし、と。一吏いわく、李簡の身は壊れたり、すべからく別に生を託すべし、と。時に父母親族を憶念し、別処に生を受くるを欲せず。よって本身に却復《かえ》らんことを請う。少頃《しばらく》して、一人を領《つ》れ至るを見る。通《もう》していわく、雑職《ぞうしき》の汝陽の張弘義を追て到れり、と。吏またいわく、弘義の身幸いにまだ壊れず、速やかに李簡をしてその身に託して、もって余年を尽さしめよ、と。ついに両吏に扶持《かか》えられて、城より却り出ず。ただ行くこと甚だ速やかにして、ようやく知るところなし。たちまち夢の覚むるがごとく、人の環《かこ》みて泣くと屋宇とを見る。すべてまた認《みし》らず。亮、その親族の名氏および平生の細事を訪《と》うに、知らざるなし。先に竹|作《ざいく》を解《よ》くす。よってみずから房に入り、刀具を索め、※[竹/蔑の下半]《べつ》を破《わ》って器を成す。語音も挙止も、まことに李簡なり。ついに汝陽に返らず(南李村に帰り、父亮と共に棲みしなり)。時に成式、三たび叔父に従いて、蔡州の司戸を摂《か》ね、したしくそのことを験す。むかし扁鵲は、魯の公扈と趙の嬰斉《えいせい》との心を易え、寤むるに及んで、たがいにその室に返り、二室相諮る。これをもってこれを稽うるに、寓言にあらざるなり」。ここに言える扁鵲の故事は、現存この類話中最も古きものらしく、『列子』湯問篇に出でたり。   (大正三年七月『人類学雑誌』二九巻七号)
 
(271)       二
 
 押上中将このごろ『聊斎志異』一六巻を恵送せられ、いわく、この中に死人の魂、他の死人の身に入れ替わる話一、二ありしと記憶す、と。予多忙中全論を通覧せざれど、その第一巻に次の一条あるを見出だしえたれば報告す。
いわく「長清の僧某は、道行《どうぎよう》高潔、年八十余にしてなお健やかなり。一日、顛《まろ》び仆れて起たず。寺僧走り救うも、すでに円寂せり。僧、みずからの死せしを知らず、魂|瓢《ひるがえ》り去って河南の界に至る。河南に故《ふる》き紳の子あり、十余騎を率いて鷹を按《おさ》え兎を猟す。馬|逸《はや》り、堕ちて斃《たお》る。魂たまたま相値い、翕然として合す。ついにようやく蘇る、云々。目を張っていわく、なんぞここに至れる、と。衆扶け帰って門に入れば、すなわち粉白黛緑の者、紛《むらが》り集まって顧み問う。大いに驚いていわく、われは僧なり、なんぞここに至れる、と。家人もって妄となし、共に耳を提《と》ってこれを悟ます。僧またみずから申解《いいわけ》せず、云々。酒肉はすなわち拒み、夜は独り宿す、云々。諸僕紛り来たって、云々、入りまじって会計を請う。公子は託するに病に倦《つか》るるをもってし、ことごとくこれを謝絶す。ただ、山東の長清県のことを問う、云々。翌日ついに発して長清に抵《いた》る、云々。弟子は貴客の来たるを見て、云々。答えて言う、わが師はさきごろすでに物化す、と。墓所を問うに、群れ導き、もって往く。すなわち三尺の孤墳にして、荒草なおいまだ合《おお》わず、云々。すでにして馬を戒《そな》えて帰らんとし、嘱していわく、汝の師は戒行の僧なり、遺すところの手沢よろしく恪守《かくしゆ》すべし、と、云々。すでに帰り、云々、灰心木坐して、ついに家務を勾当《とりしき》らず。居ること数月、門を出でてみずから遁れ、直《ます》ぐに旧《もと》の寺に抵り、弟子に謂う、われはすなわち汝の師なり、と。衆その謬れるを疑い、相視て笑う。すなわち返魂の由を述べ、また生平のなすところを言うに、ことごとく符す。衆すなわち信じ、居らしむるに故の榻《とう》をもってし、これに事うること平日のごとし。のち公子の家より、しばしば輿《かご》と馬をもって来たり、これに哀請するも、略《いささか》かも顧瞻せず。また年余、天人|紀綱《めしつかい》を遣わして至り、餽遺《きい》するところ多し。金と帛《きぬ》はみなこれを却け、ただ布袍《ぬのこ》一(272)襲を受くるのみ。友人あるいはその郷に至り、敬してこれに造《いた》るに、その人の黙然として誠篤なるを見る。年わずか而立《じりゆう》にして、すなわちその八十余年のことを道う」。   (大正三年十月『人類学雑誌』二九巻一〇号)
 
       三
 
 『今昔物語』巻二〇に「讃岐の国の女、冥途に行きしが、その魂還りてほかの身に付きける語、第一八」あり。芳賀博士の攷証本に、その出処として『日本霊異記』巻中、「閻羅王の使いの鬼、召さるる人の饗《あえ》を受けて、恩を報いる縁」を出し、類語として『宝物集』巻六を引きおる。まず死人の魂が他の屍体に入れ替わった譚の本邦で最も古く記されたのは、件の『霊異記』(嵯峨帝の時筆せらる)の文だろう。
 『今昔』のも『霊異記』のも長文ゆえ、『宝物集』のばかりここに引こう。いわく、讃岐国に依女《よりひめ》という者あり。重き病を受けて命終わりぬ。父母悲しみのあまりに祭をなしたりければ、鬼ども祭物を納受してけり。鬼神の習い祭物を受用しては空しくて止むことなきがゆえに、同名同姓のものに取り替えてけり。故《もと》の召人の依女を返し遣わすに、物騒がしく葬送を疾くなしたりければ、犬烏食い散らして跡形なかりければ、今の召人が体《むくろ》に故の召人の依女が魂を入れてけり。すなわち蘇生して物を言うに、形はわが娘なりといえどもわれをも見知らず。物言えるも替われり。故の依女が父母このことを伝え聞きて、行きて見れば、形はわが娘にあらずといえども、われらを見知りて泣き喜び、物言う声|違《たが》うことなし。このゆえに四人の父母を持ちたり。諸法の空寂なること今生すらかくのごとし。いわんや流転生死の空寂推して知り給うべきなり。   (大正四年一月『人類学雑誌』三〇巻一号)
 
(273)     臨死の病人の魂、寺に行く話
 
 柳田君の『遠野物語』八七と八八に、大病人の死に瀕せる者、寺に詣る途上知人に遭い、次に寺に入って僧に面し茶を飲んで去ったが、後に聞き合わすと、その時歩行叶わず外出するはずなく、その日死亡したと知れた話二条を載す。いずれも茶を飲んだ跡を改むると、畳の敷合せへこぼしあったとあり。寛文元年板、鈴木正三の『因果物語』下に、賀州の牢奉行五郎左衛門、毎月親の忌日に寺へ参る。ある時融山院へ来たりて、某《それがし》煩いゆえお寺へも参らずと言いて、茶の間で茶二、三服呑んで帰る。明日納所行きて、お煩いを存ぜず無沙汰せり、昨日はよくお出で候と言うと、妻子、五郎左衛門立居叶わず、昨日今日は取り分け苦しきゆえ、寺参りも成らずと申されし、とある。たぶんは永からぬうちに死んだのだろう。
 熊野では、人死して枕飯を炊ぐ間に、その魂妙法山へ詣で、途上茶店に憩いて食事をし、畢りて必ず食椀を伏せ茶を喫まずに去ると言い伝え、したがって食後椀を伏せたり茶を呑まなんだりするを忌む。よって考うるに、以前病人死ぬ直前に寺に行って茶を喫み、死後は飲まぬという説が広く行なわれたのが、分離して後には別々の話となったものか。また拙妻の父は闘鶏《とりあわせ》神社(県社、旧称田辺権現)の神主だったが、この社祭礼の日は近郷の民にして家内に不浄の女ある者来たって茶を乞い飲んだ。その縁《つて》のない者は、田辺町のいずれの家にても不浄の女のない家に来て茶を乞い飲んだ。かくせずに祭礼を観ると、馬に蹴られるなど不慮の難に罹る、と話した。これらから見ると、仏教または両部神道盛んな時、茶に滅罪|祓除《ふつじよ》の力あると信ぜられたらしい。
 臨死の人の魂が寺に往く話は西洋にも多く、マヤースの『ヒューマン・パーソナリチー』(一九〇三年板)一巻三二三頁以下に、大病で起居もならぬ父が、階上に眠らずにいた娘を誘いに来たり、見たことなき墓地に伴れ行き、ある(274)地点で立ち止まったが、二ヵ月ばかり経ってその父死し、葬所に往って見ると果たして右の墓地であり、上件の地点に父は埋められた、とある。こればかりでは証拠が弱いが、この外に近親の者へも、睡眠中でなく現実に、この死人のさとし〔三字傍点〕がしばしばあったという記事もある。   (大正三年十一月『郷土研究』二巻九号)
 
     睡中の人を起こす法
 
 インドに古く貴人を睡眠より覚起せしむるに、音楽を奏して徐々に寤めしめしことは、『人類学雑誌』二七巻五号三一三頁と同誌二八巻八号四四一頁に述べおいたが、このごろ日本にも、足利家の公方を睡眠より起こすに特別の作法あるを見出だした。『宗五大艸紙』(明治三十五年、経済雑誌社再翻刻『群書類従』四一三巻五八四頁)に、「毎年節分に伊勢守宿所へ御成り候。中略。また同時御成に供御《くご》過ぎて、そと御静まり候時、同名備後守方に定まりて障子の際へそと参り候うて鶏の唱うまねを三声仕る。雀の鳴きまねを仕り候えば御ひる(起)ならせ給い候うて還御成り候。定まりたることにて候」とある。鶏の鳴き音があまり大きく急に聞こえぬよう隣宅で擬唱し、それでも将軍が眼を覚まさぬ虞《おそれ》あるゆえ、雀の鳴き声をずいぶん長くまねし続けたるなるべし。   (大正四年十一月『人類学雑誌』三〇巻一一号)
 
     魂空中に倒懸すること
               南方「幽霊の手足印」参照
               (『人類学雑誌』三〇巻九号三三八貢以下)
 
 罪業深き人の魂その死後空中に倒懸するという迷信は、蝙蝠を見て言い出したのだろと書きおいたが、ちょうどそ(275)の証拠たるべき文を見出でたから記そう。
 南洋バンクス諸島の男子、タマテとスクエという二秘密会に属するを栄とす。タマテ会員は榛中《こもり》に、スクエ会員は村舎に会す。その村舎をガマルと称え、中を種々に隔てて高下級を別ち、下級の者は高級の房に入るを得ず。スクエ会員ならぬ男子はガマルに入って会食するを得ず。自宅で婦女と食を共にせざるべからず。大いにこれを恥とす。この会に入るには一豚を殺すを要し、胆試しの、秘法のと、むつかしきことなく、主として歌舞宴遊を催せばよきなり。土人いわく、一豚だも殺さぬ男(この会に入らぬ男)は死後、その魂大蝙蝠様に樹枝に倒懸し続けざるべからず。会員の魂は楽土に往き住まる、と(Codrington,‘The Melaneslans,’1981,p.129)。   (大正五年一月『人類学雑誌』三一巻一号)
 
     鯤鵬の伝説
                 永田方正「オシンタ旅行記」参照
                 (『人類学雑誌』二七巻一号四三頁)
 
 永田氏の「オシンタ旅行記」に、「近日某学者の説に、『荘子』鯤鵬《こんぽう》の説は、インドの小説と同じ、『荘子』はインドの小説を伝えしにあらずやと言える者あれど、フリと名づくる大鳥のアイヌ譚は、仏説にあらざるがごとし」と言わる。
 G.A.Erman,‘Reise um die Erde,’Band I,S,710(Berlin,1833)、シベリアのオプドルフ辺の記に、この辺にマンモス牙多く、海岸の山腹浪に打たるるごとに露われ出ずるを、サモイデス人心がけ、往き採るにより、彼輩これを海中の原産物と心得たり、と言いたるは鯨属などの牙と見なせるなるべし。またいわく、北シベリアに巨獣の遺骨多ければ、土人、古えその地に魁偉の動物住せしと固信す。過去世の犀、リノケロス・チコルヌスの遺角鉤状なるを、在来の露国商人も、土人の言のままに鳥爪と呼ぶ。土人のある種族は、この犀の穹窿《きゆうりゆう》せる髑髏を大鳥の頭、諸他の(276)厚皮獣の脛骨化石をその大鳥の羽茎と見なし、その祖先、常にこの大鳥と苦戦せる話を伝うという。
 これらの誕《はなし》を合わせ考うるに、『荘子』、鯤北冥の魚にて、化して鵬となるの語も、多少のよりどころなきにあらじ。委細は『動物学雑誌』一二巻二四九号三八頁以下、予の「マンモスに関する旧説」に出だせり。大魚、大鳥の伝話、必ずしもインドに限らざるなり。   (明治四十四年六月『人類学雑誌』二七巻三号)
 
     神狼の詰
            南方「本邦における動物崇拝」参照
            (『東京人頬学会雑誌』二五巻二九一号三二八頁)
 
 『東京人類学会雑誌』二七八号三○頁に載せたる、大和国玉置山の神狼にはなはだ似たる話、滕成裕の『中陵浸録』巻六に出ず。いわく、「備中今津という処の山中に小社あり。木の山権現という。この辺に祠司あり。同じくまた下神代村というあり。ここより十里ばかり山の奥なれども、野猪出でて田畑の耕作を荒らし、秋の作物一粒もなし。これを免れんと思えば、その祠司の霊符並びに幣を受け来て祈る。すなわちその人に一狼付き来て野猪を防ぐという。その人帰り路に狼の送り来ることを知らざれども、その小路に幾処も踊り渡りの川あり。その中の石の上の乾きたる処へ水はねるなり。水のはねるは現に見ゆれども、狼の形はさらに見えずと、その人余に話せり。その夜野猪出ずることなし。毎夜奔走して野猪を猟り、終わりてみずから帰るという。余、云々、往々にその説を聞正す。実に然りという」。   (明治四十五年二月『人類学雑誌』二八巻二号)
 
(277)     千年以上の火種
              『人類学雑誌』二八巻一号五七頁の記事「二百年来の火種」参照
 
 支那に、祝融を火正黎と号し、また寒食《かんじき》に火を禁ずることあり。いずれも火を重んずるに基づきしと見ゆ。『※[業+こざと]中記』に、寒食を介子推焚死の故事より始まるとせるは牽強ならん。さて、『紀伊国続風土記』第二輯に、日高郡比井崎村、大字産湯浦八幡宮のことを述べていわく、比井浦の南四丁にあり、今に応神帝の産湯の井あり(熊楠謂う、『日本紀』に、神功皇后、帝と紀州日高郡に会いたまうことあり)。村中古今難産の憂いなしという。また皇子に産湯を奉りしより、その火を伝えて今に絶えず。故に村中火を打つこと絶えてなし。もし、たまたま火の消えし家は、隣家に伝えしを取って用ゆ。ただ田畑に出るに、煙草などを吸うには、火を打つことありという。また神を祭るに湯立をなすこと、当村になし。これみな古えの故事という。千五、六百年を経て火を伝うること、いと珍しき風俗というべし、と。頃日《このごろ》、予、同村人浮津真海師に聞き合わせしに、今はそんなこともなく、その話さえ伝わらずとなり。浮津氏はこの社の合祀滅却に抗し、一昨年入監までせし、熱心なる史蹟名勝保存論者なり。   (明治四十五年三月『人類学雑誌』二八巻三号)
 
     親が子を殺して身を全うせしこと
 
 『東京人類学会雑誌』二七八号三一二頁に、予は『螢蠅抄』より、元寇侵来の際、壱岐・対馬の民、敵軍が児啼きを聞きつけて押し寄せるを避けんとて、嬰児を殺して逃げ匿れし由の記文を引きたり。三〇八頁に引けるイタリアの山賊の外にも、欧州にかかる例あるを近日見出だしたれば報告す。いわく、一二五六年、モアクスの戦(278)いにハンガリー軍トルコ人に全く敗られ、その王ルイ二世を喪う。ここにおいてトルコ兵全くハンガリー国に克ち、到るところ鹵掠をほしいままにし、老幼婦女、殺戮ほとんど尽く。この時婦女その児が啼いて敵を牽くを虞れ、これを生きながら※[病垂/(夾/土)]《うず》めし者数多あり(Mouchot,‘Dictionnaire Contenant les Anecdotes Historiques de l'Amour,’a Troyes,1811,tom.ii,p.320)。『史記』に、漢高祖、項羽の軍に追わるること急にして、二子を棄てて走りしというも足手纏いを除かんとせる人情、軍制確かならぬ世には何国も同じかりしと見ゆ。   (明治四十五年七月『人類学雑誌』二八巻七号)
 
     塩に関する迷信
 
 仏領西アフリカのロアンゴの民、以前信ぜしは、その地の術士、人を殺し呪してその魂を使うに、日々塩入れず調えたる食を供う。魂に塩を近づくれば、たちまちその形を現じてその仇に追随すればなり、と(Ogilby,‘Africa,’op.Astle,‘Voyages and Travels,’1846,vol.iii,p.230)。
 本邦にも、何の訳と知らぬが、命日に死者に供うる飯を、塩気なき土鍋もて炊ぐ。『和国小姓気質』巻五、庄野佐左衛門、父の看病に帰省のあいだに、親交ある少年吉崎鹿之助憂死したるを知らず、父の葬い終えて、忙ぎ還り鹿之助を訪ねしに、「手づから拵え膳すゆれば、精進飯の水臭く、半ば残してさし措き」、宅へ帰り、明朝鹿之助の死を聞き知り、その室を検するに、仏前の霊供の飯半ば食いさしありし、と出でたり。荊妻(田辺生れ)の語るは、旨からぬ米に塩入れ炊ぎて旨くする方あり。赤飯炊ぐには必ず塩入る。すべて仏や死者に供えし飯は旨からず。抹香等の気に燻べらるればなり。小児食えば記憶力を損ずとて、老人のみ食う。物忘れするもかまわぬをもってなり。また食時に塩と味噌を膳上に並べ置かず。その訳を知らず。ただし、刀豆の味噌漬を刑死人に三片食わせたれは、今も三片食わず。三片食わんとする時、一回多く取るまねして、第四回めに実にこれを取ることあれば、刑死人にも塩と味噌を(279)膳に並べて、食わせしによってこれを忌むか、と。熊楠|謂《おも》うに、葬送の還りに門に塩を撒くは不浄を掃うといえど、実は鬼が随い来るを拒ぐものか。霊飯に塩を避け、土鍋を用いて炊ぐも、もと亡霊が塩と鉄を忌むとせしに出ずるならん。
 『日本紀』巻二五、大化五年、倉山田大臣《くらのやまだのおおみ》譖《しん》せられて自殺せる首を、物部二田造塩《もののべのふたつのみやつこしお》斬ってければ、皇太子(天智帝)の妃造媛、父の仇とて塩の名を聞くを悪み、その近侍の者、「塩の名を称うるを諱《い》みて、改めて堅塩《きたし》という。造媛、ついに心を傷つくるによって死を致せり」。これは上方の茶屋に、猴を去るの意あればとて、必ず左《さ》呼ばず、野猿と称うるに似たことで、その家限り行なわるる禁忌(タプー)なり。また欧州一汎に塩をこぼすを凶兆とし、これを厭《まじない》せんとて、塩扱うに必ずまず左肩上に少しばかりの塩を撒過す(M.R.Cox,‘An Introduction to Folk-lore,’1895,p.10)。   (大正元年八月『人類学雑誌』二八巻八号)
 
     田螺を神物とすること
                  山中笑「本邦における動物崇拝」(『東京人頬学会雑誌』二五巻二八八号二二一頁)、南方「本邦における動物崇拝」(同誌二五巻二九一号三四一頁)参照
 
 保科正之撰『会津風土記』に、「会津郡二間在家端村九々生に、若宮八幡の祠あり。祠の外に二つの沼あり、田※[羸の羊が虫]《たにし》沼と名づく。人この田※[羸の羊が虫]を取るあれば、すなわち夜寝るに及んで、呼んでいわく、これを返せ、と。返さざればすなわち止まず。瘧疾《おこり》を患う者これを取り、祈っていわく、疾愈ゆればすなわち倍にしてもってこれを返さん、と。すなわち験あり」。八幡神、田螺を愛すと見えたり。ただし、今もこの土俗ありや否を知らず。   (明治四十四年十一月『人類学雑誌』二七巻八号)
 
(280)    水の神としての田螺
             南方「本邦における動物崇拝」(『東京人類学会雑誌』二五巻二九一号三四一頁)、柳田国男「水の神としての田螺」(『人類学雑誌』二九巻一号二四貫)参照
 
 紀州諸処に、田螺を「たにし」でなく「たぬし」と呼ぶ人がある。田主の意に聞こえる。田辺の近村、丘陵間の草叢中何の訳と知れず田螺の殻を積み上げ置けるあり。野中、近露《ちかつゆ》等の深山にもあり。大蛇の所為《しわざ》と言う人がある。また鳥類の所行とも言う。予一向見しことないから、さっぱり判断がつかぬ。『淵鑑類函』四四三に、「『捜神記』にいわく、謝端は侯官の人、少くして孤貧。年十七、八に至り、恭謹みずから守る。のち邑下《むらはずれ》にて一の大なる螺の斗《とう》ばかりのごとき(尋常の物の十倍大)を得、取って甕の中に貯う。毎早《まいあさ》野に至って還るに、飲飯湯火のあるを見る。端これを疑い、籬《かきね》の外より窺い見る。一少女、甕の中より出でて、竈の下に至って火を燃《た》く。すなわち入ってこれに問う。女答えていわく、妾《われ》は天漢《あまのがわ》の中の白螺の素女なり。天帝、卿《なんじ》が少くして孤なるを哀れみ、我をして権に相ために舎を守り炊煮《すいしや》せしめ、卿が婦《よめ》を取るを待って、まさに還るべしとす。今、故なくして相伺う、また留まるべからず。今この殻を留む、米穀を貯うれば、乏しからざるを得べし、と。たちまち風雨あって去る。また『夷堅志』にいわく、呉湛《ごかん》の居は荊渓に臨む。一泉あり、きわめて清※[さんずい+徹の旁]なり。市人これに頼る。湛、竹籬《たけがき》をつくりて遮護し、汚きものをして入らざらしむ。一日、呉、泉の側にて一の白螺を得たり。帰って甕の中に置く。のち外より帰るごとに、すなわち厨中の飲食すでに弁《そなわ》れり。心大いに驚異し、一日ひそかに窺う。すなわち一女子、螺中より出でて、手よく刀《ほうちよう》を操《つか》う。呉急にこれに趨く。女子大いに窘《くるし》む。殻に帰るを容《ゆる》さず。すなわち実を告げていわく、われはすなわち泉の神なり。君が泉の源を敬い護るをもっ一て、かつ君が鰥居《やもめぐらし》なるを知って、上帝、われに命じて君がために饌《そん》を操《つく》らしむ。君わ(281)が饌を食らえば道を得ん、と。言いおわって見えず」。
 ふたつながら御伽草子の蛤機織姫に似た話だ。白き淡水生の螺を神物とすること、支那にもある証拠だ。『日本紀』に、葛城の円大臣あり、円を「つぶら」と訓ず。田螺をツブというから見ると、この名も田螺を人名としたので、わが邦に古く田螺をトテムとし崇めたのであるまいか。
 北涼訳『大般涅槃経』一二に、「また迦葉よ。転輪王の、主兵大臣常に前導にあって、王は後《うしろ》に随って行くがごとく、また魚王、蟻王、螺王、牛王、商主の前にあって行く時のごとく、かくのごとく諸衆|悉皆《ことごと》く随従し、捨離する者なし」とあれば、梵土にも古く螺の王あると信じたのだ。
 また『奇異雑談』下に『祖庭事苑』から引いた、※[門/虫]州の任氏の子、螺を得しに、その中から女が出で来て竜鬚布を織り、任氏を富ました譚はもっとも蛤機織姫に似ておるが、これは竜女が螺中に寓しおったのだ。   (大正三年四月『人類学雑誌』二九巻四号)
【追加】
 『甲子夜話』続篇巻一五に、「信州に不動堂あり。須賀の不動と称して霊像なりとぞ。眼を患うる者、祈誓して田螺を食せざれば必ず験ありて平癒す。遠方にても須賀の不動と宝号を唱えて立願するに、必ず応験あり。ただに田螺を食するを止むるのみならず、これを殺すことをも慮りて礫を田中に投ずるをせざるほどなれば、効験いよいよ速やかにして、眼疾平快す、と。むかしこの堂火災ありし時、寺僧像を担い出しその辺の田中に投じて急を免れたり。火鎮まってその像を取り上ぐれば、田螺おぴただしく衆まり像を囲みてありしと、云々」。『本草網目』四六に、田螺、目の熱赤痛を治すとあって、処方を詳載しおる。実際薬功あるのかしれぬが、たぶんは例の似たものが似た場所の病を治すという理屈で、田螺も眼も円いから割り出した薬方だろう。    (大正三年八月『人類学雑誌』二九巻八号)
 
(282)    女の本名を知らばその女を婚しうること
                  南方「呼名の霊」参照
                  (『郷土研究』一巻七号四二五頁)                        本書「郷土研究一至三号を読む」所収
 
 一八九八年板、ヂンネットの『フィオート(仏領コンゴ国)民俗《ノーツ・オン・フオクロール》註』第四章に、貴人ンサッシ、忠犬を伴れ、ネンペトロの二女を娶らんと望む。ネンペトロ、富みたるゆえ幣餽《へいき》を望まず、二女の名を言い中てたら妻に与うべし、と答う。ンサッシ失望して去る。犬留まってネンペトロが二女を呼ぶを窃み聞き、走り帰る途中飢渇して飲食し、たちまち忘るること二回なりしも、屈せずまた往って聞き覚え、帰りてその主に告げ、ンサッシついに二女の名をその父に告げて婚しうる譚あり。また菅丞相、貴女の絵に筆を落とし流されし話と同趣向のもの、西鶴の『新可笑記』巻二「官女に人の知らぬ灸所の条」あり。仏師が皇后の木像胸辺に墨落とせりとし、唐土にも、呉道子、宮女の写生絵に筆落として疑われし例あり、と述べたり。   (大正三年四月『郷土研究』二巻二号)
 
    桃太郎伝説
 
 犬を伴れて島を伐った話は南洋にもある。ヴァイツおよびゲルラントの『未開民史《ゲシヒテ・デル・ナチユルフオルケル》』(一八七二年板、六巻二九〇頁)にいわく、「タヒチ島のヒロは塩の神で、好んで硬い石に穴を掘る。かつて禁界の制標たる樹木を引き抜いて、守衛二人を殺し、巨鬼に囚えられたる一素女を救い、また多くの犬と勇士を率いて一船に乗り、虹神の赤帯を求めて島々を尋ね、毎夜海底の怪物、鬼魅と闘う。ある時窟中に現れるに乗じ、闇の神来たりてかれを滅ぼさんとするを見、(283)一忠犬吠えてヒロを寤まし、ヒロ起きて衆敵を平らぐ。ヒロの舟と柁《かじ》ならびにかの犬化して山および石となれるがその島に現存す、云々」。桃太郎が犬つれて鬼が島を攻めた話にも、諸国に多い、忠犬、主を寤まして殺された話にも、似たところがある。タヒチ島は日本とはよほど隔たりおるが、神話や旧儀に日本上古の事物と似たことが多い。しかし、予はこのゆえに、ただちに桃太郎の鬼が島攻めはタヒチから日本へ移ったとも、日本からかの地へ伝えたとも即断するものでない。篤と調べたら、他の諸国にも多く似た譚があるのであろう。また以前あって今絶えたのもあろう。   (大正三年九月『郷土研究』二巻七号)
 
    アイヌの珍譚
 
 『人類学雑誌』二九巻五号一九六頁に吉田君いわく、沙流アイヌの老人常に語るらく、メノコ・コタン島、女子のみ住んで男なし、云々、「最上徳内この島に入って怪を探る。女陰に歯あり、秋葉凋落と共に脱《お》つ。かくして年々生ず。試みに短刀の鞘をもってす。鞘庇つくを見るに人歯の痕に異ならず」。かかる話、蝦夷近き奥州にも行なわれたは、根岸守信の『耳袋』巻一に出たので知れる。いわく、「津軽の家土語りけるは、右道中にカナマラ大明神とて黒鉄の陽物を崇敬し、神体と崇めける所あり。古えこの所に一人の長ありしが、夫婦の中に独りの娘を持ち、成長に従い風姿類なし。外に男子もなければ聟を撰んで入れけるに、いかがなることにや、婚姻整え侍る夜即死しけり。それよりかれこれと聟を入れけるに、あるいは即死しあるいは逃げ帰りて閏房空しくのみなりしゆえ、父母娘にわけを尋ぬれば、交りの節あるいは即死しまたは怖れて逃げ帰りぬ、われもそのわけ知らずと答えければ、父母も歎き暮らしけるが、逃げ帰りし男に聞きし者の語りけるは、右女の陰戸に鬼牙ありてあるいは食い切りあるいは疵を蒙りしという。このことおいおい沙汰ありければ、ある男このことを聞いてわれ聟にならんとて、黒鉄にて陽物を拵え、婚姻(284)の夜交りの折から右の物を入れしに、右黒鉄の陽物に食いつきしに牙ことごとく砕け散って残らず抜けけるゆえ、その後は尋常の女となりし由。右黒鉄の陽物を神と祝い、今に崇敬せしと語りし」。
 これらいずれも誇大に過ぎた話だが、発達不完全等で多少本話類似の障礙ある女体世に少なからず。本邦にも現に往々その例あるはしばしば医師より聞くところだから、アイヌ譚も津軽の伝説も全く根拠なきにはあらじ。すべて民族人種の異なるに随い、彼処《かしこ》の相好結構また差異あり。例せばハーンの目撃談に、北米のデネ・インジアンのある族人が他族人を殺してその屍を扱うの法、猥にして語るに堪えず。殺されし者女人なる時ことにはなはだし。これ他族の女根全く自族の者と異様なりとて、これを評論審査するによる、と(Morice,“La Femme chez les Denes,”Transactions du Congres internationale des Americanistes,Quebec,1907,p.374)。かつて信ずべき人より、日本女と支那女は単に陰相を見たのみで識別し得と聞いた。また仏経に五不女を説くうちに「角なるものは、物あって角のごとし、一に陰梃」と名づく。これは Otto Stoll,‘Das Geschlechtsleben in der Volkerpsychologie,’Leipzi,1908,S.546 に、南アフリカ、北アメリカ、南洋等のある民族に普通だと見えた、陰唇の異常に挺出したものだろう。その最も著名なは、南アフリカのホッテントットの婦人の特徴たる肥臀《ステアトピギア》に伴う前垂《タブリエー》だ(‘Encyclopaedia Britannica,’11the,ed.,vol.xiii,p.805)。一六七三年筆、オランダ東インド会社の医士の経験譚にいわく、ホッテントット婦人の陰唇懸下して陰嚢のごとし。本人これを美として誇ることはなはだしく、外人その廬《いえ》に来たれば皮裳を披いてみずからその陰相を示す、と(William Ten Rhyme,‘An Accoun tof the Cape of Good Hope and the Hottentotes,’in Churchill,‘A Collection of Voyages and Travels,’vol.vi,p.768,1752)。
 一八〇四年ロンドン板 Sir John Barrow,‘Travels in Southern Africa,’vol.ii,pp.278-279 にいわく、ホッテントット婦人に名高き陰相はブシュメンにもあり。予輩かつてブシュメンの一群に遭いしにこの相なき婦人一人もなく、少しも風儀を害せず容易にこれを觀察し得たり。この諸女の小陰唇延長すること年齢と習慣とに随いて差あり。この(285)相、嬰児においてわずかにこれを認むるが、年長ずるに随って著しく、中年の婦人その長さ五インチなるを見たり。しかるに実はこれよりも長きもの多しという。その色黝青にして帯赤あたかも七面鳥の冠のごとく、形および大きさまたこれに類し、外見男勢の萎垂せるに似たり。欧州婦人のこの部は皺摺せるに、この土人のは全く平滑なり。した
がってその刺激機能を失えるものらしきも、また男子の強凌を捍《ふぐ》ぐの利ありて、かかる畸態の機関ある婦女は男子その同意また協力を得るにあらずんば和合の理なし、と。Corelius de Pauw,‘Recherches Philosophiques sur les Americains,’Cleves,1772,tom.ii,pp.135-136 に、アフリカの諸国の女子の小陰唇を切り除く俗行なわるるは、もとこの畸形を除いて婚姻に便を与うるためだったろう、と論じおる。その作法の詳細は Dr.Ernest Godard,‘Egypte et Palestine,’1867,p/58 已下に出おり、エジプトのカイロ府では十二、三歳の女子この方を受け、また田舎では七、八歳の時施術するに多くは産婆これを行なう、とある。わが邦にも茄子陰と称して陰唇挺出せる女がある。
 吉田君が一九五頁に述べられた大酋長の美娘の陰部霊異あって、眠中人来たり逼る時声を放ってこれを警戒す。しかも娘自身は知らずというアイヌ譚の根本は、上述の陰梃あるブシュメン婦女は、本人の同意また協力を得ずして、これと会する事を得ずと言えると類似の、ある畸態を具せる娘が実在せしにあったのでなかろうか。   (大正三年九月『人類学雑誌』二九巻九号)
【追記】
 前文に、予ホッテントット人等の婦女の畸態陰相タブリエーを「前垂れ」と評しおいた。頃日《このごろ》当田辺町の川端栄長という老人、若き時大阪堂島で相場を事とし、その間博く松島の遊廓を見た懐旧譚をするを聞くうち、「また前垂れ陰と名づくるを僅々数回見た」という冒頭で説く様子、バローが「かかる畸態の機関ある婦女は男子その同意また協力を得るにあらずば和合の望みなし」と言えるに符合したので、わが邦人にもこの畸態あるを知り、あわせて予の訳語の偶中を悦んだ。さて『根本説一切有部毘奈耶雑事』一三、また『大宝積経』の入胎蔵会一四の一に「あるものは(286)産門駝口のごとし」とあるはこの前垂陰であろう。茄子陰は、『善見毘婆娑律』一三に「根の長く崛《そばだ》ち両辺に出でしもの」で、「女根中、肉長く出でて毛あり。また角なるものは、物あって角のごとし、一に陰梃と名づく」は吉舌特に長きものであろう。L.Martineau,‘Lecons Sur les Deformations Vulvaires et Anales,’(Paris,1886)に六つまでその図を出しある。   (大正五年二月『人類学雑誌』三一巻二号)
【補遺】
 沙流アイヌと奥州津軽に行なわれた女陰に歯ある譚を、吉田巌君の記と『耳袋』から引いたが、その後『能登名跡志』坤の巻を見るに、入左近の子太郎なる者、唐土の王女かかる畸態ある者に会い、津軽の伝説同様の妙計もて常態とならしめ、その婿となった次第を載せある。委細は、大正六年四月発行『大日本地誌大系』諸国叢書北陸の一の三三九頁について見るべし。   (大正六年十月『人類学雑誌』三二巻一〇号)
 
    鼈と雷
 
       一
 
 本邦の俗説に、鼈《すつぽん》が人に咋いつくと雷鳴らねば放さぬと言う。二世一九の『奥羽道中膝栗毛』四編中巻に、婬婦お蛸、「妾が吸いついたが最期、雷様が鳴らしゃっても離れるこっちゃござりましない」と言えるもこれに基づくか。熊野の山中に「かみなりびる」あり。一たび吮いつけば雷鳴るまで離れずと言う。予ある夏那智の山奥にてこれを見しに、蛭にあらずして一種のプラナリアン、長さ六寸ばかり、田辺などの人家、朽木に多き「こうがいびる」(長さ二、三寸)に似たれども、細長く、※[王+毒]※[王+昌]《たいまい》色、背に黒条あり、美麗なれど気味悪く徐《しず》かに蠕動す。空試験管に入れ十町ばか(287)り走り見れば、はやなかば溶けおったり。よって考うるに、暑き日強いて人体に付すれば粘着して溶けおわることはありなん。さらに蛭ごとく血を得んとて吸いつくものにあらず。『重訂本草啓蒙』三八に、度古《どこ》「こうがいびる」、北江州方言「かみなりびる」、長《たけ》五、七寸、夏月雷雨のさい樹より落つる由を言えり。これは田辺あたりでいわゆる「こうがいびる」にあらずして、那智で見し「かみなりびる」と同物ならん。雷雨の節落つるゆえかく名づけしを鼈の例を追い、吸いつけば雷鳴るまで離れずと付会せしなるべし。
 支那には『淵鑑類函』に、「『養魚経』にいわく、魚は三百六十に満つれば、すなわち竜これが長となって、引いて飛び出ず。水の内に鼈あれば、すなわち魚また去らず。ゆえに鼈は神守と名づく」など鼈の神異を説く例はあれど、その雷と関係あるを言うことなきがごとし。Wowitt,‘The Native Tribes of South-East Australia,’1904,p.769 にウォチョパルク族の男子、四十歳ならずして淡水産の鼈を食えば雷に殺さる。鼈と雷と縁ありて落雷の跡鼈に似たる臭ありと謂う、と出ず。またグベルナチスはいわく、梵語で亀をカシャパスと言い(仏書に摩訶迦葉波《マハカシヤパ》を大亀氏と訳せり)、雷神サラスワチーの騒ぐ音すなわち雷鳴をカシャピーと呼び、また亀をクールマス、屁をもクールマスと名づく。いずれも古え亀甲を楯とし用いしより、楯撃つ音に雷声を比せしによる、と(Gubernatis,‘Zoological Mythology,’1872,vol.ii,p.366)。この他に亀・鼈と雷と相関する説あらば報知を吝まれざらんことを冀う。   (大正三年四月『人類学雑誌』二九巻四号)
 
       二
 
 『人類学雑能』二九巻四号一六〇頁の拙文を英訳して『ノーツ・エンド・キーリス』へ出したところ、今年四月二十五日の同誌三三五頁に、ノルウィッチのヒブゲームなる人対えていわく。米国ヴァージニア州の黒人およぴ多少の白人も、鼈が物に咋いつくと雷が鳴らねば放さぬ、と信ず。また亀も左様だと聞いたが、亀が咋いついた例を知らぬ。(288)老いたる猟師の話に、雷雨中蛇が毒を出しえぬと聞いたこともある。かようの動物は空中の電気状況で大分平日と変わって来るらしい、と。熊楠いわく、二十四、五年前、予ミシガン州アナボアの郊外林間の池で、甲の長さ七インチばかりの亀を捕るとて食指を咬まれたことがある。また日本の亀に餅を遣るとて、誤って咬まれたこともある。いずれも手を引いてたちまち離しえた。   (大正三年八月『人類学雑誌』二九巻八号)
 
       三
 
 鼈と雷、付けた、り誓言について。もと南濠州アデレード大学古文学教授だったベンスリー氏より教示に、米国のルイサ・メイ・オールコット女史の一著(たぶん一八七一年に出た『リツル・メン』)に、誓言を好む童子みずから悪詞を用うるを止めんとて、その代りに雷鼈《サンダータートルス》という語を用い出すことあり、由来つまびらかならねど、あるいは雷が鼈の稟質に関係ありとする俗伝に基づきこの語を案出せしにあらざるか、と。このついでに、いまだ海外に蹈み出したことなき読者に告げおくは、欧米人が神の名を援《ひ》いて誓言するはキリスト教のもっとも制戒するところなるにかかわらず、無学の輩はもとより教育多く受けた人士、小児までも、情感興奮のさい種々不穏の詞を発して誓言するおびただしさ、聞くに堪えぬこと多し。スペイン人などはいささかのことに人を罵るとて、「上帝の頭に糞しかけよ」など言う。また南支那人も「母を犯す奴」、「後庭を犯さるる男」など口癖に言う者多く、その他ドイツ人が「魔王につけ」、英人が「鶏姦、鶏姦、鶏姦」と連呼するなど、その麁※[獣偏+廣]穢褻《そこうわいせつ》、わが邦の最悪詞といえどももってその十分一に比すべからざること多し。
 さて故サー・エドウィン・アーノールドの説に、日本には人を罵る時「この奴」と呼ぶくらいが悪言で、誓言ということ一切なし、とあった。まことに欧米またはお隣りの支那に比して、わが邦に重悪な誓言現存せぬは実に誇りとすべきことだが、サー・エドウィンが古今を混同して、むかしから日本人は一切誓言を吐かぬと思うたは間違ってお(289)る。何か物言うごとに「神もって」とか「八幡、八幡」とか「愛宕神も照覧あれ」などと言う人多かったは、徳川幕府中葉以前の書籍を見れば分かり、男のみかは女も時としてかかる を発したと見える。
いこととはせず、『一話一言』巻八に、慶安三年刊行のある書を引いて、「人と雑談し侍る時、仮初事《かりそめごと》にも仏祖、天道神、八幡氏神照覧、愛宕白山、居ずくみ、見しやり、この火に荼毘せられうぞなどと、怖ろしき誓言することはなはだ良からぬことと言えり」。『折たく柴の記』にも、白石、その父がある老人言うごとに誓言するを非難せし由を載す。『慶長見聞集』二、平五三郎という織物売り、田舎客相手に営業するさまを記すに、自分を堅固の法華信者と見せかけ、「御経、御本尊、御題曼陀羅、この数珠ぞこの数珠ぞ」と誓言吐いて売る、とある。『嬉遊笑覧』一一に、昔は常の人雑談中にも八幡、白癩《びやくらい》など誓言を言えり。商人はことさらなり。人情不直なるよりのことながら、なお質朴と言うべし、と評しおる。京阪で誓文祓いとて十月二十日商売の神に詣《もう》ずるは、もと祇園の官者殿(素盞嗚尊の荒魂を祭るという)が偽誓の罪を免れしむるとてこの日群集して年中欺売誓言の罪を祓うたが起りだという(『和漢三才図会』七二、『麓の花』下巻、『守貞浸稿』二四参取)。しかるに今となっては人が悪くなって、誓言など吐いても信ずる者もなければ、誓文祓いは名のみで、もっばら営業祝いと売出しの日となってしまったらしい。また吾輩十二、三のころ(明治十三、四年)まで児童の契約に「親の頭に松三本」など言うが和歌山で一汎の風だった。約を背かば親が死んでその墓上に松が生えるという意味で、かく誓言すると父母に厳しく叱られた。憂しと見し世ぞ目今のごとく子供まで根性が黠《こざか》しくなっては、はやそんなことで、なかなか食わぬ風となった。ただし『郷土研究』二巻六号三六六頁に、佐渡の一村で子供同士の約束に鬢切り髪切りと言い、また偽言吐けば山の井戸落ちると言う、とあるから、今も誓言の遺風を存する地方もあると知らる。
 支那にも古来誓言はあったが、近代ますます盛んで、予二年ばかりその博徒間に起臥したが、誓言の詞の鄙猥きわまるは上述のごとく、はなはだしきは生きた鶏の頭を断って他に抛げつけて誓言するなどある。在英のさい孫逸仙の(290)話に、只今支那人が用いる下劣な誓言はことごとく欧人に倣うたもので、欧人と交通盛んならぬ世には一切なかったと言われたが、果たして然りや。終りに述べおくは、わが邦でむかし用いた誓言で最も聞き苦しいのは「白癩」だろう。西鶴の『武道伝来記』七、武士の争闘に「白癩これはと抜き合わせ」、また近松の浄瑠璃にも、放蕩息子が金を獲て悦ぶ辞に「てんと白癩」とあったと臆う。これは厳重な誓文の詞で仏典から出たらしい。すなわち唐天竺波羅頗密多羅訳『宝星陀羅尼経』八、護正法品一一に、諸天竜、夜叉等正法を護らんと仏前に誓う。詞が長いから略抄すると、「已来、もしくは法師、もしくは比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、またもろもろの信心ある善男子、善女人は、施設すること妙好にして、広く他人のために分別し、この経を開示す。読誦の時に及べば、われらは一々、無量百千の眷属と囲繞し、そこに往いて法を聴く。擁護せんがためのゆえ、衆生を成熟せしめんがためのゆえなり。われら、もしかの城邑乃至庶民の家に往かず、および眷属をもって教勅《おしえ》を受けしめず、衆生を成熟せしめず、衆生をして財穀豐饒、倉庫盈満ならしめず、また一切の闘諍、飢饉、疾病、他方の怨敵、非時の風雨、極寒極熱、諸災難等を、もし遮断せずんば、われらはすなわち過去未来現在の諸仏世尊を欺誑《ぎおう》せりとなす。本誓願に違い、空しく得るところなし。白癩〔二字傍点〕病を得て、神通を退失し、身体爛壊せん、云々」とある。   (大正三年十二月『人類学雑誌』二九巻一二号)
【追加】
 鼈と雷に関して『ノーツ・エンド・キーリス』に出した予の疑問に対し、一月十六日のかの誌五二頁にエチ・エチ・ジョンソソ氏答えていわく、ペルシア語で亀をサング・プッシュ(石の背)と言う。諸国に石や燧石や石鏃を雷の記標とする民族が多い。よってこれらの意味が雷と亀・鼈と密に相かかわるという信念を生ぜしめたのだろう、と。   (大正四年四月『人類学雑誌』三〇巻四号)
 
(291)    泣き仏
                 中西利徳「泣き仏」参照
                 (『郷土研究』一巻三号一八三頁)
 
 この話は本邦に多い。涙を垂れるばかりのと、声を挙げて泣くのとあるらしい。『日本霊異記』巻中に、和泉の尽恵《じんえ》寺の仏銅像、盗に頸を※[金+帝]《き》られ、手足を欠かれ、「痛きかな、痛きかな」と哭きしこと、また諾楽の葛木尼寺の弥勒銅像盗に破られ、「痛きかな、痛きかな」と叫びしことを載す。文明中筆せる『南都七大寺巡礼記』には、招提寺講堂の金銅の弥勒の脇士大妙相菩薩の像、むかし盗人に遇って、「痛きかな、痛きかな」と叫んだので、捨て去った、とある。『和漢三才図会』六七に、「鎌倉扇谷の海蔵寺、本草は啼薬師。相伝う、むかし、この山の土中に毎夜児啼く。開山の源翁禅師怪しみてその所を見るに、小さき墓あり、金光を放つ。すなわち袈裟を脱ぎてこれを蔽えば、啼く声止む。これを掘るに、薬師の木像あり、一頭のみにして体と手足なし。別に一躯を作り、その腹内に収む」。『宝物集』三と『曽我物語』七に、園城寺の内供智興重病なるを、晴明卜いて、弟子の中に代わらんと志す人あらば祭り替えんと言う。証空阿闍梨、時に年十八、八旬に余る老母を思い捨て、晴明の祈りによって、師の病をおのれ受けて、苦痛忍びがたかりせば、年来頼める絵像の不動明王を睨み、浄土に迎え取らんことを請う。不動の絵像すなわち証空の病苦を引き受け、頂より猛火燻り、五体に汗、眼より紅の涙を出すとあるから、血の涙垂れながら声を立てなんだ。不動はさすがに男らしい0「されば三井寺に、泣き不動として寺の宝のその一なり。流させ給いし御涙|紅《くれない》にして、御胸まで流れかかりて、今にありとぞ承わる」とある。また長明の『発心集』巻五にもある。
 支那の例は、唐の釈道宣の『三宝感通録』二に、荊州城内の阿育王の作なる金仏像は、凶事ある前に涙また汗を流した。また襄州※[山+見]山の盧舎那仏の木像は、隋亡ぶる前、唐太宗崩ずる前等に、両鼻の孔から涕《はな》を垂れ、自身懐中の金(292)薄が剥げおちたとある。この像長五丈と言えば、涕の二本棒もずいぶん見事だったろう。一八二一−二年板、コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』三巻一〇八頁によると、欧州で、土曜日の午後|績《つむ》ぐと、聖母が泣くという俗説が行なわるるそうな。   (大正三年六月『郷土研究』二巻四号)
 
     塩を好まぬ獣類
                南方「山人外伝史料」参照
                (『郷土研究』一巻一二号七三一頁上段)
 
 明の富大用の『新編古今事類全書雑集』巻二に、『瑣砕録』を引いて、熊少しばかりの塩を食えば、すなわち宛転して死す、胡孫《さる》もまた然り、とある。本邦の熊と猿も塩を食えば死するものにや。軽々しく試みるべきにあらねど、言伝えあらば報告せられたし。   (大正三年七月『郷土研究』二巻五号)
 
     人を驢にする法術                                        南方「今昔物語の研究」二節参照
                  (『郷土研究』一巻九号五五六頁)
 
 高木君が引かれた『幻異志』の文だけでは、実際かくのごとき法術が支那に唐のころ行なわれたのか、ただこの一語のみインド等から転靴して伝わったのか、またまるで唐人新製の小説であったのかを知りがたかった。しかるところ頃日《このごろ》押上中将、予に『聊斎志異』を天津から取り寄せて恵贈せられたのを読むと、清朝にもこの法実在するという迷信が決して少なからざりしを知った。同書巻一四の第四四章にいわく、「魘媚《えんび》の術はその道を一にせず。あるいは羹餌《こうじ》を投じ、紿いてこれを食らわしむれば、すなわち人迷い罔《くら》んで相従って去る。俗に名づけて打絮把《だじよは》とい(293)い、江南にては※[手偏+止]絮《しじよ》という。小児は無知なれば、たやすくその害を受く。また、人を変えて畜となすものあり、名づけて造畜という。この術は江北にはなお少なく、江南にはすなわちこれあり。揚州の旅店中、ある人の驢五頭を牽き来たるあって、しばし櫪下《うまや》につなぐ.われは少選《しばらく》してすなわち返ると言い、兼ねて飲み※[口+敢]《くら》わしむることなかれと嘱して、ついに去る。驢は日中に暴《さら》され、蹄をけり齧《はがみ》し、ことに喧《やかま》し。主人、牽きて涼しきところに着《お》らしむるに、驢は水を見てこれに弄り、ついにほしいままにこれを飲む。一たび塵に滾《ころ》ぶや、化して婦人となる。これを怪しみ、その所由を詰《ただ》すに、舌強って答うるあたわず。すなわちこれを室中に匿《かくま》う。すでにして驢主至り、五羊を院中《なかにわ》に駆り入れ、驚いて驢の所在を問う。主人は客を曳いて坐らしめ、すなわち餐飯を進めて、かついわく、客しばらく飲め、驢はただちに至らん、と。主人出でて、ことごとく五羊に飲ましむるに、輾転してみな童子となる。ひそかに郡に報ず。役を遣わして捕獲し、ついにこれを械殺《かいさつ》す」。   (大正三年十二月『郷土研究』二巻九号)
 
     葦をもって占うこと
                      川村杳樹「片葉蘆考」参照
                      (『郷土研究』二巻四号一九六頁)
 
       一
 
 諏訪神社で元日に薄を供して占いを行なうた記事について連想せらるるは、わが邦に古く葦をもって占う式があったらしい−件だ。『新撰姓氏録』巻一〇、和泉国皇別|葦占連《あしうらのむらじ》、大春日同祖、天足彦押人命《あめたらしひこおしひとのみこと》の後なり。和泉国神別巫部連《みかなぎべのむらじ》、また大和国にありし漢霊帝の後と言える石占忌寸《いしうらのいみき》などの例で、葦占を世職としたから葦占連と言ったらしい。そのころどうして葦で占い、また葦のいずれの部を占いに使うたか分からぬが、もしくはその遺風かと思わるるもの後世まで行なわれた証は、『甲子夜話』続篇巻九七、享保三年、東南洋の無人島に流され、十一人のうち三人生(294)存して二十二年目に本国遠州へ帰った舟人の口上書に、二十二年目に大阪船一艘十八人乗りてまたその島へ漂着し、ともに住んだが、船頭万一を期して乗り出さば本国に帰ることもあろうと言うに一同賛成し、「おのおの垢離を取り、伊勢大神宮を始め奉り、三島、秋葉山、伊豆、箱根その他諸神諸仏を拝し、大願を掛け、葦の葉に朔日より晦日までの日を書きつけ、御祓をもってこれを摩《な》で候ところに、葦の葉一枚上り候につき見候えば、九日と申候付けあり」。すなわち九日の朝出船して、ついに八丈島へ八日日に着した、とある。   (大正三年十一月『郷土研究』二巻九号)
 
       二
 
 その後、予往年大英博物館で抄し集めた物を見た中に、一八四〇年板『ベンガル・アジア協会雑誌』巻九「グランジ中尉実践記」に、インドのナガ人は槍で軟い蘆を削って占う。蘆の薄片が落ちると反対の方角に向かい事を行なえば幸あり。したがって薄片が多く落ちる方が、それだけ多く不吉と判ずる、とあった。またバルフォールの『インド事彙』第三板二巻五四八頁に、インドのクハムプチ人、小さい火と蘆一把を持って占う。まず数節ある一本の蘆を灸ると一つの節が爆裂し、破片の両端に細かい繊維《すじ》が多く出る。それを仔細に検《あらた》め収《と》り去りまた一本灸る。一時ばかりこうやって、さて一同が待つところの酋長は三、四日内に来ると判じたのを、ハンネイ大佐が目撃した、とある。   (大正六年二月『郷土研究』四巻一一号)
 
     富士講の話
                  中山丙子「富士講の話」参照
                  (『郷土研究』二巻八号四八七頁)
 
 食行《じきぎよう》・角行《かくぎよう》の「両行は当時の高等遊民、すなわち旗本か御家人の隠居などであったろうと思う、云々。衣食に不安(295)を感じない彼らが、退屈紛れにさまざまのことを言い出して、お有難やの迷信をそそったのであろう」とあるが、『甲子夜話』六七に載せた福井行智(『夜話』の筆者松浦静山侯出入りの真言僧で、梵蘭諸語に達した人)の小冊『富士講起原由来』にこの宗の祖師系図あって、元祖書行藤仏(「人穴において入定す」)、次に大法浜旺、次に旺心、次に月旺、次に星旺、次に妙法日旺仏、その次に月心と月行※[曾+月]※[立心偏+中]あり。村山光漕が月心に次ぎ、月行の次に日行藤仲と食行|身禄《みろく》の二人を出す。これによれば書行《かくぎよう》(中山氏のいわゆる角行か)より八代目が食行で、食行すなわち身禄と見ゆ。また書行は肥前長崎の長谷川民部大輔という浪人の子で天文十一年生まる(家康と同年生れ)。八歳ごろより世を厭い、長成後奥州某山に入り、次いで富士に行って苦行し一派を開く。食行身禄は伊勢国川上の産、十八にて江戸に来たり、本町二丁目に住んで商いし、一代に巨万を積む。名は富山清兵衝、年来富士行を信じ、苦行を勤むること度々なり。老後に残りなく財貨を親属窮民に施し尽して赤貧となり、小石川春日町の裏店を借りており、油を鬻いでようやく妻子を養い、享保某年富士山にて三十一日の断食して餓死すとあれば、書行・食行ともに旗本、御家人の隠居でもなかったらしい。『嬉遊笑覧』七を見ると、この身禄、名は伊兵衛、本町二丁目呉服店富山清右御門に奉公せしが、十七にて店を出で武家に中間を勤め、のち水道町の油商山崎屋より油を受け、担い売りせりとあるから、一生貧乏だったので、行智は件の呉服店主富山清右衛門と身禄と主従を混じて一人とし、かつて大富だったよう筆したらしい。
 予の知るところでは、上方に古来富士登山の団体はなかった。ただし、予の父の出た家代々長寿で、祖父の代までみな八十以上で終わったが、父のみ六十四で死なれた。これは一代身上を起こしたから、その入れ合わせに天が命の方で差し引いたと人みな言う。よって予は若死せぬよう朝夕金の儲からぬ工夫ばかり運らしおる。その先祖の中に一人九十余まで生きたのがあって、毎度富士山へ上ると足の下から雲が起こったと村中言い伝えた。そのころ一人かかることを遠路思い立つはずもないから、あるいは以前は関西にも富士講風のものがあったのかと思う。
 知ったことほこれ限りゆえ、果たして角行と書行と同人か、食行と身禄は同人か別人かを、中山君ならびに読者諸(296)君に伺いおく。   (大正四年二月『郷土研究』二巻一二号)
 
     猫を殺すと告げて盗品を取り戻すこと
                   中島「朝鮮旧慣調査」参照
                (『人類学雑誌』三〇巻一号二四頁)
 
 朝鮮にこのこと行なわるとは予には初耳だが、トランスカウカシアのオッセテ人も然する。窃盗に遇うと方士に贈物してともに心当りの家に赴き、方士一猫を擁《かか》えて、「汝この人の物を盗んで返さずば汝の祖先の魂この猫に苦しめらるるぞ」と詛《のろ》う。するとその家の人果たして盗みおらば懼れて盗品をきっと返す。また盗人は誰と心当りなくば、家ごとにかく行ない廻れば、とても遁れぬところと盗人進んで罪を自白する。オッセテ人は猫、犬、驢を怪畜とし、他人に困しめられて不平を訴えんとする者、前方《せんぽう》の祖先の墓上に猫か犬か驢を一疋殺し、彼の祖先某々のために殺すと喚ばわる。その上、前方が何とか方づけずにおけば、名ざされた祖先どもの魂が殺されたと同種の畜となる。これ子孫に取って大不祥なれば、かくして祖先を詛われた者急ぎ来たって損害を償い和平を求むるという(Haxthausen,‘Enng.trans.,1854,pp.398-399)。こんな訳か、一五六六年に初めて出版の Henri Estienne,‘Apologie pour Herodote,’tom.i に、猫は裁判の識標ゆえ、イーヴ尊者(状師の守護尊)の像に猫を伴う、とある。   (大正四年三月『人類学雑誌』三〇巻三号)
 
     琵琶法師怪に遭う詰
 
 阿波の耳切団一《みみきれだんいち》の譚(『郷土研究』二巻四号二四九頁と同似のもの、『曽呂利物語』四に「耳きれ雲市《うんいち》がこ(297)と」と題して、善光寺内の比丘尼寺へ出入りする越後の座頭雲市が、やや久しく無沙汰してのち行き、三十日ほど前に死んだ尼慶順の霊にその寮に伴れ行かれ、二夜外出を許されず大いに餓え困しむ。三日目に寺中の者戸口を蹴放して彼を救出し、馬に乗せて帰国せしむる途上、今にも後より取りつかるるよう覚え、ある寺に入り頼むと、僧ども雲市の一身に等勝陀羅尼を書きつけて仏壇に立て置く。尼の霊来たって可愛や座頭は石になったとて撫で廻し、耳に少し陀羅尼の足らぬところを見出だし、ここに残り分ありとて引きちぎって持ち去った。本国に帰って耳切雲市とてながらえたという。   (大正四年六月『郷土研究』三巻四号)
 
     孝行坂の話
 
 『郷土研究』二巻八号四七四−六頁に、越原君が大宮辺から来たらしい下婢より聞いたとて、孝女が奉公中朝夕その母に似せ作った仮面を拝した話を出されたが、不幸にも君はその語の後の方を忘れたそうで、結《とじ》めが一向分かっておらない。予は君のかの文を読むとすぐこの話の出処を憶い出したが、その書が半年歴た今日(四月十八日)やっと手に入ったゆえ、大意を抄記して奇書とする。
 この話は湖東駒井光闡寺の僧南溟著『続沙石集』(寛保癸亥の自序あり、延享元年京都板)巻四の第二章「孝行坂|得名《とくみよう》のこと」と題したもので、四葉半に渉れる長譚たるによって、できるだけ縮めて話の筋を演《の》べる。いわく、丹後国に孝行坂という所あり。往古は隣村の名で呼んだ。それが孝行坂となった訳は、むかしこの坂の奥なる小家に貧な母子あって、子は女で二十歳ばかり、自村で生活むつかしいゆえ、村人勧めて母一人は介抱しやるから汝は他へ奉公に出よと言う。よって坂を踰えて三里離れた地のある大百姓方で一年ほど勤めるうち、朝夕針函の蓋を開けて拝するを傍輩の女注意して見ると、けしかる女の面一つあり。主人これを聞き鬼の面を拵え、ひそかに彼女の面と替えおいた。そ(298)の日の暮に女例の通り箱を開き鬼の面を見て吃驚《びつくり》し、強いて主人に暇を乞い風呂敷持って自村へ還る。坂の峠で大男二人立ち出でその風呂敷を奪い見るに、仮面のような物の外に何もないから抛げ帰し、今夜は仕合せが悪い、切《せめ》てこの女を連れ往き茶でも焚《た》かそうと言って引っ立て行く。山奥の小家に五、六人おる所へ入って博奕するうち、女は茶を焚いて持運ぶ中にも在所の母は死んで鬼になったものか、わが拝した母の面が兄に化《な》ったときわめて心配のあまり、風呂敷から鬼の面を出し、拝しては眺めまた自分の顔に掛けなどす。賊輩また茶を持って来いと喚ぶから、気づかずに件の面掛けたまま茶を運ぶと、一同肝を消し何か打ち捨て散々に遁げ去った。
 女自分の掛けおる鬼の面に気がつかず、不思議なことと思いおると、老僧一人来て汝在所へ帰りたくばわれ案内してやろうと言って、賊が捨て置いた金銀ことごとく風呂敷に包み、これは汝の物だと言う。女誰の物やら分からぬを取るべきようなしと言うと、さらに苦しくない、われこれを汝に与うとて女に持たせ坂越ゆるまで付き添うて去った。女その辺を顧みるとにわかに見失うた。女里に帰って母を訪うと、夜中何ごとあって帰ったかと急ぎ戸を明け見れば、娘でなくて鬼女だから母気絶した。娘心得ず、こはいかにと騒ぐうち始めて気がつき、鬼の面を脱ぎ水を注いで母正気づいた。さて母が何故夜中帰って来たかとの問いに娘答えて、奉公に出てより毎朝夕拝した母の面が突然鬼の面と化ったので不祥が生じたと察し、暇貰うて還る途中かようの難に遭うたと物語って、金銀を母に渡す。母驚いて何角《なにか》の歓びに一両日休息せよとて、里人を頼み主人へ告ぐる。主人それは気の毒なことをした、母の面が鬼と化ったは全く余が摺り替えたのだ。仔細も言わず暇を乞われたので、そのことを忘れおった。何に致せ女の至孝を感じ天道が賊難を遁れしめた上財宝を賜うたので、その老僧は化人《けにん》だろうと主人しきりに感心し、直《じき》に母親に面会に往ってその子の妻にかの娘を貰い受け、里の母には下女一人添えて万事不自由なく暮らさせたから、母も娘も夢の心地と思うほどに悦んだ。それから件の坂を誰言わしむともなく孝行坂と号けたことじゃ。   (大正四年七月『郷土研究』三巻五号)
 
(299)     幽霊の手足印
 
 『甲子夜話』続篇巻八五に、天保三年京都大仏開帳の時、「京都を通行せし者来たりたるに聞きしは、かの大仏の宮の殿内宝物を置きし間所々ある中書院の縁側幅二間長さ十間ばかりの所の板天障に血付きたる手の跡、足形またはすべりたるかと見ゆる痕あり。その色赤きもあり、黒みづきたるもあり。板天障一面このごとし。人伝う、むかし関白秀次生害の時随従の人、腹切り刺し違えなどして死したる時の板鋪の板を、のちにこの天障板にせしものという」とあり。明治十五年予高野山に登った時、秀次一行が自殺した青巌寺で右様の物を見たが、今も存するか知らぬ。蔀関月の『伊勢参宮名所図会』三にも、伊勢度会郡山田上の郷久留町の久留山威勝寺の条に、「本堂の天井には人の手足の形多く、赤き色にて一面に見えたり。これを俗に三好(下総守長秀孫三郎頼澄兄弟、永正五年四月十一日当所にて北畠中納言材親と戦い負け自殺)討死の時の血に染みたるを天井とせしという。また洛の養源院にも桃山の血天井と言える物あり。また堺の寺にもこの類あり。ここをもって思うに、これ木理自然の斑文にして血に染みたるにはあらざるべし」と見ゆ。
 これらはいわゆる血付きの手形・足形を事実自殺者の遺跡と伝えたのだが、木板に留めた足形を神異の物とした例もある。『和漢三才図会』七三、「大和の大三輪寺。寺の丑寅の隅に人の足跡あって、形《なり》を板に遺す。今にいたるも温煖《あたたか》なり。相伝う、明神、里人の女《むすめ》に見《まみ》えて子を生ます、その子十歳にして入定し去ると、云々」。吉原頼雄君いわく、「常陸国土浦在殿里に、産児の足とて小流上の石橋に、ちょうど赤子の右の足ほどの跡が筑波山の方を向かって凹んで黒く残っている。よほど古くからあるらしい、云々。この足跡に溜った水を夜泣きする子供に飲ませると必ず泣き止むというので、その水を採りに来る者が多い。左の片方は、筑波山麓の神郡とかにあるそうだ」と(『郷土研究』(300)一巻三号一七七頁)。大三輪寺の小児の足跡は木板に残したものだが血痕ではなく、殿里のはただ石に印された小児の足跡で、ともに血天井に縁薄いが、小児の足跡は本朝でこの二例しか見当たらぬが珍しさに書きつく。
 さて予幼少の時亡母に聞いたは、摂津の尼崎の某寺堂の天井におびただしく幽霊の血つきの足跡が付いたのを見た。戦争とか災難とかで死んで浮かばれぬ輩が天井の上を歩く足跡と聞いた、と言われた。幽霊が天井の上を歩くなら下から見えるはずがないから、幽霊の足跡に限って板を透かして下に現われるのだろうか。ただし、近松門左の戯曲《じようるり》『傾城反魂香』中の巻「三熊野かげろう姿」に、狩野元信おのが絵《えが》きし三山の襖戸に見入るうち、その神遊んでかの境に入り、「わが画く筆とも思われず、目を塞ぎ南無日本第一大霊験三所権現と伏し拝み、頭を挙げて目を開けば南無三宝、先に立ったるわが妻は、真逆さまに天を踏み両手を運んで歩み行く。はっと驚きこれのう、浅ましの姿やな、まことや人の物語、死したる人の熊野詣では、あるいは逆さま後ろ向き生きたる人には変わると聞く」と言うところあり。幽霊が逆さまに歩くという話、明和九年に出た『武道真砂日記』三、またそれより前、団水(四十九歳で正徳五年歿す)の序ある『一夜船』二にも出でおるが、それは逆磔に懸けられた女が逆さまに歩んだのだ。逆磔に懸かりもせぬ世間並みの死を遂げた者の霊が逆さまに天を踏んで歩むという俗説は、もと仏教から出たのだろう。
 例せば『正法念処経』三に、「いかなる邪行ぞや。いうところは、人あって他の軍国を破り、婦女を得おわり、もしくはみずから行ない、もしくはみずから取りおわって多くの人に給与し、もしくは道に依って行ない、もしくは道に依らずんば、かの人はこの悪業因縁をもって、身|壊《やぶ》れ命終わり、悪処合《あくしよごう》大地獄に堕ち、忍苦の処に生まる、云々。閻魔、人を羅《あみ》し、これを懸けて樹頭に在《お》く。面《かお》は下にあって、足は上にあり。下より大火を燃やし、一切の身を焼き、面よりして起《はじ》まり、云々」。その他地獄の衆生倒懸の苦を受くる由説いた経文すこぶる多い。耶蘇教徒も中古倒懸地獄ありと信じたは Paul Lacroix,‘Military and Religous Life in the Middle Ages,’London,Bickers & Son,p.485 なる十二世紀の古図を見れば判る。西晋の安法欽訳『阿育王伝』四に、摩突羅《まとら》国の一族姓子、尊者|優波※[毛+菊]多《うばきくた》に従い出(301)家せしが、眠を好んで得道せず。林中に坐禅せしむるにまた眠る。「尊者、化して七頭の毘舎闍と作《な》り、空中に倒懸す。にわかに覚めて見おわり、極めて大いに怖畏す。尊者これを諭すらく、毘舎闍はよく一身を害う、睡眠の患は無量身を害う、と」。これを聞いて悟り阿羅漢果を得た、と見ゆ。毘舎山闍(ピサーチャの音訳、Eitel,‘Hand-Book of Chinese Buddhism,’1888,p.118 に、欧州のヴァムパヤー、吸血鬼に当つ)、『名義集』鬼神篇二四に、「此《こなた》にては、精気を啖《くら》う、と言う。人および五穀の精気を※[口+敢]う。梁にては顛鬼と言う」とあるから、足を上に頭を下に顛倒して歩く鬼で、わが邦の見越し入道にやや近い。それから苻秦の時衆現三蔵が訳した『※[革+卑]婆沙論』一四に、人死して「地獄に生まるれば、足は上にあって頭は下に向かう。天上に生まるれば、頭は上にして足は下にあり」とあれば、地獄の道中する亡魂はみな逆立ちに歩み行くのだ。
 かく地獄の衆生も毘舎闍鬼も、地獄へ生まるべき中陰の衆生も、みな倒懸また逆立ちして歩むとしたには種々原由もあろうが、概括して考えると、ヴォルテールが、神が神の身相に擬して人を作ったでなく、全く人が人体を摸して神を造ったと言えるごとく、人が人や鳥獣を倒懸して殺戮することあるより、地獄にも倒懸の刑ありとしたなるべく、また蝙蝠昼間暗窟中に倒懸し、その時窟中にむかし死人を葬ったことおびただしいところから、耶蘇教の画に悪鬼に蝙蝠の翼を添うるごとく、インドでは毘舎闍が墓塚に棲んで逆立ちして歩み人の精気を食うと言い出したのだろ(Spencer,‘Principles of Sociology,’3rd ed..,vol.i,pp.329-331 参照)。さて善因乏しくて浮かまれぬ亡魂が足を天に向けて歩むというは、むろん上述の二理由より出たものの、予が『東京人類学会雑誌』二九一考三三二頁に述べた通り、淋しい山中の濃霧に行人の反影が逆さまに映ったり、また『不二新聞』大正三年一月十八日分に説いたごとく、大地の微動等、ちょっと人が感覚せぬ小震盪に伴《つ》れて、ある家の天井が異様に鳴るなどから起こったことと思う。したがって天井板に手足の跡に多少似た紋斑が見えると、それを幽霊が逆立ちして歩いた蹟と信ずるに及んだだろう。
(302) 心安い人の説に、すべて寺の本堂の廻り縁の天井は、年を経ると必ず大小種々手足の印相を多く現出する。手足を柿渋で塗って押しっけたごとく、指紋、掌紋の微細なるまでも現然たり。この小さい田辺町にも四ヵ寺までかようの印相ある天井板歴と存在す、と。ところがその人の娘いわく、寺に限らず、この地の小学校の廻廊の天井にも近ごろ同様の斑紋を生出したとのことで、多分木の質により自然にそんな斑紋あるか、雨風の作用で脂汁が流れ出てなるか、微細の菌類が生えて多少手足印に似た紋相を作るか、何に致せ顕微鏡を持ち往って検査するが第一と思いながら延引するうち、このことを書いた拙文『不二新聞』に載ったを読んで、押上中将より来信あり、いわく、「新築工事中、大工のうち脂手の者が取り扱いたる部分は、新築当時は不明なるも、だんだん年を経るに従い、その脂手にて触れられたる処が黒くなり、あたかも血の付きたる手を接したるごとく相成るものに候。足跡は右のごときことの機会少なしとは存じ候えども、これも接触の機会絶無には無之候。現に小生現住の家も約二十年前の新築なりしが、数年前より右様の手痕を顕わし申し候。小生他所においてもかくのごときものを見ること多く御座候。御参考までに申し上げ候」。この教示を得て大いに暁り、老巧の大工を招き問うに、その人いわく、まことに中将の言のごとし。すべて天井板はむやみに釘を打つと正しく入らず。故に下より手で板を受けて釘を打つこと多し。その人の手脂多き時は手形が多く付く。当時は目に見えぬが、寺の廻廊など風当り烈しきところの天井板は、他の室内等の者よりはずっと速く削減され往くも、脂が付いた部分は左様は削られずに残るから、ちょうど手の形だけ遣る、と。またいわく、幽霊には足のないが定法ゆえ、やもりのごとく手で這い歩くとは言うべし、足跡のあるべきはずなし、と。とにかく、これらの説明でいわゆる血天井の原因は分かったから、そのうち親しく当町の寺々および学校について、いわゆる血天井には足印なく手印ばかりか、足印もあらば手印に比してどれほど少なきかを検せんと欲す。   (大正四年九月『人類学雑誌』三〇巻九号)
 
(303)     鳴かぬ蛙
 
 川村氏は『近江輿地誌略』の一文によって、諸国の池の鳴かぬ蛙の俚伝は、神霊降臨するも帰り給うを見ぬの意で帰らず〔三字傍点〕と言ったを、蛙入らず〔四字傍点〕と故事つけても、訳もなく反証が挙げられえたため、さらに「いても鳴かぬ義」に漕ぎつけてしまったのだろうと言って、反対論の有無を問われた(『郷土研究』三巻二号六六八頁)。
 日本のばかりの解説はそれでよいとして、全体鳴かぬ蛙の話は外国にもある。プリニウスの『博物志』八の八三章に、キレネ島の蛙本来唖だったところへ、後に大陸から鳴く奴を移した。ただし今も鳴かぬものが存在する。当時(西暦紀元一世紀)、セリフォス島の蛙もまた※[病垂/音]だがよそへ移せば鳴く。テッサリアのシカンドルス湖のものまた然り、とある。これらは本邦の諸例のように偉人のために声を封ぜられた沙汰はない。J.Theodore Bent,‘The Cyclades,’1885,p.1 に、著者みずから往き見しに、セリフォス島の蛙は今はみな鳴く、とある。一生蛙に付き添うて鳴く鳴かぬを検する人もなかろうが、むかし右様の祝が行なわれたるを考うるに、里近く鳴かぬとか人が少しく近づけば鳴かぬとか、常の蛙と異なったものがあったか、またまるで鳴かぬのも全くなかったに限らぬことと想う。国により少しも吠えぬ犬あること今日も聞き及ぶ。
 さて本邦同様声を封ぜられた蛙の例は、『隠州視聴合記』四に、海部郡葛田山源福寺の庭の池畔に、後鳥羽上皇御遊のおり松風蛙鳴を聞いて、「蛙なく葛田の池の夕畳み、聞くまじ物は松風の音」、これより今に至り蛙鳴かず、門を出でて三、五歩せざるに常のごとく鳴くとあって、「元の大徳の間、仁宗潜邸にありし日、懐孟《かいもう》に輦《くるま》を駐む。ことに群蛙の乱喧《かまびす》しきに苦しみ、終夕寐ぬるなし。翌|旦《あさ》、太后近侍に命じて、旨《し》を伝え、これを諭していわく、わが母子まさに※[立心偏+貴]々《かいかい》たり、蛙人を悩ますに忍びんや、自後《これより》また鳴くなかれ、と。その後、蛙ありといえども声をなさず。のち四年(304)を越えて、仁宗大宝に登る」と『輟耕録』を引きおる。『淵鑑頬函』四四八、「『南史』いわく、沈僧昭、少くして天師道士に事え、中年にして山陰県を為《おさ》む。梁の武陵王紀、会稽の太守たり。池亭に宴坐するに、蛙鳴くこと耳に聒《かまびす》し。王いわく、殊に絲竹の聴を廃《めつ》す、と。僧昭、呪厭《まじない》すること十口ばかりにてすなわち息む。日の晩るるに及び、王またいわく、そのまた鳴くを欲す、と。昭いわく、王の歓すでに闌なり、今汝の鳴くに恣《まか》す、と。たちまち喧聒《かまびす》し」。『輟耕録』にいわく、「宋の季城信州の南池は、春夏の交ごとに群蛙耳に聒しく、寝食安んぜず。今三十八代の天師張広微、京に朝して回るや、因って朱書をもって新瓦の上に符篆し、人をして池中に投ぜしめ、これを戒めていわく、汝蛙再び喧《かまびす》しきことなかれ、と。これより今に至るまで寂然たり」。また仏国のウルフ女尊者、アミアン付近の小廬に住みし時、一朝ドミス尊者勤行を促しその戸を敲きしも、蛙声に紛れて聞こえず眠り過ごした。ウルフ寤めて大いにこれを悔いキリストに訴えしより、そこの蛙永く鳴き止んだ。リウォールとウアンの二尊者また蛙が喧《やかま》しくて説法と誦経を碍《さまた》ぐるを悪み、その鳴くを永く禁じたという(Collin de Plancy,‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’1821-22,tom.i,p.39)。レグルスとベンノの二尊者伝また同様のことあり(Gubernatis,‘Zoological Mythology,’1872,vol.ii,p.375)。
 これら諸例、古ギリシアや西欧、それから支那にも鳴かぬ蛙の話あるを示し、その国々に蛙を「帰る」と同似の名で呼ばぬから、帰らずの意味から鳴かぬ蛙の譚が出たと言いがたい。さりとて日本の話だけは語意の取違えから生じ、外国のは地勢や蛙の生理上の影響から生じたと鋭かんとも鑿せるに似たりだ。   (大正五年三月『郷土研究』三巻一二号)
 
     眼と吭に仏ありということ
 
 禅僧問答の笑話、今日の落語家が蒟蒻問答というものの本邦とスイス国の例を、去年七月一日の『日本及日(305)本人』に出し、その原話はインド辺に生じただろうと述べたところ、八月一日の同誌に、鈴木真静君よりかかる譚がインドの『カリダーサ伝』に付属せる由明答を得て、すなわち鈴木君の全文を十一月十三日の『ノーツ・エンド・キーリス』に訳載した。その結果、十年前『英領中央アフリカ』を著わして人種学者・民俗学者を益した、アリス・ワーナー女史等よりザンジバール等にもかかる話行なわるると知らされ、その梗概を訳して寄せおいたから、たぶん二月中に『日本及日本人』へ出るだろう。
 そのうちに載せなんだが、鈴木君の文とともに英国で出しおいた通り、この話の異態を先年紀州西牟婁郡へ京都から来た説教僧より伝聞せるは次のごとし。いわく、本山より末寺へ客僧を遣わし無言で問答して、住持が満足に応対しえずば寺を追わるる定めで、その時節が迫り近づき住持大弱りのところへ出入りの餅屋来たり、住持の身代りに立つべしとて、その法衣を着し威儀を正して鹿爪らしく竢つと、果たして客僧やって来たり、即座に両手の拇指と拇指、食指と食指とを連ねて 圜《えん》状をなし示すと、餅屋さてはこれほど大きな餅一つの価を問うと心得、十文と言う代りに十指を展《の》べ示すと、客僧叩頭す。次に客僧三指を出すを見て、餅屋十文は高値なれば三文で売れという意味と暁り、一指を眼下に加えベカコウして見せると、客僧九拝して去った。ある人客僧に、何故かくまでかの(偽《にせ》)住持に敬服したかと問うと、われまず圜状を示して大日如来は如何と問いしに、彼十指を展べて十方世界を遍照すと対え、さらに弥陀の三尊はいずこにありやと問いしに、彼その眼に指を加えて眼にありと示したは真に悟り捷い住持で、吾輩が企て及ぶところでない、と言ったそうだ。
 按ずるに、天文九年ごろ成った守武『独吟千句』に、「わが身ながらも尊くぞある」、「日の仏かしらの神を戴きて」。貞徳の『油粕』に「今は二尊の中間ぞかし」、「鼻の上に黒まなこほど痣できて」。かく人の眼中に仏ありと言ったは、もと神と髪と同訓なるより正直の頭に神宿るなど言い出し、それに対して、人の眼瞳に対座する者の顔貌が映るを眼中に仏があると想うたのだろう。紀州西牟婁郡の俗、今も瞳孔を女郎と呼ぶ。これまた右と同様の想像に起こったら(306)しい。予未見の書 Sir Everard im Thum,‘Among the lndians of Guiiana,’1883,p.343 より友人が抄し示されたるを見ると、南米ギアナのマクシ人は、人の瞳中に小さき人像あり、その人死して魂身を離るればこの小像滅して見えず、と言う由。これは眼曇りて、もはや対する人が映らぬをかく言うらしく、かかる俗信は日本に限らぬと見える。
 ついでに言う。『源平盛表記』四五に、平重衡斬らるる時、土肥実平が鎌倉で善き便宜の候いしになどて御自害は候わざりけるやらんと問いしに重衡答えて、人の胸には三|身《しん》の如来とて仏おわします、怖れ悲しと思いて身より血をあえさんことは仏を害するに似たり、されば自害はせざりきと言った、と見ゆ。今もこの辺で人の吭《のど》に仏ありと言い、火葬跡を捜りて仏を拾えりとて親属が持ち帰り仏檀に納むるを見るに、行燈のカキタテ状の小骨片で、見様次第で仏の座像のごとく見えぬでもない。実は第二頸椎骨、解剖学者がアキシス(枢軸)と呼ぶものだ。
 さて過ぐる明治四十二年、英国のジー・エチ・リーセムなる人より来書に、その前旅順攻撃に従軍したアシュメッド・バートレットの近著『旅順攻囲』に二百三高地を日軍が占領した時の記事中次の言あり。いわく、「日軍の戦死者一々点検され、姓名判りし分はさっそく山より運び下ろされて火葬を竢つ。このさい軍医、戦死者ごとにその結吭(アダムス・アップル)を截り取りおく。これ故郷の遺族に送るがためなり」と。かかること実際行なわれしやと問われ、熊楠その場にあらなんだから何とも答うる術を知らず。しかし、かかる※[総の旁]劇《そうげき》中に無数の結吭軟骨を截り取って保存するなどはありうべからざることと惟い、たぶんバートレットは実際みずから覩ぬことを覩たように書いたので、全く戦死の屍体を火葬してその第二頸椎骨などを拾うて郷里へ送る由伝聞したが、言語十分通ぜずして骨片を結吭と誤解し、骨拾いを截り取りと訛伝したのだろうと答えおいたが、西人が東洋のことを十分呑み込まずに種々異様のことを書き立つるは毎度ながら不快きわまる。それと同時に、従軍記者などに対しては今少しく言語のよく通ずる邦人をして接待せしめられたいことだ。さて四年経って大正二年リーセムより書信あって、まことに熊楠の言のごとく、バートレットはみずから覩ぬことを覩たように吹いたのであろう。ただし、バの法螺も多少の所憑《よりどころ》はある。その後種々調(307)べて、インド・ベンガルのサンタル人は死人の結吭を截り取ってダムダという聖河へ持ち行き抛げ入るると知った。バはこのサンタル人のことを、等しく喉に関することとて、日本戦死者に付会したのだろ、と述べられた。(一月十九日夜)   (大正五年二月『人類学雑読』三一巻二号)
 
     山の神について
 
 『人類学雑誌』三二巻三号八八頁に、佐々木繁君が「オコゼ魚」の話を述べた中に、山神、海神と互いに持ち物の数を誇り語る時、山神自分所有の植物を算えて勿ちにセンダン、ヤマンガと数え、海神色ひるむを見て得意だったが、海神突然オクゼと呼びたるにより山神負けた、とある。これは『東京人類学会雑誌』二九九号一九一頁に予が書いた熊野の安堵峰辺で伝うる、山祭りの日、山神みずから司る山の樹木を算うるに、なるべく木の多きよう算えんとて毎品異名を重ね唱え、「赤木にサルタに猿スベリ(姫シャラのこと)、マッコウ、コウノキ、コウサカキ(シキミのこと)」など読む。この日人山に入ればその内に読み込まるとて怕れて往かず、とあったと同源から出たらしい。木の内に読み込まるればたちまち死して木となるということだろう。
 本邦にむかし草合せの戯あったこと『古今要覧稿』等に見え、われら幼時熊野の串本辺の小児もこれをした。すなわち支那で言う闘草だ。劉賓客『嘉話録』に「晋の謝霊運は髭《くちひげ》美なり。刑に臨み、よって施して南海|祇※[さんずい+亘]《ぎおん》寺の維摩詰の像の髭となす。寺人|宝惜《ほうせき》し、初め虧損《きそん》せず。中宗の朝に、宗楽公主、五日|闘草《くさあわせ》し、その物色を広めんとして、騎を馳せてこれを取らしむ。他《たにん》の得るところとならんことを恐れ、よってその余《のこり》をも剪り棄つ。今ついになし」とあり。『古今著聞集』に宮中の菖蒲合せ、花合せ、前栽合せなどを記せるを併せ攷うるに、和漢とも草合せの小戯が大層な共進会となり、ついに音楽遊宴を雑ゆるに及んだのだ。佐々木君のいわゆるヤマンガは山桑という山|茱萸科の木、熊(308)野では初夏白花咲き秋実紅熱して食うべき物であろう。勿ち〔二字傍点〕にセンダンの勿ち〔二字傍点〕、もしくはアフチの誤植か。果たして然らば、アフチ、センダン一物異名なれば、山神所有の一木を異称もて重ね呼ぶこと、安堵峰辺で赤木にサルタ云々と重ね呼ぶというに同じかるべし。さて予が安堵峰辺の伝説を『東京人類学会雑誌』に寄せたのち、かの山より遠からぬ日高郡竜神村の人々より聞いたは、山祭りの日(陰暦十一月初めの申の日)猴が木を算うるとて人々怕れて山に入らず、と。したがって考うるに、かの辺ではもと猴を山神としたので、さてこそその顔の色とその名にちなんで、赤木にサルタにサルスベリとヒメシャラの一木を三様に言い重ねると伝えたのだろう。
 また山神女身ではなはだ男子が樹陰に手淫するを好むと伝うるも、むかし山中猴多き地には牝猴不浄期至り慾火熾盛なるを見て言い出したことか。予壮歳にしてサーカスに従いたりき。しばしば黒人などが牝牡の猴に種々猥褻なことをして見せると、あるいは喜んで注視しあるいは妬んで騒擾するを見た。類推するに、むかし牝猴に手淫するところを見せ悦ばせたことも山民中に行なわれたものか。『神異経』に、※[豸+周]《しゆう》という大猴よく木に縁り、純《みな》牝にして牡なく、要路に群居し男子を執え、これと合して孕むなどあるも類似の話だ。猴の経立《ふつたち》はよく人に似て女色を好み、里の婦人を盗み去ること多しと佐々木君の話、柳田氏の『遠野物語』三六頁に見え、猴、ことにゴリラ、一たぴ手淫を知れば毎度これを繰り返し行ない、ついに衰死するを予幾度も見た。De Chambre,‘Dictionnaire Encyclopedique des Sciences Medicares,’2me serie,tom.xiv,p.363,1866 にも、犬や熊もするが猴類ことに手淫する例多し、と記す。
 それから二九九号一九二頁已下に予が全文を出した「山神絵詞」は、一昨春米国のスウィングル氏来訪されたみぎり、その絵を見てことのほか望まれた。よって画工に写させ、予その詞を手筆し贈ると、非常に珍重し、大枚二十五円ほど投じて金泥銀粉で美装させ持ち帰った、と白井博士から文通があった。この絵には山神を狼としおり、今も熊野に狼を名いわず山の神と呼ぶ村がある(例せば西牟婁郡|温川《ぬるみかわ》)。猟師に聞いたは、鹿笛は銭二つ重ねて小児が吹き弄ぶ笛に似、婦女の笄、櫛等を盗みて作り、盗まれた婦女が捜し求むれば求むるほど効著し.二、三声シューシュー(309)と吹いて止める。それより多く吹かず。吹きよう種々あって上手になるはむつかし。これを吹いて第一に来るは狼で、狼来ればただちに吹く人の頭上を二、三度飛ぶ。その時他の諸獣ことごとく、近処に来たりありと知る、と。その他種々聞いたことどもから推すと、紀州の山神に猴と狼とあり、猴神は森林、狼神は狩猟を司ると信じたらしく、オコゼ魚を好むは狼身の山神、手淫を見るを好むは猴体の山神に限るらしい。
 末筆ながら述ぶるは『人類学雑誌』三二巻二号五九頁を子細を知らぬ人々が読むと、本邦吉野の柘《やまぐわ》の仙女や、歌に詠まれた山姫や、女形の山神、山婆、山女郎等がギリシア古伝のニムフスに相当すとは佐々木君が言い出されたよう合点する向きもあるべきも、右の説はもと『東京人類学会雑誌』二九九号一九二頁に予が明記しおいたので、決して佐々木君の創見でない。   (大正六年五月『人類学雑誌』三二巻五号)
 
     蛇を駆逐する呪言
 
 「人類学雑誌』三二巻一〇号二二三頁に佐々木君いわく、「蛇に逢い蛇が逃げぬ時の呪、天竺の茅萱畑に昼寝して蕨の恩顧を忘れたか、あぶらうんけんそわか、と三遍称うべし。かくすれば蛇は奇妙に逃げ去るとなり」と。それだけでは何の意味とも分からねど、内田邦彦君の『南総俚俗』一一〇頁に、「ある時、蝮病んでしの根(茅の根のことなれど、ここはその鋭き幼芽のこと)の上に倒れ伏したれど、疲弊せるため動くあたわざりしを、地中の蕨憐れに思い、柔らかな手もて蛇の体を押し上げて、しの根の苦痛より免れしめたり。爾後、山に入る者は、『奥山の姫まむし、蕨のご恩を忘れたか』と唱うれば、その害を免る」と載せたるを見て始めて釈きうる。(一月二日)   (大正七年一月『人類学雑誌』三三巻一号)
 
