南方熊楠全集4(雑誌論考U)、614頁、平凡社、1972.7.25(91.11.25.12p)
 
(5)     読『一代男輪講』
          三田村鳶魚編『西鶴輪講好色一代男』参照
          (昭和二年九月−三年六月、春陽堂刊、全八巻)
 
 大森彦七(『好色一代男』巻一、七歳)
 『輪講』一巻一〇頁一〇行、「彦七が皃《かお》して願わくは咀《か》み殺されても」というのは、「戸隠山で鬼神を征服した大森彦七のような顔をしているが」と木村君はいわれたが、『太平記』巻二三に出る通り、大森彦七盛長は、建武三年五月細川定禅に随い、手痛く湊川に戦うて楠正成に腹を切らせた返報に、暦応五年の春、正成の霊、牛に乗ったり美女に化けたり種々悩ましにきたが、彦七が持った名刀の威力と『大般若経』転読の功徳で鎮められた。戸隠山で鬼を征服した平維茂よりは少なくとも三百年後の人だ。
 初め正成の霊が十七、八の若い女房に化けて道に迷うた体を示すと、「彦七怪しみて、いかなる宿の妻にてかあるらんに、あやめも知らざる業は如何《いかが》と思いながら、いうばかりなきわりなき姿に引かれて心ならず、此方《こなた》こそ道にて候え、御桟敷など候わずば、たまたま用意の桟敷候、御入り候えかし」と誘《いざな》い、「羅綺《らき》にだもたえざる姿、まことに物痛わしく、いまだ一足も土をば踏まざる人よと覚えて、行き難《なや》みたる有様をみて、彦七こらえず、あまりに露も深(6)く候えば、あれまで負い進らせ候わんとて、前に跪きたれば女房少しも辞せず、便なう如何と言いながら、やがて後ろにぞよりかかりける、白玉か何ぞと問いし古えも、かくやと思いしられつつ、嵐のつてにちる花の袖に懸かるよりも軽やかに、梅花の匂いなつかしく、ふむ足もたどたどしく、心も空にうかれつつ半町ばかり歩みけるが」と、長々しく彦七が化性の女に魂を奪われた様子を叙べある。この『太平記』の叙事のように女に夢中になった体を、「彦七が皃《かお》して願わくは咀み殺されても」と言ったとみえる。  (昭和二年十月『彗星』二年一〇号)
 
 五十四歳まで戯れし女(『好色一代男』巻一、七歳)
 『輪講』一巻三頁八行、「五十四歳まで戯れし女、三千七百四十二人、少人のもてあそび、七百二十五人」。契った男女を精算して双び挙げたのは、この外の邦書にあまり見当たらない。西洋で著名なはローマ帝コムモズスで、諸階級、諸州県の美女三百、妖童三百を弄んだり、強辱した由(ギッボン『羅馬《ローマ》衰亡史』四章)。会うた女のみを数え立てた例は多くある。『天正事録』にいわく、秀次関白美女百余人集め置かれ、御寵愛斜ならず。『御前義経記』四の四に、三津権之介、「肌をふれたる遊君の数千五百六十人、その中にまたわれゆえに命をすて身を捨てたる者二百五十三人と覚えぬ」。『長禄記』に業平の契り給いし女、三千三百三十三人。『三河雀』一に、業平は一生に女犯三千七百三十三人、とある。
 後世業平大明神を好色家がもっぱら尊仰したこと、しばしば浮世冊子類にみえる。例せば、ある失題の一冊子、道灌山の花盗人の条に、かほど心強い女を究境《くきよう》に達せしめずば、男冥理につき果てんと抽送|急《せわ》しく、南無業平大明神と心中に祈念して志を遂げた記事あり。業平は五十六歳で死んだ(『三代実録』三七)。何歳からかのことを始めたか知れねど、一年に平均五十九女、もしくは六十六女を知ったとなる。世之介は七歳で始め、六十まで五十四年に、平均六十九女ずつ毎年知った割合、これだけでも業平に勝れおる。その上『伊勢物語』に男色の記事さらにみえぬに反し、(7)世之介は明らかに少年七百二十五人を弄んだと記されある(年に十三人ずつ)から、毎年男女合わせて八十二人ずつ知ったので、その精力|?《はる》かに業平に過ぎおる。しかるに高師直は八千余女を犯したと言えば(『三河雀』一)、業平や世之介は称するに足らずで、まことに上に上があるものだ。支那には古く黄帝五百女を御すといい、捜したらいろいろの例もあるだろうが、史書の載するところ、もっぱら後宮の多きを誇るに止まり、実際知った婦女の精算を記さぬから、空しく莫大の米穀を倉中に腐らせたに等しく、一人で百千椀を喫し尽したのでない。
 インドに至ってはその誕《はなし》到底和漢の企て及ぶところにあらず。毘紐天《ヴイシユヌ》は一万六千妃と一時同じく欲楽す。帝釈あまねく九十二|那由佗《なゆた》の諸天女に応じ、かれをしておのおの心みずから、天王|独《ひと》りわれのみと娯楽すと謂《おも》わしむなど、どえらい話がある(『金七十論』上。『大方広仏華厳経』一五)。また日本の緑林の套語にムスメ師というのがある。外国には本当きっすいのムスメ師あって、毘竭婆王強いて五百童女を取ってその当世を破った因縁で、無数百千万歳大地獄に堕ちたという(『弥沙塞五分律』二八)。仏国の若僧クロード・ニコラス・デルーは暴力もて百三十三の素女を破素したこと露われ、三年の禁獄に処せられたは、一七二七年のことという(一八九四年パリ板、ジュール・ゲイ『恋愛載籍解題』一)。また三世紀の末、ガウルの勇将プロクルスの自賛に、サルマチアを征して素女百口を獲、毎夜十人ずつ賞翫して、半月ならぬうち、百人をことごとく新造に化しやった、と。その雄威千載ののち懦夫を起たしむ、とギボンの一二章に嗟称措かず。こんな豪いのは日本にかつてなかったようだ。と書いたところへ妻が午飯に呼びにきたが、三本めのが起ち過ぎて、二本の脚が容易に立たず。妻に叱られたから、まずこの項はこれきり、やっと立って往く。  (昭和四年四月『彗星』四年四号)
 
 御寮人(『好色一代男』巻一、八歳)
 十月號三九頁に、忍頂寺君は、御寮人とは、旧家の年増夫人や大茶屋の女将などを称する名と言われ(8)たが、明治十三、四年ごろまで和歌山で大賈へ嫁し来たった女が、婚事済んで創痍いまだ癒えず、四日ばかり生家より伴れ来たった侍婢と一室に籠りおる間を初めに、子をうむまで御寮人と呼んだ。『守貞漫稿』三にも、大坂の市民、主人の妻を巨戸および巫医等は京民と同じく奥様と称し、中以下もっぱら御家様と言う(けだし息男に嫁を娶り、息女に婿を取りたる以後を言う。あるいは息女未娶以前も年長ずれば、これを称す)、新婦を御寮人と言う(寮、俗にいう部屋なり、いまだ部屋住みの謂《いい》なり。父母あるいは舅姑ある者、または無之《これなき》も新婦にはこれを称す。京民もこれに同じ)、とあれば、京大阪とも、徳川末期まで新婦を御寮人とよび(文化二年成りし『嗚呼矣草《おこたりぐさ》』一、御寮人、御寮|子《ご》などと、若き新婦《よめ》を貴称すること、いまだ部屋住みという義なり。家事を姑に託して、おのれは関《あずか》らず、寮に処するゆえ、かくのごとし。御曹子というもこの理なり、云々)、その風が和歌山などに明治十三、四年まで残ったのだ。しかるに、かつて拙宅に下女奉公した者が、大阪へ上り、その従兄が二、三人使うて洋傘を製し売る方に奉公中、今より八年前帰省して拙家へ立ち寄り話すうち、その洋傘屋の妻を御寮人と呼ぶを聞いて、大家でも新婦でもなきに妙なことと怪しんだが、今度忍頂寺君の文を読んで、現時京都でも御寮人は巨戸の新婦に限らぬ称となったと知った。それから、この田辺町の七十近い老人に聞くに、この地では、むかしから大家の年増夫人を御寮人と呼んだ由。何の時、何の地にも僭上と濫称は必ずあって、こんなことに古来厳制もなければ、一定もせぬは勿論だ。しかし大体について、以前京阪で新婦また年若な妻女を御寮人と呼んだ証は『漫稿』以外にもあり。『皇都午睡』三編上に、上方で御寮人を江戸で御新造と言う、と記して年増夫人でなきを明白にし、『浪花の風』に、大阪の気風を大阪の方言で詠んで注釈したのに、「このほどのゑらい暑さのしんどさに、おゑさん(お上さんなり)たちもこけて居るなり」「順ぐりにこけては休むそのねきに、御寮人(およめごなり)にはゑらい身仕舞」。「当地にては町家の妻などは、おしなべておえさんと唱呼す。おかみさんというは、老女の様になりて、五、六十に及ぶ老婆を呼びて、おかみさんと唱うればなり。町人の妻若きをば御寮人と呼ぶなり。これは多くは娵《よめ》などを指して呼ぶように聞こゆるなり。元来は囲い妾の唱(9)呼なるべし」と筆す。
 足利義政将軍の妻妙善院嫁入りの時、三条殿の御寮人じせん院殿へ大上臈にて御入り候いつるが、御迎いに御参り候いつるとて候と、『簾中旧記』にある。朝臣の妻が将軍へ奉公に出るはずなければ、ここに言える御寮人は、三条殿の妻でなく娘だろうか。果たして然らば、『輪講』一巻三一頁尻から三行めの御寮人も、鳶魚先生の謂われたごとく、世之介の姨でなくてその娘であろう。秀吉ごろの文書に、お茶々御寮人、お今御寮人などあったと覚えるが、娘たる点から称えたのか、『浪花の風』の著者の推量通り、妾たる点より呼んだのか分からない。これまた諸君の教示を仰ぐ。
 (追記)明和二年筆、林笠翁の『仙台間語』三に、『源氏物語』にゴタチというは娘子のことなり、東都にてゴレウあるいはゴレウニンと称するは、御娘、御娘人なるべし、と見ゆ。娘の字ヂャウまたニャウの音で、レウの音なし。その作りに良の字あるゆえレウの音と誤認したのだろう。文化十四年成った『瓦礫雑考』に、『壺の石ぶみ』という女教訓書に、料児というは、料は物をはかりなすなり、児はちごなり、女子をも幼《いとけな》き時はチゴと申し侍る、今俗にオゴレウ人というは誤れり、とあるはみな訛《ひがごと》なり、云々、と言った。その語源弁の正否はしばらく措き、これらの書に記すをみて、少なくとも明和ごろまで江戸で娘をゴレウニンと呼んだと判る。『雑考』に、また按ずるに御科人はもと女子の称にあらず、『盛衰記』に、「信濃なる木曽の御料に汁かけて、ただ一口に九郎判官」とあるは、義仲を飯に譬えたるなり、飯をも御料といえばなり、またレウ人は寮人なり、寮は僚《ともがら》とも小窓《ちいさきまど》とも註せる字にて、ここにて用うる心は、いまだ部屋住みにて家事に関《あずか》らず、寮に処するをいうなるべし、と。鳶魚先生はこの第二説に拠って御寮人を娘とみたのだろう。
 『狂言記拾遺』五に、歳末に富家へ合力を乞い、米俵に小袖をきせたるを貰い、負い帰る途上、見る人これを女を負うたと誤認して尋ねると、俵藤太のお娘子、米市《よねいち》ごれう人のお里帰り、と答うる処あり。古くは上方でも娘を御レウ(10)人と言ったのだ。ただし、ここに御里帰りとあれば、これまた娘たる点より御レウ人と言ったか、新婦たる点より左言ったか判然しない。惟うに両方ながら御れう人と言ったであろう。さて、この狂言に、米俵を美女と心得て盃せんと逼《せま》る男どもが、その米俵を米市御レウ人と詐称して負うた男をワゴレウ(我御料)と呼び、その男が米俵の御レウ人をオゴレウ(御御料)、件の男どもをワゴレウたちと呼ぶ。これを合わせ考うるに、御レウ人とはもと男女に兼ね用いた敬称で、英語のマイ・ロード、マイ・レジーと等しく、初めは自分がすむ料地の主人とその夫人を指す語だった。それを後には等輩に対する時ワゴレウ、尊上や巨戸の新婦や娘に対する時ゴレウ人と使い別け、最近には所により主婦をも指す詞となったのだ。故に『輪講』一巻三一頁の御レウ人は、世之介の姨でなくて、その娘とする鳶魚先生説を至当と信ず。  (昭和二年十一月『彗星』二年一一号)
 『塩尻』五四、中世の俗語、云々、大家の息女を御科人と称す。東山の公方義政の御科人の局のごとし。
 『群書類従』一三一『菅家後集』、「少《わか》き男女《こども》を慰むる詩」、「俗に貴を謂いて御となすがごとし。夫人女御の義を兼ぬるなり。藤相公は弁官を兼ぬ。故にその女《むすめ》を称するなり」。
 『夏山雑談』五、『後漢書』注に「鄭玄《じょうげん》の、『礼記』に注して、后の言は後なりというは、夫の後《うしろ》にあるを言う、と」、「故に女をもって後達《ごたち》と謂う」。
 天明三年、半二・加作作『伊賀越道中双六』第五、又右衛門後妻とるところ、「七つばかりのいと様御寮」。
 和訳太郎の『世間妾形気』(明和三年作)四の二、二十ばかりの小?《こしもと》が、云々、これは御寮人の手前、渋うござりますけれど、一服召し上がられて下さりませ、と差し出す。
 『仮名手本忠臣蔵』第六段目、与一兵衛の妻、婿勘平をワゴレウと呼ぶ。
 『民俗学』一巻二号一二八頁、橘正一氏の「盛岡の方言」に、侍の娘を、オゴレンサンと言いし由見ゆ。御々料(11)人様の略だ。(レウニンをレンと約せるなり。)
【追加】
 『彗星』二年一二号、四〇頁二欄、「御寮人」、古荘君の郷里で身分ある人の娘を今も御寮人様という由。これは明和ごろまで江戸で娘を御寮人と呼び、古くは上方でもそうだったという予の説を裏書きされたもので、ありがたく御礼を述べるが、肝腎の古荘君の郷里とはどこか御明示を冀う。さて安永七年、半二が出した『道中亀山噺』四、刀屋手代嘉七が、主人娘が手代吉兵衛を好むに対し、「おみの様、ちっと色が小白いとて、かれがことというと面妖|贔屓《ひいき》なされます。合点の行かぬ御寮人ではあるわいな」とは、娘をゴレウ人といった安永ごろの上方風を明証する。  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
【追補】
 『甲陽軍鑑』三三品に、信玄公御科人御年七歳になりたまうと承り及ぶ、信長嫡子城介|内方《うちかた》に申し請けたくと仰せ越さるなり。『野史』四三「信長伝」に、永禄八年十一月、信長、族掃部助を甲斐に遣わし、信玄の女を請い、世子信忠に嫁す、とあるから、件《くだん》の御科人とは信玄の娘に外ならず。また寛政九年出た五瓶の『月武蔵野龝狂言《つきのむさしのあきのせわごと》』第三幕、稲野谷屋敷、夕顔棚の場に、主人の娘お品を下女がお寮人様と称えある。(六月二十六日午後三時)  (昭和三年七月『彗星』三年七号)
 
 糠袋にみだれて(『好色一代男』巻一、九歳)
 『輪講』一巻三五頁五行、本文、「それならば今のことを、多くの女どもに沙汰せんといわれける」。この辞の講釈なくては全文の意通ぜず。前文に、「かきわたる湯玉、油ぎりてなん、世之介、云々、かの女を偸間《あからさま》にみやりて、わけなきことどもを見とがめいるこそおかし」とあるから推すと、あるべき処にこの女に限りない物があったか、誰も見(12)手なしと思うて、みずから娯楽したかであろう。
 いずれにしても珍事で、『十誦律』四八、比丘尼に具足戒を授くる前に、戒師が種々の問を発し、一々実語もて答えしむ。われ今汝に問う。汝これ人なるか否か、これ女なるか否か、これ非人にあらざるか否か、畜生にあらざるか否か、これ不能女人にあらざるか否か(不能女人とは生殖機能なき女)、「女根上に毛あるか不《いな》か、枯壊せざるか不《いな》か、云々、官罪を犯せるにあらざるか不《いな》か、他《ひと》の物を負《か》りしままならざるか不《いな》か、癩病、云々、?狂病、長熱病、これらのごとき病なきか不《いな》か、父母・夫主《おつと》あるか不《いな》か、父母・夫主は出家を聴《ゆる》せるか不《いな》か」などと、父母・夫主の有無や、その出家の許しの有無、犯罪や負債や癩病、狂疾等の有無同然に、彼処《かしこ》の毛の有無を問答する定めだったのだから、仏は陰毛具備を完全な女人の一要素としたのだ。
 同律四二に、「仏、舎衛国にあり。その時、偸蘭難陀比丘尼、澡豆《そうとう》を用《も》って身を浴し、女根中に入る。仏いわく、今より聴《ゆる》さず、突吉羅《ときら》となす、と」。(ただし比丘には澡豆を聴す。)この比丘尼、また「水中を逆《さか》しまに行く」。諸比丘尼問うに、「答えていわく、触楽を受けんと欲す、と。突吉羅となす」。『摩訶僧祇律』四〇に、「仏、舎衛城に住む。その時、比丘尼、欲心起こり、小便道をもって懸《お》ち注ぐ水を承《う》け、不浄を失《もら》す。懸《お》ち注ぐ水を承くるを、偸蘭遮《とうらんじや》となす」、「逆水の中を行き不浄を失《もら》すは同罪なり」とあり。また、「仏、舎衛城に住む。その時、比丘尼の住処《すまい》、俗人と壁を隔つ。比丘尼、欲心起こり、みずから手もて陰を拍《う》つ。時に丈夫《おのこ》、声《おと》を聞き、すなわち婦人《つま》に語っていわく、こはこれ何の声《おと》ぞ、と。答えていわく、何の故にこの声を作《な》せるかを知らず、と。その夫いわく、こは出家人の梵行を修し、欲心起こり、みずから制する能わず、陰を拍《う》つ声なるのみ、と。諸比丘尼聞き、この因縁をもって往って白《もう》す。かくて、仏いわく、汝実に爾《しか》るや不《いな》や、と。答えていわく、実に爾《しか》り、と。仏いわく、今より以後、陰を拍つを聴《ゆる》さず、と。拍とは手拍なり。もしくは鉤鉢拍もて、もしくは??拍もて、もって欲心を歇《とど》むるは越毘尼《おつびに》罪とす。これを手拍と名づく」。これらいずれも浴場で女人が行ない得る自犯だ。「なおそれよりそこらも糠袋にみだれ(13)て」とある本文が、「澡豆《そうとう》を用《も》って身を浴し、女根中に入る」によく合う。
 『浮世栄花一代男』二の二に、さる御屋形の浴室を記して、「みなみなくれないの替内衣《かえゆぐ》ばかりになって、塵毛《ちりけ》の灸の跡さえ見えぬ裸身、この中間《なかま》よりほかに見る人なければ、互いに遠慮もなく、身をたしなみて白きが上を洗い粉袋、あるいは足の裏するためにとて、へちま瓜のおかしげなる、磯松という女、心ありて握れば、鳴子といえる女、好もしくて取りけるを、雨夜という女の夢の間《ま》と戯《たわぶ》れ、あなたへ投ぐればこなたへ隠し、これを興にして、男ほしそうにいずれもみえける」。「雨夜という女の夢の間《ま》と戯れ」は叙実で、『十誦律』四五に、仏、制戒して、「もし比丘尼、樹膠をもって男根を作り、女根中に著《お》けば、波夜提《はやだい》となす。もし韋嚢《かわぶくろ》、脚の指、肉臠《きりみ》、藕根《れんこん》、蘿服《だいこん》の根、蕪菁《かぶら》の根、瓜、瓠《ひさご》、梨を、女根中に著《お》けば、みな波夜提となす。作る時は突吉羅《ときら》となす。もし他《ひと》の女根中に著けば、突吉羅となす」とあって、瓜と名ざしたうちに無論へちまもあるはずだ。が、この物を浴場に用ゆるはエジプトから初まったらしく、仏在世にはインドになかったかも知れない。同じ瓜類なるキュウリで男子厳禁の宮女が自犯するゆえ、トルコ人は胡瓜《きゆうり》を薄切りせずに出すことなしと噂された(一六七五年パリ板、タヴァーニエー『土耳其《トルコ》帝後宮新話』二五三頁)。また、インド洋のマルジプ島の婦女は、バナナをもって盛んにプイ・タラン(貫朱門)ということを賞翫した由(一六七九年パリ新板、ピラール・ド・ラヴァル『航海談』一巻二一八頁)。  (昭和二年十月『彗星』二年一〇号)
 
 遠眼鏡(『好色一代男』巻一、九歳)
 『輪講』一巻四二頁、この『一代男』より後では、『熊谷女編笠』に、大阪堀江川の船遊山《ふなゆさん》に、遠眼鏡で後家の密会するをみるところがある、と鳶魚君が言われたが、『女編笠』より十年前、『一代男』より十四年後、マア雑《ざつ》と二者の中間に出た『好色小柴垣』巻三の二段は、題号からして「目に合うた遠目鏡」とあって、京の霊山へ詣でた者が、懐中から遠眼鏡を取り出し、堂の縁から諸方を見渡し、種々椿事を目撃した様子を述べある。西鶴より前にも遠眼鏡の(14)話はある。四代将軍家綱公が将軍となってのち、三層楼に登った時、左右が遠眼鏡を進めたが一向用いず、再三勧めると、われ将軍となって一たびそんな物を翫ぶと、将軍が楼上から遠眼鏡で眺望さるるから、へたななりをしてうっかり歩かれぬと言って、下民がよほど迷惑するだろう、重職に任じた者がそんな軽率なことをされた訳でないと言われた、と『道斎記』にある。  (昭和二年十月『彗星』二年一〇号)
【追記】
 遠眼鏡で人の秘行を窺う記事、鳶魚先生が引かれた『熊谷女編笠』より一年後に出た『美景蒔絵松』一にも、孕んだ艶女を覗う者に、杖に仕込んだ遠眼鏡を抜いて渡すところあり。のちのちの絵本にもこの趣向が多い。例せば『浮世水滸伝』に、九紋竜の妻が若衆に粧うて寺に雨宿りし、住職これを呼び入れて戯るる体を、楼上で殿様とふざけ最中の妾が、遠眼鏡で望んで感心する絵あり。
 『輪講』一巻の四二頁に、「遠眼鏡の伝来というようなものは(オランダよりも)かえって南蛮の方からきているかもしれない」と、山中〕君は言われた。『南蛮寺興廃記』は正保五(慶安元)年の筆、それに永禄十一年九月三日安土城でウルガン破天連が信長に謁した際、七十五里を一目にみる遠眼鏡、芥子を卵のごとくにみる近目鏡等を献じた、と出で、『嘉良喜随筆』に引いた『遠碧軒随筆』には、家康駿府にあった時、南蛮より、日をみる眼鏡と月をみる眼鏡を上《たてまつ》ると記しあれば、山中君の推測は中《あた》れり。(『松屋筆記』八一に、『駿府事録』三、「慶長十八年八月二日、伊毛連須《イキリス》、今日殿中に候し、猩々皮十間、弩一張、象眼入り鉄砲二挺、長さ一間ほどの遠目鏡を献ず。六里これを見る、云々」。)『日次記事』は延宝四年に成ったらしい。その諸社祭礼を叙べたところに、また山林高き処で、眼鏡を仮《か》し、四方の風景をみるに便にする者あり、とあれば、それより六年後、『一代男』が出た天和二年にむろん京都で遠眼鏡を貸しみせる者もあったので、世之介の家勢からみると、鳶魚先生が思うほどの御贅沢でもあるまい。  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
 
(15)     鴨の長明(『好色一代男』巻一、十歳)
 『輪講』一巻四七頁七行、本文、「鴨の長明が孔子ぐさき身のとり置きも、門前の童部《わらんべ》にいつとなくたわれて、方丈の油火けされて、こころは闇になれることもありしとなん」。『方丈記』に、長明みずから書いたは、「また(日野の外山の)麓に一つの柴の庵あり。すなわちこの山守の居る所なり。かしこに小童あり、時々来たりて相とぶらう。もしつれづれなる時はこれを友として遊びありく。彼は十六歳、われは六十路、その齢ことの外なれども、心を慰むることはこれ同じ」。
 これだけの詞に拠って、この六十翁と山番の悴とに男色関係があったように西鶴が牽強し、「いつとなくたわれて、方丈の油火消されて、こころは闇にな」ったこともあっただろうと邪推したのだ。それを一廉《ひとかど》の典故のごとく心得てか、風来の著作という『そしり草』などにも、このことを述べある。が、同道して山野を歩き廻って面白く遊んだというだけで、山番の悴が美しいとか優しいとか少しも書いていないから、無骨千万な悪太郎が、冷かし半分ついてきたくらいのことと惟《おも》う。  (昭和二年十月『彗星』二年一〇号)
 
 不破の万作(『好色一代男』巻一、十歳)
 『輪講』一巻四七頁九行、本文、「月また珍しき不破の万作、勢田の道橋《みちはし》の詰《つめ》にして、蘭麝《らんじや》のかおり人の袖にうつせしことも、云々」。これはよほど名高い若契の故事で、吾輩和歌山の中学校に明治十二年入ったころまで、士族の息子などにこの話を知った者が多かった。『仏教大辞彙』二に、伝と像が出である小山憲栄師は、若い時、広瀬淡窓に学び、諸国を広く修行し歩いた人だった。かつて熊楠に語ったは、徳川幕府の末近く士族がもっとも惰弱だった大藩は、加賀と紀伊に越すものなかった、と。金沢は知らず、和歌山は実に惰弱極まった所で、女色盛行し、男色などを口にする者がなかった。それですら本文に謂うところの不破万作勢田の橋詰で云々の話を説く者が多かったから考えると、(16)よほど名高かったものだろう。
 一番古く何に出でおるか知らねど、寛延二年板『新著聞集』崇行篇第五の、男色に縁厚い一番尻に、いと詳しく述べられある。この書は延宝八年六十で死んだ椋梨一雪の著という。しかし書中に、「椋梨一雪が父幸温は寛永十七年身まかり、云々」とあり、赤穂義士の復讐その他一雪死後のことを少なからず載せあるから、一雪のみの著とは思われぬ。一雪の原著に後人が多少書き加えたものかとも思う。
 さて「不破万作恋情」と題せる一条はちょっと長いが、エルシュおよびグリユーベルの『百科全書』の男色の条は、すこぶる長たらしいもので詳細を極め、このことの研究者の金科玉条とするところだが、それに、男色が発達して多少の倫理と文華を成すに及んだのは、ギリシアとペルシアの外に全くない、というような言あり。そう確信して盛んに受け売りをする英人に、これはどうだとこの「不破万作恋情」の一条を訳示して、大いに感心させたことあり。今度『一代男』の輪講に、山崎君が「何かこんなことがあるんでしょう」と言ったきり、鳶魚先生も「ここにでている話は何から取ったのかみつかりません」で済まされたはいかにも遺憾ゆえ、全文を写し出す。咋朝五時に起きて九月十七日午前四時の只今まで、いろいろと用事を達した後だから、眠くもあり骨もおれる。いわく、
  関白秀次公称寵愛の御扈従《こしよう》不破万作殿は、容貌艶麗にして双《なら》びなかりし。一度の笑みに百の婚《こび》ありとは、実《まこと》にこの御方にてかあるらん。しかるに、ある時とある武士威儀を調え、深草の陌《ちまた》にいでて、万作殿の馬前に向かい、様子あるらん体《てい》にて礼をなせしことたびたびに及びしかば、万作殿ふしぎに思《おぼ》し召し、譜代の従者をめし、さりしころよりしかじかの者侍りし、何様《いかさま》故あらん、汝行きて聞き参れとありしかば、重ねての上洛の節に件《くだん》の者をねんごろに見届け、跡を追い、深草の郷《さと》かやぶきの賤が家に至りぬ。案内して密かに対談しければ、かの者思い寄らざることよと、さらぬ体に物せしかば、推して問いしかば実《まこと》に左あることにて侍りしやと、涙袖をしぼりながら、この上は何をか包み申さん、みずからは西国の何氏《なにがし》に仕えし鄙しき武士にて侍りしが、さるころ洛陽に用(17)のことありて上りし折しも、殿下の行啓を拝せしに、ふとそれの殿を見|初《そ》め参らせ、ついに念いの種となり、夢うつつにも忘れがたく、せめては御|顔《かお》ばせなりとも見参らせて、しばしの思いを晴らし申さんとて、わりなく主人の暇を乞い、かくまで憂き日月《ひつき》を送り侍りしと、うらなく語り続けしことを、委細に万作殿へ告げ侍りしかば、万作殿恋情の道隔てなく、さすがに哀れにや思し召されけん。平野の御狩《みかり》ありと聞きなば、その夜勢田の橋近くに様をかえ出でよと、ねんごろに玉章《たまずさ》御|認《したた》めありて、また、かの里へ遣わされしに、かの者拝しみるより、ありがたさ貴さ骨に通り、一夜を千夜とも待ちわびしに、やがての日、御狩のこと定まりて、殿下出御あらせ、万作殿も例に変わらず供奉《ぐぶ》したまい、晩に及び還御の時、万作殿にわかに腹痛ませて、石山寺のある房借らせ、針灸しばしば時を移し、快くならせ、いざ御祝儀の献酬とて典薬かれこれ打ち雑え、盃数献に及び、おのおの甚《いた》く酔い臥しけるに、万作殿はかねての有増《あらまし》にて、深更を伺い、ひそかに閨を忍びいで、勢田の橋に行きたまえば、かの者|薦《こも》を被《かぶ》り欄干に倚りいけるに、間近く寄らせ、いと濃やかに情《なさけ》あらせけり(「立ちて幹事《ことをな》せしか」、「日本文学全書」二二編『十訓抄』四三参照)。
  殿下には御帰城したまいて、御近臣の上田主水正(十六歳で織田信澄を討ち、後年四十九で塙直次を打ち取った人)に仰せ付けられ、万作気分|如何《いかが》ありなん、見届け参れとの御上意にて、勢田の橋に馬を飛ばせけるに、怪しや蘭奢待《らんじやたい》の馨りしけり。この香木は外人の用ゆること叶わじ、いか様御寵愛の万作殿とて由あらんと思い、数十の従者を路に残し、ただ一騎にて薫りに随い到りたまえば、欄干のかたわらに人影みえければ、主水正、高らかに呼んでいわく、それなるは万作殿ならん、上田主水正|御上使《ごじようし》に参りたり、いかにも由あらんと覚え侍りし、御前は宜しく申すべしとて、直《じき》に馬を帰されし、万作殿のたまいしは、汝が志のほど深く感じ、かくまで契りしが、君の御心如何ありなん、これにて心慰めよとて、肌の白小袖を与え石山に返りたまいぬ。かの者、生前の本望今こそ満足せり、もはや生きて何かせんとて、腹十文字に掻き切り身を蒼海に沈めしが、ふしぎや死骸水上に流れ、志賀(18)のほとりに著きしかば、浦人出あい、殊《こと》なる薫りしけるとて、件の死骸を引き上げ、年若なる男の大振袖の白衣きけるこそ不審《いぶかし》とてさまざまにもて囃せし。このこと万作殿聞こしめし、急ぎ従者に仰せ付け、かの死骸を乞い得させ、志賀の里寺にて葬らせたまいぬ。のち文禄四年に、秀次公御養父秀吉公と不和にならせ、高野山にて御生害遂げられし時、寵臣の面々死出《しで》の御供申さんとて、並みいけるに、汝ら思いしことあらば只今残りなく申せとの上意なりしかば、おのおの黙しけるに、万作進みいで、包みなく上意に任せんとて、しかじかの有増を言上し、只今まで恩君の御眼《おまなこ》を晦《くら》ましけるこそ悲しと涙に咽びければ、殿下も御袖しぼらせけり。このこと宿房の僧|御次《おんつぎ》にありて、委細を聞き侍りて世に洩れしとなり。
 不破万作がことは、『甫庵太閤記』一七、秀次切腹の条に、秀次に先立って小姓三人自害する。一番山本主殿助(生国を記せず、十八歳)、二番山田三十郎(生国播州三木の住、十八歳)とあって、三番不破万作(生国尾張、十八歳)、父母より受けし五体に手ずから庇つくこと不孝なれども、忠義なれば許し給えとて、拝領のシノキ藤四郎にて心よく腹を致し、これも御手にかかりにけり、とある。『聚楽物語』中には、山本も山田も十九歳、万作を満作に作り、十七歳とせること、鳶魚先生が引かれた『東国太平記』に同じ。『常山紀談』に、浅香庄次郎は、奥州葛西大崎の木村(伊勢守秀俊)に仕え、そのころ関白秀次の不破万作、蒲生氏郷の名越山三郎とともに天下に聞こえたる美少年なり。  (昭和二年十月『彗星』二年一〇号)
 
 寺から里へのお児(『好色一代男』巻一、十歳)
 『輪講』一巻四七頁末より二行、本文、「寺から里へのお児《ちご》、白糸の昔、いうにたらず」。鳶魚先生、白糸の昔は、「墨子、練糸を見て、これを泣く」の故事だろう、と言われたが、それでは訳分からず。むかし白糸という稚児がみずから進んで、ちようどここの世之介のように、年長者に念契を求めたことがあったとみえる。いつどこに在った少年と(19)いうことは分からぬ。『漉平盛衰記』二八に出た松室の仲算の仙童、『今昔物語』一七の四四なる雲林院の僧の愛童、『南部名所集』四に見ゆる朝欣上人に常随した少年、『男色大鑑』の多村三之丞、小西十太良、『武道伝来記』の橘山市丸、『今様二十四孝』の花寄房之助、『風流比翼鳥』の吉野屋千代之助など、「入れておくれよおかまの中へ、ちょいと一本さけの燗」と、寺から里へもち付けた例がたんとある。外色大はやりの世には、この風さほど希有でなかったればこそ化物が美童と現じて人を挑んだ話も少なからぬ。(『太平百物語』一の六。『曽呂利物語』二の五。『好色五人女』五の二。『新著聞集』「茶店の水碗に若年の面を現わす」の条等参看)
 インドにも、『摩訶僧祇律』一に、「復次《また》、仏、舎衛城に住みしとき、一比丘あり、時に到り著いて聚落に入る。(中略)次いで乞食《こつじき》を行《ぎよう》じて一家に至る。その時、家中に一《ひとり》の男子《おとこ》あり、比丘に謂いていわく、前《はい》るべし、大徳よ、共にかくのごときことを作《な》さん、来たれ、と。比丘答えていわく、世尊の制戒あり、行婬するを得ず、と。彼いわく、われも制戒を知る、女人と行婬するを得ず、しかるにわれはこれ男子なり、と。この比丘、すなわち彼の意に従う、云々」。こんな男子が男に据え膳の例を多く出す。唐朝に提雲般若等が制を奉じて訳出した『大乗造像功徳経』下に、仏、弥勧菩薩に、種々と男女や無性人や二形人の因業を説き、最後にまた四縁あり、諸男子をしてその心常女人同様の愛欲を生じ、他人がおのれに丈夫《おとこ》のことを行なうを楽しましむ、何らを四つとなすか、一にはあるいは嫌《きら》い、あるいは戯れて人を謀毀す、二には楽しんで女人の衣服荘飾《きものよそおい》をなす、三には親族の女に淫穢のことを行なう、四には実に勝れたる徳なきに妄《みだ》りにその礼を受く、この因縁をもって、諸丈夫をして、かくのごとき別異煩悩を起こさしむ、とある。これは男子が他の男に掘って貰いたくなるを特異な業報と見たのだ。
 欧州に近世性慾の研究起こって、その学の名家ども多くは件《くだん》の仏説と等しく、かかる別異煩悩を先天的、すなわち本人が持って生まれたものと見立て、ロセンバウムなどは熱地の人の後を寛闊にして痒《かゆ》く覚ゆること頻《しき》りなるより、好んでこのことを念じ出す、と説き、バートンはこの好みは人種よりも地理に基づくこと多しとて、地中海の南北岸(20)より小アジア、メソポタミア、カルジア、アフガニスタン、シンド、パンジャブ、カシュミラを過ぎて、トルキスタン、支那、日本、後インドを広く包み、それから南洋諸島を通って新世界を丸め込んだ男色帯なる地帯を設けた。いずれもよい加減な論で、なるほど宮川町などで美童を仕立てるに、山椒などをさし込んで痒がらせた由なるも、そはたまたま  ことあると等しく、処女が春を思い、後家が蚊帳の広きを歎《かこ》つを、ことごとく痒くなったからと邪推すべからず。乙鶴丸がやすら殿に通いしも、井伊直政が一命を賭して安藤直次に身を縦《ゆる》せしも、不破万作が橋上で九州の浪人とせわしく企てしも、あにことごとく痒がったからというべけんや。またシモンズは、バートンが定めた男色帯に外れたケルトやノルマンや   輕担人やブルガルスや、ことにロシア人にこのこと大流行なるは如何、とやりこんだ。(一八四五年ハルレ板、ロセンバウム『古代花柳病史』一一九頁。一八九六年板、シモンズ『近代道義学の一問題』七八頁已下)
 熊楠|謂《いわ》く、シベリアの諸種族に、男子の性情全く婦女化して他男に嫁し、夫妻として棲む風盛んなり。バートンこれを男色帯外に置いたは心得られず。けだし人は哺乳動物の一種に過ぎず、哺乳動物が挙げて鳥類と同じく爬虫類の後胤たるも疑いを容れず、爬虫も鳥も、哺乳動物の最下級たるエキドナも鴨嘴《かものはし》類も、みな前後を分かたず、一穴で事をすます。されば今も男子に無用の乳房あって、時にそれより乳汁を出す者あるごとく、後庭もこれを用い慣らせば、諾冊二尊|鶺鴒《せきれい》に所作を習いたまいし以前の諸尊、みな陽のみありて陰なかりし「神代のことも思ひ出らるれ」と、後庭の神経も懐旧のあまりおいおい微妙の感覚を生じけつかるであろう。が、それはそれとして、そんな神経の持ち合わせなくとも、時代の風習は恐ろしい物で、武士が死ぬことを何とも思わなんだ源平時代には、流人途別の宴の肴にとて、一人が髻《もとどり》を切って投げ出せば、何条劣るべきとて耳を切って投げ出し、まだえらい奴は命に過ぎた宝あるまじ、これを肴にと言って屠腹して死んだ、とあり。馬琴の『八犬伝』には、戦国の世に武士無事なる時、運だめしとてブンマワシのごとく廻転する機関に鉄炮をしかけ、多人輪座した真中でこれを廻して、弾丸おのずから発射し、中《あた》(21)って死んだものを薄運、幾度も外れたものを運強しとて興じたという。これら、その武士どもの筋肉や神経が死を好んで歓迎したでなきは万々ながら、剛勇無鉄炮をこれ尚ぶ時風だつたから、肉ふるえ神経しびれるまでも勉めてその座へ出で冒険したのだ。されば、日本男子の肛門が、二、三百年前締りなく毎々痒く、維新後急に緊縮して痒からずなったと言わば、未曽有の臍茶ならん。されば無闇に不一定の西説を受売りして、えせ科学的に勿体を付けるよりは、鳶魚先生のように、「時世というものは面白い」と片付けおくを最上と惟う。(一九一四年板、チャプリカ『原住民のシベリア』一二章。『徒然草』八七段。改定史籍集覧本『若州聞喜』六九頁。『源平盛衰記』四巻一〇章。このことは往年辰巳小次郎先生が何かへ出された。予は受売りのみ)  (昭和二年十月『彗星』二年一〇号)
 
 うす約束(『好色一代男』巻一、十歳)
 『輪講』一巻四八頁一行、本文、「暫しあって、かさねての日、中沢という里の、拝殿にて出合いての上にと、しかじかのことども、うす約束して、帰ればなお慕いて、笹竹の、葉分け衣にすがり」。うす約束は薄き約束すなわちほぼ、あらかたに約束。甚《えら》く怒るをエラオコリ(エライ怒り)というごとし。それと等しく、笹の葉分けは、笹の葉をわけのを〔傍点〕を略したので、「帰ればなお慕いて、笹竹の葉分け、衣にすがり」と読むべしと思う。今も松原通った、猫貰うてきた、眉の毛ぬいたなど、京坂の人はを〔傍点〕を略して言うことすこぶる多し。西鶴のころは、かな遣いの、文法のということ至って蒙昧な世だったから、談話通りに書いたものとみえる。
 さてこの時、中沢の拝殿で約束通り密会を遂げたので、本書巻の四の三段、世之介三十歳の所に、「最上の寒河江という所に、われ若年の時衆道の念比《ねんごろ》せし人住家求めてありしを、今悲しさに尋ね下りて逢いぬ。十九年あとに別れし面影、さすがに見忘れず、互いに涙のひまなく昔を語るこそ、外のちなみとはかわりて、替わらぬ印には、和州中沢の拝殿にて物せし時、慈覚大師の作の一寸八分の十一面守本尊を贈りけるが、身を離さず信心したまうこそうれし」(22)と、ひとむかし前の契りを覚えつよく方つけある。  (昭和二年十月『彗星』二年一〇号)
 
 恋の中川(『好色一代男』巻一、十歳)
 『輪講』一巻四八頁末より六行、本文、「思いの中の中川」。中堀僖庵が元禄五年に作った『萩のしおり』上に、中川は、都京極川なり。禁池の流れなり。恋の中川は、逢いがたきをいう。「行く末を流れて何し頼みけん、絶えけるものを中川の水」、とある。  (昭和二年十月『彗星』二年一〇号)
 
 暗部山(『好色一代男』巻一、十歳)
 『輪講』一巻五一頁、「暗部《くらぶ》山」を、鳶魚先生は『京羽二重』に拠って貴布禰山のこととされたが、川口好和の『諸国奇遊談』一には、「伏見街道東福寺門前あぶの町という東方《ひがしがわ》の裏は、東福寺の境内にして、次第に東山に続きたる地なり。このあたりを古えは暗部山といいしとなん。さるから町の号《な》も暗部町といいしを、略してあぶの町という、云々。『山州名跡志』巻一六、五八葉に、云々、暗部山を、古人鞍馬山の一名と覚えしを、甘心せざる由を書かれたり。祭主輔親、紀伊国より都に至るに、暗部山を詠める歌、『夫木抄』にありとて、都の南なる証《しるし》に引かれたり。深くも考えられしことぞとは覚えぬる。並川氏などもしられざりしゆえに、『山城志』に、暗部山は貴船山の一名としるされたるは、杜撰のはなはだしきことなり、云々」とある。  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
 
 十歳の翁(『好色一代男』巻一、十歳)
 『輪講』一巻四五貢、本文、「浮世の介|  監《こざか》しきこと十歳の翁と申すべきか」。大河内秀元が太田一吉に随うて戦うた時の事実を寛文三年みずから記した『朝鮮記』は、明治八年にフォン・フィツマヤー教授の独訳が出版されて、早く欧(23)米に知られた物だ。その乾巻に、慶長二年八月十五日南原の城攻めに、秀元が討ち取った慶州判官馬上二万騎の大将の首につき、後日疑論なきよう、諸将の前で生捕りどもに問い確かむべし、と秀元が言った。検使竹中伊豆守深く感じて、「唯今の申され様、重々もっとも至極せり、御辺未若人に功才なる人、若歳翁かな、云々」と大いに讃めたとあり。坤巻に、蔚山籠城中、加藤与平次、腰の物を米と替えて、五粒、七粒ずつ残さず傍輩に振舞った時、「三大将(清正、幸長、一吉)を先として上下これを見聞し、若年の翁かな、類少なき士と感涙を流しける」とある。当時若年の翁という褒詞が行なわれたのだ。
 福本日南の書翰に南方若翁殿と名宛したのが若干ある。予十四歳の時前歯一枚かけ、追い追い腐って四枚を失うたを、そのまま入れ歯しないで五十歳まで押し通した。若い時から歯抜け翁という意と思いおったが、日南歿後やつと右の出所を見出だした。若歳の翁より十歳の翁が出たのだ。(昭和三年九月二十二日午前八時)  (昭和三年十月『彗星』三年一〇号)
 
 しきみ粽(『好色一代男』巻一、十一歳)
 『輪講』一巻六三頁末より五行、「しきみ粽《ちまき》をかたげながら」。正徳三年、紀海音作『鬼鹿毛無佐志鐙』第四段に、「新枕伏見とよみし撞木町、色と菩提の フシ 一つ門、乗合をまつ旅人が廻文包む風呂敷も、しきみ粽を取り荷なう。袖を引かれて引き返す、これも愛宕の御利生かの フシ 面白し フシ 面も白し、身も白し。冠《かんぶり》着そうな厚鬢は京の水とや名を流す。その恋草に世の宇治の フシ 茶師の手代がたまたまに、君が濃茶《こいちや》に浮かれ出てくればお留守と立ち帰る、云々」とあるは、全くこの『一代男』十一歳の条から出たので、「新枕伏見とよみし」(新枕とよみし伏見の里)、「乗合をまつ旅人が廻文包む風呂敷も、しきみ粽を取り荷なう」(下り舟まつ旅人、風呂敷包みにしきみ粽をかたげながら)、「面も白し、身も白し、冠着そうな厚鬢は…茶師の手代がたまたまに」(色白く冠着そうなる頭つきして忍ぶもあり、宇(24)治の茶師の手代めきて)と、西鶴の文を奪胎した箇所が多く(括弧中のが西鶴の物)、全く愛宕千日詣りの光景を描いたものだ。
 貞享二年刻、黒川道祐の『日次記事』六月二十四日、「今日の愛宕詣《あたごまい》りは、平日の千度に当たる。俗に千日詣りと謂う。男女の混雑、挙げて数うべからず、云々。すなわち火札を買って帰洛す。樒枝《しきみ》を求めて粽《ちまき》を著け、これを肩《にな》いて帰り苞苴《みやげ》となす。樒枝《しきみ》はおのおの竈《かまど》の上に挿す。かくのごとくすれば、すなわち火災を免る(下略)」。これより先、寛文二年出版された中川喜雲の『案内者』三にも、「六月二十四日、愛宕千日詣り。夜もすがら二十三日夜をかけて山上に登る。西の京よりは松明の数百千|点《とも》しつれたる、紛れなくみゆる。愛宕粽また名物なり。されば炎暑に汗水になり苦行して参詣する。これ一度の参詣は千日に対《むか》うと言い伝えし」と出ず。
 元禄八年板、師宣画の『和国百女』の図ばかりみては何の感じも興さぬが、頭書を読むと猛然と勃起して、この机を碓《うす》のごとくつき上げる。「愛宕詣りに袖を牽かれたという世話躍りの唄あり。六月二十四日千日詣りとて、近国の男女参詣するに、一の鳥居より金の鳥居まで五十町のあいだ、嶮岨なる山道難処なり。下向の人は清滝の茶屋にて、土産に樒の花、粽などを買い求めて打ち担《かた》げて山を下るに、たおやかなる女の足弱げに下向するを、色好みなる男などは、女の手を引く族も多し。もとより知人にてなけれども、下り坂の疲れゆえに、女の方より所望して挽かるれば、男は悦び手をしめながらに、これも愛宕の御利生かと、その身の草臥れも知らずに喜ぶ」とさ。お蔭でこれを写すに、よほど立って労れた。享保二年板、操巵子の『諸国年中行事』二に、江戸にも愛宕千日詣りありしよう記す。これも定めし信心薄き輩の敵本行事だったと察するほど、いよいよ勃起して息《や》まず。熱を発するからこれで筆をさしおく。  (昭和四年四月『彗星』四年四号)
 
 実のなき栢をあらす(『好色一代男』巻一、十三歳)
(25) 『輪講』一巻八二頁五行、本文、「?《しば》しは実のなき栢《かや》をあらしてありしが」。『本朝食鑑』四に、大抵|榧《かや》の核仁、大きくて実せるも、小さくて実せるもあり、これ新しきを用いて、久しきを用いず、久しきものは必ず朽ち虚し、と言い、『和国小姓気質』二に、「うわ皮より目利《めきき》のならぬは、人の心と榧の虫食いと、西山の斎入《さいにゆう》が言いしに露違わず、云々」とあって、榧は殻が完全ながら中空なものが多いから、いろいろとわり試みて食うを、荒《あ》らすというのだ。大正十年十一月、予高野山に上って聞いたは、その年、榧に虫おびただしく入って、その実、十の九は中空し、よって名高い精進料理に榧の油を用ゆる能わずと、その方の名人がこぼしおった。  (昭和二年十月『彗星』二年一〇号)
 
       二
 
 仁王堂(『好色一代男』巻二、十四歳)
 『輪講』二巻二頁一行、本文、「仁王堂」は、十王堂だろう。右弼・左輔、両金剛を二王と呼ぶ。必ず寺門の両側に立て堂内に置かず。永正十一年編で最古の俳書という『犬筑波集』秋、「十王堂に秋風ぞふく」「浄玻璃の鏡に似たる月出でて」。仏教弘通の世には立山を始め諸処に十王堂あり。この田辺の二里ほど北にも十王堂という地あってジオンドと訓む。ジュウオウドウが音便上ジオウドウと呼ばれるを、きくままに仁王堂と書いたとみえる。  (昭和二年十一月『彗星』二年一一号)
【追記】
 『満済准后日記』、永享四年二月二十五日の条に、大原野寺中、車通路難儀、二王堂狭少の間、御車通ること叶いがたし、すなわち脇を壊破、仮門体に柱二本ばかり立て、御車通路用意すべく、云々。これは例の十王堂だろうか、また門側に二王の立った所を二王堂と呼んだものか、予には分からぬ。むかし諸処に十王堂あった一例は、明智左馬之(26)助、湖を乗り切って坂本の市中へ掛け入り、町内にあった十王堂の前の隔子《こうし》へその乗馬を繋ぎ、只今湖水を渡し候馬なりと書き付け、手取髪に結び付けた後、その身は城に入った、と『武家閑談』に出ず。  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
 
 後つき(『好色一代男』巻二、十四歳)
 『輪講』二巻五頁末行、「後《うしろ》つき」は、腰つきと限らず。髪や背や肩の状をもいうらしい。証拠は男色の尻に縁ある跡から申し上げん。  (昭和二年十一月『彗星』二年一一号)
 
 初瀬へ恋を祈願(『好色一代男』巻二、十四歳)
 『輪講』二巻六頁一行、初瀬へ恋を祈願のこと、永享七年の奥書ある『長谷寺霊験記』に、この観音が、濁世の猛き衆生を和らぐることは、ただ女人なり、われこの光を和らげて、婦女の身を現じて、久しく末代に及びて国家を護《ご》し、衆生を利せんと思う、とみずから宣伝したそうで、男女の恋を叶え遣った例を多く挙げあり。ことに唐の僖宗の后の馬面を素的な美顔に改造して夫帝の寵を固め、新羅王の出陣中近臣と淫して罰せられたその后の罪をたちまち王が忘却して倍益しに愛するようにして遣つたなど、外国までも渇仰されたとか。よって貞徳の『淀川』に、「及びなき人に心をかけ作り」「頼み申さん長谷の観音」、長谷は恋を祈る所なり、また長谷はかけ作りと云々《しかじか》、とある。かけ作りとは、馬は観音の使い物とて、寺門の前を競馬場に作りあるを言うらしい。  (昭和二年十一月『彗星』二年一一号)
【補足】
 貞徳の『淀川』に「また長谷はかけ作りと云々《しかじか》」と引いて、かけ作りとは、馬は観音の使い物とて、寺門の前を競馬場に作りあるを言うらしい、と言い置いた。和歌山の旧大手門の辺にカケ作りという地あって、観音堂近所に古く(27)傘工が軒を並べた。西鶴の『諸国咄』一に、紀州掛作りの観音の貸し傘二十本、むかしよりある人寄進して、毎年張り替え、この時まで掛けおく、いかなる人もこの辺で雨雪に逢わば自由にさし帰り、日和になりて律義に返して一本も不足せず。慶安二年春、ある人この傘を借用し行くを、風が吹き去って行方知れず。その傘はるかに肥後の奥山穴里という地に落ちたが、所の者何とも解せず。こざかしき者、内宮の御神体が飛び降ったに相違ない、と言った。よって社を立て崇拝すると、傘が神となって託宣あり。美しい娘をおくら子に供えずば、七日中に大雨で人を流し絶やさん、と。娘ども流涕していやがり、われわれが命とてもあるべきかと、傘の神のいな所に気をつけて嘆いた。これを聞いたこの里の色よき後家が若い人たちの身代りに立つも神への奉公と、終夜《よもすがら》その宮に籠り待っても何の情もなきを憤り、やにわに傘を破り棄てた、とある。これはホンの余談だが、この方が面白い。件《くだん》の掛作りの観音は、予物心を覚えたころまで初午ごとに男女群集したが、今は仁王門のほか廃墟となりある。むかし初午に馬を牽き来たってその安全を祈り、馬場が門前にあって、盛んに競馬したという。故に掛作りは、馬をかけるよう競馬場を設けた寺を言うのかと思う。そんなことよりは差し当たり、傘が久しく休職しおり、右のごとき後家あらばいつでも貸して上げたい。と、こんな一念が、長谷観音の噺をちょっと書いてもたちまち勃興するから、恋を祈ったら霊験灼熱たるは必定だ。
 さて、貞徳は長谷は恋を祈る所なりと言ったままで、いつ初まったと説かなんだが、山岡明阿の『類聚名物考』一七一に、これを論じある、いわく、「中ごろよりの習わしにて泊瀬の観音に恋を祈ることあり。その始めいまだ詳らかならず。その世に好色のこと盛んなりしころ誰人か言い初めしなるべし。『今昔物語』にも、女の祈りてよき男に逢いしことなど記せり。その他ほかの神仏にも祈りしことは多くみゆれど、いかさまにも、『六帖』の歌、『住吉物語』よりこのかたのことなるべし。契沖、泊瀬に恋して祈ること、『住吉物語』より起これりといえども、今その物語には、小一条院の御歌も入りたれば、『源氏』などに挙げたる本は伝わらぬなるべし。かの物語に初瀬に恋祈る一条を(28)作りたるは、『古今六帖』に、祈りつつ頼みぞ渡る初瀬川、嬉しき瀬にも流れ逢ふやと。この歌をもて書けるなるべし。されば、この歌をこそ恋祈る初めにはすべけれ」と。
(追記)ここまで書いた後、六十七歳になる石工の親方に頭を剃らせながら、物は試し、掛作りとは何だろうと問うと、壁のごとく立った山腹に寄せ掛けて構えた高い建築をいう。熊野新宮の神倉山に左甚五郎が立てた高名の掛作りあったが、絶新後、神仏混淆廃止で滅却された、今もかの辺で大工の宴会に、「大工上手じゃ神の倉ご覧《ろう》じ、岩に社を掛作り」と唄う、と。(元禄中筆、『紀南郷導記』に、この本堂は五間に七間、飛驛の匠《たくみ》作、と。)さて頭を剃りおわったところへ医士喜多幅武三郎氏来た。田辺生れだが早く久しく和歌山にあったから、予よりも予の生処のことに詳しい。よって和歌山の掛作りの名義を尋ねると、かの辺はややもすれば紀の川氾濫して家を流すので、通りを両傍の田畑より高く築き上げ、杭を田畑へ打ち込んだ上へ突き出して家を建てた、それを掛作りと言ったと造作もなく答えた。この田辺近所にも河岸や山腹にそんな家多く、今もみな掛作りと呼ぶ由。(『犬筑波集』恋、「涙ぞ川の上に流るる」「及びなき人に心を掛作り」。)掛作りの観音寺は開基詳らかならず、寛永十八年今の地に移るとあれば(『紀伊続風土記』五)、この寺が掛作りだったでなく、掛作りなる地に立てた観音寺の意で、掛作りの観音と呼んだのだ。とにかく寺前で競馬を駈けたから駈作りとは予の妄断で、長谷寺も神倉山の堂と同様の建築と正誤しおく。  (昭和三年一、二月『彗星』三年一、二号)
 
 丸木引切枕(『好色一代男』巻二、十四歳)
 『輪講』二巻一〇頁末より二行目、「せんだん」とここに言えるは、新羅の淫后より長谷観音へ上《たてまつ》った三十三宝物の第八たる栴檀香でなく、和俗のセンダンすなわち楝《おうち》だ。『大和本草』に、日本古来罪人をこの木に梟首したから他用に供せず、とあれど、『和漢三才図会』には、その材微赤でモクあり、桐より堅く、欅《けやき》より軟らかく、箱に作るべし、(29)とある。軽い木ゆえ枕に良かろう。二十年ほど前まで熊野の百姓家の下男の寝部屋には、満足な枕を与えても枕引きなどしてたちまち損ずるゆえ、多くは杉丸木を横断して枕にした。人数多き処では、数人頭を並べて杉丸太を共同の枕として臥し、暁方に番人が来てその小口を槌で打つに、耳に強く響いてみな跳ね起きた。その丸太を人別に応じ横切したのが丸木引切りの枕で、匂い枕どころか、きわめて麁末な物だ。(宝永八年板『傾城禁短気』五の一、流行《はやり》止んで太夫から二畳敷の住居《すまい》、今まで幾人《いくたり》か見たこと、房付枕が丸太の引切枕にかわるは浮世。)  (昭和二年十一月『彗星』二年一一号)
【追記】
 宝永七年刊『御入部伽羅女』六の二二、下女お竹、引切り枕蒲団かぶりしな行燈けす。享保二十年其磧作『咲分五人  姐』五の二、ズン切りの丸木の枕はしながら夢も結ばず。ある異体百人一首(外骨氏説に、北尾辰宣の画、宝暦ごろの物、と)に、これ(白人)より下つ方、契短という、今ケンタンと言い誤る、そのありさま、挽切り枕、木綿蒲団、云々。むかしは、女は勿論、男子も髷を乱すを人外のこととして慎んだから、いかな荒くれ男も必ず丸木挽切りの枕くらいは用いたものだ。  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
 
 捨子の歌(『好色一代男』巻二、十五歳)
 『輪講』二巻二五頁、「捨子の泣く声」という歌。林子いわく、成島東岳話に、このごろふと『続撰吟集』をみて、伝説の誤りを知りたり。飛鳥井雅親卿の東山殿へ召されて罷《まか》る路にて捨子の啼き止むを聞きて、とか詞書ありて、「哀れなり夜半に捨子のなきやむは母の添寝の夢やみるらん」。このことの世に伝うるは、後水尾院の御製にて、これより板倉防州新令を下し、京中の捨子養育の政を出したりと、一、二の随筆にありしを真と思いしに、右の古歌にてあれば、後水尾帝は歌聖と称し奉りし御事ゆえ、かかる付会の説をも申し伝えたりしか(『甲子夜話』六九)。(昭和三年九(30)月二十八日朝九時)  (昭和三年十月『彗星』三年一〇号)
【追記】
 この歌、義政将軍の時、飛鳥井雅親の詠という説は、予すでに『甲子夜話』から引いた。そののち『曽呂利狂歌咄』(寛文十二年板)四に、他の説あるを見つけた。「赤染衛門住みける家のあたり近く、子を捨てければ、声をばかりに母を恋いて泣きけるを、あわれと聞きいたるに、しばし音なくなりしかば、人してみせにやりけるに、ね入り侍りというに、かくぞ詠みける」とあって、この歌をのせある。只今『赤染衛門集』を通覧せしも、一向みえぬから後人の仮托かと惟う。ただし午飯前に立ち続けた余震なお烈しく、眼がハヅキリせず。見落としたかも知れず。落ち著いた人の精査を望む。(三月十一日午後二時)  (昭和四年四月『彗星』四年四号)
 
 四月十七日(『好色一代男』巻二、十五歳)
 『輪講』二巻二九頁一行、「しかもその日は四月十七日」。四月十六日は三井寺の鬼子母神へ参詣|群《むれ》をなし、十七日は江州東坂本、東照宮祭と、『日次記事』や『華実年浪草』に見えるが、本文の石山寺に関係なし。ただし『日次記事』に、四月十八日、「俗にいう、今日の観音詣りは、平日百ヵ日の参詣に当たる、と」とあれば、十八日に石山観音へ群詣したのを、十七日と誤記したのでなかろうか。  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
 
 六角堂へ捨子(『好色一代男』巻二、十五歳)
 『輪講』二巻二六頁末行、六角堂へ捨子。宝水中に出た『軽口都男』巻二に、題六角堂、「昔の出替りは二月八月、今の出替りは三月九月、九月が十月になれば手間がいらず。そのなぐれもの六角へゆくがあれば、置きそそくれし人抱えにゆくもあり、云々」。これを合わせ攷うるに、そのころ長幼に別なく、人をかかえたく思う者、六角堂へ行け(31)ば、抱えられたい輩が今日の紹介所のごとく世話されて抱え口を待っておつたとみえる。それに付属して棄児をも預かり、子を求むる口へありつかせたので(『昨日は今日の物語』上、『二代男』の初め、見合わすべし)、先便申し上げた『甲子夜話』六九にみえた後水尾天皇の御詠に感じて、板倉重宗が京中の捨子養育の制を立てたとは、六角堂に捨子の世話所を設けたようなことがあったでなかろうか。(十月三日)  (昭和三年十二月『彗星』三年一二号)
 
 けんぼうという男達(『好色一代男』巻二、十六歳)
 『輪講』二巻三四頁六行、「けんぼうという男達《おとこだて》」。吉岡憲房は、禁裏御能を立ちながら見物したので、警固の者に追い出されたるを恨み、また入ってその者を殺し、自分も殺された(『玉露叢』三)。紺屋はむかし賤種と見下げられた。藍染によいとて人骨を焼いて用いたからと、その職の人より聞いた。青屋口とて、大阪城にこの輩特に出入りする門があったらしい。しかし『嘉良喜随筆』一に、『遠碧軒随筆』を引いて、大徳寺玉室は京の吉岡の一族ときく、系図には美濃の斎藤の種族とあり、すれば京へ流浪して来たり、吉岡染めをして世を渡るか、武士の末ゆえに兵法をも使うかと覚《おも》わる。巻四にも、同書を引いて、京にて町人の変遷なきは西陣なり、切々一揆を起こす、(中略)惣別《そうべつ》吉岡などいう者も、西陣の者にて今に兵法、弓鉄砲を嗜むなり、下知状を持っておる者今に多し。してみると、吉岡もと武門の出で、落ちぶれて町人となったが、武技を怠らなんだのだ。  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
 
 家光将軍と髭(『好色一代男』巻二、十六歳)
 『輪講』二巻三五頁、「家光将軍が髭のあるのを嫌われて、御自分も髭がなく、臣下も髭をそるようになったが、云々」と、鳶魚先生の説と反対に、『異説|区々《まちまち》』二にいわく、「家光公、御髭御自慢にてありしとなり。御側衆に問いたまわく、当時の髭は誰をか誉むるや、と。御前と、御旗本衆のうちにて某と御二人と申す。翌日、右の御旗本の髭を(32)剃り候ようにと仰せつけらる。その翌日、何の某は髭を剃りたるならん、よき髭はわれ一人なりと仰せられしとなり」と。どちらが本当か知れぬ。  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
 
 おもくさ(『好色一代男』巻二、十六歳)
 『彗星』二年一二号三八頁三欄、「おもくさ」四十年ばかり前まで和歌山の女工の唄に、「思やおもい草、思わにゃにきび」。何のことか知らぬが、おもい草すなわちおもくさと推する。  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
 
 鹿、山吹、みつ(『好色一代男』巻二、十八歳)
 『輪講』二巻五八頁一行、本文、「さてこの宿《しゆく》(坂の下)に口きくやさ者はと品定めける。鹿、山吹、みつとてこの三人、そのころ柴人のすさみにもうたうほどの女とて、云々」。河原崎権之助の『舞曲扇林』坤巻に、
  伊勢踊りの始まりは惣《そう》じて踊りの始めなり。往昔《そのかみ》は神歌《かみうた》をうたうて踊りしが、後に雨乞などの祭に、もっぱら今の伊勢踊りの拍子にてありしとなり、云々。当時伊勢の山田に人あり、桂甚内という美男あり。もとは京都にありてずいぶん色めき、男の五歌仙といわれ、歌にうたわれし人なり(五歌仙は六字南無右衛門、名古屋三左、佐賀大六、若山見事、桂甚内)。好色身にあまり、一門不通になり、京都の住居《すまい》ならず、山田に所縁《ゆかり》ありてしばし居けるが、折々は父が心を窺わんため京都へ上りしに、その時分、関の地蔵は風流の地にて、遊女あまたあり、中にも光《みつ》、山吹とて名にあう色女《いろめ》ありけり。折々は光がもとに旅寝しけるが、光は誘い行く人ありて、何地《いずち》へ行きけん、後には山吹がもとにとまりける。山吹は海道一の小歌の上手にてありけるとかや。甚内も悪所の滝にうたれて、洒落たる男なれば、山吹がしこなしに、はや心も呉竹の、よに一節の類《たぐい》なき、身にあまり思いければ、山田より関まではその間十六里、隣よりなお近う覚えけるにや、人めの関もわざくれとは思いながら、京都の聞えを憚りて、(33)身のかきつばたとなぞらえがおに、はなに扇をあて、そのみちのくを忍ぶ折も多かりし。山吹も不浅《あさからず》思い、いつの暁も袖ぞ知らする心の色、いうよりまさることにぞみえける。折ふしの買手、籬を塞ぐ雲男、障りも知らぬ漂敵《ひよんてき》、甚内・山吹が和気《わけ》をそねみて歌にうたいける、「松坂越えてゑいこのさいた桂男の長がたな、おほいっかいな」。折ふしあてあてしくうたいけるとなり。もっぱらこの歌道中にてはやりけるを、山田にて遊眠の徒《ともがら》、この歌にまた甚内・山吹がことをくどきに作り踊りける。今の伊勢踊りなり。それより次第に歌もくどきもできてはやりけるに、関にても遊女ども集まりて、夜にさえなれば踊りけるゆえ、関にてもはやりぬと言い伝え、言い伝え、道中あまねく踊りけるとなり。旅人も日は高けれども、この踊りが珍しさに、この宿に泊りけるゆえ、いよいよこの宿繁昌しけるとなり。
  その後、甚内は父の許しありけるにより、京都へ上りければ、山吹勤め身にそまず、明暮《あけくれ》物思うあまりにや、終《つい》に身まかりける。この宿の名取り光、山吹なかりしゆえ、宿も寂《さび》けるとなり。その時はやり歌に、「光はでて行く山吹やしぬる、夜の寝覚にゃ鹿の声」という歌もっぱらうたいけるを、後に馬士ども道中にてうたいけるに、「水はでて行く山吹やしょげる、夜の寝覚にゃ鹿の声」とうたい誤りけるとなり。
 この畜生の鹿を西鶴は売女の名と心得て、光、山吹ともに三人名高かったとしたのだ。明治の初年はやった「蒸汽出てゆく煙は残る、残る煙が癪の種」という唄は、この「光はでてゆく」から出たらしい。「おほいっかいな」は、紀州で多いをいかいことという、栗を多く貰うたというを、栗をいかいこと買うたという。そのごとく仰山なという意味だろう。「松坂越えたやっさ」と清正が諷い囃して大仏殿用の石を引かせたこと、『閑田次筆』四にみゆ。伊勢の松坂でなく京近い松坂だそうな。それらに擬して、「松坂越えてゑいこの」と唄うたものか。伊勢踊りのことは種秀の『於呂加於比』上に出ず。  (昭和二年十一月『彗星』二年一一号)
 
(34) 庭鳥の止り竹に湯を(『好色一代男』巻二、十八歳)
 『輪講』二巻五九頁末より三行め、本文、「また冬の夜は……庭鳥の止り竹に、湯を仕懸けて、夜深《よふか》になかせて、云々」。『輪講』に、何の説明も出ておらぬが、鶏の止り竹に湯を通して早く鳴かすこと、むかしは行なわれたらしい。熊野の橋杭岩は、むかし弘法が陸と大島の間に一夜に橋を架けんと杭を立てたところ、アマノジャコ悦ばず、鶏の止り竹に湯を注入して早く鳴かせたので、大師、南無三夜が明けたと仕事を打ち切り、杭のみ残って橋はお流れとなった。また日高郡竜神温泉に遠からず比丘尼剥ぎという地あり。熊野詣での比丘尼一人そこへ宿った時、亭主、尼の多く金持てるを知り、竹に湯を通して鶏鳴を早め、まだ夜深きに出で立たせて尼を殺し剥ぎ取った。その罰で今にその辺の男は早死《はやじに》、女は若後家となって、毎晩これはドウもならぬ、ヤレ卯月のほととぎす、モウ辛抱できぬと?倒し歩く由。それについて面白い熊楠の自懺篇を、近日岡書院出版の随筆へ出すから、笑覧を乞い上げおく。  (昭和二年十一月『彗星』二年一一号)
 
 がす雪踏(『好色一代男』巻二、十九歳)
 『輪講』二巻七〇頁四行、本文、「がす雪踏《せつた》」。七四頁に林君、「がす雪踏」は鼻緒か何かがそうなんでしょうか、と言われたが、がす織の雪踏とでも思われたのか。『嬉遊笑覧』二中にいわく、『一代男』二、かず雪踏というは、『物類称呼』に、江戸にていうかわ草履《ぞうり》を東国にてかず草履という、今江戸にて千足という草履は、藁草履のことに麁相なるなり、これ員《かず》草履の義なり、とばかり言ってかず雪踏の義を釈いておらぬが、まずはかず草履から類推して麁相な雪踏ということで、番傘のごとく不時の用に数多く備えおくような麁製のものを言ったであろう。  (昭和二年十一月『彗星』二年一一号)
 
(35) 香具売(『好色一代男』巻二、十九歳)
 『輪講』二巻七〇頁六行、本文、「香具売」。相似た社会に相似た営業ができる。ローマ共和国淫奢の風ようやく盛んなりし時、ウングエンタリウスあり。ウングエンツムは、仏経にいわゆる塗香で、身体に塗って皮膚を調える鬢付け油様の物、それを売る者をウングエンタリウスと呼んだが、いつとなく一切の香類を扱うこととなったから、取りも直さず、香具売だ。それが特に一種の売色若衆を呼ぶ名となったので、西暦紀前一世紀の初め、ルキウス・アフラニウスの目撃談に、「毎日香具売が鏡の前で話す。彼は眉を剃り髯も腿の毛も抜き去って歩き、若い男の身で情夫と伴れて宴席に出で、長袖の衣をきてもっとも低い牀に臥し、酒ばかりかは男の情《なさけ》をも求めありく。それが影間の常の勤めをしないといえようか」と、云々。  (昭和二年十一月『彗星』二年一一号)
【追記】
 香具売がローマのウングエンタリウスと等しく、焚香をも塗香をも売ったとは、『卜養狂歌集』で知れる。それに、「ある人の許《もと》へ行けるに、若き香具屋参り、いろいろの香具を出しけるに、たき物に、仙人|黒方《こくほう》若草というなり、客衆に取りたまえといえば否という。若い者のめいぼくなるに、ぜひ取りたまえといえば、歌よみたらば取り侍らんとありければ、仙人若草黒方を立て入れて、『仙人の幾千世若くさかへぬる髪も真黒《まつくろ》ほうほうとして』とよみければ、主《あるじ》に香具めせという。いかにも心得侍る、歌よみ次第にとり侍らんと戯《たわぶ》れける。残りける香具はと問えば、伽羅《きやら》、誰《た》が袖、花の露(塗香)、匂袋なんありといいければ読みける。少人の顔よきを愛して、四色の名を立て入れてよめる、『梅の木はみめの木やらん花の露たが袖風の匂ひぶくろう』」。これをよむと、婉?たる香具売の音容忽然髣髴として、例のを起たせるので、「出家にならねばならず」。  (昭和四年四月『彗星』四年四号)
 
(36)       三
 
 琴爪(『好色一代男』巻三、二十一歳)
 『輪講』三巻二頁の末三行、さる御方は、琴をなおして爪のなきを本意《ほい》なくおぼしめしけるところに、世之介懐中に用意せるを取り出して進じた。『赤穂義士伝一夕話』四に、磯貝《いそがい》十郎左衛門技芸に精《くわ》しく、復仇事遂げて御預けとなりし日に至りて琴爪を懐にしたるを、応対の人見て武夫《ぶふ》に似げなく優しと称誉した、とある。いわんや武夫ならぬ、遊芸執心の輩、琴の爪を嗜み持つ例《ためし》、むかしはザラにあっただろう。似た話は、後冷泉天皇、白河院に行幸、花の宴の時、殿上人楽を奏し南庭を渡るに笙なくて事かけときたが、大外記中原貞親懐中しあったので、叡感あり。すなわち殿上人の列に入って笙を吹いて渡った。また鳥羽天皇御遊半ばに、花園左大臣有仁がひきおった玄象の三の緒切れたるに、行尊僧正、懐より琵琶の緒を取り出でて奉り、大臣これを取り用いて終夜弾じたという。(『古今著聞集』第七。『十訓抄』第一)  (昭和三年一月『彗星』三年一号)
 
 枕絵の襖障子(『好色一代男』巻三、二十一歳)
 『輪講』三巻五頁末より三行、「枕絵の襖障子」はほかにありますか、と服部君の問に、予はありますと答えよう。例せば、貞享五年刊『色里三所世帯』大坂の巻二に、ねまに名女揃いの画像、弁慶に静女、歯ぬけ鬼に小町、釈尊に和泉式部、孔聖に業平の室、このほか思いも寄らぬ男女を取り合わせ、中二階には?童の牀尽し、いずれか思い思いすきずきのありさま、これを恋の種として朝暮このことのやむ時なし、人の家居はこれでこそあれと、この普請をした故人を讃嘆の記事あり。露わに言わねど襖障子に画いた様子顕然たり。
(37) これは戯作だが、広い世界に事実こんな画を建具に描いた例は少なからぬ。そのもっとも著しきは、十六世紀に仏皇アンリ二世、イタリアの画師を招いて、壁や額に画かせ、宮殿を満飾せしめた。当時ソーヴァルの目撃談に、画くところの男女と男女神入り乱れて露身踊舞し、またそれ以上の事を行ない、あるいは鷲、鵠、駝鳥、牡牛と戯れ、所々に衆道と御姿夫婦盛んに、また炎帝百草を嘗《な》むるの体あり、男女と男女神の所作奇絶怪絶せり、と。さればシャール九世、アンリ三世続いて立つに及び、異様の乱風靡然たりしは洵《まこと》に淵源するところあり。一六四三年、アン・ドートリシュ后摂政の際、十万金の値を惜しまず一切その画を焼失した。これらの画、みな古ギリシア・ローマに倣《なら》うた作で、ギリシア人もっぱら幽玄を心懸けたに反し、ローマ人は只管《ひたすら》劣情を挑発するを力《つと》めたから、見る者の心も古い源氏絵と近世の笑い絵を見るほどちがう。一世紀にローマの詩聖ホラチウスは、寝室に好色の像を置いて恥じず。オヴィジウスやプロペルチウスは、家々の壁画が早く婦人少女の徳を敗るを嘆き、紀元三百年ごろ、アレキサンドリアのクレメンス尊者は、当時の俗、寝間の壁にマルス神がヴェヌス女神を捉え、ジュピテル大神、鵠に化けてスパルタの王妃レーダに忍び、水の女精ども露身のところ、半人半羊の樹精酔いて濫行の体等の画額を房の壁に掲げて、間断なく眺める、と書いた。後年ポムペイの旧址からかかる画が見出だされ、現存する。(一八五四年ブリュッセル板、ジュフール『売靨史』五巻三二章。一八七四年パリ板、ラルッス『十九世紀百科大辞典』一二巻、猥画の条)
 インドでは到るところ、公私の建築の壁におかしなものを画きあって、見る者を淫蕩に導く(一八九七年板、英訳、ジュボア『印度風俗儀礼』一巻三一一頁)。『根本説一切有部毘奈耶』三四に、仏、諸比丘に勅し、寺門屋下に生死輪を画かしむ。その図は『仏教大辞彙』一の一三三八頁の次に日本、チベットの二様を出す。一八八二年ベルリン板、バスチアンの『心理学上の仏教』のラサから出た世界図はこれに倣うた作だろう。生死輪の周辺に十二縁生滅の相を画く、その中、触支を表わすに男女相摩触するところ、受支を表わすに男女受苦楽の体、愛支を女が男を抱く図、生支を女人誕孕の図で示すべしなどあり。初め目連尊者、不善業のために諸悪趣に堕する者の苦痛を説いて深く大衆を感動せ(38)しめたにつき、一切の時処、目連のごとき輩あってこれを説く能わざれば、寺門の屋下に生死輪を画き多人に示すべしとの仏勅で作らせたもの。見れば娘も新造も年増も老婆もあり。「墨染の色だになくばほのかにも、おぼつかなさは知らずやあらまし」。色に始まって無常を悟るに無上の好方便だが、利のあるところ害もまた偕《とも》なう。画が旨くでき過ぎて見る者を悪趣に導いた例が少なくなかったろう。疑わしくば『仏教大辞彙』に蠅より小さく出しある男女相摩触する像を見よ。予などは朔風鬚を凝《こお》らす今夜これをみてたちまちテキンテキンと動脈騒がしく踊り起ってきた。欧州でも中世紀にキリスト教の力で、私宅に如何《いかが》わしい物を画く風は息んだが、差し代わって寺院の柱頭や入口に変な物を彫刻すること多く、もと観る者をして邪婬の懼るべきを知らしむるための設備ながら、ややもすればあんなことをするのが悟りの近道と、乙な方へ感化したらしい(ラルッス、上に引いた条)。
 支那には斉の東昏侯、芳楽苑を作り、諸楼の壁にことごとく男女私褻の像を画き、隋の煬帝は迷楼を構え、士女会合の図数十幅を画かせ閣中に懸けた。その趣き枕絵の襖障子に同じ。後漢の光武帝は創業の英主だが彼方《あちら》も抜からず。屏風に列女を画かせ、臣下の前でもしばしば顧み視た。宋弘、容を正して、いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ず、と諫めると、その屏風を撒せしめた。劉向、劉?と『列女伝』を校して七篇となし、もって禍福栄辱の効、是非得失の分を著わし、これを屏風四堵に画かしむとあって、これも趣意は存分結構だが、画き様によっては光武ほどの英雄をも迷わせたのだ。明治九年ごろ、大蘇芳年が勧懲を目的と称して巧みを極めた新聞事項の錦絵が多く出で、和歌山の書肆頭にも毎々掲げられた。孝女が赤湯具に白い脛を露わして身投げするところ、節婦が賊に逼《せま》られて仰ぎ倒れた体、はなはだしきは樹に縛られた美女が下体を狼に食わるるなどあって、群がり視る若者ども、ここが大事の処と指ざし笑うたり。勧懲よりは大いに誘惑したことであった。『漢書』に、前漢の成帝の屏風に、紂酔うて妲己に踞し長夜の楽をなす体を画きあつたとみえ、『七修類稿』に、これを支那春画の始めと説いたが、成帝より前に、広川王が、「坐して屋《へや》に画くに男女の?《はだか》にて交接《まじわ》るをもってし、酒を置き、諸父《しよふ》姉妹を請《まね》いて飲み、仰いで画を視しむ」(39)と『漢書』にある由。(『五雑俎』三。『煬帝迷楼記』。『淵鑑類函』三七九。日尾荊山『燕居雑話』四)  (昭和三年二月『彗星』三年二号)
【追記】
 宝永六年板『子孫大黒柱』五、泉州中浜の銭屋宗春の子作左衛門、親とちがい、小便桶まで奥島をはり廻し、雪隠に笑い絵を書かせ、美麗風流分に過ぎし、云々、とある。  (昭和三年四月『彗星』三年四号)
 
 指かね(『好色一代男』巻三、二十一歳)
 『輪講』三巻一四、一七、一八頁、「指かね」は、何とも知れぬが、「指の太いは、折ふし血を抜くと大内女郎のように細うなるものなり」と、『新色五巻書』一の二にあれば、女を仕立てるに血を出してまで、指を細うするに腐心したと知る。古ペルシアの史賦『シャーナマー』に、美女の指を、長くして銀の筆のごとし、とほめたところあり。彼方でも指の細長きを貴んだのだ。  (昭和三年二月『彗星』三年二号)
【追記】
 今年三月一日出、宮武省三氏来書に、その郷里高松市では氏の少時まで指環をもっぱら指金と称え指環とはあまり言わず、大阪辺でも指金また指しめと通称した、と。『遠碧軒記』下三に、あこやの珠は、云々、唐人高く買う、石の帯にも作る、また指かねにも作る。真珠を指環に嵌《は》めたのだ。されば指金は指環のことだ。指を細く育つるにはよほど幅の広いのをいくつもはめたであろう。左もないと太い所と細い所ができるはず。さて一六二一年に出たロバート・バートンの『解憂篇』三の二の二に、アポロ神がダフネ女の小さい細長い指を愛したとあるは、古ギリシア人もそんな指を婦女の美点としたと証する。  (昭和三年四月『彗星』三年四号)
【再追記】
(40) 明和二年なった木内重暁の『雲根志』初編二巻に、「キヤマン。ある人いわく、阿蘭陀《オヲンダ》に八方目鏡というものあり。指金に付けてわが後《うしろ》をうつす鏡なり。これと取り違え覚えたる人あり。別の物ならんと、云々」。そのころ西洋から齎した指金に、たまたま、金剛石や小鏡をはめたのを混同し、いずれもキヤマンと呼んだので、吾輩幼時ガラスを大阪辺でギヤマンと呼んだ源だろう。右の文で指金は指輪ということいよいよ判然たり。(六月二十六日朝七時)  (昭和三年七月『彗星』三年七号)
 
 もろこしの花軍(『好色一代男』巻三、二十一歳)
 『輪講』三巻一五頁、「もろこしの花車《はないくさ》」は、『日本永代蔵』三の二に、「夏の夕涼み、玄宗の花軍をやつし、扇車とて数多《あまた》の美女を左右に分けて、云々」。『太平広記』『淵鑑類函』等を探ったが、玄宗の花軍ということみえず、『華実年浪草』三には、「花車。『天宝遺事』にいわく、長安、春時《はる》は遊賞を盛んにす。士女は花を闘わせ、戴き挿して、奇花の多き者をもって勝となす。みな千金を用《も》って名花を市《か》い、庭苑に植え、もって春時の闘いに備う、と」とある。これは美花珍芳の競べ合わせで、『夢想兵衛胡蝶物語』にある美女が花枝で打ち合う戦いでないが、本文、七十三女が色をもって選抜されに押し懸けてきたとよく合う。よって西鶴がここに謂うところの花軍は美花の競進と分かる。件の『永代蔵』の記事を按ずると、ここの本文の美色競進と異《かわ》り、『夢想兵衛』式の花枝試合らしいから、『唐代叢書』でも虱調べに懸からんかと思うたが、夜分置き所が見当たらず。池田信雄氏の『支那宮廷秘録』をみるに、玄宗の宮中では、「春のころには花合戦をやった。たくさんの妃嬪や少年が、おのおの花の枝を手にもち、二手に分かれて打ち合った。春日春風に翻える綾羅《りようら》と、打ち合ってちる花と、なまめかしい叫び声とは、渾然として一艶団を作出した、汗ばんで休む妃嬪のつく息は白く暖かかった」とある。されば玄宗|躬《みずか》ら花合戦を覧たので、当時花の美を闘わす外に、花枝を持った美人の闘戦もあったのだ。この花合戦の記事は何に出であるか、たぷん『開元天宝遺事』あたりと察す(41)るが、識者の教示をまつ。
 誹諧にこれを吟じたもの、「二度の懸《かけ》や咲《さき》を争ふはな軍」義陣(延宝八年、和気遠舟編『太夫桜』)などあり。本歌には、『類題和歌集』にずいぶん多く花の題を列ねあれど、花軍はみえぬ。鳶魚先生、これは「戦国時分の話でしょう、呉国の宮殿で、呉王細腰を好むという、あの辺の話です」と言われたは、玄宗の花合戦と、『史記』列伝五に、呉王闔廬、官女百八十人を出し、孫武をして兵を勒《ろく》せしめたことを混じ、また『後漢書』馬援伝なる「楚王細腰を愛《め》でて宮中飢死多く、呉王剣客を好んで百姓|瘡瘢《そうはん》多し」とあるを諳記し損ねたのだ。この上の句を、誰も楚王が腰の細い女を愛したと解するが、『戦国策』楚の威王の条に、莫敖子華が、むかし「先君の霊王、小腰を好む。楚の士、食を約《つづ》め、憑《すが》って能《よ》く立ち、式《もた》れて能く起《た》つ。食の欲すべきも忍んで入れず、死の悪《にく》むべきも就いて避けず」とあれば、もと女でなくて男の細腰を愛したのだ。従来誰も気づかぬらしいから、特にこれを機会に記しおく。
 さて花軍は西洋にもあった。予ロンドンで浮世絵を売った時引き立てくれた名工アルマ・タデマ氏の画、ローマの半男女帝エラガバルスの宮女花軍の写真が、『大英百科全書』一〇版に出である。  (昭和三年二月『彗星』三年二号)
 
 目ずき(『好色一代男』巻三、二十一歳)
 『輪講』三巻一五頁、「目ずき」は、『好色二代男』二の四にもあり。「散茶というは、云々、揚女郎にもさのみ劣らぬ姿を、一軒に五十人ずつもみせかけ、大方は歌うたうて引かざるはなし、云々、あるいは手相撲またはなんこよぶもあり。火渡し糸どり、浄土双六、心に罪なく浮かれ遊ぶを、目ずき〔三字傍点〕にどれにても、一歩に定めて、たとえしるべなくても望めば、作配する男、二階へあげぬさきに、金子を請け取り、ちんともかんともいわせぬことに、埒の明いたることぞかし」。鳶魚先生説通り、目ずきは見取りだろう。目が好くままにの意か。また目水精という語もしばしば浮世草紙にある。例せば、延享四年板『自笑楽日記』一の三、「定めて武士の種にて継父などに売られたというよう(42)なことかと問えば、大黒町の下駄八という者の娘ということを押し隠し、さてもきつい目水精《めずいしよう》かな、なるほど真《ほん》の父様はさる歴々なれども、わけがあって養い親に売られ、云々」。目が水精ごとく透徹しあるの義で、視通しの明らかなるを指した詞とみえる。似た詞だが目ずきと別だ。  (昭和三年二月『彗星』三年二号)
【追記】
 宮武省三氏来示に、これは今も西国でいうミエズキのことだろう。「目好きという字義よりすれば貴解の通りに相成り、見る本人本位、好きぶすき儘《まま》の義と相成り申すべく候。ミエズキは見る本人一人に限らず、大抵の人に好感を与うる相を申し、彼女はミエズキのする女と言えば、一般の人にすかれる素質を持つ者に有之《これあり》候。物品の場合、ことに衣類などの時は、目ウツリがする、またはメウツリがよい、と申しおり候」と。すなわち『一代男』三巻一章の本文、「当世女は丸顔桜色、万事目ずきに」を、「丸顔桜色でさえあれば、その他は一般人にすかれるようならば十分」の意に解するのだが、そう解いては、『二代男』二の四の、散茶女郎どもが遊びおるを、目ズキにどれでも一歩に定めて聘するとある目ズキがさっぱり分からぬ。どうしてもこれは鳶魚先生の説通り、目のすくままに撰みとると解かねばならぬ。
 熊楠知るところ、この語の最古の例は、足利義政公の薨前一年、延徳元年に死んだ大徳寺の桃翁の話を筆した『蕉窓夜話』に出ず。「「監宮《かんきゆう》引き出でて、しばらく門を開く。例に随って須《すべか》らく朝《ちよう》すべし、これ恩にあらず」。監宮というは、宮女を引き廻す司《つかさ》をする女なり。日本にいう局などの心なり。天子の御前へ御目スキにどれなりとも一人ずつ宮女をつれて参る者をいうぞ」とあり。これもミエズキでは通じない。  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
 
 小早(『好色一代男』巻三、二十二歳)
 『輪講』三巻二一頁八行、本文、「小早」は、小さい早船だろう。田辺で早舟を単にハヤと称う。その中さきを小早(43)と言っただろう。  (昭和三年二月『彗星』三年二号)
 
 髪長(『好色一代男』巻三、二十二歳)
 『輪講』三巻二一頁末より四行、本文、「髪長」。例の斎宮の忌詞に、僧を髪良、尼を女髪長と言うから、ここの髪長は女髪長で、売色比丘尼のことらしい。この輩の名、必ずしも清林《せいりん》(三巻八三頁末、本文)、永玄、長伝、永恩(『紫の一本』)、祐林、西湖、紫元(『傾城風流杉盃』江戸巻三)等の法号に限らず。お姫お松(『紫の一本』)、よし(『好物訓蒙図会』)と地女通りの名、源太郎(『嬉遊笑覧』九)、林弥(『傾城風流杉盃』同前)、大学(『鳶魚劇談』二二六頁)と、男名を用いたのもあれば、ここもと、花鳥、八島、花川と、源氏名をつけたのもありそうなことだ。『一話一言』三八なる、明和元年原武太夫書物に、比丘尼せいことあるは西湖だろうが、勢子、清子などに通じて、近時の芸妓がかって聞こえるのも面白い。(参照、『鶏肋編』、「燕山の娼妓は、みな子《し》をもって名となす。香子・花子の類《たぐい》のごとし」。)『一代女』三の三に、大坂川口で歌比丘尼が、泊り船へ推しかけ、百繋ぎの銭のみか、割木《わりき》や鯖までも償《あたい》に取って売婬したことを述べある。花鳥等三人もその類の比丘尼だろう。  (昭和三年二月『彗星』三年二号)
 
 たたじょう(『好色一代男』巻三、二十二歳)
 『輪講』三巻二二頁、四−八行、本文、「木綿鹿子《もめんかのこ》の散らし形に茜裏を吹き返させ、(中略)思い思いに道急ぐを聞けば、これなんこの所の肴売、内裏小島より出るたたじょうと申す」。享和中、吉田重房筆『筑紫記行』三に、「下の関の女ども魚を荷なうて、何々を買《か》やらんかと呼ばわり歩《あり》くぞことに珍しく可笑《おか》しかりける。これは、かの平家没落の後に官女たちの落ちぶれて、この業《わざ》をしたりける、その遺風なりと言い伝うとぞ。魚の価いかにねぎりしても負くることなし。また、このあたりの遊女も、もとはかの官女たちより起こりし。故に今も女郎とは書かずして上臈《じようろう》衆とい(44)う、と言えり」。それより前、寛政十一年残した小野高尚、西国へ下り赤間関を一見せしに、「魚を売る者は女なり。平らなる桶に魚を入れて首に戴き、肴召されよというなり。その体、都の柴売の女のごとし。土人いわく、往昔ここにて平家亡びし時、貴賤となく平家方の女は、この辺の漁人などに身を寄せて魚を売りたるより、今に至りてこの風俗なり、と言えり」(『夏山雑談』三)。この人が睹た時までは赤間関でも、本文小倉の販魚婦同然、魚の容器を頭に戴いて売り歩いたのが、享和中には肩に荷なうことになったものか。そこから小倉までわずか一里というから、小倉へ出る内裏小島の漁婦も、もとは官女と言い伝えたるべく、上臈というべきを略して、「ただ上〔三字傍点〕と申す」と読むべしと考え、書き付けて門司市の宮武省三君に質すと、次のごとく答えられた。
  御照会のタタ・ジョウのタタは啻《ただ》の義にはなく、当地方にても例の盤切《はんぎり》を頭にのせた肴売をタタと申す。現に小倉の長浜と申す処より拙宅へタタ参りおり侯。本文に見ゆる通り、この海岸は馬刀《まて》が名物、それが多くとれる時、すこぶる美味な鰈もとれるを、マテガレと呼ぶ。拙宅にてもその折タタより購い賞味致しおり候。下関にては頭に戴くをカネルと申し候えども、伊予松山付近でも、盤切を戴き来る肴売をオタタと申す。事は『民族と歴史』の何号かの拙稿にも吹聴したことに候。次にタタ・ジョウのジョウは上臈と言うべきを略せるならんかとは如何かと存じ候。当地方にてはアノジョウ、コノジョウなどと別に意義なしに言葉尻にジョウを付けること、あたかも高松にてアレヤコシ〔二字傍点〕コレヤコシ〔二字傍点〕と言葉尻にコシ付けると同じ癖|有王《これあり》候。拙宅傍にすむ中村なる農家の細君は、いつも蓮根をうりに来たり、門口より、「蓮根ジョウは入りませんか」と叫ぶゆえ、拙宅ではこの細君を蔭で蓮根ジョウと綽名を付けおり候。
  ジョウについて今一つ思い出で候は、筑前・豊前地方では、「どこそこのジョウモン」などと婦女、ことに娘をさしてジョウモンと申し候。その義|確《しか》と判明せざれど、鈴木煥卿の『漫画随筆』に、「東都にて貴家の処女《むすめ》を称しておじょう様というは阿娘《オジヨウ》の字なり。娘は尼良切《じりようのせつ》にて嬢と通ず。女の尊称なり。天子は母后を称し、宮人は皇(45)后を称して娘々という。唐の高祖の長女平陽公主の軍を娘子軍という。金媚嬢、?嬢、韋嬢など通用す。俗話には女を尊んで大娘といい、父母を称して爺娘という。この語いつとなく日本に伝わりて貴女の称となれり。古人は音も正しく娘の字をジョウと称えしを、今は娘の字をロウと唱うるゆえに、別事に思うなり、云々」とあれば、このジョウモンのジョウは娘の義なるべく、言葉尻ジョウとは別物と存じ候。
  本文の内裏小島とある小島は、どこをさすや不明に有之候。内裏は、今大里とかき、平家の御所のありたる所にて、この対岸に巌流島と申す小島有之候、云々。
  次に下関にて頭に桶を戴せてくる魚売女は安岡という処より参り、そのうり声は「肴召されよ」とは言わず。鯖かえ、鯛買えなどと命令的言葉を用う。平家の落人ゆえ、むかしより権柄に詞を使いしなりと所の人はよく申し候。さりながら伊崎という処の者は買いなされと言うべきをカイナンシと申し候。『下関二千年史』には、「伊崎浦名目の儀御尋ね仰せ付け。古老の申し伝えも御座なく候。古え平家当国に御落ちなされ、(中略)その時平家瀬廻りを漁場網代になされ、網を御引き釣を垂れ、海中より魚を取り、上関府に出し御座候時、公家の御詞にてゆらん魚かわしんまいと仰せられ候。それに付け、今に至るまで、伊崎漁人は余浦に違い、魚かわしんまいと申す詞に魚売り申し候」と有之。今のカイナンシもその訛《なま》りと存じ候。
  下関にては、何もかも平家へ話を結び付ける者多く、たとえば人の細君をオゴーサンといい、これはむかし町家に平家の官女たちを奥に迎えたるため、御后さんと呼びしなりとか、芸子の花代は、官女身を落として花売となり、後に男に身を任す者ありしより起こりし名称とか、また四月の先帝祭(安徳天皇祭)には、色里稲荷町より、上臈参拝と称し、遊女が八文字踏んで赤間宮に参拝するなど、いろいろの奇風有之候。
  下関ごときも八百八|惣嫁《そうか》いたと言わるるほど売春婦いたとのことにつき、小倉地方のタタも左様に内職したる者かと存じ候。この地(小倉海岸長浜)は盆踊り盛んなる地にて、この時期に娘カツガル(掠奪結婚の一種)こと有之(46)候。
 右宮武君の状で、タタ・ジョウは、かの地の方言魚売女の称え、決してただ上〔三字傍点〕の意味にあらずと判る。ジョウは無意味の補辞(エクスプレチヴ)、強いて弁ずれば、古言の月ジモノなどのジに近いよう思わる。熊野でも木本より東では盤切を戴いた女が魚、和歌山へは加太浦の女が同様に海藻を売りにきたが、今のことは知らず。
(追記)右書き終わつてのち、宮武省三氏来示に、「先日蓮根ジョウの売り声につき申し上げおき候が、赤身(関門地方で鯨肉を申す)など、お赤身ジョウと申してうりに参り候」とあり。したがって何物にもジョウを付くるにあらず、語勢とか品物の性質とかにより、あるいは付けあるいは付けないことと察する。ちょうどこの田辺で豆や粥を豆サン、お粥サンと呼ぶ、大根サン、豆腐サンと言わぬごときか。また来示に、「門司住、吉永雪堂氏話に、豊後でも叔父ジョウ、婿ジョウなど言う風有之候由。しかし、これは豊前のジョウ同様、助詞(エキスプレチヴ)なりや否不明に候。『松屋筆記』五八に、今俗、人を称呼して某丈というは丈人の略なり、女子などにいうは誤りなり。『史記』孔子世家注に、「包氏いわく、丈人は老者なり、と」とみゆ。『論語』の注を引くべし。刺客伝注を按ずるに、丈人は嫗の称なり、男には丈夫という、女にいうもさることなり、とある記事は豊後の右ジョウに関係なきや。一応取り調べの必要ありと存じおり候」。  (昭和三年二月『彗星』三年二号)
【補遺】
 今も小倉市や松山市辺で盤切を頭に戴いた肴売女をタタと呼ぶ由、宮武氏は言った。享保四年成った『南海通記』二一に、元亀二年生れで百六歳以上生きた三谷彦兵衛の夜話に、四国は上世より他と交わらぬから、諸民上下の分定まり階級称呼乱れず、例せば、田夫の婦を田佗、その夫を農夫、百姓の婦を阿女(アニョウ)または副(ソイ)、その夫を阿長、名主の婦を家阿、その夫を亭長という、とある。田佗すなわちタタで、もと細民の妻を呼ぶ名だったらしい。  (昭和三年四月『彗星』三年四号)
 
(47) 寝てまわす(『好色一代男』巻三、二十二歳)
 『輪講』三巻三七頁三行、「寝てまわす」。箕山の『色道大鏡』にいわく、「まわす。男の気に違わじと、女の方より順《したが》う貌なり。たとえば風車の風に任せてくるくると廻るように、男の心に順うなるべし」。宝永中出た自笑の『風流曲三味線』三に、?童藤田平次、大尽|渡竹《とちく》方へは目も懸けず、「ただ玉重《たましげ》にまわること、風下の紙車のごとし」。宝永七年、巣林子作『曽我虎が磨《いしうす》』の「傾城十番斬」に、愛甲三郎打って出ずるを、少将立ち向かうて、「及ばぬ雲の掛橋の、端傾城でも廻さん〔三字傍点〕とは、ほんに厚いつらの皮」。今は知らず二、三十年前まで、和歌山で、バーヨバーヨ(乳母よ乳母よ)と子供がマワスなど、毎度聞いた。特に好んで持囃《もてはや》すをマワスと言ったのだ。  (昭和三年二月『彗星』三年二号)
 
 袖の海(『好色一代男』巻三、二十二歳)
 『輪講』三巻二八頁四行、袖の海について、「西鶴は九州の方を知らないんで、いい加減に書いた」ように服部君は疑われたが、宮武省三君が門司におるゆえ、問い合わした。返事に、「袖の海は大里より小倉に至る一帯の海を呼ぶものに有之、海図などにも明記致されおり候、云々。昨日大里出身の人に逢い候ところ、この人かつて浚渫作業に関係したること有之候て、即座に右のこと指示せられ候」。  (昭和三年二月『彗星』三年二号)
 
 火の当見(『好色一代男』巻三、二十二歳)
 三巻「袖の海の肴売」の発端、「火の当見」は、全く解し得なんだところ、一月号四七頁、佐藤君の釈で男山八幡宮の神事日の頭《とう》のことと判り洵《まこと》にありがたく鳴謝する。(『続狂言記』二の丸「鱸《すずき》庖丁」に、官途成《かんどなり》をする者、「某《それがし》は宇治辺に知音《ちいん》を持ったが、今度このとう〔二字傍点〕を営むとあって、極《ごく》を三袋くれた」。極は上品の濃茶《こいちや》らし(48)し。)ついてはこんな、今日忘れ果てられたことは、いささかも多く書き集めて読者の御覧に供えおくがよかろうとの婆心より、『華実年浪草』四の上から、佐藤君の寄書にみえない処々を抄出しよう。いわく、
  山崎日使。『山城名勝志』に、『八幡宮寺年中讃記』にいわく、日の使、四月三日、これ一郷万代の勤役なり。山崎より弁備すという。晩陰に臨み日の使あり、相列なって山崎の孤村より来たる。儀式、京洛の大臣に同じく、随身馬に策《むちう》ちて、その蹄竜のごとし。雑色の装束、異彩飾り新たなり。ここに主人、冠の間に紫藤を掛けて嫋娜たり。舞男、巾子に素桜を挿して鮮妍たり。彼ら騎馬ながら二たび、まず神庭を廻り、下馬せしめ、一面御殿に相対し、おのおの再拝の衣袖を刷《かいつくろ》う。(この次に、佐藤君の寄書にみえた『山崎日使神事記』の文を引く。)『明月記』にいわく、建仁二年四月三日、山崎の民家ことごとく経営す、毎年の祭礼あり、その路に橋を渡す、播磨大路より八幡に参る、と。この祭も今絶えたるにや。かの『明月記』に橋のことみえたるは、往昔この祭に、山崎より八幡の山下まで、大河に橋を渡すとなり。今の橋本その遺跡なり。この使を勤むるを日の頭と称し、その人を日の長者という。一郷の上首とす。その裔を長者衆という。きわめて豪富の輩ならん。
 熊楠の蔵本に誰とも知れず、朱書して加えたは、「一書に、今離宮のこと、河内茨田郡紫雲山来迎寺に互見すべし、別記あり」と。詳しく知れねど、『明月記』に出たような大層な神事は絶えたれど、その形は徳川氏の世々、西鶴の存日まで多少行なわれたと見ゆ。そのころできた『目次記事』にも、四月三日、古え山崎に日の頭を修するの人あり。すなわち今日、その頭人、石清水に詣でそのことを告げ、かねて八幡の社家に謀る。今、頭を修するの人なしといえども、離宮の社家一人来たって神拝を修す。これを四月三日と謂うとあって、四月三日をシンカサンと訓ませある。
 それから本文に、「火の当見に小倉の人のぼられLに、この里の花も面白からず」。この「この里の花も面白からず」の訳を誰も解かぬらしい。熊楠案ずるに、『日次記事』六月の末条に、八幡山の社僧、九月に花頭を修する者あり。すなわちこの月詣での日、始めて花台を造り、これを地盤剥ぎ花頭という。社僧の弟子剃髪し衆僧の列に加わる時、(49)社僧を饗し彩箋をもって花草をを製し、台を飾り、神前の廻廊の傍において酒宴の興をなす。故に花頭と号す。倭俗、物を載する台を、これ盤と称す。人板をさくを片《へ》ぐと称し、人を剥《は》ぎという。今日板を剥ぎ台を製するの謂なり。また九月の末条に、この月、八幡の社僧、花頭を修す、と出ず。小倉の人が四月三日の八幡の日の頭の式を見に登ったが、この八幡の花も面白からぬとて、また小倉へ下るとは、多少この花頭の式を連想して述べたものか。(昭和三年七月二十六日)  (昭和三年八月『彗星』三年八号)
【追記】
 そののち、寛文二年出版、中川喜雲の『案内者』巻二をみるに、次の文あり。「三月十五日、山崎ひの頭、これ頭人は大なる行いあり。まず七日以前より、夫婦子供みなわが家を出で、仮屋にこもり、その体さながら斎宮のごとし。家のことは倉も櫃も宝も心に掛けず、出入る者、食物、酒、いかほども入り次第なり。一念も惜しむ心なし。人に任せて物は入り次第にして賄わしむ。かくてその日になりぬれば、山崎の貴賤上下残らず出でたち、ねり物の道具あり、半体の人形の鉾、これよそになき物なり。主人は冠に黒装束、巾子に藤のつくり花をかけて馬にのる。そのほか馬にのる人多し。舟をもやいて屋形をたて、諸人供のかたがたの舟に乗りて、囃《はやし》三番あり。それより石清水八幡宮に社参ありて、諸願成就して下向あり。まことに大そうのことなれば、年ごとには勤められず、といえり」。また、四月三日、山崎ひの頭、ただし近代は三月に在之《これあり》、と記す。(『嘉良喜随筆』一、『遠碧軒随筆』を引く。山崎日頭人になる離宮の供僧一人、これは宇佐より臨幸のとき守り奉る行敬の心なり。山崎の侍分烏帽子蘇芳なり。二十人の随身をつるる。離宮の前の拝殿にて能をみる。頭人と僧といる。天井ならびに柱も金欄にて包む。冠束帯にて畳に坐す。女房は衣かずき、さて八幡へ舟にてゆき、八幡と対座にて盃をするなり。随身舟ばたまでのり、馬二十疋にて供奉するなり。舟の中にて拍子あり、行列の先へ人形あり。細男《すいのお》というと人形手をたたく。これも道祖神の心か。一説に、磯良という海神なり。それが出楽を奏する体なり。山崎のは人形なり、云々。)
(50) これで判つたは、むかし鎌倉幕府の世などには、毎年四月三日にこの行列をしたが、寛文ごろよりは年々とは行なわず、世間豊かに、頭人も十分その費用に堪え得る歳を択み、始めて勤めることとなり、また四月三日を三月十五日と改めたのだ。それゆえ今年は日の頭の神事があると聞いて、九州からはるばる見物に上る者もあったので、三月十五日は花盛りでもあるところから、「火の当見に小倉の人のぼられしに、この里の花も面白からず」と西鶴が書いたのだ。  (昭和三年九月『彗星』三年九号)
 
 辻堂(『好色一代男』巻三、二十三歳)
 『輪講』三巻四一頁三行、本文、「その夜は辻堂に明かして」は、四五頁に、「分かりません」なりになりおる。延宝元年成、『西翁十百韻』に、「落書はあの辻堂やここの宮」「いかに当座をよみ出だすらん」。暁鐘成の『雲錦随筆』一に、「讃州|艮《うしとら》の海中なる小豆島に、四ツ堂といえるもの所々の道傍にあり。およそ二間あるいは三間ばかり、四方四隅に柱ありて壁なし。床板を張り詰め、あるいは椽あり、または椽なきもあり。もっとも棟は四方おろし瓦葺にて、堂内の一方の正中に小さく仏間を設け、左右を打抜きにして囲いなし。その用は庚申待ち、二十三夜待ちなどに、農民寄り集まりて供養をなし、通夜して酒宴を催す。平生は農業の休息所とし、暴雨を凌ぐの便とす。もっともこれはこの地に限らず、諸国にもあるべし。これいわゆる亭の類にして、『和漢三才図会』に、亭、和名アバラヤという、道路|舎《やど》る所を亭という。『釈名』にいわく、亭は人の停まり集まる所なり、と、云々」。こんな堂が辻に立ったのを辻堂と言ったであろう。田辺近い稲成村の新村という処の道路三つ行き会った辻に、地蔵を安置した小堂あって、そこを単に堂と呼んだ。これが辻堂であろう。(『尺素往来』、近来僧徒の不律をいうところ、「都鄙に遊行《ゆぎよう》し、あるいは?屋《てんや》に入り、あるいは辻堂を占め、妄説狂語して、もって談義と號《なづ》く」。)
 (追記)宮武省三氏来書。辻堂ということ、弘《ひろ》く日常用うる言葉に有之。『言海』にも、「辻堂。辻の傍に建ちある仏(51)堂」とみえ、『松屋筆記』一三、「番場辻堂の鐘銘」の記事も有之。自分もこの意義にて別に意とせざりし者に有之。貴書により始めて注意仕り候ところ、中津よりかれこれ一里余、善光寺(この寺のこと、拙著『習俗雑記』にあり)付近に辻堂という所あり。またこの付近に辻垣という所も有之(地図には掲載なし)、今さらながら先生の御注意深きに敬服致し候(熊公|謂《いわ》く、敬服さるべきは野々村君)。中津より北原という俳優村に至る途中にはツジタなる処有之、これはいかなる字なりしか、通過したことありながら、記憶致さず。要するに辻という字のつく地名、この付近に多く有之候。  (昭和三年二月『彗星』三年二号)
 
 花の露(『好色一代男』巻三、二十七歳)
 『輪講』三巻一〇一頁、「花の露」。守貞は、坊間の婦女これを用うる者稀なり、と言ったが、流行の波が打ち返したものか、明治四、五年から十九年ごろまで、上方の町家でずいぶん用いられた。(昭和四年三月十一日午後四時)  (昭和四年四月『彗星』四年四号)
 
       四
 
 なれこ舞(『好色一代男』巻四、二十八歳)
 『輪講』四巻二二頁、「なれこ舞」(五月號三九頁参照)。『嬉遊笑覧』五下に、「『類聚名物考』に、なれこまいは馴講舞なり、小舞にも子舞にもあらず。法花八講をもホケハコという、無礼講をもムライコという例にて、互いに心安くなれなじまんとて寄合講をして舞い遊ぶを言うなり。今世俗にても何講といいて、みな寄り合うて舞い奏で遊び楽しむをいうなり、云々」と引いて、「なれこ舞は思う由あれどしばらく置いて言わず」と書いた。思(52)う由とはどんな説か。喜多村氏の著書を一通り捜したが見出だし得ぬ。
 元禄十六年成った『傾城仕送大臣』二の一、ある男遊女を身受けして自宅へ伴れ帰ると、その女、「すぐに赤前垂に襷掛け、茶釜を洗い、酒肴、相借屋の内儀、家主のお姥《ばば》をよび、近付きになれこ舞、よろず埒の味よく、云々」。正徳元年に成った『傾城禁短気』五の二に、島原の傾城野風、芳助大臣が大坂新町で遊びつづける処へ書を贈り、帰ったら新町行きのなれこ舞をさせましょうと、お上りを待っている、と述べることあり。よって考うるに、名義起原はいかようにもあれ、そのころは人と近付きになる印に舞うのも、過《あやま》り入った印に舞うのも、斉しくなれこ舞と呼んだのだ。今もこの田辺町に、去年中に奉公にきた小僧に、年越の夜、手近い道具を持って躍らせる商家がある。(十月四日)  (昭和三年十二月『彗星』三年一二号)
 
 猿などして(『好色一代男』巻六、三十六歳)
 『輪講』六巻の一一−一二頁、「猿などして」。予、幼時和歌山で小児を遊ばすに女どもが蜜柑もて作った物二様あった。一はセキゾロ(田辺でセキゾロダイダイ)とて、蜜柑の袋一つを採り、屋根の棟のような白い筋を去り、そこより二つに開いて指先にのせると、節季候と唱えて年末に物貰いにくる輩の頭に冠つた飾りのごとくみえる。それを節季候の唄に合わせて踊らせた。今一つは髪の毛や細糸で蜜柑の袋を括り、猴《さる》の形にして目を悦ばせた。『嬉遊笑覧』五下に、『洛陽集』に「向ふ歯や蜜柑の猿の腸をたつ」栄也、『一代男』に、蜜柑一つ、黒髪を抜かせられ、猿などして遊びし夜、云々、これ今も柑?を髪の毛にて括りて猿に作るなり、と出ず。  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
【追記】
 寛政三年板、京伝作『青楼昼の世界錦の裏』に、懸取り金を集め得なんだ男が、「これじゃこの物前は、蜜柑で拵えた猴をみるように、首でも括らにゃならねえ」。
(53) 『群書類従』二五一に収めた『相如集』に、若かりし時、女三宮におかしといわるる人に、いかでものいわんと思うに、おさなき児の扇に、女をこのかたをかきてもたるに、たがぞといえば、その人のといらうれば、かくかきつく、「いひ出はそらもやはちんやまとなる、姿の池の影のたがはぬ」、返し、むめのさるを作りて、「大和なる姿の池にうきさるの、まさるを君が影とこそみれ」。この梅《むめ》の猴とは何物か。諸君の教えを願う。祐乗が桃の核に六十六疋の猴を雕《ほ》ったことはきくが、ここのは梅の核に猴を雕ったとも思われず。猴の皺面に似るから梅干で猴の首でも作ったものか。高岳相知は行成卿の師という。(七月二十四日夜十時)  (昭和四年八月『彗星』四年八号)
 
 親はないか(『好色一代男』巻六、四十二歳)
 八月号三六頁、「親はないかという褒め言葉」。これはオチヤナイカを擬した詞であろう。『嬉遊笑覧』下に、「『職人図彙』におちやないは都の西常盤という処より出ずるとかや。女の頭に袋を戴き、髪の落をかい、かもじにして売り買い世渡る業とす。それをおちやないかといいて町々を歩くなり。昼の八つ時より出るなり。これ古えのかずら捻りと同じ。今はかずらやはあれど、落買というものなし。女の業に定まりしものゆえ、『籠耳草子』に、男女所業のかわれることをいいて、御池長者町には男の洗濯、綿つみあり、やがて女の籠かき男のおちやないも出ずべきにやと、あるまじきをいいしかど、同じ業なるかずらやは男の職となれり、云々」。祐信の『百人女郎品定』に、大原神子の次におちやないを画きある。  (昭和三年九月『彗星』三年九号)
 
 七所こしらえ(『好色一代男』巻七、五十歳)
 『輪講』七巻二一、二七頁、町人こしらえ七所の大|脇指《わきざし》。三田村君は、「縁、頭、セツパ、鐺等を数えるのでしょう」。佐藤君は、本誌三年六号三五頁に、「刀や脇差の各部分を、それぞれ専門の細工人に拵えさせたものを称する由(54)で」。また四年一号三一頁に、真山氏の言を引いて、「縁、頭、目貫、折金等の七所を対にして、彫細工を揃うる物」と言われた。いずれも等と記して七所を具さに名ざしおらぬが物足らぬ。享保十七年刊、三宅也来の『万金産業袋』一の一一葉表に図を出し、一二葉裏に、「世にもっぱら七所拵えというは、縁、頭、目貫、折金、栗形、裏瓦、こうがい、この七所を対にして、地金赤銅なりとも四分一なりとも、彫細工を揃ゆるをいう。縁、頭、目貫、この三品を揃ゆるを三所拵えともいい、また栗形、折金、裏瓦を対させて三所ともいえり」と委《くわ》しく述べある。(『嬉遊笑覧』巻二中にいわく「七所こしらえとは、縁、頭、目貫、折かね、栗形、うらがわら、こうがい、この七所を対にして、地がね、彫ものを揃うるなり」。)佐藤君が引いた『傾城反魂香』の外に、元文三年其磧作『御伽名代紙衣』一の一、長町の小倉屋源兵衛、都島原の吉野にあう時の装いを記して、「七所拵えの大脇差」を入れある。  (昭和四年八月『彗星』四年八号)
 
 酒功讃(『好色一代男』巻八、五十九歳)
 『輪講』八巻四三頁、五六頁、「もろこしの酒功讃を遷すとて、遊女三十五人思い思いの出立《いでたち》」。宮武省三君来示に、「酒功讃」は、晋の七賢の一たる劉伯倫の「酒徳頌」をまねびて、白楽天が「酒功讃」を作り、酒徳をほめたるものに候えども、今この文皆目あたまになきゆえ、遊女三十五人思い思いの出立に対照致しかね候も、本文一応御高覧下されたく、したがって「あや椙《すぎ》の思い葉をかざし」の意味も確《しか》と判明致しかね候も、貴説のごとく、日蔭の蔓《かずら》様に餝《かざ》るものかと存ぜられ候、とあった。「酒徳頌」は『淵鑑類函』に載せて只今眼前にあるが、『白氏文集』を持たぬから、「酒功讃」を見得ぬは残念な。  (昭和三年九月『彗星』三年九号)
 
 あや椙のおもい葉(『好色一代男』巻八、五十九歳)
(55) 『輪講』八巻四三頁、五七頁、「あや椙《すぎ》のおもい葉をかざし」(八月号三五頁中段参照)。前条に引いた宮武氏の来書に、貴説のごとく、とある。熊楠の本項の解説は確かな物と決して思わねど、やむに優るの存念よりここに繰り返して大方の一粲に供える。『日本百科大辞典』一の二三三頁に、「名匠|近江《おうみ》の作の三絃に限り、槽の内に一種の鈍目《かんなめ》あるを綾杉と称し、調子の他に異なるはこの綾杉の意匠によると言い伝う。これより伝わりしものか、さし物などに檜垣様の鉋目ありて、人という字の形を連ねたるをも綾杉といい、また紗綾綸子などの織物の綾にもこの称を用いたり」。六巻一二三〇頁、刀剣の「地金」、「出羽国の刀工月山、または薩摩国波平一派には綾杉肌というもあり、云々、杢目《もくめ》肌の長く続きたるようなる物なり」。
 これら綾杉という模様の称は、もと綾杉なる名木の葉の生い様に基づいたものだ。『和漢三才図会』八〇、筑前香橿宮、「神木の杉あり。その葉、他と異にして、文杉《あやすぎ》と名づく」。『新古今』、「ちはやぶる香椎の宮の綾杉は神のみそぎに立てるなりけり」。『大和本草』諸品図、中巻四五葉表に図を出し、付録巻一にいわく、綾杉、樹は常の杉に同じ、葉は異なり、綾の紋を織り乱したるごとくにして美《うるわ》し。筑前州香椎の宮にあり、古歌に多くよめり。京都竜安寺の前池中の島にこの木一株あり。また山科勧修寺の茶屋の南、宇佐八幡と號する祠の前にもあり。他処にてはいまだこれを見ず、と。西鶴の『新可笑記』四の二、出雲大社の神主、歌道に執心のあまり、伊勢と小町の姿を想像し続け、終《つい》に二女形を現わしたのを下女が見て、神主の養母に告ぐるところに、養母下女と伴れて立ち行き、繁りたる綾杉の垣間見しに、云々、とあり。『男色大鑑』にも、「賀茂の山蔭に北を見おろし、綾椙の村立《むらだち》、東に洞の葛紅葉」と若衆ずきの男隠栖の体をのべあるは、佐藤氏が示された通り。貝原先生と西鶴は同時の人ながら、西鶴は二十年早く歿し、その著書いずれも『大和本草』成りしより二、三十年前までのことを書いた物だ。しかるに晩くできた『大和本草』に、香椎宮以外に綾杉至って稀な由書きたると反して、早く出た西鶴の書には、その洛外や雲州に、生垣に作られ、叢林をなすまで培栽されたよう認《したた》めあるはいぶかし。『本草啓蒙』、『本草図譜』などに杉の栽培異品多し。なかんずく(56)『啓蒙』三〇、別に一種柔らかにして手を刺さざるものあり、ヒメスギという、一名トウスギ。『大和本草』一一に、唐杉、近年異邦より来たる、葉細かに枝しげし、春初挟めばよく生く、一名はヒメスギ、繁く植えて籬とするによし、云々。諸品図、中巻四一葉表に図あり。こんな物も多少香椎宮の本物に似ているので、綾杉と通称されたものか。
 本物の綾杉はもっとも早く何の書に出であるか知らぬ。『群書類従』一三所収、『八幡愚童訓』は、鎌倉時代の物らしい。その上巻に、神亀元年筑前国若椙山に香椎の宮を造り、聖母大菩薩と崇め給えり。正直者の頭と梢《こずえ》平らかなる椙枝にわれ住むべしと御誓いあるゆえとて、余所の杉木立と事替わり、この社頭の椙は梢平らに生いたり。御殿前アヤ杉あり、勅使参著して、枝を折って鳳闕に奉る、と見ゆ。この枝を何のために奉ったかと尋ねんに、「神のみそぎに立てるなりけり」で、祓除の節用いさせられたらしい。(『続群書類従』五九八末『勢州軍記』下に、信雄の侍、結城源五左衛門尉、伊賀|綾郡《あやのごおり》河合の名木綾杉を誤り斬って誅せられしことを記す。)
 本文、「あや椙のおもい葉をかざし」。『夫木抄』二九、永久四年百首稲荷詣、「いなり山しるしの杉を尋ねきて、あまねく人のかざすけふかな」と杉の葉を髪に挿す神事はある。さて難題の思い葉は、もと冠の心葉《こころば》より転出した称かと察す。俳書に、心葉を日蔭の蔓《かずら》、日蔭の糸と共に、大嘗会豊明節会にちなんで、十一月の季物とす。『満佐須計装束抄』二にいわく、「冠《かぶり》に日蔭《ひかげ》というものを、左右の耳の上にさげたり。冠の巾子《こじ》の本《もと》に、日蔭のかずらというものをゆいて、白き糸のはしなど、ほとかしくみなるして総角蜷《あげまきにな》を結びさげて、片々《かたかた》に四すじずつ、冠の角を挟めて、前に二すじ、後《うしろ》に二すじ、左右にさげたるなり。この糸飾るところにこころ葉〔四字傍点〕とて、梅《むめ》の枝《えだ》の小さくつくりたるを、このかずらにまといて立てたり。かずらなければ青木いとよし。このこころ葉、冠の前のすじの本と、後のかずら結びたるところに立つという人あり、云々」と。『日本百科大辞典』二の一二三〇頁の次に図あり。『華実年浪草』一一、「心葉。梅花三寸ばかり、また金の枝に梅花貝を付くる。もしくは蘇芳貝あるいは結花紅梅白梅、蔓に付けて巾子に添えてこれを立つる。左右各一枝あるいは四枝とも見えたり」。『改正月令博物筌』十一月の部、「心葉は冠の巾子に造(57)花を付くるなり。今は金紙または白紙ばかり心葉の料となすなり」。『関秘録』八には、「また日蔭のかずらの御冠は、云々、これも心葉を巾子ぎわにさすは榊の葉なり、花にてはなし。今吉田家より許されて、神主など花を祭の式にさすことあり。これをも心葉と心得ておる者多く、その者も心葉と言えり、全く知らぬ故なり。心葉は榊の菓なり、もっとも日蔭のかずらは、至って清浄なるかずらなれば用ゆるなり、云々。神主などの花をさすはカザシという物なり。心葉とはいわぬことなり」。
 南方先生有職はあんまりの方だから、くわしく判りかねるが、冠の甲の後方に髻に被せる巾子とて勃起した男柱体の奴あり。その巾子の基に日蔭蔓を懸けて甲の左右に垂れ、その結びめに、ちょうど巾子の正面に当てて立つる物が心葉で、旧くこれを挿頭《かざし》また挿頭の花とよび、上古草木の花枝を髪に挿した遺風というから(『日本百科大辞典』四巻一九三頁)、本文「あや椙のおもい葉をかざし」のおもい葉は心葉のことだろう。西鶴がこころ葉を思い葉と誤記したものか、そのころ心葉とも称えたものか、予には判らぬ。
 それから『輪講』巻六、「詠《ながめ》は初姿」の条(六一頁五行)に、島原遊女正月の装いを述べて、「かたには注連《しめ》繩、ゆずり葉、おもい葉、数を尽し」。普通に思い葉と言うはオシドリの剣羽のことで、晋の崔豹の『古今注』中巻に、「鴛鴦は水鳥にして、鳧《けりがも》の類なり。雌雄いまだかつて相離れず。人その一を得れば、すなわち一は思いて死するに至る。故に疋鳥《ひつちよう》という」。『日本紀』二五に、天智天皇皇太子に座《おわ》せし時、妃|蘇我造媛《そがのみやつこひめ》の憂いをもって薨ぜしを哀しみたまいしに、野中の川原の史《ふびと》満《みつ》が進め奉った歌に、御両方《おふたかた》を鴛鴦に比べた。『夫木抄』一七、「つてにきく契りもがなと相思ふ、こずゑのをしのよなよなの声」定家。鴛鴦雌雄が思うて離れざるを、その雄鳥の翅尾間の柁形の双羽が表徴すると考えて、思い羽と称えたのだ。
 『保暦間記』は暦応元年に筆を止めた。それに助成・時宗復仇を述べて、これを『曽我物語』と申すとあれば、足利時代のあまり晩からぬうちに成ったものだろう。その巻五に、しそう帝かんばくを殺し、その妻を奪いしに、その妻、(58)その夫が沈められた淵に飛び入って死し、その淵に二つの赤石抱き合って現われた。帝往って見ると、かの石の上に鴛鴦|一番《ひとつがい》戯る。これも彼らが精にてもやと御覧じけるに、「この鴛鴦飛び上がり、思い羽にて王の首を掻き落とし、淵に入り失せにけり。それよりして思い羽を剣羽と申すなり」とある。(足利時代に成った『滑稽詩文』に、「鹿之妻恋、鴛之思羽、連理之枝、相生之松」とつづけあり。)一条天皇の御宇に撰んだという『拾遺和歌集』に、「別るるを惜しとぞ思ふ剣羽の身をより砕く心地のみして」読人しらず、とあるを宮武省三君が示されたから、剣羽なる称は平安朝すでにあったので、思い羽なる名は足利氏の世に著われたものか。さて、この鴛の思い羽によそえて植物の思い葉もでてきたであろう。差し当たり譲り葉と共に正月の注連飾りに用ゆる葉はウラジロで、一双の複葉が相対する様、多少鴛の思い羽に似るから、ウラジロを思い葉と呼んだものだろう。
 ここまで筆して思い出したことあり。元禄十六年出た『松の葉』をみると、「今度ござらばもてきてたもれ、岐阜のお山のひのきの枝の、浮世がかりの思ひ葉を」。よって考うるに、思い葉とは茎の先端に葉を付けず、その左右へY字形に葉を岐《わ》け出したのを言うので、ウラジロはみなその通りゆえ、島原遊女の正月装いの思い葉はウラジロのこと。岐阜のお山の檜や香椎の宮の綾杉にたまたまY字形の葉があると、思い葉と珍重し、頭にかざして家に帰り、夫婦中がよくなるなどと祝うたものと察する。だから西鶴が冠の心葉を思い葉と誤記したなどは全く予の謬見と、この場を去らず正誤しおく。なお綾杉に関し宮武君へ問い合わせたるに返書あり。すこぶる有益だから左に掲ぐ。
  御照会の香椎廟(『古事記伝』に、「漢国の意をもっていわば、もろもろの神社はみな廟ともいうべき物なれども、然《しか》いえる例《ためし》なく、なべて皇国に廟といえることはなきに、これをのみ殊に廟というは、神功皇后の征《ことむ》け賜いしのち、三《みつ》の韓国ひたぶるに服従《まつろ》い参来《まいこ》し御代に、かの国よりこの皇后の御霊《みたま》を奉斎《いわいまつ》れる宮にやあらん。されば皇国のなべての神社の例にあらず、異国より奉斎れる宮なるがゆえに、その例を別《わ》かんために、廟とは号《なづ》け奉り賜えるにやあらん、云々」とあり)の神木綾杉は今もなお存し、周囲に木柵を巡らし、一般より崇められおり候。む(59)かし神功皇后三韓より凱旋の時齎し給える兵器をここに埋蔵し、その上に杉の枝をさして、後世わが邦の守護神たるべしと誓い給いし。その杉生長して葉綾を織るがごときより、これを綾杉と名づけたりと伝説に申しおり候。付近に仲哀天皇の古宮、棺掛け椎(天皇の御柩を椎の木に掛けたまいしという)、不老水(大正天皇御危篤の時この神水を宮司より献納したることあり)、馘塚、兜塚、鎧坂等の旧跡有之、現在の宮司は武内宿禰の後裔などと所の人は申しおり候。葉が二行に排列せしや多行なりしや、不注意のため取り調べおらず。再調の上、後報仕るべく候。地上一間ぐらいの処にて枝を四方にはりおり候につき、葉をとることも自由に候。参考のため他日社参の節は神職の許しを得て、貰い受け御送付致すべく候。むかし勅使この宮へ参著の節この葉を冠にかざし、この樹下にて勅使と宮司との間にて歌の応答ありたること、何かの書にて読みたること有之候につき、一昨年社参の折、神職にこのことを談じ、先年(大正中)勅使参著の節この式ありしやを尋ねしに、左様のこともなかりし由、返事有之候のみならず、むしろこの式ありしことを始めて私より耳にせしごとき始末にて、大体このごろの神職は自分が奉仕するお宮についても、何ら研究しようとの念なきは遺憾に存じおり候。
  前年雑誌『筑紫史談』にこの綾杉について考証したる人あり、只今見当たらず候えども、要は綾杉のアヤは綾にあらず、漢(アヤ)なりとの説なりしよう記憶致しおり候。(熊楠|謂《いわ》く、果たして然らば、上に『大和本草』等より引いた唐杉とこの漢杉とが二物を同意味の名で呼んだこと、ほぼ餅黍をモロコシ、蜀黍をトウキビ、玉蜀黍をトウモロコシと呼んだに似る。今年七月の『民族』一五三頁、拙文「蜀黍について」を見よ。)(中略)足利尊氏は香椎宮に参詣して祈誓せしに、烏|一番《ひとつがい》綾杉一枝をくわえて直義の甲の上に落としければ、直義これを取って尊氏に進め、綾杉の目出たき神木なることを語り、神主武忠が歌に「千早振る香椎の宮の杉の葉を二度《ふたたび》かざすわが君ぞ君」と詠じたるもこの杉のことなれば、今日の合戦に勝利を得て、二たび綾杉をかざして都に返り、敵を(60)亡ぼす瑞相なりと告げたれば、尊氏始め軍勢勇みに勇みて出立したりなどいう譯も有之候。(熊楠|謂《いわ》く、これは建武三年尊氏兄弟多々良浜で菊池武俊と戦うた時のこと、詳細は『宗像軍記』上に出ず。『梅松論』下には、尊氏香椎の宮の前を過《よぎ》る時、神人等杉の枝を折り持って、敵みな笹の葉を笠印に付く。御方《みかた》はこれを用ゆべしとて、両大将始め軍勢の笠印に付けさせた。その時浄衣著けた老翁が、直《じき》に尊氏の鎧の袖に杉の葉をさしたから白き御刀を給わった。後に尋ねても誰も知らなんだので、神が化人を遣わされたと頼もしく思われ、軍勢勇み立った、とある。)
  皇太后陛下厚くこの宮を崇めさせられ、皇后にて御在《おわし》ます時御参拝あらせられたることあり。爾来、賽客とみにふえ、明治四十四年私初めて参拝したる時に比すれば、付近面目一新、神々しきお宮と相成り申し候。またその当時境内に綾杉餅というをうる店ありしが、今は取り除けられおり候。(下略)」
 ついでにいう。『嘉良喜随筆』三に、『遠碧軒随筆』を引いて、むかしは宮の内に板の押えあり、これを重い葉という、内の道具の押えなり、と記す。思い羽、思い葉と関せぬことらしい。(八月二十七日早朝)  (昭和三年九月『彗星』三年九号)
 
 桑の木の杖(『好色一代男』巻八、六十歳)
 『輪講』八巻五八頁、六二頁、「桑の木の杖」(八月號三五頁下段参照)。佐藤君に答う。『嬉遊笑覧』二中に、「『見聞集』六、見しは今、江戸にて六、七年以来、高きも卑しきも杖をつく。さてまた桑の木は養生によしとて、皆人好みければ、木うり、爪木をこる者、深山をわけてこれを尋ね、背中に負い馬につけて江戸町へ売りにくる」とあれば、江戸幕府の初めごろ養生のためとて桑の杖を突く流行があったのだ。『大和本草』一〇に、「国俗桑の木(を)中風の薬とす。『本草』に葉を酒に煎服す、「一切の風を治す」。またいわく、霜後の葉の煮湯、手足を(61)洗えば風痺を去る。枝は脚気、風気、四肢拘攣を治す、と言えり。また「久しく服さば終身、偏風を患わず」と言えり。(中略)また枝を杖とす」と出ず。予『本草綱目』、『遵生八牋』、『淵鑑類函』、『植物名実図考』を一通り見たるも、桑を杖にする明記はないようだ。しかし貝原先生の言疑うべきでないから、必ず古来支那で桑を杖としたので、理由はもっぱら中風患者に利くというにあったと察する。
 ちなみに述ぶ。今も紀州などで藜《あかざ》の杖は中風によいとて用うる者多し。これには唐の杜子美が「清風|独《ひと》り藜を杖つく」と吟じ、宋の徐中行が悪政を厭うて黄巌に遁れ、幅巾藜杖して委羽山中に往来した等の故事があり(『淵鑑類函』三七八)。『夫木抄』三二に、「いかにしてこのよのやみを照らさまし、光あかざの杖なかりせば」と俊頬の詠あれば、本邦でも用いたこと古し。しかし支那書に藜が中風にきくことみえず。『遵生八牋』八に、竹杖の外に「万歳藤《ばんざいとう》、藜?《あかざ》を用《も》って杖となす。形は奇怪なりといえども、これ老衲《ろうのう》の行具たり。おそらくは山人の家にて老を扶くるものにあらざるなり。姑《しばら》く置いて取らず」、『植物名実図考』四下に、藜《あかざ》の茎を秋時切って「杖となすに、軽くして致《おもむき》あり。?《ぬ》るに漆をもってすれば、すなわち堅くして久しきに耐う。郷《さと》に杖つけば、曳き扶くること至って便なり。比戸《いえなみ》これを奉ずるは、識りがたきにあらざるなり」などあるをみれば、もとその軽きを賞して杖としたので、桑同様中風退治にとて用いたでないらしい。  (昭和三年九月『彗星』三年九号)
 
(63)     小鳥狩に梟が出る
 
 西鶴の『一代男』一巻、世之介十歳の条に、「ある日|暗部《くらぷ》山の辺《ほとり》にしるべの人ありて、梢の小鳥を騒がし天の網小笹に黐《もち》などを靡かせ、茅が軒端の物淋しくも、赤頭巾をきせたる梟松桂《ふくろうしようけい》草がくれ、慰みも過ぎがてにして帰る、云々」。輪講諸君にこれは分かりきったことと思いおったところ、十月号四〇頁に鳶魚先生が、「小鳥狩に梟が出ることは私などには合点がいかない」とあって、天和版の『千世の友鶴』の一図をみつけて、マアマア気が済んだというもの、と言いきられたは、真実気が済まない御様子ゆえ、小鳥狩に梟が出る譯を申し上げる。日本ではミミズクとフクロ、支那では鴟?(ミミズク)、??(ミミズクの小さいやつ、コノハズク)と梟また?を別《わか》てど、西洋では別たず。英語アウル、仏語ヒブ、露語ソヴァ、伊語チェッタなどで通称することが多いゆえ、以下西洋の文を訳するには、ミミズク、フクロとも、すべて梟とかく。ただし和漢また二者をすべて梟とかフクロとか言った場合もある。『本朝食鑑』六に、日本でミミズクを木兎とかく、『爾雅』に、その頭目に象《かたど》りて老兎と名づく、木にすむ老兎の意で木兎と書いたものかと説き、その形状等を記したのち、夜よく蚤虱を拾い、白日物をみず、故に鳥を補うる人、木兎を架頭に繋ぎ林中におき、四囲に網を設くると、群禽来集して木兎の暗目を笑うごとく、竟《つい》に網(64)に罹《かか》る、手足を労せずに禽を捕うること数百ばかり、世もつて(梟ごとき)不祥とせず、鷹鳶の属として愛するのみ、と記す。十七年|後《おく》れ成った『和漢三才図会』のその条は、ほぼ同文だが、その目を縫い閉じて架頭に繋ぐとし、また、囮《おとり》の条に、今|※[某+鳥]鳥《おとり》のうち木兎を用ゆるは最も佳なり、その傍にモチハゴを設くれば、群鳥来たって木兎の醜形を笑い、竟《つい》にハゴに罹る、と記す。『華実年浪草』八に、『和三』のその条を抄出した末に、世俗頭巾を木兎に蒙《かぷ》らしめ、あるいはテンの皮をもって囮となして諸鳥を執《とら》う、とあるが、『和三』の本文にそんなことみえず。しかるに『嬉遊笑覧』にも、一二巻上にかく引いて、テンの皮を木兎に似せて作るなり、とある。
 よくよく捜すと件《くだん》の言句は、『和三』より三十年ほど前に出た『日次記事』八月の条に出でおる。この月鳥を捕るに、「あるいは頭巾を鴟?に蒙らしめ、あるいは?牟《てん》の皮をもって囮《おとり》を作って、諸鳥を執《とら》う」と。?は梟と同じくフクロで、また梟鴟ともいうゆえ、?鴟とかくつもりで鴟?と?頭《てんとう》したものか。しからば、ミミズクでなくてフクロに頭巾をきせるので、『和三』に木兎に頭巾をきせるとあると差《たが》えど、実はいずれにもきせたのだ。(十二月号に佐藤鶴吉氏教えられたは、『両吟一日千句』に、「秋の風ふくろうに頭巾きせさせて」鶴、「松桂の月時宜なしに出よ」雪。『大坂独吟集』に、「みみづくさわぐ萩の下露」、「野の色も赤い頭巾やそよぐらん」。熊楠いわく、もって木兎にも梟にも頭巾をきせて囮としたと知る。)その『日次記事』の文を『年浪草』などに『和三』と混雑して引いたのを、『笑覧』にも移し入れたのだ。木兎なき時テンの皮を代用して小鳥を誘致し網で取る。よってテンの網、それを天の網とかくこととなったので、『七変人』などにみゆる通り、木兎をヒルテン(鹿児島地方でヒューテンと言うと宮武省三君教えらる)と言うも、この縁からだろう。
 さて『笑覧』にズクオトシの吟詠を列ぬ。『菟玖波集』、「霰よこぎる柏木の森」、「居眠りのみみづくのみや覚めぬらん」。『守武千句』に、「われもわれものからす鶯」、「のどかなる風梟に山みえて」、「めもとすさまじ月残るかげ」。『尤の草紙』、笑うもの、みみづくに小鳥。『吾吟我集』、「みみづくで多く取りぬる小鳥こそ笑ふ処へ福来たるなれ」。『温(65)故集』に、「雀子も笑へ旅出の投頭巾」。(以上『笑覧』)熊楠いう、支那でも梟一名福鳥と『山堂肆考』にある。その笑うような声によるか。延宝七年板『両吟一日千句』に、「もずのをとりにいざいきやらぬか」友雪、「秋の風梟に頭巾きせさせて」西鶴。『駿台雑話』に、鳥取らんとて木兎を借りにやる状にズクとかき、文末にズクとはミミズクのことにて候、ミミズクと書けば文字数多く事長《ことなが》になるゆえズクと約した、と長々断わった者のことを記し、世間にこんなのが多い、と言った。明治十二年博物局刊行『博物雑誌』第二号に小野職?氏が玉川辺で木兎引きをみた記事、面白く書かれある。このこと、『本草綱目』、『三才図会』、『淵鑑類函』等にみえず。予たまたま『康煕字典』に、鵄?よく鳥言を致す(言は禽などの誤字か)、鵄?を取ってその大羽を折り、両足を絆《つな》いでもって煤となし、その傍《かたわら》に羅《あみ》を張れば鳥おのずから聚まると、淮南王劉安が西暦紀元前二世紀に編んだという『万畢術』より引きあるを見出でた。これが支那で木兎網の最古の記載だ。
 (次に本文掲載されてのち、『琅邪代酔編』八に、「蘆甲々は卵を草沢中に伏す。悪姑その出ずるに乗じ、易《か》うるに己《おの》が卵をもってす。化して雛となるに至ればすなわちみな悪姑なり。ここにおいて悪姑のあるところ、甲々群がってこれを逐う。獵者網して悪姑を取り、その足を係けてその索を膠し、蘆葦中に設くれば、甲々来たり膠せられて解くを得ず、併せてこれを取る(『玄亭間話』)」とあるを見出でた。何だかホトトギスが換玉をやらかすに木兎網のことを付け添えた話のようだが、とにかく支那にも木兎網が行なわるる証拠になる。支那にはおのれの卵を他の鳥に孵《かえ》さしむる梟の一種があるものにや、実査を要する。)
 和漢のことはこれでざっと済んだ。これよりそのほかの所伝に及ぼそう。
 明治三十六年、予、那智山下に佗しく暮らすうち、出した一書がその歳六月ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』九輯一一巻四六七頁に出た。いわく、西暦紀元一、二世紀間の筆なるプルタルクスの『列伝』一四に、シシリアの史家チマイオス(紀元前三、四世紀間)の説に、紀元前五世紀、スパルタの将軍グリッポスが出てくると、シシリア(66)人そのぐるりに集まること、諸鳥の梟に付くごとく、いつでもその好む所へ随行しょうとしたそうだ、と記す。かく諸鳥が梟につき歩くこと、欧州諸書に右のほか所見ありや。予はプリニウスの『博物志』や、ロメーンズ博士の『動物智慧論』をみたが出ていない。日本には十五世紀に一条兼良公が書いた『烏鷺合戦物語』に、烏が鷺と戦うため梟へ加勢を乞うと、梟木工允その使いに向かい、「われらがことは、かりそめにも白昼に立ち渡れば、烏稀代不思議をみつけたるように集まりて喚《わめ》き、手を叩きて笑うこと心得がたし。無容儀なりとて他を卑しむべきにあらず、形異なる物はその徳世に勝《すぐ》るることあり。老子は長《たけ》低《ひき》く、孔子は首|窪《くぼ》かなり。誰か矮子の嘲りをなす。何ぞ異相の謗りを加えん。これらは聖人の手本ぞかし。卑下もなき申しごとなれども、愚身が目元のすさまじさ、まことに眼の光人を射るものか、木拳のつきよう(他の鳥どもは足趾前三後一なるに梟族は前二後二)、これ衆鳥の似たるところ稀なり。みさまはさることなれども能芸肝要なり。えせげなれども涯分の能を具す。明日の雨を知りては糊をすりおけとなき、老者に死をつげ、その音《こえ》犬をよぶ。鼠をとること猫恥しく、鳥をとること鷹にもにたり。また年齢|闌《た》けぬれば通力出で来て人を蕩かすこと天魔のごとし。されば神通自在にして、夜陰に物を知ること阿那律《あなりつ》の天眼にも異ならず。即座に物を現ずるには賓頭盧《びんずる》の奇特にも褊《ならい》つべし、云々」と自讃して、烏が白昼自分を笑うをせめながら、弓矢の義理力なしと領状したとある。東洋で烏が梟と相|悪《にく》むことこの他所見多し。例せば、「梟山伏」の狂言に山伏が梟の嫌う烏の印を結んで、梟が人に取り付けるを祈り除くことあり。『雑宝蔵経』八に、白昼烏が梟を殺し食えば、梟は夜間烏の腹を穿ち?《くら》う、その騒ぎ止まず。一つの智烏あり。進んで自分の羽毛を他の諸鳥に抜き落とさせ、頭を啄き破らせて梟方へゆき、他の烏どもに悪《にく》まれてこの次第と嘆くと、梟これを憐れみ養い羽毛また生ぜしめた。智烏返礼のため、寒気禦ぎにとて柴草を運んで梟の?を?めた。一日|暴《にわ》かに雪ふり、群梟寒を?内に避けたるに乗じ、智烏牧牛人の火を取って焼きつけ、梟一羽残らず焚滅した。その時諸天偈を説いたは、諸《もろもろ》の宿嫌あるところ体信を生ずべからず、烏の詐って善に託し、衆梟を焚滅して死せしめたるごとし、と。『涅槃経』の一切大衆所問品には、烏と角鴟(ミミズク)(67)と、蛇と鼠狼(モングース)が一処に住むを極《ごく》有難《ありがた》の件とした。『パンチャタントラ』巻三(一九二五年シカゴ板、ライダー英訳、二九一−三七八頁)は、右の『雑宝蔵経』の話を敷衍した梟鳥合戦物語だ。ただし、梟と仲悪しくて白昼梟出ずるをみて嘲り追窮するは烏に限らず、諸鳥みな然《しか》する。(紀海音の『花山院都巽』第二段に、「さがなき口に浮名たつ、壁にみみづく梟の、憎てななりを村鳥の、笑ふ梢にさしよれば」。巣林子の『娥歌加留多《かおようたがるた》』の小鳥尽しには、「うきこと聞かぬみみづくや」とあるのみ。他鳥に笑わるる由を言わず。)それをチマイオスは諸鳥が梟に随行すと記したので、実は梟を追い駆けるのだ。よって日本のある部分では、木兎網とて網を張った側へ木兎をすえると、しばらくして小鳥むれ来たり、嘲るごとく騒いでこれに近づき罹るを捕う。読者中には、梟に紙袋をきせて栖《とま》り木に止まらせた日本の戯画をみた人があろう。それが木兎網を画いたのだ、と。(已上熊楠の質問)
 これに対して、『語源学的英語辞典』の著者故スキート大博士や、ミュニッヒのマクス・マアス博士や、博覧で聞こえた英人マクマイケル氏等九人より答文を獲た。一々訳出は望むべからずだから、面白そうなところを撰集して述べると、古いところでは二世紀にエリアヌスが書いた『動物の天性』一巻二九章に、昼間諸鳥が梟を嘲ることを記し、チョーサーはカケスや鵲が梟を嘲る由をのべ、沙翁《シエキスビア》の『ヘンリー六世』や、ゲイの『譬喩譚』には、梟が日中起き出でて他の鳥どもに嬲らるることを書いた。ブッフォンの『博物学』(十八世紀)には、梟が運悪く巣より迷い出で、盲同然なるを小鳥どもに取り囲まれ、口で噪がれ羽で敲かれ詮術《せんすべ》尽きて、空しく眼をみはったり頭を前後に廻したり、終日困り通す体を面白く写し出しある。しかし、夜になれば小鳥輩はどえらい仕返しを受ける。また人間もこの体を看過《みす》ごさず。垣に黐を施し、隠れて梟の音声をまねると、それ征伐にと小鳥群がり来て黐につき捉《とら》わるとあるが、そう旨くゆくかしら。北イタリアでは、小百姓が梟を馴養して、高い竿頂の横木にその足を絆ぎ、森近く立て置くと、おびただしい小鳥が群れ来て罵り騒ぐ。ところを黒く塗った窓で匿《かく》れおる人々が鳥群の只中さして発砲し獲るところ多し。アテネ・ノクツアなる小梟は割合に日を畏れず、出歩くゆえ、ことに小鳥に噪ぎ立てらる。よってこれを囮に(68)使うこと多いそうだ。
 ウェールスの旧伝『マビノギオン』に、梟むかしは人妻で、不貞の罰に死罪以上の目に逢わすとて梟になされ、昼出るごとに諸鳥に誚り嘲らる、という。同国の古話にまたいう。むかし蝙蝠と鴿《いえばと》と伴い旅して一夕梟方へ宿った。夕食後、蝙蝠あらぬことどもしゃべくり立てて梟をほめ揚げたが、鴿はさらに追従せず、ただ相当の謝礼を述べた。梟と蝙蝠連衡して、鴿を愛憎なしと詈り、風暴く真闇な戸外へ追い出した。翌朝、鴿その王に訴え出ると、王震怒して梟と蝙蝠の白昼外出を厳禁した。爾後梟が家内多くて短か夜の夏中、腹しばしば空しきを補わんため、半晴半曇の日さまよい出ると、衆鳥たちまち聚まって苦しめる、と。ブルガリでは、むかしミソサザイが奇計をもって鷲より高く飛んで鳥王となったが、たちまちバケ顕われて穴に隠れ、出で来たらず。諸鳥梟をして穴口を守らしむると、眠くてならぬから昼寝した間にミソサザイ逃亡した。それから毎《いつ》も梟が昼出ると諸鳥に責めらるという(一九一五年板、ガスター『ルマニア鳥獣譚』三〇一頁)。
 (その後予がみずから調べたところでは、梟を鳥捕りに使うことの最古の文献は、アリストテレスの『動物志』(紀元前四世紀)の九巻二章に、烏と梟の仲悪く、オルキルス鳥が梟の卵を食い、相敵視する由を述べた上、「日中諸鳥が梟を囲んで飛びながらその羽を抜く、これを梟を愕かすという。よって諸鳥を捕うるに梟を用ゆ」とあるのだ。)
 話が大分長くなったが、長いついでに言う。明治十六年ごろ予神田淡路町共立学校に寄宿してしばしば教場へ出《で》ず、病気届けをして諸処出歩いた。万世橋際に四十四、五とみえた屈竟の肥えた男あり。恐ろしい歯の力で大盥に小児をのせ口に銜《くわ》えて種々と芸を演じた。色の青たれた目の落ち込んだ四十ばかりの妻が三絃を囃した。旗本とかの娘で、その宅に仲間奉公中の自分に惚れて私通|欠落《かけお》ち、米国を廻ってきた、かの国では石をストン、綿をコトン、水をワタという、日本で妻をヨメと言うは、夫婦相対うと目が四つあるからで、合歓の際サーイイと呻るからサイだなど、博言学的に演舌した。
(69) この男、午過ぎに下谷の方から来て場をはり、十人も足を留めると、寛永銭を二文合わせて口に含み、テンの尾を懐中より出し手早く引きずり廻し、口中で銭笛をふくと、いかなる仕掛けか、その尾が独《ひと》りでに戸や塀を這って逃げるようになる。それを銭笛に合わせて追い捉え、地に地げつけ踏み殺す体をした。かくするうちに二十四、五人も観客が聚まった。何でそんなことをすると尋ねると、これは客を聚めるマジナイだと言った。それから他の人々にきくと、テンは魔物で、その尾に糸を付けて引きずり廻すと、雀など多く集まり囀り、夢中になってつきありくを捉え得、と言った。テンも梟や木兎同様、夜をもっぱらに小鳥など捕え食うものゆえ、昼間出ると諸鳥噪いで追い歩くのかと思う。『嬉遊笑覧』に、テンの皮で木兎の形を作り囮とすると書いたは、著者の臆測で、『日次記事』に、ただテンの皮を囮として諸鳥を執うとある通り、テンの皮を件《くだん》の歯力芸人のしたように、引きずり廻して小鳥を集め捉えたのかと察する。したがってテンの網、ヒルテンともにこれより出た語で、後に木兎網をもそう呼んだのでなかろうか。諸君の高教をまつ。
 ついでにいう。享保十五年大坂板『絵本御伽品鏡』に、路傍で沈香を売る者が、席の上に箱様の台の上の栖《とま》り木に、梟の像の頸に輪袈裟様の物を掛けて止まらせた体を画き、「沈香の匂ひを四方《よも》へ弘めんと、風梟も店に置きけり」。風梟とは梟に風が当たり次第、栖り木が廻転して梟が舞い動く製作らしく、もとはやはり客聚めのマジナイと考えるが、これまた誰でもよいから教えてくれ。欧州では魚狗《かわせみ》の屍を高く掲げて風旗《かざみ》とする旧俗あれど、客聚めにはしない(一六四六年板、ブラウン『俗説弁惑』三巻一〇章)。  (昭和二年十一、十二月『彗星』二年一一、一二号)
 
(70)     お寺小姓
 
 西鶴の『一代男』三の一、「常盤という町に入りて、竹一村の奥にちらりとお寺|扈従《こしよう》のみえける」。服部氏、これは判りませんと言われ、鳶魚先生は、お寺の稚児でしょう、お寺扈従のような姿をしているからそう言ったんじゃありませんか、と言われた。『続南方随筆』一一七頁に述べた通り、お寺扈従は女子が小姓のように男装して僧寺に蓄《やしな》われた者だ。『一代女』二に、「脇ふさぎをまた明けてむかしの姿に返るは、女鉄拐といわれしは、小作りなる生れつきの徳なり。折ふし仏法の昼も人を忍ばす、お寺小姓という者こそあれ。われ恥かしくも若衆髪に中剃《なかぞり》して、男の声遣い習い、身振りも大かたに見て覚え、下帯かくも似る物かな、上帯もつねの細きにかえて、刀脇指腰定めかね、羽織編笠も心おかしく、作り髭の奴に草履もたすなど、物に馴れたる太鼓持ちをつれ、世間寺の有徳《うとく》なるを聞き出だし、庭桜みる気色に塀重門に入りければ、太鼓方丈に行きて、隙《ひま》なる長老に何かささやき、客殿へよばれて、かの男引きあわすは、こなたは御牢人衆なるが、御奉公済まざるうちは、折ふし気慰みに御入りあるべし。万事頼みあげるなどいえば、住寺はや現《うつつ》になって、夜前、あなた方入らいで叶わぬ子おろし薬を、さる人に習うて参ったというて、跡にて口ふさぐもおかし。後は酒に乱れ、勝手より腥《なまぐさ》き風もかよい、一夜ずつの情代《なさけだい》、金子二歩に定めおき、諸山の八宗、この一宗をすすめまわりしに、いずれの出家も珠数切らざるはなし」。
 この書より十年後に出た『好色小柴垣』三に、「和尚もよそからもてくる施しばかりを受けていらるればよけれども、無用の茶小姓抱えおき、若衆髪に中剃して刀脇差横たえさせ、けんぼくぼはれて置かるるは、いずれ大胆なり。意地(71)の悪い旦那衆があって、探ってみたらば何としょうと思うてか」とあるも女を男装したので、享保五年、江戸近い雑司谷の日蓮僧が、婦人を若衆に粧い寺に蓄いおくと、寺男その女たるをしり挑めど聴かず、それより事起こり、僧が寺男を殺した咎で十二月二十七日女とともに梟首された。西鶴の他の著にも、寺の大黒孕みしを住職難儀に思い、美少年の粧いさせ金多く与え、上野花見の宴席へ推参して、妻子なき若い男に兄弟の契りを求め、たちまちその妻たらしめた譚あり。僧を相手の女はみな男装になれおったとみえる。まさにこれ「かりに若衆と現はれて寺へすみ」だ。「後水尾院八の宮は、知恩院の門跡にて御座候ところ、女人を小姓にして差し置かれ候儀、その外不行跡のこと在之《これあり》候て、甲州へ左謫せられ候。かの地にて八兵衛殿と申したるなり。帰京後も堕落なり」と元珍が書いた。仏教もと男色を非道婬の一としたに、女色の禁戒を厳にしたあまり、男色を僧徒当然のこととし、「絵にかける女に心動かせし、それは出家の道ならぬ恋」とよむに及んだ。しかし司馬遷が、高山をば仰ぎ景行をば行かん、至る能わずといえども、しかも心これに向かい往く、と詩を引いた通り、婦女の大道はなかなか後庭花の趣きの企て及ぶところにあらざるを、先天的に自覚しあるより、宮様までもひそかにお寺小姓を置かれたので、八の宮この一件で甲州へ配せられた時、「ふる雪もこの山里は心せよ、竹の園生の末たわむ世に」と詠じたまうた。事の本《もと》は女の物が男のに優る穴勝ち、この一条ばかりでないが、江戸幕府が種々と皇族を不自由な目に逢わせ参らせた。それを坐視するに忍びずと、追い追い勤王の志士が勃起し出したので、詰まるところ勃起は女に基づく。(『塩尻』七〇。『懐硯』五〇五。『末摘花』三。『古老茶話』下。『梵網経古迹記』下。一五八八年ヴェネチア板、ラムシオ『水陸紀行全集』一巻三八二葉。『稚筵酔狂集』恋。『野史』二五)
 元珍が後水尾院八の宮と言ったは、後陽成帝第八皇子良純法親王の誤りだ。馬琴が橋本経亮より間いたは、この宮遊女八千代に深く契り、日夜過度の遊蕩ありしを、板倉重宗諫めたれど糠に釘、重宗やむをえず、若干金で彼女を身受けし献じたのち、八千代を随えて甲州に配せられたまう。これをもって八千代の名吉野より高し、と。「高きかな吉野の玉門の真、僧俗金銀をもって塵となす、五十三匁一夜の夢、覚め来たって後悔す鼻毛の人」と詠まれた吉野も、(72)誉れが八千代に及ばなかったのだ(『?旅漫録』上。『増補江戸咄』六)。箕山の『扶桑列女伝』に、八千代、諱は尊子、藤原姓で波多野氏、姫路の生れ、その母金の宝器を懐くと夢みて孕む。七歳で父に後れ、十一の時母貧に迫ってこれを伏見柳町へ遣《や》った。慶安二年、島原の奥村方に遷り、名妓三笠の導きで太夫となる。時に年十五、初名小太夫、のち八千代と改む。この歳、奥村家の賀儀に女どもをことごとく列ぶるに、首席は三笠、次に野風、次に吉高、四番に八千代と定めたところ、八千代たちまち起って三笠の下、野風の上に分け入り坐った。これは『睡余小録』に、西鶴の書に、京にては野風ぞかし、いやのならぬ姿とあり、そのころ時めいたらしいが、今知る人なし、とあると同人か否、分からねど、とにかくよほど高名な女、八千代が十五歳でその上に坐ったから、家主が咎めると、八千代臆せず、座上は年積によるべからず、忠功によるべし、と言ったので、家主も閉口したそうだ。なかなかかの一儀をもよく勤め、かつは気象のステキに高い女だったらしく、「性正直にして、智仁勇の三徳を兼ね備え、忠勤をもっぱらにす」とほめ立てある。貧ゆえ売られたものの、素性も正しければ、八の宮が打ち込みたまいしももっともなようだが、この宮、甲斐へ遷されたは寛永二十年で四十歳、八千代は寛永十二年生れと『列女伝』に出ずれば、この時やっと九つ。何が何でも九歳の女子はお寺扈従にさえ用立つまい。故に八の宮が八千代ゆえに甲州へ遷されたとは誤聞で、その他の女の色に荒んだからであろう。万治二年六月五十六歳で帰洛し、寛文四年六十一で還俗したまう由ゆえ(『本朝皇胤紹運録』)、帰洛後八千代を近づけられたのかとも思えど、彼女は万治元年十二月二十四歳で廓を去ったとあれば間に合わぬ。それに彼女が太夫職にあって全盛したは、八の宮が遷されて六年後の慶安二年から、帰洛の一年前なる万治元年まで九年間で、そのうち甲州へ往ったこと見えない上に、島原で歌書や物語を講ぜしめて聴いた次第がみえる。かたがた橋本氏の話は誤謬らしい。ただし『扶桑列女伝』に出た八千代の前に、別の八千代あって八の宮に狎《な》れ参らしたものか。
 右はお寺扈従に関せぬことながら、元珍の記を馬琴の聞書と併せ読んで匆卒、むかしの名妓八千代を男装せしめて、(73)「八千代をば代千八と掛声後ろどり」した方もあったなど、心得違わぬよう注意しおく。『聚楽物語』下に、秀次関白の妾婢三十四人斬られたうち、十九番に尾張の坪内市右衛門の娘、心|様《ざま》さえざえしくて男児《おのこ》の姿ありてさながらたおやかにして、いうばかりなく優しき様なればとて、名をも喝食《かつしき》と呼ばせたまう。『石田軍記』一には、於喝食《おかつしき》の前、十五歳、武士の心に男子の姿ありて、器量|類《たぐい》あらざれば児《ちご》の名をぞ付けられける。萌黄に練貫の一重表の重ねに白き袴引きしめて、君の御首を拝し奉り、残りし人に打ち向かい、急がせ給え、三瀬川《みつせがわ》にて待ち連《つ》れあらんと、検使の方々にも暇乞《いとまごい》し、西に向かって高声にかく二、三返ぞ吟じける、「闇路をも迷はで行かん死出の山|清《す》める心の月をしるべに」。『色道大鏡』三に、若衆女郎、「これ衆道にすける者をも引き入れんの謂ならんか。されどもよき女をば若衆女郎にはしがたし。それに取り合いたる顔を見立ててするとみゆ」とあり。必ずしも美女でなくとも、児喝食の粧いに向いた顔と気質があったので、後世そんなのがお寺扈従になったであろう。西洋でもナヴァール女王マーガリタは、よくみずから粧うて、顔みただけでは麗姫とも妖童とも判ちがたかったと書きながら、婦人が若衆の粧いするは宜しからずと説いた(『艶婦伝』三)。
 外国にもお寺扈従様のことはあった。宋の劉孟明は、二者を男装させて異僧碩公に薦め、その操を試した(『高僧伝』一〇)。『包公奇案』一に、奸僧性慧が、日ごろその寺に出入する秀才丁日中、たまたま中風を発し寺に臥すと告げて、その妻を駕籠で迎え来たり、強いて衣服を剥ぎ手足を縛り、淫汚を恣《ほしい》ままにした後、その髪を削《そ》って男僧に作り、寺内に監禁翻弄した話あり。十四世紀の伊人ジョヴァンニ筆『イル・ペコロネ』に、高僧の嬖女が僧に化けて逢いに参る旅中、一法師その道伴となり、夜ごと同宿して相慰めた譚出ず。熊楠、明治十五年春初めて高野登山した時、同道した六十ばかりの松村治兵衛、これは現時和歌山の紳商糸川善之助氏の外祖父で、紀州のことにきわめて博聞だった。梨の木坂というところを上りゆく時|話《はなし》に、むかしここに金魚が落雁をくったような婀娜者が尼になって二六時中勤行絶えず、見る者、牡鹿なくこの山里と詠じけん、嵯峨の奥なる山里に勇退した仏御前かと疑い、何と惜しい物の惜し(74)い処をむだに遊ばせおくことと嘖々嗟異せざるはなく、賽銭蝗のごとく飛び集まった。だがこの女何条惜しい処を遊ばせ置こう。実は当山大僧正の大事の秘仏で、毎夜欠かさず忍び来たってお勤め怠らなんだと後に知れたとのこと。アヴィニオンの高僧が嬖女を僧に装うて本山へ呼び寄せるよりは、この大僧正が情婦を尼にして、結界外の小庵で昼間賽銭をかせがせた方が公明なやり方と、在外中しばしば語ると、天主教ごりのアイルランド人等承知せず。わが教は制戒厳重で法威地に堕ちねばこそ、たまたま心得違いの高僧が出ても女を女のままで召し上すを憚ったのだ、仏教は開祖すでに二妻一子を持ったで、初めから制戒などまじめに守る者なし、よって情婦を僧に装うて気兼ねする必要がなかったのだ、とやり返された。十六世紀の初め仏国の諸僧正濫行を極め、中には美女を十歳の時から捜し集めて諸村邑に飼い育つること?紳が小犬を養うごとく、その成長を俟って自分の婬楽に供した者あり(一八二五年パリ板、ジュロ−ル『歴史奇談』三三五頁)、とあれど、長ずるをまつどころか、ずいぶんお早く入れっしやったので、大黒天と崇める前まず、お寺扈従の文殊士利童子としたこと、黒田騒動のお秀の方を、初め拾い育てた紅陽法印が寺小姓として飽くまで弄んだごとし。(陶穀の『清異録』に、「苑陽の鳳池院の尼童子、年いまだ二十ならず、?艶《じようえん》明俊にして、すこぶる賓遊に通ず。新眉を創作《つく》るに、軽織にして時俗に類せず。人その仏弟子なるをもって、これを文殊眉と謂う」。明らかに書かねど、この少年尼が稚児若衆凧の女だったから、特に文殊と呼ばれ、尼どもこれを男装させて対食用のお寺扈従としたのだろう。)それから一五七七年パリのコリデリエー僧寮でアントアンという男装の美女、十年のあいだ少しも浮名立たずに、諸僧に事《つか》えおったのが露顕捕縛され、禁獄の上笞刑を受けたとは立派なお寺扈従だ(一八七九年パリ板、エチアンヌ『エロドト解嘲』二巻五六頁注)。『四分律』五五に、比丘男装した女と不浄を行なう制戒あり。『善見毘婆裟律』一二には、「もし女人、男子の装束を作《な》し、比丘知らずして捉うるは罪なし」、仏在世はや多少お寺扈従様の者がインドにあったのだ。アラビア人のグラミヤーも美童に粧うた若い酌女だ(一八九四年板、バートン『千一夜譚』八巻三七頁注)。
(75) 『源平盛衰記』三五、榛澤成清、巴女のことを主人重忠に語る詞、「強弓の手たり、荒馬の上手、義仲の乳母ながらおもい者にぞ、軍には一方の大将軍して、さらに不覚の名を取らず」とある。荒馬乗り、また荒馬乗せで、内でも外でも昼も夜も戦うたのだ。大坂冬陣に城将織田頼長は秀頼の従兄、その名代として諸将の持口を見廻るに、十八、九歳の遊女市十即に六具を堅めさせて、諸士|並《なみ》に騎馬召具しければ、軍中に女をおくこと古今禁制なるに、今大将の御名代として城中を巡見する人の、女を同道すること法外なりと諸将嘲り軽んじた(『明良洪範』四)。『山口久庵咄』には、「七十郎と申す女武者を拵え、朱具足、朱鞘の大小、赤幌を掛けさせ召しつれ、自然居眠りおりし者をば、かの女に申し付け討捨てに致し候」。この者は市十郎の七十郎のと男名を称えたほど男々しい女たるを幸い、木曽が巴を?童代りに用いた故智に傚い頼長が使うたのだ。『武徳編年集成』七四、城中で和睦評議の節、後藤基次の語に、十二月四日東軍の諸勢真田丸に籠つた際、城兵力戦もっとも励み、女童も石を運び防いだに、秀頼公の親戚たる頼長は風気と称し、婦女と寝室に酒宴した、と。婦女とはもっぱら男装妓市十即で、すでに寝室と言えば、酒宴に止まらず、幾番も蒸し返し苦戦したので、定めし若衆女郎も正体を露わし、狭苦しい搦め手よりもいっそ世間晴れた大門から攻め込んでと喚いただろう。天下のこと何ぞ匹《たぐい》なからんや。ローマ帝カリグラは、花のごとく殿中に満ちた姫妾を顧みず、もっぱらカイソニアに浸り込んだ。初めて幸された時すでに人妻となって三女を産んだ大姥桜で、移らうて歎たるべき色香さえ持ち合わさねば、ただみ山木と折り捨てられたはずだが、いかなる神の申し子か、持って生まれた水気氾濫、杵を漂わすばかりの大好婬、二六時中少しも軍備を懈《おこた》らず。加之《しかのみならず》すきこそ物の上手なれ、六十四種の技巧、玄女宛岩の秘訣、自得して通ぜざるなし。先に帝将軍メムミウス・レグルスの妻ロルリア・パウリナの祖母が絶世の佳人だったときき、直ちにメムミウスに妻を離縁させ、みずからこれを娶った。のち幾程もなくカイソニアに会い、思うて去る能わず、たちまちロルリアを見離してカを娶り、一女を儲けた。帝無道の余り二十九歳で弑せられた時、母も娘も殺された。この帝人情を全く持ち合わさず、野獣同然だったが、カイソニアには頭がさらに揚がらず、天下(76)を引いて与《とも》に従わんとしたは、カが帝に媚薬を飲ませたにより、帝の末年その精神乱れおったもこれに由るという。この女に帝の上《ぼほ》せ加減は尋常でなく、かかる大年増に児小姓風の武装せしめ、並び騎して行軍したは毎度で、またしばしば挙体露形して、右三左四と動作の軽妙さを人々に示させ誇ったとは、何と珍聞の至りでげしょう。そのころ婦人の男装が他にもあった。同帝の世に、将軍カルヴィシウス・サビヌスの妻が、士官チッス・ヴィニウスの若く優しきに迷い、一夜兵卒に扮して彼と陣中を通りぬけ、軍旗の置場で飽くまで狂うてこれを穢し、事露われてヴィニウス牢舎されたことあり。(スミス『希羅《ギリシア・ロー・マ》人伝神誌辞彙』各条。ムショー『艶史話彙』各条。ブラントーム『艶婦伝』四)
 清の遭翼の『簷曝雑記』四に、潮州の緑蓬船はやや佳者あり、女郎いまだ笄《こうがい》せざるは多く僮奴となり側に侍す、官吏またために染められざるなし、とあって、視学官が潮州から広州に回るとて、知らずにこの船にのり、夜寝るうち雨が枕辺に洩れ込むから群奴を呼んだ。みな妓船に就いて去り、応ずる者なし。しかるところ、トモの方から一麗人裸で燭をもち至る。紅鎖胸を抹し膚潔くて玉のごとし。帷をかかげ来たって漏処をしらべた。視学たちまちたまらなくなって、つい致しました。その船日々二、三十里行き、十余日して恵州に至り、また随って広州に著き、別れんとすれど聞き入れず。久しく落ちぶれおったに、今度貴人に侍し得て登仙したほど嬉しう厶《ござ》んす、この上おみ捨てなく奥様の下女になり、使うて下んせわしが身を、少しは不便と思しめせと、デンデン虫の卵ほどの涙粒を霞のごとく落とし、何と諭せど去らず。シシ食った報いは高い物と、五百金をやるとやっと帰った。それから評判ますます高く、厚幣にあらざれは呼んでも来たらず。視学官の探試に優等だったとて、状元夫人と綽号された、とみゆ。新吉原の俄獅子などに、娼妓が警護人足に出で立ったように、処が処だけに、縁蓬船には女が船僮の青年に扮し、時には丸裸になってまでも乗客に近づき、思いがけない叛反を起こさせたのだ。
 僧徒、将士、船客いずれも天下晴れて女をつれ悪《にく》い。よって男装の女がお寺扈従や武家小姓や舟のボーイの体でその御用をたした。その事異なれどもその軌は一なりだ。それから旅行の安全を謀り、討ちたい仇を尋ね廻る女が男装(77)したのもあって、なかにはあまり美男とみられて女に惚れられたり、男に後庭を覘われたのが少なからぬ。『京縫鎖帷子』の安井お梅、『拾遺御伽婢子』の早川お初、『琅邪代酔編』の木蘭、賞善崇、妙寂庵、ボッカチオ『十日譚』のツィネウラ・バンデロー等がその例だ。本条ちと長過ぎたが、本誌読者中に、『続南方随筆』をみた人少なからじと推し、そのうち「婦女を?童に代用せしこと」の一条(一一五−一二一頁)印刷後、思い付いた考えと、手に入れた新材料を追補のつもりで書き綴った。  (昭和三年一月『彗星』三年一号)
【追記】
 予若い時黒田騒動の講談を聴きしに、お秀の方初め定村要人と称し、男装して紅陽法印の小姓だったが、どうも女らしいので、侍二人探偵してその放尿する体を覗き、果たして女と知ったとか。(「帝国文庫」の『寛永箱崎文庫』には二士酒を使うて要人の懐を探り、乳に触れてその男子にあらざるを明らめたとす。)『川柳末摘花』初篇、「しいをやる時に侍みたといふ」とは、これを謂つたのだろう。『甲子夜話』続二一に、文政十一年本郷加州邸溶姫君の慰みに女優を召した、うちに?童一両人雑りいたるを、御付男子の輩、その尿するところをみて男と知ったとあれど、『末摘花』初篇は、これより前五十二年の撰だから、そのことでない。最近、九樽道人・方壺散史共編『末摘花通解』に、樽生が「この侍は例の勤番侍で、ある女が赤ん坊にしいをさしている時、その実黒い処を瞥見した。それをことごとしくその女に語るか、または同輩に言い触らす……であろう」と、件《くだん》の句を解いたは、固なるかな樽生が詩を解くやの歎なくんばあらず。
 ついでにいう、十六世紀にエチアンヌ筆『エロドト解嘲』二巻二〇章に、当時の天主教僧がしばしば?童や若い女を、弟子僧に装うてつれ歩いた由述べある。(昭和三年六月六日)
 
(78)     読『一代女輪講』
          三田村鳶魚編『西鶴輪講好色一代女』参照
          (昭和三年七月−四年四月、春陽堂刊、全六巻)
 
