南方熊楠全集5(雑誌論考V)、638頁、平凡社、1972.11.24(91.11.25.12p)
 
(5)     地突き唄の文句
       ――伊予の瓢箪屋――
 
       一 「瓢箪屋」の文句
 
 『民俗学』五巻一〇号九〇四頁に、中西祥男君が出された「内のおせどに、お茗荷と蕗と、お茗荷めでたや、ふき繁昌、面白や、イヨノーヒョータンヤーエートソコヤ」という江州滋賀郡伊香立村の地突き唄は、予に取って無類に有益だった。
 その訳は、明治十四年夏、和歌山市伊達神社(俗称、湊のエベス様)に、連日砂持ち式が行なわれた時、かの社司で著名の碩儒、倉田袖岡先生の従僕善助とて、ことのほかの痴漢が、異様な粧いで大きな瓢箪を負い、「氏神様、建立につき、地突き、砂もち、おみきを貰うて、瓢箪や、瓢箪や、アー酔うた、アー酔うた、酔うた、酔うた、酔うた」といいながら、泥酔の振りして女どもに突き当たり面白がりおるを睹、酒に縁ある瓢箪通りに転げ廻るという意味と解して過ごした。その後明治十七年ごろ、東京郊外西ヶ原に創設された山林学校に入った谷友吉氏が、神田錦町の拙寓(主人鈴木久七は、後年衆議院で、ドクトル・ハーゲマンの雷名を轟かせた故鈴木万次郎氏の妻お虎という婀娜物の父)へ、よ(6)く日曜日に遊びに厶《ござ》った。和歌山県在田郡湯浅町の東北、水尻村の醸酒家の子で、酒を飲んで興到ると、自宅で酒倉を立てる時の地突き唄を唱うた。多く聞いたが、ただ一つの唄の初めに、ヒロノナアーエ、ヒョコヒョコヒョータン、ヤアーエと言っただけを覚えており、前述善助の台詞を連想して、何故か瓢箪は酒よりも一層、地突きに縁厚きことと感じた。それから二年して予は渡米し、三、四年へて、谷氏は四国で狂死したと聞いた。その後かの人を想い出すごとに、件《くだん》の地突き唄が耳底に響くよう覚ゆるも、何の意味とも分からずに、はや四十九年を過ごした。今考うるに、善助の詞は、和歌山語「おみきを買うて酔うたんや(酔うたのだ)」を瓢箪やとしゃれたのだ。
 谷氏の唄の起句、ヒロノナアーエのヒロは、在田郡広村とて、湯浅町の南に続き拡がった好地で、室町時代に管領畠山基国が、紀伊国守護としてここに本城を築き、五世の嫡孫尚順は、明応中より天文三年まで、四十年住んだというから、そのころ紀州で一、二の都会だったはず。宝永年問、俄然津浪に押し流されて、全邑荒廃したが、地士旧豪多く、おいおい復興して、今また繁華の福地たり(『紀伊続風土記』五九と六〇。『紀伊国名所図会』後編四。参取、「両畠山系図」。『野史』九七)。ヒョコヒョコは、紀人が瓢箪をヒョコタン、薩摩人が布袋和尚や将棊の駒の歩兵をヒョコと戯れ呼ぶ。吾輩の亡母など、「ちょいと名のたつのも嬉し若盛り」だった嘉永・安政の交、大阪で唄わねば人でないよう無上にはやった唄を、老後毎度聞かされたは、「かいるひとひょこ、ふたひよこみひょこ、よひょこいつひょこむひょこひょこ、ななひょこやひょこで、コンここのひょこ、とひょこひょこ」ッテーンダ。蛙一疋をひとひきと唱え、ヒョコヒョコと飛ぶという俗語と思い合わせた作だ。かくハヒフヘホの一音を冠った名詞に、ヒョコという戯語を代用する風が諸方にあったのだ。惟うに、宝永の大津浪までは、広村が都会で繁昌し、到る処建築しばしば行なわれて地突きもしきりに、その際他国より伝聞した地突き唄の中に、中西君が江州のある村に現行する地突き唄として出されたと同様のものあり。それには伊予の瓢箪屋とある。イヨとヒロと韻同じく音近きを幸い、たちまちこれを広(村)の瓢箪屋に替え了《おわ》ったとみえる。
(7) それにしても、何故、地突き唄に瓢箪屋が祝い入れられたか。これ吾輩考索の企て及ぶべきでなかったところを、中西君の釈記に、「むかし伊予国の瓢屋という人、村内の人々が余る苗を捨てるのをみて、これを惜しみ、自分は苗を作らず、ただ捨苗に依ってその田地に植え付け、多くの収獲を得ることができたが、年重なるに従い、村内の嫉むところとなって、ついに村民相謀って苗の余裕を作らず、また余裕あるも瓢屋に与えることを止めたれば、瓢屋止むを得ず、瓢の種子を植え付け、これより多くの収得があったといい、目出度きことに用いたという」とあるを読んで、由来がよく判った。似た話が平安朝すでに録されある。
 
     二 瓠より米を得た話
 
 『今昔物語』一三巻四〇語にいわく、「今は昔、陸奥の国に二人の僧ありけり。一人は『最勝王経』を持《たも》つ、名を光勝という。一人は『法花』を持つ、名を法蓮という。もと興福寺の僧なり。この国もとの生国なるによりて、おのおの本寺を去りて来たり住す。この二人の聖人、みな心|直《うるわし》く身清くして、おのおの『法花』『最勝』を持ちて霊験を施す。されば国人みな崇め貴《とうと》めること限りなし。しかる間、光勝聖、法蓮聖を勧めていわく、汝、『法花』を棄て『最勝』を持つべし、その故|何《いかん》となれば、『最勝』は甚深なること、余経に勝れ給えるによりて、『最勝王経』とはいうなり、されば公けも御斎会《ごさいえ》と名づけて、年の始めにこの経を講ぜしめ給う、また諸国にも、吉祥御願《きちじようごがん》と名づけて、各国分寺にしてこの経を講ず、また公け、最勝会と名づけて薬師寺にしてこの経を講じて法会を行なわしめ給う、されば公けにも私にも、この経を尤《もと》も仰ぐところなり、と。法蓮聖、これを聞きていわく、仏の説き給うところいずれも貴からぬはなし、われ宿因の引くところありて、年ごろ『法花経』を持ち奉る、いかでか急に『法花』を棄てて『最勝』を持ち奉らん、と。光勝聖、法蓮聖を勧め煩いて黙して止みぬ。その後、光勝、『最勝』の威力を憑《たの》みて、事に触れ(8)て『法花』の法蓮をいい煩わすといえども、法蓮答うることなし。しかるに光勝いわく、この二つの経いずれか勝れ給えると勝負を知るべし、もし『法花』の験《しるし》勝れ給えらば、われ『最勝』を棄てて『法花』に随わん、もしまた『最勝』の験勝れ給えらば、法蓮、『法花』を棄てて『最勝』を持つべし、と。かくのごとくいうといえども、法蓮さらにこれを執する心なし。
 「光勝またいわく、さらばわれら二人、おのおの一町の田を作りて、年作の勝負によりて、二つの経の験の勝劣を知るべし、と。郷《さと》の人このことを聞きて、おのおの一町の田の同じほどなるを、二人の聖に預けつ。しかるに、光勝聖、この田に水を入れて、心を致して『最勝』に申していわく、経の威力によりて、種を蒔かず苗を植えずして、年作を増さしめ給え、と。祈請して田を作るに、一町の田の苗、等しくして茂り生いたること並びなし。日を経、月を重ねて稔《にぎ》わい豊かなること勝れたり。法蓮聖の田は、作ることもなく、心のごとく入るる人もなくして、荒れて草多かり。されば、馬牛、心に任せて、田の中に食《は》み遊ぶ。国の内の上中下の人、これを見て、最勝の聖を貴び、法花の聖を軽しむ。しかる間、七月の上旬に、法花の聖の田、一町が中央に瓠《ひさご》一本生いたり。この瓠ようやく見れば、枝八方に指して、あまねく一町に敷き満ちたり。高き茎ありて?《ひま》なし。二、三日ばかりを経て、花開きて実なれり。一々の瓠をみるに、大きなること壺のごとくして、?なく並び臥したり。これをみるにつけても、人みな最勝の聖を讃む。
 「法花の聖、田の瓠をみて奇異の思いをなして、一つの瓠を取りて破りてその中をみるに、精《しら》げたる米満ちてあり、粒大きにして白きこと雪のごとし。聖人これを見て、希有なりと思いて、斗《ます》をもちてこれを量るに、一つの瓠の中に五斗の白米あり。また他の瓠を破りてみるに、瓠ごとにみなかくのごとし。ここに法蓮聖喜び悲しみて、郷のもろもろの人に告げてこれを見せしむ。その後まずこの白米を仏経に供養し、もろもろの僧を請じて食《じき》せしむ。また一、二果の瓠を光勝聖の房に送り遣る。光勝聖、これをみて妬み心ありといえども、『法花』の威力を見て、悲しび貴びて、法蓮聖を軽しめつることを悔みて、返りて随いぬ。すなわち行きて礼拝して懺悔しけり。法蓬聖、その瓠の米を(9)もちて国のうちの道俗男女に施し与う。人みな心に任せて荷《にな》い取る。しかれども、瓠なお十二月に至るまで、さらに枯れずして、取るに随いて多くなりにけり。これを見聞く人、『法花経』の威力の殊勝なることを知りて、法蓮聖を帰依しけりとなん、語り伝えたるとや」と。
 この文にみえた瓠は、ヒサゴと訓ませあるが、『日本紀』仁徳紀には、匏をヒサゴと訓ませあり。『倭名類聚抄』には、瓢をナリヒサゴと読ませある。狩谷?斎いわく、瓢を古え単にヒサゴと呼んだ、そのころ長い奴を割いて水を斟む器とし、のち木で作って代用しながら、依然ヒサゴと呼び、ヒシャクと謬り、略してシャクという、シャクはヒサゴより出た語で、杓の字音でない、と。瓢箪から駒ならぬシャクが出たのだ。さて柄杓すなわち木で作ったヒサゴと別つために、自然になる瓢をナリヒサゴと称えた、と。瓢箪という名も間違いで、もと瓢と箪は一物ならず。顔回の一瓢の飲、一箪の食を、『朗詠集』に瓢箪しばしば空しと見えたから、誤って瓢を瓢箪と呼ぶのだそうな。支那でも、古人、壺、匏、瓠、みな通ずとあって、日本で古く、干瓢にする奴も、炭取りにするものも、酒を盛るのも、斉しくヒサゴで通したように、それらを通じて瓠とも匏とも呼んだのだ(『箋注倭名類聚抄』四。『広文庫』一七冊九五一頁。『通雅』四四)。『本草綱目』二八、李時珍説に、後漢の許慎は、瓠は匏なり、また瓢は瓠なり、と言った。
 (『広群芳譜』一七、壺廬の条に、『本草』にいわく、「壺は酒器にして盧は飲器なり。この物おのおのその形を象り、よってもって名づく、云々。俗に葫蘆となすは非なり」と。しからば、瓢箪は日本でその名を間違えてできた語なるのみならず、支那でも二器の名を心得違うて、一に合して葫蘆と言ったのだ。元の周密の『癸辛雑識』後集に、漢の賢人胡広は、五月五日に生まれたのを父母が悪み、葫蘆に蔵めて河流に捨てた、とある。)
  熊楠謂う、『荘子』遣遥遊篇に、「恵子、荘子に謂いていわく、魏王われに大なる瓠の種を貽《おく》る。われこれを樹《う》うるに、成って五石《ごこく》を実《みた》す。もって水漿を盛れば、その堅《おも》くしてみずから挙ぐる能わず。これを剖《さ》いて、もって瓢となせば、すなわち瓠落《かくらく》して容るるところなし。?然《きようぜん》として大ならざるにあらず。われ、その用なきがために、(10)これを?《くだ》けり、と」。この古文の瓢と瓠は同じくない。石川鴻斎の『荘子講義』に瓢を半匏としある(後に引く『大毎』紙、浜田瓢伯氏説参看)。だがここには、『本草綱目』三八、「木なるものを杓といい、瓠なるものを瓢という」という時珍説通り、匏で製した杓と解してもっとも宜し。半匏も杓に使えるが、匏を杓に作るに、必ずしも半剖するを要せず。三つ四つに剖いても浅い杓はできる。
しかるに後世、長くて首尾ほぼ同じ太さの物を瓠(『大和本草』ナガユウガオ)、その柄細長く腹円きを懸瓠(同書、ヒサゴ)、円く大きく、扁たくて柄なきを匏(同書、フクベ)、柄短く腹大なるを壺(同書、クビアルフクベ)、壺の腰細きを蒲蘆(同書、ヒョウタン)など名づけ、形状おのおの不同といえども苗葉皮子性味は一だ、とある。これ昨今これら諸品を別種とせず、ラグナリア・ヴルガリスなる一植物の変種と見る科学説によく合いおる(牧野・根本二氏の『訂正増補日本植物総覧』一一六〇−一一六一頁)。『今昔物語』の本文に、「一々の瓠をみるに、大きなること壺のごとくして、?《ひま》なく並び臥したり」とあるを思うに、これは『大和本草』にいわゆる瓠、ナガユウガオで、その実が長くて並び臥しおったので、『農業全書』三に、「丸く大なるは水を游《およ》ぐに用うべし。炭取にし、あるいは器物とし、菜の種などを入れ置いてよし」(『重訂本草啓蒙』二四参照)とある匏、フクベでない。『和漢三才図会』巻一〇〇に、瓠、長さ二尺ばかり、最も長きもの三、四尺。『重訂本草啓蒙』二四に、はなはだ長きものは五、六尺に過ぐ、用《も》って花瓶とす、肥後より出ず、とみゆ。『今昔物語』のは、一瓠中に五斗の米を蔵めおったといえば、五斗俵ほど大きかっただろう。
 外国にも、「青田瓠は大いさ五斗を踰《こ》え、これを剖《さ》き、水をもって中に実《みた》せば、すなわち蜜となる」。魏王が恵施に貽った種を樹《う》えて実《みの》った瓠は、五石を容れ、  憺崖の瓠、実となっておおむねみな石余といい、また毎箇一石を盛るべき大葫蘆を作る法も古く支那で記されあり。ローマ帝国に長さ九フィートに届いた瓠があった由で、現今の欧州等でも時に七フィート長き瓠を生ずという(『格致鏡原』六三。『広群芳譜』一七。Plinius,‘Historia Naturalis,’xix,24;‘Encyclopædia Britannica,’14th ed.,1929,vol.x,p.558)。虚実ともこんな例があるから、『今昔物語』の譚も、特に怪しむべ(11)からずさ。
 『続日本紀』一四に、天平十三年二月乙巳の詔を載す。いわく、「(上略)今春より已来《いらい》、秋稼《しゆうか》に至るまでに、風雨順序にして、五穀豊かに穰《みの》れり。これすなわち誠を徴《あらわ》し願を啓《もう》したれば、霊?《れいきよう》答えしがごとし。載《すなわ》ち惶《おそ》れ載《すなわ》ち恐れ、もってみずから寧《やす》んずるなし。案ずるに経にいわく、もし国土にこの経を講宣読誦し恭敬供養して、流通する王あらば、われら四王、常に来たって擁護し、一切の災障をみな消  珍《しょうてん》せしめ、憂愁疾疫もまた除き差《いや》さしむ。願うところ心に遂げ、恒《つね》に歓喜を生ぜしめん。よろしく天下の諸国をして、おのおの七重の塔一区を敬《つつし》んで造らしめ、あわせて『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』各十部を写さしむべし、と。朕はまた別に金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとにおのおの一部を置かしめんと擬《ほつ》す。冀《ねが》うところは、聖法の盛、天地とともに永く流《つた》わり、擁護の恩、幽明に被《こうむ》りて、恒に満たんことを、云々。また国ごとに僧寺に封五十戸と水田十町を、尼寺に水田十町を施《せ》す。僧寺には必ず二十の僧をあらしめ、その寺を名づけて金光明四天王護国之寺となし、尼寺には十の尼をおき、その寺を名づけて法華滅罪之寺となす。両寺相共によろしく教戒を受くべし。もし闕くるあらば、すなわちすべからく補い満たすべし。その僧尼は、毎月八日には必ず『最勝王経』を転読すべし、云々」と。
 かくて国ごとに国分寺が建てられ、その位置いずれも、地方政治の中心たる国府と近接し、庶民を参集せしめて僧尼が教誨を司り、国司と相竢って、民治の績を挙げんと力めた。まことにもって結構至極な制度で、後世「さかい論、中に六部は虫のいき」、行き倒れ人の異名ごとく成り下がった六十六部は、もと各国分寺を巡拝して、『法花経』を納めた修行者の遺風だそうな。奈良朝、支那に倣い、『金光明最勝王経』、『仁王般若経』、『妙法蓮花経』を、護国の三経と称えた。その『最勝王経』と『法花経』が、国分寺の大要素だったこと、上に引いた詔に見るごとくなれば、この二経が、古く邦民教化に大いに力あったこと知るべし(『仏教大辞彙』一巻一二八二と一四四二頁)。中に就いてその創設の際、国分尼寺を法花滅罪之寺と号したるに対し、国分寺を金光明四天王護国之寺と名づけ、至尊|親《みずか》ら金字の『最(12)勝王経』を写し、毎塔各一部を置かしめ給いしにて、『最勝王経』が当時『法花経』よりも重んぜられたと判る。降って平の将門が、「東八箇国を討ち取りて、十万人を殺したる戦いに勝つがために、『金光明経』をかき、供養すべき願を立てたりけり。この願によりて、地獄に堕ちて後、ただ片時の休まりありと、人の夢にみえたりと、将門の合戦状にみえたり」と、『統群書類従』九五二の『宝物集』にみえたり。だから、平新皇ごとき無鉄砲な奴も、『最勝王経』の験力を知りおったとみえたりだ。さて両雄並び立たぎる道理で、それほど『最勝王経』が崇敬さるるにつれて、『法花経』を固持する者も、誇張する者も出で来たり、いよいよ『法花』の方に勝ち色がみゆるに及び、瓢箪に近い瓠から、駒にはあらぬ米が出て、『法花』の持者が『最勝』の持者に勝った話が発行したとみえる。『今昔物語』一三巻四一語、『金剛般若経』の持者が、『法花経』の持者を軽侮し、夢に須菩提尊者に呵《しか》られて、『法花』の持者に降参した譚も、これによく似ておる。
 瓠から米が出て、光勝聖が法蓮聖に降参した話を、漢文で綴ったのが、後朱雀帝の長久元(?)年、沙門鎮海撰、『日本法花験記』中の四八に出ず。『今昔物語』より先にできた物で、同『物語』第一三巻、すべて四十四語のうち、わずかに三語の外は、ことごとく『法花験記』より訳出したのだ。『元亨釈書』一二、「釈法蓮伝にも瓠より米が出て、光勝が法蓮に参った次第を載せ、全文簡短で、瓠より出た米が五斗あまり、六斗近くあったと言うだけ、『今昔』と『験記』とに差うが、大要この二書より抄出したらしい。
 
     三 舌切り雀の根本譚
 
 故芳賀博士の『攷証今昔物語集』には、一三巻、「陸奥国の法花・最勝二人の持者の語《こと》、第四〇」の攷証に、件の『法花験記』と『元亨釈書』の二書しか挙げおらぬが、部分的ながらも、この譚によく似たものが、『今昔物語』と同(13)筆と言わるる『宇治拾遺』に出ず。その話、次のごとし。
 「今は昔、春つ方日うららかなりけるに、六十ばかりの女のありけるが、虫打ち取りていたりけるに、庭に雀のしありきけるを、童《わらわべ》、石を取りて打ちたれば、当たりて腰を打ち折られにけり。羽をふためかして惑うほどに、烏のかけりありきければ、あな心う、烏取りてんとて、この女急ぎ取りて、息しかけなどして物食わす。小桶に入れて夜は収む。明くれば米食わせ、飼菜にこそげて食わせなどすれば、子ども孫など、あわれ女房刀自は、老いて雀飼わるるとて悪み笑う。かくて月ごろよく繕えば、ようよう躍りありく。雀の心にも、かく養い生けたるを、いみじく嬉し嬉しと思いけり。あからさまに物へいくとても、人に、この雀みよ、物食わせよなど言い置きければ、子孫など、あわれ、何じょう雀飼わるる、とて悪み笑えども、さばれ、いとおしければとて、飼うほどに、飛ぶほどになりにけり。今はよも烏にとられじとて、外に出でて手に据えて、飛びやする、見んとて、捧げたれば、ふらふらと飛びていぬ。女、多くの月ごろ日ごろ暮るれば収め、明くれば物食わせ習いて、哀れや飛びていぬるよ、また来やするとみんなど、徒然《つれづれ》に思いて言いければ、人に笑われけり。
 「さて二十日ばかりありて、この女のいたる方に、雀のいたくなく声しければ、雀こそ痛く鳴くなれ、ありし雀の来るにやあらんと思いて、出でてみればこの雀なり。哀れに忘れず、来たるこそ哀れなれというほどに、女の顔を打ちみて、口より露ばかりの物を落とし、おくようにして飛びていぬ。女、何にかあらん、雀の落としていぬる物はとて、寄りてみれば、瓢《ひさご》の種をただ一つ落として置きたり。持て来たる、様《よう》こそあらめとて、取りて持ちたり。あないみじ、雀の物得て宝にし給うとて、子ども笑えば、さばれ植えてみんとて植えたれば、秋になるままに、いみじく多くおい広ごりて、なべての瓢にも似ず、大に多くなりたり。女悦び興じて、里隣の人にも食わせ、とれどもとれども尽きもせず多かり。笑いし子孫も、これを明暮《あけくれ》食いてあり。一里《ひとさと》配りなどして、終《はて》には、まことに勝れて大なる七つ八つは、ひさごにせんと思いて、内につりつけて置きたり。さて月ごろへて、今はよくなりぬらんとて、みれば、よく成りに(14)けり。取り下ろして口あけんとするに、少し重し。怪しけれども、切りあけてみれば、物ひとはた入れたり。何にかあるらんとて、移してみれば、白米の入りたるなり。思い掛けず浅ましと思いて、大なる物にみなを移したるに、同じように入れてあれば、ただごとにはあらざりけり、雀のしたるにこそと、浅ましく嬉しければ、物に入れて隠し置きて、残りの瓢どもをみれば、同じように入れてあり。これを移し移し使えば、詮方なく多かり。さて、まことに頼もしき人にぞなりにける。隣里の人も見あざみ、いみじきことに羨みけり。
 「この隣にありける、女の子どものいうよう、同じことなれど、人はかくこそあれ、はかばかしきこともえし出で給わぬなどいわれて、隣の女、この女房の許に来たりて、さてもさても、こはいかなりしことぞ、雀のなどはほのきけど、よくはえ知らねば、もとありけんままにのたまえと言えば、瓢の種を一つ落としたりし、植えたりしよりあることなりとて、細かにも言わぬを、なおありのままに細かにのたまえと切に問えば、心狭く隠すべきことかはと思いて、こうこう腰おれたる雀のありしを、飼い生けたりしを、嬉しと思いけるにや、瓢の種を一つ持ちて来たりしを植えたれば、かくなりたるなりといえば、その種ただ一つたべといえば、それに入りたる米などは参らせん、種はあるべきことにもあらず、さらにえなんちらすまじとて取らせねは、われもいかで、腰折れたらん雀みつけて飼わんと思いて、目を立ててみれど、腰おれたる雀さらにみえず。早朝《つとめて》ごとに伺いみれば、せどの方に米の散りたるを食うとて、雀の躍りありくを、石を取りて、もしやとて打てば、数多の中にたびたび打てば、おのずからあてられて、え飛ばぬあり。喜びて寄りて、腰よく打ち折りて後に、取りて物食わせ、菜食わせなどして置きたり。一つが徳をだにこそみれ、まして数多ならば、いかに頼もしからん、あの隣の女には優りて、子どもにほめられんと思いて、籠《こ》の内に米蒔きて伺いいたれば、雀ども集まりて食いに来たれば、またうちうちしければ、三つ打ち折りぬ。今はかばかりにてありなんと思いて、腰おれたる雀三つばかり、桶に取り入れて、飼いこそげて食わせなどして、月ごろふるほどに、みなよくなりにたれば、喜びて外に取り出でたれば、ふらふらと飛びてみないぬ。いみじきわざしつと思う。雀は腰打ち折られ(15)て、かく月ごろこめ置きたるを世に?《ねた》しと思いけり。
 「さて十日ばかりありて、この雀ども来たれば喜びて、まず口に物やくわえたるとみるに、瓢の種を一つずつみな落としていぬ。さればよと嬉しくて、取りて三所に急ぎ植えてけり。例よりもするすると生い立ちて、いみじく大になりたり。これはいと多くもならず、七つ八つぞなりたる。女、えみまけてみて、子供にいうよう、はかばかしきことし出でずと言いしかど、われは隣の女には優りなんといえば、げにさもあらなんと思いたり。これは数の少なければ、米多く取らんとて、人にも食わせず、われも食わず。子どもがいうよう、隣の女房は里隣の人にも食わせ、われも食いなどこそせしか、これはまして三つが種なり、われも人にも、食わせらるべきなりといえば、さもと思いて、近き隣の人にも食わせ、われも子どもにも諸共《もろとも》に食わせんとて、おおらかに食うに、苦きこと物にも似ず、きはだなどのようにて心地惑う。食いと食いたる人々も、子どももわれも、物を吐《つ》きて惑うほどに、隣の人どもも、みな心地を損じて、来集まりて、こはいかなる物を食わせつるぞ、あな恐ろし。露ばかり煙《けぶり》の口に寄りたる者も、物をつき惑いあいて、死ぬべくこそあれと、腹立ちて、言いせためんと思い来たれば、主《ぬし》の女を初めて子どももみな物覚えず、つき散らして臥せりあいたり。いうかいなくて共に帰りぬ。二、三日も過ぎぬれば、誰々も心地直りにたり。女思うよう、みな米にならんとしけるものを、急ぎて食いたれば、かく怪しかりけるなめりと思いて、残りをばみなつりつけて置きたり。さて月ごろへて、今はよくなりぬらんとて、移し入れん料の桶ども具して部屋に入る。嬉しければ、歯もなき口して、耳のもとまで一人|咲《えみ》して、桶を寄せて移しければ、虻、蜂、蜈蚣《むかで》、とかげ、蛇《くちなわ》など出でて、目鼻ともいわず、一身《ひとみ》に取り付きてさせども、女痛さも覚えず、ただ米のこぼれ懸かるぞと思いて、しばしまち給え、雀よ、少しずつ取らん、という。七つ八つの瓢より、そこらの毒虫ども出でて、子どもをもさしくい、女をばさし殺してけり。雀の腰を打ち折られて、?しと思いて、よろず虫どもを語らいて入れたりけるなり。隣の雀は、もと腰折れて、烏の命取りぬべかりしを養い生けたれば、嬉しと思いけるなり。されば物羨みはすまじきことなり」。
(16) (『経律異相』四四に『雑譬喩経』を引く。隣人を羨ましがり、道士の足を折り、供養の期満ちて追い出せしもの、毒虫に螫されしこと。)
 曲亭主人の『燕石雑志』四に、この譚を「舌切り雀」の根本とし、『捜神記』なる楊宝が故事から倣作されたと説いた。いわく、「弘農の楊宝、年九歳のとき、華陰山に至り、一の黄雀、鴟梟《きようし》の搏《う》つところとなり、地に墜ちてまた螻蟻《ろうぎ》の因《くる》しむるところとなれるを見る。宝、これを愍《あわ》れみ、取って帰り巾箱《きんそう》の中に置き、黄花を采ってこれを飼《やしな》う。百余日にして、羽毛成り、朝に去って暮に還る。一夕《あるゆうべ》、三更のころ、宝、書を読むに、黄衣の童子あり、宝に向かって再拝していわく、われは王母の使者なり、君が拯済《すくい》を蒙る、今まさに南海に使いすべく、復《ふたた》び来ることを得ず、と。白き環《たまき》四枚をもって宝に与えていわく、君が子孫をして潔白にして、位《くらい》三公に登らしめんこと、まさにこの環のごとくなるべし。(以下は『続斉諧記』に係《かか》る。)宝、震《しん》を生み、震、秉《へい》を生み、秉、彪《ひよう》を生めり。四世三公にして果たして白き環の兆《しるし》に応ず」と。また曲亭は「舌切り雀」の葛籠は、『宇治拾遺』の瓠より転成したと説いたが、『宇治拾遺』の瓠は、いずこに由来したかを説かなんだ。全体、『今昔物語』や『宇治拾遺』の、瓠より米を出したという談片は、もとインドにあったので、過ぐる大正十一年三月の『太陽』二八巻三号、拙文「犬に関する民俗と伝説」に述べ置いた。その大略、左のごとし。
 元魏沙門慧覚訳、『賢愚因縁経』五にいわく、仏、給孤独園《ぎつこどくおん》にありし時、園中に五百の乞児あり、常に衆僧に随う。仏に向かい出家を乞うて許され、すなわち諸漏を尽して阿羅漢となった。祇陀《ぎだ》太子、仏と衆僧を請ずるに、乞児比丘となった者を請ぜずという。明日、食時、仏および衆僧請に応ずべき時、仏、乞児比丘に告ぐ、汝らに請及ばず、今北方の天下|鬱単越洲《うつたんのつしゆう》に往き、自然粳米を取り還り、その家に至り、随意に坐して粳米を自食せよ、と。乞児比丘ども仏の言のごとくせしに、太子大いに驚き、その因縁を問うた。仏いわく、過去久遠、無量無数、不可思議、阿僧祇劫《あそうぎこう》の時、この閻浮提洲に波羅奈《はらな》国あり、利支(仙)山あり、むかし諸仏多くその中に住み、無仏の時は縁覚《えんがく》あって住み、(17)縁覚なき時は、諸五通学仙の徒あって、終《つい》に空廃するなし。爾時、山中の縁覚二千余人あって、つねにその中に止まる。時にかの国、火星あって現ず。この星現ずれば、旱《ひでり》が十二年続いて、作物できず、国必ず破るという。
 散檀寧という長者方へ、縁覚が千人供養を求むると、供養した。次に残りの千人が来ると、また供養した。爾後、毎度供養するに、五百人をして設備し、接待せしめた。年歳を積んでいやけがさし、われら五百人、この乞食どものために苦労すると怨んだ。長者はつねに、供養の時至るごとに、一人をして、往って縁覚を請ぜしめた。この使者、一|狗子《いぬ》を畜《か》い、日々伴い行った。一日、使者忘れて往かず、狗子独り往って、高声に吠え知らせたので、諸大士来たって食を受け、さて長者に向かい、もはや雨ふるべし、さっそく種をまけ、と教えた。長者すなわち作人どもに命じ、一切穀類を植えしむると、数時間ののちことごとく瓠と変じた。長者怪しみ問うと、諸大士、心配するな、ただ出精して水をやれ、と言った。水をやり続くると、瓠がみな大きくなり盛える。それを剖《さ》いてみると、好き麦が一盃盈ちおる。長者大悦して倉に納むると溢れ出す。よって親族始め誰彼に分かって、合国一切恩沢を蒙った。五百人の輩、これ諸大士の恩と知り、前日の悪言を謝し、来世に聖賢に遇って、解脱を得んと願うた。その因縁で五百世中常に乞食となるは余儀なし、しかもその改過と誓願によって、今われに遭って羅漢となった。その時の長者は今のわれで、日々使いに立った者は、今の須達長者、狗子は吠えて諸大士を請じたから、世々音声美わしく、今は美音長者と生まれおり、悪言を改過した五百人は、今この乞食上がりの五百羅漢だと説いた、とある。不承不承ながらも、接待役を勤め課《おお》せたので、今生に北洲の自然粳を採り来たって、美食に飽き得たという訳だ。
 『今昔物語』陸奥の二聖の話の、瓠より米が出た一節は、これから転出されたので、瓠から出た米麦を国中に施したなど、両譚一如だ。さて『金光〔傍点〕明最勝〔傍点〕王経』から光勝〔二字傍点〕、『妙法蓮〔二字傍点〕花経』から法蓮〔二字傍点〕と、二僧の名を作り出したのだ。曲亭が「舌切雀」の根本話と考えた『宇治拾遺』「雀、恩を報ゆること」の、瓠より米を出した一条も、たぶん件の仏典より採ったのだろう。と、お座なりに結びおくが、なお珍説のあるあり。そは『南方筆叢』という(18)物に書き置いたから、そのうち岡書院より出板を待って知りねかしと、馬琴流で告げておく。
 その『南方筆叢』に記し置いた通り、仏典外にも、瓜から米を出した話はある。例せば、インドのサンダル・パルガナス人の譚に、六男と二女の父が死んだ時、寡婦が第九子を妊みおった。その子が生まるる時、オギャアの濁りを去って、キャツキャツと啼くので、よく看ると子猴だった。一同そんな者は葉てて了《しま》えと勧めたが、日神が賜わった子は、育てにゃならぬと言い張るから、母と猴松を村外の小屋に送り、猴松、生長して人間並みに物を言い習った。一日、兄どもが、開拓のために藪を伐りにゆくと、猴松も手斧を提《さ》げて随い往き、どこをわが持ち分として開くべきかと問うと、諸兄戯れ半分、藪の一番茂った処を指示した。猴松、そこへ往き、一木の幹に手斧を打ち込み、兄どもが懸命に働く処へ来て眺めおり、彼らようやく仕事を終わるを見て、手斧を取り来たり、彼らとつれ帰った。日々かようにするので、ある日兄どもが、猴めは何故、自分の持場で働かず、われらの処へばかり来て眺むるかと尋ねると、木を伐り疲れた時だけ息《やす》みにくる、と答えた。諸兄笑って、しからば汝が、どれほど藪を切り開いたか、往って見ようと、猴松の案内で往ってみて驚いたは、いつのまにやら、猴松は、諸兄よりはるか広大な地面を切り開きあった。さて諸兄は切り倒した木どもを焼き去り、その地を耕し始めた。猴の母は、犂も牛も種米も持たず。猴に耕作せしむる術なく、その小屋にある物とてはカボチャ一つ。猴松、そのカボチャから種子を取って、自分が開いた地へ蒔いた。何を蒔いたかと諸兄の問に、米を蒔いた、と答えた。兄ども往つてみると、稲一本もなく、「ただ広く掃溜中をかぼちゃ這ひ」という体たらくゆえ、大いにその愚を笑うた。
 程へて諸兄の稼業功を奏し、新穀を穫て諸神に供え、これも兄弟の片割れと、猴松とその母を招いたので、二人、否、一人一疋往って御馳走に預かった。二、三日へて、猴松、われも憑《たの》みの節供を祝わんと言い出し、母に庭を掃除させ、諸兄を招請し、みずから身を浄め、その畠へ往って、最も大きなカボチャ一個を採り来たり、神に供えた。さてその頂を切り離すと米が盈ちおった。母と共にその米を箕へ打ちあけると、まだ籃に一杯ほど残った。兄どもに馳(19)走された少量と打って異《かわ》り、諸兄夫妻が満腹するだけ用意して、まだ足らずばカボチャを今一つ採って来ようかと、猴松大きく出て、母に飯を炊《かし》がしめた。さて時刻になっても、何のわれらに食わす物があろうかと、兄ども一人もやって来ない。よって猴松みずから往って彼らを引っ張り来ると、一同初めて飯がたくさん出来上がりあるに仰天した。カボチャみな熟するに及び、猴松これを集めて、一年間食い続け得べき多量の米を穫《と》ったという。それから猴松、奇智をもって神馬を手に入れ、二、三年してはなはだ富んだ。こうなると一体にしたいから、ご大病を煩い、那話の鞘が欲しいと捜すうち、若干の処女面白く池中に浴するを覗くと、微《すこ》しく現われ給う本尊を拝して、眼たちまち暗み、心たどたどしくなりぬれば、巫女廟の花は夢の中に残り、昭君村の柳は雨の外に疏《おろそ》かなる心ちして、怪しやこのまま絶えや入らんずらんと覚えたところ、きっと気を取り直して、近江の伊香刀美が故智を襲《つ》ぎ、一女の著衣を質に取って、ついにこれを娶り、ますます繁昌した次第は、ここに用なければ省く(Bompas,‘Folklore of the Santal Parganas,’1909,pp.56-60)。
 支那の古書に、しばしば瓜と瓠を別たぬごとく、インドや欧州には、古今カボチャと瓠を同語で呼ぶこと多し。カボチャと瓢、瓜の品種こそ異なれ、霊験で瓜より米を得て、稲より米を得た者に勝った。猴松の譚と、陸奥二聖の譚と、よく似ておる。中西君釈記の、伊予の瓢屋が瓢の種を蒔いて多くの収得があったというも、瓢を多く獲った訳でなく、瓢中よりおびただしく米を取ったゆえ、巨富となったというたものに相違なかろう。
 
       四 瓠の応用
 
 サー・サミュール・ベイカーの説に、ほとんどすべての蛮民は、土器の作意を多少もつ。だが一国が、野蛮から文明に進む程度は、その陶器の例品を観て判じ得る。英人がまだ未開民だった時、支那人は現今同然に開けおった。し(20)かして当時すでに磁器を精巧に製した。これ大いに、蛮民が粗末な土器ばかり作ると差《ちが》う。アフリカの蛮民の原始の什器は瓠で、ことのほか堅固な瓠が野生する。それを採って両剖すれば、たちまち椀ができる。また、その瓠の形が、多様奇異に変成して、小さい細罎から五ガロン入りの大腹罎に至る、種々の天成罎たり。最も多くの蛮族は、水を運ぶために、土を半焼した粗瓶ばかり製し、その他の諸用は、天産の瓠のみで済まし、丸きりの蛮民は、ただ瓠のみを使うが、ウニョロの土人のごとく、大分進んだ蛮民は、瓠を型として陶器を製す。すなわち  璧黒《えいこく》色の好き土器もて、精妙に卵状の小瓠を模した煙管を作り、碗を製し、また種々の瓠に象った徳利を拵える、と。(またインドでは、瓠製の盃や皿は、もっぱら貧民が用いる(Bompas,‘Folklore of the Santal Parganas,’1909,p.364。)南米でも、全く陶器を持たなんだ蛮民どもは、瓠で皿、盃等を作って事を済ませた由。ただし瓠はもとインドとエチオピア辺に自生し、それより両半球の熱帯・温帯諸地へ拡がった。西半球には、東半球の人や瓠が入り来たった以前、西インド諸島と南米に、固有の瓠木あり。ノウゼンカズラ科の木で、土人その実の殻を什器に作ること瓠に同じ。故に、西半球の旧記にいわゆる瓠が、瓜科の瓠かノウゼンカズラ科の木瓠か、今に?《およ》んで判らぬ場合が少なからぬ。予、三十九年前、大英博物館で写し置いたスペイン人アルヴァロ・ヌニェツの一五二七至三六年の『遭難記行』には、フロリダ海で破船して、テキサスよりメキシコ府に到る陸路、出逢うたインジアンが、きわめて稀《まれ》に瓠をみるから、天から降った神物としてこれを尊び、石を入れ、振り鳴らして舞踊を助け、病を医《いや》し、また瓠を持ち歩くを大威儀としたことあり。当時予は、一八五一年にスミス氏が註入りで、この書の英訳を出しあったを知らず。したがって件の記事は今の何の地に係るを明らめ得なんだが、とにかく十六世紀の上半期には、瓠も木弧も、フロリダ、テキサス等の地に至って希有だったと知る。(Baker, ‘The Albert Nyanza,’1st pub.,1866,reprinted 1913,pp.279,280;cf.Cameron,‘Across Africa,’1885,p.216,& Mason,‘Woman's Share in Primitive Culture,’1895,p.96;Ratzel,‘History of Mankind,’trans. Butler,1897,vol.A,p,67;A.de Candolle,‘Origin of Cultivated Plants,’New York,1890,pp.245,246;Engler u.Prantl,‘Die(21) natürlichen Pflanzenfamilien,’W、Theil,3 Abt.b.S.248,Leipzig,1895;“Relatione,che fece Alvaro Nunez detto Capodi Vacca,di quello che intervenne nell'lndia all'armata,della qual era Governatore Panfilo Narvarez,dell'anno 1527 fino al 1536,”in Ramusio,‘Navigationi et Viaggi,’Venezia,1606,tom.iii,fo.271) 『本草綱目』二八、李時珍いわく、「窃《ひそ》かに謂《おも》うに、壺鞄の属は、すでに烹《に》て?《ほ》すべく、また器を為《つく》るべし。大なるものは甕?《おうおう》を為るべく、小なるものは瓢樽《ひようそん》を為るべし。要舟《うきぶくろ》を為ればもって水に浮かぶべく、笙を為ればもって楽を奏すべし。膚 瓢《うりわた》はもって豕《ぶた》を養うべく、犀瓣《たね》はもって燭に澆《そそ》ぐべし。その利、溥《あまね》し」。この詞は『農喜』に基づいて作ったらしい。『格致鏡原』六三より孫引きすると、「匏の用たるやはなはだ広し。大なるものは蜜煎《みつに》して果《かし》を作るべく、削条《せんぎり》にして乾(乾瓢《かんぴよう》)を作るべし。小なるものは盒盞《こうさん》を作るべく、長き柄のものは噴壺を作るべく、亜腰《くびれ》たるものは薬餌を盛るべし。瓠の物たるや?然《るいぜん》として生じ、烹?《ほうじん》みな宜しく、最も佳《よ》き蔬となす。種うるにその法を得れば、すなわちその実は碩大となる。小にしては壺杓を為り、大にしては盆?を為る。膚?はもって猪《ぶた》に?《くら》わすべく、犀辨はもつて燭に澆《そそ》ぐべし。挙げて乗つる材なし。済世の功大なり」てーんだ。けだし瓠の礼讃の上乗なるものだ。
 『農書』に、南・北宋間の処士陳敷筆の三巻と、元の王驍フもの二二巻と、明の崇禎の末成った沈氏のもの一巻と、三種あり(『四庫全書総目』一〇二)。『鏡原』に引いたは、そのいずれたるを予は知らぬ。「膚?はもって猪《ぶた》に?《くら》わすべく、犀辨はもつて燭に澆《そそ》ぐべし」とは、日本で見ないことのようだが、同科植物たるカボチャ属の実で牛を飼い、種子より油を採る処も、西洋にあれば、ずいぶんやれそうなことだ(‘Encyclopædia Britannica,14th ed.,1929,vol.x,p.558)。
 それから周の世に、壺氏、瓠氏、漢代に匏氏あり(『路史』国名紀、己巻。『古今図書集成』氏族典二〇〇)。本邦の酒部公、服部連同様、上世瓠匏を作って功名あった人の裔だろう。『集成』草木典四七に、明の弘治五年に成った『嘉興府志』を引いて、「王応芳、字《あざな》は蟾采、隠居して梅を種《う》え、善《よ》く蒲器を治む(蒲蘆すなわちヒョウタンで種々の道具を作っ(22)た)。毎《つね》に人に語っていわく、匏を破《わ》って爵を為《つく》るは太古の制なり、と。みずから太朴山人と号す」と。熊楠按ずるに、北宋の陸佃の『礼図』に、「旧図の匏爵は、匏片を用《も》って爵を為る」、その『?雅』一六には、「『詩』にこれを酌《く》むに匏を用《も》ってすというは、その質なることを言うなり。その質なることかくのごとくなるを言うは、すなわちまた民に厚きが故なり。『郊特牲』にいわく、器に陶匏を用うるは、もって天地の性を象る、陶匏はけだしその質なるを取る、と」とある。少なくとも十九世紀まで、ジャメイカ一汎の風習だったごとく(Loudon,‘Encyclopædia of Plants,’1880,p.808)、とっとの昔は支那でも、匏の破片を飲器とし、周の世になっても、礼式に、匏や匏形の陶器を用いて古風を存すること、神前に土器で飲む本邦の作法ごとくだったのだ。王応芳、尚古のあまり、華奢な什器の代りにヒョウタン製の素朴な道具を使い、さてこそみずから太朴山人と号したとみえる。「その後、周姓の者あり、蒲器を治むるにまた工《たく》みなり。毎歳匏を種《う》え、霜落ちてのち摘んで几案《つくえ》に置き、樽爐瓶觚、その質を相《えら》びて工みを施す。色|瑩《あざや》かにして香清く、天然愛すべし」。この人は一層豪い瓢箪狂で、何もかも美術的に匏で作ったのだ。『荘子』逍遥遊篇から前に引いた文の続きに、「荘子いわく、夫子《ふうし》、固《まこと》に大を用うるに拙し。(中略)子《きみ》に五石の瓠あれば、何ぞもって大樽を為《つく》って江湖に浮かぶことを慮《おもんばか》らざる、と」とあって、匏を樽としたは大分古い。この田辺町に遠からぬ富田村で、先年まで匏で達磨火鉢を盛んに製出した。また花瓶にもした。それが爐と瓶だ。觚は、『周礼』趙氏注に、盞の稜角ある物、と出ず。『五雑俎』一〇にいわく、余、市場戯劇中で葫蘆を見るに、多く方なるものあり、云々、けだし生時板で夾んで然らしむ、異とするに足らず、と。予なども十八、九の時、愚息あまり跳ね廻るのを圧え通したので、やや稜角を生じた。笑いなさんな、  睦《うそ》と言わば出してみせる。瓢箪も肉瓢箪も、仕付け次第でどうともなる。教育家は大いに留意せよ。したがって匏製の觚は、遊君の誠や、卵の四角ほど希有でなかろう。
 アフリカの蛮民同様、古今を通じて、匏で雑多の什器を支那人が作り、また周の世に、匏に象った陶器がすでにあった由は上に述べた。さて『古今図書集成』の考工典、巻一八三−一九八に、『博古図』等から飲器の画説を、大年(23)増女の色気以上に、うんざりするほど出しあるうちに、匏を摸し作ったものが多い。しばらく数例を挙げんに、『爾雅』釈器に康瓠《こうこ》あり、注に「瓠は壺なり。賈誼《かぎ》の康瓠を宝とすといえるはこれなり」。それから周の瓠尊、漢の匏壺、漢の山竜温壺、上に引いた『礼図』の匏爵、『博古図』の匏斗、蒲(蘆)勺、沈?の匏盃、李適之の瓠子巵等だ。これら諸器いずれも、最初直ちに瓠で作った物を、その質を固くし、その観を美にせんため、進んで金石瓦陶で作りながら、多少匏瓠に象って、その根本義を存したのだ。その工技の妙に至っては、とてもアフリカ土蕃の企て及ぶところにあらず。王応芳と周姓なるものは、それらの古器に陶酔して、手ずから蒲器を治めた復興家に過ぎず。
 以上は主として、支那の飲器が、瓠匏から瓦陶金石製品に変遷した次第を説いたのだが、別にまた瓠匏が他の用途、すなわち貯蔵に使われた一条がある。『説文』に、匏は瓠なり、包に従い、夸に従う、声包、その物を包蔵すべきに取るなり。諸字書に夸は大なりとあって、大いに物を包み蔵むという意味で、匏の字を作ったのだから、いと古く、支那でこれを物を包蔵するに用いたと知る。
 
     五 シュレッゲルの説
 
 グスタフ・シユレッゲル説に、支那人は、瓠を諸菜の最上、植物の皇帝と敬う。けだし天子が文武百官を饗するに莫大の蒲器を要し、特に瓠園を設け、その実で椀や盞を製し、その肉の羮汁でその体を養い強くす。たぷんこの理由で、支那の星占家が瓠という一星群を、天子の果園を表わして、後宮にあって、瓠もて饌味を調うる廚官を司るとしたであろう、と。(Gustav Schlegel,‘Uranographie chinoise,’i,212,ap.De Gubernatis,‘Mythologie des plantes,’Paris,1882,tom.ii,p.98)
 このシュレッゲルの父は高名な動物学者で、日本の禽獣魚虫に多く学名を付けた。父と異なって子の方は、熱心な(24)東洋学者だったが、父ほどに科学的脳力を持ち合わさず。偏執狭識で毎々独断の過誤に陥った。例せば、この人、『正字通』所載の「落斯馬。長《たけ》四丈ばかり、海底におり、水面に出ずること罕《まれ》なり。皮堅くして、これを刺すも入るるべからず。額の二角は鉤《かぎ》に似たり」という文を、明治二十七年十月ライデン発行の『通報』五号三七〇頁に出し、これはウニコールの記載だが、落斯馬はどこか外国の語を支那訳したのだ、どこの語か、知った人は教えくれ、と問うた。予すなわち答えて、ウニコールは牡に限って通常一本、稀には二本の長牙が口外に出おる。その牙のみを見て、古人これを一角と呼んだ。その牙は必ず真直で曲がらぬから、「鉤に似たり」と言うに合わぬ。落斯馬は、けだし北洋辺産のセイウチだ、その二本の大牙が曲がりおると告げ遣ったところ、欧人が東洋人に対する例の負け惜しみから、『正字通』が成ったころ、セイウチのことが支那まで知れたとは想われないとやり返し来た。(『広文庫』二〇冊一四一頁に『長崎聞見録』より落斯馬の図を引き出だす。『外紀』の文に就いて構成せしものなり。ウニコールよりははるかにセイウチに似たり。)予、折り返して、落斯馬はノルウェー語ロス(馬)マール(海)の支那音訳だ、英語でシー・ホールス、独語のセー・プフェルト、共に海馬の義で、セイウチを指す、リンネがセイウチの種名をロスマルスと付けたのも、ノルウェー名をラテン化したのだと教え遣った。
 それになお懲りず、今度は『正字通』の成った前に、欧州人がロスマールなる北欧語を支那へ持ち込んだとは怪しい、そんな確証ありや、それを承った上ならでは貴説に服しがたい、と言い越した。そこで『正字通』より前に出た極西の南懐仁敦伯著『坤輿外紀』の海族の条に、「落斯馬は長《たけ》四丈ばかり、足短くして海底におり、水面に出ずること罕《まれ》なり。皮はなはだ堅くして、刀を用《も》ってこれを刺すも入るるべからず。額に角あり、鉤のごとし。寐《い》ぬる時は角をもって石《いわ》に掛け、尽日醒めず」とあり、『正字通』は、「足短く」、「刀を用って」、「寐ぬる時」以下の諸字等を除き、甚《はなはだ》の一字を削り、有を二と誤りなどして写し取ったのだ。『外紀』のこの記述はほぼ、一五五五年ローマ板、Olaus Magnus,‘Historia de Gentibus Septentrionaribus,pp/757,758 より採ったとみえる。『外紀』の著者極西南懐仁が、(25)イタリアの天主僧ヴェルビュスチの支那名たるは、貴下の自著にもしばしばみえる。明・清朝は東西の交通盛んに、凡庸の水夫、海商などが、世界諸部で見聞して伝えた異物、奇禽の記事多し。必ずしも欧州名を一々欧人が持ち込み来るを須《ま》たず。それにロスマールという北欧名を欧人が支那へ持ち込んだ確証を示さぬうちは、落斯馬がロスマールの支那訳と受け取れぬなど言い張り、東洋人を馬鹿にして、無法極まる難題を言い掛けた冥罰は覿面、御注文通り、落斯馬なる北欧名を、欧人ヴェルビュスチが支那へ持ち込んだ確証を予が挙げたので、汝にいささかも良心あらば慙汗三斗だろう、予はこの?末を英国で公刊して、全欧の学者に頂針を加うべし、三百年来そんな無法ばかり仕続けたから、『和漢三才図会』、阿蘭陀《オランダ》人を「外夷人物」に入れ、「色白く髪|紅《あか》し。鼻高く眼|円《まどか》にして星あり」まではよいとして、「常に一脚を提《あ》げて尿を去る、皃《かたち》、犬に似たり」と書いたはよい返報だ、云々。
 すると今度は、本人の許可なしに、私信を公刊するは、礼を知らざるもはなはだしと怒り来たので、片脚揚げて小便するような奴に、礼も儀も入るものか、汝はジャパンとジャワと取り違えて、日本人を蘭領の卑屈民と同視するか、公刊して悪い物を、何で幾度も葉書で寄せたかと、執念《しゆうね》く言い返したので、到頭我を折り、英文で、マイ、オノワード、サー、アイ、アム、コンヴィンスト(わが敬う君よ、予は貴説に心服す)云々という冒頭で送り来た怠状を今も保存しある。それを持って、すぐロンドン大学総長ジキンスに示し、『藩翰譜』に、天正元年長篠攻めの時、浜松城の留守本多作左重次、間近き武田刑部入道の陣を襲い破って、素速く引き返した、武田家の古兵ども、当家負け軍の始めなりとて、みな眉を顰《ひそ》めしと言ってあるが、意恨十年一剣を磨す、これぞ亜人が欧人に勝ち軍の始めなると、件の怠状をみせた。ジ氏苦りきりながら、一ギニーほど予に?ませ、祝いの印《しるし》までときた。造化巧妙、この上は用なしと、捨て台詞で立ち出ずると、程近くバーがあった。これぞ仇敵と戒心したが、承知せぬものは脚なり。やにわに駆け入ってバス代までも底を敲き、豪傑の一挙と自賛したは、真に悪銭身に著かずだ。
 のち徳川頼倫侯ロンドン入りに及び、夫人が現当主頼貞侯を懐妊して著帯の報あり、カフェ・ヴァレで紀州人数輩を(26)聚めて祝筵の節、西人に勝ち軍の始めをやった者が旧領より出たとは慶事とあって、中村啓次郎の兄で、三年ほど前冥途へ転任成った巽孝之丞氏を使いとして、予をも招かれたから、黒猫同然、夏冬著替えなしのフロック・コートで往って席末に列した。それは明治二十二年の仕立で、三位中将重臣様(三好子爵)の令息より貰った著古し、破れ次第に、不断繕うから、論理学常問題のテーセウスの船と一般、古いとも新しとも、斉しくいい得る希代の珍品だ。明治二十四年クバ島で見出だした石灰岩生地衣を、シカゴのカルキンス大佐経由、パリの地衣学王ニイランデーに贈り、ニ氏がこれにグアレクタ・クバナと命名したは欧人の繩張り内で、亜人が生物新種を発見の嚆矢とほめられた。五年前、御召艦長門で、将相二十人ほど陪席の間で、他の動植諸品と共に、その標本を天覧に供して進講の際も、件のフロックまた齢四十歳で至尊に咫尺し奉った。日置九即の亡瑞の鎧と打って異《かわ》り、草莽の微虫に取って、まことに吉瑞極まるフロック・コートと、十襲しおる。
 前述のごとく蘭国東洋学の誇りだったシュレッゲル、実は名ほどの代物《しろもの》ならず、その瓠についての説も根っから怪しい。たとえば、支那人は瓠を諸菜の最上とすとは、上に孫引きした『農書』の「烹?みな宜しく、最も佳き疏となす」の文に拠ったかと推さるれど、彼らが瓠を植物中の皇帝と敬うとは、何の支那書にも見えず。天子が群臣を饗するに莫大の蒲器を要し、特に瓠園を設け、瓠の椀や盞を製し、瓠の羮汁で身体を養い強くすということも本文なし。
 瓠と名づくる星群だけは拠《よりどこ》ろ確かにあり。『漢魏叢書』所収『星経』は、戦国または前漢の時のものという。その下巻に、「瓜瓠五星は離珠《りしゆ》の北にあり。敗瓜五星は瓜(瓜瓠)の南にあり。星明るければ大いに熟《みの》る。陰謀、後宮、天子の果園を主《つかさど》る。星|具《そな》わらずして揺動《うご》けば賊あって人を害す。木・水・客星等の守れば、魚塩|貴《たか》し」。『史記』二七に、「匏瓜に青黒の星あり、これを守るあれば、魚塩責し」。『索隠』に、「『荊州占』にいわく、匏瓜、一に天鶏と名づく、河鼓《かこ》の東にあり、匏瓜明るければ歳《とし》大いに熟《みの》る」。『正義』に、「匏瓜五星は離珠の北、天子の果園に在り。占に明るきこと大にして光潤えば歳熟る。不《しから》ざれば、すなわち包果の実|登《みの》らず。客(星)守れば、魚塩貴し」。『隋書』(27)天文志に、「匏瓜五星は離珠の北にあり、陰謀を主《つかさど》り、後宮を主り、果食を主る。明るければすなわち歳熟り、微《かす》かなればすなわち歳悪しく、后《きみ》、勢を失う。その故《もとのまま》にあらざれば、すなわち山|揺《うご》き谷に水多し。かたわらの五星を敗瓜といい、種を主る」と見ゆ。これらを稽うるに、瓜瓠、匏瓜、瓠瓜と名が異《かわ》れど、実は同じ五星の一群で、その主たる占徴は、この星群の光《ひかり》明らかなれば米穀大豊作、また天子の果園も上出来、光|微《かす》かなればいずれも不作の上、后が勢いを失う。他の星が近づき守れば魚や塩が高値になるから、まずい物を食わにゃならぬ。この星群の主《つかさど》るところは、陰謀と後宮と食物。後宮は婦女の専任、食物はもと婦女が拵えるに定まった物、大抵の陰謀は、婦女が発起し、参与する。「星具わらずして揺動《うご》けば、賊あって人を害す」だけは女に関せぬようだが、由来、後宮での殺害に女が関係したのも多い。「その故《もとのまま》にあらざれば」、すなわち常態と異なってくると、「すなわち山|揺《うご》き、谷に水多し」、これは女子|天癸《てんき》すでに至り、様子が変じてくると、前山脹れてゆれ動き、「たんと出しさうなは和泉式部なり」という水が狭谷に満ち溢れるより、この占相を案出したので、総体この瓜瓠星群の占いは、もっぱら婦女と食物に関係しおる。これから進んでその子細理由を説こう。
 
     六 瓠と星占
 
 一七四八年、米国ニュージャーシー州に遊んだスウェーデンのカールム教授の視察記に、当時かの辺で多く瓠を種《う》えたが、食品にならず、杓、漏斗、椀、皿等にした、また諸植物の種子を納れて海外へ送れば、他の諸方便に勝れて、その発芽力を永く保つ殊功あり、と言った。それより五十二年前、宮崎安貞は、瓠の丸く大なるは、菜の種などを入れ置いて宜しと述べ、カールムの記より約百二十年前、明の徐光啓は、一切草木の種子、倶《とも》に瓢に盛り、懸掛するを佳とす、と書いた。今より三十年ほど前までは、熊野地方に、諸植物の種子を匏に納めおく風があった。しっかり封(28)ずれば、書物の入る途なき上に、すべて瓠属の実が熟すれば、コロシンチンを含んではなはだ苦くなり、蠹虫の侵入を防ぐとみえる。支那に瓢箪に書物を蔵めた人あったは、この理によるか。劉宋の劉敬叔の『異苑』に、西域拘夷国の山上に石駱駝あり、腹下より水を出だす、金鉄や手で承《う》ければ通り去る、ただ匏や瓢で盛れば通さず、飲み得て身香ばしく升仙すとあるも、右の訳より言い出でただろう。さて明朝に瓠種という田器あり。容量一斗ほどの瓠の頭と尻を穿ち、前端を両刃にした棒で貫き、頭の外に残り出た部分を柄とし執って、尻の外に突き出た両刃で地を掘り了って、その瓠を横に持ち揮えば、瓠の横側の大穴に張り付けある筵の目から、瓠に入れある種子が零《こぼ》れて、今掘った地の穴に落つるを、よくならして上に土を覆うのだ。それより約千二百年前、後魏朝に録されたは、種を下す瓠と、地を耕す両?と別々で、迂拙な物だったのを、後世上述ごとく、簡便に改良された由。明朝また芽種の法あり。種子を洗浄して瓠中に移し、沾《ぬ》れた布片で覆いおくと、三日後に芽が生えるを、下し種うるのだ。(P.Kalm,“Travels in north America,”in Pinkerton's‘Voyages and Travels,’vol.xiii,p.187,1812『農業全書』三。『農政全書』六、二一、三七。‘Encyclopædia Britannica,14th ed.,1929,vol.x,p.558.『古今図書集成』草木典四七。『談薈』一〇)
 これらの下種方、必ずしも後魏や明朝に始まったでなく、現存する限り、そのころの文献に最も早く見《あらわ》れおるまでで、文筆の届かぬ田舎には、ずっと古くより実行されたと察する。とにかく西洋料理店のナプキンへ、残食を包んで失敬し、渋皮のむけた下女を、朝から晩まで使い散らして、人定《にんじよう》後また就いて宿を射る。世に無性な人多ければ、一たび防蠹の力強きを知って、種子を瓠に盛り、さて蒔き時になって、移し盛るべき器具を持ち合わさず。当惑は発明の母、してやったりとその瓠を手細工し、瓠種、芽種などの実行となったので、瓠でもって種を下すは、瓠に種を貯うるより出たと知る。『古今図書集成』乾象典四九を参するに、前に引いた『星経』の文、「星明るければ大いに熟《みの》る」以下の字句は、瓜瓠五星の占候で、その近処にある敗瓜五星は瓜南の二字で記さるるに止まる。瓜瓠五星の南にありというのだ。『史記』、『漢書』、『晋書』にはかつて見えず。『隋書』に至って、「瓠瓜のかたわらなる五星を、(29)敗瓜といい、種を主る」と、始めてその占候を出す。この五星群は瓜瓠のかたわらにありながら、光が弱い等で別群とし、瓠瓜の敗れて用に立たぬ物と見|做《な》して、敗瓜と名づけられおったのを、後に、種蒔きに使い敗られたとして「種を主る」、すなわち諸植物の種子の善悪は、この星群の様子をみて占い得と定めたと想わる。
 瓠をもって種を下すは、瓠に種を貯うるより出たと考うる次《ついで》に、瓠に種を貯うるは、瓠に穀糧を盛るに起こった、と予は惟う。『和漢三才図会』七二に、京都極楽院十八家の空也の徒は、古え鉢、今はその代りに瓢箪を敲くとあるが、それより約二百六十年前、『七十一番歌合』、鉢扣きが瓢を鳴らす画に、「むしゃう声人きけとてぞ瓢箪のしばしばめぐる月のよ念仏《ねぶつ》」とよみあり。『嬉遊笑覧』一一に、自然居士、東岸居士(共に鎌倉時代)なども頭を剃らず、ささらをすりたること、その伝に見えたり、鉢は瓢を用う、みな乞食の所作なり(中略)、『雍州府志』悲田寺条に『?繻』下巻を引いていわく、「小乞児、一個《ひとつ》の瓢を捧定《ささ》ぐ、云々」、『類書纂要』乞丐条、「?頭《こじき》、面を仰むけ、瓢を操《と》って乞う」など見えたりしは、かしこ(支那)も瓢もて米銭を乞えること同じ、と言った。『広文庫』一六冊七三頁に、「大乗比丘十八物図。四種の鉢とは木、鉄、瓦、匏を謂う。もとこれ大乗出家の具度なり」。したがって僧の食を受くるに、匏製の鉢のみならず、瓢箪をも鉢と呼び、鉢をも瓢箪をも敲いて食を乞うたので、鉢敲きは初めから、鉢の代りに瓢箪を敲いたと察する。黒川道祐は、古く所携の鉢を叩きしを、近世瓢をもってこれに代えたものかと言ったが、山崎美成は、鉢叩きは空也僧のみならず、今児の瓢を叩き銭を乞うることいと古し、応永年間に成った『融通念仏縁起』に出でたるをみるべし、と駁した。喜多村信節の書に、かの『縁起』より鉢叩きの図を写し出だせるをみるに、中年の男が瓢箪一つ敲きながら躍るところへ、抛られた銭五文地上にあり、それを一瓢を負うた童が、また一瓢を携えて拾い集むる体だ。『七十一番歌合』の鉢敲図は、一人のみだが、二瓢を画いたのと、一瓢だけのと二本ある。(『雍州府志』四。『瓦礫雑考』上。『広文庫』六冊六〇四頁、一四冊一一五頁。『群書類従』五〇三下)
 これらの瓢いずれも口を広く描いた。『日次記事』四に、もし信施の米銭あらば、すなわち瓠をもってこれを受く(30)とあるに合う。一瓢に米等が満つれば運び帰ると、さらに他の瓢で貰い受けたのとあったのだ。かく瓠瓢に物を集め容るることは古来あったので、中山太郎君の『日本民俗学』風俗篇に、小児に瓢を佩びしむるは、魂が散り去らぬよう、瓢中に吸い込ましむるためという体に説かれたが、それでは古来大人が瓢を佩びた例多きを、何と解すべき(『嬉遊笑覧』二中。『骨董集』上編上、耳垢取古図)。小児、大人、共に佩ぶるところの瓢の口を栓しあれば、突然身を離れた魂を吸い込むべき途が塞がりおる。予少時みずからも佩び人も佩びたは、みな護符を入れ、その威力の逸減せぬため口を密封した。また大人の佩ぶる瓢には、気付け薬、血止め薬などを入れた。さて休暇済んで町へ出る書生中には、山椒や胡麻塩を詰めた瓢を佩び、道中の茶店で飯へふり掛けて食うもあった。町内の小児中にも、麦の粉、砂糖水、肉桂などを小瓢に入れ、佩びて遊び歩くに、時々栓を抜いて味わい娯しむもあった。推して考うるに、銭も店も少なかった昔は、小児、大人、共に、自宅で出来合いの食糧を、身に応じた瓢に容れて佩び、遊びに出たり、旅行をする途中でみずから用いたのが、佩瓢の存在理由だったろう。
 『古今図書集成』戎政典二四〇に引かれた南宋の章如愚の『山堂考索』に、「漢末の喪乱にて、州牧の劉虞、劉焉、劉表のごときは、おのおの分界を守り、成敗を坐視する者は、ただ農桑を勧課《すす》むるに藉《よ》って、もってみずから保つ。その、あるいは兵を交え、もって覆を争う者は、ただ屯田に藉《よ》って、もって食を足《みた》す。然らざれば、すなわち二袁の給を桑堪蒲盈に取るをなすのみ」。二袁は袁紹、袁術だろう。『集成』草木典二四七に、「『魏書』に、袁紹の河北にあるや、軍人《へいし》、給を柔?に仰ぐ、と」。袁術の軍人もそうしたものか。?は桑の実だ。盈は、『説文』にいわく、器に満つるなり、と。蒲は十分とまでは判らぬが、前に孫引きした『嘉興府志』に瓠瓢で作った諸具を蒲器と呼んだことあり。蒲蘆すなわち瓢箪で作った蒲蘆器を、略して蒲器と、宋朝で呼んだらしい。南・北宋間の浩皓の『松漠紀聞』(『集成』草木典四六所引)に、「西瓜は、形扁蒲のごとくして円く、色きわめて青翠なり」。「大和本草』にいわゆる、円く大きく扁たくて柄なき瓠たる匏、フクベを、柄短く腰細き蒲蘆に対して扁蒲蘆、それを約して扁蒲と言ったらしい。(31)『欽定授時通考』六一に、瓠、ユウガオを、江南で扁蒲と呼ぶとあれど、瓠は匏を書き誤ったものと想う。つまり袁氏の軍人米を食うに由なくて、柔の実をフクベに集め入れて糧としたというのだろ。蒲盈の解は難件ゆえ、諸君の教えをまつ。また『楚辞』、前漢の王褒の『九懐』に、「匏瓜を援《ひ》いて、糧《かて》を接《つな》ぐ」。腹が西山に傾いてきたから、匏を引き寄せて糧を手に取ったというのだ。ある人は、この匏瓜はフクベにあらず、『史記』の星群の匏瓜だ、と説いた(『毛詩陸疏広要』上)。しかし、三垣二十八宿、諸星座の名を閲するに、糧という名の星なければ、ここの匏瓜は必定フクベだ。また、たといそれが星群の名だったところが、もと星の名は、みな地上諸物に因んで付けた物ゆえ(『琅邪代酔篇』一、象緯の条参看)、天上で匏瓜星群を引き寄せて糧を採るという詩想は、必ず人間に糧をフクベに盛り、また運び、用に臨んで取り出した習俗が行なわれた後に生じたはずで、かかる詩が作られた時、すでにかかることが行なわれおったと判る。糧米を瓢に入れて運んだ例は後に出すべし。
 
     七 古支那と瓠
 
『周礼』地官に、「委人《いじん》はおよそ畜《たくわ》え聚《あつ》むるの物を掌る」、注に、「およそ畜え聚むるの物とは、瓜瓠葵芋にて、冬を禦《ふせ》ぐの具なり」、疏に、「「七月」の詩に「八月壺を断《き》る」とあり、壺とは瓠なり、甘《うま》くて食らうべきものあり、故に畜え聚むる物のうちに瓠のあるを知るなり」。甘くて食らうべき瓠を蓄え聚めるとは、主として干瓢にしたのだ。今のアフガン、トルキスタンで、中世、甜瓜の皮を剥ぎ乾かし、支那やインドに出し、きわめて賞美された由(Yule,‘The Book of Ser Marco Polo,’1871,vol.i,pp.141,142)。支那でも古く甜瓜を瓠と等しく干瓢にしたので、ここに瓜瓠と併称したであろう。崔寔《さいしよく》いわく、正月弧を種《う》うべし、六月瓠を蓄うべしとは、干瓢にしたので、『和漢三才図会』巻一〇〇に、土用中これを剥いで干瓢にする次第をのべ、「『釈名』にいわく、皮瓠もって脯となし、蓄積《たくわ》えて、もっ(32)て冬月を待って、時にこれを用う、故に瓠蓄と名づく、すなわちこれ干瓢なり、と」とあるは、『周礼』や崔寔の言に合う。次に崔寔いわく、「八月、瓠を断《き》って?瓠《しこ》を作るべし」。毛晋いわく、フクベや瓢箪は、「夏の末に始めて実《みの》り、秋の中ばに方《まさ》に熟す。取ってもって器となせば、霜を経《ふ》るもすなわち堪ゆ。「七月」(の詩)に「八月壺を断《き》る」と称せるはこれなり」と(『斉民要術』二。『毛詩陸疏広要』上)。『康煕字典』に、「?《し》は音|恣《し》、剖なり、裂なり」。
 本邦足利時代の末期まで、瓢を縦に二つに剖いて?肉を去り、漆で継ぎ合わせて用いた由、今年二月一日の『大毎』紙、浜田瓢伯氏説にあった。支那でも古くそうしたので、?瓠すなわち剖瓠と称えたと察する。漢の焦氏の『易林』三に、「瓠を合わせて同《とも》に牢《かた》く、姫《き》と姜《きよう》と並び居《す》む。寿考、長久なり」と言ったは、この二姓の合うて離れざるを、両《ふた》つに剖いて継ぎ合わせた瓠の固くひっつきおるに比べたのだ。(支那の婚礼に「瓠を合わせて同《とも》に牢《かた》し」とは、「『儀礼疏』にいわく、?《きん》とは牢瓢なり、一の匏をもって分かちて両《ふたつ》の瓢となす、これを?という。婿と婦とおのおの一片を執り、もって酳《さけをかわ》す。故に、?を合して酳す、というなり」(『古今図書集成』礼儀典二五)。されば周代の委人職の者は、夏は瓠皮を干瓢に仕上げ、秋は瓠穀をフクべや瓢箪に作って、冬中の食料に充て、また米穀や種子や飲料を貯うるに使うのだ。
  このついでに申す。浜田氏は「現在一般に使用されている瓢箪という詞は、元禄時代からできた物」と述べられたが、然らず。元禄以前に多く用いられた。例せば、元禄元年より十六年前、寛文十二年板『一休関東咄』上に、一休、一条戻り橋の辻に高札を立て、日本老和尚一休、三明六通を得て瓢箪をひっくり返す、望みの方々見物あるべき物なりと宣伝すると、大衆群集した、一休、衣の前に大瓢を著け、飛び廻り跳ね返ること数回にして、大音を挙げ、筆瓢たんひょうたんひょうと唱え、二十度程踊り跳ね、楽屋に入って太鼓を打ち、これがかわりかわりとて残らず追い出した、と出ず。元禄元年より六十年前、寛永五年に書いた策伝の『醒睡笑』三には、服部という文盲の武士、自分の苗字を書き得ず、フクベと書くと教えられ、フクベは瓢箪のことと合点す、他日ある人(33)に御名字のハットリとはと問われ、瓢箪と書くと答えた咄あり。
  元禄元年より八十六年前、文禄元年成った『神谷宗湛筆記』に瓢箪の茶入れ、また炭斗を記し、その前四年、天正十六年成った『茶器名物集』に、「瓢箪、豊後にあり、むかし松本所持小壺なり、四方盆」、また「炭取、むかしは、云々、当世は瓢箪までに候」。また元禄元年より百四十八年前、天文九年作『守武千句』に、「瓢箪をみれば山からなまずにて」。山崎美成の『三養雑記』四に、『運歩色葉集』に瓢箪の熟字あり、『室町殿日記』に、功徳水をくみ瓢箪に入れなどいうことのみえたれば、天文のころよりすでに言えることとぞ思わるると言ったが、天文前の例もたくさんある。例せば、万里居士の『梅花無尽蔵』に、「便面の鮎魚」と題して、「平生は鮎《なまず》の判官、押さうるに瓢箪を用いず、おそらくは腰骨を打ち折り、総べて竹竿に上るなからん」。この居士は応仁・文明の乱を経て、文亀元年なお生存したとみえるから、この詩はいと晩くとも、元禄元年より百九十五年前の作だ。元禄元年より百七十年前、永正十五年に成った『閑吟集』にも、「忍ぶ軒端に、瓢箪はうへてな、をいてな、ははせてならすな、心のつれて、ひよひよら、ひよひよめくに」という小歌を載す。元禄元年より二百三十四年前、享徳三年の撰『撮壌集』中巻家具類に瓢箪あり。『七十一番歌合』は、京伝の『骨董集』上篇上巻に、文安・宝徳時代の物というから、晩くとも元禄元年より二百三十七年早い。それに鉢敲きの歌、「むしゃう声人きけとてぞ瓢箪のしばしばめぐる月のよねぶつ」とある。それから元禄元年より二百四十四年前、文安元年に成った『下学集』下、草木門に、瓢箪を出す。穴栗《あなぐり》捜したら、まだ古い例があるかも知れない。元禄元年から昭和九年まで二百四十六年、『下学集』に瓢箪の名を載せてから、元禄初年に至る年数とほぼ相等し。瓢箪という詞は決して元禄時代からできた物でない。地突き唄に瓢箪と唱うるも、元禄以前に始まったであろう。
 前にも述べた通り、植物学者説に、瓠はもとインドとエチオピア辺に自生し、それより両半球の熱地、温地の諸国へ拡がったという。支那の文献に見るところ、上古の人、毛を茹《くら》うて血を?《すす》り、果?※[虫+朶]※[魚+龍]を食らい、内|栄衛《えいえい》を傷《やぶ》り、(34)その天年を殞《おと》す、燧人氏始めて火食を教えてこれを救うたという。後漢の応邵いわく、木実を果、草実を?という、と。その字の結構よりみても、?は主として瓜類を指したと知れるが、燧人氏の時、瓠瓢の属が、支那に入りあったか否は、知れがたい。しかし、その後ずいぶん早く伝来した証拠はある。燧人氏の次に、伏羲氏、王たり、土を灼いて?《けん》となし、礼楽ここにおいて興る。その妹女?氏次いで立ち、臣随に命じて笙を制せしめた。後年、帝舜が典楽たらしめた?が、よく八音を調えて神人を和らげた。八音は金、石、糸、竹、匏、土、革、木で、これに相応する楽器は、鐘、磬、絃、管、笙、?、鼓、?《しゆく》だ。中に就いて、?は早く亡われたもので、記載一定せぬが、まず『漢書』顔師古註に、「土を焼いてこれを為《つく》る。その形、上に鋭《とが》り底を平らにす。六孔にしてこれを吹く」。北宋の聶崇義の『三礼図』等に見るところ、すこぶるわれら壮時イタリアで作出された戯楽器オカリナに近く、また本邦の瓢木(ヒョン)の葉に小虫群が寄生して作った匏状の?、西国でサルビョウ、土佐でサルブエと呼ぶ物に似る。これは瓢に代用して薬味を納れ、また小児が吹き鳴らし、駿河では、祭礼にこれを吹いて、神輿に供奉した由。およそ匏瓠を楽器とした物、インドのナレダ神が創製というヴィナ(匏の胴二つある七絃琴)、蛇使いが吹いて蛇を踊らすプンギ(匏に双管をさし込んだ笛)、メキシコのアハカクストリ(匏に小石を入れて振り鳴らす。似た物、東|阿《アフリカ》のウジジや、南米ギアナにもある)、ヴェネズエラ土人の瓢製の鼓、英領東阿のチムウェニュムウェニュ(匏胴の一絃鼓弓)、またリムバ(匏胴の六弦琴)、セネガムビアのバラソや、コンゴ等のマリムバや、西阿のファン人のハンジャ(いずれも、瓠や匏を多数列べた上に、列べた木板を撃ち鳴らす木琴)、リベリアのクルー人の匏胴の箜篌、東阿ウニョロ人の長頸懸瓠の喇叭等、その例おびただしくあるが、中阿のミッツー人が、懸瓠の側面に数孔を穿ちて吹き鳴らすは、古支那の?と同趣向だ(羅泌『路史』前紀五、後紀一および二。『前漢書』二四上註。『史記』一。『白虎通』一。『前漢書』三上。‘Encyclopædia Britannica,’11th ed.,vol.x,p.965,1911;14th ed.,vol.xvi,p.678,1929.『物類称呼』三。『南方随筆』二六一−二六三頁。Engel,‘Musical Instruments,’1875,pp.46-49,51,74;Cameron,‘Across Africa,’1885,p.186;Im Thurn,‘Among the Indians(35)of Guiana,’1883,p.338;Waitz,‘Anthropologie der Naturv lker,’Theil Vル,S.386,Leipzig.1862;Warner,‘The Zatives of British East Africa,’1906,p.221;Waitz,op.cit.,TFeil U,S.238,Leipzig,1860;Du Chaillu,‘Equatorial Africa,’1867,pp.87-88;Ratzel,‘History of Mankind,’trans,Butler,vol.ii,pp/329-331,1897;Bakar,‘Albert Nyanza,’reprinted 1913,p.380;Schweinfurth,‘The Heart of Africa,’3rd & cheaper ed.,London:Sampson Low, & c.,n.d.,vol.i,p.197)。これを前述、支那、アフリカ、共に飲食器が匏製より陶製に移り変わったと合わせ考えて、どうも土製の古楽器?は、最初匏製だったと察せらる。
 それは兎《と》まれ角《かく》まれ、帝舜の時調えられた八音のうち、正しく匏製の楽器たる笙は、十三本、十九本、二十四本等の管を匏中に挿《さしはさ》み、匏側の口から吹くので、女?始めて作ったというから、帝舜よりはずっと古い。明の朱載?の『律呂精義』にいわく、「太古の世は、民醇にして愚、儀物いまだ備わらず、この故に匏を用いてもって笙を為《つく》り、壺(『大和本草』のクビアルフクベ)を用いてもって尊を為る。軒轅以来、三代に至って聖王|迭《かわるがわ》る出で、智巧|滋《いよい》よ彰《あら》わる。すなわち膠漆角木の制を用いて、もって匏に代え、金錫模範の作にて、もって壺に代う。礼に壺尊あり、楽に匏笙あるは、けだしその本形を象《かたど》って、その旧名を存するのみ、実は真に匏および壺を用うるにあらざるなり。(中略)聞くに、今、渓洞の諸蛮は、なお匏を用いてもって笙を為るも、穴管の間|?《あら》くして気を漏らし、その音は終《つい》に中国の笙に若《し》かざるなり、と」(『古今図書集成』楽律典一二六)。参照、『説鈴』卯冊所収、清の陳鼎の『?黔紀遊』、「苗《びよう》の俗、毎歳孟春の月に、男女おのおの麗服をつけ、相率いて月に跳《おど》る。男は蘆笙《ろしよう》を前に吹いて、もって導をなし、女は鐸《すず》を后《うしろ》に振って、もって応をなす、云々」。中土の人、笙はもと匏音の楽器たりしを忘るるあまり、苗人が今も匏製の笙を吹くを奇とし、蘆笙すなわち葫蘆ヒョウタン製の笙と呼ぶのだ。
 鳳翼の形で鳳鳴の声し、衆管匏にあって鳳巣の象ありなど称揚された笙も、匏で作られたうちは、後に木で作った物ほど美声を出さなんだ。それに付けても匏製の笙は至って古朴、原始的の楽器たりしと知る。(その詳しき(36)を知らねど、そんな物より笙が転生したのだろう(『説鈴』辰冊所収、清の陸次雲の『?谿繊志』参照)。Ratzel,op.cit.,vol.i,p.403 に、ボルネオ島のダヤク人は、簫の響きをよくせんとて匏を付くる、とある。)(しかし、『武英殿聚珍版全書』の『嶺表録異』上の六丁裏に、「葫蘆笙。交趾《こうし》の人、多く柄のなき瓠を取り、割《さ》いて笙を為《つく》り、上に十三の簧《こう》を安《お》く。これを吹けば、音韻清響、雅《はなは》だ律呂に合す」とあれば、唐の昭宗の時まで、そんな物が交趾にあったのだ。)『古今図書集成』楽律典一二八に、?は庖犧氏の創製とも、高辛氏の始作ともみえ、事によると、笙よりも早くできた物だ。それが拙考ごとく、最初匏製だったなら、匏は遠く庖犧氏の時すでに支那にあったはずと帰著すべきだが、拙考はあまりアテにならぬとするも、初めから匏製だった笙が、女?の創製で、帝舜の時、八音の一の正器と定まったといえば、晩くとも舜の時、確かに匏瓠は支那にあったのだ。
 それから帝堯が位を舜に禅《ゆず》る前に、天下を許由に譲りしも受けず、逃れ隠れたという(『史記』六一。『淮南子』一)。西晋の皇甫謐の『高士伝』一に、「許由没して、箕山の巓に葬り、また許由山と名づく、云々。堯、因《よ》ってその墓に就き、号《なづ》けて箕山公神という。もって五岳に配食し、世々奉祀す。今に至るも絶えず」と出で、堯の在任中に死んだ許由は、舜の先輩だ。『徒然草』一八段に、唐土に許由といいつる人は、さらに身に随える貯えもなくて、水をも手して捧げて飲みけるをみて、なりひさごという物を、人の得させたりければ、ある時、木の枝に掛けたりけるが、風に吹かれてなりけるを、かしがましとて捨てつ、また手に掬《むす》びてぞ水も飲みける、いかばかり心のうち涼しかりけん。「許由、杯器なくして、常に手をもって水を捧《すく》う。人、一の瓢をもってこれに遺《おく》る。由、酔って飲みおわり、瓢をもって樹に掛く。風、樹を吹けば瓢動き、歴々として声あり。由、もって煩擾《はんじよう》なりとし、ついに取ってこれを捐《す》つ」と、『古今図書集成』考工典一九八に『琴操』より引き、ほぼ同じ文を、『潜確居類書』六四に、『逸士伝』から引きある。『琴操』は後漢の桓譚のが二巻と、晋の孔衍のが一巻あり。『逸士伝』は、晋の皇甫謐のが一巻ありと、『唐書』五八に見ゆれど、『宋史』芸文志はいずれも載せず。唐宋の間に失われたを、『集成』、『類書』、共に何かから(37)孫引きしたのだ。
 また『史記』一に、「舜、河浜に陶《やきもの》をつくるに、河浜の器、みな苦?《くゆ》ならず」、註に、苦は麁《そ》なり、?は病《へい》なり。『通鑑』註に、「憂苦して病を飭《ただ》さず。けだし器の用うるに足るを言うなり」とあるが、関遂軒の『十八史略校本標註』に、「苦?鼠ならずとは、民のみな務めて厚正の器を為《つく》り、薄悪にして?斜《ゆが》まざるを言うなり」とあるが適切で、舜は謹厚な人ゆえ、陶器を作るにも事を疏略にせず。河浜の陶工みなこれに倣い、歪んだ物を拵えなんだのだ。すでに説いたごとく、夸は大なりと字典にあれば、瓠は大瓜を意味し、古来瓜の一種と知られ、瓜瓠五星に近く敗瓜五星を置いた。旧くは瓠を瓜と呼んだこともしばしばあったのだ。未開民が陶器を作るに、瓠の内面また外面に土を捏《こ》ね被せる例多く、瓠片や木片で研《みが》き立つることもしばしばあり。瓠の曲面歪みおったら、陶器も歪んで用うるに足らず(Mason,‘Woman's Share in Primitive Culture,’1895,p.96;Cameron,‘Across Africa,’1885,p.216)。穴一つに皿や瓠を二つ押し込むと、損じ歪むから、?の字は歪むを意味し、苦い物は誰も好まぬから、字典に苦は悪なりと出ず。だから苦?は劣悪で歪んだこととこじつけ得る。
 かくのごとく、舜帝の世に調えられた八音の楽器のうち、笙が初めより匏製で、?も最初匏製だった見込みあり。舜の即位前に死んだ許由が、瓢を捐《す》てた話あり。舜が作った陶器も瓢に関係あったらしいから、もとインドより播がったにせよ、堯舜の時、支那に瓠瓢あったは疑いを容れず。ただし夏禹王の書という『山海経』に、瓠の字はないようで、予の知るところ、瓜の字は二たびみえる。瓠を瓜の一種とみたからだろう。特に瓠瓢などと書いたは周以来らしい。ずっとむかし、「神農、天下に播種を教え、瓜?《から》の実を嗣《つ》がしむ」(『路史』後紀三)。瓠瓢も、その時種え初めただろうか。改行
 
(38)     八 古支那の後宮
 
 『晋書』三一、后妃伝序にいわく、「それ乾坤|位《くらい》を定め、男女|形《かたち》を流《わか》ち、伉儷《こうれい》の義|帰《おもむ》くところを同じくし、貴賤の名|等《たぐい》を異《こと》にす。すなわち配を皇極に作《な》し、体を紫辰に斉《ひと》しくするがごときは、玉牀の後星に連なるを象り、金波の羲璧と合するに喩《たと》う。ここにおいて、夐古《けいこ》よりこれを元妃と謂い、降って中年に及び、すなわち王后と称す。四人並び列《なら》んで、帝?《ていこく》の宮に光《かが》やき、二妃|同《とも》に降って、かの有虞《ゆうぐ》の典を著わす。夏商以上、六宮の制、その詳らかなることは、得てこれを聞くなし。姫劉以降、五?の規あり、その言ほぼ言うべし。『周礼』に、天子は、一后、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、もって王者の内政を聴《き》く、と。故に「婚義」にいわく、天子と后とは、日と月と、陰と陽とのごとし、と。これによって談ずれば、その従《よ》って来たるところは遠し」と、いと七六《しちむつ》かしく論じあるが、周漢以前のこと詳らかに伝わらず、しばらく五帝の代々について言わんに、黄帝の元妃西陵氏は、後世養蚕の神と崇められ、帝|??《せんぎよく》と帝?《ていこく》の曽祖母だ。次妃万?氏は小昊の祖母で、第三妃?魚氏出の後胤が東方朔、第四妃|?母《ぼほ》、皃《かお》惡《みにく》けれども徳克つ。「帝これを内れていわく、女《なんじ》の徳を属《たのみに》して忘れず、女《なんじ》の正に与《あずか》って衰《さい》せず、惡《みにく》しといえども何ぞ傷《やぷ》らん」と(『路史』後紀五)。
 欧州に遊んだ日、しばしば彫像家どもより聞いたは、ローマのネロ帝以前の寵姫名妓の像の鼻は、みなギリシア風の端正なものなるに、この帝の代より扁低なが多くなった。これ国盛え富満つるのあまり、上下淫逸を極め、また情愛と美感を問わず、ただ肉体の妙触をこれ求めたところへ、玄色の男女、早年より情熾んに機熟し、弛張自在、肌肉弾力多く、よく硬によく嫩に、老に至るも渝《かわ》らず、令に応じてすなわち事に従い、終宵倦まず、飛燕の?媚たるは遠く無塩の妙具に及ばずと、君臣一致して、アフリカ生れの奴婢を歓賞したからだ、と。昨今噂高きエチオピア熟も、(39)詰まるところはこんな訳かも知れず。往年米国にあった時、フィラデルフィアかボストンかの、石崇的の富人の独り娘で、賈午絶倫の才色あるあり。しかも、黒人でなければ嫁入らぬと言い張って、親類を手こ摺らす最中と聞いたが、その理由を解せなんだ。のち南部の黒人多き処に住んで、十分諒解した。(Cf.Dunlop,‘The History of Fiction,’Edinburgh,2nd ed.,1816,vol.ii,p.394;Pyrard de Laval,‘くoyage,’n.e.,Paris,1679,tom.ii,p.38;Burton,‘The Book of the ThouSand Nights and a Night,’ed.Smithers,1894,vol.i,p.5)
 されば古来無数の漢学先生が、賢を賢として色に易えたと賛歎した?母や、鍾離春や、宿瘤女や、諸葛亮の妻や、これら醜婦を娶った聖賢が、色を好むの用意の到れるを知らざりしを愍笑せずんばあらず。また無仏の世に生まれた黄帝や、斉の宣・閔二王が、諸感覚の絶頂は妙触に止まると自得した偉さに圧倒されざるを得ぬ。かの醜女?母の妙門より生まれた黄帝の子供の後に、奚仲、仲?等の名士や、周文王の母があった。黄帝の孫小昊は、司馬遷等、これを五帝の列に入れず、孔安国等は入れた。小昊に氏名不詳の二妃あり。次妃が生んだ般は弓正たり。これ弓矢を制し、弧星を祀るを主る。弧九星は井宿に属し、その形、矢をはげて張った弓のごとし。諸星の名が出来揃うたは、戦国時代らしいが、そのうちこの弧星などは、最も早く命名されたとみえる。(『五雑俎』八。『大薩遮尼乾子受記経』三。『大智度論』一七。Cowell & Francis,‘The J?taka,’vol.v,pp.236-240,Cambridge,1905.『史記』一註。『路史』後紀七。『古今図書集成』乾象典五三。『日知録』三〇)
 帝??は、黄帝の孫とも曽孫ともいう。二妃鄒屠氏、勝濆氏を娶る。前者が夏禹王の祖父を生み、後者は、戦国の楚秦趙諸王の先祖を生んだ。次に立った帝?は、黄帝の曽孫で四妃あり。元妃姜?は周の祖、次妃簡狄は商の祖、第三妃慶都は帝堯、第四妃常儀は帝摯を生んだから、四妃の子を卜うに、みな天下を有《も》つ、と言った。五帝の中で、帝堯のみは、ただ一妃散宜氏あって、不肖子丹朱を生み、また「庶子九人あり、みな不肖なり」とあれば、一妃で満足しなかったのだ。虞舜は帝??の、孫の孫のまた孫で、東夷の人と謂われ、辺土に庶人たり。帝堯、その賢なるを聞(40)き、自分の二女娥黄と女英を妻《めあわ》せたが、姉には子なく、妹は不肖子商均を生んだ。第三妃癸比氏は、宵明、燭光という二女を生んだ。共に一生独身で、洞庭山におり、湘水の神となった身後までも、諦められぬ、と諦めて、しばしば人間男子に、心ならぬ仇名を立てたという。舜も件《くだん》の三妃で足りなかったとみえ、庶子七人あり。春秋の陳、戦国の田斉、十六国の姚秦、南朝の陳等の君主が、その後裔という。商均は愚物で、舜、囲棊を作って教えたが、一向|埒《らち》明かず。拠《よんどこ》ろなく位を夏禹に譲った。禹王の曽孫帝相は寒澆に殺され、その遺腹子少康、まだ帝位に立たず、虞に奔ってその君思の庖正だった時、商均の後たる思が、その娘二人を少康に妻《めあわ》せた。いわゆる東夷生れの舜の一家は、一男に姉妹二女を嫁する習いだったものか。(『古今図書集成』宮?典三〇。『史記』一。『路史』後紀八、九、一〇、一一および余論九。『集成』神異典二七。『格致鏡原』五九。竹添光鴻『左氏会箋』下、哀公元年伝)
 右五帝の事蹟は、大抵いわゆる正史に記すままだが、後世の筆ゆえ潤色が多い。例せば、唐の司馬貞の『史記索隠』に、黄帝四妃を立てしは、后妃四星に象る、とある。后妃四星とは、二十八宿中、東方第三の?《てい》宿のことだ。『星経』上に、「?の四星は天宿宮となす。皇后妃嬪を主《つかさど》る。前の二大星は正妃にして、後の二(小星)は左右(※[?の目が女]妾)なり」(『古今図書集成』乾象典四七より参取す)。『晋書』一一に、「?の四星は、王者の宿宮にして、后妃の府、休解の房なり。前の二星は適(嫡星)にして、後の二星は妾なり」。『礼記』曲礼に、「天子の妃を后という」、註に、「孔子いわく、妃は配なり、后は君なり、明をもって至尊に配し、海内の小君たり、と。長楽の劉氏いわく、后は後なり、徳もて天子に配し、その嗣息を育て、もってこれが後となる、と」。妃中の一番尊きを后と呼んだ時も、天子の子を生んだ妃を后と呼んだ時もあったようだ。漢の焦氏の『易林』一に、「東隣、女《むすめ》を嫁《とつ》がしめ、王の妃后となる」、また「?李女なるものあり、夏の妃后となる」とは、一人の女が妃にも后にもなったようだ。けだし古く帝王や准帝王の妻をみな妃と称えたを、周世より、一妃を限って后、その他を妃と称えた。その当世風から推量して、黄帝や帝?の宮中に四妃並び立ち、??や帝舜同時に二妃ありしを、一人は元妃、一名正妃、他は次妃と言ったとして了ったのだ。(41)しかるに?宿四星の中で、前なる二大星は両《ふた》つ倶《とも》に正妃など記したは、周以前の旧伝を、そのまま保存したので、一人の女が、同一時に妃にも后にもなったような書き振りは、上世、妃と后、すなわち元妃、正妃と無差別だった余習と知る。似たことは、本居宣長の言に、本朝の古え、后とは一柱に限らず、後に妃夫人などと申す班《つら》までを、幾柱にても申せり(今世女童の詞に、十二人の御后というなるは、愚なるに似たれども、反りて古えに近し)、(『古事記』)倭建命の段に、弟橘比売をその后とあり、また次に坐倭后等云々とあるは、橘比売をも、坐倭をも、共に后と申せるなり、と(『古事記伝』二〇)。
 後世、北朝の宇文周の宣帝は、同時に四皇后を立てて、天元大皇后(楊氏)、天大皇后(朱氏)、天右大星后(元氏)、天左大皇后(陳氏)と号《なづ》けたが、自分の祖父の兄の玄孫、西陽公温の妻|尉遅《うつち》氏、「容色あり、朝に入りしに因って、帝ついにこれに飲ましむるに酒をもってし、逼りてこれを淫す」。温の父※[木+巳]国公亮、「これを聞き、誅を懼れてすなわち反す。纔《わず》かに(亮および)温を誅するや、すなわち尉遅氏を追《とら》えて宮に入る。初め妃となし、尋《つ》いで立てて皇后となす」。四皇后が一月後に五皇后に増えたので、天左大皇后を天中大皇后とし、新入の尉遅氏を天左大皇后とし、五皇后を縦横十文字に、前後より、九浅三深の秘術を尽して悦ばせんと、楽しんだ甲斐もなや、たった二月立たぬ間に、惜しや二十二歳の槍盛りに、食い盛りなる諸后を置き去り、冥途へ行幸遊ばされたは、さても無常の迎い車には、足留の祈?も利かぬ物ぞかし。形勢すでに変わって、四后みな尼となったのち醜聞もなく、ことに天元大皇后は、性柔婉にして妬忌せず。他の四皇后と嬪御等、咸《ことごと》く愛してこれを仰いだ。のちその父隋文帝禅代を行ない、その再嫁を議せしも誓うて許さず。この后のみは尼にならなかったが、「思ひ出しますとは後家のすきなやう」。思い出さずに忘れずに、四十九歳まで志を守って?したとは、豈《あに》、宣帝強健の余徳、寡后をして常住坐臥、不断神瓢魂蕩、身をもって自主し能わざらしむるものありしにあらずと謂わんや。(『北史』一〇。『周書』七)
 さて五皇后のうち、四后はみな貴族に出たが、天大皇后朱氏のみは然らず。「その家、事に坐し、東宮に没入せら(42)る。帝の太子となるや、后は選ばれて帝の衣服を掌る。帝、年|少《わか》く、召してこれを幸し、ついに静帝を生む、云々」。そのこと、ほぼ家綱将軍の生母お楽の方に似ておる。「后はもと良家の子にあらず。また年、帝より長ずること十余歳、疏賤にして寵なきも、静帝の故をもって、特にこれを尊崇し、班《くらい》は楊皇后に亜《つ》ぐ。宣帝崩ずるや、静帝、尊んで帝太皇后となす」。隋開皇元年(静帝弑せられ、隋周に代わる)、朱氏尼となり、六年四十歳で?すとあるより算うれば、宣帝十五歳の時、当年二十七歳の賤女が、おのれの衣服を畳む後ろ姿に春興を催し、やにわにこれを孕ませたので、この帝前後併せ好みしは、「好んで、京城の少年をして婦人の服飾をなし殿に入って歌舞せしめ、後宮と与《とも》にこれを観て、もって喜楽となす」とあるので知れる。その四皇后を五皇后に増した時の詔に、「正内《せいだい》の重は風化の基にして、嘉?《かぐう》の制は代《よよ》殊典多し。軒?《けんこく》軌を継ぎ、次妃並びて四あり、虞舜命を受け、その娶るやなお三あり」と、黄帝や帝?や虞舜が多妻なりし由を述べ、「天元は極におり、五帝のもって仰ぎ崇《たつと》ぶところなり、云々。かつ坤儀を徳に比《たぐ》えるに、土数はこれ五なり。すでに恒典に縟《じよく》なれば、よろしくこの儀を取るべし。四太皇后の外に天中大皇后一人を増置すべし」。天皇大帝の一星が北極におり、五帝星がこれに向かうに倣い、地上の皇帝にも五皇后を置くべし、と言ったのだ(『北史』一四。『周書』七、八、九。『異説|区々《まちまち》』一)。のちに唐の司馬貞が、黄帝四妃を立てたは、后妃四星に象ると言ったに似ておる。ところが、明の張鼎思の『琅邪代酔篇』一に、「瑞星に十二あり、その二を周伯といい、その四を王蓬?《おうほうぜい》という。周伯、王蓬?は、みな古老《いにしえ》、世に高《ぬきん》でて仕えざるの人、その精、星となる。しからば、すなわち星はもと名なく、人をもってこれに名づくるなり。王良、造父、伯楽、みな人なり。しかして、その星に名づくるのみ。故に、鶉首、鶉尾の類は、すなわち鳥をもって星に名づけ、天狼、天狗の類は、すなわち獣をもって星に名づく。箕、斗の類は、すなわち器をもって星に名づけ、帝師、帝友、三公、博士、大夫の類は、すなわち官をもって星に名づく。参《まじ》え攷《かんが》うべきなり。ほか、軒轅《けんえん》、傅説《ふえつ》、奚仲、社稷の類は、みなこれ人をもって星に名づく。故に天象という」と説いたごとく、星にもと名なく、星群に確かな形なし。ただ人が想像して、似つこらしい人や物によ(43)って名づけたのだ。したがって、小昊の子であったにしろ、なかったにしろ、人が弓矢を作り出してのち、甫《はじ》めて弧九星あり。地に瓠瓜や敗瓜を見慣れてのち、始めて天に同名の星ができたので、黄帝たると、余の帝たるを問わず、一時に四妃を立てた者あってのち、これに倣うて、四星の一群を后妃と名づけたのだ。宇文周の宣帝が、天の五帝星に倣うて、地に五皇后を置いたは、はるかに後世のことで、故事を取り調べ、理屈をこじ付けたものゆえ、后妃四星、黄帝四妃と因果を?倒しおる。
 清の袁枚の『随園随筆』八に、「偽漢の劉聡、周の天元(宣帝)は、みな皇后数人あり。元代の四の斡耳朶は、倶《とも》に皇后六、七人あり、大抵その時皇后と称する者は必ずしも正宮にあらず。なお、これ皇子をみな太子と称し、宗女をことごとく公主と称するがごときなり。いうところの斡耳朶とは、なお、これ華にて大営盤、第二営盤と言うがごときなり。『北周書』にいうところの大呼薬、小呼薬とは、あるいはすなわちこれこの義なるか」とある。今は故人となったが、何を問うても即答する先輩があった。その人いわく、盤は『和名抄』にサラと訓ませあり。「物を盛るの器、また浴器、沐浴の盤なり」と『康煕字典』にみえるから、皿でも風呂桶の類でもある。紅皿、欠け皿など、女の名にあり、新婦と老婦を新鉢、旧鉢と唱え、皿鉢と食器に比して女を称えるは、律蔵(今按ずるに『根本説一切有部毘奈耶』三七)に、「男は女をもって食となし、女は男をもって食となす」とあるような想より出たのだ。また「道鏡は据ゑ風呂桶の御代に出で」。誉田別(応神)、去来穂別(履仲)、瑞歯別(反正)諸天皇の御諱に擬して、別の代りに桶の字を使うた句だ。それと等しく、かの方でも女を皿や風呂桶に比して、営盤と呼んだのだ。大呼薬、小呼薬は、老女は鈍感ゆえ大いに薬を用い、小女は敏感ゆえ少しく用いて可なるによった名だ、と。どうも和漢ごっちゃまぜの説明、さらに腑に落ちなんだところ、呼薬は今に判らねど、斡耳朶は蒙古諸族民に関する書を見て、ユルタの音訳と判った。木を組んで円塔形に造った外面に、皮を被《かぶ》せた家で、『漢書』に穹廬と書いた物だろう。マルコ・ポロの記行に、忽必烈に正后四人あり、その生むところの長子を太子とす。四后おのおの皇后と呼ばれ、冠するにその名をもってす。后ご(44)とに広大なる宮廷(穹廬群)あり、おのおの三百人より少なからざる美女と、多数の小姓と宦官あり。宮廷ごとに一万人より少なからざる奉公人あり、とある(Yule,‘The Book of Ser Marco Polo,’1871,vol.i,p.318)。この四皇后の各宮廷を斡耳朶、すなわち穹廬群と呼んだとみえる。
 周宣帝や元の諸帝より前に、皇后数多あったは、十六国時代の漢の劉聡(昭武皇帝)で、即位の時、皇后呼延氏ありながら、継母、単太后の姿色絶麗なるに迷い、これを烝したので、太后が生んだ太弟乂がしばしば言をなし、太后|慙《は》じ恚《いか》って死んだ。聡のちその故を知ったが、単氏を追念のあまり乂を廃せなんだが、乂は終《つい》に讒殺された。聡は絶麗の太后にも呼延皇后にも死なれて、いよいよ興奮し、上皇后?氏、左皇后劉氏、右皇后劉氏の三后を一時に立てた。その後ますます発展して、四后の外、皇后の璽綬を帯ぶる者七人、朝廷内外また綱紀なきに至り、身死し太子粲嗣ぎ立つに及び、継母の四后、年みな二十に満たず、並びに国色なるを、粲が晨夜内に烝淫し、些《ちつ》とも父の死を哀しまず、終にその外戚?準に滅ぼされた(『晋書』一〇二)。この劉聡の四后も、明記はないが、むろん后妃四星、黄帝四妃を手本として立てたのだろう。『晋書』に、「聡、年十四にして、経史に究通し、百家の言を兼綜し、孫・呉の兵法はこれを誦《そらん》ぜざるなし」とあれば、十四の春から、後年多数の后を置くべく思案をこらし、また粉陣に対する兵法を深く煉磨しただろう。しかしてその左右皇妃の号が、周宣帝の天左右大皇后の号の手本となったとみえる。
 『路史』等を按ずるに、三代以前に皇とも帝とも見立てて然るべき君主は、三皇五帝に止まらず。それら准皇、准帝の事蹟詳らかならねど、その世が蒙昧なればなるほど、多妻の貴人も多かったはず。二妻や四妻の主権者はいくらもあったので、自然后妃四星等の名が生じた。さて後世、北狄出身の諸君主が、中国古代のことを聞き及び模倣して、劉聡や周宣帝のごとく、ややもすれば数多の皇后を立てたと惟わる。
 