(310)     親の言葉に背く子の語
 
 明治四十一年七月二十三日の『大阪毎日新聞』に、能登の一地方の伝説を載せた。たぶん故|角田浩々歌客《つのだこうこうかかく》の筆で、そののち漫遊人国記とかいう物にまとめて出された続き物の中にあったと記憶する。いわく、梟《ふくろう》はもとはなはだ根性曲がった子で、その母川へ往けと命ずれば山へ、山へ往けと言えば川へ往った。母臨終にわが死体を川端へ埋めよと遺言した。これは万事親の言に反対する男ゆえ、かく言いおいたら定めて陸地へ埋めくれるだろと思うてであった。しかるに、子は母の死するを見てたちまち平生の不孝を悔い、生来始めて母の詞に随ってその尸《しかばね》を川端へ埋めた(熊楠謂う、このところにさて不孝の咎でその子ついに梟となったとあったはず)。それより雨降りそうな折ごとに、川水氾濫して母の尸を流し去りはせぬかと心配して梟が鳴くのだ、と。已上、予が英訳しおいたのを復訳したのだから、多少原文と合わぬところもあろうが、大意は失いおらぬはず。
 右は、支那で古く梟は不孝の鳥で成長ののちその母を食うと言うのと、邦俗、梟天晴るる前に糊磨りおけ、雨ふる前に糊取りおけと鳴くというを取り合わせて作ったに相違ないが、不孝の子が親の死後悔いてその尸を水辺に葬ったという一件は、今よりおよそ一千一百年前、唐の段成式が筆した『酉陽雑俎』続集巻四に見える次の話を作り替えたものか。いわく、昆明池中に塚あり、俗に渾子《こんし》と号す。相伝う、むかし居民、子に渾子と名づくる者あり。かつて父の語に違う、もし東と言えばすなわち西し、もし水と言えばすなわち火をもってす。病んでまさに死せんとし、陵屯処に葬られんことを欲す。矯《いつわ》り謂っていわく、われ死なば水中に葬れ。死に及んで渾泣いていわく、われ今日さらに父の命に違《たが》うべからず、と。ついにここに葬る、と。盛弘之が『荊州記』によるにいわく、固城|※[さんずい+耳]水《じすい》に臨む。※[さんずい+耳]水の北岸に五女の※[土+敦]《どて》あり。西漢の時に人あり、※[さんずい+耳]に葬る。墓まさに水のために壊《やぶ》られんとす。その人五女あり。共にこの(311)※[土+敦]を創めてもってその墓を防ぐ。またいわく、一女、陰県の※[人偏+艮]子《こんし》に嫁す、子|家貲《かし》万金、少きより長ずるに及んで父の言に従わず。死に臨んで意山上に葬られんと欲す。子の従わざるを恐れてすなわち言う、必ずわれを渚下磧上に葬れ、と。※[人偏+艮]子がいわく、われ由来父の教えを聴かず、今まさにこの一語に従うべし、と。ついにことごとく家財を散じ、石塚を作り、土をもってこれを繞らし、ついに一洲をなす。長さ数歩。元康中に始めて水のために壊られ、今、石を余して半榻をなす。数百枚ばかり、聚まって水中にあり、と。
 以上の文を英訳して一九〇八年十一月二十一日の『ノーツ・エンド・キーリス』に出し、和漢の外またこの種の伝説ありやと問うたが、答うる者なく今に至った。余も只今まで西漢外の例を一つも見出ださぬが、近ごろ内田邦彦氏の『南総俚俗』を見るにこの類の話二あり。その一〇四頁にいわく、「天のじゃくは意地悪の神様なり。神たち人間を創造する際にその秘所をいずこにせむ、胸にては悪し、背にても良からず、目に立たぬ股間にこそと衆議一決しぬ。されど、かの天のじゃくは必ず人目に立つ額にと言うなるべし。よしさらば法こそあれとて、みなの決議は額にとなりぬと告げたるに、果たして意地わるの神は反対して股間にせむと言い出だせしかば、みなの思うがごとくなりぬ」と。かつて外題不詳の零本百首にこの意の話を続き画にしたるを見た。絵本に委しき宮武外骨氏現に、年代は宝暦ごろ、画者は北尾辰宣と鑑定す、と。しからば、かかる伝説はそのころすでに世に存したのだ。内田氏の著一〇六頁に、雨蛤《あまがえる》、常に親の言を聴かず、右と言えば左し、山と言えば川と言う。母遺言す、われ死せば屍を川辺に埋めよ、と。けだし母の思うに、かく言えば必ず山に埋めるならん、と。ついに死にたり。雨蛤、おのれ今まで母に反きたり、この度ばかりは命に従わむとて、母を川辺に埋めたり。されば雨の降らむとする時は墳墓の流れもやするとて常に啼くとあって、好んで人の言に反対する人を、筑前にては山川さんというと頭注し、筑前にもまた同じ童譚あり、かの地にては雨蛤を「ほとけびき」と言う。金沢市では雨蛤を山鳩に作り、テテッポッポ親が恋しと鳴くという。また雨蛤を蝉に作り、墓が見えぬ見えぬと鳴くともいう、とある。これにてこの類の話は広くわが邦諸国に行なわれおると知(312)る。
 このついでに言う。川底に死人を葬ること、わが邦で武田信玄の屍を石棺に容れて水中に沈めたと、飯田氏の『野史』か何かにあったと記憶するようなれど確かならず。支那には「河南の紅山は楡林《ゆりん》県の北十里にあり。環拱すること屏《びようぶ》のごとし。上はみな紅石にして、落日の返照、霞《ゆうやけ》の采《いろど》り爛然たり。山の両崖を紅石峡となし、楡渓、※[獣偏+章]河《しようか》匯《あつ》まってその中を流る。俗伝に李主の墓となす。むかし李継、その祖|彝昌《いしよう》を遷葬せんとして、水をさえぎり流れを別にし、石をうがちて穴をつくる。すでに葬って、またその上に水を引く。疑うらくはすなわちこの峽ならん」(『大清一統志』巻一四六)。一九〇九年五月十三日の『ネーチュール』三一八頁に、そのころクリーヴドン博物会でボブスコット氏がジプシイの風俗等について演べた説を引いて、この民族にも川を堰いて他へ流し、その底に尸を埋めた後、川を前通りに流れしむることあった、と載せあった。西暦四一〇年ゴット王アラリク死せし時、その臣下多数の俘囚をしてブセンチウス川の流れを他に向かわしめ、その底に王の墓を営み埋め、流れをその上に復し、ことごとく従工俘囚を殺して永くその墓の所在を秘密ならしめたは読史者の知り及んだところである。(一月十五日)
(追記) 右書き終わりてトマス・テーラー英訳、パウサニアスの『希臘廻覧記』(西暦二世紀の著)六巻一八章を見るに、アレキサンドル王ラムプサクス城を攻めし時、城中の民アレキサンドル王の旧知アナキシメネスを王に使わし降を請わしむ。王その意を察し、アが城民のために来たり請うところのものはことごとく反対に実行せんと誓う。アこれを知り、王に見えてラ城を全壊しその神廟を焼き尽しその児女を奴隷とせよと請いければ、王今さら誓言を渝《か》うるあたわず、全くアの請に反し、ラ城を保全しその民を安んぜしというの、この譚、本話と同類異趣なところが面白い。   (大正七年一月『人類学雑誌』三三巻一号)
 
(313)     河童について
 
 熊野地方に、河童をカシャンボと呼ぶ。火車坊の義か。川に住み、夜厩に入って牛馬を悩ますこと、欧州のウェルフ等のごとし。その譚を聞くに全く無根とも思われず。南米に夜間馬の血を吸い、いたくこれを困憊せしむる蝙蝠二種ありと聞けど(『大英類典』二七巻八七七頁)、わが邦にそんな物あるべくもあらず。五年前五月、紀州西牟婁郡満呂村で、毎夜カシャンボ牛部屋に入り、涎を牛の全身に粘付し、病苦せしむることはなはだしかりければ、村人計策して、一夕灰を牛舎辺に撒き、晨《あした》に就いて見れば、蹼《みずかき》を具せる足跡若干を印せり。よってその水鳥様の物たるを知れりと、村人来たり話せり。頃日《このごろ》滕成裕の『中陵浸録』を読むに、「薩州の農家にては、獺を殺さば、もし殺す時は馬に祟りをなす。祟ること七代にしてようやく止むという。大いに恐れてあえて殺す者なし、云々」とあり。予かつて獺を畜《か》いしを見るに、すこぶる悪戯を好むものなれば、時に厩舎に入って家畜を悩ますを河童と心得るに至りしにて、少なくとも満呂村の一例は獺の行為たること疑いなしと思う。   (明治四十五年一月『人類学雑誌』二八巻一号)
 
     河童の薬方
 
 この例おびただしく柳田氏の『山島民譚集』の六頁已下に出でおる。『甲子夜話』六五に、「『訓蒙図彙』に、河太郎水中にある時は小児のごとくにして、長さ金尺八寸より一尺二寸あり。『本草網目』に「水虎は河伯なりと言う」」と。予は『本草網目』に水虎と河伯と一物としておるか否かを記臆せぬが、とにかくカッパを河伯の訛りとした説が古くあったらしい。『夜話』続篇三五に、河伯の仮面を図し、『日本紀』や『神名帳』、『倭名類聚抄』、『蜻蛉日記』等(314)を引き、本邦に古く河伯(和名加汲乃賀美)の崇拝あった由述べおる。『蜻蛉日記』に「はらからの陸奥守にて下るを、長雨しけるころ、その下る日晴れたりければ、かの国にかはくという神ありとて歌に、云々」と序《の》べて、かはく(河伯)を乾くの意に通わせた歌を出せるを見ると、その名を音読して呼んだらしい。カッパは川童《かわわつぱ》を縮めてなった名か、それより早く河伯と言ったのを後にカッパと訛ったかはちょっと分からぬが、カッパの俗説に支那の河伯の譚が多少混じおる証拠らしいのを見出だしたゆえ書きつくる。
 『法苑珠林』巻九二に、『操神記』を引いていわく、「宋の時、弘農の馮夷《ふうい》は、華陰の潼郷《とうきよう》陽首里の人なり。八石を服し、水道仙を得て、河伯となる」、『幽明録』にいわく、「余杭《よこう》県の南に上湘《じようしよう》湖あり、中央に塘《つつみ》を作る。一人あり、馬に乗って戯を看る。三、四人を将いて岑《しん》村に至り、酒を飲む。少しく酔いて暮に還らんとす。時に炎熱す。よって馬より下りて水中に入り、石に枕して眠る。馬断って走り帰る。従人ことごとく馬を追い、暮に至っても返らず。眠
より覚むるに、日すでに※[日+甫]《ゆうべ》に向かわんとす。人馬を見ずして、一夫の来たるを見る。年十六、七ばかりにして、いわく、女郎再拝す、日すでに暮に向かわんとす、この間《ところ》大いに畏るべし、君何の計をかなす、と。問う、女郎の姓は何ぞや、なんぞたちまち相聞するを得ん、と。また一の年少のものあり、年十三、四ばかり、はなはだ了々として、新車に乗る。車の後より二十人至る。呼んで車に上らしめていわく、大人しばらく相見えんと欲す、と。よって車を廻《かえ》して去く。道中、駱駅《らくえき》として把火《たいまつ》あり。尋いで城郭邑居を見る。至ってすなわち城に入り、庁事《やくしよ》に進む。上に信幡あり、題して河伯という。にわかに一人を見る。年三十ばかり、顔容画けるがごとし。侍衛繁多にして、相対して欣然たり。勅して酒灸《さかもり》を行ない、いわく、僕に少女あり、すなわち聰明なり、もって君が箕箒《きそう》に給せんと欲す、と。この人、神なりと知って敬畏し、あえて拒逆せず。すなわち勅して備弁《したく》し、郎中の婚に就かしめ、承白すでに弁《ととの》う、糸布の単衣、および紗の袷、絹の裙《くん》、紗の衫《さん》、褌《こん》、履屐《りげき》を送るに、みな精好なり。また十の小吏、青衣数十人を給す。婦は年十入、九ばかり、姿容婉媚なり。すなわち成りぬ。三日ののち大いに客を会し、閤《こう》を拝す。四日にしていわく、(315)礼すでに限りあり、まさに発遣《おく》り去るべし、と。婦、金甌《きんおう》と麝香の嚢をもって婿に与え、涕泣して分かる。また銭十万、薬方三巻を与えていわく、もって功を施し徳を布くべし、と。またいわく、十年にしてまさに相迎うべし、と。この人、家に帰ってついにあえて別に婚せず、親を辞し出家して道人となる。得るところの三巻の方は、一巻は脈経、一巻は湯方、一巻は丸方なり。周く行ないて救療するに、みな神験を致す。のちに母|老邁《ろうまい》となり兄喪う、よって還り婚して宦《つか》う」。 竜樹大士が大乗経典を竜に獲、孫思※[しんにょう+貌]が千金方の要素を※[さんずい+經の旁]陽の水府に得たような譚だ。右の文によると、司馬晋のころは特殊の人が死して河伯となりうると信じたらしく、この点は日本のカッパと違うが、河伯の女が人と婚しうると信じたのは、カッパが人間の婦女を犯すことありと言うに近く、また薬方を伝うる一件は河伯、カッパ相同じ。もっとも『操神記』の河伯と異なり、日本のカッパは口や作例《ためし》で伝えたのみで、書物を授けたことを聞かぬが、以前はカッパにもずいぶん小むつかしい奴もあったと見え、鞍馬の僧正坊の向うを張って兵法を人に伝えたのがある。『関八州古戦録』一四に、飯篠山城守家直入道長意は下総国香取郡の郷土なり。鹿伏刑部少輔より刺撃の法を伝授す。刑部少輔が先師は、天真正《てんしんしよう》とて海中に住する河童という獣なり。しかれども、流義においてはその名実を顕わさず。香取大明神の応身より伝授せりと詢《とな》え来たると言えり、云々。ついでに言う。四十年ばかり前までは和歌山市で河童をドンガスと言い、カッパと言えば分からぬ人多かった。亡母いわく、大阪から下る人はこの物を河太郎、江戸より移って来た士族はカッパと呼ぶ、と。ドンガスは泥亀を訛ったのか。   (大正四年一月『郷土研究』二巻一一号)
 
     生駒山の天狗の譜話
 
 昨夜奇異のことを聞く。長島金三郎という元大和郡山の藩士、当地に来たり花と茶を教え、また金魚屋を営みおる。(316)五十五歳なり。この人言う、十四の時生駒山に預けられ、寺におる。例年四月一日には大法会あり。護摩を修し士女 麕集《くんしゆう》す。この前年、前鬼の和尚さんとて五十余歳で眼深く仙人顔なる和尚、毎夜この寺へ来ることあり。洞川の寺から夕食を済ませてのち高下駄を履き来たり、十時過ぎごろまで話してまた洞川へとて去る(洞川は生駒山より十何里あるか知らず。とにかく遠方なり。吉野郡天川村大字洞川)。ある時寺の小僧らこの和尚に向かい、法会の時天狗を連れ来たり見せられよと言いしに連れ来たる。尋常七、八歳の子供数人にて、松の樹の上に遊びおる。これ天狗なりと言う。子供の天狗は面白からず、大人の天狗を連れ来たれと言えば、それは難事なり、しかし試むべしと言う。その翌年すなわち長島生駒山におりし年の法会にかの和尚一人来たる。貴僧は約束を忘れ天狗を連れ来たらざりしことよと言うに、連れ来たりてそこにあるではないかと護摩壇を指す。その方を見るに何もなし。何もなしと言えば、なるほど汝らに見えぬはもっともなりとて、和尚自分の衣の袖をかざしてそれを隔てて見せしむ。長島らその袖を透かして見るに、護摩壇の辺に天狗充盈す。たしかには覚えねど(熊楠いわく、幽霊始めかかる鬼形の物はみな見てもたしかに覚えるを得ず)、頭は坊主で男女ありしようなり。衣、袈裟等尋常の僧に異ならぬ者多く、中には鼻至って高きあり、その鼻は上の方へ、または下の方へ鉤《まが》りてあり。その常人と異ならざる者も、和尚の袖を透かさずに見れば一向見えぬにて、天狗なることを知りしという。(大正三年十一月三十日)   (大正四年二月『郷土研究』二巻一二号)
 
     熊野の天狗談について
 
 田村君の「天狗の話」(『郷土研究』三巻三号一八三頁)を読んでおるところへ、新宮生れで東牟婁・南牟婁両郡の珍事活法ともいうべき山本鶴吉という人が来たので聞いて見ると、元津野と田村君が書いたのは広津野を正しとす。宇久井《うぐい》生れで広津野に移住した者が山爺《やまおじ》となったので、最近に塩を貰いに帰ったのは二十年ほどでなく三十年ほど前(317)のことだった。また「一人娘をわけ村にやるな」と唄わるるは南牟婁郡の和気村下和気で、ここ新宮から三里半ほど、人家四、五軒あるのみ。川を隔てて東牟婁郡の能城山本に、イノシシグラとて野猪《いのしし》も滑り落ちるという高い崖がある。また川の中に大石|磊※[石+可]《らいら》と集まって、水の減った時遠望すると、あたかも味噌を延ばし敷いたように見える暗礁があった。これをミソマメと呼んだが、明治二十二年の大水で川原の下に埋まってしまうた、と語られた。   (大正四年十月『郷土研究』三巻八号)
 
     子供の背守と猿
             平瀬麦雨「背守のこと、および子供と猿」参照
             (『郷土研究』三巻八号四六八頁)
 
 中古男子の烏帽子や女房の頭に付けた物忌、近世小児の衣に付ける背縫い、守り縫い、背紋など、いずれも視害(ヒンズー語ナザール)や邪視(英語イヴル・アイ)を避ける本義に出た由を、明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』に書いておいた。括《くく》り猿を奉納するは、この辺では庚申、淡島、薬師等、どの神仏へもしたことで、子安地蔵に限らぬ。これもインドで殿堂辟邪のためにかかる物を諸種掛けると同理由なる上に、本邦では猿を去る〔二字傍点〕の意に取って婚儀や遊女屋などで大いに忌むと同時に、まさる〔三字傍点〕(滋殖)の義に比べて農家には大いに敬愛し、猿舞しを持て囃すは決して例の狙《さる》は馬を健にすの一事に止まらぬ。また和歌山などでは、猿は山王の使い物ではなはだ出産の安い獣とてこれを祀り、痘瘡の軽き物とてこれを祭る所もある。現に今日も、紀州で女児が立って遊び出す時、第一に与うる物は淡紅の布に古綿を詰めて作った猿像で、三、四、五歳の間は他の翫具なくとも、必ずこれを負いまた懐《いだ》いて遊ぶ。『公事根源』の「あかちこ」、『伊勢守産所記』等の「ほうこ」また伽婢子《とぎぼうこ》などの遺意で、つまりこれを持って遊ぶ子の罪禍を猿の像に負わせることかと惟う。降って弾き猿、幡猿、釣する猿、繋がり猿、水挽猿、米搗猿、桃(318)核や蜜柑の猿(『嬉遊笑覧』六下)、猿の力持(『守貞浸稿』二五)など、猿の翫具が多い。『書紀』に、「猿田彦大神、口尻明かり耀《て》り、眼ほ八咫の鏡のごとくして、※[赤+色]然赤酸醤《てりかがやけることかがち》に似たり、八十万の神、みな目《ま》勝ちて相問うこと得ず」とあり。『古事記』を見るに、この神比良夫貝を取らんとて手を貝に挟まれ溺死せし様子、近ごろまで熊野の僻地で猿が海辺に群至して蟹や貝に手を挟まれて泣くを目撃せる老人多かりしに参すれば、猿田彦大神は大なる猿で、その※[赤+色]面《きよくめん》炯眼《けいがん》よく一切の邪禍を圧倒撃退すと信ぜられたなるべし。『甲子夜話』三〇に、著者静山侯が備中で薩侯の息女江戸上りに行き遇いたるに、その調度の長櫃幾箇も持ち行くうち飾り著けたるあり。竹を立てた上にまた横に結び糸を張り、小さき鼓また括り猿などを下げ、竹の末三所には紅白の紙を截り懸け長く垂れたること神幣のごとし。あるいは紅の吹貫小旗など結び付けたるもあり、華やかなりし、と出ず。これはアラビア人が女子を駱駝に乗せて移す時の駱駝の飾りに似たことで、括り猿も旗幟も主として邪視を避ける本意に出たことだ。   (大正四年十一月『郷土研究』三巻九号)
 
     時鳥の伝説
                 中村成文「時鳥の伝説」参照
                 (『郷土研究』四巻三号一六二頁)
 
 予も角田、高木二君等の書どもを引いて、今年四月ロンドンで発表した(Kumagusu Minakat,“Cuckoo in Folk-lore,”Notes and Queries,12th ser.,i,p.338,April 22,1916)。その内に載せた通り、わが邦の兄が弟を殺し悔いて時鳥になったのと類似の譚がマセドニアにもある。いわく、むかし兄弟相嫉んで争闘止まず。母見かねて、汝らかく相凌ぎ続けなば必ず天譴を得て二人永く離るるに及ばん、と諭せど従わず。ますます楯|鬩《せめ》ぎければ、天その不道を怒りその一人を亡うたとあって、欧州諸国語の常習通り兄も弟も同語で書いておるから、どちらが失跡したか分からぬ。(319)(わが邦に味噌も大便も一舐《ひとな》めに欧州諸語を東洋の諸語にはるか勝ったもののように言い散らす輩が多いが、兄も弟もプラザー、姉も妹もシスター、甥も孫もネポテ、伯父も叔父もアンクル、夫の兄弟も妻の兄弟もプラザー・イン・ロー等、制度彝倫に大必要な名目が一向乱雑なるを、アフリカの未開民さえ毎々笑う由なるに、臭い物身知らずの欧人はしばらく措き、本邦で学者までもあまり気づかず、欧州になくて済むことは日本でもない方が便利など心得おるようなるは気が知れぬ。)さて兄か弟か別らぬが、跡に残った一人が悔い悲しめど及ばばこそ、ついに「縁があるなら羽根はえて飛んで来い」の格で、翼を生じて亡人を尋ね出ださんと祈り、天帝これを聴《ゆる》して鳥に化せしめると、ギオンギオンと亡き兄弟(どちらか分からぬ)の名を呼んで尋ね飛ぶに、毎唱必ず嘴から血を三滴落とすとは、どうも「杜鵑《とけん》は色惨黒にして赤口」なるより、『異苑』にいわく、「人あって山を行き、一群(の杜鵑)を見て、いささかこれに学ぶ。血を嘔《は》いてすなわち殞《し》す。人言う、この鳥は、啼けば血出ずるに至ってすなわち止む、ゆえに血を嘔くのことあるなり、と」とある支那説に似ておる。件の鳥がギオンギオンと鳴くより、ギオン鳥とマセドニア語でこれを呼ぶ。
 ハーンの説に、アルバニアにも類似譚ありて、それにはギオンを兄、クックーを妹とするそうだから、ギオンも時鳥に似たものらしい。ここにちょっと弁じおくは、英語クックーを時鳥と心得た人少なからぬが、クックーは時鳥(学名ククルス・ポリオケファルス)と同属ながら別物で、邦名カッコウドリまたカンコドリ、またカッポウドリなど称え、学名ククルス・カノルス、これはアジア、マレー諸島、アフリカ、欧州と広く分布し、冬は南国、夏は北地へ移りありく。三月末、四月初めごろアフリカより地中海を越えて欧州諸方に達し、雄が雌を慕うて競鳴するを詩人も野夫もおびただしく持て囃すこと、邦俗陰暦五月を時鳥の盛《さかり》とするに同じ。『本草啓蒙』に、支那の※[尸+鳥]鳩《しきゆう》、一名郭公をカッコウドリにあて、この鳥四月時分にカッコウと鳴く声はなはだ高く清んで山谷に震響す、すなわち郭公とみずから呼ぶなり、と言えるは中っておる。『本草綱目』には、※[吉+鳥]※[鞠の旁+鳥]《かつきく》という異名をも出す。これもドイツ名クックック、オランダ名ケッケック同様、その鳴き声に基づいた名だ。とにかく時鳥もククルス属のものながら、英語でクックー、ラテン語(320)でククルス、ギリシア語でコックックスは、わが邦にもあるカッコウドリに正当す。それから杜鵑、一名杜宇、一名子規は、モレンドルフらこれをヨダカだと言った。その説聞くに足るものあれど、「他の巣にすんで子を生む」とあれば、正しく時鳥(ほととぎすの和字)に相違ない。
 柳田氏は、時鳥弟殺しの本邦諸譚、みなこの罪悪の起因だった食物を薯蕷《やまのいも》としたのは、必ずしもこの鳥の季節が薯蕷の発芽期だからと言ってしまうべからず、何となればこの鳥は山家ではほとんど秋初まで鳴き続くゆえにと言われたが、氏もまた氏が咎め立てした中村君と同じく、後世の心もて古人を忖度するものと言わなければならぬ。十年ばかり前まで熊野山間に薯蕷属諸種を栽えてもっぱら食用した所が多かったが、今日はさまでにない。米穀の産出、運輸、交易の便宜乏しかりし世には、薯蕷を常食した地方が多かっただろう。したがってその発芽期を生活上の緊要件として居常注意し、時鳥の渡来初鳴と連想するを習いとしたこと、あたかも古ギリシア、ヘシオドスの詩に※[木+解]《かしわ》の樹間郭公唱う時農夫まさに地を鋤くと言いしは、南欧で郭公は仲春から盛夏まで唱い続くれど、この詩意は郭公唱い初むる時が耕地の初めの時だと謂いたるがごとし。時鳥の鳴き声と連想せられた食物は必ずして薯蕷のみでない。紀州竜神地方では、時鳥「ホッポウタケタカ」と鳴くと言う。ホッポウはウバユリの方言で、道傍にこの物多きが、時鳥がかく鳴く時ちょうどこの草長ず。雄本は葉緑に線条あり、雌本は紫条あり、雌本の味優る。その根を掘り小児ら焼いて食う。惟うに、古えは大人もこれを食い生活上の必要品としたので、時鳥の鳴き声にまで注意したのであろう。『本草綱目』に、「郭公は、二月穀雨ののち始めて鳴き、夏至ののちすなわち止む。その声は、俗に、阿公、阿※[浦/女]、麦を割《か》れ、禾《いね》を挿《う》えよ、破袴を脱却《ぬ》げ、と呼ぶ類《たぐい》のごとし。布穀、穫穀は、共にその鳴く時によって農候となすべく、ゆえにこれに名づくるのみ」。‘Encyclopeadia Britannica,’22th ed.,vol.vii,pp.608-610 にも、時と処に従い郭公の唱声同じからぬ由見える。予|頃日《このごろ》遠江からカジカ蛙を貰い畜うに、一日夜間にも時刻の異なるによって声が差うを知った。時鳥も、那智で季者昼間聞いたと田辺で夏夜聞くとは大いに違う。されば、時鳥が春夏の交から初秋まで鳴くにして(321)も、薯蕷の芽が出るころ、もっとも薯蕷にちなんだ辞に似て聞こえるのであろう。支那にも商陸《やまごぼう》の子《み》熟する時杜鵑鳴き止むと言い、本邦で郭公を地方によりムギウラシ、アワマキドリ、マメウエドリなど異称する。はなはだしきは、今も蜻※[虫+廷]《とんぼ》が飛ぶ高さを見て蕎麦の蒔き時を知るさえあり(『郷土研究』一巻六号三七二頁。頒暦不行届きの世には、まことに些細なことにまで気をつけて季節を確かめんと心がけたのじゃ。(六月二日)   (大正五年七月『郷土研究』四巻四号)
 
     ウジともサジとも
 
 「ウジともサジとも」と言うことを、紀州辺で、えたを称せしょり起こったごとく、伝説のまま記しおいたが(『郷土研究』三巻三号一八八頁)、もとはただ「甲も乙も」と言うほどの意で、南北朝のころすでに行なわれた成語と見える。今より五百六十九年前の貞和四年のことを記した『峰相記』にいわく、欽明天皇御宇、百済より持戒のために恵弁《えべん》、恵聰二人渡り、守屋が父尾輿の連、播磨国へ流しぬ、云々。後には還俗せさせ、恵弁をば右次郎《うじろう》、恵聰をば左次郎《さじろう》と名づけ、また播磨国へ流し、安田の野間に楼を造って籠め置けり。毎日食分には粟一合あてけり。しかれども二人戒を破らじと、日中以後持ち来る日は少分の粟をも食せず、経論を誦しけり。守門の者ども口に経を誦し候と大臣に申しければ、こはわれをのろうなりとて、いよいよ戒しめけり。さらば向後物言わじとて無言す。右次左次物言わずということはこれより初まりけり、下略。(一月十日夜)    (大正六年二月『郷土研究』四巻一一号)
 
(322)     紀州俗伝
 
       一
 
〇西牟婁郡中芳養村境大字、三十戸ばかり塊り立つ。墓地が池の傍にある。村の人死するごとに、老狐が池の藻を被りて袈裟とし、殊勝な和尚に化けて池辺を歩いた。毎年極月に及ぶと、「日がない、日がない」と鳴く。正月まで日数少なしとの訳だ。これを師走狐《しわすきつね》と称えた。この二月まで予の宅におった下女(十八歳)の母、少《ちい》さい時祖母の方に燈油を運ぶに、この狐出るかと怖ろしくて、たびたび油を覆し叱られたが、今はすなわち狐もなくなった。
〇除夜に湯に浴らねば梟になると、紀州一汎に言う。西牟婁郡|秋津《あきず》村で、むかしは足に黒き毛密生すと言い、田辺では足の裏に松の木生えると聞き伝えた人もあった。
〇田辺等の俗伝に、雨ふる日|吃《どもり》を擬《まね》すべからず。たちまち吃になると言う。拙妻その父より聞いたは、雨ふる日に某の方角に向かって吃の真似すべからずとあったが、只今忘れてしまった。
〇田辺辺の子供が伝う熊野詣の手毬唄、「私の隣の松さんは、熊野へ参ろと髪結うて、熊野の道で日が暮れて、跡見りゃ怖ろしい、先見りゃ畏《こわ》い、先の河原で宿取ろうか、跡の河原で宿取ろうか、先の河原で宿取って、鯰一疋押えて、手で取りゃ可愛し(また酷《むご》し)、足で取りゃ可愛し(同上)、杓子で把《すく》うて、線香で担うて燈心で括って、仏|様《さん》の後で、(323)一切《ひときれ》食《くら》や旨し、二切食や旨し、三切目に放《へ》屁《へ》って、仏様へ言うて行《い》たら、仏様|怒《おこ》って遣ろうと仰った」。
 異伝には、「燈心で括って田辺へ売りに往《い》て、売れなんで、内へ持《も》て来て煮《た》いて、一切食や旨い、二切食や旨い、三切目に放《へ》屁《へ》って、田辺へ聞こえた」。また、「西の宮へ聞こえて、西の宮の和尚|様《さん》が、火事やと思うて、太鼓叩いて走った」。
 放屁のことをつけたは、主として童蒙を面白がらせたのだ。『亜喇伯夜譚《アラビヤン・ナイツ》』など大人に聞かす物だが、回教人がキリスト教徒を取って擲《なぐ》るに、多くはキリスト教徒が放屁す、とある。そこを演ずるごとに、聴衆歓きわまって大呼動す、とバートンの目撃談だ。四十年ばかり前まで、和歌山市の小児《こども》、夕時に門辺に集まって、「岡の宮の巫女殿《いちどん》は、舞を舞うとて放《へ》屁《へ》って、鍋屋町へ聞こえて、鍋三つ破れて、鍋屋の爺様《おとはん》怒って、ヨー臭《くつさ》い臭いよ」と唄って舞うたものだ。岡の宮は聖武帝行宮の跡で、刺田彦《さすだひこ》を祀り、市中に今も社あり。鍋屋町はむかし鍋釜作る者のみ住みし町である。
〇西牟婁郡で螻蛄《けら》は仏の使い者で御器《ごき》洗うと言う。また蜥蜴は毒烈ししく、指さすとたちまちその指が腐るとて、不意《おもわず》指した時、「蜥蜴ちょろちょろ尾の指(汝《うぬ》の指?)腐れ、己《わし》の指|金《かね》じゃ」と呪《まじな》う。東牟婁郡勝浦辺には、菌《くさびら》を指させば指が腐ると心得た老人もあった。田辺で家の入口、人の多く履む処に、寛永四文銭などを一文釘で地に打ち付けある。歯の痛みを防ぐためだ。また白紙を一二《いんに》が二と唱えて横に折り、二三が六と唱えて縦に折り、また二四が八と唱えて横に折る。さてこれを家の南の柱に釘で留めおき、歯痛む時、鉄鎚《かなづち》でその釘を打つ時は、たやすく治ると言う。   (大正二年四月『郷土研究』一巻二号)
〇小児《こども》の陰腫を蚯蚓の所為《しわざ》とし、火吹竹を逆さまにして吹き、また蚯蚓一匹掘り出し、水にて洗い清めて放つときは(324)治ると言う.
。見た者烏という諺あり。烏のごとく欲しき物を斟酌なく進んで取ることを言う。日高郡由良浦の人言う、烏が食物を獲て、雲を目標《めじるし》にその下に置いて、後に食を求めに往き、還って前の食物を求めると、雲が動き去って、その食物を失うてしまう、と。
〇田辺あたりで、人死して四十九日目に餅つく。その音を聞いて、死人の霊魂が家の棟の上を離れ去る。この餅を寺へ供え、塩を付けて食うゆえに、塩と餅とならべ置くを忌む(昨年八月『人類学雑誌』予の「塩に関する迷信」参照)。
〇同じく田辺あたりの諺に、栗一つに瘡《かさ》八十と言う。黴毒その他の腫物《しゆもつ》に、栗の毒はなはだしきをいう。南瓜《とうなす》、蓮実《はすのみ》また「あせぼ」等の腫物に悪しと言う。
〇田辺で歯痛を病む者、法輪寺という禅寺の入口の六地蔵の石像に願を立て、その前へ豆を埋めおくと、豆が芽を出さぬうちは歯が痛まぬ。よって芽が決して出ぬように、炒豆《いりまめ》を埋め立願する。まるで詐欺そのままな立願だ。
〇この法輪寺の墓地の棟樹《せんだんのき》の下に、牧野兵庫頭の墓あり。銘字磨滅してほとんど読みえぬ。頼宣卿の時、この人一万五千石を領す。かの卿の母方三浦が米で一万石を稟《う》け、今川家以来の旧家久能が伊勢の田丸城主として一万石領せしに比べては、なかなかの大分限だった。帝国書院刊行『塩尻』巻四三に、紀公に寵用され、男となっても権勢ありし者が、牧野兵庫男色より出頭してその右に出るを不快で、公に最期の盃を請い、高野に隠れた話を載せおる。よって考うると、兵庫は男寵より出頭して、破格の大身となったらしい。しかるに大科につき慶安四年新宮へ預けられ、承応元年四月田辺へ移され、三月十日病死、月霜院殿円空寂心大居士と号す(田辺町役場古記録と、法輪寺精霊過去帳を参取す)。
 いわゆる大科とは、頼宣卿由井正雪の乱の謀主たりし嫌疑を、兵庫頭が一身に引き受けたのだという。その時頼宣卿謀主たりと評判ありしことは、『常山紀談』等にもしはしば見え、執政が頼宣卿を詰《なじ》る面前で、罪を身に受けて自(325)害し果てた侍臣のことも世に伝えおれり。一六六五年ローマ出板、フィリッポ・デ・マリニの『東京および日本史譚篇《ヒストリア・エト・レラチオネ・デル・ツンキノ・エ・デル・ジヤポネ》』一巻一五頁にも、明暦の大火は、家光薨後二年固く喪を秘しありしに、家綱の叔父乱を作《な》さんとて作《おこ》したとも、天主教徒が付けたとも、西国で風評盛んだった、と載せておる。この叔父とはたぶん頼宣卿で、家光在世の時よりいつも疑われておったから、正雪乱のみぎりも重き疑いを受け、牧野氏がその咎を身に蒙りて幽死したものと見える。予の知れる絲川恒太夫とて、七十余歳の老人、先祖が兵庫頭に出入りだった縁によって、代々件の墓を掃除する。他人が掃除するとたちまち祟ったという。むかしより今に至って土の餅を二つ、あたかも檐《おうこ》で荷う体に串の両端に貫き、種々雑多の病気を祈願して、平癒の礼に餅一|荷《か》と称して捧ぐるのが、墓辺に転がりおる。察するところ、兵庫頭は生存中至って餅を好いたので、こんなことが起こったのだろう。去年二百六十年忌に、子孫とてもなき人のこと、ことに才色をもって英主に遭遇し大禄を食んだ人の、忠義のために知らぬ地に幽死し、家断絶して土の餅しか供うる者なきを傷み、寺の住持と相談して、形ばかりの追善を営んだ。
〇西牟婁郡|五村《ごむら》、また東牟婁郡那智村湯川の猟師に聞いたは、猟犬の耳赤きは、山姥《やまうば》を殺し、その血をみずから耳に塗って、後日の証とした犬の子孫として貴ばる、と。
〇閾の上踏む罪、親の頭《かしら》を踏むに同じ、と紀州到る処で言う。
〇婦女《おんな》卵の殻を踏まば、白血《しらち》、長血《ながち》を煩う、と田辺で言う。
〇同地で白花の紫雲英《れんげばな》を袂に入れ置けば狐に魅《ばか》されずと言い、小児《こども》野に草を摘む時、われ一とこれを覓む。
〇田辺付近|稲成《いなり》村等で、井へ落ちた子は雪隠へも落ちる癖つくと言い伝う。また雪隠へ落ちた子は、必ず名を替える。
〇東西牟婁郡に跨れる大塔峰は、海抜三八七〇フィート、和歌山県で最も高き山と言わる。所の者伝うるは、この山に大塔宮隠れ御座《おわ》せし時、山より流れ出ずる川下の住民が、水辺に燈心草《ほそい》生《は》えたるを見、これは※[さんずい+甘]汁《しろみず》の流るる所にのみ生ず、川上に必ず人あるべしとて、宮を捜し出しにかかったゆえ、宮は他所へ落ち延び給う、と。
(326)〇田辺付近で、※[交+鳥]※[青+鳥]《ごい》の嫁入りと言うは、この鳥醜きゆえ、夜嫁入りて暁に帰る。嫁入りてすぐ還さるるを※[交+鳥]※[青+鳥]の嫁入りで還されたと言う。
〇稲成村より来たりし下女いわく、蚤を精細に捕る人は多く蚤に咬まれ、取らぬ人は蚤に咬まれず、と。村人一汎に信ずとて、この下女一向蚤を取らず。
〇夜爪切れば父母の死目に逢わず。ただし、七種《ななくさ》の日(正月七日)爪切りたる者は、夜切るも難なしと、田辺等で言う。
〇また子より親に伝えた感冒《かぜ》は重く、親が子に伝えたのは軽いと言う。
〇また妊婦が、高い処にある物取らんとて手を伸ばすと、盗児《ぬすみご》を生むと言う。
〇西牟婁郡新庄村大字|鳥巣《とりのす》の辺では、刀豆《なたまめ》を旅行出立《たびだち》の祝いに膳に供える。刀豆の花は、まず本より末へ向かって咲き、次にふたたび末より本へ咲き下《くだ》る。本へ還るという意味で祝うのだそうな。
〇田辺で黒き猫を腹に載すれば、癪《しやく》を治すと言う。明和ごろ出板?『壺菫』という小説に、鬱症《きやみ》の者が黒猫を畜《か》うと癒る、とあった。予かつてドイツ産れのユダヤ人に聞きしは、鬱症に黒猫最も有害だ、と。また猫畜う時年期を約して養《か》うと、その期限尽くればどこかへ去る。また猫長じて一貫目の重量《めかた》に及べば祝う。いずれも田辺の旧習なり。   (大正二年五月『郷土研究』一巻三号)
 
       三
 
〇師走狐(『郷土研究』一巻一二一頁について上芳養村の人の説に、むかし狐が十二支の何と後へおのれを加えてくれと望んで拒絶された。十三支では月を数えることがならぬからだ。これを哀しんで新年が近づくごとに狐が鳴く。これを師走狐と言うので、別に境大字の一老瓜に限ったことでない、と。
(327)〇田辺町に接近せる湊村に、むかし金剛院という山伏あり。庚申山という山伏寺で山伏の寄合いあるに、神子浜《みこのはま》の自宅から赴く。途上老狐臥しおる。その耳に法螺を近づけ大いに吹くと、狐大いに驚き去る。その返報にかの狐が、闘鶏《とりあわせ》権現社畔の池に入り、しきりに藻を被り金剛院に化ける。庚申山へ行く山伏ら、この次第を睹、さては今日狐が金剛院に化けて寺へ来るつもりだ、早く待ち受けて打ち懲らしやれと走り往って俟つと、しばらくして金剛院殊勝げに来るのを、守って囲んで散々に打擲しても化けの皮が顕われず、苦しみ怒るのみで、ついに真正の金剛院と解った。全く法螺で驚かされた仕返しに、狐が悪戯をしたのだった。熊楠謂う、この話と似たやつが支那の『呂覧』巻二二、疑似篇に出ておる。梁北の黎丘部に奇鬼あり、よく人の子弟の状《さま》を為《まね》る。邑の丈人《おやかた》市に之《ゆ》いて酔い帰るところへ、その子の状して化け出で、丈人を介抱して帰る途中おおく苦しめた。丈人家に帰ってその子を※[言+肖]《せ》むると、昔《さき》に東邑人に貸した物の債促に往っておった、何条父を苦しむべき、偽《うそ》と思わばかの人に聞きたまえ、と言う。父それじゃきっとあの鬼の所為だ、仕様こそあれと、明日また市に之いて飲み帰るところを、子が案じて迎えに行った、それ鬼が来たと用意の剣を抜いて、殺して視ると真《ほん》のわが子だった、とある。
〇『郷土研究』一巻二号一一九頁なる、遠州横須賀地方の螢狩の呼声と少しく違うのが、紀州田辺辺で行なわれる。「ほ−たる来い、ほ−たる来い、あっちの水は苦い、こっちの水は甘い、ほ−たる来い、ほ−たる来い、行燈の光で蓑着て来い」(または行燈の光を見懸けて来い)。田辺町とほとんど町続きなる神子浜では、「ほ−、ほ−、ほ−たる来い、あっちは、云々」と言ったあとで、「ほ−、ほ−、ほ−たる来い、行燈の光で蓑きて、笠きて飛んでこい」と言う。有田郡|津木《つぎ》村などでは、単に「螢来い、螢来い、天河《あまのかわ》の水呑まそう」と言う。
〇田辺近傍の里伝に、むかし雀と燕《つばくら》姉妹のところに親が臨終と告げ来たった。燕は衣《きもの》を更《きか》え盛粧して行ったので、親の死目に逢わず。雀は鉄漿《かね》つけておったが、事急なりと聞いて、たちまちそのまま飛び往きて死目に逢うた。故に体色美ならず頼に黒き汚斑《よごれ》あれど、始終米粒その他旨い物多く食う。燕は全身光り美《うるわ》しけれど、不孝の罰《ばち》で土ばかり(328)食う、と。去年死んだ英国昆虫学大家ウィリアム・フォーセル・カービーは二十年ばかり前、予が西インドで集めた虫類を毎々調べてくれた在英中知人だった。専門の方に『大英博物館半翅虫目録』等多く大著述があったかたわら古話学《ストリオロジー》に精通し、故バートンが『亜喇伯夜譚《アラビアン・ナイツ》』の全訳を済ませた時も、特にカービー氏の『亜喇伯夜譚』諸訳本および模作本の解説を請いて巻末に付したほどの名人だった。氏の著『エスソニア英雄伝』(一八九五年板)巻二に、エスソニアの燕の縁起を説いていわく、常酔漢《えいどれ》の妻が膝辺に子を載せ布を織る。その日の出立ちは頭に黒布、頸に赤切れ、白い下衣に黒い下裳だった。ところへ酔った夫が還り来て妻を押し排《の》け、斧で織《はた》を断ち、拳で児を殺し、ついでに妻を打って気絶させた。大神《ウツコ》これを憐れみ即座に妻を燕に変ぜしめたが、逃げんとする鳥の尾を夫が小刀《ナイフ》で截《た》ったから両岐《ふたまた》になった。爾来燕は当時の不幸を悲しみ、鳴き止まずに飛び行《ある》くが、他鳥と異《かわ》り人を怖れず、家内に来たり巣くう、とある。本条に多少関係あるゆえ、知人の記念《かたみ》にちょっと付記す。
〇田辺辺で家に子供多く、今生まれた子限りまた生まるるを欲せざる時は、その子に澄、留、桐などの名を付く。これで勘定済み、これっきり出産が留まれという意だそうな。
〇この辺で白※[歹+僵の旁]蚕《はつきようさん》を希品とし、蚕の舎利と呼ぶ。これを穫《う》る家、当年蚕の収利《もうけ》多しと言う。近江にても「おしゃり」と言う由、『重訂本草啓蒙』巻三五に見ゆ。
〇また月の八日に旅立ちせぬ古風があった。
〇西牟婁郡新庄村大字鳥巣辺では、以前正月礼に廻り来る人がぜひ家の中に蹴込まねば入りえぬよう、閾のじき外におおく神馬藻《ほんだわら》を積んだ。藻を蹴込む(儲け込む)という慾深い洒落だ。
〇湊村|磯間《いそま》浦|夷《えびす》の鼻という磯の前に旗島《はたしま》あり。田辺権現、船に乗りこの浦に来たりし時、旗立ったる所と言う。夷の鼻辺に大波到れば鐘の声する所あり。闘※[奚+隹]社(旧称田辺権現)内に以前松雲院という寺あり。それに釣らんとて鐘二つ作り、船に積み来たりしに、ここで雄雌のうち一つ沈んだ。それが海底で鳴ると言う。さて残る一つを寺に懸けたが、(329)偶《とも》を求めて鳴らぬ。八十貫目もある物が不要と来たので、永く境内|白身《びやくしん》の木の下に雨曝しに伏せ置いたのを、今は片づけてしまうた。
〇日高郡竜神村大字竜神は古来温泉で著名だが、その地に『郷土研究』一巻二号一一七頁に載った、徳島県の濁が淵同様の話がある。ただし、所の者はこれを隠して言わぬ。むかし熊野詣りの比丘尼一人ここへ来て宿ったが、金多く持てるを主人《あるじ》が見て、徒党を組んで、鶏が栖《とま》る竹に湯を通し、夜中に鳴かせて、もはや暁《あけ》近いと紿き、尼を出で立たせ途中で待ち伏せて殺し、その金を奪うた。その時尼怨んで、永劫この所の男が妻に先立って死するようと詛うて絶命した。その所を比丘尼剥ぎと言う。その後果たして竜神の家ごと、夫は早死《わかじに》し、寡婦《ごけ》世帯が通例となって今に至る。その尼のために小祠《ほこら》を立てて斎い込めたが、とんと祟りは止まぬそうじゃ。十年ばかり前に、東牟婁郡|高池《たかいけ》町から船で有名な一枚岩を観に往った時、古座川を鳶口で筏を引いて、寒い水中を引き歩く辛苦を傷み問いしに、この働き厳しく体に障り、真砂《まなご》という所の男子はことごとく五十以下で死するが常なれど、故郷離れがたくて皆々かく渡世す、と答えた。竜神に男子の早死多きも、何かその訳あることで、比丘尼の詛いによらぬはもちろんながら、この辺むかしの熊野街道で、いろいろ土人が旅客に不正な仕向けもたびたびあったことと思う。『郷土研究』一巻二号一二一頁に出だせる熊野詣りの手毬唄なども、実は、新しく髪結うて熊野へ詣る娘を途上で古寺へ引き込み強辱する体を、隠微の裏に述べたものらしい。明治八年ごろ和歌山の裁縫匠《したてや》、予が父の持家に住んだ者が熊野のある村で、村中の人ことごとく角力見に行った所へ往き合わせ、大石で頭を砕かれ、所持品ことごとく奪われて死んだこともあった。西鶴の『本朝二十不孝』巻二、「旅行の暮の僧にて候、熊野に娘優しき草屋《くさのや》」の一章など、小説ながらよんどころあったのだろう。
 ついでに言う。竜神辺の笑話に、ある寡婦たぶん現存の人だが、夏の日麦を門外に乾し、私室徒然のあまり単独《ひとり》秘戯を弄しおったるにたちまち驟雨《ゆうだと》到り、麦流ると児童《こども》の叫び声に驚き、角先生《ガウデ・ミヒ》を足に結《ゆ》いつけたまま走り出でしを見(330)て、この暑きに主婦《おえはん》は足袋を穿けりと、児童一同いよいよ叫んだという。虚実は知らず、似た境遇は似た伝説を生ずるもので、インドにも二千年已上のむかし、すでにこんなことがあった。唐の義浄訳『根本説一切有部※[草がんむり/必]芻尼毘奈耶』巻一七にいわく、「吐羅雜陀※[草がんむり/必]芻尼《とらなんだびしゆに》、行いて乞食《こつじき》するによって、長者の家に往き、その妻に告げていわく、無病長寿なれ、と。夫の不在を知り、問いていわく、賢首《おくがた》よ、夫すでに不在にして、いかに存済《くら》せるや、と。かれすなわち羞恥し、黙して答えず。尼すなわち頭を低うして出ず。王宮内に至って、勝鬘妃に告げていわく、無痛長寿なれ、と。また相慰問し、ひそかに妃に語っていわく、王出でて遠行し、いかにして意を適《かな》わしむるや、と。妃言う、聖者はすでにこれ出家なり、何ぞ俗法を論ぜん、と。尼いわく、貴勝自在、少年にして偶《つれあい》なく、実に日を度《わた》りがたし、われ甚だ憂いとなす、と。妃いわく、聖者よ、もし王あらざれば、われは樹膠《じゆこう》を取り、かの巧人《さいくにん》をして生支を作らしめ、用いてもって意を暢ぶ、と。尼この語を聞いて、すなわち巧匠の妻の所に往き、報《つ》げていわく、わがために、樹膠をもって一《ひとつ》の生支を作り、勝鬘天人のために造れるものと相似るべし、と。その巧匠の妻|報《こた》えていわく、聖者は出家の人なり、何ぞこの物を用いん、と。尼いわく、われ須うるところあり、と。妻いわく、もししかれば、われまさに作らしむべし、と。すなわち夫に、一の生支を作るべし、と告ぐ。夫いわく、豈にわれにて足らず、さらにまたこれを求むるか、と。妻いわく、われに知識《しりあい》あり、故《ことさら》に来たって相|憑《たの》む、わがみずから須うるにあらず、と。匠は作って妻に与え、妻はすなわち尼に付《わた》す。時に吐羅難陀は飯食すでにおわり、すなわち内房に入り、すなわち樹膠の生支をもって脚の跟《かかと》の上に繋ぎ、身中に内《い》れて欲楽を受け、これによって睡眠す。時に尼寺中、忽然として火起こり、大喧声あり。尼すなわち驚起《けいき》し、生支を解くを忘れて房より出ず。衆人見る時、大|譏笑《きしよう》を生ず。諸小児見て、唱《はや》して言う、聖者よ、脚上にあるは何物なりや、と。尼この言を聞いて、きわめて羞恥を生ず」。仏これを聞いて、尼を波逸底迦罪犯《フアーツチツチアざいはん》とした。   (大正二年六月『郷土研究』一巻四号)
 
(331)       四
 
〇前回に述べた師走狐につき、西牟婁郡下芳養村の人いわく、「師走狐は執捉《つかまえ》ていても鳴かせ」という諺あり。極月《しわす》に狐しきりに鳴くは次の年豊作の兆《しるし》ゆえかく言う、と。
〇同郡中芳養村「どろ本《もと》」の石地蔵畑中に立つ。雨乞いにこの像を頸まで川水に浸す。万呂《まろ》村では旱すると、下万呂の天王の社の前の池端で一同酒飲み、「雨降れ溜れ蛙子《がいるご》、雫垂れ※[虫+榮]※[虫+原]《いもり》」と繰り返し歌うた。蛙や※[虫+榮]※[虫+原]までも雨を請うの意か。近年はこのこと絶えた。件の天王池すこぶる深く、古えより樋を全く抜きしことなし。今日全く抜かんと評定決して、断行しかけると必ず雨ふる。また秋津村の「さこ谷」の奥の大池も、樋を抜きに行くと、その人々が池に達せぬうちに、きっと沛然と降って来る。この池にすこぶる大きな鯉が主《ぬし》として棲むそうな。
〇日高郡矢田村辺の俚伝に、梟「ふるつくふるつく」と鳴けば翌日必ず晴る(降尽《ふるつく》という洒落か)。また「来い来い」と鳴けば必ず雨ふる。これは犬を呼ぶんだそうな。濡れるなとの意か。『本草啓蒙』や『和漢三才図会』には、晴れる前に粘《のり》磨《す》りおけ、雨《ふ》る前に糊取りおけと鳴く、とある。予の亡父矢田村産れで、この通り毎度予に話したが、村におる従弟に聞き合わすと、今はそんなことを言わぬそうだ。人二代のあいだに俚伝が亡びた一例だ。
〇矢田村等で小児螢狩の呼び声は、田辺のとちと違う。「ホータル来い、タロ虫来い、そっちの水辛い、こっちの水甘い、行燈《あんど》の光で飛んで来い」と呼ぶんだ。
〇田辺近傍で木菟《みみずく》を鰹鳥と呼び、この鳥鳴くと鰹の漁獲《りよう》あるとて、漁夫この鳥を害するを忌む。
〇田辺の老人伝う。宵の蜘蛛は親に似ていても殺せ、朝の蜘蛛は鬼に似ていても殺すな。これは夜の蜘蛛を不吉とするので、「わがせこが来べき宵なり」と、蜘蛛を夜見て喜んだ古風と反対だ。『淵鑑類函』四四九に『論衡』を引いて、(332)蜘蛛網を用うる計《はかりごと》、人に優れる由言いて、「またその網を掃いて衣の領《えり》の中に置き、人をして巧を知り、忘るるを辟けしむ」。智慧あるものゆえ、物忘れせぬ霊符の代りに、蜘網を用いたのだ。『採蘭雑志』にいわく、「むかし母子あって離別す、母、※[虫+蕭]蛸《あしながぐも》の糸を垂れ衣を著るを見れば、すなわちいわく、子必ず至らん、と。果たして然り。故に名づけて喜子という。子のその母を思うも、また然り。故に名づけて喜母という。ひとしく一物なり」。これと等しく、蜘蛛は物忘れせぬものとして、衣通姫が宵の蜘蛛は帝が昏時《ひぐれどき》になると自分を忘れず訪いたまうべき徴《しるし》と悦んだのだろう。支那でも夜の蜘蛛を忌まぬは、『開元天宝遺事』にいわく、「帝、貴妃と七月七日の夜に至るごとに、華清宮にあって遊宴す。時に宮女の輩、おのおの小さき合《はこ》の中に蜘蛛を捉え、暁に至り開き視て、蛛網の稀《まばら》と密により、もって巧を得るの候《しるし》となす。密なれば巧多しと言い、稀なれば巧少なしと言う。民間またこれに効う」。しかるに田辺の俗伝に、朝の蜘蛛を愛し、宵の蜘蛛を嫌うのは、蜘蛛は夜中跋扈活動し朝に至って潜匿静居するものゆえ、家内の治安上から割り出したんだろ。
 『広五行記』には、「蜘蛛、軍中および人家に集まれば、喜事あり」。これに反し、古欧州では、蜘蛛の網が軍旗や神像に着くを不吉とした。仏国では蜘蛛走りまた糸|繰るのを見ると金儲けすると言い、あるいは朝ならば金儲け、夕なら吉報を得、と言う。しかし一説には、朝の蜘蛛は少しく立腹、日中のは少しく儲け、夕の蜘蛛は少しく有望を知らすのじゃと言う。サルグ評して、蜘蛛が富の兆《しるし》なら、貧民が一番富まねばならぬと嘲ったのは面白い(一八四五年第五板、コラン・ド・プランチー『妖怪事彙』三九頁)。
〇田辺の古伝に、他人《ひと》の足の底を掻けば、掻かるる人の身に持った病を、掻く人の身に引き受ける、と。同地に近き神子浜では、人の足の底掻く者早く死す、と言う。
〇右の両地とも伝う。狐は硫黄を忌む、よって付木またマッチを袂に入れれば魅《ばか》されず、と。
〇田辺辺でも和歌山市でも、小児の慰みに、「高野の弘法大師、子を抱いて粉《こ》を挽いて、この子の眼へ、粉が入って(333)困った、今度から、この子を抱いて粉を挽くまい」と早口に繰り返し、滞りなきを勝ちとす。三十年前、予、日向の人より聞いたのは次の通り。「ちきちきおんぼう、それおんぼう、そえたか入道、播磨の別当、焼山弥次郎、ちゃかもがちゃあぶるせんずり観音、久太郎別太郎、むこにゃすっぽろぽん。」英国にも舌捩《したもじ》り(タング・ツイスター)とて、同じような辞《ことば》を疾口《はやくち》に言う戯れがある。
〇西牟婁郡|二川《ふたかわ》村|五村《ごむら》等で、狩人の山詞に、狼をお客さま、また山の神、兎を神子供《みこども》と言う。狼罠に捕わるると、殺すどころでなく扶けて去らしむ。『郷土研究』一巻三号一七〇頁に高木君が書いた、安堵峰の猿退治の話にも、兎の巫女を呼んで祈らせた、とある(鬼は兎の誤植)。狼形に山神を描いた物語のこと、一昨年二月の『東京人類学会雑誌』へ出した。
〇※[獣偏+灌の旁]《あなぐま》を西牟婁郡で「めだぬき」、「つちかい」(土掻きの義)、また「の−ぼ−」と言う。安堵峰で予その肉を味噌で煮て食うとはなはだ甘《うま》かったが、ともに煮るべき野菜絶無で困った。この物熊同様足に掌《たなごころ》あり、人のごとく立ちうる。好んで女に化けるという。富里村の人(現存)、春日蕨採りに山へゆくと、若き処女《むすめ》、簪、笄已下具足し、すこぶる艶なるが立っておった。よって前《すす》み近づくと、たちまち見えず。立っておった処に穴あり。家に還り犬を伴れ行き、穴を捜して※[獣偏+灌の旁]を獲った。また秋津村産れで予の知れる老人、若き時、村女と密会を約せし場所へ往って俟つと、この獣その女に化け来たり、たちまち消え失せなどして毎度困らされた。その辺で「せい」と呼ぶ由。
〇熊野に遊んだ人は熟《よく》知るが、潮見峠より東では、古来|山茶《つばき》の葉で煙草を捲き吸う。木坂《いた》を頭に載せ、山路を通う婦女ことに然り。手ずから捲いて火を点ける手ぎわ、よその人|倣《まね》しがたい。歯なき老婆《ばば》など、件の葉捲を無患子《むくろじ》の孔に管《くだ》所《つけ》たるに挿して吸い歩く。その山茶葉に好悪《よしあし》あって、撰択に念入れ、路傍の一文店《いちもんみせ》で列べて売る。古い狂歌に、「熊野路は煙管なくても須磨の浦、青葉くはへて口は敦盛」。
〇旧伝に、文蛤《はまぐり》は十万石以下の領地には生ぜず、と。
(334)〇高野山|御廟橋《ごびようのはし》の傍の井《いど》に莅んで影映らぬ人は近いうちに死ぬそうで、前年田辺新町のある隠居|試《や》ってみると映らず、帰ってほどなく死んだので、新町の人一同今に登山してもかの井を覗かぬ。
〇田辺で蝸牛を囃す詞、「でんでん虫々、出にゃ尻|※[手偏+蹈の旁]《つめ》ろ」。近所の神子浜では、「でんでん虫々、角出せ槍出せ」。『嬉遊笑覧』巻一二上に、「『日次記事』にいわく、蝸牛人を見れば、すなわち蝟縮《いしゆく》す。児童相聚いて謂う、出々虫々《でんでんむしむし》出でずば、すなわち打を行ない、釜を破らん、と、しか言う。この虫の貝を俗に釜と謂う」とあり。今また江戸の小児、角出せ、棒出せ、まいまいつぶり、裏に喧嘩がある、と言えるは、ますます滑稽なり、と言えり。和歌山の岡山は砂丘で春夏|砂※[手偏+妥]子《ありじごく》多し。方言「けんけんけそそ」また「けんけんむし」。児童砂を披《ひら》いてこれを求むるに、「けんけんけそそ、叔母処《おばとこ》焼ける」と唱う。二十二年前、予フロリダ州ジャクソンヴィルで、八百屋営業の支那人の店に、昼は店番、夜は昆虫や下等植物を鏡検した。毎度店前の砂地へ黒人の子供集まり、砂※[手偏+妥]子を探る詞に、「ズロ、ズロ、ハウス、オン、ゼ、ファイヤー」。やほり「砂※[手偏+妥]子の家火事だ」と言って驚かすのだ。類縁なき遠隔の地で、同一の趣向が偶合して案出されたのだ。
〇田辺の俗伝う。家の主人がみずから壁の腰張り、すなわち壁の下の方、畳に近い部分に紙を貼り付けると、必ず近いうちに家に故障起こり、一家立ち退かざるべからず、と。
〇またいわく、蜈蚣に噛まれて痛み烈しき人は、蝮蛇《まむし》にはさほど痛まず。蝮蛇に噛まれて痛み烈しき人が、蜈蚣におけるもまた然り、と。拙妻、二人の子に験するに、蚊と蚤においても同様なり、と。
〇また伝う。足痺れて起つあたわざる時、「痺れ、京へ登れ、藁の袴買うて着しょ」と三たぴ唱え、畳の破れ目等から、藁一片抜き、唾で額へ貼ればすなわち痺れ止む、と。
〇熊野詣りの手毬唄、田辺よりわずか七、八町隔った神子浜で唄うのは、末段が田辺のと違う(『郷土研究』一巻二号一二一頁参看)。「燈心で括って、京の町へ売りに往《い》て、叔母さんに逢うて、隠れ所《どこ》なかって雪隠《せんち》へ隠れて、ビチ糞(335)で滑って、堅糞で肩打った。」この唄の意何とも知れがたいが、一二一頁に載せたのは、熊野詣りの処女《むすめ》、途中の仏堂へ拉《つ》れ行き強辱さるる次第を序し、今ここに記すのは、誘拐して京都の花街《くるわ》などへ売られ、そこで故郷より登った親族に邂逅して羞じ匿るることを叙べたのかと推せらる。
〇四十年ほど前まで、和歌山市で川端などへ独り遊びに出る子供を、母が誡《いまし》むるに、日向の人買船に拉れ行かれ炭を焼かせらる、と言った。そのころそんなことあるべきにあらねど、ずっとむかし、日向から遠国へ人買が出て、拉れ去った人を炭焼に苦使した時の戒飭《いましめ》が遺ったらしい。謡曲「隠岐院」に、「人買人、今日は東寺辺、作道のほとりにて人を買わばやと思い候。中略。声を立てば叶うまじと、髪を取って引き伏せて、綿轡をむずとはめ、畜生道に落ち行くかと、泣声だにも出でざれば、云々」。帝国書院刊行『塩尻』五四巻に、「人を捕えて、勾引《かどわか》して売りし者、猿轡とて、物言わんとすれば舌切るる物を含ませしとぞ。近世も、出羽国南郷等には、盗賊ありて人を欺き、猿轡を含ませしとかや」。猿轡、綿轡同物か。人買とは人身売買の義なれど、実は人を勾引す者を呼んだ名らしい。
〇田辺で児女《こども》酸漿《ほおずき》の※[襄+瓜]《なかご》出だすに唱うる詞、「酸漿ねえづき破れんな(※[襄+瓜]がその心根に付いたまま皮を破らずに出でよということ)。破れた方へ灸《やいと》すよ」。
〇玄猪《いのこ》の神に飯供うる時、飯匙《おだいかい》で十三度に扱《よそ》い取る。この飯を若き男女食うと、縁づき遅いゆえに、既婚の人のみ食う。〇茶釜の湯沸いて蓋を持ち上ぐれば、家の福分|隣家《となり》へ移るとて、速く水を注ぎ込む。
〇和歌山で蟋蟀の鳴声、「鮓食て、餅食て、酒飲んで、綴れ刺せ、夜具刺せ」と言うて、暑い時遊んでおった人、秋になれば冬の備えをせにゃならぬと警むるのじゃと、幼年のころ予毎々聞いた。『和漢三才図会』五三にも、「『古今注』にいわく、蟋蟀、秋の初めに生まれて、寒を得ればすなわち鳴く、と。俚語に言えることあり、趨織《こおろぎ》鳴けば嬾婦驚く、と」と出でたり。
(336)〇和歌山で蜻蛉の雌《め》を維《つな》いで雄《お》を釣るを「かえす」と言う。これをなす小児、「ヒョー、ヒョー、やんま、ひょっちんひょ−」と唱う。下芳養で蜻蛉かえすに、ホーヒーホーと唱う。鉛山では、「ホーヒーホー、かしゃやんまでかえらんせ」という。花車すなわち仲居が嫖客を引くごとく囮の雌蜻蛉《めやんま》に引かれ来たれとの意か。田辺では、単に「やんまほ−」と唱う。神子浜では「やんま、こ−ち−こ−の、猫に怯《お》じてこ−かいの」と呼ぶ。交尾《つるみ》ながら飛ぶを見て、「じょっか、じょーじょ−、お坐りなされ」と言えば止まるという。蜻蛉飛ぶを手網《たま》で奄《ふ》せんとする時、「とんぼと−まれ、お寺のお背戸で、蠅《はい》を取って食わそ」と言えば止まるという。田辺、和歌山等では、ただ「とんぼと−まれ、蠅を食わそ」と言う。
〇西牟婁郡二川村大字|兵生《ひようぜ》辺で、「そばまきとんぼ」という蜻蛉が、ちょうど鍬の柄の高さに飛ぶ時を待ちて蕎麦を蒔く。暦が行き渡らぬ時は、いろいろのことを勘えて農耕をした。その時の遺風と見える。
〇その近所に笠塔《かさとう》という高山がある。実に無人の境だ。その山に木偶《でこ》茶屋という処あり。夜分狩人などたまたま野宿すると、賑わしく人形芝居が現ずる由。
〇「七つ七里《ななざと》、小便|担桶《たご》にも憎まれる」。この諺紀州到る処で言う。小児七歳になれば、行作《おこない》荒々しく、自村のみか近傍七ヵ村から憎まれるとの意《こころ》だ。
〇熊野(一説伊勢)の神、油虫を忌む。三疋殺した者、参詣せずとも、それだけの神助ありと言う。   (大正二年八月『郷土研究』一巻六号)
 
       五
 
。田辺の俚伝に、蟋蟀、「ききさせ、ととさせ、子婦《よめ》悪《にく》い、悪いよ」と鳴くと言う(『郷土研究』一巻六号三七一頁
(337)参照)。
〇婦女卵の殻踏まば、白血《しらち》、長血を病み出すと言う。また言う、卵殻食えば屁多く放《ひ》る、と.炭酸石灰でなった物が、体内の酸に遇ってガスを遊離すること、沸騰酸と同理ゆえ、これは事実であろう。
〇和歌山および田辺の手毬唄、「釣瓶の下の織姫様は、遊びに行こうとて門まで出たら、可愛殿御に抱き締められて、オオ恥かしや小恥かしや、この子生んだら何著しょに、天鵞絨を著しょか、緞子を著しょか、天鵞絨嫌なら緞子を著せて、乳母に抱かして宮参り、宮へ参ってから何と言うて参る、一生この子を息災に、オー息災に、コー息災に、十《とお》せ−二十せ−、三十せ−四十せ−」(と算え進む)。
〇また田辺の手毬唄、「藪の中から金女郎、誰と寝よとて鉄漿《かね》つけて、お稚児と寝よとて鉄漿つけて、お稚児の土産に何|貰《もろ》た、油一升に胡麻一升、手拭にしょうとて布八尋、八尋の布を、一段紺屋へ遣ろか、二段紺屋へ遣ろか、三段紺屋へ遣ったれば、ズプズプ浅黄に染めて来て、一かんしょう二かんしょう、三がん所は、おぼつきこぼつき、誠おさいた、まこ二十さいた、まこ三十さいた」(と算え進む)。
〇西牟婁郡栗栖川村、富里村等で聞きしは、むかし旅人|霍乱に悩み死にかかったが、藤天蓼《またたび》を餌《くら》い全快、復旅に出で立ったゆえにかく名づく、と。富里村大字大内川に、今もこの植物の葉を乾し蓄え、焼いて鼠を駆除する家ある由。
〇田辺辺の俗伝に、四畳半の座敷の四隅におのおの一人|居《すわ》り、燈《あかし》なしに室の真中へ這い行くと、真中に必ず別に一人立ちおるを触れ覚る。すなわち一人増して五人となる、と。
。四月八日誕生仏に澆《そそ》ぐ甘茶で墨を磨り、「むかしょり卯月八日は吉日よ、神さげ虫を成敗ぞする」と書いた紙片を柱に逆さまに貼れば、長虫(蛇)家に入らぬとぞ。この夜より蚊帳を釣り始む。件の歌を書いた紙片をその釣手に結い付くれば、悪虫寝所に入らず、と。海草郡の人いわく、蛇のみならず、一切の悪虫を避く、竈辺の壁にも貼る、と。
〇田辺の俗伝に、産児の胎衣《えな》を放置散佚せしむればその子愚人となる、故に丁寧に保存すべし、と。
(338)〇同地に近き下芳養と西谷《にしのたに》の間、牛鼻《うしのはな》辺に揺岩《ゆるぎいわ》とて大なる岩、海水中にあり。潮退かば歩して往き登り釣を垂れ得。この岩毎月二回潮の増減に随い所を変え、あるいは陸に近くあるいは陸に遠ざかるという。
〇果※[草がんむり/(瓜+瓜)]《くだものうり》生《な》りたる数を算うると多く落つる由、田辺で言い伝う。
〇小児同じことを執念《しゆうね》く言うに対し、何度も言うたら※[髪の友が曾]《もとゆい》黒うなると言う。
〇和歌山でも田辺でも、小児群戯して興尽き散ぜんとする時、モー疝気腹痛と呼んで別れ去る。これら古き洒落詞の残れると見ゆ。
〇芳養村の人、崎下《さきした》孫七氏言う。浜麦、一名筆草、弘法筆を抛げたのがこの草の根となった。この根で瘡腫《でもの》の上に南無大師遍照金剛と書く似《まね》すれば平癒す、と。
 また蓼の葉に黒斑二条あるを筆拭草と呼ぶ。弘法この葉で筆を拭いた跡なり、と。
 氏またいわく、その村および何地《いずく》の金比羅も、神体は太き纜《つな》を蛇のごとく巻き重ねた物なり。ただし鎌首を起てず、と。
〇崎下氏、今、二十七歳。十五の時、故郷上芳養村で他人の使いし歩くに、毎夜犬に吠えられ、すこぶる困る。この前和尚たりしが還俗した人、犬を伏せる法を教えくれた。犬に向かい、戌亥申酉より丑子まで十二支を逆に三度唱うれば決して吠えず、と。ちなみに一夜寝ずに熟練して、犬に向かい試みたが、寸効なかった。ある人に語って別に一法を授かる。戌亥子丑寅と、五支の名を唱えつつ五指を折り固むるのだ。これもその験を見なんだ、と。
 またいわく、山野で草刈るに、人の身長ほどの小木に七里蜂の巣あり。ややもすれば蜂飛び出で迷惑はなはだし。上芳養の村人、時々蜂伏せの呪を行なうにはなはだ効あり。その法、樹葉一枚を採り、「シッポウキョウソワカ」(七宝篋娑訶?)と三度誦え、竹稈《たけのぼう》の尖を割ってその葉を挟み、蜂の巣に寄《もた》せ懸くれば蜂飛び出でず。たとい出ずるも螫さず。ただし何の秘呪も、むやみに人に話すと利かぬもの、と。
(339)〇拙妻の祖母《ばば》八十一で二十三年前歿した。この人雷声を聞くごとに、「神鳴り桑原|竹《た−け》の根、落ちたらどん腹突き貫くぞ」と続けて誦し、雷止むまで止めなんだ。
〇この辺で寒蝉、「熟柿|欲《ほ−》し」と鳴く。この虫出でて柿熟す、と言う。
〇俗に、秋の日に焼けたら、えたの嫁にも貰いくれぬ、と言う。秋日に黝《くろず》むとちょっと復《なお》りにくいからだ。
〇今はしばしば見ぬが、以前田辺の小児|嫁娶《よめとり》の真似して月夜の遊戯とした。二人手を組み傾けて人力車のごとくし、一女児に諸児の最も好き帯、紐、簪等を仮《か》し装わせ、嫁として乗せ、多くの児輩随い、手を組んだる二児嫁を揺りながら、「嫁|様《さん》、長持いつ来るよ、明日の朝の今ごろよ(ありえぬことを言うなり)、月夜に提燈何ごとよ、闇夜に提燈もっともじゃ、ギコサとギコサでほ−いほい」と繰り返し唱え行く。前方には児輩、地上に家の間割を画き、台所、玄関、座敷以下全備す。嫁到れば戸を開く真似し、挨拶して迎え入れ、付き添いし者、嫁を奥の間に伴れ行き踞《つくば》らせ、自分ら台所に之き盛饌《ちそう》食う擬似《まね》するなり。
〇料理屋、主人以下猿の名を忌み、必ず言わず。やむをえぬ時は野猿と呼ぶ。博徒また然り。縛らるるを忌むゆえと聞く。土方人足も同様で、猿の咄聞いてもその日休業する由。
〇上に述べた崎下氏いわく、護摩焼くに必ず勝軍木《ぬるで》を用ゆ。爆声を発し、黒煙を生じ、凛《すさま》じき物なり。また火渡りを行なうに必ず大豆の※[草がんむり/其]《から》を焚きつけとす、と。
 同氏話に、今夏旱魃で西牟婁郡|富田《とんだ》の諸村水乏しく河童おびただしく上陸す。藤兵衝という老人田働きするに、遠方よりホーイ、ホーイと呼ぶことしきりなり。河童何を言うぞ、騙さるるものかと嘲りおったるに、たちまち耳の辺で異様の大声で阿房と呼ばれ、そのまま聾となり打ち臥しおる、と、八月一日咄された。
〇拙妻その亡父より伝えしは、蜈蚣を殺すと跡よりまた出で来る。これを停めんとなら、殺された奴の出で来たりしと思う方に向かい、輪違いの形《かた》を三度空中に画くべし。
(340) また蜂に螫さ処に八の字、その上に九の字を画く似すれば頓に痛み止む、と。
〇拙妻またいわく、俗信に、味噌桶を戸ごとに出し洗えば雨降る、と。実はどの家も味噌作る時節大同なれば、用い尽して桶を洗うもほぼ同時で、そのころ雨しばしば降るゆえなり。また俗に、居常《ふだん》外出せぬ人たまたま外出するを見て、味噌桶が出たから今日は雨ふると嗤う、と。   (大正二年十月『郷土研究』一巻八号)
 
       六
 
。石芋(『郷土研究』一巻三号一八二頁参照) 寛延二年青山某の『葛飾記』下に、西海神村の内、阿取坊《あすわ》明神社の入口に石芋あり。弘法大師ある家に宿を求めしに、嫗《ばば》貸さず。大師怒って、かたわらに植え設けたる芋を石に加持し、以後食うことあたわず。みなこの所へ捨てしより、今に四時ともに腐らず、年々葉を生ず。同社のかたわらの田中に、片葉の蘆あり。同じく大師の加持と言う、と載せておる。何故、蘆を加持して片葉としたのか、書いてはないが、まずは怒らずに気慰めに遣ったものと見える。大師はよほど腹黒い、癇癖強い芋好きだったと見えて、越後、下総のほか、土佐の幡多郡《はたごおり》にも食わず芋というがある。野生した根を村人抜き来たり、横切にして、四国順拝の輩に安値で売る。その影を茶碗の水に映し、大師の名号を唱えて用うれば、種々の病を治すと言う。植物書を見ると、食用の芋と別物で、本来食えぬ物だ。甲斐国団子山の石みな団子なり。大師通りし時、一人の姥団子を作りおるを見て、乞いしも与えず。怒って印を結び、団子を石に化したと、柳里恭の『独寝』に見ゆ。紀州西牟婁郡|朝来《あつそ》・新庄二村の界、新庄峠を朝来へ下る坂の側に、弘法井戸あり。泉水常に満ちながら溢れず、類まれな清水だ。大師ここの貧家で水を乞うと遠方へ汲みに行ってくれた。その酬《れい》に祈り出したんだそうな。この峠より富田坂に至る数里の間は平原で、耕作に好いが、豌豆を作らぬ。これを植えれば、必ず穴少しもなき莢の中に、おのずと虫生ず。隣近諸村に絶えてそ(341)のことない。件の平原の住民ら、大師に豌豆乞われて一粒も与えなんだ罰《ばち》と言う。
 またこの辺で伝う。油桃《つばいもも》は、どことは知らず、大師桃を乞うた時、これは山茶《つばき》の実じゃ、食うべからずと詐って与えず。大師これを呪《まじな》うて、桃が毛を失い、山茶の実のようになったので、山茶桃《つばいもも》と呼ぶ、と。『和漢三才図会』に、「この物、和名都波木桃、俗に豆波以桃という」と出ず。『十訓抄』に、徳大寺左大臣、蔵人《くらんど》高近して、大なる「つばいもも」の木を内侍所に参らせたることあり。『大英類典』二一に、尋常の桃が今日も油桃を生じ、はなはだしきは一つの桃実、一部は凡桃《つねのもも》、一部は油桃に生《な》ることもあるから、油桃は桃の変成たること疑いなし、と出ず。大師の一件は法螺談だが、桃が油桃になったという俗伝は、事実に違《たが》わない。四国の食わず蛤は、姶類の化石で、それにも同様の伝説がある。芋や蛤が石になっては人が困るが、桃が油桃になっても一向構わぬ。また四国札所五十二番とかの大師堂の後の山に、苞毬《いが》に刺《はり》なき栗を生ず。大師この山の栗を食うとて、刺多きを悪み、呪《まじな》うたんだそうな。また四国にも、紀州日高郡竜神村、西牟婁郡近野村等にも、三度栗あり。いずれも大師が嘗《こころ》みて、素的に旨かったので、年に三度|生《な》れと命じた由。『紀伊続風土記』七七に、西牟婁郡|西栗垣内《にしくりがいと》村、三度栗多し。持山年に一度ずつ焼く。焼きし株より出る新芽に実るなり。八月の彼岸より十月末ごろまでに、本中末《もとなかすえ》と三度に熟す、とある。しからば名前ほど珍しうもない。
 キリストも弘法流の胸狭い意地悪だったものか。ベツレヘムあたりに雛豆《チツクピース》の形した石が多い野あり。土人いわく、キリストかつてここを通り、豆を蒔く男に何を蒔くかと問うと、石を蒔くのだと対えた。キリストいわく、汝は石を収穫すべし、と。果たして石の豆ばかり生った、と(バートン夫人『西里亜巴列斯丁および聖地の内情《ゼ・インナ・ライフ・オヴ・サイリア・パレスタイン・エンド・ゼ・ホリー・ランド》』一八七五年板、二巻一七八頁)。ピエロッチの『巴列斯丁風俗口碑記《カストムス・エンド・トラジシヨンス・オヴ・パレスタイン》』(一八六四年)七九頁には、キリストでなく、聖母が豆を石に変じた、とある。またカルメル山のエリアスの甜瓜《まくわ》畑の口碑を記し、いわく、この予言者この地を通り喉乾きければ、瓜畑の番人に一つ乞いしに、かの者これは石なりとて与えず。エリアス彼に向かい、石と言った果は石に(342)なるぞと言って去る。それより瓜が石となると言えど、実は石灰質で、甜瓜の状《さま》したる中空な饅頭石《ジオード》だ、と。また死海《デツドシー》近所にアブラハム池あり。その底に石灰質の結晶満布す。伝えていわく、アブラハム、一日ヘブロンよりここに来たり、塩を求めしに、住民塩なしと詐る。アブラハム瞋《いか》って、この後この地よりヘブロンへの道なく、塩もなくなるべしと言うに、果たして然り、と。
 大師がおのれに情厚かった者に、相応以上の返礼をした例は、上述弘法井の外に、東牟婁郡|四村《ヨムラ》大字大瀬近所に寺あり。その辺に蒔かずの蕎麦とて名高いのがある。むかし大師ここの家に食を乞うと、何もなかったが、亭主憐れみ深くて、畠に播かんと貯め置いた蕎麦を有限《ありきり》施したんで、大師例の石になれの呪もならず、亭主に向かい、この蕎麦の殻を蒔けと命ず。その通りすると、殻より蕎麦生え大いに殖え、以来歳々蒔かずに生い茂るとはありがたい。予その辺を毎度通るが、まだ寺近く往かぬから、実物を見ぬ。しかし大瀬から二里ばかり歩いて、西牟婁郡野中にかかる小広峠から西、数町の間は、畑地道傍所撰ばず、蕎麦が野生しおる。土質気候が蕎麦に恰好で、人手を借りずに続け生じ行くと見ゆ。コラン・ド・プランチーの『遺宝霊像評彙』(一八二一−二年)二巻二〇二頁に、メートル尊者は、四世紀に宗旨に殉じて殺されたが、葡萄を守護すと信ぜらる。生時|一《ある》土民の許可なしに、その葡萄を食い、咎められて初めて気がつき、弁償のため、やたらにその土民の葡萄を殖やし遣ったからだ、と載せおる。
 支那で食い物が石となった例は、『本草網目』に、会稽山に禹余糧多し。むかし夏の禹王ここに会稽してその余食《くいのこし》を江中に捨てたのが、この石になった、と見ゆ。また太一《たいいつ》余糧あり、一名|天師食《てんししよく》と言う。前者は「いしなだんご」、後者は「すずいし」など言い、本邦にもあり(『重訂本草啓蒙』巻六)。前出、甲州の団子石もこの類ならん。明の陸応陽の『広輿記』一七、四川の諸葛洞は、「亮《りよう》、九渓蛮を征して、ここに宿る。一榻を設け、粟一握りを懸けて、もって席に秣《かいば》す。のち、ついに化して石榻、石粟となる」と見ゆ。このように食物が石になった例はあるが、食物を呪して石とした例は、只今見当たらず、また臆い出さぬ。ただし偉い人が乞食して、弘法大師同様施主に厚《あつく》酬《れい》したり、吝嗇漢《しわんぼう》(343)にお苛《ひど》く報いた話は、古来支那の俗間に行なわれたものか。ペルシアに行なわるる支那伝説なりとて、英訳、ハクストハウセンの『トランスカウカシア篇』(一八五四年)三七八頁に載せたは、伏羲《ふつき》流寓《さすらえ》て、ある村の富んだ婦人に宿を求めると、卑蔑《さげしみ》の語を放って門前払いにされた。次に貧婦の小舎を敲くと、歓び納れてありたけの飲食を施し、藁の牀《とこ》に臥せ、また伏羲が襦袢に事欠くを愍《あわれ》と、終夜眠らず、働いて仕立て上げ、翌朝着せて食事せしめ、送って村を出ると、別れしなに伏羲かの貧婦に、汝が朝一番にかかった仕事は哺《くれ》まで続くべし、と祝うて去った。貧婦宅に帰って、まず布を尺度《さし》始めると、夕まで布尽きず、跡から跡から出て来たので大富となった。隣家の富んだ女、すなわち夜前伏羲を門前払いした奴、これを聞いて大いに羨んでおると、数月経て伏羲また村へ来た。彼女往って、強いて自宅へ伴い還り、食を供し、夜中自分の居間に蝋燭を燃やし通し仕事するように見せかけ、翌朝かねて終え置いた襦袢を与え、食を供して送り出すと、伏羲また前のごとく祝した。宅へ帰る途中、布を尺度《さす》ことばかり念じて、ちょうど宅へ入ると同時に、自分の飼い牛が吼える。これは水を欲しいそうな、ままよ布を量る前に、速く水を遣ろうと思うて、水を汲んで、桶から槽《ふね》に移すと、幾時移しても桶一つの水が尽きず、家も畑も水の下になり牛畜溺死し、隣人大いに憤り、かの女わずかに身をもって免れたという。この話の主意は、蘇民将来の話に似ておるが、子細ははなはだ違う。   (大正三年一月『郷土研究』一巻一一号)
 