       一
 
○ 二巻四八および五四頁、「女鉄拐」。
 足利氏の中葉、文安元年になった『下学集』上に、鉄拐仙、気を吐いてわが身を出現す。寛政元年板『増補頭書訓蒙図彙大成』二一に、撞木杖を手にした乞食体の男が自分の形を吹き出す図を出し、鉄拐仙人は、虚空に向かって、おのが形を吹き出す術を得たりし仙人なり。これでは女鉄拐の義がまるで分からぬ。『日本百科大辞典』七に出処を挙げずにいわく、一日、鉄拐、老君と約ありて、まさに華山に趣かんとし、その徒に嘱していわく、わが魄ここにあり、もし遊魄七日にして返らずんば、汝|甫《はじ》めてわが魄を化すべし、と。その徒、母の疾あるの故をもって、迅《すみ》やかに帰らんとし、六日にしてこれを化す。鉄拐七日に至りて果たして帰る。魄を失いて依るべき物なし。すなわち一|餓  挙《がひよう》の屍に付きて起つ。その形貌の疎悪なるは、すなわちこれがためにして、その質にあらずと言えり、と。わが魂が脳を離れて李老君に逢いに行く、よって七日間脳を保存して待てと言い置いたに、頼まれた弟子が六日めに脳を潰してしまったから、七日めに鉄拐の魂が帰っても落ち著き処がなく、已《や》むを得ず餓死人の屍に入って蘇生したというのだ。この蘇生して形を換えたに因《ちな》んで、本文に、「脇ふさぎをまた明けて、むかしの姿に返るは、女鉄拐といわれしは、小作り(79)なる生れつきの徳なり」と書いたと見ゆ。
 この本文に何たる関係もないが、何かの折の参考にもと記しおくは、元禄五年板、俳林子の『新百物語』一の三に、東海道のある寺の多くの小姓中に、「美野部庄之介という男色、顔ばせことに優れ、むかし男の初|冠《こうぷ》りせし姿、鉄拐が吹き出せし美童もかくや、云々」。これではそのころ若返る人を鉄拐と言ったと別に、鉄拐仙人が美童を吹き出し弄んだという俗説があったらしいが、らしいばかりでそのような咄を見聞し得ぬ。ただし類語はある。『一代女』より一年早く出た『西鶴諸国咄』二の四に、生馬仙人、毎日住吉より生駒へ通う。ある日暮れに八十余の老翁と現じて、道を急ぐ木綿買いの肩に飛び乗り、一里ほど過ぎて飛び下り、骨折り賃に酒一つもるべしとて、まず手樽一つ、次に黄金の鍋数個を吹き出す。これさえ合点の行かぬに、とてもの馳走に酒の相手をと、十四、五の美女を吹き出し、絃歌献酬せしめた。その後老翁その女の膝を枕に鼾出せし時、女小声で、われはこの翁の妾だが、朝暮付き添うて心労|休《や》まず、翁が目さめぬうちに情夫に逢うから見許し下されという。言葉の下より十五、六歳の若衆を吹き出し、手を携えて歌い歩く、老人眼さめてはと、寝返るごとにかの女を待ち兼ぬるに、いつとなく女帰りて若衆を呑むところに、老翁目さめて女を始め諸道具を片端から呑みおわつて、黄金の小鍋一つを商人に遣わし、住吉の方へ飛び去った、とある。生馬仙人すなわち鉄拐仙人とは記さねど、鉄拐を鉄買いとして相手に木綿買いを出したにあらざるか。(宝永三年出板、鷺水の『御伽百物語』四にも、似たる話を載せ、能登国にあったことのよう記しある。)
 梁の呉均の『続斉諧記』に、陽羨の許彦が綏安山を行きて一書生にあう。年十七、八で路側に臥し、脚痛いから汝が運ぶ鵝の籠にのりたい、と言った。冗談と想うて、床を急ぐ女同様サア乗りなんしと諾すると、すなわち籠に入った。籠広くもならず、書生小さくもならぬに、鵝二羽と並び坐し、鵝も平気でいた。彦、籠を負うて行くに一向重からず、よいほど行って樹下に息《いこ》うと、書生籠より出で、ちと御馳走をしようとて一の鋼奩《どうれん》を吐く。奩はフタモノだ。その中から未曽有の珍味をおびただしく取り出し、酒数行にして、十五、六の美女を吐き出し接待せしむるうち、に(80)わかに書生が酔い倒れた。この女、彦に向かい、妾はこの書生の妻だが実は怨みを懐きおり、窃《ひそ》かに一男子とつれおる、書生が眠るまにこれをよぶから君は言うなかれ、と請うた。すなわち二十三、四の愛すべき男を吐き出すと、その男は彦と挨拶した。書生がさめかかると、女子は錦の屏風を吐き出して件の男を隠した。書生が女を呼び込んで共に臥すと、女の情夫は彦に向かい、あの女もゾッとせぬから、別の女を伴れあるく、ちょっと逢うから君洩らすなかれと頼んで、また二十ばかりの女を吐き出し、共に酌んで戯談はなはだ久し。さて書生が声を出すと、情夫は吐いた女を口に納めた。しばらくして書生の妻が出で来たり、書生がおきそうだとて情夫を呑み、彦と対坐するところへ書生起き来たり、妻も道具も一切呑み込み、広さ三尺ばかりの大銅盤を記念として彦に与え、日も晩《く》れたから別れ去った。大元中に彦その盤で侍中張散に食事させた時、銘に永平三年作とあるをみたと、事実らしく書きある。
 しかしこれは事実でなく、唐の段成式が『酉陽雑俎』続四に説いた通り、仏経から作り替えたものだ。呉の康僧会が訳した『旧雑譬喩経』上に出たのを、『雑俎』には至って略して引きおる。ここには全文を和らげて出そう。
 むかし、ある国王が婦女を厳に取り締まって男を見せしめず。その后が太子に向かい、われ汝の母で汝を生んだが国中を見たことなし、せめて一度出てみたいから王に願うてくれ、と言った。三度まで望まれて太子が王に申すと、王が許可したので、太子みずから馭者となって母后と外出した。群臣、道上に迎えて拝すると、后が手を出し帳を聞いて自分の顔を彼らに見せた。今は知らず三十年ばかり前まで、予が親交した回教徒の人士で一向母の顔を知らず、女の顔とては妻の外のを見たことなしと語る者多かった。『扶桑略記』二三に、醍醐天皇が昌泰元年十月二十日、小鷹を弄んで君臣乗馬で京の町を通られしを、縦観の車、路を夾んで絶えず、車中の女争うて天顔を瞻《み》、あるいは半身を出し、あるいは忘れて面を露わす、と出ずるを見ると、そのころ日本でも女の顔を人に見せるを非礼至極としたのだ。それに件《くだん》の王后が、厳格な夫も年ごろの太子もある身で、「おやしたも知れぬで女罪深し」。何の誓願あってか、みずから進んで婉容を公開したのだから仰天し、腹痛と称して太子は中途より引き返した。
(81) さて日ごろ貞女の典型と言われたわが母さえこれだから、何ぞいわんや余の女どもをやと、いやになって国を捨て夜逃げし、山中に入って遊覧するうち、道辺に樹あり、下に泉水ある所へ来た。太子樹に上って見おると、梵志独り来たって水に入り洗浴し、飯を出して食い、術をなして一の壺を吐くと中から女が出た。梵志その女と面白く行なって臥し眠った。あとで女また壺を吐き、若い男を出して共に臥し、事|了《おわ》って壺を呑むと、梵志起きて女を壺に入れ呑みおわって去った。太子、これを見て日本のどこやらにドコモ地蔵というあり、貧僧がいくらその像を祀っても参詣人が少ないので、像をコモ巻きにして他処へ移らんとする夜の夢に、その地蔵がドコモと語った。ドコモここと同じ不景気だとの示現と悟り、諦めて移らなんだときくその通り、ドコへ往つたって女に誠なきは傾城に限らずと見切りをつけ、さつそく帰国して王に申し、諸臣下を集めて三人前の食を供えて件の梵志を招待した。梵志自分一人に三人前とはと不審すると、太子が女を出して共に食えと言った。止むを得ず女を出すと、また男を出して共に食えと言った。止むを得ず情夫を吐き出し、三人一所に食うてのち去った。王、太子に向かい、どうして汝はこんな秘事を知ったと問うと、太子は母后が女聖と仰がれながら、婬慾常に絶えざるを見て逐電し、さて山中でこの梵志と女と相|紿《あざむ》く体を見た。所詮女は婬念の絶えぬものゆえ、いかな厳禁もその効なし、いっそ勝手自由にさせやられたいと述べたので、王すなわちのち宮中に勅し、その行かんと欲する者は志に任せ従わしめた、とあって、天下信ずべからざるは女人なり、と結びある。けだし南方先生とは雲泥、よほど女に嫌われた者の言い分だ。
 この経説や『続斉諧記』の文を早くわが邦に伝唱したところへ、鉄拐仙人が随意に魂を身外に遊び出ださしむるところを示すため画いた仙人の自分の形を口から吹き出す図が渡来したので、美男を吐く力ある美女を吐く梵志また書生と、自分の形を吹き出す術ある鉄拐仙人を融合して、さてこそ鉄拐仙人が美女ならで、美童を吹き出し戯れたとの俗説が一時行なわれたことと察する。(昭和三年九月三十日午前四時)  (昭和三年十月『彗星』三年一〇号)
 
(82)       二
 
○六巻一七頁、末より四行、「粽の一連」は、十箇が普通らしい。『和漢三才図会』一〇五に、粽は粳粉をこねて状《かたち》を芋の子のごとくし、蘆の葉で包んだ上を菰《まこも》の葉で包み、菅か燈心草でくくり巻いて、十箇を一連となし、ゆでる。肥前長崎では、竹の皮で包み菱形のごとく三角にし、五箇を一連とし、端午に家々の節物とするは、支那の風を移しただろう、と記す。
○六巻四〇頁、四行、本文「おわりょおわりょと泣きぬ、これかや聞き伝えし孕女《うぶめ》なるべし」。五二頁三行、うぶめは、「その声おわりょうおわりょうとなくと申し習わせり」。『和漢三才図会』四四、ウブメドリの条に、九州人謂いていわく、小雨の闇夜不時に出ずることあり、そのおるところ必ず燐火あり、はるかにこれを視るに、状《かたち》?のごとくして大きく、鳴く声もまた?に似、よく変じて婦となり子を携う、人に遇うときは子を人に負《お》わせんと請う、怕れて逃ぐれば憎寒壮熱して、はなはだしきは死に至る者あり、強剛の者諾してこれを負えば害なし、云々。『好色盛衰記』三に、泣いて人を威《おど》す者、千日寺の産女《うぶめ》、遊女有馬の仕かけ。そのころの産女の怪は、負わりょう、負わりょうと泣いたのだが、頼光の郎等平季武が逢うた産女は、子を泣かせてこれを抱けと請うた由、『今昔物語』二七の四三に出ず。その時季武少しも動ぜず、その子を受け取り抱き取って返り、見れば子はなくて木の葉少しあった。この産女というは、狐の人を謀らんとてするという人もあり、また女の子産むとて死んだるが、霊になったのだともいう、と出でおるが、南方先生が季武だったら、子などはどうでも宜しく、新産婦は新嫁女同然の緊搾力に富むから、その子を捨てて産女それ自身を抱くはずだに、不幸その世に生まれず、七十五日生き延びそこねました。(『民俗学』一巻五号三四〇頁、長山源雄氏説に、豊後国直入郡西福寺馬場口には、産女《うぶめ》が出て、通行人に児を抱いて(83)くれと頼む。これを抱くと、稾打ちの槌であったり、石であったりする。)
 この産女を古来支那書の姑獲鳥に充つるが、その記載が十分とまで合わぬ。姑獲鳥喜んで人の子をとり、おのれの子となす。産女にこのことありと言わず。産女は木葉を子に化成して人を欺く。姑獲鳥にこの伝なし。ただし支那等にも木葉を子に化成して人を欺く怪物はある。『酉陽雑俎』に、唐の僧太瓊が、黄昏、初生児を見つけて抱き歩むうち、袖の中が軽くなったので、探ると古帚一本だったといい、伊国ヴェネチアの怪精マッサリオルは、好んで棄児に化けて、拾いくれた人を欺き消えてしまうという(一八七五年ヴェネチア板、ベルノニ著『ヴェネチア怪譚』末章)。ニュージーランドの神マウィ・チキチキ、母神タランガに堕胎され、鳥と化《な》って母神を冥界に尋ぬる話はちと産女怪に似おる(一八七二年ライプチヒ板、ヴァイツおよびゲルラント『未開民人類学』六巻二五六頁)。ボムベイで産死の女人家に帰って生前の形を現じ、泣き号《さけ》び燈を消しなどして人をおどすという由だが、木葉を子に化成して行客をおどす等のことはないようだ(一九二四年板、エントホヴェン『ボムベイ俚俗』一六八頁)。(古ギリシアの伝説に、リビアの女王ラミアは、すこぶるの尤物で、ゼウスと契りしを、ヘーラ嫉んでその子を取った。ラミア怨んで、他人の子を多くとり殺せしより、醜女怪となれり、と(スミス『希羅《ギリシア・ローマ》神彙』二の七一三頁)。)
○六巻六九頁、「皆思謂《みなおもわく》の五百羅漢」。一五八七年ごろ仏国で出たベリカールの『表白』の終りに、ヴィクトリ、ブールデュ、スルジス、ビラグ、シュルジニール等の好女衆、異口同音に啓《もう》すらく、ああ、わが神よ、神吾輩に大慈悲を垂るるにあらずんば、吾輩何とせん。さらば吾輩高声に叫んで、吾輩これまで諸王公、大僧正、紳士、僧正、院主、寮頭、詩家および一切の分限、家職、性質、状態の諸種の人々より、下っては騾奴、徒士、小姓、厩卒、吝嗇人、穢民、刑余、貧究、痘瘢、禿頭、梅毒の諸人までもと、ともに犯せし肉の罪を釈《ゆる》したまえと願い、吾輩にして神の大慈に頼って然るべき男に嫁し得ずば、とこしなえに信女となって懺悔の実を挙げんと志す、と。とあるのが、本文『一代女』の自懺に少なからず類似しおる。(四月二十九日午前三時)  (昭和四年五月『彗星』四年五号)
 
(84)     読「五人女輪講巻二」
           「西鶴輪講好色五人女巻二」参照
           (『彗星』四巻一二号一−六五頁)
 
 三一頁八行、「ことさらこの神は左様のことをかたく嫌い給えば、世に恥さらせし人、見及び聞き伝えしなり」。『続南方随筆』一四二−一四七頁に、この神罰の類例をウソザリするほど列ね置いたが、その後見当たったのを獺祭臚列《だつさいろれつ》としょう。
 故末吉安恭氏示されたは、「慶長十年ごろ琉球に至りし僧袋中の『琉球神道記』に、中ごろ波之上(今官幣小社となる、那覇にあり)拝殿にして、祝子と内侍と合歓す。しかるに両根著して離れず、衆徒これを憎んで、面殿に曝すこと三日にして離る。その清めに地を三尺掘り去り、浄砂をしき、相撲をなすという。倭に永正年中にや、能州に兵乱起こる、石動《いするぎ》山に夫婦忍び入りて隠る、衆徒の好身たる故に爾《しか》なり。夫婦交合あり、離れず。講堂に曝すこと三日にして分離す。その響き三里に聞こゆという。されば仏戒は仏閣、僧房、社祠、墳墓等なり。『鬼問経』に、霊所に婬する者は、餓鬼となって、深く男根を苦しむとなり」とあるそうだ。
 貞享三年板、『好色三代男』の三の二、夫仙台へ旅して、二、三年空閨を守る妻に忍ぶ男を、ままならぬ身は免してと辞《いな》むに、「長くもがなと祈りし甲斐なき命も、かかるよすがを待ちてこそなれ、よしや月は明けて日出で、恥がましき目みるとも、もろともにこの刃の上にと思い定めたる気色」。『川柳末摘花』一、「抜けぬぞと女房をおどし伊勢へ立ち」、「ぬっといれまづ抜いてみる伊勢の留守」。参宮の留守ならでも、夫が旅立った留守に強いて事を企つれば(85)恥を露わすと言い伝えたものか。『常陸風土記』、香島郡の那賀寒田郎子《ながのさむたのいらつこ》、海上安是郎女《うなかみのあぜのいらつめ》と※[女+燿の旁]歌《かがい》の会《つどい》で出あい、松下に蔭れ、「手を携え、膝を?《つら》ね、懐《おも》いを陳《の》べ、憤りを吐く。すでに故《ふる》き恋の積もれる疹《やまい》を釈《と》き、また新しき歓びのしきりなる咲《えま》いを起こす。(中略)にわかにして、鶏鳴き狗《いぬ》吠えて、天《そら》暁《あ》け、日明らかとなる。ここに僮子等《うないたち》、なすところを知らず、ついに人の見んことを愧じ、化して松の樹となる。郎子《いらつこ》を奈美松《なみまつ》と謂い、嬢子《いらつめ》を古津松《こつまつ》と称《い》う。古えより名を着けて、今に至るも改めず」とあるも、露わに言いたらねど交会のまま解け得ざるを羞じて、二松相連なれるものと化したと言ったらしい。
 『尚古造紙挿』上所収、宝永二年の御蔭詣りを叙べた『宝永千載記』に、「日本より歩みを運び、毎日幾千万か限りなき参詣、この道を慎めばこそ、宮川の流れ清く、御本社に向かうぞかし。もし同者どし、不義あれば戸板に二人のせながし、その国々につれ廻り、一家一門より集まり、さまざまに笑い罵りて、のち別座すること、むかしは折ふしこの類《たぐい》もありしとなん。また無智の人、下向には宿なる女を犯しても苦しからずという人あり、口ずさみにも勿体なきことにぞ」とある。(『好色旅日記』見合わすべし。)宝永五年西沢一風作『野傾友三味線』三の四に、江戸の男、参宮の帰途、旅宿の隣室に男女会合するを覗き、その顔板に著いて離れず。亭主これ只事にあらず、立ち聞きすれば堅牢地神、頭を痛めたまうと申し、ことに大神宮参詣の人、不浄なることを覗きたる神罰なるべしとて、顔の付いたまま板を引き切りぬれども、なおその板離れざれば、心中に祈念して故郷を指して帰りけるが、この時より好色に深き者を板顔と言うことは始まりける、と記す。
 四四頁に森君が、元禄時代に日本にきたオランダ人でそういう見世物をみたことを書いたのがありますな、と言われたは、例のケムペルの『日本紀行』で、予は只今本書を持たぬが、眼前なる一八一一年ロンドン板、ピンカートンの『水陸旅行記行集』七巻に収めた撮要本七四一頁に、伊勢参宮の人々が夫妻すら一儀を忌むことを述べて、「山伏ども迷信者の心裏にかかる可笑《おか》しき想念を持続せしめんとて、珍譚を鼓吹して、確信せしむるを怠らず。いわく、(86)参宮の途中行淫したる者は固く膠著して、山伏の呪詞と行法にあらずんば離し得ず、と」と記す。ついでにいう、ケムペルは、エストファリアのドイツ人でオランダ人でない。予二十七歳の時、只今英国学士会員たるフレデリク・アーサー・バサー博士が『ナチュラル・サイエンス』へケムペルを蘭人と書いたのを尤《とが》めて正誤せしめたことがある。よく間違うことゆえ、ちょっと述べおく。抜けぬとはないが、熊野参りの先達が途中で女を犯して即夜死んだ由、『沙石集』に見ゆ。
 『続南方随筆』に、『嬉遊笑覧』から孫引きしたごとく、支那にも?《えん》州の人が、妻の妹と神境で行婬して離れず死した話あり。『酉陽雑俎』には、寺門で会うた男女が蛇に巻き束ねられて、ともに死んだ譚あり。その後調べると『太平広記』三一八に、『酉陽』より古き『幽明録』から、「ケ艾の廟、京口にあり、云々。隆安中、人あり、女子と神座上に会う。一蛇あり、来たってこれを繞る数四匝、女家追い尋ねてこれを見、酒脯をもって  宿り祠る、然る後解くを得」と引きおる。抜けなんだというところを蛇に巻き合わされたというのは、日本にない言いなしようだ。西洋でも霊場を巡拝する夫婦は、出発に臨み誓うて、途中同寝を禁じた。古くはアカイアの青年メラニポスが、アルテミス・トリクラリア廟の斎女コマイトと廟中で交わり、神罰で即死し、アカイア国大いに飢疫す。デルフィーの神託により、年々国中最美の青年男女を牲したという。(一四五六年初出、『百新話』第三〇語。一八四六年板、スミス『希羅伝記神誌名彙』二巻一〇一四頁)
 一九二七年板、マリノウスキーの『野蛮社会の性と抑制』一二六−一二八頁に出た、兄妹心中して離れざる尸体より芳草を生じた黒人島州《メラネシア》譚は、和漢欧州等を去ること遠き蛮民中にも、かかる迷信あるを証する。(昭和四年十二月三十一日午後四時)  (昭和五年二月『彗星』五巻二号)
 
(87)     読「心中二ツ腹帯輪講」
            「海音輪講心中二ツ腹帯」参照
            (『彗星』二年七号一−一五頁)
 
 輪講員の多くが上方をよく知らなんだり、忘れてしまったりらしいから、「名月や江戸の奴等がなに知って」と、贅六どもに言われそうなことが少なくない。少々挙げると、
 蕗の姑(二頁)。『重訂本草綱目啓蒙』一二に、フキノトウの異名を列して、フキノジイ(河州)、フキノシウトメ(和州)、と記す。和歌山県でも有田郡などでフキノシウトメと言ったが、今はどうかしらぬ。
 小気(九頁)ということは今もいう人あり。明治十九年まで小生は毎々亡父に小気な男と笑われた。雲井竜雄の詩に、深く恥ず平生気宇の狭きを、とあったと覚える。気宇の狭小なるを小気というので、平気、悋気などと同類の語か。『常山紀談』に、「別所家にて首供養したる人ありと(黒田)孝隆聞いて、秦桐若、首三十一取りたるに、惜しむべきは死したりき、吉田六之介正利供養すべし、と言われしに、正利、首数二十七取りて候、とて辞したりけり、孝隆小気〔二字傍点〕なる男かな、今年三十一歳なり、この後首取るまじとや、まず供養して後にその数を合わせよとて、米百石与え、供養して播州青山の南に塚を築きたり、云々」。それより前享保十五年に成った自笑の『世間手代気質』四の一、「巧みは深い智恵の海、底の知れぬ人の心」の条は、大坂の呉服屋の手代が、自分の執成しで積み下ろした主人の代物が、難船で沈んだために、主人に大損を掛けたが気の毒とて、発狂を粧《よそお》い暇を貰う次第を書いたものだ。それに、「手代与六兵衛は元来小気〔二字傍点〕者にて」、「さりとは小さい根性、云々。そちがような心では、云々、舞錐《まいぎり》廻す職人の、針のみみ(88)ずより小さい気〔四字傍点〕、云々。こは与六兵衛狂気したかと伴れており、旦那へかくと言えば、さてさて小気〔二字傍点〕な奴かな(中略)。その小気〔二字傍点〕から狂《きちが》い半分になった者じゃ、云々」と、小気〔二字傍点〕と小さい気〔四字傍点〕と合して四度繰り返しある。
 大寺のほとりに遊ぶ童(九貢)。「まず本汁に大寺や」。大寺は棒鱈(ボウダラ)を酒落たので、棒鱈を主とし、そのほとりに萵苣《ちさ》と白魚をあしらうて本汁を調えるということとみえる。
 から紅《くれない》の心中とは憐れとぞみる子持鮒(九頁)。元禄八年に成った『本朝食鑑』七に、「近世、歌人の紅葉鮒《もみじぶな》と称するものは、秋後冬初、霜林紅に染むるの時、肉厚く子多くして、その味もつとも美なり。故にこれに名づく」。『重訂本草綱目啓蒙』四〇に、「一種モミジブナは、秋冬のとき竹生島大浦辺にてとる。マブナより微小。一尺に過ぎず、色紅を帯ぶるゆえに名づく、云々。彦根にては、春夏はマブナといい、秋冬はモミジブナといい、一物とす」。
 とうなん、せいなん、小殿原(一三頁)等は、照手姫が長者方で調達を命ぜられ、一々何物を指すと知って取り集めたので有名だ。その本文は明治三十九年発行『新群書類従』に収められた古浄瑠璃『小栗の判官』にある。『用捨箱』に、万治年間印本といい、この照手姫の条、今説経浄瑠璃に伝わり云々、とある。八月號一六頁に飯島君が引かれた説経祭文は、文句の上よりみるとこれらよりは晩出のものらしい。また『用捨箱』に、貞享二年刻『天王寺名所彼岸桜』から、「庚申堂、七色の難題姫が思ひや歌に詠む、正友」という句を引きある。庚申祭に七色果子を供うるところから当時連想上より、照手姫の七色の買い物を庚申に供うるため、青墓宿の長者が要求したと心得たらしい。この長者の家号、万屋とあり。上方で八百屋を万屋といい、和歌山市に食品店ばかりあった町を今も万屋町という。そんなことから庚申を万屋すなわち八百屋の守護尊としたであろうか。小栗の郎徒十人が地獄の十王となったなど信じた時代相応のことと惟わる。
 まだいろいろあるが、只今多忙ゆえこれだけにしておく。(八月二十一日朝四時)  (昭和二年九月『彗星』二年九号)
 
(89)     読「世間猿輪講」
             「秋成輪講諸道聴耳世間猿」参照
             (『彗星』三年三号一−二一頁)
 
○一二頁、二欄七行、「金の橘銀の梨」。『鉢かづき』草子に、姫君、宰相殿へ別れ出でんとした時、その幼きおり母君がその頭に被《かぶ》せ置いた鉢が脱け落ちたから、宰相殿がその顔をみると美艶無双で、鉢の中に砂金作りの橘や、銀製のけんぽ梨などの宝を入れあったという。ここは娘おしでが急に美女になったのを、それらの珍宝がたちまち現われたに比べたものだ。
○一七頁、二欄以下、「高等」。以前上方でしばしば聞いた詞で、上衣の英語同様コートと発音し、東京でいうジミなことを指す。「古渡」かとも思えど発音が違う。
○一四頁、三欄、第三回の初めに出た故事を、木村君は、『史記』でお馴染のところですな、と言われたが、『史記』には見えぬ。小説『漢楚軍談』にあったと記憶する。明の万暦二十三(わが文禄四)年成った『山堂肆考』徴集三五に初めて出た話らしい。いわく、張良、漢に事《つか》え、韓信将佐の才あるを知り、仮に道人となりて剣を売る。時に信、楚王の麾下にあり。信、良を見て問いていわく、この剣何と名づくるか。良いわく、一を将軍剣といい、二を諸侯剣といい、三を天子剣という、君もしこれを用いば必ず諸侯に覇たらん、と。信、良を留め宿せしめ、これと事を叙ぶ。良、よって信を説いて漢に帰せしめ、信これに従う、と。
 本文、「なめらわれし」は「ためらわれし」を正しとすべし。(三月二十八日早朝)  (昭和三年四月『彗星』三年四号)
(90)【追補】
○二〇頁、一欄三行、「印金」。宝暦三年成った『雅遊浸録』四の六丁裏に図あり。二五丁裏に、「印金。地色品々、模様も品々なり。金襴の類なり。牡丹、唐草、作古(この二字よめず)多く、地組は紗のごとし。金筋、金泥をもって模様を置きたる物なり、押分あり。袋には遣《つか》われず。表具地なり。彩色入」とあって、紋紗印金等すべて七種の名を列ぬ。木村君は印金は渡り物ばかりのように述べられたが、同書に、奈良印金、京印金、糸屋印金、一木印金と四種の日本製の名を出しある。(四月十日朝九時)  (昭和三年五月『彗星』三年五号)
【再追補】
 印金とは一体どんな物と言うに、津村正恭の『譚海』一四に、「呉郡の綾、蜀江の錦とて、二物は織物の最上第一とす。すき者《しや》の時代きれとて用うるも、この二品にすぐるはなし。秦の始皇のころは、いまだ織物もさだかならざるゆえ、金箔をもって紋をおしつくりたるを、今印金というなり」。(六月二十六日朝七時)  (昭和三年七月『彗星』三年七号)
 
(91)     読「夢想兵衛輪講」
 
       一 小便をシシと呼ぶこと
 
 本誌三年七号一〇頁に、『夢想兵衛』の「少年国」に、「小便をシシといい」とあるにつき、鳶魚先生「普通シイかシッコですね。王朝時代にはシシだが、江戸時代の言葉でシシとは言わない」と言われたは千慮の一失だ。まず「王朝時代にはシシだが」とは何に拠ったものか。弘仁中成った『日本霊異記』に、女陰をシナタリクボと訓じあるが(『柳亭記』上)、小便の垂るる窪と釈し得る。しかしシナのシはシイかシシか判らぬ。鎌倉幕府の世に成つた『今物語』に、「少輔|入道《(寂蓮)》と聞こえし歌よみ、有馬の社に詣でて、社の前なる物をみて、『この山のしし〔二字傍点〕厳めしくみゆるかな、いかなる神の広前ぞこは』とよめりける。いと興ありてこそ聞こえけれ、云々」。広前の前は『続古事談』二に、「九条殿(師輔公)忍びてきたの宮(『皇胤紹運録』に醍醐帝第十四の皇女康子内親王)にかよい給う。いまだ人もいたく知らざりけるに、正月一日小野宮殿(師輔公の兄実頼公)内《うち》に参りて、九条殿に逢い奉りて北の宮の拝礼に参らんと思うに、雨の降りて、お前のきたなくて、得参り侍らずとのたまいければ、九条殿顔すこし赤めてぞおわしける」とあるごとく、神社の前地を空割三寸の俗諺ある前庭(学名ヴェスチブルム)に比べたので、有馬社は女神を祭ったものだろう。その広前相応に石獅子すなわち狛犬もいかめしう見ゆるというので、獅子を尿(シシ)に通わせたのだ。こ(92)の歌を詠んだ寂蓮は、王朝の末より鎌倉幕府の初期に盛えた俊成卿の甥かつ養子で、建仁二年寂した。故に王朝の末よりは、たぶん鎌倉幕府の時これをよんだであろう。予は只今これより前に小便をシシと言った例を知らぬ。小便をシシでなく、シトと言ったは、王朝の俊頼の歌あること、宮武君が本誌四年二号二七頁に述べられた通りで、鎌倉時代には『古今著聞集』の「興言利口」の部等に、小便をシトと言いおる。また別にシジという詞あり。『昨日は今日の物語』上に、娘二人を男子に変ずるよう頼みて祈?法師に預くると、十分弄んだ上、二人とも何と祈りても男にならずとて還す。両親娘どもに、何と祈られたかと問うに、妹は、御坊様もいろいろ出精して、昼夜しじを植えたまえどもはえ付かなんだ、と。姉は、生え付かぬも道理、逆さまに植えられたから、と答えたと見え(また、稚児の里が貧しいゆえ、何もかも借り物ばかり。借りぬ物はしじばかりじゃというと、稚児聞いて、まことに口惜しや、しじもわが物ではない、人が見ては、馬の物じゃというほどに)、下巻には、ひぜんの国かんざきの郷に、なむの二字を額に打った寺あり、すなわち二字寺という、その尼どもいつも麻糸を捻《よ》って売る。その辺の東妙寺の僧ども糸を買いにゆく体で、さいさい物としたとて、狂歌、「二字でらも今は六じになりにけり、たうみゃうじよりしじをいるれば」。二字にシジを入れて六じになるというので、ある刊本のごとくシジをシシに作っては訳が別らぬ。(寛永十九年板、西武の『鷹筑波』二に、「筒井筒五つ六つ子の恋をせし」「しじ〔二字傍点〕さへ今はおへにけらしな」正真。)そもそもこのシジとは何かと問わんに、『和漢三才図会』一二に、?音酔、※[血+峻の旁]同じ、赤子の陰なり、俗に指似《しじ》という。『松屋筆記』八一に、「陰茎をシジというは、もと縮みたる様よりいえるにて(『今昔物語』三一の一五語、北山。「聞くに肝心しじまりて、おそろしと思い居たるほどに、云々」)、関東にては小児童の陽物に限れる詞なり。『新撰狂歌集』下巻雑部に、教月坊、ある時女院の御所御庭狭きとて、この人の地を取りて御庭の前をひろげ給えば、『にょぅ院の御前の広くなることは、教月坊がしじのいるゆえ』。四至《しじ》の入るに陽物の入るを寄せたり」。教月坊は鎌倉時代弘安六年以前の人らしい(『骨董集』上篇下の後)。明治十六年ごろまで紀伊湯浅辺で男根をシジと言ったが、小児の物(93)に限らなんだ。
 鳶魚先生、「王朝時代にはシシだが」と言われたが、予は上述通り鎌倉時代以前に小便をシシと呼んだ例を知らず。先生あるいはシトとシシを混じたでないかと惟う。次に、「江戸時代の末の言葉では、シシとは言わない」との説に対し、宮武君は本誌三年一〇号一八頁に、江戸時代の末から今に及んで小便をシシと通称する所多きを立証された。こはきわめて実説で、現にこの紀州では到る処今も児女が尿をシシと称うる。なお手近い諸書から徳川時代下半期の諸例を列ねるに、逆縁ながら後方から仕掛けよう。まず万延元年板、『矢的文庫』四の一〇に、シシする所で無性にこじり。文化六年板、『浮世風呂』二編下に、シシババもお丸でとる。天明三年出、『伊賀越道中双六』郡山屋舗の段、コレお乳母、女房どもにししやつて寝さしてやりや。安永ごろの『川柳末摘花』に、シシのでる婀娜《あな》は別さとさざめ言。天明四年初演『隅田川|続俤《ごにちのおもかげ》』、法界坊お組に贈った艶簡を読まれて逃げかけるを、甚三郎が坊様どこへと詰《なじ》ると、ツイシシしに、と答う。徳川時代上半期の末近く、享保元年に出た其磧の『世間娘気質』一、十七になるまで嬰児同前に育った娘、千両の敷金持って嫁入りする条に、「いと様これは夜ざといのと、塗り長持から高蒔絵のおかわ取り出し、シシやるなどけうとかりき」。文化十一年板、三馬の『女房気質|異赤繩《おつなえにし》』二に、ほとんど件《くだん》の其磧の文と趣向を丸取りの一条あり。それには、「花嫁のオシイをやるなど気疏かりき」に作る。ただしこれより五年前に三馬が出した『浮世風呂』に、シシババ取るという句あれば、当時シシとシイ共に江戸の通用詞であったのだ。されば、王朝時代に小便をもっぱらシシと呼んだでもなく、徳川時代にことごとくシイとばかり言ったでもない。(貞享元年板『好色二代男』二の三にも、二歳ばかりの児の、(中略)まだ泣きたいという奴を、すかして、ししやっている。元和九年成る『醒睡笑』三に、「年よれば腰に梓の弓をはり、しわのいる矢にししぞ少なき」。猪《しし》と尿《しし》をとり合わせたるなり。)
 (追記)宝暦五年八十八で歿した雨森芳州の『橘?茶話』下にいわく、わが国人二便をシシババとなし、破屋をハニ(94)ウノコヤとなす、すべてこれ唐話、かくのごとき等類また少なからず、人いまだかつて究めざるのみ、と。これはシシを支那から移った詞としたのである。
 
     二 神仏をノンノウということ
 
 鳶魚先生、「江戸時代の末の言葉ではシシとは言わない」の次に、「神仏をノンノウ、これもノノサマという、ノンノウとは言わない」と言われた。しかるにかつて『日本及日本人』か何かに、一茶の手稿本を写し出したうちに、「幼な子がのんなうとよぷ月夜かな」とかいう句あるを見て、今もこの辺で、母の背に負われ、月をみてノンノーと腰に力を入れ、念を押す実況を眼前に泛べ、感に勝えたことがあった。『日本俳書大系』の『一茶俳句選抄』が昨年出た時、就いて捜ると、「ののさまと指さした月出たりけり」の句がある。「のんなう」をのの様と改めたものか。識者の教えを乞う。予には後者の方が劣りてみえる。  (昭和四年四月『彗星』四年四号)
 
(95)     性画の流出入
            林若樹「性画の流出入」参照
            (『彗星』一年五号二八頁)
 
 紀州日高郡塩屋村の医者羽山維碩の『彗星夢物語』八編上は、文久元年の手記に係り、清国人羅森の『続日本日記』を収む。開港当時横浜下田間を視察した記事で、下田についていわく、「再《また》の日、往きて街市《まち》に遊ぶ。舗《みせ》の屋《やね》のあるいは茅草をもって編み、あるいは灰瓦をもって乗するを見る。比鄰《ひりん》にして居《す》み、宝の内は通達す。故にかつて門を入りてその人を見、ふたたび別屋に入りてまたその人を見るなり。女人、家を過《よぎ》り、巷《ちまた》を過る。男女を分かたず、途間といえども、これを招けば、また至る。婦人は多く裸?《はだぬぎ》なるあり。傭工者《やといしよくにん》は稠人広衆《ちゆうじんこうしゆう》に下体を見《あら》わすを羞じず。女は婬画を看《み》るを平常となす」と。これ下等婦女の記載で、「婬画を看るを平常となす」とは、外客が試みにそんなものを見せたと自白するもの、つまり自分の恥曝しだ。予昔日広東人の間にやや久しく起居したが、その輩みな穿公(ツェンクン)と称し春画をもちあり、出来そうな女とみれば私《ひそ》かにこれを示して春意をそそった。またロンドンにあった日、故中井芳楠氏(横浜正金銀行ロンドン支店支配人で明治三十五年ごろ死なれた)の話に、柳河春三は春画の文句を英訳するに妙を得ておびただしく金儲けをしたから、春三と言わず春画と通称された、と。これは明治初年のことであろう。『甲子夜話』続八八に、天保三年琉球|来聘《らいへい》の節、随員江戸の寒さに苦しむをみて、伽に出た人が彩描の春画を懐中より出し示し、これはいかにと問うと、かかる者を抱かせ賜わらば寒さを厭わず三年はおるべし、と答えたと見ゆ。わが慶長十四年ごろ成った明の謝在杭の『五雑俎』七に、「余、番舶に従《よ》って、倭画数幅を購《あがな》い得たり、云々。また、(96)春意の便面一摺《せんすいつぽん》あり。その衣冠・制度は、はなはだ殊詭《きつかい》なり、設色《いろどり》もまた中国に類せざるなり」とあるは、源氏絵などを指したようだが、その三百余年前、元の周公謹の『癸辛雑識』に「倭人、云々、その聚扇《せんす》は、倭紙を用《も》ってこれを為《つく》る。雕木《ちようぼく》をもって骨となし、金銀の花草を作って飾りとなし、あるいは不肖の画をその上に作る」と言えるをみると、どうもほん物のわ印《じるし》を扇に描いて日本から支那へ渡すこと、元明数百年の間、絶えなんだと判る。明の楊守陳の「議倭」に、「かつその貢《とつ》ぐところの刀扇の属《たぐい》は、時の急とするものにはあらず。価は千に満たず。しかして、なすところは国用を糜《ついや》し、民生を敝《やぶ》る。しかも、これを過厚するは、一はすなわちその化に向かうの心を得んと欲し、一はすなわちその辺を侵すの患を弭《やす》んぜんと欲すればなり」とあれば、当時支那人が買った日本扇はおびただしいもの、したがって春風を送り播《ひろ》がした力も大きなことだったろう。
 外国から本邦へ不肖画を伝えた例は予一も知らず。ただし日本の春本に紅毛男女采戦の体をよく描いたのは往々みた。かつてアーサー・モリソン氏(『大英百科全書』一一板にその伝あり)を、その宅に訪うた時、右様の板画数葉を示され、鎖国時代にオランダより入った物によって画いたこと歴然だと語られた。昨今ポート・サイドなどで、フレンチ・カードを往復の水夫が多く買う通り、むかしもそんな絵カルタなどが水夫の身に添って渡来し、これを得て蜀を望む日本人が高価をかけて優等品を求めたから、追い追い小形ならぬ絵も秘密に輸入されたのだ。司馬江漢の『春波楼筆記』にいわく、松浦侯予に向かっていわく、朽木隠岐守に蘭書あり、ウェイレルドペシケレイヒングという、この書を求めんことを欲す、余|爾《なんじ》をもってす。余江漢諾して命に応じ、すなわち朽木侯に謁してこのことを話す。竟《つい》にその書を松浦侯に贈る。その中にイギリス船平戸島に入津したることを誌す。そのころ松浦法眼という人隠居して政事を取る。ある時婦女を従え、イギリスの船に乗る、船の内数品の額あり、その中に春画ありけるを、婦人これを熟視せずして拝す。イギリス人おもえらく、嚮《さき》のころ、わが国の仏法この日本に来たることあり、それならんことを思いて春画を拝するか、と。この件、もとカピテーン・セーリスの『日記』に出で、この人、東洋から猥画を英国へ持(97)ち帰って物議を醸し、その品焼却されたことは、林君すでに述べられた。その『日記』に、一六一三年(慶長十八年)六月十二日、セーリスの乗舶クロウヴ号平戸港に著いた時、多くの男女見物に出かけた、セーリスやや上流の婦女数人を許し自室に入らしむるに、そこに掛けた額に、嬌女神ヴェヌスその子クピッドと戯るる図やや放恣に画けるを見て、聖母とその子キリストと心得、下座して帰命頂礼した、かつ同伴中の異教者に聞かれぬようセーリスに耳語《ささや》いて、自分らはキリスト教徒だと告げた。それでこの女どもはポルトガルのゼスイトに教化された天主教徒と分かった、とある(一七四五年板、アストレイ『水陸記行全集』一巻四八一頁)。
 天主教は口でこそ希羅《ギリシア・ローマ》の古教を排撃し尽したれ、人心を和らげ、坊主の禁慾調節の必要より、聖母を初め諸女尊者の像をもっぱら希羅の諸女神より写したもの多く、仏国ツールの全美聖母寺の本尊のごとき、古ギリシア名工が嬌女神ヴェヌスを画いた法を襲い、ツール市内の美女艶婦いやしくも一点の観るべきあれば洩らさず聚め、額は誰、眼は某、頷は誰、鼻は某と、よい女のよい所のみ撰集して聖母像を画き成した。したがって親兄弟の不同意をかこつ相思の男女を添い遂げしめ、子なき夫婦に子を授くる霊験灼然たりと評判高し(一八二一年パリ板、コラン・ド・プランシー『遺宝霊像評彙』二巻二三八頁)。英国のナショナル・ガレリーのごとき、風儀上より展覧絵画の採択もっとも厳正と称せらる。それにすら掲ぐるところの聖母の像に、信心よりも婬想を起こさしむるような物なきにあらず。されば十七世紀の初め日本に入った聖母像には多少放恣相のものありて、信徒はありがたいという一念より邪想を起こさず、あるいはむしろ邪想を起こすがありがたさに随喜一層を加えたので、その輩ヴェヌスとクピッド相戯るる画をみて、聖母とキリストと心得礼拝したとみえる。件《くだん》のセーリスは英皇ジェイムス一世の信書と贈品を持って将軍秀忠に謁すべく来朝し、実に英国船に乗って日本へ渡った最初の英人なるに――これより前ウィリアム・アダムスあれど、そはスペイン船に乗ってきた――来る時も去る時もかようの画を携えたから察するに、そのころ東洋へ往復した船には、必ず多少かかる画を積んであったのだ。その前、秀吉の治世に渡来したポルトガル船客の淫行多かったは、徳富(98)氏の「豊臣氏時代」乙篇七六章にみえる通り、この輩のうちにはヘンな画を持ち来たったのも多かっただろう。
 これらより古く、画像や雕像で異態な物を外国から伝えたは仏教であろう。喇嘛《ラマ》宗の歓喜仏に限らず、ジャワの仏像に男女根を備えたが少なからず。立川流の密教など決して日本人の創作でなく、『秘密相経』に、金剛嬉戯は和合出生の義とか、「まさに知るべし、かの金剛|杵《しよ》の蓮華上に住《とど》まるは、利楽の広大にして饒益《にようやく》あるを欲し、諸仏の最勝の業《ごう》を施作せんがためなるを。この故に、かの清浄なる蓮華の中において、金剛杵その上に住《とど》まる。すなわち彼中《かしこ》に入って金剛を発起し、真実|持誦《じしよう》す。しかる後に、金剛およびかの蓮華の二事、相撃ち、二種の清浄なる乳相を成就す。一は金剛の乳相と謂い、二は蓮華の乳相と謂う。二相の中において、一大菩薩の善妙の相を出生す」など述べ、最後に大|毘盧遮那《びるしやな》如来、偈を説いていわく、「快きかな妙楽にして上あることなし。諸有《もろもろ》の正士《しようじ》は、まさに修むべし。今この秘密妙法門は、罪に染むある者はまさに受くべからず。秘密なる蓮華、こは無上なり。金剛は喜戯してかの法に即《つ》く。金剛と蓮華の教えもまた然り。すべて毘盧遮那《びるしやな》の智を摂《おさ》む、と。如来この頌を説くとき、無数百千の殊妙なる瑞相あって、一時に出現す」と結びおる。
 経王の称ある『華厳経』には、菩薩が童女、宝女等に現ずること多く、いずれも妙相を示し、妙説を吐く。婬女|婆須密多《ばしゆみつた》のごとき、婬事の諸相により摂一切不捨離《せついつさいふしやり》等の三昧を衆生に得せしめ、その前生に見て感じた妙門城は、如来その?《けはなし》を踏むと、「その城の一切|悉皆《ことごと》く震動し、忽然《こつねん》として広博《ひろ》し、云々。種々の宝花はその地に散布し、諸天の音楽は同時に倶奏す」とは真に妙門だ。こんなことばかり仏経に多いから、ひまな坊主は種々と妙想を馳せて、作り上げたいわゆる秘仏のうちには、一目みると即身成仏するようなが少なからず。予が内覧した某大寺の降三世明王足下の大天夫妻像のごとき、瞥見してたちまち気絶せんとした。また明治二十九年ごろ予が京都骨董商藤田弥助氏より買って、大英博物館に寄付した掛軸彩画の本尊は、愛染明王に両翼を添えたような飛天夜叉形の奮怒神で、左右に立った四夜叉あり。その一つが片手で鉢をフ《かか》げ、その中に公家の男女対坐して女は袖で口を蔽いあった。何という神(99)か知り得なんだが、男女敬愛を司る者に相違なく、『奥羽観跡聞老志』一〇に見えた赤沢山の天狗仏はこんなものかと思う。
 これらいずれも根本は仏教と共に輸入されたもので、ギリシアの諸神像が多く後世欧州秘画の手本となったごとく、本邦この種の画をかく者に少なからず所拠《よりどころ》を与えたことと惟う。(七月三十一日)  (大正十五年八月『彗星』一年六号)
 
(100)     蚊帳の雁金
 
 大正十五年八月十八日出、信州の飯島花月君よりの書翰に、次のごとく述べられた。
 『川柳末摘花』に、「下女にはひ九月紙帳の雁騒ぎ」という句、久しく疑問に致しおり候ところ、九月の※[虫+厨]《かや》に雁を付けるという迷信ある由を人から承り、それから注意して書斎をあさり候に、「江戸市井の俗習、四月より八月まで※[虫+厨]《かや》を用い、九月に入れば廃す。もし九月につるの要ある時は、雁※[ハングルのh音の字母に似る絵]の絵をかいた紙札を※[虫+厨]に付くるを禁厭《まじない》とす。然《しか》らざれば災あり」とのことにて、『守貞漫稿』に、※[虫+厨]に付ける雁の絵入り説明あり、いわく、「※[虫+厨]内に雁声をきけば災至る。故に雁を画いてこれを呪除す。あるいはいわく、今世、雁を画いて蚊帳につくるは非なり、蜻蛉を画くを本《もと》とす、蜻蛉は蚊を食らうがゆえに呪《まじな》いとす」と。
 『桂林漫録』には、「蚊※[虫+厨]《かや》に雁金を染め、あるいは紙にて切って付くること、その由来を知る人なし。按ずるに『物理小識』、「夏月、線《いと》を蝙蝠《こうもり》の血に染め、横ざまに帳額を縫えば、蚊入らず」と載せたるをみれば、蝙蝠は蚊を食らう物ゆえ厭勝《まじない》にかくはするなるべし、おそらくは崎?《ながさき》に客寓の清人、夏のころこの意にて帳額へ蝙蝠の形を草画に書きて蚊を避くる呪いとせしことなどありしを、好事の人、この邦の蚊※[虫+厨]へも画けるが、転伝して、いつしか雁金とはなりけるにや、云々」。
 清元の「雁がね」にも、「雁金を結びしかやも昨日今日、云々、哀れを添うる秋の末」などとあり。川柳の句には何句もみえたり。
(101)  『柳樽』初編   お袋はぶきな姿に雁を書き
 ※[巾+厨]とはなけれど、無論※[巾+厨]のことなるべし。
   同一二編   九月蚊帳女房いかりを書いてつけ
 略筆の雁、錨ににているとならん。
   同一六編   もちっとで本《ほん》のが来るに※[巾+厨]へ書き
 『武玉川』九編 りんきに落つる※[巾+厨]の雁金
   出処未考   雁金をつけると※[巾+厨]も飛んでゆき
 質屋へ飛んでゆくとであろう。
   出処未考   雁金を付けずともとぶ秋の※[巾+厨](前の類句)
 右句どものうち、『武玉川』の「りんきに落つる」という意は、何か呪詛に関する意か、不明。
 「下女にはひ」は、女房とか娘とかなら蚊※[巾+厨]であるのを、下女だから紙帳というだけが、この句のヤマか。あるいは外に正しい解説あらんか。
 さて右諸例によれば、九月※[巾+厨]に雁の絵を付けることは、実際に行なわれて疑いなしとして、『桂林漫録』や『嬉遊笑覧』や『守貞漫稿』やに出ている理由は、いずれも適確な説とも思われず、何らか他に基づくところあらんと存じ候。また『武玉川』、『末摘花』の両首もまだ通解を得ず、首を捻りおり候ことに御座候。(以上飯島氏述)
 熊楠は従前このことに少しも気づかず、飯島氏の書信によって初めてそのことありしを知ったくらいなれば、一言を出し得ず。しかしこんな相談に南方先生が何か言わぬと座が締まって来ないから、山伏の腰に付けたるほらの貝、少々吹こうよ。まず『守貞漫稿』一六に、『三養雑記』を引いて、「蚊帳に雁を画けるは蝙蝠なるべしという説、『桂林漫録』にあれども、雁を画くこと故あることとみえたり。備後の旧家に蘆に雁を染めたる模様の蚊帳あり、と大塚宗(102)甫言えり、云々」。(『天野政徳随筆』二に、蘆群の上に雁一双飛ぶ体を画き、蚊屋の模様は必ず蘆に雁を絵《えが》く、これ常例なり。蚊屋の地の色によりて、墨にても胡粉にてもかくなり、と記す。)しからば古く蚊帳に雁を画く風諸国に行なわれたので、初めより江戸に限ったでなかろう。また蘆に雁を画いたもの古くある以上、蝙蝠や蜻蛉より誤り生じたとも惟われず。その蜻蛉に本《もと》づくという説は、『世諺問答』に、秋の初め蜻蛉出でて蚊を食う、その蜻蛉返りする体を擬して、羽根、羽子板を弄び、正月よりあらかじめ蚊を厭勝《まじない》す、と言えるに倣い作ったらしく、※[巾+厨]内に雁声をきけば災至るというも、厠で時鳥《ほととぎす》をきけば禍あり(『塵添埃嚢抄』八。『嬉遊笑覧』八)、と言うをまねたものか。『和漢三才図会』に、「蚊は、四月始めて生じ、九月ことごとく終わるなり」。しかるに、俳諧には残る蚊を七月の物とせるは、古式法に拠ったものであろう。この見様よりすれば、九月どころか八月※[巾+厨]を用うるがすでに季節外れで、何とか厭勝せねばならぬはず、それに九月に入って※[巾+厨]を用うるに臨み、初めて雁を画いて厭勝すとは、古式法になかったところで、割合に新しいやり方と言わねばならぬ。
 惟うに『三養雑記』や『天野政徳随筆』に言えるごとく、むかしの蚊帳は今のように手軽く釣手で吊るし、朝夕揚げ卸ししたのでなく、四つに組んだ竿に架して、吉日に釣り初めまた納めたこと、今日南支那のある部や、フロリダ、キュバ等で用うるところにやや似た物、したがってこれを掛け替えるも大層なれば、釣り初めから雁を※[巾+厨]に染めまたは画くか、または残る蚊の季節に及んで、掛け替えるべく用意しある別の※[巾+厨]に、雁を染めまた画きありしならん。雁を画くは、雁が来る秋となったから蚊は速く退散せよと警告の義であろう。しかるに『呂覧』八と九に、仲秋の月と季秋の月と候雁来たると重出し、『大和本草』に、雁八、九月南に来たり、正、二月北に帰る。『本朝食鑑』五に、秋八月白雁まず至り、次に雁金来たつて、真雁|末《のち》に至る、春二月末より其雁まず帰って、三、四月白雁のちに帰る。『和漢三才図会』これに同じ。されば種の異なるによって来去におのおの一月ばかりの遅速があるので、『呂覧』九月紀の註にも、高誘は、雁の父母は八月来たり、子は羽翼成って九月来たる、とした。八月は雁の来初め、九月にことごと(103)く渡りおわるゆえ、近世は雁が渡りおわる季秋となっても蚊多きは不祥とて、特にこれをまじなうつもりで雁を画いて※[巾+厨]に付けるに及んだのであろう。すなわちむかしは蚊帳の釣り初めから雁を画きしに、後世九月になって雁の画を付けることになったであろう。飯島氏はこのこと江戸に限ったよう言わるるが、『守貞漫稿』に、「三都ともに九月朔後蚊いまだ去らざる時は、紙に雁を描いて四隅にこれを付く」と特書しあり、また備後の旧家云々(上引)と述べたれは、決して江戸に限らなんだと知らる。
 飯島君が首を捻らるる由の『末摘花』、『武玉川』の両句、予にも十分分からねど、「下女にはひ九月紙帳の雁騒ぎ」は、例の『古今著聞集』に名高き、義家朝臣金沢の城攻めの時、思い出して勝利を得たという、軍、野に伏す時は飛雁|列《つら》を破るという兵法の文句に思いよせて、夜這男を伏兵にみ立てたにあらじか。「りんきに落つる※[巾+厨]の雁金」は、『神仙伝』一〇に、「葛越、気禁の道を善くし、虎狼百虫を禁ずるに、みな動くを得ず、飛鳥去るを得ず〔七字傍点〕」とあるを首《はじめ》とし、気をもって刺して飛ぶ鳥を落とした例が多少支那書にあつだが、今思い当たらず。(気を行なうて毒虫を禁じ、虎豹を伏して起つあたわざらしむる等のこと、『抱朴子』至理の巻その他に多く見ゆ。)日本には、佐伯惟治禁呪して鷺を飛ぶあたわざらしめたことあり(『筑紫軍記』一)。遠くは『古事記』に垂仁天皇の仰せで曙立王《あけたつのみこ》が鷺を呪するとたちまち地に堕ちて死に、また呪すれば蘇った話あり。(天明ごろ大垣藩士正木段之進は気を聚めて睨めば走る鼠が落ちたという(橘春暉『東遊記』三)。)夫が外泊して待ち明かした腹立ちなどで、朝から荒立って蚊帳を仕舞うとてそれに付けた雁金の符を落とすを、術士が禁呪して鳥を落とすに比した句と考うるはいかに。なお諸君の高教をまつ。
 (追記)右の文を読んで遠州の飯尾哲爾君よりの来状あり。『彗星』一年九号へ左のごとく摘載した。前略、次の話を聞き及びました。
 江戸の住人の話に、むかし江戸で九月に入って蚊帳つらす時、万一その上方を雁が渡る時は、人に雁瘡(皮膚病の一種、雁来たる時生じ、去る時に癒ゆる物)が足へできる。これを防がんため、紙片に雁金と文字で書いて蚊帳の釣手のところに吊るしおくと、雁その上方を渡らぬとの伝説ありしとのことでした。これに(104)よれば、九月の蚊帳はすなわち雁の渡り来る時節にあうゆえ、九月の意味明瞭です。『守貞漫稿』等の※[巾+厨]内に雁声をきけば災至る、とある災も、雁瘡に判ずればよし。雁瘡より雁を意《おも》い、雁より九月の禁厭と思いついたものか。子供の枕※[巾+厨]に現在は稲穂に雀を画いてありますが、雁に葦のを見たことあるように思います。あるいは製造人が無意義に雁を雀に改めたものではなかろうかとも思います。今、念のため隣家の枕※[巾+厨]を見れば、雁の絵がありました。なお当地の古い言い伝えに、蚊帳をつり初める日は、ふつか、三っか、というように、か(蚊)のつく日に限るとされていました。(以上飯尾氏述)
 熊楠いわく、『天野政徳随筆』に、「『年中恒例記』にいう、今(四)月中、吉日に御蚊帳つり始めらるるなり、云々。『貞助雑記』にいう、殿中御蚊帳つり申すことは、蚊いでき申す時の陰陽師に申し、御蚊帳つり申す日次、勘文進上、伊勢両人、下総守貞仍、肥前守盛雅参勤、近きころは貞遠参勤申すなり。毎日上げおろしは女中上ろうの御役なり。また八月中に撤し申す日次をば陰陽頭かの勘文進上の日、両人祗候致しおろし申し候、云々。『貞孝朝臣相伝聞書』にいう、蚊帳のこと、四月二十日よりつり始め、八月晦日までにて候。九月一日より取り置くなり」とあり。熊楠按ずるに、『大膳大夫有盛記』に、烏丸殿姫君御蚊帳つり初めの日、四月四日、五日、また他の家(?)の釣り初めの日、四月十日、十三日、十六日と定め、おのおのその時を注進しあり。しかれば家によって釣り初めの日が同じからず、必ずしも四月二十日に限らなんだのだ。  (大正十五年九、十一月『彗星』一年七、九号)
 
(105)     女順礼ならびにサンヤレのこと
 
 元禄三年版『枝珊瑚珠』は、江戸咄の元祖鹿野武左衝門を初め浮世絵師石川流宣等の噺を集めた物、その巻三に「百姓ほめ言葉」を出す。いわく、「銭とぞ契る御契銭(傾城)、百姓の身にしあれば、たよう格子《こうし》の詰め開き、それとばかりもきせちなし。まった讃茶《さんちや》のやかばねの、てるばちない二階にて、丁子円《ちようじえん》をくやらかし、わんぼうに香を留めて、いしくもあらぬいき張《ば》り合い。局の君がおと骨の、えこせぬくぜつもかしがまし。一畳半のおへや住み、足をばかりに一里塚、つかの間君と伏見町、かしのいよこの女郎たち、煙管《きせる》くわえてつぼっこい、まなこの塩のしおらしや。ゆえば結《い》わるる江戸|鹿子《かのこ》、こくも薄くも紫の、色をぞ頼む単帯《ひとえおび》、五尺手拭い中染めて、染めも染めたよ京町の、三浦まがきの筋向い、稲荷屋敷でうっ惚《ぽ》れた。思いはこれもおれがつれ、ことづてもてこい柿暖簾《かきのれん》、色をも香をもしる人よ、ただしいんにゃかそれとても、せずようがないやぼ助の、滅多矢鱈の太鼓持ち、うつほど伸びるそば切りが、けんどんの君にほだされて、西国《さいこく》西国西国順礼、胸に木札《きふだ》の絶ゆるまもサンヤレ」と。
 この言葉に誤字もあるべく、分からぬことも多いが、要するに売女の称呼やその方の用語が多きに居る。けんどんの君までは判っていたが、西国順礼とは何か、一向分からなんだ。ところが三月號三一頁に出た鳶魚先生の「女順礼」を読んで、売女の一群に西国順礼もあったと判ったから、厚く御礼を申し上げておく。
 件《くだん》の詞は、けんどんの君にほだされて胸に思いの絶間なきを、西国順礼が順拝所の棟に打ち付ける木札の絶ゆる間なきに比したので、胸を棟に通わし言わんために、傾城、讃茶、けんどん等と同じく、売女の一群たる西国順礼の称(106)呼を出したので、捻くっていわば、貫之が「早くぞ人を思ひそめてし」と言わんとて、「岩波高くゆく水の」と構え、その前置きに「吉野川」とよみ出したごとし。さて鳶魚先生が言われた通り、『足薪翁記』に寛文のころ女巡礼おびただしくはやったとあるは、このことの沿革を知る材料になるまでであるが、元禄三年出版の本すでに西国順礼を売色女の列に入れあるをみると、先生が示された宝永元−七年にこの売女群が始まったでなく、多からぬ違いながら、宝永の初めよりは少なくとも十三年前、はや西国順礼の出立《いでたち》で、如何《いかが》わしい業をする女群が歩いたと知る。
 ついでに申す。紀伊国東牟婁郡勝浦港へ、明治三十四年冬より三年ほどのあいだ、しばしば往来逗留した。かの辺で船饅頭をサンヤレと呼んだが、今はどうか知らぬ。船をこぐ懸声にヨーイ、サンヤレ。これはヨイサ、ヤレを長く呼ぶに出たらしい。船鰻頭連が泊り船を冒懸けてこぎつける時、ひときわ面白くこの懸声を連呼したから、その輩をサンヤレとよんだことと察しおった。しかるに右に引いた『枝珊瑚珠』の卷一をみると、「惣別《そうべつ》何にてもはやりごとをしだせば設けるものなり。織物にさえイチノヤ織、サンヤレ織、云々」とある。これでサンヤレはもと流行織物の一種と知った。只今は聞かぬが吾輩幼時まで、サントメという綿布があった。『和漢三才図会』二七に、按ずるに三止女《さんとめ》は南天竺の国名、これより出で奥柳条《おくじま》と称す、云々、倭より出ずるものを京奥じまと名づけ、真物に似ず、とあり。惟うに外国から渡ったサントメすなわち奥縞に擬して、和製のサントメすなわち京奥縞を作り出した時、サントメの留《と》めに対して遣《や》れなる動詞を用い、サンヤレ織と称えたでなかろうか。さて元禄初年またその前に、もっぱらサンヤレ織の綿布を衣《き》た売女をサンヤレと名づけ、この称呼が熊野の勝浦港辺に近日まで残りあるのだろう。サンヤレまた一群の売女の称呼なるゆえ、けんどん、西国順礼等と列して「百姓ほめ言葉」に編入され、吾輩幼時まではやった鈴木主水の口説き唄の終りに、「出て行くのが女郎買い姿、ヤーレ」と言ったごとく、「胸に木札の絶ゆる間もなしヤーレ」と唄う代りに、「絶ゆる間もサンヤレ」と適用したらしい。緋衣、紅裙、青衣、白衣、緇衣《しい》、黄巾、青踏、赤前垂れ、白湯文字等、服粧で職業や階級を呼ぶこと多く、明治十年前後、和歌山に奧縞ちう淫売女が多かった。もっぱ(107)ら奥縞を著用したからの名ときくが、あるいは奥縞を著用せずとも、紀州でサンヤレがもっぱら船饅頭の一名となったので、もとサンヤレと同物異称だった奧縞を、もっぱら市中にすむ淫売女に宛てるに及んだものか。全体、近年まで紀州の外にサンヤレの、オクジマのと呼ばるる売淫女あった処ありや。識者の教えをまつ。(六月二十八日早朝五時稿成る)
 (後記)『柳亭筆記』二、「順礼がるた考証」の条に、「京順礼というは、衣裳にだてを作り、笈摺《おいずり》を絡《まと》い、胸札をかけ、実の順礼のごとくいでたち、洛陽の観音の霊場を打ち廻りしなり」とあれば、拙文に棟札とせしは間違いで胸札が正しい。予幼時棟裏に憎礼札を打ったのをみたが、これは好奇者の所為であったろう。『嬉遊笑覧』七に、「応永以後の札多くあり、札は木にて作れるのみならず、真鍮も銅もあり、好事家これによりて札をうつことは応永ころよりもっぱらなりと言えるは非なるべし、花山院御札に書かせ給えりと『新拾遺集』にあるをや」とあり。さて『柳亭筆記』に、京順礼の始まり万治三年と寛文五年と二説ある由を示し、寛文四年の印本に、『老婆物語』と題する洛陽三十三所観音の縁起を聚めし冊子あれば、このこと寛文の初めより起こり、宝永・正徳のころまでもありしなるべし、とある。万治三年の次が寛文元年だから、そう言ったのだろう。巡礼が札を打つこと、後奈良帝の弘治ころ成りし『桂川地蔵記』に、御地蔵へ「詣るところのもの万般なり。まずは御所的の役人あり、云々。あるいは三十三所順礼の行者、簡《ふだ》を打つあり」とみゆ。(六月三十日早朝)  (昭和二年七月『彗星』二年七号)
 
(108)     金魚
 
 六月號三七頁に森沢君は、坂部甚五郎の享保九年甲府赴任の道中記より、鶴瀬という所で金魚を珊瑚樹魚と名づけて見世物にした、在辺の者はまだ見ぬ物とみえる、とあるを引いて、金魚はあまり古くよりあった物と思われぬ、と言われたが、件《くだん》の文は、金魚ほど日本の都会で見慣れた物を、まだ知らぬ僻邑もあると呆れて書いたので、そのころすでに金魚が、日本全体よりみて、さほど新しい物でなかったと証する。
 紀州東牟婁郡色川村は、海より三里ばかり拒たった地だが、三、四年前そこの小学生徒が初めて海をみて、チベットのラマ僧が、前年初めて日本海をみた同様驚いたと『大毎』紙で読んだ。また日高郡山路村などの老婆が、近年初めて馬を見て仰天したことあり。大正九年、同郡高城村より、予方へ下女奉公した十六歳の女を、田辺町内で使いに出すごとに、返りがあまり遅いから、跡をつけてみると、水菓子の上に仕掛けた水ガラクリの管から出る水が車を廻すを見つけ、未曽有の奇物と、一、二時間も立ち留まって眺めおった。その水ガラクリは吾輩生まれぬうちからある物だが、南部町より三里ばかりの高城村で夢にもみたことなしと言った。
 羊はドットむかしよりしばしば日本へ渡った記事あり。綿羊とも山羊とも別《わか》らぬが、とにかく明時代には山羊が大分日本にあったらしく、『古今図書集成』の辺裔典三九巻に、そのころの日本寄語を載せたうちに、羊を羊其(ヤギ)と訳しあり。『大和本草』一六に、「野牛。これ羊の別種なり、羊に似て同じからず、云々。その形は牛と相類せず、これを野牛と謂うは、訛称なるのみ。『本草』これを載せず、その種《しゆ》、外国より来たるか。今、本邦の処々の海島こ(109)れを放養し、はなはだ繁殖す。あるいは山羊というなり」と言ったほど、当時すでにあまり珍品でなかった。しかるにこの田辺町などには、十余年前まで、金魚を珊瑚樹魚と名づくるごとく、種々の名をつけてヤギを見世物にした。これらの例と等しく、坂部民の記事は、享保九年に甲州に金魚を知らぬ村があった証拠になるのみ。金魚が本邦へ初めて渡った年代を徴するに役立たぬ。
 本邦へ金魚が初めて渡った年代については、元禄八年に成った『本朝食鑑』七に、外国より来たって五、六十年来玩賞す、とあれば、寛永十一年から正保二年までに渡ったらしい。しかるに『大和本草』一三には、「むかしは日本に無之《これなし》。元和年中異域より来たる。今世飼う者多し」とあって、この書ができた宝永五年、すでに希有の物でなかったと示す。甲州で見世物にした享保九より十六年前だ。さて白井光太郎博士の『増訂日本博物学年表』には、文亀二年(元和元年より百十二年前)正月支那より始めて金魚を泉州堺浦に将来す、とある。博士はきわめて綿密な人ゆえ、必ず確かな拠《よりどここ》ろあっての言だろう。金魚初めて渡った年次として指されたうち、この文亀二年が一番古い。『嬉遊笑覧』一二下に、「江戸には、そのかみ金魚屋も少なかりしなるべし。『江戸鹿子』に、上野池の端しんちうやとあるのみなり。西鶴が『置土産』(江戸下谷の条)、黒門より池の端を歩むに、しんちうや市右衝門とて、かくれもなき金魚、銀魚を売るものあり、生舟《いけふね》七、八十も並べて、溜水清く、云々、中にも尺にあまりて鱗のてりたるを、金子五両、七両に買い求めてゆく、云々」。貞享・元禄のころ江戸に金魚屋があったので、金に似た色の真鍮もて屋号としたのだろう。『柳亭筆記』にも、延宝八年板『俳諧向の岡』より、「影涼し金魚の光りしんちう屋」という句を引きある。としたりげに書いてさて前文をみると、真鍮屋はもと煙管を売った縁でつけた号という考証を出しある。また万治三年成った『新続犬筑波集』の「をどれるや狂言金魚秋の水」なる句を引き、金魚の水中に宛転するを狂言ということも古い、と言いおる。
 さて文亀二年以前の日本人が全く金魚を知らなんだかと言うに、『碧山日録』一、「長禄三年(文亀二より四十八年前)(110)五月十一日、最勝翁の開頌の会、金魚風鈴をもって題となす。これを賦していわく、躍鱗活動し響丁東《ひびきとうとう》たり、全身を放下し浪《なみ》空を拍《う》つ、日夜金声別調なし、海門吹き送る鯉魚の風、と。衆品は第三科にあり」。この金魚は金作りの魚形の風鈴を謂ったものか。文亀二より四百三十年前、延久四年釈成尋が入宋の記(『参天台山五台山記』)一に、四月二十九日杭州興教寺を見る、方池あり、黄金白銀魚出で遊ぶ、と出ず。これ邦人が金魚と銀魚を最も古くみた記事の現存するものだろう。『嬉遊笑覧』に引いた『帝京景物略』に、「按ずるに、金魚は古今いまだ聞かず。『鼠璞』にいわく、ただ杭の六和寺の池にこれあり、故に杜工部の詩に、橋に沿《よ》って金?《きんせき》を待ち、竟日《ひねもす》ために遅留す、と」。杭州は金魚の本場、そこで成尋がこれを目撃したのだ。『本草綱目』にも、「金魚は、宋よりはじめて畜《か》う者あり」。ちょうど畜い始めたころ、成尋が見たのだ。そのころの船では輸入し得ず、はるか後年始めて舶齎されたのだ。
 今の金魚と同異は分からねど、李時珍は、「金魚は、前古、知るもの罕《まれ》なり。ただ『博物志』にいわく、?婆塞江に出ず、脳中に金あり、と。けだしまた訛伝なり。『述異記』に載すらく、晋の桓沖、廬山に遊び、湖中に赤鱗の魚あるを見る、と。すなわちこれなり」と言った。この他、金魚という名の出たのを、予が知った限り列べる。ただし今日謂うところの金魚とは決して定《き》めてかからぬ。まず晋の葛洪の『抱朴子』の金丹巻四に、「黄帝の『九鼎神丹経』にいわく、神丹を服すれば、人の寿《よわい》をして窮まり已《や》むことなく、天地とともに相|畢《お》え、雲に乗り竜に駕《の》り、太清《たいせい》に上下せしむ、と。黄帝もって玄子に伝え、これを戒めていわく、この道至って重し、必ずもって賢に授けよ、いやしくもその人にあらずんば、玉《ぎよく》を積むこと山のごとしといえども、この道をもってこれに告ぐることなかれ、これを受くる者は、金人・金魚をもって東流する水中に投じ、もって約をなし、血を?《すす》って盟をなせ、と」。梁の任ムの『述異記』下に、「関中に金魚神あり。いわく、周平二年、十旬雨ふらず。天神を祭らしむるに、にわかにして涌泉を生じ、金魚躍り出でて雨降る、と」。元魏婆羅門瞿曇般若流志が訳した『正法念処経』二四に、箜篌天の真珠河、「清浄香潔にして、白き真珠の沙《すな》その底に布《し》き、真金は泥たり。多く金魚あり、無量の宝珠、魚身を荘厳す」。同六八に、「大輪(111)山は真金の成すところなり、云々。この山中において、緊那羅《きんなら》および阿修羅《あしゆら》あって、住んでこの山にあり。この甄那羅《けんなら》の園林は愛すべく、河流と泉池あり、云々。河は金水と名づけ、広さ半|由旬《ゆじゆん》あり。この河の中において多く金魚あり、游洋して鱗を躍らせ、行く者また観る」。
 (追記)本稿成りてのち、金魚が支那より渡った年紀の出処について、白井博士へ聞き合わせたところ、さっそく返書あり。泉州堺安達喜之著『金魚養玩草』に出でおると教示された。熊楠の蔵本は出板年月を欠くが、寛延元年初坂出で、弘化三年の再板ありとのこと。よって就いてみると、四枚表に、「ある老人のいわく、金魚は人王百五代後柏原院の文亀二年正月二十日、初めて泉州|左海《さかい》の津に渡り、珍しきことなりとて、その由来を記したるものありけるに、いずれの時にか、その書失せ侍りける。その金魚の卵|彼方此方《かなたこなた》に残り、今はた至らぬ隈《くま》もなく世に盛んになりぬ」とあり。支那より将来との明記なし。博士また教示に、『増補武江年表』には、元和六年、朝鮮より金魚渡る、とある由。  (昭和二年八、十月『彗星』二年八、一〇号)
 
(112)     一寸法師と打出の小槌
             「お伽草子輪講一寸法師」参照
              (『彗星』一年二号一頁以下)
 
 一寸法師の話は外国にも多く、主人公たる小男をトム・サム、リッツル・サム、サムリング(小さい栂指)またはツェツィノ(雛豌豆)など呼ぶ。諸話ともに一寸法師の話と大分ちがうが、似通う所々も少なくない。まずその多くは父母が子なきを憂い、祈ってこの小男を授かり産んだとある。グリンムの童話に、小拇指、家を出て世間を視ようと言ったので、父なる裁縫師が針の頭に封?を点じ、これを腰に佩いて刀とせよと授けたなどは、一寸法師が針をうばに乞うて刀としたにはなはだ近い。またダセントの『北欧俗譚』に載せた拇指大の小男が皇女を娶りに往った趣きも、やや一寸法師が宰相殿の娘を窺?《きゆ》したに近い。
 それから打出の小槌の類語は、一年二号一二頁に列ねられた通り、『骨董集』上編中と、下の後巻とに引きあり。その中の『酉陽雑俎』続集なる、新羅の貧人が鳥を追って山に入り、日没して赤衣の群児が遊ぶを覗うと、一人の小児が金の槌で石をうつとほしい物がみな具わる、その槌を取り還り何でも欲しい物を撃ち出し、大いに富んだという話が、打出の小槌の出処だとは、早く『桜陰腐談』に述べある、と喜多村信節は言った。ところがこれと大同小異の(113)物語ががシャムブハダッタの『起尸鬼二十五譚』に出でおるから、しかしてこの書の蒙古訳が有名な『シッジクール』だから、打出の小槌はもとインドに起こった話で、蒙古もしくはその近隣から新羅また支那へ伝わったものとみえる。『宇治拾遺』に著われた鬼の瘤取り譚もこれから転出したらしい。(四月二十六日)  (大正十五年五月『彗星』一年三号)
 
     松茸
          春盞楼「三都の名物」(上)参照
          (『彗星』一年五号二七頁)
 
 春盞楼氏いわく、「松茸が食用に供されることも決して新しいことではない。『夫木集』にも松茸狩りの歌を載せておる」と。そは同書一五に、百首歌遊山催興、「まつがねの茸《たけ》狩りゆけばもみぢばを袖にこきいるる山おろしの風」寂蓮法師、とあるを指されたであろう。この人は文治・建久ごろ盛んによんだ。ところが、それより百三十年ほどむかし、源俊頬の『散木集』に、田上にて物いいけるついでに、松茸のありけるを、おそくやくなといいけるを聞きてよめる、「ほどもなく取り出だせとや思ふべき松と竹とは久しき物を」。また、室山入道のもとより松茸に添えて送り侍りける、「ながらへん君がかきはのはるけさに千代松茸を添へざらめやも」、返し、「珍しき心ざしをは松茸の末の世までや袖に包まん」。なおまた寂蓮に先立つこと三百年ばかりの歌仙素性法師の歌集に、北山へ松茸とりにまかりたりけるに、「もみぢばは袖にこきいれてもて出なん秋は限りとみん人のため」。『古今集』秋、下には、「北山に僧正遍照(その父)と茸狩りにまかれりけるに」に作る。  (大正十五年八月『彗星』一年六号)
 
(114)     鉄漿
 
 「むだをいひいひお歯黒をまたぐなり」の句について、春盞楼氏の高教を鳴謝す。近日、和歌山生れの五十七歳の老婦より、同地でも古くフリチンでお歯黒壺を跨ぐとよくつくと言い伝えたと聞く。また田辺の雑賀貞次郎氏も、七、八歳の時、毎度その母氏のためこの役を勤めたと親《みずか》ら話された。(八月二日)  (大正十五年八月『彗星』一年六号)
 
     豆腐
 
 本誌一年五号二六頁に引かれた『皇都午睡』の、征韓の時朝鮮人に豆腐の製法を教えられたというのは、従前のより一層よい豆腐の製法を伝わったとでもいうことなるべく、征韓の役以前に豆腐も豆腐屋も、都はもちろん地方にもあった証拠は、この役に先だったこと九年、柴田勝家最後の籠城に馳せ加わった者のうち、五番、玄久。これは古え匠作(修理の漢名、勝家のこと)になれむつびたる者にてありしが、痛手を負い、奉公ならざる身となりぬ、これによって地下人になし、豆腐屋になれよとて、大豆百俵年給し侍りき、来世にても豆腐を上げ奉らんと、しどけなげに言いつつ切腹す、と『甫庵太閤記』六に出ず。
(115) さて春盞楼氏が豆腐の名の出た物を引かれたうちでは、文安元年の『下学集』が一番古い。その前九十五年に死んだ玄恵法印の『遊学往来』五月七日の状に、「茶子《ちゃのこ》は豆腐の上物」とあり。これは豆腐の?《あ》げ物だろう。また同人作『庭訓往来』七月十三日の状に、「御斎汁は豆腐の羮《あつもの》」とあり。玄恵より四年前六十九歳で死んだ本覚国師の『異制庭訓往来』復陽十五日の状にも、「茶子は豆腐の上物」とあれば、とにかく『下学集』より百余年前、日本で豆腐はできおったと知れる。(七月二十八日)  (大正十五年九月『彗星』一年七号)
 
     焼蟹食い合う中
           「洒落本輪講古契三娼」参照
           (『彗星』一年七号一三頁)
 
 三田村氏、「神奈川辺だから小さい蟹なら串へ刺して焼くんでしょう」とあるが、これは蠏?(モクズガニ)とて河や田溝に多い物で、秋になって子を生みに海へ下る。それを多く捕えて串にさし、焼き貯え、味噌汁にたき食う。『本草啓蒙』には、また生なるを焼き食う、とある。今は知らず、以前は上方《かみがた》の村落で串刺しの焼蟹を多く売った。明治十九年、幸手《さつて》か栗橋の草履店でも見た。甲の径二寸近いのもあれば小蟹でない。蟹を食うに箸は無用で、指と歯で咬み裂くゆえ、美女の蟹を食うはことに愛想のつきるもの、小生みずから経験あり。全く林君の推察は中《あた》っておる。  (大正十五年十月『彗星』一年八号)
 
     売女の名歌
 
 寛政元年板、山東京伝作『廓の大帳』に、嫖客鶴声、人々が真崎の景色を芝居の道具だてとみて茶番をする最中、(116)丁子屋の傾城稲鶴に吹き込んで茶屋の簾の内より、「限りなく遠き吾妻に隅田川、たえぬ流れをいつまでかくむ」と吟ぜしめて一同を驚かすことあり。ちょうどそのころ津村正恭が等した『譚海』巻六に、「隠し遊女を召し捕られて新吉原に下さるること。むかしは生涯奴のことにてありしに、享保中大岡越前守殿町御奉行勤め給いし時、奴になりたる遊女のよめる歌『はてしなきうき世のはしにすみだ川、流れの末をいつまでか汲む』、越前守殿この歌に感ぜられて、それより隠し遊女吉原へ下し置かるること三ヵ年の年限に定められけるとぞ」と見ゆ。しかるに享保十八年の自序ある庄司道恕の『洞房語園後集』には、「愚老が家にてつとめし九重がことは、今の人多く知りたまうことなれば、筆を費やすに及ばず。九重が読みし歌に『限りなく遠きあづまに隅田川、絶えぬ流れをいつまでかくむ』」と記す。自家の遊女が詠と主人がいうのだから間違いはあるまじく、『譚海』の説は九重の歌に感心のあまり後人が作った小説らしく想わる。すなわち小説に出たのが本歌で、実際それを詠んだ女があつたに反し、真事らしく書かれた『譚海』に載せられた方が戯作のようである。(五月三日早朝)  (昭和二年五月『彗星』二年五号)
 
     かげろう
 
 『鹿の巻筆』に、かげろう〔四字傍点〕ということあり。これは木村氏の説通り、かげま治郎の略たるべく候。嵐雪の『拾遺集』、貞享三年のうち、「初|雲雀《ひばり》」の巻に、
  雨もよひ陽炎《かげろふ》きゆるばかりなり   其角
  小姓なきゆく葬礼の中             嵐雪
これそのころかげまを身受けして小姓に採用することありしより、かげろうと小姓と近きものと見立てし句なり。  (昭和二年十一月『彗星』二年一一号)
 
(117)
 
 亡父は明治二十五年六十四歳で死んだから、文政十二年に生まれた。その若い時噂高かったことどもを話されたうちに、江戸の角力場で、ある武士の抱いた小児が黒岩という力士の化粧廻しに尿をしかけ、事むつかしくなって、その武士いかに詫びるも黒岩聞き入れず、止むを得ず抜刀してその児の旨を落とすと、黒岩、色変わったところを、一刀に斬殺した、と。そんなことが何か記録に出でおるか、またいつのことか、諸君の教えを乞う。(十月八日)  (昭和二年十一月『彗星』二年一一号)
 
     チンプンカン
           「秋成輪講諸道聴耳世間猿」参照
            (『彗星』三年三号一四頁)
 
 「何とかは何とか(失念)チンプン漢語かな」という古い句を見たことがある。大抵これは支那人の言語を模したものとするが通説のようだ。しかし『嬉遊笑覧』九には、「ちんぷんかんとは、今唐山人の言のようにいえども、むかしは、『洛陽集』(延宝八年)蝶、阿蘭陀やきたって蝶まふちんぷんたる雪(為誰)。これ紅毛人の詞まねびなり」と出ず。羅馬《ローマ》字会より出した『羅馬字雑誌』(明治十八年ごろ)へ故中根香亭が書いた中に、『摂津名所図会』に、阿蘭陀人が大阪の孔雀屋敷(動物園)を見る図の上に羅馬字で、「異国にもチンプンカンの人ありて」云々、と狂歌を出しある、とあったように覚える。只今その書が手近にないから分からねど、これも古く蘭人の語をチンプンカンと称えた証拠に立つべきか。(『狂言記拾遺』四の六、「茶盞拝」に、ちんふんちゃは、ということあり。故にやはり、もと唐(118)人の話とするが正し。)  (昭和三年十月『彗星』三年一〇号)
     チチンプイプイゴヨノ御宝
        宮武省三「ちちんぷいぷいごよの御宝について」参照
        (『彗星』三年九号一七頁)
 
 宮武君に答う。『続燕石十種』第二冊所収『疑問録』の最末に、志賀理斎のチチンプイプイ御代の御宝ということ如何、との問に対し、山崎美成は、智仁武勇は御代の御宝ということなり、と答えある。  (昭和三年十月『彗星』三年一〇号)
 
     赤い物
           靄軒「浮世絵師売出しの一大難関」参照
           (『彗星』三年一〇号三四頁中欄五行)
 
 小版の和印《わじるし》色絵を「赤い物」と言ったは、赤絵具を多く使ったからか、靄軒君の教えを冀う。赤を婬慾の表徴とすること、インドにも欧州にもあったように記憶すれど、この深山に一冊の書籍も持ち合わさないから、  碇《たし》かなことは述べ得ぬ。ここに差し当たり記しおくは、明治十四、五年ごろ、大阪や和歌山で、多婬なことを「赤」と呼んだ。「あの人あか〔二字傍点〕や」と言って通行人を怒らせ面白がる児童群や、朋輩に赤と呼ばれて大いに憤り、主人に暇を乞うた奉公人があった。近年さっぱり聞かぬ詞ゆえ、ちょっと書き留めおく。(十一月二十日、紀伊日高郡川上村妹尾山国有林官行|斫伐《しやくばつ》事務所にて)  (昭和三年十二月『彗星』三年一二号)
 
(119)     読「俳語堀之内詣」
 
 「世界仏法腹念仏」(『彗星』四年六号一七頁中段。享保二十年、其碩作『世帯仏法渡世身持談義』の序文に、「これ(不始末者が借銭の淵に沈むこと)を救わんために、もろもろの世帯勘弁の智者の教えを説き示して、家業に疎く金銀を費やす衆生らに、あまねく始末質朴の宗門を勧めて、安楽世界の家の内に、妻子従類とともに、平等に安心なさしめんと、世帯仏法を弘め、貧苦の輩《ともがら》の助けとする」。その巻一の初章に、有徳上人、「借銭の淵に沈み苦しみを受くる輩を助けんと、一七日《いちしちにち》世帯仏法を説き弘めんと企て給う」。これでは世帯仏法とは世帯すなわち世過ぎをうまくやっていく方法というように聞こえる。しかし『一話一言』一五に、作者未詳の随筆より、「加藤左馬允のこと」を写し出しあり。その末文に、「貧の盗みに恋の歌、所帯仏法腹念仏と世話の言葉なり」。作者は元禄ごろの人で、明暦の火事をもみし人と見ゆ、と蜀山が記しある。所帯はたしか『東鑑』などに見え、所領ということで、後には世帯とも書かれ、一家の取締りの義となり、今もこの辺で女子が嫁して家事を司るを、世帯もつという。明暦・元禄間すでに「貧の盗みに恋の歌、所帯(また世帯)仏法腹念仏」という世話ありて、この四つ、いずれも事の已むを得ざる、自然の成行きを挙げたので、貧すれば盗み、恋すれば歌よみ、世渡りのために仏法を説き、腹を養うとて念仏申すと言ったのだ。世界仏法は世帯仏法の謬りとみえる。『渡世身持談義』五の末章にも、「帰一倍一の参詣の輩、鼠算のごとく、夜にまし、日にまし、群集して、ありがたき世帯仏法腹念仏をぞ申しける」とある。「貧の盗みに恋の歌」とは、『傾城歌三味線』四の末章にも出でおる。  (昭和四年八月『彗星』四年八号)
 
(120)     鍔屋
            「鍔屋」(無署名)参照
             (『彗星』四年七号三二頁)
 
 元禄三年板『人倫訓蒙図彙』四に、両手に鍔を持って坐した商人を画き、「鍔屋、云々、寺町二条通、大坂は堺筋、高麗橋一丁めにあり。大小の古鍔をもとめてあきなう。または鍔磨《つばすり》に誂《あつら》うてつくらしむ。おのおの家をたてて腐らかしを秘密することなり」とあり。家業として根本《こんぽん》、鍔を商うたが、後には商売を換え、また罷めても、依然鍔屋で通ったのが多かっただろう。春水の『伊呂波文庫』五〇に、鑑定家鍔屋宗伴あり。以前博奕宿を鍔崖と通称したなら、屋号さえ多きに、宗伴ごとき雅人を、自他とも鍔屋とは呼ばなんだはずと考う。(七月二十八日)  (昭和四年八月『彗星』四年八号)
【追記】
 『色三味線』の「鍔屋、衆道、乱髪などいう古いこと」は、今となりては分からぬなりに済ますの外なし。ただし、延宝四年板『俳諧当世男』に、「鍔屋のむかし年ぞ暮れぬる」「口説《くど》かれしその前髪も今はさて」忠義、とあれば、『色三味線』ができた元禄十四年よりは、少なくとも二十五年前以上の古臭いことであったと肯《うなず》かれる。  (昭和四年九月『彗星』四年九号)
 
     相似た東西笑話
 
 一七三九年ロンドン板、『ジョー・ミラー戯語』一八八条に、一生かつて芝居を見ず、どんな物とも知らなんだ田(121)舎者二人が、ロンドンの盛り場ズルーリー路の芝居を初めて見物した。まず音楽を奏するとなかなか面白がった。第二、第三と演奏さるるを満悦して聴いた。いよいよ幕が揚がって、役者三、四輩、芝居を演じだすをみて、もう帰ろう、何か面倒臭い談判が始まったとて伴《つ》れ帰った、とある。
 こんな話は本邦にもあったと調べても出で来たらず。宮武省三君に問い合わすと、君の甥で朝鮮におる笠井清君から、そんな話は、『彗星』去年十一月号、「輪講鹿の子餅」に出た、と示された。田舎者が勘三郎へ行って見て、何の狂言も見ず、おもだかの鎧が紛失したといって一日騒いだばかり、と人に語ったというのだ(一二頁中段)。『鹿の子餅』は安永元年板ゆえ、『ミラー戯語』より三十三年後れおる。文明東漸の一例という人があるかも知れない。(八月二十七日夜)  (昭和四年九月『彗星』四年九号)
 
     『新著聞集』の著者
            森銑三「新著聞集とその著者」参照
            (『彗星』四年八号二一頁)
 
 故内藤恥叟の「日本文庫」に収めた『名家年表』とかいう書に、『新著聞集』は椋梨一雪著わす、とあったと記憶す。どうも時代が合わぬので、本誌二年一〇号三五頁に疑いを述べ置いた。今度森君の説を読んで、初めて和歌山藩士神谷善右衛門の著と知り得たるを感謝す。
 大学予備門で同窓だった神谷豊太郎という理学士は、十年ほど前まで、永々旅順工科学堂に教授たり。もと正岡子規、秋山真之などとはなはだ懇交あった。参河出の家で、代々江戸語だったと覚ゆ。御石掛りとて、硯材などを調達するを勤務とした。氏の父が売り払った石類標本集を予の亡父が買い、今に拙蔵中にある。善右衛門は豊太郎氏の先祖か同系かと惟う。また和歌山で小学校友に小池雅之丞というのが、毎々『新著聞集』刊本を持ち来たって見せある(122)いた。あるいは喜右衛門の生家の子孫だったかと想う。  (昭和四年九月『彗星』四年九号)
 
     信長、秀吉、家康の性格を表わした句
            森銑三「東照宮遺訓」参照
            (『彗星』四年九号三二頁)
 
 これらの旬が寛政以前の物に見えぬと、森君の御説はたぶん然《しか》らん。ただし、その駆の一例ともみるべきものはある。元禄十一年戸部正直撰『奥羽永慶軍記』三七に、慶長十二年、西国より江戸に下りし者の物語に、われ今度洛陽に一宿せしに、京童の言いけるは、江戸将軍の連歌をせられしこそ可笑《おか》しけれ、江戸に下りて聞き給えば、諸人の知り侍ることなり、と言うを聞くに、将軍(秀忠)の発句に、「この春はなぜに鳴かぬぞ鶯め」と仰せられければ、仙台の政宗、脇を仕らんとて、「御諚を負《そむ》かばくびぶっきらん」と言われし、とて笑いあえり、云々、と出ず。この二句を合わせて信長の句とし、それから推して、秀吉、家康の句を拵えたと想わる。(十月六日夜)
(『随筆大成』六、『四方の硯』三二七頁、和泉式部、「なくかとてききに北野のほととぎす」、小式部内侍、それではなくまじ、「なけきかふききに北野の杜宇《ほととぎす》」と口吟みければ、杜宇なきけるとなん。)  (昭和四年十月『彗星』四巻一〇号)
【追記】
 十二月号に森君が引かれた政宗と片倉と紹巴との句は、津村正恭の『譚海』に出でおったらしいとのこと。果たして然《しか》らばあまり古い物でない。それよりも、予が引いた『奥羽永慶軍記』よりも古いのが、寛永五年ごろ成った『醒睡笑』二に出ず。河内国|交野《かたの》の領主大塚彦兵衛(熊楠謂う、楠公の一族に大塚惟正ありて王事に勤めた(『大日本史』一六九)。彦兵衛はその子孫であったろう)、宗祇と入魂《じゆこん》他と異なり、卯月の初めつ方、祇公立ちよ(123)り給い、休息のほどありし、いろいろ風流の物語に時うつりて、何と祇公はいまだ郭公《ほととぎす》の初音をば聞き給わぬや、いな夢にだもおとずれず、とあり。大塚、さらばわれ発句を仕り鳴かせんとて、「なけやなけわが領内の郭公」とあれば、祇公の脇に、「孫子をつれてなけ時鳥《ほととぎす》」、第三をする人なし。とてものことに沙汰候え、とあれば、また祇公、「とにかくに御意にしたがへ郭公」云々、とある。当分これを一番古いとすべく思う。(一月十六日早朝)  (昭和五年二月『彗星』五巻二号)
 
     似た山
          「似た山」(無署名)参照
           (『彗星』四巻一〇号五六頁)
 
 高田与清の『擁書漫筆』二に、「にたやま〔四字傍点〕という俗語は、似て非なる物にいえり。『曽呂利狂歌咄』四の巻に、丹田山紬《にたやまつむぎ》を刈安染めにしたるをかし、とあれば、この丹田山紬が、体《さま》はなべての紬に似て、性の劣りたるよしにたとえしなるべし」と出ず。丹田山紬を刈安染めにしたのは、可笑《おか》しかったということかと思うたが、念のために、『狂歌咄』をみると、丹波国の須原半之丞という貧士が妻を迎え、婿入りに著る上著がないので、親友赤沢某に小袖を借りにやると、「丹田山紬を刈安染めにしたるを貸しけり」とあるので、「丹田山紬を刈安染めにしたる可笑し」でない。
 さて半之丞、婿入りの翌朝小袖を返す時、「借著をば心置かずも刈安の、安くもきのふとぐる婿入り」と、歌を添えてやると、「小袖をばかり安々とむこ入りを、須原ときけば羨まれぬる」と、返歌したとあり。特に丹田山紬を蔑視したらしくないから、丹田山はもと地名で、似て劣った意に使うたは後世のことだろう。(『閑際筆記』上に、三好義長、志を得るの後、その妻、衣帯を京師に求むるところのもの、ほぼ『淀殿日記』に見えたり、云々、二にいわく、表は国細の長浜染め、裏は爾太山《にたやま》絹。)  (昭和四年十二月『彗星』四巻一二号)
(124)【追記】
 文化三年発行、田宮仲宣の『嗚呼矣草《おこたりぐさ》』一にも、「似た山」を地名に本《もと》づいた號《な》としある。いわく、「ここに世俗、是《ぜ》に似て非なるものを似た山といえるは、元来上州新田山より、武州秩父絹に似せし絹を織り出だせり。至って麁物にて、京都の絹局《ごふくや》これを呼ぶとき、新田というを上略して、山絹とばかりとなう。無地の色物には染め難く、京都の染殿《そめどの》、この絹に糊を引きて、その上を小紋染めにするに、打見《うちみ》に地厚《じあつ》なる絹と見ゆるなり。もと新田山絹はあまりざっとしたる絹ゆえ、すべての事の似て非なるものを、新田山と言い習わせり」と。(二月六日)  (昭和五年二月『彗星』五巻二号)
 
(125)     「春日神社釣燈籠の銘文」について
 
 『なら』二三および二四号、今朝着、只今拝見。(中略)二四号燈籠に関する人名につき、左のごとく申し上げ候。
 二六葉、「大久保藤十郎母儀」。大久保藤十郎は、石見守長安の長男。慶長十八年四月、長安死してのち、藤十郎、亡父の遺産を、その遺言通りに妾どもへ頒与せず、妾ら、これを家康に訴えしより、長安存生中の奸事露われ、七月九日、藤十郎始め長安の子七人、あるいは磔し、あるいは斬らる、と『古今武家盛衰記』に見ゆ。されば、藤十郎母儀とあるは、長安の正妻なり。
 三二葉、「織田左衛門佐」。織田左衛門佐は、信長の弟で大坂城の謀主と見せて徳川方へ裏切りした有楽斎長益の四男長政、字は荘蔵。初め家康に近任す。慶長十年に叙爵して、丹後守と称し、父の封邑大和摂津の田一万石を割《さ》き賜わる、寛永二年、左衛門佐と改む、と『野史』に見ゆ。「織田系図」には、この人従五位下、和州戒重の領主、とある。南朝の忠臣に、戒重良円という人あり。戒重という所、今は町なりや、村なりや。紀州人に知った者なし。  (大正十三年七月『なら』二九号)
 
(126)     キリゴケについて
         付、蛙子の方言・コオロギの鳴声
 
 『なら』二三号九葉裏、立里荒神山で一種のコケ、白髪のようで樹枝より懸け下がるを見て、仮にキリゴケと名づけておいたとあるが、予、明治十五年、亡母とこの山でこの地衣を見て里人に問うと、「婦人のコシケの妙薬で、名はキリゴケ」と言った。故に、本来キリゴケというので、高田君の仮に命ぜられた名が偶合したのだ。明治十九年夏、川瀬善太郎博士と同行した時も、山番からキリゴケと聞いた。その時採った品を米国へ持ち行き、地衣学者カルキンスの蔵品について調べると、学名ウスネア・パルバタという物だった。
 二九号九葉裏、山辺郡東里村で、蛙の子をガイクリダマ。『本草啓蒙』に、ガイラゴ(南部)、ゲイリコ(筑後)、ギャアリコ(同上)、ギャルコ(越前)などあり、いずれも蛙子の意らしい。朝鮮で蛙をケイクリと言うのがガイクリに近い。
 同号一〇葉表、コオロギの鳴声。和歌山で、予の幼時(明治初年)、スシクウテ、モチクウテ、サケノンデ、ツヅロサセ、ヤゴサセ。これは、春夏は鮨や餅を食うて飲んで遊ぶ。そのうちに秋になると、冬の用意にツヅレをさし、夜具をさせという教えと、亡母毎々いうた。田辺では「キキ(キモノか)させ、トト(未詳)させ、よめにくい、にくいよ」と鳴くという。  (大正十三年八月『なら』三〇号)
 
(127)     『土のいろ』を読みて
 
 『土のいろ』第二巻第三号三四頁、「後家と鶏ゃ死ぬまでほえる、死んでからなく法螺の貝」とあり。明治三十四年十二月、小生、当国東牟婁郡|古座《こざ》町より勝浦港へ徒歩する途上に、二子《にこ》という村かと記憶す、十二、三の少女、嬰児を負いたるが、道傍に立ちて唄うを聞きしに、
  こけこめんどり死ぬまでなくが、しんでからなくほらの貝
とあったよう記憶致し候。もと遠州のと同源に出ずることと存じ候。鶏の古名をカケと申すなど、すなわち今のコケコにて、鶏の鳴声をまねたるに候。(大正十四年九月十二日)
 第二巻一号に見えた「大平の一本足」に似たる話は吉野および熊野に有之《これあり》、共に一ツダタラ、一本タタラと申し候。那智山の一本タタラのことは、小生委しく調べたることあり。書いた物長ければ只今多用中引き出し得ず。吉野の話は杉田定一氏より今春伝えられ候。その書信只今見えず。
 (同号一二頁)小塚薬。河童が薬を伝えし伝説は、柳田国男氏の『山島民譚集』に二、三相見え候。
 (一五頁)渡瀬左衝門佐のことは、『古今武家盛衰記』巻四に、「豊太閤卑賤の時より奉仕す。関白昇進の時五千石賜わり、旗本の列となる。天正十八年小田原戦功をもって、遠州横須賀城三万石を賜う。しかるに秀次、悪行詮議あり。渡瀬その張本人たるをもって、文禄四年八月領地没収し、佐竹右京大夫義宣へ預けられ、常州水戸へ配流」とあり。
(128) 飯田忠彦の『野史』巻九三にこの人の伝あり。長きゆえ摘要せんに、渡瀬繁詮、本名繁勝、小字国寿丸、由良成繁の第三子なり。信濃守成繁、本族横瀬、上野の人、新田義宗の後とも武蔵七党の一なる丹治氏ともいう。沼尻、小金井、島、横瀬を新田の四天王といい、新田氏に仕う。そのうち横瀬もっとも大なり。成繁に至り由良と改称す。享徳中、主君新田昌純を弑す。永正八年、成繁卒す。その子信濃守国経、その子泰繁、その子信濃守成繁という。足利政氏に属し、上杉謙信と戦う。上野の金山城におる。天正六年(また十一年ともいう)卒す。三子あり。長は信濃守国繁、次は長尾景朴に養われ、長尾但馬守顕長という。この二人北条氏に属し小田原を守りしゆえ、北条氏滅し、太閤二人の封地を収め、二人を追う。のち常陸牛久の田五千石を国繁に賜う。曽孫親繁に至り、寛文五年徳川幕府より命じて高家に列せらる。国繁・顕長・繁詮三人の母(赤井氏と徳富氏の『近世日本国民史』豊臣民時代丙篇に見ゆ)はもとより豊臣氏に志厚く、小田原征伐の時二子の籠城せしを怒り、長子国繁子貞繁と自分の第三子渡瀬繁詮をして兵三百を率い上杉景勝に属せしめ、松井田城を攻落せしかば、秀吉大いに感賞し、北条滅後繁詮に遠江の横須賀城を賜い大坂に仕えしむ。文禄四年七月暴戻濫行に坐し、水戸に放たれ家亡びし、とあり。
 『土の色』に見えたる、碓氷嶺にて人に要撃せらるとは、小生には初耳ながら家伝なれば事実と存じ候。要撃せられて死せしものか、またはのがれしものか如何《いかが》にや。小生考うるに、横瀬氏が由良と改称し、その分れが渡瀬氏なれば、渡瀬も横瀬と共にどこか(たぶん上野の)の地名と存ぜられ申し候。しかして、繁詮の子が蒲にて地を拓き、氏名にちなみて土地を渡瀬と名づけ、次男はまたその名乗《なのり》によって次広、三男も名乗によりて別久という地を拓きしことと察し申し候。
 (一七頁)青屋。青屋というは紺屋(紺染屋)のことにて、むかしは紺染め職は一種の部落なりしなり。大坂城にも青屋口というありしと存じ候。これはこの輩の出入りする門なりと察す。染物には人の骨を用うるとよく染まるなど申し、自然葬事に預かる輩が染色を事とせしと存じ候。『三好記』に、三好長治が青屋を寵遇せしより物議を招きしこ(129)とあり。
 (一巻六号、二二頁)八大金剛童子。これは不動明王の眷属なり。慧光童子、慧喜童子、阿耨達《あのくだつ》童子、指徳童子、烏倶婆?《うくばか》童子、清浄比丘、矜羯羅《こんがら》童子、制多迦童子を八大金剛童子と申す。『仏像図彙』巻の三に図像あり。サナギ大明神は猿技大明神に候。
 (同号二五頁)八大竜王。これも名が八つあることにて、難陀《なんだ》竜王、優婆《うま》難陀竜王、和修吉《わしゆきつ》竜王、娑竭羅《しやがら》竜王、阿那婆達多《あなばだつた》竜王、徳叉迦《とくしやか》竜王、摩那斯《まなき》竜王、伊羅鉢《いらはつ》竜王と記憶致し候。ただし、記憶なるゆえ、きわめてたしかにはあらず。
 (二巻三号、一九頁)「池の明神」の条、犀ガ崖。この犀というは何のことに候や。諸州に、勇士川に入りて犀を殺すということあり。紀州などにて牛鬼《うしおに》というものと同物かと存じ候。  (大正十五年四月『土のいろ』三巻二号)
【追記】
 前号に申し上げた八大竜王のこと、文安元年に成った『下学集』下に出ずるところと少し異なり。『下学集』にいわく、八大竜王、一には難陀、二には跋《ばつ》難陀、三には娑迦羅、四に和修吉、五に徳叉迦、六に阿那婆達多、七に摩那斯、八に優鉢羅なり、と。  (大正十五年六月『土のいろ』三巻三号)
 
(130)     武光式部少輔のこと
 
 本誌三巻六号、高井君の「行興寺武光家之墓」に、武光式部少輔隆重、天正十九年美濃国長松城主となり三万石を領し、慶長五年関ヶ原役に開城退写し終わって飛騨へ流され、十三年赦され、十八年十一月濃州石津郡に卒す、齢七十二、とその系譜から引かれた。
 すでに三万石も領した城主なれば、当時の諸侯の連名中には必ずあるはずと、甫庵の『太閤記』一三、朝鮮国御進発之人数帖や、同二〇、秀吉公遺物下賜の覚帳写し、また『慶長三年大名帳』、『古今武家盛衰記』、『廃絶録』などを捜したが、武光式部少輔の名は見当たらず、高井君が引かれた「系譜」に武光氏は河野通直の後とあれば、たぶん伊予から美濃に移った河野氏なる一柳家か稲葉家の別れだろうと(『野史』一三一および一三二参考)、『越智氏系図』や『河野系図』を尋ぬれどこれまた見つからぬ。
 予が知り得たところ、武光式部少輔のことは『石田軍記』六に著わる。その大略は、慶長五年七月家康会津征伐の時、美濃福束の城主丸毛三郎兵衛(名は親吉、『野史』一九七)も打ち立たんとしたが、吉日を撰ぶなど言いて延引する。ところへ石田三成の使に河瀬左馬助来たり勧めたので、丸毛は石田に党し、大垣城へ兵粮運搬の便を諾し、また後詰の兵卒を引具して福束に籠城した。尾州赤目の住人横井伊織は丸毛と旧友ゆえ、その老臣丸毛六兵衛を招き、徳川方をするよう説かしめたれど、三郎兵衛武士たる者一度約した言を違変がなるものかとて聴き入れず。よって八月十六日、徳川方の市橋下総守、徳永法印、横井伊織等、福束城の東なる加納村の船場に駆け向かうと、丸毛もかねてその(131)味方と牒じ合わせた通り狼煙を揚げた。これを見て大垣城主伊藤彦兵衛、長松の城主武光式部少輔、石田が加勢前野兵庫、高野越中、斎藤左京、雑賀内膳等、時を移さず駆けつけ、かれこれその勢三千餘で大藪・大榑《おおくれ》両村の間へ乗り出し、対陣して矢丸を交えたれど、三町余の大河を阻ってのことゆえ勝負なし。その夜半に市橋下総守、その臣金森平左衛門、竹田四郎左衛門二人に水練の上手十余人を率い上流を泳ぎ越して敵陣のうしろの村に放火せしめたから、石田の加勢や伊藤、武光以下、旗差物、馬物具を捨てて北へ走って大垣城に引き取り、丸毛は福束城へ退き入ったが小勢で守るべきにあらねばこれも脱走して大垣城へ引き入った、とあり。徳富蘇峰の「家康時代」上巻に、「濃州垂井之者関原記」より引くところもほぼこれに同じ。
 それから『石田軍記』五には、「ここに濃州長松の城主武光式部は会津出勢の人数なりしが、引き替えて石田に与力して、福束の城に加勢に往きしぞ不運なれ。福束落城以後、長松へ帰城せしかども、東国の大軍赤坂に着到するその勢を見るに(中略)、武光もこれに?倒して鎧を着るに力なく、太刀を帯びんとすれば腰抜けて、八月二十三日の夜に入ってようよう長松を引き払い、伊勢の氏家内膳、同じく志摩、寺西備中と一所になって、桑名の城にぞ籠りける」と見ゆ。桑名の城主氏家内膳正行広は、その妻が京極高次や秀吉公の愛妾松丸殿の妹で淀君の従妹だ。それゆえか関ヶ原の役後桑名城二万二千石を没収され、その二子を京極・池田両家へ預けられ、行広も二家の領地に往来しおったところ、大坂夏の役起こり、家康・秀忠より十万石の軍勢を預くべしとて招かれたが応ぜず籠城し、軍放れた時淀君を介錯して自殺した。二ヵ月余後その子三人京の妙光寺で自殺し、氏家の裔断絶した。(『続群書類従』一三二の「佐々木系図」。『古今武家盛衰記』一一。『明良洪範』四)高井君が引かれた「武光系譜」に式部少輔の二男重行の妻は氏家行広女とあれば、その縁で式部少輔は福束落城後、長松城を引き払い行広の桑名城に籠つたであろう。
 「系譜」に武光式部少輔隆重は関ヶ原役後飛騨へ流され、慶長十三年免され、十八年十一月七十二歳で濃州石津郡で死んだ由見えるようだが、『武徳編年集成』をみると、式部少輔は元和元年なお存命で大坂に籠城し、また『石田軍(132)記』に出たごとき弱虫でなく、ずいぶん武名を揮うた人らしい。『集成』巻八四に、「元和元年五月七日、大坂の城の北方天満の地をば仙石豊前入道宗也、大場土佐、武光式部、幾田茂庵、浅香庄七等、三千ばかりを組んで守らしめ、かつ備前島までの手当とす」。巻八五に、「あるいはいわく、さきに秀頼方織田主水信重(城兵敗軍の際)残兵を纏め城内に引き取るところを、神君(家康)はるかに台覧ありて、この期に及びかくのごとき振舞いする者は孰《いず》れなるやと傍へ問いたまう。村田権右衛門、こは武光式部ならん、と答う。神君いわく、否、赤白段々の旗なれば織田家なるべし、汝往きて、織田家は淀殿の外族なれば籠城勿論にして怨むべきにあらず、これを宥《なだ》めん由を述べて携え来たるべき旨御諚によって、村田往きて問うに主水信重なり、御諚を伝えて茶磨山へ召し連れ来たり、台顔に謁せしむ、と、云々」とあり。内藤恥叟の『徳川十五代史』には、織田主水正秀澄は信長の弟信行の孫で、信澄の子なり。信行は兄信長に、信澄は信長の子信孝に殺さる。秀澄大坂に籠城し、総敗軍のさい退却振りがみごとだったので家康これを招降し幕府に仕えしめた、とあつたと記臆する。それほどの勇士と間違われたほどゆえ、武光式部もなかなかの武人であったと見える。
 「系譜」に武光式部少輔隆重は慶長十八年十一月七十二歳で死んだとあれば、元和元年まで生きおったら七十四歳、その老齢で右述の勇壮な働きは出来べしと惟われぬ。ところが「系譜」に、隆重の長子小左衛門重清、豊臣秀次に属し、秀次死後濃州石津郡に退居し、寛永二年五十五歳で死す、とあり。その弟重行は母重清と同じ、妻は氏家内膳正行広の女とあるのみ。字も履歴も年齢も記しおらぬ。しかし、兄重清が寛永二年五十五で死んだゆえ、元和元年には四十五だったはず。その弟ゆえ重行は四十五歳より若かったに相違なければ、織田主水がしたほどの働きはできたはず。よって惟うに、大坂籠城した武光式部は式部少輔隆重でなくその次男重行で、この人父の称えを襲うて式部少輔とか単に式部とか称えたのであろう。しかして大坂籠城したから世間を憚り、兄重清の家の系譜には詳らかに記さなんだものと見える。重行が籠城したは、無論豊臣氏が天下を回復したら、関ヶ原役に領地を失うた武光家も再興なる(133)べしと期してのことながら、一つにはまた。その舅氏家行広が秀頼公の母公の従妹の夫で夏の役に大坂城に入ったから、その縁で籠城したことと考えらる。なお高井君とその他諸君がこの重行の成行きとその後裔について知るところあらば本誌に出されんことを望む。
 「系譜」に武光隆重は美濃長松城主で三万石を領したとあれど、そのころの大名の名を列した中に見えざるは上に述べた。上に『石田軍記』から引いた氏家行広と共に桑名に籠城した寺西備中守(『野史』二一四に名を定時とす)は本領一万石ながら近江美濃で十万石の代官所を預かり、豊後臼杵の城主太田飛驛守宗隆は本領六万五千石の外に十万石の代官所を預かりおった、と『廃絶録』上に出ず。『武徳編年集成』四七に、関ヶ原の戦に先だち犬山・郡上の三城東軍に属したことを記し、「そのほか長松、福束を始め濃州のうち敵の小塁数箇所落去す、と、云々」とあり。長松まことに一万石より下の小領で、その領主武光式部少輔は『大名帳』に載せられず。あるいはその辺の代官所を預かりおった分を合算して三万石の城主とその家に誇り伝えたものか。
 終りに述ぶるは、高井君が出された「武光系譜」に、天正十五年秀吉公「九州征伐の時、軍功を賞したまい、菊地肥後守武光之不可省〔三字傍点〕武勇」とある。省〔傍点〕は劣〔傍点〕の誤写で、菊地肥後守武光の武勇に劣る可《べか》らずと読むべく、その次の「幸先祖○○茂有之」の○○は由緒〔二字傍点〕ぐらいの二字を脱したであろう。隆重の先祖は菊地武光と共に勤王した由緒もあり、隆重も武光に劣らぬ武功があり、武光の二字は武門に相応したものゆえ向後氏を武光と改むべしという意味だ。隆重の先祖河野通直が勤王した次第は『予章記』に出ておる。(大正十五年十二月二十三日夜稿)  (昭和二年五月『土のいろ』四巻二号)
【追記】
 この稿出板されてのち、昭和二年七月『土のいろ』四巻三号に、高井君さらに「武光氏系譜」中、式部少輔隆重の二男重行の条を詳しく示された。いわく、重行母は兄重清に同じ、妻は氏家内膳正行広女、豊臣秀吉公に従仕、関ヶ(134)原合戦の刻、長松氏を退き、舅行広の居城勢州桑名へ到る。しかるところ行広関東へ和を請うて城を明け渡す。よって重行を秋田城之介実秀へ預けられ、慶長十三年赦免あり。同十九年豊臣秀頼卿に属し、大坂夏陣の時、百五十騎を預かり、天満|重相《じゆうそう》口を守り、敗軍の剋《とき》、播州|千本《せんぼん》、新関において自害す。重行の子治左衛門信重、母は氏家行広女。信重三子あり、長男は五左衛門信堅と称し、京極高国に従仕、のち松平主殿頭忠房家臣籠谷氏養子となる。二男某、籠谷源五兵衛、松平忠房家臣籠谷氏養子となる。三男某、武光元右衛門、松平忠房に従仕、肥前島原において卒す。これで大坂籠城したは、武光式部少輔隆重でなく、その二男重行であろうという予の予想は中《あた》ったと知る。重行の通称を「系譜」に示さぬらしいが、これは『武徳編年集成』などにみえるごとく、式部と言ったのであろう。
 
(135)   一言一話
 
     一の宮の南天
 
 『和漢三才図会』巻八四に、遠江の一の宮(事任神社)は満山みな南天にて実の盛りはなはだ美《うるわ》し、とあり。只今も左様に候や、また大木もあることにや、承りたく候。南天を枕にすればよき夢をみると伊予辺で申す由、横田伝松氏より告げられたり。かかること御地にても申し伝え候や。  (大正十五年四月『土のいろ』三巻二号)
 
     蚊帳に雁の絵を描くこと
 
 九月に蚊帳に雁の画を付くること、小生は四、五十年前和歌山や東京にて見たように覚え候も、たしかならず。貴地方には、この風以前または今も有之《これあり》候や。もしあらは、何という口碑有之候や。御知らせ下されたく候。  (大正十五年十一月『土のいろ』三巻六号)
 
 
(137)     根来のこみちゃ
           水原堯栄「俗称根来山こみちゃは誰か?」参照
           (『紀伊郷土研究』二冊八頁以下)
 
 根来のコミチャは吾輩幼時もっぱらコミッチャと発音し、秀吉公根来攻めの時もっとも勇戦対捍した悪僧とまで毎度聞いたが、誰と闘いどんな働きあったかを詳らかにせず。亡父がどこかで人形芝居を見て帰った話に、根来のコミッチャも強かったが、木村又蔵に叶わぬ、いわんや清正にはえらい目にあうた、とあった。何の浄瑠璃にコミチャの出る場があるか知らねど、たぶん田舎廻りの人形芝居にいわゆるロカル・カラー(地方色)を添うるため、そんな役を手製としたものか。
 さて水原師の記述は、コミチャがどんな素性の僧だったかを明示されたもので、読者一汎に大益を享けたに相違ないが、いずれの戦場で武名を隆めたかに言い及ぼされおらぬが遺憾さに、いささか平生書き集めおいた物を披露しょう。『続々群書類従』第四冊『土屋思兵衛知貞私記』の後に出だせる大坂籠城之節籠る牢人名目に、「足軽百引きつれ大坂へ籠る、歳五十余、もと信長御時代覚え有之《これある》者、紀州高野根来、田村輪蔵院。同断、歳六十ばかりの者、同断、コミチャ。足軽五十ばかり引き連れ籠る、歳五十ばかりの者、同断、正徳院。同断、治徳院。右の外一挺鑓の坊主百ばかり籠る(一、相国寺の長老、矜《かん》長老)鈴本」とあり。(『常山紀談』参照。)後文には、「新参に籠り五月七日(大坂落城)に城を出る者、根来田村輪蔵院、コミチャ、正徳院、治徳院、矜長老」とある。他の根来僧三人は五十前後なる(138)に、コミチャは六十ばかりの最年長者で、正徳院と治徳院は足軽五十人ばかり率いたるに、輪蔵院とコミチャは百人ばかり足軽を率いた。またコミチャ、輪蔵院、共に信長時代覚え有之者と書いたのをみると、戦場をしばしば踏んだ猛者であったらしい。
 根来の僧兵にあちらこちらと傭われ働いた者多く、どこで誰の味方として働いたか分からぬが、信長、難波石山攻めの時、伴野九郎左衝門を使わし、根来の僧兵二百人を招き軍に参加せしめたという(『紀伊続風土記』二九)。そはいつのことか判らぬが、仮にこれを天正二年四月の石山攻めとし、また仮に輪蔵院やコミチャがその時信長勢に参加して軍功あったとせば、当年輪蔵院は十余歳、コミチャは二十歳ばかりで名を著わしたと判ぜにゃならぬ。コミチャなる名の意義は分からぬが、護密者とか小密者とか、密教に縁ある称でなかろうか。大坂落城後籠城中よく働いた者が赦されて諸侯に仕えた例多ければ、コミチャも水原師が見出だされたごとく広島の浅野家に仕えたとみえる。
 コミチャに関し、吾輩ただ上述の通りを知る。ついでにいう。大坂籠城中コミチャの働きは見及ばぬが、他の三根来僧の働きは若干記されおる。しかして、治徳院をまた知徳院また智徳院とかき、『渡辺水庵覚書』には山口氏としある。冬の役鴫野の戦いにこの僧佐竹方と鎗を合わせ首をとる。城中の南条中務が東軍に内通した時、この僧天王寺口門脇より西方の角櫓を守る。塙直之等蜂須賀陣屋へ夜討の時、田村輪蔵院、蜂須賀の臣稲田修理と槍を合わす。夏の役五月六日若江の戦いに知徳院等奮闘して主将木村重成の左右に死す。翌日(落城の日)正徳院、治徳院、岡山表に屯す、とあれど、昨日治徳院は戦死したから、これその残兵が正徳院勢と合しおったのであろう。(『武徳編年集成』巻六七以下。『渡辺水庵覚書』。徳富氏「大阪役」)(八月七日朝七時稿)
 (追記)本稿発送後『武徳編年集成』三一を見るに、天正十三年八月二十二日、「神君兼ねて命あるゆえ、勢州に隠るところの根来寺の衆徒、愛染院、根来大膳、同小道者を初めとして、福永院の和泉房、帰一房、順一房、無玉房、鳴神左衛門、赤堀等二百余人、浜松に来たり、すなわち焼火の問において成瀬吉右衛門正一執達して謁を執ることを(139)免され、おのおのその俗姓を尋ねられ、追って宜しく俸禄を賜うべしとて熨斗蚫を与えられ、堪忍料を授けたまう。しかして御料理を与えられ、退去して後、成瀬が宅にて酒肴をもってこれを饗し、衆徒上下共に始めて魚味を食し、その棟梁一両人は昵懇の臣に列し、余はみな吉左衝門正一、伊奈図書今成、両人が組となさる」とあり。小道者はコミチャでこの時徳川氏に臣とし事え、のちまた浪人して大坂に籠城したと見える。(八月十七日)  (大正十五年十一月『紀伊郷土研究』三冊)
 
(140)     むつかしい熊野の方言
              雑報「むつかしい熊野の方言」参照
              (『紀伊郷土研究』二冊二〇頁)
 
 自分をワキというは、ワタクシのワタを合わせてワとし(ワタシを和歌山でワーシまたワシというごとく)、クシをキと縮めたので、江戸の遊女がワチキと言ったのも同型だろう。沢山をガイというはイカイあたりから出たのであろう。和歌山辺でも言った。ゴイシャリマセは御赦《ごゆる》サレマセで、明治三十四、五、六と三年つづけて勝浦港でよく聞いたは、和歌山で予ら幼時よく言ったゴイサレマセと同じく、こらえて下されの意だった。謝罪せよというにはゴイシャレマセイエと言った。やめることをマニショというはママニショウの略で、いずれも特に珍しがるべき語と覚えぬ。(大正十五年十一月十五日出、新宮町中野匡吉氏の来状に、新宮にてはマニショウといわずマイショウという、仕舞いにしょうの意とその父いいし、と。また新宮ではイネといわず、ンネという。気高き女をエネボという、父若き時見た美しく愛想よき女をエネボというたという。今は六十歳ぐらいの老人のみいう、良き女房の意か、と。)
 女中をイネ、これも読書人には左ほど珍しからず。文安二年に成った『?嚢抄』巻一に、「遊君など双陸《すごろく》を打つにヨネを賭物《のりもの》にすという。ヨネとは米か、米ヨネにはあらず、宿(ヨネ)なり。『遊仙窟』に、張文成が十娘と双六をなす時、宿(ヨネ)を賭《のりもの》にせんという。十娘問うていわく、若《なんじ》宿を賭せんか。余答えていわく、十娘|籌《ちゆう》を輸せばすなわち下官と共に一宿に臥《いね》よ、下官等を輸せばすなわち十娘と共に一宿に臥ん、と言えり。ノリモノとは懸物なり。ヨネは宿《しゆく》なり、米にあらず。宿の字、『論語』にはネトリとよむ、宿は宿鳥と註せり、云々」。『瓦礫雑考』下に、「また今(141)の世に白人《はくじん》というは、もと歌曲などの芸なき遊女を白人《しろと》と訓に称えしを、後に字音に呼び換えたるなり、云々。この白人のごとき者すべて昔はヨネといえり。そは夜寝《よね》の義なるべし、麦飯という売色あり。こは宿《ヨネ》を米に通わし、その品の劣れるになずらえて名づけしにやと思いしに、果たして『物類称呼』という物に、旅宿の酌取女のことを言いて、相州小田原辺にてバクという遊女をヨネと言えば、米に対したる麦なり、といえり」と見ゆ。
 右にては、ヨネとは無芸の劣等遊女に限った名のようだが、多芸優等の遊女、それからひいて遊女ならでも女をヨネと呼んだ例も多い。宝永七年板『御入部伽羅女』四、大坂新町太夫の名寄せに、「二番に、色つや打ちすぐれ、いともけだかき君いかに、されば候、これもまた、今咲き出ずる花山さま、ずいぶん御酒もなれようて、人の恋い死ぬヨネ饅頭《まんじゆう》」。『傾城風流杉盃』江戸の巻四に、「必竟は傾城を米(ヨネ)というは、ふみこむほど面白うなるという心なるべし」。これらは上等の娼婦をヨネと言ったので、宝永六年板『紅白源氏物語』に、光君、紫の上に親しみしことを記して、「光君の二条院へヨネ引き取りて隠しおき給うこと世に匿《かく》れなく」、宮廷で朧月夜に会う条に、「戸の陰よりふと出でて、かのヨネの手を捕え給えば、ヨネは思いがけず恐ろしと思えるさまにて、云々」などある。ヨネは美女とか別嬪とかいうに相当す。されば武士の娘をも娼妓をも上臘と呼んだごとく(英語でも宮女と娼妓、共にコールテザン)、遊女をも遊女ならぬ美女をもヨネと呼んだので、熊野のある地で女中をイネというはヨネの訛りで、もとこれを美女と見立てての美称と惟う。(八月七日朝稿)  (大正十五年十一月『紀伊郷土研究』三冊)
 
(143)     「田辺名物考」について
              崎山野葡三「田辺名物考」参照
              (『紀伊史料』四号一八頁以下)
 
 『紀伊史料』四号一九頁にみえた太平は、一にウキと称し、松煙の下品な物の由。松を焚いて、初めくすぼるうち、生ずる煤が綿のごとくに飛ぶ。それを集めて、尋常日用の下等の墨を製するに用ゆ。これを太平またウキと称す。追い追い細かくくすぼりて障子に集まるのが松煙で、上等の墨を作るに用ゆ。松煙の上下品を鑑定するはむつかしいもので、真黒の漆器にのせ、指で軽く押してその彩色をみることの由。ただし、太平墨灰、浮墨灰と『田辺要史』に分かちあるなら、太平とウキは同品ならず、いずれかが中等、いずれかが下等の墨を製する松煙のことらしい。
 二〇頁にみえた神子浜村磯間浦の松の葉も、なにか炭か松煙に製した原料と察するが、只今ちょっと分からぬ。
 二一頁に出た石牡丹は、崎山君の察しのごとく、キクメイシと同じく珊瑚類の物で、こむつかしく申さば、アムフィアストレア属またはその近属の一種と思う。
 『本草啓蒙』玉の石芝(クサビライシ)の条に、また一種牡丹花の開きたる状のごときあり、和名石牡丹という、と出ず。
 以前和歌山の中ノ店に、岩橋安右衛門とか吉右衛門とか、通称薬安(ヤクヤス)という大きな薬店の主人、稀有の大酒家で好人物だった。明治十一年ごろ七十余歳と見受けたが、はなはだ予を愛され、いろいろの奇物をくれ、今も保(144)存しあり。その内に、どこの産か知らぬが石牡丹一つあり。高さ四寸五分、幅三寸五分ばかりで、全く白く、図〔省略〕のごとき形なり。
 そのころ文部省出版小学用博物指教図にもあったと思えど、記憶確かならず。  (昭和二年五月『紀伊史料』五号)
 
(145)     加太の立て櫂
 
       一
 
 『紀伊史料』一号と二号に虎伏園が書かれた「紀州加太の売淫婦」は、その末行をみると、予未見の書で知人外骨氏の著なる『一癖随筆』より丸写しされたらしい。それをみると、加太の立て櫂《かい》に関して外骨氏は、延享二年立羽不角著『続俳諧清鉋』と、貞享四年に出た『好色貝合』の二書のみを引いたようだが、このことを記した書はこの外にもある。
 西鶴の『一代男』(天和二年板)、世之介三十四歳の条に、「浦伝いに泉州の佐野、迦葉寺《かしようじ》、加太という所は、みな猟師の住居せし浜べなり。人の娘に限らず、しれたいたずら、所育ちも物紛れして、紫の綿帽子あまねく着ることにぞありける。男は釣に暇なく、その留守にはしたいことして誰とがむることにもあらず。男の内におるに表に櫂立てて知るるなり。心得て入ることせず」とある。また貝原先生の『女大学』を作り替えた『女大楽宝開』は安永中の出板と外骨氏の説だ。その中ほどなる三ヶ津色里直段付けの末に、「津の国枚方八十三匁、同橋本一切六匁、雑用共、兵庫いその町一切四匁、雑用共、河内石川八十二匁、雑用共」と列ね、最末に、「紀州かだ一切百文、客あれば門口にかいを立つるなり」と記す。これらと『好色貝合』から引かれた文を考え合わすに、本夫でも遊客でも、男が一人そ(146)の家に入りおる内は門に櫂を立て置く習わしで、櫂が立ちおるあいだ他の男は一切御入りなんだと見える。それを不角が、夫の不在中は櫂を立ておき、夫帰ればこれを倒しおくと書いたは、情夫や遊客を本夫と誤聞したのだろう。
 今年二月出板、宮武省三氏の『習俗雑記』にも、「面白い風俗は今日なお永続するかどうかは知らないが、同じく豊前領内である椎田《しいだ》、八屋《はちや》地方で、漁夫ども夜分は沖に出かけ、ユヮクリ夫婦の務めもできず、自然昼間琴瑟相和すという場合に、白昼のことであるし、突然人に来られては迷惑するので、戸口へ、もしくは船小屋の入口に箕を立てると、第三者は誰も気を利かしてこの場所へ闖入しない慣習となっている。豊後姫島地方でも同じ風あるよう耳にしているが、云々。肥前五島では櫂を立てるとのことである」と書かれた。アフリカのコルドファンで、留守宅の入口に籠目に編んだ板をさしておくと誰も入らぬ由。編んで作った箕を立てるに似ておる(一八六一年板、ペテリックの『埃及《エジプト》、蘇丹《スーダン》および中|非《アフリカ》記行』二一四貢)。編んだ物を掲げて邪鬼を避くることは、大正六年一月の『太陽』拙文「蛇に関する民俗と伝説」に論じておいた。
  田辺町の俳士野口利太郎氏言う、『紀伊史料』二号に写し出された『続俳諧清鉋』の加太の立て櫂の画は、参河生れの京住居で画と俳諧を事とした二南斎?翁俳号智角の筆だ。これは『清鉋』の著者不角の弟子で、かつて田辺へきたことあり、その途次|親《みずか》ら加太に往って写実したものだ、と。雑賀貞次郎氏いわく、大野洒竹の『俳諧略史』でみると、立羽不角は、元禄十年法橋に任じ、享保九年法眼に進み、宝暦三年九十三で歿した。歿前八年の延享二年にその『続俳諧清鉋』を出したから、正編もあるはずと探ったが見当たらず。二南斎は明和七年京都に歿す、不角の歿後十七年だ。?翁の号より推すと相応の老人だったらしい。この人より田辺の玉置香風に、香風より土井巴文(熊楠知人亡収吉氏祖先)に伝えた伝授書は、現に下芳養村杉坂房吉氏所蔵だ。それに貞徳翁四世松月堂法眼不角門人二南斎、時に宝暦十二壬午春二月とあれば、彼が不角の弟子たりしは疑いを容れず、と。野口氏説に、二南斎の画は狩野派で浮世絵のような物、と。まずは橘守国体の物か。田辺地方にはその書画少なからず。予も(147)知人多屋|倹吝《けんけち》所蔵薊の画に「見る人に鬼の名もある薊かな」と書いたのをみた。雑賀氏はこの人志摩の生れと聞いたとのことで、田辺の人々が京へ上ってその画句や伝授書を得てきたのか、彼みずから田辺へきたことあるか分からずと話された。野口氏より『清鉋』の画は二南斎筆と外骨氏の『此花』に出ずと聞いて、一通り『此花』を調べたがさらにみえず。むろん『清鉋』をみたら判るはずなれど、田辺にこれをみた人なく、推測と伝聞によつて夢中に迷うばかりだ。読者諸彦の中にこれを見うる人あらば幸いに一報されたい。
 お隣の支那に、右に似た習俗あったは、乾隆中の書に、甘粛省は男多く女少ないゆえ、男女のことすこぶる闊略、兄死してその妻を弟が娶り、弟死してその婦を兄の妻とすること比々みなこれなり、とある。これは今に始まったでなく、唐の太宗など聖帝のように言われた身で、兄弟を殺してその妻を妾とし、その他支那の帝王にそんなことしたのが多い。さていわく、また兄弟数人で一妻を娶る者あり、あるいは輪夕して宿し、あるいは白昼事あるにすなわち一裙を房門に懸くればすなわち知りて廻り避く。子を生まばすなわち長者は兄に与え、次をもって諸弟に及ぼすという、と。『説文』に裙は下裳なりとあって、まずは本邦婦女の湯文字に当たる。今この通り湯文字まで外《はず》して最中の場を示すをみて遠思したのだ。同じころの書に、中亜ボロールの人は深目隆鼻で口のぐるりに濃き髭ありとあるから、乳呑みながら足で触って「カアここにモモンヂイが、と子供いひ」だろう。その風男女別なく、つねに兄弟四、五人共に一妻を娶り、次第に宿るに靴を戸上に懸けて記《しるし》とす。子女を生まばまた次第をもって分かち認む。兄弟なき者は、親類どもと仲間で一妻を娶り、齢をもって序となす、と出ず。十三世紀にヴェネチアから支那へ長旅したマルコ・ポロが記したは、カインズ(四川と雲南の境にあったらしい)の人は、他人にその妻娘、姉妹や一族の女を犯さるるを憤らざるのみか、これを慶事とし、神仏に恵まれ大いに福運を増す、と信ず。したがって、旅客の宿なきに遭わば、争うてこれを自宅に泊らせ、この家にある物はことごとく御意のままに使われよとねんごろに述べたのち、自分は畑地へ立ち退き、旅客去ったあとならでは決して還らず。旅客は三日、四日とそこに宿って主人の妻なり娘なり姉妹なり、家(148)内で一番気に入った女とふざけ通す。そのあいだ自分の笠などを記《しるし》として戸口におき、主人をして客人まだ去らずと知って帰り入るなからしむ、と。(『簷曝雑記』四。『西域見聞録』三。一八七一年板、ユール『マルコ・ポロの書』二巻三四頁)
  エールの『マルコ・ポロの書』一巻一八九頁に、哈密(カムール)の民は音楽歌舞して浮世を気楽に過ごす。旅客が宿を求むれば主人大いに悦び、妻を勧めて身を客人に任さしめ、自分は外出して客の出で立った後ならでは還らぬ。客は好いたままに逗留して主人の妻と乳くり、夫はこれを恥じざるのみか面目とする。この国の女は白美にして軽佻だ。元の憲宗の世に重罰もてこの婬風を禁じ、行客のために旅館を公設せしめて三年たつうち、土地豊作せず、種々の災禍が起こった。古来の慣習を廃しては神がこの民に幸いせず、これでは立ちゆき様なしと一同議決の上、貴重品を帝に献じ旧俗を復せしめんことを嘆願した。帝大いに呆れて、「汝ら永くその羞行を続けたくば続けよ」と許したので、以前通り行なうて今に及ぶ、と。同氏の『カタイおよびその行路』一巻、序説八九頁に、ハズラク人みな博奕ずきで母や妻や娘を打ち入れる。この地へ商隊来れば、所の女がその内で気に入った男を撰み自宅へ伴れ込み接待これ勉め、夫や子弟をしてこれに支給せしめ、客が泊るあいだは、大事あるにあらざれば夫は自宅に近よらず、とある。そんな国へ往きたいもんだ。
  一九一〇年板、ハートランドの『原始父権論』には、むかしアイルランドのクチュライン、その党を率いてメイヴ女王とその夫エイリルと住む所に至り裁判をまつうち、毎夜百五十女を彼らに供え、女王の娘がクチュラインの枕席に侍したが、後には女王みずからその役を勤めた。アフリカのハッセニエ、アラブ人の身分よき者は、一週に四日またそれより短期間夫妻同棲し、他の日は妻が思うままの男に接するも構わず、わが妻は別嬪ゆえ多くの人に愛さる、と悦ぶ。ダワンのチモール人は、宿り客に妻や娘を薦め、辞退するを侮辱と怒る。カナリア島の原住ガンチェ人、また自分の妻を供うるを善く客を遇するの第一義とし、辞退を侮辱と怒った。十九世紀の初め、リュイスとクラークがミッソリー地方に遠征した際、到る処の土人がその妻を薦むるに困却し、これを断わると(149)彼輩みな怒り、当の妻女は一層憤った、とある。台湾土蕃は、支那客がその妻に狎るるをみて、わが婦美人なればこそと喜ぶ。同類奸をなさばこれを射殺し、その妻を問わず(清の郁永河『採硫日記』下巻)。
  王圻の『三才図会』にも、真臘(カムボジア)の女満十歳なればすなわち嫁す。その婦客と通ずれば喜んでいわく、わが妻姿色かつ巧慧あるゆえ人に愛せらる、と。また『和漢三才図会』に、婆羅国俗、他国人来たって女の乳を捜れば悦ぶ、けだし以為《おもえら》く、われを愛するなりと、私意あればすなわちこれを殺す、と。これは今のどこに当たるか知らねど、もと妻女をもって外客に供えたところ、後にその風が止み、むかしの名残りに、外客に妻子の乳房を触れしむるを好意としたれど、いささかもその貞操を濫《みだ》しに懸かれば容赦なく殺したのだ。これに似た例、アラビアのクルミル人は、客を自分の妻と同じ天幕に泊らせ、亭主銃を備えて戸口を守り、客が少しでもいやらしいことをしかけると、亭主たちまち入ってこれを責め、往々殺害に及ぶ。この輩回教に化して妻を客に自由にさする風を廃したが、告朔《こくさく》の?羊《きよう》で、今に同宿せしむるだけの虚礼を存するのだ(ハートランド、二巻二二一頁)。
  『北条五代記』に、八丈島へ本州人が渡った時、島の肝煎り案内して望みの家に一人ずつ入れ置くに、その家の亭主出合い、御婿入り忝《かたじけ》なや、所においての面目たり、帰国まではゆるゆると座《おわ》しませと、快く暇乞いして余《よ》の在所へ行って年月を送る。女房、舅、親類、下人まで御婿入りめでたきと悦びあえること、ただ手の上におさない子を置いて愛するごとく、本州人は思いの外の楽しみ、玉の台にありて、女御更衣あたりにみちみちて栄華の花盛り喜見城の楽しみ、これただ邯鄲《かんたん》の夢の心地、もし醒めなば如何せんと思いいるのみ、筆にも尽しがたし、とある。また、「わが国の女は顔に白粉をぬり形をいろいろに飾る。この島の女房は生れつきの姿そのままにありて、美しさ喩えて言わん様もなし、云々。さてまた男は女に異《かわ》り色黒く姿|賤《いや》しき、云々。女房絹を織り北条家へ貢絹とて納むるゆえにや、むかしより家主は女にて男は入婿なり。仏は五障三従と説き給いて女に三つの家なし この島は世界にかわり、男に三つの家なし。さるほどに女子を持ちぬれば悦び、親の家財跡職を渡し、男子(150)を持ちぬれば捨物《すてもの》に思い、入婿になす。万事みな女房の差引きなり」とみゆ。これこの島民は母系統で相続したので、古く本邦に母系相続の家あったことは、鏡作連《かがみつくりのむらじ》や  ※[獣偏+爰]女君《さるめのきみ》の例を引いて、大正七年五月の『太陽』拙文、「馬に関する民俗と伝説」に説きおいた。
  『定西法師伝』に、「琉球人は弁才天の島なりとて男子よりも女子を敬う、云々。男女の交りは国の習い、日本にて女は男、男は女の作法なり」とある。これも琉球また母系統国だった証左で、男女の交り云々とは、すべて母系統国の民は女尊男卑で、インド・マラバル半島のナヤル人の女みな多男を夫にもち、母系統の骨頂で必ず陰上陽下、『覚後禅』にいわゆる倒澆《さかさ》?燭、十二月の廓唄にいわゆる茶宇を常習とす。十八年前エー・コリングウッド・リーが『十日譚《デカメロン》の出所および類話』を出す前、このことを教え遣った文を全写し出しながら、予に教わったと書かなんだは、今春死んだ芳賀矢一が、予が『郷土研究』へ連載した「今昔物語の研究」をその参考本に丸取りしながら、一切その断りを述べなんだと東西一対の不埒事だ。琉球女もナヤル女同様に振舞ったのだろう。一妻多夫と母系相続の関係や、二者の得失等については、ハートランドの『原始父権論』等をみよ。
  八丈島は、戦国時代一妻多夫でなく、一妻一夫ながら母系相続で、夫は常に妻方に入婿となり、妻を夫方へ迎えなんだのだ。そこへ内地人が行くと、夫は当分退散して妻を一人の内地男に譲ったので、上に述べた哈密等の風習に似ておる。永逗留のことゆえ立て櫂等の記《しるし》は用いなんだらしい。『鋸屑譚』に、八丈古えは女護島と呼ばれた、とあり。「新五郎初手は女護の島へゆき」とは旨く作ったものさ。女の権威強くて女ばかりで治めゆくようにみえたから、女人国と呼んだのだ。十七世紀に西僧メンドザが支那での聞書(一八五三年ハクルイト会出板『大強国支那史』一巻三〇一−二頁)に、近年日本近海で女人国という群島発見され、女のみ住んで弓矢を善くし、射芸に便するため右の乳房を枯らす。毎年数月日本人渡って貿易するあいだ島の女を妻《めと》る。それについて騒ぎのできぬよう工夫して、船がつくと使者二人を島の女王に遣わし、船中の人数を知らす。女王すなわち船客上陸の日を(151)定めて使者を船に返し、当日船客と同数の婦女を浜に出すに、まだ船客が上陸せぬうち、女どもおのおの自分の記《しるし》を付けた履物を浜に置いて退く。その後一同上陸して思い思いにそれをはくに、「縁づくはいも顔に蛸|瑣世留《させる》なり」。若い美男が歯抜け婆に、化物の名代に当選受合いな老爺が女王に当たっても苦情なく同棲すべき定めだ。さて限月満ちて男ども出立に臨み、銘々の氏名住所を記し相方の女に渡す。女の子産まれたら島に留め、男の子生まれたら明年父に渡し伴れ去らしむるためだ、とある。加藤咄堂の『日本風俗志』中に引いた『伊豆日記』に、女童部の物語にする、女讃島へ男渡らば草履を数々出して、男の穿きたるを印《しるし》に妻に定むとあるを考うるに、右の聞書は全く八丈島のことで、古ギリシアの伝説を混入したところもあれど、八丈島人が母系を尚び、もっぱら内地男を歓迎したを証するに足る。ギリシアの旧伝にアマゾネス女人団は一乳を去って射に便にすというを取ったか、『南史』に、「女国は扶桑の東千里にあり。その人、容貌端正にして、色はなはだ潔白なり。身体に毛あり、髪長くして地に委《し》く、云々。女人は胸前に乳なし」とある。
 『三才図会』に、狗国民は人身狗首、長毛で犬のごとく吼ゆ、妻はみな人で漢語を能くし貂鼠《てん》の皮をきるとあるは、どこかの北アジア人で男女とも寒さ禦ぎに毛皮をきるが、男は蒙昧ゆえ犬とみえ、女は漢人と交易応対してかなり垢ぬけしおったので、そのことやや八丈島人に類す。『太平広記』八一に、昆明東南の女国は猿を夫とし、男を生まば父に類して山谷に昼伏し夜遊び、女を生まばすなわち巣居穴処すというも、八丈島人同様、女美男醜ゆえ生じた譚だろう。日本人も、洋人の眼に、男はさっぱり詰まらないが、女は魂を消すばかり美しいそうな。むかし内地人を歓迎した風が今も残存するとみえ、熊野より八丈へ漂着して入婿となる者往々あり。明治三十三年、予久々で英国より帰ると、十四年の在外中父母共に下世し、自分の家もなく財産はゴマ化されおわったれば、同父同母の弟常楠方にわびしくおるに、その夫婦予を扱うこと犬猫にも劣れり。よって熊野勝浦港に往き、いぶせき温泉宿に寓居中聞いたは、予が泊った数月前までその宿にあったお絹という娘は、八丈島の豪家に生まれ、(152)何不足なく暮らしたうち、どこかの船頭を歓迎して夫婦約束をしたが、その船頭一たび去ってまた来たらず。よって脱走して内地に渡り、勝浦まで追い掛けてやっと面談したところ、この船頭には多年の妻子あり、とてもお絹を娶るべうもあらずと言い切ったまま、どこかへ雲隠れた。途方に暮れてこの温泉宿におるうち懐中も乏しくなる。無類の美女ゆえ、男は船頭一人に限らずといろいろ勧めたが、船鰻頭などに一切出でず。難儀極まった時、親と取引する東京の商店より迎いの人がきたれど、合わす顔なしとて使いを還し、その節貰うた金子で借銭を払い、近地をさまよううち眼を煩い、折ふし鰯大漁と聞いて売る目はないかと問いありく。まさにこれ海棠の雨に悩める風情、見る人憐れみ嘆き、かつ於也《おや》さざるなし。当時何とか村の古堂に参籠自炊しおる。この辺の女が夢にだに企て及ばない読み書き、裁縫、絹|機《はた》おり、髪の黒いのに白頬がみえる、あれは紀の国南方さんのケイシュウによいと、誰彼が申すことジャガノーシと、仇《あだ》し仇浪寄せては返す浪、朝妻船の浅ましい船饅頭どもが勧めくれた声さえぞひなびたる。一什聞きおわって共にこれ天外淪落の人と嘆ぜしばかり。そのころフレデリク・ジキンスやジョージ・ダーウィンの世話でケムブリジ大学に日本学の講座をおき、予を助教授にする談がまだ温かかったので、その女を呼んできてやろうと脚絆まではいた宿主老爺を制止して、かかる僻地にあっても、一意学問を続けたさにお絹さんにおめもじもせずに仕舞うたは若気の過ち、その後四十歳で初めて妻を娶った時、「肌ふれぬ絹も名残りよころもがへ」。かの時彼女に面会して島まで届けやったなら、為朝ほど強盛に成り上がっておったかもしれないて。
  船饅頭のついでにいう。勝浦辺で船饅頭をサンヤレという。熊楠謹んで按ずるに、元禄三年板『枝珊瑚珠』一に、「惣別《そうべつ》何にてもはやりごとをしだせば設けるものなり。織物にさえイチノヤ織、サンヤレ織」。巻三に載せた「百姓ほめ言葉」は遊廓の用語を多く含ませある。「銭とぞ契る御契銭(傾城)、百姓の身にしあれば、たよう格子《こうし》の詰め開き、それとばかりもきせちなし。まった讃茶《さんちや》のやかばねの、てるばちない二階にて、丁子円《ちようじえん》をくやらかし、(153)わんぼうに香を留めて、いしくもあらぬいき張《ば》り合い。局の君がおと骨の、えこせぬ口舌もかしがまし。一畳半のおへや住み、足をばかりに一里塚、つかのま君と伏見町、かしのいよこの女郎たち、煙管《きせる》くわえてつぼっこい、眼《まなこ》の塩の塩らしや。ゆえは結《い》わるる江戸|鹿子《かのこ》、こくも薄くも紫の、色をぞ頼む単《ひと》え帯、五尺手拭い中染めて、染めも染めたよ京町の、三浦まがきの筋向い、稲荷屋敷で打《う》つ惚《ぽ》れた。思いはこれも俺がつれ、言《こと》づてもてこい柿のれん、色をも香をもしる人よ、ただしいんにゃかそれとても、せずようがない野暮助《やぽすけ》の、滅多矢鱈《めつたやたら》の太鼓持ち、うつほど伸びるそば切りが、けんどんの君にほだされて、西国《さいこく》西国西国順礼、胸に木札《きふだ》の絶ゆるまもサンヤレ」というのだ。
  勘考するに、サンヤレはもと流行織物の名、サントメの留め〔二字傍点〕に対して遣れ〔二字傍点〕と付けたので、そのサンヤレ織をきた一類の売女をもサンヤレと言ったのだ。むかし密売女に白ユモジあり(『守貞浸稿』一九)、明治十年前後、和歌山 に奧島あり、いずれも服装の名を売女に付けたのだ。吾輩幼時はやった鈴木主水の口説き唄の終りに、「出てゆくのは女郎かい姿、ヤーレ」と言ったごとく、売女一類の称呼サンヤレをヤーレに宛て、件《くだん》のほめ言葉を結んだのだ。
  また、ちなみに言う。先年『日本及日本人』に、本邦遊廓の太夫どもが毎《いつ》も嫖客より上座をしめ、万事尊大に振舞うたは、男子本来おのれより優等高位の女を犯すを好む、その意に迎合して定めたもの、と論じた人あった。これホンの口元をせせって奥底まで突かざるの浅解で、遊女、由来一婦多男の専門職、その骨頂たる太夫の位が嫖客より高くなるは自然の成行きだ。
 なんと長い註入りだ。しかし、これほど入れ言《ごと》をせぬと面白くない。さてユール、上に引いたマルコ・ポロの本文を註していわく、カインズ人と同じ風習は、ヒマラヤ山間の僻地に二処まで行なわれ、また哈密人やマッサゲタイ、ハザラス、ラドロネ島人、マラバル半島のナヤル人、カナリア島の原住民にもあった、と。
(154) 南方先生このエールの註をまた註釈するとしょう。まず哈密人のことはすでに註した。そのこと支那書にみえぬようで、マルコもその旅客を大優待した由を記しながら、客留まるうち戸口に記《しるし》して亭主に帰り入るなからしめたとは書かず。故に、ここの亭主は後文に出す四条中納言同様、しばしば立ち聞きして何と長いなあと小言たらたら引き去っただろう。マッサゲタイは、むかしペルシアの北に住んだ強国民で、銀と鉄を知らず多く金と真鍮を使い、人老ゆれば親類聚まり、牛と共に殺し煮食い、この人はよい往生で羨ましいといい、いまだ老いずに病死すれば往生悪い碌でなしと罵って埋葬した。定めてくえぬ奴と嘲っただろう。一夫一妻ながら誰の妻と通ずるも咎めず。車を家とし住んだので、女がおる車の前に箙《えびら》が懸かると、生田の森の梶原源太でないが、戦いまさに酣《たけなわ》と察して他の男がはいらなんだ。エールの註に出でおらぬが、アフリカのナサモネスまた同風の民で、婚礼の夜、新婦は賀客一同より進物を受け、その順番でその人々に身を任せたというから、ずいぶん草臥れたでしょう。宝永二年大坂板の小説に、藤屋伊左衛門、日本を遍歴した見聞談に、子が生まるれば膝下に捩《ね》じ殺す国もあり、振舞いの膳ののちわが女房を客人とふさす国もありと言える通り、本邦にも多少似た風の地があった。委細は『続南方随筆』「千人切りの話」に載せた。このナサモネスは、一夫多妻かつ自他共通で、男が女を訪いおるあいだ戸口に杖を立てた。ハザラスは、アフガニスタンの遊牧民で、その婦女騎乗刀銃に達し、戦争には必ず男子と先を争い、武猛残忍をもって男よりも怖れられ、欧州の騎兵と闘い勝つ者少なからずというから、別口の戦いにはむろん『定西法師伝』にいわゆる男の作法のみ用いただろう。詳細はエルフィンストーンの記に出ずときけど、予は見ないから櫂立ての有無を知らぬ。上出、ユールの『カタイおよびその行路』にみえたハズラクすなわちハザラスのことかと思えど、ハザラスは成吉思汗《ジンギスカン》の幕下でこの辺へ打ち入った蒙古人種で、今にその地を占領しながら少しも他種と雑らず、蒙古の言語風習を保存しおる由なれば、外客大歓迎というハズラクとは別種であろう。フィリッピンのラドロネ島の習いは珍無類で、ある日数限り青年が一夫多妻の家に入つても本末咎めず。青年が戸に持たせかけた杖や棒のあるあいだ、他人はもちろん、亭主も入らず、と。(155)カナリア群島の一つランセロタ島をスペイン人が見出だした時、一妻数夫で、毎男一月代りに亭主となり、当番外の男はみな下人として奉公したといえど、これまた櫂立て様の習いあったか否を予は知らぬ。ユールの註にないが、インド・マラバルで椰子酒作りを常職のチヤール人はナヤル人に賤しまれ、途中で逢わば毎度途を避けたが、ナヤル人よりは美貌だ。一婦多夫で妻が一室内に眠り、その外に諸夫が眠る。一夫が妻に近づくあいだ、戸の上に刀をおき、他の夫どもこれをみてあえて入らず。その分れで南マラパルにすむイズユヴァ人は、自分一人限りに妻《めと》ると、兄弟共同で一妻を娶るとあり。後者の場合には、一夫が妻の室に宿るあいだ、水を盛った器を戸の上におく。(『大清一統志』三五一。ヘロドトス『史書』一の二一五、四の一七二。『傾城太々神楽』四の一。一八八五年板、バルフォール『印度事彙』二巻二七頁。『大英百科全書』一三巻一一六頁。一八五三年板、英訳メソドザ『大強国支那史』二巻二五四頁。ポーンス文庫本、フムボルト『回帰線内アメリカ諸国旅行談』一巻三二頁。ハートランド『原始父権論』二巻一三三、一六五−六頁)
 往年紀州田辺に盲《めくら》按摩あって、かなりの音容で、那処から後光のさしそうな三十三、四歳の年増を娶り、夜々人の肩をもみ稼ぎ、帰ってこの楽しみあればこそと私語を久しくするうち、その妻往々|鵺《ぬえ》様の奇声で叫ぶを、四隣の男女只事ならじと戸口に押し寄せ連夜立ち聞いた。ある夜一同鳴りを静めて、博雅三位が逢坂山に蝉丸の弾絃を心待ち、武田信玄が野田城外に村松芳休の尺八に感じ入った体でおると、率然頭の上で微かにパタパタと音した。何気も付かず十分翫賞して各自宅に退き臥し、翌朝顔を洗えば水色墨のごとし。共同井戸へくる人も、またくる人も、面相新たに煙突掃除をした者に異ならず。大いに呆れて盲人宅の入口を検するに、半截した長い竹筒に松煙を満たして横に軒下に吊下げ、別に戸内より繩を出して筒に結び付けておき、痴人輩が虚心傾聴する最中に、盲人浪語しながら繩をひき筒を揺《うご》かし、松煙をふり掛けたと判った由。上述マラバル半島の奇習も、一夫が妻室に入ったところを他の男が立ち聞きなどにゆくと、兄弟とて容赦なく、たちまち戸の上より水や刀を落とし掛ける仕掛があるのだろう。
 かようの風習でもっとも著名なはマラバル半島のナヤル人で、前に言った通り、起居坐臥女の身を男の上に置かね(156)ば承知せぬが定法だ。かの半島の民におよそ三姓あり。梵志最も貴く、ナヤルこれに次ぐ。梵志はおのれより低い姓の女に通じやるを善根功徳と自讃するに、梵志より低い姓の男が梵志の婦女を犯すを大罪とす。梵志の長男に限り正しく四妻まで娶り得れど、次男以下は婚姻し得ず。と言っても、全く女知らずに辛抱するを要せず。自分より下姓のナヤルの女をするは勝手次第。かくて梵志姓は長男の筋目のみ父系統で相続し、次男以下の子女は母の筋のナヤル人になってしまう。ナヤル人、むかし武力でこの辺を治めたが、後に侵来した梵志姓に負けて被治者となり、梵志輩その子孫ふえ過ぎて衰えるを防がんと、次男以下を母系相続のナヤル人の婿たらしめてその子孫を梵志姓から追い出す工夫を実行したのだ。十七世紀の初めピラール・ド・ラワルの記に、カリクットの市場へ日本客も来た、とある。定めて女護島へ往つたつもりでナヤル風俗をみただろうが、日本鎖国後のこととて本国へ聞こえなんだは残念。そのころ疾く気付いて長男の外の日本人をマラバル地方へ積み出しおいたら、人口過剰の今日こうした歎きもあるまいもの。
 ナヤル人の女は十歳未満で嫁げど、夫婦は名ばかりで同棲せず。人の妻でありながら母の宅にすみ、母死んだら兄弟と同居し、対等または尊姓の好いた男と通ずるが常習で、劣姓の男と通ずれば除族さる。多人に接して恥じざるのみか、情夫の内に尊貴の男多きを面目とす。故にナヤル人は母のみを知って父を知らず。誰を自分の子とも知らず。その姉妹の子を世嗣ぎとして愛する状、他国で父が子を愛するがごとし。たまたま一婦人と久しく交わるうち生まれた子を自分の胤と知っても、その子の喪に、自分の姉妹の子が死んだ時ほど悲しむと、彼は人外の男と嘲らる。ナヤルの男死すれば、その動産をその姉妹の子女が頒ち取る。男は姉妹と同居し、他家の女に通い、女は多くの他家の男と逢い続けるので、できたその子が誰の胤ともしれず。男は自宅に自分の妻子なければ、自前で儲けた動産だけを姉妹の子に譲りうれど、不動産は正銘の不動産で、姉妹が他へ嫁し往かぬゆえ、いつまでも兄弟姉妹、伯叔甥姪の共有で頒ち取ることなし。以上はナヤル人が久しく行ない来たった風習だが、おいおい世が移り変わるにつれてそれでばかり押し通し得ず、近来大分改まったらしきも、旧慣はにわかに洗い去り得ず。只今一夫一妻となっても、依然妻を夫の(157)家へ入れず。九十九夜は物かは、一生妻の家へ通い続くるもあり。夫死んで葬式の出ぬまに妻は里に引き取り、さらに葬式に与《あずか》らず、夫の物を何一つ貰わず済ますもありとは淡薄なようなれど、天人の臨終に天女まず去って顧みぬように、旧きを去って新しきに就くを急ぐとみえる。また夫妻の一方の勝手次第容易に配偶を替える由。真に珍な民俗と岩猴《いわざる》を絵図《えず》だ。明人が古里国の記事に、その位女腹をもって嫡となし、これを姉妹の子に伝う、姉妹子なければすなわちこれを弟に伝う、弟なければすなわち有徳に遜《ゆず》るとあるはナヤル人のことで、梁武の朝の四公の一人が、西南夷に女国あり、その女悍にして男は恭《うやうや》し、女は人君となり、もって貴く、男を夫となし、男を置きて妾?《しようよう》となす、多きは百人、少なきは匹夫、と言ったは大体ナヤル人に当たりおる。十七世紀にナヤル人をみた欧人の記によれば、当時ナヤル人もつとも強盛で、武装して到る処に跋扈し、あたかも戦地にあるの観あり。ナヤル一人を傷つけた者匿れて出でずば、ナヤル輩全市を屠って復仇した。その俗耳長きを貴び、幼少より耳たぶを穿ち椰子の葉を巻いてさしこみ、漸々穴を拡げ金石を懸けて引き伸ばし、はなはだしきは乳房まで垂れ懸かるもあり。街を通るに楯を敲いて道を避けしむるが、葡《ポルトガル》人とは対等で、葡人がコチンの町を行く時ナヤル人に譲歩し、ナヤル人が葡人の町に入れば葡人をまず行かしめた。一説に、葡人初めてインドに着いた時、ナヤル人これと道を争うて譲らず。ついに協議して双方壮士を出し闘わせ、勝った方に歩を譲るとし、さて立ち合わすとナヤル人が殺された。爾来葡人まず行くに定めた、と。当時欧人の評に、この輩好淫世界第一で、その女子七、八歳すでに男を知る、と。しかるに、ナヤル人は一妻多夫で、多男で一妻の費用を弁ずるから、毎男の負担はわずかなもの、さて男女間の行儀はなはだよく、卑穢な言動少しもなく、ことに笑うをはなはだしき無礼としてはなはだ慎む、また鶏姦や近親姦なしとは、辻棲合わぬ言のようだが、熱帯地方の女子の早熟は天為で咎むべきならず。多男で一妻をもつに、よほど言動を慎まねばたちまち大事を引き起こすから、自然|可笑《おか》しくても笑わざるの域に入つたであろう。別段仰天すべきでない。一妻多夫は非常に嫉妬心の乏しい民にして始めて行なわるとは学者の定説のようだが、熊楠はまた、一妻多夫で持続する人間は割合に邪婬戒(158)をよく守り、多淫乱蕩家よりみればまことに頑固清狷でなくてはならぬ、すなわち世に自分ら一組の一妻ほど有難い物なしと信じて一意これに奉仕し、慎んで自分に順番の廻り来るをまつ、いわば卑屈極まる根性の者であらねばならぬ、と惟う。それほど情事に辛抱よき男が、情事に辛抱なきより起こる同性姦や近親姦に意をむける機会はないはずだ。さてナヤルの一夫が妻の家に宿るは一昼夜を限り、そのあいだその兵器などを戸口におくをみて、他の夫どもあえて侵入せなんだは高名な譚《はなし》だ。(バルフォール『印度事彙』二巻一〇〇八−九頁。ハートランド、一巻二六六−九頁。『正法念処経』三九。一六七九年パリ板、ピラール・ド・ラワル『東洋記行』一巻二四三頁以下。『西洋朝貢典録』下。『太平広記』八一。一六三八年アムステルダム板、リンショテン『東印度航記』八〇−八二頁。一九一七年板、エステルマルク『道念の起源および発達』二巻三八七頁)
  右の本文に引いた西南夷の女国君が男を置いて妾や腰元とするとあるに似たことが、唐の崔令欽の『教坊記』に出ず。いわく、坊中の諸女、気類の相似たるをもって、約《ちぎ》りて香火《こうげ》兄弟となる。毎《つね》に多きは十四、五人に至り、少なきも八、九輩を下らず。「児郎のこれを聘する者あれば、すなわち婦人をもって称呼さる。すなわち聘するところの者、兄は見《まみ》ゆれば呼びて新婦となし、弟は見ゆれば呼びて嫂《あによめ》となす。児郎の官僚に任ずる者あれば、宮参して内人と同日に対す。内門に到らんとして、車馬の相逢えば、あるいは車の簾を?《かか》げて、阿嫂《あそう》もしくは新婦と呼ぶ者あり。同党のいまだ達せざるものは、ことに怪異《ふしぎ》となし、呼ばれし者に問うも、笑いて答えず。児郎すでに一女を聘すれば、その香火兄弟多く相|奔《おもむ》く。いわく、突厥《とつけつ》の法を学ぶ、と。またいわく、わが兄弟の相憐愛すれば、その婦を嘗《こころ》みんと欲得《ほつ》す、と。主たる者、知るもまた妬《ねた》まず。他の香火はすなわち通ぜず」。これは三十一年前『唐代叢書』から写しおいたが、誤字もあり、前後の文も忘れ、何ともよく判らぬが、大体は俗楽講習所たる教坊の妓生と若者が心易くなると、妓生どもはその男を女と見立て、当の妓生の兄(姉)分はその男を新婦、弟(妹)分はこれを兄嫁とよぶ。道であうてもかく呼ぶので、男のつれで訳を知らぬ者は怪しむ。さて若(159)者が一妓生と心易くなれば、妓生の兄弟分女どもは、多くその男と心易くなり、突厥の法をまねると言い、われら兄弟仲よきあまり、互いにその婦(実は情夫)を賞翫し試みると言った。男の相方たる妓生、これを知っても妬まず、ただし兄弟分の組仲間が違う場合にはそんなことをせぬという意味と考える。当時突厥人は兄の妻を諸弟、諸弟の妻を兄の勝手にして無事に治まった。それをまねて仲間の妓生達が一妓生の情夫を共有し、自分らを突厥人の兄弟とみて、相方の男を嫁し来たった新婦と見なしたのだ。鈴木煥卿説に、今三都に女の多く集まりたる処にて諸女義を結んで兄弟分などいうこと、『教坊記』に、教坊中の諸女、「気類の相似たるをもって、約《ちぎ》りて香火兄弟となる」というは、香火を備えて鬼神に誓うゆえにかく言うにや、と。香をたくことはもと支那へ外国から入ったらしく、『北史』に、「爾朱兆《じしゆちよう》いわく、香火の重誓あり、何をか慮《おもんばか》らん、と。慕容紹宗《ぼようしようそう》いわく、親兄弟すらなお信ずべからず、何ぞ香火を論ぜん、と」とあるのが、香火の誓いの最も古い文献らしい。煥卿は香火兄弟とむかしのお姿夫婦、今のト一ハ一を同視したようだが、二者必ずしも一致しないと思う。(『撈海一得』上。『?余叢考』三三、四三)
 バルフォールの『印度事彙』にいわく、「オヴィエドは、ナヤルの婦女男女交歓をきわめて神聖なこととするあまり、素女は死して楽土に入りえずと説く、と言った。しかし、これはナヤル人のうち一妻多夫の風を愧《は》ずるより、その起りを神意に帰せんとする輩の弁解だろう。そのお隣りのチヤール人も一妻多夫で、一夫が妻の宝に宿るうち、戸上に刀をおくことは上に述べた。この民の女至って売淫を好み、種姓宗旨を別たず、外客の妾たるを名誉とす、と教育あるナヤル人が言った」と。これナヤル人が近ごろ西洋文化に接してその旧習を恥ずるに及び、ある者は一妻多夫は祖先の定制ゆえ今さら改むべからずと陳じ、ある者は一妻一夫となって、力めて以前一妻多夫だったのを隠し、挙げてこれを今も一妻多夫なるチヤール人等になすり付けんと、声を大きくしてその卑猥を鳴らすものとみえる(ハートランド、一巻二六八頁参照)。
(160) そもそも一妻多夫と売色は間一髪の隔たりで、移り変りが左まで難からず。吐火羅国は女少なく男多し。その吐火羅国|乃至《ないし》?賓国、犯引国、謝旭国等、兄弟十人、五人、三人、両人、共に一妻を娶り、おのおの一婦を娶るを許さず、おそらくは家計を破らんとあって、兄弟組み合いて一妻を娶る所は大抵土地狭く作物乏しく、女児を生まば捻り殺すから女男より少なく、生活低度でしみたれきったもので、美人など思いも寄らねど、「山婆《やまんば》でさへ女なら捨ておかず」。女にかつえた外来人がコンニャクよりましと、好餌をもって誘えば、たちまちグイとくる。されば南インドのトダ人の定法、女が嫁すると同時に、夫の兄弟一同の妻たり。兄の結婚後生まれた弟も、兄嫁の夫だ。しかるに、兄弟合意でその一妻を水牛と交換で他人へ譲り渡し、あるいは他人の妾とすることあり。今は売色するもある由。チベット人また古来兄弟一妻を共にし、女どもこれを無上の幸福と誇りおったに、近年英人侵入してその風大いに崩れたそうだ。兄弟ならぬ多夫を相手の一妻に至っては、売色に変ずるは造作もない。例せば、ナヤル女は本来同姓間で多夫に嫁しおったが、のち梵志姓に圧せらるるに及び、好んでその次男以下の輩と通ずる風となった。梵志はもっとも自姓を重んじ、自姓に劣れるナヤル人の女に生ませた子を確かに自分の種と知っても、ちょっと触れて祓い浄めを要するほどゆえ、決して自分の子と認めず。一方、梵志は一汎に神種と仰がれ、下姓の婦女をするを特別のお情けと渇仰さるること、以前紀州などへ本願寺門跡がくると、信徒の豪富がお抱き寝と称えて、その娘どもを隣室へ宿らせ戴き、もって万一を僥倖せるに異《かわ》らず。故に、ナヤル女は一妻多夫というものの、正味のところ、同姓のナヤル男数人を夫にもちながら、尊姓の梵志一人また数多《あまた》の妾になり、尊姓を下より、同姓を倒澆?燭であしらい弄んだのだ。前にも言った通り、ナヤル女は自分より卑姓の男と乳くるを大罪とすれど、対等の男を多々ますます弁じ、その仕送りで暮らすに毎夫の負担いとわずかなりと、十七世紀の実視譚だ。が、双《なら》びの岡の法師も謂つた通り、物呉るる人ほど友としてよきはなく、対等の雑輩から僅々ずつ仕送らるるよりは、尊貴な王様や梵志に愛さるれば、有形無形の所得や名誉も多く、それより発展して有福そうな外客の妾ともなり、中には大法螺吹きの水夫を夫としたのも十七世紀にすでにあっ(161)たという。されば今日多くのナヤル人が多少欧化して一夫一妻の風となったが、夫婦の固めきわめて緩く、離縁はなはだ容易というを考えると、表面は一夫一妻ながら妻がしばしば任意に夫をかえ、所得めあてに妾を務め、ははなだしきは身を浮草の定めなく張郎李郎に売り廻る境涯に落ちた女も少なからじか。(『淵鑑類函』二三七。『燉煌遺書』影印本一「慧超往五天竺国伝」七菓表。一九〇六年板、リヴァース『トダ人』五一五頁以下。ハートランド、二巻、一五八、一六四頁等)
 マレイ群島のルアン人は、数月旅行の留守に、その妻、旅行しない男、またことに外客を引き入れ、「私らが内は仏とやたらさせ」るところへ、「旅のるす内へもごまの灰がつく」を百も承知の亭主帰り、「見付かって椎の芙ほどにして逃げる」奴を押えて罰金をとると、「ためになる間男だからしたといひ」誇って、「内済《ないさい》でいけまぢまぢと女房居る」。けだし、その辺は母系統盛んなから、妻が誰の子を生んでも構わず。妻を他人に犯されたとて不名誉にあらず、ただ夫の所有品の一たる妻を無断で手を付けたという廉《かど》ばかりで罰金をとるのだそうな(ハートランド、二巻一二七頁)。この島民は母系統派ながら一妻多夫ならず、定まった一夫一妻たるは八丈島人に同じ。だが八丈島人の妻が好み次第に外客を引き入れ同棲するあいだ、本夫は避け隠れおると異《かわ》り、夫の不在を利用して間男し、夫に罰金を獲せしめ、毎度ツツモタセを行なうて生計を助くるのだ。母系統の民に一妻多夫は常事で、ここにはただ本夫が他の男より罰金をとりうるだけ振るっている。  (昭和二年十一月、五年一月『紀伊史料』六、七号)
 