(45)     九 三代の後宮と劉瑜の上書
 
 『後漢書』八七、桓帝の延熹八年、広陵の人劉瑜、京師に到り、上書して時事を痛論した文中に、「古者《いにしえ》、天子は一たびに九女を娶り、?姪《ていてつ》序あり、『河図』嗣を授けて、まさに九房にあり。今、女嬖《じよへい》令色、閨帷に充積す。みなまさにその玩飾を盛んにし、空宮に冗食《じようしよく》し、精神を労散し、六疾を生長せしむべし。これ国の費《ついえ》なり、生の傷《そこない》なり。かつ天地の性、陰陽|紀《みち》を正す。その道を隔絶すれば、すなわち水《おおみず》と旱《ひでり》と并《か》ぬるをなさん。『詩』にいわく、五日を期となせしに、六日にして・《いた》らず、と。怨曠して作れる歌は、仲尼の録せしところなり。いわんや、幼より長に至るまで幽蔵して身を歿するをや。また常侍《じようじ》、黄門も、また広く妻娶し、怨毒の気、結ぼれて妖  昔《わざわい》を成す。行路の言《うわさ》に、官は人の女《むすめ》を発略《とりた》て、取ってまた置くと、転相《あいとも》に驚懼す。なんぞことごとく然らずして、縁《わけ》なくして空しくこの謗《そしり》を生ぜんや。鄒衍《すうえん》のごとき匹夫、※[木+巳]氏《きし》のごとき匹婦にして、なお城崩れ霜|隕《お》つるの異あり。いわんや、すなわち群輩の恣《なげ》き怨めば、よく感ずることなからんや」とある。けだし桓帝、好婬無双で、前後三皇后の外、博く宮女五、六千人を採ったが、一人も子がなかったより考うると、はやく腎虚したのだ(『後漢書』七註)。「常侍、黄門も、また広く妻娶し」とは、帝に倣うて宦者も広く女を娶ったのだ。唐の李商隠の『雑纂』に、相似たことどもを類列したるに、「虚《むな》しく度《わた》る」は「花さく時に多病なること、閹宮の美婦を娶ること」とある。生まれながらの盲人と、恋し恋しに目を泣き潰した女と差《ちが》うように、生来、一物の痕もない者、その具はありながらまるで無力の者、いと稚い時宮せられた者と異《かわ》り、多少物を見分け得たのち宮せられた者は色情絶無でなく、多少の慾念を保存する上は、垂れ籠めて虚しく花を想うと差い、他人の情事自在なるに比べて、自分の不具を憾み、成らぬことを強行してまでも、日ごろの鬱憤を晴らさんとするのが、往々宦者の意地だったらしい。『嬉遊笑覧』九にいわく、「『天香楼偶得』に、「『漢書』趙皇后(46)伝に、宮婢の道房は、中宮史の曹宮と対食し、はなはだ?忌《とき》せり、と。この風相|沿《おそ》いて、後世に至るもかつて改革《あらた》まらず。『酌中志』にほぼ載《の》するところ、明の熹宗の時、乳媼の客氏、初め宦者の魏朝と私するあり、のちまた朝を悪んで魏忠賢を喜べるごときはこれなり」とみえたり。しかれども、対食とは、宮婢相共に語らい睦ぶをいうなるべし、男女の上にいう名にはあらじ」と。『日下旧聞』三八補遺に『西河詩話』を引いて、「明制にては、直房の内官と司房の宮人とに倶《とも》に坑儷あり(本邦に宦者はかつてなかったが、鱗長作『猿源氏色芝居』五の一などに、はなはだよく似た例がみえる)。これを対食と謂い、またこれを菜戸と謂う(本邦で若契を精神《しようじん》料理というに近い)。もし強いて坑儷をなすものあれば、白浪子と称す(宦者が人妻を誘惑の末、暴行しかけた例、Godard,‘Egypte et Palestine,’Paris,1867,p.121 に見ゆ。インドには一層偉い奴あり。『四分律蔵』五五に、「黄門、強いて比丘を捉え、共に行婬するも、比丘は不犯《ふぼん》なり」とある)」と書けるをみて、対食は宦者と宮女の密事と呑み込み、『日本及日本人』へ載せたところ、某氏に誌上で注意され、『漢書』九七を調べると、中宮史曹宮は、宮婢曹暁の女で、かつて皇后の詩の教師たり、のち成帝の子を生んで、母子とも横死した由、明記しあった。故に道房と曹宮の対食は女同士で、『笑覧』著者の考えが中《あた》りおる。それが後世、宦者と宮女の密会の称に移ったこと、ちょうどオナニズムなる語が、もと内典にいわゆる内楷外泄を指したが、のち謬られて、自?の義と変わったごとし。(『根本説一切有部毘奈耶』二。Reige――Delorme et De Chambre,‘Dictionnaire encyclopédique des sciences médicales,’2me sér.,tom,15,pp.361,362,Paris,1886;Stoll,‘Das Geschlechtsleben in der Völkerpsychologie,’Leipzig,1908,S.909 u.S.930;Ellis,‘Studies in the Psychology of Sex,’3rd ed.,vol.i,o,162,Phila.,1927)
 拙見では、『後漢書』九一、順帝の陽嘉三年、大いに旱《ひでり》す、尚書周挙、対策して、「それ陰陽閉隔すれば、すなわち二気|否塞《ひそく》す。二気否塞すれば、すなわち人物|昌《さか》えず。人物昌えざれば、すなわち風雨時ならず。風雨時ならざれば、すなわち水と旱と災を成す。陛下は唐虞の位に処《お》って、いまだ堯舜の政を行なわず、近ごろ文帝・光武の法を廃して、(47)亡秦の奢侈の欲に循《したが》い、内に怨女を積《たくわ》え、外に曠夫《やもめ》あり。今、皇嗣興らずして東宮いまだ立たざるは、和を傷《やぶ》り理に逆らい、人倫を断絶せしことの致すところなり。ただ陛下これを行なうのみならず、豎宦《じゆかん》の人、亦復《また》虚しく形勢《いきおい》をもって良家を威侮《あなど》り、女を取ってこれを閉じこめ、白首となって歿《お》うるも配偶なきものあるに至り、天心に逆らう」と陳べたのが、宦者が女を娶った例の、いと早う文献に残ったものだろう。その前に、秦始皇の母后が宦長信侯を絶愛した例あれど、そは厚く主腐吏に賜うて、その外貌を宦者に作ったので、二子まで儲けたとあるから、真の宦者でない。(『史記』八五。『説苑』九)
 ローマ帝国の婬婦連が、子を生むを欲せず、しばしば宦者を弄んだは、当時の嘲詩これを証する。ツァナのアポルロニオスが記したという、バビロン王の一妾が、宦者と通じた話が事実譚なら、これが世界中で最も古い記録であろう。降って東ローマ国のレオ帝が、宦者が女を娶るを禁じ、宦者に嫁ぐ女を罰したことあり。十七世紀にペルシアの賢相たりしサルタキは、若い時一美童を誘拐した罪で宮刑に処せられた。その時、その傭主、この若者もし存命し得ば、帝に大功あらんと言い、帝これを聞いて、刑を止めしめたが、使が走りゆく間に、金二両は嚢と共に落ちにけりときた。その手後れ、あたかも、秀次に寵愛された最上義光の娘、お今の前が三条河原で刑死の時、女は相み互いと、淀君が彼処《かしこ》に力瘤を入れて、特等に載せもてなしたので、秀吉もすこぶる柔らぎ、助命の上、鎌倉で尼になせとて、伏見より揉みに揉んで、早馬を打たせたに、その馬出発前に豆を食い過ごし、太鼓を打ちながら走ったので、大分後れ、今一町という時、お今さんは殺されたごとし。サルタキ、金二両と嚢を失うたは遺憾なれど、張儀を気取って、わが棹を見よ、ありやと問うと、傍人、確かにあります、しかも義太夫向きのが、と答えた。足れりと一言、それから行いを改め、十年間に理財に精通し、ついに首相となった。「惣じて人の物ずき、折にふれ事に依りて替わる習いながら、若道ばかりは、壮年の血気盛りの物ぞかし。老いては心ばかりにして、衆道の床、首尾調いがたし」と、八文字屋は述べた。さればサルタキ、すでに人間第一の水溜めを取り去られ、太棹のみ残っても何かせん、多くの美姫、(48)?童を蓄えて、ただ眼の正月となすのみ。「屋根ふきの出したで騒ぐ長局」、男に渇した妾輩の内には、「知らざりき塵も払はぬ床の上に、独り齢のつもるべしとは」と嘆《かこ》つも多きに打って替わり、多くの小姓は、痛まぬ尻に恩給がつくと悦んだ。一日、サルタキ、力弥と吉三と梅若丸を掲きまぜたような小姓が二人、その前に立って命をまつを、目で食い尽すほど視尽したのち、人に向かって自分の運命の数奇を歎き、わが歯至って強かったむかしは、これをかじれとて一片の骨さえ呉れず、歯を抜き去られた今は、旨くてもかじられない物のみ呉るる、と言った((C.Ancillon),‘Eunuchism displayed,’London,1718,p.206,et al.;Chardin,‘Voyage en Perse,’ed.par Langtès,Paris,1811,tom.vii,p.302 seqq.『聚楽物語』下。『石田軍記』一。『風流曲三味線』三の五)。けだし、『和漢三才図会』一〇に、「男色のはなはだしきものは女色に勝り、しかも久しきに耐えざるなり。筍《たけのこ》の甘美なるも、わずかに一旬を過ぐれば、すなわち膚|硬《かた》く節高くして?《くら》うべからざるがごときなり」と言ったに近い。
 (元禄中、森尚謙が、日本、唐土に勝る八事を陳べて、その第六に宦者なしと挙げたほど(『儼塾集』首巻))、日本には古来宦者がなかったから、その話もなく、かつて見ぬ者ゆえ、話を聴いても判らない人多し。しかし、外来の宦者が内地に住んだ例はある。京都の金戒光明寺内、西雲院は、帰化した支那・朝鮮人の葬処で、その開基心誉宗厳は、豊公征韓の役虜せられ来た。天性無根ゆえ、到る処、?人たり。蜂須賀蓬庵に仕え、また豊公の未亡人、高台寺政所に事《つか》え、のち浄土宗の僧となった。時に一位阿茶局、資料を施し、当院を立てたという。この局は甲州武田の家臣飯田某の女で、今川の家臣神尾忠重に嫁し十九歳で男子を生み、二十三歳で寡婦となり、二十五の時、悴と共に家康に目見えし奉公した。「この局ことに出頭せし人にて、大方御陣中にも召具せらるるほどのことなり。大坂冬役にも、常高院殿(淀君の妹で、京極高次の後室)に具して城中に入り、御扱いのこと思し召すままに仕課《しおお》せけるにて、この局の才覚のほど知られたり。元和七年、東福門院内に参らせ給う時、母代に参りて」上京し、従一位に叙せられた。さて寛永十四年、八十三歳で終わった。冬役講和のため、城内へ往復に乗った肩輿遠山家に保存されたは、矢玉防ぎ(49)に鉄造りだったそうだ。御母代一件の時も、二位になられたを、「平家の二位尼、鎌倉の二位尼、並びに威ありといえども、久しからず、不吉の例なるを、目出度き節の不快と御請け仕られず」との懸引で、一位に叙せられたという。されば非常に度胸の据わった女で、一儀の際も、なかなか大した懸引で、真に、婦人裡面第一个の打発し難き的。陣中で家康と相対するごとに、「情性はなはだ濃く、乱聳迎湊《らんしゆうげいそう》し、嬌啼宛転して」、緊寛一ならず、他をして心酔神怡、粉陣まことに孫・呉ありと三歎措かざらしめたに相違なく、その従一位に叙せられたも、東郷さんとは別口の軍功が、下地をなしたと察せらる。かかる未曽有の女傑ゆえ、老後もかの方崛強で、宗厳の天閹なるを幸い、帰依に托して、毎度秘かに調戯したかも知れず。委細は述べぬが、天閹すなわち生得の宦者でも、修養また機巧を加えて、男子に代庖せしむることはできる。(『続々群書類従』八冊所収、『雍州府志』八七頁。『改定史籍集覧』一一冊所収、『以貴小伝』一〇頁。『広文庫』一冊六四八頁。『温智叢書』八編所収、『望海毎談』五一頁。今村鞆氏「宦官の話」七−九頁)
  『日本百科大辞典』二巻八二頁にいわく、阿茶局、徳川家康の侍女、名は須和、武田信玄の家人飯田久右衛門の女なり。今川氏の臣神尾孫兵衛に嫁す。家康、今川氏に質たりし時、神尾夫婦よくこれに事う。(『望海毎談』に、天文の晩年、『野史』八一に、「天文十八年、東照宮、駿府に徙《うつ》る。今川義元、さらに館舎を造修するも、いまだ成らず。(神尾)久宗の宅をもって仮の館となす。久宗夫妻は部廊に退居し、給事すること君に仕うるがごとし。館の成るに迄《およ》び、公|徙《うつ》り居《す》むも、夫妻はなお衣食を給事し、公もまた時に久宗を訪問す」。)今川義元の敗死するや、孫兵衛(『野史』に久宗)また陣没す。局すなわち甲斐に帰る。武田氏また滅び、家康、甲州に至りて局に遇い、これを浜松に召す、云々。寛永十四年卒す、八十三、と。その積りで算うると、この局は弘治元年生れだ。家康が今川氏に質に取られ、駿府に住んだは、年|甫《はじ》めて八歳の天文十八年より、十九歳の永禄三年に至るあいだで、阿茶局が生まれた六年前から、その五歳の年までだ。生まれぬうちはもちろん、わずか五歳で家をもつはずも、家康に給事するはずもない。また、もし家康が駿府に入った天文十八年、局すでに神尾家に嫁しあったなら、少な(50)くとも十五歳だったろう。それで勘定すると、八十一歳で鉄製の肩輿で講和談判に奔走し、百四歳で死んだことになる。『百科大辞典』とも題したものが、よい加減なことを書いたものだ。おそらくは、これは阿茶局とその夫に、家康が駿府滞在中懇待されたのでなく、局がまだ生まれぬうちから、その五歳のころまで、後年局を娶った神尾某の父母が、家康を好遇したのを、その子夫婦が好遇したよう誤り伝えたのであろう。局は甲州人で、家康、駿府を去り帰国した時、やつと五歳で甲州父母の許におり、駿府へ来るべきでない。
 『?余叢考』四二には、支那の宦者が女人を娶った例を、どっくどっくと溢るるばかり出しある。清朝でも、孝欽太后は安得海を、慈禧太后は李蓮英を寵幸し、隆裕太后は、八姑?々と争うて、小徳張を愛した。ローマ帝国で貴婦の玩賞のため、宦者を仕立つるに、必ず姿色優逸、態度風流の少年を択び、その身に春心すでに萌せる徴を現ずるを俟って、これを宮した。これは、宮せられぬうちに発生した情念を保留して、なるべく多くの敵手を満足せしむべく望んだのだ。(筋道は別ながら、鐘西翁の『玄々経』に、若衆は少顔にニキビなど現われ、色事の味もよっほど覚えたという時分が愛の盛んなるところなり、とあると同じ心得だ (『未刊随筆百種』一所収、『岡場遊廓考』九八頁)。)これに反して、遼の聖宗の母睿知太后は、「趙恒も和らいだはず後家ざかり」。「治道に明達し、善を聞けば必ず従う。故に群臣みなその忠を竭《つく》せり。軍政を習知し、?淵《せんえん》の役には、親《みずか》ら戎車《じゆうしや》を御して三軍を指麾《しき》す。賞罰信明なれば、将士命を用う。聖宗、遼の盛主と称されしは、后の教訓多しとなす」。この太后南して宋を征した時、公私獲るところの十歳以下の男児、容貌見るべき者、百人近くを、載せて涼  樫に赴き、並びに  関して豎《じゆ》となさしめた。この輩、後年までも美貌を保留しながら、永く婬事に遠ざかるよう、賢后の思惑は格別だったとみえる(『満清宮?秘史』三。Rouyer,‘Etudes médicales sur l'ancienne Rome,’Paris,1859,pp.89,90.『遼史』七一と一〇九)。『北史』に、「魏の孝文帝の幽皇后馮氏は、帝の南征せるに因《よ》って、ついに中宮の高菩薩と私乱す。北斉の武成帝の胡后は、諸閹人と褻狎す」とあるを、『?余叢考』に特別の例たるよう引きあれど、熊楠、『後漢書』九九をみるに、張津の言に、「黄門常(51)侍(壮健で武略あり、禁軍を掌った宦者蹇碩は、権重きこと日に久しく、また(霊帝の生母)長楽太后ともっぱら姦利を通ず」とある。これがまず現存支那文献中、天下の母儀を宦者が犯した最古の例だろう。
 『江戸紫』という書に、婦女の最も好む五物を詠んだ狂歌あり。中に蕩婦は座頭を好むと意味した句がある。すべて盲人は眼が利かぬから、いかな愁い顔をみせても、何とも思わず。瞽者の一群に借金の催促されて、切腹した武士さえあった由(『未刊随筆百種』一六所収、『真佐喜之葛七』参照)。それと均しく、どんな艶容嬌態を示しても、彼らを感動せしめ得ず。したがって異常に長く馬が責めらる。これをもって劇曲『壺坂』の貞婦が、嫉炉深い盲夫に誠を尽したは、もとこの女が格別長馬場ずきだったに由るかも知れず。西晋の張華の『博物志』五に、「左慈は房中の術を修め、もって命を終うべしと。しかれども至情あるにあちぎれば、よく行なうなきなり。寺人厳峻は、左慈に就いて補導の術を学ぶ。閹豎《あんじゆ》は真にこれを事とすることなきに、しかも声《きこえ》を逐うことかくのごとし」とは皮想の評だ。補導の術は、みずから固く守って、他を快暢せしめ、もってみずから養うて寿を全うするを要とす。厳峻は宦者で、身に泄《も》らすべき一滴を有せず。いかほど続けてもみずから一毫を損せず、多く他を怡悦せしめて、みずから養うに気付いたは、豈《あに》、延齢の真訣を得たりと言わざるべけんや。返済のつもり皆無な石井定七君の借り上手と同じく、渡すべき何物をも持たなんだこの宦者は、師の左慈以上の手取りだったと察する。
 さて故石橋臥波が出した『人性』何号かに、某医学博士が、朝鮮の宦者のことを書いた中に、宦者は身に愛水なければ、徹宵の采戦を做し続けても究竟に達せず、いかな女も参って了《しま》う。それと同時に底なしの蕩婦はもっともこれを好愛す、とあった。これに反し、底ありの婦女が、宦者の妻妾たるを嫌うの状情は、一昨年十一月、京城帝大考古学会で、今村鞆君が演《の》べた「宦官の話」一二頁に具さにされた。それに出でおらぬ一、二例を挙ぐると、『明史』三〇四に、「宦者の韋力転なる者は、性淫毒にして、大同に鎮守たり。過悪多し。軍《へいし》の妻の与《とも》に宿らざるを銜《うら》んで、その軍《へいし》を杖死せしむ」。軍士の妻が自分と同宿を拒んだを怒って、その夫を杖殺した。また、「養子の妻と淫戯し、養子(52)を射殺す」。また、「強いて所部《ぶか》の女を娶って妾となす」。武宗が親?した宦者呉経は、帝の南征に先立って揚州に至り、「かつて夜半に炬《たいまつ》を燃《とも》して衢《まち》を通り、あまねく寡婦と処女の家に入り、掠《かす》めてもって出ず。号哭、遠近を震わす。金をもって贖うを許したれば、貧者は多くみずから経《くび》る」。女どもはかくまで宦者を嫌った。されば高斉の孝昭帝崩じ、梓宮部に之《ゆ》き、始めて汾橋を渡った時、帝の弟武成帝が、孝昭皇后元氏に奇薬ありと聞き、追って索《もと》めたが得ず、閹人をして車に就いて頓辱せしめたとあるは、嫂に無双の汚辱を加えたので、平凡な婦女すら嫌う宦者に、車中で凌犯させたのだ。そんなにまでして索めたは、沼津のお米が枕捜しを試みた以上の妙薬、それを秘蔵した孝昭皇后もけしからぬ。この后、後年、斉室滅びしを平気で、周氏宮中に鞍替えしたとあれば、身をヤトナ同前と心得た女とみえる(『北斉書』九)。
 『北史』九二に、「それ宦者の徒は、もっともこれ斉を亡ぼすの一物にして、醜声穢跡は千端万緒なり」。高斉は宦者のために亡びた。宦者が勢に乗じて貴女を娶った例は、元魏の張宗之は、父謀反に与《くみ》した咎で腐刑にされたが、のち立身して爵を彭城公に進め、冀州刺史で卒した。「この者、南来の殷孝祖の妻蕭氏を納《い》る。宋の儀同三司思話の弟思度の女なり。多く婦人の儀飾を悉《つく》す」。また張祐は、父が事に坐して誅せられた時宮されたが、ついに尚書左僕射、爵新平王と昇進し、薨じた時、孝文帝|親《みずか》ら臨んで司空を贈る。「養子の顕明、姿貌あり、江陽の王継、女《むすめ》をもってこれに妻《めあわ》す」。習慣上、宦者は宦者を養子としたので、王女がそれに降嫁したとは、小野小町でもあったものか。元魏の劉騰は一層偉く、「幼時、事に坐して(腐)刑を受け、小黄門に補せらる。(中略)また、すこぶる嬪御を役《えき》し、時に徴求するあり、婦女の器物を公然と受納す。隣居を逼って奪い、屋宇を広開す。天下みなこれに苦しむ」と。
 支那で宦者が国政を乱したは、古く豎?《じゆちよう》が斉桓の偉業を敗り、趙高が二世を弑し、前漢の石顕弘恭が蕭望之を殺した等の例あれど、後漢に及んで大きく烈しくなった。「光武、中興の初め、宦官にはことごとく閹人を用い、また他士を雑《まじ》え調せず。永平中、始めて員中常侍四人、小黄門十人を置く。和帝|即?《そくそ》せしも幼弱にして、竇憲兄弟、もっぱ(53)ら権威を総《あつ》め、内外の臣僚・親接するに由《よし》なし。与《とも》におるところのものは、ただ閹臣のみ。故に、鄭衆は禁中に謀を専《もつぱ》らにするを得て、終《つい》に大?《だいたい》を除く。ついに分土の封を享けて、宮卿の位に超《こ》え登る。ここにおいて中宮始めて盛んとなる。委用すること漸《ようや》く大きくして、その員《かず》もやや増し、中常侍は十人あるに至り、小黄門は二十人となる。改めて金?右貂《きんとうゆうちよう》をもって、兼ねて卿署の職を領せしむ。ケ后は女主をもって政に臨み、刑人を委用してこれを国命に寄せざるを得ず。手に王爵を握り、口に天憲を含みて、また掖庭永巷《えきていえいこう》の職、閨?房闥《けいゆうぼうたつ》の任にあらざるなり。その後、孫程は順を立つるの功を定め、曹騰は桓を建つるの策に参《あず》かる。続《つ》いで五侯の謀を合わするをもって、梁冀、鉞《えつ》を受く。迹《おこない》は公正に因《よ》り、恩は主《きみ》の心を固くす。故に、中外服従し、上下|気《いき》を屏《ころ》す。挙動は山海を回《めぐ》らし、呼吸は霜露に変ず。旨に阿《おもね》って曲《つぶ》さに求むれば、すなわち三族を光寵し、直情にして旨に忤《さか》らえば、すなわち五宗を惨夷《さんい》す。漢の綱紀、大いに乱る」(『古今図書集成』宮?典一二五)。
 後漢の外戚権臣のある者と宦者達と相軋轢したは、ローマの暴帝リキニウスが、宦者を国家の蠹賊と罵り嫌うたごとく(Eusebius,‘Historia Ecclesiastica,’lib.x,cap.8)、双方に相応の言い分も立つべきが、この朝より宦者が、宦者を養嗣として世襲となり、ややもすれば、いやがる女を娶って、はなはだ気を悪くさせた。「初め、梁冀の両《ふたり》の妹、順・桓二帝の皇后となり、冀は父の商に代わって大将軍となる。再世の権威によって、威、天下に振るう。冀は、大尉の李固、杜喬らを誅してより、驕横ますますはなはだし。皇后は、勢に乗じて忌恣《きし》し、鴆毒《ちんどく》するところ多く、上下口を鉗《と》じて、言う者あるなし」。帝よって厠に如《ゆ》き、鼻を抓みながら、鉗者唐衡より、梁冀と不快な宦者どもの名を聞き知り、単超、徐?、貝?、左?、唐衡の五宦者と、謀を定めて冀を誅し、梁氏を少長となくみな棄市した。その功で五宦者みな封ぜられ、世に五侯と謂った。
 これより権宦官に帰し、朝廷日に乱る。単超は翌年死亡、その後四侯|転《うた》た横しまで、「みな競って第宅《ていたく》楼観を起《た》て、壮麗にして伎巧を窮極《きわ》む。多く良人《りようじん》美女を取り、もって姫妾となす。みな珍飾華侈にして、宮人に擬《なぞら》え則《のつと》る。その(54)僕従はみな牛車に乗り、列騎を従う。また、その疏属《しんるい》を養い、あるいは乞《もと》めて異姓を嗣ぎ、あるいは蒼頭を買って子となし、並びにもって国を伝え封を襲《つ》がしむ、云々。?の兄の子|宣《せん》、下?《かひ》の令となり、暴虐もっともはなはだし。これより先、故《もと》の汝南太守なりし下?の李ロの女《むすめ》を求めて、得る能わず。県に到るに及び、ついに吏卒を将《ひき》いてロの家に至り、その女を載せて帰り、戯れに射てこれを殺し、寺内に埋め著《お》く。時に下?県は東海に属し、汝南の黄浮《こうふ》、東海の相たり。宣のことを告げ言う者あり、浮、すなわち宣の家属を収《とら》え、少長となく、ことごとくこれを考《とりしら》ぶ。掾史以下、固く諫《いさ》め争う。浮いわく、徐宣は国賊なり、今日これを殺さば、明日坐死するとも、もって瞑目するに足る、と。すなわち宣の罪を案じて棄市し、その尸を暴《さら》して、もって百姓に示す。郡中震え慄《おのの》く。?、ここにおいて怨を帝に訴う。帝、大いに怒り、浮を?鉗《こんけん》に坐せしめ、輸《うつ》して右校となす。五侯の宗族と賓客の虐は天下に偏《あま》ねく、民は命に堪えずして、起って寇賊となる」。
 また霊帝の時、宦者曹節、王甫等、帝の叔父渤海王?の謀反を誣奏してこれを誅し、功をもって封ぜらるる者十二人、父兄子弟みな公卿列校となり、牧守令長、天下に布満す。節の弟破石、越騎校尉たり。越騎営卒の妻、美色あり。破石、従ってこれを求むるに、夫は至極のヘゲタレでさっそく承諾したが、その妻執意して肯《あ》えて行かず、ついに自殺した。その淫暴無道、多くこの類なり。同じころ大勢力あった宦者侯覧も、毎度、「人の居室を破り、墳墓を発掘し、良人の妻を虜奪し、婦子を略《かすめと》る」とある(『後漢書』一〇八)。回教国にも宦者が姫妾を蓄えた例はある(e.g.Niebuhr,“Travels in Arabi,”in Pinkerton's ‘Voyages and Travels,’vol,x,pp.150,151,London,1811)。
 上に引いた劉瑜の上書は、桓帝の延熹二年、宦者どもが梁冀を誅して宸襟を安んじ、功によって五侯に封ぜられてより六年後で、上書の大意は、帝、漁色|涯《かぎ》りなく、またはなはだ宦者を親愛し、しばしばその舎に私幸するので、彼輩も図にのり、多くの婦女を淫略するから、民間両性の分配に、すこぶる不平均を来たし、民愁鬱結して賊党に入る。それに「三公、位にあって、みな道芸に博達するも、おのおの諸《これ》を己《おのれ》に正しくするのみにて匡《ただ》し益することあるなし。(55)不智なるにあらず、死罰を畏るればなり」とて、身命を賭して進み諫めたので、文中、『詩経』より、「五日を期となせしに、六日にして・《いた》らず」と引いたは、註に、「婦人、時を過ぎて怨曠し、五日に至って帰らんことを期せしに、今六日にして至らず、ここをもって憂うるなり」とあって、周漢の際、婦人は五日も肚下を休職せしめ、「よそにつまもちゃ剣術使ひ、互ひにしないで苦労する」と嘆《かこ》ちおると、たちまち煩熱して狂い出すを禁じ得なんだのだ。さて「怨噴して作れる歌は、仲尼の録せしところ」で、四角四面で石あたまだったらしい孔子も、わが身抓って人の仕たさを知り、満腔同情してその恋詩を保存し伝えたちうのだ。いったいこの劉瑜は、「少《わか》くして経学を好み、もっとも図讖、天文、歴算《れきさん》の術を善《よ》くす。州郡、礼して請うも就《つ》かず」とあって、よほどの偏人ゆえ、一向女人にもてず。宦者どもが、多くの艶婦を自由にするをみて羨ましくてならず。「常磐めをこれでと長田握りつめ」というが、宦者には握るべき物は皆無だから、何とも詮術なきより、「怨曠して、云々」を言い立てて、滅法と女の味方をしたふりで、宦者を詈つたとみえる。桓帝もそんなことと察して、よい加減にあしらい置くうち、帝崩ずるに及び、大将軍|竇武《とうぶ》、大いに宦者を誅鋤せんと欲し、瑜を引いて侍中とし、同謀画策したが、武敗るるに及び、瑜も殺された(『後漢書』八七)。
 却説《さて》この劉瑜の上書に珍しい言がある。そは「古者《いにしえ》、天子は一たびに九女を娶る」というので、註に、「『公羊伝』にいわく、諸侯は一たびに三女を聘し、天子は一たびに九女を娶るは、夏殿の制なり、と」と出ず。南宋の洪邁の『容斎随筆』三にいわく、「宋は微子より戴公に至り、礼楽廃壊す。正考|甫《はじ》めて商頌十二篇を周の太師より得、のちまたその七を亡《うしな》う。孔子の時に至り、存するところ才《わす》かに五篇のみ。宋の商王の後は、先代の詩におけるやかくのごとし。すなわちその他は知るべし。夫子のいわゆる、商礼はわれ能《よ》くこれを言う、宋は証するに足らざるなりとは、けだしこれに歎ずるありしなり。※[木+巳]は夏后の裔《すえ》なるをもって、夷礼を用うるに至る、なお何ぞ文献をこととするあらんや。?《たん》国は※[木+巳]宋より小なれども、少昊氏は夏・商よりも遠《ふる》くして、鳳鳥を官に名づく。?子は枚《いちいち》数えて忘れず、いわく、(56)わが祖なり、われこれを知る、と。それまた賢なり」。これは昭公十七年秋、?子《たんし》、魯国へ来たり、昭公これと宴す。魯の執権叔孫昭子、少昊氏が鳥をもって官に名づけたは何故ぞ、と問うた。?子、少昊はわが祖なり、われこれを知るとて、その子細を説いた。時に、孔子年二十七、これを聞いて感心し、?子に見《まみ》えてこれを学んだ。すでにして人に告げて、われこれを聞く、天子官を失えば、官学四夷にありと、なお信なりといった、とある。?は僻地ながら、よく古伝を保存しある、その言信ずべしという意だ(『左氏会箋』下、昭公十七年伝)。この孔子が?子に学んだ年は、少昊崩後二千七十三年、夏滅びてより千二百四十二年、商亡びてより五百九十八年後だ。しかるに、当時、夏の文献は全く残らず。孔子の先祖が出た商の文献また至って少しく残りおった。ところが小国?の君が、二千余年前の少昊氏の制度を伝存して、よくこれを孔子に授けたは、その家代々注意してこれを散佚せしめなんだのだ。人間の心懸け次第で、遠い昔の事物も案外保存が行き届き、割合に手近い事蹟も、一たび滅びてまた収拾すべからざるものありと判る。
 ところが、夏商の制度が、孔子の時、実は全くその伝を失わなんだは、『公羊伝』に、諸侯は一度に三女を、天子は一度に九女を娶る、これ夏殿(商)の制なり、とあるので知れる。『公羊伝』は孔子の高弟で、賢を賢として色に易えた卜商、字は子夏が、斉人公羊高に伝えた書という(『前漢書』三〇。『文献通考』一八上)。孔子よりやや後のもので、それにかく夏商の婚制が載せられおるのだ。『史記評林』四に、明の黄省曽いわく、「天子の一たびに九女を娶るは、国を重んじ継嗣を広むる所以なり。九女とは、地に九州あり、天の施を承けて、生ぜざる所なきに法《のつと》るなり。一たびに娶るとは、娶って再びするなきなり。その徳を棄て色を嗜むを恐れ、淫佚を防ぐなり。天子すらかつ然り、いわんやその下《しも》なるものをや」とあれば、夏商の制、諸侯は一度に三女、天子は一度に九女を娶り、それきり二度と娶らなんだのだ。むやみに多数の女に接するよりは、定数の健康な女を娶る方が、満足な子を生む捷径という道理を知った上の制度と察せらる。
 しかるに、鄭玄の『周礼』註には、「むかし帝?に四妃あり、もって后妃の四星に象《かたど》る。その一の明なる者を正妃(57)となし、余の三の小なる者を次妃となす。帝堯も、これによる。舜に至って、告げずして娶り、正妃を立てずして、ただ三妃あるのみ、これを夫人と謂う。(『離騒』に歌うところの湘夫人は舜の妃なり。)夏后氏は、増すに三々の九をもってし、合して十二人となる。『春秋説』に天子十二女を娶るというは、すなわち夏の制なり。夏虞よりして周制に及べば、これと差《たが》う。すなわち殷人はまた増すに三九の二十七をもってし、合して三十九人となる。周人は、上《さかのぼ》って帝?を法とし、正妃を立つること、また三九の二十七にて八十一人となし、もってこれを増して、合して百二十一人となる。その位は、后なり、夫人なり、嬪なり、世婦なり、女御なり。五者を相|参《まじ》えて、もって尊卑を定む」とあって(『淵鑑類函』五七)、帝?、帝堯が各四妃、帝舜は三妃、夏は十二人、殷は三十九人、周に至って百二十一人の妻妾を、天子が娶ったというのだ。
 南宋の魏了翁の『古今考』にいわく、「『公羊伝』にいわく、周制には、諸侯は一たびに九女を娶り、天子一たびに十二女を娶る、と。漢儒いわく、商制には、天子は一たびに娶るはまた九女に過ぎず、と。『礼記』昏義にいわく、古者《いにしえ》、天子は后として六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立つ、と。しかれども、『周礼』天官には、九嬪、世婦、御妻あって、三夫人なく、九嬪は九と言うも、世婦と御妻は数を言わず。鄭康成(玄)、曲《つぶ》さにこれが説をなしていわく、夫人を列《つら》ねざるは、なお三公の王坐において道を論ずるがごとし、婦礼には官職なし、世婦を謂いて数を言わざるは、君子色を苟《かりそめ》にせず、婦徳ある者を充《あ》て、なければすなわち闕《か》くなり、と。その説、おそらくは拠るところなく、みな攷うべからず。内宰は六宮を教え九嬪を教うるを掌るに、大夫・士十四人、府史・胥徒百人はみな男子なり。知らず、婦人を教うるに、いかにしてその法を施せしや。王后のほか、夫人嬪御、計一百二十人あり、しかして左右に役《えき》を執る者は、女祝わずかに四人、女史わずかに八人、奚《けい》わずかに二十四人、多少また相当たらず」と、鄭玄の妄と『周礼』の杜撰を用捨なく暴露し、進んで、「康成またいわく、群妃御見の法は、女御八十一人を九夕に当て、世婦二十七人を三夕に当て、九嬪九人を一夕に当て、三夫人を一夕に当て、后を一夕に当て、十五日にして遍《あまね》く、(58)望《もちづき》よりしてのちこれを反《くりかえ》す、と。苟《かり》にかくのごとくなれば、すなわち王后は一月の間に両《ふたた》び王に御するに過ぎず、王后の当夕《そのよ》独り進むを除くのほかは、その余はすなわち三夫人にして一夕、九嬪九御世婦の百十七人を十三夕に当つれば、九人ごとに一夕なり。金石の?といえども支うるに足らざるなり。いわんや古老《いにしえ》の天子は、天地、祖宗、社稷、山川を祭り、朝日も夕月も、礼をなすこと一ならず、動《やや》もすれば三日斎し七日戒することあり。しかも、もって夕として女を御せざるなかるべけんや。康成の経を釈くに、穿鑿すること、往々《しばしば》信じがたし」(『古今図書集成』宮?典三)と論じたは、もっとも至極に聞こえるが、一月に二夕と定まった王后も、その夕ごとにただ一戦と定めた訳でなく、百十七女が十三夕の割当で推し懸けてきても、よく流行る印判師のごとく、一々掘ってやらねばならぬとは書いてないから、気に入った者を幾度も弄び、機嫌の向かぬ奴は、打ちやり置けばよいはずだ。
 「唐の明皇の時、長安の大内、大明、興慶の三宮と、東都の大内、上陽の両宮に、宮女ほとんど四万人あり。寝に侍る者は取舎《しゅしゃ》するに難ければ、彩局《すごろく》をなして、もって勝負を定むるに至る。古今の掖庭《えきてい》の盛んなること、いまだこれに過ぐるものあらず。しかもなお、才を寿邸に借《か》る。佳人の得がたきこと、  諺《なん》ぞ信《まこと》ならざらんや」(『五雑俎』八)。債券の抽籤同様、一六勝負に勝ち課《おお》せた女、玄宗一夜の寝に侍する。その煩わしさにくたびれ、やがて四万人分の寵愛が、楊貴妃の一身に聚まって了《しま》ったのだ。それより推して、『周礼』の群妃御見の法などは、実際行なわれたことでないと察す。惟うにこれは、回教で一夫四妻と定めたものの、毎人必ず四妻を娶るを要せざるごとく、周代の天子は、百二十一人をその妻妾の数の最大限度とすという大法だったであろう。そもそも『周礼』の書たる、先儒信ずる者半ばし、疑う者も半ばす。あるいはこれを真に周公、周を治めし所以のものを述べたりとし、あるいはもって六国陰謀の書となし、はなはだしきは、西漢末の劉?が付益して、もって王莽を佐《たす》けたものとなす。南宋の魏了翁いわく、「六籍の、秦に遭《そこなわ》れてのち漢において出でしもの、『礼記』はことごとくは信ずべからず、『周礼』もっとも疑い多く信じがたし、「詩序」また全く信ずるに足らず。三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻のごときは、『周礼』と(59)『礼記』とおのずから異同あり。鄭康成の釈《と》くところの諸経は、また後漢の末に当たり、いよいよ支離穿鑿し、大率《おおむね》また信ずべからず。十五日に王后一たび御すのごときも、決してこの理なし」と。しかし、南宋の陳振孫が、「この書(『周礼』)、古文奇字多く、名物度数考うべく、その先秦の古書たるを誣《いつわ》らずして、疑うべきなきに似たり」と言ったも、幾分の拠《よりどころ》あり。明の朱朝瑛はいわく、「『周礼』の一書は、聖人にあらざれば作る能わず。しかれども、その書の残闕錯乱せるは、必ずや、草創にしていまだ成らざるものならん。周公すでに没し、ついにまた行なわれず。東に遷《うつ》りしのち、また散佚多く、戦国縦横の士、意をもってこれに付益す」と。まずここらが落ちで、戦国時代に残存した周初の旧伝に、種々と付け足しを加えて、『周礼』ができたので、後漢末に鄭玄が詳しくこれを註してより、その学盛んに行なわれ出した。鄭玄は、数万の黄巾賊がみな見えるとすなわち拝し、あえてその県境に入らなんだほどの厚徳の碩儒で、初め第五元に師事して、『公羊春秋』(『公羊伝』)等に通じ、また張恭祖に従って、『周礼』等を受けたという。(『文献通考』一八上。『古今図書集成』宮?典三、経籍典二四二。『後漢書』六五)
 南宋の洪邁の『容斎随筆』玉にいわく、「成周の世、中国の地は最も狭く、今の地里をもってこれを考うれば、呉、越、楚、蜀、?はみな蛮となし、淮南《わいなん》は荊舒となし、秦は戎となす。河北の真定、中山の境は、すなわち鮮虞《せんぐ》、肥鼓《ひこ》の国にして、河東の境には、赤狄《せきてき》の甲氏、留吁《りゆうく》、鐸辰《たくしん》、?《ろ》国あり。洛陽を王城となして、楊拒《ようきよ》、泉皐《せんこう》、蛮氏、陸渾《りくこん》、伊?《いらく》の戎あり。京東には莱、牟《ぼう》、介《かい》、?《きよ》あり、みな夷なり。※[木+巳]は雍丘に都す。今|?《べん》の属邑なるも、また夷の礼を用う。?《ちゆ》は魯に近けれど、また夷という。その中国なるものは、独り晋、衛、斉、魯、宋、鄭、陳、許のみにして、通《すべ》て数十州に過ぎず。けだし天下においては特《ただ》五分の一なるのみ」と。周の時の支那本国は、漢唐宋明清に、比べ物にならぬ小さい物だった。されば前漢の元帝が珠 圧の蛮民を征伐せんとした時、賈捐之の諫言に、堯舜や夏商周の世がよく治まったは、国が小さかったから、と述べた(『漢書』六四下)。工業製造とか貿易殖民とかに考え及ばぬ上、その国が割合に小さいと、人民一汎の生活程度が低い。したがって上下の懸隔がはなはだしいだけ、宮廷や官衙が臣民の眼に、(60)格別宏大に映ずる。かつ夏商等の歴朝よりも、周代ははるかに文筆が進んでおったから、格別宏大に凡眼に映じた宮廷や官衙が一層廓大されて文筆に著われる。わが平安朝や室町時代の日記などを見ると、道路へ病人を棄てたり、賊寇が洛中を横行したり、無頼漢や野獣が皇居へ侵入したり、けしからぬことが、比々として見え続けおるが、一方、管絃の御遊とか、子の日の若菜摘みとか、某寺の落成、某社の競馬、その記事の立派さに眩惑されて、そのころ全く泰平永続、罪人絶跡だったよう、一汎に心得らる。さて古えを尊び今を卑しむは、最近まで東洋の通弊で、年をふればふるほど、虚構の文章も確かな実録と認められ、天晴れ制度礼儀の典型となった例が多い。『周礼』またその類で、周公の制作であろうがなかろうが、後世の添入が多かろうが少なかろうが、永々人君古きを稽えて名分を正すに、不可欠の書たりしは疑いを容れず。
 書籍の著者がさらに目的としなかったことながら、後世に及んで、著者の意外に、はなはだ考古の参考になること多き物あり。『曽我物語』、『義経記』などのごとし。『大日本史』一八七に、「世に『義経記』あり、事迹最も詳し。繁砕|?駮《ほうはく》にして傅会《ふかい》の説多しといえども、いまだ必ずしもみな虚誕ならざるなり。しかれども、他の証すべきものなければ、真偽は弁じがたし。故に一切取らず」といい、これに反して『曽我物語』を、種々と採用した。この二書大抵同時代の作らしいが、物徂徠は『太平記』より前の物と言ったから(『南留別志』二)、鎌倉時代の末ごろという見当とみえる。四十一年前、予ロンドンで『義経記』を読んだ日の留書に、その巻六の終りに、静女赦されて、鎌倉より京都に上り、剃髪して天竜寺辺に庵居したと見ゆ、天竜寺建立および供養のことは、『太平記』二四に出でおるから、『義経記』は、『太平記』より後の筆だ、と記しある。たぷん『曽我物語』も、室町時代の撰だろう。さて『物語』五に、頼朝、三原野に狩して雷雨に逢った時、梶原景李一首の歌を詠むと、静まったので五百余町、狐が鳴いたのを、愛甲季隆がまた一首詠んで厭勝《まじない》したので、三百町の地を賜うたと出で、藤原保昌が、射手三百人を用意して、明日鹿を狩らんと待つ夜半に、その妻和泉式部が、鹿の音を聞き、一首詠(61)んだので感心し、鹿狩りを止め、一疋も殺されなんだ鹿のために、六万本の卒都婆を書き、六百人の僧を請じて、かの菩提を弔い、末代までその地の狩猟を禁制したとあるなど、何ごともむかしの人の所行は偉大だったと、筆者も読者も固く信じたと証する。『周礼』とその註に、大まかなこと多きもこれに同じ。
 それから南宋の范浚いわく、「周公、六典を作り、これを『周礼』と謂う。六官の属に至るまで瑣細ことごとく備わり、そのことごとくは古書ならざるを疑う。周公は、猛獣を駆り、虫蛇・悪物を謂いて民の物の害となせり。?氏《かくし》は?黽《あほう》を去《のぞ》くを掌《つかさど》り、牡?《ぼきく》を焚《や》き、灰をもってこれに酒《そそ》げばすなわち死すという。?黽は鳴いて人に聒《かまびす》しきに過ぎず、初めより民物の害ならざるなり。しかもこれを毒もて死《ころ》すは、君子の物を愛する所以《ゆえん》にあらざるに似たり。また牡?を灰に焼くは、大いに狡獪《こうかい》なる戯術に類す。あに経たる所以ならんや」と。後漢の鄭玄、これは?(アオガエル)も黽(後文をみよ)も、鳴く声が聒《かまびす》しくて、人を煩わすから、野菊の灰を酒《そそ》いで、殺すのが?氏の職だった、と註した。南宋の鄭鍔説に、国中の蛙を全滅はできることでない、王庭で聒しく鳴いては、天子斎戒等の妨げになるから、宮中の蛙を除く役目だったろう、と。後鳥羽上皇や元の仁宗の母后、仏国のウルフ女尊者など、蛙嶋を厭うてこれを禁じた咄が、東西に多いから、鄭鍔の説ももっともらしく聞こえる。(『古今図集集成』経籍典二四二、禽虫典一八七。『南方随筆』三二九−三三一頁
 欧州では、古来蟾蜍(ヒキガエル)を悪魔の権化として、魔法家の愛養使用するところとし、今日も、蟾蜍は毒を吐き、牛乳を毒し、牛の乳を出す力を減じ、家に入って不幸を生ぜしむなど信ずる者あり。巫蠱会には必ずこの動物が付き添いおる。(これに洗礼を施す式などあった(Dulaure,‘Singularités historiques、’Paris,1825,p.239)。)唐の陳蔵器いわく、「古人は愚質にして、蠱《こ》を造って富を図る。みな百虫を取って甕の中に入れ、年を経てこれを開けば、必ず一の虫あり、ことごとく諸虫を食らう。すなわち、これを名づけて蠱となす。よく形を隠すこと、鬼神に似、人に与《たい》して禍をなす。しかれども、終《つい》にはこれ虫鬼なり。人を咬みて死に至らしむれば、あるいは人のもろもろの竅《あな》の中(62)より出ず。伺い候《ま》ちてこれを取り、曝乾《ひぼし》にす。蠱を患《わずら》う人あれば、灰に焼いてこれを服せしむ。またこれ、その類みずから相伏するのみ。またいわく、およそ蠱虫は蠱を癒《いや》す、と。これ蠱の名を知れば、すなわちこれを治すべきなり。蛇の蠱には蜈蚣《むかで》の蠱虫を用い、蜈蚣の蠱には蝦蟆《ひきがえる》の蠱虫を用い、蝦蟆の蠱には蛇の蠱虫を用うるがごときの類なり。これ相伏するものは、すなわちこれを治すべきなり」と。支那でも古く蝦蟆を巫蠱術に用いたのだ。(J.Collin de Plancy,‘DictiOnnaire infernal,’4me éd.,Bruxells,1845,p.147;De Gubernatis,’Zoological Mythology,’1872,vol.ii,p.399;Leland,‘Etruscan Remains in Popular Tradition,’1892,pp/290,329;‘The Cambridge Natural History,’reprinted 1920,vol.vii,p.174;Lacroi,‘Science and Literature in the Middle Ages,’London:Bickers & Son,n.d.fig.170.『本草綱目』四二)(参照、『夷堅志補』二三)
 蝦蟆は、梁の陶弘景は蟾蜍と同一とし、唐の開元中まで、薬家また二者を同物としたが、陳蔵器は別物とし、したがって小野蘭山は、蝦蟆すなわち耿黽をツチガエル(紀州名イボガエル)、蟾蜍一名癩蝦蟆をヒキガエルとす(『重訂本草啓蒙』三八)。しかるに、本邦内地に蟾蜍とては、例の茶色の「ひきがへる掛物をみる姿なり」とよまれたブフォ・ヴルガリス・ヤポニクスの一種しかないが、支那には美麗な緑色のもの、少なくとも二種(学名ブフォ・ヴィリジスとブフォ・ロジイ)を予は見知る。これらは日本内地の蟾蜍よりも、跳ね飛ぶことも、聒しく鳴くことも蛙に近い。これを考慮に入れると、『周礼』に、「?氏は?黽を去《のぞ》くを掌る」と言った黽を、「爾雅』に「水にあるの黽なり」、注に、「耿黽《こうぼう》なり。青蛙に似て大腹にして、一に土鴨と名づく」と言ったは、この緑色の蟾蜍が、春月水中にあって鳴き、蛙よりは腹が大きいからの記載かと惟う。果たして然らば、本邦の本草家が、黽をツチガエルに宛てたは間違いおる。とにかく支那の現品を多く見ずに、支那物の古名を推し当てるは至難なことだ。
 再び説く、支那に蝦蟆蠱あり、蝦蟆と他の多種の虫どもを甕に入れおき、年を経て開いてみて、蝦蟆が諸他の虫を食い尽しあったら、その蝦蟆を祀って、人に取り付かせ、財物を奉らしめてこれを釈《ゆる》し、もって富を致すのだ。也有(63)あたりの戯文に、夕涼みしながら、福よ福よと呼べば、蟾蜍|徐《しず》かに這い来たる由あったと覚えるが、今もこの田辺町で蟾蜍を福また福ごとと呼ぶ人あり。毘沙門を信ずる輩が、蜈蚣を尊ぶと共に、蝦蟆蠱、蜈蚣蠱を畜《やしな》うて富を致した支那風が伝存したのかと思う。南宋宜黄県獄蕭相国廟の神が青蝦蟆と現ずる、小さく現ずれば吉、大きく現ずれば凶。西湖の周宣霊王廟の青蛙を両分して煮えたぎる?に授ずれば、無数の蛙その中に盈ち、取り出だせばまた一蛙となる。清の蒲松齢は、青蛙神が巫に託して男女の陰私を訐《あば》き、寄付金を承諾せしめ、不払いの場合には蛙神みずから押し懸け、その体を巨きくして門を塞ぎ出入を妨げ、閉口の極、仕払いを済ませば、たちまち身を小さくして、垣の透間から出で去った由を記した。これらは多少唐代蝦蟆蠱の余流らしい。さて『周礼』に庶民あり、毒蠱を除くを掌り、これを除くに、「攻説《いのり》をもってこれを?《はら》い、嘉草にてこれを攻む」とある(『夷堅支』乙九。『説鈴』己冊所収、『湖?雑記』。『卿斎志異』一三。『古今図書集成』禽虫典一九一)。?は殃を除く祭なりと字典にあれば、炎難よけの祭だ。蠱鬼を責めた辞を唱えて退散せしめ、また嘉草という植物を薫《ふす》べて追い払うたのだ。嘉草は何物か、今は判らぬ由。よって類推するに、周代のころ、支那人が?黽を忌み嫌いしは、決してその声の聒しきによったばかりでなく、巫蠱術に使われて、よく人を害し、公安を擾《みだ》すと信じたからで、さてこそ?氏をして、これを除くに尽力せしめたと察する。
 とっとのむかし東西とも、蟾蜍族と蛙族を確かに判別せず。ローマのプリニウス(西暦二三−七九年)は、蟾蜍(ルベタイ)を蛙の最大のものとし、その身、毒をもって盈たされ、種々と方術に用いられて、奇効ある由を述べた(Pliny,‘The Natural History,’trans.Bostock and Riey,in Bohn,s‘Classical Library,’1857,vol.vi,p.22)。支那には、比較的新字彙たる『正字通』申集中に、「蟾蜍は蝦蟇なり」と二物を一視しおる。本邦内地で蝦蟆や蛙と蟾蜍の区別は容易だが、海外にはいずれとも見定めの付かぬ物がある(‘Encyclopædia Britannica,14th ed.,1929,vol,xxii,p.260)されば支那で古来、蛙が雨を呼ぶとか、蟾蜍が女に通じたとか、蝦蟆が人に化けたとか、種々の奇談あるも、右の区別が付かぬうちは、何でそんな咄が生じたかを明らめ得ぬ。しかしながら、和歌山辺でイボガエル(ツチガエル)、この田辺町近(64)村では、アマガエルの尿がかかったら疣ができるといい、蟾蜍の尿は癩病を生ずという。欧州でもスカリゲルやマッチオリ(並びに西暦十六世紀の人)は蟾蜍は尿と涎で毒を施すと説いた(Wilkn,‘The Works Of Sir Thomas Browne,’in Bohn`s‘Antiquarian Library,’1852,vol.i.p.286)。明治二十年サンフランシスコで、ユダヤ人の小児が、蛙を持って人を追うを怪しみ、尋ねると、蛙をしてかの者に放尿せしめ、疣を煩わしめやるつもり、と答えた。また『感応類従志』(『集成』禽虫典一八六所引)に、婦人の月水布で蝦蟆を?し(?は恐の意、これは?の誤写だろう。「火中にて物を熱す」の意で、やくこと)、厠前の地に、一尺五寸埋めおくと、婦人をして妬まざらしむ、とある。
 プリニウスの『博物志』三二巻一八章にいわく、マギ輩の説に幾分の真実あらば、社会に取って、蛙は法律よりも有効なはずだ。その説にいわく、蘆茎を串として蛙の陰部へ突っ込み口外まで貫き、その串を妻の月水に浸すと、爾後妻は一切の情夫を嫌うて寄せ付けなくなる、と。情夫をことごとく攘夷とくるのも、妬まなくなるのも、積極、消極の別こそあれ、夫に取って、等しく結構至極だ。プリニウスまた、蟾蜍の左側の一骨を浸した酒を飲まば、「つらからぬ中にあるこそうしといへ、隔て果てにし衣にやはあらぬ」。その隔て果てなんとする男女の中を和らげ、痴話や口舌を清算する。守りとしてこれを佩ぶれば色情永く旺盛なり、と説いた。蟾酥すなわち蟾蜍の油が催淫剤として、長命丸を始め、主陰丹、徹夜恣情散等の調製に要素たるは、和漢に知れ渡りおり(『嘉良喜随筆』二。『増補万宝全書』の春閨要妙巻)、『日下旧聞』三八補遺に、明朝端午の日、太医院宮、旗物鼓吹を具え、南海子に赴き、蝦蟇を捉えて蟾酥を取った記事あり。これは医療用に充てたはもちろんながら、宮中の淫戯にも用いられただろう。『談往』か『寄園寄所寄』に、明末の某帝が、賊逼り国亡ぶるに気付かず、婦女を悦ばすことにのみ熱中して、専心蟾酥を聚めおった記事があったと記臆す。かくのごとく、東西に渉りて、この類の動物に関し、数多の相似たる迷信や方術が行なわれたを見ると、その起原はよほど古かった物と惟わる。
 前にも述べたごとく、西洋では、古来蟾蜍を毒悪大凶の物とし、今も然《しか》く信ずる者多し。これに対して近年、その(65)至って無害なる上、田圃のため家庭のため、害虫を除くの大功を説き、むやみにこれを悪に窘《くる》しめぬよう、救解しやる人多し。『剣橋《ケンブリジ》動物学』巻八の筆者ガダウ氏等だ。しかし、ガ氏みずからも認むるごとく、蟾蜍の皮下腺に蔵せる蟾酥は強烈な毒物で、その尿も決して無害でないらしい(『本草綱目』四二。Wilkin,vol.cit.,p.285)。ウィルキン説に、蟾蜍に咬まるれば少しく?衝《きんしよう》を発す、その酥や尿を嚥めば烈しく悪心する、と。ボスクは、蟾蜍に触れた手を鼻に当てても、強く嘔気を催すといい、シェルハムメルは、小児が数分間、これを口に近づけて、劇しき膿疱を生じた例を挙げた。梁の陶弘景いわく、「蟾蜍は、皮汁にはなはだ毒あり、犬これを?めば口みな腫《は》る」と。
 予未見の書、『反古風呂敷』を、『広文庫』五冊四七六頁に引いて、夜誤って蝦蟆を踏み潰すと、一足の内踝にその息懸かりて、熱湯を注ぐごとく、寒熱はなはだしくて数日悩んだが、治療して、ようやく癒えた、翌年その時に及んで、その人故なくて頓死した、蝦蟆の毒が発しただろう、と出ず。ガダウいわく、世俗、蟾蜍は大毒を吐くと言えど、啌《うそ》なり、ただし人に踏まれて烈しく苦しむ時など、全身乳白色で強い毒汁で被わる、と。二十余年前、拙宅地で、大きな蟾蜍を鴉が屠るを見、往ってみると、蟾蜍、背と顔面に自汗を流出し、喘ぎ苦しむ。鴉は注意してその汗を避け、腹の汗及ばない処を穿ち、腸を引き出して食ったのだった。足に傷ついた人が、蟾蜍を踏み、その毒汁が傷口に入ると、煩い出す。それから蟾蜍、毒気を吐いて、他の動物を殺す話ができただろう。蟾蜍に限らず、無尾両棲類に、腺より毒汁を出して敵を防ぐもの多し(‘Encyclopædia Britannica,14th ed,1829.,vol.i,p.838)。周代の支那人しばしばその毒をもって、蝦蟆蠱術を行なうたので、一切の毒虫を除くを職とする庶氏の外に、特に?黽を去るを職とする?氏があったのだろう。
 そもそも巫蠱の禍たる、中世の欧州にもっとも盛んで、これがため冤殺された者、万、十万をもって算うべく、支那また歴代その記事を絶たず。漢武帝の皇后と太子と兵を挙げて父帝の兵と戦い、事敗れて母子とも自殺せしも、劉宋の文帝が仁厚恭倹、政に勤め、三十年間四境晏然、士は操尚を敦くし、卿は軽薄を恥じ、江左の風俗ここにおいて(66)美たりと評された明君たりしも、太子劭のために弑せられたは、事《こと》巫蠱より起こった(『十八史略校本標註』二と四)。本邦には巫蠱の史に見ゆるもの、欧州や支那ほど多からねど、奈良朝から平安朝へ掛けて、しきりと蠱術による疑獄あり(中山氏『日本巫女史』六〇〇頁)。「これは一面において、当時こうした事実の、盛んに行なわれていたことを明らかにするものであると同時に、一面においては、これらを利用する政治家のあったことを注意せねばならぬ」と、中山氏の注意は至極もっともだが、予は、この本邦に巫蠱の盛行せるも、巫蠱を政策に使うたのも、例の支那模倣だったと考う。則天武后などは、巫蠱の検挙に托して、大抵のキザな奴を片付けたとみえる。それを本邦の為政者が最便の法と認めて倣うたのだろう。例せば、称徳天皇の御妹、不破内親王が、丹比乙女の誣告により、忍坂女王等が乗輿を厭魅した罪に連坐して、京師を追い出され、犬養姉女等、天皇の御髪を盗み、髑髏に入れた巫蠱に坐して、遠流され、光仁天皇が、巫蠱罪の故に皇后井上内親王を廃し、その所生の太子他戸親王を廃した(『続日本紀』二九、三二)。
 予は支那の巫蠱術に、始終|沙翁《シエキススピア》のマクベス劇ごとく、蟾蜍を使うたと想わず。しかしその一派として、古来蝦蟆蠱が持続されたと信ず。また本邦平安朝や奈良朝の巫蠱術に、蟾蜍の有無を知らぬが、徳川氏の世に成った『倭訓栞』後編(持ち合わさぬから『広文庫』一四冊六八四頁より孫引き)に、「ひき、桶伏せにして、重石をおくに、一夜を踰えて必ず去るといい、またひきを多く集めて、人にみせて、病ましめて利を貪る、四国の蛇もちの類なる者ありという」。これはたぷん支那より蝦蟆蠱を伝来した物と想うが、『古事記』神代一〇の巻に、大国主神、始めて少毘古那神を見て、その何者たるを知らず、時に谷蟆《たにぐく》勧めて、久延毘古《くえびこ》に問わしめ、すなわち久延毘古を召し問うて、その少毘古那《すくなひこな》神たるを知った、とある。『古事記伝』一二によれば、久延毘古は案山子で、足行かずといえども、ことごとく天下のことを知った神だった。それを知って、大国主神に薦めた谷蟆は、孔明を玄徳に進めた徐元直の識鑑ありだ。その他、諏訪大明神に、年始に蝦蟆を牲とし奉り、足助八幡神が、人の夢に青蛙と現じて、腫物を食い割り、療治したなど(『諏訪大明神絵詞』下。『足助八幡宮縁起』)、この類の動物が、日本固有の信仰に參《まじ》わりあった証拠だ。だから『倭訓(67)栞』の蝦蟆蠱も、日本自身で発達したものかも知れぬ。だが、稲、桃、大小豆等の外産品さえ、神代すでに本邦に移播されありしを参照すると、支那のと同様の、『倭訓栞』の蝦蟆蠱は、たぶん古舶来だったろう。
 以上、『周礼』の筆者が、ほんのありのままに短く書いた?氏の記載も心を留めて視れば、意外の発見あることかくのごとし。
 第一章以来、あんまりかの方のことを多く書くに苦辛して、晩発性痴呆症がかってきたと、みずから気づき、一つえろ直しに、蝦蟆蠱のことを書き入れると、滔々と出て、ことのほか長くなり、気が遠くなってきたのに、またやっと気づいてコイツも切り上げ、さて本文を続けようにも、盲人が夢醒むると眼が見えぬごとく、どこまで書いたかさっぱり覚えず。かくてあるべきにあらざれば、盲滅法に綴り進めよう。
 五十年前、湯島の東京図書館で『先哲叢談』を読んだ中に、藤井懶斎が、その妻垂水氏の家系を、強記をもって聞こえた盲人に尋ねたところ、彼即席の手製で、伊勢の垂水広信なる賢人、後醍醐帝に進諫して用いられず、郷里垂水村に隠れて、『嘉文乱記』六五巻を著わせしも、世に伝わらず、この人始めて朱子の『四書集註』を得て信奉したなどと、吹き散らせしを、朱学固まりの懶斎聞いて大悦し、会う人ごとにこれを受売りしたので、全く亡是公たる垂水広信の伝が大いに弘まり、『和漢三才図会』などにも、誠しやかに載せられた、とあつたと覚える。懶斎は、大儒室鳩巣までも、面識なきに先生と推称したほどの篤実な碩学ゆえ、啌と知って広信のことを吹聴すべきにあらず。孟子のいわゆる、欺くにその方をもってせられたのだ。貝原益軒また至誠博識の鴻儒ながら、物の名を釈くに、今日ちょっと?いでも判るような牽強が多い。倶《とも》に、研究の材料も方法も不揃いだった時世の影響、何とも致し方なかったのだ。
 鄭玄また考証の学いまだ発達せざる世に生まれ、先輩種々の曲説に浸潤され、自分が早く学んだ『公羊伝』の「天子は一たびに九女を娶るは、夏殷の制なり」では、簡単過ぎて面白からず。?・堯の四妃より、舜の三妃と減じ、それ(68)を夏商の両朝が三懸けで累加して姫妾のインフレをやらかし、ついに周室に?《およ》んで、〆《しめて》百二十一人まで増えた次第を、自分ももっともと確信して、もっともらしく説いたのだ。しかして鄭玄が卒した建安五年より三十五年前、例の劉瑜の上書に、『公羊伝』のみによって、「古えは、天子は一たびに九女を娶る」とのみ言いおれば、夏王は十二女、殷王は三十九女を娶ったとは、その後ちかく言い出した鄭玄の付会と惟わる。要は、宇文周の宣帝が、古代后妃の数を問えるに、博士何妥が、「帝?は四妃、虞舜は二妃、先代の数は何の常かこれあらん」と答えたのが至当だろう(『山堂肆考』宮集三八)。さてこそ宣帝、一時に五皇后をおき、「一つ夜に二つ枕に三つ蒲団、四つにならぬに五つするとは」と、群臣を驚倒させたのだ。
 以上、長々しく論じたところを約すれば、だいたい天子の配偶は、夏以前に四妃が多く、夏殷の両朝は九女を娶るが通例、ところが周代より戦国に及んで、はなはだ多くなったが、周室天子は必ず百二十一人を備えたよう説いたは、後漢の末に、もっぱら鄭玄が言い出したので、事実にはあらじ。『後漢書』一〇、后妃伝序に、前漢の初めは、後宮簡略だつたが、武帝や元帝の代より、おいおい膨脹して、掖庭三千、増級十四に至り、さまざまの騒ぎが持ち上がった。後漢の光武中興の後、六宮の称号は、皇后と貴人だけで(皇后は天子と等しく尊いから、璽綬も天子に均し。『淵鑑類函』五七)、貴人は金印紫綬を佩び、俸給はたった粟数十斛、その下に美人、宮人、采女の三等あって、並びに爵秩なく、歳時に賞賜充給するのみとあるから、自前半分持ちの、一儀軍の志願兵様の者だったらしい。その制がようやく乱れて、桓帝に至り、「内幸多く、博く宮女を採って五、六千人に至り、駆役・従使に及んでは、また兼ねてこれに倍す」るに?んだ。そんな世態を見聞し慣れた鄭玄が、それから推測して、周代の後宮を大層に書き成したとみえる。
 ここに可笑《おか》しいことは、桓帝に前後三皇后あった。初めの梁皇后はいくら出精しても子を生まず。宮人が子を孕むを忌み殺した。そして憂恚して延熹二年崩じ、それが緑の切れ目で、后の兄梁冀は全家誅夷された。さて立てられたケ皇后は、帝の幸姫郭貴人と相譖訴して、延熹八年、すなわち劉瑜が上畫した年廃され、憂死した。そこで大将軍竇(69)武の女を貴人とし、その冬皇后に立てた。しかるに、「新世帯人の思ふた程はせず」どころか、「御見はなはだ稀《まれ》にして、帝の寵するところはただ采女|田聖《でんせい》らのみなり。(翌)永康元年の冬、帝、疾《やまい》に寝《ふ》す。ついに聖ら九女をもって、みな貴人となす。崩ずるに及んで嗣《あとつぎ》なし」。竇后、朝に臨み、桓帝の曽祖父章帝の玄孫たる霊帝を迎立して皇太后となる。「太后、素《もと》より忌み忍んで田聖らに積怒あり、桓帝の梓宮《ひつぎ》なお前殿にあるとき、ついに田聖を殺す」。また、ことごとく諸貴人を誅せんとしたが、宦者二人に苦諫されて止めた。時に太后の父竇武、上に出た宦者嫌いの親玉、劉瑜等と謀って、宦者を鏖殺せんと掛かったところ、失敗して殺され、太后は南宮に遷され、四年のち崩じた(『後漢書』一〇下)。
 すべて史を読むに活眼を要す。熊楠、大活眼を開いて、これを読んだ刹那暁つたは、桓帝、竇后を御見はなはだ稀なるに引き換え、山出しの采女、田聖等を、死に際までも愛幸して、みな貴人としたは、海老茶色より鮮桃花色をとの思し召し、もっとも至極なると同時に、当年劉瑜の上書は、さらに採用されなんだが、「天子は一たびに九女を娶る」の文句だけ嘉納実行されたので、すでに博く五、六千人までも採った上に、一度に九人ずつ娶れば、何度娶っても、夏商の古制に合うと曲解したは、山岡明阿の『逸著聞集』三、男女両色に身疲れた男が、回復方を典薬頭和気基亮に問うて、『金匱要略』の、春三夏六秋一冬無の訓を受け、それは結構だが、一つの難儀あり、「いでや夢ばかりなる手枕なりとも、三つはさても候うべし。ほととぎすの一声に明くる短か夜に、六つといえる定めこそは、いと術なく覚え候」というと、基亮呆れて、されば然《しか》候《さぶら》わんとて、退出した、とあると互角な笑柄である。   (昭和九年五、六、七月『ドルメン』三巻五、六、七号)
 
(70)     長崎の鯖腐り石
            辰井隆「長崎の鯖腐り石の話」参照
            (『ドルメン』三巻五号五六頁)
 
 辰井君がこの話を、今まで何にも発表されないと言われたは誤りで、百八十九年のむかし、寛保三年成り、その翌、延享元年京都で板行された澀亭南溟著『続沙石集』三巻第六章に出である。「愚人、鯖を腐らしむること」ちう題で、本文は、「肥前国長崎より大村に至るに、少し山路あり。その所に長《たけ》高き石の上に円形の石乗りてあり。打ち見たるところ、一丈ほど長き石にさし径《わた》し二尺あまりほどの円形の石の乗りあれば、今や転び落ちなんとみゆるに、地震等にもいまだ落ちずしてあれば、名を続《つ》ぎ石とはいうなり。俗にこれを鯖腐らしという。むかし鯖を商う者あり、この路を通り、この石の今や落ちなんとみえけるを、もとより愚人なれば、この石落ちて後に通りなんと、鯖を荷ないながら、刻を移して立てりけるほどに、鯖はことごとく腐りにけり。よって名づくるところなり。予、事のついでありてこの石を見しが、あたかも落ちなんとみゆ。しばし眺めおりたれは、すでに動く様もみえて、まことに珍しき石なり。されば人命の危うきことは忘れて、これを確かに思い、つぎ石のいつも変わらぬ物を危うしと思う人情、これ大なる誤りなり。世に言い習わす言に、雪の下という草の、その花の落つるをみれば、長者になる、と。この故に閑を盗みて、半時も一時も悠然と眺めおる属《やから》は、鯖を腐らしける愚蒙に異ならざるべし(下略)」。
 この書が板行されてのち二年、延享三年成り、翌年江戸で板行された菊岡沾涼の『本朝俗諺志』巻一の一二章にも、長崎鯖腐り石を記す。いわく、「肥前国長崎と時津の間に、鯖腐らかし石というあり。谷間の崕《がけ》なるに、大石かさな(71)りさし出でて、今や落ち、今や崩れんずる風情、危うきこと限りなし。その石の下は、通路の往還なり。むかし肴売る者、この所に行きかかりしが、この石の危うきに通り得ず。案じ煩いおりけるうちに、荷なえる鯖の腐りけるなり。これによって名とす。名の可笑《おか》しきに、また因縁も愚かなればかき侍る」と。
 諸国にこんな例が少なくないが、『南方筆叢』という物に集め置いた。そのうち岡書院から出すゆえ御覧下さい。見本として二 二例を採り出すと、『高野大師御広伝』下に、讃州の海端に一石ありて、石、上にあり、墜ちんと欲して墜ちず、念願石と号す、俗また伝えいわく、大師の違法滅する時、この石墜つべし、と。『笈埃随筆』巻五、土佐蹉  寺の七不思議の一に、ゆるぎ石とてあり。高さ四尺あまり、大いさ六尺もあらん大石にて、孤立し、上に丸く小さき石あり。手をもってこの大石を押すことしばらくすれば、上の小石ゆるぎて転び廻るなり。下の大石は、さらに動くべき体もなしとあって、『大明一統志』に、「一指石は桐廬県の西北にあり。長さ一丈、高さ五尺にして、巌谷の間に綴《かか》る。手をもってこれを抵《お》せば、すなわち動揺し、人の力多ければ、すなわち動かず」とある、と引きおる。一指石の和漢の多例を、『桃桐遺筆』巻四に載せあり。西洋の書物にも、アジアのハールパサ近所に怖ろしい石あり、一指もて動かし得れど、全身の力で押すとさらに動かずと出で、スコットランドのストラターン県パルワード邑のファージ川にさし出でた揺《ゆる》ぎ岩は、かなり大きく、一人指をもって軽く推せば、軽々と揺らぐが、一生懸命に力を出したって、ちっとも動かぬ、とある(プリニウス『博物志』二巻九八章。一八一八年グラスゴー板、『ミッセラニア・スコチカ』二〇二頁)。
 これら諸例中、鯖腐り石や念願石は、船宿の主婦同然、落ちそうで落ちないだけだが、一指石や揺ぎ岩は、一指の微力に感じ揺らぐが、総体の力を入れても応ぜず。いまだかつて弄過を経ざる?環《あかん》に等し。この二つを混視せざれ、と注意しおく。
 ついでに申す。上に引いた、雪の下の花落つるをみれば長者になるとは、今もどこかで言うことか。また四十五年(72)前、三好太郎氏(重臣子の息)話に、夏の早朝、大阪の城隍へしばしば相場師が来て、水に臨んで喫煙しながら、蓮の花の開くを竢ち、その音を聴いて立ち去った、と。それを聴いて何にするかを聞かなんだ。子細のあることか。識者の高教をまつ。   (昭和九年六月『ドルメン』三巻六号)
 
(73)     「摩羅考」について
 
 本誌三巻七号五五頁に、竹本氏は、陽物を摩羅と呼ぶは、円観上人が、往昔伝教大師が、天台の道邃和尚より伝授した「玄旨灌頂血脈の法門に、インチキ坊主が考案せる立川流を混じて、比叡山常行三昧堂において、念仏三昧の道場神として祀られていた摩多羅神を持ってきて、本尊として淫祠的教義を伝うるに至った」、「かくて摩多羅神は、摩羅神と愛称されて、今もなお諸地方に祀られているし、またわれわれの股間にまでその名を残された訳である」と説かれた。
 円観上人は、正平十一年三月朔日、七十六歳で遷化した(『先進?像玉石雑誌』七)から勘定すると、蒙古大挙入寇して、神風に撃ち破られた弘安四年の生れだ。さて座右に有り合わせた古書から、陽物を摩羅と書いた例を授し出すと、少なからずあります。
 まず第一に、『稚児之草紙』すべて五条に、かの物を摩羅と書いたのが七ヵ処ある。この草紙は、奥書に、元亨元年に写した、とある。この年円観四十一歳。竹本氏謂うところの、円観が摩多羅神を本尊として、淫祠的教義を伝えたは、いつごろのことか知らねど、この淫祠的教義の創立者円観の遷化前三十五年、その本尊摩多羅神の名号が、摩羅と略され、陽根を指すに用いられおつたとは、あまり素早きに過ぎずや。しかし、曽根好忠、生存中、曽丹後掾と呼ばれ、次に曽丹後、末に曽丹と呼ばれた。時に好忠、今にソタと呼ばるるだろうと嘆じたちうこともあり(『袋草紙」三)。こいつはむやみに疑うべからずとして、さて疑うべき廉が、娘道成寺の鐘に恨みほど、数々|厶《ござ》るて。
(74) ほぼこれを陳ぶると、円観の誕生より十九年前の、弘長二年ごろ成った『真俗雑記問答抄』は、予未見の書だが、『松屋筆記』巻一に、その巻七に、南都解脱房詠歌、「わが恋はつひかうそりのあひかたみ、摩羅ありとても何にかはせむ」とある由みえる。誤字もありそうで、歌の意が判然しがたけれど、摩羅という語が、恋愛関係の道具に使われただけは確かで、少なくとも、円観が生まれたより十九年早く、一件に件の称えがあったと立証する。
 『続史籍集覧』所収、『碧山日録』長禄四(すなわち寛正元)年九月二十日の条にいわく、笠置の貞慶は、尚書左丞貞憲の子なり。憲、初め子なし。観世音の像に祈りて慶を得、興福(寺)に隷して『唯識』を習わしめ、ついにその奥に造《いた》る。時に、同房に一童児あり、呉竹と名づく、はなはだ美麗なり。慶深くこれを愛す。一夕、童見えず。慶みずから謂《おも》えらく、他人これを挑む者あり、と。よって、ひそかにその所在を窺うに、童一野人の家にあって、小麦餅を食う。慶、嘆じていわく、予が呉竹の意を得るは、小麦餅に如《し》かざるなり、と。すなわち寺を出でて笠置山窟に棲み止まる。この時、慶、三十又七歳なり。(『和漢三才図会』七二末に、貞慶、建暦三年五十九で死んだとあるより算うれば、笠置に棲み始めたは、建久二年だ。)よって與福(寺)の耆老、胥議していわく、慶の去るは呉竹のためをもってなり、と。すなわち呉竹をして笠置に入り、慶の帰るを求めしむ。慶、和歌一首を詠じ、その来意に報じ、もって出でず。(中略)のち解脱上人と謚すという、と。『元亨釈書』五には、貞慶、興福寺にあった時、最勝講に召され、弊衣して至りしを、官僚や僧侶がみな笑うたので、そんな不如法な輩と等伍するを嫌い、講|已《や》んで南都に還らず、笠置に止まった、とある。どちらが本当か知れないようだが、いわゆる福双起せず禍単行せずで、一度ケチがつき出すと、再三わる往きに逢う。「君さまを糞の出るたび思へども、君はわれをば屁とも思はず」。美童が小麦餅ほども自分を念わぬと、憤りおる矢先に、弊衣を一同に笑われたので、いよいよ面白からず、暖かな肉穴を思い切って、寒い笠置の岩穴に入りぴたり、初めて清僧になったとみえる。
 『沙石集』三に、解脱上人、如法の律儀興隆のため、六人の器量の仁を選び、持斎律学せしめしに、その一人持齊を(75)破り、僧坊に同宿|児《ちご》ども数多《あまた》置いて、むかしの儀も廃れ果て、児に食わせんとて、魚を取らせ煮殺した話を出し、学と行と違いたることと、痛く譴責しあるが、その僧の了簡は、師の上人も美童を翫んで道に入つたでないか、われわれも小麦餅など詰まらぬ物を顧みず、シッカリ魚でも食って、面白く楽しんだのち、ユックリ清僧になればよいというのであったろう。上に引いた「わが恋は、云々」を南都解脱房詠歌と記しあるので、これは興福寺から笠置へ退かぬうちによんだもの、たぶん美童の冷情を憤った際の作と惟わる。それに、「摩羅ありとても何にかはせむ」とあるから、建久二年すなわち円観の生れ歳より九十年前、陽物を摩羅と呼びおったと知り、かりにこの歌は後人の捏造としても、この歌を載せた『真俗雑記問答抄』が成った弘長二年ごろ(円観の誕生より約十九年前)、かの物にかの称えがあったと知る。
 円観の誕生より二十七年前、建長六年に成った『古今著聞集』の興言利口部に、「この僧こそばゆさに堪えぬ者なりけるにや、おびえて身を振るうほどに、屁も糞も一度に出でにけり。穴に取りあてたる摩羅も外れて、云々」また「男いうようは、詮ずるところ、かようの口舌の絶えぬは、これゆえにこそとて、刀を抜きて、おのれが摩羅をきる由をして、懐に持ちたる亀の首を抛げ出だしたりけり」、また「いもじ聞きも敢えず、云々、これ見給え、六寸の物は、かかるようなる物かとて、わずかなる小摩羅の、しかもきぬ被きしたるを、かき出だしたりければ、君いうことなかりけり」、また「つびは筑紫つびとて、第一の物というなり。さればゆかしくて、かく申すぞと言いけるを聞きて、妻、世に易きことなり。されどのたまうこと、誠ならば、不定のことなり。摩羅は伊勢摩羅とて、最上の名を待たれども、御身の物は、人しれず小さく弱くて、あるにかいなき物なり、云々」と、しばしば陽物を摩羅と称えある。
 次に『古事談』は、黒板博士の『国史の研究』第二版(明治四一年出)一一六頁に、鎌倉初期の人、顕兼撰、と見ゆ。鎌倉初期とは、博士は平家減亡から承久役までを鎌倉幕政の第一期、承久役より高時敗死までを第二期とした、その第一期を言ったらしい。予二十七年前読んだきり、一向『古事談』を見ず。今さら通覧もなし兼ぬるが、この室(76)内にあるを幸い、西洋の児女が、『聖書』を無念無想にまくって占うごとく、手当たり次第開きみると、巻四に、稲毛重成の弟ニイの七郎が、新たに誅せられた兄の連累で、死は覚悟の上ながら、劉宋の彭城王義康や天主徒の小西行長同然、宗旨上から自殺を嫌い、天野遠景に頼んで刺殺しもらうところであった。これ元久二年のことで、承久役の十六年前だ。したがって『古事談』は、承久役以前、博士のいわゆる鎌倉時代の第一期に成ったと判った。ところをグッと安く負けてやり、承久役の当年承久三年に『古事談』が成ったと仮定しても、この書は円観が生まれた弘安四年より六十年前に成ったこととなる。その『古事談』一に、「保延元年(弘安四年より百四十二年前)四月二十五日。(中略)馬部、走り還って、敦頼を引き落とし、云々、その装束を剥ぎ取る。また牛車等も同じくこれを取り、敦頼を追い放して、その摩良〔二字傍点〕を拘《と》って、小屋に走り入り了《おわ》る、云々」。
 それから『皇帝紀抄』は、承久役の直後、鎌倉より立てられ給いし後堀河天皇の貞永元年ごろ成り、円観が生まれた年より約四十九年早い。その巻七に、土御門帝の承元元年、源空上人(後に円光大師と謚号さる)土佐に配流さる、云々。近日、件の門弟等、世間に充満し、「事を念仏に寄せて」貴賤の人妻ならびに然るべき人々の女に密通し、制法にかかわらず、日に新たなるのあいだ(毎日、湯の盤の銘に言えるごとく、新鉢に取り替え取り替え賞翫するのでなく、日を逐って新事件を生じゆくの意)、上人等を搦め取り、あるいは切羅〔二字傍点〕され、あるいはその身を禁ぜらる。女人等また沙汰あり。かつ専修念仏の子細、諸宗ことに鬱し申すの故なり、と見ゆ。切羅すなわち羅切で、川柳に「羅切してまた下になる長局」などある(『末摘花通解』初下)。
 『和漢三才図会』一〇に、「閹《あん》、また※[門/寺]《じ》、俗に羅切《らせつ》という。男勢を俗に末羅という。故に上を略して羅という。按ずるに、今また淫犯に懲《こ》りて羅切する者あり。生命に害あらず。しかれども根気おのずから強からず」。しかし羅切した者ことごとく根気弱きに限らず。明治十八年ごろ予在京中、小石川辺のある住持が、むかし女犯を悔いて羅切したるも、のち女犯の禁が解かれたので、新たに大黒を迎え、非常に短い手槍で功を奏し、子を生んだと、『絵入朝野(77)新聞』で読んだ。また外祖母より聞いたは、和歌山の一妓かつて羅切和尚に愛せられ、切り跡癒合して小突起、あたかも指先ごときを生じたやつで、長々しくこそぐらるるには、毎夜倦き果てたと、その女より聞いた、と。下谷池の端、錦袋円の始祖了翁は、羅切して大願を起こし、件の薬を売って金を儲け、諸処に経蔵を立てた功徳で、切った物も立ったとみえ、店頭に大助という美少年をマネキンとしたが、程なく死んだので、さらにそれに劣らぬ美童を、大助第二世とし、商わしめ、その色を愛する男女群来して葉を求めたとあれば、決して「根気おのずから強からず」と言うべからず。初めの大助は、和歌山の妓女同然、徹宵こそぐられて、疲れ斃れたらしい(『類聚名物考』四八)。
 宝永六年板、月尋の『今様二十四孝』二の一に、上京の富家の妻二十三で後家たり。三十一の時、十四歳なる一人娘に二十二歳の聟養子を迎え、まだ祝言を済まさぬうちに、一日下女に代わって聟に灸をすえやるうち、その美男なるに思い付き、娘を他へ嫁入らせ、養子を自分の後夫とせんと口説に困って、「命にも小判にも替えぬ男の大事の物を切り、母人へ、これで御思し召し切り給え」と進じて、思い切らせた譚あり。小説ながら、似た事実が皆無とも思われぬ。また『宇治拾遺』六章には、中納言師時方へ、煩悩を切り捨てた聖人と自称する法師来たる。これを検するに、「誠にまめやかのはなくて、髭ばかりあり」。不思議に思うて見ると「下にさがりたる袋の、ことのほかに覚えて」、二、三人して足を引き広げさせて、小童をして、ふくらかな手して股上を撫でしむると、蕈形の偉物ふらふらと起こり、すはすはと腹に打ち付けたから、主人以下、諸声に笑う。聖も手を打ちて臥しまろび笑いけり。「早うまめやか物を、下の袋へ捻《ひね》り入れて、そくいにて毛を取り付け、さりげなくして、人を謀りて物を乞わんとしたりけるなり。狂惑の法師にてありける」という大珍談あり。平安朝のむかし、往々羅切して、煩悩を除いたといい歩く者があったのだ。『素良喜随筆』三に、『遠碧軒随筆』を引いて、丹波で舎利塔と共に、青銅製の経筒様の物十二掘り出す。その一つには、三十箇ばかり、人の大指のような物の、骨はなく、肉の乾し固まったようの物ばかり、針金で貫き入れあり。何ともしれず。人の五体にかようの物なし。それ死人の家臣、殉死の代りに、遁世発心の羅切して、おのおのその一(78)物を切って埋めたものと思わる、と出ず。そんな古俗が本邦にあったものか。
 さて『和漢三才図会』に、閹すなわち羅切としたは不当だ。閹は睾丸を去り陽道を絶ったので、羅切は准閹ともいうべく、睾丸を去らねば陽道を絶ったでない。この羅切(切羅)という語が、『皇帝紀抄』に出でおれば、この語の根源たる摩羅なる語は、円観が生れ年より約四十九年早く、陽根の名としてすでに行なわれおったと証する。
 右に引いた『宇治拾遺』の作者源隆国は、別に『今昔物語』を書いた。その巻二八に、蔵人藤原範国、五位の職事で、申文を給わらんがために、陣の御座に向かいて、上卿小野宮実資右大臣の仰せを承るあいだ、殿上人弾正弼源顕定、南殿の東の妻で※[門/牛]を掻き出す。奥の方にあった実資にはみえず、範国にはよく見えたので、大いに笑う。その子細を解せぬ実資、大いに怒り出し、何で汝は、公の宣を仰せ下す時に、かく笑うぞと咎めて、その由を奏したが、顕定があまり立派な物を出したから、笑いましたと、範国は弁解しなかった。一方、顕定はきわめておかしとぞ思いける、とある。礼儀三千威儀三百の模範たるべき朝廷で、エテを露出したとは驚き入る。承平、日久しく、ヒマな役人多ければ、そんな道外劇も生じたのだ。
 室町時代には一層奇抜な例あり。呆れ返ったものゆえ、ついでに書き付くると、「永享五年四月二十二日。晴。長郷朝臣参る、云々。対面して世事雑談す。去る十五日夜、仙洞の番に参る。花山院大納言|祗候《しこう》し、月清明の間、御乗船す。和漢、言い捨てにて、天明に至るまで大いに飲む。知俊朝臣、以ての外《ほか》沈酔し、松の下に酔い臥し、前後不覚なり。私持物を引き出だして叡覧あり。面々これに緒《ひも》を付けて引っ張る。しかれども、あえて驚かず、おのおの一咲《いつしよう》す。言語道断のことなり。たちまち恥辱に及ぶ。事|了《おわ》り酔い醒めてこれを知り、諸人をして?言《こうげん》せしむ、云々。かつ不便の御沙汰なるか」と(『看聞御記』、『続群書類従』完成会版、下冊一〇八頁)。『五雑俎』一六に、王安石と禹玉と同じく朝に侍す。たちまち虱あって、安石の鬚に這い上がるを、神宗帝が顧み笑うた。安石みずから知らず。退朝する際、禹玉より聞き知り、従者をして取り去らしめんとした。禹玉いわく、軽々しく去るべからず、一言を献じて虱の功を(79)頌せんとて、「しばしば相の鬚に遊び、かつて御覧を経たり」と言ったので、安石、大いに笑うた、とあり。知俊朝臣の一物も、後小松法皇の御覧をへたので、亀頭を垂れて感泣したであろう。
 閑話休題、また『今昔物語』巻二九に、若僧が三井寺で昼寝の夢に、若い美女に合い、寤《さ》めて傍をみるに、五尺ほどの蛇が口を開いて男精を吐き死んでおった。「早うわがよくね入りけるあいだ、※[門/牛]の発《おこ》りたりけるを、蛇の見て寄りて呑みけるが、女をとつぐとはおぼえけるなり」と出ず。前の顕定が出し見せて、範国を笑わせた条にも、この蛇をし殺した条にも、※[門/牛]の字を摩羅と傍訓しある。故芳賀博士の攷証本の付録、難訓字解には、この字に摩羅と篇乃古の二訓を出しある。だが『広文庫』一八冊六三五頁に引いた『貞丈雑記』に弁じある通り、こんなことにも沿革と故実あり。近世に至り、この二名、共に陽物を指すこととなったが、古くは布久利(陰嚢)内にある睾丸を陰核、篇乃古と呼んだ。故に、『今昔物語』の※[門/牛]の字は、これを書いた時ただ摩羅とのみ読んだと知る。『群書類従』本『新猿楽記』に、閇字を篇乃古と訓ませあるもこれに同じ。
 熊楠謂う、寛永五年、策伝が著わした『醒睡笑』八に、大ふぐり持ちたる侍の、馬にて渡りたれば、雄長老、「のり鞍の前に残れる大へのこ、金ふくりんとこれやいふらむ」。寛文十二年板、『後撰夷曲集』九には、召し使う者の大ふぐりなるが、馬に乗りしをみて、「のり鞍の前輪にかかる大へのこ、金覆輪とこれもいはまし」、法印玄旨。雄長老の兄だ。寛永十九年板、如儡子の『可笑記』五には、むかし白井銀介といえる名誉の馬乗り、疝気で大金《おおきん》だった、その人、はね馬に乗ったのを落書に、「はね馬の前輪にかかる大へのこ、金ふくりんとこれをいふらむ」。いずれも陽物と陰嚢を混じたようだが、然らず、寛永・寛文ごろは、貞丈がいわゆる故実やや失われて、今日同様、睾丸(もと篇乃古、のち金玉)と陰嚢(もと布久利、今も布久利、または金玉)を両《ふた》つながら、布久利また金玉と称えたが、三首共に馬乗りのことだけあって武蔵鐙、さすがに古語の差別をことごとくまで忘失せず。睾丸と陰嚢を一括して金玉と俗称したと同時に、依然睾丸を篇乃古と称えて、摩羅という陽物と混じなかった。篇(80)乃古もと睾丸の和名だったは、『箋注倭名類聚抄』二、陰核の条にも弁あり。(また『尤の草紙』三九、座頭の持たぬは眼玉《まなこだま》、女の持たぬはへのこ玉なり。睾丸をかく言ったのだ。『醒睡笑』一、海辺の者、山家《やまが》の聟に、蛸《たこ》と辛螺《にし》と蛤蜊《はまぐり》とをおくる。物しりの出家に聞きにやるに、蛸を見て竜王のへのこ根こぎにして十ばかりと言いし、とあり。とびんを睾丸、八脚をその根と見しなり。)
 この『今昔物語』の作者源隆国は、承暦四年、七十四歳で薨ずという(故芳賀博士の攷証本、序論二七頁)。これによって、円観上人が生まれた弘安四年より、少なくとも二百一年前、陽物を摩羅と呼んだと知る。
 『大日本史』二一七に、藤原明衡は、康平年中、東宮学士たり、著わすところ、『本朝文粋』一四巻(等)あり、と記す。康平は七年続き、康平七年は、例の円観の生れ歳より二百十七年前だ。さて『文粋』の巻一二に、前雁門太守羅泰作の「鉄槌伝」あり。鉄槌は陽物のことと塙検校が言った(『一話一言』三)。雁門は支那の地名、古来邦俗、亀頭を雁首に比《たぐ》えて加理と呼ぶ。『本朝続文粋』の「陰車讃」は、明衡の子敦光が、婬水校尉高鴻なる戯号で書いた、と同検校は言った。鴻と雁は、至って近類の鳥ゆえ、八段目の紫色雁高と同意味で、高鴻という仮号を作ったのだ。明衡作という『新猿楽記』にも、十四の御許の夫は、閇大にして虹梁を横たえたるごとく、雁高くして藺笠を戴くに似たり、云々、剛きこと栗木の株のごとく、堅きこと鉄槌のごとし、とある。
 ここの閇の字を『群書類従』本に、篇乃古と訓ませあれど、当たらず。『康煕字典』に、「閇。『玉篇』に、俗の閉の字」と。備考に、「※[門/牛]。『五音篇海』に、音閉」とのみ引いて、その義を述べず。『倭名類聚抄』茎垂類二〇に、「※[門/牛]。今案ずるに、これ閉の字なり。俗人、あるいはこの字をもって男陰となし、開の字をもって女陰となす。その説、いまだ詳らかならず」とあるが、十三?知理などいうごとく、成女期に近づけば、おのずから多少開いて敵を俟つから、これに開字を宛てたので、『広韻』に閉は掩なり、『玉篇』に閉は塞なり、とあって、開いた物を掩い塞ぐ、当の敵を閉字で表わしたのだ。これは従前誰も気の付いたはずと察するが、熊楠、『古事記伝』八を繙くに、閇(閉)はタ(81)テテと読むべし。『万葉』三に、豊国の鏡の山の石戸《いはと》立て隠りにけらし。この立も闔を言えり。今世にもいう言なり。さて闔を立という所由は、師説に、上代には、戸を常は傍に置き、取り退け置きて、たてんとては、それを持ち来て立て塞ぐゆえなりと、言われき。後世の遣り戸はこれを便りよくなしたる物なるべし。ひらき戸は上代よりあり、今俗に、戸障子の類を建具と言えり、と出ず。すでに掩い塞ぐが上に、「悪日は柱ばかりをたてておき」(田辺町の亡友竜神源吉の句)という意味から、なかなか立派な建具でもある二つの立て場から、重ね重ね閉字を開字に対立させたので、その説未詳の段か、大判りである。
 また『和漢三才図会』四七に、「世俗、婦人の陰戸を隠して貝《かい》と称し、また転じて豆比《つび》という」。巣林子の『心中宵庚申』、八百屋伊右衛門老の語に、「三百戒五百戒も、つづまるところは、赤貝に止まるとの御談義、半兵衛が叱らるるも貝の業《わざ》、そなたにおれが異見するも貝の業」。また川柳に、「はまぐりは初手赤貝は夜中なり」。かの物を貝と呼ぶこと、インドや中世のドイツに、女を貝というは中世の仏国にもあった(Meyer,‘Sexual Life in Ancient India,’1930,vol.i,p.128;Dufour,‘Histoire de la prostitution,’tom.v,p.52,Bruxelles,1854)。本邦また初めは、『土佐日記』にその形を貽貝《いがい》に比したるごとく、形の似たるより、貝と号《なづ》け、のち頼政の歌に、四位と椎の仮名を混同しても、尤《とが》められぬ世となって、貝(カヒ)が開(カイ)に変わったのかと想えど、仮名遣いの正しかった醍醐天皇の御世に僧昌住が編んだ『新撰字鏡』は和漢対訳辞書の嚆矢だそうな(故白井博士の『増訂日本博物学年表』二〇頁)。それに※[尸/朱]、朱音、開なり、久保、と出ず。これは窪穴の意で、女陰だ。『日本霊異記』や神楽歌にある。
 女陰を朱門というは、支那の『義楚六帖』に引いた『広弘明集』にあり、今本の『広弘明集』になし、と狩谷?斎説だ(『箋注倭名類聚抄』二)。熊楠、黄檗版『一切経』の『広弘明集』を調べたが、朱門の字見えず。ただし、その巻六に、「ここをもって、仙童、玉女、老君の側に侍し、黄庭、朱戸、命門のことを述ぶ」と載す。仙童の後庭を黄庭、玉女の玄牝を朱戸と言ったらしい。さて同じ『一切経』中の、唐の釈法琳の『弁正論』七に、「朱門玉柱の讖」とい(82)うことあり。註に『黄書』を引いて、「朱門を開き、玉柱を進む」といいある。?斎または『六帖』の筆者が、朱戸と朱門を取り違えた誤記かも知れない。『尤の草紙』、赤い物の品々に、朱壺、朱唐傘、王の鼻か、修禅寺、さては曽曽《そそ》の真中、えいや真中と、繰り返し丹鼎を歎美しある。孔子も年増女の紫が、新造の朱を奪うを悪まれた通り、彼処《かしこ》の色、女ごとに不同なれば、ことごとく朱門と称すべからず。ただ赤きを規模として朱門と呼んだのだ。この朱門、朱戸にちなんで※[尸/朱]の字を作り、久保と訓ませ用いたのを、『新撰字鏡』に開なり、と釈いた。されば仮名遣いが正しかった昌泰のころは、彼処を貝(カヒ)でなくて開(カイ)と称えたのだ。後世にも、開茸(カイタケ)、香開(カウカイ)などいう婦人病(『北条五代記』六の二。『本朝桜陰比事』四の一。『本朝浜千鳥』五の二)、常陸国茨城郡塩子の大開観音(『雲根志』前編一)、『忠臣蔵』八段目の呪言、シシキガンカウ、ガカイ、レイニウキウ、これらのカイ、いずれも古風通り開の音でよみ、決して貝の訓でない。
 『塵添?嚢抄』五に、ある鈔物にいわく、和泉式部、無双の好色なりけるに、亥の子の夜、御歌ありけるに、態と心を合わせられければ、瘡開《かさつび》という名を式部取り当て、「筆もつび、ゆがみて物のかかるるは、これや難波の悪筆《あして》なるらん」とよめり、あし手とは、字にて絵をなすと注せる物あり、云々、と見ゆ。この話は後世の捏造だろうが、それが行なわれた足利時代に、女陰をもっぱらツビとよび、開の字でこれを表わしたと証する。(『古事談』二に、「頼光朝臣、四天王等を遣わして、清監(清原元輔男)を打たしむ。この時、清少納言、同宿にてありけるが、法師に似たるによって殺さんと欲しけるの間、尼たるの由言わんとて、たちまち開を出だす、云々」。これなどは字音でカイと訓んだであろう。)
 話題が話題だけに、大分挿入れ談が長くなったが、例の狩谷?斎説に、「※[門/牛]。俗に閉の字とす。『竜龕手鑑』に見ゆ」と。この書は遼の僧行均が、聖宗の統和年間に編んだらしく(『箋注倭名類聚抄』二。『欽定四庫全書総目』四一)、統和はすべて二十九年、円融天皇の永観元年より一条天皇の寛弘八年に及ぶ。前にもちょっと述べた通り、※[門/牛]の字は、(83)『正字通』等、支那の諸字書に見えず。『康煕字典』には、その音のみを記して、その義を解かず。しかるに、弘仁年間すなわちもっとも少なくとも、『手鑑』より百六十年前、奈良薬師寺の僧景戒が撰んだ『日本霊異記』、すでに※[門/牛]の字を載せ、万良と訓ませある。惟うに、この字は、遼代より早く、六朝とか初唐とかに俗用されおった閉の字で、弘仁以前本邦に伝わり、もっぱら陽物に宛てて通用されたものだ。
 『和名抄』に、「俗人、あるいはこの字をもって男陰となし、開の字をもって女陰となす。その説、いまだ詳らかならず」とあるを漫読して、当時日本で、開※[門/牛]すなわち開閉の二字を陰陽の具に宛てて用い初めたと心得る人もあらんが、予壮年のころ、かつて本邦へ来たことなき広東人と多く交わったが、その輩みな陽物をレン(どんな字か知れず)、女陰をハイと称え、聞と書いた。陰陽交接を辞書通りに、コピュレイションなど言っては、無学な英米人に通ぜず。普通の書籍にみえぬながら、プッシュとかフォクとか言わば、小児、庸婦にも判る。それと等しく、隋唐のむかしは、支那の俗衆、陰陽両具をもっぱら開閉の二字で書きもし話しもしたと察する。さて、おいおい閉字の俗態たる※[門/牛]や閇の字を、特に陽物を指すに限り使うを、聞き取り写し取った当年のモダーン邦人が、揚々として用いはやらせたので、正しい支那字書にみえぬものの、決して日本の俗人が謬り用いたでも使い始めたでもないとは、右述ごとく、隋唐のさい日本と往復の繁からざりし広東人が、今も女陰を開と呼ぶので確証さる。紀海音の劇曲『八百屋お七』上、八百屋久兵衛夫婦が、「恋になく子を引っ立てて、母が繰言《くりごと》、ねすり言、はて何としょう、もういやんな、なり物類なら何にても、たばうて虫は入るまいに、肴屋ならねば、はまぐりの、口のあいたは是非ないと、呟きてこそ立ち帰る」。『笑林広記』術業部に、「稍公《せんどう]死す。閻王、他《かれ》を判し、変じて陰戸となす。稍公服せずしていわく、およそ物みな做《な》るべきに、何すれぞ独り陰物に変ずるか、と。閻王いわく、単《ひと》えに?《なんじ》が、開《ふなで》すれば開を会《よく》し、擺《ふねこぎ》をすれば擺を会《よく》し、またよく揺《うご》がし、またよく擺《ゆす》るを取るなり」とは、和漢等しく女陰を、開くことの象徴とせるを示す。
 また徳川時代にヘキという俗語あって女陰を意味した。例せば、元禄三年板『真実伊勢物語』二の二に、業平、ろ(84)うさいの甚介なる者を訪い、このあたりに色名所はありやなしや、ついでながら武蔵の国に聞き及びし、関宿という処をみたしと問えば、亭主、赤面して知らずという。時に船頭、われらよく存じたりとて、深川の八幡の島の私娼窟へ案内し、武蔵のヘキ宿はこれにて候、と言った笑譚あり。『未刊随筆百種』七所収、元禄ごろ板『傾城百人一首』に、「すみ町のヘキによる名のよからずや、恋の通ひ路人目うくらん」。明和七年、近松半二等作『萩大名傾城敵討』九、周防の国、川崎の在はずれ、お蘭という女が独り住む宅へ、関所破りの男を捜索にきた、鼻くた男ぐだ六が、関破りの科人といい得ず、ヘキ破りのひょが人という道外場あり。安永九年板、立川焉馬の『客者評判記』(豊芥子の『岡場遊廓考』、品川の条に引く)に、九尾狐の殺生石から思い付いた殺生ヘキという奇語を出だす。また『女大楽宝開』は安永ごろの板行という(明治四十五年七月出『此花』凋落号、外骨氏説)、それに四季の歌、冬、「色埋むかきねの雪のはだへぞと、年のこなたにヘキを梅が枝」。『源語』若菜、「夕闇は道たどたどしヘキ待ちて、やがてわがせこ入れてつきみむ」。『実語教』、「ヘキはこれ一生の宝、身を構わねば共に滅する」など、開の字をヘキと訓じ、多く用いある。
 十六世紀に仏国で、男女の秘部に四百の名があったという。それと比すべくもあらねど、支那字と和製漢字に、その方に当て用いられたものがずいぶん多い(Dufour,‘Histoire de la prostitution,’tom.v,p.76,Bruxelles,1857;『箋注倭名類聚抄』二。『柳亭記』上。『金曽木』所載、岡田氏「二根弁」。国書刊行会本、『松屋筆記』九四巻、一一五頁)。
 中に就いてもっとも広く用いられたは、女陰を意味せる開の字で、それよりまた新字を生じた。通草の実が、爛熟せる一件に酷似せるより、今も金沢辺で、幹後のかの物と、通草実の殻を「いとこ同士やらよく似とる」と唄う由。されば『新撰字鏡』に、開字に草冠を加えた字を出し、※[草がんむり/開]開音、山女なり、阿介比、と書いた。大蔵卿行宗へ琳賢が栗と通草実を遺って、「いがくりは心弱くぞ落ちにける、この山姫のゑめる顔みて」。道命阿闇梨、和泉式部と同車して行くに、道命、始終後向きておったから、式部、などかくはいたるぞ、と問うと、「よしやよし昔やむかしいがくりのゑみもあひなば落ちもこそすれ」とやらかしたと等しく、果物成熟しておのずから開きかかるを人の微笑に比べ(85)たものだ。アケビなる名は、開玉門(アケツビ)のツを略してできたという、事ほど左樣によく似ており、それが半ば開くをみて、怖ろしげなる荊栗も、たちまち久米仙然と高い枝から落ちたと詠んだのだ。『新撰字鏡』にまた、通草、神葛、また於女葛、と釈く。実を山女(また山姫)、またアケビ、その葛を神葛とも於女葛とも呼んだのだ。只今澆季の世、皆人陰相をみれば、内心十二分に随喜渇仰しながら、左右に気を兼ね、オコゼのごとき顔して、卑猥の至り、俺は大嫌いなど詐《いつわ》るが、むかしの人はきわめて律義で、これありて、しかる後にわれ産まれ、これあればこそ、山中三軒屋もすれば都で厶《ごぜ》やすのーこれこちの人と、恭敬頂礼して、神と崇めたから、女陰相ある果を生ずる葛を、神葛と称えたのだ。さて『藻塩草』に、通草をまた仙女草と書いて、ツブクサと訓ませある由。古く女陰をツビといい、今も十津川等で然《しか》いう。斉一変して魯となるごとく、ツビ一変してツブとなる。今も但馬で女陰をツブと名づくる由。(宮武省三君『習俗雑記』一九三−一九六頁。『古今要覧稿』三三五。『古今著聞集』好色第一一。『梅園日記』一。『古名録』二一)
 於女葛また同じ意味の名だ。吾輩かつて『看聞御記』永享四年十二月七日の条に、「そもそも新女官めこ初めて参る、云々」とあるを見て、そのころめこという名の官女があったより推して、女陰を於梅居と呼ぶは、それより後に始まったと察しおった。(『越前名勝志』に、今立郡目子が嶽、ある神書にいわく、目子媛を祭る山なり、つの人か知れぬ。)この語は、吾輩不幸にして、徳川時代にできた『覚後禅』の傍訓に多く用いられた外に、文政二年ごろ起稿と言わるる『浪花聞書』に於曽々と於梅居を女陰なりと注しあるを知るのみ。だが上方の俗間にいと広く行なわるる語で、あまり新しいものと惟われぬ。
 徂徠の『南留別志』に「みとのまくわいという詞、みとは、めおとなり、夫妻ということなり。まくわいという詞、今も田舎にてめぐす〔三字傍点〕というなり」と記す。『類聚名物考』四に、「みとのまぐわい、事は男女交合のことなれども、語の起こるところは、男女互いに相見かわせるより言い出でしならん、云々。これ繋相の男女相挑の恋情なり。目をば、まということ常の例なり。目を見合うことを、今も俗に目くばせというに同じ(下略)」。しかし相挑の恋情から、目(86)をちょっと見合うぐらいのことでなく、初媾艶羞、四眼相定視するの状によった詞だろう。マグワイからメグ、それから梅居と変わったものか。また『金曽木』に載せた岡田多膳の「菩々説」に、国によりて女陰をメメという、と。近畿で、小児は目をメメという。
 女陰を目に似たと見る例、諸方に多く、インドで、帝釈、その師瞿曇の妻を慕い、その夫の不在に乗じ、往ってこれを犯し、方《まさ》にわずかに雲収まり雨散じた、ところへ瞿曇帰り来たり、すなわち妻を呵して石に化し、帝釈を閹にし、またその体に千の陰相を現出せしめて衆人に恥をさらさせた。のち諸神これを憐れみ、水に浸して、陰相を眼に変じたので、帝釈を千眼と号け、無智の輩は千眼を一切智の表示と心得おる。今もインドの帝釈像の顔から頸、両手まで、眼とも陰形ともみゆる物を、痘瘢ごとく画きある(Gubernatis,‘Zoological Mythology,’1872,vol.ii,p.280:Wilkins,‘Hindu Mythology,’1913,pp.53-61)(『菩薩本縁経』三。智者大師『金光明経文句』一)。本邦仏教の神像にも、額に縦開した※[さんずい+謠の旁]眼、すなわち陰相の眼を臭うる者あるは、『大菩薩峠』の神尾主膳の条々で、皆様承知だろう。またイノメとて、斧に陰相の目を彫り付け魔除けとする。支那でも、「生平いまだ女色に近づかざる者あり。陰物はこれ何《いか》なる様範《かた》なるかを知らず。人に向かってこれを問う。人いわく、すなわち一隻《ひとつ》の眼睛《まなこ》を豎《たて》に起てるに像《に》たるものすなわちこれなり、と。この人|牢《かた》く記して心にあり。一日、嫖興たちまち発す。妓館のいずこにあるかを知らざれば、ついに街頭に向かって間歩す。一《ある》眼科の招牌《かんばん》の上に、眼の様《かたち》を数隻《いくつ》か画き、たまたま横放《よこだお》しにしたるに撞見《であ》う。もって、これ必ずや妓家ならんと為《おも》う。内に進《はい》り、その来意を道《い》うに、医士大いに怒り、叱ってこれを逐《お》う。その人いわく、すでにこれ妓館ならざるに、何すればこの許多《おおく》の ※[尸/穴]の様を※[手偏+(横目/去)]《なら》べて外面にあるや」という譚あり(『笑林広記』一)。
 かく目と陰と相似たところから、女陰をもメと呼んだが、それでは目と間違いやすい。よって於と居を添えて敬愛を示し、於梅居と称したのかとも考えた。しかるに、遠く醍醐天皇の時、陰相の実を結ぶ通草を、於女葛と称えたを見、於梅居なる称は、メグや目より出たでなく、全くこの於女と源を同じくすと判ずるに及んだ。記紀共に女をメと(87)読み、『和名抄』には女字の条なきも、巻一の男女類だけにすら、婦人(タオヤメ)、娘(ムスメ)、少女(オトメ)、姫(ヒメ)、寡婦(ヤモメ)、専(トウメ、オサメ)、孕婦(ハラメ)、産婦(ウブメ)、潜女(カズキメ)、遊女(ウカレメ)、巻七には雌(メトリ)、牝(メケモノ)と出で、メはもと女性の総称だ。それに、隋の独狐后が雲昭訓を阿雲、唐人が武后を阿武婆と謂ったように(『撈海一得』下。『類聚名物考』一一二)、音便とか愛敬とかより、オとコを加えて、於梅居となったのだ。
 それが女陰の称となったは、いつごろよりと見当が付かねど、吾輩壮時まで、上方で婚姻の筵席で、必ず唄うた十二月の手鞠唄は、「天和・貞享のころ、浪華新町の廓中繁昌の節、太夫天神に、行儀躾方を教うる師の作りし物とて、紋日名寄にて、一ヵ年の年中行事を集めしものなり」(『皇都午睡』初編上)。その神無月の条《くだり》に、「亥の子餅とて、大人も子供も、御命講のあたりを(五夜も十夜も)抱いて貰えば、ほんに誓文、強いお方じゃ」。御命講は、日蓮が死んだ日で(「ちりめんのおめこ紬の十夜かな」、「おめいこや女中の法華けふばかり」など句あり)、露水が『新式』に、「みえいこうというべきを、春の弘法大師忌を御影供といえば、紛るるゆえ、ミエの反メなれば、めこうというなるべし。それを俗に謬り、御の字をさえ添えて、おめこうという。おめは重言なり。みあかしをおみあかしという類なり、といえり」(『華実年浪草』一〇)。『虚実柳巷方言』中に、十月十三日御影講とあるのがこれだ。この御命講に繋いで、「抱いて貰えば、云々」と綴ったから、天和・貞享ごろ、大阪ですでに、玄牝を於梅居と号けあった証左歴然とくる。しかし、天和以前にこの語があった証文をいまだ見出だし得ず。さればそれより上って永享ごろは、まだ女陰を於梅居と称えず。したがって当時、めこという名の女官があっても、ただ女子という本義のままで、女陰を連想するに及ばなんだだろう。
 さて、ずっとむかし醍醐帝の昌泰中、於女葛という通草の和名があったが、これは通草の実が開くと女陰に似るから、それにちなんでこの草を女の象徴を具うる葛の義で女葛(メカズラ)、それに音便とか親愛とかの上よりオを冠ら(88)せたまでで、後世|出来《でき》の於梅居と直接の関係はなかったと断ずる。
 於女とか御命講とか書き続けて、頭が上《のぼ》せ眼が舞ってきた。ユダヤ字母のアレフ(仏教の阿字)の一字の義を説くに、千年立っても尽きぬと聞いたが、開の諸号は、元旦から除夜まで説いても説き果てない。とにかく、初め支那で女陰に俗用された開の字が、本邦でまた通草実を指す※[草がんむり/開]の字を新出するほど、盛んに行なわれ、開字にちなんで、漢字また和製の漢字に、陰陽両具を指す門構えの多くの字ができた。上述のヘキなる俗語も、普通に開の字に傍訓されたが、闢は開なり(『説文』)、「男は感じて堅強となり、女は動じて闢張す」(『房内記』乾巻所引『素女経』)などの義で、もと闢の字から出ただろう。さて開や闢に対した閉の俗字たる閇の字を、陽物の意味で、藤原明衡作という『新猿楽記』に用い、同じく閉の俗字たる※[門/牛]の字を、『今昔物語』に摩羅と傍訓せるを見ると、明衡も閇の字を摩羅と訓んだので、さてこそ明衡が著わした『本朝文粋』の「鉄槌伝」に麻良の字あり、その作者(羅泰)の姓を摩羅より採って羅としたと判る。前にも言った通り、明衡は康平中の人で、康平の末(七)年は、初めて「摩多羅神を持ってきて、本尊として淫祠的教義を伝うるに至った」と、竹本氏が言われた円観上人の生れ年より二百十七年前で、そのころはや摩羅が陽物の名だったのだ。
 ここにまた、発端に述べた『稚児之草紙』以上に皮肉なことがある。高田与清の『擁書漫筆』二に、応永九年と天文十八年の写本を校合して出した「太秦牛祭絵詞」に、「摩陀羅(すなわち摩多羅)神を敬祭し奉ること、偏えに天下安穏、寺家泰平のためなり。これによりて長く遠く払い退くべきものなり」とて列ね挙げた諸意の内に※[門/由]風という病名あり、マラガサと傍訓した。この詞は恵心院源心僧都作という。『元亨釈書』四に伝ある慧心院僧都源信のことで、寛仁元年、七十六歳で遷化した。たぶんその前にこの「絵詞」が作られただろうが、円観の誕生より、少なくとも二百六十四年前、摩多羅神の祭とともに、摩羅という陽物の名もあったので、摩多羅神を円観が本尊と立ててのち、陽物に摩羅の名ができたでないと確証する。
(89) 『広文庫』一五冊一一八頁に、『本朝医談』を引いて、斯邦の書、女陰に開※[門/也]、男には※[門/牛]※[門/由]の字を用ゆ。応永九年、太秦牛祭の文に※[門/由]風という病名あり。『老人雑話』、氏郷の父は臆病の人なり、その時、俗間の小歌に、日野の蒲生殿は陣とさえいや下風起こる、と。『師語録』にいわく、世に下風とも、へのこ風ともいう、睾丸に筋連なって引きつり痛むなり、とある。文明十八年筆、『類聚文字抄』七、諸病並医薬部に、水※[門/田]ミズフグリ、『新撰類聚往来』(『柳亭記』上に、永禄九年作ならんという)中に※[門/田]フグリ、と出ず。※[門/田]は※[門/由]の誤写か。これらを合わせ考うるに、※[門/由]の字、初めは摩羅、後世へのこ(睾丸)またふぐり(陰嚢)に宛てて用いられたのだ。へのこは、もと睾丸を指す名だったことは、上に弁じた。
 それから『倭名類聚抄』は、醍醐天皇の延長年間、源順朝臣が、第四の皇女勤子内親王の命を奉じて撰進し、上天文より下草木に至るまで、汎く事物の名称を類聚対訳して、文字の出所を考証注釈したもので、その巻二、形体部の茎垂類に、「玉茎。男陰の名なり。『楊氏漢語抄』に※[尸/果]という。(和名)破前、一に麻良という。今、『玉篇』等を按ずるに、※[尸/果]は臀骨なり、音は課にて、玉茎となすべき義見えず」とあり。?斎の『箋注』に、「破前は、『本朝文粋』鉄槌伝および『新猿楽記』に見ゆ。『古語拾遺』に、男茎形を乎波世加多《をはせかた》と訓す。麻良もまた「鉄槌伝」に見え、引くところの『玉篇』、今本も同じ。按ずるに、破前、麻良と訓する※[尸/果]の字は、疑うらくは尸に従い、裸の省声に従える皇国の諧声字ならんか。しかれば、すなわちこの※[尸/果]の字はまさに音は裸なるべし。けだし麻良の省なり、云々」とある。熊楠、「鉄槌伝」をみるに、本伝に磨裸、第二論に摩良に作る。延長の年号は八年続いた。かりに『和名抄』がその末年に成ったとしても、円観の誕生より三百五十一年前、すでに陽物を摩羅と呼びおったと知る。
 『日本霊異記』は、嵯峨天皇の弘仁年間、南都薬師寺の僧景戒作る。その巻中に、「聖武天皇の御世、紀伊の国|伊刀《いと》の郡桑原の狭屋《さや》寺の尼等、願を発し、かの寺において法事を修す。奈良の右京の薬師寺の僧|題恵《だいえ》禅師を請じ、十一面観音の悔過《けか》を仕え奉る。時に、かの里に一の凶人あり、姓は文《ふみ》の忌寸《いみき》なり。(字《あざな》を上田の三郎という。)天骨《ひととなり》邪見に(90)して、三宝を信ぜず。凶人の妻は、上毛野《かみつけの》の公《かみ》大椅《おおはし》が女《むすめ》なり。一日一夜に八斎戒を受け、参りて悔過を行ないて、衆の中におり。夫、外より家に帰りて、見るに妻なし。家人に問うに、答えていわく、参りて悔過を行なう、と。これを聞きて瞋怒《いか》り、すなわち往きて妻を喚ぷ(『紀伊国名所図会』三編二巻に「妻を呼ぶ」に作る)。導師これを見て、義を宣《の》べて教化す。信受《う》けずしていわく、無用の語たり、汝、わが妻に婚《くなが》わば、頭《かしら》、罰《う》ち彼《わ》らるべし、斯下《しげ》の法師よ、と。悪口多言して、具《つぶさ》に述ぶるを得ず。妻を喚びて家に帰り、すなわちその妻を犯す。卒爾《にわか》に※[門/牛]《まら》に蟻著きて嚼《か》み、痛み死す。刑を加えずといえども、悪心を発し、漫罵して恥じしめ、邪婬を恐れず、故に現報を得たり、云々」と出ず。さて文中の※[門/牛]の字を、万良と注しある。弘仁の末(十四年)にこの書が成ったとしても、例の円観の誕生より四百五十八年前、はや一件を万良と呼びおったこと、歴然たりだ。
 それからはるか神代に遡って、『古事記』、天の安の河上に神集いの処に、鍛人天津麻羅あり。『書紀』綏靖巻に、倭鍛部天津真浦、『旧事記』、饒速日命の天降る御供の神の中に、倭鍛師等が祖、天津真浦、また物部の造等が祖、天津麻良、中略、麻羅は一神の名にはあらで、鍛工の通名なるにや、この名のみは、神とも命ともいわぬを思うべし、『姓氏録』に、大庭造は、神魂命八世の孫、天津麻良命の後なりとあり、また饒速日命十二世孫、麻羅宿禰という人もみゆ、と宣長は言った(『古事記伝』八)。熊楠謹んで按ずるに、鍛人はカヌチと訓むべし、金打ちの義、と宣長は言った。鉄槌もて強く金を打つから、親譲りの鉄槌も必ず強いという意で、鍛人を麻羅と名づけたのだ。さしも妖艶絶世のヴェヌスが、玉面のアポルロ、軽快なメルクリーに聴かず、その他美容に富んだ諸神を打ちやって、汗に染み、煤に汚れた跛鍛工、ヴァルカンを夫としたは、よくよくよい処に執著したのだ(Burton,‘The Anatomy of Melancholy,’i621,pt.iii,sec.2,mem.2,subs.2)。それと等しく、神代上世の麻羅という名は、自他の形容称、あたかも勝教の第二十四祖をマハヴィル、禅家で釈尊を大雄と称えたようであろう。大物主命も、そんな意味の名らしく、その女に富登多々艮伊須々岐比売命、また応神天皇の御孫に意富々杼王あり。継体天皇の大御名袁本杼命、「持統紀」に土師連冨(91)杼あり(『古事記伝』三四。『広文庫』一八冊一四一頁所引、『古史伝』)。これらの名については、種々と弁論あり。今日知り得べからざる由来もあらんが、富登多々良伊須々岐比売命の御名の由来は、史に明記あり。高貴の名に富登と付くることもあった証拠に立つ。類推して、麻良は卑猥の物なれば、神や貴人の名に付くるはずなく、天津麻羅、麻良宿禰等の麻良は、陽物以外の何物かだろうなどの説は通らぬと知る。富登、富杼、共に男女の陰の通称だ(『古事記伝』五)。
 かくのごとく陽物を摩羅と称えたこと、遠く神代、上世より、弘仁の『日本霊異記』(円観の誕生より、少なくとも四百五十八年前)、延長の『倭名類聚抄』(同事より、少なくとも三百五十一年前)。源信作の「太秦牛祭絵詞」(同事より、少なくとも二百六十四年前)、藤原明衡の『本朝文粋』の「鉄槌伝」(少なくとも二百十七年前)、藤原隆国の『今昔物語』(少なくとも二百一年前)、承久役ごろ成った『古事談』(六十年前)、貞永元年ごろ成った『皇帝紀抄』(約四十九年前)、建長六年成った『古今著聞集』(二十七年前)、弘長二年ごろ成った『真俗雑記問答抄』(十九年前、それに出た解脱房の歌が真作なら、建久二年ごろの物で、約九十年前)、それから元亨元年に写した『稚児之草紙』(円観四十一歳の時の物)と、すべて十一例を挙げた。これで陽物を指す摩羅という名は、円観上人よりはるか昔から存在し、決して上人が、摩多羅神を本尊と祀って、淫教を弘めた後に、摩多羅を約してできたでないと十二分に判る。
 「『摩羅考』について」の拙論ここに了《おわ》る。已下《いか》摩多羅神について、多少述べよう。
 『塩尻』四六にいわく、「摩訶伽羅天(大黒天神、本地大日)、その妙用一ならず。なかんずく三面六臂の相あり。これ陀祗を降伏す。これ夜叉の形相を現じて、一切妖鬼魔類を伏せり。また摩多羅神と称す。(三面六臂は戦陣を護り、一面両臂は福祥を与うと、云々。摩多羅、これは女なり、諱日諸天に七母神あり、これ主となる故なり(諱日以下誤字あらんか、もとのままに写し出す)。七鬼神と化して疫を行ず。故に密家摩多羅の修法して、疫病を禳う、秘あり。)わが国摩多羅の神像、?頭を蒙り、鼓をうつ容なり。三輪大黒の像も、六臂の内、その本手は鼓をうつ有様なり。しかれ(92)ば、摩多羅と大黒一体なることしるし。台家には、摩多羅神の本地を阿弥陀とす。慈覚大師、入唐帰朝の時、船中に現形し、誓って引声の念仏を守護せり。故山門常行三昧堂に、この神を祀れり。よって本地身を西方教主とす」と。『塩尻』一八に、「摩多羅神の法は、外法という僧あり。されども、広沢流の真言書にその法あれば、伝来久しきこととみえ侍る」。久しく見ないから、訳経の字音のことは、ほとんど忘れ果てたが、『大明三蔵法数』四六に、二十種の小乗外道涅槃を述べて、「第十二外道、摩陀羅論師。この外道師、那羅延論師に説いていわく、われ一切物を造る、われ一切衆生の中において最勝なり、われ一切世間の有命無命物を生む、われに従《よ》って生を作《な》し、また彼処《かしこ》に没するを、名づけて涅槃となす」。『雑宝蔵経五』に、識騫稚と名づくる摩多羅天子が、健闥婆王の女、修利婆折斯を妻《めと》らんと求めしことあり。同六に、月氏国王の三智臣は、馬鳴菩薩と、摩咤羅大臣と、良医遮羅迦と、とある。『大方広菩薩蔵文殊師利根本儀軌経』一八にいわく、「また恒河南岸の大野の地および吉祥山中にあるは、これ羅刹烏多迦餓鬼、および悪形にて障難を作《な》す者、摩多?等、乃至《ないし》大悪の星宿、人命を害する者、かの人身に変じて彼中《かしこ》の語を作すもの、云々」と。これらをみると、なるほど摩多羅はもと仏教外の物で、後に仏教に取り入れられたらしい。ただし『塩尻』三に、『不空羂索神変真言経』諸品に、曼拏羅神、曼拏羅天神、曼拏種々真言明神などの名あり。「私いわく、これけだし摩多羅神なり」とあるが、どうも曼拏羅と摩多羅は、字音がちがい、同神でなさそうだ。
 『東宝記』にいわく、「東雄夜叉、本地文殊、西雌夜叉、本地虚空蔵、二夜叉、倶に(弘法)大師の御作なり。(東寺)中門の左右にあり、摩多羅これなり。雌雄一対の摩多羅神を、二王同然、門側に立たせ、悪鬼を禦がしめたのだ。太秦広隆寺も、三論兼真言宗で(『山州名跡志』八)、天下安穏はもちろん、さし当たり寺家泰平のため、この神を祭って、凶災、邪殃を払い却《しりぞ》けたとみえる。ここに不思議なことは、辱知水原堯栄師の『邪教立川流の研究』全篇を通じて、摩多羅神の名が、少しもみえない。
 『仏教大辞彙』一巻三九〇および一〇八六頁に、「円観は叡山の律僧(中略)、出家して興国和尚に師事し、円頓戒を受(93)く。後伏見天皇、花園天皇、師に就いて受戒せらる。正中二年奏請して、坂本西教寺の廃頽を興して、円頓戒を伝う。もっぱら意を浄土教に傾け、念仏を修行す。後醍醐天皇、師を禁中に召して円頓戒を受け給う。尋いで光厳天皇、光明天皇、また師を請じて受戒せらる。すなわち五朝国師の号を賜う。円頓戒中興第二祖と称せらる。また古老に質して、山家相承の口伝法門を整理し、玄旨感頂血脈の口訣を伝え、『天台感頂玄旨』ならびに『玄旨帰命壇法〔六字傍点〕』の二書を伝う。かくて玄旨感頂血脈の法、大いに世に流布するに至れり。しかるに、彼と親交ありし小野の文観は、真言の一派立川流を大成し、大いに婬祀的妖教を鼓吹して、害を四方に及ぼせり。その影響ついに天台に波及し、神聖なる玄旨帰命壇法〔十字傍点〕は、ここに婬祀的傾向を帯び来たりて、かの叡山常行三昧堂において、念仏三昧道場神として祭られし摩多羅神を本尊とし、諸種の珍談奇説を伝うるに至れり」と述べ、次に元禄二年、安楽院の霊空、『闢邪篇』を著わし、同七年これを公刊して広く天下に訴え、義士一件に名高き公弁法親王、大いにその言を嘉し、天台一宗に厳令して、玄旨壇一派の教義を禁じ、関係の典籍を一切火に付し、積年の邪教を絶滅した次第を述べある。
 この文を読むに、竹本氏が、南北朝のころ、円観が「この尊かるべき玄旨感頂血脈の法門に、インチキ坊主が考案せる立川流を混じて、比叡山常行三昧堂において、念仏三昧の道場神として祀られていた摩多羅神を持ってきて、本尊として、淫祠的教義を伝うるに至った」と言われた通りの事実なく、円頓戒中興第二祖と称された円観が伝えた神聖なる玄旨帰命壇法が、立川流に感染して、婬祀的傾向を帯び来たりしも、円観在世以後のことで、摩多羅神を本尊として種々の猥説を伝えたも、円観の関知したものでなく、その身後のことと察する。
 予五、六歳の時、亡父は和歌山市で金物屋を営み、おびただしく古書を二束三文で買い入れ、その紙で鍋釜を包んだ。その中に幼な心に銘して忘られない奇異の板画があった。近年水原師の著書を得て、その一三〇頁に対する敷曼陀羅の図版を見、即座に幼時みた板画は立川教の物だったと知った。されば立川教の図書は、明治六、七年までは、紀州などに行き渡りおったのだ。また母の生家は一向宗だったが、その家の仏壇の引出しに、茶枳尼天《だきにてん》の曼陀羅とて、(94)『山海経図』にみるような、羽翼ある異態の鬼形を多く刷り込んだ小さき巻物あるを見、貰い置いたが、只今和歌山の蔵中に有無は知れない。こんな物を禁制の一向宗徒にまで、こんな物が弘まりおったのだ。
 それから明治三十年、ロンドンにあった日、京都の骨董商藤田弥助氏が、パリで売れ残った諸品を持って来たのを予が買った内に、宅磨風の筆で画いた一幅あり。中尊は大忿怒相の夜叉で、鷲のような翼を張り、形状天狗のようだが、隆鼻も鳥喙もなく、その前の両側におのおの五つの鬼形が立つ。もっとも中尊に近く、その右側に立った奴が、鉢を中尊に献じ捧げ、鉢内に公家風の若い男女が相向かいおる。もってこの画幅が、エロ的教で崇拝されたと知るに足る。その鉢を捧げた奴の下位に、忿怒相で荷葉に乗り、髪を被り、フンドシ裸で、右手に槌を持った鬼形立つ。大黒天だろう。諸国から集まった学者どもに問うたが、似寄った鬼名さえ語り得る者がなかった。今惟うに立川流の媒色神の像であったものか。これは常備品とする約定で、大英博物館へ寄付し置いたから、宗教廊に今もあるだろう。そのころ予時々法衣に九条の袈裟という出立で参館し、人々を煙に捲いたので、一昨春七十三で死んだチャーレス・リード男が、南方阿闍梨寄贈と書き付け、陳列しおった。その付け札のまま今も展覧しあるなら、この男は遠のむかしに大俗に還り、今志道軒など呼ばれて大悦し、於梅居の御命講のと説き廻り、始末におえぬ大スッパなりと、館員に話されたい。
 さて『会津風土記』(『続々群書類従』八所収、九〇二頁)に、大沼郡高田村なる伊佐須美大明神、「古来、神殿に、伊弉諾・伊弉冊二尊の像あり。一木に二尊を刻み、人身鳥首、長嘴大耳にして、両頭相交わり、手をもって相抱く。長さ四寸八分なり。三月二十五日祭礼」。これも翼があったのだろう。エロ的歓喜天様の像らしい。『奥羽観跡聞老志』一〇に、栗駒山隣の赤沢山頂に、鉄仏あって両翼を負う、土人これを天狗仏という、と見ゆ。これまたエロ的の飛天夜叉像かもしれぬ。水原師の「立川流聖教目録累蒐」中に、『飛行自在の法』、『鳥翅法経』、『鳥神経秘訣』など鳥にちなんだ書名若干あり。『続南方随筆』四一九−四二一頁に、多少法螺雑りに訳出した Cowell,‘The J?taka,’vol.iii,pp.(95)123-125に、釈尊の前身金翅鳥王たりし時、美少年に化して、ピナレ城に入り、王后を?み去って、竜島に居続け淫楽した譚あり。『根本説一切有部毘奈耶雑事』二九に、梵授王が、その妃妙容女の貞操を全くせしめんがため、金翅鳥王をして昼間これを海島に隔離し、毎夜王宮に伴れ来たらしめて歓会した話あり。
 こんな物から立川流で、鳥神が人のために、男女を拉し来たって媒介するなど説いたものか。予が博物館へ寄贈したは、その鳥神およびその眷属の絵像と想う。その眷属中にあった大黒天らしいものと、摩多羅神の関係等について予は一切知らず。前に述べた通り、水原師の著書には摩多羅神の名がさらにみえぬ。「聖教目録」中に、『摩多体文口』というのがあれど、これは摩多羅神に関せぬことと察する。そのうち水原師に聞き合わそうと存ずる。どうも摩多羅神を本尊とした台徒の玄旨帰命壇灌頂は、水原師が攻究する立川教の影響を受けたものの、それとは別派のように想わる。『広文庫』一八冊、摩多羅神の条に引いた『空華談叢』に、この神の崇拝につき、ずいぶん詳説しあるも、一言の立川教に及ぼせるを見受けぬ。
 『類聚名物考』(この条ある巻が、自蔵本に不足ゆえ、『広文庫』一八冊六三五頁より引く)に、「陽物をまらという云々。梵語なりという人あれども、左にはあらず。梵和似たることは、はなはだ多けれども、暗合なり。『翻訳名義集』に、「魔羅。『大論』にいわく、秦にて、よく命を奪う、またよく智恵の命を奪うと言う、また翻《ほん》して障となす、修道のために障礙を作《な》す、云々、あるいは悪者と言う、愛欲多きが故に、と」この文を引きて、陽根は一切の障りこれより起こるというの証とすれども、これは魔王のことにていう(中略)。まらは稀なり。客人をまれびとというも、賞翫の意なれば、婦女のための客人という意なるべし」。蜀山の『奴師労之《やつこだこ》』に、青楼にて、客人権現の宮を信ずるもおかし、山王二十一社の客人権現は女神なり、青楼に女客は入らぬものなり。この客人の宮あたりより思い付いて、婦人のために、摩羅は稀人などとでち上げたとみえる。
 陽物を摩羅というは和梵暗合とは名説だ。手近い二、三の梵語辞典をみるに、陽物の梵名に、摩の字で始まったは(96)一つもない。強いて言わば、亀頭を摩尼という一つのみある。L.R.Vaidya,‘The Standard Sanskrit−English Dictionary,’Bombay,1889,p.570 磨羅(マーラ)をみると、(一)殺生、故殺、(二)反対、障碍、(三)愛の男神、(四)愛念、情熱、(五)チョウセンアサガオ(毒果)、(六)仏経の悪魔、と英訳を出す。陽物という訳はさらに見えぬ。(また『方広大荘厳経』七に、「王舎城辺に一仙人あり、摩羅の子にて烏特迦と名づく」。『経律異相』四に、如来滅して、「諸末羅、種々の供養に集う。また一日を竟《おわ》り、仏舎利をもって牀の上に置く。諸末羅の童、牀を挙ぐるに、みな勝《た》うる能わず」。これらは人名もしくは部族の名らしい。)(『古今図書集成』辺裔典一〇七、南方未詳諸蛮国、「『三才図会』を按ずるに、馬羅国は、異宝生脳香を出だす、と」。)例の『古今著聞集』に、南都の一生不犯の尼、ついに醜声を立てず、臨終も見事だろうと人々が言いたるに反し、病重くなり、小僧一人請じて念仏を勧めたところ、それは申さで、磨羅のくるぞや、磨羅のくるぞや、と言って終わった、とある。これは陽物のことに相違ないが、さすがは一生不犯だけあって、陽物は成道の大障碍をなすということをも心得おり、恐怖のあまり、心乱れてかく言ったらしい。
 磨羅なる梵語から、摩羅なる陽物の邦名が出たというなら、上に引いた六訳義のうち、愛の男神、愛念・情熱の二義によってこそ説くべきに、もっぱら南宋の紹興十五年成った『翻訳名義集』を引き、また多くは孫引き、曽孫引きして、「よく命を奪う」、「よく智慧の命を奪う」、障碍、殺者、悪者等のこむつかしき義に資《よ》り、いと遠廻しに、魔王の品性をもって、陽物の品性に押し当つるは、鑿せるもはなはだし。紹興十五年は、近衛天皇の久安元年で、上田三郎が、受戒中の妻を拉し帰り、やにわに犯した仏罰で、天徳寺の和尚然と、蟻に※[門/牛]を咬まれて死んだ話を載せ、信切に※[門/牛]の字を万良と註まで入れた『日本霊異記』が成った弘仁の末年より、三百二十二年の後だ。その他、陽物を摩羅と書いた『倭名類聚抄』、「太秦牛祭絵詞」、『本朝文枠』、『今昔物語』、いずれも『翻訳名義集』前に筆せられた。後の雁が先になることはあるべし。後に知れた語意を、先人がよく知って陽物に命名し得んや。ただし『名義集』に釈(97)くところ、主として姚秦の弘治七年(履仲天皇の末年)羅什が訳した『大智度論』に拠る。これは陽物を摩羅と書いたすべての邦書よりも古いと言わんか。しからば、それよりもはるか古い、わが神代や上世に、麻羅を名とせし者を何とか説かん。そのころまだ成りも渡来もせなんだ経論を味わい、魔王の品性をもって、深慮熟考して、陽物に押し当て、命名し得たはずがない。だから、陽物の名と魔王の称と、相似たは暗合なり、と言った『名物考』の説は正し。
 終りに臨んで一言するは、北宋泯びて、金国よりその跡に立てられ、一月あまり楚帝と号した張邦昌の婿、南宋の廉布は、墨竹の画を善くした(『古今図書集成』氏族典三七三)。その著『清尊録』は、抄せられて『説郛』据明鈔本、一一にあり。それに珍談を載す。いわく、「鄭州の進士崔嗣復、貢に預って都に入る。都城を距《さ》ること一舎にして、僧寺の法堂の上に宿す。方《まさ》に睡らんとするに、たちまち連声にてこれを叱る者あり。嗣復、驚き起きてこれを視れば、すなわち一物の鶴のごとく、色蒼黒く、目は炯々《けいけい》として燈《ともしぴ》のごときが、翅を鼓《う》って大呼すること、はなはだ氏sはげ》し。嗣復、皇恐《おそ》れて、これを廡《ひさし》の下に避くれば、すなわち止む。明日、僧に語るに、対《こた》えていわく、もとこの怪なし、ただ旬日前、柩を堂上に叢《おさ》むる者あり、おそらくはこれならん、と。嗣復、都下に至り、開宝の一僧のためにこれを言う。僧いわく、蔵経にこれあり、これ新たに死せる屍の気の変ずるところにして、陰魔羅鬼と号《なづ》く、と。このことは王磧《おうせき》侍即の説けり」と。(享保十七年刊『太平百物語』五の四二には、この話を山城国西の京にあったことと作りおる。)陽物に関することならねど、名が誂え向きにできおるから、摩羅なる名は陰摩羅の略など唱えぬよう、予戒しおく。   (昭和九年十一月『ドルメン』三巻一一号)
 