       七
 
〇田辺の古伝に、塩を濫用すると目潰れる。また葱を知って火に入るれば命取られ、知らずに入るれば目漬る、と。
〇また隔噎《かく》を病む者、三毛犬(褐《ちや》、黒、白三色の犬)を招き、おのが舌頭《したさき》に砂糖を塗り、その犬に舐めしめその気を吸いこめば治る、と。
(344)〇西牟婁郡上芳養村の俚伝に、蟹の甲に凹みし紋、八一の二字ごときあるは、むかし猴、柿を蟹に投げつけた痕だ、と。崎下孫七氏話す。
〇またいわく、渓流《たにかわ》また池にも腹赤き「はえ」あり。方言「あかぶと」と言う。むかし人あり、この魚を取って炙り食わんとするところへ弘法大師来たり、購うて放った。爾来《それから》腹焦げたる跡赤いのだ、と。熊楠十五、六の時、高野山|御廟橋《みびようのはし》辺で、背に串の跡ごとき斑点ある「はえ」を見た。傍の人いわく、人が串に刺し焼くところを大師が救命しこの水に放ちしよりかくなった、と。しかし、その「はえ」はよその渓水にもしばしば見る。上芳養村では、「あかぶと」すなわち腹赤き「はえ」は雌《め》に限ると言う由。畔田翠嶽の『水族志』に「あかもと」、「あかむつ」など方言種々挙げて白ばえの雄《お》なり、とあるは別物にや。日高郡|上山路《かみさんじ》村殿原の谷口という小字の田の中に晴明《せいめい》の社という小祠あり。この田に棲む蛭、大いさも形も尋常の蛭に異ならねど血を吸わず、医療のため捕えても益なし。『荘子』に、散木《さんぼく》は斧伐を免ると言える類だ。祠側に晴明の井とて清水あり。この殿原の応行寺《おうぎようじ》という所と隣大字|丹生川《にうのかわ》間に晴明の淵あり。その上の道側に晴明|転《こか》しという嶮崖あり。淵のあなた丹生川側に腰掛石あり。晴明熊野詣でのみぎり、応行寺で駕籠に乗り丹生川の方へ行く途中、駕籠舁きどもその金を取らんとてこの崖《きし》より晴明を転《こか》し落とすに死せず。川を渡り件の石に腰掛け憩う。大いに驚き詫び入ると、晴明怒れる気色なく、望みの物を与うべしとて金嚢を与う。大いに悦び持ち帰って開き見ると、木の葉ばかり入れありし由。それより晴明、笠塔山に上る。この山に馬の馬場とて長さ五、六十間、幅四、五間の馬場ごとき平坦なる道あり。今に人修めざるに一切草木生ぜず、両側に大木生え並べり。誰も乗らざる白馬しばしば現じて駆け行く。また『郷土研究』一巻六号三七二頁に言った通り、木偶《でこ》茶屋とて人たまに露宿《のじゆく》すれば、夜中たちまち小屋立ち、人形芝居盛んに催され、晨《あけ》に及び忽然消え失せる所あり。晴明ここに来たり、笠を樹に掛け塔に擬し祈りてより、その怪永く息んだという。東牟婁郡|七川《しちかわ》村平井という所の神林に晴明が手植えの異樹あり。誰もその名を知らず。枝を折って予に示すを見ると、「おがたまのき」だった。部智山にも晴(345)明の遺跡いろいろ伝う。『古事談』に、「晴明は俗ながら、那智千日の行人なり」、毎日|一時《ひととき》滝に立ちて打たれけり、先生《せんしよう》も無止《やんごとなき》大峰行人、云々とあるから、広く熊野地方を旅したかもしれぬ。
〇『郷土研究』へまま奇書する田本仁七氏の母の話に、五十年ほど前、当郡|三栖《みす》村のある家へ道者来宿し、立ち去るに臨み宿の主婦《かみさん》の懇待に酬いるとて、大峰四所権現あびらうんけん娑訶《そわか》と呪を教えてくれた。主婦、これを大麦四升五合油うんけん娑訶と誤り覚えて行なうに、諸病ことごとく治る。信徒|麕至《きんし》して三年ばかり大流行だった。その後道者また来たり主婦が呪を誦するを聴き正誤す。正誤通り誦し始めてより一向効験なく、患者来訪せぬこととなった、と語った人の名まで挙げたが、『閑田耕筆』にもあびらうにけん娑訶を油桶と誤り誦して効験|灼然《いちじるし》かったが、正誤してのちは一向利かなんだ、とあったと記憶する。
〇海上で波高く至る時、オイオイ、オイオイと呼ぶと鎮まる。風烈しき時も然りとて、大声で喚くを去年もみずから聞いた。呼ぶと鎮まるでなく、鎮まるまで呼ぶのだ。
。四十年前、余五、六歳の時遊びに出てちょっと怪我し帰ると、今は亡き父母が親の唾、親の唾と呪して唾をそこに塗った。また打傷あればチンコの呪《まじな》い、チソコの呪いと誦してそこを揉んだ。
〇巨蜂《おおばち》に螫されて水飲めば死すという。
〇西牟婁郡富里村大字大内川の小児、螳※[虫+良]《かまきり》見れば、「拝み拝まにゃこの道通さぬ」と言う。『荘子』に、「螳※[虫+良]、臂を怒らし、もって車轍を拒む。任に勝えざるを知らざるなり」。『韓詩外伝』に、斉の荘公出猟せしを螳※[虫+良]足を挙げてその輪を搏《う》たんとす。御者その力を量らず軽々しく敵に就くを笑いしに、公これ天下の勇虫たりとて、車を回《かえ》しこれを避けしかば天下の勇士公に帰した、とある。大内川の伝はこれと反対で、螳※[虫+良]が人を拝まにゃ人が螳※[虫+良]の進行を止むるというのだ。この虫ほど広く俗伝迷信の拠るところとなる虫おそらくなかるべく、古ギリシアでこれをマンチス(占者)と呼び、今もフランスのラングドク地方の小民、これを拝神者《プレカ・デオリ》と名づけて神物とし、トルコ人、アラビア人は(346)その常に聖地メッカに向かい拝む由を信ず。ヌジア人またこれを尊び、ホッテントット人はこの虫人の衣に留まるはその人神意を得、大幸ある徴なり、と伝う(『大英類典』一一板、一七巻六〇六頁。バルフォール『印度事彙』三板、二巻八五四頁)。『本草』にこの虫に食わせて疣を療することを載せ、『和名抄』に螳※[虫+良]、和名イボムシリ、『本草啓蒙』にイボムシ、イボサシ、イボジリ、イボクイ、カマキリチョウライ等の方言を拳ぐ。『※[土+卑]雅』に、この虫葉を執って身を翳《かく》し蝉を捕え食う、その葉を得た人は自分の形を隠し得、とある。田辺に近き神子浜では、これを「かまんど」(鎌人の意か)と称え、煎じもしくは焼いて服すれば脚気を治すと言う。この他に本邦で螳※[虫+良]に関する俗伝あるを知らず。もしあらば教示を乞う。和歌山市でもこの虫を「拝めとうろう」と呼ぶ人あるも、ただその姿勢の形容までにて欧州のごとく神を拝む等の説なきもののごとし。
〇上芳養村で、梟家に近く鳴けば家内に病人生ず、と言う。
〇田辺辺で、桑木で瓢の形作り小児に佩《お》びしめると麻疹《はしか》伝染《うつら》ずという。
〇日高郡由良村辺にて、家のあたりに柚《ゆず》を樹えるを忌む。また柚《ゆのき》で擂木《すりこぎ》製《つく》れば化ける、と言う。むかし野猪《いのしし》の番する翁《おやじ》小屋におり守ると、毎夜その老妻《ばば》来たり野猪《しし》来たかと問うて止まず。家に帰って呵《しか》ると、昨夜外出せずと答う。翁、業腹を煮やし、次回《つぎ》に来なば射殺すべしと言うに嫗可しと答う。さてまたの夜また来たったから射留めて視れば、自分の家の柚木製の擂木だった。
〇由良村辺で、栗鼠は強きもので犬も困る、と言う。その様子を聞くに、尋常の小さき栗鼠にあらず。大なる種「おかつき」のことだ。西牟婁郡二川村大字|兵生《ひようぜ》で聞いたは、栗鼠は魔物で一疋殺さば殺したあたり栗鼠だらけに現わる。かく魔術心得たものゆえ同地方で聞いた猴退治の話(『郷土研究』一巻三号一七〇頁)にも、栗鼠を山伏としおるのだと言う。予、深山で栗鼠に遇いしこと何度というを知らぬが、あまり人を畏るる体見えず。追えば樹を繞りて登り、たちまち枝上に坐して手を合わせ祈念するの状《さま》をなす。これよりかかる迷億を生じただろ。おまけに尾を負うて頭に戴(347)く状、また山伏が笈《おい》を負い巾を冒《いただ》くに似たり。『松屋筆記』九五に『高忠聞書』上に、射まじき鳥のこと、鶯、鵄、梟、木菟、鶺鴒《いしくなぎ》、庭鳥、木鼠、※[鼠+吾]鼠《むささび》、鷹のことは申すに及ばず。この鳥どもをば射まじきなり。木鼠を射ぬゆえは、聖武天皇鉄城を被り開けたるその謂れにて射まじきに定め置かれたるなり、云々。この故事つまびらかに知れぬが、とにかく昔より殺すを憚った動物の中に木鼠すなわち栗鼠があったのだ。
 栗鼠、歯勁くして鉄のごとし、故に鉄網を用いずば樊《かご》を噛み破って去る、と『和漢三才図会』三九に見える。したがって、何かの法で鉄籠を破って去るという話もあったのだろ。竜樹大士の『大智度論』第三三に、「むかし菩薩、一の鳥身と作《な》り、林中にあって住む。一人あり、深水に入るを見る。人の行く処にあらず。水神の羂《わな》するところとなる。水神の羂の法は著いて解くべからず。鳥、解く法を知る。香山中に至り、一薬草を取って、その羂の上に著《お》く。繩すなわち爛壊し、人、脱るる法を得たり」。ユダヤの古伝に、ナッガーツラ鳥、麦粒大の小虫シャミルもて山を剖《さ》くことあり(ベーリング・グールド『中世談奇《キユリアス・ミス・オヴ・ゼ・ミドル・エイジス》』一八八四年板、三九二頁)。ノルマンジーとフィリッピン島および古ローマの伝に、啄木鳥、霊草をもって硬木および鉄を破る、と言えり(プリニウス『博物志』一〇巻一八章。ボスケー女史『諾曼提稗史および奇談《ラ・ノルマンジー・ロマネスク・エー・マーヴエヨーズ》』一八四五年板、二一八頁。一六六八年、マドリッド板、コリン『伝道経営譚《ラボル・エヴアンヘリカ》』一巻七八頁)。文政六年種彦跋ある『江戸塵拾』五に、田村元雄蔵伽藍石とて、唐の伽藍鳥子生み置きたる巣を水晶板で蓋えば、この石を採り将《も》ち来てその板を砕く。石、大いさ茶碗のごとく、色黒く、よく鉄、銅、磐石を砕く由載せおる。わが邦にも、むかし栗鼠が何物かの力で鉄城を破った話があるらしい。米国の黒奴、栗鼠の顎骨を守りに用うること、一八九三年板、オウェンの『オールド・ラビット・ゼ・ヴーズー』一七四頁に出ず。
〇今年十一月、日高郡|上山路《かみさんじ》村の老婆に聞く。むかしはその辺に塩鰹のみ田辺より来る。塩|酷《きつ》くて鰹で饗されて口|腫《は》れ塞がるを、三日腫れ、五日腫れなど言うて悦んだ。今は道路開け生鰹を食いえて、三日旨い、五日旨いと言うて楽しむ、と。
(348)〇十七、八年前、中山路村の松本という富豪始めて馬をその村へ伴れ行き蓄《か》いし。当時六、七十歳の老人、馬を始めて見たる者多かった。牛のみ通うて馬は通わなんだとのこと。
〇明治十九年夏、予現時林学博士たる川瀬善太郎氏と高野山に詣で、心願の人に頼まれ、川瀬氏立入の荒神へ詣るに予ともに行った。小堂の壁におおく鎌を納め掛けあり。川瀬氏も人に頼まれた鎌を掛けて帰った。その近傍「わたらえ」という所は、田辺より高野へ参る道中すこぶる僻地だ。その地に人を葬りおわって上に火を焚き、鎌一本、柄を下にして上に立て、竹を周囲《ぐるり》に刺す。魔物を禦ぐためと聞いた。
〇西牟婁郡の諺に、雨栗日柿。これは栗の実は雨多きほどますます大きく、旱り続くほど柿の実大きくなるを言うのだ。   (大正三年二月『郷土研究』一巻一二号)
 
       八
 
〇田辺の人、戯れに小児をこそぐる時、「一|石《こく》、二石、三石、しりしり」と言う。まず「一石、二石、三石」と、そろそろ遠き処よりこそぐり行き、「しりしり」と急に言うて喉また脇の下を襲う。また古老の伝えに、「紺屋の鼠、藍|食《く》て、糊食て、隅《すま》こへクチュクチュクチュ」。これもクチュクチュクチュと言う時、急に彼処《かしこ》をこそぐるのだ。
〇西牟婁郡富里村大字大内川等で、野猪《いのしし》を威す法。良き竹簡の一端を削り尖らし、底ある他端に繩を巻き、中央《まんなか》を繩で括り、小流水落つる下に竹の尖った端の内側を上に向けて置き、中央括った繩を横に流し、両側の有り合うものに結い着け、繩巻いた端の下にブリキ鍋等を置く。しかる時は、水その筒に満つる時、筒の尖端落ち下る水に打たれ下がるゆえ、筒中の水出終わり筒|空《くう》になり、他の端に巻いた繩の重量でその方が跳ね下る時下の鍋を打つ。その音終夜止まぬので野猪ら怪しんで近処へ来ぬ。予幼時、有田郡津木村の者戯れに虎杖の茎でこの通りの機《からくり》を作り遊びおる(349)を見た。
〇西牟婁郡中芳養村の伝説に、柚実《ゆのみ》を全《まる》で味噌に漬け置けば盗人入り来たるを必ず知って、「ゆうぞ」(言うぞ)と罵る、故に家ごとに用意すべき物、と。また田辺辺一般に、柚の鍼で腫物を刺し膿を去れば毒残らぬ、と伝う。
〇田辺で葬式行列に加わり行く者、過って顛《ひつくりかえ》るを、死人とともに葬らると言ってはなはだ凶とす。また嫁入道具を他家の葬式とともに遣るを大吉とす。行って還らぬという意だろう。去年十二月二十一日、予の知人の子の葬式行列の中を突貫して、以前田辺町長だった人の娘の道具を運び、笑いながら人足ら往った。まことに人情外れた仕方と惟う。
〇小児、蚕豆《そらまめ》の葉を息で膨らし戯れとす。葉なき時、小児を欺くとて豆の葉遣ろかと言い、欲しいと答うると、順次眉、目、喉、歯を指し、その所々の頭字にちなんで「まめのは」と唱う。和歌山、田辺その他でする戯れだ。また田辺で小児に教うる戯れに、まず眼二つ次第に指し、「めっけん(妙見)様《さん》へ参って」、次に鼻孔二つ次第に指し、「花一つ取って」、両頬と両耳を指して、「方々へ聞こえて」、胸と口を指し、「無念に口惜し」、腹と尻を指して、「腹切って尻《しん》の穴」(死んでしまうの義)。
〇田辺近い神子浜の老人、花咲叟《はなさかじじ》の異態らしきを譚《はな》す。いわく、むかし老翁《おやじ》疲れて石に腰掛けて息む。猴どもこれを地蔵の像と想い、柿一つずつ持ち来たり捧げたので、おぴただしく柿を得て帰る。隣りの欲深|翁《じじ》、われも然《しか》せんとて往いて石上に腰掛ける。群猴釆て地蔵様尊ければ山に祀るべしとて、運んで川を渡る間、「私《わし》ら陰嚢|沾れても構わぬけれど、地蔵様の陰嚢沾らさぬように」と繰り返し唱う。老翁おかしさに堪えず笑い出すと、猴どもこの像笑うた、笑わぬと言い争い、また試みに唱うるとまた笑う。よって地蔵像でないとさとり、大きにその詐りを憤り、山に運び行き全身を掻き傷つけ老翁大きに困しんだ。
〇また神子浜で強く風吹く時、小児ら、「山の天狗様ちとちと風おくれ」、「山の天狗様ちとちと風要らぬ」と唱えて(350)走り廻る。そのゆえを問うと知らずという.
。西牟婁郡二川村大字兵生に、木地屋の段という所あり。十四、五年前、木地屋五、六家来たりここを開き棲めり。その後去ってなし。阿波より出でしという特種の民で、山を家とし山で生まれ山で果てる。言語他と異なり、木地とは灰の木、榊、水木など割れやすき木で盆、椀等に作る。また特に木地と言うは※[高杯のような図]この図のごとき器に餅などを盛って神に供うる物だ。この族神の器を作るゆえ威高く、常人木地屋と交われば威に負けるとて結婚せず。その婦女《おんな》美人多し。食物常人と異なり、飯を練り幣の形にし、串に貫き両面に味噌を塗り焼き、御幣餅と称え食らう。香味異にして旨し。この族に他人が貸した物は取れず、倒し切りなり。兵生を去って下川へ行けり。むかしはこの族来れば所の者苦情言うことならず。その辺の木地木を勝手に伐り、木地に作りし。今はそんなこともならず、林木を買うて切り働く。この族の女、常人の妻となりたるも現にあり、と兵生の西面《にしお》欽一郎氏話さる。   (大正三年六月『郷土研究』二巻四号)
 
       九
 
〇長柄の橋柱(『郷土研究』一巻二号六四二頁参照)にそのままな話が紀州にある。西牟婁郡岩田村に、富田川に沿いて彦五郎堤というあり。土台(方言シキ)の幅二十五間、頂上の幅は十間ばかり、この上にて祭の競馬をしたことがある。むかしこの堤たびたびの出水で破潰し、隣村までも被害しきりなりしゆえ、奉行来たり土地の人を集め、人柱を入れんと議決せしも、進んで当たる者なし。通行の人の衣服に横継ぎあらばその者を人柱とすることに定め、一々検査せしに、彦と五郎とかくのごとくなりしゆえ人柱とせられたり。この大堤明治二十二年の洪水にてことごとく潰れおわりしを、近年回復せり。水害のあと捜せしも、人柱の跡らしきものさらになかりしという。あるいはいう、(351)件の二人かかることを言い出して、たまたま自分らの衣に横継ぎありしゆえ、やむをえず人柱となれり、と。この辺夜通りて変死する者、間々あり。近村はもちろん二、三里隔てたる田辺町にても、男子の衣服に横継ぎを忌む。案ずるに、かかる話古ギリシアにもあり。エジプト王ブーシーリスの世に九年の大旱あり。キプルス人フラシウス、年ごとに外国生れの者一人をゼウス神に牲《にえ》せよと勧めしに、その外国生れたるをもって王まずフラシウスを牲せり、となり。   (大正三年八月『郷土研究』二巻六号)
 
       十
 
〇田辺等の俗伝に、弘法大師唐土へ麦を求めに行き、犢鼻褌《ふんどし》の中へ隠し将ち来たる。故に、今に麦に犢鼻褌あり。犢鼻褌とは麦の一面に縦の凹条《みぞすじ》あるを指す。また三月二十一日大師の命日に雨降れば、その年麦作|凶《あ》し、と。しかれども、大師が麦を伝えたということ、その伝記に見えず。大師前わが邦に麦あったは保食神《うけもちのかみ》死して腹中に稲、陰《ほと》に麦と大小豆《まめあずき》生《な》れり(『書紀』一)、とあるで判る。范蠡作るという『范子計然』(『淵鑑類函』三九五に引く)に、「東方に麦多く、南方に稷多く、西方に麻多く、北方に菽多く、中央に禾《か》多し。五土の宜《かな》うところなり」とあるから、早く日本へ渡った物だろう。『法顕伝』に、「竭叉国(今のラダックとユール言えり)、その地、山寒くして余《ほか》の穀を生ぜず、ただ麦|熱《みの》るのみ。衆僧、歳《とりいれ》を受けおわれば、その晨《あさ》すなわち霜ふる。故にその王は毎《つね》に讃すらく、衆僧麦をして熟《みの》らしむと、しかる後に歳を受く」。また、陳朝に天竺三蔵真諦が訳した『立世阿毘曇論』に、「高流、倶臘婆《くろうば》、毘提訶《びだいか》、摩訶毘提訶、鬱多羅曼陀、捨喜摩羅耶の六国の人、よく十善法を持し、みずから殺生せず、他をして殺さしめず、云々。その地、麦を生ず。耕墾を須いず。この麦は粒を成して糠※[米+會]《ふすま》のあるなし。この国人は磨《ひ》き蒸して飯《いい》となす。しかしてこの麦飯は気味甘美にして、細《よ》き蜂蜜のごとししとありて、むかし仙人が男女二小児をこの地に伴れ来たり、麦を示し食(352)う法を教え、二小児成長して夫婦となり、子孫成長して六国を分立したことを述べおるが、あまり長いからここに全文を引きえぬ。とにかく、かくまで麦を重んじたり貴んだりする国が海外にあるを聞き伝え、弘法大師のお蔭で麦を食いうると、坊主などが大師の功徳を大きくせんとて言い出したことかと惟う。
〇田辺の料理店など、以前客人少なき夜、人に知れぬよう杓子を懐中して四辻に趣き、四方を杓子で招き帰れば客人来る。ただし人に知れては効《ききめ》なし、と言うた。
〇燈花《ちようじ》立った時、「丁子、丁子、宵丁子、明日は宝の(また黄金の)入り丁子」と言って、注意して油皿の中へ落とし込む(あるいはいわく、紙に裹み置く)。しかる時は物多く獲《う》、と。宵の燈花をもっとも貴ぶ。料理屋、博徒その他の家にても吉兆とす。
〇料理屋で煙管を指で舞わすをはなはだ嫌い、ひそかに塩撒いて浄む。また客の長座するをもはや還さんとならば、箒を逆さまに立てて手拭を冒《かぶ》せ、それで去らぬ時は茶を供う。また障子の下より三番目のさんに煙管を掛ける。
〇瞳の色|褐《ちや》なる人眼を病まず。ただし眼を病まば長くかかる、と。〇字書いた紙で小児の不浄を拭けばその児字書くこと拙し、と。
〇小児、鳶や烏見る時、「とんび、とんとんとをたたき、からす、かんかんかねたたき」と唱う。
〇田辺付近神子浜の手毬唄、『郷土研究』一卷八号四九五頁に載せた田辺のものと少し差《ちが》う。「藪の中のお金女郎、誰と寝よとて鉄漿《かね》つけて、叔父御と寝よとて鉄漿つけて、叔父御の土産に何|貰《もろ》た。赤い手拭三尺と、白い手拭三尺と、奥の奥へ取置《とつとい》て、いつも来る長吉が、ちょっと持って走った。どこまで走った。京まで走った(これから以下、手毬続けさまに疾《はや》く突く)。京《きよ》ん京ん京橋橋詰の、紅屋のおかさん染物は、扨《さつて》も見事に好《よう》染まる。雀の小枕|独楽車《こまぐるま》、行燈《あんど》車に水車、水はないとてお宿まで、お宿長崎腰かけて、申し申し小供衆《こどもしゆ》さん、ここはナーンという処、ここは信濃の善光寺、善光寺さんへ願籠めて、梅と桜と上げたれば、梅は酸いとて悪《にく》まれて、桜は可《よい》とて讃められた。」
(353)〇田辺ではこの次に引き続け「爺《とと》よ餅搗け、嬶《かか》よ飯たけ、鮓をしょうとて、うるめを買うて来たら、棚へ置いといたら、猫に引かれて、猫を追うとて、滑って顛《こ》けて、鼻打ってぴしゃいで、その鼻どこへ往《い》た。夕べの風でプップッと飛んで往た。トンと言うたら、お稲荷山からお水が出て来て、お万こ−袖な−がれた。まだも流そと、水と氷と、掻いて流せばスットントン」と突き唄う。
〇神子浜では、「好《え》え大根の煮《た》いたのを、お千代|様《さん》に一切盛ってやれ、盛ってやれ」と唱えながら突き続け、最後に強く突き、疾く身を一廻り舞《まわ》し、落ち来る毬を手の甲に受けて、また突き初める。
〇和歌山、田辺ともに、手毬突いて上り来るを掴み、手の甲に上《のぼ》せずにそのまま突き下《くだ》し、かくして突き続ける時の唄、「掴も、も−も、を喰わずにお辛気、お手で突いて、お膝で突いて、スッポンボン、一廻り」と唄いおわると同時に一つ舞う。また「掴も、も−も、を喰わずに死んで、お寺で鐘撞く法事鐘、一廻り」という作り替えもある。
〇田辺では、人死すれば病中と称え魚類食うこと常のごとし。湯灌した後は食わず。新宮では、湯灌後も食い、葬送出れば七日また三日魚を食わず。葬送の刹那残るところはことごとく乞食に施す。
〇鍋の尻の鋼墨に火つき赤く点じながら移り歩くを、富里村等で、荒神様畑を焼く、と称う。雨の兆だそうな。   (大正三年九月『郷土研究』二巻七号)
 
       十一
 
。雷の臍(『郷土研究』二巻一号五八頁参照)紀州西牟婁郡西ノ谷村の小野崎《おのざき》稲荷祠は、数年前合祀せられてしまった。ここに二十年ばかり前まで、雷の臍という物が時々土中より出た。陶器質でその形も大きさも鯔魚《ぼら》の心臓(俗に臼という物)ほどである。小児らこれを集めて娯楽とした。あるいは謂う、昔時ここで短い足の付いた土鍋を作(354)った。その足ばかり作り置き鍋に付けぬまま事業廃止となって棄て埋められたのだろう、と。解説はその通りとして、何故これを雷の臍と謂ったかは分からぬ。この辺で鰹の心臓を臍と言う。それに似ておるからの名かと愚考する。また俗話に、雷が鳴りに出で行く留守を頼まれ、引出し一具を大切に片づけあるを見出だし、雷が帰りたるにより一見を望むと、一番上の引出しは人の眼、次は鼻、次は口と、臍を入れた引出しまで見せてくれたので、今一つ残ったのを示せと望むと、臍の下は見せられぬ。   (大正三年十月『郷土研究』二巻八号)
 
       十二
 
。東牟婁郡色川村辺で、家に飼う蜜蜂に蟾蜍《ひき》が付くとその害は絶えぬ。その時は蟾蜍を捉え急流の渓水《たにみず》の彼岸へ投げ、「一昨日《おととい》来い」と言うて帰れば、かの物再び戻って来ぬ、と言う。田辺ではコガネムシなど燈火を慕い、うるさく飛び込み来たり仕事の邪魔をする時、また「おととい来い」と言いながらこれを放ちやる。
〇田辺の古伝に、雀両足を揃えて躍りあるかずして、一足一足交互してあるくものを食うと癩病になると言う。
〇閏年は蚕豆《そらまめ》一方にのみ花咲くゆえ収穫少なしと言う。また言う、閏年には槌の子を跨《また》げても子を産む、と。閏年に人多く殖えるという意《こころ》だ。
〇海草郡清水という漁村では、漁家醵金して傀儡《でこ》芝居を傭い興行させること毎度だ。そのつど木偶の首一つ失せる。これを盗むと漁利ありと信じての所為《しわざ》じゃ。
〇明治十三、四年ごろ海部《あま》郡(今の海草郡)湊村の西瓜畠を通ると、太い杭を立てた道傍に制札を設けて、「野荒し致し候者はこの杭に縛りつけ小便相掛くべき者なり 村中」と書いてあった。ここに限らず田畠の成り物を盗む奴を捕うれば、かようの杭に縛り晒し、村民大勢打ち寄って、犯人の頭といわず面といわず、時ならぬ雨を灑《そそ》ぎかけた風が、(355)紀州の諸村にあった。   (大正四年三月『郷土研究』三巻一号)
 
       十三
 
〇一極めの言葉(『郷土研究』三巻一号三七頁参照) 『嬉遊笑覧』巻六下にいわく、『古今夷曲集』に、題知らず、行安「小姫子《こひめご》の隠れごにさへ雑《まじ》らぬはもはや桂のは文字なるべし」。『風流徒然草』に、「そのわけ知れぬこと侍り、隠れん坊に雑らぬ者はちっちや子持や桂の葉とは子供の言うことなり」とあり。行安の狂歌もこれを採れるなり(中略。注の中に、信田小太郎の浄瑠璃より、隠れん坊に雑らぬ者は、楝や辛夷や桂の葉、草履隠し、肩車、足の冷たい、ちょこちょこ走り、という詞を引く)。この戯れも一極《いちき》めとて鬼となる者を定むることなり。その時いう言葉なるべし。江戸にては、「かくれんぼうに土用浪のかさつくれん坊とわりゃそっちへつんのきゃれ」(また、ずんずんずのめの、云々、中切り中切りじゃむじゃが鬼よ、とも言えり)。出羽庄内にては、まず幾人にても互いに拳を経り出して、これを順に数えるごとくにいう、「隠れぼちだてやなあなめちくりちんとはじきしまたのおけたのけ」(また、にぎりしょたぎりたぎりおけたのけ、とも言えり)。また江戸にては「いちくたちく」ということをもするなり。『※[竹/隻]絨輪』に「寵愛のあまり猪口までおいとしぼいちくたちくに毛だらけな腕」千雪。かの「ちちや子持」も、この一極め〔三字傍点〕ということをするに言えりし諺なるべし、云々(以上、『笑覧』の説)。
 いちくたちくの詞は、中村君の報告中にも出ず。むかしすでに一極〔二字傍点〕(「いちきめ」か)という語あった上は、中村君が新たに仮設した選択の言葉〔五字傍点〕代りに、もっぱら一極めの詞〔五字傍点〕とか文句とか言いたいものだ。拙妻、幼時いつもその祖母(二十五年前、八十一歳で逝く)に聞いた。田辺で隠れん坊の鬼を極める詞、「隠れん坊しゃく、ししはしめ食《く》て、雀は稲食て、チュッチュッチュッ、大勢の中でお一人をようのいた、お二人をようのいた、チャンチャン、ヌクヌク、お上(356)りなされよ」。ただいまそんな詞を識る者少なくジャン拳のみ用いるが、近郊神子浜では、「ひにふにだあ、だらこまち、ちんがらこけこのとう」と算える。『守貞漫稿』巻二五にも、隠れん坊の鬼を定める詞、京坂「ひにふに達磨どんが夜も昼も赤い頭巾かずき通し申した」、江戸「ひにふに踏んだる達磨が夜も昼も赤い頭巾かずき通した」と載す。また『笑覧』巻六下、目隠しの戯の条に、「『福富草子』に、日なしどち軒の雀と言えり、云々。『賑草《にぎわいぐさ》』に、今ごろは弥生の半なり、軒の雀とて、外の鳥よりは人近きものに侍れども、人をおそるること少しも油断せず、このごろは常のごとく早くは逃げ去らず。家の内までも入りて餅を求む。子を養い侍るゆえなり、とあり。これ軒の雀の義なり」と見ゆ。中村君の記事の三に、俵の鼠、右の田辺の旧詞にしし〔二字傍点〕(熊野では今も鹿をししと呼ぶ処多し)や雀を挙げたのは、軒の雀と同例で、衆児をこれらの群棲禽獣と見立てたらしい。また田辺で「山《や−ま》の山《や−ま》の」と言う児戯は一児《ひとりのこ》鬼となって立った周囲《ぐるり》を子供多勢手を維いで廻り行《ある》き、一斉に「山の山の庚申さん、お鍬を担《かた》げて薯掘りに、焼いてたべるとて薯掘りに、その跡に誰がある」と唄う。
 十年ばかり前まで、那智山辺で、他人の所有地に入る者鍬を担げ往き、地主に尤められたら薯蕷《やまのいも》を握りに来たと言いさえすればそれで済んだ。本文の詞に関係ないらしいが、ついでに述べおく。
 唄いおわると同時に、一同|歩《あし》を駐《とど》め環をしたまま踞《うずくま》ると、鬼ちょうど自分の後に踞った者の名を察し言う。言い中つればよろしく、ついに言い中てざれば頭や尻までも捜って言い中てしむ。さてついに言い中てた後、鬼立って周囲の子供の頭を指し数えながら、「頭の皿は、幾皿六皿、七皿八皿、八皿むいてかぶらむいて、天に帆を懸け、狐袋鯛袋、庚申さんの俎板、やぐらは鬼よ」(上出、江戸の「じゃむじゃが鬼よ」参照)と唄いおわる時、鬼の指に中った児が新しい鬼となるんだ。
 これよりも頗珍《すこちん》なことは、古来紀州諸方で、満座の中で屁を放《ひ》った本人定かに知れぬ時、同じく一極《いちき》めの法もてその砲手《うちて》を露わす。その時唱うる詞和歌山でも聞いたが、忘れたから田辺のを陳べるとこうだ。「屁《へ−》放《へ》りへないぼ(尻に(357)できる腫物、はなはだ痛む)、放った方へちゃっと向けよ、猴の尻ぎんがりこ(胼胝《キヤロシチー》の方言)、猫の尻灰|塗《まぶ》れ、屁放った子は、どの子でござる、この子でござる、誰《だ−れ》に中っても怒《おこ》りなし」。ちうらつら案ずるに、屁を放りながら黙り隠す奴は、天罰を受けて臀《いさらい》腫るるか、猴の尻のように堅くなるか、猫の尻のごとく灰に塗《まみ》るべしと脅す意じゃろう。『笑覧』またいわく、「隠れん坊とは異《かわ》りながら芥《ごみ》隠し、また草履隠しあり。いずれも同じ仕方にて、一人尋ぬる人となり隠せし者を求め出ださしむ。尋ぬる者を鬼という、云々。甲乙次第を定むるに草履を片々脱いでこれを集め、空に向かいて一度に投げ馬か牛かと言う。その伏仰するを言うなり。たとえば象棋の金か歩かと言い、碁の調か半かとてすることのごとし」と。田辺では左様にせず。鬼を定むるにやはり一極めの法あり。まず幼児多く圏《わ》をなし、一人中に立って児どもの履物を片々集め列べ、一《かた》端より手また棒で敲き算え唱える言《こと》に、「じょうりきじょうまん、にたん処はおさごいごいよ、剃刀買うて砥を買うて、子供の頭をじょきじょきじょきっと剃ってやろ、ななやのきはとんぼ」(和歌山では「にたん処は」の代りに「おささにひっからげて」、「じよきじょきじょきっと」の代りに「ぞきぞきっと」、その他は全く同じ)。この詞おわる時敲かれた履物をその持主取りて穿く。幾度もこうして一人の履物片足のみ残る時、その持主隅に向かって眼を覆し屈みおる間に、一同彼の片足を持ち去って隠し、還ればその主探しに往く。一同は「き−ぶい、きぶい(あやうい)、そこらあたりは味噌臭い」と呼び噪ぐ。さてかの主その片足を見つけ履き還れば、群児の圏《わ》の中に立って新たに戯を始めうれど、ついに探し出だしあたわずば知らぬと声立つる。しかる時は一同往って見出だしくれるのだ。
 また紀州に「ずいずい車」という児戯があった。和歌山での作法は忘れてしまったが、田辺近郊神子浜に残存するものを聞書すると、まず小児数人火鉢を囲んでおのおのその両手を握り差し出す。一人片手で順に敲きつつ、「ずいずい車の博多独楽、からすめひっからげてあきぐるま、あき通ればドンドコドン」と唄い終わる時、中った子が鬼となる。さて諸児両手を袖や懐のうちに隠しおるを、鬼探ってことごとく両手を掴みおわれば勝とす。諸児掴まるまじ(358)と隠しまわる。鬼よりも多力なる児の手は鬼たやすく掴みえざるを興ずるのじゃ。
(付記)右書きおわって後、田辺の町外れで今も行なうずいずい車の一法を知り得た。衆児|環《めぐ》り坐し、おのおの両手を握って拇指の側を天に、小指の側を地に向け差し出しおると、その一人自分の右手もて自分の左手の天の側、次に地の側、それより順次に他の諸児の手ごとの天の側ばかり打《たた》き廻り、自分の番に当たる時のみ左手の南側を打きてその両手に代う。初め自分の左手の天の側を打くと同時に唄い出す詞に、「ずいずい車の博多ごま、この手を合わせて合わすかポン」。ポンという同時に手を打かれた子は列を退く。打き手「ポン」と同時に、自身の左手の一側を打けばその一側を除き、その後他の一側を打き中つれば自分を除く。かくて幾度も唄い打き廻れば、衆児退きて打き手のほか一児のみ残る。その一児が鬼となり、一同の手を片端から捜り捕うること前述に同じ。
 これらと関係ないが、作法が似たことゆえ、また予一向書籍で見ぬゆえ、何かに出でおるか質問を兼ねて記すのは、今は知らず三十年ばかり前まで、大阪、和歌山等で宴席に行なわれた「法師さん」という戯《たわむれ》だ。明治二十年ごろ予三島中洲先生の息|桂《けい》氏と、米国ミシガン州立農学校の寄宿舎で、ひそかにホイスキーを購うてかの邦生れの学生とこの戯を催し、それより大事件を惹起して衆人の身代りに予一人雪を踏んで脱走したのが一生浪人暮しをすることの起りで、国元へ知れたら父母はさぞや歎かんと心配したが、幸いに双《ふたり》ながら知らずに終わられた。三菱創立の元勲、故石川六左衛門氏の息で仙石貢君の夫人の弟保馬という人のみその状を親しく睹たのだが、非常に沈黙な君子で、六年後ロンドンで三、四十日同棲飲遊したが、ついに一言もこのことに及ばなんだは今に感佩しおる。今も健在なら読者中に知人も多かろうから情願《どうか》お礼を述べて欲しい。
 と序言《はしがき》が長いが、かの遊戯はさまでむつかしからず。酒客多人環り坐り、その一人手拭で眼を縛りおると、他の一人が環の真申におって、「法師さんえ、法師さんえ、どこえ盃さ−しましょ」と唄い、さてここかここかと唱えながら思いつき次第に人々を指す。仮の盲《めくら》法師「まだまだ」と言えば、人を指し更え、「そこじゃ」と言えば指された人(359)が飲まねばならぬ。飲みおわって手拭を受け、新たに法師となること前《さき》のごとし。拙妻言うには、田辺に行なわれた「べろべろの神|様《さん》」という戯、趣は同じく手作法やや差《ちが》う。環《わ》の中の一人が扇など長い物を両手に挟み、※[兆/鼓]《ふりつづみ》(方言べろべろ太鼓)のごとく捩《よじ》り転《まわ》して、「べろべろの神様は正直な神様でおささの方へ面《おも》向ける、面向ける」と唄いおわると、同時に環坐する一人を指し誰方と問う。環坐せる一人眼を覆《かく》せる者、指された人の名を言い中つれば、中りし者一盃呑み代わりて眼を覆す、と。この戯はもと何と名づけられたか大方の教えを俟つ。   (大正四年四月『郷土研究』三巻二号)
〇地蔵菩薩と錫杖 吉田美風氏は、地蔵の錫杖は日本で付け添えたものと説かれたそうだが(『郷土研究』二巻五七五頁)、それは間違いであろう。予往年欧米の諸博物館で多く支那やインドやチベットの仏像調査を担当したが、地蔵の相好は日本のと多く異ならず、錫杖を持ったのもあったと記臆す。書いた物を証拠に引くと、『宋高僧伝』巻一四、百済国金山寺真表の伝に、この人発心して深山に入り、みずから截髪して七宵の後、「詰旦《あくるあさ》、地蔵菩薩を見る、手に金錫〔二字傍点〕を揺《ゆ》り、表策をなし、発戒の縁を発教し、受前の方便をなす」とある。金錫は金色の錫杖に外ならずと思う。   (大正四年四月『郷土研究』三巻二号)
 
     十四
 
〇打出小槌の童話 紀州に伝わる打出小槌の童話、小生久しく忘れ気づかずおりしに、昨夜四歳になる小生の女児に聞き(童話はなるべく子供の語るところ真に近し)、さて妻に聞きたる上、左に申し上げ候。多分紀州のみに限らぬ話と存じ候。グリンムの『独逸童話』その他イタリア、ポルトガル等にも大略同じ話多きも、槌のことは無之候。
 「むかし継母、継女《ままむすめ》を憎むことはなはだしく、林中へ※[木+可]子《しい》を拾いに遣るに、わが生んだ女には尋常の籃を渡し、継女(360)には底抜けた籃を与う。林に入り※[木+可]子を拾うに、継女いかに勉めて拾うも籃の底を漏れ落ちて満たず。実の女は継女の籃より漏るを拾い容易に満籃して去る。継女籃充たずして林中に日|晩《く》る。泣きおると遠方に幽かな燈影あり。よって尋ね往けば老媼一人あり。入りて訳を語るに媼これを愍れみ、いかなることあるも物言うべからずと教え、牀《ゆか》の下に潜ましむ。夜に入り家主の鬼帰り、人臭い、人臭い、と言う。媼いわく、誰も人は宿めず、と。鬼安心して眠る。媼、経り飯を牀の下に落とし、かの少女に食わす。鬼寤めて何をすると言うに、媼今夜は簀子(牀のこと)の祭なりと言う。しかるに少女|耐《こら》えず喉を咳《たぐ》る。鬼さては人あるに極まったりとて牀をまくり、少女を見つけて啖《くら》わんとす。老媼遮り止めて、その継母に苛遇せらるる状を説く。鬼は、諺の鬼の眼にも涙を出し、不愍のことなればわれよく難を解くべしとて槌一つ与え、汝家に帰りこれを母に呈せよ、と教う。女家に帰るに、継母何故おくれたるかと怒る。女かの槌を母に献じ、罪を赦せと乞う。母大いに怒りこんな物いらぬとて槌を抛《ほう》りつけると、おびただしく銭出ず。これ貸《たから》を打ち出す槌と知り、貴宝を得たるを悦び、それよりこの継女を実子同然に愛したということなり。」
 右の簀子の祭とは何のことか。ご承知の読者は教示せられんことを望む。   (大正四年五月『郷土研究』三巻三号)
〇田辺で小児、蟻群を見れば「蟻呼んで来い、ども呼んで来い」、また「蟻の婆《おば》よ−、蟻の婆よ−、引きにごんせよ−、引きにごんせよ−」。和歌山では「蟻どん来い、どもやろか、おまえの力であくものか」。どもとは大きな武勇な蟻の魁《かしら》を言う。和歌山で以前行なわれた蟻の道という児戯のことは、『民俗』第一年第二報へ出しおいた。
〇※[獣偏+灌の旁]《あなぐま》が女に化けること、『郷土研究』一巻六号三六九頁すでに述べたが、その後西牟婁郡|上秋津《かみあきず》村の人に聞いたは、※[獣偏+灌の旁]はまことにうまく美装した処女に化けるが、畜生の哀しさ行儀を弁えず、木に捷《すばや》く昇ったり枝に懸下《ぶらんこ》したり、処女にあるまじしことばかりするから、化の皮がすぐ顕われる、と。予幼時、雷獣という物を紀州でしばしば見世物で見たが、ことごとく※[獣偏+灌の旁]だった。馬琴の何かの小説に付けた雷獣考の中に、猪《い》の状《かたち》で爪鋭き雷獣を画きあったが、※[獣偏+灌の旁]は支那で猪※[獣偏+灌の旁]《ちよかん》と呼ぶほど猪に似たものだから、これを雷獣とするは少々よりどころありそうだ.文部省の「博物指教(361)図」に画いた雷獣、一名キテンは貂《てん》の類らしい。
〇西牟婁郡湊村字磯間は、『万葉集』に見えた磯間浦《いそまがうら》ということで、風景絶佳だが、その住民は夙だ。猴神《さるがみ》の古社あって今は日吉神社と号し、先年合祀さるるところを予輩烈しく抗議して免れた(『郷土研究』二巻五号三〇九頁、中島君の報告に夙と犬神・猿神と関係ありとする説参考すべし)。田辺近所には、長野村と稲成村大字絲田と磯間の三所におのおの猴神社あって、長野村が陰暦の十月、絲田が十一月、磯間が十二月の某の申日祭礼をしたが、絲田と長野村のは合祀せられ、磯間のも祭日を改めた。以前は旧師走の寒い夜中に神輿渡御あり。社の側《かたわら》に天然に橋のごとく高く二つの岩山のあいだに掛かった岩の穹窿《アーチ》あり。むかしこの辺で人身御供を行なうたと言い伝う。磯間と異《かわ》り、長野村や絲田の住民は夙でない。磯間の女はむかしよりもっぱら京都へ奉公に出たので、言語応対すこぶる温雅だ。漁業と農桑を兼ね営み、一体に富有である。以前はこの猿神の祭へ日高郡等遠方から農民おびただしく参詣した。「さるまさる」と言うて、猴を農家で蕃殖の獣として尊ぶのだそうな。
〇田辺近処|稲成《いなり》村の稲荷神社は、伏見の稲荷より由緒古く正しいものを、むかし証文を伏見へ借り取られて威勢その下に出ずるに及んだと言う。今も神林鬱蒼たる大社だが、この神はなはだ馬を忌み、大正二年夏の大旱にも鳥居前で二、三疋|馬駆《うまかけ》すると、翌日たちまち少雨ふり、その翌日より大いに降ったと言う。しかるに老人に聞くと、以前はこの鳥居前に馬場あって例祭に馬駆したと言う。されば馬場がなくなってから、神が馬嫌いになったものか。
〇「紀州豊年、米食わず」という古諺あり。紀伊豊年ならば、米多く産する他国みな豊年ならぬ意だ。紀州は米を外へ出す国でなかったと言う。
〇猫が蟻を食物に混じて食えば力強くなる。また犬の子糞を食い、人の子味噌を食えば、眼明らかになる、と言う。
〇西牟婁郡下芳養村の老人いわく、むかしは犬ただ三脚《みつあし》、五徳《ごとく》(鋳鉄《いもじ》製の鍋をかける器)は四脚ありし。弘法大師物書くに、笑という字を忘れ困却中、犬が簀《す》を冒《かぶ》り歩み来たので、犬が竹を冒れは笑の字となると悟り、大いに悦んで五(362)徳の脚を三本に減じ、その一卿を犬に与えて四脚とした。その報恩に今も犬|尿《いばり》するに必ず一脚を揚ぐる、と。
〇数ある竈のうち一番大きなを田辺で「大くど」と呼ぶ。その灰の中へ茶碗一つ伏せ置くか、主人の下駄を金盥で覆《ふ》せ置けば、盗人入りえず。盗人、入らんと欲する家の盥で大便を覆せて家内を昏睡せしめんとしても、右の法を行なわれてはその効なし、と。
〇陰暦十月中に亥猪《いのこ》三つある年火災多し、と。以前は、一侍、二百姓、三|商売《あきうど》と順次異級の人が祝うたが、大抵十月に亥猪二あるのみ、三つあるは稀だ。神子浜では、三番目の亥猪をえったの亥猪と言う。
〇毒虫、毒魚に螫された時、あり合う地上の石を取って裏返し置けば、痛みたちまち止む、と言う。   (大正四年七月『郷土研究』三巻五号)
 
       十五
 
〇紀州の七人塚 紀州西牟婁郡長野村大字|馬我野《ばがの》字鎌倉に七人塚という所がある。塚は今はない。むかし七人の山伏がここに住んでおった。ある日、田辺沖を通る船に向かって秘術をもってこれを止めると、船の中にもえらい〔三字傍点〕者があって沖より山伏どもを見つけ、秘術を行なうて止めたから、七人の山伏みな動くことあたわず、ついにそこで死んだという。今もなお沖を通る船からこの地を望むと、一点の青い火が怪しく夜光るという。以上、本年七月十一日の『牟婁新報』より抄出す。また森彦太郎氏通信に、日高郡|上山路《かみさんじ》村大字西にも七人塚あり。鶴が城落ちた時戦死の七士を葬ると称して「塚の上に小祠がある。なお『紀伊続風土記』牟婁郡|三里郷《みさとごう》伏拝《ふしおがみ》村(今の東牟婁郡三里村大字伏拝)の条にも七人塚を記し、堀内《ほりのうち》左馬助鬼ヶ島を攻めた時、三十七人手を負いて死す。その七人を葬った所で、碑石一基あり、と見えておるとのことである。   (大正四年九月『郷土研究』三巻七号)
(363)〇血を吸わぬ蛭 『郷土研究』一巻一二号に、紀州日高郡上山路村殿原の谷口という小字の田の中に晴明の社という小祠あり、この田辺に棲む蛭、大きさも形も尋常の蛭に異ならねど血を吸わず、医療のため捕えても益なし、と書いたが(一巻一二号七五二頁)、そればかりでは面白くない。昨年五月、そこから知人が来たので篤と尋ねると、晴明ここの蛭に血を吸われ、怒ってその口を捻《ね》じた。それから一向血を吸わなくなった。川一つ渡ってナガソウという小字には蛭すこぶる多く、至って血を吸う力が強いゆえ、医用として多く捕らるるという。また西牟婁郡|且来《あつそ》村の不動坂の辺に地蔵庵あり。その地蔵を念ずれば産安く、また村人祈願して蛭を調伏す。故にこのあたりの蛭人を螫さずと聞く。   (大正五年二月『郷土研究』三巻一一号)
〇肉吸いという鬼 紀州田辺町住、前田安右衛門、今年六十七歳、以前久しく十津川辺で郵便脚夫を勤めた。この人|話《はなし》に、むかし東牟婁郡|焼尾《やけお》の源蔵という高名の狩人が果無山を行くと、狼来たってその袖を咬み引き留める。その時十八、九の美しき娘、ホーホー笑いながら来たり近づき、源蔵火を貸せという。必定妖怪と思い、やむをえずんば南無阿弥陀仏の弾丸で撃つべしと思ううち、何ごともなく去る。しかる時、狼またその袖を咬み行くべしと勧むる様子に、源蔵安心して歩み出した。その後また二丈ほど高き怪物に退い、南無阿弥陀仏と彫りつけた丸で撃つと、大きな音して僵《たお》れたのを行って見れば白骨のみ残りあった、と。また二十五年前、前田氏、北山の葛川《くずかわ》郵便局に勤めおった時、ある脚夫、木の本の付近寺垣内より笠捨《かさすて》という峠まで四里のウネ(東山の背)を夜行し来たるに、後より十八、九の若い美女ホーホー笑いながら来たり近づく。脚夫は提燈と火繩持ちあった。その火繩を振って打ち付けると女はうしろへ引き返した。脚夫葛川の局へ来たり、恐ろしければこの職永く罷むべしと言うゆえ、給料を増し六角(六発の訛称、拳銃のこと)を携帯せしめて、依然その職を勤めかの山を夜行したが一向異事なかった由。これは肉吸いという妖怪で人に触るればたちまちことごとくその肉を吸い取るとのこと。熊楠かつて二十年前出たウェルスか誰かの小説に、火星世界の住人、この地球へ来たり乱暴する体を述べて、その人|支体《したい》に章魚の吸盤ごとき器を具し、地上の人畜に触れ(364)てたちまちその体の要分を吸い奪い、何とも手に合わぬはずのところ、かの世界に絶えてなくてこの世界にあり余ったバクテリアが、かの妖人を犯して苦もなく仆しおわる、とあったと記臆するが、その外に類似の噺を聞いたことなく、肉吸いという名も例の吸血鬼《ヴアムパヤー》などと異なり、すこぶる奇抜なものと惟う。(大正七年二月『人類学雑誌』三三巻二号)
 
(365)   続南方随筆
 
(367)     鳥が人に生まれし話
 
 『考古学雑誌』第二巻第三号一一〇頁に、今泉君、明人の『獪園』六を引いて、「雉児塔は、半塘寺にあり。伝う、これ晋朝の生道人、虎邱にて説法せしとき、野雉来たって聴く。明くる日|誕生《ひとにうま》れて、城東の某子の児となる。雉の翼なお存せり。児は、のちに半塘寺中に出家す。化《し》せし日、寺僧、石幢《せきとう》を作って、これを葬る。よって雉児塔と名づく」。
 按ずるに、これに似たる譚本邦にもあり。『碧山日録』巻一、「長禄三年二月二十四日、昨日、間同書記いわく、云々。また前面なる池水の勝景を説く。次いで、同いわく、(正覚)国師、濃の虎渓にありし時、鴛鴦《おしどり》あり、相馴るること久し。国師のち西芳に逸居せし時、一宵夢むらく、紅衣の小童あり、前に跪いていわく、われはこれ前身は虎渓の鴛鴦なり、久しく師に随いて法を聴きしゆえをもって人身を受く、明日より来たって随い侍るべし、云々、と。国師、覚めてこれを記《おぼ》ゆ。果たして一童あり、紅の※[糸+肖]《きぬ》を著けて来たる。その手足を見れば、すなわち網羅《あみ》の相《かたち》あり(わが土《くに》これを水爬《みずかき》という。熊楠いわく、ニューギニア土蕃に水爬あるものありと聞く)。師、すなわちこれに名づけて空念という。行者とならしめ、奉事の余に『維摩経』を課す。卒するに臨んで入定す、云々。のち一子を生む、これまた網羅の手なり。今、老行者常観あり、その四世の孫なり。行きて視れば、なお水鳧《かも》のごとし。今に至るも池中に鴛鴦はなはだ多し。它《ほか》の※[交+鳥]※[青+鳥]《こうせい》、※[溪+鳥]※[敕/鳥]《けいちよく》の類は至らずという」。実際かかる遺伝の一族存せしより作り出だしたる譚なるべし。   (明治四十五年二月『考古学雑誌』二巻六号)
(368)【追加】
 唐の釈道宣の『続高僧伝』巻三五に、次の条あるを見出だせり。
 「釈道安、斉の文宣の時、王屋山にあり。徒二十人ばかりを聚めて、『涅槃』を講ず。始め発題するや、雌の雉あり、来たって座の側に伏して聴く。僧もし食らう時は、外に出でて飲み啄む。日晩れて講を上《はじ》むるや、時に依《したが》って赴き集《きた》る。三巻いまだ了らざるに、ついに絶えて至らず。衆みなこれを怪しむ。安いわく、雉は今|人道《ひとのよ》に生まる、怪しむべからず、と。武平四年、安、徒を領いて越州に至り、頭陀を行ず。忽かにいわく、往年の雌雉まさに生まれてここにあるべし、と。径《ただ》ちに一の家に至り、遙かに雌雉と喚ぶ。一女走り出でて、旧くより相識るがごとく礼拝して歓喜す。女《むすめ》の父母これを異とし、引き入れて食を設く。安いわく、この女は何故に雌雉と名づけしや、と。答えていわく、その初めて生まるるを見るに、髪、雉毛のごとし、すでにこれ女《むすめ》なれば、故に雌雉と名づけたり、と。安、大いに笑い、ために本縁を述ぶ。女、聞いて涕泣し、苦《ねんごろ》に出家せんことを求む。二親、欣然としてこれを許す。ために『涅槃』を講ずるに、聞けばすなわち領解《りようげ》し、一も遺漏なし。のちの三巻に至って、茫然として解せず。時に始めて年十四、すなわち就いて講説す。遠近みな聴いて、その宿習を歎ず。これによって躬ら勧め、従って学ぷ者衆し。」
 必ずしも同源より出でしにあらざるべきも、『※[獣偏+會]園』より千年ばかり前の書に載せたるを見て、古くかかる話の支那に行なわれたるを知るべし。   (明治四十五年五月『考古学雑誌』二巻九号)
 
(369)     十三塚のこと
 
 柳田国男氏の『石神問答』に、本邦諸国に多き十三塚のこと散見するを見しに、大要は十三仏の信仰に基づきて築きしというもののごとし。その後柳田氏よりの書信に、鳥居竜蔵氏、蒙古で塚を十三ずつ相近接して立てしものをしはしば見たる由教示されたるも、予は鳥居氏の原作を見ざるゆえ委細を知らず。頃日読書中、蒙古の十三塚のこと一条見出だしたるにつき、多分は遼東の豕と察すれど、念のため抄して、このことを研究する人に便にす。
 いわく、李克用、沙陀に王たりし時虐政はなはだしく、民争うてその歓心を得んとてなさざるところなし。その遺跡今もなお見るべきものの一例を挙げんに、沙陀の諸部の道傍に大石塚、あたかも古ゲーリック国の古塚に似たるあり。必ず十三塚を一列に築き、中央の一は高さ一丈、広さこれに相応する大塚にて、他の十二はこれより小さく、大きさみな相同じ。これ往昔蒙古人が克用父子を悦ばしめんとて築きしところにて、十三は克用の十三子、中央の塚はその長子|存※[冒+力]《そんきよく》に象る。今に至るまでこれを十三大宝と名づけて崇敬す。山地には石を用い、石なき地には木を用い、原野、石も木もなき処には土にて作り、毎年七月十五日に老若児女、喇嘛僧の相図を見て騎馬して十三塚を走り廻る。また香と紙を焚いて叩頭祈念し、その後羊肉を饗受す。この式をアオ・パオと名づく、拝王という義ならむ、と(John Hedley,‘Tramps in Darkest Mongglia,’1910,pp.125-127 より抄出す)。   (大正元年十二月『考古学雑誌』三巻四号)
 
(370)     火斉珠について
             本文の「追加」が『考古学雑誌』に掲載されしのち、古谷氏の再答文あり。それに対して予は三たび答うるの文を投ぜしが、掲載されざりし。この文は他日続々編に出だすべし。(大正十五年九月十六日記)
 
 『考古学雑誌』第二巻第七号四〇七頁に、台谷清君は、「支那において、硝子《ガラス》なるものを表示するに瑠璃《るり》云々等の文字を用いたり。このうち硝子および火斉珠《かせいしゆ》の二つは、支那人の作出せる文字にして、glass の意訳なるべく、云々。玻璃、硝子および火斉珠等の文字は、隋唐時代の書物に至って見るところにして、それ以前の物においては、瑠璃もしくはこれに近き音を現わしたる文字を用いたり」と言われたり。
 glass の意訳とは、何の意なるをつまびらかにせず。『大英類典《エンサイクロペジア・ブリタニカ》』一二巻、グラスの条には、この英語は、チュートニク語根、グロまたグラ、光るという意より出ず、とあり。惟うに『淵鑑類函』第三六四巻に「『続漢書』にいわく、哀牢は火精瑠璃を出だす、と。また水精を出だす、と。『潜確類書』にいわく、水精は千年の水なり、と」など見ゆれば、火精は水精に対する名にて、火をもって練成せるより移りて、火の精塊となしたるならん。同巻に「須弥《しゆみ》の山に吠瑠璃《ペイルリ》あり、火も焼くあたわず」など言えり。斉と精と音異なれど、火斉も何だか火で練成せりという意に出でしよう察せらる。
 さて謝在杭の『五雑俎』巻八に、「女寵《じよちよう》を叙するものは『漢事秘辛』に至って極まれり。男寵を叙するものは『陳(371)子高伝』に至って極れり。『秘辛』のいわゆる、拊《なず》れども手を留めず、火斉火を吐かんと欲す、等の語は、まさに流丹・※[さんずい+夾]藉と爽を競い、しかして文采はこれに過ぐ、云々」。この「陳子高伝」というもの、先年大英博物館にありし日、『陳書』の子高の伝を指すことと思い調べしも、一向在杭が褒めしほどの文なし。別に「陳子高伝」という物あるにや。在杭はその伝の「呉孟子は、鉄、※[矛+肖]《ほこ》に纏う」の句を特に称美せり。同性すなわち男と男との交り、男色の趣を述べたる句と察せらる。全体、予、漢学は一向修めざりしゆえ、在杭の件の文何のことか全く分からず、よって松岡香翠と言える紀州田辺の詩人に問い合わせしに、この人また十分に解せぬながら、ほぼ答えて書かれしは、「『佩文韻府』に、楊慎の書『漢雑事秘辛・後漢雑事』一巻は、桓帝の懿献梁皇后の選ばれしこと、および六礼|冊立《さくりつ》のことを載す、と。また「海国の千房、火斉の珠」(詩句)、「長流丹を服取するに如かず」(詩句)等の語あり。また王勃『滕王閣の序』に「飛閣流丹、下《しも》無地に臨む」の語あり。この流丹は朱閣を形容せるもの、さきの流丹は仙丹のごときならんか。(熊楠按ずるに、女陰を朱門と呼ぶこと、唐の釈法琳の『弁正論』巻七に、仏経の訳人訳語の本名を存することを言いて、「朱門・玉柱の讖、陽父・陰母の謡のごときにあらず」。註に、「黄書に言う、命門を開き、真人を抱く。竜彪を嬰廻し、三五七九を載せ、天羅地網にす。朱門を開き、玉柱を進む。陽は陰を思いて、母白は玉を加え、陰は陽を思いて、父手は摩捉す、と」。朱門と、朱閣と、またそれから流丹と関係あることかとも思えど、まるで不案内の予のことゆえ、ほんの宛て推量なり。なおむかし日本でも女陰を朱門といいしは、狩谷※[木+夜]斎の『箋注倭名類聚抄』巻二、玉門の条に見えたり。)※[さんずい+夾]藉の熟字は、いずれの書にも見当たり申さず。流丹※[さんずい+夾]藉は美文の勢を形容せしにはあらざるか。火斉は珠の名なるべし。「火斉、吐かんと欲す」は、あるいは女陰の形容くらい、云々、高見遠からざることと存じ候」となり。
 松岡氏のこの答えを得ても、予には上に抄せる謝氏の文意一向分からず。よって知らざるを知らざるとして、読者諸君の教えを乞うところなり。しかしこの答書にて、『漢事秘辛』とは、後漢の懿献梁皇后被選および六礼冊立のこ(372)とを述べたる書物の名ということだけは分かれり。この書果たして後漢の世、もしくはその時を去ること遠からぬ世に成りし物にて、火斉は取りも直さず火斉珠のことならんには、瑠璃を火斉と呼ぶは、隋唐以前すでにありしことと思わる。よって録して大方の教えを俟つ。   (大正元年十月『考古学雑誌』三巻二号)
【追加】
 『考古学雑誌』第三巻第二号、予の「火斉珠について」なる文に対し、同巻第六号に古谷君の答あり。予が見出だせる『淵鑑頬函』三六四に引ける『続漢書』と『漢魏叢書』中の『秘辛』の文は、ともに隋唐前火斉なる語が支那に存せしを詔するに足らざる由を序べ、さらに件の二書の外、隋唐前この語ある明証あらば挙げ見よと覓められしをもって、予は後漢の班孟堅の「西都賦」なる「翡翠火斉、耀きを流し英《ひかり》を含む」、また同朝の張平子の「西京賦」なる、「翡翠火斉、絡《まと》うに美玉をもってす」の二例(『文選』巻一と二に出ず)を見出だし、ついでに瑠璃、玻※[王+黎]、硝子の名目に関する拙考を編し、掲載を乞わんと従事するうち、眼を煩い、荏苒今九月初旬に及べり。そのあいだ第三巻第七号に、古谷君は依然『類函』と『秘辛』の文の徴するに足らざるを主張さるといえども、隋唐前すでに火斉なる語が支那に行なわれしを認めらるるに及べる由を示されたれば、眼病全癒の上、拙考中、君と見を同じうする分を除き、改稿の後『考古学雑誌』に寄せんと欲す。しかして、当初予の問中に引ける二書のうち、『秘辛』が楊脩の偽作らしいことは、予もほぼ同意に向かえるも、『類函』引くところの文字については、古谷君の答えその正を得ずと惟うをもって、ここに重ねて疑いを述べて、君の再答を待つこととすべし。
 『本草綱目』玉類、水精付録火珠、「時珍いわく、『説文』にこれを火斉珠と謂い、『漢書』にこれを※[王+攵]瑰《ばいかい》(音枚回)と謂う。『唐書』にいわく、東南海中に羅刹国あり、火斉珠を出だす。大なるものは鶏卵のごとく、状は水精に類す。円く白くして、数式を照らす。日中に艾をもってこれを承くれば、すなわち火を得。灸艾《やいと》の※[火+主]《ひ》に用うれば、人を傷《そこな》わず。今|占城《チヤンバ》国にこれあり、朝霞大火珠と名づく。また『続漢書』にいわく、哀牢夷は火精琉璃を出だす。すなわち火斉は(373)火精の訛りにして、まさに水精と対す」。次に瑠璃、「一に火斉と名づく。時珍いわく、云々、火斉と火珠とは同じ名なり」。さて集解の項に、『集韻』、『異物志』等を引けり。これらの諸文を按ずるに、『唐書』の火斉珠は水精を研《みが》き円めたるもの、もしくはガラス珠もて日より火を取りしものなるべく、楊孚の『異物志』に(古谷君は『南州異物志』とせるも、『綱目』同項に二書をならべ別ちたれば別書なり)、「火斉、状《かたち》は雲母のごとく、色は紫金のごとし。重沓《かさな》って開くべし。これを拆《さ》けばすなわち薄きこと蝉の翼のごとく、これを積めば紗の※[穀の禾が糸]《ちぢみ》のごとし。また琉璃、雲母の類なり」とあるは、今日金石学者の苦土雲母《ビオタイト》と称するものに相当するにや。全く火取り玉にも、梵語にいわゆる吠瑠璃(モニエル・ウィリアムス、ベンフェイ諸氏の「梵語字典」、アイテルの『支那仏教語彙』、みなラピスラズリ、すなわち漢名空青、邦名こんじょう、とせり)にも異なり、呉の朝の万震の『南州異物志』に、「琉璃は本質はこれ石にして、自然灰をもってこれを治め、器となすべし。石これを得ざれば、すなわち釈くべからず」とある琉璃は、ガラスの原料たる珪石《クオールツ》の一種たるべきも、火斉と同物と明記なければ、これのみでは、火斉がガラスなりとは言いえず。時珍の推察通り、火斉と※[王+攵]瑰が果たして一物ならんには、『韓非子』すでに「※[木+賣]《とく》辺の珠を売り、飾るに※[王+攵]瑰をもってす」とあり、『文選』巻七、司馬長卿の「子虚の賦」に、「その石はすなわち赤玉※[王+攵]瑰(註に、晋灼いわく、※[王+攵]瑰は火斉珠なり、と)」と見えたるにて、その秦漢の際すでに世に行なわれし名なるを知るも、『夢渓筆談』(趙宋の沈括著)に、「予、漢東にあって、一玉※[王+虎]を得たり。美玉にして微紅、温潤明潔なり。あるいはいわく、すなわち※[王+攵]瑰なり、と」とあれば、宋のころ、はや※[王+攵]瑰の何物たるをつまびらかにせざりしなり。『述異記』に「蛇珠の千枚は※[王+攵]瑰の一にしかず」とあれば、決してガラスと同価のものにあらざるべし。『本草啓蒙』巻四に、宝石のこと『天工開物』につまびらかなり、その※[王+攵]瑰というは津軽舎利のことなり、他書に※[王+攵]瑰というは赤き玉のことなり、「はまなす」を※[王+攵]瑰花というも、実の色赤玉のごときをもって名づくとあれば、秦漢の時※[王+攵]瑰と呼びしは、何か赤き貴石なるべし。
 今日結晶の、比重の、硬度の、成分のと、精査識別の法備われる世と異なり、古え玉石を種々混同誤錯して、異名(374)もて一物を呼び、一名もて諸種を通称せしは、わが国で空青《ラビスラズリ》をも碧銅鉱《アズライト》をも紺青と呼び、支那で水晶と石英の別|定かならず、梵語にガラスと水晶をシスジャンと通称し、欧州で古えトパズと言いしは今のペリドットとクリオライトで、今の空青を古えサッフィールと呼びたるにて知るべし。わが国に玉も珠も球も「たま」で通称し、梵語に水晶をも氷糖をも貝子《ばいし》をも一名で呼びし例さえあり。されば、『説文』に「火斉は※[王+攵]瑰なり」と言い、『集韻』に「琉璃は火斉珠なり」とあるは、ほんの相似たる物を挙げたるまでにて、後世みだりにこれらを同一物と信じたるより、彼我混淆、琉璃も火斉珠も※[王+攵]瑰も苦土雲母も、ことごとく強いて一類と見なすに及びしならん。愚見をもってすれば、火斉と称せるもの、あるいはガラスにして、あるいはガラスにあらざりしに似たり。そのことは他日稿を更めて述ぶべし。さて上にも引ける通り、「時珍、また『続漢書』にいわく、哀牢夷は火精琉璃を出だす。すなわち火斉は火精の訛りにして、まさに水精と対す」と言えるにて、予の前すでに火斉を火精と見て、水精に対する名とせし学者あるを知るべし。愚見をもってすれば、この文、火精と琉璃とは別物なるがごとし。それを『集韻』に誤って一物とせしより、種々の混雑随って生ぜしなるべく、この一書に「琉璃は火斉珠なり」とあればとて、琉璃の外に火斉なく、火斉の外に琉璃なく、琉璃も火斉もことごとくガラスなりと断ぜば、すなわち大いに鑿せん。
 また古谷君は親交なる諸友の助けを仮り、『後漢書』のあらゆる諸本を遍閲して、いずれも「哀牢は火精瑠璃を出だす」とはなくて、「水精瑠璃を出だす」とあれば、『類函』引くところは誤字なり、と断ぜらる。しかれども『続漢書』に火精とあるは、『類函』成りし前百二十五年李時珍またこれを言えり。『続漢書』は『本草網目』引用書目にも露人プレットシュナイデルが引きたる『事言要元』にもいわく、三国の世に謝承作る。『後漢書』は芳賀・下田二君の現に、その八志は晋の司馬彪撰し、本紀と列伝は宋の茫蔚宗作れり(プ氏の『ボタニコン・シニクム』一九三頁。二君の『日本家庭百科字彙』明治三十九年板、四〇七頁)。『考古学雑誌』三巻二号に述べしごとく、予は洋行前一向漢学の素養なく、渡英後、故楢原(井上)陳政氏と、ダグラス男の『大英博物館漢籍目録』編纂を助くるに臨み、愴惶その学に(375)志せし当時、ウィリーの『支那書目』を見、初めて范曄の『後漢書』の外、また謝承の『後漢書』、華※[山+喬]の『後漢書』等あるを知り、館よりそれらを北京書肆に就いて購入せんことをダ男に勧め聴かれしが、その書未著到中に退館したれば、謝氏の書果たして現在するか否を知らず。しかしながら、その康煕朝まで伝存せしは、『古今図書集成』や『淵鑑類函』に多く范氏の書と駢《なら》び引かれたるにて明らかなり。
 例せば、『類函』一二八、廉潔一に、「『後漢書』にいわく、李忠、字は仲都、云々。謝承『後漢書』にいわく、高弘、字は武伯、云々。華※[山+喬]『後漢書』にいわく、楽松、家貧しくして、云々」。また一八二、挽歌三に、司馬彪『続漢書』をも引けり。これは范氏の書に併せ行なわるるものならん。また謝氏の『後漢書』を単に『続漢書』として、他の『後漢書』と別てるところ多し。巻二四九、兄弟二に、『続漢書』より姜肱伝を引き、次に『後漢書』の班固伝を引けるごとし。よって察するに、後出の范氏の『後漢書』に、前輩たる謝氏の『続漢書』より採れること多からんも、二書おのおの記するところ同じからざるものまた多ければこそ、かく別々に引かれたるなれ。「前出を正となす」の義に遵わは、『続漢書』の「哀牢は火精瑠璃を出だす」が正文にして、『後漢書』の水精は火精を誤写せしと判ずるの外なからん。しかるをその名の相似たるより、何の精査をなさず、浸然『続漢書』の文字を論ずるに『後漢書』の諸本をもってするは、『旧唐書』や長門本『平家物語』、また『埃嚢抄』や『東海道名所記』を見ずに、『新唐書』、普通の『平家物語』、『塵添埃嚢抄』、『東海道名所図会』にのみついて、その文字の正否をかれこれ論ずるに同じからずや。『続漢書』に「火精を出だす」とあるを予みずから見ざれど、『類函』の外『本草網目』また同様に文を引き、特に火斉の原意は火精とまで付記したれば、軽々しく水精を火精と誤読したりと見えず。いわんや、火精は水精に対する名と論じたるにおいてをや。とにかく予は古谷君およびその親交諸君に対し、『続漢書』の存否、『続漢書』に火精の二字の有無、およぴ李時珍が『続漢書』を引いて火斉は火精の訛りとせるの当否を問う。
 また二巻七号に、吉谷君は玻※[王+黎]、硝子の文字もまた隋唐時代の書に初めて見る、と言われたり。予は『本草網目』水(376)精の条に、時珍が「薬にて焼成するものは気眼あり。これを硝子と謂う。一に海水精と名づく。『抱朴子』に、交広の人、仮《にせ》水精の※[怨の心が皿]《わん》を作る、と言えるはこれなり」とある、明朝前に硝子の語あるを知らず。果たして隋唐の世にこの語を用いたる例あらば、教示を吝まざらんことを望む。玻※[王+黎]に至っては、隋唐前にもこの字確かにあり。陳の真諦が訳せる『立世阿毘曇論』巻二の第五品に、「漏闍耆利象王の住む所は、あるいは金堂あり、あるいは銀堂あり、玻※[王+黎]〔二字傍点〕、瑠璃もまたかくのごとし」、第八品に、「須弥山の王、云々、東辺は真金の成すところ、西辺は白銀の成すところ、北辺は瑠璃の成すところ、南辺は玻※[王+黎]〔二字傍点〕、その一切の辺は衆宝の成すところ、云々。城外の四辺は七重の宝柵あって、云々、その最も裏《うち》なるものは真金の成すところ、次は白銀を用い、第三は瑠璃、四は玻※[王+黎]〔二字傍点〕柯」。それより先、姚秦の鳩摩羅什訳『大智度論』巻一〇に、「瑠璃、玻※[王+黎]〔二字傍点〕等はみな山窟中に出ず、云々。もし法の没尽する時は、もろもろの舎利みな変じて如意の珠となる。たとえば、千歳を過ぐる氷の化して玻※[王+黎]〔二字傍点〕の珠となるがごとし」。欧州にも古え、水精は氷が凝って成るところと信じたるを、十七世紀にサー・トマス・ブラウンの『俗説弁惑《プセウドドキシア・エピデミカ》』二巻一章、特にこれを排せり。後世支那人がガラスを玻※[王+黎]と呼びしこと『和漢三才図会』巻六〇等に見え、『翻訳名義集』巻八に、「頗梨、あるいは塞頗胝迦という。此《ここ》にては水玉という。すなわち蒼玉なり。あるいは水精といい、また白珠という」。塞頗胝迦は、玄奘訳『阿毘達磨蔵顕宗論』巻四に頗胝迦とせり。モニエル・ウィリアムスその他の「梵語字彙」を見るに、水精の梵名スファーティカ、『立世阿昆曇論』には水精と翻したるところと、玻※[王+黎]柯また玻※[王+黎]と音訳せるところとあり、スファーチィカを玻※[王+黎]柯と訛略し、また玻※[王+黎]と縮めたるにや。ただし、今日のペルシア語とヒンズー語、ともに水槽をバルールと呼び、梵語にガラス製の飲器をパリグハ、またパーリーと名づけたれば、それより玻※[王+黎]柯また玻※[王+黎]の漢字を用い初めしが、水精と硬硝子《フリントグラス》、時としてすこぶる識別しがたきは、『大英類典』一一板巻一二に見ゆ。
 古え至硬の宝石を切瑳する術開けざりし世には、諸宝石はただ奇物として扱われ、真珠、水晶等、やや柔らかにして工を施しやすきものの佳品がもっぱら珍重され、したがって仏経に、金剛石など主としてその硬きを称揚するのみ、(377)真珠の紅を帯びたるもの(鉢摩羅迦)、真珠の大にして最も優れたるもの(摩尼宝)等を至宝とし、水精の最も純良なるを玻※[王+黎]と名づけて、金、銀、瑠璃とならべて須弥の四宝と称え、また馬瑙、※[石+車]※[石+渠]等とともに七宝と呼びしなり。玻※[王+黎]、水精一物と『大和本草』にも言えり。
 わが国にても明治十四年の東京博覧会に、一万円の水精一顆甲州より出品ありし。金剛石を切瑳する法は、一四五六年(義政将軍の時)レウィ・ド・バールケンこれを発明せしも、十六世紀に至って初めて流行せり。支那の一地方に金剛石を出だせど、切瑳の術を知らず、わずかに磁器を穿つ鑽《きり》として秘蔵する由、五、六年前の『東洋学芸雑誌』にて見たり。西洋にて金剛石の切瑳術弘まりてより、真珠等諸宝の価大いに堕ちしは、ボーン文庫本英訳、ハムボルト『回帰線内亜米利加紀行』一巻五章に見ゆ。
 再び按ずるに、頗梨を玻※[王+黎]に作ること、東晋の朝すでにあり。すなわち仏陀跋陀羅訳『観仏三昧海経』巻一、阿私陀仙、悉達《しつた》太子の眉間白毫を相するに、「その長短を度量するに、五尺に満つるに足り、瑠璃の筒のごとし。放ちおわれば右旋し、玻※[王+黎]の珠のごとし。無量百千の色光を顕現す」と出でたり。
 ついでに言う、一八八五年第三板、バルフォールの『印度事彙《ゼ・サイクロベジア・オヴ・インジア》』一巻一二一一頁に、当時インドにガラス作る料品多きにかかわらず、普通の徳利すら作りえず。これアルカリを用いること過多にて、舌をガラスに充つるに、その味を覚ゆるほどなるによる、とあり。『大英類典』一二巻九七頁に、古フィニシア人、鍋を粗鹸《ナトロン》(不純なる炭酸曹達)もて支え、物を煮て、鍋下にガラス樣の物を見出だしたるがガラスの始めなりと伝うるは、多少の本拠あり。全く火勢によって、鹸と砂と結合して、ガラスに酷似せる珪酸曹達を作り、それより進んで珪酸曹達を耐久性ガラスに仕立てたるなるべし、と言えり。想うに往時支那人も、硝石等のアルカリ塩を夥《おお》く用いてガラスを作りしより、硝石より生ずるとの意で、硝子と名づくるに及びたるものか。
(追記)支那にてガラスを玻※[王+黎]、琉璃と称するは外国名の音訳にて、火斉珠なる語は漢代より見ゆるも、この三名と(378)もにガラスの外に種々の石をも指す名たること、上述のごとし。硝子ははるか後に出で来たりし名なり。しかるに、漢代の書に陽燧《ようすい》を載す(秦の『呂覧』にも載せたりと思えど、記憶のみにて今その書を見ざれば確かならず)。『准南子』註や『古今注』によれば、金属にて製《つく》り火を日より取る物なれど、後漢の初め王充が筆せし『論衡』の率性篇に、「陽燧とは、火を天より取るなり。五月丙午、日中の時、五石を消錬し、鋳てもって器となし、磨礪《まれい》して光を生ぜしめ、仰《うわむ》けてもって日に嚮《む》くれば、すなわち火来たり至る、これ真に火を取るの道なり」とあり。これ確かに漢代すでに石を溶かしてガラスを作り、レンズを製せしを託するに足る。これに反し、琉璃、火斉等に人造物ある由は、漢以後の書に始めて見るところなり。また女※[女+堝の旁]が五色の石を錬って天を補いしという文あれど、小説なれば信じがたし。   (大正二年十一月『考古学雑誌』四巻三号)
 
(379)     古き和漢書に見えたるラーマ王物語
 
 明治二十六年秋、予、故サー・ウォラストソ・フランクス(『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一一板一一巻にその伝を載す)を助けて、大英博物館宗教部の仏像・仏具の名を定むる時、本邦俗間所祀の庚申像に必ず猴を副える由話せしに、それは『ラーマーヤナ』に出でたるハヌマン猴将軍などより起これる信仰ならん、と言われし。当時パリのギメー博物館に読書中の土宜法竜僧正へこのことを問い合わせたるに返書あり。庚申の夜祭る青面金剛はラーマの本体ヴィシュヌ神より転成せるもののごとしとて、その相形を詳記し、これはフランクス氏の推測その実に近からんと述べられたり(一九〇三年ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』九輯二巻四三〇乃至四三二頁、予の「三猿考」を見よ)。よって和漢に古くヴィシュヌ神、ラーマ王およびハヌマン猴将軍のことを伝えたる証左を知人どもに求めしも確たる回答を受けず。やむをえずみずから気長く蔵経その他を閲して、果然古く和漢の仏典に件の名号伝説ならびに少なからず散見するを知り録し置きつ。惟うに『ラーマーヤナ』は『マハーブハーラタ』とインドの二大長賦たり。かの国の考古学に最も重大の関係あるものなれば、インドの事物に注意深き人々はすでにこの物語の概要古く和漢に知られおりたるを知悉さるるならんも、今年二月十日の『日本及日本人』に猪狩史山氏の「ラーマ王物語」出でてその梗概を序せるを見れば、一般読者中には今もこの物語の何たるを知らざる人も多きにや。その人々はむろんこの物語が蚤く和漢に伝わりおりたるに気づかざるべければ、遼東の豕の譏を顧みず、旧日の備忘録によって鄙見を述ぶること左のごとし。
(380) 治承のころ平康頼が筆せりという『宝物集』巻五より、本文を多少節略して引かんにいわく、「むかし釈迦如来、天竺の大国の王と生まれておわしましし時、隣国舅氏国飢渇してほとんど餓死に及べり。舅氏国の人民相議して、われらいたずらに死なんより、隣の大国に向かいて五穀を奪い取りて命を活くべし、一日といえども存命せんこと庶幾うところなりとて、すでに軍立てるを、大国に聞きつけて万が一の勢なるが故に、軽しめ嘲りて、手捕りにせんとするを聞きて、大王公卿に宣わく、『合戦の時多くの人死なんとす、願わくば軍を止むべし』と制し給いしかば、宣旨と申しながらこのことこそ力及び侍らね、隣国進み襲うを闘わずば存命すべからずと申し侍りければ、大王ひそかに后を呼んで、われ国王として合戦を好まば多くの人死なんとす、われ深山に籠りて仏法を修行すべし、汝はいかが思い給うとのたまいければ、后今さらにいかに離れ奉らんとのたまいければ、ついに大王に具して深山に籠りたまいぬ。大国の軍、国王の失せたまうことに驚きて戦うことなくして小国に順《したが》いぬ」。
 「大王深山にして嶺の木の子《み》を拾い、沢の若菜を摘んで行ない給いけるほどに、一人の梵士出で来たりて、お伽仕るべしとて仕え奉る。大王、嶺の木の子を拾いにおわしたる間に、この梵士后を盗んで失せぬ。大王還りて見紛うに、后のおわせざりければ山深く尋ね入り給う。道に大いなる鳥あり、二つの羽折れてすでに死門に入る。大鳥、大王に申さく、日来付き奉りたりつる梵士、后を盗み奉りて逃れ侍りつるを、大王還り給うまでと思いて防ぎ侍りつれども、梵士、竜王の形を現じてこの羽を蹴折りたりと言いて、ついに死門に入りぬ。大王哀れと思して高嶺に掘り埋めて、梵士は竜王にてありけるということを知りて、南方に向かいておわしましけるほどに、深山の中に無量百千万の猿集まりて罵りけるところへおわしぬ。猿猴、大王を見つけて悦びていわく、『われら年来領する山を隣国より討ち取らんとするなり、明日午の時に軍定むべし、大王をもって大将とすべし』という。大王思いがけぬところへ来たりて悔しく思し召しながら、承りぬとて居給いたりければ、弓矢をもて大王に奉れり。言うがごとく、次の日の午の時ばかりに、池に萍なぴきて数万の兵襲い来たる。大王、猿猴の勧めによりて、弓を引いて敵に向かい給うに弓勢《ゆんぜい》人に勝れ(381)て臂|背央《せなか》に廻る。敵、大王の弓勢を見て箭を放たざる先に遁れぬ」。
 「猿猴ら大いに悦び、この喜びにはいかなることをかなさんずると言いければ、大王猿猴らに告げていわく、われ年来の后を竜王に盗み取られたり、故に竜宮城に向かいて南方へ行くなりと宣いければ、猿猴ら申さく、われらが存命ひとえに大王の力なり、いかでか、その恩を思い知らざらん、速やかに送り奉るべしとて、数万の猿猴、大王に随いて往き、南海のほとりに到りければ、いたずらに日月を送るほどに、梵天帝釈、大王の殺生を恐れて国を捨て、猿猴の恩を知りて南海に向かうことを憐れと思して、小猿に変じて数万の猿の中に雑りて言うよう、かくていつとなく竜宮を守るといえども叶うべきにあらず、猿一つして板一枚、革一把を儲けて橋に渡し、筏に組みて竜宮城へ渡らんと言いければ、小猿の僉議に任せて、おのおの板一枚、草一把を構えて橋に渡し、筏に組みて自然に竜宮城に至れば、竜王、怒りをなして大いなる声を起こしてくれをやりて〔六字傍点〕(もとのまま)光を放つほどに、猿猴霧に酔い雪に怖れて倒れ伏す。小猿雪山に登りて大薬王樹という木の枝を伐りて、帰り来たりて酔い臥したる猿どもを撫ずるに、たちまち酔《えい》醒め心猛くなりて竜を責む。竜王光を放ちて鬩ぎけるを大王矢を射出だす。竜王、大王の矢に中りて猿猴の中に落ちぬ。小竜ら戦わずして遁れ去りぬ。猿猴ら竜宮に責め入りて后を取り返し、七宝を奪い取りてもとの深山に帰る。さてかの舅氏国の王失せにければ、大国、小国、臣下らこの王を忍びて迎え取りて、二箇国の王としてあり、云々、細かには『六波羅蜜経』にぞ申しためる」。
 予いまだいわゆる『六波羅蜜経』を見ざれど、三国呉の天竺三蔵法師康僧会訳『六度集経』巻五にラーマ王物語あるを見出でたれば、節略して引かんにいわく。むかし菩薩あり、大国王たり。常に四等をもって衆生を育護し、声|遐遐邇《かじ》を動かし歎懿せざるなし。舅また王となって異国にあり。性貪って恥なし。兵を興して菩薩の国を奪わんと欲す。菩薩の群僚みないわく、われむしろ天仁となって貴く、豺狼となって賤しからじ、と。民いわく、むしろ有道の畜となるも無道の民とならじ、と。武士を料選し軍を陳ねて振旅す.国王流涕していわく、わが一躬をもって兆民の命を(382)毀たば国亡びて復しがたく、人身獲がたし、われ遁れ邁《ゆ》かば国境みな康からん、と。王、元妃とともに国を委《す》てて去り、舅入って国に処り、政苛に民困しみ、旧君を思詠すること、孝子の慈親を存するごとし。王、元妃と山林に処るに、海に邪竜あり、妃の光顔を好み化して梵志となり、訛《いつわ》って道士の似《まね》して禅定す。王観て心欣び、日に果を採って供養す。竜、王の出で行くを伺い妃を盗み、挟《さしはさ》んで海居に還る。山に巨鳥あり、翼を張り径を塞ぎ竜と戦う。竜ために震雷し、鳥を撃ってその右翼を堕とし、ついに妃を獲って海に還る。王、果を採り還ってその妃を見ず。すなわち弓を執り矢を持ち元妃を尋求す。栄流を覩てその源を極むるに巨|※[獣偏+彌]猴《びこう》を見る。哀慟していわく、われ舅氏と肩をならべて王たり、舅、勢をもってわが衆を強奪す、子《なんじ》今何の縁あってこの山岨を翔るか、と。菩薩答えていわく、われと※[人偏+爾]とその憂い斉し、われまた妃を亡い之くところを知らず、と。猴いわく、子われを助け戦ってわが士衆を復さば、子のために妃を尋ね、ついに必ず獲ん、と。明日、猴、舅と戦う。王すなわち弓を彎き矢を持ち股肱勢い張る。舅はるかに悚懼《しようく》し猴王の衆反る。ついに衆に命じ行って人王の妃を索めしむ。猴衆、鳥、翼を病むを見る。鳥いわく、竜、妃を盗めり、わが勢い如くなし、今海中大洲の上にあり、と言いおわりて絶す。
 猴王、衆を率い海に臨み、もって渡るなきを憂う。天帝釈、化して猴となり、身に疥癬を病めり。来たり進んでいわく、今士衆の多きそれ海沙に喩う、今各衆をして石を負い海を杜《ふさ》がしめば、もって高山をなすべし、何ぞただにかの洲に通ずるのみならんや、と。衆その謀に従い、石を負って功成り衆済るを得、洲を囲んで累沓す。竜、毒霧を化し、猴衆すべて病み地に仆れざるなし。二王悵愁せしかば、小猴重ねていわく、「聖念を労するなかれ」と。すなわち天薬をもって衆の鼻中に傅《つ》け、衆すなわち奮鼻して興り力勢前に踰ゆ。竜すなわち風雲を興し、勃怒霹靂、乾を震わし地を動かす。小猴いわく、人王射に妙なり、天電耀するはすなわち竜なり、矢を発して凶を除き民のために禍を除かば衆聖怨なけん、と。霆耀《ていよう》電光の時、王箭を放ち竜胸を射殺さる。猴衆、善と称し、小猴門を開きて妃を出す。二王ともに本山に還り、さらに相辞謝す。たまたま舅王死して嗣子なし。臣民屏馳して旧君を尋ね、君臣相見、哀泣(383)ともに還り、舅国を併せ獲、「兆民歓喜して、寿万歳と称う。大赦して政を寛《ゆる》くし、民心欣々たり」、含笑かつ行く。王いわく、「婦、夫とするところを離れ、隻行一宿するも衆疑望あり、あにいわんや旬朔《じゆんさく》をや。爾、汝の家に還らば事古儀に合わん」と。妃いわく、「われ穢虫の窟にありといえども蓮の淤泥におるがごとし。わが言信あらば地それ拆《さ》けん」と。言いおわりて地裂く。いわく、わが信現ぜり、と。王いわく、善きかな、それ貞潔は沙門の行、と。これより国内、商人、利を譲り、仕者、位を辞し、豪よく賤を忍び強弱を凌がず、王に化せられしなり。婬婦、操を改め、「命を危くして貞を守り、欺く者は信を尚び、巧偽のものは真を守り」、妃に化せらるなり。仏、諸比丘に告ぐ、時の国王はわが身、妃は瞿夷、舅は調達、天帝釈は弥勒これなり、と。
 惟うに仏出世前この譚すでにインドに存せしを、仏滅後その徒が金口に仮托して、仏と、その在世間時の妻瞿夷と、宗敵調達と後継者弥勒との本生譚(ジャータカ)に仕上げたるなるべし。現存パーリ語の本生譚集にはこの物語なし、と知己のパーリ学者輩より聞けり。『ラーマーヤナ』は、通説にラーマ王と同時の仙人ヴァールミーキの作と称せられ、異伝すこぶる多く、現存するところ三大別本あり。毎本載せるところの三分一は他の二本に全く見えず。いずれも梵語もて筆せられしは仏世後のことなれど、この物語仏世前あまねく俗間に歌われ、種々の改竄と増補を受けしようなり(『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一一板、二四巻一六九頁)。されば『宝物集』や『六度集経』に伝うるところ、現在梵土の諸本と異所多きも怪しむに足らず。
  ついでに言う。昨年七月の『郷土研究』二六四頁に、志田義秀君、とぎ〔二字傍点〕(伽)なる語は鎌倉時代に殆めて現われしがごとしとて、『源平盛衰記』や『増鏡』を引けり。しかるに上に引ける『宝物集』の文すでに「一人の梵士出で来たりて、お伽仕るべしとて仕え奉る」とあり。この文真に治承ころの筆ならば、とぎ〔二字傍点〕の語は『盛衰記』や『増鏡』より早く行なわれおりたるを証するに足る。
 『六度集経』、何の代、何人が述べたるを知らず。康僧会の訳文もっぱら俗人に教えんとて、三国呉の俗語を用いし(384)と見え、その態特異なり。しかしてこの経一切ラーマ、シーター等の人名を挙げず。馬鳴大士(仏教伝統十二祖)の『大荘厳経論』巻三(羅什、姚秦の時訳す)に「羅摩〔二字傍点〕は草橋を造って、楞伽〔二字傍点〕城に至るを得たり」、羅摩はラーマ、楞伽はランカ、羅刹洲(今のセイロン)の都なり。巻五に、むかし中天竺の諸婆羅門、「衆落主のために、羅摩延〔三字傍点〕書(ラーマーヤナ)また婆羅他〔三字傍点〕書(マハーブハーラタ)を説く」と載せ、竜樹菩薩(十四祖)の『大智度論』(訳人同上)二三に、「問うていわく、人あり、無常のこと至るを見、転たさらに堅著すとは、かくのごとし。国王夫人、宝女の地中より生じ、十頭羅刹のためにまさに大海を渡らんとし、王大いに憂愁す。智臣諫めていわく、王は智力具足し、夫人また在ること久しからず、何をもってか憂いを懐く、と。答えていわく、わが憂うる所以は、わが婦の得がたきを慮らず、ただ壮時の過ぎやすきを恐るるなり、と」とあり、十頭羅刹(ダサグリヴァ)すなわち楞伽鬼王ラーヴァナが、ラーマの妃シーターを掠め去りし時の話なり。
 北涼訳、馬鳴撰『仏所行讃経』巻二に、車匿《しやのく》、悉達太子に別れを惜しむ辞中、「今、空野の中において、太子を棄てて帰らば、すなわち須曼提《しゆまんだい》に同じく、羅摩に棄捨《す》てられん」、また巻五に、七王仏、舎利を争って戦わんとし、独楼那婆羅門に諫止され相語る詞中、「羅摩は私陀〔二字傍点〕(シーター)のために、もろもろの鬼神を殺害す」と言えり。劉宋訳『賓頭盧説法縁経』に、「優陀延王《うだえんのう》は、雄武なること羅摩延〔三字傍点〕(ラーマをラーマーヤナと誤記せしなり)のごとし。また羅摩は、十頭羅刹および数千億の羅刹衆を害す」。苻秦訳『※[革+卑]婆沙《びばしや》論』に、「問うていわく、何をもっての故に仏の契経《スートラ》は立てて章を作るや、と。答えていわく、仏の契経の無量の義を視んと欲する故なり、と。この外部に少義、無義あり。少義とは、羅摩那〔三字傍点〕(ラーマーヤナ)十二千章二句義(そのころ一万二千章ありしなり)を誦するにて、羅摩泥〔三字傍点〕(ラーヴァナ)、私陀を将《つ》れて去り、かの羅弥〔二字傍点〕(ラーマ)に還し将《も》ち来たるなり。無義とは、一女をもっての故に十八|※[女+亥]《がい》の衆を殺し、また衆生多く闘諍縛を起こす、云々。婆羅多《ブハラタ》(兄なり)、摩訶婆羅他《マハーブハラタ》(弟なり)、羅摩《ラーマ》(兄なり)、羅叉那《ラクシユマナ》(弟なり)は、私陀《シーター》(妻なり)のために、云々、かの一女のための故に十八※[女+亥]の人を殺す」と出で、陳訳『婆薮盤頭《ばすばんず》伝』に、法師婆沙、(385)〓賓《けいひん》国に往って『毘婆沙論』を盗み出さんとし、「狂を佯って失言し」、大衆、毘婆沙義を論ずれば、すなわち羅摩延〔三字傍点〕の伝を問う、と。唐訳『大方広仏華厳経』善賢行願品に、「天と阿修羅、常にともに戦い、十頭羅刹を伐ち、南海の楞伽大城を焚焼す、云々。かくのごとく一切は女人に由る」。
 これら諸例もてラーマ王物語古く支那に伝わりしを知るべし。ホイーラーがラーマの楞伽攻めを釈して、そのいわゆる羅刹衆とはセイロンの仏徒を指すと言いしは疑わしけれど、仏典中にはややもすれば羅摩の殺生過酷と、私陀一人のためにかかる大罪を造りしを責むる語気多く、暗に仏教、ヒンズー教相容れざりしを示せり。元魏訳『入楞伽経』に至っては、発端なる諸仏品の初めに、「大智慧海、毘盧遮那仏に帰命す。かくのごとくわれ聞く。一時、婆伽婆《バガバ》、大海畔の摩羅耶山頂上の楞伽城中に住す。云々。城主の羅婆那〔三字傍点〕(ラーヴァナ)は夜叉王にして、また羅婆邪十頭羅刹とも名づく。楞伽、仏に請うて法を聴く」とあって、明らかに鬼王ラーヴァナを揚げヒンズー教の聖王ラーマを貶すの意を露わせり。わが邦俗間に大いに行なわれし『三世相大雑書』また『東海道名所記』四に載せたる、牛頭天王、頗利《はり》采女を娶りて南天竺夜叉国の巨旦王を伐つ譚、また御伽草子『梵天国』の中納言、梵天王の娘を娶りしを羅刹国の「はくもん」王に奪われたるのち取り復《もど》せし話等、多少ラーマ物語に似たり。
 ついでに言う。二十年ばかり前、予が大略上のごとく筆記せし時、梵教の三大尊中、ブラーマは梵天、シヴァは大自在天、この二つはしばしば仏典に見ゆるも、ヴィシュヌ(ラーマ王の本体)は一向見えず、と説く人多く、故サー・モニエル・ウィリアムスも、このことを釈かんとて、釈伽仏、原来ヴィシュヌの化身なれば、仏徒すでに釈尊を奉ずる上さらにヴィシュヌ神を祀るに及ばざるなり、と述べられしと記憶す。爾後予久しく宗教の学に係らざれば、これまたすこぷる遼東の豕と察すれど、今ヴィシュヌ神のこと、また実は仏経に多く散見する一斑を示さんに、『大智度論』に言う、「韋紐天、秦にては遍聞と言う。四臂は貝を捉《と》り、輪を持って金翅鳥に騎《の》る」。これヴィシュヌの相なり。この他、毘捜紐(『婆藪盤頭伝』)、毘瑟※[竹/奴]天(『瑜珈師地論』)、毘紐、また毘痩紐天子(『雑阿含経』)、毘沙紐(『無明羅刹経』)、(386)遍浄天(『経律異相』一二)、吠率怒天(『翻訳名義集』)等、訳名多般にて一定せず。真言の胎蔵界曼陀羅、外金剛部院南方六十五尊中に毘紐女あり。ヴィシュヌの音訳かと思えど、その棒組に夜摩女、自在女もあれば、ヴィシュヌの女身もしくは娘という意なるべし(『曼荼羅私鈔』下)。また唐の湛然述『止観輔行伝弘決』巻一〇に、「一切外人の計るところは二天三仙に過ぎず。二天と言うは、摩醯首羅天《マヘースヴアラ》(大自在天すなわちシヴァ神)、毘紐天を謂う。また韋紐天、また韋糅天とも言う。ここにては遍勝、また遍聞、また遍浄と翔す。『阿含』にはこれ色天なりと言う。『倶舎』に第三禅頂天と言う。浄影《じようよう》言う、処《お》って欲界の極にあり、云々、大神力あって恚《いか》り害《そこな》うこと多し、時人威を畏れて、ついに尊び事うることを加う。劫初に一人の手にて海水を波だたす、千頭二千手なり、と。委しくは『法華疏』中にあり。『疏』に言う、二十四手にして、千頭一を少《か》き、水上に化生す。臍《ほぞ》の中に千葉の蓮華あり、花の中に光あり、万日ともに照らすがごとし。梵王、この華によって下生し、生じおわってこの念《おもい》をなす。いわく、何のゆえに空しくして衆生なきや、と。この念をなす時、他方世界の衆生のまさにここに生まるべきもの、八天子あり、忽然として化生す。八天子はこれ衆生の父母(わが国の両部神道にも八王子あり)、梵天はこれ八天子の父母、韋紐はこれ梵王の父母なり。遠く根本を推すに、世の尊敬するところを世尊という」。胎蔵界、外金剛院西方四十八尊中に毘紐天を列せり。   (大正三年八月『考古学雑誌』四巻一二号)
 