       二
 
 往年マククレランドの調査によれば、チベット、カシュミール、ヒマラヤ山地、インドのトダ人、クールグ人、ナヤル人等、セイロンの諸種民、ニュージーランド外一、二の太平洋島人、アレウチヤ群島人、ユリヤク人、サポロギアのコッサック、南米オリノコ河畔やアフリカの諸部、上に出たランセロタ良人が一妻多夫で、ラボックはこれに北(162)米イロクォイ族の若干部を加えた。欧州では、文化をもって誇る英国人の祖たるブリトン人やピクトやゲテ、それから古ドイツ人にも、この風があったという。大抵一妻多夫の行なわるるは、土地狭く荒れて多くの人を養うに堪えず、女子を力作の労に任《た》えぬ者として、その増加を制するより、女子が至って少ないから起こったらしい。現にインドなどで男子過多の地は一妻多夫、女子過多の所は一夫多妻という。しかしこれは、兄弟または同属、時には異属の男が数人で一婦を定めて妻《めと》るので、この外に一婦が一人また数人の夫の許しを得て、しばしば夫を換える風の一夫多妻がある。上に註した哈密人や八丈島人がそれだ。古ギリシア人でもっとも強勇の聞えあったスパルタでは、三、四人もしくは多数の兄弟が一女を娶り、また、よい子を生まんために、老夫が若い妻を達者な他人に仮《か》すことも、妻が進んで他人に通ずるを許したこともある。(アフリカのワカムバの人の、富んで妻多き者、またかく行なう。)文化の開山ごとく言わるるアテナイ人も、もと妻の任意に夫を替える習わしであったらしい。インドのサウダサ王は、その后マダヤンチをして身をもって聖人ヴァシシュタを供養せしめ、日本でも、ある大納言がその妻を玄賓僧都に薦めた話あり。いずれも賢い子を得んためとか、功徳になると思うてのことかららしい。支那では、田成子が斉国中の女子身長七尺以上の者数百人を後宮となし、賓客、舎人をして自在に出入せしめ、七十余の男児を産ましめた。実は誰の種とも判らぬなりに、表向き自分の子孫の多いよう謀ったのだ。本邦にも多くの養子養女に名跡を譲る人あれば、むやみに成子を笑うべきでない。それから義政将軍の時、信濃の守護小笠原持長の母は、家の女房とあるから、奉公人で父政康の手が懸かったのだ。この女房は、幕府の管領畠山義就と持長と飛驛の城主江馬某と大名三人を産んだ、奇異というべきか、とあるが、こんな例は少なからず。近くは志水宗清の女《むすめ》お亀の方は、家康に幸されて尾張義直卿を生む前に、竹腰正時に嫁し正信を生んだ。正信のち義直の老臣となり、今尾城主となり三万石を倉《は》んだ。遠くは伊香色謎《いかがしこめの》皇后は初め孝元帝の妃で彦太忍信命《ひこふつおしのまことのみこと》を生み、開化天皇、御父孝元帝に嗣ぎ立つに及び、これを后として崇神帝と御真津比売《みまつひめ》を生みたまい、穴穂部間人《あなほべのはしひと》皇后は用明帝の皇后で聖徳太子と来目皇子《くめのみこ》、殖栗《えくり》皇子、茨田《まんだ》皇子を生み、帝の(163)崩後、田目王の娘佐富女王を生みたまうという。僧章尋の女《むすめ》丹後局は初め平業房の妻たり、のち後白河法皇に幸され、従二位に叙し、重陽門院を生み、また法皇の御子承仁法親王と親昵した。この法親王の母は初め遊女だった由。今の道義の眼でみると大分変わっておるが、むかしは男子の身が不安で、始終子供の世話をみることができず。したがって婦人は夫よりも自分の血族を頼りにすること多く、なろうことなら、たとい種が違うとも子を多く拵え置いて、自分の老後を安くし、またその子供も相互助力するように謀ったらしく、一時に多くの男をもたぬ限り、夫に別れてまた外の夫をもつを重い罪過としなかったのだ。小説ながら『曽我物語』に、河津の妻が河津に嫁がぬ時に京から下った商人に乳繰って京の小次郎を生んだ、のち祐成がその父河津の仇を復せんとて小次郎に相談したところ、小次郎逃げ去ったので時致が怒ったとある記事は、その時代の人情を反照したもので、こんな大事をそんな臆病者に洩らしたというのが、そのころの人一汎に今日よりはるかに同母異父の兄弟を頼りにしたと証する。上に述べた小笠原持長が、同父異母の弟宗康と内訌してこれを殺した時も、異父同母の兄畠山義就が幕府の管領で、うまく執成《とりな》し持長を惣領職に定めた。ローマのロムルス、日本の家光将軍、いずれも同父同母の兄弟を殺し、予のごときも今六十歳、ただ二人生存する同父同母の弟に永らく苦しめられ、妻子これがために重病となり、新旧諸友の厚情で菜食して命を維《つな》ぎおる。それに比ぶると、同母異父の兄弟がましかも知れぬ。さて学者の内には、どの民族もかつて一婦多妻時代を経過したと説いた人もあれど、一概にそうも言われぬと思う。また一時に一婦が多くの夫をもつ風が本邦にあったとも惟わぬが、異時に一婦が夫をかえるを非常の例とせぬ習いが確かにあったは右に述べた通りだ。(徳川氏の中葉、女一人で一天子二将軍に寵されたもあり。 は近衛・二条二帝の皇后たり。子を産まなんだ。支那には、漢以後|再?《さいしよう》の后少なからず。胡人打ち入つてより、その習俗を伝えて幾度も后に立て、子をいろいろと生んだ例はなはだ多い。)(バルフォール、三巻二四五頁。一九一七年板、ウェステルマルク『道徳思想の起源と発達』二巻三八七頁。ハートランド、二巻一三四頁等。『撰集抄』四。『史記評林』四六。『続群書類従』一二四。『野史』八一。『大日本史』七四、八一、八四。一八八六年板、(164)マクレンナン『古史研究』一一二頁以下。『光台一覧』二。『?余叢考』四二)
  元禄十六年板『傾城仕送り大臣』に、娘を舞子に育て、「遠国の人その器量相応の捨金あるいは仕著せ、金二十両より百両までも出して抱えらるる。中にも果報ある娘は、高名大身の御子をうみ、わびしき親里御尋ねに預かり、云々、昨日まではかご舁きの六介、今日より知行とりになり」、出世する。「悪き肝煎の手に掛かりたる舞子は、五年三年は先の好次第、二十両三十両の捨銀をとり、何国の浦までも御座直し奉公に行き、よろず御心付け強く、物のとるる内は奉公を勤め、親里への繕いにし、もはやとれぬと一度に虚病を構え、飽かるるように仕掛けて戻り、云々、病気たちまち本復して、また何方へも目みえに出ることぞかし。幾度か振袖に替わり、幾度か手入らずとなること訝しく、この道の功者に尋ねければ、名誉の薬ありて自由なり」とあって、塗ればたちまち素女同然に締まる油と、すなわち腰気病のごとく立居の臭気人々鼻をしかめる薬の製法を載せある。けしからぬ詐偽方だが、貴族豪家の子を産んで親をも扶け自分老後の力ともすべき望みは、彼方此方と渡り奉公して、大名の子を三人まで儲けた女房と異《かわ》らぬ。実際今もこんなのが多くあるだろう。
 多少長いあいだ一夫に事《つか》え、それと手を切ってのち他の一夫に事える女が生んだ子の父は、明白に判ること前述のごとし。夫に子種乏しい女が、他の一人の男に通じて孕んだ子も誰の種と判る。例せば、足利義政に実子なく、その妻裏松氏述懐のあまり出でて禁中に奉仕せるその姨《うば》の局に寓するうち、後花園帝の胤《たね》を宿して義尚を生んだという。この義尚は義政に似もつかぬ賢人と噂され、今に至りその二十五歳で陣中に薨ぜしを惜しまるるが、実は至極の好色で嬖倖する女多く、ことに父義政の変姫徳大寺氏二十七歳なるを、おのれ十七歳の若い燕の身をもって挑み誘い、父と不和たりし由。賢君と言われながらこんな内行の者が少なからぬに比べて、むしろナヤルなどが一妻多夫ながら決して親族姦を犯さず、匈奴等の民が父の死後、父の愛姫を引き継いで愛撫した習俗の方がましかと惟う。女歌仙赤染衛門は平兼盛の女《むすめ》で、母が離別されてのち生まる。その母、赤染時用と密通して生むところと称し、時用の子で押し(165)通したが、その芸能を思えばもっとも兼盛の女と謂うべきか、と言い伝う。徳川家の忠臣安部定吉は、悴正豊が誤って君を弑したのを病んで、みずから跡目を立てなんだ。だがかの一件はいかな忠臣もこらえ得ず、一度はままよと二度三度侍女に手付けて孕ませた。これではならぬとその女を井上清秀に嫁し、生まれた子が名奉行井上正就だ。周の武后が重用した酷吏来俊臣は、在胎中その父蔡本が来操と賭博し、負けた銭の代りにその母を渡したのち生まれて来氏を称した。かようなは夫を換えても生んだ子の父は確かに知れる。また女が神の子を産んだ例あり。伊予の河野家四十二代親経に女子一人のみあり。源頼義の子親清を婿として相続せしめたが子なし。そのころまでは、家督たる人が丑の時に燈をみな消して氏神三島宮へ参れば、明神みずから出で対談した。親清の妻参って子のない由を歎くと、他姓の夫に子なしという。教えのまま七日のあいだ社に籠ると、六日めの夜半に、十六丈ほど長い大蛇と現じて神が孕ませた。その子生まれて蛇相あり。明神一夜密通の義をもって通清と名づけた。が、神の子に似合わず、奴可西寂に討たれた。西|阿《アフリカ》のホイダーで、蛇を大神とし多くの美しい素女を妻《めあ》わすに、蛇の子を生まず人の子ばかり産む。全く人が蛇の代りを勤めたので、三島宮でも祠官がそんなにしたのだ。(女が蛇と婚する話は古来インドにもっともおびただしくある。)千葉氏の祖忠頼は七曜の落し子、その孫常将は月星の落し子で、天より降った天女を妻《めと》つて常長を生んだとか。男女とも月や星の神に仕うる輩を神の天女のと称して嗣子を授かり産ませた家風と見える。南インド、チルパチ堂へは子なきを歎く妻ども群参して梵志《ぼんじ》に謀ると、信心して籠らばヴィシュヌ神が親しく子を授けられますと教えのまま堂に籠ると、梵志ども得たり賢しと神のまねして、片端からよがらせやり、翌旦《よくあさ》何くわぬ顔で様子を尋ねると、昨夜確かに神様の御情《おんなさけ》に預かりましたと答う。これというも御信心が厚いからと祝うて散々捧げ物をしてやるとは、色と慾との二つ玉、マアこんなよい商売はあるまい。支那にも、嘉興の精厳守の大仏に一夜独り籠って家人をして封鎖せしめ、祈ると必ず子を授かるとて、ある婦人が宿りおると、夜半に出で来たって犯さんとする者あり。婦人その鼻を?んだ。翌日、官に告げて検するとその寺の僧の鼻を損じあったので、寺僧が地下の穴道より大仏の腹(166)に入りその頭頂から出て、多くの女に子を孕ませ来たったと判り、僧は流罪、寺は廃止されたとある。神の子をしば/\産んだもっとも高名なはインドのスラ王の娘クンチで、従兄の妻となったが、夫婦の祖先の罪業によって子なし。しかし仙人ズルヴァサスに帰依もっとも篤かつたので、どの神の子でも孕む力を授かった。こいつは旨いといろいろの神を招いて腰骨の続く限り迎合これ勉め、閻魔王と風天と帝釈と双生医神の子を都合五人まで生んだ。この兄弟五人のうち、帝釈の種アルジェナ競射に勝ってパンチャーラ国の王女ドラウパジを手に入れ、すなわち五夫一妻で暮らし、毎夫自分の家と園をもち、妻方へ順番に二日ずつ泊りに往き、その期限内に他の一夫が押し掛けたら十二年の追放と定めた。アルジュナ割が悪いと思つてか、この定めを破り十二年間流浪に及んだ。これより前、クリシュナの妻サチアブハマがドラウパジに、われら数千女クリシュナ一人を夫として全く和融享楽するに、汝は一人で五夫をもちて恥じずやと問うた。ドラウパジ答えて、汝ら数千女おのおの他を嫉み疑わざるなし。われは五人の夫と語るに一言も差別あるなく、またいささかも立腹せしむるようなことなし、と。帝釈は一身で一時にあまねく九十二|那由佗《なゆた》の諸天女と歓し、かれをしておのおの心みずから天王独りわれのみと楽しむと思わしむというごとく、クンチのもてなしが上手ゆえ、五人の夫みな俺ほどもてる者なしと思うたのだ。一那由佗は一に零を二十八続けた莫大の数で、その九十二倍数の天女を滴足せしむる帝釈の壮健想うべし。クンチは五夫の一人ごとに一子を挙げたというから、二日ごとに交代を手控え置いたであろう。が、概して言えば、一時に多くの男を引き受ける女の産んだ子は誰の種やら知れぬは前述ナヤル人の例通りだ。また唐の楊国忠出でて江浙に使いした留守に、その妻思念至って深く疾をなし、たちまち昼寝の夢に国忠と交わり孕んで男を生んだ。国忠帰るに及び、具《つぶ》さに夢中のことを述べると、国忠これけだし夫婦相念い情感の至るところと少しも怪しまなんだが、時人|譏《そし》らざるなし、と。こんな野呂作の夫がいかに自分の子と承認しても、誰の種やら少しも判らぬ。(『応仁広記』一。渡辺世祐氏『室町時代史』五一〇頁。『中古歌仙三十六人伝』。『野史』二三三。『太平広記』二六八。『予章記』。『越智系図』。一八七一年ライプチヒ板、シュルツェ『デル・フィチシズムス』五章。『大英(167)百科全書』一一板、二四巻六八〇頁。一九二五年シカゴ板、ライダー英訳『パンチャ・タントラ』一七七頁。別本『千葉系図』。一八九七年オクスフォード板、ジュボア『印度習俗礼式篇』二巻六〇一頁。趙宋の趙葵『行営雑録』。バルフォール『印度事彙』三板、三巻二四六と一〇四頁。『大方広仏華厳経』一五。『開元天宝遺事』)
  故平出氏の『室町時代小説集』一六「あきみち」に、山口あきみちの妻、その夫の父を討った賊魁の妻となり男児を生み、のち手引してあきみちに復仇を遂げしめ尼となった。あきみちは妻が生んだ敵《かたき》の子を山口次郎左衛門と名乗らせ、跡を譲り出家した、とある。西鶴の『武道伝来記』八に、福智山の城主卒して葬式に焼香の先後を争い、猪谷久四郎が国見求馬を討って立退きしを、跡付けて出羽の庄内に至り敵《かたき》を覘う国見の子二人、弟の方が虎之助年十九、小間物売と身をやつして探索するうち、一夕町外れで酔漢暴れ来たるに逢い迷惑の体をみて、二十あまりの女が自宅へ匿しくれる。これが縁の始めで心やすくなり、身の上を打ち明けると、命を参らすべしとの一言を違えじと猪谷方へ奉公に出で、その手が懸かりて男子をうみ、奥様と仰がるるに及び、虎之助ことを露わして返り討にさせんと、「女心のはかなき時、さても口惜しや、一度《ひとたび》虎之助殿と申しかわし、今また栄花に思い換ゆることなかれと心底をかため」、猪谷の寺詣りを虎之助に知らせたので、兄弟主従四人して久四郎を討ちとり、尸骸を寺へ送ったところへ、「かの女来たり歎くことを歎かず、初めの段々を語り、この子もわが腹は貸し物と、そのまま刺し殺し、その手にて自害して目前の落花とはなりぬ。この女仕方惜しまぬ人はなかりき」。兄竜之助は生国に帰り、弟虎之助は、かの女のことを思いやりて叡山に上り出家してその跡を弔うた、と書いた。
  これより後にできたらしい『野沢名物焼蛤』五に、姦臣野浦那須右衛門族誅された時、前年野浦が鹿狩りのそれ矢に中《あた》り犬死した牢人桐島若右衛門の妻、名はさよ、夫の仇を討たんと野浦に腰元奉公するうち、主人にくどかれ、「全く女の立てたる志を被るにはあらねど、かくまで心弱くなりし。那須右衛門が心に従いて、折をみて一(168)刺しにさし通さんこと女の手にも叶うべしと思案を固め、命を捨てし上は身を汚《けが》され名を降《くだ》すとても何か厭わじと、靡きそめし夜はいかなりし悪日《あくにち》にや。まさしく夫の敵に膚《はだ》を任せ、いとしかわゆしとのささめ言、天も怖ろしや、なき人のいかばかり疎み悪みたまうらんもかなしく、(中略)やるせなき思いも崩れてさても因果や、双べ枕の情の水よどみて懐胎して、うるさくも敵那須右衛門が子を産み落としぬ、云々。行末のほどの羨ましさよと言わるるに付けても、おさよが心の内の悲しさいかばかりぞや。腹を貸したる子ながら敵の末と思えば、さりとは不便《ふびん》にもあらず、世に例《ためし》なき親と子の縁にてぞありけり。とかくこの子にもし不便の心出できては、なかなか本望を遂ぐるに障りあるべし、仕損じなばそれまでよ、とかく念力の刃《やいば》を那須右衛門に報わんと、ある時は早まる心もあり、またある時はさすがに恩愛の乳呑子の行末を思い、募りし恨みも積もり果て、とかくは涙の袖にしぐれぬ暇もなし。過ぎし神無月の末つ方より、心の外にいたづきて那須右衛門におのずから隔たり、かれがれの怨みりんきにもてなし、ある夜守り刀を打ち付けしに、那須右衛門目早き男にて、やがて押し伏せ刃を奪い取り、中のへやという所に押しこみ置きける内に、かかること出できて、那須右衛門自業自得に一族亡びければ、おさよが産みし二歳になる子も、男たるによって、えたの手に掛けてさげ斬りにせし時、他人さえ、憐れ黒白《こくびやく》も知らぬ者も親の悪事によって刃にかかる不便をみることよと鼻打ちかみしに、この母のおさよは快げに眺めいて、その場を立ちて途《みち》の脇にて入水《じゆすい》して果てけるが、死骸を引き上げし後に、袂の重ねに一通の書置あり。始終を認《したた》めけるを見し人聞きし人、又聞《またぎ》きの人までも、袖に磯部の浪を掛けける」とある。
  虎之助の情婦や若右衛門の妻が、夫の敵の子を産んだのを刺し殺し見殺して悔いざるを、道理至極とほめた時代の眼でみれば、あきみちが、その父を殺した賊がおのれの妻にうませた子に自分の跡をつがせたは、すこぶる間違っておる。しかし小説にもせよ平気でそんなに作ったは、これを読んだ当時の人も多少の同情を催したからで、腹は貸し物の代りに種は貸し物と謂つたはずなる妻主夫従の母系統思想が、足利氏のころまでも多少本邦にあっ(169)たと証する。母系統尊重と多夫一婦の風と必ずしも一致して行なわれざるはハートランドも言ったが、すでに母系統を重んずる以上は、妻が夫を換えるを至極の大事とは惟わぬだろう。また、母系統の虎の子は時々その父と闘い殺傷に及ぶ由をハートランドが述べた。また、父系統の人の妻は変に遭うて自分が産んだ子を殺して快く笑わねはならぬ場合もあった。一は誰の種と確かに知れず、一は誰の種と明らかに知れおり、大きな不同ながら、その不祥な目にあうにおいては逕庭なし。
 以上の文には鼠がちの天井ときて註が多く、ずいぶん混雑したようだが、仏経に子を産んだ女でなければ真の美人にあらずといい、『壇浦合戦記』にもすべての婦人は三十前後をもって真風味となすとか、俗説にも三十過ぎねは玄牝《げんぴん》に後光がささぬと言うごとく、大日如来の荘厳相は胎蔵界曼陀羅をみて初めて拝み得る。その平坦細滑にして春草絨のごとくたらんよりは、紫髯戟のごとく、丁子頭とも数の子とも形容に苦しむ異態繁多の雑具おびただしく出で撫でるから、大喜楽仏定に入り得る。そのごとく、無量の雑註を具えて読者を倦まざらしめたのだ。ただしよく仏定に入りて静思せば次のことが判るはずだ。
 
(171)     尾崎君の「振鷺亭の怪談会本」を読む
 
 本誌四月特輯號三六頁、「古城の妖怪、樵夫八助がこと」は、尾崎君が謂われた通り、かの城山の伝説に拠った作者の作為であろう。
 予もこんな話をしばしば聞いたようだが、やや確かに覚えたのは、予の幼時、和歌山の多くの家に写本で伝わった『岡山怪魂記』とか題したものだ。この題号を付けずに、『紀伊国名所図会』初編の一か二の巻にも載せてある。只今座右になく、また四十余年も御無沙汰で記臆も朧ろげながら、ざっと話の筋を述べると、和歌山城の近くに岡山とて、南北に延びた砂丘に老松生え列なつたのが今もある。むかし、ある武士の息子が一僕を従えてこの辺を遠乗りし、馬より下りて息《やす》むところへ、若い女中が文箱をもち来たり贈る。披見すると、誰とは知らず、優しい手で自分を招請ときた。行ってみると、この寂しい処に不似合いな屋形ありて、紅閨中に姫君が待ちおり、父母の許した縁《えにし》ゆえ御遠慮に及ばずということで、懇遇到らざるなし。従僕また旧く知った中と言わるるままに、子細構わず、かの女中と歓会を究めた。その夜はそれで別れ帰ったが、主僕とも精神恍惚として片時も忘れず。毎晩伴うてかの屋形へ通う。よって毎夜不在なるを両親が怪しみ、一夜人をして追従せしむると、岡山の一隅狐狸のすむべき藪榛中に分け入る様子。驚き返っての報告に父母も呆れ、定めて狐に誑《ばか》されたのだろうとて、二人が満足して還るを執え外出せしめず。
 やや久しきのち監視の緩むを伺い、一夜二人伴うてかの屋形に往くと、姫君も女中も涙ながらにおのおのその情夫(172)に語った。われら実は生きた人間でなく、むかし畠山某がこの紀州の守護たりし時の娘とその侍女で、君ら主従の前生におのおの許嫁されおり、事遂げぬうちに若死した。さて善因ありて君らは再生してまた主従となり、われらは業悪しくて今に浮かまれない。たまたま近処へ遠乗りに来られたのを好機会と、文を贈って招致し、年来の思いを晴らしたは嬉しい限り、どうか跡を弔うて欲しい、と述べて流涕滂沱たり。と見ると、今まであった屋形も女どもも跡方なく、藪の中に茫然と立ちおった。一方ならず驚いて逃げ帰り子細を語るに、一同もいと怪しみ、かの所へ往き尋ぬると、古い墓碑が出る。果たして畠山家の姫君とそれに殉死した侍女の葬所、と記しあり。地を掘ると、遺骨に添うるに定数の文箱が出たが一つ足らず。最初侍女が持ち来たった文箱を自宅に置いたのと併せて数が揃うた。そこでみなみな感動して、由良の興国寺はもと畠山家に関係厚かったところから、遺骨を送り改葬し、懇ろにその跡を弔うたとのことだ。
 こんな話は支那にもざらにありと覚ゆれど早急にその例を引き出しえぬが、例の『遊仙窟』も所詮はこの本話の一つと言って過ちはなかろう。(『夜譚随録』巻一〇、秀姑の条はよくこれに当たる。また『太平広記』巻三〇二、華嶽神女の条。)
 
 四〇頁、「総州香取村与茂九即、執心(この字本誌には熱心〔二字傍点〕とあり。徳川氏世々書かれた物に熱心という語は少なし。大抵は執心なりとて、執心と察す。近ごろの印刷物に執心を熱心との誤刊せるもの多く、印刷人御注意を乞う。)にて本望を達すること」は、これまた支那に前型が多いようだが、只今見出だしえぬ。ただ一つ類話を写して御覧に供える。
 唐の釈道世の『法苑珠林』九二に、『続捜神記』(ブレットシュナイデルは、その『支那植物篇』一の一九三頁に、『捜神後記』と同一らしく述べたが、予は別物かと思う。とにかく次に引く文は、漢魏叢書本の『後記』中に見えぬ)(173)を引いていわく、晋の時、東平の馮孝将、広州の太守たり。児の名は馬子、年二十余なり。独り厩中に臥し、夜夢に女子年十八、九なるを見る。いわく、われはこれ前太守北海の徐玄方の女《むすめ》、不幸にして早く亡じ、亡じてより出入四年、鬼のために枉殺さる。(一九の『安本丹』に、幽霊をぶち殺すことはならぬ、ぶち活かすかもしれぬ、とあり。ここの文句は、死んで幽霊となって四年するうち、また鬼に殺されたというのでなく、死んでから四年間ぶらつきおる、元来自分が死んだのは、鬼が他人と間違うて自分を殺したのだ、というのだ。)主録(閻魔帳)を案ずるに、まさに八十余(まで生くる)なるべし、われにさらに生くるを聴《ゆる》せ、もし馬子に依るあらば、すなわち活くるを得べし、また君が妻たるべし、能《よ》く所委に従い救い活かさるるや否や、と。馬子、然るべし、と答う。馬子と期を剋し、まさに出ずべくす。
 期日に至り、牀前の地、頭髪まさに地と平らかなり。人をして掃い去らしむるにいよいよ分明なり。始めてこれ夢に見るところの者と悟り、ついに左右の人を屏除《のぞ》けば、すなわち漸々額出ず。次に顔面出で、一次頃《しばらく》にして形体にわかに出ず。馬子すなわち榻上に坐対し陳説せしむるに、語言奇妙非常なり。ついに馬子と寝息す。毎《つね》に誡めていわく、われなお虚にしてみずから節す、と。(男がふざけ掛かるごとに誡めて、われまだ実体なければそんなことができぬと言った、というのであろう。)何時をもって出だすを得んと問うに、答えていわく、出だすにまさに本生を得べし、生日なおいまだ至らず、と。ついに厩中に往く。言語声音、人みなこれを聞く。女、生日至るを計る。女見たさに馬子におのれを出だしてこれを養う方法を教え、語りおわつて拝し去る。馬子、その言に従い、(当)日に至り、丹雄鶏一隻、黍飯一盤、清酒一升をもって、その喪前に?《そそ》ぐ。厩を去る十余歩、祭りおわって棺を掘り、出だし開いて女の身体《からだ》貌《かたち》すべて故《もと》のごときを見、徐々に抱き出だして氈帳中に著《お》くに、ただ心下微暖に、口に気あり。婢四人をして守らしめ、これを養護す。常に青羊乳汁をもってその両眼に瀝《したた》らせ、始めて口を開き、能《よ》く粥を咽《のど》にす。積《かさな》りてようやく能く語る。二百日のうち杖を持って起って行《ある》く。一  幕《ひととせ》ののち顔色、肌膚、気力ことごとく常に復す。すなわち遣わ(174)して徐氏に報ずるに、上下ことごとく来たり、吉日を選び下礼し、聘して夫婦となる。二男一女を生む。長男、字は元慶、永嘉の初め秘書郎中たり。小男、字は敬度、太傅掾たり。女《むすめ》は済南の劉子彦に適《とつ》ぐ、徴子延世の孫なり、と。(竜子猶の『情史』巻一〇、草子呉女、もっともこれに似る。『聊斎志異』巻八の一、封三娘の条、見るべし。同巻の六、伍秋月の条、また見るべし。)
 話の子細は多少|差《ちが》うが、美女を埋処から救い出して妻とし、子供三人まで設け盛えた点は和漢符合しおる。この筋も江戸の戯作者にしばしば採用されたらしく、若い時見た絵本に、博徒親分の妻が美少年と通じ、発覚を惧れて上方へ出奔する途上盗群に襲われ、女は賊魁の妻となる。少年はどこかの村で流浪中、豪家の娘が見初めて煩いて死ぬ。かねて執心しおった醜男が、せめて尸骸でもと掘り出すと、女は息を吹き返す。ところへ少年も忍び来たり、かの男を追い払い、娘を親の宅へつれ往き、両親、再生の恩人と望んで少年を婿に取る。その婚席へ、その旧情婦がやっと賊の窟を脱し、尋ね来たってあばれ込む騒ぎに、作者の夢が寤《さ》めたという趣向の物があった。何と題した本か、識者の高教を竢《ま》つ。  (昭和四年五月『グロテスク』二巻五号)
 
(175)     桜を神木とすること
 
 中山太郎君の『日本民俗学』神事篇、三七七頁に、「わが国の神々が、好んで松、杉等の常緑樹を憑《よ》り代《しろ》に択んだ中に、ただ一つ桜を神木として択んだ神がある。そは大和吉野の金峰神である」と言われたが、外にもそんな例はある。今ちょっと座右の書籍を探って二、三例をここに出そう。
 まず『走湯山縁起』五にみえた桜童子は、その所に桜木あり。花八重で枝条茂盛し、樹の上にも下にも常に天童あって、神託を推す処たり。この砌の崛中に金塔あり。天人供養をなし常に来たり下る。ことに開花の時来たり集まる。よって宝社を構えて安置し奉る。その形、天童子なり。右手に開いた蓮(花)をもち、左手に宝珠をもつ、云々、と。これ走湯権現の三王子(岩、辛夷、桜)の一たる桜王子は、桜をその神木としたのだ。
 その兄|辛夷《こぶし》王子は、その社壇の処に、もと大きな辛夷木あり、それが枯れたのち、木の中心にこの神像が現じたという。辛夷はもと支那の原産たる玉蘭(ハクモクレンゲ、学名マグノリア・コンスピクア)の、花白からず、紅や紫、または外紫内白なる変種らしい(一八九五年板、ブレットシュナイデル『支那植物篇』三の四五八頁。『遵生八牋』一六。『潜確居類書』一〇三。『通雅』四一。『秘伝花鏡』三。『広群芳譜』三八。『重修植物名実図考』三三上。一八九一年ライプチヒ板、ユングレルおよびプラントル『植物自然分科篇』三編二部、一巻一六頁。一九二九年一四板『大英百科全書』一四巻六七二頁。故矢田部教授『日本植物篇』一冊七〇頁等参酌。『大和本草』一二には、木蘭、シモクレンゲ、学名マグノリア・オボヴァタと、玉蘭を一種異(176)色と見立てたようだが、『広群芳譜』に玉蘭は九弁と明記され、六弁に開花する木蘭とは別種だ)。予が聞くところをもってすれば、玉蘭の紅紫花のものも今は本邦にあるらしく、外紫内白のものとは、『本草図譜』七七巻一四葉裏のサラサモクレンに当たるようで、これらを学名マグノリア・コンスピクア変種プルプラスケンスと呼ぶらしい。さて、むかしこれら真品の辛夷が渡来せず、たまたま支那へ往つた人々も、下宿の主婦や下女にばかりからかって、仔細に植物の同異などに注意せなんだ時、かの邦の書籍にほんのざっと筆せられた記載に拠って、支那の草木をひたすら推量のみで、日本の物に推しあてるうち、本邦固有のコブシ(学名マグノリア・コブス)が、もっとも辛夷に近いらしいので、辛夷をコブシにしてしまい、走湯権現の子神の名、コブシ童子を、拳童子また辛矣童子と書いたものだ。コブシの花初めて開くの状、小児の拳のごとしとてこの名を得たる由(『植物図鑑』二板、一一四八頁)。(重頼の句に、「さく枝を折る手もにぎり拳かな」(『犬子集二)。)だから、辛夷というエセ漢名を知らぬ人は、コブシの木を拳の字で表わしたとみえる。(『野史』一〇四に、天文十四年春、下野祇園城主小山政種、酒宴の興に乗じ兼栽の頭をはる、「兼栽つむりはる風ぞふく」。即吟して、「小山木《をやまぎ》のコブシの花はちりはてて」。明年小山氏亡ぶ。)
 辛夷は屈原の「九歌」を始め、漢土の詩文にしばしば吟詠されたに反し、コブシは古く本邦の詞藻にあまり持て囃されず、明らかにこれを美花と記したは、『新撰類聚往来』が初めと愚考す。この書は永禄九年の作だろうと、『柳亭記』上にみゆ。それも実は別種なるシデコブシ(学名マグノリア・ステルラタ)をそのころより賞し出したのかと惟う。『古名録』九に、『沙石集』の犬コブシをシデコブシに充てたは受け取れない。かの本文は、犬コブシを真のコブシに似て非なるものと卑蔑した語で、その花の美をほめたのでないから、コブシに似ながら花小さきタムシバ、一名コバナコブシ、学名マグノリア・サリシフォリア(『日本産物誌』美濃部下)でもあろう。
 大正十一年三月の『集古』七葉裏に書いた通り、紀州日高郡山路諸相で従来、男女が情事を通ずるに、大和言葉なる用辞あり。『新編御伽草子』に収めた『浄瑠璃十二段草紙』九、大和言葉の条に、牛若丸と浄瑠璃姫、(177)この辞をもって長く問答する。山路村民のもそれに似た物だ。その一に、「深山コブシの花と思います」とは、遠目によい」という意味だ。夜目遠目傘の内と言って、遠方よりことに優にみえる女あり、それをコブシの白花がはるかな人眼をひくに比べたのだ。(明和二年に成った『諸道聴耳世間猿』三の三に、「吉弥結びに金糸の房たっぷりと、塗下駄に青天井の日傘、夜目遠目にも女の外科とよりはいいようのなき風俗」。元禄十五年板『女大名丹前能』二の一、「所詮暮を待ちて往かば、夜目遠目傘の内にて、十や二十は若草の、籠れる内の灯火《とぼしび》の影」。)綾足の『折々草』に、北越で雪解くる三、四月の交、梅と共にコブシの花さくをみて、田を打ち返し、これを田打ち桜という、と出ず。この程度において、コブシも古く、舶来の艶芳など思いも寄らぬ山陬では、相応にめでられただろう。したがって予は、走湯山のコブシ王子を、その弟神の桜王子と均《ひと》しく、その辺の土人が、旧《ふる》くその花を愛するのあまり、創崇したものと思う。コブシも桜同様常緑ならぬ花木だ。(〔慶安四年良徳撰『崑山集』に、「ちれば咲く花は起上《おきあが》りこぶしかな」とは面白い。)
 また、伊勢内宮の末社桜の宮、一名桜御前は、桜大刀自神を祭り、社殿はなくてただ一本の桜を神体と崇む。この木、天より降り、日本の桜の始めゆえ、花開姫命と立てたという(『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』。『弘安九年太神宮参詣記』。坂士仏『太神宮参詣記』。大日本地誌大系本『伊勢参宮名所図会』上、一九〇頁)。度会《わたらい》元長の『詠太神宮二所神祇百首和歌』に、桜宮、宝殿ましまさず、この御神、北野の桜葉の宮同体の由、申し奉る人|有之《これあり》。『三国地誌』五〇に、『梵燈庵袖下集』を引いて、桜の宮とは、桜の宮(御前か)の御事なり、伊勢にてはさくらはと申すなり。『山川名跡志』二二に、桜葉の宮は天照太神を祭る、とあって、桜樹のことなし。ただし、初め北野の右近馬場にあったが、のち今の二条城の地に移され、次に出水通千本東、南方に移された、とあるから、桜樹は滅び伝説を失ったものか。とにかく、伊勢の桜の宮は桜樹崇拝の顕著なる一例といいおく。(『雲陽志』一、島根郡北浦、客明神、桜を神木として倉稲魂神をまつる。)
(178) このついでに申す。『甲子夜話』續篇四一に、谷文晁、親《みずか》ら吉野の花をみたとて語ったは、「一目千本の処に到る。(これはかつて聞くことあり、この千本の桜と言うは、臨下の谷にありて、数樹の列比して限りなきをもつてかく言うなり。また聞く、数本みな同種の桜なれば開花もまた一斉にして前後あらず、と。)前の坂を陟る時、村児ども集まり出でて、桜の苗を買い給え云々と告ぐ、よつて登山の輩あるいはこれを買う。(これを人、巴籠と呼ぶ、その故は籠の編み終りの竹長く殘りて、おのずからその形巴のごときをもつて謂うとぞ。)さてその物を沽《か》うゆえは、これを山神に献ずるとて、山頭より籠のまま谷底へ投下せば、その苗、根を生じて樹となる、と。珍しきことなり」と記す(貝原先生『和州巡覧記』六田の条下參照)。
 『百川學海』戊集所収、『孫公談圃』中卷にいわく、石曼卿、海州に通判たりし時、山嶺高峻にして人路通ぜず、ほぼ花卉の点綴照映するなきをもって、人をして泥で桃核を裹み、山嶺上に抛たしめしに、数年ならぬ間に、花満山に発し、爛として錦  繍のごとし、と。谷底へ落とすと、山嶺へ擲《な》ぐると上下は差《ちが》うが、ふたつながら古人花木の蕃殖に留意せるの厚きを視るに足る。と書きおわって、『一話一言』八に引かれた『三輪物語』をよむに、吉野の桜苗うりは坊主の営利的ペテンで人を欺いたものらしい。
 中山君はまた、「他の神々が必ず一本を憑《よ》り代《しろ》と限定するのと違い、吉野全山の桜をことごとく神木とする」と、金峰神が示現したと言われた。貝原先生の『和州巡覧記』にも、「この山にて桜を伐ることを甚《いた》く禁ず。桜木を薪にせず、故に樵夫桜を売らず。もし薪の内に桜あれば里人これを択びすつ。これ里人の偏えに桜を愛するにもあらず。藏王權現の神木にて惜しみ給うと言い伝えて、神の祟りを畏るる故なり」とみえ、必ずしも吉野全山の桜を一本殘さず、ことごとく均《ひと》しく金峰山の憑り代とすると示現されなんだまでも、この神が全山の桜を愛惜するとは古く伝説だったに相違なし。しかし、神が一本や僅数の木を特にその神木と定めず、その種の木でさえあれば、一切これを愛惜した例はこの外にもある。琉球の封王弟十代、王尚元の時、古米《くめ》村の林氏大夫なる者、常に「いづくにも梅さへあらば我(179)としれ、心づくしに外《よそ》な尋ねそ」という歌を吟じて、菅神を祭った。のち入唐船の上使で乗った船が、?州梅花海で覆り、船中百工みな死せしが、林氏一人梅枝に取りつきて活き、他船に乗って帰り、ついに天満宮を立てたという(『読史余論』一、『琉球記』をひく)。(この歌本土に行なわれしは、「いづくにも梅だにあらば我とせよ、たとひ社はありとなしとも」「梅あらば賤しきしづの伏屋にも、われ立ちよらん悪魔しりぞけ」(『醒睡笑』三)。また『臥雲日件録』二一、享徳四年正月七日の条、「去春、城南の深草の小庵にて花を看《み》るのこと。古歌、深草の野辺の桜し心あらばこの春ばかり墨染《すみぞめ》に発《さ》け。一華いわく、この歌は、深草の院崩御の時、孤臣某、これを詠みしなり。あるいは西行の作となすは非《ひ》なり、花神多く某人に託していわく、この春ばかりを改めて、この春よりはに作りて可なり、と、云々」。これはこの木限りの神と見える。昭和六年四月十八日着井上頼寿氏よりの来状に、京都河原町二条上ル東側法雲寺に桜姫降りしとかいう話伝わり候由、この寺は豊公が茶を楽しみし所との伝もあり、桜多くありし由、今も少々あり、云々。)
 菅公梅花を愛したについては、『大日本史』その伝に、「道真、梅を愛す。発《た》つに臨んで花たまたま開く。和歌を詠んで懐《おもい》を叙《の》ぶ。辞はなはだ悽切、聞く者これを憫《あわ》れむ」(『大鏡』、『太平記』、『荏柄縁起』)と出ず。しかし『拾遺集』一六に、「流され侍りける時、家の梅の花を見侍りて、贈太政大臣」と詞書し、『大鏡』には、同じ時、公が子女と別れたことを述べて、「かたがたにいと悲しく思しめして、御前の梅の花を御覧じて」と詞ありて、「こちふかば」の歌を出し、ふたつながら愁歎の折から偶然梅花をみつけての詠のように聞こえもする。それと異《かわ》つて『北野縁起』上には、紅梅殿に愛《め》でさせ給いける梅を御覧じて、「こち吹かば匂ひおこせよ梅の花、あるじなしとて春を忘るな」「梅の花ぬしを忘れぬ物ならば、吹きこん風ぞことづてもせん」。紅梅殿の設備もあり、別れに二首までも梅の歌あれば、よく/\公は梅を愛したと判る。『太平記』一二には、「年久しく住み馴れ給いし紅梅殿を立ち出でさせ給えば、明方の月幽かなるに、折り忘れたる梅が香の、御袖に余りたるも、今はこれや故郷の春の形見と思し召すに、御涙さえ留まら(180)ねば」とあって、件《くだん》の歌をのせ、「心なき草木までも、なれし別れを悲しみけるにや。こちふく風の便りを得て、この梅飛び去りて配処の庭にぞ生いたりける。されば夢の告げありて、折る人つらしと惜しまれし、宰府の飛梅これなり」と、感慨深く書いた。これで梅に因《ちな》んで名を命じた建物に、年久しく梅に対して住まれたと知れ、飛梅の縁起も分かって面白い。ところが『荏柄天神縁起』は、『太平記』より古い物だが、『北野縁起』同様、その時二首を詠んだとしあり。ただし第二の歌は、「桜花ぬしを忘れぬものならば、吹きこん風にことづてはせよ」となりおり、紅梅殿で梅を御覧じて、桜を詠んだとは不審極まる。
 ところが『菅家万葉集』上、春の歌に、桜の詠が三首あって、梅の詠は二首しかなく、花と鶯と合わせ詠んだのが七首ある。この花は梅かと思えど、桜と鶯を詠んだのが二首あり、明白に梅と鶯を詠んだのは一つもないから、件《くだん》の花は梅とも桜とも判らない。この書は後人の偽作ともいう(経済雑誌社発行『群書類従略解題』二九九頁)が、かつて梅と均《ひと》しく、もしくは梅以上に、公が桜をも愛したとの説があつたと証する。『蘿月庵国書浸抄』五、「梅はとび桜はかるるの歌」「梅はとび桜はかれぬの歌」の両条参看すべし。そこに引かれた『搨鴫暁筆』に追松の話あり。公、筑紫にありて、梅は飛び来たり、桜は別れを悲しんで枯れたと聞いて、「梅は飛び桜はかるる世の中に、松ばかりこそつれなかりけれ」。女房悦べ、悴は大きに立ったぞと、きくよりわっとせき上げて、さてこそ都の松は御跡を追いて、西府には生いたりけれ、追松と申し侍るこれなりとか。これ丸っきりの杜撰ならず。建久中の筆なる『荏柄天神縁起』天暦元年託宣の条に、われ、むかし大臣たりし時、夢に、松身に生いてすなわち折れぬとみしは、流さるべき相なり、松はわが像の物なり、と宣う。さて一夜の中に、右近の馬場に松生いて、数歩の林となった、とある。さればずいぶん古くより、梅の外に桜も松も菅公に愛されたと信ぜられたのだ。なかんずく、愛梅の話がもっとも古く、ことに飛梅の噂が高かったので、菅神像に必ず梅を添え、後には支那にまで聞こえて薩天錫の詩に入るに及んだのみかは、飛梅の枝で作った天神像が、信者の身代りに立ったの、天神様へ願掛けて、梅をたちますなど、しばしば聞くところと(181)なった。(『広益俗説弁』三。『菅神入宋授衣記』。『北野神君画幀記』。『梅城録』。『諸国里人談』一)(天神配所で自作の像、薨後、摂津住吉郡堺常楽寺の梅の梢に来たり止まったのを、該寺に祀つた、と『摂陽群談』一一に出ず。)
 また、『太平記』や『梅城録』によれば、菅公は是善卿の実子にあらず。春の晨《あした》、卿が南庭を眺めおると、五、六歳の美麗な児が花を詠《なが》めおり、父も母もなし、願わくは相公を親とせんと望んだ。よって愛育されたのが公で、七歳(また十一歳ともいう)の時、父に試みられて即座に、「月の耀《ひかり》は晴れたる雪のごとし。梅の花は照れる星に似たり。憐むべし金鏡|転《めぐ》って、庭上玉芳|馨《かんば》し」と五言絶句を吐いた由。(『宋高僧伝』六、「唐の彭州の丹景山の知玄、乳哺にして、いまだよく言《ものい》う能わずといえども、仏像、僧形を見れば必ず喜色を含む。五歳にして、祖、花を詠ぜしむ。数歩ならずして成る。いわく、花開きて満樹|紅《くれない》なり、花落ちて満枝|空《むな》し、ただ余《あま》して一朶あり、明日定めて風に随わん、と。祖|懌《よろこ》ばず」。七歳にして、講経をきき志を起こし、十一歳にて出家す。)よって思うに、最初|詠《なが》めおった花はやはり梅で、「ある説にいわく、菅公、平生梅を愛するに癖す。甲第は長安の宣風坊にあり(五条号)。別殿を置き、もっぱら梅を栽え、しかして紅白二種を分かつ。凍蕾わずかに開けば、清玩すること終日、雅詠はなはだ多し」(『梅城録』)。さて左遷前後、飛梅の一件まで、公の生涯はほとんど梅に初まり梅に竟《おわ》った。されば建久ころまでは、松をもっぱらこの神の憑るところと信ずる者も少なくなかったが、室町時代となっては、梅さえみれば必ず公を連想し、その像に梅なきは、婦女の彼処に春草を闕《か》く以上の不出来と思い做《な》された。(されば菅公夢に径山《きんざん》に無準を訪い、何人と問われて、「唐衣をりて北野の神ぞとは、袖に打ちたる梅にこそしれ」と答えたというに至る(『月苅藻集』上)。)それが琉球まで伝わって、「いづくにも梅さへあらは我としれ、心づくしに外な尋ねそ」という神詠と現じたのだ。(されば徳川氏の世に尾州名古屋伊藤一楽の息尚春、七歳で天神に詣で、「天神の姿やうつす梅の花」と吟じた(『難廼為可話』三)。)金峰神が吉野全山の桜をことごとくその神木としたに比べて、琉球、支那は言うに及ばず、おいおい世界諸国に播がる梅を、みな菅公自身と心得よと訓えたから、その雄図は素敵に偉大だ。
(182) 『三国地誌』をみるに、伊勢国河曲郡に当国一の宮という都波岐神社、鈴鹿郡に椿大神の社あり。共に猿田彦大神を祭るという。この二神のいずれかに椿の神木ありとか、満山椿の神林ありとか、何かで読んだ。この記臆にして謬らずば、これも桜の外に花木を憑り代とした一例だろう。けだし梅、桜、コブシと異なり、椿は常緑木で花木を兼ぬ。(昭和七年三月二十二日受けし井上頼寿氏のハガキに、「伊勢椿大明神の椿へ神降りしこと、同社へ再度聞き合わせしも、文献なき由、ただし亀山在の人来たり、尋ねしに、椿の木の猿田彦|影向《ようごう》になりたること、確かに聞きおる由申し候」。京都紙屋川地蔵院庭前の征韓役将来の椿の大木、今は椿大明神と祀り、実一つ拾うても祟ると、また呼んで椿寺という(『未刊随筆百種』九、『及爪漫筆』下、一〇九頁)。『奥羽観跡聞老志』四、「亘理郡下郡村の椿山は、椿樹七、八百株あり。春来たり花開けば、満山笑うがごとし。林中に小堂あり、観音の像を置く。いわく、往古叢祠を立てて花神を祀る、後人これに換うるにこの像をもってす、と」。『雲陽志』一、島根郡名分の金井子神社、椿を神木とす。中道等氏の『津軽旧事談』一〇二頁、椿山の男女の話。)
 予幼時、和歌山の城近く天方氏なる武士の邸があった。『古老茶話』上に、信康君を介錯致し侯天方山城、紀州家へもその流今に奉仕なり、御家に勤め候子孫は、段々断絶に及び、云々、とある、その天方山城守通綱の後胤らしい。その邸ずいぶん広く椿の大木多く、昼夜門を開け放しで、閉ずれば天狗が暴れると言った。予の家の仏前へ毎度来て、『観音経』を誦した智徳という老尼が、一夜その邸前を独り通ると、椿の木の上から、睾丸が吊り上がるほど大きな声で笑うた。ところが「ないが意見の総仕舞ひ」。生まれてからかつて睾丸を持たぬ尼は、安心なもので、度胸をすえ、徐《しず》かに一礼して、「今晩は大分よい御機嫌で入らせられます」と言って過ぎると、笑声たちまち止んだ、と語った。鼻高天狗は猿田彦の像から転出したらしいから考えると、むかし猿田彦が椿を神木とせるより、この和歌山の椿屋敷の椿に、いつも天狗すむ由言い伝えたものか。今はその屋敷も椿も影だに留めおらぬ。(『本朝俗諺志』一、予州笹山社を創立せし蕨岡家は代々昼夜その門戸を聞放す、これを閉ずればおのずから引きはなし捨てられあり。)熊野(183)で椿を妖怪の木とするも、多少天狗に関係あるのだろう。(大正十年十二月『太陽』一三八頁参照)  (昭和六年四月『旅と伝説』四年四号)
 
(184)     馬角さん
 
(同年九月の同誌、四年九号八八五−八八六頁に、この題目で、久世正富民の短篇が出た。紀州海草郡藤白権現の社に蔵する「馬角さん」の正体は、和歌山藩祖、徳川頼宣卿の馬に生じたのを、臣下某がこの社に献じたとも、頼宣卿が献上した馬に生じたともいわれ、漁場に持ち行くと魚が多く集まると俗信され、遠く西牟婁郡田辺|辺《へん》からも迎えられたことあり(そのこと田辺町の旧家田所氏の『万代記』に見ゆ)、その効験きわめて著しいから、紀南の漁民、馬角を船で迎え取っては、通路の浦々を利するを恐れ、故《ことさ》らに陸で迎え運んだという。不漁久しく続けば馬角を迎え、その日は一浦休んで大いに祭る。馬角は一船に載せ二船で曳き、途中、所々で神主祈?をしながら網を入れてゆく。それが上陸すると、衆船縁起を祝うて、争うてこれを迎え取りにかかる。かの社の社掌吉田氏先代ころは、このことはなはだ盛んだった。海草郡内海町漁業組合では近年までこれを迎えた。久世氏かつてこれを拝観したるに、厳重な五重の箱に蔵め、箱の一つは黒塗りで、紀州家の三葉葵の金紋を付け、角はその長さ寸に満たず、蚕蛹状の褐色の物、牙でなくて角のようにみえるゆえ、変態的に馬に生えた物であろう。馬に角生える例は『広文庫』などにも大分見ゆ、と。以上久世氏説の概略だ。昭和七年七月九日の『大毎』紙和歌山版には、頼宣卿の駿馬を、家臣石野重延に賜わると、その馬いつの間にか角を生じたので、重延これを藤白社へ寄進した、寛文十年その馬死して角を留めた、とあった。)
 久世君が言われた『広文庫』はまだみないが、大正七年四月発行『太陽』二四巻四号一八五−一八六頁へ掲げられ(185)た拙文「馬に関する民俗と伝説」の一片を抄出すると、いわく、
 「『甲子夜話』一一に、津軽辺で三歳の駒、左の耳に長《たけ》一寸|丸《まる》九分くらいの角生え、図のごとく、曲がり、黒く堅し。ただし本の方は和《やわ》らかくして、また右の方にも生い立ちし角見え申し候、と見ゆ。(『文献通考』二二に、漢宋間の諸朝、馬が角を生じた例を挙げたるをみるに、長さ三寸以上のものなし。)『梅村載筆』に、義堂の詩三句ながら同字を踏むこと日本で始めなり。その詩は、「馬頭生(ズルハ)v角(ヲ)亦非(ズ)v難(キニ)、山上遣(ルモ)v舟(ヲ)亦不v難(カラ)、難(キハ)是(レ)難中(ノ)難有(リ)v一、夕陽門外待(ツコト)v人(ヲ)難(シ)」。この起句は、文部省刊行『俚謡集』、伊賀阿山郡の木遣歌に、牛の上歯に駒の角、師走|筍《たけのこ》寒茄《かんなすび》、山の上なる蛤や、とある通り、馬の角をないにきまった物としたので、支那でも、燕の太子丹、秦に人質だった時、燕へ帰らんと請うと、秦王鳥の頭が白くなり、馬に角生えたら許そうと言うた。そこで丹、天を仰いで歎くと、鳥すなわち頭白く馬角を生じたので、燕へ帰るを得たそうじゃ(王充『論衡』感虚篇参照)。
 「『和漢三才図会』六八に、立山の畜生が原は、むかし奥州の藤義丞なる者、ここでしきりに眠り馬に変じ、あまつさえ角を生ぜるを、今に本社の宝物とす、と。『観瀾集』に、「大石子家に馬角一枚を蔵す。伝えていわく、上総介小幡信定(武田家の勇士)の乗れる馬の生ずるところと、云々」。『広益俗説弁』二〇に、俗説にいわく、馬角は宝なりと言えり、と。今按ずるに、『史記』文帝十二年、「馬あり、角を呉に生ず」。漢の『京房易伝』にいわく、「臣上を易《あなど》りて政《まつりごと》順わずんば、その妖、馬は角を生ず」。『呂氏春秋』にいわく、「人君道を失えば馬角を生ずるあり」。これをもって見れば、宝とすべきものにあらず、と出ず。『物異志』にいわく、「漢の文の時、呉に馬あり、角を生ず。右の角三寸、左の角二寸」。上に出した『甲子夜話』の図と対照して、馬の角はややもすれば左右不等長だと知る。今もまれにあると見えて、数年前ドイツ辺に馬角を生じた記事を『ネーチュール』で読んだが、その詳細を知らぬ。英語でホールンド・ホールス(角馬)と呼ぶは、またニューともいい、(186)羚羊《アンテロープ》の一属で二種あり。南アフリカと東アフリカに産したが、一種はたぷん既《はや》絶えたであろう。牛と馬と羚羊を混じた姿で、尾と?《たてがみ》はことに馬に近い。手負うた角馬に近づくはすこぶる危険な由、一九一四年板、パターソンの『ツァヴォの食人者』に述べある。」
 と、かく書いてのち(種々渉猟して見出でた支那の例どもをほぼ時代を追って列ねると、『天中記』五五に、「漢の武帝、大宛に天馬ありと聞く。李広利を遣わしてこれを伐ち、始めてこの馬を得。角あって奇となす、云々。宋膺『異物志』にいわく、大宛の馬は肉角の数寸なるあり、と。また「馮奉世伝」に、宣帝の時、云々、大宛に名馬の竜の象《かたち》したるを得て還る。師古いわく、吉馬の形竜に似るものなり、と」。竜に似たと聞いて、たちまち角ありと曲解したものか。『説郛』七所収、唐の文宗の時、韋絢が書いた『戎幕間談』に、「広漢の馬、角を生じ、長さ一寸半なり」)、『文献通考』をよむと、宋の宣和五年、馬両角を生ず、長さ三寸とあれば、馬角必ずしも左右不等長と限らないようだ。(なお日本の諸例を書き上げよう。まず黒崎貞孝の『常陸紀行』に、天智天皇七年、常陸国より角生えた馬を献ずること見えたり。文化中、久慈郡|大生瀬《おおなませ》という村の人家に馬あり、角を生ぜる由、云々。やがてかの馬を都庁に召され、点検ありしに、両耳のかたわらに二つ、角の貌《かたち》せるものを生ぜり。その状拇指のごとく、長さ一寸二、三分あり。よくよく手を触れて試むるに、角にはあらずして、肉の起立せるものなり。寛永十六年高松の生騎家亡ぶる前に、主人高俊の馬角を生じ、形、鶏距のごとく、大いさ拇指のごとし。それより三年前、将軍家光公日光参詣の節、馬角一双を宝蔵へ納めた。河内国石川郡科長山叡福寺は、聖徳太子と御母と妃と三骨一廟の霊蹟、その宝物に牛玉と馬角あり。同じことが摂津の勝尾寺にもあったとみえ、その開帳を西鶴が記して、「さまさま御宝《みたから》、口かしこき法師の縁起、馬の角を蜂がさしたら大事か、牛の玉も割れたらままよ、天から降りたる仏さまもありがたからず、あの人をと殊勝そうに娘のみる皃《かん》ばせ、かなわぬ恋なればいたわし」と、霊宝から思いをエロの方へ飛ばせおる。美作の久米郡角石畝村袁浄寺の什物、また馬角一双あり、長さ一寸半、象牙のごとく、色少し赤く、節あり。奥州名取郡弘誓寺の宝物(187)二十、その第十九なる駒角は、長さ一寸ばかりで色淡黒とあるから、馬角も別嬪の顔同様、赤いのも黒いのもあるようだ。遠州秋葉山の宝蔵にも馬角あり。琉球尚穆王の八年、すなわち宝暦九年、牝馬角を生ず、とあって、註に、三歳の牝馬左足に距を生じ、あたかも羊角のごとく、長さ五寸、とは抜群だが、足に生えたものを角と言ってよいものか、コイツは考えものだ。(藤沢氏『日本伝説叢書』讃岐の巻、三八頁。『玉露叢』一八。『河内国名所鑑』三。『男色大鑑』八の五。『新訂作陽誌』二の二一四頁。『奥羽観蹟聞老誌』五。『東海道名所図会』四。『球陽』一五)元禄十六年成った『立身大福帳』四の二に、善を好む人は馬角より稀《まれ》、悪に溺るる徒は竜鱗より多しと、高野大師の誡め給う御詞、誠なるかな、と言ったごとく、なかなか稀有の物ゆえ)、予は内外とも、真の馬角をみたことなし。明治十三年春、和歌山市の松王院という古寺(源平合戦に名高い佐藤嗣信が、屋島で落命したのを葬った寺を、そのまま和歌山へ移した。元暦当年そのままの旧建築とて特別に保存さる)で、高野山の霊像什宝の出開帳があった。拝観の群集、訳も分からずに、賽銭をばらまく間に、予眼を定めて諦視すると、大きなヨウジ魚を左巻きとやらかし、深沙河竜王の子、非常に長いツノガイの殻に、霊宝馬の角、と札書しあった。
 ツノガイとは、飯塚博士説に、軟体動物、掘足類に属する貝、介殻は純白色で長き錐形をなし、両端共に開口す。長さ一寸五分より二寸で、多く曲がりて牛角状をなす。一にウシノツノガイとも呼ぶ。(中略)海底の泥沙中に潜在し、小甲殻類、硅藻、有孔虫等を食う。その介殻には、八角錐形をなすものと、円錐形をなすものとあり、わが国普通に産するものは、八角角貝《やかどつのがい》なり、と(『日本百科大辞典』七巻二六三頁)。軟体動物とは、ざっと言えば、介類にタコ、イカ類を加えたもので、普通これを両経類(ジジガセ)、腹足類(ホラ、オメコ貝、蛞蝓《なめくじ》等)、掘足類、弁鰓類(ハマグリ、アカガイ、シジミ等)、頭足類(タコ、イカ等)の五類に分かつ。掘足すなわちツノガイ類は、腹足類とも弁鰓類ともつかぬゆえに、別類と立てらるるが、たった十二属三百余種あるのみで、軟体動物中、もっとも種類が少ない。日本では角に比してツノガイと呼ぶが、英国では牙に較べて象牙貝(エレファンツ・タスク・シェル)と通称する。その十二(188)属中最多種ある一属の学名デンタリウムも、英名ツース・シェルも、歯貝の義だ(一九二九年、『大英百科全書』一四輯、一五巻六七五頁。『ウェブスター大辞書』その条)。日本に現在幾属何種あるか知らねど、『日本動物図鑑』には、デンタリウム属の約十二種余が邦産なる由を記す。しかしてその三種の図を出しある。また未聞人中にこの類の介殻の大なるものを、多く糸に貫きて装飾用となし、あるいは貨幣に使用せる者ありという、と述べある。そんな物を予在外中しばしば目撃した。
 『剣橋《ケンブリツジ》動物学』(一九一三年再刷)三巻九七頁にいわく、アメリカの西北海岸で、学名デンタリウム・インジアノルムという角貝を、物価の標準としたが、後に毛布と代わった。この介を竪《たて》に二十五|乃至《ないし》四十|維《つな》いで一ファゾム長くしたので、奴一人を買い得た。劣等の殻と破れた殻も同様に用いられたが、値段は優等の殻に比べて、銀銭と銅銭ほど差《ちが》うた。最上品一連は黄金ほど貴かった、と(『大英百科全書』一四輯、六巻八八〇頁)。また英領コロムビアとカリフォルニアの土人は、旧《ふる》く角貝を糸に貫き通貨としたと述ぶ。本邦で角貝を通貨や装飾用としたことを聞かぬ。しかし上に『広益俗説弁』から引いた通り、また予が松生院でみた通り、霊宝としたことはある。中山太郎君の『日本巫女史』四二〇頁をよみ、四二二頁の次の図版をみると、奥羽の巫女のイラタカの珠数とその飾りには、程々の骨や牙や爪や介殻を繋ぎある。
 さて前に引いた飯塚博士説に、角貝の長さ一寸五分より二寸とは、何の種の角貝か知らねど、『動物図鑑』には、マルツノガイ(学名デンタリウム・ヴェルネデイ)の長さ三四ミリに達し、殻口の径一二ミリを有すとあり、寸に直して長さ四寸一分、口径四分だ。しかるに一昨年この田辺湾へ御臨幸の節、田辺町人玉置陸次郎氏が天覧に供せし介品中のマルツノガイは、実に長さ四寸四分、口径五分あった。こんな美事な品は、角貝類を産せざる東北地方ですこぶる怪しまれ、霊異視されただろう。
 この田辺の人は、古来、昨今までも、夏になると隊を組んで大和の山上嶽へ詣る。亡友星梅(木村梅吉)という老人、(189)若い時、その群に入りて洞川にに到り、連中定宿の寺に泊った。住職威儀を正し、毎年懈怠なく登山奇特の至り、よって稀有の秘宝、日本にただ三つしかなき霊介を拝ますべしとて、荘厳なる黒塗りの箱より、恭《うやうや》しく取り出し戴かせたをみると、田辺で何の用に立たずとて、網に入ればたちまち捨て、たまたま拾い帰れば、刺《はり》多くて鬼が怖るるとて、戸口に吊り下げるハリニシ(方言ガゼ)という介の殻だったので二度ビックリ、燕石十襲の故事を知らぬ星梅も、どんな凡物でも乏しい所では尊ばるることと悟ったと笑語された。(『裏見寒話』二に、甲斐の東屋権現社に、八丈島より献じた子安貝を宝物とすとあるも同日の談だろう。)されば暖地に往々見当たる角貝も、東北では見馴れぬ物ゆえ、馬の角など名づけて、その介殻たるを知らず。狼の牙やカモシカの角よりは、特に巫術に験ある物として重んぜられたことと察する。
 元禄二年ごろ児玉庄左衙門が筆した『紀南郷導記』に、牛が鼻、この浦に角貝多し。『紀伊続風土記』九七には、「牛の角介、略して角介とも。牟婁郡には、田辺荘西谷村の海辺、牛の鼻という所に限ってあり、よって名産とす。他郡にも処々に産す。犀角介牟婁郡に多く、他郡には稀《まれ》なり」と記し、別に丸角介、小角介ある由を示す。古く角貝に数種あるを知っておったのだ。牛の鼻は、田辺町の郊外、海浜近くある大岩の名だ。土人より、この岩、潮時に随っておのずから位地を変えると聞いた。林自見の『雑説嚢話』上に、日本諸州の名石を列して、紀州若の浦、亀石、紀州熊野、牛の鼻石、同、投げ石、とある。牛の鼻辺の浜へ、今もまま角貝が打ち上がるが、多くは一寸ほどの小さい品だ。想うに、むかしこの辺より尋常の角貝とは特異の角貝が打ち上がったのを、誰かの手より馬の角として藤白王子へ寄進し、むかし蟻のごとく熊野へ群参した奥羽人が、巫術の立場からその霊異を称揚せしより、この馬の角を持ち出せば漁利多しなど信じて、田辺の漁夫もまたこれを借り出しに往ったものか。ただし諸寺諸社に秘蔵する馬の角、ことごとく角貝でもなかるべく、中には真に馬の頭にはえたのも稀にはあるべきは言を俟たず。  (昭和六年十二月『旅と伝説』四年一二号)
 
(190)     「釣狐」の狂言
 
 明治十四年三月より十五年七月まで、初めは三月に一回、次に隔月に一回、たちまちにして毎月二回の発行を累《かさ》ね、四十編で完成した松村操氏の『実事譚《じつじものがたり》』は、俗間にもて囃《はや》された稗史、劇曲の本説を臚列《ろれつ》し、誤謬を正し迷妄を披《ひら》き、読者を益することすこぶる多かったので、都鄙にあまねく行なわれた。当時十五、六歳の余も、これを読んで啓発さるるところ少なからず、今に松村氏に感謝しおる。その第二五編に、「『釣狐』という狂言の実説」あり、いわく、「『釣狐』は、一名『吼?《こんくわい》』という古くよりある能狂言なれども、近きころまでは、貴きあたりの観に供せしのみにて、下ざまの者は容易《たやす》くみることかなわず。その上これまでは歌舞伎にも演ぜざりければ(浄瑠璃に『釣狐』というあれども、能狂言の仕種《しぐさ》とは全く異なるものなり)、市井の婦女子などは、名をこそ知りつれ、その狂言のいかなる筋立《すじたて》なるやを知らざるも多からん。よって今その実説を掲ぐる前に、まず『吼?』の狂言記を掻摘《かいつま》みて左に載せ、もってその筋立の大略を知らしめんとす。(熊楠いわく、幸田露伴博士校訂『狂言全集』上巻、『狂言記』巻二、七一−八一頁に、この狂言の全文出ず。)
       こんくゎい
  狐『われは化けたと思えども、われは化けたと思えども、人はなにとか思うらん。これはこの所に住む狐のこっちょう。さるほどに、この山のあなたに猟師の候。われらの一門を釣り平らげること、何とぞしてかれが釣らぬようにと思い、すなわちかれがおじ坊主の白蔵主に化けて、参っていけんを加え、殺生の道を思い止《と》まらしょう(191)と存ずることでござる。何と白蔵主に似たか知らぬまで、水鏡を見ましょう。さてもさても、似たことかな。まずかれがところへ急がん。急ぐほどにはやこれじゃ。甥子、内《うち》におじゃるか』甥『いや伯父の声がする。何とおぼしてお出でなされた』狐『さればされば、そなたにいけんのしたいことがあって、参っておじゃる。聞きやるか、聞きやるまいか』甥『いや伯父の坊さまのいけん、何ごとなりとも聞きましょう』狐『そなたは狐を釣りやるという。誠かいの』甥『いやいや、左様のものを釣ったことはござらぬ』狐『よいよい、いけんの聞くまいと思うて。この上は、甥をもったとも思わぬ。中違《なかたが》えでおじゃる、帰りましょう』甥『この上は何を隠しましょうぞ。狐を釣りまするが、伯父の御坊のいけんにまかせて、止まりましょう』狐『おお、うれしい、これもそなた のためじゃ。それにつけて、狐の執念深い謂《いわれ》を語って聞かしょう』(これより語りとて、三国伝来の狐のことをいい、種々の手ぶりあるなり、要なければ略す。)甥『狐と申すものは、執念深いものでござる。いよいよ止まりましょう』狐『おお、うれしうおじゃる。その狐を釣るのを、ちょと見たいの』甥『やすいこと、これでござりまする』狐『はい、ここな人は、この尊《たつと》い出家の鼻のさきへ、むさい物をつきやる。その竹の先なはなんぞ』甥『これは鼠の油あげでござる。このかざをかぎますると、狐どのが食いにかかられまするところを、この繩を引っしめて、皮を引ったくりまするが、いこう気味のいいものでござる』狐『ここな人は、まだそなことをいうか。愚僧がこれにいるうちに、前なる河へ、その繩を流しておじゃれ。気味の悪い物、気味の悪い物』甥『畏まった、畏まった。○いやいや何といわれても、狐を釣りやむことはなるまい。まずここもとに罠を張っておきましょう。○申し申し、最前の罠を川へ流しました』狐『一だん一だん、いけんの聞かれてうれしうおじゃる。もう帰りましょう。さらばさらば』狐『さてもさても人間というものは、あどないものじゃ。伯父坊主に化けて、いけんをしたれば、まんまとだまされてござる。この上は天下はわがものじゃ。小歌節でいのう。○さてもさても、人間というものは、かしこいものじゃ。みどもが帰る道中《みちなか》に、まんまと張っておいた。様子を見ましょう。(192)いえ旨臭《うまくさ》や旨臭や、一口食おうか。この鼠は親祖父《おやおおじ》が敵《かたき》じゃ、一うち打って食おう。節 打たれて鼠、音《ね》をぞなく、われには暗るる胸のけぶり、こんくわいの涙なるぞかなしき』甥『伯父坊主のいけんを聞こうと申したが、狐を釣らずにいることはなるまい。罠を張って狐を釣りましょう』狐『くわい』甥『かかったわ』狐『くわいくわい』
 右の一条を作り出せし本据《もと》というは、むかし堺南《さかいみなみ》の庄に少林寺という寺あり。塔頭《たつちゆう》耕雲院の住僧にて白蔵主といえるは、道徳堅固の法師なりしが、つねに鎮守なる稲荷の神を信仰して、日々奉祀を怠ることなし。ある日、社のほとりにて三足の狐を獲たりければ、こは神の与えたまうものならんとて、抱き帰りて養育に手を尽せり。狐、日を経るままに白蔵主に馴れ親しみて、よくその心をさとり、賊難をふせぎ、凶事を未然に告ぐるなど、その奇いうばかりなかりしという。しかるに、そのほとりの猟師に狐を釣ることを業とする者あり。白蔵主はこれを聞きて、ある日右の猟師を庵へ招き、汝は狐は稲荷の大神の使なりというを知らずして、かかることをなすらんとて、切にその狐釣ることを諭し止めしに、猟師はその言に従いて、ついにこれを止めたりという(以上『堺鑑』の要を摘む)。一説に、このことをそのころ名高き狂言師大蔵|何某《なにがし》が狂言に作りて、みずから狐にいでたち、一曲を演じたりしに、白蔵主に従えるかの狐がみて大いに感じ、老翁に化《か》して大蔵に逢い、なおも野干《やかん》の働きを口伝《くでん》せしより、その技ますます妙に至り、ついにかの家代々の秘事となりしといえど、こはその技の妙を賞するより、神奇に托して、好事家の語り伝えしものなるべし。いかで狐が人に化《か》する理のあるべきや。」(以上『実事譚』)
 ここに摘要された『堺鑑』は、天和三年衣笠一閑著で、それより十七年後、元禄十三年成った石橋直之の『泉州志』一にも、同じ話を略記して、永禄年間のこととしある(『広文庫』一五冊八六四百に引ける『百物語』には、甲州にあったこととし、話がやや差《ちが》いおる)。寛保三年板、菊岡沾凉の『諸国里人談』五に出た伯蔵主は、狐がどえらい学僧に化けたので、宝永ころまで存命、下総飯沼の弘教寺《くきようじ》や小石川伝通院に住み、のち伯蔵主稲荷と称して院の鎮守と祀られた由。これは狐つりの狂言に無関係らしい。その他、貞享三年板『好色三代男』三に、狐が坊主に化け(193)て色里へ通うた話あり。『元禄太平記』八には芝居役者が「こんくゎい」の狂言を演じたこと出づ。
 熊楠このごろ『古今図書集成』を渉猟中、その禽虫典七二に、『辟寒』から次の文を引きあるをみる。いわく、七魯の猟者よく計をもって狐を得。竹穽を茂林に設け、鴿《いえばと》を穽上に縛りて、その戸を蔽う。猟者、樹葉を畳んで衣となし、樹に棲み、繩をもって機に繋ぎ、狐入って鴿を取るをまち、すなわち索を引きて穽を閉じ、ついに狐を得。一夕、月|微《すこ》しく朗らかなるに、老翁あり、幅巾縞裳して一の?《つえ》を支え、傴僂して来たり、かつ行きかつ詈をいわく、何の讐あってわが子孫を掩取してほとんど尽すや、と。猟者、初め以為《おもえら》く、人なり、と。穽所に至り、徘徊これを久しうす。月堕ちて瞑《くら》し、すなわちまた入って鴿を取る。急に索を引きて穽を閉ずれば、すなわち一の白毳老狐なり。裘となして常に比し温を倍《ま》す、と。祖狐が老人に化けて、その子孫ほとんど捕り尽さるるを歎き詈《ののし》ったものの、自分また鴿を食いたくて堪えられず、とうとう穽に懸かって皮を剥がれたのだ。
 人間またその通りで、十二分に女色の害を知り抜きながら進んでその禍難を受けた例が、浮世草紙等にザラにある。九助という番太が、ふとした思い付きで、色町への忍び文を届くるを内職として一廉の身代を作ったところ、久しく馴染んだ妻に頓死されて愁傷の最中、別懇な旦那に頼まれ、大忙ぎの書翰を島原へ持ち行って太夫に渡すと、太夫披見して落涙し、払い銀を引き受けくれながら、今となってならぬとは、頼み甲斐なし、義理は欠かれぬ勤めの身、死ねばすむこと、と独《ひと》り言《ごと》をするを哀れに思い、仔細を尋ぬると、金子十両で事がすむという。よってその小判を取り替えやると、歴々の太夫が合掌して拝んだ。この貸し銀が縁となって、密《ひそ》かにその女に逢うこと五年あまり、それから大いに奮発して、太夫残らず自由にして、二十余年懸かってここで儲けた金を、ことごとくこの里へ使い返し、手馴れた夜番太鼓ばかり残ったそうだ。また、大阪の富人死する時、有銀《ありがね》三千貫目を長子に譲った。この跡取り、二十一歳まで全く色道を知らず。庫の中の金箱を数うるを唯一の慰みとしたが、ある時、「草履取りあがりの若い者折々の気のばしに、蜆川《しじみがわ》に遊び、巾著銀《きんちやくかね》を遣うと聞きて、その茶屋に尋ねゆき、吟味仕出して、ことごとしく異見して、(194)当座に暇《いとま》出すといえば、この若い者面目失いてにげて帰りし跡に、この旦那を引きとどめ、お首尾はともあれ、酒代置かずにござりました、こなたさまより申し請くるというにぞ迷惑して、この座敷そのままは立ち難くなりて、とても銀出すからは、ただ帰るは一代の損と分別極めて、この男初めてわけある女の手におもしろき物ということ覚え」、程なく蜆川の茶屋女などいやになり、風呂屋物、鹿恋《かこい》、天神より太夫職と買い進み、十四、五年のうちに百銭も残らず、老母に賃綿をくらせ、妹を訳もなき奉公に出し、自身は花火線香を作って、細く暮らした、とあり。また、大阪で剛情極まる債権者の溺愛する遊女に手を廻し、彼を説いて情《なさけ》ごかしに扱い貰うた債務者が、彼女に一礼述べんとて面会し、せめて冥加のためにと出した進物を、太夫は辞して受け取らず。さりとは世の中に、色の道ほど優しい物はないと即座に悟道し、それより遊び出して、一年立たぬうちに分散しおわった話もある。(貞享五年板『好色盛衰記』三の三。元禄七年板『織留』三の三。元禄十六年板『風流敗毒散』四の三)
 『辟寒』は四巻もので、明の陳継儒、かつて清勝のこと、諸小説家に見ゆるもの、もって夏を銷する、氷荷、玉帳のごとくなるべきを雑録して、『銷夏』四巻を作り、またこの書を成すという(『欽定四庫全書総目』一三二)。『明史』二九八にこの人の伝あれど、八十二歳で死んだとばかり記して、いつごろの人と明記せず。しかし王世貞に重んぜられ、董其昌と相識だったように書きあるから、万暦中を盛んに経た人に相違ない。予は『銷夏』も『辟寒』も読まないが、この二書に載せたことは、諸小説家より採録されたというから、撰者が明朝の初めまた明朝以前の諸事より取り収めた譚も多かろう。さて白石先生の『俳優考』に、「鎌倉の代の末、室町殿御代の始めに当たりて、伝奇、雑劇などいうこと、元朝に盛んに行なわれき。その代には、わが国の人もかの国にゆき、かの国の人もわが国に来たり、彼是《かれこれ》ゆきかよいしかば、かの国にするなる雑劇を、わが国の人見もし、または聞きも伝えしを、田楽、猿楽を業とせし輩、やがてかの国の伝奇などいうことに傚《なら》いて、古えにありしことの悦ぶべく、恐るべく、哀しむべく、驚くべく、喜ぶべきことなどを、歌いものの詞に作りなして歌い舞いけるなり」と言われた。よって推するに、『辟寒』に出た、老(195)狐が翁に化けて猟者の竹穽に懸かった一条も、元明のさい雜劇、伝奇とともに渡り来たれるを、本邦人が作り替えて狐つりの狂言にしたでもあろう。(六月七日午前三時成る)  (昭和七年七月『旅と伝説』五年七号)
 
(196)     人に化けて人と交わった柳の精
 
 宝暦四年完成した『裏見寒話』(『未刊随筆百種』一八冊所収)巻二に、甲州板垣里の定額山善光寺は、御朱印三十石四斗余、境内、山林あり、一万余坪という、往古本田善光、甲州を領し、その時建立す、千年余に及ぶとなん、善光夫婦の木像あり、子息義輔、信州を領し、善光寺を建つ、今の信州善光寺なり、云々、とある。しかし、この書より三十九年前成った『和漢三才図会』六九には、信玄が謙信と合戦の時霊瑞あり、よってこの伽藍を建て、信州善光寺の如来を移し、新善光寺と称した、とあれば、この甲州のが、信州の善光寺より以前からあったとは受け取れない。信玄が建てた本堂、方丈等は、宝暦四年、すなわち『裏見寒話』が成った後二年に全焼し、一国挙げて嘆惜すと、その追加書にみえるゆえ、今日また見るべからずだが、この新善光寺の本堂の棟木について、次の話を、同追加書に載せある。
(新)善光寺の本堂は撞木造りにして、横十五間、奥行二十五間、永禄年中武田信玄建立、飛騨の工の造営とかや。そのころ甲信両国を尋ぬれども、二十五間の棟木に用ゆべき良材なし。ここに中郡筋高畑村に一株の古柳あり、数百年をふれども朽ちることなし。まことに牛を蔽う老樹、この木ならでは棟木に用ゆべき木なしとぞ、すでに伐ることに究《き》まりぬ。そのころ隣里遠光寺村の農家に一人の娘ありける。齢二八ばかりにして、埴生の内に育つといえども、容貌美しくて心優し。その上、裁縫の隙々には、いつとなく敷島の道にも入りしかば、両親も別して愛すること切なりけり。しかるに、人目を忍び、かの女の許へ夜ごとに通いくる人あり。始めのほどは女もこれを恥かしきことに思い(197)けるが、いつとなく馴染みけるに、遠寺の入相に暮を急ぎ、近村の鶏鳴に袂を湿す。しかるに、ある夜この男しきりに涙に咽びて申しけるは、われその方と契りを結ぶことすでに二歳に余りぬといえども、今は今生の縁尽きて、偕老の定め比翼の誓いも今夜限りと、名残り惜しく覚ゆと言いければ、女大いに驚き、こは情なきことを言いたまうものかな、思わずも君に引かれ参らせ、仇にたつ名の難波潟、蘆の仮寝の一夜をも、二世の縁《えにし》ときくものを、ましてや年月の積もる、その中今さらかくも忘るる身をぞ思わず、誓いてし君が命の惜しければ、ただこの上虎ふす野辺、鯨よる浦までも、ぜひに付き添いたまわんと、袖や袂にすがりつき、涙に咽ぶありさまに、男もなおさら涙に沈み、一樹の蔭に宿り、一河の流れをくむだに、他生の縁ときくなれば、君が誠の心にめでて、わが身の上を語るべし、われ誠は人間にあらず、高畑村の古柳の精、此女《こなた》の艶色をめで、仮に人体と化し、夫婦の約をなすところに、明日は(新)善光寺の棟木のために、千年の命を失うなり、然りといえども、仏法道場の良材となれば、悉皆《しつかい》成仏疑いなし、われ伐り取らるるといえども、千、二千の人力をもって動かすとも動かじ、その時はそちらが立ち出でて一声の音頭をあげてくるれば、難なく板垣の里に至るべし、必ず忘れたまうなと、言うかと思えば、その姿忽然として消え失せぬ。女は名残りを惜しみながら、今さらかかる化生と契りしことのおそろしく忙然として居たりしが、翌日かの柳倒し、数千の人数をもって板垣の里へ引き付けんとするに少しも動かず、奉行、長吏大いに当惑して居たるところへ、かの女立ち出でて、柳に向かい今様を唄うや否や、動揺して難なく(新)善光寺へ引き付け、本堂も成就し、無双の伽藍となりしとぞ。信玄、この因縁の咄を聞き、かの女に手厚き褒美を賜いしとぞ。
 本誌五年六号五三頁に、雑賀君が引かれた戯曲『三十三間堂棟由来』には、この譚と正反対に、棟に用いられた巨柳の精が、女人と現じて平太郎にさせ、倅緑丸を設けたとしある。その緑丸が音頭をあげて、さしもに重い巨柳を動かし運んだのだそうな。この戯曲は、宝暦十年若竹笛躬と中村阿契の合作で、『裏見寒話』の完成に後るること六年。しかして雑賀君が引かれた児玉庄左衛門の『紀南郷導記』は、元禄中の著だが、三十三間堂(198)の棟木の柳は熊野楊枝村から伐り出した由を記せるも、その柳の精が女と現じて人と契り、子を産んだ等の話を少しも載せず。したがって戯曲の作者は、熊野の巨柳に甲州新善光寺の柳精の話を併せて、これを綴ったものかと思う。
 謡曲「千引《ちびき》」は、奥州、壺の碑《いしぶみ》のあった所に、千引の石なる大石あり。この石に魂ありて人を取ること無数なるにより、他国へ引き出し砕き捨てしむるため、近傍の住民を役し、石を引き去らしめる。時にそこに貧婦ありて、夫は不在なり、女が衆男に雑ってかかる荒仕事をするも不体裁ゆえ、不在の夫に影ながら暇を乞い、そこを立ち退く途中で夫に逢う。夫はこの女と契ることすでに三年、われ実は千引の石の精なり、この石を千人して引いても、「われ悪念を起こすならば、いかに引くとも引かるまじ。その時御身立ち寄りて、石の綱手をとるならば、わが石力を失いて、平沙を車輪の廻るよりも容易《たやす》く引かるべし。さあらは不思議の人なりとて、御身に宝を与えつつ、早く富貴の身とならば、それぞ頼めし契りの色、千代かけて玉の緒の長き守りとなりぬべし。ツレこの程は誰ともさして白雲の、かかる奇特をきくよりも、胸打ち騒ぐばかりなり。シテよしやよし、誰とても、前世の契りなるべしと、地思えば今宵を限りとしれば、一夜をも千夜になさばやと、思えど明くる東雲《しののめ》の、飽かぬ中のなかなかに、何しになれ染めて、今さら哀しかるらん」とある。
 今年三月の『犯罪科学』五三頁に、中山太郎君は、情死する男女は、ほとんど例外なきまで、死の直前に最後の歓会を行なう由を述べ、死に直面しながら執著を棄てることができぬとは浅ましい限り、と評せられたが、そんな評をする心からは、最期に臨んで七生賊を亡ぼさんと揚言した人をも浅ましいというだろう。極楽往生を願う者が不断西方浄土の光景を記した『阿弥陀経』を誦するごとく、二世の夫婦たらんと熱望する男女が、このことを必ず忘れぬよう、現世の終りに夫婦のことを行なうは、もっとも正念の据ったヤリ方と惟わる。と議論はともかく、足利氏の世にもそんな心掛けを称したればこそ、中山氏が引かれた浄瑠璃同様、件の謡曲にも、石の精がその情婦と最後の歓会を遂げたと作ったものだ。和歌浦に近い関戸という村に、加茂四郎という旧家あって四十年ほど前、最後の主人が池に(199)身投げして断絶した。徳川氏の世に、和歌山の扇の芝という空地に名高い老狐あって、夜行く人を魅《ばか》す。当時の加茂四郎智略あり。予て陽物の形した石を持って毎度扇の芝を通った。一夜、狐美女に化けてかの男を誘うままに僻処に往き、一儀を企てるに臨み、その石をもって猛に彼処を撞いた。思いかけざる疼さに美女たちまち狐に復《かえ》り、「関戸の加茂四郎は石摩羅じゃ」と叫んで逐電し、その後出て人を惑わさなんだ。加茂四郎凱旋振旅してその石を十襲し、
永く家宝としたのを、城内の女中など花を観るに托してその家を訪う者多かったが、実は花見でなくて摩羅見だったそうな。類推するに、千引の石精最後の夜の鋒先も、加茂四郎の使うた物同様きわめて剛強、したがって、一夜をも千夜になさばやなどと女がよまい言を吐いたのだ。
 それから女が千引の石の処にゆき、一人で石を引かんという。千人してだに引かれぬ石を引こうとは狂気したかというと、もし一人して引き得ずば妾を水に沈めよというた。そこで許されて女|独《ひと》りで綱を引くと、「竜車の飛ぶよりなお速く、かの石山を引っ越し給えば、それより神の化現なりと、囲繞渇仰、富貴万福に恵みを施し、かの貧宅を富貴の家に、建石宿の栄ゆることも、かの石魂の情なり」でしまいおる。建石宿は宿名なるべし、この謡曲は土地の古老などの言い伝えたるを拠りどころとせしなるべし、と大和田氏は『増補謡曲通解』六に言われた。あるいはこの謡曲から転出して、古く巨柳の精が、女と現じ、人と会し、子を産み、その樹が伐られてのち、その子にのみ快く引かれたという伝説が、熊野地方にできあったのを、若竹・中村両人が、「三十三間堂棟由来」に採り入れたものかもしれぬ。(六月七日午前十時半成稿)  (昭和七年八月『旅と伝説』五年八号)
【追記】
 『俊頼口伝集』下にいわく、「わが恋は千引の石の七はかり、首にかけても神の諸臥《もろぶし》」。千引の石というは、千人して引く石というなり。七はかりというは、その一つを千人してひく石七つばかりというなり。頸にかけても神の諸臥というは、その石七つを頸に懸けて、神も得起き上がりたまわじと思う、石にも勝《まさ》りたる恋の重さなり、とよめるなり、(200)と。もとこの通り、単に千人の力で初めてひき得べき重い石を、千引の石というたのを、そんな重い石が、建石宿近くあったから、謡曲に著われたような伝説も生じたらしい。大人の力に合わぬ重い物を、軽《かろ》らかに小児が引いたという譚は、支那にもある。南宋の淳祐五年(わが寛元四年、北条経時が死んだ歳)成った張端義の『貴耳集』下に、浮光いまだ破れざる前に、城濠を開いて一の鉄製の坐仏を得、高さ三丈、城東にもと鉄仏寺あり、その僧請うて本寺に帰すに、百余の軍卒これを輿《か》けども動かず、軍帥これを?り、許すに小寺を草創して安奉するをもってすると、ただ三、五十輩の小児を用《も》つてこれを輿くにすなわち行く、云々、とある。
 田辺町の広畑喜之助氏談に、紀州西牟婁郡東富田村高瀬の日神社の上り口の溝側に、柳と樟(?)と捩れて一つに合えるあり、その体すこぶる奇なり。むかし平蔵という男、田草を除くところへ、河童来たってその肛門を捜ることしば/\なり。その男、後日石を肛門に挾み、俯して田の草をとる。河童来たり見て大いに驚き、平蔵の尻は石尻じゃと叫んで逃げ去った。そののち平蔵かの河童を捉え、件《くだん》の木に縛りつけた、とまで聞いたが、その続きを聞かず、と。本文石摩羅のことに似たり。
 劉宋朝に沮渠京声が訳した『仏説末羅王経』に、仏在世に、国王あり、末羅(マラ)と号すとは、ことに四十歳になった女どもにすかれた王様だったろう。このマラ王の土地豊沃、士民勇壮、その国中、方石あり、数十里に周旋して王道に当たる。群臣共に議し、王に啓《もう》して石を徙《うつ》す。王すなわち国内より料選してすべて九億人を得、石を掘り徙さしむるに、年月をへて人民疲れ極まるも、石を動かす能わず。仏念うに、人民愚癡、空しくみずから勤苦して石移らず、と。すなわち阿難を呼び、ともに往くに、指頭を弾くころに、すなわちその国に到る。仏、時に沙門の被服をなし、右辺に住《とど》まり、人民に謂いていわく、何の故を用《も》ってこの石を握り徙すぞ、と。初め応《こた》うる者なし。かくのごときこと三たびに至り、われこの石を掘り勤苦年を経《ふ》、卿、何らの人ぞ、反り来たってわれに問うと、各自委し去る。仏、即時笑い、足指をもって石を挑《は》ね、手にこれを受け、石を挑《かか》げて空中に置き、また手をもって受けてこれを地に(201)住《とど》む。仏すなわち光明を放ち、相好を現じ、九億の人、仏の威神を見て、震悚《しんしよう》せざるなし。みな叩頭していわく、われら愚癡にして真偽を別たず、将《は》た何の神天ぞ、と。仏いわく、われこれ仏なり。人民問いていわく、仏何らの力を用《も》ってよくこの石を拳ぐるか、と。仏答えて、われ精進、忍辱、布施、父母の四力もてこの石を挙ぐ、と。それからこの四力を説明し、また生老病死の四力を説く。仏はこの世に常住するかと問うと、われも時節到来せば寂滅する、と答えた。神聖なる仏すら寂滅する、いわんやわれらをや、と深く感じ入ったマラ王および九億人の奴原《やつばら》、同時に意解け、乞うて五戒を受け、すなわち須陀?《しゆだおん》道を得た、とある。少しく千引石に似た譚ゆえ、付記しておく。
 
(202)     婦人の腹中の瘡を治した話
 
 今年一月五日発行『昔話研究』九号二一頁に、高橋盛孝君が、墨?主人原編、周東山人刪訳『刪笑府』八枚に、「医者が半珠に薬を置き、婦の腹中の瘡を治した話」がみえるが、小生かつて秋田県の人からこの話を聞いたと筆し、この話の支那の民譚は得られないものか、示教を待つ、と述べられた。
 予は『刪笑府』なる書を見たことなきも、『笑林広記』二、殊稟部に、?薬と題して、「一呆子《あるばかもの》の婦《つま》、陰内に瘡《かさ》を生じ、痒みはなはだしく、医を請いてこれを治す。医、その夫の呆《ばか》なるをもって、すなわちいわく、薬はわれ親《みずか》ら?《ぬ》ってはじめて瘡の深浅を知るべし、と。夫いわく、悉《すべ》て听《ゆる》す、と。医、すなわち薬をもって亀頭に置き、婦と事を行なう。夫、旁《かたわら》よりこれを観て、すなわちいわく、もしこの点薬の上面にあるなくんば、われは就《すなわ》ち到底《どこまで》も疑心《うたがわ》んに、と」とあると似たものと察する。『広記』の序文に、その編者は、「弱冠にして、すなわち四方に志すところあり、足跡は海内に遍《あまね》し。故に、その聞見は日にますます広く、諳練すること日にますます深し」とあるから、この書に載せた話は、みなまで編者の独創でなく、その多くは諸方で聞き集めたもの、すなわち高橋君の注文通りの支那の民譚の一つに違いなかろう。九樽道人・方壺散史合著『末摘花通解』初下、「仲条で鼻を鳴らして叱られる」という句の解に、白水の書から、女医が患婦の心根に快暢を感ぜしめ、花心の開くを俟って薬を納むることを引いたも、よく似た本邦の民譚を書き留めたものだ。
 西洋の類話は、仏国のベロアル・ド・ヴェルヴィル(一五五八−一六一二年ごろ)の『上達方』七六章に、あまり賢か(203)らぬ絹布商人の妻が美貌の医者に惚れて、佯《いつわ》り病で苦吟すると、夫驚きかの医を招く。医、女の意を解し、薬を夫の生支に塗って、妻の体内に入れよと勧める。何分先生の施術をと望まれ、然らば止むを得ずと、医がその役を務め遣ったので、妻は即座に全治したと出で、英国のジョン・テイラー(一五八〇−一六五三年)の『全集』(一六三〇年板)二巻九四頁には、これまた絹布商人の妻が、ある医者に懸想し、病と称してこれを招く。医者が来てみると、亭主は店が忙しきまま、自由に二階へ上がって直し遣って下されと言った。すなわち二階室に入りて一時間ほど留まり、今後度々上がりましょうと言って、二階より下り店へ来ると、亭主が妻の容態を問うた。医者答えて、私が来た時よりはよほど快くなられましたから御安心なされませ、だが、最前二階へ伺った時は、よほどの重体で、忽然手寒く脚冷たく、目定まり口張り、全く死人同様、そんな劇しい発作が二度まで起こりましたが、まずは無事に経過してお仕合わせ、ちょっとでも貴殿が現場を覗かれたら、心臓を刺さるるごとく、気を悪くされたはずと言った、とある。『笑林広記』や『上達方』と同趣向ながら、男女地を換えた話は、十五世紀の仏人ラサル筆という『百新話』の九五話だ。ある説法師が人の若妻を見初め、指が劇しく疼むとて、悩み歎くをその婦人が憫れみ、何とか療法がないかと問うと、ただ一方あれど口へ出し難いと答う。どんな世話でもして上げるから、包まず言いなさいと勧めると、かの法師小声になり、この疼みを直すには、正直清浄な女人の体内に、良《やや》久しくこの指を入れて置いてのち、取り出して、処方通りの油薬を塗る外に妙方なし、と医者どもがみな申せど、他人に語るべきにあらざれば、黙り忍んで成行きに任すの外なし、と歎いた。その婦人は無類の慈善家で、そんな用ならいつでも達《た》します。書は急げと言わるるままに、偕《とも》に密房に入ってその両眼を被い、疼む処を挿し入るると、サッテモ太いこの指と、女の愕き一方ならず。さればこんなに腫れ太って、ドックドックと脈は卯月のホトトギスなど、かれこれいううち本意を遂げ、お蔭ですつかり直りました。女「あなたが直って、私もこんな心地よいことをこれまで覚えませぬ、まだ少しでも痛むなら、御遠慮なしに、何度でも療治に入らっしゃい」と、男も女も悦んだそうな。
(204) 高橋君が『刪笑府』でみたのと同様の話を、秋田県人から聞いたといわれた外に、栃木県にもそんな話があって、高橋勝利君の『芳賀郡土俗資料第一編』にある。たぷん『刪笑府』や秋田県のと大同小異と察して、ここに写し出すを控える。これに似た話で、六十年ほど前に和歌山で聞いたは、若い娘が戯れに茄子を弄んで出で来たらず。医者を呼んで取り出し貰うた跡で、その痕をならしおかぬと大事を惹き出すから、ちょっとならして上げましょうとて、すなわち幹事し、他《かれ》をして渾身通暢たらしめた。娘の乳母老いてもいまだ衰えず、この態を窺い听《き》いて羨ましさのあまり、目分相応の大茄子を推し入れ、出で来たらずと称して療治を頼むと、何の苦もなく取り出した。大事を惹き出さぬよう、跡をならしていただきたいと望むと、老茄子《ひねなすび》は跡が痛みませぬとて、跡ならしをしてくれなんだ、というのだ。これにはなはだ似た話、支那にあつたのを控え置いたが、今ちょっと見当らない。もしそれこの型に近い本邦の話で、やや早く印刷された物に至っては、差し当たり、江戸幕府の当初に出た『昨日は今日の物語』上巻に二条あるを知るのみ。その一は、俗謡に、「金の工面と下付き於梅居《おめこ》、あんな仕悪《しにく》い物はない」。『房内記』坤巻に、『玉房秘決』から、「常に高きに従い下に就くは御《ぎよ》せず」と引き、十六世紀に仏国のブラントーム著『艶婦伝』二に、両川流れ会うた処で一を離れ他へ漕ぎ入れば危し、と説いたのがそれだ。ただし邦俗、最上の玉女宝を見出だしたくば、その小解するを看よ、もっとも俯《うつむ》く者これ最上と伝え(『川柳末摘花』一にも、「小便を坐ってしろと女衒いひ」とある)、『女大楽宝開』等また、一高二饅三|文蛤《はまぐり》と品評した。『房内記』坤巻に、『大清経』から、素女、黄帝が好女相を問うたに対して、「鑿孔は高からんことを欲す」、また「およそ貴人尊女を相《み》るの法は、云々、孔穴前に向かう」と引いたも同義だ。
 しかるにこれも至当の見解でない。和歌山へ加賀より移り来たり、大道場を張った尾高城之介なる剣客あって、明治十七年ごろ死んだ。予その娘と同じ小学校へ通い、よく識りおった。久しくその去就を聞かなんだが、明治三十五年那智山に僑居するうち、寒冬の毎旦、氷雪を踏んで二里余距てた高小へ走る童子あり。あまり勇ましくもまた痛わし(205)ければ近処の誰彼に聞き合わすと、尾高の娘が父の歿後この地方へさすらえ来たり、那智の小学校長に嫁して産んだのがこの子だという。そこで「恋し懐かし宮城野信夫《みやぎのしのぶ》」と、振分髪のむかしを思い、校長宅を尋ねたが、校長は不在で誰もおらず。隣の人に聞くと、彼女は、この子がまだ乳を離さぬうちに死亡、継母の手で育ったとのこと。あんな丈夫な女性が、勘平早野氏同然、三十になるやならずに死なさんすとはと驚くと、全くその通り、彼女は男にして見まほしき剣客の骨相を備え、ことには那件高上して尊女の態ありとかで、小川村の旧家伊東氏に養われたのち、この校長に嫁し来たった、校長いと細心の人で、新宮町なるある会社支店と、夫婦の生命保険を契約した、その時会社の医員この女を瞥見して、これは申し分なき満点の健康体だ、診察に及ばぬと言い放ったが、件《くだん》の男児を産んだ次にまた孕んで、もっての外の難産で死なれた、と語った。何とも跡の祭りながら、その後知己の医師連に話すと、那件高上した女の容色風味は玉女宝かも知れず、しかし邦俗これをカンヌキと畏称し、しばしば事を妨げ、また出産を難渋せしむと言った。されば漢の揚雄の言に、「高明の家は、鬼その室を?《うかが》う」。あまり高いのも凶神に覗かると暁《さと》り、爾後決して羨まぬ。
 一九二七年、ベルリン一一板、プロスおよびバルテルスの『婦女全志』一巻三五九頁以下にも、下付きの、事を妨ぐる由を述べた次に、上付きも、入るを妨げないが、幹中ことに男を難儀せしむる次第を述べたれど、難産致死には説及しおらぬ。それに比べて、『根本説一切有部毘奈耶雑事』一一に、仏、種々の産門畸形で受胎に障りあるものを列ねたうちに、「あるいは高下凹凸あり」とあるは、たぶん極度の上付きと下付きを言ったので、すでに受胎に障りあれば、出産に障りあるは知れたこと、件のドイツ学者などよりはるかむかしに、下付きのみか、上付きの害をも演べたは豪い豪い。これをもって、仏は一度も女犯せなんだの、ただ一度したのというは後人の牽強で(『民俗学』四巻一二号九五九頁参照)、三夫人および六万?女を、手当たり次第試験し、千差万別の産門畸形を記憶しおったと知る。一九二七年フィラデルフィア板、エリスの『性心理学の研究』五巻一二六頁以下に、欧州美人の一要件は(206)上付きなるに反し、黒人等下劣人種の物は多く下付きで猿類に近し、したがって黒人等は前を露わすよりも後を露わすを恥ずと説き、成女期後の前陰部に毛を生ずるに、猿類のその部にそんな毛なきより、女陰の毛は何の実用なきも、もっぱら雌雄淘汰で、美観を増すために発生した、と論じある。このことについて往年予一見解を開き、三五の大学者を驚倒せしめ遣つたが、委細は別に他日説くとし、黒人等のことは姑《しばら》く措き、東西洋共いわゆる文化民みな下付きを残し上付きを尚ぶにあらずということと、『覚後禅』一二回に、前者に係る妙文ある由を書き付けおく。またむかし?童を婦女同然に弄んだ時、美男の頸が前に曲がった者しばしばあったと聞いた。欧州にあった日、妻の頸がそんなになり、醜いからとて離縁話を生ずる、その多くは、下付き女を扱うその方法を得ざるに由る、と法医学者より承った。本邦でも笑いごとでなく、下付き女子をもつ親や、そんな妻もつ夫、それから法医学者は、平素心得おくべきことと思うから、長々と書いた次第である。
 さて『昨日は今日の物語』上の二条の話の第一は、毎度妻の下付きを厭い罵る男あり。しばしば立ち聴いた隣人が一計を案じ、その男の留守の妻を訪ねて、自分も他行するゆえ、留守を頼むという。何のための他行と問われて、牛の下付きを上げに行くと答う。人のも直るかと間うに、牛をさえ直すに、人のは至って容易と答えたので、女大悦して頼むと、隣人心得たりと、早速|健《したた》かにその術を施した、とあり。紀州田辺町住、辻本広助氏今年八十歳、多年諸方に行商して、笑譚を多く聞き集めたうち、有田郡|山《やま》の保田《やすだ》で聴いたのは、牛博労がある村を過ぐるごとに、夫が妻の下付きを罵る家あり。一日その夫が家の上の山畑に蕎麦を作るを見、その家に入ると妻が箕を用いおる。ちょっとその箕を貸せと乞うと、何用あつてと問う。予が今日牽き来たった小牝牛の具、下付きゆえ売れず、これを上付きにするに箕を要すと答うると、すなわち貸しくれた。それを持って呪言を誦し小牛を扇《あお》ぎ、はやよきほど上付きになった、この上扇がば上に付き過ぎるだろうと独り言し、さて家に入って箕を返した。女房、われも下付きで亭主小言絶えず、何とぞ上に付けたまえと乞うと、いと易きこととて、その前を露わして仰臥せしめ、呪を誦し箕でしばらく扇いで、(207)最早《もはや》よきほどに上に付いた、恰好よきか実験しょうとて、一儀を試みたのち、これで宜し、身を静めて付き定まるを俟て、と言った。妻たちまち表に出で、山上の夫を呼び、いつも通る博労様の呪言で、下付きが直ったは、という。夫聞いて、それは結構なり、一盃祝い酒を上げよ、と呼ばわる。博労いかなる目にやあうらんと、笠を背にし、小牛を引いて逃げ出す。女房は酒を徳利に盛り、猪口を持って追い走る。二町ほど走って博労足を駐め、そう走ってはまた下付きに戻る、一度検査しょうとて、閲覧した上また試みた。山上の亭主が見ると、博労の身動くごとに、背負うた笠が起伏して、あたかも本人が山上に向かい叩頭する様子、亭主声を張り揚げ、博労殿、そんなに辞儀に及ばず、ひたすら召し上がれと言うた、と。
 『昨日は今日の物語』の第二話は、十八と十五になる二人の女子のみあって、男児を持たぬ富人が、叡山の座主に二人を托し、変成男子の法を行なわしむると、二人を飽くまで弄んだ上、いずれも稟賦宜しからず、どう?っても法が利かなんだとて返し遣った。妹娘が、「御房様も、いろいろ精を出し、夜昼しじを植え給えども、生《は》え付かなんだといいければ、姉娘申すようは、生え付かぬも道理じゃ、さかさまに植えられたほどにというた」とある。『和漢三才図会』一二、「?は、赤子の陰なり。俗に指似《しじ》という」。明治十九年予が渡米したころまで、紀州有田郡湯浅町などでは大人の物をもシジと呼んだ。右の咄に座主のをもシジと言いおれば、元和ごろも老少に限らずかく呼んだのだ。(『未刊随筆百種』巻二三、『難廼為可話』一三九頁に引ける、元禄二年大坂板、『新吉原つねづね草』に、ヨネ、遊女の替名なり。注にいわく、ヨタレソツネと書いて、上と下とにてヨネとよむ。中にタレソツと文字四つあり、シジをはさむという心にてかく付けたるとなり。)
 前文に略説した『百新話』の説法師が一婦人の情《なさけ》で指痛を癒し貰うた譚は、全くの戯作だが、古今東西そんな事実が全くなかったでない。『続南方随筆』二〇二頁に書いた通り、「田辺の老人に聞く。かつて童子指に火傷せしに、その母ただちにその子の指を自分の陰戸に入れしめた。即効ありしという」。『本草綱目』五二に、『千金方』(208)を引いて、湯火傷灼に、「女人の精汁を用《も》つて、頻々とこれに塗る」。また女人の精汁を頻々と塗って、瘰癧腫毒を治する由を載す。女人の精汁とは陰中の粘液をいう。明治三十年この文を訳して、インド・カラチ市の医博バグタニ氏に示せしに、かの辺の鄙人も、かの粘液を湯火傷に用うることあり、犬猫が創傷を舐めて、自分の唾液が殺菌するを知らずにその功を収むるに同じとて、かつて調べ置いた陰内粘液の分析表を呉れたのを、和歌山に今もおきある。『広恵済急方』中巻に、湯火傷に鶏卵の白味を塗ってよし、とあると同理だ。『続群書類従』五四五所収、室町氏の近臣の作らしい『養鷹秘抄』に引いた『文亀鷹書』に、女子最初の経水を子壺のあかすいの水、二十以内の女の粘液を夜とる沢の水、交会の際の粘液を忍ぶすの水と号《なづ》けあり。外来薬品の乏しかった時代に、自給自足に迫られて、三験を累ねた末、鷹にさえ、かようの品までも使うた。まして人の治療のためには、種々雑多の物を試用し、その結果湯火傷した指を産門に入れて、即効ありと知ったのだ。西洋でも遠き昔は、医術の手段不備なりしより、今から思えば丸啌《まるうそ》のような変な方法を執ったもので、ギリシアの古方に、慢性痢病を痊すに、患者の非路を犯し乾かすのがあった(一八四五年ハレ板、ロセンバウム『黴毒史』二一五頁)。本邦にも、南風を脚気の薬と言い伝えたこと、元禄七年板、石川流舟の『正直咄大鑑』黒の巻五に出で、『末摘花』四に、「脚気のくすりにと玄恵おひ廻し」とある。
 これらの療法、果たして百中したか否かを知らねど、久しい間、種々と試みたものゆえ、中には争われない発見発明もあっただろう。その上今となっては昔ほど試み得ぬことも多ければ、古人の発見発明は、参考のため心得おくの必要が十分にある。例せば、ブラントームの『艶婦伝』一に、?師父《はりかた》を過用して膿瘡を卵巣に生じ、若死する婦女多きを述べ、外科医どもの説に、かかる病人に種々人工の子宮輪等を用うるよりは、自然の男具もて掃除するが最上方だとあるは、当たれりと惟わる。日本でも、「?師父はきつい毒さと女医者」。そのため夭死した女も少なくなかったので、「?師父が出てはは親をまた泣かせ」。
 謝在杭が天下何事か対なからんと言ったごとく、一方に指を女の体内に入れて湯火傷を治し、また、お医者様でも(209)有馬の湯でも、こればかりは直りゃせぬと定評あった。惚れた病を直した例あると反対に、「虫も殺さぬあの主様《ぬしさん》を女殺しとたが言ふた」、その休内に指を入れて女を殺したちょう例もありやす。西暦紀元一世紀に、ローマのプリニウスウスが書いた『博物志』二七巻二章に、諸毒中最も速験あるは付子で、諸動物の牝具をこれでちょっと触るれば、一日経たぬうちに必ず斃る。むかしケキリウスが、カルプルニウス・ベスチアがその妻数人を眠ったまま殺したと告発した結論中、被告の人殺し指と呼んだは、実に付子毒であった、と記す。リレイ註に、ここにケキリウスとあるは、ケリウスを正しとす、ケリウス・ルフスのことだ、と。熊楠、一八四四年板、スミスの『希羅《ギリシア・ローマ》神託伝記名彙』を捜るに、ケリウス・ルフスは、カルブルニウス・ベスチアと共に、西暦紀元前一世紀のローマ人で、始終政争に死戦したから、件の告発用詞も、たぶん無実の毒口だろう。が、リレイ註に、けだしベスチアは、その指に付子毒を付け、瓊戸に入れて、その数妻を殺したと告発されたとあって、全く拠りどころなかったとも惟われず。ベスチア妻を娶るごとに、摸弄過度で、しばしばこれを病死せしめたので、かようの蛮罵を招いたと察する。  (昭和十一年十月『旅と伝説』九年一〇号)
 
(210)     驢の耳を持った皇帝
 
 本誌八年九号、六七−六九頁に鳥居夫人が、満蒙ボロホトン(むかしの遼国上京の宮殿)唯一の現存石仏、高さ一丈五尺五寸の像について、「この石人は、夜に入ると歩き出して、夜中城内の夜番の務めをなし、暁早くもとの石人になっている。旅人などが城内に来て、テントを張って泊る者などがあれば、夜半に必ず怪物をみる。そして彼は翌朝必ずテントの外に投げ出されている。このようなことを現在の蒙古人間にも信じている者があって、蒙古人は決して城内に住まわない」と説かれた。この宮城については『遼史』三七に、「太祖、天梯・別魯等三山の勢を葦甸《いでん》に取り、金の齪箭《そくせん》を射てもってこれを識《しるし》し、これを竜眉宮と謂う。神冊三年これを城《きず》き、名づけて皇都という。天顕十三年、名を上京と更《あらた》む」と出るから、件《くだん》の石仏はたぶん神冊三(西暦九一八)年後の作だろう。
 さてその神冊三年より二百七十二年前、唐の貞観二十年に成った玄笑の『大唐西域記』二にいわく、健駄邏《けんだら》国の迦膩色迦《かにしか》王が建てし大|?堵波《そとば》の西南百余歩に白石の仏像あり。高さ一丈八尺、北面して立ち、多く霊相あり、しばしば光明を放つ。時に人あり、像出でて夜行し大?堵波を旋繞するを見る。近ごろ群賊あり、入りて盗を行なわんと欲す。像ついに出でて賊を迎う。賊党怖れ退き、像本処に帰り、住《とど》まり立ちて故《もと》のごとし。群盗これによって改過自新し、邑里に遊行してつぶさに遠近に告ぐ、と。こんな話が蒙古人に伝わり、ついに上京の石仏に付物《つきもの》となったのだろう。像が歩き廻るということ、この他にも例少なからず。唐の釈道宣の『広弘明集』一七に、「涼州の南百里、崖中に泥塑の行《ある》く像なるものあり。むかし沮渠蒙遜《しよきよもうそん》王、涼土を有《たも》ち、弘福のことを専らにす。この崖中において大いに形像を造(211)り、千変万化、人を驚かし目を眩《くら》ましむ。土づくりの聖僧あり、ほぼ人のごとく等し。常にみずから経行《きんひん》し、しばらくも捨《や》む時なし。遙かに見ればすなわち行《ある》き、人至ればすなわち止む。その面貌を観るに、行《ある》く状《さま》のごとし。土を地に羅《し》く者あり、後に、足跡の納々たるを看る。今見るもかくのごとし」。道宣の『三宝感通録』二には、「あるいは土を羅《し》き地に?《ま》いて、その行《ある》けるか不《いな》かを観んとするものあり。人わずかにこれに遠ざかればすなわち地を蹈《ふ》み、足跡納々として、来往して住《とど》まらず。かくのごとき相を現じて、今に経ること百余年なり。かの人これを説くことかくのごとし」とある。両書とも予の写本には誤脱の字がありそうで、聢《しか》と判りかねるが、篩い撰んだ細かい土を地上にまきおくと、そこここに像が歩いた足跡が現わるということらしい。したがってこの聖僧の土像は(『新編会津風土記』一三に見えた興徳禅師開山堂の第三世大圭の木像や)、中道君の『奥隅奇談』にみえた南部の恐れ山の地蔵尊像や、ボロホトンの石仏と等しく、夜分のみ経行したと知る。その沮渠豪遜が造らせた像というは、『感通録』に、「州の南百里において、連崖|綿亘《めんこう》し、東西|測《はか》られず。就《つ》いて窟を?《ほ》り、尊儀を安設す。あるものは石、あるものは塑《そ》して、千変万化あり。礼敬する者あれば、心目を驚き眩《くら》ましむ」とあれば、莫大な数のもので、ちようど『本朝俗諺志』一や、『?軒小録』、『諸国里人談』一等にみえた讃州弥谷寺の千体仏、豊後羅漢寺の三千七百仏、大和高香山の五百羅漢、両部曼陀羅の石刻の先を駆けたものとみえる。
 それから唐の貞観の末、簡州三学山寺の僧法蔵なる者、細行を護らず、夜寺中に宿りしを、甲冑を著た大神が、門鑰中より法蔵を抜き出し、寺外七里の地に抛り出した。法蔵その夜寺へ還ると、重ねた門がみな閉じあったという。(また『感通録』二に、襄陽で道安が鋳し金銅の阿弥陀像、出でて歩み足跡をのこせしことあり。)インド、シロル・ペトハのラトヴァデ村のバプジパント・クルカルニという者、死後その家に人住むを許さず。入りて眠る者あれば、その霊現われてその者を抛り出す。その妻後日養子をしたが、その家を避け他村に住む由。またコンカン地方で幽霊の先達ヴェタルという奴を祀るに、毎月新しい履一足を献ずると、数日後に必ず敗るるは、ヴェタル毎夜出歩(212)くからだという(『三宝感通録』二。一九二四年オクスフォード板、エントホヴェン『孟買《ボンベイ》民俗記』一八二および二〇五頁)。ボロホトンの石仏が夜ごとに夜警に廻り、城内に泊る者を投げ出すという迷説に似ておる。出雲国秋鹿郡左陀大明神は、例年十月十七日より二十五日までを潔斎の日と称え、諸人の参詣を禁ず。「これを知らざる旅人ふと行きかかりて境内に足を入るるに、忽然と空怖ろしくなりて進む能わず、誰咎むるにあらねど自然と帰るなり」とあるは、抛り出さずに事穏便にすむ。神威の至り感歎の外なし。しかし末世の今日そう旨く往くかしら。これに引き換え、古ギリシアのテーベのカバイロイ神|夥《たち》の廟は、一足も踏み込んだら最後、即座に発狂自殺し、もしくは雷に打ち殺さるとは、抛り出さるるどころの騒ぎでない(『本朝俗諺志』。パウサニアス『希臘巡覧記』九巻二六章)。紀貫之が書いた通り、楫取の心は神のみ心なりけり。皇国は神も人も諸事穏便で済ませ、古ギリシアは神も人も残酷を尚んだとみえる。
 ボロホトンの石仏が左手に桃状の物を載せ、右手でこれを支えおるについて、鳥居夫人が蒙古人より聞いた伝説を述べられた。今これを撮要すると、唐の太祖の時、ウルジクンチクト汗《かん》(驢の耳を持った皇帝)、その耳が驢耳の通りなるを世に秘せんとて、毎度その月代《さかやき》をした者を殺して、一人も生きて帰らしめず。ある時その番に当たった子供の母が、ただ一人の子に別れを惜しんで、二つの豆の粉団子を作り、一つを懐中して、一つを汗の月代をしながら食えと訓えた。子供は訓えのままに汗の月代をしつつ一つの団子を食い始めた。それを見て汗が、われにも食わせと望んだから、懐中より取り出して他の一つを献じた。汗食ってこれを珍味とし、何で拵えたかと問われたので、わが母その乳で豆の粉を捏ねて作つたと答えた。汗そんならわれは汝と乳兄弟となったから、汝を殺すべからず、よってわが驢の耳を持つことを、決して口外せずと誓え、もし口外したなら、汝の心臓は即刻口から飛び出しおわるはずと語った。子供は汗の言った通り誓言して帰ったが、どうしてもウルジクンチクト汗と叫びたくてならぬから、地下七尺の処に石室を造り、その中で声を張り上げ、かように叫んだ。その時向うの峰で汗が獵しおった。子供が地下で叫んだ声はこの山まで響き渡り、同時に随処の草木その他あらゆる物がこれに和してウルジクンチクト汗(驢の耳をもつ皇帝)と叫ん(213)だ。ここにおいて汗自分が秘しおおせんと力《つと》めたことは、一切の物に知れ終わったと悟り、爾来その月代をする者を殺さなんだ。さて地下室で、誓言に背き叫んだ子供の心臓は、果たして口より飛び出し、この子供が今日まで存する石仏となって、みずから吐き出した心臓を、両手で受けおるという話で、「私は非常に興味の深い物と思っている」と鳥居夫人は結ばれた。
 夫人がこの話のいかなる処に深い興味を催されたかを知らねど、予は四十年ほど前、英人か露人の紀行でこの話に似た物を読み、抄し置いた覚えあり。昨年九月、夫人の本誌寄稿を読んで、昨今までこの話が存続しおるに深く興味を催し、往年の抄記を穴ぐり捜せど、頽齢で両脚不自由なるより、今に見当たらない。しかし、頃日一八七二年板グベルナチスの『動物譚原』一巻三一九頁に、蒙古話第二五より、やや鳥居夫人が録されたのと異なった伝説を引きあるに目が留まった。近来視力はなはだ弱まり、永く読書し能わぬから、この蒙古話は誰の集めたものと確かめ得ぬを遺憾とするが、今より五十四年前すでに欧州のどこかで出版されおったとだけは判る。そもそもその蒙古話の概要は、ある王、黄金の驢の耳を持ち、毎夜一青年に金の櫛で王の頭を梳《くしけず》らせ、終わるとその青年を殺した。一日その番に当たった青年が、母よりその乳と粉で作った果子《かし》一つを受けとつて(鳥居夫人所伝の団子二つというと違う)、その果子一つを王に献ずると、王これを賞翫して青年を殺さず、金の耳のことを母にさえ語らぬと的束せしめた。青年約束はしたものの、どうしてもこのことを口より出したくなり、黙っておると身体が裂けるように感じた。そこでその母訓えて、土か木の裂け目にこのことをささやかしめたので、青年広野に出で、栗鼠の穴を見つけ、わが王は驢の耳を持つとささやいた。その時の動物は人の語を解し話しもした。また世には動物の語を解する人もあった。よってそこからこことこの噂が弘まり、ついにこの青年が秘事を洩らしたと王が知るに及んだ。王怒って彼を誅せんと欲したが、事情を聴いてこれを愍れみ、罪を赦した上、彼を首相としたところ、彼、輔政の初めに、まず驢の耳の形した冠を創製し、王に戴かしめてその異態の耳を隠させた。新物食いの人民は、王のそんな冠を用ゆるを見て大いに悦び、ことご(214)とくこれに倣うたので、耳が長くても些《ち》とも珍しからず。お蔭で王は従前通り長い耳を恥じて閉居するを要せず。永く気散じに暮らし楽しむを得た。目出たし目出たしてなことだ。
 同じ根本から出たには相違ないが、心臓が口より飛び出し全身が石となったとは、成行きが存分|差《ちが》う。後者は、親の訓えの有難さと、智恵発明がよく禍を福に転ずる由を示し、前者は、誓言を破る罪業の畏ろしさと、畜生にすら秘事を泄らすなとの戒めを説いたとみえる。聴く者よくかように嚼み分けたら、こんな詰まらぬ俚譚さえ、鰯の頭も信心から、勧善懲惡の方便たらざるなし。ひとえに伝説と一笑に付し放し去るべきでない。されば伝説の異態種々なる中には、世態と時勢に応じて、脱《ぬか》りなく教導するために修正されたもの多しと察す、と、十月號「婦人の腹中の瘡」の話で、あまり笑わせた罪滅ぼしに、がらにもない真面目|臭《くさ》った言を述べると、また大笑いかも知れぬ。
 ウルジクンチクト汗の話にちと似たのがインドにもある。一九〇九年板、ボムパス著『サンタル・パルガナス俚譚』一七一頁にいわく、むかしある王、牛の耳の生えた子を生み、甚《いた》く羞じて人に知らさず。しかし式としてその王子の頭を剃らねばならず。よって剃工に必ずこのことを洩らさぬよう誓言せしめ、剃工誓言して帰った。予壮年のおり、神田の白梅亭などでヘラヘラの万橘という男、赤い手拭い赤地の扇、それを拡げておめでたや、本当にそうなら済まないね、トコドッコイショソガイナ、ヘラヘッタラヘラヘラヘ、腹張ッタラハラハラハ、ヘラヘーノ、ハラハーノ、ハアーエなど、分からぬことを唄い踊った。また古くは『世継物語』の序に、「おぼしきこと言わぬは、げにぞ腹膨るる心地しける」。これらを地で往つた訳でもなかろうが、この剃工は、王子が牛の耳をもつと口へ出かかるを出さず、堪えおると、もっての外に胃腑が張り出す。その苦悩耐うべからず、腹張ったらハラハラハと呻りつつ歩くに、ある法師が逢い、なぜ貴様の胃がそんなに張つたかと尋ぬると、王子の耳の一条を語り、誓言を破ると斉《ひと》しく、胃が本《もと》の大きさにヘラヘーと減り戻った。法師木を伐って木魚を作り、これを鳴らして王宮に詣《いた》り、「この王の子は牛の耳もつ」と唄うた。王聞いて激怒し、秘事を洩らした剃工を罰しょうというと、法師は自分何にも知らず、木魚がこ(215)の唄を唱うばかり、何のことだか存ぜず、と申す。王安心して彼に物を賜い立ち去らしめ、剃工も罰を免れたとは、根っから面白からぬ咄だが、もと蒙古同様の話がインドにもあったのを、かく作り替えて、知らずに何を言うても罪なしと示したらしく、こんな俗談を通用させるサンタル人こそ、大分下根で横著極まる民と知らるれ。
 グベルナチスがすでに筆した通り、こんな話でいと古く文献に著われたは、古ギリシア人が書いたフルギア王ミダスの伝だ。フルギアは小アジアへ東南欧州より移った民が建てた王国で、創立も滅亡も西暦紀元前にあり。日本とは直接に全く交渉がなかった。この国きわめて盛んな時、その王だったミダスは、紀元前七三八−六九五年ごろの人と言えば、支那東周の平王、桓王、荘王の三代に竟《わた》り、皇国では神武天皇即位前七十八年から三十五年までの人だ。
 この王についての一珍談は、酒の神ジオヌソスがツラケよりフルギアに行く時、その師セレイノス泥酔して道に迷い、ミグス王の薔薇園内で田舎漢《いなかもの》に縛られ、ミダスの前へ突き出されたのを、王が釈《ゆる》して十日のあいだ馳走してのち、ジ神へ送り届けた。神これを嘉《よみ》して、何なりとも望み次第遣ろうと言ったので、王は、わが触るる物を一切黄金に化せしめたまえと請うた。神すなわちこれを許すと、ちょっと食物に触れても金となり、女に手を出すと金となり、堅くて剛くて食うことも突っ込むこともならず。王大いに弱って特許の取消しを嘆願した。神すなわち王をしてパクトルス川の水源に浴せしめ、その黄金膨溢禍を脱却せしめた代りに、川こそ迷惑、爾来その砂中におびただしく金を出す由。「持丸屋長者兵衛」という男が、どうもがいても貧しくなれず、困り切った体を作った浄瑠璃あって、上方でも東京でも語ったが、このごろは聞かぬ。必ずしも古ギリシアの話に倣うた作ではなく、高山は仰ぎ景行は行かん、至る能わずといえども、しかれども心|郷《むか》つてこれに往くで、金ほど欲しい物なければ、東西とも得てしてこんな創作を出したとみえる。(『摩訶僧祇律』二九、畢陵伽婆蹉《ひつりようがばしや》尊者、杖で打つと物みな金と化す。)
 ミダス王についての第二の珍談は、アポルロン大神は竪琴、羊神は笛で、音楽競技をやらかした時、ツモロス山神以下みな大神を勝と定めたに、ミダス王一人羊神優ると評した。大神これを憤り王の耳を驢耳に変じた。王これを匿(216)すためフルギア冠を製し著用したが、毎《いつ》も王の髪を切る僕がついにそれを見つけた。僕この事を秘せんとしても秘し課《おお》せず。人に語らばどえらい目にあうから、地に穴を掘って、小声でミダス王は驢の耳を持つと吹き込んだ。さてその穴を埋めて安心しおったうち、一本の蘆がそこへ生え、風吹くたびにミダス王は驢の耳をもつと鳴って、あまねく王の秘事を世間へ知らせたというのだ。(一九二九年一四板『大英百科全書』一七巻八五一−八五二頁、一五巻四四八頁。一八四六年板、スミス『希羅《ギリシア・ローマ》伝記神託事彙』二巻一〇三四頁)
 鳥居夫人が録されたボロホトンの石仏の伝説も、グベルナチスが引いた黄金の驢の耳を持ったある王の話も、インドのサンタル人の牛の耳を持った王子の話も、十の九・九までこの古ギリシア譚より転出したと信じて差し支えなかろう。なかんずくグベルナチスが引いた蒙古話に、王が持った耳は驢の耳の形した上に、黄金質の物だったとせるは、触《さわ》った物をことごとく金に化すというミダス王の伝を襲《つ》いだよき証左となる。ミダス王が著けたフルギア冠について予は何ごとをも知らぬ。一九〇八年板、サイッフェルトの『希羅考古辞彙』英訳、三九二頁には、王、高い冠を製してその両耳を隠したとある。五代の陶穀の『清異録』に、驢を長耳公と称えた。それほど長い耳を立てたまま、高い冠で蓋うたというのだろう。さて支那古代の冠帽に、その両傍に長い耳隠しを立てたり、後頭上や両側に兎の耳のごとき物を突き出したのが種々あり(『古今図書集成』礼儀典、三二八−三三三巻の図を見よ)。こんな冠り物を、フルギアなり蒙古なりで、創製または模作した時、凡人はその新奇なるに驚き、耳が驢の耳ほど長くなったのを隠すために造つたなど訛伝し、それらが驢の耳を持った王の話の要素となつたことも、児島高徳の句で、なきにしもあらずと惟う。  (昭和十一年十二月『旅と伝説』九年一二号)
 
(217)     兄弟契り
        ――支那に行なわれた近親婚――
 
 『続史籍集覧』所収『甲斐国妙法寺記』上に、「文明十一年己亥、世の中十分|吉《きち》、兄弟契約限りなし」と出ず。小山田与清は、これに男色と頭註した。また、永正八年辛未、この年正月、地下(農民)、侍(武士)共に喜ぶこと限りなし、浮世に口痺流行、人民死すること限りなし、然《しか》るあいだ、かの口痺の鳥を造り送る、一日病んで頓死する、諸人契約をして酒を飲むこと限りなし、とある。その前の永正七年まで、「乱は申すに及ばず、云々、この春中、国中|都留郡《つるごおり》御和睦、落ち付く、云々」、この郡の大麦小麦吉、とあって、甲州の内乱も治まり、麦作も吉《よ》かったので、八年の正月は、上下喜び祝いおったところ、口痺流行しだし、一日病んで頓死する者多きより、むかし欧州で黒死病が善悪を別《わか》たず人を殺し廻った時同然、甲州の民も焼け糞になり、必死に飲み散らしたので、諸人契約をして酒を飲むとは、三十一年前の文明十一年にした通り、盛んに兄弟契約をしたとみえる。吾輩幼時和歌山で、寒冬中、小児の口吻が爛れ痛むをアクチ(  鵡口?)と称え、烏の鳴声をまねるとこの患を生ずると言った。その口が大きく裂けた物ゆえ、口の病にこの鳥を連想したらしい。そこでここに口痺の鳥とある、鳥の字は烏の誤刊で、後世の風の神送り同様、口痺の病根を烏の像に負わせて放逐したのだ。(グロート『希臘史』第二部四九章。一八九〇年初板、フレザー『金椏篇』二巻三章一五段。『嬉遊笑覧』八、「風の神送り」の条参照)
 かように釈いて、口痺の鳥を造り送るということは判ったが、小山田氏の頭註に随い、当時世の中十分|吉《よ》かつたの(218)で、男色を契って、兄弟の約束をした者が限りなくあったの、口痺が流行して皆人の命が旦夕に迫ったから、男色上兄弟分の契約して酒を飲むこと限りなかったのと解いては、どうも受け取りかねる。全体どこの国にか、世間の好景気につれて、若道の念契をなす者どもが多くなるということがあろうか。一八三七年ライプチヒ板、エルシユおよびグルイベルの『学芸広通百科全書』三編九巻に、マイエルが書いた男色の長論説は、古ギリシアのこのことについてほとんど遺すところなく、一八五一−五四年ブルッセル板、ジュフールの『売靨史』は、世論の喧《かまびす》しかりしがために、最初の計画通りに完成せざりしとはいえ(一八九七年リル四板、ゲイ『恋愛婦女婚姻関係図書解題』二巻五一一欄)、西アジア、エジプト、ギリシア、ローマの上世より、中古・近古の仏国までの男色を叙ぶること到れり。この二書を読んでしばしば気づいたは、大抵国土万里を隔つとも、同似せる事件は相近き事相を生ずとみえ、本邦にあった事相は、大概西洋にもあったようだ。
 しかるに、世の中十分|吉《よ》かった年に、念契を結ぶ者が無数に出で来た例は、件《くだん》の二書で一つも見当たらぬ。西鶴の『男色大鑑』五の一に、「一とせ、妙心寺開山国師三百五十忌の時(『山州名跡志』八、延文五年十二月十二日寂、寿八十四、とあれば、三百五十忌は宝永六年なり。生まれたる年より三百五十年めは寛永三年なり)、諸国諸山の禅僧京著して、御法事ののち、色河原を見物しけるに、田舎には見馴れぬ児人《しょうじん》に思い焦がれ、万事をやめて買いだすほどに、前髪のありて目鼻さえつけば一日も隙《ひま》なく、これより昼夜に売り分け、花代も舞台踏むは銀一枚に定めぬ。この法師ら限りある都遊び、万《よろず》の物入りをかまわず、今の世の噪ぎ、人の気毒《きのどく》とぞなれる」と書いた。一時に多勢京都へ集まった禅僧どもが、懐中のよいまま、矢鱈《やたら》に?童を買い煽ったので、その嫖金が以前よりは、ことのほか騰起《とうき》して永く降らず、その方の費用がもってのほかおびただしくなった次第を述べたに止まり、毛頭世間すこぶる上景気について、男色盛んに行なわれたとの文献でない。この西鶴の一文の外に、『妙法寺記』の「世の中十分吉、兄弟契約限りなし」という記事に、いささかも似寄ったものはないようだ。したがって小山田氏がこれに男色と頭註したは不(219)当と惟わる。
 一六二一年二月二十三日、伊人ピエトロ・デルラ・ヴァレがイスバハンより出した状に、ペルシア国に年に一度の誓文あって、当日結んだ契約を終身破らず、仇敵と仲直り、養子のやりとり、男同士の兄弟分、女同士の姉妹分、いずれもこの日その儀式を挙ぐ、と見ゆ(一八四三年ブライトン板『デルラ・ヴァレ書信集』二巻七五頁)。同性愛で名高いペルシア国ながら、ここに言える兄弟分・姉妹分は、前後の文より推して男色組・張形組と限らなんだようだ。
  さて、これまで本文を草したのち、久しく神経痛で執筆成らず。手足が不自由ゆえ、一度片付け終わった文書どもを取り出すことも不能だが、このまま本稿を廃棄するも不本意なり。よって記憶の確かなだけ取り纏め、昨今右手がやや自由なるに乗じ、次のごとく書きおわつて送り上ぐる。
 かくていろいろと考うると、『妙法寺記』の文明十一年の記文は、世の中が十分吉について、他人と和融信愛の情も出で、ペルシアの「兄弟分節」(デルラ・ヴァレのいわゆるフェスタ・デルラ・フラテルランザ)様の公式日などを定めず、心の趣くままに、各自気に入った者と兄弟契約をしたというので、永正八年の記文は、内乱も平らぎ麦の作も十分で、正月を祝ううち、頓死が盛んに行なわれたから、悲喜混雑、民心動?して、「明日はまたたれ無からんも知れぬ世に」、多く兄弟分を拵え、パイ一機嫌で、死なば倶《とも》にと契約の詞を違えず、地獄までも繰り込めという気になったというのだろう。
 かように考えて、いよいよ小山田氏が『妙法寺記』の兄弟契約を、もっぱら男色と解いたのを疑いおったところ、今年何月かの本誌に藤井万書太君が、古来日光地方の男女が、春日群集して面白く嬉遊宴楽するを兄弟の契りと称える、と述べられたのを読んで、積年の疑問たちまち氷解せるを感謝す。すなわち日光辺の兄弟の契りは、文明・永正当年の兄弟契約して酒を飲んだ古風が今に残ったもので、決して特に男色に係わったことでないと察した。(このところ、刊行されて十日を経ざるに、岩田準一君の知らせにより、『新編会津風土記』を捜るに、(220)その三五巻に、会津郡弥五島などの八組に、三月中、兄弟契りということあり。老若男女おのおのの年歯に従って会集し、旧を話して相歓す、と出ず。まずは今日諸学校の同窓会のようなものと見える。)
 この推量に対して、男女が雑わり飲み遊ぶを、兄妹また姉弟の契りと呼ばず、兄弟契りとのみ言ったは、現時童女が寺院に行列するを稚児供養と称うるごとく、足利氏の下半期に飲酒遊宴して男女契約するを兄弟契約と唱えたのが、時|更《かわ》り星移り、若道大いに衰えて、男女雑わり遊ぶ風と変わった後も、名前だけは依然、兄弟の契りで通りおるのだろうと、説く人も出ずべきが、すべて邦俗兄弟と姉妹を別つこと欧州などほど厳ならず。
  支那でも唐の崔令欽の『教坊記』に、「坊中の諸女、気類の相似たるをもって、約《ちぎ》りて香火《こうげ》兄弟となる。毎《つね》に多きは十四、五人に至り、少なきも八、九輩を下らず」。姉妹と言わずに、女ながらも兄弟と言ったのだ。今一、二例を挙ぐれば、振鷺亭主人の『東山見番意妓口』二に、姉妹の約束した娼妓を兄弟〔二字傍点〕分の女郎といい、万象亭の『二日酔|卮?《おおさかずき》』には、深川芸妓お三が肌著まで脱いで、高名の女嫌い、船頭茂兵衛の債難を救うた意気に、茂兵衛感じて、彼女を妹〔傍点〕と思い兄弟〔二字傍点〕契約をする場あり。半二の『東海道|七里艇梁《しちりのわたし》』五に、兄妹を兄弟〔二字傍点〕、またオトトイと両様に称えある。
  五十年ほど前まで、和歌山で、兄弟・姉妹、また兄妹をも、姉弟をも、オトトイと呼んだと覚えるが、『大言海』巻一に、『日本紀』、『万葉集』、『今物語』、『十六夜日記』、『十訓抄』を引いて、オトイ、兄弟また姉妹、後にはオトトイというと出で、兄妹・姉弟をも指す名とはみえず。このこと如何、識者の高教を俟つ。
それから田螺金魚の『妓者呼子鳥』三に、芸妓の兄は大抵亭主という語あり。その訳はよく知れおるが、この田辺町などには、今も夫を兄様で呼び通す良家の婦人少なからず。夫婦が兄弟すなわち兄妹なるごとく、外人など聞けばすこぶる怪しむべし。(『静軒痴談』一、越後にて年|少《わか》き夫婦、妻が夫を兄と呼ぶ。後に萩原編輯人より来示に、奄美大島の婦人もその夫を兄と呼ぶ由。セイロンにて妻が夫を兄と呼ぶこと、例せば、パーカーの『錫蘭《セイロン》村話』二巻。)(221)しかしこれぞ上古の遺風で、『和漢三才図会』八に、「按ずるに、倭は、婦《よめ》を謂いて妹《いも》となし、夫《おうと》を謂いて背《せ》となす。伊毛世《いもせ》すなわち女乎止《みようと》」と出で、都々逸に、「車と車でみ合はす顔は、時に取っての妹背山」。『安達原』の浄瑠璃、道行千里の岩田帯の段にも、「妹背のねぐら夕風に、パッと立ったる雀の宮」なんてある。故逍遥先生の創作にも、『妹と背鏡』というのがあって、妹背と言えば夫婦のことと、訳分からずに皆人が呑み込みおった。狩谷?斎説に、「古苦、女子は兄弟および夫を謂いてみな勢《せ》となす。『仁賢紀』に、古えは、兄弟・長幼を言わず、女は男をもって兄と称す、これなり。また女子は夫を謂いて勢《せ》となす」とあるごとく(『箋注倭名類聚抄』一)、女人が兄弟をも夫をもセと呼んだ。その理由は中山太郎君の『日本婚姻史』の時代篇、第一章第六節を精読して明らむべし。
 若年のおりハーバート・スペンサーの『社会学原理』を読んで、今も漠然と覚えおるは、諸旧邦の尊勝に近親婚の多いことだ。さて何地《いずち》いかようの人も上に倣《なら》いたがる僭上心の絶えぬものゆえ、鏡|磨《と》ぎも播磨守、弾左衝門は頼朝の子孫と名乗れば、娼妓が太夫職を冒す。誰も彼も近親婚を行なうたにあらざるべきも、追い追い貴人を見まねて、妻が夫を兄様と呼ぶ風が行なわれ、それが多少今も残存するとみえる。往年『ネイチュール』で読んだは、今のハワイ人は全く固有の旧物を失い終わったが、親族排行の一事は儼として伝存しおる、と。その通りに本邦でも、むかし兄と夫をすべてセと称えたのが、兄様と変わって、この辺に残ったと見える。また熊野の諸村に、諸子女のうち年の劣った者を、弟と妹を別たず、オトと呼ぶ処がある。漢字の弟に当たる。それに対して姉を兄女郎《あにじよろう》と唱うる処もある。これらの詞はさほど古からずとも、ハワイ人同様上世の語意を伝えたものと判ぜらる。かくて考うると、『妙法寺記』のいわゆる兄弟契約は、小山田氏が釈いたごとく、特に男色に限らず、情慾を離れた兄弟契約、兄妹契約、姉弟契約から、情慾入りの夫婦契約にまで行き渉《わた》ったものだったろうと察する。それが酒を飲んでの大騒ぎだったようだから、たちまち古欧州のサツルナリア、仏経に雑乱、また※[立心偏+貴]乱園観と言ったほどの物になり(一九二七年フィラデルフィア板、エリス『性の心理学研究』一巻一三二頁以下。『起世因本経』六。『楼炭経』四)、徳川時代に、諸州に多く亡びて、わずかに(222)日光地方等にその余風を伝えたことと惟う。
 手足が利かぬ上に、日々四回点薬せにゃならぬまで、眼が悪いから、中山君の名著を通覧し得ぬが、ちょっと見たところ、もつともかくありたしと惟わるるその時代篇一章七節に、石原正明の名が些《ち》とも見えぬが不審極まる。よってこのついでに、ここに石原氏の一文を写し出して、故人先見の功を吹聴しょう。『年々随筆』四にいわく、「皇国の上古は、同母兄弟《はらから》にあうことはなくて、異母兄弟《ことはらから》は忌まず。今の世より見れば、異腹《ことはら》といえども、同腹《はらから》といたく異《かわ》らぬを、夫妻としもなれるは、世々の物識りの打ちかたぶくめる禽獣に近きに似たり。されど古書どもを考えて、人情によそえて思えば、おのずから故あることなり。古えは尊き卑きとなく、夫妻のまじらいは、女の家へ男の通いしことにて、今のごとく夫の家へ迎えとりしものにはあらず。かくてその子は、おのおのその母のもとにて生いたつものゆえ、異腹は兄弟といえどいと疎く、他姓の人と異なることなし。女どちの異腹は、生けるかぎり相見ざるもあるべし。よき女をみて、いかで得てしがなと思うは、人の性なるに、こううとうとしくのみある中なれば、まぎもし、なびきもし、しか人情のよるところなるゆえ、神もゆるし給い、人もとがめざりしなり。こはもとより道なり。さらに禽獣に近きことにはあらず。しかるを「同姓、相娶らず」ということを準《のり》として、悪しかることに言い思う人もあめるは、いと烏滸《おこ》なることなり。同姓相娶らぬは、周の世の法なれば、これ周公の制《おきて》にそむけりといわば、われ、のがるるところなし。もし道にそむけりといわば、「姓に率《したが》う、これを道と謂う」。いかでか道にそむくべき。皇国はおのずから皇国なり。周の制度を守るべき故あらましや。さて古え異母兄弟に婚《あ》いしは、道に乖《そむ》けることはなけれど、今の世のありかたちは、異腹というも、同じ所に生い出でて、ただ同母兄弟も同じ定《じよう》に生いたつものなれば、これにあうはまことに禽獣に近く、みだりがわしきことにて、公《おおやけ》ざまにもその御|禁《いさめ》はあるなるべし。古と今とことのさまたがいたれば是非するところも異なり。学者は何ごとにつけても、この沿革に心を用うべきわざなり」と。(しかしながら、同じ所に育ちし女を、長じてのち恋愛する例、『兵部卿物語』にあり。)
(223) これなかなかの卓見で、明治二十七年、予ロンドンでこれを読んで、これはヒュームが、古ギリシア・ローマの名士が姉妹を妻にして恥じざりしを弁護せしと同論なり、ヒュームの歿後十七年に石原氏生まれたれば、この論ヒュームに後れたれども、石原氏が当年ヒュームの説を剽窃せりとも惟われず、この独考を出だせし明智は感嘆の外なし、と日記に書きある。また予在英のころ、かの国で亡き配偶の兄弟姉妹と婚するを禁じおり、当時の皇太孫が亡兄の寡婦同然の女を娶ったを、しきりに物議あったが、予帰朝ののち、亡妻の姉妹を娶るを解禁したと聞いた。『魏書』三五に、「崔浩、始め弱冠なりしとき、太原の郭逸、女《むすめ》をもってこれに妻《めあ》わす。(中略)逸の妻王氏、云々、毎《つね》に浩の才能を奇とし、みずから以為《おも》えらく、婿を得たり、と。にわかにして女|亡《し》す。王、深くもって傷恨す。また少女《いもうとむすめ》をもって継婚す。逸および親属、もって不可となす。王、固執してこれを与う」とあるは、当時北支にも輓近の英国と同じ禁忌が行なわれおったのだ。これに反し、儒者が神のごとく仰ぐ大聖帝堯が、これに劣らぬ大聖帝舜に、自分の娘二人を嫁がせ、舜の裔虞思、またその二女を夏帝少康に妻《めあ》わせた(『路史』後紀一一。『左氏会箋』第二九、五頁)。旧説に、堯舜は同源より出で、堯の二女いずれも舜の高祖姑といい、『尹子』に、舜祖姑を娶るを、天下これを論ぜず、と言った。後儒種々強弁してこの説を難じたが、支那以外の諸旧国の史籍にこんなこと多ければ、旧説が事実を述べた物に相違ない。されば同姓不婚と言い張り通す支那でも、上古は、天下これを論じないほど、同姓婚が行なわれ、また姉妹を同時に一夫に嫁がせる風も行なわれたのだ。
 また前漢等の世に、尊貴の人々が同姓婚をした例がしばしば見える。後代の儒者これをまことに怪《け》しからぬと攻撃したが、同姓と婚した人々ことごとく狂乱したとも思われず。中には尋常ならぬ偉人もある。これ実は、その祖先が出た地方の旧風を沿襲また再興したまでとみえる。後に唐の太宗が兄弟を殺してその妻を納れたなども、一は北地の古風に随うたので、『史記』匈奴伝に、漢の使者が「匈奴は、父死すればその後母を妻《めと》り、兄弟死すればことごとくその妻を取ってこれを妻《めと》る」と嘲った時、中行説が、「匈奴の俗、父子兄弟死すればその妻を取ってこれを妻《めと》るは、(224)種姓の失わるるを悪《きら》うなり。故に匈奴は乱るといえども必ず宗種を立つ。今、中国は陽《あらわ》にその父兄の妻を取らずといえども、親属ますます疎《うと》くしてすなわち相《たが》いに殺し、よって姓を易《か》うるに至るは、みなこの類《たぐい》に従《よ》る」と言った通り、北方の旧慣にもそれ相応のよき点もあったのだ。
 上に引いた『年々随筆』の文の次に、「異母の妹を娶ること、上古は百官の家、おのおのそのさとに住みながら宮仕えせしものなり。女もそのさとに住みければ、相娶るには、男のさとより女のさとまで、夜な夜な通いたりしものなり。かくて女二人三人|持《も》たる人は、女はおのおのそのさとにありて、男はここへも、かしこへも通いたり。さてその子どもは、母のさとざとにて生長する者にしあれば、異腹《ことはら》の兄弟は、中には国郡へだてたるもありて、いといと疎き中なり。かかればあうことをも憚らざりしなり。平城の京より、百官の第宅、大方は帝都にあることなれば、いずれの家も程いと近し。近ければ、おのずから行き通いなどすることもありて、やや親し。親しければ、ようように相娶らぬようになりしとみえて、事の迹、物に多くはみえず。これ制度にはあらねど、人情に従う道なり。されど、もと忌まざりしものなれば、おのずからあいし人もあり。かくて年へて、今の京となりては、人情にいとう快からぬことに思いしにこそ。『玉葉集』に、妹のおかしきをみて書きつけて侍りける。参議(小野)篁、中にゆく芳野の川はあせななん妹背の山をこえてみつべく。返し、参議岑守朝臣女、妹背山影だにみえでやみぬべく芳野の川はにごれとぞおもふ。『新千載集』に、いもうとの影だにみえでやみぬべく芳野の川はにごれとぞおもふ、と申し侍りければ、よめる、濁る瀬はしばしばかりぞ水しあらばすみなんとこそたのみわたらめ。また『続古今集』に、身のならん淵瀬もしらず妹背川おりたちぬべきここちのみして、とあり。世にうけばりたるさまにはあらず。『伊勢物語』に、ねよげにみゆる若草を、といえる返しに、うらなく物をおもひけるかな、とあり。うらなくは、今の世にきのないというほどのことにて、その間がらをあじきなく思いしなり。『狭衣の物語』、源氏宮は、大将にあい給わんに、いとよき御あわいなるべきを、かけ離れ似げなきものに、宮のおぼしたるも、同じ所に生い立ちて、同母兄妹《はらから》のようなりしゆえぞ。(225)これより後、さる淫心《たわれごころ》あらんはまことに禽獣なり」と述べたも卓論だ。
 小野篁は、詩想が白楽天と偶合すと言われたほど漢学に通じ、足利学校の開祖と仰がれたほど、儒道を尚んだ人ながら、妹と恋歌を交《かわ》したなど、世の旧慣は一朝に脱ぎ去り得ぬと判る。
 ずつと降って、『古今著聞集』に、宮内卿は、甥にてある人に、名たちし人なり。男かれがれになりにける時、よみ侍りける、「都にもありけるものを更科やはるかにききし姥捨《をばすて》の山」、とあり。甥に見離された怨みを述べたほど、近親婚を恥じた様子がみえぬ。たぶんその男の親の異母妹くらいの女で、齢もあまり男と差《ちが》わず、むかしの遺風で、そのころ、さまで烈しく咎められなんだのであろう。一層降って徳川時代に及んでも、巣林子作『生玉心中』の浄瑠璃、上に、茶碗屋の素平次、天満の社内で出逢うた茶屋女、柏屋の嵯峨に、自分が父に勘当受けた次第を語るに、その父は、「一つ屋の五兵衛とて若い時は男をみがき、物の筋道|六義《りくぎ》を立て、無理をいう人でもなく、子供が少しの色遊び、五百目、一貫目|遣《つか》うたとて、くやむ人ではなけれども、どうともこうとも叶わぬことがあるぞいの。今までは隠したが、弟の幾松と俺とが間に、十八になるおきわという妹がある。もとは在所一つ屋の叔母の娘、後々はこの嘉平次と、従弟同士夫婦《いとこどしみようと》にする約束で、藁のうちから養い、死なれた母の肝精《きもせい》で、物もかき、縫針、綿もつむ、機《はた》も織る、算用もやりおる、顔も十人なみなれど、そなたをのけて、この世界に女子《おなご》があると思うにこそ、綿をつもうが、機を織ろうが、おきわはおろか、中将姫の再誕が、蓮の糸で一重羽織を織りやるとて、見向きもする平《ひら》でない。されども親の契約、ちいさい時からいいなずけ、今日祝言、明日祝言とせがまるる。一理屈こねたの。これ親仁《おやじ》様、わしや畜生じゃござらぬ。種腹《たねはら》分けねど兄弟、妹よ兄様といいつつも、夫婦になるは犬鶏のするわざ、男も立てた一つ屋の五兵衛は、畜生を子に持つたといわせては、わしも不孝、こなたも一分すたること、ならぬならぬと言い破る」と言ったとある。
 こんなことは予が若年のころまで、いな今日も捜さば邦内に多かろう。すなわち嘉平次の姉がその場で、「父様《とつさま》や(226)母《かか》様に、娘はあり息子はある。何を不足におきわという子を貰うて、乳母を取り、守《もり》をつけ、憂き世話がやみたかろ。小さい時から女子の手わざも教えこみ、心もたまかに育て上げ、嘉平次と夫婦になしたらば、身代の薬なり、商いの勝手もよく、繁昌もさせたいと、素平次がいとしいばっかりに世話をやんで病み死の、母様の恩をはや忘れ」と言った通り、血統を重んじ、身代を固むるために、旧慣を守って、幼い時からわが子の従妹をその妹として育て上げ、成長ののち夫婦にせんと双親の心尽しも、『年々随筆』に論じたごとく、時移り世替わっては、一汎の人情にいとう快からず感ぜらるるに及んだのだ。件の近松氏の浄瑠璃は、まことに、かの石原氏の論を裏書して面白いと惟う。
 次に四、五十年前、予在外当時、彼方《かなた》に、支那帝は毎《つね》に妹と婚すると信じた学者が少なからず。種々と穿鑿して、これはもっぱら、伊人ピガフェッタの『マゼラン艦隊世界初周航記』より出たと知った。この艦隊わが永正十六(北条早雲が死んだ年で、西暦一五一九)年スペインを出立し、最初の世界一周を試みる三年めに、フィリッピンの一島で、マゼランは横死したが、同行したピガフェッタは、辛苦の末無事に帰航を遂げた。マゼラン自身何一つ文献を遺さなんだが、幸いにピ氏のこの航記今に伝わり、一行の経歴を詳述して、これを知るに事欠かざるを得せしめた。その諸本異同あるも、一八〇一年パリ板、アモレッチの仏訳もっとも全し、と一八六二年パリ板『新編列国伝記集成』四〇巻二〇七頁で見たので、大英博物館で借覧して、四十二年前写し置いた。その仏訳本の二二〇頁已下にいわく、「大支那王は、地上最強勢の君で、サントア・ラジャと号す。七十王これに隷し、その一王ごとにまた十|乃至《ないし》十五王を従える。(中略)大支那王は盛飾せるナガという大蛇の像の内におり、その胸に嵌めた水晶を透して人を見るも、人は大王を見るを得ず。大王は自分の姉妹と婚す〔大〜傍点〕」と。また支那に猫の一種、麝香を生ずるものあり、また肉柱を産す、また真珠を取る島あり、と書いた。香狸、日本でいわゆる麝香猫は、広東の雷州に産し、珠崖すなわち瓊州、いずれも珠を出すので名を得た。これらの動植、並びに南支那に生じ、北方になし(『広東新語』二一。『大英百科全書』一一板、六巻四〇二頁)。また支那大王に隷するモニ王あり、二十小三これに従う、とあり。一五八八年ヴェネチア板、ラムシオの(227)『水陸行記集』に収めたピガフェッタの書の異本には、モニ王をミェン王に作り、東支那これなり、と記すをみると、ミェンは?、すなわち今の福建であろうか。
 さればピガフェッタが筆した大支那王は、正しき支那帝にあらず。唐朝崩れてより宋の一統に及ぶあいだ、五代十国の世に、南支那に割拠した、正史にいわゆる世襲僭偽諸家のうちに、往々多少ピガフェッタの記載に似た者が出たのを、当時南支那より文明程度の劣った、前後インド、マレー半島諸島等のモールすなわち黒人など、見聞仰天して、数百年後まで、種々廓大付会の上、語り続けたのが、ピ氏の耳に入ったのだろう。五代の事蹟|闕《か》けて伝わらぬものはなはだ多きも、二、三載籍に見えた例を挙げんに、?主王?、その賢妻金氏を愛せず。亡父の婢陳金鳳を嬖し、ついに后に立てた。初め?、美少年帰守明を寵《ちよう》したが、?、過淫のあまり疾を得、陳后淋しさ余って帰守明と通じおるを、知らぬは亭主ばかりなりで(まさにこれ「亭主のお釜女房のふかまなり」だ)、  鋳、錦工に命じ九竜帳を作らしめた。国人歌っていわく、「誰か謂《おも》わん、九竜帳にただ一《ひとり》の帰即を貯えんとは」と。?の婢春燕、色あり。?の長男継鵬これを蒸し、?病むに及び、継母陳后によって春燕を求め、?|怏々《おうおう》としてこれを与うとあるから、父の妾を自分に貰って呉れねば、継母が父の嬖童と通じおる由を父に告ぐべしとて、継母を脅したのだ。いかにも不倫な行いと、?の次男継韜春が兄継鵬を殺さんと謀り、継鵬懼れて、皇城衛士を率いて討ち入ったので、?走って九竜帳中に匿れ、衛士これを刺せど死なず。宮人その苦に忍びず、ためにこれを絶つ。継韜も陳后も、「その情いまだ先王を兼ねざる」の嬖童帰郎も継鵬の徒に殺され、継鵬立って父の婢春燕を皇后としたが、叛臣のために妻子ともに殺されたそうだ。その跡で叛臣に擁立された王延義は妃尚氏を寵し、また自分の甥李仁遇の男色に溺れ、用いてもって相となしたとは、ローマのユリウス・カイセルが、その甥オクタヴィウスと密契したと、東西一対の椿事だ。ついに皇后李氏の嫉妬から逆臣に弑せられ、二年後に?国亡びた。(『五代史』六八および七一。一八五一年ブルッセル板、ジュフール『売靨史』二巻三〇九頁)
(228) 『五代史』六六に、「楚王馬希範は、性|奢侈《しやし》にして、会春園、嘉宴堂を作る。その費、鉅万《きよまん》なり。始めて国中に賦を加う、云々。また九竜殿を作る。八竜をもって柱に繞《めぐ》らし、みずからいわく、身《われ》は一竜なり、と」。時に契丹、晋を滅ぼし、中国大いに乱る。「牙将の丁思覲、希範を廷諫していわく、先王は、卒伍に起《た》ち、攻戦をもってこの州を得たり。朝廷に倚《よ》り、もって隣敵を制し、国を伝うること三世、地を有《も》つこと数千里、兵を養うこと十万なり。今、天子は囚辱し、中国に主なし、真に覇者功を立つるの時なり。まことによく国の兵を悉《つく》し、荊襄を出で、もって京師に趨《おもむ》き、義を天下に倡《とな》うるは、これ桓、文の業なり。奈何《いかん》ぞ国用を耗《ついや》して土木を窮《きわ》め、児女の楽しみをなさんか、と。希範これを謝《いな》む。思覲、目を瞋《いか》らし希範を視ていわく、孺子|終《つい》に教うべからざるなり、と。すなわち喉《のど》を扼して死す」。
 欽定『旧五代史』一三三注に、『五代史補』を引いて、この王大いに土木を興した次第を述べ、「その最も壮麗なるものは、すなわち九竜・金華等の殿にあり。殿の成るや、丹砂を用《も》つてその壁を塗り、およそ数十万斤の石を用う。僚吏、謁見して殿に升《のぼ》らんとするごとに、ただ丹砂の気の藹然《あいぜん》として人を襲うを覚ゆ。その費用《ついえ》たるや、みなこの類《たぐい》なり。初め教令すでに下るや、主《つかさど》る者、丹砂は卒《にわ》かに致す物にあらざるをもって、相顧みて憂色あり。居ること何《いくばく》もなく、東境の山崩れ、丹砂を湧出し、委積《つ》むこと丘陵のごとし。ここにおいて、収めてこれを用う。契丹、南を侵し、そのことを聞き以為《おも》えらく、希範は常人にあらず、と。遽《にわ》かに冊《ふみ》を使わして尚父《しようほ》となす。希範、冊《ふみ》を得て以為《おも》えらく、契丹推奉せり、と。欣然としてこれに当たる」。『古今説海』に収めた『三楚新録』にいわく、「希範は、性剛愎にして、好んで誇大をもって事をなす。半仗を去るといえども、軍国の制度みな乗輿に擬《なぞら》う。すなわち大いに土功を興し、天策府を建つ。中に九竜殿を構え、沈香をもって八竜を為《つく》る。おのおの長《たけ》百尺、柱を抱いて相向かい、趨《はし》り捧ぐる勢いを作《な》す。しかして、おのれはその間に坐し、みずからいわく、一竜なり、と。凌晨《あさはやく》、坐せんとして、まず人をして香を竜の腹中に焚《た》かしむ。煙気鬱然として出で、口より吐くがごとし。近古以来、諸侯王の奢僭《しやせん》、いまだかく(229)のごとく盛んなるはあらざるなり。(中略)希範は、婬にして礼なし。先王の妾?《しようよう》、烝通《じようつう》せざるはなし。また尼をして、士庶の家の女《むすめ》の容色あるものを捜さしめ、みな強いてこれを取る。前後およそ数百に及び、しかもなお不足の色あり。すなわちいわく、われ聞く、軒轅《けんえん》は五百の女を御してもって天に昇ると、われそれ庶幾《ちか》きか、と。いまだいくぱくならずして死す。大いに識者の笑うところとなる」と。
 右の?主王?の九竜帳や、楚王馬希範の九竜殿等のことを、数百年後までも、モール人などが訛伝して、大支那王サントア・ラジャがナガ大蛇像内におった、と言ったと見える。ピガフェツタ、その支那記事について、予が述べたところは、一つも予が躬《みずか》ら睹《み》たのでなく、確かにこれを見たと称する一モール人の語るを書き取ったに過ぎず、と特に断わりある(上に引いた仏訳本、二二三頁)。けだし、しきりに嚔《くさ》めを催して、これは大分吹かれたと気づいたのだろう。そのモール人、竜をナガ、王をラジャなど、ヒンズー語を使い、何一つ支那語で呼びおらぬをみると、確かに支那へ往つて視たことはなく、支那に関して古く自国に行なわれた訛伝のまま、ピガフェッタに吹いたとみえる。ただし、いかな訛伝にも多少の所拠があるものゆえ、大支那王大蛇像内におるという話を、前述ごとく、五代のある僭王の事歴を訛伝したと片付け置いて、さて、お次に大支那王は自分の姉妹と婚すという訛伝を調べよう。(未完)  (昭和十二年十二月『旅と伝説』一〇年一二号)
 