(98)     蓮の花開く音を聴くこと
 
 六月の本誌三〇頁に、「また四十五年前、三好太郎氏話に、夏の早朝、大阪の城隍へしばしば相場師が来て、水に臨んで喫煙しながら、蓮の花の開くを竢ち、その音を聴いて立ち去った、と。それを聴いて何にするかを聞かなんだ。子細のあることか。識者の高教をまつ」と書き置いたが、一向高教は出なんだ。ところが今(十一)月十五日、弘前市の広田博君より次の通知を受けた。
  愚生の母方の祖母から、幼時より聴きましたこと、その祖母は万延元年の出生、七十歳で、五、六年前死去(昭和四年死)、出生地は南津軽郡黒石町(津軽家の御分家の居城地)です。
  一、蓬の開花の音を聴けば、蓮の台に上ることができる。すなわち、死後地獄へ堕ちず、成仏ができると言い伝えられ、また、
  二、それを聞けば必ず、その人一代の開運は必定である、と申しおりました。
  よって愚生たちも少年時代までは、この地津軽公の、現に公園となりおる贋場園の壕や、市内革秀寺池の蓮花の開くを見、かつ聞きに、早朝、夜もろくに明けぬうちから出掛けて往ったもので、目下はどうかよく知りませぬが、愚生の幼時までほ、それを視聴する人たちで、濠も池も一杯だったことは、絶対間違いのない事実でありました。でありますから、愚見を述べますと、相場師などには、持ってこいのお呪いで、縁起をかつぐのでないかと推察しますが、死んだ老祖母から聴いたことは、必ず記臆違いなく、確信しております(下略)。
(99) (次便に上原敬二著『風景雑記』七四頁にも記載あり、とあれども、その詳を得ず。)
 これは予にあっては未聞を聞いたもので、深く広田君の厚意を謝し奉る。付いてはいささか最寄りのことどもを書き付けて同君等の参考に供えんに、まず王文公は、「蓮華、日光を得て、すなわち開敷《ひら》く」といい、李白は、「日は新粧を照らして水底に明らかなり」、葉夢得は、「暁の日に初めて開き、露いまだ晞《かわ》かず」、申時行は、「水?《すいしや》は文?《なみ》に臨み、晨曦《あさひ》は暘谷《ようこく》より出ず。宛たりかの芙蓉《はす》の花、嫣然《えんぜん》として初旭《はつひ》に媚《なまめ》く」とも、「粧|凝《こ》って朝日の麗《うるわ》し」とも詠じ、葉受の「君子(蓮)伝」には、「君子、時《しばしば》は見えず、盛夏に東日《あさひ》の方《まさ》に興《のぼ》るごとに、衣を振るいて起立《た》つ」と作った。かく蓮花と旭日を組み合わせた句が多いから、その咲く時の音を聴いた紀事を捜したが、支那書にちょっと見当たらぬ(『?雅』一七。『広群芳譜』二九と三〇。『古今図書集成』草木典九六)。ド・ヴェールの言に、白蓮花は旭日と倶《とも》に開き、日没と同じく閉ず、と。古エジプトの旭神ネフェル・テムは、毎朝蓮花より出たといい、インドの日神スリアは紅蓮に坐して、神母は二手おのおの蓮花を持って蓮に坐するなど、みなこの訳によるとみえる(Friend,‘Flowers and Flower Lore,’1884,vol.i,p.350;Budge,‘The God of the Egyptians,’1904,vol.i,pp.520,521;Wilkins,‘Hindu Mythology,’3rd impression,1913,o.33)。かく日出時に、蓮花咲くと知った民は、同時にそれが音を発することをも知りおったはずだ。『古今図書集成』草木典九八に、『武城県志』、「蓮池、洪花口にあり。人伝えて積水窪となす。むかし、たちまち蓮花を生ず。のち暮夜、雨に遇い、人ここを過ぎてその香を聞《か》ぐ。また?々《そくそく》の声あるを聞く。故に名づく」とある。『正字通』にも『康煕字典』にも、?は「密茂の貌《さま》」、元?の「連昌宮の辞」に、「風動いて落花紅きこと?々たり」とみゆれど、ここの?は?の誤字か。これは「風の声《おと》の勁疾《はげし》き貌《さま》」、鮑照の「蕪城の賦」に、「?々《そくそく》として風|威《たけ》し」と出ず。この蓮花池はもとドブ溜だったが、雨夜たちまち蓮花が生じ、香を放ち、また、その葉や茎を風が吹く声を聞いたというので、決して花が開く音を指したでなく、『集成』同巻に、『青州府志』、「蓮花池は玉交里の中にあり、莽蕩《もうとう》として際《はて》なし。青き萍《うきくさ》の環《めぐ》り覆い、紅と碧の交加《いりまじ》り、蓮の蕊《はな》は勝《まさ》れるを争い、爛漫として霞のごとし。(100)しかるに、たちまちあれどたちまち没《な》く、沂《き》の盛衰を兆《きざ》す。あるいはその霊気あるかと疑うという」と言えると等しく、いわば蓮の幽霊だ。
 さる昭和三年十二月三十一日夜、予、日高郡妹尾にあって、大雨中に十八町ばかり山中を歩むうち、深谷に臨んだ道側の雑木が、たちまちことごとく満開せる梅林と化け、一天微雲だになく月さえ渡った。しばらく歩を駐めて観れば、依然として大雨中にあり。歩み出すとまた月夜の梅林が現じた。(『古今図書集成』考工典四二、『広東通志』、「恵州の白沙観音堂にて、尼媼、婦輩を偕《ともな》って飛雲の頂上に登り寓目す。一《ひとり》の女あり、徒歩にして来たり、伴《つれ》を離るることやや遠くして、たちまち堂々たる大路を見る。花木、道を夾《さしはさ》めり。歩《あし》に信《まか》せて行くに、絶処《ゆきどまり》にて、懸崖万丈なるに一の小さき橋を跨《か》けたるを見る。木石の作るところにあらずして、鉄の状《さま》のごとし。険なればあえて渡らず。首を回《めぐら》して伴を招けば、前《さき》の迹《あと》を見ず」。)宿に著いてすぐさまそのことを詳記したのを平沼大三郎氏に送り、今に保存しもらいある。人間の記臆はどれほど正しく続くものかを他日検査するためにだ。深山に住んで精神異変を起こし、こんな目に幾度も逢った自分は、『武城県志』や『青州府志』の記事を虚談とは決して思わぬ。しかし、『古今図書集成』同巻に、『花史』、「宋の元嘉六年、賈道子、荊の上《ほとり》を行き、芙蓉《はす》の方《まさ》に発《ひら》かんとするを見て、取って家に還る。花の声あるを聞き、尋ねて舎利を得たり。白きこと真珠のごとく、?《かがや》きて梁《うつばり》と棟《むなぎ》を照らす」とあるは、咲く時でなくて、咲いた後に声を出したので、それが舎利感得の予告とははなはだ怪しく、さらに怪しきは、『杜陽雑編』より引いた一話で、いわく、「元載、嚥P《うんき》の堂を私第に造る。嚥Pの前に池あり、ことごとく文石をもって砌《みぎり》とす。その岸の中に碧き芙蓉《はす》あり、香|潔《きよ》くして、??《かんかん》(蓮花のこと)は常のものよりも偉《おお》いなり。載、暇日なるにより、欄に憑《よ》ってもって観るに、たちまち歌声を聞く。響《こえ》は十四、五の子の唱うがごとし。その曲は、すなわち「玉樹後庭花」なり。載、驚異《おどろ》けど、所在を知るなし。審《つまぴ》らかにこれを聴くに及び、すなわち芙蓉の中なり。俯いてこれを視るに、喘息《あえぎ》の音《こえ》を聞く。載、これを悪《にく》むことすでにはなはだしく、ついにその花を剖《き》りしに、一も見(101)るところなし。すなわちこれを秘《かく》し、人に説かしめず。載、戮《りく》を受くるに及びて、逸《のが》れし奴、平廬の軍卒となり、故にその実を得たり」と。その次には蓮花から美女が出て、毎度士人と交会した話を『北夢瑣言』より引きおる。これには唱歌のことはないが、その女と相狎れ、別荘を幽会の所となしたとあれば、定めて死にます、死にますなんてうなっただろう。よって蓮花がこの怪音を出したと仮定して、ここに列しおく。(インドのコンカンで、蓮のある湖に水魅が棲むというも、蓮を化物くさく心得た民全くなきにあらざる証拠だ(Enthoven and Jackson,‘Konkan Folk-Lore Notes,’Bombay,1915,p.14)。本邦でも、胎盤がよく似おるから、堕胎児の霊が蓮の葉笠を着たように現わるなど言ったらしい(『好色一代女』六の三)。)
 『正字通』申集上、蓮の字の条に、「白居易、「忠州の木蓮」の詩の序にいわく、予、臨?《りんきよう》の白鶴山寺に遊ぶに、仏殿の前に両株あり、高さ数丈にして、葉堅く厚きこと桂のごとく、中夏に花を発《ひら》けば芙?《はす》のごとく、香もまた酷似す、花|拆《さ》くる時に声あり、と」。只今予が知りおる花開く時、声ある由を明記した例はこればかりだ。本邦のモクレンゲも、花さく時音を出すか知らぬ。当田辺町の老女に聞くに、幕政時代にこの地の城隍に蓮満ちたり、老女そのころ年も二八か二九からぬ娘だったが、その父毎旦早く起きて、蓮花の開く音を聞きに出で、これを聞くと気がさっぱりすると悦んだ。自分も二度随い往ったが、蓮が多いから暁方に開く音がパッパッと連発し、城壁に響いて著しく聞こえた、と言った。早起きして静かな隍辺へ通うと、自然養生法にも叶い、心神爽快を覚えたのだ。そこへ御定まりの蓮は諸仏の座で、極楽の花と幼時より浸潤しおるから、ありがたくもうれしくも感じて、自然これを聞かばきっと成仏するの、開運必然のという俗信を生じたと考える。
 さて時計や晴雨計を持たぬ所では、草木を観察して時や天気を察知した例多し。朝顔、昼顔、夕顔等、その名のごとくその時に開き、西洋でもオシロイ花を、開く時にちなんで四時(フォワ・オークロック)と呼ぶ。蒲公英(タンポポ)は、本邦で朝開き午《ひる》以後萎むというが、欧州では、毎朝五時に開き午後八時に閉じるから牧童の時計とし、また晴雨(102)計たり。晴天にその種子の毛が展開し、雨天には閉じ合うからだ。アネモネの花弁、また雨や夜の前に捲き上がって睡る。ルリハコべは雨近づけば必ず花を閉じ、午後二時ごろ定まって花萎むから、英国の古諺に、その徳聞き尽しがたく、述べ尽すべからずと言い、貧者の晴雨計と俗称さる。(Friend,op.cit.,vol.i,pp.232,837,338.『和漢三才図会』
一〇二。Folkard,‘Plant Lore,Legends and Lyrics,’1884,pp.309,494)
 明治三十五−三十七年のあいだ、予、那智山に住んだうち、しばしばコアカソ(方言ガニクサ)の葉は、夕五時に凋れ垂るときき、試みるとほぼ然りだった。ざっとこんな理屈で、知らぬむかしは蓮花の開くを見て、時刻や天候を察したのが、相場師に伝わり、その秘訣が忘られ、あるいはことごとく信ぜられぬに?《およ》んだ後も、相場師は、信心連同様、静かな城隍や池塘に早起きして往き、蓮花の開く音を聞きながら、心を澄まし、落ち著いて、種々の奇計神策を煉ったことと祭する。
 終りに一言するは、古来朱門を蓮花に准《なぞらえ》えたことで、たとえば、『仏説秘密相経』下に、「その時、世尊大|毘廬遮那《びるしやな》如来、金剛手菩薩摩訶薩を讃えていわく、善きかな善きかな金剛手よ、汝、今まさに知るべし、かの金剛|杵《しよ》の蓮華上に住《とど》まるは、利楽の広大にして、饒益《にようやく》して諸仏の最勝の業《ごう》を施作せんと欲するがためなるを。この故に、かの清浄なる蓮華の中において、金剛杵その上に住《とど》まる。すなわち彼中《かしこ》に入って金剛を発起し、真実|持誦《じしよう》す。しかる後に、金剛およびかの蓮華の二事、相撃ち、二種の清浄なる乳相を成就す。一は金剛の乳相と謂い、二は蓮華の乳相と謂う。二相の中において、一大菩薩の善妙の相を出生す。次いでまた一大菩薩の猛悪の相を出生す。菩薩の現ずるところの二種の相は、ただ調伏して一切の衆生を利益せんがために、ここより一切の賢聖を出生し、一切の殊勝の事業を成就す」などとあって、最後に「世尊大|毘廬遮那《びるしやな》如来、すなわち偈を説いていわく、快きかな妙楽にして上あることなし。諸有《もろもろ》の正士《しようじ》は、まさに修むべし。今この秘密妙法門は、罪に染むある者はまさに受くべからず。秘密なる蓮華、こは無上なり。金剛は喜戯してかの法に即《つ》く。金剛と蓮華の教えもまた然り。すべて毘廬遮那の智を摂《おさ》む」とある。上(103)文によれば金剛嬉戯は和合出生の義だそうな。欧人中には邦俗春蘭の花を陰陽結合した物と見て、ジイサン、バアサンと唱うるごとき考えで、蓮華をもって陰陽和合の像と見る説もある(e.g.,Westropp and Wake,‘Ancient Symbol Worshop,’New York,1875,p.73)。しかし、上に引いた経説もあり、蓮華が陰唇裏に花心を見する状を呈すれば、その陰相たるに止まり、陽相を兼具せざるは明白だ。
 (だが、『蕪村俳句類聚』に、「オメイカウの蓮やこがねの作り花」の句あるを見て、例尅を金の蓮に比したよう思っちゃいけない。これは「『摩羅考』について」に述べ置いたごとく、日蓮が死んだ日を御命講と呼んだのである。『侍児小名録』に、「五代の時、一《ひとり》の僧あり、至聡禅師と号《なづ》く。祝融峰に修行すること十年にして、みずからおもえらく、戒行具足して誘掖するところなし、と。いくばくもなくして一日、下山して、道傍に一の美人の紅蓮と名づくるを見る。一瞬にして動じて、ついに与《とも》に合歓す。明《よあけ》に至り、僧起きて沐浴し、婦人とともに化す。頌あり、いわく、有道の山僧、至聡と号《なづ》く、十年、祝融峰を下らず、腰間に積《たくわ》うるところの菩提の水を、紅蓮一葉の中に向かって瀉《そそ》ぐ、と」。偶然ながら、美女の名が紅蓮とあったので、『秘密相経』の意に合う。また、仏経から出たか否は知らず、蓮を女具に比せること支那の小説に少なからず。『古本批評三世報』一一回、浮浪青年沈子金が天下の名娼李師匕に会う条に、蓮房高簇。)
 
 蓮花を陰相とするについて、まだまだ述ぶべきこと多きも、紙数限りあればこれを略し、いささかこの人身の蓮花の開く声を聞く民俗について説こう。けだし西洋でも、処女膜を処女花と唱え、医法学上破素行為を破花と呼ぶ(Ellis,‘Studies in the Psychology of Sex,’vol.v,p.138,Phila.,1927)。
 これを聴いた記事は、まず『日本霊異記』中に、聖武天皇の御世、大和国十市郡菴地村の大富人鏡作連の女、万《よろず》の子《こ》という美人が人に嫁ぐ、「その夜、閏《ねや》の内に音《こえ》ありて、痛きかな、と言うこと三遍《みたび》なり。父母、これを聞きて相談《かたら》(104)いていわく、いまだ効《なら》わずして痛きなり、忍びてなお寐《い》ねん、と」。明暁、その女の母、戸を叩けど答えず。開きみれば、頭と一指のほかはみな食われあった、と出ず。初婚に新婦が「痛きかな」と呼ぶは、万里同風で、『笑林広記』一に、「一《ひとり》の秀才、新たに娶り、夜分、就寝し、新婦に問うていわく、われ雲雨を欲するも、知らず、娘子《じようし》の尊意、允《ゆる》すや否や、と。新人《はなよめ》いわく、官人の心の欲するところに従わん、と。士いわく、すでに俯允《ゆるし》を蒙《う》けたれば、請う、娘子、股《あし》を展《ひろ》げ肱《うで》を開けよ、学生、礼なく、また礼なからん、と。事を挙ぐるに及び、新婦いわく、痛きかな痛きかな、と。秀才いわく、徐々にこれを進むれば、渾身|通泰《やすらか》とならん、と」と。同書二に、「寡婦あり、人に嫁《とつ》がんとして重聘《じゆうへい》を索《もと》む。媒《なこうど》いわく、再?《さいしよう》は初婚と同じからず、誰か肯《あ》えてかかる高価を出ださん、と。婦いわく、われはなおこれ処子なり、いまだかつて身を破らず、と。媒いわく、限見《あきらか》に人に嫁ぎ過《ゆ》きて孤孀《やもめ》となれるに、那箇《たれ》か肯《あ》えて信ぜん、と。婦いわく、われ寔《まこと》に相瞞《だま》さず、先夫の陽具は渺《びよう》小なりき、故に外面の半截のみ、すなわち重婚なりといえども、裡辺《うち》は寔《まこと》は処子なり、と」。実際、破膜せずに事を了し、はなはだしきは妊娠するもある由(Ellis,ut sup.,p.139)。こんな女は挙事の際、半分痛むと言わんか。
 『牡丹奇縁』は小説ながら、その第一〇回、魏玉卿が学生中、隣家の美人卞非雲にほれ、合格授職の後、その依然処子たるを娶る叙事に、明朝時代の新婚秘俗を精写しあるゆえ、手当たり次第、相似た諸国の事例と駢《なら》べて写し出そう。
  「玉卿は、すなわち双手《もろて》を把《も》つて腰を抱き、忙ぎ  鋳積《とこ》に扶《かか》え上ぐ。衣を解くの際《とき》、見れば燭火《ともしび》明亮《あかる》くして、ただ皓《しろ》き体の輝きを呈し、並《まつた》く毫毛の点ずるなきを見得《みた》り、云々。」
 玉卿はかつて卞家の婢を頼んで、非雲の裸浴を覗いたことあるから、ほぼその様子を知りおったはずだが、エジプトの回徒にあっては、新婚の夜、新夫が新婦の顔を初めて見る直前、顔見せ料若干銭を渡し、さて否《いや》がるのを強いてその顔を露わし視て、「神様辱けない、今夜お目出とう」と祝うと、新婦も、お目出とう、と祝う。さて婿が嫁の衣を剥ぎ、襦袢裸にして、その下都を展げ、その上で行なうのだ(Lane,‘The Modern Egyptiams,’1860,Everyman's (105)Library ed,p.177 )
 『大和物語』に、内舎人《うどねり》なりける人、大三輪の御幣使に大和国に下り、井手《いで》辺で、美しい女児が抱かれて一行をみるを認めて、呼び寄せみると末恐ろしい尤物だったから、ゆめ異男《ことおとこ》し給うな、われに会い給え、大きになり給わんほどに参りこんと、一件の予約し、これを形見にし給えとて、帯を解いて取らせ、その児の帯を取って去った。女児はその時六、七歳だったが、そのことを忘れず、男は多情の者ですぐ忘れ了《おわ》った。爾来七、八年して、その女児十四、五歳になり、昨今の紅葉然と色づいてきた時、その男、また同じ役目で、同じ所に宿った、とまであって、跡は?《あぶ》が尻に留まったごとく、闕文とは残念だ。しかし南方大士、竜猛直伝の神通もて洞知するに、この女はむかしの約束を忘れず、男の帯を後生大事と肌に巻き、その一端を彼処《かしこ》に挿み込みおり、君ならずして誰か解くべきと、摺り付けられて男も気がつき、「慾火、禁じがたくして、一丈高く」、直ちにその帯を解いて一儀に及ばんとしたが、前年取り去った女の帯を示さぬうちは、雨風吹けどもまだ解かぬ、まだ解かぬ、ナンテ一首よんだというような咄であったろう。
 コイツはあまりアテにならぬが、やや似たことが古ローマにあって、新夫が新婦と営生するには、必ずまず新婦の帯をきわめて解けがたく結んだ、いわゆるヘルクレス結びを解き果たすを要した。今もアンジラでは(と知った振りで書くものの、地図を捜してもどこか分からず)、侍女が新婦の下紐をこむつかしく結んだ七つの節を解かぬうちは、いくらあせっても新夫が幹事し初め得ぬ(Westermarck,‘The History of Human Marriag,’5th ed.,1925,vol.ii,p.465)。
  「この時、玉卿は魂を蕩《とろ》かし意《こころ》迷いて、耐不住《こらえきれず》、云々。非雲は、哀声にて痛しと喚《さけ》び、鬢髪《びんはつ》ともに鬆《みだ》る、云々。」
 初婚に新婦が痛しと喚ぶは万里同風なるは上に述べた。鬆は髪乱と『康煕字典』に出ず。ここには非雲が新夫に抗して髪乱れたとしたらしいが、外骨氏説に、本邦古画に乱髪の女が露身せるは、これを下敷きにして行なうた体多し、とあったと記臆す。モロッコの諸部族、多くは新婦乱髪で帯なしに新夫の室に来たり、スラグ諸氏もまた新婦は髪を(106)乱し、ポーランドのある部分では新夫が新婦の編髪を解くという(Westermarck,ut Supra)。
 「非雲は、一身に冷汗を?出《にじま》せ、気力すでに竭《つ》く、云々。」
 『法苑珠林』九二に、晋の武都の太守李仲文、在郡中十八歳の娘死せるを仮葬した。のち仲文、官をやめ、張世之が代わった。「その子、字は子長、年二十、侍従して厩中にあり、一《ひとり》の女《むすめ》(仲文の死んだ女)、年十七、八ばかりにて、顔色の常ならざるものを夢む。みずから言う、前《さき》の府君の女なり、不幸にして早く亡《し》に、たまたま今まさに更生《よみがえ》るべし、と。心、相《たが》いに愛楽し、故に来たって相|就《つ》く。かくのごときこと五、六夕にして、忽然として昼に見《あら》わる。衣服薫香殊絶にして、ついに夫婦となって寝息《やす》む。衣にみな汗あり、処女のごとし」とある。処女が新枕の節、全身に汗をかくものか。このことを『続南方随筆』七八頁に記したのを見て、北京大学の誰かが、オレイクワモスという戯号で、汗でなくて?だ。破素の出血で衣がみな?《けが》れたことだ、と示された。しかし、恐怖して破身のさい一身より冷汗を出すは、『牡丹奇縁』非雲の記事にもあり、『源語』源氏が紫の上と新枕の条にも、「思いの外に心うくこそおわしけれな、人もいかに怪しと思うらんとて、御ふすまを引きやり給えれば、汗に押し浸して額髪もいとうぬれ給えり」とあれば、汗とみる方宜しかろうと思う。
 明治三十二年、米国ミシガン州アナバー市で、松平康国艮に聴いたは、岡本保孝、極貧ながら蔵書はなはだ富めり。一旦家計迫って、止むを得ず、書籍ただ一箱を売ったというから、それでは何の足しにもなるまじ、いかほどの価の物ぞと問うと、たった千両との答えに、聞いた人仰天した。常に傘を吊り下げ雨洩りを禦いで読書した、と。このこと逸聞らしいから、忘れぬうちに書き留めおく。その著『難波江』二に、『狭衣物語』巻一上、うとましかりつるかしらづきに慣れつらんかしと思えば、なお心つきなけれど、云々、物ぎたなく、疑わしかりつる?《いのり》の師の、心清きも見顕わしては(これは狭衣大将の御意に、初には飛鳥井姫君を疑いて、威儀師に親しく慣れつらんと思《おぼ》したるが、左にはあらざりけりと、思しうることのありしなり)。『取替ばや物語』巻四、いかなりけることぞと、なま心おとりも(107)しぬべきことぞまじりたるや、大臣《おとど》のあながちにもて離れ、あらぬさまにもてなししもかくてなりけり、云々。むげに浅墓なる若き人だちなどにやあらんと、口惜しけれど(これは帝の内侍督に忍びて遇い給える時に、世慣れてありしを思しわくことのありて、かく思しめすなり)、とある。(西鶴の『武家義理物語』六の二に、天正中、伊予の合戦に討死した人の幼女を護って東都に立ち退いた忠臣が、七十余歳になり、二八ばかりに成長した故主の娘は諸人の執心うたてく、表向き夫婦同様に暮らしおった。一夜、身に誤りのなきことは後日に相知るる御事あり。……この美女御寵愛の御枕の晨《あした》、なおなお身の曇りを去って、月の都の只中に住み給いぬ、とある。後日に相知るる御事、また御枕の晨身の曇り去るとは、処女膜がかの御事に御寵愛のその夕べまで厳存せしを指したのだ。)
 かく、皮想の見解の輩は、処女膜の存否を、男を知ったか否の試金石のごとく主張するが、すでに支那の小説『金瓶梅』二五回にも、女児が鞦韆《しゆうせん》より滑って、板に一件をすり付け損じた、のち人に嫁がしむると、これは素女でないとて逐い帰された話あり。種々の怪我と病気、また幼少より指を入れて洗うために、早くこの膜を失うこと多く、また膜の性質によりたびたび交会しても破れざるあり。はなはだしきは妊娠せるに膜全きも、一双の朱唇万客嘗むる遊女で、膜破れぬもある(Tardieu,‘Étude médico-légale sur les Attentats aux M?urs, ’Paris,1859,pp.52-58;Ellis,op.cit.,vol.v,p.139)。故に処女膜の存否は、かつて男と関係した、しないを証明せず。西諺に、空を飛ぶ鷲と、岩を這う蛇と、大海を渡る船と、男が○に入れた、この四つの跡は知れがたいとは十分の道理あり(Mouchot,‘Dictionaire de l'amour,’Troyes,1811,tom.ii,p.21)。
 大迦葉尊者、妙賢女を娶り、共に清浄行を修むること十二年、迦葉、仏弟子となって、妙賢は無衣外道に帰し、その端正無比なるがゆえに、五百無衣外道に犯さる。のち迦葉、妙賢が王舎城に来たるに逢い、その容貌の変われるをみて、すでに破素されたと知った(Schieffner,‘Tibetan Tales,’1906,p.203)。『好色五人女』一の三に、清十即、女どもが獅子舞見に、立ち去った幕の内でお夏と戯れたのち、一同伴れて姫路に帰る、「思いなしか、はやお夏腰つき扁(108)たくなりぬ」とあるが、五百人にもしられたら、姿で分かるは知れたこと、お夏は「その年十六まで、男の色好みて、今も定まる縁もなし」とあるから、その時まで素女だったか、はなはだ疑わしく、腰つき扁たくなったは、幕の内での早業に疲れてか、破素された徴候か、判然せぬ。すべて素女を識るの法、煩わしきまで世に伝うるが、多くは奇怪で実行難く、要は甲斐でみるより駿河一番、額髪もいとうぬれるほどなら、まずは素女と推尊して可なりと惟う。
  「玉卿は、また忍耐不住《こらえがたき》を覚え、すなわち披靡《はて》て泄《もら》す。羅?《てふき》を取り出だしてこれを視るに、ただ猩紅の乱れ点ぜるを見る。ついに侍婢を呼んで、これを笥匣《たんす》に蔵せしむ。原来《もともと》この晩、他《か》の二人の叙話《ものがたり》より雲雨の際に至るまで、了音・婉娘・小玉(玉卿の三妾)、ともに房《へや》の外にあって窺い聴く。前々後々、聴説《ききとど》けざるなし、云々。」
 明治十二年ごろ、紀州日高郡の一村に住んだ予の従兄が、二里ほど距たった村より妻を迎えた。当日午後、予の叔父が、他数人を率い、嫁を伴い、件《くだん》の村へ来る途上、諸村の男女老若道側に待ち受け、争うて嫁の顔に近づき覗き、騒ぎが烈しくて、叔父はほとんど死ぬる思いをなした、と語った。それはそれでよいとして、さて、その夜お定まりの床盃がすみ、いよいよ嫁御が死ぬる段になって、叔父がやや遠方から偵《うかが》うと、怪しむべし、新夫婦のみ籠った新築の離れ屋の、ぐるりの石垣に、いくらともなく横さらう角鹿の蟹様の物が取りつき這い廻る。近く往ってみると、その村はもちろん、小山を一里ばかり越えた他村の者どもまで、その離れ屋を取り巻き耳を側立《そばだ》て、屋内の音を聴くので、剽悍な輩は小川を渉り、石垣に攀じ付いて争い聴き、かわるがわる下り帰って、今の息は長かった、これからどうするらしいと、俟ち構えた群衆に報じ誇る。中には六十過ぎた老人も少なくなかった、と叔父が予に語った。また、那賀郡の某村に、「山吹も巴もみえぬ木曽路かな」という、山吹にも巴にも劣らぬ勇婦があった。それが嫁入った当夜、挙村聴きに往くと、久しく闃《げき》として声なかったが、初夜過ぐるころ、新婦の声が明月と共に澄み渡って、ハーエーと聴こえ、さて暁近くなるまでもまた一声を聞かず。たぶん件の嬌音と倶《とも》に寝入って了《しま》ったらしいとの噂、それよりその女をハーエーの某様と崇め、新婦の典型と仰がれたまう。ハーは心の真底から出る感動詞、エーは善いの義、あら(109)嬉しや、うましおとこに遇いぬなど長たらしく言わず、夜の九時に及んだ駒鳥のごとく、ただ一声してすなわち已んだ、勇婦の最期ぞ潔き。
 詩体饒舌、『広文庫』二冊に『屠竜工随筆』を引いていわく、犬張子には汚穢の物を入るることとも言い、諸礼者流には、小さき小袖などを入れて、児の守りなりと言いて、取りとめたる説もなきに、かの火酢芹命の御子孫、隼人等、御垣を守りて狗吠するより事|発《おこ》りて、内裏には狛犬《こまいぬ》据えられ、后宮御方にも、またこま犬のあること、清少納言が記に書し、それに随いて、狗の顔したる張子を翫《もてあそ》びと出来たるを、女の方に伝えて、嬌きたる翫器となりし。また幼き児に、紅睛を付くるを犬の子といい、児の泣くを犬の子、犬の子とてすかすも、その心ばえなるべし、と。これでは混雑千万で何のことか分からず。『類聚名物考』には、溺器《にようき》のよう記しあれど、陶製の物あったと聞かぬ。『日本百科大辞典』を見るに、同じ犬張子の名で異製異用のものが種々あったらしい。大英博物館にあった日、張子製に金銀泥や碧朱燦爛と彩色した物あって、書籍を調べても何の用に宛てたか判らず。書上げに困《くる》しんだところへ、津田三郎氏(海軍大佐、日露戦争前にベルリンで客死す)が来たり、だから学者は世間に通ぜぬ、これは新婚の夜、「シルシ」の血を拭うた紙を入れおき、翌日、父母舅姑が、蓋を取って検視する物だ、と教えられたので、ンナールほどとへこたれ、それからまた、例の東西の諸例を引き合わせて、できるだけ長文を認《したた》め、大分お礼を受けた。近年まで紀州串本港では、漆器の匣を婚夜、新婦と倶に婿方へ届けおき、翌朝婿方より返し来たるを、嫁の母が検して、安心または心配する習いだった。いわゆる「われたのがお里へ響くおめでたさ」だ。
 『女用訓蒙図彙』上には、犬張子一双を雛道具の次に図す。雛遊びはもと女子に、成人後、人の妻たり母たる道を学ばしめた戯れ(『骨董集』上編下前。『日次紀事』三月三日の条。『昔々物語』考え合わすべし)、故に新婚の当夜まで、素女たりしを証するに必要な犬張子を、その道具中に入れたのを、女児どもに問われて白地《あからさま》に説明しがたく、守りの厭勝《まじない》のと種々牽強したので、これを犬形にしたは、辟邪のためたること、旧説通りだろう。牝牡二匹を置くは、婿がわれ嫁(110)を破素したというに、嫁はされなんだと言い争うような時、検証のために、双方の身を拭うた物を、おのおの別に収め置くを必要としたに因る。仏説にも、比丘あって、「舎衛城に入り、次いで乞食《こつじき》を行なう。一家《あるいえ》に至るに、一《ひとり》の女人あり、比丘に語っていわく、このことをなさん、来たれ、と。答えていわく、われ比丘の法としてこのことをなすを得ず、と。女人いわく、もしこのことをなさざれば、われまさにみずから傷つけて身を破り、大いに喚《さけ》んで比丘強いてわれを牽《ひ》いて行欲すと言うべし、と、云々」とある(Tradieu,op.cit.,p.52.『摩訶僧祇律』二四)。(『古今図書集成』礼儀典三六、『性理三書図解』、「男女初めて婚するとき、今俗に人家にては、女《むすめ》の母|同《とも》に房《へや》に入り、果と酒をもって婿に礼し、素帛《しろぎぬ》一幅を用《も》って、これを婿の袖中に置く。これを交親という。婿はこれを拝受し、厥明《よあけ》にもって女の貞潔を験し、はなはだしきはすなわち伝えて人に示す者あり、今、江淮《こうわい》多くこれを用う。士大夫といえども、また変うる能わざるところあり。けだし塵俗に淪《しず》んで、これを覚《さと》ることなきなり。その嗤《わら》うべきやはなはだしとなす。いずくんぞ風教を?《きずつ》くるあらざらんや」とあるが、この書のできた以前に、この物の記事はないものにや。)
 この明俗紀事と対照するために、エジプト回教徒の新婚紀事を訳出しょう。まず若嫁が、十目の透視し得ざる覆面を被って、供人に衛られ、町内の重立った処々を練り歩く。そのあいだ、供人は盛装喧噪して珍妙に唄い踊り続ける。ようやく一行が婿の門に著くと、家内の人々迎えて、嫁を覆面のまま慇懃に座敷に導くと、婚式は済みながら、「まだ顔もみず摩羅の待ちだて」とよみ出しそうな婿が待ちおる。座敷の真ん中には、善尽し美尽したる寝牀あり。父母またはその位に当たる人々が、嫁を寝牀の中央に直立せしめ、外面厳格、内心怡悦の婿がいと鹿爪らしく嫁の覆面を除く。すべて回徒はよく感情を押えて露わさざるゆえ、初めて嫁の顔をみても、満足したとも失望したとも、本人外には識れがたい。この覆面取り除けの際、婿と嫁の外に座敷にあるは、嫁の兄弟と父のみだ。さて、おのおの引き退き、戸を閉じたのち、その役目の刀自が来て、指もて手際よく嫁の素を破り、布にその血を受けて、その婦徳に過ちなかりしを婿に示す。時として、婿が刀自に信頼せず、みずからこれを行なうことあり。その場合には、嫁の近親、す(111)なわちその父母と、すでに嫁入った姉妹が婚室の戸外にあって、事の成行きを案じまち、少しの声だに遁さじと、耳を聳て菊の花とくる。嫁が泣き出すと、母や姉妹はこれを勇め、父や兄弟は叱り咎むる。作業遅々たる時は、これらの隠れた見物人が、婿を難じ、嫁の母、臆面もなく室に侵入して、世話をやくに及ぶ。さて、いよいよ事終われば、婿揚々として血染めの布を示し、めでたい、めでたいと祝を受け、一同安心して新夫婦を共棲せしむ、とある。上エジプトでは、新夫が舅に、新婦は素女でないと告ぐると、舅は新婦を殺し、その屍をニル河に投げ入る。アラブ人は最《いと》多く、経行いまだ到らざるに婚姻す。九歳、十歳の女は、刀自これを破り、十三歳の女は婿に破らる。コンスタンチノプルでは、新夫その得手物で新婦を破素す。ただし、男精と女血の混ずるを忌むにより、刀自二人、男の側にあり、事畢るに臨み、男を曳き退け、外に泄らさしむ、と。十六世紀まで、スペインでは、新婦の血染の布を、窓より公示し、その素女たりし由を高声に広告した。(Combes,‘Voyage en Égypte,etc.,’Paris,1846.pp.60-63;Godard,‘Égypte et palestine,’Paris,1867,p.83;Brantome,‘Les Dames Galantes,’ler discours)
 (古ローマ人は新婚の直前と翌日、新婦の頸を同じ糸で巻き試み、その周りが変わらねば、この女はかつて破素された者と知り、頸が夜のうちに太くなって糸が足らねば、昨夜まで素女だったと判じ、その糸をヴェヌ女神に献じ、また血付きの布をも献じた。)
 インドでは、婚夜の翌旦、いわゆる歓喜衣を衆に示して、一同祝い、トウゴ国のフオ人は、婚夜の翌旦、夜前用いし褥を新妻の母に贈り、血点なければ、舅姑が姦夫を探り出すを要し、南米のユラカラ人は、新婚の血衣を誇りかに持ち廻る、等々、種々の例多けれど、大抵似たものだから、これだけで止める(Meyer,‘Sxual Life in Ancient India,’1930,vol.i,p.43)。(『薩婆多毘尼毘婆沙』巻四、比丘法、五種の衣の中に、「二種の衣は捨墜《す》つるを得ず。一は男女初めて交会せしときの汚衣、二は女人産をせしときの汚衣なり」。)一々書き添えていないが、血を検する例は、多く開花の音を聴く風と伴うたものだろう。
(112) (最後に、もっとも無類の珍談というは、南宋の洪邁の『夷堅丁志』一五に、「晁瑞揆、京師に居《す》みしとき、里中の少婦を悦んで、流眄して情を寄するも、いまだ諧偶《むつ》ぶあたわず。婦|忽《にわか》に夜に乗じて来たり、衣を挽《ひ》いて被《しとね》を共にせんことを求む。晁、大いに喜ぶ。いまだ明けずして去らんことを索《もと》む。これを留むるに、可《き》かずしていわく、かくのごとくんば、家人に知らるるを畏《おそ》るるなきを得んや、と。すでに去るや、蓐褥の間、血の?《けが》れし迹を余《のこ》す、また所以《ゆえん》を知るなし。しかるに三日を越えて、その間を過《よぎ》るに、哭声を聞く。隣人に扣《たず》ぬるに、いわく、少婦は産に因《よ》って死す、今三日めなり、と。晁、涕《なみだ》を掩《おお》いて帰る」。女はよくうそをいうが、死にます、死にますと言わば、これぞ真実語と嬉しくも気の毒にも思うた。全く死ぬるついでに血を出して、新婚気分で悦ばせやらんと、今はのきわに男の情に報いたる、合理化的の捨て物利用と知る。)   (昭和十年一月『ドルメン』四巻一号)
 
(113)     椰子蟹に関する俗信
 
 本誌四巻三号五八頁に、江崎君は、この蟹、「また動物の屍骸も好んで食う由で、新しく埋葬した墓を荒らして、死屍を食うこともあるという、云々。石垣島には、この蟹はあまり多くはないが、四箇の南岸には時々出没する。その付近、いわゆる糸数原の一隅には×病の小部落があって、この蟹がそこの汚物を食うというので、同島では人がこれを食わぬという話も聞いた。また与那国島では、この蟹が美味なのは、蛇を食うためだと言われている」と書かれた。
 似たことが外国にもある。Lamont,‘Wild Life among the Pacific Islanders,’London,1867,pp.160-161に、著者は、この蟹を陸生鰕と称え、陸蟹と倶《とも》に、ポリネシアのペンライン島土人にきわめて嫌わる。これ両《ふた》つながら糞穢を食うからで、他国で多く賞味さると語っても、さらに嫌い已《や》まずと述べ、陸生鰕は長さ二フィートほどに達し、困《くる》しめらるれば木に登り、「速く逃げ能わぬ時は、闘わんと構え、その態怖るべし。しかし行動不器用ゆえ、実は危険ならず。杖で一撃すれば、すぐてこねる。一疋打ち殺すと、児童輩大いにいやがり、その地を汚すと信じ、死んだ蟹を拾うて海に抛げ込まんと欲せず。その杖をむけると、狂乱するばかりに散り走った」。そして、その杖を投げ捨てよと叫んだ、と記しある。
 太平洋とインド洋の諸島土人は、この蟹が油で充ちおるを珍味として、はなはだ賞翫し、この動物についての奇誕多き由(Geoffrey Smith,“Crustacea,”in ‘The Cambridge Natural History,’vol.iv,p.174,1920)。与那国島のも油を賞(114)翫さるるか、江崎君に伺いおく。
 奇誕のうち、予が知り得ただけをここに出すと、フィジー島では、この蟹が果を食いに登った椰樹に草を結び付けおくと、蟹が尻を先にして下り来たり、その草に到って、もはや地に著いたと安心すると斉しく手を離し、たちまち落ちて失心するところを捉える。この蟹、よくこれを追う者の面に、土石を投ぐるという。バンクス島人は、この蟹、その左の小螯で人の手など挟むと、日没まで離さず、よってその螯をロアロロ(日没)と呼ぶという。また椰子を木より石に落とし、これを破《わ》って、破れた面が平滑なれば食えど、粗?なれば食わず、と信ず。サンクリストヴァル島のワンゴ人は、吹きも吹きたり、月夜にビウという小島へ漕ぎ渡り、徐《しず》かに磯に這い上がり、見れば椰子蟹の一団あり、中央に老いて大きな奴が二疋、両螯を相打って拍子をとり、周りを多くの蟹が、土人が棍棒を起伏せしめて踊るように、螯を上下して踊り歩く、そこを襲えば、捕獲すこぶる多し、と(Codrington,‘The Melanesians,’Oxford,1891,p.19)。(三月十三日稿成る)   (昭和十年四月『ドルメン』四巻四号)
 
(115)     「西濃のヤマノコ」について
 
       一 今西君の説明を読む
 
 本誌四巻三号三六−四二頁所載、今西君の一篇は、予に取ってすこぶる面白く、この紀州でかつて見聞せなんだところのものを多く知り得たるを感謝すると同時に、往年予が書いた物も多少引き合いに出されおる縁《ゆかり》あるをもって、この拙篇を綴って君と読者諸彦の一粲に供する。
 まず今西君の説に、西濃地方で山の神を女形とし、その祭をヤマノコと称え、巨大な松の木作りのヘノコを奉納してこれを悦ばす。さて氏が親《みずか》ら訪うた西濃諸村の各字に、少なくも一体、大なる字または山深き字には、一字に数体以上の山神を祭らざるなく、「御神体という物、大部分は手ごろな自然石であって、稀《まれ》に松、杉、藤などの古大木をもってする。自然石というも、特に珍異な形状を具えた物ではなく、一尺内外、頃合いの石を、小さな社屋内に納め祭るが、時にむき出しのまま、地上に樹《た》てられたものもある。宮地村には、同村山中到る処にヤマノカミノアトと称する物がある。注意すれば、一、二の大木あるか、少々の空地あるかに思うも、別に変わった所なく、ただ古来かかる伝えあって、そこには、伐木等の手を入れないとのことであるが、かかるは、本来地上に樹立する自然石または自然木をもって、御神体となしたのを、のち社屋内に納むるに至った証であろう」とある。神社や禿祠を、種々の理由で(116)他へ徙《うつ》した跡に、空地や少数の立木を残して、その趾を示すは、紀州でもしばしば見る。さて今西君いわく、「ヤマノコとは山の講の意である。いわゆる講を行なったという形跡は見られないが、組というほどの意で講と称する、と語った古老があるが、従うべきであろう。ただしコは一般に行なわれるところの愛称、親称であり、ヤマノコノアトなどと使われる場合のヤマノコは、山ノ神サン野郎というほどの意であるらしく思われる」と。
 予はかつて西濃地方に遊ばず、その辺や、またどこか知らぬが今西君の生まれた地方の言に通ぜぬが、十分に君の説明を解し得ざるを遺憾とする。現に山神の祭をヤマノコと称し、古老の説に従って、これを山の講の意と解するなら、古来法華講、報恩講、庚申講、夷講など、人が集会して神仏を祀り拝むを、講と呼ぶ多くの例にも合い、むかし和歌山などに多かった大峰山上の役行者を祀る集会を、山上講と呼んだと同じく、山の神講というべきを略して山の講と呼んだと領かれる。然る上は、ヤマノコノアトは、むかし山の神を斎き祀り、山の講の当日人々が参詣した場所の旧趾という本意で、この名称に限り、コが講でなくて、愛称、親称であるとは、始終一貫して説き得るものを、ことさらに二様に解かんとする、その理由が判りかねる。北野博美君の『年中行事』山の神祭の条を見ると、ヤマノコは山の講で、三河の一部でも、その祭をヤマノコという由。
 その上にまた、この女形の山神を、神サン野郎というほどの意で、ヤマノコと(親愛して)いうと言われた今西君の意が、西濃また今西君の生処以外の吾輩に判らぬ。少なくとも四、五十年前まで、予が寡聞の及んだところ、野郎という語は、もっぱら東京とその隣国に限り、あの野郎この野郎など、みな侮蔑嘲弄の場合の語で、決して親称でも愛称でもなかった。また女を野郎と呼ぶことも、明和五年作、『麓之色』五に、夜発女の異名を列ねたうち、大阪川口で伽遣、トギヤロウとよむ。賤娼が野郎(串童)同然に、後庭を鬻いだものと想う人もあらんが、そんなことでなく、碇泊船を見掛け、漕ぎ近付きて、トギヤロウ(伽をしよう)と呼び懸けたよりの名で、野郎に全く無縁だ。この外に女を野郎と呼んだ例は、皆無だろう。しかし、時世の推移は怖ろしいもの、今日は女性の神を、男性の名詞で呼ぶさえ(117)あるに、これを親愛する表情として、従前侮蔑漫罵にのみ使われ来たった野郎なる語で呼んだり、その上敬称を冠らせて、尊崇と嘲弄と相殺すべき神様野郎という奇言を用いて平気な地方もあるにや。また今西君が通わるる京大研究室などで、そんな辞が通ずるものか、いと訝し。
 しかし、支那に古く爾汝の交りちう言あり。四十四、五年前、二十余歳で、そのころスペイン領だった諸国に遊んだ時、到る処、予にツー(汝)と呼びかけ、ウステ(君)と言わぬ者多く、その都度立腹して口論した。さて、その辺で用うる『聖書』をみると、神に言い懸くるに、必ずツーを用いある。そのころ故中川泰次郎氏(数年前死んだ浅田徳則男の妻の弟で、かつて新吉原で大散財、ために麻布大尽の号あった人)が、はるばる『風俗画報』を送りくれたのを読むと、立派な武士にも、非人などの卑民にも、等しく口達で死刑を宣告するのが、旧幕時代の定法だった。一はその人の身分を重んじ、他はこれを軽んずるあまり、両《ふた》つながら文書で読み聞かせなんだ、とあった。されば、かの国々で上帝を尊んでツー、奴隷素性の者にもツーで話し掛けたは、その社会全体の心掛けが、ちようどわが幕政時代の人々と異ならぬに因る、と知った。それから彼方の家庭に入りなじむに随って、父子夫婦、兄弟親友の相語るをきくに、さらにウステと言わず、多くツーを用いた。「晋の王戎の妻、戎に語るに卿という。戎謂いていわく、婦《つま》、なんぞ婿を卿とせんや、礼において順ならず、と。答えていわく、われ卿を親《いつく》しみ、卿を愛す、これをもって卿を卿とす、われ卿を卿とせざれば、誰かまさに卿を卿とすべきや、と。戎笑って、ついに聴《ゆる》す」(『文昌雑録』三)。本邦でも、「医者と石屋は本字でかきな、おまえとごぜんは仮名でかけ」。字義はちっとも異《かわ》らねど、別懇ならぬ人に、お前と言ったら怒った。ところが、夫婦や親友の間で、お前と言われて怒る者は少なかった。されば親しいあいだに隔てなく、厳格ならぬ詞を自由に用いくるるほど、われを愛すること厚しと暁《さと》り、その後は怒らず。こちらよりも相《かま》手嫌わず、ツーと言って通した。
 この心得で推察すれば、今西君の神サン野郎の意もほぼ察し得る。ただし何が何でも、女形の神を野郎と呼んでは、(118)俗にいう比丘尼に何とやら、はなはだ卒伍しないから、君が吾輩同様の者どもに、その意義を了解せしめんとの思し召しあらば、山ノ神サン野郎の代りに、山ノ神メ〔傍点〕、もしくは少しくヘンだが、山ノ神サンメ〔三字傍点〕と、メの字を用いては如何。『常山紀談』に、征韓の役、宇喜多秀家等諸将、都城にあって粮尽き、清正を援けずに引き還さんとした。その時、加藤光泰、糧尽かば砂を食うべしと言い、秀家に向かって、「今までは、中納言殿と敬い申したりき。今日よりは、中納言め〔傍点〕と申すべし。清正を捨て殺し、恥を異国に暴《さら》す人々なり」と詈った、と見ゆ。また『福島太夫殿御事』に、正則小身の時より使うた同村人、草野介惣なる者、正則、安芸・備後二国の主となった時、新参の木造具康には二万石を与え、年久しく忠勤する自分には、わずかの切米を給わる、皆人に笑われ迷惑す、と陳状を出した。正則大いに笑うて、左右に介惣の、横着極まる由を語る。その詞中に、「介惣め〔傍点〕が頬の疵は、皆人、鑓疵かと存ずべく候。彼が親人つき竿を持ち候、その竿にて突かれ候疵に候」とある。これらいずれも、その人を卑蔑してめ〔傍点〕と呼んだのだ。『用捨箱』上に引いた多門庄左衝門等の直正本、「かわりなのりことば」に、「一、情けなや、若衆め〔傍点〕に離れまらって、年久しく便りゃごわりゃまらせぬ、云々」。このめ〔傍点〕は、少なくとも五十年前まで、東京の裏長屋の少女どもが、三絃の稽古に盛んに唱うた、「情なし女め〔傍点〕、外の男はふり向いても見まいと、程のよい口車に、ツイのせられて、云々」、なる文句中のめ〔傍点〕と異《かわ》り、侮蔑や憎悪の念を離れて、憐哀の情を表わす。
 明治三十四年、予、紀州東牟婁郡勝浦港に留まった時、街通りで心安い女同士が遇うと、お松メー、お吉メーと、呼び交して咄《はな》し初めた。侮蔑、怨憎で発するメと声の強弱が異り、ことのほか優しく聞こえ、転《うた》た天外淪落の身を慰むるよすがとなった。そこに雨風《あめかぜ》という旗亭あり。雨の夕、風の朝、天気が悪いほど、碇泊船多く、店が繁昌するによって名づけたそうで、その近辺が、もっとも多く、宿も定めぬ蜑の子らしい女どもの往来する処だった。何の仕事もない予は、毎度かの店へ往って長座し、例のお松メー、お君メーの声を聞きながら、その店で売る饂飩のように、長く飲んだは、まさにこれ、「雨風で行平《ゆきひら》須磨をたちかねる」だった。この勝浦女のメーは、八丈島で猫をネッコメ(119)と呼んだごとく、全く親昵の表情たるは疑いを容れず。よってこれに倣うて、女形の山神を、神サン野郎というほどの意で、ヤマノコと呼んだと解くよりも、山ノ神メまた山ノ神サンメというほどの意で、云々、と説く方が、多人に通じやすいと惟う。
 また今西君は、予が紀州地方にただ二種の山神(狼と猴)ありと、『南方随筆』に書いたよう記された。予は『南方随筆』三三八頁に、「種々聞いたことどもから推すと、紀州の山神に猴と狼とあり、猴神は森林、狼神は狩猟を司ると信じたらしく、オコゼ魚を好むは狼身の山神(男子の)、手淫をみるを好むは猴体の山神に限るらしい」と書いた。多忙中不用意に書いた「紀州の山神に猴と狼とあり」を「ただ猴と狼の二種あり」と解されたは恐れ入る。よって「紀州の山神のうちに、猴と狼とあり」と正誤しおく。西牟婁郡安堵峰は、熊野で有名な峻嶽で、日が東海より出で、西海に入るを、両つながら眺め得る、紀州唯一の所という。予かつてその頂上に立ち眼の届く限りの山々を数えたが、一、二時間で事果てず、暮が迫ったので急ぎ下った。熊野だけでもこの通りゆえ、紀州惣体の山の数は、想像が及ばず。したがって紀州の山神は多種多様で、和歌山市近き高《たか》の御前《ごぜん》、新宮市の神倉山など、古来山神は天狗と伝えたのが多く、亡父が出た日高郡大山神社の神は、時に牛身を現ずといい、この田辺近村の竜神山は、今も竜が棲むというなど、決して二種や三種に止まらぬ。安堵峰辺で聞いたは、女体の山神が、男子の自?を見るを喜び、山祭の日、なるべく樹木を多く算うるため、一種ごとに異名を重ね唱う。その日、山に入れば、そのうちによみ込まれて死するを怕れ、誰も山へ行かぬ由。そこに程遠からぬ日高郡竜神村等の人々よりは、当日猴が木を数うるを怕れ、誰人も山に入らぬと聞いて、安堵峰の山神は、牝猴と知るに及んだ。牝猴、時にはなはだ婬蕩なるは、Ellis,‘Studies in the Psychology of Sex,’vol.ii,p.6,Phila.,1927 などを見て察するに足る。
 今西君はまた、予が『南方随筆』に、安堵峰辺の女体の山神を美容なように等いたと心得たとみえ、それに対して、西濃では決して山神を優雅な女形と考えずと言われたが、実際、予は安堵峰辺で、山神が美容だと聞かず。予が『随(120)筆』に述べたは、かの峰辺の山神が、男子の淫行を喜ぶという一点が、すこぶる近世ギリシアで俗信さるるナラギダイに似る、ナラギダイは、しばしば美女と現じて、好男子を誘惑すと信ぜらる、と言ったまでだ。安堵峰辺の山神は女体とまでは聞いたが、美艶とか優雅とか聞かず。その点、大いにナラギダイと異なり。『狂言記』五の六「花子」はいつ成ったと知れねど、その大蔵流本の初めに、美濃の野上の宿長方で、娼婦花子と契ったということあれば、たぶん足利時代、まだ戦国乱離とならぬうちの作だろう。その文中、妻を山の神と罵ったところ多い。すなわち妻を山の神と称うる風が、足利氏のあまり衰えぬ時、すでにあったのだ。その和泉流本に、そこで某が山の神の姿を小唄に歌うた、「人の妻みてわが妻みれば、人の妻みてわが妻みれば、深山の奥の苔猿めが、雨にしぼぬれて、ついつくばうたにさも似た」とあれば、そのころはや、山の神は、醜き女形と定まりおったらしい。
 前年、誰かが無署名で『日本及日本人』七二五号に書いたは、「『譚海』一二に、山神の像を言いて、猿の劫《こう》を経たるが、狒々という物になりたるが、山神になることと言えり。『松屋筆記』に、『今昔物語』(二六巻七語。『宇治拾遺』一〇にも出ず)の美作の国、中参の神は猿とあるを弁じて、参は山の音で、中山の神は同国一の神と言えり。さて山の神が猿なるより、『好色十二男』に、かのえ申《さる》のごとき女房を持ち合わす不仕合わせ、とあるも、庚申の方へ持ち廻りたるなれど、面貌より女が山の神と言わるる径路を案ずべし。必ずしも女房に限らざるは、『乱脛三本鑓』に『下女を篠山へ下し、心にかかる山の神もなく』とある」と。ここに下女を山の神と言ったは、エチオピアの狗頭猴群の行進する際、獅のごとき鬣《たてがみ》が肩を覆うた老猴ども、前に立ち、頃合いの岩ごとに、上って前途を見定め、また隊側に斥候あって、不断全隊を警戒整理し、始終番し続けて、少しもみずから食餌を集めず、事|竟《おわ》り退陣してのち幾分を頒ち享くるごとく(Parkyns,‘Life in Abyssinia,’1853、vol.i,pp.229-230)、熊野等で番猴と唱え、猴群が食を探る最中、一疋また三、四の老猴が、全隊を監視保護して、怪しいことあれば、急に叫んで警報した。そのごとく家内に始終注意する下女をも、主婦と等しく、山の神と呼んだとみえる。また山の神の祭ごろは、時候のせいか、ややもすれば大(121)荒れする。よって荒れやすき主婦を、山の神というとも聞いた。とにかく紀州では、美容とか優雅とかの山の神あるを聞かず(山中に妖怪が美女と現ずることは聞くが)。
 支那には、東晋の徐寂之が、野で逢うた女を引っ張り込んで、やらかすうち、だんだん痩せてきた。その弟、怪しんで覗くに、牝猴だから、打ち殺すと、兄の病が直った。唐の陳巌は、京師へ上る途中で、白衣の美婦人が哭するを訊《と》うと、夫が近ごろさらに娶り、その女が自分を苛遇するので、逃げて来たというから、偕《とも》に上京して住むうち、おいおい気荒くなり、巌の衣類を裂き尽す。それを叱ると、顔を掻き破ったり、?みついたり、一身傷だらけにされたから、?居士なる術士を頼み、丹符を擲げつけもらうと、その婦人、猿となって死んだ。後日巌が、前に彼女が嫁しおったと言った劉なる者を訪うと、十年ほど飼った猿がこのごろ旧友に貰うた犬に咬まれ、行衛不明になった、と言ったという。唐の孫恪は、洛中に遊んで一大弟に入り、袁氏の孤女と称する者、艶麗人を驚かすを見ると、姻戚がないので、然るべき夫を捜しおると女中の話、よってその女を娶り二子を生んだ。のち恪、官人となって南康に赴任する途中、端州峡山寺に詣ると、野猿数十来たり躍る。袁氏、惻然として筆を命じ、壁に題していわく、「剛《まさ》に恩情のためにてこの心を役し、端《はし》なくも変化《へんげ》して幾《ほと》んど煙沈す。如《し》かず、伴《つれ》を逐いて山に帰り去《ゆ》き、長嘯一声して、煙霧深からんには」と、すなわち筆を擲ち、二子を撫で、われまさに永く訣《わか》るべしと言って老猴に化し、深山に入った。恪は二子を携え任に之《ゆ》かずに引き返した。また唐の崔商は、荊より黔に之《ゆ》く途上、幽林中で果栗を多く積んだ家にあった、姿貌言笑、尋常ならぬ尼衆に引き留められたを、一件に結び付けた鈴と共に振り切って舟へ帰った。舟子みな、それは猿が化けたのだ、速く返ったので、害されなかった、と言った由。降って南宋時代にも、寧越霊山県の一少年が、酔って石六山に至り、秀色目を奪う女子に迎えられ、手を握って石室に入り、留飲同寝数日の後、君の家人、君を失うこと久し、よろしく速く帰るべしと勧められ、已《や》むを獲ず返ると、二月立っておった話がある。これは白猴が化けおったらしい(『太平広記』四四四、四四五、四四六。『宣室志』八。『夷堅三志』己巻)。かく猿猴の属が別嬪に化けた(122)話は、支那にあれど、予が寡聞なる、本邦固有の、そんな譚ありと知らぬ。
 それからまた、今西君は『大百科事典』等を引いて、「通常山神は、また田神となり給う」と述べられた。が、北野君の『年中行事』に、諸国の山神を挙げたうち、山神が、二月に田に下ってその神となり、十一月の山の講の日、山に返ってその神となると明記したは、美濃の武儀郡下牧村矢坪だけで、肥後国天草郡下浦村では、山神は狼だともいい、山神でも田神でもあるようだ。同郡島子村では、山神祭に、山へ行くを山神が嫌うとて、餅を狐の穴に供える、稲荷信仰の家が主として行なうとあるゆえ、ここでは狐が田と山の神を兼務らしい。およそ五十四例を列ねたなかで、この三つのほかに、山神が田神ともなる由を説かぬところから考えると、山神が田神ともなるは通常でなく、まずは非常の例らしい。すでにもって昨年二月の『旅と伝説』五一頁に、柳田君が、「鹿児島県出水郡の島に、これと連なる肥後天草の島々で山祭というは、農民の祭である、云々。山の神の信仰で注意すべきことは、狩人の山の神と、農民の山の神は、違っておることである。農家で祭るのは、農事がすむと、山を通って帰って行く神であった」と弁ぜられ、『骨董集』上編下後に、元禄年中の印本と言った『大和耕作絵抄』一にいわく、「故に農夫の式法は、元朝寅の早天に、西国は東に、東国は南にむき、まず天照大神を念じ、二日に田の神、畠の神、三日に山の神をまつる。(中略)八日は、山の神野巡りとて、野山へ出るを忌む」と。これは、辺陬一地方の作法を穿ったでなく、当時天下一汎の式法を説いたので、それに田神、畠神、山神と別々に序《の》べあれば、「通常山神はまた田神となり給う」と言った通常〔二字傍点〕は、ある地方に限った通常〔二字傍点〕で、日本全体に通常〔二字傍点〕でないと知らる。
 加藤咄堂の『日本風俗志』下に、肥後の葦北郡辺で、河童、夏時、川におり、冬になると、山に住んで山童となると信ぜらる。球磨郡地方では、二月一日を太郎朔日といい、山太郎(山童)と河太郎と交替する。その真夜中に、山に通ずる路を、多勢が通るような声を聞いたという人もあり、云々、と出ず。
  紀州東牟婁郡高田村や、日高郡南部町付近オシネという処でも、ゴウラ(河童)冬になれば川を上り、カシャン(123)ボとなって、林中に住むと聞いたが、何月幾日に移るとまでは承らなんだ。
 山神、二月に山を降って田神となるちうのは、この太郎朔日のことより転化したでなかろうか。とにかく予はずいぶん紀州を歩いたが、かつて山神が田神になるなどと聞いたことなく、もちろん安堵峰辺の、もと牝猴らしい、女体の山神が、また田神たることを聞き及ばなんだ。その辺は二十四、五年前、予が初めて行き、四十余日駐まった時まで、熊野三難処の随一と呼ばれ、田畑きわめて少なく、田神の観念も必要もなかったのだ。ただし、やや低き山地や平地の諸村では、田畑も多いから、猴を田神とすること少なからず。この田辺町付近には、長野村と稲成村と、町内磯間浦の三所に、おのおの猴神社あって、陰暦の十、十一、十二月と、右三村の順序で、某の申の日に祭礼を行ない、他村よりも参詣おびただしく、農作豊饒と、牛馬平安を祈った。しかし、それらの猴神は四時その社に永く鎮座するもの、決して二月に山より降り来るでなければ、十月、十一月に山の神となって、山に登り去るのでもなく、さればこそ、十、十一、十二月のあいだに、群聚参拝して祭ったものだ。したがって、田神が山神、山神が田神となるという信念は、少なくとも紀州の多くの地方には、通常どころか、きわめて思いも寄らぬところである。
 また西牟婁郡二川村、三川豊原村等では、狩人が狼をお客様また山の神、兎をみこどもと呼び、たまたま狼が罠にかかれば、殺さずに扶け去らしめた。今は扶け去らしめんにも、狼ほとんど全く跡を絶った。東牟婁郡の諸村では、「紀伊の国」の端歌で、お江戸までも鳴らした熊野の奥の院、大和国吉野郡玉置山の神狼を尊び、猪鹿、田圃を荒らさば、かの社に詣で、神使の狼を借り傭うに、あるいは封じ、あるいは正体のまま渡しくれる。正体のままの場合には、迎えに往った者の帰路、先立って神狼の足跡を印し続くるを見、その人家に帰著する前、もろもろの害獣ことごとく逃げ去る、と言い伝えた。かの社畔に、犬吠の杉あって予も見た。その皮を削り、田畑に挿んで害獣を避けたという(『南方随筆』六四−六五頁、三七五頁、四一九頁)。備中の木の山権現という小祠の神狼にも、右同様の伝説あること、『中陵浸録』六に見ゆ。
(124)  近来老耄に近づき、ややもすれば忘れやすいから、これを機会に補説しおくは、山神がオコゼ魚を好むと、数百年前、熊野の外にも信ぜられたは、寛永十年成った『犬子集』一五に証あり。「四方をみて慰さみ給ふ山の神」、「をこぜや広き海にすむらん」読人不知、とある。『人類学雑誌』三巻三号八八頁に出た故佐々木喜善君の話に、山神、海神と互いに持ち物を誇り語り、山神その所有の植物を算えて、毎品異名を重ね唱えると、海神、突然オクゼと呼んだので、山神負けた、とあった。山神が万《よろず》の物に超絶して、オコゼ魚を重んずるを知り、多くの樹木などは言うに足りず、汝が最も重んずるかの魚をわれのみ持つという意で、海神がオクゼとただ一つ算えて勝ったということらしい。しからば、この山神は、オコゼ好きの狼ながら、安堵峰辺の猴と等しく、樹林を司るものか。支那の晋朝に、外国人白道猷が赤城山に住むを、夏王の子その山神となって千余載なるが、狼を遣わし、怪形異声もて脅かさしめしも、白ちっとも動ぜず。山神恐縮して他へ移った。唐の呉少誠、浪人中、猟師が鹿を獲、その臓腑もて山神を祭らんとせしに、空中に声あって、呉尚書の来るを待て、と言ったから、しばらく見合わすうち、呉が来たので姓名を聞いた上、馳走したという。この山神も虎狼のいずれかだったろう。また唐の時、インドの駄那羯磔迦国城の東西に、東山、西山という伽藍あり、百余年来、一僧も住まず、山神、形を易《か》え、あるいは豺狼、あるいは※[獣偏+爰] 授択(共に猴の属)となって、行人を驚恐せしめた(『述異記』、『古今図書集成』神異典三〇所引、『重訂漢魏叢書』本になし。『太平広記』二五四。『大唐西域記』一〇)。日本でも猴と狼は、山中でもつとも有勢な獣ゆえ、初めは、一つの山神が、猴にも狼にも現ずと信ぜられたのが、おいおい猴身と狼身の山神と分かれ定まったものか。ただし北野君の『年中行事』を見ると、猴に本《もと》づいたらしい女身の山神がオコゼを好いたり、猴身の山神が祭日に木を算えたり、安堵峰辺に比べて、性質を分別せぬ例、しばしばこれあるは、すでに定まった区別がまた混同され出したよう見受けらる。
 かく田圃より害獣を除くに最も効験ある狼にちなんで、狼が山神とは別に、田神と崇めらるるは、ほとんど自然の(125)成行きで、『礼記』の郊特牲に、「天子の大?《だいさ》は八あり、伊耆氏はじめて?をなす。(中略)古えの君子は、これを使えば、必ずこれに報ゆ。猫を迎うるはその田鼠を食らうがためなり。虎を迎うるはその田豕を食らうがためなり」。神農の子孫伊耆氏の天子が、毎年十二月に?祭をなし、田事に功ある八神を祭った中に、猫と虎があった。猫は田鼠を、虎は田豕すなわち野猪を食い除くゆえ、農業に功労ありとて、その精を迎え祭ったのだ。かつて親交あったインド人より聞いたは、ベンゴル辺の村部には、鹿や野猪が田圃を荒らすことはなはだしく、虎が彼らを食えばこそ、この上繁殖しない、時たま軽輩が一人や二人殺傷されたりとて、はなはだしく野荒らしをする諸獣を平らげくるる虎の偉功を没すべきにあらずという声が高く、英人など慰みに行なう虎狩りに、大反対の者多し、と。中央州アコラの畑主が、その畑に虎豹が棲むを知っても、猟人に問われて告げず。自分の所有地で虎豹が殺されては、以後その地が不作となると信ずるは、以前虎豹が鹿猪を殺して、田圃の害を除き、豊作を助成しくるると、感銘した余風であろう(Crooke,‘The Popular Religion and Folklore of Northern India,’1896,vol.ii,p.212)。   (昭和十年七月『ドルメン』四巻七号)
【続稿】
 英国へ猫が入ったに関する、現存記録の最も古きは、西暦九三六年ごろの物という(‘The Encycloppædia Britanica,’14th ed.,1929,vol.v,p.13)。朱雀天皇の承平六年で、『土佐日記』が成った翌年だ。それより少なくとも六年前に成った『倭名顆聚抄』獣名一〇二に、猫をネコマと訓じ、ほとんど同時の撰『本草和名』一五にも、家狸、一名猫、和名ネコマ、と出す。熊楠いわく、『宇治拾遺』一〇に、猴を猿丸と書いたごとく、猫を人と見立てて猫丸、それを略してネコマとなったであろう。承平六年より前、少なくとも三十六年に成った『新撰字鏡』に、狸の字をネコと訓ませある由、狩谷?斎の『箋注倭名類聚抄』七に見ゆれど、経済雑誌社発行の『群書類従』本の※[獣偏]部六五に、狸の字を見ず。さて承平六年より少なくとも百十三年前に書かれた『日本霊異記』上に、膳臣《かしわでのおみ》広国、地獄に往ってその父の苦患を見る。父、広国に語るうちに、また五月五日、赤狗となって、汝の家に到ると、汝、犬を呼んで咋《く》い逐わし(126)めたので、飢えて還った、次に元日に、狸となって、汝が家に入り、今度はしこたま、種々と食わせくれたので、三季の粮を継《う》け得た、とある。ここの狸の字をネコと訓ませある。『本草綱目』五一に、猫、一名家狸、狸、一名野猫、只今日本でもっぱら狸の字をタヌキと訓めど、支那では狸に種々あり。いずれも野猫で、ただ揚子辺で果子狸、南方で窩狐という物がタヌキだそうな(Möllendorff,“The Vertebrata of the Province of Chihli,”Journal of the North Cbina Branch of the Royal Asiatic Society, New Se.,vol.xi,pp.48,49,52,Shanghai,1877)。
 されば『古今図書集成』禽虫典八〇に、猫と狸を一緒に載せ、家猫の外に、狸二種を図せるが、いずれも野猫だ。大正十一年、予三十六年ぶりに上京し、朝日新聞社の下村宏氏の妾宅に長逗留中、一日、故渡瀬庄三郎博士が来訪され、座に三田村鳶魚氏もあって、種々話した。その時、博士いわく、支那では現時、タヌキを田狗と称う、と。これを聞いて、予、即刻、そいつは面白い、『源語』にイヌキという名詞がある、今も田辺辺で、熊楠に呼び懸くるにクマキ、義太郎や定吉に呼び懸くるにヨシキ、サダキという、その通り犬を人と見て、呼び懸くるにイヌキと言ったであろう、馬琴は、キツネは恠刀禰《けとね》、タヌキは田之怪《たのけ》だろうと述べたが(『燕石雑志』一の八)、拙考では、タヌキは、田狗を田ノ狗キ、それを略してタヌキとしたのだろうと、造作もなく吹き付けた。しかし、タヌキという語は、『和名抄』すでに載せおり、それ以前に、昨今同様、田狗という支那詞があったろうか、すこぶる心元ない。
 タヌキのことはこれだけと致し、何にせよ、嵯峨天皇の弘仁年間の撰たる『日本霊異記』に、狸の字をネコと訓ませ、そのころより百余年前の、慶雲二年ごろ死んだ人が、猫となって、子の宅へ乞食に往った譚を載せ、大分後れて、『世継物語』に、嵯峨帝が、片仮名の子文字を十二書いて、小野篁に読ますと、猫の子の小猫、ししの子のこしし、と読んだ話あり。慶雲の地獄譚はあてにならざるも、弘仁のころは、すでに猫が本邦にあったらしく、『源語』若菜巻等にカラネコの称あるは、その外国伝来たるを示す(『古名録』七七)。『南留別志』、『東雅』、共に、ネコをネコマの略としたが、文献上は、ネコがネコマに先だち出ておる。
(127) かくのごとく本邦に猫が入りあったを徴するに足る、現存文献の最も古いは、『日本霊異記』とすると、まず日本が英国よりも、約百十三年早く猫を伝え入れあったのだ。しかし、エジナトや支那と異なり、他畜に後れて入り来たったものゆえ、牛馬や鶏ごとく、本邦の神誌や、古民俗や、旧儀に関係せなんだ。これに反し、狼は、本来本邦に自生し、ちょうど上述の古支那やインドの虎同様、たまたま人畜を損ずる害よりも、田圃を荒らす猪鹿を駆除する功がはるかに大きなるより、古来、山神また田神として、諸処に斎《いつ》かれたと見える。今の欧州には、山神の田神のというものなし。しかし、穀精を崇めた古風は残りある。それ穀精というはオホン、一件を風話家が、例尅と呼んだ、その尅精のことだろう。
 
(128)     女と畜生を入れ換えた話
 
 昭和五年十二月の『民俗学』七三一−七三二頁に、拙文「美人の代りに猛獣」が出た。いわく、「唐の段成式の『酉陽雑俎』一二に、寧王かつて?県《こけん》界に猟し、林を捜ってたちまち草中に一櫃をみるに、?鎖《きよくさ》はなはだ固し。王命じ、発してこれを視れば、すなわち一少女なり、云々。女いわく、姓は某氏、叔伯庄居す、咋夜光火賊に遇う、賊中二人はこれ僧なり、よって某を劫してここに至る、と。婉を動かし?を含んで冶態《やたい》横生す。王驚いてこれを悦ぶ。すなわち載するに後乗をもってす。慕犖なる者、一熊を生獲して櫃中に置き、旧のごとくにこれを鎖す。時に、上(寧王の弟玄宗)方《まさ》に極色を求む。王、莫氏は衣冠の子女たるをもって、即日これを表上し、その所由を具す。上、才人に充てしむ。三日を経て、京兆奏す。?県の食店に僧二人あり、銭一万をもって独り店を賃《か》り、一日一夜言う、法事をなす、と。ただ一櫃を舁《か》いて店中に入る。夜久しうして?膊《ひよくはく》として声あり、店戸の人怪しむ。日出でて門を啓《ひら》かず、戸を撒してこれを視れば、熊あり、人を衝いて走り出ず。二僧すでに死して骸骨ことごとく露わる、と。上これを知って大いに笑い、書して寧王に報ずらく、寧哥、大|能《よ》くこの僧を処置す、と。莫才人よく秦声をなす、当時、莫才人囀と号す、と見ゆ。
 「本邦の戯作にこの噺を奪胎したもの往々あり。例せば、『南総里見八犬伝』一四五回に、悪僧徳用堅削が主人の娘雪吹姫を磐若櫃に入れ奪い出し、白川の庚申堂へ持ち込んだところへ、暴虎来たって重傷を負わすと作り、『釈迦八相倭文庫』九に、夜叉軍士|迦毘羅《かひら》城に入って、侍女を葛籠に押し込んで帰りしが、熊に殺さるとしたごとし。
(129) 「ただし、『酉陽雑俎』の本話と似た筋のものはインド方面にもある。一八七三年板、バスクの『大東伝話』は、欧州唯一の仏教民として知れたカルムク人が、インドの古典『ヴェタラパンチャヴィンサチ(起尸鬼二十五談)』を訳出保存したものを、ユルクの独訳から英訳したのだ。その一二〇頁に、富んだ老夫婦が一人のよき娘をもつを窺い、金と娘を二つ玉とやらかそうと企む者あり。老人が参拝する仏像中に身を潜めおり、翌朝一番にその門戸を叩いた者に娘を嫁げと告げ、明旦みずから往って老人方の戸を叩き、計略通り、その娘を娶り、多くの金銀宝玉を世負い、娘と共に櫃に入れて沙塚に匿しおく。ところへ国王の子、狩に出で、虎をつれてやって来たり、沙塚を射ると何か堅い物へ中《あた》ったので、立ち寄りみれば櫃に娘と珍宝を入れあり。その娘といったら閉花羞月の至り、王子捨て去るに忍びず、さつそくの機転で、虎と娘をすり換え、娘を伴い往ってその妃とした。かの聟は用をたして帰り、櫃を自宅へもち行き、ニコ顔で七十五日生き延びんと、開いてみると猛虎一声、踊り懸かって聟を食い、翌朝入来たって戸を開くを俟って、大いに御馳走サマといった体で立ち去った、とあり。
 「十二世紀にカシュミル国のソマデヴァが編集した『カター・サリット・サーガラ』には、苦行仙が大商人に向かい、その娘を人に嫁げば全家死滅すると脅し、籃に入れて恒河へ流さしめ、私《ひそ》かに弟子どもをして籃入りの娘を拾い、自坊へ持ち入れしめた。ところが、その前に王子あって、恒河へ身を洗いにゆき、その籃をみつけて開くと、すてきな娘がある。即座に乾闥婆《けんだつば》式でこれを妻《めと》り、猛性の猴を籃に入れて流した。童子らこれを拾い苦行仙に渡すと、密室に置いて自分独りでこれに対し修法せんとて閉じ籠り、籃を聞くと猴飛び出して仙の耳と鼻を割き取った。アイタカッタと泣くばかりで、大いに衆人に笑われた、とある。(この書三十余年前読んだことあるも確かに覚えず。今はパーカーより孫引きする。)
 「一九一四年板、パーカーの『錫蘭《セイロン》村住民話』二巻一三九条には、庄屋の娘が年ごろになったので、和尚を訪ねて星の吉凶を問うた。和尚その娘が成女期に達した時の星をみると、両親に取って大吉なる上に、この女を娶った者はす(130)なわち国王となると知れた。そこで一計を案じ、この星は大凶だ、両親も聟も程なく死ぬるはずだ、これを避くるには、種々の飲食を設け、貴娘と共に橋に入れて川へ流すべし、と告げた。その日になって和尚、弟子どもを川へ遣わし、櫃が流れ来たら持ってこいと命じ、私かに飲食を調えてみずから櫃内の娘を娶る用意をした。時に二青年あり。川端へ係蹄《わな》をしかけ置き、当日往き視ると豹がかかりおり、如何《いかが》せんとためらううち、とみると櫃が流れてきた。甲は櫃の内容品、乙は櫃を得分にする約束で、二人して引き上げみると、種々の飲食と娘一人あり。娘の代りに豹を入れて櫃を流しやり、甲は飲食品、乙は娘を取った。それから櫃はだんだん川を流れ下るを、俟ち儲けたる弟子僧どもが拾い上げて寺坊へ運んだ。和尚大悦びで櫃を密室に入れ、われは室内で経を読むから、汝ら外にあってサッズーと祝せよと言いつけ、その室に入って櫃を聞くと、豹出で来たって咬みついた。哀しや、豹が咬みついたは、と僧が叫ぶと、弟子ども異口同音に、サッズーと祝した。和尚が叫ぶごとに、弟子ども声張り上げて祝した。やがて和尚は咬み殺され、弟子ども俟てども俟てども起き出でず。阿漕の平次の浄瑠璃でないが、サッテモきつい朝寝じゃなあと評しおるところへ、日参の信士が来たり戸を叩けども和尚出でず。こは面妖と屋根へ上り、瓦を除いてのぞきこむと、下から豹が飛び懸かり、信士愕き落ちて死におわった。それから大勢、戸を破り乱入して豹を殺し、和尚の屍体とともに同穴に埋めた。かの娘を拾い上げて娶った男は、即日幸運が落ちてきて国王となり、新妻と永々同穴を契った、と述べある」。
 
 右の文中、「本邦の戯作にこの(寧王が莫氏の女と熊を入れ替えた)噺を奪胎したもの往々あり」と書いたは、その語至当ならず。『八犬伝』の二悪僧は、管領政元の厚恩を忘れ、その養女を櫃に入れて盗み走り、途側の小堂で取り出して賞翫に取り掛かるところへ、巨勢金岡神筆の虎が点睛されて真物と変じ、奔り来たって二僧の手脚を喫《か》み断ったと作られ、『倭文庫』の夜叉軍士は、兇人達婆太子に頼まれ、迦毘羅城に入って悉達太子を毒害せんとして仕損じ、(131)せめては王宮に入った証拠のためと、燈火に居睡る腰元を、有り合わせた葛籠に入れて、他国へ逃げ潜むうち、活計のため、孕んだ牝熊を生け捕り箱内に飼った。その時、賢立太子に望まれ、この熊の皮で靫を作る約束をしたが、なるべく今一疋牡熊を捕え、その皮で作ろうと志して山へ捜しに往った。腰元は、子持ちの熊の命、旦夕に迫れるを憐れみ、箱を開いて逃がし遣った。ところへ軍士は何の獲物もなく、足に傷して帰り来たり、牝熊の逃げたに歯?みをなし、毎晩口説けど聴かざる上に、熊まで逃がすたあ剛愎な女郎だと、腰元を嬲《なぶ》り斬りに掛かる。その時遅し、かの時速し、逃げた牝熊がまた現われて、軍士を?み殺し、腰元を迦毘羅城へ送り届けたという。両譚共に、女を櫃や葛籠に入れて拐帯した悪漢が猛獣に殺されただけは、『酉陽雑俎』に合うが、獣をもって女にすり替えたとはさらに見えぬ。したがって、馬琴と応賀が、必ずしも段成式に倣うて件の両譚を綴ったと確言しがたい。
 しからば、不善人が奸計をもって櫃に女を入れて運ぶを、途中で他の人がその女を取り、代りに畜生を入れ置くを不善人は知らず、のちに櫃を開いて飛び出た畜生に悩まされた話が、日本にないかと問わんに、確かにありと答え得る。一昨年出た横山重・巨橋頼三、二君編著に係る『物語艸子目録』前篇に収められた、平出順益の「物語草紙解題」二〇三頁に載せた「ささやき竹」の物語がそれだ。その解題、左のごとし。
 「人皇六十二代の帝の御宇、天下大いに旱す。帝これをうれいたまいて、大内にておんかの舞をなしたまう。天人天降りて笙を吹く。そのころ二条万里の小路に、左衛門尉というものあり。鞍馬の毘沙門天に祈りて、一人の女子をもうく。この女いみじき美人なりけるを、時の関白見初めたまい、恋したびたまうといえども、誰人の女なることを知らず。安倍のなかのりが占い申すにより、毘沙門天に祈誓したまう。鞍馬のさいくわうぼうの僧正祈?のことにて、左衛門尉が宿に往きたりしに、かの女を見て恋慕し、ささやき竹をもって、左衝門尉夫婦に、毘沙門の告なりとあざむき、かの女を鞍馬に奉らしむ。便の者に命じ、長櫃に入れて、これを贈る。使者、道にて酒に酔いふしたる時、関白殿通りかかりたまい、櫃を開いて女を得、かわりに野飼の牛を入れ置きたまう。使者これを知らず、さいくわう坊(132)へ持ち行く。このことにて鞍馬の山、大いに騒がしかりしこと(熊楠註す。僧正おのれの坊内でこの美女を犯さんと、櫃を開くと牛が飛び出で、山中を騒がしたのだろう)、さいくわう坊は(犯戒の罰で)天狗につかまれ死す。その霊、天狗となる。僧正が谷の由来これなり。女は関白殿にかしずき、父子ともにめでたくさかえしことをしるす。」
 順益の孫、故鏗二郎氏の「近古小説解題」も、横山・巨橋二君の『目録』に収められ、その三二七頁に、「余いまだこの書を見ず」と言われあるから、稀覯の書と見える。順益の解題中、おんかの舞とは何か。この物語の題名とされたささやき竹も、本文を見ねば子細分からず。『大言海』等にも釈きおらず。
 明治八、九年の交、初めて和歌山へ電線が架かったに乗じ、山師が電信と呼ぶ玩具を売り出し、大分儲けた。紙で貼った二つの竹筒を、一条の太い緒《いと》で維《つな》ぎ、小児二人が、おのおの一つの筒を持ってやや遠く立ち、一人は耳に、一人は口に、筒の狭い孔をあて、小声で何か囁くと、外の人々に聞こえぬが、当人には長い緒をつたうてよく聴こえた。その筒を割ってみると、小石数箇転び出た。その石こそ曲者《くせもの》なれと言うもあり。石なしに筒を繕うて、用いても聞こえるというもあった。一?《いちえい》眼にあれば空華乱れ墜つるで、悼幼の妄信を奇貨として、こんな物を売りつけた猾智のほどこそ測られね。ささやき竹も、大抵かようの物で、それを種々と秘事らしく吹聴して、迷信を煽ったのだろう。中山太郎君の『日本巫女史』などに、ありそうなものと、ちょっと見たばかりでは見当たらぬ。なお識者の高教を竢つ。
 それからさいくわう坊は、正しく西光坊だろう。『義経記』一に、牛若、鞍馬の別当東光房の阿闍梨に師事す、とあり。東光房に対して、西光坊と作ったのだろう。『義経記』六に、静女、尼となって、天竜寺の麓に庵居す、とあり。天竜寺は、義経亡後百五十六年の興国六年、足利尊氏が落成した。されば義経はその後の作で、それに出た東光房に倣うて西光坊を設けた「ささやき竹」の物語は、一層後れて室町時代にできた物で、人皇六十二代村上天皇の御時を距《さ》ることいよいよはるかだ。
 そもそもこの村上天皇の御治世中、関白たりしは貞信公(藤原忠平)ただ一人で、この関白は、天皇御即位より四(133)年目の天暦三年、在職のまま七十歳で薨じた。御即位より二年前、重病に罹り、その後一度ならず辞職せしも、許されなかったとあれば、重病やや治まった後も、絶えず老衰して元気がなかったので、なかなかどうして、七十近い齢で、若い女を見初めるの、女と牛をすり換える等の洒落《しやれ》たことは思いも寄らず(『水鏡』。『神皇正統記』。『摂関輔任次第』。『十三代要略』一。『日本紀略』後編二。『大日本史』三四および一三一参照)。それをかく作ったは出鱈目極まる。また関白が見初めた美人が何氏の女なるを知らず、安倍のなかのりに占わせたというも不審。『尊卑分脈』二〇や、『群書類従』六三の「安倍氏系図」に、そんな名の人なし。ただし、かりに牽強を試みると、両者いずれも、陰陽師の大親玉、晴明十三代の孫で、漏剋博士、陰陽頭、図書頭を兼ねた良宣を載す。他の諸例より推して、これをながのり、そのがをかと誤ってなかのりと書いたのだと、必死になってこじつけ得る。しかし、晴明十三代の孫なら、少なくも晴明より二百年ほど後れる。『和漢三才図会』七二に、暗明は寛弘二年卒す、とあれば、その十三代の孫は、鎌倉時代の人で、貞信公から占いを問わるる気遣いなし。よってせっかくの牽強も毛頭奏効せぬ。
 かくのごとく、この「ささやき竹」の物語の作たる、出鱈目至極で、さらに取りどころなきようだが、またすこぶる面白いことがある。上の発端の次に引いたカルムク人や、カシュミル人や、セイロン人が伝えた諸譚は、いずれも奸人が女欲しさに、神勅や相術を矯《た》めてその女の親を紿《あざむ》き、女を櫃に入れて徙《うつ》し往く、途中で他人が櫃を開きて獣と女をすり換え、女を伴い去りしを、奸人は知らず、家へ持ち帰って櫃を開くと、獣が飛び出し奸人を悩ます、女を救い出した他人は、これと和楽偕老するという筋だが、『酉陽雑俎』の支那譚には、櫃に女を入れ徙し往く以下の諸件はこれに同じだが、女欲しさに神勅あるいは相術を弄して、女の親を騙す一事を具えず。ただ群賊が女の宅に躍り込み、忽然女に思い付いて、櫃に入れ持ち出した、となしある。
 しかるに、特に、「賊中二人はこれ僧なり」と断わりあるをみると、もとこの支那譚も、カルムク等仏教民のと同源に出で、初めは『八犬伝』の徳用竪削同然の二悪僧が、かねて心懸けた室女を執えんと、賊党を語らうて乱れ入(134)り、凶漢どもが強盗する紛れに、女を櫃に鎖して食店へ運ぶうち、急用に迫られ、櫃を草中に匿して、しばらく立ち去ったというような前置きがあったのを、伝え伝うる途中で、前置きが忘れ去られ、その辺の王が猟してその櫃を見、発してこれを見ればすなわち一少女なり以下の部分のみ保存されたところ、たまたま寧王が美女莫氏を得て、玄宗に上《たてまつ》った。よって、かの伝説を付会して、莫才人もと賊僧二人に、櫃で運ばれるところを寧王が見つけて熊とすり換え、それと知らずに二僧が櫃を持ち帰り、いよいよ七十五日生き延びんと、ホクホク物で開いた刹那、たちまち飛び出た熊に天誅を受けた、と噂が播《ひろ》まったと見える。
 寧王憲は唐の睿宗の長子で、睿宗その母則天武后に皇帝と立てられた時、立って皇太子たり。六年経て武后が睿宗を廃し、みずから女帝に立ったので、憲も太子でなくなった。それから二十年めに、憲の弟隆基、韋后の乱を平らげ、睿宗また帝となった時、長子でもあり、かつて太子だったから、憲また太子に立つべきところを、弟隆基は社稷を定め大功あったからとて、涕泣して固く譲ったので、隆基が東宮に立ち、尋《つ》いで天子となった。これが玄宗で、憲は寧王となって弟に臣事し、始終謹畏した。されば玄宗これを待つこといよいよ厚く、その薨ずるや譲皇帝と謚号した。惜しまないで天下を譲ったからだ。かつ玄宗即位後、兄弟諸王、相継いで薨じ、独り寧王のみ残り、また玄宗の第十八子寿王瑁は、生まれ落ちるとすぐ、寧王の子としてその妃に乳育された等の縁で、玄宗と最も親愛したというが、なかなかどうして玄宗に劣らぬ発展家だった、と諸書に見える(『唐書』八一、八二)。
 例せば、「寧王、妖燭あり。夜筵にて賓妓の間《まじ》え坐し、酒|酣《たけなわ》にして狂を作《な》すに至るごとに、その燭すなわち昏々然として物に掩《おお》わるるがごとし。罷《や》むればすなわち明るし。その怪を測るなし」という怪しい話や、「寧王憲、貴《たか》く盛んにして寵妓数十人あり、みな絶芸にして上色なり。宅の左《かたわら》に餅を売る者の妻あり、繊白《いろしろ》く明媚なり。王一たび見て属目し、厚くその夫に遺《おく》って、これを取る。寵惜すること等《ともがら》を逾《こ》え、歳を環《めぐ》る。よってこれに問う、汝また餅師を憶うや否や、と。黙然として答えず。よって呼んで、これに見《あ》わしむ。その妻、注視して、双涙頬に垂れ、情に(135)勝《た》えざるがごとし。時に、王の座客十余人、みな当時の文士にして、悽異せざるなし。王、命じて詩を賦せしむ。王右丞維の詩まず成る。今時の寵をもって、いずくんぞ旧日の恩を忘るるなからんや、花を看れば満目に涙し、楚王と共に言わず、と。坐客、あえて継ぐ者なし。王よって餅師に帰し、もってその老を終えしむ」という人情談もある。ただし、これによって寧王を抜群の漁色家とばかり思うては当たらず。王かつて玄宗が、衛士の食余を棄てしを怒り、これを杖殺せしむるを諫め、また涼州の新曲を聴いて、播遷の禍いを予言し、また善く馬を画きしなどを稽えると、これまた一廉の非凡人だ。(『唐代叢書』五冊一巻所収、『開元天宝遺事』。竜子猶『情史』四。『琅邪代酔編』一八)
 只今脚が不自由ゆえ摸索し得ぬが、玄宗、人をして寧王がどんな書を読むかを偵わしめると、「どど逸千首」とか、「芸者皆殺し」とか、たわけた物ばかりと知れたので、さてはわが兄は天下に望みなしと、大安堵したという話が、『説郛』か何かにあった。嫌疑を避けんため、みずから行いを放佚にしたものらしい。さてこそ、熊とすり換えた美人を、弟の玄宗に献じた快譚も、この王に付会されたと思わるれ。
 ついでにいう、「知らざりし玉のありかを聞き得てぞ、夜半の煙と君もなりにし」と、玄宗を愁殺した楊貴妃は、前述ごとく玄宗の第十八子で、伯父寧主憲に子とし養われた寿王瑁の妃になって三年めに、寿王の生母で玄宗に最愛された武恵妃が薨じ、後廷、帝の意に当たる者なかったうち、寿王の妃の美なるを聞き、高力士を王の邸に遣わし、出妃を取って女道士として、太真と号して太真宮に住ましめ、それより五年めに韋昭訓の女を寿王に配し、同時に女道士楊太真を貴妃となして、玄宗|親《みずか》ら著腹し、「朕、貴妃を得て、至宝を得たるがごとし」と大悦し、すなわち製曲して「得宝子」といった。衛の宣公、楚の平王、いずれもその子のために迎えた新婦を横取りして、さらに子のために他女を娶ったが、玄宗はその最愛の武恵妃に死なれた跡釜に、自分が武恵妃に産ませた寿王に嫁して六年を経た楊妃を据えんと、これを度して女道士たらしめ、ワレン・ヘイスチングスが、同船中に見初めたイムホフ男の妻が、後家になるのを気長く俟ったごとく、寿王が艶妻と引き離され、焦燥して狂死するのを、俟てども俟てども一向死なず。(136)かえって自分がシャキバリ続けて得耐らず。トウトウまた五年めに、まず寿王のために、さらに新婦を入れやり、それとスリ換えて楊妃を自分の妻としたのだ。それまで久しく辛抱躊躇したは、衛宣楚平さえ呆れ果つるほどの穢行ゆえ、「ただ公論の掩いがたきを恐る。これをもってこれを観れば、明皇の良心はいまだかつて死せざるなり。時に、林甫《りんぽ》すでに相たり。しかして禄山寵せらるるも、朝を挙げて敢言直諫の臣なし。しかして明皇はその非を遂ぐるを得て、姚・宋・韓・張の諸公をして在《お》らしむ。いずくんぞこれあらんや」と、史家は論じた。熊楠按ずるに、玄宗が楊妃を寿王邸より取り出し、度して女道士としたは、開元二十八年で、寿王の養父で初め玄宗に国を譲った寧王憲は、同二十九年薨じた。皇兄ではあり、事に臨んで玄宗を諫止したことは上に出した。それが去年ごろよりおいおい老病せるに乗じて、妃を寿王邸より取り出したか、取り出したと聴いて、疾《やまい》ようやく劇しくなって薨じたか。いずれにせよ、玄宗が貴妃を妻《めと》ったは、寧王の存否に因縁軽からじ。しかして寧王が熊と莫才人のスリ換え、玄宗が韋氏の女と楊貴妃のスリ換え、共に女のスリ換えが、当時しばしば実行された一斑を示すものと惟わる。(『唐書』七六、八一。『情史』一七。『史記』三七、四〇)
 また横山・巨橋二君の『物語艸子目録』前篇に収められた故平出鏗二郎氏の「近古小説解題」に、「藤袋草子」写一巻を載せ、次のように撮要しある。
 「むかし近江国のある山里に住める翁、鎮花祭の役にて、上洛しけるが、事終わりて帰郷の途に就けるに、ある辻に、広蓋の上に、美わしき女の児を載せて、捨て置きたるありけり。翁、この年まで子なかりければ、拾いて家に帰り、媼と共に、愛《いつく》しみ育つ。
 「この児、長ずるに従いて、大人しく愛嬌あり。その十三、四歳のころ、翁、畑を耕しけるが、あまりの苦しさに、いかなる山の猿なりとも、わが畑を耕しくるる者あらば、娘を与うべし、と独言せるに、いずこよりか、大いなる猿来たりて、翁の畑を耕し、明日は申の日なれば、娘を受け取らん。約束違え給うなとて、失せにけり。翁、由《よし》なき口を(137)利《き》きたりと、悔やめども詮なし。
 「家に帰りて媼に謀り、かの娘を大いなる櫃に入れ、食物など副えて、家のうしろの藪の中に、埋みて蔵しおき、さて翁は媼と共に、向うの山中に入りて、猿の来たるを伺う。果たして申の刻ばかりに、かの猿、輿にのり、大勢の供の猿を伴れて来たり、翁の家に入れども、人影なきを怪しみて、屋の上、板敷の下まで、尋ね求む。供なる猿、陰陽師と覚しきこけ猿を呼び来たりて、算を置かしめ、隠しおける藪の中を推し中《あ》てて、娘を掘り出させ、これを乗り来たれる輿にのせて、飛ぶがごとくに帰りゆく。翁媼、はるかの樹影よりこれをみて、泣き悲しむこと限りなし。急ぎ清水寺に祈誓して、娘の無事を祈り、猿の跡を追うて、山中に行く。
 「猿どもは輿を、とある柴の庵におろし、婿猿、娘に戯れ掛かれば、娘は、声を放ちて泣くを、慰めんとて、酒盛を開く。娘はただ恐ろしさに、衣引き被《かず》きて臥すに、猿も慰めかねて、さらば山へ行きて、珍しき果物を参らせんとて、出で行きしが、やがて立ち帰り、油断なく、娘を藤袋に入れて、木の梢にかけ、一匹の猿に守らせて、皆々出で行きけり。
 「これをみたる翁媼は、いかにもして、娘を助くる術なきかと、足摺して、悶えけるところに、狩人数多来たれり。翁喜びて、その中に馬にのりたる者に、事の由を告げて救いを求む。その狩人、伴の者と談合して、へいしという者、弓の上手なればとて、かの袋のつり繩を射切らしむ。へいし、射損じて、かえって娘を射殺さんことを慮り、辞退せしが、強いて射せしめLに、誤たず射切りて、恙なく娘を救いけり。
 「狩人、娘の美わしきをみて、いつしか心を移し、この娘を伴れ帰らんとせしが、猿帰り来たらば、妨げをなさんも煩わしとて、伴れたる犬を元の箱《(ママ)》に入れ、番をなせる猿を脅して、これを木の梢に括り付けしめ、大勢の猿帰り来たるとも、このことを告ぐべからずと、固く言い含めて、娘を伴いて、しばらく他の山に移り、猿の帰るを待ちけり。
 「猿ども、いろいろの木の実を籠に入れて帰り、まず姫君を題にて、歌もよみて慰めよとて、面々思いのままによみ(138)出ず。宿直《とのい》猿は、実を告げんとて、歌にその意をこめてよみければ、かえって悪しき歌をよみたりとて、席を追われぬ。
 「さらば姫君おろせとて、藤袋をとりおろして開きしに、中より犬飛び出でて、婿猿の吭《のどぶえ》にかみつく。残んの猿ども、驚きて逃げ出だすを、狩人は此方《こなた》より、別の犬を放ちければ、彼処此処《かしこここ》にて食い伏せられ、宿直猿は、功あればとて助けられぬ。かくて狩人は、娘をつれ帰りて妻となし、別に家を建てて、翁媼を迎えて養いけり。へいしは功を賞せられて、所領一所を賜わり、宿直猿は厩に置かれて、馬を飼わせらる。かように栄えけるも、ひとえに観音の利生なりというに終われり。」
 例の『今昔物語』二六巻第七語はこの話に似るが、猿が女を食うので、女を妻《めと》るのでない。故芳賀博士が、参攷のためここに引いた『幽怪録』郭元振譚は、猿でなくて猪神に女を嫁ぐのだ。かたがた「藤袋草子」は『今昔物語』に縁が遠く、兇物《わるもの》が女を掠め去る途中、女とスリ替えられた敵畜生に制伏さるる趣向が、寧王が莫才人を救い、関白殿が左衛門尉の娘を手に入れた二譚に同じければ、『酉陽雑俎』か「ささやき竹」より転成されたと見える。「ささやき竹」も「藤袋草子」も、予がかつてその名をさえ聞き知らなんだ物、最近、横山・巨橋二君より、その著書を恵贈されたによって、本文を綴りえたるを深く謝し奉る。
 このついでに述ぶるは、『今昔』二六巻第八語も、猿神に人を牲する話だが、その発端に、行脚の僧が飛騨に行った時、「道の末もなくて、大きなる滝の、簾を掛けたるように高く広くて、落ちたる所に行き着きぬ。返らんとすれども道も覚えず。行かんとすれば、手を立てたるようなる巌の岸の、一、二百丈ばかりにて、掻き登るべきようもなければ、ただ仏助け給えと、念じていたるほどに、うしろに人の足音しければ、見返りて見るに、物荷ないたる男の笠着たる、歩みて来たれば、入来たるにこそありけれと、うれしく思いて、道の行方問わんと思うほどに、この男、僧を見て、極《いみ》じく怪しげに思いたり。僧この男に歩び向かいて、いずこよりいかで御《おわ》する人ぞ、この道はいずこ(139)に出でたるぞ、と問えども、答うることもなくて、この滝の方に歩び向かいて、滝の中に踊り入りて失せぬれば、僧、これは人にはあらで、鬼にこそありけれと思いて、いよいよ怖ろしくなりぬ。われは今は、いかにも免れんこと難し。されば、この鬼に食われざる前に、彼が踊り入りたるように、この滝に踊り入りて、身を投げて死なん、後には、鬼|咋《く》うとも苦しかるべきにあらずと思い得、歩び寄りて、仏|後生《ごしよう》を助け給えと念じて、彼が踊り入りつるように、滝の中に踊り入りたれば、面に水を漉《そそ》ぐようにて滝を通りぬ。今は水に溺れて死ぬらんと思うに、なお移し心のあれば、立ち返りて見れば、滝はただ一重にて、早う簾を懸けたるようにてあるなりけり。滝より内に、道のありけるままに行きければ、山の下を通りて細き道あり。そこを通り畢《は》てぬれば、彼方《かなた》に大きなる人郷《ひとざと》ありて、人の家多く見ゆ、云云」。
 明の董斯張の『広博物志』六に、「長沙の醴陵《れいりよう》県に小さき水《かわ》あり。二人あり。船に乗って※[米+焦]を取る(※[米+焦]は早く穀を取るなりとあるが、樵の字を誤写したのかとも思う。それなら薪を采る、すなわち柴刈りのことだ)。岸下の土穴中より、水流れを逐って出で、新しく斫《き》られし片木《こつぱ》のあるを見る。流れを逐って下るに、深山中に人跡あり、これを異《あや》しんで、すなわち相《たが》いに謂いていわく、水中に看しごときは何に由《よ》って爾《しか》るかを試《ため》すべし、と。一人すなわち笠をもってみずから障《さえぎ》って穴に入る。穴わずかに人を容るるも、行くこと数十歩にして、すなわち開明朗然として、世間《このよ》に異ならず」と『捜神記』を引きある。この書、今日全璧を存せず。ここに引かれた文も残欠らしくて、記事が始末付かぬようだが、土穴中より斫《き》り立ての木片が流れ下るので、その根源を見届けんと、笠で水を禦ぎ、やっと人一人を容るるほどの穴に入り、数十歩進むと穴の中が世間なみに晴れ晴れして来たというので、全文を見得ぬから何とも断言し得ないが、あるいはこの文の続きに、『今昔』二六巻第八語同様の譚があったでなかろうか。明治二十二年七月、杉山三郊、松平康国、故吉田齢吉、故桜井延三郎、四氏とナヤガラの瀑布を潜った時、案内者以下みな、頭を水に打たれぬよう、格別に物を冒《かぷ》った。同様の用意で、飛騨の飛泉裏の住民も、長沙醴陵県の二人も、滝や土穴中の流水を通るに、笠を(140)用いただろう。(三月十五日午後八時)   (昭和十四年五月『ドルメン』五巻四号)
 
(141)     「藁と石炭と隠元豆」について
              浅田勇「国外類型二つ」参照
              (『昔話研究』一巻四号一五頁)
 
 浅田君が、タウンセンド英訳板や、天草の『イソップ寓話』より見出だし得なんだと言われた「茨と水潜り鳥(アヒル)と蝙蝠の話」は、一八一〇年パリ板、アダマンチオス・コラエース纂訂『イソップ寓話』四二頁に出ずる由、一八二五年パリ板、ロベールの『十二、十三、十四世紀の未刊寓話とラ・フォンテン寓話』二巻三三五頁に見えるが、コラエースの本を見ないから子細が知れぬ。ただしラ・フォンテンの『寓話』一二巻の第七話は、それに拠って作ったものという。よってちょっと読んで見たが、ラ・フォンテン時代の世態に昧《うと》い予には、十分と判らぬ。知れぬ判らぬだらけで、御申し訳もないが、詮ずるところ、件《くだん》の話が、確かに『イソップ寓話全集』にあることだけは判った。(九月五日午前五時)   (昭和十一年九月『昔話研究』二巻五号)
 
(143)     タクラタという異獣
 
 大和国十津川神下に住む中森瀞八郎君より二年前の来示にいわく、
  タクラタという怪獣について、今年八十歳以上の老人に聞くこと三度なるも、  睦《うそ》にしてしまわばそれまでなれど、その他に同様の咄を二度おのおの別の処で聞きしを数うれば、かかる物あるいはかつて実在せしかも知れず。例せば、狼のごとき、現時の子供などは後年に至りて、その真偽存在について是々非々の論多かるべく、タクラタまたあるいはかつて存在せしものか。この獣は面白き物で、滅多に見る物でなく、久々大雪のふりし日、奥山の小屋にて焚火をして温まりおる時など、出し抜けに入り来たり、人の傍に坐し、火に上肢をさしかざして温まり、人懐しく、人々手さえ加えずば決して人を害せざる由、かくてしばし温まりてそのまま出て行く由。その全貌は熊に似たるものと言えり。
 タクラタという詞、予は従前『物草太郎』の草子に、太郎僅々十二、三銭を宿主に渡し、それを取らせて女を呼びくれと頼むと、亭主これをきき、「さてもさてもこれほどのタクラタはなしと思いて、云々」。策伝の『醒睡笑』二に、「ちとタクラタのありしが、人に向かいて、われは日本一のことを巧み出したはという。云々」。この二例を知るのみ。
(『難廼為可話』巻二に引ける『日本国』(元禄十六年板)に、出たり入ったり出たり入ったり、「タクラタの男待つ夜に物くるひ」。)
(144) 駱駝は、初めて見た者怪しんで山精と想うたという支那談あるほど、容貌古怪なる上、心性きわめて頑愚で、少しも分別なく、ドメインズの『動物智慧論』などにも全く載せられおらぬ(『古今図書集成』禽虫典一〇三。『大英百科全書』一一版、五巻一〇三頁。細谷清氏『満蒙民俗伝説』七五頁参照)。『本草綱目』五〇下に、時珍いわく、駝よく嚢?《のうたく》を負う、故に名づく、方音訛って駱駝となすなりとあって、『史記』、『漢書』、『山海経』等、みな?駝に作る。のちに駱駝と変わったのだ。本邦には『和名抄』牛馬類一〇四に、駱駝を良久太乃宇末とよませ、古来ラクダで通して来たが、中には捻《ひねく》った奴あって、支那の古典からこの物本名?駝と調べ出して、タクダと訓み、執拗頑愚な人に喩うるため、特にタクラダという名を構成したことと察しておった。
 しかるに、このごろ『大言海』三巻二二二頁をみると、タクラダの条あって、『室町殿日記』、『可笑記』、『子孫鑑』、『最明寺百首』、『三河物語』と、上に引いた『物草太郎』の草子より、この語の出た処々を出し、延宝版の『節用集大全』から、「田蔵田。獣の名、麝香に似たる物にて、人の麝香を猟《と》る時、この獣出でて人に殺さる。故に、わがことならで好みて死するを田蔵田という」と引き、「オロカモノ、バカ、アホウ(静岡県にてはタワケモノ、タクランタアという)」と釈きある。
 明治十二年ごろ、和歌山中学校生徒西田安太郎という有名な美男が、目前《ひのくま》宮の前通りを雨天に歩むと、変な物がその下駄の歯の間に走り入りてたちまち死んだ。それを中学校へ持ち来たり、酒精に浸してその博物室に置きあった。ジネズミに似たれど、それより肥大に、麝香のごとく強き臭気あり。当時博物教師だった故鳥山啓先生は、麝香鼠と査定されたが、『和漢三才図会』に、この鼠は長崎以外にない物のよう見えおったので、予ははなはだこの査定を疑うた。のち『紀伊続風土記』九七に、香鼠(ジャコウネズミ)、海部郡雑賀荘鼠島田中に産すとあるを見て、天保のころすでに和歌山付近へ移り来たりあったと知った。『節用集大全』にいわゆる「麝香に似たる物にて」とは、形貌ではなく、臭気の上から謂ったので、人の歩むに驚いて、下駄の下に走り入りて殺さるるほど周章するところから、麝香(145)を猟る時出でて人に殺さるるなど言い出しただろう。予は差し当たり麝香鼠の外に、田蔵田らしい獣を知らぬ。
 中森君の書面にみえたタクラタは、山小屋の焚火に温まりに来るという。その趣きは『北越奇談』四に載せた山男そのままだが、形、人のごとしとなく熊に似たというのが違う。このタクラタはその大いさを記さぬから分からぬが、どうも『節用集大全』の田蔵田と異なる物と想わる。なお読者諸彦の明教を侯つ。(二月五日)
 (追記) 前文を発送して六日後、『松屋筆記』九二に、俗語に、大馬鹿のタクラタということ、武相の辺土にて常に言えり、とあるを見出だす。五十二年前、一九の『堀の内詣』に、馬鹿者をこの詞で罵る処あるを知った。今は知らず、もっぱら武相の間にそのころ行なわれた語とみえる。『松屋筆記』、右の文の次に『節用集大全』田蔵田の条、『室町殿日記』、『物草太郎』等を引きおる。『大言海』本《も》と『松屋筆記』に拠ってタクラタの解釈を書いたのだろう。
 さて『重訂本草啓蒙』四七に、「また鼠に麝気ある者あり、ジャコウネズミという。諸州|倶《とも》にあり、長崎および薩州にはことに多し。(中略)これ香鼠なり。『桂海虞衡志』および『因樹屋書影』に出ず」と記す。しかれば享和のころすでに、この獣が長崎・薩摩の外にも邦内に弘まりあったのだ。『古今説海』に収めある南宋の范成大の『桂海虞衡志』をみるに、香鼠至って小さく、わずかに指擘の大いさのごとし、桂中に穴す、地中を行くに疾きこと激箭のごとし、とある。『康煕字典』に擘は大指なりと出で、香鼠の小さきは大指の長さ、大きなは他の諸指の長さ、ザット曲尺で二、三寸ほどとみえる。邦産ジャコウ鼠は、『日本動物図鑑』に、頭と胴を併せた長さ一二七ミリ、尾の長さ八二ミリ、合わせて二〇九ミリ、曲尺の六寸九分に比べてはるかに小さい。桂中に穴すとは、肉柱樹の穴に限って住むので、大いさも習慣も全く違うから、日本の麝香鼠は宋人が記した香鼠とまるで別物と知る。松岡玄達説に、ジャコウ鼠は、むかし暹羅《シヤム》の舟に付いて移り入った、と(『物類品隲』四)。   (昭和十二年三月『動物文学』二七輯)
 
(147)     読「東海道中膝栗毛輪講」
 
       弥次郎兵衛
             「膝栗毛輪講第一回」(発瑞)参照
             (『日本及日本人』七〇二号四三〇頁)
 