(387)     磬−鰐口−荼吉尼天
 
 津田君の磬の研究の参考まで申し上ぐるは Pierre Beron du Mans,‘Les observations de plusieurs singularites et choses memorables,trouves en Grrce,Asie,Judee,Egypte,Arabie,et autres pays etranges,’a Paris,1554,fol.38,a. にいわく、「ヴェネチア人に服従せるギリシア人は、トルコ人の奴隷たるギリシア人よりも多く自由を享く。彼輩ふたつながら寺の門上に釘もて一鉄片を懸く。その厚さ三指、長さ一臂、やや弧状に曲れり。これを打てば清音鐘に似たるを出だす。アトス山寺に全く鐘なく、この鉄片のみを用い、勤行の都度これを敲いて僧衆を招集す」と。これ東南欧、ギリシア教の高野山ともいうべきアトス大寺に、鉄磬類似の物を鐘に代用したるなり。今日も然りやを知らず。
 ついでに言う。石を楽器に使う例、和漢石磬の外に、鈴石とて石中の穴巣に小石を孕めるを振り鳴らして児戯とすることあり。『雲根志』等にその記載ありしと記憶す。西大陸発見前よりインジアン瓢に小石を入れ柄を付け振り鳴らして楽器とせり。古ペルー人は長およそ一フィート、幅一インチ半の緑響石の扁片、背曲り厚さ四分の一インチ、それより漸次両尖端に向かって薄くなること小刀の刃のごときを楽器とす。背の中央に小孔あり、糸を通してこれを懸け、堅き物もて打つ時、奇異の楽音を発す、と。これ西大陸にも古く石磬ありしなり(Carl Engel,“Musical Instruments,”South Kensington Museum Art Handbook,1875,pp/74,76)。フムボルトが南米オリノコ辺で得たる天河石は、以前土人これをきわめて薄き板とし、中央に孔を穿ち糸を通し、懸下して堅き物もて打てば金属を打つごとき音を出(388)せり。フ氏、欧州に還ってこれをブロンニヤールに示せしに、ブ氏支那の石磬をもってこれに比せり、という(Humboldt,‘Personal Naratives of Travels to the Equinoctical Regions of America,’Bohn`s Library,vol.ii,p.397)。
 『考古学雑誌』五巻一二号八五五頁に、沼田君、『和漢三才図会』に鰐口の名の起りを「裂けたる口の形、鰐の首《かしら》に似たり、故にこれに名づけたるか」と言えるは、たしかに当を得ていると思う、と述べらる。山口素絢の『狂画苑』巻下に、土佐大蔵少輔藤原行秀筆百鬼夜行の図を出だせる、その第七葉表に、鰐口を首とし両脚竜腹魚体魚尾を具えたる怪物あり。鰐口の真中に一眼あり。両耳を耳とし、裂口より舌長く出して這い行《ある》く態なり。藤貞幹の『好古小録』上に、百鬼夜行図一巻画光重とあるはこの図と同物にや。予一向不案内のことながら、百鬼夜行の図は足利氏の代に成りし由『骨董集』等に載せありしと記憶す。『狂画苑』に写し出すところその真筆に違《たが》わずば、かの図は足利氏の世すでにこの種の鉦鼓を鰐口と通称せるを証し、兼ねて『和漢三才図会』に先だって、「裂けたる口の形、鰐の首に似たり、故にこれに名づく」とその義を弁ぜるものと謂うべし。
 同号八八九頁に長井君、「日本に稲荷の崇拝の起こったのはいつからかは私は測定することはできぬが、云々」と前置きして、弘法大師、南支部の五羊の伝説を齎したる、その羊いつしか狐に換り、またいつよりか稲荷を荼吉尼天と混同せるが、荼吉尼は毫も狐に関係なし、と言われたり。フレザーの大著『ゴルズン・バウ』に、羊、狐、兎、狼等を諸方の民が穀精《コーン・スピリツト》と見なす例をおびただしく挙げ、論説せり。わが邦に穀精の信ありしや否は、予これを断ずるあたわざれど、インド人が田作に有害なる獣類を除くをもって虎をありがたがり、古支那で十二月※[虫+昔]《さ》蟻の祭りに、平日、田鼠、田豕を食う功に報いんとて猫と虎を響し、わが邦にも玉置山など狼を神使とし、祀り迎えて兎、鹿を誅鋤《ちゆうじよ》するを求むる諸例より推して、白井光太郎博士(四年前十一月一日『日本及日本人』、「神社合祀は国家の深憂」)が、「狐を神獣とし蛇を神虫として殺さざるは、古人が有益動物を保護して田圃の有害動物を駆除する自然の妙用を知り、これを世人に励行せしむる手段とせしもの」なりと説かれたるを正しと思う。すなわち耕作の業起こってより、(389)わが邦には古く狐、狼、蛇等を神物とする風ありしなり。
 荼吉尼のことは余その曼陀羅ごときものを旧蔵し、在英のあいだ種々調べたる書類あれど只今座右に存せず、またことごとく忘却したれば、手近き典籍に採って管見を述べんに、『塩尻』帝国書院板、四六巻七四九頁に、「陀祇尼天(すなわち荼吉尼天)は※[王+炎]麼羅の属にして、その種類一ならず、云々、人の肝胆精気を※[口+敢]食す。しかるに、地蔵大士、慈悲をもってその相を鬼類に等しくし、これを招じて人のために悩害をなさざらしめ給うを本主の陀祇尼天とす。正流の密家に祀る、これなり。その鬼類の実者外相を現ずるに悉伽羅野干となる。季世、大方この野干を祀りて陀祇尼と称し、福を求め、幸を祈り、あるいは稲荷と呼んで幣帛を捧ぐる族多し」とあり。『大和本草』などに言うごとく、野干は狐と別物にて、英語ジャッカル、梵名スリガーラ(すなわち悉伽羅)、またジャムブカ、アラビア名シャガール、ヘブリウ名シュアル、これらより射干また野干と転訳せしなるべく、『博物新編』等には豪狗と作り、モレンドルフ説に、漢名豺はこの獣を指すという。この物|狡譎《こうけつ》はなはだしき由、多くインド、アラビア等の書に見え、『聖書』に狐の奸智深きを言えるも、実は野干を指すならんという。したがって支那、日本に行なわるる狐の諸譚中、野干の伝説を混入せること多し(大正三年『太陽』の拙文「虎に関する史話と伝説、民俗」第五節を見よ)。
 ダキニ(荼吉尼)は、バルフォールの『印度事彙』に、妖巫《ウイツチ》また女魅《フイーメル・ゴブリン》また飲血者《ブラツド・ドリンカー》(アスラ・パス)と名づく、女小鬼《フイーメル・イムプ》の一種、カリに侍し人肉を※[口+敢]う、とあり。カリはシヴァ神の后にて、『慈恩伝』三に、玄奘三蔵、阿踰陀国より阿耶穆国に往く途中賊出で来たり、玄奘を殺して突伽天神に嘉福を祈らんとせしという突伽(ズルガ)と同神異相なり。カリ兇相きわめて怖るべく、死と破壊を司り、したがって墓所の女神たり。以前は、その祭日に男子を神廟に捧げしに、夜中カリ現われてその血を吸い、これを殺せり、という。荼吉尼衆は、実にカリに随従する女魅輩にて、人の血肉を飲食す。されば密教徒が尊奉する荼尼天は、荼吉尼衆の本主、もとカリ女神と同体異相の者なるべければ、野干と多少の類縁なきにあらじ。けだし野干はヒエナとともにインドで最も普通に人屍を求め食らう獣なればな(390)り(『印度事彙』三板、二巻三九四頁参看)。さて本邦この獣を産せず。経律所見の野干|黠智《かつち》に富めること酷《はなはだ》しく狐に似たれば、すなわち狐を野干と混視して荼吉尼天の使い物、また荼吉尼衆と同体とせるならん。野干が荼吉尼衆とともにカリ女神の使者たりということ書き留めたる物、眼前にありながらその抄物多冊にてちょっと見当てえざるぞ遺憾なる。
 ついでに言う。趙末西天三蔵法賢訳『仏説瑜伽大教王経』巻五に、「また次に辟除の法は、持誦する者、※[獣偏+熏]狐〔二字傍点〕の翅を用う。上に真言および降《くだ》すところの人名を書き、浄行婆羅門の髪をもってこれに纏い、すなわち真言を持して加持し、ひそかに地中に埋む。また想う、二大明王、かしこにおいてこれを打つ、と。次に想う、吽《うん》の字、化して微小の金剛杵となり、降すところの人身に入り、変じて羯磨杵となり、大いに熾《も》ゆる焔あり、かの降す人を打ち、身分・肢節をことごとく乾き枯らしむ、と。また想う、もろもろの金剛の拏枳※[人偏+爾]〔三字傍点〕、ことごとく来たって、降すところの人の身血を※[口+妾]《すす》る、と。かくのごとく法をなせば、速やかに辟除するを得。この真言を誦するにいわく、※[口+奄]※[口+縛]日※[口+羅]拏枳※[人偏+爾]〔三字傍点〕、阿目割写※[口+羅]訖多〔三字傍点〕、阿羯哩沙野吽発※[口+托の旁]、と。この真言を誦しおわれば、法によって相応じて、かの降伏する人、速やかに身分の乾き枯れ、乃至は除滅するを得」。拏枳※[人偏+爾]の荼吉尼に同じきは言を俟たず。※[口+羅]訖多はその一名と見え、元魏婆羅門|瞿曇菩提流志《くどんぼだいるし》が訳せる『正法念処経』一六に多を※[口+托の旁]に作る。いわく、「※[口+羅]訖※[口+托の旁](魏にて血食をいう)餓鬼は、もと人たりし時、愛楽して血肉の食を貪嗜《むさぼ》る。その心は慳嫉にして、戯笑して悪をなし、殺生し血食して、妻子に施さず。かくのごとき悪人は、云々、悪道の中に堕ち、血を貪嗜る、云々。人みなこれに名づけて夜叉となし、供養奉事するに、血をもって塗漫してこれを祭祀す。すでに血を※[口+敢]いおわれば、恐怖を人に加え、しばしば祷祀することを求む。人みなこれを説《よろこ》び、もって霊神となす。かくのごとく次第して、みずから活命することを得《え》、寿命は長遠なり、云々」。上に引ける真言は、この血食鬼を役使して仇人の血を吸い、身体枯槁して死に至らしむるものなり。その作法中に※[獣偏+熏]狐翅を用うかとあるは、惟うに訓狐と同字にて梟の異名なるべし。(法賢が訳せる『金剛薩※[土+垂]説頻那夜迦天成就(391)儀軌経』三にも、童女をして他人を好まず自分をのみ愛敬せしむる法を修するに、※[獣偏+熏]狐と鳥肉を食らうことあり。)翅を用うる、とあるにてその然るを知る。狐の字あるを見て、にわかに荼吉尼に狐を係くることインドすでにありし、と断ずべからず。(八月十七日)   (大正四年十月『考古学雑誌』六巻二号)
【追加】
 J.Theodore Ben tの‘The Cyclades,’1885,p.279 にいわく、「ギリシアのセマントラは妙な発音器なり。寺ごとに大抵木製と鉄製のこの物各一を備う。甲は平削りの木片、多くは『もみじ』の木にて作り、およそ三フィート長、二インチ幅なるを堂の外に懸け、木槌もて打ち鳴らす。通例、暁に木のもののみを敲く。しかし、レント等の式日は乙すなわち鉄製の物を打つ。これは半円形の箍《たが》様にて、その音ひび目入ったる銅鐸のごとし。聞く、トルコ人この辺を制伏してキリスト教徒に鐘擣くことを禁ぜしより、セマントラ行なわるるに及べり、と」。前回引いたるべロンが十六世紀に目撃せるものと記載やや異なれど、大概同じく、そのやや異なるは十六世紀より十九世紀の間に多少の改良を経たるならん。
 野干と狐と別獣なるは、羅什訳『妙法蓮華経』二に、野干、狐、狼、※[周+鳥]《ちよう》、鷲、鴟梟《しきよう》と連ねたるにて知るべし。野干(ジャッカル)は、その相貌狼に近く、猾智狐に類せり。
 大正三年ボンベイ板行 Jackson and Enthoven,‘Gujarat Folk-lore Notes,’ch.x 妖巫術《ウイチクラフト》の一章、全くダーカンのことのみを記す。前回引いたるバルフォールの『印度事彙』その他諸事みなダキニを妖巫と訳せるを参するに、ダーカンはダキニのグジャラチ名なるは疑いを容れず。その章の梗概を抄せんにいわく、ダーカンに二種あり、人類のと鬼類のものこれなり。女子特異の日に生まるる者、人類ダーカンたり。その夫これがために死す。またその邪視に中る一切の人も物も、害を蒙らざるなし。産死また不慮の死また自殺で果てたる婦女もダーカンとなる。あるいは信ずらく、下等姓の女人死してダーカンとなる、上等姓のダーカンは稀なるものなり、と。これらの鬼類ダーカンは、美衣(392)を著、そ町掛を厳飾す。しかれども背を被わず。その背怖るべく、見る者慄死せざるはなし。鬼類ダーカンはただ婦女のみを苦しめ、これに憑かれたる婦女ほ痙攣を急発し髪を乱して訳もなく叫喚す。鬼類ダーカンは、男を夫とし、美食を齎し与うれば、その男漸次枯瘁して死するに大抵六月を出でず。また犢《こうし》をして乳呑まず、※[牛+悖の旁]《めうし》をして乳汁を生ぜず、あるいは乳の代りに血を出さしむ。ダーカンの食は人屍にして、よく天に登る。猫、水牛、山羊、その他何獣の形にもなり、意に任せてその身を大小にす。その足は反踵なり。好んで墓冢、廃池、鉱穴、荒蓼の所におり。また四辻に当たれる敗※[土+盧]《はいろ》に出ず、と。この他諸章にもダーカンのこと若干条出でたれど、今は抄せず。
 『桃源遺事』巻三に、「水戸御城下に心光寺という寺あり。この寺は万千代殿(信吉)の御菩提所なり。西山公かの寺を久慈郡向山という所へ御引かせなされ、堂塔式の通りに仰せ付けられ、法式等も御改正なられ、かつ鉦鼓は本式にあらずとて鰐口を差し置かれ、鉦鼓のごとく撞木をもって打ち鳴らし念仏を申すべき由、これ空也上人の例なりとぞ、云々」とあり。例の上人が、鰐口を両分して敲鉦とせりという伝説に拠られたるにや。(大正四年十二月二日)   (大正五年一月『考古学雑誌』六巻五号)
【追補】
 ドイツ人 A.F.L.M.Freiher von Haxthausen の‘Transcaucasia,Sketches of the Nations and Races between the Blak Sea and the Caspian,’trans.Taylor,London,1854,p.192 にいわく、ウトミシュ・アルテテム山に三百六十六谷あり。これについてアルメニア人伝えていわく、この国の一窟にむかし吸血鬼《ベムパヤール》棲み、その名をダクハナヴァール Dakhanavar という。この吸血鬼、きわめて人々がこの山の谷の数を知ることを忌み、山に入る者あれば、必ず夜中その足裏より血を吸って死に至らしむ。黠智に富める者二人、谷を数えんとて山に入るあり。日暮に及び、相謀って互いに両足を頭下に敷いて臥す。夜半に鬼来たり探るに、人体の両端に頭あって全く足なし。よって独語すらく、予かつてこの山の三百六十六谷を巡り人の血を吸い殺せしこと無数なるも、二頭あって足なき人に遇うはこれが始め(393)なり。と言い終わりて逃げ去り、爾来また見えず。これより人初めてこの山の谷の数を知れり、と。ダクハナヴァールなる名も、血を吸って人を殺すことも、荼吉尼を飲血者(アスラ・パス)と呼ぶに似たれば、このアルメニアの鬼譚はもとインドの荼吉尼(グジャラチ名ダーカン)談と同根に出ずるものか。件のハクストハウセンの書は本邦で多く読まれぬものらしきゆえ、見出ずるまま書きつけて荼吉尼天のことを調ぶる人の参考に供す。(一月二十日)   (大正六年四月『考台学雑誌』七巻八号)
 
(394)     大三輪神社に神殿なかりしということ
 
 『考古学雑誌』第六巻第五号「本邦上古の戦闘」二六八頁に、大類博士は、本邦古俗、神を森林に祀りしことを述べ、その著しき例として、大和の大三輪神社が神殿を有せざりし由を挙げらる。このことは、先年和歌山県選出代議士中村啓次郎氏の衆議院における「神社合祀」に関する演説にも述べられ、また明治四十五年三月の『扶桑』誌その他に白井光太郎博士も述べられ、信濃諏訪社また熊野地方の諸社に森すなわち神社で、別に神殿を有せざりしもの多く、Mannhardt,‘Der Baumkultus der Germanen und ihre Nachbarstamme,’1875,passim;Gubernatis,‘La Mythologgie des Plantes,’1878,tom.i,p.71 seqq.et p.272 seqq.;Dennett,‘At the Back of the Black Man's Mind,’1906,p.246;Leonard,‘The Lower Niger and its Tribes,’p.288 などに載せたる多くの諸例より推すも、本邦上世の風俗まことにかくありしものと知らる。
 ただし、大三輪神社が創立より徹頭徹尾神殿なかりしというは誤見にあらざるか。『古事記伝』巻二三、意富美和之大神前《おおみわのおおかみのみまえ》の伝の注に、「さてこの御社、今の世には御殿《みあらか》はなくして、ただ山に向かいて拝み奉るは、いかなる故にかあらん。古えは御殿ありつと見えて、すなわち『書紀』のこの御代(崇神天皇)の八年の大御歌にも『みわのとのの、あさとにも、おしびらかね、みわのとのどを』と詠み給い、「神宮《かみのみや》の門《みかど》を開きて、云々」なども見え、また『日本紀略』に、「長保二年七月十三日、二十一社に奉幣す、大神社宝殿鳴るに依ってなり、辞別あり」と見え、『童蒙抄』に、三輪明神の社に参りてこの女に逢うべき由を祈り申すほどに、その社の御戸を押し開き見えたまう、なども見えたり」(395)と宣長はいえり。(一月十日)   (大正五年二月『考古学雑誌』六巻六号)
 
(396)     鏡磨ぎに石榴を用いしこと
 
 京伝の『骨董集』上編上一六に、室町時代鏡磨ぎに石榴を用いし由言った後に、「じやくろなりけりいのちなりけり」、「かがみとぎさ夜の中山けふ越えて」と守武の句を引いて、かかれば天文のころも石榴を用いたるべしと言い、次に鏡磨ぎの古図を出し、画風をもて考うるに貞享・元禄の初めごろ画きたらんと見ゆれど、元禄三年板『人倫訓蒙図彙』に、鏡磨ぎには錫かねのしゃりと言うに水銀を合わせて砥の粉《こ》を雑え梅酢にてとぐなりとあれば、当時は石榴は用いざるべし、古画に基づきて画けるにや、とある。
 その図はやはり水銀と錫の合わせ物を用い、梅酢の代りに石榴汁を使うところ、と見ゆ。按ずるに、『犬子集』(寛永十年成る)九、重頼の句に、「秋は柘榴の実を好む人」、「月ほどな鏡のくもりときはらひ」、同一〇、貞徳の句に、「鏡によきは白みなりけり」、「ひともじにまぜて出だせるここり鮒」とあれば、寛永年中も白み(錫・汞《こう》の合金)を用い、同時に梅酢でなくて石榴汁を用いたらしい。(四月九日)   (大正五年六月『考古学雑誌』六巻一〇号)
 
(397)     釘ぬきについて
 
 過ぐる大正四年三月二十五日、白井光太郎博士紀州田辺へ来訪されし際、余の羽織の家紋、丸に釘貫なるを見て、奇遇もあるものなり、自分の家紋これに同じと拙妻に語られし由、後日聞き及び、博士へ書信のついでにこの紋について述べたる大要は、『続群書類従』一二五所収「小笠原三家系図」に、三好氏家紋釘貫、同一二六所収「三好系図」に、小笠原阿波守長隆の時、阿波の住人、江と号くる侍、数年来宮方にて足利氏に降らず、長隆等の力に及ばざりしかば、当時無双の勇将小笠原信濃守義長を京より招下して畏隆聟とし宮方をことごとく退治す、しかるに敵人江の亡霊残りて人民を罰せしより、義長これを一社に祀り崇め、千部経を供養し弔い、江の家紋釘貫をわが家の幕紋としたので亡霊静まる、義長阿波国三好郡に住し、在名を三好と号く、とあり。同一二四所収「小笠原系図」には、三好の家紋松皮釘貫、同一二五所収「小笠原系図」に、「家伝に言う、むかし神功皇后、三韓を平らぐる時、王の字をもって旗の紋となす。今の松皮はこれなり。康平年中、源頼義に勅して、安部貞任、同致任を誅せしむる時、年月を送っていまだ平らぐるあたわず。ここにおいて、新羅三郎義光、勅を奉じて発向するの時、帝、松皮の旗を義光に賜う、云々。義光より相伝えられて、相模守長清に至る。故に松皮をもって小笠原の家紋となす」とあって、從前小笠原氏の家紋松皮なりしに、義長阿波に下って江氏を滅ぼし、その釘貫紋を松皮に合わせて松皮釘貫を紋とし、また時として釘貫ばかりをも紋とし用いしと見ゆ。
 元禄十四、巣林子作『曽俄五人兄弟』二、小袖叔尽しの発端に、「釘貫、松皮、木むらごう、この木むらごうと申(398)すは三浦の平六兵衝義村の紋なり」。正徳四、紀海音作『曽我姿富士』三、祐信、狩場の幕の紋を時宗に告ぐ、「立て続けたる小屋作り、手は尽さねどそれぞれに、主《あるじ》の心白壁の、高塀板塀、忍び返しの釘貫(『考古学雑誌』一〇巻五号、黒川君の論説二五二頁末行参照)、松皮、木むらごう、この木村ごうと申すは三浦平六兵衛義村の紋なり」。
 これら何か古い紋尽しの文をそのまま踏襲したので、その一番に釘貫、松皮を挙げたるは、三好氏執権として威を振いし日の作たる証か。惟うに三好氏の盛時、その家に旧縁ある者やその下風に立つを好みし者に、その家紋松皮釘貫の一部分たる釘貫を割き与えて好意殊遇を示せしことあるべし。関白秀次初め長慶の叔父康長の養嗣として三好氏を称せしと言えば、定めて釘貫を紋とし用いたるべく、その重臣白井備後守範秀は、『古今武家盛衰記』四に、秀次の乳父にて三好譜代の士なり、一万三千石を領せしが秀次関白職を継ぐ時六万石となるとあれど、『若狭郡県志』三や山県本『武田系図』より推せば、秀次と同時に亡びし熊谷直澄の父祖とともに、もと若狭の武田氏の被官たりし白井民部丞の子が一類らしく思わるれば、福井県人たる白井博士の釘貫の家紋は初めこれを三好氏より受けたるにあらざるか。
 また『続群書類従』一二四の「小笠原系図」に、小笠原氏の門葉家老の名を列せる内に、東方、西方、南方、北方の四氏あり(近ごろ平瀬麦雨氏来示に、今も松本市付近に南方、北方という地あり。ことに南方は小笠原氏旧城地の山麓にあり、と)。紀伊の南方輩が釘貫を家紋とするは、何か小笠原より分かれたる三好氏に因縁すと想わる。『紀伊続風土記』一八、名草郡三葛村に南方という字は、もと御名方神を祀りしが、他へその社を移してのち若宮八幡宮を氏神とす。この字に南方氏はなはだ多し。諏訪明神を、氏神とせるは信州に縁ありしごとし。
 さてこの釘貫の紋ということ、『和漢三才図会』に二種の釘抜を出だせる、その第一種、「俗に万力という」とあるに象って画きしなり。弘安中の作『沙石集』二巻八章に、「念仏は他力と言いながら、自力もあり。されば二力なり。真言は『以我功徳力、如来加持力、乃以法界力』とて、三力なり。これを譬えば釘抜のさおは如来の加持力、座は法界力、わが手は以我功徳力なり。釘抜の寄り合いて大きなる釘をも易く抜くがごとし。中略。これ古き人の譬えに聞(399)かずといえども、私《わたくし》に思いより侍り」と筆せるを見れば、『和漢三才図会』の成りしより四百三十年ほどの昔、鎌倉幕府の世すでに万力種の釘抜が用いられたるを知るべし、と。(已上、白井博士への文意記憶のまま。「ただし書名、巻数等は一々調べて記す。)
 『考古学雑誌』一〇巻五号二四二頁に、黒川君は、『※[土+蓋]嚢抄』を引いて、釘抜なる造作具は足利時代用い初められたるよう述べられしも、実はその以前、北条時宗執権の世すでに用いられおりしなり。わが邦に古く釘を抜く具ありしことは『嬉遊笑覧』一上に出ずるを、白井博士へ上述の書信を出してのち見出だせり。その文、一向黒川氏の論説に引かれざるゆえ、念のためここに引かんにいわく、モジ、『和名抄』、『考声切韻』を引いて※[金+戻]鑽なり、『漢語抄』に毛遅とあり。『新猿楽記』に、大工の容顔を言うところ、「臂は曲尺、肩は※[金+戻]柄、足は鉄鎚」など言えり。諸家これをつまびらかならず。思うにこの器鉄にて作り戻る物なれば、俗に※[金+戻]字を当て用いなれたるを、字書によりて註したるより分からぬこととなりぬるか。これ、おそらくは今いう釘抜にや。木の道にも何にも必用の具なるを、これなくばあらじ。
  熊楠按ずるに、『和漢三才図会』二四には、※[金+戻]にモジリと仮名ふり、「按ずるに、※[金+戻]は大なる鑽《きり》なり。柄は頭に横たわりて、丁字樣のごとし。まず三稜の錐をもってし、次にこれを敲き入れ、柄をもって※[糸+軫の旁]捩《もじ》る。南蛮※[金+戻]は、捻《ねじ》ること真※[米+羔]餅《しんこうもち》の形のごとく、功は常に倍す」と載せ、二図を出だすを見るに、英語で pod auger および screw auger と呼ぶ栓抜き状の鑽らし。別に、捕り物に用うるモジリ(『和三』二一に『三才図会』の狼牙棒に充つ)をも※[金+戻]と書くことあり(『民俗』第一年第一報、志田君の「弁慶の七つ道具」)。『新選類聚往来』上、番匠鍛冶具に※[金+亥]字をモジりと訓せるは何物か知れず。『康煕字典』に音開、器名となり。釘抜は戻《ねじ》る物ゆえ鋲※[金+戻]書きしならんという『笑覧』の説は、黒川君の釘を喰い〆て抜き取るゆえ釘抜をまた釘〆と名づく、との説に類す。抜き取る時に限らず、押し込むにも、曲れるを直すにも、釘を喰いしめるゆえ、釘抜を英語で pinchers(喰い〆る物)と名づく。(400)『後三年合戦絵詞』に、将軍義家、兵に命じて千任が舌を抜かしむるところに、かなばしにて引き出すとあり。およそ箸というは一条《ひとすじ》なるを折り曲げて両の端相対いたるが本義なり。されど、その図をみるに今の釘抜に同じ。今金物の匠は、唐剪刀のごとき物をキリバシと言えり。カナバシに似たる剪刀《はさみ》なれば然言うか。『沙石集』巻二、真言の法をいうところ、これを譬えば釘抜のさおは如来の加持力、坐は法界力、わが手は以我功徳力なり、釘抜の寄り合いて大なる釘を易く抜くがごとし。重障|除《のぞ》こることおのずから知られ侍りがたし。(紋にある釘抜とても、その器の両端の向かい合いたるに似たればなり。関戸などの釘貫はその義にあらず。上に見ゆ。)(以上『笑覧』の文)
 黒川君は何故かさらにこの『沙石集』の文を引かず。『笑覧』の著者喜多村氏はこれを引きながら、『和漢三才図会』に釘抜を二種図記せるを参酌せず。古来本邦の釘抜は、『和三』に謂うところの、「一種、形は鋏のごとくにして肥《ふと》く、その頭|円《まる》く、もって旧釘《ふるくぎ》を挟みてこれを抜く」ものに限れるよう心得て、釘抜紋をその両端向かい合いたるに似たる故の名と断ぜるは遺憾なり。『沙石集』述ぶるところの釘抜のさおは梃《てこ》、坐は『和三』に謂うところの、「方寸半ばかりの鉄器、随って穴を透す」、俗に言う座金を指せば、その釘抜は『和三』の「俗に万力というもの」たるや疑いを容れず。もしそれが今日普通なる「鋏のごとくにして肥く、その頭円く、もって挟みて旧釘を抜く」ものを指したるならんには、サオと言わずに手とか足とか言いたるべく、動いて用をなす頭(俗称クイキリ)を動かずして役に立つ坐と唱うべき道理なし。
 予は万力という釘抜を見しことなし。ただし、亡父は維新前より明治十四年まで和歌山市で金物商を営みたれば、維新前後おびただしく名も出処も知れぬ雑多の金属具を扱うたる残り物で、年久しく店頭常用の煙草盆の引出しにありたる方寸半ばかりの鉄器、『和漢三才図会』の図そのままなるがありし。幼時のこととて記憶定かならねど、国の家老の邸の表門に打ち付けありし乳房状の金属製飾具の底に潜在せし座金と聞きしと記憶す。兄なる者、毎度この座金を旧釘にかぶせ鑢《やすり》また鉛の小棒を梃として、『和三』所記同様に抜き出すを楽しみとし、鑢を損じ鉛を曲げおわると(401)てその都度父母に叱られしをたしかに覚えおり、十三歳で始めて『和三』の千斤の条を見し時、即座に万力の何物たるを解せり。爾来別段万力という器具を睹ざるも、物理学の初歩をも読みし身の、釘に相応した座金と梃さえあらばその釘は抜かれうると呑み込み、したがってむかしは特に万力なる釘抜具ありしことと『和三』の図説を信じおりしに、黒川君が万力の図説を寺島氏の仮想に過ぎずと説かれしと聞き、『和三』の図説を疑うに及べり。これより前、昨年五月末日平瀬作五郎氏来訪されし際、この人も福井県人なるが白井博士と等しく、余の家紋釘貫なるを見て、自分も同紋なるは奇遇と言われ、この紋は万力という釘抜の画なりと語られたることあり。よって書を飛ばして委細を問いしに、釘貫紋は万力に象るとは氏の先君の話にて、自分は万力という具を見しことなしと答えられ、予大いに失望せり。これに屈せず、万力の存否を諸方の知人へ書面で問い合わせ、自身も尋ね歩くうち、田辺町の車力の棟梁三谷福松氏(六十五歳ばかり)蔵に万力類似の物ありと聞き、借り来たって写せる図をここに出す(第一図)。
 この器、方言コゼヌキ、釘をコジ揚げて抜くの義、長さ二尺一寸の方柱形の鉄梃の頭尾に鋼を装えるものにて、幅も厚さも平均七分ながら、尾を急に三絃の撥様に広く薄くして柱等をコジ起こすに便にす。その頭部は全長のおよそ十分一を占め、前端に近づくほど、微少ながらようやくその幅を増し、著しくその厚さを増す。頭部は桿とすぐに続かず、やや傾斜せる状、三絃の海老尾に似たり。さて頭部の後端近き両側に堅固の鉄鋲もて長持の鐶のごとき鋼の鐶を留む。この鐶自在に前後に廻り動けど、梃の頭部の前端に近き両側やや膨れあるに妨げられて、一定の姿勢(第一図ロ)を踰えて梃頭を廻り下るあたわず。けだし、この姿勢にあっては鐶頭の上縁が梃頭の上面とほとんど一平面に見え、鐶脚の上縁が梃頭の上面と八度ほどの角度を構え、梃頭の前端と鐶頭の間に幅三、四厘の透き間を生ず(第一図イ)。鐶が後に(402)向かって廻るほど、この透き間が大きくなるは言を俟たず(第一図ハ)。釘をしてこの透き間に入れしめ、梃頭の前端を釘に当つれば、鐶廻り下って梃端と力を戮せ、釘を〆つけ緊持して滑り動かせず。その時梃をコジ揚ぐれば、いかな釘もたやすく抜かる。大釘はこれでなければ抜けず、はなはだ重宝なる物なり。
 三谷氏所蔵の品は、明治九年鍛工に作らしめたと語らる。今でさえ不便きわまる田辺にそのころ外国より伝うるはずもなく、その上山本幸次郎とて実体なる六十三歳の左官頭領の話に、七、八歳の時すでにこの器を見たりといい、また最近拙妻の麁縁ある東牟婁郡請川村の旧家須川氏(むかし饑饉年に窮民に業を与えんため八棟造りの大厦を建て、棟上げの節、山茶の木で作りし槌を天井へ忘れ置きしに毎夜化けし。その大厦の煙突に盗賊三人年久しく住みしなど珍談多き家なり。この家の支流に須川徳卿ありし世に希なる算学者で、かつて川を航する船を算盤で置き留めたという)に、維新前よりこの器を蔵するを誰も彼もその何物たるを知らずありし由、確かに聞きたれば、このコゼヌキは必ず本邦在来の物なるべく、全く鎌倉時代すでに行なわれたる万力の座と梃とを結合して邦人が作り出だせるに外ならじ。このこと東洋にも自生せる器械の進化灼然たるものありし好例として、ピット・リヴァース将軍に告げましものをと思えど、物故してはや二十年なるを如何せん。
 以上書き終わりて発送せんとするうち、破傷風に罹り臥蓐半月に渉る。そのあいだ知己の二君、余が万力の存否の問いに対えて委細の通信を送られたり。本題に関し、すこぶる重要と認め要分を左に出す。
 (長野県松本市住、平瀬麦雨氏書翰)当市女子師範学校付属小学校の教員にして、鳶職の研究をなしおる小池直太郎氏に問い合わせ候ところ、川中島地方の仕事師の間に、今も大形の※[図省略]が用いられおる由にて、梃の方は使用に際し、角が擦れてしまう故、時々鍛冶屋に焼き入れしむる由に候。橋などに用いたる大形の「※[図省略]かくのごとき釘は、この器の外に抜くことあたわずとせられておる由に候。マンリキとは申さずとのことに候。拙妻申すは、万力(403)は祖父の代より持ち伝えたる木工の小道具箱中にあって、幼時の心覚え形態は明瞭ならざれど、※[図省略]かくのごとく鉄棒の下方に円盤のごとき鉄が付きおり、釘などをコジル場合に上の棒を廻しおるところを見たりと申し候。今から二十年くらい前のことと存じ候。当地にては茎莱を漬けるに圧《お》しをする時、図のごとき(第二図)ことをするを万力を掛くると申す処もあれど、通常は万力と言えば滑車のことに候。
 熊構いわく、万力とは、『和漢三才図会』に言える通り、強剛の義に取りし名なるべし。「奥州石河系図」に、義家五男義時、その次子義資、二条院判官兵衝尉万力祖、とあれば万力という名も古し。ただし、何に基づきし家名なるを知らず。竹田出雲等作『小野道風青柳硯』四(宝暦四年)に、「釣り上げた額の綱しっかりと留めておこ、オッと合点と人夫ども、綱しっかり万力へ、笠木へ掛けたこの綱を、下へ取ってこう留めたれば、落つる気遣い微塵もない」。その続きに、道風の妻謀って悪人を殺すところに、「たわけのあるだけ万力の、綱をずっかり奥霜が、切って落とせし鉄の額、東門極楽引き替えて地獄落としに息絶えたり」。この万力は釘抜ならず、滑車の大なる物と平瀬氏の状読みて始めて知れり。
(平瀬氏宛て、長野県松本市清水町、木彫職、清水湧見氏状)小生知人の大工に尋ね候ところ、ご質問のごとき釘抜有之。現に数年前まで使用致し候由。名前はただ釘抜とのみ申し候。使用法はかくのごとく(第三図)してコジル時はいかなる長大の物をも抜きうるのみならず、全くこれによらざれば抜くあたわざるものもある由に御座候。
(青森県三戸郡小中野浦、中道等氏熊楠宛て書翰概要)『和漢三才図会』の万力は、拙宅に旧蔵し形状を熟知せり。昔流の釘を抜くに究竟の具とて諸方よりも借用されしが、近年西洋釘の丸頭盛行して自然この器無沙汰となり、この五、六年間三度転宅に紛れ見失えり。仙台市出生加藤兵五郎という故人に貰いし物で、維(404)新前どころでなく、徳川中世ごろに求めしと見ゆ。第四図のごとく、鉄製の座は毎辺長さ二寸の正方形、毎辺幅四分、厚さ八分、内径一寸二分ばかり、梃の長さ一尺五寸ほど、幅厚さとも一寸二分ぐらい、ほぼ正方柱なるが、(イ)なる前端をやや薄手に、必ず方形ながら桿より狭く作り、これも鉄製、ただし裏面と(イ)の端表裏とも一分五厘ばかりは鋼を被う。桿の表の四穴大に、これに通ぜる裏の穴は小さきこと煙管の羅宇《ラオ》殺し(一名羅宇痛め)の穴のごとし。大穴の径、今時普通の煙管雁首の点火穴ほどにて、小穴の径はその半分ほどと記憶す。
 第五図(イ)のごとく、梃の裏面の小穴を釘尻の尖端に嵌め、裏面(虚線もて示すごとくこの際大穴は見えず)を鉄槌で叩けば、釘尖確かに小穴に入るためいささかの屈曲なしに釘頭が板の上に抜け出ず。その時梃の表面の大穴を釘頭の曲り角にちょっと引っ掛け、桿を左右にくねり揺《うご》かす。釘大にして小穴に入らずば、大穴に嵌めて叩き上げる。かくて抜け始めたる釘の頭へ無雑作に座を冠らせ、梃の前端を(ロ)のごとく座中の釘根を目指して斜めに挿し込み、カチリと合うほど落とし入る。その体を上より見れば(ハ)に示すごとし。さて梃の尾の辺を持ち、座の甲部を力点として押えたるままウンとコジ上ぐれば、乙部の座端が甲部に集中せる力に負けて浮き足になること、(ニ)に示すごとし(事実は釘根に接せる梃の前端はこの図よりはるかに板面に近し)。かくて座の乙側が釘を座の内方に向かって強く圧し挟めんとする刹那、座と釘と梃との三者おのおの力を緩めずんば、その関係非常に緊張して分厘の隙なく、やむをえず釘根が梃の前端の圧力に迫られ、逃路を求めてやすやすと抜け出ずるの外なし。その釘細く短くば一度座を掛けたるばかりで容易に扱け出(405)ずれど、もし木板堅緻にして釘太く長ければ、一度掛けたるままでは楽に抜けず、グイと出でながらまだ残る。その時は梃を緩めて上に拳ぐれば、座はカラリと浮き足を止めて無雑作に板と水平をなし、旧位に復《もど》る。ところを再び梃端を釘根に当て支え、家の土台に梃を掛け動かす体に、力を入れて梃を座の一端に下ろせば釘は再びグイと出ず。かく手疾く三、四回も行なえば、いかな難物の釘もいと面白く抜きうべし。この器を当地方で釘抜また万力と呼ぶこと『和漢三才図会』所説の通りなれど、万力と称うる方よく通ず。その桿方柱ならず円柱形なるものありし。方柱形で表裏に大小穴四つずつあるを、穴なきものと別つため、特に八ツ目と唱えしと記憶す。釘は方形なるに、この穴は円きが常なりしも(熊楠いわく、『考古学雑誌』一〇巻六号、板津君の反抜板の穴方形なるに反す)、別段差し閊えざりしと記憶す。
 また『和漢三才図会』図《か》くところ、座に嵌むべき梃の前端が不動尊の剣刃状をなせば、※[図省略]座に嵌めたる三角尖の両側に両隙間を生ずる、その一つに釘を挟み抜きしと見ゆ。沼田氏もかかる物を製作したるならん。しかし、座の力点部より推せば、両隙間にて二本の釘を一度に抜く場合の外は、大分力を冗費すべし。小生試用せし万力は(第五図(ハ))梃の前端方形で、座の一内側に接して一小隙のみを構成せり。前書、万力梃の前端必ず方形なるを須つごとく述べしも、いかに鋼を被せ摩損を防ぐも何百回となく使用せば方形ようやく耗殺され、はなはだしきは釘が恰好に入り留まるばかりに矢筈形をなすに及ぶあり(第六図)。これかえって細釘をイキナリ挟むに宜しとて、直さずに使いしを見しことあり。二月十九日、一つ穴ある長一尺の万力の梃のみ発見せり。その座を失いし後はただこの一つ穴もて釘を動かしたるにや。叩きし半面がはなはだしく潰れまくれおれり。同二十一日、盛岡市に出で古金物店数軒を捜せしに、その二、三はツイ四、五日前まで店頭にありしを、在方の輩、釘抜はこれに限るとて買い去りし、と申す。試みに知らぬ振りして、二十九歳ばかりの店主男と三十四、五の店主婦に、その形と用法を問いしに、答うるところ異口同音に小生知るところに符合す。もって今も南部地方奥在にこれを用いおるを知るべし。何(406)とか一対を手に入れ、捉影して進上せんと捜索中なり。
 当地方で目今船大工等が万力と称え使用するは、一段と進歩工夫したるものにて、御来示のコゼヌキと酷似す(第七図)。小生取り寄せてここに写し出すものは、桿の長さ二寸八分(鯨尺)、重量一貫四百六十匁あり(熊楠いわく、これコゼヌキに外ならず。ただし、尾尖も釘抜用をなすと見え、狭き三角形の切込みあるが紀州のものに異なり)。前述古態の万力の座はカラリカラリと桿を離るる心配あれど、この万力は枠の両端が鋲止め故、一々手にて直す必要なく、至って便利ながら雅趣は遠く及ばず。この万力の使用も、前頭の空隙へ船釘を挟み、桿を下へ押えるように揚ぐるその理は一なり。船釘は潮水のため太く錆び付きおれば、これならでは抜きえず。(以上、中道氏書翰概要)
  熊楠いわく、紀州でコゼヌキを用いるに、釘が木に深入してこの器の掛り処なき時は、釘を尖端より鉄槌で叩き上げ、またなるべく釘をまっすぐに抜き出さんとせば釘戻しを用いたり。これは、板津君の反抜板と同功一体の物で、長《たけ》八寸、幅八分、厚さ四分ほどの圧尺《けさん》また竿様の鉄製器、前部は四角、後部の柄らしきところはやや円みを帯ぶ。前部の表裏に鋼を被せ、相対し相通ぜる大小の穴各四、五ある体、中道君所説万力の桿に異ならず。その穴に釘を突き入れ、槌で敲き上ぐるも同様なり。さて釘頭かなり出でたる後コゼヌキでコジ抜きたるなり。
 結論『考古学雑誌』一〇巻六号板津君の一文と右に出だせる三氏の報知を見れば、『和漢三才図会』に万力と称せる釘抜が、たといその図といささか差《たが》うとも大体において一致して、近年まで信濃、陸中等に行なわれ、現今といえども全く跡を絶たざるを知る。故に沼田君が、万力の図説は決して寺島氏の虚構にあらず、何の地にかその器現存す(407)べし、との推断は中れり。この万力は足利時代初めて用いられしにあらず、鎌倉時代の世すでにこれありしを『沙石集』が立証す。後世(維新前)、邦人万力の梃と座を結合して便利優等のコゼヌキを作れり。別に万力の外に、その功を助くる釘戻しまた反抜板あり来たりしを、後世合わせ攷えて、万力の梃に釘戻し穴を加えたるが今も盛岡地方に残存する万力なり。
(追記)
 釘貫を忍び返しと解せし例、黒川君が引かれし『嬉遊笑覧』、『故事要訣』の外、上に引ける戯曲『曽我姿富士』に忍び返しの釘貫と出ず。
 黒川君は引かねど、『嬉遊笑覧』一上、貫の木の条に、「『一代女』という双子に、江戸すきや橋の辺を言うに釘貫の木陰とあり。天和・貞享ごろまでは街の木戸の囲いをかく言えりと見ゆ」と見ゆ。『塵添※[土+蓋]嚢抄』五の三四を見れば、町々の木戸を釘貫と言いしようなれど、詳言せば木戸自身でなく、その囲いを言いたるものか。宝永三年門左作『曽我扇八景』中巻、「ヤアがいに生温っこい番太めと、奴が潜る大門の釘貫、松皮、木村郷、三浦の平六兵衝が迎いなりと、いかつに踏み込む奴が臑《すね》」。これも大門の側に続ける、間の明きたる柵の囲いを潜り入る意なるべし。この釘貫のヌキはツラヌクまたサスの義か。カンヌキ(鐶貫)、指ヌキ(門左の『門出八島』発端およぴ『薩摩歌』中巻、婦女の指サシと見ゆ)、繩ヌキ(繩をさし結ぶ皮履)、踏ミヌキ(足底に立てる刺)等、同例なり。享保四年門左作『平家女護島』一に、悪僧南大門の貫の木日向釘貫周防とあるは何か所拠《よりどころ》あるにや。多分近松の手製なるべし。
 釘貰紋を用いし、最も高名な人の随一は福島正則なり。『塩尻』巻九五に出ず。辱知上松蓊氏説に、氏の家紋熊楠と同じく丸に釘抜なり、木曽に上松という地あり、その辺より出でしやらんと考えおったるに、五年前、義仲の裔木曽源太郎氏より知りえしは、義仲七代の孫上松氏の始祖たり(熊楠、「木曽系図」を按ずるに、義仲十三代の孫家信、上松氏元祖なり)。徳川幕府の世、木曽七人衆のうち三人までその禄を食む。金杉、芝薗二橋の間に将監橋あり。七人衆の一(408)人、改姓して小笠原将監と名乗りしが、その辺今の逓信官吏養成所の処に住んで三千石を食し、この家も丸に釘抜を紋とせり、と。『続群書類従』一二四の「小笠原系図」、小笠原氏の門葉家老を列せる内に南方氏あるは上に言えり。しかしてまた木曽氏あり。『木曽路名所図会』三に、木曽の分家千村政知、小笠原貞慶に通じて食邑を没すと記し、千村の始祖の兄より出でたる馬場氏は釘貫を紋とす(黒川氏論文二五八頁)。推考するに、阿波に入りたる小笠原の支流が始めて釘貫を紋とせりと言えど、その前より信濃の小笠原家が多少釘貫を紋用せしか、もしくは三好氏の盛時一家の好みによりてその釘貫紋を受け用いしかで、木曽氏衰えてその支族小笠原に降り、その氏を冒しその釘貫紋を受け用いし者少なからざりしならん。
 中道氏通信に、斗南藩のある人、第八図のごとき紋付けたる羽織|著《き》たるを尋ねしに釘抜と一つ巴と答えぬとなり。余に取って未曽有の物なれば記しおく。(大正九年三月十一日稿成)   (大正九年四月『考古学雑誌』一〇巻八号)
 
  本篇は『考古学雑誌』に掲載されしも、その号を一部も考古学会より送りくれず。本誌(『考古学雑誌』)上にて学会外の者が学会員の説を駁する文を載するは不都合なりとて、爾来熊楠に一切雑誌をくれず(それまでは投書を乞うとて、一篇一号以来数年間断なく贈られたるなり)。自分の文が掲載されながら自分の手に入らぬこととなり、やむをえず沼田頼輔氏に頼み数本を手に入れ、予に材料を給せられたる人々に頒てり。学会の所行としては未曽有の仕方卑劣きわまることと今に苦笑しおる。(大正十五年九月十六日記)
 
(409)     屍愛について
 
 大正十四年二月の『変態性慾』九〇頁に、「江戸時代の文献に見えたる屍愛と殺人淫楽」の一篇がある。屍愛の例としてただ一つ『雨月物語』にある、一僧が美童を寵愛のあまり、その死屍に戯れ、ついにはその肉を食い尽した話を挙げてある。これは同性間の屍愛であるだけ事すこぶる異常をきわめておるが、異性間の屍愛を一例も挙げられなんだは残り多い。ただし、異性間の屍愛も江戸時代の文献にないではない。
 例せば宝永四年板『千尋日本織《ちひろやまとおり》』二の四に、「下総の本庄という所は、隠逸の人、道心、比丘尼なんどの余多住む処なり。六時不断の鉦の青いと殊勝に聞こゆる中にも勤め怠らず、朝に鉢を開き夕に戸ざすより行きかう人もなく出ずることもまれなる道心あり。賤しからぬ生れつきながら、鼻落ちて念仏の声のそれと知らるるおかしさなりし。ある時、そのほとりに隠れまします智識の許に参りて懺悔しけるに、われ俗にて候う時は小身の武家に勤め侍りし。主人の娘優れて美わしく、十五歳のころより痛《いた》わること侍りて縁にも付かず、両親いと惜しみ深くもてなしたまう。われ勤めといいながら、少し所縁なる者なれば内外許され行き通うに、かの娘いつとなくわれらに心をよせ、埋み火の下に焦がるるなど、ほこりかに聞かせ、文を袂に投げ入れなんどせしかど、当時主人と仰ぐ上、人目のほど恐ろしく、よそごとに打ち紛らかし過ごしぬ。とかく月日重なり病気重く、薬の業《わざ》も叶わず、祈る験《しるし》もなくて、惜しきは十七の秋の霜と消えぬ。たらちねの欺き申すに言葉も続かず、恋い慕うよそ人はともに死なんとのみ歎きあえり。ようやく人々を勇め、野辺の送りも明日と定まり、今宵ばかりの名残だに物言いかわすことなく、誰彼と集いしもみな泣き寝(410)入りて夜も更けぬ。されば、わが思いの切なるもこれまでぞと、なおも死人の一間に入りて明くるを待ちて守りいたりしが、さすがこの世の別れ、またあるまじき面影のせめて変われるを見て思い切らばやと、薄衣を引きのけて伺うに、顔|貌《かたち》世に美わしく生まるる時に変わらず。所々の温まりいまだありていよいよ思いを増《つの》りて、この時わりなき一念起こり、空しき人に肌をふれて世にもまれなる契りをぞ結びし。われながら浅ましく恥かしきありさまなり。明くれば野辺に送り、秋夕妙月と聞きて驚くなき名のみ残り、人々の歎きもわれ一人の心に忘れもやらず、ふらりふらりと病み出せしが、死人の肌をさわり息冷の気を受けけるゆえにや、総身崩れ鼻落ちて、見苦しくなりゆきぬ、云々」。かく懺悔した上、その娘の幽霊毎夜来ると告げたので、上人機智を運らし、これを退散、杜絶せしめた次第を載せておる。
 予の現住紀州田辺町のある人に聞いたは、黴毒はもと屍犯より起こった、屍は冷え切った物ゆえ黴毒をひえと呼ぶ、と。シャレだろうと思いおったが、本文を見れば宝永のころすでにそんな説が行なわれたのだ。明治十八年ごろ、小石川の墓地で屍と会えば黴毒が癒ると信じ、掘り出すところを寺僧に捉えられた者があったのも、病毒を本へ還納するという本意に出たものか。
 『元亨釈書』一六に、釈寂昭、俗名大江定基、官に仕えて参州の刺史に至り、たまたま配を失う。愛の厚きをもって喪を緩《ゆる》うす。よって九相を観て深く厭離を生じ出家した、と述ぶ。九相は人死んで九たび変形するので、『仏教大辞彙』巻一の八四四−五頁に図を示し、詳説してある。愛の厚きをもって喪を緩うすとは屍愛だ。『宇治拾遺』四には、「その女久しく煩いてよかりける形も衰えて失せにけるを、悲しさのあまりにとかくもせで、夜も昼も語らい臥して口を吸いたりけるに、浅ましき香の口より出で来たりけるにぞ、疎む心出で来て泣く泣く葬りてける」と載っている。これに似たインドの例は、明治四十五年七月に『此花』凋落号五一頁に出た予の「奇異の神罰」に引いておいた通り、『観仏三昧海経』七にある。妙意という婬女を化度せんとて、世尊が美童を化成し、婬女これと歓会すると十二日立た(411)ねば離れぬから、婬女も飽き果てて死んでしまえという。そこで美童自殺してその屍が七たび変化するも一向離れず。婬女慚愧して救いを乞い、仏の神力で助かったそうだ。これと反対に『仏説如来不思議秘密大乗経』二には、菩薩が美女と現じて男子の思いを晴らせやり、さてたちまち瘠せ死に、根門敗壊、臭穢不浄なるを見て男子逃げ去る時、その死女の身から自然に声を出し、法要を説いてかの男子を発心せしむ、とあり。この方が定基出家の話に一層起源をなしたらしい。『源平盛衰記』や『遊女五十人一首』には、定基の愛した女を赤坂の遊君力寿とし、『三河雀』七には、ある僧、参州本根の原で力寿の霊に逢うた時、かの女は「命終近づきし時に、君(定基)名残を惜しみつつ、目をすい口をすいて舌を吸い出だしたまう。この愛念に輪廻してついに惑いの種となり、かかる苦しみ見たまえとて、さも美しき丹花の唇より一丈あまりの紅の舌をフッと吹き出だし、噫悲しやと倒れ」、ついに消え失せたので、その僧文殊山舌根寺という寺を立て弔うた、と記している。
 また『源氏物語』に、光源氏みずから藤壺を烝《じよう》した覚えあれば、夕霧がその真似をして紫の上を烝せんと用心して、紫の上に近づかしめず。しかるに、秋風|暴《あら》く吹く混雑のおり夕霧初めて紫の上を見て、親とも覚えず、終夜その面影を念じて眠らず。のち紫の上死するに及び、野分のおり見初めた面影忘れられず、屍骸でも今一度見んと几帳の帷子を引き揚げて見ると、燈のいとあかきに御色はいと白く光るように臥して、とかく打ち紛らすことありし生前の粧いよりも、何心なく打ち伏したまえる死姿の方が一層よかった、とある。これも屍愛が外に発露せなんだもので、ややローマ帝ネロが生母アグリッピナの屍の美をほめたと似ておる。また明治八年ごろ、どこかの男がかねて恋しておった女が死んだので、せめてその屍に逢わんと掘り出すと蘇生したので、女の両親許して婚姻せしめた例があった。
 支那で著しい例は、『淵鑑類函』三一四に、范曄の『後漢書』に、「赤眉は諸陵を発掘し、宝貨を取り、呂后を汚辱す。およそ玉匣《ぎよつこう》のある者は、みな生けるがごとし。故に赤眉は多く淫穢を行なう」。呂后は夫高祖の在世すでに色衰えて寵を戚天人に奪われ、七十一歳で崩じたと言えば、赤眉の嫉も大分物好きだ。また『列異伝』を引いて、漢の桓(412)帝の馮夫人、歿後七十余年に賊ありてその冢《つか》を発くと、「顔色は故のごとし。ただし、少しく冷えたり。共にこれに姦通し、闘争して相殺すに至る」。のち竇氏誅せられて、竇太后の代りに馮夫人を桓帝に配せんとした時、陳公達という者、馮夫人は先帝の寵姫だったが、屍骸が公園の便所のごとく多人に汚された上は、天子に配食すべからずと抗議したので、おじゃんとなり、依然竇太后を据えおいた、とある。降って清の蒲留仙の『聊斎志異』一四に、二八の処女商三官が、犬坂毛野同様に、宴席果てたあとで父の仇を討つ話あり。この女※[女+交]童の装いして、仇の枕席に侍し、これを殺し自分も縊死する。仇の僕ども駆けつけてその屍を験するに、女と知れたので二僕留まってこれを守るに、その貌玉のごとく肢体温軟、二人謀って辱を加えんとして、まず近づいた一人卒死したので、一同大いに驚き神のごとく敬った、とある。
 仏典には『四分律蔵』一に、「もし死屍の半ば壊れたるに不浄を行ないて入るれば、すなわち偸蘭遮《とうらんじや》なり。もし多分に壊れ、また一切壊れたるも、偸蘭遮なり。もし骨肉にて不浄を行なえば、偸蘭遮なり」、巻五五に、「その時、比丘は塚《はか》のあいだにあって行くに、遙かに、死せる女人の、身になお衣服の荘厳なるを見る。すなわち婬を行ない、おわって疑う。仏いわく、汝は波逸提《はいつだい》なり、と」。『十誦律』一に、難提比丘、林下に正坐するを魔神がこれを破戒せしめんとて美女と化け、前に立った。比丘これを見て禅定退失し、「女身を摩《ま》せんと欲するに、女人すなわち却《しりぞ》き、漸々として遠く去る。すなわち起って随いて逐い、女身を捉えんと欲す。時に、かの林中に一の死馬あり。女、馬の所に到れば、すなわち身を隠して現われず。この比丘、婬欲の身を焼くゆえに、すなわち死馬と婬を行なう。すでに婬を行ないておわれば、欲熱少しく止む」とある。また妙光女の死体を五百群賊が汚して五百金銭を置き去った珍譚は、大正五年一月の『太陽』に出した「田原藤太竜宮入りの譚」に詳述しておいた。『水鏡』に、恵美押勝敗軍して、その女が五百兵士に犯された、とあり。生きておってそんな多勢の相手はなるまいから、たぶん妙光女の話の模造か、さもなくば五百兵士の多分は屍愛者だったと見るの外はない。
(413) 西洋にはイタリアの古い小説、シンチオの『エカトンミチ』やバンデロの『ノヴェレ』等に散見したと覚えるが、委細は忘失した。一八八 年パリ板、ボールの『色痴篇』に、臨終を勤めに行った僧がその死屍を汚した等数例を挙ぐ。ブラントームの『艶婦伝』一には、ダルマチアの士人が姦夫を殺し、その屍と姦婦を同衾せしめ、屍臭に害されて数日中に姦婦は死んだ、とある。ヘロドトスの『史書』に、エジプトの豪族の妻女や美女や名女は、死後ただちにミイラ師に委ねず、三、四日して初めて渡す。かつて新死の女屍をミイラ師が汚したこと、その同輩よりばれてからこんなになったと述べ、またギリシアのコリンチアの王ペリアンドロスが、尋ぬべき件があって亡妻メリッサの霊を招かしむると、霊現じてその使いに向かい、われ死んだ時、わが衣を焼かずそのままわが屍体にきせて埋めた。故に衣がわれに添わず(これは支那人同様、神霊に寄る物は焼いてのち初めて達すると古ギリシアで信ぜられたから)、裸でふるえおる次第で、何にも答ええぬ。ただし、われ真にメリッサの霊たる証拠として、王は冷たい竈に王のパンを入れたと語れ、と言って消え去った。これは王一旦の怒りに妻を打ち殺してのち、これに不浄を行なうた。王のほか誰も知らないのに、それを使いが還って告げたから、王も仰天して確かに妻の霊が現われたと信じたのである、と記している。陰相を竈、陽相をパンまたは悴と見立つるは欧人の習いで、ブラントームの『艶婦伝』七に、老女の情事衰えぬ例を挙げて、「火焼きの名人より、古い竈は新しい竈より焚きやすく、一度焚けばよく熱を保ち、よいパンがやける、と聞いた」と言った。十六世紀に高名だったジォヴァニ・デラ・カサの『竈の賦』には、陰相を大釜、後庭を小釜と言った。日本で、むかしは陰相を、今は後庭をお釜とよぶによく似ておる。
 ついでにいう、『会津風土記』に、城長茂の妻、名は竈御前とある。『本朝俚諺』(正徳四年)を『嬉遊笑覧』に引いて、本国の俗、妻を呼んで釜というはよりどころあり。『酉陽雑俎』に、賈客が家に帰る道中で臼の中で炊ぐと夢み、卜者王生に問うと、帰っても妻を見じ、臼中に炊ぐは釜がないのだ、と答えた。客帰れば妻すでに死んでおった、とある。『俚諺』より六年前(宝永五年)に出た『美景蒔絵松』は、伊勢古市の艶女(アンニャ)のことを書いた物で、そ(414)の凡例に艶女をもりする中居女、見通りは下女ながら襷掛けず手拭さげず、木綿の不断者に絹布の二つ割り、廓にての遣手に似て遣手にあらねば、客と艶女の中に立って諸事世話をなす女、歴々方の前をも憚からぬゆえ、釜と名づけたるとみえたり、とあって、巻一に、「アンニャの廊下のしじら島か、あれは中居女のよしという釜、釜ながら大体ではござんせぬ、両町の内で指折りになる四天王の一人」とある。これによれば、もと茶席で釜を重んじたゆえ、主婦また世話役の女を釜と呼んだのだ。ただし、慶長十八年ごろの『寒川入道筆記』に、主人が六尺に風呂をたけと命ずるに、たかれぬという。何故と問うと、「それに、かみ様の御座あるほどに分かり申すまい。なぜに、苦しからず申せ、とせつかれたれば、さらば申そう、釜がわれ申した。それがかみ様に構うか、なかなか構い申する。なぜに、たつに五、六寸ほどわれ申した、と言った」。それより六十年前に八十九で死んだ山崎宗鑑の付句に、「臍のあたりをつきほぜりけり」、「生柴を小釜の下に折りくべて」ともあれば、陰相を釜ということは天文ごろすでにあったのだ。
 誰も知る通り、西暦十一−十二世紀のあいだ、敏弁無比の名をほしいままにしたアベラールは、二十二も年下な才色兼備のエロイサを名歌と美声で自分にべたぼれさせ、孕ませてのち拐去《かどわか》した仕返しにエロイサの叔父に宮せられ、せっかくの令誉を大いに堕としたが、二人の情愛は死に※[しんにょう+台]んで止まず(男六十三で死んだ時、女が四十一歳、これも六十三で一一六三牢死んだ)。エロイサ尼の臨終の言により、二十二年前に死んだアベラールと同葬せんとその墓を開くと、屍たちまち両臂を拡げてエロイサを抱きしめ、全き愛は死もこれを消すあたわざるを示した。偕老はできなんだが、確かに永々同穴を楽しんだものだ。穴賢しと今に至って讃称さる(一八一一年トロア板、ムーショー『恋話名彙』一巻、その条。ジスレリ『文海奇観』二板、一巻二二一頁以下。一八九一年板、エルドマン『哲学史』英訳、一巻一六一章)。屍が屍を抱いたのもまた別格の屍愛だ。
 予は東洋にこんな例があるか知らぬが、『十六国春秋』に、後燕の昭文帝、符后を愛することが非常で、后が夏凍魚鱠を思い冬生地黄を欲した時、みな有司に下して、必ず見出だして献れ、ないでは済まさず死刑に処す、と命じた。(415)后崩ずるに及び、帝気絶し久しうして蘇えり、百官を宮内に召して哭せしめ、涙出た者を忠孝とて涙出ぬ者に罪を加えたので、一同口に辛い物を含んで涙を催した。帝はまた自分の兄の美妻に逼って后に殉死せしめ、廻り数里なる陵を営ましめ、それが成ったら后に随ってこの陵に入るべし、と言った。かかる虐政に堪えず、臣下らは謀反して帝を殺した。『元経薛氏伝』七には、この時帝の屍を符后の墓に会葬し、国人これを笑うたとあるが、これほど后に惚《ほ》け込んだ帝なれば、死した後も地下に両手を拡げて歓迎し、長夜の会を貪っただろう。また本元の支那の書に見えぬが、俗伝が渡日したものか、『今昔物語』一〇の一八に、霍光その妻の屍を柏木の殿に葬り、朝暮食物を供え礼して返る。一日晩方に例のごとく食物を備うると、その妻もとの姿を現じ光を捕えて懐抱せんとす。光恐れ逃る、その腰を妻の手で打たれ、家に還って腰痛んで死んだ、と出ている。これは妻の幽霊に強いて据膳をすすめられたのだ。屍が起きて来たとも見えるから、記しておく。
 この篇の初めに言った同性間の屍愛にやや似た例は西洋にもあって、ソーシーの『懺悔篇』七章に、仏皇アンリー三世は嬖童の屍に跪き、その両山のあいだに著口した、と載す。この皇は小姓を愛すること度に過ぎ、小姓ども閉口して神使の声色を使い、皇に外色を厳戒したという。
 ボールの『色痴篇』に吸血鬼《ヴアムピール》を屍愛と同事異名としてあるが、吸血鬼は仏経に見えた起屍鬼の類で、死人の霊が悪性の者になったり、他の悪鬼が死屍に付いたりして、その死屍が夜間起きて出歩いて人を害するので、さらに屍愛に関係せぬ(委細は、コラン・ド・プランシー『妖怪辞彙』、『大英百科全書』一一板、二七巻、トマス・ライト『中世英国論集』第九論、アッボット『マセドニア俚俗』二一六頁已下、ガーネット『土耳其女とその俗伝』巻一の一三六−四一頁、等で見るがよい)。
 これに反し、諸国に墓所や死人置場に近く宿って死人の霊と通じた多くの譚があるが、そのうちには多少屍愛の事実に基づいたのもあろう。『捜神記』一に、※[馬+付]馬なる語の源を説いて、辛道度なる者、遊学して雍州城西五里の地に至り、一つの屋敷に就いて食を乞うと、下女が引き入れて主人の女に目見えしめ、食事を振舞われた。それがすむと、(416)女いわく、われは秦王の娘で、曹国へ行ったが夫なしに死して二十三年、この宅に独居するのが淋しい、君と夫婦になろうと逼って、三度振舞ったのち、生きた人と死んだわれと三晩以上宿れば禍いありとて、紀念に金椀一を与え、下女をして送り出させた。数歩行かぬうち顧みれば家はなくて荊棘茂った一つの塚のみあり。怪しんで懐中を調べると、只今貰うた椀はある。それから秦国に至り、市に出してその椀を売る折りも折り、王妃、車に乗って来たり合わせ、椀を見て由来を問う。道度が仔細を語るを聞き、妃大いに悲しみかつ疑い、人を遣わしてかの塚を発き柩を開かしむると、王女の屍とともに葬った物がみなあったが、金椀のみはなかった。衣を解いてその体をみるに、情交の跡が確かだった。王妃始めて道度の言を信じ、死んで二十三年にもなるに生きた人と交わったわが娘は大聖だ、この男はわが真の婿だとあって、彼を※[馬+付]馬都尉に任じ、それに相応の金帛車馬を賜い、本国へ還らしめた。以来、女婿のことを※[馬+付]馬と言うのだ、と。
 『法苑珠林』九二に、晋の時、武都の太守李仲文、在郡中に十八歳の娘を死なせ、仮に葬った。その後、仲文官職をやめ、張世之がこれに代わった。その子、字は子長、年二十で厩にとまっておって、五、六夕、同じ夢を見た。十七、八の女の顔色常ならざるが現われて、われは前の太守李仲文の娘で早く死んだが、汝と相愛し楽しむべく参った、という。それから一日たちまち白昼にことの外よい匂いの衣服を着て現われ、ついに夫妻となったが、寝た時衣が汗に沾れて体が全く処女のごとし。そののち、仲文は婦をして娘の墓へ詣らせる途次、その婢が世之方に立ち寄り、仲文の娘の履《くつ》片足、子長の牀下にあるを見つけて、この人はわが主人の娘の墓を掘ったと呼ばわり、持ち帰って主人に示すと、仲文驚いて世之を詰り、世之はその子に問うて始終を聞き知った。そこで、李張ともに怪しみ棺を発して見ると、娘の体に肉生じ顔姿は元のごとく、右脚に履をはき左脚に履なし。そののち娘全く死し肉が落ちてしまったから、泣いて別れたという。「衣みな汗あり、処女のごとし」とは破素されたさい汗が衣に通るというので、『源氏物語』に、源氏が紫の上に新枕の条に、「思いの外に心うくこそおわしけれな、人もいかに怪しと思うらんとて、御衾をひきや(417)りたまえば、汗に押し浸して額髪もいたう沾れたまえり」。『難波江』に『狭衣』や『とりかへばや物語』を引いて、女の世馴れてあるとなきとは、初めて逢える男の心に知られる由を説きあるも、こんなことからであろう。
 『珠林』同巻にまた言う。唐の王志、益州県令に任じ、期満ちて帰郷の途中、綿州でその娘未婚で死んだから、棺をその地の寺に停め、そこに累月留まった。その先よりこの寺に留まっておった学生の房内へ、この死んだ娘が盛装して来たり恋慕の情を明かしたので、相知って月を経た(ここに知るというは交わるの義で、英語に同じ)。のち女が鋼鏡一つ、巾櫛各一を学生に与え、辞別した。家来どもが出発に臨み、件の物件紛失に驚き寺中を捜し学生の房中で見出だしたから、盗人と見て縛っておいた。学生は事実を説き、まだ衣服二枚も紀念品として貰うたと言ったので、棺を開き見れば衣服が二枚ない。女の身をみれば人に幸された徴あり。よって解放してどこの人かと聞くに、もと岐州生れで」父が南の方へ任官して往くのに随うたが、両親とも死んだによって諸州を廻り学問し、ほどなく岐州へ還るつもりであると言う。王志もまた岐州へ還るものであるから、さては同郷の人だとて衣馬を給し著飾らせ、つれ帰って娘の夫とし、甚く憐愛した、とある。これは殯礼のため棺を寺内に匿いたと知って、その学生がひそかにその棺を開き毎夜屍愛をほしいままにしたので、これに似た例がボールの『色痴篇』に出ている。屍に付いた物を盗んで、その女の霊に逢い、または相愛した証拠とし、女の親を騙った話は『続沙石集』五下、『本朝虞初新誌』巻上等に見えている。    (大正十四年六月『変態心理』一五巻六号)
【追記】
 左の経文の方が寂昭の話によく似ておる。
 趙宋の西天三蔵伝梵大師法護等が訳した『仏説如来不思議秘密大乗経』巻の二にいわく、もしあるいは男人染心を貪る者ありて、殊妙端厳の色相に愛着せば、菩薩すなわちその前において、ために端厳女人の相を現じ、かの弟子染愛の心に随いて、ことごとくその意のごとくす。時にかの女人染着をもってのゆえに、形容枯悴しすなわち命終に趣(418)き、根門敗壊、臭穢不浄なり。時に、かの男子無智をもってのゆえに厭悪して去る。すなわちその人死滅の身、自然声を出だし、ために法要を説き、かの男子をして心に開悟を生じ、阿耨多羅三貌三菩提に退転せざらしむ、と。   (大正十四年十二月『変態心理』一六巻六号)
【追補】
 大江匡房の『続本朝往生伝』に、寂昭、妻の屍を早く葬らず、九相を観て道心を起こしたことを記した前に、「沙門の賢救、因幡の国に住し、徳行は境内に被《こうむ》り、威は刺史よりも重し。密室の間を造って、人をして見せしめず。独りみずからここに入り、観念坐禅す。ある人言う、むかし愛するところの小童、早く天年を夭《よう》す。早くに※[病垂/夾/土]埋《うず》めずして没後の相を見、不浄観を起こす。この観成熟して、証入すること日に深し。凝って一分の無明をも断ちしか。臨終には正念し、端座念仏して遷化す」と記しおる。前年、中学教科書に編入されて問題を惹起した上田秋成の『雨月物語』五なる、下野のある阿闍梨が童子の屍を愛するあまり、これを啖い尽した譚は、この賢救法師のことより案出したものか。(大正十五年十月五日夜十時記)
 
(419)     女性における猥褻の文身
 
 『変態性慾』六巻四号に、田中君がこの題のうちに書かれた中に洩れたことを、いささか記そう。三十五年前米国にあった時、故鈴木倚象男に聞いたのであるが、その数年前警視庁で婦女の文身《いれずみ》を調べたら、最も奇抜なのは東京のどこかの女博徒で、吉舌にナメクジを入れ墨した、その形がよく似たのみか、巧技絶妙でナメクジの背の細点つぶさに備わり、真に逼った物の由。また二十八年前ロンドンで故中井芳楠氏に聞いた話は、維新前泉州貝塚に名題の美女兼賭博女お芳は、秘部近く蟹をほりつけ、走り込まんとする状すこぶるよくできておった、と。
 『甲子夜話』にも同例を二ヵ所に記してあるから、賭博女は毎度したことらしい。その一を挙げると、巻一八に、「ある人の話に、湯島に鳶の者の妻よし、寡婦となって任侠をもって聞こえたり。湯島の劇場に狂者刀を振り廻し、人みな手に合わずと聞いて、われこれを取るべしとて、衣をぬぎ丸裸になってズカズカとそのかたわらにより、何をなさると言えば狂人呆れて立ちたるに、その手を取って刀を取り上げ、事穏やかに済ませしとなり。この婦除戸のかたわらに蟹の横行して入らんとする形を入れ墨したり、と。およそ豪気この類なり。三十年ばかり前のことにて、その婦を目撃せし人の言に、膚白く容顔ことに美艶なりしとぞ。かの亡夫の配下なりし鳶ども強情者多かりしが、みな随従し差図をうけ一言いう者もなかりしと言えり」。   (大正十四年六月『変態心理』一五巻六号)
 
(420)     徳川家と外国医者
 
 『変態心理』五月号五〇四頁に、三田村鳶魚先生は、家網将軍の病中支那医を殿中に招くの議が遂行されなんだことを記して、「その当時は、まだ異国人という者を気嫌いするような傾きがあって、技倆は認めても宮様とか将軍とか偉い人は決して診せなかった、云々」とある。
 これを読んだ人々は、延宝以前には貴人や諸侯は決して外国医者にかからなんだと思わぬとも限らないから述べておきたいのであるが、『武徳編年集成』に、家康が天正七年八月その妻築山殿を誅した原因は、この夫人は甲斐から来た支那人減慶という医師を治療のため招きて淫行をほしいままにし、また彼を通じて武田氏に内応した、と記している。それから、元和二年五月二十二日、リチヤード・ウィリアムがリチヤード・コックスヘ京都から贈った状には、家康最後の患いを主治医が癒すあたわず、老体の病いゆえ壮者ほどに速く直らぬと言うたのを怒り、縛って寸断せしめた。よって島津殿その侍医たる支那人を薦め効験著しと聞く、と記している。   (大正十四年六月『変態心理』一五巻六号)
 
(421)     人柱の話
 
 建築、土工等を固めるため人柱を立てることは、今もある蕃族に行なわれ、その伝説や古蹟は文明諸国に少なからぬ。例せば、インドの土蕃が現時もこれを行なう由時々新聞にみえ、ボムパスの『サンタル・パーガナス口碑集』に、王が婿の強きを忌んで、畜類を供えても水が湧かぬ涸池の中に乗馬のまま婿を立たせると、さすがは勇士で、水が湧いても退かず、馬の膝まできた、わが膝まできた、背まできたと唄いながら、いよいよ水に没した、その跡を追って、妻もまたその池に沈んだ話がある。『源平盛衰記』にもまた、清盛が経の島を築く時、白馬白鞍に童を一人のせて人柱に入れたとあれば、乗馬のままの人柱もあったらしい。ただし『平家物語』には、人柱を立てようと議したが、罪業を畏れ、一切経を石の面に書いて築いたから経の島と名づけた、とある。
 今少しインドの例を挙げると、マドラスの一砦は、建築の時、娘一人を壁に築き込んだ。チュナールの一橋は何度かけても落ちたから、梵種の娘をその地神に牲《にえ》にし、それがマリーすなわちそこの霊となり、凶事あるごとに祭られる。カーチアワールでは、城を築いたり、塔が傾いたり、池を掘るも水が溜らぬ時、人を牲にした。シカンダールブール砦を立てた時、梵種一人とズサード族の娘一人を牲にした。ボムペイのワダラ池に水が溜らなんだ時、村長の娘(422)を牲にして水が溜った。ショルマット砦建立の際、一方の壁が繰り返し落ちたので、ある初生の児を生埋めするともはや落ちなんだという。近ごろも人口調査を行なうごとに、僻地の民はこれは橋等の人柱に立てる人を撰ぶためだと騒ぎ立つ。河畔の村人は橋が架けらるるごとに、嬰児を人柱に取られると驚惶する(一八九六年板、クルック『北印度俗宗および俚俗』二巻一七四頁。一九一六年板、ホワイトヘッド『南印度村神誌』六〇頁)。
 パンジャブのシアルコット砦を築くに、東南の稜堡が幾度も崩れたので、占者の言により寡婦の独り子の男児を牲にした。ビルマには、マンダレイの諸門の下に人牲を埋めて守護とし、タツン砦下に一勇士の屍を分かち埋めて、その砦を難攻不落にし、はなはだしきは土堤を固めんため皇后を池に沈めた。一七八〇年ごろタヴォイ市が創立された時、諸門を建つるに一柱ごとの穴に罪囚一人を入れ、上より柱を突き込んだゆえ四方へ鮮血が飛び散った。その霊が不断その柱の辺にさまよい、近づく者を害するより全市を無事にす、と信ぜられたのだ(タイラー『原始人文篇』二板、一巻一〇七頁。バルフォール『印度百科全書』三板、四七八頁)。
 支那には、春秋時代、呉王闔閭の女《むすめ》滕玉がすてきな癇癪持ちで、王が食い残した魚をくれたと怒って自殺した。王これを病み、大きな冢《つか》を作って、金鼎、玉杯、銀樽等の宝とともに葬り、また呉の市中に白鶴を舞わし、万民が観に来たところ、その男女をして鶴とともに家の門に入らしめ、機を発して掩殺《えんさつ》した(『呉越春秋』二。『越絶書』二)。生を殺して、もって死に送る、国人これを非とするとあるから無理に殉殺したのだが、多少は冢を堅固にする意もあったろう。
 『史記』の滑稽列伝に見えた、魏の文侯の時、※[業+おおざと]の巫が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め洪水の予防としたは事すこぶる人柱に近い。ずっと後に、唐の郭子儀が河中を鎮した時、水患を止めてくれたら自分の娘を妻に奉ると河伯に祷ると水が退いた。さてほどなくその娘が疾《やまい》なしに死んだ。その骨で人形を作り廟に祀った。所の者子儀を徳とし、これを祠り河※[さんずい+賣]親家翁すなわち河神の舅さまと名づけた。現に水に沈めずとも、水神に祀られた女は久しからぬうち(423)に死すると信じたのだ。また漢の武帝は、黄河の水が瓠子《こし》の堤防を切った時、卒数万人を発してこれを塞がしめたのみか、みずから臨んで白馬玉璧を堤の切れた処に置かしめたが、奏功せず。漢の王尊、東郡太守たりし時もこの堤が切れた。尊みずから更民を率い、白馬を沈め珪璧を執り巫をして祝し請わしめ、自身をその堤に埋めんとした。至って貴い白馬や玉璧を人柱代りに入れてもきかぬゆえ、太守みずから人柱に立たんとした。元代に、浙江蕭山の楊伯遠の妻王氏は、その夫が里正たるところの堤が切れて、何度築いても成らず、官から責めらるるを歎き、みずから股肉を割いて水に投げ入れるとたちまち堤が成ったから股堰と名づけたとは、河伯もよくよく女の股に思し召しがあったのだ(『琅邪代酔編』三三。『史記』河渠書。『淵鑑類函』三六、三四〇、四三三。『大清一統志』一八○)。
 本邦にも、経の島人柱の外に、陸中の松崎村で白馬に乗った男を人柱にし、その妻ともに水死した話がある(『人類学雑誌』三三巻一号、伊能嘉矩君の説)。江州浅井郡の馬川は、洪水の時白馬現じて往来人を悩ます。これは本文に述べた白馬に人を乗せ、もしくは白馬を人の代りに沈めた故事が忘れられて、馬の幽霊という迷信ばかり残ったと見える。それから、大夏の赫連勃々《かくれんぼつぼつ》が叱干阿利《しつかんあり》をして城を築かしめると、この者工事は上手だが至って残忍で、土を蒸して城を築き、錐でもみためしてちょっと入れば、すぐそこの担当者を殺し、その屍を築き込んだ。かくて築き立てた寧夏城は鉄石ほど堅く、明の※[口+悖の旁]拝の乱に官軍が三月あまり囲んで水攻めまでしたが、内変なき間は抜けなんだ。アイユランドのバリポールトリー城をデーン人が建てた時、四方から工夫を集め、日夜休みなし物食わずに苦役せしめ、仆るれば壁上にその体をなげかけ、その上に壁を築かしめた。のち土民がデーン人を追い払うた時、この城が最後に落ち父子三人のみ生きて囚われた。一同ただちに殺そうと言ったが、一人勧めてこれを助命し、その代りアイリッシュ人が常に羨むデーン人特長のヘザー木から美酒を造る秘訣を伝えよ、と言うた。初めはなかなか聴き入れなんだが、とうとう承引して、さらば伝えよう、だがわれ帰国してのちこのことが泄れたらきっと殺さるるから只今眼前にこの二子を殺せ、その上で秘訣を語ろう、と述べた。変な望みだが一向こっちに損の行かぬことと、その二子を殺すと、老(424)父、「阿房どもめ、わが二子年若くて汝らに説かれて心動き、どうやら秘訣を授けそうだから殺させた。もはや秘訣は大丈夫洩るる気遣いがないわい」と大見得を切ったので、アイリッシュ人大いに怒り、その老人を寸断したが、造酒の秘法は今に伝わらぬそうだ。これらは人屍を築き込むと城が堅固だと明記はしおらぬが、左様信じたればこそ築き込んだので、その信念が堅かったによって、きわめてよく籠城したのだ(『近江輿地誌略』八五。『五雑俎』四。一八五九年板『ノーツ・エンド・キーリス撰抄』一〇一頁)。
 予が在英中親交したロバート・ダグラス男が『玉篋卦《ユツヘアケ》』という占い書から訳した文をタイラーの『原始人文篇』二板一巻一〇七頁に引いたが、「大工が家を建て初めるに、まず近処の地と木との神に牲を供うべし。その家が倒れぬようと願わば、柱を立てるに何か活きた物を下におき、その上に柱を下す。さて邪気を除くため斧で柱を打ちつつ、よしよしこの内に住む人々はいつも温かで食事足るべし、と唱える」とある。これに反し、工人が家を建てるに、種々とその家と住人をまじない破る法あり(『遵生八牋』七)。紀州西牟婁郡諸村には、大工が主人を怨み新築の家を呪して、自蟻を招き害を加うる術あるようにきく。
 
       二
 
 日本で最も名高いのは、例の「物をいふまい、物ゆた故に、父は長柄の人柱」で、しばらく『和漢三才図会』に従うと、初めてこの橋を架けた時、水神のために人柱を入れねばならぬと、関を垂水村に構えて人を捕えんとす。そこへ同村の岩氏某がきて、人柱に使う人を袴につぎあるものときめよ、と差しいでた。ところが、そういう汝こそ袴につぎがあるではないかと捕われて、たちまち人柱にせられた。その弔いに大願寺を立てた。岩民の娘は河内の禁野の里に嫁したが、口は禍いの本と父に懲りて唖で押し通した。夫は幾世死ぬよの睦言も聞かず、姿あって媚なきは人形(425)同然と飽き果てて送り返す途中、交野の辻で雉の鳴くを聞き、射にかかると駕の内から褄が朗らかに、「物いはじ父は長柄の人柱、鳴かずば雉も射られざらまし」とよんだ。そんな美声を持ちながら今まで俺独り浪語させたと憤るうちにも大悦びで伴れ返り、それより大声揚げて累祖の位牌の覆えるも構わずふざけ通した慶事の紀念に雉子塚を築き、杉を三本植えつけたのが現存す、てなことだ。
 この類話が外国にもあり。エジプト王ブーシーリスの世に、九年の飢饉あり、キプルス人フラシウス、毎年外国生れの者一人を牲にしたらよいと勧めたところが、自分が外国生れゆえ、イの一番に殺された由(スミス『希羅《ギリシアローマ》人伝神誌名彙』巻一)。『左伝』には、賈大夫が娶った美妻が言わず笑わず、雉を射取って見せるとたちまち物いい笑うた、とある(昭公二十八年)。
 『摂陽群談』一二に、嵯峨の弘仁三年六月、岩氏人柱に立ったと見え、巻八に、その娘、名は光照前、美容世に勝れて紅顔朝日を嘲るばかりなり、とある。今二つ類話は、朝鮮鳴鶴里の土堤、幾度築いても成らず、小僧が人柱を立てよとすすめたところ、誰もその人なきよりすなわちかの小僧を人柱に入れて成就した。ルマニアの古い唄に、大工棟梁マヌリ、ある建築に取り懸かる前夜、夢の告げにその成就を欲せば明朝一番にその場へ来る女を人柱にせよ、と。さて明朝一番に来合わせたはマヌリの妻だったので、これを人柱に立てたというのだ(三輪環氏『伝説の朝鮮』二一二頁。一八八九年板、ジョーンスとクロップ『マジャール俚譚』三七七頁)。
 大正十四年六月二十五日『大阪毎日新聞』に、誰かが橋や築島に人柱はきくが築城に人柱は聞かぬというように書かれたが、井林広政氏から、かつて伊予大洲の城は立てる時お亀という女を人柱にしたので、お亀城と名づく、と聞いた。この人は大洲生れの士族なれば虚伝でもなかろう。
  横田伝松氏よりの来示に、大洲城を亀の域と呼んだのは後世で、古くは比地の城と唱えた。最初築いた時、下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒジと名づくる娘が中って生(426)埋めされ、それより崩るることなし。東宇和郡多田村関地の池も、オセキという女を人柱に入れた伝説あり、と。氏は郡誌を編んだ人ときくから、特に書きつけておく。
 清水兵三君説(高木敏雄氏の『日本伝説集』に載す)には、雲州松江城を堀尾氏が築く時成功せず、毎晩その辺を美声で唄い通る娘を人柱にした、今も普門院寺の傍を「東北」を謡いながら通れば、必ずその娘出て泣く、と。これは、その娘を弔うた寺で「東北」を謡う最中を捕わったとでもいう訳であろう。現に、予の宅の近所の邸に大きな垂枝松あり、その下を夜更けて「八島」を謡うて通ると、幽公がでる。むかしその邸の主人が盲法師に芸させ「八島」を謡うところを試し切りにした、その幽じるしの由、いやですぜ、いやですぜ。
 イングランドとスコットランドの境部諸州の俗信に、パウリーヌダンターは古城砦、鐘楼、土牢等にある怪で、不断亜麻を打ち石臼で麦をつくようの音を出す。その音が例より長く、また高く聞こゆる時、その所の主人が死または不幸にあう。むかしピクト人はこれらの建物を作った時、土台に人血を濺いだから殺された輩が形を現ずる、と。後には人の代りに畜類を生埋めして寺を強固にするのがキリスト教国に行なわれた。英国で犬または豚、スウェーデンで綿羊などで、いずれもその霊が墓場を守ると信じた(一八七九年板、ヘンダーソン『北英諸州俚俗』二七四頁)。『甲子夜話』の、大坂城内に現ずる山伏、『老媼茶話』の、猪苗代城の亀姫、島原城の大女、姫路城天守の貴女等、築城の人柱に立った女の霊が、上に引いたインドのマリー同然いわゆるヌシとなりてその城を鎮守したものらしい。ヌシのことは末段に述ぶる。
 