(230)     贋孝行を褒賞した話
 
 去年十二月二十日発行『昔話研究』二巻一二号、武田明君の「三豊郡志々島昔話」に、「親孝行」という題で、「むかしあったそうな。備中でお殿様がお通りの時、四十もの人が、老母を負うて平伏しとったので、殿様は孝行をめでて、褒美をどっさり貰うた、と。これを聞いて慾の深い不孝者が、褒美欲しさに老母を無理に負うて、後向きにして殿様のお通りを待っとった。殿様はこの者も孝行者と思ってたくさんの褒美を取らした、と。よいことの真似は何でもするに限る」と出ず。
 これとよく似たことは、備中ならでもあったとみえる。『広文庫』四冊五四三頁に、『本朝語園』を引いていわく、「奥州の国守某行道の傍に、老母を負いて出て平伏したる者あり。守、何者ぞと問うに、かの者のいわく、この国の傍に住み侍る者なり、老母の余命これなし、国恩をありがたく思い奉るのあまりに、憚りながら国の守を拝み奉らんことを願うによりて、老母の心を慰せんがためにかくのごとし、と申す。守かの者の孝を聞きて感じたまい禄を賜わりけり。この後また国守巡行の折ふし、最前のごとき者ありて、老母を携え路の傍に畏まる。故を問いたまえば、最前の者のごとく申し上ぐる。傍の人申していわく、かの者は極悪不孝にして横道の奴なり、初めの孝子に禄を賜うことを知りて今かくのごとし、と申す。守聞きて、かの者不孝というとも、すでに孝行の者を似《まね》することこれ宜しきなり。舜を学ぶは舜の徒なりとて、また禄を与う。人みなこれを感心せり」と。『本朝語園』は宝永三年上木と、『群書一覧』雑書類に見ゆ。
(231) それより三年後れて成った『武野燭談』(大正六年国史研究会発行本)一九には、これを江戸にあったこととし、「寛文の末、凶年に遭いて、乞食、非人多く出でけるを、柳原の土手下に小屋を懸けて、扶持を給うことあり。しかるに下谷三枚橋の辺に、母を負いて由でたる非人あり。まことに恩愛の思い深く、今日の飢渇凌ぎかぬれど、もちろん身に纏う衣類とてもなく、腰さえ立たぬ老母ゆえ、おのれ乞食して、母を養うにてぞありける。渠《かれ》は柳原の小屋へも行き得ずして居けるを、町廻りの中よりや申されけん、別に御扶持米を下され、その者の家求めさせ、その町へ母子の養育ねんごろに仰せ付けられけり。まことに孝感、台聴を動かしけり。これを聞くと等しく、あるいは父と称し、母と偽り、手を引き、肩に懸けて、多く門々に立ちさまようを、人ごとに哀れむことにして、志を致しければ、外の非人よりも物貰うこと多かりしが、日暮れて別れ別れになる時、雇われたる年寄ども、乞食仲間、何かと、互いに貪り?み合う。元来実なき作り親子なれば、この類所々にて巷を騒がしむること、畢竟上を軽しむる科あれば、ことごとく召し捕うべきかと、ことに当職の町奉行これを憎み申し上げらる。その日の評定出座は、板倉内膳正重矩なりLが、申されけるは、否とよ、悪事を似《まね》するは、軽きことにても急度《きつと》沙汰し罪せらるべし、善事を似するをば、ただそのままにこそ差し置かるべし、実なき者は倦労すると止むものよとありしが、果たして重矩の詞のごとしとか」と載す。『異説|区々《まちまち》』二に、真田増誉は幸村の庶子とも侍童ともいう、大坂陣の時十九歳だったが、百八歳で終わった、と記す。しからば『武野燭談』が成ったより五年前の宝永元年に死んだのだ。この人が書いた『明良洪範』二にも、件《くだん》の贋孝行した乞食どもの話あって、その文大同小異だが、ただ重短の辞が「否とよ、悪事を似せたるも、本罪より軽かるべし。善事をまねたるは罪すべきことにあらず、ことに孝行のまねして優しければ、そのままに差し置くべし」とあるだけ著しく差《ちが》う。
 何に致せ、この話が寛文の末年から百四十年後の文化中まで、江戸の人口に膾炙しおった証拠に、「よいまねのお目に留まりし孝の道」マイタ、「よい真似を賞し賜はる孝の徳」和文など、『誹風柳樽』五三と六〇に見える。ただし(232)寛文の末、すなわち十二年に江戸凶荒したこと、京山の『蜘蛛の糸巻』の(江戸)凶荒年表に見えず。『武江年表』は只今手許にないから分からず。『翁草』一〇五に、寛文六年は凶年だったとあるが、江戸も左様だったか明記なく、『野史』五八に、寛文九年正月二十日より諸国の貧民を京師北野七本松および四条磧に賑給し、限るに百日をもってすと出でたは、まことに結構なことだが、京で施しを受けに、わざわざ諸国から貧民が上る旅費をどうしただろう。多人数に道中を乞食して登らせたものか。とにかく寛文六年なり九年なり、京畿地方とお付き合いに、江戸も多少凶荒だったのを、ざっとその末年と書いたものだろうか。
 この贋孝行者賞賜のことを、吾輩幼時和歌山で、心学講師などより備前岡山にあったように毎度聞いた。西鶴の『本朝二十不孝』四の一に、芸州の備中屋甚七、金田屋源七の両人、宮島の遊女に狂い過ぎて文なしとなり、ともに脱走して岡山に到る。「そのころ備前は、心学盛んにして人の心も直《すなお》になり、主人に忠ある人、親に孝ある者は、御恵み深く、おのずからその道に入りて、国の治まるこの時なれば、二人の才覚出だして、足腰の立たぎる野臥《のぶし》の非人を語らい、甚七は片輪車をつくりて、七十に余る老人を乗せて、町筋に出ずるより涙ぐみ、国を申せば安芸の国、年を申さば二十三、いかなる因果の報いにや、ひとりの親を養いかね、面を曝し勧進す、いずれもお慈悲はござらぬかと、声悲しく誠がましく歎きしに、人施して銭米少しのうちに山なして、後は車に積みあまりぬ。源七も年老いたる者を負いてそのごとくありきしに、人みな心ざしを感じて情をかけられければ、云々」とあって、吾輩十六、七の時までそんな乞食を紀三井寺などでしばしば睹《み》たが、贋は固《もと》より真実らしい奴にも、一文やらずに素通りをした報いで、今七十二になって乞食以上に貧乏しおる。よって願わくはこの拙文を読む諸彦も素通りしないで、たった一文では為替料の方が高くつくから、せめて一円、それより多い分はいくらでも宜しく、無名氏よりとか何とかして送ってくれ送ってくれ。
 却《かえ》って説く、贋孝行の甚七は、小屋へ帰って老人に按摩を取らせ、蚊を払わせ、年寄の草臥《くたびれ》を許さず、眠れば胴骨(233)を踏みたたき、とても腰抜け役のおのれめと、つらく当たるを、原七は格別にいたわりて、さりとは左様にすべきにあらず、まずは親と名づけ、その御影で今日の身の上を助かれば、その恩は忘れじと懇《ねんご》ろに当たるを甚七嫉み、笹戸一重の中を隔てて絶交する。その天罰で甚七いつとなく人の慈悲を受けかね、渇々《かつかつ》になりぬ、源七は日にまし心のままに勧進ありて、後は雨風の時は出でず、自分が親と称うる老人に孝を尽すをみて、隣なる親仁《おやじ》甚七を恨み、舌食い切って果つべしと胸を定めし。この人そもそもは賤しからず、越後で名のある侍、仔細あって浪人して今浅ましくなりぬと、昔語りを甚七が不在の折から源七に聞かせ、われ空しくなりてのち、せめて骸を犬狼のせせらぬように影隠してと頼まれけるにぞ、われこの所にあるうちは悪しくは取り置き申すまじ、少しも心に懸け給うなと頼もしくいうにぞ、老人手を合わしてさてもさても嬉しやと袖に玉を流しぬ。そこへちょうどその老人の子が先知五百石で奉公叶い、馬乗物を吊らせ迎いに来たり、源七の志を感じ、その親と崇めた老乞食までも駕にのせて東路へ下り、甚七はこのこと聞こえて所を逐われ、その冬雪中に凍死した、と作りある。
 『野史』一七五に、池田光政備前を領した時、藤井懶斎、『近世孝子伝』を撰び、載するところの孝子すべて十三人、うち備前より出た者六人あったという。これもっぱら孝行を光政が奨励した結果に外ならず。したがって、絹好きの女が木綿よりは人絹をほむるごとく、贋孝行の者をも理屈を付けて褒賞したこともあるべく、その噂が上方に高かったので、西鶴も右の作り話を構えたと見える。されば光政が贋孝行を褒賞したこと、何かに出でおるはずと、手当たり次第捜したが見当たらず。詮方《せんかた》尽きて鳥羽の岩田準一君に問い合わせ、早速来示に接した。すなわち光政の徳行を述べた『率章録』巻二、勧善の一条に、「柴木村甚介、孝心なるにつき、御褒美下され候時、甚介が隣家の民一人、これを羨み、にわかに甚介に似せて孝養しければ、召して御褒美を下され、その贋なることを申し上げれば、公の給《たま》わく、にせにても苦しからず、随分孝を似せよとの御意あり。人の善を取り給うことかくのごとし。常に御倹約厳なれども、善を賞し民を恵み給うことのごときは、御厭い遊ばされず」とある由。『藩翰譜』七上に、左少将光政、「周(234)公、孔子の道を尊んで、私に学校を設けて、物学ぶことを勧めしかば、幾程なくて国中の士民ことごとくその風に化す。本朝このこと絶えて後、人臣として再び振起せしこと、めでたきためしなり」とほめ立てあるが、烈公という謚《おくりな》に違わず、気性飽くまで烈しく、よろず理屈で押し通したとみえる。
 「山田道悦は、新進の士なりけるが、ある日御前にて物語しける時、殿には蕗を聞こし召さざると承り候、いかなる故にやと申す。させることもなきこととて、取り合わせ給わず、推し返して、仔細のありと承りぬ、その趣きを正しく承り候わばやとしきりに申しければ、公されば先祖護国公(勝入斎信輝)長久手にて討死ありしは、蕗畠の中なりしと聞く、その軍は義戦にあらざる故に、深く歎き思うて、蕗のうるさきなり、と仰せられければ、
  『老人雑話』坤巻に、「善悪応報の理決しがたし。細川の先不仁にして、子孫今に盛んなり。池田勝入は、信長の乳母の子にて、城介(信忠)、常真(信雄)などと同じ乳房に育せし人なり。常真に向かいて弓を引く理なし。小牧陣に、太閤の黄金五十枚の賄に  胎《あざむ》かれ、常真に敵対をなす、重悪の人なり。しかれども、その子備前、備中、播磨に手をのべ、因幡、伯耆に手を伸ぶる子孫もあり、加藤肥州(清正)などは律義なりし人なれども、後すでに絶えたり」。この書はもと清正に仕え、のち医師として京に住み、寛文四年百歳で死んだ江村専斎老後の口談を、伊藤宗恕が書き留めたので、もっとも実歴譚に富む。しかし百歳近い人の話ゆえ辻褄の合わぬところなきにあらず。ここに勝入は信長の乳母の子にて、信忠、信雄などと同じ乳房に育ちしと言うたなどがその一例だ。信長と同じ乳房で育ったとこそ言うべけれ、信長の乳母の子たる勝入が、何ぞ信長の二子信忠、信雄と同じ乳房で育つべき。『藩翰譜』七上に、秀吉大徳寺で信長の葬儀を行なうた時、勝入は信長の乳母の子たるゆえに、勝入の子供は、信長の公達と同じく寵愛あったからとて、信長の子で秀吉に養われた秀勝と、勝入の二男輝政とに、信長の棺の前後を舁かせた、とある。かく信長に恩誼の厚かった勝入が、利慾に魅せられ、一朝信長の子に反いたは、洵《まこと》に重悪の者だ。だからその時勝入の「左右歎じていわく、君《きみ》恩義に背《そむ》かば、のち必ず悔いん、と。世を挙げて(235)これを悪《にく》む」と、『野史』一七五に出ず。
道悦謹んで、それは殿には大なる幸いと申すものに候、護国公田の中にて討死あらんには、殿には食(米飯)を聞こしめさで、餓死せさせ給うべしと嘲弄しけるに、公かえりて外の物語ありて、御咎めはさらになかりけり」と湯浅元禎が書いた(『吉備烈公遺事』)。
 明の謝在杭いわく、「項王、山を抜き鼎《かなえ》を扛《あ》げ、意気雄豪たり。もとよりこれ古今第一の人物なり。しかれども鴻門の宴上、樊《はん》将軍剣を抜いて肉を啖《くら》い、目眥《まなじり》ことごとく裂くるに、主人は剣を按じ、あえて動かず。勇にして能《よ》く怯たるに幾《ちか》し。業遂げずといえども、いまだ千古の英雄たるを失わざるなり」と。さしも理屈一遍の光政が山田道悦に抗弁せず、顧みて他を言ったのみで彼を咎めなんだは、項王が勇にして能《よ》く怯たりしに近い。道悦は『韓非子』や『戦国策』に出そうな俊才、光政ほど理屈一点張りな人は、場合に合わせて、自分の理屈の力でよく我儘《わがまま》を抑え、もって他人の理屈を容認すべきを十分洞察の上、思う存分光政をやりこめて、しかも全くその咎めを免れたので、新進の家臣に問い詰められて、自分の先祖の不義を告白するを憚らぬほど、光政は理屈で充ち溢れた人だった。さればその所説に、誰一人点を打ち得ぬばかり道理の通ったものが多い。ある時光政、物語りのついでに、「たとい悪人たりとも、その善言をばこれを用い、その善行をばこれを学ぶべし。悪心悪行の者なればとて、一片に廃捨すべからず、松永久秀は聞こゆる大悪不道の者なり、されど彼のいわく、人の人と為りて身を持たんと欲する者は、夏鍛冶となり、冬|紺掻《こんかき》となれと言えり、格言なるかな。飽くまで食い、暖かに著、逸居して教えなきは禽獣に近しと警しめ給う聖言、みな為しがたきを捨て為しやすきを欲するの怠惰を警しむ。冬紺掻、夏鍛冶を忘るべからず」と訓えたとは、人をもってその言を廃せずの義にも合い、道理至極せり。それと同様の理屈で、俄《にわ》か仕立ての贋孝子を褒美されたと見える。ところが、「ある大名、側坊主をあまた使われしが、その中に母一人持ちたる者、これを養い兼ねて、自分の扶持を母に宛てがい、その身は家中にて貰い食いなど致し居けるを、主人伝え聞き、奇特の者なりとて、三人扶持加増せら(236)れしを、皆人仁慈のほどを誉めけるに、かたわらの古老、眉を顰めて、それはよく御穿議の上にて仰せ付けられ候やと尋ねけるに、大名答えて、穿議には及ばざれども、母を育むの段相違なきによるなりと申され、かの老人いわく、それは如何《いかが》しく御座候。定めて余の坊主にもそれぞれ相応の御扶持下さるべし。しかるにその者どもは身持宜しく、母、妻子などをも相応に育み候を、かの坊主もし身持等悪しく候て摺切り申すことに候わば、御加増の沙汰に及ばず、かえって御不審をも蒙るべきに候を、その御糺明なく、ただ困窮とのみ聞こし召して、かくのごとく有之《これあり》ては、余の坊主は恨みを生じ、御慈悲が結句仇となり申すべきやと申しければ、大名もっともと諾せられて、ひそかに聞き合わせられしところに、かの坊主大酒飲の無作法者ゆえかくのごとしと相知れければ、主人はなはだ悔やまれしとなり。賞罰はかりそめにも大事の物なれば、よく聞き糺してあるべき儀なり、古老の言|宜《うべ》なるかな」。詐偽目的な贋孝子の話もあり。加之《しかのみならず》「善事を言いふらすは盛徳のことにて、少し過誉ありとて、強いて害もあらじと思いおりしが、鈴鹿の孝子のごとき、幼年の時はその名高く、公《おおやけ》よりも褒美し給いけるが、年長じて後は穢行《えぎよう》多く、また博奕さえ好みて、万《よろず》の常人にだもその行い及びがたければ、その里の庄屋など、公の咎めを恐れて、とかく異見を加えけれども、さらに聞き入れずと風説ありしが、如何なりしや。これらのことにつきて思えば、美事を称誉することだも猥《みだ》りにしがたし。人始めあらざることなし、よく終りあること少なし、という古語も思い合わされし」と、橘南谿は歎息した。よって、拙父母が語ったり、自分幼時見聞した孝子の褒状には、十の九まで、多年を一日のごとく孝心少しも渝《かわ》らぬ由を書きあった。しかるに、光政|俄《にわ》か作りの孝子を褒美し、人がその贋なる由を訴うるに及んでも、「贋にても苦しからず、随分孝を似せよ」と言い渡されたは、習い性となるで、贋孝行を続けおれば、ついには真の孝行となるべし、という料簡にも出でただろうが、主としてはこの人、戦国乱離のあいだ、彜倫《いりん》地に落ち、いまだ全く収まらざる時に生まれ、幸いに儒書を読んで、聖賢徳化のことに志し、まず手始めに、百行の本《もと》たる孝道を奨《はげ》まされたが、久しく中絶しおったものから、奨励方の綱領も細則も俄か仕立てで揃いおらず、漫然贋でもよいからずいぶん贋孝行をせよと(237)言うに及んだと察する。それが当時にあっては破天荒の珍事として遠近に聞こえ渡り、追い追い他の国々までも、備前に倣うて贋孝行やこれを褒美する者が出で、中にはその事実なきに、その話を備前以外の為政者に付会したのも生じたことと惟わる。しかして慶長十四年光政江戸で生まれた時、将軍秀忠、備中の田千石をその母福昭夫人に賜い、その湯沐邑とした。またすでに引いた『老人雑話』にも、当時池田氏が備中に手を伸べおったと出ずるを合わせ考うれば、『昔話研究』に武田君が述べた贋孝子を褒美した備中のお殿様とは、光政に外ならじと思う。(『五雑俎』五。『長秋夜話』下。『翁草』八四。『北窓瑣談』三。『野史』一七五)
 かくのごとく、予の知るところ、贋孝子を褒賞した話は、備前の池田光政、備中のお殿様(池田光政か)、奥州の国守某、江戸の執政板倉重矩の四人に係るが、まだこの外にもあるかも知れない。やや似た支那譚を予ただ一つ知る。『淵鑑類函』一二五に、『彙苑詳註』を引いて、「孔文挙、北海の相たり。一人あり、母|病《やまい》?《い》え、新麦を食らわんと思《ねが》えども、家中にあるなし。すなわち隣家の熟麦を盗んでもって進む。文拳、特に賞異を加え、いわく、あるなければ来たって取れ、また盗むなかれ、と」。これ『三国志』や『世説』にしばしば見えた北海の孔融で、魯国の人、孔子二十世の孫だ。この人北海の相として都昌に屯し、賊管亥に囲まれ、当時ようやく平原の相だった劉備に救いを求めると、備驚いて、「孔北海、すなわちまた天下に劉備あるを知るや」と悦び、援兵して賊を散走せしめた。陳登は、さしも一世の梟雄たりし劉備に、「元竜、文武、胆志のごときは、まさにこれを古えに求むべきのみ。造次《にわか》には比《たぐ》いを得がたきなり」と評されたほどの偉人、その陳登が、「博聞強記、奇逸|卓犖《たくらく》、われ孔文拳を敬す」と孔融を重んじた。融かくまでその名天下に重んぜられながら、毎度世間に飛び外れた言行あり、ために禍を招いて曹操に殺された。その飛び外れた一、二を例拳すると、飢饉中に兵興って、操が禁酒令を出すを、融しきりに書を与えて、酒の徳を叙べ、酒で亡びた者あるから酒を禁ずるなら、夏桀・殷紂ごとく、婦人のために天下を失うた者あるから、婚姻を禁ぜにゃならぬはず、と論じた。また「白衣の禰衡《でいこう》と跌蕩《てつとう》放言していわく、父の子におけるや、まさに何の親《ちか》きことあら(238)ん、その本意を論ずれば、実に情欲に発したるのみ。子の母におけるや、またなんするものぞ、たとえば物を?《かめ》の中に寄するがごとし、出ずればすなわち離《さか》る、と」。(『後漢書』一〇〇、『魏志』七、『世説箋本』一〇)
 『昨日は今日の物語』下に、捨子を拾うて育て上げたところ、成人に及び、ことのほか不孝なりとて、養父たる老僧が奉行所へ訴えた。新発意申すよう、御意には候えども、われらもっともと存ずる儀|無之《これなく》候。まず養い育て人になしたるなどとて、依怙《えこ》なることを申され候。某《それがし》馬の子か牛の子にても候者を、人にも御成し候わば、恩とも致すべけれども、惣別《そうべつ》初めから人の子にて候ほどに、これもつて恩とも存ぜぬ。また木竹の類《たぐい》にてもなきに、杖にしょう、柱にしょうと申され、何よりもって迷惑に候。または経、陀羅尼など教えたりと申され候えども、一字も覚え申さねば、みな返したる同前、これもつてさのみ恩にも御座ない。また坊主死なれて後、われらに寺を譲ろうぞとて、恩がましく申され候えど、これも一日も世におられ候時に譲られ候わば、少し満足にてもござろうが、死なれて跡は、われらより外に弟子もなし、子供はみな死に申したり、沙汰に及ばず某《それがし》にて候。何か師匠の道理がござるか、御分別成されて下されよ、と申しければ、奉行衆も呆れて返答なし。この子僧のごとき無法者がよく言う「産んでくれと頼みはせず、自分どもが耐えきれずしてやらかし、勝手に産んだのだ。その返礼に一生『親の臑《すね》かぢるその子の歯の白さ』と、やっつけるは当然」という文句を、千七百三十年ほどのむかし、共産党などに先立って、孔融がすでに並べたので、今日孔祥煕の赤化などに仰天する輩は、孔子歿後七百年ならぬうち、その子孫でこんな異見を吐く名士があったと知らないのだ。それゆえ、病み上りの母に食わせたさに、家隣の麦を盗んだ者を、孝子として特に賞異を加えた孔融のやり方は、光政が贋孝行を奨励したと等しく、正道に達したものと惟われぬ。
 この孔融の話の外に、日本に行なわれた贋孝子褒賞諸のごとき例を、支那の文献で予はかつて見たことなし。けだし支那は古来|杜騙《とへん》や乞食の充満せる邦なれば、贋孝子くらいは到る処に不断輩出し、一向珍しからねば、少しも記録に留まらなんだだろう。ただし唐朝に成った『朝野僉載』に、「東海の孝子郭純、母を喪《うしな》い、哭《な》くごとにすなわち群(239)鳥大いに集《つど》う。検せしむるに実あり。門閭《もんりよ》に旌表《せいひよう》す。のち訊《たず》ぬるに、すなわちこれ孝子|哭《な》くごとにすなわち餅を地に撒き、群鳥争い来たってこれを食らう、その後しばしばかくのごとし。鳥、哭く声を聞けばもって度《きまり》となし、競い湊《あつ》まらざるはなし。霊あるにあらざるなり。また、河東の孝子王燧の家にては、猪犬たがいにその子を乳《はぐく》む。州県上言し、ついに旌表を蒙る。すなわちこれ猫犬同時に子を産み、猫児を取って犬の巽中に置き、犬子を取って猫の?内に置くに、その乳を飲み慣《なら》い、ついにもつて常となる。ほとんど異をもって論ずべからざるなり」など、江戸や備前の贋孝子よりは、巧く工《たく》んだ詐偽はずっと以前から支那で書き留められある。
 ところが日本にも追い追い豪いのが出て、孝行を方便として敵を欺き城を取ったのさえある。『常山紀談』に、浮田直家、備前竜口山城の最所元常を滅ぼさんと謀って、その臣岡郷介を罪ありと称え誅せんとし、郷介備中に遯《のが》る。「西郡の中にて、乞食の老女の道に臥し居たるに立ちより、こはそも不思議にも恙《つつが》なくおわしけるよ、年頃志を尽し尋ね參らせしに、行きあいぬるこそ嬉しけれ、されど浅ましの有様や、さぞ見忘れ給いしならん、幼き時立ち別れ、懐しの母上よ、とて伴れ帰りぬ。乞食の女は怪しきことに思えども、にわかに豊かなる身になりければ、知らぬ体にてぞありける」。ややあって郷介、かの老女をおのが母と名づけ、人質として竜口山の川向い船山の城主で、元常と不和なる須々木豊前に仕え、一日豊前の馬を盗み乗って川を渡り元常方へ駆け込み、故なきに死罪に処せらると密告する者があったので逃げ来た、と言う。須々木が士ども、かの乞食婆を川原に引き出し、帰らずばこれを殺そうと呼ばわる。「岡、かの老女は母にて候。今帰りたりとも、母子一所に死なんこと定まりたり。とても棄つべき命を君に奉り、この憤りを散じなん、と言いける中に、かの女をば礫《はりつけ》にして殺しければ、郷介悲しみ怒り、母の仇《あた》目前にあり、いかにしてこの恨みを報ゆべきかと、歯を咬みて歎きければ、元常も心許してけり」。それから忠勤して元常に信用された上、密《ひそ》かに主君直家に告げやりて、その軍兵を竜口の川向いに出し、小舟を匿し置かしめ、その夜、元常何心なく本丸の欄干に倚り居たるを、岡急に引っ組んで下に落ちた処で刺し殺し首を取り、小舟に乗って遁れ帰れば、(240)竜口城落ちて直家の手に入った、とある。
 それから支那には、父母に早く死なれた者などが、老男女を拝して父母と定め、誠心孝養するのがしばしばある。『魏志』二四に、「高柔、廷尉に遷《うつ》る。護軍の営士|竇礼《とうれい》、近く出でて常に還らず。もって亡《に》ぐるとなし、表言して逐捕し、その妻の盈および男女《こども》を没して、官の奴婢となす。盈は連《しきり》に州府に至って冤《むじつ》を称《とな》え、みずから訟《うつた》う。省みる者あるなし。すなわち辞《うつた》えて廷尉に詣《いた》る。柔、問いていわく、汝何をもって夫の亡《に》げざるを知る、と。盈|泣《なみだ》を垂れて対《こた》えていわく、夫は少《わか》くして単特《ひとり》、一老嫗を養いて母となし、事《つか》うることはなはだ恭謹なり。また児女を哀《いつくし》み、撫視して離さず。これ軽狡にして室家を顧みざる者にあらざるなり、と」。これに似た翻訳譚が、故芳賀博士の『攷証今昔物語集』九巻四六語で、「三人、樹下に来たり会いて、そのうちの老いたるに孝《つかまつ》れる語《こと》」と題しあり。むかし支那に、おのおのその生所を離れて流浪する者三人、おのずから一樹の下に至り合って共に宿り、そのうち年老いたるを父と定め、若き二人はその子となって、孝養すること実の父母にも勝る。父となる者二子の心を試みんとて、われ河の中に家を建て住みたく思う、と。二子これを聞いて、土を河に運び入るること三年なれど、土流れて埋め立て成らず。二子われら父の望みを叶えず、不孝だと歎いて寝た。その夜夢に人あり、来たつて土を河に入る。翌朝見ると、河が数十丈士で埋もれあった。二子の孝志を感じ、天神一夜のうちに河を埋め立て家を建て父を住ましめたのだ。実の父でないが、心を尽せば感応あるという話だ。芳賀博士は、『私聚百因縁集』から、これより長くて、実は同事異文の翻訳譚を加え、晋の干宝の『捜神記』から一つの支那話を引き出しおる。浪人五名結んで兄弟となり、乞食婆一人を母と定めて三年間孝養すると、その婆死するに臨み、むかし乱世に遭って、当時七歳だった男児と別れた、と言った。それから遺言のままに婆の屍骸をその郷里へ葬りに往く途中で、婆の実子が太原の太守となり栄えおるに逢い、五人の孝行魏帝に聞こえておのおの一地方の太守になされた、めでたしめでたしということで、大分『今昔物語』の話と異なり。
(241) 熊楠知るところ、『今昔物語』の本文は、主として晋の蕭広済の『孝子伝』に基づく。『唐書』五八、芸文志四八、雑伝記類に、この事十五巻、とあり。久しからずして失われたとみえて、「宋史芸文志』、『文献通考』、『四庫全書総目』みな載せず。この書にあったこの話は、やや長文だったものか、後出諸書に引くところ互いに出入あり。まず最も古いところでは、劉宋の劉敬叔の『異苑』に引いた文で、「三州の人は、おのおの一州の人にして、みな孤単|※[煢のわがんむりなし]独《けいどく》なり。三人、会して樹下に息《やす》み、よって相《たが》いに訪問《たず》ぬ。老いたるものいわく、むしろ合して断金の業をなすべけんや、と。二人いわく、諾す、と。すなわち相約して父子となる。よって二人に命じて大沢の中に舎《いえ》を作らしむ。まさに成らんとして、父いわく、こは河辺に如《し》かず、と。二人いわく、諾す、と。河辺に舎を成し、ほとんど成らんとして、父いわく、河中に如《し》かず、と。二人、また河を?む。二旬にして立たず。一書生のここを過ぐるあり、ために両《ふたつ》の土豚《どのう》を縛《くく》って河中に投ず。たまたま父|往《ゆ》いて、呼んでこれを止《とど》めていわく、かつて河の?むべきを見んや、汝の行いを観んとせしのみ、と。相|将《ひき》いて去る。明日ともに河辺に至るに、河中の土、高さ丈余なるを見る」。次に唐の永泰元年、湛然が書いた『止観輔行伝弘決』巻四の三には、「『孝伝』にいわく、三州の人は、契って父子となり、長《としうえ》なるものを父となし、次なるものを長子となし、次なるものを幼弟となす。父、河を?めてもって宅《いえ》を造らしむ。久しく?むるも満たず、父の責むるところとなる。二子、誓いを発す、もし必ず孝の誠ならんには、河を?めて徴《しるし》あらしめよ、と。この誓いを発し已《おわ》るに、河これがために満つ」と簡約しおり、北宋の初世に成った『太平広記』一六一には、「晋のころ、三州の人、約して父子となる。父、二人をして舎《いえ》を大沢の中に作らしむ。成らんとして、父いわく、河辺に如《し》かず、と。すなわち徙《うつ》す。また、ほとんど成らんとして、父いわく、河中に如《し》かず、と。二人、すなわち土を負いて河を?む。三旬にして立たず。書生の過ぐるあり、ために両《ふたつ》の土豚《どのう》を縛《くく》って河中に投ず。父、すなわち二人を止《とど》めていわく、何ぞかつて江河を?むるを見んや、われは汝の行いを観んとせしのみ、と。明《あくるひ》、河辺に廻《めぐ》り至るに、河中の土、高さ丈余となり、袤広《ぼうこう》十余里あり。よってその上に居《すまい》す。『孝子伝』に出ず」に作る。なお『注好選集』上、三(242)州義士第五八と、岡田挺之の『秉穂録』二篇下にも、多少異なった文を出しある。これらを比較総合すると、この『孝子伝』の原文を察知し得る。その原文を便宜上多少増減して『今昔物語』へ訳載したとみえる。芳賀博士を始め、この孝子の話が『今昔』の九巻四六語の根本たるに気づいた者がないようだから、ちょっと長たらしくも驚かしおく。
 さて一昨年横山重君が出した僧袋中の『琉球神道記』四に拠って察するに、「寒山詩」に三州の義士と言えるは『蕭氏孝子伝』、五郡の空子と言えるは『捜神記』から上に引いた三人と五人の話で、袋中はこれを天竺にあったこととなしある。かくて魏の竇礼のように単《ひと》り身の淋しさから、垢《あか》の他人の老婆を養うて母とし、三州の義士、五郡の空子のごとく、三人、五人兄弟となって、老年浪人や乞食婆を孝養した例もあり。この風近代まで絶えざるにや。一八五四年パリ板、ウク師の『支那帝国記』を四十四年前読んだ時、師が支那の欽差にチベットから広東まで追い却された途中、護卒の一人が、ある駅で少しの休暇を乞い、むかし自分が父と定めた老翁を、久し振りで訪うを得て、大いに満足した記事があつたと記臆する。はるか溯《さかのぼ》つて漢の張蒼は、かつて法に坐せられて斬らるるところを、王陵の尽力で助命された。それより常に王陵を父とし事《つか》えた。陵の死後、蒼立身して丞相となり、洗沐して常にまず陵の夫人に朝して食を上《たてまつ》り、然る後、あえて家に帰った(『史記』九六)、とあるからなかなかの孝行振りだ。しかし、もと助命の恩返しに、陵夫妻を父母とし事えたので、孤独の淋しさから、他人を父母とし養うたのでない。
 下りては、胡人出身で唐の逆臣、安禄山、初め辺功あって玄宗これを寵し、禄山来朝せし時、帝、貴妃の姉妹をして禄山と結んで兄弟たらしめ、禄山をして母として貴妃に事えしめた。すでにその姉妹と兄弟たらしめ、また貴妃に母とし事えしめたでは、母たる貴妃とも、兄弟分たらしめた同然で、乱倫もはなはだし。「禄山、苑陽の節度使たり。恩遇はなはだ深く、上《きみ》これを呼んで児となす。常に便殿において、貴妃と宴楽を同《とも》にす。禄山坐につけば、上《きみ》を拝せずして貴妃を拝す。上《きみ》これを問う。いわく、胡人はその父を知らず、ただその母を知るのみ、と。上《きみ》笑ってこれを宥《ゆる》す。貫好常に酒に中《あた》り、衣|褪《はだ》けて徴《すこ》しく乳を露わす。帝これを捫《な》でていわく、軟温なり新たに剥《む》く鶏頭の肉、と。禄山|傍《かたわら》(243)にあり、対《こた》えていわく、滑膩《なめらか》なり初めて凝《こ》る塞上の酥《そ》、と。上《きみ》笑っていわく、まことに胡人のみただ酥を識る、と。禄山の生日、上《きみ》および貴妃、衣服、宝器、酒饌を賜うことはなはだ厚く、のち三日禄山を召して禁中に入る。貴妃、錦繍をもって大いなる襁褓《むつき》を為《つく》り、禄山を裹《つつ》み、宮人をして綵輿をもってこれを舁《か》かしむ。上《きみ》後宮の喧笑を聞き、その故を問う。左右、貴妃、三日禄山児を洗うをもつて対《こた》う。上《きみ》みずから往き、これを観《み》て大いに喜び、貴妃の洗児《せんじ》に金銀銭を賜い、また厚く禄山に賜う。歓を尽して罷《や》む。これより禄山、宮禁に出入す。あるいは貴妃と対《ふたり》して食らい、あるいは通宵出でず、すこぶる醜声の外に聞こゆるあり。上《きみ》覚らざるなり。禄山は体重三百五十斤、腹大いに垂れ膝を過ぐ。しかれどもよく旋風の舞をなし、迅疾《はや》きこと飛ぶがごとし。一日、上《きみ》後苑に遊ぶ。妃、禄山と先にあり。妃、皇を見て出で迎う。鬢《ぼいんのけ》蓬鬆《ほつ》れて、いまだ整わず。上《きみ》はじめてこれを疑うも、ついに発《あば》く能わず。のち禄山兵を挙げて反し、いわく、長安に至るの日、まさに貴妃をもって后《きさき》となすべし、と。すでに貴妃の馬嵬《ばかい》駅に死せるを聞き、意《こころ》はなはだこれを惜しむ」。(『旧唐書』五一。『唐書』七六。竜子猶『情史』一七)
 「美しい顔で楊貴妃豚を食ひ」とは、それこれを謂うか。寛永二十年筆『福斎物語』に、そのころ洛中飢饉せしに、母に孝なる貧者、川原普請に出て、不慮に大金を拾うたことを載す。それとは打って変わり、禄山が貴妃に母とし事えたは、盗人の昼寝、けしからぬ宛込《あてこ》みがあったのだ。  (昭和十三年五月『旅と伝説』一一年五号)
【追補】
 一一年五号に拙文が出てのち、さらに集め得た文片どもを、その追補として送り上ぐる。
 今年九月二十五日三重県鳥羽町発、岩田準一君の来示にいわく、新妻元冲の物という『続々老人伝聞記』に、「獅山様(仙台の伊達陸奥守政宗より五代目、吉村。元禄十六年家督を譲られ、宝暦元年七十二歳で卒去。『藩翰譜』系図二、『薄翰譜続編』七下)迫へ御出野の節、御人足に下駄を持参候老候。御小人相尋ね候ところ、老父御通りを拝し奉り候。悪路の所をはかせ申し候と申し出で候。相糺し候ところ、日ごろ孝行の者にて、御旅館にて御金三両下し置かれ候。翌日ま(244)た別人に右様の者候ところ、御小人相尋ね候に、日ごろ孝行にも無之《これなき》由につき、繩かけこの段相達し候ところ、繩をとき御白洲に指し出すべく仰せ出だされ、すなわち罷り出で候ところ、御近習をもって仰せ出だされ候。その身は昨日孝行者の御賞を羨み、孝行の贋仕り候ならんと仰せられ候ところ、御諚のごとくに候と申す。また仰せに、贋金致し候者も、それほどの手際なくては贋かねるものなり、孝行の贋もその心得なくしては贋られぬものに候、おのれにも御金一両下し置かれあいだ、自今以後贋孝行は相控え、本孝行仕るべしと仰せ出だされ、それよりこの者感服仕り、孝行人に罷り成り候。まことに難有《ありがた》き御意に候」(以上)、池田侯のよりは少し理屈臭くなっていますが、それでも、よくも大名の言行録式の物に、いずれも同一の話が真似て載せられしものと一笑仕り候、と。
 熊楠も近ごろ『甲子夜話』三をみると、吉宗将軍鷹野に出た時老嫗を負うて御成りを拝みに来た者を見つけ、孝子だとて賞賜あり、その後また同様の者を見て、これは先ごろの孝子の真似だろう、よいまねをするは善いことと仰せばかりで、何物も賜わなんだ、とあった。こんな話は、捜さばまだまだ多々あるべきも、大抵は所と人の名が異ったのみで、特に奇抜なものもなかろう。ことごとく他を模倣したと限らず、中には事実に拠ったのもあろうが、今となって真仮を判ち難い。しかし、いずれも孝行を勧むるために話した物ゆえ、贋孝行と等しく、贋孝行の贋話も、はなはだ善い話とほめ置くがよい。去年『広文庫』から孫引きした『本朝語園』の、奥州の国守某が贋孝子に賞賜した話は、今度岩田君より示された伊達獅山侯の振舞いを、やや異様に伝称したまでで、多少その事実があったと判る。当時の書を編む者は、述べて作らず、信にして古えを好むという観念が深かったから、まるで無いことを筆にせなんだのだ。
 去年五号八頁に、支那で古く親なき者が、縁もない他人を親として孝養した一例として、三国時代の魏の竇礼のことを挙げた。その後調べると、それよりも古いのが見当たった。竇礼が事《つか》えた魏の明帝の祖父曹操と、時を同じくした後漢の泰山の太守応劭が著わした『風俗通義』巻三は愆礼と題し、当時著聞した人々の所為が礼を愆《あやま》った条々を列(245)ねた。その発端に、九江の太守武陵威、生まれて母を識らず、常にみずから悲感す京師に遊学して陵谷中に還るに、一老母、年六十余なるを見る。よって就いてその姓を問うと、陳家の女李氏と答う。何故独り行くかと問うと、われ孤独なり、親家に依らんと欲す、という。威、再拝長跪してみずから白《もう》していわく、某《それがし》少にして慈母を失う、その姓は陳、舅氏また李なり、年齢もまた同じ、たまたまここに遇うはすなわち天意なり、と。よって載せて家に帰り、供養してもって母となすと述べ、さて批評して、「謹んで按ずるに、『礼』に、継母、母のごとく、慈母、母のごとしとは、父の室を継いでおのれを慈愛する者は、みな母の道あり、故にこれに事《つか》うること母のごときを謂うなり。何ぞ道路の人にして定省するあらんや。世間、共に丁蘭《ていらん》の木を刻してこれに事えしを伝う。今このこと、あにこれに似ざらんや。もし仁人惻隠して、その帰するなきを哀しめば、直ちに収養すべし。正母の号《な》を事とするなきのみ」と論じある。惟うに漢末魏初の際、蚤《はや》く父母に離れた者が、わが身の上を淋しく感ずるのあまり、年齢や姓氏が亡父母によく似た孤独な人を自分の親と定めて孝養する風が行なわれだし、初めは非難する者もあったが、程なく別段これを咎むる者もなくなったものだろう。
 明の張鼎思の『琅邪代酔編』一六に、南宋の洪邁の『夷堅志』から、「葉文鳳は温陵の人なり。進士の第に登り、天台の簿に調官す。途に生日に遇い、旅館において仮寝す。夢に人請いて麻?(胡麻入りの餅)を乞う。すでに覚めて所居の老嫗の号哭を聞く。これを問えば嫗いわく、今日児の忌辰に麻?を作り祭享するを忘れ、感傷するのみ、と。文鳳その所業を問う。すなわちいわく、わが児、儒を業とし『詩経』を読む、旧文なおあり、と。葉みずから思う、その子と生死日同じく、『詩経』また同じ、と。命じて旧稿を取らしめこれを視れば、すなわち葉が及第程の文と一字も差《たが》わず。葉、よって嫗を拝して前生の母となし、これを任所に奉じて養を終う」とある。『夷堅志』は、只今座右にあるが、巻数多く、眼が疲れて探読し得ず。葉文鳳はいつごろの人と分からねど、たぷんは南宋の人だろう。  (昭和十四年十一月『旅と伝説』 一二年一一号)
 
(246)     太田君の「進軍中に見た支那習俗」(一)を読む
 
 本誌一二年一号六六頁に、太田君が中支奥地で、「松柏の類ではコノテガシワを至る所で見かけたことである。馬琴の『八犬伝』に、信乃が山中で道に迷い、コノテガシワによって東西を知る一くさりがあったことを、思い出すこと再々で、自分も東西を知らぬ中支に来て、何度この木によって、東西を知ったか知れない。自分の隊の兵にも、東西を知る方法として教えたことである」とて、予に出典の如何を質された。『八犬伝』は若年のおり幾度も読んだが、一向そんな一条を覚えず。よって取り出して二度ほどほぼ通覧したが、ありそうな処にさらに見えず。前年『植物渡来考』出板に先だち、故白井光太郎博士より、馬琴が、牡丹もと渤海から渡ったのでフカミグサと名づけられたと釈いたそうだが、何の書に出であるかと問われた時も、種々捜しても分からず。宮武省三君に尋ねたところが、その一友より聞いて、『八犬伝』中、まことに思いも寄らぬ所に出であるを示され、博士に告げたことがあった。信乃の一条も尋常眼力の届かぬ処に僻在するらしいから、広く読者諸君に指教を仰ぎおく。
 指南磁鍼のことは、大分古く支那書にみえるが、コノテガシワで東西を識るということは、管見の及ぶところ、今より八百三十七より八百六十一年前、北宋の元豊・崇寧間、陸佃が著わした『?雅』巻一四に、「世にいう、柏の西を指すは、なお磁の南を指すがごときなり」とあるが最初だろう。南宋の馬端臨の『文献通考』一八上にいわく、「竃氏いわく、『?雅』は皇朝の陸佃農師の撰書、虫魚・鳥獣・草木・名物を載せ、喜《この》んで俗説を採る」と。陸佃は、貝原益軒やコンラド・フォン・ゲスネル同様、書籍のみを憑《たの》まず、どんな卑賤な輩の談をも採るべきを取った改進家だ(247)ったから、コノテガシワの俗説をもみずから実験し確かめた上、書き入れたとみえる。さて陸佃が死んだ崇寧元年より十年めが政和元年、これは七年まで続いた。その間に寇宗?が書いた『本草衍義』に、「予、陝西に官たりしとき、高きに登って望むごとに、柏千万株みな一々西に指す。けだしこの木最も堅く、霜雪を畏れず。木の正気を得ること、他木は及ばず。金の正気の制するところを受くる所以《ゆえん》、故に一々西に指すなり」と出ず。またそれから四百六十年ほど後に、明の李時珍が『本草綱目』を編み、明の魏校の説を引いて、万木みな陽に向かう、しかるに柏ひとり西に指す、けだし陰木にして貞徳あるもの、故に字は白に従う、白は西方なり、と言った。室鳩巣の詠とて何かで読んだは、「ならはじな児の手柏の二おもて、身は葛の葉の恨みありとも」と。日本人が表裏ありと誚《そし》る木を、明人が貞徳ありと見立てたも面白い。コノテガシワは、本邦の本草学者|率《おおむ》ねこれを漢名側柏に当つ。「李時珍いわく、柏に数種あり(花柏、叢柏、円柏、檜柏、竹柏等)、薬に入るるには、ただ葉の扁《ひら》たくして側生するものを取る、故に側柏という、と」。本草家は薬用すべき品を正品とすれば、本草書に柏と言えば、側柏に限るようになった。小野蘭山いわく、「側柏(コノテガシワ)は西に向かうて枝を出だす。故に樵夫山に入りて、もし方角を失すれば、この枝の向かう方を見て東西を知る。よって土州にてハリギ(磁鍼木)と呼ぶ。(中略)『?雅』の説に合えり」と。(『本草綱目』三四。『重訂本草啓蒙』三〇)
 幸い拙宅に只今、二丈余高い側柏あり。物は試しと、ことごとくその枝を検すると、四方八方にさし出でて、向かうところ一定せず。ただ北と西に向かうた枝は、緩やかに曲り上って、他方に向かうた枝よりやや長く、東と南に向かえるは、やや短くて曲り少なく、傾斜が急なようだ。その北に近く、厚い土塀あって、多少の影響を及ぼすにも由るべきも、とにかく特に挺んでて西に向かうた枝一本もなし。したがって『?雅』や『本草綱目』や太田君の御説を、百柏百中と惟われぬ。もちろん庭樹は不確かゆえ、山中自生の柏が、みな西を指して特に枝を出すか、精査したい。とはいうものの、『紀伊続風土記』九五に、側柏、各郡人家に多く栽う、とあれど、野生ありと言わず。宇井縫蔵氏の『紀州植物誌』にこの木を載せず。牧野・根本二氏の『訂正増補日本植物総覧』一五二頁には、支那より移栽した(248)よう出しある。しかし上に引いた蘭山説、また黒田楽善侯が、側柏は防長の山中に生ず(『本草啓蒙補遺』下)と言えるを合わせ考うるに、本邦にも地方により野生しあった物で、諸事穿鑿好きの馬琴は、所拠《よりどころ》なしには、信乃の一条話を書かなんだものか。
 故白井博士は、予と同郷生れの畔田伴存の『古名録』に基づき、徳川時代前にいわゆるコノテガシワは側柏でなく、側柏をコノテガシワとしたは貝原益軒の『大和本草』に始まる、側柏移植のことは、『駒場薬園記録』に、元文二年、唐側柏御本丸より種子を賜うとあり、と言った。同博士の『増訂日本博物学年表』に出た通り、宝永五年『大和本草』成り、同六年出板、それより三年ののち、寺島良安の『和漢三才図会』が成った(正徳二年自序に拠る。博士これを三年としたは、林信篤が序を書いた年だ)。その巻八二に、「側柏、俗に白檀という。またカラヒバといい、またコノテガシワという」と記す。真の白檀は、側柏と縁なく、インドに産し、和韓漢地共に生ぜず。和白檀というは、牧野・根本二氏の『総覧』に、コノテガシワの変種として、何地の原産とも記さず、ただ栽植(品)とのみ見ゆ。蘭山説に、『事物紺珠』の左紐柏の由なれば、支那から来たものだろう。岩崎灌園の『本草図譜』巻七四に、焼けば白檀様の香気あり、と言うから、妄りに白檀と呼ばれただろう。カラヒバの名は、側柏もと支那か韓地より来たれるを示す。蘭山説に、側柏の一種、俗に千手と呼ぶは、葉多く叢生し、多く手を立てるがごとし。漢名千頭柏、また仏手柏、共に『本草徴要』に出ず、『本草綱目』に、雷※[學+攵]説に叢柏と言ったはこれだ、と言った。灌園は、この品(叢柏)世上最も多し、『万葉集』にコノテガシワの二面と言える物なりとて、これを常のコノテガシワと称え、真の側柏、すなわち白井博士が『薬園記録』を引いて言ったごとく、漢種を官園に栽えられ、『図譜』が成った文政十一年ごろ、高さ二、三丈の喬木となったものと、高さ一丈ばかりに過ぎぬ常のコノテガシワと、側柏の変種、和白檀の四態と、併せて六品を、『図譜』に出しある。
 元文二年に種子を賜わり官園に蒔いた、その種子の親木は、いつ江戸本城に植えられたか明記ないが、とにかく『和(249)漢三才図会』に、「側柏、俗に白檀という」と記したは、そのころすでに側柏の変種、和白檀が渡来しありしを、側柏と混視したので、「またカラヒバという」とは、側柏もと漢韓の地から来たれるを示唆し、「またコノテガシワという」とは、寺島良安が『和漢三才図会』を作るに、三十余年かかったと自序に見え、実は三世を歴てようやく成った由、西沢一鳳の『伝奇作書』残編中巻に出ず。されば側柏をコノテガシワとしたは、貝原益軒が嚆矢という白井博士の説は、益軒の『大和本草』の開板が『和漢三才』の竣成より三年早かった事実の上より争うべからずだが、その三年間に、良安が益軒の説を盗んだとばかりと惟われず。側柏の側生せる葉を見て、古歌のコノテガシワだろうと察するは、さまで難事にあらざれば、慶元偃武ののち、文事が開け、名物の調査緒に著くに及び、誰となく、側柏はコノテガシワと言い出したのを、益軒も良安もともに著書に記したところ、出板の都合で、益軒の書が良安のよりも三年蚤《はや》く公開されたのだろ。
 白井博士説に、(『大和本草』の出板より九十七年前)慶長十七年、林道春、『多識篇』を撰し上木した、それに側柏をソバタテと訓しあり、と。道春の時、この木すでに渡来しありしも、古歌の穿鑿まで行き届かず、コノテガシワと気づかず。その葉の側生せるよりソバタテと、手製の名をつけたものか。一九二六年ライプチヒ再輯、エングレルの『植物自然分科篇』一三巻三八七頁に、側柏(学名ツヤ・オリエソタリス)は、北支那、満州、韓地に自生し、それより栽培されて外国へ播がり、一七五二(宝暦二)年に欧州へ入った、と見ゆ。されば大抵戦国記録乏しかった時代に、北支、韓地等より伝えて、側柏も、その変種和白檀も栽培され、ある地方には、園より脱出して、野生するもあったのだろう。和白檀が、肥後玖麻郡の山に野生したことを、黒田侯が録しある。
 本文時珍が、「柏に数種あり」とその名を列ねた外に、柏と名のつく木が多種ある(『古今図書集成』草木典二〇三)。また一九一一年、二英人が新植物属フォキェニアと立てた福建柏(現に三種あり)ごとき、産地の住民は、従前単に柏とのみ心得おったらしい。その国人にさえ区別のつかなんだ多般の柏品が、鎖国蟄居した日本人に識れるはずなし。(250)それに刺柏をビャクシン、花柏をサワラ、檜柏をイブキと、見もせぬ支那の物を、なるべく多く日本の物に推し当てようと力めたは、無鉄砲もはなはだし。ただ側柏の一事においては、本来わが邦にあったにせよ、有史後移し入れたにせよ、日本にあるコノテガシワを側柏と推察したは、幸いに当たりおった。すなわち露人ブレットシュナイデルいわく、今日北支那で柏と呼ぶは、コノテガシワだ、この木は支那、ことに北部諸州にいと多い喬木だ、古経典にいわゆる柏はこの木と予は考える、ただしシダレイトスギ属のある支那種をも柏と呼ぶことあり、博士ヘンリ説に、湖北の宜昌で、シダレイトスギを柏、コノテガシワを崖柏と呼ぶ、と(一八九三年上海板『支那植物篇』二巻三三七頁)。いわゆる京の太夫は江戸のオイランだ、と酒落半分で片付けようとしても、片付かぬことがある、と。『古今図書集成』草木典二〇三に、『格物総論』という予未見の書より、「柏は、樹大いなるは数囲、高さ数丈、皮は光り滑らかにして、枝幹は修《たか》く聳《そび》え、葉は香り烈し。深山中にこれあり。また一種、側柏と名づくるは、葉大きくして相類せず、茸《きのこ》を鋪《し》けるがごとく、細々《こまごま》と相比《なら》ぶ、云々」と引きおる。ブレットシュナイデルは、何に拠ったか示さずに、また誰の著書と言わずに、『格物総論』は、唐朝もしくは唐以前の書と言った(『支那植物篇』一巻一六二頁)。果たして然らば、唐また唐以前の時代から、柏と側柏は別物だったので、十年前上海板、胡・陳二博士の『中国植物図譜』二巻五二図にも、側柏と別属のシダレイトスギを柏として出しある。牧野・根本二氏の『総覧』でみると、シダレイトスギは、現今日本に栽培されおるらしいが、むかしのわが邦本草家などは識らなんだ物だ。清の呉其濬の『植物名実図考』(小野氏重修、巻三三)の柏の図は、麁末ながらコノテガシワと見ゆ、とブ氏が言ったが、予もそう思う。『図書集成』に、側柏なる名が、陸佃の『?雅』に初めて見えるよう書きあるは謬りで、『本草綱目』李時珍の語中に、『?雅』を引いたのを読み損ねたのだ。『?雅』に少しも側柏なる語なく、ただ「世にいう、柏の西を指すは、なお磁の南を指すがごときなり」と言った。さて蘭山が土州、太田君が中支でみたコノテガシワが西を指すなら、北宋の終りに近く、柏と呼んだは側柏と見える。側柏と別属のシダレイトスギ(学名クプレッスス・フネブリス。北支になく、中支、広東、雲南、(251)貴州、四川等に産す)、すなわち『中国植物図譜』にいわゆる柏もまた、その枝が西を指すか。実験者の教えを冀う。 支那人が古く、コノテガシワの外にも、方角を知るに用立つ植物あるを信じおった証拠は、明の徐応秋の『玉芝堂談薈』三二にあり、いわく、柏の性西を指し、石榴東に宜しく、竹は東南に引き、葡萄は西南に引く、と。旭日の出る方に伸びるは、大抵の草木|率《おおむ》ね然りで、決して石榴と竹に限るべからず。葡萄西南に引くとは、果たして然りや。米国の曠野に生える多年生菊科の草、学名シルフィウム・ラキニアツム、通称コムパス・プラント(磁鍼植物)またポラー・プラント(北極植物)というは、高さ三|乃至《ないし》十フィートの茎の上方に花あり。下の方に葉を互生し、いずれも天に向かって竪《た》ち、その両縁を南と北に向けおるゆえ、方角を識るに便利だ。これ朝夕の日光を十分葉面に受用し、併せて日中直下し到る過分の熱度を避くる準備に出ずる由。ただし、むかし予がみずから採った標品などは、人家多い処に生じ、曠野から遠ざかりあったから、方角を判つの用をなさなんだ。また予が英国でみずから採りあるラクツカ・スカリオラ(刺萵苣)は、欧州北アジアより北米まで拡がったが、日本にはないらしい。食用の萵苣(チサ)はこれより作り出したという。刺萵苣の茎に互生する葉は地面と並行せず、天に向かって竪《た》ち、日常目馴れた草木に異なり。これも日当りよく乾いた所に生える奴は、その葉で方角を弁じ得る由だが、今座右にある標品や写生図は、そんなに見えぬ。(一八六八年ニューヨーク五板、アサ・グレイ『北部合衆国植物学』二四九頁。一八七九年ニューヨーク板、ウッド『記載植物学』一七三頁。一九二九年、第一四輯『大英百科全書』六巻一七七頁。一七九五年板、ソワービー『英国植物学』四巻二六八版)一八五六年板、リンドセイの『英国地衣通俗志』一〇三頁に、固著地衣は、山地で北また西向きの所に多く生じ、多く結実す、と記す。これも日本や英国では左様だが、熱帯に近づき南半球を越えたら、まるで違ってくるはず。しかし、寺島良安はシノブ草が北面の屋瓦に生ずといい、ベイコン卿は寒冷な北向きの路次に蘇生ずと言った通り、天性陰湿を好む植物は、最も多く北側に茂るということを呑み込み、大抵その種類の一斑を心得おかば、境に応じ時に臨んで、方角を判ずるに有効だろう。(『和漢三才図会』九七。一八八二年三月ロンドン発行『グレヴィレア』五五号九〇頁)
(252) 米国で深林に入って道を失うた時、インジアン種の友人から、樹幹の深く苔むした方を北と定めるべく教えられたが、今詳しくは覚えおらぬ。一八六二年ライプチヒ板、ヴァイツの『未聞民の人壘学』三巻二二二頁、一八五三年ニューヨーク板、ヴァレンタイン(バルランタインと誤刊)の『ニューヨーク市史』を引いて、もとその地に住むインジアンは、方角を定むるに木の皮を剥ぎ、その一番厚かつた方を北と識つた、と記す。木の皮と言えば、十三世紀に、マルコ・ポロはペルシアの北境で日木を見た。この大木の皮、一方緑で一方白いと書いたばかりで、方角に無関係らしいので、物にならぬ。中世欧州に流行した『歴山《アレキサンドル》王伝』や、『マウンドヴィル紀行』に、この木が人の問いに応じて未来を告ぐと聞き、歴山王が行って問うと、汝は全世界に王たるべきが、マケドニアへ還り得ぬと答えたとか、その実と脂を食うたら、四、五百年長生すなど吹き立てた。それから、このついでに述ぶるは、東西とも、ある特別の植物の花が、毎《いつ》も日に向かって開き続くるということで、いよいよそんな花が実在せば、朝早く向かった方を東、夕方近く向かった方を西、と心得て然るべしだが、予は毎度の実験より、このことをいと不確かに想う。例せば、清の陳扶揺いわく、「向日葵、一に西番葵と名づく、云々、六月に花を開く。毎幹の頂上にただ一花あるのみ、黄弁、大心にして、その形、盤《さら》のごとし。太陽に随って回転す。もし日、東に昇れば、すなわち花は東に朝《む》き、日天に中すれば、すなわち花は上に朝《む》き、日西に沈めば、すなわち花は西に朝《む》く。子《み》を結ぶこと最も繁く、状《かたち》は草麻の子《み》のごとくにして、扁《ひら》たし。ただ員《かず》に備うるのみにして、大いなる意味《おもむき》はなし。ただその日に随うの異《ふしぎ》を取るのみ」と。貝原益軒説は、ホンのこれを訳約したので、「向日葵、一名西番葵、云々、六月に花さく。頂上にただ一花のみ、日につきてめぐる。花よからず、最も下品なり。ただ日につきてまわるを賞するのみ、云々。国俗|日向《ひゆうが》葵とも、日まわりともいう」とある。「新(ン)田(ン)の義貞殿とせなあよみ」。向日葵をそそくさ、日向葵と読んで、日向《ひゆうが》葵も面黒い。定めて、高千穂辺には得てして珍草が発見されます、とシタリゲに自得した人もあったろう。(一八七一年板、エール『マルコ・ポロの書』一巻一二九頁已下。『秘伝花鏡』五。『大和本草』七)
(253) そもそも古ギリシアの誕に、海女精クルチア、大いに日神フォイボスに熱くなったが、日神の意は、ひとえに王女レウコテアにあった。クルチア妬みのあまり、王女をその父に讒し、これを埋殺せしめ、日神これを怒って二度とクルチアに近づかず。クルチア日の行く方のみ眺め廻して断食九日、終《つい》に草と化しても、その花今に日に随って回転し続くるゆえ、これをラテン語でヘリオトロピウム、英訳ターンソウル(ともに日まわりの義)と名づけた。柴草科の物で、その二種は台湾に自生する。ギリシア辺には、今も数種あり。ことごとく白花を開き、クルチアが化した花が、青あるいは菫紫色だったという古伝と差《ちが》う。だから、初見正真の日まわりはどんな物か、今は全く知れず。昨今、和名ヒマワリ、漢名向日葵、ラテン学名ヘリアンツス、英語サンフラワー(ともに日花の意)で通るものは、もと西半球の産、むかしペルー土人は日を神とし、日輪の形せるゆえ、この花を尊び、神廟奉仕の巫女みな純金製のこの花を頭に戴き、胸に著け、手に持ち歩いたので、その態を見たスペイン人これをフロス・ソリス(日の花)と呼び、ヘリオトロピウム誕を連想の上、日花また日に随って廻ると言い出でたが、何ぼ苦辛観察しても、日花は日に随って廻らず、実は花の形が日輪に似て、日花の号を得たに過ぎず、と一五九七年に英人ジェラードが書いた。マルチン教授が見たは、一茎に四花咲き、東西南北に向かうこと、後家育ちの四人娘が勝手次第に男を拵えるに異ならず、とある。かく支那へ来た欧人は無智無明の愚物ばかり、百犬伝え吠えた法螺話を、本来法螺好きの支那人が無検査で妄信したまま、さも事実らしく、この花が、日東に昇れば東に朝《む》き、西に沈めば西に朝くと、面白く演べ立てた口上を鵜呑みにして、益軒先生意気揚々と受売りしたのだ。大正中、予五、六年続けて向日葵を栽え試みしに、花の方向一定せず。鉢合わせして相剋摩擦も少なくなかった。さて昭和某年、雑誌『本草』で、牧野富太郎博士が、この花|毎《いつ》も日に向かって開くとは事実に違うと説かれたを一見したが、当時病中で何一つ記憶せず。今はまた脚が利かぬゆえ、それを捜し出す能わず。よって博士のその文を参酌せずに、自説のみをここに書いた。さて上に述べ忘れたは、伊人グベルナチス説に、古ギリシア誕の海女精クルチアが化したヘリオトロピウム(日廻り)は、現に南欧に産する半日花科の亜灌木ヘリ(254)アンテムム・ロセウムだ、と。この物も、花が青くも紫でもなく、淡紅だから、グ氏の考察は中《あた》っていない。(一八八四年板、フォーカード『植物俗識、旧伝および歌賦』三六五頁、五五七−五五八頁。一八八〇年板、ラウドン『植物事彙』一一八と四七〇と七三〇頁。佐々木舜一氏『台湾植物名彙』三四八と三四九頁。一八七八年パリ板、グベルナチス『植物譚原』一巻二九〇頁)
 向日葵は、一に一丈菊の名ある通り、菊科の一年草で、どんな凡暗《ぼんくら》でも、葵類と混ずる気遣いなし。しかるに、この物西洋から渡った時、支那で向日葵また西番葵と号《なづ》けられたは、いわゆる先入主となったので、形像、性質、共に似おらねど、間違いながらも、二者に共通した俗信の宣伝が強く利いたのだ。初め葵の字を名に付けられた植物は、主として錦葵科に属し、綿葵属の冬葵(フユアオイ)と錦葵(ゼニアオイ)、萄葵属の萄葵(タチアオイ)、木芙蓉属の黄萄(トロロ)くらいの物、中に就いていと古くより、単に葵と言ったは冬葵に限る。一八五五年の西洋説に、その原産地は支那と見えたが、八年前の牧野・根本二氏の著には欧州原産と出ず。梁朝に、この物少室山に自生したと録され、一層古く春秋時代に、斉の桓公北の方山戎を伐ち、冬葵を得て天下に弘めたと見え、葵百菜の主たり、古人恒にこれを食うたこと、『詩経』、『周礼』、『儀礼』、『左伝』、秦漢の書伝みなこれを示す。六朝の人も恒《つね》に冬葵を食うたから、西暦五世紀に北魏の賈思?は葵を種《う》うる術を詳述した。それに、唐宋以後食う者ようやく減じ、明の李時珍は、今種うる者すこぶる鮮《すくな》しといい、その前に元の王髀|も、今人これを食わず、また種うる者なし、と言った。清の呉其濬これを咎めて、現に江西で?菜《きさい》、湖南で葵菜また冬寒菜と呼んで食用するものは、冬葵に外ならず、と言った。時移り称え変わったのだ。日本でも『延喜式』に葵すなわち冬葵を食料に充てたことしばしば見え、小野蘭山は、冬葵の生葉を採り焙り、末となし食用となし、乾苔に代うべし、一(変)種、葉辺びらつきて、平らかならざるものあり、最も可なり、故にその草をオカノリと呼ぶ、と説いた。オカノリは予が住む田辺町にも種《う》え食う人があった。『本草図譜』一四に、冬葵とオカノリを図し、冬葵、武州品川に自生あり、云々、その葉、菜となして柔滑なりとあれば、日本で(255)もその葉を菜食したのだ。古エジプト人、シリア人、ことにローマ人は、錦葵属の植物を菜食嘉食したが、その品種が確かに知れない。プリニウス説に、遺精を治するに、患者の肱に葵の種子を傅《つ》くべし、また一茎ある葵の種子を陽物に撒布せば、無限に慾情を増し、またそんな葵の根三本を秘部に近く佩ぶれば、同様の効あり、と。すべて葵類は粘液に富み、その性滑利すれば、今人葵を滑菜と呼ぶ、と李時珍も言った。故に東西洋共にこれを食えば、胎滑にして産しやすく、煮汁を服すれば陽を利すなど信じた。本邦で紙を漉くに用ゆる責蜀葵の粘液を乾かし貯え、小女・?童を御するに用い、ネリギ、通和散、安入散など唱えた。その粘液がよく男精に似たところより推して、その種子や根に催情の験ありとしたのだろう。(『重修植物名実図考』三上。『重訂本草啓蒙』一二。『古今図書集成』草木典八五。ラウドン『植物事彙』五八二頁。『訂正増補日本植物総覧』七二七頁。『本草綱目』一六。『斉民要術』三巻一七章。『古名録』一四。上に引いたフォーカードの書、四二五頁。プリニウス『博物志』二〇巻八四章。明治四一年板『守貞漫稿』下巻一六九頁。西武『鷹筑波集』二。西鶴『五人女』五の四。西鶴『伝授車』四の三)
 ところでまた、冬葵について古来ややこしいことがある。春秋の魯の成公十七年に、斉の霊公の母声孟子、その臣慶克と通じた。これを見た鮑牽という者、何の思慮なく、そのことを人に語つたに事起こり、霊公これを刑してその足を断たしめた。孔子これを評して、鮑荘子の知は葵に如《し》かず、葵もなお能くその足を衛る、といった。南宋の林洪説に、葵を刈るに、その根を傷つけざれば、また生ず、故に古詩に「葵を采《と》るに根を傷つくるなかれ、根を傷つくれば、また生ぜず」の句あり、と。葵は根を大切にするゆえ、陸佃いわく、「葵の心は、日光の転ずるところに随ってすなわち低《た》れ、その根を覆う。知《ち》に似たり」、故に孔子が右のごとく言った、と。字書に心は本なりとあって、ここでは葉の本すなわち葉柄が、日光の転ずるに随って低下し、大切な根を覆うと言うので、『古今図書集成』に、冬葵をそんなに図しある。後漢の許慎の『説文』にも、黄葵、常に葉を傾け日に向かわせ、その根を照らさしめず、と出ず。前漢の劉安が、「聖人の道におけるは、なお葵の日におけるがごとし。終始する能わずといえども、そのこれに(256)向かうは誠なり」と言うたも、葵が自身の根を衛るため、葉を向かわせて日光を障《ささ》えるという俗信が、西暦紀元前二世紀の支那にあったを証する。その後、西晋の陸機の「園葵詩」に、「朝の栄《はな》は東北に傾き、夕の穎《ほ》は西南に晞《かわ》く」と詠んだ。朝の花は東北に傾き、夕の穂は西南に向かって乾くとの意で、明らかに葵の花が日に随って廻ると言ったのだ。それに倣って唐の張九齢の詩にも、「園葵もまた陽に向かう」とある。初めは葵すなわち冬葵の葉に限ったが、追い追い冬葵の花から諸他の葵の花までも、日に向かって廻ると想定したらしい。かかるところへ明朝に、もと西半球産のヒマワリが持ち来たされ、日に向かって廻る噂が盛んなるより、子細構わぬ早合点でこれを向日葵と名づけたのだ。果たして陸機の詩のごとく、園葵すなわち冬葵の花が、朝東北より夕西南まで日に随って廻るなら、その花をみて大抵方角を知り得るはずだが試みた人ありと聞かぬ(『左氏会箋』一三。据明鈔本『説郛』二二所収『山家清供』。『?雅』一七。『古今図書集成』草木典八五、八六。『淮南子』説林訓。『文選』李善注、二九)。『左氏会箋』の箋者竹添光鴻は、日廻り向日葵を、本来支那にあったように心得、明代に支那へ舶来したと知らなんだらしい。
 何国も同様だが、支那の学者に、古今事実を観ずに、群書にのみ拠って記述弁論するのがことに多い。したがって、その書いたことが、どれだけ事実やら、どこまで伝聞やら、推測やら、妄断やら判らぬものが多い。しかし、古く特にしばしば書かれたる点から、葵の葉また花が、日に向かうという説には、多少の所拠《よりどころ》あったことと想う。小野蘭山説に、冬葵、「京師に自然生なし、諸州江海浜に多く生ず、近年城州山城の郷に多く栽え、子《み》を収めて四方に貸す。これ冬葵子なり(薬用)。一たび種うれば永く絶えず、繁茂す」とあり。東京付近には、川崎辺に生ずる由、岩崎灌園の『武江産物志』にあったと覚え、同氏の『本草図譜』には品川、伊藤圭介博士の『日本産物志』には鈴ヶ森を自生地として挙げあり。明治十六、七年、予しばしば大森介墟へ往った時、鈴ヶ森旧刑場辺の群松下に多くあった。紀州では、明治十四年三月加太浦淡島神社へ参詣の途中、松江村の街道側松林下で多く見つけ、二十年後また通ると、依然繁茂しおった。さて九年経て、『紀伊続風土記』が刊行されたを見ると、その巻九四に、冬葵、各郡近海の地に産す、(257)ことに海部郡加太荘処々に多し、とあった。しかるに近時この草諸方で減じ行くにや、故矢田部教授の『日本植物篇』一に、冬葵本島に自生すという、余いまだ真の自生品を見ず、とあり。宇井縫蔵氏の『紀州植物誌』にこれを載せず。牧野・根本二氏の『訂正増補日本植物総覧』には栽植品と記しおる。一方故白井博士の『植物渡来考』にはこれを載せず。この書成った時、博士一本を贈られ意見を問われた。予種々と思いつきを書き送った中に、永禄九年作と思わるる由の『新撰類聚往来』に実紫あり、『柳亭記』上に、これツルムラサキなりとあり、そのころ渡来せるなるべし、再板の節収め入れたまえ、と告げたところ、この物は内地のある処に野生あるゆえ、外来品と認めなんだ、との答えだった。冬葵も同じ理屈で録せなんだらしい。初め鈴ヶ森や松江村で見た時は、その葉や花が日に向かう説に気づかなんだが、明治三十四年五月再び松江村で見た時は、気づきおり、いろいろ観察に力めたが、草すでに老いて花なく、また長い禾草群に埋もれて、多くは日光に触れず、日に随って廻るか正しく視能わなんだ。さて去年負傷してより足腰不自由で、松江村に往くべくもあらず。よって読者諸君に、どこかで冬葵を見つけたら、野生、園生を問わず、多少とも日に随って廻ることありや、検査されんことを望みおく。
 最後にまたついでながら記すは、北宋の王昭禹の『周礼詳解』に、「葵草の細出せるものは、心を傾けて日に向かう。すなわち敬う意《こころ》あり」と出ずる由、南宋の王与之の『周礼訂義』に見える又由《またよし》(『図書集成』草木典八五)。仙覚の『万葉集註釈』に、葵は日の影のさせる方に随いて靡き傾ぶくゆえにひかげ草というと言ったは、それに基づけるか。また白石先生は、葵をアフヒとは、日を仰ぐをいうなり、なお『説文』に、「黄葵はつねに葉を傾けて日に向かう」と言うがごとし、と釈いた(『東雅』一三)。土佐の鹿持雅澄は、この花天の方に向かいて咲けば、阿保は仰ぐ意、比はその貌をいう言たるべし、もし日を仰ぐ由ならば、ヒアフと言わでは叶わざるをや、比は忍びなどの比なるべし、と解いたは宜しく聞こえる。一九の戯作に、餅を食うて釘に咬み当てた者が、釘は黒金なり、カネモチになる吉瑞と悦ぶと、側な人が、釘から餅が出たなら金持ちにもなるべし、餅から黒金が出たのは、金を持ちかねたるべき凶兆と嘲(258)った、と書いたと同理だ(『万葉集古義』九)。それから南宋の羅願の『爾雅翼』に、「虞の礼、夏秋に生葵を用い、冬春に乾豆を用う、みな滑物なり。道家の法、十日に一たび葵葉を食らう、五臓を調うる所以《ゆえん》なり」。不消化物を常食する民が、下剤や吐剤をことに尊重して、長生の妙薬と信じたは、前年流行した何首烏《かしゆう》や、便所近く栽えて目出たしと尊ばるる南天などの例あり。ある蛮族は、毎旦《まいあさ》吐剤もて宿食を吐き出し、人に会えば今朝はよく吐いたかと問うて、挨拶とするなど、確か『郷土研究』一巻六号へ出したと覚えるが、只今ちょっと見当たらぬ。『本草綱目』一六に、「張従正いわく、およそ久しく病んで大便渋滞すれば、宜しく葵菜を食らうべし、自然に通利す。すなわち滑もって竅を養うなり、と」。また「蘇頌いわく、菜茄と作せば、はなはだ甘美なり。ただし性、滑利にして、人を益せず、と」。旨いから乗り気になって多食すると、知らぬ間にチビリおるから、はなはだもつて尾籠の至りということで、前に述べた通り、和漢よりローマまでも、葵の饌用は、追い追い衰えたのだ。
 以上書き終わって、発端の拙宅のコノテガシワの枝が、少しも方角を弁ずるに用立たぬ由を妻に語ると、以前物覚えよくて鳴った人が、よくもそんなに物忘れよくなったものだ。かの木は過ぐる昭和元年、宅後から宅前へ移したので、その時、枝が南北のみ団扇のように扁《ひら》たく張り出しあったのを、百八十度転向させて移栽した以来、今見るごとく四方八方へ枝を出した、自分目論んでしたことを少しも記憶せぬとは、と笑われて気がつくと、なるほどソンナことであったようなり。ただし初め南北にのみ枝を張り出しあったとは、妻の誤認で、たぶん東西にのみ張り出しあっただろう。
 次に、同じ一二年一号六七頁に、太田君が中支奥地で、「梅はないのかと、よく聞かれたが、ついに見かけなかった、云々、あるいは黄梅の地名からしても、多くある地方もあるのだろう」と言われた。例の白井博士の『植物渡来考』に、梅は「支那原産、陶弘景によれば(梁朝)、陝西省漢中山谷に生ず、とあり。唐時代には江湖、川蜀、淮南、広西等の地にみなありという。梅は日本に自生なし。『万葉集』に、梅、烏梅、宇梅、于梅等の字をもって記せり。(259)これ漢名をそのまま使用せるなり。このころ大陸より移植せし物なること論なし」とある通り、支那の原産で、むかしから種々と変種を多く生じ、また花果の相似たるより、ウメならぬ物で梅と称えられたものも少なからぬは、『百川学海』二九所収、南宋の范成大の『梅譜』、ブレットシュナイデルの『支那植物篇』二巻二九四至二九五頁等で知らる。太田君の推察通り、梅が多く生えた地方も支那にあって、「広西の桂林府は、満山みな梅なり。開《さ》く時、梅瘴を作《おこ》し、人に染《うつ》りやすし」と、明の呉彦匡の『花史』に出ず。今も左様かしら。
 いわゆる黄梅は、『本草綱目』三六に、?梅、一名黄梅花、とあるによって、『図書集成』草木典二〇五に、黄梅を?梅の別称とした。?梅また支那の原産で、徳川氏の世に本邦へ伝来し、ロウバイ、ナンキンウメ等呼ばれおる。分類上梅と無縁のもので、范氏の『梅譜』すでに、これはもと梅類ならず、梅と同時に咲き、香も相近く、色はなはだ蜜脾《みつび》に似たので、?梅と名づく、と書きおる。ところが時代と地方により、?梅でない黄梅が別にあった証拠には、『図書集成』同上に、登州府物産に紅梅、黄梅、?梅と列挙し、臨海県に黄梅あり、また「紅梅、?梅あり。実《み》なし」。明の高濂の『遵生八』一一に出た黄梅湯の製法に、肥大なる黄梅を蒸し熟し、核を去り、云々、とあり。これは常の梅実の、熟して黄色になったのを指したこと疑いなきも、紅梅、?梅と列ねた黄梅は、花の色に基づいた名と惟わる。黄色な梅花を予はかつて見ないが、范成大の『梅譜』に、「百葉?梅。また黄香梅と名づけ、また千葉香梅と名づく。花葉は二十余に至り、弁心の色は微《すこ》しく黄ばみ、花頭は差《いささ》か小にして緊密なり。別に一種の芳香あり。常の梅に比べてもっとも?美《じょうび》なれども、実を結ばず」。また『津逮秘書』所収、南宋の邵博の『聞見後録』二九に、「千葉黄梅花は、洛人ことにこれを貴ぶ。その香、他種に異なり、蜀中、いまだ識らざるなり。近ごろ興利州の山中の樵者、これを薪《たきぎ》にしてもって出だす。洛人のこれを識るものあり、その地に求むるに、なお多し。始めて移し種《う》え、事を喜《この》む者に遺《おく》る。今、西州の処々にこれあり」とある二物は同一か。本邦にも『大和本草』一二上に、近ごろ黄梅あり、異品なりと言い、『本草図譜』五八に、黄金梅(和名)、花単弁にして、弁はなはだ細く、白色に微しく黄色を帯ぶ。楽(260)善侯の『本草啓蒙補遺』下には、梅の一種、花はなはだ小にして深黄色なり。これオウゴンバイという、野梅より変生したるものなりとあって、白に微黄を帯びると、深黄色とは大違いだが、江戸と筑前でそんなに差《ちが》ったものか。いかさま和漢共に、多少黄色な梅花も出たので、支那のある地でそんな梅を黄梅と名づけ、これを初めて出したか、多く産するとかの所を黄梅県など號しただろう。これらいずれもその物を見ざる推量談ゆえ、太田君を始め読者諸彦は、眉に唾して笑読されたい。
 また梅と全く別類の灌木で、この田辺町では梅とほとんど同時に咲く黄梅《おうばい》という木犀やヒイラギと同科の植物がある。支那の原産で、明の袁宏道の『瓶史』に、「梅花は迎春、瑞香(ジンチョウゲ)、山茶(ツバキ)をもって婢となし、  蟻梅は水仙をもって婢となす」と言った迎春花だ。それまた白井博士の『植物渡来考』一七三頁に、この物邦書中初めて『大和本草』(一二)に見えるが、何時入り来たか分からぬ由述べある。『大和本草』には、「その花絵にかきて勝るものなり、清少納言が『枕草紙』に、絵にかきて勝るものを記せしに、これを載せず、この時この花いまだ来たらざるゆえなるべし」と記す。熊楠、藤原定家の『明月記』を見るに、「寛喜元年六月十九日、今年、草樹、花実みな遅し、黄梅なおわずかに残る、云々」とあり。花実みな遅しとあれば、ここに黄梅と言ったは、五月に黄ばみ落つべき梅の実が六月|央《なかば》まで、木に留まりおったのか、ただしは、正月に咲くべき迎春花が、六月になっても少々は開き残りおったのか、文簡単に過ぎて判じかねる。この『明月記』の黄梅の紀事は、博士が気づかぬうちに遠逝されたらしい。よって一書一藁を成すごとに、贈り来たつて拙見を問われた故人の篤志に酬ゆるため、ここに記して識者の啓明を仰ぐ。
 それから同頁に、太田君が、孟宗竹は「支那では、別名のあることは勿論、日本(人)が、二十四孝でかく命名したに過ぎない」と言われたが、また例の白井博士の『植物渡来考』一九七頁に、孟宗竹(琉球土名)、漢名江南竹(『汝南圃史』)、一名猫竹、と見えるから、支那で江南竹、また猫竹と呼んだのを、維新前十分日本に編入されなかった琉球(261)の人々が、孟宗竹と唱え出したと判る。さて元文元年三月、薩摩江南竹二十株を琉球に求めたところ、その五月琉球より、頃歳漢土より得たが、いまだ蕃衍せずとて、ただ二株を進め、四十三年後の安永八年、品川の薩摩邸へ、初めてその筍を植え、それより三十一、二年して、文化七、八年には、江戸の八百屋ごとに、一尺四、五寸廻りの筍を売った、と同博士の説だ。天保中には、紀州にも伝わりあったようで、『紀伊続風土記』物産中に載す。ところが熊楠、寛永四年に成った、松江重頼の『犬子集』六を繙くと、「面白とこれや孟宗竹の雪」一正、の句あれば、元文に琉球より二株を薩摩へ進めた前百九年の寛永四年に、この竹が多少内地に届きおったと知る。その筒を輸入して生花用としたくらいのことだろう。
 太田君また、次の六八頁に、支那人がいわゆる「芋頭は、内地の里芋である。『徒然草』に、(盛親僧都)芋頭をくいけるが、云々、の話があったことを、独り思い出してほほえんだことだ。兼好法師は、さては漢籍をおよみになって、この文字を使ったのか等、ほとほと自分の学才のないことを、支那に来て恥とした」と述べられた。「芋の皮でもむかうかと邪魔になり」。こんな長談義を好まぬ読者の邪魔になりついでに、いっそ芋のことも一席やらかそう。それには、またまた故白井博士を引合いに出さねばならぬ。博士いわく、「芋。和名ウモ(『万葉集』)、イエツイモ(『和名抄』)、サトイモ。東インドの原産なり。支那にては『名医別録』(西暦五三六年、八十五歳で死んだ陶弘景撰す)に始めて出ず。日本にては『万葉集』、荷葉《はちすば》を詠ずる歌に、ウモの名みゆ。『はちすばはかくこそあれも、おきまろがいへなるものはうものはにあらん』とあるが、文献にみえたる始めなり。『大和本草』に、青芋と、黒芋と、唐の芋と、赤芋と、ホラ芋とか載す。ヤツガシラの名見えず」と。『本草図譜』四七には、芋の品種、右六つの外に、クリイモ、水芋、白芋、ハスイモ、エグイモ、石芋と、合わせて十二を図しある。
 支那に至りては、芋の品種、なかなかそんなことにあらず。約千五百年のむかし、北魏の賈氏の『斉民要術』二には、「案ずるに、芋は、もって飢饉を救い、凶年を度《わた》るべし。今、中国、多くはこれをもって意となさず。後生《わかもの》のう(262)ちには、耳目の聞見せざるところの者あるに至る。水草、風虫、霜雹の災に及んでは、すなわち餓死|道《みち》に満ち、白骨交わり横たわる。知って種《う》えず、坐して泯滅《びんめつ》を致す、悲しい夫《かな》。人君たる者、いずくんぞこれを督課せざるべけんや」と、必死になって芋作を励まし、およそ十八品種を列記しある。今実地について精査したら、日本にかつて聞きも及ばぬ有益の品種を、思いも掛けぬ所で掘り出すだろう。却説《さて》、芋は支那で(梁の)陶弘景の『名医別録』に始めて出ずと、白井博士の説は、諸本草書中で芋を収録した最初のものとの意味で、芋の字を出し、芋のことを多少載せた書は、いくらか『名医別録』以前にもある。例せば、西暦四世紀に東晋の常?が書いた『華陽国志』の後賢志に、著者と同時の人、李蜀の安漢の令、何随は、蜀国亡びて官を去って家へ帰るを、旧下僚どもが送り行く道中飢饉で穀物なし、腹がへつて屁も出ぬ始末に止むを得ず、道側の民の芋を取って食い歩くを見て、随は自腹を切り、下僚どもが取った芋代相当の綿をそこに繋ぎ置いた。民、芋が失せた跡に綿あるを見て随の所為と察し、追い付いてこれを還したが受け取らなんだので、安漢の吏、糧を取り、令これがために償う、と言い囃したと記す。
 その前五、六十年、西晋の斉人左思、構思十年にして三都の賦を作り、司空張華見て、これを読む者をして、尽して余りあり、久しくしてさらに新たならしむ、と歎じた。ここにおいて弥次一偏の豪貴の家競うて相伝写し、洛陽これがために紙|貴《たか》しと来た。それから今も、小説の流行の烈しきを喧伝するとて、洛陽の紙価を傾くとか触れ散らす。件《くだん》の三都の賦のうち、「蜀都の賦」には「瓜疇《かちゆう》、芋区《うく》あり」、「魏都の賦」には、「薑芋《きようう》充茂す」、「呉都の賦」には、「蹲鴟の沃《こ》えたるを徇《ほこ》って、すなわちもって世々|陽九《わざわい》を済《すく》うとなす」と、賦ごとに芋か蹲鴟《いもがしら》を詠み込んだは、詩人に似合わぬ芋好きだったらしい。しかしてこの賦どもを矢鱈にほめた張華も、芋について修業を積んだ揚げ句、「五土の宜《よろ》しきところ、云々、蒼赤は  衣《まめ》と芋に宜し」なんて言った(『晋書』九三。『文選』李善注、四至六。『博物志』一)。張華、左思二人に先だつこと約四百年、漢の『東方朔』七諫に、「玄芝《げんし》を抜搴《ぬきと》り、芋と荷《はす》を列べ種《う》う」とあり。
 同時の司馬遷の『史記』貨殖伝には、芋の字を使わずに、芋頭につき一言しおる。蜀の卓氏の先祖は趙人で、鉄冶(263)を業として富んだ。秦が趙を破って卓氏を虜略しこれを遷した時、「佐渡を出てから尾張で世帯、めをと二人で苦労する」と、金持ちもこうなっては詮方《せんかた》なく、二人手ずから車を推して遷る処へ著くと、他の遷され連は、金さえあれば、争うて吏に与えて故郷に近い処を望み、葭萌《かほう》の地に居住した。卓氏は葭萌を狭くしみたれた処と見透し、われ聞く、?山《びんざん》の下は沃野で、その地下に蹲鴟を生じ、これを食えば死に至るまで飢えず、その辺の民|工《たく》みに市を作り商売しやすしとて、故《ことさ》らに遠方へ遷らんと望み、?山の下、臨?《りんきよう》の地に送られて大いに喜び、すなわち鉄山鼓鋳し、籌策を運らし、?蜀の民と取引きし、ついに千人を使い、田池射獵の楽しみ、人君に擬《なぞら》うほど富んだとある。班固の『漢書』九一は、『史記』の文をほとんど丸取りにしたものだが、多少字句を改め、よく判るところがあるようだから、よい加減に二書を調合した。一体予は金儲けの話を読むと、熱を発し、たちまち黄金色の小便を垂れるから、始末におえない。要は?山下に蹲鴟すなわち芋頭を多く産し、食糧に乏しからぬから、暮しが容易だと卓氏が気づいたというのだろう。
 『塵添?嚢抄』九に、「家の芋を蹲鵄という心如何。蜀の岷山の麓の野に芋あり。これを食らうに死に至るまで飢えず、三年まで取らずして置きたれば、形|蹲《うずく》まれる鵄に似たりということあり。死するまで飢えずと言うはすこぶる信じがたし。「「蜀都の賦」注にいわく、蹲鵄は大芋なり。その形、蹲まれる鴟に類《に》る、と。「呉都の賦」注にいわく、その苗は鴟の蹲まれるに似るあり、と」と言えり。(中略)かくのごとき釈も一准ならず、多分は根に付くる名なり」と見ゆ。左思の「蜀都賦」、「呉都賦」共に、思と同時の人劉逵が注した。芋頭より苗が生えかかった形が、鵄が蹲まり頭を擡げたようなるを、根または苗が似たと書いたので、これを食えば死に至るまで飢えずとは、一度食ったら一生飢えぬと言うたでなく、これを常食すれば、一生他の物を食わずとも飢えないと言ったのだ。劉逵も『塵添?嚢抄』の編者も、これほどのことが分からぬとは、これまたよくよくの金儲け嫌いだったと察せらる。
 右のごとく、芋は決して故白井博士説の通り、梁朝に及んで始めて著聞したでなく、前漢の文献に確かに出でおる。(264)しかるに、『周礼』、『論・孟』、『荘・列』、『左伝』、『韓非』、『呂覧』、『戦国策』など、前漢以往の社会事物を多く記した載籍に、芋について一言半句を見ず。周公旦はもってのほかの芋好きで、独り煮て食いかけたところへ、不時の客が来たので、慌てて嚥み下さんとしたが、熱くてたまらず、三度まで吐き出してようやく治まった、三度哺を吐き、起ちてもって士を待つとは、これを矯飾した言だ。呉国にたどり著いた伍員が、空腹で一歩も進まず、折から漂陽瀬水の上で綿を撃つ女子、と言っても二八や二九の齢ならず、母に事《つか》うるこの年月、三十路《みそじ》の上を越えながら、眉をその儘《まま》いかなこと、かねも含まぬ恥かしさ、すこぶる渋皮のむけた代物で、弁当に皮のよくむけた芋を煮て用意した。そこで伍員が万葉体に、吾妹子《わぎもこ》よその芋少しお呉れんかと言い寄ると、女子その恒人ならざるを知り、長跪して煮芋を進め、さらに親にも見せない手前の毛芋まで自由にさせたので、まさにこれ飢えては食を、貧しくしては偶を択まず、と十二分に賞翫の上、子胥は名残惜しげに別れ去った、というような咄はいくら捜したって些《ちと》も見えぬ。もっともそれより古く『詩経』に「君子攸芋」と芋の字を使いあれど、イモという名詞にあらず、尊大という意味の形容詞だ。また『史記』の項羽本紀に、楚の上将軍宋義が、軍を進めずして徒《いたず》らに飲酒高会するを、項羽が誚《そし》る辞に、「今歳|饑《き》にして民は貧しく、士卒は芋菽《いもとまめ》を食らう」とあって、楚の士卒が芋と豆のみ食いおったというようだが、芋菽は半菽の誤字で、他の疏菜と豆と等分に雑え食うたことの由(『漢書』三一参照)。さればまず秦漢の際、?山下に蕃殖したのが、芋が支那に著われた始めと断じて然るべし。
 それより後の物ながら、後漢の許慎の『説文』に、「芋は大葉、実根にして人を駭《おどろ》かす、故にこれを芋と謂う」。南唐の徐?これを解いていわく、「芋はなお吁のごとし、吁は驚辞なり、故に人を駭かすという」と。ずっと後にできた小説『牡丹奇縁』第一回、「小書生壁を鑿《あなぐ》りて雲雨を窺《うかが》う」の条に、「婦人の声ようやく低《さが》り、只管《ひたすら》吁々と喘気《ぜいき》す」。また『覚後禅』の和訓本に、春風の騒声を表わした?呀、?哈の字を、おのおのウまたウウと振仮名した。惟うに婦女の騒声同様、吁は特異の物に遭うて、驚きかつ悦ぶ時に発した感歎詞だ。「をさな馴染とべに花染めは、色がさ(265)めても気が残る」。そんな二人が二十年近く離れ切っておって不意に邂逅し、彼此《かれこれ》すべてこれ曠夫・寡婦で、慾心火のごとく、力に任せて弄る一回、「一泄、注ぐがごとし」という場合に、この詞を発するのだ。芋もとインドに自生せるを栽培され、それより東西諸国に伝播されたは疑うべきにあらず(一八九〇年板、ド・カンドル『栽培植物起原』七三頁已下。一九二六年板、リヴァース『心理学と人種学』二七三頁)。それが初めて支那に入った時、土民が、その葉大きく根が充実しあって、未曽有の食品たるに驚嘆して、久曠の寡婦が幼な馴染の男に儘力弄了されたごとく、われを忘れて吁吁とうなつたとは、後漢の世までそんな口碑が伝わりおったので、決して許慎の手製でなかろう。しかしこの口碑は、もと芋の字の起りを釈くために作られたので、その実、ある異国の語でこの物をウとかユとか呼んだその名を、漢字で芋と書き、追い追い芋の字の履歴が忘られたのち、太くて旨いに感歎してウウウウと唸ったなど言い出し、そこへまた南方先生が、都々逸入りで、年寄った後家の色咄《いろばなし》まで追加するから、いよいよ  (昭和十七年十月『旅と伝説』一五年一〇号)
 
(266)     鷽替神事について
 
 本誌二年四号三九頁に、藤里君は鷽は菅公と何ら関係なきよう言われた。愚見をもってすれば、『華実年浪草』一巻下など、俳書に?《うぐいす》と鷽を並べて正月の鳥としあり。この辺(紀伊国西牟屡郡)の梅花を鷽が啄きに来るは常事である。したがって菅公が愛したという梅を経由して、この鳥も菅公の愛物と謂い出したものかと思う。
 正月に希有の熊蜂を経由するよりも、この方が手近くかつ道理立った解説であろう。
 また慈覚大師『入唐求法順礼行記』一に、「承和六年正月十四日。立春。(揚州)市人は鷽を作ってこれを売る。人買ってこれを翫ぷ」と出ず。予の写本には、本文鷽に作り、頭書には?形を売るとありて、いずれが正しいか別《わか》らぬ。支那の鷽はウソ鳥でないから(『和漢三才図会』四三)、本文に鷽とあるに極まっても、鷽替神事の起りに関係なきは勿論だが、支那にも鳥の像を初春に翫んだ実証にはなる。
 後年、太宰府でそんなまねをして、自然鷽替神事が起こったのでもあろうか。  (昭和四年五月『旅と伝説』二年五号)
〔文中の鷽はすべて?からハを取った字になっている、入力者、編集者によると題名もそうなっているが鷽に改めたという。〕
 
(267)     刺なきイバラ
 
 伊国ガエータ市のフランシス寺の園の茨はほとんど全く刺なし。むかしフランシス尊者修業中、淫念萌して制すべからず。百日の制戒屁一つとなるを慨し、この茨の上に身を転じ、ヤット縮ませおおせた。それからこの茨に限って刺がなくなったという。「器量よくてもわしゃボケの花、神や仏に嫌はるる」。尊者成道を助けくれた酬いに、神に嫌われないように刺なしにしてやったのだろう。しかし、その後尊者のまねをして、その上に転げたら最後、大いに勃起するであろう(一八二一年パリ板、コラン・ド・プランシー『遺宝霊像評彙』一巻六六頁)。
 他地で刺なき木を京都の比良木大明神の社辺に栽えると、みなその葉に刺を生ずというが(『想山著聞奇集』五)、河内の駒ヶ谷の聖徳太子が駒をつないだヒイラギは葉に刺なしという(『東洋口碑大全』八七七頁)。この外にガエータの茨に似た例ありや。(『潜確居類書』七三、『皇覧冢墓記』、「孔子の家は、魯城の北なる便門の外、南に城を去ること十里にあり。冢墓《ちようぼ》は方百畝、冢は南北に広さ十歩、東西に十歩、高さ丈二尺なり。冢に祠壇を為《つく》り、方六尺、地とまさに平らにして、祠堂なし。冢墓の中は、樹は百をもって数え、みな異種なり。魯人世々みなその樹の名を知るなし。けだし孔子の弟子にして異国の人、おのおのその国の樹を持ち、来たってこれを種《う》う。孔子の墓の中には、荊棘および人を刺す草を生ぜず」。『古今図書集成』職方典三四一、「山西の汾州府孝義県、城南五十里に、三交南山あり。相伝えていわく、後魏の孝文ここを過《よぎ》り、云々、荊棘の袍を掛くるによって、怒ってその刺を折る、と。今に至るも、この地の荊棘は独《ひと》り勾《かぎ》なしという」。)  (昭和五年五月『旅と伝説』三年五号)
【追補】
 五月號九〇頁へ質問を出してのち、趙宋の羅大経の『鶴林玉露』一五に、伊尹の墓は空桑の北一里にあり、相伝う、(268)墓傍に棘を生じ、みな直にして矢のごとし、范石湖北に使いし、これを過ぎしとき詩あり、いわく、「三尺の黄?、直棘の辺。この心、終古、皇天に享す。汲書|猥《みだ》りに述べ、流伝妄なり、剖撃して咎単の篇なきを嗟《なげ》く」と、けだし汲冢書みだりに伊尹纂を謀り、太甲に殺さると載せたり、事は杜元凱の『左氏伝後叙』に見ゆ、と出でたるを読んだ。
 棘は普通イバラと訓ずるが、『康煕字典』によれば、棘は棗と同属で、木が小さく、叢生し、刺多きゆえ垣に代用する、歳久しきものは棗のごとく高大で刺なし、とあり。ブレットシュナイデルの『支那植物篇』三に、ハマナツメ属のものだろう、とある。
 『本草綱目』三六に、その刺に赤と白また鉤と直の三種あり、と記す。が、『玉露』にいうところのものは、刺が直なるでなく、茎が正直で矢のごとしというので、たぶん全く刺がないから矢のごとく見えるというのであろう。伊尹は生きておるうち、至って正直だったから、その墓に生ずる棘までも刺なく正直で矢のごとくみえると言うのであろう。(『夢渓筆談』一五「棗と棘とは相類してみな刺あり。棗は独り生じ、高くして横枝は少なく、棘は列《つら》なり生じ、卑《ひく》くして林を成す。これをもって別となす。その文《もじ》、みな朿に従う。音は刺、木の芒刺なり。朿にして相戴き立って生ずるものは棗なり、朿にして相|比《なら》び横に生ずるものは棘なり。二物を識らざれば、文《もじ》を観て弁ずべし」。)  (昭和五年六月『旅と伝説』三年六号)
 
     イチハツを屋根に栽えること
 
 明治十七、八年ごろ、武州諸村にしばしば草葺の屋根にイチハツを植えたるをみて、何のためかと問うと、雷を避くるの功あるゆえ、との答えが多かった。『今昔物語』二七巻七語に、業平中将が太刀を揮うて雷電を悍《ひし》いだ話あり。(『外記日記』一三(『松屋筆記』五に引く)に、源経光薙刀を執り、雷に打たれ死亡せしことあり。)明治八、九(269)年ころまで、紀州諸処に雷鳴烈しき時、または落雷の際、抜刀して防禦する人が時々あった。外国でも(薛孤延、?《ほこ》を按じて霹靂《へきれき》と闘った話(『北斉書』一九あり)、マレー半島のサカイ人は、雷鳴れば家外に出で、棒や兵刃を振り廻して悪鬼を駆るという(一八五〇年シンガポール刊行『印度群島および東亜細亜雑誌』四巻八号四三〇頁)。イチハツはよく草葺の屋上に盛え、その葉が刀剣に似るより、雷よけにしばしば屋根の上へ栽えることと想いおった。これと同属の草を英国でゲラッドン、グレイダー、ゲラドウィンなどいうは、いずれも刀の意味だ。(植物学上では別科に属するが、菖蒲の葉もイチハツ科の葉に似たもので、菖蒲刀など、もと魔禦ぎのために用いられたらしい。)さて『大和本草』七に、民家茅屋の棟にイチハツを栽えて大風の防ぎとす、風いらかを被らずと見え、『広益地錦抄』五には、この草萱家の棟に芝を敷きて三尺のあいだに一本ずつ植えれば、だんだん根はびこりて後はみなイチハツの根ばかりからみ、百歳をへても棟を損ぜずとあるも、ふたつながら雷よけのことを言わず、その他諸書にも雷よけの効を述べたのを見ない。支那の書にも鳶尾また紫羅傘また紫羅欄などの名でこの物を載せ(『秘伝花鏡』五に、その性高阜を喜び、墻頭に植うれば茂りやすしとあるは、屋根に栽えるに近いが)、雷よけのことを記さない。
 ところがこのごろ、一九一四年ロンドン板、ペトロウィッチの『セルヴィア人の勇士談と縁起談』一五頁をみると、むかしのスラヴ人は雷神ペルーンを崇拝し、露国人は十世紀中ビザンチン帝国人と条約を結ぶに、このペルーンの名号を引いて誓うた。それほど大事にされた雷神も今はほとんど忘られおわり、スパラト近処のペルーン村、モンテ・ネグロの僅少数のペルーン氏の人々、また、むかしこの神に捧げた草を今もペルーニカで通称する等、わずかな痕跡を留むるのみだ。そのペルーニカはイリス属のもので、セルヴィアの諸村の百姓家の庭に、この草とイワレンゲをはやしおらぬのはない。セルヴィアの小農輩の説に、むかしのペルーン神は今のキリスト教のエリヤス尊者と化して存し、この尊者は雷と電を司るという、とある。イリス属の草は、北半球の暖帯地に生じ、およそ二百余種あり。本邦にもシャガ、イチハツ、アヤメ、花ショウブ、カキツバタなど、この属の物だ。セルヴィアのペルーニカは、学名を(270)挙げおらぬから委細を知るに由なきも、イチハツと同属に相違なく、それが屋根に栽えられぬまでも、雷神の草といえば、雷よけのためにイワレンゲと共に小農家にあまねく栽えらるると見ゆ。イワレンゲ、仏名ジューバーブ、蘭名ドンデロボエーム、旧英名ジュピタース・ベアード、いずれも雷神の鬚の義で、英・独・スウェーデンの三国で、これを屋根に植えれば雷落ちずと信じ、シャーレマンも毎家屋上にこれを栽えよと命じた(一九三〇年ライプチヒ二板、エングレルおよびプラントル『植物自然分科篇』一五巻の一、五〇一頁。一九二九年一四板、『大英百科全書』一二巻六二七頁。一八八二年パリ板、グベルナチス『植物譚原』二巻一七六頁。一八八四年板、フレンド『花と花談』一巻七三頁、二巻四七六頁。一八八四年板、フォーカード『植物俚伝』三八二頁)。とにかく、同一属中のペルーニカとイチハツの二草が、数千里を隔てて同じく避雷に力ありと信ぜらるるは面白い。
 大正十一年に三十六年めで上京した時、五月|央《なかば》に故徳川頼倫侯を相州高麗寺山の別荘に訪うた。その途中で、そこここの農家の屋上にイチハツが満開したのを見た。想うに、今も武・相二州にはこれを屋根に栽えることが行なわるるであろう。が、この風は件《くだん》の二州に限ったことか、その他にも行なわるるか。また屋根にイチハツを栽えるは、もと『地錦抄』に言えるごとく、棟やイラカを堅むるの功あるによったであろうが、落雷を禦ぐ禁厭《まじない》のためということも、西洋に類似の例あるを耳にしないうちに聴いたので、古く本邦でも言い伝えたことと思うが、果たして左様か、読者諸君の教示を冀う。(九月二十六日早朝三時)  (昭和五年十一月『旅と伝説』三年二号)
  〔挿入箇所不明の書きこみ、入力者〕
  『古今図書集成』竜象典七八、雷電部記事、五丁裏、唐の陳鸞鳳、毎度雷と闘い、雨を下《ふら》せしこと。『物理小識』一一、「洪芻『怪洋記』にもまた、鉦鼓弓矢、叫譟して竜を避くることを言う」。『日本随筆大成』二期九巻所収、北茎の『北国奇談巡杖記』三に、越後国の人、家の棟頭に鎌を一挺ずつ飾り置いて風魔を避ける由。『笈埃随筆』一一に、九州にて、竜巻の節、鎌など家上に立て、おのおの声を等しくして叫ぶなり。『大鏡』二、清涼殿に雷(271)落ちんとせしとき、時平公太刀を抜きかけて、睨み鎮めしことあり。『古今著聞集』三〇に、延喜帝の御剣は雷鳴の時はみずから抜く、とあり。慈覚大師『入唐求法巡礼行記』巻二、承和六年六月三日、「暮際《くれぎわ》に、大風、洪雨、雷声、電光ありて、視聞すべからず。舶上の諸人は、鋒、斧、大刀等を振るい、音《こえ》を竭《つく》して呼叫《さけ》び、もって霹靂《へきれき》を遮る、云々」。『文海披沙』八の五表、「人、雷と闘う」。元禄八年香川堯真作『陰徳太平記』三八、戸次道雪、雷を斬ること。一九〇六年板、トマスの『濠州土人篇』二二三頁、天の方に手を突き出し、唾吐きて雷をふせぐこと。ヘロドトス、四の九四、ツラキアの民、雷電ごとに天に向かって矢を射しこと。『百物語評判』一の八、神鳴陣のこと。
 
     ナナカマドの木が雷を避けるということ
 
 十一月号一二頁に載せた拙問に対し、十二月号八六頁に答文二篇が出た。中山君の答えには、イチハツが避雷の効ありとは見えず。しかし蛇を招致して鼠を除く効ありとは新しい。同君はこの草の花がシャガに似て小さいと言われたが、予は幼時よりしばしば庭にこの草を栽え、今も栽えありて春末ごとに咲く。『本草図譜』巻二〇のイチハツとシャガの図で明らかなるごとく、四十に垂《なんな》んとする大年増と、七、八歳の幼女の物ほどの違いで、イチハツの方がはるかに大きい。そんなに大きいところから、産児が脱出しやすいという意味で、『和名抄』にイチハツを子安グサと呼んだのかも知れんて。さてこんな大きな物を未通女《おとめ》同様、一チ初とは不審なようだが、『広益地錦抄』五に、この類いろいろあり、カキツバタ、花菖蒲、アヤメ、シャガ、いずれも花形似て花さく時節段々あり、イチハツは花早きこと最一なれば、異名を一チ初つ草という、とあるのでよく判った。一チ初は一番めの初つ物の義で、享保十年かしくが句に、「いつちよく咲いたおいらが桜かな」(『嬉遊笑覧』九)。(『北里見聞(272)録三には、「おいらか(おいらんの古名)のいっちよく咲くさくらかな」に作る。)いっちよくは一番よくだ。それから中山君は誰かの「一八やシャガ父に似てシャガに似ず」の句を示されたが、予には何のことか分からぬ。このイリス属の花の句では、何と言っても霊元法皇の「濁らずば草も仏よ庭のしゃが」に超すのがないようだ(『野史』一三)。さて、予が武州諸村で屋根にイチハツを植えるは雷よけのためと聞いたはずいぶん古いことで、当時書き留めた物も只今見当たらず、頼りない限りだったところ、桂君の答文に、岡山県の一地方でも、アヤメ様の葉で茎長く白と紫の花を聞くカミナリオソレという草を庭へ植えるとあるは、たぶんイチハツのことなるべく、これで自分が承知しておったのも誤聞でなかったらしく思う。ただし、その名をカミナリオドシと言わず、カミナリオソレというなど、ちと洋語の直訳、モダーン臭く感ぜらるる節なきにあらずで、何か近年そんな物が、口碑つきで這入ってきたのではなかろうかとも心配さる。
 それについてまた一条の質問を出すは、今年夏、宮武省三君が摂州有馬へ往つた時、ある老人がナナカマドの木を指して、この木はよく雷を避けると語った由告げ越された。この木、薔薇科に属し、分類学上梨に近い物だが、素人眼にはそうみえぬ。燃え難くて竈へ七遍入れても炭にならぬからこの名ありという。本種は欧州や北アジアの産で、邦産はその変種という。本種は欧州でその群生する赤い実を賞し、また魔よけの効ありとて、庭園にしばしば植えらるるが、邦産は一向顧みられぬらしく、貝原益軒が「七竈。葉槐葉のごとし。秋紅子を結ぶ。下り垂りて愛すべし」と言ったにかかわらず、予が聞き及んだ限り、京阪、和歌山からこの田辺あたりの人はさらにこの木を知らぬらしい。(東京博物学会編『植物図鑑』二板一〇八七頁。一八九一年ライプチヒ板、エングレルおよびプラントル『植物自然分科篇』三編二部、三巻二五頁。『大和本草』一二)
 これに反して、欧州ではこの木に神異な付説多く、なかんずく古スカンジナヴィア人は、これを雷神トールの神木として尊んだ。トール巨鬼ガイロッドに欺かれ、武装しないでその宴に赴いた途中、女神グリッドよりナナカマドの(273)木の霊棒を授かり、氷の急流を渉るところを、巨鬼の娘ジャルプその水を増して溺殺せんとす。川柳に、「たんと出しさうなは和泉式部なり」とあるにも勝《まさ》り、娘の癖におびただしく出したものだ。ところがこっちは霊棒の威徳灼然とあって、トール岩を執ってなげ、鬼娘の背を打ち破ったので水は止まった。さて向うの岸へ上がろうとしたが、取りつくべき物がない。困ったところへ岸上のナナカマドの木がおのずから曲がり下がった。その枝を憑《たよ》りに岸上へにじり上がり、鬼が城へ乱入して巨鬼を殺した。爾後ナナカマドをトールの後援者と呼ぶということだ。似た話が仏典にもあって、須弥の四洲のうち、東西南の三洲に男女婚姻のことあるも、独り北方|鬱単越《うつたんのつ》の天下にはこのことなく、男子淫意を起こす時は女人に向かい時々相視る。すなわち共に樹下に至るに、もし樹が下がって蔭でその人を覆えばすなわち共に交通し、覆わざれば交通のことを行なわず、各自別れ去る。その交通は二、三日もしくは七日に至り、各自随意に罷り去るとは、恐れ入った長馬場と言わざるべけんやだ。それから女人懐妊七、八日で産んだ子を四辻に置くと、四方より人が来て指を吮《す》い乳を出し飲ませる、そして七日たつと、その子自分の福徳をもって長大し、この閻浮利天下の人の二十歳、二十五歳ほどに成人するとはオツリキ極まる。つまり合い縁の男女とみたら、樹が枝葉を垂れ、囲んで待合の役を無酬で勤めくれるのだ。閑話休題、前述の通り、ナナカマドの木が雷神トールの危難を拯《すく》うたによって、古スカンジナヴィア人はこれを霊木と崇め、軍船を作るに必ずこの木をその一部分となし、海鬼が暴風を起こすを防ぎ、またその一条を佩びてすらよく鬼害を避け得ると信じたが、現代に至ってもその威力を疑わず、種々にこれを用ゆという。しかし、トールがこの木に救われた前に、グリッド女神がこの木作りの霊棒をトールに授けたといい、スカンジナヴィアの外にも、英国のドルイド教徒など、古くこの木を魔除けに用いた由なれば、トール遭難以前よりナナカマドを霊木としたとみえる。(一八八二年パリ板、グベルナチス『植物志怪』二巻三五二頁。マッケンジー『チュートン神託および旧説』一三二−一三四頁。一八八四年板、フォーカード『植物俚伝』五二九頁。同年板、フレンド『花および花談』一巻一六〇頁。『仏説楼炭経』一および四。一八七〇年板、ロイド『瑞典小農生活』一九七頁)
(274) 予が知り得たところ、西説にナナカマドは雷神トールの神木とあるばかり、この木に避雷の力ありとは見聞しない。
 しかしイワレンゲを古スカンジナヴィアでトールの鬚と呼んだが、後に聖ジョージの鬚となった由。英、独、スウェ−デンの三国で、これを屋上に植えれば雷落ちずと信ずるは、十一月号一三頁に述べた。たぷん同じ理窟で、雷神の神木を頼むは雷神自身を頼む同然、落雷を差し控えくるるという信念が生じたものだろう。そんなことを聞き及びおった老人が、宮武氏に、本邦にもナナカマドよく雷を避くという旧説あるごとく語ったでなかろうか。この疑いを解くに必要ゆえ、ナナカマドよく雷を避く由を記した物が、西説を混ぜざる本邦の文献にありや、またそんな話が本邦のどこかに古来行なわれおるかの二条を、読者諸君に質問する。
 ついでにいう。イワレンゲを欧州諸国で避雷の効ありとて、屋根に植えることは十一月号に述べた。『一話一言』二九に載せた『渡辺幸庵対話抄』に、岩蓮花、本名戒禁火、鎮火草、棟板屋に植え置けば火を防ぐという、とあり。これは『本草綱目』二〇に、岩蓮花と同科なる景天(ベンケイソウ)の異名を、戒火、慎火、とある、その戒を戒禁、慎を鎮に作ったので、この二草共に多汁で焼け難いから、屋根へ植えたら多少避火の効があろう。さて雷はよく火を起こすもの、加うるに欧州諸国で岩蓮花に避雷の効ありとすれば、遠からず本邦や支那でも岩蓮花よく雷を避くと言い出すかも知れぬ。が今までのところ、火を避くとばかり言って雷を避くとは言わぬということを、後日のために記し留めおく。(晋の宗懍の『刑楚歳時記』に、「春分の日、民みな戒火草を屋上に種《う》う」。『広東新語』二七に、「慎火はもって火を禦ぐべし。広人多く屋上に種《う》え、もって火を防ぐ。一に戒火と名づく。その形、火の始めて然《も》ゆるがごとくにして、また火  映とも名づく。扁《ひら》たきものは枝つけず葉しげらず。円きものは枝葉多く、叢生して樹を成す。四稜に芒刺《はり》あり、皮中に白き漿《しる》あって、よく人を盲《めしい》にす。広人もって籬落《かきね》と作《な》す」。)(昭和五年十一月二十六日午前五時半成る)  (昭和六年二月『旅と伝説』四年二号)
【追加】
(275) 四年二号二一頁に、予はナナカマドはむかし北欧で雷神トールの神木とされた縁で、後世までも欧州のある国々でこの木よく雷を避けると信ぜられ、それを輓近本邦人が聞き込んで、ナナカマドは避雷の効あり、と言い出したでなかろうかと、疑いを述べ置いた。しかるにそののち、一八六四年板、ホーンの『歳書』七七六頁に避雷の力ありと伝えられた諸物を列したるを閲するに、この木なし。また一八八四年板、フレンドの『花および花談』一巻三四三頁をみるに、ナナカマド時として雷に打たるることあるようだ。ここにおいて、かつて雷神の神木と崇められたこの木は、トール崇拝が跡を絶った近代の欧州のある部分で、多分避雷の効ありともて囃されおるだろうという拙見は謬れりと暁った。実際ナナカマドに避雷の力ありという信念は、トール崇拝の旧土に残ってありそうで、残りおらぬこと、船屋のかみ様のさせそうでさせぬに同じからんか。
 さて一方、享保四年に成った『広益地錦抄』巻一に、「七カマド、この木も雷を除く徳ありて、軒近く植」えるとある。さればまず七カマド避雷説は、欧州よりの輸入でなく、本邦在来の旧信と判じてよかろう。小野職?氏は、支那の花楸樹をナナカマドと傍訓したが(『重修植物名実図考』三四)、当否を知らぬ。その条をよむに、雷に関したこと少しもみえぬ。   (昭和六年三月『旅と伝説』四年三号)
 
     えのこ草の歌
 
 四年十一月号二二頁に、柳田君は、「享保七年に板になった井沢長秀の『広益俗説弁』残篇(巻四)に、俗説にいわく、むかし阿波の鳴門はなはだしく鳴りけるに、和泉式部一首の歌を詠ず。その歌に、えの子草をのが種とてなるものをあはのなるとは誰かいふらん。それよりして、ふたたび鳴ることなし、とある。この歌は、別にまた清少納言が作だという説がある。何に出ていたか今ちょっと失念したが、その方が意味はまだ解しやすい、(276)えのこ草種はをのれとあるものをあはのなるとは誰かいふらん。」といわれた。享保七年は、『俗説弁』残篇八巻脱稿した歳で、板に成ったは享保十二年だ(残篇八の一八、一九葉)。
 享保七年より九年前に成った『和漢三才図会』に、『春雨抄』より、「えのこ草種はをのれとある物をあはのなるとは誰かいひけん」和泉式部、と引きおる。『春雨抄』は寛永年間の編ゆえ、今少し古い出所がありそうな物と捜すと、同一の歌が『言塵集』に出ずる由、畔田翠嶽の『古名録』一四にみゆ。『言塵集』は、応永十三年、今川真世が八十三歳の作だそうな(『群書一覧』撰歌類)。これは南北朝講和一統後十四年だから、「あはのなるとは誰かいひけん」という歌は、南北朝の時すでにあったので、後世それに付会して、鳴門が鳴った譚を作ったのだ。
 それから、藤沢君の『日本伝説叢書』阿波の巻には、出所を示さずに、むかし上臈の女、鳴門の辺に来て、鳴門の鳴るを止めるべく、「えの子草をのか種とてある物をあはのなるとは誰かいふらん」とよんだ、あるいは清少納言でなかったろうか、と言われておる。鳴門の高く鳴る時、これを口|吟《ずさ》むと少間《しばし》鳴りやむと言い伝う、と記す。(昭和六年十一月二十八日午前五時稿成る)  (昭和七年一月『旅と伝説』五年一号)
 
     胴あげについて
 
 一八八二年ロンドン板、ヘンリー・ランスデルの『シベリア通貫記』一巻三五三頁に、シベリア人は、知友の出立に臨み、これを懇遇するに限りなき親切をもってす。その一方は、送別宴席でこれを行ない、大尊敬の表示と考えらる。これをポドケードヴァテと号し、当惑最中の本人を捉えて、二列に相対した出席人どもが、双手を拡げまた握ってさし出した上にのせ、抛げて落ちくるところを受け取り、また抛げ上げてまた受けるのだ。シベリアへ来た最初の米人コリンス氏も、キャクタでこんな目にあい、抛げ上げられた時、自分の身が天井に触れたという。吾輩キャクタ(277)を出立の際は、幸いにこの式を行われず、露人がはなはだ好むなる握手を、繰り返し繰り返し行なわれただけで事が済んだ、とある。
 これは一八七九年ごろの記文で、当時「胴あげ」を、非常な行事と英人が驚いたのだ。そのころまで支那は知らず、日本とシベリアにこのことが行なわれたと知る。日本では徳川時代に、柳営で、豆囃しの直後、お使番が緞子の蒲団で年男を包んで、「めでためでたの若松様よ、云々」と唄うて、胴あげにしたなど、三田村氏の『御殿女中』七三頁等にみえる。しかし、『嬉遊笑覧』、『守貞浸稿』、『類聚名物考』、『日本百科大辞典』などに、胴あげの条を設けず。支那書には『山堂肆考』、『天中記』、『潜確居類書』、『三才図会』、『淵鑑類函』、『古今図書集成』等を一通り見たが、似たことも載せおらぬようだ。全体和漢で、胴上げがもっとも古く記されたはいつごろか。識者の教えをまつ。(昭和六年十二月二十五日夜)  (昭和七年二月『旅と伝説』五年二号)
 
     酢と酒と醤油が湧き出る三つの壺
 
 本誌五年一二号八四頁に、浅井君が出された三つの壺のことは、郡誌にも見えないそうだが、正徳四年吉田言倫が筆した『若狭郡県志』巻三に載せておる。いわく、「大飯郡音海村の山下に、三箇の岩穴あり。その窪中おのおの常に水あり、その一は醋味あり、その一は酒昧あり、その一は醤油味あり、野菜、海藻の類に和してこれを食らえば、すなわち造醸のものと異ならず。たまたま魚鳥を煮てこれを喫えは、すなわちその味必ず変ず。伝えいわく、弘法大師ここに来たり、修行の時これを造る、故に大師が洞と称う、と」と。説くところ、浅井君が聞いたのと、多少の出入はあれど、同処同件たるは疑いを容れず。(昭和七年十二月十九日夜九時)  (昭和八年二月『旅と伝説』六年二号)
 
(278)     シの字嫌い
 
 九月号六五頁に田村君が出されたこの話は、多少の差《ちが》いをもって、徳川時代の初めごろから、早く書き付けられおる。
 まず寛永五年に成った策伝の『醒睡笑』八に、秀吉公、聚楽第内で、焼く、死ぬという二語を禁制した。ある幸臣が一日、例により公の前へ出ずるに臨み、小姓衆が、汝の奇策で、公自身の口からこの二語を発せしめてみよと望むと、「心得たりとすなわち出ずる。案のごとく、何ごとやある、と御尋ねあり。その儀にて候三条の辻に面白き物を棚に出して置き参らせた。何ぞや。楠にて仕りたる風炉と釜とを見てござある、と。うつけをいう奴かな、木釜を焚かば、焼けて役に立つべきか。それはあ、御法度が破れた」とある。
 それより三十一年後れて万治二年の出板、『百物語』上には、大名碁を好んでうつに、出入の者常に来て打ち懸かると、やけるはやけるはと拍子にかかりていう口癖ありしに、かの大名も気に懸かりけれども、打ちしこりては、共に言われけるが、ある時かのおどけ者に判金一枚の過銭を出さすべしと極む。それより大概に言いやみしが、かのおどけ人ふと来て咄しける、都にはことのほかなる奢りをするという。大名いかようのことかと尋ぬると、茶の湯を仕るが、数寄屋の柱はみな唐木をもってし、罐子《かんす》などは伽羅《きやら》にて仕る由承り候と言えば、それは焼けてなるまいことと言われけるに、さてこそとて判金一枚取りけるとなり、とある。同じ万治二年に成った喜雲の『私可多咄』二に、「むかし公方の咄の者の物語に、木にてしたる釜にて湯を沸かせしということ、おかしく作りなして咄しける由。また、さる者物語りしけるに、予が父聞きて、戯《たわぶ》れに言うよう、古えより木の釜あればこそとて、古歌を綴り合わせし、『ゆきやらで山路暮らしつほととぎす、今一声のきかま〔三字傍点〕ほしさよ』」と出ず。ここに公方とあるは、秀吉公より古い足(279)利将軍を指したもので、以前足利某将軍について、木釜の話が行なわれたのが、策伝のころは秀吉公の逸話と移り変わりおったものか。(『義残後覚』巻五に、太閤、腰より下の咄を禁ぜしに、玄旨法印、清水寺へ昨日参詣の途上、祇園松原の茶屋で楠の木の釜を見し、という。太閤、それは尻が焦げて用に立つまじ、という。玄旨、それは尻より下なりとて、判金一枚を要求せし、と。)
 それからまた百八十二年たって、天保十二年に、為永春水が(死する一年前)撰んだ『閑窓瑣談』二には、いかにも史実らしく、この木釜の話を敷衍しある。いわく、「かの君(秀吉公)は和漢無類の豪傑なれば、大小のこと何によらず、滞りなき大将におわせしかど、立身雲上の節になりたまいては、相応に忌嫌いの上意もありしと覚ゆ。ある年、伏見に新殿を建てさせられて、他の御殿よりかの新御殿に引き移らるる前々に、かれこれと御下知ありけるが、引き移らせらるる当日には、何ごとを申すにも、火という言葉を慎み候ように佶《きつ》と相触れて、誤りにても火と言うことあらば、その罪もっとも重かるべし、と命《おお》せければ、老職の人々諫め申して言う、御触れの儀|御転移《おんわたまし》について、火災を除く忌詞、げにとは会得《えとく》仕り候えども、かかる御吉事について、火の字を申し誤り、厳しき微咎めを蒙らせなば、目出度からざるように沙汰する者も候わんか、同じ咎めの中にても、刑罰のことなく、ただ申し損じの者の迷惑仕り候ように申し付けたく候と言上ありければ、太閤はうち笑わせたまい、こはもっともの心付きなり、さらば火の字を申せし者には、百石について金三両の過料を申し付けよとおおせければ、おのおの畏りてこの由を大小名に触れ示され、佶《きつ》と慎み、申し損じなきように、とありけるにぞ、諸家一同に驚天し、こは慎むべき大事なり、百石について三両とあれば、千石賜わる人は三十両、一万石の人は三百両、十万石の家は三千両の過料金となれり、あなおびただしき高金なり、忘れても火の字を言うことあるべからずと、顔見合わせつつ笑うがあれば、実に慎み恐れては、気を悩ます者も多かりけり。さればその日に至りては、目付役の人々も用心し、今日は眼より耳をさとくすべき役なりと、十方に耳を配り、心耳を清《すま》して聴かれしが、さすがに三両を恐れてや、貴賤上下に至るまで、小声にも火の字をいう者な(280)かりしかば、君を始め、老職、諸奉行衆も、笑いを含みて慶賀あり。御内《みうち》、外様《とざま》の面々に酒肴を賜わり、夜に入りては太閤の御前に、御側御伽衆を召し集められ、御酒宴ありけるが、その席には別《わけ》て君の御心に叶いし御伽役、前羽半入、曽呂利新左衛門など種々の雑談を申し上げ、御機嫌ことにうるわしく在《おわ》しける時、例の曽呂利は太閤に申し上ぐるようは、このほど茶の湯席へ参りていと珍しき器を拝見致し候とあれば、太閤は這《これ》を聞こし召して、それは何所《いずく》の誰が家なりや、およそ天下の奇物、和漢の珍器、わが所蔵せざる物なく、たとえば他家の秘蔵する器にても、わが見聞せざる物はあらじと思うに、茶器はことさら多く所持、多く見聞して知らざる器はなしと思い居たるに、汝はいかなる茶器を見たりしぞ、と問わせたまえば、曽呂利は御前に近く進み、古渡か新渡か弁えなく候えども、ある家の茶席にて、木にて製《こしら》えたる釜を見受け候と申し上ぐれは、太閤もいぶかしき御顔色にて、何というぞ、木にて製えたる釜ならば、火には掛けられまじと、仰せの下に、曽呂利満面に笑いを含み、いざ御法度の過料金、百石三両の御定めなれば、伏見の御城付十万石三千両を下し賜わるべしと申し上ぐれは、太閤もびっくりしたまい、こは思いがけぬ謀言《はかりごと》に落とされたり、この法度は触れ直しにすべしと笑わせたまえば、曽呂利はなかなか得心せず、かれこれと太閤の命に無理あることを、おどけながら風諫あれば、折しも御前へ出でさせたまう細川幽斎の聞かせられて、うち笑いたまいつつ、恐れながら君より出でし御法度なれば、そのままになさせたまうことはなるまじ、しかしながら曽呂利も謀言を構えて、君の御言葉失をとること恐れ入るべきことぞ、ことにその方は無高《むたか》なれば過料の定めもなきゆえに、君の越度を狙うに等し、これによって君の御麁相の過料金は、御心任せなるべし、今幽斎が申す落首の下の句を付け候らえ、さあらば表向きならずして、過料の代りに、落首の下の句の出来に随いて、御賞金を下しおかれんと、仰せの上にて『君の非とけして他《ひと》にはいはれまじ』幽斎法印、曽呂利は少しも案じ煩うことなく、『お袂金を曽呂利頂戴』曽呂利、と付けしかば、御前にありつる人々一同に、思わず声を出して笑いける時、太閤も御機嫌斜めならず、御手元金を曽呂利に投げ与えたまいて、とうとう新左衛門めに出し抜かれたり、と笑いたまいける」と。
(281) シの字嫌いのこと、吾輩幼時より最も深く脳底にしみ込んだのは『彦山権現』の劇曲で、それに吉岡の長女お園が、その父暗殺されたと知って、節句の祝筵で、シの字入りの詞を無暗に連発して、一同を訝《いぶか》らしむる場がある。早く鎌倉時代にも、元日に念仏して罰せられた女童のことと、正月に四の数を忌み、酒をも三度、五度と飲めど、四度は飲まなんだ由の記文あり。もと支那語の四と死が同音なるより出たことゆえ、疑いもなくかの邦から移ったことかと惟う。ただし後漢の陳伯敬は一生忌諱を重んじ、終《つい》に死と言わなんだが、のち不慮の連坐で太守に殺されたから、時人多く談じて証となす、死の字を忌んだところで死を免れぬ証拠としたという。だからそのころずいぶん死の字を忌むのが多かったのだ。(謝肇?いわく、「?中の一先輩、もっともはなはだし。家人と言《ものい》うとき、無は必ず有といい、死は必ず生という。身死するの日、寸帛尺素といえどもみなあるところなく、ほとんど小白《しろはた》の《あざや》けきあるのみ。今に至るも、郷曲もって話柄となす。しかして転《しだい》に相|傚倣《なら》う者、その人なきにあらざるなり」(『五雑俎』七)。)彼方の陰陽家は毎月四日を不祥日の一とするは、死と同音なるによるかと思うが、歴朝元旦四方の神を拝する式あり。清末近く、両広総督が西太后に年末四袋の真珠を献上したなどを考うると、正月に四の字を嫌うこと全くないようだ。したがって本邦で、死と同音の廉《かど》で四というを忌むのは、古く支那の一地方また一宗派の俗信を伝播したのか、邦人特別の手製かと惟わる。(『沙石集』一下の三、九の七。『琅邪代酔編』一四。『月令広義』三。永尾竜造氏『支那民俗誌』一四三頁、六三頁)
 シの字、ヒの字を忌む人に、それとなく話を仕向けて、不図《ふと》シの字、ヒの字を言わしめた話も、支那にありそうだが、一向見当たらない。『世説』規箴篇に、王夷甫かつて銭の字を言わず、その妻これを試みんとて、婢をして銭をもって牀を繞らし、行くを得ざらしむ、夷甫|晨《あした》に起きてみると、銭が邪魔して行かれない、よって婢を呼んで、阿堵物《あとぶつ》を挙げ却《しりぞ》けよ、というたとある。銭を銭と言わずに、阿堵物、こんな物と言い、夫人の仕掛けにのらなんだのだ。
 吾輩若年のおり、東京の寄席で毎度聴いた笑話に、ツマラネーヤと口癖にいう男のかたわらで、それとなく、梅干(282)しを壺に並べ入れたり、果子《かし》を折箱に盛ったり、むつかしい将棋をさし試みたりして、とうとう詰まらねーやと発言せしむるのがあった。これは謀計してシの字、ヒの字を発言せしめた話から考えついたものだろう。  (昭和八年十一月『旅と伝説』六年一一号)
 
     一休和尚長い字を書いた話
 
 いつごろの作か知らぬが、止水という仁が編集した『一休諸国物語』巻二に、次の話がある。「一休和尚(中略)、叡山の堂社を拝み巡り給いしに、山法師どもこれを聞きて、一休は隠れなき能書なり、何にても書きてもらわんと、手に手に硯紙を持ち来たりて頼みしかば、一休|思《おぼ》しけるは、聖道のあて字とかや、定めて文盲なる法師どもならんと、何がな書きて取らせんと、いかにも読みがたき一句、さらさらと一筆に書き散らして遣わされければ、一山の僧寄り集まり、かかる能書の名僧この山へ来ることは、後の世までも宝物となるべき語を書かせ置くべしとて、その中の老僧の言えるは、先よりおのおの書きてもらいけるは一字もよめず、また語もあまりに短くて、この山の宝ともなりがたし、いかにも大文字にて、長く書きてたべ、読みがたきはありても詮なし、いかにも読みやすきことを頼み奉ると、一山ともに望みければ、一休のたまいけるは、紙筆は候うか、なかなか古え大師の遊ばしける七、八尺の大筆あり、紙はいかほどなりとも、つぎ申すべしと申されければ、さらば紙継がせ給え、御望みの通り、長々と大文字を書き、よくよめるを仕《つかまつ》るべし、急ぎ紙を継がせ給えとありしかば、何はどなりとも、紙は御望み次第とて、ひた物長くつぐほどに、叡山の金堂の前より、坂本の人家まで、長々しくも紙をつぎければ、さらば筆を染めんとて、墨たっぷりと含ませ、べたと紙へ書きつけて、一山かけて、不動坂まで一筋に引かれて、よめるか法師たちとのたまえば、いや何ともよめずという。また墨つぎて、不動坂より坂本まで、一筋に走り引きにひきひき、よめ(283)るかよめるかと喚き給えば、一山の法師たち胆を潰しいや何ともよめずと言えば、これはいろはの、あさきのくだりにあるしの字なり、長々と書きて読めやすきはこれなり、とのたまえば、皆人興を醒まし、さても聞き及びしよりおどけ人かなと、一度にどっと笑いて興じけるとなり。今の世までも、そのしの字、比叡山の宝物となりてありけるとなり。山法師たちも望みしことなれば、いやとも言われぬ御作意とみな感じけるとなり。」
 『一休諸国物語』は、万治末年か寛文初年の刊行に、作者不明で『一休咄』という物三巻ある、それより種々の珍談を取り、『今昔物語』、『沙石集』、『甲陽軍鑑』、『百物語』、『醒睡笑』、『曽呂利物語』等よりも若干書き入れ、いずれも一休のことと作ったものだ。件《くだん》の叡山で長い字を書いた話は、もと『一休咄』中の三に出たのを、『諸国物語』へ採り入れたのだ。『一休咄』が只今座右にないから、『諸国物語』より写し出した。
 これに似た話が、大分古く平安朝時代に書かれある。『一休咄』より約六百年前成った『今昔物語』二八巻三六語にいわく、
 「今は昔、比叡の山の無動寺に、義清阿闍梨といいし僧ありき。若かりける時より、無動寺にこもり居て、真言など深く習いて、京に出ずることもなくて、年経るままには、房の外にだに出でずして、有様いみじく貴かりければ、山の上の貴き人四、五人が内にも入りぬべし。然《しか》れば万《よろず》の人、ただこれに祈りを付けてせさすべきなりけり、となん言いける。それにこの阿闍梨は、嗚呼絵《おこえ》は、筆つきは□にかけども、それはみな嗚呼絵の気色なし、この阿闍梨の書きたるは、筆はかなく立てたるようなれども、ただ一筆に書きたるに、心地のえもいわず見ゆるは、おかしきこと限りなし。然れども、さらに□にては書かず、わざと紙継ぎて書かする人あれば、ただ物一つばかりをぞ書きける。また人書かせければ、端に弓射たる人の形を書きて、奥のはてに的をなん書きたりける。中には矢の行く形とおぼしくて、墨をなん細く引き渡したりける。然れば書かする人は、書かじとは言わずして、紙に墨を引き渡したれば、異物《こともの》もえ書くまじとてぞ、いみじく腹立ちける。然れども、事にもせずてぞありける。少し僻者《ひがもの》にてありしかば、世の(284)人にも受けられでなんありし。ただ世に並びなき嗚呼絵の上手という名を立ちて、真言よく習いて貴き人とは、人に知られでなんありし。彼が有様よく知りたる人こそ、やんごとなき者とは知りたれ。さらぬ人は、ただ嗚呼絵書きとのみなん知りたりし」と。
 故芳賀博士の『攷証今昔物語集』には、この義清阿闍梨の一条に、出所も類語も、何一つ註し添えていない。予はこの話によく似た支那譚をただ一つ知る。『淵鑑類函』三二七に、北宋の郭若虚の『図画見聞志』から次のごとく引きある。
 「郭忠恕、画を善くす。屋木林石格、師授にあらず。?素を設け図画を求むる者あれば、必ず怒って去る。富人の子あり、画を喜び、日に醇酎を給し、しばしば情をもって言う。忠恕、紙一軸を取り、首《はじめ》に一|丱角《かんかく》の小童、線車を持つを画き、紙窮まるところに風鳶を作《な》し、中に一線、長さ数丈なるを引く。富家の子、もって寄とせず、ついに謝絶す」と。
 唐子髷の小童が、紙鳶《たこ》の糸をワクから繰り出す体を、紙の首《はじめ》に画き、紙の最尾に紙鳶を図し、さてそのあいだ数丈の紙面に線一つ引いて、紙鳶がはるかに飛ぶ様子を表わしたというのだ。件《くだん》の郭忠恕は、義清阿闍梨以上の奇物で、神仙視された人だった仔細を、『古今図書集成』芸術典七七二にほぼ記しある。
 画に関せぬことながら、予当身にあったやや類似した一条を述べよう。四十四年前、予フロリダのジャクソンヴィル市の北郊、広東人江聖聡の牛肉兼雑貨店に寄食し、昼間もっぱら小売りを手伝い、夕から夜へかけて生物を鏡検図録した。困ったことには、店前の空地へ、夕刻から黒人の若者が集まって、音楽の稽古耳を聾するばかり、夜に入れば、歌舞吹弾して、諸方の年ごろの娘や若後家の宅の門辺を繰り返し徘徊する。夏分になると、北部諸州よりの来客はみな引き上げてしまい、商売はひまなり、仕事はなし。主人は昼も賭場へ入れびたり、奉公人も出勤せず。予一人で留守居して検鏡すると、黒人どもが日中から稽古を始め、かたわら店に入り来たって、種々の品を盗み食らう。そ(285)れを咎むると、さまざまと鏡検を妨害する。そこでふと妙策が思い浮かんだ。それより七年前、東京共立学校に寄宿した時、会津人橋爪捨三郎氏(鐘紡副社長在職中、昭和五年九月死亡)と同室におった。ある日、氏が失題の小冊を笑読するを洩れ聞くと、奇契紙という品の製法だった。たちまちそれを想起して黒い若者どもに向かい、日本の諺に佳人を富嶽に比し、「甲斐でみるより駿河一番」という、汝ら遠廻しなセレナードなどよりは、佳人に遇わばただ勇往直抵を要す、幸い一度終身想という秘法を知っておるから、惜しい物ながら授けてやろうとて、店に有り合わせた蛤の生きたのを淡水に浸すと、口を開いて塩水を吐く。それに白菊花の汁を合わすのだが、その辺にはない物ゆえ、庭に咲きあった除虫菊の花汁を合わせ、薄紙を沾《ぬ》らし乾かして与えた。「仏法の大海、信を能入となす」ときくが、黒人はすこぶる方術を信ずるから、誰彼が早速用いて神験あったと言い出し、甲唱え乙和して、毎日セント・ジョンス川へ蛤をにじりに往く者多く、その方にくたびれて、妻恋いの演奏は消えてしまった。
 されば世に全く無用の物なく、奇契紙さえ一笑に付すべきにあらずと感心しおると、また一条の難件が起こった。というは、夏の日長きに、黒人の小児が多少|件《くだん》の空地に来集して、朝夕幾度も戦争のまねをし、砂を投げ石を飛ばすから、噪《さわ》がしくあぶなくて何ともならぬ。よってまた一計を案出し、汝らそんな下らぬ遊びをして負傷などして親に叱らるるよりは、ここから四町走って突き当たりの、あの寺の趾の石に腰掛けおれ、さて予が来たれ(カム)と呼んだら、一同此方に向かって用意を調え、戻れ(バック)と呼んだら、やにわに走り帰れ、一番二番三番にこの店に著いた者に大中小の果子《かし》を賞与しよう、と言った。何がさて乞食同然の餓鬼めら、この言を聞いて何条ためらうべき、競い走って寺の趾に到り、石に腰掛け号令をまつ。そのあいだに予は差し迫った書信など書き、十分ほどへてカムと呼ばわり、急いで生物を図記し、三十分ほどしてバックと呼ぶと、われ一走り還る。約束通り、勝れてよく走った三名に果子を与えると、暫時は静かだが、やがてまた騒ぎ出す。よってまた懸賞して走り去り、走り帰らしめ、そのあいだに少康を得て解剖や写生を行なうたが、そう一日に幾度も幾度も走らせては、店の果子が多く減りゆく、と主公支那(286)人より小言、よって新機軸を出して、カムと言ってから三時間も打ちやりおき、その間に十分事を済ませて、さてバックと呼ぶことにした。するとやや長じた二、三輩は、必ず果子を得る見込みで、寺の趾で種々と遊んで、気長く俟ちおったが、幼い者どもは何の面白くもなくなり、腹はへってくる、一人二人と引き去って、ついにはこれを賞すといえども、一同店先の空地へ来たり噪がなんだ。  (昭和九年六月『旅と伝説』七年六号)
 
(287)     旗振通信の初まり
 
 『民族』二巻二号三〇頁に、樋畑君は、本邦旗振通信の初まったは正徳以前だろうと言われ、そして大阪を中心とした米相場の旗振飛報が安永中すでに十分実行されおった確証を挙げられた。
 この大阪米相場の始まりについては、『浪花百事談』三に、「昔時、土佐堀の南畔に卜居せし淀屋巨庵といえる豪商あり。こは天正年間豊臣氏繁昌の時、その旗下へ兵浪米を運漕なすの役を勤め、代々相続せり。元和元年豊臣氏|滅亡《ほろ》びて後、尋《つ》いで徳川氏に勤め、諸侯廻米を引き受け、売買なすこと旧のごとく、年をふるに随い殿富せり。その後、明暦のころ与左衝門の代に至り、自宅の浜さきにおいて諸国廻米を日々衆人に売り与えんことを企望し、その由を請願せしかば、徳川幕府これを許して、朱印の捺したる免許状を淀屋与左衛門に賜う。(これは徳川三代家光治世の時にて、大阪米相場の根元なり。)これより年々米商い盛んになり、家もますます富貴せり」とあって、与左衝門より三代後辰五郎に至り、改易の際、米商いの免状も没収された由を記しある。徳富氏の「元禄時代」下巻にも、『堂島旧記』から、「そのころ淀屋与右衛門という有福の者ありて、寛永・正保のころより、西国諸侯方積登せし米穀を引き請け、売り捌き代銀を取り立て、国へ送り、江戸屋敷への仕向け等の世話をもって業とす。すなわち町人の蔵元なり。寛文年に至りては、この蔵元を勤むる者数軒に及ぶ。もっとも淀屋を第一とす。ここにおいて市中米商いする者、多分淀屋に集まり買得せしより、自然と米価高下を争い、これより相場のこと起これり」と引かれた。(288)『摂陽落穂集』一には、「辰五郎先々代三右衛門、御公儀様御取り立て遊ばされ、諸家大名方御廻米引き受け候商売を始めければ、諸方より数多の人数集まりて、北浜淀屋橋の浜先にて売買を致しけり。これ正米相場の始めなり」と出ず。与左衛門、与右衛門、三右衛門、どれが正しい名か知らねど、けだし同人たること疑いを容れず。
 団水の『日本新永代蔵』三に、「むかしは八幡の人にて、伏見繁昌の御時代、淀堤を御普請を受け負い、その身の才覚万人に勝れて、大分の金銀を儲けぬ。さても一代に立身して、子孫に分限の名を残す人は格別なるものかな。四十八町の長土手を築《つ》く。これを奉行するにいかほど駆け歩きても隅々隈々に目の届くものにあらず。しかるに、この男切り残したる並木の松の枝を打たせ、登りて腰掛けらるるように拵え、これに揚がりて一目に東西を見渡すに、幾帳場も手にとるようにて、下知をなしぬ。さるによって、六千五百人の日雇一人も油断なく働きければ、世間より損金あるべしと推量せし受取り普請にお蔭を蒙《こうぶ》り、大阪に出でて、北浜大川町にて屋敷を求め、淀屋三郎右衛門とて隠れなし」と述べ、辰五郎をこの人より六代目としある。開祖三郎右衛門は秀吉全盛の時大阪に出たので、それより四代目の与左衛門(また与右衛門、また三右衛門に作る)が米相場を創め、与左衛門の孫辰五郎に至り滅びたのだ。そは宝永二年のことで、その三年前(元禄十五年)出た『五箇の澤余情男』三に、新吉原通いの「早舟に心玉を飛ばして、恋からの無分別、かの長崎の六月の末に阿蘭陀《おらんだ》船の入津の節の遠目見、二十里沖より帆影がみゆれば注進船もかほどには、と思ううちに、日本橋は跡にして、云々」といい、九年前(元禄九年)出た『小柴垣』三の二に、京の霊山の参詣人が懐中より遠眼鏡を出して種々の世相を観る話(十四年前(元禄四年)刊行、琴風の『俳諧瓜作』に、「遠眼鏡荘子が秋を見さがさん、琴風」)、二十三年前(天和二年)板『好色一代男』一の三に、世之介九歳で屋上より遠眼鏡もて浴中の女を覗う条あり。いずれも五代将軍の時の著作だが、『道斎記』には、四代将車が城楼に登ったおり、左右が遠眼鏡を進めたれど用いず、われそんな物を使うと聞かば、民衆が出歩きを慎むあまり迷惑すべしと言った、と見ゆ。されば以前は知らず、この二将軍の代には、遠眼鏡は本邦できわめて希珍な品でなかった。しかして、淀屋の開(289)祖みずから樹の上より遠望して、工夫の勤惰を察し、幾帳場も手にとるように下知をしたといわば、その故智に倣《なら》い遠眼鏡を使うたなら、早くすでに五代将軍の初年に、遠眼鏡入りの旗振飛報で、淀屋お手の物の米相場を知らすことが成ったはずだ。(ただし、高い樹の上より観望して「幾帳場も手にとるように下知」したというから、旗をふつて相図ぐらいはしたことと想わるるが、その明らかな記述がないから何ともいえぬ。)
 しかるに、元禄十六年刊、唯楽軒の『立身大福帳』五に、越後浪人只右衛門、伏見に住んで正直に酒を売って繁昌するうち、一朝門を掃くとて一通の封状を拾い、みれば大阪の商人より京の商人へ宛てた急用の物で、表に五大力と書して時刻を記しつけあり。人を傭うて送付することも成らねば披きみると、「明日は役人衆御出でなされ候はずにて、ここもと浜の相場立ち申さず候間、上風体の物は御うり、中風体の物は御買いなさるべく候。只今さる方より告げ来たり、取り敢えず飛脚を仕立てて申し進じ候。この書状辰の剋《こく》までに上著致し候わば、そこもとにて駄賃銀一枚御渡しくださるべく候。大阪出し、子の下剋、と書きける。これはそのころ京大宮穀物問屋に、爪返しという商いあって、昨日の大阪の浜の相場をきょうの商いに結び、きょうの大阪の相場をもって明日売買の勝負を付くる。上がれば買手へ相銀をとり、下がれば売手へ相銀をとる。売買共に一つというは、金子一歩あるいは五百あるいは千、二千してとるもあり、取らるるもあり。宿への口銭は、一つについて七分五厘ずつ、初寄り付きには宿より算盤をして、昨日の大阪の相場、肥後が六十三匁五分なれば、四分五厘、五分五厘と算盤をたて、売る人は四分五厘にうり、買う人は五分五厘に買い、十には金二両二分、百には二十五両の相金を、その場にて宿へ受け取り置き、翌日また大阪の相場、肥後が三匁六分になれば、その相銀を買手へ渡し、下がれば売手へ渡して、宿へはきまりの口銭をとる。しかれども景気悪しき時は、あすの下がりを考えて、昨日の大阪の相場は、三匁五分の肥後を二匁七、八分の売買することもあり、または上がりを考えて、四匁二、三分にすることもあり。これを売買する人は大坂問屋と言い合わせ、ぬけ状を取り景気をきき、安けれどもうり高けれどもかう。売手が多ければうるうちに下がり、買手が多ければ買ううちから(290)上がり、初寄り付きに三匁五分の相場が、売手がちなれば三匁にもなり、買手がちなれば四匁にもなる。もし今日より明日の相場をしる時は、金銀を  掴み取りにすることなれども、神ならざれば、あるいは取られ、またはまんようとることもあり。儲けも損も一定しがたし。この思い入れを書きたるようなり」。天の与えと悦んで京の問屋へ三百両持ってゆき、米相場に掛かって大儲けしたそうだ。これを読むと、元禄十四、五年までは、京阪間にまだ相場の旗振飛報は知れ渡りおらなんだと判る。
 ところが、この『立身大福帳』より三年後れ、宝永三年六月七日、京都で二人の同胞女がその姉の讐を討った新聞を、錦文流が書き綴ってその七月二十五日に出した『熊谷女編笠』一の二、「商いは千里を一目に見|透《す》かした遠目鏡」に、その時討たれた仇持ち宮城伝右衛門を、もと奈良の町人角屋与三次と称す。二十三歳の時、父与三左衛門より六百両の金を得て、千里一|跳《はね》の儲けを志し、「郡山の問屋へつくや否、大阪のやりくり問屋を一人語らい、毎日の相場飛脚の外に一人の早使いを拵え、大阪の相場立つと等しく、角《すみ》おらぬ赤頭巾に同じく赤布の小手《こて》を差したる男、飛鳥のごとく闇がり峠まで走りつき、目標《めじるし》の松に立ちそいしばらくの息をつぎ、左の手を一度上げるを一分ずつの上がりと定め、右の手を一度上ぐるを一分の下がりと定め、一分二分の上がり下がりを知らすことなり。与三次は問屋の二階より、方十里目の下に見る遠眼鏡をもってこれを見、上がり下がり考え売買をす。その跡へ大阪の通り飛脚相場を知らす。与三次は峠までのうちに先達《さきだ》って相場を知れば、郡山での商いは目ざすがごとくこれを知る。故をもって毎日の相場商いに利をえぬということ一日もなかりき。諸商人遠眼鏡のことを夢にも知らず、見通し与三次と異名《あだな》を呼びて、与三次が売買の景気をみて、郡山の相場を立つるようになれり」。ところが、この妙計も永くは続かず、一日かの信号手が例のごとく走りくる途上、知人に逢って酒を馳走され、いつもより二剋ばかり後れて件《くだん》の松に寄り添った時、精神乱れて無茶苦茶に手を揚げたので、与三次取り返しの付かぬ大損を招き、焼糞になって遊里に入れ浸った、とある。実際、与三次が遠眼鏡と挙手信号を用いて相場を飛報した最初の日本人だったか否は分からねど、宝永の前(291)および初めごろ、すでにその考えもあり、実行した者も多少あった証拠に、十分この話が用立つと惟う。(昭和二年九月二十九日午後三時稿成る)
(貞享三年板『好色一代女』三の三、「調謔《たわぶれの》歌船」に、今一人は北浜のはた商いする人、年中|偽《うそ》と横と欲とを元手にして世を渡り、云々、とあれば、貞享のころ旗振相場はありしにや。また、『日本戯曲全集』四九冊、『大門口鎧襲』序幕に、遠眼鏡と旗振で相場を知らすことあり。この戯曲は、解題に寛保三年板とその名題見えおり、明和、安永、文化、文政間に行なわれたものらしく見ゆ。)  (昭和四年七月『民俗学』一巻一号)
 
(292)     ゴッサン
 
 予の知るところ、五、六十年前も今日も、和歌山市や田辺町その他紀州諸処で、人の妻をゴッサンと敬称する。ただし、この外にも種々と妻の敬称あれば、毎人毎度この語を使うと限らぬ。
 享和二年滝沢解筆『羇旅漫録』上、名古屋訛りの条に、ヒナタ(汝)はどこのゴッサマと、云々、注に人の家婦をいう、とあり。中巻の祇園方言の条には、「茶屋の嬶《カカ》をゴッサンという。江戸吉原にては、茶屋の亭主をゴッサンといえば、男女の違《たが》いあり」。嘉永六年成った『守貞漫稿』三に、著者、当時人妻の称呼を説き、東国はオカミサマ、京師はオクサマ、オイエサマ、尾州はゴッサマ、御新造の略なり、と述べた。やや後れて安政中大坂町奉行在職中の見聞録、久須見祐雋の『浪花の風』また大坂の人妻の称呼を挙げたが、ゴッサマの語を出しおらぬ。
 只今多忙で右以上取り調べ得ないが、これだけで考えると、ゴッサンは以前尾州辺の語で、安政以後諸方へ蔓衍《まんえん》したものだ。さて、足利氏の世に成ったらしい『狂言記拾遺』五の「米市《よねいち》」。大晦日に合力を望んで富人へ伺候する貧者が、まず合力米は貰うたが、「いつもおごう様から女ども方へ古著《ふるぎ》の御小袖を下さるる」に、今度は忘れたようだから暗示して貰うて参ろうとて立ち帰ると、主人も気がつき、「いつもおごうが方から、其方《そなた》の女房へ古著を遣わすが、それは行ったか」という。足利氏の世、身代持ちが自分の妻をオゴウ、他人はオゴウサマと敬称したこと、ちょうど英仏でマダムと呼ぶごとくだったのだ。ゴッサマを御新造様の略とみるよりは、むかし行なわれたオゴウサマの約とみる方が正しく、また手近い。
(293) 『瓦礫雑考』上にいわく、今俗に母御、よめ御といい、また少女《むすめ》をゴモジなどいうは、古え閑院の御、伊勢の御などの名残なり。「本朝文枠』菅家の詩の註に、「俗に貴女を謂《い》いて御《ご》となすは、けだし夫人、女御の義を取るなり」といい、云々、などいえり。さるを『后宮名目抄』に、少納言入道信西が女《むすめ》、弁《べん》の局、上西門院の命婦《みようぶ》の方におくりける、「人にいつ五つのもじの跡消えて面影さへもかきくもりぬる」という歌を引きて、女子を五文字《ごもじ》というはこれそれの証なりとて、貞清美等の五文字を註したるはうけがたし、云々、と。
 熊楠いわく、明和元年筆、林良通の『仙台閑語』三に、『南流別志』に、田舎に古言の遺りしことを記して、奥州には娘子をオゴラというと書けり、仙台に来たりてきくに、今もオゴタチ、オゴラというなり、と記す。この林氏は、「『源氏物語』などゴタチというにて、御の字なるを、音を借りて五もじと書くことと思えば、『后宮名目抄』に、五もじの別ちのこと、深窓に養わるる娘たつをなん、五もじと使い来たること、左のみ久しくは申し侍らず、保元、平治のころより大方は申し侍るか、信西法師の女、弁の局の、云々、とよみ侍る歌、信西の日記にあり、云々」と述べて、娘を五もじと言うに限って、その五徳を備えたるを賀しての称と信じたらしい。これはどうか知れねど、たぷんは『瓦礫雑考』のごとく、初め婦女の称呼に御の字を添えたに随って、五徳説も起こったでなかろうか。もと婦女の称呼に御の字を添えたのが奥州に流れて、娘子をオゴタチ、オゴラといい、尾州に残って人妻をゴッサマというに及んだと想わる。(八月十四日)
(『年々随筆』六、尾張にてゴッサマというは、御室様といえるにや。『昨日は今日の物語』下に、オゴウサマ、お乳《ち》の人を召して、のう乳母《うば》聞かしめ、云々、母様《かかさま》に言うて恩を控えようぞ、と言われた。これは娘子のことと見ゆ。『醍睡笑』四、母の娘に向かい、そちは早《はや》年二十になれど、ついに苧《お》をうむすべさえ知らいでと叱りけるを、隣なる家主の女房居合わせて、云々、これのお五(娘なり)はことし二十にこそならるれ、智慧もつく時分があるものぞと言いなだめければ、云々。『日本随筆大成』二期巻一『一時随筆』七四二頁、むすめ子といい、母こという御《ご》の字なり、(294)その人をかしずきていう時の詞《ことば》なり、伊勢の御、あるいは出羽の御などというなり、子という字書くはあて字なり。)  (昭和四年九月『民俗学』一巻三号)
 
(295)     邪視について
 
 本誌一巻二号九二頁に石田君がセーリグマン氏の書いた物より引かれた一条を読んで、近時の南支那にも、むかしの東晋時代と同じく邪視を悪眼と呼ぶことを知り得た。過ぐる大正六年二月の『太陽』二三巻二号一五四−一五五頁に、予は左のごとく書きおいた。
  邪視、英語でイヴル・アイ、イタリア語でマロキオ、梵語でクドルシュチス。明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』へ、予そのことを長く書き、邪視と訳した。その後一切経を調べると、『四分律蔵』に邪眼、『玉耶経』に邪盻『増一阿含』(および『法華経』普門品、また『大宝積経』、また『大乗宝要議論』)に惡眼、(『雑宝蔵経』と)『僧護経』『菩薩処胎経』に見毒、『蘇婆呼童子経』に眼毒とあるが、邪視という字も『普賢行願品』二八に出でおり、また一番よいようでもあり、柳田氏その他も用いられおるから、手前味噌ながら邪視と定めおく。もっとも本統の邪視の外に、インドでナザールというのがあって、悪念をもってせず、何の気もなく、もしくは賞讃して人や物を眺めても、眺められた者が害を受けるので、予これを視害と訳しおいたが、これは経文によって見毒ときめるがよかろう。
 ここに謂える、邪視の字が出でおる『普賢行願品』は、唐の徳宗の貞元中、醴泉寺の僧般若が訳し、悪眼の字が出でおる『増一阿含』は、東晋時代に苻堅に礼接された曇摩難提が訳した。故に、ふたつながら昨今始まった語でなく、悪眼は今よりおよそ千五百四十年前、邪視は今よりおよそ千百三十年前すでに支那にあったと知らる(『高僧伝』巻一。(296)『宋高僧伝』巻三)。しかして、石田君が『晋書』から引かれた衛?の死に様は、『南方随筆』に載せた裏辻公風と同じく、いわゆる見毒(ナザール)に中《あた》ったらしい。小児を打ち続けて発病せしむると、撫で過ぎて疳を起こさせると差《ちが》うほど、邪視と差う。(宋の邵博の『聞見後録』二〇に、「東坡、海外より?陵《びりよう》に帰る。暑を病み、小冠を着け、半臂を披《はお》って、船中に坐す。運河の岸を夾《さしはさ》んで、千万人、随ってこれを観る。東坡、坐客を顧みていわく、軾を看殺するなからんや、と。その人に愛慕せらるることかくのごとし」。)
 また石田君はデンニス氏の書から、支那で妊婦やその夫は、胎児と共に、四眼をもつ者として、邪視の能力者として、一般から嫌忌さるる由を引かれた。『琅邪代酔編』巻二に、後漢の時、季冬に臘に先だつ一日大いに儺《おにやらい》す、これを逐疫という、云々。方相氏は黄金の四目あり、熊皮を蒙り、玄衣朱裳して戈を執り盾を揚ぐ。十二獣は、毛角を衣《き》るあり、中黄門これを行なう、冗従僕射これを将《ひ》いて、もって悪鬼を禁中に逐う、云々。その時、中黄門が、悪鬼輩速やかに逃げ去らずば、甲作より騰根に至る十二神が食ってしまうぞと唱え、方相と十二獣との舞をなして、三度呼ばわり廻り、炬火を持って疫を逐い端門より出だす、云々、とある。『日本百科大辞典』巻七、追儺の条にも明示された通り、当夜、方相は戈で盾をたたき、隅々より疫鬼を駆り出し、さて十二獣を従えて鬼輩を逐い出すのだ。一九〇二年ごろの『ネーチュル』に、インドにある英人ジー・イー・ピール氏が寄書して、犬の両眼の上に黄赤い眼のような両点あるものは、眠っておっても眼を?《みは》りおるよう見えるから、野獣はなはだこれを恐れて近づかぬ、と述べた。そんなことよりでもあろうか、パーシー人は、人死すれば右様の犬(本邦の俗、四つ眼と呼ぶ)を延《ひ》いて、その屍を視せ、もはや悪鬼が近づかずとて安心すという。米国で出たハムボルト文庫所収の何かの書に出であったが、今この宅にないから書名を挙げ得ぬ。しかし、パーシー人からも親しく聴いたことだ。(『夷堅丁志』五の二裏に、建陽の黄徳  魂の四眼の犬が、他の五犬が羊を盗み食らうに与《くみ》せず。このこと露われて、まさに殺されんとしたとき、黄の妻の夢に見えて寃を訴え、殺さるるを免れた記事あり。)
(297) 方相の四目もそんな理由で、いわば二つでさえ怖ろしい金の眼を二倍持つから、鬼がきわめて方相におちるのだ。方相が十二神を随えて疫を逐う状は、『日本百科大辞典』の挿画で見るぺし。しかるに、後世方相の形が至ってにくさげなるより、方相を疫鬼と間違えたとみえ、安政またはその前に出た『三世相大雑書』などに、官人が弓矢もて方相を逐う体を図したのをしばしばみた。只今拙宅の長屋にすむ人も、そんな本を一部もちおるが、題号失せたれば書名を知りがたい。惟うに、デンニス氏が記せるところも、最初方相四眼もて悪鬼を睨みおどしたことが、件の『大雑書』の誤図と等しく、いつのまにか謬伝されて、方相四眼もて人に邪視を加うると信ぜられ、妊婦やその夫や胎児も、他の理由から人に忌まるるに乗じて、かようの夫婦や胎児までも四眼あって、邪視を人に及ぼすと言わるるに及んだものか。(八月二十五日早朝)  (昭和四年一〇月『民俗学』一巻四号)
 
(298)     狐と雨
 
 四十年ほど前、東京の芸妓が「雨のふる夜に狐が三疋通った。あれが本当の雨こんこんこんかいな」と唄った。と往事を追懐最中に十一月号が届いた。ちょっとあけてみると、三四八頁、竹本氏の「石見通信」に、日当り雨の節、指を組んでその隙から遠く山際を覗けば、狐の嫁入がみえるという、と記されある。紀州田辺でも、日当り雨の際、指を組んでその前で、口を尖らし犬の字を三度かくまねして、三度息を吹き、組んだ指の間より雨を覗けば、狐の嫁入行列がみえるという。ただし、指を無法に組んではみえず。定まった組み方がある。かつて荊妻から伝授したが、ロハでは教えられぬ。また日当り雨の最中に、拙宅より遠からぬ法輪寺という禅刹の椽下を、吹火筒で覗いてもみえるという。明治年間この寺へ豊川稲荷を勧請したに伴って起こった俗信だろうから、もと豊川本祠辺で行なわれた伝説が移ったのかと想う。参遠地方にそんな伝説ありや、教示を乞う。和歌山市では、予が若かった時までもっぱら、日当り雨の節、半ば地に埋まった瓦石を起こし、その裏に唾を吐きかけ凝視すれば、唾に狐婚の行列が映る、と言った。今年八月の『土のいろ』二頁には、「日が照っていて、ショボショボと雨がふり出した時に狐の嫁入があるという。婦人の毛髪を抜いて覗くようにすると、その嫁入の行列がみえるという」と、遠州浜名郡和田村の俚伝を載せある。維新前の文献としては、差し当たり、享保十七年長谷川千四作戯曲『壇浦兜軍記』四に、悪七兵衛が「ヤアたった今までかんかんした空であったが、エエ聞こえた狐の嫁入のそばえ雨、晴らして行こうと辻堂に」とあるほか知らぬ。
(299) 『太平広記』四四七に、唐初|已来《いらい》、百姓多く狐神に事《つか》、房中祭祀して、もって恩を乞う、食飲、人とこれを同じうす、事うるもの一主にあらず、当時諺あり、いわく、狐魅なくんば村を成さずと、とあり。四五四には、狐が女に化け、髑髏を盃、牛溺《ぎうによう》を酒とみせて、若い男を誑らかした記事あり。(後世の物ながら、『夜譚随録』上、阿鳳の条にも、馬溺を酒、癩蛙を点心と見せたことあり。)これを匡房卿の『狐媚記』などと合稽するに、本邦の狐譚の多くは支那より移ったらしいが、日当り雨に狐が嫁入するという俗信も、支那から来たのであるまいか。誰かの証明を竢つ。欧州では、ノルマソ人いわく、日が照りながら雨ふる時、悪魔その妻を打つ、と。東北スコットランドでは、驟雨中、日が当たれば精魅《フエヤリース》がパンをやく、また人がパン果子《かし》をやくに決して算《かぞ》うべからず、算えたパン果子はいつも精魅に食われ、その果子永く保たずと信じた由。日当り雨なき時は自分で焼かず、人の物ばかり覘うというわけであろう。米国の黒人間には、日当り雨ふる時、悪魔その老嫗を舐《ねぶ》る、よって方術もて魔の老嫗を招くも効なしと信ずる者あるらしい。(Thomas Wright,Essays on Literature,Popular Superstitions,and Histori of England in the Middle Ages,’1846,vol.i,p.130;W.Gregor,‘Folk-lore of North-East of Scotland,’1881,p.65;M.A.Owen,‘Old Rabbit,the Voodoo,and Other Sorcerers,’1893,p.180)(『焦氏易林』三、萃の第四五、「即済《きさい》。老狐は態多く、行きて蠱怪《こかい》をなし、魅をなし妖をなし、わが王母を驚かすも、終《つい》に咎悔《きゆうかい》なし」とあれば、漢時すでに狐魅の説行なわれたるなり。『随園随筆』一二、「今人、狐仙を祀《まつ》るを、もって至って妄《もう》なりとなす。然れどもその来たれるや久し。『戦国策』に、黄歇《こうあつ》、秦の頃襄王に説いていわく、鬼神|狐祥《こしよよう》して食を得るところなし、云々、と。これ狐仙を祀るの先声となす」。)
 次に日当り雨でないが、時雨に逢った狐の話を一つ述べる。貞享元年板、西鶴の『二代男』三の一、「朱雀《しゆじやく》の狐福《きつねふく》」の条に、秋末に文使いに走る九兵衛という男、「知恩院の門前より時雨《しぐ》れて、ようよう大和橋に渡りつき、人置きの五郎四郎が許《もと》にて、差替《さしがえ》もなき一本(傘)借りて、急ぐついでながら壬生《みぶ》によることありて、野道をゆくに、七十ばかりなる婆《ばば》の雨に濡れて、物悲しき皃《かお》つきして、わが先に立ちて行かるるを、母のこと思い出だして、傘を貸して送れば、(300)この老女嬉しさのあまりに、問わず語りもきくほど耳よりなり」。遊廓のことや女郎の身の上を語るに、神に通じ玄を鉤す。「一人一人産んだようにいうこと、物ごと恐ろしくなってゆきけるに、朱雀の寺近くなりて、わがすむ里もみえければ、語るに暇なしと懐より一つの書を取り出だす。上書《うわがき》は噂《うわさ》町の日記なり。この二十年|以来《このかた》の諸分《しよわけ》、これに洩るることなし。構えて疑いたまうな、わがいうこと偽りなき証《しるし》には、今行きたまう先の揚屋に女郎集まりて、今日の雨中に、よもや男はわせまじ、いざ寄合い出しの振舞いとて、鯛は杉焼《すぎやき》、葱も食うて、匂いは後で、壁土をなめてやめよと、物に馴れたる女の知らせて、箱に箸も乱れて、目の所の穿鑿、おかしさも只今なり(鯛の目の廻りの肉を最美味として食わんと争うなり)。その中に物をも食わず、さゆに粉薬を好み、乱れ髪なる太夫は、誰が子とも知れず、止まってお腹を悩みという時、はるかなる草叢より、斑なる小狐の、かの人をみて逃げ去らず、悦びなす。姥《うば》目の色変わり、それと伴《つ》れて、向うの穴に入りて跡なし。さては、かねて聞きつる島原狐なるべし、よきこと聞き過ぎて、宿屋の入口より、集銭《しゆせん》出しのひともじの残りはないか、ててなし子のお腹《なか》が痛みますかと、大声揚げて申せば、いずれも胆潰して、誰が伝えたぞと、吟味すれども知れず、太夫たち沙汰なしの佗言《わびごと》、何しょうともままなり、とかくは寒空にもなれば、手前拵えの夜着蒲団申し受けて、その後もかの手帳に合わせ、人の噂を見透しに申して、欲しき物を取って、この所のお髭の塵をとりやめて、白川の流れの末に、万代《よろずよ》を祝いの水、お亀酒屋となること、日ごろ上戸の楽しみ」と結びおる。狐が老女と現じ、時雨に悩むを憐れみ傘をさしかけやった返礼に、遊女どもの秘事を洩らさず書きつけた物をくれたので、彼らを脅かし取財して、富み出し、幇間をやめ、情婦お亀(踊りの師匠)を妻とし、酒屋を営業したのだ。
 熊楠いわく、『太平広記』二九一に、何比干なる人、白頭の老嫗八十ばかりなるが、雨を避けんと望むをみるに、雨はなはだしきに衣も履も濡れず、異《あや》しみ延《ひ》いて入り座せしむ。雨止んで嫗辞し去るを出送って門に至ると、比干に長《たけ》九寸の簡《ふだ》およそ百九十枚を授け、君の子孫印綬を佩ぶる者まさにこの算に随うべしと言い終わって、たちまち見え(301)ず。比干の後《のち》累世の名族たり、と出ず。この支那話を上の本邦の話に作り替えたとみえる。(十一月十八日午前四時)  (昭和四年十二月『民俗学』一巻六号)
【追加】
 前文に、日当り雨と狐の嫁入に関する維新前の文献としては、『壇浦兜軍記』の一条しか知らぬ、と書いた。その後見当たったのが二項ある。
 まず『怪談老の杖』三に、上州の煙草南高田某、その仲間と某村へゆき、日暮れて帰ると、「はるか向うに三百張ばかり提燈の来る体なり。三人ながら、怪しきことかな、海道にてもなければ、大名衆の通り給うべき様もなし、様あらんと思いて、高き処へ上がりてみていければ、通りより少し下に田のありける中を、かの提燈通りけるが、徒《かち》の者、駕脇、中間、押え、六尺、何一つでも欠けたることなし。提燈には紋所なく、明りも常の提燈とは変わりて、ただ明《あか》くみゆるばかりなり。田の中をま一文字に通りて、向うの林の中へ入りぬ。さてこそ狐の嫁入という物なるべしと言いあえり。この村の近処には、狐の嫁入ということ、たびたびみたる人あり、と言えり」と出て、どうも眉唾な噺《はなし》、その村名さえ原本脱字とある。この書は平秩東作編とか、序文に宝暦丙戌春とあるよう、『新燕石十種』三にみえるが、宝暦中に丙戌の歳なし。かたがた黒助稲荷にでも抓まれた感なきにあらずさ。次に『江戸塵拾』は、文政六年種彦の跋をよむと、それより六十余年前(宝暦十三年前)すでに成りあったのを、種彦がそのころ校補したらしい。しかるに、種彦は天明三年生れゆえ、そんなことのできるはずがない。こいつも怪しい。閑話休題、この書巻五に、「宝暦三年秋八月の末、八丁堀、本多家の屋敷にて狐の嫁入あり。近き屋敷屋敷にては誰言うとなく、今夜本多家の家中へ婚礼のある由風説あり。日暮よりも諸道具を持ち運ぶことおびただし。上下の人幾人ということなく、行違い行違い賑わいしが、その夜九つ前と思うころ、提燈数十ばかりに、鋲打の女乗物、前後に数十人守護して、いかにも静かに本多家の門に入る。隣家よりみるところ、その体五、六千石の婚礼の体なりし。本多家中よりかかる婚礼取り(302)結ぶは、誰人にやと怪しみしが、後々聞けば、狐の嫁入にてこれあるとや。このこと本多家の屋敷にては、さらに知る人なかりしも、ふしぎのことどもなりし」とは、いよいよ怪しい。
 それから、かの「狐の嫁入お荷物を、かつぐ剛力稲荷さん」とある、「紀伊の国」の唄は、維新のころ高野山で?童だった人が、僧徒の宴席でこれを舞うた由、みずから予に語ったが、いつごろどこから流行りだしたものか、識者の教えを俟つ。それから、『三州奇談』後編五には、狐の嫁入は雨の催す夜を時とす、と出ず。
 支那には、『太平広記』四四八に、唐の?州の李参車、逆旅で逢うた老人の勧めにより、門地高き蕭公なる者の娘を妻《めと》らんと請いに往く。蕭すなわち数十句語を叙ぶるに、深く士風あり、書を作りて県官に与え、卜人を請いて日を尅せしむ。卜人、須臾にして至り、いわく、この宵こそ吉《よ》けれ、と。蕭また書を作り県官に与え、頭花釵絹、兼手力等を借るに、尋いでみな至る。その夕また県官あり、来たりて?相たり。歓楽のこと世と殊《こと》ならず。青廬に入るに至り、婦人また?美、李生いよいよ悦ぶ。明くるに及び、蕭公すなわちいわく、李郎上に趣く期あり、久しく住《とど》まるべからず、と。すなわち女子をして随い去らしむ。宝鈕ある犢車五葉、奴婢人馬三十疋、その他服玩、勝えて数うべからず。見る者これ王妃公主の流と謂い、健羨せざるなし、とある。これは狐女が人に嫁したので、狐同士の婚娶と差《ちが》うが、人にさえ嫁するほどなら、狐が狐に嫁入は尋常事で、唐代の狐の嫁入の概況はこれに準じて知るべし。同書四四九には、狐が人の娘を貰い受けにきた記事あり。「至るに及ぶや、車騎|輝赫《かがや》き、?従|風流《みやびや》かにして、三十余人あり。韋氏に至り、雑綵五十匹、紅羅五十匹を送り、他《ほか》の物もこれに称《かな》う」と見ゆ。
 ずっと後世の物ながら、『聊斎志異』一には、明の殷士?が若くて貧しかった時、諸生と賭して独り化物屋敷に宿り、狐の婚席に列なり、金の盃を袖にして帰り、証拠として諸生に示した話を載す。そのことやや英国のダッファス卿が、精魅にさらわれ行って仏皇の窖中に飲み、銀盃を手にして酔臥した話、同国デイリの小農が精魅の夜宴に往き会わせて異様の盃を盗み帰った苗などに似る(一八九〇年五板、オーブレイ『雑記』一四九頁。一八八四年板、ケートレイ(303)『精魅志』二八三頁)。これらによって攷うると、本邦狐の嫁入の譚は、まるで支那伝来でなくとも、かの国より影響された点が多かろう。
 ここもとまで書いたところへ、宮武省三君より来書あり。本題について予が未聞を聞かさるることすこぶる多く、自分一人で仕舞いおくは惜しいから、左に写し出し付録とする。本状は昭和四年十二月八日付である。
  (前文略)さて狐の嫁入のこと、讃州でも九州でも、日の照りつつ雨のふる場合と、今一つは、夜分無数のいわゆる狐火をみる場合とに申しおり候。後者の方も他国にもいうことにて、大正十四年一月二十八日『大阪朝日新聞』記事にも、「狐の嫁入」という見出しにて、「大和国耳成山の狐の嫁入は、古来有名だが、正体を見露わしやろうとて、結婚日と定まっている旧暦大晦日、すなわち去る(一月)二十三日の夜、耳成山に至り、他の見物人らとともに待っていると、翌暁午前一時二十分、突然三、四十の怪火が、香久山麓に現われ、明滅しながら東へ向かった。これには驚いたと、八木署北村巡査の話」とみえ候。肥前佐賀にては、この狐火のことを野狐《やこ》の御前のお迎えといい、火のごとくみゆるは狐の涎なり、と申し候。学生時代、ある教師より耳にせしは、狐が墓場にて、古骨に尿し掛くると燐を発す。これを口に銜えて走るを、人見て俗に狐の嫁入と言うなり、と語られしも、果たして然るや否や判じ兼ね候。(中略)むかしの書に、狐が大晦日に嫁入したる記事あるをみしことあるも、今見出だしかね候。ついでに申し上げ候。当地方(豊前国小倉市上富野)にて、「狐秋鳴けば村騒動」と申し、狐秋鳴くこと宜しからずと申しおり候。面白き詞は熊本|健軍《たけみや》地方にて、謂《いわ》れ不明なるも、祭日後の慰労宴を狐|咄《ばなし》と申し候。今は祭後に限らず、慰労宴はすべて狐咄という。
 熊楠注す。狐が古骨に尿して燐光を発すと言いしは、支那の旧説に、野狐、夜、尾を撃てば火出ず、怪をなさんとするに、必ず髑髏を戴いて北斗を拝す、髑髏墜ちずんばすなわち化して人となる、とあるから思い付いた「創作」だろう。(狐、髑髏を用い、火を点《とも》すこと、『甲子夜話』四に出ず。)インドでは虎に啖《く》われた人の魂がその虎に(304)付いてその頭に乗る。その重量で人を啖う虎の頭はいつも府し下がりおり、頭に乗った人魂が、朦朧ながらその虎の形がみえるほど光るという。支那でも、虎の一目夜分光を放つと信じ、米国の黒人は、米獅(ピューマ)も鬼火を出す、と説く。インドで野干(英名ジャッカル)を墓神カリ后の侍者とするは、この獣好んで人屍を食うからで、虎に随行してその残食を喫《く》うによって、虎を本名で呼ばず、野干と呼ぶこと多し。確かに書いた物を只今挙げ得ぬが、これも燐光を発すと言えると記臆する。狐と狼の中間性ごときもので狡黠抜群だ。(『経律異相』四七に『十巻譬喩経』を引き、「野狐、師子《しし》に従って、乞食《こつじき》し、肥ゆるを得てのち師子の食らうところとなる」ことを載す。これはジャッカルなるべし。)したがって、経文すでに、狐、狼、野干と列ね、明らかにその別物たるを示しあるに、古来、邦人野干を狐と心得た者多し。もとより系統も性質も近いものゆえ、日本の狐とインドの野干が、期せずして同様の俚伝を生じたことも少なからぬと同時に、自他移授融通したのも多かるべく、これを一々判別はむつかしい。例せば、狐を日本で稲荷神という穀精とすれば、インドで野干を穀精とし、いつでもだが、朝これをみるを、ことに吉祥として、壁にその仮面を掲ぐとあるは、初午に狐の仮面を買って帰るにはなはだ近く、インドで穀類の収穫時に升でこれを量る際、野干鳴くを聴くを吉兆とすると、宮武君の状に出た「秋狐鳴けば村騒動」というのは、正反対のようだが、インドで吉兆とするは野干が快く鳴くので、小倉辺で村騒動の凶兆というのは、凶作の稲秋に悲しく鳴くのを指したのであろう。だから、ふたつながら、収穫に関係厚きにおいては径庭なし。またインドやセイロンで、野干、時として頭の毛の内に、長さ半インチほどな小角を蔵し、人獲てこれを持てば百事意のごとしというは、本邦で狐の頭や口や尾端に宝珠ありとし、支那で狐の口中の媚珠を得ば天下に愛せらると言ったに通う。(『正字通』に、「  野《かん》、胡犬なり。狐に似て黒く、身の長《たけ》七尺、頭に一つの角を生じ、老ゆればすなわち鱗あり。よく虎、豹を食らい、猟人これを畏る」とは訛伝とするも、拠りどころありと知らる。)かく相似たことが一にして止まらぬによって、インドで日当り雨を野干の嫁入と呼ぶは、邦俗これを狐の嫁入と呼ぶと、全く無交渉に各自特生したとは思われない。((305)ただし、インドまた狐魅あり。北涼訳『治禅病秘要経』下に、「あるいは狐魅あり、新婦の形を作《な》してその身《からだ》を荘厳《かざ》り、行者《ぎようじや》のために、按摩して身を調え、非法を説く」。)(『酉陽雑俎』一五。一八九六年板、クルック『北印度の俗教俚俗』二巻二一一−二一二頁。一八九四年十二月『フォークロール』二九六頁。大正三年五月、七月の『太陽』に出た拙文「虎に関する史話と伝説、民俗」。『淵鑑類函』四二九。一八九三年板、オウェン『老兎呪師篇』一八章。一九一三年三板、ウィルキンス『印度鬼神誌』三二〇頁図。一八七〇年板、バートン『ヴィクラムおよび吸血鬼』三一二頁。一九二四年板、エントホヴェン『孟買《ボンベイ》民俗記』二一七頁。一八八五年三板、バルフォール『印度事彙』二巻三〇四頁。『太平広記』四五一。クルック、上引、一巻二九二頁)
 宮武君の状に出た狐咄の意義は分からぬ。『華実年浪草』一上に、『日次記事』から、正月二日、京の愛宕寺に行なわれた天狗の酒盛の条を引き、『雑談抄』にいう、天狗酒盛は、東西に坐を設けて、互いに背の高き人を出して勝負を争うことと、云々、事繁ければこれを略す、と引いた。高慢連が鼻の高さを誇り比べたという義で、天狗酒盛と言ったものか。それと同格で、もと祭後に祭礼中のことを語るに、多くは啌《うそ》で、相|誑《たぶら》かすをこれ勤《つと》めたので、狐咄と称えたぐらいの落ちでもあろうか。紀州ではかつて聞かぬ詞だ。(昭和四年十二月十四日、朝四時)
 (熊楠いわく、これに似たことは、「『礼記』の月令にいわく、腐草螢となる、云々。また※[虫+憐の旁]の字を螢とよむ。これを釈するに、馬の血螢となる、と言えり。されば、馬の血の螢になるというは由あることなり。また狐火を※[虫+憐の旁]火(くつねひ)ということあり。この※[虫+憐の旁]の字に馬の血の心あり。これをもって世俗に、狐火とは、馬の骨を燃やすなんと申すにや」と、『塵添?嚢抄』八に出ず。)  (昭和五年二月『民俗学』二巻二号)
 
(306)     庚申烏とゴキトウ鳥
 
 本誌一巻五号三三五頁、早川君が説かれた庚申鳥と同異は知らねど、熊野にも西牟屡郡二川村|兵生《ひようぜ》の深山などに、庚申の鳥とか、庚申の使いとかいうものある由聞き及ぶ。それは山ドリに似て全身火のごとく赤いと聞いた。土地の人に詳細を尋ねんと心懸けおったが、今年十月中句小畔四郎氏とかの地へ同行、二宿したあいだ全く打ち忘れて、何の知り得るところなく帰ったは残念だ。果たして山ドリのようで著しく赤くば、内田君の『日本鳥類図説』上の一九〇−一九一頁に出たアカヤマドリやコシジロヤマドリのことかと想う。
 自分蔵書中にありながら、もはや五十年も閲せざる絵本『狂歌常の山』は、天明ごろ浪速で盛名あった玉雲斎貞右の作だ。その内に、鶺鴒の岩に留まりし絵をみて、「神の代にこれは妹背の道しるべ、尾を動かして猿田ひこひこ」とあったのを覚えおる。天孫降臨の際、猿田彦が嚮導し奉りしという故事に基づいて、鶺鴒が尾を揺《うご》かして飛び去るに言い掛けたことと察するが、また鶺鴒を庚申の鳥、庚申の使いなど称えたからでもあろうか。猿田彦大神は庚申を司るという俗説、むかし大いに行なわれたは、井沢長秀の『広益俗説弁』四などが証する。昨年十月中句、紀州日高郡川上村妹尾官林の菌類を画録しに行き、今年一月四日まで官行斫伐事務所に宿った。十一月中旬より日が当たらなくなり、十二月中旬から氷雪に道を塞がれ、零下五度の寒さで困りきった。しかし、老いてはまさにますます壮なるべく、窮してはまさにますます固なるべし、と勇を鼓して二百種予定のところを三百二十種まで図記して、一月五日快晴に乗じ、橇車で九十六町を四十五分間に滑り下り、日高川に高く懸かった針金橋を渡り、さらに鏡のごとく凍っ(307)た山道を、夜中上下して川又官林に一泊し、翌朝自働車で塩屋浦に出た。ここに、四十四年前、予渡米の告別に往き宿った医家の娘、その翌暁予出立の一時前に生まれたのが、豪族の妻となり、六人まで子女を挙げある。これを訪うて二日半遊んで田辺へ帰った。妹尾官林で拵えた菌譜は、六月一日御召艦長門で進講の節、天覧に供し奉った。かの妻女は、その妹と二人、予に知らせずに当地方へ来たり、進講無事にすみ、衛召艦出発するまで、海浜に立って遠望しおった、と後に聞いた。『槐記』六に、「むかし聖護院の道晃親王の、獅子吼院へ御話に、淀の真斎が作り庭は、世にもいやなる物と存ぜしが、今度峰入り致して、始めて覚悟致せしことの侍りき。大抵の奥山にはなきことなり。今一とう峰を分けて、深山の深山へ入りたる時、谷の樹木の体、人の手を入れて作りたる作り樹と少しも違わず、わざと丸くも方にも作りたるようなり。これをもってかれをみれば、むかしの人の深山の深山を、ここに写す心にて、致したるものにや、と仰せらる。すれば竜安寺、金閣寺にも、左のこと侍るにやと仰せらる。(中略)拙、先年阿克君の御供にて、木曽路を経て、寝覚の床を見侍りし。巌石の畳みたる体、全く石庭に異ならず。すれば、これも却って幽谷の幽谷をみて、作りたる物にやと申し上げしかば、さればされば先年泰随が、寝覚の床は今の作り石庭の自然なるものなり、これにては叱られもせず、と申したりしが、なるほどにも左なりと仰せらる」とは真実で、妹尾に人が趣向して据えたと思わるる岩が、よくよく試掘すると、金輪際地底から突き出でたもの多く、林下に蘚苔のほか、下草《したくさ》少しも生ぜず、まるで作り木、作り庭に異ならざるも多かった。さて、「路遠く雲井はるけき山中に、またともきかぬ鳥の声かな」という歌あるが、妹尾に七十余日おったうち一度も鳥の声を林中で聞かず。山もこう蔭ばかりでは鳥の食物が乏しいからと察した。しかし、気候が暖かくなれば多少の鳥は鳴く、と聞いた。かつて東牟屡郡静川奥、きわめて幽遠な山中にゴキトウと鳴く鳥ありと伝えたが、妹尾にもこれあり。事務所主任大江喜一郎氏は、しばしばその声を聞いて、これは仏法僧に外ならずと判じおった。早川氏の説と相期せずして合うものだ。(十一月十七日夜)
(追記)右のごとく認《したた》めたのち、往年東牟婁郡静川奥、篠の瀬の深林に住んだ須川寛得氏来たり話せしは、その辺で(308)春より夏へかけ、毎度ゴキトウ鳥の鳴くを聞いた。夜の十時より十二時ごろまで鳴く。十時ごろしきりに鳴く。ゴキトウが鳴くからといって、山小屋の者どもが就寝した。さて、ニエという鳥が二時ごろに鳴き出すを、一番鳥として人が起き出る。ニエの形を見しことなし。ツグミほどの大きさで、暗色、すこぶる眼立たぬものという。ゴキトウ鳥は仏法僧と同一の由だが、篠の瀬では、必ずオン、ゴキトウと聞こえた。高野大門の右の方へ夜中出掛けて仏法僧をきくに、オン、プッポウと聞こえ、決してオン、ゴキトウと聞こえなんだ。地勢に随つて異様に鳴くように響くらしい、と。(十一月二十日)  (昭和四年十二月『民俗学』一巻六号)
 