 鳶魚先生、「嘘突は弥次郎と言いますな。それから浮世草紙などを見ると、娑婆で見た弥次郎顔と言って、知らぬ顔をするをいう。弥次郎という詞と弥次郎兵衛という詞とは、その間に連絡がありはしないかと思う」と言われた。『醒睡笑』一に、娑婆で見た弥次郎かとも言わぬ、とは何ぞ。往時、佐渡に金山開け人多く集まりし時、断食して念仏不退転の聖あり、生仏とて男女参拝する中に弥次郎なる者その道場を離れず給仕す。後その聖大いなる穴に入定す。実は金掘りを頼み抜道を掘らせ無事に立ち退きしなり。三年経て弥次郎、越後で件の聖に逢い、尋ねしに夢にも知らずと言う。弥次郎証拠を引いて叱る時、かの聖、げにもよく思い合わすれば娑婆で見た弥次郎か、という。それよりこの詞あり、と見ゆ。始終を案ずるに、シラバックレタ厚顔を弥次郎顔と言いしより、空とぼけた奴を弥次郎と言ったらしい。また件の聖が平気で嘘を言ったより転じて、嘘付き弥次郎という名もできたのか。   (大正九年四月一日『日本及日本人』七七九号)
 
(148)       夜啼松
            三田村鳶魚「夜啼松」(三編上、補足)参照
            (『日本及日本人』七五八号九九頁)
 
 佐夜の中山より十町ばかりを過ぎて夜啼の松あり、この松をともして見すれば、子どもの夜啼きを止むるとて、往来の人削り取りきり取りけるほどに、その松ついに枯れて、今根ばかりになりけりと、『糸乱記』より六十二年前に成った『東海道名所記』三に見ゆ。そのころ早く枯れおったのだ。   (大正八年六月十五日『日本及日本人』七五九号)
 
       巫に関することども
 
 前年、川村氏の「巫女《いちこ》考」が『郷土研究』に連載された時、予『続巫女考』と題し、氏の論に引かれぬ書や見えぬことどもを書き集め置いたが、かの雑誌ほどなく廃刊され、出し処がないゆえ筐底に置いた。今それから取り出して、輪講諸先生の御参考までに微言を呈する。
 本誌七二〇号一四〇頁に鳶魚氏、口寄《くちよせ》という名は鎌倉時代より今少し古いところがありそうと言う。いかにも左様で、川村氏が言われた通り、『台記』久寿二年の条に、巫女に寄口《よせくち》とあり、またそれより百三十一年前、内大臣教通の妻死したる時、「また神のまこと・空ごとをも聞かんとて、左近の乳母なくなく御口寄に出で立つ」、死人の母なる尼上も微服して伴《とも》に行き、こうなぎを召して車に乗ると、死人の魂それに付いて泣言を述べ、乳母の乳飲まんとするを見て泣く泣く帰った由、『栄花物語』後悔大将の巻に出ず。巫を一古と『東鑑』に書きあるが(共古氏説)、『続群書類従』の『八幡愚童訓』に、後白河院御前で御子の一、怪しいことを言ったのを、そら託宣不敵なりと悪《にく》ま(149)せたまい、御手の中の物を言い中《あ》てたら真の託宣と信ずべしと仰せ出ださる。かたえの御子ども、あるいは汗を流し、あるいは色を違えて、大菩薩恥かかせたまうなと一同申した、とある。文体を考えると、いちまたはいちこは巫群の第一また第一の古参すなわち頭領の義と見ゆ。それから貞応二年筆『耀天記』に、叡山の僧都実因、木辻という所の女に梓よつら(寄絃か)の術を始めしむ。「主《ぬし》に向かわずともそれが思わんことを占うということを人に知らせよ。それをせん折は、弓の弦を打つものならば、その音に付きて浄土より来て、弓の弦より伝いておのれが口に入りて、人の問わんと思わんことを言わせんとの給《たま》いて隠れたまいける、云々。木辻の御子より前には神に仕《つかまつ》る者をばただカムナギと申して御子とは申さざりけり」と出ず。『明匠略伝』に大僧都実因は良源の弟子とあれば、村上・円融ごろの人か。『樵談治要』などにはミコ、カンナギと分かちある。
 本誌七二二号一二二頁、共古氏ぶつてうしを仏等子と解かる。これは仏弟子というところを音便より、また仏頂という語もあるから、「ぶつてうし」と唱えたものかと想う。竹清君は『建保歌合絵』老巫の脇に鼓あるを不思議がられたが、『沙石集』七巻六章に、巫女鼓打ち珠数押しすりて熊野白山を祈り、一〇巻一章に老巫女和泉式部のために敬愛の法を修むるに鼓打ち、『新猿楽記』に、「四の御許《おもと》は覡女なり。卜占、神遊、寄絃《よりつる》、口寄の上手なり、云云。非調子の琴の音にして、天神地祇、影向《ようごう》を垂る。無拍子の鼓の音にして、□野干も必ず耳を傾く」とあれば、諸術兼行の巫は所要次第あるいは琴あるいは鼓をも用いたのだ。珠数はむろん拝む時用いたであろうが、この辺の巫女は寄絃と兼ねて珠数占すなわち珠数の玉を視て占うこともあれば、むかしも左様だったものか、硝子《ガラス》や水晶の珠、はなはだしきは水や墨汁滴を視て予言する者、西洋に今も多い。
 二月の『太陽』一一一頁にソスニン氏は、巫女が梓弓を用いた文献上の起源は分からぬが、『万葉』等の冠辞としての梓弓は、寄るというのに用いるが古意に合ったもの、と言われた。このこと予は判断はむつかしいが、上に引いたごとく口寄という名は平安朝すでにこれありしこと当時の書で分かる。『八幡愚童訓』は鎌倉時代の筆ゆえ、(150)実因が梓寄絃を創めたとは受け取りがたいと言う人もあらんが、『政事要略』七〇に、「古老いわく、太皇大后(邑上の母后)、云々、産難の間、占うに、御産の下に厭者あるかという。捜し求めしところ、その物あるなし。御板敷の下を見るに、白頭の嫗《おうな》あり。梓弓の折れたるを取り、これを齧《か》みて居れり。件《くだん》の嫗を逐い出すに、即時に御産|已了《おわ》る、云々、と」。明記はないが、どうもこれは『建保歌合絵』に見る通りの梓寄絃を業とした白頭の嫗が、妖術で御産を妨げんとて、その梓弓を?み折ったらしい。果たして然らば延喜帝の時はや梓寄絃が行なわれたのだ。これがまず予が知り得た梓弓のもっとも古う見えた物じゃろう。
 ところがまたそれより古く弘仁中成った『日本霊異記』下に、「延暦十七年の比頃《ころおい》、禅師善珠、命終わる時に臨みて、世俗《よのひと》の法によりて、飯占《いいうら》を問いし時、神霊、卜者《かんなぎ》に託《くる》いていわく、われ必ず日本の国王の夫人|丹治比《たじひ》の嬢女《おみな》の胎《はら》に宿りて、王子に生まれんとす、云々、と」、翌年果たして生まれ大徳親王と名づけたが、三歳で薨じたので、「向《さき》に飯占を問いし時に」、親王いし霊、卜者に託《くる》いてわれは善珠法師なり、云々、と言った、と載す。飯占の法詳らかならぬが、奈良朝から平安朝の始めまで盛んに行なわれ、人の死んだ時その霊を寄せて落ち著き先を聞いたものらしい。近年までこの辺で人死んであまり程へぬうち、六道付けとて梓巫を招き、死人の衣一枚をその梓弓に懸け、外に米一升与え、別に米三合を箱に盛って出すと、巫その弓の先でアビラウンケンなど唱えながら米へ字を書き神を請じ、さて細き棒もて梓弓を叩き鳴らし、死人これに著きて遺族へ告別の辞を述べるを常とした。これ飯占の余風だろうか。ただし延暦ごろの飯占に梓弓を用いたか否は知るに由なし。
 それからこれまで誰も気が付かぬようだが、予三十年前、王充の『論衡』の論死篇から抄し置いたは、「世間にて、死者の生人を殄《きぜつ》せしめて、その言を用い、および、巫の元絃を叩《なら》して死人の魂を下し、巫に因って口談するは、みな誇誕の言なり。もし誇誕にあらざれば、物の精神、この象をなせるなり」。元絃は梓弓を指すか否を知らぬが、梓巫同様何かの弦を叩き鳴らし死人の魂を招き、その口を寄せた巫女が後漢の初め支那にあったのだ。しかして『新選姓(151)氏録』神饒速日命の後に巫部宿禰あり、また巫部連あり、「雄略天皇、御体、不予のことあり。これによりて筑紫の豊国の奇巫を召し上げ、真椋をして巫を率いて仕奉せしむ。よって姓を巫部連と賜う」。いと確かには言えぬが、『論衡』に出た通りの巫術が筑紫へ渡り、それより後世梓巫の法が生じたのであるまいか。   (大正七年四月十五日『日本及日本人』七二九号)
 
     口寄せ巫女の数珠
 
 「巫に関することども」に、古画の巫女の数珠は、礼拝用の外に数珠占、すなわち数珠の玉を視て占うこと今もあれば、むかしも左様だったものか、と書いて置いた。今日たまたま『曽呂利物語』巻二を繙くに、平泉寺の若き僧、旅舎で女人と同宿し、夜明けて見れば六十ばかりの老嫗なるに驚き逃げ延びる。「ミコのことなれば、数珠を引き、神おろしして卜いもて行くほどにやがて追い付き」、大なる木洞中より見出だし逼って同行する途中、かの僧、老嫗を淵に沈め、その霊大蛇となって僧を食うたという譚《ものがたり》がある。これで予の予想が中《あた》ったと知る。(四月二十九日)   (大正七年五月十五日『日本及日本人』七三一号)
 
     巫女と鼓
 
 このことはすでに『沙石集』と『新猿楽記』を引いて述べ置いたが、重ねてむかしの巫女が鼓を叩いて神を降した証を見出だしたから申し上げる。平安朝の末に書かれたらしい『東山往来拾遺』の「灸治の時、神の祟りは焼籠せらるべからずの状」三九に、「右家中の雑使、日来《ひごろ》所労あるごとければ、窃《ひそ》かに灸治せしむ。しかる間、神(152)母女の出で来たって、鼓を叩いていわく、件の所労は、わが大将軍の所為なり、焼籠せらるるも去るべからず、云々」。ほぼ同時の釈蓮禅の詩「室積泊にて即事」に、「水市社の前にて卜を売る巫あり」、注に「この泊に古社あり、八幡と称し、別当の止《とど》まり住む。老巫、鼓を叩いて卜を売り、往き反《かえ》りの舟、安否を問い、よって糧《かて》を与う。故にいう」(『本朝無題詩』巻七)。
 それから『東山往来』の「巫女、妄《みだ》りに祟りを指し悩みを増すの状」一一に、「上代の占女は、実を指して祟りを停《とど》めしも、近来の巫女は、虚を指して狂を致す。もし実を占えば、病はすなわち減じ差《い》ゆ。もし偽をもって妄りに某神の祟りなりと称うれば、神その分に入らんと謂《おも》い、すなわち著《つ》きて病を増す。これをもって真偽を知るのみ。ここに、占女は朝夕、敬神弁供して、鼓を叩き咀を作《な》していわく、われ言を出ださば、神は真実をなし、云々、神はその養を受け、言に随って彼に著く、と。かくのごとくして諸人を誑惑《まどわ》す」とあるは、当時の巫女が神を寄するとて盛んに鼓を叩いた証拠である。輪講諸先生が難解とした「北にべんくう鏡の社《やしろ》」のべんくうすなわち弁供で、供え物を奉る、すなわち祀《まつ》ったという意味でなかろうか。(十二月十三日)   (大正九年一月十五日『日本及日本人』七七四号)
 
     右から左
         「膝栗毛輪講第七回」(四編上)参照
         (『日本及日本人』七三〇号一二七頁下段)
 
 林君、「拾ふたと思ひし銭《ぜに》は猿が餅、右から左」の、この右から左という辞と猿とは何かいわくがありそうに思えどちょっと分らず、と言われた。これは『淵鑑類函』巻四三一に、『周索氏孝子伝』を引いて「猿は通臂にして、巣《すまい》を軽んじ縁《よじのぼ》るを喜ぶ」とあり。通臂とは左右の臂、相通じ(『七頌堂識小録』に詳しく書きあり)、右を縮むれば左が長くなり、右を伸ばせば左が引っこむことで、本邦の俗画にも猿の一手はなはだ短く一手きわめて長くなっ(153)たものあり。その猿の手が右から左へ捷く利くごとく、右から左へ早変わりしたということで、酒飲むことを左利きというに言い懸けたなるべし。「猿は通臂にして」という猿は猿猴すなわち手長ざるなれど、  頭猴すなわち尋常の猴を日本で通常猿と書くから、二者を混同したであろう。(五月十四日)   (大正七年六月一日『日本及日本人』七三二号)
【追記】
 猿の通臂ということ『爾雅』、『?雅』諸書に見え、古来支那に行なわるる俗信だが事実でない由、趙鼎思の『琅邪代酔編』三八に弁じある。(五月三十一日)   (大正七年六月十五日『日本及日本人』七三三号)
 
     尻喰らい観音
         「膝栗毛輪講第七回」(四編上)参編
         (『日本及日本人』七三一号一二五頁)
 
 紀州で古来尻喰らい観音とは、「跡に構わぬ」義で、『膝栗毛』ここの狂歌も、通りかけ一遍ほんの拝む真似するばかり跡に構わぬの意味らしい。幼時日高郡の怪談を聴いたは、兎は前脚短く後脚長きゆえ、人に追われて坂を下る時、「助けて観音」と念ずるが、坂を上る際はたちまち打って変わって、「尻喰らい観音」と嘲る。これもはや観音の助力を要せず、観音無用なれば念じどころかわが尻を食らえと罵る意、とあった。仏菩薩を罵る禅語あたりから出たものか。平時香を焚かず、事あるに臨んで仏足を戴くという裏を述べたのだ。また、幼時一老人より聞いたは、『日本紀』巻一九に、新羅の闘将が調《つき》の吉士伊企儺《きしいきな》を虜《いけど》り、その尻を日本へ向け、日本将わが尻を齧めと言わしむるも屈せず、新羅王わが尻を啗《くら》えと叫んで止まず、終《つい》に殺された、とある。それから人を罵って、「尻食らえ韓王」と呼ぶところをおいおい転訛して、「尻喰らい観音」となったとのことで、その説の出所をも聞かされたが、あまり珍しい本でなかったのでかえって忘失しおわった。軍陣に尻を示して敵を罵る例、秀吉が小牧で尻を打ち叩き敵の大将これ食らえ(154)と呼ばわり(『常山紀談』)、征韓中オランカイの民三百人ほどの中より三人清正を招き尻をまくり叩き笑い、清正より懸け合い、その三人誅せられた由(『清正記』二)、「尻食らえ韓王」から転訛とは受け取りがたいが、「尻食らい観音」よりは「尻食らえ観音」という罵声と判ずるがもっとも正当と考う。(五月三十一日)   (大正七年六月十五日『日本及日本人』七三三号)
【追加】
 鳶魚先生いわく、「自分は観音の縁日に関係した諺でもなければ、もちろん薬師の前、地蔵の後に由来する語でもないと存じます」と。さて、『北国笑談』を引いて尻喰らい観音の義で、尻暗い観音ではないように説かれた。予その尻馬に乗って前文に、尻喰らいは尻喰らえだろう、と述べた。そののち拙蔵の古本の標題わずかに「酒軍千本」の四字を留めたものを見ると、藍染屋の義兵衛(義経の仮名)、新吉原の小静と馴染み、「浅草の観音まいりを出《だ》しに使うてお郷《さと》(本妻、郷の君)に一杯喰わせる機嫌取りの昼会、ついちょこちょこと埒を明けてはや駈け出してゆく○○○尻くらい観音の縁日、貴賤群集の○○○橋をすたすた行けば、云々」とあるから、観音の縁日に関係した諺と見立てた古人もあったのだ。この本の内容は『義経千本桜』を笑話にしたので、かの戯曲の初興行延享四年を去ること遠からぬ出板らしい。   (大正七年八月一日『日本及日本人』七三六号)
 
     眉唾について
         草野忠司「眉唾について」(四編上、寄書)参照
         (『日本及日本人』七三三号五八頁)
 
 『郷土研究』四巻七号四三三頁に、林魁一君、美濃の俗伝を列ねた内に、「眉毛に唾を付けておくと、狐がその眉毛を数えることができぬ、故に騙《ばか》されることがないという」とあった。鵜飼信興の『珍書考』に、『禁詞要略』を引い(155)て、清和帝幼時南庭に遊びたまう。御前を狐走る。良房公御側よりその魔伏させ給えと申し上げると、帝眉を伏せよと聞き違え給い、御指にて両の御眉を伏させ給う。これより怪異に逢う時眉を伏す、さらに唾もて塗るは後に出たこと、と書いておるが、『珍書考』は有名な偽著で『禁詞要略』など信興手製の書名に過ぎず。したがってこの起原説は無根だ。全くは今日、イタリア人が星点多き隕石や無数の砂や穀粒を袋に盛って佩ぶると、邪鬼や妖巫がその人を睨み害せんとしてもたちまち点や粒の数を算えに懸かり、算え終わらぬうちに眼力が疲れおわるから、ついにその人を睨み害し得ぬと信ずる同様、数え難い眉毛を読むうち狐の魅力が衰えてしまうという俗信より、狐等に魅せられぬ用心に眉唾を行なうのだ。唾をもって邪鬼妖魅を払うこと諸邦にもっとも広く行なわるるは、一八七〇年板、ロイドの『瑞典《スウエーデン》小農生活』一五六−七頁、一八九五年板、コックス『民俗学入門』二二九頁、出口米吉氏の「唾を祓除に用いる習慣について」(『人類学雑誌』二七巻五号)等に詳らかだ。(六月十六日)   (大正七年七月一日『日本及日本人』七三四号)
 
     まめ
         麦生「まめ」(四編下、寄書)参照
         (『日本及曰本人』七三六號七二頁)
 
 女根を豆と呼ぶことは『民俗』第一年第一報に出た予の「話俗随筆」(七)に『松屋筆記』を引いて述べ置いた。欧州でも蚕豆《そらまめ》の黒眉を溝、その両側を唇として女根に見立てる(ベロアル・ド・ヴェルヴィル『上達方』四二章)。ローマのフェスツスは、蚕豆は正しく地獄の門に似る、と言った(本年五月の『太陽』六六頁参照)。農女神ケレースや文学の祖オルツェウスや哲学者ピタゴラス、いずれも蚕豆を忌んだ理由として、ルキアノスはその形男勢に似るゆえといい、アリストクセノスはこれ陰嚢の状あればなりといい、アリストテレスはその陰陽の状を兼ぬるを言い、カルデア人ザレタはその花と子室を児頭産門を出るに比したらしい(グベルナチス『植物譚源』二巻一三−二三(156)頁)。(七月三十一日)   (大正七年八月十五日『日本及日本人』七三七号)
 
     夜這
          麦生「夜這」(五編上、寄書)参照
          (『日本及日本人』七四三号九〇頁)
 
 『今昔物語』巻二〇の「財《たから》に耽《ふけ》りて、娘|鬼《おに》のために?《くら》われしを悔いたる語《こと》」に、「一人の女子あり、その形端正なり、云々。いまだ嫁《とつ》がざるほどに、然るべき者どもこれを夜這う」。これと同事を漢文で記した『日本霊異記』と対照するに、「高姓の人、伉儷」とあるに当たるから、ここの夜這は求婚に相違ないが、同じ『物語』巻一六なる「無縁《むえん》の僧、清水の観音に仕《つかまつ》りて乞食《こつじき》の聟となり便《たより》を得たる語《こと》」に、「これ妻《め》にしてんと思うて、夜|窃《ひそ》かに這い寄りたるに」とあるは、正しく今俗にいわゆる夜這を実試したのだ。(三月三日)   (大正八年五月十五日『日本及日本人』七五七号)
 
     虎の字を書いて吠え犬を却く
         「膝栗毛輪講第一〇回」(五編下)参照
         (『日本及日本人』七四八号一〇五頁)
 
 この咄《はなし》、安永五年より百五十年ほど前成った『醒睡笑』巻一にすでに出でおる。いわく、「人|啖《くら》い犬のある処へは、何とも行かれぬと語るに、さることあり、虎という字を手の内に書いて見すれば啖わぬ、と教ゆる。のち犬を見、虎という字を書きすまし、手をひろげ見せけるが、何の詮もなくほかと啖うたり。悲しく思い、ある僧に語りければ、推《すい》したり、その犬は一円文盲にあったものよ」と。(『東海道名所記』三、袋井の条、大きなる赤犬かけ出で、すきまなく吠え掛かる、云々。楽阿弥も魂を失うて、にわかに虎という文字を書きて見すれども、田舎育ちの犬なれ(157)ば読めざりけん、逃げる尻もとへ飛び付く。)『嬉遊笑覧』八に、「この呪もと漢土の法なり。『博物類纂』一〇、「悪犬に遇わば、左手をもって寅《とら》より起こし、一口気《ひといき》を吹き、輪《めぐ》って戌《いぬ》に至って、これを?《つか》めば、犬すなわち退き伏す。」(「?は宜しく?と作るべし」。字書に爪?なりとあって、つかむことなり。)」とある。幸田博士の『狂言全集』下にある大蔵流「犬山伏」の狂言に、茶屋の亭主が山伏と出家の争論を仲裁し、人啖い犬を祈らせ、犬が懐《なつ》いた方を勝と定めようというと、出家、愚僧が負けるは必定と困却する。亭主|窃《ひそ》かに、あの犬の名を虎というから、虎とさえ呼べば懐き来たる。よって何ぞ虎という語音が入った経文を唱えたまえ、と教える。南無きゃらたんのうとらやとらやとらやとらやと唱えるや否、犬出家に狎《な》れ近づく。山伏祈れば犬吠え掛かり咬み付かんとするので、出家の勝利と決す。犬より強き虎の字を書いて犬を制し得という支那説が本邦に入って、犬の名の虎に通う音の入った経文を唱え、その犬を懐柔する趣きに変わったのだ。また田辺近村の人より戌亥子丑寅と唱えながら順に五指を折り固めて犬を伏せる法を聞き、『郷土研究』一巻八号へ出し置いたが、上に孫引きした『博物類纂』所載に似ておる。(一月二十九日)   (大正八年三月十五日『日本及日本人』七五二号)
 
     御師
         「膝栗毛輪講第二回」(五編追加)参照
         (『日本及日本人』七五一号一〇七頁)
 
 『沙石集』巻一上、上総高滝の地頭、一人娘を伴うて参詣せし熊野の師の房に、某の阿闍梨という若き僧かの娘を見初めた話あり。例年宿りて参拝に便りにする坊を師の房と言うたらしい。伊勢の御師《おし》は御?師《おいのりし》あるいは御詔刀師《おのつとし》の略称など『参宮名所図会』等に見えるが、戦国時代神宮のこと全く仏制となりおった由、『明良洪範』等に詳らかなれば、御師なる語も師の房あたりから出たのであるまいか。(三月三日)   (大正八年四月五日『日本及日本人』七五四号)
(158)【追記】
 その後、大淀三千風の『日本行脚文集』二、貞享元年の紀州紀行に、「さて本宮の神拝し、御師二階堂に入り侍る」とあるを見たので、いよいよ熊野の師の房が後世御師と転称されたと知る。(四月九日)   (大正八年五月十五日『日本及日本人』七五七号)
【再追記】
 『伊勢参宮名所図会』付録に、中古までは参宮人寺院に止宿せしゆえ、今関東より来たれる人は、初穂物を坊入坊施といえりというは、御師の師は師の房の略だろうと言った拙見を確かむるようだ。しかし『群書類従』に収めある『神馬引付』に大神宮、石清水、御霊、愛宕、春日等諸社の御師に宛てた神馬の送り状を載せたのを見ると、文明五年に始まって天文六年に至りおるから、御宿師、御詔刀師の略とするも、師の房の略とするも、御師なる語は戦国時代以前に生じたらしい。(六月二日)   (大正八年六月十五日『日本及日本人』七五九号)
 
     ぞめき
          「膝栗毛輪講第二回」(五編追加)参照
          (『日本及日本人』七五一号一〇八頁)
 
 『沙石集』六巻三章、浄遍僧都嵯峨の釈迦堂再建の勧進のために説法する辞に、「されども凡夫の心の拙さは、家に帰り給いなば、云々、さし当たり世間公私のぞめき〔三字傍点〕に打ち忘れて、多くは空しきことなるべし」。また七巻四章に、「流転生死のぞめき〔三字傍点〕に身も苦しく、心も乱れて、過ぐる月日も覚えず、近づく冥途を忘れんこと、返す返すにも愚かにおこがましくこそ」。今も東京で騒ぎというを上方でゾメキという意によく合いおる。弘安のころすでにあった語と見える。(三月三日)   (大正八年四月五日『日本及日本人』七五四号)
 
(159)     まわし
          「膝栗毛輪講第一一回」(五編追加)参照
          (『日本及日本人』七五八号一一九頁)
 
 角力取りの化粧マワシという名から推すと、マワシはフタノの一名のようで、拙妻の祖母(今まで生きおったら百十歳)などはフタノをもっぱらマワシと呼んだ。しかるに、紀州で今日マワシと呼ぶは、必ずフンドシのことじゃ。   (大正八年七月一日『日本及日本人』七六〇号)
 
     傘をさして飛ぶこと
          「膝栗毛輪講第一三回」(七編下)参照
          (『日本及日本人』七六九号一二三頁)
 
 
 予若年のころ養父だった人は、米相場を事とし有名な相場師の履歴を諳《そら》んじおった。その話に、某所の某は相場で儲くべき心願で生駒とか信貴とかの堂から傘さして谷底へ飛んだ、われもやって見ようかしらなどと言った。明治十三、四年まではあまり希有でなかったらしい。明治五年七十九歳で死んだ奥村正信の『絵本小倉錦』に、美少年が傘さして飛びに掛かるを女どもが見る画ありて、「清水の舞台から飛び散る桜人の命の惜しくもあるかな」と書き添えたる。『宇治拾遺』に、検非違使忠明、若い時京童輩に抜刀で追われ、清水の堂の蔀《しとみ》を脇に挿みて無難に前の谷底へ飛び下りし話を載せおるから見ると、清水寺の飛ぶ話は平安朝より付き物だったと見える。英国でもウィリヤムス大僧正は七歳の時(一五八八年)長羽織を著て、コンウェイ・タウンの高い石垣上より海浜に飛び下りしに、その羽織が強い風を含んで帆のごとく用立った由、ハッケットの『スクリニアレセラタ』に出ず。(十一月二日)   (160)(大正八年十二月一日『日本及日本人』七七一号)
 
     京都青楼の  蝋燭代 付「かいな」
          「膝栗毛輪講第一三回」(六編下)参照
          (『日本及日本人』七七一号一二二頁、七七二号一二二頁)
 
 馬琴の『羇旅浸録』中巻、「祇園大楼の噂」の条に、「大楼は燭台四ツ五ツ、?燭は六寸ばかりあり。半分たたざるうち取り替える。その度々に必ず客の顔の色が変わる。?燭一挺八分ずつなればなり」。これに比ぶると、弥次・北八が五条新地の小楼で五分請求されたは、安いようで実は高い。同巻「祇園の方言」の条に、「また、かいなということあり。一人『これはこうこういう訳じゃ』答『かいなア』左様かいなを略せり。これらはしおらし」とある。今も熊野で老人など、このような詞《ことば》を使う。英語で同様の場合、イズ・ザット・ソーを略して、イズ・ザットというがごとし。(十二月二十二日)   (大正九年一月十五日『日本及日本人』七七四号)
 
     才六贅六
          「膝栗毛輪講第一三回」(六編下)参照
          (『日本及日本人』七七二号一二三頁下段)
 『嬉遊笑覧』一二に、「古く金はる者をケサイといえり。『庭訓』に芸才と書けるは仮字なるべし。思うに『?嚢抄』にケラ才ということを載せて虫の得たる才のことに注せり。これも仮名書きにて虫のことにはあらじ。ケラのラ文字は郎字か助字か、これまた下才なるべし、云々」。足利氏の代にケラ才とは外見ばかりで実際用に立たぬ技倆を言った(『塵添?嚢抄』四の二七)。下郎才の義であろう。それが下才となり、さらに下才六となったらしい。六は宿(161)主を宿六と呼ぶごとく人を卑蔑した称呼だ。近松半二の『道中亀山噺』(安永七)、大井川の川越し輩が中野藤兵衛を嘲る詞に、「地獄の沙汰もということを貴様知って居やるか、云々、それ知らぬ下才六なら渡すことならぬならぬ」。巣林子の『女殺油地獄』(享保六)に、会津人が大阪者と喧嘩の辞、「上方の泥水より奥羽者の泥足食らえ、云々、や、チョコ才な下才六、鰓《えら》骨引っかいてくれべいと、云々」。そのころすでに上方者を下才六と罵ったので、外見ばかりよい鈍物という意味らしい。さてそれを略して才六と言ったは『膝栗毛』ここの例で分かる。それから上方者が多く空贅を吐くに寄せて贅六となったのだ。(二月一日)   (大正九年三月十五日『日本及日本人』七七八号)
【追記】
 前文に才六は下才六より出たらしいと述べ置いた。このごろ其磧の『寛闊役者気質』下巻第二を見ると、おるりという娘が団十郎に仇討の後見を頼むところに、「門平踊り出て、しばらくしてかの男引きずり来たり、この才六でござるかと娘に見すれば、なるほどあの人とうなずき、時に市川|眼《まなこ》に角を立てて、芝居で悪人方をきめる格で、ヤイサ、けざい六め、云々」とある。けざい六すなわち下才六で、そのころ略して才六とも言った確証に立つ。   (大正九年七月一日『日本及日本人』七八六号)
 
     白粉の釜元
          「膝栗毛輪講第一四回」(七編上)参照
          (『日本及日本人』七七五号一一三−一一四頁)
 
 『西鶴織留』六の初め、「官女の移り気」の章に、京の四条通りの白粉屋店の画あり。衝立様の置き看板に、上々御しろい釜本、と書きある。   (大正九年四月一日『日本及日本人』七七九号)
 
(162)     厠をお裏という
           「膝栗毛輪講第一四回」(七編上)参照
           ( 『日本及日本人』七七八号一二二頁)
 
 安永ごろの板本『女大楽』に、「若衆の寝間にも多くしなありて、寝間へ入る前に裏へ行くもあり。これ若衆は体の弱き者ゆえのことなり」。上方で厠を裏と呼んだのだ。江戸ッ子が厠を裏と呼ぶことはなかったらしいが、『囀り草』松の落葉の巻に、「弘化三年春より夏に至りて紫磨屋の番頭という戯言、その流行驚くまでなり。あるは手遊び団扇様の物にまでわたれり。このころ流行の風邪を島屋風なども言えり。ことにおかしきは商家の店先へ水虎《かつぱ》の物かりに来たるに、番頭の驚き困《こう》じたる様を写し、錦画出でたり。こはまた一時の戯画ながら、かのかっばの屁によって名高き一証ともいうべし」。この記事は何かある反物屋の番頭が丁稚を鶏姦した大評判が行なわれたに基因したらしいが、本来反物に縞が多いから反物屋を島屋と呼び、反物を剪刀《はさみ》で切るに必ず裏より行なうより男色を島屋の番頭と綽号《あだな》したと聞いた。すなわち後庭を裏というたので、『開巻驚奇侠客伝』五集四巻等にも男色をウラムキと訓《よ》ませある。   (大正九年四月十五日『日本及日本人』七八一号)
 
     宮川町の野郎
           「膝栗毛輪講第一四回」(七編上)参照
           (『日本及日本人』七八一号一一九貫)
 『守貞漫稿』二〇編に、野郎、京師は鴨川東の宮川町という遊女町の中にあり、と見え、安永八年の序文ある『絵本満都鑑』に、茶屋女が嫖客を引き込むところへ、提燈持った男が野郎を送り来る図あり。上に、「舞台子の色姿、ま(163)た一《ひと》しおに目の留まる額の紫は四季のかきつばたともいうべし、わしがこの宮河町は命でも、とんと野郎の花の姿に」と題しある。『漫稿』に、「京坂ともに遊女屋同所に若衆屋二、三戸ずつありて、特に若衆茶屋というはなく、遊女の茶屋にてこれを迎うなり。若衆店には江戸のごとくに客を迎えず」とある。また、天保官命後三都とも廃絶せしが湯島天神社地のみ密《ひそ》かに再行する由、と載す。予が壮歳のころ相識の高野坊主などに、以前宮川町に男色を漁《あさ》った者少なからず。維新改革まで高野でもっぱら用いた黄蜀葵《とろろあおい》の根の澱粉に麝香を和した粘質開通剤通和散は、みな宮川町から買ったと聞いた。『漫稿』に衆道の売色を慶安・寛文|已降《いこう》始まったよう言うも、嘉元三年成った『続門葉和歌集』序に、「何ぞ況《いわ》んや、木幡《こわた》里の駅馬を辞し、迷いて童郎の懇志を尋ね、栗陬野《くるすの》の児店を過《よぎ》り、咽びて行旅の別恨に向かうをや」とあれば、鎌倉幕府の代すでにその設けあったのだ。   (大正九年五月一日『日本及日本人』七八二号)
【追記】
 前文に安永八年の序文ある『絵本満都鑑』を引き置いたところ、その後それより三十五年前の延享元年に其磧が出した『傾城情の手枕』四の二に、芝居若衆のことを述べて、「多くは田舎を駈けめぐり、または都の川原町、宮川筋の出店に色作りて、子供切れのした時、ちゃっというを待っているなど、とげしなきこと、これもこの道の修行とて、云々」とあるを見出だした。延享の初め、すでに宮川町で野郎が売色したのだ。   (大正九年六月一日『日本及日本人』七八四号)
【再追記】
 前文追記に引いた其磧の『傾城情の手枕』(延享元年)より四十三年前、元禄十四年出版自笑の『傾城色三味線』京の巻の二に、そのころすでに宮川町に売色?童があった記事あり。いわく、「されば道々によってさかしき世とは今なるべし。宮川町の小供屋の主、不断常香盤もる舞台芸不器用で、暇日の多い若衆に、枕返し扇の曲、参る参るの仇口やめて、同じ慰みならば独楽《こま》まわしこそ面白けれと、親方許して黒塗の独楽を買ってあてがいけるに、云々、下地(164)|螺《ばい》まわしの手利《てきき》なれば、その格をもってさっそく上手になって、初太郎も恥じるほどになりしかば、大尽の御機嫌取りに参りし役者どもが噂して、若衆はかつて思いつきなく、独楽の曲みんばかりに諸方より招いて、はききの太夫子よりは格別はやってその名高し」。   (大正九年七月一日『日本及日本人』七八六号)
 
     水から――宇治山
           「膝栗毛輪講第一四回」(七編上)参照
           (『日本及日本人』七八一号一二〇頁)
 
 例の『嬉遊笑覧』一〇上に、「『尺素往来』に「乾蘿蔔炒付引干」とあるは、大根の引干にや。『細流抄』に、海草なるべしとあり。かようの物、古く果子に用いたり。京、難波にて昆布を用うるは古風なり。その内に山椒を包みたるを果子とす。これをみずからという。『油嘉須』に、思ふままには言はれざりけり、みづからのこぶの塩しむ爪はらみ。『懐子』、思ひ出ずる人松前に数奇心、むせぶも嬉し昆布に山椒。『おこたり草』に、昆布にて製するみずからという物あり、もと山椒を入れて製せしゆえの名なり、不見辛《みずから》と書いて、思わざるの外に辛き物という名なり、今はただ焙炉《ほいろ》昆布をみずからというは中らず、といえり。古くもみずからと書きたれば、あながち山椒の有無には由らず、果子として食う昆布をいう。水より生ずる物という意にてもあるべし。その製いろいろあり」と見ゆ。
 宇治山は何か判らぬが、予の幼時上方で餡餅に薄茶の粉をまぶしたのを宇治の里と呼んだ。もしくはその類品でがなあろう。『一話一言』一、天和三年京御菓子司桔梗屋河内大掾の菓子類目録、御茶菓子御月蒸し物類に、朝日山餅あり。朝日山は宇治の名所だ。その製法詳らかならぬが、あるいは宇治山と同物かと惟う。
 以上書き終わって、其磧の『世間娘気質』二の二に、奢り女房が芝居を見るところを記すを見ると、「朝日山という煎じ茶を台天目にて運ばせ」とあれば、朝日山は銘茶の名だ。朝日山餅はその茶で何とかした餅らしい。(165)   (大正九年五月十五日『日本及日本人』七八三号)【追記】
 水からという果子。『嬉遊笑覧』によれば、これはもっぱら昆布で製した物らしい。しかるところ、予往年ロンドンで見た宝暦ごろの物らしい上方板、題号の失せた六冊物の絵本に、「不破の関荒れて優しい女武者」、「隠遁者、世を離れたる竹の皮」など、謎を発句にしたところあり。面白く思うて抄し置いたのを、頃日取り出し見るに、「手水鉢水からにした蕗の切れ」ちうのがあるから、蕗でもこの果子を製したと見える。   (大正十一年二月十一日『日本及日本人』八二九号)
 
     水から
 
 本誌七八一号一二〇頁に、鳶魚先生、「水からは葉子昆布を結んだので、それへ砂糖を付けたのだと聞いています」と言われたが、七八三号七〇頁に述べた通り、『嬉遊笑覧』に、『おこたり草』から、「昆布にて製するみずからという物あり。もと山椒を入れて製せしゆえの名なり。不見辛と書いて、思わざるの外に辛き物という名なり、云々」と引きおる。それから本誌へ追加として出したか出さなんだか聢《たし》かに覚えぬが、そののち宝暦・明和の間に上方で出たらしい失名の絵本に、「手水ばち水からにした蕗のきれ」とあったを見出だして、追い追いは蕗をも水からに製したと知った。さて頃日、早く大正五年に鳶魚先生が出した『鼠璞十種』に収めた『色里新迦陵鬢』の「昆布道成寺」の文句を見ると、発端に、「みずからと申すは、そもこれじゃ。そなたのためにも姉が小路のこぶじゃ。(中略)恨みたらだらたら汁の、つまの心の仇《あだ》しさに、妾《わらわ》は出しに使われて、気も移り香の胡椒の粉」とあれば、もと姉が小路の名物で、山椒に限らず、胡椒を加えても製したと知る。   (大正十二年一月一日『日本及日本人』八五二号)
 
(166)     盲碌頭巾
             「膝栗毛輪講第一四回」(七編上)参照
             (『日本及日本人』七八二號一二一頁)
 
 『守貞漫稿』、火事装束に、兜頭巾、革頭巾、猫頭巾、下頭巾を列ねたが、盲碌頭巾の名見えず。ホウロク頭巾は、三十年ばかり前まで京坂で隠居など多く用いた。和歌山でホウラクと呼んだ。むかしの山僧弁慶などが被《かぶ》ったシチョウ頭巾のひだを略した体で、錣《しころ》は無論ない。『守貞漫稿』一四編に、八丈島崇徳寺蔵浮田秀家の綿帽子の画と歌を出し、この形焙※[火+碌の旁]頭巾なり、焙※[火+碌の旁]頭巾、今製黒縮緬の綿入なり、他の頭巾は多く袷《あわせ》なるに、この頭巾に綿を入る、故にこれ古えは綿帽子と言いしか、云々、慶長ころはこれを綿帽子と言いしなり、今世僧の所用なり、ちなみにいう、むかしは蕩郎花街に遊ぶにこれを用うるか、今も源太景季の遊里通また椀久という蕩郎狂乱に扮す者必ずこれを被るなり、とある。全く江戸火方人足の盲碌頭巾と別物らしい。   (大正九年六月一日『日本及日本人』七八四号)
 
     二八十六で文付けられて
            「膝栗毛輪講第一五回」(七編下)参照
            (『日本及日本人』七八八號一二四頁下段)
 
 『平仮名盛衰記』のこの唄の文句にやや似たのが、巣林子の『丹波与作』下巻にある。いわく、わたしゃ十二で人呼び初《そ》めて、ことし二十一まる九年、とめし旅人何万人ぞ、云々。   (大正九年十月一日『日本及日本人』七九三号)
【追記】
 二八十六。この口調の語、支那書で捜すに、唐の開元二十四年張守節が作った『史記正義』より八百五十七年前に(167)自殺した劉安が著わした『淮南子』地形訓は、「天は一、地は二、人は三。三三にして九、九九八十一、一は日を主《つかさど》る。日の数は十、日は人を主る。人は故に十月にして生まる。八九七十二、二は偶を主る。偶はもって奇を承く。奇は辰を主り、辰は月を主り、月は馬を主る。馬は故に十二月にして生まる」という風に、犬は三月、豚は四月、猿は五月、鹿は六月、虎は七月、虫は八月で生まるる由を、九々の掛け声で説いておる。   (大正十年一月一日『日本及日本人』七九九号)
 
     チョコいうて
           「膝栗毛輪講第一五回」(七編下)参照
           (『日本及日本人』七九一号一二三頁
 
 この語近時上方で一向聞かぬが、猫にチョコと名付けた例はある。それは女陰をオチョコと呼ぶと斉しく、また偶然スペイン語のチコ、チキトなどに似通い、小さい可憐な奴というほどの意らしい。猪口才や、「チョッカイを出す」などから推すと、チョコとは無駄口をきく義らしいが、『膝栗毛』のこの所の意は、前文から察するに、「間に合わせ」またゴマカシなるべく聞こえる。あまり新出来《しんでき》の詞でない証拠は、貞享四年板、西鶴の『懐硯』二の終り、信太森で狐ども芸尽しを催すところに、「三番に家原《えばら》に住みて年久しきチョコ兵衛、姿は二八の花の皃《かお》、色紫の帽子を懸けて、何処《いずく》へ飛ぶの定めなく、しどけなきなりふり、満座死にますると悩みける」。猪口才、また走り廻りの小早い者をチョカチョカした奴など称うると合わせ攷えると、チョコ兵衛は小悪戯をなす奴ぐらいの意味と惟わる。   (大正九年十月一日『日本及日本人』七九三号)
 
(168)   読「日本永代蔵輪講」
 
     水間寺観音の金を借ること
           「日本永代蔵輪講」(巻一の一)参照
           (『月刊日本及日本人』二〇四号九〇頁、九六頁)
 
 今年二月の『民俗学』三巻二号に、摂州高槻町の薮重孝君、水間寺のほかにもこんな例ありやと質問を掲げたに対し、諸氏の答弁左のごとし。『民俗学』は予関係厚き物から、編輯人に乞うて『輪講』刊行の節補加の料に充てる。
  中島政雄氏いわく、岡山県苫田郡一宮村、東田辺所在の黒沢山万福寺は、日本三福地の一として、毎年旧暦正月十三日を縁日とす。この日、寺で福銭を出す。参詣者の誰でも、一銭、二銭、乃至《ないし》十銭、二十銭、あるいは一、二円ぐらいまで、希望の者が、虚空蔵尊のお金を、本堂で世話しおる人へ申し出て、一年間拝借して、これを自分の財布へ入れて置けば、思わぬ収入あって、財布の金が殖えるという。お金は別に何某へ貸した等記帳もせず、ドシドシ貸出が行なわれる。借りた人は翌年正月十三日に倍額にして返す定めで、毎年前年貸し出したものは、倍額になって償還され、借り貰いなど、不心得の者はないそうである。
  中平悦暦氏いわく、単に類似の信仰ゆえ、報告すると、私郷里土佐(のどこかなり。明記なし)では、拾得した銭は、すべて夷大黒様の神棚に上げ置き、田地を買う際に、借りてその中に入れると、富有になると信じおれり。
(169)  別所梅之助氏いわく、昨年の夏ころか、石川欣一氏が、『東京日日』の「上越紀行」に書いたところによると、上州沼田の北にある迦葉山弥勒寺という天狗を祀るお寺では、種銭と称して、二十銭程度の金を貸す、多くとも五十銭どまり、円の中に「心」とした紙に包んで貸すのを、翌年倍にして返す、とありました。なお、それとは少し違いましょうが、お寺などで金を貸したのは、徳川期には珍しからぬことでしたろう。芝の増上寺などでも、大金を貸したそうです。例に引かれた『永代蔵』にしても、巻四「茶の十徳も一度に皆」の末に、「寺々の祠堂銀をかり集め」とあるように、お寺では利殖を計りました。なお品物を預かって金を貸す質ということも、もともと支那のお寺で始めたと聞きます。宮崎先生『法制史論集』かにも、たしか出ていたと存じます。
 南方熊楠いわく、大正十一年三版、永尾竜造君の……(コノ一事ハ『日本及日本人』四月十五日号(二二三号)六七頁に出ス。追記ヲ出シ本記ヲ出サヌハ、ケシカラヌヤリ方ナリ。)
 多少これに似たことが支那趙宋の世にもあった。洪邁の『夷堅三志』己八にいわく、台嶺に小叢祠あり、掲げて銭王廟という。祀典に載せず。また、何年に起こりしか、および銭氏何王の廟なるかを知らず。土俗、従来みな敬事を加う。細民貧窶で旦暮を給せざる者、これを過《よぎ》りて?るあり。すなわち竹根もて地中を掘り廻れば、必ず一、二百銭から五百銭までを得。その心中|冀《ねが》うところを度して、過ごし与えざるなり。越人虞叔曹、性滑稽なり、祠下を経由し、香を焚き、再拝して黄金十両を賜えと乞い、終日掘ったが獲るところなくして去った、と。『五雑俎』三に、済?《せいとく》廟の神は、かつて人と交易するに、契券《わりふ》をもって池中に投ずれば、金すなわち数のごとく浮き出ず。牛馬百物も、みな仮借すべし。趙州の廉頗《れんぱ》の墓もまた然り、とある。巫祝が神徳を宣揚せんと密計して、あまり多からぬ金額を貸したり与えたりしたので、むろん金額と人数に定隈があったろう。借用後、利倍して返したのも多かるべく、たとい多少の借り倒し貰い捨てがあったにしても、その入れ合わせ以上に、神徳を仰ぐ輩よりの寄進等が多かったのでしょう。
 宮武省三氏熊楠に教示されたは、享保二年黒沢長尚撰、『雲陽志』巻一、島根郡別所、焼火山の上に、古えより銭(170)を入るる大なる瓶あり、この中の銭一銭を取りて二銭を返し入るるなり。この取りたる銭を守りとすれば疱瘡を免るる人もあり、または軽くする人もありとなん。この銭を入れたる物を舶に積めば、恙なくその所へ至ると言えり。舟に酔いたる者、銭を水に入れて、その水を飲めば、必ず快くなれりとなん。その験を親《まのあた》り見たりと語る人多し。   (昭和六年六月一日『月刊日本及日本人』二二六号)
【追記一】
 大正十一年三版、永尾竜造君の『支那民俗誌』二〇三頁に、北京の新聞紙より、「京師広寧門外の財神廟は、廟貌嶷煥、報賽最も盛んなり。毎歳正月二日(九月十七日また然り)、城を傾けて往きて祀る。商賈、妓女最もおびただし。廟祝はさらにその説を神にして説いて謂う、神前の紙錠を借りて懐にして帰り、財を得るを俟《ま》って、まさに十倍をもって神に酬ゆべし、と。故にみなこれに趨《はし》ること鶩《あひる》のごとし」と引きある。水間寺等も支那のこの風を摸したものか。(三月二十三日午前三時半)   (昭和六年四月十五日『月刊日本及日本人』二二三号)
【追記二】
 これまで和漢の例のみ挙げたから、ここには一つインドの例を申し上げる。一九一五年ボムベイ板、エントホヴェンの『コンカン民俗記』一五頁によれば、マハラクシュミ山に、小児の痘瘡を守る女神ジグドハニの祠あり。金入要の者、所要の金額と等大に、花をこの神像の前に積み置き、用がすんだら返金すべし、と契《ちか》うて帰り、約束の日にまた詣でると、花を積み置いた所に、きっと所要の金額があった。しかるに、一度金を借りながら返さぬ者あってより、女神は全く金貸しを止めたという。この神祠に戸なく、大石もて塞ぎ、それにただ一孔ありて、微妙の香を出すこと絶えず。その孔より神像を拝し得る。一夜この女神この山麓を遊歩するところに居合わせた牧牛夫が、その麗容無双なるを見て、一見たちまち硬起して制止すべからず。金を貸してくれるほどならスリバチも貸してくれるはずとでもコジつけたものか、山頂まで追い登った。女神その悪意を察し、巨大の一石をもってその祠の入口を塞いだまま今に(171)存すという。(六月九日夜十一時半)   (昭和六年七月一日『月刊日本及日本人』二二八号)
 
     銭掛松
           「日本永代蔵輪講」(巻四の三)参照
           (『月刊日本及日本人』二二五号七九頁)
 
 劉宋の斐松之が『三国志』一一巻、?原伝注に引いた別伝に、原かつて行きて遺銭を得、拾うてもって樹枝に繋ぐ、この銭すでに取られず、しかして銭を繋ぐ者いよいよ多し、その故を問うに、答うる者これを神樹と謂う、原そのおのれに由って淫祀となるを悪み、すなわちこれを弁ず、ここにおいて里中ついにその金を斂《おさ》め、もって社供となす、と見ゆ。蛇とみえたことはなけれど、銭がとられず、神樹と崇められたは一なれば、豊久野の銭掛松の談は、この?原別伝から思い付いたものだろう。
 銭が蛇とみえたインド譚は、『続南方随筆』二六八百に出した。『広博物志』三七に、「梁の元帝、玄洲苑に幸し、大蛇の前に盤屈し、群小の蛇これを遶《かこ》み、みな黒色なるを見る。帝これを悪《にく》む。宮人いわく、これ怪にあらず、おそらくこれ銭竜ならん、と。銭千万をもって、その処を鎮む」。支那でもそんな迷説があったのだ。『醒(172)睡笑』二に、人の目には蛇、われにのみ銭とみえよと言って銭を埋めるを、聴きおった者、銭をとり、蛇を埋めおく、後に掘って蛇をみつけ、やれ、われを見忘れたか、速く銭とみえよと言ったとあるは、古くかかる信念が本邦にもあった証拠だ。(昭和五年十二月二十二日)   (昭和六年一月十五日『月刊日本及日本人』二一七号)
 
     茶の十徳
           「日本永代蔵輪講」(巻四の四)参照
           (『月刊日本及日本人』二一六号二三七頁)
 
 『永代蔵』四巻四章の首題の「茶の十徳」なる語について、輪講諸君は一辞を演《の》べられなんだ。ところがこれはずいぶん難解とみえ、去んぬる大正九年、当時高野山座主だった故土宜法竜僧正より問われたが答え得ず。同十年十二月発行『太陽』二七巻一四号一四六頁に筆して広く読者に質疑したところ、さっそく中道|等《ひとし》君より答書が来た。茶の十徳とは、「一には諸仏加護す。二には五臓調和す。三には父母に孝養す。四には煩悩消除す。五には寿命長延す。六には睡眠おのずから除く。七には息災延命す(五と突き合うようだ)。八には天神心に随う。九には諸天加護す。十には臨終に乱れず」だ。明治三十年八月刊行、『内外名数雑誌』第一号に、出所を不明のまま載せあった、と。これで十徳の仔細はほぼ判ったものの、出所不明は残念と百方探索してようやくみあてたは、応永年中の作たる『禅林小歌』に、「然りといえども茶に十徳あり。一には諸仏加護す。二には五臓調和す。三には煩悩自在なり。四には寿命長遠なり。五には睡眠自在なり。六には父母に孝養す。七には息災延命す。八には天魔怖畏す。九には諸天加護す。十には臨終に乱れず。『蘇摩訶童子経』に、委《くわ》しくこれを讃す」とあり。それより約百年後、永正四年に書かれた『旅宿問答』にも、されば『蘇莫童子経』に(茶を)服する者、十種の徳を明かす。一には諸天加護、二には五臓調和、三煩悩微薄、四寿命長遠、五睡眠自在、六孝親増長、七息災安穏、八天魔遠離、九臨終不乱、十には往生仏(173)土と言えり、とある。
 この二書に出たのと、中道君が示されたのと、おのおの異処あり、列次も多少違いおるは、種々に暗記のまま伝えたのだろう。しかして西鶴のころまでは、茶人が茶の十徳という詞をしばしば唱えたから、この章の見出しに用いた物であろう。いわゆる『蘇摩訶(また蘇莫)童子経』とは、黄檗板『一切経』第七六套賢巻、『蘇婆呼童子経』のことだろう。唐の中天竺三蔵輸波迦羅が一行阿闍梨と共に訳し、種々の禁呪法や占術を述べたものだ。予かつてこれを通覧したが、少しも茶のことがみえぬ。『沙石集』などに、やや長たらしい歌あれば、漫《みだ》りに『万葉集』に出たごとく筆したように、誰かが茶の十徳を造り列ねて、これをかの経に托したとみえる。まずは清朝の曩祖《のうそ》が源義経と『古今図書集成』に出ず、というと似た法螺だ。   (昭和六年三月十五日『月刊日本及日本人』二二一号)
 
     茶殻を染料とす
          「日本永代蔵輪講」(巻四の四)参照
          (『月刊日本及日本人』二一六号二三七頁、二三九頁)
 
 家蔵の和漢書を調べたが、このこと見及ばず。しかし拙妻など若い時、その母が毎度茶葉で絹を茶色に、濃く淡く染めるを手伝うて、今もその法を覚えおる。普通には水一升に茶一握りを投じ、煎沸して用い、色留めには酢また明礬を使うとよい色に染まった。また、近村では茶を煮沸、中へ木綿糸を投じ、茶色に染めれば、糸強くなるとて実行したという。一九一八年ロンドン板、パーキンおよびエヴェレストの『天然有機物染料篇』にも、茶のタンニンを列し、たぶんクヌギ皮のタンニン酸と同一だろう、と記しある。   (昭和六年三月十五日『月刊日本及日本人』二二一号)
 
(174)     後家倒し
           「日本永代蔵輪講」(巻五の三)参照
           (『月刊日本及日本人』二一八号八九頁上段)
 
 『和泉志』にこれをごけどおしに作り、高石邑人始めて造る、とある。本文大和の人と、今ならば発明先後の訴訟が起こるところだ。『和漢三才図会』三五に、その図を載せ、イナコギ、俗にいうゴケタオシ、按ずるに古えは、麦稲の穂を扱《こ》くに、二小菅をもって繩を通し繋ぎ、これを握り持って穂を挟みこく。秋収むる時に至りては、近隣の賤婦《かか》、孀婆《ごけばば》、これがために傭われて、もって飽くを得たり。しかるに近年稲扱きを製し、その形狭き牀机のごとく、竹の大釘数十を植え微《すこ》しく馬歯杷《こまざらえ》に似たり。穂を引っ掛けて引く。その捷さ扱き竹に十倍するゆえ孀婆失業す。よって後家倒しと名づく。また近ごろ鉄をもって歯となし、鉄稲扱きと名づく、とあり。寡婦の利を奪うた物だ。明暦四年再板、『京童』四、吉田の条には、二婦相対して一人は稲を束ねてさし出し、他の一人両手で棒を転じ穂を磨り落とす、迂遠なやり方を図しある。『農政全書』や『欽定授時通考』などにみえぬから、後家倒しは例の支那伝来でなく、全く本邦人の発明に成ったらしい。(四月二十一日)   (昭和六年五月一日『月刊日本及日本人』二二四号)
 
     亭主の心持ち宜しからずして、安居《あんご》の頭《とう》の行事敗れたこと
          「日本永代蔵輪講」(巻六の四)参照
          (『月刊日本及日本人』二二三号一〇二頁、一〇四頁)
 これに似た話が、清の楊式傅の『果報聞見録』に出ず。鮑正賢なる者、その母病んだので、姉の子楊僧官をして、北斗を拝み?《いの》り禳《はら》わしめた。夜ごとに三鼓の時刻に壇に上り、四十九拝を七夜勤めるのだ。ところが六夜めに、僧官(175)たまたま不潔のことをなし、礼して三十拝に至ると、たちまち、きわめて大きな靴をはいた一隻の脚が香案上に落ちたので、大いに驚いてついに病死した。北極は天の枢で、至尊在る所だから、至誠斎戒して礼拝すべきに、不浄の妄念一たび起こらば、禍すなわちこれに随う。福を求めて禍を得、往々にしてこれなり、懼れざるべけんや、とある。ここに言う、たまたま不潔のことをなしとは、毎夜勤行の退屈さに、手扁に揚げ下げでもやったので、『永代蔵』の淀の長者が、燃えしざった葭を惜しんだのと違うが、妄念一たび起こって、禍を招いたは同一轍だ。(八月六日午前二時)   (昭和六年九月一日『月刊日本及日本人』二三二号)
 
(176)   読「西鶴織留輪講」
 
     犬蓼の灰
          「西鶴織留輪講」(巻一の二)参照
          (『月刊日本及日本人』二二六号八四頁上欄、八九頁中欄)
 
 遠藤君は茄子の灰について文献を挙げられたが、犬蓼の灰また文献なきにあらず。『重訂本草啓蒙』一二にいわく、馬蓼(すなわち犬蓼)灰、茄梗《なすびから》灰、煙草梗《たばこから》灰、右三味合わせ調え、タドンの小口に付くれは、よく火を引く、これを有明《ありやけ》たどんという、その主薬は馬蓼灰なり、またこの灰中に炭火を埋めば久しく保つ、と。それより古くできた貝原先生の『万宝鄙事記』三にも、「火を保つ法。犬蓼の黒焼を、かたぎか、あるいはつばきの長《たけ》一寸か、五、六分に切りたるにつけ、火器に入れて、その上に火を少し置けば、一日一夜までは消えず」と記す。それより八年後れて成った『和漢三才図会』九四の末巻にも、犬蓼の茎、焼いて炭となし、懐炉の炭となすに佳《よ》く、茄茎の炭に勝《まさ》り、よく火を保つ、と載す。『本草綱目』一六に火炭母草《かたんぼそう》あり。蓼の類らしいが、日本にないものらしい。『和三』に、この草ことに火をよく保つから、この名あるのだろう、と述ぶ。支那書に犬蓼の灰よく火を保つ記事を見ぬから惟うに、本邦人が火炭母草から類推して、試験を重ね、ついに犬蓼の灰よく火を保つと知るに及んだものか。(六月三日)   (昭和六年六月十五日『月刊日本及日本人』二二七号)
 
(177)     大名の前で宝引き
            「西鶴織留輪講」(巻三の一)参照
            (『月刊日本及日本人』二三三号一〇〇頁中段)
 
 ここの記事に似たのが古ローマ帝国にもあった。西暦二〇五年ごろ生まれ二二二年弑せられたエラガバルスは、わずか十八歳でこの世を去ったが、たった三年の治世中にできる限りの淫行を尽し、そのこと畸態を極めたので半男女帝の称あり。その短き一生に過去諸帝の婬事を大成したとは呆るるのほかなし。一例を挙ぐれば、宴席で鬮を引かせ、思案に能わぬヘンな景品を諸人に賜わる。腎張り老爺が、「女装して後庭を犯さるるを好める」帝の夫となることもあり。半死の不具婆が美少年の妻と引き当てることもあり。ヘラクレスの十二難を課せらるるもあり。これを見て帝歓笑限りなし。また鬮次第で追放、没収のみか、死刑に当たるすらあり。蠅十疋、卵十個、蜘蛛の網十枚を徴されたり、下さったりなどは洵《まこと》にありがたき仕合せの至りなり、云々(一八五一年ブルッセル板、ジュフール『売靨史』二巻三五〇頁)。
 ついでにいう。清の順治の初め、北京の水売り趙遜が、同輩の醵金で妻を買い、その?を除くと、遜に倍した年ごろの嫗だったので、改めて母として事《つか》えんというと、感心して珠一つくれた。それを金に易《か》えてさらに少女を買うと、その嫗の娘だった。それを娶って繁昌したというから、嫗も捨てたものでない(『香祖筆記』四)。   (昭和六年十一月十五日『月刊日本及日本人』二三七号)
【追加】
 洛下寓言子作『初音草噺大鑑』は、『風俗』一巻四号八頁、林若樹氏説に、元禄ごろの印行という。その三巻一章に、「初春の福徳」という談あり。全くこの西鶴の文を少しく改変しただけで、十の九までこれを剽窃したに過ぎな(178)い。例せば、正月三日を七日、ふり杓子をすり子木、奥上席の梅垣をお腰元の梅が枝と替えている。   (昭和七年一月一日『月刊日本及日本人』二四〇号)
 
     ふり杓子
            「西鶴織溜輪講」(巻三の一)参照
            (『月刊日本及日本人』二三三号一〇二頁)
 
 三田村先生がわかりませんねと言われたふり杓子は書物に記載がないようだ。拙見をもってすれば、『和漢三才図会』三一に、「貝杓子、云々、今はすなわち野卑を悪《にく》んで用いず。多くは銅杓子を用う」。今は銅に限らず、真鍮、ブリキ、アルミ等でも作り、みなカナジャクシと通称する。そのカナジャクシに多くの穴を穿ち、煮た物をすくいあげて振るうと、煮汁は穴どもから落ち去って、煮た物のみ杓子に留まるのがある。カナアミ作りのアミジャクシと同巧異製だ。紀州田辺町で只今ダシアゲと称う。椎茸、昆布、小魚、鰹節等を煮てダシを作るに、この流の杓子を用いねば、それらの物とダシを速く別ち得ない。アゲは別ち収むるの義だ。この杓子ですくい上げて、振るえば振るうほど、汁が多く落ちる。よって西鶴のころこれをふり杓子と呼んだと察する。篩杓子(フルイジャクシ)と書いても然るべしと思う。(十一月十九日夜九時)   (昭和七年一月一日『月刊日本及日本人』二四〇号)
 
     ありきょうがり
           「西鶴織留輪講」(巻四の一)参照
            (『月刊日本及日本人』二三七号九五頁上襴、九六頁上欄)
 
 これは万歳の俗称だ。「徳若にご万歳と、御代も栄えまします」と序して、さて「愛敬ありける新玉《あらたま》の、年立ちか(179)える晨《あした》より」と唄い出す。その愛敬ありける新玉の一句が、ことに引き立って聞こえるので、通常、万歳を「愛敬あり」というたが、連声の都合で、「アリキョウアリ」また「アリキョウガリ」と訛ったのだ。
 予には蚤《はや》く分かり切ったことだったので、別に証拠を聚めおかなんだが、差し当たり座右の物より手当たり次第に一、二例を挙げると、明和三年、半二・松洛等合作『太平記忠臣講釈』第六、惣嫁《そうか》お百が、夜分通りかかった万歳をみて、「万歳さん万歳さんと、呼べば呑み込む早合点、アイ舞いますで厶《ござ》りましょうと声はりあげ、徳若にご万歳、アリキョウアリケル新玉の、ベレベレガ、ベレベレベン(下略)」。それより三十六年前、享保十五年板『絵本御伽品鏡』上、万歳の絵に、「面白のアリキョウガリや新玉の、春は鼓の声もちちとせ」と、貞柳の狂歌を添えある。(それより四十五年前、貞享二年板『椀久一世の物語』上の一、無粋な者の無粋さを挙げた中に、「提重《さげじゆう》というものは公事宿《くじやど》で見初め、鼓の音はアリキョウガリに聞き覚え、云々」。)なおずっと古く、室町時代に成ったらしい『三十二番職人歌合』には、万歳法師と絵解《えとき》との歌を一番に闘わせて、「左歌。千秋万歳の能作は、毎年正月の佳曲なれば、諸職諸道の最初に出でて、歌合の一番に進めり。まことに花木の春に遇いて、さし栄えなん根元を祝えるは、アラ興ガリと聞こゆるに、云々」とあり。足利氏のころすでに、キョウアリをキョウガリと言ったとみえる。(十一月二十二日)   (昭和六年十二月十日『月刊日本及日本人』二三九号)
 
     しゃくし果報
             「西鶴織留輪講」(巻六の一)参照
             (『月刊日本及日本人』二四七号九八頁)
 
 この『織留』が出版されてよりのち九十一年、天明五年白井真澄が筆した『小鹿の鈴風』に、「この(出羽国)戸鹿の浦には、大船小舟の集い入りて、泊りする浦やかたなれば、くぐつの一人、二人はありつ。あまたの舟の入り来る(180)ころは、老いたる若きのけじめもなう、問丸《といまる》、船やどに入りきて、泊りする船客《ふなびと》らが、丸寝して待つに、家にありとある灯をけちてみなしじまに、うば玉の闇のうつつに探りより、やがて男のふつくろに身を任せぬれど、男も女もさらに顔みることの能わねば、舟人どもは、ただ酌子果報とて、一夜の語らいぞせりける。鶏のかけろといえば、みなひそひそと別れて、友のおとめも、誰ということは知らず、しれるは屋戸の刀自ばかりにてぞあなれ。これをこも被りというとなん」と出ず。
 酌子は杓子の誤写で、鳶魚先生がいわゆる女房果報の意にもとれるが、この記事の様子でみると、杓子ですくいあて次第の女と契った義らしい。されば本文にいわゆる「杓子果報のわが身」は、意外によい妻を娶りあてたと悦んだこととみえる。   (昭和七年五月十五日『月刊日本及日本人』二四九号)
 
     「手またく」という言葉
            「西鶴織留輪講」(巻六の二)参照
            (『月刊日本及日本人』二四八号九一頁下欄)
 
 維新前この紀州田辺藩主が領地外へ出すを禁じた安藤ミカンという果あり。最初烏が種子を落として生えたという祖木が現存する。それに次いだ老木が三本まで拙宅にあり。昨今米国から輸入されるグレイプ・フルーツを駆逐すべきはこの美果だと、都会の諸友が持囃《もてはや》し、往く往く供御にも差し上ぐべき物と望まれたまま、御苑の福羽氏まで、前月接穂を進呈した。この果を宮武省三氏が味わうてマタイと言われた。これは氏の生所高松市で、峻酷鋭利ならぬ意で、ミカンがマタイは酸からぬこと、煙草のマタイは辛過ぎること、したがって人間に取っても、この子はマタイといえば弱いこと、『忠臣蔵』七段目、由良鬼《ゆらおに》やマタイは、鬼となっておりながらすばしこくないということ、今もマタイという詞を大阪辺でよく聞く、本文の手マタクは手弱いの義と教えられた。予の幼時和歌山で温柔な人や犬猫を(181)マタイと言った。稜角なく欠損なきを英語でエンタヤーというに比べて全いという本義かと想わる。(五月八日)   (昭和七年六月一日『月刊日本及日本人』二五〇号)
 
(182)     大饅頭と花蟹
 
 西鶴の『一代女』の末章に、「江戸の色町盛んの時、坂倉といえる物師《ものし》、太夫千歳に親しく会いける。この人、酒よく呑みなして、いつとても肴に、東なる最上川に住みける花蟹といえるを塩漬にして、これを好きける。ある時坂倉この蟹の細かなる甲に、金粉をもって狩野の筆にて笹の丸の定紋かかせける。この絵代一つを金子一歩ずつに極め、年中事の欠けざるほど、千歳方へ遣わしける」。『一代男』八の一章に、世之助正月十九日八幡御座所の疫神詣りをするに、太夫ども人を追い付かせて酒肴を餽《おく》り、大愉快を催すを得せしめた返礼に、何か巧めという。幇間弥七、「日本一の鰻頭あり、と申す。それはと聞けば、一つを五匁ずつにして上を金銀にだみて、その数九百、二口屋能登《ふたくちやのと》に申し付けて、夜中に拵えさせ、太夫九人の方へ送りまいらせける」。
 これは小説だが、実際行なうた人もあったものか、天明中の筆という『吉原雑話』に紀文江戸町二丁目大松屋松かえ方で月見した時、階子の上り口の板を離し手すりを毀ちて、大饅頭ただ一つ台に載せて持ち上がる。紀文の一友が餽った物だ。右鰻頭一つ折箱に入れ台付きで真田紐で結ぶ、ただ一つで代金七十両費やしたという。ようやく紀文の前に荷ない寄せたるを、大勢打ち寄り中より割れば、全き常体の鰻頭数多出た。これを作るとて蒸籠の代りに深川の釜屋で特に大釜を作らせ、蒸し拵える道具、蒸籠まで、みな新調せしめ、その夜にわかに持ち込み、二階の上り口をことごとく板梁を毀ち、即時に大工数十人にその跡を作らせ、衆人の眼を驚かしたのだ。その後かの友人の馴染京町藤屋の吾妻という遊女を紀文が訪うて、先日の礼にとて袂より蒔絵の小匣一を出し大座敷に置く。皆人打ち寄り開き(183)見ると、至って小さい豆蟹数百疋四方へ這い出て、座敷一面に蟹となる。遊女、禿、逃げ走ればなお広く歩み行くを、芸者、牽頭《たいこ》など打ち寄って取り集め見ると、小粒なる蟹の甲に女郎と客の紋を、梶川とやらんが金でねちかきに画きあった、と記す。同書に、さる名高き客人、河東をつれて浅草川を両国橋際に至り、船を留めて一曲を語り、みな船を留めて聞きおったところへ、蔵前の坂倉某、蘭洲弟子なる、おとわ、おせきという姉妹の美女を伴れ、楼船に乗ってそのあたりに来たり、件の姉妹の琴に合わせて語り出すに、衆船その方に引かれ集まり、群集の中より大音で先に語り出た河東を止め止めと罵り、名にあう河東もこれに圧された由見えるは、『一代女』に見えた坂倉と同人か。
 大饅頭の話も蟹の話もあまりに符合するゆえ、『吉原雑話』の筆者が西鶴の書どもに拠って捏造したのかと思えど、その『温知叢書』本の解題に、享保ころの遺老が親《みずか》ら見聞せしところを筆記した物だろうとあり、右の紀文の話に次いで「紀文より少し後のことなるか、神田の辻与兵衛という者、月見に葡萄棚を飾るとて、葡萄を五車ほど引き来たり、これが月見の葡萄棚の始めにて、ことに評判せるとなり。その後に至っては葡萄棚を飾れば、畳のことのほか汚るるゆえ、大方なし」と記せるなどより推すと、大鰻頭や蟹の話も実事らしい。予幼少の時、和歌山で川流れの木を拾う貧民が、その友の妻が蟹を産んだと罵るを聞いて驚き仔細を問うと、女は股で鋏む者ゆえ蟹と呼ぶと答えた。そのほかに女が蟹に縁ある話とては、コドリングトンの『ゼ・メラネシアンス』に、蟹が婦女を孕ますという迷信、南洋の蛮民間に存する、とあるを知るのみ。しかし、『二代男』八の二章に、島原遊廓の盆踊りを記して、「大坂屋の女郎、十八人揃い帷子《かたびら》に染め込み蘆に蟹の散らし」と一番に出しあれば、紀文が吾妻に豆蟹を贈ったもさまで殺風景でないだろう。和歌浦の保命散という腹痛薬を売り行く男どもは、古来かの地に名高いテンボ蟹とて、一螯非常に他の螯より大きい蟹と、蘆群を染め抜いた外衣を著る。これもむかしはよほど洒落《しやれ》た趣向と受けられたのであろう。去年県知事がかの辺を国有公園にしたいとかで予が見に往つたら、例の土地会社が件の蘆沼を埋め立て、蟹も全滅し、殺風景極まることであったが、そんな所へ来月摂政殿下の台臨を仰ぐのは恐れ入る。日本の富人は美景を美景として眺(184)むる趣きを知らず、その美景の真中に別荘などを建て美景を潰すこと、美女の踊りが面白いからとて、無作法にもみずからその中に混じ踊ってせっかくの踊りを乱し了るがごとし。嘆息の至りじゃ。
 それから『一代女』にいわゆる最上川の花蟹はどんな物か。『摂陽群談』一六に、大阪道頓堀の西、前垂島辺の蟹、穴を出で水に遊ぶ、漁者、蘆の葉の陰にて時を伺い、竹箒をもって数百の穴を掃き塞いでこれを捕る、すなわち塩に浸しひしことす。多く百姓の家に求めて田植の時菜物とす、云々。『三代実録』巻三五にいわく、「元慶三年正月三日癸巳、摂津国の蟹胥、陸奥国の鹿?、もって贄となして御膳に奉るなかれ」と見え、『庭訓往来』五月十八日の状に蟹味噌を載せたれば、何か蟹の塩漬を酒の肴に賞翫した物と見えるが、今もある物にや。ついでに言う、今春在京中木村仙秀君訪われた時|話《はなし》に、その故郷弘前では三月二十五日雪始めて解け春色ようやく動く。この日大円寺の天神社へ手習い子供詣りて社辺へ習字を掛け展覧す。その家族重折り持ち行き一覧ののち飲み興ず。茶店も掛かり、道中の小店にそのころようやく這い出る豆蟹一疋ずつ入った小さい壺を売る。習字を出した小児それを買い買い持ち帰り、糸で括りなどして翫んだ。その壺を作る釜元近年廃止してより、このことまた止んだ。壺は至って古雅な特種の形した物であった、と。他に例のなさそうなことゆえ、記し置く。(十一月十六日)   (大正十一年十二月一日『日本及日本人』八五〇号)
【追記】
 『一代女』から引いた板倉某が太夫千歳に、最上川の花蟹の細かな甲に笹の紋の定紋を描かせ贈り、『吉原雑話』に出た紀文が遊女吾妻に、小粒の蟹の甲にこの女とその客の紋を金で画かせ贈ったという話に似たことは、宋の陶穀の『清異録』にある。隋の煬帝、江都に幸せし時、呉中糟蟹と糖蟹を貢す、進御するごとにすなわち旋らして殻面を潔め拭い、鏤金の竜鳳花をもって上に貼る、と出ず。   (大正十三年八月十五日『月刊日本及日本人』五四号)
 
(185)     弁財天と鯰
           宮武省三「好色五人女輪講について」参照
           (『月刊日本及日本人』二一九号六〇頁)
 
 『五人女』一の一、ある女郎が年月隠し来たった白ナマズを見出だした輩が、生身の弁天様と拝んだは、竜や蛇に関係なし。鯰の老いた奴にナマズハダ同様の点紋あるをしばしばみる。『箋注和名抄』二に、歴易、和名ナマズハダ、按ずるに鯰魚膚の義、とあり。この田辺辺諸寺の弁天へ鯰の絵馬を掲げて、歴易の平癒を祈り謝する風今もあり。近村竜神山頂の池に鯰すむ。歴易を煩う者、この魚で患部を摩り、この池に放ち、かの病を鯰に移したものといい、誰も取らぬから、鯰老いて歴易が移ったようにみえる。畔田伴存の『水族志』に、ゴマナマズは背に黒点あり、また白点あるもあり、といい、また『湖魚考』から、長《たけ》四、五尺の鯰は、多く斑に白き、アザのごとく、禿ある由引きおる。田辺の佐山伝右衛門氏所蔵、若狭の国小浜の熊谷家伝来「八百姫縁起の絵」(軸物)に、竜宮で人魚を料理するところへ、弁天が大鯰に乗って来会するところあり。
 いろいろ調べたところ、『和漢三才図会』五〇に、「相伝えていわく、近江の湖の中に大鯰多くあって、中秋の月明らかなる夜に、百千の群をなし、竹生島の北の洲《す》の沙上に跳《は》ぬ、と。けだし、これ弁才天の愛するところなり、云云」。『本朝食鑑』七に、水練達者の漁夫が、竹生島の底空洞なりと聞いて、潜り抜けしに、「ただ群れたる鯰あり、その巨大なること量るべからず」と言った、と出ず。『本草啓蒙』四〇にも、竹生島等辺に、七、八尺から丈余の大鯰あり、とのせ、応永中の作らしい『竹生島縁起』には、この島は弁天の化現で、海竜が大鯰に化け、難波の海から攻(186)め上った大蛇と闘い克った次第を記す。弁天と鯰またナマズハダと因縁厚しと知るべし。(二月十四日)   (昭和六年三月一日『月刊日本及日本人』二二〇号)
 
(187)     料理を推測した話
 
 西鶴の『日本永代蔵』二巻一章、「世界の借屋大将」、藤市《ふじいち》という人利発で、倹勤力行して一代に千貫目の身代となる。「折ふしは正月七日の夜、近所の男子を藤市方へ、長者になりようの指南を頼むとて遣わしける。座敷に燈《ともしび》かがやかせ、娘をつけおき、露路の戸のなる時知らせと申し置きしに、この娘しおらしくかしこまり、燈心を一筋にして、ものもうの声する時、元のごとくにして勝手に入りける。三人の客座につく時、台所に摺鉢の音響き渡れば、客耳を悦ばせ、これを推して、皮鯨《かわくじら》の吸物といえば、いやいや初めてなれば、雑煮なるべしという。また一人はよく考えて煮麪《にうめん》とおち付きける。必ずいうことにしておかし。藤市出でて三人に世渡りの大事を物語りして聞かせける。一人申せしは、今日の七草という謂《いわれ》は、いかなることぞと尋ねける。あれは神代の始末初め、増水《ぞうすい》ということを知らせ給う。また一人|掛鯛《かけだい》を六月まで荒神の前に置きけるはと尋ぬ。あれは朝夕に肴を食わずに、これを見て食うた心せよということなり。また太箸《ふとはし》をとる由来を問いける。あれはよごれし時白げて、一膳にて一年中あるように、これも神代の二柱を表わすなり、よくよく万事に気をつけ給え。さて宵から今まで、おのおの咄し給えば、もはや夜食の出ずべきところなり。出さぬが長者になる心なり。最前の摺鉢の音は、大福帳の上紙にひく糊をすらしたといわれし」とある。
 この咄によく似たのが支那に古くある。『広群芳譜』一七に、『盧氏雑説』を引いていわく、「鄭余慶、清倹にして重徳あり。一日、たちまち親朋の官数人を召《まね》いて会食す。衆みな驚く。朝僚、故相の望《ほまれ》重きをもって、みな凌晨《あさはやく》これ(188)に詣《いた》る。日高きに至って余慶|方《はじ》めて出で、間話して時を移す。諸人みな?然《きようぜん》たり。余慶、左右を呼んでいわく、厨家《りようりばん》に処分《いいつ》け、爛蒸《よくむ》して毛を去り、項《くび》を拗折《くじ》くなからしめよ、と。諸人、相顧みて以為《おも》えらく、必ずや鵝鴨の類を蒸すならん、と。逡巡《しばし》して台盤を舁《か》いて出ず。醤酢もまたきわめて香《かおり》新たなり。良《やや》久しくして餐に就くに、毎人の前に、粟米飯一椀と、蒸したる葫蘆《ふくべ》一枚《ひとつ》を下す。相国、餐《くら》いて美《うま》し。諸人、強いて進《く》いて罷《や》む」と。瓢を蒸して客に食わすとて、毛をよく去れ、頸を折るなと下知せしを、諸客聞いて鵝か鴨と推量が外れて、馳走が出てきたのをみると瓢だった。それを舌鼓打って主人が食うから、諸客も無理して食い了ったというのだ。瓢は苦い物ゆえ、よほど持て余しただろう。
 『四庫全書総目』に『盧氏雑説』みえず。『文献通考』一八中には、「陳氏いわく、唐の盧言の撰なり」とのみ言いおる。『新唐書』五九、芸文志小説家類には、『盧氏雑説』一巻とだけあって著者の名を出さず。瓢を蒸して客を饗したという鄭余慶に至りては、『旧唐書』巻一五八と『新唐書』一六五にその伝あり。徳宗、順宗、憲宗、穆宗の四朝に歴仕した顕官である。両『唐書』共に、そのきわめて清倹なりし由を言ったが、瓢を蒸したことを載せず。想うに、件の『盧氏雑説』の記事を西鶴が儒者どもより伝聞し、採ってもって藤市の咄に仕立てたものか。(六月十六日午後十時)   (昭和九年七月一日『月刊日本及日本人』三〇〇号)
 
(189)     『武家義理物語』私註
 
       一
 
 この書については先年来みずから注記せるものがあるから、その中から少しく摘出して見よう。
○巻一の二「?子《ほくろ》はむかしの面影」に、小生去る大正二年中、左のごとく記してある。
 『古今事類全書』後集巻一三に「前約に背かず」と題していわく、「劉廷式は、もと田家なり。隣舎の翁に女《むすめ》あり、与《とも》に婚をなすを約す。契闊《とおざか》ること数年なり。廷式、登第し、帰郷して隣の翁を訪ぬれば、翁はすでに死せり。女は病に因って双《ふた》つながら盲《めしい》となり、家はきわめて困《くる》しみ餓ゆ。廷式、人をして前《さき》の好《よしみ》を申《の》べしめしも、女の家は辞するに疾をもってし、なお傭《やと》われて耕すをもって、敢えて士大夫と姻《えんぐみ》せず。廷式いわく、翁と約せしことあり、豈《あ》に翁の死と女の疾をもってこれに背くべけんや、と。卒《つい》に与に婚を成し、閨門きわめて睦まじ。その妻、相携えて後に行き、およそ数子を生む。廷式、かつて小さき譴《つみ》に坐し、監司これを遂わんとせしも、その美行を嘉《よみ》し、ついにこれがために闊略《めこぼし》す。その後、妻死し、これを哭すること哀を極む。東坡、その行いを高しとして、文を為《つく》り、もってこれを美《ほ》む(『夢渓記』)」と。
 同巻にこれに似た譚数条を出す。今二つだけ御参考に供す。「盲《めしい》といえどもまた娶る」という題にて、「『北史』に、(190)崔巨倫に姉あり、明恵にて才行ありしも、患に因って一目は眇《すがめ》となる。内外の親族、求むる者あるなし。その家、議してこれを下し嫁せしめんと欲す。巨倫の姑は趙国の李叔胤の妻たりしが、聞いて慚感していわく、わが兄は盛徳なれど、不幸にして早世す、あえてこの女をして屈して卑族に事《つか》えしめんや、と。すなわち子の翼のためにこれを納《い》る。時の人、その義識を歎ず。また、唐の孫泰の姥老いて、二女をもって託をなしていわく、長女は一目を損じたれば、汝はその女弟《いもうと》を妻《めと》るべし、と。姨卒して、その姉を取《めと》る。あるひとこれを詰《なじ》るに、答えていわく、人に癈疾あり、泰にあらざればいずくにか適《とつ》がん、と」とあるが、こんなのが支那に多い。痘斑の例もあらんが、今ちょっと思い出でず。
 この盲目また眇眼を痘瘢に作り替えて光秀の話にしたものと思われる。さてその光秀の妻が、「明暮《あけくれ》車《いくさ》の沙汰して、広庭に真砂を集め城取りせしが、自然と理にかないて、十兵衛が心の外なることもありて、そもそもこの女、武道の油断をさせずして、世にその名を挙げしとなり」とある。「心の外なることもありて」は、十兵衛の智慮の及ばぬところにこの妻の智慧が及ぶところもありて、ということであろう。これは『天中記』巻一八に『襄陽伝』を引いて、「漢末、諸蔡、最も盛んなり」、蔡諷の姉は大尉張温に遠《ゆ》く、(蔡諷の)長女は黄承彦の妻たり、少女は劉景升(『三国志』の劉表なり)の後妻となる、云々、「黄泉彦は、高爽聞列にして、?南の名士たり。諸葛孔明に謂いていわく、君の婦《つま》を択《えら》ぶと聞く、身《われ》に醜き女《むすめ》あり(蔡諷の長女が承彦に嫁して生むの女なるぺければ、系図は立派なり)、黄頭黒色なれど、才は相配するに堪う、と。孔明、許したれば、すなわちこれを載せて送る。時の人、もって笑楽となす。郷里、これが諺を為《っく》っていわく、孔明の婦を択ぶに作《なら》うなかれ、ただ阿承の醜女を得るのみ、と」あり、『演義三国志』には、たしかこの醜女、斉家は固《もと》より軍謀にも孔明を佐《たす》くること少なからざりし由記しありしかと覚ゆ。そんな蛇足を書かずとも、その父の言に孔明と「才は相配するに堪う」とあるから、十分孔明のためになったことは分かりおり、諸葛胆ごとき忠孝双全の子を挙げたことと思う。この孔明夫妻のことを採り、光秀夫婦の譚を作りなしたものであろう。申(191)すまでもなく、光秀の妻が髪を売って客を饗したことは、『晋書』に見えたる陶侃の母のことを摸したのである。(昭和八年二月二十一日早朝)
○巻一の三「衆道《しゆどう》の友よぶ鵆《ちどり》香炉」
 江村専斎の『老人雑話』坤巻にいわく、「普光院殿(足利義教将軍)の時、北野参詣に先を払いけるに、ある少年、馬より下りて、目届きの前につくばいける。普光院殿見たまいて福阿弥という同朋を遣わして問わしむ。問うべき詞なくて、相見ての後の心に比ぶればという歌の下の句は何と申すぞ、と問う。少年答えていわく、誰《た》が誠よりしぐれそめけん、という歌の上の句は何と申すぞ、と答えけり。その由を申し上ぐる。普光院殿、面白き者なりとて召し出だして寵愛はなはだし。これによって前年より寵愛の小姓に心遠ざかりければ、その小姓恨みて立ち退き、嵯峨の辺に隠れていたり。方々尋ね求めけれども知れず。またある時公方嵯峨へ遊行ありしに、伽羅の遠く馨るを聞き給い、この香、外にあるべからず、この辺に不審なる者あるか、能《よ》く尋ね見よ、とて人を遣わす。ある茅屋の内にかの少年机の上に香をたき閑にしてありける。公方直ちに至り給いて、前々のあやまりを免し、還り仕えよ、といろいろに仰せけり。とかくに及ばず頭を下げ涙を落とせり。公方喜んで酒を呼びて盃をさし、また返させ給いて、日ごろ好める謡《うたい》を一曲所望ありければ、『姨捨』の小謡をうたいけるとぞ。公方いよいよ感じ給いて寵愛昔に倍せり」と。西鶴は多少この話に基づきて、香を尋ねて隠者の老人を見出だせし話を作ったものかと疑われる。
  黒川玄逸の『遠碧軒記』下の三に、「千鳥手という青磁の香炉あり。これは足持ちにてはなく、足が少し紙一枚通るほどすきて、足が上がりてあるゆえに千鳥手という。高たいもちか。まずはよけれども、もち過ぐればいやし。その程あるべきなり。口よせにて、上にて丸みの少し開きたるがよし」とあり。沼津の平作の千鳥足のごとく、足があがりあるの名らしい。
○巻二の四「わが子をうち替手《かえで》」
(192) 小生、明治十六年初めて上京して、大伝馬町の添田清兵衛とて、手広く傘、漆器等を取引する方に一月ばかりおき貰いしとき、その家におびただしくそのころ流行の講談物の絵本あるを見せられたり。その内に誰が述べたものか知らず、四十七士の銘々伝のごときものありし。それに神崎与五郎は下士の子なりしが、自家よりはずっと高禄の士の子、しかも年上なると魚を釣りし上の口論より果し合いとなり、その少年を切り殺せしに、その少年の父その勇気を賞し、与五郎の父を諭し与五郎を貰い受け、自分の嗣子とした咄《はなし》ありし。この西鶴の譚に拠って作ったものと思う。
○巻玉の二「同じ子ながら捨てたり抱いたり」
 『山堂肆考』(明の彭大翼撰)商集、巻四五に、「姪《めい》を全うして児を棄つ」と題していわく、「晋のケ攸、字は伯道、永嘉の乱に値《あ》う。攸、その子ならびに弟の子の綏を担《にな》いて逃る。両《ふたり》ながら全うすること能わざるを度《はか》り、すなわち妻に謂いていわく、わが弟早く亡《し》に、ただ一子あるのみ、理として絶つべからず、ただまさにみずからわが児を棄つべきのみ、われ後にまさに子あるべし、と。ついに児を棄て、もって去る。児、随って?《お》い至れば、繩をもって児を樹に縛り、これを去る。攸、後ついに子なし。攸の卒するに及び、弟の子代わって喪に服し終《さいご》を送る。時の人、これが語を謂(為)していわく、天道、無知にして、ケ伯道をして子なからしむ、と」。
 また、「子をもって姪に易う」と題して、「魏の張範の子陵、および弟の子|?《せん》、山賊の得るところとなる。範、直ちに賊のもとに詣《いた》り、二子を請う。賊、陵をもって範に還す。範、謝していわく、諸君の児を相還《おくりかえ》すこと厚し、それ人情その子を愛すといえども、しかれども、われは?の小さきを憐れむ、陵をもってこれに易えんことを請う、と。賊、その志を義とし、これを悉《あわ》せて範に還す」とあり。
 これらを奪胎換骨して西鶴が本譚を構えしものなるべし。
○巻六の三「後にぞ知るる恋の闇打」
 正徳五年成りし井沢長秀の『広益俗説弁』の一七に、「俗説にいう、中ごろいずれの国にか、諸侯の家人赤星平蔵、(193)傍輩塚原源左衛門を討って逐電す。源左衛門が子源四郎、敵を討たんことを思い、主君に告げて討ち出でんとするところに、主君、他国への使者を申し付けられ、是非なく立ち越える折りふし、途中にて所のもの騒ぎ集まりて、旅人落馬して絶え入りたり。薬よ水よと呼ばわる。源四郎立ち寄りみるに、父が敵平蔵なり。しかれども、君命によりて往くといい、ことさら死人同然なる者を討つべき道理なしと思い、薬を取り出して所の者に与え、この薬を用い正気付かば見すべLとて一通の状を残し、通り過ぎにけり。平蔵、薬をのみ正気になり、かの状を披見し、源四郎が志を感じ、宿所にゆきて陳謝し、源左衛門が墓の前にて切腹しければ、源四郎介錯してその首を石塔にそなえける。国中押しなべて源四郎が敵を討たざるは討ちたるより優れりと感ぜぬはなかりしとかや。今按ずるに、源四郎父を討たれし時、即日より出て覘うべき儀なるに、うかうかと勤めおりたるは怠れるなり、また落馬したるを見合わすれども、使者にゆく時といい、死なれたる者に等しければ討つべき道理なしとて、薬を与え状を遺して通りしこと過ちなり。薬を呑ませしばらくまちて正気になれるとき何ぞ討たざる。かかりしのち使を遅滞したるとて主君に勘当せらるるとも、親のために身を惜しむべきにあらず。しかるを、趣きにかかわり旨を願いて眼前の敵をのがせしはいと口惜し。また、この時討ち泄らすとも、己が方に来る時討たざるや。しかるを、おめおめとして敵に腹をきらせ、いかめしげに死首をきる、もっとも笑うべし。しかるを、敵を討たざるは討ちたるに勝れりと感ぜしは、いずれの国とは知らねども、よくよく武道不吟味の家風なるべし」と論じあり。
 西鶴も「藤五郎がうたざるは、うつにまさりし武道と理をせめて、天晴神妙なる心入れと国中にこれをほめける」と讃称しあるをもってみれば、この二譚もと同一で、人の名と枝葉の事項が異なるのみ。『俗説弁』は、『武家義理物語』よりは大分後れてできたものゆえ、西鶴の咄を後人が『俗説弁』に撮要した咄に作りかえたものか。(昭和八年二月二十四日午前九時半)   (昭和八年三月十五日『月刊日本及日本人』二六九号)
 
(194)       二
 
 ○巻一の一「わが物ゆえに裸《はだか》川」
 『孟子』巻九、万章章句上、孟子の語に、むかし生魚を鄭の子産に饋饋《おく》る者あり。子産、校人(池沼を主《つかさど》る小吏)をして、これを池に畜わしむ。校人これを烹て食らい、まことらしく子産を紿《あざむ》いていわく、始めかの魚を水に放つと圉々焉《ぎよぎよえん》たり、しばらくすると洋々焉たり、それからしまいに攸然《ゆうぜん》として游《およ》ぎ去った、と。子産これを聞いて、その所を得たるかな、その所を得たるかな、と大満足だった。さて校人出でていわく、孰《たれ》か子産を智なりという、予烹て魚を食ったと知らずに、その所を得たるかな、その所を得たるかなと大悦したは、子産という奴は大馬鹿だと笑うたという。この通り、君子は欺くに方をもってすべし、罔《し》うるにその道にあらざるをもってしがたし、とある。
 西鶴の本章も全く『孟子』を直訳した物ではないが、もっぱら件《くだん》の子産のことに基づいて書かれた物と察する。すなわち黠智《かつち》ある一人の人足が、よく青砥の心底を洞察して、自分の銭を手廻しして、左衛門ほど世に賢き者を偽りすましたは、欺くにその方をもってしたのだ。しかし、例の明察でその人足の奸を聞き出し、やがてその人足をひどい目に遭わせた。一旦は欺かれたが、やがて詐欺者を罰して、正直な孫九郎を召し出だされたは、青砥がえらいところと示したものだ。
 明治四十年早稲田大学発行、故三浦周行博士の『鎌倉時代史』四一三貢に、青砥藤綱がこと疑わしき由を述べて、「思うにこれただ小説中の人ならんのみ」と言われた。これより先にも同様の見解ありし人があったように想うが、確かに記憶せず。『新編鎌倉志』二に、「今按ずるに、『二程全書』に、程子むかし雍華のあいだに遊び、関西の学者六、七人従行、一日千銭を亡う。僕者いわく、晨袋の時に遺《わす》るるにあらず、必ず水を渉る時にこれを沈むるならん、(195)と程子いわく、惜しいかな。ある人いわく、これまことに惜しむべきなり。一人いわく、微なるかな千銭、また何ぞ惜しむに足らん。一人いわく、水中と嚢中と、人を亡うと人得ると、もって一視すべし、何ぞ惜しむべきことを歎ぜん。程子いわく、人|洵《まこと》にこれを得ば亡うにあらず、今すなわち水に墜とさば用なし、われこれをもってこれを歎ず、という。これまことに異域同談なり、左衛門が心、よく程子にかなえり」とある。程子にかなえりどころか、宋儒の書を読んだ邦人が、この程子の語に拠って、藤綱の伝を作ったものか。
 また『太平記』に見えた、時頼、鶴岡神の夢告に拠って藤綱を挙げ用いんとした時、藤綱、他日夢の告げに臣を斬れとあったら、たちまち臣を斬るべきか、と言った一条も、支那に類例がある。『列子』説符篇にいわく、「子列子、窮し、容貌に飢えたる色あり。客の鄭子陽に言う者あっていわく、子列子|禦寇《ぎよこう》は、けだし有道の士なり、君の国におりて窮す、君すなわち士を好まざることなからんや、と。子陽、官をして粟数十乗を遺《おく》らしむ。子列子、出でて使者に見《まみ》え、再拝して辞す。使者去って、子列子入る。その妻|望《うら》んで心《むね》を附《う》っていわく、有道の者の妻子となればみな佚楽を得と聞く、今妻と子みな飢えたる色あり、君の過《おとず》れて先生に遺るに、先生また辞す、豈《あ》に命ならざらんや、と。子列子、笑ってこれに謂いていわく、君はみずからわれを知るものにあらず、人の言をもってわれを知り、人の言をもってわれに粟を遺れるなり、そのわれを罪するや、またまさに人の言をもってせん、これわが受けざる所以《ゆえん》なり、かつ人の養を受けてその難に死せざるは不義なり、その難に死するも、これ無道の人のために死するは、豈に義ならんや、と。その後、民果たして難を作《な》し、子陽を殺せり」と。
 ○巻二の三「松風ばかりや残るらん脇指」
 『輪講』巻二、六一頁に三田村君は、「臆病者と強い人と一緒にゆく話は、『常山紀談』か『武家閑話』かにありましたね」と言われた。『常山紀談』(『続帝国文庫』本、二九三頁)に出たのは、久世三四郎と坂部三十即を家康が物見に遣った譚で、久世は気色はなはだ悪しうみえしかば、側より笑う人のありしに、坂部は天性の剛の者なり、久世が及ぶ(196)べきにあらず、されども人に劣りて生き甲斐なしと思い定めたる体なり、今見よ、坂部よりも敵近う進み行きて見て返らんものをと仰せけるところに、果たして御詞のごとくなりけり、とある。やや似た談は大分古く、漢の劉向の『新序』巻八に出で、「白公の難のとき、楚人に荘善なる者あり、その母に辞し、まさに往きてこれに死なんとす。その母いわく、その親を棄ててその君のために死するは義と謂うべけんや、と。荘善いわく、われ君に事《つか》うる者はその禄を内にしその身を外にすと聞く、今母を養う所以のものは君の禄なり、身いずくんぞ死することなきを得んや、と。ついに辞して行く。公門に至るに比《およ》び、三たび車中に廃《とど》まる。その僕いわく、子《なんじ》懼るるや、と。いわく、懼る、と。すでに懼るるに何ぞ返らざる、と。荘善いわく、懼るるはわが私なり、義に死するはわが公なり、君子は私をもって公を害《そこな》わずと聞く、と。公門に及び、頸を刎《は》ねて死す。君子いわく、義を好むものなるかな、と」。ほんにこれが支那の『武家義理物語』だろう。またいわく、「斉の崔杼、荘公を弑するや、陳不占なる者あり、君の難を聞き、まさにこれに赴かんとす。餐に去《い》くに比《およ》び、すなわち匕《さじ》を失《おと》し、車に上らんとして軾を失《おと》す。御者いわく、怯なることかくのごとくして、去《い》って益あらんか、と。不占いわく、君に死するは義なり、勇なきは私なり、私をもって公を害《そこな》わず、と。ついに往き、戦闘の声を聞いて、恐れ駭《おどろ》きて死す。人いわく、不占は仁者の勇と謂うべし、と」。
 ○巻三の二「約束は雪の朝食《あさめし》」
 『後漢書』巻一一一に、「范式、字は巨卿、少《わか》くして太学に遊び、諸生たり。汝南の張劭と友となる。劭、字は元伯なり。二人、並びに告《こ》いて郷里に帰る。式、元伯に謂いていわく、後二年にしてまさに還るべし、まさに過《おとず》れて尊親を拝し孺子に見《まみ》えん、と。(その子に見《まみ》ゆるなり、孺子は稚子《おさなご》なり。)すなわち共に期日を剋《さだ》む。のち期まさに至り、元伯、具《つぶ》さにもって母に白《もう》し、饌を設け、もってこれを候《ま》たんことを請う。母いわく、二年の別、千里の結言、爾《なんじ》、何ぞ相信ずることの審《かた》きや、と。対《こた》えていわく、巨卿は信士なり、必ず乖違せざらん、と。母いわく、もし然らばまさに爾がために酒を?《かも》すべし、と。その日に至り、巨卿、果たして到る。堂に升り、拝して飲み、歓を尽して別る」。(197)小栗何某、約束を違えず、霜月二十七日の一飯を食いに丈山を訪うたとは、この巨卿・元伯の談に倣うて作ったらしい。三国呉の卓恕は、人と相期約するに、暴周疾雨といえども必ず至る。かつて建業を出立するとて、諸葛恪を辞す。恪、いつまた来たるべきかと間うに、某日と答えた。当日に恪、食を停めてまつ。賓客会する者、みな、会稽・建業相去る千余里で、道江湖を隔つ、あに期せるごときを得ん、と謂うた。ところが須臾にして恕至り、一座ことごとく驚いたという類話もある。また丈山が、今宵はこれにと留めもせず、勝手次第と別れながら、潜《ひそ》かに小栗の跡を慕いて滑谷《しるたに》越えに見送ったとあるに、ちょいと似た談は、晋の郭奕、字は大業、野王の令たり、羊?かつてこれを過《おとず》る、奕嘆じていわく、羊叔子何ぞ必ずしも郭大業に減ぜんと、少選《しばらく》してまた往く、奕嘆じていわく、羊叔子人を去ること遠しと、?を送り界を出ること数百里、これに坐して免官さる、というのだ(『古今図書集成』交誼典七八)。
 ○巻四の二「せめては振袖著てなりとも」
 『輪講』四巻一一四頁に、山崎君は、十万石以上の大名でないと、こんなことで二百石の加増はなるまいと述べられ、ここに伏見に諸大名の屋敷が立ち続いた時、「和州の内の城主」とは誰だろうという疑問が出でおる。伏見城が落成したは、文禄四年三月で、その歳七月に諸侯の邸第をここに徙《うつ》された(『野史』四八)。『翁草』四七、『古今武家盛衰記』六、『慶長三年大名帳』、『野史』二一三等を合わせ稽うるに、そのころ大和で十万石以上の城主は増田長盛一人あるのみ、文禄三年より慶長五年十月まで、郡山にあって二十万石を領したとみえる。故に室田猪之介、岡崎四平、いずれも増田家に仕えたと断ぜねばならぬ。
 大分事情が異なるが、犬が食糧を運んだ譚は外国にもある。西洋のは、只今脚と眼が悪くて、倉の二階へ捜索に上り得ず、控え書が間にあわぬから、支那の例を一つだけ写し出そう。『古今図書集成』禽虫典一一七に、『?水燕談録』、「楊光遠の青州に叛するや、孫という中舎あり、その名を忘る、囲まれし城中におる。族人、州の西なる別墅にあるも、城閉ずることすでに久しく、内外隔絶す。食まさに尽きんとして、族を挙げて愁嘆す。畜犬《かいいぬ》あり、その側を(198)彷徨し、憂思あるがごとし。中舎、よって嘱していわく、爾《なんじ》よくわがために荘《むら》に至って米を取るか、と。犬、尾を揺《ふ》ってこれに応ず。夜に至り、一の布嚢を置《しつら》え、簡《てがみ》とあわせて犬の背上に繋《くく》る。犬、すなわち水竇《みぞ》より出でて、荘に至って鳴き吠ゆ。居る者、門を開いてその犬を識《みわ》け、簡を取ってこれを見、米を負わしめて還す。いまだ暁《あ》けずして城に入る。かくのごとくして数月、城の開くに至るに比《およ》ぶ。孫氏の闔門《いちもん》数十口|《う》えず。孫氏いよいよこれを愛《いと》しみ畜《か》う。のち数年にして斃れ、別墅の南に葬る。その孫の彭年に至り、竜図の趙公師民に語り、石に刻んでその墓に表《しる》し、霊犬誌という」。
○巻四の四「丸綿|被《かず》きて偽りの世渡り」
 『古今図書集成』閨媛典五二に、『広東通志』、「烏頭娘は蕭氏の女《むすめ》なり。景泰の己巳、叛を討ちし後、水軍、一《ひとり》の少女を香山の小欖に得たり。まさにこれを犯さんとするも従わず、劫《おぴや》かすに兵刃をもってするも顧みず。舟還りて新会の東亭駅に次《とま》るや、まさにこれを 鬻《う》らんとす。女いわく、一死せんことを願う、と。軍《へいし》、怒ってこれを兵《ころ》さんとしていわく、売るを聴《うべな》うか、わが刀を触《おか》すなかれ、と。女いわく、われ豈に汝の売るものならんや、人もまた豈によくわれを買わんや、と。人いわく、汝を贖《か》いて家に送り還さん、と。聴《うべな》わずして、頸を引《さしの》べ髪を斂《おさ》めて刀を受く。観る者、泣《なみだ》下らざるなし。邑人《むらぴと》の李彦英と謝斉祖、ために棺を買い、邑の西の象山に葬る。成化の辛丑、知県の丁積、その事を訪《たず》ね、始めて女は蕭氏にして烏頭娘と名づけ、故《もと》の民の蕭思敬の女なるを知り、工に命じてその墓を修せしめ、廃廟の田六十畝を割《さ》き、命じて歳守祭祀せしむ」とあるのが、売り物になるを拒み、また、その身流れにはなさじ、無事の姿を見立てて、親里に送り参らせんといえど、今さらそれをも聞き入れずして、われも武士の子なる者と、名残に一言して死に了《おわ》った小桜女によく似ておる。
 同典五八にまた『淮安府志』を引いて、「何氏は泗州の人なり。小家なりといえども容止瑞荘にして、妄りに言笑せず、紡績ともろもろの女の事《しごと》に勤《いそ》しむ。父は早く死し、母は病んで貧しく、もってみずから存《い》くるなし。夫婦の淮《わい》(199)の上《ほとり》に寓するものあり、その姓名を亡《うしな》うも、伝えて順天の通州の人となす。氏を介婦となさんことを求む。母、その偽りなることを知らずして、これを許す。年十六にして、その家に帰《とつ》ぐ。尋《つ》いで淮の満浦に徙《うつ》り居《す》み、誘うに娼となるをもってす。氏、従わずして、私《ひそ》かに隣の女《むすめ》に謂いていわく、渠《かれ》は婦をもってわれを聘せしに、今はすなわちこれとならんことを欲す、むしろ死すともならず、と。数日を越えて、一《ひとり》の賈人《あきんど》を留《と》めてこれに事《つか》うるを逼る。氏、忿ぬ《いか》りに勝《た》えざるも、佯《いつわ》って許諾す。良《やや》久しくしてすなわち天を仰いで大いに哭し、刀を引いて自刎す。血流れて地に満つ。都憲の張敷華、淮陽に巡撫たり、その人を按《しら》べて得ず、礼をもってこれを葬る。すでにして天久しく旱《ひでり》す。耆民、疑って何氏の 寃気の致すところとなす。郡守の楊侯遜、その墓に表《しる》してこれを祭る。天、果たして大いに雨ふり、三日にしてすなわち止む。正徳五年、推官の馬?、ために碑を立つ」とあるは、刀を引いて自刎した点が、小桜女よりも一層烈しいが、介婦にすると 紿《あざむ》き取られて娼になれと逼られた点は同一だ。さて森君は、三成の娘か孫娘かが遊女になったという話が、榊原篁洲の『不問語』かにありましたと言われたが、篁洲よりは大分古く、百歳まで生き延びたので著名な江村専斎の『老人雑話』の坤巻に、「舞を舞いし女に、常盤という者、人招けば何方へも来たりけり。石田三成が息女なりという。左もありぬべし。真西山の孫娘さえ、歌妓となりしとぞ」と見ゆ。義植将軍の孫か曽孫になる女も、そんな者になり下ったということ、『甲子夜話』か何かで見たと思えど、記憶定かならぬ。(昭和八年四月十六日午後四時)   (昭和八年五月十五日『月刊日本及日本人』二七三号)
 
(200)     『犬枕』およびその著者
 
 柳亭種彦の『好色本目録』に、「清少納言『犬枕』三冊、一名『ふでかくし』、巻尾に、元禄十五年壬午正月吉辰、武陽書林、平野屋吉兵衛板。団扇形のうちに画ありて、女色のことを和文のように書きたる物にて、草子物ともいいがたく、好色本ともみえず、面白からぬ書なり。按ずるに、いまだみざれども、『こく《(ママ)》犬枕』という冊子あり、また『吉原 状枕』というもあり。それは吉原の目次に加えたり。『筆かくし』という草子に、書房のさかしらして、この名を負わせたるか。寛永十一年の印本『尤の草紙』の序に、かの清少納言が『枕の草紙』をまねびて書きたるものあり、その名を『犬枕』といえるなり。また元禄四年印本『俳諧瓜作』撰者琴風の跋に、誰かいう『枕草紙』はこの道の宝なりと、また『犬枕』もおかし、『尤の草子』は、かの枕の文字に一方《ひとかた》を残し(熊楠いわく、琴風の跋文「かの枕の文字の一方を残してとなり、枕の一方は?にして尤にはあらずと、眉をひそめしもまた興ならずや」とつづけある)などある『犬枕』は、この『筆かくし』のことにはあるべからず。慶長の作、小瀬甫庵が『童蒙先習』の一名を、古くは『犬枕』といいたるか。これも予がおしあての考えなり」と記す。
 件の『尤の草子』の序には、慶長年間、これかれの人々集まりて、清少の『枕草紙』に擬して『犬枕』を書いた、『枕草紙』と『犬枕』と「この二枕は、足引のやまと歌の六《むつ》の種を顕わし、末の世の人のためしとなるべきことを願い、言葉すなおに、しな巧みありてこころ妙なり」、その二枕にかき洩らしたことどもを取り集めて、この書(『尤の草紙』)を綴ったが、拙い作ゆえ二枕と等しく枕という名を付けるを憚るが、面影はいささか似通うから枕という文字(201)の一方を残して『尤の草紙』と題したというので、琴風これを難じて、枕の字の旁は?で、尤でないと咎めたのだ。柳亭はこの『犬枕』の一書を見ず、またその作者の名を知らず、あらぬ本どもと間違えたのだ。
 かく筆するものの、予もまたかつて『犬枕』を見ず。それに関して細大とも教示あらんことを諸君に願う。さて遅れ馳せかも知れぬが、その作者だけは見当てたから、遼豕の誚《そしり》を甘受するつもりで発表する。『当代記』巻四に、「慶長十二年十二月、寿命院(古道三の弟子にして医者の上手なり。当時、文宗の達者なり。出家落ちなり)、十一日相煩い、十四日死去す。これ『犬枕双紙』の作者なり」。また『武徳編年集成』五三に、慶長十二年十二月十四日、良医|秦《はだ》寿命院、当十一日より所労大漸、今日卒去す、道三一渓が門弟なり、『犬枕草紙』の作者にして、『徒然草』をも始めて注解し、筆墨の誉れありと、云々。これで『犬枕』はもと、清少の書に似て非なるの謙意もて、『犬枕草紙』と号したと知れた。尾崎雅嘉の『群書一覧』草子類、道春の『野槌』、宗胡の『鉄槌』より前に、『徒然草抄』二巻、立安法印、一名『寿命院抄』、と挙げあり、『犬枕』作者の本名は秦立安と判った。(六月十四日午前四時)   (昭和八年八月一日『月刊日本及日本人』二七八号)
 
(202)     『水滸伝』について
 
 本誌七九一号五一貢に天鐘道人いわく、金聖歎は、『水滸伝』第七十回、「梁山泊に英雄悪夢に驚く」の一章をもって結び、百二十回の『水滸』を胴新にしたるは遺憾千万、と。真に然り。桂川中良の『桂林漫録』に、『秋坪新話』を引いて、金聖歎著わすところの『解唐詩』、五七言の律詩を中より分かち、上四句を前解とし、下四句を後解とす、時人戯れて唐詩を腰斬にしたりとぞ称しける、のち誹謗の罪に坐せられ、市にて腰斬にぞ行なわれける、唐詩を中より分かちたるはその讖《しらせ》なりと咸人《みなひと》言いあえりしとなり、とある。実は唐詩のみならず『水滸伝』をも金氏は腰斬にしたのだ。
 さて、二十九年前、予米国フロリダ州に流寓し、到る処、支那人に寄食し、毎夜彼らが博奕する傍《かたわら》で『水滸伝』を借覧してみずから娯しんだ。当時この書について思い付いたことどもを注した物、現に座右にある。その内に、「金聖歎は『水滸』七十回までを元人施耐庵の本作全伝とし、七十一回以下を羅貫中の続作とす。しかれども七十回までの中に七十一回以下の趣向のために、伏線を張れる箇処なきにあらざれば、七十回までを全伝とするは牽強なり。例せば、その第四回、魯智深乱行して五台山を離るる時、智真長老、彼に終身受用せよとて四句の偈を授く。いわく、「林に遇って起こり、山に遇って富み、州に遇って遷り、江に遇って止まる」。聖歎これを故《ことさ》らに看過して一言の評を加えざるはずるし。この句の結著七十回まででは方付かず。それより?《はる》か後回に、智深大江の潮声を聞き敵勢|驟《にわ》かに至りしと誤認し兵を執って闘わんとせしが、その江水の動作に外ならざるを識るに及び、たちまち恩師の「江に遇って(203)止まる」なる末句を念出し、すなわち静かに寂滅に就くに及びてこそ四句の偈初めてことごとくその応を現ぜしなれと筆しおる。
 それより二年の後、ロンドンで馬琴の『玄同放言』を読むと、その巻三、「金聖歎を詰る」の篇に、「かつかの書の作者、七十回後の趣向さえ作り設けつつ創《そう》したらんと思うことあり」と言えるはもつともながら、「盧俊義は美貌第一の漢《おとこ》なり、この人最後に江に落ちて死せしことは、七十回の後にあり」とて、張華の「山鶏、みずからその色を愛し、終日水に映《うつ》し、目|眩《くら》めばすなわち溺死す」と言えるを引き、『南越志』に、山鶏を?※[義+鳥]といえるより、この二字の鳥を省き人を添えて盧俊義と作り、この姓名より後に溺死させしなるべしとあって、燕青の名までも俊義の溺死を予期して拵えたもののごとく論じたははなはだしい故事付《こじつ》けで、盧俊義は美貌第一の男ということ、全伝にさらに見えず、馬琴は趣向の始末よりも例の名詮自称の穿鑿に重きを置いたゆえ、かかる故事付けができたのだ、と当年(明治二十六年)予の随筆に書いておる。
 それから明治四十四年、一切経を通覧した間の留書に、「『根本説一切有部毘奈耶』三五に、仏弟子中の難物たる六衆比丘、給仕の婦女に醜語を吐いて施主に疎んぜられしより露形外道と喧嘩を始む。外道六十人あり、一比丘ごとに十人懸かりて打ち懲らさんと敦圉《いきき》く。「難陀(比丘)告げていわく、具寿《ぐじゆ》よ、おのおのみずからまさにその眼と耳を護るべし、損《そこな》われて瞎《めしい》となり、同梵行者の嗤《わら》うところとなることなかれ、と。外道に告げていわく、行者よ、肩膊および腰胯を打つべし、と。時に諸《もろ》もろの外道、棒を打って疲労し、手足みな困《つか》れ、ついにすなわち停歇《やす》む。闡陀《せんだ》(比丘)告げていわく、諸もろの具寿よ、次にわれ事を作《な》さん、と。時に、かの六人、倶《とも》に大力あり、右手を展《の》ぶる時に五《ごにん》の外道を撲《う》ち、次いで左手を舒《の》べてまた五人を倒す。あるいは錫杖をもってし、あるいは手足をもってす。拳にて打ち、脚にて蹴り、恣意《ほしいまま》に熟《よ》く椎《う》つ。?陀夷《うだい》(比丘)いわく、諸もろの具寿よ、まさに本罪を護るべし、命を断たしむることなかれ、云々、と。すでに熟《よ》く打ち已《おわ》つて、悉皆《ことごと》く推し出だす。諸もろの婆羅門等、見|已《おわ》つて相告ぐらく、汝、釈(204)子の外道と闘うを観たれば、必定《かならず》や天神はまさに大雨を下《ふ》らすべし、と。この時、六衆は外道を駆り已《おわ》る。阿説迦(比丘)いわく、諸もろの具寿よ、われ今戦いに勝って僧徒を辱しめず、よろしく倶に行って室羅伐(城)に詣《いた》るべし、と」。その時、南方の外道論師、来世はなきものと主張し、室羅伐城に至って仏の諸大弟子に議論を吹き掛けるに、いずれも取り合わず。最後に舎利弗に詣《いた》る。舎利弗なるべく大勢の見る前で彼を伏すべしと惟い、六日のあいだ勝負なしにやり続け、七日目に大衆|咸《あまね》く集まり観るに及び、朝の間にかの外道を分摧し心服せしむ。その午後、六衆比丘帰り来たるを見て、「諸人告げていわく、仁《おんみ》ら薄福にして大事を覩《み》ず、近く舎利子、南方の論師外道を降伏し、そをして俗を捨て阿羅漢を得しめ、巨億の徒衆、果を獲て発心す、と。その時、六衆、この語を聞き已《おわ》り報《こた》えていわく、諸もろの具寿よ、これいまだ希有《けう》にあらず、何をもっての故に。その舎利子はこれ第二の大法将にして、仏を助けて法輪を転ず、一《ひとり》の外道を伏せしむること何ぞ称するに足らん。たとい舎利子の他《かれ》に屈せらるる時も、なお大師の共に相救済するあれば、いまだ奇特となさず、われらの所作は実に希有を成す、わが六人をもって六十の外道を降せり、と。?蒭《びつしゆ》聞いていわく、いかなる明術をもってせるか、と。難陀(比丘)報《こた》えていわく、純《もつぱ》ら棒術を用う、と。また問いていわく、いかなる法義を説けるか、と。答えていわく、身をもって説法す、と。聞いていわく、はた並《みな》死せるか、はた命存せるか、と。答えていわく、当時は命|在《ながら》えたり、今日に至っては死活いずくんぞ知らんや、と」、仏これを聞いて六衆を叱り結戒した、とある。
 「仏典中まれに見る滑稽文で、『水滸伝』の魯智深、李逵輩の乱暴の叙述はこれに倣うたものにあらざるか。その他『水滸伝伝』が律蔵より化出されたらしいことなどは、『根本説一切有部毘奈耶雑事』の物語ごとに大小の要領を前掲しあり。例せば、巻二〇の「第六門総摂頌」に、「猛獣の筋《きん》の不応なると、燈光と及び勇健と、駄婆《だしや》と尼を度する法と、因《ちな》みて喬答弥《ごうたみ》に許せると、尼は前ならざると長者と、余れる臥具を与うべきと、水を?《そそ》ぎて汚すべからざるとは、第六の総なり、応《まさ》に知るべし」。「第六門の第一子摂頌」に、「猛獣の筋と皮の?《ひも》は、前に擁《はりだ》しまた後に擁す、両角および(205)尖頭に、諸靴にみな合《かな》わじ」。「内摂頌」に、「四大王の初誕には、光明|普《あまね》く照し、父母は斯《こ》の事に因みて、おのおの為にその名を立てぬ」。「第六門第二子摂頌」に、燈光の王となるを得しとき、五の殊勝なる物あり。因って奇異のことを叙し、広く健陀羅を説く」。「内摂頌」に、「??と鶴とは乳を飲む。芒草は尾身と斉《ひと》しく、斑駁《まだら》は毛と同じ。沙盆の水は溢れず、塩?の水は差別《わか》る。衣風は変じて塵となり、これを健陀羅と謂う。世間は十の事を思う」。仏典はもと書契よりも記誦をもっぱらにしたから、細大の要目をかく摂頌に約して記臆を助けたのだが、『水滸』第二一回の始めに、「閻婆大いに?城県を閙《さわ》がす。朱同、義もて宋公明を釈《ゆる》す」、終りに、「分教《さだめ》あり、山中に猛虎あって、見る時は魄散じ魂離れ、林下に強人あって、撞着して心驚き胆裂けんこと。正にこれ、説開すれば星月に光彩なく、道破すれば江山に水|倒《さか》しまに流る。畢竟、柴大官人の説き出だすその漢《おとこ》は還《はた》してこれ何人ぞや、まずは下回の分解を聴かれよ」。第二二回の始めに、「横海郡に柴進、賓《きやく》を留む。景陽岡に武松虎を打つ」、終りに、「分教あり、陽穀県中に屍横たわって血に染み、直ちに、鋼刀響くところ人頭|滾《ころが》り、宝剣揮うとき熱血流れんこと。畢竟、武都頭を叫喚《よび》しは、まさにこれ甚人《なんびと》ぞや、まずは下回の分解を聴かれよ」などあるは、律蔵の摂頌を直接もしくは間接に学び作ったのでなかろうか」と記しある。
 近来予記臆|頓《とみ》に衰え、これら『水滸伝』についての筆記を見て、さては自分がそんな考えを出したことがあったかとわずかに気付くようなことで、今さらその当否を判ずるに苦しむ次第だが、右もまた鶏肋でまるで捨つるに忍びず、あえて貴社に寄せ置く。   (大正九年十二月一日『日本及日本人』七九七号)
 