       三
 
 五月十八日薨ぜられた徳川頼倫候は、しばしば揮毫に※[臥/虎]《てい》城倫と著せられた。和歌山域を虎臥山竹垣域という(427)ところへ、漢の名臣第五倫というのと音が似たゆえのことと思う。そんなむつかしい字は印刷に困ると諫言しょうと思うたが、口から出なんだ。これもお虎という女を人柱にしたよりの山号とか、幼時古老に聞いて面白からずと考えたによる。なお築城の人柱の例若干を書き集めておいたが、病人を抱えてこの稿を書くゆえ、引き出しえぬ。さて家光将軍の時日本にあった蘭人フランシス・カロンの記に、日本の諸侯が城壁を築く時、多少の臣民が礎として壁下に敷かれんと願い出ることあり。みずから好んで敷き殺された人の上に建てた壁は損ぜぬと信ずるからで、その人許可を得て礎の下に掘った穴にみずから横たわるを、重い石を下ろして砕き漬さる。ただし、かかる志願者は平素苦役に飽き果てた奴隷だから、望みのない世に永らえてるより死ぬがましという料簡でするのかもしれぬ、と(一八一一年板、ピンカートン『水陸旅行全集』七巻六二三頁)。
 ベ−リング・グールドの『奇態な遺風』に、蒙昧の人間が数本の杭に皮を張った小屋をそこここ持ち歩いてしばし仮住居した時代は、建築に深く注意をせなんだが、世が進んで礎をすえ土台を築くとなれば、建築の方則を知ること浅きより、しばしば壁崩れ柱傾くをみて地神の不機嫌ゆえと心得、恐懼のあまり地の幾分を占め用うる償いに人を牲に供えた、と。フレザーの『旧約全書の俚俗』には、英国の脱艦水夫ジャクソンが、今から八、九十年前フィジー島で王宮改築の際の目撃談を引きおる。それは柱の底の穴にその柱を抱かせて人を埋め、頭はまだ地上に出てあったので問い合わすと、家の下に人が坐して柱をささげねば家が永く立ちおらぬと答え、死んだ人が柱をささげるものかと尋ねると、人が自分の命を牲にしてまで柱をささげるその誠心を感じて、その人の死後は神が柱をささげくれると言うた、と。これでは女や小児を人柱にした訳が分からぬから、ざっとベーリング・グールド説の方が一般に適用しうると思う。またフレザーは敵城を占領する時などのマジナイにかかることを行なう由をも説いた。今度宮城二重櫓下から出た骸骨を検する人々の一読すべき物だ。
 国学に精通した人より、大昔、月経や精液を日本語で何と呼んだか分からぬときく。満足な男女に必ずある物だ(428)が、むやみにその名を呼ばなかったのだ。支那人は太古より豚を飼うたればこそ、家という字は屋根の下に豕と書く。アイユランドの辺地でみるごとく、人と豚と雑居したとみえる。それほど支那に普通で因縁深い豕のことを、マルコ・ポロがあれだけ支那事情を詳述した中に、一言も記しおらぬ。またこれほど大きな事件はなきに、一銭二銭の出し入れを洩らさず帳づけながら、今夜妻が孕んだらしいと書いておく人はまずないらしい。本邦の学者、今度の櫓下の白骨一件などにあうと、すぐ書籍を調べて書籍に見えぬから人柱など全くなかったなどいうが、これは日記にみえぬから、わが子が自分の子でないというに近い。大抵マジナイごとは秘密に行なうもので、人に知れるときかぬというが定則だ。それを鰻屋の出前のごとく、今何人人柱に立ったなど書きつくべきや。こんなことは、篤学の士があまねく遺物や伝説を探って、書籍外より材料を集め研究すべきである。
 中堀僖庵の『萩の栞』(天明四年再板)上の十一張裏に、「いけこめの御陵とは大和国薬師(寺か)の後にあり、いずれの御時にか采女御門の御別れを歎き、生きながら籠りたるなり」。これは垂仁帝の世に土偶をもって人に代え殉葬を止められたにかかわらず、後代までもまれにみずから進んで生埋めにされた者があったのが史籍に洩れて伝説に存した、と見える。いわゆる殉葬のうちには、御陵を堅むるための人柱もあったと察する。と書きおわりてまた操ると、『明徳記』すでにこれを記し、薬師寺のあたりにその名を今に残しける池籠めの御座敷これなるべし、とあり。それより古く『俊頼口伝集』上にも、いけごめのみささぎとて薬師寺の西に幾許ものかであり、と見ゆ。
 またそんな残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米賃(こ(429)れは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ペピースみずから行なったことがその日記に出ず)、その他確たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚鋭といい黒めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。
 
       四
 
 こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある。西洋にも人柱が多く行なわれ、近ごろまでその実跡少なくなかったのは、上に引いたベーリング・グールドその他の民俗学者が証明する。二、三例を手当り次第列ねると、ロムルスがロ−マを創めた時、ファスツルス、キンクチリウス二人を埋め、大石を覆うた。カルタゴ人はフィレニ兄弟を国界に埋めて護国神とした。西暦紀元前一一四年、ロ−マがまだ共和国の時、リキニアほか二名の斎女、犯戒して男と交わり連累多く罪せられた体、わが国の江島騒動のごとし。この不浄を祓わんためヴェヌス・ヴェルチコルジアの大社を立てた時、ギリシア人二人、ゴール人二人を生埋めした。コルムバ尊者がスコットランドのヨナに寺を立てた時、昼間仕上げた工事を毎夜土地の神が壊すを防ぐとて、弟子一人(オラン尊者)を生埋めにした。されば、欧州がキリスト教に化した後も人柱は依然行なわれたので、この教は一神を奉ずるから地神などはさっばりもてなくなり、人を牲に供えて地神を慰めるという考えは、おいおい人柱で土地の占領を確定し、建築を堅固にして崩れ動かざらしむるという信念に変わった、とベ氏は説いた。ここにおいて、西洋にはキリスト教が行き渡ってから人柱はすぐ跡を絶たなんだが、これを行なう信念は変わった、と判る。思うに東洋でも、同様の信念変遷が多少あっただろう。
(430) なおキリスト教一統後も欧州に人柱が行なわれた二、三の例を挙げれば、ヘンネベルグ旧城の壁額(レリーヴィング・アーチ)には、重賞を受けた左官が自分の子を築き込んだ。その子を壁の内に置き、菓子を与え、父が梯子に上り職工を指揮し、最後の一煉瓦で穴を塞ぐと子が泣いた。父たちまち自責のあまり、梯子から落ちて頭を漬した。リエベンスタイン城も同様で、母が人柱として子を売った。壁がだんだん高く築き上げらるると、子が「かかさん、まだ見える」、次に「かかさん、見えにくくなった」、最後に「かかさん、もうみえぬ」と叫んだそうだ。アイフェルの一城には、若い娘を壁に築き込み、穴一つあけ残して死ぬまで食事を与えた。オルデンブルグのプレクス寺(むろんキリスト教の)を立てるに土台固まらず、よって村吏川向うの實婦の子を買って生埋めにした。一六一五年(大坂落城の元和元年)、オルデンブルグのギュンテル伯は、堤防を築くに小児を人柱にするところへ行き合わせその子を救い、これを売った母は禁獄、買った土方親方は大お目玉頂戴。しかるに、口碑にはこの伯自身の城の土台へ一小児を生埋めにしたという。以上は、英人がドイツの人柱の例ばかり書き集めた多くのうちの四、五例だが、独人の書いたのを調べたら英、仏等の例も多かろうが、あまり面白からぬことゆえ、これだけにする。とにかく欧州の方の人柱のやり方が、日本よりも残酷きわまる。その欧人またその子孫たる米人が、今度の唯一の例を引いてかれこれいわば、これ百歩をもって五十歩を責めるものだ。
 
       五
 
 英国で最も古い人柱の話は、有名な術士メルリンの伝にある。この者は賀茂の別雷神《わけいかずちのかみ》同然、父なし子だった。初めキリスト生まれて正法大いに興らんとした際、邪兇輩、失業難を憂い相謀って一の法敵を誕生せしめ、大いに邪道を張るに決し、英国の一富家に禍いを降し、まず母をしてその(431)独り息子を鬼と罵らしめて眠中その子を殺すと、母は悔いて縊死し、父も悲しんで悶死した。あとに娘三人残った。そのころ英国の法として私通した女を生埋めし、もしくは誰彼の別なく望みさえすりや男の意に随わしめた。邪鬼の誘惑で、姉娘まず淫戒を犯し生埋めされ、次の娘も同様の罪で多人の慰み物となった。季《すえ》娘大いに怖れて聖僧プレイスに救いを求め、毎夜祈祷し十字を画いて寝よ、と教えられた。しばらくその通りして無事だったところ、一日隣人に勧められて飲酒し、酔ってその姉と闘い自宅へ逃げ込んだが、心騒ぐまま祈祷せず十字も画かず睡ったところを、好機会逸すべからずと邪魔に犯され孕んだ。かくて生まれた男児がメルリンで、容貌優秀ながら全身黒毛で被われておった。こんな怪しい父なし子を生んだは怪しからぬと、その母を法廷へ引き出し生埋めの宣告をすると、メルリンたちまちその母を弁護し、われ実は強勢の魔の子だが、聖僧ブレイスこれを予知して生まれ落ちた即時に洗礼を行なわれたから邪道を脱れた。予が人の種でない証拠に、過去現在未来のことを知悉しおり、この裁判官などのごとく自分の父の名さえ知らぬ者の及ぶところでないと広言したので、判官大いに立腹した。メルリン、さらば貴公の母を喚べと言うので母を請じ、メを別室に延いてわれは誰の実子ぞと問うと、この町の受持僧の子だ。貴公の母の夫だった男爵が旅行中の一夜、母が受持僧を引き入れて会いおるところへ、夫が不意に還って戸を敲いたので窓を開いて逃げさせた。その夜孕んだのが判官だ、これが虚言かと詰ると、判官の母しばらく閉口ののち実にその通り、と告白した。そこで、判官厳しくその母を譴責して退廷せしめたあとで、メルリンいわく、今公の母は件の僧方へ往った。僧はこのことの露顕を慙じてただちに橋から川へ飛び入って死ぬ、と。やがてその通りの成行きに吃驚《びつくり》して、判官大いにメを尊敬し、即座にその母を放還した。
 それから五年後、ブリトン王ヴォルチガーンは、自分は前王を弑して位を簒《うば》うた者ゆえ、いつどんな騒動が起こるかしれぬとあって、その防ぎにサリスベリー野に立つ高い丘に堅固な城を構えんと、工匠一万五千人をして取り掛からしめた。ところが、幾度築いてもその夜の間に壁が全く崩れる。よって星占者を召して尋ねると、七年前に人の種(432)でない男児が生まれおる。彼を殺してその血を土台に濺いだら必ず成功する、と言った。したがって、英国中に使者を出してそんな男児を求めしめると、その三人がメルリンが母とともに住む町で出会うた。その時、メルリンが他の小児と遊び争うと、一人の児が、汝は誰の子と知れず、実はわれわれを害せんとて魔が生んだ奴だ、と罵る。さてはこれがお尋ね者と三人刀を抜いて立ち向かうと、メルリン叮嚀に挨拶し、公らの用向きはかようかようでしょう、全く僕の血を濺いだって城は固まらない、と言う。三使大いに驚き、その母に逢うてその神智のことどもを聞いていよいよ呆れ、請うてメと同伴して王宮へ帰る。途上でさらに驚き入ったは、まず市場で一青年が履を買うとて懸命に値を論ずるを見て、メが大いに笑うた。その訳を問うに、彼はその履を手に入れて自宅に入る前に死ぬはずと言うたが、果たしてそのごとくだった。翌日葬送の行列を見て、また大いに笑うたから何故と尋ねると、この死人は十歳ばかりの男児で行列の先頭に僧が唄い後に老年の喪主が悲しみ往くが、この二人の役割が顛倒しおる。その児実はその僧が喪主の妻に通じて産ませた者ゆえおかしい、と述べた。よって死児の母を厳しく詰ると、果たしてその通りだった。三日目の午時ごろ、途上に何ごともなきにまた大いに笑うたので仔細を質すと、只今王宮に珍事が起こったから笑うた、今の内大臣は美女が男装した者と知らず、王后しきりに言い寄れど従わぬから恋が炉《ねた》みに変じ、彼は妾を強辱しけたと讒言を信じ、大臣を捉えてさっそく絞殺の上支解せよ、と命じたところだ。だから、公らのうち一人|忙《いそ》ぎ帰って、大臣の男たるか女たるかを検査し、その無罪を証しやられよ、しかしてこれは僕の忠告によったと申されよ、と言うた。一使早馬で駆けつけ王に勧めて、王の眼前で内大臣が女たるを検出してこれを助命した、とあるからよほど露骨な検査をしたらしい。 さてこれようやく七歳のメルリンの告げたところと言うたので、王早くその児に逢うて城を固むる法を問わんと、みずから出迎えてメを宮中に招き盛饌を供し、翌日伴うて築城の場に至り、夜になると必ず壁が崩るるは合点行かぬというに、それはこの地底に赤白の二竜が凄み、毎夜闘うて地を震わすから、と答えた。王すなわち深くその地を掘(433)らしめると、果たして二つの竜があり大戦争を仕出かし、赤い方が敗死し白いのは消え失せた。かくて築城は功を奏したが、王の意安んぜず。二竜の争いは何の兆ぞと問うこと度重なりて、メルリン是非なく、王が先王の二弟と戦うて敗死する知らせと明かして消え失せた。のち果たして城を攻め落とされ、王も后も焚死したという(一八一一年枝、エリス著『初世英国律語体伝奇集例』一巻二〇五−四三頁)。英国デヴォン州ホルスウォーシーの寺の壁を十五世紀に建てる時、人柱を入れた。アイユランドにも、円塔下より人の骸骨を掘り出したことがある(『大英百科全書』一一板、四巻七六二頁)。
 
       六
 
 一四六三年、ドイツ・ノガットの堰を直すに乞食を大酔させて埋め、一八四三年同国ハルレに新橋を立てるに、人民その下に小児を生埋めしようと望んだ。デンマーク首都コッペンハーゲンの城壁いつも崩れるゆえ、椅子に無事の小児を載せ、玩具、食品をやり他意なく食い遊ぶを、左官棟梁十二人して円天井をかぶせ、喧ましい奏楽紛れに壁に築き込んでから堅固となった。伊国のアルタ橋は繰り返し落ちたから、その大工棟梁の妻を築き込んだ。その時妻が詛うて、今にその橋花梗のごとく動揺する。露国のスラヴェンスク、黒死病で大いに荒らされ、再建の節、賢人の訓えに随い、一朝日出前に人を八方に使わして一番に出逢う者を捕えると小児だった。すなわち新砦の礎の下に生埋めしてこれをジェチネツ(小児城)と改称した。露国の小農どもは毎家ヌシあり、初めてその家を立てた祖先がなるところと信じ、よって新たに立つ家の主人、あるいは最初に新立の家に歩みを入れた者がすぐ死す、と信ず。けだし、古代よりの風として初立の家には、その家族中の最も老いた者が一番に入るのだ。ある所では、家を立て始める時斧を使い初める大工がある鳥または獣の名を呼ぶ。すると、その畜生は速やかに死ぬという。その時大工に自分の名を呼(434)ばれたらすぐ死なねばならぬから、小農どもは大工を非常に慇懃に扱って己の名を呼ばれぬよう力める。ブルガリアでは、家を建てに掛かるに通りかかった人の影を糸で測り、礎の下にその糸を埋める。その人はただちに死ぬそうだ。ただし、人が通らねば一番に来合わせた動物を測る。また人の代りに鶏や羊などを殺し、その血を土台に濺ぐこともある。セルヴィアでは、都市を建てるに人または人の影を壁に築き込むにあらざれば成功せず。影を築き込まれた人は、必ず速やかに死すと信じた。むかしその国王と二弟がスクタリ砦を立てた時、昼間仕上げた工事を夜分鬼が壊してやまず。よって相談して三人の妃のうち一番に食事を工人に運び来る者を築き込もうと定めた。王と次弟はひそかにこれを洩らしたので、その妃ども病と称して来たらず。末弟の妃は一向知らずに来たのを、王と次弟が捕えて人柱に立てた。この妃乞うて壁に穴を残し、毎日その児を伴れ来たらせてその穴から乳を呑ませること十二ヵ月にして死んだ。今にその壁より石灰を含んだ乳様の水が滴るを婦女詣で拝む(タイラー『原始人文篇』二板、一巻一〇四−五頁。一八七二年板、ラルストン『露国民謡』一二六−八頁)。
 それからタイラーは、人柱の代りにドイツで空棺を、デンマークで羊や馬を生埋めにし、ギリシアでは礎を据えたのち一番に通りかかった人は年内に死ぬ、その禍を他に移さんとて、左官が羊、鶏を礎の上で殺す。ドイツの古語に、橋を崩さずに立てさせくれたら渡り初める者をやろうと鬼を欺き、橋成って一番に鶏を渡らせたことを述べ、同国に家が新たに立ったらまず猫か犬を入らしむるがよいという等の例を列ねある。
 日本にも『甲子夜話』五九に、「彦根侯の江戸邸はもと加藤清正の邸で、その千畳敷の天井に乗物を釣り下げあり、人の開き見るを禁ず。あるいはいわく、清正、妻の屍を容れてあり。あるいは言う、この中に妖怪いて時として内より戸を開くをみるに、老婆の形なる者みゆ、と。数人の話すところかくのごとし」と。これはドイツで人柱の代りに空棺を埋めたごとく、人屍の代りに葬式の乗物を釣り下げて千畳敷のヌシとしたのであるまいか。同書三〇巻に、「世に言う、姫路の城中にオサカベという妖魅あり、城中に年久しく住めり、と。あるいは言う、天守櫓の上層にい(435)て常に人の入るを嫌う。年に一度その城主のみこれに対面す。その余は人懼れて登らず。城主対面する時、妖その形を現わすに老婆なり、と言い伝う。(中略)姫路に一宿せし時宿主に問うに、なるほど城中に左様のことも侍り、ここにてハッテンドウと申す。オサカベとは言わず。天守櫓の脇にこの祠ありてその神に事うる社僧あり。城主も尊仰せらる、と」。『老媼茶話』に、加藤明成、猪苗代城代として堀部主膳を置く。寛永十七年極月、主膳独り座敷にあるに禿一人現じ、汝久しく在城すれど今にこの城主に謁せず、急ぎ身を浄め上下を著し敬《つつし》んでお目見えすべし、という。主膳、この城主は主人明成で、城代は予なり、外に城主あるはずなし、と叱る。禿笑うて、姫路のオサカベ姫と猪苗代の亀姫を知らずや、汝命数すでに尽きたりと言い消失す。翌年元朝、主膳諸士の拝礼を受けんとて上下を著し広間へ出ると、上段に新しい棺桶がありその側に葬具を揃えあり、その夕大勢餅をつく音がする。正月十八日、主膳厠中より煩い付き二十日の暁に死す。その夏柴崎という士、七尺ばかりの大入道を切るに、古い大ムジナだった。爾来怪事絶えた、と載せある。
 『垂加文集』の「会津山水記」にいわく、「会津城は鶴をもってこれを称し、猪苗代城は亀をもってこれを称す」と。これは鶴亀の名を付けた二女を生埋めしたによる名か。また姫路城主松平義俊の児小姓《ちごこしよう》森田図書十四歳で傍輩と賭《かけ》してボンボリを燈し、天守の七階目へ上り、三十四、五のいかにも気高き女十二一重をきて読書するを見、仔細を話すと、ここまで確かに登った印にとて兜のシコロをくれた。持って下るに、三階目で大入道に火を吹き消され、また取って帰し、彼女に火をつけ貰い帰った話を出す。この気高き女すなわちオサカベ姫であろう。『嬉遊笑覧』などをみると、オサカベは狐で、時々悪戯をして人を騒がせたらしい。
 さてラルストン説に、露国の家のヌシ(ドモヴォイ)はしばしば家主の形を現じ、その家を経済的によく取り締まり、吉凶あるごとにこれを知らすが、またしばしば悪戯をなす、と。しかして家や城を建てる時、牲にされた人畜がヌシになるのだ。類推するに、亀姫、オサカベ等も人柱に立てられた女の霊が城のヌシになったので、のちに狐、貉と混(436)同されたのだろう。
 また予の幼時和歌山に橋本という士族あり。その家の屋根に白くされた馬の髑髏があった。むかし祖先が敵に殺されたと聞き、その妻長刀を持って駆けつけたが敵見えず、せめてもの腹癒せに敵の馬を刎ねその首を持ち帰って置いた、と聞いた。しかし、柳田君の『山島民譚集』一に、馬の髑髏を柱に懸けて鎮宅除災のためにし、また家の入口に立てて魔除けとする等の例を挙げたのを見ると、橋本氏のも、デンマークで馬を生埋めするごとく、家のヌシとしてその霊が家を衛りくれるとの信念よりした、と考えらる。柳田君が遠州相良辺の崖の横穴に石塔とともに安置した馬の髑髏などは、馬の生埋めの遺風で、その崖を崩れざらしむるために置いた物と惟う。
 予はあまり知らぬことだが、本邦でも、上述の英国のパウリーや露国のドモヴォイに似た、奥州のザシキワラシ、三河・遠江のザシキ小僧、四国の赤シャグマ等の怪がある。家の仕事を助け、人を威し、吉凶を予示し、時々悪戯をなすなど、欧州の所伝に異ならぬ。これらことごとく人柱に立てたものの霊にもあらざるべきが、中にはむかし新築の家を堅めんと牲殺されたものの霊も多少あることと思う。飛騨、紀伊その他に老人を棄殺した故蹟があったり、京都近くに近年までおびただしく赤子を圧殺した墓地があったり、『日本紀』に、歴然と大化新政の詔を載せたうちに、そのころまでも人が死んだ時、みずから縊死して殉じ、また他人を絞殺し、また強いて死人の馬を殉殺し、とあれば垂仁帝が殉死を禁じた令もあまねく行なわれなんだのだ。さて『令義解』には、信濃国では妻が死んだ夫に殉ずる風が行なわれたという。久米邦武博士(『日本古代史』八五五頁)も言われた通り、そのころ地方の珠俗は国史に記すこと稀なれば尋ぬるに由なきも、奴婢賤民の多い地方には人権乏しい男女小児を家の土台に埋めたことは必ずあるべく、その霊をその家のヌシとしたのがザシキワラシ等として残ったと惟わる。ザシキワラシ等のことは、大正十三年六月の『人類学雑誌』佐々木喜善氏の話、また柳田氏の『遠野物語』等にみゆ。
 数年前の『大阪傳日』紙で、かつて御前で国書を進講した京都の猪熊先生の宅には、由来の知れぬ婦人が時々(437)現れ、新来の下女などはこれを家内の一人と心得ることあり、と読んだ。沈香も屁もたきもひりもしないで、ただ現われるだけらしいが、これもその家のヌシの伝を失したものだろう。それから『甲子夜話』二二に、大坂城内に明かずの間あり、落城の時婦女自害せしより一度も開かず、これに入りもしくはその前の廊下に臥す者怪異に逢う、と。叡山行林院に児《ちご》がやとて開かざる室あり、これを開く者死す、と(柳原紀光『閑窓自語』)。むかし稚児が寃死した室らしい。欧州や西亜にも、仏語でいわゆるウーブリエットが中世の城や大家に多く、地底の密室に人を押し籠めまた陥れてみずから死せしめた。現にその家に棲んで全く気づかぬほど巧みに設けたのもあるという(バートン『千一夜譚』二二七夜譚注)。人柱とちょっと似たことゆえ、書き添えおく。
 また人柱でなく、刑罰として罪人を壁に築き込むのがある。一六七六年パリ板、タヴェルニエーの『波斯紀行』一巻六一六頁に、盗人の体を四つの小壁で詰め、頭だけ出してお慈悲に煙草をやり死ぬまですて置く、その切願のまま通行人が首を刎ねやるを禁ず、また罪人を裸で立たせ四つの壁で囲い、頭から漆喰を流しかけ堅まるままに、息も泣くこともできずに悩死せしむ、と。仏国のマルセルス尊者は腰まで埋めて三日晒されて殉教したと聞くが、頭から塗り籠められたと聞かぬと、一六二二年にかかる刑死の壁を見てピエトロ・デラ・ヴァレが書いた。
 『嬉遊笑覧』巻一上に、「『東雅』に、南都に往きて僧寺のムロという物をみしかど、上世に室と言いし物の制ともみえず。もとこれ僧寺の制なるがゆえなるべしと言えるは非なり。そは宮室になりての製なり。上世の遺跡は、今も古き窖《あなぐら》の残りたるが九州などにはあり、と言えり。かの土蜘蛛と言いし者などの住みたる処もあるべしとかや。近くは鎌倉にことに多く、これまた上世の遺風なるべし。農民の物を入れおくために掘りたるも多く、また墓穴もあり。土俗これをヤグラと言う。『日本紀』に兵庫をヤグラと読めるは、箭を納るる処なればなり。これはその義にはあらず、谷倉の義なるべし。よりて塚穴をもなべていう。実朝公の墓穴には岩に彫物あるゆえに、絵かきやぐらという。また囚人を籠めるにも用いしとて、大塔の宮を始め景清、唐糸等が古跡あり(下略)」。
(438) 紀州東牟婁郡に矢倉明神の社多し。方言に山の嶮峻なるを倉という。諸荘に嶮峻の巌山に祭れる神を矢倉明神と称すること多し。大抵はみな巌の霊を祭れるにて、別に社がない。矢倉のヤは伊波の約にて巌倉の義ならんとは『紀伊続風土記』八一の説だ。『唐糸草紙』に、唐糸の前、頼朝を刺さんとして捕われ石牢に入れられたとあれば、谷倉よりは岩倉の方が正義かもしれぬ。いずれにしても、このヤグラは櫓と同訓ながら別物だ。景清や唐糸がヤグラに囚われたとあるより、早計にも二物を混じて、二重櫓の下に囚われおった罪人の骸骨が今度出たなど断定する人もあろうかと、あらかじめ弁じおく。   (大正十四年九月『変態心理』一六巻三号)
 
(439)     明智左馬介の死期
 
 『変態心理』九月号二五頁、下沢瑞世氏の「六十代老人の文化能力」中に、明智光俊が六十五歳で例の湖水乗切りを行なうたように記されてあるのは、何によったものであろうか。飯田氏の『野史』二七九で見ると、左馬介光俊、あるいは光春、また光昌という。光秀の叔父光安の子なり。光安、斎藤道三に仕え、弘治二年、道三その子義竜に殺された時、光安、明智城に拠って義竜を拒ぎ敗死の際、その子光俊を自分の亡兄光網の子光秀に托したとあれば、光俊は光秀の従弟で年下である。
 「明智系図」には、光秀享禄元年生まるといえば、天正十一年五十五歳で死んだので、『明智軍記』に載せた辞世に、「五十五年の夢、覚め来たって一元に帰す」とあるのに合う。「明智系図」には、左馬介を光秀の弟としてあるが、五十五歳で死んだ光秀の弟が、光秀に一日後れて六十五歳で自殺したとは受け取れぬ。されば『近江輿地誌略』一六に、左馬助安土城に火をかけ、坂本城へ急ぐ途上、堀秀政と打出浜に戦い、辛うじて坂本城に入り、叔父光広六十七歳、左馬助四十六歳で、光秀の妻女もろとも自殺したとあるが正しく、光俊は六十五歳でなく四十六歳で湖水を乗り切ったとみえる。   (大正十四年十月『変態心理』一六巻四号)
 
(440)     婦女《おんな》を※[女+交]童《わかしゆ》に代用せしこと
 
 『此花』第一六枝六丁表、紅絹野天《こうけんやふ》の「西洋男色考」末文に、西洋に婦女を※[奚+隹]姦すること盛んなる記述を結ぶとて、「日本の男色はこのようなことはないらしい、云々」と言えり。今日は然らん、しかし往昔かかること日本にもありしは、『嬉遊笑覧』巻九、若衆女郎、古くありしものと見えて、『吾嬬物語』に、まんさく、まつ右衛門、兵吉、左源太、きんさく、とらの助、熊之助などいう男名あまたあり。これもと歌舞妓をまねびて、大夫といいしころより、佐渡島正吉などいえる大夫もありし名残と見ゆ。これそれのみにもあらず、男寵の流行《はやり》しゆえに、後までもかようの名を付くるなり。されど大夫にはあらず、みな端格子《はしこうし》の内なり。勝山が奴風《やつこふう》の行なわれしもこのゆえなり。箕山いわく、近年傾城の端女に、若衆女郎といえるあり、先年祇園の茶屋に亀といいし女、姿かたちを若衆によく似せて酌を取りたり。されどもこれ遊女ならず、これのみにて断絶しぬ。若衆女郎の初まる処は、大坂新町富士屋という家に、千之助とてあり。この女は、初め葭原町の局にありしが、おのずから髪短く切ってあらわしいたり。寛文九己酉年より、本宅の局に帰りて月代をすり、髪を捲上げにゆい、衣服の据短く切り、後帯をかりた結にし、懐中に鼻紙たかく入れて、局に着座す。粧いかわれる印に、暖簾《のうれん》もかえよとて、廓主木村又次郎が許しを得て、暖簾に定紋を付けたり。紺地に鹿の角を柿にて染め入れたり。これ若衆女郎の濫觴《はじめ》なり。見る人珍しとて門前に市をなすゆえに、ここかしこに一人ずつできるほどに今はあまたになり、堺、奈良、伏見の方まで弘まれり。これ衆道に好《す》ける者をおびき入れむの謂《いわれ》ならんか。されどもよき女をば若衆女郎にはしがたし。それに取り合いたる顔を見立ててすると見ゆ。大坂の若(441)衆女郎は、外面よりそれと知らしむるために、暖簾に必ず大きなる紋を染め入るるといえり。『洛陽集』に、青簾憐なるものや柿暖簾(有和)。(已上『笑覧』)
 『東鑑』巻一九、建暦二年十一月十四日、さる八日の絵合のこと、云々。また遊女らを召し進らす。これらみな児童《ちご》の形を写し、評文《ひようもん》の水干に、紅葉、菊花などを付けてこれを着る。おのおのさまざまの歌曲を尽す。この上、上手の芸者年若き属《たぐい》は延年に及ぶとなり。これ少女美童に扮《いでたち》て男童舞を演ぜしなり。しかるに天野信景の『塩尻』(帝国書院刊行本)巻四三に、この一節を評して、当時遊女は男児の為《まね》す、今の児童は遊女の形を為《まね》す、時風かくのごときか、と言えるは、自分と同時代に若衆女郎行なわれしを知らざりしなり。
 また必ず※[奚+隹]姦のためならずとも、そのころ僧が男装、男動作の女を寺に蓄《やしな》いしは、『一代女』巻二に、「脇ふさぎをまた明けて、むかしの姿に返るは、女|鉄拐といわれしは、小作りなる生れつきの徳なり。折ふし仏法の昼も人を忍ばす、お寺小姓という者こそあれ。われ恥かしくも若衆髪に中刺《なかぞり》して、男の声遣い習い、身振りも大かたに見て覚え、下帯かくも似る物かな、上帯もつねの細きに替えて、刀脇指腰定めかね、羽織編笠も心おかしく、作り髭の奴に草履持たすなど、物に馴れたる太鼓持ちをつれ、世間寺《せけんでら》の有徳《うとく》なるを聞き出だし、庭桜見る気色《けしき》に塀重門に入りければ、太鼓方丈に行きて、隙《ひま》なる長老に何か小語き、客殿へ呼ばれてかの男引き合わすは、こなたは御牢人衆なるが、御奉公済まざるうちは、折ふし気慰みに御入りあるべし。万事頼みあげるなどいえば、住持はや現《うつつ》になって、夜前《やぜん》、あなた方《がた》入《いら》いで叶わぬ子下《こおろし》薬を、さる人に習うて参ったというて、跡にて口ふさぐもおかし。後は酒に乱れ、勝手より腥き風も通い、一夜ずつの情代《なさけだい》金子二歩に定めおき、諸山の八|宗《しゆう》、この一宗を勧め廻りしに、いずれの出家も珠数切らざるはなし」とあるにて知るべく、天野氏みずからも、『塩尻』巻七〇に、享保五年、江城西曹子谷《えどのにしぞうしがや》の日蓮僧、婦人を少男《わかしゆう》に粧い、房中の慾をほしいままにせしを、寺男その女なるを知り、挑みて聴かれざりしより事起こり、かの僧その男を殺し、十二月二十七日、女と共に梟首《ごくもん》せらる、と記せり。
(442) 支那にも女を男装せし例、斉の景公、婦人にして丈夫の飾をなす者を好み、国人ことごとくこれを服せしを、晏嬰諫めたることあり(『説苑』巻七)。梁の慧皎《えこう》の『高僧伝』巻一〇に、宋の劉孟明、二妾を男装し、異僧碩公に薦め、その操を試みし話出ず。
 本邦にも、上杉景勝、女色を好まず、直江|兼続《かねつぐ》、京都にて十六歳の美妓を購い、小姓に作り立てて景勝に薦め、一会して妊む。しかるに、景勝その女なりしを知り、まことの男ならねば詮なしとてこれを卻く。女これを悲しみ、定勝を生んで、すなわち自殺せりという(『奥羽永慶軍記』巻三九)。その前後武功を励むのあまり、女を断ちし人多く、松永方、中村新九郎は武名を立てんため一代男と称し、妻女を具せず、童子《わらわ》をわれと均しく仕立て、陣中に連れ行きともに討死にし(『南海通記』巻九)、景勝の養父謙信も、武功に熱して、一生婦女を遠ざけしが、小姓を愛せる由、『松隣夜話』等に見ゆ。されば、熊沢了介の『集義外書』巻三、大名などの美女に自由なるが、男色を好きて子孫なき者あり、と言えり。内藤恥叟の『徳川十五代史』によれば、浅野幸長はこの一例なり。塩谷宕陰の『昭代記』に、元和六年、三条の城主市橋長勝、愛童三四郎を女婿としたるを、おのれ臨終に世詞ぎとせしを遺臣ら従わず、長勝の甥長正を立てんと請う。よって長正に二万石、三四郎に三千石を分かち賜うとあるもこの類で、三四郎に妻《めあわ》せしは養女らしい。したがって忠臣が主君に嗣《よつぎ》あらんことを冀い、男装の女子を薦めし者、兼続の外にも多かるべし。
 インドには、仏在世の時、女人僧に勧め、非道中行婬せしあり(『摩訶僧祇律』巻一)。仏また男装をなして女と不浄を行なう罰を制せり(『四分律蔵』巻五五)。法律の繁きは罪人を殖やす理窟で、閑多き坊主ら、かかる物を読み、好奇上より異様の行婬に及び、俗人またこれを学びて、ついに若衆女郎などを設けしやらん。
 欧州には、ギリシア、ローマの昔、男子婦女の非処を犯せし記多く、シーザルを殺せし愛国士ブルタスも、カトーの娘で寡居したるポルチヤを娶り、つねにかく行ないしとぞ。諸国キリスト教に化せし後も、このこと止まざりし証《しるし》は、十一世紀ごろのアンジェールの懺法に、妻を後方行犯すれば四十日、非道行犯すれば三年の懺悔を課す、とあり。(443)また九世紀に、ロレーン王ロタール、その妃テウトバーガが、早くその兄ウクベールにつねに※[女+交]童同様に非路行犯され、子を妊みしを堕胎せしことありとて、離縁を主張し、ローマ法王の干渉を惹起し大騒動せり。兄が妹を非処行犯とは未聞の珍事なり、いわんやそれで子を妊みしにおいてをや。ただし、妊娠予防の素志より出でしが、誤って孕ませしならん。老人が、妾の情夫の種をかずけられ大分の金をとられしに懲りて、新来の妾の非道のみ弄ぶうち、妾が老人の子と私してみずから入れ合わせたという話、『小柴垣』巻二にあるを参照すべし。また十七世紀に高名なりしジャク・ジュヴァルの『半男女論《デーサーマフロジト》』に、そのころパリの若き僧、娠《はら》みたるを禁監して、その出産を俟つ由見ゆ。俗伝に、九世紀のジョアン法王は女が男装せるなり、難産で死せりという。ただし、非道受犯のことなし。
 支那に男が子を産みし記多し。『五雑俎』巻五、「晋の時、曁陽の人任谷、野に耕して羽衣の人を見、ともに淫してついに孕み、期至ってまた至る。刀をもってその陰の下を穿つに、一蛇子を出だす。ついに宦者《かんじや》となる、云々。国朝の周文襄、姑蘇にありし日、男子の子を生めりと報ずる者あり。公答えず、ただもろもろの門子を目していわく、汝輩《なんじら》これを慎しめ、近来、男色は女よりもはなはだし、それ必至の勢いなり、と」。また『池北偶談』二四、「男子、子を生む。福建総兵管楊審に嬖童《へいどう》あり、二子を生む、云々。近ごろ楽陵の男子范文仁また子を生む。内兄の張賓公、親しくこれを見たり」。
 むかし高野山で※[女+交]童たりし人の話に、背孕みということありしとか。いわゆる「小姓の脹満《ちようまん》もしやそれかと和尚思ひ」で、これはまれに双生胎児の一が他の一児の体内にまき込まれ、潜在してようやく長ずる者あれば、ちょうど男が子を孕んだと見受けらるるものと専門家から聞いたり。しかし、いわゆる「男子子を生む」は、多くは婦女男装せる者が出産せしものなるべし。   (明治四十五年五月『此花』二一枝)
【付言】
 第二一枝に、拙文「婦女を※[女+交]童に代用せしこと」出でて後、『源平盛衰記』巻三五、榛沢成清《はんざわなりきよ》、巴《ともえ》女のことをその(444)主人重忠に話すうち、義仲の「乳母子ながら妾《おもいもの》にぞ、内には童《わらわ》仕うようにもてなし、軍には一方の大将軍して、さらに不覚の名を取らず」とあるを見出だしつ。しからば、巴も※[女+交]童風態《わかしゆぶり》して木曽に随身せるにて、まずは若衆女郎体のものたりしならん。また『覚後禅』第一七回によれば、支那に『奴要嫁伝《どようかでん》』なる書あり、一个《ひとり》の書生が隣りの室女《きむすめ》を非路行犯することを述べたるものの由なり。   (明治四十五年七月『此花』凋落号)
 
(445)     千人切りの話
 
 『此花』第四枝最終頁に、寛政十二年板『浪花の梅』を引いて、「天王寺境内に、供養塔とて長き塚あり。慶安三年庚辰、十二月十四日、九州肥後国|益城《ますき》郡中島住人、田代孫右衛門造立。世俗に千人切りの罪を謝する供養の石碑なり、と言えり。一説に、田代氏は国元に住居の時、何某の娘と契りて、のち他国へ稼ぎに行き、月日を経て帰国せしところ、契りし娘他家へ縁組せしと聞きて心外に思い、深き契約も今は仇となりしとて、それより魚鳥獣虫に至るまで、千の数《かず》命を取り、娘の一命を失わしめんと一心を究め、狂気のごとく毎日生物の命を取るを、老母は憂《うた》てく思い、たびたぴ意見をすれども聞き入れず。さて九百九十九の命を取り、今一命に亀を捕えければ手足首を出さず。母これを見てさまざま止めければ、もはやこの一命にて満願成就なればとて止まらず。母は詮方なく、亀を助けて代りにこの母を殺せと言えば、孫右衛門心得、母に取り懸かると思いしが、そのまま正気を失う。老母も歎き入りしが、たちまち本性となりて母に向かい、始終を物語る。かりにも母に手向かいし罪を免し給えかしとて、髪を剃り母に暇を乞い、廻国に出て、津の国天王寺|西門《さいもん》の辺にて病死せりとぞ。亀の上に碑石を立つ、これこの因縁なるべし」と出ず。
 「帝国文庫」四九編に収めたる俗書『絵本合邦辻』にも、田代の伝あり。その名を弥左衛門とす。その略にいわく、この処士《ろうにん》若くして父を失い、仏教の信念厚き母とともに棲み、温順の聞えありしが、同じ中島村の貧医藤田養拙の娘、見代《みよ》女に通ぜり。たまたま親戚の用事を受けて長崎へ行くに臨み、秘蔵の小柄《こづか》を、女の護身刀《まもりがたな》と取り替わして、信《まこと》を表わし発足しぬ。長崎に二年ばかり留まり、還って藤田家を訪うに、彼女は国主の老臣へ奉公に出でしと聞き、その(446)邸に出入る者を憑み書を贈る。見代女の主人の侍臣《ようにん》富田幸次郎、かねて彼女を慕い口説けども聴き入れず。たまたま出入りの者、富田に件の田代の書を見代女に伝えんことを頼む。富田怪しみ披見して、これ乗ずべきなりとなし、女の返簡を偽造して使者に付く。田代、得てこれを読むに、すでに主人の寵辛に預り、安楽なれば、卿《おんみ》と永く絶たん、かつて取り替わしたる紀念《かたみ》を相戻さん、となり。田代、大いに怒り、みずから城下に赴き、見代女が主人の妻と花見に往きし帰路、これを襲いて就《な》らず、衛士に縛られんとす。時にかたわらの庵より老隠士出で来たり、これ酔狂人なりと弁じ救助し、庵に伴れ帰り、仔細を聴き、諫め喩せども田代聞き入れず。よってこれに、彼女不慮にみずから禍いを受くべき一法を授く。田代これを行なわんとて、彼女の護身刀もて一昼夜に百の生命を絶たんと、すでに九十九の動物《いきもの》を害し、最後に自家に飼える亀を殺さんとして母に遮られ、瞋恚《しんい》のあまり母を斬らんとして気絶しければ、母僧俗を請じ、百万遍を催す。念仏終わるに臨み、田代|蘇《いきかえ》り、みずから地獄に往って閻王に誡《いまし》められし次第を語り、出家廻国して天王寺辺に歿しぬ。これより前、富田、姦計顕われて追放され、見代女は情人《いろおとこ》田代の成行きを悲しみ、誓うて他に嫁がず、一生主家の扶持にて終わる、と。
 『嬉遊笑覧』巻四にいわく、「千人切りということ、云々、これも往昔もっぱら言いしことと見えて、『謡曲外百番』に千人伐りありて、詞にいう、阿武隈川の源左衛門殿と申す人、行衛も知らぬ人に父を伐たれて、その無念さに千人切りをさせられ候、云々。また『秋の夜長物語』山門三井寺合戦の処、千人切りの荒讃岐《あらさぬき》云々などもいえり。『続五元集』中、心をつむとて消し提燈、出会えと千人切りを呼ばうらん(晋子《しんし》)。天野信景いう、鵜丸《うのまる》の太刀は、濃州久々利の人土岐悪五郎が太刀なり、悪五郎は天文ごろの人なり、土俗にいう、悪五郎、京五条橋にて千人切りしたりし時、この太刀川へ落としけるを、鵜二羽くわえて上がりし、鵜の嘴《はし》の跡残りしゆえ鵜丸と名づくるといえる、云々」(以上『笑覧』)。『兼山記』には、これを南北朝時代の人とし、いわく、「和田五郎に討たれし土岐悪五郎、打物取って早業太刀の剛の者なり。生得《うまれつき》恵逆無道なり。ある時五条の橋にて、武蔵坊弁慶が跡を追い、千人切りを思い立ち、往来の人を(447)切ること二、三百人(下略)」。『続群書類従』の「織田系図」に、信長の従弟津田信任、従五位下左近将監たり。「秀吉公に仕う。伏見、醍醐、山科の間において、千人|刎《ぎり》の棟梁となりし旨、上聴に達し、死・流刑に処せらるべきところ、亡父(隼人正の信勝)は多年の昵近にて優《あつ》く奉公せしところなれば、他に異《かわ》り、所領(三万五千石なり)を没収するところとなる。よって落飾して長意と号し、中納言利光卿の芳情によって、加州金沢に幽居す」。また『宇野主水記《うのもんどき》』にいわく、「天正十四年二月二十一日ごろ、千人切と号して、大坂の町人にて、人夫風情の者数多打ち殺す由、種々風聞あり。大谷紀之助という小姓衆、悪瘡気《かさけ》に付きて、千人殺してその血を与うれば、かの病平癒の由、その義申し付くと、云々、世上風説なり。今二十一日、関白殿御耳へ入りて、かくのごときの儀今まで申し上げぬ曲事のあいだ、町奉行衆を生害させらるべきことなれども、命を御免なさるるとて、町奉行三人追い籠めらるるなり、云々。右の千人切の族《やから》あらわれ、数多相籠められ、云々。三月三日、四日ごろ、五人生害、宇書多次郎九郎生害の内なり。大谷紀之助所行の由、風聞一円雑談なり」。
 これらは武士跋扈の世に、武勇を誇るのあまり、なるべく多人を殺せるなれば、千人切りとも言うべけれ。田代某が行ないしというところは、人ならで虫、畜《けもの》を多く殺せしなれば、千疋切り百疋切りと言わんこそ適当ならめ。しかしながら田代氏が碑を建てたる当時、千人切りの名高かりしは、貞享四年板『男色大鑑』巻八に、「田代如風は、千人切して、津の国の大寺に石塔を立てて、供養をなしぬ。われまた衆道に基づき、二十七年その色を替え品を好《す》き、心覚えに書き留めしに、すでに千人に及べり。これを思うに、義理をつめ意気づくなるはわずかなり。みな勤子《つとめこ》のいやながら身を任せし、一人一人の所存のほども惨《むご》し。せめては若道《にやくどう》供養のためと思い立ち、延紙《のべかみ》にて若衆千体張貫にこしらえ、嵯峨の遊び寺に納め置きぬ。これ男好開山《なんこうかいさん》の御作なり。末世にはこの道弘まりて開帳あるべき物ぞかし」。貞享元年板『好色二代男』巻八、女郎どもに作らせし「血書《ちがき》は、千枚重ね土中に突っ込み、誓紙塚と名づけ、田代源右衛門と同じ供養をする」など見えたるにて知るべし。
(448) これらは小説なれど、古えより諸邦に淫蕩の人、情事《いろごと》の数多きに誇りし例少なからず。『三楚新録』巻一、「馬希範は、婬にして礼なし。先王(馬殷)の妾※[月+券の刀が女]《しようよう》、烝通せざるはなし。また尼をして士庶の家の女の容色あるものを捜さしめ、みな強いてこれを取る。前後およそ数百に及び、しかもなお不足の色あり。すなわちいわく、われ聞く、軒轅《けんえん》は五百の女を御してもって天に昇ると、われそれ庶幾《ちか》きか、と。いまだいくばくならずして死す。大いに識者の笑うところとなる」。支那の黄帝、アラビアのマホメット、ギリシアのヘラクレス、いずれも御女《ぎよじよ》の数莫大なりしを盛徳として喧称され、三世紀の末、ガウルの勇将プロクルスの自賛に、サルマチヤを征して素女《きむすめ》百人を獲、一夜に十人を御し、半月ならぬに百人を挙げて既婚婦《しんぞう》に化し遣わせり、とある。その剛強無双、恐縮の至りとギボン先生も『羅馬衰亡史』一二章に感嘆せり。古今実際かかる俊傑多ければ、故ハーバート・スペンセルが、一夫多妻《ポリガミー》の起りは、継嗣《あとつぎ》を望むとか経済のためとかよりも、主として婦女を自意《わがこころ》に任せうること多きに誇れるにあり、と論ぜしはもっともな言なり。本邦には『長禄記』に業平の契りたまいし女、三千三百三十三人とあり。後世、業平大明神とて漁色家がもっぱら仰ぎしこと、浮世冊子類にしばしば見えたり。六月一日の『日本及日本人』九四頁に、「文化九年、云々。『甲子夜話』に、ある公卿もと院伝動めし人の、家も富有なるが、何等の好色にや、一千人の女と交わるべき発願して、年若き時より、壮若貴賤を撰ばず、力の及ぶだけ漁色したり。この両三年前、願の数に盈ちたりとて、その祝いせられけると言えるは、高倉太宰大弐|永孚《えいふ》(三十九)のことなるべし」と見ゆ。これらより推して、情事の千人供養も絶無のことならざるを知るべし。
 上に引いたる『絵本合邦辻』に、田代の母百万遍を催すに先だち、檀寺の僧仔細を聞いて、むかし班足王千人の命を絶つべしと大願を発し、九百九十九人を殺し、今一人になって、老母をもって員《かず》に充てんとす。すでに害せんとせし時、忽然と大地裂けて班足を陥る。老母驚き悲しみ、その髪を掴んで引き上げんとすれど、休すでに地中に落ち入り、髪のみ老母の手に遺りし、と経文に説けり。弥左衛門も同様の罪によって、目前阿毘焦熱の苦を受くると覚ゆと(449)言えり、とあり。これその僧また著者が記臆の失にて、諸経説を混淆せり。すなわち班足王が百王の肉を食らわんとて、九十九王を囚え、最後に善宿王を擒えしに、梵志に食を施さんと約して、与えぬうちに死するを悲しむを見、時を期して放還せしに、蔵を開き施しおわりて、約の通り還り来たりしに感心して、九十九王と共に縦《ゆる》し帰せし譚《ものがたり》は、『出曜経』巻一六に出で、地に陥つる子の、髪のみ母の手に留まりし話は、『雑宝蔵経』巻七に、子が母の美貌に着《じやく》し、病となり、母に推し問われてその由を告げしに、母、子の死せんことを怕れ、「すなわち児を喚び、その意に従わんとす。児まさに床に上がらんとするや、地すなわち擘裂《さけ》て、わが子即時に生身陥入す。われ、すなわち驚怖し、手をもって児を挽き、児の髪を捉え得たり。しかしてわが児の髪は、今日なおわが懐中にあり。このことを感切し、この故に出家せり」。これより転じて、古く『日本霊異記』中巻と『今昔物語』巻二〇、すでに武蔵人|吉志火麿《きしのほまろ》、母を殺さんとして地に陥没し、髪のみ母の手に残りし誕《ものがたり》を載せ、今も中山寺の※[魚+〓]《わに》口の綱に、罪重かりし巡礼女の長髪《かみ》纏い着けりと伝う。その老母をもって百人の数に充てんとせしというは、指鬘《しまん》比丘の伝に基づけるなり。
 招鬘、梵語で鴦窶利摩羅《アングリマーリヤ》、略して央掘摩《おうくつま》と書く。劉宋の世支那へ来たりしインド僧|徳賢《グニヤバードラ》所訳『央掘摩羅経』によれば、仏在世に舎衛城の北|薩那《さつな》村に梵種の貧女|賢女《バードラ》と名づくるあり。男児を産み、一切世間現《いつさいせけんげん》と名づく。少にして父死す。十二歳にして人相色力具足し、聰明弁才あり、無垢賢《マニバードラ》といえる梵師に学ぶ。ある日師王の請いを受け、世間現に留守頼み出で往く。師の妻、年若く美人なりしが、世間現を見て染着《せんじやく》し、たちまち儀軌を忘れ、前んでその衣を執る。世間現、師の妻はわれの母に斉し、如何ぞ非法を行なわんとて、衣を捨ててこれを避く。かの婦欲心|熾盛《さかん》にて、泣いて念ずらく、彼わが意に随わず、要《かなら》ず彼を殺し、さらに他の女を娶らざらしめん、と。すなわち「みずからその体を攫《つか》み、婬乱いよいよ熾《さか》んにして、みずから焼いて病となる」。女人得意の諂《いつわり》を行ない、その身を荘厳《かざり》たて、繩もてみずから縊り、足地を離れず。夫帰り来たり、刀もて繩を截ち大いに叫んで誰が所為《しわざ》ぞと問う。婦答うらく、これ世間現、非法を行なわんとて、われに強逼《きようふく》し、かく行なえり、と。夫無垢賢かねて、世間現生まれし日、一切王種(450)所有の刀剣おのずから抜け出で捲き屈んで地に落ちたる瑞相より推して、この人大徳力あるを知り、とても自分の手に及ばぬ奴と思いければ、何とかして自滅させやらんとて、世間現を招き、汝は悪人なり、所尊《めうえ》を毀辱《きじよく》せり、千人を殺して罪を除け、と命ず。世間現、天性恭順、師の命を重んず。すなわち師に白す、千人を殺すことわが志にあらず、と。師これを強いしかばやむをえず承諾す。師また告ぐ、一人を殺すごとに、その指を取って鬘《まん》と作し、千人の指を首に冠りて還らば婆羅門となるべし、と。これより世間現を指鬘と名づく。すでに九百九十九人まで殺し、今一人で事済むべしと、血眼になって暴れ廻るところへ、その母、彼の饑えたるを察し、みずから四種の美食を持ち送り往く。子、母を見て、わが母を千人の員に入れ、天上に生まれしむべしとて、剣を執ってこれを殺さんとす。その時世尊一切智もてこのことを知り、忽然指鬘の前に現ぜしかば、われ母の代りにこの者を殺すべしと、斬り懸かりしも、仏神足もて斬られず、反って偈を説いて、母恩の大なるを暁し、指鬘を降伏して得道し、羅漢とならしむ。しかれども、多く人を殺せし報いによって、日夜血の汗、衣を徹せりという。玄奘の『西域記』に、指鬘が母を殺さんとして、仏に降伏されし故蹟を覩たり、と記せり。『増一阿含経』巻三に、釈尊みずから諸弟子を品評せるうち、「わが声聞中の第一の比丘は、体性利根にして、智慧深遠なり。いわゆる央据魔比丘これなり」と見え、巻三一に、央据摩千人切りを説くほぼ上文に同じく、その得道の後、われ賢聖に従って生じ、以来殺生せずと、至誠の言を持して、難産婦人を安産せしめたり、と見ゆ。罪深かりしだけ、なかなかの俊傑と思わる。
 戦国より織豊二氏のころ、首供養ということあり。例せば『氏郷記』に、村瀬又兵衛、首取村瀬という、首供養三度までせり。無智の者ゆえ、氏郷五百石与えしを不足にて、千石賜えと愁訴す。とかくしてあるうち毒蕈を食らい死せり、と言い、『常山紀談』に「別所家にて首供養したる人ありと、孝隆(黒田)聞きて、秦桐若《はだきりわか》首三十一取りたるに、惜しむべきは死したりき、吉田六之助正利供養すべしと言われしに、正利首数二十七取りて候とて辞したりけり、孝隆|小気《しようき》なる男かな、今三十一歳なり、この後首取るまじとや、まず供養して、後にその数を合わせよとて、米百石与(451)え供養して、播州青山の南に塚を築きたり。のち所々の合戦、朝鮮の軍《いくさ》までに、取りたる首五十に及べり」と載す。惟うに田代孫右衛門(西鶴は源右衛門また如風とし、『絵本合邦辻』には弥左衛門とせり)、若かりし時、戦場で首多く取り、また辻切りなど試みける人の、老後天王寺内に首供養の塚を築き、碑を立てたるを、千人切りの石塔と略伝せしならん。さて後年、上出仏経諸説を付会して、千疋切りの譚出で来しものか。
 多くの動物を殺して人を呪詛すること、真言の諸方にしばしば見え、支那にも巫蠱の蠱の字は、皿に蟲を盛れるに象る。『康煕字典』に『通志』六書略を引いて、「蠱を造るの法は、百虫をもって皿の中に置き、たがいに啖食《くら》わしめ、その存するものを蠱となす」とあり、『焦氏筆乗』続集五に、「江南の地に蠱多し。五月五日をもって百種の虫を聚む。大なるものは蛇に至り、小なるものは虱に至る。合わせて器中に置き、みずから相啖わしむ。食に因って人の腹内に入るれば、その五臓を食らい、死すればすなわちその産は蠱主の家に移る(下略)」。今も後インドにかかる法を行なう者あり。田代が亀を殺さんとせし時、亀、手足首を出ださずと言えるは、『雑阿含経』巻四三に、「亀虫は野干を畏れ、六を殻の中に蔵《かく》す。比丘はよく心を摂《おさ》め、密かにもろもろの覚想を蔵す。依らず、怖畏《おそ》れず、心を覆いて、言説するなかれ」、比丘がよく口を慎むを、亀が首尾手足を蔵して野干に喫《くら》われざるに比せるに出ず。さて『本草』に、贔屓《ひき》は大亀の属、好んで重きを負えば、今石碑の下の亀趺《かめいし》その形に象る、という。この風を伝えて、田代氏が建てたる碑にも、亀状の座石《すえいし》を設けたるを、蔵六の譬喩と合わせて、彼人《かれ》亀を殺さんとして母に妨げられし、と作りしなるべし。『類聚名物考』千人斬りの条の次に、短く指鬘のことを列せるも、田代氏のことを序《の》べず。ついでに言う。紀州日高郡|寒川《さむかわ》の大迫某、銃猟の名人で、百年ばかり前、千疋供養を営めり、とその後胤西面欽一郎氏より聞く。
 上述阿武隈川の源左衛門、知れぬ人に父を討たれ無念晴しに千人切りをなせり、と謡曲にあるより、事相似たれば、西鶴混じて、田代孫右衛門を源右衛門と作せるか、件の謡曲の源左衛門がことと、田代氏のこと、すこぶるマレー人、またブギ人に発生するアモク症に似たり。すなわち彼輩、負債、離別、責罰等で、不平きわまる時、たちまち発狂し(452)て前後を覚えず、短剣を手にし、出逢う男女老幼を刺し尽さんとして息《や》まず、ついに群集に殺さるるを、衆これを賞讃の気味あり。五十六年前、ワリス氏、マカッサー島で見聞せしは、かかること月に平均一両回あり、毎回五人、十人、また二十人もこれに過って殺傷されし、となり(氏の『巫釆群島記《ゼ・マレー・アーキペラゴ》』一一章)。インドにも、一六三四年、ジョドプル王《ラジヤ》の長男、ジャハン皇《シヤア》の廷内にアモクし、皇を討ち洩らせしが、その臣五人を殺し、十八世紀にジョドプル王の二使、主人とハイデラバッド王の争論につき協議すとて、ハイデラバッドに往き、突然起って王を刺し、ならびにその二十六臣を殺傷して殺されたり(『大英類典』一一板、巻一)。『武徳編年集成』二五に出でたる、平原宮内が、家康の陣営に突然闖入して二十七人を殺傷し、自分も殺されたはずいぶん似ておる。
 『増一阿含経』巻三一に、仏、央掘摩の因縁を説く。迦葉仏在世ののち大果《たいか》王あり。その第一妃男子を生む。希有の美男たり、大力《だいりき》と名づく。八歳の時|娶婦《よめとり》せよと勧むるに、幼なりとて辞す。また二十年経って勧めしも辞す。よって名づけて清浄太子という。父王国中に令して、よく太子をして五欲を習わしむる者あらば、千金と諸宝を与えんと宣ぶ。その時婬種と名づくる女あり、六十四変を明らめ尽せり。われこれをよくせんとて、王に請うて、内宮中に勅して随意《ままに》出入を遮るなからしむ。その夜二時、女、太子の門側にあって哭く。太子ただ一男児と寝室《ねま》にありしが、これを聞いて侍臣をして往って所由《わけ》を問わしむ。婬女|報《こた》えて、夫に棄てられこの次第、また盗賊を畏れて哭く、と言う。よって侍臣をしてこの女を象厩《ぞうや》中に置かしむるに、また哭きしかば堂後に置く。ここでも哭く故、太子みずから尋ねけるに、女は単弱《かよわき》故、きわめて恐怖《おそろし》くて哭く、と答う。「太子告げていわく、わが床の上に上がれば畏るることなきを得べし、と。この時、女人は黙然として語らず、またふたたび哭かず。この時、女人すなわち衣裳を脱《ぬ》ぎ、前みて太子の手を捉って挙げ、おのれが胸の上に著《お》く。即時に驚覚し、漸々として欲想を起こす。すでに欲心を起こせば、すなわち身これに就く」。さて明旦、太子、父王のところへ詣《いた》る。顔色常に殊《かわ》れるを見、問うてその故を知り、父王大いに悦び、何の願いあるぞ、と問う。太子いわく、わが所願を述べて、大王|中《なか》ごろ悔いずんば啓すべし。王いわく、(453)決して中ごろ悔いじ、と。「太子、王に白す、大王は今日、閻浮提内を統領し、みなことごとく自由なり、閻浮提の里内にて、もろもろのいまだ嫁がざる女《むすめ》は、まずわが家に適き、しかる後に嫁がしめよ、と」。これより国内の処女《おとめ》、すべてまず太子に詣《いた》り、しかるのち嫁する定制《おきて》となる。須蛮《すまん》と名づくる長者女《もちまるむすめ》年ごろになり、太子に詣るべきはずのところ裸跣《はだかすあし》で衆中を行《ある》きて恥じず。衆人《みなみな》、これは名高き長者《もちまる》の娘、云何《いかん》ぞ裸で人中を行く、驢《うさぎうま》と何ぞ異ならんと嘲る。女いわく、われ驢たらず、汝らことごとく驢なり、女が女を見て相恥ずることやはある、城中の生類ことごとく女人《おんな》なり、清浄太子一人が男なり、われ太子の門に至らば衣裳を着るべし。諸民相|謂《かた》るらく、この女の説通り、われらみな女にて清浄太子のみ男なり、われら今日男子の法を行なうべしとて、兵装して父王を見、太子、国の常法を辱しめたれば、王か太子か、いずれか一人を殺さんと願う。この時父王偈を説けるは、「家のために一人を忘れ、村のために一家を忘れ、国のために一村を忘れ、身のために世間を忘る」、太子を汝ら随意《かつて》にせよ、と告ぐ。諸人、太子を縛りて域外に将《つ》れ出し、殺さんとせる時、太子誓願して、われ来世必ずこの怨を報ずべし、また真人《しんじん》に値い、速やかに解脱を得ん、と。人民みなともに瓦石もて太子を打ち殺す。その時の王は今の央掘摩の師、婬女は師の妻、その時の人民は今央掘摩に殺されたる八万人、その太子は今の央掘摩なり、と。
 これに類せる話『根本説一切有部毘奈耶』四七巻にあり。ただし、央据摩に関係なし。いわく、仏、王舎城にありし時、千人力の壮士、曠野の賊を平らげ新城を築き、人多く住み、繁盛せる謝意を表せんとて、住民娶る者、必ずこの大将を饗し、次に自分ら宴すべしと定む。一人、妻を娶るに貧しくて飲食を弁ずるあたわず、すなわち新婦をして将軍の室に入らしめ、おわって始めてこれと婚す。将軍大いに歓び、爾来諸民これを恒式とす。後日新たに嫁せんとする女《むすめ》あり、念うにこの城民久しく非法を行ない、自妻《わがつま》をまず他人に与う、何とぞこの俗を断たんとて、裸で衆中に立小便す。衆これを咎めしに、別嬪平気で答うらく、これ何の恥かあらん、国民すべて女人で、将軍独り男子たり、将軍の前でこそ、裸と立小便を恥ずべけれ、汝ら女同然の輩の前で、何の恥かあるべき、と。衆これを然りとし、会(454)飲の後、将軍を焼き殺せしに、その霊鬼神となり、毎日一人ずつ食い大災をなせしを、仏往って降伏せり、となり。『雑宝蔵経』巻七の載すところもほぼこれに同じ。まことにあるまじき不稽の譚のようなれど、予が「神社合祀論」にも述べしごとく、世には全くの啌話《うそばなし》なく、古伝説《ふるきつたえ》は必ず多少の事実に基づく。
 インドの婆羅門、原来、師の妻の外、他人ことに劣族の妻に通ずるを重罪とせず。後世まで新婦《はなよめ》を迎うる者、重く婆羅門に贈りて破素しもらいしこと、予ら幼時まで、紀州の一向宗の有難屋連、厚く資《たから》を献じて、門跡の寝室《ねま》近く妙齢の生娘を臥させもらいしに近し。されば王政の世には、諸王が配下の妻女における権力無限にて、西暦紀元ごろ、ヴァチヤ梵士の作『愛天経《カマデヴア・ストラ》』七篇二章は、全く王者、臣民の妻娘を手に入れる方法を説きたり。その末段にいわく、アンドラ民の王は、まず臣民の新婦を試むる権力あり。ヴァツァグルマ民の俗、大臣の妻、夜間、王に奉仕す。ヴァイダルブハ民は、王に忠誠を表せんとてその子婦《よめ》を一月問、王の閨に納る。スラシュトラ民の妻は、王の好みのまま、単独《ひとり》また群《むれ》でその閨房に詣《いた》るを例とす、と。欧州には、古ローマのオーダスツス帝、わが国の師直、秀吉と同じく、毎度臣下の妻を招きてこれを姦し、その後の諸帝かかる行いありし人多し。降って中世紀に及び、諸国の王侯に処女権あり。人新婦を迎うれば、初夜また初め数夜、その領主の側に臥させた後ならでは、夫の手に入らぬなり。スコットランドでは、十一世紀にマルコルム三世この制を廃せしが、仏国などには、股権とて十七世紀まで多少存せり。この名は、君主長靴穿きし一卿を新婦《はなよめ》の牀に入れ、手槍を持って疲るるまで座り込み、君主去るまで、天が新婦の寝室《ねま》に入るを得ざりしに出ず。夫この恥辱を免れんとて、税を払い、あるいは傭役し、はなはだしきは暴動を起こし、また「義経は母をされたと娘をし」という川柳的の復讐をやったもあり、仏国ブリヴ邑の若き侍、領主がおのれの新婦を試むると同時に、領主の艶妻を訪い、通宵してこれに領主の体格不相応の大男児を産ませたる椿事あり。かかることよりこの弊風ついに亡びつ。
 この風俗の起りは、キリスト教の古え、初婚の夜、素女点《ヴアージニチー》を上帝に捧ぐるとて夫婦同臥を厳禁し、北アフリカでは、上帝の名代に辱くも僧正《ビシヨツプス》が、民の新婦と同褥したまえるより転じて、それはよい思(455)いつきと、諸国君長がこの制を競うて実行せるに及べりとのことなれど、欧州のみならず、インド、クルジスタン、アンダマン島、真臘(カンボジア)、占城《チヤンパ》、マラッカ、マリヤナ島、アフリカおよび南・北米のある部にも、古来かかる風俗ありしを参考すれば、欧州またおのずからこの旧慣あり。必ずしも耶蘇教より訛伝せしにあらじと思わる(『大英類典』一一板、巻一五。ジスレリ『文界奇観《キユリオシチース・オヴ・リテラチユル》』九板、巻一。カール・シユミット『初婚夜論《ジユス・プリマエ・ノクチス》』。コラン・ド・プランチー『封建字彙《ジクシヨネール・フエオダル》』巻一、参取)。『後漢書』南蛮伝にいわく、「交址の西に、人を※[口+敢]う国あり、云々。妻を娶って美なれば、すなわちその兄に譲る。いま烏滸の人はこれなり」。本邦で痴漢《あほう》を烏滸の者と言うはこれに基づくという。数十年前まで、紀州勝浦港で、女子妙齢に及べば巧者の老爺《おやじ》に破素を托し、事おわって桃紅《もも》色の褌と、米と酒をもって酬礼する習俗なりし。また『中陵浸録』巻一一にいわく、羽州米沢の荻村にては、媒する者女の方に行きて、その女を受け取って、まず媒者《なこうど》の傍《そば》に臥せしむること三夜《みよさ》にして、餅を円く作って百八、媒者付き負うて女を連れ往き、その礼を調う、云々。要は、央掘摩千人切りと、清浄太子、処女権を過用《やりすご》して民に殺されし話と、最初別物なりしを、仏徒が古く釈尊の金口に托し、連接して一の因縁談となせるなり。   (明治四十五年七月『此花』凋落号)
 
(456)     淫書の効用
 
 『此花』第一八枝に、「大阪の夜発《よたか》」と題せる図を載せて、異態の百人一首よりとれり、とあり。この百人一首は、只今小生の座右にあり。しかるに、これと同筆にて図の大きさのみ異なる絵を混入せる異態の『女大学』一冊あり。小生、往年ロンドンにありし日、パリの故林忠正氏店より購えり。今は和歌山に置きあり。雅俗文庫には必ずこれあらん。その『女大学』の中ほどにある「野郎仕立様のこと」の条に、野郎の鼻低きを高くする法あり。図のごときものを作り、鼻をその間に挾み夜臥さしむべし、とあり(寸法忘る)。 しかるに、一咋年『大阪毎日新聞』を見しに、パリ通信に、新発明の婦女の鼻を高くする器というあり。全く件の野郎の鼻を高くする法と同じきものにて、用法も夜間鼻をこれに挾みて臥する由記しありたり。日本と仏国とにて別々に発明したるものとするも、日本の方はるかに古く、およそ百年以上も早し。小生、明治十九年米国に渡りトランクの盛んに行なわるるを見て、その便利に呆れしが、のち寛永ころの日本の絵本を見しに、車長持とて日本に古くすでにありしなり。この類のこと多々ならん。春画などつまらぬものながら、世態風俗の変替より、奇巧の具のかつて存せしことを見るに大効力あることかくのごとし。   (明治四十五年七月『此花』凋落号)
 
(457)     奇異の神罰
 
 『猥褻風俗史』一二張裏に、宝永七年板『御入部伽羅女』また『宝永千載記』等を引き、伊勢詣りの男女途中で交接して離れざるものを見世物にしたる由見ゆ。樽屋お仙(『好色五人女』巻二)、お半長右衛門(『桂川連理柵』上)など、参宮に便りて淫奔せし例少なからねば、自然かかる見世物も信受《まにうけ》られしなり。
 伊勢道中に限らず、諸所の聖地に今もまま実際かかることあるは、四年前七月二十日の『大阪毎日』紙上、三面先生の「別府繁昌記」に、温泉の由来を説明する「坊さんなお続けて言う。不思議なことには、中で不浄なことがあると、きっと湯が冷え切りますじゃ。愚僧の時代にも三度ほどありました。十年ばかり前になりますがの、男女の不埒者がありましてな、合うたところが離れません。その時も湯がことごとく冷え切りまして、三日|三夜《みよさ》大祈祷を行ないましたじゃ。このごろは滅多にありません。何《なん》し信仰が強いよって、そんな馬鹿者は、十年に一人ともまあ出ませんわい」云々。紀州田辺に藤原(ノ)抜高《ぬけたか》と綽名立ちし人ありし。三十年ほど前、近町の寡婦と高野の女人堂で淫行して離れえず。僧の加持を頼みわずかに脱して還れるを、当時流行唄で持て囃され、今も記臆する人多し。『続群書類從』所収『八幡愚童訓』巻下に、御許山《おもとやま》の舎利会に、一僧、女房を賺して人なき谷底にて犯しけるほどに、二人抱き合うて離れず、命失せにけり、と載す。文の前後を推すに、鎌倉時代のことのごとし。
 外国の例は、元の周達観の『真郎(今のカンボジア)風土記』に異事と題して、「東門の真に、蛮人のその妹を淫する者あり、皮肉たがいに粘《つ》いて開かず、三日を歴て、食らわずしてともに死す。余の郷の人薛氏は、番におること三(458)十五年なり。かれの謂うに、ふたたびこのことを見たり、と。けだしそれ聖仏の霊をもって、故にかくのごときなり」。一八七七年ロンドン板、ゴルトチッヘルの『ヘブリウ鬼神誌』一八二頁に、回教徒が巡礼するカバ廟で語らいした罰に化石した男女のことを記せり。また『嬉遊笑覧』所引、明の祝允明《しゆくいんめい》の『語怪』に、※[なべぶた/兌]《えん》州人家の贅婿《いりむこ》その妻の妹と通じ、事露われしが、抗弁して岱山頂に上り、二人果たして私あらば神誅を受けんと祝し、山腹の薄闇き所でたちまち行淫して久しく還らず、人々尋ね見出だせしに、二根|粘着《ひつつ》き解けずして死しおったり、とあり。唐の段成式の『酉陽雑俎』続集六に、「長安静域寺の金剛は旧く霊《くしび》あり。大宝の初め、※[馬+付]馬の独孤明の宅、寺と相近し。独孤に婢あり、懐春と名づく。稚歯《としわか》くして俊※[人偏+肖]《みめよ》し。常に西隣りの一土人と悦《たのし》む。よって宵に専門にて期《あ》う。巨蛇あってこれを束《つか》ね、ともに卒す」。実は例の離れずに死におったるを、蛇に束ね殺されしと偽言せしならん。
 東晋の代に天竺三蔵|覚賢《ブダバードラ》が訳せる『観仏三昧海経』巻七にいわく、波羅奈国の婬女、名は妙意、世尊この女を化度せんとて三童子を化成す。年みな十五、面貌端正、一切の人に勝れり。この女これを見て大いに歓喜し、語るらく、「丈夫《おのこ》よ、われ今この舎《いえ》は、功徳天のごとく富力自在にして、衆宝もて荘厳《かざり》をなす。われ今身とおよび奴婢をもって、丈夫に奉《ささ》げ上《たてまつ》り、灑掃《さいそう》に備うべし。もしよく顧みて納れ、わが願うところに随えば、一切を供給し、愛惜するところなし」とて招き入れ、「すでに付《したが》い近づきおわる。一日一夜、心疲れ厭まず。二日に至りし時、愛の心ようやく息む。三日に至りし時、白していわく、丈夫、起きて飲食すべし、と。化人すなわち起き、纏綿としてやめず。女、厭悔を生じ、白していわく、丈夫は異人なれば乃ち爾り、と。化人告げていわく、わが先世の法は、およそ女子と通ずるに、十二日を経てしかるのちに休息す、と。女は、この語《ことば》を聞き、人の食らいて噎《おくび》して、すでに吐くを得ず、また咽《の》むを得ざるがごとし。身体の苦痛なること、杵にて擣かるるがごとし。四日に至りし時は、車にて轢かるるがごとし。五日に至りし時は、鉄の丸の体に入れるがごとし。六日に至りし時は、支節ことごとく痛み、箭の心《むね》に入れるがごとし」。婬女大いに懲り果て、われ今より一生色を貪らじ。むしろ虎狼と一穴に同処するも、色を貪ってこの苦を受け(459)じと念う。「化人また瞋るらく、咄、弊悪婦《あばずれめ》、汝はわが事業を廃せり。われ今汝と共に合体して一処なれば、早く死するにしくはなし。父母宗親、もし来たって覓むれば、われは何処《いずこ》にみずから蔵れん。われはむしろ経れて死せん。恥を受くるに堪えず、と。女いわく、弊物《ろくでない》、われは爾に用なし、死を欲するも随意なり、と。この時、化人、刀を取って頸を刺す。血流るること滂沱として女身を塗汚《けが》し、萎沱《くずお》れて地にあり。女は勝《た》うるあたわざるも、また免るるを得ず。死して二日を経、青き淤《うみ》臭熏《にお》う。三日にして※[月+逢]脹《ぼうちよう》し、四日にして爛漬す。五日に至りし時、皮肉しだいに爛れ、六日にして肉落ち、七日にしてただ臭骨あるのみ、膠のごとく漆のごとく女身に粘著す。一切の大小便利および諸悪虫、迸しりし血ともろもろの膿《うみ》、女身に塗《へば》り漫《つ》く。女、きわめて悪厭するも離るるを得ず。誓願を発すらく、もし諸天神、および仙人・浄飯王子、能くわが苦しみを免れしめば、われこの舎の一切の珍宝を持って、もって用いて給施《ほどこ》さん、と」。かく念ずるところへ、仏、阿難を伴い来たる。女これを見て、男の屍を離さんとするに離れず、白氈もて覆うに臭きゆえ覆いえず。大いに漸愧して救いを乞いければ、仏の神力で臭屍消え失せ、婬女仏に帰依し、すなわち道を得たり、と。これあまりに大層な話なれど、宗教心厚かりしインド人中には、二根離れざるを愧じて死し、熱地のことゆえ、たちまち屍が腐り出だせし例もありしによって、作り出だしたる訓戒なるべし。
 本朝の仏書には、弘仁中僧景戒の著『日本霊異記』巻下に、宝亀二年夏六月、河内の人丹治比経師《たじひのきようじ》、他人のために野中堂にて法華経を写す際、雨を避けて女衆狭き堂内に込み合いしに、「経師、婬心熾んに発り、嬢《おんな》の背に踞《うずくま》り、裳を挙げて婚《くなが》う。※[門/牛]《まら》の※[門/也]《しなたりくぼ》に入るまにまに、手を携えてともに死す。ただ女の口より※[さんずい+區]《あわ》を噛み出だして死せり」。また巻中に、聖武帝の時、紀伊の人上田三郎、妻が寺に詣りしを憤り、往って導師を汝わが妻を婚せりと罵り、妻を喚んで家に帰り、「すなわちその妻を犯す。卒爾《にわか》に※[門/牛]《まら》に蟻著いて噛み、痛みて死す」と出でたり。また『常陸風土記』香島郡の那賀寒田郎子、海上安是嬢子と相愛し、※[女+燿の旁]歌の会で出会い、松下に蔭れ、「手を携え、膝を※[人偏+殳]《つら》ね、懐いを陳べ、憤りを吐く。すでに故き恋の積もれる疹《やまい》を釈き、また新しき歓びのしきりなる咲《えま》いを起こす。(中略)にわかに(460)して、鶏鳴き狗吠えて、天《そら》暁《あ》け日明らかとなる。ここに僮子等《うないたち》、なすところを知らず、ついに人の見んことを愧じ、化して松の樹となる。郎子《いらつこ》を奈美松と謂い、嬢子《いらつめ》を古津松と称う。古えより名を着けて、今に至るも改めず」。これも露わに言いたらねど、交会のまま脱するをえず、人の見るを羞じて二松相違なれるものと化したり、と謂うにあらざるか。相生の松、連理の松など、諸所に間まあり。したがって紀海音作『今宮心中丸腰連理松』という戯曲《じようるり》などあり。和歌浦近く鶴亀松とて、二本の松の根連なれるありしが、先年倒れ失せたり。
 宋の康王、韓朋を殺し、その美妻を奪いしに、妻自殺し、二人の墓より樹生じ、枝体相交わりしを王伐らんとせしに、鴛鴦に化し飛び去れりという。『長恨歌』に、地にあっては連理の枝とならんと、明皇《めいこう》が貴妃と契りしも、詰まるところは双身離れざるを望みたるなり。支那には男色の連理樹さえあり。董斯張の『広博物志』巻二〇にいわく、「呉の潘章は、少くして美なる容儀あり。時の人競いてこれを慕う。楚国の王仲先、その美名を聞き、故《とく》に来たり求めて友となる。よって同《とも》に学ばんことを願い、一見して相愛し、情夫婦のごとく、同衾共枕す。交好やむことなく、のちともに死す。しかして家人これを哀れみ、よって羅浮山に合葬す。塚の上にたちまち一樹を生じ、柯条枝葉、相抱かざるなし。時の人これを異とし、号けて共枕樹となす」と。『日本紀』にも、神功皇后、紀伊に到りたまいし時、両男子相愛し、死して一穴に葬られしことあり。ただし、樹を生ぜしことなし。
 神仏の罰によって両根相離れざる諸話、全くよりどころなきにあらず、本人すでにみずからその非行を知るが故に、恐怖大漸して、陰膣痙攣《ヴアギニスムス》を起こし、双体たちまち解くるを得ざるなり。(予が知れる一医師、先年東京にありし日、華族の娘、書生と密会して、この症頓発し離れあたわざるところへ招かれ、濯腸してこれを解《とか》し、翌日五十円を餽られし由聞けり。)場合により、ことさらに不可解を覓め楽しむ人もあるは、万暦中の輯纂に係ると覚しき、『増補万宝全書』巻六〇、春閨要妙の篇中、相思鎖方《そうしさのほう》、金鎖|玉連環方《ぎよくれんかんのほう》等の奇法を載せたるにて明らかなり。   (明治四十五年七月『此花』凋落号)
 
(461)   話俗随筆
 
     盗人、灰を食いし話
 
 鴨の長明の『発心集』巻八にいわく、「ある人語りていわく、『唐土に御門《みかど》坐《おわ》しけり。夜更けて燈火壁に背けつつ、寝所に入りて座しますほどに、火の影にかげろう物あり。怪しくて、寝入りたるさまにてよく見給えば、盗人なるべし。ここかしこに歩《あり》きて、御宝物、御衣など取りて大なる袋に入れてけり。いとむくつけなく思されて、いとど息音もしたまわず。かかる間、この盗人、御側らに薬合わせんとて灰を焼き置かれたりけるを見て、左右なく掴み食らう。いと怪しと見給うほどに、とばかりありて、打ち案じて、この袋なる物ども取り出でて、みな元のごとく置きて、やがて出でなんとす。その時御門いと心得がたく思して、汝は何者ぞ、いかにも、人の物を取りぬ、しかるをまたいかなる心にて返し置くぞ、とのたまう。申していわく、われは某と申し候いし大臣が子なり、幼くて父に罷り後れて後、絶えて世にあるべきたつきも侍らず、去りとても今さらに人の奴とならんことも、親のため心憂く思い、構えて念じ過ごし侍りしかど、今は命生くべき謀《はかりごと》も侍らねば、盗をこそ仕らめと覚えて侍るに、取りて並々の人の物は、主の歎き深く、取りえて侍るに付けて、物清くも覚え侍らねば、かたじけなくもかく参りて、まず物の欲しく侍りつるままに、灰を置かれて侍りけるを、去るべき物にこそと思いて、これをたべつるほどに、物の欲しさ直りて後、灰にて(462)侍りけることを、始めて了《さと》り侍れば、責めてはかようのものをも食し侍りぬべかりけり、由なき心を起こし侍りける物かなと、悔しく思い構えて、となん申す。帝つぶさにこのことを聞き給いて、御涙を流され感じさせ給う。汝は盗人なれども賢者なり、心の底潔し、われ王位にあれども愚者と言うべし、空しく忠臣の跡を失えり、早く罷り帰り候え、明日召し出だし、父の跡を興さしめんと仰せられければ、盗人泣く泣く出でにけり。その後本意のごとく仕え奉りて、すなわち父の跡をなん伝えたりける』、云々」。
 馬鳴菩薩の『大荘厳経論』(鳩摩羅什訳)巻六に、「もろもろの利を求めんと欲する者、あるものは得、あるものは得ず。真の善心ある者は求めずしておのずから利を得。実に真の善心なき者は、利を貪るを得んがためのゆえに、まさに真の善心を作《おこ》すべし。われ昔かつて聞く、一の国王あり、時に輔相の子、その父を早く喪う。その子|幼稚《おさな》くして、いまだ紹継《あとをつ》ぐに任えず。銭財すでに尽き、王に見ゆるを得べく通致《とりも》つ人もなし。窮苦して自活し、ついにようやく長大《せいじん》す。輔相の才あって、民を理め事を断じ、一切をよく知る。年《よわい》成立に向かい、盛壮の時、形体|※[女+朱]《みめよ》く大きく、勇猛大力にして、才芸|備具《そなわ》る。この思惟をなすらく、われ今貧窮にして、はた何の作すところぞ、またもろもろの賤業をも作すあたわず。われ今福なくして、あるところの才芸を施行するを得ず。また下賤の家にも生まれず、と。またかれのこの偈を説いて言うを聞く、
  業《ごう》の来たってわれを変化し、窮困することすなわちかくのごとし。父母の家業は、今施用せん処《すべ》もなし。下賤のなすところの業は、わがよろしくなすべきところにあらず。もしわれに福業なければ、まさに下賤の家に生まるべし。生まれし処は貴しといえども、困苦することすなわちかくのごとし。賤業はきわめて知りやすきも、しかもわが能くせざるところなり。まさに私《ひそ》かなる窃業《ぬすみ》をなし、人をしてみな知らざらしむべし。ただ賊業をなすあるのみ、覆い陰して人は覚らざらん。腰に二つの箭筒を繋け、あわせて鋼の利剣を持ち、※[足+專]《はぎ》を縛して手に弓を秉り、種々みずから荘厳《よそお》えば、たとえば師子児のごとく、すべて畏るるところあるなし。(以上、泥棒の讃なり)
(463) この偈を説きおわりて、この思惟をなすらく、もし余処《よそ》を劫《かす》めんには、あるいはかれをして貧ならしめん。われはまさに王を劫むべし(俗書『真書太閤記』に石川五右衛門の立志を説くに似たり)。この念をなしおわり、王宮の中に至り、王の臥せる処に詣る。王は賊のあるを覚るも、怖れてあえて語らず。王の衣服並びにもろもろの瓔珞を持ち、取って一処に安《お》く。時に、王の頭の辺に一器の水あり、辺《かたえ》にまた灰あり。飢渇の逼るところ、灰をこれ《はつたい》と謂《おも》い、水に和して飲む。飲みおわって飽満し、すなわちその灰なりしを知る。すなわちみずから思惟すらく、灰すらなお食らうべし、いわんやその余の物をや。われはむしろ草を食わん、何をもって賊をなさんや。先父以来、この業をなさず、と。即《ただ》ちに諸物を棄て、還り来たって家に帰らんとす。王、空しく出ずるを見て、歎じて言う、善きかな、と。即《ただ》ちにその人を喚んで、これに語っていわく、汝今何故に、すでにこの物を取ってまた地に置き、しかしてすなわち空しく去るや、と。白していわく、大王、わが言うところを聴け」とて、如上の次第を偈で説きしに、王、感じ用いて輔相とせり、と載せたり。
 このインド話を唐土のことと心得て、ある人が長明に語れるなり。
 『古今著聞集』には、ある所に盗《ぬすびと》入りて、鉢に入れたる灰を食いて後、袋に窃み納れたる物をもとのごとく置いて帰るところを、主人待ち設けて搦めたり。その挙動を怪しみ尋ねければ、盗人仔細を述べ、灰を食いても餓えを治すべしと思い、取るところの物をもとに復《かえ》せしという。主人哀れに思い、物取らせて返し、後々も詮尽きん時は、憚らず来て言えとて、常にとぶらいけりと、日本そのころのことのように書けり。   (大正二年五月『民俗』一年一報)
【追加】
 前回『大荘厳経論』や『発心集』、『著聞集』から引いた、盗人が※[麥+少]と謂うて灰を食い、灰食うてさえ饑えを治すべしと反省して、盗んだ物を復した話に似て、趣向が別な奴が、趙宋の初め智覚禅師集に係る『宗鏡録』七三に出ず。いわく、「また律中の四食《しじき》の章、古師の『義門手鈔』に言う。食を思う者はかくのごとし。饑饉の歳、小児、母に従(464)いて食を求め、啼きて止まず。母ついに砂の嚢を懸け、誑ってこれは飯なりと言う。児、七日その嚢を諦視し、これ飯なりと将為《おも》えり。その母、七日の後に解き下ろしてこれを視《しめ》す。その児、その砂なるを見て絶望し、これによって命終わる」。饑えた児が、砂を飯と心得、食うのを楽しんで七日生き延びたが、砂と分かって、たちまち絶望の極、死んだのじゃ。同録三三に、暗中で宝玉に触れ、蛇に螫されたと思うと、毒で身が脹《ふく》れ種々苦しむ。智者、燈を持ち来たり、これは宝だと示すと、たちまち毒去り痛み癒える、とあると同規だ。世親菩薩の『阿毘達磨倶舎論』巻一○に「世に伝えて言うあり。むかし、ひとりの父あり。時に饑饉に遭い、他方に造《いた》らんと欲す。みずからすでに飢え羸《やつ》れ、二子|嬰稚《いとけな》し。携え去かんと意欲《ほつ》するも、力の任えざるところなり。嚢をもって灰を盛り、壁上に挂け、二子に慰め喩し、これ※[麥+少]の嚢なりと言う。二子、希望して、多くの時命を延ぶ。のちに人の至るあり、嚢を取って為《ため》に開く。子はその灰なるを見て、望み絶えてすなわち死す」。『宗鏡録』に引いた『義門手鈔』の文はこれから出たんだろ。また『倶舎論』右の文の次に、大海で難船絶食した諸商人が、はるか距てて大きな沫の積もったのを陸地と誤認し、著岸を望んで長時《ながく》生き延びた、と載せおる。『今昔物語』一六の四章、丹後の国の貧僧、寒に飢えて観音像の木を猪肉と心得、食うた話も似た例だ。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
     一体、他人の手を仮りて悪童を懲らせし話
 