(309)     七種の菜粥
 
 貝原好古の『日本歳時記』一、正月七日の条に、今日七種の菜粥を製し食らう。七種菜というは、歌に、「芹なづな五形はこべら仏の座、すずなすずしろこれぞ七くさ」。正月上の子の日、若菜七種を奉ること、宇多天皇の御宇より始まるにや。また延喜十一年正月七日に、後院より七種の若菜を供すともみえたり。『刑楚歳時記』にも、正月七日、七種菜をもって羮《あつもの》とし、これを食らう、と言えり(立春の日、「生菜を食らうも過ごすべからず、迎新の意を取るのみ」と、『四民月令』にみえたり。本朝にこの日の若菜も、この意なるべし)、とある。それより二年早く、貞享二年刻に係る黒川道祐の『日次記事』正月七日の条には、今日を人日と謂い、良賤互いに相賀す。昨日より今朝に至り、家々ゆでたる蕪菁、薺等を砧几に載せて、杖をもってこれを敲き、七種菜に代えてこれを用い、今日これを敲き、七草をはやすという。今朝、これをもって菜粥といい、おのおのこれを食らう。俗間七草をゆでたる湯をもって、瓜を漬《ひた》しこれを剪る。中華また今日、七種の菜をもって羮となしてこれを食らえば、すなわち万病なしという、と出す。
 七種菜の歌によんだ草の内に、しかと別らぬものもあり。貞享の初め、すでにその代りにカブラ、ナズナ等を用いたと知る。『刑楚歳時記』は、晋の宗懍著、西暦六世紀の人という(一八八一年上海刊、ブレットシユナイデル『支那植物篇』一の一六一頁)。『漢魏叢書』にこれを収めたのをみるに、ただ「正月七日を人日となす、七種の菜をもって羮をつくる」と短く記したのみで、何々を七種の菜と名ざしおらぬ。したがって、芹なずな等の名は、日本で推測もて押し当てたらしい。『和漢三才図会』一〇五にも、「この七種いまだ詳らかならず、異説多し」とあり。そのうち仏の座と(310)いう草のこと一切見えず。もと支那で用いた七種の菜の名が伝わりおったら、ホトケノザの支那名は早く判ったはずだが、久しく分からずにあったのだ。小原良直の『桃洞遺筆』二輯六に、その師小野蘭山は、『本草従新』の元宝草を仏の座に宛てた、元宝は清朝通用の銀で、宝暦中支那商人が将来せるをみるに、仏の座の葉に似ておる、と言った。しかるに、小野職?の『重修植物名実図考』二五下には、元宝草をツキヌキオトギリとし、その図もこれによく似おる。とにかくオトギリソウ属のもので、決して仏の座でない。されば詰まるところ、ホトケノザの支那名は分からず仕舞いで、たとい元宝草であったって、この名は清朝に始まったものゆえ、この名が六朝の梁朝の七種菜の内に具わったはずなし。上に引いた『日本歳時記』七種菜の歌は、始めて兼良公の『公事根源』に出で、その随一たる仏の座の漢名知れずとある上は、この七種菜は日本人の手製で、梁朝の旧例を襲うたものとみえぬ。
 七種菜の粥は和漢の外にもある。Ramusio,‘Navigationi e Viaggi,’Venetia,1588,vol.i,p.35 に出た Giovan Leone Africano,‘Descrizione dell Affrica’に、モロッコの首都フェズの風俗を叙べて、キリスト誕生祭前晩に、常例として甘藍、蕪菁、胡蘿蔔等、七種の菜で調えた粥を食う。また、この夜諸種の豆と穀を煮て果子の代りに食う、とある。(昭和四年十一月二十七日夜稿成る)
 本文認め終わりてのち、『祇園執行日記』文和元年正月六日の条をみるに、「堀川の神人、七種菜を?《つら》ね、沙汰人行心法師持参す。ナズナ、ククタチ、牛房《ごぼう》、ヒジキ、芹、大根、アラメ、各方五寸に折り敷き、次に各入るるなり(下略)」とみゆ。『公事根源』より前に、このような物を七種菜とする一風もあったので、そのころすでに一定しなかったのだ。  (昭和五年一月『民俗学』二巻一号)
【追記】
 吾輩八、九歳のころ、文部省発行の『小学読本』に、「スズナ、スズシロ、芹、ナズナ、五形、ハコベラ、仏ノ座」と七種を列挙しあって、児童みな暗記しおったが、五形や仏の座、スズナ、スズシロと、七種のうち四種という過半(311)数を何物とも知らなかった。今日はいよいよ左様と想う。さて、明日早朝に囃す用意に今日田辺の菜店で売り、また農家の子女が売り歩く七種を手に取ってみると、芹、ナズナ(ただし、本当の物、ペンペン草でなくて、イヌガラシのこと)、艾、ハコベ、水菜、タンポポ、ヨメナであった。前回に『祇園執行日記』から引いた文と合わせ攷うるに、古来七種の菜は一定せず、手近く食い得るものを採用したらしい。(一月六日)
 以上書きおわつて『塵添?嚢抄』一に、「七種というは異説あるが、一准ならず。ある歌には『芹、なづな、五行、たびらく、仏の座、あしな、耳なし、これや七くさ』、『芹、五行、なづな、はこべら、仏の座、すずな、耳なし、これや七くさ』。またある日記には、なずな、はこべら、五行、すずしろ、仏の座、たびらこ、これらなりと、云々」とあって、正月七日七草を献ずということ、さらになし、十五日にこそこの儀ある由を論じある。(『古名録』一四によれば、耳なしはミミナなり。七日の若菜に入れたること、『枕草紙』に出ず。)これをみて、ますます七種の菜の名は一定せなんだと知る。(一月七日)  (昭和五年二月『民俗学』二巻二号)
 
(312)     烏の金玉
 
 安政・文久間の出板、梅亭金鵝の『妙竹林話七偏人』三編中は、下太郎と跂助が麦湯店のお麦《ばく》とお白湯《さゆ》をぞっとさせようと思い付き、門付けに装うて通り掛かる。その心当ては、かねて頼み置いた通り、店先に居合わせた喜次郎等に呼び込んで貰い、二人得意の芸当を演じ、件《くだん》の二女に属魂《ぞつこん》惚れられようというのだ。ところが、喜次郎、二人がまだ来ぬうちに枝豆売りの耄碌老爺を傭いおき、二人到るを俟って突然呼びかけ、約束以外の唄を注文せしめたので、下太郎、跂助、大いに面を喰らい逃げ走る次第を述べた物だ。その内に、下太「エ、モシ旦那、わっちらのやるのは、葉唄《はうた》というので、一寸一寸《ちよいちよい》とした、小意気な短《みじけ》えことばかり唄うので厶《ごぜ》えやす。爺「そんだらばハア、おやじきんたまアをとんびがさアらいというのがよかんべえ、と言われて、辟易の体を記しある。そんな俗謡が実際あったか否を知らねど、親爺の金玉と同義の詞は、意外に古くより本邦にあって、蟷?の子房を指す名であった。兼好法師の口調で言わば、聞き苦しき親爺の金玉もオオジガフダリと言えば優しくなりぬだ。
 昌泰年中僧昌住撰『新撰字鏡』は和漢対訳字書の始めという(白井博士『増訂日本博物学年表』二〇頁)。その虫部六九に、?蛸、云々、※[?+ム]?の子、アシマキ、またアシカラメ、またオオジフグリ。※[?+ム]蟻は蟷?の誤写たること疑いなし。カマキリのこと。ただし蟷?の字この書に見えず。同じ醍醐天皇の時(できた『延喜式』諸国進年※[米+斤]雑薬、伊勢国の条、桑蝶蛸《そうひようそう》をオキナノフグリと訓《よ》ませ、同じ御宇に)深江輔仁が勅を奉じて撰んだ『本草和名』一六に、?蛸、和名オオジガフグリ。同帝の延長年中、源順が撰んだ『倭名類聚抄』虫名一一二に、蟷?、イボムシリ、狩谷?斎の(313)『箋注』巻八に、『新撰字鏡』、?をイイボムシリと訓ず、今俗カマキリと呼ぶ、相模でこれをイボシリといい、あるいはイボクイといい、陸奥でこれをイボサシといい、あるいはイボムシというと述べ、イボムシリなる和名は支那の食肬と合う、と説いた。次に?蛸、オオジガフグリ、蟷?子なり。円融天皇の永観二年、丹波康頼が撰んだ『康頼本草』に、「桑?蛸、味鹹、甘辛、無毒。オオジガフグリ、またイボシリというなり。二月、三月、これを採ってこれを蒸す」。ここには、?蛸の和名と蟷?の和名を混同しある。『倭名類聚抄』父母類八に、「祖父。『爾雅』に、父の考を王父となすという。『九族図』に、祖父という。和名オオジ」。?斎の『箋注』一に、「按ずるに、オオジは大父の急呼、祖父は父の父、故に大父というなり、云々。今俗にジジと呼ぶ」と、自分の発明らしく述べあるが、実は白石先生がすでに、「『倭名鈔』にみえしところの親戚の称に、祖父をオオジと言いしは、大父と言うがごとく、祖母をオオバと言いしは、大母といい、また阿婆と言うがごとし」と説いた(『東雅』五)。
 熊楠按ずるに、『本草綱目』三九、蟷?、一名蝕肬。『重訂本草啓蒙』三五に『事物紺珠』を引いて、蟷?一名?疣。この方が食疣よりもイボムシリの義によく合う。『新撰字鏡』に?蛸を蟷?の子としたはよいが、アシマキ、またアシカラメ、またオオジフグリとは、蟷?の寄生虫と?蛸の和名を混じたものだ。オオジフグリが?蛸すなわち蟷?の子房たるは論なし。アシマキまたアシカラメは?蛸のことでない。『大和本草』一四に、「足マトイ、水中にあり、水中を泳ぐ。大いさ燈心草のごとく、その長きこと六尺余、あるいは丈余、その首魚のごとく、また蛇に似て小なり、堅し。人の足を纏えば皮肉切るるという」、また「シマキ虫、水中に生ず。長《たけ》一、二尺、色黒し。糸のごとし。その大いさ?《もとゆい》のごとし。頭尾弁じがたし」。このシマキ虫は、溜水や山村の筧を受くる手水鉢中に往々見る。『新撰字鏡』のアシマキをシマキと約したのだ。紀州でオマキ虫と呼ぶ。秋日、蟷?の腹|脹《ふく》れたのを採って頸を引き抜くと腸が出て、その中からこの虫が動き出す。明治十二年、博物局より出した『博物雑誌』に、誰かが蟷?が幾回も尻を水に浸すうち、この虫がその肛門より出て游《およ》ぎ去るを見た記事を載せあったと記憶する。その状は『日本動物図鑑』一六五(314)九貢に、ゴルジウス・アクワチクス、ハリガネ虫の名でよく画きある。
 むかしフリギアのゴルジオス、農作して貧苦した。一《ある》旦《あさ》、鷲が飛び降ってその犂牛の軛《よこぎ》に留まり夕まで去らず。ゴルジオス怪しんで、高名の占者に問わんとテルミッソスに往くと、城門の傍で占を能くする少女に逢い、これに子細を語る。しからば、テルミッソスのゼウス軍神に牲を供えよとのことで、その作法を教えらるるままに少女と共に往ってこれを供え、まことによいことを教えくれた返しに、われも和女《そなた》のまだ知らぬなかなかよいことを教えやろうと、その少女を妻としミダスを生んだ。ミダス人《ひと》となった時、フリギアに内乱起こる。神託住民に告げて、一の車がこの騒ぎを鎮むべき王者を載せ来たるべし、と言った。一同評議最中に、ゴルジオス妻子と伴《とも》に車に乗ってきたので、たちまち一決してゴを王と立てた。ゴルジオス即位して、その車とさきの犂牛の軛とをゼウス軍神に捧げた。その時また神託あり。この軛を車の  瞭梓に結び付けた皮紐を解く者は全アジアを統御すべし、と言った。後年|歴山《アレキサンドル》王ゴルジウムに到著してこのことを聞き、そのこんがらがった結び目を視るに及ばず、宝刀一揮たちまちこれを切り解いて、自分が全アジアに君臨すべきを証した。それから、七六《しちむつ》かしい難題を快く決断するをゴルジオスの結びを解くという。そのことあたかも、秦の昭王が斉の君王后に玉連環を遺り、斉に智者多し、よくこの環を解かんやといわしめたるに、斉の群臣解く法を知らず。君王后みずから鉄椎でこれを打ち破り、秦の使に向かい謹んで解けりと謝せしに似たり。(一八四六年板、スミス『希羅《ギリシア・ローマ》人伝神誌辞彙』二巻二八二頁。『戦国策』六)
 さてシマキ虫、時として多数結びもつれて水中にある状、ゴルジオスの結び紐もかくやありつらめと思わるるより、この虫の属名をゴルジウスと付けたのだ。シマキとは上に言った通り、古名アシマキの略だ。紀州名オマキ虫のオマキは緒巻きの意で紡錘《つむ》をいう。ハリガネ虫という名と斉しく、その紬さを形容しただろう。英語でヘヤー・ウォーム(毛虫)、ヘヤー・イール(毛鰻)、ヘヤー・スネイク(毛蛇)、この物に馬の尾毛が化すという俗信より出た名という。時として多数が忽然水中に現ずるより虫の雨が降ったという由。(『説鈴』所収、清の宋牧仲の『?廊偶筆』上、(315)「梁宋の間、??《さくぼう》を取り、烹《に》てこれを食らう。人あり、その腹を剖《さ》き、紅《あか》き線《いと》の数尺にして蠕々《ぜんぜん》と動くを得たり。これを池中に投ずれば、にわかにして巨蛇と化し、蜿蜒として数丈なり。観る者、千余人あり。けだし明の崇禎十三年のことなり」。)紀州でこれまで見たは大抵五寸ほど長いが、実際三尺近いのもあるらしい。貝原先生のいわゆる足マトイ、長《たけ》六尺余あるいは丈余というも、シマキ虫の大きなものらしいが、あるいはウワバミや鯨と同例で、あわてた観者の誇張談を筆したでなかろうか。この属の種の数百に余るといわば、そんな偉大な物があるかも知れず。とにかく、その記載はゴルジウス属のものに外ならぬ。(故山中笑氏いわく、遠州周智郡森町辺で、カカミチョウという虫の腹より針金のごとき細き線出ずるをアシガラと言えり、と(『共古随筆』一〇〇頁)。カカミチョウはカマキリチョウライの約で、アシカラは古名アシカラメのメを去ったこと疑いを容れず。越後のある地方でこれを紙縒蛇《こよりへび》と名づけ、雨垂れに元結を置けば、これに化すと信ずる由(外山暦郎『越後三条南郷談』五頁)。)本文に引いた『新撰字鏡』に、?蛸をアシマキ、またアシカラメ、またオオジフグリと訓ませある。オオジフグリは?蛸すなわち蟷?の子房、アシマキとアシカラメ(足カラミ)すなわち足マトイで、もとシマキ虫のこと。それが蟷?の体内に寄生し、水中に出で去るをみて、?蛸の幼子と思い、オオジガフグリと混同して、?蛸の下にこれら三名を列ねたと見ゆ。(『和漢三才図会』五二に、小児、蟷?を捕え、熱灰あるいは塩を?《まぶ》せば、苦しんで黒く繊《ほそ》き腸を出だし、長き縷《いと》のごとし、もって子を産むとなす、けだし子にあらずして小腸なり、しかも蟷?いまだ死せず、と。)『虫歌合四番』に、左蟷?、右足マトイと対《むか》わせ、「その上、父子の御中なれば、云々」と評せるは、足マトイを?蛸の子と認めた証だ。かつて人の気付かなんだことらしいから、このついでに記しおく。(一九一〇年三板『剣橋《ケンブリツジ》動物学』二巻一六五頁。ウェブスターの大辞書、ゴルジアンおよびゴルジウスの条)(紀伊東牟屡郡請川村では、今もアシマキと呼び、小児らこれを虫と思わず、天成の玩具ごとく心得、日に乾かして袂に入れおき、水に沾《ぬ》らして再活せしめ、ゴム紐のごとく種々に弄ぶ。)
(316) 『重訂本草啓蒙』三五にいわく、蟷?、秋深き時は、雌なるもの、樹枝上において巣(子房)を作る。初めは唾を吐きかけたるがごとし。日を経て堅凝し、古紙塊のごとし。長さ一寸ばかり、浅黒色あるいは微褐を帯ぶ。これ?蛸なり。薬には、他木上のものを用いず、ただ桑枝上のものを採る。故に桑?蛸という。この巣を破れば、海?蛸《いかのこう》の状のごとくにして、内に小卵多し。『本草徴要』に、「一たびに九十九子を生む」という。夏になればみな化して、小螳?数なく出ず。『物類相感志』に、芒種日(五月節)、蟷?一斉に出ず、という。故に?蛸を貯うるには蒸過すべし、と。『重訂本草綱目図』巻下、『和漢三才図会』五二、『増補頭書訓蒙図彙大成』一五等にその図あり。『剣橋動物学』五巻二四七頁には、?蛸より蟷?の幼児が脱け出ずるを画く。『重訂本草啓蒙』三五に、桑?蛸、邦名カマキリノス、オオジノフグリ(京、同名あり)。これは『新撰字鏡』のオオジフグリ、『本草和名』や『倭名類聚抄』のオオジガフグリ、『康頼本草』のオオジガフグリをほとんどそのまま伝えたのだ。(紀伊東牟婁郡請川村では、今もオオジガフグリという。)本誌一巻四号二九〇頁に、阿波の国府町辺で、蟷?の卵をオジイノ金ダマと称うとあるも、古名の意義を保存する。それから『啓蒙』に、ウシノフグリ(佐州)と出す。本誌一巻六号四二九頁、肥後の鹿本郡でウシノアメガタというとあるにやや近い。黄牛をアメウシというたり(『倭名類聚抄』牛馬毛一〇五)、牛が涎を垂るる状飴を嘗むる小児に似たより連想しての名か。
 只今拙宅にある下女、名は直枝で三重県生れ、幼にして生母に別れ、武州秩父に育ち、和歌山県へきてここに奉公する。『曽我物語』祐成の辞に、人生まれて三ヵ国にて果つるとは理《ことわり》なりと言ったごとし。小学校にさえ通わねば教育のケの字も知らず。しかるに、何と読むか知らずに、よく多画の漢字を認め識る。あたかも数を算え能わざる欧州山野の牧童が、多くの牛羊を一瞥して、その牛あの羊がみえぬとたちまち知るがごとし。熊楠、比年災難打ち続き、気力衰えたゆえか、しきりに物忘れする。よって彼女に今朝差し出した郵書はどんなものだったかと問うと、封状一つにこの通りの字を書きあったと、『大阪毎日』紙の題号を指さし、葉書一つに自分の郵便貯金帳の表の四字の下の二(317)字と異《かわ》らぬを書きあったという。よって考えると、大阪毎日社なる友人と、小石川植物園の松崎直枝君へ差し出したと判るので奇妙だ。また菌と粘菌は間違いやすい。それを彼女はいつ見覚えたとなしによく識別し、近日発表すべき邦産粘菌総覧中のジジミュム・スクァムロスム・クラヴィフォルメの本邦での創見者たり。かつて眼を病むから二十円近く出し、久々医者に通わせ、薬を貰い塗らせると、昼は殊勝らしくこれを用い、夜間ひそかに陋巷の観音様に詣り、漁婦が手を洗うた手水鉢の汚水をしたたか眼に塗って帰る。何と諭しても止めず。そのうち全快したので、薬よりも信心がきくと大得意だった。ある富家の女子が門辺を通る女工を悪口すると、女工が、芸妓だった者の腹から出た奴がわれらに口をきくとは身分知らず、と罵る。ところを通り懸かり聞き返って数時間泣きやまず。わが姉も芸妓揚りで人に嫁し子を生みあるから、かの女工はわが姉妹をも誹《そし》ったもので聞き捨てならずとは妙な論法だ。ことに希有なるは、この女十五にして月信初めて到った時、聞き覚えのまま、針をどうかして厠神に?り、禁厭《まじない》して今二十二歳までさらに再び到らず。他の女子のように容飭することさらになく、争闘口論を好むこと男子に勝る。
 されば、何たる科学用意もなく、気まぐれ半分に書いた随筆どもを渉猟して、山男の山女のと口頭で論ずるよりも、この下女などを観察すると、心理学上、俚俗学上、勿外《もつけ》の掘出し智識を得ることと珍重がりおる。全く不文の者ゆえ、間違うたこと多からんも、それと同時に牽強虚構の言なきが収益だ。十一歳より十六歳まで秩父の蓼沼に在った間に見聞したことどもを話すうちに、この辺と異《かわ》ったものがすこぶる多い。その一にいわく、かの地では蟷?の巣(子房すなわち?蛸)をアメンボウと称え、何の味わいもない物ながら、小児輩が旨い旨いと言って舐り慰みとす。また彼輩、蟷?を見ると、土を敲き、「ばかばか達磨、飴買いに遣ったれば、飴買ってこずに、牛の糞買ってきてカンなめる」と囃し立て怒らせる。時としては、かく唱えて他の小児を立腹せしめ娯楽とした由。その起りは、?蛸を小児が飴のごとく舐る習わしあり、また?蛸の形色が飴にも牛糞にも似るに因ったらしい。蟷?の眼は鷙鳥《しちよう》のごとく鋭く物を睨み、怒れば両手を拱起するところを達磨と見立てたであろう。本誌一巻六号四二九頁、肥後の鹿本郡で?蛸をウシノ(318)アメガタというとあったは、秩父のアメンボウとほとんど同名だ。あるいは、むかし飴に  標蛸様の線を印する型を用いた遺意でなかろうか。『五雑俎』に韓信が市人を駆って兵卒とし、大いに趙軍を破ったのをほめ立ててあるごとく、いささかでも注意して持ち前の能力を発揮せしむるが当世と、今一人の下女、この田辺町と川一つ隔てた糸田という小村、これは戸数僅々十七だが、明治四十年、予が当時唯一の緑色の粘菌、アルクリア・グラウカを発見して天下に名を馳せたところの生れ、その者に?蛸を示し、その方言を尋ねると、カラスノキンダマと称え、何かの薬になると聞いたとの答え、本誌一巻三号二二〇頁および四号二九〇頁および後出宮武氏来状に出た下野と佐渡と筑後のある処での称えとソックリ合いおる。
 そこで熊楠自分の能率を発揮すべき御順と、左思右考するに、少時和歌山で聞いたは、また現時拙宅の長屋にすむ那賀郡生れの若い婦人が言うには、烏の鳴声をまねる児は、アクチが切れるそうだ。医家で口角糜爛という奴で、これに罹《かか》ると涎を流すのが多い。(鈴木氏の『相州内郷村話』五三頁、「鴉に灸をすえらるること」参照。)竈に木を焚く時、燃えおらぬ一端より涌き出ずる汁を塗れば癒るなどいう。(本誌二巻四号二三六頁、中平悦麿氏、黒焼きにし油で練り、小児の口ジケを治す。)?蛸を舐《ねぶ》れば流涎が止むというに付けて、自然アクチ経由で烏と?蛸に想及し、オオジガフグリ、オジイノキンダマ、ウシノフグリからカラスノキンダマと転じたものだろう。(本誌二巻八号五二二頁、鷲尾氏説に、広島県吉名村では、?蛸をカラスの唾という。?蛸の未成品は唾のごとく泡立った物ゆえ、この名あるか。また、似た物似た症にきくという観念より、?蛸を舐れば流涎を治すといったものか。)『本草綱目』三九、桑?蛸の条に、流涎や口角糜爛にきくと記さず。五〇下には、小児流涎に、東に行く牛の涎沫を口中と頤上にぬり、また牛  嶋草(一旦嚥んでまた出して食うた草)の絞り汁を少し飲ませ、と出ず。いずれも牛は涎を垂らすものゆえ、似た物が似た症を治すという考えに出た療方だ。『酉陽雑俎』に、?蛸を野狐鼻涕と謂えるは、形に象れるなりと、『本綱』三九にみえるが、鼻たらし小僧の妙薬とは書きおらぬ。
(319) 『大英百科全書』一一板、一七巻六〇六頁に、虫類中蟷?ほど、口碑や迷信が多くて弘まったものはないようだ、とある。ルマニアで伝うるは、むかし彼得《ペーテル》尊者、諸賢女をキリスト徒輩の家に遣わし教ゆるところあった。途中で見知らぬ男に逢うも顧みるなかれと命じたに、若い尼あってその訓えに負き、美男に言い寄らるるままに、みずから面紗を脱し、尊者の教えを洩らし告げた。彼得《ペーテル》、天使よりかの尼が天魔の悴のために破戒せるを聞き知り、追い及ぶと、尼愕いて面を覆わんとしても成らず。神罰で緑色の小虫と化し、今に至るまでつねに両臂を挙げて面を覆わんとする。これが尼虫すなわち蟷?だそうな。それから、不貞の若妻を悔過せしむるに、三夜続けて蟷?を呪し、その枕の下におく法あり。一説には、天魔の娘もってのほか不良で、父も持て余し、ひそかに入寮せしめて尼となしたが、さらに悛《あらた》めず、上帝|嗔《いか》ってこれを蟷?に化したという。欧州諸邦で蟷?を尼と呼ぶが、この名の縁起を伝うるはルマニアのみの由。その他、説教師、托鉢僧、卜者、上人等の称あり。プロヴァンスで神拝者というは、紀州でオガメトウロウ、肥前でカマキリチョウライなどいうに同じく、アラビア人、トルコ人は、この虫毎時メッカに向かって祈るといい、欧州の旧説に、童子、道を問えばこの虫一臂を伸ばして指ざす、と言った。(オガメトウロウのトウロウは蟷?の音読だ。万治二年中川喜雲作『私可多咄』一に、田舎の外科医、薬法を妻に読ませ、唐?の一斤とききて、かまきり数万を殺して膏薬に入れたとあるも、そのころ蟷?を音読した証だ。)(一九一五年板、ガスター『ルマニア鳥獣譚』一三二−一三四頁。『大英百科全書』一一板、一七巻六〇六頁。『剣橋動物学』五巻二四九頁)
 李時珍いわく、蟷?、両臂斧のごとく、轍に当たって避けず、故に当郎の名を得、?人これを拒斧といい、また不過と呼ぶ、代人これを天馬という、その首驤馬のごときに因る、と。斉の荘公が乗った車を、一疋の蟷?が通過せしめじと打ってかかったのを、公がこれ天下の勇虫たりと褒めたという。その意で不過と名づけたそうだ。これに反し、熊野のある地では、小児が蟷?を見付け次第、オガミ拝まにゃこの道通さぬと囃し苦しましむ。(土佐幡多郡では、おがめおがめ、おがまにゃ打ち殺す。本誌二巻四号二三六頁、中平悦麿氏。)代人これを天馬と謂うの裏行きで、(320)中古の邦文には痩馬を蟷?と唱えある。(『古名録』七六、痩馬を蟷?と呼びしなり。『看聞御記』応永二十四年十二月十五日の条に、「蟷?一疋(ただし代物をこれに遣わす)」とある。)蟷?の形色、外物に紛れやすきが、この虫の生活上の大便宜となるは、近世科学者の斉しく説くところだが、八百年余前の支那人はやこのことに気付き、蟷?執るところの翳もつて形を蔽うべし、けだしその執るところの葉、すでに蝉を得ればすなわちこれを棄つ、しかして俗に、人これを得てもって形を隠すべしと謂うなりと書いたは、チト法螺ながらえらいえらい。蟷?が一枚の葉を執って自身を隠し、今一つの手で蝉を捉え、さて葉を捨ておわり、バアアと言って蝉を賞味すると信じたのだ。その蝉もまた葉で身を隠すと信ぜられたわ。むかし顧ト之もっとも小術を信じ、これを求むれば必ず得と惟うた。桓霊宝かつて一柳葉もて、これは蝉が形を隠すに用いた葉だ、取ってもってみずから蔽えば人見るを得ず、と言った。ト之喜んでみずから蔽うと、霊宝駅鈴のような太い奴を出して尿を仕掛けた。ト之、さては咫尺の間にありながら、俺が見えないのだと、大いに悦んでその葉を珍重した、と出ず。(仏経に翳形薬あり(『大方広仏華厳経』七八。『不空羂索陀羅尼経』上)。)西洋にも隠形術あって、蝙蝠や烏骨鶏の心臓や、死人の眼鼻耳口に入れ土に埋めた黒豆などを用う。ボッカチオの小説に、画工カランドリノ、智人マソに紿《あざむ》かれ、佩ぶれば形を隠すエリトロピアという黒石を捜し歩く。伴れて行った二友ブルノとブッファマルコたちまち、今まであったカランドリノが見えないと騒ぐをみて、さてはわれすでにその石を得たりと悦び、多く拾うた石を佩びて帰るを怪しみ、妻がその訳を尋ねると、女は不浄ゆえ、わが術を破り、われを見顕わしたと怒り、打擲したとあるは、顧ト之と一対の痴漢とするに足る。プリニウス説に、件の石とヘリオトロピウムという草を合わせ、呪を誦すれば、これを佩ぶる人の形が見えなくなる、と。この草今日何物やら確かに知れぬらしい。(また支那では、「蟷?の気、これを含めば火を生ず」(『?雅』一一)と信じた。)(『本草綱目』三九。『韓詩外伝』八。『南方随筆』三九五頁。『尺素往来』祇園御霊会の条。『淵鑑類函』四四六。一八四五年ブルッセル四板、コラン・ド・プランシー『妖怪辞彙』二六一頁。『十日譚』八日三語。プリニウス『博物志』三七巻六〇章。一八(321)八四年板、フォーカード『植物伝説』三六七頁)
 藤原明衡の『雲州消息』上末に、「下官《げかん》、先朝の御時、久しく近仗の職にあり、相撲人等のこと、多くもって見給うところなり。彼此《かれこれ》、巨無覇《きよむは》のごとき者、左右その数あり。力を角《きそ》うの間、その念はなはだ深く、勝負のところ、その興少なからず。近代の白丁《はくちよう》等は、蟷?の体《てい》に異ならず、また嗚呼《おこ》の気あり、何ぞ見物《みもの》となすに足らんや」。痩せ細った男を蟷?に比べたので、今も紀州で蟷?何某などいう。それから『玉虫草紙』に、蟷?をイボムシノヘボ入道、と唱えある。イボムシリなる蟷?の古名からイボムシまたイボシリが出たので、ヘボは今も下劣の意に用ゆる語だ。これも蟷?が臂をあげて拝む状を、仏前の入道の所為に較べたのだ。幼時見た絵本『清正公一代記』とかに、清正少年の時はやったとやら、イボシリ舞とて、法師が眼を瞋《いか》らせ肩ぬぎ(後冷泉帝ごろの人藤原明衡の『新猿楽記』に、蟷?舞の目あり)、蟷?をまねる図を出しあった。(まずはそんなものだろう。)サー・トマス・ブラウンは、ペングィン鳥と蟷?を、動物中その姿勢もっとも人の直立するに近いものとした。(『?廊偶筆』上、「余、城武において、一《ひとり》の小児《こども》を見る。四、五歳にして、手足は蟷?に似、頭高く起《た》ちて両|岐《また》を作《な》し、人を見れば阿弥陀仏を念じ、ただ銭をのみ索《もと》めて厭《あ》くことなし」。蜘蛛《くも》男というのがあるが、こいつはカマキリ小僧だ。)  ト培蝮の姿勢、人に似た上に、?者が女を口説くように、指さしたり拝んだりするから、古ギリシアでこれをマンチス(占者)と名づけ、ズスン人は、女がこれに向かって問うと、偕老すべき男を指示すと信じ(ポリネシアのマンガイア島では、神誌に、蜈蚣、甲虫、蜥蜴と共に、蟷?を小神とす(一八七六年板、ギル『南太平洋の神誌および呪謡』一一四頁)。壱岐では、蟷?の蛸の後手に縛られた状したるものを、アマンシャグメという。アマンシャグメが罰で金縛りになっているのだという(『民俗学』一巻三号二〇六頁折口氏の報))、ホッテントット人は蟷?が留まった人を聖人また福人と尊び、肥牛を殺して恩を謝す。蟷?、住舎に入れば、神が降ったごとく慶賀群集し、大幸福、大繁昌の徴《しるし》、一切罪障滅尽さると心得、羊を一、二頭牲してこれに捧ぐ。ブッシュメン人の話、蟷?に係ること多く、月もと蟷?の履たり、(322)蟷?かつて象の喉に飛び入ってこれを殺した。また死んだ獣に化けて身を小児どもの割《さ》くに任せ、割かれた諸部分がまた合って、今度は人と化け、彼らを追い懸け脅したなどいうのみか、蟷?を創世主とし、彼かつて蛇を杖で打って人となしたというに至る。所詮蟷?大もての地は南アフリカに極まる。ヌビアでも、この虫敬重さるる由。(一六四六年初出、ブラウン『俗説弁惑』四巻一章。一九二三年板、エヴァンズ『英領北|婆羅《ボルネオ》および巫来《マレー》半島宗教民俗習慣の研究』一六頁。『大英百科全書』上に引いた巻頁。一七四六年板、アストレイ『水陸記行新全集』三巻三六六頁。『大英百科全書』一一板、一九巻一三五頁。一九一一年板、ブリークおよびロイド『ブッシュメン民譚集例』二−一六頁)
 これに反し、インドや支那では蟷?を神霊視したと聞かず。(『夷堅三志』壬九の三表に、方土傅太常が許氏の妖祟を平らぐるに、瓶内に虫類、蟷?、蜈蚣、百数伏しあるを、渓流に投じて怪変を免れしことあり。)本邦の神誌にもみえねば、これを使い物とする神もないようだ。(本誌二巻五号三三四頁、楢木氏「薩摩の俗信」中に、蟷?に尿しかけると変事がある、とあれば、地方により多少これを異物視したるなり。)ただし、支那人が古く蟷?に注意したは、その聖賢の書に書き入れ、時候を判じたり事変を察したりに供用したので知れる。例せば、周公が作ったという『爾雅』すでに、不過は蟷?なり、その子は?蛸と出し、『礼記』月令と『呂覧』の五月紀に、小暑至りて蟷?生ずと記し、『周書』時訓五二に、芒種の日、蟷?生ず、生ぜずんばこれを陰息と謂うと載せ、漢の『焦氏易林』四、震の第五二には 「震。牙蘖《がげつ》、歯を生じ、蟷?、戸を啓《ひら》く。幽人、利貞にして、翼を鼓し起《た》って舞う」とある。晋の孫炎の『爾雅正義』にいわく、蟷?、深秋、子を乳し、夏初に至ってすなわち生まる、と。蟷?種別多く、三十余年前およそ六百種知れおった。したがって同じ支那でも、観察した土地と蟷?種の異なるにより、その生まるるに芒種と小暑と一月ほど差《ちが》えた両説ができたとみえる。欧州の蟷?も、秋卵を下し翌夏に至り孵り生まるること、日本、支那と大同だが、インドのある種は、卵を下して約二十日後はや孵り出ずる由。さて、かように古くより支那人が蟷?を識りおったのに、これを薬用し初めたはそう古くない。李時珍説に、蟷?、古方に用ゆる者をみず、ただ『晋済(323)方』に、その粉末を鼻に吹き込んで驚風を治する方あり、また『医林集要』に、巴豆と一所に研《す》って、矢創につけ鏃を抜く法を載せある、と。両書共に明朝の物だから、あまり古からぬ。ただ生きた蟷?に食わせて疣を除くのみは大分古く、晋の時江東人はこの虫を?肬と呼び、後漢の鄭玄の『礼記注』には、燕・超の際これを食肬と謂う、と載す。当時すでに支那に行なわれた俗医方だ。(紀州南部町字山内では、褐色のものを得て、疳虫の薬なりとて、乾し貯う。)この田辺町の神子浜《みこのはま》では、これを煎じ、もしくは焼いて服すれば、脚気を治すという。多紀元悳は、人身に鍼を立てて抜かねば、蟷?の頭を研《す》り、糊におしまぜ、それを銭の大きさに切った紙に拡げて傷処に付けよ、と言った。(また、この虫を日に乾し細末にして、針、釘などを踏み抜いた疵口へ飯粒で塗り、針頭を出だすを鑷《けぬき》で抜きとり、甲州高坂弾正秘法権法散と名づけたとか(津村正恭『譚海』一三)。)また、むかしこれを鷹の病を療ずるに用いた。これらは本邦の俗医方らしい。(『剣橋動物学』五巻二五八および二四六頁。『本草綱目』三九。『本草従新』一七。『増訂漢魏叢書』所収『方言』一一。『淵鑑類函』四四六。『南方随筆』三九五頁。『広恵済急方』下。『続群書類従』五四五所収『養鷹秘抄』)
 支那で蟷?を薬用した例少なく、かつ(生きたものに疣を吃《く》い去らしめた外は)晩出せるに反し、桑?蛸、すなわち雌蟷?が桑の木に生み付けた子房は、最も早く『爾雅』に録され、海?蛸とともに、漢代に成ったらしい『神農本草経』に載せられた。海?蛸は海に産するイカの甲で、形状、薬効ならびに蟷?の子房に似たによっての名だ。『神農本草経』に、「桑?蛸。傷中|疝?《せんか》、陰痿を主治す。精を益《ま》し子を生ましむ。女子の血閉と腰痛には、五琳を通じ小便水道を利す」。『名医別録』に、「男子の虚損、五臓の気微、夢寐の失精と遺溺を療ず。久しく服すれば気を益し神を養う」。『薬性本草』には、「炮熟して空心にてこれを食すれば、小便の利を止《とど》む」。予、紀州西牟屡郡二川村|兵生《ひようぜ》で聞いたは、蜂蜜を暖めて服すれば大便を柔らげ、温めずに用ゆればこれを固くす、と。?蛸も用いようで、小便を利し、もしくは留めるのであろう。『本草衍義』に、特に桑の木に著いた?蛸を用ゆるは、桑の性よく水を引いて腎に達せしむる(324)からと説き、桑?蛸は、「男女の虚損、腎衰と陰萎、夢中の失精と遺溺、白濁と疝?には、闕《か》くべからざるなり。隣家の一《ひとり》の男子《おとこ》、小便、日に数十|次《たび》あって、稠《こ》き米の?《とぎじる》のごとし。心神恍惚として、痩せ痿《おとろ》えて食減ず。これを女労に得たるなり。桑?蛸の散薬を服せしむるに、いまだ一剤を終えずして癒ゆ。その薬、神魂を安んじ、心志を定め、健忘を治《いや》し、心気を補い、小便の数《しばしば》なるを止《とど》む」と、やたらにほめ立てて、その調製法を述べある。要するに古支那人は、男女かの一儀を行ない過ぎてでかした百般の病症を治するに最上の薬は、桑?蛸と信じたのだ。(ついでにいう。『輟耕録』九に、「?魚《せいぎよ》の子のごときは蟷?子《とうろうし》と名づく。松江より上海、杭州より海寧に及ぶまで、人みな喜《この》んで食らう。??《かに》の螯《はさみ》は、名づけて鸚哥《いんこ》嘴という。きわめて紅《あか》きものあって、これに似るをもってのゆえなり。二物とも形を象っていう」。ここに言える蟷?子は、疑いもなく桑?蛸を指す。)
 この信念の起因を尋ぬるに、唐の段成式の『酉陽雑俎』一七に、?蛸を俗に野狐鼻涕(狐のハナシル)と呼ぶとみえ、『日本百科大辞典』二巻には、?蛸にオオジガフグリ、烏ノヨド、またヨドズリ等の名ありと書し、本誌一巻六号四二九頁に、村田氏、武州元八王子辺でこれを烏の雫という、と報ぜられた。(鈴木重光氏の『相州内郷村話』八二頁にも、同じ方名を載せある。本誌二巻四号二三六頁、中平悦麿氏説、土佐幡多郡でオガメノユウダレ(涎)。)最近宮武省三君の来示に、豊前小倉市上富野でジイノヘンズリ(爺の手淫)という由。上にも引いた通り、『重訂本草綱目啓蒙』三五にいわく、蟷?、秋深き時は、雌なるもの、樹枝上において巣を作る。初めは唾を吐きかけたるがごとし。日を経て堅凝し、古紙塊のごとし。長さ一寸ばかり、浅黒色あるいは微褐を帯ぶ。これ?蛸なり、と。『剣橋動物学』五巻二四六頁にいわく、蟷?卵を下す様奇態で、雌が尻を小枝や石に押し付け、泡沫体の物を出だす、その内に卵あり、この泡沫ごとき物が乾いて子房となる。その物十分濃くなるうち、尻と前翅の端で?蛸に仕上げらる。卵は無茶苦茶に居並ぶでなく、整然たる房室中に安排さる。どうしてそう手軽くこんなこみ入った物ができるかは不可解だ、と。初め?蛸いまだ成らぬうち、いわゆる唾また泡沫ごときを狐の鼻涕や何物かの淫液に比したから、(325)種々の名あり。烏ノヨドは涎のことらしいが、ヨドズリはヘンズリに近いから、ヨドも淫液のことかも知れない。
 仏家が八位の胎臓を説く、「その一は羯羅藍《かららん》。凝滑なるを言う。初め受胎七日にして、父母の二気(熊楠いわく、邦俗、精液をキと呼ぶは、ここにみえた気だ)凝聚し、状《かたち》、凝《かたま》れる酥《そ》のごとくなるを謂う。故に羯羅藍と名づく」。父と母の二つの気が、母の体内で凝聚することをヨドムという。「お賤が閨の□□、度重なりて枕の数、読み尽されぬ文の数々、いやましの思い草、葉末の露の一《ひと》雫、落ちてこぼれて水の月、淀み淀みて〔五字傍点〕影もはや、まるで四月はある物も(月事)なき身の果はいかならんと、心苦しさ、おとましさ」などとあるから推すと、烏ノヨドはいよいよ淫液のことと思わる。(出板年月および作者不詳『当世貞女容気』七の一、因果と女房、その夜の情の水よどみて腹に帯して人目を忍ぶつらさ。)狐や烏は好んで虫を食う物ゆえ、蟷?が卵を生むところを食い、その跡に未成の?蛸が残るを狐の鼻洟、烏の淫液など誤信したのだ。それから右の文中の「葉末の露の一雫」、糸風の句に「葛水はたかだか指の雫かも」。西鶴が国上臈の記述に、「世にまた望みはなき栄花なりしに、女は浅ましくそのことを忘れがたし。されども武士は掟正しく、奥なる女中は男みるさえ稀なれば、云々、菱川が書きし小気味のよき、云々、手の高々指を引き靡け、云々」。これらをみても、烏の雫とは淫液のことと判る。されば、?蛸を古来オオジガフグリ、オジイノキンダマと沿革して称えたに随って、その未成のものをジイノヘンズリと唱うる地方もあるのだ。『倭名類聚抄』に、「精液、俗に淫という」。?斎の説に、「『童子経』に、赤肉は母の淫、白骨は父の淫、という。すなわち精液を謂いて淫となすなり。『今昔物語』もまた同じ」。(熊楠謂う。『新撰類聚往来』は、永禄九年の作ならんという。その中巻に、ヘノコ、フグリの次、ユバリの上に婬と出す。もって戦国時代までも、もっぱら精液を婬と称えしと知る。『醒睡笑』六、少年、尻に火が付いたと騒ぐ、親、火をもち来たり見て、大事もないぞ、お坊主様の精が入って消したまわったわ、と言うあり。元和ごろは精とも言ったらしい。『出曜経』一二、「女これに答えていわく、それ人の饑渇するあれば、給《あた》うるに食飲をもってするは、あに篤《あつ》き意ならざらんや。われ今、婬火|熾盛《さかん》なれば、卿の婬水を須《もち》い(326)てこれを滅《け》すは、あにわが情に適《かな》わざらんや」。トロブリアンド島人ごとき劣等種さえ、固有のモモナという称呼あるに、本邦|蚤《はや》くその固有称呼なかったはずなし。それが後世に伝わらず。以前は淫〔傍点〕(また精〔傍点〕(『柳亭記』上))、昨今は気〔傍点〕でのみ通称さるるは、追い追い支那を崇むるに及び、当時の上流開進した輩が力《つと》めてこれを邦語で呼ばず、支那名で称えしに由る。固有の自国語を失うたは不本意ながら、かかる物をもっぱら凡衆の解せざる異国詞で話したは、恥を隠し言を慎む、よい心懸けと言うべし。それと等しく、支那人いと早くより、未成の?蛸が酷《ひど》く人間の精液吐淫に似るを看取し、似た物が似た物の病を治すとの見解から、もっぱら桑?蛸を、男女一儀をやり過ごして生じた諸病の最上薬と貴んだが、未成の?蛸が淫液に似るという一事は、慎んで文献に遺さなんだと愚考す。(『大明三蔵法数』三二。『熊谷女編笠』四の一。元禄十六年板『青簾』。『一代女』一の三。『箋注倭名類聚抄』二。一九二九年板、マリノウスキー『西北メラネシア蛮人の性生活』二八五頁)
 終りに臨み一言するは、本誌一巻四号二七八頁に、楢木君は、蟷?を貧乏の神とする地方も割合に多いようである、と説かれた。予が本篇に述べたごとく、むかしも今も邦俗痩せ男を蟷?に比ぶる。貧人多く痩せるところからこれを貧乏神とするか。紀州には、さらにそんなことを聞かず。至って初耳ゆえ、楢木君が知っただけの、蟷?を貧神とする地方の名を教えられたい。
 また本篇を過半認めた処へ、宮武省三君より手書著し、多く未聞を聞き得た。参照のため左に写し出す。
  さて、御照会の蟷?の子房のこと、当地方(福岡県小倉市上富野)にてはジイ(爺)ノヘンズリ(手淫)といい、企救《きく》郡内にても、吉田にてはジジノキンダマ、曽根にてはジートバー(爺と婆)と申し、いずれもこれを舐れば、涎《よだれ》くる癖治まると申し伝え候。ジジノキンダマと言うは、その恰好の似たるより申すものに候が、筑後住吉地方にては、烏ノキンダマと申し、やはり涎くる者または吃りの者これを食えば癒るといい、山口県舟木(神功皇后征韓の時、この地の楠を船材とす。よって舟木の名あり。その余材をもって、皇后櫛を造らせたまう。故に舟木櫛と(327)て今に所の名物として世間に知らる)にても同様の申し伝えありて、この子房をネブリコと呼び候。しかし、物は見様一つにて、東都に近き沼津地方にては、木兎にみえるとて、この子房をミミツクと言う由に候。大体日本にては御説のごとく、昆虫に関する譚至って乏しく候えども、俚諺などには相当引合いに出されおり、たとえば瘠せた者を「蟷?のようじゃ」と言うごとく、また前記舟木にては、ゲッソリきわ立って瘠せるを「蟷?のセンショふるう」と言うがごときは、なかなか奇抜な喩えと存じ候。このセンショの義確かならず候も、子房すなわちこの郷にてネブリコというものの別名かと推測致しおり候。喩えの意味は、蟷?が子房を肚に持って、人間で言わば、大鼓腹しておったが、これをふるい落として、一時に肚が小さくなつたるを、人間の急にやせたる形容に旨く宛てはめたるものに候。蟷?が肚は誰の眼にも付きやすきものゆえ、南画の手ほどき、蘭のかき方にも、葉に膨らみを持たすところを蟷?肚と称え、この肚の心持にて筆を運ぶことと相成りおり候。(熊楠いわく、『大清一統志』三〇五、雲南府に蟷?川あり、?池の下流なり、とある。あるいは蟷?の腹ごとく脹《ふく》れあるよりの名かと思う。)
 御尋ね申し上げたきは、蟷?の尻より黒き虫を出すことあり、これは寄生虫に候や。また貴地にて何と呼び候や。筑前今宿地方にてはスバコといい、前掲舟木にてはスンバクといい、これに小便し掛くる時は、蚯蚓にし掛けたと同様、局部はれるといい、今一つ、この郷にては、茶色の蟷?をすり潰し、脚につけば脚病癒ゆ、と申し候。(熊楠上に載せたる、紀州神子浜の俚医方参照すべし。)鹿児島にては、カマキリを一名オンガマッショと呼び、子供これをみる時は、その前方に竹の棒など突き付けて、オガマナコロス、オガマナコロスと申し候。(熊楠幼時、和歌山市でも同様にした。)(下略)(熊楠いわく、スンパクは寸白なり。『今昔物語』、『本草綱目』等にみえ、人体内に寄生する虫の名だ。)
 最後にまた述ぶるは、『日本百科大辞典』一巻七一七頁に、イボムシリ、イボクイ、イボジリムシを、イボタロウ(328)ノムシ(水?樹虫、白?虫)の一名とし、二巻蟷?の条、さらにイボムシリ等の三名が蟷?の称えなるを言わず。『重訂本草啓蒙』三五に、イボタ?よく疣を治すという。その効蟷?に同じきゆえ、もと蟷?の称呼だったこれら諸名を押し取ったものと思う。(昭和四年十二月二十九日午下、稿成る)
 (再追記)本稿発送後、貞徳の『油粕』に「いかにへのこの悲しかるらん」という宗鑑の句に「蟷?の家ある柴を折り焼きて」と付けたるを見出だした。そのころ?蛸(蟷?の子房)を蟷?の家と心得たのか。もしくは家ある〔三字傍点〕は住むの義で、オオジガフグリすなわち陰嚢が焼かるる熱さが逼って、いかにじき隣の陰茎が悲しかるらんという意か。大方の教えを冀う。(一月三日早朝)
 また一九〇四年板、バッジの『埃及《エジプト》諸神譜』二の三七八頁に、『死人経』の七六および一〇四章に、アービトまたベバイトという虫が、死者を「王の家」に案内し、また延いて地下界にある諸大神に謁見せしむとある、この虫はたぶん蟷?であろうと述ぶ。一八九八年板、バッジ英訳『死人経』一三二と一六五頁なる件《くだん》の二章には、アービトをアーバイトに作り、ベバイトとともに断然蟷?と訳しある。『死人経』はいつ作られたと確かに知れぬそうだが、果たして蟷?が件の二名に当たるなら、『死人経』はけだし蟷?を載せた現存諸文献中、最古のものであろう。(一月四日午後三時)  (昭和五年二月『民俗学』二巻二号)
 
(329)     鮑が難船を救うた譚――鷸蚌の故事
 
 『朝倉始末記』に、一老人が若者どもに朝倉家の祖先について語る。
 「往昔、天智天皇の御宇、異国の兵舟わが朝へ攻め来たり、その時、元祖表米の宮、
  この書初章に、孝徳天皇の御子表米親王、異賊襲来の時、その子荒島王と共に詔を蒙り、但馬の海に出でて、一戦に敵を靡けて帰京の時、叡感ことにはなはだしく、但馬国朝倉郡大領として、始めて日下部の姓をぞ賜わりける、と記す。「日下部系図」に、表米は朱雀元年卒す、朝来郡久世田荘賀納岳に、表米大明神と祝い奉る。『野史』一四六には、「朝倉家譜」に従って表米を袁采に作り、「国史にいまだ見るあらざるところ」と記す。
勅を受けて数万の軍勢を率し、但馬国の海上にて合戦したまいし時、にわかに大風吹き来たり、もろもろの兵船ことごとく覆して、軍兵いくらともなく底の水屑となりにけり。中にも、表米の宮の召されたる御舟ばかりは、恙なくして本の汀に着き給う。宮奇異の思いをなしてその船を御覧ありければ、舟腹に鮑|数多《あまた》著きてあり。宮仰せけるは、多くの船のその中に、わが舟一艘破損せざること、この鮑の助けによってなりとて、その鮑を一つ取らせてよくよく見たまえば、貝の中に弥陀の三尊歴然と顕われてありけり。宮、左もこそと三度頂戴あって、随喜の涙を流し、まことにこれ仏神の擁護たるべし、自今以後わが子孫たる者は鮑を食らうべからずとて、すなわちこれを錦の袋に納めたまえり。かくてこの仏力を信感して、今度の一戦に利あらんことを掌に握りたまい、残卒を集め勇兵を倍して、また大洋をおし渡り、終《つい》に夷敵を攻め退けたまいけり。よって、ここの鮑貝、当家数代の尊崇を今に相伝したまうなり」と(330)言ったそうな。
 『本朝食鑑』一〇や『箋注倭名類聚抄』八を按ずるに、鮑はもと乾魚を意味した字だが、後に和漢ともこれをアワビとしてしまったので、また蚫と書くは本邦での手製らしい。アワビは石決明、ナガレコ一名トコブシは鰒に相当するよう、『重訂本草啓蒙』四二にみえる。しかし、古支那人はこの二つを区別しなかったようだ。予が識った広東人はみな鮑また包魚と呼びおった。本文を見て鮑とは何だろうと問う人のために弁じおく。
 右の『始末記』を読んだだけでは、表米親王は全く弥陀の三尊の霊験加護で難船を免れたばかり、弥陀の威徳を表わし示す方便として鮑が出現したのだが、その鮑が数多船腹に著いては反って船の操縦を妨げた嫌いなきにあらず。どこかに物足らぬ書き様と年来怪しみおった。
 ところが、一昨日、中道等君より恵贈安著した近著『奥隅奇譚』六八−七〇頁を読んで、よくその訳が判った。それは寛政のころ、(陸中下北郡)大畑村出身の船頭長川《おさかわ》仲右衛門が、江戸将軍の御座船政徳丸の大船頭となり、房州沖を通るうち、船に水が漏れ入っておいおい沈没に瀕した。仲右衛門、舷に坐って著岸までは事なきようと諸神を祈念すると、次第に水漏りも止まり、間近いある湊に著いた。そこで船を陸へ引き揚げて検めるに、アアラふしぎ、五寸五分もある大鮑が、その船腹にあけあった鼠の穴を全く塞ぎ水の滲入を止めあったので、命の親と伏し拝み、御身は然るべき処に往き、新しい殻を再造して長生されよ、殻は持ち帰って永く紀念の家宝とすると、かの鮑に断わって身を離し、その殻に大神宮の三字を書き、持ち帰って後代に伝えた。先年、その家北海道に移住するに臨み、かの鮑殻の保管を村の神官に頼み、神官はこれを郷社八幡宮の神宝として現在すと、譚の概要|件《くだん》のごとし。
 ちょっと『朝倉始末記』と『奥隅奇譚』をよみ較べると、『奇譚』の記事は『始末記』の焼直しのように勘づく人もあろう。だが、濫漁暴猟のきわめて盛んな今日の視聴をもって、人|寡《すくな》く技拙なりしむかしのことを判ずべきにあらず。例せば、この田辺湾に予が幼《いとけな》かった五、六十年前までは、水鮫とか呼んだ鮫の大きな奴が船の横側に著いて安息し(331)おるを、英人がある地方でトラウト魚を撫で取るごとく、徐《しず》かに撫で「眠らせ」て取ったこと往々あった。また日高郡にアシカがいわゆるおとめ魚(禁猟吻)で、後年われらがサンフランシスコの金門公園の浜で毎度見たごとく、無数一島に聚まって遊戯優々たる処があった。ある介族ごとき、海底に小山のごとく群団する由をしばしば聞いた。そんな物は今日夢にも見及ばない。二十五年前、知人の子供が池に遊んで、甲の長さ五寸五分ある亀を拾い来たった。それを予が貰って今も自宅に飼いあり。初め二、三年は宅地が狭くて池に畜《か》う能わず、庭より椽の下を勝手自在に這わせておくと、土を掘って潜むから所在をしばしば見失う。よって漁婦に頼んで、厚く重き鮑の殻一つを貰い、麻緒もて亀の甲に維《つな》ぎ置いた。亀が歩むごとに鮑が地を擦って音を出す。亀が土に没しても鮑は上に留まりおり、もってその所在を標した。その鮑殻が今もあるが、長さ四寸五分ある。当年決してはなはだ稀有の品でなかつたが、昨今かかる大きさの鮑殻は手に入らぬ。よって惟うに、百余年前の奥隅にたまたま五寸五分の鮑があったとて怪しむに足らず。いわんや筆者みずから「実見すると五寸三分ほどある」と明言せるにおいてをや。さて、ヨメガサラ等はいざ知らず、鮑が進航中の船腹につくということはこの辺で一向聞かぬことながら、むかしことのほか鮑が多かった所には、そんな例も間々あったべく(『譚海』三に、隠岐より六、七十里の北に当たれる島に大竹生じ、その靡きて海に浸れる末に、鮑おびただしく取り付きあるを、隠岐の漁人年々渡海して、これをとり来る、と)、したがって鼠の穴や綻び穴を鮑が塞ぐほどのまぐれ当りも皆無と言うべからず。よし皆無であったにしても、すでに鮑が往々難破しおわった船底に著くことある以上は、それが水の漏れ穴を塞いだぐらいの話はおのずと発生したはずだ。
 したがって考うるに、『朝倉始末記』に載せた話は、初め『奥隅奇譚』の話と同じく、表米親王の船腹より水漏れ入って難破すべきところを、数多の鮑がその漏れ穴どもを塞いで沈没を免れしめたと述べたのを、のちに介殻に仏像現わるという支那譚などから思い付いて、鮑殻内に現じた弥陀三尊の加護で助かったと宣揚し、鮑どもが漏れ穴を塞いだことは抜き去られたのだ。人工で鮑等の介殻に仏像を現ずるは支那で毎々見るが、いつごろ始まったか知らず。『酉(332)陽雑俎』続集五に、旧伝にいう、隋帝、蛤を嗜み数千万以上を食うた、たちまち一姶あり、椎撃すれども破れず、帝これを異《あや》しみ、机上におく、一夜、光あり、夜明に及び肉おのずから脱す、中に二仏と一菩薩の像あり、帝悲しみ悔い、誓うて蛤を食わなんだと、と出ず。(この隋帝とは、たぶん父を弑しながら、仏教には大いにはり込んだ煬帝であろう。すでに  などは、まるで弑逆の重罪を抜きにして、帝を聖人のようにほめ立てある。誓うて蛤を食わなんだは事実かも知れねど、今一つの蛤は始終大好物で、父帝を弑した当夜、父帝の寵姫を烝し、また  をも烝したと正史に見え、その他荒淫乱蕩して死を招いた状は『煬帝迷楼記』、『煬帝艶史』等で察知せらる。『宋高僧伝』一一に唐の文宗、食わんとした蜃蛤より観音が出たことあり、その図は『仏像図彙』二に蛤蜊観音と題して出だしある。また、南唐の時、蚌より一尺ばかりの珠仏を吐出したことあり。仏相を現じた鮑の殻の図説は『想山著聞奇集』五に出ず。)初め介殻内に外物が侵入して珠質を被り、朧《おぼ》ろげに仏、菩薩等とみえたのを、おいおい人工で模作して信徒を驚歎させたので、御伽草紙の蛤機織姫もそんな物から生じた物語とみえる。こんな理由で、予は『朝倉始末記』の擔をも、多少の事実によって敷衍されたものと思う。
 事態が幾分これに似たのは鷸蚌《いつぼう》の故事だ。皆人の知る通り、これは『戦国策』一三に出ず。超の恵王が燕を伐たんとした時、弁士蘇代が燕のために恵王に説いた。今日ここへ参る途上で易水を過《よぎ》ると、蚌が殻より身を出し日に曝す。ところを鷸来たってその肉を啄いた。すると、たちまち蚌が両殻を合わせて鷸の啄《くちばし》を挟んだ。鷸いわく、そう挟んだままで、今日も明日も雨降らずば、汝は乾いて死んでしまうぞ、と。蚌いわく、こう挟んだまま、今日も明日も殻を開かねば、汝は飲食ならず餓死すべし、と。双方意地を張って、現状維持の最中を、漁夫窺うて双方とも生け捕った。今趙と燕とが軍《いくさ》を始め久しく対峙せば、強い秦が漁夫同然、燕と趙を両取りとくるが恐ろしい、と。そこで趙王、ンナールほどと感じ、燕国征伐を止めたというのだ。鷸は啄が細長くて、餌を水中にあさり、蚌は驚くごとに両殻を緊閉するに基づいた戯作談というのが普通の見解だ。(西晋の張華『禽経注』にも、「鷸、水際にて蚌の出ずるを伺(333)い、啄《つつ》きてこれを食らわんとし、反って蚌の持《とら》うるとことなり、水中に死す。食らうところのもの、もって害をなすを知らざるなり」とある。)しかし、蚌や田螺《たにし》などが殻を閉ずるハズミに鳥獣の羽毛等を緊《きび》しくしめ込み、その体に固著して離れず、その鳥獣はこれを佩びて遠く飛び走り、覚えず知らず螺蚌の分布を拡めやる実例は予|親《みずか》ら観たことあり。(十九世紀の末近く、キュー氏、このことを博く調べて、「インターナショナル・サイエンチフィク・シリーズ」中の一巻『介類伝播説』を著わした。予の蔵書中にあれど、ちょっと見当たらず。その中の蚌が水棲甲虫の一脚に挟み付いた図が『大英百科全書』一四板、一三巻六二四頁に転載されあるを見る。)(されば、明治九年六月文部省発行、須川賢久訳、われら少時教科書として大いに行なわれた『具氏博物学』巻五には、鼠の頭を牡蠣にしめ付けられて困《くる》しむところの図あり。ある小学先生これを見て、縮れ髪の中年増に今一つの頭をこんなにしめ付けられたい、と言いおった。当時その意を解し得なんだが、今に及んでその言の至誠に出でたるを知る。)(享保二年の作という『和漢遊女容気』二の三に、飴売り加藤内が、平戸浦辺の漁師町で、大きな鼠が片脚を赤貝にしめられ、脱れんとあせり争うところへ鳶が飛び来たり、二つながら食ってしまうを睹《み》る挿話あり。)
 されば、享保二年、其磧作『明朝太平記』二に、肥前の平戸へ乗馬した旅人来たり、その馬子が馬に食わすべき粥を調べるうち、かの旅人只今海中より海士が取ってきた大赤貝をみて、よき中食の肴、これを求めて、先の昼休み場で料理して楽しまんと、下人に命じて買い求め、こんな大きな赤貝は、長崎にてもみたことなし、どれみせよと馬上より手を伸ばし、この貝を取ってみる拍子に、いかがしたりけん、この貝、馬の下齶に食いつき、ここを先途としめ付ければ、馬は首を振って離さんとすれども離れず、赤貝が馬をとるは、今が見初めなるはと、旅人の主従大いに笑う。二人の家来のうち一人、これは旦那大分めでたい、お前は長崎丸山にては、出島屋の万六様と申して女郎屋の一番、このたび宜しき太夫をみたてに、上方へお上りなさるるについて私を召し連れらるるが、拙者はすべて女郎を目利きして、その媒介を仕る女見《じよけん》の又兵衛とて、丸山での女目きき、さるによって大坂新町京島原の仕替もの、または(334)上方の貧家の娘、末々物になりそうな者を目利きさせんと、このたび召し連れられて罷り上るところに、この赤貝の馬の口に食い付きたるは、お前の掘り出しなさるる嘉瑞、まず馬の口には轡を掛けるが定まったることなれば、お前は丸山で名高い轡、そのくつわへ新しい上赤貝の女郎が思い付いて、招かぬにひとり食い付くと申す前表、何といやとは申されますまいが、と言えば、万六大いに悦び、三人祝うて三度の手を打つ、とあり。いと滑稽な趣向だが、赤貝があわてて馬の齶に食い付くは、鮑が船底の穴を塞ぐと等しく、世に全くあり得ざることにあらず。
 (ついでにいう。本年四月十五日来の『大毎』紙に、鳥取、島根両県に跨る中海の赤貝採取区域境界争いにつき、十三日来、米子市森屋旅館で両県水産関係代表者が折衝中なりしも、十四日午後一時に至り、終《つい》に決裂を見るに至り、各沿岸漁村民はにわかに殺気立ち、いついかなる椿事を生ずるも知れずと、両県当局また農林省から種々斡旋して内海の区劃漁場区域外を自由漁場とし、区劃区域には農林省並びに二県代表者が立会の上、境界を判断しやすく標柱を建つることに定め、協定書を取り交して解決した、とある。つまり区域内の赤貝は他県のものに取らせず、区域外のは力次第誰が取ってもかまわぬということにしたらしい。赤貝は誰人も渇望するところだから、このほかに手はあるまい。これは正真の赤貝だが、史籍載せるところ、秀吉、秀次、佐々成政等、人間の赤貝より大騒ぎを生じた例が意外に多い。)(大分古い所では、『今昔物語』二九巻三五語は、鎮西の海浜で、猴が手を溝貝に咋《く》われ、折から潮が満ち来たり、海に没せんとするを見た女が、木を貝の口に入れ、手を引き出し助けやり、のちその猿が鷲を殺して報恩した話である。)
 さて、次に述ぶるは戯作でなくて、西暦九世紀の事実譚だ。いわく、世の中にはまことに異態な珍事に遭ったばかりに、貧しい人がにわかに暮らしよくなった例なきにあらず、と前置きして説き出だす一条の話。かつて沙漠に住む一アラブ人が、一つの真珠を持ってバッソラ市へ来たり、相識った薬舗主にこれは何じゃと尋ぬると、真珠と答えた。値《あたい》いかほどと問うと、百ジレムと告げた。誰か買ってくれるだろうかというと、舗主すなわち百ジレムを手渡したの(335)で、夢であるなと大いに悦び、その百金で豊かに妻子を養うた、と。これだけでは話が別に面白からぬ。ジレムは回教国に行なわれた銀貨で、女の味と等しく、年代に随って種々|異《かわ》ったようだが、『大英百科全書』一一板、一九巻、銭貨学四版七図に出たのは、現行五十銭の日本銀貨大の物ゆえ、百枚よせたってあまりな大金でない。『宇治拾遺』一四の、貞重の舎人が著けた水干一つに替えた真珠一つを、博多の唐人が六、七千疋の質物の代りに取って満悦した話の方が、はるかに興味多し。と読者が呟くだろうが、マア静かにしねえ、これから快くなるんだ。そこで薬舗主、その珠をバグダッド大城に持ち行き、莫大の値に売り、大いにその商業を拡げた。その舗主が売手のアラブ人に、どうしてかの珠を見出だしたかと問うと、次のごとく答えた。初め、予はバーレイン州のアル・サムマムとて海をわずか距たった地に往った。とみると、砂上に狐が一疋死んでおり、口に剪刀のような物を付けあった。馬より下ってよくみたところ、それが一種の介殻で、内面が白く光り、底に丸い物があったから採った、と。けだし、その介は常習通り、空気を呼吸せんとて浜に上ったところへ、狐が来合わせ、口を聞いた介の身を食わんと喙を突っ込んだ。その時晩くかの時早く、介が両殻を閉じた。女が挟んだのは興|竭《つ》くれば縦《はな》つが、本当の介が挟んだら、何としても多々ますます締めて開かず。狐は喙を挟まれ、頭を左右の地に打ち付けながら走ったれど、介は一向締まりを弛めず。とうとう狐も介も死んでしまったと判った、と。(Reinaud,‘Relation des voyages faits par les Arabes et les Persans dans l'Inde et à la Chine dans le IXe Siècle de l'è re chrétienne,’Paris,1845,ii,pp.148-150)
 これは西暦八五一年(文徳天皇仁寿元年で、小野篁が死んだ前の年)、ベルシア人が筆した実譚だ。天地|頓《にわ》かに滅びず、歳月悠久と流るる間には、実際鮑が船の漏穴を塞ぎ、鷸蚌ならび斃るることも一度ならず、事実として繰り返されたはずで、伝説、故事、共に誠から出た多少の啌《うそ》と知るべし。(二月十九日、朝四時成る)
  『譚海』八に、常陸の金砂山明神、鮑を神体とすること、詳しく出ず。ただし、難船を救うた話はなし。藤沢衛彦(336)氏『日本伝説叢書』佐渡の巻、四〇八頁に、羽黒神、鮑に乗って佐渡へ来たれることを記す。『新編相模国風土記』一一四、三浦郡深田村猿海山竜本寺の寺宝に鮑貝あり、縁起に日蓮房州より渡海の時、この鮑の加護により難船の患を免る、その時行法の徳により日月および貝中に題灰を現ず、と。『越前名勝志』足羽郡の項、一乗赤淵大明神社の条に、『朝倉始末記』の評の異伝出ず。『民俗学』二巻一〇号六三七頁に、肥前国多良山の神は、むかしある御姫様で、うつろ舟に入れて流された時、岩に当たりて水滲入せんとするに、小さき蝦がその割目につまって命が助かったゆえに、今にこの神に願掛くるものは蝦を食わず、と(木下利次氏報)。
            (以上、『朝倉始末記』の記事の上に)
 『常陸風土記』飽田《あきた》村の条に、古老伝えて、倭武《やまとたける》天皇この野に宿りたまいし時、「人奏していわく、また海に鰒魚《あわび》あり、大きさ八尺《やさか》ばかり、と」。『秉穂録』一編下に、安房勝山の浦、云々、海上に小島現われたり、数日ののち口を開きたるを見れば、大なる鰒なり、やがて沈んで見えず。『梅翁随筆』四に、寛文五年、安房の亀崎の海上、毎夜、光あり、四、五の蜑輩海底に入っておよそ七、八十丁余の大鮑を見出だした、とある。『陰徳太平記』七〇に、河野通信、周り三尺の大鮑を獲て奴可入道に献じ、これを討ち取ることあり。また寸法を詳記せぬが、浮かむ瀬として名高い七合半入りの鮑殻の大盃が、予の幼時まで大阪にあった(宝永・正徳ごろの脚本『傾城山崎通』上、『嬉遊笑覧』一〇上)。                      (以上、鮑の大きさをいえる上に)
 宝永四年板『千尋日本幟』五の七、祐天、鮑が女に化したより感得した三尊二十五尊来迎の相現ぜし鮑殻のこと。
            (以上、鮑殻に仏相現ぜしことの上に)
 宋の銭易『南部新書』戊巻に、「太和中、上すこぶる好んで蛤蜊を食らう。沿海の官吏、時に先んじて逓《たが》いに進め、人もまた労止《つか》る。一旦《あるあさ》、御饌の中に擘《さ》けども開かざるものあり、すなわち香を焚いてこれを?《いの》れば、にわかに変じて菩薩となり、梵相具足す」。
(337) 『?史』五に『慈倹訓』を引いて、「?水」の兪集、宣和中、泰州の興化に尉として赴く。淮上に多く蚌蛤あり。舟人いわく、買いて食らうなり、と。集、見てすなわち贖《あがな》いて放つ。他日また一籃を得たれば、価《あたい》を倍にしてこれを償わんとす。しかるに舟人は不可として、ついに釜の中に  貴《お》く。たちまち大いなる声、釜より起こり、光韻相|属《つ》ぐ。舟人大いに恐れ、熟視するに、一の大いなる蚌、裂け開いて、観世音の像を殻の間に現ず。かたわらに、竹両竿あり、挺《ぬき》んでて生けるがごとし。菩薩の相好、端厳にして、冠に瓔珞《ようらく》を垂れ、および竹の葉と枝と幹と、みな細かなる真珠の綴り成せるものなり。集、舟中をして、みな仏を誦《とな》え、罪を悔いしめ、その殻を取りてもって帰る」。『玉芝堂談薈』一二の三五表にも、この記載あり。『夷堅丁志』一四の五表に、蚌中に珠あり、羅漢像をなすこと。また同『支志』景六の六裏に、蚌中に観音像を現ずることあり。
 『古事記』、猴神、介に手を挿まれて死ぬことあり。安永三年成、入江獅子童の『幽遠随筆』上に、小蛤が大鼠の足を閉じて溝中に落とし、死せしめた話あり。『甲子夜話』一七に、平戸にて猿、手を鮑にはさまれて川上という人が放ちやりしこと出ず。『牟婁口碑集』九一頁に、鉛山《かなやま》で鰒に猴が足をはさまれたるを救い、礼に薯蕷三枚もらいしこと出ず。金翅鳥、象と亀と闘うを、二つながらとり食らうこと(「英国抜書」四八裏)。女が大蛤に挟まれて死んだ話、セリグマン『英領ニューギニアのメラネシアンス』三九八頁に出ず。『古今著聞集』に、近江の金に腰しめつけらるる話あり。鬼、大蛤に閉じこめらるる話(Wheeler,‘Mono-Alu FOlklorem’1926,p.60)。  (昭和五年四月『民俗学』二巻四号)
 
(338)     千疋狼
 
 幼時、和歌山市の小学校で、休憩時間にしばしば同級生どもから千疋狼の譚を聴いた。何時のこととも何地のこととも分からず、ただ狼は、事あるに臨みおびただしく集団するもので、人が懼れて高木に登ると、群狼その木の根本を取り囲み、丈夫な奴らが根に取り付くと、他の狼どもが木に倚ってその肩に立つ。その輩の肩にまた他の奴輩が立つ。かくて逓次人が梯に登るように、狼どもが木の幹を攀じて追い追い樹上の人に近づき、終《つい》にこれを咬み傷つけ、その人落つるを俟って群狼これを頒ち食らうのだそうな。そのころ珍談ずきの老少、ほとんどこの話を知らぬ者はなかったによって、定めてずいぶん広く世に知れ渡ったことだったろうと、近日思い立って他府県の諸友へ聞き合わせたところ、多くは返信に接しなかったが、宮武省三君から、いの一番に来示あり。これは都合で跡廻しと致し、二番に寺石正路君の芳翰が著いた。御申し越しの、群狼梯をなし木を攀じ人を襲う話は、当国安芸郡野根山と申す大山中にその伝説あり。別紙に書き立て申し候ということで、別紙全文左のごとし。
  土佐野根山、狼の話。土佐国安芸郡野根山と言えるは、昇り降り十里の深山にして、むかしより人跡少なく、いと寂しき所なり。ある時飛脚一人、御用をもてこの山をこすに、山上にて一人の産婦、数十匹の狼に吼え立てられ、すでに危うきところを援け、幸いに隣にある大杉の枝に上らせ、その危難をさけしめたり。
  しかるに、狼群はこれに屈せず、狼同志肩梯子をかけ、順々せりあげて杉の枝に達し、そのうち巨大の大狼は、この狼の背を踏んで来たり逼るにぞ、飛脚は一刀抜き放し、これを滅多切りに切りしかば、一狼転び落つれば他(339)狼また入れ代わり、続々と攀じ来たるにぞ刀を流水のごとく振り舞わし、これを斫《き》り付けたり。その時、狼も叶わずとや思いけん、「この上は崎浜の鍛冶が母を喚び来たるべし」といい、一匹も残らず逃げ散りしが、やがてまた狼もとのごとく集まり、再び肩梯子をかくれば、一匹の大白毛の狼、悠々と肩梯子を擧じ登り来たりぬ。飛脚はおのれ崎浜の鍛冶が母、御参なれと、一刀斬り付けしに、カンという音す。みれば頭に鍋を被れり。飛脚は気を励まし、無茶苦茶に祈り下ろせしに鍋破れ、さすがの巨狼も頭に傷を負い、流血眼に入り働きもできず、どうと地におち、これよりみな何所《いずこ》ともなく逃げ散りて影を留めずなりぬ。
  飛脚はそれより産婦を助け下ろし、自分も山をこえ、野根村に著し用件を済まし、崎浜(野根山下より四里)に参り、鍛冶を尋ねしに一軒これあり。知らぬ振りしてその家に至り、休息すれば奥の間に病人のうなる声す。これを問えば、老母、昨夜便用に起きしに、誤り躓《つまず》き、石にて額を打てり、と。飛脚は、なるほどと合点し、やにわに入ってその老母を斬り殺す。家人打ち驚けば、取り敢えず昨夜のことを物語り、野根山中に崎浜鍛冶母とよぶ巨狼あり、旅人を悩ますことはなはだし、この家の老母も狼の取り殺して化けたるものにて、実の人間にあらず、と。床下をみれば、人骨|余多《あまた》あり。また時をへて老母の正体も、漸次、大白毛の狼と化したり、云々。
  参考。今崎浜に、鍛冶が母屋敷という跡あり。また野根山上には、産婦がこの木上にて安産せしという産杉《さんすぎ》という物あり。今は枯れて空株を存す。(以上、別紙写し)
 寺石君は、この別紙を何の書より写せしと明言せざれど、たぷん熊楠未見の書『南路志』より写せしものか。昭和三年、高知市日新館発行、同君の『土佐郷土民俗譚』に『南路志』の摘要文を出だす。多少|件《くだん》の別紙写しと損益するところあれば、重複に構わず、これをも写し出そう。いわく、
  むかし安芸郡奈半利の女、野根へ行く道半にて産せし時、飛脚行き掛かりて、産婦を杉の大木の安全なる上に置きあげしに、まもなく狼おびただしく慕い来たりしが、飛脚は狼を大半切り伏せければ、残りの狼が人語してい(340)うには、もはや崎浜の鍛冶が婆を呼び来たれと言いしより、須臾《しばらく》すると、果たして白毛の大狼、頭に鍋を冠り、悠然闊歩し来たり、飛脚はおのれ浜崎の鍛冶が婆かと、勇を鼓し刀を舞わし、大狼を乱斫しければ、鍋われ、面傷つき、ほうほうの体にて逃げ散った。
  翌暁、飛脚は山を下り、崎浜の民家を尋ぬるに、一軒の老婆、昨夜躓きて頭を傷つけ、休みおるときき、間違いなき化生のものなりと、やにわに立ち入り切り殺すや否や、その老婆は狼の姿に変ず。邸内をみれば、今まで取り殺せし人骨、床下に 堆《うずたか》かったという。今に野根山上に産の杉とて古き杉株がある。また崎浜の鍛冶の居宅の跡、村落中に田となり現存し、かたわらに石※[土+龍]を残す。今鍛冶の子孫は絶えてなけれども、その血脈の者、男女とも一体の毛逆さまに生える、と言えり。手の毛を下へ撫ずれば、逆立ち上がり、上へ撫ずれば順なると、半狼半人の鍛冶が母の血脈のしるしなり、と言い伝えらる(『南路志』)。昭和三年、著者、崎浜に遊び、その伝説、遺跡を実見す.
 寺石君より先に来示の宮武君の状には、まず千疋狼ちう語は御来示によって始めて承るが、人が狼を樹上に避けたるに、おびただしき同類集まり来たり、肩馬してその人を襲わんとした話は『新著聞集』にありとて、暗記のまま概要を書かれた。座右にこの書あるから就いて写し出そう。その巻一〇にいわく、「越前国大野郡菖蒲池のほとりに、ある時狼群れ出でて、日暮れては人の通い絶え侍りし。ある僧、菖蒲池の孫右衛門が方を志してゆくに、思いのほかに狼早く出でて、行くこと叶いがたかりしかば、高く大きなる木に登りて、一夜を明かさんとしけるに、狼ども木の下に集まりて、面打ち上げて守りいけるが、一つの狼がいわく、菖蒲池の孫右衝門がかかを呼びなん。この儀もっともなりとて行きし。ほどなく大いなる狼来たりてつくづくと見あげ、われを肩車に揚げよと言えば、コソあれと、われもわれもと股に首をさし入れ、次第に挙げける。すでに僧の側近くなりしかば、身も縮まり、心も消え入るあまりに、さすが小刀を抜き、狼の正中《まんなか》を突きければ、同時に崩れ落ちて、皆々帰りにけり。夜もようやく明けて、かの僧孫右(341)衛門が許にゆくに、妻昨夜死にけるとて騒ぎあえる。死骸を見れば、大いなる狼にてぞありける。その狼が子孫《こまご》に至るまで、背筋に狼の毛ひしと生えてありしとなり。また、土佐岡崎が浜の鍛冶がかかとて、これに露|違《たが》わざることあり」と。
 宮武君いわく、この最後に引合いに出されたる鍛冶がかかの話は、いかなる書に載せられあるや知らざるも、十五年前、友人小野檮次(高知出身にて坐談に富む人なりしが、十年前病死)より聞きしときは、これを「鍛冶がかか」と言わず、「鍛冶がただ」と呼び、「ただ」の義不明と語りたること有之《これあり》候。
  熊楠いわく、香西成資の『南海通紀』二一に、元亀二年生れ、将軍八代を歴て百六歳までは覚え、その後は幾歳過ぎても百六と答えた三谷彦兵衛の夜話に、すべて四国は、上世より他国と交わらざる国なれば、諸将、兵卒、凡民の分定まりて、その礼儀を紊さず、法令厳重なり。人倫部類は田夫の婦を田佗といい、その夫を農夫といい、百姓の婦を阿女《あによう》といい、副《そい》といい、その夫を阿長《あちよう》という。名主の婦を家阿といい、その夫を亭長《ちようちよう》という、云々。しからば、婦女の最下等の称が田佗だったので、鍛冶も卑職ゆえ、その妻をタダと言っただろう。
 咄の筋は、高知より甲浦《かんのうら》へ出ずるに、野根山越という七里の山道あり。参覲交代の時は必ずここを通路としたる由にて、『地名辞書』阿波部にも、「野根山、阿土の州界、剣山、梁瀬山、家峰の余脈にして、室戸崎の脊梁をなす、云々」とみえおり候が、この山道に一本の大杉、その幹屈曲し、地上二間ばかり離れた処に、畳をしき得るほど広さのものありしとのこと。(杉には、往々かような変態に成育したるものあり。十八年前、肥後阿蘇の宮地より噴火口へ上る道筋、天狗を祠る付近に、やはり幹の彎曲し、自由に登り得る杉をみたること有之候。)
 却説《さて》この野根山の大杉付近を、むかし産婦通過中にわかに産気づきたれば、迷惑の果て、杉の木に上り幹上で分娩せんとせしに、折よく飛脚通り合わせ、いろいろ世話して無事安産するを得たり。しかるに、人間の臭気を?《か》ぎつけしものか、無数の狼樹下に現われ、肩馬して飛び懸からんとするにより、飛脚は樹上より、腰の刀をもって切り倒す(342)に辟易して、「鍛冶がただ」を呼んで来ようと言いつつ、一目散に狼連は逃げ失せしが、まもなく一疋の怪獣、多くの眷属を具して、再び樹下に現われ、例の手段にて上に登らんとするより、飛脚も勇を鼓して切り付けしに、さすがは怪獣、頭に鉢を冠りおり、手答えなければその横腹を突きしに、これには閉口せしとみえ、子分を連れて潰走した。かくて一同難を免れたれば、飛脚は山を下り、直ちに佐喜浜村に至り(『新著聞集』には岡崎が浜とした)、鍛冶が家というを訪ねみしに、この家の老婆、昨夜負傷し臥床中というを耳にしたれば、さては怪しと挙動を伺いしに、老婆の方でも感づき、遁れんとせしを退治せしに、これはこの家の老婆を食い殺して、そのまま老婆に化けておった怪獣であったとのことなり。
 『民族と歴史』七巻五号ならびに一〇巻二号に刀禰《とね》の婆々という譚あり。その他諸国にこの類話多く候が、右の孫右衛門がかか、また鍛冶がただにて、貴示の千疋狼という題材ともなるように存じ候、云々。
 追記。右に申す小野氏若年、山林役人勤めし時、野根山を通り、件の大杉を見しに、むかしの面影なく、株ばかり残り、しかも安産の禁厭《まじない》にとて、産婦にかきとられ、見る形もなかりしとのことに有之候。(以上、宮武君通信)
 
 宮武君がこの類話諸国に多いと言われたを力に、みずから捜索すると、石井民司氏の『日本全国国民童話』に、土佐の千疋狼の条あり。話の筋は寺石君が写し贈られたのとほぼ同じ。だが、野根山を通り掛かった飛脚が、鍋を冠った狼を傷つけて産婦を救うたという代りに、武士が妻を伴い、岩佐山を越え佐貴浜へ志す途中で、その妻が出産した。狼は出産を忌むから、大群をなして寄せ来るを、夫妻杉の木に上りて赤子を守り、夫は肩馬して登り来る狼どもを斬り散らすと、頭分の老狼が釜を冠つて先登するを斬り付け、狼群を退走せしめた、とある。
 また故高木敏雄君の『日本伝説集』一二によれば、雲州松江の武士小池氏の草履取が新年に帰省を果たし、主家へ戻るとて、未明に檜山を越ゆるうち、狼群にあい大木に這い登ると、狼ども肩車してこれに迫る。今一疋あらば人に(343)届き得というところで、もっとも上の奴が小池婆とよぶと、大猫来たって狼の梯子を駆け上る。かの男、脇差を抜いて猪の眉間を斫《き》ると、金物が落ちたような音して、一同散り去る。夜明け木を下ってみると、主家の台所の茶釜蓋だった。主家では、昨夜、主人の母が厠に行く途で転がり前額に負傷し、また茶釜の蓋見えずと騒ぎおった。ちょうど帰った草履取の話を聴いて、主人が老母を刺し殺すと大猫だった。また甲州北都留郡に犬梯という所あり。猟師、山犬群に追われて木に登るを、山犬相重なり、梯を造って襲いかかるを、猟師は梢より梢に飛び移って、やっと遁れ得た故蹟だそうな。
 (五月二十四日出、二十六日着、島村知章氏よりの報知。『因伯童話』九三頁、「伯耆米子の山伏、日野郡の山奥へ行く途中、日|?《く》れて何者か後を付くる者あり、日影に透かし見れば狼なり。傍の木に登り、下を見れば狼なし。しばらくして二、三十匹の伴侶をつれ来たり、肩車して迫りしが、今一息のところで丈《たけ》足らず。下の狼、五郎太夫婆を呼びにやれと命ずれば、中の一匹駆け出して大狼をつれ帰り、そやつを上に登らせるを、山伏、脇差を抜き、したたか切り付くるに、岩崩るるような音して崩れ逃げ去る。夜明けて五郎太夫婆を捜せば、昨夜木より落ちて大怪我ときき、前の仔細を物語り、それより婆は村民の信用を失い、行方をくらました」とある。また、『甲斐昔話集』一一六番「孫太郎婆」同じ、これには犬梯の話あり。『岡山文化資料』二巻六号四三頁に、備前川上郡高倉村辺に狼交合するを見しもの、狼群に追われ、倉に遁げ入り戸を閉ずると、群狼肩車して窓の下より登りしが、鉄格子に妨げられて入り得ざりし、と。三木氏『甲斐昔話集』一八九頁に、左甚五郎山犬交わるを見て襲われし話あるも、肩車のことはなし。なお、この篇出版後見及びし、今年(昭和五年)三月出版、尾崎久弥氏の『怪奇草双紙画譜』二三四、二一七頁によれば、文化十二年板、京伝の『猿猴著聞水月談』に、菖蒲池の孫右衛門が嬶の咄を『新著聞集』より採りあり、また若狭、近江にも類話あり、と。)
 上出、寺石君の牘末に、「この話は支那『宣室記』に同様の記事あり。山西省太原府王含の母の話となす。『淵鑑類(344)函』に記載すと記憶仕り候。なお御調査を乞う」と見ゆ。その話は、唐の張読の『宣室志』八に出ず。「太原の王含という者、振武軍の都将たり。その母金氏、もと胡人の女《むすめ》にして、弓馬を善《よ》くす。もと_悍なるをもって聞こゆ。常に健馬を馳せ、弓を臂《うで》にし矢を腰にして深山に入り、熊、鹿、狐、兎を取って、殺獲《さつかく》するものはなはだ多し。故に、北人みなその能を憚り、これを推重す。のち年七十余にして、老病をもって、ついに独り一室に止まり、侍婢を辟《さ》け、すなわち左右に近づくを許さず。夜に至れば、すなわち戸を?《とざ》して寝《い》ぬ。往々、怒りを発し、過《とが》めてその家人輩を杖《むち》うつ。のち一夕、すでにその戸を?《とざ》すに、家人たちまち軋然《あつぜん》の声《おと》を聞く。ついに趨いてこれを視るに、一狼、室内より戸を開いて出ずるを望見す。天いまだ暁《あ》けざるに、その狼、外より還り、室に入ってまたその門を?す。家人はなはだ懼れ、具《つぶ》さに含に白《もう》す。この夕、隙中において潜かに窺うに、家人の言のごとし。含、憂悸してみずから安んぜず。暁に至り、金氏、含を召し、かつ即《ただ》ちに糜鹿《びろく》を市《か》わしむ。含、熟《に》てもって献ずるに、金氏いわく、わが須《もと》むるところは生けるもののみ、と。ここにおいて、生ける糜鹿をもって、前に致す。金氏、啖《くら》いて立ちどころに尽く。含、ますます懼る。家人輩、あるいは窃《ひそ》かにそのことを語る。金氏これを聞き、色はなはだ慙《は》ず。この夕、すでに門を?し、家人また伺ってこれを覘《のぞ》くに、狼あり、ついに戸を破って出ず。これよりついにまた還《かえ》らず」というのだ。
 狼が婆に化け、もしくは婆が狼に化けた話が支那にもある証拠とはなれど、狼群が肩馬して樹上の人を襲いにかかったり、その大将分の奴が鍋を冠つて進撃したり、疵を蒙り帰って呻吟したりなどのことがないから、あまり野根山や菖蒲池の狼譚に近似しない。
 しかし『太平広記』四四二に『広異記』から引いたは、「唐の永泰の末、絳州正平県に、村間の老翁あり、疾《やまい》を患《わずら》うこと数月、のち食らわざること十余日にして、夜に至って、すなわち所在を失う。人その所由《わけ》を知るなし。他《ほか》の夕、村人の田《はたけ》に詣《いた》って桑を採る者あり、牡狼の逐うところとなり、遑遽《うろた》えて樹に上る。樹はなはだしくは高からず、狼すなわち立ってその衣の裾を銜《くわ》う。村人、危急にして、桑の斧をもってこれを斫《き》り、まさにその額に中《あ》つ。狼|頓《うずくま》り臥(345)し、これを久しうして始めて去る。村人、曙《よあけ》に平《あた》って方《はじ》めて下るを得。よって狼の跡を尋ね、老翁の家に至って堂の中に入る。ついにその子を呼び、始末を説く。子、父の額上に斧の痕あるを省み、さらに人を傷つけんことを恐れ、よってこれを扼殺するに、一の老いたる狼となる。県に詣《いた》つて、みずから理《もうしひら》く。県これを罪せず」。樹に逃げ上った人を樹下に立って襲いかかり、傷つけられて家へ逃げ帰っただけは、よく土佐と越前の譯に似おる。
 また『酉陽雑俎』一六に、あるいは言う、狼狽はこれ両物、狽は前足はなはだ短く、行くごとに常に狼の腿上に駕す、狽が狼を失えば動き能わず、故に世に事|乖《そむ》くものをいって狼狽と称う、と。また臨済郡の西に狼塚あり、近世かつて人あり、野に独り行きて狼数十頭に遇う。その人窘急《きんきゆう》して、ついに積んだ草の上に登る。両狼あり、すなわち穴中に入り、一の老狼を負い出ず。老狼至って、口をもって、積んだ草の内から数茎の草を抜く。群狼これを見まねにみな草を抜く。だから、積んだ草が崩れかかり、人危ういところを、猟師が来て助けてくれた。その人相率いてこの狼塚を掘ると、狼数百頭出たので皆殺しとした。その老狼はすなわち狽という奴だろう、と。肩馬して樹へ上ると、草を抜いて積草を崩すとの別あれど、群狼が大将の奴の差図のままに高く登った人を落とし食わんとした点において、この咄が本邦の上出両譚によく類しおる。
 一六五八年板、オラウス・マグヌスの『ゴス人、瑞典《スウエーデン》人およびヴァンダル人史』英訳一九三−一九四頁に、露国クールランドで、クリスマスの前夜、人が狼と化し、おびただしく一所に聚まり、隊を組み将に率いられて一軒家を囲み、戸を破り入って人畜を鏖《みなごろ》しにし啖《くら》う譚あり。ちょっと件《くだん》の両譚に似おるが、これは狼が人に化けたでなくて、人が狼に化けたであり、「城壁を飛び越え得ぬものは、不合格として仲間の人狼に殺さる」とあって、肩馬して攀じ登る一条も見えぬ。故に本邦の両譚とは何の所縁もないものだ。
 ところが、ボルネオ島のズスン人の口碑にいわく、プアカは外貌猪のごとく、その舌はなはだ鋭し。人これに追われたら川を越えて免る。この獣、木の頂の皮を食い、これを食わんために、おのおの肩馬して一番高く登ったものが(346)木頂の皮を舐り剥ぐとあるから、もっとも上になった奴が、鋭い舌で木頂の皮を舐り削り落として、下におるものどもに頒ち与うるのだろう。この物、人に逢えば止まり、人も止まる、人走り出せば随って追い走る、人が木に登れば、プアカ輩肩馬して人に届き、最も上の奴が人の肉を舐め落として骨のみ残す。人が川を越ゆれば、プアカこれを追うも、人が対岸へ渡りおわれば、プアカ止まって、犬のごとく、また婬女がト一ハ一を行なうごとく、互いに舐り合うに、舌がいと鋭利だから、皮肉銷尽して残るは骨のみ、と。プアカは、『左伝』に豕人立ちて啼いたとある同様、ポリネシアやボルネオで豕身もしくは豕面の精鬼を意味するらしい。幽公や狐魅が川を渡り得ない話は、日本、支那等にもある。肩馬して樹上の人を害する一事においては、このズスン人の話が、一番本邦の野根山と菖蒲池の狼婆の譚に近い。(一九二三年板、エヴァンズ『英領北ボルネオおよびマレイ半島の宗教俚伝および風習研究』七八および二九三頁。『因果物語』上七。『一夜船』二の二。『武道真砂日記』三の一。『五雑俎』一五)
 (朝鮮の虎やぐらの話。今村鞆氏、昭和五年十二月十七日出、来状。「惡漢あり、人の邸内に忍び入り、深夜牛を盗まんとして牛小屋に忍び入る。手探りに捜つて、牛の背に乗る。牛覚って飛び出す。速くて風のごとく少し変だと思うが、落ちてはケガをするから一生懸命背にしゃがみつきおる。これより先、虎が山奥より来たり、牛小屋の牛を食い尽しおる際、人間が背に乗ったから同類への土産にとおのが住む穴に急ぐに、数里を走ったと思うころ、夜明けてその虎なるを知り吃驚《びつくり》、しかし、どうすることもならず、虎の背に乗せられしまま山路にかかる。断崖の傍を走るうち、この男、松の枝に飛び移る。しばらく息をやすめおるうち、虎は同類|数多《あまた》つれ来たり、虎やぐらを組み、樹上の人に近づく。この男、泥棒に似げなく、風流気のある男で、笛が至って好きであった。今生の思い出に腰より笛を取り出し、一曲を吹奏すると、虎やぐらの最下の虎音楽好きで、この笛の音にききほれ、首を傾ける拍子に虎やぐら崩れ、みな千仞の谷底に堕ちて死し、この男命を助かり、改心して善人となり、家が栄える、云々」。)
 (『古今図書集成』職方典五二二、『威寧県志』を引いて、「禄山の乱によって、梨園の弟子《ていし》なる笛師、終南に竄《のが》れ、(347)古き蘭若《らんじや》に倚って寓す。清宵明月のたびに哀怨多思にして、笛を抜いて吹く。声|?唳《りようれい》として山谷に徹る。俄間《にわか》にして物あり、虎頭人形にして白布の単衣《ひとえ》を著け、外より入っていわく、美《うるわ》しきかな笛よ、また吹くべし、と。師大いに懼れ、五、六曲を撩奏《かな》ず。終わるや、虎頭の人たちまち寐《い》ね、?※[口+臺]撩《かいたいか》として大いに鼾《いびき》す。師、覚むるを懼れ、すなわち身を抽《ひ》いて、出でて高樹の枝葉密なる処に避く。覚むるに及んで笛師を見ず。懊嘆《なげ》いていわく、早く食らわずして、それに逸《に》げらる、と。立って長嘯するに、虎十余の至るあり、状《さま》朝謁のごとし。語っていわく、適《さき》に笛を吹く小児《こども》あり、わが寐ぬるに乗じて竄《のが》れ去る、路を四遠に分かちてこれを取るべし、と。散じ去り、少頃《しばらく》にしてまたいわく、あまねく?《もと》むれども獲るところなし、と。時に月落ちて斜めに樹間を照らす。虎頭、仰ぎ視て笑っていわく、爾《なんじ》、雲行電滅せりと謂《おも》いしに、すなわちここに在るか、と。諸虎を率いて攫《つか》み取らんとするも、及ぶべからず。またみずから跳躍すれども、また至《とど》かず。ついに散じ去る。須臾《しばらく》にして人行き、笛師返るを得たり」。)
 大正十二年四月の『太陽』に出た拙文「猪に関する民俗と伝説」に書いた通り、服虔は、猪性触れ突く、人、故に猪突|?勇《きゆう》という、と説いた。?は南楚地方の猪の方言の称えだ。『??内伝』二に、亥は猪なり、この日、城攻め、合戦、剛猛のことによし、惣じて万事大吉なりとあるは、その猪突の勇にちなんだので、本邦でも野猪の勇あるをいうが、共同力の強きを言わぬは、本邦の野猪にその稟賦なきか、あるいは古来狩り取られて、共同せんにも数が足らぬによるか、ちょっと判らない。一八九五−一九〇一年板、カウエルの英訳『仏本生譚』巻二と四に、大工が拾い育てた野猪の子、長じて野に還り、諸猪に共同勇戦の力大なるを説いて教練し、闘うて猛虎を殺し、また毎々その虎に野猪を取り来たらしめて食うた仙人をも害した物語を載す。一七七一年パリ板、ツルパンの『暹羅《シヤム》史』一〇章に、野生となった豕《ぶた》、森中できわめて蕃殖し、日出日没ごとに森より群れ出でて野に遊ぶ。一群|毎《つね》に二、三の先達あり、これを狩るは危険で、手負うた者は必ず敵を殺す決心で突進すると出で、ボルネオの(野猪は三百疋も群囲して川を渡るを見た人あり、一汎に一老猪先導すといい)、猟師が野猪に逢って木に登り、やっと命拾いをした事実譚もあり。(348)南米には、野猪の代りに臍猪(ペッカリー)あり。吾輩お江戸で書生だった時、奥州仙台節が大流行で、正岡子規や秋山真之が必死にこれを習い、「上野で山下、芝では愛宕下、内のおかめは椽の下、ざらざらするのは猫の舌、皆様すくのは、コレナンダイ、臍の下」と謳いおった。その臍が人間にただ一つだが、この臍猪には腹なる正真の臍の外に、腰の上にまた臍と見まがう特異の腺あり。また猪と異《ちが》って尾が外へ露われず。胃が複数で羊や鹿に近い等の点から、動物学上、猪と別属たり。だが性質はほぼ野猪と同じく、身長三フィートほどの小獣ながら、上齶から下に向かって生えた短小な牙が至って尖り、かつ両刃あって、怖ろしい傷を付ける。五十|乃至《ないし》数百疋一群をなし、昼は木洞内に退いて押し合いおり、最後に入った者が番兵たり。夜分行くに、堅陣を作り、牡は先立ち、牝は子を伴うて随う。敵に遇えば共同して突貫する。その猛勢に、猟師はおろか、勇猛に誇る米虎(ジャグアル)さえも木に上ってこれを避ける由。仏経に猪を愚痴の表徴とし、『西遊記』に猪悟能|?子《がいし》として著わる。西洋でも、古来猪を諸動物中もっとも馬鹿なものとし、その肉を腐らざらしめんとてのみに、塩の代りに生命を賦与されたと説く人さえあった。(一八六三年板、セント・ジョン『東洋林中生活』(一巻一四八頁)、二巻二五〇頁。一九二〇年板『剣橋《ケンブツリジ》動物学』一〇巻二七九頁。『大英百科全書』一一板、二一巻三二頁。フムボルト『旅行自談』ボーンス文庫本、二巻二六九頁。一八六五年板、ウッド『動物図譜』一。『根本説一切有部毘奈耶』三四。プリニウス『博物志』ボーンス文庫本、三巻四三頁註四)
 けだし、家猪、野猪、共に好んで泥中に身を転がし汚し、家猪は糞穢を常食するもの多きゆえ諸宗旨これを忌むこと多き等より、野猪は手負わば命知らずに荒れ廻るより、二つながら卑蔑され、悪名を立てられた。しかし、静かにその動静を観察して、家猪、野猪、共に世評に反し、その智慧著しく、最も智慧深き食肉獣のみにやや及ばざるを覚ゆ、と言った人が一、二に止まらず。和漢共に猪が変化して人を魅した譚あり。その他諸民またこれを霊異視する者多きも、幾分その智慧の他獣に挺特たるによったものだろう。(一八九二年五板、ロメーンズ『動物の智慧』三三九頁以下。一九〇八年板、ペツチグリュー『自然の意匠』二巻九六九頁。『今昔物語』二〇巻一三語、二七巻三四−三六語。『情史』二一。『夜(349)譚随録』五、一八七二年板、グベルナチス『動物譚源』二巻七頁以下。一九〇〇年板、スキート『マレイ方術篇』一八八頁以下)
 アリストテレスの『動物志』一巻一章に、諸動物の気質を説いて、獅《しし》のごときは寛闊、高潔、かつ義?あり、狼のごときは勇猛、麁暴で機智あり、前者はその貴種の出身たるを示し、後者は自我を脱しがたきを暴露す、と言った。『太陽』二九巻四号一二七頁に予が引いたアラビア人の諺に、信を守る義士は、牡鶏の勇、牝鶏の察、獅の心、狐の狡、?《はりねずみ》の慎、狼の捷、犬の諦め、ナグイルの貌と、野猪の奮迅を兼ね持たねばならぬ、とある。狼の機智に富めるは上に引いたロメーンズ一五章や、ペッチグリュー二巻九七八頁|已下《いか》に出ず。ペッチグリュー説に、餓えに逼られた狼の寒心すべき話多し。
 狼は、個別には引込み思案で臆病だが、隊を組むときわめて怖るべく危険だ。露国等で、厳冬食乏しき時は、狼が団結して群畜や人家や人身を襲うに無差別なり。その数の多大に、その攻撃の兇暴なる、何物かよくこれに当たらん。狼、餓えに狂えば物を犯すに畏るるところなく、団員の討死いかに多きも、少しも屈せず、敵を僵《たお》し餓えを療ずるに至って初めて止む。討死した狼の屍は、団友これを啖《くら》い尽す。僅数の狼が結束して牛馬を狩り殺し、また多数の綿羊を取り去ること珍しからず。狼群の行動はおびただしき智慧を顕わす、と。またいわく、狼群と野干(ジャッカル)群が一致した働きをみると、狼も野干も確かに推理力を有すと知る、と。狼の爪は樹の皮や木にかかり得る物でない。しかるにロメーンズは、狼二疋が家猪群の進撃にあい、一は遁れ得ずして木の幹に飛び上がったところを、家猪に取り囲まれ、幹上から猪群を飛び越えるところを、猪どもに突き落とされてやにわに殺された例を挙げある(三三九頁)。だから、九死一生の場合には、狼が樹幹に暫時取り付き得ることもあるとみえる。
 それから『大和本草』一六に、「射干。陳蔵器いわく、仏教に射干貂※[手偏+就]あり、これはこれ悪獣にして、青黄の狗に似て、人を食らい、よく木に縁《よじのぼ》る、と。『詩経大全』に、安成の劉氏いわく、?は一に?に作る、胡地の犬なり、と。『字彙』に、?は野犬に同じく、狐に似て小さく、胡地に出ず、と。今按ずるに、国俗、狐を野干とす。『本草』(350)に、狐の別名にこの称なし。しかれば、射干と狐とは異なり」。熊楠按ずるに、『翻訳名義集』二五に、「悉伽羅(スリガーラ)。ここに野干という。狐に似て小さく、形色青黄にして狗のごとし。群行して夜鳴くこと狼のごとし。郭璞いわく、射干はよく木に縁《よじのぼ》る、と。(中略)『輔行記』にいわく、狐はこれ獣にして、一に野干と名づく、多く疑い善《よ》く聴く、云々。しかれども、『法華』に、狐、狼、野干といい、三つの別あるに似る。『祖庭事苑』にいわく、野干は形小さく尾大なり、狐はすなわち形大なり、と。『禅経』にいわく、一の野狐を見、また一の野干を見る、と。故に、異なるを知るなり」。『東京人類学会雑誌』二九一号三二五頁に述べ置いたごとく、狼の貪戻に狐の狡猾を兼備したような、英語でジャッカルという獣だ。
 アッジソンは、これは狼を父、狐を母とした間《あい》の子《こ》だ、と述べた。ヘブリウ名シュアル、アラブ名シャガール、ペルシア名シガル、これらは胡地で何とか少しく訛ったのを射干と漢訳し、その射の字、時として野と同音なるより、野干と書くに及んだのだ。仏語と露語でシャカルと言うのが、もっとも射干に近い。『正字通』にいわく、「?、胡犬なり。狐に似て黒く、身の長《たけ》七尺、頭に一つの角を生じ、老ゆればすなわち鱗あり。よく虎、豹を食らい、猟人これを畏る」。以前「狐に似て小さく」とあったのが身長七尺と廓大され、形色青黄が黒と言われおり、支那にない物ゆえ種々誤伝を生じたのだ。ジャッカルが虎豹に随行先駆してその残食を覗うより、ジャッカル鳴くところしばしば虎豹ありと知った猟師が、これを追って虎豹を殺すことあるを、「よく虎豹を食らい、猟人これを畏る」と謬ったのだ。すべて啖肉獣には角なきに、ジャッカルに限り、稀《まれ》に頭後に一小角あるものあり。得てこれを持てば百事意のごとく、ことに訴訟に必勝という。この類の獣に角あるは椿事ゆえ、特に支那までも語り伝わり、『正字通』に記されたのである。(一八一四年板、ピンカートン『水陸紀行全集』一五巻四〇七頁。ウッド『動物図譜』一。『太陽』二〇巻五号、拙文「虎に関する史話と伝説、民俗」一六〇頁以下参照)
(351) 二十五、六年前より、この拙宅に四、五十疋の亀を飼った。毎度観察するに、大亀が池の縁に前足を懸けおると、一廻り小さなものがその甲に登る。しばらくして一層小さなが、その背を践んで上陸する。そののち他の二つが順次上陸していずれも遊び歩く。大抵の大小亀はこの作法を自得しおるごときも、三疋以上重なったをみず。『輟耕録』二二に、著者、杭州で亀使いを見た。大小すべて七等の亀を几上におき、鼓を撃つと、一番大きな奴が几の真中に至り、すわる。それより二等、三等と、大きいものほど先に来て、自分よりも大きなものの背に登る。第七等の小さいものは第六等の亀の背に登り、身を竪《た》て、尾を伸べ上げて小塔の状をなし、これを名づけて烏亀畳塔と謂った、と記す。それは人が教え習わせたものだが、拙宅の亀どもの上陸法は、亀ども目身に会得して、申し合わせたように協同実践するのだ。かくのごとく単独では何をも仕出かし能わざる動物が、二つ三つと棒組が多くなるに随い、誰に命ぜられもせぬに、部署を受け持ち、力を戮《あわ》せ相応じて全団の仕事をし遂げ、各自の所願をも叶《かな》える。これをロメーンズは、その動物の合成本能(コルレクチヴ・インスチンクト)と名づけた。しかし、予の考えには、合成本能にも高下の差異種々ある。亀などは低能な物で、大きな亀が陸上に擲げられた握り飯を食わんと、池の縁に前足を懸けるも、身が重くて容易に上り得ず、空しく気をあせるうち、一廻り小さい亀が、これまた池の縁に前足を懸けては落ち、懸けては落ちたのち、偶然大亀の甲を踏台として上陸し得、握り飯を銜《くわ》えて池へ還り水中で食う。ところを大亀、小亀を追い散らして、全部また幾部の握り飯を奪う。それから味を占めて自然と小亀上陸の踏台となり甘んずる癖が付くらしい。むろん小亀が飯を銜えて池に帰らぬうちにも尽力して、上陸し得るだけは大亀も上陸してみずから飯を取り池に還り食う。小亀の踏台となる大亀、大亀を践んで上る小亀、いずれも種々やり試みて、たまたま中《あた》った通りを漠然記臆して毎度一様に実行するに過ぎず。この亀池は長方形で、その二辺の縁は、池底に直角に石を積み累ねて成るから上りがたきも、他の一辺は石を積まず。池の底に続いて斜めに漆喰を敲き揚げたものゆえ、悠々這って上陸し得べきに、毎日経験しながらこの差別に気づかず。ひたすら握り飯に近い処より上らんとあせり、少しく遠廻りして、容易(352)に上り得る方より上陸したこと一度もない。何の考えなき者が集まって、偶然やりあてたことを、多少記臆し、繰り返し行なうて奏功するまでで、合成本能とはよく名づけたと惟う。
 二年前まで拙宅に飼った牝犬は、外出して帰り来れば、必ず戸外で吠えた。すなわち戸を開いて入れやつた。今あるその子の牡犬は鈍物で、帰り来ても少しも吠えず。前足で戸を掻き続く。久しく掻くと、戸のサルが漸次動いて終《つい》に戸が開く。開かぬ時は戸外に臥して人が起き出ずるまでまつ。こんな愚犬が二疋以上寄ると、亀程度の合成本能が出るだろう。これに反し、優種の犬や、狐、野干、狼等が多数同類を団結して発する合成本能に至っては、人間も後《しりえ》に瞠若たらざるべからざるものが多い。狼群がその動員を交代補充して敵を攻撃包囲し、その任に堪えざるものを厳罰し、野干が、水に飽いた鹿の池より林に還らんとするを、哨兵線を張って遮断し、一度吼えて鹿を走らしたものは、他の哨兵を駆け抜けて、新たな地点に哨兵となってその鹿到るをまち、ついに鹿をして走るに疲れ仆れしむるなど、その例少なからず。上に引いたロメーンズ等の書や、『大英百科全書』等に就いて見るべし。かつてシベリアの狼は、行軍前に会議を開く由、一八八七年ごろの米国の一科学雑誌で読んだことあり。明治三十二年、清朗たる秋日、予ロンドンの小公園で、樹下に、五、六の猫聚まり、なにかささやいたのち、順次地を転げ廻りなど種々珍芸を演ずるを、息を潜めて睹《み》たことあり。ロメーンズ、四三六頁に、異種の犬が主人に隠して、暗号で申し合わせ、一は兎を逐い出し、他はこれを捉えた記事あり。類推するに、言語こそ人と異なれ、狼群が命がけの進軍前に、軍令を約束しおくほどのことはありそうに想う。
 (斉園主人が、「五涼の地、狼多く、金城もっともはなはだし。その羊を噬《くら》うには独を用《も》ってし、牛馬を噬うには衆を用ってし、人を噬うには奇を用ってす。その禽鳥を捕《と》らんとするや、禽鳥の草間に集まるを伺い、飛蓬一叢を銜《くわ》えて蜥蜴《とかげ》のごとく行き、逼《せま》ってこれを捕る。猟者に遇えば、あるいは馬の髑髏を帯び、もって弓矢を禦ぐ。これ、特《ひと》り独を用ってし、衆を用ってし、奇を用ってするのみならず、かつまた術を用ってす。智と謂うべし」(『夜譚随録』五)(353)と言えるごとき、多分の法螺《ほら》はあるに致せ、狼の智、人に超出するものあるを見るべし。されば)秦大津父が狼を貴神と称え、白石先生がオオカミを大神と釈き、今も熊野の二川村などで山の神と呼び、コリヤク人が狼を苔原の豪主、強勢なシャマンと崇め(原始のローマ人や匈奴は神狼をその祖先とし(一九〇六年板、パイス『羅馬《ローマ》史旧口碑』八四頁。『酉陽雑俎』))、ローマのマルス神、北欧のトール神、またキリスト教の上帝も狼を神使とした譚あるは、その力量と勇猛の外に、智謀の非常なるを讃めてのことと知る。(『日本書紀』一九。『東雅』一八。一九一四年板、チャプリカ『原住民のシベリア』二九六頁。一八七二年板、グベルナチス『動物譚原』二巻一四五−六頁)
 壮年米国に遊学したおり、学校の図書館で山獺(ビーヴァー)に関する記事、論説を多く読み、日曜ごとに河畔に往って実物を観察しに掛かったが、何の面白さも感ぜず。書籍に説いたような共同生活など一切見なかった。学友だった仏人とインジアン女の間《あい》の子《こ》に問うと、自分の村の湖辺では、今も盛んに共同生活の山獺をみれど、この河畔のものは多年の濫猟に遇って、僅数より成る家族が散在するのみ、家族どもが聚団せぬから、共同生活も忘失されたものだ、と答えた。予二十七年前、紀州那智より高田へ越える途中で狼の糞を見出だし、驚いて引き還した。また二十年前、坂泰《さかたい》宮林より丹生川へ下る路上、狼糞にベオミケス属の地衣が生えたのを拾い、今に保存しある。そのころ予が泊った山小屋へ、狼に送られて逃げ入った樵夫二人あった。また二十三年前、大和玉置山より紀州切畑へ下る、半途で日暮れ、露宿し、翌暁起きてみると、少し下なる山畑を数疋の野猪が荒らした跡あった。いずれも単独または少数の一族がつれ歩くらしく、山に居慣れた多くの紀州人に尋ねても、本邦の狼や野猪は昨今多数で群行はせぬようだ。しかし、所により、むかしは四、五十頭の野猪を一疋の大猪が率いたこともあったらしい(早川君『猪・鹿・狸』六九頁)。狼も千疋狼の話の通り、古代は多数群行したかも知れぬ。とにかく、本邦に言い伝うる千疋狼とボルネオ島の口碑なるプアカ(野猪精)が、等しく肩馬して樹上の人を襲うというは妙な偶合だ。
 前述のごとく、狼や野千の爪は木にかかり得ぬ。しかし、レームスは、ラプランドの狼が、毎々前足で馴鹿《となかい》の喉を(354)扼し、これをしめ殺すに疵少しも付けず、と述べた(一八〇八年板、ピンカートン『水陸紀行全集』一巻四〇三頁)。それがなるほどなら、狼も野干も樹幹に抱き付いて立ち、肩馬して高きに達し得ることもあろう。(篇末追記を見よ。)狼が家猪群に追われて樹幹に飛び上がった例は、上にロメーンズより引き、野干よく木に縁《よじ》ると晋・唐人の語も上に引いた。猪の智慧が、最も智慧深い食肉獣に次ぐほど著しいことも上に述べた。したがって、むかしこれらの獣が多勢団結し得た所では、いわゆる合成本能を発揮し、肩馬して木に縁り登り、その上に遁れた人を襲うたこともあったが、鉄砲の発明以来、猪、狼の頭数|太《いた》く減じ、予が目撃した山獺同様、また昔日通りの働きを現じ得ず。そんな働きを忘れ果てたので、大将が鍋を冠って先登するの、野猪精が相舐って骨のみ残るのと、種々に怪説を加えた譚ばかりが、日本とボルネオに残ったとみえる。いわゆる合成本能という称呼、その宜しきを得ず。合成智慧とでも称したら適当ということは、前に引いたペッチグリューの説を読めば分かる。以上は、単に動物心理の上から、予が千人《〔ママ〕》狼と野猪精の譜の起りを推論し試みたのだ。
 幼時、和歌浦の東照宮四月十七日の祭礼行列中に、鬼面を冒《かぶ》り撮棒を持ち、また百面とて異様の仮面を被った者数十人歩み来るを真の妖怪と心得、逃げ帰ったことあり。戸隠山の鬼女、大江山の酒顛童子は事ふりたり。後世に及んでも、足利将軍の末頃、太郎次という力士鬼装して鳥羽街道で強盗を行ない、慶長元年近江胆吹山の群盗、鬼装して近郷を劫《おびや》かし、その様子を聞く者さえたちまち発熱震慄したが、松重岩之丞が前者を、加賀江重望が後者を平らげ、化の皮を露わした。(飛驛にも鬼が城とてそんな事蹟を伝う。石川五右衛門また鬼装して立田越の峠で劫盗したとか。)支那でも、明季、身に驢皮を蒙り、面を黒く爪を利《と》くして鬼形を擬し、旅人を嚇し財を奪うた者あり。(『夷堅志補』八、北宋の宣和中、悪徒十余人が鬼卒に扮して、宗王の族姫を拐《かどわか》し、まず奸?して後に売り飛ばしたことあり。)世にあろうはずなき鬼をまねてさえ、小児同然にこれを怖れた者多かった。まして世に少なからぬ禽獣を旨くまねると、たちまち驚き入り、「人動物に化し、動物人に化す」の実在を信ずる輩が多かったは、察するに余りあり。(355)さればこそ(支那や)、欧州の化狗人(『夷堅志』支庚八の五裏、婆、衣をぬぎ狗に化す)、化狼人、狼化人、(北欧州やアイルランドやペルシア、北米の)化熊人、アフリカの化獅人、化豹人、化ヒエナ人、化?人、化蛇人、(雲南の猫、羊、鶏、鴨、牛、象、鳥に化する人)、支那、前インド、後インド、マレー半島および群島の?人・※[獣偏+區]虎(すなわち化虎人、化人虎)、ボルネオの化野猪人、ブラジルの馬、山羊、米虎、猪に化くる人等の迷信が輩出したるなれ。本邦の鬼同丸が、牛の腹中に潜んで頼光を覘うたなど、シュー・インジアンが狼皮を蒙って獅、牛を射、アフリカ沙漠住民が駝鳥に近づかんがため陀鳥皮を被るほどの趣向で、そのこと怪異に渉らぬ。が、鬼同丸より五百余年前、播磨の賊文石小麻呂が、大白狗に化して官軍と闘い、斬殺されて人形に復したは、仏国ニオールの狗に化けた妖巫に似おり、ずいぶん古くより本邦に人が動物に化けるという迷信ありしを証す。(『義残後覚』七。『石田軍記』三。『野史』一九八。『日下旧聞』三八補遺。一八八八年ニューヨーク板、タイラー『原始人文篇』二巻三〇八頁以下。一九一五年板、ヘーメル『人化動物』九と一〇章。一八九七年板、キングスレイ『西|非《アフリカ》行記』五三七頁。一八二三年板、パーキンス『アビシニア住記』二巻三三章。一九〇六年板、レオナード『下ナイジャーとその蛮族』一九五頁。『広博物志』四六。一八九八年板、クルック『北印度の俗教、俚俗』二巻二一六頁以下。一九〇〇年板、スキート『馬来《マレー》方術篇』一六〇頁以下。一九〇六年板、スキートおよびブラグデン『馬来半島異教種民』二巻二二七頁以下。『大英百科全書』一一板、一七巻一五〇頁。『古今著聞集』一二。一九一二年ライプチヒおよびウィーン板、ウォイレ『人種誌入門』四〇版二図。『博物新編』駝鳥の図。『日本書紀』一四)(『出来斎京土産』玉。『高原旧事』。『東海道名所記』五。一八五六年板、バートン『東|非《アフリカ》初踏記』二章。一八一一年二板、エリス『初世英国律語体伝奇集例』一巻一四九頁。『古今図書集成』神異典三一七。一八四七年パリ板、フェルレおよびガリニエー『アビシニア行記』二巻一二三頁。一九二九年ハーバード大学板、トムソン『北米|印甸《インジアン》人譚集』一六五頁。清の陳鼎『?黔紀遊』。『玉芝堂談薈』。『超日月三昧経』下)
 すべて人化動物に、精神病より起こると詐謀より出ずるとあり。詐謀より出ずるは、あるいは単身、あるいは集団(356)して人が動物を擬す。本篇の題目たる千疋狼が、差し当たり人か猴かの外にできそうもなき肩馬を組み、また某の婆をよび来たるべしと人語したという。前に引いたボルネオのプアカや甲州の犬梯の故事のごとき、山犬群が梯を造って襲いかかったとばかりあって、人語したとはないから、動物心理学のいわゆる合成本能で釈き得るとするも、土佐や越前の化人狼、雲州松江の化人猫のごときは人語したとあり。ことに『日本伝説集』一四六頁なる、越後の弥三郎婆に至っては、悪婆が狼化せず、悪婆の姿のまま、豺狼を率いて行人を苦しめ人肉を啖うたといえば、これらは兇人が秘密に結党して巧みに獣装し、悪事を遂行したと釈かねばならぬ。
 (『十誦律』五六に、「仏、毘耶離《びやり》国にあり。長老の優波離《うばり》、往つて仏の所に詣《いた》り、頭面《ずめん》にて足を礼し、一面《かたえ》において坐し、仏に問いていわく、もし比丘、呪術をもって、みずから畜生の形となり婬を行なわば、波羅夷《はらい》を得るや不《いな》や、と。仏いわく、もしみずからわれはこれ比丘なりと憶念《おも》えば、波羅夷を得、もし憶念《おも》わざれば偸蘭遮《とうらんじや》を得、と。また問う、もし二《ふたり》の比丘、呪術をもって、ともに畜生の形となり共に婬を行なわば、波羅夷を得るや不《いな》や、と。仏いわく、前《さき》に同じ、と」。)むかしローマのネロ帝は、あらゆる淫行を尽してなお足るを覚えず。諸神が禽獣に化けて人を犯した旧伝を襲い、みずから獣皮を被り男女を婬虐して楽しんだ。支那の五通神は猪、馬等の畜生で、結党して丈夫に化け、人の美妻を択んで、ことごとく家人を外に避けしめ、ゆっくりとこれを姦するも抵抗する者がなかったらしい。アフリカのホイダー人が娘どもを大蛇神に嫁すると、窖内で大蛇神の名代の蛇二、三疋が待ち受けおり、ともに留まること一時間して娘ども窖より出ずる。さて月が重なりゃお中《なか》が膨れ、やがて生んだは人間で、蛇体でなかった。伊予の河野新大夫親経、男子を持たず。源義家の四男三島四郎親清をその独り娘の聟に取ったが、また男子なし。親清の妻、家の絶えなんことを悲しみ、氏神三島宮を祈りに詣でた。「そのころまでは家督たる人、社参には、丑時、諸社燈明ことごとく消して参りたまえば、明神三階まで御出でありて御対談ありしことなり。」親清の妻長子なくて家を誰に嗣《つ》がすべきと問うと、明神の声で、汝が夫は異姓の他人ゆえ世嗣はできぬと答う。しからば子孫(357)を絶やすつもりかと言うと、一七日この社に籠れと命じた。籠って六日めの夜半に、長《たけ》十六丈余の大蛇と現じ、明神みずから親清の妻の枕もとに寄る。「もとより大剛なる女中なれば少しも騒がず。その時より御懐妊ありて男子一人できたまう。」蛇神の子だから身長八尺、面の両側に鱗様の物あり、小跼て脊溝なく、面前異なるを恥じて、常に手を頭にかざす、よって河野の物恥と称せらる。伊与権介通清という名は、明神一夜その母に密通の義に基づくという。承久の役に勤王して奥州へ流された四郎通信はその子(で、「藤沢寺の門前で留めし車を綱で曳く」時宗の開祖一遍上人は通信の孫)だ。通清は源氏に与《くみ》して平家に背き、奴可入道西寂に攻め殺された。まこと蛇神の子ならば、こうした難儀に逢うまいもの、実はホイダーの大蛇神の名代蛇同様、三島社の祝が蛇体を粧うて親清の夫人の面前に現じ、さて火を消して闇中明神に代わってこれを孕ませたのだ。(メラネシアのロッセル島の霊族長ウォナジョーは、昼は蛇、夜ばかり人の形で現われたというなど参考すべし。)(スエトニウス『羅馬《ローマ》十二帝紀』六の二九。『聊斎志異』四。アストレイ『水陸紀行新全集』三巻三六頁。『予章記』)(『七修類稿』四八。一九二八年板、アームストロング『ロッセル島』一二七頁)
 姦に強和の別こそあれ、支那の五通神も、ギリシアのゼウス神が鵠に化してレーダを孕ませ、インドの無量浄王の夫人やカンジア王妃パシファエが、驢や牛の子を産んだというも、みなこんなことだったろう。これらは一人また一夥が身を畜生に装うて性慾を遂げたものだが、外にアフリカのプーフィマ秘宗徒や、メラネシアのズクズク等の諸秘団に至っては、あるいは豹、?等に、あるいは怪鬼に身を作って、暗殺、掠奪、脅迫、押領等の諸悪を做《な》す。
 清の陳鼎いわく、「賓川府は瘴気はなはだ濃し。四、五月の間、鶏足の道は人の行くを絶つ。さらに鬼に変ずる者あり、婦女多きにおる。あるいは猫に変じ、羊に変じ、鶏鴨に変じ、すなわち殺してその貨を奪う。村落中にあるいはこの種の人あれば、牛糞に変じ、象馬に変ず。単《ひと》りの客に遇えば、左右の隣、必ず官に鳴らして檎治《きんち》す、否《しか》らざれば連坐す。その人、面《かお》は黄に眼は赤く、神情恍惚として、容易に識認《みわけ》らる」。本邦諸方に伝わった千人狼とその類話(358)も、むかし獣装して兇行する多少の団体があった痕跡が残ったものだ。(希臘の Longus の作話に Dorco が狼装して Chloe を掠めんとしたなど、戯作ながら当時そんな事実ありしを証す。)千人狼のうちに、人語したり、人家へ逃げ帰った者ありという以上は、動物の合成本能、合成智慧ぐらいでは、これを釈くに足らず、と。これは、予が動物心理以外、人間世態の諸点から、千人狼話の根源を推諭したのだ。(一八四六年板、スミス『希羅人伝神誌辞彙』二巻七二頁、三巻一〇九一頁。『大方等大集経』三〇。一八九七年板、キングスレイ『西|非《アフリカ》行記』五三七頁。一九一〇年板、ブラウン『メラネシア人およびポリネシア人』六〇頁以下)(『説鈴』所収『?黔紀遊』。一八一六年二板、タンロプ『稗官史』一巻五八頁)
 また考うるに、こんな話は必ずしも多少実在した事蹟に基づくを要せず。こんなことがありそうなという想像のみによっても成立し得る。女と一言交えたことない少年が、年ごろになれば、これに会うと夢み、橋から落ちた覚えなき児童が橋から落ちる咄《はなし》を思いつくごとし。予みずから一度も経験しないが、山村の故老よりしばしば、その辺の古人が野猪や狼に追われて木へ逃げ上がり、命を全うしたことを聞いた。外国の書物にも、その記録乏しからず。手近いところで狼を木に登って避けた例は、サウゼイの『随得手録』(一八七六年板、四輯五四三頁)に、野猪と臍猪の例は、(エリスの『初世英国律語体伝奇集』三巻四一頁や)、セント・ジョンの『東洋林中生活』と『大英百科全書』に出ず(上出)。されば、こんな咄を聞いて、その時自分が狼たり野猪だったら、どうして木の上の人を捉え得べきやと考えると、人と同じく肩馬して掛かるのが最良策と気づき、また狼や野猪が果たして肩馬し能うか否を問うを須《ま》たず、見てきたような想像譚を作り、種々損益してでき上がったのが、千疋狼と野猪精の話で、本邦とボルネオに保留されたとも説き得る。
 本誌二巻三号一八二頁に、有賀〕氏は「物の学び方はどうしても事実から入って行かなくては駄目だ。ところが、実際にはこれがなかなかむずかしいので困る」と言われた。この千疋狼の話ごときは、学ぶ手懸りとすべき事実が少しも見えぬ。強いて言わば、本邦諸処にこの話およびその類話があり、近年まで風馬牛相及ばなんだボル(359)ネオ島に同趣向の野猪精プアカの話を伝うるだけが事実だが、いずれもその誕荒唐にして一つの確たる事実を存せず。ことに、本邦の狼は群団を成さず。むかしは成しただろうとは、ほんの想像で事実にあらず。本来狼は樹を攀《よ》じるに適せず。肩馬などできそうもなく、人語を発するはずもなし。執うべき事実が一つもなきを執うるは、なかなかむずかしいどころでなくて、初めから絶望放棄するの外なし。と言って打ちやった日には、今日捉うべき事実なき民俗(昔物語、童話、笑談、寓話、神誌、地方縁起、譬喩、古諺、古謎、俚謡、子守唄等)の大部分は、民俗学外の物となる。幽霊や幻想ごとき至って事実と遠ざかったものすら、多方に推理して研究を怠らぬ世の中に、捉うべき事実なければとて、異《ちが》つた所で多くの人が伝襲しおるものを、度外におくべきでないと惟う。よって動物心理の上よりと、人間世態の上よりと、箇人想像の上よりと三様に、自分も、また多分は現存する何人も、少しも事実を捉え得ざる千疋狼の話の起源を考察して上のごとく述べた。この三様の考察のいずれが果たしてその起源を言いあておるか、三様に考えた熊楠自身も判断し能わず。
 人間この世界に創生されてより、今まで五十万年の、百万年のという。これまた想像過半で、拠るべき事実すこぶる乏しければこそ定説がない。とにかく五十万年、百万年の永い間には、今となっては全く蹤《あと》を絶ち、また収拾すべからざる事実また諸事実があって、その末終に千人狼の話を留めたかも知れず。知れぬことは何とも致し方がないから、自分の知り得る限り右三様の起源を想立しおく。しかして、この三様の起源は必ずしも孤立単行したと考うるを要せず。狼、野猪等の動物が、いわゆる合成本能に富みたるを見聞して、俺が狼や野猪だったら肩馬して木上の人を追究するはずと考えついた人あり、秘密にその党を集め、狼、猪に身を扮し、肩馬し人語して、所在党外の人を苦しめたのが、千人狼や野猪精プアカの話の根源とも推測し得る。推測はどこまでも推測で事実を突き留むるに足らねど、捉うべき事実なしとてまるで棄権するよりは、推測だけでも廻らす方が物の学び方として優れりと惟う。
 『和漢三才図会』四一に、『日本紀』諾冊二尊の時、鶺鴒あり、飛び来たりて、その首尾を揺《うご》かす、神これを見て交(360)道を学び得たり、「逢ふことを稲負はせ鳥の教えずば、人を恋路に惑はましやは」。二十年ばかり前、故角田浩々歌客、『大毎』紙に寄書して、この伝説は本邦特有のものと説いた。予は外国にも類似の信あるを粗《ほぼ》知りおったが、正確な記臆がなかったので延引数年、のち和歌山に往って蔵書を閲し、手近いジュフールの『売靨史』一の初章に、ギリシア・クプリス島のアマトスに斎《いつ》いだ半男女相のアスクルテ神の秘密儀は、その堂を囲んだ神林中で行なわれ、その林木みな常緑で、いつもこの神に捧げたユンクス鳥の呻吟を聴いた、術士その肉を媚薬に用いたが、実は鶺鴒のことだったとあるを見あて、角田氏に知らせんと思うた時、氏はすでに物故したと聞いて止めた。その他例の蛙鳴かぬ池や、白米城の伝説ごとき、本邦に限ってあるごとく心得、言詞の謬り等より起こったとして釈明せんとした人もあったが、予は外国また同様の伝説あるを見出だし、その都度内外で発表した。すでに外国にも同例あると知ったら、日本の例だけ日本の言詞の謬り等に基づくと解いても、外国の諸例をも諸外国の言詞の謬り等よりすとして解かねばならぬ。(多種の語が同態に同じ謬りを生じ能わずで)、これは実際なし得ないことだ。しからば日本の伝説を釈く前に、及ぶ限り外国にも同様また類似の例の有無を調べおくは、無用の弁を省くために緊要と考う。一事出で来るごとに倉皇取り懸かっても及ばぬゆえ、平生暇さえあらば、徐《しず》かに力を致しおきて然るべしと惟う。
 この千疋狼の話のごときも、本邦諸国に数例の記載あるだけでは、誰かの戯作が拡まったぐらいに言うて已《や》み得るかも知れねど、ずいぶん距たったボルネオ島に、太《いた》く酷似した野猪精プアカの話ありと知り得た上は、出たらめの戯作の偶合以上に何か深い根本があるべく惟われる。予は千疋狼の話から思い立って、ボルネオのプアカの話あるを知り得たるを、愚者の一得と私《ひそ》かに大悦する。人心は人面のごとく異《かわ》りも似もする。予と思惑を異にする人もあるべきと同時に、少なくとも多年趣舎を同じくせる寺石、宮武氏等は、予と大悦を共にさるるを疑わない。
 末筆にいう。土佐野根山の千疋狼の頭領は鍛工の母で、鍋、鉢または釜を冠って先登した由。鍛工が妖術や変化に関係厚き由は、外国でもしばしばきく。アビシニアの鍛工よく狼、ヒエナ等の獣に化身すというは、最も土佐譚に近(361)い。(一八二三年板、パーキンス『アビシニア住記』二巻三三章。一九一四年板、チャプリカ『原住民のシベリア』一九九頁、二一一頁等。一九一八年板、フレザー『旧約全書民俗学』二巻二〇頁。一九二〇年板、グレゴリー『西|愛爾蘭《アイルランド》の幻想と信念』二輯二三九頁)(一八四三年刊『ベンゴル亜細亜《アジア》協会雑誌』一二巻、グラハム『ショア民習俗迷信記』六七五頁)それから『本朝若風俗』三の一に、若い娘が大鍋七つ重ね戴いて、筑摩祭の行列に先登する図を出し、『烹雑記《にまぜのき》』下の五に、後妻打《うわなりうち》の勇女が、頭上に擂鉢を捧げて、打ち下ろし来る擂木を受け留むる画あれど、事情は鍛工の老母が鍋や釜を冠ったと異なり。むかし那智山を侵掠した怪賊一ツタタラが、鐘を冠って矢を禦ぎ闘うたと言い伝え、(『窓のすさみ』三に出た小野次郎左衛門と試合し敗けた御子神善鬼が、瓶を冒って逃げたる)、戯作ながら『国花諸士鑑』三の一、播磨の武士轟平次右衛門が、宿意ある家老を討ち損ねて焼糞になり、寺へ乱入して仏前の鈴を兜にかぶり、百人斬りをやり初めた趣きは、大分崎浜の婆狼や松江の婆猫に近い。(四月六日午後十一時稿成る)  (昭和五年五月『民俗学』二巻五号)
【追記】
 この篇出板されてのち、狩犬を多く飼って多年の経験ある川島友吉氏に逢った時|話《はなし》に、狩犬のなかにはよく樹に昇る者あり、狼も事に臨んで木に登ることはあるべし、と。また、九月九日夜、亡友ウィリヤム・フォーセル・カービー氏の『エストニアの勇士』(一八九五年板)二巻二七七頁をみるに、壮年の小農が狼を捕えて厳しく打ち懲らしたのち木に攀じ登ると、狼の一類が群がり到って仕返しにかかり、肩馬してほとんど小農に届くところを、小農計謀もてこれを倒し崩し、多くの狼がその四脚を折った、爾後狼は人をみるごとに逃げ去る、と記す。しからば、千疋狼肩馬の談は欧州にもあるので、どうも狼が群棲した処と時代には、肩馬して高きにある物を襲う事実があったと想われる。(日本にも六十余狼群せしこと、『中陵漫録』八に出ず。狼と同属の獣たる狐が高処に上がった例は、『今昔物語』二五の六語、『譚海』中、『日下旧聞』五の一五表にあり。『北史』九三、「姚興の殿《ごてん》に声あり、牛の?《な》くがごとし。二狐あり、長安に入る。一は興の殿の屋《やね》に登って宮に走り入る。一は市《いちば》に入って、これを求むれども得ず」。『古今図書(362)集成』職方典六四二、四川の建昌五衛部、「建昌の松潘にては、土犬は小にして肥美《ふと》り、稲田に群遊す。〔一〕犬、樹に登って望み、もし捕うる者あれば、すなわちまず鳴いて吠え、衆《おお》くの犬をして奔り逸《のが》れ去らしむ」。)  (昭和五年十月『民俗学』二巻一〇号)
 
(363)     「紀伊の国」の端唄
 
 本誌二巻二号二五頁に、この端唄がいつごろどこから流行りだしたかの問を出してのち、気付くところあり。新宮町の碩学小野芳彦君へ聞き合わせると、五月二十一日付の返信あり。少々省いてほとんど全文を左に写し出す。
  御垂問を被り候「紀伊の国」の端唄については、当地においても、御高説通り、音無川を広義の音無川すなわち熊野川(新宮川)となし、船玉山をもって大和吉野郡十津川の玉置山となしおる儀に候えども、本宮方面の人は、音無川をもって三越より来たり本宮にて熊野川本流に入るところの、かの囁き橋下を流るる音無川と狭義に解し、船玉山をその上流二十余町の水源地にて、東牟婁郡三里村、大字三越の内なる玉滝山をさすものとなしおり、そこには船玉神社とよぶ小祠ありと承りおれど、いまだ参詣せしこと御座なく候。その玉滝の特産なる寒蘭は、その葉といい、その花といい、ことに優美にて玉滝の蘭と称し、好事の士、珍重措かず。小生も三越のある人より一株割愛致し貰い候えども、培養法を心得ざるため、一向蕃殖致さず、近所の愛蘭家へ預けおる義に御座候。この「紀伊の国」の端唄は、新宮江戸詰の旧藩士関|匡《ただす》、玉松|千年人《ちねと》(兄弟にて、その妹は藩主水野土佐守忠央公の愛妾)両氏合作にて、第二世川上不白宗匠が閲正せられたるものなりと、誰かより承り候こと有之《これある》よう、うろ覚えに記憶に残りおり候えども、その承り候仁も、関氏、玉松氏も、とくのむかしに亡くなられ候て、これを質すに由なく、遺憾に存じおる義に御座候。関氏の愛妾にて、後に正室となられたりしおやまさんというは、明治十五、六(364)年ごろまで、新宮にて常磐津の師匠をせられおり、関氏没後、明治二十二年の秋、勝浦港より品川に直航する鶴丸という汽船に、小生同伴便乗し、その実姉なる上野山下なる松源女将を頼り、上京致せしが、その後消息承らず、お家にたぶんすでに故人となられたる方と存じおる義に御座候。
  件のお山さんは、小生どもより十ばかり年上のようにあり。関氏は、お山さんよりまた十ばかり年上にあられしよう思われ候えば、もし今日現存せらるるにおいては、お山さんは八十余歳、関氏は九十余に有之《これある》べしと存ぜられ候。また、この唄を閲正されたりと伝えられ候川上二世不白宗匠はなかなかの通人にておられし由にて、その娘なりという方、お山さんより三つ四つ年上にて、常磐津の師匠をせられおり申し候。
 右の小野君の手紙に、関匡氏が現存せば九十余歳なるべしとあるを、かりに九十五歳と定めて算えると、天保七年生れで安政二年に二十歳、安政の末(六)年に二十四歳。その実弟玉松氏も丁年前後だったと察する。新宮は和歌山や田辺と異なり、古く遊廓の設けあり、江戸への往復もしきりで、粋道において他に先駆けおった上、この兄弟は江戸詰で、東武の景物に精通しおったから、年若きにかほどの端唄を合作し得たは怪しむに足らず。この二人の妹を嬖妾とした水野忠央は、安政五年将軍家定薨じた跡へ、井伊直弼と結んで紀州の家茂を擁立した人で、安政六年すなわち直弼が殺された一年前には、水野家士の江戸に詰めおった輩の得意想うべし。ここにおいて新宮藩の揚威かたがた、「さしてぞ千代のかげぞしらまし」と詠まれた山城の稲荷山などそっちのけに、新宮領内のえもしれぬ玉滝の小祠を東武諸稲荷の本社たるごとく誇張し、もって新宮藩が江戸を支配するごとく意を暢げたものと察せらる。
 本誌二巻五号三一六頁、河本君が示された、安政六年の序ある『改正|哇袖《はらた》鏡』は、予かつて見たことなし。それに「紀伊の国」の唄が出てあると承って、小野君の返信と併せ考え、たといこの唄が安政六年作でなくとも、安政中の作と定めおくに大した違いはあらじと惟う。よって、ここに河本君に教示の御礼を申しあげおく。予が「『紀伊の国』の唄は、維新のころ高野山で?童だった人が、僧徒の宴席でこれを舞うた由、みずから予に語ったが、いつごろ(365)どこから流行りだしたものか、識者の教えを俟」との質問に対し、「維新のころ云々とありますが、時代は安政以前にのぼれるわけです」とは、教示まことにありがたいが、次に「祖母は、その謡なら誰でも知っているだろうし、自分にも舞えると言っています。あえて高野山の?童を俟たずとも、誰にでも舞えるほどポピュラアな物らしいです」とは合点がわるい。予が問は、維新のころ、高野山ごとき偏土で、?童ごとき毛変りの者までも舞うたほど、すでに普及しおった唄だが、それが維新前のいつごろ、高野山外の何地方からはやりだしたかと言ったので、高野山の?童でなくちゃ舞い能わなんだとは決して言わなんだ。それに、お祖母さんまで、高野の?童を俟たずおれが舞ってみせるなど、みずから奨まるるは多少どうかなさってる。実は、南方先生の知人はみな知悉する通り、先生若い時こんな方にも存分苦労しやした。ことに、お国ものの「紀伊の国」ときちゃあ一本棒で、去年も大阪から放送を頼みにきたのを断わるに骨がおれた。時々若い者どもが唄うたり舞うたりするをみて、「傍?して去る能わず、毎《つね》に言に出だしていわく、かれに善《よ》きところあり、善からざるところあり、と」。されば、「紀伊の国」を誰にでも舞えるなどいう人はだいぶお若い。この身せめて四十年も若かったら、「あの女房すんでに俺がもつところ」と言ったかもしれぬ。(六月十三日午前七時)
 (追記)雑賀貞次郎氏、この稿を読みてのち告げ来たられたは、「水野忠央公の側室玉松氏、名は多摩子と小野芳彦翁の『水野家系譜』に出ず。しからば、『紀伊の国』の端唄の作者はこの多摩子の兄にや。多摩子は、嘉永元年七月歿し、法号を徳真院節操妙円大姉と申し候由。また忠央公の妹広姫は、のちお琴の方と称え、大奥に仕え、十二代家慶将軍の御手付き中臈となり候由。水野家が幕府に勢力ありしは、このお琴の方の力にも依ったものかと存じ候」。  (昭和五年七月『民俗学』二巻七号)
【再追記】
 本誌二巻七号四三七頁に、この唄を合作した新宮藩士関匡、玉松千年人兄弟の妹が、藩主水野忠央の愛妾と、(366)小野芳彦君の来示のまま出し、さて同号四四〇頁に、同じ小野君の『水野家系譜』によって、雑賀貞次郎君が告げ越されたにより、件の藩主の愛妾玉松氏、名は多摩子は、嘉永元年七月歿した、と載せた。四三八頁に書いた通り、「紀伊の国」の唄が発行したらしい安政末(六)年に、関匠が二十四歳、弟玉松千年人が丁年前後、それをかりにこの兄弟が年続きに生まれたと定めて二十三歳。さて、その妹多摩子の方も年子に出胎したとしても、安政六年より十一年前の嘉永元年に、この婦人は十一歳で逝ったはず。なんぼ藩主が好色だっても、十一歳の少女を愛妾とは、藩主の偉器と共に受け容れ得ない。上頭の場で死んだ沙汰も聞かず、不審の至りと、気をもむところへ、七月二十五日、小野君から左の一書が著いた。これでタップリ通和散を用いたごとく、始末が底までよく届くと、すなわち写して差し上ぐる。
  (前文略)小生の御報申し上げ候伝聞にして、幸いに訛誤|無之《これなく》候わば、先生の御断案は山のごとく憾《うご》かざるものと敬服奉り候。関匡氏は廃藩のさい江戸詰家老の職にこれあり。四十歳以下にして家老職に昇れる例|無之《これなき》由に御座候えば、先生の御推定あらせられたる通り、安政末年のころには二十四、五歳以上に有之《これあり》候ことも必然に有之べしと存じ申し候。
  関氏と玉松氏の妹は藩主忠央公の愛妾と御報申し上げ候は、全くの誤聞に有之、忠央公の愛妾多摩子の方は、玉の井様と称し(「玉の井」は、下熊野地(新宮町の大字)源行家屋敷跡の付近にある名所にて、丹鶴姫様の「朝夕にみればこそあれ熊野なる、おく白露の玉の井の橋」の遺詠も伝わりおり申し候)、実に第十代藩主大炊頭忠幹公の御生母に有之、御里方は(上州、あるいはいう武州)在某農家の女と申すも詳らかならず。されど、忠央公の寵愛を鍾《あつ》められたる上、世子忠幹公を生まれたるにつき、その御名にちなみ、新たに玉松という一家を興し、関氏の弟千年人氏をして、その家を承《つ》がしめられたるものの由に有之、ここに不敏を叩謝して正誤申し上げ候。(関、玉松二氏合作のこの端唄を閲正したと伝えらるる)二世川上不白宗匠には、他にいくつかの端唄を作れる由に有(367)之。宗匠の娘より常磐津を学び、只今京都在住の某老媼、その一、二は記臆致し有之べきかと存ぜられ候。ついては、さっそく聞き合わせ、幸いに相分かり候わば直ちに御報申し上ぐべく候。
 熊楠いわく、この端唄最初に、新宮領の音無川上に立たせたまえる船玉山を挙げ、さて東国に至りては玉姫稲荷が云々と、玉の字を二つまで重ねたは、多摩子の名にちなんだこと歴然だが、主君の愛妾を狐の嫁入云々と、狐に比したは、作者の無礼放佚沙汰の限りでも面白くもある。  (昭和五年八月『民俗学』二巻八号)
【追記第三】
 さきに出た再追記なお尽さざるありとて、八月四日付で小野芳彦君より重ねて左の報告あり。
 この端唄について、長く本誌紙面を?むるは、ずいぶんお門違いの嫌いなからねど、すでにもって昨年出でたる『大英百科全書』一四板、九巻四四六頁「民俗学」の条にも、「現代の学識は次代の俚伝」となるとあり。遠い外国説の受売りのみ学者行為らしく持て囃されて、手近い自国の事実の書留を閑却するを何とも思わぬ当世、力の及ぶ限り「紀伊の国」の来由を録し置かぬと、今にこの唄から考証して、狐の崇拝は船玉山が嚆矢だの、稲荷大明神の本名は倉稲魂《うがのみたま》でなく玉姫の命だ、それが黒助彦に嫁した行列を、人丸がこの端唄に作った、その時嫁入り荷物をかついだは剛力稲荷、この称は「胎蔵界曼荼羅」の薩?院に、金剛手持金剛、持金剛鋒、虚空無垢持金剛、金剛牢持、忿怒持金剛、金剛持、金剛輪持金剛、択悦持金剛、持妙金剛、持大輪金剛の十菩薩、いずれも剛と持の二字がその名に入りおる。それにちなんで荷持ちを金剛力の略で剛力としたのだ。もって狐崇拝と密教との関係深きを知るべし、などと言い出すかも知れぬ。かつ一度本誌へ書き出したものの追補を他へ分載しては、後世この端唄を研究する多くの人々を捜索に苦しましむる理窟ゆえ、そのもっとも貴重な材料をもっぱら本誌に纏め置かんとの一念より、三たび編輯人を煩わし奉る。読者諸彦、人はその愚を笑い、われはその志を憐れむと、愍笑また随喜して熟読されよと云爾《しかいう》。
 一、正誤
(368) 「関、玉松両氏の妹は藩主水野土佐守忠央公の愛妾」と申し上げましたは誤聞で、忠央公の愛妾多摩子の方(徳真院節操妙円大姉、嘉永元年戊申七月逝去、江戸市谷長延寺に葬る)は、第十代大炊頭忠幹公の御生母で、玉の井様と称せられ、上州(あるいはいう武州在)某家の女で座《おわ》されたが、世子忠幹公をお生みなされたので、新たに御名にちなみて玉松という一家を興され、関氏の季弟|千年人《ちねと》氏にその家を相続せしめられたのだそうで厶《ござ》ります。
 二、追補
 新宮藩、幕末の江戸詰家老関|匡《ただす》氏は、初代関匡氏の長男で、同胞三人、長は関匡氏(家老)、次は梶川馬六氏(馬術師範)、季は玉松千年人氏(御用人)、いずれも江戸詰の粋人であり、新宮町の熊野地郵便局長山内米三郎氏は梶川馬六氏の三男で、関氏、玉松氏の甥であると聞き、往って関、玉松二氏のことを聞きましたところ、「私は梶川馬六の三男で、出て山内平兵衛に養われたので、今は実父も養父もおりませず、何分伯父叔父在世のころは、幼くありましたので、『紀伊の国』の端唄についても別に聞いたことは厶りませんが、伯父叔父いずれも通人で、常磐津、長唄、端唄等を巧みにせられ、ことに玉松叔父は文才もあり、狂歌、情歌等を多く作りましたので、かの『紀伊の国』の端唄も、お聞き伝えの通り叔父たちの作かも知れません。関の伯父は今業平と呼ばれ、父も玉松叔父も劣らぬ通人でありました上、揃うて美音でありましたので、時には三人打ち揃うて、酔興に花柳の巷等を門つけに廻ったことさえあったと、長兄から聞いたことがあります。同胞三人のうち、玉松の叔父が一番長命致し、幼い私どもにもよく、自作の情歌など例の美音で歌うて聞かせてくれましたが、そのうち記憶に残っているのは左の一であります。
  沖をみながら儘にはならぬ、エーモウジレッタイ硝子窓。
その後私は渡米致し、明治四十四年帰国致しましたところ、玉松の叔父はその前年物故致しており、一年早かったら逢えるところであったのに、残念なことであった、しかし、叔父は八十八木も祝い、長命でありましたと、養父や親戚の人たちが言われたことでありまして、それからこちらへもう二十年、叔父が今日まで存命致さば百八歳、閑の伯(369)父は四つか五つ上でありましたので、今日までおりましたら百十二、三歳、安政元年には、関の伯父は三十五、六歳、玉松の叔父は三十一歳であったように厶ります。また関の伯父の後妻であったお山さんは、もう大分以前東京でなくなりました。関の伯父とお山さんのあいだに生まれ、玉松の叔父の養女となられた、才色ならび勝れたお仙チャンは、東京葭町第一流の芸妓として持て囃されましたが、麻布の某実業家に落籍せられ、正妻となり、数人の児女(今はいずれも成人)を設け、裕福に健在致しております」との話で厶りました。
 それで心当りの寺々を廻り、過去帳を調べましたところ、全竜寺の過去帳に、松峰院徳山智周居士、明治二十九年二月十六日、二代関匡事と記しおりましたが、年寿は記しおり申さず。玉松氏の方はまだ見当たりませんが、明治四十四年山内米三郎氏米国から帰られたところ、玉松千年人翁は、その前年八十八歳で逝去せられおったと申すので、その見当はつくように存ぜられます。
 船玉神社のこと。音無川の水源、三里村大字三越、玉滝すなわち船玉山のほとりなる船玉神社は、船乗の者信仰すること厚く、祠宇は船乗の者の寄進より成るを例と致すそうに厶ります。(熊楠按ずるに、天保年間紀藩で編んだ『紀州続風土記』八五、三里郷三越村の条に、この社の名さらにみえず。そののち「紀伊の国」の唄によって著われ出でたらしい。)
 なお(「紀伊の国」の端唄を閲正したという)二代川上不白宗匠の端唄を京都の某老媼(宗匠の娘に常磐津を学びし者)へ聞き合わせましたが、歌詞はもう忘れ去り、思い出せんという返事で厶りました。(以上、八月四日出、小野芳彦君書状)
 (付)八月九日出、小野君通信に見えた東牟婁郡古座町中根七郎氏養祖父が、かつて写し置かれた新宮藩、二世川上不白宗匠作長唄「花の友」、左のごとし。調べ等について「紀伊の国」と合わせ稽うべし。
  本調子 ※[いおりてん]へ下総や武蔵の間合《あひ》の一《ひと》流れ、合 心もすだの川上に、寄するは春の友なれや、合 ※[いおりてん]つきぬ眺めの花の香を茶壺に詰めし初|昔《むかし》、変はらぬ玉のいさをしに、飽かぬ遊びの流しだて、合 たてし誓ひの行末は、そのうばくちのふ(370)とんがま、ふたりしっぽり嬉しい中を、たが水さしてかへ服紗、合 さばき兼ねたる中々に、おもひのたけの竹|台子《だいす》、そのをりすゑの末までも、月と花との戯れに、すぐるはすさびの面白や、合 ※[いおりてん]見渡せば流れに浮かむ一葉の、中の小唄の顔みたや、合 桜が物をいはふならば、さぞや懍気の種であろ、好いた隅田の水鏡、焦がれ逢ふたる船の内、合 よその眺めのもどかしや 二上り ※[いおりてん]君をまつ、香の薫りのゆかしさに、恋の闇路の色深く、染むる柳〔傍点〕の瀬〔傍点〕にうつる、合 風の姿のいとしさに、いつか誠を明かして添へて、約束固きめうと石、はた〔二字傍点〕でみるめの楽しさよ、合 ※[いおりてん]花の数々数ふれば、君はおほはら桜はゆかし、粋《すい》な山吹桃つばき、ふじ田を宿に風ものどけし。
 右長唄は、新宮藩士、家老柳瀬伝五右衛門、石畑福左衛門、御茶道川上不白三人川遊びのおり、杵屋六左衛門、三五郎を招き、船中において茶湯を立て、その感興忘れがたきより、不白宗匠この唄を作り、六左衛門節をつけ、三五郎踊りの手をつけ、そのころ江戸にて大いに流行したりし物の由に御座候。  (昭和五年十月『民俗学』二巻一〇号)
 
(371)     易の占いして金取り出だしたること
 
 「易の占いして金《こがね》取り出だしたること」と題して『宇治拾遺』に出た話は、旅人が大きな荒れ家に宿を求むると、内には女一人しかないらしく、快くとめてくれた。夜あけて物食い出掛けると、かの女が君は出で行くわけにゆかぬ、留まれ、と言った。何故と問うと、わが金《こがね》を千両君に貸しあるから返したのち出でゆけ、と言った。旅人の従者どもからかい半分、きっとそうだろうとまぜ返すを、旅人は真面目に止まって占いを立て、かの女を呼び出し、汝の親は易の占いをしたかと尋ねると、何か知らねど今君がしたようなことをした、と答う。そうだろう、さて何ごとで予が千両負いおると言うかと問うに、親が死にざまに多少の物を遺《のこ》し置き、十年後の某の月に旅人が宿るはず、その人はわれに千両負うた者だ、その人にその金を乞えと教えて終わった、その後親の遺した物を売り食いして過ごすに、もはや売る物も尽きたから、親が予言した月日を待っておったところ、ちょうどその日に君が泊ったから千両を求むる、と言った。旅人、金のことは真実だと言って、女を片隅につれてゆきとあるから、また例の千両の金の代りに鉄の棒を一本ぐっと進呈などとくるところと気を廻す読者も多かろうが、そんなことにあらず、一つの柱を叩かせると中が空虚らしく響く、この内に望みの金がある、小切りに出して使いたまえと示して旅人は去った。全くこの女の父は易占の名人で、千両という大金を残らず与えて死んだら、あるに任せて若い男などにドックドックとやり続けに出してしまうは必定と判じ、十年間やつと暮らし得るだけの物を与えてこの家を失わず守らしめ、今日を待って今日泊るべき旅人を責めしめたので、この旅人も易占の名人ゆえ、千金を求められると、即座にこの家のどこにその金を蔵め隠(372)しあるを占い知って娘に告げくれるは必定と、十年後のことを見通して父が娘に遺金したのだという。
 熊楠いわく、この話はもと支那の話を日本へ移したのだ。『太平広記』二一六に『国史補遺』を引いて、晋の隗?、易を善くす、臨終に妻子に告げたは、後来大いに荒るるといえども宅を売るなかれ、今より五年して、詔使の?氏がここへくるはず、この人われに借金あり、予が書き付けおく板を証拠として債促《さいそく》せよ、と言って死んだ。五年たつと、果たして?氏が来た。後家が亡夫の書き付けた板を示して返金を促すと、?は呆れたが、しばらく思索の末、蓍《し》を取って占い、われは隗生に借金した覚えなし、隗生自分の金を隠しおき、わが易占を善くするを知って、われがここに来るを俟ってその在り処を妻子に告げしむるよう謀らい置いたのだ、その金高は五百斤で、青瓷に盛って堂屋の壁を去る一丈、地に入ること九尺の処に埋めあるはず、と教えた。よって妻がそこを掘って、果たして金を得たそうだ。
 やや似た話はインドにもあり。
 『大般涅槃経』七に、「善男子よ、かくのごとし。貧しき女人の舎内に多く真金の蔵あり。家人大小とも知るものあるなし。時に異人あり、よく方便を知って貧しき女人に語る、われ今汝を雇わん、汝わがために草穢《ざつそう》を耘除《くさぎ》るべし、と。女すなわち答えていわく、われ能わざるなり、汝もしよく我子《われ》の金蔵を示さば、然るのちにすなわちまさに速やかに汝のために作《な》すべし、と。この人またいわく、われ方便を知る、よく汝子《なんじ》に示さん、と。女人答えていわく、わが家大小ともなおみずから知らず、いわんや汝よく知らんや、と。この人またいわく、われ今|審《つまび》らかに能《よ》くす、と。女人答えていわく、われまた見んと欲す、あわせてわれに示すべし、と。この人すなわちその家において、真金の蔵を掘り出だす。女人見おわって、心に歓喜を生じ、奇特の想いを生じて、この人を宗《たつと》び仰ぐ」とある。
 『観仏三昧海経』一〇に、「復次《また》、阿難のいう。譬うれば長者、財宝|多饒《ゆたか》にして、諸子息なく、ただ一女あるのみ。この時、長者百歳を過ぎ、みずから朽邁して死なんとすること久しからざるを知る。わがこの財宝は、男児なき故に、財はまさに王に属すべし、と。かかる思惟を作《な》し、その女子《むすめ》を喚び、ひそかにこれに告げていわく、われ今宝あり、(373)宝中の上なるものはまさにもって汝に遺《のこ》すべし、汝この宝を得れば密蔵すること堅からしめ、王に知らしむることなかれ、と。女《むすめ》、父の勅を受け、摩尼《まに》珠および諸珍宝を持って、これを糞穢に蔵す。室家大小とも、みなまた知らず。世の飢饉に値《あ》い、女の夫、妻に告ぐらく、わが家貧窮して衣食に困《くる》しむ、汝は他《よそ》へ行き自活の処を求むべし、と。妻、夫に白《もう》していわく、わが父の長者、命終に臨める時、宝をもってわれに賜い、今某処にあり、君これを取るべし、と。時に夫掘り取って、大いに珍宝と如意珠を獲《う》。如意珠を持って焼香礼拝し、まず願を発していわく、わがために食を雨《ふ》らせよ、と。語に随つてすなわち百味の飲食《おんじき》を雨《ふ》らす。かくのごとく種々のもの意に随つて宝を得。時に夫、得おわつて、その妻に告げていわく、卿《なんじ》は天女のわれに宝を賜うがごとし、汝この宝を蔵せるをわれなお知らず、いわんやまた他人においてをや、と」。これは、死んでゆく父が娘の賢きを知り抜き、隠さずに宝を譲ったのを、娘がまさかの時に用いんとて、よく隠し置いたので、『藩翰譜』に出でた山内一豊の妻などと似た行いだ。
 これら仏教譚よりもずっと『宇治拾遺』や『国史補遺』の談に近いのは袁天鋼の伝にある。皆人の知る通り、天綱は唐一代の占術の達人で、よく前後五百年のことを知った。その妻が後世子孫の栄枯を占い言えと勧めたので、占うと十代めの孫はきわめて貧乏と判った。妻がそれを救う法ありやと問うたから、また占うて、某の年月日に本府の大守が梁《うつばり》が落つる厄にあうべしと知った。そこで、その旨を書いて赤い箱に入れ家廟中に封じ、代々相伝えて十代めの孫に至り、某年月日にこの箱を太守に送り、必ず太守自身堂より下って親《みずか》らこれを受けしめよ、と書き付け置いた。さて十代めの孫に至り果たして大貧乏で、祖先の言を思い、その年月日を待ってかの箱を府堂の階下に送り、ぜひ太守が自身下って受けんことを求めた。太守身を起こし階を下ると同時に、堂上の朽ちた梁が落ちて、太守が今まで占めおった公座を砕いた。太守は箱を受け取り開きみると、一帖あり、汝わが十世の孫の貧を救え、われ汝の堕梁の厄を救うと書き付けたをみて、太守は活命の恩を拝謝し、袁天鋼の十代めの孫を薦めて官途に就かせ、活計を得せしめたという(『淵鑑類函』三二三)。  (昭和五年九月『民俗学』二巻九号)
(374)「明治二十五年、予ロンドンへ往き、ケンシントンのブライスフィールド町という陋巷に、一週十シリングか何かで二階住居し、同三十年の秋まで住んだ。胡瓜の漬物ばかりもっぱら食い、乞食以下の暮しながら日夜書と仇をなし、一考出ずるごとに書き留めた物が今も手前にある。故孫逸仙を首《はじ》め、木村駿吉、鎌田栄吉、加藤寛治、斎藤七五郎、吉岡範策等の諸名士、勇将たまたま訪れた折々も、いわゆる手筆を措かずで、談論しながら書きつづけた。今となつては自分の手業と思われぬほど至極の細字だ。それを頃日病中しょうことなさのあまり、虫眼鏡でそこここ捜索するうち、見当たった一つは右の『宇治拾遺』の一条で、この譚もと『晋書』巻九五、芸術列伝、隗?の条に出ず、と熊楠は考える、と添記しある。」
 
(375)     亀の甲
              浜田隆一「亀の甲」参照
              (『民俗学』二巻七号四五四頁)
 
 浜田君が出された(熊本県八代郡下松求摩村の)この話は予にしごく珍しい。話中、月の使者が持った藁稈をくわえて亀が空中を旅行するうち、使者の訓えに負き、目を開いて迷眩し、地に落ちて甲を片裂したというは、たぷんインド説より出た思い付きであろう。
 西暦紀元前二百年ごろカシュミル国で編まれ、紀元後六、七世紀までに完成され、再三重訳されて西アジア掛けて欧州に弘まり、数億人を悦ばせたという『パンチャタントラ』に、湖中に二雁一亀、友とし善かったに、旱《ひで》りが十二年も続いてやりきれない。二雁、他の水に徙《うつ》るに相談をきめ、亀に対して名残を惜しむと、いわゆる石亀の次団太をふみ、果たしてこの湖が乾き終わったら、貴公らは餌が乏しくなるだけだけれど、僕はたちまち落命が必定、それに山もみえざる仮初に、江戸三界へ往かんして、いつ戻らんすことじゃやら、殺して置いてゆかんせのう、放ちはやらじと泣いたので、二雁ほとほともて余し、羽根なき衆生は度しがたし、(もしもし亀さん、亀さんへ)、どうしてお前がわれらと一緒に、旅の空を飛んでゆけよう、と言った。ここにおいて亀一計を出し、棒を一本持ち来たれと望む。雁が棒を持ってくると、その真中へ亀がくい付き、その両端を二雁が銜《くわ》えゆすらずに飛んでくれたら、どこか相応な水辺に到り得るはずと言った。この計すこぶる妙、しかし飛行中ちょっとでもお前が咄《はな》しかけると最後、棒から離れて地上に堕ち、微塵になって死なにゃならぬが合点かと尋ねると、委細承知、空を飛ぶうちはきっと黙り続け(376)ると誓うた。よって迷惑ながら棒に亀をくい付かせ、両端を二雁が銜えてある市中の空を通ると、古今変わらず、どこにもヒマな人物多く、何の用もなきに眺め廻してこれを見つけ、アレ鳥が二羽して飛び運ぶ、棒からぶら下がつたは何でござりましょう、鳥も賢くなって車に乗って行くとみえる。ナニあれは南方先生の陰嚢さ、先生は有名な片キンだが、航空のあぶなさに縮んで、小さい方が大きな方に合併したのだ。なるほど陰嚢とみえて、上に正銘の亀頭がある(雁に運ばれるから、亀頭をカリと称えたものだ)、とムダ口を交換す。亀これを聴いて誓言を忘れ、ちょっと口を開いて、あれら人間は何を言い合うのだろうと尋ねた刹那、棒を離れて地に落ち下るを、天の与えと人々が、切り調えて食ってしまうた、と出ず。
 セイロンに伝わった仏本生譚には、仏前生にビナレスの梵授王の輔弼だった。この王、生来饒舌で人に発言の遑なからしめたから、機会を竢って規諫しょうと思いおった。ところにヒマラヤ地方の池に亀と二雁と住んで好友たり。一日二雁亀に対《むか》い、われらはシッタクータ山の高原の金洞中に絶好の棲家をもつが、君もともに往ってみないかという。どうして往き得るかと問うと、口を始終閉じて一語も出ださねばよしと答う。それは何でもないことというと、しからば往こうとて、亀を棒に吃い付かせ、その両端を銜えて飛んで往く。ビナレス王宮の上にさしかかった時、村童これをみて、アレアレ二羽の雁が棒に付いた亀を運びゆく、と呼ばわった。亀これを聞いて、わが友達がわれを運びゆく、汝に関することでないと言うつもりで、口を開くとたちまち宮庭に落ちて、その身が二つにわれた。王諸臣と共に来たり見て、子細を仏の前生に問うた。仏上述の次第を述べ、あまり好んでしゃべる者は、みなこんな目にあうと諷したので、王その意を暁り、爾来寡言になった、と見ゆ。
 セイロンの村居ヴェッダ人の所伝には、二羽の鸛《こう》が、永い旱魃で涸《か》れた池を去って他へ徙る時、泣き付かれたまま、例の棒に亀をくい付かせて飛び行く影をみて、野干が、さても厄介な者を道伴れにしたものだ、と言った。亀これを聞いて、この厄介な者は、汝の母へ進物として担われゆくと、言いおわらぬうちはや野干の前に落ちおった。首尾と(377)四肢を甲の内へ縮めて、手の付けようがないから、種々転がして口のつけ所を求むるうち、亀甲の中より、どど一で、「永い旱りで干されて食へぬ、水に浸して食ふがよい」と教えた。すなわち亀を銜え池に入れ、一足で押えおると、大分よく潤うたが、足で押えらるる所がまだ乾きおると言う。よって足を揚げた間に亀は逃れ、それを素早く捉えると、汝はケタラの根を亀と見誤って押えおるという。野干あわてて真の亀を放し、もよりのケタラの根を押える間に、亀は確かに逃げ課《おお》せた、とあり。それより野干群議して亀衆を鏖殺せんとかかったが、亀どもその詐謀を察し、逆さまにこれを紿《あざむ》いた次第を述べある。(Benfey,‘Pantschatantra,’Lipzig,1859,I,S.XV;Ryder,‘The Panchatantra,’Chicago,1925,pp.3,147-149;Cowell and Rouse,‘The J taka,’vol.ii,pp.123,124;Parker,’Village Folk-Tales of Ceylon,’1910,vol.i,pp.234-239)
 この話が支那で初めて著われたは、西暦二八〇年歿した康僧会、これは祖先が康居国から出て世々天竺におり、父に至って商業のため、安南に移り、僧会に及んで弘法のため呉に来たり、西暦二五一年『旧雑譬喩経』二巻を訳出した(梁の慧皎撰『高僧伝』一。Eitel,‘Hand-Book of Chinese Buddhism,’1888,p,146)。その下巻に、むかし一鼈あり、湖沢乾き竭《つ》きて食えなくなった時、その辺へ来た大鶴に救いを乞うと、鶴これを銜え都邑を過ぎるに、鼈黙りおらず、ここはどこかと問いて止まず、鶴すなわち返答するとて、口を聞くと、鼈は女の白い脛や黒い毛をみた久米仙同様、真ッ逆さまに落ちて人に料理し食われた。「それ人の愚頑《おろか》にして、口舌を謹まざれば、その譬えかくのごとし」とあって、二雁や二鸛の代りに一鶴とし、鶴が鼈を銜えたにして鼈がくい付くべき棒を抜きにしある。次に西暦四二四年、劉宋の仏陀什と竺道生が共に訳した『弥沙塞部五分律』にも、上にセイロン所伝仏本生譚より引いたと、ほぼ同様の譚を出し、二雁が亀に木を啣えしめ、その両端を啣えて飛ぶをみて子供が、雁が亀を啣え去るは可笑《おか》しいなというと、亀|瞋《いか》って、汝らの知ったことでないと言うと同時に、堕ちて死んだ。その亀は調達《ちようだつ》の前身で、むかしは瞋語で死苦を受け、今は如来を詈《ののし》って大地獄に堕つとは因業極まる奴だと、仏が諸比丘に告げた、と記す。この二譚は故芳賀博士(378)の『攷証今昔物語集』上冊、四五四−四五五頁に『法苑珠林』より孫引きしある。『今昔物語』五巻二四語は「亀、鶴の教えを信ぜずして地に落ち甲を被《やぶ》る」という題目で、件《くだん》の『旧雑譬喩経』の短文を、種々入れ言して引き伸ばしたもの、その末に「世の人、不信の亀、甲破ると言うは、このことをいうとぞ語り伝えたるとや」と添えたをみると、平安朝の諺となって人口に膾炙したらしい。(足利氏の世に成った『塵添?嚢抄』二にも、信なき亀は甲をわるという如何《いかん》との問に、『一切有部根本毘奈耶』から、右の『弥沙塞五分律』同様の話を引き答えある。)
 浜田君が説かれた熊本県八代郡下松求摩村の譚は、仏説の雁や鸛を月の使者、涸れた池湖から水多い処へ移るを、月世界へ上るなどと替えたまでだが、堕ちて破れた甲片を聚め繕うたゆえ、現に怪我の跡線が残りおるというは面白い。今みる通りの亀甲の起因については、パプア人謂う、むかし亀が諸鳥の畑を荒らし、捕われてビナマ鳥の宅に繋がれ、諸島これを殺し饗宴せんとて、まず菜根を掘りに往った跡で、亀、ビナマ鳥の児輩を欺き木椀を背に被って海に入った。諸鳥追跡しておびただしく大石を投げたが、毫も傷つかなんだ。爾来、海亀はみな木椀を背に被る、と。けだし、その辺の人は時にはなはだ大きな木椀を用い、それが海亀甲に酷似するより、かく言い出でたとみゆ。これよりもずっと熊本の譚に近きは、アフリカのカラバル土人の誕《はなし》に、亀かつて木より落ちて甲が破れた。その片々をつぎ合わせたが、継ぎめが滅せず今に残るというのだ。
 これまで述べたはみな、亀がみずから過《あやま》って高処より落ちたのだが、他の動物が故意に亀を落としたので著われたは、古ギリシアの詩仙アイスクロスの殃死だ。プリニウス説に、鷲に六種あり、第三種モルフノスは、生まれながらにして亀を高きより落とし、その甲を破り食うことを知る、と。さて、アの頭禿げたるを石と誤認し、攫んだ亀を堕としあてたので、アは天に撃たれて死すべしという予言が中《あた》ったという。北アフリカの鬚G(ラムメルガイエル)は、今も亀を落とし破って食うゆえ、正しくかの詩仙を殺した鳥だろうという。(Ker,‘Papuan Fairy Tale,’1910,pp.3-7;Codrington,‘The Melanesians,’1891,p.316;Warner,‘The Natives of British Central Afric,’1906,p.239;Plinius,‘Historia (379)Naturalis,’lib.x,cap.3;Smith, ‘Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,’vol.i,p.42,1844;‘The Cambridge Natural History,’vol.ix,p.150,reprint,1909)
 インドの諸譚ことごとく亀を飛ぶ能わずとし、鶴や雁に啣《ふく》まれて空中を旅行したと作った。しかるに支那では、晋の王嘉の『拾遺記』一〇にいわく、崑崙山上九層あり、第五層に神亀あり、長《たけ》一尺九寸、四翼あり、万歳なれば、すなわち木に升《のぼ》りており、また能く言《ものい》う、と。『淵鑑類函』四四〇に、膠鬲いわく、亀千年なるもの、よく蓬莱山下に至り、仙人が丹鼎を洗うた水を求め、これを服すればすなわち翅を生じよく飛び、変化測られずとは、これぞまことに飛んだ話さ。(八月二日朝十時稿成る)  (昭和五年九月『民俗学』二巻九号)
 