(206)     虚月爺二郎
          鳶魚「虚月爺二郎のモデル」参照
          (『日本及日本人』六二一号二四二頁)
 
 『羇旅浸録』(明治十八年板、巻二、三三葉)、斎藤文次の記事と、『胡蝶物語』の本文とを訳して、明治三十七年六月十八日ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』四八五頁へ出し、他国にも類語ありやと問うたが、一つも返答が出なんだ。して見ると似寄りの話が外国にないので、馬琴は全く文次の伝に基づいて虚月爺二郎《うそつきやじろう》の話を作ったらしい。『浸録』の文中、高槻の町で刃傷云々とあるは、松村操の『実事譚』二九編に論ぜる「樽屋おせん切籠の曙」の騒動であろう。それも同じく高槻でのことだが、寛政中の出来事としおる。
 爺二郎という名については、次のごとく『嬉遊笑覧』巻一二に述べておる。いわく、『嘉多言』に、獺を「かはうそ」というは苦しかるまじきか。「をそのたはれを」とよめり。この獣《けだもの》尾を掉《ふ》りて人を化《ば》かすといえり。世俗に偽りをうそと言うもこれより起これりといえり。今うそつき弥二郎藪の中で屈をひったと童のいうもこれよりなるべし、云々。「をそ」は癡鈍の義にて仮名も違いたり、「たはれを」は風流士にて獺の尾にはあらず、されども今の諺は件《くだん》の間違いたる説を取るべし。娑婆で見た弥二郎ということもあり、弥二郎に義なし、権兵衛八兵衛も同じ。「をそ」と(207)いう詞「うそ」ということなりといえるは宜し、云々。藪の中で屁を放《ひ》ったというは、獺と鼬の混ぜるにやとも思えど左にはあらじ、人の見ぬ所なれば偽ることの意と見ゆ、云々。   (大正三年一月十五日『日本及日本人』六二二号)
 
     長命丸を呑む
 
 (九月一日号一三二頁に、『即事考』を引いて、木挽町川島屋の娘は美麗なれば内証客を四、五人も持ち、日夜栄花に誇りしが、文化十三年癪起こりしとき、誤って長命丸を呑み、十九歳にて即死すと、真に一辞を賛しがたし、とあり。)『守武千句』に、「きりはたり長命丸やあはすらん」「ひやうしをうちて見るはむらさき」。何のことか分からぬが、天文ごろすでにこの薬方あったと知らる。そのようなものを呑んだ例は支那にもある。
 『聊斎志異』一四に、「某生なるもの、新しき第《いえ》を購《か》い、常に狐に患《くる》しむ。およそ一切の服物《きもの》、多く毀《やぶ》るところとなり、また時に塵土をもって湯餌《すいもの》の中に置く。一日、友の過訪《おとず》るるあり、値《たまた》ま生は他《よそ》へ適《ゆ》き、暮に至るも帰らず。生の妻、饌具《ぜん》を備えて客に供す。すでにして、婢と偕《とも》に余餌を啜食《くら》う。生、素《もと》より不羈にして、好んで媚薬を蓄う。いずれの時か知らず、狐、薬をもって粥の中に置き、婦これを食らい、脳麝の気あるを覚ゆ。婢に問うも、婢は知らずと答う。食らい訖《おわ》って、慾?の上熾《さか》るを覚え、しばらくも忍ぶべからず。強いてみずから遏抑《おさ》うれども、燥渇《かわき》いよいよ急《せま》る。籌思するに、家中に奔すべき者なく、独り客のあるのみなり。ついに往って斎を叩く。客、その誰なるかを問えば、実をもってこれに告ぐ。何作《なにごと》なるかを問うも、答えず。客、謝していわく、われは若《なんじ》の夫と道義の交りをなせば、あえてこの獣行をなさず、と。婦なお流連す。客叱っていわく、某兄の文章と品行は、汝によって喪《うしな》い尽されたり、と。窓を隔ててこれに唾す。婦大いに慚《は》じ、すなわち退く。よってみずから念う、われ何すれぞかくのごとく(208)なる、と。たちまち椀中の香は媚薬なるにあらざるかと憶う。包中の薬を検するに、果たして満架に狼藉として、?《はち》※[王+戔]《さかずき》の中みなこれなり。稔《かねが》ね冷水の解くべきを知れば、よって就いてこれを飲む。頃刻《しばらく》あって心下清醒となり、愧恥《はじ》てもってみずから容るるなし。展転することすでに久しく、更漏《とき》はすでに残《すくな》し。天暁《よのあ》くれば人に見《まみ》ゆるに以《よし》なからんと、いよいよ恐れ、すなわち帯を解いてみずから経《くび》る。婢|覚《さと》ってこれを救えども、気すでに漸く絶ゆ。辰《たつ》の後、始めて微かなる息あり。客は夜間にすでに遁る。生、?《さる》の後|方《ようや》く帰り、妻の臥せるを見て、これに問う。言《ものいわ》ずして、ただ清涕を含む。婢、状をもって告ぐ。大いに驚いて、苦《しきり》にこれを詰《と》う。妻、婢を遣って去らしめ、始めて実をもって陳《の》ぶ。生、歎じていわく、これ、われの淫報なり、卿《そなた》において何か尤《とが》めん、幸いに良友あり、然らざれば、何をもってか人たらん、と。ついに、これより往《さき》の行いを痛《きぴ》しく飭《いま》しむ。狐もまたついに絶ゆ」。
 一八一一年板、ムショーの『古今艶史話彙』巻五に、一七七二年、仏国のド・サド伯が舞踏会を催して招いた自分の弟婦その他の慾火を燃やさんとて、果子に芫青《げんせい》入れたるを饗し、ために死者多かった、とある。   (大正四年十一月十五日『日本及日本人』六六八号)
 
     三絃の継竿
 
 『風俗』が本年八月限り止めとなったは、われ人ともに遺憾至極に存ずる。その二巻一号に、安永中には継竿の三絃なかりしと述べた人ありしに対し、『先哲叢談』の伊藤東涯伝を引いて、元文中すでに継竿ありしを証した人あり。編者それを批して、文化中書かれた物ゆえ安永前に継竿あった確証にならぬ、と言われた。それを駁して長連恒氏が、天和元年の序ある仁木宜春の『方丈記抄』に、「折り琴つぎ琵琶は、今の三味線に継ぎ竿とて棹を二つに折りて取り置くように作りたるものなるべし」とあるを取り出して、必定安永より大分前からあったと確証された。予頃日『榊(209)巷談苑』を見ると、「今の世に続《つぎ》三絃あり。むかしは琵琶をも続いで続琵琶とぞ申しける。長明が『方丈記』に見えたり」と載す。その筆者榊原玄輔は明暦二年生れ、五十一歳で宝永三年死なれたのだから、この記事また安永より少なくとも百年前すでに継竿の三絃あった確証に立つ。(大正六年十二月三日)   (大正七年二月十一日『日本及日本人』七二四号)
【追記】
 長連恒氏は、天和元年の序文ある『方丈記抄』に拠って、そのころすでに継竿の三絃あったと説かれた。それより一年後れて天和二年の出板、『好色一代男』四、世之介三十三歳の条に、「女郎戴く時、善吉『御肴』とて挟み箱より継竿の黒檀六筋懸《こくたんむすじか》けを取り出し、『丁稚《でつち》唄え』といえば、かしこまって弄斎《ろうさい》、その声の美しさ、弾手は上手」とあるを頃日見出だして、よって確かに天和の初め、継竿の三絃が行なわれおったと知る。(六月十六日)   (大正八年七月一日『日本及日本人』七六〇号)
 
     邯鄲師
 
 『推南子』修務訓に、「邯鄲の師に新曲を出だす者あり、これを李奇(古えの名娼)に託す。諸人みな争いてこれを学ぶ。後にその非《しから》ざるを知るや、みなその曲を棄つ。これ、いまだ始めより音を知らざる者なり」と出ず。邦俗|杜騙《とへん》を邯鄲師と呼ぶ起りか。(十月十五日)   (大正七年十一月一日『日本及日本人』七四三号)
 
(210)     二便観
             麦生「二便観」参照
             (『日本及日本人』七四三号七二頁)
 
 これは古く仏経に出でおる。例せば、東晋の朝に天竺三蔵法師覚賢が訳した『観仏三昧海経』観相品三に、魔王の三女、名は悦彼と喜心と多媚、この三女、魔后も及ばざる妖姿を現じ、瞿曇の修行を乱しに来る。いわく、「われはこれ天女にして、盛美なること比《たぐい》なし。顔貌《かんばせ》は紅く輝き、六天に双《なら》ぶものなし。今、微身をもって太子に奉上《つか》え、左右に供給《はべ》つて灑掃に備うべし。われらは調身按摩を善能《よ》くす。今、親附せんと欲し、下情を遂げんことを願う。太子は樹に坐して、身体|疲懈《つか》れたれば、宜須《すべから》く偃息して甘露を服食すべし。すなわち宝器をもって、天の百味を献ず。太子、寂然として、身心動かず。白毛をもって擬し、天の三女をしてみずから身内の膿嚢涕唾、九孔筋脈、一切の根本、大腸小腸、生蔵熟蔵を見しむ。その中間において、廻伏宛転して諸虫の涌《わ》き生ず。その数、満ち足りて八万戸あり。戸ごとに九億の諸小虫等あり、云々。その女これを見て、すなわち嘔吐して口より出だし、窮尽《つく》るあるなし」。『大宝積経』五六に、「産門の内は糞厠のごとく、黒闇臭穢にして悪《い》むべし。坑中には無量千虫あって、恒《つね》に居《す》み止まるところなり。臭汁常に流れ、精血腐爛し、深く厭患《いと》うべし。薄皮の覆い蓋《かぶ》さる、悪業の身の瘡《きず》なり」。これらは体内や産門を便所の汚なきに比したのだが、正しく二便観に当たるのは、同経四四に、「もろもろの有情《うじよう》を観ずるに、悪道に処《お》り、妙女色を見て貪心を起こす者は、まさに四種の厭離の想を起こすべし。云何《いかん》が四となす。いわゆる退矢の想、?墜の想、行厠〔二字傍点〕の想、膿潰糞穢不浄の想〔八字傍点〕なり」とあって、厠中大小便不浄の様子を述べおる。(十一月一日)   (大正七年十一月十五日『日本及日本人』七四四号)
 
(211)     立小便と蹲踞小便
            「かぐはな」欄参照
            (『日本及日本人』七五三号一〇八頁)
 
 西沢一鳳の『皇都午睡』三編中巻に、「大坂にてもたまたま往来の小便桶へ婦人の小便すること、老婆幼稚の者は人目も恥じねど、若き女の小便するふりはあまり見るべき姿にあらず。江戸は下女に至るまでも小便たごなければよんどころなくかは知らねど、みな厠へ行くゆえ、これだけは東都の女の方、勝公事《からくじ》なり。京にても浪華にても、芸子閨婦が送り迎いの下男下女を待たせて往来で小便せぬは、よほど色気を含みし故なり。老若といわず、往来の小便所に女は遠慮あるべきことなり。上州・信州在の女は立ちはだかって腰を突き出してするが可笑《おか》しくて、泊りし宿にてそれを言い出し笑えば、この辺でしゃがんで(上方にてつくばることなり)小便すると縁付が遅いとて嫌えりと、云云」。
 熊野の山中で頭に物を戴いた婦女が立小便を常とするなど、職業上止むを得ぬことだが、一つはわが邦の衣裳にして始めてできる芸当だ。明治三十年、余ロンドンの南ケンシングトンの公設便所で夜分珍事を目撃した。三十四、五歳の女人全く男装しあったが、立小便だけ男通りにできず、それより巡査に怪しまれ訊問されたのだ。男恥かしいほど立派な立小便を行なうには、トルコ、エジプトの閹人同様挿入管でも用いずばなるまい。大戦争の影響で欧州に男装の婦女多くなったと聞くが、こればかりは男優りにできまい。さて一六〇六年ヴェネチヤ版ラムシオの『海陸紀行全集』巻三の二五九葉に、メキシコの男は欧州の女同様蹲踞して尿し、その女は立って尿す、とある。何故とは書いていない。それから九世紀に渡唐したペルシア人アブ・ザイド・アルハッサンの記に、唐人は立って放尿す、貴人は尿筒を用ゆ、その説に蹲踞して尿すれば種々の膀胱病を起こす、石淋ことに然り、また膀胱内にある小便を出し尽し(212)がたし、故に衛生上立小便を尚ぶ、と。レーノー注に、回徒は立小便は衣服を汚すと回祖に訓えられてから男女今に蹲ってする。インドの偶像崇拝徒またこれに倣《なら》う、と。按ずるに、『根本説一切有部毘奈耶』四七に、曠野城の大将に虐げらるる民を激せんとて、一女子衆中に裸で小便し衆驚き尋ねると、汝らことごとく女人ながら立小便することわれと異ならずと答えたとあれば、古くはインドの男はみな立って小便したのだ。   (大正八年五月十五日『日本及日本人』七五七号)
【追記】
 婦女の立小便。予がレーノーの注を引いて回教徒は今に蹲って小便すると書いたのを嘘だと言った人があった(『日本及日本人』七五九号五一頁)。しかるに近く七九五号六一頁に天鐘道人は支那の回徒を記して、「男子の放溺にもその衣を汚さんことを恐れて日本の女子のごとく跼みて行なう」と言われたのを見ると、これは嘘でなかったらしい。さて本邦で婦女の立小便の文献に見えたのを探すと、慶安元年板『千句独吟之俳諧』(判者貞徳、正章)に、「佐保姫ごぜや前すゑて立つ」「余寒にはしばしもししを怺へかね」。まずこれなどが古いものだろう。   (大正十年二月十一日『日本及日本人』八〇二号)
 
     尼が紅
 
 『嬉遊笑覧』巻六下に、尼が紅《べに》暮霞なり、小児はオマンが紅という、云々、尼が紅というも天の紅なり。恵空が『節用集』に、「倭俗、赤色の雲を呼んで尼の紅粉という」。『用捨箱』にこの詞の起りについて推測説を載せ、多く俳句を引きおるが、いずれも徳川時代のものだ。近く『沙石集』五の二二章に、毘沙門堂の連歌の座で、「薄くれなゐになれる空かな」という難句に、東入道が「あまとふや稲負ほせ鳥のかげ見えて」と付けた、とあるを見出でた。全く(213)鎌倉時代すでにあった詞だ。この句あまり知れなんだものか、重頼の『犬子集』の上古俳諧中に出でおらぬ。そのあまは天にも尼にも通ずと見ゆ。   (大正八年五月十五日『日本及日本人』七五七号)
 
     転矢気
          「転矢気」(無署名)参照
          (『日本及日本人』七五八号九九頁)
 
 『善庵随筆』第八条に、「転矢気、あるいは転失気に作る。『傷寒論』「陽明の脈証ならびに治を弁ずる篇」に、転失気の字三見す。宋板および諸本みな転失気に作る。『玉函経』ひとり転矢気に作る。いずれにても通ずれども、転矢気に作るを文理穏当とす」とあって、転矢気は矢気すなわち屁が外に洩れず内に反転する、俗に屁返りというこれなり、としておる。ただし、元の蒋子正が『山房随筆』に出た「転矢気」の詩に、「これを視れども見えざるを、名づけて希という。これを聴けども聞こえざるを、名づけて夷という。ただその口より出ずるがごとくなるのみならず。人みな鼻を掩ってこれを過ぐ」と言えるは、スカシ屁に似たり、とある。(六月一日)   (大正八年六月十五日『日本及日本人』七五九号)
 
     米沢彦八
 
 九年前の初冬、予熊野最難処の一たる安堵峰の製材小屋に四十日ほど起居した。その時仙人どもの話中、「彼はよく彦八を言う」「これは大彦八の名人じゃ」など言うをしばしば聞いた。大話、虚語を吐くことは分かったが、その原因を知らず、誰に尋ねても明答を得なんだところ、本誌七六〇号一〇一頁を読んで初めて気が付(214)いたは、むかし京の話し家米沢彦八の高名がかかる僻地までも響き渡った余勢で、今も法螺を吹くことを彦八と言うのであるまいか。(七月一日)   (大正八年七月十五日『日本及日本人』七六一号)
【追加】
 熊野の山人どもが法螺吹きを彦八と言うはむかし京都で話《はなし》に高名だった米沢彦八の名に拠ったのだろうと述べ置いたところ、そののち『嬉遊笑覧』巻九に、「元禄末より宝永のころに彦八という者あり。『伽羅女』(宝永七年板)、当世しかた物まね米沢彦八軽口咄大夫万歳らくすけとあり。『入子枕』(正徳元年板)、生玉の戻り足万歳彦八に費やしといえる万歳彦八は二人なり。また安永三年大坂にて板行の『自慢顔』という草子に、夜は別して楽しみのけしき彦八咄海坊主万歳とあり。彦八咄がそのかみ高名なること知るべし」とあるを見れば、当時すでに京阪で軽口咄せしを彦八咄とも彦八とも称えたと知らる。(八月三日)   (大正八年九月二十日『日本及日本人』七六六号)
 
     えたと乞食の喧嘩
            三宅雪嶺「賤民の義勇」参照
            (『日本及日本人』七六六号五頁)
 
 『耳嚢』二編に、この咄の異伝を出し、天明二年江戸であったこととしおる。海帯《あらめ》橋際で侍が下駄を直させた上、懐中を見るに一銭もなし。明日持ち来るべしと言うに、下駄直しの非人承知せず、悪口して太《いた》くこれを辱かしむ。側《かたわら》にあった非人、右侍に対し、同職の非人はなはだ不届なり、まことに御難儀申すべきようなし、彼は私申し宥むべければ、早々御帰り然るべしと言うに付き、侍悦んで去る。これを見たある町人、かの非人にその小家の在処を問うに鎌倉川岸辺という。ちょうど帰る道筋なればとて同道する途中、尋ねてその生まれながらの非人ならぬを知り、汝今日の取計い感ずるに余りあり、われに仕うべきやと問うに、御武家等急なる際無賃で働くは非人の義務なり、悪口した(215)非人は無知の者なり、御身始終を見ておったなら何とて中へ立ち入りかの侍の難儀を救わざる、そんな不心得の人に奉公を望まずと答えた、とある(九月二十九日)   (大正八年十月十五日『日本及日本人』七六八号)
 
     ちょんきなちょんきな
 
 『醒睡笑』四に、宗祇東修行の道にて、人謎をかくる。「ちゃんきのもんき、なに」祇公「富士の雪」と言えり。その心は何としてもとけぬとなり。件の謎を掛けし人、見るがうちに消えて跡なし、とあり。やや牽強かは知らぬが、徳川幕府の初世すでに「ちゃんきなもんきな」など分からぬことを言って戯れたるゆえ、祇公に托してかかる話もできたので、それが後年「ちょんきなちょんきな」と化生したのでなかろうか。(十月二十二日)   (大正八年十二月一日『日本及日本人』七七一号)
 
     対食
 
 『嬉遊笑覧』九に、「『天香楼偶得』に、「『漢書』趙皇后伝に、宮婢の道房は、中宮史の曹宮と対食し、はなはだ?忌《とき》せり、と。この風相|沿《おそ》いて、後世に至るもかつて改革《あらた》まらず。『酌中志』にほぼ載《の》するところ、明の熹宗の時、乳媼の客氏、初め宦者の魏朝と私するあり、のちまた朝を悪んで魏忠賢を喜べるごときはこれなり」と見えたり。しかれども対食とは宮婢相共に語らい睦《むつ》ぶをいうなるべし、男女の上にいう名にはあらじ」と見ゆ。
 しかるに、本誌元旦號二四〇頁に、『草廬雑談』から引かれたは、「『漢書』の外戚伝にいわく、「房と宮と対食す。応劭いわく、宮人のみずから相|与《とも》に夫婦となるを対食と名づく、はなはだ相|妬忌《ねた》むものなり、と」」と。同(216)じ『漢書』を引きながら、その時を距《さ》ること遠からざる応劭が対食を女同士のことと注せるに、はるか後世筆せられた『偶得』に、これを女と宦者とのことと取ったは、『漢書』の本文に宮婢と中宮史(宦官)と対食したと明記しある故か。予の手許にも近所にも『漢書』がないゆえ力及ばぬ。篤志家の穿鑿と教示を冀う。
 さて、『漢武故事』を見ると、武帝太子たりし時、伯母大長公主その女《むすめ》(武帝の従姉)陳阿嬌を指し、好否を問いしに、「帝いわく、もし阿嬌を得れば、まさに金屋をもってこれを貯うべし、と。主、大いに喜び、すなわちもって帝に配す。これを陳皇后という、云々。しかるに、皇后、寵ついに衰えて、驕妬すること滋甚《はなはだ》し。女巫、楚服して、みずから術あってよく上意して回《かえ》らしむと言い、昼夜祭祀し、薬を合してこれを服せしむ。巫は男子の衣冠?帯を著け、素《つね》に皇后と与《とも》に寝居《ねおき》し、相愛すること夫婦のごとし。上聞いて侍御を窮治《とりしら》ぶ。巫と后の妖蠱《ようこ》呪咀《じゆそ》して、女にして男淫せるは、みな辜《つみ》に伏す。皇后を廃して長門宮に処《お》らしむ」と出ず。『漢武故事』は『漢書』と同じく班固の作とも、はるか後れて唐朝の所篇ともいうが、果たして班固の作なら、この「女にして男淫す」の話は事実に拠ったもので、けだし支那で女人相愛を叙した最古の例だろう。対食の本義は差し向かいで夫婦同様食事するということか。あるいは『根本説一切有部毘奈耶』三七に、「男は女をもって食となし、女は男をもって食となし、さらに相愛す」と言ったようなものか、識者の教を竢つ。
 日本には『後撰集』一七に、定めたる女も侍らず独り臥しをのみすと、女友達の許より戯れて侍りければ、読人しらず、「いづこにも身をば離れぬ影しあれば、ふす床ごとに独りやは寝る」。これらがいと古い文献か。また『鈴鹿家記』に、応永元年十二月二十七日大寒、御小性衆、女小性、云々。小姓という名はいつ始まったか知らぬが、それが追い追い男寵の侍童に用いられたごとく、しばしば宮女の同性愛に使われた女小姓は、義満将軍の時すでにその名があったのだ。インドの古例は大正二年十月二日の『不二』新聞四頁に出した。それからト一ハ一とは何の義か分からなんだところが、尾佐竹猛氏の来示に、上下ということで、走り書きで一の上にトあれば上、一の下にハあれは下と(217)と読めるからとあったは、『琅邪代酔編』一二に、「日、一の上に出ずるを旦となし、日、一の下に入るを※[一/日]となす。※[一/日]は古えの昏の字なり。一は地なり」と説けるに似て面白い。(二月二日)   (大正九年三月一日『日本及日本人』七七七号)
     よたんぽう
          「よたんぽう」(無署名)参照
          (『日本及日本人』七七四号四六頁)
 
 加藤雀庵の『さへづり草』松の落葉の巻、「坊のくさぐさ」の条に、よたん坊は酔《え》い倒れといえるに坊を添えたるなり、とあり。『塵添?嚢抄』巻五に、「世路《せいろ》、正体なき人をタンボナキというは下臈の片言か、無旦暮と書くなり、云々。旦《あした》は夕の蓄えなく、暮《ゆうべ》は朝の用意なく、その期に臨みて奔走するを旦暮なき人というなり。もっとも世路の掟に背く者なり」とあるを見ると、足利氏の世すでに正体もなき者をタンボナシと呼びしが、後に酔を添えてナシを去り、酔うて正体なき者を酔タンボと唱えたものか。タンボナシがタンボとなったは、浄瑠璃にしばしば見ゆる厄体モ無イという語が、『膝栗毛』に出るごとく、無イを略しながら同じ意味を存して、薩張《サツパ》り厄体ジャという風に変われるごとし。(三月八日)   (大正九年四月一日『日本及日本人』七七九号)
 
     念者
 
 『摩訶僧祇律』巻七に、「もし男子に衆多《あまた》の婦《つま》あれば、念者あり、不念者あり」。夫の気に入った妻と気に入らぬ妻とあるということだ。本邦で男子相愛の兄分を念者というは、これから転化したであろう。   (大正九年四月一日『日本及日本人』七七九号)
 
(218)     熊野の神詠
 
 里譚に熊野の神がむかし西牟婁郡富田の海辺に鎮座し掛かると波の音が喧《やかま》しい。それを厭うて山に上ると松籟が耳に障るので、「波の音聞かずがための山籠り、苦は色かへて松風の声」と詠じて本宮へ飛び去ったという。神さえ到る処の不満足を免れず、人間万事思うままに行くものかと、不運な目に遭うごとに紀州人はこの歌を引いて諦めるが、熊野猿ちう諺通り神の歌さえ都鄙びたる。しかし、以前はこの歌ずいぶん知れ渡った物と見え、近松門左の戯曲『薩摩歌』中巻お蘭比丘尼の語に、「苦は色かゆる松風、通り風の吹くように、身にも染《し》まぬ一時恋《いつときごい》」。半二の『時代織室町錦?』八、「音なう花の宗太郎の妻のおしめは、日外より、云々、いつしかお部屋様々に、苦は色かゆる松風の、世帯とは見えざりし」。『伊賀越道中双六』岡崎の段の初めに、「世の中の苦は色かゆる松風の、音も淋しき冬空や」。件のいわゆる神詠、また苦は色変ゆる松風なる句はいつごろから物に筆せられおるか。大方の高教を竢つ。熊野神が波と松風の音に困ったちう譚は、『阿毘曇婆沙』に出た優陀羅摩子《うだらまし》の伝に基づいた物らしい。委細は『太陽』二月号に載せた。(三月二日)   (大正九年四月一日『日本及日本人』七七九号)
 
     男の差し櫛
           三田村鳶魚「双  蚊蝶の濡髪放駒」参照
           (『日本及日本人』七七七号一〇一頁)
 
 元禄二年板、西鶴の『本朝桜陰比事』一に、京の富家の後家、主従ことごとく外出した跡へ、隣家の子十七で角《すみ》前髪なるが盗みに入り捕えられ、平生後家と密通しおったと偽言し、この肌著小袖はかの後家の下著なるを、風の吹く(219)夜の別れにきせて帰し候、これより外には差し櫛、香包みなど呉れられ候と述べた、とある。もって当時野郎のみならず、地若衆も盛んに差し櫛をさしたと知るべし。   (大正九年四月一日『日本及日本人』七七九号)
 
     十河額
           三田村鳶魚「十河額に唐犬額」参照
           (『日本及日本人』七七九号九六頁)
 
 飯田忠彦の『大日本野史』武臣列伝に、「十河《そごう》一存は、耳の後に髪を抽いて額を作る。後世、鬢を抽いて?《ひよめき》を露わすは、けだしこれより始まるという」とある。一存は永禄三年に死んだゆえ、右の伝はこの髪風を江戸開府前始まったものとしたのだ。「三好系図」に、三好長慶の弟十河長正、一名一存、鬼十河と号す、とあるほどの勇士だから、武容を添えんため異風に髪を理《おさ》めたものと見える。『十河物語』に、その子政泰(存保)、弓の射手、箭細工に優れ、節陰を取ること名人にて、十河のふしかげと今に申し候とあれば、父子とも新風を創むる才に富んだ人と見える。   (大正九年四月十五日『日本及日本人』七八一号)
 
     商家の息子の角力好き
           三田村鳶魚「十河額に唐犬額」参照
           (『日本及曰本人』七七九号九二頁)
 
 『世間息子気質』から引かれた孫次郎の話は、それより二十九年前、貞享三年板、西鶴の『本朝二十不孝』五の三、「無用の力自慢」の一章に基づき綴ったらしい。丸亀屋の才兵衛とて歴々の両替屋の子が無性に角力を好んだ話で、その名乗り高松の荒磯とあるを、荒波孫次と替えおる。親爺異見の詞、息子抵抗の言、良家より(220)?《よめ》迎えしも一度もその部屋に入らず、乳母して諌めしむるに、男盛りに力落としては口惜しとて誓言するなど、全く同趣向で、『二十不孝』に、「弓矢八幡摩利支天南無不動明王身が燃えて女は嫌《いや》と言い切って、あたら花嫁をたて物にして淋しがらせ、われ独り寝間の戸の明暮、角力より外に楽しみなし」とあるをそっくり引き移しながら、弓矢八幡……不動明王云々を、愛宕白山身が燃えて女は厭《いや》と書き替えたから、愛宕白山と身が燃えると連絡せず、明らかに剽窃の馬脚を露わしおる。   (大正九年四月十五日『日本及日本人』七八一号)
 
     鰻
 
 『大草家料理書』に、「鰻鱠は醤油を薄くして魚に掛けて、少し火執り候て切りて右同加減にするなり。または湯を暑かにして拭いてもあぐるなり。これは中なり。鱠は口伝あるなり」。『嬉遊笑覧』に、「鰻を焼いて売る家むかしは郭の内になかりしとぞ。寛延四年撰『新増江戸鹿子』、深川鰻名産なり、八幡宮門前の町にて多く売る、云々。池の端鰻、不忍池にて採るにあらず、千住・尾久の辺より取り来る物を売るなり、ただし深川の佳味に及ばずといえり、このころまで、いまだ江戸前鰻という名をいわず、深川には安永ころいてう屋といえるが高名なり。『耳袋』に、浜町河岸に大黒屋といえる鰻屋の名物ありというは天明ころのことにや、これら御府内にて鰻屋の始めなるべし。京師も元禄ころまでよき町には蒲焼なかりしにや。『松の葉』端歌に、朱雀帰りの小歌に松原通りの蒲焼はめすまいかと卑しき物にいえり」とあれど、宮川氏の御説により軽少な鰻屋は元禄・享保間すでに江戸にありと知る。ただし『万葉集』に鰻を詠むは夏痩せの薬として勧めたまでだが、『異制庭訓往来』や『尺素往来』にその名を出せるを見ると、足利幕府の初世すでにこれを珍饌としたらしい。英国人は十一世紀にすでにこれを食うた証あり、十四世経に多くの鰻をオランダから輸入した、とハズリットが述べた。宮川氏は古ローマで鰻を酒の肴に持囃《もてはや》した由言っ(221)たが、日本でも昔はそうだったと見え、『狂言記』三、「末広がり」に、「鰻のすしをばえいやっと頬張っていようか酒をのめかし」とある。   (大正九年五月一日『日本及日本人』七八二号)
【追記】
 『嬉遊笑覧』一〇上に、京都も元禄ころまでよき町には蒲焼なかりしにや、と見え、宮川氏の説によると、元禄中、京都の鰻はもっぱら大道で焼いて売られたようだが、大阪には多少満足な町店で鰻を食わせたと見える。元禄の末年より三年後、宝永三年錦文流作『熊谷女編笠』二の二に、角屋与三次、手代小三郎と大阪新町遊廓を見るところ、「東口を出でて南北を見れば、表の見世《みせ》を台所に鮹《たこ》木《き》に登る気色あり。ことにお家流の律義な手跡にて大和今井|酢《すし》、鰻の蒲焼、酒肴との書付、ここにて腹中をよくせんといえば、小三郎がいいけるは、これはまた重ね重ね大きな費えのゆくこと、こうしたことを知ったらば昼の食行李に飯を入れて、橋の上にても大事ないものをとつぶやくもおかし。与三次、少し北へ歩めば、塩屋とかや、行燈の光もうすうすと、見れば相客もなさそうなり。主従二人、冷飯に鰻の蒲焼、酒は玉子酒にして、山の芋を辛子酢でどぜうがあらばたいて下されと、さても○○の可笑《おかし》さ」とある。元禄末年ころまで、京で鼈《すつぽん》料理なかりしに大阪にはこれありしこと、『元禄曽我物語』三の一に見えたるなど、土地によりて流行に早晩あったのだ。   (大正九年七月一日『日本及日本人』七八六号)
 
     桜餅
           三田村鳶魚「桜餅」参照
           (『日本及日本人』七八一号一〇三頁)
 
 桜餅、江戸では文政度に始まったらしいが、『一話一言』一に出た天和三年京御菓子司本町一丁目北頬桔梗屋河内大掾の菓子目録、「御菓子品々」の内にさくら糖、「衛茶菓子丸蒸物類」の内にさくらもちを載せたから、文政元年よ(222)り百四十年前すでに桜餅あって京都御所方で賞翫されたのだ。ただし文政度に始まった物と同否を知らぬ。   (大正九年五月十五日『日本及日本人』七八三号)
 
     おででこでん
            「おでてこでん」(無署名)参照
            (『日本及日本人』七八二号五一頁)
 
 予の母は安政中大阪におったが、そのころ大阪で家々の門口へ、おててこちう物買い来る。おどけた顔の老爺の人形が籃で物をふせ押えたのを箱に載せ、これを使う者、「品玉や、品玉や、かわるが早いかおててこてん、ちょんべさんのバア」と唄い囃し、了《おわ》ると同時に籃が揚がると押え置いた物がいろいろと替わされおる。小児ら随いありき、限りなく打ち興じたと毎度語られた。『奇異珍事録』から引かれたるを読むと、宝暦中始めて江戸ではやったようだが、上方では宝暦前すでにあったので、寛延五年板『絵本家宝御伽』に、「天満宮境内おててこてんの品玉」と題し、「京都へも上るか知らず品玉は、おててこてんま天神の内」と狂歌を載せ、中老の男が籃で物をふせ目くらましをやっておるを衆人驚き視る体を図しある。されば初めは人形でなく人が行なうたのだ。また広島より毎冬大阪へ蠣船《かきぶね》来る。それをもおててこてんと呼んだ。これを唄い入れた大津絵を教えられた。大阪四季を述べた物だったが、しかと記臆せぬ。   (大正九年六月一日『日本及日本人』七八四号)
【追記】
 前に引いた『絵本家宝御伽』が出た寛延四年は、宝暦と改元された。その宝暦の第九年に出た中村阿契の戯曲『難波丸金鶏』伏見京橋の段に、難波都に隠れなき、その名も塩の長次郎が、身に踏む塩の荷ない売り、唄「オテテコテソテン、ステテコ、オテテコ、オテテコテン、殿御の心と同じこと、散るかと思えば咲くのが早い、オテテコテンテ(223)ン、ステテコ、オテテコ、オテテコテン、きよとい物じゃ」。そこへ悪漢火皿の頭六来たり、喧嘩を吹っ掛ける。長次郎の弟髪結の新七出て押し隔て訳を問うと、長次郎「イヤさっきにあちら町で品玉《しなだま》取って、小刀や茶碗を呑んで見せたれば、この馬呑まそ、呑んで見いとむりやりに呑まして置いて、今また戻せとむり言わるる」と答う。『嬉遊笑覧』四に、「元禄のころ塩谷長次郎という者観場に出て、馬を呑むようのめくらましをなして世に名高かりき」。『西鶴置土産』五に、陰子《かげこ》松風琴之丞、品玉塩の長次郎勝りに候。『本朝職人鑑』(元禄七)一に、ただ白化けに放下師までも品玉とる種の行き所を先へ見せ、などあり。つまり手品師を品玉と呼んだのだ。   (大正九年六月十五日『日本及日本人』七八五号)
 
     酒迎
          「酒迎」(無署名)(『日本及日本人』七七四号六三頁)、麦生「酒迎」(同、七七七号六二頁)参照
 
 蟠竜子は「黒川氏がいうに、親戚、朋友、参宮の人を粟田口に送り、その帰る時、またこれを迎う、逢坂の辺に出でてまつ、故に坂迎《さかむかえ》というなり、とあり。この説によれば、坂と酒とを取りちがえたるなり」と述べた。これは正説らしいが、『今苦物語』二八巻、「寸白、信濃守に任じて解け失せたる語《こと》第三九」に、「この国には事の本として、守の下り給う坂向《さかむか》えに、三年過ぎたる旧酒に、胡桃を濃く摺り入れて、在庁の官人瓶子を取りて、守の御前に参りて奉れば、守、その酒をめすこと定まれる例《ためし》なりと、ことごとしくいう」と見え、前文に、信濃守、「始めてその国に下りけるに、坂向えの饗をしたりければ」とあれば、参宮帰りに限らず、すべての歓迎会を坂向え(坂迎えの借字)と、とっと昔は言ったのだ。   (大正九年六月一日『日本及日本人』七八四号)
 
(224)     さんすい
             「さんすい」(無署名)参照
             (『日本及日本人』七八三号九三頁)
 
 三、四十年前まで、上方で人の勢い落ち目になるを、かの人は大分サンズイ(三水偏)になったと言った。落の字の下半が三水を偏にするゆえと聞いた。『諸分店颪』や『淋敷座之慰』に出たサンスイは何様《いかよう》な意義か、本文を見ぬから知らぬが、宝永八年自笑作『傾城禁短気』一の三に、「近きころ、難波に有馬屋の山という大臣、女郎は新町の茨木屋の半太夫を物ずき、(中略)始めは金銀ありまやの山と高く上りし身なれども、この女郎に坂落としにせられて、今は山も麓に見落とされてさんすいなる有様、一度は栄え一度は衰える謡うたいの仲間外れのような紙子姿、これほど落ちても九軒町を昼あるくはわけの悪しからぬ仕舞と、揚げ屋に引き残りある大臣どもがほめたりしも道理《ことわり》ぞかし」とあるは、もっぱらこの人の落ちぶれた記載ゆえ、山水よりも三水と解するが中《あた》ったよう思わる。(明和三年、上田秋成の『諸道聴耳世間猿』五の終りに、黒紬《くろつむぎ》の小豆《あずき》色、絵師とも見ゆる山水な医者。)   (大正九年六月一日『日本及日本人』七八四号)
 
     千三
            「千三」(無署名)参照
            (『日本及日本人』七八三号八八頁)
 
 この語古くより関西に行なわれた。その一例、『重訂本草啓蒙』三八、蝌斗《かいるこ》、梅雨に小蟾となり、多く路上に出でて人に践み殺さる、筑後にて千三《せんみつ》という、践まるるもの多きゆえなり。   (大正九年六月一日『日本及日本人』七八四号)
 
(225)     杓子で客を招く
 
 料理屋など客なき時、密かに杓子を持って四辻に立ち、招き帰ればたちまち来客ありという。この迷信、徳川幕府の初世すでに行なわれた証は、元和七年小堀遠江守政一の『辛酉紀行』に、「程なく関の地蔵につく。この関の習いとて、顔白く拵え、まこと地蔵顔したる女どもの、錫杖にはあらで杓子という物を手ごとに打ち振って、旅人留まりたまえ、疲れ助けん、疲れ助けん、日暮れぬ、これより先の里はなし、通すまじ、と声々にいう」とある。   (大正九年八月十五日『日本及日本人』七八九号)
 
     忘れねばこそ思い出さず候
 
 「忘れねばこそ思い出さず侯」を高尾の創意のよう心得た人が多いが、実は古く足利氏の世に唄われたのだ。「思ひ出すとは忘るるか、思ひ出さずや忘れねば」という唄を永正十五年作『閑吟集』に載せおる。また同書に、「わごれう思へば阿濃の津よりきた物を、をれふる事はこりゃ何事」とあれば、女が男をふるというのも古い。   (大正九年八月十五日『日本及日本人』七八九号)
 
     内鼠
 
 今も上方で対外軟対内剛を内弁慶外鼠という。むかしは反対に内鼠といいしと見え、明暦三年刊『他我身の上』巻(226)三に、庄屋の一番子太郎八、内鼠にてわが内より外を知らざれば、とある。   (大正九年十月一日『日本及日本人』七九三号)
 
     一物
 
 男根を一物ということ、明の李卓吾の『開巻一笑』二の末章、「男風を禁ずるの告示」に、「暁諭せしより後は、おのおのまさに髀《もも》を撫して痛みを追い、首を回らして漸《はじ》を興し、腸胃はすなわち食を蔵するの区なることを思え、穀道の中に豈《あ》に一物を容れんや」と出るを見ると、支那から伝わった名らしい。   (大正十年三月一日『日本及日本人』八〇三号)
【追記】
 男根を一物と言った例をまた見出でた。「窮《まず》しき漢《おとこ》、隣家にて賊を捉えよと喊《さけ》ぶを聞き、忙《あわただ》しく陽物をもって妻の物の内に挿しいる。妻いわく、賊至るに何の高興《たのしみ》ありや、と。答えていわく、ただ一物を蔵好了《しまいおおすれ》が、他《かれ》を怕れて怎麼《なにか》せん、と」と『笑林広記』巻四に出ず。   (大正十一年四月十五日『日本及日本人』八三四号)
 
     ふんばり女
 
 『郷土研究』四巻四号二四四頁に中山丙子君いわく、足利地方で土娼のことをフンバリ女というのは、もと機女《はたおんな》から出た名であるらしい、と。この名江戸にも行なわれたものか、金田和三郎氏(只今海軍少将か大佐)より英国から帰朝の船中で承ったは、氏|毎《つね》に亡父君より聞いた大津絵節の唄に、「二人づれふいと出で、深川の福井町のふくべ屋で、(227)不思議なフンバリ女を不思議に買いあてた、ホイ忘れた古ふんどしを」というのがあったそうな。その亡父君は、明治七年頃林某がホンコン領事たりし時その下に働きし。その林氏はかの地で自殺せしとか。よって大抵維新前の唄と思う。   (大正十年七月一日『日本及日本人』八一二号)
 
     山陽の衒気
           大久保静園「山陽の衒気」(『日本及日本人』七四三号五八頁)山移雲舟「衒気か才気か」(同、七四六号七二頁)参照
 
 大久保静園君は、中島棕隠の弟子だった人から聞いたとて、棕隠ある宴席で後輩の山陽がおのれより上席に坐れるに向かい、蘇東坡の蘇の字の魚は右か左かと問うて、山陽があれは何方でもよいと言うを聞き、しからばこの引物も右と左を勝手にすると、山陽に供えられた大きな鯛と自分に供えられた小さい鯛を取り替え、山陽ために苦り切った由述べられた。台湾、山移雲舟君は、浅田宗伯翁の直話として、その師山陽が尾藤二洲か誰かと諸侯に招かれた席で、同様の頓才を現わしたと書かれた。偶合か襲套か知らねど、このことは蚤《はや》く明の李卓吾の『続開巻一笑』巻三に出でおる。いわく、「李章、隣人の小集に赴く。主人、素《もと》より鄙なり。会次《せきじゆん》にて章たまたまその傍に坐る。すでに饌を進むるに、主人の前の一魚は、特に衆客よりも大なれば、章すなわち主人に請いていわく、某と君とは倶《とも》に蘇の人なり、毎《つね》に人の蘇の字を書くを見るに同じからず、その『魚』は、左辺にあるべきが是《ぜ》なるか、右辺なるが是なるかを知らず、と。主人いわく、古字は字を作るに一体に拘《こだ》わらず、易きに移り便に従うなり、と。章すなわち手を引いて、主人の魚を取り、衆に示していわく、主人の指揮を領《う》けて、今日、左辺の魚は、まさに便に従い右辺に移過《うつ》すべし、と。一座、飯《くら》うを輟《や》めて笑う」。   (大正十年七月十五日『日本及日本人』八一三号)
 
(228)     曽呂利の狂歌
 
 「太閤が一石米を買ひかねて、けふも五斗買ひ明日も御渡海」という歌、曽呂利の作とあまねく伝うるは誤聞にや。多々良一竜の『雲州軍記』にいわく、元亀二年四月二十八日、吉川元春、小早川隆景、六万余騎を率し、云々、千余艘の兵船高瀬に押し寄せんとす、城内米原平内左衛門広綱八百余騎にて渡し口の汀《みぎわ》に陣を取り、伏奸の備えを設けたれば敵速やかに渡るを得ず、いたずらに日こそ暮れ行きけれ、何者か書きけん、渚を見れば、「安芸のもり(毛利)一石米を買ひかねて、今日も五斗買ひ明日も御渡海」、かく書いて札を立てたれば敵またその裏へ「秋風の吹くに付けても高瀬舟、つなぎとめじな弱り広綱」、広綱三日三夜防戦して勝久(尼子)と生死を共にせんと夜に紛れて落ちて行く、と。   (大正十年九月一日『日本及日本人』八一六号)
 
     かしわ餅
 
 『守貞浸稿』二四に、京坂にては男児生まれて初の端午には親族および知音《ちいん》の方に粽《ちまき》を配り、二年目よりは柏餅を贈ること、上巳の菱餅と戴《いただき》のごとし、江戸にては初年より柏餅を贈る、と見ゆ。和歌山などには予の幼時(明治初年)武家は知らず、平民は粽というものを知らぬ者多く、男児生まれた年より柏餅を贈った。同じ紀州ながら田辺等ではその柏餅も知る者少なく、イビツイバラの葉で包んだ餅を贈り、イビツと呼ぶ。『和漢三才図会』九六、この草の条に、「西国の野人、粟を用《も》って麦餅(呼んで五郎四郎という)を包み、これを贈酬す。故に五郎四郎柴と名づく」とある。貞享四年に出た『懐硯』三に、大隅の片里に、云々、明日は五月五日とて、女は柏の葉にて黒米の餅などを包みける(229)は、これなん上方に見し菰《まこも》の粽の代りなるべし、と見ゆれば、そのころまで柏餅は上方に知れざりしにや。   (大正十年九月十五日『日本及日本人』八一七号)
 
     米鰻頭のヨネ
            鳶魚「金竜山の米饅頭」参照
            (『日本及日本人』八二六号一五二頁)
 
 宝永六年の序ある『紅白源氏物語』の序に、「白無垢|紅《ひ》無垢の色めきたる、当風のヨネの、はでなる仕出しに、よく移るということにや」。本文に、源内侍の髪付き、「若いヨネならねば、云々、少しはそそけて見ゆ」。また光君、朧月夜に会い、「かのヨネの手を捉え給えば、ヨネは思い掛けず恐ろしと思える様にて」、その他この書にヨネを女また美女の意らしく用いおること多く、遊女のことはなし。光君、兵部卿宮を見るに、「宮の御有様なまめきて、ヨネにして見ば、天晴れ美しき者ならん、また女の身になりてこの宮のように美しき男と物語りせば、云々」ともある。男に対して女をヨネと呼んだと見ゆ。『塵添  儘嚢抄』二に、『遊仙窟』、張文成十娘と双六をなす時、宿(ヨネ)を賭《のりもの》にせんという。十娘問うていわく、「若《なんじ》宿を賭せんか。余答えていわく、十娘|籌《ちゆう》を輸せばすなわち下官と共に一宿に臥《いね》よ、下官籌を輸せばすなわち十娘と共に一宿に臥ん」と言えり、云々。ヨネは宿《しゅく》なり、米にあらず、と記す。賭に負けた方が一宿の料金を仕払う約束と見え、ヨネは夜寝と先人が言った通りで、後世お敵といったごとく相方すなわち対手の義となり、『曲輪日記』の「嫁は小芋を月代へ、子種たのみのヨネ団子」など、妻をヨネというに及んだらしい。数月前拙宅の門を簀を荷なうて過《よぎ》る者あり。高声に謳い行く盆踊りの唄様の物の終りに、「内のヨネじゃと言わせたい」とあった。上の文句を尋ねんと出たら、はや見えなんだ。その人は日ごろあまり他と打ち解けて往来せぬ所に住み、その所の人は歩むに特異の風あり、物を買うに必ず「売てー、酒を」と、欧人、支那人同様の語法を用ゆと(230)聞く。そんな所の人ゆえ必ず唄も古風の物だろうに全く聞かなんだは惜しいことをした。件の末句は思う男の妻と呼ばれたいという義らしい。しからばヨネという語は遊女、女、対手また妻と種々に意義あると見える。   (大正十一年四月五日『日本及日本人』八三三号)
 
     山を張る
 
 『朝倉始末記』巻二に、「昔日、越前国平泉寺の神事に三所の張り山とて山を拵うることあり。これは国中有徳なる百姓ら始めて入道する時に、山張り役とて金銀多く出しけり。この山を張るべき分限なき者は起請を書きてフ《かか》げけるが、もし虚言あればたちまちに滅絶するとぞ聞こえける。かかる役儀も、末世には有徳なる土民もあるべからずとて、貞景大野郡に過分の張山科を寄付したまいぬれば、今は百姓の山張り役もなかりけり」。平泉寺に限ったか否は知らず、神事の山張り役料を身分不相応に出すような虚言を吐いた者を嘲るより移って、外見を誇大にするを山を張ると言い来たったものか。   (大正十一年十月十五日『日本及日本人』八四七号)
 
     女の腹切り
 
 近松がその戯曲『長町女腹切』を出したは元禄十三年で、腹切りをもって海外までも鳴った日本国にも女の切腹は至って珍しく、狂歌や落首、絵双紙にまでもして喧伝されたと見える。しかしこれが女腹切りの嚆矢でなく、足利時代すでに歴々大名の奥方で腹を切った例がある。「両武田系図」に、甲斐・安芸二州の守護武田安芸守信満は、鎌倉の前執事上杉禅秀の舅だったところ、禅秀敗死に及び、信満甲州で切腹した。その女《むすめ》俗名右衛門も夫禅秀の死を聞(231)いて本国藤渡の河辺で守刀を抜き、腹十文字に切って水中に沈み死す。辞世、「さなきだに五つの障りありときく、親さへ報ふ罪いかにせん」。女腹切ること古今不思議に聞こえし、と出ず。   (大正十一年十二月十五日『日本及日本人』八五一号)
【追記】
 前文に、『長町女腹切』より古く、足利時代に婦人割腹の例があったと載せ置いたが、その後念を入れて捜すとまだまだ古いのがあります。現存『風土記』中最も古いといわるる『播磨風土記』にいわく、「腹辟《はらさき》沼。花浪《はななみ》の神の妻《め》淡海《おうみ》の神、おのが夫《せ》を追わんとして、ここに至り、ついに怨み瞋《いか》り、妾《みずから》、刀をもって腹を辟《さ》き、この沼に没す。故に腹辟沼と号《なづ》く。その沼の鮒等《ふなども》今に五臓《はらわた》なし」と。   (大正十二年三月一日『日本及日本人』八五六号)
 
     妻子を?械と想うこと
 
 北涼の代に高昌国から来た沙門法盛が訳した『菩薩投身飼餓虎起塔因縁経』に、栴檀摩提《せんだんまじ》太子、山に上って勇猛仙師の説法を聴き、心志享楽して国に還るを欲せず、宮室を惟えば地獄の想を生じ、妻子眷属には?械の想を生じ、五欲の楽しみを観ては地獄の想を生じ、すなわち衣服装飾を解き、車馬、従者、共に侍臣に付けて国へ還らしめ、鹿皮を着て仙師に随って道を学んだ、とある。これから練出したものか、『古今集』に、「世のうきめ見えぬ山ぢに入らんには思ふ人こそほだしなりけれ、物部のよしな」とある。ホダシは『和漢三才図会』二二で見ると、鎖を両足の間に施す。?はテガシ、械はアシガシ、いずれも刑具で、人の行動を自在ならぬようにする設備だ。   (大正十一年十二月十五日『日本及日本人』八五一号)
 
(232)     女を食うという言葉
 
 本誌七七七号六九頁に「対食」について述べた中に、『根本説一切有部毘奈耶』三七から、「男は女をもって食となし、女は男をもって食となし、さらに相愛す」という句を引いたが、最近南洋郵船会社のサマラン丸船長安井魁介君より注意に、マレー語で交会をマカン・プロンパンという。マカンは食う、プロンパンは女、女を食うとは新しい。ただし据え膳なら日本人も悦んで食う、呵々、とあった。十津川地方では今も交会をマクという。『古今著聞集』に、坊門院に年ごろ奉仕する蒔絵師に用あって召された時、仮名で「ただいまこもちをまきかけて候えば、まきはて候いてまいり候べし」と返書を出したのを、悪く読んで叱られると、「只今|御物《ごもち》を蒔き掛けて候えば」と書いたのを、「子持ち女を犯しに掛かりおるから」と誤解されたと判ったとあるから、女犯を鎌倉幕府のころまでにマクと言うたのだ。『梵網経古迹記』下に、「胎の円満なる時、児に乳を飲ます時」、女を犯すを非時犯とす。交会を『書紀』にマクワイとあるよりマクと略したので、マクワイは目と目と見合わすことだというが(『類聚名物考』一七)、マクとマカンとよく似ておる。   (大正十一年十二月十五日『日本及日本人』八五一号)
 
     地獄と呼ぶ売淫
 
 『守貞浸稿』二〇編に、「地獄。坊間の隠し売女にて、陽《あら》わ売女にあらず。密《ひそ》かに売色する者をいう。むかしより禁止なれども天保以来特に厳禁なり。しかれども往々|有之《これある》容子なり。地獄、京坂にて白湯文字という。尾張名古屋にて百花という、モカと訓ず。彦根にて麁物という。みな密売女なり。江戸地獄、上品は金一分、下品は金二朱ばかりの(233)由なり。自宅あるいは中宿ありて売色する由なり。ある物の本にいわく、俗に売女にあらざるものを地者《じもの》あるいは素人《しろうと》ともいう。その地者を極密々にて売女するがゆえに地極と方言す。獄、極、音近きがゆえに、今は通じて地獄というなり」とある。売色せざる素人で他に男色を許す少年を地若衆というたこと、貞享ごろすでにあれば、素人の婦女を地モノと呼ぶことも、そのころすでにあっただろう。『男色大鑑』八に、いわゆる分《わけ》の若衆すなわち売色少年を、素人よりも優しと評して、素人若衆は「互いの志より固め、命をその人に捨て置き、自然の時の後ろ楯とも末々の頼母子《たのもし》づく。この君たちは楽しみもなく、しかも心底|覚束《おぼつか》なき初会より、その身を客の物になして勤め給うは、地若衆の情《なさけ》ふかきに優れり」と言いおる。
 『嬉遊笑覧』九にいわく、「隠れて色を鬻《ひさ》ぐ者絶えず、これを地獄と呼ぶ。地獄とは暗物《くらもの》より出でたる名なり。『一代女』六、借屋に住める女の衣類と首《かしら》は各別《かくべつ》に違い、合点頸《がつてんくび》のごとし、これいかなる女房やらんと仔細を尋ねしに、いずれも世間を忍ぶ暗物女といえり、云々、また暗物というは、恋の中宿に呼ばれて、仮初《かりそめ》の慰みを銀二匁、中にも形の見よきに衣類美しきを着せて銀一両と少しくらいを付け置きぬ、と言えり。これと同じく、江戸にて地獄といいたるも暗き義なり」と。守貞は極密に地方を売る義とし、信節は闇黒地獄に基づく名とした。今十一月の『性』七一六頁に、石井秋旻氏は、中洲《なかず》が三叉河岸《みつまたがし》とて全盛の時、茶屋女、町芸者等ことごとくここで売淫し、色を売らざる者を、情《なさけ》なしの意で、地獄と称えたが、後世かえって色を売る者を地獄と称するようになった、と述べられたが、証拠を出しおらぬ。
 熊楠謂う、必ずしもこの称の原因でなかろうが、隠売と地獄と連想すること足利時代すでにあった。『職人尽歌合』に、立君《たちぎみ》と題し、「三途川|姥《うば》とやつゐになりなまし地獄が辻にのこるふる君」。『山州名跡志』三に、珍皇寺、今いう六道《ろくどう》これなり、ここは最初鳥部野の無常所にして、今なお六道の名あり、とあって、むかし当寺藪中に小野篁が地獄に通うた跡あったが今はなき由を述べ、この寺、平安城開かれし時、人跡あれば死送の地なくんばあるべからざると(234)して、諸人の葬所を定め給えり、云々、ここにて引道諷経して鳥部野に送りしなり、毎年秋七月九日より十日に至って、ここに詣で亡魂を迎うというはこの遺風なり、と記す。この珍皇寺の辺かまたはその地に地獄の辻という所あって、そこで立君が毎夜客を取った趣きを詠じたのであろう。欧州にも墓地で売淫した例少なからず。ジュフールの『売靨史』をちょっと見ても、古アテネの墓地にある豪族の碑石の陰で遊女が売淫した由を記しおる。   (大正十二年一月一日『日本及日本人』八五二号)
【補遺】
 『甲子夜話』続編五五には、地獄の称えの起こる故は、客、楼上に居て密かに席を敲《たた》けば、梯下より少婦上り来る、これ買婦なり、地底に居る意にて、よって地獄とはいうなれ、と記す。   (大正十二年一月十五日『日本及日本人』八五三号)
 
     有り姿
 
 この語はあまり聞かぬようだが、宝永中行なわれたと見えて、森本東烏『京縫鎖帷子』二の三に、小鼓打ち宮井伝右衛門、鳥取藩士笹部折右衛門江戸詰の不在中、その妻に通じたこと露われて逐電した跡へ、折右衝門、「宝永二年の秋因州に帰り、江戸にて聞きしに違《たが》わぬ沙汰、(自家の臣僕)長右衝門が有り姿の物語、ならびに拾い置きし恋書ある上は、くわしき吟味にも及ばぬことと、頭痛気とて寝間に昼より引き籠りし女房をすかし起こし、件々のこと言いも果てず、取って引き寄せ、胸先を突き通し、憎さも憎しと飛び揚がり首ふっと切る」。同書四の一、折右衛門に殺されたその妻の妹お梅、身を美少年に扮し、敵討に京に上り、三条小橋三文字屋を宿とす。宿の娘お島これを真の男子と思い、惚れるところに、「お梅が二皮眼の見返し憎からで、われに心の有り姿、いとしらしいと思うより」とある。何ごとか有る様子ということで、長石衛門が有り姿の物語とは、長右衛門が主婦と伝右衝門の尋常ならぬ関係につい(235)ての観測談という意味であろう。『本草図譜』三〇に、有栖川家より出た有栖川と名づくる石菖あり。有り姿も多少有栖川に似せた語路であるまいか。   (大正十二年三月一日『日本及日本人』八五六号)
 
     遠目鏡
          「遠目鏡」(無署名)参照
           (『日本及日本人』八五一号一三〇頁)
 
 『熊谷女編笠』にわずか一年後れて作られた『美景蒔絵の松』一にも遠目鏡の趣向あり。青楼の二階で男が頭を上下するを遠く望んで、娼妓と戯るる最中と認め女どもが騒ぐ。奥様、これこれ遠目鏡やろうと覗かせて見れば、鏡を磨ぐ親仁と分かり大笑いする、とある。遠目鏡の名で通称さるるほど名高いのは天明三年近松半二と加作の合作『伊賀越道中双六』関所の段で、沢井殿の家来助平が、藤屋の二階で奉公女おきのが客と語らうところを茶屋から遠目鏡で覗いて夢中になる間に、状箱内の一通を志津馬に奪わるる。『浮世水滸伝』に、大名が愛妾と戯れながら遠目鏡で和尚が妓童の粧いした女に戯るるを視るに、口中を契り升《ます》とあるは、確かに件の戯曲から趣向を取った一つの証拠である。   (大正十二年四月一日『日本及日本人』八五八号)
 
     「昆布道成寺」の作者
 
 「昆布道成寺」は『松の落葉』に半太夫節、『色里新迦陵鬢』に土佐節とした唄で、昆布の述懐を叙べたものだ。この唄は宝永中もしくはその少し前の作らしい。宝永七年板『傾城難波土産』一の四に、泉州堺の三得といえる大尽、「若草のかわりぶし、昆布道成寺の作者城春に親しみ、口舌引きの三味線に、いかなるお敵も哀れと思わず」とあっ(236)て、城春法師が盲目ながら方角より推して人の運命をよく卜うた由を記しある。   (大正十二年四月十五日『日本及日本人』八六〇号)
 
     高尾の幽霊
 
『近世文芸叢書』六に収められた『落噺無事志有意』に万亀亭江戸住が作った高尾の噺《はなし》あり。「今は昔、足利頼兼公、遊女高尾が追善のため、大川において花火を揚げたまう。ここに土手の道哲とて、貴き道心の念誦してありける時、ふしぎや紅葉の蔭よりも、妙なる声にて、たばこ飲んでもきせるより、のどが通らぬ薄煙と、現われ出でたる高尾が幽魂。申し申し道哲さん。そういうは高尾でないか、頼兼公の仁心にて、大川にて花火をともしたまうも、そなたの追善供養のため、いまだ浮かまぬか、ええ浅ましやなア。サアその追善はどうぞ花火より外のことを。ムム花火はそなたのためにわるいか。アイとぼされるには飽きんした』。一五二七年生まれ一六一四年に死んだブラントームの『艶婦伝』四に、ローマの一娼妓の墓を蓋うた平石の銘に、「生きているうち乗せ飽きたから、死んだ後までもこの墓の上に乗らぬよう頼む』と鐫《ほ》ったも哀れなりとあると、万里を隔てて趣向は同じ。   (大正十二年四月十五日『日本及日本人』八六〇号)
 
     目明きは不自由
 
 塙保己一検校が講義中、聴手がちょっと俟たれよ燈火が消えたと言うを聞いて、検校が目明きは不自由なものと言ったと伝えるが、それより古くこの話がある。正徳二年板『新話笑眉《しんわえみのまゆ》』の一〇に、次の話を出す。「心易き座頭の坊、(237)夜咄に来たりければ、亭主、今夜は話を止めて将棊にしましょう、云々。将棊盤もてこいとて取り寄せなおし、駒バラバラと並べ、さて指しましょうと互いに向かうてさせば、座頭はことのほか工夫強き者なれば、亭主よほどまけ色に見えける、折ふし燈ふと消ゆる。坊様少し御待ちあれと手を控えおるに、座頭、これは何として滞りたまうぞ。いや燈が消えました。座頭、暗くてはさされませぬか。どうして暗うてさされましょうぞ。座頭聞いて、さてさて目明きは不自由なものかな』。正徳二年は保己一検校が生まれた延享三年より三十四年前である。   (大正十二年四月十五日『日本及日本人』八六〇号)
 
     助兵衛
 
 好婬者を助兵衛ということ、最も古くはいつごろの文献に微すべきか。三十七年前予米国にあった時、サンフランシスコからフロリダまで下等人間に行き渡りおったから、必ず欧米の俗語辞彙でその由来を説かるることと思う。このような穿鑿不得手な予は、従来宝永七年板『御入部伽羅女』五、伊勢参宮の途中犯戒した異様の見世物の記事に、「あるは歴々かづきの娘子、お袋らしいが先に立って、こんなことも見たがよいと、助兵衛という手代ぐるめに、差し合いも厭わばこそ』とあるが一番古いと思いおったところが、それより十六年前板『正直咄大鑑』五に、番町の番太郎房事度なく妻堪うる能わず勧めて夜鷹を買わしむる噺あり、その番太郎、名は助兵衛、と出ずるを見出だす。これより古い例あらば誰でも教示されんことを望む。   (大正十二年五月一日『日本及日本人』八六一号)
【追記】
 前文に元禄七年出板『正直咄大鑑』五に好婬者を助兵衛と名づけたことあるを引き置いたが、そののちそれより十五年前延宝七年刻、西鶴の『西鶴五百韻』に、「ぱいの実の殻になりてもすけへいしや』西吟、「むかしは花をやる桜(238)鯛」西鶴、とあるを見出でた。   (大正十二年五月十五日『日本及日本人』八六二号)
 
     鐘懸け松
 
 寛保二年板『諸国里人談』五に、「一日、遠江国長福寺に一人の山伏来て斎料を乞う。愚僧この度大峰に入るに路用|竭《つ》きたり、合力を得んというに、住僧嘲弄していわく、当寺にかねというは鐘楼より外になし、あの鐘にても路用に足らば参らすべし。客僧歓び、されば得んとて、金剛杖をもって竜頭を突けば鐘はすなわち地に落ちたり。軽げに提《さ》げて走り行く。人々驚き、その跡を追うに、飛ぶがごとくにして去りぬ。この鐘、大峰釈迦が嶽の松に掛かりて今に存す。これを鐘掛という。この所嶮岨にして一身だも登りがたき所なり」と記す。『大清一統志』二三四に、飛来鐘は湖南の桂陽州の北十里なる古社にあり、鐘あり、古樹の上に繋かり、今に至ってなお存す、と出ず。たぷん遠州同様の伝説あったことと思われるが、本文これを載せないは残念だ。遠州の話は支那より伝来したものか。   (大正十二年六月一日『日本及日本人』八六三号)
 
     韻を踏んだ歌
           鉦斎「苗売歌」参照
           (『日本及日本人』八六六号一一六頁)
 
 中堀僖庵の『萩の栞』下に、「汐ひれば、あまのまてぐし、ひまもなし、わが思ふことを、知る人もなし」人丸。この歌『柿本集』に見えぬ。篇に踏み外しあるを除けば、序と題と流とみなシの韻を用い、曲にのみシの韻を踏まぬところが全く詩の絶句に同じ。   (大正十二年八月十五日『日本及日本人』八六八号)
 
(239)     頭韻を踏んだ歌謡
 
 本誌八六六号一一六頁等に、鉦斎君が尾韻を踏んだ本邦の和歌や俗謡を示された尻馬に乗って、ここに頭韻を踏む例を申し上げる。明治二十六年、予ロンドンにあって時々書いた「課余随筆」巻五にいわく、近年森田思軒、日本にも頭韻体の歌謡ある由を『国民之友』に述べられたり。「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒が狂へば花がちる」など、サ、サ、ナ、ハと頭韻、ク、ルと尾韻を重ねおり、芝居の詞に、「上意を権威に検使の役目」は、イ、ヰ、シと尾韻、ケン、ケンと頭韻を重ねおる、と。
 熊楠按ずるに、『万葉集』三、持統天皇、志斐嫗に賜える御歌に、「いなといへど、しふるしひのが、しひがたり、このごろきかずて、われこひにけり」、イイシシシと頭韻、リリと尾韻を踏めり。その返歌に、「いなといへど、かたれかたれと、のらせこそ、しひいはまをせ、しひがたりとのる」、イイカカシヒシヒは頭韻、ドトソは尾韻なり。同巻に、長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》、詔に応うる歌一首、「大宮の内まで聞こゆ、あびきすと、あご調ふるあまの呼び声」、ノトヒユルは尾韻、アアアは頭韻なり。俳諧にも、芭蕉の句、「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」、ナナカヤは頭韻なり、と。   (大正十三年二月十五日『月刊日本及日本人』五号)
 
     ぼっとりもの
 
 前年本誌でこの語についてしばしば推解が出たが、何とも決せなんだと記憶する。しかるに余が蔵する「異態百人一首」ありて題号なし。宮武外骨氏はその画を北尾辰宣筆かと言う。それに品もの、ぬれ者、柔和者、機転者の四つ(240)を列ね分かち好女を評し、柔和者をボットリモノと仮名ふりある。ぼっとり者は、「衣裳の好みけばけばしからず、無地の両面うら模様などを好み、顔は拭い白粉薄く、ものごと静かに声高からず、歌草紙とてもはでを好まず、物見に出るとても人より跡に引き下がり、幼児を見てはさも愛々しく、召し使う者も睦まじく情あり、さてもやさしき御気立てと見ゆる、これなり」とある。宝暦ごろは柔和な女をぼっとりものと呼んだと判る。(二月二十七日)   (大正十三年三月十五日『月刊日本及日本人』四四号)
 
     遊女の詠歌
 
 山東京伝が寛政元年出した『廓の大帳』の初めに、大尽鶴声吉原丁子崖遊女を携えて真崎に遊び茶番狂言をするに、稲鶴という傾城が茶屋の簾の内から、「限りなく遠きあづまにすみだ川、絶えぬ流れをいつまでかくむ」と朗詠することあり。
 津村正恭の『譚海』巻六に、隠し売女を召し捕られて新吉原に下さるること、むかしは生涯奴のことにてありしに、享保中大岡越前守殿町奉行勤め給いし時、奴になりたる遊女のよめる歌、「果てしなき浮世のはしにすみだ川、流れの末をいつまでか汲む」、越前守この歌に感ぜられて、それより隠し売女吉原へ下し置かるること三ヵ年の年限に定められけるとぞ」と出ず。京伝はこの歌を少し改めて右の戯作に出したのだ。   (大正十三年四月十五日『月刊日本及日本人』四六号)
 
(241)     お半長右衛門
 
 この二人水死した時、お半は十四、五、長右衛門は五十近かったについて、長右衛門若い時心中するとて女を見殺し自分は生き延びた、その女が転生してお半となり、今度はいよいよ両人とも死んだという。ややこれに類する話が支那にある。明の陸応陽の『広輿記』一三にいわく、烈女梁氏は臨川の人で王姓に嫁し、たった数月して元兵至り夫婦執えらる、一帥強いて梁氏を汚さんとす、梁氏請うて夫を放たしめ、夫すでに遠く去ったころ、賊を罵って屈せず害せらる。のち夫再び娶らんと謀れど久しく心に合うた女なし、ところがある夜の夢に妻現われ、われは某氏の家に生まれたからまた君の妻たるべしと言った、よってその家に人を遣わし捜らしむると、その娘の生まれたのと亡妻が死んだのと年月が合うておった、と。   (大正十三年五月一日『月刊日本及日本人』四七号)
 
     似せ涙
 
 コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』にいわく、仏国ヴァンドームの寺に、キリストがラザールの死を哭せし時落とした涙を、天使が拾うて小瓶に入れ、それを大鉢に分けてマドレーン女尊者に渡し、女尊者が仏国へ将来した、というやつを保存しあり、年々参拝料四千フランを下らず、この涙一滴が、八万フラン大金を五分の利息で預けたほど儲けるには驚いたが、実はマドレーン女尊者が仏国へ来たこともなく、その涙というは、硝子《ガラス》の小珠に外ならず、と。
 それほど多くは儲かるまいが、日本にも女の似せ涙で男を誑かした例は足利氏の時すでにありしと見え、『続狂言記』(242)に「墨塗り女」あり。訴訟思いのままに叶い帰国する領主が長々在京中愛した女を訪うて、追っ付け迎いを上《のぼ》そうと告別すると、妾は忘れらるるであろうとて泣き悲しむ。太郎冠者気を付けて見れば、水を眼に塗って涙と見せおるが悪《にく》さに、水入れと墨と取り替えたを知らず、顔に墨汁を塗って泣き顔が真黒となる狂言だ。一九の『膝栗毛』草津道中、新町駅の場にもこれを写しおる。
 類話が支那にもあって李卓吾の『続開巻一笑』巻六に見ゆ。安鴻漸、滑稽にして妻を懼る。妻の父歿して路に哭す。妻呼び入れて幕中に縛り、これを責めていわく、路に哭せるに何によって涙なきぞ。漸いわく、手拭いでふいてしまった。妻いわく、来日早く棺に臨むにすべからく涙を見すべし、と。漸大いに困り、寛巾に水でしめした紙を入れ、額の上を叩いて慟哭す。了つて妻また呼び入れ責めていわく、涙は眼より出ずる物なり、何故に額に流るるぞ、と。漸答えて、豈《あに》聞かずや、古えより水は高原より出ずというを、と言ったとある。それから後燕の昭文帝慕容煕はその后《きさき》符氏に大のろで、後、季夏に凍魚鱠、寒冬に生地黄を欲した時、役人をしてこれを探求せしめ、得ざる時は、大辟《たいへき》の刑を加えたほどだが、後崩ぜしを悲しんで気絶した。息を吹き返してのち百寮をして宮内で哭せしめ、有司に哭者を按ぜしめて涙なき者に罪を加えたから、群臣懼れて口に辛い物を含んで涙を催さぬ者なかつたと、『十六国春秋』の『後燕録』や『元経』巻七に見ゆ。似せ涙でなくて無理涙だ。   (大正十三年五月一日『月刊日本及日本人』四七号)
 
     物知りの太夫
 
 『醒睡笑』六に、「澤の国兵庫の浦へ珍しき大魚を引き上げたるに、その名を知りたる者なし。この浦に物知りの太夫というあり、かれに見せて問えば、これはホホラホという魚なり、世に知る者なし、と。すなわち公方へ参らせんと持たせ登りけり。物知りの太夫を呼びて、名を間わせ給えば、名をばククラクと申し上ぐる。以前聞きたる者あり(243)て、この先にいうたるとちがうたと咎むれば、されば無塩のときはホホラホ、今はさがりたればククラクというと申したり」。
 熊楠按ずるに、これに似た話、支那にも古くある。『琅邪代酔編』二四に、『華陽博議』を引いていわく、漢武帝、上林で一の好樹を見、その名を東方朔に尋ぬると、善哉と名づく、と言った。帝、人をして陰かにその樹を識さしめ数年後また問うと、朔が、瞿所と名づく、と答えた。帝いわく、朔欺くこと久し、前後違った名を言ったは何ぞや、と。朔いわく、大を馬、小を駒、長を鶏、少を雛、大を牛、小を犢、人生まれて児、長じて老という理窟で、この木もむかしは善哉、今は瞿所たり、長少死生万物の敗成、豈《あに》定めあらんや、と。帝すなわち大いに笑う、と。   (大正十三年五月一日『月刊日本及日本人』四七号)
 
     孕み女の句
 
 秦訳『摩訶般若波羅密多経』の聞持品四五に、舎利弗が「世尊よ、たとえば母人の懐妊するがごとし。身体重きに苦しみ、行歩に便ならず。坐するも起つも安らかならず、眠食|転《うた》た少なし。語言《かた》るを憙《この》まずして、もと習《した》しみしところを厭う。苦痛を受くるの故に、異《ほか》の母人にその先の相を見るあり。まさに産生《うま》るることの久しからざるを知るべし」と、孕婦の出産近づける状を説いて、菩薩が善根を積んで無上正  編正道を得るに近づけるに比しおる。『野史』二六一に見えた宗祇の「まか般若孕女の奇特かな」の句はこれに思い寄せた作か。   (大正十三年六月一日『月刊日本及日本人』四九号)
 
(244)     落語の佃祭
           三田村鳶魚「落語の佃祭」参照
           (『月刊日本及日本人』五四号一〇七頁)
 
 鳶魚先生が『老の長咄』から引かれた話に似たのが、元の陶宗儀の『輟耕録』一二巻、陰徳延寿の条に出ず。真州の一巨商を杭州の術者が指して中秋前後三日のうちに死ぬべしというたので、用心して舟を揚子江に留めおると、身投げをする女がある。引き留めて聞くと、その夫わずかに五十|緡《びん》の本銭で鵞と鴨を買い、江中を売りありき、儲け高を食料とし本銭は妾に預くる。しかるに、今その本銭を失うたから打ち殺さるるよりいっそみずから沈むつもりという。巨商わが命《いのち》厄に迫った上は金も用事がない、この女はわずかの金のために自殺とは気の毒と早速百緡の銭をやり、自宅へ帰り親戚友人と永訣して戸を閉じ死を俟ったところが一向死なぬ。よってまた杭州へゆく途中、風に遇って前頃《さきごろ》銭をやった処で上陸し散歩すると、かの女が嬰児を負って来て拝し告げたは、先度恩を蒙って数日ののちこの子を産んだ、母子二人再生の賜物は一生忘れられぬ、と。それから杭州に至ってかの術者を訪うと、術者驚いて中秋が過ぎたに死なぬは不思議といい、さて詳らかに形色を観て、陰徳を施したから厄を遁れたのだ、きつと一老陰と少陽の命を救うただろう、と言った。巨商その術を異とし若干銭を贈った、とある。   (大正十三年九月十五日『月刊日本及日本人』五六号)
 
     無形の幽霊
 
 藤原信実の『今物語』に、ある人の夢に、その正体もなきもの、影のようなるが見えけるを、あれは何人ぞと尋ね(245)ければ、紫式部なり、空言《そらごと》をのみ多くし集めて、人の心を惑わすゆえに、地獄に落ちて苦を受くることいと堪えがたし、源氏の物語の名をぐして、なもあみだ仏という歌を、巻ごとに人々に読ませて、わが苦しみを訪い給えといいければ、いかように読むべきにかと尋ねけるに、「桐壺に迷はむ闇もはるばかりなもあみだ仏と常にいはなむ」とぞいいける。
 これは影ばかりも現われたのだが、まるで無形の幽霊もある。阿闍世王その父を弑したのち、医王耆婆、王の罪必ず無間地獄に堕つべきを切言すると、空中に形なき者あって耆婆の諫めはもっともだという。王怖れて五体搨動すること芭蕉のごとく、仰いで問うて、汝これ誰なれば色像を現ぜずしてただ声あると言うと、われこれ汝が父頻婆娑羅たり、汝今耆婆の説くところに随うべし、邪見六臣の言に随うなかれと答えた由、『大般涅槃経』巻一九に見ゆ。按ずるに、幽霊がせっかく恐ろしく作り立てて出ても、盲人には全く声ばかりしか分からぬであろう。   (大正十三年十二月十五日『月刊日本及日本人』六三号)
 
     幸若という名
 
 鳶魚先生は幸若詞曲を読んで、「変態性慾の芸術であると思っていた。桃井にせよ、岩松にせよ、いかに名家の子孫であっても、叡山のちごになっていたことは、彼らを?童でないと考えさせることはできない」と言われた。古来、幸若丸と名乗った?童は一人に限らず。『後醍醐天皇元徳二年三月日吉並叡山行幸記』に、中堂で三番の童舞あった、その三番目は幸寿幸若丸、「いずれも幼《いとけな》くて容顔厳粧こそかたくななくなからめ、所作さえ面白《おかし》く仕りければ叡感|悉《かたじけ》なかりけり」と出で、その前嘉元三年の序ある『続門葉和歌集』には、妙法院幸若丸とて、「頼めしもいつはりぞとは知りながらせめてもけふの暮をまつかな」と、閨事疎にして幽情勃動せる若後家そっくりの歌をよんだのを出(246)す。されば娼妓や芸者と等しく寺院の?童にも大抵定用の名があったので、古くも新しくも、そこにもここにも、幸若丸という少年があり、そのうち桃井氏の幸若丸が舞の一流を仕出だしたので特に後代に名を馳せたのだ。『建武元年護国寺供養記』に、大童子岩松丸、中童子岩一丸とあり。(これより先、『正和二年後宇多院(高野山)御幸記』に、光寿院岩松童子あり。)幸若舞の始祖の幸若丸が岩松氏とはこんなことから言い出したのでなかろうか。それから幸若丸の外に幸乙丸、幸福丸(『続門葉集』)、幸松丸(『弘安八年大講堂供養記』)、幸寿丸(上出)、幸増丸、幸満丸、(『北山殿行幸記』)と、何故かチゴの名に幸の字を付けたのが多い。(上杉修理亮憲藤、暦応元年より関東執権、その年三月十五日信濃にて討死、子幸松丸十四歳、次幸若丸十二歳、兄は左馬助朝房と号し、信濃、越後を賜わり、弟は中務少輔と名づけ上総を賜わり、応永二年三月関東の執事に補せらる、犬懸の先祖なり(『鎌倉大草紙』)。)   (大正十五年一月一日『月刊日本及日本人』八九号)
 
     福地幸庵の奇想
            桜所「福地幸庵の奇想」参照
            (『月刊日本及日本人』九九号六七頁)
 
 明治二十九か三十年ごろ、予ロンドンにあって、ある日本人の骨董店に往き、たぶんそのころのであろう『東京日日』紙の反古で道具の空間をつめあるを取り上げ読むと、「何でも来い」という一欄あり。それに、日本読みにして和歌や俳諧そのままのがありますかという問に答えて、『春秋』から「夏五月鄭伯段に?《えん》に克つ」、『論語』から『閔子騫憂えていわく、人はみな兄弟あるにわれ独りなし」とあった。次に、問うた者大いに恐れ入ったが、とてものついでに、そのまま読んでどど一にして唄えるものあらば、教えて下さいと尋ねた。答えて、『中庸』から「大いなるかな優々として礼儀三百威儀三千」と引いて、「ふしを付けて唄うて御覧、どど一ソックリだわ」とあった。いずれ(247)も新案のように書きあったが、桜所君の寄書を見て、むかしからある話を『日々』紙に問答体に直したものと初めて気付いた。さて『中庸』の本文は、「優として大なるかな」だが、これでも立派にどど一に唄える。   (大正十五年六月一日『月刊日本及日本人』一〇〇号)
 
     俗謡の誤伝
         湯朝竹山人「俗謡の誤伝ならびに誤植のこと」参照
         (『月刊日本及日本人』一〇〇号八五頁)
 
 「九尺二間に過ぎたる物はべにの付いたる火吹竹」というどど一は現存平野某氏の作と承った。その時代については、八五頁に明治二十年ごろ、八六頁に明治二十年に入選されたとあるが、御本人が現存なら今少ししっかり別《わか》りそうなことと思わる。小生、明治十九年十二月十四日、杉山三郊、川田鷹、岡田猛熊、故小倉松夫諸氏とシチー・オヴ・ペキン号で渡米した。同船中に青森の人武田周七氏あり。明治十四年明治大帝御巡狩の節その宅に宿られたほどの大家で、津軽伯家から分かれたものらしい。周七氏自分の話に、慶応義塾にあったが勉学を一切棚へ上げて新橋のすずめという女に入れあげ、姉聟とかから旅費を貰いサンフランシスコへ落ち行くとあった。この人が船中でもサンフランシスコ流浪中にも、毎々このどど一を唄いおったから考えると、明治二十年よりは前にできた唄で、十八、九年またはその前の『団々珍聞』くらいへ出たものであろう。周七氏はのち帰国して甚左衛門と称し、件の大家の主人となったが、家道衰え浅虫という温泉場にすみ、昔の威勢はどこへやら白髪の老人となりあると八年ばかり前に聞いた。この人現存なら右のどど一を何で見出だしたか知れるはずだ。   (大正十五年七月一日『月刊日本及日本人』一〇二号)
 
(248)     河合継之助の都々逸
            天鐘道人「河合継之助の都々逸について」
            (『月刊日本及日本人』一〇四号七九頁)
 
 天鐘道人に申す。蜀山人の書いた物に、日蓮上人は西行法師の歌に「ほのぼのと明石の浦の」と人丸の詠を引きあるが、これぞ日蓮上人の大人物なところで、少しもその傷とならぬとほめあったと覚える。子細に論ぜんにはこの歌が果たして人麿の口から出たかが大疑問の由、故福本日南などから聞いた。まずはその格で、河合継之助が酔うてしばしば「九尺二間に、云々」の都々逸を唄おうが唄うまいが、道人に累を及ぼすこと兎の毛もない。小藩にあり余った人材と自認した人のずいぶん唄いそうな都々逸と惟わるるから、四月一日號「祖国遍路」を読んでなるほどこれは誰が作ったか知らぬが河合氏の愛吟しそうな唄と感じました。いわゆる百世の下懦夫を起たしむるもので、よいところへうまくこの唄を引き出された道人文章のうまさに敬服する。
 『嬉遊笑覧』に『東?子』ちう本を引いて、「芸が身を助くるほどの不仕合せという句は、綿花翁隆志といえる俳人の『独吟十百韻』の中の句なり。海内に行き満ちて高名なる句なり。隆志は信徳の門人信安が弟子にして、京醒井高辻の人なり。宝暦の初め物故す。好事の者、句の面白さに前句付の集に再び出せしより流布せり」とあり。この句は世間に知れ渡った句ながら、誰が作ったのか天保ごろすでに知らぬ者いと多かったればこそ、『笑覧』にわざわざかく弁じたので、さていよいよ弁ずる日には、作者の住処年代からその句が発表された句集の名まで挙げおる。これでこそこの句は綿花翁作という確証が立つので、その『独吟十百韻』をみたら、何という年号の何年に作ったものということもほぼ分かるでがなあろう。
 これに反し八月一日号一〇一頁の湯朝竹山人の「俗謡誤伝と南方熊楠氏」には一向右様の弁明がなく、(249)どうやら未見の青年の一書翰を楯に取られたようだが、子の親を信ずるはさることとして、それがことごとく確証となるものなら、楠正成の子孫も蚤《はや》く男爵くらいになってあるはず。また明治二十年ごとというのは、十八年も十七年も二十年ごろというに少しも障りはありますまいと言わるると、「田にしゃ月ならとんぼも鳥よお山かふのも商売か」で、いっそ河合氏の戦歿したのも明治二十年ごろと解したらよかろう。また「南方氏がこの月並都々逸の作られたる世上に発表されたる確かな年月日を知りたいとのお志あらば、何も遠方の作者でもない人を煩わされるに及ばず、いつでも御紹介の労をとりますから、作者の住所たる府下板橋へ歩を運ばれんことをお勧め致します」と言われたが、これはまた都々逸を専門らしく自称さるる方に似合わぬ野暮極まった御難題、「こいと言うたとて行かれうものか、道は百五十里汽車の上」とは、東西二京に汽車が通じた昔の唄で、拙生現住の熊野の田辺から西京まで上るは容易のことにあらず。ことに拙生は有名な片キンの上にピッコときており、加うるに昨年来家内に重患者あって、なかなかもって都々逸の穿鑿に上京はなりまへん。
 そして前年天鐘道人がただ一度この書斎に押し懸けられた三、四日のち、本山彦一氏が訪れた雑談のついでに、数日前天鐘道人が来たというと、青島の田中逸平という人かといわれた。田舎住居のかなしさ、なるほど道人は暗中模索しても知れるはずの人と初めて知ったが、重ねて田舎住居のかなしさ、湯朝竹山人とはどこの何という人の戒名か、この地で聞き合わせて一向分からぬばかりか、全体何と読んでよいかも知れず、そして道人へ送られたる書翰には酔竹山人とみずから名乗られたらしいが、本名を匿して種々異名のみ掲げるようでは、たとい上京して板橋へ案内を頼まんにも、交番所で御寓所を探し貰わんにも、さっぱり手掛りがない。心霊学者の説に幽霊でも電話で掛け合うことができるというから、この片キン男を東京へ呼ばずとも、ちょいと東京から板橋へ電話で聞き合わせたら、大抵何という会で何年ごろより早く、何年ごろより晩く披露したもので、何に記されおるくらいのことは分かるであろう。『書物往来』に出しあるから就いて見られたしなど言わるるが、そんな物はこの田舎で聞き及んだこともなければ手(250)に入るべき方便もない。馬鹿馬鹿しさにこの議論はこれつきり、「手ざしせぬのが主のとが」。(八月十七日)   (大正十五年九月十五日『月刊日本及日本人』一〇七号)
 
     四十歳を初老ということ
            三田村鳶魚「江戸以前」(下)参照
            (『月刊日本及日本人』九三号一〇七頁) 
 
 大正四年松浦伯爵家から出した『山鹿素行先生精神訓』四六八章に、鳶魚先生の四十歳を初老というは戦国来のことという説を翼くるに足る話あり。いわく、小田原陣の時、諸我入道を物見に家康公遣わされけるに、入道申すには、われらごときの老人をば御免□□(可有《あるべき》?)ことなるに迷惑なる儀なりとて、馬に打ち乗って物見を致し帰りて、あら草臥《くたびれ》たる、年寄つては事のなるべきにあらぬ、と申しける。この年入道四十の時なり、古えは四十をば初めの老といいて老人の内なり、されば四十有余の古入道と、古人もかけり、と。諸我は室賀を正とす。武田家亡後徳川氏に臣たりしものだ。   (大正十五年九月十五日『月刊日本及日本人』一〇七号)
 
     鉄の棒
            三田村鳶魚「鉄の棒」参照
            (『月刊日本及日本人』九七号八一頁)
 
 鳶魚先生は『四天王女大力手捕軍』から一例を挙げて、これは軍書戦記には見掛けたことのない女武者の鉄の棒であると述べられた。しかし実際女で鉄棒を使うて見事に働いた例も見えぬでない。飯田氏の『野史』一九八に、『明良洪範』を引いて平塚為広、関ヶ原に戦死したのち、為広の娘後家となって京都に独居したのを、板倉勝重が迎いに(251)やると、子供二人を立ち退かせ、化粧するあいだ俟ってくれと言って、父が使い馴れた四尺余の鉄棒を表衣の下いかくし出で、駕籠ににのると見えたが、たちまち鉄棒をにょっきり出して多勢を死傷せしめ馬を奪うて逃げ去った。のちその二児成人して藤堂家に仕え、母は往ってその家に暮らした、とある。こんなえらい女に子を二人までも産ませた男はこの女にも勝《まさ》った鉄棒の名人だが、名を逸したは残念だ。   (昭和二年一月十五日『月刊日本及日本人』一一六号)
 
     金打
            「金打」(無署名)参照
            (『月刊日本及日本人』二一七号五〇頁)
 
 件《くだん》の頁に引かれた『嬉遊笑覧』巻二の中に、「伊勢安斎、人の問に答えていわく、大小刀を打ち合わせて誓うをきんちょうという。古書に所見なし。信長、秀吉のころ以来武士の大小を帯する風俗なりしより、そのことあるか。古代このことなく、また漢土にもなきことなれば、然るべき文字もなし。両刀を打ち合わすることなれば金打とかくなり。その意、もし誓約に逢わば、かくのごとく大小刀を打ち折って二度大小を帯せざる身となるべしと誓うなり、といえり。この説臆度のひが言なり。これはもと仏に誓いてかね打つことなり。(下略)」と見ゆ。
 熊楠謂う、『看聞御記』永享十年十一月二十一日の条に、「そもそも小御所の侍与三重村、重科の間、今日追い出だし、永く召し仕うべからざるの由、父義村に仰せらる。罪科は、女官むめを犯せるの由、沙汰あり。しかれども、女官は実犯なきの由、打金了したれば、よってまずは追い出だすこと能わず」。この打金了は、仏に誓いてかねを打ったことでもあろうが、永享九年二月十日の条に、「東事(東御方という将軍の女中のこと)、御乳人なるをもって西雲に相尋ぬ。別事にあらず。会所に餝《かざ》れる唐絵の殊勝なる間、そのことに就き東御方に問《たず》ね申さる。御返事悪しく申され、たちまち御腹立ちにて、御腰の刀を抜いて金打し給う。向後、見参すべからずとて、追い立て申さる、云々」とあ(252)る。すでに明白に「御腰の刀を抜いて金打し給う」とある上は、足利義教みずから腰刀で金打したので、刀の金打は信長、秀吉より百余年早く行なわれおったのだ。(一月二十八日夜十一時)   (昭和六年二月十一日『月刊日本及日本人』二一九号)
 
     外国語を模造した邦語
 
 本誌二二〇号二八頁に出た平賀源内のマワストカートルより古い例が元和九年成った策伝の『醒睡笑』六に出ず。足利義政将軍に召し使わるる明陶子、淵用白、干陽朱という三人あり。芸能、形貌とも、特に勝れた体もなきに、異《かわ》った名を付けらるることと諸人訝かる。万阿弥なる者よき折を伺い、その所由を問いしに、義政笑うて、明陶子は万事才覚比類なき者ながら、妻に恐れにげ廻るから、メイタウシと名づけ、淵用白は取る手方角もなき者なれども、縁のすみずみ敷居のあたり、微塵もなきように、よく掃除をするゆえにエンヨウハク、干陽朱も十方手のあきたる無芸の者なれども、酒のかんを上手にするから、カンヨウスルと名づけたと仰せられし、世の常、故事のあるべきように推したりしは、大いにちがうたりとて、人みな笑いけり、とある。メイタウシは妻痛憂しの義か。諸君の教えをまつ。(三月十九日午後九時)   (昭和六年四月十五日『月刊日本及日本人』二二三号)
 
     八段目の呪文
          「八段目の呪文」(無署名)参照
          (『月刊日本及日本人』二一八号八六頁)
 
 この呪文は、紫色雁高、我開令入給と釈く方優りなんか。給はタマえの音読で、道家の呪に、※[口+急]急如律令という言(253)あるに擬して、レイとキュウも字音を入れたらしい。ガカイを我貝と見立てては重箱よみだから、我開とするが勝れり。開の字で朱門を表わすことについては、『柳亭記』上にその考あり。(二月五日)   (昭和六年五月一日『月刊日本及日本人』二二四号)
 
     少年
           松村巌「『随感録』を読む」参照
           (『月刊日本及日本人』二四一号三七頁)
 松村先生の、少年とは十四、五、六歳の男に限らず、広く二十歳前後の者をいうた名詞だとは、まことに左様と感服される。飲中八仙の詩に、その一人只今名を忘れたが、瀟灑《しようしや》たる美少年、と見た。その人も決して梅岩丸や小姓の吉三郎ほどの齢の者でなかったらしい。さて『夷堅志補』二四、竜陽王丞の条に、「俄かに東の偏門開き、一《ひとり》の少年、ほぼ四十ばかりの歳、首を囚《とら》えられて出ず。顔色|柴堂《あかぐろ》く、鬢髯は?抄《のぴ》て、みずからその背を袒《はだぬぎ》にす。四旁人なくして、杖《ぼう》の空より下り、少年、痛楚《いた》しと号呼《さけ》ぶ。季光、惻然としていわく、これはこれ大丈夫なり、まさに爾《しか》るべからず、云々」と見ゆ。王季光という人が、夢に未見の王運使の園に入り、運使の亡子が冥吏に罰せらるるところを見た記述だ。この夢をみてのち二ヵ月をへて、初めて王氏の園に入り、かの亡子の像をみると「けだし杖を受けたる少年なり」と、重ね重ね少年の二字を用いおるから、印刷の誤字でもなかろう。が、四十許歳で、鬢髯が両方へ開くほど生えた丈夫を、少年と呼んだは、何か理由のあったことか、南宋時代に通常のことか、松村先生並びに諸君子の教えを請う。(一月二十二日)   (昭和七年三月一日『月刊日本及日本人』二四四号)
 
(254)     負傷の灸治
            「負傷の灸治」(無署名)参照
            (『月刊日本及日本人』二四六号九七頁)
 
 『陰徳太平記』に出た天文十年より三百六十一年前、はや負傷を灸治した記事がある。『源平盛衰記』一五、治承四年五月、頼政、平家と宇治川で戦うた時、橋上で勇戦した筒井明春、「心は猛く思えども、手負いければ引き退いて、平等院の門外、芝の上にて、物具ぬぎおき、甲冑にたつところの矢六十三、大事の手は五箇所なり。関所に立ち寄りてかしこここ灸治し」、奈良の方へぞ落ち行きける、とみゆ。『平家物語』四には、鎧に立ったる矢目を数えたれば六十三、裏かく矢五所、されども痛手ならねば、処々に灸治し、と記し、「長門本」には、折りかけたる矢を数えてみれば、六十二筋、大事の手は五所、薄手は数を知らず、に作る。しかして灸治のことみえず。ワシントン・アーヴィングの『コロムブス同僚の航海発見記』に、アロンゾ・デ・オヘダがインジアンの毒矢でその腿を射貫かれた時、外科医に命じて鉄板二枚を赤く焼いて庇口ごとに推しあてしめて平癒した、と記す。類推するに、本邦でも古来の経験で、矢創を灸治してバクテリアの蕃殖を予防し、平癒を図ったものか。(四月三日午前四時)   (昭和七年四月十五日『月刊日本及日本人』二四七号)
 
     其角の筆蹟
 
 「燕もお寺のつつみかへりうて」の其角の短冊(色紙にてあったか、たしかに覚えず)、自画讃にてその上に件の句かきたるを、明治三十四年十二月那智の観音堂前の茶亭主中川良祝という当時五十四、五歳の人がもちおるを見候。東久(255)世通禧伯も一覧はなはだほめられたりと話しおりたり。しかるに翌年その茶亭(夜は戸をさして主人は私宅へ帰る)へ夜盗入り、その短冊外いろいろと盗まれたと報ぜられたことあり。その後小生那智へゆきしときは、良祝氏すでに物故されしゆえ、どう片が付いたか分からず候。(昭和八年二月十四日早朝)   (昭和八年三月一日『月刊日本及日本人』二六八号)
 
     いいきび
          「いいきび」(無署名)参照
          (『月刊日本及日本人』二七二号八八頁)
 
 麹町市人の妻の歌は、予に取っては初耳だが、脱字があって十分に判らぬ。しかし文意は十二分にお察し申す。これと至って似た歌が『一語一言』三三に出ず。文化五年ごろ、有栖川宮(熾仁親王か)が加茂季鷹に煙管筒に添えて和歌を賜わった時、季鷹いと面白く御返辞を書いて差し上げた。その末に、「かく心よき物をしも、やるやるとて給わする君は、千歳万代もしゃっきりと太く逞しく、さねかずらの長く栄えおわしまさんことをねぎつつ思いつづけ侍る歌、『それ幾世、あらまた幾世、気味がよや、よい君が代は幾世いくとせ』いそぢに余る紀の若人畏みて答えまつる」とは、よい加減に笑わせる。(四月四日午後五時)   (昭和八年五月十五日『月刊日本及日本人』二七三号)
 
     風呂吹き
 
 山東庵の『骨董集』上編上巻一七章に、『甲陽軍鑑』、『自笑内証鑑』等を引いて、「宝永のころまで風呂を吹くということありしなるべし。伊勢人の物語をきくに、風呂を吹くというは、空風呂にあることなり。これを伊勢小風呂という。垢を掻く者、風呂に入る者の身上に、息を吹き掛けて垢をかくなり。然《しか》すれば、息を吹き掛けたる所に潤い出(256)でて垢よく落つるなり。口にて拍子をとり、息を吹きかけつつ垢をかくに上手下手ありて興あることなり。その故に垢をかく者を称えて風呂吹きという。今も伊勢にはこのことありと語りぬ。この物語、『甲陽軍鑑』に伊勢風呂とあるによく合えり、云々」と説きある。京伝は引かねど、『醒睡笑』八に、秀吉公風呂に入った時、蜂崖頼隆が、御垢に参らんとて、吹かれけるよう、知行呉れい、知行呉れい、知行呉れい、知行呉れいと拍子にかかり興を尽されし、さて秀吉、頼隆を捉え、辞退せらるるを、無理に吹かせたまうよう、奉公せい、奉公せい、奉公せい、奉公せいと、作為の速さ、短舌に述べがたし、と出ず。唐の義浄訳『根本説一切有部毘奈耶雑事』に、「六衆の比丘、倶共《ともども》に池に入り、すなわち浮甎(軽石様の垢すり)を取って、用《も》って身体を揩《こす》る。この六?芻《びつしゆ》は、みな多く奇巧あり、所有《あらゆ》る技芸を善《よ》く知らざるはなし。たとえば、洗浴の時、甎をもって体を揩れば、すなわち種々の五楽の音声を出だすこと、かの伎人の吹弾撃椎するがごとし」。衆人これを音楽合奏と心得、争うて聴きにきたとあるを見れば、古インドには、風呂吹きの名人あって、垢すりと口笛で、よほど巧みに囃しながら垢を掻いたと知る。(五月十九日)   (昭和八年六月一日『月刊日本及日本人』二七四号)
 
     目あかし
 
 『言海』に、「めあかし(目証の義)、盗を補うるに耳目《おかひき》とする賤しき者(多く盗を赦して役す)、警跡」と釈きある。今按ずるに、南宋の洪邁が慶元二年(本邦建久七年、藤原景清が死んだ年)書いた『夷堅支志』庚二に、術土方大年の卜《うらな》いきわめてよく中《あた》ったことを叙べた中に、西郷の張氏という富人凶盗に遭いしに、捕え得ず、府県もって尉盛生を責む。盛生譴を懼れながら、力を施すところなし、弓級  篇通、方大年の卜いを信じ、引帖を給わりてもって行かんと願い、すなわち一客よく姦悪を物色する、俗に盟と謂う者を挾んで、ともに西して江州に到った、とある。乾道中のこ(257)ととあるから、二条天皇の永万元年より高倉天皇の承安三年の間だ。あお調査を進めたら、これより古く見当たるかもしれぬが、とにかく、目あかしなる邦語が、南宋の眼を和訳したでなくとも、和漢とも、同一の職役について、同様の名詞を思い付いた証拠に立つ。(六月十二日午後二時)   (昭和八年七月十五日『月刊日本及日本人』二七七号)
 
     花見小袖
 
 天和三年戸田恭光が書いた『紫の一本』下巻にいわく、「(東叡山の桜花)東照宮の御宮の脇後、松山の内、清水の後、幕はしらかしてみる人多し。幕の多き時は三百余あり、少なき時は二百余あり。このほか連れ立ちたる女房の上着の小袖、男の羽織を、弁当からげたる細引に通して、桜の木に結び付けて、仮の幕にして、毛氈花筵敷きて酒飲むなり。鳴り物は御法度にてならさず。小唄、浄瑠璃、躍り仕舞は咎むることなし。本町、通町を始め、有徳なるも、さもなきも、町方にては女房娘、正月小袖というは仕立てず、花見小袖とて成る程結構に手をこめ、伊達なる物、数奇に好みたるを着て出ずるなり。花よりなお見事なり。花のころは空くもりて、大方昼過ぎより雨ふる。しかれども笠をもささず、よき小袖すきとぬらし帰るを、遊山にもまた手柄にもするなり」と。さてその景を詠んだ陶々斎という人の詩に、「東叡山頭、紅白の桜、遊人酔賞し去りまた行く。霞幃雲幕、花を囲むの地、飽くまで春風を領す、歌舞の声」とあるを載す。『好色一代女』一の二の挿図などより推するに、そのころ上方にも、小袖等を細引に通して、花見幕の一部としたとみえる。支那にも旧くこんな風があった。五代の王仁裕の『開元天宝遺事』にいわく、「長安の士女、春の野に遊び、歩んで名花に遇えば、すなわち席を設けて草に藉《し》く。紅裾をもって逓相《たがい》に挿掛《さしはさ》み、もって宴幄となす。その奢逸かくのごとし」と。(六月八日午後十一時)   (昭和八年七月十五日『月刊日本及日本人』二七七号)
 
(258)     ヘキという名詞の出処
 
 元禄二年板『真実伊勢物語』二の二は、武蔵のヘキ宿と題し、「さてこのあたりに色名所はありやなしや。ついでながら武蔵の国に聞き及びし、関宿という所をみたし」と業平が望むと、船頭深川八幡の島へ船をつけ、怪しき柿暖簾の家に導き、武蔵のヘキ宿はこれにて候と申したという笑話を載す。鳶魚先生の『未刊随筆百種』七所収、元禄ごろの書という『傾城百人一首』には、「すみ町のヘキによる名のよからずや、恋の通ひぢ人目うくらん」という歌あり。宝暦ごろの板本『女大楽宝開』には全巻を通じ丹鼎をヘキと称えおる。西鶴や自笑・其磧の著作にこの語さらにみえず。やや下等な詞だったゆえか。さて丹波康頼が平安朝のむかし撰んだ『房内記』乾巻至理篇に、『素女経』から、玄女黄帝に答えていわく、「天地の間、動ずるは陰陽に須《ま》つ。陽は陰を得て化し、陰は陽を得て通ず。一陰一陽、相|須《ま》って行く。故に、男は感じて堅強となり、女は動じて闢張す」と引きある。闢は開なりと『説文』にある。『和名抄』が成ったころ、本邦すでに「開の字をもって女陰となす」。よって中古の医士など、闢の字をもこれに当て用い、俗間これに倣うて彼処をヘキと呼んだものか。開字を朱門に当て用いた次第は、『柳亭記』上に詳し。(六月二十二日)   (昭和八年七月十五日『月刊日本及日本人』二七七号)
 
     大風桶屋
           阿於美「大風桶屋」参照
           (『月刊日本及日本人』三七四号一〇九頁)
 
 阿於美君の疑問は、鳶魚先生の『未完随筆百種』第八所収、長谷川元寛の『かくやいかにの記』七四段を見て、過(259)半解かれよう。いわく「『膝栗毛』、……六部が話に、大風吹きしにより商売を思い寄りしという。この本据は『初音草話大鑑』(元禄十一年印本)四巻十八丁表に見えたり。……分別の仕置。指物屋の太郎次郎右衛門とて、諸事に持って廻りたる分別する者あり。ある時大風吹きければ、やいやい女房ども、大風が吹くほどに、細工がはやりて金を儲くるであろうと悦ぶ、云々。これより末は『膝栗毛』の詞と同じければ記さず。このこと白川侯のことを記し『夜譚随筆』という冊子に(も)載せたり、云々」と。(七月十二日朝四時)   (昭和十四年九月一日『月刊日本及日本人』三七六号)
 
(260)     日月中の想像動物
 
 七月一日號一九頁上欄一六行に見えたる通り、太陽に烏ありとは、日中の黒点をこれに似たりとせるに由ること無論なるべきが、その上に、烏が定まりて暁を告ぐる習性、また大いにこの想像を強めたるなるべし。八年前出板、バッジの『埃及《エジプト》諸神譜』に、「古エジプトの『幽冥経《ブツク・オヴ・ゼ・デツド》』に、六、七の狗頭猴《シノセフアルス》、旭に対し手を挙げ呼ぶところを画けり。これ暁の精にて、日、地平より上り畢《おわ》れば、化して狗猴となる、と付載せり。けだしアフリカの林中に、この猴、日出前ごとに喧呼するを、暁の精が旭日を歓迎頌讃すと心得たるに由る」とあると多少類似せり。
 本邦の俗、月中に兎と杵臼とあるよう画けるもの多し。支那のむかしは、杵臼の代りに蟾蜍ありて、兎と並存すとせしにや。『淵鑑類函』三に、『易乾鑿度』にいわく、「月、三日にして魄を成し、八日にして光を成す。蟾蜍《せんじよ》体|就《な》つて、穴鼻《けつび》始めて明らかなり。(穴は決《けつ》なり、決鼻は兎なり)」、『春秋孔演図』にいわく、「月の言たる闕《けつ》なり。両《ふた》つ設くるに蟾蜍と兎とをもつてするは、陰陽の双《なら》び居《す》みて、陽の陰を制し、陰の陽に倚《よ》るを明らかにするなり」。巻四三一に引ける古歌詩に、「神薬を山端《やまのは》に採取し、白兎は蝦蟇丸を擣《つ》き、陛下に一の玉杵を奉上す」。韓愈の「毛穎伝」、兎のことを述べて、「殷の時に当たり、中山に居《す》んで神仙の術を得、よく光を匿して物を使い、?娥《こうが》を窃《ぬす》み、蟾蜍に騎《の》って月に入る」。ベーリング・グールドの説に、今日もスウェーデンの農民、月神マーニが、童男女各一を拐し去って、月中にゥ《お》けるが、今もその時のまま、二人の肩に水桶を担い立てりと認むると言えるに等しく、支部人も、月中(261)の二大黒斑を、兎と蟾蜍の二物と見たるなり。惟うにこの二者いずれも、いわゆる薄光生活《クレパスキユラル・ライフ》を営む。
 蟾蜍が黄昏に跋扈するは『風俗文選』にも著われ、兎の尾裏必ず白きは、薄闇き所を走り廻る時、これを標識として、兎児が親兎に随うべきためと、ワリス氏は弁ぜるほどなれば、もっとも月出に緑深き物として、多少月中の黒斑に似たるより、これに付会されしならん。真偽は知らねど、今も欧州に、兎には、婦女と同じく、月の盈欠に従って月水ありとて、これを食わぬ人あり。予の現住地、紀伊西牟婁郡諸村の俗伝に、兎子を筐中に囚えて置くに、月出ればたちまち去る、これ月がこれを脱し遣るなりという。『?雅広要』に、蝌蚪が蝦蟇となるを記して、「月大なればすなわち前の両足を生じ、月中なればすなわち後の両足を生ず」と言えるは、同じ両棲動物ながら、幼仔(蝌蚪)が足を生ずるに、「いもり」「さんしょううお」は前二足、蟾蜍と蛙は後二足まず生ずるを、観察の不十分なるより出でたる謬説なるも、また、いかに古支那人が、月と蝦蟇とを縁深しと確信せるかを明らむるに便あり。
 インドには、『阿育王譬喩経』に、仏、恒水辺で説法し、天竜、鬼神以下、人畜ことごとく来たり聴くうち、放牛翁、杖を?《つ》いて聴くに、蝦蟇、聴法に夢中になって、背に杖を負えるを知らず、そのまま死して天に生まれし話あれども、月中に生まれし由を載せず。兎が自身を焼いて帝釈に食わせし酬いに、月中に安置されしという話、玄奘の『西域記』に出ず。しかれども『生経』には、兎王、常に果?《かこ》もて供養せし仙人が冬寒至って去らんとするを留めんとて、身を焼いてこれに食わしめ、兜率天に生まれし、とあり。『雑宝蔵経』には、大旱に仙人食乏しきを慈しみ、兎、自身を焼いて供養せるを感じ、帝釈雨を降らして仙人を救いたり、とあるのみ。倶《とも》にその兎の釈尊の前身たりしを言えるも、兎が死後月中に生まれしことを言わず。したがって予は仏出世前に、かかる信念広く梵土に行なわれおりたるや否を知らず。仏教興ると共に、この種の伝説大いに弘まりしはその徴多し。例せば、コックスの『民俗学入門』にいわく、セイロン人の話に、仏苦行して林中に迷えるを、兎見て嚮導せんと言いしに、仏飢うることはなはだしと答うるを聞き、みずから焼身して供養せんと火中に授ぜしを、仏神道もて?より取り出だし、月中に安置せりと(262)伝う、と。西暦五世紀の末ごろ成りし『パンチャタントラ』に、兎、月が水に映じ動くを、月|瞋《いか》れりと称し、象群を脅かし却くる譚あり。蒙古に狼が羊と兎を厄せんとするを憐れみ、月現われて、かの兎は狼千疋の皮を取らんため、帝釈が派遣せる使者なりとて、狼を威嚇し去らしむる誕あり。
 さて、月中に兎ありという説、アジア外にもドイツ、ホッテントットまたメキシコ人間にも行なわれたる由、ラングは言えり。メキシコ人の伝うるところは、太陰もと男子たりし時、神あり、その面に兎を擲ち、永代その貌を損ぜり、と。タイラーの『原始人文篇』第九章にいわく、南アフリカ・ホッテントット中最純粋なるナマカ族伝うらく、むかし月、兎をして人に、「汝輩月のごとく、生死交代して永滅せざれ」と令せしめけるに、兎命を矯《いつわ》って、「汝輩、兎のごとく、一たび死すれば再び生くるを得ざれ」と告げ、還って月に報ぜし時、月怒って釿もて兎を欠唇にす。兎驚き遣れ走ること今に止まず。あるいは言う、その時、兎、月の面を爬《か》き、現在する痕斑を残す、これよりナマカ人兎肉を食わず、と。ここに奇態なるは、南アフリカを距たることはなはだしきフィジー島に、すこぶるこれに似たる伝説あるなり。いわく太陰、人もおのれ同様、暫時没して復活すべしと望みしを、鼠聴き容れず、おのれ同様一たび死せば永滅せしめんとて、ついに言い勝てり、と。かく酷似せる二話が、古くよりかかる遠隔の両地に存せるは、決して近世の伝達に依らざるを証す、云々。ついでに述ぶ、バッジの説に、古エジプトの日神ウンは、鬼頭人身なり、太陽晨に天に騰るを、兎の蹶起するに比べたるなり、と。『義経記』『尤の草紙』の文句じゃないが、言わば言わるる物かなで、月と兎を定《きま》り物のように思う人々に、かようの例外も世にはあることと驚かし置く。   (明治四十五年八月一日『日本及日本人』五八七号)
 