 『烈公間語』に、その著者幼少の時、光政の母公へ光政樣お越しなされし時分、われらに何にてもお物語仕り候ようにと、福照院様(母公)仰せらるるにつき、童の時に人の語《ものがたり》聞かせし跡先もこれなく、物語、お慰みのために一、二申し上ぐるとて、一体和尚行路の節、道の傍の木の梢に童登りいて、一体に小便を仕懸けて、みずから大きに笑う。一体、腰より銭を取り出だし、かの童に遣り、よくこそかようなる仕形仕り候とて打ち過ぎ候。かの童よきことした(465)りと思い、重ねて人通るならば、また右の仕形に仕《つかまつ》って、銭を乞い取らんと待ち候ところへ、士《さむらい》通り候時、最前のごとく小便仕懸けて笑う。忿《おこ》って打擲仕る。これ一体の作意利口ゆえ、人をもって意趣を返すと承ると申し上ぐる。光政様、仰せらるるは、この物語の趣意然るべからず、一体まことの志ならば、最前小便仕懸けられ候時、強く詈り叱って、われはこれ出家なれば打擲に及ばず、他人にかようの仕形仕るならば、命を失うべしと申し教え通るべきに、何ぞや銭を遣りて、人をもって讐《むくい》をす。奸心浅からず、かようのことにて若輩の者心づくべきことや、幼童に語り聞かす物語にも、いと心得あるべきことなり、と仰す、云々。
 『塵添※[土+蓋]嚢抄』一に、孔子の腹黒ということありとて、孔子山中を行くに、童子木の上より尿をしかけた。孔子、大剛の者なり、よくしたりとほめて過ぎ去った。そののち令尹通るに、童子また小便をしかけた。天下の大害をなさん者とて引きおろし、頭を刎ねた、云々、に作れり。
 やや似たる話、西晋の竺法護訳『仏説生経』巻四に、給孤独園《ぎつこどくおん》にて、「仏、諸比丘に告ぐ。乃昔《むかし》去《とお》き世に、異なる曠野に閑居するあり。かの時、水牛王あり、その中に頓止《とど》まり、遊行して草を食らい泉水を飲む。時に水牛王、衆《おお》くの眷属とともに、至る所あって湊《あつ》まる。独りその前にあって、顔貌は※[女+朱]《みね》好く、威神巍々たり。名徳は超異《ぬき》で、忍辱して和雅、行止《ふるまい》は安詳《ものしずか》なり。一の※[獣偏+彌]猴《さる》あり、住んで道辺にあり。かれ、水牛の王の眷属とともにあるを見て、心に刎怒《いかり》を生じ、嫉妬《ねたみ》を興す。すなわち瓦石を揚塵し、※[分/土]《ちり》をもってこれに擲《なげう》ち、軽んじ慢《あなど》って毀《そし》り辱しむ。水牛は黙然として、これを受くるも報《》いず。過ぎ去っていまだ久しからざるに、さらに一部《ひとむれ》の水牛王あり、尋いで後より来たる。※[獣偏+彌]猴これを見、またも罵詈り、瓦石を揚塵して打擲《なげう》つ。あとの一部の衆は、さきの牛王が黙然として報いざるを見、これに効いて忍辱し、その心|和悦《なご》み、安詳に雅歩し、その毀り辱しめを受くるも、もって恨みとなさず。これらの春属の過ぎ去って、いまだ久しからざるに、一の水牛の犢あり、尋いで後より来たり、群牛に随って逐う。ここにおいて、※[獣偏+彌]猴これを遂いて罵詈り、毀り辱しめて軽易《あなど》る。この水牛の犢は、恨みを懐《いだ》いて喜ばざるも、さきの等類の忍辱して恨(466)まざるを見、また学効《ならい》て、忍辱し和柔《にこやか》なり。道を去ること遠からず、大叢樹の間に、時に樹神あり、その中に遊居す。諸水牛の毀り辱しめらるるといえども、忍んで瞋らざるを見、水牛王に問う。卿ら何故にこの※[獣偏+彌]猴のみだりに罵詈るを見、瓦石を揚塵するを覩て、かえって忍辱し、声を黙《もだ》して応ぜざるや。この義はいかなる趣《わけ》、いかなる意《おもい》あってか、云々。水牛の報えていわく、もって偈を説いて言わん、軽んじてわれを毀り辱しむるをもって、必ずやまさに人にも加え施すべし、かれはまさにこれに報いを加うべく、爾すなわち疾患《わざわい》を得ん、と。諸水牛の過ぎ去っていまだ久しからざるに、諸梵志大衆、群輩仙人等あり、道に順いて来たる。時に、かの※[獣偏+彌]猴また罵詈り、毀り辱しめて軽易り、瓦石を揚塵し、※[分/土]をもってこれに擲つ。諸梵志ら、即時に捕捉《とら》え、脚をもって※[足+搨の旁]《ふ》み殺すに、則便《たちまち》に命|過《おわ》りぬ、云々」。
 水牛は仏、眷属は諸比丘、犢は諸梵志、仙人は清信士居家学者、猴衆は外異道の前身、とあり。   (大正二年五月『民俗』一年一報)
【追加】
 唐義浄訳『根本説一切有部毘奈耶雑事』一六、舎衝の婆羅門、阿難を打ち、次に※[烏+おおざと]波難陀《うばなんだ》を打って求刑され、ついに王命によって両手を截らる。仏、※[烏+おおざと]波難陀を罰し、因縁を説く。むかし花果浴池満足せる一園中に隠士住み、樹下に静座思惟する。その上から猴が果《このみ》を落として、その頭を打ち破《わ》った。隠士騒がず、頌を説く、「われついに念《おもい》を起こさず、汝をして苦しみて身を亡《うしな》わしめん。いわく、汝みずから愆《とが》をなし、命を断つの報いを招くべし、と」。この隠士の知れる猟師、隠士不在中へ来たり、俟っておると、猴また大なる果をその禿頭へ落とし、血流る。猟師大いに腹を立て、毒矢で猴を射殺した。隠士と猴と猟師は、今の阿難と婆羅門と※[烏+おおざと]波難陀だ、と。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
(467)     梔子花の児戯
 
 紀州田辺で、小児梔子の花を蕚および心と引き放ち、花の中孔に細き箸を串《つらぬ》き、口にて吹けば快く廻るを見て楽しむ。よりてこの花を水車と呼ぶ。花弁の排列捻旋してあたかも人造風車のごとく、風に逢えばたちまち廻る。   (大正二年五月『民俗』一年一報)
 
     爪切ること
 
 同地の俗伝に、夜、爪を切れば父母の死に逢いえず。これを免れんとならば、七草の日、爪切るべし。しかる後、夜切るもこの難なし、と。予幼時、和歌山の俗伝に、爪切って焼けば本人発狂す、と言えり。三十余年前のことなり。   (大正二年五月『民俗』一年一報)
 
     感冒
 
 また田辺の俗伝に、子より親に伝われる感冒重く、親より子に移れるは軽し、と。   (大正二年五月『民俗』一年一報)
 
(468)     蟻を旗印とせし話
 
 『常山紀談』三巻一八章に、「北条丹後、一尺四方の白練《しろねり》に黒き蟻を絵に書きて指物にしけるを、謙信見て、汝が指物あまりに小さきは、いかなる仔細ぞと問わるるに、丹後、まことに味方よりは見えがたく候べし、さはあれども、進むに先がけし、退くにいつも後殿せんには、他人の大なる指物も、この小四半《こしはん》と、敵の見るところは同じからんと存ずるなりと申すをば、謙情理なりと言われしとぞ」。北条は北城を正しとす。『関八州古戦録』(享保丙午成る)巻六には、「北城丹後守長国、いまだ弥五郎と申せし時、幅一尺五寸ばかりの白き練貫の四半に、五、六寸(分か)の馬蟻を墨にて画き、捺物《おしもの》としたりける。先へ進み、敵の面前へやにわに乗り着け、手詰めの勝負を仕る分別なれば、※[(來+犬)/心]《なまじい》に走り廻りの妨げに罷りなる大捺物、一向無益のことなりと地盤《じばん》し、ずいぶん働きの邪魔なきように、小さく支度仕り候と申しければ、輝虎ことのほか悦び褒む」とあり。
 『一話一言』巻四四、山中源左衛門、大御番旗本で知行五官石賜わり、隠れなき任侠、常に人を困しむるを好む。ある時白小袖を着て登城しけるを目付咎めければ、目に見えぬほどの蚤を縫紋に付けおき、これは白ならずと言い通せしことあり。正保中、切腹を命ぜらる、と見ゆ。その目的は長国と異なれど、趣向は似たり。英国にも似たる話‘Merry Tales and Quick Answeres,’1567,ed.Hazlitt,p.122 にいわく、戦場に趣く一壮男、楯に自然大の蠅を画きしを、ある人笑うて、かく小さき標《めじるし》は、人の目に立つまじと言いけるに、その男答えて、予、敵が明らかにこの標を見分けうるほど進まば、標いかに小さくとも、敵みな予の勇武を称揚せんと言えり、と。
 以上、二年前ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』一一輯、一の二六六頁に予“Fly painted on a Shield:Japanese Variant”と題し出せるを見て、南濠州アデレード大学、古文学教授ベンスリの教示に、件の蠅を楯(469)に画きし話は、Apophthegmata Laconica,ap.Plutarch,‘Moralia’すでにこれを載す、となり。しからば、千八百年ばかり前、すでに南欧に行なわれたる話にこそ。   (大正二年五月『民俗』一年一報)
 
     羊を女の腹に画きし話
 
 無住法師の『沙石集』七巻六章に、遠江池田の庄官の妻、嫉妬はなはだしく、磨粉《すりこ》に塩を和し夫の陰《かくしどころ》に塗り、夫が娼を置けるを験証せる話を挙げ、次にある男、他行に臨み妻の貞操を試みんとて、陰所《かくしどころ》に牛を描きしに、姦夫来たり通じて後、実の男は臥牛を描けるに姦夫は立てる牛を描く。夫還り来たり、険して妻を詰りしに、哀れ止め給え、臥せる牛は一生臥せるかと言いければ、さもあらんとて許しつ。男の心は浅く大様なる習いにや、云々。池田の女人にはことのほかに似ざりけり、と見ゆ。紀州に行なわるるこの話の作替えには、夫、かの所に勒《くつわ》具《ぐ》したる馬を画き、還り視れば勒なし。妻を責めしに答えて、豆食う馬は勒を脱するを知らずやと言えり、と。(『松屋筆記』巻九四、『室町殿日記』一九、徳永法印咄のことの条に、女陰を豆と言う。西行の歌に見ゆ。豆泥棒なども言うめり。『宇治拾遺』に陰茎をまめやかものと言えり。考うべし。)
.英国のエー・コリングウッド・リー氏、予のためにこの種の諸話を調べられ、伊、仏、独、英等にあれど、無住より三百年後、十六世紀より古きものなし。たとえば十六世紀に刊行せる書に、画工旅するとて、若き艶妻の腹に羊を画き、おのれが帰り来るまで消さぬよう注意せよと命じ、出で行きし跡に、好色未娶の若き商人来てかの妻を姦しおわりて、前に無角の羊なりしが消え失せたるゆえ、角ある羊を画きしという譚見ゆ。委細は、予の“Man who painted the Lamb upon his Wife's Body,”Vragen en Mededeelingen,Arnhem,I ser.,i,261-262,1910 また『東京人類学会雑誌』三〇〇号二一八−九頁に出だせり。
(470) 『沙石集』の話、仏経より出でたるならんと精査すれども、今に見出でず。ようやく近日、支那にもこの類話あると知れり。すなわち『笑林広記』巻一にいわく、「(荷の花を掘る)ひとりの師、外に出でて館《じゆく》に坐《つと》めんとし、その妻の人と私通するを慮り、すなわち妻の牝戸《ほと》の上に荷の花一朶を号《しる》し、もって記号となす。年終わって館を解かれ、帰ってこれを験《あらた》むるに、落ちてまた痕跡もなし。よって大いに怒り、これを責め治《こらし》めんとす。妻いわく、汝みずから差《たが》えたり、なにものにても画くべきに、いかなればひとり荷の花を揀べるや。あに暁《し》らざらんや、荷の花の下にあるは、これ藕《れんこん》なるを。かれら来往《ゆきき》する人は、好悪にかかわらず、かれも来たって掘り、これも来たって掘る。すべてかれらに掘り乾浄《つく》されたり。われと何ぞ干《かかわ》らんや、と」。   (大正二年五月『民俗』一年一報)
【追加】
 『笑林広記』巻三に出ず。いわく、「(換班《こうたい》)ある※[白/十]隷《こもの》の妻、性多淫なり。夫は昼夜|防範《みはり》をす。一日、該将《かのおとこ》、妻の戸《ほと》の左|傍《わき》にひとりの※[白/十]隷を画いて看守《みはり》させ、あわせて記認《しるし》となす。妻また人と事を幹《おこな》い、さきの※[白/十]《こもの》を擦《こす》り去る。好夫《まおとこ》は倉卒《あわただ》しく、よってひとりの※[白/十]の形を右辺に画いて去る。夫の落班《ひけ》て家へ帰るに及び、これを験《あらた》むるに、すでにもとの筆にあらず。よって怒っていわく、わがさきに記せるは左辺にあり、何によって移って右辺にあるや、と。妻いわく、なんじ衙門《やくしよ》に做《つと》むること多年なるに、難道《よも》や輪流《いれかわ》り換班《こうたい》するを要せずとするにあらじ、と」。   (大正三年四月『民俗』二年二報)
【増補】
 和歌山市に古く行なわれし笑話に、行商する者出立に臨み、かの所の右の方に鶯を描きおき、帰って見れば左に描けり。妻を詰ると、鶯は谷渡りせりと答えし。次に他行の時玄米と書いて出で、帰って見れば白米と書きあり。また詰るに、米屋に搗いてもらったと答えし、と。けだし、その妻は米屋の番頭を情夫に持ちたるなり。(吉備慶三郎氏報)(大正十五年九月二十四日記)
 
(471)     糊の滓
 
 処女が糊のすり滓を握り灸り食らえば、嫁する時犬に吠えらる。この物、犬と老人のみまさに食らうべければなり。(紀州田辺)   (大正二年五月『民俗』一年一報)
 
     無眼、一眼、二眼
 
 「蟻を旗印とせし話」に出たるペンスリ教授、三年前二月二十七日の『ノーツ・エンド・キーリス』に説いていわく、パートンの『鬱憂の解剖《アナトミー・オヴ・メランコリー》』(一六五一−二年板、四〇頁)に「支那人の諺に、欧州人は一眼《ひとつめ》、支那人は二眼、その他の諸民すべて眼なしという」と言えり。これはジョセフ・ホールの『新世界発見誌』(Joseph Hall,‘Mundus alter et idem,’1605? and 1607)に、かかる詞あるによれるならん。しかしながら、支那書、また外人が実際、支那を旅行観察して記せるものに、支那人間、果たしてかかる諺行なわれたる証左ありや。エイテル博士(『漢英仏教語彙』の著者)等に問いしも答うるあたわざりき、と。
 十月二日の同誌に、予の答出でたり。次のごとし。一三〇七年筆、Haiton,“Histoire orientale,”ch.i,col.1,in P.Bergero,‘Voyages,’a La Haye 1735 に「支那人、聰慧明察なれば、外国諸民の学術巧技を蔑如し、いわく、支那人二眼、ラテン人一眼あり、その他は全く盲なり、と」と出で、一四三六年より十六年間、タナとペルシアに旅行せるヨサファ・バーバロの紀行(Ramisio,‘Navigationi e Viaggi,’in Venetia,1588,i,103c.)に、かの地方で逢いし支那商客、みずから「われら二眼、仏郎機《フランキ》(当時回教国人が欧州人を総称せる名。これより支那で大砲をこの称で呼べり)一(472)眼、韃靼人|無眼《めなし》」と誇れり、と言えり。また『松屋筆記』巻八五に、明の崇禎中、徐昌治編纂『聖朝破邪集』に収めたる蘇及寓の『邪毒実拠』に、「艾儒略らは夷人なり。万暦の間よりわが中国に入る。有識の者、その立心《どうき》の詭異《きい》にして行事《おこない》の変詐《へんさ》なるを窺い、すでにその不軌なることを疏してこれを駆《ほうちく》せしに、今やなんすれぞまた来たれるや。その故《わけ》は思うべし。また来たるも天下惟にその奸をよく詳察するものなきのみならず、なおかつ、さきの駆の疏も、ほとんど見ることを得ざればなり。夷輩、喜んで相告げていわく、わが西土は四眼あり、日本人は三眼あり(両たぴ日本に到って開教し、かれに両たび殺さる、故に言う)、中国人は両眼あり、呂宋人は一眼もなし、と」。呂宋人、天主教に化して国亡びしを指すなり。
 惟うに、この一眼、二眼、無眼の譬喩、そのころ支那と欧州また西アジア間に往復する輩がもっぱら唱えしところにて、あるいは支那人に、あるいは外人に、適宜充称せしなるべし。中世紀に、支那人の西遊せる者、欧人の東遊せる者、交互その遊べる地に、霊妙の幻師ありしと記し、十七世紀に支那で日本の磁石を珍重せし(サン・ルイの『支那誌』に出ず)と同時に、日本には唐物の磁石を貴びしなど似たる例なり。古梵土またかかる諺ありしにや。北涼の曇無讖訳『大般涅槃経』巻二五にいわく、「世に三人あり。一は目なく、二は一目、三は二目なり。目なき者と言うは、常に法を聞かず。一目の人は、しばしば法を聞くといえども、その心|住《とどま》らず。二目の人は、専心聴受し、聞きしがごとくに行なう。法を聴きしをもっての故に、世間を知るを得。かくのごとき三の人は、この義をもっての故に、法を聴きし因縁もて、すなわち大般涅槃に近づくことを得」。   (大正二年五月『民俗』一年一報)
【追加】
 「『法華経』にいわく、もし利根あり、智慧明了にして、多聞強識なれば、すなわち為に説くべし。およそ参玄の士は、すべからく二眼を具すべし、一は己が眼もて宗を明らかにし、二は智眼もて惑いを弁ず、と。禅宗にていわく、単《た》だ自己を明らむるのみにて目前を了せずんば、かくのごとき人は、ただ一眼を具するのみ。理孤にして事寡く、終(473)に円通せず、と」と、『宗鏡録』巻四一に出ず。
【追記】
 故杉浦重剛氏はしばしば一眼、二眼等の字をその詩に用いたり。司馬江漢の『春波楼筆記』にも、海国ながらわが国人の駕航柁術にくわしからざるを、西洋人評していわく、支那もって盲のり、日本もって片目乗りという、と記せり。(大正十五年八月二十七日記)
 
     米糞上人の話
 
 明治四十一年六月の『早稲田文学』六三−四頁に、予この話につき説くところあり。
 略記せんにいわく、『文徳実録』にこれを斉衡元年の事実として、「六月乙巳、備前の国よりひとりの伊蒲塞《うばそく》を貢す。穀を断って食らわず。勅あり、神泉苑に安置《おら》しむ。男女雲のごとく会《あつま》り、観る者肩に架《の》る。市里《まち》これがために空しく、数日の間に天下にあまねし。呼んで聖人となす。おのおのひそかに伊蒲塞に願い、よって許諾するあり。婦人の類《たぐい》、眩惑し奔咽せざるなし。のち月余日、あるひといわく、伊蒲塞は夜人|定《しず》まりたるのち、水をもって升米を飲み送《くだ》し、天の暁《あ》くるとき厠に如く、人あってこれを窺いしに、米糞積むがごとし、と。これによって、声価|応時《たちまち》に減折す。児と婦人は、なおこれを米糞聖人と謂う」と録せり。イタリア人ヨサファ・バーバロの紀行(上記「無眠、一眼、二眼」に引けり)一一一頁にいわく、ここに回教の一聖人あり。野獣のごとく裸行説法し、民の信仰厚く、庸衆群集追随す。聖人なおもって足れりとせず。公言すらく、一密室に入定し、四十日断食して、出ずるに及びよく心身異状なからん、と。よってこの辺にて石灰を作るに用うる石を林中に運ばせ、円廬を構えて入定す。四十日後、出で来たるを見るに、心身安奉なれば、みな驚嘆す。一人細心にして、廬傍の一処、肉臭を放つを感知し、地を発掘して積粮を見出だす。(474)事、官に聞こえ、聖人獄に繋がる。一弟子また囚えられ、拷問を重ねざるに自白しけるは、廬の壁を穿ちて一管を通し、夜中ひそかに滋養品を送り入れしなり、と。ここにおいて師弟あわせ誅せらる。売僧、種々の方便もて人を欺くこと、古今諸国例多ければ、本邦と裏海《カスピかい》地方に、この酷似せる二話あるは偶合ならん。『実録』に日付をすら明記したれば、多少の事実はありしなるべし。馬琴の『昔語質屋庫』末段に、見台先生、次の夜の会合に演《の》べらるべき題号を拳ぐる中に、この聖人のことあれば、曲亭多分『実録』と『宇治拾遺』の外にも、これに似たる東洋の古話を若干集めおきたりつらめ。その続篇版行なくて、その考世に出でざりしは遺憾なり。
 この拙考『早稲田文学』に載せられて後、インドまたこの類話あるを知れり。竜樹大士の『大智度論』巻一六(鳩摩羅什訳)に、釈迦仏、前身大国王の太子たり。父王の梵志師、五穀を食らわずと詐り、一同尊信す。太子これを信ぜず。林間に至り、その住処を探り、林中の牧牛人より、この梵志師、夜中少しく酥《ちち》を服して活くると聞き知り、宮に還りて、種々の瀉下剤をもって青蓮花を薫じおく。明旦、梵志、宮に入り王の側に坐するを見、太子この花をみずから彼に奉りけるに、梵志、これまでこの太子のみわれを敬せざりしに今こそ帰伏したれとて、大いに喜び花を嗅ぐに、薬気腹に入り、瀉下を催すことすこぶる急なり。よって厠に趨かんとするを、太子物食らわぬ者、何の訳あって厠に向かうぞとて、捉えて放たず、梵志、耐うるあたわず、王のあたりに嘔吐す。これを見るに、もっばら酥なり。王と夫人と、すなわちその詐りを知る、と出でたるなり。   (大正二年五月『民俗』一年一報)
 
     蛇を引き出す法
 
 『和漢三才図絵』巻四五にに、すべて蛇が穴に入ると、力士が尾を捉えて引いても出ぬが、煙草の脂を傅《つ》くれば出る、またいわく、その人自分の耳を左手で捉え、右の手で引けば出るが、その理が知れぬ、と見ゆ。これに似たること、レ(475)オ・アフリカヌス(一四八五年ごろ生れ、一五五二年歿せり)の『亜非利加記《デスクリプチヨネ・デル・アフリカ》』第九篇にいわく、ズッブは沙漢に住み、蜥蜴に似て大きく、人の臂ほど長く、指四つほど厚し。水を飲まず。無理に水を口に注ぎ込み続けると、弱って死す。アラブ人これを捕え、皮剥ぎ灸り食らうに、香味蛙のごとし。この物蜥蜴同様、疾《と》く走る。もし、穴に隠れて尾だけ外に残る時は、いかな大力もこれを引き出しえず。猟師、鉄器もて穴を掘り拡げてこれを揃う、と。物はやって見るもので、蛇と蜥蜴類は似た動物ゆえ、ズッブの住む沙漠へ行く人に、煙草脂と、耳捉んで努力の二法を試みるよう忠告しおいた。
 ついでに言う。『改定史籍集覧』第一六冊に収めた『渡辺幸庵対話』に、女の陰門へ蛇の入ったるを、予一代に三度見たり。一人は片羽道味《かたはどうみ》療治す。これは手洗いに水を溜め、蛙を放ち置き候処、蛇、頭を出す。その時足の末を蛇の際《きわ》へ寄するところに、可食《くうべく》と致し申すを引き取り、二、三度も左様に致して後、蛇に食わせ申し候。また蛙の太きところを出し、右の通り可食と致し、頭を出し申すを、二、三度も引き取り、外の蛙の中へ、山椒を二、三粒入れ包み外へ知れぬように認めて、蛇飛び付き申す時、最初の蛙と取り替え、山椒の入ったる蛙を食わせ候えば、四半時のうちに蛇外へ出で申し候。内にては腸《はらわた》を食いおり申すとの了簡にて、蛙をもって差し引き致し申すうち、蛇もそこへ心を移し、内を巻きほぐれ申す考えにて差し引き致し申候。さもなく理不尽に出だし候えば、腹痛み候半《そうらわん》と、右の通り道味考え療治致し候(宝永七年筆記)。予幼時、和歌山で二、三度聞きしは、田舎で蛇、時として女陰に入ることあり。ただちにその尾を割《さ》き、山椒の粉を割目《さきめ》に入るれば、弱って出で来たるとなり。『和漢三才図会』八九には、蛇、山椒樹を好み、来たり棲む、蝮もっとも然り、とある。蛇が人の竅《あな》に入ること実際あるにや。
 東晋訳『摩訶僧祇律』巻四〇に、「仏、舎衛城に住す。その時、比丘尼、初夜後夜、跏趺して坐す。時に蛇あり、来たって瘡門の中に入る」。比丘尼の総頭《そうがしら》で、仏の叔母なる大愛道が仏に白すと、仏いわく、「まさに某甲《そのもの》に薬を与うべし。蛇は死せずして還り出でん」と。「すなわち薬を与えて去る」。以後、比丘尼は必ず一脚を屈め、一脚の跟《きびす》もて(476)瘡門を掩うべし、男僧同様跏趺して坐すれば越比尼罪たるべしと制戒せり、とある。一七六九年板、バンクロフトの『幾亜那博物論《アン・エツセイ・オン・ゼ・ナチユラル・ヒストリー・オブ・ギアナ》』二〇五頁に、コムモードは水陸両棲の蛇で、長《たけ》十五フィート、周《めぐり》十八インチ、頭|闊《ひろ》く扁《ひらた》く、尾長く細く尖る、褐色で背と脇に栗色の点あり。毒蛇でないが、すこぶる厄介な奴で、しばしば崖や池を襲い、鵞《がちよう》、鶩《あひる》等を殺す。インジアン言う、この蛇自分より大きな動物に会うと、尖った尾をその肛門に挿し入れてこれを殺す。故にギアナ住白人、これを男色蛇《ソドマイト・スネイク》と呼ぶ、と。同書一九〇頁にペリという魚が、水に浴する女の乳房や男の陰茎を咬み切る、とある。紀州田辺湾にも「ちんぼかぶり」とて、泳ぐ人の一物を咬む魚がある。『大英類典』一一板二〇巻七九四頁に、ブラジルのカンジル魚は、長《たけ》わずか日本の三厘三毛で、小便の臭を慕い、川に浴する人の尿道に登り入る。よく頬の刺を起こすから、引き出すことならぬ。故にアマゾン河辺のある土民は、水に入る時、椰子殻に細孔を明け陰茎に冒《かぶ》せ、その侵入を防ぐ、と出ず。いずれも本題に縁があまり近くないが、なかなか珍聞ゆえ書いておく。
 蛇が瘡門に入ること、本邦の古書に明記は見当たらぬが、似た例を見出だすまま、少々記そう。『日本霊異記』中巻に、天平宝字三年四月、河内の馬廿里《うまかいのさと》の富豪の女《むすめ》が、桑の樹に登ると、大蛇も随いて登り、女が人に示されて驚き落ちると、蛇も「また副い堕ちてこれに纏い、もって婚《くなが》う。慌迷《ほれまど》いて臥す。父母これを見て薬師《くすし》を請い召し、嬢《おんな》と蛇とともに同じ床に載せて、家に帰り庭に置く。稷《きび》の藁三束を焼き、湯に合わせ汁を取ること三斗、これを煮煎《につめ》て二斗となし、猪《しし》の毛十把を剋《きざ》み末《くだ》いて汁に合わす。しかして嬢の頭足に当たって※[手偏+厥]《くい》を打ち、懸け鉤《つ》って※[門/也]《しなたりくぼ》の口に汁を入る。汁入ること一斗、すなわち蛇放れ往く。殺して棄つ。蛇の子白く凝《こご》って蝦蟆《かえる》の子のごとし。猪の毛、蛇の子の身に立ち、※[門/也]より出ずること五升ばかりなり。口に二斗を入るれば、蛇の子みな出ず。迷惑《まどえ》る嬢、すなわち醒めて言語す。二《ふた》親これに問うに、答うらく、わが意《こころ》、夢のごとく、今醒めてもとのごとし、と。薬服かくのごとし、何ぞ謹しみて用いざらめや。しかるに三年を経て、かの嬢、また蛇の婚うところとなって死す」。
(477) 『今昔物語』二九巻に、小便する若き女の陰を、蛇が見て魅入れ、その女二時なかりその場を去りえなんだ話あり。また三井寺で、若い僧、昼寝の夢に若い美女来たりて婬すと見、覚めて傍を見れば、五尺ばかりの蛇が口に婬を受けて死におった、と出ず。これはアウパリシュタカとて、口で受婬することがインドで古来大流行で、これを業とする閹人《ユーナツク》多く、その技また多端だ(一八九一年板、ラメーレッス訳『愛天経《カマ・ストラ》』九一−九三頁。この事はキリストと同じころヴァチャナ梵士作)。したがって、仏律にその制禁少なからず。例せば、姚秦訳『四分律蔵』五五巻に、「仏、毘舎離城にあり。比丘あり、体軟弱にして、男根をもって口中に内《い》れ、云々。比丘あり、狗の口中において婬を行なう」。いずれも、みずから受楽せしゆえ、仏これを波羅夷罪と判ず。「時に比丘あり、衣を※[塞の土が衣]《かか》げて小便す。狗あり、小便を舐め、漸をもって前み男根を含む。彼は受楽せず、云々。仏いわく、不犯なりと」。「時に比丘あり、衣を※[塞の土が衣]げて伊羅婆提《いらばだい》河を渡る。魚あり、男根を含む。彼は受楽せず」、不犯で無罪放免された。「また仏、王舎城にあり」、瓶沙王の子無畏王子、その根を病む。「女人をしてこれを含ましめ、のち差《い》えおわるを得て、すなわちこの女人の口中において婬を行なう。この女人、憂愁《うれ》いて楽しまず」。みずから一計を出だし、王の前に全体を裸し、頭のみ覆う。王これを見て狂人かと問う。女答えていわく、「狂ならず。これ王子の須《もと》むるところを、われ今覆いて護る。何の故かといえば、王子常にわが口中において婬を行なう、この故に覆いて護る」と。これを聞いて、王、王子を詰ったので、王子大いに慙じ、返報に、彼女に娼妓同様黒衣を着せ、「城門のあたりに安置し、かくのごとき言をなす、もし、かくのごとき病の者あれば、まさにこの婬女の口中において婬を行なえば差ゆるを得べし、と」。蕭斉の衆賢訳『善見毘婆沙律』巻七には、「蛤の口きわめて大なり。もし男根をもって蛤の口に内るるも、しかも足らず。瘡に内るるがごとくにて異《かわり》なし。偸蘭遮《とうらんじや》罪を得」。前文に魚、亀、※[鼈の敝が(口+口)/田]、鼈、蛤と続け序《の》べたれば、「はまぐり」でなくて蛙なり。かかる異類の物の口婬さえ、インドに行なわれたのじゃ。
 また畜生同士口婬の例は、『摩訶僧祇律』巻六に、仏、迦蘭陀竹園におわせし時、優陀夷の方へ、知れる婆羅門そ(478)の婦を伴れ来たり、諸房を示さんことを請いしに、「優陀夷は、屏処《ものかげ》において、すなわち婦人の手を捉《と》り、把持《かか》えて抱かんとす。婦人|念言《おもう》らく、この優陀夷は、必ずやかくのごとくなし、弄《たわむれ》れおわればまた放つならん、と。婆羅門に語って、われはもって示しおわれり、と言う、云々。かの婦は、優陀夷が共に欲を行なわざるゆえに、すなわち瞋《いか》っていわく、房舎を看るを用って、かくのごときことをなす。薄福《さちうす》き黄門《きよせい》せる出家、あまねくわが身を摩で触るも、しかも好きことなし、と。時に婆羅門、優陀夷に語っていわく、汝は実にわれにおいて知識なり、しかるに非知識の想を生ずるや、しかして平地においてさらに堆阜《おか》を生ずるや、しかして水中においてさらに火を生ずるや」とて、優陀夷の頸を繋ぎ、牽き去りて仏の所に之き、告ぐ。仏、優陀夷を罰し、その因縁を説く、「過去世の時、香山中に仙人の住処あり、山を去ること遠からず、一の池水あり。時に水中に一の鼈あり。池水を出でて食らい、食らいおわって日に向かい口を張《あ》けて睡る。時に香山上に諸※[獣偏+彌]猴あり、池に入って水を飲む。已って岸に上がって、この鼈の口を張《あ》けて睡れるを見て、かの※[獣偏+彌]猴すなわち婬法をなさんと欲す。すなわち身生をもって鼈の口中に内る。鼈|覚《さ》めて口を合し、六を甲《こうら》のうちに蔵《かく》す。説くところの偈のごとく、愚癡の人の相を執《と》るは、なお鼈に咬まれて、摩羅提《まらだい》を失修し、斧にあらざればすなわち離れざるがごとし」と。鼈は猴の陰を噛んだまま水に入れんと却行《あとずさり》し、猴は往かじと角力《あらそ》ううち、鼈|仰《あおの》けに転がり廻る。猴、鼈を抱き、仙人を訪い救いを求め、仙人、猴の難を脱せしめた。仙人は仏、鼈は婆羅門、猴は優陀夷の前身じゃ、とある。このように口婬の話が仏典に多いから、上述、三井寺で僧が蛇の口を犯して美女と会うと夢みたという『今昔物語』の譚などもできたのだろう。
 ついでに言う。『五雑俎』九に、水碓《みずからうす》番する壮士、虎に打たれ、上に坐らる。その時水車飛ぶがごとく動くを、虎が見詰めおるうちに、その人甦ったが、手足圧えられて詮術《せんすべ》ない。ところが虎の陰茎|翹然《によつきり》口に近きを見、極力噛みつくと、虎大いに吼えて逃げ去った。また昭武郷に熊多く、その勢《へのこ》極めて長く、坐するごとにまず土に穴掘り、その勢を容れてのち坐る。山中の人その穴を見つけて、その上に桎梏《はさみ》を置き、機《ばね》を設く。熊、例のごとく来て、その大事の(479)物を穴に入れると、機動き両木で茎を夾まれ、号呼してまた起つあたわず、撃殺さるとあるは、猴が鼈に一件を噛まれたと、三幅対の珍談じゃ。また『根本説一切有部毘奈耶雑事』三一に、比丘尼どもが園林中に黙坐思惟すると、虫が来て不便処に入り苦悩す。よって仏、半跏を命ぜしに、なお細虫あり、身に入りて悩ます。仏、命じて故破衣《ぼろぎぬ》と軟葉で掩うて寂定を修せしめた、とある。不便処とは大小便処を言ったらしい。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
【追記】
 前に引いた『和漢三才図会』とレオ・アフリカヌスの記文を英訳して、八月二日の『ノーツ・エンド・キーリス』に出すと、同月三十日の分に次のような二文が出た。まずプリドー大佐いわく、往年在インドの節聞いたは、土著の一英人、入浴中壁に穿った排水孔より蛇入り来たるを見て、その人恐れて詮術を知らず。翌日また入り来たり排水孔より出で去らんとする時、尾を捉えて引いたが、蛇努力して遁れ去った。三日目にも来たが、今度は去るに臨み、まず尾を孔に入れ、かの人を見詰めながら身を逆しまにして逃げ失せた。何と蛇は評判通り慧《さと》いものじゃ、と。次にフェヤブレイス氏いわく、日本人は穴に入りかけた蛇の尾を捉えて引き出すあたわぬかしれぬが、二十年ばかり前、インドで英人ひとりでほとんど八フィート長き蛇を引き出すを見た、と。さて田辺近き芳養村の人に聞くと、蛇の尾を捉えて一人で引き出すはむつかしいが、今一人その人を抱きて引くと、造作もなく抜け出る由。   (大正三年四月『民俗』二年二報)
 
     武辺手段のこと
 
 「武辺手段のこと」と題して、根岸肥前守の『耳袋』二編に次の話がある。寛延の末ごろ、巨盗日本左衛門の余類の山伏、長三尺、周一寸余の鉄棒を用いるのが上手で、諸国で手にあまった。ところが、大阪町同心のうちに武辺の者(480)ありて、手段もて難なく捕えた。その法と謂わば、この同心長五尺、廻り二寸近い鉄棒を作り、姿を変じてかの山伏の宿に詣《いた》り、知人になり、いろいろ物語の上、自分も鉄棒を使う由言うて、持参した棒を見せると、山伏驚きて、同心の大力を讃め、自分のと取更えに、同心の棒を手に取って観る。隙に乗じ、山伏の鉄棒で山伏の真甲を打つ。山伏心得たりと同心の棒を取り上げたが、力に余って働き十分ならず。かれこれするうち、組の者人り来たりて捕えた。
 これは事実譚らしいが、似た話がイタリアの文豪ボッカチオの『デカメロン』の第五日第二譚にある。この譚は、イタリアのリパリ島の富家の娘ゴスタンツァと、貧士マルツッチオが相惚れと来たが、女の父が男の貧を蔑《さげす》みて結婚を許さぬ。男大いに奮発して、身富貴とならずば生きて再びこの島を見ぬと言い放ち、同志を募り海賊となり、繁盛したが、チュニス人と戦うて囚われたきり、故郷へ消息がない。娘失望のあまり、ひそかに家を出て海浜にゆき、空船を見出だし、海中で死のうと、それに乗って宛てもなく漕ぎ出し、哀しんで船中に臥すと、船は無難にチュニス近きスサ市につき、情ある漁婦に救われ、富家の老婦に奉公しおる。マルツッチオは長々獄中におるうち、チュニスへ敵が大挙して攻め入ろうとすると聞いて、獄吏に向かい、チュニス王、予の謀を用いたら必勝だと言う。獄吏からこのことを聞いた王は大悦びで、マルツッチオを延見《えんけん》して奇計を尋ねる。マルツッチオいわく、王の軍勢が用いる弓弦を、敵に少しも知れぬように、至って細うし、それに相応して矢筈をも至って狭うしなさい、さて戦場で双方存分矢を射尽して、いよいよ拾い集めた敵の矢を用いるとなると、こなたは弦が細いから、敵の広い矢筈の矢を射ることが成るが、敵の弦は、こなたから放った矢の狭い矢筈には、ずっと太過ぎて何の用をもなさぬ。こなたは矢多く敵は矢がなくなる道理で、勝つこと疑いなし、と。王その策を用い大捷し、すなわちマルツッチオを牢から出し、寵遇限りなく大富貴となった。このこと国内へ知れ渡り、ゴスタンツァ女、マルツッチオを訪い、恋ゆえに辛苦した話をすると、大悦びで、王に請うて盛んに婚式を挙げ、大立身して夫婦が故郷へ帰ったということじゃ。エー・コリングウッド・リー氏の『ヂカメロン、出所および類話』(一九〇九年板、一六〇頁)によると、ジォヴァニ・ヴィラニ(一三四八年歿(481)せり)の『日記』巻八に、一二九九年、韃靼帝の子カッサンが、おのれの軍兵の弦と筈を特に細くして、エジプト王を酷《むご》く破った、とある由。ヴィラニはボッカチオと同時代の人だ。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
     銭孔に油を通す
 
 誰が書いたか知らぬが、『長秋夜話』という三冊本の巻上に、飛鳥井大納言雅世卿、蹴鞠に分けて誉れあり。ある時貴賤群集して観るところで、鞠筥の底脱けたのを腰に結いつけ、その筥を通して鞠を蹴ること幾度しても外さず。しかるに見物中に油売商《あぶらうり》あって、何のこの曲がそんなに珍らしいか、人々の感歎心得がたい、と言う。側に居たる者、この秘曲はかの卿のお家にのみ伝うるところなるを、軽評するは浅ましいと罵り悪む。鞠済んで邸外で、かの油売、前刻側に居たる輩に向かい、われ所存ありてかく言うた、これを見よとて、荷桶より一升|升《ます》を取り出し十分に油を盛り、右の手に銭一文持ちて油を容るる器に当て、油を器へ注ぐに、油その錢穴の真中を通りて少しも銭を汚さず。一升の油器へ移りおわる。衆《もろもろ》の見る者、手を打って驚歎す。油売言う、この曲を習うてよくするにあらず、毎日の経験で覚えず熟練した、飛鳥井卿は蹴鞠が家業ゆえ幼年より自然と精通したのじゃと、やりこめられて、一同閉口した、とある。
 こんな話は支那にもあって、『淵鑑類函』三二四に、「『金坡遺事』にいわく、陳堯恣《ちんぎようし》は射を善くし、またもってみずから矜る。かつて家圃にて射る。売油の翁あり、担《に》を釈《お》いてこれを睨《み》、久しく去らず。その弓を発すること十にして八、九中つるを見、ただわずかにこれに頷《うなず》くのみ。問いていわく、汝また射を知るか、わが射また精《たくみ》ならざるか、と。翁いわく、他なし、ただ手の熟するのみ、と。陳、忿然としていわく、爾いずくんぞあえてわが射を軽んずるや、と。翁いわく、われの油を酌むをもってこれを知れ、と。すなわち一の葫蘆《ふくべ》を取って地に置き、銭をもってその口を(482)覆う。徐《おもむ》ろに杓をもって油を酌み、瀝々《れきれき》と銭の孔より入るるに、銭|湿《ぬ》れず。よっていわく、われまた他なし、ただ手の熟するのみ、と。陳、笑いてこれを遣る」。『今昔物語』一〇、「長安の市に粥を汲みて人に施せし嫗の語《こと》」第三七も似ておる。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
     瓦工は不吉の営業
 
 瓦工は不吉の営業だという老人に予しばしば逢うた。古伝に、およそ土ほど貴い物はないに、土を一たび瓦に焼くと、瓦はよほど年数を経ても、また土とならぬ。故に、土を減らすから不吉の営業だ、と言った。
 熊楠按ずるに、東晋沙門竺曇無蘭訳『仏説見正経』に、「仏いわく、またたとえば陶家の土を※[土+延]《こ》ねて器を為《つく》るがごとし。火をもってこれを焼けば、すなわち転じて瓦となる。いずくんぞ瓦をしてふたたび土となすべけんや、と。諸弟子みないわく、まことに不可なり、土はすでに焼煉し、形を変じて瓦となれば、またふたたび土となすべからざるなり、と」。仏、人間の識神《たましい》が、餓鬼や地獄に生まれ替わって、替わった先を人間へしらせに来ぬは、あたかも瓦となった以上、土に復《もど》らぬようだと喩えたんじゃ。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
     孕婦、厠の掃除
 
 孕婦、厠の掃除をなるべくしばしばすると美貌の子を生む、と紀州田辺辺の俗伝に言う。唐の沙門道世撰『諸経要集』巻八下に、『福田経』を引いていわく、仏自分の宿因を説く、「われ前世、波羅奈国のために大道の辺に近く※[囮の化が青]厠《せいし》を安設す。国中の人衆にして軽安を得る者、義に感ぜざるなし。この功徳により、世々清(483)浄にして累劫道を行じ、穢染|汚《けが》さず、金色晃々として、塵垢著かず、食おのずから消化し、便利の患いなし」。これは仏が前世に、公衆のために雪隠を立て施した功徳で、後身世々体が清浄で、金色に光り、大小便せずに済んだというので、雪隠をよく掃除すると美貌の子を生むというのに縁があるようだ。
 また田辺辺で、妻が産の気ついた時、その夫が氏神の社へ走り往き、手水鉢を掃除し、清水を入れ替えると安産す、と言う。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
     忠を尽して殺された話
 
 六百九十五年前に成った『続古事談』巻五に、斉信民部卿、別当の時、法住寺で文行と正輔と先祖のことを論じて、正輔、盃を文行に抛げ掛けた。文行、太刀を抜かんとするを、大力の人に留められ、正輔の族三人文行を捕えんとし、文行庭へ跳《おど》り下りる。文行が郎等、わが主人は酔うておると言うて、矢を弓に番うて向かうたので、正輔の方人《かとうど》文行を捕ええず。その間に文行は馬に騎って去ったが、拘留三日で免さる。文行言いける、坂東の猛者なりせば、かくは致さざらまじ、京は口惜しきところなりと言うて、東国に下りける。その時この助けたりし郎等を殺してけり。かの日のことを東国の人に聞かせじ、となるべし。このことを世の人善悪はいまだ定めずとぞ、と見ゆ。『続史籍集覧』の「佐藤系図」に、文行は左衛門大夫、相模守で秀郷の曽孫たり。「佐野松田系図」には、文行、左衛門尉、母は鎮守府将軍利仁の女《むすめ》とあるが、利仁は文行の曽祖父秀郷より前の人だから、誤聞だろう。
 さて文行が身の恥を蔽わんとて、おのれを助けくれた郎等を殺したのに似た話は、十六世紀にイタリアのトラヘッタ女公、兼フォンジ女伯だった美姫ジュリア・ゴンツァガ、年若きに夫に死に別れた時、花戸《はなや》が恋愛花と呼ぶアマランツス(ギリシア語で不凋《しおれぬ》の意)を紋に用い、初めて相見し男との愛情が一生失せざる義を表した。しかるに、トルコ帝(484)ソリマン二世、その無双の美人たるを聞き、驍将バビルサをして、海賊を率いフォンジを夜襲し、ジュリアを奪わしめた。一士あり、これを知って告げたので、ジュリア、襦袢裸、跣で騎馬して身を全うし遁れたが、少し後に刺客をしてその士を殺さしめた。全く裸体を見られたるを憾んでなり、という(一八一一年板、ムーショー編『艶史話彙《ジクシヨネール・ド・ラムール》』三巻五三頁)。予在英のあいだ介学の友たりしウィルフレッド・マーク・ウェブ氏の『衣装の伝歴《ゼ・ヘリテイジ・オヴ・ドレツス》』(一九一二年板、二一四頁)に、十一世紀に英国の貴女が、寒夜にすら丸裸で臥した、とある。イタリアは英国よりはるかに暖かいから、件の女公などもつねに裸で寝たんだろ。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
     駕籠舁き互いに殺さんと謀りし話
 
 宝永八年発行、自笑の『傾城禁短気』四の四に、二人の駕籠舁き、寒夜、京より大津行きの嫖客《ひようかく》を載せんとするに、その客寒気に中りたちまち死す。遺言により、その肌着より小判千両取り出し、死骸を駕籠に乗せ還る途上、一人の駕籠舁き大地に坐し泣き出す。今一人その訳を聞くと、実は汝を打ち殺して千両丸取りにせんとしばしば杖を後より振り上げたが、目前死人を見ながら、浅猿しき心になりしと、身の零落を悲しむ、と答う。今一人、われも汝を殺し、この金ことごとく取らんと謀りいたりと懺悔し、いろいろ来歴を語ると、この二人も駕籠の中の死人も異腹の兄弟だった、という譚がある。 それより二十三年前(元禄元年)出た西鶴の『新可笑記』五の四に、奥州女賊の娘二人、剽掠《おいはぎ》に出る道傍に、絹十匹落ちたるを拾い、五匹ずつ分かち持ち帰る。心の中で姉は妹を、妹は姉を殺し、絹をみな自分の物にせんと思い設けて急ぐ途上、火葬の火の残り燃えるを見て、おのおの無常を悟り、悔いて絹を同時に火に投げ込む。互いに理由を尋ねて、斉しく悪心を懺悔し、家に還って母を勧め、三人発心して比丘尼となった、と出ず。
(485) 治承のころ、平康頼の筆と伝うる『宝物集』一に、兄弟、父よりおのおの五百両の金を得て、道にて弟その五百両を投げ捨つるを、兄怪しんで訳を問うと、弟泣き泣き答えたは、われこの金を持ったゆえに、汝が持つ金を奪って干両になして持とうと一念起こった、金はうたてしき物と思えば捨つる、と言う。兄、涙を流し、われも然思うたとてまた投げ捨てた。これを断金の契りとは申すとは牽強《こじつけ》だが、この話は竜樹大士の『大智度論』に出ず。百巻という大部の物で、座右にありながら捜すに時を費やすゆえ、『法苑珠林』巻九四より孫引きとしょう。いわく、「兄弟二人あり、おのおの十斤の金を担いて行く。道中さらに余《ほか》の伴《つれ》なし。兄まずこの念いをなす、われ何ぞもって弟を殺して金を取らざらん、この曠路の中に人の知る者なし、と。弟また念いを生じ、兄を殺して金を取らんと欲す。兄弟おのおの悪心あれば、語言《ことば》と視瞻《めつき》とみな異なれり。兄弟すなわちみずから悟り、また悔心を生ず。われらは人にあらず、禽獣と何ぞ異ならん。同じく兄弟に産まれ、しかも少しの金のために、悪心を生ず、と。兄弟、共に泉水のほとりに至る。兄、金をもって水中に投ぐ。弟いわく、善きかな、善きかな、と。弟もまた金を水中に棄つ。兄いわく、善きかな、善きかな、と。兄弟さらにたがいに相問う、何をもっての故に善きかなと言うや、と。おのおの相答えていわく、われはこの金をもっての故に、善からざる心を生じ、たがいに危害せんと欲す。今これを棄つるを得たり、故に善きかなと言えり、と。ふたりの辞《ことば》、おのおの爾り」。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
     虫を掻き出して病を療ず
 
 『空華日工集』巻二、「永和元年七月七日、一道人の至るあり、かつ調えて虫を剔《ほじ》り瘡《かさ》を治《いや》す。座中に僧あり、※[病垂/解]瘡《かいそう》を治さしむるに、道人虫を剔ること無数なり。その長さあるいは二分、三分にして、片白の糸のごとし。水に入るればすなわち首尾みな動く。けだし妙手なり、云々」。今は知らず、三十年ばかり前まで、紀州で真言僧、山伏など、(486)疳病の児に手を握らせ、加持して手を開かせば、白き虫|蠕《うごめ》くを、疳の虫出でたりとて取り捨て、病は治れり。また歯痛の患者の耳より頬辺を撫で、細き虫多く紙の上に落ちて痛みすなわち去った。拙妻幼き時これを験《ため》せしに、虫と見えたは葱の種子だった、と語る。仏経に、諸病は身内の虫の所作とした説が多い。例せば、唐訳『大宝積経』五七に、人生まれて七日なれば、身内すなわち八万戸虫あり。日夜諸部を※[口+敢]食し、身をして熱悩、羸痩、疲困、飢渇せしむとあって、虫の名と、その食う部分を挙げおる。『禅秘要経』には、はるかにくわしく出おり、それを読むと、まるで虫から起こらぬ病とてはないようで、梁朝ごろに訳したという『陀羅尼雑集』にも、疳や歯痛を虫の所為《しわざ》とし、おのおのその呪がある。
 『嬉遊笑覧』七に、「『太上三尸中経』にいわく、人の生まるるや、みな形を父母の胞胎に寄せ、五穀の精気を飽味す。ここをもって、人の腹中にはおのおの三尸九虫あって人の大害となる」。この虫、庚申の日、天に上り、人の善悪を天帝に告ぐるより、わが邦にも庚申待ちのこと行なわる、とある。尸《し》と戸《こ》と字似たるより考うると、この道家の三尸九虫は、仏家の八万戸虫に傚《なら》うて言い出したものか。とにかく最初は人身に住んで諸病を起こす虫と言ったが、後には人の善悪を監視報知する鬼と立てられたのだ。『本草綱目』などを見ると、支那の蠱虫や金蚕など、虫でもあり鬼でもあるようなもので、仏典に医王耆婆が、諸病人の体から蜈蚣等の虫を抜き出し、全快せしめた中には、亡夫の魂が爬虫となって若後家の陰部に棲み、煩悶せしめた等の例もある(一九〇六年板、フォン・シェフネル『西蔵諸話《チベタン・テイルス》』英訳、一〇二頁)。
 さて虫を抜き出して病を療じうるという信念は、アジアのみに行なわるるにあらず。例せば、ベイツの『亜馬孫河畔博物学者《ゼ・ナチユラリスト・オン・ゼ・リヴアー・アマゾンス》』(一八六三年板)九章に、ムンズルク人は原因の分からぬ病を、いずれも患部に住む虫の所為とし、術士に頼み抜き出さしむ。術士いと秘密げに大きな葉巻煙草を作り、その煙を患部に吹きかけた後、そこから虫を吸い出す。著者これを視ると、虫というのは実にある植物の気根だった、とある。濠州土人の術士は、ある病は鬼が石(487)を病人に抛げたかた起こり、ある病は他村の術士が病人の内部を鋭い石で切り裂いたによるなど言って患部からそのの石を吸い出し、また火傷から木炭片を吸い出して見せなどし、また諸病人の患部を撫で、皮下に物あるを確かめた上、布片を押し宛て引き離し、開いて石英や骨、木皮、玻※[王+黎]珠《ガラスだま》などを出し、これが病源だった、と言う由(一九〇四年板、ハウィット『東南濠州土民《ネチヴ・トライヴス・オヴ・サウスイースト・オーストラリア》』三七九頁以下)。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
     平賀源内機智の話
 
 明治十四年に出た『東洋学芸雑誌』巻一の一一五頁、片山沖堂撰、平賀氏の伝にいわく、「源内の志度浦にあるや、浦人に活計を問わるることあり。時に歳暮に近し。いわく、汝多く黄橙を買って小舟に梱載し、また海紅柑を取ってこれを上層に置け、と。航して浪華に抵《いた》り、黄橙を売らんと叫ぶこと、その言のごとし。都人これを見て、田舎漢《いなかもの》の柑と橙を弁えざるものと謂《おも》い、その価を問う。すなわち、橙となせばすなわち貴く、柑にてあればすなわちはなはだ廉きをもって、一舟を挙げてこれを買う。その上層を撤するに、すなわちことごとくみな橙なり。しかれど価はすでに定めたれば、中《なかば》にて輟むべからず。ついに利を得て還る。こは瑣事といえども、またもってその機敏を見るに足らん」。
 これと趣きを同じうせる談、一八九四年板、バートン訳『千一夜譚』二巻三八〇頁にあり。いわく、猴を畜い盗を業とする者あり。市場に入るごとに、必ず多く窃んで出ず(註に、アラビア、ペルシア等の人、いずれも猴を呼ぶに吉祥の名をもってす、云々、とある。わが国と等しく、猴舞しを吉兆として歓迎するので、この人これを職と見せかけて、盗を業としたのだろう)。一日市に入って麁衣を売る者ありしが、誰も買わぬゆえ憊《つか》れて憩む。盗その辺に猴を舞わせ、暇に乗じ麁衣を盗み、猴を伴い閑処に之き、一枚の美布もて麁衣を裹《つつ》み、他の市に趣きこれを鬻ぐ。愚人あり、その価外面の美(488)なるに比してすこぶる低きゆえ、内容全く麁衣なるを知らず、その場で開き見ずに購い、家に還って妻に叱らる、と。蕭斉の朝に訳すところ『百喩経』巻上には、これらと似て趣きが全く反せる話を載す。すなわち賊が富家に入って、錦繍を偸んで弊《やぶ》れた毛布や雑物を裹んだので、智人に笑われた、愚人が仏法に入りながら貪利のために、清浄戒や諸功徳を破り、世に笑わるるはこれと同様だ、と。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
     山獺みずから睾丸を噛み去る
 
 この段は、明治三十年ごろの 『ノーツ・エンド・キーリス』へ予が出したものだ。一八四二年板、ブランドの『古俗の観察《オブザーヴエイションス・オン・ポピユラー・アンチクイチース》』巻三や一六四六年に出たブラウンの『俗説弁惑《オウセウドドキシア・エピデミカ》』巻三によると、エジプト、ギリシアの昔より近古に至る間、欧州とその近邦で広く信ぜられたは、山獺《ビーヴアー》の睾丸、薬として高価だから、それを欲しさに人がこの獣を狩る。山獺これを知り、みずから睾丸を噛み切り、人がこれを尋ねおる間《ま》に、命を全うし逃げ去る。さてその後また狩らるると、直立して狩人に睾丸の跡を見せ、肝心の宝がないゆえ、捕えたところが無益だと示す、となり。
 これと同規の支那談、『五雑俎』巻九に、※[虫+冉]蛇《うわばみ》の胆《い》を薬用のために捕うる法を載せていわく、「その胆は身を護り、撃つにしたがって聚まる。もしただに胆を取るなれば、竹をもってその一処を撃ち、やや久しくして利刀にてこれを剖けば、胆はすなわち落つ。胆去るも蛇は傷つかず、よってこれを縦《はな》つべし。後に取る者あれば、蛇はすなわち腹間の傷を逞《ひら》いて人に示す。そのすでに取られたるを明らかにするなり」。また『本草網目』に、蜥蜴の同類|蛤※[虫+介]《こうかい》は房中薬として効あれど、薬力が主に尾にある、尾が全からぬと無効だ、それを知って、人に取られかかると、みずから尾を噛み断って去る、と出ず。また麝獣《じやこう》もきわめてその臍を愛し、人に逐われるとみずからこれを剔《ほ》り出して死す、と(489)ある。
【追加】
 『古今図書集成』の禽虫典・第一〇五巻牛部彙考一に、「※[釐の里が牛]牛は西域に出ず。尾長くして勁《つよ》ければ、中国にてはもって纓につくる。人もしこれを射んとすれば、みずからその尾を断つ。『左氏』にいわゆる、雄鶏みずからその尾を断つ、なり」と見ゆ。この※[釐の里が牛]の字は、毛《ぼう》、俚、来《らい》の三音ある。それからこれと同類の旄、これも毛の音だ。『本草綱目』五一に、「旄牛(※[牛+毛]牛)は甘粛の臨※[さんずい+兆]《りんとう》および西南の徼《とりで》の外より出ず。野牛なり。人多くこれを畜養す。状《かたち》は水牛のごとくして体長く、力多くしてよく重きを載せ、迅く行くこと飛ぶがごとし。性は至って粗く梗《つよ》し。髀《もも》、膝、尾、背、胡《あご》の下にみな黒き毛あって、長さ尺ばかりなり。その尾もっとも長く、大なるは斗《ひしやく》のごとし。またみずから愛護し、草木これに鉤《かか》れば、すなわち止まって動かず。古人、取って旌旄となす。今の人はもって纓のある帽をつくる。毛に白色を雑ゆるものは、茜をもって紅色に染む」と載せ、「※[釐の里が牛]牛は西南の徹の外より出ず。深山の中にすむ野牛なり。状および毛、尾はともに旄牛に同じ。旄は小なれど、※[牛+毛]は大にして、重さ千斤なるものあり。その尾また旌旄や帽の用となすべし。(中略)※[釐の里が牛]の角は旄より勝れ、旄の毛尾は※[釐の里が牛]より勝る」とある。
 戦国のころ武装に用いられて「唐の頭に本多平八」と歌われた、唐の頭がすなわちこの牛の尾で、黒きを「こぐま」、白きを「はぐま」、赤く染めたのを「しゃぐま」と呼んだ。『本草啓蒙』四七には、黒毛を旄牛、その他の色の者を※[釐の里が牛]牛と仮定しておる。『武徳編年集成』、須川賢久訳『具氏博物学』にも見ゆる通り、旄牛は英語でヤックだ。この語もとチベット人がこの鳴き声によってギャッグと名づけたから出た。チベット高原の野牛で、おいおい畜われて種々の変種もでき、また他の牛との間種《あいのこ》を生じて、北インドその他で荷を負わすに必要の物たり。家畜種は毛色黒、赤、灰など雑ゆるが、野生の原種は全身黒く、足瑞から肩まで六フィートもあって、小さい家畜種の四倍大で、その角の長《たけ》三フィートもある。して見ると、『綱目』の文と対照して、黒毛の野生原種が野牛、雑白毛の畜養種が旄牛に当たるは(490)ずだ。いずれも尾、毛を、古来インドや支那で払子《ほつす》や兜飾りなどにして貴ばれ、草木に鉤《かか》ると自在に動きえぬ等のこ
とより、人が射ればおのずから尾を断つなど噂されたのだろう(右、自分が見たる標本と生品と、ウッド『動物新画譜《ニユー・イラストレーテツド・ナチユラル・ヒストリー》』一八三頁、バルフォール『印度事彙』第三板、三巻一一〇五頁、『大英類典』一一板、二八巻入九八頁参取)。上に引いた、雄鶏みずからその尾を断つと『左氏』に見え、それがこの類の支那譚中最も古く筆せられたものらしい。「賓孟、郊に適きて、雄鶏のみずからその尾を断つを見る。これを問うに、侍者いわく、みずからその犠《にえ》とせらるるを憚るなり、と」とある。   (大正四年二月『民俗』三年一報)
 
     正直者、金拾いし話
 
 無住の『沙石集』六の一一にいわく、「近年の帰朝の僧の説とて、ある人の語りしは、宋朝に賤しき夫婦あり、餅を売りて世を渡りけり。ある時道のほとりにして餅を売りけるに、人の袋を落としたりけるを見ければ、銀の軟挺|六《むつ》ありけり。家に持ちて帰りぬ。妻心すなおに欲なき者にて、われらは商うて過ぐれば事も欠けず、この主いかばかり歎き求むらん、いとおしきことなり、主を尋ねて取らせよ、と言う。男もさるべしとて、普く触れければ、主という者出で来て、これを得て悦んで、三をば奉らんと言いてすでに分かつべかりける時、思い返して煩《わずらい》を致さんために、七つこそありしに、六つあるこそ不審なれ、一をば匿されたるにや、と言う。さることなし、もとより六なり、一つ引籠《ひつこ》むる心地ならば、何しにかように披露して奉るべき、と言う。かように論じて、はては国の守の許にしてこれをことわらしむ。国の守、眼賢き者にて、この主は不実の者なり、見つけたる者は正直の者と見ながら、なお不審なりければ、かの妻を召して、別の所にして事の子細を尋ぬるに、夫が詞に違《たが》わず。この妻も正直の者と見て、判じていわく、夫妻共に正直なればこそ、引籠めずして触れて、その主という者出で来るに渡さんとすらめ、いかで一を引籠(491)むべき、されば六ながらこそ取らめ、今主と名乗る者七ありけるを落としたらば、さてはこの軟挺にはあらざりけり、七あらんを求めて取るべし、これは別の軟挺なりけりとて、六ながら夫妻に給いけり。宋朝の人|美《いみじ》き成敗とぞ讃め※[句の口が言]《ののし》りける、云々」。
 一五六七年ロンドン出板『笑譚捷答《メリー・テイルス・エンド・クウイク・アンスワース》』一六章に、ロンドンとワヤー間で、百ポンド入れた袋落とした人、拾うて持ち来た者に二十ポンド遣るべし、と広告す。ある人百ポンド入った袋を拾い持ち来たり、約のごとく二十ポンド受くべしと言うと、落し主さらに、実はこの袋に百二十ポンド入れおいたと言いかくる。名奉行ヴァウアスール判じて、しからばこの人の落とした袋は別にあるべし、まずこの金を得分とし、もし百二十ポンド入りの袋を見つけたら、ただちにこの落し主に与えよとて、拾うた人に百ポンド全然《そつくり》遣った、と見ゆ。
 この類話いろいろ欧州にあるが、最《いと》古く仏典に出ておる。劉宋の代訳された『弥沙塞《みしやそく》部五分律』巻一〇に、仏、舎衛城にありし時、外道あり。五古金銭を持って水辺に到り飲み、忘れて置き去る。一比丘来たり見て、かの人の物だろうと思い、取り上げたところへかの外道還り来たる。よって袋を交付すると、開いて見て、もと千金銭あったのを、汝が五百だけ盗んだと言って、比丘を裁判官方へ伴れ行く。裁判官、仏法嫌いで、非理に決断し、比丘を四辻へ引き出し、死刑にせんとす。汲斯匿王、高楼上からはるかに見て不審をなし、外道を召し、その袋に五百銭ある上に、また五百銭入れんとするも入らず。外道自首して、もと五百銭を入れたり、われ瞋りのゆえに比丘を誣《そし》るのみ、と白す。王、裁判官に、かく面《まのあた》り王を欺く者を何に罪すべきと問うと、本人は死刑、財産は官に没収すべし、と答う。すなわち死刑に処せらるるところを件の比丘が、命乞いして放たれ、裁判官は呵《しか》られた、とある。姚秦訳『四分律蔵』一八にも出ず。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
(492)     蟻の道
 
 四十年ばかり前、予幼少のころ、和歌山市で小児の戯れに、蟻の道というのがあった。図のごとく十字形の四瑞ごとにまた小さき十字あるを、尖った小石で地上に画き、さてその一部に最《いと》近き一点より、「蟻の道はどうよ、こうきてこうよ」と唱えながら、気長く、なるべく本形に沿って相触れぬように渦紋を画き廻る。その線がなるべく細かくて、多く重なり廻るを上手とす。単独でできる時間漬しの最上乗な戯れだった。田辺などにも古くあったそうだが、今の小児は一向知らぬようだ。『義経記』五の二、静女《しずか》、御嶽《みたけ》の蔵王権現の前で法楽の謡に、「蟻の荒《すさ》みの悪《にく》きだに、歩《あり》きの跡は恋しきに」とあれば、昔より邦人が蟻の道に注意したと分かるが、件の児戯を物に記したのを予は見ぬ。十六、七年前、故ウィリアム・フォーセル・カービー氏、蟻類の概説を著わし、うちに特に蟻に関する民俗伝説の一章を設けたのを、一本予に贈られた。それにも右様の遊びは一向見えぬ。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
     寂照飛鉢の話
 
 インドの聖人が鉢を飛ばして食を受けた例は、仏典にしばしば見るが、わが邦にも越の泰澄の沙弥臥《しやみふし》行者は、自分は室内に臥しながら、海舶過ぐるごとに鉢を飛ばして供を乞う(『元亨釈書』)。また『宇治拾遺』に、信貴山の聖僧、常に鉢を山下に飛ばして食を受けた話あり。『古事談』巻三に、浄蔵、鉢を飛ばし、北の方王城に往って食を受け来(493)たらしむるが常なりしに、三日続けて空で帰るから、調べると、山中の老僧の大鉢が飛んで来て、浄蔵の鉢中の物を奪い去るのだった、と載せおる。匡房卿の『続本朝往生伝』に、大江定基出家して法名寂照、長徳中宋に入り、「安居の終りに衆僧の末に列す。かの朝の高僧、飛鉢の法を修め、斎食を受くる時、みずから行き向かわず。次いで寂照に至る。寂照、心中大いに恥じ、深く本朝の神明仏法を念じ、食頃《しばし》、観念す。ここに寂照の鉢、仏堂を飛び繞り、三|匝《まわり》して斎食を受けて来たる。異国の人ことごとく感涙を垂れ、みないわく、日本国は人を知らず、「然をして渡海せしむるは人なきを表わすに似たり、寂照をして入宋せしむるは人を惜しまざるに似たり、云々」。「大江氏系図」を見ると、寂照は匡房の曽祖父匡衡の従弟に当たる。他人でないから、よりどころあって書いたものだろう。
 『宇治拾遺』には、「今は昔、三河入道寂照という人、唐土《もろこし》に渡りて後、唐の王、やんごとなき聖《ひじり》どもを召し集めて、堂を飾りて僧膳を設けて、経を講じ給いけるに、王のたまわく、今日の斎莚は手長《てなが》(給仕)の役あるべからず、おのおのわが鉢を飛ばせ遣りて、物は受くべしとのたまう。その心は日本僧を試みんがためなり。さて諸僧、一の座より次第に鉢を飛ばせて物を受く。三河入道末座に著きたり。その番に当たりて、鉢を持ちて立たんとす。いかで鉢を遣りてこそ受けめとて、人々制し留めけり。寂照、申しけるは、鉢を飛ばすることは別の法を行ないてする業なり、しかるに寂照、いまだこの法を伝え行なわず、日本国においてもこの法行なう人ありけれど、いまだ世には行なう人なし、いかでか飛ばさんと言いていたるに、日本の聖、鉢遅し、鉢遅し、と責めければ、日本の方に向かいて祈念していわく、わが国の三宝神祇助け給え、恥見せたまうなと念じ入りていたるほどに、鉢|独楽《こまつぶり》のようにくるめきて、唐土の僧の鉢よりも早く飛びて、物を受けて帰りぬ。その時王より始めて、やんごとなき人なりとて、拝みけるとぞ申し伝えたる」とある。
 ユールの『マルコ・ポロ紀行』(一八七一年板、一巻二六六頁)に、元世祖が供養せし比丘《ハツシ》衆、方術に長ぜることを叙べて、帝飲む時その食卓を地上八クピット(日本の一丈二尺余)高き壇に載せ、卓より十歩距って酒等を盛った盃を置(494)く。帝これを飲まんとすると、比丘衆方術もて、誰も触れぬに盃をみずから帝の前に往かしむ。これその席に侍する人々毎度見るところで、時として一万人も侍することあり。全く事実で虚言でない、と書いておる。ユール註していわく、一三二三至二八年の間に、支那に三年留まった天主僧オドリクも、短くこのことを記していわく、幻士美酒を盛った盃をして空中に飛行し、みずから酒飲まんと欲する諸人の前に往かしむ、と。ちょうど元の英宗の末年から文宗の初年間、わが朝後醍醐帝御宇の初めに当たり、マルコの支那滞在よりはおよそ三十年後のことだ。ジェシュケの説に、近代の喇※[口+麻]僧も術士が盃を飛ばすと信ず、と。欧州でも、シモン・マグスやツェサレ・マルテシオは、食器や銀盃を手で触れずに動かしたと古く信ぜられた、と。以上ユールの註だが、熊楠かつて「飛盃《フライイング・カツプス》」と題し、大略右の通り書き集めて、明治三十三年二月の『ノーツ・エンド・キーリス』に出し、濠州土人が弓を用いるを知らずに、擲射器《ブーメラング》を発明したなどを引き合わせ多大の誇張はあるにしても、すでに多くの人が観たという飛鉢の一条は、必ず何か一種の機巧《からくり》を使うた事実があったのだろう、と評しおいた。そのころ予ヘブリウ語を学ぶのを助けられたウィリアム・ガーペットという奇人あって、当時ローマ法皇が何とかいう神通家をヴァチカンから卻けたるを不当とし、上に引いた「日本国は人を知らず、云々」の語を援《ひ》いて、『ブリチシュ・エンジニヤリング』誌へ書き立ておった。
 『紀伊続風土記』八一、熊野川畔七日巻淵の上の山に、飛鉢森《ひはつのもり》あり。むかし異僧専念上人ここに棲み、鉢を下して施物を乞う。筏師戯れに草鞋を鉢に入れると、筏師たちまち淵に入り、渦に巻かれて七日のあいだ出ずるを得ず、よって名づく、とある。予かつて淋しき熊野の山中で、薄暮近く※[鼠+吾]鼠ごときものが、高い頂から斜めに下りまた上ること数回なるを見て、※[鼠+吾]鼠が下から上へ飛ぶは奇怪と、久しく守っておると、「やえん」という機械で物を上下するのと分かった。専念上人が鉢を飛ばすとはなく、上下したとあるは、全く「やえん」様の物を、常人に分からぬ法で使うたのかと思う。唐の釈道宣の『続高僧伝』三三、元魏の時、洛京永寧寺の天竺僧|勒那漫提《ろくなまんてい》、五明の術に通ず。「洛下の人の、遠く嵩高の少室に向かいて薪を取る者のあるを、つねに見る。みずから言う、百姓かかる地に如き、担ぎ負い(495)て辛苦す。われしばらく二山を牽《ひ》き取り、洛水のほとりに枕せしめ、人の伐り足るを待って、すなわち故《もと》に還し去らんか。もって難《かた》しとはなさず、これただ数術《まじない》なるのみ。ただ無知の者は、われを誣《し》いて聖《ひじり》となすならん。故に敢えてせざるなり、と」。これも「やえん」様の仕掛で、高山巓《こうざんてん》から手早く薪を下す成案ありしを、しばらく二山を牽き取るなどと、どうせするつもりはないのだから、大言したのだろう。また同書巻三〇に、道士陸修静、北斉に入って諸沙門と道術を角《くら》べるに、呪して衣鉢を挙げたり、転《ころが》したりしたことがある。(六月十八日より七月十一日夜に至り草し終わる)   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
     銀杏樹と女の乳との関係
 
 銀杏樹《いちよう》と女の乳とは多少の関係あり。和歌山市近傍のある村に擂木《れんぎ》の銀杏樹とて、ある寺か社の境内に老木あり。それに擂木状の長き瘤を生じ、垂れ下がれり。乳の病ある婦人これに立願して平癒す、と言えり。『紀伊国名所図会』第二編か三編にその図ありと記憶す。また明治二十九年以前の『植物学雑誌』に、誰かがその科学上の説明を出しあったと記憶す。 ついでに言う。『池北偶談』巻二四に、「郷大夫の好んで雑談をなす者あり。隣県の一友人に問いて言う、貴郷に銀杏多しと聞く、然るや否や、と。友人応ぜず。再三問いてやめず。かたわらの人みな匿《ひそ》み笑うも、ついに悟らず。けだし、銀杏《インシン》と淫行《インシン》は音同じければなり」。薩摩人に歌謡を勧むるとて「おはこ」を出せと強いて叱られた話に似ておるが、これも銀杏と女人の関係と言わば言いうるから記しおく。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
 
(496)     紀州の民間療法記
 
 田辺の老人に聞く。かつて童子指を火傷《やけど》せしに、その母ただちにその子の指を自分の陰戸に入れしめた。即効ありという。また斬髪屋の斬髪に婦女の陰毛三本混じ、煎じ飲めば、淋病いかに重きも治すとて、貰いに来る人ありと、斬髪屋の話だ。
(『本草網目』五二に、湯火傷灼に女人の精汁をもって頻々これを塗れと『千金方』より引いた。また「髪※[髪の友が皮](※[髪の友が皮]は他人の髪を自分の髪を飾るに用いたのでカモジのこと)は小便水道を利す」。これを焼いて粉にし、石淋を治するため服する、とある。「また婦人の陰毛は、五淋および陰陽の易病を主《つかさど》る」とあり、「陰陽の易病」とは「病後に交接し、卵《たま》の腫れて、あるいは縮んで腹に入り、絞らるる痛みにて死なんとする」をいい、それを治《いや》すに「婦人の陰毛を取って灰に焼き、飲んで服す。なお、陰を洗える水をもってこれを飲む」とある。しからば、もと支那説で、本邦に伝わって俗人までも知り行なうたのだ。)
 拙妻話に、古伝に韮の雑水《ぞうすい》は冷たきを服すれば寛利し、温かなるを用うれば腹を固むる、と。また西牟婁郡上芳養村の人いわく、以前婦女その夫などを毒するに、鉄針の砕屑《くず》を飯に入れ、知らずに食わせることあり。夫何とも知らずに煩い出し、医師にも病原分からぬ。かかる時韮を食えば、針屑ことごとく下り出て平治す、と。(巌谷小波君の『東洋口碑大全』上の八三五章に『三国伝記』より、丹波の村人が青鷺を射傷つくると、翌夜よりその家の後に栽えた薤を盗む者あるので、ある夜伺うて射ると肯鷺が死におり、盗み食った薤が矢根に巻きついて出おったので、傷の療治に薤を盗みにきたと知り、ただちに弓を捨てて入道した話を引きおる。薤は、『倭名類聚抄』にオオミラと訓じ、狩谷※[木+夜]斎の『箋注』九に辣韭《らつきよう》のこととしある。『大和本草』、『本草啓蒙』、『本草図譜』、みなラッキョウ(497)としある.「和漢三才図会』には、ラッキョウと薤を別物と立てて薤を韮の葉長く広いオオニラというもの、としある。『三国伝記』は『和漢三才図会』と同じく薤を大ニラ、韮をコニラと心得、大小いずれか分からず、ただニラなる名を薤の字で書いたらしい。『民俗』二年二報には、山崎麓氏が『雪窓夜話』、『旅行集話』、『金石譚』、種彦の小説『白縫譚』より、鉄を呑んだ大鯰や大鯉や雀が韮を食ってみずから鉄を出した例をひきおる。また種彦から、かかる俗信が支那から出た証として『続医説』を引かれた。『本草綱目』二六には、魚の骨が咽に立ったり、誤って釵鐶《さいかん》(カンザシやユビワなど)を呑んだ者が薤を食うたら出てくる、とある。されば、これももと支那伝来の療法で、支那で薤の薬功として挙げたのを、日本で大ニラを用い、それから『和漢三才図会』九九に言える通り、日本で大ニラは少ないによって、もっばら小ニラすなわち今単にニラという奴を用ゆることになったでしょう。)
 黄楊を西牟婁郡で、「なべわり」と言う。その生葉を焼くと、パチパチと烈しく音して、鍋を破りそうだからだ。これを煎じて服すると、胃病を治すという。
 「おとなえそう」というものリウマチに神効ありとて、熊野辺を求め行く人多し。前年予那智におった時、二十里ばかり旅して求めに来た人があった。予諸処でその草を大切に蔵するのを見ると、箱根草という羊歯に外ならぬ。『和漢三才図会』九二末に、「相伝えていう、よく産前産後の諸血症および痰飲を治す、と。往年オランダ人これを見て良き草ありと称し、請いてこれを採りえて、はなはだもって珍となせり」と。箱根で採ったから箱根草と言ったらしい。
 山中に住む人に淋病多し。西牟婁郡|兵生《ひようぜ》などで、木挽|輩《ども》その薬とて、勘太郎という碧紫《るり》色の大蚯蚓、長七、八寸あるを採り、裂きて土砂を去り、その肉まだ動きおるを食う。実に見るも胸悪い。
 田辺の老人、身に刺立てて悩む時、雉の爪で掻くと出て来る。その跡へ即飯《そくい》と五倍子粉《ふしのこ》を練り合わせ貼りおく。かかる時の用意に雉の足を蓄えおく人あり。
(498) 和歌山で、古く兎の手で痘瘡を掻くと害がないと言って、蓄えた人あり。また田鼠《うごろもち》の手を爪杖《まごのて》にして、痘瘡を掻く人もあった。
 初茄子を一つ、小児の臥処の上に釣りおくと、その夏|汗瘡《あせぼ》を生ぜぬという。馬歯※[草がんむり/見]《すべりひゆ》を※[火+牒の旁]《ゆ》でると、茎より粘汁出でて色赤く蚯蚓のごときを、好んで食う人あり。塩でこの草の葉を揉み、汗瘡に付けると神効あり。見るうちに治するが、劇烈な物で、時として愚者が気絶する由。また田辺でいうは、馬歯※[草がんむり/見]は至って精の強いものゆえ、※[火+牒の旁]でて味噌あえにして食えばイキンド(喘息の方言)を治すること妙なり。   (大正二年九月『民俗』一年二報)
【補訂】
 蒟蒻。魚骨や土砂石粒を構わず食う人あり。度重なれば会陰《ありのとわたり》に積み聚まりて大患をなす。田辺の近村の旧社掌、この患に罷り外科医に切り出さしめたことあり。その人現に存命す。俗伝に、蒟蒻を間《ま》ま食うとかかる患なしという。元禄六年著『鹿の巻筆』三に「きかぬ奴の衆道」と題し、ある奴、元結い売りの少年を犯すとて誤って砂を犯し少年に向かい、さてさてその方はずいぶん嗜みが悪い、必ず必ず今よりして蒟蒻を薬食いにしやれと言った、とあるをみて、そのころも蒟蒻は腹に入った土砂を消すと信ぜられた、と判った。『和漢三才図会』一〇五にも「俗に伝う、蒟蒻はよく腹中の土砂を下し、男子最も益あり、と。これ、その拠るところを知らず」と出ず。明治四十五年七月の『人類学雑誌』前田生の説に、尾張名古屋で十二月八日蒟蒻のピリピリ煮必ず食うべし、平生月に一度も蒟蒻を食うを砂おろしという、と故人の記を引いた。何故こんな俗信が生じたかと尋ぬるに、楠本松蔵という田辺人いわく、一体蒟蒻ほど土砂と粘着しやすい物なく、ちょっとでも地へ落とすと、即時に砂や土が付いて中へ侵入し、いかに洗えばとて離れず、食用にならぬ、と。それで人体に蒟蒻が入れば腹中の土砂を吸い取って外へ出すと考えられた、と考う。(大正十五年八月記)
(499)【追加】
 前文に田鼠の手で痘瘡を掻くことを載せたのち、西鶴の『二代男』五の第一章を見ると、「今、歴々の太夫たちに尻ばすねもあり田虫もあり、見えるところの銭瘡《ぜにがさ》もこれには土竜の手して掻くが妙薬なり」とある。痘瘡に限らぬことと見ゆ。
 田辺の俗伝に、端午に飾りし菖蒲の根元の孔で酒|吮《す》えば中風を防ぐと言う。
 また上巳に飾った丸実の金柑を貯えおき、食らえば熱病を治す、と。
 また琴の一の緒を腹に巻けば腹痛起こらず、また白き鶩《あひる》の生血は中風を治す、また全身眼の周りまで黒き矮鶏《ちやぼ》の初生卵《はつたまご》食らえば一生中風を病まぬ、と。
 田辺から四里ばかり鮎川という所に、猴掻荊《さるかきいばら》とて鉤曲がりつける葛《かずら》あり、一本ごとに必ず雌雄一対の蠹《きくいむし》住む。黒焼にして服すると脳病を治す、と。猿掻荊とは鉤藤《かぎかずら》のことだろう。西牟婁郡二川村大字兵生で聞いたは、蜂蜜をそのまま用ゆれば通じを開き、温めて用ゆれば枯瀉痢を止む、と。
 田辺の漁婦六十歳ほどなるが、印魚《こばんうお》(方言やすら)の頭にある小判形の吮著器《サツカー》を多く貯え、熱|冷《ざま》しまた下痢の人に施すに神効ありと言う。骨ごとき硬い物で何の味わいなし。二寸ばかり長きをおよそ三分一ばかり切って味噌汁で薄く仕立てて服するのだ。
 東牟婁郡湯峰に蒔かずの稲というあり。自生の稲と言い、小栗判官入湯の時、初めて生えしなど伝う。その米、血の道に神効ありとて貴ぶ。
 海草郡日方町生れの至って正直なる者みずから験して奇効ありしとて語る。鶏雌雄を択ばず頭を醤油で付焼にして三、四回食らえば、いかに重き痔にても治る。かくすれば骨も嘴も容易に食らい得。眼玉を食う時気味悪しき由。耳側の肉旨し。脳漿《のうみそ》が最も利くのだ、と。
(500) またいわく、無花果の枝葉は煮出せば茶の通り赤褐色となる.はなはだ身を温むるもので、ちょっと入れればたちまち全躯発汗す。これに浴すると痔を治す、と。
 またいわく、営実《てりはのいばら》の花風邪熱を治す、と。
 またいわく、尾長|糞蛆《くそむし》八疋ばかり土器二つ合わせた中に入れ、密封して黒焼きし、その粉を五回ほどに呑ますと肋膜炎に効あり、と。
 拙妻話す田辺の古伝に、病人が厠へ入った跡へ入らんとする時、まず草や藁を投じてのち入れば病を受けず、これを病を断《き》ると称す、と。
 またいわく、上《のぼ》せ性また産後の人に真醋《まず》(米製)害あり、梅醋はさらに害なし。梅醋は真醋と異り、いかほど貯うるも黴を生ぜず、と。 またいわく、蘆を刈り大布嚢に入れ、茶のごとき色出るまで煮出し、その嚢に坐しその湯に浴すれば疝気を治す、と。   (大正三年一月『民俗』二年一報)
 
     此け地蔵
 
 『東海道名所記』一にいう、「小磯の町外れに小橋あり。その前に切通しあり。右の方に石地蔵あり。往昔この地蔵夜ごと化けて往来の人を誑《たぶらか》し悩ましけり。紀州の某とかや、急ぎける道なりければ、夜に入りてここを通り侍りし(501)に、美しき女になりて立ち出ず.とかくするほどに、しきりに怖しくなりくれば抜討ちに打ちけり。斬られて後に露われたり。立ち寄りてみれば、石地蔵の首打ち落とされたるにてぞありける。それより以来は頸斬《くびきれ》の地蔵とぞ名づけける」。『堺鑑』巻中に、「首截り地蔵、行基作。北の荘皇子が飢の北の辺りに草庵あり。むかしここに葉屋の辻堂ありて、西国巡礼高野山通路休所のためにありしに、夜々奇怪のことありて、ある夜道行く人と行き逢うて化生の者を斬り留めたり。明けてみれば石地蔵なり、云々。諸願祈るに験あらずということなし。その時の太刀疵の跡、現に拝まれ給うなり」。
 熊楠案ずるに、支那にも類話あり。唐の釈道宣撰の『三宝感通録』一に、東晋の穆帝の永和三年二月八日夜、荊州城に現ぜし釈専の金像は阿育王が作った物で、長沙寺に安置された。孝武帝の太元中、この像みずから寺の西門を出で歩く。邏者《まわりばん》これを人と思い、問うに答えぬから、刀もてうつと鏗然《こうぜん》と音する。みれば仏像で胸に刀の跡があった、と載せおる。   (大正三年一月『民俗』二年一報)
 
     熊が悪人を救いし話
 
 享保ころ松崎堯臣の著『窓のすさみ追加』に、「薩摩の猟師にやありけん、山路を通るとて、がけ道を踏み外し、谷底へ陥り、幸いに過ちはせざりけれど、絶倒しけるを、大なる熊出でて掌に口を当てすりければ、みずから嘗めけるが、甘きこと限りなし。さてありて、熊先に立ちて行きけるに、付いてゆくほどに窟に入りぬ。草を置いてその上におらしめ、痛わる体にみえ、時々掌を出して舐らするに、飢うることなかりけり。明日帰るべきと思い、人に暇請うごとくして出でけるに、熊は名残惜しげにみえて、登るべき路まで案内して別れ去りけり。この者不仁なる者にや、その後鉄砲を持って、かの路より伝い下りてかの窟に往き、熊の臥しいたるを打ち殺し、胆《い》を取って奉行所に捧げし(502)に、その次第を尋ねられて、中将綱久朝臣聞き給い、獣さえ人の難儀を救い痛わりしに、その恩を知らざるのみならず、これを害せしとて、人にして獣に劣れり、かかる者は世のみせしめなりとて、その窟の前に磔《はりつけ》に行なわれけり。宋景濂《そうけいれん》の筆話にも、猩々に助けられて、かえってこれを殺さんと謀りしことあり。昔より善人のすること必ず符合し、悪人の所為また同じく合いぬること一、二にあらず。自然にかくのごとくなるとみゆ」と出ず。『新著聞集』には、江州甲賀郡の山中へ木の葉をかきに出でし孕婦が、熊に助けられて子をうみ、七日その穴で養われて帰り、猟師にその穴を示すと、熊かけ出で、その女を引き裂いて逐電した、と作る。熊の穴に落ちて熊に助けられた猟師の話は支那にもあれど、恩を仇で返したとはない(『淵鑑類函』四三〇)。
 薩摩の話の根本か、また偶合か知らぬが、同様の譚が唐の義浄訳『根本説一切有部毘奈耶破僧事』一五にあり。いわく、「往昔、婆羅※[病垂/尼]斯城にひとりの貧人あり。常に柴樵を取り、売ってもって活命《くちすぎ》す。その人またある時に、繩と斧を執り持って林のあたりに往趣《おもむ》き、まさに柴を刈らんとす。即ち時ならざる大暴風雨に逢い、七日息まず。風雨を避くるために、漸次《しだい》に経歴《へめぐ》って、ついに山のあたりに至り、一の石窟を見る。すなわち中に入らんと欲し、まさに窟の門に至らんとして、熊の内にあるを見、驚怖して却《しりぞ》き走る。熊、驚いて走るを見て、すなわち彼を呼んでいわく、善き男子よ来たれ、汝われを怖るるなかれ、と。その人かの熊の呼ぶを聞くといえども、なお恐怖を懐き、躊躇して立つ」。熊すなわち来たって人を抱き、窟に入れ、七日問美果樹根を食らわしむ。八日目に風雨やんだので、美果を与え去らしむ。その人跪いてこの報恩に何をなすべきや、と問う。熊いわく、汝ただわがここにすむを洩らすなかれ、と。その人窟を出てで家へ帰る途上猟師にあい、このほどいずこにありつると問われ、子細を述ぶ。猟師巧言もてその人に熊の住所を問い、手に入れたら汝に多分を、われはただ一分を取るべしと勧められ、貪心起こりてついに引き還し、往って熊の在所を示し、猟師窟の口で柴を積んで熊を熏ぶ。熊苦しんで、われこの山中に住し、一人を害せず、「果《このみ》および樹根を食らい、常に慈悲の念を起こす。われ今命尽きんとして、はた何の計をなさんや。みずから過去の(503)業を念えば、善悪今報いを得たり」と頌を説いて死す。猟師その皮をはぎ、樵人に二分の肉をとれ、われは一分を取らん、と言う。樵人、肉を取らんとする時、両手ともに落つ。猟師驚き、城に入って王に白す。王この熊は勝上菩薩たるを僧より聞き知り、塔を起こして供養す。熊は仏、樵人は提婆達多の前身、と。
 ラスムッセンの『北氷洋の民』(一九〇八年板、英訳)一七六頁には、エスキモーの一婦人、不品行で脱走して、ある家の入口に熊の皮あるをみてはいると、家内はみな人の形した熊であった。そこに留まりおるに、一つの大熊が熊の皮を著て外出すると、必ず海狗《おつとせい》を捉って帰り一同に食わせた。その後、かの女がうちへ帰りたいと言うと、その熊は二疋の子が人に殺さるるを惧れ、内へ帰ってもわれわれのことを人間に語るな、と言った。女は内へ帰って黙りおられず、その夫に熊の住所を明かしたから人々橇を馳せて熊の家を襲い、熊は人手に渡すよりはと、自分で二子を咬み殺し、家より走り出て女が留守しおるを襲い咬み殺した。それから、外へ出たところを犬どもが取り巻くを防ぐ最中に、犬どもも熊も天上して星になった、とある。   (大正三年一月『民俗』二年一報)
 