(380)     往古通用日の初め
 
 明治二十九年ごろ、横浜正金銀行ロンドン支店勤務で、後にその支店長となった巽孝之丞氏、本店に参考品として備え置くべく、諸国の銭貨を買い集め、そのうち若干の査定を予に頼まれた。もっとも現品を渡すと、南方先生得意の即時点化術で、金でも銀でも十分間と立たぬうちに鎔かして酒、それから小便にさるるは受合いとあって、摺本ばかり手渡されたは癖が悪い。さて、その中についてトルコその他回教諸国銭貨の手記を調ぶるに緊要と感じ、かの方の暦法を探るうち、今は知らず、そのころまでかの辺一汎に、日没を一日の初めとする習いありと判った。すなわち昨夜を今夜と呼ぶ(バートン『千一夜譚』一二巻八八頁)。その後、ウェブストルの字典と『大英百科全書』一一板、四巻九八八頁より、古アテネやユダヤや、今のイタリアやボヘミアでも左様にすると知った。また古カルデア人やインド人は日出を一日の初めとし、近世ギリシア人また然《しか》すと見え、古エジプト人やローマ人は、今の欧州の多くの民と同様、夜半を通用日の初めとした、と出でおる。支那については、『和漢三才図会』五に、「後漢の蔡?『月令注』にいわく、日入りて後三刻、日の出ずる前三刻、みな昼に属す、云々、と。按ずるに、夜半|子《ね》の時以後は翌日に属す」。古エジプトや今の欧州に同じ。本邦また天智天皇十年より、支那に倣うてこれを用いた(『日本百科大辞典』七巻九二九頁)。
 しかるに、紀州和歌山等多くの地で、昨夜をヨンベ(ユウベ)、一昨夜をオトツイ(オトトイ)ノバンと言い習わし、田辺地方では昨夜をヨンベまたユウベと呼ぶにかわりはなけれど、一昨夜をキニョオノバン(昨日の晩)という人が多(381)い。京阪、和歌山などの人には、昨夜とのみ解せらるべければ、不便少なからずと、毎々拙妻等を叱正しても一向直らぬ。いかにもヘンなことと多年怪しみおったところ、昨夜ふと『今昔物語』を繙くに、三一巻一〇語、尾張に住んだ匂経方《におうのつねかた》という男が、国府へ召されたと妻を欺き、情婦を訪うて共に臥し、采戦数番にして疲れ眠った。夢に本妻来たり罵り、二人が中に入り妨げ騒ぐとみて覚めた。怪しみ怖れて帰宅し、夜明けてのち妻をたばかる詞に、「今夜《こよい》御館に事の沙汰どもありて、とみにえまかり出でずしてねざりつれば、苦しきこと限りなし」とある。これを聞いて妻のいわく、「おのれはつれなき者かな、今夜《こよい》正しく女のかの許に行きて、二人臥して愛しつる顔よ」と言えば、誰がそう語ったかと問うた。妻答えに、「夜前出でて行きにしに、必ずそこへぞ行くらむと思いしに合わせて、今夜の夢に、あの女の許にわが行きたりつれば、おのれはその女と二人臥して、万《よろず》を語らいつるをよく聞きて(中略)、引き妨げたりつれば、女もおのれもたち騒ぎてこそはありつれ」と述べた、と出ず。夜明け後この対話をしたと本文にあれば、正しく昨夜と言うべきを、今夜と三度まで夫妻が言ったを考うるに、今も田辺で一昨夜を昨日の晩と言うに等しく、平安朝時代に尾張等で昨夜を今夜(今日の夜)と呼んだのだ。夜前とは宵の内を意味したらしい。これ天智帝御宇前の本邦で、トルコ等と同じく、日没を通用日の初まりとした遺習だろうか。とにかく田辺地方以外に、一昨夜を昨日の晩と呼ぶ処ありや。諸君の高教をまつ。(八月二十一日午前七時成る)  (昭和五年九月『民俗学』二巻九号)
 
(382)     催促する動物の譚
 
 亡父の生処、紀州日高郡矢田村大字|入野《にゆうの》の人々から、幼時しばしば聞かされたは、蟇《ひき》が雲雀に五斗の米を借りて返さず、春になって雲雀が米一石を請求すると、困却した蟇が鬱いだ低声で、五斗、五斗と鳴く、よってこれをゴトヒキと呼ぶ(内田邦彦氏の『津軽口碑集』一五九頁。春の彼岸に雲雀穴より出で、「何《なん》ぼ済《し》ましても八百、何ぼ済ましても八百、つちこ、つちこ」となく。この鳥は鼠より米を借りおる、と。「済ましても八百」とは、借金の償いても尽きがたきをいう、と。(付)常陸|西染《にしのめ》では、蛙は天より米五斗五升を借り、一度返却せるに欺かれて二重取りせられしかば、常に天に向かって五斗五升返せとなく。されど効なきゆえ、雲雀に依頼して天に告げてと乞う。されば雲雀は天に昇る時は五斗五升返せと囀り、下に降る時は一文にもならぬとなく。本年十一月の『芳賀郡土俗研究会報』、箕和田良弥氏祖母の話に、その辺の旧伝に、雲雀は慾深く、天に上る時は一升貸して二升とれ、一升貸して二升とれと鳴きつづけ、トレトレトレトレと連呼して下る、と)、
  『塵添?嚢抄』八に、「土鴨をばアオガエルとよむ、今童部の勾当蟇という物これなり」。『重訂本草啓蒙』三八、ヒキ、阿州方言ゴウトウとあるを稽うるに、室町幕府の時ヒキを勾当蟇(コウトウヒキ)と呼んだので、『?嚢抄』の作者迂くて、青蛙とヒキを一視したと見ゆ。『今物語』に、小侍従が子に法橋実賢という者ありけり。いかなりけることにか、世の人これをひきがえるという名を付けたりける。法眼を望み申して、「法の橋の下に年ふるひきがへる、今ひと揚がりとび上がらばや」と申したりければ、やがてなされにけり、とある。これは体肥え脚(383)矮き等に像《かたど》りて名付けたでもあろう。それと等しく、勾当が琵琶を抱えて探り行く態に緩く歩むから、ヒキを勾当ヒキと名づけたものか。さて、勾当ヒキを紀州諸処でゴトヒキと訛ったともこじつけ得る。また『啓蒙』に、勢州亀山、予州今治の方言ヒキゴト、予が住む紀州田辺でフクゴト(この物を愛すれば福を得るなどいう。欧州で古来はなはだしくこれを嫌い悪むと大いに異なり、也有か誰かの書いた物に、夕方に庭に向かうて、福よ福よと呼べば蟇来る、とあった)、高田十郎氏来示に、和州洞川で蛙をゴト、蟇をクツゴト、これらゴトはもとこの類の総称で、勾当より転出せず。『抄』の作者がゴトを勾当の意に牽強したものか。『中陵浸録』巻一〇に、五島に鹿多く、三月ごろその角を落とす時は、蟇来たりこれを細かにかみ食らう、云々、と説いて、五島蟾蜍、と題しある。これもゴトヒキの音に近いが、ただこの島の蟇の特性を述べただけで、蟇をゴトヒキという原由でない。
雲雀は気早い鳥ゆえ、たちまち憤り立ち上がり、「リニリークタ、リニリークタ、リークタリークタリークタ」と声を限りに叫び続けて舞い上がる、と。これ貸したのは五斗だが、利に利を累ねて、今は一石貸しとなりおるという意味だ。
 古くもこんな譚あり。『続々群書類従』一五冊所収『俊頼口伝集』上にいわく、「ほととぎす鳴きぬる夏の山路には、沓手《くつて》出ださぬ人や払はん。これは寛平の御時の后の宮の歌合せの歌なり。時鳥《ほととぎす》という鳥は、実事には百舌鳥《もず》といえる鳥なり。もずをほととぎすとはいうべきなり。むかし沓縫いにてありける時、沓の料を取らせざりければ、今四、五月ばかりに必ず奉らんと約束して失せにけり。その後いかにもみえざりければ、謀るなりと心得て、沓をこそ得させざらめ、取らせし沓手をだに返せ、取らんと思いて、契りし四、五月にきて、ほととぎすほととぎすと呼び歩くなり。鵙丸《もずまろ》そのころも世にはあれど、秋つ方するように、槙《まき》の末にいて、声高にはなかで音もせず、垣根をつたいて時々|呟《つぶや》くなり。このこと空言《そらごと》ならば、むかしの歌合せにあらんやはとぞ言い伝えたる」と。畔田伴存の『古名録』六五に引いた『俊頼髄脳抄』の文これと大同小異だが、末近き文句を「声高にもなかで音もせず、垣根をつたい歩きて、時々(384)ひそかに、事々しうとばかりを呟きなくなり」に作る。「わずかな物を事々しう、大層に催促しやがる」とばかり呟くというのらしい。この鵙の事々《ことごと》と蟇の五斗五斗と鳴声相似たるが面白い。むかしの人にそんなに聴こえたによって、こんな話が生じたので、それをまた勾当と聴き取った輩は、蟇を勾当と呼んだので、これら諸名とその解義の発生の先後は、今となっては判明せぬと惟う。蟇の阿波の方言ゴウトウも五斗に近い。
 『古名録』、また予未見の書『かたそぎの記』を引いていわく、「一とせ伊予の国に罷りて、くずの山というに至りぬ。松山というより七、八里ばかり、深く入りもてゆく所なり。山里に到りて馬を借りてのる。口に付きたる男子《おのこ》ものいう様《さま》うちゆがみ、異国《ことくに》の人のようなり。折ふしほととぎすの鳴きけるに、これは何鳥としれると問えば、これはこって鳥と答う。歌草紙にほととぎすを沓手鳥ということを書きたり、歌よむ人もなみなみは知り侍らぬことを、可咲《おかし》くもあるかなと、などてこつて鳥と言うぞと問えば、あれ聞き召せ、こつて掛けたかという。昔物語知りつらんよとて、馬子にとり合わせて弄《ろう》して笑えば、心えぬ顔付にて、こってにこそ侍れ、沓代《くつて》と申さばこそよと呟く。心得ずと、こってというのあるにやと問えば、五月のころ柴の若葉にこってという物でき侍り、この鳥めら、必ずこってのいでき侍る時にこそは喧《かまびす》しくなきどよみ侍るとぞいう。さて、この鳥ほととぎすともいうかと問えば、頭をふる。さらば異鳥《こととり》にほととぎすという鳥やあると問えば、ついに承り侍らずという。ほととぎすという名を知らぬ国もありけるよ、と伴う人みな笑う。さてぞ歌草紙には、こってということを謬りて、くつてといいなしてぞ、沓売りの生まれかえりしなどいうことを添えたりとは知りぬ。かのこっては、木の実のようにて、柴の葉の裏になり出ずる物とぞ。このくって鳥の、こって鳥というが正しき筋なることは、誰か思いより侍らん」と。ここに謂えるコッテは、文面より没食子の類と察せらるるが、あるいは俗にいうホトトギスノ落トシブミかとも推する。これはある象鼻虫の作る物という(『日本百科大辞典』八巻九一一頁。『日本動物図鑑』一五五八−一五五九図)。その昔談にケヤキの葉のよれて落ちたので、讃岐の白峰にのみありと言ったが、紀州には処々に見受ける。
(385) 熊楠いわく、『俊頼口伝集』の文を、『続々群書類従』に刊出のまま読んではどうも判らぬ。「時鳥《ほととぎす》という鳥は、実事には百舌鳥《もず》といえる鳥なり。もずをほととぎすとはいうべきなり」とあるを、「沓手鳥という鳥は、実事にはもずといえる鳥なり。もずを沓手鳥とはいうべきなり」とし、下文の「契りし四、五月にきて、ほととぎすほととぎすと呼び歩くなり」を「沓手取り沓手取りと呼び歩くなり」と修正せばよく判る。『口伝集』に「ほととぎす鳴きぬる夏の山路には、沓手出ださぬ人や払はん」とある歌の下句を、『群書類従』一八〇所収『寛平御時后宮歌合』には、「沓手出ださぬ人やすむらむ」。『古名録』に引いた『俊頼髄脳抄』には、「沓手出ださぬ人やわたらん」に作る。(また『日本随筆大成』八、『幽遠随筆』上、五六〇頁に引ける『菅家万葉集』には、「ホトトギス鳴き立つ春の山辺には沓手|輸《いた》さず人や住むらん」。)
 いずれにしても、この歌は沓手鳥の故事に寄せたもので、その沓手鳥とは鵙《もず》をさす。鵙を沓手鳥と心得べしと、念を押して重ね言い、さて、その故事は、むかし鵙が沓工だった時、時鳥が杏を誂《あつら》え、沓料を渡したところ、四、五月ばかりに必ず差し上ぐると約束しながら逐電した。時鳥は沓ができずば沓料を返せといきまいて、約束の四、五月ごろ来て、沓手取り沓手取りと呼び歩く。その時も鵙は世にあれど、秋時木梢に止り高声に鳴くと打ってかわり、潜かに垣根をつたい歩いて、時々低音で「事々しう」と呟きなくというのだ。故に、沓手を押し取って返さぬという意味で、鵙をこそ沓手島(沓手取り)というぺけれ、それに今の人は貸手借手を混雑して、時鳥を沓手鳥と呼ぶは間違っておると、俊類が説いたのだ。しかし、騙取された沓手を取り立てるつもりで、時鳥が沓手取り沓手取り(沓手取りに自分が来たの意)と呼ばわり歩くと解かば、時鳥を沓手鳥と称えてもよく通ずると惟う。俳諧にも、「沓の代ほしくばわめけ時鳥、安利」(『犬子集』三)。伊予で時鳥をコッテ鳥とよぶ由、『重訂本草啓蒙』四五にも見るが、柴の葉にコッテという物生ずる時、時鳥鳴き初むるゆえ、コッテ鳥の名を負えるを、古人コッテを沓手と謬って、鵙に騙られた沓料催促の譚を捏造したという『かたそぎの記』の説は、反って事の首尾を転倒せずやと疑わる。
(386) 『華実年浪草』七下に、「鵙の早贄《はやにえ》とは(熊楠蔵本の書き入れに、早贄は貴人へ珍魚などを供することなり。みな木の枝に付けて捧ぐる物なれば、それに似たりとて、かくは名づけたるなるべし。草茎《くさぐき》、早贄ともに木草に餌を刺し貯うるをいう、とある)、『八雲御抄』にいわく、鵙の沓手は、わが身代りに、蛙様の物をさしておくなり、これほととぎす沓手を責むるといえり。『歌林良材』にいわく、鵙の草茎は、鵙は時鳥の沓縫いにてありけるが、沓手を取って返さざりしによって、その代りに蛙様の物を草の茎にさし挟めるをいうといえり、これを鵙の早贄ともいえり、云々。『藻塩草』にいわく、鵙の早贄ということをして、よろずの草茎に、生きたる虫、もしくは蛙などを取って刺して、時鳥のためにして、わが身は隠るるといえり、云々。『夫木』、垣根には鵙の早にへたててけり、しでの田長に忍びかねつつ、俊頼」。また『奥儀抄』を引いていわく、「むかしある男野を行きて女に逢いぬ。とかく語らい付きてその家を問うに、女鵙のいたる草茎を指していわく、わが家はかの草茎の筋に当たりたる里にあるなり、と教ゆ。男のちに必ず尋ぬべき由を契りて去りぬ。そののち心には思いながら、公につかうまつり、私を顧みるほどに暇なくて往かずなりぬ。次の年の春、たまたまありし野に出でて教えし草をみるに、霞ことごとくたなびきてすべてみえず。終日眺めを空しく帰りぬといえり。これ故将作の伝えなり」と。『本朝食鑑』六に、「鵙《もず》、野に在るとき、すなわち草を結んで虫を磔す。歌人呼んで、鵙の草茎《くさぐき》と称す。古談にいわく、むかし狡童あり、人の侍婢に淫し、しかれどもいまだ女の居を知らず、故に鵙の草茎を指し、証となして行かんと欲す、と」とはこれを謂ったのだ。
 けだし『万葉集』一〇、「鳥に寄す」歌に、「春さればもずの草ぐきみえずとも、われはみやらむ君があたりは」。草ぐきは草くぐるの意と『袖中抄』にみえ、『仙覚抄』にこの歌を「鵙は秋冬などは、木草の末にいてなけども、春になりぬれば、草の下にくぐりてみえぬがごとく、君が教えし栖《すみか》も、霞に隠れてみえずとも、われはみやらんと読めると聞こえたり」と釈いた。(『北辺随筆』四には、草ぐきは潜《くぐ》るの意でなく草に籠りおるを言うなるべし、と説いた。)それに後世、瀉をなみを浪の名、かくとだにを谷の名、千早ふる神よも聞かず竜田川を、竜田川と申す力士が、(387)遊女千早にふられ、神代という禿《かむろ》を頼んだが、それも聞いてくれなんだこと、と解くごとく、草ぐきを草の茎と心得違うて、沓料督促の伝説に付会し、鵙が蛙などを早贄にして、沓手代りに時鳥に償うと言い出したものだ。(それが口碑となって、千葉県下一汎に今も、モズの早贄は鵙飢えて食を時鳥に借りた返礼なり、と信ずる由(『旅と伝説』昭和五年十一月号五六頁、斎藤源三郎氏記)。)鈴木君の『相州内郷村話』六〇頁に、兄が邪推のあまり弟を殺し、その寃を知り、時鳥となって鳴き、血を吐くに?《およ》ぶ。鵙これを憫れみ、虫魚を磔し置いてこれに食わしむというに至っては、弁償が救恤に変じおる。やや近い話が東欧にあって、アルバニアの俚談に、郭公(一名獲穀、一名※[吉+鳥]※[掬の旁+鳥]、邦名カッコドリまたカンコドリ、ギリシア名コックックス、ラテン名ククルス、独名クックック、仏名クークー、伊名ククロ、露名ククシュカ等、いずれも鳴声による)、むかし人だった時、誤って剪刀でその弟グオンを殺し、悲しんで小梟に化し、終夜グオングオンと弟の名を呼び、その妹また郭公に化し、昼間グオンを尋ねてクークー(どこにいるか、どこにいるか)と鳴き続く、それから件の小梟を鳴声によってグオン、郭公をクークーと名づけた、と。サロニカ地方ではグオン鳴くごとに血三滴を吐くという。(一八九一年板、ガーネット『土耳其《トルコ》の婦人およびその俗伝』二巻三〇二頁。一九〇三年板、アッポット『マセドニア俚伝』二九一頁)ホトトギス、郭公、共に郭公属の鳥で、郭公は亜非欧三州の大部に産するが、ホトトギスは欧州にすまない(内田氏『日本鳥類図説』下、三二四頁)。(鵙の早贄また草茎は、『雲錦随筆』一に図あり。この田辺郊外でしばしば秋末見る。)
 本文に述べたホトトギスノ落トシ文にやや似た物が欧州にあり。英語でクックー・スピット(郭公の唾)という。草木に著く泡多き液で、ある同翅虫が、自衛のため、腹から出すところという。(一九一八年板『剣橋《ケンブリツジ》動物学』六巻五七七頁。一九二九年一四板『大英百科全書』六巻八四四頁)
 石井研堂の『国民童話』に、遠国に鷹と鳶が住み、鳶よく酒を醸して鷹に飲ましたが、ついに止めになった。鷹、鳶に勧めて食料多き台湾に在かんとせしも、鳶遠く飛ぶ能わずという。鷹、鳶を負って台湾に渡った上、鳶多く酒を(388)造って鷹に飲ますべき約束で、渡ったがさらに酒を造らず。爾来、鷹いつもチュチユ(酒々)と鳴いて催促し、鳶を見ればこれを追う、とある。この類話がかったものを、二十二年前紀州西牟婁郡栗栖川村大字水上で聞いた。トチワビキ(トノサマ蛙)の祖先、トチワの国より蛇に乗って本邦へ渡り、著陸せば自分の脚をやろうと約しながら、一向やらず。蛇催促効なきを憤り、子孫永々蛙さえ見つければ必ずその脚から呑みにかかる、と。『和漢三才図会』四二に、燕が常磐国に往来すという俗説あり。北山久備が『勇魚鳥』二によれば、トチワは常磐で、『書紀』に出た常世国のことであろう。
 以上四話のほか、本邦版図内に催促する動物の譚あるを知らず。まだまだあるに相違ないから諸君の高教を仰ぐ。『日次記事』に、大晦日に質屋が貸金の利を多くとるため、カシ鳥を食うとあるが、カシ鳥が貸した物を取り立てたと言わず。さて、これより手近い諸書から外国の諸例を引こう。
 まずセイロンで、蛙が蟹に二合米を借りたところ、無法にも七合返せと逼られ、女神と自分の娘を証人に援いて、二合しか借らない、二合二合二合と言い続ける。かたわらより鼈が口を出し、「借りただけ返せ」という譚あり。蛙の誓詞が小蛙の急鳴、鼈の助言が大蛙の綬唱を摸し、その趣向、上述雲雀に迫られた蟇の抗議に酷似す。インドのサンタル・パーガナス地方所伝に、夫婦の豹が共稼ぎに出た跡へ、野干毎日往って豹の子供を責め、貸米の代りにとて、父母の豹が取り来たった肉を取り上げ、豹子を餓えしめた話あり。マレー人の説に、バラウバラウ鳥はもと産婆たり。子を取り揚げさせながら酬金を払わぬ古人に業腹をにやし、一日大いに怒って罵る最中、たちまちこの鳥となって、今に老婆の声で傭賃を催促し歩く由。
 ルマニアの俚談に、上帝、諸鳥の王としてゴールド・フィンチを選立し、諸鳥礼拝してみな去ったのち、やっと例の郭公が入覲した。途を失して遅参と申す。林中に入って寡人のために、木の皮で美麗な宮を建てたら宥免すると言うと、敬承して罷り出てたが、きれいさっぱり忘れおわり、木から木へ飛んで快く唱い遊ぶうち、物ごとにかなしき(389)秋が来たので、ハッと気が付いたが跡の祭り。ゴールド・フィンチは、夏中郭公が面白く唱い廻るを、工事に多忙と聞き違え、きようは仕上がるか、あすはできるかと思いしことは幾度か、一日暮しに日を送る。郭公は、受負仕事の宮殿を、立つべき時に立たざれば、初めから痿えたも同然と、叱らるるは必定と、姿を隠してまた現ぜず。約翰《ヨハネ》尊者忌(十二月二十七日)より全く声を収めて静まり返る、とある。ゴールド・フィンチは鶸《ひわ》の類で、日本にない。この一語、受け負うた工事の督促を恐れるので、貸借の催促でないが、鳴き歩く季節の上より、郭公が種々の俚談に主人公とされおる一例として出しおく。またいわく、初め犬と猫、アダムに仕えて仲悪からず。しかし後日までの無事を慮って、家内は猫、家外は犬、これを司る趣きを認め、猫がその証書を預かり、屋根裏へ蔵めた。その後、天魔が犬に魅入れたから、犬憤り出し、われ日夜雨露に身を暴《さら》、家を守り盗を防ぐに、残肉余骨のみ抛げ付けられ、猫は始終安閑として満飽熟眠、毎度花恥かしき処女のポッポへ這入ったり、はなはだしきはその雪に紛う膚に把住し、漆黒鑑むべき幾根の鬆々を抓《かきむし》って、いよいよ可愛いがらるるは不公平極まる、と言い出した。猫、今となって何を呶々する、前日の証文を忘れたかと問うと、犬その証文を示せ、と言った。お易い御用と、猫、屋根裏へ上がり見るに、これはしたり、鼠が証書を咬み砕いて、?を作りおわったから一字も残らず。猫大いに怒っておびただしく鼠を殺したが、証書は戻らず。失意して下り来たところを犬が吃《くわ》えて飽くまで振り廻した。それからちうものは、犬が猫に逢うごとに、必ず証文を出せと催促する。猫は鼠を恨んで、見るごとにこれを追うそうだ。
 エストニアの所伝には、むかし犬どもが兎などを殺し食うを、他の諸獣が上帝に訴えた。だって外に食う物がありませんと犬が陳じたから、上帝いかさま一理あり、今後仆れた獣に限って食え、と勅命ときた。諸犬請けてその趣きを認め貰い、?幹偉大、性質もっとも信頼するに堪えたればとて、その証書を牧羊犬に預けた。夏去り秋来たって牧羊犬多忙はなはだしく、これを佩び歩けば落とすかも知れず。蔵め置かんとすれば恰好な乾いた場処なし。猫はいつも炉辺に坐るからとて猫に保管を頼むと、猫その背をアーチ形に隆起して牧羊犬の足にすりつけた。委細承知之助と(390)いう時の猫の作法だ。そして、その証書を暖炉上に置いた。そののち一日、犬ども林中で仆れた小馬を見つけ、襲うて殺し食うた。他の諸獣また上帝へ嗷訴して、有罪と宣告された。しかるに諸犬控訴して、証書にはただ仆れた獣に限って食えとばかりあって、仆れ死んだ獣に限って食えとはなかった。故に、われわれは仆れながらまだ活きおった奴を殺して食った。これ法文の不備で、われわれの不埒でないと抗争した。とにかくその証文をということで、牧羊犬と猫が捜しに往ったが、鼠に食い尽されて見つからない。ここにおいて猫大いに瞋り、鼠さえみれば殺し啖《く》い、犬また猫を怨み、逢うたびにこれを襲うて今に?《およ》ぶ。証書を失うた牧羊犬は、面目なしとて逐電した。以降、諸犬これを尋ねて已《や》まず。犬が犬をみるごとに近づいて、汝は紛失の証を持たぬかと問い合わすそうだ。
 ルマニアの伝説にまたいわく、太古ノアが大洪水を方舟に避けた時、天魔、手錐を創製して舟側を穿ち、水を滲入せしめて一同を殺さんとした。その時、蛇、上帝より智恵を授かり、ノアに対《むか》い、われこの漏穴を止めたら、わが一代および子孫に、日々一人ずつ啖《く》わすべきや、と尋ねた。急な場合には鼻をもそぐ。他に詮術《せんすべ》なければ、ノア承知と答うるや否、蛇は天魔が穿った穴に自分の尾を押し込み、切って栓としてこれを塞いだ。ここにおいて天魔事敗れて逃げ去った。洪水退いて後、ノア上帝に牲して救命の恩を謝し、一同歓呼する最中に、蛇来たって約束通り、日々一人を給せよとノアを催促した。ノア只今こんなに人少なきに、毎日一人ずつ食われては、世はたちまち無人となるべしと惟い、やにわに蛇を捉って火に投げ入るると悪臭おびただし。上帝これを忌み、風を起こしてその灰を世界中へ撒き散らし、その灰より蚤が生じた。今世間一切の蚤の数と、蚤が人血を吮《す》う量を計算すると、ちようど毎日一人ずつ蛇の後裔たる蚤に食い尽されおると判る。かくて現にノアの約束は履行されおる、と。また、むかしは鶺鴒に尾なく、鷦鷯《みそさざい》に今の鶺鴒の尾が付きあった。一日、雲雀の婚筵に鶺鴒が招かれ、数日間尾を貸せと、鷦鷯申し込んで借り受けた。よって長尾を掉って踊り廻り大喝采を博したが、筵果ててのち、鷦鷯往って催促すれど鶺鴒応ぜず、知らぬ振りして返済せず。以来、鷦鷯に尾なく鶺鴒に尾あり。ただし、いつの日鷦鷯に取り去らるるを虞れ、不断尾を掉(391)ってわが身につきあるを確かめるという。また伝う、ポインター犬とセッター犬が酒亭を共営するに、諸獣来たって飲食し、みな仕払いをよくした。ところが、狼と兎は毎度飲食し過ごしながら、一度も勘定を済まさず。二犬これを上帝に訴うると、不埒極まる奴原《やつばら》だ、見つかり次第引つ捉えて、仕払わせ、と言われた。爾来、二犬、狼の蹤《あしあと》をかぎ付くるれば必ずこれを追い、また兎を見れば捉える。その時、兎はミヤットミヤットと鳴く。ルマニア語で水曜日と聞こえるから、その都度仕払いを心あてに、水曜日を俟って今に至るそうだ。(一九一四年板、パーカー『錫蘭《セイロン》村話』三巻二九貢。一九〇九年板、ボムパス『サンタル・パーガナス俚談』三四〇頁。一九〇〇年板、スキート『巫来《マレー》方術篇』一三一頁。一九一五年板、ガスター『ルマニア禽獣譚』一六八、二〇八、二一八、二二八、三一七頁。『大英百科全署』一四板、一〇巻四九一頁。一九〇八年再刊、小川氏『日本鳥類簡易目録』四〇六−四一〇頁。一八九五年板、カービー『エストニアの勇士』二巻二八二頁)  (昭和五年十月『民俗学』二巻一〇号)
 
(392)     泡んぶくの敵討
 
 今年六月郷土研究社より出た土橋里木君の『甲斐昔話集』八三−八五頁にこの咄を載す。(これは氏の祖母がその姑より聞いた話で、祖父も確かにむかしから村にあったような話しぶりなりし由、今年十二月十九日来着、同十六日出、土橋氏の状に見えたり。)
 その大要は、旅商人あり、毎々若い番頭を一人伴れて太物商いに往く。その商人の妻、不断その番頭が売上金を使いはせぬかと心配し、自分と亭主の間に二人まで子をなしあるに、その番頭に志厚きようにみせてこれを手なずけ置いた。ある年、その旅商人、例の番頭を随えて信州へ出かけ、相応の利を得て帰る途上、夕立を道傍の山小屋に避くるうち、居眠った。番頭は、主人の妻が真底からおのれを愛しおると心得、いつかこの主人をなき物にして、主婦も身代も丸め込まんと心掛けおったから、時逸すべからずと、抜刀して主人の喉を刺した。主人驚き助けを求めたが、身の廻りには、山小屋の廂から落ちる雨水が溜まって、泡が一面に浮き立った外に何物もみえず。そこで主人は差し当たり、泡んぶく敵を取ってくりょう、泡んぶく敵を取ってくりょう、と叫んで死んだ。番頭は帰って主婦に対《むか》い、主人は途中で急病で死んだ、身後のことは、一切某に頼むとの遺言だったと述べたので、主婦はかつて本心から番頭を好いたでなく、大いに力を落としたものの、止むを得ずその番頭を後夫に入れ、三年立たぬうちに子を一人産んだ。さて三年めに亡夫の法要を済ませ、二人寺より帰る途上で、夕立沛然として到り、流れ漾《ただよ》う雨水に泡んぶくが充満した。番頭出身の後夫これをみて、三年前に主人を弑した当場を想起し、子までなした上はもはや隠すに及ばずと了簡(393)して、妻に向かい、今日法要をした前旦那は、その実途上の急病でなく、わが手に掛かって死なれたのだ、と話した。妻は大いに憤り、その筋へ訟《うつた》え出たので、番頭上りの後夫はすぐ捕われて刑死した。「そいから嬶も、とにかく自分は、一人前の男を二人までも殺いてしまって、何とも申し訳はない、こうしてはいられぬと、子供はみな親類へ預け、自分はそれから寺へはいり、尼になって一生を暮らした」とある。
 土橋君のこの著書中、この話の外の諸話に、類話の出処を列ねたのが多いが、この話には一つも列ねおらぬより推すると、この話は全国に広く行なわれおらぬらしい。かつ「居眠りをしはんないた」とか、「泡んぶく」とか、甲州方言がそこここに擡頭して、甲斐から信濃へ太物商いに出掛けたなど、地理、土風ふたつながら恰好で、いかにも甲州特生の話のように見えるが、まことは例の支那の稗史の翻訳たるを免れない。その原話と類話については、かつて“The Cranes of Ibycus”と題した拙考を、Notes and Queries,vol.147,no.1,p.6,London,July 1924 へ出し置いた。今その梗概を、近時手に入った材料と調合して、御眼にぶらさげること左のごとし。
 明の陸楫編『古今説海』に収めた『蓼花洲間録』に、『杜陽雑編』より次の話を引く。いわく、余が家の故書に呂晋卿夏叔の文集ありて、淮陰節婦の伝を載す。いわく、婦、年少美色、姑に事《つか》えてはなはだ謹む。その夫商人たり、里人と財を共にし出でて販《かせ》ぎ、深く相親しみ好く、家を通じて往来するに至る。その里人、この婦人の美を悦び、夫と同《とも》に江行するによって、かたわらに人なきに会い、すなわちその夫を水中に排《つきおと》す。夫、水泡を指していわく、他日これまさに証たるべし、と。すでに溺る、里人大いに呼んで救いを求め、その尸を得ればすでに死したり。すなわち号慟してこれが制服をなすこと兄弟のごとし。厚く棺斂をなし、送終の礼はなはだ備わる。その行?《こうたく》を録して一毫私せず。販貨するところに至りては、利を得てまた均しく分かち、籍に著け、すでに帰って挙げてもってその母に付し、ために地を択んで卜葬し、日にその家に至り、その母を奉ずることおのれの親のごとし。かくのごとき者累年、婦は姑の老いたるをもって、また去るに忍びず。みな里人の恩を感じ、人またその義を喜ぶ。姑は婦なお少年で里人(394)いまだ娶らざるをもって、これを視ることなお子のごとし。故に婦をもってこれに嫁し、夫婦もっとも歓睦し、のち児女数人あり。一日、大いに雨ふる。里人独り簷下《のきした》に坐し、庭中の積水を視てひそかに笑う。婦その故を問うに肯《あ》えて告げず。いよいよこれを疑い、これを叩いて已《や》まず。里人、婦の相歓び、また数子あるをもって、おのれを待つこと必ず厚からんと思い、ついに誠をもってこれに語っていわく、われ汝を愛するの故をもって、汝の前夫を害せり、その死するに臨み、水泡を指して証となせり、今水泡をみるも、ついに何をよくせん、これその笑う所以なり、と。婦また笑うのみ。のち里人の出ずるを伺い、すなわち官に訟え、その罪を鞫実《きくじつ》して法に行なわる。婦、慟哭していわく、われ色をもって二夫を殺せり、何をもって生くるをなさん、と。ついに淮水《わいすい》に赴いて死す、と。三十三年前、『唐代叢書』所収、蘇顎の『杜陽雑編』を読んだが、この話あったと覚えない。
 明の趙鼎志の『琅邪代酔編』一九には、(趙宋の)荘綽の『鶏肋編』にいわく、家に呂縉卿が文集ありて、淮陰節婦の伝を載すという冒頭で、引いた文は『蓼花洲間録』に出たのと大抵同様だが、『間録』にみえない後文あり。いわく、綽いわく、この書、呂氏すでになくして、余が家の者もまた兵火に散ず、姓氏みな記す能わず、と。何子容がいわく、『徐孝節婦集』の「淮陰義婦書」の序を按ずるに、義婦はけだし李氏ならん、いわく、讐すでに復す、また念うに二子は讐人の子なり、義生かすべからず、と。すなわちその子を縛して淮に赴き、これを殺してみずから投ず、と。かつて蒋済が『万機論』をよむに、改嫁すればすでに先夫の恩を絶つ、子を殺すはまた慈母の道なし、と。これに即《つ》いて淮陰婦の得失を観れば見つべし、と。余謂う、何氏のこの論いまだ当たらざるなり、志を守って嫁せずんば固《まこと》にこれ道を正しうす、しかも夫を忘れ讐に事え、生を貪《むさぼ》り欲に徇《したが》う者と年を同じうして語るべからず、始め欺かるるも終《つい》にわが志をなす、これを義婦と謂うもまた宜なりと、小むつかしく論じあり。所詮、紅顔薄命、千古心を傷ましむる次第だ。『甲斐昔話集』の旅商人の話は、里人を若い番頭、川へ排《つきおと》したを喉を刺したなどと、多少作り替えたばかり、泡を指して証となし、泡を視て事実を明かした等の要点は、根こそぎこの支那譚を取り移した、ほとんど(395)翻訳に近いものだ。
(『情史』一四、王武功の妻の話、やや似たり。ただし、夫殺されしこともなく、生まれしこともなし。『説郛』巻一一『意林』所収、蒋済の『万機論』に、「甲、乙の婦となり、丙、来たって乙を殺す。しかも甲は知らず。のち甲ついに嫁して丙の妻となり、二子を生む。丙すなわち甲に語る。甲、丙の酔えるによりてこれを殺し、あわせて二子を害す。義において剛烈《きび》しければ、死を寛《ゆる》さるるを得るや否や。答えていわん、女子の潔行は専一にして、刀を鼓《ふる》うをもつて義と称せず、今また改嫁して、すでに先夫の恩を絶ち、親《みずか》ら胞胎を害するは、また慈母の道なきなり、と」。『古今図書集成』閨媛典三六四、閨恨部列伝、「船山婦」。成化間、船山の人、美婦に挑むに従わず、雷神の装して夫を椎殺し、のち説かしめてその婦を妻《めと》り、一子の生まれてのち、雷雨の日、前事をのべ、「われこれをなさざればいずくんぞ妻を得ん」と言う。妻笑って、雷神の装束の在所《ありか》をとい、その人出でし不在中にこれを得て、官に訴え、その人、伏罪論死す、とある。)
(『古今図書集成』閨媛典四〇、「淮陰義婦」、『淮安府志』より引くところ、少しく異文なり。また同四七、『?州府志』羅汀の妻の伝、はなはだこれに似たり。同四六、「『淮安府志』を按ずるに、北辰坊の烈婦。夫、小商となって北辰に至って病死す。貧しくして?《かりもがり》するところなし。同舟の富商、代わってこれがために具《そな》う。みずから烈婦に恩顧あるを恃《たの》み、おのが物となさんとす。すでに葬って、勢まさにこれに迫らんとす。ついに嬰児を取って胸に縛り、淮《わい》に赴いて死す」。)
 これに類した西洋談でもっとも高名なは、古ギリシア人のいわゆる「イブコスの鶴」だ。イブコスは、西暦紀元前六世紀に、小アジアのサモス王ポリクラテスに事《つか》えた抒情詩宗だ。のち帰郷するとて、コリント近処の沙漠を行くうち、賊徒に襲われ重創を蒙り、たまたま群鶴天に沖《あが》るをみて、鶴どもわがために復讐せよ、と呼んで死んだ。ほどなくコリントの民が劇場に集まった上を鶴ども飛び廻るをみて、その中にあった一賊がそぞろに、そりゃ、イブコスの(396)仇討ちが来た、と叫んだ。一同奇怪に思い探索を始め、ことごとく兇人を捕え刺殺したから、注文通り、鶴がイブコスの讐を討ったわけだ。これに同似の譚が『アラビアン・ナイツ』にある。一人旅の者が強盗に逢い、身ぐるみさらけ出して、家で俟ちおる子供に免じ、生命だけは赦しくれと望みしも聞かれず。ことごとく金を取った上殺さるる、その時頭の上を飛ぶフランコリンに向かい、この強盗は何の怨みもなきに、物を奪うた上われを殺す、汝願わくは後日までもその証に立ってくれ、と言って死んだ。後年その強盗帰順して所の道台と心易し。一日、道台に招かれ饗応された膳立てのうちに、フランコリンの炙肉あり。強盗だった男、これをみて大いに笑うた。なぜそんなに笑うかと問うと、若いおり追剥して旅人を殺した節、その人この鳥を指して証に立てと言って死んだが、今に何ごとも起こらぬ、と言った。これを聞くと、道台たちまち無上に腹を立て、突然抜剣して坐を立つまもあらせず、やにわにかの男を刎首した。(『宣室志』三の末条、王子貞のこと、これに似たり。『夷堅志』補五、「趙興宿怨」の条、また似たり。同補五、「?州富家犬」の条、また然り。)その時どことも知れず、異様な声あって偈を説いた。その偈の意味は、おのれ他に害されざらんと望まば、すべからく他を害せざるべし、ただ善をこれ?《つと》めて、上帝より幸運を享けよ、上帝が定めたことを人が動かし得べきでないが、人の行ない振りは実にその人の運命を左右するに足るからてなことだ。「鳴かずば雉もうたれざらまし」の義だ。これまことにフランコリンが偈を説いて証に立ったのだそうな。フランコリンは、インドとシプルス島の間に産し、呉を被って帰った越王勾践を連想せしむる鷓鴣《しやこ》、一名越雉に近類の野鳥である。(Smith,‘Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,’vol.ii,p.557,1846;Burton,‘The Book of the Thousand Nights and One Night,ed.Smithers,vol.ix,pp.284-287,1894;‘The Cambridge Natural History,’vol.ix,pp, 226-227、1909)
 大正十四年春ごろの『大阪毎日』紙連載、何かの講談物に、武州熊谷堤である老人を殺し金を奪うて立ち上がると、道側に石地蔵が立ちあり。どうかこのことを洩らさぬようと頼み拝むと、人は言わねどわれいうなと、その石像がそ(397)の者を戒めた由。このこと何か書籍に出でおるか、御知らせを冀う。
 また清の朱彜尊の『日下旧聞』三九補遺に、陸長源の『弁疑志』を引き、幽州の石老なる者、売薬して暮らす。年八十でたちまち腹大きく、十余日食わず、水ばかり飲む。その子明旦泣いて四隣を呼び、たまたま病んだ白鶴、わが父の室中に入り、わが父また白鶴に化し、共に飛び去った、と言った。それから雲中の白鶴を指し、地に仆れて号呼した。人|異《あや》しんでこれを観、みな香を焚き、礼拝した。節度使李懐仙、兵馬使朱希を使わし、室内を検査せしむると、紙障子を穿って出入した跡あり、四隣の者みな、石老白鶴に化し、飛び去って雲間を翔り、時を移した、と言った。よって節度使が石老の子に、絹百疋と米百石を賜い、遠近の評判高く、道士段常は『続仙伝』を著わし、備《つぶ》さに石老升仙のことを載せた。それから月余へて、石老の子が隣人と争闘した。官より訊問するに、節度使がくれた絹を分配する不平より事起こったという。けだし石老久しく病んで死せんとした夕方、その子、木で大石を貫き、父の尸《しかばね》を縛りつけて河に沈め、妄《みだ》りに雲中の白鶴を指して父が化したものと言った。州県、人を差《つかわ》して、水に沈めたという処を捜さしめると、果たして尸を得たので、懐仙ついにその子を杖殺したという。鶴を指して証に立たせ、復讐せしめたのと打って変わり、鶴を指して偽証の用に供したのだが、空を飛ぶ鶴を指しただけは一緒だから、ついでに記しおく。
 また竜子猶の『情史』一八に、仁和の張?、姻家の婦八娘と私し、その夫の出ずるに乗じ夕をもって至らんと約せしを、隣人江十八という無頼漢が知り、詐って張の状をなし、まず往って八娘に合わんと求めたが、厳しく拒まれたのを怒り、直ちに八娘の首をきり、かねて怨みある李縫工の後垣へ擲げ入れた。その跡へ張が往くと、八娘が流血中に倒れある。大いに驚き逃ぐるを巡史に捕われた。邑令劉洪謨、鞫《きく》して奸情を知り、また衣に血跡あり。張は姦通はしたものの、殺した覚えなけれど、拷問に勝《た》えずして誣服した。けれども八娘の首が見えぬから獄いまだ決せず。李縫工は朝早く起きて、宅地へ女の首を投げ込みあるをみつけ、さっそく埋めるところを隣人が窺い、銭塘の令に告げ(398)たので、縫工を厳しく訊問したが、どこから首が来たか分からず。しばらく縫工を繋ぎ置いた。劉公はこの獄決せざるを不快で、万暦己亥の夏、これを城隍神に?ると、夜明けて外出せばこの獄はおのずから判然する、と告げあり。旦《あした》に他の用事で江口に至るに、十八羽の鴉が沙上に舞い飛ぶ。さては江十八という者が八娘を殺したものかと思い、数日後、門戸冊を閲するに果たして江十八の名あり。これを械し至り一訊して服罪した。女の首は縫工の家へ投げ込んだというので、銭塘へ移文し、張と縫工とともに免された、と出ず。殺さるる時頼まれもせぬに、鴉が進んで兇手を証した点だけ、本条に縁あるによって付録する。(九月二十八日)  (昭和五年十一月『民俗学』二巻二号)
【追加】
 前文に『蓼花洲間録』と『琅邪代酔編』より孫引きした話と、多少|異《かわ》ったものを趙宋の洪邁の『夷堅志補』巻五から見出でた。いわく、「鄂《がく》・岳の間にて、居民の張客、紗絹《きぬもの》の歩販《あきない》をもって業となす。その僕の李二なるもの、勤謹《いそし》みて事を習い、かつ賦性《うまれつき》忠朴なり。張、年五十にして、少《わか》き妻はその半ばにも登《な》らず、美にしてかつ蕩なり。李、健壮にして、毎《つね》に与《とも》に私通す。淳煕中、主僕にて行商して、巴陵を過ぎ、西浦湾に之《ゆ》く。壌地《とち》は荒寂にして旅邸《はたごや》も絶えて少なし。まさに曠野長岡に当たって、白昼の急雨あり、路の左を望むに叢祠あり、趨《はし》り入って少《あいばら》く憩《やす》む。李、四顧《かえり》みて人なければ、にわかに凶念を生じ、大いなる磚《かはら》を持って張の首《あたま》を撃つ。すなわち悶《くる》しんで仆《たお》れ、連呼して命を乞う。檐溜処《のきした》に浮?《あわ》の起滅するを視、みずから活《い》くべからざるを料《はか》り、よっていわく、われは僕に害せられ、命ただ?《なんじ》に靠《たよ》るのみ、它時《いつか》主《ちから》と做《な》ってわがために寃を伸べよ、と。李失笑す。張ついに死す。李、帰ってその妻を紿《あざむ》いていわく、使主《あるじ》は村廟の中に病死す、臨終に遺嘱して、?《なんじ》をしてわれに嫁せしむ、と。妻またおのれの願いを遂ぐるをもって、これに従う。およそ三年にして二子を生む。伉儷《こうれい》の情はなはだ篤《あつ》し。かつて同《とも》に食らい、雨の下《ふ》るに値《あ》い、水の?《あわ》を見て笑う。妻これに、何ゆえに笑うか、と問う。いわく、張公はなはだ癡《おろか》なり、われに打ち殺され、却《かえ》って浮?《あわ》を指して証《しようにん》となす、また笑うべからざらんや、と。妻、聞いて愕然たり。陽《おもて》には意に介せざるがごとくにし、(399)李の出ずるを伺い、奔《はし》って里保に告ぐ。捕えて官に赴き、埋めし骸《むくろ》を訪尋《たず》ねて、験して実を得。またあえて拒《あらが》わず、ただ鬼《しにん》のわが口を擘《さ》いて、みずから説き出ださしめしなりといい、ついに重刑に伏す」。
 『間録』や『代酔編』のと異《かわ》り、妻が子を殺したとも、みずから投身したともない上に、平生、僕李二と私通しおったとあるから、この女は決して節婦でなく、甲斐の話に、その番頭に志厚いようにみせて手なずけ置いた、とあるにやや近い。『間録』に、ただかたわらに人なきにあい、すなわちその夫を水中に突き落としたとあるに、これには雨に逢って路傍の叢祠に入り憩《やす》むうちに殺したとあるも、甲斐の話に、夕立を道傍の山小屋に避けて殺したというに縁あり。『間録』、『代酔編』ともに、奸夫が新寡婦と婚して、幾年して罪が露われたと記さぬに、これにも『甲斐昔話集』にも三年と明記しある。かたがた甲州の譚は、『間録』や『代酔編』よりも、この『夷堅志補』より転出したものと惟う。(三月六日朝七時半)
(追記)『夷堅志』支丁巻九に『徐中車集』を引いて、盗が淮陰の人を殺し、媒人を頼みその妻を娶り、三年間に二子を生んだ。さて夫妻伴って、先夫が殺された処を舟で行くうち、そのことを告ぐると、妻怒って保正に投じ、後夫を擒にして官に赴き、賊の種は世に留むべからずとて二子を水に投じ、盗が罪に伏するを俟って、自分も沈んで死んだとあるが、泡のことは全くこの話中にない。  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
 
(400)     太鼓の中に人
 
 元禄二年板、西鶴の『本朝桜陰比事』一に、京の西陣の絹織職が暮し向き不如意になり、年久しく住み馴れた所を立ち退かんと、内々諸道具を売り払う。同職輩十人これを洩れ聞き、この人何一つ悪事なきにかかる成行き、わずか四貫目に足らざる借銭で多年のしにせを止むることあるべきかと、われも人も忙《せわ》しき十二月二十六日の夜、十人一人に金十両ずつ持ち集まり、一升|桝《ます》に一人一人投げ入れ、中にも分別らしき男これを恵比須棚に上げ置き、亭主に合力《ごうりよく》し、それより酒宴して一同立ち帰る。亭主は宵よりの気扱い、皿箱枕にして臥しければ、女房戸ざしをしめて、常よりも用心して、下々をねさせて、心嬉しさのあまり男を起こし、大方に払い算用をしてみ給えと、大帳|十露盤《そろばん》をあてがえば、亭主諸事胸算用して、棚より桝を下ろせば中に小判なし。夫婦これはと驚き、裸金なればよもや鼠もひくまじ、もしは神隠しかと恵比須棚を幾度かみるに、いよいよなきに極まり、なまなか合力受けて結句身の難儀となれり、世間の取沙汰も如何《いかが》なれば、永らえて何の詮なしと、夫婦申し合わせて、二人の子供を刺して自滅せんとする時、久しく召し使われた女起き合わせ、大声上げ、皆々騒ぎ出すうち、夜も明けて自害も止む。
 合力せし十人また集まり、僉議するに何とも合点の行かぬことなり、合力するほどのいずれもなれば、これをとるべきことにあらずというてから、この盗人は十人の外にあるべきにあらずとて、右の段々書付けをもって御訴訟、聞こし召し分けさせられ、年内余日もなく、皆々渡世の障りなるべし、正月二十五日に穿鑿すべし、その内一人も他国仕るなと仰せ渡され、春になりて右十人の者ども、妻召し連れて御前に出ずべし、もし女なき者は姉妹に限らず、あ(401)るいは姪姨にても女を一人同道して出ずべきとの上意、迷惑ながら御白洲に罷り出ずれば、一二の鬮《くじ》取り合いて番付けを書き付け、大きなる唐太鼓《からたいこ》に棒を通し、夫婦ずつに差し荷なわせ、御館を離れ、はるか西に当たって宮の松原を廻らせ、これを諸見物近く寄ること、堅く御法度なり、頼母子の金子みえざる科代《かたい》とて、一日に一組ずつ十日が間にこのこと畢りぬ。洛中の万人見聞して、これは格別なる御科代と、いずれも不審を立てける。さればこの太鼓の中に、発明なる小坊主を入れ置かれしこと、誰か存じたる者なし。毎日事御尋ねありしに、いずれも女は歎く中に、八日めにかたげ廻りし女房、勝れてわが男を恨み、金子合力しながら、諸人に面《おもて》を曝させ、かかる迷惑、これは何の因果ぞという時、男囁きて、これは少しのうちの難儀、生き金百両ただとることが、と申せしこと申し上ぐる。その者召し出だされ、強き御僉議に顕われ、右の小判を取り返され、かの者に下され、ありがたき仕合せなり、その後仰せ出だされしは、盗人ながら、一旦合力の衆中なれば、命は助けて都の内を、すなわちこれより払えとの御意にて、夫婦を東西に追い失いけるとなり、とある。
 似た話が竜子猶の『情史』二に出ず。いわく、「河南の王舜卿、父は顕官《けんかん》となり、致政《しりぞ》いて帰る。生は都下に留まって給賜を支領せられ、よって妓の玉堂春、姓は蘇なるものと狎《なじ》み、屋宇を創《つく》り、器飾を置く。一載《いちねん》ならずして、賚《たま》わるところ?《むな》しく尽き、鴇《やりて》、嘖《かしま》しくして繁言あり。生やむをえずして院を出で、都下に流落して某《ある》廟の中に寓す。廊間に果を売る者あり、これを見ていわく、公子すなわちここにあるや、玉堂春は公子のために誓って客を接《と》らず、われに命じて公子の所在《ありか》を訪ねしむ、今|幸《ねがわ》くは他《ほか》に往くなかれ、と。すなわち走って蘇に報ず。蘇、その母を誑《あざむ》き、廟に在って願いを酬《かな》え、生に見《あ》って抱き泣いていわく、君は名家の公子にして一旦ここに至る、妾の罪何をか言わん、しかれどもなんぞ帰らざる、と。生いわく、路はるかにして費《ついえ》多く、帰らんと欲すれども得ず、と。妓、これに金を与えていわく、これをもって衣飾を置《そな》え、再びわが家に至れ、まさに徐《おもむ》ろに区画《はか》るべし、と。生、盛服し、僕従もまた往く。鴇《やりて》大いに喜び、相|待《もてな》すこと加《す》ぐるあり。宴を設け、夜|闌《たけな》わにして、生、所有《いつさい》を席捲して帰る。鴇これを知っ(402)て、妓を撻《う》ってほとんど死なしめんとし、よって剪髪跣足し、斥けて庖婢となす。いまだ幾ばくならずして、山西の商《あきんど》、名を聞き、見《あ》わんことを求めてそのことを知り、いよいよこれを賢とし、百金をもってために身を贖《あがな》う。年を踰え、髪|長《の》び、顔色|故《もと》のごとし。携え帰って妾となす。初め商《あきんど》の婦《つま》皮氏、夫の出ずるをもって、隣に監生あり、嫗《ばば》に俛《たの》んで与《とも》に通ず。夫の妓を娶るに及び、皮これを?《ねた》み、夜飲むとき、毒を酒中に置く。妓逡巡していまだ飲まず、夫代わってこれを飲み、ついに死す。監生、皮を娶らんと欲し、すなわち皮を唆《そその》かして官に告げていわく、妓、夫を毒殺す、と。妓いわく、酒は皮の置きしものなり、と。皮いわく、夫始め詒《あざむ》いて正室となす、次《じ》となるに甘んぜず、故に夫を殺せり、冀《ねが》わくは改嫁せん、と。監生、陰《ひそ》かに左右《たすけ》をなし、妓ついに獄を成す。生、帰るや、父怒ってこれを斥く。志を矢《ただ》し書を読んで、甲科に登り、のち御史に擢《ぬき》んでらる。山西の録囚《ろくしゆう》を按じ、潜《ひそ》かに監生と隣嫗のことを訪得《さぐ》る。逮《とら》えてもって来たらしむるに、伏せず。よって潜かに一《ひとり》の胥《やくにん》を庭下の櫃中に匿《かく》す。監生、皮氏、嫗とともに櫃の側に刑を受く。官偽って吏胥を退けて散ぜしむ。嫗年老いて刑を受くるに堪えず、私《ひそ》かに皮に謂いていわく、爾《なんじ》、人を殺してわれを累《まきぞえ》にす、われはただ監生より五金および両疋の布を得たるのみ、いずくんぞよくなんじのために刑を受けんや、と。二人|懇《ねんご》ろにいわく、姆《ばば》よ、再《さら》に須臾《しばらく》を忍べ、われ罪を脱《のが》るるを得ば、まさに重《あつ》く報《むく》ゆべし、と。櫃中の胥、この言を聞いて、すなわち大声にていわく、三人すでにことごとく招《じはく》したり、と。官、胥を出だして証《しようにん》となすに、ともに法に伏す。王、郷人をして偽って妓の兄となし、領《ひきと》つて籍を回《かえ》さしめ、陰《ひそ》かに別邸に置いて側室となす」と。櫃と太鼓とちがうが、その中に人を忍ばせ、密事を聞き出ださしめたは同じ。
 一八九七年板、マリ・ヘンリエッタ・キングスレイ女史の『西|非《アフリカ》行記』五三四百にいわく、売奴浜《スレイヴ・コースト》のある蛮族は、その大神が住むという太鼓の中に、小さい子供を一人入れおき、それが太鼓の中で住めないほど大きくなれば、神官どもこれを殺し、かねて教習し置いた小さい子をもってこれに替うる。それが大きくなれば、また小さいのに替うる、と聞いた。これは祭神の牲として小児を殺すでなく、廃位の王がしばしば過ぎたる隠事を洩らしなどして、政(403)治上の危険を生ずるにも倍して、廃位の神が危険だとの懸念よりのことらしい、と。けだし、この太鼓の内の小児は、神官に教習されたまま、みずから神となって種々の祈願を聴き、それ相当の託宣を与えるのだから、その耳覚の及ぶところ、西鶴が述べた太鼓の中の発明な小坊主よりもはるかに広く、重大な政議をことごとく関《あずか》り知ったものとみえる。(支那にも、鼓中より神霊が発言するのがある。北宋の※[まだれ/竜]元英の『文昌雑録』一に、「膳部の魯郎中いわく、昔年、陳州に女妖あり、みずからいう、孔大娘は、昏夜《よる》ごとに鼓の腔《どう》の中において人と語言《かた》り、もっとも未来のことを知る、と。時に、故相|晏元献《あんげんけん》公、陳の守たり。方《まさ》に小辞《はうた》一?《ひとふし》を製《つく》り、修改いまだ定まらざるに、孔大娘すでによく歌う。また何の怪ぞや」。)(九月二十八日午後四時半)  (昭和五年十二月『民俗学』二巻一二号)
 
(404)     美人の代りに猛獣
 
 唐の段成式の『酉陽雑俎』一二に、寧王かつて?県《こけん》界に猟し、林を捜ってたちまち草中に一櫃をみるに、?鎖《きよくさ》はなはだ固し。王命じ、発してこれを視れば、すなわち一少女なり、云々。女いわく、姓は莫氏、叔伯庄居す、昨夜光火賊に遇う、賊中二人はこれ僧なり、よって某を劫してここに至る、と。婉を動かし?を含んで冶態《やたい》横生す。王驚いてこれを悦ぶ。すなわち載するに後乗をもってす。慕犖なる者、一熊を生獲して櫃中に置き、旧のごとくにこれを鎖す。時に、上(寧王の弟玄宗)方《まさ》に極色を求む。王、莫氏は衣冠の子女たるをもって、即日これを表上し、その所由を具す。上、才人に充てしむ。三日を経て、京兆奏す。?県の食店に僧二人あり、銭一万をもって独り店を賃《か》り、一日一夜言う、法事をなす、と。ただ一櫃を舁《か》いて店中に入る。夜久しうして?膊《ひよくはく》として声あり、店戸の人怪しむ。日出でて門を啓《ひら》かず、戸を撤してこれを視れば、熊あり、人を衝いて走り出ず。二僧すでに死して骸骨ことごとく露わる、と。上これを知って大いに笑い、書して寧王に報ずらく、寧哥、大|能《よ》くこの僧を処置す、と。莫才人よく秦声をなす、当時、莫才人囀と号す、と見ゆ。
 本邦の戯作にこの噺を奪胎したもの往々あり。例せば、『南総里見八犬伝』一四五回に、惡僧徳用堅削が主人の娘雪吹姫を磐若櫃に入れ奪い出し、白川の庚申堂へ持ち込んだところへ、暴虎来たって重傷を負わすと作り、『釈迦八相倭文庫』九に、夜叉軍士|迦毘羅《かびら》城に入って、侍女を籠寵に押し込んで帰りしが、熊に殺さるとしたごとし。
 ただし、『酉陽雑俎』の本話と似た筋のものはインド方面にもある。一八七三年板、バスクの『大東伝話』は、欧(405)州唯一の仏教民として知れたカルムク人が、インドの古典『ヴェタラパンチャヴィンサチ(起尸鬼二十五談)』を訳出保存したものを、ユルクの独訳から英訳したのだ。その一二〇頁に、富んだ老夫婦が一人のよき娘をもつを窺い、金と娘を二つ玉とやらかそうと企む者あり。老人が参拝する仏像中に身を潜めおり、翌朝一番にその門戸を叩いた者に娘を嫁げと告げ、明旦みずから往って老人方の戸を叩き、計略通り、その娘を娶り、多くの金銀宝玉を貰い、娘と共に櫃に入れて沙塚に匿しおく。ところへ国王の子、狩に出で、虎をつれてやって来たり、沙塚を射ると何か堅い物へ中《あた》ったので、立ち寄りみれば櫃に娘と珍宝を入れあり。その娘といったら閉花羞月の至り、王子捨て去るに忍びず、さっそくの機転で、虎と娘をすり換え、娘を伴い往ってその妃とした。かの聟は用をたして帰り、櫃を自宅へもち行き、ニコ顔で七十五日生き延びんと、開いてみると猛虎一声、踊り懸かって聟を食い、翌朝人来たって戸を開くを俟って、大いに御馳走サマといった体で立ち去った、とあり。
 十二世紀にカシュミル国のソマデヴァが編集した『カター・サリット・サーガラ』には、苦行仙が大商人に向かい、その娘を人に嫁げば全家死滅すると脅し、籃に入れて恒河へ流さしめ、私《ひそ》かに弟子どもをして籃入りの娘を拾い、自坊へ持ち入れしめた。ところが、その前に王子あって、恒河へ身を洗いにゆき、その籃をみつけて開くと、すてきな娘がある。即座に乾闥婆《けんだつば》式でこれを妻《めと》り、猛性の猴を籃に入れて流した。童子らこれを拾い苦行仙に渡すと、密室に置いて自分独りでこれに対し修法せんとて閉じ籠り、籠を開くと猴飛び出して仙の耳と鼻を割き取った。アイタカッタと泣くばかりで、大いに衆人に笑われた、とある。(この書三十余年前読んだことあるも確かに覚えず。今はパーカーより孫引きする。)
 一九一四年板、パーカーの『錫蘭《セイロン》村住民話』二巻一三九条には、庄屋の娘が年ごろになったので、和尚を訪ねて星の吉凶を問うた。和尚その娘が成女期に達した時の星をみると、両親に取って大吉なる上に、この女を娶った者はすなわち国王となると知れた。そこで一計を案じ、この星は大凶だ、両親も聟も程なく死ぬるはずだ、これを避くるに(406)は、種々の飲食を設け、貴娘と共に櫃に入れて川へ流すべし、と告げた。その日になって和尚、弟子どもを川へ遣わし、櫃が流れ来たら持ってこいと命じ、私かに飲食を調えてみずから櫃内の娘を娶る用意をした。時に二青年あり。川端へ係蹄《わな》をしかけ置き、当日往き視ると豹がかかりおり、如何《いかが》せんとためらううち、とみると櫃が流れてきた。甲は櫃の内容品、乙は櫃を得分にする約束で、二人して引き上げみると、種々の飲食と娘一人あり。娘の代りに豹を入れて櫃を流しやり、甲は飲食品、乙は娘を取った。それから櫃はだんだん川を流れ下るを、俟ち儲けたる弟子僧どもが拾い上げて寺坊へ運んだ。和尚大悦びで櫃を密室に入れ、われは室内で経を読むから、汝ら外にあってサッズーと祝せよと言いつけ、その室に入って櫃を開くと、豹出で来たって咬みついた。哀しや、豹が咬みついたは、と僧が叫ぶと、弟子ども異口同音に、サッズーと祝した。和尚が叫ぶごとに、弟子ども声張り上げて祝した。やがて和尚は咬み殺され、弟子ども俟てども俟てども起き出でず。阿漕の乎次の浄瑠璃でないが、サッテモきつい朝寝じゃなあと評しおるところへ、日参の信士が来たり戸を叩けども和尚出でず。こは面妖と屋根へ上り、瓦を除いてのぞきこむと、下から豹が飛び懸かり、信士愕き落ちて死におわった。それから大勢、戸を破り乱入して豹を殺し、和尚の屍体とともに同穴に埋めた。かの娘を拾い上げて娶った男は、即日幸運が落ちてきて国王となり、新妻と永々同穴を契った、と述べある。(九月三十日)
 (追記)土橋氏の『甲斐昔話集』一七四「暗がりから牛でござる」の話に、長者が貧人権兵衛に騙されて、その娘をかれに妻《めあわ》せ、駕籠で送りつける途中、駕籠舁きども酔い潰れて眠りおわる。ところへ山賊来たり花嫁を執え、代りに子牛を駕籠に入れ置いて去り、駕籠が権兵衛方へ著いて、権兵衛が花嫁と想い、子牛を撫でると、大いに暴れ出したので、権兵衛大いに困却した次第を述べある。  (昭和五年十二月『民俗学』二巻一二号)
 
(407)     鰹鳥――燕の継子殺し
 
 本誌二巻一一号六九四頁に雑賀君が引かれた伊達自得居士の『余身帰』を、念のため今一度引き出すと、いわく、「春の暮、卯月の初めころよりなく鳥あり。これを堅魚鳥とよぶ。然《しか》いうは、かの地(紀州田辺)は海浜にて漁戸多かり、さて一年の間のいさり、松魚をもて幸の中のさちとす。この鳥の鳴き初むるころより、かの魚をつり初むるがゆえにしかよぶといえり。まことは合法鳥なり、また村里にては麦はかり鳥とよぷという。さるは麦を刈り入るるころにて、その声の一斗一斗と聞こゆればなりという。呼子鳥とは、和歌の秘訣なるを考うる人ありて、この合法鳥なりという。春の暮に啼き出でて、その声人をよぷに似たればならん。あわれめでたき鳥の契りかな。和歌の上にては三鳥の一に数えまつられ、村里にてはたなつ物の豊けきを言寿《ことほ》ぎ、海人戸にありては、海幸の験をあらわす。今は浦べ近きによりて、『熊野がた八十の釣舟誇るらし、青葉しげりてかつを鳥なく』」と。
 『紀伊続風土記』九七に、「カッホウドリ、?鳩、一名布穀、一名郭公(并せて『本草』による。俗にカッポトリまたカンコドリという。『和名抄』に布穀の字を布々土利、云々。歌書にいう呼子鳥はこれなり、という説あり)、国中深山樹上にて、三、四月ごろなく。その声、カッコウというごとく、音清閑なり。布々土利《ふふどり》(一名苗代トリまたツツトリ、牟婁郡にてヤマエボまた麦ハカリという。毎三月中旬よりなくこと十日ばかりなる時は、麦多し。五月にも至りてなけば、凶作という。形鳩に似て、背黒く小白点あり)、国中田野処々樹上にありて鳴く。声濁りて竹筒を吹くがごとし」と出ず。『重訂本草啓蒙』四五には、「ツツドリは、古名フフドリ(『和名抄』)、一名ナワシロドリ(播州)、ムギウラシ(土州)、スミタドリ(豆州、駿州、(408)鳴く時田水清きゆえなり)、ヨブコドリ(古歌)、大いさ鴿《いえばと》のごとく、背黒く小白点あり。鳴声竹筒を敲くがごとし」とあり。吹くと敲くは軽小ならぬ違いだが、蘭山先生寡慾恬静、ただ一度下女に夜這いして男子を生ませたときくが、フフドリという古名から、そぞろフウフウの鼻息など想い出し、ツイ恍然と吹くを敲くと誤筆したものか。(『文徳実録』六、「斉衡元年夏四月辛巳、鳥あり、殿前の松樹に集《とま》る。俗に古々鳥と名づくるは、その鳴くによっておのずから呼ぶなり。左近衛将曹の神門氏成に勅して、これを射しむ。弦に応じて堕つ。帝、はなはだ善と称し、絹数疋を賜う」。)
 合法鳥、フフドリ、二種とも、『本朝食鑑』、『和漢三才図会』、『重訂本草啓蒙』等の記載が多少合わぬところあり。老少大いに羽色を異にするから(内田氏『日本鳥類図説』下巻、三二二頁)であろう。内田氏説に、この郭公属の邦産三種は、羽色きわめて類似し、ホトトギスは大きさ、著しく小さきをもって、区別容易なるも、郭公(すなわち合法鳥)とツツドリ(すなわちフフドリ)の二種は識別やや困難なり。されど鳴声は三種おのおの別で、ホトトギスは鳴声複雑で、ホンゾンカケタカなど聞こえ、郭公なる名は鳴声よりきたもので、世界各国すべて類似せる語で呼ばるるをもって知るごとく、クークーと鳴く。ツツドリは、一名ポンポン鳥とも称され、ポンポンと鳴く。故に採集のさい注意せば、何の種たるかを知ること容易なり、と(同上、三二五頁)。しかるに、そこまで注意して実物と鳴声を引き合わすは容易でなく、大抵聞き学と書籍調べで方付けたから、狩谷?斎の『箋注和名抄』七、畔田翠嶽の『古名録』六五などには、郭公とツツドリを混同しある。
 古支那人は、誰か烏の雌雄を識らんや、と言った。が、烏のみ識りがたいのでない。鳥類には、雌雄老少に随って形色の著しく異なるも多く、時候と天気で鳴声不同なるも少なからぬ。その上ヘンな鳥を見つけたからとて、やにわに発砲すればチョイトこいと拘引される。人を木に上らせ、手取りにせしめようとすれば、命が物種と尻ごみする。鳴く鳥の何たるを突き留むること、それ豈《あに》容易ならんや。現に拙宅の近所に偉大な古松一本あって、枝柯四方に垂れ、(409)何とも言えぬ壮観だ。『南方閑話』七一頁に載せたごとく、夜更けて、その下を「八島」を謡うて通ると幽公がでる。むかし、この邸の住人が盲法師に芸せしめ、「八島」を謡うところを試し切りにした、その亡霊ということで、幽霊松と俗称する。かつて井花伊左衛門君から恵贈された『滋賀県天然記念物調査報告』第一冊をみるに、高島郡饗庭村帝釈天の松を図す。均しく『本草図譜』七六にいわゆるサガリ松ながら、田辺のは饗庭のより小さく低い。だが、枝葉密に茂れることは勝れりとみゆ。和歌山県天然紀念物と定めたは大出来ながら、俗称のまま幽霊松と榜示したは、県吏の不雅を露わす。サガリ松とでも書き替えたが良かろう。さて毎年、春末初夏の交、多くは夜分、たまには昼間、この木の上でしきりに鳥がなく。聞く者、明日は鰹が多くとれると噂する。比隣の輩いわく、この鰹鳥、実は木菟《みみずく》だ、と。予毎度気をつけおると、初め件の松の上で数回なき続けたのち、松を離れて周囲一、二町を飛び廻り、順次樹梢やハネツルベの柱頂に留まり鳴き続く。それをよくみるに、果たして木菟だ。一生懸命に、毛角双び立った円い頭を上下して、ホッ、ホーホー、ホッ、ホーホーと連呼する。春情盛んにして雌を喚ぶらしい。鳴きおわってひらひら翅を動かすこと蝶のごとく、少しも音を立てずに飛び去るは木菟に相違なし。これでこの地でいわゆる鰹鳥またホーホー鳥は木菟と判った。
 しかし、昼間幽霊松上でなく声は、ボンボンボンボンと聞こえ、『紀伊続風土記』に、声濁りて竹筒を吹くごとしというに合い、夜間かの松および諸方を廻り、駐まって鳴く声はホッ、ホーホー、ホッ、ホーホーと聞こえるゆえ、前者はツツドリすなわちフフドリで、後者は木菟、この二つを併せて鰹鳥と呼ぶのかとも思う。(上に引いた内田氏説に、ツツ鳥一名ポンポン鳥とあるは、きわめて予の耳にポンポンと聞こゆるに近い。また『箋注和名抄』七にいわく、この抄の下総本や伊勢広本、また『類聚名義抄』や、『伊呂波字類抄』にはフフドリをホホドリに作る、と。これは田辺で今も鰹鳥をホーホー鳥と一名するに同じ。)『本朝食鑑』六に、フフドリは巣を営む能わずして樹穴におると記し、木菟も樹穴に住むものゆえ、幽霊松を捜したら、二鳥共棲するところを発見とくるかも知れねど、そんなこ(410)とをすると、盲法師の幽公が取り付くなど言って、誰も進まず。今に片付かずに、くる夏ごとに鳴くねに耳を傾くるのみ。
 さて自得居士の『余身帰』には、カッホウドリの音が鰹鳥に近いので、鰹鳥、まことは合法鳥なり、麦ハカリ鳥ともいう、和歌の呼子鳥もこれだ、と言った。が、合法鳥は上に言ったごとく、郭公、カンコドリで、牟婁郡でいう麦ハカリ、古歌の呼子鳥、古名フフドリ、今名ツツドリまたポンポン鳥とは別だ。(前者は学名ククルス・カノルス、後者はククルス・サツラツス、と内田氏の『日本鳥類図説』に出ず。)伝聞や書物のみあてにしたので、こんな間違いが生じたのだ。熊楠目身も鳥学はアンマリの方だが、実験上から確かめて、田辺でいわゆる鰹鳥は、少なくともその一部分は、木菟に外ならずと判決し得た。終りにいう、予が鰹鳥の実物として睹《み》た木菟はみな小さいものだった。コノハズクというものか。田辺近村岩田の人言う、木菟は一斗二斗三斗となくゆえ、麦量りの称あり、と。新庄村字鳥巣の人言う、その辺でいわゆる鰹鳥は、磯千鳥のような物で、それが群れ来る年は鰹多く取れる、と。『紀伊続風土記』九七に、『八  開通志』の孤猿をリョウシドリと訓じ、フクロの中にて別に一種形小なるものをいう、と記す。『重訂本草啓蒙』四五には、「リョウシドリはフクロの形状にして小なり、鳴声は同じからず、云々」とあり。フクロの形とあれば、毛角を欠き、木菟と別だ。とにかく、そんなものが紀州等にあり。鰹鳥と等しく、鳴く時は漁獲を予報すてなことで、リョウシ鳥の名を得たと察する。鰹鳥の弁これでお仕舞い。
 次に二巻二号六九六頁に、雑賀君は、予も知り合いだった田辺の歌人宇井翁の随筆と『新著聞集』より、嘉永三年に田辺の近村で、燕の継母が山椒の実で継児を毒害し、貞享三年大阪で、燕の継父が茨の刺で継児を殺した記事を引かれた。実否は知らぬが、この噺はこの二書の外にもみえる。中道等君が前年手写して贈られた平尾亮致の『谷の響』二の九に、嘉永中、青森の近江屋太作方の燕、卵を孵してのち、雄燕が猫に殺され、三、四日後、雌が他の雄をつれ来たり雛を養う。この雛いまだ巣立たぬうち、後の雄と共にまた卵を孵し養うに、六、七日後、先の雛、(411)巣より落ちて三つとも死す。太作が老母訝かりてその口を開きみるに、中に砂石満てり。後に孵りし雛は、無事に成長して巣を辞せり。これは雄が前雄の孵せる子を忌んだのだ、とあり。『和漢三才図会』四二にも、燕巣内の雛みな死んだので、口中をみるに、麦の禾《のぎ》や松の刺あり、その後母が殺したのだ、往々こんなことがある、と載せ、鎌倉時代の書『沙石集』八の四には、遠州にも、燕の雛を後母が茨の実を食わせてみな殺したので、雄が怒って後母を昨《く》い殺した、嫉妬の心ある、人に違わず、これ確かにみたる人の物語なり、と記した。支那にもあるか否は知らず。インドには正しく似た話がある。
 ブンセ王、椽《えん》に坐して、二羽の燕がその雛に食を齎すを見つけ、毎日これを視る。一夕、二羽つれ立って出で往ったが、雄のみ帰り来たり、翌日も然り。尋ねて鷹匠がその雌を捉えて鷹に飼ったと知った。雄燕数日のあいだ独りで雛を養いおったところ、一朝また雌を伴い来たる。それまでは日に幾回も出て往ったが、それより日に一回雌雄伴って巣に入るのみ。翌日になって雄は帰らず、雌のみ来たる。王怪しんで巣を探るに、雛は四羽とも死んでおった。蛇に気を吸われたものかと、精しくみると、一羽ごとに小刺を喉に立てあったので、雛の継母が、虫の代りに刺を食わせて殺したと知った。そこで、万一わが妃を喪い、われ再婚せば、わが二子は継母に害さるること、この燕雛のごとけんと勘づいた。その後、果たして妃を亡い、悲しんで政務を廃するをみて、輔相ら再婚を勧めたが、王われは燕よりよき教課を得たとて受け入れず。されど、とうとう勧め課せられて隣国王の娘を娶り、その後妻がだんだん二子を悪み出し、終《つい》にかの二子は、このほど妾を強姦せんと取り掛かったと讒するを聞いて、二子を追放に及んだ、とある。(Swinnerton,‘Indian Nights’Entertainment,’1892,pp.273-274;cf.Knowles,‘Folk-Tales of Kashmir,’2nd ed.,1893,pp.166-167)
 これらと志は異なれど方便を同じくせる咄《はなし》がイタリアのピエモンテにある。この地に聖母マリア草という小植物あり。鳥類が食えばたちまち死す。よって彼らの子が捉われて籠舎さるると、親鳥が子の可愛さに毒な物、くうなと(412)言って叱るのに、と歎きながら、その小枝を集めて銜えて子に食わせ、速く幽囚の苦患を脱せしむという。(Folkard,‘Plant Lore,Legends and Lyrics,’1884,p.142)(二月二十八日朝八時稿成る)
 (追記)超宋の洪邁の『夷堅志補』四に、張子韶が、燕の母が何かに打たれて、その子が?中に餓うるを憐れみ、他の?に徙《うつ》して、その?の燕が認めて自分の子として育つるを冀うた。ところへ一羽の燕が来たが?に入らずに去り、しばらくして何か銜えてきて、かの母なし子供に食わせたので子韶すこぶる喜んだ。二日立ってその所に至ると、燕子がみな死んでおった。よく見ると、一匹ごとに棘刺が喉や舌をつきおったので、子韶嘆息これを久しうした、とある。継父とも継母とも明記しないが、自分が産んだ子でないと知って殺したとは十分判る書き振りだ。さて、『玉堂閑話』中また一事あって相類す、と結んだ。(本書を予は見ないが、その話は、明の陳耀文の『天中記』五八に引きある。漢の范質の舎下に巣くうた雌燕が猫に食われたのち、雄が飛び去り、雌を一疋伴れ帰る。数日ならぬに、燕の雛が相次いで地に堕ちて死ぬを、児童が腹を剖いて見ると、?藜(ハマビシの実、刺あり)を継母に食わされて死んだと知れた、と。『太平広記』四六一にも『玉堂閑話』を引く。)その話は予いまだ読まぬが、これで支那にも燕の継親が継子を殺す話あるは十分に知れる。(三月五日早朝)  (昭和六年四月『民俗学』三巻四号)
 
(413)     ?人が鳥を見て言い出す
 
 『日本書紀』巻六に、垂仁天皇二十三年、秋九月丙寅朔丁卯、群臣に詔していわく、誉津別王《ほむつわけのみこ》はこれ生年すでに三十、髯鬚《ひげ》八掬《やつか》あるも、なお泣いて児のごとく、常に言《ものい》わず、何の由《ゆえ》ぞ、有司に因りてこれを議《はか》れ、と。冬十月乙丑朔壬申、天皇大殿の前に立ち、誉津別皇子これに侍る。時に鳴く鵠ありて大虚《おおぞら》を度《わた》る。皇子仰いで鵠を観ていわく、これ何物ぞや、と。天皇すなわち皇子が鵠を見て言うことを得たるを見て、これを喜び、左右に詔していわく、誰かよくこの鳥を捕えてこれを献らん、と。ここにおいて、鳥取の造《みやつこ》の祖《おや》、天湯河|板挙《たな》奏言すらく、臣必ず捕えて献らん、と。すなわち天皇、湯河板挙に勅していわく、汝この鳥を献らば必ず敦《あつ》く賞せん、と。時に湯河板挙、遠く鵠の飛べる方を望んで追い尋ね、出雲に詣りて捕え獲たり。或《あるひと》はいわく、但馬国に得、と。十一月甲午朔乙未、湯河板挙、鵠を献る。誉津別命、この鵠を弄びてついに言語するを得、これによって敦く湯河板挙を賞し、すなわち姓を賜うて鳥取造と曰《い》う。よりてまた鳥取部、鳥養部、誉津部を定む、と出ず。この皇子の御母|狭穂姫《さほひめ》皇后は十八年前に殃死された。そのことを不快で?のまねして三十歳まで坐《おわ》されたところ、鵠の飛ぶ面白さにふと物言い初められたものか。
 何に致せ、似たことが支那にもある。先輩がすでに言うたかも知れぬが、寡聞のまま、自分発見のつもりで独悦しおる。『北史』三八に、西魏の斐?、字は嵩和、河東解人なり。祖思斉は秀才に挙げられ、議郎に拝せられ、父欣は西河郡守で晋州刺史を贈らる。?、年七歳でなお言《ものい》う能わず。のち洛城において、群烏が天を蔽い西より来たるを見、手を挙げこれを指して言い、ついに志識聡慧異常なるあり。貧苦中に精勤して、ついに栄達した次第を述べある。
(414) 鳥を見て初めて物言うた、その鳥が日本で白い鵠、西魏で黒い烏とは奇妙だ。その他?人が物をみて言い出した数例を拳ぐると、超宋の朱弁の『曲?旧聞』三に、語児梨、初め斤梨と号《なづ》く。大きなは重さ一斤に至るからだ。鄭州の郭?蒙の陵辺にいと多く産す。その父老いわく、田家児あり、数歳で言《ものい》う能わず、一日この梨を食い、すなわち人に謂いて、大いに好し、といった。それよりこの名を得た、云々。(「(元の)至正の間、鎮民の張巨山、貲《しんだい》は一郷に雄たり。子|巨森《きよしん》を生むも、年十八にして?《おし》にて言《ものい》うあたわず。一日、僧あり、募《つの》って吉祥橋を建てんとす。巨山|紿《あざむ》いていわく、わが子に問《たず》ねよ、と。僧すなわちこれに叩《たず》ぬるに、巨森たちまち応《こた》えていわく、この橋はわが家独りにて成さん、と。巨山喜んで、すなわち貲を捐《きふ》して橋を建つ、名づけて吉祥という。巨森これより、ついによく言《ものい》う」(『古今図書集成』職方典五六六)。また、職方典六六八、江寧府六合県の九歳の子、?なりしが、前世の仇を復して、言《ものい》い出だせしこと。)明の郎瑛の『七修類稿』五一には、正徳間、揚州江都県に、?だから鄭?巴と通称された者が、一夕南門に至り、たまたま空中光り耀くを見、仰ぎ視ると天が開眼したのだ、拝みながら人を喚んで観せしむると、覚えず声が出た、これより?ならず、と。
 清の王希廉の『?史』四四に、右の外に天開眼をみた二例を出す。「宋の羊襲吉、少《わか》き時、忽《にわ》かに天開眼を見る。その内、雲霞|暑ム《きぬ》のごとく、楼閣|参差《しんし》として、光明は下《しも》山岳を照らす。のち状元に及第す。また、明の天順の間、陝西の陳鸞、一子の?なるを生む。年十四にして、仰いで天開眼を見る。上帝、冕旒《べんりゆう》と袍袞《ほうこん》をつけ、その中に端拱《たんきよう》し、儀衛はなはだ衆《おお》く、宮殿|欄楹《らんえい》、目にR耀《まばゆ》し。その子|亟《すみ》やかに拝し、覚えず声を出だすこと鐘のごとし。のち田を耕して金の獅《しし》一枚を獲、ついに大いに富む」。(『北斉書』四、「文宣帝、世宗に従って行いて遼陽山を過《よぎ》り、独り天門の開くを見る。余人見る者なし」とあるも、天開眼と同じことか。)
 明治三十三年九月、予スエズの掘割を過ぎた時、船客夕食中、予のみ最下等客で、彼らの残物を食わされるため、一時間ほど甲板に独り立ちおると、西天に二十五菩薩がありありと現じた。まだ三十四の年若でお迎えにあうは割が(415)悪いと呟いて、熟視すると、藍鼠色の叢雲に入日が照って、処々橙赤色の菩薩立像にみえたものだった。天の開眼もこんなことだろう。それよりもアッと参ったは明治十八年ごろ、東京で同宿の紀州学生どもと湯島の湯屋へ往った。朝のまだきから他に男湯の入手はなし。自在に種々の珍興を催すうち、今は故人となった何某ら二人が無言の行とか唱え、相対して睨みっくらから、おいおい変じて百面相を闘わすに、いずれも剛情で少しも笑わない。ところが女湯から上がった十八、九の婀娜な芸妓が、鏡に向かって立膝で髪を直すうち、どうしたはずみか真向きの開眼、女は気づかねどガラスは正直、鮮やかに映して余蘊なき刹那、二人は身慄いして不覚ウウッと発声したは、?が物言った天の開眼も及ばぬ瑞相だった。
 同程度の笑話が支那にもあって趙宋の銭伸之、三十余歳で?《おし》となり言《ものい》う能わずとは、馬から落馬の念の入った書き方、愁悶して八年を経た。ある時怒って杖でその妾を打たんとし、妾逃げながら?の畜生と言った。大いに瞋って、?畜生が人を打つを看よ、と呼ばわって咄々止まず。主人の?が直ったと、家人驚喜して来たり観た。それより言語旧に復し、これ全く妾の手柄と、怒りを置いてこれを賞したそうだ。この他、インドや支那で長生術を求めた隠士に頼まれ、生を更えても無言で推し通した烈士が、物言わねば子を殺すと迫られてたちまち発音した咄から、日夜苦行礼仏した?僧がたちまち言い出でたこと、三人片輪の?が酔ってうなり出した狂言(浅草の?僧|有難《ありがた》坊が地蔵の霊験で言い出でたこと(『仮名世説』下))、また?聾の芸妓が百両貰うて思わずも、これはありがとう存じます、と礼を言った話に至るまで、まだまだ面白いのが少なからねど、まず今朝はこれきり。(『夷堅志』支戊三。『西域記』七。『酉陽雑俎』続集四。『曠園雑志』下。『続狂言記』五の八。安永二年板、亀友の『小児養育気質』二巻二章)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
 
(416)     ドンコの類魚方言に関する藪君の疑問に答う
                藪重孝「鈍古の類魚方言に対する疑問」参照
                (『民俗学』三巻六号三三四頁)
 
 藪君が挙げられた諸魚中、予がよく知ったもの二、三についていうも、これらは同名ながら決して類魚と言うべからず。大正十三年十二月、東京小石川区西原町二の一一、紀元社発行、宇井縫蔵氏著『紀州魚譜』は、その発行前二年、魚学の元締め田中茂穂博士、予に語って、本邦地方魚学書中未曽有の好書と評された。予も在外中、多少魚学に関係したが、帰朝後一向遠ざかりおるので、昨今の魚の分類学には風馬牛である。
 よって、もっぱら宇井君の書によって、少しく言わんに、まずギギは、和歌山や湯浅でギウギウ、日高郡の山地《さんじ》諸村でコウバチ。(川に住んで人を螫すゆえ、川蜂の意だろう。上総でカワバチと、『物類称呼』に出ずる、と藪君も書きある。)予幼時、紀の川へ游《およ》ぎにゆき、その鰭棘で螫されたことあり。結城秀康の幼な顔がこの魚に似たゆえ、於議々丸と命名された由、何かで読んだ。捉うればギギまたギウギウと言うごとくなく。学名フルヴィドラコ・ヌジケプスで、ナマズ科の魚だ。独人モレンドルフ説によるも、また自分が大英博物館で標品を看て調べた限りも、『本草綱目』等の黄?魚をギギにあてた小野蘭山等の見識はよく中《あた》りある。しかし、『古今図書集成』禽虫典一四一をみて分かる通り、支那にはこの属の魚一種と限らず、本邦になき大きなものもあるらしい。(さて後蜀の杜光庭の『録異記』を引いて、その長さ尺余のものはよく人を魅《ばか》し苦しむる由を載す。本邦にも、千葉県君津郡小櫃村庄屋淵に住むギギウ、俗称河蜂は、河伯となって人を?《くら》うという(『旅と伝説』四年一二号、四〇頁)。)
(417) 次に、予ら少時、和歌山でドマグロ、田辺|辺《へん》で今もドマグロ、西牟婁郡諸処でチチッコというは、宇井氏の書によれば、江戸でダボハゼといったものらしく、ハゼ科の魚で、学名トリデンチゲル・オブスクルス。
 次にドンコは(紀州那賀郡でタガネまたウシヌスットまたカブロなどいう)、ドンコ科の魚で、学名モグルダ・オブスクラと宇井氏の書に出るが、この魚の外に『水族志』にドンコという魚を三条まで出しある。
 (一)予州でドンコ、京都でカマツカ、京都の賀茂でカワキス、阿波でジンゾク、『和漢三才図会』四八に、『本草』の鯊をこの名にあてある。故近藤廉平男、貧家に生まれた。日本郵船会社長となって、栄達したのち、斎藤実子を招待して、へんな小魚を食わせた。斎藤子迷惑して、そもそも何の由来で、こんな結構な馳走をなさったかと問うと、近藤男、これこそジンゾクとて、わが若い時しごく珍重した御馳走なれ、こんなまずい物を最上饌と心得て勉強したと語った由。大正十一年、予東上した時、そのころ郵船会社より故男爵の伝記を頼まれ、起草中の末広一雄君が旅館へ訪れて、阿波へ往くと、今も毎朝ジンゾクヤーイと呼んで、この魚を販《ひさ》ぐ者が町を通るが、何と学名を唱うるものかと問われたが、即答し得ず。帰県後三年間、種々の書で方言を調べ、さて宇井氏の書によって、これは紀州有田郡のある部でトゲチバイといい、鯉科の魚で学名ゼゼラ・ヒルゲンドルフィと分かった。
 (二)『本草啓蒙』に、防州でドンコウ、筑後でドンコというとあるは、紀州日高・東西牟婁郡でアイカケ、那賀郡でアイカイ、伊都郡橋本等でタカノハなどいう。清き急流にすみ、時節により川口へ下り来る。けだし、アユを追うて移動するものか。宇井氏は言及されおらぬが、浅き湍流に俯し、静まり反ってアユの来るをまち、たちまちその前鰓蓋後の鉤棘をもってこれを引っ懸けると、アユきりきり廻転すれども脱し得ず、ますます鉤で身を貫く。かようにアユを食うて一生を過ごす。まずは青州清風山の中  噂噂が一条の絆脚索もて行客を把《とら》え、インドのタッグ兇賊が輪索で旅人を縊殺して世を渡るに似たり。『本朝食鑑』のカジカ魚、『大和本草』の川オコゼも、『水族志』にこれと同物としある。『南方随筆』二四九頁〔に出た「むかし人あり、十津川の奥《おく》白谷《しらたに》の深林で、材木十万を伐りしも、(418)水乏しくて筏を出すあたわず。よって河下なる土小屋の神社に鳥居(現存)を献じ、生きたるオコゼを捧げ祈りければ、翌朝水おおく出でて、その鳥居を浸し、件《くだん》の谷よりここまで、筏陸続として下り、細民生利を得ることこれ多し。その人これをみて大いに歓び、径八寸ある南天の大木にのり、流れに任せて之《ゆ》く所を知らず」という咄のオコゼは、海産の物を活きながらここまで運ぶはとても叶わず。たぶん、この川オコゼすなわちアイカケであったろう。学名コックス・ボルルックスで、海魚コチ科に近いカジカ科のものだ。
 (三)『水族志』に、筑前福岡でドンコまたボボコヤシ、紀州でアナハゼなどあるは、宇井氏説に、田辺でマラスイ。海近い水底石穴中におり、常に頭のみ出すからアナハゼ、形がかの物に似て毎々穴に吸い込まれおるようだからマラスイ(というと、読者諸君は俺もそんな奴に吸われたいと言うこと受合いだ)。『根本説一切有部毘奈耶』三七に、「男は女をもって食となし、女は男をもって食となす」。(『摩訶僧祇律』三八、「女人はこれ丈夫《おのこ》の食、丈夫はこれ女人の食」。脚本『霧太郎天狗酒盛』、比企判官が心がけおる美姫微妙の前を判官が食い料と奸医桂庵が呼ぶことあり。享保三年其磧作『和漢遊女客気』五の一、世継之助、わが店へ下りて女なしにはしばらくも居がたく、難波で請け出したる遠州を連れてここに逗留中の飯米とせしが、云々。『侍児小名録拾遺』に、「隋の煬帝の宮妃|呉絳仙《ごこうせん》、よく長き蛾眉を画き、帝はなはだこれを憐《いと》しむ、云々。すなわちいう、古人いわく、美色もし食らうべくば、絳仙のごとき者は、もって飢えを療《いや》すべし、と」。)三十余年前、何か仏国の雑誌で、ポール・ダンジョワが、接吻の起原は、男女相愛するの極、われ汝を食わんという意を表わした遺風、と説いたのを見た。そんな考えで、かの物の形した魚を、不断入れて食わすと、穴が肥えるという意義で、ボボコヤシと名づけたとみえる。学名プセウドブレンニウス・ベルコイデス、これもカジカ科の魚だ。
 以上略説したナマズ科のギギ、ハゼ科のドマグロ、ドンコ科のドンコ、鯉科の伊予でいうドンコ、カジカ科の防州でいうドンコウ、および福岡でいうドンコと五科六属六種の魚、おのおの別に学名を具えたものどもを混同して、何(419)たる魚学上の智識なしに方言を集められたら、その方言また二重三重に混同されて、何とも方の付かぬものとなるべく、学問を益するよりは反って損ずることとなりはせずやと危ぶまる。宇井君の著書に載せた諸魚の標品は、当田辺付近瀬戸|鉛山《かなやま》村の京大臨海研究所へ悉皆寄付され、同所に保存されあるから、まず宇井君の著書を手に入れ、精読の上、かの研究所の許しを得て標品を参看し、諸魚の形態をよく明らめた上、方言調査に取り掛かられんことを藪君にお勧め申す。まことにもって余計な差し出口のようだが、「これは南方先生や佐藤清明氏に御願いしたい」と拙名を掲げて要求されたから、憚るところなくかく申し上ぐる。
 また、藪君は『本草啓蒙』等諸書を挙げて、故人もこれらの魚を混同し判断に苦しんだと言われたが、今日ごとき精細な鑑識法を知らなんだ時代に比しては、貝原、人見、寺島、小野等諸先生は、多くの重複せる方言よりも、実物をよく観察して、例せば『本草啓蒙』に、同じドンコと呼ばれながら、予州のドンコ(阿波でジンゾク)と防州のドンコウ(紀州等でアイカケ)と異なる由を注意し、別条に出しあり。その他諸書にも、まずはギギとドマグロを混じた大過なことはない。
 ただし宇井君の書に、アイカケと同属にカマキリあり、前年来朝採集された米国のジョルダンとスタルクス二氏、これにコックス・カジカと学名を付けられたをみると、アイカケをカジカという所がある外に、このカマキリをもカジカという所があるらしい。宇井氏の記載に、カマキリはすこぶるアイカケに酷似すれば、アイカケは前鰓蓋上の後縁に鉤状の一棘あるに、カマキリは前鰓蓋に四個の棘あり、上方の一棘は著しく鉤状なり。アイカケの頭は幅広く、わずかに縦扁するに、カマキリの頭部は多く縦扁するとあって、その他に諸部の色や斑の相異点を挙げ、カマキリの生きたのを捕えるとブウブウと鳴く、とある。カジカ蛙の外に、カジカ魚も鳴くと『啓蒙』等にみゆるは、アイカケでなくてこのカマキリだろう。二十三年前、予、東牟婁郡|請川《うけがわ》村でアイカケの乾品を獲、持ち帰ったのを昨今見ると、宇井氏の書にいわゆるアイカケもカマキリもある。請川村人は通常この二種を別たず、多少形色相異なるを雌雄ぐら(420)いに心得おるらしい。予もまた左様に心得おり、宇井氏の書をみて始めて別種と氣づいた。されば、古人もこんな誤見を免れなんだ例多かるべく、只今一種としおるものが、他日二種、三種と知れ、別種としおるものが、全く同一種と知れるようなことも多々あるべしと惟う。(九月十二日午前二時稿成る)  (昭和六年十月『民俗学』三巻一〇号)
 
(421)     ぬくめ鳥
 
 北村静廬の『梅園日記』に、このことを詳しく考証しある。ちと長いがまるで受売りとしょう。「『雅言集覧』にいう、後京極鷹三百首、『鷹のとるこぶしのうちのぬくめ鳥、氷る爪根のなさけをぞしる』。西園寺殿鷹百首、『空さゆる一夜の鷹のぬくめ鳥、はなつ心もなさけあるかな』。ただし、この歌塙本にみえず。『鳥柴雪』という書に出でたり。
かの書の異本なるべし。按ずるに、別本にてしかも注あり。((割註)按ずるに、『臂鷹往来』にいう、鷹書は、西園寺入道相国蟄居百首一冊、園羽林注。)注にいう、ぬくめ鳥とは、いかにも寒き夜、小さき鳥を生きながら、鷹の両の手にて取り隠し、足を暖むるなり。その朝放ち遣りて、この鳥宿らんとて、それへ行かず、情をなすなり、とあり。また前の後京極殿三百首にもまた注本あり。注にいう、鷹の野をかける時は、爪を深く嗜むなり。小鳥を殺さずして、わが拳を暖めて、明くれば放つなり。かれを放ちやり、その方へ三日行かざるところを、爪根の情をしると申すにや。また按ずるに、このこと唐の代より言いし説なり。『朝野僉載』五巻に、「滄州東光県の宝観寺、常に蒼鶻あって、重閣に集《とま》る。毎《つね》に鴿《はと》数千あり。鶻は冬のうち毎夕、一の鴿を取り、もって足を暖め、暁に至ってこれを放って殺さず。自余《ほか》の鷹鶻も、あえてこれを侮らず」。『柳宗元文集』一六巻「鶻の説」に、また、「鷙に鶻というものあって、長安の薦福浮屠《せんぷくふと》に穴《すく》い、年あり。冬日の夕、この鶻は、必ず鳥の握《あく》に盈《み》つるものを取り、完《まつた》くしてこれを致し、もってその爪掌を燠《あたた》め、左右してこれを易《か》う。旦《あした》となれば、すなわち執《とら》えて浮図《てら》の跂《とう》に上って、これを縦《はな》ち、その首を延べてもって望み、その如《ゆ》くところを極む。往くには必ず背《そむ》いて去る。もし東すれば、すなわちこの日は東に逐《お》わず、南北(422)西もまた然《しか》す」。『白氏文集』三六、「物に遇いて興を感じ、よって子弟に示す」の詩に、「鳩は心鈍なるも悪なし、云々、鶻|欺《あざむ》き擒《とら》えて脚を暖む」と作れるもこれなり。『文苑英華』一三六、李?「鶻の賦」に、「それ、その厳冬|冱寒《ごかん》、烈風迅激のとき、あるいは棘林《きよくりん》に上り、あるいは危壁に依り、身はすでに喬木に稟け、骨は貞石に断たれんとす。全き鳩を営《もと》めて、もってみずから暖め、命を害するなく、もって益を招く。信《まこと》に終夜に仁を懐き、なお詰旦《よくあさ》に釈《ゆる》さる」。また『?雅』、『五雑俎』などにもみえたり」とこうだ。
 熊楠いわく、この話は和漢の外にも行なわれたとみえて、一八七六年板、サウゼイの『随得手録』四扁二三七頁に、『アルテ・デ・フルタール』なる書を引いて、「ノロエガ(どこだか、ちょっと分からない)の鷹は、冬の一日中捉うる最後の鳥を殺さず、夜中その鳥を握って脚を煖め、翌朝放ちやり、どちらへ飛んだかをよく見置いて、その方へ鳥を採りに行かず。前夜ぬくめくれた恩を仇で返すを好まぬからだ」と記す。このことあまり古い西書に出でおらぬから、たぷん支那説を伝えて、ノロエガなんという地に托したものであろう。(五月十八日、午前四時)  (昭和六年十一月『民俗学』三巻一一号)
 
(423)     額より妙相を現ぜしこと
 
 『宇治拾遺』(『日本文学全書』七編所収。一〇五章としあれど、予蚤取り眼で算えみるに一〇七章である)に、「むかし唐土《もろこし》に宝志和尚という聖あり。いみじく尊くおわしければ、帝かの聖の御姿を影にかき留めんとて、絵師三人を遣わして、もし一人してはかき違《たが》ゆることもありとて、三人して面々に写すべき由、仰せ含められて遣わさせ給うに、三人の絵師、聖の許へ参りて、かく宣旨を蒙りて詣でたる由申しければ、しばしと言いて、法服の装束して出で会い給いけるを、三人の絵師、おのおの書くべき絹を広げて、三人並びて筆を下さんとするに、聖しばらく、わがまことの影あり、それをみて書き写すべしとありければ、絵師左右なく書かずして、聖の御影をみれば、大指の爪にて、額の皮をさし切りて、皮を左右へ引きのけてあるより、金色の菩薩の顔をさし出でたり。一人の絵師は十一面観音とみる。一人の絵師は聖《しよう》観音と拝み奉りけり。(今一人は何と拝見したか、詳らかならぬ。)おのおの見るままに写し奉り、持ちて参りたりければ、帝驚き給いて、別の使を給いて問わせ給うに、掻い消つようにしてうせ給いぬ。それよりぞ、凡人《ただびと》にてはおわせざりけり、と申しあえりける」と出ず。
 宝志は梁の慧皎の『高僧伝』一〇に釈法誌に作る。『太平広記』九〇や『神僧伝』四には宝誌とす。鷹の巣より見出だされ、手足みな鳥爪ありしという。古ギリシアのプタゴラス同様よく分身して、同時に異処に現われたとて名高い。『洛陽伽藍記』には、この僧を沙門宝公とし、胡太后が爾朱栄に害さるべき予言がよく中《あた》った一事のみ、巻四に出しある。『高僧伝』に、『宇治拾遺』の記事ごとき話はないが、ややこれに近い文句はある。いわく、陳征虜なる者あり、(424)挙家、誌に事《つか》うることはなはだ篤し。誌、かつてそのために真形を見せしむるに、光相菩薩像のごとし、と。真形は『拾遺』にいわゆるまことの影だが、光相菩薩像のごとしとは、全身より光を放つこと、菩薩像のごとしというのだ。それを、宝誌は鳥の爪を具えたというより思い付き、爪で額をみずから裂開《さ》くと、金色の菩薩がその創から顔を出したと謬伝したのだ。『源平盛衰記』三〇に、聖武天皇、藤原広嗣の奏により、御簾の隙より叡覧ありしに、光明皇后は十一面、玄ム僧正は千手観音と顕われて、共に慈悲の御顔を並べて、同じく済度の方便を語り給えり。『元亨釈書』九に、光明皇后、釈実忠を観るうち、これと夢遊し、「寤《さ》めて忠を見るに、頂に十一面観音を戴き、儀相|自若《じじやく》たり。后、出でて拝し、合掌し懺謝していわく、およそ女の癡慾は、ややもすれば愛見に縻《かか》る、聖師、真慈もて、わが触忤《しょくご》を恕《ゆる》せ、と」。
 南宋の張邦基の『墨荘漫録』五に、胡道修、駭《おどろ》くべき醜女怪を無双の美女と見て、数千金で購い、在来の艶妻を離縁し、その醜婢を愛して男女数人を生ませた、とみえ、『宇治拾遺』一六章に、丹後の老尼が、地蔵菩薩は暁ごとに歩くと聞いて、毎朝これを拝せんと惑い行き、博徒に騙されて衣を脱ぎ与え、地蔵と名づくる小童を拝んだ。時に、その童何心なく楚《すばえ》で額をかくと、額さけて中より地蔵尊の顔を現ず。老尼、涙を流して拝み入り、「やがて極楽に参りにけり。されば、心にだにも深く念じつれば、仏もみえ給うなりけりと信ずべし」とはもっともで、鰯の頭も信心からだ。
 北宋の真宗の時成った沙門道原の『景徳伝燈録』二に、第十九祖鳩摩羅多、法眼を第二十祖闍夜多に付せし時、偈にいわく、「性上|本《もと》生なし、人の説かんことを求むるに対《こた》えんためなり。法においてすでに得ることなし、何ぞ決と不決とを懐《おも》わん」と。鳩摩羅多いわく、「これはこれ妙音如来の見性《けんしよう》清浄の句なり、汝よろしく後学に伝布すべし」。言い訖《おわ》って、すなわち座上において、指爪をもって面を裂くに、紅蓮のごとく開き、大光明を出し、四衆を照燿す。しかして寂滅に入る。闍夜多、塔を起こす。新室の十四年、壬午の歳に当たるなり、とある(西暦二二年)。額を裂いて(425)妙相を現じた「宇治拾遺』の談は、ほぼこれに基づいたと考える。(五月二十三日、午前十時三十分)  (昭和六年十一月『民俗学』三巻一一号)
 
(426)     足を薪とした怪婆
 
 明の銭希言の『獪園』一三に、松江の張澱山が通判となって、温州に赴任するとて、その妻陸氏を伴い行く。すでに界に入ったが、温州城までなお数十里という処で日が暮れかかる。夫人疲れ極まり駅逓に憩わんと思うに、ただ一つの家らしいものをみつけたので、左右にまず往き窺わしめた。白髪の老嫗が地炉に木をたき、いと美しい少婦が燈下に糸をくりおった。通判、夫人に向かい、われは明晨上任せにゃならぬ、かの家は女ばかりときくゆえ、和女《そなた》は一泊して、夜明けてゆっくり入衙せよといい、二子とまず往った。夫人と二女は車を停めて宿を乞うと、嫗と婦と欣然出迎え、嫗は婦を夫人に陪せしめ、自分は茶を拵えるとて、水をくみ火を挙げ、両足を薪の代りに、竈門に推し入れて焚き出した。女奴これをみて大いに怖れ呼んだ。時に従者数十人、行き疲れてその家の周りに仮寝しおり、一斉に声を揚げて家内に向かうと、嫗も婦も中家も器物もたちまちみえず。ただ空林中に累々たる数塚のみあった、と出ず。
 三十一年前、ロンドンの南ケンシントン美術館で、小脇源太郎氏の跡釜として、日本画本目録編成を頼まれ、執務中見た『絵本|黄昏草《たそがれぐさ》』は、石田玉山画で寛政五年京都板だ。それに、ある旅人が行き暮れて貧家に泊ると、独り住みの老婆が接待のため茶を煮るとて、自分の二脚を炉にさしくべ燃やすをみて、旅人仰天するところがあった。ほかに、江戸の武士永田氏の妻、夫の不在に家を守るに、山伏一人一泊を乞い、長屋か何かに宿る。山伏、この婦人に熱情頻発して刺し得ず。その髪一条を求めた。婦人怪しんで、厩の馬の尾一条を抜き自分の髪と称して授けた。夜分に山伏その尾毛を呪すると、その本主だった牝馬が厩の戸を蹴破り、不意に山伏の寝室に突き入り、抱き付いてその摺鉢を(427)すり付ける。勢いきわめて烈しきに、山伏あわて走り廻るを、馬はヤイノヤイノとも言わばこそ、一心不乱に追い懸くるに、山伏足場を失うて終《つい》に深い井に陥った。よく調べると、彼は著名な悪人兼好婬家で、従前髪毛に修法して、多くの婦女を迷わし、犯して楽しんだ者だった由をも載せあり。しかして、これによく似た話を二条まで『獪園』に載せある。よって察するに、『絵本黄昏草』の老婆が脚を薪に代用した話は、全く『獪園』の支那話を本邦のことに作り直したものだろう。
 髪毛を呪して女を迷わした話は、内外とも少なからぬが他日別に述ぶべし。両脚を薪とする話はあまり多からぬようだ。差し当たりこのほかにただ一つ識りおる本邦のものは、『老媼茶話』に、武州川越領三の町へきた行脚僧が、泊った家で鍋来たれと呼べば、鍋かれが前へ踊り来る。僧それに米と水を入れ、左右の足をふみのべ、いろりの縁へあて、かたわらなる大鉈もて、膝節より打ち砕いて薪とし、火に焚いて程なく飯を拵えた、と出ず。
 外国には、『首楞厳義疏注経』八に、宝蓮香比丘尼が、婬慾熾盛のあまり、女根より大猛火を発し、それより節々猛火焼燃したとあるから、むろん両脚もやけたのだ。「神代巻」に、伊奘冊尊、火神を産み、ミホドすなわち神のことだから敬称して、御陰門を焼かれて崩じたとあるが、御両脚はどうなったか記してない。これらと没交渉らしいが、以前和歌山の小児どもが失火をみるごとに、「ボボやけてサネの森」と呼んだ。鷺の森という所に本願寺懸け所あるを御坊(ゴボ)と称えたからの洒落だ。今となってはあまり知った人がないから、後記に留め、これを読んで、むかしの子供を卑穢とか素樸とか、批評を人々の任意に委ぬる。南宋の洪邁の『夷堅志』支戊一には、?僧宗達死して五年、その弟子だった者、ふとこれに遇うてその寺に宿り、夜に至って達の所在を失い、呻吟の声のみ聞こえるので尋ねゆくと、達は竈下に坐し、足を伸ばして火に入れ叫苦絶えず。已《おわ》つて行き立つこと初めのごとし。われ在世の時、かつて寺後の木二本を伐って人に与えた報いで、今水を煮るごとに必ずわが脚を薪代りに使うと語った、とある。それから、一九一〇年坂、セリグマンの『英領ニューギニアのメラネシアンス』三八〇頁には、ある老婆が両脛間より火を(428)出して芋を煮たのが火の始め、と見ゆ。(十月二十五日、早朝稿成る)
 (追記)本文発送後、一八九二年板、スウィンナートンの『印度夜燕譯』二三三頁を見ると、回教行者が魔法女にパンを焼いて食わせと望むと、その坐右に眠りおる小娘の両脚を炉に入れ、漸次膝まで燃やすも、娘いささかも寤《さ》めず、かくてパンを焼きおわり、有色の液を水でとき、娘の脚を浸してのちまた臥せしめ、行者にパンを進めた。ところへ魔法女の夫も帰って食えと勧むるも、行者食わず。女児の脚を焚いて調えたパンが食えるものかというと、夫は、なに女児の脚がそんなに焼けるものかとやり返す。行者は、しからば論より証拠と、進んで蒲団をまくると、燃えてしまったとみた両脚は、少しも損ぜずに、娘は依然熟睡しておった。行者これをみて感じ入り、日々托鉢して得た物を残らず魔法女に与えて心底をみせ、ついにことごとくその術を授かった次第を述べある。(同日午後五時)  (昭和六年十一月『民俗学』三巻二号)
 
(429)     源為朝一箭で船を射沈めたこと
 
 『保元物語』に、源為朝、伊豆の大島へ流されて旧臣を嘯集し、近海諸島を押領し、その民を虐ぐる由、狩野介茂光が上京して奏聞したので、後白河院驚きたまい、伊豆、相模、武蔵の勢を催し発向すべし、と宣旨あり。嘉応二年四月下旬、茂光の兵五百余人、二十余艘の船に乗って、大島の館へ押し寄せた。為朝、多く人を殺すも益なしとて、ことごとくその兵士を落ち去らしめ、「矢一つ射てこそ腹をも切らめとて、立ち向かい給うが、最期の矢を手浅く射たらんも、無念なりと思案し給うところに、一陣の船に究竟《くきよう》の兵三百余人、射向けの袖をさしかざし、船を乗り傾けて、三町ばかり渚近く押し寄せたり。御曹司、矢ごろ少し遠けれども、大鏑を取りて番《つが》い、小肘の廻るほど引き切って兵《ひよう》と放つ。水際五寸ばかり置いて、大船の腹をあなたへ、つと射通せば、両方の矢目より水入りて、船は底へぞ巻き入りける。水心ある兵は、楯、掻楯に乗って、漂うところを、櫓、櫂、弓の筈に取り付きて、並びの船へ乗り移りてぞ助かりける。為朝これをみ給いて、保元の古えは、矢一筋にて二人の武者を射殺しき、嘉広の今は、一矢に多くの兵を殺し畢《おわ》んぬ、南無阿弥陀仏とぞ申されける。今は思うことなしとて内に入り、家の柱に背をあてて、腹を掻き切りてぞい給いける」と見ゆ。
 『晋書』九七に、「扶南国(今の後インドの一部)は、西のかた林邑を去ること三千余里、海の大湾中にあり、云々。その王は、もとこれ女子にして、葉柳と字す。時に、外国人の混潰《こんかい》なる者あり、先に神に事《つか》え、夢に、神これに弓を賜い、舶に載って海に入れと教う。混潰、旦《あした》に神祠に詣《いた》って弓を得、ついに賈人《あきんど》に随って海に汎《うか》び、扶南の外邑に至る。(430)葉柳、衆を率いてこれを禦《ふせ》ぐ。混潰、弓を挙ぐるに、葉柳懼れて、ついにこれに降る。ここにおいて混潰、納《い》れてもって妻となし、しかしてその国を拠《し》む、云々」と出ず。『南斉書』五八には、扶南国は日南の南、大海西蛮中にあり、広袤三千余里、大江水あり、西に流れて海に入る。その先、女人あり、王となる、名は柳葉、また激国人混?なる者あり、夢に神弓二張を賜い、教えて船に乗って海に入らしむ。混?、晨に起き、神廟の樹下において弓を得、すなわち舶に乗って扶南に向かう。柳葉船を見、衆を率いてこれを禦がんと欲す。混?、弓を挙げ、はるかに船の一面を貫き通して人に中《あ》つ。柳葉怖れ、ついに降る。混?ついにもって妻となす。その形体を裸露するを悪み、すなわち布を畳んでその首で貫き、ついにその国を治め、子孫相伝う、とある。杜佑の『通典』の文ほぼ『南斉書』と同じ。だが、激国を扶南の南にありと明言し、柳葉年|少《わか》く壮健で、男子に似たるあり、と付け加えある。柳葉と葉柳、混?と混潰、いずれが正しいか知れない。晋朝は南斉朝より五十九年前に亡びたが、『晋書』は『南斉書』より約百二十年ほどのちに成った。故に『南斉書』に、混?が弓を挙げてはるかに敵船の一面を射貫いたとあるを、『晋書』に抄略して、混潰弓を挙げて葉柳懼れ降ったとしたは、その意を悉《つく》しおらぬ。弓を挙げたを見たばかりで何のこわかろう。かくて柳葉女王が混?の妻となって、布を畳んで首で貫き、国中の女人みなこれに倣《なら》うたが、男は相変わらず、裸でおったとあれば、扶南国はそのころはなはだ文化の低い所で、その船も至って薄弱、強弓の手で射貫かれたも宜《むべ》なりだ。
 『甲子夜話』七七に、富士裾野の樵夫、人跡常に稀な処の木を伐り、その肉中より鏃を見出だす。頼朝、富士巻き狩の時、誰か射込んだ物だろう。鏃の総長七寸八分、古人の弓力量るべしとあって、その図を出す。『明良洪範』二四に、天正十四年、秀吉初めて男子を生み、棄君と名づく。蒲生氏郷、その祖先秀郷が蜈蚣を射た矢の根一本を献じた。棄君三歳で早世した時、その矢の根を妙心寺に蔵めた、とある。この秀郷の鏃か、為朝の鏃か忘れたが、よほど大きな物で、後人これを得て槍の穂にした。それを明治十六年ごろ、東京で槍の展覧会に出品したとかで、その番付を、外神田|御成道《おなりみち》の鬼頭氏なる、古銭を商う店頭でみたことがある。狩野介が大島へ差し向けた五百余人は、二十余艘の(431)船に乗ったとあるから、まず二十六人乗りの船で、あまり小さいものでなかったろうが、鏃の総長七寸八分、もしくは槍の穂に用い得るほどの長大な矢を、為朝ごとき無双の強弓に射られたら、船腹を射通されて沈むほどのことはあるだろう。四十余年前、アフリカ内地の探険記に、土人の飛鉾に船を被られ、その穴より水入って船ついに沈んだ由を、一度ならず読んだも似たことだ。
 されば例の、何の譚もみな言語の誤解より起こったと釈き去らんとする人は、本話ごときも、為朝一箭で船を射沈めたとは、鎮西八郎大島に著して、島の代官三郎太夫忠重が娘(馬琴の『椿説弓張月』に、その名を簓江《ささらえ》とす)の親切こめた据膳を賞翫し、その当世を破ったことを指したものだ。まことや風来が謂った通り、水揚げといい、新造といい、女を船に見立てた詞これ多し。寛延元年、竹田出雲作『仮名手本忠臣蔵』、どうせ切れるの六段目の次、茶屋場の文句にも、「大事ない、大事ない、あぶないこわいはむかしのこと、三間ずつ跨げても赤膏薬も入らぬ年配、阿房言わんすな、舟に乗ったようでこわいわいな、道理で船玉様がみえるは、オオ覗かんすないな、洞庭の秋の月様を拝み奉るじゃ、イヤモウそんならおりはせぬぞ、おりざおろしてやる。アレまた悪いことを、やかましい生娘か何ぞのように、逆縁ながらとうしろより、じっと抱きしめ抱きおろし」と始終の痴話を舟に寄せたでないか。その新舟を八郎御曹司の偉岸きわまる一件で破ったと言ったを、山陽気取りで言うなら、件と箭と国音相近きをもつて、後人謬つて、為朝一箭で船を破つたと言い伝えたものだと、鼻息荒くよまい言を吐くだろう。それはその人の勝手として、予にはまた予の料簡あり。
 十九世紀末近くまで、実際飛鉾で船を沈めたことあったより推し、むかしのある人がことのほか大きな篩鏃を強勢に射た遺品より察して、混?や為朝が、一箭で船を射貫いたはずいぶんあり得たことと惟う。しかして為朝は大船の腹を射通し、その穴より水入って沈没したとあるに、「混潰、弓を挙げて、はるかに射て船の一面を貫き、通して人に中《あた》る」(『南斉書』五八)。『南史』七八には、柳葉の人衆、(混?が乗った)舶至るを見て、これを劫《おど》し取らんと欲す。混(432)?すなわち弓を張り、その舶を射、一面を穿ち度《わた》し、矢(柳葉の)侍者に及ぶとあるから、船の一面を射貫いて、それに乗りおった女王柳葉の侍者一人に中《あ》てたまでだ。船を沈めたことなし。かつ混  嘆は船を射貫いた結果、敵を降してその女王を妻《めと》り、その国を取ったに反し、為朝は船を射沈めて、今は思うことなしとて自殺した。等しく一箭で船を射貫いたものの、仔細はこんなに相違しおるから、この両譚は各自その国々に発生して、形態がほぼ相似たるのみ、一邦より他邦に移ったのでない、と予は考える。(十月二十七日、朝九時)  (昭和六年十一月『民俗学』三巻一一号)
 
(433)     樟柳神とは何ぞ
 
 『郷土研究』五巻四号二二三頁に、孫晋泰君いわく、樟柳神とは、清代の記録より現われたるもので、その性質のいかなる物であるかは、いまだ私には判明しないけれども、云々、と。樟柳神については、過ぐる明治二十八年四月二十五日の『ネイチュール』(五一巻六〇八頁)に、予その説を書き、シュメルツこれを自分発行の『インテルナチョナル・アルキヴ・フュル・エツノグラフィエ』へ、シュレッゲルこれをその『通報《ツンパオ》』に転載し、大もてだったので、次年さらに予一世一代の長文を『ネイチュール』に出した。しかるに、これが諸学者に引用さるること、阿漕が浦にひく網の度重なりて、歳月の進むに随い、予の名は漸次振り落とされ、今はこれを受売りした人の創説と心得た者も多い(例せば一九〇九年板、ハートランドの『原始父権論』一巻四六−四七貢)。とにかく自分が一番早く気づいたことゆえ、左にこの神の何物たるを再説しょう。
 明の謝肇?の説に、「『易』にいわく、?陸夬々《けんりくかいかい》たり、と。陸は商陸なり。下に死人あれば、すなわち上に商陸あり。故にその根多くは人形のごとし。俗に樟柳根と名づくるはこれなり。これを取るの法、夜静かにして人なきに、油をもって梟の肉を炙ってこれを祭り、鬼火叢集するを俟って、しかる後その根を取り、家に帰って符をもってこれを煉ること七日なれば、すなわちよく言語す。一名は夜呼、また鬼神の義を取るなり。この草、赤白二種あり、白きものは薬に入る、赤きものは鬼を使う。もし誤ってこれを服すれば、必ずよく人を殺す。また『刑楚歳時記』に、三月三日、杜鵑初めて鳴く、田家これを候《うかが》う、杜鵑昼夜鳴き、血流れて止まず、商陸子熟するに至ってすなわち止む、けだ(434)し商陸(子)いまだ熟せざるの前は、正に杜鵑哀鳴の候なり、故に夜呼と称うるなり、と」と。明の銭希言いわく、「梁渓の華別駕善継は、古えに博《ひろ》く奇を嗜み、詩才|清靡《せいび》にして、弟の善述と名を斉《ひと》しくす。中歳《ちゆうねん》のころ、間《ひま》に投じ、喜《この》んで仙鬼を談じ、方士に従って樟柳神を錬《なら》い、戯れに耳報術を学ぶ。のちに悔い、あえて学を竟《お》えず。この鬼に耳中に鑽入せられ、耳ついにもって聾となり、その身を終うるまで聴くあたわず」と。また明の王同軌いわく、「?人の武弁陳生《ぶべちんせい》、揚州の軍門に寓し、敵を料って奇中あり。のち何吉陽先生、南少司寇に任ぜられ、大司馬の李克斎公の薦をもって至り、衙中におる。人の往事および家居、墳墓、園宅を談ずるに、これを掌《たなごころ》に指すがごとし。生《せい》の挾《さしはさ》むところ樟柳神あり。神わずか三寸ばかりにして、白面にして紅衣をつけ、よく袖より出で、躍って几《つくえ》の上に至る。水を飲むに歴々として声《おと》あり。時にみずから嘆じて?語をなし、かつて儒生なりしが死にたり、しかして陳これを制取す、しかれども相随うこと久しからず、またまさに去るべしと謂《い》う」と。これらを合わせ攷うるに、商陸の赤きものの根を取り帰って、七日間符呪を仕掛くれば、死人の魂がその根に来たり留まり、術者の問に応じ、種々のことを告ぐるので、その神、時に小人と現じ、術者の袖より出で、几上に躍り上がり、水を飲みなどしたのだ。華別駕はその術を学びかけて中止したので、その神怒って耳に深く入り、終身聾たらしめたというのだ(『五雑俎』一〇、末条。『獪園』一三。『奇園寄所寄』五)。いずれも明人の説ゆえ、樟柳神の記録は清代に初まるという孫君の説は間違いおる。(清の袁枚『随園随筆』一一、樟柳神、古く「楚語」にありとす。)
 方術に植物の根を用うる例は支那に限らず。往年この田辺近い漁村のある老婦(予知人の姑)が蔓荊(『郷土研究』五巻五号三二四頁をみよ)の根本に、畸形の贅《こぶ》、自然に大黒とか恵比須とかの像とみゆるを採り帰り、?れば予言して、福を授け給うとて、衆を聚め賽銭をせしめて、警察事件を生じた。この木の根本は浪と沙に揉まれ、往々異態の贅を生ず。予も、紀伊の国は西牟婁の郡富田中村の浜で、相好円満、四具皆備の妙門形の物を獲、転輪聖王玉女宝と銘し、「一切衆生の途《みち》に迷うところ、十方諸仏の身を出だすの門」と、狂雲子の詩句をその箱にかき付け、恋(435)しきにも悲しきにも帰命頂礼しおる。かの老婦は、代々エビス卸しを務めた女巫の家に生まれたといえば、この木の贅は、古来その修法に使われたと察する。(喜多村信節『ききのまにまに』、寛政十一年、谷原村長命寺山内ユズリハの木の瘤、人面に似たりとて、見物人出ず。『夷堅志補』二二には、饒州の大?角樹の瘤、すこぶる鬼面に似たるが、人に化して人を打ち物を奪うた譚あり。)これに似たこと、今より約千六百年のむかし、晋の?含が書いた『南方草木状』に、「五嶺の間、楓木多し。歳久しくなれば、すなわち瘤?《こぶ》を生ず。一夕、暴風驟雨に遇えば、その樹の贅《こぶ》暗《ひそ》かに長ずること三、五尺、これを楓人という。越の巫、これを取って術を作《な》すに、神に通ずるの験あり。これを取るに法《きまり》をもってせざれば、すなわちよく化して去る」。(それより四百年ほど後成った、唐の張?の『朝野僉載』に、江東・江西の山中に多く楓木人あり、楓樹の下において生じ、人の形に似て、長《たけ》三、四月なり。夜、雷雨あれば、すなわち長じて樹と斉《ひと》し。人を見ればすなわち縮んで旧《もと》のごとし。かつて人あり、合《かぶ》せるに笠子《かさ》をもってせしに、明日看るに、笠子《かさ》は掛かって樹の上にあり、旱《ひでり》の時に雨を欲すれば、竹をもってその頭に束《くく》り、これを禊《はら》えばすなわち雨ふる。人取ってもって式盤となせば、きわめて神験あり、楓天|棗地《そうち》とはこれなり。)以前、和歌山城に加藤清正が朝鮮より持ち帰った楓の枯木を蔵し、明治七年の旱《ひでり》に、これを借りて泥を塗れば雨ふるとて、村民ら県庁へ押しかけ大騒ぎだった。これ支那で楓の瘤を神物として雨を乞うた遺風だろう。越後国、「久米山の薬師のみくじトコロにて苦々しくも尊かりけり」。この本尊はトコロの根を煉って作った由。このこと、かの如来の諸経になし。古く本邦でトコロの根を煉って、方術用諸像を作った痕跡か。上に引いた謝・銭二氏が、樟柳神像は煉って作らると言ったに近い。清の張爾岐いわく、「左道にては、商陸の根を刻んで人の形となす。これを呪すれば、よく禍福を知る。章柳と名づく」と。されば刻んでも作ったものだ。(『嬉遊笑覧』一二。『蒿菴間話』一)
 支那の旧説に、千歳の?木《かつぼく》、その下の根、座せる人のごとく、長さ七寸、これを刻めば血あり。その血をもって足下に塗れば、もって水上を歩行して没せざるべし。もって水に入れば水これがために開く。もって淵底に住むべきなり。(436)もって身に塗ればすなわち形を隠す。見られんと欲せばすなわちこれを拭う、と。もってのほか、もってだらけの記述だが、果たして然らば、もって身投げを粧い、借金取りを避けて、海底に夫婦暮しもなるべく、またもって自在に窃盗や夜這いをし済まし得べしだ。安南で蠱に事《つか》うる者は、一草の根の精を祀る。その根精、名はオントーだが、尊敬して曽祖父と称う。その草名はンガイ、山中に生ず。事蠱者、秘密にこれを山中また原野に培養し、期を定めて一所にこれを祀り、呪を誦したのち、白雄鶏一羽の足を括り、置いて帰って翌日往き見れば、鶏はなくて羽毛のみ残る。さて事蠱者、その法を行なわんと欲すれば、根精を剋する時を択んで、呪を誦し、何時までにかくかくのことを仕遂げよと命じてその根を抜く。例せば、刀一本、水牛一頭、亀一尾、家一軒など、敵の体内に生じ、増長して敵を殺せと命ずれば、その通りに成り行く。その根の一片を敵の飲食に入れてもよく彼を殺す。もっとも軽便な一法は、ンガイ根の微分を事蠱者の爪下に匿して、敵に向かって弾き出し、またその口内に含んで敵に話し懸くるに、敵答うればすなわちごねるのだ。李時珍、蠱の種別を列ねた中にみえた草蠱とはこれだろう。中央アフリカのボンゴ人は、悪鬼、幽霊、妖巫、梟、蝙蝠、ガラゴ夜猴等を怖るることはなはだしく、これを辟《さ》くるにある植物の根を用い、術士これを売るを専業とする者あり、またその根を使うて鬼神と通じ、あるいは人を害し得と信じ、その使用法に精通した酋長に敬服してその威を仰ぐ。ニャムニャム人は、カルラという蔓草の葉腋に出ずる毬根、まずはムカゴのようで、やや菱の実の形したのが、多く生ずればその年狩の幸多く、片手に弓をもち、その上でその根を  剣《きざ》めば、矢必ず中《あた》ると信ず。(『抱朴子』内篇一一。一八八〇年サイゴン発行『仏領交趾支那遊覧探究雑誌』一巻六号四五三頁。『本草綱目』四二。出板年記なきロンドン三板、英訳、シュヴァインフルト『アフリカの心臓』一巻一四五頁、二巻二四五頁)
 かく根を方術に用いる植物多般なるうち、他に挺んでて最も著名なはマンドラゴラに極まる。これは地中海地方に二、三種、ヒマラヤ山辺に一種、合わせてただ三、四種より成る一属で、茄科に属し、紫の花さく。なかんずく古く医術、媚術と左道に用いられて過重された一種は、地中海に瀕する諸国の産で、学名マンドラゴラ・オッフィシナル(437)ム。英語でマンドレイク、独語でアルラウネ、露語でアダモヴァゴロヴァ、古ヘブリウ名ズダイム、ペルシア名ヤブルズ、アラブ名イブルッ、パレスチナ名ヤブロチャク。今座右にないから月日は分からぬが、確か明治二十九年か三十年の『ネイチュール』に、予このヤブロチャクなる名を、予未見の書で、明の方密之の『通雅』四一に引かれた『方輿勝略』に押不盧薬と音訳したと書いたはとにかく、右のペルシア名かアラブ名を、宋末・元初時代に押不盧《ヤブルウ》と音訳したは疑いを容れず。押不盧は、『本草』にも明の李時珍が、むかし華佗が腸を刳《えぐ》り胃を滌《あら》うた外科施術には、こんな薬を用いただろう、と古人の言を引いたを読んでも、和漢の学者何ものとも分からずに過ごしたのを、予が語学と古記述を調べて、初めてマンドラゴラと定めた。宋末に周密いわく、「回回国の西数千里の地、一物のきわめて毒あるを産す。全く人の形に類し、人参の状のごとし。その酋、これを名づけて押不盧という。土中の深さ数丈に生じ、人あるいは誤ってこれに触れ、その毒気を著くれば、必ず死す。これを取るの法は、まず四旁《まわり》に大いなる坎《あな》の人を容るるほどのものを開け、しかる後に皮条《かわひも》をもってこれに絡《ま》く。皮条の糸はすなわち犬の足に繋ぎ、すでにして杖を用《も》って犬を撃《う》って逐《お》う。犬|逸《はし》って根|抜起《ぬきと》らる。犬、毒気に感じ、随って斃る。しかる後に、就《そのま》ま土の坎の中に埋む。歳を経て、しかる後に取り出だして曝乾《かわ》かし、別に他の薬を用《も》ってこれを制す。毎《つね》に少しばかりをもって酒に磨《す》りこみ人に飲ましむれば、すなわち通身《ぜんしん》麻痺して死す。加うるに刀斧をもってすといえども、また知らざるなり。三日の後に至り、別に少しの薬をもってこれに投ずればすなわち活く。けだし、古え華佗《かだ》よく腸を刳り胃を滌《あら》い、もって疾《やまい》を治《いや》せしは、必ずやこの薬を用いしならん、云々」、と。(一八九五年ライプチヒ板、エングレルおよびプラントル『植物自然分科篇』四篇三部二巻二七頁。一八八四年板、フォーカード『植物俚伝口碑および歌謡』四二六頁。一八八五年三板、バルフォール『印度事彙』二巻八四四頁。一八七九年ボストン板、ピッカーリング『植物編年史』二四七頁。『本草綱目』一七。『癸辛雑識』続集上。『志雅堂雑鈔』)
 西暦七世紀の初め、スペイン・セヴィヤの僧正で、中世最も行なわれた大部の百科全書を物したイシドルスいわく、(438)マンドラゴラの根は男形のと女形のとあり、これを採る人は、これに触れぬよう注意して、その周りを飛び廻るべし。まずこの草に犬をしかと括り付け、断食せしむること三日の後、パンを示して遠方より呼べば、犬パンを欲して草を強く牽き、根が叫びながら抜ける。その叫びを聞いて犬はやにわに斃る。人もそれを聞けば必ずたちまち死ぬから、耳を強く塞ぐを要す。その根を獲れば何病でも愈えぬはなし、と。けだし持主の守護尊となって万病を治し、埋蔵せる財宝を見出だし、箱に納めた金銭を二倍に殖やし、邪鬼を辟け、恋を叶え、予言をなす等々、その利益あげて数うべからずと言い伝えた物だ(一九〇五年板、ハズリット『諸信念および俚伝』二巻三八五頁。バルフォール『印度事彙』前に引いた巻頁)。しかし、この物は毒薬で、古ギリシアより中世欧州に至るまで、患者を麻酔せしめて施術するに用い、アラブの名医アヴィセンナもその功を推奨した。またカルタゴの大将マハルバルは、酒にマンドラゴラを入れて、叛徒多人を睡らせて殺し、ジュリヤス・シーザーはシリシアの海賊に捕われた時、マンドラゴラ酒もて彼らを睡らせ難を脱れたという。また支那人がマンドラゴラを人参の状のごとしと言った同様、むかしの欧州人は、支那の人参の根が人に似て薬功神のごとしと聞き、支那にもマンドラゴラありと信じた(一九一八年板、フレザー『旧約全書の俚伝』二巻三八七頁。一八五五年五〇板、クルーデン『旧新約全書要語全解』四三六頁)。押不盧なる漢名とペルシア語のヤブルズ、アラブ語のイブルッ、パレスチナ語のヤブロと酷似するのみならず、押不盧とマンドラゴラの記載諸項がかくまで符合するゆえ、予は胡元の威勢が、遠く西亜から地中海浜に?《およ》んだ時、彼方に行なわれおったマンドラゴラの諸談が支那に入り来たり、その名を押不盧として周密に筆せられたと知った。(それから方密之の『物理小識』一二に、ラマ僧が肢を断ち、また継ぐ術あるを記して、「すなわち『北史』の押不盧のごときなからんか」とある。これを読んで忽然『北史』に押不盧を載せあると信じたら大間違いで、『北史』九七には、南北朝の魏の真君の朝へ悦般国から、大出血した者の口に入れると須臾に血止み、痕を留めぬ草を用ゆる幻人を送った、支那の諸名山にもその草ありと言った、とあるのみ。通身麻痺のことも、押不盧の名も、さらに見えぬ。薬験のやや似たるより、この草すなわち押不盧と著(439)者が臆断したまでだ。) 『本草綱目』一七、押不盧の次に曼陀羅花あり。その名が似るをもってこれをマンドラゴラと想う人あり。李時珍説に、『法華経』に、仏説法の時、天この花を雨《あめふ》らす。また道家、北斗に陀羅星使者ありて手にこの花をとる。故に後人よってもって曼陀羅花と名づく、梵言雑色なり。(中略)姚伯声が『花品』に悪客とよびなす、とある。仏経にいわゆる曼陀羅《マンダーラ》花は、天妙花また適意と訳し、帝釈天の五木の一で、インドから琉球に多く産するデイゴ(梯姑)、学名エリツリナ・インジカ、また同属のエリツリナ・フルゲンスの由。いずれも英語でコラル・ツリー(珊瑚木)、花赤くて美しいゆえに名づく。「器量よけれど、わしゃボケの花、神や仏に嫌はるる」。日本では刺ある花を神仏が忌むというに、インドでは花さえ美わしければ、刺が多かろうが、臍まで毛がはえあろうが、構わぬとみゆる。この木には刺が多い。よって支那で刺桐と呼ぶ。むかし福建の泉州に城を築いた時、盗を禦ぐ一助でもあろうか、刺桐を環らし植えたので刺桐城と通称された。唐の陳陶が泉州城の刺桐花の詠六首等あり。当時アラブ人多く渡唐し、刺桐の音がゼイツン(オリヴ樹のアラブ名)に近いから、刺桐城すなわち泉州城をゼイツンすなわちオリヴ城と呼んだ。ゼイツンを唐のころ斉暾と音訳したが、そはオリヴのことで、油を取って用うること、中国の胡麻を用うるごとしなどかきある。オリヴは唐朝の支那になかったゆえ、珍聞として書き留めたのだ。それを知らずに、本邦の本草学者の牽強を沿襲して、今もエゴノ木を斉?(暾が正しい)果とかくは、謬りを守るに忠なるものだ。(一八八八年板、アイテル『支那仏教学者必携』九四頁。上引、バルフォール『印度事彙』一巻一〇五頁。『広群芳譜』七三。明治四十年十二月発行『東洋学芸雑誌』三一五号、拙文「オリーヴ樹の漢名」)
 さて『本草綱目』の曼陀羅花は、木でなくて毒草だから、仏が持ったとか極楽を荘厳すとかいう曼陀羅花(すなわちデイゴ、漢名刺桐)とちがう。また『本草』の曼陀羅花は、独茎直上四、五尺とか白花を開くとか、まるでマンドラゴラの茎ほとんどなく、花紫なるに異なり。決してマンドラゴラでない(一八八〇年板、ラウドン『植物辞彙』一五四頁)。(440)『重修植物名実図考』二四下に、「『嶺外代答』、広西の曼陀羅花は、大葉白花にして、実を結ぶこと茄子のごとく、しかも?《あま》ねく小さき刺《とげ》を生ず。すなわち薬人草なり。盗賊、採って乾かしてこれを末《こな》とし、もって人の飲食に置き、これをして酔い悶《くる》しましめ、すなわち篋《はこ》を挈《も》って趨《はし》る。南人、あるいは用《も》つて小児の食《の》み薬となし、積《しやく》を去《のぞ》くことはなはだ峻《すみや》かなり」と出し、『秘伝花鏡』五に、その実円くして丁拐(イガ)ありと記せるは、従来邦人がチョウセンアサガオに当てたを正しと証する。『花鏡』に「曼陀羅花は、けだし秀語なり」とあるは、詰まらぬ物に花を持たせやったとの意で、まずそんなことだろう。(チョウセンアサガオ(ダツラ)属は、マンドラゴラ同様、茄科の植物で、南半球の熱地に産し、すべて十五種あり。本邦にも二種が植えられ、一種が帰化したという。いずれも麻酔性あって毒物なり。インドでも、盗賊これをもって人を昏迷せしむ。婬婦は、ひそかにこれを飲食に混じて夫を毒し、その眼前で奸を行なうも、夫さらに覚えず。主婦の苛酷を怨む妓婢は、それでもって主婦を失神せしめ、自分に金をくれた人に主婦を犯さしめ、妊娠せしめたすらありという。インド人、ダツラの花をシヴァ神(摩醯首羅王)の愛するところとする。そのこと仏や帝釈が曼陀羅花を執るに類するより、二者を混じてダツラを曼陀羅花と心得たので、道家にも陀羅星使者など作り出しただろう。ダツラは、この物のヒンズ名で、もとその梵名ドハッツラより出ず。(エングレルおよびプラントル『植物自然分科篇』四篇三部二六−二七頁。牧野・田中共編『科属検索日本植物志』五一二頁。パルフォール『印度事彙』一巻八九七頁。一六七九年パリ新板、ピラール・ド・ラヴァル『航海記』二巻六九頁))また『本草図譜』一八に、狼毒をマンドラゴラに近いと言ったが、『本草綱目』に狼毒の形状を載せず。苗が大黄に似るなど短文であるのみ。『名実図考』に、本草書、狼毒において、みなはなはだ明らかならずといい、二書のその図がちっともマンドラゴラに似おらぬ。そんな物をかれこれ推測したって当たるはずなし。よって繰り返し、押不盧のみが、マンドラゴラの漢名と断言しおく。ついでにいう、『本草和名』一一に、狼毒をヤマサクと訓ず。『博物志』に「防葵は狼毒に似る」。防葵は何物と知れねど、『綱目』の記載と図を併せみれば、繖形科の物と判る。それに似たというから、狼毒も繖形科の(441)物らしい。さて本邦にシャクまた山ニンジンという繖形科の草あり。このシャクが、むかし狼毒に当てられたヤマサクと、何らか連絡あるのかと想う(『箋注倭名類聚抄』一〇参照)。
 商陸また当陸と書く。李時珍いわく、この物よく水気を逐蕩《ちくとう》す、故に?※[蕩のさんずいなし]《ちくとう》という、訛って商陸、また訛って当陸、北音訛って章柳となす、と。そんなに訛り続けたと仮定するよりも、予は商陸の字に意義なく、どこか支那の辺土の原住民の語を、支那字に音訳したものと思う。『倭名類聚抄』にその和名をイオスキとしてあるが意味判らず。その根の形が似たゆえか、山ゴボウと通称、この称えは約九百五十年前成った『康頼本草』すでに録しある。商陸科の商陸属植物は、マンドラゴラ属の東半球に偏在するに異なり、東・西半球に産してすべて十一種、うち一種フィトラッカ・アシノサは和漢ともに産し、普通のヤマゴボウと商陸で、多少の変種もあるらしい。支那で、その根も苗も茎も洗うて蒸し食うが、根の赤いのと黄色なは毒で、白根と紫根のもののみ食うべしといい、ネパル人も日本人もその葉を煮食うというが、この辺では食わず、脚気患者などが、水下しに根を煎じて呑み、呑み過ぎて死ぬのも時々ある。陶弘景いわく、商陸根、人形のごときは神あり、と。小野蘭山説に、その根皮淡黄褐色、形大根のごとし、あるいは人形のものあり、年久しきは、はなはだ大にして径一、二尺に至る、と。この稿の初めに述べたごとく、支那の術士はこの人形の根もて樟柳神を作るのだ。このことほとんど欧州でマンドラゴラの人形の根を奉崇するに同じ。『本草』に商陸に赤白の二種あるをいい、プリニウスはマンドラゴラの根また白い雄と黒い雌の二様あるを言ったが、商陸に雌雄の沙汰なし。古ギリシアでは、マンドラゴラに催婬の力強しと信じ、婬女神アフロジテをマンドラゴラ女神と称えた。恋を叶えんためにその根を求むるに、刀で三度この草の周りに図を画き、面を西にむけてこれを切る。第二の根を求めんとならば、専念猥談しながらその周りを踊り廻らざるべからず。また根を掘るに、身を風上に置かねばならぬ。風下で立ち廻れば、その悪臭強くて人を打ち倒すことあるからだ、と。現代のギリシア青年もその小片を佩びて媚符とす。こんなことは商陸根にない。(『本草綱目』一七。一八八九年ライプチヒ板、エングレルおよびプラントル『植物(442)自然分科篇』三篇一部三巻一〇頁。バルフォール『印度事彙』三巻二〇九頁。『重訂本草啓蒙』一三。プリニウス『博物志』二五巻九四章。フレザー『旧約全書の俚伝』二巻五七五−五七六頁)
 それからマンドレイクは古来子を孕ます効ありとされた。『旧約全書』に、「ラケル、おのれがヤコブに子を生まざるをみて、その姉を?み、ヤコブに言いけるは、われに子を与えよ、しからずばわれ死なん、と。ヤコブ、ラケルに向かいて怒りを発して言う、汝の腹に子を宿らしめざるものは神だ、われ神に代われるものか。ラケルいう、わが婢ビルハを視よ、かの処にグッと入れ、かれ子を産んでわが膝に置かん、しからばわれもまた、かれによって子を得るに至らん、と。その仕女《つかいめ》ビルハを彼に与えて妻たらしめたり。ヤコブすなわちかの処に入る。ビルハついに孕みて、ヤコブに子を生みければ、ラケル言いけるは、神われをかんがみ、またわが声を聴きいれて、われに子を賜えり、と。これによってその名をダンと名づけたり。ラケルの仕女ビルハ再び孕みて、次の子をヤコブに産みければ、ラケルわれ神の争いをもて、姉と争いて勝ちぬと言いて、その名をナフタリと名づけたり。ここにレア産むことの止みたるをみしかば、その仕女ジルパを取りて、これをヤコブに与えて妻となさしむ。レアの仕女ジルパ、ヤコブに子を産みければ、レアやらかす門に福来たれりと言いて、その名をガドと名づけたり。レアの仕女ジルパ、次の子をヤコブに産みければ、レアいう、われは幸いなり、娘らわれを幸いなる者となさん、と。その名をアセルと名づけたり。ここに麦刈の日にルベン出で往きて、野にて恋茄(ズダイム、すなわちマンドラゴラ)を獲、これを母レアの許に持ち来たりければ、ラケル、レアに言いけるは、請う、われに汝の子の恋茄を与えよ。レア彼に言いけるは、汝のわが夫をとりしは小さきことならんや、しかるに汝またわが子の恋茄をも奪わんとするや。ラケルいう、されば汝の子の恋茄のために、夫この夜汝と寝《い》ぬべし。晩に及びてヤコブ野より来たりければ、レアこれを出迎えて言いけるは、われまことにわが子の恋茄をもて汝を雇いたれば、汝われの所に入らざるべからず。ヤコブすなわちその夜かれと寝ねたり。神レアに聴き給いければ、かれ妊みて第五の子をヤコブに生めり。レア言いけるは、われわが仕女を夫に与えたれば、神(441)われにその値を賜えり、と。その名をイッサカルと名づけたり。いつさかるどころか、すぐさま矢継ぎ早にさかったので、レアまた妊みて、第六の子をヤコブに生めり。レア言いけるは、神われによき賜物を賜う、われ六人の子を生みたれば、夫今よりわれと偕《とも》に住まんと、その名をゼブルンと名づけたり。その後かれ女子をうみ、その名をデナと名づけたり。ここに神ラケルを念い、神かれに聴きて、その胎を開き給いければ、かれ妊みて、男子を生みていう、神わが恥を洒《すす》ぎ給えり、と。すなわちその名をヨセフと名づけていう、エホバまた他の子をわれに加え賜わん」と。これに反して商陸には子を孕ましむる薬功は一向みえない。これらが二者のちがったところだが、ほかには似たことが多い(「創世記」三〇章一−二四節)。
 マンドラゴラが催眠また麻酔性に富める由は前に述べた。これも商陸にはありと聞かぬ。しかし、『本草』に商陸に赤白の二種あり、白きもの薬に入る、赤きものを内用すればはなはだ毒あり、鬼神を見るとか使うとか、人を殺すなどいいおり、一概に赤いものを排斥したから、右記の薬性があっても知り及ばなんだはずだ。ただ一つ、北宋の蘇頌が、人心昏塞し、多く忘れ臥すを喜《この》むに、商陸花を百日間|陰乾《かげぼし》し、搗き末《こな》して、日暮れに方寸匕を水で服し、臥して欲するところのことを思念すれば、すなわち眠中に醒悟すとあるは、阿片《あへん》等の催眠剤に、時にかようの働きあるより推して、商陸花も多少催眠の効ある証かと思われる。アラブ人はマンドラゴラを悪魔の?燭とよび、十あるいは十一世紀の英国古文書には、この物夜分?燭ほど光るといい、西暦一世紀のユダヤ人は、マンドラゴラの色?のごとく、夕に強く輝くといった。これと均しく、上に引いた『五雑俎』に、商陸を静夜梟肉もて祭れば鬼火集まる、と出ず。一八七六年レヴィーがニカラグワで見出だし、電気商陸と名づけた灌木は、八歩隔った磁針を狂わし、虫鳥も近づかぬほどの発電力ありというから、貧乏にならずとも、芽から火を出すだろうが、まずはそんな発電植物がありとは受け取りかねる。古ユダヤ人は、マンドラゴラ根もて邪鬼が付いた患者に触るればたちまち退散す、と信じた。『神農本草』に、商陸は鬼精物を殺す、と述ぶ。マンドラゴラよく叫ぶことは上に出した。『五雑俎』に、商陸一名夜呼、(444)また鬼神の義に取るという。『刑楚歳時記』に、商陸子熟せざれば、杜鵑鳴き止まず、その成長中にこの鳥なき続くゆえ、商陸を夜呼と称うとあるが、嬰児が夜啼するあいだ、温飩ができ上がらぬゆえ、夜啼温飩というと解くようで、合点が行かぬというと、拙妻めが、香螺《ながにし》を祝せば嬰児の夜噂が止まるから、かの貝をヨナキという例もあると出しゃばる。猪狐才めと睨んでも、『南方随筆』四六頁に説いた通り、「郡《こほり》でもトシマといへば広いやう」、飛び切り広い介を持ちおるので邪視も利かぬ。しかし、こんな時には仏説通り、ナニサこれは心自証心、釈迦大日もそれこれを如何《いかん》だ。何と考えても、『神農本草』すでに商陸を夜呼と称えあり、杜鵑の名をさらに載せおらぬから、商陸子熟して杜鵑鳴き止むの説は、梁朝人のこじつけに相違ない。次に西説に、マンドラゴラは地の暗き処に棲み、絞台の下で、校刑尸の気と肉で育つといい、ドイツでは、世襲の盗人、また胎内にあるうち、母が窃盗した者が絞刑に処せられた断末魔の遺精また遺溺より、マンドラゴラが生まるという。それと相応して、『五雑俎』に、下に死人あれば、すなわち上に商陸あり、と出ず。(フォーカード『植物俚伝口碑および歌謡』四二六および四九四頁。一八五一年板、ツレール英訳、ヨセフス『猶太《ユダヤ》軍記』二巻二三〇頁。フレザー、同前、三八一頁)
 一八四五年ブルッセル四輯、コラン・ド・プランシーの『妖怪事彙』三〇七頁にいわく、古ドイツ人は堅い根で守護尊の像を作り崇め、家内安全を祈った。ことにマンドラゴラで作った。これを鄭重に衣裳させ、小篋中に軟らかに臥さしめ、毎週酒と水で浴せしめ、毎食時に飲食を供えた。左様せぬ時は像が小児のように泣き、飢渇を訴え、家内に不幸を招いた。この像は秘蔵し置かれ、吉凶を問う時のほか、取り出さなんだ。かかる像は高さ八、九インチ、奉祀する者始終幸福で、何物をも怕れず、望む物みな獲、いかな難病も治すと信じた。また未然を予言することすこぶる妙で、吉凶を問えば、その頭を揺って答うと言った。下ゲルマンやデンマークやスウェーデンに、この迷信今も残存す、と。亡友広畑岩吉氏談に、飯綱の法を使う者、その神が守りある人形を、京の吉田家へ借りに行くと、一室に多く人形を祀りあり、そこへ案内されると、人形おのおの笑い婚びて、その人方へ往かんと求む。自家相当の人形を(445)乞い、持ち帰って美装愛撫すること、わが子に異ならず。さて、いろいろと事を問うに、あるいは頷《うなず》き、あるいは首を振って応答した由。惟うに、支那の樟柳神もこれと同様、古ドイツのマンドラゴラに似たものだろう。(『説鈴』未冊所収、清の徐岳の『見聞録』に、劉太平死して、同邑の医者趙時雍の子に生まれたと聞いて、好事の者競うて時雍方へその子の言を聴きにくると、その子が、われ樟柳神にあらず、何をもって終日、人をして絮々たらしむるぞといい、それより口を絶って言わなんだ、と記す。樟柳神を奉ずる家へは、予言を聴きにくる人の絶え間がなかつたとみえる。)また沙翁《シエキスピア》の戯曲に、「して地中より引き抜いたマンドレイクのような叫び声、人が聞いたら気が狂うもの」とある由、フォーカードの『植物俚伝、口碑および歌謡』四二六貢にみゆ。支那でも、明の方密之の『物理小識』一二に、「莨  君子、雲実、防葵、赤商陸、曼陀羅花、みな人をして狂惑し、鬼を見せしむ」と出ず。
 以上、予が商陸とマンドラゴラの東西諸説相似た諸項を列挙した。読者これについて、この二つの迷信は相類似せる点はなはだ多く、初め別々に生立はしたものの、成長の進むに随って、かれはこれに採り、これはかれに倣いしこと、また決して少なからぬと気づかるるであろう。
 けだし、商陸が早く支那人に知られ、マンドラゴラが早く地中海沿岸諸国に聞こえたに甲乙なければ、この二草に関する迷信の根本は全く別なるべく、迷信諸項多く相一致するも、あるいはかれにあってこれになく、あるいはこれにあってかれになきは、たまたまその根本の異なるを示す。(アジアの西部、マンドラゴラを産する地方に、一種の商陸、フィトラッカ・プルイノサあれども、晩く気づかれた物で、古典に見えず。)商陸が東洋で最も古く記されたは、『神農本草』にこれを下品薬とし、その効能を述ぶ。この書は漢代の作というから、実際一番古い文献は『易経』であろう。『古今図書集成』草木典一三一に引ける五代の邱光庭の『兼明書』に、「『易経』夬《かい》の九五にいわく、?陸夬々《けんりくかいかい》として、中行にして咎《とが》なし、と。王弼いわく、?陸は草の柔脆なるものなり、と。子夏の伝にいわく、?陸は木根草茎にして、下に剛《かた》く上に柔らかなり、と。馬・鄭・王粛みないわく、?陸は一名章陸、と。明いわく、諸儒の意の(446)ごときはみな?陸をもって一物となし、直ちに上六の象となせり。今、?陸をもって二物となす。?は白?なり、陸は商陸なり。?は上六を象《かたど》り、陸は九三を象る。上六は陰を象る、?もまた全く柔らかなり。九三は陽をもって陰に応ず、陸もまた下に剛《かた》く上に柔らかなり。かつ夬はこれ五陽の共に一陰を決するの卦なり。九五は陽をもって陽におり、すでに剛にして、かつ尊たり。しかして、ために主親を決すれば上六を決し、しかも九三これに応じてまた決せられんとす。故に?陸夬々という。重ねてこれを言うは、?を決し陸を決するなり。これによって論ずれば、?陸の二物たるは、またもって明らかなり。『本草』を按ずるに、商陸は、一名※[蕩のさんずいなし]根、一名夜呼、一名章陸、一名烏椹、一名六甲父母とあって、殊《こと》に?(陸)の号なし、けだし諸儒の誤りなり、云々」とある。これは?も商陸も柔らかな物ゆえ、?陸夬々、云々、の句ができたと解いたのだ。北宋の陸佃はいわく、「『易』にいわく、?陸夬々、と。?は上六を謂い、けだし兌《だ》の見なり。しかしてまた五剛に乗じ、柔脆除きやすきは、?の象なり。九五は剛にして尊位を得、大中高大もつて平らぐ。しかして柔の上に生ずるは、?陸の象なり。『列子』にいわく、老韭《ろうきゆう》の?となり、老?《ろうゆ》の猿となる、と。物の老ゆるをもっての故に変ずること、かくのごときものあるをいうなり。故に『易』に九六をもって老となす。けだし、老ゆればすなわち変ずるなり。伝にいわく、青泥鼈を殺し、?を得てまた生く、と。今人、鼈を食らうに?を忌むは、それこれをもってか」と(『?雅』一七)。これは?を変化をよくする草と見立てたのだ。むかし科学智識の乏しかつた世には、味が似たとか、柔らかさが似たとかで、何の縁辺もない物をも同類とし、?科の?(ヒユ)と馬歯?科の馬歯?(スベリヒユ)を一類二種とみた。よって、朱子は『易経』の?を馬歯?とし、商陸と共に陰気を感ずること多き物、と言った。清の張爾岐、朱説を賛成し、「かつて聞く、馬歯?《ばしけん》を鼈の?《あつもの》と同《とも》に食らえば、鼈の?《やまい》となり、鼈の肉を雑和《まじ》えて同じ器にてこれを蔵すれば、信宿《ふたばん》ののちに化して鼈となる、と。左道にては、章陸の根を刻して人の形となし、これを呪すればよく禍福を知る、と。神医書にまたいわく、商陸の花を取って陰乾《かげぼし》すること百日、搗《つ》いて末《こな》となしてこれを服し、臥して欲するところのことを思念《おも》えば、すなわち眼中においておのずから見る。(447)二物は真に草木の妖異なるものにして、その陰気に感ずるの多きこと知るべし。小人の倏閃《たちまち》に変現し、鬼怪百出するは、まさに相似たるなり」と言った(『蒿庵間話』一)。
 人の身内に鼈生じ悩ますを鼈?という。支那の医書にしばしばみえる。『薄翰譜』八下にいわく、天正十三年四月十六日、丹羽長秀、切腹して死す。「これは年ごろの積聚という病に犯されて、命すでに尽きんとす。たとえ、いかなる病なりとも、わが命失わんずるは正しき敵にこそあれ、いかでその敵討たでは空しくなるべきとて、腹掻き切り腸くりだしてみるに、奇異の曲者こそ出で来たれ、形石亀のごとくに、喙《くちばし》鷹のごとくに尖り曲がりて、背中に刀の当たりたる跡ありけり。長秀みずから筆執りて、事の由を記して、わが跡のことをよきに計らい給うべしと書き認《したた》め、かの腹切りたる刀に積虫添えて大臣に献る(下略)」と。その虫を秀吉が医師竹中法印に与えた(『和漢三才図会』五五)。明治十五年ごろそれを見た人が、『東洋学芸雑誌』へ報知したのを読むと、全く海亀の幼児だったそうな。長秀かねて鼈?の話を聞きかじりおったので、秀吉の下につくことを不快で死んだと知れぬよう、海亀の子を求め傷つけ、鼈?の悩みに堪えず、自殺したと吹聴させたとみえる。『本草綱目』四二、紫庭真人説に、「九虫のうち六虫の伝変《かわ》れば労?《ろうさい》となる。しかして胃、?、寸白の三虫は伝《かわ》らず。その虫の伝変《かわ》れば、あるいは嬰児のごとく、鬼の形のごとく、蝦蟇のごとく、守宮《やもり》のごとく、蜈蚣《むかで》のごとく、螻蟻のごとく、蛇のごとく、鼈のごとく、蝟《はりねずみ》のごとく、鼠のごとく、蝠《こうもり》のごとく、蝦《えび》のごとく、猪《ぶた》の肝のごとく、血汁のごとく、乱髪・乱糸等の状のごとし」(『夷堅丁志』一には、人を呪して腹中に鼈を生ぜしむる者ありという。)諸動物の寄生虫、トレマトダ類などには形扁円で、鼈に似たといい得るものが少なからぬ。ところへ科学智識なき人は、寄生虫が自分の体内で動く様子を考えて、種々の物がそこに住むと確信する。そんな所の医者、巫覡、またなかなか黠智あって、病人が体内にありと信ずる通りの物を持ち来たり、投剤祈?してのち、患者の身からその物が出たよう、素早く手品をやり、安心せしめてその病を治しおわるのが多い(『続南方随筆』一八六頁以下参照)。
(448) インドの医王|耆婆《ぎば》は、升で穀を量り了って、その升でみずから頭を傷つくる人をみて、何故と問うに、頭が痒くて堪えられぬと答えた。耆婆すなわち法をもって彼の顱骨を開き、蜈蚣を取り出し療じた。また亡夫の魂が爬虫となり、その形見の衣類を「出すたびにしくしくとなく若後家」の彼処に棲んで、日夜モーたまらぬ、これはどうもならぬと悶えしめおるを憫れみ、彼女を丸裸にして、爬虫を除き、全快せしめたので、若後家恐悦やら恥かしいやら、あれほど深い処に潜んだ虫を引き出されて、底が大分あいてきました、どうぞ跡片づけに、太い棒で存分地突きを遊ばしてと、尻目で見たる麗わしさ、されど耆婆は南方先生に次いだ堅蔵ゆえ、われ和女《そなた》を全治せしめて満足した、どんなに誘惑しても、われ和女をみること羅刹女をみるに異ならずと言って、立ち去ったとは無情極まる。この一件お望みの節は、昼夜を別たず、即時御用立て申すべく候なりと、預り手形にさせて廻してくれればよかつたと、憾んでも時代がちがう。今まで生存したところが、マンモスやグリプトドン同然、過去世の若後家ときて間に合うまい。何に致せ、惜しいことで厶《ござ》ります。またプルシャワルスキをタングット国で訪うた病女は、大麦粉を過食し消化機が弱ったのを、その体内に蕈が生えつつあると言った由、松蕈の太い奴をも食い過ぎたとみえる。(一九〇六年板、英訳、シェフネル『西蔵諸譚』一〇〇および一〇二頁。一八七六年板、英訳、プ氏『蒙古、タングット国および北蔵寂蓼境』二巻一六五頁)
 かくて平生多少鼈の形した虫が諸畜に寄生するを見るより、病んで臓腑中でそんな物が動くよう感じ、馬歯?と鼈肉を同食すると、しばしばこの症を起こすという経験らしい雑説から、殺された鼈が?に逢えばまた生ずなど言い出しただろう。カメムシ、タガメなど、多少鼈の形した虫類多種なれば、鼈肉と馬歯 覚を雑《まじ》え置かば、それに来たり集まる者も実にあるだろうし、全くの虚談でもなかろう。古川辰の語に、今の人にまるで理解のできぬ譚ほど、それだけ手っ取り早く、むかしの人によく理解されたというようながあった。この?が鼈を助くる話などその適例で、むかしこの話が生じた地では、そのこと、いと確かに見えて、誰にも判りきったことであっただろう。近い話は、予若年のころ、一知人が大した癪持ち兼豪飲家で、酒を過ごせばきっと癪を起こし、瀕死の八倒をして四隣をおびただしく(449)煩わした。終《つい》にそれがため四十余歳で若死した。今日、この紀州で体育が行き届き、右様の男の癪持ちは懸賞しても出で来たらず。丹羽長秀ごとき、三軍を叱咤した勇将が、癪のためと称して自殺したなど、嘘にしても、今の人に飲み込めない。むかしの人はそれを快く飲み込んだればこそ鼈?の話も行なわれたので、その話を飲み込んだむかしの男に重大な癪持ちが多かったと知る。(英国には十九世紀末まで、アイユランドには本世紀に入っても、蛙やイモリが水と共に人に飲まれて、その腹中に住み悩ますを、方便もて吐き出した新聞が往々あった(一九三一年発行『ノーツ・エンド・キーリス』一六一巻一〇および一〇三頁)。)
 また『古今図書集成』草木典六一に、劉宋の劉敬叔の『異苑』を引いていわく、晋に士人あり、鮮卑女、名は懐順を買い得たり。みずから説く、その姑の女、赤?に魅せらる。始め一丈夫、客質妍浄に、赤衣を著るを見る。みずからいわく、家は厠北にあり、と。女ここにおいて恒《つね》に歌謡自得す。毎《つね》に夕方に至り、すなわち結束して屋後に去る。その家(人)伺いおると、ただ見る一株の赤?あり、その女の指環が?の茎に掛かりあり、これを刈ると、女号泣、宿を経てついに死んだ、と。これ馬歯?外の諸?もよく怪をなすという旧信ありしを証する。諸?とは、白?、赤?、野?等で、『本草図譜』四五に図出ず。かく商陸と?と共に、他に異なる草として、いと古く『易経』に載せられおれば、商陸よく鬼を使うという迷信は、根本マンドラゴラと何の関係なく、おのずから支那に発生したものと判る。『古今図書集成』草木典一三一に、南宋の鄭樵の『通志』より、商陸の根、人形のごときもの、神道家もって脯となすあり、これを鹿脯という、赤白二種あり、白きは服食の須《ま》つところ、と引いた。本邦でも、茄子で鴫焼、豆腐で雉焼、蒟蒻で糟鶏を製し、その他、羊羹、鼈羮、魚羮、海老羮等、あるいは貧貴人が真物を調うるにアア金が欲しいなー、あるいは肉食禁制の僧侶がせめてもの気休めに食うてみたさに擬作したのだ(『嬉遊笑覧』一〇上。『遠碧軒記』下二)。道家また然りで、商陸の白根が、成帝が覗いた飛燕の膚とまで往かずとも、やや脂ののつた鹿の肉に似たにより、これを乾して鹿脯と号し、食用したとみゆ。今一九三一年ロンドン板、ワレイの英訳『煉金家紀行』の序に言われたご(450)とく、儒家に廃却された支那の古風が、道家に保存されたものすこぶる多ければ、このいわゆる鹿脯も、商陸根を霊物として神に供えた旧習の痕跡かも知れない。
 本文の初めに引いた銭希言の説に、華善継が方士に従って樟柳神を錬《なら》い、戯れに耳報術を学んだ、とある。一八九二年板、リーランドの『羅馬《ローマ》俗伝に残存せるエトラスカ風』三三八頁以下に、ハンガリーのジプシーは、介殻に耳を欷《そばだ》つれば声をきき得といい、痴漢をして大きな介殻に耳をあてしめると、果たしてアリアリと聞こゆ。そこで痴漢の目を隠し、その介を取って他の介の頂を穿ち長管をはめたると替え、その一端に口をあててジプシーが話すを、痴漢感じ入って神語と信ず。トスカニアの妖巫は、介の頂に、糸の長さ三肱また五肱なるを結び、糸の他端を樹に結び付け、介の精を祝して予言を求めしむ。この糸、実は伝信線となって、術者の語を信者に伝うるのだ、と。銭氏がいわゆる耳報術も、多少こんなことだろう。故に樟柳神のみか、他の諸神の言を伝えて、信者を感じ入らしむるには、媒神者が腹話術の外に、耳報術にも精通しおくを要したと惟う。
 また本文の初めに引いた王同軌の説を按ずるに、樟柳神は、樟柳すなわち商陸の根に、死人の魂を呼び寄せ留めて、人間の用事に応じ勤めしめたので、商陸根自身にその精があったでないようだ。人を殺し、その霊を偶像に付いて離れざらしめたは、例の『輟耕録』王万里のこと等、諸書に散見する。コラン・ド・プランシーの『妖怪事彙』四板三〇七頁に、フランドルの老巫が、三脚架上に小さきマンドラゴラ像を座らせ、その左手を出して、絹糸の端に、よく研いて尖らせた鉄製の蠅一疋を付けたるを、緩く垂れしめ、その下に水晶觴を置く。さて老巫、その像に向かい、このお客様が程なく旅立たるるが、行中無事ならば、蠅をして三度觴を叩かしめよと命ずるや、老巫少しも、觴や糸や蠅や像に触れざるに、蠅すなわち三度觴を叩き、観者仰天す。今度は品を換えて、かくかくのことが起こり、また起こらぬなら、蠅をして觴を叩かしめるなと戒むると、蠅少しも動かず。その実、この鉄の蠅至って軽く作られ、十二分に磁力を付けられあり。また別に力強き磁石片を嵌めた指環あり。老巫、蠅が觴を打つを望む時は、指にその指環(451)をさすから、蠅これに向かって動いて觴を打つ。老巫、蠅が觴を叩かざれと望む時は、人に見えぬようその指環を脱す。もっとも老巫の棒組ども、来客の内情をよく探り知って、前もって老巫に内通しおくから、この術で紿《あざむ》かれた者多かった、とある。王同軌説に、樟柳神が、神に事うる人の袖より出でたり、水を飲んだりしたとあるも、種々の機巧を構えてしたのだろう。
 『隋書』二三に、高祖の時、上党に人あり、宅後、毎夜人の呼声あり、これを求むれども得ず。宅を去る一里の所に、ただ見る人参一本、枝葉峻茂す。よってこれを掘り去る。その根五尺余、人状を具体す。呼声ついに絶ゆ。けだし草妖なりとあって、帝の二男晋王広が母后等と組んで、その兄太子勇を讒し廃し、天下の乱階となった、その前兆だった、と出ず。『古今図書集成』草木典一二五に『異苑』を引いていわく、人参、一名土精、上党に生ずるもの佳なり。人形みな具わり、よく児啼を作《な》す。むかし人あり、これを掘る、始めて※[金+華]を下すに、すなわち土中呻吟の声をきく。音を尋ねて取れば、果たして人参を得たり、と。唐の張説の『宣室志』五に、天宝中、趙生なる者、兄弟四人みな進士となり仕官した。趙生だけ魯鈍で何を読んでも分からず。面白くないので書百余篇を負い、山に入って苦学しても一向進まない。ある時、老人が来て、吾子志趣はなはだ堅し、老夫よくするところなしといえども、まことに君に補いあらんか、幸いに一度われを訪え、と言った。よってその宿所を尋ねたところ、われは※[?の旁が殳]氏の子で、山西大木の下にすむと答え、たちまち消え去った。趙生怪しんで山西に往くと、果たして?樹が茂りおる。これがいわゆる※[?の旁が殳]氏の子と推察し、その下を発《あば》くと、長《たけ》尺余の人参あって、はなはだかの老人に似おる。生いわく、われ聞く、人参よく怪をなす、また疾いを愈《い》やすべし、と。それをゆでて食うた。それから頭がサラリとよくなり、書を読めばよく奥を窮め、歳余にして明経をもって及第し、歴官数任して卒した、と見ゆ。すでに宋末の周密が押不盧を人参の状のごとしと言ったごとく、支那人がマンドラゴラの話をきけば、直ちに人参に思い到った上に、二草共に怪をなすことはなはだ相近い。しかし、人参が無上の良薬、『神農本草』に、「五臓を補い、精神を安んじ、魂魄を定め、驚悸を止め、邪(452)気を除き、目を明らかにし、心を開かしめ、智を益し、久しく服すれば、身を軽くして年を延ぷ」と有頂天になってほめ揚げられたに反し、マンドラゴラは初めから大毒薬で麻酔、催眠、催情等の危険剤と悪名を負うたとは大ちがいだ。所詮この二物はたまたまその根が人形に似るの一点で相合うより、共に怪をなすと伝えられたのだ。商陸に至っては、根が人形をなすことも、毒薬たる点においても、マンドラゴラによく似ておる。
 南宋の王応麟の『困学紀聞』一に、『易経』?陸夬々の話を解いて、?は山羊、陸はその行路をいう、としあり。清の翁元圻の註に、これに類した諸解説を列べあるが、王氏の時代には穿鑿届かず、陸は商陸たるを知らなんだので、今よりみれば採るに足らざる解説というの外なし。(昭和六年十一月九日、午前九時稿成る)  (昭和六年十二月『民俗学』三巻一二号)
 