(263)     石蒜の話
 
 寺島良安の『和漢三才図会』に、石蒜《せきさん》、俗に死人花《しぴとばな》といい、また彼岸花といい、東国で受珠沙華と呼ぶ、とある。今日は東国に限らず紀州海草郡でも「まっさき」と呼び、葉もなき長茎の真っ先に花が開くゆえの名と心得た人も多いが、実は「まんじゅさけ」から転訛したので、『大明三蔵法数』一九に、法華文句の四華を挙ぐ。(一)曼陀羅華(適意また白華)、(二)摩訶曼陀羅華(大適意また大白華)。いずれも今、日本で曼陀羅華に充てる朝鮮朝顔でなく、英語でコラル・トリー(珊瑚樹)、ベンガル語でマンダールと名づけ、沖繩の梯姑《でいご》と同属なる豆科の木の花だ。(三)曼珠沙華(柔なるを言い、また赤華なるを言う)、(四)摩訶曼珠沙華(大柔軟また大赤華)。曼珠沙、また曼珠顔、梵語マンジューチヤカ、これは仏の浄土に生える木で、水陸に産する一切の諸花を具え開き、宝玉に飾られ、無熱池の水に澆がれ、諸辟支仏この木の下に坐禅すという(グベルナチス『植物譚原』二巻二一八頁)。アイテルの『梵漢字彙』にマンジューチヤカはベンガルでマンジツという染料を採る茜草(あかね)の一種とあるが、これはタミル名マンジツタまたマンジスタチゲ、梵名ムンジストハといい、ストレジュ語でムンズルという名が似ておるからの牽強だろう。
 本邦むかし仏教盛んだった時、やたらに内典にある名を事物に押し付けたは、かの教で最も罪業深しとする遊女に勿体なくも薬師、観音、文珠、千手、仏、袈裟、微妙などと、如来、菩薩やその威儀に関する名を付けたで知るべく、したがって自然粳《じねんこ》(雀麦《ちやひき》)、優曇華《うどんげ》(芭蕉の花またくさかげろう虫の卵殻)、裟羅樹《しやらのき》(なつつばき)、菴羅果《あんらか》(かりん)とよい加減な推量もて日本にない物の名を仏書より択んで日本の物に付けた。石蒜を曼珠沙華と称えたのも同例だ。これを(264)彼岸花と名づけたは秋の彼岸ごろに咲くゆえで、吾輩幼時この花の茎を数珠様に折り維《つな》いで秋分に路傍の石地蔵の頸に懸け、願以此功徳《がんいしくどく》、坐上客|恒《つね》に満ち車中酒空しからざらしめよと祈ったがよほどきいたと見えて、四十余年酒に不自由はなかりけるが、雑多の人に飲み倒されて貧乏を仕通す。憾むらくは当時嚢中また金乏しからざらしめよと念ぜざりしことを。田辺の多屋梅窓という故人、かつて予に語りしは、『万葉集』に見えた橘は今の蜜柑でも柑子でもない、かの集に橘を糸で維いで身を飾ったことが見える、これは今も「たちばな」と称えて正月の飾りに使い、また酢を取るもので、その果が他の柑橘に比してすこぶる小さい、それを身の飾りに用いたであろう、と言われたが、至って古く渡来したせいか、海草郡に野生品少なからぬと聞く。
 近く柳田国男君の著述また毎々の来示を読むと、地蔵菩薩はインドで起こったものの、仏教本邦に入りてよりその信仰在来の道祖神の信仰と和融して、現時路傍田界の地蔵像崇拝となったというは、全く争われぬ根拠堅固なりと惟わる。されば石蒜を上古邦民が何と呼んだか知らぬが、『万葉』の橘の例を推すと、紀州で秋分に石蒜花を地蔵の頸に掛ける習慣は、仏教渡来前、道祖神像をこの花で飾って秋穫を祈る風が田舎にあった残分でなかろうか。わが邦の道祖神はもと陰相をもってこれを標識したこと欧亜諸旧邦の諸神に同じく、この諸神の祭祀にみな花をもって陰相を飾ったから推すと、わが邦の道祖神もまた花もてその陰相を飾ったところへ、仏経にも花をもって地蔵尊に供養することがあるので、以前道祖神に供えた花で地蔵を飾ることとなったのだろう(一八七五年ニューヨーク板、ウェストロツプおよびウェイク『古代陰相崇拝論』。一九〇八年ライプチヒ板、オット・ストル『性慾の民群心理学』二二回講義。唐朝実叉難陀訳『地蔵菩薩本願経』下参取)。花をもって大天の陰相を飾ること、今日もインドのシヴァ宗の祭日に盛んに行なわれ、古く仏在世に、「毘舎離に一の阿羅漢比丘あり、風病を得て挙体強直す。看病人、挙げて露地に著《お》き、聚落に入って乞食《こつじき》をなす。女人の釆たるあり、上において婬を行なう。婬を行ない已《おわ》るも、比丘の男根、強直して故《もと》のごとし。もろもろの女人いわく、これはこれ雄士なり、と。すなわち香をもって塗り、華鬘《けまん》を頭に結び、礼を作《な》して去る、云々」(『弥沙(265)塞五分律』二八)。これ仏在世すでに陰相像に香を塗り、華を結んで大天を祀る風あり、それに擬してかかる作法を比丘に加えたのだ。
 さて、秋分に石蒜咲くゆえ彼岸花と呼ぶに似たことは、欧州で「くさのおう」と大燕草、毛莨《きんぽうげ》の一種を小燕草と呼び、いずれも春分に燕が来ると同時に咲き出すという。このことは、近日といっても予のことゆえ、いつと確かに言えぬが、そのうち「甲寅叢書」の一冊として訳出すべき自著「燕石考」に詳しく述べおるからいよいよ出たら覧《み》て下さい。次に石蒜を「てんがいばな」ともいうは天蓋に似た花と茎の形容に由り、奥熊野等で「したまがり」というは毒草ゆえ、これを嘗めると舌が曲がるゆえと聞く。口熊野等で「どくほうじ」というも同じくその毒物たるを指し、小児は耳にその汁を入るると腫るるとて「みみくさ」という。また田辺で純《もつぱ》らこれを「かうらばな」と呼ぶ。「かうら」は河童の方言だ。妖物たる河童がこの毒草を愛するちうような古伝があったのか知らぬ。ただし、他の諸国と等しく紀州の北部諸郡でもつともあまねく知らるるこの草の名は死人花だが、古くより蜜柑をこの草の葉で包むと腐りがたく、ことにその皮色香味を好《よ》くするというてあまねく蜜柑の荷造りに用うる。よって秋日葉なしに花ばかり咲く時これを死人花と称え、年始や冬中葉で蜜柑を裹《つつ》む節は「みかんぐさ」と呼ぶ。すなわち年始の進物に欠くべからざる蜜柑に必ず伴う物で、種々面黒い珍談の付いた草ゆえ、新年号の拙文の外題に選み立てたんじゃ。
 全体この万事不定で騒動だらけの娑婆世界に飛び込みながら、元日から死人花の話を出すは不吉だなど言う者あればまことに野暮飛切りだ。『仮名世説』にも、「『根無し草』にいわく、門松は冥土の旅の一里塚とも気は付かで、無上に新春の御慶と寿き、懸け鯛も魚の死骸と悟らねば、めったに目出度き物と覚え、熨斗鮑を反せばしの〔二字傍点〕と読まれ、四の字を嫌えば、五の字もごねる〔三字傍点〕といえば油断ならず。恋川春町の歌に、『竜宮で忌むべき魚の亡骸《なきがら》を取りかはす世ぞ目出度かりける』」とあるでないか。年始でも敵が来れば流血杵を漂わすまで遣っつけにゃならず。学理を究むる者は、元旦から万障を排して決死で懸かるべしだ。かつて在英の日、わが邦の門松等の年始の飾りはもと墳塚を拝す(266)るから出たという論を書いたが、近刊のフレーザーの『金椏篇』などにもおいおい似たような説が見える。わが邦の地方官など盲ら滅相な奴多く、かかる名論を出すとたちまち謀叛人のごとく悪んで妻子にまで乱暴を加えるので、今日まで日本で出し得なんだは残念でも何でもなく、欧米の学者にはちゃんと知れ渡りおるから、結局日本の恥辱で、熊公の面目光彩ありだ。
 前和歌山県知事川村竹治など、代議士中村啓次郎その他に向かい、熊楠の熱誠を重んじ、この上神社濫減を停むると盟いながら、私《ひそ》かに日高郡長をして、熊楠の祖先四百年来奉祀し来たった中古の官知社で近世は浅野・徳川二氏より奉幣されたものを劣等の神社へ合祀強行したが、かの郡長熊楠を憚り神林だけは保存させあるので、神体は奪い去られる、樹木は伐り得ず、無用の地面を遊ばせおる理屈だ。全く予が年来合祀詩s反対を唱うるを犬糞で仇討ち、代議士や県市会議員に渝誓偽証してまでも私憤を官権濫用で伐ち、例によってその結果は良好なりと政府へ報告など、外国へ対しても手近い十戒の随一たるパージュリーを犯して平然たる者が、一県の知事たあ、はなはだしい国辱だ。唯今は四国辺で知事を営業しおるそうなが、仏教から見てもキリスト教から見ても、かような沮誓《そせい》者は白癩になること歴然たり。九年前大博士シャラー、『青年日本』を著わし、忠君、勇武、敏捷、精通、克己が日本人の美質たるは誰しも疑い能わぬところだが、ここに日本人の心肝に根を据えて除くべからざる癌腫が二種ある、不正直と不浄心これなり。その一あるをもっていかなる盛邦をも覆すに足るに、二つまで揃うておっては、云々、と述べた。日本の知事に川村ごとき標本があるので、このシャラーの評を反駁もできぬ。このことは大隈首相が舎弟などに毎度予のことを話し出さるる答礼に上京して、親しく話すつもりだから予告し置くと言うと、川村はビクビク物だろう。この外にも政府をも人民をも紿《あざむ》き通した不埒事多いが、春日長くなるを俟って南方先生独特の珍文で書き立てるから刮目して読むがよい。
 さて、上述予が往年門松はもと死人を祀るに創ったと思い中《あた》ったは、後インド等に歳首に先霊を迎うる風があるを(267)知ったからで、例せば一六六五年ローマ板、フィリポ・デ・マリニの『東京《トンキン》および日本史譚』巻一や、一八六四年オーバレーの仏訳『嘉定通志』に、東京や交趾支那で除夜に門前に竹を植え、猫と釈尊を扉に画きなどして悪鬼を拒《ふせ》ぎ、元旦四時に燈火、線香および茶を供えて祖先の霊を迎え、三日間家内を掃除せず、朝夕二食を奉って、「生けるがごとく魂祭」をやらかし、三日の夜冥界へ送り出すに紙銭、紙器を贈り、焚火、爆竹等大騒ぎす。この時官人の祖霊、平民の祖霊と混雑紛れにせっかく子孫より受けた贈物を取り違えて持ち往くを憚り、官人は三日の夜魂を送るに、平民は五日また七日の夜まで延ばし、ために毎日同一の膳を供えて新陳を交替せず、祖霊|流行《はや》らぬ料理屋で残食ばかり供えらるるごとく、すこぶる迷惑す、とある。
 本邦でもむかしは年始三日家を掃除せず(『嬉遊笑覧』八)、『世事談』に、「聖霊を祭ること、むかしは十二月晦日にも祭れり。『徒然草』に、こと年の名残も心細けれ、亡き人の来る夜とて魂祭る業はこのころ都にはなきを、吾嬬《あずま》の方にはなおすることにてありしこそ、云々」と言えり。支那でも十二月に「臘は先祖を祭り、?は百神に報ゆ、日を同じくして祭を異にするなり」、また「臘は、猟にて取れる獣によって先祖を祭るなり」(『淵鑑類函』二〇)。フレザーやタイラーの諸著を見ると、歳末や歳首に祖先を祭る民が多い。また紀州等で小児の誓言に、「親の頭に松三本」と言うた。この約束を背かば親がたちまち死して埋められた塚の上に松三本生えるという意と毎度聞いたから(『一話一言』や『南畝莠言』も同説)、むかしは墓に松を植える風俗が本邦にあったと惟う。外にいろいろ調べた材料多いが、まずこんなことどもから推して、むかしは本邦でも年始に祖先の霊を祭った所があったことと察した。
 『元亨釈書』一七に、「沙弥の西音《さいおん》なる者は、元暦帝の西面なり、云々。帝、隠州に狩し、音これより薙髪し、もっぱら浄業を修す。除日《みそか》に人を倩《やと》うて一緘の書を与えていわく、来朝の元旦、子《なんじ》はこの札をフ《ささ》げて来たれ、われ従《よ》って来たるところを問わば、子|報《こた》えていえ、極楽世界の弥陀仏、観自在菩薩に宣して汝を召す、こは省箚なり、と。すなわち使者を延《ひ》いて膳財を与う。毎歳かくのごとくす。常に人に謂いていわく、世に元日は忌諱多く、その語必ず中《あた》る(268)と言う、われは毎年、元朝に弥陀の詔旨を承くるに、今にいまだ死せざるは何ぞや、と。晩歳、吉祥にして逝く」。元旦ごとに極楽から命取りに来る使を仕立てたので却々《なかなか》開けた人だ。これより一層豪かったは、支那陳朝、摂山に住んだ釈慧布で、常にいわく、「如今《いま》、願うところは衆生を化度することなり。如何《いかん》ぞ蓮花の中にあって、千劫に楽しみを受けんや、いまだ三途、苦しみに処《お》って救済するに若《し》かざるなり」。極楽で楽しむよりもこの世で苦しみながら弘《ひろ》く衆生を救いやりたいと言うた。熊楠も永々在外中も帰朝後もずいぶん報国のつもりで做《し》たこともあるが、よそ目には縁の下の力持ち、友人に尽したことおびただしいが、「礼に来る鳥は見知らず放生会」だ。なお懲りずに処苦救済を力むるには命が惜しい。ところへ新年の初筆に死人花のことを書くは、蓼太だったか、歳旦に、「何の式かの式もなし」なんとかと吟じてその年内に死んだという話に鑑みて、実は気味悪からざるにあらず。しかし、死人花はその葉で正月祝いに欠くべからざる蜜柑を保全する功あるのみならず、他の種々の役にも立ち、ことに自国でこそ忌まるれ、海外では本邦の美名を掲げて顕著なる一草だという訳をこれから述べよう。
 
 『和漢三才図会』に『本草綱目』を引いて、「石蒜は、下湿の地にこれあり、春の初めに葉を生ず。蒜の秧《わかば》および山|慈姑《くわい》の葉のごとく、背に剣脊《しのぎ》あり、四散して地に布《し》く。七月に苗枯れ、すなわち平地において一茎を抽出す。箭?《やがら》のごとく、長さ尺ばかりにして、茎の端に花を開くこと四、五朶なり。六|出《べん》紅色にして、山丹花《ひめゆり》の状のごとくにして弁長く、黄なる蕊、良き鬚あり。その根の状は蒜のごとく、皮の色紫赤にして肉白し。この花開いて後にすなわち葉を生ず。葉と花の相見ざること山慈姑に同じ」。石蒜とは石に生えるの義でなく、石は食えぬ物ゆえ、この草の根、蒜に似ながら食うべからざるを石に比べたらしい。蒜は、ブレットシュナイデル説に、西洋「にんにく」(英語でガーリック)、山慈姑は従来本邦の「あまな」に充てるが、『草本花詩譜』に、一名金燈花、花紅く、白きを銀燈花とあって、『本草綱目』には、黄花もあり、葉二月中枯れ、その後茎を出しその端に花簇一条をなす。花と葉と相見ぬゆえ、(269)人これを植えるを忌んで無義草と謂う。四月の初め枯れてしまう。根苗、石蒜ときわめて相類するが、石蒜の根になき毛皮が山慈姑の根にある、と見えて、多少「あまな」らしいが、花と葉と相見ぬと言い、紅花のものありと言うは「あまな」に合わぬ。要するに山慈姑一名無義幸は、「あまな」(百合科)よりはずつと石蒜(石蒜科)に近く、日本にない物であろう。石蒜を古来本邦で死人花に充てるが、これはまず当たっておるようだから、以下死人花を一斉に石蒜と書くとする。
 『和漢三才図会』に、「按ずるに、石蒜は山慈姑の類にして、山野墳墓の辺に多くこれあり。故に俗に死人花といいて、人家これを忌んで種《う》えざるは非なり。唐人、山慈姑を呼んで無義草といい、葉と花の相見ざることを悪《にく》むも、また同じ意《こころ》なり。九、十月に苗を生じ、蒜の葉に似て長く、剣脊あり、四散して地に布く。紀州の人、用《も》つて蜜柑籠の中に藉《し》く。四月に葉枯れて、徒《ただ》の空地となり、七月に一茎の尺余なるを抽く。茎の端に花を開くこと七、八朶なり。青き節あり、朶ごとに紅き花を開く。六|出《べん》にして狭長《ほそなが》く、攅簇《あつま》つて深紅の糸紐のごとし。弁ごとに赤き蕊(『本草』に黄なる蕊とあると違う)を著け、七筋あって長く、?《はし》に小さき子《み》を戴く。形は伊乃牟土《いのんど》のごとく、初めは赤く後に黄となる。老ゆればすなわち花の縁《へり》は白く変ずるも、またこれあり。秋分に盛んに開くがゆえに彼岸花と名づく。小児これを取って、寸々《ずたずた》にこれを折れば、脆《もろ》くして皮は絶《き》れず、ほぼ念珠の状と作《な》り、頸に掛けて戯れとなす。茎の汁は臭し、云々。その根、水仙の根に似て蒜(この書には「にんにく」に充つ)の隔《しきり》あるがごとくならず。諸瘡に塗って佳し。あるいは泥土に和《ま》ぜて壁に塗れば、すなわち鼠あえて入らず。また絵具に擂《す》り和《ま》ぜて漆器(270)に書けば、すなわち絵|滅《は》げず」とありて、『本草』から、石蒜は、「気味、辛甘、温にして、小毒あり。便毒諸瘡を治す。搗《つ》き爛《ただ》らしてこれを塗れば、すなわち消ゆ。もし毒の太甚《はなはだ》しきものは、洗浄し、生の白酒をもって煎服し、微汗を得ればすなわち愈ゆ」。トルコ人は 『回経《コラン》』で厳に飲酒を制せられおるが、烹煮のさい醤油と称して酒を用うること少なからず。これに倣うて、予も絶対に禁酒を命ぜられた時は、瘡毒|太《はなはだ》しと称して、生白酒でも黒酒でも酒でさえあれば好い、石蒜にやや似た葱でも少々入れて酔うまで多く飲んでやるつもりで、この薬方ばかりは居常忘れなんだ。
 『甲子夜話』四六に、「金燈花の根は鼠の忌むものなりとぞ。紙捻《こより》を網に結び、その根汁を塗り用うれば銅網に換ゆべしとなり」。金燈花とは上述のごとく山慈姑の紅花のものの漢名で、山慈姑を「あまな」に充てるが、紅花の「あまな」本邦にないから、この文には石蒜を指したのだろう(上出『和漢三才』の文を見よ)。白石先生の『退私録』に、避蠹の方、石蒜と三角銀杏二十を搗《つ》きて汁を合わせ煎じずに紙に引き、その紙を切って書籍の間に挿めは虫食わぬ、これその師木下順庵の方だ、と出ず。『一語一言』二三に、『池田正樹随筆』より「石蒜、俗にすいせんのり〔六字傍点〕というはこの物なり。右根皮を去り擦り潰し水をもってのべ、水嚢をもって漉《こ》して、右の水をしょうふ糊を煮るようにして、ただし薄くするには水を加えて解いてよし。この糊にて継げば年を経て放るることなし。また壺に入れて貯え置く時は幾年も持つなり」と引いておる。また田辺に現存する人、かつて石蒜の花から美麗な染料を取ったが獲るところまことに少量で、とてもしばしば用うることがならず、遺憾ながら中止した。
 無学な人でかかることを試みる者、田辺辺に多いが、これすなわち国産増長の有力なる基礎で、勧学院の雀は『蒙求』を囀る、全く南方先生の徳に化せられたので、口先ばかりで奨励など言う徒は宜しく慙死すべしだ。それから、先年東京から石蒜の根で葛粉様の物を取って菓子に作るとて海草郡へ買いに来たり、大分掘り取って送った人がある。その人は確かに石蒜から採った粉を見たという。毒草ゆえ以後取締りを厳にせにゃならぬが、生食すれば有毒の「じ(271)ゃがたらいも」も、一たび煮れば多数アイルランド人の主食たり、蒟蒻《こんにやく》も毒草から製せられ、ブラジル民の?包《パン》と呼ばるるカッサヴァ粉と、諸国で病人を滋養するタピオカは、西半球が欧人に知れぬうちより、その土蕃が大毒人を殺すマニホット根から取り、手広くこれを栽殖した。して見ると、石蒜の毒を去って有益な食料を採り得ることも成らぬに限らず。かかることはすべからく東洋の事物に疎き西人にばかり説示を俟たずに、叮嚀に地方の俚伝土俗を集め、われより先例を出すつもりで幾度も慎重の試験をやって然るべしと、いたずらに国産奨励を口先にするその筋の素餐輩に教え置く。
 かくのごとく、死人花と侮蔑さるる毒草も、諸瘡、便毒の療治外に、鼠を防ぎ虫を避け、絵具を保ち糊を全うし、美麗な染料を作り食料を取り得る見込みも絶無ならず。ことに南方斉天大聖、飲酒戒を破るの口実を給するなど立派な有益植物だ。天下に全く無用の物なく、古書や伝話いずれも数十百年の良き経験に出たもので、今日の学説おおむねこれより起こったんだから、右に列ねたのがことごとく事実ならずとも、少なくも二、三の効験はありなん。
 かく書き畢《おわ》りて銭湯へ往き、陰嚢を洗いながら知己の医士に話せしに、その人いわく、石蒜を吐剤また婦女の下剤に使うとその験あるは古来地方で知られおる、と。それから還って拙妻に話すと妻いわく、サフランモドキの根は石蒜の根に似ておる、絹や布を織る時|経糸《たていと》を整列して、おのおのその位地に在らしむるあそび〔三字傍点〕(綜絖の方言)は、鼠好んでこれを咬み切る、サフランモドキ根汁でその糸を湿《しめ》せばその患なし、と。そこで、予今日始めて牝鶏の益するところあるを知ると鳴謝した。
 このサフランモドキは石蒜科の物で、もと米国南部の産、予その地に往きて見ると石蒜などに比すべからざる見すぼらしい花だった。本邦へ弘化の末、蘭船舶載来、熊野には諸処に野生を見るが、フロリダ辺の本産よりずっと立派なものができておるので、「栽ゑて見よ花の育たぬ山もなし」と感心した。むかし石蒜の根汁で綜絖の鼠害を禦いだところへ、この草が渡来して田舎に多く播《はびこ》ったので、同科同気の草と植物学上の智識絶えてなき村女も、根葉とも何(272)となく似合いおるゆえ、試みに石蒜に代用して斉《ひと》しく防鼠の功あるを知ったのだろう。以上は人間の差し当たった実際の利害上、石蒜は毒草ながらずいぶん用い道ある由を述べたのだが、このほかに人間の娯楽上にも間に合う次第を述べよう。
 上に引いた『和漢三才図会』九二に、石蒜は墓辺に多いゆえ死人花と俗称して人家に植えぬ、とある。同書七二には、池之坊立花のことを筆して、燕子花《かきつばた》(春)、蓮華(夏)、菊(秋)、水仙(冬)、松(四時)を一色の五種、また桜と鶏冠木《かえで》の一色は花葉の至極なれば、合わせて七種なり。牡丹、石蒜《まんじゆさけ》、石楠花《しやくなげ》、竹と檜、これを胴作りの五種とし、万年青《おもと》、小|貫衆《しだ》、松、これを前置きの三種と謂う。いやしくも口授せずんば立つるを得ず、とあり。『一話一言』巻一三に、挿花高く用いざる物二十四種を挙げた中に石蒜ある。しからば田辺辺でこの草を忌んで立花に使わぬは古法を知らぬ俗諺と見ゆ。
 人の屍や血や墳墓から特種の植物を生ずるとは古来諸国で言うところで、例せばギリシアの古え若い美女精《ニムフア》がヘラクレスに惚れて嫉?で死んで白花睡蓮になった。それから睡蓮をニムフェアと呼ぶ(グベルナチス『植物譚原』二)。英国デヴォン州の俗信ずらく、一素女慕う男を路傍に俟ち疲れて車前《おおばこ》となり、今に好んで道傍に生ず、と(フレンド『花および花譚』三一六頁)。サレイ州ウォーキングの墓場に、死人より石刀柏《まつばうど》様の草生え、その屍壊れおわればなくなる(一九〇三年発行『ノーツ・エンド・キーリス』九輯一一巻)。アビシニアの一譚に、一女その七兄弟の骨を埋め、それから椰子七本生え、北米土蕃の伝説に、兄弟その妹を殺し食うた骨より竹生えたと言い、ランジファルの歌に、戦死のキリスト徒の頭から白花、異教徒の頭から黒荊生えた、とあり。近くはウォートルローの戦場を鋤《す》くと、敗死した勇士の血より紅色の罌粟が咲き出たと言い出し、アルメニアの俗説に、フエルダット情婦シリーン死せりと虚報に愕き身を巌崖に投じて自殺した血が鬱金香《チユリツプ》となったという(コックス『民俗学入門』七二頁)。
 支那でも人の血、茜草に化す(『説文』)。林邑王、刺客をして酔うところを襲うて越王の頭を取らしめ樹に懸けたの(273)が化して椰子となり、今に至って両眼(実は芽を出すべき穴)あり、その汁が酒に似ておる(『南方草木状』)。劉eの侍女素馨と名づく、死んでその冢上に美花か生じたので素馨と名づけた(『淵鑑類函』四〇六)。『広東新語』には、「素馨斜は広州城西十里の三角市にあり。南漢に、云々、美人の喜《この》んで素馨を簪《かざ》すものあり、死後ついに多く素馨を冢《はか》の上に種う、云々。今に至るも素馨の酷烈なるは他処よりも勝る、弥望《みわたすかぎり》ことごとくこの花なるをもって、また名づけて花田ともいう。方信孺の詩に、千年の艶骨は塵沙に掩われ、なお余せし花の野花に入るあり、何ぞ似ん原頭の美人草の、風前なお舞腰の斜めなるを作《な》すに。予の詩に、花田は旧《もと》これ内人斜なり、南漢の風流この一家にあり、千載の香は珠海の上《ほとり》に銷《き》え、春魂なお素馨の花と作《な》る」。こんな意気な詩作は欧人とてもチャン公に及ばぬ。日本でも、小野頼周の情女嫉?で水死して、衣が腐って女郎花を化生したと『藻塩草』に言い、『改暦雑事記』を見ると、女の屍よりかの花を生じたらしい。
 また、俗に槃特比丘、大馬鹿で自分の名を忘れた。よって毎《つね》に名を書いて荷ないあるいたが、死後その墓から草を生じ、それを食うた人はよく忘れる。名を荷なうと書いて名荷《みようが》と名づけたと言えど、諸経律に、槃特教師より悉談《しつたん》を学ぶに性愚鈍なり、談といえば悉を忘れ、悉といえば談を忘る、『誦明論』を学ぶに、蓬と言えば瓮、瓮と言えば蓬を忘るとあるが、名を荷なう一件は絶えて見えぬ。全く日本で手製と見える。女伯マルチネンゴ・ツェザレスコの『民謡研究論』五七頁に、アルメニアのアララット山の氷雪中に衆紅中の最紅花、茎のみあって葉なきが開く、トルコ人これを七兄弟の血と号す、とある。これも無義草や石蒜様の物だろう。すべて人ごとに物について好悪を異にすれば、種族国民また時代場合の異なるに随い好悪を異にす。赤い色は花の色としては諸方で愛せらるるが、火の色としては怖れられ、血の色としては嫌わる。されば『根本説一切有部毘奈耶雑事』二八等に、古インドで死刑人の頸に赤い花を繋いで刑場へ連れ行ったこと見え、サンゼルマノの『緬甸《ビルマ》帝国記』九に、謀反せる親王を誅するに赤い布袋に入れ川に投ずと見え、梵土の?魔《ヤマ》像は赤衣を著る。石蒜も『和漢三才』に、小児これを取って、寸々《ずたずた》にこれを折れ(274)ば、脆くして皮|絶《き》れず、ほぼ念珠の状と作り、頸に掛けて戯れとなすとあるは、たぶん『万葉』に見えた「たちばな」同様、瓔珞としてむかし男女の身を飾った遺風だろう。
 仏教弘まってその赤い花を美としてインドの曼珠沙華に充て、もっぱら仏菩薩に供養されたが、追い追い諸他の美花が行なわるるに及び、その赤きを血に比べ、これに加うるに原来墓辺に多く、根に毒あれば、仏供養に由来せる立花道にのみ秘訣ある花として伝えられ、俗間もっぱら死人花と称えて嫌わるるようになったなるべし。すべて民俗学の研究は書籍記録のみを宛てにせず、なるべく漠然たる艮群の記念たる土俗と口碑に頼りて做すものゆえ、このことはこの理由に生じ、これが唯一の原因で、かれが唯一の結果と明示する能わず。美女素馨が愛したのでその家辺に多く栽えたのを間違えて、その屍から花が生じたと伝えらるるに及んだとはやや察しやすいが、右に述べた石蒜褒貶の変遷次第は、単にこの花を以前は今ほどに嫌わなんだという証《あかし》までで、決して精確にその通りの順序で人心がこの花に嚮背したというのでない。薔薇のごときも近世欧米また日本でもおびただしく賞美さるるが、日本ではこれを詠んだ古歌至って少なく、アドルフ・エルマンが、シベリアの露人は、その葉より芳香好く色澄んだ薔薇酒《シプシカ》を作る由言ったついでにいわく、露国でシプニク(薔薇)という名は、古来荊棘を意味し、その花を賞することなかった、後世その花を賞するに及び、詩文にはこの邦語を用いずローサなる外国(ラテン)名を使う、と(一八三三年ベルリン板『世界週遊記』二巻三三頁)。
 支那でも『神農本草経』すでに墻?を列し、『爾雅』に終《しゆう》、または牛棘、郭璞注に馬棘、『山海経』に牛傷、『別録』には薔薇また山棘また牛勒、『本草綱目』に刺花、いずれもその刺を称したので、往古これを墻に栽えて低垂せしめ、盗を禦いだゆえ墻  靡、それから薔薇としたらしい。
 後世、?瑰、木香、刺?、??、月季、仏見笑など、種々流行り出して外国種も自国種も賞翫するらしいが、ペルシアや英国ほどに重んぜず。その?瑰という古く赤玉の一種で、?瑰花は最初その実の赤きをこの玉に比して名づけ、(275)花の美よりも赤実を賞したと見ゆ。
 本邦でも古来「いばら」といえば直ちにその刺と解し、花を賞すること乏しく、外国から美花ある種々を伝えた後、在来種と別って「さうび」と訓み、貫之が「我はけさうひ〔三字傍点〕にぞ見つる花の色をあだなる物といふべかりけり」と、洒落た外に覚えておるような名歌も聞こえず、詩では武田信玄が「庭下春を留めて暁露|濃《しげ》し、浅紅を染め出だしてまた深紅、清香疑うらくは昆明国よりするかと、吹き送る薔薇院落の風」、また、「満院の薔薇、香露新たなり、雨余の紅色|別《わ》けて春を留む、風流の謝伝えて今なお在り、花は東山縹渺の人に似たり」と吟じた外に予は記臆せず。
 欧米にローザ(薔薇)、ロザベラ(美なる蓄薇)、ローザリア(小さくて今を盛りの薔薇)、ロザリンド(薔薇ほど美しい)など名づくる女多きに、日本ではその刺にちなんだ茨木という名のほかに、薔薇によった名を、素人女は勿論、江口・神崎の昔より祇園・新吉原の今まで、遊女歌妓に付けたを承らぬ。これ紀州の俗謡に、「器量ようてもわしゃぼけの花、神や仏に嫌はれる」ちう「ぼけ」の花同様、刺ある草木は調伏の節のみ用ゆるなど言って嫌われたのだ。薔薇を「むばら」と和訓し、「いばら」、「ばら」など今言うが、隋朝所訳『大威徳陀羅尼経』七、世尊諸樹を説く中に、多羅尼(小薔薇)、婆邏(百葉薔薇)あり、手近い梵語字彙で薔薇の梵名を捜すには婆邏またはこれに近い名を載せず、バラーサ(『名義集』に「波羅奢草は、その葉青色にして、花に三色あり。日いまだ出でざる時はすなわち黒色にして、日まさに照る時は花は赤色、日没する時は花は黄色なり」)という物を載せるが、これは梵名を一にキンスカ(金寂)またカナカ(羯尼迦)といい、それにちなんで賢劫第二仏をカナカムニという、豆科のブテア・フロンドサ、まず琉球の梯姑に近い樹で、英将クライヴがスラジウドウラを破ったプラッセイの戦場に群生したので名高く、決して薔薇に似た物でない。婆邏はこれと別物で多少薔薇に似た物だろうが、和名ばらと近い上に百葉薔薇と訳されおれば、同物同名か異物同名か調査を要し、もし同物同名だったら、薔薇を「ばら」と呼ぶも、仏僧が伝えたこと、石蒜を曼珠沙華と呼ぶと近しと知るべし。
(276) 『五雑俎』一一に、「婦人の妬む者、俗にまたこれを吃醋という。何の義なるかを知らず。むかし范質いわく、人よく鼻にて三斗の醇醋を吸わば、すなわち宰相となるべし、と。均しく一の醋なり。何ぞ男子これを吸えば、すなわち徳量を称し、婦人これを吃《くら》えば、反って娼嫉の名となるや。また笑うべきのはなはだしきなり」。物の好悪は見る人と見ようで異《かわ》る。
 「すみれ」は日本におびただしく種類あるが、「つぼすみれ」のほか歌文に見えず、それも今は何やら知らぬ人多し。欧米ではますます盛んにこれを吟唱する。支那で家辺の素馨を賞美するは上に述べたが、インド人は天妓中の最尤物ウルヴァシの金髪を黄素馨の花に比して仰慕す。しかるに墓上素馨生ぜるを下等の婬女同様に避くべしと言う(グベルナチス『植物譚原』二)。マルチネンゴ・ツェザレスコ女伯は、西アフリカの一蛮族が「蝶は内にあっても外にあっても上帝を讃美す」とてこれを賞揚するに、古ギリシア人は蝶の愛重すべきを知らなんだと歎じ、また北方極寒の小島に住んで毎朝日が海より出るを見て楽しんだエスキモ人が、その子に世間広く見よと勧められてフェヤウェル岬に著き、旭が陸より昇るを見て大不快で早速かの島へ帰り、翌旦、日が海より出るを見、悦び過ぎて死んだと述べおる(『民謡研究論』四〇頁)。
 一九〇〇年板、ベンジャミン・テイロルの『伝説学』にいわく、古ギリシア人は葬儀と墓飾りに薔花を用い、ローマ人も同前、しかして特に白身の墓を不断この花で飾らるべくその料金を遺した者あり、たぶんその遺風らしきは、むかし多数ローマ人がしばしば駐まった英国のオクレイで、近年まで女子が情人の墓に薔薇を栽えた、今も秘密に黙ってすることを、「薔薇の下で」ちうのは、むかし死を薔薇で標《しる》したから出たんじゃ、と。されば欧州で花王の称ある薔薇も、むかしは石蒜同様、実際の死人花だったので、その薔薇が今は国色天香の名を擅《ほしいま》まにしおるに、石蒜は何故曼珠沙華なる美号を伝えたかをすら知られざるほど沈淪しおるは、そもそも天道は是か否かと大層らしく歎息せざるを得ぬ。
(277)  日本や支那で死の字を冠した植物名は死人花のほかにあまり聞かぬが、欧米にはすこぶる多い。一々精確な語源は分からぬが、何に致せ、以前、彼方に死に関する迷信憂懼がははなはだ盛んだった証にはなる。記臆のまま二、三を書き付けんに、死草(ひよどり上戸)、死花(にちにち花、これはイタリアで嬰児の屍に花冠として葬る。また石竹の一種、メキシコで同前)、死蕁麻(おどりこそう)、速死草(ひめふうろ)、死人指(一葉蘭の一種)等だ。
 
 明治二十七年より三十三年までの間に、在英の内外商人からたびたび石蒜のことを問い合わされたが、予は一向顕花植物の学に関せなんだから、ろくに気にも掛けず、さらに存じ寄らず、と答えた。しかし、幼少のころ『本草綱目』、『大和本草』などを写して石蒜の形色ぐらいは心得おったゆえ、ある日三井組か高田商会の人に逢うて何故かかる変な物について聞き合わさるるかと尋ねると、糊にこの草の根の粉を合わすと貼った物が永く虫食わぬそうで、大分ロンドンへ輸入するようだ、とその人|対《こた》えた。帰朝後、サウシの『随読抄録《コンモン・プレイス・ブツク》』を見るうちに、「ガーンゼー百合《リリー》は、蘭船、日本よりその根を積み来たり、破船の際この島へ打ち上がり沙中に生えた。島司ハットン、その花を美として蕃殖せしめ、今に至りその島のみに産し、年々根を箱詰してイングランドに送る」と、クエイルの『ジャーシ・ガーンゼー諸島巡覧記』から引いたを見た。ガーンゼーは、英海峡中の小島、面積十九万マイル、もと仏領だったところノルマン征服後英領になった。この島に水韮《いけにら》の陸生種生じ、予その生殖に関し知りたい点があったので、実地研究のため毎度金を儲蓄し、ようやく溜まるとロンドン大学総長へ告別に之《ゆ》く。之くとまた金を呉れる。余分の金を持つと道中不安と大学のじき側の酒肆に入って飲み始め、一盃二盃四盃八盃十六盃三十二盃と、幾何級数で件《くだん》の酒肆から自宅まで、遠距離を朝っ腹から深更まで酒肆という酒肆を一軒残さず飲み行《ある》き、夢中になって帰宅就褥、さて眼が覚めると余分は勿論、本資の三分二も飲み込んでおるので、ままよ江戸ッ子は宵越しの青?《せいふ》を留めず、大和魂の顕わしどころとみな飲み尽して仕舞うたこと二、三回、のちにはガーンゼー行きを話しても誰一人信ぜず、また大分渇い(278)て来ましたねなどと吐《ぬか》しやがる。自分も儲蓄して一度に飲むは身の毒だ、毎日手に入った銭を矢継ぎ早に毎夜呑むがよいと合点して、水  韮生殖は全然忘却、専心酒ばかり飲んだは英雄の一挙と今にわれながら感服しおる。
 さて、ガーンゼー百合という物、予もロンドンの花屋の廛頭《てんとう》に列せるを二、三度見た。石蒜に酷似するが、全体石蒜より大きく、またはるかに美麗で、南アフリカが原産地と聞いた切り念頭に置かなかった。しかるに、サウシの『抄録』で上に引いた文を見出だして、始めて前年商人輩の問い合わせに思い合わせ、一書を草して『ノーツ・エンド・キーリス』に寄せ、この草を載せた船が英海峡で難破したのは何年ごろのことか、その時打ち上げられた草種果たして連綿と今に蕃殖するや否、野生なりや将《は》た培養されてのみ存するか、と三問を出した(一九〇八年十一月七日の同誌三六八頁を見よ)。これに対して諸家の答文多く郵著し、また同誌にも掲げられたが、一々訳出も暇潰しゆえ綜合して大意を演《の》べると、ガーンゼー百合を簡明に記悉した書は、一八七六年第二板タッパーの『ガーンゼー島史』で、それによれば、この草がこの島に伝来した時代と方便いずれも確かな記録はなく、諸説みな口碑に基づく。なかんずく、只今もっぱら行なわるる一説は、一六八〇年(延宝八年)板『牛津植物史《プランタリウム・ヒストリカ・オキソニエンシス》』(博士ロバート・モリソン著)に載せ、日本から帰るオランダ船がこの島近海で破れ、この草根が沙浜に打ち上げられて生育し、美花を開いて衆目を惹く。ハットン卿その時(一六七〇−七九年、わが寛文十−延宝七年)この島の知事たりしが、その子この花を移栽培養してイングランドの植物学者や友人に贈った、と見ゆ。
 一七二五年(享保十年)、当時馳名の医学博士で英皇の侍医だったロンドン住人ジェームス・ダグラス、書を著わして、『リリウム・サルニエンセ、一名ガーソゼー百合の記』と題し、諸伝説を参酌して一六五〇年ごろ(わが慶安三年)この草すでにこの島に伝わりおった、と論じた。いわゆるガーンゼー百合はラパンがナルシスス・ヤポニクス、リンネウスがアマリリス・サルニエンシスと学名を付けたもので、最晩もっぱらヘルベルトが付けたリコリス・ラジアタの名て学界に知らるる石蒜科の一草であるということだ。よって旧知のエジンバラの古本屋へ依頼し、件の三書を求(279)めると、タッパーとモリソンは手に入らず、ダグラスの『ガーンゼー百合の記』、これも一七二五年の初板でなくて一七三七年(元文二年)再板本の大冊を送り越した。この書を見ると、ガーンゼー百合のことばかりに七十六頁、図解に四頁の大紙を費やし、大きな摺図三葉を付しある。
 ダグラス博士の『ガーンゼー百合の記』は本文すべて十八章、この草に関する一切の事項を述べ尽し、衆人をして当時欧州にあまねく知られなんだその花の美、ほとんど等倫なきを歓賞して造花の巧妙を会得せしめんことを期する由、自序しおる。この書によると、この草が欧州の書に初めて見えたは一六三五年(わが寛永十二年で、特別に長崎を外舶貿易の地と定めた歳)パリ出板、ヤコブ・コルヌチの『加奈陀《カナダ》等諸国新知植物記』に、これを赤花日本水仙(ナルシスス・ヤポニクス・ルチロ・フロレ)と掲げ、数年前日本より始めて仏国に輸入し、愛花の大家ヨハンネス・モリヌスの園に栽えられたが、この草欧州に入った嚆矢だとあり、次に一六五八年(万治元年)パリ板行、ペー・モランの『諸花栽培要訣』には、単に日本水仙、それから一六六四−九九年までロンドンで出板されたジョン・エヴェリンの『花暦』には、日本水仙またガーンゼー百合また日本百合という名初めて見える。すなわち寛文四年から元禄中にできた書に見えるのだ。次に一六六五年(寛文五年)天主僧ラパンがパリで出した『花経および種花論』にも日本水仙、それから上に引いた一六八〇年(延宝八年)オックスフォード板『牛津《オツクスフオード》植物史』には、著者モリソン博士が赤花日本百合水仙《リリオ・ナルシスス・ヤボニクス・ルチロ・フロレ》と長たらしい名を用いた。これを略して日本百合水仙《ヤパンセ・レリー・ナルシス》なる蘭名ができたらしく、『草木図説』に石蒜をこの蘭名に充てておる。
 さて、寛文・延宝の間、日本帰りの蘭船遭難の際、その船に積んだこの草の根が打ち上げられて沙浜で発生し美花を開いて知事の子息の御眼に留まり、種々培養されてガーンゼー島の特産となった次第は前に述べたが、この破船が寛文十−延宝七、すなわち本邦で奥州伽羅先代萩、支那で呉三桂の騒乱などあったころとまでは分かりおれど、確かに西暦何年の出来事ちうことは到底分からぬらしい。現にこの名物の本家本元ガーンゼー島のゼ・ヴィラ住シー・ゼ(280)ー・ジュランド氏が一九〇八年十二月五日の『ノーツ・エンド・キーリス』四五六頁において予の問に答えたは、かの難船の年暦すでに失せてまた尋ぬべからず、ただし今も俗伝にいわく、島民破船よりこの草根を得て食料と誤認し、煮食らいしに昧すこぶる惡し、よってこれを荒地に棄て置くに、短日月ののち妖花爛?諸他の群英を羞殺し、諸人驚き入ってこれを珍重するに及べり、と。誰も知る通りドイツの名医エンゲルベルト・ケムペル(慶安四年生まれ享保元年歿す)元禄三年蘭便に付いて来朝して将軍に謁し、同五年去ってジャワに之《ゆ》き六年アムステルダムに還った。その間細大洩らさず観察してドイツ語で『日本史』二巻を書いたれど、そのまま出板されず、死後十一年にして(享保十二年)英訳世に出で、現存のドイツ語本は英訳から復出された。二十年前、予その動植物に関する図説を閲して、その多分は中村タ斎の『訓蒙図彙』に資《よ》りまま親《みずか》ら邦民より聞いたところを加えたと知った。ケムペルの『アマエニタツム』(一七一二年すなわち正徳二年、氏の没前四年出板、「ジョルジア、ベルシアおよび日本の観察録」)に、セキサン(石蒜)、シビトバンナ、ドクシミラ(ドクスミレ?)と和名を題し、短くその形色を記載して血色の小花を簇開する百合と記し、これコルヌチのいわゆる赤花日本水仙だと書いた。
 日本で石蒜を漢音で呼ぶ地はないゆえ類推すると、例の『訓蒙図彙』にその図を出し、漢音セキサン、和名シビトバナとあるを示して邦人に実物を求め観察したので、ドクシミラは紀州の方言ドクホウジと等しく長崎辺の俗称だろう。
 ダグラス博士が写したケムペル手筆の石蒜の記載には、麁製の写生図を付しあったそうで、記載中に、「この物実用なくその根毒あり、三日のあいだ水に浸さずに食えばその人死す」と見ゆ。この文意を按ずるに、そのころ荒年には長く水に浸し毒を去り、他の物に少しずつ雑えて餓を救うたのじゃろう。
 以上記せるところを合わせ考うるに、ガーンゼー百合の本種は石蒜たること疑いを容れず。しかるに、日本とガーンゼーは風土も異《かわ》り、ことに此方では野生で全くその花を賞せざるに、かの島および欧州諸国では初著の当時より鄭(281)重に栽培選種を重ねたので、野猪から変成した家豚がはなはだ野猪と差《ちが》い、インドの野生孔雀と欧米の飼養孔雀と羽色異なるごとく、祖先来正統の石蒜と、他邦で養成されたガーンゼー百合とが多少違うて来たなるべし。すでにダグラス博士の書にも、そのころ業《すで》に培養に伴うて若干の変態を生ぜる由を載せおる。
 加うるに諸家が予に与えた答文に、しばしばこの草の培養、ガーンゼー島においてすら事むつかしく、その他の地では暖室に入れ勉励してようやくその花を見る由を言い、五年前出た『大英類典《エンサイクロベジア・ブリタンニカ》』第五巻英海峡諸島の条に、諸花の最も美なるはその弁濃紅なるガーンゼー百合で、もと日本より将来に係ると想定さるとあって、何たる種名を挙げぬを見ると、人為で仕上げた変種らしく、ジュランド等の予に与えた答文に、この花今はガーンゼー島に野生せず、育花家もあまり注意せず、触《さわ》らずに置くと一番よく繁茂するが、開花に定節なく不意に咲くことあり、以前よりははなはだ少なくなったので、南|非《アフリカ》の原産ネリネ・サルニエンシス等劣った花をもってこれに充てて売り出す、とある。つまり最初石蒜を日本から持ち込んで種々の美花を養成したものの、原来欧州の土に合わぬものゆえ流行おいおい廃れて、せっかく作り出した変種も減じ行き、望み手出るに及んで他の花をもってその名を冒して売っておることと見える。
 往年富士艦廻船に先だち、チルベリー船渠で彼方の労力人の罷工に逢い、出発延引して士官等無聊に苦しんだ時、予、毎度招かれ往きて酒で息を継いで種々説法した。その時アジアから欧州へ進入してこれを制伏したものとては、むかしの成吉思《ジンギス》の一族とアッチラとマホメット二世、それから「あぶらむし」と「なんきんむし」と鼠の東洋種が西洋種をまるで威圧しおる。日本から欧州へ出て揚威したものは、「まさき」と「あお木」と「はらん」が諸公園に栄えて彼方の草木を駆逐しおるくらいのものだろう。諸君|豈《あに》草木に恥じてますます奮わざるべけんや、と吹き付けた。
 しかし唯今|顧《おも》うと、この石蒜は早く欧州へ渡ってずいぶん美名を轟かし、詩で高名な天主僧ラパン(一六二一−八七すなわち元和七年生まれ天和七年寂す)が、「日本水仙《ナルシスス・ヤポニクス》」と題した傑作最も著われ、英国の学僧ジャコブ・ガージナー(282)やチャーレス・エヴェリンが旨くこれを訳して自国で出した。ラパンの原作はラテン語で書かれ、予今ラテン字書がないので二字読めぬ、ガージナーの訳が一番上出来の評あれば左に写す。
  Late from Japan’s remotest region sent,
  Narcissus came array’d in scarlet paint;
  Rich spots of yellow stain the precious flow’r,
  As if besprinkl’d with a golden flow’r;
  The radiant tinctures may with tap’stry vye,
  And proudly emulate the Tyrian dye,
  This flower,ye skillful florists often plant,
  Let not our nation this fair beauty want;
  And tho’she answers not your common care,
  No cost norlabour on her dressing spare,
  For should she but her conquering charms display,
  From every fair she bears the prize away.
 白石の『軍器考』に、あらゆる武具を論説せるも花靫とかのこと見えず、さすがの博識もこればかりは知らなんだと評するを、近衛公とかが聞いて、これほどのことを知らぬ白石でなけれど公家の秘事とするものゆえ遠慮して書かなんだのだろうと、用意のほどを褒められたと、江村北海の『授業編』で見たと覚える。熊楠、実は右の英詩の翻訳ができず、抜かぬ太刀の高名と思うて原作のまま引いたのだが、世間は広し、百般の文章中翻訳もっとも難し、原作の意を十分読者に解せしむると同時に、その文体から風調まで完く模して真に逼らせにゃならぬゆえなりと、ポープ(283)は言った。南方先生の技倆まことにガージナ−の詩を翻するに余りあれど、年末多忙の際、もし手ぬかりあっては古人を傷つくると憚って差し控えた心の底こそ優しけれと、買い被って賛めくれる人も少なからじ。呉起や蘇蓁は殪《たお》れてもただ死ななんだ。心懸け厚い者は倒れても燧石を拾うて起きると、翻訳の手数を略き謙譲の美名を博せんと、一挙両得のつもりで原作のまま出したのだと打ち明け置く。
 また、上に引いたガーンゼー島の住人ジュランドの予へ答えた文に、ガーンゼー百合すなわち石蒜を日本から将来したという伝説は疑わしいと述べて、カレイの『ガーンゼー民俗篇』を引いていわく、「往昔|精魅輩《フエアリース》妻を覓《もと》めてこの島に来たりし時、一魅、美女ミシェル・ド・ガリスを拉《つ》れ去り誘引最も力めしかば、女かの魅の美容好辞に惑い、その妻となりて精魅国に帰《とつ》ぐに決せしも、ヴァゾン湾頭の草廬に住める父母兄弟を全く忘るる能わず。よって一小記念品を留めてかの輩に与えんと乞いしに、精魅しばらく思案して一毬根を彼女に付し湾辺の沙浜に種《う》えしめ、みずからその母を問うて失踪せる娘の記念品を得んと欲せばその所に到れと教う。母、浜に趨き件《くだん》の毬根より一花を生じたるを見るに、その態未曽有にしてきわめて美なれど香気なし。美花に香なきは精魅の美にして霊魂なきを表示せり。爾後島民注意してこの花を種育せるに、この花またこの土を愛し、隣近諸島に移植していかなる注意を加うるも衰え終わる」と。ハンガリーのユダヤ人で博言学の大家たるゴルトチッヘルの『希伯拉《ヘブライ》鬼神誌』に、ウェールスのチムリ人中世英国と隙を生ずるに及び、みずから古セルツ人の正統と称して愛国心を固めんため新ドルイド教を立てんとせしも、キリスト教入りドルイド教全く亡びて年久しければ伝説絶えてなかりき。よって手製でフ神セリドル女神已下一切の神話を新造せり。ハンガリーの現行神話また同一の目的もて新造されしが、わずかに数十年の内に人心に浸潤して宛然古来伝わりしもののごとくなれり、と。
 日本でも天理王尊などこれに等しき新製の神で、『一話一言』一五に引いた元禄ごろの無名の随筆に、煙草の害を手痛く攻撃して煙草の異名を旧記によって釈すと称し、「一に癩病草、これは異国に癩人多く死したる国あり。この(284)尸《しかばね》を埋めたる土鰻頭中より出生の草、故に瘡毒膿血の性を含んで、やにの匂い世に類える物なし、云々。二に労咳草、これは労咳を煩う者の死したる塚の中より出生せる草なりと。三に放火草または傾城草とも。これは呉王の后西施が塚中より出生す。この女常に放火を悦び国を亡ぼせり(褒?烽を挙ぐるを悦びし誤伝?)。遊女を傾城というもこれより起これり。今も遊女もっぱらこの草を玩ぶ。煙草、放火、傾城の名、当時最も忌み恐るべき名にあらずや」などと、時代大違いの付会説を載せおる。自分の郷土を愛護し、一己の持説を主張せんため旧伝に全くなきことを作り出すは、近日諸府県郡村編纂の郷土誌で分かる。その一斑を窺わんと欲する読者は、『郷土研究』二巻七号菅沼氏の「郷土誌編纂の用意」、八号同氏の「郷土の年代記と英雄」を覧よと、平生一人をも推したことない予が引札を配るには内情存し、実は年来相識の若い美女が昨今菅沼氏の厄介になりおるので、女を思う夜の鶴ですることと打ち明かしおくと、まことに南方は万事腹蔵なき男と信用を増すはずだ。
 かくのごとく石蒜は、その原産地たる本邦では一向死人花と卑蔑されておるに、外国へ移し愛養されて絶世の美花と讃められ、日本百合の名を揚げたこと、あたかも狼に食わるるに極まった山奥の孤女児が新吉原へ伴《つ》れ来られて第一の花魁となったようなものだ。近年日本百合、すなわち石蒜でなく本当の百合が種々外国へ輸出され、歳々南方君が食事を廃して飲む酒の税と共に国庫に注入する金高おびただしと聞くが、謹んで案ずるに最初英国のジョン・エヴェリン(一六二〇−一七〇六年すなわち元和六年生まれ宝永三年ごねる)ちう勤王兼著述で高名な人が、石蒜を始めて日本百合、またガーンゼー百合と書いてより、日本百合の名欧米に喧伝されしも、家光将軍鎖港後は日本百合とは石蒜ですなわちガーンゼー百合たるを知る者少なくなりおわったところ、近時日本と交通また盛んなるに及び、日本百合を日本へ求め来たると、日本人はその石蒜たるを知らず、日本に産する百合のことと心得、本当の百合を輸出して石蒜よりも大いに欧米人の気に入ったことと推察す。しからば石蒜のむかしは窮《みずか》ら群花に先だって外国に嬌名をもっぱらにし、年|老《た》け色|邁《ゆ》くに及んでさらに他の美人を世話するの仲居役を務めた功、国家に対してありふれた大臣輩より(285)もはるかに大なり。蓁王は松を五大夫に封じ、延喜帝は鷺を五位に叙したまう。その例に倣い、紀州で石蒜葉を「みかんぐさ」と呼んで、古来蜜柑を裹《つつ》むに用うるを幸い、今後正月飾りにこの葉を加えても然るべしと、新年号にちなんで故事付け置く。  (大正四年一月一日『日本及日本人』六四六号)
【追記】
 石蒜を詩に詠むこと。大正五年十一月六日『大阪毎日』紙、森林太郎博士の『伊沢蘭軒』一二五回に、「ついでに私はこの『秋行』の絶句の本草家蘭軒の詩たるに負《そむ》かぬことを付記して置く。それは石蒜が珍しく詩に入っていることである。「荒径雨過ぎて縁苔滑らかなり。花|紅《くれない》にして石蒜|幾茎《いくこう》か開く」。詩歌の石蒜を詠ずるものは、私の記憶にほとんどない。桑名の儒官某の集に七絶一首があり、また昔年池辺義象さんの紀行に歌一首があったかと思うが、今は忘れた。(下略)」とあり。
 これより先、大正四年の本誌新年号「石蒜の話」に、予も欧州で高名な石蒜の詩が少なからぬに、本元の日本には詩歌とも一向なきよう述べ置いた。しかるにこのごろ足利時代の僧侶の詩文を閲して、当時この花を仏経の曼珠沙華に充て、ずいぶん詩に詠じたと知った。
 例せば、文安元年七十三で寂した禅宗の高僧心田の詩藁に、「曼殊沙花を奉じて定林和上に寄す」、「天上の曼殊、一種の妍あり、この花もとおのずから金仙に属す。今朝|特地《ことさら》に風吹き去り、好《よ》く師翁のために法筵に洒《そそ》ぐ」。それからこのづく入《にゆう》よほど美童好きと見え、「それ曼殊沙は、印土《インド》の種なり。故をもって、わが能仁《のうにん》氏説法の筵に、諸天|雨《ふ》らすところの四花の一なり。ここに翻して適意という、云々。この秋、某《ある》美少、師に従って西阜に留滞すること数日。追慕の思い、懐《むね》になきあたわず。よって詩を贈ってこの花に副《そ》うるは、けだし法儀の具瞻《ぐせん》を助くるものなり。また??《しんい》の芍薬風草の比にあらず。のち数日、重ねて三章を綴り、もって呈上す」と甘ったるき口上で、「花は適意と称すれど何人に適《かな》う、却《かえ》って多情のごとく朶々新たなり、顔声はただまさに天上の種なるべし、紅茸爍々として露花|堰sにお》う」、(286)「かつてこれ金仙の遺愛の花なり、対すれば肝胆おのずから邪なし、わが一念の留余著《のこれる》を笑い、一番風もて菩薩魔を釈く」「希世の曼殊、絶色にして妍なり、奇香の和すること散花の天よりす。一枝いささか托す裴簾洞、好く師翁のために法筵に献ず」。児普賢、児文殊から、文殊尻という調さえ流行った世で、ここには曼珠沙華の色を曼珠菩薩の童身妙相に比したのだ。
 ついでに言う、その歳三月、白井光太郎博士拙宅を訪れた時の教示に、右の拙文中、ケムペルの『日本史』に石蒜の和名シビトバンナ、ドクシミラとある。ドクシミラはドクスミレか長崎辺の方言かと述べた。いかにも長崎辺の方言に相違なきも、シミラはスミレでなくツルボの義で、形色も救荒の功もツルボに似たからの称呼だ、と。よって謹んで正誤す。また芳名は忘れたが、肥後で石蒜より澱粉を採る法を詳記して贈られた人あり、これも好意を謝し上げ置く。その後予の直隣《じきとなり》に住む人方へ石蒜粉製の上菓子を寄せ来たれるを睹たが、現時政府が奨励して地方民の笑柄となりおる馬鈴薯料理よりは実際ずっと役に立つ物らしい。(十二月十一日)   (大正九年一月十五日『日本及日本人』七七四号)
【再追記】
 石蒜を詩に詠むこと。今一つ、足利時代の僧が作った石蒜の詩を挙げよう。『木蛇詩』に、「人の曼珠沙華を恵まれしを謝す」と題して、「聞説《きくなら》く西方に美人ありと、嘉筵の花雨、四時の春、白頭もて西を望めば五天遠く、意《おも》わざりき紅雲の海浜を度《わた》らんとは」といず。   (大正九年四月一日『日本及日本人』七七九号)
 
(287)     ?という獣の話
 
 『和漢三才図会』二八、袞衣、一名袞竜の御衣の条に、「天子即位、大嘗会等の大祀の時の礼服にして、上に著《め》すを大袖と称し、下に著すを小袖といい(袖は大袖よりも小さし。故にこれに名づく)、共に浅赤色なり。十二章のうち、八章の文《もよう》を大袖に?《ぬ》い、四章は裳に?《ぬ》いつくるなり」とあって、前文に、「『事物紀原』にいわく、黄帝、画を作り、日月星辰を衣の上に象《かたど》り、もって天に似《のつと》る、舜に至って、始めて十二章を備う、と。衣裳の九章とは、一竜、二山、三|華虫《きじ》(雉なり)、四火、五宗彝(虎?)をみな衣《い》に?《えが》き、六藻、七|粉米《ふんべい》、八|黼《ふ》(斧形)、九黻《ふつ》(状《かたち》は亜字のごとし)をみな裳《しよう》に?《ぬ》いつく。天子の竜は一は升《のぼ》り一は降る。上公はただ降り竜のみあり、竜の首の巻然たるをもってす。故にこれを袞《こん》と謂う。日月星を加えて十二章となす」とある。『書経』の益稷には、舜が十二章を作った時、日月星山竜華虫は絵《えが》き、宗彝以下の五章は?にした、と見ゆ。それを後には宗彝までを絵くこととなり、皇朝では十二章ことごとく?となされたらしい。今度の御大典にも十二章を?した御衣裳を用い(288)させらるるや否は吾輩野人の窺い知るところでないが、十五年ばかり前、大英博物館のちょうど件《くだん》の十二章中の宗彝に大関係ある?に相当すと私考した獣を始めて陳列したみぎり、親友英国学士会員バサー氏を介し、当時売り出しの獣学名家ライデッカー氏に質すところあり、一文を草して『ナレッジ』雑誌に寄せた。あたかも帰朝間際で以後一向かの雑誌を見ねば拙文が出たか否も知らねど、現に蔵する麁稿より左に少しく?のことを述べよう。
 宗彝とは宗廟の常器とあって、酒や米を供えて祀るに欠くべからざる物で、わが邦普通の黄銅火鉢体のものらしい。『周礼』注に、彝は法なり、「尊をなす法を言うなり」。諸種の尊《たる》の容量の標準としたか、排列の首座に置いたか、委細は忘れたが、何に致せ祭器の規律を正しくするに大必要、それから彝倫という語も出たことと記憶する。鶏彝、鳥彝、黄彝、虎彝、?彝、?彝《かい》の六種あって、その用途は『周礼』に出でおる。黄は黄色、?はその柱交わる、鶏鳥虎?は画いた動物によって名づけたので、種々意味もあったが、予は記憶せず。ただ虎は勇、?は人情厚きを賞讃して画いただけは覚えておる。
 『本草綱目』に?の異名、果然、禺、?、※[むじな扁+穴]、※[鼠+穴]、※[獣扁+?]、仙猴等多く列ね、さていわく、「果然は?《てながざる》より大きく、白面、黒頬、多髯、その体三尺に過ぎず。しかして尾身より長くその末に岐あり。鼻孔天に向かう。雨ふればすなわち木上に挂《か》けて尾の岐をもって鼻孔を塞ぐ。その名みずから呼ぶ。その毛長柔細滑、白質黒文にして蒼鴨のごとし。脇辺斑紋あり、これを集めて裘褥《きゆうじよく》となせばはなはだ温暖なり。喜《この》んで群行す。老者は前《すす》み少者は後《のち》にす。食えば相譲り、居れば相愛し、生きては相聚まり、死すれば相趣く。もし人その一を捕うればすなわち挙げて群啼して相赴く。これを殺すといえども去らず。これを果然と謂うはもつてこれを来たすこと必すべければなり。仁讓孝慈の獣なり。古者《いにしえ》?を画いて宗彝となすも、またその孝譲にして智あるをもってなり」。『淵鑑類函』四三二に、『国史補』にいわく、「果然は?の属に(289)して、頬に髯あり。髯黒くして、性、髯を理《ととの》うるを好む。また、その類を愛し、生くるに相《たが》いの序あり、死ぬるに相《たが》いに赴く。一の果然を取れば、数十の果然を得べし。けだし族を聚めて啼き、これを殺せども去らず」、『夷堅続志』にいわく、「果然は、云々、射|中《あ》てらるるものあれば、すなわち生者、死者の箭を抜いて、みずから刺して死す。仁義の獣と謂うべし」。欧州の俗信に、蠍や蝮蛇を火で囲み逼ると、今はこれまでと覚悟して自殺すという。予自分|試《ため》し、また試みた人々よりも聞くと、蠍が焚け死ぬ時|反《そ》り身になって尾尖が頭に中《あた》り、蝮蛇が最期に狂うて偶然自体を?んだまま亡びるので、自分の毒が自身に利いて死を早めるのでないようだ。しかるに?がいかに友愛篤ければとて、射殺された友の箭を抜いてみずから刺して死ぬとほ法螺もはなはだしい。ただし、鯨なども子を取れば親が慕い来て去らざるごとく、?すなわち果然が特別に人情が篤いのは事実であろう。『唐国史補』に、「剣南人の果然を采《と》る者、一の果然を獲れば、すなわち数十の果然ことごとく得べし。何となれば、それ果然は性仁にして、類を傷《そこな》うに忍びず、獲らるるものを見れば、族を聚めて啼き、これを殺せども終《つい》に去らず。噫《ああ》、これすなわち獣の状にして人の心あるなり。楽羊その子を食らい、史牟《しぼう》その甥を殺せるは、すなわち人の状にして獣の心あるなり」とはまことに痛み入った。一人や二人殺したり食ったりくらいは言うに足らず、千万人を半死半生に苦しめて平気で喜びおる者が少なからぬ世ゆえ、マーク・ツウェーンが何かのはずみに、「なるほど人間には人情が多くある」とあてつけた。『二十二史感応篇』に、ケ芝、?を射|中《あ》てしに、?その箭を抜き木葉を巻いてその創を塞ぐ、芝いわく?《ああ》われ物の性に違えり、ほとんど将《まさ》に死せんとす、と。頓《やが》てにわかに死んだとあるは、『三国志』に名高い呉に使して君命を辱しめなんだ雄弁の将軍のことだろう。
 故ロメーンズの説に、猴類の標本はどうしても十分集まらぬ、これはその負傷して死に至る間の惨状が人をして顔を背けしむること多きより、誰もこれを銃殺するを好まぬからだ、とあった。しかるに、それほど猴を撃つを憚る人間がややもすれば多くの人を「生くるも得ず、死ぬるもまた得ず」というほど困らせて恬然たるも不思議で、タヴァ(290)ーニエーの『印度紀行』に、バニアン人は鳥獣から昆虫までも憐愛して蚤《のみ》の悲田院さえ建てやる、それに人間に対して誅苛求酷、ほんの刃をもって殺さぬまでなるは合点が往かぬと書いたが、そのインド人の所行を合点し得なんだ欧州人が、雑多の難題を言い掛けてインドその他の邦土を奪い去ったはさらに合点が往かぬ。この様子では、人情は人間になかるべきもので、もっぱら鯨や猴輩に存し、たまたま人情ある人は進化が低度で畜生を距たる遠からぬものと嘲り去る世となるかも知れぬ。
 猴類が友愛篤く親子相伴うくらいのことは余も毎度|睹《み》知るが、支那の書に述べた?ほど人情に富んだものあるを見たことがない。もし果たしてそんなものがあるなら、心理学、倫理学、社会学等を攷究する輩に多大の参考ともなるべしだが、一体?また果然とはどんなものであろうか。本邦博物学者の親玉蘭山先生の『本草啓蒙』には、果然、一名歌然、また岐尾獣、和名オナガザルまたトウザル、「長崎には稀に舶来あり。『大和本草』には津軽にも自生ありといえども今奥州地方より出ずることなし。形は猴に同じくして黒褐色、尾は身より長くして端に岐あり、鼻は仰鼻《はすきりはな》にして両孔天に向かう。雨降れば体を樹枝に掛け尾を反して鼻孔を塞ぐ」と見て来たような話だが、実は支那説の和解に過ぎぬ。さていわく、「『南州異物志』に、「十余の皮を集めて一の褥《しとね》を得べし。繁文麗好にして、細厚?煖なり」という。『広東新語』に、「?然なるものは、従化山中に生ず。猴に似て身《からだ》黒く面《かお》白し。その尾長くして身に過ぐれば、しばしば尾をもってみずからその身を度《はか》り、もってみずから娯《たの》しむ、云々」。宗彝は宗廟に供する酒樽なり。?の尾を反して鼻孔を塞ぐの状を画く。これ智慧あるに象《かたど》るなり」と言われた。オナガザルは尾の長い猴輩を総括する号で、?に限らず、トウザルは舶載の猴類の概称、これも一種に止まらぬべく、?が果たして、わが邦へ将来されたことありやはすこぶる疑わしい。『理斎随筆』五に、日光に獣あり、尾をもって首を覆う、果然なるべし、またぬきと名づく、とある。これは尾の端に岐あって鼻孔を塞ぐ獣は見当たらぬから、?鼠《むささび》などが尾で頭を覆うを見て果然だろうと早合点した誤見だ。
(291) 明治三十二年八月出板『ナレッジ』雑誌に、ライデッカー氏の「鼻の高低の対照」という一文が載った。少しく註釈を加えて大要を訳出しょう。いわく、「新世紀の諸猴は鼻の両孔間の軟骨幅広きゆえ、両孔相遠ざかり斜めに外に向かうこと、全く旧世界諸猴のかの軟骨狭く鼻孔相近くて口の方に向かえるに異なり。かくて旧世界諸猴の大多数の鼻は下等人種の鼻とさまで差わず。しかるにその中の三種はその鼻特異にして猴中の奇物たり。まず神猴ハヌマン(第三図)、これはインドの高山に棲み雪中に戯る。『ラマーヤーナム』に羅摩《ラーマ》を助けて私他《シータ》后を取り還したとて高名なもの、古く三国の世に漢訳されし『六度集経』にも出でたり。他の諸猴と異《かわ》り、果よりも葉を嗜み、牛羊同前複胃あり。鼻梁やや人に近く、諸猴より優美なり。次に天狗猴(第四図)は、天明元年(一七八一)ボルネオで発見さる。この島にハヌマンもあり。天狗猿の雄、鼻高さ数インチ、その端の下に穴あり、はなはだ相近し。雌の鼻はすこぶる低し。幼時は雌雄とも鼻低く、その穴、下に向かわず前より見ゆ。毛色すこぶる奇にして美なり。成長せる雄、身長三十インチ、尾二十七インチに及ぶ。次に仰鼻猴は二種とも天狗猴と同長なれど、?肢太きゆえはるかに大きく見ゆ(熊楠見たるは三、四歳の日本児ほどありしと記憶す)。その鼻準《びせつ》顔面と鋭角をなして急に上に向かい、両孔前より見え、その貌きわめて珍なり。橙色仰鼻猴(第五図)は、仏国宣教師ダヴィッド師が東蔵ムピン州で獲たる牝の標本一つパリ博物館にあるのみなりしに、このごろ大英博物館にその牡一を備うるに及べり。体の上部の地色が濃橄褐で黄点ありて赤を帯ぶ。額の下と体の下部鮮やかな帯黄橙色、顔毛は真橙色に近く、その毛なき部分は淡青なり。腰に淡色の帯条あること天狗猴に同じく、尾は彼より短くやや棍状をな(292)す。頭きわめて堅実、ほとんど獅頭の観あり。四肢また太く短く、その足ほとんど毛に隠さる」とあって、寒国の獣、熱国の獣より諸部堅実太短なる例に、虎が産地の寒熱に随って大いに姿態を異にする由を述べ、さていわく、「仰鼻猴のこと一向知れず。伝聞するところ大群をなしていと高き木に登り、その葉よりも果を好み食らう、と。第二種、石板色仰鼻猴はチベットおよび西北支那に産し、去年(明治三十一)始めてパリに将来さる。大きさも鼻仰げることも前種に同じ。尾はすこぶる毛長く全体また毛長し。?の上部と四肢の前部と外部黝褐石板色にて頬と腿と?の下部純白、顔の無毛のところ淡紅なり。揚子江とメコン河の間の山岳に住み、冬はチベット、夏は支那の方に移るならん。土俗これをチルチラ(白猴)と名づく。惟うに、藍河は上述二種の限界たるべし。橙色種は北四川、南甘粛と東蔵のムピン州に産す」と。
 翌三十三年上述橙色仰鼻猴の牡の唯一の標本が公示された時、予ライデッカー氏に聞き合わすと、橙色種はリノピテクス・ロクセラナエ、石板色種はリノピテクス・ビエチと学名を示され、また最晩今一種中央アジアでリノピテクス・ブレリヒが発見されたから、仰鼻猴はすべて三種となったと教えられ、参考書類を示されたから控え置いたが、予の在英中の留書きが一万三千頁あるゆえ、多忙中見出だし得ぬ。ただし四年前ラ氏が書いた『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』の猴類の条には、この第三種の奴も石板色すなわち帯青鼠色とばかり短く記しあれば、毛色だけは第二種と大同小異らしい。
 ラ氏またいわく、「仰鼻猴は近時まで欧州学界に知られざりしも、支那人はいと古く、少なくともその一種を識りたるもののごとし。西暦紀元前二千年以上に成りしという『山海経』に仰鼻の人種を載せたるはこの猴を指したるならん」と。熊桶想うに、支那人いと古く仰鼻猴を知れりというは当たれり。仰鼻猴すなわち?一名果然で、『本草綱(293)目』に白質黒文、『広東新語』に「身黒く面白し」と書いたはいずれも第二石板色種に相違ない。すなわち揚子江とメコン河間の山岳に住むものだ。『段氏遊蜀記』にいわく、「戎人、果然の褥を進むるに、?褐碧の三色相|間《まじ》る」とあるなど、ことにラ氏の説に合う(『玉篇』に?は色黒なり)。東蔵、甘粛等の橙色種や中アジアの第三種は、支那人も古く知らなんだらしい。ラ氏が仰鼻の民をこの猴のこととしたのは、一八七九年板、モーズレイの『チャレンジャー艦博物学記』四二九頁に、「『山海経』に梟羊国の住民を説く、いわく、「その状《さま》人の面《かお》のごとく、長き唇あり、長き毛、黒き身《からだ》にして(『経』には実に、「人の面のごとく、長き唇あり、黒き身に毛あり、反踵《はんしよう》す」とある)、人を見ればすなわち笑い、笑えばすなわち上唇その目を掩《おお》う(本文この次に、「交趾および南康郡の山中に大なるもの丈余なるあり」とある)」とあって、図(第六図)を出す。近く東蔵で発見された仰鼻猴、この『山海経』の図と一様の鼻あれば梟羊はこの猴なるべし」と書いたに拠ったらしい。しかるに、その図には仰鼻猴ごとき長尾なく、また鼻が決して仰ぎおらず、反って下と側に向いておるから、モ氏の見解は誤れり。モ氏はこのことを当時横浜在住のジキンス氏に聞いたと聞いて、予ジキンスに会うて注意すると、われは汝ほどの博物学を修めぬから、これしきの間違いはあり内《うち》だ、人のことに構わず酒飲まずと聢《しつか》りやれ、と小言だった。
 梟羊一名狒々、これは邦俗狒々爺などいう綽号の出処で猴の大なるものと心得、西洋のゴリラ同様濫淫者を指す名となりおり、学者は普通に東半球のバブーン猴諸種に充てるが、予種々攷究して東南アジア産のメルルス・スリビウス(長唇熊また懶熊)が、産地も毛色も「長き唇にて、人を見ればすなわち上唇目を掩う」も「反踵して行《ある》く」も全く狒々に当たるを知り、柳田君に報じ置いた。要するに仰鼻猴は?で梟羊でない。
 ?すなわち仰鼻猴が長鼻の端に二岐あって、雨ふる時はもって鼻孔を塞(294)ぐとはいかにも胡乱《うろん》な話だが、すべて東西とも古人は実見よりも伝聞を貴び、プリニウスは尾長猿は月減ずればこれを悲しみ、新月を見て悦び躍って拝むなど誠しやかに書いた。宗彜や十二章を創作した支那人は、?の産地に住まず、その物を見ず伝聞のまま画いたのだろ。?の鼻が非常に仰ぎおるから鼻孔を塞ぐに尾端の岐をもってす、と言い出したので、猫の尾などに二岐あるような曲がり方のがあるを見ると、?の棍状の尾端にも時として二岐がかった畸形があるのかも知れぬが、多く捕えた上でなければ別《わか》らぬ。それからラ氏は、この猿の鼻が仰げる因由を説いて、高地の空気薄い処に住むゆえ、かなり多量に空気を吸う様の構造だろうとて、チベットのチル羚羊の似例を引かれたが、不案内の予は賛否を言い兼ねる。ただし、ラ氏が「天狗猴の鼻高き理由に至っては読者に報ずべき解説の端緒すら有せぬ」と言われたははなはだ物足らぬ。氏がみずから言われた通り、この猴、幼時は牝牡共に鼻低く、その孔前に露わるるに、成熟期に達して始めて牡のみ鼻高くなり、その孔下に向かうとあれば(ウッド、『動物画譜』一参考)、この隆鼻は全く雌雄淘汰から起これること、女子が男子の鼻高きを賞すると同前じゃないか。それから『本草』に、?の一名?、「あるいはいわく、猶予の猶はすなわち?なり、と。その性多疑にして、人を見ればすなわち樹に登り、上下すること一ならず。はなはだしきは奔り触れて頭を破り脛を折るに至る。故に、人もって心疑いて決せざる者に比《たぐ》う。しかして俗に?愚《がいぐ》なるものを呼んで癡※[獣偏+?]《ちるい》となすなり」。?ごとき性質詳らかならぬものは一事でも心得置くが学者に必用ゆえ、もしやそんな性質のものかと書き付け置く。その友愛厚く鼻を尾で塞ぐ智あるを賞して宗彜に画かれた獣が、一方には馬鹿者の異名と成り下がったので、東西とも犬を人世不可欠畜と称するかたわら人を卑蔑して犬と呼ぶごとし。
 さて古支那の祭器に犧尊あり、「牛を尊《たる》の腹に画き、あるいは尊をもって牛の形に作り、その背を鑿って、もって酒を受くるなり」という。アルメニアには今に木樽もガラス罎もなく、牛や水牛や山羊や豚の皮を、毛の方を内にして丸く縫って袋とし石脳油に浸し葡萄酒を詰める。かかる大袋をおびただしく車に載せて運ぶ状、死畜を堆《つ》んだごと(295)くすこぶる不快に思わせる由(一八五四年英訳、ハクストハウセン著『トランスカウカシア』一四八頁)。支那の犧尊はもと全牛皮の酒袋から出たのであろう。これから推して宗彜に?を画くは?の皮で酒袋を作った遺製が『周礼』に保存されたものか、と『ナレッジ』に寄せた文に書き置いたが、そうすると鶏彜、鳥彜は鶏や鳥の皮の酒袋から起こったと言わねばならぬ。だが鶏や鳥の皮で酒袋を造るはあり得ぬことと思う。
 猴は今日もインドで尊ばれ、西|非《アフリカ》トゴランドでもこれを崇拝し、仏領西非のポルト・ノヴォでは小形の猴神を?生児《ふたご》の守護尊とす(『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』巻二)。本邦にも日吉山王や青面金剛の使者は猴で、飛騨と美作に猴を祀って人を牲したこと『今昔物語』に出で、今も猴は産や痘瘡軽しとて祀る所あり。セマン人伝う、大猴天門を守り刺多き果を投げて天に登る者を禦ぐ、世界終わる時地上の物みな彼の所有に帰す、と(一九〇六年板、スキートおよびプラグデン『巫来《マレー》半島異教諸族篇』二巻二一〇頁)。明の黄省曽の『西洋朝貢典録』、瓜哇《ジヤワ》の蘇児把牙《スラバヤ》、「その地に猴多く、孕むを欲する者はこれに?る」、註に、「港に洲《す》あり、林木森鬱として、中に棲む長尾猴万余なり。老いて黒き雄猴、これが長となり、一の老番婦これに随う。およそ子なき婦は、酒肴、花果、飯餌を持って、老猴に?る。老猴喜べばすなわち食らい、衆猴その余《のこり》を食らう。随《つ》いで雌雄の二猴、前に来たって交感するあれば、帰ってすなわち孕む。食らわず交わらざれば、すなわち孕むなし。土伝に、唐の時、民丁五百余口あり、みな無頼なりしが、神僧あって、その家に至り、?《そん》して化して猴となし、ただ一嫗を留めて化せず、旧宅なお存す、云々、と」。チベット人やインドのジャイトワ人は猴を祖先とす(タイラー『原始人文篇』二板一〇章)。『淮南子』に、「楚人、猴を烹《に》てその憐人せ召《まね》くあり。もって狗の羮《あつもの》となせり。しかしてこれを甘《うま》しとす。後その猴なるを聞くや、みな地に拠ってこれを吐き、ことごとくその食を瀉《は》く。これいまだ始めより味を知らざる者なり」。実は味を知らぬばかりでなく、漢代に猴を神物また族霊《トテム》として食うを忌んだ輩が多かったのだろ。
(295) これらから推し攷うるに、太初支那で鶏や虎や猴を崇拝したが、のちに天子の祖霊はかかる動物に勝ることが分かり、彼輩諸小神が宗廟に奉仕する由を示さんとて祭器にこれを画いたこと、まずは仏堂の装飾に梵教の諸天を雕るごときか。ただし装飾に猴像を用うるは支那に限らず、ベシシ人は吹矢筒と箙《えびら》を眼鏡猴の像で飾り(スキートおよびブラグデン、一巻三〇九頁)、ラツェルの『人類史』二にペルーのチムの古趾より出る巧芸品に猴形多しと言い、コロムビア国の猴形古土器(第七図)を掲げた趣きがよく支那の?彜に似ておる。(十一月二日)   (大正四年十二月一日『日本及日本人』六六九号)
 
(297)     人を水にする草
 
 古い落語に、大蛇が人を呑んでのち一種の草を食うと、腹の膨脹がたちまち減じて速やかに走り去るところを観た人が、その草を採り貯え、蕎麦切りの競食に、身が裂けるばかり健啖して、独り別室に入り、さらに音せぬから、余衆往って障子を開くと、蕎麦切りの大塊が羽織を著て坐しおった。全くこの人、その草よく人身に限って溶かし尽す力ありと気付かず、食う者の蛇たり人たるに論なく、大食ののち、これを喫《くら》えば食われた物ことごとく速やかに消化すべしと勘違い、さてこそ蕎麦切りが残って自身が溶け去ったのだという。
 本誌六九七号九八頁「翻訳種の落語」に誰かが説かれた通り、趙宋の何遠の『春渚紀聞』より『本草綱目』一七下に引いた「臨安の僧法堅いわく、客あり、潜山の中を過ぎ、一蛇の腹|脹《ふく》れたるが、一草を?んで、腹をもってこれを磨して消《へら》すを見る。この草は必ずやよく脹れたるを消すならんと念い、取って篋中に置く。夜、旅館に宿し、隣房に人あって腹脹を病んで呻吟するを聞く。釜をもって薬一盃を煎じ、与えて服せしむ。頃之《しばらく》するにまたと声を聞かず、すでに安んぜりと念う。旦《あした》に至りこれを視るに、その人、血肉|倶《とも》に化して水となり、独り骸骨の牀《とこ》にあるのみ。その釜を視れば、すなわち通体《すべて》金となれり、と」。これがたぷん件《くだん》の落語の根本だろう。『綱目』また『??神書』や『庚辛玉冊』より、蜀中の透山根と金英草は、「汁を取って鉄に点ずれば、立ちどころに黄金となる。人誤ってこれを食らえば、化して紫の水となる」と引いた。旧日本でカタバミや石榴で鏡を磨き(『骨董集』上編上)、中米の古土人がある草汁を金の焼付細工に使うたごとく(『ネーチュール』八二巻四五七頁)、右の蜀中の毒草も、鉄を金色に焼き付ける(298)力ある酸類を含みおったのを、方術家輩が大層に言い触らしたことと察するが、金英草はスベリヒユに似て紅色、透山根はどうやら傘形科のものらしいを推し得るまでで、いずれも記載至って不完全ゆえ確かに何物と判らぬ。『本草啓蒙』に、二物共に不詳とせるはもっとも千万で、『本草図譜』に、透山根をドクゼリとせるは杜撰の極だ。さて、『大英百科全書』一一板二五巻二八五頁に、蛇類はみな動物食するよう見えるが、時として植物をも食うは、ワレの『米国淡水藻譜』に、モンタナ州の急湍に生ずる緑藻テトラスポラ・シリンドリカは長さ十フィートに及ぶ。その辺に特存する紐蛇、身長まれに二フィートを超えるが、口を思い入れ開いてその一端に咬み付き、徐々に頬に詰め込み、しかるのち小さいタリヤー犬が鼠を振り廻すごとくこれを振り廻す。自分より数倍長くて滑らかな藻を食うとてかかる急湍中に奮闘する状真に可笑しと、アンダーソン氏の目撃談を載せたるで知るべし。
 本邦にも、『本草啓蒙』に赤車使者をクチナワジョウゴに当て、「一名ウワバミソウ、この草蛇過食の時食えばすなわち消す。故にクチナワジョウゴという」と見ゆ。『本草綱目』一四や『重修植物名実図考』二五中の赤車使者の条にこのこと一向見えぬより攷うると、この俗説は日本固有のものであろう。しかるところ、今年九月四日付で江州高島郡西床村の井花伊左衛門氏より来状あり。去る七月三十一日、越中国新川郡小黒部谷大ヌケ付近を通行中、人夫黒岩直吉(信州大町住)が殺した蝮は、約四尺五寸長く、大なる蟾蜍を呑み、その頭の方半分は溶け掛かりおった。その蝮の胃中に草の茎と葉あり、人夫これはミズナと名づけ人の食用とすという。よってミズナの生本を採らせ比較するに、その葉、蝮の胃より出た物より細長し。人夫、ミズナは土質によりその葉あるいは円い方のもあるという。蝮より出た葉もミズナの生葉も甘茶のごとき香気あり。人夫いわく、これまで蝮をしばしば剖いたがこんな物を見出でたは今度始めてだ、と。偶然呑んだものか、または消化作用を助くるためかは不明だが、蟾蜍より後に呑んだとは葉が胃の上部にあったで明らかに知らる。落語家その他のしばしば語る、蛇、人を呑んで草を啖《くら》い消化を励ます譚は、かかる事実を視て生じたるかと愚考す、とあって、蝮の胃から出た葉茎半分を贈られた。
(299) 熊楠|謂《いわ》く、『本草啓蒙』一〇に、クチナワジョウゴの異名、但州でミズナ、南部でミズ、およそ円茎にして淡紅色透明の物をミズという、蚯蚓の略なり、とあれば、上記人夫のいわゆるミズナはクチナワジョウゴを指すらしい。今贈られた葉茎を視るに、葉柄二分より五分まで長くて、全く葉柄なきクチナワジョウゴとはまるで別物だ。それからクチナワジョウゴの近属で本邦に産する諸植物標本と較べたが、どうもよく合った物なし。井花氏書面に香気ありと見ゆるにちなみ、もしや唇形科の物でないかと標品を彼是《かれこれ》探って、フジテンニンソウの若葉が一番蝮の腹から出た物によく合うを見出でた。これとても何分現品が一度胃中にあった物ゆえ十分と確言しがたい。とにかくこの井花氏の目撃談によって、蛇類が消化を助くるに、ある植物を用うという和漢諸説が全く根なしでないと知れた。その時上述の話をした工夫は、いわゆるミズナ(クチナワジョウゴ)に『本草啓蒙』に出たごとき俗説あるを知らなんだらしいが、果たして蝮の腹から出た草が工夫の言った通りミズナの一変態か、あるいはその近属の植物の若い葉茎であったら――これはあり得べからざることでない――ミズナをクチナワジョウゴ、またウワバミソウと称するは正しき理由あり。犬猫が時として生草を咬み、家鶏が消化を助けんとて砂礫を喙むと斉しく、科学上の一研究を要することじゃ。
 ついでに述ぶ。堕胎の子を水にすると称うるを措きて、このクチナワジョウゴの俗説の外に、人が水になった本邦固有の譚は予ただ二つを知る。『今昔物語』二八巻三九話に、寸白虫、人の子に生まれて信濃守となり赴任し坂向《さかむか》えの饗を受ける(本誌七八四号八六頁、「酒迎」を見よ)。胡桃一種を数々調えて供うるを見てすこぶる困しむ。その国の介だった人、これは寸白が人になって来たのだろと推し、酒に胡桃を摺り込んで熱くして定例なりとて奉るに、守、気色いよいよ変わり身体限りなく顫動するをも構わず、その酒を強うると、守、実には寸白男、さらに堪うべからず、というて颯《さ》と水になりて流れ失せた、とある。今一つはあまり古からぬ題号を欠いた書に、ある山村で例年祭礼に未通女一人を撰び人身御供とす。その年、初花という美娘その撰に中《あた》り、衆人に舁がれ往きて社壇へ棄て置かる。夜半に扉開いて艶容梅花のごとき若衆現われ、交歓度重なりてその女|終《つい》に水に化しおわった。究竟《くきよう》の際身溶けるがごとしと唱(300)うるはこれに始まる。その若衆、実は東原の馬骨ちう妖怪だった、とあった。この名の怪物は『曽呂利物語』四に、乾野の馬頭、『一休諸国物語』四に、東野の馬頭として見えおるが、いずれも人を取り食うの、躍り脅かすのとあるのみ。破素化水のことなし。惟うに初花女の譚は、清の蒲松齢の『聊斎志異』四、「五通」の条に見えた、馬が丈夫に化けて美婦  間氏を辱しめた話などより転出されたであろう。   (大正九年十月一日『日本及日本人』七九三号)
 
(301)     何首烏について
 
 『羅山文集』寛永十四年板、坂卜斎が頼宣卿に請うて朝鮮に求めた薬草目録にも、『桃源遺事』の西山公が日本になく、またあっても領地になき生物を移殖した中にも、何首烏《かしゆう》あり。正徳三年に成った『和漢三才図会』に、倭の何首烏と称するは黄独(ケイモ)だから薬用には唐の品を用ゆべしと言って、「『本草彙言』にいわく、何首烏は、精を固くして気を斂《おさ》め、瘧を截ち痢を止むるの薬なり。延年の種子の説は荒唐に属す。しばしばこれを服してのち死に至ることあり。しかれども人この薬の毒なることを識らざるなり。けだし、この言もまた偏なり。何首烏は、すなわち薯蕷《ながいも》の属にして、もと毒の類にあらず。しかれども深山に自然に生じ、数年を歴て雌雄の夜蔓を交うるものは奇効ありと謂う。すなわち雌有老嫩を択《えら》ばずして、何ぞ効あらん。いわんや黄独をや」と書き、白井博士の『増訂日本博物学年表』に、享保七年、幕府令して薬種の名これまで言い来たりしを改めしめし内に、何首烏を毛イモと改むと載せたれば、そのころまで本邦に真の何首烏を生ぜず、もっぱら黄独を代用したのだ。しかるに享保六年より八十二年のち、享保三年に公けにされた『本草啓蒙』には、何首烏、通名(和漢同称)、漢種を伝えて多く栽え、はなはだ繁殖す、とて葉根花実を記載し、薬舗に貨《う》るもの朝鮮を良とす、和に栽えるものも漢種なるゆえ真物なり、云々、と出で、それより二十五年のち、文政十一年に成った『本草図譜』には、何首烏、ツルドクダミ(武州豊島郡)、武州江戸近郊人家藩籬に多し、と見ゆ。
 さればこの物本来邦産なかったところ、享保後、享和前、支那種を伝えてたちまちはなはだしく繁殖したので、今(302)は知らず明治十九年ころまで、和歌山市の旧城内や士族屋敷の壁垣この物で全く蔽われたを多く見受けた。ブレットシュナイデルの『支那植物篇』、単に日本でいわゆる何首烏はツルドクダミと記せるのみ、支那の本物の何たるを言わず。されど『植物名実図考』の何首烏の図、全く和産すなわちツルドクダミに異ならず。頃日山東済南の谷崎喜一郎氏、予に最上品の何首烏とて数塊を贈られたのも邦産と少しも形色も違えず。『新訂草木図説』に、何首烏、ツルドクダミ、わが邦(美濃)根尾山に自生あり、漢種と同じという。これは本来の自生か、また、和歌山市におけるごとく支那より伝えたものが野生となったのか判らぬが、とにかく、何首烏はわが邦風土に適したものと見えるから、むやみに今さら支那品を買い入れるには及ばず、すでにわが邦に帰化し繁殖しおるものを育て上げるか、さらにいわゆる最上品を移植して自給自足するが良策であろう。
 その効能に至っては『植物名実図考』に、「何首烏は、云々、近時|価《あたい》日ごとに増し、しかして薬ますます偽る。その大なるものは多く補綴《つぎはぎ》して成る、云々。?南にては、大なるものは数十斤あり、風戻《ふうれい》時を経れば、肉汁独り潤う。しかれども、服食して上寿を得たる者あるを聞かず。豈《あ》に忌むところの魚肉を、いまだことごとく絶つ能わずして、炮製その本性を失えるか。三斗の栲?《こうろう》の大いさなるは山精と号《なづ》く。?人これを得んとするは、必ずしも縁《わけ》あるにあらず、ただ善価を博し、穀を糴《かいい》れて育つるを事とするのみ」。李遠いわく、「何首烏の三百年なるものは、三斗の栲?の大いさのごとくにして、山精と號く。純陽の体にして、久しく服すれば地仙となる」と。李安期の讃にいわく、「神効の道を助くること、著《の》せて仙書にあり。雌雄相交わり、夜合して昼疏なり。これを服して穀を去れば、曰居月諸、老を返して少に還り、病?を変じ安んず。緑ある者遇わば、?爾《つとめ》て自如たれ」と、云々。「服食して仙を求むるは、固《もと》より妄説となす。嗜を節すれば神に通じ、薬すなわち効あり。酔飽中にして霊を草木に乞うも、南轅北轍して、相去ることますます遠し。その血を活かし、風を治するの効のごときは、すなわち明の時の懐州知事李治の伝うるところの一方あり、われもつて妄ならずとなす」とあって、「この草、一に交藤と名づけ、一に夜合と名づく」、「雌は苗《わかめ》の(303)色黄白にして、雄は黄赤なり。根|遠《へだた》ること三尺を過ぎざれば、夜はすなわち苗の蔓、相交わる。あるいは隠化して見えず」。およそ合薬を修《つく》るには、すべからく雌雄相合すべくして、喫すれば験あり」とか、「春末、夏中、秋初の三時に、晴明なる日を俟《ま》って、雌雄を兼《あわ》せてこれを采り、潤いに乗じて布帛をもって泥土を拭い去り、皮を損うことなかれ。烈日に曝《さら》して乾かし、密器にこれを貯う。毎月再び曝す。用うる時には皮を去って末となし、酒を下《したじ》にすること最も良し。およそ服するには、偶日二、四、六、八の日を用《も》ってす。服し訖《おわ》れば、衣をもって覆い、汗出でて導引するをもっとも良しとす。猪肉、血羊、無麟魚を忌み、薬に触るれば力なし」などいかめしく書いておる。して見ると、たといその神効が不妄だったところが、予の手に入れたような切片を紙袋に入れたものや、服用する遠き前から粉末にし売るような品はさっぱり利かぬに決しおる。また、無鱗魚を忌むというは、鰻や泥鰌や鰹を常食する地方で行ないがたいことで、取り分け、夜分雄と雌の蔓が交わるところを採るを要すというは無上の難件だ。故にこの霊薬を十分利用したくば自分手近に植えて方のごとくみずから採りみずから調えるの外なし。『本草綱目』に、「掘り得て皮を去り、生にて喫し得。味は甘甜にして、粮を休《や》むべし」、『救荒本草』に、「泥土を洗い去り、苦竹の刀をもって切って片と作《な》し、米の?《しる》に浸して宿《よる》を経《へ》、水を換えて煮て苦味を去る。再び水をもって淘《すす》ぎて洗浄し、あるいは蒸し、あるいは煮て、これを食らう。花もまた?《ゆ》でて食らうべし」とあって、予の手に入れたものを試みるに、甘くはないが食えぬ物でもないようだから、空地へ多く作ったら仙人になれぬまでも米高の時節を凌ぐ幾分の助けになるかも知れぬ。さて面白いは、『聞見近録』という書に、寇莱公執政たらんとした時、帝、人に語って、寇準は好き宰相だが年が若過ぎると言うたと聞いて、公、何首烏と三白を併せ食らうと鬚髪たちまち白変し、よって相に拝せられた、とあるそうだ。三白は俗に半夏生草というて田間の溝?に多い。遠からぬうち原敬君の跡釜に据わる人、髪の黒きを厭わば、この法をやって見るべし。
 何首烏に雌雄あり交会するを見て、何田児これを採り服し、六十余歳で数男を生んだちう譚に似たのが西洋にもあ(304)る。それは『聖書』に名高きズダーイム、ラテンでマンドラゴラスという茄科の草で麻酔力あり。『本草綱目』毒草類なる押不盧《ヤブルウ》はこの草のアラビア名ヤブロチャクの音訳なるを、予、先年『ネーチュール』で発表し、併せて東洋の商陸、ヤマブドウと西洋のマンドラゴラの話が多く相似おると詳述した。マンドラゴラの迷信は今も欧州に蹤を絶たず。それはこの草に雌雄あり、おのおの根に男女の相を具え、採り折らるる時叫ぶ、その声を聞く人も犬も必ず死するゆえ、固く耳を塞いで採る。女人これを服し、また佩ぶれば必ず子を孕む。象は至って寡慾だがこの根を食うて精を起こし偶を求むというので、現にシカゴに東方よりこれを輸入するユダヤ人あり、毎根値四ドルを下らず、ある若い男は、その妻子なきを憂い一根を十ドルで購うたとか(ハズリツト『信念および俚伝』二巻三八五頁。ハートランド『原始父権論』一巻四四頁以下)。プリニウスの『博物志』二二巻に、百頭草(ケンツムカビタ)の根、まれに陰陽の相を具うるあり、男子その陽相ある者を得ばきわめて婦人に愛せらる、ファオンがサフォに太《いた》く慕われしはこれに由ると出たのも、マンドラゴラに外ならずと、そのボーン文庫本の註に見ゆ。わが邦では、定家の執心、テイカカズラとなって式子内親王の御墓に這い絡《まと》う(『甲子夜話』続三。参照『和漢三才図会』九六)というのが、何首烏の雌雄蔓夜合う説にちょっと似ておる。(九月十八日)   (大正九年十二月言『日本及日本人』七九七号)
 
(305)     狆について
          「大塊一塵」欄参照
          (『月刊日本及日本人】一〇二號四〇頁)
 
 「大塊一塵」に、「狆《ちん》はいずれの時代に初めて輸入されたかを知らぬが、さほど古いことでもなかろうことは、『和漢三才図会』に載っていないので知られる」とある。だがこの書より五年前に成った『大和本草』に出でおるヤギ(野牛)、カブトムシ、カタクリ(カタコ)、トマト(唐ガキ)等が、この書に全く見えぬゆえ、この書にないからそのころ狆がなかったといえまい。というと傍より、仙台騒動に若君がわしゃ狆になりたいと言うたじゃないかという人あり。なるほどこれは日本で狆に関する最も名高い文句で、この騒動は『和三』が成った年より四十二年前の寛文十一年に片付いた。しかし件《くだん》の文句は『和三』より後にできた『伽羅仙台萩』にでた仮作だから、寛文中に狆があった証拠にならぬ。ただし寛文七年に出た『続山井』に、「珍花とて愛すべいかの犬桜」という句あり。犬をべいかというは吠狗の訛りか、珍花は狆を含めり、と喜多村信節は説いた。また、『和三』より三十五年前、延宝六年に出た田代松意の『幕尽し』に、「うき涙たもとの内へころころころ」林言、「ちんに見ゆるは毛の生えた夢」雅計、「枕しん□□□あたまの黒じゃ物」松意。拙蔵の写本三字を欠くゆえ意味が分からず。『本草啓蒙』四六に、チンは払菻狗(『唐書』、『留青日札』)なり、一名矮爬(『事物紺珠』)、一種至って小さく長さ四、五寸なるものあり、マクラチンという、馬鐙狗(『事物紺珠』)なり、と記す。そんな狆をよんだのかと惟う。
 俳書など調べたらまだまだ例があろうが、これだけでも『和漢三才図会』が成った正徳三年より数十年前すでに狆(306)が本邦にあったは確かだ。それから『骨董集』上編中巻、名古屋帯の古図は寛永以前の物とあって、少女が狆を維《つな》いで右手でその紐をもつ。その狆の喙が今の狆より長い。むかし外国から輸入した物の目録に水犬あり。『譚海』一一に、狆は水犬を最上とす、菓子を与うるには胃を壊《やぶ》りて悪《あ》し、鰹節に飯にて飼うべし、常の狆は生大すれども、水犬はいつも同じことなり、と出ず。『大英百科全書』に、犬を六群に分かち、狆をスパニエルに属せしむ。狩に用ゆるウォーター・スパニエルは天性水に入るを好む。想うに初めこれを水犬と称えて輸入せしを飼いて今の狆に変ぜしめたものか。しかして件《くだん》の古図の狆はその変化全からぬもので、寛永ごろから今の狆ができたのだろう。
 『嬉遊笑覧』に、払菻狗、『日本紀略』に契丹犬?二口、※[獣偏+委]子二口とみえたり、矮子これなり、大?は俗にいう唐犬なるべしと言えれど、※[獣偏+委]子、一本には?子ともありて定かならず、云々。狆にマルタ島、北京、日本等あってそれぞれ別に生じたらしい。『説文』に、?は短喙の犬なり、?は短脛の犬なりなどあれば、支那にも古来狆のような物があったのだ。十四世紀に支那に入った天主僧オドリクの紀行に、杭州府で貴人が生まれ変わったという人面の犬三千頭を、銀器に食を盛って飼うを見た、とあり。同世紀に支那に入った天主僧マリグノリの『東旅懐旧記』にも、サバの女皇方と杭州の名刹で同様の獣を見たが、杭州のものは相図《あいず》に応じ餌を食いに来るに、十字架あれば止まり、これを去れば来る、と書きある。これはどうも狆のことらしい。
 『嬉遊笑覧』またいわく、「『安澹泊、寒川儀太郎に答うる手簡』、薩摩より出で候犬の一種チンと申し候正字御尋ねに御座候。すべてかようのこと心にとめ申さず、一切覚え申さず候。『北斉書』、『通鑑』に有之《これあり》候、東魏孝静帝高澄に逼られ、朕は狗脚朕と申され候は、近代の落し咄によく合い申し候儀と日ごろ戯言に申し出で候までに御座候、とあり。これもとよりチンの名義にはあらず、可笑《おか》しきことなればここに録す。さてチンの名義、例の推しあてながら、犬に似て小さきゆえチイと言いしがチンとなりしにや。近時チンも位を賜わりしといえる物語あり。『耳袋』に、天明元年、ある大名衆上京のことありしに、常に寵愛のチン跡を慕いて付き随いしかば、やむことを得ずして召し伴れし(307)こと沙汰あって天聴に入りぬれば、畜類ながら主人の跡を慕う心あわれなりとて六位を賜わりしとかや。これを聞いて何者か、食らひ付く犬とは兼ねてしりながらこの世の人のうやまわんわん。根なし言にはあるべけれど、その節処処にて取りはやしけるまま記す」とあり。
 斎藤彦麿の『片ひさし』には、矮犬をチンといいて狆字を当てたれど非なり、狆は、字書に狂なりとありて狂うことなり、小犬のチンは字音にあらず、ヂイヌの音便にて、ヂイヌは小さ犬の略なり、もと皇朝の物ならねば名はなかりしなり、『類聚国史』に「淳和天皇の天長元年、四月丙申、越前国より進《たてまつ》るところの渤海国の信物、ならびに大使貞泰等の別の貢物を覧《みそな》わす。また契丹の大狗二口、  猥子二口、前に在りてこれを進る」、これ皇朝に矮犬わたりたる始めなり、と言った。されど、小さ犬、ヂイヌ、チン、共に『和名抄』以下、徳川氏以前の物に見えず。支那人は、すわれというを進坐(チンツァ)というより、犬に坐れというをチンせよという。また賃を与えて種々の芸を演ぜしむる。この二つのいずれか一つの義より徳川氏の世にチンの称えは生じたであろう。   (大正十五年八月十五日『月刊日本及日本人』一〇五号)
【追記】
 再び狆について。前文に『骨董集』等を参考して、「寛永ごろから今の狆ができたのだろう」と述べ置いたが、頃日『陰徳太平記』一冊を見るに、大内義隆滅亡した時、その子義尊年|甫《はじ》めて七歳、従臣小幡四郎義実十五歳に向かい、「四郎、桃花犬(チンノイヌ)は敵にや討たれつらん、われを尋ぬらんなど宣えば、異雪和尚、それもとく御先へ参り、道に待ちており候わん、御道すがら御伽に召しつれられ候え、狗子仏性とて仏になる物にて候ほどに、極楽へ具せられ候えと申されければ、それなればよきにとまた手を合わせ、念仏唱えたまうところを義実|頓《やが》て御首を打って、返す刀にて腹掻き切って主の死骸に抱き付いてぞ伏したりける」とある。この書は義隆父子死後百四十四年に成ったものだが、古老と父祖の談したことを記し集めたというから、狆の応対も旧伝に拠ったものなるべく、したがって天文中(308)すでに狆が日本にあったと知る。   (昭和二年一月十五日『月刊日本及日本人』一一六号)
 
(309)     葵の紋ある天産物
          「甲州の葵瓜」(無署名)参照
          (『日本及日本人』六三八号一三二頁)
 
 『甲子夜話』五四に、駿府都城の地に生ずる鈴虫、羽根の表に葵の御紋あり、また御城外の鈴虫は鳴声悪しく御城内のは細く長く美音なりと当地人言えり、と見ゆ。予幼年のころ和歌山で聞きしは、「いしもち」は江戸将軍とか紀州侯とかの魚で、頭から出る小石片に紋付きあり、と。イタリアにも似た話あって、ルコ山にフランシス尊者手植えの巴旦杏樹あり、その葉自然に十字架の紋を帯びて生ず、と。しかるに雨少しく滌《そそ》げば造作もなく消失す、と見た者の話なり(一八二一年板、コラン・ド・プランチー『遺宝霊像評彙』巻一)。俗を欺かんとする耶蘇坊主の所為たること明らかなり。チベットのルーテルの称あるツォンカパが西暦一三五七年(わが南朝正平十二年)、生まれた地に建てたクンブム大寺の霊樹は、かの僧の胎髪より生ぜしという。その一葉ごとに経文の字一を具え生ずるとて名高く、一八四五年、仏国の宣教僧ウクとガベーが睹《み》た時も、実に左様の奇観なりしという。しかるに、一八九六年、米人ワッデルがチベットに往きし時、その葉多少持ち帰りしを、大英博物館に陳列の前、サー・チャーレス・リード氏より予に数枚を頒たれ、その場に居合わせた徳川頼倫侯にも進ぜしが、ことごとく文字とては一つも見えざりし。この樹の本性は、商陸(310)科のものとも木犀科のものとも学者定論なきが、予は木犀科のものと鑑定す。   (大正三年十月十五日『日本及日本人』六四一号)
 
     狸の金玉
          「狸の金玉」(無署名)参照
          (『日本及日本人』六九〇号一二四頁)
 
 狸の金玉が非常に偉大なということ、いつごろ始まったか知らぬが、似たことは仏書に出ず。『翻訳名義集』巻六に、「鳩槃荼《くはんだ》、ここにては甕形といい、旧《もと》は冬瓜という。この神の陰は冬瓜のごとく、行くに肩の上に置き、坐すればすなわちこれに踞《すわ》れば、すなわち魅鬼《まもの》を厭《はら》う」。アイテルの『支那仏教便覧』に、鳩槃荼、梵語でクムプハーンダス、巨大な陰嚢の義、怪鬼の一群の名、と見ゆ。『妙法蓮華経』、長者の大宅頓弊の状を説く中に、「鳩槃荼鬼は、土?《つちやま》に蹲踞し、ある時は地を離るること一尺、二尺にして、往返して遊行《ゆぎよう》し、縦逸《ほしいまま》に嬉戯す。狗の両足を捉えて、撲《う》って声を失せしめ、脚をもって頸に加え、狗を怖《おど》してみずから楽しむ」などあり、陰嚢が甕形で冬瓜ほど大きく、坐る時はこれを敷き物にし、行く時は肩に載せ運ぶ異様の妖怪で、狗を威し鳴かせ睡人を魔《おそ》うなど種々悪戯をなすところが邦俗狸妖の話に似おる上に、かの経の後文、諸夜叉、鳩槃荼鬼、野干、狐、狗、G、鷲、鴟梟、百足の属と悪性の鬼禽を列した内に、狸がなくて、鳩槃荼と野干、狐、狗と続きおるから、何となく鳩槃荼の大陰嚢を狸の上に移したのであるまいか。四天王の一たる増長天は、鳩槃荼と薛茘多《へいれいた》と二部の鬼衆を領すということで、その像の足下にこの二鬼を踏むところを雕ったのが多い。(九月三十日)   (大正五年十一月一日『日本及日本人』六九二号)
 
(311)     耶蘇の亡霊
 
 『元寛日記』巻七にいわく、「寛永十七年、今年筑紫に怪しき虫あり。その形牛のごとく、頭に剣あり。大いさ蟇のごとし。説にいわく、これ耶蘇の亡霊この虫に化せるか」と。二年前滅びた天草の天主教徒の亡霊が化けたというのだ。文簡に過ぎて判らぬが、まずはカブトムシをかく言い囃したものか。カブトムシは古来本邦にあったに相違ないが、貝原先生の『大和本草』に始めて正図を出し、やや詳しく記載した。『和漢三才図会』には見えぬ。『訓蒙図彙』にもカブトムシを載せたが、空想もて兜を戴いた人面に昆虫の胴と足ある物を画きおる。あまりに普通ならぬ物ゆえ往々はなはだ怪しまれたと見える。   (大正九年八月十五日『日本及日本人』七八九号)
 
     本邦へ駝鳥の初渡り
 
 『神明鏡』巻上に、孝徳天皇白雉元年、新羅より大なる鳥を奉る、その形駝なり、よく鋼鉄を食らうと言えり。これは駝鳥のことに相違なきも、このこと『日本紀』等に見えず。この書は後花園帝の時僧の作りし物の由で、奇怪なことを多く載せたれば、駝鳥のことを支那の古書で読んでかく書き付けたので、当年新羅より奉るとは虚談。   (大正九年十一月十五日『日本及日本人』七九六号)
 
(312)     むかし日本から台湾へ移植した果物
 『大清一統志』巻二七一に、「※[木+羨]。『通志』に、紅毛の日本より移来せる種にして、実は猪腰のごとく、五、六月に盛熟す。香※[木+羨]、木※[木+羨]、肉※[木+羨]の三種あり、と」。この木を偏とし羨を旁とする字は、ちょっと字書に見当たらぬが、一体何と読むか、また何の木のことか。オランダ人が日本から台湾へ移植したそうだからわれわれに取って別段希代な物でなかろうが、字がよめぬゆえ何のことか分からぬ。読者の高教を竢《ま》つ。   (大正九年十一月十五日『日本及日本人』七九六号)
 
     ※[木+羨]について
           山移定政「※[木+羨]について」参照
           (『日本及日本人』七九八号六四頁)
 
 この字、『康煕字典』に見えねど、わが国には古くあったらしく、木版本の『塵添?嚢抄』七巻九丁表に、氷  域こと、氷様と申すはただ氷なり、とあって、※[木+羨]と様と通用し、タメシと訓しおる。その他にも二、三処に見えたと記憶す。いずれも様の字を誤写して起こったらしい。
 さて、『大清一統志』に見えた※[木+羨]はマンゴーを指す由、本紙上に、または書面をもって教えられた諸君に厚く御礼申し上げる。山移君は猪腰を猪の腰とでも解せられたようだが、これは猪腰子という蔓性植物の子《み》、長さ三、四寸と『本草綱目』に見える。マンゴーはもとセイロンからインド、それより熱帯諸国へ弘まったらしい。スンダ語のマンガよりこの名が出たという。西洋料理に用いるチャトニーの一原料だ。仏経に名高い耆婆医王の母なる美娼菴波羅女(313)は菴波羅樹より生まれたという。すなわちマンゴーで、梵名アーマラー、これを?と漢訳し、随って彼女を?女《ないによ》としたは誤訳で、?はリンゴの類らしい。大和多武峰に名高い菴羅果もマンゴーを去ること遠し。   (大正十年二月一日『日本及日本人』八〇一号)
 
     狼顧の相
 
 『世説新語補』雅量上の註に、『晋紀』にいわく、「司馬懿、云々、魏の武、その狼顧の相あるを聞き、召して前《すす》み行《ある》かしめ、反顧せしむるに、面《かお》は正しく後を向けども、身《からだ》は動かず」。『本草綱目』巻五一にも、「狼、その性|善《よ》く顧みる」とある。しかるに一九二〇年再板『ケンブリジ博物学』巻一〇の四二一頁には、エリアヌス説に、狼は頭を後へ向ける能わず、とある。モレンドルフその他の見るところ、いずれも支那の狼と欧州の狼と同一で、学名カニス・ルプスだというに、後顧に関して正反対の話が二方各別に生じたは奇怪千万である。日本の狼はやや差《ちが》うた物で、学名カニス・ホドフィラックス、これは善く顧みるか顧みぬか、いずれとも聞き及ばぬ。   (大正十年五月十五日『日本及日本人』八〇九号)
 
     雪牡丹
 
 小越平陸君の名は久しく聞くも、いまだ面識せぬを憾みとしたところ、長々東京で寄付金を勧化して四ヵ月半滞在し帰って見ると、七月四日甘粛省蘭州出で一書を寄せられた。いわく、「足下は日南福本の親友なりと聞く。また博物学研究熱心かつ深奥なりと聞く。予もまた日南の友なり。支那にあること前後ほとんど三十年、東西南北縦横足跡(314)九州にあまねし。黄河の治水を志し下流を踏破し積石に溯り道たまたま青海を過ぐ。西蔵よりの帰客雪牡丹を贈る。また冬虫夏草を購う。もって足下に贈呈す。これ研究に資せんがためなり。役に立つか立たぬか、予の知るところにあらず。高山植物あるが量多し、後日送る。匆々」と。冬虫夏草は白井博士の『植物妖異考』に図するところ。さて雪牡丹は花ばかり五枚贈らる。軍配団扇の横に広いのを石竹の花に包んだようで白く美わしく光る。科学上の調べは別として、この雪牡丹という物、支那の何の書に載せられおるか、大方の教えを竢《ま》つ。   (大正十一年十月十五日『日本及日本人』八四七号)
 
     大魚を島と誤認した話
 
 大英博物館所蔵アイルランドの『プレンゲン尊者伝』の写本は、少なくとも二十通りあって、その文一ならず。そのもっとも古きは十世紀に及ぶ。この伝は一四八三年英国で始めて印行された。その内に、尊者その徒と海上に漂泊中一島を見出だし、その徒、島に上って食を煮るため火を起こすに、尊者のみ船に留まる。火盛んに肉熟せんとする時島が動き出す。法師|原《ばら》愕いて食を取らずに船に逃げ入った。尊者いわく、この大魚をヤコスニエと呼ぶ、日夜その尾を銜えんと力むれど体が大きくて今の汝らの失敗同前、ママならぬ、と(今年五月二十七日の『ノーツ・エンド・キーリス』四三頁)。『アラビアン・ナイツ』に有名な船人シンドバッド漂流談にもこのことあるが、支那には漢代すでにこの話あったので、楊子雲が人至誠なれば金石も感ずると言えるに対し、劉?いわく、「むかし人の東海に遊ぶ者あり。すでにして風悪しく船漂いて、云々、之《ゆ》くところを知るなし。一日一夜にして、一の孤洲に至るを得、侶《つれ》と共に歓然たり、云々。洲に登って食を煮るに、食いまだ熟《に》えずして、洲没し、云々、船また漂蕩す。向者《さき》の孤洲は、すなわち大魚にして、怒り掉《は》ねて?《ひれ》を揚げ、波を吸い浪を吐いて去る。疾きこと風雲のごとし。洲にあって死せる者十余人な(315)り」。だから人が至誠に洲と思うても、魚はやはり魚でおるじゃないか、と(『西京雑記』巻五)。   (大正十一年十一月一日『日本及日本人』八四八号)
 
     人の体温で卵を孵したこと
 
 一七六六年ロンドシ板、英訳、ハッセルクイストの『レヴァント旅行記』五五頁に、エジプトのアレキサンドリア府で、「女が鶏卵を孵《かえ》す法がすこぶる珍だ。すなわち卵を腋の下に挟んで辛抱強く、その卵がその体温で孵るまでまつのだ」とあるが、慰みにしたのでないらしい書き振りだ。大抵幾日懸かると書いていないのも胡論《うろん》な話だ。これに反し、津村正恭が安永から寛政の間に書いた『譚海』巻一に、「宮中の女房、鶏の卵を試みに懐中に暖め、片時も肌を放たず持ちけるが、二十一日目に鶏に孵りたりとぞ」とある方が多少科学上の参考になる。むろん産まれるとすぐその卵を懐中にした上の試験と察するが、明記なきは惜しいことだ。(大正十一年十一月一日『日本及日本人』八四八号)
【追記】
 三国の時呉の康僧会が訳した『六度集経』二に、梵志の小便を舐《ねぶ》って鹿が孕み美女を生み、その女歩むごとに蓮花が生えると聞いて国王これを娶り、妊んで百卵を産む。嚢に盛って密にその口を覆い江流中に投ずると、天帝釈その口に封印し諸天守護して流れに随つて下る。下流の国王その光耀神霊あるに似たるを怪しみ、取って帝釈の印を覩、嚢を開いて百卵を得、百婦人をして懐育温煖せしむるに、時満ち体成って百男となり、生まれながらにして上聖の智あり、相好希有にして力勢百王を兼ね、鄰国を征伐するに降伏せざるなかったが、のちその父王の国を伐つに及び、その母乳汁をもってあまねく百子の口を射るを見て叩頭悔過し二国和睦し、九十九子は縁覚となり、一子は父の崩後王となった、とある。   
 
(316)     鼬を防ぐ法
 
 予の宅にいつも鶏を飼いおるがイタチが付け廻って困却はなはだし。アワビ貝の殻や瓢箪を釣り下げ置いてもさらにきかぬ。しかるところ、ある人の勧めに随い、本年九月十四日朝、胡椒の粒を五銭で買い来た。、鳥小屋の四隅の下の方に吊し置くと、翌日より三十日目の今日まで、イタチ全く跡を絶ち、鶏どもが毎朝噪ぐのがまるで止んだ。なお諸君の実験を俟つ。   (大正十一年十一月十五日『日本及日本人』八四九号)
 
     ほれ薬
 
 イモリの黒焼はきくかきかぬか、近年わが国より英国等へおびただしく輸出され、もって国益の幾分をせしめおると聞くが、蛙の黒焼も惚れ薬にきくと見えて、一九〇一年四月大英人類学会発行『マン』五七頁に出た、サッコキア氏集「ジョールジア民俗記」に、「春初めて蛙が鳴くを聴いたら、声を立てぬようにこれを捉え地に埋めて骨ばかり残らしめ、掘り出して水に投ずると沈まずに浮く骨がある。それを黒焼にして粉を取り置き、自分の好いた婦女の?または衣服に少し振り懸けると、その女は一切余人に肘鉄を食わせ、振り掛けた人自身にのみ打ち込んで来る。鶺鴒の骨にも同様の魅力がある」と見える。   (大正十二年二月一日『日本及日本人』八五四号)
 
(317)     支那人と豕
          天鐘生「回教徒と猪問題」参照
          (『日本及日本人』八五六号一〇一頁)
 
 古エジプト人は豕《ぶた》肉を忌んだが毎月望の一日に限りこれを食うた。現時豕肉を忌むは回教民の外に猶太《ユダヤ》教民あり。回教徒が豕を食わぬは知れ渡ったことだが、中世のカルマット派の者が回祖の言をこじつけてこれを食い、今時のヌビア住アラブ人は『コラン』を持ちさえせねばこれを食うも構わない(バルフォール『印度事彙』三板、三巻七九一頁。アシャー英訳『ベンヤミン旅行記』七二頁。ベイカー『ナイル支流』一一四頁)。豕を忌む理由はもっぱら人穢を食うからという(エステルベルク『道徳思想の起原と発達』二板、三二六頁)が、明の武宗が猪を蓄《か》うを禁じたは猪の字と天子の姓朱と同音ゆえで、ラップ人はこれを魔法使いの馬と心得、カリブ人はこれを食えば眼が細くなるとて食わなんだ由(『淵鑑類函』四三六。ピンケルトン『記行全集』一の四八五頁。ド・ロシュフォール 『西印度博物民情誌』四六五頁)。
 さて天鐘生は食豕の俗、支那にても古えにはなく、これを食うに至るも上々の食とはせぬようだと言われたが、経書これを六畜の第四に班し、鴻門の宴会などにも用いられ、「月令」に、天子麦の新嘗にこれを召し上がるとあり、『淮南子』に、大高すなわち天を饗するに豕すなわち牝豕を上牲とす、とあり。ことには『越絶書』に畜山豕山とは、勾践もって鶏豚を蓄い呉を伐たんとしてもって死士に食わしたところだとあるから、よほど旨い物としたので、天を祭り死士や高貴に食わす豕は糞などで飼わなんだであろう。漢字の由来は予さらに知らぬが、文化に最も必要な家の字が屋根の下に豕の意を表わすを見ると、支那では上古より人家に必ず豕を飼ってこれを食うたらしい。   (大正十二年四月一日『日本及日本人』八五八号)
 
(318)     猿と蟹
 
 猿蟹合戦の童話は他国に類似のものがないと思いおったところ、頃日一九〇九年ロンドン板、ボムパスの『サンタル・パルガナス俚譚』三二六頁に、母鶏が野干(ジャッカル)に招かれ酒を飲むに一向旨からず、母鶏の方へ野干を招いて酒を欽むにはなはだ旨く、母鶏大酔するを見澄まし野干が食ってしまう。次日その雛をも食わんとたくむを知って、雛が卵を炉に、戸辺に杵を、臼を屋根に置き、自分どもは斧を持って戸棚に待つ。野干来たって炉の灰をかき廻すと卵爆発してその眼を潰す。戸から遁れるところを杵が敲き伏せる。さて這い去らんとするところを臼が落ちて押え、雛が斧で切り砕いて母のために復讐した、とあるを見出でた。サンタル・パルガナスはカルカッタより百五十マイル北にあって、サンタル人が住民の三分一を占む。猿・蟹と鶏・野干と怨みを結ぶ起りは異なれど、復讐の次第があまりよく似ておる。思うにこの二譚の根本はインドにあったものだろう。仏経には二つとも見えず、根本らしき話もない。   (大正十三年五月十五日『月刊日本及日本人』四八号)
 