     錐揉み不動
 
 錐揉み不動というのが紀州根来寺にある。近藤瓶城氏の『続史籍集覧』のうち『大伝法院本願聖人御伝』に、高野の密厳院に覚鑁上人おりし時(崇徳帝の保延六年十二月八日早朝)、寺領のことについて衆徒蜂起して、院に打ち入り上人を追い出さんとす。内陣に入って堂内を見廻すに、上人なく、壇上二体同相の不動尊像|双《なら》び坐し、いずれ本尊いずれ上人と分からず、血の出るが上人じゃと言って、矢の根で木像の不動尊の膝をもむと血が出た。上人これをみて、本尊われに代わらんとするは恐れ入ったと悲しんで本身に復り、院を出でただちに根来寺に入った、とある。
 この話は義浄訳『根本説一切有部毘奈耶雑事』三三に基づいたらしい。本勝|※[草がんむり/必]芻尼《びつしゆに》の塔を、五百門徒が如来髪爪の(504)塔と誤認し礼敬せしを、尊者|※[こざと+烏]波離《うばり》嘲り、五百門徒怒ってその塔を毀つ。吐羅難陀尼、聴いて大いに怒り、利刀、鉄錐、木鑽をもて尊者を殺しにゆくと、尊者大衣を被り、心を斂《おさ》めて滅尽定に入る。諸尼到って刀できりちらし、鉄錐、木鑽で遍体をつきさす。尊者は定の力によって、さらに息《いき》なく、死人と異ならず。諸尼はもはや死んだと思うて捨て去る。仏聞いて、以後尼が守門比丘の許しなしに僧寺に入るのと、刀や錐を持ちありくのを禁じた、とある。   (大正三年一月『民俗』二年一報)
 
     石田三成
 
 石田三成が秀吉に見出だされたは、ある寺の小姓だった時、秀吉その寺に入り茶を乞うと三成持ち出でた。秀吉取って飲むに、その茶いとぬるし。しかし、喉かわける故ぬるきが快し。重ねて望むと、前より少し熱くして来た。まだ渇き止まぬ故、今一つと望むと、至って熱きを持ち来たったので、その才智|唯人《ただびと》にあらずと感じて、召し仕われた、と(『長秋夜話』下)。 似た話が『毘奈耶雑事』七に見ゆ。勝鬘女下賤に生まれ、釈子大名の園を守りし時、勝光王、狩のついでに単身その園に入り、洗足せんとて水を乞う。女、日に照り暖められた水を蓮の葉に盛りて奉る。次に面を洗う水を求むるに、暖水で目を洗うべからずと惟い、冷暖相半ばした水を奉る。次に飲み水を求むると、冷水を奉った。王その智を感じ、すぐに大名に請うて妃とした、と出ておる。   (大正三年一月『民俗』二年一報)
【増補】
 朝鮮の李太祖、竜蜂江を渡る時、康氏の女出でて水を汲むを見、水を乞うと、瓢に水を汲んで柳の葉を浮かして捧げた。その無礼を咎めると、暑い日急いで飲むはよろしからず、緩々《ゆるゆる》と飲むように計らった、と言った。太祖感じて(505)銀作りの小刀を遣りおき、のち漢陽に都した時、召して妃とした(三輪環氏『伝説の朝鮮』五一頁)。『毘奈耶雑事』一六に、やや似た話あり。五百群賊が夜、ある村を劫《おびや》かした時、その大将が一梵志の家に入って少女に水を求めると、待ちなさいと言って火を点《とぼ》して水を見るから、何をする、と尋ねた。少女答う、水の中に髪や草があってはよろしからず、と。賊魁、われらこの村を荒らしにきた者、毒でも飲まさるべきに、そんなに気をつけてくれるは訳が分からぬ、と。少女いわく、貴公が賊をしようとすまいと御勝手次第、われはただ作法を外さぬつもり、と。さて水浄きを確かめた上渡したから、賊魁も鬼の眼に涙で、なかなかそばへはよれませぬ、われと兄妹の義を結ばれよというと、それは真平御高免、そんな人を兄に持って、早晩人に兄が殺されるに相違ない、その時わが心配はどうだろう。もしよく三宝に帰依し五戒をもたば、悦んで妹となろうとうまく鋭いたので、賊魁たちまち発心し、一同盗を止めて帰ったそうな。(大正十五年八月二十七日記)
 
     遠い火災を救うた人
 
 明治三十七年九月十一日、予、東牟婁郡那智村大字天満の墓場を見る。以前寺ありしが廃絶し、竺源という僧の墓あり。碑の裏に宝暦□戌とあるのみ。村民伝う、この僧神通力あり、かつて天満と川関のあいだ洪水で道絶えたるを、何の苦もなく常の通り歩み帰った。ある時、早朝におきて寺の石垣に水を撒く。傍人その故を問うに、われ本願寺の火災を救う、と答えた。七日ばかり経《へ》て本願寺より使者到り、火を救われた礼を述べた。かく言い伝うるのみで、いつの人やらさっばり分からぬらしい。(大正十四年板、中道等氏の『津軽旧事談』七二頁に、東津軽郡今別村本覚寺の貞伝上人が寺の門へ水をかけて、はるかに京の智恩院の火を救うた話あり。)
 こんな話は支那やインドにも多い。少々挙げてみよう。晋の葛洪の『神仙伝』五に、「欒巴、徴せられて尚書郎と(506)なる(『大清一統志』二三七に、東漢の順帝の時、徴せられて尚書を拝す、とせり)。正旦《がんじつ》の大会に巴おくれて至るに、酒のめる容《けはい》あり。百官に酒を賜う。また飲まずして、西南に向かってこれを※[口+巽]《ふ》く。司《やくにん》あり、巴は不敬なりと奏す。詔して巴を問《ただ》す。巴いわく、臣の郷里にて、臣のよく鬼を治し病より護るをもって、生きながら臣のために廟を立つ。今旦《このあさ》、耆老あり、みな臣の廟中に来たって臣を享《まつ》る。臣、早《あさ》にこれを飲むあたわず。ここをもって酒のめる容《けはい》あり。臣たまたま成都市に火の上がるを見る。臣、故に酒を漱《そそ》いで、そのためにこれを救う。あえて不敬なるにあらず。まさに請うらくは詔して問わるべし、詔を虚しうせば罪に抵《あた》らん、と。すなわち駅書《ひきやく》を発して成都に問う。すでに奏していわく、正旦《がんじつ》の食後に失火あり、須臾にして大雨の三陣《みたび》あって東北より来たり、火すなわち止む。雨の人に着けるはみな酒気をなせり、と」。『瑯邪代酔編』二一に、「光武の時、駕《みくるま》南郊に幸《みゆき》す。光禄勲の郭憲、たちまち面《おもて》を東北に向け、酒を含んで三たび※[口+巽]《ふ》く。法を執《つかさど》るもの、奏して不敬となす。詔してその故を問う。対えていわく、斉国に失火あり、故にこれをもってこれを厭《はら》う、と。のち斉より果たして火災のことを上《のぼ》す、郊にゆきしと同日なり」とあって、次に欒巴と一様に成都の火を救うた樊英のことを列ぬ。「英、壺山の陽《みなみ》に隠れすむ。公卿、賢良・方正・有道なりと拳ぐれども、みな行かず。かつて暴風あり、西方より起こる。英、学者に謂いていわく、成都市にて火はなはだ盛んなり、と。よって水を含んで西に向かってこれを漱《そそ》ぎ、すなわちその日時を記《しる》せしむ。客のち蜀より来たるあって、この日大火ありしに、黒雲にわかに東より起こるあり、須臾にして大雨ふり、火ついに滅《き》ゆるを得たり、と」。仏僧中には、仏図澄かつて石虎とともに「中堂に昇る。澄たちまち驚いていわく、変々《いちだいじ》なり、幽州まさに火災なるべし、と。よって酒をもってこれに灑《そそ》ぐ。久しくして笑っていわく、救うことすでに得たり、と。虎、幽州に遣わして験《しら》べしむるに言う、その日、火四門より起こる、西南より黒雲あって来たり、驟雨《にわかあめ》ふってこれを滅《け》す、雨またすこぶる酒気ありき、と」。
 ややこれらに似たのは、一七五九年スウェッズンボルグが英国からスウェーデンに著し、ゴッテンブルグのコステル氏方に十五客とともにあった夕、三百マイル距たったストックホルムに火起こり、知友の家を焼きスの家に逼った(507)が、三軒めの宅きり火が鎮まつたと衆に告げたところ、その火事の最中に出立した飛脚が三日めの夕ゴッテンブルグにつき、スが言ったに違わず火の様子を記した状を持ち来たったということで、それを至細に探究して報じた友人の書面をみて、哲学者カントも疑うに余地なくすこぶる驚異した一件である。しかし、この咄には酒や水をふいて火を救うたことなし(チャムバース『ブック・オヴ・デイス』一巻一八七頁)。これらよりも釈尊がいっちえらく、火災で祇※[さんずい+亘]精舎が焼かれんとした時、酒の水のと騒がずに、「われ一切漏尽し、真の阿羅訶、仏道を得たり」、これ実語ならば火すなわち滅せよと呪願しただけで火たちまち消えた(東晋の卑摩羅叉訳『十誦律毘尼序』巻下)。また『正法念処経』に、須弥山の四※[土+垂]《した》に持鬘天あり。十住処あり、おのおの広さ千由甸、北に四つ、東西南におのおの二つあり。東方住処一を一切喜と名づけ、花をもって持戒人を供養し、仏に供えた人またここに生まる。二を行道と名づけ、炎起こりて衆生をやくを見、水をもって滅した果報でここに生まる、と出ず。かく仏教に消防の功をほめるから、出家も火けしの術を心得たと見え、三国の時支那へきた維祇難が天竺にあったうち、小乗の沙門のその家に宿らんとするを拒んで門外に露宿せしむると、その沙門呪をもって難が家内に祀った火をけす。驚き請じ入れ供養すると、また呪して火を生ぜしめた。これを難がみて、その沙門に伏し、仏教に化した、という(『高僧伝』一)。(大正三年一月『民俗』二年一報)
 
     水銀の海
 
 『本草網目』巻九に、「払※[草がんむり/林]国の水銀。日の没する処に当たり、地に水銀の海あり。その周囲四、五十里なり。国人これを取るに、海に近き十里ばかりに坑井数十を掘り、すなわち健夫と駿馬をしてみな金箔を貼って、行きて海辺に近づかしむ。日の金を照らせば、光は晃耀たり。すなわち水銀は滾沸《わきかえ》り、潮のごとく来たる。その勢は粘り裹《つつ》むがごとし。その人すなわち馬を回して疾く馳すれば、水銀は随って※[走+旱]《お》う。もし行くこと緩《おそ》ければ、人馬ともに撲滅さる。(508)人馬行くこと速ければ、すなわち水銀の勢は遠ざかって力|微《かすか》となり、坑塹に遇って中に溜積す。しかるのちにこれを取り、香草を用いてともに煎《に》れば、すなわち花銀となる。これは中国に産するところと同じからず。ただし、みなその状は水のごとく銀に似たり。故にもって名づく」。
 この話全く啌《うそ》ながら、支那人の手製にあらず。西アジア古来ありきたりの伝説を聞き書いたのだ。ドイツ人ハクストハウセンの『トランスカウカシア』(英訳、一八五四年板、三六〇頁)に、小亜細亜《アナトリア》の深山に水銀湖あり、その価|計《かぞ》うべからず。されど、その水銀は生命を賭せざれば、ちともとり来るを得ず。人がその湖に近づくと、水銀の波高く起こり到って、磁石が鉄をすうごとく人をとり入れるゆえだ。しかし、あるアルメニアの方術家、かつて奇謀を運らし、その水銀を多く取った。その法は、自身の前に鉛一大塊を転がして湖の方へ向けおき、地は穴をほり、犬の皮を縫い合わせて穴の内面にはり、その穴より鉛塊まで溝を掘り、さらに鉛塊の下から湖まで一管を通した。すると、湖中の水銀が鉛に引かれて犬皮に流れこんだところをそっくり持ち還った。水銀は犬皮でのみ運びかつ保存しうる、とのせある。
 皆人知る通り、水銀はなみの気温中に黄金また鉛と融和してアマルガムを形成する。よってこんな話ができたので、水銀に黄金を和し仏像に塗ったことは古く内典にみえる。例せば、陳の南嶽慧思大禅師の『諸法無諍三昧法門』上に、「浄妙の真金は水銀に和して、よく世間種々の像に塗る」と言った。   (大正三年一月『民俗』二年一報)
 
     怒らぬ人
 
 依田百川の『譚海』巻二に、天明中、豊後速見郡鶴見村の妙喜尼、初め某氏に嫁し、一子を産みしが殤《わかじに》し、夫も病没す。それから舅姑に事え至孝だったが二人とも死んだので、尼となって誦経念仏日夜止まず。何ごとあっても仏(509)恩だと言うて、少しも心を動かさなんだ。ある人問う、もし汝に水をかけたらどうだ。尼いわく、暴雨と思えば腹が立たぬ。木石を投げつけたらどうだ。尼いわく、瓦が自分で飛んできたと思えばすみます、老尼《わたくし》常に仏恩の報じがたきをのみ憂う、何の暇あってその他を懸念せんや、と。ある夜、闇中寺に詣り、僧と相|撞《つ》いて地に倒れ気絶した。僧驚いて救い活《い》かすと、ただちに合掌して仏恩を唱う。訳を問うと、死ななんだがすなわち仏恩と答えた。また飯をたくとて沸湯で手を焼いた時、仏恩と称えた。それほど痛むに何の仏恩かと問うと、阿鼻地獄に比ぶればまことに少しの痛みでないかと答えた。平生耕織して自給し、一毫も人に求めず、物を遣《おく》らるると必ず報じた。半日に布一丈二尺を織り、その術に工みなる者も及ばず、これも仏恩と言うた、八十余歳で没した、とある。
 これ事実譚らしいが、似たことは古く経文に見えおる。劉宋の朝に徳賢《グナ・ブハドラ》が訳した『雑阿合経』一三に、仏、祇樹給孤独園にありし時、尊者|富楼那《ふるな》来たって仏を礼し、白していわく、「世尊よ、われすでに世尊の略説したまえる教誡を蒙る、われ西方の輸盧那《ゆるな》の人間《じんかん》に遊行せん」と。「仏、富楼那に告ぐらく、西方の輸盧那の人は兇悪軽躁、弊暴好罵をなす。富楼那よ、汝もしかれの兇悪軽躁、弊暴好罵をなすを聞かば、はたこれを如何となす、と。富楼那、仏に白していわく、世尊よ、もしかの西方の輸盧那国の人、面前《まのあたり》にて兇悪、訶馬毀辱をなせば、われはこの念いをなさん、かの西方の輸盧那の人は賢善にして智慧あり、わが前において兇悪弊暴にして、われを好罵毀辱すといえども、なおさらに手石をもって打擲するを見ず、と。仏、富楼那に告ぐ、かの西方の輸盧那の人、ただ汝に兇悪軽躁、弊暴罵辱をなすのみなれば、すなわち可ならん、もしまさに手石をもって打擲するあらば、はたこれを如何となす、と。富楼那、仏に白していわく、世尊よ、西方輸盧那の人、もし手石をもってわれに加うれば、われはまさに念言《おも》うべし、輸盧那の人、賢善にして智慧あり、手石をもってわれに加うるといえども、しかも刀杖を用いず、と。仏、富楼那に告ぐ、もしかの人かりに刀杖をもって汝に加うれば、はた云何《いかん》となす、と。富楼那、仏に白していわく、世尊よ、もしかの人かりに刀杖をもってわれに加うれば、まさにこの念いをなすべし、かの輪盧那の人は賢善にして智慧あり、刀杖を(510)もってわれに加うといえども、しかも殺すを見ず、と。仏、富楼那に告ぐ、かりにかの人をしてもし汝を殺さしむれば、はたこれを如何となす、と。富楼那、仏に白していわく、世尊よ、もし西方の輸盧那の人、かりにわれを殺さば、まさにこの念いをなすべし、もろもろの世尊の弟子あり、まさに身を厭い患い、あるいは刀をもって自殺し、あるいは毒薬を服し、あるいは繩をもってみずから繋《くく》り、あるいは深き坑に投ず、かの西方の輸盧那の人は賢善にして智慧あり、わが朽ち敗れたる身に少か方便をなせるをもって、すなわち解脱を得たり、と。仏いわく、善きかな富楼那、汝よく忍辱を学ぶ、汝今やよく輸盧那の人間《じんかん》において住み止まるを得ん、汝今よろしく去くべし、いまだ度せざるを度し、いまだ安んぜざるを安んじ、いまだ涅槃せざる者をして涅槃を得しめよ、云々、と」。富楼那かの国に至り、夏安居し、「五百の優婆塞のために法を説き、五百の僧伽藍を建立し、云々、三月過ぎおわって三明を具足し、すなわち彼処《かしこ》において無余涅槃に入りぬ」とある。   (大正三年一月『民俗』二年一報)
 
     少しばかりを乞うて広い地面を手に入れた話
 
 むかし、というものの年代確かに分からぬ時、チリア王ムトゴ※[殊の朱が且]《そ》し、その民、王の子ピグマリオンを立つ。その妹ジド、叔父アセルバスの妻たり。アセルバスの勢い、王に次げり。ピグマリオンその宝物を奪わんとてひそかに叔父を殺す。ジド夢にその夫が自分の兄に殺されたと知り、ことさらに愁いを忘れんため兄と同棲を申し出で、内実他邦へ奔らんと謀る。王知らず、多人をしてその移居を助けしむ。ジドその人々を語らいて味方とし、シプルス島に到り、ゼウスの祠官の一族と合体し、移民に妻《めあわ》すための八十人の室女《むすめ》を掠め、アフリカ北岸の一港に航着上陸す。さて土人ょり地を買うに、牛皮一枚で覆いうるだけを望み、土人諾す。その時ジド牛皮を剪って最も細き線条《すじ》とし、浩大なる地面を囲み、ことごとくこれを獲って国を建て、プルサ(牛皮)と名づく。これカルタゴ国の※[井+刀の左右に点]《はじ》めなり(スミス『希臘羅馬(511)人伝神誌字彙』一八四五年板、巻一)。
 熊楠いわく、右はわが国でも西史を読む人のみな知るところで、その時われわれがジドだったら、どんな形に牛の皮線条で地面を囲んだら、最も多く地を取り込みえたかという算学上の問題に、予など毎々脳漿を搾ったことである。しかし、この話はあまり気がついた人はないようなものの、実は東洋にも古くから伝えたことで、ただジドの話が移ったか、インドや支那にもおのずから発生したかが分からぬ。
 西晋の安息国三蔵安法欽訳『阿育王伝』三に、摩田提《マジヤーンチカ》尊者、※[横目/がんだれ/(炎+立刀)]賓《けいひん》国で大竜を降し、自分一人坐るにたるだけの地を求め、竜承諾した。そこで尊者その身を大にして国中に満たして跏趺して坐した。竜、大いに呆れ、汝かばかりの広き地を何にするぞ、と問う。尊者、われに諸伴党あるゆえ、と答う。また問う、伴党は幾人ぞ、答う、五百羅漢あり、と。竜いわく、もし他日五百羅漢が一人でも減ずる場合には、その時必ずわれにこの国を還せ、と。尊者入定して、後世五百羅漢が常に五百ながら存しうべきかを観ずると、必常《きつと》五百あって一人も減ぜぬべきを知った。よって答えて、いかにも竜の望み通りと約定した。さて尊者、無量の人をつれてこの国に来たり、みずからこれを村落城邑に安住せしめた。また人を将れて飛んで香山中に向かい、鬱金の種を取って※[横目/がんだれ/(炎+立刀)]賓国に種えんとした。竜怒って鬱金を幾時のあいだ種えるつもりか、と問う。尊者いわく仏法が続くあいだ、と。竜問う、仏法は幾時永く続くか。答う、千歳だ、と。聞いて竜その種を与えた、と出ず。
 六祖大師の門人法海等集『六祖大師縁起外記』に、唐の儀鳳二年、「大師、曹渓の宝林に至り、堂宇湫隘にして衆を容るるに足らざるを観、これを広くせんと欲す。ついに里人の李亜仙に謁していわく、老僧、檀越に就いて坐具の地を求めんと欲す、得るや不や、と。仙いわく、和尚の坐具いかばかりの闊さなるや、と。祖、坐具を出だしてこれを示す。亜仙、唯然《うべな》う。祖、坐具をもって一たび展ぐるや、ことごとく曹渓の四境を罩《つつ》み、四天王、身を現じ、坐して四方を鎮む。今、寺の境に天王嶺あり、これによって名づく。仙いわく、和尚の法力の広大なるを知る、ただわが(512)高祖の墳墓みなこの地にあり、他日塔を造らん、幸《ねがわ》くは存し留めんことを望む、余はことごとく捨てて、永く宝坊となさんことを願う、云々、と」。尊者と大師が神通力をもって、あるいは身を一国に満つる大きさにし、あるいは坐具一枚で土豪の所有地をことごとく罩《おお》うたは、ジドが牛皮を細かき線条に切って広い地面を囲んだ算勘上の頓智と大違いだが、小さいものをだしに使って広大の地面を取った趣きは同じ。また慈覚大師『入唐求法巡礼行記』巻三にいわく、「五台山五百里の内、奇異の花開き敷くこと錦のごとし。満山遍谷香り、香気薫馥たり。台《うてな》ごとに多く慈韮の生ずるあり。むかし孝文皇帝この五台に住んで遊び賞す。文殊菩薩化して僧形となり、皇帝に従いて一つの座具の地を乞う。皇帝これを許す。その僧、許され已って一つの座具を敷くに、五百里の地に満つ。皇帝これを怪しみ、朕はただ一つの座具の地を許せしに、この僧一つの座具を敷いて、あまねく五台に浩ごること大いに奇なり、朕は共にここに住むを要せず、と。ついに慈韮をもって五台山に散《はな》ち、すなわち山を出でて去る。その僧のちに零陵香の子《み》をもって慈韮の上に散らし、臭気をなからしむ。今、台ごとにあまねく慈韮を生じ、すべて臭気を聞《か》がず。零陵香あり、満台に生い茂って、香気氛※[気のメが媼の旁]たり。相伝えて言う、五台五百里は一つの座具を敷くの地なり、と」。   (大正三年一月『民俗』二年一報)
【増補】
 『聊斎志異』巻三にnく、「紅毛《オランダ》国は旧《むかし》、中国と相《たがい》に貿易することを許さる。辺帥《へんすい》はその人衆きを見て、岸に登るを聴さず。紅毛人は、ただ一|氈《せん》の地を賜われば足る、と固く請う。帥は、一氈の容るるところいくばくもなきを思い、これを許す。その人、氈を岸上に置くに、わずかに二人を容るるのみ。これを※[手偏+止]《ひきさ》くに四、五人を容る。かつ※[手偏+止]き、かつ登るに、頃刻《しばらく》にして氈の大きさ畝《ほ》ばかり、すでに数百人となれり。短刀をみな発し、不意に出でて、数里を掠めて去るところとなる」。
 これは何の地と明記せぬが、伊能嘉矩氏が『民俗』二年二報に書かれたるをみると、台湾を右に似た謀事で紅毛が(513)取ったらしい。鄭亦鄒の『鄭成功伝』には、蘭人が当時拠台の日本人を紿き、『台湾府志』の旧志には、蘭人が土蕃をだまして、いずれもジド同様、牛皮線条で地面を囲い取った、とある由。また同氏は『増訳采覧異言』を『野史』から孫引いて、スペイン人が一牛皮の屋を蓋うの地を呂宋王に求め許可された後、多く牛皮を縫い合わせ、もって土地を囲み取った、と述べらる。
 この話は『明史』にはや出でおり、「万暦の時、仏郎機強いて呂末と互市《とりひき》をなす。これを久しくしてその国の弱くして取るべきを見てとり、すなわち厚き賄を奉じて王に遺《おく》り、牛皮の大きさほどの地に屋《いえ》を建てもって居《すま》わんことを乞う。王その詐くことを虞《おもんばか》らず、これを許す。その人すなわち牛皮を裂き、連属《つながつ》て数百丈に至り、呂宋の地を囲みて、約のごとくせんことを乞う。王大いに駭く。しかれども、すでに許諾したれば奈何ともすべきなく、ついにこれを聴す。しかも稍《しだい》にその税を徴すること国法のごとし。その人すでに地を得て、すなわち室を営み城を築き、火器を列べて守禦を設け、つぶさに窺伺《きし》の計をなし、すでに竟りて、その備えなきに乗じ、その王を襲いて殺し、その人民を逐いて、その国を拠《と》る。名は呂宋の仍《まま》なるも、実は仏郎機なり」とある。仏郎機はそのころ回教民がすべてのキリスト教民を呼んだ名だから、ここに言える仏郎機はスペイン人を指したものだろう。『ゲスタ・ロマノルム』六四語、賢い処女がわずかに三インチ平方の布片で王の身に合うた襦袢を作った話も本条に近い。それに似た話が『毘奈耶雑事』二七の大薬伝にあるが、縁が遠くなるから略する。
 日本でややこの類の話とみるべきは『甲子夜話』続篇四一に出ず。豊太閤が曽呂利新左に望みの物をやるから言えというと、新左、紙袋一つに入るほどの物をという。太閤、小さい望みかなとこれを許し、曽呂利喜んで退く。曽呂利出仕せざること十日、太閤人をして伺わしむるに、大なる紙袋を作りおり、この大袋をお倉にかぶせその中に積んだ米をみな賜わるはず、という。太閤、使者よりこれを聞いて、紙袋一つに相違なきも、倉一つの米は与えがたい、と笑われたそうだ。(大正十五年八月二十七日記)
(514)【追加】
 『郷土研究』二巻一号に、久米長目氏、『仙台封内風土記』を引いて、宮城郡の洞雲寺、もと異人夫婦住む。慶雲中、僧定恵来たってこの地に寺を建てんと欲し、携うる錫杖を地に樹て、その影の及ぶところだけを借らん、と言う。二人これを許せば、そのおるところの境内ことごとく影の及ぶところとなったので、やむをえずその地を引き渡し、自分らは他の山間へ立ち退いた、とある。
 インド説にいわく、過去世トレタユガの時、マハバリ王その威力を恃み、諸神を礼せず、また牲を供えず。韋紐天《ヴイシユヌ》諸神に頼まれ、彼を罰せんとて侏儒の梵志ヴァマナに生まれ、王に謁して三歩で踏みうるだけの地面を求む。王そはあまりに少《ちい》さ過ぎる、今少し大きい物を望めと言うたが、外に望みないと言う。お安いことと王が三歩だけの地面を許すと、しからば約束成った印にわが手へ水を掛け給えと乞う。よって水を注いで手に懸くるや否や、侏儒の身たちまち長大して天地に盈ち、初歩で大地を履み尽し、第二歩で天を履み尽し、第三歩もて冥界を略取せんとす。この時、大《マハ》バリ王、これは大神に外ならずと悟り、地に伏して降参した。一説には、第一歩で天、第二歩で地をまるで踏み、第三歩の下ろしどころがないので、すなわちバリ王の頭を踏んで地獄まで突っ込んだ、とある(バルフォル『印度事彙』三巻九入九頁。ヴァイジャ『梵英字書』八七五頁)。   (大正四年二月『民俗』三年一報)
 
     ウガという魚のこと
 
 田辺町の大字片町の漁夫、海のことを多く知った宮崎駒吉話に、当地でウガ、東牟婁郡三輪崎でカイラギという魚は、蛇に似て身長く、赤白の横紋あってすこぶる美なり。尾三つに分かれ、真中の線《すじ》に珠数ごとき玉を多く貫き、両傍の線は玉なく細長し。游《およ》ぐを見ると、なかなか壮観だ。動作および頸を揚げて游ぐ状《さま》、蛇に異ならず。舟の帆柱に舟(515)玉を祝い籠めある。その前の板は平生不浄を忌み、その上で物をきらず。ウガを獲れば件の板を裏返し、その上でウガの尾をきり、舟玉に供え祀る。しかる時は、その舟にのる者海幸を得。この魚の長《たけ》二尺ばかり、と。『和漢三才図会』五一、鮫の条に加伊羅介鮫《かいらけさめ》の名を出し、『重訂本草啓蒙』四〇には錦魴をカイラギと訓じたれど、共にその記述を欠くゆえ、当地方でいわゆるカイラギは、果たして鮫の類か否か一向分からぬ。   (大正三年一月『民俗』二年一報)
【追記】
 一昨年六月二十七日夜、田辺町大字江川の漁婦浜本とも、この物を持ち来たり、一夜桶に潮水を入れて蓄い、翌日アルコールに漬《ひた》して保存し、去年四月九日、朝比奈泰彦博士、緒方正資氏来訪された時一覧に供せり。これ近海にしばしば見る黄色黒斑の海蛇の尾に、帯紫肉紅色で介殻なきエボシ貝(バーナックルの茎あるもの)八、九個寄生し、鰓《えら》、鬚を舞《まわ》してその体を屈伸廻旋すること速ければ、略見には画にかける宝珠が線毛状の光明を放ちながら廻転するごとし。この介甲虫群にアマモの葉一枚長く紛れ著き脱すべからず。尾三つに分かれというは、こんな物が時として三つも掛かりおるをいうならん。左にアルコール漬の略図を出す。詳細の記載は他に譲る。『重訂本草啓蒙』に、海蛇は数品あり、蛇形にして色黒く、尾端寸ばかり分かれてフサのごとくして、赤色なるもの、また白色なるものあり、と言えるはこの物であろう。この物手に入れた時、江川の漁夫等、古老の伝えた、海幸を舟玉に祈るに験著しい物はこれだろうと言ったが、何という物かその名を知った者一人もなかりし。かつてその名を予に伝えた宮崎翁は、大正十四年、双眼ほとんど盲《めしい》しながら夜分独りで沖へ釣に出で、翌朝船中に死しありしと今夜初めて聞き、かかる家業を世襲せる老人の口伝には必ず多少の実拠ありと暁《さと》れるにつけて、今少し多くを聞き留めおいたらよかったと、後悔これを久しうする。ついでにいう、『塵添※[土+蓋]嚢
※[図の説明、ウガ,一名カイラギ.蛇の体これよりずっと長いが,紙面の都合上縮めて画く]
(516)抄』三に、鰄をカイラキと訓ず。紀州でいう物およびカイラケザメと同異判らぬ。同書四に、蛇をウカということと、その起原を説きある。(大正十五年八月二十七日記)
 
     魚の眼に星入ること
 
 宮崎氏またいわく、瀬戸内海の魚はみな讃岐の魚島まで登る。サゴシは、登るうちは右眼、降る時は左眼に星入りあり。紀泉二国の山を見当として汚ぐゆえ、と。   (大正三年一月『民俗』二年一報)
 
     夙慧の児、大人を閉口させた話
 
 イタリア人フランコ・サッケッチが十四世紀に書いた『新話《デレ・ノヴエレ》』第六七譚に、フロレンスのヴァロレ、悪謔《わるじやれ》度なく、常に人をへこませ娯楽とするによく敵する者なし。ロマニアの官人ペルガミノの子十四歳、ヴァロレを訪ねて問答してこれをやりこめた。ヴァロレ傍人に向かって、「小さい時非常に賢い子が長じて非常に馬鹿にならぬはなし」というと、かの少年、「そんなら君は小さい時無類に賢かったはず」と即座に撃ち返し、ヴァロレますます辟易してフロレンスに逃げ還った、とある。ポッジオ(一三八○年生れ、一四五九年歿す)の『笑話《フアツエチエ》』には、一小児ローマ法皇前に演舌した時、ある高僧が評するを、小児が右の通り撃ち返した、と作る。
 こんな話はサッケッチよりおよそ九百年前、支那にすでに行なわれた。劉宋の朝成った『後漢書』と『世説』に、後漢の末、孔融十歳で異才あり。そのころ名高い李膺を訪うと、ちょっと会ってくれぬから一計を案じ、累代の通家《しりあい》たる者がきたと振れ込み、たやすく膺の目通りへ出た。膺怪しんで、君は予とどんな旧縁があるぞと問うと、李※[耳+〓]《りたん》(517)(老子)は孔子の師だったからかく申したと言ったので、一座その夙慧に驚いた。陳※[是+韋]《ちんい》という老官人が居合わせて、人小さい時|聡《さか》しきは大きくなって必ずしも奇才とならぬ、と評す。融、声に応じてそんな言を吐く君は、見たところ一向平凡ゆえ、定めし小さい時よほど夙慧だったろう、と言った。李膺大いに笑って高明(融の字)必ず偉器たらんと言った、とある。この拙考は明治三十一年ごろの『ノーツ・エンド・キーリス』に載せた。   (大正三年一月『民俗』二年一報)
【追記】
 文化中、一九作『落咄弥次郎口』に、「旦那、人というものは変わったもので、幼少の時馬鹿な者は成人するときわめて利口になり、また子供の時利口な者は大きくなると、果てのばかになるものだと言うと、側に聞いておったる男、左様ならば憚りながら旦那樣はご幼少の時はさぞお利口でござりましたろう」とあるは、明らかに件の孔融の咄を丸取りだ。(大正十五年八月二十七日記)
 
     母衣
 
 「母衣《ほろ》は漢の樊※[口+會]《はんかい》より始まる。出陳の時、母、衣を脱いで餞別《はなむけ》となす。※[口+會]、戦ごとに衣を鎧に被《かず》けて勇を奮うこと、ことに抜群なり。(一説に、樊※[口+會]にあらずして、後漢の王陵が故事となす。)それより後、馳駆の武者これを用う」(『和漢三才図会』巻二〇)。
 新井白石の『本朝軍器考』巻九に、「保呂という物、その因り来たること定かならず、また定まれる文字もあらず。古えには保呂(『三代実録』)、保呂(『扶桑略記』)、母廬(『東鑑』)など書きしを、その後は※[糸+晃]または母衣など記せり。『下学集』には、※[糸+晃]を母衣と書くこと、もとこれ胎衣《えな》に象れる由を載せ、また『※[土+蓋]嚢抄』には、母の小袖など※[糸+晃]にかけし(518)ことのあるを、いまだその因の知れざることもあるにや、と書《しる》しぬ(※[糸+晃]の字は韻書等にも見えず。幌の字はあり、これは帷幔なり、と注す)。その余、世にいい習わせる文字も多けれど、みな信じがたし(武羅、神衣、綿衣などこれなり)。神功皇后三韓討たせ給いし時、住吉の神作り出して進《まい》らせしという説あれど、正しき史には見えず。貞観十二年三月、対馬守小野朝臣春風奏せし所に、「軍旅の儲《そなえ》は啻に介冑にあり。介冑は、薄しといえども助くるに保侶をもってす」、調布をもて保侶衣《ほろぎぬ》千領を縫い造って、不慮に備えんと望み請いしこと見え(『三代実録』)、また寛平六年九月、新羅の賊船四十五艘来たりて対馬島を犯すことあり。守《かみ》文屋《ふみや》善友迎え戦いて、かの大将軍三人、副将軍十一人を始めて、三百二人を射殺して、取るところの大将軍の甲冑、大刀、弓、胡※[竹/録]《やなぐい》、保呂等、各一具脚力に付けて進《まい》らせし由見ゆ(『扶桑略記』)」とあって、次にその師順庵の説なりとて、母衣という字は羽衣を誤写せるにて、「これ※[耳+毛]《じ》という物なり。※[耳+毛]の字は羽毛の飾り、一にいわく羽を績《つむ》ぎて衣とす、一にいわく兜※[務の力が金]上《かぶとのうえ》の飾なり、云々。蜀の先主の結びしは〓牛の尾と見え、梁の※[まだれ/臾]信が詩に金覊翠※[耳+毛]と言いしは、翠羽をもって作りたれば、羽を績ぎて衣とすという注に合いぬるにや、云々。思うに※[耳+毛]という物は三国のころ、もっぱら軍容の飾りとなせし物にぞありける。『後漢書』のうちに、それと覚しき物すでに見え、三韓の地にもその製に倣い来たり、寛平の御時の賊帥もこれを負いたるにこそ。わが国の軍装に保呂掛け、総角付くるは、神代よりのことと見ゆ。『六月晦大祓祝詞』に、比礼挂伴男、手纏挂伴男という、すなわちこれなり。古時比礼と言いしを、のち保侶という、その語転ぜしなり。春風が奏せしところによるに、その代にはこの物介冑を助け、身を保つべき物と見ゆ。軍装とのみも言うべからず。ただその制のごとき、今はた知らるべきにもあらず。古き絵どもに保呂掛けし物を画きしを見るに、近世の制と大いに異なり。古えはこれを着くべきさまも、兵の家伝うるところの故実あることなりき、云々。今様は帛の長《たけ》も長く、その幅の数も多くなりしほどに、保呂籠という物に引き覆いて、前にはだしという物立て、串をもて鎧の後にさすことになりにけり。かかる制、元弘、建武のころよりや始まりぬらむ。近きころまで東国の方にては、多くは古えの制を用いて、今様の物をば提灯保呂などいい(519)し由、云々.また近代より羽織という物をもて、軍装とすることありけり。古えにはかかる物ありとも聞こえず.されど古えに羽を績ぎて衣とすといいしは、この物の類なり。さてこそかくは名づけたらめという人あり。近代までありつる昔保呂といいける物、この物に似たるところもあれば、かの羽を績ぐといいしも、羽を織るといわんも、その義の相遠からねば、その名をかく名づけたりけんも知られず」と論じおる。
 『康煕字典』に「服虔の『通俗文』を按ずるに、毛の飾りを※[耳+毛]という。すなわちおよそ糸羽革草の下がり垂るるもの、みな※[耳+毛]をもって名づくべし」とある。熊楠謂うに、その字、耳と毛より成る、角鴟《みみずく》や猫に近いリンクス獣など耳の尖《さき》に長毛あり、最初その形容に用いた字で、後には冑や帽の後に垂れた飾りを言ったので、『博雅』に「一にいわく、羽を績いで衣となす、と」とあるは、ほんの異説に過ぎぬのだろ。呉の甘寧が敵を襲うとて※[耳+毛]を負い鈴を帯ぶべく兵卒に令せしは、主として敵と混ぜぬよう徽章としたらしい。
 古今欧州にも冑や帽に※[耳+毛]を垂るること多きは、ラクロアの『中世軍事宗教生活《ミリタリ・エンド・レリジアス・ライフ・イン・ザ・ミツドル・エイジス》』英訳や知友ウェプ氏の『衣装の伝歴《ゼ・ヘリテイジ・オヴ・ドレツス》』(一九一二年板)にその図多し。※[耳+毛]は本来羽毛より成ったが、後には布帛をもって作った大きなものもでき、したがって身を護り兵を避くるの具ともなったらしい。ラクロアの書一一七頁、ゴドフロア・ド・プーヨンの肖像など見て知るべし。陣羽織を鳥羽で織ったから羽織と言った、と聞く。たしか秀吉が著たとかいう鳥羽で織ったものを大英博物館で見たと記憶する。欧州では、十三世紀の終りまで鳥羽を装飾に用いること稀だった(『大英類典』巻一〇)。これに反し、未開民中、鳥羽を装飾とする、精巧を極めたものあり。例せば、ハワイでは以前羽細工最も精巧を極め、鳥の羽もて兜や仮面や節《セプトル》や冠や頸環や上衣を作る職人すこぶる重んぜられた(英訳、ラッツェル『人類史《ヒストリー・オヴ・マンカインド》』一八九六年板、一巻一九八頁、羽製の諸品は一五五頁に対せる図版に載す。英訳、フロベニウス『人類の幼稚期《ゼ・チャイルドフツド・オヴ・マン》』一九〇九年板、六二頁)。南米のムンズルク人もっとも妙麗なる羽細工もて上衣や節や帽を作るも、特殊の迷信的観想を存し、たやすく外人に売らず(ベイツ『亜馬孫河畔の博物学者《ゼ・ナチユラリスト・オン・ゼ・リヴアー・アマゾンス》』一八六三年板、第九章)。メキシコ発見(520)の時、トラスカラン族の諸酋長と重臣、身に厚さ二インチにてその国の兵器が徹りえぬ綿入れの下著を著、上に薄き金また銀板の甲を被、その上に荘厳を極めたる鳥羽の外套を被り、美麗口筆に絶した(プレスコット『墨西哥征伐史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・メキシコ》』ボーン文庫本、一九〇一年板、一巻四七および四三二頁)。欧州の将士、中古サーコートとてわが国の鎧直垂様の物を鎧の上に著た。その状はウェブの著(上に引いた)八四、八五、八八の諸図を見れば分かる。惟うに『三代実録』等に見えた、保呂衣は介冑を助けて兵器を防ぐため、古メキシコ人の下著また欧州中古のサーコート様のものだったのが、おいおい変化して後世の提灯保呂となったんだろ。提灯保呂は、矢のみか、ちょっとした鉄砲をも防ぐと聞いたが、実際を見ぬゆえ果たして然りやを予は知らぬ。
 さて一九〇八年ラスムッセンの『北氷洋の民《ゼ・ピープル・オヴ・ゼ・ポラル・ノルス》』英訳一八〇頁に、「ある村でエスキモ人が殺されて、少時あって村民みな狩りに出で立つ。村に留まるは殺された人の妻と牝犬一疋だったが、ふたつながら妊娠中だった。やがてその女、男児を産み、自分と児の食物を求めに出で蹄《わな》で鴉を多く捉え、翅を捨てその羽で自身と児の衣類を拵えた。ところで牝犬また一子を生んだので、かの女その子と狗児とを呪し一年の間に全く成長させ、長途を旅して見も知らぬ人民のところに往った。そこでいささかのことから、母がかの人民と口論を始めると、その児が彼らに向かい、かれこれ言うよりわれらを射て見よ、と言う。彼輩弓矢を執って母ともに射かける。母、児の前に立ち塞がり、児が嬰児だった時背に負うに用いた嚢の皮紐を振って矢を打ち落とすと、ことごとく外れて一つも中らぬ。その後、児が弓を執って敵衆を射尽し、また進んで他の新しい国に往った」とあって、この譚を著者に語った者、われこの譚を大海の他の側から釆た人に聞いたと言うた、と付記しおる。わが国にも羽で衣を作ったこと、『日本紀』一に、少彦名命、白※[草がんむり/斂]皮《かがみのかわ》を舟とし鷦鷯羽《さざきのはね》を衣として海に浮かみ、出雲の小汀《おはま》に到る。これはそのころ樹皮もて舟を作り、諸鳥の羽を衣と作《す》ること行なわれたので、この神特に身小さいゆえ、かかる小舟に乗り、かかる最小鳥の羽を衣としたと謂ったんだろ。
(521) 一体エスキモ人はグリンランドよりアジアの最東瑞の地、北アジアや北欧州で誰も棲みえぬほどの沍寒《ごかん》貧渋の地に棲む民で、生態万端よほど諸他の民族と異なりおる。よってその根源についても学説区々たり。だが、予が僻地にありながら知りえた最近の報告によると、エスキモ人は体質全く蒙古種《モンゴリアン》の者とのことだ(チスホルム輯『ゼ・ブリタンニカ・イヤーブック』一九一三年板、一五四頁)。ラスムッセンに上述の話をしたエスキモが、大海の他の側から来た人に聞いたは、漠として何のことか知れがたいが、まずは当人が住むグリンランドからよほど北氷洋に沿って隔たった地、すなわちアジアの東端に近い地から来たエスキモ人に聞いたということだろう。ボアス博士が一九〇二年出した北太平洋遠征の調査書によれば、東北アジアの端に住む、チュクチ、コリヤク、カムチャダル、ユカギル等は、アジア民というよりはアメリカ民というべきほど、人文の性質がアメリカ土人に似ておるというから、むろん古くよりエスキモと交際しただろう。しかる上は、日本人の祖先およびその近処の古民族中に、かつて羽を衣としたり、また白石が推論した通り、比礼すなわち原始態の母衣を掛けて兵箭を防ぐ風があったのを、東北アジアの諸族から聞き伝えて、ラスムッセンが聞いたような漠然たる譚がエスキモ人の中に残ったのでなかろうか。本邦で樊※[口+會]や王陵の母が子に与えた衣が母衣の始めと言い、エスキモ譚に母がかつてその子が幼かった時に包んだ嚢の紐で子のために矢を防いだと言うが酷《よく》似ておる。ただし、サンタ・カクリナの墓窟からエスキモの遺物を掘り出した中に、馴鹿《となかい》の毛と鳥の羽で織った蓆《むしろ》があった(ラッツェル『人類史』二巻一二一頁)というから、エスキモ人も古くは羽で衣を作ることを知っておったかもしれぬ。したがって鳥の羽で衣を作り、子を包む嚢の紐で矢を禦いだのが史実かもしれぬ。しかるときは、羽を衣としたり嚢様の物で矢を防ぐ風が日本から東北アジアを通じて、北米の北端に住むエスキモ人までの間に広く古く行なわれおった訳となる。ついでに言う。十七年ばかり前、大英博物館東洋図書部長ダグラス男の官房へ予毎度出入りした時、老婦人、各を忘れたがしばしば来たり、かつて宣教に往ったつい、でに、エスキモと支那人の児が産まれた時必ず臀に異様の痣あるに気づき、精査すると区別できぬほどよく似ておったが、日本の赤子の痣はどんな形かと、(522)毎度問うを予きわめて五月蠅く思い、その老婦の顔見ると事に托して逃げて来たが、その後また雑誌に投書してこのことを質問しおった。予一向知らぬことながら、何かの参考にでもなることかと、ここに記しつく。   (大正三年四月『民俗』二年二報)
 
     長柄の人柱
                  藤田好吉「長柄の人柱」参照
                  (『民俗』二年一報三二頁)
 
 雉を射中つるを見て※[病垂/音]女《おしおんな》が初めて声を出した話は、支那にもある。『左伝』に、「むかし賈の大夫、悪《みにく》し。妻を娶って美なり。三年、言《ものい》わず、笑わず。御してもって皋《さわ》に如き、雉を射てこれを獲。その妻始めて笑いて言《ものい》う」と晋の叔向が言ったそのころ以前よりの伝説だ。
 また長柄長者が袴につぎの当たりたる者を牲《いけにえ》にすべしと言って、みずから牲されたと言うに似たことは、西洋にもある。ジドが智略もてカーセージ市を建てた後(『民俗』二年一報二八頁に出ず)、蛮王ヤルバスその強盛を妬み、カーセージの貴人十人を召し、ジドわれに妻たるべし、しからずんば兵戈相見えん、と言った。十人の者還って事実をジドに語るを憚り、詐って誰なりとも一人カーセージよりヤルバス方へ来て文明の作法を教えて欲しいと望まれたと報ずると、誰も蛮民の中へ往こうと望み手がなかった。ジドこれを見て自国のためとなら生命すら辞すべきでない、と一同を叱る。十人の者左様なら実を述べんとて、かの王ジドと婚せん、しからずばこの国を伐つべしと言った、と語る。ジド、今は駟も舌に及ばず、何とも辞せんようもないから、いかにも国のためにわれかの王の妻となるべしと言って、準備のためとて三ヵ月を過ごす。そのあいだ市の一端に柴を積み、婚嫁の期到りて畜を多く牲し、かくて亡夫アセルボスの霊を鎮むと言った。それから一剣を提《と》って柴|堆《つ》んだ上に登り人民に向かい、汝(523)ら望み通りわれ今わが夫の方へ往くなりと言って、胸を刺して自殺した.カーセージの民、これを義として、国続いたあいだジドを神として祀った(スミス『希臘羅馬人伝神誌字彙』一八四五年板、巻一)。   (大正四年二月『民俗』三年一報)
 
(524)   南方雑記
 
     善光寺詣りの出処
 
 牛に牽かれて善光寺詣りの話の出処ならんとて、『郷土研究』(一巻一号三〇頁に載せたる、釈迦如来、舎衛郊外毘富羅山(写は富の誤)説法の時、采女輩が花に牽かれて仏の所に詣りし話は、隋朝に闍那崛多が訳せし『無所有菩薩経』巻四に出ず。ただし、正しく牛に牽かれて如来詣りの根本は、劉宋の朝に訳すところの『雑阿含経』巻四四に、「一時、仏、毘舎離国の大林精舎に住す。時に毘利耶婆羅豆遮婆羅門《びりやばらずしやばらもん》あり、晨朝《あした》に牛を買い、いまだその価を償わざるに、即日牛を失う。六日、見《あらわ》れず。時に婆羅門、牛を覓めんがための故に、大林精舎に至り、はるかに世尊の一樹の下に坐せるを見る」。その容貌形色の異常を見、教化を受け、出家得道せる由を載せたる、これなるべし。
 これに反し、元魏訳『雑宝蔵経』四に、人あり、亡牛を尋ねて辟支仏が坐禅する所に至り、一日一夜誹謗せし因縁で、後身羅漢となっても、所持品ことごとく牛の身分に見え、牛失いし者にその牛盗めりと疑われ、獄に繋がるる話あり。牛に牽かれて罪造りと謂うべし。また『百喩経』(蕭斉の代に訳さる)に、愚人、所有の二百五十牛の一を虎に殺されて、焼けになり、二百四十九牛をみずから坑殺せしことあり。
 ついでに言う。借りた物を返さぬ人、牛に生まれた話(『郷土研究』一巻三一頁)、仏経に見えたるを二、三挙ぐ。西(525)晋竺法護訳『仏鋭生経』巻四に、釈尊、過去世に転輪王たり.その旧知が五十金を償うあたわず。債主に樹に縛られ去るを得ざるを見、これを倍し贖うべしとて解かしめけるに、その人この外にもなお百両の債ありと言うを聞いて、それをも贖いやるべしと誓う。さて臣下五十金を払いしも、百両金を払わず。かの人死して牛に生まれ、前世の債主のために売られんとする時、仏来たるを見て、牛走り就いて、前世の債金の支払いを求めしこと出ず。呉の支謙訳『犢子経』、また晋の竺法護訳『乳光仏経』、ともに多欲の高利貸死して、十六劫間、牛と生まれ、釈尊の声を聞いて死して天に生まれ、次に羅漢となり、二十劫ののち乳光仏となるべしと、仏が予言せし由を説けり。梁の僧旻等の『経律異相』四七には『譬喩経』を引き、借金一千銭不払の人、三たび牛に生まれて業なおおわらず。二人、還さぬ覚悟で牛の主人より金十万を借らんとするを立ち聞き、牛自分を例証としてこれを諫止し、解放されし譚を載せたり。(三月十八日)   (大正二年四月『郷土研究』一巻二号)
【追記】
 三十二年前、予が和歌山中学校で画学を授かった中村玄晴先生は、もと藩侯の御絵師で、いろいろ故実を知っておられた。ある日教課に、黒板へ少年が奔牛を追うところを描いた。予その訳を問いしに、この無智の牧童、逃ぐる牛を追い走るうち、日が暮れて、十五夜の月まさに出ずるところを観て悟りを開いたのだ、と教えられた。呉牛月に喘ぐという支那の古言を、前に引いた、婆羅門牛を尋ねて仏に詣《いた》り得道せし話に合わせて、作り出した話らしいが、今に出処を見出だしえぬ。   (大正二年七月『郷土研究』一巻五号)  
 
(526)     野生食用果実
 
 一八七七年初板、リュイス・エチ・モルガンの『古代社会論』四章に、北米イロクォイス族が全く耕稼を知らなんだ時に、その発展に大必要だった食料を挙げた。第一に、麪包根《カマツシユ》とて豆科の草根、ちょうどわが国の窮民が豆科の「ほど」の根を食うような物。第二に、夏中もろもろの漿果《ベリース》多かった。次に川にCと介類と、こう揃っておったので、コロムビア谷は穀物知らぬ民族の楽土だった、と見える。わが邦にも田畑ない処では、魚介鳥獣の外に草木の根葉芽茎から皮までも食ったに相違ない。それら草木の名は、故伊藤圭介翁が「救荒雑記」とか題して、官報へ出した物を見ると大抵分かると思う。
 紀州では到る処、今も小児が「椎、※[木+諸]、柴の実、食えぬ物はどんぐり」と唱えて遊ぶ。蒙昧の代に親子森林に食料果実を求むる時、かような句を唱えて子供に訓えた遺習であろう。二年前すんでのこと伐らるるところを、予がその筋と公衆に訴えてようやく免れた那智滝の水源|寺山《てらやま》も、『紀伊続風土記』巻八〇に、「その広さ大抵二里四方という。四十八滝多く寺山の内にあり。かつここ一の滝の源なれば、云々、その区域広大なるに、他木を植えずして一面に樫木ばかりを植えたり。その故は、樫木は冬凋まざるゆえ、四時鬱蓊として霊山の姿を表すべく、かつ滝の源水を蓄うるによろしくして、材木の用にあらざれば伐り荒らす害なし(ところが、近時樫もその材用多く、価格出で来たり、種々奸計して伐りつくそうとすることとなって来た)。従来色川の村々は、山中に栖んで食物の乏しきを憂い、山稼ぎをもっぱらにするものなれば、年々寺山にて樫の実を拾いて食料の助けとす。大抵家ごとに拾いうること、十俵より十五俵に至るを常とす。郷中の所得を考うるに、一歳の総高千二、三百石に至るという。しかれば、材木の用をなさざれども、食料となること大なる益と言うべし」と出ず。
(527) さて問(一七)の質問者が知っておるという栗と椎(と「まてば椎」)の外に、山の中で食べる樹の実、予が知っただけをここに録す。?を付したのは、予が試みに食って何の害もなかったが、果たして他人も食いうるか分からぬ物だ。また喬木に限らず、灌木、亜灌木、木質の蔓生、また攀縁、また匍匐植物の実も名を出す。
 その名にいわく、かや、いちい、まき、ちょうせん松、くるみ、やまもも、はしばみ、つのはしばみ、ぶな、いぬぶな(?)、かしわ、くぬぎ、こなら、その他※[木+諸]属数種、むく、えのき、桑、いぬびわ、かかつがゆ、やなぎいちご、つくばね、あけび、みつばあけび、むべ、めぎ(?)、やしお、さくら、いぬざくら、うわみずざくら、ふゆ苺、かじ苺、くま苺、あわ苺、なわしろ苺等の木本苺、かまつか、うらじろのき、びわ、しらき、がんこうらん、とち、なつめ、けんぽなし、がねぶ、のぶどう(紀州鉛山温泉辺でこの果を藤次郎と呼び、これを食うと歯落ちると言う。和歌山市でも、歯なき人を歯抜け藤次郎と嘲称す)、さんかくづる、ひさかき(?)、さるなし、またたび、みやままたたび、ぐみ数種、やまぼうし、あくしば、いわなし、こけもも、つるこけもも、あかもの、くろまめのき、しらたまのき、しやしやんぼ、くこ、にわとこ(?)、がまずみ、うぐいすかずら。まず、こんな物じゃ。
 「しきみ」の実は毒物だが、食って害を受けぬ例が多い。「ぬるで」の実熟すれば、「外の薄皮の上に薄き塩あり。塩の樹上に生ずるは、すなわちこれなり。小児これを食らう」と支那の本草に言えり。「さんしょう」の実などと同じく、味を助くる料とし、本邦の山民も古来用いたのだろう。紀州には、山中に古く柿や柚《ゆず》が自生結実するものがあるのを予みずから食ったことがある。浅い山には半野生の梅林もあるが、深い山林ではただ一度、日高郡川又官林で一本見た。所の者いわく、塩気なき地に梅生ぜず、と。つまり人家に遠い場所に生えぬという意味だ。   (大正二年六月『郷土研究』一巻四号)
 
(528)     お月様の子守唄
 
 「お月様(あるいは、あとはん)いくつ、十三一つ、そらまだ若い、若船へ乗って、こぎこぎ見れば、夷子《えびす》か大黒か、福の神かみかみ、また今度お出で、守りのゼゼ(銭)で、ひともじ買うて、ぼりぼり嗅みましょ」。子守唄と言わんより、子守言葉と言うべきものだ。『守貞浸稿』二五編に、月を観て子児および小児|冊《かし》つきの女の詞に、京阪にては、「お月さんいくつ、十三一つ、そりやまだ若や、今度京いのぼって、守りのぜぜで、おまんを買うて、お万どこいた、油買いに酢買いに、油屋のかどで、滑って転んで、一升こぼして、太郎どの犬と次郎どの犬となめって候」。江戸にては、「ののさんいくつ、十三七つ、まだ年は若いな、あの子を産んで、この子を産んで、だあれに抱かしょ、お万に抱かしょ、お万どこいた、油買いに茶買いに、油屋のえんで、氷がはりて、滑って転んで、油一升こぼした、その油どうした、太郎どの犬と次郎どの犬と、みななめてしまった」。(『郷土研究』一巻七号四三〇頁参照)   (大正三年一月『郷土研究』一巻一一号)
【追加】
 「お月樣の子守唄」刊行ののち拙妻に示すと、拙妻いわく、これは完全な物にあらず、わが祖母八十一で二十四年前残したるが、常に唱えしは次のごとし、と。その詞に、「井戸のぞ−きんどと、竈《かま》のはたのぞ−きんどと、せい競べをしたら、娵《よめ》の陰戸《ぼぼ》へ火が付いて、娵泣くな泣くなよ、赤い小袖三つ、白い小袖四つ、それが嫌ならツツツとお帰《かい》り、お帰りの道で、大箱小箱、小箱の内に、雌鳥雄鳥、尾のない鳥と、尾のある鳥と、竹の筒っぼ銜えて、高い山へ上る、上るはいくつ、十三一つ、そらまだ若い」、以下既刊のごとし。ただし、これには月のことなし。月に関する子守詞にちなんで作りし一種の詞で、まずは今も唄わるる「入道清盛ゃ火の病い、山へ登るは石堂丸よ、丸よ卵も切り様で(529)四角」などいう尻取り唄の前駆なるべし。山形最上地方には、「お月様なんぼ、十三七つ、まだ年若い、油買いに酢買いに、酢屋の前に、すとんと転んで笑われた」という由、小宮水心の『随筆大観』三七八頁に見ゆ。   (大正三年二月『郷土研究』一巻一二号)
【追加】                                拙妻に教わったのが刊行成りて、念のため読み聞かせおると、田辺から七、八町隔った神子浜《みこのはま》から来ておる下女が、かの在所で行なわるるは多少違うとて教えてくれたから、実《げ》にや勧学院の雀は『蒙求』を囀る、下女ながらも民俗学の穿鑿感心の至りと賞して、筆記した。その詞にいわく、「昨夕《よんべ》来た嫁さん、結構《けつこ》な座敷へ坐らせて、襟とおくびと掛けてんか、能《よ》う掛けぬ、そんな嫁ならいりません、田圃の道まで送りましょ。京へ上って男に惚れて、惚れた男に何買うてもろた、櫛や笄、紅白粉買うてもろた。お月さん小月さん、今度の衣《べべ》は、裏は桃色表は鹿子、鹿子揃えて御乳母《おんば》に着せて、御乳母悦ぶ、お月さん怒る。お月さん小月さん、十三一つ、そらまだ若い、若舟へ乗って、沖こね見れば、夷《えべす》か大黒か、福の神かみかみ。神々の銭《ぜぜ》で、ひともじ買うてボリボリ噛んで、くさい子を産んで、誰《だーれ》に抱かしょ、誰に負わしょ」   (大正三年十月『郷土研究』二巻八号)
 
     山人外伝資料
 
 植物性食物中に、久米氏は大必要の物を逸しおる。それは菌類で、菌《きのこ》には大毒物もあると同時に食うて益あるものも多い。一八五七年板、バークレイの『隠花植物学入門《イントロダクション・ツウ・クリプトガミク・ボタニー》』三六八頁に、ドイツと露国の村民、大抵の菌類を何の差別もなく酢に漬《ひた》したのち食うて中毒せぬ、アルカリ性の毒分が醋酸で中和されて無害と(530)なるんだ、という。また米国の菌類採集大家カーチスは−肉類の代りに菌を専食して、何年間とか籠城しうると見込みを述べた由、クックの『菌篇』に載せあったと記憶す。他の植物と懸絶して、菌類は多く窒素分を含むこと肉に同じ。『倭姫命世紀』伊勢神宮忌詞に宍を菌《くさびら》と称うとあるは、化学分析など知らぬ世ながらうまく言ったものだ。古来肉を忌んだ山僧が種々の菌《きのこ》を食ったことは、『今昔物語』等に出で、支那の道士仙人が、種々|芝《し》と名づけて、菌や菌に似た物を珍重服餌した由は『抱朴子』等で知れる。紀州の柯《しい》樹林に多く生ずる牛肉蕈は、学名フィスチェリナ・ヘパチカで、形色芳味まるで上等の牛肉だから、予はしばしばこれを食う。 山人の動物食も、鳥獣魚介に限らず、今日の市邑に住む人々の思いもつかぬ物をも多く食ったに相違ない。支那のは知らぬが、本邦の山男が食う蟹は、紀州で姫蟹という物だろう。全身漆緒褐色、光沢あり、行歩緩浸で、至って捕えやすい。山中の狸などもっぱらこれを食う。甲斐で石蟹と呼んで、今も蒲鉾にし客に食わす処ある由聞いた。赤蛙は、今も紀州などで疳薬とて小児に食わす。国※[木+巣]人《くずびと》が蝦蟇を食うたと『日本紀』に見え、また諏訪明神に供えた由、『郷土研究』一巻三号一六三頁に引いた。蝸牛や天牛《かみきりむし》、その他多くの虫の仔虫《ラールヴア》も疳薬など称え、小児に食わすのは、ずっと前に虫類を常食とした遺風だろう。現に予の宅の下女は、木を割って天牛の仔虫を見出だすごとに、必ず食い、旨いと言う。カリフォルニアの某民族は、以前蚯蚓を常食とし(一昨年ごろの『ネーチュール』で読んだ)、ハムボルトはヴェネジュラ国で、チャイマ族の小児が、みずから十八インチ長き蜈蚣を土から引き出して食うを見たという(ボーン文庫本『回帰線内墨洲紀行』三巻一五七頁)。白蟻《はあり》や蜂の子は美味なるゆえ、本邦にも食う人今もあり。『荀子』に、「耀蝉《ようせん》は、務めてその火を明るくし、その樹を振《うご》かす。もし火明らかならざれば、振かすといえども益なし」。今年旱魃で蝉の羽化を催《はや》め、予のこの室などに、燈火を望んで蝉飛び入ること夥《おお》し。耀蝉とは火光で蝉を招集することと分かったが、何のために夜分蝉を採ったか分からなんだところ、十五年ばかり前、ケムブリジ大学から、シャムと支那の国境へ学術調査に往って還った人に聞いたは、かの地では樹下に燎《かがりび》を焚き、人々集まりて手を(531)扣くと、蝉が多く来るを捕え食料とする、と。これで荀子が住んだ南支那でも、当時蝉を食料のため採ったと分かった。だから、日本の山人はむろん蝉などをも食っただろう。
 以上の諸例、山男よりはずっと満足な諸民すら、ずいぶん変な物を食うを見て、むかし本邦に密林多く、市邑人が入り込むこと稀だった時代に、半人半獣の山男、山婆の食料は、十分豐饒だったと知るべし。ついでに述ぶ。『酉陽雑俎続集』一〇に、「李衛公、一夕、甘子園に客を会す。盤中に猿栗あり、味なし」。『郷土研究』一巻六号三五二頁に出た天狗の栗と似ておる。
 五、六年前の『大阪毎日』紙に、大台原山の狼は時々海に赴き游ぐ、とあった。田辺近い朝来村大字岩崎の台伝説に、狼や野猪《いのしし》は、年に一度大晦日の夜、はるばる海浜に出て来て潮に浴す、と言う。かつて『ネーチュール』で、米国の広原の獅牛《バイソン》は時々塩泉を訪ねて数百マイルを走る、とあるを見た。シベリアで平素人嫌いする馴鹿《となかい》も、人の小便を舐めたさに人近く馳せ来る、全く尿中の塩を望むなり、という(アドルフ・エルマン『世界周遊記《ライセ・ウム・ジエ・エルデ》』一八三三年ベルリン板、一巻六九七頁)。インドのトダ人は古来塩を食わず。しかるに、畜養する水牛に年に五度塩水を飲ませ、乳多く生ずと信じ、これを飲ますに日を撰び式を行なう(リヴァース『ゼ・トダス』一九〇六年板、一七五およぴ七二二頁)。かく塩を必要とする哺乳動物多きと同時に、猴、蝙蝠など塩を好むことを予いまだ聞かず。食塩必ずしも人に不可欠にあらざるにや。『和漢三才図会』巻一〇五に、「按ずるに、僧あり、永《ひたぶる》に五穀および塩を断って、しかも無病長寿なり、云々」。安南のトラオ人は塩なく、竹の灰もて代用して飯に味つく(サイゴン刊行『仏領|交趾《こうし》支那旅行遊覧誌』一八八一年一月号、三〇頁)。かつてインドで、生まれてただちに狼に養われ、成育した男児を捕えしに、全身短毛密生したるが、塩食うに随い脱《ぬ》けおわりぬ(一八八○年板、ボール『印度の藪生活《ジヤングル・ライフ・イン・インジア》』四六四頁)。
 『大英類典』一一板二四巻九〇頁にいわく、「最初食塩全く手に入らなんだ人間は、世界諸部にきっと多かったろう。たとえば『オデッセイ』の詩篇に、内地(エピルスの?)人全く食塩を知らぬ者を載せた。アメリカやアジアのあ(532)る部に、欧人が初めて翰入した時まで、塩なかった民がある。今も中央アフリカには、富人のみ塩を用うる所若干あり。すべてもっばら乳を飲み、肉を生もしくは炙り食えば塩分を失わぬから、別に食塩を加うるを要せず。むかしのヌミジアの遊牧民や、今日ハドラムトのベドウィン人が、いつも塩なしに食事して生きおるはこの訳ゆえなり。これに反し、穀食、菜食また煮た肉を食うには塩が必須と来る」とあって、それより含塩植物(わが国の藻塩草ごとき)の灰などより食塩を採ったことを述べ、古え塩を神賜と貴び、これを争うて戦闘したことに及び、宗教上塩に種々の霊験を付したことから、商売路の最も早く開けたのは塩を運ぶ路だったろう、と論じおる。現代においては、エクワドル国の東部では、キリスト教に化せる土人のみ塩を用い、他はこれを知らず(英訳、ラッツェル『人類史』一八九七年板、二巻七五頁)。
 上に引いたハムボルトの『紀行』二巻三六五頁に、種々の植物から不純の食塩を採る法を載せ、オリノコ流域の土人が、チヴィとて、塩酸カリ、塩酸ソーダ、水酸化石灰、その他諸土類塩の混じたる物を、水に溶かし葉で濾し食物に溶かし掛けて食う、とある。思うにわが国の山人も、かかる混淆物の天産ある地にはこれを用いたるべく、また塩麩子《ふしのきのみ》が被《かぶ》れる塩味の霜粉などを用いただろうが、もっばら動物を生食した輩には全く塩を用いなんだのもあっただろう。橘南谿の『西遊記』三に、薩州の山童、寺へ食物盗みに来たれど塩気ある物をはなはだ嫌う、と出ず。(ボムパスの『サンタル・ペルガナス俚譚』三〇九頁に、冥途より人の子の命をとりにきた使いが、その母に塩のついた飯を食わされて、偽りを言いえず事実を吐く譚あり。往古野生の人塩を好まぬものありしを、後世冥界の住民と信ずるに及んだのだ。)明治四三年二月の『東京人類学会雑誌』に、出口雄三君が、台湾で食塩攻めにされて太《いた》く困り、生薑《しようが》を代用した民と、食塩を一向用いぬ民とを対照して、食塩を一旦使用する習慣がつけば、中止することきわめて困難なれど、初めより用いざれば人類の生存に必ずしも差し支えない、と断ぜられたるは名論と惟わる。
 一八六四年板、フォン・ハーンの『グリエヒッシェ・ウント・アルバニッシュ・マーヘン』等に、食塩もて鬼魅を(533)駆除する例が多い。これは鉄もて鬼魅を却くると等しく、食塩を嫌うて食わなんだ山人輩を鬼魅と見なしたからのことであろう。また一九〇九年一月七日の『ネーチュール』二五九頁に、南カリフォルニアのチュンギチニッシュ宗で若い男女の入門式の踊りが済むと、宗規を僧より教授さる。その二、三週間塩と肉を断つ、とある。上に述べた通り、肉を生食灸食すれば、塩を食わずとも立ち往ける理を、何となく会得して両《ふたつ》ながら断つなるべし。   (大正三年二月『郷土研究』一巻一二号)
 
     塩食わぬ人
                 南方「山人外伝資料」参照
                 (『郷土研究』一巻一二号七三一頁)
 
 むかし西インド諸島に住んだカリブ人は、塩は人を殺す物と信じ、また豚を食えば眼細くなると信じた。しかるに、彼輩塩食わないでも生まれついてみな眼が細かったと、ド・ロシュフォールの『西印度博物世態誌《イストア・ナチユラル・エ・モラル・デ・イル・アンチユ》』(一六六五年、ロテルダム板)一九一頁に見ゆ。右鶏肋ながら原書はちょっとわが邦に見えぬ本にこれあり、ついであらは採録を乞う。   (大正四年五月『郷土研究』三巻三号)
 
     影の神秘
 
 「影の神秘」(『郷土研究』一券一〇号五九九頁)に似たこと後インドにあったと覚えるが、今確かな証を見出でぬ。ただし数年前『文芸倶楽部』で見たは、某の夜、未嫁《みか》の女が自分の月水に汚れた湯具を深更厠中に持ち人りて焼くと、焔中に自分の夫たるべき人の姿を現ず。かつてある娼妓がこの方を験《ため》せしに、焔中に現われた男が日々妓(534)楼の門を通る下駄直しのえた男だったので、この世に存命するも面白きことなしとて自殺した、とあった。桜井君が引いた中古の例二つ(『小右記』や『今昔物語』に出た、春宮の尊影がご不在中の宮中の燈火にうつり、若い官女の形が本人の出仕しおらぬ女御殿の燈火にうつりしという)の外に、『続世継』敷島の打聞きの巻に、中ごろ男ありけり、女を思いて時々通いけるに、男ある所にて燈火《ともしび》の焔の上にかの女の見えければ、これは忌むなるものを、火の燃ゆる所を掻き落としてこそ、その上に飲ますなれとて、紙に包みて持たりけるほどに、事繁くして紛るることのありければ、忘れて一日二日過ぎて、思い出でけるままに往けりければ、悩みてほどなく女かくれぬと言いければ、いつしか往きてかの燈火の掻き落としたりし物を見せでと、わが過ちに哀しく覚えて、常なき鬼に一口に食われければ、心憂き蹉※[足+它]《あしずり》をしつべく歎きなきけるほどに、ご覧ぜさせとにや、この御文を見つけて侍るとて取り出だしたるを見れば、「鳥部山谷に畑の見えたらばはかなく消えしわれと知るらん」云々、とある。   (大正三年三月『郷土研究』二巻一号)
【追加】
 ロシア人がまだキリスト教に化せざる時、火を社に祀り神官守りて絶えず燃えしめた。病人の成行きを知りたい友達が、夜分その火を見おると、病人の影がうつる。その様子で死ぬとか治るとかを翌朝報じた(一六〇一年ペサノ板、オルビニ『スラヴィ国記』五五頁)。ややこれに似た迷信が英国北部に存し、三年つづけてマーク尊者忌(四月二十五日)の夜、十一時から一時まで寺の車寄せで見ておると、三年めのその夜から、来たる十二月内にその寺に葬らるべき人がつづいて入り来る。そのあいだ見ておる人が眠らば、年内にその人自分も死ぬという。ある寺の穴掘り爺は毎年その夜のことを怠らず。年内の穴掘り賃の予算を立てたとか。(一八七二年エジンバラ板、チャムバース『日次書』一巻五四九頁。一八七九年板、ヘンダーソン『北英民俗記』五一頁)(大正十五年九月記)
 
(535)     山婆の髪の毛
                佐々木繁「遠野雑記」(四)参照
                (『郷土研究』一巻五号三〇六頁)
 
 山婆《やまんば》の髪の毛と那智辺で呼ぶ物、予たびたび見たり。水で潤れた時黒く、乾けば色やや淡くなって黄褐を帯び、光沢あり、やや堅くなる。良きは七、八寸また一尺にも及ぶ。仙人などに聞くに、ずっと長いのもあり、と。予が見たるは木の枝に生え垂れ懸かれる状、女の髪のごとし。前年田辺の人より近野村の深山中で黏《とりもち》を作る輩不在中に、何者かその小屋に入り、桶の蓋を打ち破り、中の黏を食い尽し、また諸処へ粘《ひつつ》けあり。それを検せんと樹に上ると、その枝に金色の鬚のごとく、長《たけ》八寸乃至一尺の物散り懸かりありし、と聞く。予那智山中で始めて見し時、奇怪に思いしが、近づき取って鏡倹して、たやすくそのマラスミウス属の帽薗の根様体《リゾモルフ》たるを知ったが、その後植物学会員宇井縫蔵氏が近野村で取り来たりしを貰うと、予想通りマラスミウスの傘状体《ピレウス》(俗にいう薗の傘)一つ生じあった。ただ一つゆえ、子細に種名を定むることはならぬが、今も保存しある。また今年初夏、田辺の自宅の竹葉積もれる裏よりも、二、三寸のものを見出だした。この種は多くあるが、通常五分ばかりで髪や鬚と見えず、今まで気がつかずにおった。一九〇六年板、スキート、ブラグデン合著『馬来半島異教人種誌《ペーガン・レイセス・オヴ・ゼ・マレイ・ペニンシユラ》』一巻一四二頁等に、セマング人が、岩蔓(アカール)とて、尋常の靴紐よりやや細く黒く光るなめし革樣の物で、腰帯を織るにすこぶる美なり。ワード教授これを鏡検すると、菌の根様体だった、と出ず。茸毛《じようもう》もて編める腰簑のごとく周辺《ふち》に流蘇《ふさ》離々たるさま、一四二−三頁間の図版に明らかなり。わが邦の山人もかかる物を多少の身装《かざり》としたかもしれぬ。例の七難の揃毛《そそげ》も異様に光るというが、こんな物で編み成したのでないか。また馬尾蜂が尾を樹幹に鎖込《もみこ》んで、多く群団《かたま》りあるのも、蜂が死んで屍を亡うた上は、髪の毛のように見える。西牟婁郡富里村の山中に、大神の髪の毛と呼ぶ葉のある植物生じ、樹に懸かる(536)と聞く。何かの蔓生顕花植物らしい。安堵峰辺で、樅に着く山婆の陰垢《つびくそ》と呼ぶ物を二つ採ったが、これは鼠色で膠の半凝様の菌で、裏に細かい針がある。トレメロドン属のものだ。予は従来この属の薗が日本に産する記録を見ず。松村博士の『植物名鑑』、白井博士の『日本菌類目録』にも載せおらぬが、予は右の山婆の陰垢と、今一種全体純白で杉の幹につくものを那智山で見出だした。いずれも砂糖をかけると、寒天を食うように賞翫しえて、全く害を受けず。   (大正三年三月『郷土研究』二巻一号)
 
     「熊野雨乞い行事」を読みて
 
 「熊野雨乞い行事」(『郷土研究』一巻七号四三八頁に似たことが支那にあったと見えて、『淵鑑類函』巻二六に『紀異』を引いて、「貴州に洞池あり、周十余丈なり。下に石牛あって、時に池間より出ず。歳旱すれば、民は牛を殺して雨を祈る。血をもって泥に和し、牛に塗れば、すなわち雨《あめふ》り、尽くればすなわち晴る。もって恒のこととなす」と見ゆ。   (大正三年三月『郷土研究』二巻一号)
【増補】
 古河辰の『西遊雑記』三に、豊前小倉の南三里なる須川の滝壺に雨を祈るにふらずということなし。多くの獣を狩りとり壺の水上で屠りて血を壺に流し入ると、壺にすむ鮫が壺の穢れを嫌い、一日の内に雨をふらせて壺の浄まるまでふらす、とある。(大正十五年九月記)
 
(537)     池袋の石打ち
            川村杳樹「池袋の石打ちと飛騨の牛蒡種」参照
            (『郷土研究』一巻六号三二一頁)
 
 ドイツでいわゆるポルターガイストは騒鬼《さわぐおに》が義で、いろいろの例と解説を、『大英類典』一一板二二巻のその条に載せおる。『五代史』に、「漢の隠帝即位し、宮中しばしば怪しき物の瓦石を投じて門扉を撼《ゆる》がすを見る。隠帝、司天の趙延乂を召して、禳除《おはらい》の法を問う。延乂対えていわく、臣は天象日時を職とす、云々、禳除のことは臣の知るところにあらざるなり。しかれども、臣の聞くところは、おそらく山※[鬼+肖]《さんしよう》なり、と」。ここに「怪しき物を見る」とあるは、怪しい現象を見たの義で、正体を見得なかったればこそ、「臣の聞くところは、云々」と言ったので、取りも直さず騒鬼だ。『古今著聞集』変化第二七に、八条殿御所へ眼に見えぬ物が土器片を投げ、また三条前右府の白川の亭へ、いずこよりとなく礫《つぶて》を雨のように打った二条の譚あり。いずれも狸の所業《しわざ》としおる。予貧乏ゆえ、毎度この辺で俗に狸が土を雨《ふら》すという家に棲む。今この文を書いておる古屋も、しばしば夜中土が異様に降る。これは屋根裏の板間に塗った土が乾いて、一時に砕け堕ちるのじゃ。一昨年、近村鉛山で毎日石が飛び込む家に、大勢災を禳うため百万遍を修むるところへ、また石が飛び込むを、予の知人が障子の穴から覗くと、その家の子守り少女の所為と判り、教唆した隣家の女房とも当田辺町警察署へ引かれ罰せられた。   (大正三年四月『郷土研究』二巻二号)
【増補】
 アジアの極東北の地にすむ馴鹿チュクチ人のテント内の物が、誰がするともなく顛倒し、また雪や氷片を抛げ入るることあり(一九一四年板、チャプリカ『シベリア原住民』二三二頁)。エジプトでは、カイロ等の人家の屋上や窓間にしばしばジン(迷鬼)住んで、街や庭へ石瓦を抛《ほう》れど人を殺傷せず、という(レーン『近世埃及人作法風俗誌』一〇章)。これ(538)は池袋の石打ちよりは『嬉遊笑覧』に出た播磨のオサカベ狐の悪戯に似ておる、家内の怪でなくて家外の怪だから。狐が石や瓦を飛ばして窓を破り、家内の人を傷つける話は、支那にも『夜譚浸録』上、嵩※[沙/木]※[竹/高]の条などに見ゆ。(大正十五年九月記)
 
     御伽という語
 
 御伽という語は鎌倉時代に始めて現われたらしいとて、志田君は『源平盛衰記』や『増鏡』を引かれた(『郷土研究』一巻五号二六四頁)。しかるに『宝物集』巻五に、仏の本生譚とて、『羅摩延伝(ラーマーヤナ)』を載せおる中に、大王(ラーマ)その后(シーター)と深山におる時、竜王(十頭羅刹ラーヴァナを指す)、后を奪わんとて王を紿くところに、「一人の梵士出で来たりて御伽つかまつるべしとて仕え奉る」とある。世に伝うるごとく『宝物集』果たして治承ごろ平康頼が筆したものなら、鎌倉時代の初めより少し先に御伽という語がすでに行なわれたのだ。もっとも康頼も頼朝幕府を創立したのち死んだ人だが、件の例は『盛衰記』や『増鏡』より早いものだ。   (大正三年七月『郷土研究』二巻五号)
【追記】
 『郷土研究』二巻一〇号六三四頁に、本文に対し山田孝雄氏の教示あり。全文を出そう。いわく、御伽という語の出処として南方氏は『宝物集』を引かれたるが、その仏本生譚は七巻本のみにあって二巻本、三巻本の『宝物集』にはいずれもみえず。しかるに、右七巻本は他の二種の本よりは語法上新しく見ゆる点多く、後世の増補あるものと思わる。したがって御伽という語もその増補の中なるべしと考う。右ちょっとご注意までに、と。熊楠は、謹んで氏の厚意を謝すると同時に、氏がこのついでに語法上の考察よりして、いわゆる増補分が『盛衰記』や『増鏡』よりどれほ(539)ど旧く、もしくは新しきかを教えられざりしを遺憾とする。(大正十五年九月記)
 
     鹿杖について
                 柳田国男「鉢叩きとその杖」参照
                 (『郷土研究』二巻七号四〇三頁以下)
 
 『嬉遊笑覧』巻二中に、「『和名抄』、『唐韻』に※[是+〓]というは横首杖なり(『漢語抄』に、※[是+〓]は加世都恵《かせづえ》、一に鹿杖という)。かかれば今俗撞木杖という物なり」。熊楠按ずるに、『大和本草』にシュモクザメをカセブカと記し、「形|経《たていと》緯《よこいと》を巻くところのカセという器に似たり」とある。『本草啓蒙』には「撞木のごとくカセヅエの頭に似たり」と見ゆ。紀州にてかせ糸、かせ繰り、かせ屋など言うたのは、件の糸を巻く器に基づける名か。『笑覧』にまた「鹿杖にまことの鹿角を杖の頭に付けたるもの古画に見ゆるは、空也の徒なるべし」と言いて、別にいわく、「『平家物語』に老僧かせ杖の二叉《ふたまた》なるにすがってとあるなど、古画にて見れば二股のかたを地に突きたり。横首《おうしゆ》というには背けるにや」と。
 よって考うるに、支那の仙人の侍童などが、頭の歪んだ杖に主公の瓢箪や経巻を掛けて歩く図で見るごとく、橦木形なり鹿角頭《しかづのかしら》なり、上端に物を懸けて運びうる杖を、すべてかせ杖と呼んだのだろう。姚秦のころ訳されたらしい『毘尼母論』巻四に、「仏の制《おきて》に、杖を捉《とら》うる人のために説法するを聴さず。杖の頭には、もしくは鉄もしくは鹿の角をみな著くべし。何をもっての故に。杖の尽くるを恐るるが故なりし。されば仏の本規には、説法師の持つ枚は、磨り耗らぬために鉄や鹿角を頭に付けることとしたのだ。
 鹿は仏出世前から梵教に縁厚く、『毘奈耶雑事』二八、大薬の伝に、婆羅門、鹿皮を著る。『毘奈耶破僧事』九に、摩納婆、鹿皮に臥す。北涼訳『菩薩投身餓虎起塔経』に、「ここにおいて栴檀摩提太子は、鹿皮の衣を被、山中に留まり住んで、師に従って道を学ぶ」など、例が多い。惟うにこんなことどもが内典に多くあるを幸いと、阿弥陀聖や空(540)也の徒が、殺生をこととする下等民に教えを宣ぶるため、鹿角杖や鹿皮を用い、後には平定盛に殺された鹿皮を裘とし鹿角を杖としたまうなどの伝説を作り出したんだろ。
 ただし、定盛が鹿を殺して悔いたあまり入道したという譚も、その前に類話なきにあらず。梁の慧皎の『高僧伝』一二に、釈法宗は臨海の人、少にして遊猟を好む。かつて※[炎+立刀]《えん》において孕鹿を射て堕胎せしむ。母鹿、箭を銜《ふく》み、なお地に就いて子を舐《ねぶ》る。宗すなわち悔悟し、「生を貪りて子を愛す」はこれ有識の同じくするところたるを知って出家す、とある。(江西省九江府の靖居山は、むかし姓傅なる者ここで鹿を射しに、堕胎して死す。その人ついに弓矢を折り修道せり、よって名づく(『大清一統志』一九四)。)   (大正三年十月『郷土研究』二巻八号)
【追記】
 芳賀博士の『攷証今昔物語集』巻一九に、藤原保昌、毎度鹿を狩る。その郎党最も鹿射る技に長ぜる者の夢に、亡き母現われ、われ悪業のゆえに鹿となれり、明日の狩に大いなる女鹿に逢わば汝の母と知って射ることなかれ、と言うた。寤めてのちこのこと気にかかり、明日は不参と申し込むと保昌大いに怒り、汝参らずば首を刎ねると叱られ、詮方なく、狩に出で大きな女鹿に逢うと、たちまち夢の告げを忘れてこれを射る。鹿射られて見返った貌を見ると、わが母の通りで痛やと言った。たちまち夢のことを臆い出し、その場で髪切って法師となり、山寺に入って貴き聖人となったという話があって、類話として、支那の「恵原《けいげん》は、云々、少くして弓弩をもって業となす。武陵山に至って、一の孕み鹿を射る。死なんとして、言をよくしていわく、わが先身はただ汝を殺せるのみ、汝今ついにわが母と子をあわせて害う。すでにこれ縁の対《つい》なれば、まさに汝のために死すべし、と。また向かって言いていわく、われ尋いでまさに成仏せんとす、汝、善を行なうべし、生々代々、また寃を結ぶことなかれ、と。原すなわち前縁を悟り、ついに落髪し、鹿の死せる処に伽藍を置き、耆闍窟山寺と名づく」と、『朗州図経』に見えたる由、『太平広記』巻一〇一から引いて載せておる。保昌は空也よりは後の人だが、この『今昔物語集』の話は、あるいは定盛が空也に教化せら(541)れたという譚よりも前に生じたものかもしれぬ。   (大正六年一月『郷土研究』四巻一〇号)
 
     鴻の巣
                  川村杳樹「鴻の巣」参照
                  (『郷土研究』一巻一〇号五九七頁)
 
 『本草啓蒙』に、鴻《こう》は鵠《こく》と同物で、ハクチョウのこととし、『和漢三才図会』には、鴻は雁の大なるものヒシクイ、と言う。いずれも水を游ぐもので、蛇と仇をなすを聞かぬ。本話言うところは、鴻や鵠でなく、鸛《こう》(英語でストーク、仏語でシゴニュ)のことだ。『和名抄』にオオトリと訓じてある。和泉の大鳥神社また大鳥という苗字などに縁ある鳥らしい。この鳥鳴かず、嘴を敲いて声を出す。その声に擬してコウと呼んだか、またはどちらも水鳥ゆえ、鴻鵠《こうこく》の音を取って鸛をコウと呼ぶに至ったものか(『南留別志』に鸛をコウとは鴻を誤れるなるべし)。とにかく『古今著聞集』に、トウを射た話があって、そのトウはコウらしいから、鎌倉時代すでに鸛をコウと通称したと見ゆ。(後日訂正す。トウはトキすなわち『日本紀』の桃花鳥の古名の由、『本草啓蒙』にみゆれば、コウと別なり。兼良公の『尺素往来』に鵠の霜降り、トウの焦れ羽と、矢に着け用ゆる羽の名を列ねた中にあれば、足利氏の世には鸛をコウと呼び、鵠の字を用いたことと知れる。)
 『本草綱目』に「陳蔵器いわく、人、巣を探って鸛の子を取れば、六十里旱す。よく群れ飛んで、激して雨を散らすなり。その巣中には、泥をもって池をつくり、水を含んで中に満たし、魚蛇を養いて、もって子に哺《く》わす、と」。『三才図会』に、「鸛つねに石に遇えば、その下に蛇あるを知る。すなわち石の前において術士のごとく禹歩をなすに、その石|※[さんずい+こざと+力]然《ろくぜん》として転ず。鸛、俯いて鳴けばすなわち陰り、仰いで鳴けばすなわち晴る。よく群れ飛んで霄《そら》に薄《せま》る」。
 『※[土+卑]雅』には、「鸛はよく縛《いましめ》を解く。南方人その法を学ぶ者は、その雛を養うを伺い、木に縁《まと》い※[蔑の草が竹]《べつ》の※[糸+亘]《つな》をもってその(542)巣を縛るに、必ず法を作《な》してこれを解く。すなわち木の下に沙を鋪き、その足跡を印して倣ってこれに学ぶ」、またこの鳥|※[譽の言が石]石《よせき》を取って卵を暖むる由を載す。古ギリシア人は鸛親子の愛渥きを頌し、ドイツ人は人間の子は鸛が泉水より齎して母の前に落とすとただちに産まると信じ、また鸛が人の上を飛び廻ればその人必ず死す、と信ず(グベルナチス『動物譚原《ゾーロジカル・ミソロジー》』二六一−二頁)。またこの鳥決して種蒔きに害を成さず、と唄うた(グリンム『独逸神異誌《ドイチエ・ミトロギエ》』二枚、六三八頁)。マセドニアのキリスト教徒、回教徒ともに鸛を吉鳥とし、その渡来を平和の徴とし、トルコ人はその毎年南に飛び去るをメッカへ巡礼すると心得、鸛が巣くい子生む家は黒死疫と火災を免る、と信ず(アボット『マセドニアン・フォークロール』一九〇三年板、一〇九頁)。『大英類典』一一板巻二五に、デンマーク、ドイツ、オランダ等では、鸛、夏日南方より来たり、樹に棲むこと罕にて、もっばら家の上に巣くい、その家これを吉兆とす、と載す。
 ずいぶん美麗な鳥ではあり、諸国でかく愛重されるから見ると、本邦でも古くこれを神物としたのだろ。ただし、好んで蛇を食うゆえ、蛇を祀る人々よりは神敵と見られたであろう。また神と仰ぐ蛇が何の苦もなく殺さるるを見て、たちまち鸛を崇むることもあったであろう。蛇と鳥類と仲の悪い例は、欧州の黒鳥《ブラツク・バード》、インドの裁縫鳥《テイロル・バード》、またアフリカの書記鳥《セクレタリ・バード》は蛇退治のために西インドヘ移殖し、人その功績を讃む。インドで竜蛇を制すとて金翅鳥王《こんじちようおう》を尊ぶは、誰も知る通りだ。古カルデアの伝説に、シャマシュの鷲、ある蛇の子を掠め自分の子に食わす。蛇これをシャマシュ神に訴う。神、蛇に教えて、死牛の腹に匿れて鷲来たり腸を食わんとするところを撃たしむ。蛇その通りするに、鷲その謀を察し蛇は志を遂げなんだ、とある(マスペロ『開化の暁《ゼ・ドーン・オヴ・シヴイリゼーシヨン》』一八九四年板、六九八−九頁)。   (大正三年十一月『郷土研究』二巻九号)
【追加】
 鸛を支那や欧州諸邦で霊鳥とする例はすでに挙げたが、本邦でもこの鳥を大分毛色の異った物とせるは『甲子夜話』を見て判る。すなわちこの鳥の卵を取って煮て、また巣へ入れおくと、淫羊※[草がんむり/霍]《いかりそう》もて覆うて見事その卵を孵したこ(543)と(巻一七)、火災ある両三日前に巣を去りまた雛を育ておわれば父鳥去ること(巻二三)、去る前に父が子に飛びようを教え、また土をもって巣を構うるを教うること、雛三羽あれば雌雄二を留め、余子を将れ去ること(巻六二)、鸛の雛の餌を雀が運ぶこと(巻四九)等なり。『聊斎志異』一六に、「天津の某寺、鸛の鳥の鴟尾に巣くう。殿の承塵《てんじよう》の上に、大蛇の盆のごときもの蔵《かく》る。つねに鸛の雛の翼を団《あつ》むる時に至れば、すなわち出でて呑食して浄尽《つく》す。鸛は悲鳴すること数日にしてすなわち去る。かくのごとくして三年、衆その必ずもはや至らざらんことを料《おも》うも、次の歳、巣づくること故のごとし。ほぼ雛の長成すれば、すなわち逕《ただ》ちに去り、三日にして始めて還る。巣に入って唖々となき、子に哺わすこと初めのごとし。蛇、また蜿蜒として上り、甫めて巣に近づく。両の鸛は驚いて飛び、鳴くこと哀しく急にして、ただちに青冥《あおぞら》に上る。にわかに声の蓬々たるを聞く。一瞬の間に天地|晦《よる》のごとし。衆、異に駭いて共に見るに、すなわち一の大鳥、翼もて天日を蔽い、空より疾く下る。驟《にわ》かなること風雨のごとく、爪をもって蛇を撃つ。蛇の首立ちどころに墮ち、あわせて殿の角《すみ》を摧《くだ》くこと数尺ばかりなり。翼を振いて去るに、鸛その後に従い、これを送らんとするがごとし。巣すでに傾き、両の雛ともに堕ち、一は生き一は死す。僧、生きたるを取って鐘楼の上に置く。しばらくして鸛返り、なお就いてこれに哺わす。翼成って去る」とある。
 大正元年の春、予の家台所の牀下より猫児二つ出たのを捕えおくと、見苦しく痩せた母猫が宅近く鳴き廻り喧しい。よって石を抛げて追い払うに、半時ばかりして、無類に大きな牡猫、ニャニャニャッと短く鳴きながら進み来たり、その後へ件の母猫が随いて来た。牡猫の侠勇あたかも相手は何者《どいつ》ぞと尋ぬるがごとし.予大いに感じて二児を放ち遺ると、一同悦び去る時も牡猫が殿して退いた。かかる者は母を識って父を知らずだが、頼まるれば誰の子とも知れぬ者のために、自分の命を賭して助けに来るのもあると見える。『志異』に大鳥と事々しく吹き立てたるも、実はこの牡猫同前の侠勇な大鸛《おおこうのとり》が、貧弱な鸛夫婦のために蛇を殺して復仇したのであろう。またいわく、「済南に営卒あり、鸛の鳥の過ぐるを見てこれを射る。弦に応じて落つ。喙《くち》の中に魚を啣《くわ》う、子に哺わせんとてなり。ある人、矢を(544)抜いてこれを放つことを勧む。卒、聴きいれず。しばらくして矢を帯びて飛び去る。のち近郭の間を往復すること両年余、矢を貫くこと故のごとし。一日、卒、轅門の下に坐す。鸛過ぎて矢地に堕つ。卒、拾い視ていわく、この矢まことに恙なし、と。耳たまたま癢《かゆ》し。よって矢をもって代えて耳を掻く。大風、門を摧《たた》き、門にわかに闔《とざ》して矢に触れ、脳を貫いて尋いで死す」。これも支那に以前鸛を神物とした遺風の譚と惟わる。   (大正四年二月『郷土研究』二巻一二号)
 