(453)     塩茄子の笑話
 
 今より六百七十八年のむかし成った橘成季の『古今著聞集』第二五篇は、発端に、「興言利口は、放遊境を得るの時、談話に虚言を成し、当座に殊《こと》に笑いを取り、耳を驚かすことあるなり」と叙べ、人を捧腹せしむる話を多く列ねあるが、いずれも多少の事実に拠ったもので、丸切りの虚談はないようだ。それより約五百年ののち、山岡明阿が書いた『逸著聞集』は、『古今著聞集』の多くの笑話と、『今昔物語』、『宇治拾遺』、『古事談』に出た数条を併せ、これに加うるに、自分が巧みに、『著聞集』第二五篇の筆法を模して綴った多くの逸文もどきの咄《はなし》をもってしたもので、原本は北朝貞和四年の手写に係り、遠州浜松辺で見出だされ、たぶん『古今著聞集』の異本だろうと、まことしやかに、元禄十五年、武陽江都住人三省子の名で述べある。これは赤穂義士の復讐より一月余早く、神無月上旬五日付で、明阿が生まれた正徳二年より十年前だが、高田与清の『擁書漫筆』一に、明阿、常に諧謔を好んで『逸著聞集』を戯作したとみえ、素《もと》より多芸博通で、人意の表に出たことを、種々仕出かした変りものゆえ、これほどの奇篇は、造作もなくできたことと想う。この書刊本の有無を知らず。明治十七年七月五日夜、お江戸湯島四丁目の露店で、三巻一冊の古写本を大枚四銭で買って今に蔵するを、三田村鳶魚先生に望まれ、写して贈らんと、時々取り出すうち、その巻二の第一四章が、ずいぶん笑わせるから左に出す。「塩|茄子《なすび》のこと」と題しある。
  若殿上人《わかでんじようびと》うち群れて、蕈狩《たけがり》せんとて、そこここ、道の行手の紅葉かり暮らし、嵯峨大井川打ち渡り、嵐山に至りて、ここにひらはりうち、莚敷かせ、わりご取り出し、酒酌み交し、遊びけり。そこら山のこのみ、くさびらな(454)んど取り拾うほどに、とある木の枝に塩茄子の一つ懸かりありけるを、一人がみつけて取りおろしいうよう、ここにいと珍しき物こそあさり見たり、山にきていかでか、かかる物あるべきやは、これは天の賜物なりとて、人もわれも喜びてつずしりくい、また盃を廻らしけり。さるあいだに、いずくよりか、かたいの翁出で來たりて、そこらの木の下立ちめぐり、草かきわけ、よろぼいあるきけるが、そこなる小舍人童《こどねりわらわ》の言いけるは、おのれ翁、物尋ぬる様するは、何にかある、いかなる宝失いてかあらんと笑えば、さん候う、物失いて侍る、おのれは脱肛といえる惡しき病の侍るが、それがさし出ずるほどなれば、起居も心のままならで、悩み臥し侍るに、さる病には、塩茄子さしあてぬればよきと、人の教えしほどに、しか仕り候えば、そのあいだはしばらく怠り侍れば、よきこととしてつねにしか仕り侍るが、今日なん里へ物乞いに罷るとて、ここの木の枝にかけてほしおき候いしを、鳥けだものやつみ候いしやらん、このもかのも尋ね候えども、ふつにかいくれてみえ候わず、もしさる物や見たまいしと、さも哀れに、しわがれし声していうを、殿原聞きつけて、こは先に食らいたりし塩茄子は、このかたいが脱肛にあてたりし物なりけりと思うなるに、左までうまかりし酒も肴も、胸元へつき返す心地して、あきれふためき、とる物も取りあえず、逃げ帰りけり。え物にこらえぬ人々は道のほどに、えもいわれぬことなど、し散らしけるとなん。
とこうだ。
 熊楠謂う、この笑話は明阿の創作か、はた当時すでに人口に膾炙した物を、旨く書き綴つたのか、判じがたい。が、素性を明らめずに、きたない品を珍味と賞翫した失敗談は、古く仏經にも出ず。竜樹菩薩説いたは、譬えば一婆羅門が淨潔法を修せるがごとき、事縁あるがゆえに、不浄国に到り、みずから思う、われまさに云何《いかん》してこの不浄を免れ得べき、ただまさに乾食して清浄を得べし、と。一老母が白髄餅を売るを見て、これに語りいわく、われ因縁ありてここに住むこと百日、常にこの餅を作り送り来たれ、まさに多く価を与うべし、と。老母日々餅を作り、これを送る。(455)婆羅門、貪著飽食して、歓喜す。老母、餅を作るに、初めの時白浄なりしが、のち転じて無色無味なり。すなわち老母に問うらく、何によつて爾《しか》るか、と。母言う、癰瘡|差《い》えるゆえ、と。婆羅門、この言何の謂《いわ》れぞと問うに、母言う、わが大家夫人、隱処に癰を生じ、麪酥甘草をもつてこれを拊《う》つに、癰熟し膿出で、和合して酥餅となる。日々かくのごとし。これをもつて餅に作り、汝に与う。これをもって餅好し。今夫人の癰|愈《い》えたれば、われまさにいずこにかさらに得べき、と。婆羅門これを聞き、拳もて頭を打ち、胸を推して乾嘔《からえずき》し、われまさに云何すべき、この浄法を破るを、われ為し了れりとて、縁事を棄捨し、本国に駆け還る。行者また爾《しか》り。この飲食に著《じやく》し、歓喜して?《くら》うを樂しみ、不浄を覩《み》ず、のち苦報を受けて、悔ゆとも将《はた》何ぞ及ばんや、と。『康煕字典』に、拊は撃なり、拍なりとも、「軽く撃つを拊という」ともあって、アセボのできた小児の額を、天花粉入りの袋でたたくように、穏やかに半撫で半打ちとやらかすことだ。牡丹餅でツラをはるなども、撃と書かずに拊の字を用ゆべしだ。(『大智度論』二三。『諸経要集』五)
 熊楠謹んで按ずるに、仏の律藏に尼が女根を拍つを戒めたこと多し。例せば、仏、舍衛国にあった時、偸蘭難陀比丘尼、掌をもつてその女根を拍つ。諸比丘尼問うていわく、汝、何等を為すぞ、と。答えていわく、肥好ならしめんと欲す、と。諸比丘尼、仏に言《もう》す。仏いわく、掌に二種あり、手と足となり、もし比丘尼が手掌もしくは足掌で女根を拍たば波逸提《はいつだい》罪、余物で拍たば突吉羅《ときら》罪だ、と。また仏、舍衛国祇樹給孤独園にありし時、「六群の比丘尼、欲心|熾盛《さかん》にして、顔色憔悴し、身体|羸痩《るいそう》して、往いて波斯匿王《はしのくおう》の宮内に詣《いた》る。宮内の諸婦女、見|已《おわ》って問いていわく、阿姨《おねえさま》は何等《いか》なる患苦ありや、と。答えていわく、われに色患あり、と。すなわち問いていわく、何等なる色患ありや、と。答えていわく、われ欲心|熾盛《さかん》なり、と。諸婦女いわく、われは宮内にあって、時々すなわち男子《おとこ》を得。もし男子を得ざる時は、あるいは胡膠をもって男根を作り、女根の中に内《い》れ著《お》けば、すでに意に適《かな》うを得るも行婬と名づけず。阿姨もまたかくのごとく作《な》すべし、すでに意に通うを得るも行婬と名づけず、と。時に六群の比丘尼、かくのごとき男根を作り已《おわ》つて、すでに共に婬事を行なう。余《ほか》の比丘尼見て、男子と共に行婬すと謂《おも》い、起き已《おわ》るを見てはじめて(456)男にあらざるを知る、云々。仏、結戒す。もし比丘尼、胡膠をもって男根を作れば、波逸提《はいつだい》なり、云々。男根を作る者は、もろもろの物を用《も》つて作る。あるいは胡膠をもって作り、もしくは飯にて作り、あるいは?《はつたい》を用《も》つて作り、あるいは?にて作る。もし比丘尼、このもろもろの物をもって男根を作り、女根の中に内《い》るれば、一切波逸提なり。もし磨治せずして女根中に内るれば、突吉羅《ときら》なり。式叉摩那《しきしやまな》、沙弥《しやみ》、沙弥尼は、突吉羅なり。犯とせざるものは、あるいはかくのごとき病あって、果薬および丸薬を著《い》れ、あるいは衣《きれ》にて月水を塞ぎ、あるいは強力の者に執《おさ》えらるれば、犯とせず」。この制戒あってのち、宮女また比丘尼に教えたは、「男子《おとこ》を得ざる時は、共に相|拍《う》ち、もって婬楽を適《かな》うるも、行婬と名づけず、と」。六群の比丘尼、得たり賢しと実行したので、仏また結戒す。「もしくは手掌をもってし、もしくは足にて拍ち、もしくは女根と女根相拍ち、もしくは比丘尼共に相拍てば、拍つ者は突吉羅《ときら》、拍つを受くる者は波逸提《はいつだい》、もし二《ふたり》の女根共に相拍てば、二《ふたり》ともに波逸提なり。比丘は突吉羅、式叉摩那、沙弥、沙弥尼も突吉羅なり。犯とせざるものは、あるいはかくのごとき病あって、あるいは来去《ゆきき》し、もしくは経行《きんひん》し、もしくは地に触れ、もしくは杖をもって触れ、故《ことさ》らに作《な》さず、もしくは洗う時に手触るるは、犯とせず」。これでみると、いと忍んで独りでしらべたのも、イヨー、ポポポンポンポンと、二挺鼓の拍ち合い、懸け声入りのもあったので、尼衆のぬれの、底の底まで種々のやり方ありとは、お釈迦様でも気がつくめーと、ありったけの脳漿を搾って宮女が考え出したに、先手を打って、「拍つ者も拍たるる者もかはらけよ、砕けて後は元の土くれ」と悟り静まるよう、一挺から二挺の相拍ち、程々の疑わしき類例の除外までもキッパリ制定したは行き届いたもんだ。(『十誦律』四五。『四分律』二五)
 また、「仏、舎衛城に住む。その時、比丘尼の住処《すまい》、俗人と壁を隔つ。比丘尼、欲心起こり、みずから手もて陰を拍《う》つ。時に丈夫《おのこ》、声《おと》を聞き、すなわち婦人《つま》に語っていわく、こはこれ何の声《おと》ぞ、と。答えていわく、何の故にこの声を作《な》せるかを知らず、と。その夫いわく、こは出家人の梵行を修し、欲心起こり、みずから制する能わず、陰を拍《う》つ声《おと》なるのみ、と。諸比丘尼聞き、この因縁をもって往って白《もう》す。かくて、仏いわく、汝実に爾《しか》るや不《いな》や、と。答えて(457)いわく、実に爾《しか》り、と」。あまり蚊がえらいので、覚えず額を叩いて威しましたと、間にあいを言わず、あまりしたさに実に爾《しか》りと答えたとは、気がきかぬ。そこで、「仏いわく、今より以後、陰を拍つを聴《ゆる》さず、と。拍とは手拍なり。もしくは鉤鉢拍もて、もしくは??拍もて、もって欲心を歇《とど》むるは越毘尼《おつびに》罪とす。これを手拍と名づく」。持って生まれた肉鉢を、手は勿論、瀬戸物の茶碗で叩くまでも制止された。また、「その時、諸比丘尼、手をもって女根を拍ち、愛欲の心を生じ、ついに俗に反し外道《げどう》を作《な》す者あり。偸羅難陀《とうらなんだ》、また手をもって女根を拍ち、女根大いに腫《は》れ、また行《ある》く能わず。弟子、ために常に供養をうくる家に到り、いわく、師病めり、ために食を索《もと》む、と。彼すなわちこれに与う。その家の婦女、尋ね来たって問い訊《ただ》し、いわく、阿姨は何の患苦するところぞ、と。答えていわく、われ病めり、と。また問う、これ何等《いか》なる病ぞ、同じくこれ女人なり、何をもって道《い》わざるや、と。すなわち具《つぶ》さに事をもって答う。ここにおいて、諸女|譏訶《そし》っていわく、これらは常に欲想・欲熱・欲覚を毀?《そし》れるに、しかるに今かくのごとき事をなす、何ぞ道を罷《や》めて五欲の楽を受けざる、沙門の行いなく、沙門の法を被る、云々、と。仏いわく、もし比丘尼手をもって女根を拍たば波逸提なり、もし手をもって拍ち不浄を出ださば偸羅遮《ちゆうらじや》なり、式叉摩那、沙弥尼は突吉羅なり」。(『四分律』二五。Lamairesse,‘Le Kama Soutra,’Paris,1891,p.105;Otto Stoll,‘Das Geschlechts-leben in der V lkerpsychologie,’Leipzig,1908,S.930-943;H.Ells,‘Studies in the Psychology of Sex,’3rd ed.,Philadelphia,1927,p.166 seqq.『摩訶僧祇律』四〇。『弥沙塞部五分律』一二)
 『古老茶話』下に、家光将軍、ある大名方へ御成りあって、能を見物あった時、伊達政宗が、旗下の士兼松又四郎の側を通るとて、袴腰を踏み越えた。又四郎、政宗を捉え、慮外千万な、士の腰を踏み越えたとて、横面をはった。その時政宗、莞爾と笑い、打って腹だにいるならば、いくらもうてよ犬坊よ(時致の言葉)と言って笑い去った、とある。川柳に「淤夜嗣多登《おやしたと》しれぬで女罪深し」とはもっともらしいが、実は鄙人が唄う通り、その于恵多《おえた》のは斧の刃も立たぬほどなも稀ならず。シャール・モーリヤクいわく、男子間の強弱の差《ちが》いよりも、女人間の強弱の差い、はるかに大(458)なるは争われない、と(Jaccoud,‘Nouveau dictionnaire de medecine et de chirurgie pratiques,’Paris,1877,tom.xxiv,p.502)。かつてロンドン大学総長だった故サー・マイケル・フォスターが、かの〔二字傍点〕の興奮膨脹力を測定する電気仕掛の機械を創製したのを、拝見したことあり。斧の刃の立たぬのもありますかと尋ねたところ、斧は試してみないが、学童用の鉛筆の尖を折り飛ばすぐらいなは確かにある、と助手が真面目に答えた。されば拍って腹だにいるならば、いくらでも拍てよ犬慕々と放任せば大変ゆえ、仏も留意して子細に制戒したのだ。想うに一旦の不料簡より、うば玉の黒髪を剃り毀った若い尼などが、孤燈掲げ尽して眠をなさず、「生けるつらさぞ面影もみぬ」と沈み思う鼻息に伴れて、熟眠せる猫の腹然と、二度めは初度より、二度より三度めとふくれ揚がる。「揚がるに付けて降る涙は」、真の両眼の外に、下の綻《ほころ》び目よりもただよい出でて濡らしまくる。そこで気が付き、泣く児を静めるごとく、肩癖を散らすごとく、手で拍って、隣人に聞かるるに及んだとみえる。(憎無住が筆したは、ある入道、餅を好む。医師なるゆえに請《しよう》じて、主《あるじ》餅をせさするに、かの音を聞いて、始めは小声にオウオウというほどに、次第に高く、オウオウと鞠《まり》なんど乞うようにおめきて、はては畳のへりにつかみついて、悶え焦れけり。このことは、かの主の物語なり、と(『沙石集』四の一)。件の丈夫も、尼の拍つ音を聞いて悶え焦れたと見える。しかし、妻がいるから、畳のへりにつかみつくを要せず、たちまち妻に直接行動と出かける。その前触れに、知れきったことを知らぬ振りして、これは何の声《おと》ぞなど聞き掛けて、妻を挑発したのだ。)ところが初めは、餅を搗かんとて杵を労し、後には杵の音を聞いて餅搗かんと思う。おいおいは、特に愛欲心を生ぜんがために、ことさらに拍ち、ついには、こんなことで辛抱できぬ、いっそ本当の物でと熱望して、俗に反り、外道となった者さえあったのだ。また進化論者が夙《はや》く説いた通り、鍛工の右腕が太くなり、車夫の足の爪が剛くなる。かの〔二字傍点〕も拍てば拍つほど膨れてくる。
 偸蘭難陀比丘尼というは、かつて「人に大小便の処の毛を剃らしめて、好しとなす。また指をもって女根の中に刺す。また樹膠をもって男根を作り、脚の跟後《くぴす》に繋《くく》りつけて、女根の中に著《い》る」。また、恣《ほし》いままに人の園に入って、(459)蒜を取り尽し食うたり、餅と引替に猥りに、仏の履歴を作曲家に語ったり、ことには伝燈第一祖たる大迦葉尊者に虚言を吐いたり、座を譲らなんだり、強く橋板を蹴って河へ落とし、ズブぬれにしたり、驚き入った無法者だ。けだし仏と同じ釈種に生まれたに誇ったのだ(『十誦律』四五。『四分律』二五。『根本説一切有部毘奈耶』三九。『根本説一切有部毘奈耶雑事』三一)。しかし生来、中里氏の『大菩薩峠』に著われた飛驛の高山のいやなおばさんを、後《しりえ》に瞠若たらしむるに十分な、助兵衛女だったは疑いを容れず。したがって毎度毎度の実験で、一件を拍てば拍つほど太く強くなること、鍛工の右腕、車夫の足の爪に異ならず、蕎麦じゃあないが、拍つほどよくなると知悉し、さてこそ、肥好ならしめんがために拍つと答えたものだ。これを約するに、初め欲心を消散せしめんとて拍ったのが、反ってかの〔二字傍点〕を膨脹せしめ、愛欲を熾んにし、相拍ち党も組織さるれば、歩行に艱むまで拍ち腫らす等の騒ぎを起こしたのだ。身体諸部を笞《むち》うって催情方便とすることは、従前諸方より聞き及ぶが、特に彼処を拍って快楽するのはインド以外の物にみえず。性学者が言及しおらぬらしいから、本題にちなんで、ちと長過ぎるほど述べおく次第である。ついでに申す。中世の仏語に、女根をブドン(太鼓)と呼んだ(Wright,‘Cent Nouvelles Nouvelles,’Paris,1857,tom.ii,p.131)。本邦で、女根を饅頭、それから船饅頭という賤娼あり。また太鼓饅頭とて太鼓形の饅頭あり。それらとは無縁ながら、張りきった女根の形を太鼓に比べて、ブドンと名づけたので、たまたまこの名を見出でて、仏国にも中世、手拍適意する女が多かったから、拍つにちなんで、かの物を太鼓と称えたなど、牽強せぬよう警めおく。
 上に引いた本文中に、「もし手をもって拍ち、不浄を出ださば偸羅遮なり」とあるをみて、手拍は、しばしば女人の性の働きを、究竟《くきよう》に達せしめたと知る。されば竜樹が説いた婆羅門が、毎日婦人の隠処を拍った酥餅を賞味し、のちその子細を聴いて大いに恥じ悔いたとあるも、癰の膿は、熟し破れてのち初めて出る物ゆえ、始終日々餅に滲み込んだとは受け取れぬ。繰り返し拍たるるあいだに、痛みを忘れ快く感じて究竟に達し、多少の不浄を洩らしたこともあるべければ、その不浄が流れ込んだ餅を食ったと思うと、耐えられぬまで不快を覚えたものかと察する。国貞画、(460)月成作、失題のある本に、九歳から御殿に勤めて、二十三まで清浄な女が、宿下りして初めて男に見《まみ》え、紙を用いた手を盃洗の丼《どんぶり》で洗うたところへ、船頭が「モシ旦那もう往きやしょう」と、唐紙をあけ入り来たり、「剛的と酔いました、べら坊に喉が乾いてきやした。ちょうどいい、この丼の水を呑みやしょう」と、手を掛けてぐっと一呑みになしたるは、なんぼう穢なき咄ならずやとあって、「穴はいりせしうはばみのその跡を、一呑みにするどんぶりの水」という狂歌で結びあるも、やや似たことだ。
 予は『逸著聞集』の塩茄子の話を、竜樹が説いた婆羅門の酥餅の譚より出たとは、久米の皿山、さらに思わないが、寡聞の及ぶ限り、この二誕がもっともよく相似おると知る。ふたつながら、素生を精査せずに物事を賞美するなかれという、よき訓えになる。ただし、訓えのために特に作られたものか、またかつて日本と梵土とに、実際そんな出来事があったかは、軽忽に判じがたい。
 美しいと信じた物が実は穢なかったり、穢ない物を穢ないと知らずに、賞翫した咄は、この他にも少なからぬ。(新しくは、『民俗学』一巻四号二七六頁と二巻七号四五五頁に、向山武男氏と桑原岩男氏が書かれた信濃と越後の昔話に、妻を迎えてから、日用の味噌汁が従前と異《かわ》ってはなはだ旨くなりしを怪しみ、夫が覗きおると、味噌を摺り了った妻が前をまくって尿を垂れ込んだので、大いに驚き叱ると、変化の妻が蛤また鯛の正体を現わしたというのだ。古くは)平安朝の譚に、泥酔した販婦が、売物を入れた平桶の側に臥したるを、ある人が見て向いの家を訪い、しばらくあって出で来たり、馬にのるとてみると、その女たちまち寤《さ》めてかの桶に嘔吐した。よくみると鮨鮎《すしあゆ》を盛った中へ吐き込んだのを、失錯したと了《さと》って、鮨鮎と吐いた物を手で混合してしまった。これは穢ないと恐れ入って逃げ帰り、鮨鮎と吐物を混じては、それと見分かぬ物ゆえ、かようの売品を決して食うなと、逢う人ごとに戒めたそうだ。また三条帝が春宮にましましける時、切れ切れな干魚を毎日ある女が売りにくる。太刀帯《たちはき》連、それを買って旨がつた。一日その輩北野に遊ぶと、その女出で来たり、大きなイカキと一本の棒をもつ。太刀帯の従(461)者ども、イカキの中をみんとすれどみせず。奪い取ってみると、蛇を四寸ほどに切って入れあり。何にすると問えど答えず、立ち去った。全くその棒で藪を打ち驚かし、蛇を狩り殺して、切って塩を付け、乾して売ったと知らず、買って旨がったのだとさ(『今昔物語』三一巻三二および三一語)。
  姦婦が毒蛇を、盲目な夫の好む魚と詐《いつわ》り、食わせ殺さんと企てた話は、本誌三巻五号二六七頁に出した。喜望峰のカフィル人は、魚肉は蛇肉に似るとて嫌う。南宋の洪邁が筆した、特に大きな鰻を多く取り帰り、母に匿して食わせなんだ男が、母去ってのちみれば、満籃みな蛇で、そのうち一番大きな奴に昨《く》い殺された話も、蛇と魚と紛れやすいより生じたのだ。(Ryder,‘The Panchatantra,’Chicago,1925,pp.465-470;Burton,‘First Footsteps in East Africa,’in Everyman's Library,p.114,note 2.『夷竪丙志』一三)
 清の蒲留仙が書いたは、「某生、試に赴き、郡中より帰って、携うるに蓮実《はすのみ》菱藕《ひしのね》あり、屋《へや》に入ってみな几《つくえ》の上に置く。また藤津偽器の一事《いちもつ》あり、?《はち》の中に水もて浸す。諸隣人、その新婦なるをもって、酒を携えて堂に登る。生、倉猝《あわただ》しく牀下に置いて出で、内子《つま》をして経営|供饌《きようせん》せしめ、客と薄《いささ》か飲む。飲み已《おわ》つて内に入り、急《せ》いて牀下を燭《て》らすに、?《はち》の水すでに空《むな》し。婦《つま》に問うに、婦いわく、まさに菱藕《ひしのね》とともに、みな出だして客に供せり、何ぞなお尋ぬるや、と。生|回憶《おも》えば、肴中に黒き条《すじ》の雑錯《まじ》れるあり、挙座《きよざ》何物なるかを知らず。すなわち失笑していわく、痴婆子《ばかよめ》、こは何たる物事《もの》ぞ、客に供すべけんや、と。婦また疑っていわく、われまさに子の烹法《にかた》を言わざるを怨めり、その状《かたち》醜《いと》うべく、また何の名なるかを知らず、只得《やむなく》糊塗《でたらめ》に臠切《きりきざ》みしのみ、と。生すなわちこれに告げ、相|与《とも》に大笑す。今、某生は貴し。相|狎《な》るる者、なおもって戯《ひやかし》をなす」(『聊斎志異』一四)と。むかしの翻訳家なら、干瓢と取り違うて、肥後ズイキを煮て食わせたと作り替えるところだ。ついでにまたいう。明治十八年ごろの東京某新紙で読んだは、石川鴻斎が、新米の下女に、『詩語粋金』一部を買いにやると、シゴズイキと言った。本屋の番頭、暫時頸を傾け、それを欲しくば八百屋でお尋ねなさい、と忠告したとか。また清人が録した笑話にいわく、人あり、混堂にあって洗浴し、水を掬んで(462)口に入れてこれを漱ぐ。衆みな攅眉し、相向かうてその不潔を悪む。この人、水を手に貯えいわく、諸公愁うるを要せず、わが吐き完《おわ》るの後を待ち、外面に吐き出し去れ、と(『笑林広記』二)。この田辺町などには、垢だらけの湯に入って、それで口を洗い、何とか病を防ぐと信じ行なう者が今もある。(旧友古谷竹之助話に、かつて神奈川県会議長たりしその父正橘氏、明治初年、優雅な磁器の蓋物を得、いつも飯を盛って客に出した。のち、それが洋人の寝房に用うる溺壺と知れて、一同苦々しくも大笑いした、と。)明治十七年、予、東京湯島に下宿したおり、春はあけぼの、いと早く朝湯へゆくと、底までみえすく槽内に、六十ばかりの老人が入っており、その肛門長く脱け垂れて、カラスミの色なせるが明らかに眼に留まる。老人動くに随って、金魚の糞のごとく翩翻たるごとく覚えた。不快でならぬゆえ、上がって背を流しおると、老人はやっと立ち去った。その跡へ四十ばかりの男が入り、その湯で口を嗽ぎながら、しきりにアアイイお湯ダと連呼しおった。後年サンフランシスコへ著いてホテルに泊り、食堂へ出ても食品の名を知らず。人がハッシュを食うを窺うに、雑多の物を敲き混ぜ、ゴモク鮨ほど賑やかそうだから、営養分に富むこと受合いと呑み込み、昼も夕も、ハッシュばかり注文して意気揚々たり。ところが、おいおい給侍人と心安くなり、その案内で台所に往き、一見して、ハッシュは、鼻洟や涎《よだれ》の雑った、諸客の残食を一切混合して囃したたき、一気呵成に蒸し返した物と識り、大呆れで惆恨した態、嵐山で塩茄子に懲り果てた若殿上人ソックリだった。
 よって惟うに、現代尻の煩いを塩茄子で緩和する実例をみず。本邦に餅で癰を拍つ医方なければこそ、ふたつともすこぶる啌《うそ》らしく受けらるれ。そのことしばしば実行された時と処にあっては、何のヘンテツもなく認められたは、只今辺陲の児童までも、エッキス光線や飛行機を怪しまざるに均しかろう。故に予は、塩茄子や酥餅の話を、竜樹や明阿が、人笑わせや庭訓のため特に創作したにあらず、むかしそこにもここにも往々実際あった出来事を語り伝えて、ついに聴手次第で、笑柄とも教誨とも想い定めらるるに至ったと判断する。池田英泉も説いた通り、世に帯下性《こしけしよう》の女が乾くまもなきを、いつも誘う水あらば行かんと念じおるによると悦び、不断取り懸かって自他を損う男多し(『枕(463)筥』上)。まるで掃溜同然と識らずに、ハッシュを貪り啖《くら》うの徒だ。下士道を聞けば大いに笑うと老子は言ったが、一人一家の衛生に大関係あることゆえ、笑わるるを承知で述べておく。
 最後に書き添うるは、穢ない物と知らずに賞翫して失敗したに反し、穢ない物と知りつつ受用してみずから益を得た話も、相応に集めた。紙面限りあれば、ただ一、二を挙げよう。唐の右衛大将軍郢国公、宇文士及、かつて太宗の前で肉を割いて汚れた手を餅で拭うた。侈《おご》った所為と太宗がしばしば目を付くるとも気付かぬ体で、拭い了ってその餅を、落ちつき返って徐《しず》かに啗《くら》うた。その機悟おおむねこれに類す、と称讃された。これに劣らず、落ちついた人が本邦にもあった。面白いから全文を引こう。「何某殿の家臣に、設楽《しだら》九二郎といえる、顔は痘瘡《もがさ》の跡多く、肥え太り、髪は剃り下げて、向うよりは法師かとみゆ。使者にて行く先ごとに、名乗りすれば、笑《えみ》を含まぬ奏者はなかりき。ある殿に使いして、新たなる屋作《やつく》りなれば、壁いまだ干《かわ》かず、九二郎あまりに会釈するとて、下《お》りざまに脇指のこじりを生壁へ突き入れたり。されど、いまだ使いの辞をも述べ尽さざりければ、少しもあわてず、事終わりてのち、懐中より畳紙を出し、ごしごしと押しもみ、鞘を握り、しごきぶきに、鞘を引いて、こじりのさきとくと拭い、二つのゆびおりて、そらざまにかの穴へ押し入れ、粗忽なる儀、恐れ入る由を謝しける。名はよくつくべき物にや、穴賢こ穴賢こ」。それから『柳氏旧聞』(自蔵中にないので孫引き)に、唐の粛宗太子だった時、父帝玄宗の膳に侍した。俎上に羊の臂と臑あり、帝、太子をして割かしめた。太子割いて刃が汚れ、餅で拭うた。帝熟視して懌ばず。しかるところ太子、餅に刃の汚れが付いたまま、徐かに取り挙げて食うたので、帝はなはだ悦び、太子に向かい、福まさにかくのごとく愛惜すべし、と謂ったそうだ。予、七、八つの時、雪隠近く落とした飯粒を拾って口に入れた。一同見て大いに笑い罵ると、亡父が、この一事だけは熊楠がでかした、泉州の飯氏なる富家の祖先がきわめて貧しかった、ある年元旦に、雪隠の履石に三粒の飯がのっかりあった、それを戴いて食ってより、一代に大身上をでちあげた、と言われた。餅を福とは日本でも申す。(『唐書』一〇〇。『温知叢書』二編所収『後者昔物語』四四頁。『天中記』四六。『塵添?嚢抄』(454)三)(アルメニアの住民は、食事にもっぱら指を用うるに、チョレキと名づくる、至って薄くて布のごとく畳み得る大きな麪餅《パン》もて指を拭うというから、彼らはみな拭いおわってこれを食うのだろう(Haxthausen、‘Transcaucasia,’Eng.trans.,1854,p.245)。)(四月二日朝五時稿成る)  (昭和七年五月『民俗学』四巻五号)
 
(465)     余り茶を飲んで孕んだ話と手孕村の故事
 
 昭和五年三月の『あかほんや』二号六−八頁に、拙文「余り茶を呑んで孕んだこと」が出た。今年二月出『俚俗と民譚』一巻二号二八頁に、糊付五郎君は、件《くだん》の拙文を抄して、自説然と書いたでなかろうかと疑わるるほど、酷《よく》似た物を出された。拙文は近ごろ訂正した所あり、大分追加もしたから、再び出そうと思えど、『あかほんや』が今も続きおるか否を知らず。よって本誌に寄せて掲載を冀う。けだし他人の物を盗むにあらず、みずから書いた物をみずから披露するを、誰一人咎めないだろう。( )に入れたは増補と追加の分である。
 『川柳末摘花』三に、「茶の泡のためしもあると和尚ぬけ」とある句は、何の意味とも判らぬ由、大曲(省三)君は言われた。このことは、大正十二年八月某日出た『日本及日本人』八六七号の、何頁かに弁じたことあるが、只今大長持の卵巣底ともいうべき、奥深い処に押しこみおるから、寒さで腰の弱った身の、容易に抜き出す能わず。かつその拙文は、ただ俗説の変化を示すに止まり、件の川柳の由来するところを明言せなんだと覚ゆれば、当時川柳ずき諸君の目に留まらなんだと察する。よってここに記憶をたどって、ちょっと調べ上げて再び書き出す。
 享保八年より同十九年まで掛かってできた、寒川辰清の『近江輿地誌略』五九にいわく、泡子地蔵堂は、蒲生郡西|生来《あれい》村にあり、石仏の地蔵を安置す。土俗相伝う、往古この地に村井藤竹という者あり、妹一人あり。往還に茶店を出し、旅人を憩息せしむ。ある日一僧あり、ここに来たり茶店に憩いしに、かの妹、旅僧に深く恋慕の情を動かし、旅僧の呑み余せし茶を呑みしに、たちまち孕めることあって、十月《とつき》にして男子を産す。三年の後、かの女、件の子を(466)懐き、川にて大根を洗う(今の大根洗川というはその故なり)。旅僧あり、かの川の辺に立ち留まっていわく、嗚呼不思議なるかな、この子の泣声経文なり、と。かの女これを顧みるに、三年以前恋慕せしところの旅僧なり。女その故を僧に語る。僧、奇なりとして、その子を吹くに、すなわち泡となって消失す。然《しか》していわく、この西あれ井という所の池中に貴き地蔵あり、かの子が菩提のために建つべし、と。水をかうるに、果たして石仏の地蔵あり、これを安置す。今の地蔵これなり。件の僧は弘法大師なり。それよりして、あれ井の文字を改めて生来とかく、今の西生来村これなり、と、云々。同書七八に、坂田郡醒井村の三水四石と称するうち、西行水は、西行、関東下向の時、この水辺の茶屋に休息するを、「そこなる女懸想して、茶椀の中の残りを呑んで孕める子、空しく消えし謂《いわ》れに、泡子の墓というあり。この水の流れなり、云々」。『越中旧事記』下、子撫川の条にも、弘法大師呑み余しの茶を呑んだ娘が生んだ子を、大師が撫でると泡のごとく解け去ったという伝説を載せ、衣を浣《あら》う女が、そこへ流れ来たつた矢に感じて、加茂明神別雷命を産んだ談を引き合わせある。捜したら近江と越中の外にも、同様の談が処々にあるであろう。これらの談に拠って、和尚の子を女が孕んでもことごとく和尚の胤と限らない、茶の残りを呑んで孕んだ例さえある、と和尚が強弁する体を、件の川柳に作ったのである。(インドのホス人の伝説に、ラーバン王が口を洗うた水を魚が呑んで、人の子を二人生んだと、一九〇九年板、ボムパスの『サンタル・パルガナ人の俗伝』四七二頁にみえるがよく似ておる。)(故高木敏雄君の『日本伝説集』二五〇頁に出す竜頭の譚は、本文弘法大師を六部とし、いろいろの蛇足を加えた羽前国の譚である。)
 これらの談の根本らしいのが晋の干宝の『捜神記』に出で、『増訂漢魏叢書』本にはなくて、『太平広記』三五九に引かれある。いわく、零陵の太守(名を闕く)、女《むすめ》あり、書吏を悦ぶ。すなわち密かに侍婢をして、吏の盥の残水を取らしめて飲み、ついに孕むあり。十月にして一子を生む。?(満一年)に及び、太守抱いて門を出でしむるに、児、匍匐して吏の懐に入る。吏これを推すに、地に仆れ、化して水となる。これを窮問して前事を省す。太守ついに女をも(467)ってその吏に妻《めあ》わす、と。
 (『玉芝堂談薈』一四に引いた『捜神記』には、「漢陽郡太守史満、一女あり」とその名を出す。『古今図書集成』家範典五六には『括異志』より、「零陵の太守に女《むすめ》あり、父の書吏を悦《した》うも、偶《つれそい》を得るに計《てだて》なし。婢をして書吏の飲み余せるところの水を取らしめ、これを飲み、よって娠《はら》むあり、一男を生む。数歳なれども、太守その従《よ》って来たるところを知るなし。一日、この男《わらべ》をしてその父を求めしむるに、児直ちに書吏の幄中に入り、化して水となる。父大いに驚いてその女に問うに、始めてその故を言う。ついに女をもってこれに妻《めあ》わす」と引き、手か足、もしくは三本めの足を洗うた盥水を飲んだというよりも、見初めた男の飲み余しを呑み、孕んだとしただけ、近江越中の譚に近い(『談薈』には手を洗うた盥水とある)。『括異志』の全本を予は見たことなし。自分現に蔵する民国張宗祥の据明抄本『説郛』四四には、宋の張思政の『括異志』二〇巻とあれど、わずかにその七条を抄せるに止まり、盥の余り水を飲んで孕んだ話を載せず。『古今図書集成』経籍典五〇〇に挙げた『説郛』一二〇巻本の目録には、張師正の『括異志』外に魯応竜の『括異志』あり。『四庫全書総目』一四四によれば、張師正の『括異志』一〇巻、一に魏泰の作ともいう。倶《とも》に北宋煕寧中の人。魯応竜はそれより約七十年ののち、南宋の淳祐年間、『間?括異志』一巻を著わしたのだ。けだし張氏の著に倣うて作ったものだろう。いずれに致せ、『括異志』は『捜神記』よりは、少なくとも九百年以上後に成ったもの。だから、この余り水を飲んで孕んだ譚も、初めは手足もしくは三本めの足を洗うた盥の水を飲んだとあったのを、後世飲み余しの水を飲んで孕んだと改修したとみえ、弘法大師や西行法師の飲み残した茶を飲んで孕んだという本邦の俚譚は、『捜神記』よりももっぱら『括異志』の譚に基づいたと判る。『情史』九には、男が手を洗うた水を飲んだ女が、子の代りに清水を産んだと作り替えおる。)(寛延四年板、烏有庵の『万世百物語』一の二も、『括異志』の譚を京都二条辺の手習師匠の娘と弟子とのことに作り替えたのだ。さて『続群書類従』二〇七所収『弘法大師御伝』下に、大師の神変を列した内に、「石女、児を求むれば、唾を呪してこれに与うるに、児を生む」とあれ(468)ば、大師が呪して与えた唾を、子を生まぬ女が呑んで孕んだということらしく、これが一転して、大師の余り茶を飲んだ女が孕んだ、となったかと思う。)
 和漢の外に、全くこれらと符合せる談の有無を断定するはむつかしい。だが多少似た奴はザラにある。座右の書どもから見当たるに任せて若干を列ねよう。アイルランドの古伝に、レインスターの王女クレッドが、菜葉に落ち掛かった強盗フィンダクの精を食い、不死の人ボエチンを産んだといい、ある回教派の説に、アダム楽土に生まれた時、咳《せ》いて落とした唾を、上帝が、天使ガブリエルして拾うて聖母マリアの卵巣に納めしめ、もってキリストを孕ましめたと説き、ヒンズー教では女精ムラムロチヤの汗が集まって  盤女ママリシャーになったと述ぶ。仏典には、聖遊居山の仙人が、衣や汗を洗うた垢水を、牡鹿が呑んだ口でその小便処を舐り、孕んで美女を生み、百巌山の牝鹿も、仙人の不浄が雑った尿を飲み、その舌で自分の産道を舐り、受胎して鹿斑童子を産んだという。出羽の口碑に、小野良実が、美婦に化けた牝鹿を孕ませ、小町を生んだとあるは、これらを作り替えたものか。(ただし、本邦でも初めは経説丸受け売りで、和泉の智海上人の尿を牝鹿が嘗めて、光明皇后を産んだなど作ったが、おいおい懐疑者が多くなったので、時代相応に、牡鹿が美婦に化けて良実に通い、小便など嘗めず、本当に取り組んで小町を孕んだとしたのだ(石橋直之『泉州志』三)。)(一九〇九年板、ハートランド『父格論』一巻一二頁。一八一一年パリ新板、シャーダン『波斯《ペルシア》記行』九巻一二三頁。一九一三年三板、ウィルキンス『印度神誌』三九一頁。『大方便仏報恩経』三。『雑宝蔵経』一。『摩  討僧祇律』一。白井真澄『齶田の仮寝』二)
 『大明三蔵法数』三〇に、七種受胎、すなわち子を孕む方便七を説く。その第二なる取衣受胎というは、仏弟子|優陀夷《うだい》のごとき、妻と共に出家し、分別すでに久し。優陀夷往って妻の辺に至るに、両情慾愛止まず、各相発問し、慾精衣を汚す。妻の尼この衣を得てのち(衣を汚せる男精を舐り)すなわち懐胎す、とある。
 『根本説一切有部毘奈耶』一八には、かの尼、「欲心乱るるゆえに、精の一滴を取って口中に置き、また一滴を取っ(469)て女根の内に投ず」とあれば、受胎も実際あり得たはずだ(一九三〇年板、メヤー『古印度性生活』一巻三四頁、注一参照)。釈法琳の『弁正論』七に、「人根|溺《ゆばり》を生じ、溺より精を出だすなり」。『大毘婆沙論』一七二に、胎児は、「母の胎臓中にて、諸不浄を稟《う》けて身分《からだ》を為《つく》り、生熟二臓の間に住む」。田圃の植物が糞尿を得て成長するごとく、母体内の糞尿や月水で、胎児が育つと考えたのだ(『宝行王正論』安楽解脱品第一参照)。文化に誇った古支那、インドの碩学すら、こんなことを真面目で信じ述べた。まことに抱腹の至りといわばいうものの、近世博識で聞こえた高田与清の『松屋筆記』九五に、秘処の諸称を論じた中に、催馬楽歌に見ゆる「ヒノナカノヒズキメは吉舌にて、玉門の佐禰とも、または子壺ともいう物の異名なり」と断じ、吉舌と子宮を混同しおり、二、三年前の『ネイチュール』に、英国人の性智識に乏しいことを論じた中に、今も有名な学者で、女人が男子に会うて、男子同様情至るということありと、さらに知らぬが多い、と歎じあった。これでは今のいわゆる開化人が支那やインドの旧説を嘲るは、五十歩をもって百歩を笑うのだ。
 さればバガンダ女人が、子を授からんとてムバレ神に詣で、物を献ずるを、祝が受けて彼女を神洞に導き、子を望む由を啓すると、洞内に群れ住む蝙蝠が糞を垂れる、それが彼女にかかればきっと子を孕むと信じたのも(一九一一年板、ロスコー『ゼ・バガンダ』三一六頁)、人の小便が精液となり、精液が人となるという『弁正論』の見解と同じく、神が蝙蝠に寄托して、垂れたまうた大便中に神の精液あり、それが女の身に触れさえすれば子を孕むとしたのだ。(けだし、支那の『本草綱目』にした通り、パガンダ人も、蝙蝠を鳥同様一穴で、大小便を仕分けぬと見立てたらしい。)男の身体の一部分や、かつてそれに触れた物や、それより出た物が、女身の(産門以外の)一部分にふれて子を孕ませた例は、前引ハートランドの著書初章に多く出でおり、『日本紀』一四にも、物部目大連《もののべのめのおおむらじ》が、臣聞く、孕みやすい女は、褌をもってその体に触れても、すなわち娠むと言った、とある。だから男の飲み余しを呑んで孕むぐらいは、お茶の子サイサイ、上古来本邦に行なわれた俗信だったろう。
(470) 南洋のトロブリアンド島人は、男女交会や男女の精液という件は、人間生殖に何の関係なく、処女膜が一たび破れさえすれば、祖神が子をその女人に授けて、その子宮に納め孕ましむ。故に、必ずしも交会を須《ま》たず、雨でも石鍾乳滴でも、もって陰膣を開通するという一事のみが懐妊の必要条件だと信ず。早年より男子に会うこと無数ながら、一度も孕まぬ女多く、さていかに子が胎内に入らんとあせっても、明かずの門を、何物かよく入り得んやとの論拠だそうな(一九二九年板、マリノフスキー『西北メラネシア蛮人の性生活』一五四−一五六頁)。
 これに反し仏説には、人間生殖に男女の精の必要を認めるが、膣道以外に胎児が母体に入る道なしとする。その見、件の島人に同じ。いわく、「中有《ちゆうう》胎に入るは、必ず生門よりす。これ愛するところのゆえなり」。むかし唐の幽州の戒壇の長老僧、八十歳近きが、俗家へ行くごとに、その衰老をもって、小間使して扶侍せしめたところ、ついに小間使を犯し、還俗を要し、その女を妻《めと》っていわく、平生|謂《おも》わざりき、この歓暢あるを、これを知るの晩きを悔ゆと、軍府怪しんでこれを笑うたというが、仏説からいえば、笑うた方が大きな不料簡で、人|毎《つね》に生まれぬうちから、飛び切りかの生門を愛し、これより入りて胎児となり、これより出でて人間となったのだ。(後漢の班超が、年老ゆるまで功を域外に立て、生きて玉門関に入らんと切願せしと、出入の次第相反しながら、その執心は相同じ。)されば仏在世に、「舎衛国に比丘と比丘尼の母子あり。夏安居《げあんご》して、母子しばしば相見る。すでにしてしばしば相見て、ともに欲心を生ず。母、児に語っていわく、汝ここより出でしが、今またここに入る。犯すことなきを得べし、と。比丘すなわち言のごとくして淫を行なう」。未生前に愛して入った門を忘れず、勧誘されてたちまち想い出し、また入ったのだ。とこんなことを述べおると際限がないから中止して、本文へ戻る。「問う、菩薩の中有《ちゆうう》は、何処《いずこ》より胎に入るや、と。答う。右脇より入って、まさに胎に入ると知る、母において母の想あり、婬愛なきがゆえに、と。また説く者あり、生門より入り、諸卵胎生す、法として応《まさ》にしかるべきがゆえに、と。問う、輪王独覚《りんのうどつかく》の、先の中有の位は、何処《いずこ》より胎に入るや、と。答う、右脇より入って、まさに胎に入ると知る、母において母の想あり、婬受なきが(471)ゆえに、と」。道教徒が、老子生まるる時、母の左腋を刮《さ》いて出ず、あるいはいわく、その母夫なしというは、この仏説を摸したとみえる。それから「余《ほか》の師あって説く、菩薩は福智の極増上《ごくぞうじよう》なるがゆえに、まさに胎に入らんとする時、?倒の想なくして婬愛を起こさず。輪王独覚は福智ありといえども極増上にあらず。まさに胎に入らんとする時、倒想なしといえども、また婬愛を起こす。故に胎位に入るは、必ず生門より入るなり、と」。(『諸経要集』一二下。『北夢瑣言』一一。『四分律蔵』五五。葛洪『神仙伝』一)
 天主教諸大徳が、上帝キリストを聖母の子宮に納るるに、生門よりしたと説くを憚り、耳や臍より納れたといい、はなはだしきは、天使が聖母の裳を披いて、聖子を子宮に吹き込んだという回徒説さえある。ざっと予輩の幼時、紀三井寺や和歌浦の開帳や祭礼を宛て込み、年増女を盛装して裳を?げて腰掛けしめ、奇態な奏楽中に、火吹竹でその広前を吹かしめ、笑うた者に銭を払わせ、笑わなんだ者に果子など賞与し、その見世物をアテテンカまたフケフケドンドンと呼んだに似ておる(『守貞漫稿』三二、見世物の条、参照)。ギリシア、ローマの古教滅びたといえど、その美術品は今に残り、聖母を画くに、古婬女神ヴィナスの容を摸せるもの少なからず。中にはほとんど全身を露わし神子を受胎するとて、瞑目静息、魂消え魄散ずるの様子、見る者ために気が遠くなるものをしばしば目撃した。というと読者諸彦は、そいつは堪らないね、願わくはその委細を聴かんと、漢文が賈誼に鬼神の本を問うたごとく、無上に席を前《すす》むるだろうが、そこいらは他日に譲ると致し、次のことだけ述べおく。それは仏徒もまた天主徒と等しく、その開祖が生門から入胎したというを忌み、いとかしこまって、「菩薩の浄行、三千世界において、最尊最勝なり。女根によって住せず、女根によって出でず」といい、菩薩かつて阿私陀仙《あしだせん》が、自分一子を生まば滞りなく出家し得と言ったと聞いたから、?色無比の耶輸陀羅《やしゆだら》を娶るも交会せず、右手で妃の腹を指し娠ましめて安心させ、さて一同の油断に乗じ、夜中に宮門を脱出した。すなわち仏子|羅※[日+侯]羅《らごうら》も交会によらずして孕まれたとしたのだ。(ハートランド『父格論』一巻二〇頁以下。一八二一年パリ板、コラン・ド・プランシー『遺宝霊像評彙』二巻二三八頁。『大宝積経』一〇八。『仏祖統記』二)
(472) ただし、仏在世を去ること、諸他の経文ほど遠からぬ物に、「その時、菩薩、宮内の嬉遊する処にあって、ひそかにみずから念《おも》いていわく、われに今三夫人と六万の?女あり。もしそれとともに俗楽をなさざれば、おそらくもろもろの外人は、われはこれ丈夫《おとこ》にあらず、と言わん。われ今まさに耶輸陀羅《やしゆだら》とともに娯楽をなすべし、と。その耶輸陀羅、よってすなわち娠《はら》むあり、すでに懐娠し已《おわ》り、思念《おもい》を生じていわく、われ明|旦《あさ》に菩薩に報じて知らしめん、と。その時、菩薩、その日の夜半において、縁生《えんしよう》の理に約して頌を説いていわく、婦人と同《とも》に居宿《いぬ》るところは、こはこれ末後《まつご》に同《とも》に宿《い》ぬる時なり、われ今これよりはさらに然《しか》せず、永く女人と同《とも》に眠宿《いぬ》ることを離れん、と」、さて宮中より脱出した、とある。これが正銘の本説実事で、終り初物、一番きりで見切ったは、飯豊皇女や弁慶よりも、はるかのむかしに仏が先蹤を示したのだ。この消息をよく知って、美人を血を盛った嚢とけなした世尊もかつて、「羅※[日+侯]羅が母に会ひしとこそ聞け」、倣うて力めざるぺけんやと、縦横無尽にさせ散らした名媛もある。(『根本説一切有部毘奈耶破僧事』四。『十誦律』三八)
 だが上に述べた通り、仏と羅※[日+侯]羅のみが生門によらず入胎し、その他の人間は一切生門より子宮に入るというのが、一汎に行なわれた経説だ。それに弘法大師の飲み残しの茶を飲んだ女が受胎したなどの俗仏説が生じたは、前に説いたごとく、一度男の身に触れた褌でも、女に触れて孕まし得などいう迷信が、仏教渡来前すでに本邦に存した上に、仏出世前、古くインドに行なわれた右同様の迷信が、支那のと倶《とも》に入り来たり、経説を構わずに曼衍《まんえん》したのである。仏在世に、大いに富んで子なき婆羅門が、一比丘尼より、阿羅漢の足跡のついた物の浣《あら》い汁で、その妻を浴すれば、必ず孕むときき、仏と諸弟子を請じた話がある。親しく仏の膝下にあった比丘尼がこんな迷信を伝えたを見て、旧弊の除きがたきを知り、仏衆生を愍れむ慈心から、諸弟子に敷物の上を歩き、足跡を遺しやるを許したとあれば、こんな迷信を仏はムキになって攻撃せず、礼物次第で、世俗に程よく調子を合わせ置いたと知る。(西暦十一世紀に新疆で回教を興したアリ・アルスランは、屈丹の仏徒が、キリスト僧の策を用いて、その祈?最中を襲うたので殺さ(473)れた。この聖人の母ビビ・マリアムも、素女でおりながら、これを産んだという。たぶんキリストの伝説によった作り話だろう(一八九三年板、ランスデル『支那領中央亜細亜』二巻七四頁)。)
 
 これで「茶を飲んで孕んだ話」はお仕舞いだが、あまり面白かったので、今一席と望む方々も多かろう。よってこの話の付帯事件二、三を弁じよう。まず栗山一夫君説に、播磨の加東郡の片手孕み村の名の起りは、年ごろの娘が、叔父と村の青年どもと伴れて、伊勢に詣でた。途中の宿ごとに、叔父は必ず娘の腹に手を載せて寝ね、もって青年輩を禦いだ。さて帰村すると、娘は孕みおり、月満ちて一の手を産んだによる、と。同様の譚は、高橋勝利君説に、下総結城の手持観音にもあり、と。また二百八十六年前すでに近江の栗太郡|手孕《てばら》村にあった。「古えこの村の某、他国にゆくとて、その妻の年いまだ若く、貌美しかりければ、友達に預けて、三年まで帰らず。友達これを預かり、わが許に置きたりしに、人の窃み侍らんことをおそれて、夜は女の腹の上に手を置きて守りしに、女孕みて十月というに、手一つうみけり。それよりこの村を手孕みといいけるを、略して手ばらというと語りぬ」とある。ある人々より西鶴筆といわるる物にも、「むかしこの村にすむ者、他国へ行くに、友達なる者に女房を預け置きしに、律儀千万に女房の番をつとめ、毎夜ゆぐのほとり、大事の所に手をおおいて寝《ね》にける。女房も外の所ならねば、うるおいながら、えもいはで○を動かしけるにや。つい孕みて、十月めに人の手を一つ産みけり。それより手孕村と名づく。今の世に、そのようなぬかったたわけ男があるものか」と、いとおかしく評しある。そののち享保三年ごろ出た井沢長秀の著書にもこの譚を載せ、「李卓吾が『開巻一笑』(熊楠謂う、正しくいわば、『続開巻一笑』巻二だ)にいわく、?県の民某出でて賈《あきない》す。妻その?《あによめ》と同処す。(?は夫の兄弟の妻、ここでは夫の兄の妻で、夫の兄夫婦が、不断いちゃつき通したらしい。)夫久しく帰らず、夫の兄を見て、私心これを慕い、疾をなしてほとんど危うし。家人、故を知り、かつこれを憐れめども、計出ずるところなし。伯氏を強い、帷外より手をもって少しくその腹を拊《う》たしめ、ついに感ずるあって孕をな(474)す。産むに及びただ一挙なり、と。これ右の手孕村のことと同日の談か。(中略)不義をなして牢みしを、云々、この怪説を設け出だして紿《あざむ》きしこと疑いなし」と論じた。異説には「伯《あに》と仲《おとうと》の同居するあり、仲は外に商《あきない》をして久しく帰らず。その婦《つま》これを思いて病となり、まさに死せんとす。家人、共に議し、すなわち仲の帰れりと詐言《いつわ》り、もってこれを慰めんとし、伯をして偽って仲とならしめ、手をもって略《すこ》しくその体を撫でしむ。病ついにやや癒え、これよりついに孕む。いまだいくぱくならずして仲帰り、怪しんでこれを詰《なじ》る。家人、故《わけ》を語るも、仲は信ぜずして官に訟《うつた》え、ついにこれを獄に置く。産むに及ぶや、ただ一手のみ。そのこと始めて解く」と。江州の手孕村は、もと手原とでも書いたのを、こんな外国譚を面白がり、由来を捏造して手孕と書き替えたので、播州の片手孕村も、もとは片手原と書いたのを、後に書き改めたのだろう。武州足立郡膝子村は、むかし農夫某の妻妊んで異形の物をうめり、その体をみるに、人の膝のごとくなればとて、当所を指して膝子と異名に呼びしより、終《つい》に村名となれりと、土人が言い伝うる由。(昭和六年三月『旅と伝説』三六頁。『芳賀郡土俗研究会報』二巻四号九頁。『近江輿地誌略』四四。『東海道名所記』五。『好色旅日記』三。『広益俗説弁』遺編四。『情史』九。『新編武蔵国風土記稿』一四五)
 予が多年見聞するところをもってするに、女人が、手足や頭のない胴体ばかりの胎児、または手足や頭が疣様の痕跡を留めた胴体のみを産み、もしくはヌッペラポウの混沌たる血塊を産み、時にかかる血塊に爪や毛髪や、何部のものとも分からぬ骨片を含んだものを産んだ例も実際あったが、単に手や脚を産んだ例も、産むはずもない。多少似寄った例があるなら、それは件の血塊がやや手脚に似たように見受けられたまでのことだろう。故に、手孕や膝子という村名は、そのことがかつて実在したでなく、旧名にちなんで、そんな事実があったように付会されたと判ずるのほかなし。彼処の御近辺を、手で撫でたから手を孕んだというより推するに、他人の侵入を防がんとて、彼処を番する男の膝で塞いで寝たので、腰を産んだとでも言い伝えたものか。文略にして今さら詳らかに知り得ぬは残念な。とにかく手孕村の譚は、茶を飲んで孕んだ話と等しく、男体の一部分や、それに触れた物が、産門以外の女身の一部分に(475)触れて、子を孕まし得るという信念が、むかしの日本に多少行なわれた例証に立つ。
 仏説にいわゆる七種受胎の第四、手摩受胎というは、「?《せん》菩薩のごときは、父母ともに盲《めしい》なるを、帝釈《たいしやく》はるかに知り、下ってその所に至り、ために言う、よろしく陰陽を合して子を生むべし、と。答えていわく、夫婦すでにことごとく出家す、道法のための故に、かくのごとくするを得ず、と。帝釈またいわく、陰陽を合せずとならば、まさに手をもって臍下を撫ずれば、すなわち懐胎すべし、と。果たして、その言のごとくして?子を生む」。撫でたばかりに孕んだとは、上に引いた支那の兄が弟の妻を孕ませた譚に同じだが、手が生まれずに、菩薩が産まれた点が大いに差《ちが》う。しかし、本邦仏教全盛の世には、手孕村の譚一たび出でて、仏僧徒、そのことは世尊の前生にもあったと、お経に歴然示されある、ゆめ疑うべからずと訓えて、この俗信を確立せしめたに相違ない。ここに「手をもって臍下を撫ずれば、すなわち懐胎すべし」とは、何の用意もなく、どこともなしに漠然、臍下の皮膚を撫でたでなく、雄蜘蛛がその陽精を、自分の頭側の触鬚に著けて、雌の体下の膣道に致し、雌を孕ませるごとくだったとみえる。前述、七種受胎の第二、取衣受胎も、優陀夷の妻だった尼が、夫が漏精した僧衣に触れたのみで孕んだでなく、「また一滴を取って女根の内に投ず」とあるのが、受胎の要点だ。この他に、跋難陀が偸羅難陀尼の露形を見て漏精した時、尼が洗うて上げるからとて、その衣を受け取り、「すなわち不浄をもって、みずから形《からだ》の中に内《い》る」とあるをみると、欧州の乞食などに銭を呉れると、お礼に施主の手の代りに、自分の手を?《す》うと等しく、インドには女がとても会い能わぬ男の精が手に入った時、それを自分の体内に入れて、お情を受けた同然と感佩する習いがあったと察する。さて優陀夷の例より推して、?子の父も、素手でその母の臍下を撫でたでなく、そのついでに男精を母腹に致して孕ませたと知る。ニューギニアと英領コロムビアに、指で触れられて孕んだ話あり。インド人は、遠き金劫の人が、子を欲すればすなわち産まれ、銀劫には、男女触れたばかりで子が孕まれ、当時陰陽交合の習いなかったと信じ、日神が、霊棒でプリトハ公主の臍に触れて、勇士カルナを孕ませたといい、帝釈が栂指もて、シラヴァチ后の身に触れて、釈尊の前(476)身を入胎せしめた、また夜摩の諸天は手を執って欲をなすなど、仏徒は説く。すべて聖人が、自分の浄行を破らずに、懇請されたまま、女を孕ませた譚が往々ある。(『大明三蔵法数』三〇。『摩訶僧祇律』四。ハートランド『父権論』一巻一八頁。メヤー『古印度性生活』一巻二四一頁、三三頁以下。一九〇五年板、カウエルおよびフランシス『仏本生譚』五巻一四四頁。『起世因本経』七)
 これらに類した、少なからぬ支那譚のその中で、もっとも怪異視されたは、明の李卓吾の『開巻一笑』四に、「遺精復度招情」と題して載せた法廷の申し渡しで、洵《まこと》にもって威儀厳重な物だが、金聖歎がいわゆる淫者もって淫となす道理、ことには南方先生の身振り雑りの妙註を加えると、事あれかしと俟ち構えた一同、チャプリンの来朝以上に大騒ぎとくるは必定。よって全文を割愛して、不十分ながら、清の趙吉士の『寄園寄所寄』五からその摘要文を写し出す。いわく、「正徳の間、上元県の銭臣、酔って妻の李氏と交  購《まじわ》り、妹の窺うところとなる。(『開巻一笑』によれば、李氏は当時三十五歳の大年増の佐施《させ》盛りだった。)次早《よくあさ》、臣出ず。姑《しゆうと》(李氏の夫銭臣の妹、後文にいわゆる銭氏)、嫂《あによめ》の夜来のことを詰《なじ》る。淫興にわかに発し、嫂、戯れに姑と交歓の状を効《なら》う。両陰相合し、夫の遺《のこ》せし精を、小姑《こじゆうと》の陰に流し入る。経閉じ腹高くなり、ついに胎をなす。姑の舅の凌銑、私情あるを疑い、官に告げてこれを鞠《ただ》し、その実を得たり。議得《はんけつ》して、李氏、銭臣、銭氏等の犯せしところは、ともになすを得べからざるになせしのことによって、まさに律に依りて的決すべきも、律に照らして贖《つぐない》を取らしむ。銭氏は、なお孕むところの身軽くなるを侯《ま》って、銭臣に給与《あず》けて収養せしめ、旧配に照らして、凌銑の次男に与えて妻となす。両家また異議を生ずるを得るなかれ。巻照」と。一説には、これより約四十五年前、成化の初め、「上元の佃民《でんみん》の女《むすめ》張妙情、(その兄の)張二および嫂《あによめ》の陳氏とともに連居す。一日、兄、嫂と狎《たわむ》る。女窺い見て心動き、嫂を呼んで状を問い、身|効《なら》いてこれをなし、ついに孕む。子を生むに及んで再びこれを審《しら》ぶるに、すなわちこれ処女なり」。一事を二様に伝えたものか、同様のことが二度あったのか判らない。が、処女膜が破れずに孕んだ例も、男精が放出後久しく活動した実例もあり。夫に会った直後に、妻が(477)他の女に子を孕ませた話は、支那以外にも皆無ならず。(『玉芝堂談薈』一四。一九二七年フィラデルフィア板、エリス『性心理学の研究』五巻一六二頁以下)
 明治二十六、七年ごろ、予在欧中、パリの法曹界を賑わせた大疑件があった。淑貞無瑕、容姿端正の若後家がホテルに独居し、食時ならぬに、たまたま温めた牛乳を求むることの度重なりて、それと勘づいた僕が、故《ことさ》らにその男精を落とし込んだ牛乳を進めた。そんなこととは白歯の後家が、例によって亡夫を追懐のあまり、秘密儀を修するとて、その牛乳を身内に注入して、誰の胤やら知れない子を孕み、亡夫の骨肉輩、その遺産を覘うて、得たり賢しと、私行不正で、亡夫の遺言を守らぬとの廉で訴訟を起こし、種々|捫択《もんちやく》探索の末、事の起りは、件の一僕のかき込みにあったと判った。大正十一年、予、滞京のあいだ、このことを中山太郎君に語り、君またこれに種々の書き込みを加え、その六月ごろの『同人』へ出しあった。これらより推して、本文、釈尊出家に臨み、その妃の腹を右手で指して娠ませたという仏説も、まるきり無根でなく、例の指人形を働かせて、授精したことと惟う。
 それから本文の初めに『近江輿地誌略』や『越中旧事記』から引いた、弘法大師や西行法師が、自分の茶の余りを呑んだ女が産んだ子を吹くと、泡となって消え失せた、とある。その根本話らしい『捜神記』や『括異志』には、盥の水を飲んで孕み、産まれた子が、のちに水に化し去ったとあるを、本邦で余り茶を飲んで孕んだと改作した以上、茶より生じた子が、また茶に成り戻ったと言っては、あまり茶めき過ぎるから、と言って、ただの水となったとしては、茶の方がつかず。よって茶に縁ある泡となって消え失せたと、旨く落としたのだ。女が往還に茶店を出し旅人を憩わせたはいつごろより始まつたか知れない。が、明人が当時の日本を観て書いた物に、人喜んで茶を啜る、路傍に茶店を置いて茶を売り、行人銭一文を投じて一椀を飲む、などありて、室町時代にあまねくなったとみえる(『和漢三才図会』六四)。したがって本文、泡子地蔵等の話は、室町時代より古からぬ出来《でき》と知らる。
 水より生じた子が水に還り、茶から産まれた子が泡になったというに類した話は、諸国にある。例せば、晋の荀択、(478)亡後|恒《つね》に形を見せ、婦孔氏と?婉綢繆し、ついに妊むあり、十月にして産まるるはことごとくこれ水。劉宋の元嘉中、高平の丘孝の婦、妊んで一団の氷を生み、日を得てすなわち消液して水となる。南宋の乾道二年、潭州の苦竹村神に孕まされた婬婦は、腹裂け黄水数斗を出して死んだ。明の弘治戊午、新城の牛尚武が家の白雄鶏、梁上に鳴き、一卵を産むに堅きことはなはだし、取って仏前に供うるに、化して水となる。仏在世に、怨愛、上愛の二尼、「同じく一牀にあり、男と女のごとく、共に戯楽をなす。一《ひとり》の尼のちについにすなわち娠《はら》むあり、日月すでに満ちて一の肉団を生み、諸根、手足、並びにみないまだあらず。諸尼、聞き已《おわ》って、擯《しりぞ》けて寺を出でしむ」。仏これを聞いて、その肉団を日中に置け、「もしそれ消化すれば、すなわち娠むあるにあらず、もし消滅せざれば、まさに実《まこと》に胎あるべし」と教えた。すなわち日中に置くと悉皆消散した、とある。本邦にも平安朝に、腹に寸白虫を持った女が産んだ信濃守が、胡桃酒を強いられ、水になって流れた話やら、室町時代に、在原業平、交野の狩にゆき暮れた時、宿を進めた女とその夜契りしに、極上大吉の妙開ゆえ、都へつれ帰り、程なく明くる春ののどけきに、顔ばせ白々となりつつ、姿も消えて失せにけり、雪の精とはその時こそ思い知られけれ、という珍談がある。これらの諸譚、水や茶と限らず、エタイの怪しい物が胎内に宿ったのは、トド水や氷のごとく溶け消え去るとしたので、多くの礦物が湿気に逢って流れ去り、百般の有機物が腐れば多少液化し、南方先生が妻君に叱られた時の形容詞通り、蛭に塩を掛けると、グニャリと融けるなどを観て、合点されたらしい。(『玉芝堂談薈』一四。『夷堅志補』九。『古今図書集成』禽虫典三六。『根本説一切有部毘奈耶』一八。『今昔物語』二八巻三九語。『長禄記』)
 こんな話は藻塩草、かき集めたら限りなき、中に就いてもっとも奇抜なが十五世紀の仏人に筆せられおる。ロンドンの富商が、貿易のため航海して、十年経て帰国した。出立の時若かった妻は、初めのほどこそ貞淑で打ち通したれ、去る者日に遠しで、春の花、秋の鐘、見るに聞くに、かの一儀を想い出すの媒《なかだち》たらざるなく、慾心禁じがたく色胆また大、ついにわが褄ならぬ褄を重ねて、産んだその子が七つになった時、夫が帰り、この子は誰の子と問うと、空(479)とぼけにもほどがある、御身と妾の間にできたのさ、と答えた。夫われ出立の時、?は妊んでおらなかったでないかと尋ねると、御出立の後、一朝圃に出で酸模《すいば》が雪に覆われあるを見て、たちまち食いたくなり、その葉を採り食うとて、少しの雪を嚥《の》むと、たちまち感じて身持になり、産まれたのがこの子で厶《ござ》んす、と言った。聞いて夫が、神がそんな不思議な子を賜うたは、ありがたい至極と言ったので妻も安心、それから何ごともなく十年立って、夫また航海を思い立ち、この子も大きくなったから、貿易見習いのため同伴すべしといい、妻も承知の上、父はその子を伴れてアレキサンドリア港にゆき、美容強健なその子を奴隷に売って百金ほど得た。さて英国へ帰ると、妻が歓び迎えたが、子がみえぬから夫に問うと、今さら隠すべきでない、悴はまことにわる行きだったと、冒頭して語ったは、今度海上で押し流されて、漂著した所は炎暑烈しく、人ごとに坑を掘って、日を避けんと上陸すると、雪から生まれたあの子は何条《なんじよう》たまるべき、たちまち溶けて水になって流れたはやい、と。「今までのことを仲条水にする」とは、この話から出たかも知れない。夫、語り続けて、来たる時かくのごとく疾く、去る時もかくのごとく速やかで、この子の生滅、並びに突然なるには大吃驚というと、授かったも取り去られたも神のまにまにだ、と妻が諦めたような口ぶりだった。果たして妻が夫の言を信じたか疑うたかを誰かは知らん。汝に出ずるものは汝に還る道理、欺き課《おお》せたと思うた妻が、夫に欺き還されただけはよく判る、というような咄である(一八五八年パリ板、ライト訂『百新話』一巻一〇一至一〇六頁)。(業平が愛した雪女に大分よく似た話は、西半球にもあって、アルゴンキン族の艶女を恋して叶わなんだ男が、雪を煉って美男を作り、艶女悦んでこれと婚した。翌朝、新夫婦が旅行するうち、日に熱せられて夫が溶け去り、新妻これを悲しんでまた死んだという(一九一六年板、スペンス『北米|印甸人《インジアン》志怪』一五九−一六二頁)。)(九月三十日午後十一時半稿成る)  (昭和七年十二月『民俗学』四巻一二号)
 
(480)     寄合咄
 
       移動する魚に関する俗伝
 
 『続南方随筆』二三〇頁に、「宮崎氏またいわく、瀬戸内海の魚はみな讃岐の魚島まで登る。サゴシは、登るうちは右眼、降る時は左眼に星入りあり。紀泉二国の山を見当として游ぐゆえ、と」と出した。
 その後、ヘロドトスの『史書』二巻九三章をみて、西暦紀元前五世紀、これに類した俗信がすでにエジプトにあった、と知り得た。いわく、群活する魚は……稀に川に棲み、もっぱら瀉湖に育つ。子を産まんと欲する時は群集して海に游《およ》ぎ出るに、雄が先導して男精を撒き、雌随ってこれを呑んで孕む。さて十分海に棲んだのち、またもとの棲所へ還るに、今度は雌が先達たり。雌どもの一団が前駆して少しずつ?《はらご》を落とすを、後より続く雄がこれを食う。たまたま残った?より魚が生まれて生長する。海へ往くうち獲られた魚は、いずれも頭の左側に損傷あり、海より戻るさい獲られた魚は、ことごとく頭の右側に損傷ある。けだし、海へ往く時は、頭の左側をナイル河の岸に寄せ、帰り登るにもまた同じ道筋を取り、急流のため路を失わぬよう、頭の右側を岸におし付け、すり付けて進むによる、と。
 やや似たことが澤村正恭の『譚海』四にもある。「播州赤穂の人物語りしは、阿波の鳴門を越えし鯛は、肉堅く味わいことに美なり。その鳴門を越えたる印《しるし》は、鯛の鼻一キザ段付きてあり。二段越えたるは段二つ付きあるを、その(481)印に見わけ侍るなり、と言えり。されば鳴門の波は、鯛の鼻に段付くるほど、けわしき瀬戸なりとしられたり」と。  (昭和五年十月『民俗学』二巻一〇号)
 
       刀剣吼えたこと
 
 『剣の巻』にいわく、為義が伝え持ちたる二つの剣終夜吼え、鬼切《おにきり》吼えたる音《こえ》は獅子の音に似たり、蛛切《くもきり》が吼えたる音は蛇の鳴くに似たり、故に見切をば獅子の子と改名し、蛛切をば吼丸《ほえまる》とぞ号しける、と。馬琴評に、蛇や日本になき獅子の鳴声をどうして為義が知り得たか、吼丸と名づけたは、別の訳があるのだろう、と(『昔語質屋庫』初篇二章)。
 刀剣が声を出した譚は外国またある。(最も古いところで、「帝|??《せんぎよく》、曳影《えいえい》の剣あり、空に騰《あが》って舒《の》ぶ。もし四方に兵あれば、この剣すなわち飛び起って、その方を指し、すなわち剋伐す。いまだ用いざるの時は、常に匣裏において、竜虎の吟ずるがごとし」(『拾遺記』一)。「梁の康王|友孜《ゆうし》、刺客をして夜、寝中に入らしむ。末帝、方《まさ》に寐《い》ね、人のおのれを害せんとするを夢む。すでに寤《さ》むれば、榻上の宝剣、鎗然として声あるを聞く。躍り起き、剣を抽《ぬ》いていわく、まさに変あらんとするか、と。すなわち寝中を索《たず》ねて刺客を得、手ずからこれを殺す。ついに友孜を誅す」(『五代史』一三)。「南涼の禿髪烏孤《とくはつうこ》、太初三年に一刀を造る、云々。匠いわく、これを作るの時に当たり、夢見るに、一人の朱衣を披《き》たるもののいう、われはこれ太乙神なり、爾《なんじ》のこの刀を作るを看るに、敵の至るあれば刀必ず鳴らん、と。(中略)またいわく、後燕の慕容垂、二刀の長《たけ》七尺なるを造る、一は雌、一は雄にして、もし別ちてこれを処《お》けばすなわち鳴る、と」(『淵鑑類函』二二五、『刀剣伝』を引く)。)五代梁朝の将軍戴思遠、浮陽を鎮めた時、部将毛璋、旅舎で剣を枕に寝ると、夜分その剣たちまち大いに吼え、鞘から躍り出た。従卒聞く者、愕いて睾丸を釣り上げた。毛これを神とし、剣を持ち叱して、われもし他日この地を有し得るなら、今一度鳴き躍れと言い聞かせ、また寝ていまだ(482)熟せざるに、剣初めの通り吼え躍ったので、毛深くみずからこれを頼みにした。その後、戴将軍、浮陽を離れた際、毛その許しを得て留まりおり、程なく州をもって唐の荘宗に帰命し、荘宗、毛をその州の刺史とし、のち竟《つい》に滄海に帥たりという。ずっと後代の小説にも、遼陽の田七郎が三世伝家の佩刀は、壁に掛けおくと、悪人を見れば鳴って匣より躍り出た、とある。(『太平広記』一三八。『聊斎志異』六)
 安南の俗信にも、かつて人を斬刑した軍刀は、久しく渇えた後家や御殿女中同様よく鳴く。これを壁に掛けおくに、近く斬刑がある前に、みずから壁を叩き、また主人の夢に入って、程なくその用に立つべきを予告す、と。(Landes,“Notes sur les m?urs et les superstitions des Annamites,”Cochinchine française,Excursions et reconnaissances,No.8,p.369,Saigon,1881)  (昭和五年十月『民俗学』二巻一〇号)
 
       虎が人に方術を教えたこと
 
 『日本紀』二四に、「皇極天皇四年四月、高麗の学問僧ら言《もう》す、同学|鞍作《くらつくり》の得志《とくし》、虎をもって友となし、その術を学び取れり。あるいは枯山をして変じて青山とならしめ、あるいは黄なる地をして変じて白き水とならしむ。種々《くさぐさ》の奇《あや》しき術、殫《つく》して究むべからず。(『扶桑略記』四には、「多くもって究め習う」とす。)また、虎その針を授けていわく、慎め、慎め、人をして知らしむることなかれ、これをもってこれを治めば、病愈えずということなし、と。果たして言うところのごとくに、治めて差《い》えずということなし。得志、つねにその針をもって柱のうちに隠しおけり。後に、虎その柱を折《わ》り、針を取って走り去る。高麗国、得志の帰らんとする意を知り、毒を与えてこれを殺す」。
 似た譚が支那にもある。いわく、「会稽の余姚の人銭祐、夜、屋の後《うら》に出で虎の取るところとなる。十八日にしてすなわちみずから還って説く、虎初め取りし時、一宮府に至り、一人の几《つくえ》に憑《よ》って坐するを見る。形貌壮偉にして、(483)侍従四十人あり。謂いていわく、われ汝に数術の法を知らしめんと欲す、と。留まること十五日、昼夜、もろもろの要術を語る。祐、法を受け畢《おわ》るや、人をして送り出さしめ、家に還るを得たり、と。大いに卜占を知り、幽《かく》れたることの験せざるなく、年を経てすなわち死す」と。支那説に、「虎は衝破《しようは》を知り、よく地を画して奇偶を観じ、もって食を卜す。今人これに効《なら》い、これを虎卜と謂う。またいわく、虎の行くや、爪をもって地を?《さ》き、食を卜す、と」。(『太平広記』二九二。『本草綱目』五一。『広博物志』四六)
 安南人の説に、人が虎に啖《く》わるるは、前世から定まった因業で遁れ得ない。その人前生に虎肉を食ったか、前身犬や豚だった者を、閻魔王がその悪《にく》む家へ生まれさせたのだ。故に、虎が人を襲うに、今度は誰を食うと、ちゃんと目算が立ちおり、その者家にありや否を考えて、疑わしくば木枝を空中に擲げ、その向かう処をみて占うといい、カムボジア人は、虎、栖処より出る時、何気なく尾が廻る、その尖《さき》をみて向かうべき処を定む、と信ず。マレー人説には、虎、食を卜うに、まず地に伏し、両手で若干の葉をとり熟視すれば、一葉の輪廓が、自分食わんと志す数人中の一人の形にみえるが首はない、すなわちその人と決定して殺し食う、と。また、マレー人やスマトラ人が信ずるは、人里遠い山林中に虎の町あり、人骨をタルキ、人皮を壁とし、人髪で屋根をふいた家に虎どもが棲み、生活万端人間に異ならず、と。銭祐が往った虎の官府に似たことだ。(一八八一年サイゴン刊行『仏領交趾支那遊覧探究雑誌』八号三五五頁。一八八三年刊行、同誌、一六号一五一頁。一九〇〇年板、スキート『巫来《マレー》方術篇』一五七および一五九頁)
 けだし、支那やマレー諸地に、?虎《ちゆこ》、?人の迷信盛んに、虎装した兇人が、秘密に部落を構えすみ、巧みに変化して種々の悪行をなし、時には村里へ出て内職に売卜したとみえる。元来、虎の体色と斑条が、熱日下の地面と樹蔭によく似るから、事に臨んで身を匿すに妙で、虎巧みにその身を覆蔵すと仏経に記され、「虎骨はなはだ異なり、咫尺《しせき》浅草といえども、よく身伏して露《あら》われず。その  場然《こうぜん》声を作《な》すに及んでは、すなわち嶷然として大なり」と支那説がある。また猫や犬が、時に葉や土を掻き戯れ、あるいは何か考うる体で尾を異様に動かすごとく、注意して観察せば、(484)虎も時々異様な振舞いをなすことあるべく、毎々これをみた人々が、虎方術をよくし、まず卜うて後に食を取ると信じたなるべし。されば南インドに、方術に精通した猛虎が、美少年に化して梵士の娘を娶った話あり。東晋の李嵩、涼州の牧だった時、虎が人に化して勧めたまま、酒泉に移り住んで西涼王となり、本邦の釈道照は新羅に入って役行者化身の虎と語ったなど、虎が人となって予言し、術者が虎に化して人と談じた物語少なからず。よって虎を霊視するの極、本来動物崇拝を峻拒する回教徒中にあっても、かつて上帝が虎と現じて回祖と談じたと信ずる輩すらある。(『民俗学』二巻五号、拙文「千疋狼」三〇九貢以下。一八六五年板、ウッド『動物図譜』一巻、虎の条。『坐禅三昧法門経』上。『淵鑑類函』四二九。一八九〇年板、キングスコウトおよびナテーサ・サストリ『太陽譚』一一九頁以下。『元亨釈書』一五。一九〇七年板、デイムス『バロチェ人俗詩篇』一五八頁)  (昭和五年十月『民俗学』二巻一〇号)
 
       邪視という語が早く用いられた一例
 
 あまり寒いので何を志すとなく、明の陳仁錫の『潜確居類書』一〇七をそこここ見ておると、「鶏は廉《れん》、狼は貪、魚は瞰し、鶏は睨す。魚は瞑《めつむ》らず、鶏は邪視す」とある。この文句は何から採っただろうと、『淵鑑類函』四二五、鶏の条を探ると、「王褒いわく、魚は瞰し鶏は睨す、と。李善おもえらく、魚は目|瞑《つむ》らず、鶏はよく邪視す、と」とある。鶏はよく恐ろしい眼付きで睨むをいうので、この田辺|辺《へん》で古く天狗が時に白鶏に化けるなどいい忌む人があったは、多少その邪視を怖れたからだろう。白いのに限らず、鶏をすべて嫌うた村もあったときく。『拾遺記』一、?文の国より堯に献じた重明の鳥は、「双《ふたつ》の睛《ひとみ》、目にあり、状《かたち》は鶏のごとし。(中略)よく猛獣虎狼を搏《う》って逐《お》い、妖災群悪をして害をなすあたわざらしむ。(中略)今人、毎歳元日、あるいは木を刻し金《かね》を鋳、あるいは図画《えが》いて鶏を?《まど》の上につくるは、これその遺像なり」。その他支那で鶏をもって凶邪を避けた諸例は、載せて Willougbby-Meade,‘Chinese(485) Ghouls and Goblins,’1928,pp.155-157 に出ず。またマレー群島中、アムポイナやマカッサーの人は、その辺の海に千脚ある大怪物すみ、その一脚を懸けられてもたちまち船が覆える。が、この怪物鶏を怖れるからとて、船には必ず鶏を乗せて出発すという(Stavorinus,“Account of Celebes,Amboyna, etc.,”in Pinkerton,‘Voyages and Travels,’vol.xi,p.262,London,1812)
 これら種々理由あるべきも、その一つは鶏の邪視もて他の怪凶をば制したのであろう。王褒は有名な孝子かつ学者で、『晋書』八八にその伝あり。李善は、唐の顕慶中、『文選』を註した(『四庫全書総目』一八六)。熊楠、十歳のころ『文選』を暗誦して神童と称せられたが、近ごろ年来多くの女の恨みで、耄碌し、件の魚瞰鶏睨という王褒の句が、『文選』のどの篇にあるかを臆い出し得ない。が、何に致せ、李善がこれを註して、魚瞰とは死んでも眼を閉じぬこと、鶏睨とはよく邪視することと解いたのだ。本誌一巻四号二四九頁に、邪視なる語は、唐の貞元中に訳された『普賢行願品』に出でおり、今(昭和四年)より千百三十年ほどのむかしすでに支那にあったと述べたれど、それよりも約百四十年ほど早く行なわれおったと、この李善の註が立証する。また魚瞰について想い出すは、予の幼時、飯のサイにまずい物を出さるると母を睨んだ。その都度、母が言ったは、カレイが人間だった時、毎々不服で親を睨んだ、その罰で魚に転生してのちまでも、眼が面の一側にかたよりおる、と。(延享二年、大坂竹本座初演、千柳・松洛・小出雲合作『夏祭浪花鑑』、長町裏殺しの場に、三河屋義平次、その婿団七九郎兵衛を罵る詞に、おのれは親を睨めおるか、親を睨むと平目になるぞよ、とある。ヒラメもカレイも、眼が顔の一傍にかたよりおるは皆様御承知。)さればカレイを邪視する魚と嫌うたものか。『後水尾院年中行事』下に、一、参らざる物は王余魚、云々、またカレイ、目の一所によりて付きて、その体《てい》異様なれば参らずなどいう女房などのあれど、それもおのおのの姿なり、その物の中に類せず、こと様にもあらばこそ、と見ゆ。(二月二十八日午前三時半)  (昭和六年三月『民俗学』三巻三号)
(486)【追加】
 前文に、今より千二百七十年ほどのむかし、唐の顕慶年間、李善が書いた『文選』の註に、「鶏はよく邪視す」とあるを、邪視なる語のもっとも早くみえた一例として置いた。その後また捜索すると、それより少なくとも五百二十年古く、後漢の張平子の「西京賦」に、「ここにおいて鳥獣|殫《つ》き、目観窮まり、遷延邪睨して、長楊の宮に集《と》まる」。注に、「『説文』にいわく、睨は斜視なり、と。劉良いわく、邪睨は邪視なり、と」。同上、「麗服|菁《はなびら》を?《あ》げ、?藐流盻《べいびようりゆうべん》すれば一顧して城を傾く」とあるを、山岡明阿の『類聚名物考』一七六に引いて、邪視をナガシメと訓じあるを見あてた。この邪睨は、邪視と同じくイヴル・アイを意味し、支那でイヴル・アイをいい表わした最も古い語例の一つだろう。ナガシメは、紀州田辺近村の麦打ち唄に「色けないのに色目を使う」というイロメで、流盻によく合えど、邪睨、邪視には合わない。また、前文に引いたマレー群島で海中の怪物が鶏を怖るるという話に近きは、琉球にもあって、佐喜真君の『南島説話』二九頁に出ず。(三月十九日午後十一時)  (昭和六年四月『民俗学』三巻四号)
 
       金剛石採取の咄
 
 本誌一巻四号二九三−二九四頁に、石田君は米人ラウファーの著述その他より、東西文献に存するこの咄を種々と引き示された。管見をもってすれば、支那で記されたこの咄の今に残ったうち、一番早いのは『大般涅槃経』巻一二に出ず。いわく、復次《また》善男子、金翅鳥のごとき、一切竜魚金銀等の宝をよく?《くら》いよく銷するも、ただ金剛を除きて、銷せしむる能わず。善男子、死の金翅鳥もまたかくのごとし、一切衆生をよく?いよく銷するも、ただ大乗大般涅槃に住する菩薩摩訶薩を銷する能わず、と。蛾眉を性を伐るの斧と称えたごとく、死をもって、何でもかんでも食えばよく消化しおわる金翅鳥に比べ、その死ですら、大乗大涅槃に住する菩薩大菩薩を銷滅(487)し能わざるを、金翅鳥さえ金剛石を消化し能わざるに比べたのだ。『慶長見聞集』六の末文に、「それ黄金の正体は、打っても砕きても、火に入り水に埋もれ、万劫をふるとても色性替わらず。かるが故に、仏を金剛不壊の正体とは言えり」。日本に金剛石を産せず、見たこともないから、黄金の剛《かた》くて壊れざる性質を金剛と呼ぶと心得違うたらしいが、(支那でも、古く普通に見なんだゆえか、元の『天目中峰和尚広録』一五に、「金の不変不壊をもって義となすは、剛の万物を摧壊するをもって義となすがごとし」と説いて、金剛を一物とせず、金と剛とに分かち説きある。)仏経に金剛とあるはもっぱら金剛石を指す。例せば、『起世因本経』世住品に、大輪囲山は高広まさに等しく、三百八十万億|由旬《ゆじゆん》、牢固真実、金剛より成るところ、破壊すべきこと難しなどある。
 『大般涅槃経』は西暦四一六−二三年のあいだに、北涼の天竺三蔵曇無讖、詔を奉じて訳す(Eitel,‘Handbook of Chinese Buddhism,’1888,p.87)。この年紀は、石田君の文にみえた梁の天監中(西暦五〇二−五二〇年)の杰公より約百年早く、コンスタンチアのエピファニウス(西暦三一五−四〇三年ごろ)より少し後のようだが、件の四一六−二三という年紀は、『大般涅槃経』が成った年紀でなく、漢訳された年紀だから、この経はエピファニウスの『宝玉篇』よりは先に書かれた物と想う。もっともこの経の巻一九の、耆婆《ぎば》が阿闍世王《あじやせおう》に説く辞中に、「象車百乗をもって、大秦国の種々の珍宝を載せ、およびその女人、身に瓔珞《ようらく》を佩び、数もまた百に満ち、特に布をもって旋《めぐ》らす」とあって、この経の成った時、大秦すなわちローマ人が種々の珍宝をインドや支那へ齎したは明白だ。だが、エピファニウスは、谷底に落とされた羊肉に、宝玉が著いたまま鳥が山頂に啣え去り、肉を食うて玉を残すを人が往って取ると述べたに、この経文にはただ、金翅鳥は一切の物を?うて消化すれど、金剛石のみ消化し得ぬと説いたは、石田君の文にみえる西暦十三世紀に劉郁や周密が、鳥糞中より金剛石が消化されずに出たのを採ると言ったその説の、少なくとも九百年ほど前に、前駆を務めたもので、エピファニウスや杰公の説中に、肉あれども糞を入れざると、貌は似て実は異なる別派の譚と考えらる。いわゆるコンスタンチアの僧正エピファニウスに三人あり。第一は上述の者で、宗論に奮迅したのでもっ(488)とも名高い。西暦四世紀の人だ。第二は第一に比べて若エピファニウスと呼ばれ、西暦六八〇年ごろの人。第三は西暦九世紀の人という。しかして鋭敏な批判家どもは、第一のエ僧正が書いたと言わるる物若干は、実は第二、第三のエ僧正の筆せるところと断ずる由(Smith,‘Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,’vol.ii,p.38,1846;‘The Encyclopædia Britannica,’14th ed.,vol.viii,p.657,1929)。果たして然らば、エピファニウスが肉食鳥によって宝玉を採る説を書いたは、『大般涅槃経』は勿論、杰公よりも二百乃至四百年ほど晩く、杰公の説なるものを『梁四公記』に書いた唐の張説と同時、または約三百年後のこととなる。梅を吃わんと欲して歯の酸きを懼れ、吃わざらんと欲して腹へるを憂う。西洋人は仏徒に対してはキリスト教の新しきに誇り、回徒に向かってはキリスト教の古きを矜《たの》む。本件についても、何がな西が東に先んじたと威張らんとて、知ったを知らぬふりして、斜二無二、『宝玉篇』を第一のエ僧正作と繰り上げたでなかろうか。金剛石がローマ人に熟知されたは、インド品が入ってからだというから(‘The Encyc.Bri.,’14th ed.,vol.viii,p316)、伝説もインドの方が早く起こったようだ。
 また石田君は、エ僧正の説の鳥によって人手に届く宝玉が、金剛石(ダイヤモンド)でなくて、ヒヤキントなるに懸念さる。『仏教大辞彙』一巻一四三一頁に、肯、黄、赤、白、空(無色)、碧と六色の金剛ありという一説を載す。何に出でたか知らぬ。が、実際金剛石に無色、鼠、褐、黄、白あり、稀には赤、緑、黒もある(‘The Encyc.Bri.,’14th ed.,Ubi Supra)というによく合う。今いわゆるヒヤキントは橙色で堅さ七度半、むかしのヒヤキントは今日のサファヤールで青また碧色、堅さ九度、いずれも堅さ金剛石に劣り、結晶式も多少違うが、むかしのヒヤキントすなわちサファヤールは金剛石に堅さ一度を輸すのみで、多くの他の石より硬い。故に結晶式の堅度のちうことの知れぬ世には、時々サファヤール(むかしのヒヤキント)を青い金剛石と混じて、同一品としたとは頷かれる。まずは吾輩幼時、硝子《ガラス》を切り得る石をことごとく金剛石と言い騒いだようなことだ。
 ついてにいう。紀州東牟婁郡太地浦の豪族太地角右衛門は朝比奈義秀の後という。代々捕鯨を業とし、全国の持丸(489)番付にも出た。いつごろの角右衛門か知らず。大阪の町を歩むうち、大便堪えがたくなったので路傍に垂れるを、見る者指さして田舎者と嘲る。角右衛門静かに事終わって、財布を解き、一朱や一分の金銀を、浅間が嶽にたつ煙然と、ゆげ立ち上がる左ねじりの上へふりかけ、程離れた処に立って見ておると、今まで嘲罵した輩が、先を争うて拾い出し、喧噪いうばかりなかったと、三十年前かの地で聞いたは、ほぼ鳥糞より宝玉を拾うに似ておる。すべて金山や金剛石取りに働く者は、ややもすれば金や宝玉を呑み匿すので、人糞の検閲なかなか綿密な由、そこいらで働いて帰る輩と同船して、しばしば聞いた。インドの大蝙蝠、学名プテロプス・エドワルジは諸果を食う。その糞に檳榔子や番木鼈の核を雑《まじ》え下すを、拾うて商売にするから、この蝙蝠が群栖する木は持主に利あり。かかる大木を東ベンゴルで一年一本二十乃至二十五ルピーで人に貸したという(Ball、‘Jungle Life in India,’1880,p.41)。
 『酉陽雑俎』一八に、「仙経にいわく、云々、およそ道を学んで三十年倦まざれば、天下の金翅鳥、芝《し》を銜《ふく》んで至る、と」。これインドに金翅鳥によって金剛石を得る話あるに倣うた支那説だ。同書七に、唐の太宗の時、王玄栄、中天竺王阿羅?順を俘にし、また術士?羅邇婆、寿二百歳というを獲て還る。太宗これを奇として、延年の薬を造らしむ。その咄に、咀頼羅という薬は高山石崖の下にあり。山腹に石孔あり、孔の前に桑に似た樹あるを、孔中の大毒蛇が守る。大方箭もてその枝を射るに葉落つる。鳥がこれを銜《ふく》んで飛び去る。その鳥を射て葉を取る、と。『唐書』西域伝にもこの話あり。葉梨のごとしとあるだけ差《ちが》うが、何にしても、鳥によって宝玉を得る話に近い。(三月六日朝七時)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
 
       大鼠
 
 寛保三年板、菊岡米山の『諸国里人談』五にいわく、信濃国上田の辺のある寺に猫あり、近隣の猫をおどかし、食(490)い殺しなどして、世に言う猫またなりといえども、さすが寺なれば、追放もせで飼いけり。一日、田舎より野菜を商う土民来たり、この猫をみて、世にはかかる逸物もあるものかなと、こよなう褒美しけり。住僧のいう、所望ならば得さすべし。この男大きに悦び、厚く礼してもて行けり。二、三日過ぎて、かの男、菜大根様の物をもって謝し、御陰によって年月の難を遁れたりという。その謂《いわ》れをとうに、わが家に悪鼠一つありて、米穀を荒らし、器物を損うこと年あり。これはさることなれども、八旬に余る老母あり、夜ごとにこの髪をむしるを夜すがらおうこと切なり。昼も他行の時は近隣へ頼み置くなり。この鼠をさまざまに謀れども、取り得ず。数多《あまた》猫を求め合わするに、飛び懸かって猫を食い殺すこと数あり。きのう当院の猫に合わせければ、互いにしばらくためらいけるが、例のごとく鼠飛びつくを、猫すなわち鼠を食う。鼠また猫を咋《く》いて両獣共に死にけるとなり。その所を鼠宿という。その猫、鼠の塚あり、上田と屋代の間なり、と。
 熊楠、清の趙吉士の『寄園寄所寄』五を読むに、似た話を『湖海捜奇』より引きある。いわく、衍聖公の倉に巨鼠ありて暴れ廻り、猫を数限りなく  噴《く》い殺す。一日、西商一猫を携え来たる。その形は常の猫通りだのに、代金五十両を求め、必ずその鼠を殺すべしと言う。公信ぜぬをみて証書を要し、いよいよ克った上で仕払われよと言った。公承諾して猫を倉に入れると、米にむぐり込んで喙だけ出しおる。鼠その上を通って嗅ぐところを、猫飛び起ってその喉を?んだ。鼠哀鳴しはね跳り、梁を数十度上下すれど猫離さず。ついにその喉を断ち、猫また力尽きた。明旦よく視ると、猫も鼠も死んでおった。その鼠の重さ三十斤、と。(『五雑俎』九、「大倉の中に巨鼠あって、害をなすこと歳久し。主計の者、これを除かんと欲し、数猫を募って往くも、みな反って噬《くら》うところとなる。一日、民家より巨猫の大いさ狸のごとくなるを購い得て、これを縦《はな》って入らしむ。ついに咆哮の声を聞き、三日めの夜にして始めて息《や》む。開き見れば、すなわち猫鼠ともに死し、鼠の猫よりも大なるもの半ばあり」。)こんな咄は猫と鼠のある国には、おのずから生じたもので、必ずしも他邦に倣《なら》うて作ったでなかろう。(三月六日午前十一時)(491)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
 
     日を負うて戦うこと
 
 『改定史籍集覧』(明治三十五年発行)第十六冊に収めた『渡部幸庵対話』に、「真田左衛門佐事、先強き大将、士卒まで勇壮なり。ただし、大坂において御備の敗軍は、真田が勇気ばかりにあらず。寄手は日に向かい候ゆえ、不働なり。真田は日を後に負いて、此方をよく見分けて働きしゆえに、御旗本まで敗軍なりとて、ささやきて神君も生玉まで御立ち退きありしなり。このほど三十町ばかりなり。大将さえかくのごとくなれば、御旗本はもっともなり。この段御当家にて密事なり」とある。
 かつて支那人の間に住んで暇潰しに『水滸伝』を読むうち、誰かが、兜の真向か胸前に円鏡を掛けて戦うところがあった。何のためにしたことかと尋ねたところ、鏡面より日光を反射して、敵の眼を悩まし、自分の身を正視し能わざらしむる備えだ、と答えた。『淮南子』に、「兵を用うるの道は、冥を前にし、明を後にす」とあるもそんなことか。(『古今図書集成』神異典五四、『集異記』を引いて、永清大王神、自分、虎を多く平らげしことを説く、「虎の首帥は西城郡にあり、その形偉博にして、便捷《びんしよう》なること常と異なる。身は白き錦のごとく、額に円《まる》き鏡あり、光彩|閃爍《きらめ》いて人を害することもっとも多し」。)
 幾分こんな訳でか、「古人は日に向かって弓は引かざりし。今は狩などに出でて、獲物をみては、東西に構わず、畏敬なきの至りなり。『保元物語』に、下野守義朝は、白川殿に寄せんとて二条を東へ発向す。安芸守清盛も同じく続けて寄せけるが、明くれば十一日、東塞がりなる上、朝日に向きて弓引かんこと恐れありとて、三条へ打ち下り、河原を馳せ渡して、東の境に北へ向きてぞ歩ませける。また『盛衰記』、与一扇の紙には日を出だしたれば畏れあり、(492)要《かなめ》の程と志して兵《ひよう》と放つ、思う矢所は違えざりけり」(『甲子夜話』三五)。(長門本『平家物語』一四に、大将軍惟盛、篠原の敗北に、御方は大勢なり、敵は小勢なり、手組の軍に負くることこそ心得ね、今日七月一日、朝日に向かいて軍をすればこそ負くるらめ、引け後日の軍にせよとて、引き退く。『三州奇談』一、慶長元年、山口宗永、大聖寺城に籠り、前田利長これを攻めしに、宗永、まことに鉄砲に習熟しおり、その日、利長を撰み打ちせんと二度まで切って放ちしも、利長が着けたる鯰尾《なまずお》の兜の光、日に映じて見当を違え、みな中《あた》らず、宗永、運の叶わざるを知って自殺した、と。)ずっと古い所では『日本書紀』三に、神武天皇、孔舎衛《くさえ》の坂で長髄彦と戦い敗れて、皇兄|彦五瀬命《ひこいつせのみこと》、流失に中《あた》り畠師進み戦う能わず。「天皇これを憂え、すなわち神策を沖衿《みこころのうち》に運《めぐ》らしていわく、今われはこれ日神の子孫にして、しかも日に向かって虜を征《う》つは、これ天道に逆《もと》れり。退き還《かえ》って弱きことを示し、神武を礼祭して、背に日神の威を負いて、影に随って圧《おそ》い躡《ふ》むにしかじ。かくのごとくすれば、すなわちかつて刃に血ぬらずして、虜は必ずみずから破れん、と。僉《みな》いわく、然り、と」。そこで軍を引いて退き、他の方面から討ち入って、とうとう長髄彦を亡ぼした、とある。
 日を負うて戦う者は勝つとは、西洋でもいうことで、只今その出所を確かめ得ぬが、沙翁《シエキスピア》の劇曲に、
  “Be first advised
   In conflict that you get the sun of them.”
 また沙翁が死んだ時十歳だったサー・ウィリアム・ダヴェナント(一六〇六−一六六八年)の『ニュース・フロム・プリマッス』にも、
  “Our weapons have one measured length:if you
   Believe the opposition of the sun
   Unto your face,is your impediment,
(493)   You may remove,and wear him on your back.”
とあるそうだ。(Southey,‘Common-Place Book,’ed.Warter,1876,2nd dser.,p.359)(三月六日午後四時)
 (追記)『経律異相』四四に『十巻譬喩経』四を引いていわく、むかし、ある人山中で鬼にあい食われんとす。その人哀れみを求め、一事を問うから、その答えを聞き、のち食われても恨まないというと、宜しいと言った。そこで鬼に向かい、君の顔と脚、膝と腹は白いに、その余の処はみな黒い、これは何故ぞと尋ねると、鬼、不審もっともだ、わが性日を悪み、日に背けば行き得るも、日に向かって行き得ないからだ、と答えた。その人すなわち日に向かって走ると、鬼は追う能わず、飛んだ奴に逢ったと空しく恨んだ、と。(四月八日)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
 
       毒が変じて薬となる
 
 インドの古い咄《はなし》に、蜜城の蜜主王が三乳ある女児を生んだ。(支那では、唐の高祖生まれて三乳あったなど、瑞相のごとく書き立てあるに(『古今図書集成』人事典八)、インドでは三乳を悪相とした。)梵士を召して問うと、そんな児は父の死を速めるから、早く人に嫁して即時放逐すべし、と勧めた。よって王国中に太鼓を打って広告せしめ、今度三乳ある王女が生まれた、誰でもその夫たらん者に十万金を賜わると同時に、国外へ放逐するはず、と呼ばわらしめた。金は欲しいが放逐とは恐縮と誰一人募りに応ずる者なく、王女は密室に成長して、番茶も煮花という年ごろとなった。ところが城中に盲人あり、その手引きが駝背《せむし》だ。二人相談して、われら、かの太鼓に触りさえすりや王女と大金を賞い得る、大金が手に入ったら暮しが楽になる、王女が不吉でわれら死んだところで苦を免れて結構だ、と決議した。そこで、盲人|盲《めくら》滅相に往って太鼓に触れ、私がその王女を貰い受けましょうと言った。番人が王に告げると、王勅して盲人に王女と約束の金をやり、漁夫をして王女、盲人、駝背の三者を舟で国外へ送らしめた。三人ある町に(494)到り一宅を購い、悠々と生活するに、盲人は始終床に臥し、駝背が家事を万端勤めた。そのうち王女、駝背と私通し、共に盲人を殺して面白く添い遂げんと謀った。一日駝背がどこかで死んだ黒蛇を拾い、持ち帰って王女に授け出て往った跡で、王女その蛇を?《きざ》み酪乳と共に鍋に入れ、「ここにあなたが好物の魚を拵えおります。妾が用事をするあいだ、この匙で掻き廻して下さい」と言って立ち去ると、盲人大悦して起き上がり、他事なく掻き廻すうち、蛇の毒気が両眼に届いて瞥障《かすみ》を剥ぎ落とした。眼が明らかになってよくみると、魚と聞いたは?んだ蛇だったので、さては自分を毒殺の姦計と悟りながら、なお盲目を粧いおった。しばらくして駝背帰り来たり、王女に抱き付き口を吸い、また、それ以上のことを始むる体を、盲人よくよく見定めた上、進んで駝背の足を執え、力めて自分の頭上で撮り廻して、王女の胸へ駝背を打ち付けた。すると驚くべし、王女の三番めの乳が全く胸中へ引っ込んでしまい、駝背の背瘤がまるで潰れて真直に立ち得て、三人大満足。かくのごとく運さえよくば毒も薬、禍も福となるそうな。仏書にも似た噺あれど、それには盲目の舅を惡む子婦《よめ》どもが、彼を毒殺せんとて、蛇使いに毒蛇を求めると、蛇使い、これは彼らの舅を毒害するためだろうと思い、蛇を悩ますと頭と尾に毒が集まるから、一疋の黒蛇を杖で打ち殺し、頭と尾を切り去って中腹を与えた。それを舅に食わすと盲眼が開いた、とあり。これでは毒が薬となったでなく、無毒な中腹が眼にきいたのだ。(Ryder,‘The Pantchatantra,’Chicago,1925,p.469.『根本説一切有部毘奈耶』三一)
 本邦で河豚を食っても自殺し得ず、おまけに難病が全快した話をしばしばきく。例せば、平戸に「癩病を病みし者あり、思えらく、とても悪疾世にあるべからず、魚毒をもって死せんと、河豚を料理して飽食す。果たして毒に中《あた》り嘔血することはなはだしかりしが、癩これより癒えて、常に復せりとぞ」。予、和漢韓の本草書を見るに、河豚、癩を治すること少しもなし。しかるに、千年ほどむかしの支那書に次の話あるを見出でた。饒州の呉生なる者、夫婦和睦す。一旦酔い帰って身を床上に投ず。妻その足を扶け舁ぐに、生の足運動し、誤って妻の心胸に中って、妻たちまち死んだが、生は知らず。妻の族に訟えられて入獄した。親族輩、呉生死刑となったら一門の辱だからとて、速やか(495)に牢死するよう、河豚の鱠を幾度も差し入れた。それを食ってもさらに恙なく、にわかに赦に会って免され出た。その後子を多く設け、八十まで長生して死んだ。煮て熟せざる河豚を食ってさえ必ず死ぬ物を、幾度も生食して何ごともなかったは固《まこと》に命あるか、と書きある。これはハーバート・スペンサーが、ロンドン貧民窟の子供が不衛生を極めるから成長するとの説を駁して、素質のよい子供に限り、不衛生を極むるに関せず生き延びるのだ、と言ったに同じく、河豚を食ったからでなく、河豚を食っても寿をもって終えたので、河豚を食って癩病が直ったとは支那談にないようだ。江戸で自殺のため河豚を食って、瘡毒全治した者のことは、『梅翁随筆』五に出ず。(『甲子夜話』六〇。『輔仁本草』一六。『康頼本草』虫魚部、中品集。『本草綱目』四四。『本草従新』一七。『東医宝鑑』湯液篇二。『琅邪代酔編』三九)
 河豚の代りに砒石が癩を治した話は支那にある。いわく、分宜の人陳寿、某氏を聘し、いまだ婚をなさずして、寿、癩疾を得たり。その父媒をして辞絶せしむるに、女泣きて従わず。竟《つい》に寿に帰《とつ》ぐ。寿おのれ悪疾なるをもって、あえて近づかず。女これに事うること三年|懈《おこた》らず。寿これを気の毒がり、私《ひそ》かに砒を買い自尽せんと欲す。婦覘い知りて窃《ひそ》かにその半を飲み一蓮托生と冀うたところ、寿は砒を服して大いに吐くと頓《にわ》かに癩は癒えた。婦も一たび吐いたなりで死せず。それより組討ちをやり通し、二子を生み、家道も一儀と倶《とも》に日に隆《さか》えたので、人みなもって婦貞烈の報となした、めでたしめでたし、とある。この話の訳述か、また実事か知らねど、日本にも、お江戸本町三丁目、奈良屋市兵衛の手代、放蕩で、主人の引負いもしたたかになし、勘定立ちがたく、自殺と決心し、主人が貯えた砒霜を服したるも死せず、年来の瘡毒根治して健やかになったという。アフリカ探険兼ゴリラ猴の発見で名を挙げた人が、西熱帯アフリカでその厨奴に砒霜を肉羮へ入れて食わされ、終夜大腹痛大吐瀉して苦しんだが、毒を盛り過ぎたので死せず、反って久しく付き纏われおった熱病が全く去ったと、自記しあるを合わせ稽うるに、毒が変じて薬となった話は、ことごとく虚構また模製と言うべからずだ(『情史』一〇。津村氏『譚海』一〇。Du Chaillu,‘Adventures in Equatorial Africa,’1861,p.245)(また毒薬の名を明記しないが、下女が主人の讐から頼まれ、餅に毒を入れて主人に食わ(496)しめんとする時、かねて主人に厄介になりおる風疾患者が、その毒餅を盗み食うと、おびただしく細虫を吐き、風疾|頓《にわ》かに癒え、九十八まで長生した支那譚がある(『古今図書集成』人事典八六)。)
 終りにいう。江戸神田のある男、常に酒と河豚を好むを妻が憂い、万一河豚に中毒せば、糞汁を呑ますべしと心がけおった。一日酔い還って人事を弁ぜず。妻さては中毒したと思い、その口に糞汁を濯ぐに、夜半にして夫正気づき、われ今日其方で闌飲したるに、醒むるの早きは意外だ、また口がわる臭いというから、妻実をもって告げしに、夫大いに驚き、そのことの違えるを笑うたという。支那にも、呉に客たる者あり、呉人招いて河豚を食わしむ。まさに行かんとするに、その妻これを留めていわく、万一中毒せば奈何《いかん》。夫いわく、主人の厚意|却《しりぞ》くべからず、かつその味美なりと聞く、仮に不幸にして中毒せば、すなわち糞汁と溺を用いてこれを吐かんに何の害あらんや、と。すでに席に及んで、市者《うるもの》夜風吹くをもって河豚を得る能わず、いたずらに飲んで夜に至り大いに酔うて帰り、人を知らず、これに問うも目を瞠して答えず。妻子怖れていわく、これ河豚の毒なりと、急に糞汁を絞りてこれに濯ぐ。良《やや》久しくして酒醒め、家人を見て皇々として所以を問う。具《つぶ》さに対《こた》うるに、始めて誤りを知る、と。変なことだが、ずいぶん世間にありそうな次第、『甲子夜話』続篇五五なる前譚を、必ずしも『五雑俎』九より翻訳したとも定め得まい。(三月九日午前四時)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
 
       シメナワについて
 
 『倭名類聚抄』祭祀具七〇に、『顔氏家訓』にいわく、注連章断(師説、注連、之梨久倍奈波、章断、之度大智)。『家訓』周操篇の本文には、「偏傍の書に、死に帰殺ということあり、と。子孫|逃竄《とうざん》して、あえて家にあるなし。瓦に画き符《ふだ》に書いて、もろもろの厭勝《まじない》をなす。喪出ずるの日、門前に火を然《も》やし、戸外に灰を列《し》き、家の鬼を祓《はら》いて送り、章断(497)注連す。およそこの比《たぐい》のごときは、有情《うじよう》に近からず。すなわち儒雅の罪人にして、弾議の加えらるべきところなり」とあって、北斉の民俗、死人を葬送するに、また家へ還り来たらぬよう、種々の禁厭を用いた。その一つが繩を張って死霊の還るを防いだので、これを注連と名づけ、日本でシリクメナワに当てたらしい。東晋朝に訳された『大灌頂神呪経』一に灌頂三十六善神を挙げたうちに、弥栗頭三摩陀(善調の義)、注連を主《つかさど》る。シメナワの神だ。巻四に、「もし男子、女人、邪見の便《びん》を得るところとなれば、まさに手を洗い口を漱ぎ、清浄なる正心もて諸仏三宝を敬礼すべし、云々。五色の縷《いと》、おのおの七|条《ほん》、長《たけ》七尺なるをもって、これを左索とし、百神王の名字を存して、またみなこれを結ぶ、云々」。左索という朝鮮名に合う。これでインドにも左索を禁厭に使うたと知る。(『古今図書集成』神異典四一、雜鬼神部記事に、『還寃記』を引き、王範、孫元弼を寃殺し、その鬼《ぼうれい》に魘《みい》られ、「連呼するも醒めず。家人、青牛を牽いて範の上に臨ましめ、あわせて桃人と左索を加う。明《よあけ》に向《なんなん》として小《すこ》しく蘇《よみがえ》り、十日ばかりにして死す」。)また西晋の張華の『博物志』八に、雨を止むる祝詞あり。詞末にいわく、「雨すなわち止まざれば、鼓を鳴らしてこれを攻め、朱緑の繩もて?《めぐ》らして、これを脅かす」。雨を止めねば両神の社を朱緑色の繩で、縛るぞとおどしたので、これもシメナワに似たことだ。支那にもインドにもこんな物があったをみると、シメナワは南洋島に始まったとも一概に断ずべからざるにや。(四月十三日午前三時)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
【追記】
 清の王士禎の『池北偶談』二三に、?越地方にある三都という小怪物を述べて、術者周元大よく禹歩して誌pをなし、左合の赤索をもって木を囲み、これを斫る、木仆れてその中を剖くに、三都みな化する能わず、すなわち執えてこれを烹る、と出ず。左合の赤索は、左ないの赤い繩で、シメ繩に外ならぬ。元禄十五年西沢一風が出した『女大名丹前能』五に、阿弥陀仏前の五色の絹で作った鉦の緒を奉るべき立願したことあり。今も俗詞に紅白のシメ繩を布で作って奉ったのがある。左合の赤シメナワで木を囲むと、木の中にすむ小怪物が、繩より外へ出ずる能わず。そこを(498)木を伐って彼らを執えたのだ。一八五三年シンガポール刊行『印度群島および東亜細亜雑誌』七巻二号、ブランデル氏「マラッカ内地旅行記」に、只今(同年二月)、このクワルラ・セガメットに痘瘡はやり、土地斎忌中なり、二桿を立て、横に糸を渡し、これに葉を掛けて、人の近づくを戒む、と。地中海のシプルス島へ一九一五年旅した人の話に、村寺を綿糸数条で囲む、村人いろいろと理由を述ぶるが、悪魔の侵入を禦いで、伝染病を退治するためなるは疑いなし、と出ず(G.Jeffery,“Folk-lore of Cyprus,”Notes and Queries,115,xii,p.5)。シメ繩風の物が地中海島にもあるのだ。『法華経』見宝塔品に、「娑婆世界、すなわち清浄に変じ、瑠璃を地となし、宝珠もて荘厳し、黄金を繩となし、もって八道を界《さかい》す」とあるも、シメナワに近い。(五月十四日午前二時)  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
 
       蟷?
           能田太郎・中平悦麿「オガメとタンガク」参照
           (『民俗学』三巻一〇号五八八頁)
 
 紀州西牟婁郡富里村、大字大内川の小児、蟷?をみれば、「オガミオガマニャ、この道通さぬ」という(大正三年『郷土研究』一巻一二号、拙文「紀州俗伝」六。『南方随筆』三九五頁)。土佐幡多郡では「オガメオガメ、オガマニャ打チ殺ス」という由(『民俗学』二巻四号二三六頁、中平君説)。いずれもプロヴァンスでこの虫を神拝者というと同様、拝むの義で亀の意味でない。タガメ、クサガメ等の虫名は、その上翅が多少円くて亀に似たからで、堅きを主としたでない。それらの上翅がやや堅いにしても、蟷?の背は決して堅くも円くもなく、亀に似た処少しもなし。
 さて、この七日前から予のこの書斎に茶色の蟷 入り込み、日夜小蜘蛛などを採り活きおるをみるに、蟷?が鎌をふり上げまち構えおると、それを知らずに小蜘蛛が走り来たりて捉え食わる。また五日以前、自宅の倉の入口で大なる緑色の蟷?が鎌を振り上げ静止しおる前を、何の気も付かず、それよりも大きな蜘蛛、脚を伸ばして全体の前後の(499)径七サンチメートルなるが、走り過ぎるを取り食うを生け捕った。古支那人も蟷?よく形を匿すと言った通り、鎌を振り上げて静止するは、走り過ぎる他の虫に見付けられぬためで、梅林君の察しのごとく、他の虫を慴伏せしむるためでない。(熱帯国には、蟷?が種々変形し眩色して蘭類の美花としかみえぬ物などあるは、予も親《まのあた》り見た。本邦の諸種も、あるいは緑、あるいは淡黄褐、あるいは濃紫禍で、それ相応の色の環境に住み、形色を匿して餌を覘うとみえる。)故に、小児がその行路を遮り、拝まにゃ殺すなどいうと、たちまち静止して拝む形をなすから、それが面白さにかような慰みを常習とするので、蟷?が鎌を振り上ぐるを、他の虫が立ち留まって怖れ入るのでない。只今座右に住む茶色の奴は、初めは筆の柄でその行路を遮り、仕込んだが、訓練やや届いて、今では予が叱ると立ち留まり、左右に首を傾け考えおる体をなす。また呼べば予の膝より胸に這い上がる。(十月十九日午後五時)  (昭和六年十一月『民俗学』三巻一一号)
【追記】
 イボムシなる和名は、形容が疣に似たによった名でない。白井光太郎博士が、和漢対訳字書の始めと言われた『新撰字鏡』(醍醐天皇の昌泰年中、僧昌住編)虫部六九に、  蛙は蛸の母なり(この句の解は、二巻二号九三および九六頁をみよ)とあって、和名をイイボムシリとし、少し後れて、同じ天皇の延長中、源順朝臣が撰進した『倭名類聚抄』虫名一一二には、蟷?の和名をイボムシリとす。狩谷?斎の箋注によれば、文政中まで、相模でイボジリまたイボクイ、陸奥でイボサシまたイボムシと言った。イボジリとイボムシもイボムシリなる古名が約せられたので、イボクイ、イボサシ、共に古名イボムシリや、支那後漢の鄭玄の『礼記注』に出た食肬という名と等しく、この虫よく疣を食い除くゆえ、付けられたと判る。すなわちイボムシは、この虫の全形または一部分が疣に似たちう意味でなく、疣をむしり取って食ってしまうという意味である。食肬の肬は疣に同じく、晋代にも江東でこの虫を?肬(イボカジリ)と呼んだ由。蟷?を執えて疣を食わせ療ずることは、今も予の住地で往々見受ける。和歌山市の老人はオガメトウロウと(500)呼ぶ。オガメは確かに命令詞で、命令詞を物の名とせるは、英語のフォワゲット・ミー・ナット(忘るな)すなわちイワムラサキ草、(タッチ・ミー・ナット、すなわちキツリフネ)、邦語のナノリソ(莫鳴菜)等、その例少なからぬ。(十一月二十三日午前十時)  (昭和七年二月『民俗学』四巻二号)
 
       「紀伊の国」の根本唄
 
 明治十七、八年ごろ、神田の万世橋近くに白梅亭という寄席があって、学生どもがおびただしく聴聞に出掛けた。立花屋橘之助という若い女が毎度種々の芸当を演った。紀伊の国入りの都々逸というのをよい声で唄うを、自分生国に縁あるゆえしばしば傾聴したが、同伴の親友一山直祐(東大法学士となり、山口県あたりで、県庁の部長か何か勤務中頓死した)、木村平三郎(これも東大法学士で、阪神辺で判事だった時、兇賊ピスケンとかを裁判した。これも十余年前物故す)などが、ハーのフェイスのコンストラクションが絶好だなどと、大きな声で、種々とまぜ返すのに気を奪われ、首を誦すれば尾を覚えず、尾を呑み込めば首を忘れ、何度聴いても全くは記憶し得なんだ。在米中、川田鷹氏(故甕江先生の長男で、現在阪地の嗣郎博士の兄)にこのことを語ると、それは造作もないとて、呻って聴かされたまま控え置いた。それを取り出して見るとこうだ。
  (ドド一)
  わたしのととさん船頭で厶《ござ》る
  (ハウタ)
  紀伊の国は牟婁の郡、音無川の水上に、立たせ給ふはせんぎょく山、船玉十二社大明神、一の間天照皇太神宮、二の間は矢取りの正八幡、三の間春日の大明神、板子は住吉大明神、帆柱てんとく大日如来、帆は法華経の八の巻、帆綱は綱引天満宮、おもかぢとりかぢ、大天狗小天狗、積み込む荷物は七福神(ここで多小追分け節に似た船唄を吟じたのだが、川田氏もその文句をしっかり記憶しなかった。)
(501)  (ドド一)
  とも言はなきゃ、その日が過ごされぬ。(以上)
 これを川田氏より教わった刹那、どうも「紀伊の国」の端唄に比して、仏教味が多く、稲荷やコンコンチキのことを毫も含まず、端唄とはまるで別種と勘付いたが、その後永く忘れて、一昨年七、八、十月の本誌で、その端唄の起原を説いた際も、さらに参酌せなんだ。ところが今年二月號七八頁、饗庭君が引かれた小唄文庫の『浮れ草』の俚謡をよむと、初めの諸文句は、全く橘之助が唄うたのに合い、風体またすべてよく似ておる。よって饗庭君の御説通り、もとこんな宗教的の呪誦が、巫女の祈願に用いられたを、一方海員どもが和らげて俗化し、橘之助のドド一に挿入されたような船唄に修成し、他の一方では、通人輩が面白おかしく踊れるように、「紀伊の国」の端唄に点化したことと考う。さて、まことに卸はもじながら、小生いまだかつて『浮れ草』をみず。この書は何時誰の編で、どこで初板が出たかを饗庭君に御尋ね、それと同時に、君の「呪歌から俚謡へ」を読んで、大いに啓発されたる御礼を厚く申し上ぐる。(六月七日午後二時稿成る)  (昭和七年七月『民俗学』四巻七号)
 
       尻切れニナの話
 
 予の現住地、紀州田辺町の郊外、高山寺へ渡る会津川にニナ(方言ゴソナイ)の殻の尻が折れ欠けて白くなったのが多い。これを「弘法大師の尻切れゴンナイ」と称え、むかし大師高山寺を創むるため、この川を渉る時、この介の尻で痛くその足を突かれたので、怒ってこれを詛うた、爾来この川のニナはみな尻が折れ去りおると言い伝う。東牟婁郡湯峰でも同様の物を見、同一の話を聞いた。
 『重訂本草啓蒙』四二に、ニナは「みな老すれば尾尖腐禿す。阿州に弘法大師尻切れゴウナと呼ぶあり。すなわちニナの尾過半腐禿するものなり。『広東新語』に神仙|?《ら》という」とある。よって『新語』を閲するに、その二三巻に、(502)「神仙?は羅浮に産す。かつて仙人の囓むところに経《よ》って、尾端ことごとく破る。味はなはだ甘《うま》し」と出ず。すべてニナは年老いた物ほど味が甘い。この段女人の介味また然りで、デメトリウスは、おのれよりはるか年上のラミアに現《うつ》つをぬかし、その介の香気までも賞揚したと、プルタルクスは述べた。江南常州府祥符寺の白蓮池の螺また尾なし、山人、螺を食わんとて、煮る前に尾を斬ったところを、寺僧が憐れんで制止し、池へ放ったその後胤がこの通り、やりっ放しの尻つまずとなったという(『古今図書集成』職方典七二〇)。(『新編相模国風土記』二四、三浦郡深田村の東の海浜を米の浜と称す。この海中より一種の栄螺子生ず。その殻、尖角なし。俗に角なし栄螺と言えり。滝本寺伝に、日蓮房州より公郷村猿島に着岸す。船主平三郎、猿島より日蓮を負い、ここに来たれる時、栄螺を踏みて足を傷れり。よって日蓮呪をなせしより、今にこの地に生ずるものは角なし、と言えり。『古今図書集成』禽虫典一六三、『開化県志』に、「金水郷の余仁合の家の側に小渓あり、趙清献公かつて徒渉してここに至るや、渓に螺多くして、その足を病《くる》しむ。公、一枚《ひとつ》を拾って、その尖《さき》を去る。今に至るも、生ずる螺みな半截にして尖れるものなし」。また『余杭県志』、「宋の時、異僧あって山家に乞食《こつじき》す。その家、螺数升を獲って、すでに尾を去って釜の中に熟《に》る。僧見て、憫《あわ》れみ、ために放生《ほうじよう》せんことを請う。その家、戯れに謂いていわく、螺今また生くべきや、と。僧いわく、可なり、と。ついにこれに与う。携えて放生の池に投ずるに、日を越えて螺また生くるも尾のみはなし。今に迄《いた》るも、池中ならびに山下の※[さんずい+閨n沼の螺、ともに尾なし」。)本誌三巻一〇号五九一頁、小泉君が書かれた信濃の尻焼田螺も、同系の談で、たぷん本邦諸説は、支那に倣うてできたのだろう。(二月二十六日)  (昭和八年三月『民俗学』五巻三号)
 
       阿育王と蜂
 
 寒川辰清編輯で享保十九年成った『近江輿地誌略』六三に、『拾芥抄』にいわく、近江蒲生(郡石塔村石塔寺の)石塔、(503)むかし阿育王、諸鬼神をして八万四千の塔を作らしむ、これその一なり、毎年大蜂群集して、この塔に行道す、云々と。臣このことを寺僧に尋ぬるに、僧のいわく、かつてなし、蜂は多くありという、蜂おのが巣を作らんために、石塔の辺を巡りしなるべし、まことに外よりこれをみれば、石塔を行道するようにもみえたるべし、殊勝のことなりとあるが、そんな平凡なことなら何の殊勝ぞ。『古今図書集成』職方典八七七にいわく、「阿育王の文殊瑞像は(江西省九江府)東林寺にあり。すなわち陶侃、武昌に都督たりし時、漁人、江中に網して得たるもの。遠公東林に迎え来たり、のち失わる。明の万暦末年、遠法師の塔堂中に四菩薩の像を供う。文殊の耳に蜂の大?《おおずつ》に集《すづく》れるあり。和尚、指を用《も》ってこれを去るに、鏗然として声あり、これを洗うにすなわち阿育王の故像なり。今建てて瑞像閣あり」と。?は筒に同じ。失せたと思うた像が、蜂が?くうた筒の中から出たのだ。惟うに、和漢とも蜂を阿育王と結び付けた何かの旧伝があって、その余流が、こんな口碑となって両邦に残存せるものか。(七月十六日午前六時)  (昭和八年八月『民俗学』五巻八号)
 
(504)     紙上問答
 
       質問
           
 
一八 古支那の暦の記号
 明治二十九年、予大英博物館にありて、読書の暇にしばしば孫文氏とバビロニアの古物展覧室に往き、閑談した。そこで、ある時逸仙予に語ったは、古支那人が暦を記すに、大歳甲にあるを閼逢、乙にあるを旃蒙、丙にあるを柔地等、また大歳子にあるを困敦、丑にあるを赤奮若、寅にあるを摂捏格などと書いた。これらの号いずれも支那語でなく、全く外国語を音訳したとみえる、と。よって予、手の及ぶだけ支那学者どもに聞き合わせたが、明答し得る人はなかった。今日はもはや定説もあることと察するから、大抵右の諸号は何国に起こったということを、例の西説受け売りでも宜しく、御教示を望む。  (昭和五年二月『民俗学』二巻二号)
 
二二 白頭翁
 本誌二巻二号九七頁に書いた拙方の下女直枝|話《はなし》に、幼時紀州新宮町の明神山や坊主山に春日遊ぶと、福寿草に似た矮《ひく》い草あり。その花、内は紫色、外は紫だが自毛を被《かぶ》る。花後長き果毛多きを、試みに唾で沾《ぬ》らし、叩(505)けば分かれて鬢《びん》とタボと前髪のごとくなる。これを括って女の頭と見立て戯れとした。その名を知らず、仮に「髪ゆう草」と呼んだ。多からぬものゆえ、一本見当たると争うて採った。その後、武州秩父へゆくと、この草多くあり、土俗オチゴ花と名づけ、唾でその果毛を沾らし、ビンタボ分かれ、といいながら叩けば、分かれて上述の状をなす。それを括って楽しんだ、と。『本草啓蒙』を按ずるに、白頭翁(オキナグサ)の方言を列ねた中に、チゴバナ(加州、播州)、チンコバナ(信州)、チチコ(野州)、カワラチゴ(同上)、チンゴ(但州)、チゴノマイ(越中)、オチゴバナ(水戸)、カッチキ(飛州)とある。カッチキほ喝食《かつしき》で、『一話一言』八に、ある書(『嬉遊笑覧』より推するに、『片言』という物らしい)より「聖道にては児《ちご》といい、禅律の両宗にては喝食と言うべしとなり。むかし僧にもあらず俗にもあらぬ人が、寺院へ立ち入りて仏道を修行し侍るが、斎《とき》非時《ひじ》などのおりふし、食物を呼びつぎ侍るより事起これり、と言えり。喝食の二字は食を呼ばわる心なりとかや。しかるを、いつのほどにや、僧の慰みものになり侍りしと、ある禅僧の語られしまま、知らぬことながら書きつく」と引いた。
 ここにいわゆる僧の慰みものになった男児については、『雍州府志』七に、かつて後白河院はなはだ男色を重んず。故に堂上の男子、十六、七歳に及び、眉毛を剃り、別に竈突の墨をもって双眉を造り、白粉をもって面顔を粧い、鉄漿もて歯牙を染め、臙脂を爪端に傅《つ》け、もっぱら婦人の粧いをなす。これより流例たり、云々。爾後、寺院の喝食|小児《ちご》またこれに倣《なら》い、頭髪を背後に垂れ、また前髪少許、その末を截り垂下し、池をもってこれを額上に貼す。その垂髪の形、鴨脚葉《いちようのは》のごとし。しかして白粉を面顔に傅け、突墨を眉毛に刷く、云々。およそ喝食の体におけるや、もと今画くところの寒山・拾得の貌のごとく然り。宝町家はなはだ禅の宗旨に帰依し、時々五山の寺院に来臨す。時に僧徒喝食の中よりその容貌の美なる者を択び、白粉を傅け臙脂を粧い、斑紋の衣を著け、黒衣を服し、内に紅色の絹を縁とらし、膳を供え茶を献ぜしむ。これより流風となり、ほぼ婦人の粧いのごとし。公方家またままこれを寵し、僧徒これがために執著はなはだしく戒法に違う。まことに歎息に堪えたり、云々、と記す。
(506) (『条々聞書貞丈抄』三と)上に引いた『一話一言』と『嬉遊笑覧』一下、『守貞漫稿』八などを合わせ考うるに、もと聖道の侍童は髪を長く背に垂れ、(肩上で)入れ元結で結び、稚児姿と名づけ、禅律二宗の侍童は、髪を平元結で結うて後へ垂れ、その先を肩の辺で切って喝食姿と称えた。『松屋筆記』一〇五に、「『正月御幸始記』に、喝食、云々、児《ちご》よりは少しおとなしくなれる者のこととみゆ」と出ず。果たして然らば、男色を女色に比べて、稚児は娘、喝食は半元服に相当した時代もあったものか。とにかく本邦諸州で白頭翁を稚児や喝色で名づけた例多きをみて、古ギリシアと等しく、日本にもむかし男童が女子よりも珍重された時代があったと知る。白頭翁は近出宇井縫蔵氏の『紀州植物誌』に産地七所を挙ぐれど新宮を列せず。それを拙方の下女が幼時偶然見出だし、その痩果の尾が白熊に似たるより、毎度玩ぶヒイナ草(『骨董集』上編下の後、最末に図あり)から思いついて、女の髪に結び作り、他の児女に伝習せしめて遊んだ。のち秩父へ往くに及び、かの地の子供ら盛んに右同様の遊戯をなしおったという。これでこんなやや簡単な遊戯などは、必ずしも一方より他方へ伝うるを俟《ま》たず。物と能力さえあれば別箇に発生するを得ると判る。それについて、新宮と秩父の外の地方にも、白頭翁の果毛をぬらし、結うて女の髪容を摸すを子供の遊戯とすることありや。読者諸君の教えを仰ぐ。  (昭和五年四月『民俗学』二巻四号)
 答。自分が出した問に自分が答う。鈴木重光君の『相州内郷村話』八五頁にいわく、「翁草の花が散って、間もなく実《み》に著いておる繊毛を婦人の頭髪に擬《なぞら》え、髪結《かみゆい》のまねして遊ぶ。これを嘗《な》めて片手にもち片手をうつと、鬢《びん》や髱《たぼ》に別れるので、子供らはビンタボという。この時は次のようにいう、『ビンタボ別れ、前髪別れ』」と。ついでにいう。宝永七年板『増補地錦抄』六に、この草をチゴバナとしてある。当時江戸でももっぱらこの名で呼んだのだ。  (昭和五年六月『民俗学』二巻六号)
  答。南方先生の興味を持たれたる白頭翁(実はこれまでその名を知らざりし)の果毛を弄ぶ児戯は、小生の郷里上州利根郡須川地方にて幼時実見したり。あの辺にては、カアラチゴ(川原稚子?)と呼べり。主として川畔などの草地に咲けばなるべし。(507)しかるにこの児戯はかつて当地(高崎市)にても盛んに行なわれ、山妻の子供時代にはこれを玩具屋にて商い、一束若干にて購いては、友達同士が口中にて嘗め、筆の穂のごとくしたる各一本を両掌にて挟み、「カワラのオバサン、ビンタボお出し、一−二−三」と掛声しつつ、両掌にて撚《よ》りを呉れ、その首尾よく、ビン、タボ、前髪に三分せるを勝として競争したるものなりしという。高崎付近にては「川原の小母さん」と呼べり。しかれども現時にてはこの草を見掛くること稀なり。(本多夏彦)  (昭和五年五月『民俗学』二巻五号)
  答。信州北安曇郡大町付近では、オキナグサをチゴチゴといい、子供たちはその長い果毛を少し唾でぬらし、「チゴチゴや、ぴんつととれ」と唱えながら、花の軸を両手にはさんで廻します。また以前は果毛を種子のついたまま沢山に集めて堅くまるめ、まり〔二字傍点〕を作って遊んだものだそうです。(南浩)  (昭和五年六月『民俗学』二巻六号)
  答。多摩陵北、元八王子村辺では白頭翁の果毛長くなりたるものを採り、口中に含み潤して、鬢髱《びんたぼ》分かれ前髪《まえかみ》分かれと唱えつつ、左掌を叩きて四分せるを糸にて結びて髪の形とし、玩弄すること女児の間に行なわる。この草、白頭翁と呼びては知る者少なく、方言にてカッチキジョウロまたはビンタボと言い、今は年々濫採する結果野生の数を減じて、遠からずこの遊戯も忘れ去らるることと思う。(村田鈴城)  (昭和五年六月『民俗学』二巻六号)
  答。盛岡でツボケ、岩手郡太田村でツボケァまたはツポロケァというのが、南方先生のいわゆる「髪ゆう草」に当たるらしい。故佐々木台吉君はこれを翁草としている。ただし福寿草に似たところはない。高さ五、六寸、茎にも、葉にも、花にも、外側に白い毛をかぶり、花は六弁で、赤紫色、雌蘂は先端だけ紫色で、針を束ねたように叢生し、その周りを黄色い雄蘂が取りまいている。花が落ちれば、雌蘂は白髪のようになる。これを「うばに なった」と言い、その物を、盛岡でウバツボケ、紫波郡飯岡村ではシラガツボカェと言う。子供らはこれにチョンマゲを結って遊ぶ。ウバツボケの雌蘂の一本を抜き取って見ると、長さ八、九分、一端は尖り、一端は子房でふくれている。この子房を爪でつぶせば、かちッと皆がする。これをシラミツブシと言う。このめしべを沢山集めて、
  ケーヤ ケーヤ
  シラミァ 下ニ ナレ
(508)  ムシノコァ 上ニ ナレ
  ケーヤ ケーヤ
と言いながら、両手の間で、ダンゴを丸めるようにすれば、子房はみな外側に向き、全体は堅い毬になる。これを投げて遊ぶ。ムシノコとは虱の卵のことである。今日は四月二十四日であるが、今ごろ山に行けば、いくらも咲いている。ウバになった穂を集めて、モグサの代りにもする。(橘正一)  (昭和五年六月『民俗学』二巻六号)
  答。オキナグサは当地(秋田県雄勝郡成瀬村)ではゴゴヒメゴと言い、女子供等が髪になる部分をぺちゃぺちゃ嘗めてぬらし髪を結います。それに似た遊びは稲株です。秋水田の刈跡から稲株を引き抜いて、よく根の土を洗い、それで盛んに髪を結うて遊びます。結髪の種類は多く桃割り、銀杏返し等です。子供たちが自分の髪の長いのを喜ぶがごとく、その稲株の根の長いことを非常に喜びます。もし近所に良いのがなければ、ずいぶん遠くまで取りに行って、その長いのを自慢しあいます。(高橋友鳳子)  (昭和五年六月『民俗学』二番六号)
  答。南方氏の問われた白頭翁は陸中鹿角郡宮川村地方にも、春、野原に多く生えて、オバカシラと呼んでおります。女の子供たちは唾でぬらして髪を結って遊びます。その外、毛を毟り取り沢山集めて、「ゲヤゲヤ下なれ、ムシノコ(虱の卵)上なれ」と言いながら掌中でまるめます。すると毛は中になり、子房は外側に出て手ごろの毬になります。これははずまないので、手玉に取ったり投げたりして遊びます。(内田武志)  (昭和五年七月『民俗学』二巻七号)
  答。オキナグサを美濃国加茂郡太田町地方にてはガガンボと称し、花弁の落ちた後で、女児が石交りの原野にて取り来たり、長い果毛を唾でぬらし、髪を結びて遊んだ。しかれども、この風は今日にては大いに衰えて、ほとんどない。(林魁一)  (昭和五年七月『民俗学』二巻七号)
 
二七 女喝食
 問二二に、喝食を男に限ったもののように書いたが、女の喝食もあったらしい。『続群書類従』巻八六九所収『看聞御記』に、「永享八年四月二十五日、晴、賀茂祭なり。近所の間、見物をなす。(入江殿)今御所、岡殿方丈、衝|喝食《かつしき》(509)御所、(岡殿)喝食両人(一人は徳大寺の息女)、実際庵等参り来たる」と出ず。この女喝食は何を勤めたものか。この他にも所見ありや。教示を仰ぐ。『石田軍記』一、秀次公の姫妾三十余人誅せられた条に、十九番には「於喝食《おかつしき》の前なり。尾張国住人坪内市右衝門が娘にて十五歳とかや。武士の心に男子《おのこ》の姿ありて、器量|類《たぐい》あらざれば、児《ちご》の名をぞ付けられける。萌黄に練貫の一重表の重ねに、白き袴引きしめて」、刑場に出た由見える。いわゆる喝食姿に装うたらしい。『甫庵太閤記』一七に、濃州坪内三右衛門尉息女、おなあの御方、十九歳、とあるは同人か。それが女の喝食から出身して秀次に寵された時も、於喝食の前と呼ばれたものか。  (昭和五年七月『民俗学』二巻七号)
  答。南方先生の女喝食は、『看聞御記』にもつと見えています。伏見宮貞成親王第一王女性恵女王が、九歳にして応永三十一年四月十九日入江殿に入室、二十一日喝食となられましたが、御里を御慕いになって御落涙になった、とあります。「二十一日、晴。今日、吉日の間、御喝食成り申さる。御戒師未定の間、法名いまだ付け申されず、まず御髪ばかり、方丈剪り申さる、云々。尼衆たち、済々祗候し、面々如何と崇敬申す、云々。寺中福貴の式、大名のごとし、云々。代々の由緒、当座の名利、かたがたもつて歓喜極まりなし。御喝食は旧里恋慕し、時々落涙す、云々、心中察せられ、不便《ふびん》なり」。
  また、「大聖寺之記」には、「喝食ひたいのことも、大聖・宝鏡の両寺は、二重かつしきとて、その形ほかの比丘尼御所とは違うなり。ほかのは一重なり。大聖守宮御喝食二重に出す。上臈も喝食の出しよう同事なり。御近仕の比丘尼にならんとの喝食も得度の日一日喝食になさるるなり。ひたいの出しよう、みなもって二重なり」とて、二重唱食の図を載せて説明しています。喝食には、男女共にあることは勿論で、入寺したばかりの、いまだ正式の剃髪受具に堪えない幼僧の職位であります。私の見ました「大聖寺上申」に、「喝食侍者の訳、宗規幼年にして通戒を受け、剃髪せず僧衣を着し、これを喝食と称す。しかして受戒得度すれば、これを沙彌と称す。しかして侍者に進級、以上みな幼憎の職位なり」とありました。ですから、おっしゃるような特殊の対象となったものは、むしろ異例と考うべきではないでしょうか。もっとも『宣胤卿記』文明十二年二月六日の条に、豊後国万寿寺(東福寺末寺)の衆僧が乱行はなはだしかったので、去年十一月十八日に、にわかに寺地が陥落して、わずかに厠に入っていた沙彌一人と喝食一人が遅れたという話があり、また、『続本朝通鑑』巻一六二に、「永享八年丙辰正月二(510)十六癸巳、義教、五山に令していわく、もろもろの喝食は一色の衣を著くべし、紅色を著くべからず、かつ  紡織の服を禁ず。(禅徒の童形にして髪を垂れたる者を喝食という。)」とある服色の制限などは、あるいはある種の弊害に備えたものであったかも知れません。
  ついでに、犬の生れがわりと言われた喝食の話が、『建内記』一、嘉吉元年五月二十三日の条に見えています。「玄周来る。蔡寿、喝食なり(十歳)。論義|已下《いか》、暗誦耳を悦ばしむ。件《くだん》の蔡寿は無量寿院の下男子《げなんじ》なり。犬の再誕の由、人これを称す。かの寺に犬あり、僧衆、仏前において勤行の時、この犬必ず同音にて吠ゆ。年を送ることかくのごとく、終《つい》に仏前において斃る。いくぱくならずして、下男の妻懐妊して誕生せしところなり、よってこの疑いあり、云々」。(板沢武雄)  (昭和五年八月『民俗学』二巻八号)
 
二九 蒲焼の匂い代
 若い時しばしば聞いた笑話に、蒲焼きを拵えてる最中に、鰻屋の門を幾度も幾度も徘徊して鼻をうごめかし、さて家へ帰って喫飯するを恒例とする吝人あり。鰻屋主人そう毎日匂いをただかぎでは此方《こつち》の本《もと》がきれると、よい加減に作った勘定書を持って請求に往くと、吝人、委細承知と財布をふり続け、鰻の匂いは銭の音で仕払うから、たしかに受け取って帰れと言ったそうだ。今年五月三日ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』に、特に予を指名して、この笑話は日本で最も古く何の書に出でおるかを問うた人あり。あまり必要ならぬことながら、答えずにおくも残念と、手の及ぶ限り書物を調べたが見出でず。大曲省三、宮武省三氏等に尋ねたが、分からぬ由答え来たり。自分鰻屋で多年小話研究に潜心さるる宮川曼魚君も、これはただ寄席でしゃべくったばかりで、書物へは出なんだものだろうとの判定だった。しかし一八一三(文化十)年に出た一九の『金草鞋《かねのわらじ》』五編、鹿島行きの船客の語に、「腹がへった。そこらへ行って、蒲焼の匂いでもかいで、結びを食ってこようか。それが一番銭が入らねえでよい、云々」とあるをみれば、そのころ、またはそれより古い本に、件の笑話があるかもしれない。誰かの教示を仰ぐ。(511)  (昭和五年八月『民俗学』二巻八号)
  答。南方氏質問については、小生もかねがね注意していたことでありますが、まだ書き物になっているものを見たことはないのです。かつてプルタークの「デメトリアスの伝」の中に、ある青年がエジプトのトニスという遊女を恋し、一夜その女を買わんと欲したれど、その女は非常に高い価を求めたので、青年はそのうちにその女と楽しんだ夢を見て、それで満足してしまった。しかるに遊女はこれを聞いて、青年にその代価を請求する訴訟を起こしたところ、裁判官は両人の陳述を聴いてから、その女の請求の金額を金盥の中へ入れて、その女の前で振ってやれと命じた、というを見て、この類話が日本とギリシアのみならず、必ず他の国にも行なわれたであろうと思い、注意するけれど、まだその他に見出だすことができぬのです。南方氏は日本におけるこの話の最も古く記載せられる書を求められるが、小生は外国における類話およびそれの記せられる書の名について御教示を乞いたいのです。(野崎寿)  (昭和五年九月『民俗学』二巻九号)
  答。予が英国の雑誌紙面で特に自分を指名して問われた質疑に答え得ざるより、本誌にこれを転載して諸君の加勢を求めたるに、野崎君は予のためにその質疑を解かず、反ってその類話や書目を問われた。予に取りては十七、八の若い娘を心当てに忍び入って、四十五、六で、眼の下が紫黒くなった大味な奴にとつ捉《つか》まった感なきにあらず。だが、これも旧い女の恨みが報うたものと諦めて、大事の水を幾分か泄らすとする。
  まず金の仕払いを、手で採ることのできない物でする咄は、『ドン・キホテ』や『パンタグルエル』に出でおり、小説ずきの邦人は先刻ご承知だろう。野崎君が特に引かれたプルタルクス『列伝』中の話にもっともよく似たのは、御膝元の仏教律蔵中にある。ヴィデハー国の賢相|大薬《マハウシヤダ》、賢妻を求めて妙華城に至り、才色双絶の毘舎?《ヴイサクハ》女を娶り帰った。時に北方五百商人あり。みな販馬のためにヴィデハー国に至ると、この城中に五百の婬女あり。儀貌端正、庠序観るべく、歌舞言詞ならびに超絶し、あらゆる商客ここに来たる者の財貨をすべて遣い尽さしめた。今度また五百商人が来たと聞いて、例のごとく手に入れにかかった。ただ商主一人いまだ惑乱されず。かの倡女中最第一の者、商主の処に往き親密たらんと求めたが許されず。さらに諸人と伴《とも》に日々至れど、かの商主貞確にして移らず。さらにまた(512)しきりに来たって共に言笑をなす。商主いわく、われ邪念なし、いたずらに往返を労せん、と。倡女いわく、もし君が妾に落ちたら何を下さりますか。商主いわく、よくわれを堕としたら上馬五匹をやろう、堕とし得なんだら五百金銭をくれい、と。かく契約してから、ますます奮励して惑わしに掛かったが、商主は少しも傾かなんだ。他の商人ども、いささか気の毒に思い、城中第一の女がこれまで骨を折る、その情に逆らうは穏やかでないと説いた。ところが商主、実は昨夜われ夢に彼女と交通したから十分気が済んだ、この上会うに及ばぬ、と言った。その通り諸商人よりかの倡女に報じたので、倡女商主に逼《せま》り、すでにわが色に堕ちた以上は、約束通り上馬五匹を渡せと望み、商主は渡さぬと言い張って鳧《けり》が付かないから、王宮へ訴え出た。王、諸臣とこれを裁判に掛かったが、日暮れても決せず。翌日まで延ばして閉廷した。傍杖《そばづえ》を食って大薬大臣も例より晩く邸へ還ると、その妻毘舎?が、なぜこんなに帰宅が後れたかと尋ね、夫より訴えの始終を聴き取り、汝よく決するや否やと問われて、しからば試みに申そう、君まず王に奏し、諸臣を召し、五匹の馬を牽いて共に池辺に至り、衆中にかの倡女を喚び出し、商主が実際汝と会うたなら、五匹の実の馬を汝に渡すべきも、夢にのみ汝と会うたのだから、池に映った五馬の影を随意に牽き帰れ、と言い渡されよ、さて馬の影は牽きも使いもならぬ物といわば、夢中で女に会うたのもそれと同然、と示し遣《や》れよ、と言った。明日大薬その妻の教えのままにこの裁判を行ない、事をうまく済ませたは、毘舎?内助の力に出たと聞き伝え、遠きも近きも押しなべて感ぜぬ者こそなかりけれ、とある。(『根本鋭一切有部毘奈耶雑事』二八。Schiefner,‘Tibetan Tales,’London,1906,pp.162-164)(また『百喩経』》下に「伎児楽を作《な》すの喩え」あり、「譬えば、伎児の王前にて楽を作《な》すがごとし。王、千銭を許《やくそく》す、のち王に索《もと》むるに、王これを与えず。王これに語っていわく、汝|向《さき》に楽を作し、空しくわが耳を楽しましめたり、わが汝に銭を与うといいしも、また汝の耳を楽しましめしのみ、云々、と」。)
 貞享五年板『西鶴栄花咄』一の四に、「さる末社男|時雨《しぐれ》して物の淋しき夜、わが宿は浅草川の浪枕、宝舟に乗りた(513)る心地して、いかひ比《ころ》見たることもないよき夢に、番町筋のさる御方様に付きて、忍びの内桟敷に居て、猿若勘三郎が芝居をみしに、日ごろはふつふつと野郎嫌いなれど、芸の間《ま》に尋ね来て、べったりともたれかかられ、口添えての小盃《こさかずき》、これはなんともならず、欲しや金子二両、今宵この気より移りて、あの子をさてわが物になして、惣釣《そうづり》に結いたる髪のわけめを、この鼻先へさわらせ、昼の狂言にお姫様になったる尻つきは、ここであったかとさすりおろしてみたしと思ううちに、この大臣は屋敷へお帰りの首尾に極まりぬ。いろいろ止めても明日は御番の由、これ残念とばかりに、少し送り参らせけるに、さらばへとのお詞の下より、御鼻紙一折お手ずから給われり。すぐに笛吹の喜太郎が方に、みれば小判五両、これ自然と天の与えるところなり、われらその子に執心、最前より今にやむことなし、然る折ふしこの仕合せ、何とぞ才覚してあわしてくれよ、ひとえに頼むと言えば、それはわれらの手に入ったること、先へ御案内申して御同道仕るべしと、宿を出てゆくを、これこれと呼びかわして、分別すれば、紬《つむぎ》が三匹買わるるによって、これはまずやめにという、平《ひら》に平に遊ばせ、身金ではなしと勧むる、いやいやと、せぬにきめて後、小判を横ひだの巾著に入れると思えば、この夢はさめける。さりとは浅猿《あさまし》や、夢にさえ無用の始末をして、これ一代の損なり、思い切ってすれば、夢の心の楽しみなる物をと、このことを人に語りて、常々さもしきわが身の上恥じける」。
 とんだ野郎と盃を取り交わしたのと、究竟《くきよう》まで交会したのと、夢は夢ながら、満足の程度が大いに差《ちが》う。馬の影は、
見たばかりで、何の落とし、何の獲るところなけれど(世親菩薩の『破色心論』に、「人、夢中において、実《まこと》には女人なきに、女人に見《あ》いて身《からだ》と交会《まじわ》り、下浄を漏失するがごとし」と言える通り)、美倡に逢うて思いを晴らしたと夢みたら、十分に歓楽怡悦した証拠に、何か落としておるはずだ。故に毘舎?が夢中の交歓と上馬の影を一視したは、臨時の名案だが正確な道理の上に立たぬ。このことについていろいろと諸家の妙論も聞き得たが、本誌に不適当な筋が多いから今は述べない。ついでにいう。今より七十余年前、ニコルス博士なる人‘Esoteric Anthropology’等の書を著わし、養生法を説いて英米人に持囃《もてはや》された。その内に青年は慎んで精を貯えて洩らさず、充ち溢るる期に至ら(514)ば、夢に任せて快く洩らし去るべし、と教えあった。つまり夢中交会を保健の一安全弁と主張したのだ。今一つは、マリノフスキーの近著処々等にみえるごとく、メラネシア人などが、方術もて意中の男女と夢中に会う。それが阿漕が浦にひく網の度重なりて、ついに本当の親昵となるというところだが、彼ら自身にありては、男と女と同時に夢を見て満足するのだから、形骸が相就かぬばかりの差《ちが》いで、初めから本当の親昵だ。こんなヤリ方、また、サセ方だったら、むろん女は男に、五上馬なり五百金銭なりを要償すべき理由が立つと惟う。(九月二十三日)  (昭和五年十月『民俗学』二巻一〇号)
  答。南方先生が八月号で鰻の匂いと銭の音の小咄について問うておられた。それは安永九年板『大きに御世話』という小咄本に出ておった。全文次の通り。
  「蒲焼」。吝《しわ》いやつ鰻屋へ行って蒲焼の匂いをかいで来ては、それを菜《さい》に飯をくう。鰻屋、あまり吝いやつだ、憎さも憎し、と書出しを持って行く。「コレおれは借りた覚えはないぞえ。「イエ蒲焼のかざだいが八百文ござります、匂いをかいでは喰った気になってござるから、こっちでも喰わせた気になって銭を取りに来ました。と理の当然にしかたなく、八百文板の間へ投げ出し、「そんならとったと思って銭の音を聞いて帰らっしゃれ」。(桂又三郎)  (昭和六年二月『民俗学』三巻二号)
 
三一 飲食物に様の字付けて呼ぶ
 『委陀《ヴエーダ》』時代のインド人は白前《びやくぜん》科のソマ草の汁で酒を醸し、尊んだあまりこれを神とし、古エジプト人は球葱《たまねぎ》とニンニクを崇拝し、その名を引いて誓言したとか。寺島良安説に、邦俗米を菩薩と呼ぶから(『柳庵随筆』五、『鶏林類事』、「白米を漢菩薩といい、粟を田菩薩という」)、米を食う虫を虚空蔵というとは、洒落じみた言だが、吾輩亡父の手代頭だった人などは、心底から米は人を救う菩薩と信じこみ、毎食必ず合掌|膜拝《もはい》して後に食った。むかし豊後の富人が、戯れに餅を射ると、白鳥に化して飛び去った。福神が去ったのだから、その家次第に衰えたという。こんなに飲食を神視した余風でもあろうか、松浦静山侯の記に、天保ころ、上州草津で食品を売り歩く者、「その名を(515)呼び行くに、お芋様、豆腐様など呼ぶ、尊称|咲《わら》うべし」とある。(‘The Encyclopedia Britannica,’14th ed.,1929,vol.xx,p.294;Wilkins,‘Hindu Mythology,’1913,p.69 seqq.;Pliny,‘Natural History,’.ed.Bohn,bk.xix,ch.32,foot-note 51;Gubernatis,‘Mythologie des Plantes,’Paris,1882,p.256;『和漢三才図会』五三。『塵添  塩嚢抄』三巻二七条。『甲子夜話』続八二)
 紀州田辺町また同風で、今も、ある食物、例せば粥や豆をオカイサン、マメサンと呼ぶもの、ことに婦女小児の常事たり。ただしカボチャサン、カラシサンなど言わず。食えさえすれば何でも様づけにするにあらず。その凡例はおいおい調査して申し上げるとし、ここには現時、田辺の外にも、ある食物の名に様の字を付けて呼ぶ所ありやと問う。(九月二十二日夜)
 (追記)寛永ごろの物らしい『昨日は今日の物語』下に、舅が山家育ちの婿に切麦をふれまう。「一段と味の面白き物ぞと思い、酌取女に、何という物ぞと問えば、我名のことと思い、こいと申すといえば、よくよく覚えて、後日に礼文を遣りけるとて、先度は初めて参り、いろいろの御もてなし、ことにこい殿味忘れがたく候、馴れ馴れしきことにて候えども、此方《こなた》へちと給わり候わば、いよいよ満足たるべく候、と書いて遣わしければ、舅これをみて、言語同断、わが秘蔵の物を盗みながら、うつけにするかとて、やがて娘を取り返した」とある。食って旨かった鯉を殿づけにして尊重したのだ。  (昭和五年十月『民俗学』二巻一〇号)
  答。自分の問に答う。安政中大阪町奉行だったあいだに見聞のほどを筆した久須美祐雋の『浪花の風』に、ゆで豆売りが「ゆでやのおさやさんよう肥えたの」、蒟蒻の田楽売りが「おでんさん、年三つ」(価三文)と呼び歩く由見ゆ。明治十八、九年ごろまで和歌山市でもそうだったが、その後のことは知らず。(十月三十一日)  (昭和五年十二月『民俗学』二巻一二号)
  答。京阪地方の婦人が食物にサンをつけることを時々聞いて、言葉使いの叮寧なのであると思っておった。岡山市で呼売が言っておるのは、 改行
(516)  「オデンサン アツアツー」
  「チンチン マメサン」
  「上カラ食ウタラ 下マデオイシイ オキビチャンノアツアツー」
なお芋サン豆サン等は、われわれの家庭でも時々女の言うておるのを聞く。(桂又三郎)  (昭和五年十一月『民俗学』二巻一一号)
  答。岡山県、香川県、高知県、愛媛県においても、「オカイサン」「オマメサン」と言います。(佐藤新平)  (昭和五年十二月『民俗学』二巻一二号)
 
三二 千日詣り
 寛永十八年斎藤徳元編『俳諧初学抄』に、清水寺千日詣り、七月九日夜より十日朝までなり。貞享二年刻、黒川道祐の『日次記事』には、「七月九日。明日は清水寺の千日詣り。今日より参詣人あり、夜に入ってことに多し、云々。七月十日。清水寺の千日詣り。俗に伝う、今日参詣すれば、平日の千度に当たる、と。あるいは謂う、四万六千日に当たる、と」。延宝二年坂内直頼著『山城四季物語』四には、七月十日清水寺千日参りのこと、きょう観世音に参詣せしむること、よの常千日の日参に異ならぬ功徳とて、千日参りといい、あるいは六万六千六百四十日に対《むか》うなんど言えり、云々。これらを読むと、そのころの人はすこぶる信仰が厚かったようだが、寛文二年板、中川喜雲の『案内者』四に、七月十日、清水千日詣り、この夜舞台にして、参詣の若き者ども踊りをする、とあるから見ると、信心はほんの口先で、男女入り乱れて踊り狂い、それより進んで、特種高尚な学課を実践と出掛けたのだ。いずれの書にも当夜おびただしき人出と書きあれば、その踊りはなかなか盛大だったろう。さればこそ天和三年に出た『島原大和暦』三には、七月十日、清水千日詣り、つづきといい、かたがたの日なれども、きわ近ければ来る人少なきとぞ、と書かれたるなれ。全く踊りが面白くて遊廓へ足が向かなんだのだ。宝暦二年梅嶺著『世間母親客気』五の三に、「慾(517)の世の中に生まるる衆生を見付けて、一日参れば八千日参りに当たるという日を拵え、それより万日に当たる日、五万日に当たる日という書付けを堂塔に張り付く。愚かなる人これを慾日参りと言えり。仏菩薩へ参るに慾日と名こそ怪しき。およそ一年を三百六十日と積もり、百年にて三万六千日なり。四十歳の人、一度五万日に当たる日に参れば、八十で死んでも、その生きておる日数一万四、五千なり。五万日の内にて引いてみれば、三万五千日ばかりの過上、未来まで仏菩薩への掛けになりて、いかに仏菩薩なりとても、返されいではその罪重かるべし、云々」と論じある通り、よっぽどたわけた話だが、清水寺に限らず、諸方へこの風が伝播したとみえ、文化五年発行『改正月令博物筌』七月部一に、清水千日参り、観世音菩薩へ今日参詣すれば千日に当たる、あるいは四万六千日に当たるとて、諸方へ参詣するなり、京清水、江戸浅草、大坂天王寺そのほか諸方観世音、昨今参詣おびただし、河内野崎観音、和州奈良二月堂、と見ゆ。その他、享保二年板、操巵子の『諸国年中行事』三に、七月十日、京清水寺、大阪天王寺、江戸(浅草)観音、各千日詣り、と記し、安永二年花楽散人著『北里年中行事』に、七月十日、観音四万六千日はなはだ群集《くんじゆ》。同九年、川野辺寛が上州高崎のことを述べた『閭里歳時記』下に、七月十日、昨夜より今日まで、石原清水寺の観音四万六千日参りということあり、今日参詣すれば、かの日数参詣せるに同じと言い伝えて群集す、また今夕より赤坂下町観音に参詣多し。寛政中、玉田永教著『年中故事』九に、六月二十四日、愛宕山千日詣り、今日詣すれば、平日の千日に当たるという、夜分松明提燈にてのぼる、云々、などあるをみて、観音に千日詣りの四万六千日詣りのということ清水以外へ広く伝われるのみか、観音に縁なき愛宕山などまでも弘まりおったと知る。
 この田辺|辺《へん》に観音様は多少あるが、千日詣りなどいうことを聞かぬ。今も他地方に行なわるることか。しかして七月十日に詣れば平日の千倍また四万六千倍等の効験ありとは今も言うことか。諸君の教示をまつ。これに似た外国の例は差し当たりただ一つを知る。それはペルシアで十二月の二十日の夜をチェブカドリ(効験著大な夜)と呼ぶ。学者あるいはその夜とも、またはその翌夜とも異見あるゆえ、いずれにしても取り外さぬよう、三夜続けて勤行を怠らず。(518)この一夜の祈念の功は平日千日祈念の功に勝り、満足に勤めたら、夜明けに天使が祝いにくるという。(‘Voyages du Chevalier Chardin,en Perse,et autres lieux de l`Orient,’éd.Langles,tom.ix,p.208,Paris,1811.)(九月二十三日)  (昭和五年十月『民俗学』二巻一〇号)
  答。自分の問に自分答う。この問を出した数日後、和歌山市の人来たり言ったは、同市に遠からぬ紀三井寺の観音へも、七月九日夜より十日の朝まで、群集断絶せず参詣し、これを千日詣りと呼ぶ由。また拙宅の長屋にすむ人、二十七年前神戸市にあり。陰暦の七月九夜、摩耶山へ参った。その夜を四万六千日と称え、この夜一度参れば、他の日参るに四万六千倍の功徳ありと言った。闇中に高く登るため、路傍に石油に浸した綿花を団《かた》め針金で縛り、提灯様に小竿の端に結び垂れたるを売る。これを買い松明に代えて上り下りに三つばかり使うた。堂に達せぬうちに大きな石の手水鉢あり。その縁に水を滴下すると六文銭のごとく周囲|沾《うるお》い、真中沾わざる紋様を現ず。真田幸村、宿願あって当山に籠りしより、今にこの霊験ありと聴いたが、夜分ではあり、群集に推されて試査するを得なんだ、と語る。また当時陰暦の七月二十夜より二十一日の朝まで再度山の弘法大師へ群集参詣してこれまた四万六千日と唱えた。当夜は晩くより月が現ずるから、綿製のカンテラを売りもせず、用いもせなんだ。右両夜とも十二時過ぎて群集が参詣を初めた、と語られた。
 再度山は知らず、摩耶山今はこの参詣を新暦に繰り替え定めたとみえ、宮武省三氏来示にいわく、「四万六千日の摩耶山詣りは大変なものにて、本年の四万六千日は、新暦八月九日(旧暦六月十五日)に当たりしが、御詣りは八日の宵の口から当日(九日)午前まで、夜通しおびただしき人出で、自分もその賓客の多きに驚きたる始末に候。自分が住む六甲篠原より上筒井という処まで、日々乗合自動車往復致しおり候が、この日は、上筒井辺は道幅狭き上、参詣人殺到のため、バスは途中までしか往かず。いかに群集のおびただしきか、これにて推察下されたく候。貴書に再度山とあるも、神戸には四万六千日と言わば摩耶山詣でと極まりおるように見受けられ候」と。『摂陽群談』一五に、仏母(519)摩耶山|?利《とうり》天上寺は、釈尊が鋳造せしめた十一面観音を本尊とす。摩尼山大竜寺は、世俗再度山と号す。本尊は行基僧正一鐫三礼の如意輪観音、本山開創和気清麿夢中感得に係《かか》る、とあって、いずれも観世音を本尊とす。しかるに大同中、弘法大師渡唐に臨み、摩尼山に詣で、冥加を祈り、伝法東旋して再び来たって礼詣りを遂げ、尋《つ》いで駐錫して密法を修したから、再度山と号すという。さて盂蘭盆前に観音へ千日詣り四万六千日詣りということ流行して、摩耶・再度両山ともこれを行ないしが、それでは競争の極、両損となる惧《おそ》れなきにあらざるゆえ、相談して摩耶山は盆前、再度山は盆後に、四万六千日詣りを催すことに定め、幸い二十一日が弘法のゴネた日だから、七月二十一日をこれに充てたと惟わる。(十一月二十六日)  (昭和五年十一月『民俗学』二巻一一号)
  答。岡山地方では毎月朔日に神詣りすると、平常詣るより一層功徳があると言われておる。また岡山県吉備郡高松町の最上稲荷へ大晦日の夜詣ると、一年中詣ったのに相当すると言って、その夜は大変賑う。汽車等も終夜運転で、所々に焚火をし、境内は人で埋まる。
  なお大雲寺蔵版「普門示現施無畏品」の終りに、功徳日として、正月元日百日に向、二月晦日九十日に向、三月四日百日に向、四月十八日百日に向、五月十八日四百日に向、六月十八日四百日に向、七月十日四万六千日に向、八月二十四日四千日に向、九月二十日四千日に向、十月十九日四百日に向、十一月七日六千日に向、十二月十九日四千日に向、と出ておった。(桂又三郎)  (昭和五年十二月『民俗学』二巻一二号)
  答。遅れ蒔きながら南方先生に御答え申す。千日詣りにつきて左の二記事発見しました。その一は、明治三十四年版『津市小観』二一頁、年中行事八月の項に、「陰暦七月十日、この日観音に参詣すれば功徳四万八〔傍点〕千日に向かうと伝え、前夜半よりして陸続賽詣の客を絶たず、俗呼んで慾参り〔三字傍点〕と称す」とあります。四万六〔傍点〕千日より二千日多いとはありがたい。
  しかし、清水寺の六万六千六百四十日には敵すべからず。右いう観音とは津市の浅草なる慧日山観音寺のことなるべし。その二は、大正十三年八月発行雑誌『難波津』七号一六頁に、「陰暦七月十日(現時では八月十日)は千日参りと称し、この日に詣でるものは、平日の千度もしくは四万六千日に当たるというので、参詣者はすこぶる多い。按ずるに、この日は観音欲(520)日の最上日で、つまりは大徳用の礼拝デーである。大阪および大阪付近の人々は、この日未明より仏法最初の四天王寺に詣で、境内であきなう槇の心(槇の葉を束ねたもの)を買い求めて帰宅し、聖霊祭りの供花の心に用いる。むかしはこの十日の外、同じ月の十六日に聖霊送りと唱え、四天王寺に参詣し、やはりその日も千日参りというたと『浪花のむめ』に書いている。白縁斎梅好の狂歌にいわく、「千日に刈った萱にはあらねどもけふ一日でつみがほろびる」「艾よりききめのつよい天王寺けふの一トひが千日まゐり」とあります。御参考までに。(藪重孝)  (昭和六年二月『民俗学』三巻二号)
 
三四 施行の功徳他に倍する所
 千日詣りについて書籍を調べるうち、『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』巻五に珍なことあるを見当てた。いわく、鉢羅耶伽国(プラヤーガ)の大施場は、北に恒河、南に閻牟那(ジュムナ)河あり、倶《とも》に西北より東流してこの国に至り出会う、二河会う処の西に、周囲十四、五里で、平坦鏡のごとき大きな?(『康煕字典』に、「野土なり、また壇と通ず」。ビールの英訳には、平原の義、としある。広場《ひろば》ぐらいのことであろう)あり、むかしより諸王みなその地に就いて行施す、よって施場と号す。相伝う、王もしこの地において一銭を施さば、余処で百千銭を施すに勝ると、これによって古来共に重んず、と。こんな場所がこの他にも例ありや。  (昭和五年十一月『民俗学』二巻一一号)
  答。一八七六年板、サウシーの『随得手録』二輯六四〇頁に、メッジレッドジンの『東方人文の鉱山』から、「エルサレムで行なうたことは、善悪共に、他の地で行なうたより千倍大きくなる」と引きおる。故に、ここで一銭を施さば、その功徳他処で千銭をまくに当たり、他人の妻を一番すれば、他処で千番やつたほどの重罪になるのだ。(二月五日)  (昭和六年三月『民俗学』三巻三号)
  答。問にはやや外れておるが、似た点もあるので、書いてみる。
  A 岡山市付近には、御大師様《おだいつさん》と言うて、毎月二十一日にはたくさんの人が大師巡りをす。これには多少にかかわらず必ずオセッタイが貰える。平常の月は豆、煎餅、燐寸《マツチ》等比較的少ない。しかし四月と八月の月は特に功徳が多いというので、オセッ(521)タイもなかなかたくさん出る。八月なら氷、あま酒、すし、おこわ、西瓜(西瓜等は小さい分は切らずに一個呉れる)等で、参詣人は肩にかけた布の鞄に一杯つめて帰る。なおオセッタイする人は特に信仰の厚い人、または願をかけたお礼等にす、場所は寺院内。
  B 四国巡礼や小豆島巡礼をする人に、納札または散銭《さんせん》をことづければ、詣ったと同様の功徳があると信じられて、今も盛んに利用せられておる。また、奉納四国八十八ヵ所、と納札を千枚書けば、詣ったと同様の功徳がある。春になると、岡山市内に小豆島の遍路が多数入り込む。団体は特別であるが、老人等で一人|乃至《ないし》五、六人で遍路しておるものは、家ごとへ、お散銭をことづかります、と言うて金を貰いに来る。これはこの遍路に金を施せば詣ったと同様であるという。(桂又三郎)  (昭和五年十二月『民俗学』二巻一二号)
 
三五 京都の男色肆
 文化四年−二十二年の間に成った小宮山昌秀の『楓軒偶記』巻二に、「この間、僧の陰に妻あるを名づけて大黒という。これは京に夷町あり。男色を売る所なり。これに対していうなるべし」と見ゆ。宮川町は維新前男色肆で高名だったこと、西鶴、自笑の戯作や『守貞浸稿』に見えるが、夷町という名は男色に関して一向聞き及ばず。そこに男色肆あったはいつごろのことか、識者の教えをまつ。ただし予は京都至って不案内ゆえ、宮川町と夷町の同異をすら知らぬと書きそえおく。『続南方随筆』三八四頁に引いた通り、大正十四、五年の交、『大阪毎日』紙へ出た大正老人の「史家の茶話」に、万里居士の『梅花無尽蔵』に、長享二年十一月二十八日、宿房の大黒を招き晨盤《しんすい》を侑《すす》む、云々、とて詩を出しあるを証として、足利義尚将軍の時、すでに僧の妻を大黒と呼んだと説かれた。小宮山氏は水戸侯の侍読だった人ゆえ、妄りに洒落半分の臆説を述べたとも思われず、果たしてその説のごとくんば、夷町の男色肆は足利幕府時代の中葉すでにあったものとなる。不審でならぬ。(十一月十七日)  (昭和五年十二月『民俗学』二巻一二号)
(522)  答。この問を出して、一年余になれど、答が出ない。近日志州鳥羽町の岩田準一氏へ聞き合わすと、すぐ返事があった。いわく、正徳元年板、坂田雪庭の『山州名跡志』四に、「宮川。今宮川町というその所なり。古老いわく、この辺北方に、古え禹王廟あり、これによって、その西面鴨川を称して、宮川というなり」とみえ、後に、「蛭子《えびす》社。「三猿堂の傍にあり。東を向く。蛭子像(原注略)、作は伝教なり。伝えていう。この社初めここより東方、三条通人家の傍にあり」。この像を  刺《かす》めて行く所知らざることたびたびに及べり。たちまち神祟あるをもって貯うる能わず、みな夜に入って社に還し置きぬ。この故に社をこの所に移す。霊感新たなり。件の旧地を今なお蛭子町という。その地にありしことは、洪水に流来せり、その元を知らずという」と出す。以上の記にて、宮川町、蛭子町は別町なりと判れど、蛭子町にも男娼ありしこと、御教示により、初めて知り申し候、と。
  これで夷町は、男色肆で高名だった宮川町と別とは分かるが、夷町に男色肆ありしは、いつごろということは判らぬから、重ねて識者に教えを乞う。馬琴の『夢想兵衛蝴蝶譚』に、色事の諸態を列べた中に、「夷は男色」という語あるも、この夷町で串童《かんどう》の色を売りたるを指したものらしい。(一月八日朝六時)  (昭和七年二月『民俗学』四巻二号)
 
四〇 雷と天井
 貞享三年板、西鶴の『好色五人女』四の二、八百屋お七が老母と吉祥寺に宿りおるうち、一夜住職衆僧と共に外出し、「跡は七十に余りし庫裏姥《くりうば》ひとり、十二、三なる新発意《しんぽち》一人、赤犬ばかり、残るものとて松の風淋しく、虫出しの神鳴《かみなり》ひびき渡り、いずれも驚きて、姥は年越《としこし》の夜の煎豆取り出すなど、天井のある小座敷たずねて身をひそめける」。年越の夜の煎豆は雷を避ける効あると、今もこの田辺等でいう。「天井のある小座敷たずねて、云々」は、去年十一月出板、三田村氏の『五人女輪講』、諸氏の解説が物に成っておらず。さっぱり判らぬらしいが、この辺で雷は二重の物を通さぬというて、蚊帳をつり、また二階下の室に走り込んで雷を避ける。そのごとく、屋根裏と天井と合わ(523)せて二重になるから、二階なき家では激雷の節、二階なしで天井ある室に楯籠《たてこも》ったものと想うが、実際近時まで二階なしで天井ある室は雷に打たれぬと信ずる所もありや。諸君に質問する。(元日)  (昭和六年二月『民俗学』三巻二号)
  答。南方氏が挙げられた田辺地方とは一衣帯水ゆえ、同一サークルのものかと思いますが、御参考までに。阿波海部(明治三十六年)産の家内の話に、少時雷鳴はげしき時は、天井のある室に走り込み家内中縮まりいたり、と。雷公は天井裏を這うて隅の方へ行きよるものやからと言う由なり。なお線香を焚きもする、桑原も唱える、と。(山田角人)  (昭和六年三月『民俗学』三巻三号)
  答。岡山県児島郡地方では、雷は三天井を通さぬと信じられておる(水原岩太郎氏談)。すなわち雷に蚊帳を吊るのは、屋根、天井、蚊帳(天井の代りとなす)と、三重の天井で落雷を防ぐためである。なお天井絹、蚊屋絹とか、布幔を張って天井とすると言うようなことを読んだ記憶があるが、雷、天井、蚊帳の三角関係ともいうようなものがあるのではないでしょうか。(桂又三郎)  (昭和六年三月『民俗学』三巻三号)
  答。土佐国幡多郡では、今もなお雷鳴の時は、二階下、天井の下|乃至《ないし》蚊帳の中に避難すべしと信じおる。初雷の時節分の夜の煎豆を食うこともまた田辺と同じ。(中平悦麿)  (昭和六年三月『民俗学』三巻三号)
  答。雷鳴はなはだしき時は、蚊帳をつり、線香をたて、しなねさま〔五字傍点〕(国幣中社土佐神社)の松をたく。――高知県長岡郡田井村地方。(沢田広茂)  (昭和六年七月『民俗学』三巻七号)
 