     蟹と蛇
 
 嵯峨帝の世にできた『日本霊異記』中に、蟹が報恩のために蛇を殺して人を助けた話が二つ出ておる。一つは行基大徳の信徒|置染《おきそめ》の臣《おみ》鯛女《たいめ》が、山中で大蛇が大|蝦蟆《かえる》を食うところを見て、汝の妻となるから免《ゆる》せと言うと蛇が蝦蟆を放つ。のち蟹を持った老人に逢い、衣裳を脱いで贖い放った。さて蛇がこの女を妻《めと》らんと来たところをその蟹が切り殺したというので 今一つは山城紀伊郡の女に同様のことあったという。『日本法華験記』、『今昔物語』、『元亨釈書』、(319)『古今著聞集』には、久世郡の女とし、これら諸書には蛇の死と蟹の苦を救い弔わんとて蟹満寺を建てたとある。『山州名跡志』には、この寺相楽郡にありと見ゆ。入江暁風氏の『台湾人生蕃物語』に、卑南山腹に住む蕃人が蟹を買うて放ちやり、また娘を蛇の妻にやるとて蛙を助命させると、蛇が五位姿の男と化けて姫を求め来るを一旦辞し返すと、二、三日立って蛇の姿のまま来たり、娘が隠れた押入の戸を尾で敲くところを多くの蟹が現われて切り殺した、とある。一九〇九年板、ボムパス著『サンタル・パルガナス俚談』にやや似た話を出す。コラと名づくる男、怠惰で兄弟に追い出され、土を掘って蟹を親友として持ちあるく。樹の下に宿ると、夜叉来たり襲うを、蟹がその喉を挟み切って殺す。王これを賞してその女婿とするに、新妻の鼻孔から蛇二疋出で、睡ったコラを殺さんとするを蟹が挟み殺した。その報恩にコラ、その蟹を池に放ち毎日その水に浴し相会うた、とある。   (大正十三年五月十五日『月刊日本及日本人』四八号)
 
     動物同士の貸借債促
 
 五十年ほど前、余が亡父の生処紀州日高郡入野村の里談を聞いたうちに、春末雲雀が「一石三斗一石三斗」と鳴き始める。雲雀かつて蟾蜍にそれだけの麦を貸したを今に返さぬゆえ債促するのだ。その時、蟾蜍、田溝の中より低い声で「五斗五斗」と鳴く。一石三斗も借らぬ、五斗だけ借りたと言い張るのだ。すると雲雀大いにあせり出し、「利に利を食うた、利に利を食うた」と連呼して舞い下る。初め貸したは五斗だが、利に利が積もって一石三斗となる勘定を知らないかと責めるのだ、と言った。紀州で蟾蜍をゴトヒキという。『本草啓蒙』に、阿波でゴウトウ、伊勢・伊予でヒキゴト、と方言を出す。『中陵浸録』一〇に、肥前五島のヒキは鹿の角を食うとあるが、それだけのことでこの名に関係あるべくもない。『塵添?嚢抄』八に、土鴨、アオガエルと読む、今童部の勾当蟇というものこれなり、(320)と見ゆ。足利氏の世には青蛙をコウトウヒキというのだ。ゴトヒキはこれから出た名かと惟えど、西牟婁郡岩田村で聞いたは、ミミズクは一斗二斗三斗と鳴くから方言ムギハカリという、と。
 それらより推考すると、蟾蜍が春日五斗五斗と鳴くよう聞くからゴトヒキと名づけ、また右の里談もできたものか。これに似た話、『散木集』に、「垣根にはもづの早にゐたててけり、しでのたをさに隠れかねつつ」。顕昭註に、むかしモズがホトトギスの履を縫うとて賃銭を受けながら、期限の四、五月になっても辞せず、その時ホトトギスこれを債促して呼びありく、モズは薮に隠れて音もせず、時々事々しと呟く。あまりに債促されて五月になって草の茎に活きた虫をさし、早贄としてホトトギスに呈し、押領分をごまかし、その後始めて鳴く、と。一九〇九年板、ポムパスの『サンタル・パルガナス俚譚』には、野牛が豹牝牡の不在中にその子供を訪い、汝の父母はわれに米を借りて払わぬと責めて毎日その食を奪い、父豹これを怒ってこれを追うと、野牛、地のヒビワレに入り、豹進んでその裂け目に挟まれて死んだ、とある。   (大正十三年七月一日『月刊日本及日本人』五一号)
 
     梶原の馬が食うた篠
 
 万治元年作『東海道名所記』三、狐崎の条に、「田の上という所の右の方なる山に梶原が影あり。岩の面に梶原が乗りたる馬の足形あり。また馬のくいたる篠なりとて、今に篠の葉半分ずつくいきりたるごとくに生じてあり。道より半里ばかりの傍《かたわら》なり」とある。これはチヂミザサ、学名オブリスメヌス・ウンジュラチフォリウス(この種名は葉が波動状を呈する義)というて、外見篠に似た禾本科の草で、現に拙宅、この稿を認めおる庭前にも生えおり、別段珍しいものでないが、所柄《ところがら》梶原戦死にちなんで異物のように伝えられたと見える。東京博物学研究会編『植物図鑑』七三七頁、本文に葉が皺縮を有すとあるに反し、図には一向縮んでおらぬ。本草図譜刊行会から出た『図譜』一七の(321)一五葉表の図は波動した葉をよく示しおる。さてこれに似た話が支那にもあって、梁の任ムの『述異記』下にいわく、漢の武帝、湖中において馬を牧せしところ、今に至って野草みな嚼?の状あり、湖中呼んで馬沢となす、と。   (大正十三年七月十五日『月刊日本及日本人』五二号)
 
     『源平盛衰記』の怪鳥モウシュウについて
 
 『源平盛衰記』一に、清盛立身の初めはモウシュウという怪鳥を捕えた勧賞に安芸守になされたので、清盛内裏に伺候する夜半ばかりに及んで南殿に?の声して一の鳥ひめき渡る。藤侍従秀方、清盛を召し、南殿に朝敵あり搦めよと命ず。畏まって音に付いて躍りかかると、この鳥騒いでその左の袖の内に飛び入るを取って叡覧に供うるに小さき鳥なり、何鳥ということを知ろし召さず。よくよく見れば毛しゅうなり。毛しゅうとは鼠の唐名なり、云々、とあって、鼠と鳥と混じた物のように見える。熊楠、唐の段成式の『酉陽雑俎』一六を見るに、秦中山谷の間に鳥あり、梟のごとし、色青黄にして肉翅あり、好んで煙を食らう、人を見ればすなわち驚き落ち、首を草穴の中に隠し、常に身を露わす、その声嬰児のごとく啼く、老※[羞+鳥]と名づく、と出ず。この記載は全くムササビすなわちモモンガに合うから、モウシュウは老※[羞+鳥]を訛ったであろう。ムササビを飼うて見しに、昼は首を隠し尾を被《かぶ》りおる。その状は羞じるごときゆえ※[羞+鳥]と名付けたらしい。この字、『康煕字典』に見えないが、羞の字と同じくシュウの音であろう。ムササビすなわち?鼠は蝙蝠と同じく肉翅あって飛ぶから、『本草綱目』には、獣部より鳥部に移し入れおる。むかしはムササビ時に平安城中に住んだと見えて、後鳥羽院の御時、水無瀬殿へ夜々傘の大いさの物光りて飛び入るを射落とし見れば、老いたるムササビだった由、『宇治拾遺』に見える。   (大正十三年八月十五日『月刊日本及日本人』五四号)
 
(322)     蟹の死に挟み
 
 『嬉遊笑覧』九に、「『民のかまど』、享保十一年丙午二月佐々辺青人と自筆に書きたる物と見ゆ。七十ばかりの老筆なり。古今の諺を狂歌によみたり。歌は面白からず。そのうち耳なれぬようなるもあり、云々」とて、多く古諺を列ねた中に、「蟹の死にはさみ」とあり。微弱な者も死を決すれば、死んだ跡までもずいぶん敵を困らせ得るというたとえとみえる。『史記』に見えた呉起や蘇秦が、死後に謀を貽《のこ》しておのれを殺した者を殺したなどはよき例だ。アフリカのコンゴで、蟹の爪は死んだ後までも挟むという由、一九〇六年ロンドン板、デンネットの『黒人心裏』一五八頁に見えるが全く同意だ。   (大正十三年八月十五日『月刊日本及日本人』五四号)
 
     蛙と車前
 
 『松屋筆記』七にいわく、「蟇《かえる》を打ち殺して車前《おおばこ》の葉に包みおけばやがて蘇ることは世人の知れるがごとし。『蜻蛉日記』にもその由みゆ。『中務集』に、かえるのかれたるをおこせて人、『かれにける蛙《かはづ》の声を春立ちてなどか鳴かぬと思ひけるかな』、返し『誰かかくからをおきては忍ぶらむ、よみかへるてふ名をや頼みし』とあり。この返しの歌にて蘇るより出でし名とは知らるるなり」と。『本草啓蒙』一二に、車前の異名を挙げた中に、蝦蟇葉(『青蒲県志』)とあれば、支那でも車前葉は蝦蟇を活かすと伝えたらしい。今年六月十四日の『ノーツ・エンド・キーリス』に、一六四七年板、ビショブ・ホールの『考撰』より畜生がおのおのその妙薬を自得しおることを引いて、犬病めば草を食い、猫はカキドオシ、山羊はヘムロック、鼬は芸香《うんこう》、鹿はジダニー、病める獅は猴、猿は蜘蛛、熊は蟻群を食うてみずから(323)療治し、鶴は灌腸法を人に教え、ヒキガエル病めば車前を薬用し、亀はペンニロヤル(薄荷の類)をもってみずから医《いや》すとあれば、西洋でも古く言ったこととみえる。   (大正十三年九月一日『月刊日本及日本人』五五号))
 
     天竺牡丹
 
 本誌九二号七四頁に山内君は、雲南の大理府は、「天竺牡丹すなわちダリヤの原産地で山野に野生す。外国人始めてこの花を広東に伝えたる時、その何の花なるかを問いし時に、大理呀(ダリヤです)よと答えたるを、そのまま花名とせるにて、アメリカを原産地とする説は、何の考拠もなく信じがたき説なるよう思惟せらる」と言われたが、エングレルおよびプラントルの『植物自然分科篇』が、こんなことにもつとも正確なるは学者の斉しく認むるところ、さてその四編五巻に、ダリア属すべて九種、みなメキシコ高原に生じ、その多くは久しき以前から同国で栽培された、とあり。少しも東半球に原産の種あるを言わず。また、一八四八(嘉永元)年出版された呉其濬の『植物名実図考』は、支那の草木を図録したもっとも精しいもので、ちと偏頗過ぎるほど南支那の所産を満載しあるが、ダリアらしい品を一つも出しおらねば、もちろん大理呀の名も記さず。明・清の時代にできた諸府志、県志の類にも、ダリアを録した書ありと聞かぬ。発見者や学者、また学術を益した人の姓名を採って、属や種の称とするは学名を創制したリンネウス自身に始まり、和歌山県人でも、一九〇五年にブロテルスが、岡村周諦博士発見の蘚に拠りてオカムライア属、一九二一年にリスター女史が、拙者が自宅で見出だした粘菌に基づいてミナカテルラ属を立てて発表したから、この二人の苗字が生物の二属の学名となった。それと等しくダリアは、メキシコが欧人に知られてのち一六五一年、スペイン人へルナンデツの『メキシコ史』に初めて記されたが、一七八九年に僧カヴァニエスが、スウェーデンの植物学者アンドレウ・ダールの姓に寄せてこの属をダーリアと名づけ、一七九一−一八〇〇年に、マド(324)リイで出版した『西班牙自生および栽培植物図説』巻一と二で発表したのである。   (大正十五年五月十五日『月刊日本及日本人』九九号)
 
     楷の木
           池谷観海「楷の木」参照
           (『月刊日本及日本人』九九号二六頁)
 
 楷木で杖を作ることは昨今始まったでないらしく、二百二十三年前(赤穂義士復讐の翌年、この歳近松門左が『曽根崎心中』を作り、世話浄瑠璃始まった)できた『淵鑑類函』四一六に、「楷は曲皐の孔林に出ず。紋《もくめ》は銭を貫《ぬ》きしがごとし。直性なるあり、横性なるあり。杖を制《つく》れば、もって暴を戒しむべし」とある。一八九三年上海で出たブレットシュナイデルの『支那植物篇』二には、『山東志』を引いて、楷木は孔子の冢上に生じ、木理細かくて、碁盤と手槍の柄とするに宜し。その若葉を菜とし食い、また茶として飲むべし。この種子より油を圧し取り、壁に塗るに用ゆ。その木の贅《こぶ》で杯を作るを得る、とあるから、月が瀬の梅同様酒盃にもなるのだ。明の謝在杭の『五雑俎』一〇に、「余、曲阜において、孔子の手ずから植えし檜、および子貢の手ずから植えし楷木を見る。(中略)楷木はすでに朽腐し断折して、独り根幹のみを留む」とあるに、『類函』にはまた、「子貢の楷は大いさ他の植えたるものに倍し、枯るれども蝕せず、真に古木なり」。後にできた書に「枯るれども蝕せず」とあるに、前に成った書に親《みずか》ら睹たところを記して「朽腐し断折して」とある。ブレットシュナイデルいわく、エドキンス博士曲阜の孔子墓に詣でたのは一八七三年で、高さ二丈、周り十丈ばかりの冢の上に、松、アカシアおよび葉が光るから水精樹と名づくる木生えたり、博士、柴の枝を長くて分鰭状なる葉を予に贈った、これは北京の山々にもある美しい木で、学名ピスタキア・チネンシスだ、と。楷木は俗に水精樹というらしい。ピスタキア属は漆橘科に隷し、日本に産せず。その一種の実ピスタショは、日本で(325)フスダスといい、むかし長崎へ輸入された。婦女の春情を起こさせる妙剤の由、ブラントームの『艶婦伝』に見ゆ。   (大正十五年六月一日『月刊日本及日本人』一〇〇号)
 
     桃について
           「大塊一塵」欄参照
           (『月刊日本及日本人』一〇三号三五頁)
 
 「大塊一塵」に、俗謡の「桃にゃ毛もある核《さね》もあるというのは、おそらく明治二十年後の唄であろう。食用にする有毛桃果は支那および欧州から輸入栽植されたもので、日本の食用桃は毛のない油桃に限られていたものだ。日本の有毛桃は食用に適せぬ。小さく苦いので、それは花桃としてもっぱら花のみを観賞したのである」と見える。これは日本のどこでのことか知らぬが、四、五十年前紀州で食用した桃も、明治十八、九年まで東京、大阪で売店に列なった食用桃もみな多少の毛あり、ズバイ桃のみ毛がなかった。『倭名類聚抄』に、桃モモ、李桃ツバキモモ、『十訓抄』一に、徳大寺左大臣、大なるツバイモモを内侍所に見参に入れた話あり。そのころすでにツバイモモと言ったのだ。狩谷?斎いわく、『広群芳譜』に、「李桃は形円く色青し。肉は核《さね》に粘《つ》かず。その皮は光沢《つやや》かにして李のごとし。一に光桃と名づく」、按ずるにツバキモモの実光ってツバキの実に似るゆえに名づく、今俗ヅバイモモと呼ぶ、と。ツバキモモ、ツバイモモ、ヅバイモモと転じたのだ。『和名抄』より約百八十年後に成った寇氏の『本草衍義』に、油桃の名始めてみえ、「衆《おお》くの桃より小さく、光りて油を塗れるごとし、脾胃を益せず」と言った。小野蘭山は、毛なき桃、赤きを油桃ズバイモモ、赤からぬを李桃アオズバイと定めた。『本草綱目』に、「山中の毛桃は、花多く子《み》少なく、小さくして毛多く、核粘って味惡し」。『本草図譜』に、実小にして毛あり、核大にして肉少なく、味美ならず、花草弁淡紅にして実小さく堅く毛あり。これは田辺でヤニモモまたケモモといい、実に太い毛多し。いわば桃の原品で、諸良(326)好品をこの木へつぐに用ゆ。「大塊一塵」に、欧人がかえって優雅とするとはこれだろう。さて『万葉』に「やまとのむろふの毛桃本しげく言ひてしものをならずはやまじ」とあるは、ズバイ桃の外の桃、みな毛あるを指したので、いわゆる山中毛桃のみでないようだ。   (大正十五年八月十五日『月刊日本及日本人』一〇五号)
 
     ランチュウ
           「ランチウ」(無署名)参照
           (『月刊日本及日本人』二三一号二〇頁)
 
 ランチュウは宝暦以来のものだろうとは受け取りがたい。ランチュウの名がたまたまみえた『世間御旗本容気』が出版された宝暦四年より六年前、泉州堺の安達喜之が著わした『金魚養玩草』は、たった二十四丁の小冊だが、その二十二丁に、卵虫魚と書いてランチュウと訓ませ、「魚の形、頭《かしら》大にして胴丸く長し。背鰭なく、金、尾より首ぎわまで登り、惣身金色にみえ、色、常の金魚よりもっとも漉きものなり。近年|異国《から》より渡りし時、始めてこれをみるに、いずれも三、四寸ぐらいより大魚はみえず、云々。また泉水にて餌多くしてかう時は大魚にもなるなり。この節、金魚をかう人はなはだ愛するなり」と述べある。寛延元年に近年異国より渡りと言うたから推すと、まずは享保の末か元文中に渡り初めたと察せらる。(九月二十九日午前四時)   (昭和六年十月十五日『月刊日本及日本人』二三五号)
 
     セッテキ
           「セッテキ」(無署名)参照
           (『月刊日本及日本人』二三三号一一二頁)
 
 これはトカゲの漢名蜥蜴の音がセキエキ、それをつづめてセッテキとよんだのであろう。予若い時和歌山のある有(327)職家が、欠掖ケツエキはケッテキと読むを式正とすると教えられたに均し。箱根の疳薬サンショウ魚の向うを張って、「常あるトカゲに似て、長さ一尺六、七寸に及び、云々」と捏造したのであろう。いわゆる語るに落ちるで、『源平盛衰記』の作者が、袈裟女が夫に代わり討たれた話を事実らしく書き並べた跡で、かかる例は異国にもありけり、むかし唐土の東帰の節女といいけるはと、改まりてその譚を述べ、読者を感心させるつもりで、実は袈裟女談の出所を露わしおるに同じ。イグアナなど大きなトカゲの図がゲスネル、ヨンストヌス等、蘭人将来の書にしばしばみえるより思い付いた虚談だ。(九月十八日)   (昭和六年十一月十五日『月刊日本及日本人』二三七号)
 
     縄を張って鳶を防ぐ
 
 『徒然草』一〇段に、後徳大寺の大臣の寝室に鳶いさせじとて繩を張られたりけるを、西行がみて、鳶のいたらんは何かは苦しかるべき、この殿の御心さばかりにこそとて、そののちは参らざりけると聞き侍るに、云々、と見ゆ。似たことが仏経にある。西晋三蔵法師竺法護第二訳『仏説乳光仏経』にいわく、爾時《そのとき》、維耶離《いやり》国に梵志あり、摩耶離と名づく。五万弟子のために師となる。また国王、大臣、人民の敬遇するところたり。豪富貪嫉にして、仏法を信ぜず、布施を好まず、ただ異道を好む。常に羅網を持って屋上を覆蓋し、その中庭に及ぼす、飛鳥をして、家中穀食を侵さざらしめんと欲するがゆえなり、と。   (昭和八年六月一日『月刊日本及日本人』二七四号)
 
     瓢箪亀
 
 本年八月五日紀州白浜発行『紀南の温泉』五四号三頁に、京都大学の中村健児博士が最近台湾で獲た奇形の亀を、(328)七月より白浜温泉の京大瀬戸臨海研究所で養いおり、体長七寸ばかりの雄亀で甲が瓢箪形となっておる。岡田要博士は、「こんな亀は外国の文献にも見当たらぬ。おそらく世界でこれが一匹であるかも知れない。名前はないので、僕は瓢箪亀と付けた」と話した、と見える。明治十一年正月、和歌山の岩橋吉右衛門という大薬舗の主人がこんな亀の甲を秘蔵するを予は見た。在欧中も数回見たと覚える。また支那書でその記載をも見たと思うから、『古今図書集成』を探ったが一向見出でず。種々と古い記憶をたどって、やっと南末の洪邁の『夷堅志』の支景巻四(涵芬楼坂本、二葉裏)より検出した。いわく、秀州の市民社会一亀を有す、薬瓢のごとく然り、その人に詢《と》うにいわく、始め得し時より鉄をもってその腹を捲束せしゆえにかくのごとし、と。活きた亀の腹を鉄線などで緊しく巻いて、全形を瓢状に仕立てたのだ。この巻は今より七百四十年前、末の寧宗の慶元元年(わが建久六年、頼朝東大寺大仏供養の歳)の筆だから、そのころすでに支那人がこんな亀を仕立てたと知る。決して外国の文献に見当たらぬのでない。(八月十四日夜)   (昭和十一年二月一日『月刊日本及日本人』三三三号)
 
     大虫
 
 山崎美成の『世事百談』、『水滸伝伝』の謔名《きやくめい》の条に、虎を大虫というは、「北斉の時に、諸州の鎮兵を発する時の符に鋼虎符あり。それを『北斉書』に鋼獣符に作れり。『北斉書』は唐の世に撰みたるによりて、唐の辞を避けて、虎を獣に替えたるということあり。かかれば大虫というも、もと諱を避くるより起これるなるべし」とあるが、この唐の諱を避けたという子細が説かれおらぬ。熊楠、『旧唐書』一、『新唐書』一、関遂転の『標註十八史略校本』五等を按ずるに、唐の高祖李淵の祖父、名は虎、周の文帝とともに西魏に仕え功あり。周の閔帝、魏の禅を受けた時、虎はすてに卒せり。すなわちその功を追録して唐国公に封じ、虎の子モに襲封して唐国公たらしめた。モの子淵すなわち高(329)祖また隋の文帝の時、父に嗣いで唐国公たり。ついに受禅して国を唐と号し、追って父モを世祖元皇帝、祖父虎を太祖景皇帝と尊号した。二百九十年続いた唐朝が因って起こった唐国に、初めて封ぜられた太祖の名が虎だったから、さてこそその諱を避けて虎を大虫と呼んだと知る。   (昭和十三年十一月一日『月刊日本及日本人』三六六号)
 
     蔵六
           鹿野山人「蔵六」參照
           (『月刊日本及日本人』四〇二号六〇頁)
 
 鹿野山人は、蔵六を亀のことと聞き知ったが、「何から出たか、またどういう意味か」を審らかにせぬらしい。蔵六の故事は、千六百年ほどのむかし、晋の恵帝の時、法炬、法立の二沙門が訳した『法句譬喩経』二に出るが、やや長たらしいから、ずっと砕けて、ここには明の陳仁錫の『潜確居類書』一一六に、すてきに巧く摘要してあるを引く。いわく、『雑阿含経』にいわく、亀あり野干に包《と》らる、首尾と四足の六つを蔵して出さず、野干怒って捨て去る。仏、諸比丘に告ぐ、まさに亀の六を蔵するごとくすべし、みずから六根を蔵せば魔も便を得ず、と。次に「六用|都《すべ》て蔵《かく》し縮んで亀に似たり」(范石湖)、「得ることは虎の一を挟《さしはさ》むごとく、失うことは亀の六を蔵《かく》すごとし」(蘇東坡)と詩句を挙げある。(十月二十八日夜七時)   (昭和十六年十二月l日『月刊日本及日本人』四〇三号)
 
(330)     「倭寇と武士道」について
            後藤粛堂「倭寇と武士道」参照
            (『日本及日本人』六三三号一〇〇頁以下)
 
 二十年ばかり前、予大英博物館に読書中、『古今図書集成』その他より多く倭寇に関することを鈔し置いた物、今も手許にある。目下眼が悪くて永く読み得ぬが、粛堂が挙げた外に、氏のいわゆる義侠的実例らしいもの一、二を出そう。
 『異称日本伝』に、『皇明資治通紀』を引いて、万暦四十四年、董伯起等、海上で倭船に拘せらる、「通事いわく、他《か》の琅砂磯(長崎か)の国王、鶏籠に差《つかわ》し往かしむ。風すでに便ならず。帰らばおそらく罪を得ん。?《なんじ》が首軍一人を将《つ》れて去《い》かんと欲す。回《かえ》り報ずれば罪を免《ゆる》されん。決して?を殺さず、と。すなわち問う、誰かこれ首軍なる、と。衆、伯起を指さす。首軍(将軍で船長の意か)とは、かの国の老?《かしら》の称なり。ついに伯起を呼んで船に過《わた》らしむ。伯起、奮躍して過っていわく、われ今、命を棄てて国に報ぜん、云々、と。伯起、請うて各船を放って帰らしむ。倭船の大いさは丈八ばかりにて、内に馬四匹あり、銅鉄、艙に満ち、皮箱はなはだ多く、我人《われわれ》をして去《い》って看しめ、説《かた》るらく、汝が国人のわが処に往くもの、毎年三、四十船あり、われ倶《とも》に礼待すれど、?《なんじ》中国人は、我們《われら》の来たるを見れば、すなわち殺さんとす、と。かの国はすなわち坦易なりと説《かた》り、中国はすなわち眉を?《しか》むと説る。倭、またよく字を写《か》く。筆をもって、伯起に与えて写かしむるに、伯起写かず。倭、すなわち日本人は情無しと写く。伯起、その筆を取って、日本人は情有りと写く。倭、また有の字を採《と》り却《さ》って、仍《もと》のままに無の字を写く。倭も吾人とまた異れることな(331)し。ただ喜《この》んで刀を弄《つか》い、あるいは手をもって銃を作《もち》い、眇視してこれを声《な》らし、刻《ひととき》も然らざるはなし。明くる年伯起、計をもってこれを紿《あざむ》き、ついに帰る。抜きんでて、もって海口の稗将となす」。これは高田屋嘉兵衛が露艦に拘されたようなことで、その日本船人の言から推すと、当時支那人むやみに日本人を忌み、海賊ならぬ倭船をも海賊と見て悪待したらしい。とにかく露艦で嘉兵衛を厚遇したごとく、件の日本船は董伯起を生け捕りながら好待したのは大出来じゃ。
 『古今図書集成』日本部記事に、『松江府志』を引いて、「宋錦荘は乾天民先生の子なり。篤行の長者にして、倭乱の時に当たり、家を挙げて奔《はし》り避く。公、墓に辞してすなわち去り、また行くに蹇《くる》しんで執《とら》えらる。賊、その手を握《つか》むに巻然たり。常の人にあらざるを知り、貨を求めて加迫《せま》る。公、灰中の積を指さして、尽《ことごと》くこれを?《あた》う。およそ十二箱あり。賊、望みに過ぐるものありと驚喜し、塩鉄港に至る。これに羽箭を?《あた》え、嘱していわく、わが国人に遇わば、第《ただ》これに語って古馬帝東といえ、すなわち害さるることなからん、と。すでにして、しばしば賊に遇い、これを語れば果たして免《ゆる》さる。帰って箭を門に置くに、賊あえて入らず。錦荘の弟、名を坤といい、その夫人唐氏、読書して智識あり。まさに寇を義興に避けんとして、羊《ひつじ》豕《ぷた》数頭と鶏《とり》鳧《かも》のこれに倍するを遺《おく》り、并《あわ》せて宿醸《さけ》を置き網罟《びく》を留む。賊至り、従降人《ほりよ》に灌《の》まするに酒をもってするに恙なし。威《みな》大いに喜び、すなわち鮮《なまにく》を割《さ》き魚を張《つら》ねて飲む。刀を挙《と》って、その堂《ざしき》の西北の柱に刻み、剣の形長さ咫《し》なるを作る。これよりして、賊は堂中に入るも、柱上の刻を見れば、すなわち引いて去る。故に宋氏の両《ふたつ》の居は、みな全きを獲たり。あるいは言う、柱に刻みし者はすなわち徐海なり、と」。『太平記』に載せた佐々木道誉が立ち退き際に自第を瀉掃して楠正儀を好遇し、その抄掠を免れたような話だが、倭寇もことごとく残酷無人情な者ばかりでなかった証拠にはなる。
 右の文に言える徐海は、支那人で倭寇を率い自国に寇した者、この他、倭寇中に真倭よりも奸悪の支那人が多かったことは、かの邦の書にしばしば見える。粛堂が特に咎めた倭寇の姦淫強行の多かつたは争われぬことながら、真倭(332)よりはこれら付和の支那人がもっぱらしたことでなかろうか。そのころ支那以外の支那よりずっと弱い諸国で日本人が抄掠乱暴した記事を見るに、淫穢のことはなくてもつぱら無類に剽悍決死な由のみ書しおる。ジョセフ・ド・オーレアン大徳の『支那の二征服者史』その他に国姓爺を評せるにも、この人、日本女人の産むところなれば、日本人の特質を伝えて果決、強健、残酷にして復讐の念熾んなり、とあるのみ。多淫猥褻など言っておらぬ。『籌海図編』に、「倭寇は、つねに玉帛、金銀、婦女をもって餌《いざない》となす。故によくわが軍を引誘す」、また「婦女を捐《さしだ》し金帛を遺《おく》って、もって餌《いざな》い、われを退かしめて後に逐う」とあるから見ると、その時の支那兵自身が、今日もしばしば見るごとく、自国の婦女や金銭を抄掠するを戦争よりも大事と熱望したらしい。
 外寇を指して児啼きを止むることは、明人が倭寇におけるに限らぬ。わが邦人も黒船と呼んで児啼きを止めたことあり。その外に例多く集めて数回『東京人類学会雑誌』および英国の『ノーツ・エンド・キーリス』へ出し置いた。外国民を犯す時婦女を強辱すること多きは欧米を通じて近世まで然り。例せばマハッフィーは、古ギリシア人がさしも文化に誇りながら、戦争ごとにこのこと行なわれ、夫や子が妻や母が敵に犯さるるも今日の欧人ほどにこれを感ぜず、その婦女自身もまた贖われて故郷へ還ればその?《けがれ》一洗されたごとく思うたのは奇態だ、と言っておる。バックルの『開化史』に、スコットランド人同士、近世の戦いに、夫や父の見る前で婦人を姦し素女を破りし由載せ、ギゾーの『仏国史料集』(一八二四年版、巻六)にノルマン人パリ攻めの時、彼輩、女犯は素《もと》より、男色、獣姦まで行ないしは口碑に伝うるが、実は城守せる仏国貴人もみなかかる惡行をなした、と見えおる。中世騎士道大いに旺んに、婦人を尊び護ることすこぶる至ったと讃めるが、これもハラムが論じたごとく、尊敬愛護に名を借りて私道奸淫の便宜とした例多く、かつベドリエーの『仏国風俗私行史』や『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一一版、騎士の条を見れば分かるごとく、騎士道の行なわれたは貴人間のみのことで、奴隷非人と見下げられた凡民に対しては淫虐無道、筆するに堪えぬことが多かった。
(333) わが邦またその通りで、戦国時代君父を弑してその妻妾を奪うた者多く、平民の婦女を侵掠くらいは何とも思わず。『義残後覚』に、信長、老女を諸方に使わして人の妻娘を偵わしめて強奪せし由載せ、また『野史』には、九戸騒動は木村秀俊の家中が新領地の人士の妻女を多く奪うたから起こった、とある。『類聚名物考』一五二巻に、中古の方言に、戦国の時敵国へ入りて婦女を掠め器財を略取するを波多良支(はたらき)と言えり、あるまじきことにて横悪の至りなり。『後漢書』七二、董卓伝に、「卓、縦《ほしい》ままに兵士を放ち、その廬舍を突き、婦女を淫略し、資物を剽虜せしむ。これを捜牢と謂う。人情崩れ恐れて、朝夕も保たず」。『塩尻』に、ある合戦の時、丹羽氏次の娘、軍士に掠略せられて途へ捨て去られたが、この娘非常に長生した、と見ゆ。この類のこと世に伝えず隠し了ったが多かろう。
 とにかく自国ですらかかる事体の時代に、真倭寇が事実支那で淫犯のこと多かったとするも、そのころ世界中の通風なので特に咎むべからざるに似たりだ。まだしもそのころの欧州人同士、またことに彼輩がむかし、いわゆる未開異教の民に加え、今日も往々加えおるような不埒極まる濫淫残酷のことが倭寇の紀事に見えぬを予は悦ぶ。例せば、古ローマの駐兵、ブリトン王の寡婦ボアジケアを打ち、その二女を強辱せしより、ブリトン人叛きしことあり。ヒロラモ・ベンツォニが『一五四一至五六年南米行記』に、今日ベネズエラ領たるマーガリタ島へ、ペドロ・デ・カリセ、四千の男女を捕え来る。この中の処女、一として強姦されざるなく、スペイン人あまりに強姦に出精して健康全く衰えし者多し、とあり、今日といえども欧人が蕃地に入り、雑種を殖やし人種風俗を改善せりと豪語する実際を視るに、まず強姦し、次に止むを得ず和従せしむる、支那でいわゆる力姦すこぶる盛んなるは、予を始め各地を旅行しその間に住んだ者の熟知するところだ。北洋エスキモー人など人種混治せしは、主として強姦、力姦の盛行に起因し、多数の白人が夫を残殺してその妻を自分らの共有物として子を産ませた例多い。
 また明末の民きわめて惰弱で、強凌さるる前後自殺した女多きに、強凌さるる女を禦ぎ救うた男子の伝とては少しも聞こえぬも奇怪で、白石先生が、明亡ぶる五十年前から、恥の字はあったが恥を知った者一人もなかった、と筆せ(334)るも、もっともなことじゃ。過ぎ去ったことは釈迦、孔子の行いすら今日学んで宜しからぬことあるを免れぬから、倭寇や国定忠次などの行いを今日擬すべきでないと同時に、予は倭寇がしたほどの悪行は、そのころのみならず、近ごろまで世界到る処、強者が弱者に加えた世間並みの悪行に過ぎぬと一言し置く。(七月三日)   (大正三年八月十五日『日本及日本人』六三六号)
 
(335)     敵討の元祖
 
 三井君の「くさぐさのこと」を読んで、吾輩史書を読んで夙《はや》く気が付いておるべきことに気付かなんだことに気付き得たるを感謝す。斯論に君は、近刊黒板博士の『義経伝』に、義経を敵討の元祖としたのを難じおる。予未見の書ゆえ委細を知らぬが、博士が本邦敵討の顕著なものの最も早く出たのは義経というような説を出されたのなら、人々の思わく次第だが、もし義経前に敵討が一つもなかったとの意味で、斯人を敵討の鼻祖と言われたのなら間違っておる。
 たしか『東鑑』に、「泰衡敗死の後、遺臣大河兼任、余党を集めて頼朝を討たんと謀り、由利維平に使を遣わし宣言すらく、古今のあいだ六親もしくは夫婦の怨敵を報ずるは尋常のことなり、いまだ主人の敵を討つの例あらず、兼任独りその例を始めんがために鎌倉に趣くところなり」とあった。新井白蛾の『牛馬問』巻二に、これを引いて、「わが朝の古え、君においては何ぞかくのごとく晩き」と評しおるが、義朝が長田に殺された時、義朝の従者金王丸、その場へ還り来たりて刺客三人を斫《き》り殺した(『平治物語』)。それよりずっと古く、天平十年七月、大伴宿禰子虫が中臣宮処連東人を殺した。「初め子虫、長屋王に事《つか》えて、すこぶる恩遇を蒙る。ここに至って、適《まさ》に東人と与《とも》に比寮に任ず。政事の隙に、相共に囲碁す。語って長屋王に及ぶとき、憤《いかり》を発して罵り、ついに剣を引き、斫《き》ってこれを殺す。束人は、すなわち長屋王のことを誣《し》い告げたる人なり」(『続紀』一三)。穿鑿せばこれらの外にも、君の讐を復した例はあろう。
(336) さて兼任は義経と同時の人、その死は義経の死後一年を踰えず。その人が如上の言を吐いたのを見ると、固《もと》より見聞狭い北鄙の人で主人の敵を討つの先例を知らなんだが、六親夫婦のために復讐するは尋常のことと謂うまで多々聞き及びおったと判る。例せば、兼任の数死より七百三十四年前、眉輪王がその父王を殺した安康帝を弑せしは普通の復讐と同視すべからずだが、兼任の滅亡より二百五十年前、平貞盛がその父が殺された逆臣将門を戦場で誅したのは、義経が父義朝の当の敵清盛を殺し得ずに、その子宗盛を虜《いけど》り、篠原宿に刑せしよりも正しい敵討だ。『保元』か『平治』かの物語に、貞盛、将門を射落とし、秀郷その首を取った、とあったと記憶するが――井沢長秀の出した『今昔物語』にもかくあるに古本にはそのことなし――それが事実なら人をして亡父の当の敵の子を刎首せしめた義経よりも、手ずから親の仇その人を射殺した貞盛の方がはるかに立派な仇討で時代も古い。また戦争によらず、子一人で親の敵を討った例も義経よりおよそ二百年以前にあった。すなわち『今昔物語』巻二五に、貞盛が甥兼忠が召し仕う小侍、兼忠の子維茂が即等太郎介を殺して父の讐を報いし由を載す。その時、維茂、太郎介を惜しむのあまり、かの小侍を誅せんとす。兼忠怒って、人われを殺し、わが眷属その人を殺し復讐せるを、汝ごとく咎め瞋《いか》る者あらば、汝承服すべきやと罵ったので、維茂、閉口して奥州へ返った。されば、祖の敵討つことはいみじき兵《つわもの》なりといえどもありがたきことなり、それにこの男の一人してさばかりの眷属|隙《ひま》なく守る者を心のごとく討ち得るは、実《まこと》に天道の許し給うことなめりとぞ人讃めける、とある。そのころ敵討おびただしく行なわれたと見えぬが、これが日本最初の敵討とも思われるような書き振りだ。
 ショッペンハウエルは名を重んじて決闘するは欧州人に限るように述べ、仏人ジャクモンは蒙古人種に決闘なきはその民ことごとく腰抜けだから、ただし北インドのゴルカ族のみ決闘を行なうと同時にすこぶる武勇だ、と筆した。これ彼輩が欧州外の事情に疎く、日本などに決闘早く行なわれたと知らなんだから出た謬見じゃ。それと等しく敵討ということ、作法こそ種々異なれ、家族主従をもって邦を成した所には最《いと》古くより多少行なわれた。濠州土人のごと(337)き下劣の民も、毎族、族中の被害者のために他族に対し敵討するを義務とし、あるいは世々相服従して絶期なきに至り(一八九六年板、英訳ラッツェル『人類史』一巻三七七頁。一九〇四年板、ハウィット『東南濠州土人篇』第六章)、アジアのアフガン人、ドルトース人、ベドウィン人、今も敵討し、欧州にはこのこともっともコルシカに盛んに、その他サルジニア、シシリー、黒山《モンテネグロ》、ギリシアに多少行なわる。ギリシア、ローマのむかし敵討多かりしは古学を口ほどきせばすぐ知れ、古インドにもこれあった一例は、『中阿含経』一七、『出曜経』一一等に、迦尸《かし》国の梵摩達王、拘薩羅《こうさら》国の大長寿王を殺す、長寿王の遺子長生太子、楽人となって乞食せしを、梵摩達王その素性を知らず、これを愛重し、一日その膝を枕として眠ったところを殺さんとして殺し得ず、爾《その》時《とき》王夢にその長寿王の子たるを知り、女をもって妻《めあわ》し拘薩羅国を与え王とした、と見ゆ。この譚は、『日本紀』の狭穂姫《さほぴめ》后が垂仁を弑せんとし、『吉野拾遺』の熊王丸が正儀を刺さんとして、遂げなんだ譚と似たものだ。
 このように諸多の国に古来存した譚だから日本にも義経よりはるか以前に敵討った人あったは疑いを容れず。いわんや久しき昔より伝来せる支那の典籍には、父母の讐におる者は、「苫《むしろ》に寝ね干《たて》を枕とし、仕えず。与《とも》に天下を共にせざるなり。諸《これ》に市朝に遇えば、兵《ぶき》のために反《かえ》らずして闘う」などと訓え、伍員が死人を辱しめてまでも父兄の讐を深刻に報い、予譲が「身に漆《うるし》し、炭を呑み」、旧主の敵の衣を三たび撃って死し、烈女趙鵝が十余年間父の讐家を候《うかが》い、終《つい》にこれを刺殺して自首し、孫翊《そんよく》の妻が二仇人の首を奉じて翊の墓を祭ったことなど、敵討の模範と謂うべき者を示しおったから、復讐の念を鼓舞するに大なる力あっただろう。もしそれ子路の子子崔が孟黶を撃った時、孟、日を約して出会い、孝子に怪我のないように無刃軟弱な木戟と蒲弓をもって渡り合うて討たれ了《おわ》り、趙伯陽は従兄が人に害せられて子なきゆえ敵討に出掛けると、敵が病中じゃったので釈し去ったが、仇病|愈《い》えてみずから縛して討たれに来た等の話に至っては、後世日本の敵討と武士道に結び付けるに甚《いた》く力を添えたと惟わる。
 また三井君は、『義経伝』の著者は、「源氏は骨肉相食むという風に」と論じたが、義経を仇討の先駆とするなら将(338)門と貞盛も骨肉の間で、むしろ平家の方が骨肉相食む先駆となるべきだ、と駁せられたはもっとも千万だ。予の記憶するところ、源氏は初代経基より五代義光が兄義家の子義忠を暗殺した時まで骨肉相食まなかったに、平氏は高見王姓を賜わってより二代目国香その姪将門と婦女を争うて戦い殺され、国香の弟良兼また将門と闘い、のち国香の子貞盛、将門を誅す。次に貞盛の子維衡その従弟の筋なる致頼と私闘し両人配流された。すなわち平氏はほとんどその初めから相攻伐した。それから忠常、乱を作《な》し頼信に平らげられてより、東国の平氏ことごとく源氏に従い、一の谷に檀の浦に宗家清盛の一門を追討して、嬰児までも残さず、これを殲《ほろぼ》したのは不人情の至極、またすこぶる氏の体面を汚した訳だ。(九月十五日)   (大正三年十月一日『日本及日本人』六四〇号)
 
(339)     薄田兼相について
 
 六月十八日の『大毎』紙に、大阪城の驍将薄田隼人正兼相三百年忌法要が、その墓碑の存する南区生玉寺町浄土宗増福寺で行なわれた、この寺には件の墓碑と隼人正一族の法名を記せる月牌の外に何たる記録なく、月牌は天王寺五兵衛の一族清兵衛寄進、碑面に薄田元祖興徳院殿隼誉慧仁大道居士、撰文ならびに建立者は隼人正六世の裔薄田兼実と記し、碑前の水溜は鴻池家の寄進、新町の大茶屋槌屋は隼人正に何らかの縁故ありし由なるも遺族何にも知らず、とあった。予は無論その隼人一族の法名を記せる月牌を見ぬからどんなことを書いてあるか知らねど、すでに兼相を元祖と立てる上は、一族とは兼相から兼実に至るあいだの代々で、兼相より前代のことは見えぬものと察す。大阪は落城後も豊臣贔屓の地で、講談に家康を揚げると聴衆少なく、また松代藩の士民が藩祖信幸は幸村の兄ちう廉でおびただしく持てたと聞き及ぶ。天王寺屋や鴻池、新町の大茶屋など町人どもが種々寄進したところを見ると、何か薄田の子孫と名乗る浪人などが豊臣家渇仰の人気に付け込み、頃日入監中の赤埴某が源蔵重賢の後胤と公言したように、兼相の子孫と唱えて一仕事したのでなかろうか。
 隼人正兼相のことは山陽の『外史』を見ても知らるるごとく、太閤死際に秀頼の付き人を定むるところに初めて見え、冬夏の両陣に勇戦して死んだ次第ばかり世に聞こえ、その他のことども、性行や履歴は一向分からぬと見え、飯田忠彦の『野史』にもその伝なし。『外史』に見えた婚家に飲んでおってその兵が敗れたのと、冬陣に東軍の藤田信吉が、われ兼相の平生を知るが、その人はなはだ麁暴なり、しかるに今度その軍容を察するにすこぶる謹めるは城兵(340)振るわざるの徴なりというような評を做《し》たと、『武徳編年集成』か『烈祖成績』にあったと記憶する外に、この人の性質とては、『土屋知貞私記』に、「薄田隼人。軽き者の子といえども取り立てられ、両御陣侍大将申し付けられ、小姓組大力勝れたる男なり。歳四十、知行五千石、五月六日若江にて討死」とあるなど、大力武勇を称した物ばかりだ。年齢は『退私録』にも四十歳とあるから、塙、御宿より二十、真田、後藤より十歳ばかり年下と見ゆ。
 さて、この人の前に同姓の武士でやや著聞する者全くなきやというに、『惟任退治記』、信長の近習本能寺の変に戦死せる者の名を列した中に薄田金五郎あり、『天正二十年正月二十六日聚楽第行幸記』に、関白秀吉公の前駆左右各三十七人、左は増田長盛を首として前野長康を尾とし、右は石田三成を啓とし木村重茲を殿とす、その左の十八番平野大炊頭に駢《なら》んで右の十八番に薄田若狭守あり、『文禄三年四月八日前田亭御成記』、御相伴衆の名を記せるに、左上段、聖護院殿に安威摂津守服部采女正を第一とし、右の十二、東郷侍従(長谷川秀一)に薄田小四郎を最末座とす、また『太閤記』、名護屋御留守在陣の衆、中井平右衛門組に薄田清左衛門尉あり、これら四人は同族なるべく、若狭守ごときはその同列の人名より推してちょっとした城主たりしと知らる。しかして上に引ける隼人は軽き者の子とあるは、件の清左衛門尉の子たりしか。兼相元和元年戦死の時四十歳とあるに拠って算うれば、天正二十年は十六、文禄三年は十八の時だから、若狭守や小四郎は決して兼相のことでなかろう。したがって金五郎等の四人は兼相の何に当たるか分からぬが、薄田氏の多少著われしは兼相が始めでないと知らる。
 前年何かの新聞紙に出た、そのころ有名な講談師の「難波戦記」を見たら、小幡景憲の書いた物に、ある説に兼相は公家の落し子というとある由、真面目に説いておった。その書の題号を欠如しあったから捜索の方便ないが、愚案には、橘氏の堂上薄以緒卿、牛公事という件に関し信長より切腹せしめらる、最期に楽人安倍季房を招きて、年来の所望により家伝の篳篥《ひちりき》の秘曲を伝え、小薄という名器を譲った、この薄殿心剛な人だったらこそ残りつれ、危うきことじゃった、と『一話一言』八の「三輪物語抄」に出ず。薄と薄田と近い名だから、兼相は公家の遺子などと故事付《こじつ》(341)けたのだろう。ただし『室町殿物語』に、三好が将軍義輝を弑してのち、その遺臣大森伝七郎潜める処へ、討手薄武左衛門外一人に足軽添えて遣わし、薄反って大森に討たれた譚がある。して見りゃ薄という苗字も公家に限らなんだらしい。
 俗書『真書太閤記』に、文禄中、石川五右衛門、秀吉の寝所に忍び入ったところを、仙石秀久と兼相が捕えた、とあるは虚誕論ずるに足らぬが、ずいぶん世に重宝がらるる『大日本人名辞書』(第六板一一〇三頁)に、「薄田兼相、寛永中の剣客なり。岩見重太郎と称す。剣をもって四方を周遊し、かつて旅店主人の托を受けて天橋立に復讐の助けをなし、大川八左衝門、成瀬万太夫、広瀬郷右衛門を殺す。のち秀吉に仕え五千石を領す。慶長十九年、大坂陣に薄田隼人と称し、伊賀上野に板屋平右衛門を殺し、穢多が崎を守る。元和元年五月六日、河内路を防ぎ、伊達政宗の将片倉重綱の手に戦死す」。寛永元年は兼相の死より十年後なるその寛永中に仇討った重太郎が、少なくとも三十年ほど前に死なれた秀吉に仕え、少なくとも十年ほど前の夏陣に討死とは、いかにも胡乱《うろん》な話で、道風が公任卿の『朗詠集』を筆したというより?《はる》か優れた年代前後の齟齬じゃ。(七月二日)   (大正四年八月一日『日本及日本人』六六〇号)
 
(342)     本邦における米国船員の逃亡
 
 これは従来一向珍しからぬことだが、その最初の記録とも言うべきものを見出でたから申し上げ置く。ペリー初来の翌々歳、安政三年四月十日付江戸紀州侯御屋敷大浜詰池田甚三郎より吉野屋民蔵という紀州在国人へ宛てた書簡に、去年極月四日露国船下田碇泊中地震津浪で大破した際、伊豆国君沢郡戸田浦に上陸して残りおった露国人の始末を述べていわく、「二月二十八日、アメリカ船、長《たけ》四十五間幅八間の船、下田へ渡海来たり候つき、右の船にてオロシャ本国へ便船相頼み候ところ、少々運賃取り極めざるにつき破談に相成り、右アメリカ船、同晦日九つ時ころ戸田浦出帆致し、何方へか飄い参り候ところ、またも右アメリカ船、三月三日下田浦へ参著につき、前文の通りオロシャ本国へ便船相頼み相談相究り、すでにオロシャ人の諸荷物もアメリカ船へ積み入れ、いよいよみなみな残らず三月七日本国へ帰帆に相成り候ところ、六日の夜アメリカ人の内下官の者十人いずれへか逃げ去り、相見え申さず、その段アメリカ人より戸田浦御出役所へ御問い合わせに相成り候につき、差し驚きそれぞれ取り調べ相成り候ところ、右十人の者同夜に戸田浦山中へ逃げ込み候趣きにて、追い追い日本人にて御召し捕りに相成り、それぞれアメリカ人へ相渡し候ことに御座候。右は何故アメリカ人逃げ去り候やのところ、よくよく相調べ候ところ、全く三月三日にフランス船一艘下田へ渡来致し候。この船は大船にておよそ長《たけ》八十間くらい幅十二間くらいの船にて、人数二千人ほど乗り組み有之《これある》趣きに御座候。しかるところ、フランス国の儀は、先便申し上げ候通り、オロシャ国の敵国にて御座候ゆえ、右オロシャ人をアメリカ船へ乗せて参り候こと、フランス国相知り候わば相済まずと申すにても有之《これある》趣きの由に御座候(343)にて、全くそれゆゑ逃げ去り候ことに御座候。□□□につきオロシャ人も帰国まずまず相止めに相成り申し候」。この書簡は明治十一年七十余歳で物故した羽山維磧という紀州人が当年の見聞を筆記した雑纂体の物百五十冊あるを予が写し置いた中に見える。
 ついでに言う。六九三号三二頁に中野君は「米国は自由精神の伝道のために日本の門戸を叩けりなど説くは、思わざるもはなはだし」と喝破された。右述羽山氏の雑纂、そのころ米人に関することどもをおびただしく記しあるを見るに、ペリーといいハリスといい、当年渡来の米人いずれも得手勝手のことを推し通したのみ、自由精神の伝道らしき言は兎の毛も吐かず、我利のみを惟《こ》れ言い張ったので、たまたま日本のためになりそうなこととては、税関を置いて鉄に税を掛けたら政府の収入が増すなど分かり切ったことか、行く行く必ず分かって来るべきことのみ忠告した。大槻平次の献策にも、「この度かの国より差し越し候使節ペルリ儀は、識見端正にして才能あるの由、別紙をもって申し越し候儀に候えども、左様には存ぜられず、短智狭量の小人と愚鑒仕り候。その子細は、かの国より申し付けにも無之《これなく》、一己の存じ付きをもって、数十艘の軍艦をもって御返翰催促に参り申すべき趣き、虚喝の言をもってわが国を威しかけ候もまことに浅智の至り、腹底の知れたる男子に御座候。その上、書翰容易に御請取なさるを幸いに存じ、国法を犯し猥りに内海に入り、勝手我儘の振舞致し候もみな小量の心より起こり候義、深沈大度のところはさらに御座なく候。かの先年ロシアの使節レサノフの人物とは格別の相違に御座候。これ正にわが国の大幸とも申すべく候。この処をよくよく御呑み込み御座候て、何分臆し候念を御断ちなされ、従容《しようよう》寛大に御諭解なされ候わば、必ず御思し召し通り事済み申すべきやと存じ奉り候」とある。
 右羽山氏雑纂に、氏の養子で、江戸竹内玄同塾にあり、尋《つ》いで安政の虎狼痢《コロり》で死したる紀州人沢井峻蔵よりの来書を載せた中に、米使ハリスに関しいわく、「東海道筋、右異人国王の使節に御座候えば、何分国王の威を損ぜざる旨と相見え、公辺のことには一向用いず(構わずなり)恐れず。ここに奇談御座候。箱根御関所諸大名ども駕《かご》の戸相開き(344)候こと、これ例に御座候。右亜人に申し聞け候ところ一向承諾致さず、諸役人致し方|無之《これなく》、駕脇の役人御関所前にてメリケン人相乗り候駕の戸二寸ばかり相開き、公辺の御法相済み候積りのところ、右駕脇の役人御関所前にて周章致し、一、二寸のところ三、四尺も相開き亜人大いに立腹致し、その夜宿所にて諸役人大いに困り候由、御一笑下さるべく候。それよりメリケン人箱根権現の寄進札一見致し、早速金千疋寄進致し候由、諸民を懐ける致し方感服致し候。登城の節も少しも臆し候様子相見え申さず、懐中より目鏡を取り出だし、殿中の様子を一見し候由、諸役人も呆れ候由(下略)」。
 故菅沼貞風氏いわく、唐のわが国を遇せるはなお蕃例なり、しかれどもわが国人は毫も屈するところなく、伊吉連博徳の記行にもあるごとく、唐帝、天皇のことを問えば、「天地と徳を合し、おのずから平安を得」と答え、国内平安なるやと問えば、「天地を治め講《ととの》えて、万民無事なり」と答えたれば、『旧唐書』にも「その人、入朝する者、多くみずから矜大《ほこ》る」と言えり、と。しかるに、後世そんなことは見世物にするほどもなくなり、米使の軒昂を見ていたずらに驚き呆れたので、米使が日本人を見下すこと少しも支那人と異ならなかったのだ。それにしても御関所で、一、二寸開けて済ますべき予定のところを、周章した振りして三、四尺も開いた小吏は、例の支那人根性ながらちょっとえらい。それからハリスが幕吏と条約締結について応接したうちに、「気の毒」というた詞がただ一箇処見える。わが邦の外交官は今も「気の毒」を百千度繰り返して何とも思わぬが、欧米人はよくよくの場合でなければかかる語をいやしくも吐かぬ。それからまた羽山氏の雑纂、ペリー初めて来泊中の記に、「嘉永六年六月八日、久里浜近き百姓市之助娘(二十歳ばかり)、英人三人上陸強姦せんとするところへ市之助帰り、天秤棒にて打ち倒し、娘は気絶す。英人は逃げ去る。娘も蘇生す。このこと官へ訴えしところ、穏便に致すべき旨仰せ出だされ、市之助に金三百疋官より下さる。笑うべき政事なり」とあるが、外人に関してこの類の笑うべき政事は今果たして跡を絶ちたりや覚束ない。予在米のうち、右の文を訳して米の名士に見せしに、それは日本娘の可憐さに米人が三人争うて接吻せんとしたのを、(345)事情を解せず驚きて暈倒《うんとう》したので、咎むるに足らぬ、自我国風の相違から起こった誤解騒ぎだと弁じ、聞きおる日本人一同もまことに左様と首肯した。これら日本人は白昼知らぬ人の娘に戯るる美風を教え呉れた米人を、洵に日本開国の恩人と悦ぶなるべし。(十二月一日)   (大正五年十二月十五日『日本及日本人』六九五号)
 
(346)     潜水艇
 
 現時戦争に猛威を逞しくしおる潜水艇ちうもの、一八八〇年ごろより、もっぱら研究発達されたが、その考案は少なくとも三百年の昔すでに世に存し、一七七五年米国のブシュネル始めて実地に活用成効した潜水艇の記載は、『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』一一板二四巻九一七頁に出ず。
 しかるに『続史籍集覧』所収『武功雑記』上、大坂冬陣に、「権現様巡見に御出で成され、九鬼を召して、木津口の矢倉より鉄砲を打ち懸くるあいだ盲船を拵え候えとの御意にて、四艘拵え、これにて右の矢倉を打ち破る、云々。右の盲船に九鬼家来三田兵庫、矢野川金七、大矢三郎右衝門乗り候て木津口へ参り候。初め三郎右衛門鉄砲にてため、次に金七ため申し候ところを打たれ候て相果て候。右鉄砲を打ち払うとそのまままた打ち込み、兵庫腿をかすり、うしろにおり候家来胴中を打ち抜く、云々」。『改定史籍集覧』第一一冊、『志士清談』には、「大坂冬陣に、云々、源君九鬼守隆に命じて新橋の隅矢倉より発するところの仏郎機《フランキ》を捍《ふせ》がしむ。守隆盲船を作りて水底を潜行し、終《つい》に仏郎機をもって隅矢倉を打ち破り、これより盲船の法世に伝うるは九鬼家の始めて製するところなり」とある。乗った人が敵の鉄砲で死傷したくらいゆえ、あまり満足な物でなかったろうが、どうやらこうやら水底を潜行して敵の矢倉を砲撃し打ち破ったとあれば、まずは粗製の潜水艇に相違なかろう。この盲船の委細の結構操法は今も記述が残りおることにや、識者の教えを冀う。
 一六一三(慶長十八)年、すなわち浅野幸長が死んだ歳本邦へ渡った英船長サリスの日記に、その年八月平戸より博(347)多へ航するうち、下の関辺の一大市のドックに、八百トンから千トンもあるべき一船、全く鉄で装われたるが泊れるを見た。土人いわく、これは何処でも叛乱や戦争が起こると兵卒を送るに用いらるる、とある。全く鉄で装うた船さえあったほどゆえ粗製の潜水艇も虚誕でなかろう。
 『吾妻鏡』に、天福元年、下河辺行秀入道智定房、那智浦より補陀落山に渡る。その乗舟は舟屋形を拵え、その中へ入りてののち外より釘をもてみな打ち付け、一つの扉もなくして日月の光を見る能わず、ただ燈火に憑るべし。三十日ほどの食物ならびに油等わずかに用意す、とある。文の通りならいかにも真の盲船で無鉄砲極まるようだが、その船でかの山に到著し止住五十余日にしてまた乗船帰朝したとあるから、何とか特殊の術をもって航行したものか。それから『日本紀』に、塩土老翁が彦火火出見尊を納れて海神之宮に届けたという無目籠は、東京、メソポタミア、英国等に行なわれる籠舟の類という西村真次君の考説が正しいと見受ける。去年四月の『人類学雑誌』に出ず。(二月二日)   大正六年四月一日『日本及日本人』七〇二号)
【追記】
 前文に、わが邦で今の潜水艇の先駆たる盲船という物を発明し、大坂冬陣に実際これを用いて奏効したことを述べ置いたところ、去年七月の『ノーツ・エンド・キーリス』にアッケルマン氏の寄書あり、いわく、一六二〇年(大坂冬陣より六年後)初板、ベーコン卿の『ノヴム・オルガヌム』に、「このごろ水面下に人を運ぶ舟発明されたと聞く」と見ゆ、と。しからば東西万里を隔てて、ほとんど同時にこの種の船が初めて出たのだ。さて晋の王嘉の『拾遺記』巻四に、秦始皇の時、「宛渠の民あり、螺舟に乗って至る。舟の形は螺に似て、海底を沈みて行き、しかも水浸入せず。一に淪波舟と名づく。その国の人、長《たけ》十丈あり」とあるは、弁ずるまでもなく大法螺談だが、千五百余年前の支那にも潜水艇を夢想した人があった証拠に立つ。(八月二十七日)   (大正七年九月十五日『日本及日本人』七三九号)
【再追記】
(348) 宝永七年近松門左の作『百合若大臣野守鏡』第一、百合若、夷《えびす》退治の勅を奉じ軍配する辞に、「軍は互いに船軍と覚えたり。先陣に輪鋒船を立ち並べ、水弾きを湛え、敵の火矢を防がせ、射手船には一枚楯突き立て突き立て、武者走りを高く上げ、船筏を二行に列ね、盲船に竹束つけ、貝金鳴らし攻鼓水底を轟かし、鳥船に風切らせ掛引自在に漕ぎ廻し、敵小船とみるならば、投鎗、投戈、投鍵を打ち掛け打ち掛け、乗り沈めて打つべし、大船とみるならばどうづき船を押し掛け、敵船を打ち砕き、漂うところを熊手にかけ、受切り下切り皆殺し、勝利は案の内なるべし」とあり。これで徳川時代軍学家の水戦の法もほぼ分かり、盲船なる粗製の潜水艇も用いられたと知れる。(二月十八日)   (大正九年三月一日『日本及日本人』七七七号)
 
(349)     東洋で死刑に弓矢を用いしこと
 
 本誌七四一号二〇頁に雪嶺博士は「およそ人を殺すべき器械はことごとく死刑に使用せんとする状あり。刀剣に次いで弓矢が戦場に使用され、勢い死刑にもこれを使用するなきを得ず。欧州に弓矢を死刑に使用し、東洋にその例少なきは、前者が一般に弓矢を使用するの多きによるべし。支那に矢石といい、矢の効用を石と混同し、欧州は石を使用しながら、矢と同列に見ず、全く武器の外におく。欧州にて後世軍人の死刑を銃殺に限るがごとき、弓矢を死刑に使用せし習慣に伴う。支那は戦場に人を殺すよりもこれを威嚇するの常にして、弓矢に熟練せし者も多からず。平素弓矢を実用に供すること稀《まれ》、もって死刑を執行するがごときに考え及ばざらん。日本は支那よりも弓矢に長ぜしかど、刀を重んじ、もって人を殺すに足るとし、他を考えず。支那を模倣せし時代、支那に弓矢を死刑に使用せば、同じくこれを使用したるべく、他のこともまた然るべく、支那に使用せざるまま東洋に行なわれず」と述べられた。
 まず欧州で石を全然武器の外に置いたとはどうであろうか。古ギリシア兵が攻撃に用いた武器は槍と投槍と弓矢と飄石《ひようせき》で、ローマでも軽装兵は投槍と飄石を用いた。飄石、ギリシア語でスフェンドネー、ラテンでフンダ、これを使う兵卒をスフェンドネーテースまたフンジトールと呼んだ。中幅広く両端狭い紐に鶏卵大の小石、また粘土を焼いて作った毬、また?実形に鋳た鉛丸を紐の広幅にあて、その両端を片手でもち、頭の上で数度廻したのち、紐の一端を離して覘った方へ石また丸を飛ばした。バレアリク諸島の人、古えもっとも飄石の名手で、遠近中の三距離に用うる(350)ため藺、毛髪、また獣の腱《シニウス》で編成した三つの飄石を佩び歩いた。ローマが帝国となってからは飄石棒(フスチパルス)著わる。長《たけ》四フィートの棒の先へ革製の飄石を付け、普通の飄石よりも大きな石や丸を強く抛げた物だ。これを使う兵士をフスチバラトールと呼んだ。またバリスタイとて、重さ百六十二ポンドまでの大石や、大丸や木材を五百三ヤードまでの距離に発射する機関もあったが、四世紀後止み、オナゲル一名スコルピオという大仕掛けの飄石行なわれ、牛二匹で牽く車にのせ歩いた(一九〇八年板、英訳サイッフェルト『考古辞典』飄石と武器と砲術の条々)。中世紀に木や石や丸を射た機関を、種々と一八五一年板ナポレオン三世の『過去未来砲術の研究』に論じあり。その内マンゴネルという奴などは、なかなか大層な物らしいので、一八九七年、ロンドン塔の武庫頭ジーロン卿に逢って一見を請うたところ、これは英国には一つも保存されず、大陸へ行かねば見られぬ、と言われた。この通り攻守とも盛んに石を軍に用いたから、欧州で石を全然武器の外に置いたとは言うべからずだ。また古ローマでは弓を国民的の兵器とせず、その同盟諸民のみこれを多く用いたとあれば(サイッフェルト、六九六頁)、欧州一般に多く弓矢を使用したというべからず。
 東洋で死刑に弓矢を用いしこと少なしと雪嶺博士は言われたが、例を挙げおらぬは遺憾だから、自分の知っただけを挙げると、『塵添?嚢抄』一二巻一一章に、大辟に五あり、その二、礫屍《りやくし》、世の人は張付《はりつけ》という、額、左右の手足を釘にて物に打ち付けてのち、うしろより止め、矢を射る、とあれば、古支那で弓矢を死刑に用いたらしい。ただし只今その本拠を見出だし得ぬ。『今昔物語』二九巻六語に、十人ばかりの盗賊を捕えた人が、「此《かか》る奴原《やつこばら》は獄《ひとや》に禁じたりとも、後に出でなば定めて悪しき心ありなむと思《おぼ》えければ、さり気なくて、人にも知らせずして、夜に入りて窃かに外に将《い》て行きて、みな射殺させけり」。同巻二六語に、日向守某が書生に官文書を偽造せしめ、その口を緘せんため、即等をして栗林中に将て行き射殺させしむ、とあり。これらは中古本邦で弓矢を私刑に用いた証だが、『平治物語』に、永暦元年二月、権大納言経宗、参議惟方、後白河上皇の怒りに触れて捕えられ、「すでに死罪に定まりけ(351)るを、法性寺大殿。むかし嵯峨天皇弘仁元年九月に、右兵衛督藤原仲成を誅せられしより、去んぬる保元元年まで、帝《みかど》二十五代、年紀三百四十七年、かの間、死せる者|二度《ふたたび》帰らず不便なりとて、死罪を停められたりしを、後白河院の御宇に、少納言入道信西執権の時、始めて申し行ないたりしが、中|二年《ふたとせ》をへて去年大乱起こり、その身やがて誄せられぬ。懼ろしくこそ侍れ。公卿の死罪|如何《いかが》あるべかるらん。その上、国に死罪を行なえば、海内に謀反の者絶えずと申せば、死罪一等を宥めて遠流《おんる》にや処せられん、と申させ給えば、もっとも大殿の仰せ然るべしと、諸卿同じく申されしかば、新大納言経宗をば阿波国、別当惟方をば長門国へぞ流されける。官外記の記録には、「左近将監をして仲成を禁所に射殺させしむ」としるしたれば、正しく頸を刎ねられけんことは、なお久しくやなりぬらん」とある。
 この仲成は自分の妻の叔母すこぶる美色あるを挑み、聴さずして佐昧親王方へ逃げ込んだのを暴行したほどの不道人で、平城天皇が、その妹で中納言藤原繩主の寡婦たる内侍薬子の長女を宮に入れ、次に薬子と私したまいしに付け込み、薬子と共に上皇に復位遷都を勧め、上皇、薬子と相乗りで東国に赴く途中、大軍前に邀《むか》うと聞いて衆みずから潰え、上皇薙髪し薬子は毒薬で自殺、これよりさき仲成は右兵衛府に繋がれ、その夜左近衛将監紀朝臣清成、右近衛将曹住吉朝臣豊継等をして禁所に射殺さしむ、と『日本後紀』二〇にみえる。この仲成の父種継は平城・嵯峨二帝の御父桓武天皇の寵臣で、皇太子早良親王と快からず、ために暗中より射殺された。その下手人を捜し出し、縛して種継の柩に告げた上斬罪に処したというほど、父帝に重んぜられた者の子だから、嵯峨天皇仲成を斬首するに忍びず、夜分禁所に就いて射殺さしめられたとみえる。天子が私刑を行なうはずはないが、相当の刑よりは軽くとの思し召しで射殺させられたものか。   (大正七年十一月一日『日本及日本人』七四三号)
【増補】
 同年十二月の同誌七四六号に、末吉安泰君拙文を読んで次のごとく注意された。『呉志』巻一〇、甘寧伝にも、主人が一奴隷を弓矢で私刑した例あり。いわく、「寧の厨下児《りようりばん》、かつて過ちあり、走って呂蒙に投ず。蒙、寧の(352)これを殺すを恐れ、故に即《ただ》ちには還さず。のち寧、礼(醴?)を齎《おく》つて蒙の母に礼す。与《とも》に堂に升《のぼ》るに臨当《のぞ》み、すなわち厨下児を出だして寧に還《かえ》す。寧、蒙に殺さずと許《やくそく》す。斯須《しばらく》して船に還り、桑の樹に縛り置き、みずから弓を挽《ひ》いて、これを射殺す」。
 
(353)     英雄美人叢談
 
 原稿の締切期限が旦夕に逼って来たから、「昨日今日とは思はざりしに」と歎《かこ》ちつつ大周章で書き付ける次第、したがって自分にも何が出るかさらに分からぬ。まず新年は未の歳だから、羊がかったことより始める。
 支那が三国に分かれて久しく攻伐断えなんだのを晋の武帝が統一したはまことに蓋世の英雄だ。『晋書』に、「武帝、呉を平らげしのち内寵多く、適《ゆ》く所を知るものなし。嘗《つね》に羊車に乗り、その之《ゆ》く所に恣《まか》せ、至ればすなわち宴浸す。宮人すなわち竹の葉を取って戸に挿しはさみ、塩汁をもって地に灑《そそ》いで、帝の車を引《いざな》う」とは真に羊が取り持つ縁かいなだ。『三才図会』にいわく、「羊は六畜において生まれやすく、また繁息する物たり。一歳の間に、母すでに子を生み、子また子を生む。号《なづ》けて一歳三生となす」。『禽獣決録』にいわく、「羊の性は淫にして很《もと》る」。こんなことから子の多きを冀い武帝が羊車に乗って美人を幸し廻ったのだろう。武帝|洵《まこと》に多子、それが源因で八三魚肉の乱を生じ、せっかく統一した天下が茶々無茶になった。その時、趙王倫が恵帝の后賈氏を誅し、代りに羊元の女を立てた。長安陥りし時、胡種の英雄劉曜に獲られてその后となり、三子を生み、十三年目に卒して文献皇后と謚《おくりな》された。同じ時代の愍懐太子の妃は王衍の女で飛切りの美人だった。「劉曜、洛に入り、ことごとく諸后を将《ひき》いて去る。妃独り刀を抜き、賊に向かっていわく、われは司徒公の女《むすめ》にして、皇太子の妃なり、死なばすなわち已《や》む、終《つい》に賊の婦とならず、と。賊これを害す」。王衍はもっぱら晋国を誤ったよう悪評さるれど、かかる烈女を生んだところを見ると、家訓宜しきを得たと判る。『述異記』下に、「この時、義陽公主、出奔して洛南に至る。士卒二千余人、留守《りゆうしゆ》して去らず、(354)もって京都を衛《まも》る。劉曜、攻めてこれを被る。主、殊色あり、曜まさにこれに逼らんとす。主、手もて曜を刃《き》らんとするも中《あた》らず。ついに自刃す。曜その正節を奇とし、これを葬らしめ、立てて義陽公主となす。隣民これを憐れみ、ために廟を立つ。今の義陽神これなり」。その後、諸胡分立攻伐した大乱世にも、秦王苻登の后毛氏などすこぶる美人で騎射を喜くす。姚萇、登を殺した時、毛氏、壮士を率いて殺傷すこぶる衆《おお》く、捕われて後も辱を受けず、萇を罵って死んだ。これらに比するに、羊后は洵《まこと》にその前夫恵帝が蛙鳴を問うた痴漢たるに相応な詰まらぬ人で、武帝羊車の一件が、後年羊氏が立って晋室のために恥の上塗りをする讖をなしたのかも知れぬ。
 わが邦にも武勇の美女の例はあるが、そのもっとも名高き巴が、さしも朝日将軍と唄われた夫兼乳兄弟に死に後れたのみか、敵の妻となって生き延びたと伝えられ、板額(これは醜婦)と一列に、「入札のないを浅利は申し受け」、「腹にゐた時であったと巴いひ」、また「義盛はお土産らしい子を育て」の、「世帯くづしを申し受け」のと笑わるるは遺憾で、小説ながら『水滸伝』の一丈青が一族も許嫁の夫も鏖殺されながら自分より弱い敵将と婚したに似おる。
 巴ほど名高からねどはるかに満足な例は、天正中、島津勢が豊後の阿南但馬守を攻め殺した時、男子なく十七になる独り娘、美人なり、白練の鉢巻し括り袴を著、父が帯びし太刀で戦うた後、その鋒を呀《くわ》えて倒《さかさ》まに落ち貫かれたとは、取りも直さず巴女の兄兼平そのままの死に様だ。それから柴田大蔵が籠った岩瀬の要害をも薩兵が陥れた時、大蔵の二男宮千代九十三歳に繩をも掛けず大将の見参に入れ、近づくと斉しく懐中から小剣を出し痛手を負わせた。頓《やが》て宮千代丸を殺すと妹また懐中より剣を抜いて兄の敵を討った(『豊薩軍記』七)。秀吉、東征に武州|忍《おし》の成田氏長小田原城にあり、その兵忍城に拠って北条氏のために守戦したので、平定後浪人して蒲生氏郷に事《つか》う。秀吉、奥州征伐の途次、氏長の妹無双の容色あり、志操また剛なりしほどに、当春忍城で母もろとも勇戦したと聞き、密かに野州小山のほとり面々塚の陣へ召し会うてより忘られず、帰洛ののち会津へ飛脚を下され妾とするから差し登すべしと大谷吉次が奉書あり。氏郷より侍女ならびに下女|数多《あまた》添え、成田が家人吉田和泉守を介添として、騎馬十人、軽卒二百七十(355)余人を従え、大阪へ送る。この女の歎訴によって氏長を召し出され、烏山城三万石を賜わった(『関八州古戦録』二〇。参取『藩翰譜』一二下)。もって秀吉は大英雄ながら美女にのろかったを知るべし。
 それから関が原役に、富田知信、安濃津に籠城し毛利勢を拒いだ時、城中より容顔美麗な若武者緋威の鎧に半月打ったる冑著て、片鎌の鑓で敵兵中川某を突き殺し、五、六人に手を負わす。富田その時上野の城を捨て加勢に来おった分部政寿に、かの若武者は君の小姓かと問うに、然らず、かつて見知らず、かつ内冑を見れば年ごろ二十四、五で、眉を抜き仮粧し鉄漿付け紅さしたれば必定女だと答う。知信立ち寄って見入りたれば、若武者馳け寄っていまだ討たれたまわぬかというを見れば、自分の妻だ。討死したまうと聞き、同じ場で枕を並べ死なんと支度し参りしに、御目に懸かる嬉しさよ、と喜び極まって泣いたので、知信は肝を消し、御身いかなることでかかる働きしたまう、まず此方へ入りたまえと本丸へ伴うた、とあってその後のことは記さずに、この奥方は宇喜多安心が娘、隠れもなき美人にて心賢くありけるゆえ、この度の働きも義経の静、木曽殿の巴、山吹もこれにはいかで勝らじと、見る人聞く人驚かぬはなかりけり、と結んでおる(『石田軍記』五)。「甲冑のままで巴は縁につき」ちう川柳がある。古ローマで盛んに祀られた勝軍女神の濫觴は、半神半人の世にラケデモンの男子|挙《こぞ》ってメッセニアを囲みに在った時、メッセニア人潜かに城を出で女人のみを留守せるラケデモンを襲うたが、婦女みな急ぎ甲冑著てこれを撃ち退けた。変を聞いて還った男子ども、かつ驚きかつ悦び、その冑を脱ぐ間もあらせず直ちに抱擁して歓を尽した紀念に、ヴェヌス女神の武装せる像を作り崇拝したのだそうだ。富田知信も定めて妻の甲冑姿を心肝に銘じて嬉しくも有難くも思うただろ。すなわち夫婦勇戦の賞として戦後二万石を加えられ七万石を領し、尋《つ》いで予州宇和島に移され十二万石を賜わる。しかるに、知信の妻の兄浮田左京亮がその甥左門を誅せんとすることあって、知信その舅安心に頼まれ左門を日向に忍ばせ知信の妻より毎年米三百石を贈った。その書付を手に入れ左京亮が訴えたので、知信罪蒙り所領は没収その身は御預けになったとは気の毒千万な。
(356) 未の歳の羊に縁ある最も高名な英雄は太闢《ダビデ》であろう。『旧約全書』の「撤母耳《サムエル》書」に、太闢その父の羊をベテレヘムに牧したが、たびたびの武功で身を起こして終《つい》に王となった委細を載す。初め太サウル王の怒を避けて諸方へ逃げ廻るうち、必要あって食料を富人ナバルに求むるに与えず反ってこれを罵る。太闢憤ってこれを襲い、ことごとくその所有を掠めんとす。ナバルの妻のアビガル賢かつ妍なり。これを聞いて夫に知らせず多くの食料を驢に載せ往って太闢に献じ祝詞を述べ、自分の夫は馬鹿と陳謝し、太闢食料を受け慰撫して帰宅せしむ。十日ほど歴てナバル神罰で死に太闢大悦びでその後家を聘すると、アビガル急ぎ立って使者に随い往ってその妻となるとあるが、ナバルは毒殺でもされたらしい。太闢またエズレルのアヒノアムを娶り、一時に二妻を持ったとある。太闢、王となって後も美人を好むことますます盛んで終に大罪を犯すに及んだ。
 『聖書』にいわく、太闢王その甥ヨアブしてイスラエルの全軍もてラバを囲ましめ、みずからエルサレムに駐《とどま》り休養す。ここに夕暮に王その床より起き出で宮の屋上を歩んで一婦の浴するを見るに、その面潤沢醍醐に過ぎ、その服紺青|吠溜《ヴエイル》のごとく、身体柔滑、艶客殊絶なり。これを視て王いかんぞ魂飛ばざらん。良《やや》久しく物怪《もののけ》の付いたようにわなわなと振るいおったが、ようやく気を取り直して人をして探索せしめ、その女は王の臣ウリアの妻、名はバテシバたるを知る。王すなわち使者してその婦を召し、事済んで婦その不潔を清め家に帰る。尋いで人を王に遣わしわれ孕めりと告ぐ。王大いに驚き何とかその胎児をウリアに塗り付ける方法をと案じた末一計を思い付き、ヨアブに令してウリアを王宮に使いせしめ、これに面して戦地の状を問い了《おわ》って自宅に下らしむ。しかるにウリアうすうすその婦王に幸せられたと聞き知ったものか、ただしは真実忠直だったものか、宅に退かずして諸臣と共に王宮の門に宿直す。王、汝旅し来たれるに何故自宅に下って妻を見ぬぞと問う。ウリア答えて、将卒みな野営して眠を安んぜず、臣一人いかで私邸に在って飲食しまた妻と寝ぺけんや、と白《もう》す。王ウリアを宮廷に留めてこれを酔わし妻を懐うて家に帰らんことを冀うたが、ウリアついに帰らず。太闢計策齟齬し仕様がないので最後の方法を執り、ヨアブ宛の状を認めウリア(357)に持たせて陣に引き還さしむ。その状にいわく、汝らウリアを烈しき戦の先鋒に出し彼の後より退いて彼を戦死せしめよ、と。ヨアブその通りしてウリア捨て殺された。ウリアの妻バテシバ世間体を繕い夫の喪を服し果《おわ》ると、太闢王待ってましたとこれを娶り、男子を生んだが、その子生まれて七日してごねた。天罰これに止まらず、王の長子アムノンその異母妹タマルちう十五、六歳の美女を辱しめしより、タマルの同母兄(王の第三男)アブサロム、羊の毛を剪る祝宴にアムノンを招きてこれを殺し、また王がウリアを謀殺してその妻バテシバを娶り生ませた第五男ソロモン、その母愛さるればその子抱かるで、ついに儲弐《ちよじ》に立つべきを嫉み、兵を挙げて叛き敗軍してヨアブに  捕殺《しようさつ》さる。その後ヨアブ等、王の第四子アドニヤを助けて王位を嗣がしめんとせしに、バテシバの勢力強くてソロモン嗣ぎ立ち異母兄の罪を釈す。しかるに、アドニヤその父太關王の死後その妾アピシャグを娶らんと請うてたちまちソロモン王に殺されたは、ソロモンみずからこの女を心懸けておったからだろう。この女は太闢齢七十に?《およ》んで身冷たきゆえ、王の懐ろに臥して王を暖むるため事えた処女、はなはだ美人だったが王これと交わらざりき、と「列王妃略」上に見ゆ。これを要するに、太闢とソロモンを西教徒が大英雄、大聖王ごとく謳歌するが、美人の前には一向詰まらぬ人物だったのだ。
 太闢王がウリアを殺すべき令状をウリアに持たせてヨアブに達したのと同じ筋の譚は東西に多い。あまり多いから二、三を挙げよう。まず日本では西鶴の『武道伝来記』七に「我が命の早使い」と題した一章がある。日向の磯辺頼母という夫《おとこ》が家臣塚林の新婦に執著し、塚林を殺しくれたき旨頼み状を書き、塚林して参河《みかわ》なる自分の伯父方へ持ち往かしむれど、磯辺の伯父、塚林を殺さず、その状を示す。塚林、主人の亡状を語り、大小羽織を留め逐電して僧となる。頼母、伯父より塚林の遺品を受け、灸治に托してその妻を召し示して、汝が夫成敗された上はと切《しき》りに口説く。妻靡いた振りして油断に乗じ切り掛けしが仕損じて弄り殺さる。その妹聟夫妻、浪人して頼母を討ち取り、自分らも切死せしを塚林入道伝え聞いて墨染の袖を絞ったそうだ。インドには、『六度集経』五にいわく、釈尊、前生富人の(358)養児たり、性仁孝で学術に博通す。養父その実子に優れるを惡《にく》み、これを殺さんとて知り合いの鍛工に宛て、この児を養うてより凶事|頻《しき》りに至る、よってこの書を読み次第、この児を火中に投げ入れ殺してくれと一書を認《したた》め、用事に託して持たせ遣わす。途上その弟に遇うとわれ先刻から遊戯して負け通しだ、よい所へ兄が来た、代りに勝ってくれと乞う。父の使いに往くと言うと、弟われ行こうとて、その書を奪い持ちて行く。鍛工、書を読んで弟を焼き殺す。父は弟索めに人を遣れど見当たらず、兄が帰って弟の行先を語る。父愕いて鍛工方へ往き尋ねるとすでに灰となりおったので、悵恨して廃疾となる。さらに殺意を生じ、遠方なる所有地の差配人がわが財を濫費するから勘定に往けとて、差配人宛の封書を持たせて養児を遣る。それには、この者到らば疾く石を括り付けて淵に沈めよ、と書いた。養児半道往って父と相識の梵志の家近きを思い出し立ち寄って挨拶すると、かねて博学の聞えある児ゆえ、梵志四隣の学者を集め娯?歓楽しながら種々質疑せしむるに、児ことごとくこれを解いたから一同大悦した。談論に疲れてその夜その家に宿り眠る。主の梵志の独り娘も学者だったが、この男の封書を佩びて眠るを怪しみ披いて読むと、何も知らずに殺されに行くと分かった。気の毒に思うて娘がそれを書き替えた。いわく、われ年老い疾重し、かの梵志はわが親友でその娘は賢い、汝われに代わり礼物を備え、この児のために迎えて妻《めあわ》せ遣ってくれ、と。養児、明晨眠り覚めて何事も知らずその書を持ち行きて差配人に示し、差配人は書面のままに礼を具えて梵志に詣《いた》り、その娘をかの児の妻とした。養父これを聞いて結忿内塞して死んだ、と。
 アラビア人は「我が命の早使い」をムタラムミの書状という。回祖出世前、文字は読めずに善く詩作するタラファとムタラムミの二人が狂詞を詠じてヒラの王を譏った。王謀ってこの状の持主を殺せという書状を二人に授けバーラヤの知事に詣《いた》らしむる途上、ムタラムミ少々怪しく思い一友に逢ってその状を読ましむると右の次第ゆえその状を裂き、タラワァに引き返さんことを勧めた。タラファかの友が佯《いつわ》り読んで自分らを威すと心得、独り進んで知事を訪い、王の密旨通り両手両足を截って生埋めされたという。また欧米でかかる密書を、ウリア(上に見ゆ)の書状とも、ベレ(359)ロフォンの書状とも呼ぶ。ベレロフォンのことは、昨年六月の『太陽』に出た拙文「馬に関する民俗と伝説」中に述べ置いたゆえ繰り返さぬ。ただしこの種の話で一番人口に膾炙するは沙翁《シエキスピア》のハムレット劇の五番二場で、ハムレットが渡英の船中随員二人の熟睡に乗じ叔父王の密書を開いて、その英国王をして自分を殺さしむべき依頼状たるを知り、急にその二人を誅すべき旨に書き替え封じ置く。翌日海賊に遭って自分は故郷へ送られ、かの二人は英国へ著いて書替文面通り殺されたとしておる。この一段の原話は十三世紀の初めサキソ・グランマチクスが書いた『丁抹《デンマーク》史』に出で、それには、デンマークの纂位者フエン、その甥アムレツに二女を添えて英国王を訪わしめた船中、アムレツその書札を見て到著後自分が直ぐ殺さるべきを知り、その二員を誅して自分に英王の嫁すべき旨に書き換え、その通り事成って年末に帰国した、とある。サキソの書は古デンマークの歴史として広く読まるる物で、『ハムレット』はアムレツから出たくらいは沙翁の劇について研究する者十人が十人知っておるはずと思うたが、木村氏の「沙翁の『ハムレット』」に一向そのことが見えぬは不思議極まる。
 大闢王がバテシバの浴するところを見初めたという類話は記すに堪えぬばかり多い。『太平記』に、『前賢故実』に、甘く書かれ画かれた塩谷の妻の湯上り姿を師直が?《うかが》う一条はそのもっとも著名なものの一であろう。漢の伶元著という『飛燕外伝』に、「趙昭儀、夜、蘭室に入浴し、膚体|光《かがや》き発して燈燭を占む。帝、幃《とばり》の中より窃《ひそ》かにこれを視る。侍児、もって昭儀に申す。昭儀、巾《てぬぐい》を覧《と》り、燭を撤せしむ。他日、帝、約して侍児に黄金を賜い、言うことを得るなからしむ。私婦、予《あらかじ》め約さず。中《なかば》に幃を出でて帝に値《あ》い、すなわち入って昭儀に白《もう》す。昭儀にわかに隠れ避く。これより帝は蘭室の幃の中より昭儀を窺うに、多く金を袖にす。侍児、私婢に逢えば、すなわち牽き止めて、これを賜う。侍児、帝の金を貪らんとして、一出一入すること絶えず。帝、夜に帑《かねぐら》より益さしめて百余金に至ることあり」。莫大な観料を払うて自分の妾の入浴を覗いた成帝は洵《まこと》に大痴漢だ。想うに師直の話はこれに本づいて作られたものか。久しい古来広い世界にはずいぶん烏滸《おこ》の男もあって、古ギリシアの狩人アクタイオーンは女神アルテミスが(360)浴するところを覗いた罰で鹿に化し、リジア王カンダウレスは平素きわめてその后の美に誇り、一日その幸臣グゲスをしてその露形を覗かしめしに、后これを見付け召し出して、汝、死刑とわが夫を弑しわれと婚して王となるといずれを撰ばんやと問いしに、グゲスむろん後者を好むと答え、王を弑し代わり立ったという。
 仏書にきわめて美しい女の力を説いた妙文があって面白いから引くとしょう。「仏、毘舎離城に住む。その時、跋陀羅比丘尼、蘇河において浴す。その時、五離車童子あり、河の上《ほとり》において看る。見おわって欲心を生ず。比丘尼いわく、長寿よ、汝去れ、と。答えていわく、われは去らず、阿梨耶《ありや》の形体を看んと欲す、と。比丘尼いわく、汝この臭爛身九孔門を看るを用いて何かなさん、と。またいわく、爾《しか》らず、われはなはだ見んと欲す、と。良久《しばらく》するも去らず。比丘尼、この念《おもい》を作《な》す、この凡夫は愚浅なり、と。すなわち手をもって前後を掩いて出ず。その人見おわって、迷悶して地に倒れ、血の口より出ず、云々。仏いわく、過去久遠のとき、その時一の天女あり、端正にして殊特なり。時に五天子あり、云々(ここに五天子の名を列ぬ)、見おわっておのおの欲心を生ず。すなわちこの念を作す、こは共にすべき物にあらず、欲心の重き者に、まさにもってこれを与うべし、と。おのおのいわく、可なり、と。ここにおいて釈迦羅《しゃから》すなわち頌を説いていわく、われは婬欲を憶う時、坐臥みずから寧《やす》んぜず、すなわち睡眠の時に至って、欲退いて始めて安んずるを得、と。摩多羅《またら》また頌を説いていわく、釈迦よ、汝は眠る時、猶故《なお》しばらく泰《やす》んずることあり、われは婬欲を憶う時、陣戦の鼓の音のごとし、と。僧闍耶《そうじやや》帝また頌を説いていわく、摩多の鼓の音の喩えは、猶故《なお》尚《いま》だ間《たるみ》あり、わが心の欲に染む時は、駛《はや》き流れに漂う木のごとし、と。  碑闍耶《ぴじやや》帝また頌を説いていわく、汝の喩うる漂い浮く木は、あるいは時に稽留することもあらん、われは欲念を憶う時、虻虫《あぶ》の瞬きもせざるがごとし、と。ここにおいて摩?《またく》また頌を説いていわく、汝らもろもろの説くところは、全くこれ安楽の想なり、われは婬欲に耽る時、死と生とを覚えず、と。ここにおいて諸天子いわく、汝は最も重き者なり、と。すなわち并《あわ》せてこれを与う」。その時五天子を悩殺した天女は、只今五離車に血を嘔かせた跋陀羅尼で、五天子は五離車に生まれ変わった、とあるい『摩(361)訶僧祇律』三八)。
 それからローマのカラカラ帝の生母ジュリア・ドムナは才色兼備で、哲学、占候に通じ、夫セヴェルス帝がわが秀吉公同然微賤より起って大立身せるを翼けた女丈夫だが、生れが宜しからぬだけに品性は優れず。史家しばしば譏りしは、カラカラ、帝となって一日太后の半ば形を露わすを見、ああ世法が縦《ゆる》すならばと歎ぜし言下に、卿は皇帝なれば世法に制せらるべきにあらず、宜しく世法を革めて古えとするべしと教え、帝と婚したという。このこと全く無実の由、スミスの『希羅神誌人伝字彙』に弁じある。
 新年に初夢を祝うにちなんで、英雄美人に関する夢の話を述べよう。源頼朝の妻政子が女中の英雄たりしは論なし。その美人たりし由は『曽我物語』にのみ見えたようだ。時政に女三人あり。一人すなわち政子は先腹で二十一。二、三は当腹で十九、十七にぞなりにける。中にも先腹二十一は美人の聞えあり。ことに父不便に思いければ、妹二人よりは優れてぞ思いける、と見ゆ。その十九の君、一夜夢に何処《いずこ》ともなく高き峰に登り、月日を左右の袂に納め、橘の三つ生《な》りたる枝をかざすと見て、二十一の姉に語る。政子はその大吉夢たるを知ったが、この夢返す返す恐ろしき夢なり、妾買い取りて御身の難を除き奉らんとて、北条の家に伝わる唐の鏡に唐綾の小袖一重ねを添えて渡す。十九の君、日ごろの所望叶いぬ、この鏡の主になりぬと喜びけるぞ愚かなる。この二十一の君をば父ことに不便に思いければこの鏡を譲りけるとかや。それから頼朝十九の方へ艶書を遣わすを、傍に立った藤九郎盛長が当腹どもはきわめて悪女なれば君思召し遂げんことあるべからず、そのことより父の時政と仲違いとなっては詰まらぬと思い、その書を二十一の方へ書き更えたが縁の始めで、夜な夜な忍びて褄《つま》をぞ重ね給いける、とある。石橋臥波君がその著『夢』に引いた『古本曽我物語』の趣きはこれと反対に、妹、夢を姉に売ってのち、頼朝、妹の非常に美なるを見、これを娶らんとしたが、あまり美な女は自分に適せぬと思い直し容貌劣った姉政子の方に定めた、とあるそうだ。『郷土研究』二巻七号中山氏の説に、この妹娘名は時子、後に足利義兼の妻となったが、夫の従弟忠網と通じて孕んだ(362)という讒言で義兼にその腹を割かれたが、胎児はなくて蛭《ひる》無数出た、義兼悔いて僧となり寺を建てたのが今に存し在るという。
 同誌同巻八号に、山崎千束氏、この政子夢買いの話の根本らしいとて、『東国輿地勝覧』から引かれた朝鮮の話あり。いわく、金寛毅が『編年通録』に、聖骨将軍の子康忠、摩訶岬におる。その子宝育|居士《こじ》となり、木庵を構えおる。新羅の術士これを見ていわく、ここにおらば必ず大唐の天子来たって婿とならん、と。のち二女を生む。季を辰義といい美にして才智多し、年|甫《はじ》めて笄《こうがい》す。その姉夢に五冠山頂に登れば旋流天下に溢ると、覚めて辰義に説く。辰義いわく、綾裾をもって買わん、と。姉これを許す。辰義さらに夢を説かしめ、攬してこれを懐くこと三たび、すでにして身動き得るあるがごとし。心にすこぶる自負す。唐の粛宗、潜邸の時、あまねく山川に遊ばんと欲し、天宝十二載の春をもって海を渉りて松嶽郡に至り、摩訶岬に抵《いた》りて宝育が邸に寄宿す。両女を見てこれを悦び衣綻を縫わんことを請う、と。ここで熊楠ちょっと註す。『朝野僉載』に「武后の時、滄州南皮県丞の郭勝静は、毎《つね》に郷を巡り、百姓の婦を喚び、託するに縫い補《つくろ》うをもってし、これを姦す」。ある村で現行犯中婦の夫が来て縛り鞭うつこと数十回、そこへ書記が来て救うた、とある。想うに、唐のころ客人が宿った家で目に留まった女に衣の綻びを縫ってくれとて召してこれを幸する風行なわれ、後には貴客に針仕事を頼まるれば針は抜きにして女を差し出したらしい。それから宝育、これ中華の貴人たりと認め心に謂《おも》えらく、果たして術士の言に符す、と。すなわち長女をして命に応ぜしむ。わずかに閾を踰ゆれば鼻衄《ぴじく》して出ず、代わるに辰義をもってす。ついに枕を薦む。留まること期月、娠むあるを覚ゆ。別れに臨みていう、われはこれ大唐の貴姓なり、と。弓矢を与え、いわく、男を生まばすなわちこれを与えよ、と。果たして男を生む、作帝建という(?)。のち宝膏を追尊して国祖元徳大王となし、その女辰義を真和大后となす、云々、と。
 もと、熊楠『古今圖書集成』新羅部彙考一を見しに、『朝鮮史略』を引いて「新羅の太宗武烈王、后を文明という、(363)すなわち金?信の妹なり。初め后の姉宝姫、夢に西兄山頂に登って坐し、旋流して国内に?《あまね》し。覚めて后と言《かた》る。后、戯れていわく、願わくは兄の夢を買わん、と。よって錦裾を与えて値《あたい》となす。のち武烈后、納れてもって后となす」。その生んだ子が武王で、「姿表《すがたかたち》の英特《すぐ》れ、聡明にして智略多し。始めて三韓を一にして、克《よ》く前志を成す」とあった。山崎氏が引いた文に作帝建という(?)とは、原書を見ぬ予には何とも分からぬが、後の高麗建国の始祖王建のことでなかろうか。宝育と宝姫とも名が似寄っており、王建は文武王より二百余年後の人だが、韓国を統一した事跡が似ており、支那からは王と呼ばれたが自国では帝と唱えたであろう。王建は宝育と同じく松嶽郡の人で、「その父隆、室を嶽南に築く。僧道?来たって、これを相していわく、この地まさに聖人を出だすべし、と。よって一の封書を授けていわく、明年、公必ず貴子を得ん、すでに長じてこれを与えよ、云々、と。期に及んで果たして生まる。年十七に及び、?また来たって建に見《あ》い、告ぐるに、出師置陣・地利天時の法、望秩山川・感通保祐の理をもってす」とあるも、やや文武王の母の生立《おいたち》に似た話だ。初め王建、弓裔に事え偉勲を立てた。この弓裔は新羅の憲安王の庶子で、わが朝の弁慶、天竺の阿闍世王、英国のリチャード王同然、生まれながらにして歯生えおったから、王、使者をして楼下に投げ殺さしめたところを、乳母が窃《ひそ》かに受くるとて手が触れて一目|抄《すがめ》となった。それを抱いて匿し育てて僧となしたが、無頼にして賊魁となり、みずから弥勒仏と称し、常に宗国を怨み前王の画像を見て剣を抜きこれを撃つ。その妻康氏その非を力諌すると、「裔、怒って、烈火をもって鉄杵を焼き、その陰を撞《つ》いてこれを殺す」。こんな乱暴者ゆえ群臣安き心なし。将軍洪儒等、夜、王建の第に詣り密謀推戴せしも堅く拒んで従わず。夫人柳氏、甲を提《ひつさ》げて建に被せ、諸将扶擁して出で布政殿に即位し、天授と建元したので、弓裔逐電せLが百姓に殺された、とある。その時の柳氏の働きは『堀川夜討』の静女とよく似ておる。
 支那の伍子胥は、その父が言った通り剛戻にしてよく詬《はじ》を忍び、ついに父兄の讐を復したはまことに英雄で、員半千、本姓劉、しかるに伍員が為人《ひととなり》を慕い姓を員と改めたはもっともだ(『琅邪代酔編』七)。ただしその呉の師をもっ(364)て楚に伐ち入るや、平王の屍を鞭うち左足腹を践み右手その目を抉《えぐ》ったは、父兄の仇さもあるべしとして、「すなわち闔閭をして昭王夫人を妻《めと》らしめ、伍胥、孫武、白喜をして、また子常、司馬成の妻を妻《めと》らしめ、もって楚の君臣を辱しむ」と『呉越春秋』二に出るが、事実だったらはなはだ無残に過ぎる。それに比べると、平将門が敵貞盛の美妾が虜領露形の不幸を恤《あわ》れみ衣と歌を贈った方が英雄らしい。
 清盛は女の方に掛けても英雄だった。その寵を蒙った美人の内で常磐もっとも名高いが、三子の命を助けたさに操を破って清盛に事え女一人儲けたは是非なしとして、のち色衰えお祓い箱となった上は尼となって義朝の跡懇ろに弔うべきに、左はなくてまた人に嫁して男子を生んだは訳が分からぬ。それに比べると浮気商売の白拍子ながら祇王の方が満足な女だったものか。東涯先生の『?軒小録』に、祇王、自分が生まれた江州益須郡中北村に灌漑の利少なきを憂い、清盛に乞うて堰を掘り水利を助く。その堰今に残り、益須川を決して三里ほどのあいだ水を取るに三村の潤いとなる。一日の間に成就す、と言い伝う。寺ありて祇王・祇女を追善す。所の耆老は人によりて祇王が忌日には精進すと言えり。賤婦の身にも後世に利沢を残せば、蘇公堤とも名を斉しうし、西施の洗紗石にも勝るにや、とやたらに讃めておる。外国の類例を少々挙げると、エジプトの大ピラミッドはケオプス王の娘が靨《よう》を鬻《ひさ》いだ揚り高で建て、第三のピラミッドは名娼ロドピスが建てたところという。ロドピスは赤頬の義で、その美を讃めたという。このところわが邦で頬の赤い女は何とかというと違う。十七世紀にスペイン人フィゲロアが書いた『波斯《ペルシア》行記』に、むかし大いに富んだ娼妓あって名を竹帛に垂れんため資財をことごとく散じて大工事を起こし、大山を鑿《ほ》り開いて洪水を海へ落とし、新たに陸地を作り無数の人間を生息せしめたから、土人今もその勇と仁を称して止まず、と。
 信玄は誰も知る通り腥《なまぐさ》坊主じゃった。その妹聟諏訪頼茂を殺してその女《むすめ》を妻としたは不埒には相違ないが、『野史』に弁じいる通り、その女は信玄の妹の生むところでないなら、長曽我部盛親が兄の女を娶ったほど不倫のはなはだしきてない。ただし信玄、美人に向かってずいぶん無法を行なったと見え、『簑輪軍記』下に、長野業盛の妻十八(365)歳村上帝の末葉というを甲州へ引き取り、いろいろ慰め口説けども信玄に靡かず、信玄怒って大小名によらずわれに随わざる者なし、随わざるにおいては命を失わんと貴めければ、願うところなり、生き長らえて恥を暴《さら》さんより一時も早く死せんと思うのみ、これこそ幸いなりと申しければ、信玄憤って刺し殺し、芙蓉の蕾|終《つい》に散らす、と載せ、また、信玄たとえば主ある女なりとも召し寄せ遣り候こと、随わざる女は刺し殺し、または牢に入れ、責め折檻、その人々の啼き叫ぶ声、身の毛もよだち、恐ろしきことどもなり、と記す。里見義弘は驍勇にして士を愛し、足利義明を擁して東方に号令し、小田原の北条すら一時これを懼れしこと、曹操が都を移して関羽を避けんとせしごとし。しかるにこれほどの英雄また美人に勝ち得なんだので、かつて鎌倉へ討ち入った時、太平尼寺の住持青岳和尚を奪い取って妻とし、爾来寺頽破せりという。これに似たこと仏典に、未生怨王、父を弑して心大いに悔い、種々鼓楽絃歌もその愁を釈《と》くなし。時に大臣大迦葉の妻たりし妙賢が尼となって容色なお殊勝なるを見、逼《せま》って法衣を脱がしめ諸綵服を着せ、名香を塗拭し王に進むると、王その姿容妙絶なるを見、ついに憂懐を釈き、数年間放さず宮中に留め置いた、とある。支那には、『洛陽伽藍記』に、「瑤光寺。講堂と尼房、五百余間あり、云々。椒房の嬪御の道を学ぶの所にして、披庭の美人、並《みな》その中にあり。また名族の処女、性《うまれ》つき道場を愛し、落髪して親を辞し、来たってこの寺に依る。珍麗の飾を屏《す》て、修道の衣を服《つ》け、心を八正に投じ、誠を一乗に帰す。永安三年中、爾朱兆《じしゆちよう》、洛陽に入り、兵を縦《はな》って大いに掠《かす》む。時に秀容の胡騎数十人あり、寺に入って淫穢す。これより後、すこぶる譏?《そしり》を獲。京師にて語っていわく、洛陽の男児、急《せ》いて髻を作れ、瑤光寺の尼女婿を奪う、と」。けだし青岳は義弘の主人義明の女だから考えるとこの尼も寺住居面白からず、内々望んで義弘に奪い取って貰うたものか。これらから見ると、ローマのカラカラ帝が事火斎女《ヴエスタリス》クラウジア・レータを挑めども応ぜざるを怒り、その童貞を失えりと誣いて生埋め刑に処せしに、この斎女、わが処女たるをもっともよく知悉せること誰か皇帝に及ばんと呼んで死んだは偉い。
 件《くだん》の足利義明の女にまた月桂院尼あって武州川田ヶ窪に月桂寺を創す。秀吉、奥州に向かう時ここに宿り、夜の御(366)相手として由ある人を御撰みにて、義明の女と忍の成田の女(上に述べた武勇の美女)容色麗しきゆえ両人御伽に召されたり。成田の女は御返しなされ、義明の女は都へ召さる。秀吉薨後尼となる、と『望海毎談』に出ず。小弓御所と尊び懾《おそ》れられた人の娘も、一人は強奪され、一人は人の妾となる、美人は薄命なものだ。謙信は一生素食して女に近づくことなかったと『藩翰譜』に見ゆ。『甲陽軍鑑』、『松隣夜話』等に、この人の寵童の記載あれば男色は制せなんだらしい。しかし『松隣夜話』によると、謙信、千葉采女の娘伊勢という無双の美人と心易くなりしを柿崎和泉守引き分かち、伊勢は十七歳で尼となり十九で死す。その恨みで謙信、柿崎を誅したのだ。謙信の跡を襲いだ景勝も英雄で、大槻磐渓は当時第一の猛将と称した。この人も女嫌いで後嗣生ぜざるを家老直江兼継が心配して、大谷家の浪人の娘を美童に扮し進むると、景勝大いに寵愛し一会して孕んだとはいかな猛将もずいぶんと周章《あわて》たものだ。またもっていわゆる女嫌いの宛にならぬを察すべし。さてその女が嗣子定勝を生んだが、直江そのことを取り次がざりしを恨み自殺した。その後仇に後年定勝が直江を殺したと『奥羽永慶軍記』に見えるが、真偽のほど心元ない。信長も蘭丸兄弟や金森等の少年に現《うつつ》を抜かしたことは知れ渡ったれど、婦女に名を立てたことは聞かぬようだ。しかし、『甲子夜話』に出た、その秀吉妻に与えてそのますます美しくなりたるを讃めた状を見ると、いかにも女の方にも通じおったと判る。信長、実はよほど女好きだったものか。
 その為後十五年に成った『義残後覚』六に、柴田勝家、越州を領した時、六十歳ばかりの婆、人|数多《あまた》召し連れ町に宿を取り人の妻女を押し取り京へ上す。勝家、尋問すると、われは信長公に事うる者で、殿の御意に入りそうなる女あればいずれの国でも見立て次第に連れて参れとの仰せによって来たる、佯りと思わば人を付けて殿に訴えたまえ、という。柴田これは姥の言必定なるべし、されど信長公前代未聞の無道を行ない給うのあいだ、ついでながら仕付けをせばやと思うて、老女始め十余人を海底に沈め、その由を申し上げると、信長、何と答うべき詞もなく、神妙にこそ、向後そんな者あらば此方へ知らせよ、と言った。よって柴田を讃めぬ人なかった、とある。光秀、秀吉以下の美(367)人に関することどもは他日の機会を竢って記そう。
【付記】
 羊と英雄美人。陸佃の語に、「羊は大を貴ぶ、故に羊大を美となす」とあり。羊の年の本誌元旦号に英雄と美人を題目としたのは、これに因ったであろう。   (大正八年一月一日『日本及日本人』七四七号)
 
(368)     伊賀越仇討
 
 二年前の本誌に出た鳶魚先生の「伊賀の水月」に、池田忠雄卿が臨終の病牀近く家老荒尾を召し寄せて遺言した、とある。『鳩巣小説』中巻には、「宮内殿頓死にて候。具足櫃により掛かり候て死去の由に御座候。その時いろいろ浮説申し候。死去の子細も有之《これあり》候や。実に頓死にて候や。これにて事済み静まり沙汰なしに罷り成り申し候」とあれば病牀で遺言して死んだようにない。『小説』に、その時又五郎安藤治右衛門に匿いくれた恩を謝し、「もはや御暇下され外へ出され下され候が責めての御恩報にて御座候。その子細は三十五万石を敵に仕る義に候えば、終には討たれ申さずと申す義は無之《これなく》候。御息の下にて討たれ候ては、これまで御一命に替えられ御匿い下され候ところ無に致し申し候、云々」と、「達って断わり申し候て行方知らず罷り成り申し候」とあって、又五郎もずいぶんしっかり物だったらしい。それから、「相模守殿方にては、畢竟又五郎ゆえに宮内殿も鬱憤にて頓死候えば、主の敵と家老以下存じ罷り在り候ゆえ、手分け致し弓鎗等用意にて六十六ヵ国を尋ねさせ申し候。終に東海道庄野にて討たれ申し候。草履取、夜中にわらんず買いに庄野宿にて人家へ立ち寄り候えば、亭主、夜に入るまで歩行候やと尋ね申し候ところに、われらが主人は三十五万石取りを敵に持ち候ゆえ昼歩行候は罷り成らず、かように夜中ありき申し候由申し候を、庄野宿に限らず宿々に人を付け置き候ゆえ、相模守殿家来承り、それより付け候て終に討ち申し候。その節も五、六人、手に掛け申し候てのち討たれ申し候。安藤治右衛門、名誉を取り申し候。この時分はいまだ武士の風俗かくのごとくに御座候」と結びおる。又五郎討たれて七、八十年経たるに、鳩巣先生が荒木又右衛門の働きも名も聞き及ばず、(369)右様の風説を信じおったので、そのころまで、この一件が東国に広く知れなんだと分かる。
 しかしながら西鶴の『武道伝来記』八巻の終り、「行水で知るる人の身の程、伊賀の上野にて打ち納めたる刀箱のこと」と題した一語は、確かに渡辺、荒木の働きを序したと見える。下野の諸士、殺生石に鳥を追い懸けてその毒に中《あた》り落つるを捉え争い食ううちに、熊川茂七郎のみ食わず。高砂丹兵衛これを嘲りしを遺恨に、茂七郎待ち伏せして丹兵衛を撃ち、反って殺さる。茂七郎の子茂三郎その時七歳なりしが、十六になってかねて父と不快で、久々不通なる因幡在住の伯父茂左衛門を尋ね往き助太刀を頼む。茂左衛門受け合い主君に暇乞い茂三郎と諸国を巡る。丹兵衛は何国を定めず、鎗の上手浪人森沢団斎を頼み、上下八人して奈良猿沢の池の前に宿る。その僕輩水風呂に入りて語るうちに、主人敵持つ由をいう。茂三郎の小者垣越しに聞いて同じ宿に泊り合わせた主人に告げ、茂左衛門窺うて丹兵衛に違わぬを知り、また明朝早く伊賀越に行くを探聞し、夜半に立って上野をその場と極め、曲り角を見立て四人の同勢勇んで酒屋に入り、釣掛升《つるかけます》で飲み縁側に腰掛けて俟つうち、乗掛《のりかけ》二匹を追い立て丹兵衛の一行来たる。団斎得物の鎗持ち町外れの屋根に凭《もた》しかけて厠に入ったは丹兵衛運の尽《つき》で、茂三郎名乗り懸け、丹兵衛と闘い、団斎飛び下りて助太手討つを茂左衛門引き受け闘い、いずれも討ち留めて止めをさし、身も深手なれば死骸に腰掛け息つぐところへ、その国の守より大勢駆け付けいさめて帰る。古今武士の鑑、刀は鞘に納め、御代長久、松の風静かなり、とあるは池田の家松下を称したるに縁《よ》るか。話の初めの方は全く差《ちが》うが、因幡の伯父を頼む以下は、もっぱら渡辺、荒木、河合、桜井を述べた物だ。よって貞享のころ、この一条が伊賀に近い大阪に知れ渡りおったと察する。   (大正九年十一月十五日『日本及日本人』七九六号)
 
(370)     綱吉将軍の生母の母
 
 元旦号一一四頁、鳶魚先生は綱吉公の生母桂昌院お玉の方を京都堀川通り西藪屋町八百屋の娘と言われたが、同時の人黒川道祐の『遠碧軒記』には、堀川の酒屋太郎右衛門の妻、一子を生み、夫の放浪を厭いて二条家の乳母に出た、その後、太郎右衛門は家に久しく遣う高麗女を妻《めと》り二女を生む、共に春日局が東へ同行したが、姉は家光公の気に入らず、妹が留まって綱吉公を生んだ、二条家へ出た太郎右衛門の前妻は気前のよい女で、後日高麗人たる後妻の子供をもみなわが子としたとあって、この前妻は二条家で立身して三位といった。三位が生んだ酒屋の男子はその異母妹お玉の方の縁で本荘宮内少輔と名のり幕府に仕えたらしく、その子孫、今に華族たり。家光にペケにされた姉娘は官人大宮俊重に嫁し、夫入道後、山科に閑居同棲し、夫死後瑞光院と號したのを、妹お玉の方また綱吉公より迎えられて江戸に移り、まもなく死んだ、と『野史』に出ず。瑞光院の二祖陽甫は浅野長矩の妻の母本荘氏の従兄で、三祖海首座は長矩の妻の従弟と『赤穂義士伝一夕話』に見え、『山州名跡志』には、瑞光院の寺地を朝野と名づく、天正・慶長間、浅野長政この地を得て別業を作り、のち改めて当院を建つ、と出ず。浅野・本荘両家に由緒厚い寺で、お玉の方の姉はその異母兄本荘宮内少輔の縁でこの寺に住み瑞光院と称したらしい。
 『甲子夜話』六一に、伊達政宗、釜山で捕え帰った朝鮮女をその夫人の女小姓に使うたが、夫人死んだ時殉死したので、その後嗣を立て、山岡総右衛門と称して三百石を領せしめ、子孫宝暦五年までかの国と通信を許された、と記す。外にもこの類のことが多かったろう。お玉の方の母が征韓役の終り慶長三年に十歳で日本へ渡ったなら、寛永六年に(371)四十一歳でお玉の方を生んだ訳で、太郎左衛門の前妻出で、のち家に久しく遣う高麗女を妻として、とある『遠碧軒記』の文もよく通ずる。して見ると、お玉の方は俘囚として渡来した朝鮮人の娘で、色をもって大いに栄達した者。神功皇后や豊太閤をこの上もないように本土人が誇張するに対し、朝鮮人もまた、酒屋太郎右衛門の後妻になった無名の朝鮮女は、三位とまで名を著わし、その腹から出たお玉の方は気むつかしい家光公を制伏し、善悪とも評判の高い五代将軍犬公方を生んで元禄の世界を創めたは、いわゆる粉陣|素《もと》より孫呉多しで、清正、行長輩に優ること万々なりと自慢して可なり。   (大正十三年七月一日『月刊日本及日本人』五一号)
 
(372)     家光将軍とその夫人について
 
 元旦号一一四頁以下に鳶魚先生が出された「月夜の家光将軍」を読んで書いた拙文「綱吉将軍の生母の母」だけでは物足らぬ心地する点がないでもないから再び申し上ぐるは、全体この月夜将軍ことのほか釜を抜くことを好んだは、遠く当時の欧州までも聞こえておった。寛永十三(一六三六)年、この将軍に謁した蘭人フランス・カロンの『日本紀事』にいわく、当今の将軍(原文には皇帝とあり、家光公を指す)嗣ぎ立った時、正妻も一子もなく、ことのほか非道の色に耽った。ダイロ(内裏、すなわち後水尾帝)その一族の美女二人を彼に遣わし、いずれか好いた方を御台すなわち皇后と定めよと望むと、将軍内裏を怒らすに忍びず、その一人を留めたれど妹背の語らい少しもなく、依然外色をのみ好き続けた。ためにこの妙齢の御台は憂鬱して病となった。しかし将軍の不快を招くを憚り病気を露わさず。御台、日ごろ愛する乳母あって宮中で敬わる。一日その乳母、将軍機嫌よき折を見て、「かくまで美しくて君の心を慰むべき花も盛りに、かつは他日君に継いで天下を治むべき実をも結ぶべき御台を顧みず、何一つ産まない仇なる色にめでたまう訳が分からぬ」と申すを、将軍聞いて答えず、立つ腹を抑えて自室に退き、直ちに大工頭を召し、即座におびただしい職人を聚め、城のような宮殿を建て、高い壁と深い堀で囲み、重い門や引き橋と房室一列を具えしめ、それが出来上がるや否、将軍命じて御台と乳母ならびに京都から付き来たった侍女一同をその中に閉じ籠め、厳制して、永く男子の顔を見せしめず。時に将軍の乳母、勢い将軍を蓋い、宮中でその生母のごとく尊ばるるあり(春日の局)。
 この人太《いた》く将軍子なきを憂い、何とぞその嗜好を変ぜしめんとて、諸王また大名の宮廷より最上の美女を撰んで、時(373)をもって薦めしめたが、その効なし。よって更に身分を問わず全国より飛切りの別嬪を捜り進めた。その内に一刀工の娘が将軍の気に入ってその胤を宿したが、他の諸姫妬んで生まれ落ちるとすぐその児を殺した。将軍の乳母や諸宮臣大いに悲しんだが、そのこと顕われたら非常の惨刑と来るは必定ゆえ、一切将軍に知らしめなんだ、と。
 訛伝は幾分ありがちだが、大要こんな事実があっただろう。『野史』五七に、家光公に五男一女あり、長男家綱公寛永十八年生まる、次男亀松丸正保四年八月夭す、三男が家宣公の父網重、四男が綱吉公、五男鶴松丸慶安元年七月夭す、と見えるから、カロンがいわゆる刀工の娘が産んで諸姫に妬殺されたのは、家綱公よりは少なくとも五歳の兄で、亀松丸でも鶴松丸でもなく、全くそのこと秘して日本に存せなんだのだ。またカロンの記で見れば、御台とその侍女は生涯男の顔を拝むを得なんだごときも、それは寛永十三年までの聞き書きに止まる。そののち家光公、寵姫六条氏の請いを容れ、慶安三年に御台の弟鷹司信平を江戸に召し御台の養子分とし、のち松平氏を称えしめたと言えば、弟の顔ぐらいには見せしめただろう。
 件のカロンの記に、内裏より二女を降して将軍の気に入った方を撰び取って御台とせしめた、とあるが、『遠碧軒記』で見れば、家光に幸せられて綱吉公を産んだお玉の方も、最初その姉と二人春日局に伴れられて東行し、姉は却下され、妹が留まって寵愛されたのだ。『野史』には、永好姫(六条氏お清の方)に東府へ随行し春日局を憑む、と出ず。この局幕府に出仕後上京したは寛永五年で、六条氏はカロンが家光公に謁した寛永十三年に召され始めた。『遠碧軒記』を正しとすれば、寛永五年春日局に伴れられ参った姉を返し妹お玉の方を留めたのを、寛永三年に家光公が迎えた正室鷹司氏(カロンがいわゆる御台)ほか一名とカロンが誤聞のまま筆したのかと思う。しかし、邦書みなお玉さんはカロンと同年に初めて将軍に謁した六条氏の部屋子だったうち、君寵に遇って程なく孕み、正保三年正月綱吉公を産んだというから、その初めて幸せられたはカロンの聞き書き当時より九年後で、どうも勘定が合わない。そのころ将軍様が正室を二人のうちから撰み取る風があったものか、外人の聞き書きゆえ、ことごとく信ぜられぬ。
(374) 按ずるに、『書紀』に、古く垂仁帝が曰葉酸媛命《ひばすひめのみこと》を后に立て、その妹は醜いとて送還したことを載せ、『曽我物語』に、頼朝が時政の先腹と当腹を計較して当腹の女に文を送る話見え、『遠碧軒記』また『小幡の時雨草子』を約出す。むかし関白狩り暮らして宿った家の姉娘を見初め、妻《めと》らんと望むに、その継母、妹娘の実子なるを薦む。それを却《しりぞ》くると継母が姉娘に当たり散らすに堪えず、身を投げに往くところを関白伴れ還った、云々、とある。こんな昔物語を訛伝誤聞して、右様のことをカロンが書いたものか。それは別として、家光将軍が初めに外色に荒んで子がなく、世間これがために不安だったは、カロンが書いた通りと惟う。そのころそんな人が多かったは、熊沢蕃山の『集義外書』に「大名などの美女に自由なるが、男色にすぎて子孫なき者あり」と記したので判る。   (大正十三年八月一日『月刊日本及日本人』五三号)
 