     計山供養針千本
               京都風来坊「針山供養針千本」参照
               (『郷土研究』一巻一〇号六三二頁)
 
 針千本は河豚類の魚で、学名ジオドン・ヒストリクス、英語でシーヘジホグ(海※[獣偏+胃])、またポーキュパインフィシュ(豪猪魚)。この針だらけの魚が、河豚同様毬状に膨れて、毎冬海荒れる時北国の浜に打ち上ぐるより、嫁の怨みというような俗信を生じたものだろう。『日本書紀』巻二六に、「斉明天皇四年、出雲の国より言す。北海の浜に魚死にて積めり。厚さ三尺ばかり。その大きさ※[魚+台]《ふぐ》のごとく、雀の啄《くち》、針の鱗あり、鱗の長さ数寸なり。俗にいわく、雀の海に入りて化して魚となる、名づけて雀魚という、と」。今言う雀魚は、学名オストラチオン・ジアファヌス、やはり河豚の類だが、鱗なし。『和漢三才図会』巻五一にも、「『日本紀』に謂うところは今の雀魚と異なる」とある。「針の鱗あり、長さ数寸」とあれば、今の針千本を雀魚と謂い、雀が化したと言ったんだろう。『本草啓蒙』巻四〇には、ハリフグ、雲州、毎年十二月八日〔五字傍点〕波風|暴《あら》く、この魚多く打ち上げられ、また唐津でも四月八日にこの魚みずから陸に上がり死す、と出ておる。   (大正三年十一月『郷土研究』二巻九号)
【増補】
 大正十年十二月、紀州日高郡南部町日高実業学校女子校友会発行『浜ゆふ』に、由良興国寺宝物に、法燈国師伝来(545)の九条袈裟あり、京極女院一針三礼の作という。『俳諧歳時記』、二月事納め、武江の俗二月八日、婦人は針の折れたるを集めて、淡島の社へ納め一日糸針の業を停む、これ針供養という。南部地方でも、お針屋で折れ針を集めて蒟蒻にさし、これを海へはめる、これを針供養という、とあり。「話俗随筆」蒟蒻の条(本書「紀州の民間療法記」)を参看せよ。(大正十五年九月記)
 
     実盛屋敷
 
 『郷土研究』二巻三号の「実盛塚」の篇に、実盛山、実盛岩、実盛堂など見えるが、実盛屋敷は見えぬようだ。鈴木正三の『因果物語』巻中に、播州にてある僧の夢に、われは実盛なり、わが屋敷に銭を埋み置きたり、朽ち去らんこと悲し、と告げたり。このこと語り広めて越前へ聞こえ国主の耳に立ち、怪しきことなれども、自然ありもやすらん、屋敷を掘らせて見よ、と仰せけり。花輪何某という人奉行にて、掘らせけるに、蓋もなき甕一つ掘り出だしけり。銭は腐りて土のごとし。鋳物師に下され鐘の中に入れよと仰せ付けられたり。実盛屋敷はこんこく〔四字傍点〕七箇所の内に、乙阪《おとさか》村という処なり。樋口村の双び平山の上なり。元和の末のことなり、云々、と出ず。「こんこく」は近国か。また何か金鼓《こんく》に縁ある意か。かの辺のことを知る人の示教を俟つ。   (大正三年十一月『郷土研究』二巻九号)
 
     山神の小便
 
 これは近刊白井博士の『植物妖異考』にも載せてないが、熊野で往々見る。樹枝が折れて垂れ下がったり藤葛《かずら》が立枯れになったのが、一面に白色で多少光沢あり、遠く望むと造り物の小さい飛泉《たき》のようなものだ。以前はこれ(546)を山神《やまのかみ》の小便と称え、その辺に山の神が住むと心得たが、今は土民もこれは一種イボタに類した虫白蝋《ちゆうはくろう》と知って、那智村大字市野野で、ある人が採って来て座敷の敷居に塗抹し、障子が快く動くと悦んでおるのを見た。   (大正三年十一月『郷土研究』二巻九号)
 
     松山鏡の話
                 越原富雄「松山鏡の話」参照
                 (『郷土研究』二巻八号四七四頁)
 
 一八五三年板、パーキンスの『亜比西尼亜住記《ライフ・イン・アビシニア》』(五八−九頁)に、回教徒の伝説を載せて、婦女の嫉妬は最初の女人イーヴが創めだ、とある。アダム夫婦楽土にあって、当初しばらくの間すこぶる和融したが、アダムは毎夕祈念のため天に上った。魔王疾くより女人の心底の弱点を知悉し、これが人間に災難を播《ひろ》むべき好機会と見て取り、イーヴを訪うて、アダムさんはご動静|如何《いかん》と、と問うた。イーヴ、亭主は只今祈念のため上天したととろ、と答うると、魔王信ぜぬ顔つきで微笑した。何故いやに笑うかと問い返すと、イーヴの気を悪くしたり、アダムの名を損ずるようなことは述べたくない、と答えた。イーヴがますます聞きたくなるを見済まし、いと気の毒な振りして、御前様はまだ知らぬが、アダムさんは祈念に託して毎夕情女を訪うのだと告げると、イーヴ嘲笑して、上帝が作った女とては予一人だ、アダムいかでか他に女を拵え得んと言うと、論より証拠、本人を招いて見すべしとて鏡を見せ、イーヴ自分の形像を見てアダムの惰女実在すと信じたのが、女人嫉妬の始りだったそうな。   (大正四年三月『郷土研究』三巻一号)
 
(547)     ヒジリという語
                  柳田国男「聖という部落」参照
                  (『郷土研究』二巻六号三二七頁)
 
 柳田君の論文に、小山田与清が「日知は日之食国を知看す日神《ひのかみ》に比したる美称なり」と言うは、聖帝と書いてヒジリノミカドなどと訓んだ場合には当て嵌るが、『日本紀』の古訓に大人また仙衆をヒジリと読み、後に人丸は歌の聖など言うに適用しえぬ、とある。予『古事記』を見るに、「故、その大年神、神活須毘神の女《むすめ》、伊努比売を娶りて生める子は、大国御魂神、次に韓神、次に曽富理神、次に白日神、次に聖神」。本居宣長の『記伝』一二に、白日神の白の字は向にて牟加比なるべしとて、山城の向日明神などを傍証として挙げおる。『古事記』に載せた同父兄弟の諸神の事功相類せるが多い。大年神は穀《たなつもの》の神で、向日神《むかひのかみ》と聖神の外に、園の神、山里開いた神、竈《かま》の神、井の神、田地の神等を生んだ。すなわちその兄弟が多くは田宅に関するから類推すると、件の二神も村落開設に功あった神だろう。『記伝』巻六に、上代日向う所を賞め称えたること多しと言い、巻一五「この地は朝日の直刺す国、夕日の日照る国」の伝に、竜田風神祭祝詞「わが宮は朝日の日向う処、夕日の日隠る処」等の古辞を引いて、古くあるいは日向《ひなた》あるいは日影を讃めた由いい、『万葉集』に家や地所を詠むとて、日に向かうとか日に背くとか言うたのがしばしば見ゆ。日当りは耕作畜牧に大影響あるのみならず、家事経済未熟の世には家居と健康にも大利害を及ぼせば、もっとも注意を要したはずだ。また日景《ひあし》の方向と増減を見て季節時日を知ること、今も田舎に少なからぬ.したがって察すれば、頒暦など夢にも行なわれぬ世には、この点に注意して宮や塚を立てて、その影を観てほぼ時節を知った処も本邦にあっただろう。されば向日神は、日の方向から家相、地相と暦日を察するを司った神と愚考す(『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一一板、巻二〇、オリエンテイションの条、サー・ノルマン・ロキャー『ストーンヘンジ』参看)。
(548) 予は、柳田君の前に君同様「ヒジリは日を知る人、すなわち漢語で書けば日者《につしや》という語などがその初めの意味」と解いた人あるを聞かず。したがって、柳田君のこの解説を近来の大発明と感じ入り、それから類推して向日神《むかひのかみ》を上のごとく釈いたのだ。しかして、向日神が日の方角を察して家地暦日を知る神で、その弟聖神は日の次第で善悪を知った神で、すこぶる似寄った職を兄弟が司ったものに相違ない。日の次第や善悪を知悉する、すなわち暦と占とを兼ねた者を聖人とするは、柳田君が挙げた新羅王の外に多々例あり。支那の上古、三皇五帝は多く律暦制定に功あって聖人たり。後代にも、刑和璞《けいかはく》、暦の名人僧|一行《いちぎよう》を聖人ならんと歎じたこと、『酉陽雑俎』に見ゆ。そのころの暦はいずれも暦と占を混じたものだ。ヨセフスの語に、上帝、大洪水前の諸聖父(パトリアルクス)を長生せしめたは、その発明した幾何学と星学を成就せしむるためで、六百年歴て一運過ぐるから、せめて六百歳生きねばこの成就は望まれ
ぬによると言ったのも、これらの智識富める者を神異の人とするに出たのだ(一八七七年板、フラムマリオン『星学譚奇《アストロノミカル・ミツス》』二五頁)。プレスコットの『秘魯制服史《ヒストリー・オヴ・ゼ・コンクエスト・オヴ・ペルー》』一巻四章に、古ペルー国人の暦学がはなはだ未熟だったことを評して、古メキシコの僧は若干の暦学智識に基づいて星占術《アストロロギー》を立て、他から神聖らしく見られたが、ペルーの僧徒はことごとく日の後裔と仰がるる貴族の出身ばかりだったので、別段星占術で身に威光を添うるを要せなんだからだ、と説いた。向日神や聖神が天照大神の末でなくて素盞嗚尊の胤《すえ》だったのも、古ペルー同前の理由に出たものか。
 とにかくヒジリは日知で、暦書ない代にはなかなか尊ばれたこと、今日、田舎で槌の入りとか八専《はつせん》が来たとか心得た者は、梅雨明かぬに糊を拵えず、種蒔き時を間違えぬほどの益は必ずあり。これらの心得なき者は毎々大齟齬《おおすかまた》をやらかすので察すべし。これをもって『古事記』の筆者すでにヒジリに聖の字を宛てたは、孔子以後聖人なしなどいう儒説から見たらあまりのことだろうが、常人に勝れた物知りを賢人と見立てて、抜群の賢人を聖となす眼には、物知ったばかりの賢人の上に、特種の神智を備えたらしい日者を聖と立てたはもっともな仕方だ。さてその日知りの道を(549)司るとか始めたとかの意で、聖神を立てたのだろ。近い話は、英語や仏語の sage を聖人と訳した人もあるが、もとラテンの sapiens(博識《ものしり》)から出たので、聖賢いずれにも充てうる。英語で wise man と釈《しやく》するから、まずは賢人に当たる。しかるに、英語で wise woman 仏語で sage femme いずれも字のままでは賢女(もしくは聖女)だが、前者は巫女《みこ》または卜女《うらないおんな》また魔術女、後者は産婆に限られた名となりおる。これはラテン語 saga 複数で sagae が産婆、卜女、媒《なこうど》女、香具《こうぐ》媚薬《ほれぐすり》売り、堕胎《こおろし》師等に渉れる総名で、老衰した娼妓などが、これらのいかがわしい芸道なら何でも知っておった、怪しからぬ物知り女を指した名で、それを賢女また聖女と英・仏に訳したところが、日知りを聖に充てた『古事記』筆者の用意に似ておる(一八五一年板、ジュフール『売靨史《イストア・ド・ラ・プロスチチユシヨン》』二巻一二五頁参取)。   (大正四年四月『郷土研究』三巻二号)
 
     天狗の情郎
                   久米長目「山男の家庭」参照
                   (『郷土研究』三巻一号三六頁)
 
 久米君が予未見の書『黒甜鎖語』から天狗の情郎《かげま》また奴となった話を引かれたはすこぶる面白い。
 川島正久という和歌山人、高野山の小姓から出身して諸府県で警部たり。かつてその上官たりし大浦兼武氏を山県内務卿に弾劾し、その前西南役に後藤純平や西郷菊次郎氏を調べたなど、おもしろい履歴ある人じゃった(それらの書類は予借り写しある)。この人の話に、大阪等の監獄で牢頭《ろうがしら》に愛せらるる美男囚を奴と呼ぶ、と言った。天狗の※[女+交]童《わかしゆ》ということ、古い浄瑠璃本にも散見したと思う。また何かの絵草紙本で山若衆とて、一種の※[女+交]童が樵夫《きこり》群中にある由、見たと覚える。 古ギリシアの大神ゼウスが、ダルダニア王トロスの子ガニメーデースの艶容に執著し、みずから鷲に化って天に拉《つ》
 
 
        (550)れ行き、小姓にしたのは名高い話で、串童《かげま》をラテンでカタミツスと言う始りだ。これに反しインドでは、鷲の一類たる金翅鳥王が美童身を現じ、某大神(ヴィシュヌか)に愛せらるる談ありしを写しおきしが、今見出だしえぬ。金翅鳥王(迦楼羅王)が邦俗いわゆる烏天狗像の模範たるは、浅草堂後から見える襖障子の観音二十八部衆、それが今なくば『神仏霊像図彙』を見れば明らかだ。『今昔物語』一〇の「聖人、后を犯して国王の咎を蒙り天狗となれる語《こと》」は聖人が女犯してのち天狗となったので、巻二〇には、天狗が女人に化して清僧を※[女+堯]《みだ》さんとした話、二つある。しかして同巻の「染殿の后、天狗のために※[女+堯]乱《にようらん》せられたる語」の外に、古く天狗が女犯した譚を聞かぬ。後代の話はみな天狗すこぶる女嫌いで、霊山聖地へ禁を破って登った婦女が天狗に裂かれたという(例せば『新著聞集』崇歯ム末章)。女嫌いと言い習わしたところから、天狗の情郎ということもできただろう。
 支那には『酉陽雑俎』一四に、火髪、藍膚、驢耳の飛天野叉が美男に化して村女を古塔中に牽れ行き、年久しく夫妻《めをと》たりし譚あるが、やや天狗の情郎に相当する話は、予一つしか知らぬ。椿園の『西域見聞録』四に、カシュガルの西、「馬にて行くこと三十日、轄里薩普斯《キリサブス》に至る。妖法邪術多く、風俗は淫悪にして、男女みな竜陽なり。その塔里扈魯斯《タリコルス》城のうちに一の土の阜《やま》あって、城の中央を居《し》む。他国の人にしてその城に入る者は、すなわち心神恍惚となって、必ず登臨せんと欲す。しかる後に快くこれに登れば、すなわち必ずその巓《いただき》に至らんと欲す。すなわち※[務の力が目]《めくらみ》して人を知らず、時を逾えて治めて蘇る。手に銅銭二文を握り、下体はすでに人の汚《けが》すところとなる。西域の回子はみな畏れてこれを避く。しかして誤って入り姦せらるる者、まことにまた少なからず。ただ多くは諱《い》んで言わざるのみ。葉爾羌《ヤルカンド》、大阿渾、阿布都哈爾《アブドハル》、庫車《クチヤ》回子、阿瓦茲《アワツ》、みなかつてこの強暴に遇う。人これを問えば、すなわち怒って解くべからず。しかるに酒を飲んで過酔すれば、往々みずからその実を道う。しかして、聞く者絶倒せざるなし」(以上)。外色《がいしよく》盛行の世には、本邦にもかかる怪事があったかもしれぬ。(天狗が女をさらうた話『甲子夜話』にあり、近ごろは天狗も変わってきた、と笑評しある。)   (大正四年五月『郷土研究』三巻三号)
(551)【追記】
 金翅鳥王が美童身を現ずる由の出処、見出だしえなんだが、只今見出でたから書きつける。一八四八年出板の『ベンガル亜細亜協会雑誌』一七巻、カンニンガム大尉の「ラダク紀行」五九八頁に、「この辺の高山の絶崖上に高く翔《か》けるラムマーガイエル(在インドの英人のいわゆる金鷲《ゴルズン・イーグル》)は、この辺(クマオン等)の民、韋紐天《ヴイシユヌ》が騎るグルウル(迦楼羅《かるら》に同じ)なりと信ず。ただし、プトレスナットなる雕像には、グルウルを、ヒマラヤ山中の※[女+交]童《ちご》の、翼生えたものとしておる」と出ず。さしたることならねど、虚言いわぬ証《あかし》に確かに出処を表しおく。また古く天狗が女を犯した譚を聞かぬと言ったが、女犯までは知らず、天狗が女を掠《さら》えた話は、『甲子夜話』巻四九に見えて、世も澆季になって、天狗も女人を愛することになり行きたることならんかと、著者静山侯が、歎息を泄しおる。
 それから方角が転《かわ》って、『新著聞集』奇怪篇第一〇の二四章に、天保四年、中川佐渡守家臣の召使い関内《せきない》なる者、茶店で水を飲む。茶碗に最《いと》麗わしき少年の姿映れるを、奇怪に思い、水を捨ててまた汲むに、再びかの顔見ゆるゆえ、やむをえず飲むと、その夜関内の部屋へ、式部平内と名乗って、件の美少年来たる。表門を何として通り来るぞ、人にあらじと思い、抜打ちに斬り懸くるに消え失せる。その翌夜、平内の使者三人、おのおの姓名を名乗り、思い寄って参りし者を、労るまでこそなくとも、手を負わせるは如何《いかが》ぞや。湯治中なれば、疵愈え帰りて、報復せむといきまく。関内また、斬り懸くれば逃げ去り、後またも来なんだ、とある。同じ天和の二年に出た『一代男』巻一、世之助十歳、「袖の時雨は、かかるが幸」の条など参看するに、インド、アラビア、ペルシア等と斉しく、本邦にも、外色大流行の世には、.少年が進んで念者を求むるのみか、妖怪までも少年に化けて、同様の所行に及んだらしい。かかる世にして、始めて天狗の情郎《かげま》となったという人の話も、信《ま》に受けられたるなれ。世態学《ソシオロジー》や群衆心理学《ソシアル・サイコロジー》、また精神変態学《サイキアトリー》を修むる人々の、一考を要することであろうと思う。   (大正七年九月『土俗と伝説』一巻二号)
 
(552)     じょうりきじょうまん
 
 じょうりきじょうまん、にたんところはおさごいごいよ、云々と、草履隠しの戯れする時、田辺の小児が唱うる由、すでに「一極めの言葉」の条に述べたが、全体何のことか分からぬ。
 『塩尻』(帝国書院刊本)六六巻二五三頁に、「江州クズ川の嶽、云々、ひえの山の奥の院という。中略、山門山住の行者、六月会、十月会に入峰する霊所なり。叡山より北の方十里ばかりの道程なり。前行一百曰、無言にして叡山の諸堂霊所を毎日廻りて拝す。その道七里半という。入峰して七日断食し行を満たす。この地に浄鬼、浄満とて民あり。和州大峰の前鬼、後鬼がごとし。入峰の修験を導くとぞ」と出ず。
 しからば浄鬼、浄満は山入りの案内で、鬼と呼ばれた者だ。わるい子供は浄鬼、浄満に頭を剃られ、伴れ行かるるなど古く言ったのだろう。熊野は山伏輩が不断往来した地ゆえ(もしくは、ずっと以前浄鬼、浄満は近江に限らず、他所でも案内の山民を呼ぶ名だったものか)、草履を方言じょうりと呼ぶに縁んで、鬼を撰ぶ唱詞にこの二鬼のことを言ったのであろう。右の詞の末句、ななやのきはとんぼを、ななやのここのとお、と言う児もある。   (大正四年五月『郷土研究』三巻三号)
 
     蟹噛みについて
                   川村「蟹噛み」参照
                   (『郷土研究』二巻七号四四二頁)
 横さらう蟹という奴は、水陸ともに死んだ物を食うて人間のために掃除|清潔《きよめ》の大役を勤めくれるが、また生きた物(553)をも食うから、人を困らすことも多い。二十年ほど前に『ネーチュール』へ蟹害に関する一書を出したことがあるが、座右に只今なく、何を陳べたか多分を忘れおわったが、わずかに手控え、また記憶するだけを述べよう。
 まず『昆陽浸録』に、「『越語』にいわく、「今その稲蟹は種を遺さず、と。韋昭の註にいわく、稲蟹は稲を食らう、と」。この註にても稲蟹明らかならず。『函史』に、「蟹、秋の末に稲の熟する時、すなわち出でておのおの一の穂を執り、その魁《おやぶん》に朝《めどおり》す。昼夜|※[咸/角]沸《ひつふつ》として江を望んで奔る。すでにして江に入れば、すなわち形やや旧よりも大なり。江よりまた海に趨くこと、江に赴く状《さま》のごとし。海に入ってますます大なり。あるいはいう、稲を持ち、もって海神に輸《おく》る。八月にその腹を開けば、芒《のぎ》の長さ寸ばかりなるものあり、稲の芒なり」とあれども、年々のことにて種を遺さざるほどにあらず。『平江記事』にいわく、「大徳丁未、呉中の蟹厄、蝗のごとし。平田にみな満ち、稲の穀《み》蕩尽す」と。これにて『越語』の稲蟹は蟹厄たること明らかなり。かつ呉は古えより蟹厄ありと見ゆ」とある。右の『越語』云々は、某王が兵を起こして敵国に向かわんとするを忠臣が諫めた言の中に、今年は蟹が稲を食い尽して種すら遺さぬ、この不景気に戦争を仕出かすたあ無分別千万と言ったことと記憶する。『捜神記』にいわく「晋の太康四年、会稽郡にて、※[虫+彭]※[虫+其]《ほうき》および蟹、みな化して鼠となる。その衆きこと野を覆い、大いに稲を食らいて災いをなす。始めて成るや、毛あり、肉あれども骨なし。その行くに田の※[月+券の刀が土]《あぜ》を過《よぎ》るあたわず。数日の後、すなわちみな壮《さかん》となる」。これは『本草綱目』に※[虫+彭]※[虫+骨]《ほうかつ》は蟹の「最小にして無毛なるもの」とあるから推知せらるべき通り、蟹類の多くは足等に多少の毛あり。ことにズガニは、爪に鼠の毛のような毛が密生しおる。『本草啓蒙』四一に「ズガニすなわち※[虫+旁]蟹《ほうかい》、毛蟹なり。また稲蟹(『典籍便覧』)とも言う。『寧波府志』に「※[虫+旁]蟹、俗に毛蟹と呼ぶ。両の※[傲の旁]《はさみ》に毛多し。湖泊の淡水中に生じ、目を怒らせて横行す。故に※[虫+旁]蟹という。秋の後、まさに盛んなり」」と載せて、本邦産と多少差うかしれぬが、とにかくズガニ属のものらしい。その毛が鼠毛に似おり、太康四年に会稽郡の田野にこの蟹と鼠と同時に大災をなしたので、まず生じた蟹が後に生じた鼠の児に化したと信じたのだろ。
(554) 十七世紀の末、インド洋ロドリーグ島を視たフランソア・レガーの『探険航記《ヴオヤージユ・エ・アヴアンチユール》』(一七〇八年板)に、かの島に陸蟹多く、七、八月、満月前後その雌諸方より団集して卵生みに海に赴く。その数百万とも算うべし。その時は穴を掘って身を隠さぬゆえ、いくらでも殺し得。よって一夕こころみに三千疋打ち殺し、さて翌朝見ると少しも減ったようになかった。その肉は味好く食うべしだが、困ったことには、この蟹日夜|圃《はたけ》に入って植物を裂き、籠で覆うた植物をば地に孔掘り侵入して裂きおわる。何とかその害を遁れんと勘考の末、われらの圃に種蒔きすると同時に、蟹|最《いと》多く棲む所々へも多く種を蒔いて、蟹ども巣を遠く離れずにたくさん苗を啖《く》いうる上はわざわざ圃を襲いに来ぬはずと、宛込みの褌がダラリと外れて、苗が生え出すが最期、安逸飽食しては天道様が怖ろしいという風で、蟹群続々園中へ侵入した。よって一同大いに我を折り、注意して蟹があまり多く来ぬ処を選み、川からなるべく距たった園や丘に種蒔きすることと定めたとあって、この蟹また何でも鉗み行く一例として、ある人虎の子より大切にしおった財布を蟹に取り去られ、狂い怒って蟹を見るごとに殺した由、載せおる。
 褌と財布のついでに述ぶるは、明治十八年五月、浅草芝崎町平民宮崎喜兵衝、平素蟹を嗜み食う。二、三日前、鳥越町の魚肆《さかなや》で女蟹五疋を八銭で求め帰って晩酌の下物《さかな》に食いにかかる時、俗にいう褌の間より目方一匁三分ほどの黄金塊を見出だし、大切に保存すと、その月二十五日の『絵入朝野新聞』で見た。川柳百人一首、某婦人の句に「ふんどしに子を包むのは蟹の母」とあったが、時に黄金をも包むことなきにしもあらずらしい。予が目撃した西インド諸島の彩画蟹《クラブバント》も年々無数大群をなし、山といわず家といわず直進して、海へ子生みに往く。その間地方の名産煙草の芽を荒らす等、年により災難おぴただしい。その混雑の状は、一六六五年板、ド・ロシュフォールの『西印度諸島博物人情志《イストア・ナチユラル・エ・モラル・デ・イル・アンチユ・ドラメリク》』や、一八九三年板、ステッビングの『介甲動物篇《クラスタセア》』に、よく記載しある。さほどの大群を予は見なんだが、小穢い旅舎《やどや》で食事中、かの蟹数多進行中で雪隠から人糞を鉗み来たり皿辺へ歩み近づくに畏れ入り、日本天主教最初の大祖師ハヴィエル尊者バラヌ島の近海に十字架を落として二十四時の後、一蟹|両螯《りようごう》これを捧げ復したと聞く。予の不徳すなわち蟹が大便を将ち来るを致すかと、われながら愛憎が尽きたことじゃった。
 またついでに詰まらぬ話ながら、世態の変遷を後代のために書き留めおくは、吾輩十一、二の年、違式※[言+圭]違《いしきかいい》出たその前、他は知らず京阪地方の人力車の背《うしろ》に種々可笑い絵を彩り画いた中に、西行法師が富士を眺めながら蟹に秘具を鉗まれおるのがあった。斬髪床《ざんぱつどこ》や興行物のビラにもしばしばあった。これは角力取が踊る唄に「西行法師が一歳《ひととせ》東《あずま》へ往《い》た時に、岩にヤーエー腰をかけ蟹に××××鉗まれた」と言うより起こったらしいが、こんな唄はいつごろできたものか、諸君に問いおく。西洋にも往時《むかし》はそんなことを別に気咎めせなんだと見えて、スウェーデン女皇クリスチナが悦んで読んだという、仏国の文豪ベロアル・ド・ヴェルヴィユ(一五五八−一六一二)の『上達方《ル・モヤン・ド・バーヴニル》』四九章に、最も変な蟹害の話を載す。浜地の知事夫妻に蟹数疋を贈る者あり。知事これを厨に致す前、一疋走り出て寝室《ねま》の壁掛の裏に匿れたが、夜分塩気を慕うて虎子《おまる》の中に潜む。知事の妻一向知らず、それに尿《しと》せんとして下部《しも》の両脣《くちびる》を鉗まれ、夫、倉皇《あわて》近づいてこれを吹き放そうとするその口の両唇をも鉗まる。蟹は双手四唇を離さず、夫妻大いに苦しむ声に驚き、僕《けらい》、剪刀《はさみ》持ち来たり両螯を截って主人を救うたという。
 さて本邦で蟹が植物を害する例、親《まのあた》り予が見たは、那智山その他でヒメガニ(一巻一二号七三〇頁参照)がはなはだ山葵を嗜み、その苗を扠《はさみと》ることおびただし。西牟婁郡|瀕海《うみべ》の諸村、処により蟹害を受けるが、広く平らかな地の本田《ほんでん》になくて、巒《こやま》の側《わき》や高い堤や石垣に沿うた田に稲苗を栽えつけると、蟹来たって若芽を摘む。ちょうど田が新しくできて、蟹の食うべき物、稲苗のほか乏しいからで、稲やや長ずるころは種々食うべき草の芽なども多くなり、稲は硬くなるゆえ食われぬ。この辺の蟹は、クソガニ(和歌山)、またエッタガニ(田辺)、またタユガニ(神子浜)など言って、全身|褐色《ちやいろ》で穢いのと、狸々蟹また弁慶蟹(和歌山)、ベンショウ(田辺)など呼んで、螯《つめ》赤く甲卿《こうあし》黒もしくは赤いのとあるが、前者が後者よりも害多くなす。いずれも多く岸側《きしわき》や石垣の横穴に棲み、稲芽を摘むごとに必ず穴に持ち還って啖う。水底で永く働きえぬゆえ、遠く田の中に到らず、岸に近き田縁《たのへり》のみ荒らす。
(556) 神子浜など溝に蟹多きを、少しでもその害を緩めるため、田の縁辺《へり》に余分に稲苗多く種えて充飼《あてが》いそれより内へ食い込むを禦ぐ。また予は見ぬが、空俵《あきだわら》を長径|一行《いちぎよう》に排《なら》べ伏せ置くとも聞く。しかし、予が睹たもっとも普通な法はかにだて〔四字傍点〕とて、米俵を胴切りして横に舒ばすと長方形の薦二枚できる。それをいくつも維ぎ合わせて巻紙ごとく巻き置き、苗代を田に移して田側の岸にかの薦を展ばしてその上瑞をもたせかけ、田の中から泥をその裾に圧えつけるのだ。しかる時は、岸辺の蟹、稲芽を犯そうとならば傾斜せる屋根裏を跛い登るような芸当を要し、したがって侵入すること割合に少ない。新庄村など潮水多少到る田には、ミズガニ(和歌山)、ツマジロ(新庄村)など唱える蟹、甲脚青く螯の端白く、石垣や岸の横穴に棲まずして、泥中に深く竪穴しおるのが多い。その穴底には常に水が溜まりおるので見ても、この蟹は水中に長く働き得と知れる。したがって根気よく薦を鉗み破ってやや遠く水田の中に討ち入り、とても一筋繩で往かぬ奴だから、二筋の椶櫚《しゆろ》繩で細い竹を鮨巻く簾子《すだれ》様に編んでおき、岸にもたせかくること、薦製のものに異ならず。苗長じ、蟹恐るるに足らざるに及び、巻き片づけて来年の用に備う。以上は、川村生の現に天草ではまだ蟹を防ぐ法なしとあったが気の毒さに、津の国の難波につけて疎まるる身を顧みず、蘆間の蟹の浅猿しい咄まで調合してこの篇を綴った。さて言い遺したは、蟹は大豆の芽をも摘み食らうて百姓を苦しむ。また一老農の説に、雨天に大豆を蒔き歩くこと少頃《しばらく》して、始めの処に還り視れば豆はや亡く、傍に蝦蟇《いぼがえる》のみあったので、この物も豆の種を盗むを知る、と。   (大正四年六月『郷土研究』三巻四号)
【追記】
 角力取が「西行法師が一歳吾妻へ往た時に」と唄う富士見西行という下題の起りは、『源平盛衰記』八に、「さても西行発心の起りを尋ぬれば、源は恋ゆえとぞ承わる。申すも恐れある上臈女房を思いかけ参らせたりけるを、あこぎの浦ぞという仰せを蒙りて思い切り、云々、有為の世の契りを遁れつつ無為の道にぞ入りける。あこぎは歌の心なり。『伊勢の海、阿漕が浦にひく網もたび重なれば人もこそしれ』という心は、かの阿漕の浦には神の誓いにて、年に一度の外は網を引かずとかや。この仰せを承わりて西行がよみける、『思ひきや富士の高根に一夜ねて雲の上なる月をみんとは』。この歌の心を思うには一夜の御契りはありけるにや、下略」とある、それなるべし。(大正十五年九月一日早朝記す)
【再追記】
 川村生の書かれた記事の、天草下島では、蟹噛みの防禦法なきよう見えたのを、不思議に思い、この辺で行なわるる、かにだて〔四字傍点〕などの構造を書いて送ったが、その後、日高郡南部町大字山内という海辺の、山に囲まれた僻地から、下女が来たので、聞いてみると、この地でも、かにだて〔四字傍点〕などの名案を聞いたことなく、ただ稲苗を植えつけた当分、甘藷の貯え置いたを取り出し、横截りして、夕刻田に撒き、日暮れて後、村民組みをなし炬火を燃やし、鎌の刃を曲げ反らせて持ち出で、蟹どもが藷切を食うところを打ち殺し、その屍骸は集めて海に投げ入れ、磯魚を惹き寄せるそうだ。わずか五、六里を隔てて、あるいはかにだて〔四字傍点〕の名案を行ない、あるいはその名も聞かぬ処もあるとは、さりとは妙な世界というほかなし。   (大正七年九月『土俗と伝説』一巻二号)
 
     トウボシは唐乾飯なり
 
 田辺町に住む老農輩いわく、タイトウという米は、尋常水田に植える稲が粒細長く脆くて粘り気乏しく変成したのだ。落ち散りやすく味旨《うま》からぬゆえ、種を収むる時注意してこれを除くが、二、三年もすると、また変性して多少のタイトウを生ずる。粳《うるしね》に限らず糯《もちごめ》にもあり。粒の外面あたかも草綿種子《わただね》を食う虫ほど赤いが、中は白い。これは(558)早稲に多い。晩種にも生ずるが、それは多くは熟せず、緑《あお》いなりに枯れしまい、もしくはまるで空穀《からもみ》を留むるのみ。たまたま熟すれば、その粒赤からずして白い。タイトウ多くできる年と少ない年とある。一つの穂に尋常の粒とタイトウの粒と淆り生ずるので、タイトウは病的変成物と知れる。詰まらぬ物ゆえ、心配して早く抜き去らんとするも、苗の時は判らず。いよいよ穂が熟して始めて別るゆえ、種を収むる中にこれを容れぬよう腐心する、と(『郷土研究』一巻四号二五二頁太田君答文参照)。またいわく件の病的変成と別に、またタイトウと呼ぶ稲の特種あり。五十年ほど前田辺へ伝わったのを沙地へ種えたが、水を要することはなはだしいので収穫乏しく、おいおい廃止となった。この種のタイトウの粒、万端病的変成のタイトウのごとしだが、その粒が他よりも一層長かった、と。また田辺から二里ばかり距たった鳥の巣という浜地の人いわく、タイトウは前年までかの地の水田に種えた。その味乏しいが飯に炊くと殖えるので、吝嗇な輩すこぶるこれを重んじ、わざと多く種えたが、おいおい廃止となった、と。さればタイトウに、本邦で毎年多少変成するのと外来の特種と、色も赤と白と、性も粳と糯と、田作と畑作とあるらしい。
 さて予が『犬筑波』の句を孫引して「大唐米すなわちトボシのことなるべし。唐より渡り乾飯《ほしい》にし、それをこがしにせしゆえ、唐ぼしいと言いしならん」と『郷土研究』一巻一〇号六三七頁に言いしを、柳田君は「稲を乾飯と言うのが家猪《ぶた》をハムと呼ぶと同様不自然」だと難ぜられた。物の諸部分や諸効用の中について、一を採ってその物の名とした例は、羚羊を褥《にく》、綿羊を羅紗綿《らしやめん》、玳瑁亀《たいまいがめ》を鼈甲、その他多々あるべく、『姓氏録』や『古語拾遺』に、秦《はだ》氏の祖が献じた絹帛《きぬ》が軟らかで肌膚《はだ》を温煖《あたた》めたにめでて、仁徳帝が彼に波多公《はだのきみ》の姓を賜い、それより秦《しん》をハダと訓むと出ずるを、本居宣長は、「もしこれらの義ならば、温か軟らかの言を取ってこそ名づくべけれ、肌という言を取るべき様なし」と難じた。いかにも不自然至極の命名ながら、右の書どもにかかる語原を載せたのを見ると、たとい仁徳帝がかかる不自然な命名をなし賜わざりしにせよ、二書の編者もそのころの人も肌を快くする絹帛を献じた人をハダ氏もて称《なづ》くるを異常のことと思わず、したがって自分らもそんな不自然な命名を多少行ないかねなんだというこ
(559)とが判る。東西とも、世俗は精確な論理を推し定めてのち始めて物に名づくるに限らぬ。すでに柳田君自身も、聖人をヒジリ(日者の義)と訓んだ、はなはだ不自然ながら、しかもその理ある径路を示されたに吾輩感服しおるではないか(二巻六号三二七頁、三巻二号一〇三頁参照)。されば乾飯を作るに恰好な一種の稲に乾飯《ほしい》もて名づくるは、俗人から見て何の不都合、成しうべからざることにあらず。
 乾飯という物、近時すこぶる不必要の物で、予の妻子は知らず。予もいわゆる道明寺乾飯を夏日慰みに食うてより三十五年も見たことなく、どんな物か全く忘れおわって一向不足を感ぜぬが、往昔《むかし》和漢とも軍陣や旅行にすこぶる乾飯を重んじ、多く製造したは、『淵鑑顆函』三八九※[米+臭]糒(すなわち乾飯)の条、また『一話一言』一三に『小宮山謙亭筆記』から「奥州は大国にて、国中一揆起こること昔はたびたびなり。官軍を遣わし、また国主、郡主、一揆の党を鎮むるに兵粮不足なきように糒《ほしい》を詰めたり。その風残りて、今に仙台の糒、名物のようになりしなり」と引いたので知れる。それほど乾飯大必要の世に大唐米が入り来たってその製造に適しおったゆえ、特にこれを唐乾飯《とうぼしい》と呼んだは、田辺で時代も姓名も伝わらぬ一人の鍛工《かじや》が骨を喉に立てて死んだ魚を、イサギと呼ぶよりはもっばらカジヤコロシで通用しおるよりも、はるかに自然の成行きと惟う。
 大唐米に赤白二態あることは、白井博士すでに言い(『郷土研究』二巻五号二八四頁)、予も前文に述べおいたが、概して大唐米は赤いが普通だった証拠は、元和九年に成った『醒睡笑』巻六に、「貧々《ひんひん》と世をふる僧の思いに堪えかね、児《ちご》を請じ、大唐米の飯《いい》を出だせり。これは珍しき物やなどとほむる人もありけり。亭坊《ていぼう》の言わるるよう、せめての御馳走に米を染めさせたるとあれば、かの児箸を持ち直し、そうかして大唐めしのような、と」。大唐米の飯を大唐飯《だいとうめし》というたから推して、大唐干飯《だいとうぼしい》という名もあったことと知る。   (大正四年八月『郷土研究』三巻六号)
 
(560)     柳の祝言
                 桜井秀「柳の祝言」参照
                 (『郷土研究』二巻五号二八三頁)
 
 明治四十五年六月大阪発行『有名無名』第二号に、選者不詳の写本『歌俳百人集』を引いて、天保初ごろ二世歌川豊国|名弘《なびろ》めの時、柳橋大のしの楼上で、その書の著者が桜川慈悲成《さくらがわじひなり》に手跡を乞うとて扇子を出すと、「青柳に蝙蝠の飛びかうさまを画きて自賛に、青柳は〓《まいらせそろ》に似たるかな、さればそのこと目出度〓」。この歌の意年ごろ解しがたく思うておったが、嘉永三年のころ本所瓦町住居誠翁なる者の話に、「禁中にて毎年正月元日の詔《みことの》り始めに皇后の言、『ゆの木の下の御事《おんこと》は』とのたまう時、帝の『さればそのこと目出度候』と御挨拶遊ばすこと恒例なりという。その故由《ゆえよし》は知らねども、これを詔の始めという。また洛中洛外ともに貴賤の人々元旦の詞始めに夫婦とも清服を著し、妻女まず『柳の下の御事は』と言う時、亭主、『さればそのこと目出度候』と言い終わりて、屠蘇を飲み雑煮を祝いぬれば、その年災いを遁ると言い習わされ、禁中にては柚《ゆ》の木の下、地下《じげ》にては柳の下と言い習わすとの話にて、慈悲成の狂歌を発明したり。江戸にては夢にだに知らざることなり」と出ず。
 安政・万延の交、紀藩江戸詰医員故徳田諄輔氏(退役陸軍大佐|正稔《せいねん》氏養父で、正稔氏は故本居|豊頴《とよかい》博士の実弟)、将軍家茂公の病痾のことで苫《とも》が島へ三年屏居せられた時、予の亡母従いおりしに、毎元旦誰かが「柳の下の御事は」と言うと、「さればそのこと目出度候」と主人が答えたと毎度語られた。代々江戸に住んだ人がかかる祝儀を行なうを、和歌山生れで大阪に数年おった母が珍しいことと思うて特に話の種としたのだから、江戸でも武家には多少行なわれたことで、『歌俳百人集』に「江戸にては夢にだに知らざることなり」とは穿鑿の不足だろう。件のこ句の意はつまびらかならぬが、何に致せ、木の種子が芽を発せんとするを目出度の意に取り成したものらしい。紀州日高郡由良村辺では、(561)柚を家近く樹うるを忌み、その木ですりこぎを作れば、ばけるという(一巻一二号七五四頁。これは榊を人家に樹うるを忌むと同格で、凡人には高過ぎた神異の木と尊み憚ってのことでなかろうか。『塵添※[土+蓋]嚢抄』二、東山往来第二四、並びにいわく、橘柚等の九種の香果始めて日本に入った時、天子も使者もともになくなったから不言とす、と。しかし、『江談抄』一に、「内裏紫宸殿の南庭、云々、件の橘樹の地は、むかし遷都以前に橘本大夫の宅なり。枝条改まらずして天徳の末に及ぶ」、『拾芥抄』中末には、このこと『天暦御記』に見ゆ、とあり。もって橘、柚等、外来の珍果は尊貴の特占物で、凡民の栽え食うを忌んだものと知るべし。)
 他方は知らず、西牟婁郡で玄猪《いのこ》に穀《こく》の神を祭るに、必ず柚を供う。故老の言に、柚の核《さね》はみな揃うて発達し、大小不同なし。よって穀もこの通り一斉に実れと祝う意じゃ、と。去冬これを聞いた時、ちょうど米国植物興産局植物生理学主任スウィングル氏から柚の種子を送って欲しいと頼まれたので、おびただしく柚実を採って剖いて見ると、大小の差異はむろんあったが、諸他の同属の種子ほどはなはだしくなかった。とにかく昔時何か柚を目出度い物としたので、「柚の木の下の御事は」と詔り初めある由、言い伝えたのであろう。柳が民間信仰と厚き関係あることは桜井君が書かるる由だから、今ことさらに説かずとして、ちょっと述ぶるは、『戦国策』に「それ楊は、横にこれを樹うればすなわち生じ、倒《さかしま》にこれを樹うればすなわち生じ、折ってこれを樹うるもまた生ず」とある通り、楊柳の諸種は至って芽を出しやすいものゆえ、柳を目出度いとしたのだろう。あるいは柚も芽を出しやすいものかとも思えど、自宅に多くありながら、いまだ実験せぬから何とも言えない。『易』の大過卦に「枯楊、※[禾+弟]《ひこばえ》を生じ、老夫その女妻を得たり」。『大戴礼』に、正月、柳|※[禾+弟]《てい》す、※[禾+弟]は葉を発するなり、と。匡房の歌に、「世々をへて絶えじとぞ思ふ春ごとに糸よりかくる青柳の杜」。柳は古く正月に花ありとされたもので、李時珍がいったごとく、春初早くつぼみある物、ことに幕府のことを柳営と称する等より、正月の祝詞に用いられたであろう。『本草啓蒙』に柳を古歌にハルススキと言ったと見えるが、誰の歌にありや。読者の教えをまつ。欧州では、一汎に柳を葬喪の木とし、悲し(562)みの象徴とする(フォーカード『植物俚伝』五八六頁)。)   (大正四年十月『郷土研究』三巻八号)
 
     諸君のいわゆる山男 (書信一節)
 
 (前略)ついでに申し上ぐるは、小生山人の衣服か何かのこと書きしとき、「衣服を要するような山男は真の山男にあらじ」と書きしこと有之《これあり》、その真の山男の意味を問われたることありしも(『郷土研究』二巻六号三四七頁)、場合なくて答えずに過ごし申せし。増賀上人は、若き時蝴蝶の舞をやらかしたかりしも、一生その暇なかりしとて、末期にその態をちょっと演じて快く死なれた由。小生『郷土研究』の休刊に先だち、この状を機会として、その「山男」の意味を答え申し上げおく。『郷土研究』に、貴下や佐々木君が山男、山男ともてはやすを読むに、小生らが山男と聞き馴れおる、すなわち真の山男でも何でもなく、ただ特殊の事情よりやむをえず山に住み、至って時勢おくれの暮しをなし、世間に遠ざかりおる男(または女)というほどのことなり。それならば、小生なども毎度山男なりしことあり。また、じき隣家に住む川島友吉という画人などは、常に単衣を著、もしくは裸体で、和紀の深山に昼夜起居せしゆえ、これも山男なり。仙台辺に、芸妓がいきなり放題に良《やや》久しく山中に独棲せしことも新聞で読めり。
 そんなものが山男山女ならば、当国(紀伊)の日高郡|山路《さんじ》村から熊野十津川には山男が数百人もあるなり。かつて恩借して写しおきたる『甲子夜話』にも、山中で山男に遭い大いに怖れたるが、よくよく聞き正すと、久しきあいだ山中に孤居して松煙を焼きおった男が、業を終えて他へ移るところに遇うたのだったというつまらぬ話あり。今は知らず、十年ばかり前まで、北山から本宮まで川舟で下るに、川端に裸居または襦袢裸で危坐して、水の踊るを見て笑いおる者、睨みおる者など、必ず二、三人はありたり。これに話しかけても、言語も通ぜず何やらわからず、真に地仙かと思うばかりなり。さてよくよく聞くと、山居久しくして気が狂いし者の毎々かかる行いありという(アラビアなど(563)の沙漠高燥の地にも、毎々かかる精神病者が独居独行する者ありと聞く)。すなわち狂人なり。また九十余歳にして、子孫みな死に果て、赤顔白髪、冬中単衣を著、『論語』の文じゃないが、簣《あじか》を担うて川を渡りながら歌い行く者あり。小生の舟が玉置川《たまきがわ》の宿に著くと、その老人は近道を取り無茶苦茶に川を渡りあるくゆえ、早く宿に著き、魚を売りたる金で一盃飲みおる。仔細を聞くと、この者死を求めて死にえず、やけ屎になり、大和の八木という処より一週に一度南牟婁郡の海浜に出で、網引きして落とせし鰯等をひろい、件のあじか〔三字傍点〕に入れ荷ない、むちゃくちゃに近道をとりて、ただちに川を渡り走りありき、売りながら八木へ帰るなり、と言う。話して見るに、何にも知らぬほんの愚夫なり。こんな者も山中で遇わば、仙人とか神仙とか言う人もありなん。山男もこの仙人と同例で、世間と離るるの極み精神が狭くなり、一向世事に構わず里を離れて住む者を山男と言うなら、脱檻囚や半狂人の山男は今日も多々あるべし。
 小生らが従来山男(紀州でヤマオジと謂う、ニタとも謂う)として聞き伝うるはそんな人間を言うにあらず。丸裸に松脂を塗り鬚毛一面に生じ、言語も通ぜず、生食を事とする、言わば猴類にして二手二足あるもので、よく人の心中を察し生捉らん殺さんと思うときはたちまち察して去る(故にサトリとも謂う)というもので、学術的に申さば原始人類とも言うべきものなり。この原始人類とも言うべきもの、日本に限らず諸国にその存在説多きも、多くは大なる猴類を訛伝したらしく、日本にも遠き昔はあったかもしれず、今日は決してなきことと考う(ただし、今も当郡の三川村、豊原村の奥山などにはこの物ありて、椎蕈を盗み食らうに、必ず傘のみ食らい茎を棄てあるなど申す)。山男が人と吼え合いして吼え負けし者命を取らるなど申し、近野村にはうん八という男が、自分吼える番に当たり、鉄砲を山男の耳辺で打ちしに、汝は大分声が大きいと言うて消え失せしなど言う。その鉄砲は神社に蔵しありしが、今は例の合祀でどうなったか知れず。山男とこの辺で謂い、古来支那の山※[獣偏+噪の旁]・木客などに当てしは、右様の(仮定)動物、『本草綱目』の怪類にあるべきものに限る。
 貴下や佐々木君の、山男の家庭とか、山男の衣服とか、山男の何々と言わるるは、この辺で謂う山男にもあらねば、(564)怪類の山※[獣偏+噪の旁]・木客にもあらず。ただ人間の男が深山に棲むなり。前にも申すごとく、深山に久しく棲む人間は、精神がわれわれより見れば多少変わりおる。したがって、挙動も深山に慣れぬ者にはいぶかしきこと多し。しかしながら、それはやはり尋常の人間で、山民とか山中の無籍者とか言うべきものなり。これを真の山男すなわち山※[獣偏+噪の旁]・木客と混ずるは間違っておると申せしなり。山民を見たくば、今日も西牟婁郡の兵生、日高郡の三ッ又、東牟婁郡の平治川などへ往けば見らるる。三ッ又の者は小生方へも来る。まことに変な人間にて、人の家に入れば台所までずっと通り、別段挨拶もせず横柄に用事を言い去る。こんな者を山男と悦ぶは山地に往復したことなき人のことで、みずからその地に至りその家に遊ばば、言語応対が緩慢なるのみ、人情に少しもかわりなきことがわかる。ただし、三ッ又ごときは一村(大字)の者三人と顔を見合わすことなしというほどの寒村にてあるなり。しかれども、それ相応に理屈も言えば計略もあり。山に住む男ゆえ山男と言わばそれまでなれど、かかる者を山男、山男と言いては、例の馬琴などが、江戸市中に起こりし何でもなきことを、江戸で珍しさのあまりにいろいろと漢土の事物に宛てて、女の声する髪結い少年を人妖とか、雷声の少し変わったのを天鼓とか言うて怡《よろこ》んだごとく、吾輩毎度自分で山中に起臥した者などに取っては笑止と言うを禁じえず候。
 小生八年前、三番という所より山を二、三里踰えて長野という所へ下るに、暑気の時ゆえ丸裸になり、鉄槌《かなづち》一つと虫捕る網とを左右に持ち、山頂よりまっしぐらに走り下る。跡へ文吉という沙河の戦に頭に創を受けし屈竟の木引き男、襦袢裸にて小生の大なる採集ブリキ罐二箇を天秤棒で荷ない、大声挙げて追いかけ下る。熊野川という小字の婦女、二十人ばかり田植しありしが、異様の物天より降り来たれりとて、泣き叫び散乱す。小児など道に倒れ起き上がることあたわず。小生ら二人、かの人々遁ぐるを見るに画巻のごとくなるゆえ、大いに興がり何のこととも気づかずますます走り下る(その処危険にて岩石常に崩れ下るゆえ、足を止むれば自分ら六怪我するなり)。下まで降り著きて田植中の様子に気づき、始めてそれとわが身を顧み、その異態にあきれたり。それよりいっそのこと、そのまま長野村を通(565)り、田辺近くまでもそのまま来るに、村の人々狂人二人揃うて来たれりと騒ぐ。これらは人居近き処ゆえ、これで事すみたれど、山中で臆病な者に遇ったなら、必ず雷神に遇ったとか山男に逢うたとか言うことと存じ候。現に山中で雷神に逢うたなど言い、山男を見たなど言うを聞くに、パッチを穿ちおりしとか、ハンケチを提《たずさ》えたりとか胡論なこと多し。小生自身も山男ごときものが、除夜の夕、一升徳利に酒を入れ深山の渓川を飛び越え走るを見しことあり、実は深山に籠り仕事する炭焼きなり。その輩里へ斬髪に出るを見るに、まるで狼ごとき人相なり。まずは右申し上げ候、云々。   (大正六年二月『郷土研究』四巻一一号)
【増補】
 一八五八年板、センドジョンの『東洋林中生活』一巻一二七頁に、ボルネオのバラム崎で燕※[穴/果]洞を観た紀事あり。ここの番人は奇貌の老翁で、土人が遠征中遠い山中で擒えた者だ。言語、一向土人(カヤン人)に通ぜず。されど今は少々カヤン語を解し、予がボルネオで見たうち、もっとも清楚たる家に住ませもらいおれば、はなはだ満足しおる様子にみえた、とあり。一八二九年板、ユリスの『多島海洲《ポリネシア》探究記』二の五〇四頁以下には、タヒチ島に戦争を怖れて失心し、山中に屏居する稀代な人間の記載あり。もっとも真の山男とも言うべきは、一八九一年オクスフォード板、コドリングトンの『ゼ・メラネシアンス』三五四頁已下に出たもので、髪爪長く全身毛を被り、栽培を知らず。洞に住んで蛇やトカゲを食い、礫と罟《あみ》と槍をもって人を捕え食うという。また『和漢三才図会』四〇の九州深山の山童《やまわろ》にいたく似たのは、南阿バストランドのトコロシで、これは猴が尾なくて、人の手足あるようなもので、全身黒く、黒毛多く、日光と衣類を忌み、寒暑を頓著せず。人を病ましめ殺すなど、一切の悪事をなすそうだ(一九〇三年板、マーチン『バストランド口碑風習記』一〇四頁)。(大正十五年九月記)
 
(566)     『郷土研究』第一巻第二号を読む
 
 「鯨の位牌の話」(九〇頁)に載った、諏訪の祠官「鹿食無穢《しかくいむえ》」の章の異伝が、『取訪大明神絵詞』に出ておる。これには延文元年源尊氏奥書があるから、鎌倉時代の行事を記したらしい。その巻下に、正月一日、祝《はふり》以下の神官氏人数百人、荒玉社若宮宝前を拝し、さて御手洗河に帰りて漁猟の義を表わす。七尺の清滝の冰閉じて、一機の白布、地に布けり。雅楽数輩、斧鉞《ふえつ》をもて切り砕けば、蝦蟇五つ六つ出現す。毎年|不闕《かかざる》の奇特なり。壇上の蛙石と申すことも故あることにや。神使六人、赤衣きて、小弓小矢をもってこれを射取って、おのおの串にさして捧げ持って、生贄の初とす、云々。「業深き有情は、放つといえども生きざる故に、人身に宿って、同じく仏果を証す、云々」と見える。『沙石集』巻一上に、山法師が琵琶湖の鮒を取って、汝放つまじければ生くべからず、たとい生まるとも久しかるべからず、生ある者は必ず死す、汝が身はわが腹に入らば、わが心は汝が身に入れり、われに入りてわれ入るのゆえに、わが行業汝が行業となりて、必ず出離すべし。されば汝を食うて、汝が菩提を訪《とぶら》うべしとて、打ち殺してけり。まことに慈悲和光の心にてありけるにや、またただほしさにころしけるにやおぼつかなし。信州の諏訪、下野の宇都宮、狩を宗として、鹿、鳥なんどをたむくるもこのよしにや、とある。『書紀』巻一〇、吉野の国※[木+巣]人、「蝦蟇を煮て上味とす」とあるに参して、本邦古え蝦蟇を珍膳とする方俗処々にあったと知れる。
 紀州西牟婁郡朝来村に、大きな諏訪明神の社があったが、例の合祀で全滅された。その辺に楠本氏の家が多い。信州より移り来たという。いろいろ古伝説もあったらしく、異様の祭儀もあったが、廃祠とともに信を得がたくなった(567)のは惜しむべし。和歌山近傍に宇須《うず》明神の社ありしが、これも合祀で滅却された。その辺に諏訪という侍があって、藩士が鹿を食う前に、その侍の使うた箸を貰いに往った。岡本柳之助、訊訪秀三郎、それから二人の兄に、諏訪船とかいう物を創製した海軍士官(名は親昌とて退職海軍中佐とかで、数年前まで友人杉村楚人冠の我孫子の宅の隣りにすみいたり、ときいた)、いずれも兄弟でその家から出た。永々パリに寄留する秀三郎君から、右の次第を聞いたが、言語風采まるで仏人になってしまった人のことゆえ、由緒等さらに分からぬ。一八六三年板、ミシェル・プレアルの『エルクル・エ・カクス論』六四頁に、移民は多く祖先来の伝話を遠地へ将来持続すとあるより推すと、件の宇須明神は、諏訪氏が古く信州より頒ち移したものかと思う。
 明治二十六年、予ロンドンで至って貧しく暮らし、居常断食して読書した。すぐ近所に去年死んだ博覧多通家アンドリュー・ラングの邸があって、学友から紹介状を貰うたが、街へ出ると犬に吠えられる体ゆえ、とうとう会わずにしまった。「梅が香や隣りは」の句を思い出しておかしかった。仕事がないから、当時パリのギメー博物館に読書中の土宜法竜師と、もってのほか長い書翰で、毎度雑多の意見を闘わした。何を書いたか多分は忘れたが、その時の予の翰はことごとく土宜師の手許に現存すと聞く。一つ確かに覚えておるのは、わが国に古く銅鐸が出たことと、橘南谿の『東遊記』に見えたる出羽の飛根《トビネ》の城跡などの例を引き、南洋イースター島などの由緒知れずの大墟址などに照らして、わが邦上代に、今日の邦人が思いもつかぬ、種類全く懸隔した開化があったことを述べ、また弘法大師が銘を書いた茨田池の碑を例として、中古の物にも後人がなかなか企て及ばぬ物ある由を論じた。確かその時飛根等の城址を、オハヨ、ミシシッピ谷の諸大城塚に同じく、今日全滅した民族が建てた物だろうと述べたと覚えるが、最近の研究によると、北米の大城塚は、全く跡絶えた民族の作でなく、これを建てた輩の後裔が現存しながら全くその伝を失ったものらしい(『大英類典』一一板、一八巻九三五頁)。して見ると、文字の用を知らなんだ時代のことは、わが邦にも多くその伝を失うたので、必ずしも大城を築いた邦人が絶滅したのでないかとも思う。
(568) さて喜田樽士が『法苑珠林』から引いた、いわゆる日本の阿育王塔の聞書は、『珠林」よりは七年前に成った釈道宣の『三宝感通録』巻一に出ておる。『珠林』に会丞とあるに、この書には会承とある。「前者を正となす」 の義に随わば、承を正とすべし。『珠林』と少しく文意が差うから、今全文を挙ぐ。「倭国はこの洲の外にあり、云々。会承という者あり、隋の時ここに来たって学ぶ。諸子、史統およぴ術芸、事として閑《なら》わざるなし。武徳の末になお在り。貞觀五年に至って、方めて本国に還る。会に問う、かの国は昧谷《まいこく》の東隅にあって、仏法晩れて至る、いまだ知らず、已前に育王の及べるや不や、と。会答う、文字は言わず、もって承拠するなけれど、その事迹を験するに、すなわちこれ帰する所なり。何となれば、人の土地を開発するに、往々、古塔の露盤、仏の諸儀相を得。故に素《もと》ありしことを知るなり、と」。これには神光を放つなどの虚譚がない。
 和歌浦近き愛宕山の住僧愛宕貫忠師(今九十歳近し)、十年ばかり前語られしは、女形役者で高名だった芳沢あやめは、日高郡山の瀬という地の産なり。それがかかる極《ごく》辺鄙の出に似ず、古今の名人となったので、そのころ所の者が、「山の瀬の瀬の真菰の中で、菖蒲咲くとはしをらしや」と唄うた(一〇一頁参照)。あやめの父は無下の農父だったが、非常に悴が役者となったのを恥じて、一生久離して音信せなんだ、と。右の唄は真偽いかがわしいが、この人日高郡の産に相違なきにや、『紀伊国名所図会』にも、日高郡の巻にその肖像を出しあると記憶する。(福岡弥五四郎の『あやめ草』には、あやめ申されしは、わが身幼少より道頓堀に育ち、綾之助と申せし時より、云々、とあって紀州生れということ見えず。これは今日某侯爵や某男爵がわが祖先は劫盗またラオシカエから立身したと主張せぬごとく、生所を隠したのだ。貫忠師また言いしは、紀州家の菩提所、浜中の長保寺のむかしの住職は、無下の水呑百姓の子であった。僧となりて幼少より精勉して栄達したと聞いて、その父悦ばず。われは菩提のためにかの者を出家せしめたのに、諸侯の菩提寺にすわるような不所存な者は後生も頼まれずとて、老夫婦づれで廻国したが、途中で追剥ぎに遇うて殺された、と。この貫忠師は和歌の名人で、若い時小林歌城などと交りあり、いろいろ珍談多い人(569)だった。とても今まで生きおる人でないから、聞いただけのことを書きつけおく。)
 頭白《ずはく》上人縁起(一一一頁は、佐夜中山夜啼石の話と同類らしい。穂積隆彦の『世田谷私記』に、世田谷の吉良頼康の妾常盤、不義のことあって、懐胎にて殺害せられけるに男子を生めり、ということあり。いずれも仏経の翻案だろう。劉宋の沮渠京声訳『旃陀越《せんだおつ》国王経』に、旃陀越王が特寵する小夫人孕む。他の諸夫人、王が信用する婆羅門に賂《まいない》し、「この人は凶悪なり。もしそれ子を生まば、必ず国の患《わざわ》いとならん」と讒し、小夫人を殺し埋めしむ。塚中で男児生まれしを、母の半身朽ちずして乳育す。三年経て塚崩れ、児出でて鳥獣と戯れ、夜分塚に還る。六歳の時、仏これを愍れみ出家せしめ、のち羅漢となる。仏命じ往《ゆ》いて父王を教化せしむ。この僧、王を見て、何を憂うるぞと問いしに、嗣子なきを憂うと答う。僧聞き笑うてばかりおるので、王これを殺さんとす。僧、察し知って、「すなわち軽く挙がって飛翔し、上がって空中に住《とどま》り、分身散体して無間に出入す」。王これを見て恐れ入り、伴うて仏を訪う。仏すなわち因縁を説く、この僧前身貧人たりし時、酪酥を比丘に施す。その功徳で王に生まれしが、人の好《よ》き母牛《めうし》、犢を孕めるを見、人をしてその牛を殺さしむ。天人諫めて、犢のみ殺さしめず。牛主還って牛の腹を破り、犢を取り養い、怒って、後世王をしてこの犢のごとくならしめんと詛う。王の後身この僧となり、生まれぬうちに母殺さる。母は前世の王夫人なり、婆羅門は牛主なり。この僧、前世酪酥を比丘に施したので、今生にも死んだ母の乳で育ったということじゃ。按ずるに、上述「無間に出入す」という句によって、佐夜中山無間の鐘などと言い出したのかもしれぬ。   (大正二年五月『郷土研究』一巻三号)
 
(570)     『郷土研究』一至三号を読む
 
       一 三輪式神話(一号三四頁)
 
 三輪式神話の翻案らしいのが、『新編御伽草子』の内の「化物草紙」の第五条だ。足利義政ごろ、もしくはその少し前の作らしい。山里の孤女《ひとりおんな》が案山子《かがし》でも来てわが夫になれば佳いと言うと、弓箭持った男が毎夜来て語らう。怪しき廉あってひそかに長い糸を付けて止まりたる所を尋ぬると、田中の案山子だった、爾来跡絶えた、とある。『平家物語』、緒方三郎が蛇の遺子という話は誰もよく知るが、同時の人河野通清は、その母|嗣《あとつぎ》なきを憂い、氏神三島宮に祈ったところ、明神十六丈余の大蛇と現じ密通して妊《はら》んだ子で、身長く鱗あった、と『予章記』に見ゆ。ダホメイ国の蛇神は、近時まで多くの婦女を娶り人間の子を生んだ(アストレイ『新編紀行航記全集』三巻三七頁、一七四六年板)。ただし、これらには苧環の一件がない。
 苧環の話に似て全然情事なき支那譚は、永楽中成った『神僧伝』九にある。釈谷泉(宋の嘉祐十五年、九十二歳で寂す)、「夜、祝融蜂の下に地座するに、大いなる蟒あってこれを盤繞《ばんじよう》す。泉は衣帯を解いて、その腰に縛《つな》ぐ。中夜にして見えず。明日、策を杖き、あまねく山にこれを尋ぬるに、衣帶は枯松に纏う。けだし、松の妖なり」。『夜譚浸録』上(571)にも、小児の夜啼きを止むる術を行なう老婦が、小さな桑の弓に桃の矢をはげ、矢に数丈長い糸を付けてまつと、長《たけ》六、七寸の婦人様の者、馬にのり戈を操って来る。それを射ると逃げ出すを、糸をのばし追跡してその家の祖父が残した老妾の肩に矢が中りおるを見出だした、とある。また常陸国人、その妹を殺せし雷神の所在を尋ねるに、雉の尾に績纏《へそ》を付けて維ぎ往きし話、昨年九月の『人類学雑誌』に出口君が引いておる。
【追記】
 『大清一統志』八四と一三五に、※[敢/心]子《かんし》その師の命により水を汲むごとに、一童子来たりてともに戯る。その師これを異とし、鉄針と紅線をもってその童子の頂にささしむると、葡萄の木の下に入った。よってそこを掘ると、童子の形した人参を得、師がこれを烹《に》かけて出ていった間に、※[敢/心]子と犬とそれを食うて飛び去った。また明の樊玉衡は商城に知県たりし時、茄《なす》を盗まると訴うる者あり。そんな訴えはきかぬと却下したのち、訴人をしてその茄ごとに糸を竹針につけて、腹を貫きおかせた。さて、また盗まれて翌朝市へ往って竹針の入った茄を捜させたら、誰が盗んで売ったと判った、とある。
 欧州には『ゲスタ・ロマノルム』六三語に、ある武士がロ−マ帝の娘に婚を求めて迷路に入る際、その帝女が糸の玉をその武士に授け、糸を牽いて迷路に入って獅を殺し、また糸を尋ねて無事に出還らしめ、めでたく婚姻した、とある。これはギリシアのテセウスが迷路に入って、半人半牛の怪物ミノタウロスを殺す前に、王女で件の怪物の妹たるパシファエーがテセウスに糸を与え、それを便りに迷路から出でえたという話から出たのだ。一八七六年板、ギルの『南太平洋の神誌および民謡』二八七頁に、トンガ人がトンガイチ・アカレヴァ・モアナに乗って初めてマンガヤ島に着いた時の大将は、ツランガ神の祭主で、その手に宏大な糸の球をもち、舟進むにつけて糸を牽き伸ばして航海を遂げたが、島の南浜に達した時、さしもの糸が尽きおった。ただし、そのころの洋面は今の小湖のごとく至って穏やかだったという。これも、航海難儀とならば、糸を尋ねてトンガ島へ還るつもりだったと見える。トンガイチ・ア(572)カレヴァ・モアナは独木舟隊の名で、トンガ人が天を航行するという意味というから、日本神代の天の鳥船、天の磐予章船などの称に近い。(大正十五年九月記)
【追記】
 三輪式神話の翻案らしいのが、今一つある。鎌倉幕府の世に成りし『今物語』に、小式部内侍、大二条殿(教通)に愛せられしころ、公久しく来たらず。一夕しきりに公のことを思いおると、「御車の音などもなくて、ふと入らせ給いたりければ、侍りえて終夜語らい申しける。暁方にいささかまどろみたる夢に、糸の付いたる針を御直衣の袖に刺すと見て夢寤めぬ。さて帰らせ給いける晨に御名残を思い出で、例の端近く眺めいたるに、前なる桜の木に糸の下がりたるを怪しと思いて見ければ、夢に御直衣の袖に刺しつる針なりけり。いと不思議なり、あながちに物を思う折には、木草なれどもかようなることの侍るにや。その夜お渡りあること、まことにはなかりけり」。これは桜の精が教通公に化して小式部内侍を犯したので、一八九三年板、オエン女史の『オールド・ラビット・ゼ・ヴーズー』四八頁にも、野桜の霊がインジアン女に通じて勇士を生んだ話がある。玄奘の『西域記』八には、一書生が波※[口+屯]釐《ばたり》樹(きささげの類)の精と婚し、男子を挙げたことを記している。(大正二年十二月『郷土研究』一巻一〇号)
 
 牧牛人入v穴成v石語(一号四六頁)
 『今昔物語』巻五の第三一、「天竺の牧牛人《うしかいびと》、穴に入りて出でず、石となれる語《こと》」の原話は、唐沙門慧立本、沙門彦※[立心偏+宗]箋『大慈恩寺三蔵法師伝』(黄檗板一切経第二〇三套、奄の巻四第一張裏至第二張裏)に出ず。一九一一年新板、ビールの『玄奘伝』一二九重一三一頁に全訳されおる。『今昔物語』の作者はもっばらこの『慈恩伝』によったので、別に『法苑珠林』と『酉陽雑俎』を折衷したのでも、主として『酉陽』を本としたのでもない。予かつて『今昔物語』の諸譚の出処を十八、九年前調べた留書の中にも、この譚『慈恩伝』に出ず、と志しある。しかるに『西域記』の研究(573)者堀君が、「腹が肥大して石窟を出ずるあたわずとする点は『西域記』になし。もちろん『慈恩伝』には見え申さず候」(一号四九頁)と言えるは不思議極まる。よって全文をここに引く。『慈恩伝』は玄奘の弟子が書いたもの故、かの三蔵が渡天の日記にこの由記されたりと、『宇治拾遺』に言えるも、あまりな誤見じゃなかろう。
 本文に、「贍波《チヤンパ》国の南界数十由旬に大山林あり、云々、人の敢えて行くなし。相伝えて言う、先仏いまだ出でざるの時、一の牧牛人あり、数百頭の牛を牧し、駆って林中に至る。一牛あり、群を離れて独り去り、常に失せて所在を知らず。暮に至って帰らんとするに、また群内に至る。しかして光色|※[女+朱]悦《しゆえつ》にして、鳴き吼ゆること常に異なる。諸牛咸な畏れて、あえてその前に処るものなし。かくのごときこと多日、牧牛人その所以を怪しみ、ひそかに候《うかが》いてこれを目す。須臾にしてまた去る。ついに逐いてこれを観るに、牛の一石孔に入るを見、人もまた随いて入る。行くこと四、五里ばかり、豁然として大いに明らかなり。林野は光り華《かがや》き、異《めずら》かなる花果多く、爛然として目に溢る。みな俗内にあるところにあらず。牛の一処において草を食らうを見るに、草色香潤にして、また人間《じんかん》になきところなり。その人、もろもろの果樹を見るに、黄赤にして金《こがね》のごとく、香《かんば》しくしてかつ大なり。すなわち一顆を摘み取る。心に貪愛すといえども、なお懼れて敢えて食らわず。少時にして牛出で、人また随いて帰る。石孔に至って、いまだ出でざるの間に、一悪鬼あり、その果《み》を奪いて留む。牧牛人これをもって一の大医に問《たず》ね、あわせて果の状《さま》を説く。医言う、ただちには食らうべからず、よろしく方便をして一を将って出で来たるべし、と。後日また牛に随いて入り、また一顆を摘み、懐《いだ》いて将ち帰らんとす。鬼また遮り奪う。その人、果をもって口中に内る。鬼またその喉を撮《つか》む。人すなわちこれを咽み、果すでに腹に入る。身ついに洪大となり、頭は出ずといえども、身はなお孔にあり、ついに帰るを得ず〔身つい〜傍点〕。のち家人尋ね訪いて、その形変じたるを見、驚き懼れざるなし。しかもなおよく語り、そのよるところを説く。家人帰還し、多く手力《にんぷ》を命《つか》い、共にこれを出ださんとするも、ついに移動するなし。国王これを聞いてみずから観、後の患《わざわ》いとならんことを慮り、人を遣わして掘り挽《ひ》かしむるも、また動かすあたわず。年月すでに久しく、しだいに変じ(574)て石となり、なお人の状《かたち》あり。のちさらに王あり、その仙果の変ぜしところなるを知り、侍臣に謂いていわく、彼はすでに薬によって身変じたれば、すなわち身これ薬なり、この石を観るに、その体はついにこれ神霊なり、よろしく人を遣わし、鎚鑽《ついさん》をもって少しばかりを断り取り将ち来たるべし、と。臣、王の命を挙げて工匠とともに往き、力を尽して鐫鑿《せんさく》し、およそ一旬を経たるも一片をも得ず。今なお現に在り」。
 
 鶏鳴のために鬼神が工事を中止した譚(一号五八頁および三号一八一頁)
 紀州西牟婁郡富士橋村の陸から大島に向かい、海上二町ばかりのあいだ、一行に細く高く尖った大岩が立ち続いておる。橋杭岩と言い、近処に弘法大師の堂がある。むかし大師一夜に、この海上に橋を渡さんとて杭を打つうち、鶏が鳴いたので、半途中止したという。伊予に切懸地蔵とて、生きた樟の幹に彫りつけた半成《はんでき》の地蔵尊像あり。これも弘法が細工中鶏鳴のため中止したんだそうな。『奥羽観跡聞老志』四に、苅田郡小原村の材木岩は、建築の諸部に似た岩石無数積み重なった希世の壮観だ、むかし飛騨の工匠一夜に不動堂を建てんとかかったところ、夜短くて仕上がらず、怒ってせっかくしかけた諸材木を谷になげ込んだのが化石した、とある。備後の帝釈山にも、山鬼が石橋を渡しかけて鶏鳴のため中止した跡ありと、黒川道祐の『芸備国郡志』下に見ゆ。
 テウトン民族には、一八四三年ベルリン出板、クーンの『マルキッシェン・サーヘン』一九六章に、パールスタイン村の一大工が湖辺を迂回して仕事に往復するを不便とし、魔が一番鶏のなくまでにその湖を横切って堤を築いたら自分の魂をやろうというと、魔快諾して築きにかかった。大工見ておると仕事が速くて、どうやら一番鶏がなかぬうちにでき上がりそうだから、今さら魂をやるのが恐ろしくなり、一計を案じて鳥部屋に入って鶏を起こすと、南無三夜が明けたと鳴き出した。魔は欺かれたと知らず、これはしたり夜があけたと焼糞になって手前の石材をなげ散らしたので、その堤は不完成のまま現存す、と出ず。また一八四九年三月の『印度群島および東亜細亜雑誌』に、リグ氏(575)いわく、ジャワに梵教盛んなりし時、ジャングガラの無月信《キリスチ》女王は男知らずの英主だったが、隣邦の王に婚姻を逼られた時、ウィリス、ロロトック両山の問の大谷を堰き止めて、一夜間に湖と做たら汝の妻たらん、と言った。隣邦王、諾して工事にかかると、女王の念力で工事央ばに夜が暁け、堤被れて男王を埋殺した。
 
 日本の天然伝説(二号八九頁)
 三国の世に訳すところの『六度集経』八に、「諸仏の明化するや、色をもって火となす。人は飛蛾となり、蛾は火色を貪り、身を焼煮せらる」。『符子』に、「その昧きに安んぜず、その明るきを楽しむ。これなお夕べの蛾の暗きを去って燈に赴いて死するがごとし」。仏滅後七百年に成りし『坐禅三昧法門経』巻下に、「これを欲して患いをなし、求むる時すでに苦しく、これを得てまた苦し。多く得て多く苦しみ、云々、蛾の火に赴くがごとし」。晋の支曇諦「火に赴く蛾の賦」に、「悉達《しつた》の言えるあり、いわく、愚人の生を貪るは蛾の火に殺さるるがごとし、と」。釈尊在世みずから火に投ずる蛾を愚人に譬うる言は、すでにあったことらしい。
 デーンハルトが、夏の虫が螢に惚れて云々と、日本話を挙げたのは、光る虫と通弁したのを、玉虫の意と知らず、早計で螢と断じたのだろ。本邦どの地でも、飛んで火に入る夏の虫と言ってあながち燈蛾《ひとりむし》に限らぬようだが、火を求めて油に溺れ死ぬのは、蛾が一番多い。玉虫に惚れたと言うが、螢にとは言わぬ。古く法隆寺に玉虫の厨子あり。屋島合戦に建礼門院の雑司玉虫の前、当年十九歳、雲鬟霞眉、扇の的を船頭に立てて、紅の扇水に漂う面白さに、玉虫は「時ならぬ花や紅葉を見つるかな芳野初瀬の麓ならねど」と即詠したとは、才色双全の別嬪だ(『盛衰記』四二)。天正十年の跋ある『玉虫の草紙』は、諸虫が玉虫を慕い、恋歌を贈った譚だ。その内に蝶が見えぬは、優しいものゆえ、女性と見立てたのだろ。さて蝶に縁《ちな》んで蛾も見えぬのか、ただしはそのころ、燈蛾が特に多く火に入ることに気がつかなんだのか、ちょっと解らぬ。『類聚名物考』二六七によると、紀州の三浦男の先祖が作った『あだ物語』とて、(576)諸鳥が「うそ」鳥を恋う譚もある由。(これは光広卿の序を添えて後水尾法皇の御覧に入れしものという。明治四十三年刊行『近世文芸叢書』第三に収む。いと面白く書かれある。)
 
 田鼠除け(二号一一三頁ぉよび三号一八四頁)
 田鼠除けの禁厭《まじない》に、小児が金盥等を打ち鳴らして家々へ闖入し、庭中を騒ぎ廻りたちまち去る風が、予の幼時和歌山市にもあった。しかし、唱え詞が彦根や越後と違い、「おごろ様《さん》は内にか、海鼠《なまこ》様はお宿にか」と言ったと覚える。『守貞漫稿』二四に「節分の夜、大坂の市民五、六夫、あるいは同製の服を著し、あるいは不同の服もこれあり、その中一人生海鼠に細繩を付け地上を曳き巡る。その余三、四夫はおのおの銅鑼《どら》、鉦《かね》、太鼓等を鳴らしていう。うごろもちは内にか、とらごどんのおんまいじゃ、と呼び、自家知音の家にも往いて祝すことあり、云々。坂人、今夜のみ生海鼠をとらごどのと言う、伝えて言う、これを行なう年はその家|土竜《うごろもち》地を動かさず、云々、最も古風を存せり」。『嬉遊笑覧』巻八、「俵子《たわらご》は沙※[口+巽]《なまこ》の乾したるなり。正月祝物に用うること、月次のことを記ししものにも、ただその形米俵に似たるものゆえ俵子と呼んで用うる由いえり。俵の形したらんものはいくらもあるべきに、これを用うるは農家より起こりしことと見ゆ。庖丁家の書に、米俵は食物を納るるものにてめでたきものゆえ、俵子という名を取りて用ゆるなり」。次に「※[鼠+晏]鼠《うごろもち》うちとて、沙※[口+巽]を繩に結びつけ、地上を引きまじなうことあり。※[鼠+晏]鼠これを怖るといえり。仙台にては子供らこれを地祭とて、もぐらもちは内にか、なまこ殿のおどりじゃ、といいて銭を乞いありく。長崎の俗、正月十四日、十五日むぐら打ちとて、町々の男児ども、竹の先に稲藁を束ね結びたるを持ち、家々の門なる踏石を打ち、むぐら打ちは科なし、ほうの目、ほうの目、と祝して銭を乞う戯あり」。 これらを合わせ攷うると、むかしは大人もせし行事で、節分にする所と上元にする所とあったと知れる。海鼠を虎子《とらご》と言うのは、『笑覧』の説ごとく、俵の形ゆえ俵子と言うを訛っての名か、またむしろ海鼠の背が虎に似ておるゆえか。いずれにせよ『浸稿』に、今夜(577)のみなまこと言わずに虎子殿と言うとあるは、「正月寅を建つ」の義に縁《ちな》んだらしい。寅の獣たる虎は百獣の君じゃによって、虎子という海鼠で田鼠を威圧する意味だったろう。
 老友エドワルド・ピーコック言う、英国トレント河畔の俗、田鼠を捉うると殺して柳の枝に懸ける、と。和歌山辺の畑中にも、竿に田鼠の屍を釣り下げることあり。いずれも威しのためらしい。独人モレンドルフ説に、『遼史』に新年に田鼠を焼いて年中の災を禳いしことを載すとは、本邦の田鼠打ちに似ておる(明治四十一年十二月五日、ロンドンの『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』、予の「死んだ動物を樹や壁に懸くること」を見よ)。熊野の人、古来狼を獣中の王とし、鼠に咬まれて寮法尽きた者が狼肉を煮食えば癒ると信じた。虎子で田鼠を威圧するのと一規だ。
 
 椀貸し穴(二号一一六頁およぴ三号一七六頁)
 ケートレーの『フェヤリー・ミソロジー』(一八八四年)二二〇頁に、ドイツのスマンスボルン泉が出る小山に、むかし小鬼住めり。村民、美衣裳《はれぎ》や馳走道具を借りんと欲する時、その小山の前に立ち、明日日出前にこの小山で物借ろうと誦えて、欲しい物を告げおくと、必ず貸してくれた。返礼には些《ちと》の馳走分けを捧ぐれば鬼が満足した。また二九五頁に、英国サレイ州のボロー丘に洞あって、楽声を聴くことあり。この丘に長《たけ》六尺の大石横たわる。村人この石を敲き期限を約して物借らんと請わば、石より声出で、何日の何時にこの石の所へ来い、貸し遣ろうと答えた。しかるに、ある時鼎を借りて約束に後れて返しに往ったが受け取らず。爾後何一つ貸してくれぬ、とある。『五雑俎』三にも、「済涜《せいとく》廟の神は、かつて人と交易す。契券《わりふ》をもって池中に投ずれば、金すなわち数のごとく浮き出ず。牛馬百物も、みな仮借《か》るべし。趙州の廉頗《れんぱ》の墓もまた然り」。支那でいわゆる鬼市《きし》、英語でいわゆる黙商《サイレント・トレイド》の一種で、一九一三年発行、グリエルソンの『黙市篇《ゼ・サイレント・トレイド》』に似た例を載せおる。(これは鬼市や黙商と少々訳がちがう。別に論ずべし。インドにも膳椀を貸す神あるは、ボムパスの『サンタル・ペルガナス俚譚』三七九頁に見ゆ。)
 
(578) 池中の鞍(二号一一七頁
 やや似たこと、加賀の富樫政親が沈んだ池の底に、今も晴天にはその鞍がみえ、その沈んだ六月八日に限り水面に浮き上がるといえば、誰が取ろうとしても取れぬと見える。それに似寄った話は、「天正十三年、姉小路少納言秀綱、金森可重に攻められ、飛騨の松倉城を出でて信濃へ落ち行く。大沼川の郷民に撃たれて討死の際、これまで大事に持ち来たりし金子を川へ投げ込み、わが一念の籠りし金、もし土民の手に渡りなば石になれ、と言えり。その金今に川底に見ゆれど、取り上ぐれば石になる由、言い伝えけり」(『飛騨治乱記』)。(「成上り物」なる狂言に、いわゆる田辺別当のくちなわ太刀またこの類語だ。)元魏の朝に訳すところの『賢愚因縁経』に、阿涙※[口+托の旁]が発見した閻浮檀金を取りに往く王侯が、七度までも往くごとに、その金が死人としか見えなんだと出たり、また僧に一銭施せし者が金を獲たのを、王が取ると石になった話、『雑譬喩経』に出ず。
【追加】
 亡友広畑岩吉の話に、田辺の栄町に内金《うちきん》という綿屋の老婆、二階より町を見下ろすに、一朱金三枚落ちあり。二階より下り見ればなし、上りて見ればあり。よって二階より綿を落とし見当を付けおき、さらに下りみれどもなし。また上りてみるうち、小児来たり拾い去りし。人の運は定まれりと歎息せり、と。『十訓抄』に、釈尊、阿雜とつれ行くに、人、金を落としあり。阿難みて毒蛇と言い、釈尊また大毒蛇と言いて過ぐ。後に来た者これを拾いて罰せられ、大いに苦しんだ、と。これは金が真に蛇とみえたでなく、その禍いを毒蛇にたとえたまでだ。しかし、金が実際に毒虫に見えた話も南インドにある。大富人が大きな家を十年かかって建て、落成して大饗宴を張り、客みな散じてのちその家に臥すと、天井より「落ちてもよいか」と声する。さては鬼がまず住んでわれを殺すつもりと、その夜立ち退いて再び往かず。半年のあいだ閉ざしおいた。その時赤貧の梵士、家の屋根落つること旦夕に逼り修復ならず、よって富人に乞うてかの鬼屋數に移りすむ。永々貧乏に苦しむよりは、家内もろとも鬼に殺されたがましという了見だ。(579)さてその夜また天井から「落ちてもよいか」と言ったので、「よい」と答えた。すると、数限りもない金銀が落ちて埋もれそうだから、「やめよ」というと止まった。それより毎夜金銭がふるので、梵士大いに富み、おいおい評判高くなって富人の耳に入ったので、聞き正しにきた。梵士隠さず事実を話し、一所に臥して守ると、夜中に「落ちてもよいか」ときた。「落ちよ」というと、金銭がふり出し梵士が拾い集める。富人の眼には蠍がふりつもるとしかみえず。梵士拾いおわってこれをみな持ち行きたまえというと、富人泣き出し、かつて父に聞いたは「福は福ある人に来る」と、われこの家に住んだら蠍に殺されたはず、それを金銭と見るは貴公に幸あり、この家は進呈するから住みたまえと言ったから、梵士大富人となり、恩を忘れず年々その富の半分を他に与えたという(一八九〇年板、キングスコウト『太陽譚』二三章)。ボムパスの『サンタル・ペルガナス俚譚』には、妻がその処に銭で満ちた壺ありと夢みたとその夫に語るを、屋根の上で盗賊どもが聞き、まずその処に往って掘れば壺あり。開きみると、大きな蛇が首を出す。盗ら一盃食わされたと怒り、その壺を屋根の上に運び、屋根を穿って下へ落とすと、蛇が無数の銭に変じて夫婦の上へ落ち、それを集めて大いに富んだ、とある。ガーネットの『土耳其婦女とその俗伝』二には、アルバニアで時に隠財がおのずと地上に現わるることあり、見つけた者は誰でもこれを取りうれど、人に洩らすとたちまち金が炭に変ず、とある。(大正十五年九月記)
 
 鬼子母神が柘植を持つ(三号一四三頁) </