四三 荷ない桶の水はね出るを防ぐ法
 一八九七年ロンドン板、キングスレイ女史の『西|非《アフリカ》行記』五四〇頁に、カメルン地方の女児が川の水を汲んで、懸崖上の家へ運ぶに、椰樹葉一片を水上におき、器の外に水がはね出るを防ぐ、と記す。五年前、紀州にもこれに似た風あると知った。中森瀞八郎氏より来信に、南牟婁郡の某村の男女が、荷ない桶で水を運ぶに、細長い長方形の板二つを十字形に結び合わせて水面に浮かべる。そうすると、荷なうた人が疾く歩んでも、水は決して桶の外へ跳り出(524)ぬ。まことによく考えた物だ、とあった。当時氏は病気で、程なく予と絶信し、その手紙も失うて、その詳を知るに由なきも、荷ない桶から水がはね出すを防ぐ設備をした所は、件《くだん》の某村の外にもあることと察する。よってその類例を示されたいと願いおく。(二月三日)  (昭和六年三月『民俗学』三巻三号)
  答。大阪府泉北郡高取町南住、斎藤正文氏より報知にいわく、「貴問にみえた、長方形の板二つを十字に組み合わせて水面に浮かべ、水が荷ない桶よりはね出るを防ぐ法は、私故郷、香川県多度津町等、少なくとも西讃一円では、始終行なわれています。今は水道が行き渡りましたが、町内数ヵ所のみに限られた飲料井から、かなりの距離をくみ運ぶ際、水がはね出るを防ぐためで、幼少からそれをみなれている私は、現在でも、その方法は、荷ない桶で水を運ぶ際の、当然の方法と考えています。また御承知通り讃岐は製塩地であります。塩田において、濃塩水を釜屋(塩煮場)へ運ぶ際は、稲葉製の二つに折り曲げた形の物を、右十字板の代りに用うることがあります。目的は前に同じ。東讃地方のことは詳しく聞き及ばず」と。(五月二十五日早朝)  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
  答。鳥取県岩美郡大岩村地方。下肥《しもごえ》(糞尿)を運ぶ節、切稾《きりわら》とて藁を五、六寸の長さに切ったものを、一握りぐらいずつ、桶の中へ入れる。桶には蓋がない。それから、飲用水を運ぶ節には、まま椿の小枝、蕗の葉、その他のあり合わせの草木の葉などを入れて、運ぶこともある。しかし、これは必ずそうするという程度ではない。(橋浦泰雄)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
  答。岡山県児島郡粒江村では、開墾地のこととて、井戸を掘っても塩水しか出ない。そこで山上の池へ水を汲みに行くが、その時桶の中へ、幅二寸、厚さ二、三分の十字形に組んだ板を入れる。この十字形に組んだ板を入れることは、岡山市にても現に酒屋で使用されており、また都窪郡早島町地方でも行なわれておる。なお早島町では、五寸ぐらいの四角な板とか、鍋ぶたを、現に桶へ入れておる。また小田郡北川村にては、田へ水を運ぶ時に担う桶の中へ、七、八寸に切った藁とか、稾を環にしたものを入れる、御津郡馬室下村にては、カイ(藁を一寸ぐらいに切ったもの)を入れる。都窪郡帯江村にては、モロの葉(モロ松の枝)とか松の小枝を入れる。また児島郡地方の酒屋では、七寸四角ぐらいの簾を入れる。なお下肥に五寸ぐらいに切っ(525)た藁を入れることは、広く行なわれておる。
  かつて私が奇妙に感じたことは、御津郡加茂村の山の奥で、野壺の上に股がるような大きな便所に入ったことがある。踏み板と壺との間に横に一本の棒がある。これは用便の際、一度その棒に当てて、それから壺に落とすのであって、少しも上に跳ね上がらない。これらもよく考えたものだ。(桂又三郎)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
  答。人糞・尿を担い桶にて運ぶ時は、籾殻または藁を輪のごとくまげて、桶の中に浮かべてはね出るのを防ぐ。――高知県長岡郡田井村地方。(沢田広茂)  (昭和六年七月『民俗学』三巻七号)
  答。私も子供の時、かたぎで水を汲む時は、こぼれないように、大きな木の葉をとって水上においたものです。奈良県般若寺町。(久長興仁)  (昭和六年七月『民俗学』三巻七号)
  答。広島市に上水道が設置されないまでは、水汲みさんと称して、河川の水を汲み、売り歩く人がいた。その人たちが川から水を桶に汲んで町を歩くのに、その水のはね出るのを防ぐため、長さが桶の直径よりやや短い、幅二寸ぐらいの板を、二枚十文字に打ちつけたものを、水面に浮かべるか、または六角形様に切った板を、水面に浮かべるなどしていたものだと、僕の母は話していました。(磯貝勇)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
  答。人糞を担い桶にて運ぶ時は、籾殻または藁切を入れる風俗は、鶴岡市付近の農家にもあり。なお伊豆大島にて水類を運ぶときは、椿の葉を浮かべて運ぶを見ました。(国分剛二)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
  答。酒屋の杜氏たちが造り込みに使う水を庄屋井戸から汲んで運ぶ時、水のはね出るのを防ぐために、薄板を十字に組んだものを浮かしてあった。棕梠《しゆろ》繩で桶の手に繋《つな》いであり、不用の時はぶらりと垂らして置く。これは土佐の幡多郡全体を通じて行なわれるところ。この杜氏は、田ノ口村出口および伊屋に最も多いが、他郡にも県外へも出稼ぐらしいから、この方法は何処か他処から将来されたものかも知れない。下田ノ口では、盆の十六日に海潮を汲んで来て雪隠を洗い、疫病を除け、雪隠虫の涌くのを防ぐ俗があるが、潮を汲んで帰る時には、浜のボウフウを根から掘り取って浸して来る。潮水と相俟って病災除けの効験を予想しているボウフウではあるが、水のはね出るのを防ぐ用を足していることも確かである。(中平悦麿)  (昭和六年九月『民俗学』三巻九号)
(526)  答。和歌山県那賀郡田中村地方でも、板二つの十文字のものを浮かべて水のはねるのを防いだ。今はほとんど見当たらない。また肥持ちの時には、草か、藁の切ったものを浮かべる。この方法は今も行なわれている。(与田左門)  (昭和六年九月『民俗学』三巻九号)
  答。第三巻第八号で報告いたしましたが、その後耳にしたのを一報いたします。広島県、安芸郡坂村、賀茂郡西条町、高田郡吉田町、山県郡都谷村等では、肥を運ぶ時、藁を短く截ったものを浮かべるのが普通だそうです。清水の場合は、木片を二枚十文字にしたものを浮かべるが、肥の場合、特に藁を丸く編んだもの(広島市付近では俗にサンダワラと言います)を浮かべる時もあるそうです。私の知る朝鮮少年(慶尚南道生れ)の話に、朝鮮慶尚南道晋州付近でも、やはり肥を運ぶ時、これをやるそうです。(磯貝勇)  (昭和六年十月『民俗学』三巻一〇号)
 
四四 人呼び坂
 二十八、九年前、紀州東牟婁郡那智村のそこここに僑居のあいだ、大字天満と大字湯川の間に、人呼び坂という高い処があった。俚伝に、むかしその一大字の人々、公用で他の大字の人々に意を伝うる場合、この坂まで大声の者を遣わし、そこに立って呼ばしめた。すると向うから人を出し来たり、近付かしめて、用向きを聞き取ったと言った。『宇治拾遺』、「利仁|薯蕷粥《いもがゆ》のこと」の条に、五位なる男、芋粥を飽くほど食いたし、というを聞いて、利仁、たばかってその男を遠く越前まで誘いゆき、到著の当夜暖かに臥させ、また「けはい悪《にく》からぬ」婦女を割り込ましめた。「かかるほどに、物高くいう声す。何ごとぞときけば、男《おのこ》の叫びていうよう、この辺の下人承れ、明日の卯の時に、切口三寸、長さ五尺ばかりの芋、おのおの一筋ずつ持《も》て参れ、というなりけり」。翌朝起きてみれば、芋を持ち来る者引きもきらず、「居たる屋と均しくおきなしつ。昨夜叫びしは、早うその辺にある下人の限りに物いい聞かすとて、人呼びの岡とてある塚の上にていうなりけり」とある。人呼びの岡、人呼び坂、他処にもありやと質問する。(二月六日)  (昭和六年三月『民俗学』三巻三号)
(527)  答。岡山県御津郡横井村大字富原より一宮村に至る途中に、オナリ坂(平津村)という峠がある。ここは古く呼び坂または点頭《うない》坂と称しておった。『吉備前秘録』(享和二年写本)上巻に、左の記録がある。
  呼坂、点頭《うない》坂は往古の西国海道なり。永禄のころ、津高郡金川の城主松田左近将監、悪逆の勇にほこりて、当国一の宮を焼き払い、終日鷹狩などして金川へ帰らんとせしところ、この呼坂より児一人あらわれ出で、松田を呼び掛くる。松田ははるかに行きのびて点頭坂に至りしが、跡より呼び掛くるゆえ帰りて後を見る。その児、声を上げていわく、汝当社を焼き払う、大逆の罪科これに過ぎず、われ三年のうちに罪を報うべし、という。松田これを聞き、からからと打ち笑い、三年とはあまり遠し、今急に報じて見られよという。児童、重ねてその儀ならば百日のうちに思いしらせん、というて掻き消すように失せてけり。松田は百日のうちに業病を請けて相果てたり。この謂《いわ》れによって、呼坂、点頭坂というなり。
  (第二信)『甲子夜話』続篇巻八〇に、左記のごとき記事あり。
  「呼坂をうちたつ、宿の主に呼坂とはいかなる故にていうと言えば、豊臣太閤の朝鮮を伐ちたまいし時、此処にて従軍の兵卒を呼ばせ給いしより名づけしと聞き伝う」。なお吉田氏の『地名辞典』をみるに、『大内氏実録』を引用して右の伝説なし。また、『福山志料』巻一七に、読坂〔二字傍点〕の伝説あり、これも結局同じものならんか。
  読坂(備後品治郡服部永谷村)。明細書に、むかし一馬卒、空樽を駄して帰る。一男子たちまちに出でて、この書を届けたまわれとて授けしを、何心なく受け取り来たり、届ける人の名を問わざりしかば、この坂にて人に逢いてその書を出し読ましむるに、名宛あやしとて別封して見るに、空樽つけたる人の腸一具進上致し候、と書けり。さては水中の河童などの仕業ならん、川ある方を避けて帰れよと推められ、迂路してその厄を免れしという。それより此処を読坂と呼ぶとなり。(四月五日)
  (第三信)『採輯諸国風土記』(『古典全集』本)駿河国の項(五八頁)に、左の記録あり。
  不来見《こぬみ》の浜、てこのよび坂。(するがの国の風土記にいう。)廬原郡不来見の浜に妻をおきてかよう神あり。その神、つねに岩木の山より越えて来るに、かの山にあらぶる神の道さまたぐる神ありて、さえぎりて通さず。件の神あらざる間をうかがいてかよう。かるがゆえに来ることかたし。女神は男神を待つとて、山木の山の此方《こなた》にいたりてよるよる待つに、待ち得ることなければ、男神の名よぴてさけぶ。よりて、そこを名付けて手児のよび坂とす。
(528)  また岡山県小田郡新山村にては、ホートーと称する者ありて村のしらせを触れて歩く。その方法は道を歩きながら、または土手に登って、次のように呼ぶ(高木勇氏談)。
  一、田植時分に雨が降れば、アマヤスミドヨー。二、オーダウエの時は、シロミテドヨー。三、五月節句の時は、忙しきため節句の仕直しというものをす。その時は、セックノシナオシドヨー。四、夏、雨が降った時など、ミズヤスミドヨー。五、二百十日、二百二十日が無事にすめば、オントーヤスミドヨー。(桂又三郎)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
  答。幡多郡小筑紫村に、呼び崎というがある。入江風になった一方の岬だから、渡し船を呼んだ所ともとり得るが、対岸に村がある点から考えて、触れ事のために呼んだ崎であるゆえの命名かと思う。
  私の郷里下田ノ口は、上前・中前・下前・馬野々の四組から成り立ち、荒神山を囲んで位置している。部落の小使は、道を大声に呼び歩いて事を触れるが、時にはこの事触れ〔三字傍点〕を荒神山の上からすることもあった。ただし呼び丘などの命名はされていなかったらしいが。
  『万葉集』巻一四「東歌」を見ると、雑歌の部に、(三四四二)「東路《あづまぢ》の手児《てこ》の呼坂《よぴさか》越えかねて山にか宿《ね》むも宿《やどり》は無《な》しに」、相聞の部に、(三四七七)「東道《あづまぢ》の手児の呼坂越えて去なば吾《あれ》は恋ひむな後は逢ひぬとも」の二首が見える。駿河国庵原郡薩?峠のあたりらしいが、松岡氏の『民俗学上より見たる東歌』の中に必ず出てはいようが、同書未見のままに、もしやと思い、御報告申す。(中平悦麿)  (昭和六年九月『民俗学』三巻九号)
 
四五 児戯「レンコレンコ」
 予幼少のころ和歌山市で、夕刻、小児が集まってレンコレンコという遊戯をした。その一人が物蔭に立って、レーンコレンコと呼ぶと、その児に見えない処に、他の諸児が横列しおり、誰サン隣ニ誰ガイルと尋ねる。かの一人の児が、吉サン隣ニ栄サンガイルという風に、推量で答える。それが中《あた》らぬ時は、一同、大キナ間違イ、デングリガエレ、デングリガエレ、デングリガエレと言いながら、また列び替わる。が、果たして吉サンの隣に栄サンが居たら、ソウヤ(左様だ)と言って、居所を言い中てられた栄サンが、かの言いあてた一児と代わり立ち、またレーンコレンコと呼(529)び初める。かくて言いあつるまで問答を続ける。明治十九年に洋行したころまではしばしば見たが、三十三年に帰朝してのち、このことを全く忘れおり、三十五年の春の一夕、郊外の中の島という村通りて、五、六児この遊戯をなしおるを見て、甫《はじ》めて往事を追懐した。十二、三年前、泉州の貝塚か岸和田に、当時なお時々行なう者ありと聞いたが、今日もどこかに行なわれおるか、承りたい。
 本誌三巻二号一一三頁に出た熊本県西里村のカクレンゴは、その名が近いが別物とみえる。(二月十八日)  (昭和六年四月『民俗学』三巻四号)
  答。在京都市、井上頼寿君が、この拙問に左のごとく答え越された。
  オニ「デーンコデーンコ」。大勢「たれの隣に誰がいる」。オニ「××ちゃんの隣りに、○ちゃんがいる」。大勢「ドッコィ、すべって橋の下」。もし合った時は、大勢「ヨー合うた」とて、名ざされた子と鬼が交代し、また「デーンコデーンコ」を初める。伊勢山田では、オニをタカと称す。また××ちゃんとは言わず。××やんという。(四月二十八日午後二時半)  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
  答。本年三月下旬、奈良県高市郡八木町で実見した。ちょうど夕飯後で、大軌電車八木西口駅のすぐ傍であった。南方先生のおっしゃるのと多少違うから、一々書いて見る。まず、子供たちは半円形に列び、鬼になった者は、その前方に眼かくしをして、向うむきに立っている。まず鬼が、「ガーチャガーチャ」と呼ぶ。と、一同は、「誰の隣に誰がいる」と叫ぶ。この間しきりに位置を替える。鬼はそれに応じて、「孝ちゃんの隣に直子さんがいる」という風に推量で答える。鬼がこれをいうと、もう位置の変更は許されない。鬼の推量が間違っていたら、一同は、「違うて候」と言いながら、また列び替わって、第二回目を始める。中《あた》ったら、中《あ》てられた者が、代わって鬼になる。ただし、この時何にも言わない。私の実見したのは、これ一つであるが、まだかなり盛んに行なわれているようである。私の実家の同県磯城郡都村でも行なわれているが、文句はちょっと違う。いずれ調べてまたお報告する。(原田恭助)  (昭和六年七月『民俗学』三巻七号)
 
(530)四六 朝早く僧に逢うを不吉とすること
 一九二八年二板、カウルトンの『中世紀の生活』一巻三五頁に、十三世紀に、仏国のある地方では、朝起きて一番に僧に逢うを不吉の兆とし、これを祓わんため十字を画くと記し、その一例として、一婦人、朝の間に僧に逢うと、当日中に凶事にあうと信じ、そのたびごとに十字を画いた。その僧、和女《そなた》は貧道《わたし》に逢うを不吉と心得るかと問うと、いかにも畏ろしう思うと答えた。僧、それでは今俺に逢うたから、覿面こんな凶事に出くわすはずと、言いも竟《おわ》らず、その婦人の両肩を執えて泥溝へ突っ込み、いかにも僧に逢うは不吉の兆だったろうと嘲った、と書きある。また、その時代にドイツでも、狼に逢うは吉兆、塗香した僧にあうは凶兆、と信じたという。この紀州田辺でも、従前お茶屋などで、朝のうち出家が来ると、朝坊主と称えて不吉とし、これに反して夕坊主を歓迎した。しかし商店では朝坊主を吉兆とした。このこと他処ではどうか。諸君の通告をまつ。また、その理由として従来所説は如何。西洋の分は彼方の知人へききにやったから、本邦の分にのみついて問い上ぐる。(二月十八日午後一時)  (昭和六年四月『民俗学』三巻四号)
  答。一八八二年板ランスネルの『シベリア通貫記』二巻二四五頁にいわく、シベリアの露人、特別の用事あって、街へ出るに、初めて逢う人が僧だったら、その事に取って大凶と信ず、と。これはこの紀州田辺のお茶屋などで、朝坊主を忌むに同じ。ところが元禄十一年板『露新軽口咄』三に、「さる修行者、米屋へ修行に行けり。米屋の女房、通らしゃれ通らしゃれと、けんどんに申しける。亭主きき、ヤイヤイ、そのようにけんどんにいうものか、朝は弘法大師のござると申すに、そのようにけんどんに言わぬものじゃと散々に叱りけり。女房誠と思い、米櫃へかかり、一握りつかみ、これ入れましょう入れましょうと跡より追っ掛ければ、かの修行者、頭にてもはらるるかと恐れ逃げけり。なおしきりに追っ駆ければ、修行者、辻の雪隠へ逃げ入りける。かの女房、戸口に立ち、入れましょう入れましょうと言いければ、内よりかの僧、弘法大師、高野山へ入りたまう、女人結界の所なるぞ、そこ立ちのけ立ちのけ、(531)と言われた」と見ゆ。今も田辺等で、商店には朝坊主を吉兆と歓迎する。想うにむかしは本邦一汎に朝坊主を歓迎したが、のちに外国から、これを忌み嫌う風が、娼家など外人相手の社会に伝わり、今も主としてそんな場所に残存するものか。(三月二十八日早朝)  (昭和七年四月『民俗学』四巻四号)
  答。兵庫県加西郡下里村では、朝坊主はげん〔二字傍点〕が悪いといって嫌います。はなはだしいのは、寺へ行くのさえ嫌います。同じく凶事があるという考えからであります。おそらく商店でも喜ばないことと思います。商店で喜ぶのは、第一番の客が女の人であると、よくもうかるといって喜びます。(栗山一夫)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
 
四七 狐使いと飯繩使い
 『一話一言』三八に、明和元申年、原武太夫書き置き候書き物、先年より出入せる人数|有増《あらまし》記すとありて、かつて交際した種々の人々の名を列ねた中に、狐使い未得、いづな使い京八とみゆ。狐使いといづな使いはどう異なるものか、諸君の教えをまつ。『仏像図彙』には、飯繩の神を、狐に乗った烏天狗の形に画きある。中山君の『日本巫女史』五三七頁に、「飯繩使いとは狐遣いの別名のごとく民間からは考えられていた。飯繩に関する資料も相当に存しているが、今は深くいうことを避けるとする」とあるのみなるは残念至極だ。(二月二十八日午前四時)  (昭和六年四月『民俗学』三巻四号)
  答。この問を出してのち、大正六年の自分の日記から次のごとく見出だす。いわく、広畑岩吉氏|話《はなし》に、阿波屋の徳という人、以前年々田辺へ来たり商う。この人手品をするをみるに、さらに手品にあらず、不思議なこと多し。いづなを使うならんと思い、問い詰めしに果たして然り。かつて参宮せし時、若きクラゲ子(骨なし)のような男が家来一人つれたると道づれになり、話すにわが家へ来たれという。随い行くに京都吉田家の息なり。よってしばらくその家に宿りたり。人形を多く祀れる所へ、人形を乞いに来る者あれば、人形いずれも笑い婚びて、その人に迎え取られん(532)と求む、と。この人いいしは、イヅナは狐と狸と鼬《いたち》の間《あい》の子《こ》様な物で、色白く猫の大きさで、はなはだ美なり。常に使う人の懐中にあり、袖口より出入するに土足の汚れにこまる。また馳走場へゆくに、遠慮なく多く食うゆえ、食品眼前に減ずることおびただしく、不体裁極まる。いかに叱りても止まず。宿屋などに泊るに、使う人の不在に、その蒲団に臥し、下女等に驚かさるれば、必ず復仇して、これを脅かす。常に諸処を駆け廻り、世間のことを飼主にささやき、何町の某は汝のことをしかじか言えり、復仇せよなど勧む、と。(五月二日午後九時)  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
 
四八 尾のない鳶と火事
 『一話一言』一二「池田氏筆記に、「東都、浪華の似たるをよする」の一条あり。江戸・大阪の景物、民俗の相似たるを対比して出す。その内に、「一、愛宕山の鳶、馬ン場の牛。右、尾なき鳶飛んで火になり、牛宿して雨になるをいう。御城追手外、馬ン場へ牛多く来たり一宿す。そのころ雨ふることあり」とある。鳶は愛宕の神使ということ、『和漢三才図会』四四にみえ、妄《みだ》りにその巣を毀てば必ず火災にあう、このことやや験あり、と『本朝食鑑』六に出で、『新著聞集』一四には、鳶家に入り来たってより災難続きしを、愛宕神を信仰してたちまちその災止んだ由を記す。しかし、江戸の愛宕の尾もない鳶が飛べば火災起こるというは、その詳細を知らず。誰か御存知の方の教えを冀う。このこと『一話一言』の外にも出でありや。また今も言い伝うることか。(二月二十八日午後四時)  (昭和六年四月『民俗学』三巻四号)
 
五五 狂人が笹を持つこと
 元文三年板、其磧の『御伽名代紙衣』三の一に、「女郎狂いするほどの者に、疎きは一人もなし。その賢き奴が、(533)……わが娘には正月着物さえきせずに、太夫方への桃の節句の小袖をしてやるなど、その道に染まらぬ者の目からは、笹の葉に四手《しで》切り懸けて、持たせずばなるまいとみゆるぞかし」。予幼時上方で娘どもが舞った「おみつ狂乱」には、必ずしでを付けた笹を持ち、鉢巻して出演した。享保十九年板、自笑・其磧の『梅岩丸一代記』四の三に出た、斑女が狂う画にも、左肩にしで付けた笹をかたげおる。何故狂人に笹を配するか。また今もこの風行なわるる地ありやと質問す。(四月二十五日)  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
 
五六 「わが身じゃないが」という詞
 元禄十四年板、自笑の『傾城色三味線』大阪の巻三に、「歴々の息子持ちし親仁《おやじ》、町へ譲り状を出さるるに、われら儀もし万一自然|何方《いずかた》に相果て候ともと書かるる心底おかし。もし万一を百二百書かれても、死なずにいる身ではなし。心みえて拙なし。世間にこの類多し。喧嘩の咄《はなし》などするとて、おれがことではないが、ここをきられてといえるは、愚かに聞こゆ。おれがことといえば、そこに口があくべきか。しかも二本差いた口からなおさら見苦し、云々」。予幼時、和歌山の小学生など人が斬られたとか、負傷したとかの噺をするに、必ずまず「わが身じゃないが」と前置きして、さて、ここをこう斬られた、これからそれまで火傷したなどと自身のそこを指して話した。まず自身を祓除して、後に凶事を報示するのだ。予はそんな前置きせずに、そんな咄をするごとに、年長者から、必ずかく前置きを述べよ、と叱られた。今もこの風が行なわるる地方ありや。この田辺などでは全く消滅し了《おわ》ったようだ。(四月二十六日)  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
  答。類例と思われるものですが、摂津三島郡高槻辺にては、第三巻第五号「一極めの詞」の中に報告しておきましたごとく、猫や蛇を殺したとき、またはその死骸に出会ったときにも、「俺のみィとちがうぞ、山のお猿のみィやぞ」と言って唾を吐くことをしますが、「わが身じゃないが」なる詞と何か関係があるように思いますので、御参考までに。もっとも以上は人間以(534)外の場合にて、人間の場合には自身のそこを指して説明することはやはり忌むようです。(内藤好春)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
  答。高知県長岡郡田井村付近、香美郡大桶植村付近にては、「わが身でなし」と言う。(沢田広茂)  (昭和六年九月『民俗学』三巻九号)
 
五七 花もて胎児の男女を占うこと
 明治三十六年四月九日の自記に(当時、予、那智山麓、市野々という地の旅宿におった)、隣室へ尾州知多郡大高町尾崎清右衛門(六五歳)、荒木杉(四八歳)二人泊る。予は始終その人を見ず。昼時その話が聞こえたうちに、那智の観音堂で護符を受くるに、桜花を入れあり、その符を開いて、その花仰ぎあれば女子、伏しあれば男子を生む、と。予は懸命に菌類を鏡検しおったので、その他の言は一切耳に入らず。夜も彼らが何をしたか、さらに気にとめず。翌朝詳しく護符のことを聞かんと心掛けたが、晩く寤《さ》めた時は、すでに立ち去った跡だった。『潜確居類書』八二に、「庚闡の『蓍亀論』にいわく、殊方の卜《うらな》いにては、あるいは象《しよう》を草木に責《もと》む」とあって、欧米などに、花で恋愛や婚嫁の成否を卜う例はすこぶる多いが(Folkard,‘Plant,Love,Legends and Lyrics,’1884,p.108)、花で未生の子の男女を占う例は、右の一つの外に予は知るところなし。あれば教えられよと望む。(五月十日午前四時)  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
  答。井上頼寿来示に、「花の占いは全く初耳に候えども、京都馬町三島神社にて、生児の性別を予知する守りをうけ、中より出る絵が舟ならば女、兜ならば男に候。神戸辺の某社に、揚羽の蝶と兜にて、女と男を占う所|有之《これある》由に聞き及び候。また北山、敷地神社、一名藁天神(金閣寺南の田の中にある森中の小社)にては、藁を八分ばかりに切りしをくれる。それに節あって袴がつきあれば男、袴なくは女と予断いたし候。馬町三島神社は、時代により変わる由に候(535)えど、舟の絵が女児をあらわすは、変わらぬ由に候」とあった。(六月二十八日)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
 
五八 無い物買い
 貞享四年板『本朝若風俗』八の一、幇間や俳優どもが京都石垣町辺を横行する記事中に、「夜の編笠はしれものいたり床に仕掛け、伽羅《きやら》のたき殻下されませいと、都なれや花車《きやしや》なる物貰い、気を付けてみしに花咲左吉なり。色ある床を見に廻るためにやといえば、大笑いして、今宵は見るほどの人みな悪女なり、同じ直段《ねだん》にて醜き方《かた》に床を貸すはしばしなれども因果という。汝が見残しあるべしと、にわかに末社の商い口、火桶は火桶はと、涼みのころ売るもかわりもの、お慰みになる碁の相手、一番三文ずつでまけに打ちます、かみ様方の白髪を月夜影にてぬきます、お若い衆に喧嘩の相手は入りませぬかと声々噪ぎまわれど、さすが治まりし代のためし、誰かまう者もなく、合口は落とさぬように、扇ばかりの風に身を楽しみける」とある。なし得がたいことをなすべく売り付けたのだ。これと反対に、われら幼時和歌山の少年等、夜分、無い物買いということをした。店の戸を叩いて、内より答えると、マジメ顔で「こなたに鬼の角がありませんか」、「釣鐘の虫糞がありませんか」など尋ねて、店の者が怒り呟くを面白がって逃げてきたのだ。他所でも以前また近ごろまで、こんなことをしたものにや。(五月十六日早朝)  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
  答。井上頼寿君来示に、「夜分子供が、商家へ、無さそうな物を売れといい、無くば罵倒して逃げることは、小生子供の時伊勢山田にて致し候。あるはずなしとてきくに、立派にあって困りしことも記憶あり候」。予も十一、二歳の時、狐の舌を求めに往くと、その家もと漢方の薬店だったので、その舌を旧蔵しあり。出してきたので四銭か何か出し、買い帰り、大いに叱られた。また宮本勢助氏来信に、氏もまた幼時、無い物がいの連中に加わりしことあり。ただし鬼の角など、全くあり得ない品を買いにゆくでなく、その店に持ち合わさないと、明白に知れきった物を求めに出かけた。例せば、魚を八百屋に求むるがごとし、とあった。想うにこれが無い物買いの本義で、和歌山でも在来(536)その通りだったところ、明治九年来、能狂言が数年間しきりに催されたを見まねに、狂言にある鐘の虫屎、石の腸などから思い付いて、鬼の角、天狗の卵など、ヘンな物を求めに往ったのだろう。無い物買いのこと、一向文献に徴すべき物を見ず。かつてこんな悪戯も行なわれたと、後代へ伝えたくて質問したところ、まずは二君の来示で、和歌山県外にも東京にもあったと分かった。  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
  答。老人の話ですが、摂津三島郡高槻辺にても、同じく以前には行なわれたようで、「御免」と言ったあとで、田辺と同じ文句の「釣鐘の虫糞おくなはれ」とか、「天水《ていすい》かごの黒やきおくなはれ」とかいう言葉を用いたそうです。これに反して売りつける方は、年こしの晩によくやったそうですが、女の子など門口に立って、「枕はずし要《い》りまへんか」と自分の癖を、または「あたまいた(頭痛)要りまへんか」などと、なるべく不明瞭に売り声をあげて、先方が「ヘッ?」とか、「何です?」とか来れば、癖や病気がなくなるので、あとはやはり逃げ出したと言います。こんなのを、「枕はずし」という名で呼び、「ゆうべ枕はずしか何や来ましてな」などと言うのだと語りました。(内藤好春)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
 
六三 ムグラモチを防ぐ一法
 紀州のこの田辺町近村にはムグラモチ少なきゆえ、農家でこれを防ぐ方法とて別に聞き及ばぬが、北方の那賀郡諸村にはこの物多く、農事に大害をなすから、古来いろいろと防禦また捕獲の法が考えられ、行なわれおる。例せば、田植えごろ、田に水を湛えあるに、一夜彼奴が畔を穿ち、その穴から、せっかく苦辛して溜め置いた水を洩らし尽して、田栽え不能に及ばしむること少なからぬ。よってその季節になると、毎夕農民がタンゴ(糞をにない運ぶ桶)一つを片足で踏《ふ》まえ、オーコ(天秤棒)の内側(になう時、肩に当てる方)で、タンゴの両手を摩擦すると、十町ばかり聞こえ渡る異様の音を出す。かくて十分間も鳴らせば、ムグラモチ遁れ去って、その一夜は田畔を穿ちに来たらず。かの地方では田栽えごろ普通の行事だ。他府県にもこの行事ありやと問う。(五月二十六日午後十一時半)  (昭和六年七月『兄俗学』三巻七号)
(537)  答。ムグラモチのことを摂津高槻町方言にてはウンゴロと言いますが、これを防ぐ方法は、紀州のごとく田植え時ではなく、当地にては節分の夜〔四字傍点〕に限ります。そして天秤棒で摩擦する部分も、タンゴの耳でなく、他の部分であります。老人に理由を尋ねて見ますと、ウンゴロは豚を最も恐る、故に豚の鳴声に似た音でもって退散せしむるなり、と。(藪重孝)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
  答。美濃国加茂郡太田町地方にては、ムグラモチの田畑を害するときには、肥桶一個を地上に置き、棒にて桶の内側を摩擦して、「キーキー」と聞こえる音を約十分ぐらいずつ二、三日行なえば、ムグラモチは逃げ行くと言う。また径一尺ぐらいの平石を地上に置き、少しく小なる石にて打ち、「チンチン」という音を出せば、ムグラモチは逃げ行くと言う。近来はかくのごときことを行なうこと稀なり。(林魁一)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
  答。先に高槻地方の法を答えて置いたが、書物の中からまた一法を見出だしたから再答する。某永二年版、狂言堂春のや繊月の著『浪花十二月画譜』下巻、「厄はらい」の条下に、節分の社参のことを述べて、「節分の夜(中略)、また家々にて年|弱《わか》きもの小児など打ち参り、いろいろ鳴物打ち、オゴロモチハ内ニカマンエコトノ、御見舞ジャ、子どもののしりはやすを吉例とす。その奇特なきにあらずという」と見えている。これによれば、大阪地方では古えより節分の行事と思われる。
  書物の中からまた一つ見つかったから報告する。『長崎市史』風俗編の中、「長崎方言集覧」一七一頁に、「モグラウチ(土竜打)」と題して、「土竜打は(土竜すなわち?鼠)正月十四日なり。この日夕方より初更のころに至って止む。オコロモチ、長崎にてモグラと言う。けだし方言。『長崎名勝図絵』」とあり。説明が簡に失して解り難いが、かかる風習のありしことは知ることができる。(藪重孝)  (昭和六年十一月『民俗学』三巻一一号)
  答。広島県賀茂郡西条町では、ムグラモチを防ぐのに、肥タゴ(肥を運ぶに用うる桶)の両耳をエンボ(天秤棒)にてこすり、異様な音を出す方法を用います。また広島市郊外皆実町および愛宕町近傍では、ナマコ(海鼠)の上に短く截った藁を撒いてできるナマコの溶け水を、ムグラモチの穴に注げば、ムグラモチは出て来ないと言われています。ナマコの代用にクラゲを用うることもあるようです。なお前記愛宕町にては年越しの晩、ブリキ鑵その他を打ち叩いて人々口々に
   オグラドン(あるいはウグロドノ)オウチカ
(538)   ナマコドン ガ オミマイジャ
と叫びながら騒ぎ歩く風習があったものだと言います。(磯貝勇)  (昭和六年十一月『民俗学』三巻一一号)
 
八二 鰻の瀬上りという児戯
 万治元年ごろ了意作『東海道名所記』二に、「都方にては、いとけなき子供のあまた集まりて、帯にとり付きて長く並びたる背中の上を、一人のぼりてはいありくを、鰻の瀬上りと名づけて、遊戯とす」とあり。こんな児戯は今もどこかに行なわれおるにや、諸君の教示をまつ。明治七、八年ごろ、予、和歌山の小学生だった時、そのころ舶来の遊戯とて、先生から教わったは、ややこれとちがう。多くの子供、竪《たて》に列んで、おのおのその前の子の帯に取り付き、腰を屈めおる。ところを最後の子が、前にある諸児の肩を軽く押えて、次第に跳り越え、最も前にある子の前に達して已《や》み、腰を屈すると、今まで列の最前にあった子が、その帯に取り付く。それと同時に、また列の最後となった子が跳り進み出す。かくて列中の諸児みな跳り越え了《おわ》るに至って止めた。この戯れを何と呼んだか覚えず。今は何と称えるか、これまた教示を望む。英語ではたしかジャムピング・フログ(跳蛙)と言ったようだ。(十一月二十三日午前三時)  (昭和七年二月『民俗学』四巻二号)
 
     応答
 
四 人糞を肥料に用いる
  問。人糞を肥料に用いるということは、日本以外にないように思われますが、どこかにそういう国があるでしょうか。それが一つ。も一つ穢れということを、極端に忌んだはずのわれわれの祖先が、人糞を大事な穀物の肥料にするということに、私は疑問を有《も》つものですが、それはいつごろの時代から用いられたものなのでしょうか。それが二つ。主基《すき》悠基《ゆき》の水田にも人糞が(539)用いられるのか、もしそうであったらば、それについて何か祓いをするということはないのでしょうか。それが三つ。(小泉鉄)  (昭和四年七月『民俗学』一巻一号)
 人糞を肥料に用うる風が日本以外にも盛んなるは、只今ホンの座右に有り合わせた書籍を、手当たり次第に繙いてもすぐ分かる。例せば、元の成宗の時、カムボジアヘ往った周達観は、かの国で田を肥やし、また菜を種《う》うるに、みな穢(人屎・人尿)を用いず、その不潔を嫌うのだ、支那人かの地に到る者、みな土人と語るに、中国糞肥のことに及ぼさず、鄙《いや》しまるるを恐ると書き、次に土人と支那人の便所行きの仕方の差異を説いた。古いところでは、『礼記』月令季夏に、「この月は、土潤|溽暑《じょくしよ》にして、大雨時に行《あめふ》る。もって田疇《はたけ》に糞《こやし》すべく、もって土疆《どきよう》を美《ゆた》かにすべし」。糞は肥料をやるの意だが、もと肥料の大部分を糞が占めるから出た詞だ。糞は穢なりとあれば、主として人糞のことだ。(糞という字が米と田の字より成るをもって、この字始めてできたころは、すでに糞で田を肥やした、と知る。)『詩経説約』に、麟士魚いわく、詩世学袁氏いわく、古人祭礼に園蔬を用いず、その穢れて褻《な》れんことを憚るればなり。故に?蘋《こうひん》(水中に自生した草)を采って?《そ》とし、藉田にもまた糞を用いず。ただ香水、燔柴をもってその灰を取り、麻豆に雑《まじ》えてこれを壅《つちか》うのみ、とあり。李笠翁は、圃に種えた菜に穢物が付いて乾くと一通りで浄めがたいから、刷毛で精細に浄むべし、と説いた。また『孔子家語』に、果属六あり、桃を下となし、祭祀に用いず、郊廟に登さず、とある。桃は人の糞穢を得てよく実るから、と何かで読んだと思えど不確かだ。(『笑林広記』一、「師、田間にあって撤歩《さんぽ》し、郷人の糞を挑《かつ》いで菜に灌《そそ》ぐを見る。師、訝《いぶか》っていわく、菜はこれ人の吃《く》うもの、いかなればこの穢物を上に?《そそ》ぐや、と。郷人いわく、相公はただ書を読むことを会《う》るのみにして、わが田家のことを暁《さと》らず。某《われ》もし糞を用《も》つて澆《そそ》がざれば、すなわち苦き菜となるべし、と。一日、東家、苦き菜をもって師に膳《すす》む。師問う、今日いかなれば菜の苦きことはなはだしきや、と。館《じゆく》の童いわく、相公の齷 齢《けがれ》たるを嫌うによって、故に糞を澆《そそ》がざるの菜をもって相公を請《もてな》すなり、と。すでにかくのごとくなれば、糞の味は塩《やくみ》とすべし、いささか拿《も》ち来たれ、い(540)でやわれ?々《そそ》いで吃《くら》わん、と」。)(『真臘風土記』耕種の条。『康煕字典』糞字。『大和本草』一)
 それから稗史に、魯智深、大相国寺の菜園を管するところへ、過街老鼠張三と青草蛇李四が、二、三十箇の破落戸《ごろつき》を率い挨拶に来たり、智深を深い糞窖へ突き落とさんとし、逆さまに突き落とされた話あり。この糞窖はむろん菜園の糞肥を溜め置いた物だ。近古欧人が筆した一例は、「支那農民は主として稲作に気を使い、きわめてよく田地を肥やし、非常に注意して人と畜生のすべての不浄を集め、また木や菜や亜麻油を不浄と交換する。これら不浄は、他処では植物を焦がすが、支那人はこれを用うる前に水でよく緩和する術を心得おるので、よくその土に適する。彼らは不浄を桶に集め入れ、蓋《ふた》して肩に担い、毎日運び去るゆえ、はなはだ市街を清浄にす」というのだ。十七世紀にペルシアへ往った人が書いたは、この国の土乾き、また瘠せ、かつ硝石を含む、故に農家の心配一方ならず、多くの肥料を要す、したがって糞を用うるに人と畜生を別たず、ことに人糞を重んずるより、糞を汲んで賃を取りどころか、汲ませやった家僕が汲み手よりポロイ肥代を貰う、とある。インドでは、ファルラクハバッドの土人は久しく人糞を肥料とし、トウモロコシ、ジャガ芋と煙草の収穫、他に三倍す。ジナプールで不浄を農事に用いた人はその同姓より五ルピーの罰金を課せられた由。(『水滸伝』五−六回。Astlye,‘A New General Collection of Voyages and Travels,’1747,vol.iv,p.121;Pieto della Valle,‘Viaggi,’Brighton,1843,pt.ii,lettera iii;Balfour,‘Cyclopaedia of lndia,’3rd ed.,vol.ii.p.895,1885)
 このついでに珍件を述べよう。袁宏道の『姑蘇游記』に、「漢中の百花洲は、胥・盤二門の間にあり。余、一夕、盤門より出で、道に江進之《こうしんし》に逢う。問う、百花洲は花|盛開《まんかい》なりや否や、なんぞ往ってこれを観ざる、と。余いわく、他物なし、ただ二、三十の糞艘、鱗次《つらな》つて綺錯《まじ》り、?氛《うんふん》数里なるのみ、と。進之、大いに咲《わら》って別る」。差し当たり、「肥汲みにひと杓たのむ花畑」の句を想い出す。ところが似たこともあるもので、十八世紀の末近いジャワ記行に、バタヴィアの蘭人は、こんな暑い処へ雪隠を建てると熱病をはやらすの、バンジクート鼠に珍棒を咬まるるのと言っ(541)て、これを設けず。口狭く低くて腹の膨れた壺を二十四時間家の一隅におき用便する。午後九時に一同解散して自宅へ帰る。その時支那人糞舟を漕ぎ市中の溝渠を呼び廻ると、家々の奴隷かの壺を持ち出し舟中へあける。支那人これを集めて、この辺で農作を専占する同胞どもに売り、これを金庫と名づける。その舟の芳香を徐《しず》かに吹き送る風を聞く蘭人が、従容として、サァ九時の花が咲いたわいとながめた由。(『類聚名物考』二四一。Barrow‘A Voyage to Cochinchina,’1806, pp.213-214)  (昭和五年四月『民俗学』二巻四号)
 
五 庭に植えるを忌む植物
  問。私の村では(長崎県北松浦郡鹿町村)、茶の実を植えたり、茶の木を移植したりすると、家がつぶれたり、家人が死んだりする、といい伝えていますが、他にもこういうことを言い伝えている所がありましょうか。そのいわれを伝えている処がありましたら、ついでにお知らせ願います。(内山田久夫)  (昭和四年七月『民俗学』一巻一号)
 紀州田辺町等でも、枇杷の木はニアイ声(病人が呻る声)を好むといい、庭に植えるを忌む。予の宅に多くこの木あり、五年来病人だらけで困りおる。またホウズキを植えると病人その家に絶えずという。こんなことを足利氏の世すでに言ったとみえ、『塵添?嚢抄』二に、柑類、梧桐、芭蕉、紫荊、款冬等を俗家に植えぬ由と、その理由説を載す。欧州でも、夾竹桃を不面目と不幸を招く不吉の木と忌む由、一八八四年板、フォーカードの『植物俚伝口碑および唄謡』四七三頁に記す。  (昭和五年二月『民俗学』二巻二号)
 二巻二号一四五頁に引いた『塵添?嚢抄』二と、ほとんど同じ理由で、柑類、梧桐、芭蕉、紫荊、款冬等を俗家に植えぬものと、『続群書類従』三五九に収めた『東山往来』二十四状に載せある。この二著どちらが早くできたものか予は知らぬ。(六月二十六日)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
 
(542)一五 オビーについて
  問。葬礼の際に啼き女(もしくは男でも)の存在する(あるいは過去においてでも)地方について、その名称、服装、報酬、その他の風習をお知らせ下さい。(石田憲吾)  (昭和四年十二月『民俗学』一巻六号)
  答。問の意に副わぬか知らぬが、約二十年前ころまで、小生の村に「おびー」と呼ばれた尼(?)三人ぐらいいた。剃髪し白の下着に黒衣を纏うた姿から、尼さんというものだと思っていたが、「りょー」と呼ばれたその住家は、寺院と異なり、俗風の家で、しかも半ば寺院がかった感を持って見られていた。三つの中の一ヵ所の「りょー」には、確か相当大きな仏間があったように思うが、判然としない。何か仏事様のことに携わって口を糊していたかと思うが、実際を見た経験を有《も》たないので、何とも言えない。約二十年前ごろより、これらの「りよー」がいずれも無住となったのは、仕事がなくなったからのことだろう。
  しかるに、この地方でビービー泣くことを「びーたれ」と言い、あの子は「おびー」だと嘲る。この泣く子を「おびー」と言うのは、どうも「びーたれ」から直接に来た変化ではなくて、「おびー」という女が良く泣いたからではないかと思われる。「おびー」と言うのは、「びーたれ」と言うよりも柔らかいけれども、嘲笑を多分に持っている言葉である。その女を「おびー」と言ったのは、「御びー様」という意で、その特異の地位に対して敬語(?)を用いたものかと思う。村人は「おびーさま」、「おびーさん」等と敬語(?)をもって呼んでいた。
  なお、この地方では河蜷《かわにな》のことをも「おびー」と言ったのは、その黒い殻に包まれてる形が、この女に似ていたからのことで、子供らはこの貝を手に持って、「おびーちゃっくり茶を沸かせ」と囃しながら、蜷がおもむろにその殻の中から頭を突き出す状《さま》を面白がったものである。この遊戯から思うと、「おびー」は普通《ふだん》は「りょー」に閉じ籠っていて、わずかに炊事の時くらいにその黒衣の姿を見せたのだろうか。
  只今、聞き得た談によると、宮崎県延岡地方で蛇のことを「おびき」と言う由、しかもそれは主として青大将など害のない蛇を呼んでいたように感ずると言うことである。「おびー」とあるいは関係のあることかと思い、記す。なお、この談話者は、尼さんは見たことはあるも、何も詳しいことを知らぬ由。(伊藤靖)  (昭和五年二月『民俗学』二巻二号)
(543) 伊藤君が報ぜられたオピーについて申す。『古今夷曲集』九に、「剃り落としかしら虱はなきとても、臍より下はいかにお比丘尼」。(也有『鶉衣』「恋説」に、お比丘尼の形見分けに、似げなき文の箪笥から出でたる、云々。)紀州諸処で今日尼をオビクまたオビクサマなど言うは、オ比丘尼に本《もと》づく。作者・板行年月共に知れない八文字屋風の戯作『傾城風流杉盃』江戸の巻三に、蘆浦雁介という中小姓が、清林という艶尼にもてなされ、管をまくとて、かの尼をオビン様と呼ぶ。元禄十六年板『傾城仕送大臣』五の二にも、歌比丘尼祐古、浜辺を下へさがれば、阿波船の水主船ばりに立ち上がり、オビンオビンと呼び掛け、肩一つ借ろうという、とある。同書三の四に坊主をオボンと呼べると好一対の語だ。明和八年板『操草紙』三に、「比丘尼はビクニンとはねる奴が買い、蹴転がしはケコロとしゃれる人が買うなり」とあるを参照するに、オ比丘尼からオビクニン、それよりオビンときたものだろう。(近年まで紀州大島では、密売女をビンと呼ぶ。)これと等しく、オ比丘尼、オビクと約《つづ》め、終《つい》にオビーとなったと想わる。
 また伊藤君が報ぜられたオビーの住家をリョーと呼んだは寮で、『正字通』に、寮は小窓なり、楊慎いわく、古人同官を謂いて寮となす、また斎署同窓を指して義となす。だから尼の合宿所を寮と言ったのだ。それから転じて尼の頭領をお寮。『狂言記拾遺』三、「比丘貞《びくさだ》」に、「身共に御目を掛けらるるお寮様に、目出たい富貴なお方がござる、これへつれて参り、名を付けて貰おうと存ずる」とあるのがそれだ。(『遠碧軒記』下の三、方々にある比丘尼の首《かしら》を御寮と言う、寮頭の心なり。)『一代男輪講』三に、林若樹君が言った通り、『風俗文選』四、許六の「師の説」に、「山伏の師を先達といい、その弟子を強力と名づけ、比丘尼の師たる者をお寮といいて、その弟子を米かみとはいうなり」。江戸などではお寮は売色比丘尼の頭分と成り了《おわ》ったらしいが、伊藤君が名ざした村には近ごろまで尼の住所の称呼として本義を存したとみえる。  (昭和五年四月『民俗学』二巻四号)
 
(544)二三 寸白
  問。本誌二の二、南方先生の「烏の金玉」の中に、「スンパクは寸白なり。『今昔物語』、『本草綱目』等にみえ、人体内に寄生する虫の名だ」と申されていますが、東京近郊では、寸白は、婦人病の一種です。男の病気、女の寸白と申します。南方先生のお説と婦人病の名とする寸白との関係をお知らせ下さい。(白根喜四郎)  (昭和五年四月『民俗学』二巻四号)
 寸白という名は何の書に初めて見えるか知らねど、梁の陶弘景の『名医別録』に、「貫衆は寸白を去り、橘皮は寸白虫を去る」など、いでおるから、そのころ支那で通用された名と知る。李時珍いわく、巣元方の『病源』にいわく、「人の腹に九虫あり(中略)、白虫は、長さ一寸にして、色白く頭小さし。生育すること転《うた》た多く、人をして精気を損弱し、腰脚を疼《いた》ましむ。長さ一尺となれば、またよく人を殺す」。予未見の書『奇効良法』には、「白虫は子孫を生むこと多く、その母|転《うた》た大となって、四、五丈に至り、またよく人を殺す」とある由。狩谷?斎説に、『病源候論』(李氏が引いた巣元方の『病原』であろう)に、寸白虫は長さ一寸で白く、形小さくて扁たし、あるいはいう、白酒を飲み、桑の枝で牛肉を灸り食らい、ならびに生栗を食らえば、この虫ができる、とある由。小野蘭山いわく、寸白虫、長きものは四、五丈、闊《ひろ》さ半寸ばかりにして白色なり、云々。(『本草綱目』一二下、三〇、四二。『古名録』四九。『箋注倭名類聚抄』二。『重訂本草啓蒙』三八)
 ?斎説に、日本で古く『西宮記』、『栄花物語』、『今昔物語』に寸白のこと出ず、と。前二書は只今座右にないから、『今昔物語』だけをみるに、典薬頭何某が諸医を集め宴遊するところへ、顔は青鈍《あおにぶ》なる練衣《ねりぎぬ》に水を包んだように、一身ユブユブと腫れた五十ばかりの女が来て、療治を望んだ。典薬頭心当たりの医師にみせると、定めて寸白だろうと言って、処方すると、「抜くに随いて、白き麦のようなる物差し出でたり。それを取りて引けば綿々と延ぶれば長く出で来たりぬ。出ずるに随いて庁の柱に巻く。ようやく巻くに随いてこの女、顔の腫れ引きて、色も直りもてゆく。柱に七|尋《ひろ》、八尋ばかりまくほどに出で来|畢《は》てて、残り出で来ずなりぬ。時に女の目鼻直り畢てて、例の人の色付きに(545)なりぬ。(中略)そののち女のいわく、然《さ》て次には何《いか》が治すべき、と。医師、ただ?苡湯《よくいとう》をもって茄《ゆ》ずべきなり、今はそれより外の治あるべからずといいて返し遣りてけり、云々」とある。これで寸白とは今いう条虫と判る。しかるに佐藤成裕は、「長虫を下す人|希《まれ》にあり、西土には少なし。奥州の人にはまま有之《これあり》、好んで河魚を食すれば、この長虫を生ずという。その長きに至りては数丈に及ぶ。厠に登りて細き竹にまき、気長に引き出し、その了りの処は細く、色|異《かわ》りて頭のごときなり。この処を取り出す時は再びこの患なし。半ばより切ればまた生じ、生涯その根をたつことなし。ある医、これを寸白虫という。この説心得がたし。鯉魚に黒糖を加えて煮食らう時は、一寸ばかりの細白虫を下すこと数合に至る。これを寸白虫と言いて、その説に当たれり」と述べた。(『今昔物語』二四巻七語。『中陵浸録』二)
 熊桶謂う、寸白虫長さ一寸と『病源候論』に言ったは、条虫が時々切れて下る老熟片節を指したので、それが扁たしといい、その母(片筋を子と見て言う)転《うた》た大に、四、五丈に至れば人を殺すと言った寸白は、条虫に外ならぬ。和歌山県では五十年ほど前まで条虫をもっぱら病気の虫と呼んだ。江戸また然りとみえて、津村正恭の説に、「大便へ長き虫下ることあり。形細く温飩《うんどん》を引き伸ばしたるごとく、至って長き物なり。これ疝気の虫なり。この虫下る時は、その人生涯疝気をやむことなし。この虫を黒焼にして貯え置くべし。病気煩う人の大妙薬なり。気短く引き出だせば切るるなり。竹箆などに巻き付けて静かにいきみ出だすべし。下ることはなはだ稀なることなり」とあり。その引き出し様、古今変わらざるを見るに足る。条虫を除くに条虫の黒焼を内服とは、賊を使うて寇を平らぐで、支那で狂犬咬を治するに犬の心や腎を用い、スコットランドでは狂犬の心臓の粉を、イングランドではその狂犬の毛を使うたと同軌だ。旧友大坪権六氏談に、日向肥後のあいだの山村で、条虫を珍饌として賞味する処あり、と。エエきたな。寸白虫を疝気の起因とした訳につき、富士川博士いわく、「すばく。寸白虫のことにして、条虫、俗にサナダ虫と名づくるもの、その形寸々節ありて白きがゆえに名づく。わが国の俗に、婦人の疝痛をスバクと名づくるは誤れり。本間玄調の説に、婦人疝を患うる者、たまたまこの虫を下せるにより、俗医目して疝の原因となし、スバクを婦人疝(546)痛の通称とせるものならん、と」と。想うに、巣元方とくに 「人をして精気を損弱し、腰脚を疼ましむ」と言ったのでみると、初め支那で寸白虫と名づけた条虫は、多く患者の腰脚を痛ましめたので、本邦でも条虫を病気の虫と呼んだり、婦人の疝痛をスバクと称えたであろう。(『日本随筆大成』三輯二巻八〇二頁、『近世商買狂歌合』に『飛鳥川』を引く、与勘平膏薬の売り声に、よかんべいが膏薬は病気寸白にはったら与勘平。)(『譚海』一三。『本草綱目』四〇上。一八八三年板、ブラック『俗医方』五〇−五一頁。『日本百科大辞典』五巻一二〇四頁)
 慶長四年刊行『延寿撮要』に、雉と蕎麦と同食すれば寸白虫を生ず。慶安元年板『千句独吟之俳諧』、「冷しと鳴るや昼寝の腹ごころ」、「おこるべきかよ例の寸白」などあり。特に婦女に限った病らしく書きおらぬ。それがむかし本邦で婦人の疝痛に条虫寄生を併発する例が多かったから、婦人の疝痛をスバクで通称となったとみえる。
 『今昔物語』から上に引いた話の外にも、女が寸白虫を持った譚が巻二八に出ず。寸白を腹に持った女が人妻となり、生んだ子が成人して信濃守となり赴任した。歓迎会の馳走に満目おびただしく胡桃《くるみ》を盛り出しあった。信濃守はこれをみて、ことのほか困苦する様子。信濃介は年老い諸事心得た者で、これは寸白が人に生まれたのだろうと推し、この国の慣例と称し、酒の色白く濁るまで胡桃を摺り込んで、強いて進めると、「実《まこと》には寸白男、さらに堪うべからず、と言いて、颯《さ》と水になりて流れ」、その体もなくなった、と記す。女の体内にあった条虫が、その女の子と生まれて信濃守となったが、胡桃酒に逢って溶け去ったというのだ。『本草綱目』に、「油胡桃。毒あり、虫を殺す」。油胡桃の解説がないから何とも分からぬが、たぶん胡桃油の誤刊かと考う。西洋の旧説にも、多く胡桃を食えば条虫を除くと言った(プリニウス『博物誌』二三巻七七章)。一九〇九年板、ボムパスの『サンタル・パルガナス俚伝』七五章に、稲の青虫が人になって王女を妻《めと》った話あれど、女人がこれを産んだとないゆえ、『今昔物語』の譚とちがう。二月号九六頁に引いた『虫歌合』に、蟷  と足マトイ虫を父子と見立てたのが、一番この条虫もち女が信濃守を産んだ話に近い。『和漢三才図会』五二にも、小児が熱灰や塩で蟷  をまぶせば、苦しんで黒く細長い糸様の(547)物を出すを、子をうむのだというが、実は小腸だ、と述べある。そのころまで、足マトイを蟷  の子とか腸とか思うて、特種の動物と気付かぬ人が多かったので、今日までも、蟷 の腸(四月号二三六頁)、蟷  の寸白すなわち条虫(二月號一〇六頁)と、相異なる名を伝え呼ぶ地方があるのだ。  (昭和五年六月『民俗学』二巻六号)
 
四一 勢州小畑尼について
  問。五渡亭国貞画の錦絵に、「浮世|名異女《めいしよ》図会、勢州《いせ》、小畑尼《おはたびくに》」なるものあり。中心に有髪比丘尼、一文字笠に扇を持てる姿、左肩に、扇形に二見浦の添絵あり。右題の下に、「たびのおかたとむぎわらだすきテトトント、トントンきれてしまへばたよりなやサアサヨサ、ノササ、サヨサ、ノササノサ」外二句の唄を記す。さて、小畑〔二字傍点〕は小俣〔二字傍点〕の当字として、参宮道中小俣においてかかる遊女のありしことを知らず。『参宮名所図会』や『三国地志』等にも見えず。特に伊勢の読者の御垂教を待つ。実在か絵空事か。(藪重孝)  (昭和六年二月『民俗学』三巻二号)
 藪君がみた国貞画『浮世名異女図会』勢州小畑尼像の側に掲げた唄の文句は、「旅のお方と麦わらたすき、きれてしまへば便りなや」とある由。大正五年湯朝竹山人が出した『小唄選』に収むるところ、諸国盆踊唱歌、播磨の唄に、「今の若衆は麦わらたすき、一夜かけてはかけすてに」とあるを作り替えたのだろう。この唱歌集は後水尾院が諸国に勅して集めたまいしと言えば、国貞よりはずっと古い。  (昭和七年二月『民俗学』四巻二号)
 
四二 観音のかり銭
  問。西鶴作『日本永代蔵』巻一、「初午《はつむま》は乗って来る仕合《しあわせ》」に、「前略――折ふしは春の山二月初午の日、泉州に立たせ給う水間寺の観音に、貴賤男女|参詣《まう》でける。みな信心にはあらず、欲の道づれ、はるかなる苔路、姫萩荻の焼原を踏み分け……その分際ほどに富めるを願えり。……この御寺《みてら》にて万人かり銭することあり。当年一銭あずかりて来年二銭にして返し、百文|請取《うけと》り二百文にて相済ましぬ。これ観音の銭なれば、いずれも失墜なく返納したてまつる、云々」とあり。この水間寺の借銭を資(548)本の中に入れて商売すれば、必ず富有になると言われている。故に季節になれば俗人群集すという。かかる信仰、他国にもありや。大方の御教示を乞う。(藪重孝)  (昭和六年二月『民俗学』三巻二号)
 多少これに似たことが支那趙宋の世にもあった。洪邁の『夷堅三志』己八にいわく、台嶺に小叢祠あり、掲げて銭王廟という。祀典に載せず。また、何年に起こりしか、および銭氏何王の廟なるかを知らず。土俗、従来みな敬事を加う。細民貧窶で旦暮を給せざる者、これを過《よぎ》りて?るあり。すなわち竹根もて地中をほり廻れば、必ず一、二百銭から五百銭までを得。その心中|冀《ねが》うところを度し、過ごし与えざるなり。越人虞叔曹、性滑稽なり、祠下を経由し、香を焚き、再拝して黄金十両を賜えと乞うて、終日掘ったが獲るところなくして去った、と。『五雑俎』三に、「済?《せいとく》廟の神は、かつて人と交易す。契券《わりふ》をもって池中に投ずれば、金すなわち数のごとく浮き出ず。牛馬百物も、みな仮借《か》るべし。趙州の廉頗《れんぱ》の墓もまた然り」。巫祝が神徳を宣揚せんと密計して、あまり多からざる金額を貸したり与えたりしたので、むろん金額と人数に定隈があっただろう。借用したのち利倍して返したのも多かるべく、たとい多少の借り倒し貰い捨てがあったにしても、その入れ合わせ以上に、神徳を仰ぐ輩よりの寄進等が多かったでしょう。(三月十八日午後八時半) (昭和六年四月『民俗学』三巻四号)
 大正十一年三版、永尾竜造君の『支那民俗誌』二〇三頁に、北京の新聞から、「京師広寧門外の財神廟は、廟貌巍煥、報賽最も盛んなり。毎歳正月二日(九月十七日また然り)、城を傾けて往きて祀る。商賈、妓女最もおびただし。廟祝はさらにその説を神にして説いて謂う、神前の紙錠を借りて懐にして帰り、財を得るを俟《ま》ちて、まさに十倍をもって神に酬ゆべし、と。故にみなこれに趨《はし》ること鶩《あひる》のごとし」と引きある。水間寺等も支那の風をまねたのでがなあろう。(三月二十三日早朝)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
 明の銭希言の『獪園』巻一一にいわく、広利王廟の香火嶺南に盛んに、民間施捨の金銭を積み貯え、人の告げ借るを許す。賈人の子あり。券を持って金を借らんとし、神前に卜う。およそ三次、みな大吉なり。三次に計り借りて数(549)百金に過ぐ。わずかに洋に出でてすなわち海寇に遇い劫取さる。最後に群寇これを樹に縛り、その故を拷訊す。この人|具《つぶ》さにいう、広利王廟より借りかつ三たび券を操る、と。寇、惻然としてこれを憫れむ。たまたま近く劫せる商船の桐油数百?あり。この人に給与し、連舶載せ去り、販《あきな》いて資本となさしむ。のちその油を売るに、?ごとに底に元宝一双あり。たちどころに子母を神に償い、ついに大いに富む、云々、と。また、いわく、今わが郷(呉会)市店貿易の夫、歳首ごとに契を立て、五聖に向かって貸を乞う。まず大紙錠を買い、往きて神に献じ、よって持ち帰って、家廟中に懸け、供養これ謹み、歳終に至ってその小者を外に加え、もって子銭となし、上方山に赴いてこれを焚き、名づけて納債という。みずから欺くか、神を欺くか、何ぞその愚一にここに至るや、と。『説鈴』後集に収められた、清の呉震方の『嶺南雑記』にも、潮州の蛇神を祀る者、蛇かつてその家に遊び憩う、はなはだしきは神に問うて借貸する者あり、と出ず。(六月五日午前四時)
 これまで和漢の例のみ出たから、ここには一つインドの例を申し上げる。一九一五年ポムベイ板、エントホヴェンの『コンカン民俗記』によると、マハラクシュミ山に、小児の痘瘡を守る女神ジグドハニの祠あり。金を要する者、所要だけの金と等しい大きさに花を積んで、この神像の前におき、用事がすんだら金を返すべし、と言って帰り、約束の日にまた詣でると、花を積み置いた所に、きっと所要の金があった。しかるに、一度金を借りながら返さぬ者あってから、女神は金貸しを止めたという。(六月八日午後十一時半)  (昭和六年七月『民俗学』三巻七号)
 
五三 淡桃色の躑躅を嫌う
  問。兵庫県加西郡下里村地方では、淡桃色の躑躅《つつじ》の花を家へ持って帰ると火事があるといって嫌います。庭へ植えるのでも、紅だとか白味の勝ったのは植えますが、桃、淡桃色なのは植えません。類例がありましょうか。(栗山一夫)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
(550) 紀伊日高郡切目村辺では、この花を家の池の中島に栽えて、影が水に映ると、家内に癩人を生ずとて嫌う。  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
 
五四 夜口笛を吹くを忌む
  問。同地方では、口笛を夜ふくと泥棒が入ると信じられています。これも類例を知りたいと考えています。(栗山一夫)  (昭和六年五月『民俗学』三巻五号)
 紀州諸処で、夜口笛ふけば蛇来るという。高野山で笛を忌みしこと、古老のよく知るところである。インドの蛇つかいが笛を吹いて蛇を自在に制使するより出たことらしい。  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
 竜や蛇が笛音を好むということ、和漢の書にみえた例をここに二つ挙げる。南宋の洪邁の『夷堅丁志』一三に、梁統制が大別山下の大蛇を誅するに、一人をして山に上り、笛を吹かしめ、蛇その音を慕うて出ずるを、直ちに射殺した、とみゆ。長承二年大神基政撰『竜鳴抄』上には、「竜の鳴いて海に入りしに、また声を聞かばやと恋い侘びしほどに、竹を打ち伐りて吹きたり。声似たりき。初めは穴五つをえりたりき。後に七つになす。これが故に笛をば竜鳴という。また竜吟ともかく。同じ心なり」とある。(十月二十三日早朝)  (昭和七年一月『民俗学』四巻一号)
 
六一 「種子」
  問。伊勢山田辺では、子供がないと、「種子」とて貰い子をする。そして実子ができると、それを「へんねち子」と言い、その方に家督を嗣がせ、種子の方は復姓させ、小々財を分けて家から出してしまう。それと同様の例承りたし。またその名称ならびに財産の分配方法。(井上頼寿)  (昭和六年七月『民俗学』三巻七号)
 九月一日の『郷土研究』(五巻四号) 二四二頁以下、拙文「わが子を生まんがために他子を養うこと」一読を望む。(551)また、十月五日、大分市上野住、波多野宗喜氏来示の大意次のごとし。いわく、大分県大分市および大分、直入、大野諸郡では、結婚後数年また十数年を経て、なお子なき場合は、止むを得ず他子を養う。これ、わが子を生まんがために他子を養うことは割合に少なく、時たま養子をしても、実際にわが子を生まんために、将来戸籍の都合上等、面倒の生ぜぬように致しおく者もあるように聞き及ぶ。しかるに、これまで何ら統計を取ってみた訳でなきも、子なき者が養子をすれば実子のできることはずいぶん多く、その実例、三、四に止まらず、優に十以上は数え得る。この場合、できた子供をセライ児と称う。セリ合いの義か。養子と実子と競り合うという意味なるべし、他子を養うた後に生まれた子がずいぶん多いので、この地方では相当根強い俚説と思うて今日まで伝わりおるようだ、と。(十月十日午前十一時)
 島根県浜田中学に奉職する千代延尚寿君より来示に、「子供なき者が他人の子を貰って育てると、きっと子供が生まれる。しかして、世嗣が数代もなき場合などは男子が生まれると、当地方で信じておる。これを鬼子とか、セライ子とか言っておる。また捨子を拾うて育てると、子供が生まれると信じておる」と。(十月十七日午前八時)  (昭和六年十一月『民俗学』三巻一一号)
 
六一 恵美寿膳
  問。東方書院発行の『仏教笑話集』中に、恵美寿膳のこと見えたり。現在は言う人もないが、最近までは、大阪府下にも、この言いつたえが残っていたらしい。恵美寿膳とは、木目を横にすえることらしいが、どういうわけでそう言うのか知っている人がない。そのついでに、恵美寿がつんぼだと俗間には信じられており、恵美寿の神社に参ったものは、前で拝し、また後へ廻って拝さねは聞こえないとの話をきいたが、これもついでに御教示を煩わしたい。(久長興仁)  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
(552) 今日も紀州諸処で、膳の板の条理を人に縦に据えるをえびす膳という。『嬉遊笑覧』八に、「『寛永発句帳』、書初《かきぞめ》やまづ心よきえびす紙、さくら鯛すゆるはえびす折敷《をしき》かな。(こは今俗にいうえびす膳のことなるべし。)(中略)また、丁六はしらぬえぼし折膳、という付合あり。この折敷は鳴子板などのごとく、横平《よこひら》の六角に、飛驛杉などにて作れる物あり、これなるべし。(折烏帽子《おりえぼし》の形によれり。)えびす折敷は夷子紙と同じ、常にゆがみてかたわしきを忌みて、えびすと祝したるなり。一説に、十月は神みな出雲国へ行き給うゆえ、この月を神無月といいぬれど、夷子講はこの月に行なう。こは出雲へこの神のみ行き給わぬなり。さればえびす紙は、紙のたち残りという意にて然《しか》いう、と言えり」と出ず。『一話一言』八に、尾張の堀田方旧の言を引いて、何故えびす紙と呼ぶかと小ざかしき男に問えば、かみのたちそこないよという。ある翁に尋ねると、その説は世の理屈という物なり、ただ何となくその紙を斜めに取り直してみよ、烏帽子姿のありありと現わるるぞ、と言うた。何ごとも理屈を離れてこそおかしけれと頷きぬ、と。さて筆者蜀山は、始めのかみのたち損《そこな》い説を面白い、と評しある。折烏帽子形の折敷は予みたことなし、えびす神は不具というから、膳を不具なりに据えるをえびす膳というのであろう。(六月二十六日)
 (追記)拙妻いわく、田辺では、膳の板の木理を、食事する人の前に横にせず、縦にしてこれを据えるを、ソバ膳という人多し、死人に枕飯を供うる時、膳をかく据えるゆえ忌む、と。熊楠攷うるに、ソバはサバを謬ったのだろう。『塵添?嚢抄』一三に、サバを取ることの条あり。日食の上分を取りて、あるいは曠野鬼神の分とし、あるいは訶利底母(鬼子母神)の食とし、あるいは魂霊神の料に充つ、みな因縁あり、あまねく諸鬼に及ぼすがゆえに、散飯と名づく、とある。いわゆる魂霊神の料に充つるの義によって、未葬の死人に供うる枕飯をもサバと呼んだものか。  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
 拙答追記を読んで、京都井上頼寿君より来示に、「御地と等しく伊勢度会郡でもソバ膳と申し候。ちょうど山田市岩淵町の老女来たり候を捉え、聞くところを記し候。人なくなれば、早物屋(凶儀の物を扱う店)よりカミノシキ(脚(553)付き白木折敷)を持ち来る、それを死人の頭の先へソバ膳にすえ、土器に塩と味噌と飯を入れて供える、行列の時一員がそれを捧げもち、墓地に再び供える、カミノシキに竹と木の箸を置き候」。田辺町では、この飯を枕飯という。この因縁で竹の箸と木の箸と併用して飯を食うを忌む。拙妻の亡祖母、食膳に塩と味噌を双《なら》べのするを太《いた》く嫌えりと聞くも、この因縁てあろう。(九月八日早朝)
 三巻八号へ答文を載せられたのを、友人多屋謙吉氏に示すと、その老母(八十歳ばかり)の話とて伝えられたは、紀州田辺では、古く食膳の板の条理を膳に対《むか》う人に縦に据えるを猫膳とも呼んだ。猫に食をやるに、ややもすれば食いちらして近傍を汚す。それを防ぐため皿やアワビ介の殻に食を盛り、皿や介殻の下に板をしく。その板を上述のように据えるから、かく名づくると聞いた、と。(九月二十四日早朝)  (昭和六年十月『民俗学』三巻一〇号)
 
六二 阿弥陀籤
  問。『寂照堂谷響集』に観音籤のこと見えたり、しかれども今は聞かず。現今にては、阿弥陀籤とて籤によりて金を出しあって物を買う風習あり。私の郷里島根県邑智郡地方では、金を出しあって飲んだり食ったりすることをメオイ〔三字傍点〕と言うが、かかる風習は処によりて名も異《かわ》っているだろう。阿弥陀籤の名称のつく所以《ゆえん》が私にはわからない。(久長興仁)  (昭和六年六月『民俗学』三巻六号)
 『嬉遊笑覧』八に、今用うる観音籤は、いつのほどよりありしものにか、『谷響集』九に、「『釈門正統』は菩薩籤と名づく、云々。そのことを叙ぶれば、これ菩薩の化身の撰びしところなりと謂う。理あるいは然らん、云々」。また観音くじと名づけて、江戸王子村わたりの小児、草の葉、稲の稾などをもて結びてすることあり、吉原町の妓女などは、紙捻にて結ぶとなり、云々。予、十八、九歳の時まで和歌山市の多くの家にあった『大雑書』(文化ごろ成ったもの)に、「元三大師御鬮のことは、あながち師の述作にもあらず。唐土にては、これを観音鬮と称して、云々、これ(554)を元旦大師に托するものは、師もまた観世音菩薩の応現なればなり、云々。師在世のみぎり、この御鬮を取りて、あまねく諸人の吉凶を示さる。これより諸人元三大師の法作のごとく思えり」とあり。籤を盛る箱の一側に、菩薩の名号または元三大師と書きあり。まず観音および大師を念じ、観音の呪を三度唱え、箱を三度戴き目を閉じてふり出せ、とあり。すなわちその通りしてふり出すを毎度みた。今もその通りの籤を公衆に試用せしむる寺が、予の知るだけでも、この田辺町に二、三所ある。そのうち一ヵ処は籤に出た番号を僧に話すと、『大雑書』に書いた通り、その番号に応じ、印刷しある五言四句の一紙をくれる。その解説を聴き取ってみずから判じ、もしくは人に判じ貰うので、十余年前予の方へ、その紙を持って判じ貰いにきた別嬪があった。今はただ「みくじ」と言って、観音くじと言わぬが、籤の箱にむかしのまま観世音の名号を書き付けある。
 さて阿弥陀鬮は、予の生処和歌山でかつて聞かなんだが、この田辺町で、一、二と言わるる豪家の次男が、大変な阿弥陀鬮ずきで、二十四年前、新建築の棟上げ式の酒宴を、阿弥陀鬮で行なうた。かかるめでたい式場で、仏の名の付いたことをするはいかがと言う者もあったが、子細構わず、その鬮を引かせると、大工が芸妓二名、石工が酒四升、左官が鰹、車力が牛肉という体に当たり、肝心の主公が煎餅一袋とか最少価の物に当たったので、一同大弱り、こんな異様な祝宴は未曽有のことと、ヤケになって飲むうち、酒も肴も尽きたので、再三阿弥陀鬮をやったが、主公はその度ごとに最少価の物に当たったので、饗応さるべき職人輩が、全く主公を招待した訳になったと、今に苦笑しおる。それから予始めて阿弥陀鬮の名を知り、折に触れて調べるが、これを記した物を見あてず、今日に及んだ。ただ『日本百科大辞典』一のその条に、「鬮にあらかじめ金高の高低を記入しおき、おのおのこれを引きて、その当たりたる金額を醵出し、物を買いて、これを均一に分配するなり」とあるのみ。惟うに阿弥陀仏が、いかなる衆生をも、平等に救いやらるるというようなところから、この鬮の名が出たであろう。ついでに言う、玄恵法印の『遊学往来』上に、毘沙門双六あり。これはどんな遊戯か。識者に教えを乞う。(六月二十八日)
(555) (寛政六年出板『虚実柳巷方言』中、ひってんの放蕩谷、銭がなくてものみやまず、あみだの光に八方へ酒買いに行くもあり、肴かいに行くもあり、はした銭の集銭出だし、わびしき工合に命なるきわもありぬべし。菅笠を乗合船や春の草。寛永二十年板『新増犬筑波集』、極楽を遠しと誰か思ふらん、ふしだいはやくとれる頼母子《たのもし》、極楽たのもしなり。)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
 
六三 招魂法
  問。『寂照堂谷響集』第九に、招魂法のことあり。それによって見ると、「衣をもって魂を喚ぶを招魂という」、あるいは「東の栄《のき》より升り、屋《やね》に中《あ》たって危《むね》を履む。北面して三たび号《さけ》び、衣を捲いて前に投ず。司服、これを受けて、西北の栄《のき》より降りる。およそまた男子は名を称《とな》え、婦人は字《あざな》を称う」とあり。『楚辞』招魂の項にも、「人死すれば、すなわち人をして、その上服をもって屋に升り、危を履み、北面して号び、皐《ああ》某よ、復《かえ》れ、といわしむ。ついにその衣をもって三たびこれを招き、すなわち下りて、もって尸《しかばね》を覆う」とあり。現在にても、屋根に升《のぼ》りて名を呼ぶ風俗、大阪に残りおることをききたり。同様の招魂法および他の異なりたる招魂法ありや。(久長興仁)  (昭和六年七月『民俗学』三巻七号)
 招魂法に種々あり。巫女や法師や方士や魔術家が、死んで葬り了《おわ》って時日をへた人の魂を招いたという例も多いが、久長君が問わるるは、人死してまだ葬らぬうちに、その魂を招いてその体へ返らしむるので、支那人古くその式を復と呼んだ。似たことはインドのホス人、南洋のバンクス島人、フィジー人、また西アフリカで黒人、バンツ人共に行なう。『書紀』一一でみると、本邦またこれあったが、屋棟に上る代りに屍に跨って呼んだのだ(『南方随筆』二六九−二七〇頁。本誌二巻一〇号六三四頁、雑賀君の「船乗りと死人」に、紀州田辺地方の船が海上で乗組員を失うて帰著する時、死人の魂を呼び、その者が帰ったごとく装うてのち、一同上陸する由記しあるが、近処なる市瀬、鮎川諸村では、人が死ぬると、屋棟に上り招魂すること、ほぼ、支那の復の古式に同じ。ただし只今(556)も行なうか否を知らず。『楓軒偶記』三や『護草小言』四に、水戸領諸村でも、同様に行なうたことがみえる。『立路随筆』には、「丹後国峯山、この在家に人死すれば、その死の限りをみて、家の棟に上り、一升升《いつしようます》を持って、その底をたたくこと久し。これにて一村へ不幸をしらするとぞ。これ実は、死人の魂を呼び還せし遺風か」とある。(七月二十二日午前六時)
 (『古今図書集成』神異典三六に、『通幽録』を引いて、大暦四年、処土盧仲海、従叔纉と呉の客舎で大酔し、纉の半夜死せしを、仲海、礼に招魂のことあるを思い出し、数万遍大いに呼ぶと蘇生し、冥界にあって饗応され、身死したるを忘れおりしが、汝が喚びたる声を聞きて辞し帰り来た、というた、とある。)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
 
六四 猫又
  問。『徒然草』八九段に、猫又の記事あり。猫又とはいかなるものなりや。(久長興仁)  (昭和六年七月『民俗学』三巻七号)
 畔田伴存の『古名録』七二に、「『明月記』にいわく、天福元年八月一日、夜前、南京方より使いの者の小童の言うに、当時、南都にて、猫胯《ねこまた》の獣出で来たり、一夜に七、八人を?《くら》い、死者多く、あるいはまた打ち殺す。件《くだん》の獣、目は猫のごとく、その状、犬のごとくにして長し、云々、という、と。二条院の御時、京中にこの鬼の来たる由、誰人か称す。また猫胯病と称し、諸人病悩の由、少年の時、人これを語る。もし京中に及ばば、きわめて怖るべきことならんか、と。(中略、ここに『徒然草』を引く)これを観れば、すなわち畜猫《かいねこ》の年|闌《た》けて、その尾|二岐《ふたまた》となりしなり。(中略)『本朝食鑑』にいわく、およそ老いたる雄猫の妖を作《な》すや、その変化、狐狸に減《おと》らず、しかしてよく人を食らう、俗に呼んで猫麻多と称す、と。『百錬抄』第七にいわく、近衛天皇の久安六年七月、近日京土に訛言あり、近江・美濃両国の山内に奇獣あって、夜陰に群れて村間に入り、児童を食らい損《そこな》う、俗にこれを猫狗と謂う、と。このこと『小(557)野右府記』に見ゆ、俗言|違《たが》わざるなり」と記す。初め猫狗と言ったのを後に猫胯と改めたらしい。『大和本草』付録二に、猫または(支那で)金花猫という、『月令広義』に出でたり、と見ゆ。『月令広義』は手許になく、『古今図書集成』、『淵鑑類函』、『山堂肆考』、『天中記』、『格致鏡原』等にも、金花猫のことを引きおらぬから、金花猫の何物たるを知るに由なし。(七月二十二日午前六時)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
 
(558)   余白録
 
     くどき節「兄妹しんじゅ」
 
 本誌一巻三号二一七頁に、くどき節「兄妹しんじゅ」はオトトイ心中と唱え、明治三十五年ごろまでは、紀州東西牟婁郡の諸港で、碇泊船員相手の売女輩が盛んに唄うた。能登一の宮辺では第三句を、「兄のもんてん妹にまよって」というようだが、熊野では「兄のブンペイ(文平)が妹に惚れて」と申す。そのまま大阪で外骨が出した『不二』新聞へ出して、罰金百円だつたが、小生が欠席裁判を受けたことがある。  (昭和四年十一月『民俗学』一巻五号)
 
     カシャンボ(河童)のこと
 
 本誌一巻四号二六六頁、二十年ばかり前、只今七十五、六になる老人(現存)より聞いたは、カシャンボ(河童)は夏は川に住み、冬は森にあって人を魅す。自分が生まれた日高郡南部町近きオシネという地の林下で見たのは、伝説に違わず、青い碁盤縞を著た七、八歳の可愛い男で、その衣服の縞が遠方までもきわめて鮮やかにみ(559)えた、と。能登と紀伊と離れた地の咄が符合するから、むかしは、広く伝わったものとみえる。  (昭和四年十一月『民俗学』一巻五号)
 
     百合若大臣の子孫
           飯尾哲爾「百合若大臣の子孫」参照
           (『民俗学』二巻二号一〇八頁)
 
 明和八年板、淡海子の『操草紙』は、明和六年五月二十三日、江戸両国五十嵐という髪の油店主人の妻、妬みて夫の愛妾を殺し、自分も自殺した次第を綴る。憚るところあって五十嵐を五十屋に作る。その巻一に五十《いが》屋の家譜あり。いわく、百合若の頼む股肱の郎等には、別府の郷(?)武者雲足弟雲住、執権府内の大夫秀主が一子崎丸、還成太郎義兼が一子幡丸、百合若、別府兄弟を亡ぼし、もとの官位に栄えし時、この二人の忠臣に、百合若の百の字の半分ずつ割き与え、崎丸は五十崎、幡丸は五十幡と姓を賜いしと、『本朝苗字始』という書に出ず。五十屋は五十崎がチクラが沖にて大臣に仕えし折から、海士乙女に契り、大臣栄えてのち、またチクラが沖に至り契りて生みたる子の後なり、と。以上撮要、誤字もあるべし。戯作ながら、五十嵐方にこんなヤシ的系譜を拵えあったかも知れず。百合若大臣の即等の後裔と名のる者さえあったと思うと、昔日、百合若はよほど高名な勇士で、実在した人と信ぜられたほどが察せらる。(二月二十三日)  (昭和五年四月『民俗学』二巻四号)
 
     秤り目をごまかす狐魅
 
 数年前まで拙宅の向いに住んだ人は、近村に聞こえた富家だったが、株相場で大敗して財産を蕩尽し東京へ奔った。(560)この人の父もと寒貧だった時、山村を駆け廻って椎蕈を買い集め、す速く輸出して巨利を博し、ついに一代身上を仕上げた。世間の噂に、この人厚く狐精を崇め、不断加護を祈るに、椎蕈を秤るごとに、売る時は狐が椎蕈に乗ってその重量を増し、買う時は錘に乗って椎蕈の重量を減じたので、その都度利を獲ぬことがなかったそうだ。支那にも同譚あり。「粤東の諸山県の人、?蛮を雑《まじ》え、また往々|蠱《こ》を下《くだ》す。挑生鬼なるものあり、よく権《はかり》と量《ます》の間において、出だすときはすなわち軽くして少なからしめ、入るるときはすなわち重くして多からしめ、もって商旅《あきんど》を害す。蠱主、必ずこれに敬して事《つか》う。(下略)」(『広東新語』二四)。(八月二十四日)  (昭和五年十月『民俗学』二巻一〇号)
 
     盥を敲いて急を報ず
 
 『神稲水薪伝』に、巨盗徳次郎がどこかの豪家へ押し入った時、家人が金盥を敲いて急を報じたことを載せあったと記憶す。(『甲子夜話』五七に、水油店へ夜分賊が押し懸けたるに、店主鋼盥を敲いて近所の人を起こせし記事あり。)明治十八年ごろ、神田神保町の樫田という下宿屋(この家の息は二人とも東京で名医となりあったが、今はどうなったか知らぬ)に、予の親友で正岡子規と同県人、井林広政が宿りおり、深夜突然金盥をしきりに敲いたので、主婦が出火と心得、子供、足弱どもを立ち退かせたり、盲目の下宿人が、速くランプをとぼさないと足元が見えないと呼ばわる等大騒ぎの末、一向何ごともないから往ってみると、井林は枕元に金盥と火箸を擲げ出し熟眠しおるので、また大騒ぎとなり、第一強悍無双の主婦が承知せず、井林を追い出すとて男女の組討ちとなり、気の毒兼ねて十二分に面白かった。盥を敲いて急を告ぐることは支那にもある。清の蒲松齢の『聊斎志異』八に、「?《きよ》人の商姓なる者、兄は富むも弟は貧し。(中略)里中の三、四の悪しき少《わかもの》、大商(兄を指す)の饒足《ゆたか》なるを窺い、夜、垣を踰《こ》えて入る。夫婦驚いて寤《さ》め、盥器《たらい》を鳴らして号《あいず》をなすも、隣人共にこれを嫉み、援《たす》くる者なし」とある。(十月二十六日)(561)  (昭和五年十一月『民俗学』二巻一一号)
 
     厠で唾はくを忌む
 
 幼い時亡母に聞いたは厠で唾はくべからず。厠神は落ち来る大小便を左右の手で受ける。その上に唾を吐かるると、受ける物がないから口で受けねばならぬ。はなはだその喜ばぬところだから、と。支那でも、唐の張読の『宣宝志』九に、成都宝暦寺の道厳師が、畏ろしい神が面を匿して掌を示すを見、何の神ぞと問うに、天われに命じて仏寺の地を護らしむ、世人好んで仏祠の地に唾はくから、われすなわち背でこれを受く、これによって背に瘡あり、わが肌を潰し、まさにはなはだしからんとす、その上に傅《つ》ける油をくれと望むから、清油を巨手中におくと、その手すなわち引き去った、とある。厠と寺地との別あれど、神が唾を嫌うは一だ。(二月二十三日朝十時)  (昭和六年三月『民俗学』三巻三号)
 
     人が虫になった話
 
 中山太郎君の『日本民俗学』随筆篇のこの条に洩れたのを、一、二挙げよう。能登国鹿島郡久江村の人園田道閑は、苛刻な検地を中止せしめた咎で、寛文七年十二月十六日礫刑に処せられ、その魂が、カゲロウの一種ヒイチゴと名づくる奴に化したといい、甲州西八代郡葛籠沢村に大亀虫が多く、農作を荒らすは、むかし刑殺された強盗の化した物という。支那でも、後漢の光武帝の建武六年、「山陽に小虫あり、みな人の形に類し、はなはだ衆《おお》し。明日、みな樹の枝に懸かって死す」。明の崇禎庚辰の秋、「析城山の樹頭あまねく虫殻を挂《か》く。人の形のごとく、長《たけ》三寸にして、緑(562)色の衣冠をつけ、襟袖|宛然《さながら》なり。両腋の下に黒き絨線《けいと》を穿《つ》け、傀儡《くぐつ》の繩《ひも》に繋《つな》がれたる状のごとし。山中の僧人、取って室内に懸くるに、春時に至って緑の殻開き裂け、中より一の蝴蝶飛び出だす、絶《はなは》だ観るべし」。両例ながら、まずはお菊虫の属だが、人形に似たとばかり言って、人が化したと言わないだけ正直な。しかし、なかなかどうして、人が虫になった話の本元はやはり支那とみえ、今から千五百年前成った『異苑』に、「縊女。長《たけ》寸ばかりにして、頭赤く身《からだ》黒し。つねに糸を吐きみずからを懸く。むかし斉東の郭姜《かくきよう》、すでに崔杼《さいちよ》の室を乱し、慶封《けいほう》その三子を殺し、姜もまたみずから経《くび》る。俗に伝う、この婦の骸、化して虫となる、故に縊女をもって虫に名づく、と」とある。(『古今図書集成』閨媛典三六七、『中華古今注』に、「牛亨問うていわく、蝉に斉女と名づくるは何ぞや、と。答えていわく、斉王の后、忿《いか》って死し、尸《しかばね》変じて蝉となり、庭の樹に登って?唳《けいれい》と鳴く。王悔恨す。故に世に蝉を名づけて斉女というなり、と」。)(大正四年十月一日『日本及日本人』郷土光華号、二九八頁。土橋氏『甲斐昔話集』一一二。『潜確居類書』一一七。『古今図書集成』禽虫典一六九。『格致鏡原』二〇〇)(八月十日午前三時)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
 
     支那の初夜権
 
 『大清一統志』二三五に、「明の洪鐘《こうしよう》は銭塘の人なり、弘治の初め、四川の按察便となる。馬湖の土知府《どちふ》の安鼇《あんごう》、淫虐を恣《ほしいま》まにし、土人の婦女まさに婚せんとするや、必ず命を請い、あるいは老に至るも嫁せず。無辜の数百人を殺し、冢墓を掘り廬舎を焚《や》くことはなはだ衆《おお》し。讐家、  許《あば》いて奏すれども、有司はその金を利し、遷延すること二十年。僉事|曲鋭《きよくえい》、巡按御史|張鸞《ちようらん》の按治せんことを請う。鐘、賛決して、鼇を捕えて京師に送り、極刑に置く。安氏は、唐より以来、世《よよ》馬湖を有《りよう》せしが、ここに至って流官に改む。一方《このち》始めて靖《やす》んず」。婦女婚せんとする、必ず命を請い、あるいは老に至るも嫁せずとは、安鼇淫虐を恣《ほしいま》まにして濫りに初夜権を用い、婚せんとする女を、おのれまず試み犯(563)したので、これを恥ずる者は老いても嫁せなんだと見える。本邦には、秋田実季、暴政はなはだしく、元服、婚嫁、出産にまで課賦したゆえ、男女いつまでも童の体で過ごした(『藩翰譜』八下)ときけど、初夜権とまでは考え及ばなんだらしい。(八月九日午前五時)  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
 
     一極めの詞
 
 本誌三巻六号三五九頁に藪君が出された詞は、第九と第十の二句足らないように見受けたから、諸友へ問い合わしたところ、宮武省三君の返書に、神戸市の知人方の紀州新宮町生れの女中あり。いわく、新宮では、「インニク、ニクニク、三クニ、シモツキ、イッチン、チャラック、チーヤノ、ハア」といいながら、集まった子供の手を軽く押し、最後の句に当たった子を鬼と定むと、とあった。これもすべて八句で二句足りないようだ。今より四十余年前、拙妻など、この田辺町でもっぱら唱えたは、「イッチク、二ッチク、サンチク、シメクテ、権現、ヤマカラ、狐ガ、デテクル、ホーイ、ホイ」。また五十年ばかりのむかし、和歌山市で行なわれたは、「イッチク、二ッチク、サンゲン、シオクテ、権現、テレツク、ピンヤノ、ヤワラカ、サンヤノ、ホイ」。(あるいは第七句以下を「イノシシ、アメクテ、ホーイ、ホイ」と言った。いずれもすべて十句だった。
 (追記)前日このことについて一書を差し上げたのち、宮武省三君教え越されたは、豊前の小倉辺では、「イック、タック、ターヤマサン、乙姫様の、泣く声きけば、フー、フーの、ホラの貝」。また「イップク、タップク、タチマチ、ミョウジン、ショウジン、花がさきゃ、雲雀、チンチクリント、リントナク、リントナク」。また「イッチク、タッチク、鯛の目の、乙姫様が、チュウヤにいって、蚊のなく声を、チュウチュウ、モウモウ、あのなのな」。神戸市では、「草履隠しの、キュネン坊、橋の、下の鼠が、草履を、くわえて、チユッチュクチュ、チュウネン坊、チュ(564)ウネン坊」。以上いずれも子供ら、握り拳を突き出して、そのおのおのの拳の上を、この詞を唱えて叩き、最後の句に中《あた》った子が鬼と定まる、と。  (昭和六年八月『民俗学』三巻八号)
 
(565)   《あかほんや》《未摘花通解》
 
     川柳句解二則
 
 『誹風末摘花』二篇に、「四ツ目星の女房わっちが請合ひさ」。これは別に解釈を要せぬが、同意味の話が支那にあるから面白い。『笑林広記』一に、「迷婦薬」と題したのがそれだ。いわく、一方士もっぱら迷婦薬を売る。「婦人、著《つ》けて身に在れば、自来《おのずから》人と私合す。一日、軽浪の子弟あり、来たって薬を買う。たまたま方士他出す。その妻、薬を取ってこれに付《わた》す。子弟すなわち薬をもってその身上に弾《はじ》き、婦に随って房に至る。婦、只得《やむなく》、他《かれ》と交合す。方士帰り、妻そのことをもってこれに告ぐ。方士怒っていわく、誰か?《なんじ》に他《かれ》に就けと教えしや、と。妻いわく、われもし他《かれ》に従わずんば、?《なんじ》の薬の霊《ききめあ》らざるを顕得《あらわ》しおわらん、と」。
 同書三篇に、「雪隠へ下女が茄子ビで穴が明キ」。自分久しくこの句を解し得なんだが、追い追い考えついたは、『一話一言』二に、『御内々年中行事抄』(東山院崩御以後の書なり)を引いて、「八月十五日、名月御祝い一こん御膳司より奉る。お芋、小茄子、萩の御箸(小かく)。萩の御箸にて茄子《なすび》の中に穴をあけられて、八つ時の月を御らんじらるる。十三夜も同じ」と記す。それより前に成った『後水尾院年中行事』上にも、「八月十五日、御盃常の御所にてまいる、まず芋、次に茄子を供す。茄子を取らせましまして萩の箸にて穴をあけ、穴の内を三遍箸を通されて御手にのせらる。御盃まいりてのち御前のを徹《とお》す。清涼殿の廂に構えたる御座にて月を御覧あり、かの茄子の穴より、御覧じて御願あり。これらももっぱら世俗に流布のことなり、禁中にはいつのころより始まれることか」とあれば、初め民間に行な(566)われ、ついに宮中に及んだらしい。
 降って山崎美成の『民間時令』三に、『夏山雑談』巻三より、「官家の女中は、八月十五夜に芋を箸に貫《ぬ》き、その穴より月を見て、『月々に月見る月は多けれど、月見る月はこの月の月』という歌を吟ぜらるるとなり」と引き、頭註に「『女房私記』にいう、十五夜、明月の御祝ぎも、茄子にて萩の箸一ぜん、御一献|上《たてまつ》り、月上覧、萩の箸にて穴をあけて、穴より御覧ぜらる。御三方、錫の鉢に芋ばかり高盛りなり。ねもじのはしすわる」と記す。件《くだん》の「月々に月見る月は多けれど」の歌は、『続古今集』に村上天皇の御製とて、「月ごとに見る月なれどこの月の、今宵の月に似る月ぞなき」とあるを作り替えたものだろう。『日次記事』、『日本歳時記』、『華実年浪草』、『改正月令博物筌』等に一向記さざるを見ると、この茄子に穴あけ月を眺むる俗は、徳川以前に始まり、後水尾天皇のころ、すでに宮中に行なわれ、後には官女もこれをまねて、芋に穴あけて月を眺めたが、民間には蚤《はや》く絶えて行なわれなんだと判る。たぷん支那伝来だろうと惟えど、支那書に見えぬようだ。
 しかしインドにはすこぶる似たことがあって、ボムベイ地方の素女は時としてパウシュ月(十二月より一月に渉《わた》る)の望日、自家の上楼でみずから夕食を調え、蒸餅の真申に穴を穿ち、望月の精の米と豆をまぜて上楼で調理し、兄弟の姉妹がその食を取る、と唱えながら、その穴より月を見る。その食は通常米と乳より成り、または乳で米を煮て砂糖で甘くし、または麦粉を甘くした物だ。これを食う前に兄や弟の許しを要し、兄弟|肯《うけが》わずば終日断食せにゃならぬ。この行事は兄弟および未来の夫の寿を延ばすために有効と信ぜらるという。(一九一四年ボムベイ板、ジャクソン遺稿『グジャラット俚俗記』一八頁。一九二四年オクスフォード板、エントホヴェン『ボムベイ俚俗篇』四七頁)
 一八九六年新板、クルックの『北印度《インド》俗教および俚俗』一巻一五頁に、クアール月(九月−十月)の望夜、屋上に食物を置き、月光を吸集させて親類に頒《わか》ち、寿を延ばすと信ず、とある。茄子も芋もむかし外国から本邦へ来た物だから、その穴より月を見て祈願するは、本邦固有の風でなく、支那等を経てインドより伝えたものか。
(567) さて、下女の茄子とは吉舌特に長大、茄子に似たもので、それをつたって垂れ降る勢い凄まじく、ために厠中の穢団に穴を穿つ様子を、仲秋の夜、月見んとて茄子に穴を穿つに対《たぐ》えたことと察する。(昭和六年三月『あかほんや』三号)
【付記】
 前の「四ツ目屋の……」句解の追加であるが、これは欧州にも類話があった。イタリアのジォヴァンニ・フィオレンチノが一三七八年に書き始めたという『イル・ペコロネ』一日二譚に、ローマの良家の子ブッチォロが、ボロナに留学して、その師に恋愛の学を修めんと乞うと、早速教ゆべしとのことで、まず、ある寺に往つて、参詣群集の婦女中、自分が思い初めた一人あらば報知せよと言うた。寺へ往って見渡すうち、ジョヴァンナ夫人という新造が何とも言えぬほど、恋風を身にしみ込ませたから、直ちに師に報ずると、心得たりとその女に思い付かるる方法を授けた。この夫人、実はその師の妻だったが、師も弟子もそれとは気付かず、洵《まこと》に陰陽師身の上知らずだった。さて師が授くるままにブッチォロがその方法を実施するに、おいおい女に持てて来る。その都度師に報告すると、師はまた次の方法を授ける。次々とブ青年の報告を得て考うると、どうも相手が自分の艶妻のことらしいので、師が初めて気付き、二人雲雨まさに成らんとする場へ帰り来た。夫人は夫が戸を敲くとすぐ、半乾きの洗濯物を積んだ中へブを匿した。家中授しても仇し男が見当たらないので、師もさては自分の疑いが謬りだったと信じ出て在った。その跡で、ブは夫人に終夜大懇待を受けた。さてブッチォロは、如上の疑いが自身に掛かりいたと知らず、次の日その師を訪うて、昨夜かの女の夫に襲われ、洗濯物の中に匿れてやっと難を免れ、夫が去った跡で、快く大洗濯をして貰つたと報知した。次回その女方へ往く前にまた知らせよとのことに、師に告げてから女を訪うて、挨拶もまだ済まぬうちに、師は武器を帯びてまた襲い来た。夫人戸を開いて素早くブを遁がし、さらに隣人や自分の兄弟を呼び集めて、才弁を逞しうし、とうとうその夫を過度の勤学から発狂妄言する者にしてしまい、縛り置かしめた、とある。つまりこの師は、恋愛学の指南をしたのが利き過ぎて、妻を弟子にしてやられ、自分は狂人と貶《おと》されてしまったのだ。ペルシアにもこれに似(568)た話があって、『バハール・イ・ダヌシユ』に出ておるが、只今この書は書斎大混雑で、ちょっと見当たらぬ。
 次に後の「雪隠へ……」の句解の追加であるが、これは李卓吾の『続開巻一笑』巻二に、「陳令遊はすなわち金陵の妓なり、詞章に高《すぐ》れ、多く題詠あり、倶《すべ》てこれ?語なり。(中略)一妓の地に就いて小遺するを見て、詠じていわく、縁楊深く鎖《とざ》す誰が家の院《にわ》、佳人|急《せ》いてこれ方便を行なう、綺羅の裾を掲起《かか》げ、花心を露出して現わす、衝き破る緑苔の痕、満地に真珠の濺《そそ》ぐ、かの小娘児《むすめ》は墻児《かきね》の外を見ざれど、馬児《うま》の上より人の見るあり。(下略)」とあった。ここに「衝き破る緑苔の痕」というは、すなわち茄子で穴があくと同趣向だ。(昭和五年六月二十二日)
 
(569)       「書を好む者の三病」について
 
 本誌一号二二頁に、天野信景の『塩尻』より引かれた「書を好む者の三病」の文は、明《みん》の謝在杭の『五雑俎』一三を、ふつつかに奪胎して多少|和解《わげ》したるに過ぎぬ。ここに本文そのまま写し出すから、両々対照して予の言の欺かざるを知るべし。いわく、
 「書を好むの人に三病あり。その一は、時名を浮慕し、いたずらに架上の観美をなし、牙《そうげ》の籤《ふだ》、錦の軸もて、装?《そうこう》して衒曜《げんよう》するも、驪牝のほか一切知らず、これを書なしと謂いて可なり。その一は、広く収め、遠く括《あつ》め、心力を畢尽《つく》し、ただ多く蓄《たくわ》うることを図《はか》るのみにして、討論を事とせず、いたずらに灰塵に?《けが》し、半ばは高閣に束ぬ。これを書肆と謂いて可なり。その一は、博学多識、?々《こつこつ》と年を窮むれども、しかも慧眼は短浅にして、もってみずから運《めぐ》らしがたく、記誦流るるがごときも、寸觚も展《の》ぶることなし。これを肉食して牆《かき》に面するに視《くら》ぶれば、まことに間《へだたり》あるも、その世に没するまで聞こゆることなきにおいては均しきなり。それ知ってよく好み、好んでよく運らすは、古人もなおこれを難しとす、いわんや今日をや」。「記誦流るるがごときも、寸觚も展《の》ぶることなし」とは、信景自身によく当てはまりおるを覚ゆ。
 ついでにいう。寺島良安、谷川士清、天野信景三人の著書に、同一の叙事、同一の文章が多い。どうも谷川、天野二氏は、寺島氏の『和漢三才図会』を剽窃したように思わる。さてその『和漢三才図会』もまた、人見元徳の『本朝食鑑』から無断失敬したところが少なからぬようだ。  (昭和六年五月『あかほんや』四号)
 
(570)     『末摘花通解』補説
 
  門院をしたとざんそうしちらかし
 
  門院〔二字傍点〕とは建礼門院のことである。梶原景時が逆櫓論の意趣返しから、源九郎義経を陥穽しょうとして、門院を犯したなどと讒奏《ざんそう》した、という俗説を詠んだ句。(樽)
  門院は平清盛の女《むすめ》徳子、一度西海の波に沈んだが、源氏のために助かって京師に還され、のち剃髪して大原寂光院の辺《ほとり》に庵を結んでおり、そこで薨ぜられた。(壺)
 (紀州不毛先生子)藤原広嗣が、僧|玄ム《げんぼう》が聖武帝の太后を云々と奏上した句との説もあるが、これは奏の一字に拘泥して牽強したものである。やはり樽説通り、景時が義経を讒したという句で、聖武帝のころに門院号はない、建礼門院に限りおる。この場合、讒奏は讒訴が正しいが、享保九年の自序ある松崎堯臣の『窓のすさみ』第三、指扇源次郎自訴の条に、「白奏して訴え出づべく存じ候。……自訴しけるに、自奏ゆえ斬罪にて事済みにけり」と、秦と訴の二字を通用しておる。堯臣は、東涯・徂徠二人に学んだ学者であるが、これは当時の俗字通りに書いたのであろう。  (『末摘花通解』初篇上巻)
 
(571)  ゆいがどくそんとはゆげのへのこ也
 
  唯我独尊は、釈迦が生まれながらの宣言である。その末法を汲む弓削道鏡の大茎は、これまた古今にその比を見ない、同じく天上天下唯我独尊……。(壺)
  金ぴかの仏画に、山越しの釈迦というがある。群矮ために顔色なし歟《か》。(樽)
 (不毛先生子)樽説中に、「金ぴかの仏画に、山越しの釈迦、云々」とあるが、記憶の錯《あやま》りなりと思う。『頭書増補訓蒙図彙大成』二一巻、六葉表に、「山出の釈迦は、如来十七歳にして出家し、三十歳の御時、十二月八日、明星の出づる時、廓然大悟を示し、正覚をなし給えり」。また五葉表に、「山越しの弥陀は、比叡山|横川《よかわ》の峯に、阿弥陀の尊容を現じ給うを、恵心僧都拝み給いて、写し給いけるとかや」とあり、共にその図を出す。山越しと山出、弥陀と釈迦を混同されたと推察する。  (『末摘花通解』二篇下巻)
 
  牛の角もぐと女がふたり出来
 
  両頭の張形《はりかた》を両女で使用したのである。一儀終わって紐を解くと、始めて元の女となる。これをもぐ〔二字傍点〕と言い、また女が二人出来ると言うたのは名文句だ。(壺)
  『房中用具狂歌抄』に、「女|同志《どし》抱合ひ入れる互ひ形、中《なか》がよければふちもよいなり」とある。「水牛で梅が枝初音中のよさ」、「中のよい角突合《つのつきあひ》は長局」等、等。(樽)
 (不毛先生子)兼好の『徒然草』六二段に、「延政門院|幼《いときな》くおわしましける時、院(御父、後嵯峨上皇)へある人に、御ことづてとて申させ給いける御歌。二つもじ牛の角もじすぐなもじ、ゆがみもじとぞ君はおぼゆる。恋しく思い參らせ給うとなり」と見ゆ。この二つ文字はこ〔傍点〕、牛の角文字はい〔傍点〕、直な文字はし〔傍点〕、歪み文字はく〔傍点〕だ。恋はこひ〔二字傍点〕でこい〔二字傍点〕の仮(572)名でないが、頼政の歌に、「椎を拾ふて世を渡るかな」と、木の実のしひ〔二字傍点〕と位階の四位〔二字傍点〕を混同せるごとく、鎌倉時代にはひ〔傍点〕とい〔傍点〕の混同が一層行なわれておったのだ。牛の角と二人の二とを、この和歌に拠ってよみ並べたのかとも想う。  (『末摘花通解』二篇下巻)
 
  今川はけつをいましめぬでほろび
 
  今川〔二字傍点〕は、桶狭間で亡んだ今川義元であろうが、このけつ〔二字傍点〕はお釜ではない。転失気のブンである。すなわち『今川状』に、「文道を知らずして武道|終《つい》に勝利を得ざること」とあるそれ。「桶狭間つひに勝利を得ざること」という句もある……という解釈をしていたが、これは義元の子氏真を詠んだ句で、彼は父歿後荒淫度なく、復讐を忘れて只管《ひたすら》嬖臣三浦義鎮との衆道に耽り、ついに一家を傾けてしまったという。それだ。(樽)
  史実の上では、今川氏は後に徳川氏に仕えて子孫連綿としている。(壺)
  (禾火子子)背後から攻められた、桶狭間の敗戦のことであろう。  (『末摘花通解』二篇上巻)
 背後から攻められた、桶狭間敗戦のことと見るは誤りで、これは樽君の後説通り、今川氏真とその嬖臣三浦義鎮を詠んだ句である。義元、田楽窪で討死の後、その子氏真が継承したが、意を復讐に絶ち、荒淫度なし。嬖臣三浦義鎮、面姿をもって寵を得、国事を秉《と》り、讒を好み、権をもっぱらにす。綱紀始めて壊《やぶ》れ、家臣家康に帰付するもの多し。義鎮盆踊を好み、氏真に勧めて盛んにこれを行なわしめ、国中靡然風をなし、士民男女猥雑別なし。民間往々耕織を廃し、士大夫窮する者、あるいは甲仗鞍馬を売り、もって費を給す。上下解体し、愁怨路に満つ。統内諸豪、みな離畔を懐く。信玄これを聞き密《ひそ》かに駿人に結ぶに厚賂をもってし、永禄十一年(父義元の死後八年)十二月、兵六万を帥《ひき》い来たり伐つに及び、氏真大敗す……。本書四篇の「けつの恩命なげ出す関ヶ原」(石田三成のこと)の句などと等しく、この句はほんの史実を吟じたものだ。  (『末摘花通解』別巻)
 
(573)  湯へ行ヶと女房むしゃうにきたながり
 
  これは、細君が経水時に交わったからではない。亭主が他所で遊んで来たらしいからである。「そんな言い抜けは聞かないよ。たぶんお前さんのことだから、材木小屋で遊んで来たでしょう。汚ない。早くお湯へでも行ってお出でよ」。(樽)
  実況。さてはこの作者、お湯にやられた覚えがあると見える。(壺)  (『末摘花通解』二篇上巻)
 これは串童《かんどう》に戯れた亭主が還って、女房に穢ながられる光景を叙したのだ。『真正笑林広記』巻三に「齷齪」と題して、「夫、竜陽に狎《した》しめば、婦一たびは嘔吐の状をなし、その満身屎臭あり、身《からだ》に近づくを容《ゆる》さずと謂う。夜に至って同宿し、夫、故《ことさら》に離開《はな》れてもってこれを試むるに、妻、漸次《しだい》に挨近《ちか》づき、これを久しうしてついに牝戸をもって陽に 靠《つ》け、まさに湊合《そうごう》の意あらんとす。夫いわく、この物|齷齪《あくさく》たるに、これに近づくは何のためぞ、と。妻いわく、まさに齷齪たれは、陰水をもって他《かれ》を洗わんとすればなり、と」とある。  (『末摘花通解』別巻)
 
  行平が帰ると地下のものにさせ
 
  行平〔二字傍点〕はすなわち在原の中納言。一とせ勅勘を蒙って須磨に謫せられたが、そこで例の二人の蜑乙女《あまおとめ》に恋された話は誰も知る通り。句意はすなわちその松風・村雨の姉妹が、中納言の帰洛後は、朝臣でないいわゆる地下の者〔四字傍点〕にも仕方なく許した……。(樽)
  地下〔二字傍点〕は治下と善くのが本当、すなわち配下の者である。それで主人帰洛後は、残留した配下の者に、二人は振舞って遣《や》ったというのであろう。(壺)  (『末摘花通解』二篇上巻)
 壺君説に、「地下は治下と書くのが本当……主人帰洛後は、残留した配下の者に、二人は振舞って遣ったというのであろう」とあるが、地下とは今も紀州などにてしばしば聞くことで、本来土着の村人を、他所より移りし人と別ち称するのである。すなわち、東京在でいわゆる新ン屋の孫十とか、博労の八せなあの輩を指す。かかる輩を、役人や豪(574)族より地下の者と呼んだ。雑賀貞次郎氏の『紀南方言雑記』にも、「地下の者とは、もと土着の人を意味した。地下は今でも村を意味し、あれは地下の人だと言えばかの人はわが村の人の義になり、神社に奉納の幟などに地下中とあるは、村中ということである。わが村ということを、地下という所が少なくない」とあり、三田村鳶魚氏等の『西鶴輪講』のいずれかの本文にも、この意味で西鶴が地下云々と書きある処があるのを、聢《しか》と解せなんだと記臆する。  (『末摘花通解』別巻)
 
  まつたけでおごとむきみをかき廻し
 
  おご〔二字傍点〕もむきみ〔三字傍点〕も、共に女陰中の雑物の形容。(壺)
  それにまつたけ〔四字傍点〕を加えたお膳立は、ちょっと凄《すご》いとでも言おうか。(樽)  (『末摘花通解』二篇上巻)
 壺君説に、「おご〔二字傍点〕もむきみ〔三字傍点〕も、共に女陰中の雑物の形容」とは如何《いかが》か。むきみ〔三字傍点〕は、あるいは吉舌、あるいは小陰唇、あるいは陰底や膣内の雑物なるべきも、おご〔二字傍点〕は雑物でなく、陰毛が練れたる体を形容したものである。この物、学名グラシラリア・コンフェルヴォイデス、ラテン語を解する者は、この学名を聞いただけで、細長い糸の状なるを知る。『和漢三才図会』第九七にも、「按ずるに於胡菜《おごのり》は海中の石の上に生じ、乱れたる糸のごとくにして青色、長さ一、二尺なり。これを采《と》って時を過ぐれば、蒼黒色に変ず、云々」とある。  (『末摘花通解』別巻)
 
  せんずりをくにとこたちのみことかき
 
  諾冊の両尊はすなわち陰陽の二神であるが、国常立尊〔四字傍点〕は混沌の御代における御一体の男神である。となると、この自?は末摘花子でなくても想起されるであろう。(樽)
  西鶴の『男色大鑑』は、尊から以降の男神三代は、もっぱら衆道に依ったとある。(壺)  (『末摘花通解』二篇上巻)
(575) 三十余年前、大英博物館に在った時、ナポレオン一世の出資でエジプト学を創めたシャンポリオンの書を閲した。それに、最初の男神レという一字名のが、手淫をする図があった。その古像を実写した図だ。『本朝若風俗』(一名『男色大鑑』)西鶴の序文に、「国常立尊より三代は、陽の道ひとりなして衆道の根元を顕わせり」とあると異なり、このレ神は自?して二子を生み、それより諸神が出来たという(一九〇四年板、バッジ『埃及《エジプト》諸神譜』一巻二九七頁、および『大英百科全書』一一板、九巻五一頁参照)。それとまた反対に、インドでは王種の祖女神が、やはり自褻をやらかしたと説いておる。『西域記』一〇に、「在昔劫初、人物|伊《こ》れ始まり、野居穴処していまだ宮室を知らず、のち天女あり、迹を人中に降し、※[歹+克]伽《ごうが》河に遊び、流れに濯《そそ》いで自《みずか》ら媚び、霊を感じて娠むあり、四子を生む。贍部洲《せんぶしゆう》を分かちておのおの区宇を擅《し》めて、都を建て邑を築き、封彊画界す」とあるもの、これだ。自媚はすなわち手淫のことである。また『経律異相』一に、「水劫末の時、光音諸天、水に入りて澡浴するに、四大精気その身内に入り、体に触楽を生じ、精水中に流る。八風吹盪して泥中に堕とし、自然に卵を成す。八千歳を経て、その卵すなわち開き、一女人を生ず。その形青黒にして、なお淤泥のごとし。九百九十九頭あり、頭ごとに千眼と九百九十九口あり。一口に四牙あり、牙上火を出す。状《かたち》霹靂《いかずち》のごとく、二十四手あり、手中みな一切武器を捉《と》る。その身高大にして須弥山のごとく、大海中に入り水を拍《う》ってみずから楽しむ。旋嵐風あり、大海水を吹き、水精、体に入ってすなわち懐妊す。八千歳を経て、然るのち男を生ず。身体高大にして、四倍、母に勝る。児に九頭あり、頭ごとに千眼あり。口中火を出し、九百九十九手あり、八脚あり。海水中においてみずから号すらく、われはこれ毘摩質多羅《びましつたら》阿修羅王なり、と。ただ淤泥および藕《れんこん》を?《くら》う。地劫初めて成るに、変易かくのごとし」とある。男でも女でもない光音天が水に入り、触楽を感じ精液を水に流し、それが卵となり、おのずから開いて一女人を生じ、その女人また海水に感じて孕み、男子を生んだというので、水に入って触楽を感じたとは、やはり、手扁《てへん》に上げ下げがかったことを、多少行なうたのだろう。  (『末摘花通解』別巻)
 
(576)  見せたげくゎ見ると内儀はにげる也
 
  大事な場所を見せた医者なので……。この見せた〔三字傍点〕……見る〔二字傍点〕と続けたところに、幾分の働きを見せた句であろう。(樽)
  逃げるは、ちょっと横丁へ外《そ》れたぐらいのところであろう。(壺)  (『末摘花通解』二篇上巻)
 一八九四年刊行、英国民俗学会の機関雑誌『フォーク・ロール』五巻一号一四頁に、ゲリッシュ氏いわく、英国に広く信ぜらるる俗伝に、水死して救い揚げられた男女は、そののち済い呉れた人を忌み避け、はなはだしきはきわめてこれを嫌う、と。これは知覚を失いおるうち、かの処を見られただろうという懸念からのことと察する。もっとも中里介山の『大菩薩峠』に、女軽業師お角が、難船して気絶し、浜辺へ吹き寄せられたのを、駒井甚三郎が家来と二人で救い蘇生せしめてより、お角が嫌うどころか、甚三郎に厚く奉仕して、江戸に帰りたくなくなるような例もあるから、一概には言われぬ。ただしこの女は見られたくらいを何とも思うような人物にあらず、むしろ宣伝によく利いたはずとみずから憑《たの》んだかも知れない。本書の二篇に、「見た事があるにといやなくどきやう」とあった。聢《しか》と覚えぬが、どこかの病態を見せた医者に、本人たる女が据膳を強いて、はね付けられた話が『夷堅志』にあった。これらは『大菩薩峠』のお浜が、おのれを辱しめた竜之介に奔ったごとく、一度見られた上はと、捨鉢になったらしい。北米サリシュ・インジアンの処女が、男に露形を見らるれば、その男に嫁する外に、その恥辱を免れあたわざるに同じ(『続南方随筆』二八四頁)。同一事にして、二様の反対せる感想を生ずと知らる。  (『末摘花通解』別巻)
 
  くうかいはへのこ斗《ばかり》が無筆なり
 
  空海〔二字傍点〕である。彼は日本三筆の一人で能書の誉《ほまれが》高かったが、その陽物だけは無筆〔二字傍点〕である。すなわちせんずりをかくばかりだというのである。(壺)
(577)  書くばかりだ……ではない。手はよく書くが、その方はかかぬ……である。何故、という反問の必要はないが、彼は若道の開祖であることを忘れてはなるまい。(樽)  (『末摘花通解』二篇上巻)
 壺、樽の両君説共に当たらず。空海を五筆和尚と言いしこと、われら幼時、『節用集』などの口絵で記臆して忘られない。寺小屋の師匠などと、しばしば話して聞かされた。念のため書籍を調べると、差し当たり座右なる『元亨釈書』一、空海伝に、「能《よ》く五筆一時に書す」とある。この書が成った元亨二年より二百三十三年前、堀河天皇の寛治三年撰という『大師御行状集記』七三条に、「ある伝にいわく、大唐公城の御前に二間の壁あり、これすなわち羲之が壁を通せし手跡なり。しかして一間破損す。修理の後、もと人の筆を下すなかるべし、今大和尚書くべきものと、勅の旨によりて、墨を磨り集めて濫に入れ、五筆を五処に持ち(口と左右の手足と)、一度に五行に書くなり。殿上階下もってこれを感ず、云々」と出ておる。仏経に、男根を生支と呼び、両手両足を四支と呼ぶに対す。さればこの五支の内、生支すなわち男根だけは筆を運ばず、その代りに口に一筆を銜《くわ》え、両手両足と共にみな能筆に使うたが、男根のみは無筆だった、と作ったのである。ただし『牛馬問』四に、「書法に五の執筆の名あり、一にいわく単勾、二にいわく撥動、三にいわく※[手偏+族]管、四にいわく捻管、五にいわく握管。この五ツの法を、自由自在に得給うゆえ、五筆和尚の名あり。大師自作の『執筆法伝』という書あり。その厳なること、わが朝筆道の最第一とす。大師なんぞ曲筆をせん。みな蒙俗の言葉なり」とある。しかし普通には、五筆を五処に持って曲書きをしたものと信ぜられた。  (『末摘花通解』別巻)
 
  見た事があるにといやなくどきやう
 
  ちゃんと種が挙がっていますよ。ソラ才公と一昨日の晩のことをさ、ねえお駒さん……で、これは後家や下女ではなく、丈八もどきの白鼠がお嬢さんを……。(樽)
(578)  否、後家か下女の方と思う。主家の娘へでは、そう突込んで口説けまい。(壺)  (『末摘花通解』二篇上巻)
 両君説は、一対の男女が隙間もなく合歓するところを、垣間見たというようであったが、次の文のようなことを述べたものと思う。すなわち『夜譚随録』上に、「監生の潤玉は弱冠にして文誉あり、?姿|韶秀《いんしゆう》にして玉山照人のごとし。同学、翰院をもってこれに期す。玉もまたみずから命じて不凡なりとし、『鹿鳴』を賦し南宮に捷《きゆうだい》するは、地の芥《あくた》を拾うがごときのみと視《み》なす。所居《すまい》は尚書某公の宅に?《せま》り隣す。尚書に女《むすめ》あり、すでに侯門に字《えんぐみ》せるも、なおいまだ遣《や》り嫁《とつ》がしめず。しかも才慧容色あって、名は一時を動かす。玉たまたま車に升《のぼ》る時にこれを見れば、素面《かんばせ》は碧紗を隔てて春煙の海棠を籠めたるがごとし。帰って思慕し、一刻も置く能わず。一日、後圃《うらにわ》を閑歩するに、壁《へい》を隔てて女子の嗽《しわぶ》く声を聞く。急いで柳蔭の中に梯《はしご》を設け、登ってこれを窺うに、すなわち尚書の宅内の溷軒《かわや》なり。これ一女、麗わしきことはなはだしく、車中の人なるを識る。方《まさ》に厠に登らんとして、蘭煙《らんえん》口より出で、臀《でん》白きこと霜のごとし。玉、目奪われ神《たましい》揺らぐも、なお意《こころ》を満たす能わざるを恨む。日暮れ人静まって、すなわち暗《ひそ》かに花蔭の密なる処において、壁の脚下に半甎を鑿《うが》ち去り、洞徹して目を礙《さまた》げざらしめ、終日これを覘《うかが》う。ここにおいて女の隠私《かくしどころ》は、玉の諦《つまび》らかに見るところとならざるものあるなし。半年を積《かさ》ねて、女すでに出閣《よめいり》し、玉再び窺うによしなく、すこぶる悵恨す。よってその私処を冥想するに、朱色の痣《あざ》一点あり。ために『長相思』の詞を賦し、もってこれを詠ず。友人の見るところとなり、挙《と》ってこれを火に投じ、色を正してこれを責め、並びにまたと挙げてもって人に告げ、もって徳行を損《そこな》うことなかれ、と誡《いまし》む。玉その迂《う》を笑う。のち?に入って、夜|一《ある》人のその目を抉《えぐ》るを夢み、痛みはなはだしくて寤《さ》む。これを悪《い》むも目の痛み止まらず。両の瞳、鍼《はり》の刺すごとくにして、睫を啓《ひら》くこと能わず。ついに白き巻《とうあん》を?《わた》して出ず。家へ帰って三日、痛み絶えずして、ついに双《ふたつ》とも盲《めしい》となる。掲暁《はつぴよう》に及べば、詞を燬《や》ける友人は、すでに魁《かい》に列す」とあるもの、これである。『覚後禅』一二回にも、未央生が壁を穿って、香雲が馬桶上に坐在して小解するを看《み》ることがある。  (『末摘花通解』別巻)
 
(579)     男でなりひらほどしたものはなし
 
  およそ男であって、在原の業平ほど女の数をこなした者はあるまい。上は二条の后より、下は陸奥の細布女まで。あるは筒井筒の少女、またはつくも髪の老婆……。(壺)
  本書初篇に、「なりひらは高位高官下女小あま」とある。(樽)  (『末摘花通解』二篇下巻)
 壺、樽の両君は業平が会うた女の数をはっきり御存知ないらしい。『長禄記』に、業平の契りたまいし女三千三百三十三人、とあり、『三河雀』一には、「業平は一生女犯三千七百三十三人と『女郎花物語』にみえたり。高師直は、八千余人といえり」と出ず。その他、女に多く会った人々の対手の数の統計は、『彗星』四年四号二九−三〇頁に就いて見たまえ。その内最もおびただしいのは、『金七十論』上巻や、『大方広仏華厳経』一五に見ゆる通り、毘紐天(ヴィシュヌ)は一万六千妃と一時に同じく欲楽し、帝釈(インドラ)はあまねく九十二|那由佗《なゆた》の諸天女に応じ、彼女らをして各自心に、天王独りわれのみと娯楽すと思わしむ、とある。一那由佗は、一の後の零を二十八付けた莫大の数だ。  (『末摘花通解』別巻)
 
(581)   《岡山文化資料》
 
     馬鹿婿
 
 本誌二巻二号八頁に出たのと同趣向の話が、古く和歌山市およびその付近に行なわれた。現在せば九十歳ばかりなるべき亡母が幼時聞いたものと言ったから、百年以上の旧説たること疑いなし。むかし老爺が婿の宅を訪うて団子を饗せられ、素的に旨いからその名を聞き覚え、団子、団子、団子と連呼しながら自家へ還る。途中に広い溝あるをポイトコナと呼んで飛び越えてより、団子の名を忘れ、ポイトコナ、ポイトコナ、ポイトコナと言って内に帰著し、老婆に向かってポイトコナを作り食わせ、と命じた。そんな物を知らぬというと、大いに怒り、火吹竹で額を打った。婆怒って何故無法なことをなさる、額が団子のように腫れたと罵るを聴いて、その団子のことよと老爺が言ったというのだ。
 明治九年、予十歳の時、只今東京で能楽通で盛名を馳せる山崎楽堂氏の義兄ぐらいに当たる人が、和歌山市の伊達神社で狂言「岡太夫」を演ずるを見て、件《くだん》の昔話のよって出たところと暁った。この狂言は『続狂言記』三に出でおる。聟入した者に、舅が蕨餅を饗する。聟その美味に感じ入り、何物と尋ぬると、舅が、「これは蕨餅と申す物で厶《ござ》るが、延喜の帝の御寵愛なされたによって、官を下されて、蕨餅を岡太夫と申す。すなわち朗詠の詩にも載って厶る」と教え、新妻がその製法を知りおれば、帰って作らせて試みよという。さて帰宅して、汝の父に珍しい物を振舞われた、藤太夫とやら言われたが、ロウシに載ってあると言われた、それを食わせという。妻、それは朗詠の詩で厶ろ(582)う、記臆のままに述べるから、その内にあればあると言いたまえとて、「鶏既鳴忠臣待v旦《にわとりすでにないてちゆうしんあしたをまつ》、あしたとはかいじょうとき、もし貝の酢菜、トサカノリばし参ったか」と問うに、そんな物でなかったと答う。「気霽風梳2新柳髪1《きはれてかぜしんりゆうのかみをけずり》1、氷消波洗2旧苔鬚1《こおりきえてなみきゆうたいのひげをあらう》、鬚で思い出した、??《ところ》ばし参ったか」と問うに、それでもない。「池凍東頭風度解《いけのこおりのとうとうはかぜわたつてとけ》、窓梅北面雪封寒《まどのむめのほくめんはゆきほうじてさむし》、もし梅干ばし参ったか」。婿「のうのう、酸やの酸やの、きくさえ酸い、それでもおりゃらぬ」。妻「こしゅかいの底には、なっとうの砂をしくとは、納豆を肴にして、酒ばしくらうたか」。婿「酒ばしくらうたかとは、藁で作っても男じゃに、くらうたかとはどうしたことじゃ、おのれ聴かぬぞ、打って置いたがよい、ああ腹立や」。妻「のうのう、腹立や、腹立や、したたか妾が手を打った。さても痛や痛や、まことに紫塵の嫩《わか》き蕨、人手を拳《にぎ》るというが、このことであろう。のうのう、痛いことかな」。婿「やあやあ、今のは何と言ったぞ。も一度言って聞かしゃれ」。妻ここにおいてかの句を繰り返すと、婿「それそれ、蕨で思い出したわ。蕨餅のことじゃ」。そこで妻、蕨餅を作り、夫に食わせるという次第だ。蕨に似た拳で打つとあるを、火吹竹で打ったとしたのが和歌山咄で、窓梅から臆い出して梅干を食うたかと問うに対して、酸やの酸やの、聞くさえ酸いとあるより、岡山噺の、婿が酢を買いに遣わされたと出たものだ。
 外国にも類話がある。セイロンの農家の話に、娘が嫁した家へ往った親爺が糖果を饗せられ、あまり旨いのでその名を問うと、ウェラワエフンと答えた。忘れぬためにウェラワエフン、ウェラワエフンと言い続けながら帰る途上、石に躓いてホッバンコージと叫んだ。コイツは痛いとでもいうことでしょう。それより全くウェラワエフンを忘れ、ホッバンコージとばかり言い続けて、内へ入るや否、老婆に向かい、娘の宅でホッバンコージを食ってなかなか旨かった、お前もホッバンコージを拵えてくれと言うた。婆仰天して、生まれて以来聞いたこともない、どうしてそれを拵え得るかとわめくと、只今食ってきた物を知らぬはずがないとやり返し、口論の最中へ村人が来て、この婆様は何を腹立てて、口をウェラワエフン果子の通りに膨らし罵るかと問うたので、老爺、それそのウェラワエフンのことよ、(583)と言ったという(一九一四年板、パーカー『錫蘭《セイロン》村民譚』二巻六〇頁)。
 ついでにいう。仏教には、僧が溝を飛び越えるを制しある。いろいろ理由もあらんが、上述和歌山咄の老爺ごとく、記臆と正念を乱すのを防ぐためでもあろう。むかし一|優婆塞《うばそく》が、一領の好衣を布施するつもりで、無著比丘を請じた。比丘すなわち随い行く道中に小溝あり。比丘すなわちこれを飛び越えるをみて、優婆塞心が変わり、半領衣を与うるつもりになった。比丘その意を知って進み行き、また小溝を飛び越えると、半領衣もよして麁末な毛布をやる思惑となった。また小溝を飛び越えると、今度はただ粗飯を振舞う了簡になった。また水に出くわすと、比丘、衣を挙げて渡り了つた。なぜ飛び越えぬかと尋ねると、一領衣から半領衣、それから麁末な毛布、次に粗飯と、水を飛び越えるごとに布施物が下落した、今度飛び越えたら、粗飯をさえ食いそこなうのがいやだから、と言った。さては自在に人心を察知する得道人とかんづき、伴い帰って大いにその比丘を供養したそうだ(失訳人名、付東晋録『仏説目連問戒律』中『五百軽重事経』下巻)。(ボムパス『サンタル・パルガナス俗譚』三四五頁、見合わすべし。)(昭和四年十二月十一日夜十二時)
 (追加)本文発送後、『太平広記』二六二に次の一条あるをみ出でて、これがまず馬鹿婿話の最も古いものと思う。馬鹿婿という名も癡婿の直訳だろう。いわく、「癡婿《ばかむこ》あり、婦《つま》の翁《ちち》死して、婦、教うるに弔礼を行なうをもってす。路において水《かわ》に値《あ》い、すなわち襪《べつ》を脱いで渡り、ただ一の襪を残すのみ。また林中の鳩、鳴いて※[口+?]鴣※[口+?]鴣《ぼつこぼつこ》というを覩《み》て、私《ひそ》かにこれを誦し、すべて弔礼を忘る。至るに及び、すなわちもって、襪のある一足にて立ち、その跣《はだし》なるものを縮め、ただ※[口+?]鴣※[口+?]鴣というのみ。孝子みな笑えば、またいわく、笑うなかれ笑うなかれ、もし襪を拾い得れば、すなわちわれに還《かえ》せ、と」。(昭和四年十二月二十日夜十二時)  (昭和五年一月『岡山文化資料』二巻三号)
 
(584)     アマンジャクが日を射落とした話
 
 本誌二巻四号三九頁に出たこの話は、疑いなく支那の?が日を射た譚から作り出したものだ。『淮南子』八に、「堯の時に至るに逮《およ》び、十日並び出で、禾稼を焦がし草木を殺《から》す。しかして民食らうところなし。※[獣偏+契]?《あつゆ》、鑿歯《さくし》、九嬰、大風、封?《ほうき》、脩蛇《しゆうだ》、みな民害をなす。堯すなわち?をして、鑿歯を疇華《ちゆうか》の野に誅し、九嬰を凶水の上に殺し、大風を青邱の沢に?《しやく》し、上《かみ》十日を射て下《しも》※[獣偏+契]?を殺し、脩蛇を洞庭に断ち、封?を桑林に擒にせしめ、万民みな喜び、堯を置きてもって天子となす」と出ず。※[獣偏+契]?等の五つは怪動物で、大風は風伯なり、よく人の屋舎を壊《やぶ》るとあるから大風を吹かす悪神だ。日が十も並んで出た上に、そんな物が暴れあるいてはたまらない。それを?がことごとく退治したのだ。
 アマンジャクは、『古事記』の天佐具売《あめのさぐめ》、『日本紀』の天探女で、天稚彦に勧め天使|雉《きぎし》名《な》鳴女《なきめ》を射殺さしめた。『古事記伝』に、その名義は、他の心を探りて邪心多きなりとの意、と述べある。もとは悪事を勧むる女精だったのを、後には万《よろず》につけて常道に乖《そむ》き戻《もと》る悪女鬼と認められた。事|毎《ごと》に穏止する能わず、左にあるものをもって早く逆らうて右たりといい、また前にあるものはすなわち後たりといい、みずから推し名づけて天の逆毎《ざこ》姫と名づくなど付会された。それから神仏混雑して、両金剛に踏まれおる小鬼をアマノジャコと呼んだり、丹後切戸の文殊が天の邪鬼をして橋立を造らしめたなど言い伝う。さて?が十日を射た話中に六つの凶怪あり、天稚彦が天探女の勧めのままに、雉名鳴女を射通した矢が、天神の許に飛び到ったとあるを連想して、凶怪アマンジャクが七日のうち、六つまで日を射落とし(585)た、と作ったのだ(『日本百科大辞典』一巻一九九頁。『和漢三才図会』四四。『梅村載筆』人巻。津村正恭『譚海』一〇)。七日のうち六つまでとは、『淮南子』に、堯の時十日並び出で、草木焦げ枯る、堯、?に命じ仰いで十日を射せしむるに、その九烏みな死し、羽翼を堕とすとあるに倣うたものだ。しかし、この文は拙蔵の『淮南子』にちょっと見付からないが、『淵鑑類函』二に引かれある。『淮南子』七に、日中|蹟烏《しゆんう》あり、三足の烏と註あり。九烏死すとは、十日のうち九つまで射落としたのだ。宋の羅泌は、十日は太陽十個でなく、義和君の子を十日といい、全く人の名だ、と言った(『路史』後紀一〇の註)。しかし、この『淮南子』の外にも、一つ以上の日があると信じた者が諸国にあるから、?が射た十日も十個の太陽と解すべきだ。
 例せば、『山海経』などに、日は十あり、海外にあり。東方に湯谷あり、上に扶桑の木あり、十個の日が谷中に沐浴する。その水中に大木あり、九つの日は下枝におり、一つの日は上枝におる、と。十ある日が一つ一つ代わって、扶桑木の枝に上るを、人が毎日同じただ一つの太陽が現われると信じたという。インドにも似たことあり。古銭表面の画に、創世の大洋中に世界の卵一つあり、それより世界の樹一本生え、三椏を分かち、椏の端ごとに一あるいは三つの日を著けたものあり。仏経には、末世に世界|壊《やぶ》るる時、大旱《ひでり》つづき、ついには草木みな枯れ、次に二つより三つ、三つより四つと日が増し出る。日が二つ出ると、小さい池や溝はみな涸れてしまう。三つ出ると恒河ごとき大河も乾きつく。四つ出ると一切の大湖が乾く。五つ出ると大海の水が減じ初め、六つ出ると一切の大山が燃え出す。七日出ると一切の大山みな底まで乾き渇し、須弥山の頂辺七百|由句《ゆじゆん》のあいだ一時に崩れ落ちる。その火が吹き上げられて梵天の宮殿を焼く。ただし、光音天に至る能わず。光音天子これを望見して大いに驚き懼るという。その法螺のデッカさ、とても支那説の企て及ぶところにあらず。ただし、その趣向は?の話によく似る。北ボルネオのズスン人の譚もややこれに似る。いわく、むかしのドットむかし、天至って低く、人の高さだけ地と離れおった。したがって月と木菟《みみずく》と恋に落ちて夫婦となった。その時、人あり、その妻孕めり。その妻家を下ると腹が日の熱に中《あ》てられて不快とき(586)た。夫大いに怒り、吹矢七本造った。翌朝早くそれを持って日が登る所で俟ちおった。その時代には日が七つあった。さて日が登り出すを、六つまで射て一つ残し、宅へ還った。初めこの人日を六つ射た時、木菟はある家の屋根に止まり、髪を梳《くしけず》りおった。(ズスン人は月を男とすること、日本で月読の命を男とみるに同じ。したがって、本話の木菟は女だ。しかして前述通り天が至って低かったので、屋根が天と密接しおった。)ところが、ふと、櫛を地に落としたから、木菟が地上へ飛び下り、その櫛を拾うた。その時遅くかの時速く、ただ一つ残った日が、吹矢の権幕におじて、遠く上空へ逃げ登ったにつれて、今まで低かった天が、昨今通り地面を距《さ》ることきわめて遠いものとなった。それから今まで、月が出るごとに、木菟が久し振りじやわいな、もうたまらんわいなと呼べど叫べど、月は降り来たらず。汝は下開ならねど下界にあり、われはこんな高い天の原にあって、阿魔の腹を何とも詮術《せんすべ》がないと答うるのみ、と。(『論衡』一一。一八九九年パリ板、コンスタンタン『熱帯地の自然』二八五頁、二九五頁、一五五図。『起世因本経』九。一九二三年板、エヴァンズ『英領北ボルネオおよび馬来《マレー》半島宗教俚伝風習の研究』九八入頁)
 ?が九日を射落として日が一つ残ったよう記した『淮南子』は、その巻一一にまた、  界よりずっと後年、周の武王が殷紂を伐ったことを述べて、戦いの時に当たり十日上に乱る、というた。しからば、?が射た十日も、殷周合戦の時の十日も、正身の日が一つと、幻像の日が九つより成り、凶年や悪日に九つの偽日がたちまち現われて人目をまやかし、たちまち消え失せて行方を滅すると料簡されたものか。大空に集まる水汽の作用で、数個の日や月が現ずるは絶無のことならず。気象学書に種々と図説あり。『路史』余論巻一〇等に、支那の実例を列ねある。射落としたというは法螺ながら、今日も、日月蝕に鼓角を鳴らして邪鬼を逐い、刀兵を揮うて霹靂を却《しりぞ》けんと力むる民あれば、むかし数日並び出ずるを弓矢で攘うた風あって、その痕跡を、?やズスン人の話に留め存することと惟う。これを根から葉まで、架空の虚構とせばすなわち鑿せんと、ギックリみえを切っておく。(三月五日夕五時半)
 (追記)明の謝肇?の『文海披沙』六にちょっと面白い論がある。俗説に、?は喜《よ》く射る。堯の時十日並び出で、?(587)その九を射落とす。しかるに、その妻不死の薬を窃んで月に奔り入る。しかして射る能わず。唐の時、人、瘧を病む者あり。子美謂う、わが詩もってこれを療ずべし、と。誦して、子章髏髑血※[食+莫]餬たり、手に提げて崔大夫に擲げ還すというに至るに及んで、瘧病果たして愈《い》ゆ。しかれども子美の詩に、三年なお瘧を病み、一鬼銷亡せずの語あり。何ぞみずからその詩を誦してもってこれを断ぜざるや。事の相|舛《あや》まる、笑うべきことかくのごとし、というのだ。  (昭和五年五月『岡山文化資料』二巻五号)
 
【再追記】
 一九〇九年板、フロベニウスの『人間の小児時代』二一章に、西北アメリカ・インジアンの伝説を出す。むかし樹脂が人となってモムハナテと称す。この者盲だった。日の熱さに堪えねば夜々魚取りに往った。夜明け方になると妻が出向かうて、速く帰れ、日が出かけおると呼ぶと、還る例だった。しかるに、一日妻が朝寝し過ぎて呼びに出で後れたので、モムハナテはあわて還る途中で日熱で鎔け去った。その後仇に、二人の子が申し合わせて天を射るに、初めの矢が天に立ち、二番の矢が初矢の筈に、三番の矢が二番の矢の筈に立った。こうして長い矢の鎖が天地を維《つな》いだのを、兄がふってみると、確《しっか》りしていた。よって兄弟、それを攀じて天に上り、日を射殺し、兄が新たに日となり、弟は月となったそうだ。  (昭和五年六月『岡山文化資料』二巻六号)
 
(589)   《芳賀郡土俗研究会報》
 
     『芳賀郡土俗資料第一編』を読む
            高橋勝利著『芳賀郡土俗資料第一編・性に関する説話集』参照
 
 (一)アマンジャクを生殖器の位置に関して引合いに出した話が、内田邦彦氏の『南総俚俗』に出ず。いわく、アマノジャクは意地悪の神様なり、神たち人間を創造する際に、その秘処を何処《いずこ》にせん、胸にては悪し、背にても良からず、目に立たぬ股間にこそと衆議一決しぬ。されど、アマノジャクは必ず人目にたつ額にと言うなるべし、よしさらば法こそあれとて、皆の決議は額にとなりぬと告げたるに、果たして意地悪の神は反対して股間にせんと言い出でしかば、皆の思うがごとくなりぬ、とある。これと同趣の話が同書にあって、雨蛤《あまがえる》、平生少しも親の言を聴かず、喜《この》んでこれと違《たが》う。母臨終に、われ死なば川辺に屍を埋めよ、と遺言した。かく言うたら必ず反対に出て、山に埋めくれるはずと思うたのだ。雨蛤は今まで母に毎事|反《そむ》いたが、このたびに限り命のままにしようとて、母を川辺に埋めた。それより雨ふる前ごとに墳墓の流るるを憂い必ず啼く、とある。内田氏いわく、この譚、筑前にもあり、金沢市では雨蛤の代りに鴿また蝉という、と。
 熊楠按ずるに、件《くだん》のアマノジャク譚に似たのは、十六世紀に英国で出た『快談敏問捷答』の六八条だ。いわく、むかし歴山大《アレキサンドル》王がラムサク大城を全く潰さんと図った時、城主アナキシメネスが城壁を踰《こ》え来るをみて、必定この城を漬さぬよう哀願に来るものと思い、大いに誓うて朕は彼が要求するところを一切聞き入れじ、と言った。さてアナ(90)キシメネス、大王に謁して、どうかこの城を全く潰し下され、と請うた。彼の請うところは一切拒絶すると誓うた上は、この切願を容るる訳に往かず。城は全く保存された、と。一九〇三年刊『ノーツ・エンド・キーリス』九輯一一巻三六四頁に、知人エー・コリングウッド・リー氏この話の考証を出した。拳ぐるところの古書中に拙蔵にないもの多いから、十分突きとめ得ぬが、西暦一世紀すでにこの話が記され、決して近古の作でないと判る。ただし捜したら、和漢その他に類話は少なからぬと想う。
 また雨蛤が母の屍を川辺に理めたに似た談は支那にある。唐の段成式の『酉陽雑俎』続四にいわく、昆明池中に塚あり、俗に渾子と号す。相伝う、むかし居民に子を渾子と名づくる者あり、嘗《つね》に父の語に違い、もし東と言わばすなわち西し、もし水と言わばすなわち火とす。病んでまさに死せんとし、陵屯の処に葬られんと欲す。矯《いつわ》り謂いていわく、われ死せば必ず水中に葬れ、と。死するに及んで渾子泣いていわく、われ今日さらに父の命に違《たが》うべからず、と。ついにここに葬る、と。さらに盛弘之の『刑州記』を引いて、?水の北岸に五女?あり。西漢の時、人あり、河に葬る。墓、水に壊《やぶ》られんとす。その人五女あり、共にこの?を創《つく》ってその墓を防ぐ。またいわく、一女陰県の?子《こんし》に嫁す。?子、家貲《かし》万全あり、少《わか》き時より長ずるまで父の言に従わず。父、臨終に、山上に葬られたかったが、子が従うまじと思い、必ずわれを渚下の河原に葬れ、と言った。?子、われ今まで父の教えに随わなんだ、今度は父の詞通りにしょうとて、ことごとく家財を散じ石塚を作り、土を繞らし、ついに一洲を成した。元康中に始めて水に壊られ、今も石数百枚聚まって水中に残りある、と。熊楠按ずるに、むかし子細あって墓を水中に建てた人往々あり。それを見て後人がこんな話を作ったので、本邦の雨蛤の話は、またそれを作り替えたとみえる。
 (八)通草の実が陰相に酷似するについては、いろいろ面白く宮武省三君の『習俗雑記』一九三頁に書かれある。そこに漏れたるを言う。畔田伴存の『古名録』二一に、『新撰字鏡』にいわく、通草、神葛、また於女葛、『藻塩草』に、通草アケビノカズラ、仙女草ツブクサ、と出す。『藻塩草』只今座右にないが、この書き様(591)では、アケビを仙女草ともツブクサとも称えたらしい。ツブはツビに通じ、それから仙女草と名づけたのだ。神葛というも女神葛の略だろう。於女葛というは、上方で丹鼎を於女古というは近世始まったごとく惟う人多いが、実は醍醐帝のころすでに行なわれたという証拠に立つと考う。
 (十三)女陰よく狼を却《しりぞ》くる由は、西村白烏の『煙霞綺談』一に出ず。「狼は色欲の薄きものなりと言えり。さもあらん、たびたびこの獣にあう人に尋ぬるに、尾を立て走るをみし人なし(熊楠聴くところも然り)。常の犬の物に怖れて逃ぐるごとく、尾を俣《また》へ引き入れて陰形を隠すとなん。色欲を恥ずる故か。かの狼交合をする時、人往き懸かれば、その人を見覚えて、数年の後にも必ず讐をなすものなりと言えり。かかる時は、男女によらず、衣服を脱いで、隠所をあらわにみせて通れば、その害なしと言えり」と。一五八八年ヴェネチア板、ラムシオの『水陸紀行全集』一の九二頁に出たレオ・アフリカヌス(十六世紀の人)の『アフリカ記』に、山中で婦女が獅子に逢った時、その陰を示せばたちまち眼を低うして去る、とあるも似たことだ。一八七五年板、ユールの『マルコ・ポロの書』二巻二七三頁に、一角獣(犀)が素女に捕わるる体の中世の画を出す。この獣、素女の乳房をみて吸いにきて、眠るところを狩人が殺すと信じたのだそうな。
 (十五)「留守中の話」とほぼ同じなが、一五五八年に初めて出板されたナヴァル国王后マーゲリトの遺著『エプタメロン』その他にある。今はただ『エプタメロン』五日四八譚を略述するとこうだ。ペリゴールの某邑の旅館で新婚の式を挙げ、婿と嫁の親類、友僚集まって大機嫌。ところへ托鉢僧二人投宿した。婚筵へ請ずる訳にもゆかず、その泊り室で夕食させた。年長の僧これを憤り、仕返しを巧むうち、宵となって舞踏が始まった。年長僧窓から覗くに、新婦の美しさ言葉も及ばず。よってそれとなく注意して宿婢に問うと、新婦の寝室がちょうど自分の寝室の隣りと分かった。よく見ておると、やがて作法通り老女どもが新婦を導いてその寝室に入れた。新夫はまだ宵のうちだから寝室へ退かず、新婦を忘れたごとく舞踏し続けた。新婦を忘れぬのはかの坊主で、新婦が牀に就いたを聴き定(592)めて、たちまち法衣を脱ぎ新婦の室に入って快を取った。しばらくしてその室を出で、見張りに立たせ置いた弟僧をみると、手真似で新夫はまだ踊っていると知らせた。すなわちまた入ってその慾を果たした。時に弟僧が咳払いか何かで知らせたので、す早く出で去った。跡へ新夫が来て牀に登れば、二回の采戦に疲れ果てた新婦が、卿はまだそんなことをし続けて、ちょっとも眠らぬつもりですか、と問うた。新夫一向合点行かず。今やっと舞踏をやめて来たのに、何をし続けるものか、と答えた。そこで新婦がさってもきつい舞踏だ、これで三番めだ、もー休みなさい、と言った。不思議なことと仔細を訊《と》うに、宵よりの始終を語る。さてはさっき泊った二僧がはや先鞭を著けよったかと、隣室に入り捜せど藻抜けの殻、よって大いに呼んで諸友を聚め、怪しからぬ新豆泥棒が入ったところと知らすに、一同?くも羨ましくも腹立つもあり、立ち過ぎて歩かれぬも少なからず。松明提燈を点し、邑中の犬を駆り集めて捜せど館内にみえず。終《つい》に葡萄畠で二僧を捉え、十分打ち懲らしたのち、その手脚を断って葡萄間に棄てた、とある。こんな類話はまだまだあるが、予もまた立ち過ぎて歩かれなくなると不体裁ゆえ、まずはこれだけにする。
 (十七)これと全く別趣向だが、同じく川と鯨をよせた話がスペインにある。その旧伝に、かつて鯨がマンツァナレス川を上ったという。これは至って浅く、水が底半分しか流れぬこと多し。それを鯨が上ったとはどうも不審と縁起をきくと、むかしこの河畔に住んだ酒屋が災難にあい、店にあった若干の皮樽が河へ落ちて流れた。そのうち一樽は酒が一盃満ちたまま流れた。主人これを留めんとて、河に沿って走りながら近所の人に呼ばわって、ウナ・ヴァ・エナ(一つが一盃満ちて去る)、と言った。それがウナ・バエナ(一疋の鯨)と聞こえてから、この河を鯨が游《およ》いだという咄ができたのだそうな(一八七〇年板、バスク『バトラニャス』二一七頁)。
 娘が強いて摩触された話は、仏典にいと古く出ず。『摩訶僧祇律』六に、優鉢羅《うはつら》比丘尼、沙弥尼《しやみに》、字|支梨《しり》をして、衣を持って優陀夷《うだい》比丘に与えしむ。「答えていわく、好《よ》く持って房中に著《お》け、と。時に優陀夷、後を尋《つ》いでついに房内に入り、すなわち手に把《と》って持抱《いだ》き、適意し已《おわ》って、須臾《しゆゆ》に放ち去る」。支梨泣いて尼の問に答うらく、「長老優陀(593)夷、われを随《お》うて房に入り、把持《かか》え抱き弄れて悩蝕を極む」。尼、これを仏に白《もう》す。仏ためにその因縁を説く、「過去世の時、婆羅門あり、姓を嵩渠《すうきよ》氏といい、田を作って生活す。索《もと》めて一婦を得。端正|  妹好《しゆこう》にして、共に相|娯楽《たのし》み、すなわち一女を生む。また端正なれば、よって姓を嵩渠と名づく。年の長大となるに至り」、諸種姓婆羅門が婚を求むるも、この女われを愛せば嫁するなかれと言い張る。四隣よく志を守り梵行を修するを愛念す。「時に婆羅門、田《はたけ》に入って耕作し、婦《つま》常に食を送って過《いた》る。一《ある》時、その妻事あり、女《むすめ》の嵩渠を遣わして父に食を送らしむ。婆羅門、不正《よからぬ》思惟《かんがえ》をなし、すなわち慾想を生じ、婦至らばまさに共に行欲せんと憶念《おも》う。食を持って来たるを見、すなわち犂《すき》を捨てて往き迎う。欲心迷酔してみずから覚《さと》るあたわず。触るるべからざる処、父すなわちこれに触る。時に女《むすめ》の嵩渠すなわち涕泣して止《とど》まる。時に婆羅門すなわち念じていわく、この女嵩渠の常に欲を楽しまざるは、衆人の歎ずるところなれど、今われこれに触れしに、しかも大いに喚《さけ》ばざるは、欲の意《こころ》あるに似たり、と。すなわち偈《げ》を説く、われ今汝の身《からだ》に触るるに、低頭して長く歎息す、まさにわれと共に婬欲の法を行なわんと欲するにあらずや、汝先に梵行を修し、衆人の敬するところなり、しかるに今|?《やさ》しく相|見《まみ》ゆるは、世間《ひとのよ》の意《こころ》あるに似たり、と」。女、頌をもって父に答う、「われ先に恐怖の時、仰いで慈父に憑《たよ》る。もと依怙《えこ》するのところにして、さらにこの悩乱に遭う。今深き榛《しげみ》の中にあって、また何の告ぐるところを知らん。たとえば深き水の中にあって、さらに火を生ずるがごとし。根本《もと》蔭《かば》い護るの処なるに、今や恐怖を生ず。畏《おそ》れなき処に畏れを生じ、帰《たよ》る所にて反《かえ》って難に遭う。林樹のもろもろの天神、この非法なるを証知す。生養の恩を終《かえ》さずして、一朝|困《くる》しめ辱しめらる。地わがために開かず、いずくにか身命を逃れん」。「時に婆羅門、女の頌を説くを聞き、大いにみずから慙《は》じ、すなわち去る」。その時の婆羅門は今の優陀夷、婆羅門婦は優鉢羅比丘尼、女嵩渠は支梨沙弥尼、「これもとこの女において慾想を生ぜし故に、今続いてまた起こる」とあって、優陀夷がしたような振舞いを僧伽婆尸沙《そうぎやばししや》罪とした。
 (二十四)これは全く元和・寛永ごろすでにあった話をソックリ伝えた物だ。『醒睡笑』五「人はそだち」(594)の部に、「堂前にふりたる松|一木《ひとき》あり。老僧、少人に戯ぶれ、あの松は男松《おまつ》であろうか、女松《めまつ》であろうかしれぬよ。歌読みの子息《むすこ》出で、女松にてあらん、月の障りになるほどに。土民の子、いや男松にするだ、あれほど松ふぐりのあるものを」と出だし、次に「橋立の松のふぐりも入り海の、波もてぬらす文珠尻かな」という雄長老の狂歌を載す。松毬(すなわち松の実、マツカサ、チチリン、チッチリなどいう)を陰嚢(フグリ)に見立てることは、古え小アジアにもあった。諸神の母たるクベレーが牧羊青年アツスに執著し、必ず女をしないと誓わせて自分の社を守らせた。しかるに、アツス女精サンガリスと通じた罰で狂い出し、鋭き石器もてみずから陰嚢を割いた。次に自殺せんとしたところを、クベレー取り留め、彼を松の木に化した。割れた陰嚢は松毬になったという。ジオニソス神がもつ棒の先に松毬を付けたは生殖と蕃殖を意味すといえば、やはり陰嚢に象ったのだ。(一八八二年パリ板、グベルナチス『植物譚原』二巻二九〇頁。一九〇七年板、フレザー『アドニス・アッチス・オシリス』二巻一章。一八八四年板、フォーカード『植物伝説』四九五−四九六頁)  (昭和五年六月『芳賀郡土俗研究会報』一巻九号)
 
(595)   小篇
 
     一目の虫
            金城朝永「琉球の猥談」五、一日の虫参照
            (『芳賀郡土俗研究会報』一巻四号)
 
 これとやや同趣向の話が支那にもある。『夜譚随録』一〇の最末条がそれだ。いわく、「某護軍の女《むすめ》、殊色あり、十九にして、いまだ嫁せず。隣家の一少年、また護軍にして、もと?姿《ふうし》をもってみずから?《ほこ》る。女を窺ってこれを艶なりとし、時に、間《ひま》に乗じ、言色をもって相|挑《いど》む。女すなわち引いて避く。少年の前庁《おもてざしき》は、女の房《へや》とただ一枚を隔てたるのみ。値《たまた》まその父従軍して南征し、母また帰寧《さとがえり》して、ただ老嫗のみ女と伴《とも》に室にあり。少年|偵《うかが》ってこれを知り、故《ことさら》に板壁を拍ち烟具を借用せんとするも、女応ぜず。少年、小刀をもって板に銭の大いさのごとき一孔を?《うが》ち、目をもってこれに就《つ》け、女に向かい笑っていわく、一の烟袋を借らんとするに、何ぞすなわち借すを?《おし》むや、と。女これを見て勃然として怒り、尋《つ》いですなわち色定まり、?然《てんぜん》としていわく、もとより相識らざれば、なんぞ物をもって相借さんや、と。少年、その応答を得て、驚喜して狂せんとし、またこれに挑んでいわく、子《なんじ》、態を作ることなかれ、今すでによく穴を鑽《うが》ちて相窺いたれば、牆《かき》を踰《こ》ゆるあたわずと謂うなかれ、と。女いわく、すなわちこの一穴もて、すでに盤桓するに足る、何ぞ必ずしも険を渉《わた》らんや、と。話間、その目を眄?《ながしめ》して、いよいよ?媚《なまめき》を増す。少年、心(596)動き、一指を伸ばして穴に入るれば、女にわかにこれを握る。少年、心大いに動き、その誘《いざな》うべきを謂《おも》い、すなわち低語もてこれを?《さぐ》っていわく、われに一物あり、子これを識るや、と。女いわく、これ何の希罕《まれ》なる物なるや、と。少年いわく、子しばらくこれを視よ、と。すみやかに?《したおび》を解いてその勢《へのこ》を出だし、穴の中に納め入る。女すなわちこれを捉え、佯《いつわ》って摩弄をなし、潜《ひそ》かに鬢の釵《かんざし》を抜いて横ざまにこれを貫く。少年、僵立《きようりつ》して痛みはなはだしく、号叫《さけ》んで声|嘶《むせ》ぶ。女、房を出でてその戸を?《とざ》し、置《すてお》いて聞くことなきがごとし。少年に妹あり、これを聞いて往き瞰《み》、駭《おどろ》くこと極《はなは》だしく、奔ってその母に告ぐ。母、趨《すみや》かに至り、百計もてするも救うあたわず。すなわち女の家に過《いた》り、長跪して免《ゆるし》を求む。女いわく、娘《はは》の回《かえ》るを待って、まさに汝の児を釈《ゆる》すべし、と。母、大いに窘《くる》しんでその母の家に奔り、これを求む。母、その弟とともに帰る。女、母を見て大いに哭き、死なんと覓《もと》め、慰籍すること再四にして、すなわち止む。舅、戸を開き、少年の勢《へのこ》を見て、怒りかつ笑っていわく、また小さき創をもつて大なる懲らしめとするに足る、と。罵って釵を抜くに、少年昏絶して地に仆《たお》る。これを扛《かつ》いで室に入れ、医治すること月余にして、方《はじ》めて癒ゆ」。
 『江戸紫閨之睦言』とかいう物に、壁穴から出した物を引き縛って放たず、その人大いに苦しむところがあった。一件を一目の虫ということも支那にある。兄弟二人河に浴して、兄の物を水蛇に咬まれ脱せぬを、弟、刀で?《き》らんとする時、兄が、とっくり見て?れ、両眼のは蛇、独眼のはわが一物ぞ、と言ったとある(『笑林広記』二)。(『笑林広記』三の一〇表「滑吏」、また四の一五表「聴笑話」。)  (昭和五年三月『芳賀郡土俗研究会報』一巻六号)
 
(597)     尻馬の尻馬のまた尻馬に乗る
            金城朝永「琉球の猥談」八、王妃選抜試験(『芳賀郡土俗研究会報』一巻六号)、橘正一「尻馬に乗る」(同誌一巻七号)、村田鈴城「尻馬の尻へ乗る」(同誌一巻八号)参照
 
 本誌第七号三頁に橘君が書かれた、大名が馬を召使いの女中にみせた話は、紀州にもあり。和歌山で大殿様、田辺で坊主殿様としてもっぱら知れおる徳川重倫卿にこのことがあったという。支那にもやや似たことがある。『五雑俎』五に、宋の張耆は子四十二人まで産んだ、その諸姫妾の窓閤《そうこう》みな馬厩《うまや》に直《あた》る、馬交合するごとに縦《はな》ってこれをみせしめ、随って御幸するあれば孕むをなさざるなし、とある。西洋にも、鹿の情に熱するをみて婦女がおかしな心持になること、たしかブラントームの『艶婦伝』一にあったと覚える。インドにも、阿育王の弟毘多輸柯が、山中で十二年間樹木の果根のみ食い苦行する仙人が、五熱身を炙り煩悶するを見、その訳を尋ねると、鹿が行欲するをみてわが欲心を起こし、欲心の火をもってわが心を焼く、と答えた話がある(『阿育王経』三)。  (昭和五年六月『芳賀郡土俗研究会報』一巻九号)
 
     煉粉を塗る話
            金城朝永「琉球の猥談」一五、煉粉を塗る話参照
            (『芳資郡土俗研究会報』一巻九号)
 
 この話は、琉球語のシャレを除いては、全く『沙石集』を丸写しにしたものだ。『沙石集』は、梶原景時の後《のち》無住法師が弘安二年書き始め、同六年完成したもの、その七巻六章にいわく、遠江国池田の辺《ほとり》に庄官ありけり。かの妻(598)きわめたる嫉妬心の者にて、男をとりつめて白地《あからさま》にも差し出ださず。所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて遊びけるに、見参のため宿へゆかんとするを例の許さず、地頭代、知音《ちいん》なりければ、いかが見参せざらん、許せというに、さらばしるしを付けんとて、隠れたる所にすり粉を塗りてけり。さて宿へ往きぬ。地頭みな子細知りて、いみじく女房に許されておわしたり、遊女呼びて遊び給えと言うに、人にもにぬ物にて、むずかしく候、しかも符《しるし》を付けられて候というて、しかじかとかたりければ、冠者原《かんじやばら》にみせて、もとのごとく塗るべしとて、遊びてのちもとのように違えず、すり粉を塗りて家へ帰りぬ。妻いでいでみんとて、すりこをこそげてなめてみて、さればこそしてけり、わがすり粉には塩を加えたるに、これは塩がなきとて、引き伏せて縛りけり。心深きあまりにうとましく覚えて、やがて打ち捨てて鎌倉へ下りにけり、近きことなり、と。これを丸とりにして琉球語のシャレを入れたものだ。  (昭和五年七月『芳賀郡土俗研究会報』一巻一〇号)
 
(599)   《俚俗と民譚》
 
     もぐらの嫁探し
 
 中里君が本誌一巻五号一〇至一一頁に書かれたこの朝鮮譚は、予には耳新しい。しかし、大同小異の譚は朝鮮外にもザラにある。
 若年のおり、東京の寄席で聞いたは、猫に猫という名を付けると、猫より虎が勝る、虎と付けよというから虎と付けた。すると、虎は竜に勝てないから竜と改めよと勧むる者あり。よって竜と付けた。竜から雲、雲から風と改むること朝鮮譚の通りで、風は障子を通さず、障子は鼠に咬み破らる、鼠は猫にとらる、と順次に勧められ改名して、終《つい》にその猫が、根本の猫という名に舞い戻ったというので、たしか三馬や一九の戯作等にも、この話はあったと覚える。
 かつて『東洋学芸雑誌』に、松村武雄博士が、故芳賀矢一博士より示されたとて、この噺の根本らしいものを『古今図書集成』より引きあった。その雑誌は只今持たぬが、『集成』は自宅にある。よって二時間ほど盲滅法に捜してヤッと見出だした。かの書の明倫彙編、交誼典、一〇二巻、嘲謔部雑録一一の九葉表に『応諧録』より引いた話がそれで、いわく、「斉庵の家に一猫を畜《か》う、みずからこれを奇とし、人に号《いいふら》して虎猫という。客、これに説いていわく、虎はまことに猛なれども、竜の神なるに如《し》かず、請う、名を更《あらた》めて竜猫といえ、と。また客、これに説いていわく、竜はもとより虎より神なれども、竜は天に升るに浮雲を須《も》ってす、雲それ竜よりも尚《たつと》きか、名づけて雲というに如《し》かず、と。また客、これに説いていわく、雲靄《うんあい》の天を蔽うも、風たちまちにこれを散ず、雲はもとより風に敵せざれば、(600)請う、名を更めて風といえ、と。また客、これに説いていわく、大風|?起《ひようき》するも、ただ屏《さえ》ぎるに牆をもってすればこれ蔽《ふせ》ぐに足る、風それ牆を如何《いかん》せん、これに名づけて牆猫といわば可ならん、と。また客、これに説いていわく、これ牆は回しといえども、ただ鼠のこれに穴をあくれば牆はこれ?《くず》る、牆また鼠を如何せん、すなわち名づくるに鼠猫といわば可ならん、と。東里の丈人、これを嗤《わら》いていわく、噫?《はは》、鼠を捕うるものはもとより猫なり、猫はおのずから猫なるのみ、なんすれぞみずから本真を失うや、と」と。猫は猫だけの力しかなきに、むやみにその名を強くせんと努力した愚を笑ったのだ。
 今より六百四十九年のむかし成った『沙石集』巻八に、果報は定まりあって、人力で転じがたきことを述べ、「すでに定まれる貧賤の身、非分の果報を望むべからず。鼠の娘儲けて、天下に双びなき聟を取らんと、おおけなく思い企て、日天子《につてんし》こそ世を照らし給う徳目出たけれと思うて、朝日の出で給うに、娘を持ちて候、みめ形なだらかに候、進《まい》らせんと申すに、われは世間を照らす徳あれども、雲に逢いぬれば、光もなくなるなり、雲を聟にとれと仰せられければ、誠にと思いて、黒き雲のみゆるに逢いて、この由申すに、われは日の光をも隠す徳あれども、風に吹き立てられぬれば、何にてもなし、風を聟にせよという。さもと思いて山風の吹きけるに向かって、この由申すに、われは雲をもふき、木草をも吹き靡かす徳あれども、築地に逢いぬれば、力なきなり、築地を聟にせよという。げにと思いて、築地にこの由をいうに、われ風にて動かぬ徳あれども、鼠に掘らるる時、堪えがたきなりといいければ、さては鼠は何にも勝れたるとて、鼠を聟に取りけり。これも定まれる果報にこそ」と説きある。この話の次に、「和泉国の癩人が娘、播磨国の癩人が子、共になびらかなりけるが、本国にては人知りて、賤しく思えり。京の方へ行きて、常の人を夫にし、妻にせんとて上りけるが、鳥羽の辺にて行きつれて、互いにただの人と思いて、語らい寄りて妻夫になりたりける、鼠の聟取りに違わず」と述べた。若年のおりちょっと聞いたは、辺土の鄙民の男女が、おのおのその土地に住んでは、平人と交通し得ざるを憂い、大阪へ上り奉公中、互いに思い合うて夫婦となり、さて素性を探ると、(601)二人ながら甲乙なき部民と分かって呆れた、と。事実ありそうな話でも、右の『沙石集』を蒸し返したようでもある。
 また、そのころ瞥見した『扇の富士』という戯作に、鎖国時代には珍しく、たぶんボッカチオの『十日譚』(三日六話)を翻案したような話があった。某の藩士幾田助太夫の娘おみき十六歳、岩出仙九郎宛の艶書を落とし、下女お杉が拾う。今宵九つの鐘を相図に、表二階で逢わんとの手順、と読み知ったお杉は大悦び、常々思う仙九郎様、この文を、自分の情夫で、同家に僕たる友平殿に持たせやり、おみき様を出しにして、仙九郎様に闇がりで見参せんと、かの文を友平に持たせやり、表二階でお杉がまつと、時刻|差《たが》えず忍び来た。無言のままに頭から大もてなし、室女に似合わぬ手取りの巧者さ、不審なんどは構うておられず、歓会興極まった刹那、さしこむ月に見合わす顔、二人はびっくり、ヤア友平殿か、そんならおみき様と思いしは、お杉どんであったよなあ、さっきの文をみたところが、今宵忍ぶの相図の玉章、文をば中でぷん捌き、新をしめんと工みの裏、やっぱり二世と言い交した、コリャ女房のお杉であったよな。モシこちの人、深い縁《えにし》でありますなあ。折から月夜烏がアホアホアホてなことだった。この通りいくら人間がもがいたって、天の定めた分際を乗り越すことはならぬという譬喩として、『沙石集』にこの鼠の聟探し譚を載せたのだ。
 こんな譚は種々の意義に受け取れるもので、本話ごときも、『応諧録』と『沙石集』の見様が同じくない。さて予が若い時聞いた落語家は、あまりそれもいや、これも好まぬと、嫌い通しても、ついに恰好な物に出くわさぬから、人は諸事足るを知れという訓えに、この話をした。したがって、むやみに昂上するを戒めた『応諧録』とも、非分を望むべからずという譬えに引いた『沙石集』とも、見様はやや差う。『沙石集』は六百四十九年前の筆に係り、『応諧録』は明朝の物と思わる。だから予が聴いた落語家の意義の取り方は、これら二書よりはるか晩出のようだが、その実最も古かった物だ。インド最古の譬喩譚集『パンチャタントラ』は、西暦四世紀、またそれ以前に成ったという。それに早くこの「鼠娘が鼠になった」話が出でおる。その概要は、恒河岸に浄行したヤジュナヴァルキア聖人が、河(602)に垢離《こり》してのち、口を洗い始めると、鷹が口にくわえた牝鼠を彼の手へ落とした。聖人神力もてこれを少女に化し、庵につれ帰って、妻をして娘として育てしめた。娘十二になって、はや嫁入り時ときたので婿を択び、まず太陽を招いて娘にみせると、この男はあまり熱いから一件が炎上するとて嫌うた。汝より上の者があるかと日に問うと、われは雲に掩われると形を隠す、雲がわれに優るといった。よって雲を召して娘にみせると、黒くて冷たいから好かぬといった。雲に勝る者はと問うと、風と答えたので、風を延見すると、一向落ちつかぬ者ゆえ嫌いだという。山こそわれに勝れと風が言ったによって、山をみせると、全体粗くて堅いと難癖を付ける。そこで聖人、山に向かって、汝に勝る者ありやと尋ぬると、鼠よくわれを穿つ、われに勝る者は鼠だと答えた。すなわち鼠を招いて娘に示すと、娘は胸躍り身|振《ふる》えて悦び、これこそわが同類なれ、速やかにわれを鼠に化して彼に嫁がせと乞うたので、聖人、娘をもとの鼠になし、鼠同士を夫婦にしたとあって、「山や日や、雲よ風よと択んでみたが、元の鼠がましぢゃもの」、イヨ、コーラサーイと様な偈を出しある。定まれる果報は何とも変改し得ないという『沙石集』著者の見解と同じだが、鼠娘が逐一候補聟を嫌うたため、せっかく聖人の娘となりおった身が、元の鼠に成り落ちたとしたところは、落語家の説き様に同じ。(一九二九年一四板『大英百科全書』九巻二一頁。一九二五年シカゴ板、ライダー『パンチャタントラ』三五三−三五七頁)
 『応諧録』に猫をこの話の立物としたるに、『パンチャタントラ』、『沙石集』、並びに少しも猫を話に入れおらぬ。だから、和漢とも猫を入れたは、インド譚とはやや別途の物と想う人もあらんが、これまた実は然らず。インドより伝えたこと疑いを容れざるセイロンの俚譚に、梵志が牝猫を育て上げて、世界第一の偉い男に嫁せんと志し、太陽にみせると、われよりも雲が偉いと辞した。雲が風、風が土蟻封、土蟻封が牝牛、牝牛が豹、豹が猫と逓次推譲したので、牝猫を牡猫に嫁がせて事が済んだ、とある。けだし土蟻封は堅固で、どんな強風にも敗れず。しかし牝牛の角で、何のことなく突き砕かる。豹はよく牡牛を害し食らえど、猫には劣る。インドの俗信に、豹かつて木を攀じ登ることを(603)猫に習うたが、木より下ることを教えくれなんだ。豹は猫を旧師として尊敬すというからこの言あり。こんなに、インド地方すでに鼠に代うるに猫をもってした譚があったので、鼠の話も種々の変態を生じ、倶《とも》に東漸して、日本と支那に残ったとみえる。
 西暦十二世紀の初めごろ、カシュミル国のソマデヴァ・ブハッタが訂纂した『カトハ・サリット・サガラ(譚流大海)』に、旃陀羅《せんだら》賤民の娘が、世界最勝尊に嫁せんと、みずから男を択ぶ。国王を最も偉いと思うたが、王が上人を拝するをみて、上人を偉いと思い付いた。その上人がシヴァ神像を拝するをみて、シヴァ神を夫としたくなる。ここまでは『元亨釈書』五の釈覚鑁伝によく似おるが跡が詰まらぬ。さてシヴァ神像にみとれていると、犬が入り来たつてシヴァ神よりも偉くみえたので、犬に随いゆくと、その犬が旃陀羅賤男の家に入り、その足下に転げ廻った。この男こそもっとも偉い者と、その男に嫁ぐと、自分と等しい賤民だったとある。上出、泉・播二州の癩人の子女や、また大阪で奉公した賤民出の男女が婚姻後、自他の素性が知れて呆れた話に、大分よく似おる。また地中の鼠を掘って常食する野人が、美《うるわ》しい娘を、世界一の偉い男に妻《めあ》わせんと欲し、日、雲、風、山と、例によって尋ね歩き、地鼠よく山を穿てばとて、地鼠を訪うと、われを掘り出して食う野人にはとても克てないと言ったので、なるほどと合点し、鼠ほりの娘は鼠ほりの男に嫁して、二つとない大事の穴を掘らせて大いに快がったとは、まことにめでとう候いける(一九一四年板、パーカー『セイロン村譚』二巻四二五−四二九頁)。(十月二日午前七時稿成る)  (昭和七年九月『俚俗と艮譚』一巻九号)
〔2018年6月27日(水)午前9時10分、入力終了〕