(375)     水牢の責
            三田村鳶魚「与力地」参照
            (『月刊日本及日本人』一〇四号一〇〇頁)
 
 朝川善庵の『善庵随筆』にいわく、「水獄のこと、『資治通鑑』後晋高祖紀に、「漢の高祖、毒蛇を水中に聚め、罪人をもってこれに投ず。これを水獄と謂う」と。これ水中に毒蛇を多く聚め、罪人を投入し、罪人水中を限り、外に出ること成らぬようにして、呵責に苦しむゆえ、水中を獄に比して水獄とはいいし。別に水獄という獄あるにあらず、云々。本邦にも国初水牢ということのありし。これは牢内に水を入れて、罪人を昼夜とも平臥の成らぬようにして、苦しましむるの吋責なる由。伝奇儀太夫本に『白石咄』といえるに、とと様は水牢の苦しみとあれども、古今の正史、野史および小説類にも、水牢のこと見当たらず。されども『白石咄』にいう口気の有様、当時現在の実事にして、虚設とは思われず。頃日『落穂集追加』を閲せしに、七十年余りも以前の義は、諸国ともに秋先に至り候いては、その村の名主たる者の家々には、水牢、木馬などと申す物を支度致し、百姓どもの中にて私を構え、収納致しかね候者どもをば、件の水牢へ入れ、木馬にのせ責め、凌轢して収納致させ申すごとく有之《これあり》候ところに、近年の義は在辺の百姓風情の者までも、正路に罷り成り、律儀に収納をも致し候と相見え、件の水牢、木馬等の義も沙汰なく罷り成り候、とあるをもってみれば、乱世のころ、代官、名主など、百姓の年貢未進を取り立つる私の刑具にして、公法にはあらず。『白石咄』と合わせ考えて、国初まで乱世の余風なお民間に存するを知るべし」と。
 これで江戸時代にも初期には水牢の責《せめ》が時々行なわれたと知らる。今一つの証拠を挙げようなら、熊沢蕃山の『集(376)義和書』巻三に、「貴兄を見申し候に、云々、愛情も婦人の愛にて人民を恵むに至らず、云々、百姓等をば水籠に入れなどして、病み付きたる者どもあり。罪なきのみにあらず、貴兄を養う者をかえって苦しめられ候。その妻子の歎き、不罪の人の痛み、天地神明を動かすべく候」。蕃山は大阪落城より五年めの元和五年生れゆえ、全く江戸時代の人、それが友人に書を贈ってその水牢で百姓を責むるを戒めたのだから、徳川三、四代将軍の治世に水牢はまだまだ全く廃らなかった証拠に立つ。(『北条五代記』四の三に、今の時代国郡を持つ侍は、来年にも国替《くにがえ》やあらん、今年の年貢をば妻子をうらせても残りなく取り払わんと、百姓の妻子を籠に入れ、水に入れて呵責す、云々。)   (大正十五年九月十五日『月刊日本及日本人』一〇七号)
 
【追記】
 桐山力所『飛驛遺乗合府』に収められた『願生寺伝』に、元禄五年、高山の城主金森出雲守|頼?《よりとき》、羽州上の山へ封を移され、飛驛一国幕府領となり、おいおい貢米、諸役を免減され、百姓の悦んだ次第を記して、「むかしは高免の年貢に岩田藤左衛門様の代官所へ絞り納めにて、その上にもまた未済となりしかば、その者をば、平岡三郎兵衛という金森の家臣が巧みにて、宮川の大橋の下に水牢とて、水中に牢室を作らせ、未進の者を入れて責め懲らしける」と金森氏の時の悪政をせめたててある。これも徳川幕府の時代にも水牢が行なわれた証拠になる。(九月十九日)   (大正十五年十月十五日『月刊日本及日本人』一一〇号)
 
【再追記】
 前文ならびにその追記に、水牢で未進の者を責むること、徳川三、四代将軍のころまであったように書き置いた。ところが一月十日発行徳富蘇峰の『近世日本国民史』田沼時代をみると、その一〇章(五二)に、宝暦中、熊本侯細川重賢の新政を序したうちに、「彼はまた納税義務を了せざる者あれば、その父母妻子を水牢に入るるの制を廃した」と記す。何に拠ったかを朋示しおらぬが、著者は熊本県人ゆえ十分拠るところあってのことと思う。そこでこれまで(377)戦国時代の遺風として徳川幕府の初世まで残りおったと心得られた水牢責めが、実は徳川幕政の後半期の初めまでも熊本ごとき大藩にさえ行なわれおったと知れる。   (昭和二年二月十一日『月刊日本及日本人』一一八号)
 
(378)     御蔭参り
 
 天明年間石崎文雅等『郷談』に、「明和八年辛卯四月上旬より二宮に参詣する者、日々数千人、幼童婦人相伴う者あり、単身到る者あり、京都畿内よりようやく諸州に及ぶ。俗に御蔭参りと称す。宝永二乙酉年にも、三月上旬よりかくのごとくなりしといえり。この時諸所に祓大麻金銀銭を降らすことあり」とある。鴿《はと》を使うてそんな物を降らせた由書いた物もあったと覚ゆ。足利義尚将軍の時、これに似た騒ぎあったことは『宜竹残稿』に出ず。「延徳元年己酉、春三月某日、伊勢外宮の神宝、吉田の斎場所に降る。冬十一月某日、内宮の神宝、また降る。前後ともみな夜の参半《なかば》にあり。風雨晦冥し、黒雲八道、光を夾みて下り、地に至って燃ゆるがごとし。事、朝に聞《ぶん》し、旨あり、神輿入内す。天子階を下ってこれを迎う。神道宗元|卜部《うらべ》二位|兼倶《かねとも》これに侍す。叡覧|惟《これ》謹しんで、ついに命じてこれを吉田大元宮に秘すという」とありて、二年十一月に筆者が七日間吉田の大神宮に詣でた時の詩を載す。いわく、「伊州は連歳、祠に火をともし、なお愚民の土宜《しゆうぎ》を争うあり。皇居を衛護して天を去ること咫《し》、雲車一夕、京師に入る」と。前年山田の神人が朝熊の衆徒と結び、内宮への行旅を塞ぎ粮路を截ったので、宇治の神人郷民これを国司北畠政郷に訴え、文明十八年政郷兵を遣わし火を山田に縦《はな》ち、山田の党魁榎倉氏則、豊受神殿を焼き割腹して死し、長享二年山田の覚民十七口より宇治を襲い、内宮に乱入したが宝殿わずかに火を免れ、九月に及び離散者やや旧居に復ったから祭祀を修めたという大騒ぎあり(『野史』巻四)。さて明けて延徳元年三月に両宮の神宝が山城の吉田へ飛び降ったと言ったので、この月二十六日将軍義尚薨じ、その前後に地震あり、十月十一日皇大神宮火あり。非常に人心を動揺させ(379)たらしい。その時卜部兼倶に綸旨を賜い、伊勢の神体を検せしめんとしたが、伊勢より両宮神体さらに異変なしとの上言に任せ、検察の議を止めた、とある。こんな前蹤によって.後代しばしばお祓いが降ったなど言って踊り出したものか。
 両宮の神宝が降ったと言った延徳元年より百四十一年前、貞和四年の記事たる『峰相記』に、北条執権の末近い正和・文保の際、播磨の処々に不思議のことどもしばしば起こった由を載せ、「また坂越、織写、深志野以下、所々に権現あまくだり給う由、このころ披露多し。大旨《おおむね》比興のことどもにて、おそらくは無実なり」と記す。そのころはお祓いが降るどころでなく、もっぱら神体が降ると言い囃したものだ。
 十月一日号、遠藤君の説をよむと、両宮へ庶民が参るのは、江戸時代に繁くなったと判る。しかしこのこと江戸時代に始まったよう誤解する読者がないと限らないから、その予防に申し上げおくは、『碧山日録』四に、寛正三年八月九日、云々、備州の村民合議して、共に伊勢大廟に詣でんと欲したが、道路の貲なし。おのおの米穀少許を出だし、これを一人に委し、もって贏利を増す。彼、その貲をもって一牛を買い、もって田を耕す。この人にわかに奔狂して久しく癒えず。ある時その牛の一脚を打ち傷つく。神、牛に託し人語をなしていわく、?《なんじ》いずくんぞ神に詣ずるの貲をもって牛を買うたか、加うるに脚を折《くじ》くの禍を致す、その過ち?《のが》るべからざるなり、と。この人ついに死し、妻子相継いでことごとく死し、家空虚たり。牛また語をなしていわく、われ神廟に詣でんと欲す、しかして一脚すでに折け、歩むを獲ず、と。聴く者車を造りもつてこれを載せ、人をしてこれを引かしむ。里邑村県、造次してこれを送り、この日京師に達し、路人これを競い視る、と。熊楠按ずるに、寛正元年冬より二年夏まで饑饉疫疾大いに行なわれ、尸骸巷に盈ち、四条、五条橋で施餓鬼を修むるに、天子|親《みずか》ら一字三礼の『心経』を写し賜う。この寛正三年九月には京都に土一揆蜂起し十一月に静まった。そんな時節ゆえ詮方尽きて、地方民は講を組んで焼糞半分伊勢参りを始めたこと、中世乱離のうちに欧州の男女が諸方へ巡礼に出たごとしとみえる。さて江戸時代に犬が安楽に(380)参宮を遂げた記事あるが、実は室町時代すでに牛の参宮があったのだ。
 終りに臨んで一言するは、十月一日号四八頁に、赤堀君が神宮の諸事むかしと変わってきたことを述べて、「殿舎にも古今相異のことははなはだ多い。潔斎の制度が緩やかになったはその中でも最も著しいことである。むかしは一般の参詣者でも潔斎に誠心を込めたことであった」と書かれたを見て、この紀州田辺の田舎町に住む熊楠は全く失望した。子細は、古来永続した諸宗教に潔斎を重んぜぬはない。中にも神道は特にこれに重きを置いたもので、もと東京の英国公使館の受持僧ウェストン氏(日本アルプスなる語を初めて書名に用いた人)などは、ことに神道の潔斎を感歎し、キリスト教徒もあれほどに潔斎はできずとも、せめてその真似でもせねばならぬ、と語られた。どんな教訓を授け、いかな儀式を張っても、潔斎なしの神社神官で神道は維持されない。この地の県社闘鶏神社(『源平盛衰記』等に高名な田辺権現)へ数年前から就職した現神主は、自宅がやや遠きを口実に、神殿前の社務所に妻子と同棲しおり、前日その子がそこで死んだを平気でおる由。従前とはなはだ異なったやり方ゆえ県庁へ問い合わさんと思いおったが、赤堀君の説を読んで、たぶん今日は神社に斎忌の穢汚のということはさらに構わぬことになり、そんなことをかれこれいうと笑わるるだろうと思うて問い合わせを止めた。
 お蔭参りの記録、『宝永千載記』に、「日本より歩みを運び、毎日幾千万か限りなき参詣、この道を慎めばこそ、宮川の流れ清く、御本社に向かうぞかし。もし同者|同士《どし》不義あれば、戸板に二人のせながら、その国々につれ廻り、一家一門寄り集まり、さまざまに笑い罵りて、のち別坐すること、むかしは折ふしこの類もありしとなん」。これは伊勢に限らず、「御許山《おもとやま》の舎利会《しやりえ》に、一僧、女房を賺《すか》して、人なき谷底にて犯しけるほどに、二人抱き合うて離れず、命失せにけり」(『八幡愚童訓』下)。その他諸国の例は、『続南方随筆』「奇異の神罰」の条に出した。外にも『琉球神道記』に、「中ごろ波之上(今官幣小社となり、那覇にあり)拝殿にして、祝子と内侍と合歓す。しかるに両根著して離れず、衆徒これを憎んで面殿に曝すこと三日にして離る。その清めに地を三尺掘り去り、浄沙を布き、相撲をなす(381)という。倭に永正年中にや、能州に兵乱起こる。不動《いするぎ》山に夫婦忍び入りて隠る、衆徒の好みたる故に爾《しか》なり。夫婦交合あり、離れず。講堂に曝すこと三日にして分離す。その響き三里に聞こゆという。されば仏戒に、仏閣、僧房、社祠、墳墓等なり。『鬼問経』に、霊所に婬する者は、餓鬼となって、深く男根を苦しむとなり。『太平広記』三一八に、「ケ艾の廟、京口にあり、云々。隆安中、人あり、女子と神座上に会う。一蛇あり、来たってこれを繞る数四匝、女家追い尋ねてこれを見、酒脯をもって?り祠る、然る後解くを得」。さればもっとも潔斎して事《つか》うべき神主が神殿前で昼夜不浄を行なう神罰で子が死んだなど大騒ぎとなるところを、そんなこともなく平気で神主として暮らし得るほど、神道も大いに変わってきたもので厶《ござ》る。(十月二日夜十時)   (昭和四年十月十五日『月刊日本及日本人』一八七号)
 
(382)     昔の装甲戦車
 
 明治二十六年、予ロンドンの陋巷に棲み、日夜読書して想い付いたことどもを書き付けた物を取り出しみるに、「古ローマ人、矢石乱下するに抗して攻城する時、用いし戦具に亀車の称あり。征韓の役に、後藤基次も同名の具を用いて、同様の役に立てたり。東西相応ずというべし」とある。別段所拠を示しおらねど、プルタルクスの『列伝』と『常山紀談』を読んで書いたと確かに記憶するから、まず『常山紀談』(続帝国文庫本)を閲すると、たちまち二八八頁に、「後藤基次、亀甲の車を造ること」なる一条あるを見あてた。いわく、「晋州の城を攻めらるる時、黒田長政の士大将、後藤又兵衛基次、亀の甲という車を作り出だせり。厚板の箱を拵え、内に強き切梁を設け、石を落とし掛けても箱の摧けざる手当をし、箱の内へ後藤入りて、棒の棹をさし、車を箱にしかけ、進退自由に廻るようにして、城際へおしつめ、石垣を崩して乗り入れけり」と。
 徳富君の「朝鮮役」中巻四五七頁に引かれた『黒田家譜』の文は、「その(生牛皮櫃)製法は、乗物の形に似て、上を亀の甲のごとく中高にし、木にて厚く堅固に拵え、下には車の輪を四つ付けて、上をば牛の生皮をもって、毛を下へなし、包み廻し、火の付かざるように拵え、その内に人を入れ、跡に長き大繩を付けて、城中より火をなげ熱くなる時、あるいは大石など堕とさんとし、また石垣崩れかからんとする時、繩を動かせば、たちまち引き戻すこと自由にして、内に入りたる人、鉄挺にて押して城の石垣際までゆき、鉄具をもって石垣を崩すべしとの用意なり」というので予と同じくその前後の文を見ざる者が、これだけ見たばかりでは、黒田家でこの創製をし出した(383)ように受け取らる。しかし、「朝鮮役」中巻四二一頁に引かれた『安西軍策』に、「諸将群議して、とかく御朱印の旨に任せ人数を損ぜぬよう仕寄せをつけ、自然攻めにすべしとて、亀甲という仕寄せ道具を造らせ、上になめし皮を幾重も張れば、箭鉄炮も透さず、その内に二、三十人ずつ入り、大手の矢倉の下に付けて、昼夜を限らず掘り入りけり。城中より、あるいは砂を煎ってまき、あるいは松明を抛げかけ、仕寄せ道具を焼きければ、寄手熱さに堪えかねて引き退く。またその用意して押し寄せる。黒田もこの手に加わり掘子を出だし掘らせければ、諸勢方々より石垣際に押し寄せ、壁矢倉を崩さんと、石垣を崩すてだてなり。中にも黒田は矢倉隅石を、鉄棒数多入れて起こしければ、大石抜け落ち、大手の矢倉崩れければ、城中これに騒ぎこみ拒ぎ戦う。加藤が家人森本儀太夫、飯田角兵衛一番に乗り入れば、後勢も続き、黒田もこの口より入りけるに、角兵衛分捕して、主にこれをみせんとて、立ち帰りけるが、長政に行きあい、はや首を取って候、唯今御乗り候かと、詞を懸けて通りける」と見え、「朝鮮役」中巻四一三頁已下に引かれた『甫庵太閤記』にも、「備前中納言殿へ、六月二十一日の夜、いずれも寄り集まり、軍評諚ありて、攻口を定めらる……攻口は鬮取に及んで定めけるに、乾の角は毛利右馬頭、同壱岐守(先勢)、子丑の方は小西摂津守、寅卯は黒田筑前守、巳午は加藤主計頭請け取って、いずれも竹たば、持楯、亀甲〔二字傍点〕、それぞれの攻具、丈夫に物し、仕寄せけるによって、主計頭|町場《ちようば》は、堀際へ五、六間ほど隔たりにけり。然るところに備前中納言秀家卿も攻めらるべしとて、六月二十四日、当|表《おもて》に著陣し給う。主計頭陣取りは高き所にて、大将軍に然るべき所なるにより、秀家へ渡し申すべき旨、清正申ししかば、諸勢ももっとものことにぞ侍る、さらば仕寄せを、惣軍中として助け申すべしといいしかども、清正、否《いな》とよ、合力は入らず候、われら前々のごとく仕寄せ候ほどは、おのおの仕寄せを相止められ候えといいつつ、右手に付けて、次第ぐりに繰って、黒田町場を三分二請け取り、昼夜労力しつつ、大方前の仕寄せほどに城際に付けて、埋草をもって堀を埋め平地に成せしところに、城中より松明を投げ、焼きにけり。亀甲にありし者どもも堪えかねて引き上げり。翌日また亀甲の焼けぬように拵え、六月二十七日堀へ著けて、寅卯の方の石垣の角石(384)を引き落としければ、櫓傾きぬ。城中より火を投げ、鉄をわかしかけなどし、打ち払い打ち払いせしが、その日も空しく暮れにけり。翌日また亀甲を弥増《いやま》し、同所の角石を抜くと等しく、櫓崩れしかば、そこより主計頭が勢は込み入りけるに、一番に庄林隼人佐が旗、二番に森本儀太夫が馬験し、飯田角兵衛、三番に黒田筑前守母衣の者、後藤又兵衛三人、倫をはなれて乗り入りぬ。軍中の人々これを見、さても見事なる見物かなと感じあえりにけり」とあるを合わせ稽うるに、この亀甲は加藤の発明とも黒田の創作とも明らかに知れず。初めのほどは諸将群議して造らせ、諸勢これを用い攻めたが、落城の当時は加藤、黒田二手がもっぱら運転して終に奏効したと判る。
 『黒田長政記』に、「ちんしゅ(晋州)御取り巻き候て、責口のわり御座に付いて、加藤肥後殿、長政様、御両殿にて出し、矢倉の角御仕寄せ候えと御定め成され候付いて、仕寄せ井楼へと仰せ付け候て、石垣の際まで御仕寄せ成され、日々御責め成され候ところに、敵堅く相ささえ、埋草など石垣の際へつみ候えば、城より投続松《なげつぎまつ》にてことごとく焼き払い申すに付いて、諸手共に御責めあぐみ候ところに、出し矢倉の石垣の角石くつろぎ候て相見え候付いて、後藤又兵衛与力楢原牛之助、二宮右馬助と二人、以上三人手こ持ち、加藤肥後殿より楯もち両人御出し成され、此方(黒田)の手こ持ち、石垣くつろぎ候間へさし込み候て、角石をはね出し候ゆえ、石垣そのまま崩れ申すところに、野村太郎兵衛、後藤半内、堀平左衛門、恒屋与左衛門、上原与平次、竹井次郎兵衛、肥後殿より森本義太夫など、此方の者ども同前に、石垣に一番に上り申し候。それより追い続き、長政様御乗り成さるに付いて、いずれも御傍に罷り在り候者ども、御供仕り乗り入れ申し候。その後諸手より乗り申すに付いて、ちんしゅ(晋州)の城落ち申し候」とあるによれば、最初に石垣を崩し出したのは黒田の家臣後藤基次の手の者。じゃによって、『常山紀談』に、基次一人で石垣を崩して乗り入ったよう誇張したと想わる。
 『清正記』二に、この時の一番乗りに付き紛議ありし次第が詳載されある。加藤内、森本儀太夫は、「一番に乗り候えども、鉄炮に中《あた》り流落す」。黒田内、後藤又兵衛は、「森本に続き乗り候えども、名乗り申さず候」。無田内、堀久(385)七も、「森本に続き乗り候えども、名乗り申さず候」。加藤内、飯田覚兵衛、「後藤、堀に一足違い、乗り候えども、後藤が上帯引きすえ名乗り申し、首を取り申し候」とかく書き付けて太閤へ注進あり、清正一番乗りに走った、と見ゆ。清正すなわち飯田に三千石、森本に二千石加増し、石垣はね崩したる足軽三十人に各二百石知行を下行した、とある。最初石垣を崩し初めたは後藤の手の者だったが、崩し了ったは加藤勢で、後藤が名乗らぬうちに、飯田がその具足の上帯を取り、妙法の旗を指し上げ、一番乗りと名乗り、かつ咄嗟の間に敵一人の首を取ったので、清正一番乗りと定まったのだ。
 『野史』一八二に、『豊臣家譜』と『紳書』を引いて、晋州落城ののち、「軍散じて功を論ず。黒田長政いわく、先登はわれなり、と。清正、家人飯田を召してこれを問うに、対えていわく、臣初め城に入り、虜首を斬って出で、途に長政と遇う、何ぞ先登と謂わんや、と。長政徐かにいわく、部将の先登他に譲らず、と。清正いわく、信《まこと》に然り、と」と記し、同書二〇〇には『豊臣家譜』を引いて、「諸将相会し晋州先鋒のことを語る。長政進んでいわく、先登はすなわちわれなり、誰か相争うあらん、と。清正、臣飯田を召して問う。答えていわく、臣まず城に乗り、虜首を得て出ず、時に長政と相逢う、何為《なんす》れぞ先登を聴《ゆる》さんや、と。長政徐かにいわく、将帥の先登決してわれにあり、と。清正笑っていわく、信に然り、と」。拙蔵の『紳書』には、このこと全く脱しおるが、件の『野史』の二文を対照するに、前文に、部将の先登他に譲らずとあるは誤写で、後文の将帥の先登決してわれにありというのが正しく、清正の部将飯田が、長政の部将後藤に続いたものの、後藤が名乗らぬうちに、飯田が名乗り、清正の旗を指し上げ、また敵の一番首を取ったから、部将の先登は飯田に極まったが、長政は清正その他の諸将に先だって城に上ったから、将帥の先登は長政自身の外にないと言い張ったのだ。しかし当時清正は征韓軍の先鋒を承りおり、太閤の親族でもあり、種々の事情より、清正が晋州一番乗りと、定まり了ったとみえる。
 『続史籍集覧』所収『武功雑記』上にいわく、「関ヶ原にて、加藤左馬頭(介)、黒田筑前守(長政)、細川三斎三人、(386)権現様都側にて、福島大夫人数、敵に追い立てられ惡しくなるをみて、左馬頭、苦々しき福島が人数の体かなと申され候、筑前守も、さてさて見苦しき体かな、某と不和には有之候えども、加藤肥後守などは、あのごとくに見たむなく、追い立てられまじきものと申され候由」と。長政、清正と不快だったこと、この外の文献に見ず。おそらくは、件の晋州一番乗りの争いに根ざしたものだろう。要するに、この亀甲という攻具は誰の発明か判らず、晋州攻めの諸将が群議してこれを採用し、清正と長政が主としてそれをもって活動苦戦して城を陥れたので、太閤への報告に清正一番乗りとあったので、清正をその発明者のごとく伝えたものの、黒田家は黒田家で、また長政をその創製人のよう伝えたであろう。この亀甲が普州攻陥のために大効を現わしたは、徳富君の「朝鮮役」中巻、一五章(六二)至(六五)に引かれた朝鮮側の文献に、幾度も幾度も記述されあるので判る。したがって山下先生の言のごとく、清正の独創か清正・長政の共作かを問うを須たず。日本人の創製たるを証すれば足れりだ。
 さてこの日本人の創製が、世界に唯一のもので、他国に先例がないかと調べると、この拙考の発端に述べた通り、予はちょうど四十年前すでに同名同様の攻城具が、古ローマ人に用いられた由を書き留めある。その所拠だったプルタルクスの『列伝』は、現に座右にあれど、ことのほかの細字本で、久しく眼を疾み、全快してようやく六日めの只今、委しく捜索し能わず。よって手近な二書、一九〇八年板、サイッフェルトの『希羅考古事典』英訳と、四年前出た『大英百科全書』第一四輯二巻を参酌して、次のごとく訳出する。いわく、ラテン名テスッド、ギリシア名ケローネー(いずれも亀の義)は、古ローマ人が攻城に使うた二様の具だ。その第一は木を組んで傾斜読書台(スランチング・デスク)形の構えを作り、抛げ下ろさるる火を防ぐため、土やぬれた皮、また蒲団もてその屋根と側面を被う。一側に口をあけ、その方を前にして、手で推し、または車輪で動かして城壁に迫り、その中から器具を使うてこれを被る。その夢二は軍士その楯を綴じ合わせて亀殻状に廡《ひさし》を作り、人数の頭上にのせて城壁に迫る、と。吾輩十七、八の時、神田の下宿屋で百物語を催し、最後の怪談がすみ、燈を消し持ち去ると同時に繩をひくと、屏風や襖が四方から坐客(387)へ倒れかかり、大吃驚をさするつもりのところ、もっとも嗚滸の者ありて話の済まぬうちに繩を切ったから、行燈たちまち倒れ、畳が油だらけになったので、即夜立退きを要求せられ、取り敢えず蒲団だけ持って心当りの本郷の友人方へ移る途中、雨がふり出したから、五、六人の頭上へ蒲団を拡げ戴いて歩くと、道行く人々蒲団の化物なめりと怪しみ、どこかの交番所で、笑いながら叱られたことがある。後年ここに言える第二様のテスッドの図が、古彫柱に存せるを観て、当時を想起し大いに独笑したことである。『加藤家伝清正公行状』奇之巻に、文禄二年六月二十四日、「清正、肺肝を悩まして亀車(口伝)を巧み、森本儀太夫に教えて、亀の甲楯(口伝)三輌を拵えさせ、云々」と出ず。亀車は第一様のテスッドに当たり、亀の甲楯は第二様の物に当たるかと想うたが、三輌とあるから、車輪付きで、亀車も亀の甲楯も同物二名であろう。
 支那には、『晋書』一二八、晋の劉裕が、南燕王慕容超を広固城に攻めた時、奇巧の名人張綱、その主超のために姚秦へ援を乞いに往き、帰る途中で、裕に執われ、要せられてそのために衝車を造る。護るに版崖をもってし、これに蒙《かぶ》らしむるに皮をもってし、ならびに諸奇巧を設く。城上の火石、弓矢施し用いるところなし。超怒って綱の母を懸け支解したが、城は陥って超は殺された、とある。衝車はローマ人のアリエス同様、亀甲車の内から、重く大きな堅い棒をもって、城壁を衝き崩したものだろう。『南史』に、南朝の軍勢、牛皮を被せた蝦蟆車を造り、土を運んで敵城の塹《ほり》を埋めたことしばしば見ゆるも、亀甲車同然の構造だったろう。降って唐の杜佑の『通典』攻城戦具の部に、四輪車を作り、上に繩をもって背となし、生牛皮をこれに蒙らせ、下に十人を蔵すべし、隍《ほり》を?むるに、これを推し、直ちに城下に抵り、もって攻掘すべし、金火木石敗る能わざるところなり、これを??車というとあって、その図は『古今図書集成』戎政典二九三に出でおる。『通典』またいわく、「転軸車を作り、車上に十二石の弩弓を定《そな》え、鉄の鈎繩をもって連《つら》ぬ。車行けば軸転じ、弩を引いて満を持す。弦と牙を弩に上《もう》くるに七衝を為《つく》る。中衝の大箭は、一鏃の刃は長さ七寸、広《はば》五寸、箭?《やがら》は長さ三尺、囲《めぐ》り五寸にして、鉄 蝶をもって羽となす。左右におのおの三箭あり、次《じゆん》に(388)中の箭よりも小さし。その牙《ひきがね》一たび発すれば、諸箭|斉《ひと》しく起こり、七百歩に及ぶ。中《あた》るところの城塁、摧損《くだ》けざるはなく、楼櫓もまた?墜《たお》る。これを車弩と謂う。木をもって背を為り、長さ一丈、径《わたり》一尺五寸にして、下に六脚を安んず。下|闊《ひろ》くして上尖り、高さ七尺、内に六人を容るるべし。湿《ぬら》せる牛皮をもって、これを蒙《おお》い、人その下に蔽《かく》る。舁《かつ》いで直《ひた》と城下に抵《いた》れば、木石鉄火も敗る能わず。用《も》ってその城を攻む。これを尖頭木驢と謂う」と。これも亀甲車の中に六人あって、城壁に近づき、強弩で巨箭を射発し、中るところみな摧《くだ》けたのだ。唐朝すでに亀甲車の発達かくのごときものがあった。
 徳富君の「朝鮮役」中巻四四四頁に引かれた安邦俊の『普州叙事』に、「賊また東門の外において、山を造ること数仞にして、俯《ふ》してこれを攻む。進もまた対《むか》いに高阜を築き、身みずから石を負う。男女みな感泣して役を助け、一夜にして成る、云々」とある。(『広文庫』一六冊九四五頁に引かれた『李石門扶桑録』の大坂役記事に、「秀頼、兵敗れ、入って内城を保つ。初めの七日、家康、軍中の人をして、おのおの土を負いて山を為《つく》らしめ、もって外城を攻む、云々」。『当代記』九、慶長十九年十二月十日十一日、このころ諸手の仕寄せに築山拵え、大筒を惣構《そうがまえ》へ打ち入れ、城中迷惑に及ぶと見たり。十四日、諸手の築山より、敵城の惣構直下鉄砲を打つ、これにより敵の手負さらに有之《これあり》と、云々。)これも杜佑の『通典』に、「城下において、土を起こして山を為《つく》り、城に乗《のぼ》って上がる。古《いにし》えこれを土山と謂う」とあって、唐朝以前すでに支那で行なわれた方法だ。(例せば、『梁書』五六に、侯景、江を済《わた》って建康城を囲み、「域の東西において、おのおの一の土山を起こし、もって城内に臨む。城内また両《ふたつ》の山を作り、もってこれに応《こた》う。王公以下、みな土を負う」。)よって惟うに、当時日本勢の中に、支那の古戦術に精通した人あって、土山、亀車を臨機に実施活用したのでなかろうか。とにかく、晋州を攻めた日本人が全く亀甲車を独特創作したにせよ、これが劫初来最初の発明でなく、支那にもローマにも、晋州攻めの遠き以前に、同様の発明あったと述べおく。
(389) 前述明治二十六年ごろの拙記を閲するに、その前後の『風俗画報』に連《しき》りに出た山下先生の諸説をおびただしく抄載しある。此事彼事と箇別に申し立つべきでなく、本邦の世態史に関する吾輩の基礎知識は、ことごとく先生に啓発されたものなり。「礼にくる鳥は見受けず放生会」、先生に大恩を蒙りながら、自分で気の付かぬ人多しと見えたり。ここに慎んで衡厚礼を申し上げ奉る。(六月六日午前九時、暴風雨中認め了る)
 右認め了つて、眼の養生に早く就褥せんと思ううち、雨ますますはなはだしくて書斎より出で能わず。詮方なさに漫然渉猟するうち、こいつ奇妙だ、本文に述べた蒲団の化物に髣髴たる話を見出でたから、それをここへ写し出し了ってのち、丸裸になり、盲滅相に雨を冒して走り徙《うつ》るとする。
 今より七百六十一年前、南宋の乾道七年に洪邁が書いた『夷堅丙志』一三にいわく、呂安老尚書、少時蔡州学に入る。同舎生七、八人、黄昏潜み出で遊び、中夕すなわち還る。たちまち驟雨傾注して雨具なし。この時学制崇厳なり。また、いまだかつて謁告せざれは、あえて外宿せず。旋って酒家において単布衾(単《ひとえ》蒲団)を仮《か》り、竹をもってその四角を掲げ、これを負うて趨《はし》り、まさに学牆に及ばんとす。東望するに、巡邏者火炬を持ち、伝呼して来たる。大いに恐れて、相|距《さ》る二十余歩、いまだあえて前《すす》まず。邏卒たちまち反り走って、また回顧せず。ここにおいて牆を踰《こ》えて入るを得。終昔|惴々《ずいずい》として以為《おも》えらく、必ず彰露し、かつ譴を獲て屏斥されん、と。明日兵官、府に申していわく、昨二更後大雨、まさに出で巡るを作《な》す、某処に至れば、たちまち異物北より来たる、その上四平にして席のごとく、模糊として弁ずべからず、その下|謖々《しよくしよく》として人の行《ある》くごとく、約するに脚三、二十隻あり、ようやく学牆に近づけばすなわち見えず、と。郡守以下|能《よ》く何物たるを測るなし。邦人口に相伝え、みなもつて巨怪となし、官に請うて毎坊おのおの禳災《じようさい》道場を建て、三昼夜その状を絵《えが》き祠ってこれを磔す。然らばすなわち、前史いわゆる席帽行籌の妖、ほとんどこの類なり。尚書の子虚己説く、と。席帽行籌の妖とは、何のことで何の書に出るか、諸君の高教を望む。   (昭和八年七月一日『月刊日本及日本人』二七六号)
 
(390)     本邦詠梅詩人の嚆矢
 
 二月十一日発行貴誌に、白井博士、岡村氏の説を引いて、梅のことを詩に作られしは葛野王を始めとす、持統帝の朝なるべし、とあり。このことは小生八年前の『東洋学芸雑誌』にも申せし通り、釈智蔵が始めならん。『懐風藻』に、その「花鶯を翫《はや》す」五言一首あり。師友土宜法竜僧正の教示に、智蔵に二人あり、一は呉人の子にて白鳳二年「僧正に任ず」、今一人『懐風藻』に出でたるは純粋の邦人にて、持統帝の時、僧正となる、時に年七十三、年歯より言わば葛野王の?《はる》か先輩たり、と。この僧、弘文帝の時入唐し、持統帝の世に東帰の途に上るとあれば、在唐中の作かも知れねど、葛野王の詩も何時作りしという明記なければ、とかく年歯より推さば、この僧が本邦詠梅詩人の最初なるべきか。   (明治四十五年三月一日『日本及日本人』五七七号)
 
     八咫烏のことについて
 
 二月十一日の貴誌、幸田博士、八咫烏は鳥にあらずして大功臣たるの説あり。和歌山県海草(391)郡加茂村は、この烏となり、皇軍を熊野山中から大和宇陀邑まで導きし健角見命の生処なりとて大字小南の糺神社というに古くより奉祀せるを、近年加茂神社とて、はるか後に勧請せし社へ合祀して、見る影もなき小祠となし、さしも広大なりし社跡を全然滅却、石段を噴火孔のごとく掘り返し去れりと、県誌編纂主任内村義城翁、新聞紙上その乱暴を責め立てたり。烏は聡明神速なるもの、ギリシア・ローマにも、アポロ神が烏に化け、またジュノがこれを神使とし、北米の土人また烏をもって神や人に名づけたる例多く、インドにも耆婆が勝光王の怒りを懼れ、日行八千里の象に騎して逃るるを、烏と名づくる勇士神足ある者をして追い及ばしめし由、『?女耆域因縁経』に見えたり。烏は好んで死肉を食うものなれば、インド・エジプトのG(ヴァルチュール)同様、戦死の人尸を食らわんとて、朝起き早く軍に前んじて進み、嚮導せしなるべし。今も熊野神使は烏にて、人の死を予告すなど言い伝うるなり。   (明治四十五年三月一日『日本及日本人』五七七号)
 
     船名に丸字を加うること
 
 これ毎々欧米人が本邦人に問うところにして、ロンドンにおいて発行する『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』、特に予を指名して弁明を乞われしより、去る四十年八月十七日と十一月九日の同誌においてこれに答えたり。その内に次の文あり。
 船名に丸字を付すること、およそ四百五十年前すでに行なわれしことを知ることを得。芳賀博士・下田学士共編の『家庭百科字彙』に、船の何丸と呼ぶこと、天正十九年秀吉が作りし日本丸を初めとす、とあり。されど『武功雑記』上に、これより十三年前、信長堺浦にて日本丸上覧、その持主九鬼嘉隆に知行増加のことを載せ、また天正十二年|小牧軍《こまきいくさ》の時、家康の清須丸と九鬼の日本丸と船軍のことを記せり。また、天正十九年よりは百三十三年前なる応仁二年『戊子入明記』に、泉丸、寺丸、宮丸、弥増丸、薬師丸、熊野丸、住吉丸、夷丸、田原丸と九つまで渡唐船の名を(392)挙げ、「兵庫において御荷物上げ置く、在所は問丸なり、云々」とあり。問屋を問丸と呼ぶも、船を丸と名づくるに縁あることなるべし、云々。(この拙文は、英国海軍元帥イングルフィールドがヒル氏をして、一九一六年六月の『ロイド登録』に載せしめたり。)   (明治四十五年七月十五日『日本及日本人』五八六号)
【追加】
 前文の終りに左の通り追加す。これより先、平安朝に僕使、愛童より延いて名刀、飼鷹までに丸字を名に付くることあり。『駿牛絵詞』に名高き牛の名を列せる、後白河帝の獏丸、後鳥羽帝の獅子丸、伝法院の宝螺丸等あり。牛飼の名にも丸字を付けたるが多し。思うに牛船斉しく乗り物なれば牛より推して舟にも丸字を付くるに及びしか。もしくは最初船長の名多く丸字を付しあり、移りて船名に丸を付することとなりたるならんか。   (明治四十五年八月一日『日本及日本人』五八七号)
 
     船舶に命名せる最古の物
 
 『続紀』に、「天平宝字七年八月、初めて高麗国に遣わす船を、名づけて能登という」と言えるなるべしと、七月一日號一〇六頁に見えたり。『和漢三才図会』巻三四に、本朝船の始めは、「神世に、天磐?樟船《あまのいわくすぶね》あり、もって蛭子《ひるこ》を載するなり。埴土船《はにつちのふね》は素盞嗚尊の乗るところなり。天鳩船《あまのはとぶね》は大己貴《おおあなむちの》神の製するところなり」とあれど、これらはおのおの船種の称にて、箇々の船の名と思われず。『日本紀』巻一〇に、「誉田天皇三十一年(天平宝字七年より四六三年前)秋八月、群卿に詔《みことのり》して曰《のたま》わく、官船の枯野《からの》と名づくるは、伊豆の国より貢《たてまつ》れる船なり、これ朽ちて用うるに堪えず、云々、と」とあるが、まずは船に命名せし最古のものなるべく、先人もしかく述べたることと覚ゆれど、今確かに記憶せず。   (大正元年十一月一日『日本及日本人』五九三号)
 
(393)     鮓荅なる語の出処
          「学術上の東洋西洋」参照
           (『日本及日本人』六一八号一八頁)
 
 元末、陶九成著『輟耕録』にいわく、「蒙古人の雨を?るに、ただ浄水一盆をもって、石子《こいし》数枚を浸し、淘漉《ゆりまわ》し、玩弄《もてあそ》び、密かに呪語を持すれば、やや久しくしてすなわち雨ふる。石子を鮓荅と名づく。大なるものは鶏卵のごとく、小なるものは等しからず。すなわち走獣の腹中に産するところにして、独り牛馬のもの最も妙なり」と。元の世祖の朝、支那に遊べるマルコ・ポロの『紀行』六一章に、術士よく法を行なうて風雨が帝宮を侵すを禁ずる由を述べ、かかる術士を、国名によってチベットまたケシムル(カシュミル)と名づく、とあり。エール註に、当時蒙古人天気を呪するに、ヤダーまたジャダー・タシュとて魔力ある石を水盆に浸し、もしくはその下に懸け偕うに種々の作法をもってせり。アラビア人イブン・モハラルの記に、突厥の一部キムク族かかる石を所有せるを言えり。一二〇二年ナイマン等の諸族、成吉思汗《ジンギスカン》およびアウング汗と戦いし時、ナイマン王プイルク汗のヤダチこの呪法を行ないしに、招致せる天変かえって味方に害ありし、云々。ヤダチは鮓  苓呪の術士と見ゆ。『水滸伝』の攀端公孫勝の流なるべし。鮓荅はジャダーの音訳なることに疑いを容れずと惟わる。   (大正三年二月十一日『日本及日本人』六二四号)
 
     『山海経』の読み損い
          粛堂「倭寇談叢」(三)参照
          (『日本及日本人』六三六号九四頁)
 
 『異称日本伝』に、『山海経』を引くとて、南倭北倭(ハ)属(ス)v燕(ニ)とあるは、実は、蓋《がい》国(ハ)在(リ)2鉅(ナル)燕(ノ)南、倭(ノ)北(ニ)1、倭(ハ)属(ス)v燕(ニ)とある(394)のを間違うたのだ、と内藤湖南翁が言い出したので、はなはだしく相場を狂わせたとある。内藤翁の文を見ぬから委細を知らぬが、この読み損《そこな》いは今より百十七年前(寛政九)屋代弘賢が桑山氏に宛てた状中に指摘しおる。それを見ると水戸の立原氏が創めて見出だしたらしい。いわく、「南島志、今按(ズルニ)、流求(ハ)古(ノ)南倭也、南倭北倭并(ビニ)見(ユ)2山海経(ニ)1、と記され候は、句読の誤りにて候。蓋国在鉅燕南倭北倭属燕と申す文にて候を、鉅燕の南、倭の北と読み候えば、南倭北倭と申す名目は聞こえ申さず候。これは彰考館総裁立原伯時話にて御座候いき。推量致し候えばこの句読まさしく『異称日本伝』に誤られ候か。見林、白石ともに麁漏なることにて候いき。今本書を見侯えば、第十二海内北経にて御座候。この次に、朝鮮(ハ)在(リ)2列陽(ノ)東海、北山(ノ)南(ニ)1、列陽(ハ)属(ス)v燕と有之《これあり》、この両条を併せ考え候て、句読の誤りはあるべからざることと存ぜられ候」(『甲子夜話』続九〇)。たぶん内藤翁の文には立原、屋代二氏の先見を推しておることだろうが、念のため申し上げ置く。   (大正三年十月十五日『日本及日本人』六四一号)
 
     天一坊
 
 七月一日号鳶魚先生の「天一坊」面白く拝見。さて伺いたきは窒鳩巣の『兼山秘策』四、享保三年(天一坊処刑は同十四年)二月二十五日奧子復に与うる書(『日本経済叢書』二巻三六三頁)に、「一、先日申し進《まいら》せ候中川正軒(字はしかと存ぜず候)、対山様御遺腹とやらん申し候て申し出で、吟味仰せ付けられ候ところ白状致し、虚誕に相極まり、此日獄門に仰せ付けられ候。至極悪しき奴にて候えども、大胆者の由取沙汰にて候。町奉行所にて叱り申され候て、事にこそより候え、かようの儀たくみ出で候こと大罪至極の由申され候ところ、正軒、居直りあざ笑いて、初心なる儀を承り申し候、古来大悪を巧み申す者、必ず仕得申すべしと存じ候て仕候者は無之候、仕損い候ては死に(395)申す外は無之候、覚悟前のことにて候、その上われら式の者、公儀の御詮議に逢い候て、天下の人に知られ申す儀は生涯の面目と存じ候、むだむだと追っ付け老死仕るには抜群ましたる儀にして候由申し候えば、誰も一言申し出ずる人も無之候。さて籠屋にて頸を打たれ候時分えたに申し候は、総じて死人の衣服はおのれら取り申し候兼ねて承り候、弥左様に候かなと尋ね候ゆえ、その通りに候由申し候えは、左候わば血の付かぬ先にその方へ遣わし申すべしとて裸になり候て斬られ申す由に候。このこと承らず候以前、去る人参り候て、獄門の頸を見候ところ、ことのほか頸宜しく見え申し候、正軒只者にては無之と見え申し候由、正気静まり候て覚悟よき人の頸は色宜しく見え申す由にて、その後このこと承り候て、さてはと存じ候、右の者もよく見申し候と存じ候」とあり。対山様とは、享保将軍吉宗公の父で、正軒刑死より十三年前に八十歳で薨ぜし光貞卿を指す。鳩巣、正軒の梟首を親しく覩た人から様子を聞いたほどゆえ虚説にあらず。されば吉宗卿治世にその子と詐称した天一坊の外、またその兄弟と名乗り出た中川正軒ありしなり。この正軒のこと鳩巣の書の外にも見えた物ありや。   (大正四年七月十五日『日本及日本人』六五九号)
 
     日章旗
           稲葉君山「海洋清宴図と日章旗」参照
           (『日本及日本人』六九七号九九頁)
 
 『古今要覧稿』一四一巻に、西土にて天子の御旗に日月を付くること『周礼』に見えたり、とあり。『淵鑑類函』二二七に、『初学記』を引いていわく、「周官の司常は九旗の物を掌る。名おのおの属するあり、もって国事に待《そな》う。日月を常《じよう》となし、交竜を?《き》となす、云々。『釈名』にいわく、九旗の名は、日月を常となし、日月をその端に画く、天子の建つるところ、常に明るきを言うなり、と」。また宇文懋昭の『金志』を引いていわく、「金国は水徳をもって王たり、云々。尋常、車の出入にはただ一の日旗を用うるのみ。后と乗を同《とも》にすれば、すなわち月旗を横に加え、二旗相|(396)間《まじ》えて陳《つら》ぬ。あるいは数百隊あり、あるいは千余隊あり。日旗はすなわち紅  網をもって日となし、黄旗の上に刺《ぬいと》る。月旗はすなわち素帛《しろぎぬ》をもって月となし、紅旗の上に剃《ぬいと》る。近御《きんぎよ》はすなわちまた日月の大繍旗二あり」とあれば、日章旗や月章旗は本邦とトルコの特有でなく、古来支那にもあったらしい。さて『要覧稿』に、建武のころに及んでは天子の御旗には日月を金銀にて打って付く、とあるが、本邦日章旗の始めならんには、本邦の日章旗は比較的新しい物だ。
 『古今図書集成』日本部紀事に、倭寇の頭目趙天王が扇を挙げて賊を招くことあり。また、「倭寇は、胡蝶の陣をなすに慣れ、揮扇をもって号《あいず》となす。一人、扇を揮えば、衆みな刀を舞わして起《た》つ」。この扇はたぶん日の丸を画いた物であったろう。『見聞諸家紋』に斎藤・望月二氏、日を紋とす、と見れば、日章旗をも用いたかも知れぬ。舟軍に日章の幟を用いた例は、『続史籍集覧』所収『武功雑記』上に、高麗にて加藤左馬介青き絹四半の真中に日の丸を付けたる指物を拵え、これを誰に差させ見んと申さる。近習の者この御指物は、御歩行者塙団右衛門器量よき者なれば、素膚に背抜きばかりにて御ささせあらんや。左馬助その通りに申し付けらるるところ、団右衛門よく指しこなし働きも少々よし、それについて、知行三百五十石取る、云々。別段、国旗の意味でなかろうが、差し手の人撰をしたるに、舟軍にもっともよく目立つべき印に日の丸を採用したことと判る。(一月十五日)   (大正六年二月一日『日本及日本人』六九八号)
【追記】
 松浦静山の『甲子夜話』続篇巻七に、「官の御威光四海に及べることは、言うまでもなし。その一を挙げて言わんに、御用船とて津々浦々にあるもの四方旗に日の丸の印なり。この船、浦に入り来ると、泊船左右に退き自在に入る。また辛未年、韓使対州来聘の時、官船の帆に日の丸の御印と聞けり。長崎廻りの御用船もみな日の丸の旗を立つ。また蝦夷行きの御用船は檣を赤く塗れりと、兵庫浦にて視し者語れり。いずれも赫々たる御印なり」とあれば、文政・(397)天保の際、日章旗は日本政府の専用と見ゆ。これを稲葉君の「海洋清宴図と日章旗」と合わせ攷うると、以前は日章を日支貿易船の標識としたるに、寛政中、例の白川侯がこれを日本官船の旗と定めたものか。(十月一日)   (大正八年十月十五日『日本及日本人』七六八号)
【再追記】
 徳川幕府以前に日を旗に画いた例は、加藤嘉明が、日の丸を付けた指物を拵え、塙団右衝門にささせたのより古いのが、『甲陽軍鑑』三四品に出ず。いわく、「永禄十二年春、駿州興津河原の戦に、跡部大炊介小旗白き地に日の丸を出し、千五百余の備えにて小田原衆に追われたること、武田勢の覚えてこれ初めなり。これを信玄公御先衆、歌に作り踊り申し候。その歌に、なおも茂れや八幡林《はちまんばやし》、べに丸|小幡《こばた》のかかるほどに、といいて、跡部大炊介小旗は日の丸緩怠なり、紅丸小旗にとあだ名を付け候は、跡部大炊介出頭をおのおの猜《そね》みてかくのごとし」と。   (大正九年八月十五日『日本及日本人』七八九号)
 
     永原氏の「夷人物茂卿」
             永原鉦斎「夷人物茂卿」参照
             (『日本及日本人』六九七号一二一頁)
 
 永原氏は金港堂出版の『小学読本』を引いて、「徂徠は愛国心深かりし人なり。まず『大明律』という書は、云々、徂徠これが解を作り、本書に『大明律』とあれども日本より大明と称すべき道理なき由を弁じて、『明律国字解』と題したり」とあり。徂徠が支那よりも本朝を尊びしことはまことに然るべし。
 さて明治二十八年ごろ小生ロンドンにありし時、支那学をもって名ある英人が、支那人みずから大清と書くは他国を蔑しての所為と論ぜしを、小生駁して一概に左様にも言われまじ、不列?《ブリテン》の国号すでに大と称しながらみずからそ(398)の謂《いわ》れあり、決してみずから尊大にせる名にあらずとて、故内藤恥叟氏の「日本文庫」に収められた服部蘇門とかの何とかいう書に、徂徠が大明律を明律と改めたるを非とし、支那書に拠って奇渥温氏は『易経』の「大なるかな乾元、至れるかな坤元」の言に資って国を大元、年を至元と立て、朱氏また『書経』(?)の大明始終なる語によって国を大明と号したので、大元、大明ふたつながらみずから矜《ほこ》ったのでなく、直ちにこれ国の名が二字より成るのだとあるを引証し、道家に三清という名あって大清その一に居る、支那の当朝はこれに基づいて建号したのでもあろうか、と述べた。そのころエジンバラ大学にあった故楢原陳政氏にこの由を書き遣りて意見を問うと、元・明よりはるか以前に赫連勃々がみずから夏后氏の苗裔と称して大夏国を建てしは、明らかにみずから尊大にしての号だ、大元、大明またその例を踏んだので、経中の語に基づいたとは後日の付会ならん、清朝はもと蠢爾たる北狄の一種、それが道経の語を採用せしとはすこぶる不似合なことなり、との返事だった。よって押し返して、清が建国すると同時に崇徳と改元し、それより二十年前すでに天命と年号を立てた。二十年前に経書の天命なる語を解した者が、二十年後道経の大清なる名を用い能わざるの理あらんや、と述べたが返答なかった。後日楢原氏と同学だった福田令寿氏より承りしは、当時楢原氏は思うところありとて返書に及ばなんだとのこと。さて数年、北京で戦死された。
 小生もと漢学を正しく修めたことなく、件の大清国号の起りなどはほんの推量杜撰なるべきをみずから知るが、服部氏が徂徠を駁せしはずいぶん根拠のあることらしかったと記臆する。よって筆して永原氏およびその他諸君の高教を乞う。ついでにいう、熊沢了介は勤王論を唱えた最も早き一人なるべし。しかるに『集義和書』等に大国、天竺、わが国という順に支那を大国と尊称し、また伊勢大廟は支那の后稷を祀ったなど信じたと見える。これも不都合といえば大分不都合なり。小生なども在外十五年間一度もキリスト教の寺堂に入らず、毎度喧嘩して裁判所へ呼ばれ、『バイブル』を援《ひ》いて宣誓するを拒み、重ね重ね面倒な目を見たほどだが、平日何の気もなく、『バイブル』を『聖書』と書くから、即らぬ人からはキリスト教を奉じた者と誤解さるるも知れぬ。   (大正六年二月十一日『日本及日本人』六九九号〕
(399)【追記】
 本誌七〇三号三八頁に、永原君は、徂徠が、「日本は明朝に服御する国にもあらず、ことに彼土にても今代革りて清の代となりたれば、当代のことをば大清と称すれども、明朝のことをば大明とはいわず、まして日本においては大明というべき仔細なし」と言った、と述べられた。頃日李卓吾の『開巻一笑』巻七を見るに、劉基の『?淡歌』に支那歴代の興亡を述べて、「大元の太祖、雄兵を領《ひきつ》れ、云々。従来、大明は大元を取り、天下豊かに登《みの》って民乱れず」とある。本誌八二九号八三頁八太氏が説かれた通り、劉基は明の太祖の建業を佐《たす》けた元勲なるに、前朝を大元と二度まで称えおるを見ると、どうも大元は蒙古人自尊の称えでなくて国号らしい。永原君は朱国禎が「国号の上に大の字を加うるは元に始まり、明に及んでこれに因《よ》る」と言えるを引いて、大元、大明は国号ならざる証とされたが、朱氏は大元の前に大夏ありしを気付かぬほどなれば、その言は重きをなすに足らずと惟わる。   (大正十一年四月五日『日本及日本人』八三三号)
 
     儒者の外国征伐策
           湯原元一「学生の国事運動」参照
           (『日本及日本人』七一二号二五頁)
 
 湯原君は、「幕府の末造に西洋諸国との交渉が起こって全国の人心動揺するに至って、ここに始めて学者も周囲の影響を受け、その思想が一変したのである」とて、そのころ儒官古賀、塩谷、安井諸先生が外患や国防について種々有益な論策を出された由述べられた。しかるに、西洋諸国との切迫した交渉が起こらぬうちにもかようのことに腐心した儒者が(しかも私学で)まるでなかったでもなく、熊沢蕃山の著書の中に、いわゆる南蛮の処分法について論じた箇所があったと思うが、その書が座右にないから確言し得ぬ。今眼前にある物の中から一例を挙げると、松本胤通が天(4009保八年草して水戸烈公に上った『献芹微衷』に、「京師の儒者並河簡亮(号天民)は、伊藤仁斎の門人にて、性剛決なる者なるが、蝦夷地より満洲に攻め入り、その君長を靡け従え、本邦に臣民せしめんと乞うこと再三に及んで許されず、京師に帰らんとて筥根の関を過ぎける時、一首の詩を賦していわく、「芒?《ぼうとう》の祭雲、独り自ら奇なり、東海に遊びしがために帰期を失す。無情なるは最もこれ関門の吏、王者三たび過ぐるも曽《かつ》て知らず」」とある。『近世畸人伝』巻五に、天民非常の人物なりしことを述べ、かつて「官に上書し、松前に続ける蝦夷の地を本邦に属せしめんの志ありしかども齢足らず、三十有九にして歿せれば事に及ばず」とあれど、天民とほぼ同時代にできた『和漢三才図会』にも、蝦夷は、「景行天皇以来、本朝の奴となる、云々。寛文年中、蝦夷、命に叛き、松前の志摩守これを征伐し、魁首|紗具紗允《しやくしやいん》および党類を殺して、一統を復す」と記し、元禄三年から二年間本邦に留まったケンプルの『日本史』にも、蝦夷を本朝の属民としておるほどゆえ、天民が再三東下して伐たんと請いしは満洲辺で、これを蝦夷を取らんとしたと『畸人伝』に書いたのは、その著者伴蒿蹊にこのことを語った馬杉享安老人暗記の失であろう。件の老人は、始め仁斎に、次に天民に就学せし人で、「天民の説はこの翁ならで知れる人もなく、予ならでは聞き伝えし者もなくなりたれば残りなくここに挙ぐ」と書いた通り、一言も改めず話のままを載せたと察せらる。天民が満洲を従えんと企てたは何の意か知らぬが、まずは当時泰平永く続いて上下遊惰に流るるを矯正し、ことに武威を張り版図を拡むるという目的であったものかと想う。(九月一日)   (大正六年九月二十日『日本及日本人』七一四号)
 
     人体解剖
 
 漢医方を称揚する人までも、古支那で人体を解剖して医道を進めんと力めた者全くなしと信ずるが多い。これは謬見で『類聚名物考』三二八に、腑分けと題し、『前漢書』九九、王莽伝中、「?義の党なる王孫慶捕え得らる。莽、(401)太医・尚方をして、巧屠と共にこれを刳剥《こはく》せしむ。五臓を量度《はか》り、竹の?《へら》をもってその脈を導《たど》り、終始するところを知る。もって病を治すべしという」と載す。   (大正九年四月一日『日本及日本人』七七九号)
 
     扇風機
 
 『桃源遺事』巻五にいわく、季姫君、疱瘡後重く煩い夏暑さに堪えず、西山公、唐箕を一、二取り寄せ、次の間にて廻させ涼風を入れ、あたかも秋のごとし、と。   (大正九年四月一日『日本及日本人』七七九号)
 
     死骸のアルコール漬
           「死骸のアルコール漬」(無署名)参照
           (『日本及日本人』七八四号五三頁)
 
 『傾城反魂香』より十二年後れて享保二年に出た其磧の『明朝太平記』六の一に、万札その舅鄭芝竜の首を主君阿克商へ遣わすに、「はるばるの道なれば首の損ぜぬように酒につけて遣わし給う」。『東鑑』に、泰衡、義経を攻め殺し、その首を酒に漬けて頼朝に送ったとあったと思うが、只今座右にないから聢《しか》と言えぬ。   (大正九年六月十五日『日本及日本人』七八五号)
【追記】
 『東鑑』巻九を見ると、果たして文治五年六月十三日、「泰衡の使者なる新田冠者高衡、予州(義経)の首を腰越浦に持参す、云々。件《くだん》の首は黒き漆の櫃に納め、美酒に浸す、云々」とある。これがまず本邦でアルコール漬の前駆として記録に留められた最古の例か。   (大正九年八月十五日『日本及日本人』七八九号)
 
(402)     ふだらく走り
         「ふだらく走り」(無署名)参照
         (『日本及日本人』七八二号八三頁)
 
 紀州東牟婁郡那智村浜の宮なる南海補陀洛寺の例《ためし》として、住職死に瀕する時、舟に乗せ、大勝浦の沖で不断白き荒浪を被《かぶ》りおる綱切島という小岩島へ伴れ行き、綱を切り水葬した。後にはそれより近き金剛坊《こんごぼ》という小島へつれ行きて水葬した。かく死に切らぬうちに水葬された僧の亡魂が、ハマチとスズキを混じたようなヨロリという魚に生まれ、三木の崎と潮の岬の間を限って棲む、と聞いた。去年末、田中茂穂来訪された際このことを語ると、それは虚説で右の場所ならでもヨロリは産する、相州小田原の海に最も多く、これを蒲鉾に作ること盛んだ、と言われた。
 十六年前、補陀洛寺の住職予に止宿を勧めたので、部屋を見に行ったついでに、当時わずかに残れる過去帳と位牌を読み得るだけ写し置いた。年次に随って記すと、慶竜上人貞観十年十一月(この下字闕く)。静蓮大居士(小松新三位)治承三、八月入水。盛祐上人当寺住持、明応七、十一月この時同行五人度海。足駄上人九州豊後国の住僧、当寺住持、享禄四、十一月十八日度海。光林上人当寺住持、天文八、十一月この時同行十六人度海。正慶上人当寺住持、天文十、十一月この時同行十人度海。心賢上人当寺住持、天文十一、十二月この時同行六人度海。日誉上人当寺住持、天文十四、十一月この時同行五人度海。高厳上人当寺住持、天文十六、三月この時同行日誉上人度海。梵鶏上人当寺住持、弘治二、十一月この時同行十八人度海。宥照上人享保七、六月二十(?)八日度海、和州郡山の住僧、生年五十三、当寺一代住持(?)二十五年住職、勝浦氏、また善光上人、これは当寺住持と記せず、度海天文十一、十二月とあれば住持心賢と同行したらしい。日誉上人の名二度出るより攷え、また度海の一例は十二月、他はことごとく十一月なるより攷うるに、ちようど十一月最好の風に乗じていずれかの地へ渡航し、中には帰航し来たった者もあったのだ。『千(403)尋日本織』にいわゆる補陀落走りはこの渡海を謂ったであろう。それを水葬と訛伝したのか、また別に水葬を実行したのか知らぬ。予が面会した住職は、間もなく遷化し、妹二人素的な美婦、いずれも出て人の妻となり、寺は無住となり、祈?師が住むときく。予が写し取った過去帳等も今は失せ果てただろう。   (大正九年八月十五日『日本及日本人』七八九号)
 
     モルガナチク婚
 
 欧州ことにドイツで尊勝の男子が下位の婦女と婚する約束に、その妻または生まるべき子が父の位や所有物を嗣ぎ享け得ぬことを定むるをモルガナチク婚という。日本にもこの類のことがあったと見え、『甲子夜話』続一八に、『校合雑記』を引いて、秀吉その妹を家康に妻《めあわ》せ和睦を求めし時、家康三ヵ条の誓紙を秀吉に要じた。その第一に、秀吉妹の腹に男子出生すとも惣領とせず、当年八歳の秀忠を惣領とすべし、云々、第三に、家康病死すとも所領の五国を秀忠に進ずべし、と見ゆ。   (大正十年三月十五日『日本及日本人』八〇四号)
 
     石田三成の名の訓み様
 
 朝川鼎の『善庵随筆』に、石田三成はカヅシゲというべし、世人ミツナリまたはカヅナリというは非なり、藤堂侯および伊勢一身田所蔵の仮名文数通、いずれもかなにてカヅシゲと署名すと石川之?の話を載す。『甲子夜話』六六にも、伊勢の一身田高田派の一向宗の寺(名忘る、今の上人は先帝の御弟にて、奥方は津侯の御姨なりと)は、かつて三成の懇ろなりしところにて、自筆の仮名文数通ありて、みなカヅシゲと書きたり(津侯の臣藤堂主計および儒臣石(404)川貞一郎の話)、と記す。貞一郎すなわち之?か。しかし、『古今武家盛衰記』一および三をみるに、三成の兄杢介重成、佐和山落城の際自殺、とあり。『日本外史』にも同様に書きあったと覚える。(『野史』二七六には、「三成の兄重成、あるいは三成の弟と作《な》す」と出ず。)三成をカヅシゲとよむなら、その兄の名をシゲシゲと読まねばならぬが奇怪はなはだし。   (大正十年五月十五日『日本及日本人』八〇九号)
 
     朝廷を禁中と称うること
 
 『嬉遊笑覧』一二に、「世間の称呼なども俗に随いて妄りにいうべからず。いともかしこきこと必ずあるべきなり。みかどを禁裡、禁中なども常にいえり。されば(さあれ)かしこきことなるべし。獄舎を禁中というなり。朝廷を禁中ということなし」。しかし、『和漢三才図会』等に、禁中、禁裡を内裏の異名としおる。碩学大江匡房の『江談抄』に、「粟田関白、花山院に扈従して、禁中に出ず」とあり、冬嗣公が勅を奉じて撰んだ『文華秀麗集』には、「七日、禁中にて宴に陪《はべ》るの詩、一首。釈仁貞」と載す。支那にも、『世説新語補』に、唐の粛宗そのころ伏誅した蕃将の妻をして優戯せしむるを政和公主視ず、「上、その故を問う。公主いわく、禁中、侍女少なからざるに、何ぞ必ずしも須らくこの人を得べけんや、云々、と」、また「令狐綯、翰林にあっていわく、夜、禁中に対す、と」とある。漢の蔡?の『独断』に、「禁中とは、門戸に禁あり、侍御の者にあらざれは入るを得ず、故に禁中という。孝元皇后の父なる大司馬陽乎侯、名は禁なり。当時これを避け、故に省中という。今よろしく改むべし。後ついにまたこれを言う者なし」と出ずれば、ずいぶん古い称呼で、決して日本|出来《でき》の俗語でない。   (大正十年八月一日『日本及日本人』八一四号)
 
(405)     弓矢をもって魔を却くること
 
 蟇目《ひきめ》、鳴絃の法などいうて弓箭を擬して魔を却くるは、わが邦ばかりに行なわれたよう説く人あり。支那にも似たことなきにあらず。唐の釈道宣の『続高僧伝』三五にいわく、「釈尚円、呪術をもって物を救う。梁の武陵王蕭紀のとき、宮中にて鬼怪の諸?女を魅し、あるいは歌い、あるいは哭し、紛然として乱挙す。王すなわち善く射る者をして、弓を控《ひ》いてこれに擬せしむ。鬼すなわち形を現じたれば、すなわち箭を放って射る。鬼すなわちはるかに接《う》け、また返して人に擲ぐ。久しくして已《や》まず。円の呪を持するを聞き、請いて宮中に入らしむ、云々。円、始め発して、南無仏陀、というに、鬼みな所を失い、これより安静す。武帝、聞きて召し、大いに賞遇を蒙る」。   (大正十年十月十五日『日本及日本人』八二〇号)
 
     人間五百八十年して果つるということ
 
 『烈公間話』に、細川三斎、千利休に問うていわく、貴老五百八十年後果てられ候以後、天下の茶湯指南、誰にてあるべき。利休答えていわく、世悴道庵事はたらきたる茶湯なり、しかれども人柄悪し、天下の指南成るまじく、古田織部などにてもやあるべき、と申し候由、果たしてそのごとくなり。五百八十年を人生の最長期としたらしいが、何に拠ったものか。   (大正十年十一月一日『日本及日本人』八二一号)
 
(406)     万歳
           干河岸桜所「臣と万歳」参照
           (『日本及日本人』八一九号八〇頁)
 
 桜所先生いわく、袁子才は、万歳の二字は始めて『呂覧』の宋康王、『国策』の孟嘗君に見ゆ、漢武の嵩呼《すうこ》に至って始めてこの称あるにあらずといえり、と。『史記』六国年表を見るに、孟嘗君は斉の?王の世を盛んに経た人で、宋康王は?王が死する二年前、?王に殺された。さて、『国策』楚の宣王の所に、弁士江乙の入智恵で、王の寵童安陵君が王に殉死を請う辞中、「大王、万歳千秋の後、願わくは身をもって黄泉を試み、螻蟻《ろうぎ》に蓐《しとね》とせらるるを得ん」とある。これは王が狂獣を射殺して、「楽しいかな、今日の遊びや。寡人《かじん》、万歳千秋の後、誰と与《とも》にかこれを楽しまん」と言ったに対した詞で、孟嘗君の使が民の券を焼いたので民が万歳と称し、康王が大飲して万歳を連呼したのと少し訳が違うが、とにかく、孟嘗君の伯父で、康王を滅ぼした?王の父たる宣王(これは斉の宣王と間違えたるなり。すなわちこの一文を次のごとく改む。康王即位より十一年前、?王即位より十六年前に没した楚の宣王)の時、すでにこの語あったを証する。   (大正十年十一月十五日『日本及日本人』八二三号)
【追記】
 清の趙翼の『咳余叢考』二一に「張遜伝に、寇準、温仲舒と与《とも》に轡を並ぶるに、狂民あり、馬首を迎えて万歳と呼び、遜の奏《だんがい》するところとなる、と。曹利用伝に、従子の?、洒衣黄衣を被《き》て、人をして万歳と呼ばしめ、杖死せらる、と。『金史』に、章宗、優人に禁じて、前代の帝王をもって戯をなし、また万歳と称するを得ざらしむ、と。これまた、みな万歳をもってもっぱら主上を称するものなり。けだし古人は、酒を飲めば必ず寿を上《ささ》げ慶を称して万歳という。その始めは上下通用して慶賀の詞となせり。なお俗にいうところの万福、万幸の類のごときのみ。殿陛《でんへい》の間に(407)これを用うるに因《よ》って、後すなわちついに至尊の専称となる。しかるに、民間の口語は相|沿《なら》っていまだ改まらず。故に、唐末になおもって慶賀をなす者ありしなり。久しうして、ついにあえて用うるものなし。荘綽の『鶏肋編』に、広南の歳除《おおみそか》に爆竹をなし、軍民|環《かこ》み聚《あつ》まって大いに万歳と呼ぶは、もっとも駭《おどろ》くべき属《こと》なり、と。これ宋時久しくすでにもって君上の称となす、故にこれをもって駭くべきこととなせるなり」と見ゆ。五代の時、「石敬  碑、節度使となり、軍中にこれを擁して万歳と呼ぶ者あり、敬  塘これを斬ってすなわち止む」。至尊にのみ用ゆることとなった後も、旧によって濫呼する者が往々あったらしい。   (大正十年十二月一日『日本及日本人』八二四号)
 
     老朽に恥じて栄禄を受けなんだ武士
            題詞参照
            (『日本及日本人』八一号二頁)
 
 福島正則、封地を収められ、江戸の邸を囲まれた時、家臣多く逃げ去った。林新右衛門は、「正則息女の傅《もり》なり。正則の前に出でて、囲む者乱れ入り候わば早く御自害然るべく候、拙臣これに候えば奥方のことは御心を煩わさるべからず、御介錯仕り皺腹を割いて殿閣に火を放ち、跡まで人口に毀《そし》られざるように仕るべく候という。のち京師の傍に幽居す。右の義を高しとて豊禄をもって招く大名あり。林、承引せず。われ年七旬に余り候えは、今は世に望みなし。ことに召し出だされんとのことは、正則身上相果て候時の一事によってなり。さして義を守りたると申すほどのことにあらず。たとい抜群の功にもせよ、老体手足進退不自由の身にて、一本槍の者、明日何ごとありとても若武者どもにははるかの劣りにて候、しかるに高知を貪りて徴命に従わば、わが心を欺くにて候とて、終《つい》に仕を求めず。友人これを諌めて、言うところはもっともなれども、一つは子息のためをも顧みられよという。林、われ子供のためを顧みること人に異《こと》なり。身に応ぜぬ高知を取るは恥を招くの本なり。人の禍これより生ずることあり。位牌知行を取(408)らせて分に過ぎたりなど人の口に掛けんは子を愛するの道というべからず。その上われ浪人ゆえ子供ども小知にておのおの主君あり、立身のために暇を請わせんも大なる貪欲なり。人みな命分あり。禍福は人意をもって奈何《いかん》ともすべからずといいて従わず、云々」と、『武将感状記』六に出ず。   (大正十一年二月十一日『日本及日本人』八二九号)
 
     秀吉全く西大陸を聞知しなんだか
           三宅雪嶺「米州の領土権」(巻頭言)参照
           (『日本及日本人』八二二号一頁)
 
 一六〇九年(慶長十四年)メキシコ出板、アントニオ・デ・モルガの『菲島事記』は、きわめて希書で、予は一八六八年パリ板を読んだ。その七四頁以下に、一五九六年(慶長元年)ドン・フェルナンド・カストロその妻とともにメキシコに帰らんと、サン・ヘロニモ号をカヴィテ港に寄せて菲島太守ドン・フランシスコ・テヨに会い、太守、別にサン・フェリペ号を仕立て人と貨物を多く載せて出立せしむ。サン・ヘロニモ号後れ出でしも年末にメキシコへ安着す。しかるに先に立ったサン・フェリべ号は海上難風に逢い土佐の浦戸に漂到し破船す。その地滞留中、船の水先案内フランシスコ・デ・サンダが、土地の長官にスペイン王領諸国ことにペルーとメキシコを地図で示し、その間に応じて、まず僧を遣わし説教弘法せしめ、次に軍兵を派して制服した、と語る。長官名はクシモノホその由を太閤様に報ぜしより、船より京に上りし僧輩は刑せられ、船に積んだ百万金以上の物貨は取り上げられ、船中大いに閉口し、ようやく身をもって菲島に帰り、さらに太守より使節して象その他奇物を太閤に献じ、以後かかる目に逢わさぬ約束を獲て還った、とある。
 されば太閤はメキシコ送りの物貨を取り上げ、メキシコ、ペルーのことも聞き知ったのだ。『太閤記』に、この舟長さ三十間、金襴緞子五万端、唐木綿二十六万端、白糸十六万斤等を取って、禁中より京、奈良、堺の町人まで頒ち与(409)え、検使増田右衛門尉に銀子五百枚、国主長曽我部に五千枚を下さる、船人五百人余死し、船官十人余、商人三十人ばかり、黒人二百五十人残る、とある。帆足万里の『東潜夫論』に、この太閣の船貨没収を不法と論じあるに、往年菲島の独立を謀ってスペイン官吏に刑殺されたホセ・リザル氏は、そのころは菲人も欧州人も、自領の海で破れた船の物は一切その地の王の物としたから、特に日本人を恨むべきでない、と評した。それからその前にモルッカ、カンボジア、菲島いずれもまず天主僧、次に軍兵を送って西人に制伏されたから、太閤が彼輩を忌んだは、もっともだと言った。
 さてまた本誌八二二号一六頁に、石橋博士は、慶長十一年より前に、家康スペインの前総督(菲島総督を正とす)ドン・ロドリゴに鉱山技術家五十人聘用のことを託し、朱座三成、田中勝助二人を遣わしてメキシコを視察せしめたことを挙げられたが、年を記さず。一八三〇年の『竜動《ロンドン》亜細亜協会雑誌』二輯二巻と、英人アダムスの書簡を参ずるに、日本の鉱夫の働きメキシコの鉱夫の働きの半ばに及ばずとて、ドン・ロドリゴを介してスペイン王にメキシコ鉱夫五十人を求め、アダムスが作った船に八十人で乗り込んでメキシコに往かせたは、一六〇九年で、一六一一年に帰ってその船の代りに他の船を奉った。『慶長見聞録』所記はそれぞれ一年後れおる。   (大正十一年四月五日『日本及日本人』八三三号)
 
     富士の人穴入り
 
 忠常胤艮人穴入りは史実だが、似た譚は支那またこれあり。『唐代叢書』三輯二冊、陸広微の『呉地記』に、『洞庭山記』を引いて、呉王闔閭、毛長をして洞庭の穴を探らしめしに七十日掛かっても究め得ず、石几上の『素書』を持ち帰り孔子に問うと、「夏禹の書はみな神仙のことにして、大道を言うなり」と言った。次にまた入らしむるに、二(410)十日経て帰り、石燕、蝙蝠に妨げられて前《すす》み得ずと言った、とある。   (大正十一年八月一日『日本及日本人』八四一号)
 
     廻り香炉と扇風機
 
 『西京雑記』一に、漢の昭陽殿の結構を述べて、「匠人の丁緩、李菊、巧なること天下第一たり、云々。しかも外人は知ること稀にして、よく伝うる者なし」とあって、別条に、「長安の巧工丁綬なる者、臥褥香?、一名被中香?を作る。もと房風に出で、その法のちに絶ゆ。緩に至り、始めて更《あらた》めてこれを為《つく》る。機環《からくり》を為り、四周を転運するも、?体は常に平らかにして、これを被褥に置くべし、故にもつて名となす、云々」。これは英話にいわゆるジムパルの創製は支那人に出た証拠で、今日船舶用の羅鍼盤のジムパルははるか後に欧州へ伝わったのだ。「丁緩また七輪の扇を作る。七輪を連《つら》ね、大いさみな径《わたり》丈あり、相《たが》いに連続す。一人これを運《まわ》せば、満堂寒くして顫う」。これは扇風機の先駆である。   (大正十一年九月十五日『日本及日本人』八四四號)
 
     石川五右衛門
 
 飯田忠彦の『野史』巻二一四に、賤ヶ岳で戦死した秀吉の家臣、石川兵助の末弟頼明は、「秀吉に仕え、秩一万石を累《かさ》ね、掃部助と称す。隠術を能くし、東照宮の伏見にありし時に当たり、三成のために宮第に潜匿し、まさに火を縦《はな》たんとす。蜂屋貞次、怪しんで、ついに頼明を擒《とら》え、鞫問《きくもん》するに実を告ぐ。三成に印書を捧げんとして、宮これを頼明(貞次の誤り)に託す。赦されて大坂に赴かしむ。庚子の役起こり、立花宗茂に従って大津城を攻む。軍敗れ、山林に遁《のが》れ匿《かく》れて、脇坂安治に憑《たよ》る。赦しを井伊直政に請うも、聴《ゆる》されずして自殺す。宮、その奸を憎み、命じて三条(411)の磧《かわら》に梟首せしむ」。俗書『絵本太閤記』に木村常陸介が石川五右衛門を語らい、秀吉の寝室に忍び入らしむる話は、これを作り替えたものか。また五右衛門のほかにも、石川氏で釜いりになった人あり。『和漢三才図会』六八、信州柏原村明専寺の条に、「顕如上人、信長と矛楯《むじゆん》の時に当たって、三州の一向宗、信長に敵す。信長、怒って宗門を断絶せんと欲し、改宗せざる者に重科せしむ。しかるに、門徒かつて可《き》かず。よって了西、首を刎《は》ねられ、石川金吾、釜の中に煮らる」。   (大正十一年十二月十五日『日本及日本人』八五一号)
 
     牽機という毒薬
 
 『五代詩話』一に、南唐の李後主、宋に降ってのち「故国、首《こうべ》を回《めぐ》らすに堪えず」の句をもって宋の太宗に忌まれ、牽機薬を賜うて死す、牽機は薬の名、これを服すれば、前却数十回、頭足相就いて機を牽く状のごとし、とある。詳しくは分からぬが、身体弓のごとくのけぞり曲がって頭と足と就くものと見える。今もかかる毒薬ありや。『観仏三昧海経』五に、諸梵行者が不浄行をなせば、「命終に臨む時、挙身|反強《そりかえ》り、振るい掉《うご》きて定まらず、なお弓身のみずから持するに勝《た》えざるがごとし」とあるも似たことだ。   (大正十一年十二月十五日『日本及日本人』八五一号)
 
     大谷吉隆
 
 飯田子邦の『野史』二一二に、『中興武家盛衰記』を引いて、大谷吉隆は豊後の人、その祖先平盛胤、平治の乱に源朝長を射落としたので、頼朝の世となって筑紫に幽居して歿す、その子盛治、大友氏に仕え、そののち大友氏衰えて(412)盛治の子孫流浪したが、吉隆十六歳で国を去り石田三成によって秀吉に事えた、と記す。新刊徳富氏の「家康時代」上巻に付した年表もこれを沿襲しおる。しかるに帝国書院刊本、『塩尻』巻二六には、秀吉の正妻高台寺政所湖月尼公は、尾州春日井郡朝日村の人なり、父は杉原助左衛門人道道松、母は木下七郎兵衛家利が女、朝日局と称せし、大谷刑部少輔吉隆伯母なりと、云々、この妹(朝日局の妹)は浅野又左衛門長勝(長政の養父)の室なり、とある。しからば吉隆は豊臣氏の外戚だ。高台寺政所の外叔母の子で、政所の母方の従弟に当たり、尾張生れと見える吉隆の次男木下山城守頼継は、祖母の出た家の氏名を称えたのだろう。『塩尻』巻七に、吉隆初め洛東大谷の修験者で、秀吉弱冠の時その華押を見て必ず武将となるべしと占い中《あ》てたので、後年秀吉に用いられたとあるが、関ヶ原で死んだ時四十二歳というと年が合わぬようだ。   (大正十二年二月十一日『日本及日本人』八五五号)
 
     織田信高
 
 この人のこと予はただ飯田子邦の『野史』四四に、信長公の第七男信高、「少字を小洞といい、藤十郎と称す。左衛門佐に任じ、従五位下に叙せられ、慶長七年十二月卒す。子孫、幕府に仕う」と載せるを知るのみ。近刊徳富氏の「関ヶ原役」(八一)、関ヶ原合戦西軍の陣地を記せるを見ると、「三成はその北方笹尾にあり、織田信高、伊藤盛正、岸田忠氏および秀頼麾下の士いわゆる黄母衣衆と称する者その右に備え」とあり、その前(四六)、大津を攻めた西軍諸将中にも織田信高(秀信の弟)の名を列す。(『織田系図』には秀信にただ一弟あり、秀則、従四位下、侍従、左衝門尉、法名宗爾とあるのみ。『野史』六八によれば、この人寛永二年卒した。)しかるに巻末なる人物年表には、「信高、童名小洞、藤十郎、左衛門佐と称す。信長の第七子。父の死後大垣城主氏家行広に養われ、のち行広と共に野州宇都宮に蟄居す。天正十九年、近江神崎郡内に千六十石を賜い、羽柴と称す。文禄四年、愛知郡の内に千石加封、(413)慶長庚子の役、家康に従い、これよりその麾下に属す。七年十二月死す」とある。一つの書物の中に、本文には信高西軍に属して大津の攻城に加わり、関ヶ原の合戦にも三成を輔けたと記したのみか、関ヶ原戦図にもその軍勢三成の陣に近く陣取ったよう出し置きながら、年表にはこの役家康に従い、それより麾下となったとあるは、矛盾はなはだしく何だかさっぱり分からぬ。『織田系図』、信長に十一男あり。その第十一子長次、童名於縁、長兵衛という。『野史』四四には、信長の第十二男で、末子信次、「少字を縁といい、長兵衛尉と称す。関ヶ原に戦死す」と見ゆ。惟うに三成に荷担して大津を攻め関ヶ原に出陣したのは信高でなくて、この信次であろう。記して識者の高教を竢つ。   (大正十二年三月一日『日本及日本人』八五六号)
 
     役の行者
 
 予の現住地紀州田辺より年々夏時分大峰詣りをする人が多い。その輩しばしば語るは、むかし役行者を衆人大菩薩と称する。勅使来たって咎めたところ、皆人がいうのでわれ知ることでない、と答えた。勅使、汝帝皇の臣民でその土に住みながら大菩薩と称せられて黙受するは不埒だという。と、行者地に立った金剛杖の上に坐す。勅使この杖の住まる所は王土でないかという。その時行者杖頭を距《さ》る三尺の空中に坐したので、大菩薩の号を許された、と。これは参河国鳳来寺の開山利修仙人のことと支那の河上公の伝から作成したらしい。
 葛洪の『神仙伝』三に、漢の文帝、『老子経』を読んで解せぬところを便人して河上公に問わしめたが、道尊く徳貴ければ遙かに問うべきにあらずと言ったので、帝|親《みずか》らその庵を訪い、普天の下王土にあらざるなく、率土《そつど》の浜《ひん》王臣にあらざるなし、域中の四大、王その一に居る、子、道ありといえどもなお朕の民なり、みずから屈する能わず、何ぞすなわち高ぶるぞや、と言うと、公すなわち掌を撫し坐躍再々虚空中にあり、地を去ること数丈、俛仰《ふぎよう》して、余|上《かみ》(414)天に至らず、中人を累《わずらわ》さず、下地に居らず、何の臣民かこれあらんと答えたので、帝恐れ入って車を下り、稽首して教えを乞い、『素書』二巻を受けた、と出ず。『三河雀』一にいわく、文武帝御悩の時、御修法の使として公宣卿、鳳来寺山に攀じて仙人に勅を宣ぶ、利修勅を受けず、黎杖の頭に登りて立つ、公宣いわく、普天の下何国か王土の外ならん、杖も王土に立つをや、仙答うる能わず、鳳に駕して参内し、御修法あれば、すなわち御悩平癒、叡感斜めならず、鳳閣を御建立、鳳来寺と勅号を下されしとなり、と。   (大正十二年三月一日『日本及日本人』八五六号)
 
     山口宗永の父
 
 関ヶ原役の時大聖寺城に拠って三成に党し、前田利長と戦い敗れて自殺した山口玄蕃頭は、『古今武家盛衰記』一〇に、その名を正弘とし、もと周防大内義隆の一族だったが、義隆滅亡後秀吉に仕えた、とある。『雍州府志』に、東北寺、「現に三条京極にあり」、天文中焼かれたのを、「城州葛野郡下山田の領主山口甚介秀景、資料を添えてこれを再興す。秀景の子にして加州大聖寺の城主山口|玄蕃頭《げんばのかみ》相続して、この寺の檀越となる。父子共に画影あり」とあれば城州の生れらしい。それとも宗永の父秀景が周防から山城へ移住して、下山田の領主となったものか。   (大正十二年三月一日『日本及日本人』八五六号)
 
     豊太閤と鷹
 
 松下見林の『異称日本伝』巻中二に引いた『南朝平壌録』に、秀吉|惟《こ》れ性淫にして殺を嗜む、云々、網を張る者あり、誤ってその鷹を羅《あみ》す、網を張り、および左右|看《み》る者二十四人を将《も》って倶《とも》に殺す、とあり。僧了意の『浮世物語』(415)三には、「古え太閤秀吉公鷹野に出で給い、御秘蔵の御鷹に建巣丸《たけすまる》とかやいうを、秀吉公みずから御手に据えられ、鶴に合わせられたり。助鷹《すけだか》を放ちて、人々飛び行く跡を追いて行く。ようよう引きおろして力草《ちからぐさ》をとり、鶴を引き伏せたるところへ、お歩《かち》の侍一人走りよりて、御鷹を据え直して秀吉公へ渡し奉る。秀吉公御手に据えられ、かき撫でて御覧じければ、趾爪《けづめ》を引き闕《か》きたり。秀吉公大いに怒り給い、これはいかなる者の引き分けて趾爪をば闕きけるぞとて、御鷹師を御前に召され、己《おのれ》知るべし、誰が所為《しわざ》ぞ、名をいえとて、御腰の物に手を掛け給う時、御鷹師すでに赤面し、頭を地につけ、その人の名を申さんとしける色を秀吉公御覧じて、小声になりて、名を言うな、名を言うなと仰せられし。まことにありがたき御心ざしなり。御秘蔵なればとて、鷹一|居《もと》に侍一人を換えられんこと、偏《ひとえ》にこれあるまじきことを思《おぼ》し召さるる忝なさ言うばかりなし。されば良将の士を重んずるところかくのごとし。この故にや布衣より天下とり給うほどの大功をば遂げ給いき」とある。士を重んじて寛恕し、民を威すとて惨殺したものか。   (大正十二年四月一日『日本及日本人』八五八号)
 
     桐野利秋の見た幽霊
          山崎維城「放浪者の哄笑」(下)参照
          (『日本及日本人』八六五号一〇八頁)
 
 福島正則はきわめて勇猛な人だったが、やはり幽霊に困らされたらしい。宝鳩巣の手簡を集めた『兼山秘策』に、大阪城内に幽霊出ずる由を記して、「この咄、白石承り申され候て、福島大夫配所にて老年の伽に罷り越し、直談仕るその者見申す由にて物語|有之《これあり》候。大夫殿は向いに座しおり申され候。その対座に、二、三人咄し罷り在り候ところ、一時に首を伏せて仰ぎ見申さず候えば、大夫殿、また出で申すよなど申され、振り返り脇刺しをねじ廻し叱り申さること毎々有之候。その様子如何と見候えば、大夫殿御座うしろへ色々様々《いろいろさまざま》の首、幾つという数を知らず現われ申し候。(416)一目見申す者はとかく仰ぎ見申すこと成りがたくひれ伏し申し候。大夫殿叱り候えば、湯の消えたるように消え失せ申し候」とある。   (大正十二年八月十五日『日本及日本人』八六八号)
 
     兼備の才
 
 一条兼良公の『東斎随筆』に、道長公|大堰川《おおいがわ》で逍遥した時、作文の船、管絃の船、和歌の船と三つの船を分かちて、それぞれ堪能の人々を乗せた。ところへ公任大納言が遅参した。道長公大納言は何の船に乗るかと問うと、和歌の船に乗ろうと言ったので、和歌の船をさしよせて乗せた。それに乗って、「小倉山嵐の風の寒ければ、紅葉の錦きぬ人ぞなき」と詠み、人々アッと感じた。公任いっそ作文の船に乗ってこの歌ほどの詩を作ったなら一層名が揚がったろうにとみずから口惜しがられた。なにしろ専門の名人たちをそれぞれの芸に従って三つの船に乗せられたに、われがいずれの芸にも通ずるを知って、差し当たり何の船に乗せようかと問われたは、われながら心|侈《おご》りしたと公任が言った。一事のすぐるるだにえらいことなるに、いずれの道にも抜群だったほ古えにも例なし、と書きある。しかし古えにもえらい例が支那にある。漢の章帝、一日、朝に臨み、文武の座を分かち、文郎を左に武郎を右に座せしめた。時に方儲という者、どちらとも付かず中位におり、いわく、臣は文武兼備す、用い次第役に立つ、と。帝その方を嘉してもつれた糸を渡してこれを直せというと、儲抜刀してこれを三断し、経に反して勢に任す、事に臨んで宜しく然すべしと言った、と『琅邪代酔編』二六にある。   (大正十三年五月一日『月刊日本及日本人』四七号)
 
(417)     山中幸盛が母
 
 『陰徳太平記』に、山中鹿之助幼くて父に離れ貧乏だったが、その母が賢女で何とか鹿之助を出世させんと心を砕き、時々みずから後園を鋤いて麻を植え、布を作り布子を拵えて茜の裏を付け、その数多く鹿之助に与え自分は垢衣を著る。鹿之助また賢い男ゆえ、尼子家に近習の者三百人ばかり、いずれも衣類乏しきを察し、常に交会の時かの布子を与うるといわず、ただ自然に彼らが衣裳著替え、ある時は友達五人十人招き集めてわが家に宿せしめ、朝夕食事をふれまうたので、人みなその志を感じ、何となくその手に付いて、ここにては山中が手の某と名のり、かしこでは鹿之助が手の何がしと名乗ったから、その名著われ聞こゆるに及んだ、と述べある。これに似た話、支那にもあって、二十四孝に名高い三国の呉の孟宗、少《わか》い時南陽の李粛に従って学んだ時、その母ために厚褥大被を作った、隣の女が怪しんで問うと、わが子は客を致すほどの徳なき男だから、大きく厚い夜具を作り、貧乏ながらえらい人どもを招き臥さしめたら、倅が君子の言を聞く便りともなろうかと思うてのことと答えたと、『列女伝』と『広輿記』一四に見える。   (大正十三年五月一日『月刊日本及日本人』四七号)
 
     金ほり
 
 鳶魚先生が今までよんだ軍記中の鉱夫利用は永禄以来らしいと言われた。しかし毛利元就が城攻めに鉱夫を使うた永禄元年より五十一年前、永正四年に遠州深嶽に尾張の武衛義達が籠城したのを、駿河の今川氏親が六月より八月まで休みなく攻めた時、「城高山なれば、安部より金堀を召し寄せ、城中の筒井の水みな堀りぬきければ」、敵の張本ど(418)も残らず討たれ、武衛降参出家して主従五人尾張へ送られたと『今川記』にあるから、元就が十一歳の小童だった時すでにこの戦術が行なわれたのだ。ここの文で見ると、そのころは駿州安倍郡に堀山が握られおったらしい。文和元年の奥書ある『駿河国風土記』の残冊に、伊穂原郡より箭鏑鉄金を貢したとあれば、とにかく駿州にかつて鉱山があったので、南北朝争乱前にすでに関東に鉱業が開けおったと知る。滝川儀太夫が伊勢峰の籠城の時秀吉方で使うた鉱夫はどこからつれてきたか知れぬが、『続日本紀』に「和銅六年、伊勢より水銀粉を献る」、いわゆる伊勢おしろいで、正徳ごろまで丹生から水銀、射和《いさわ》から水銀粉が出た(『和漢三才図会』七一)。享和中に至っては伊勢より水銀が出ず、故に京都からこれを射和に送って煉らしめた由(『本草啓蒙』五)。
 平安朝のむかしは伊勢の水銀掘りはなはだ盛んで、水銀掘りに庸役されて十余丈も掘り入った時穴が崩れた話が『今昔物語』一七に出ず。峰の城内から穴を掘って敵を焼殺した輩が伊勢在来の水銀鉱夫だったものか。これは天正十一年閏正月のことで儀太夫千二百人ばかりで峰の城(『祖父物語』には高松城)に籠り、秀吉先手の衆八千余騎を拒《ふせ》いだ時のことで、織田信雄の臣津川玄蕃頭の勢も城の塀際に攻めかかったところ、城中から糞汁を見舞われ閉口した、と『勢州軍記』に載す。秀吉、無念に思いみずから四万余騎を率いて四十八日も攻めたが落ちず。主人一益の手書を見た上やっと儀太夫が城を秀吉へ明け渡した。それから一益の臣佐治新助が二千人ばかりで守った亀山城を、秀吉が一万ばかり(『野史』には五万)で十日余り攻めると、佐治たちまち開城して一益方に走り、卑怯者とて切腹させられた。この時も秀吉亀甲を寄せ金掘数百人を入れて楼門を掘り倒し城中の士卒悲歎したので佐治速やかに降った由、『柴田退治記』にみえる。この書はその年の十一月に秀吉の祐筆大村由巳が書いた実録で、峰城拒守のことを記さぬは忌むところがあったのだろう。
 『梁書』に、侯景が建業を攻めた時、城の両面に土山を起こし城に臨んだので、城中騒ぎ立った。梁将羊侃命じて地道を掘らせその士を引き除けたから山が立ち能わず。賊また十余丈高い楼車を作って城を見下ろし射んとした。侃い(419)わく、車高く塹虚し、かれ来たらば必ず倒れん、臥して観るべし、よい見物だ、設備を労せず、と。さて車が動き出すと果たして倒れ、一同感服した、とある。こんな先例が支那から古く日本へ聞き伝えられおったと察する。(二月七日)   (大正十五年三月一日『月刊日本及日本人』九三号)
【追記】
 鳶魚先生が今まで読んだ軍記中の鉱夫利用は永禄以来らしいと書かれたに対し、前文に予は『今川記』を引いて、永禄元年より五十一年前永正四年に今川氏親が鉱夫を使うて遠州深嶽の城を落とした例を挙げ、本邦採鉱史に精通さるる香取秀真君もこれがまず攻城に鉱夫を利用した最古の記録と首肯された(九七号八二頁)。しかるに今朝それよりもまだ古い例を発見したから申し上げる。永正四年より百六十五年前、興国四年、北畠親房公が関城を守った時、敵将高師冬各士卒をして草を運び堀を埋めさせ、また鉱夫を募り地を掘らしめしに、土崩れて夫みな圧死した、と『大日本史』一六五に、『結城文書』を引きある。(十二月十七日)   (昭和二年一月十五日『月刊日本及日本人』一一六号)
 
     支那書に見えた日本刀
 
 九二号一六〇貢、室津君の「海外流出刀剣考」に、日本の刀剣が海外へ輸出された最古の記録として、欧陽脩の「宝剣近ごろ日本国より出ず」の詩を引くのが普通だといわれたが、戦争用のでない刀なら、支那へ渡された文献が、欧陽脩よりも早くある。『古今図書集成』辺裔典三三巻に、『宋史』を引いて、僧|「然《ちようねん》が宋より帰国ののち、永延二年宋帝へ贈った日本製品どもの中に、「また金銀蒔絵硯一筥一合に、金硯一、鹿毛筆、松煙墨、金銅の水瓶、鉄刀を納む」とあり、この鉄刀は硯箱に入れ置いたとあるから、一の文房具で、『和漢三才図会』に「佐須賀《さすが》、正字いまだ詳らかならず」と出した物だ。永延二年は脩が死んだより前八十四年だ。また『弘法大師伝』下巻に、脩の死去より二(420)百三十六年前、去年寂した空海の徒弟等が先師等が入居中就学した長安の青竜寺へ日本の物を多く贈った。その目録に、諸種の剃刀子(カミソリか)あり、また出火馬脳石、火蘭(ホクチか)、次に、銀装木蘭刀子二十口、銀装檜木刀子十口、銀装出火鉄二十枚などとあって、「已上《いじよう》、刀子五十口、出火鉄五十枚、同じく染泥文革筥一合に納め、紫?あり」。?は字書でみれば頭巾の類らしく、これは火打ち道具に小刀を添えて袋に入れたもので、僧房などに重宝の物ゆえ贈ったと見える。『古事記伝』に、「折々に打ちてたく火の煙あらば心さすがを忍べとぞ思ふ」貫之、『為家卿抄』に、サスガは腰刀なり、燧《ひうち》に付くる物なりとあり、今も物きる小刀をサスガといえり、と出ず。日本の鉄がよかったので剃刀やサスガが早く支那でもてたのだ。それから『後漢書』に、倭の「兵には、矛、楯、木弓、竹矢あり」とばかり見え、その後も刀のことが見えず、『隋書』に至って初めて「弓、矢、刀、?《ほこ》、云々、あり」と書かれた。   (大正十五年五月一日『月刊日本及日本人』九八号)
 
     松王健児
          三田村鳶魚「松王健児」参照
          (『月刊日本及日本人』九四号八九頁)
 
 昨年十月出版、宮武省三氏の『讃州高松叢誌』に、その父君の同学中井円造という狂士は松王小児の苗裔で、当年清盛よりその遺族に賜わったという兜と感状を、二、三度見せて貰ったと父君が話された、と記す。また昨年七月『香川新報』に、高松の女学校教諭中井金三郎氏が松王小児の後胤とみずから述べられた由。また宮武氏が引かれた『讃州府志』には、「平相国、中井民部正に食邑を賜う。県令中井左馬允、米を円座郷に食み、中井坪という。松王小児の父なり。郷正中井藤左衝門はその裔にして、今に至る三十七代、小児遠忌には兵庫経島山来迎寺に往き追薦す。余かつて兵庫に泊しその寺を過《よぎ》る。仏前にフ燈あり、題していわく、『讃州香川郡円座住中井藤左衛門』。中井氏、天正(421)十三年豊公南国征伐の時その采邑を喪う。中井氏子孫は今藩公に仕え禄を世々にす」とあるそうで、『南海治乱記』に松王児の父の名を河辺郷司河辺民部としたのとちがう。『和漢三才図会』などに松王を児小姓だったよう記し、また十六歳で人柱に立ったよう書きあるが、『摂陽群談』などには児童と書いてコデイと仮名ふりおる。すなわち健児の義で、若い力士だったから死後も力よく築島を支え壊れざらしむ、と信ぜられたものである。(三月二十日)   (大正十五年五月一日『月刊日本及日本人』九八号)
 
     舞い舞いの節義
            三田村鳶魚「松王健児」参照
            (『月刊日本及日本人』九四号九〇頁)
 
 鳶魚先生が挙げた外にも例がまだある。『甫庵太閤記』六に、柴田勝家最後に籠城した面々を叙した中に、六番、山口一露斎、若太夫(舞《まい》まい)、上坂大炊助、(右筆)児王、とある。若太夫という舞い舞いが勝家自殺に殉じた八十余人の内にあったのだ。また、『豊薩軍記』四に、天正九年五月、竜造寺隆信、家をその子政家に譲る祝いに猿楽能興行と称し、去年降参した自分の女婿蒲地鎮並を招き殺した時、随行の芸者数十人チリヤタラリとなり果てて水のあわれを促しける、と洒落《しやれ》たことを書きあるが、『野史』一五六には、この時鎮並が伴れ行いた似我という太鼓打ちの妙手を惜しみ、隆信|密《ひそ》かに逃げ去るよう勧めたところ、危きを見て命を致すは人の道なり、われ申楽の徒といえども去るに忍びずとて、奮戦して死んだと記す。さて、『備中兵乱記』なる舞の弥助が殉じた元親を、鳶魚先生は長曽我部としてあるが、これはそれでなく、備中松山の城主三村備中守元親のことである。   (大正十五年五月十五日『月刊日本及日本人』九九号)
 
(422)     虐殺
            露崎厚「ハンチントンと旅して」参照
            (『月刊日本及日本人』九八号九七頁)
 
 露崎君は日本歴史に虐殺の頁がないと言われた。従前東洋で虐殺といえば、白起が趙の降卒四十万を坑に埋めたとか、項羽が咸陽を屠ったり、契丹王が大梁に討ち入ったこと、乃至《ないし》悪生王が釈種の五百童男を坑し、五百童女の手足を斬ったなどを思い出すが、西洋で虐殺(マッサッカル)というは何千の何万のとなくとも、かなり多数の抵抗し能わない人衆を、畜生扱いに屠殺することで、例せば、一八三一年二月、米国ヴァルジニア州の黒人ナットターナーが日蝕に乗じ事を起こし、白人の男十三人、女十八人、小児二十四人を殺したなども虐殺と呼ばる。
 ところでこれほどの虐殺なら日本人にも皆無でなかったらしい。『加能越山川記』に、天正の初め佐久間盛政、加賀の石川郡吉野村まで出陣二回、その時吉野村等八箇村は盛政に随わなんだので、盛政怒って吉野村より奥、石川郡を放火して男女ことごとく切害す、この故に石川郡分両年右八箇村亡所となる、と見ゆ。これよりもずっとひどかったは、常陸下妻の城主多賀谷重経は佐竹義宣の妻の兄で、関ヶ原の役に義宣と謀って小山の陣営を襲わんとしたが果たさず。その子三経は石田三成の烏帽子子たり。よって家康の機嫌よからず。慶長六年二月、榊原康政、伊奈忠政をして死罪一等を宥め城邑を籍没せしめ、下妻城を破却す。軍卒、城を焼き払い、老若男女叫喚の声地獄の罪人もこれにはいかで勝るべき。あるいは幼子を懐に入れて館沼に身を投げ、あるいは重経の御内室、女郎たちに至るまで、紅顔の粧いも早く白骨となりて朽ち果つるこそ哀れなり。そのほか譜代相伝う旧臣、あるいは沼に飛びこみ、あるいは兵火に焼け死に、自滅する輩三百人に及びたり、云々(『多賀谷七代記』)。『野史』一〇五には、この時、「家族乱離し、婦女|幼孩《ようがい》、水に入って沈み弱る。および焼死者は合してこれを小野子台に湮《うず》む。これを美女塚と称す、云々」とあり。(423)全く無辜の美婦小児までもちっとも憐れみを加えず焼き殺しまた自滅せしめたので、家康の仕方はいかにも残酷に過ぐ。『葛飾記』上には、小金領の内、大谷口の城主多賀谷太夫江戸へ御留めにて出府の跡へ、かねての御約か大兵乱入、即時に城を乗っ取り家老は出奔して見えず、云々、とあるも、下妻城破却の時、多賀谷氏の子城大谷口も速急に乗っ取られたるを証するか。   (大正十五年五月十五日『月刊日本及日本人』九九号)
 
     武藤駿河守の残虐性
           三田村鳶魚「武藤駿河守の残虐性」参照
           (『月刊日本及日本人』一〇三号九七頁)、
 
 この人は代々の家の子川越中務の一人息子十三になるを近習として使ううち、少しの誤りありとて指し殺したので、六十に余った中務これを恨み、最上義光に内通して大梵字城を奪うたから、駿河守は天正十年八月自殺し、中務は大和金峰山で僧となって果てた。駿河守の宗家で大山の城主武藤出羽守義氏も至って不仁で、罪なき者を多く殺し、庄内の悪屋形といわれた。駿河守を滅ぼさんと謀ったが兵力及ばず、これも天正十二年三月家臣に叛かれて自殺した(『野史』一四一。『最上義光物語』上)。本家分家同時に虐主が出たはちょっと珍し。さて、『聚楽物語』上に、「ある時、秀次、天守へ上がり給い、四方を眺めて座《おわ》しけるに、懐妊の女いかにも苦しげにて、野辺の若菜を摘みためて、その日の粮《かて》を求めんと、都をさして歩み出で来たるを御覧じて、これなる女のきわめて腹の大なるは、これぞ二子などいうものなるらん、急ぎ伴れて参れ、開けてみばや、とぞ仰せける。御前の若殿原、承り候とて我先にと走りいで、あえなく引っ立て参りけるところに、益庵法印何となく立ち迎い、持ちたる芹なずなを懐へ押し入れさせ、御前へ参り、この女は、さまざまの若菜を摘みて懐中へ入れ、都へ売りに出る者にて候と打ち笑い申しければ、急ぎ返せと仰せける。この女、?《わに》の口を遁れたる心地してこそ帰りけれ」とある。鳶魚先生が引かれた忠直卿の話とあんまりよくにて(424)いるようだ。   (大正十五年八月十五日『月刊日本及日本人』一〇五号)
 
     災変を予知する観脈法
            「雲間寸観」欄参照
            (『月刊日本及日本人』一〇二号三〇頁)
 
 この法を宝丹氏がみずから筆して明治二十三年ごろの『風俗画報』に出しあったと記臆するが、『塵塚物語』巻五に、「江川高島郡二尊寺という寺に赤松律師(則祐)が兵書の写しなりとて巻物侍り。その中にむかし九郎判官鞍馬山にて天狗より相伝せられ侍るといいて、兵法口舌気ということ記し侍り」と前置して、十一ヵ条の占方を列ね、その第十条にいわく、「おとがいと手の脈を一度に伺うに、和合して同じように打つは吉、ちがいたるは忌むべし。これを生死両舌の気といえり」と。『近江輿地誌略』高島郡に、二尊寺なし。享保のころ全く廃絶したものか。赤松則祐は初め護良親王に従い具さに艱苦をなめ、のち足利氏に属し義満将軍となって四年めに死んだ。『塵塚物語』は永禄二年藤原某の作という。当時戦国騒乱の最中ゆえ、いろいろと生命に関する占方が講ぜられた。その一つが宝丹氏が山田屋清助より伝授の観脈法だったと知る。   (大正十五年八月十五日『月刊日本及日本人』一〇五号)
 
     額に烙印
            「額に烙印」(無署名)参照
            (『月刊日本及日本人』二四六号七四頁)
 
 この一文にみえた吉川瀬兵衛はなかなかの勇士だ。光秀一乱の時、家康大和路へ懸かり、葛下郡布施左京進へ知らすと、布施その臣吉河主馬助ならびに息次大夫を、河内の山田村まで出迎えしめた。大和の石原源太、数百人して途(425)中を妨げんとするを、吉河父子けちらし、事故なく伊勢高見山まで御供し、石原方に押しよせ首をとる。この時、布施、重代の雉子の胞子で作った軍扇を吉河に賜う。太閤の時、布施の家滅却し、吉河も流浪蟄居す。慶長十九年、父子根来二百人余引きつれ、大阪に入り大野主馬が手に付き、吉河瀬兵衛と改名。大野が謀で家康本陣辺を忍び歩き、藤堂、浅野城内に通ずる由いう。家康、藤堂に命じ、その十指をきり、秀頼の二字を烙印して、大野が持口へ放たしむ。落城後、瀬兵衛熊野山中に隠れしが、福島正則召して食禄七百石を与う。ある人正則に、指なき者どうして刀の柄を握らんや、と支えた。吉河、時を窺い、その者を日中に討ちすまして立ち退かんとするに、正則追手を出して討ち取ったと、『玉滴隠見』一に出ず。『大和記』には、主馬助に権右衛門、新蔵という二子あり、共に主人布施とともに大阪に籠る。大野主馬より藤堂へ計策の使に新蔵を遣わすところ、大剛の働きして主馬に賞せらる。落城後大和に下り、在郷にて終わった、とある。むかし為朝、大島の代官忠重を罰するとて両手の指を三つずつ切らせ、時忠は院宣の副使花方の煩に波方と烙印し、その髻と鼻を切った(『保元物語』。『源平盛衰記』三八)。家康これらより思い付いて、瀬兵衛の指を切らせ、二字を烙印せしめたものか。(四月三日午前五時)   (昭和七年四月十五日『月刊日本及日本人』二四七号)
 
     松浦肥前守と猿
           「松浦肥前守と猿」(無署名)参照
            (『月刊日本及日本人』二六三号四四頁)
 
 この話にきわめてよく似たのが『常山紀談』に出ず。太田|持資《もちすけ》京に上りし時、慈照院殿(足利義政)に招かれた。「慈照院殿に一の猿あり、見知らぬ人をば必ず掻き傷うということを持資聞きて、猿使いに賂《まいない》して猿を借り、旅亭の庭につなぎ、出仕の装束して側を過ぐるに、猿飛びかかるを、鞭をもって思うさまにたたきふせたれば、後には猿、頭(426)を垂れて恐れいたり。持資、猿使いの人に礼謝して、猿を返したり。かくて饗応の日、かねて慈昭院殿、かの猿を通るべき所に維《つな》ぎ置きて、持資が狼狽するをみんと待たれたるに、かの猿、持資をみると斉しく地に平伏す。持資衣紋引きつくろい打ち過ぎたりければ、唯人にあらずと大いに驚かれたるとなり。かの猿をつなぎたる戸を猿戸という。それより猿戸という名は起これるとなり」というのだ。しかし『嬉遊笑覧』に、枢《くろろ》付きたる戸を猿戸という、云々、枢を猿というは、云々、猿は人のごとく手の働く者なれば喩えしにや、太刀の金物の猿手というも、手長猿の手を組み合わせる形を思いて呼べるにか、枢もこの金物の形より猿の名あるか、と言えるを参照すると、道灌を困らすために猿をつないだから猿戸といい始めたとは怪しい。(昭和七年十二月二十一日午前四時)   (昭和八年一月十五日『月刊日本及日本人』二六五号)
 
     呉服尺
 
 『和漢三才図会』二四に、鯨尺は曲尺の一尺二寸五分、呉服尺は曲尺の一尺二寸に当たる由を述べた末、呉服尺は、如今これを用いず、ただ曲尺と鯨尺を用うるのみ、とあり。それから今まで呉服をさすにみな鯨尺を用いた。しかるに『和漢三才図会』が成った正徳三年よりわずかに七年前、宝永三年の作なる『熊谷女編笠』二の一、角屋与三次、大坂に出て晒し布を売りありく記事に、「鯨の二尺ざしに呉服の一尺ざしを手にもち」とある。『和漢三才図会』は大坂で著わされた物なり。その大坂で七年前には件の二種の尺が並びに用いられたるに、七年後は用いられなんだとすると、この七年間に呉服尺は廃止されたものか。ただし『日本百科大辞典』五巻四九七頁に、寛文五年の改令より、鯨尺は呉服尺に代わり行なわれたとみゆれば、『和三』にいうところは、表向き呉服尺は用いられないと言ったまでで、宝永三年ごろ、歸尺と呉服尺が通常併用されたであろう。そのことあたかもメートル制を承知ながら鯨尺を用いるご(427)とし。(四月二十七日)   (昭和八年五月十五日『月刊日本及日本人』二七三号)
 
     武田信玄の歌
 
 幼少のころ、何かの訓蒙書に、信玄の詠とて、「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、仇は敵なり」と載せあるを見た。(寛永十三年成りし『可笑記』五に出ず。情は味方、仇は大敵、とあり。)この歌は全体、何の書にもっとも早く出でおるか、御存知の方々、教示を吝むなかれ。さて必ずしも信玄が、仏経から件の和歌を煉出したではなかろうが、同じ趣向がインド人にも古くあったとみえ、唐の般若三蔵訳『普賢行願品』一二に、「仁《おんみ》またまさに知るべし。わが国に五城あり。云何《いか》なるを五城となす。一は山城にして、高きに憑《よ》り嶮に拠《よ》り、断岸|周囲《めぐ》る。二は水城にして、塹《ほ》るに江河をもってし、沿流して四《よも》に遶らす。三は沙城にして、曠《ひろ》き磧《さばく》の懸《はる》かに遠く、外に水草なし。四は土城にして、堅壁高塁、内|実《み》ちて兵|儲《たくわ》う。五は人城にして、主は聖にして臣は賢、深く謀り遠く略《はか》る。かくのごとき五城は、宜しきを量って相|敵《あた》るも、人城最も勝る」。また『漢書』四八に、賈誼いわく、「上、廉恥礼義を設け、もってその臣を過す。……故に化成り俗定まれば、すなわち人臣たる者は、主のみにして身を忘れ、国のみにして家を忘れ、公のみにして私を忘れ、利いやしくも就《つ》かず、害いやしくも去らず。ただ義のあるところのみ。上の化するや、故に父兄の臣は誠に宗廟に死し、法度の臣は誠に社稷に死し、輔翼の臣は誠に君上に死し、守圄扞敵の臣は誠に城郭封疆に死す。故に聖人に金城ありと曰《い》うは、物をこの志に比《たぐ》えしなり」、顔師古注に、「こは、聖人かかる節行を氏sはげ》まして、もって群下を御すれば、すなわち人みな徳を懐い、力を勠《あわ》せ心を同じくし、国家安固にして、毀《こぼ》つべからざること、状《さま》は金城のごとくなるを言うなり、とし とあるも似た言だ。(五月二十五日)   (昭和八年六月十五日『月刊日本及日本人』二七五号)
 
(428)     堀部弥兵衛、安兵衛を養子としたこと
 
 『野史』二六七に、安兵衛、高田馬場で武勇を著わし、弥兵衛これを愛して近付きとなった。一日、弥兵衛、安兵衛に向かい、仕官の志ありやと問うに、志はありながら薄運で口がない、と答えた。弥兵衛、今二百石取る家に養子をほしがりおるが、往ってみぬか、というと、世話をしてほしい、と答えた。そこで弥兵衛、その二百石取りとは自分のことと言ったので、安兵衛大いに驚いたが、言うところみな正実だから、すなわち承諾して弥兵衛と父子の盃をした、とある。これは事実か作り話か判らぬが、似た譚はずっと古く支那にある。『世説新語補』仮譎篇にいわく、東晋の温?、後婦を求むるに、「従姑の劉氏、家、乱に値《あ》つて離散し、ただ一女あって、はなはだ姿慧あり。姑、もって公に属《しよく》して婚を覓《もと》む。公、密かにみずから婚する意あり、答えていわく、佳き婿は得がたし、ただし?の比《たぐい》のごときは云何《いかん》、と。姑いわく、喪敗の余なれば、粗《ほぼ》存活せんことを乞う、すなわちわが余年を慰むるに足らば、何ぞあえて汝の比《たぐい》を希《のぞ》まんや、と。却後《そののち》少日《しばらく》して、公、姑に報じていわく、すでに婚処を覓め得たり、門地|粗《ほぼ》可なり、婿の身は名宦にして、ことごとく?に減《おと》らず、よって玉鏡台一枚を下す、と。姑、大いに喜び、すでに婚して交礼す。女《むすめ》、手をもって紗扇を披《ひら》き、掌を撫《う》って大いに笑っていわく、われ固《もと》よりこれ老奴ならんかと疑う、果たして卜するところのごとし、と。玉鏡台はこれ公が劉越石の長史となって、北に劉聡を征せしときに得たるところなり」。(六月二日)   (昭和八年六月十五日『月刊日本及日本人』二七五号)
 
(429)     阿弥陀河
 
 むかし宗祇、歌道をもって世に弘く聞こえた時、桜井元佐、何がなかれをやりこめて自分の名を高めんと心構うるうち、山名氏の連歌の会で出会った。その時川の字が入った前句が出たのに、元佐が蓮の句を付けた。宗祇、これはけしからぬ、池に蓮は聞くところだが、河の蓮とはいまだ聞かぬ、たしかな証歌があるかと尋ぬると、元佐あざ笑って、「極楽の前に流るる阿弥陀河、はちすならでは異くさもなし」と、手製でやってのけたという。一説には心敬が品川九本寺で、「九つの品かはりたるはちすかな」と発句せしを、聞く人、河に蓮とは珍事と沙汰するを聞いて、心敬が、右の歌を捏造して証拠に引いたという(『野史』二六一。『見聞集』六)。阿弥陀河とは、いかにも杜撰な名のようだが、元魏訳『正法念処経』七〇に、鬱単越洲の北、「国あり、縦広二千|由旬《ゆじゆん》にして、一に迦?毘利《かしやびり》と名づく、云々。この国を過ぎ已《おわ》れば、河あり、阿弥陀と名づく。その辺、縦広七百由旬、園林華池みなことごとく具足《そなわ》る」とあり。河畔の花池に蓮がおびただしく咲くと解すれば、件の歌は丸きり証拠にならぬ物でもない。(六月二日)(『続群書類従』二〇四所収、『行基菩薩伝』四四〇頁)   (昭和八年六月十五日『月刊日本及日本人』二七五号)
 
     柳川春三
           「柳川春三」(無署名)参照
           (『月刊日本及日本人』三五九号二三四頁)
 
 明治二十七年、ロンドンで中井芳楠氏に聞いたは、柳川氏は、横浜等にあった外人に頼まれ、日本春画の詞書を訳出して、多く儲けたから、当時柳川春画の綽号で通っておった、と。それから考えると、春三夏六の語によって、み(430)ずから春三と名乗ったほどのことは、十分あったようなり。維新当時、中井氏十七歳。この人新宮にも住んだことあり、いろいろ柳川氏の履歴につき識りおられたが、委細聞き置かなんだは遺憾なり。(四月十二日午後二時半)   (昭和十三年五月一日『月刊日本及日本人』三六〇号)
 
(431)     虎に関する俚伝と迷信
 
 森田義郎君、千里書を馳せて、新年号の本誌へ何か書けと望まる。元日早々惡口も如何《いかが》なり。千里書を馳せてというのから思い付いて、旁々《かたがた》寅年でもあり、いっそ年来書き集めた頭陀袋から虎のことを書こうというところだが、何がさて材料があまりおびただしくてちょっと採択に困るから、ざっと虎に関する諸方の俚伝と迷信を御目にぶら下げよう。
 虎が千里を走るというは跡方もないことだが、欧州でも古く虎ほど足疾《あしばや》い物はないと信じ、馬や船に虎という名を付けたが、追い追いその産地で実況を観察してその非を了《さと》ったと、十七世紀にサー・トマス・ブラウンが論じた。むかし虎があったが今は絶えた地も多くある。日本には、『後漢書』東夷列伝に、「倭は韓の東南、大海の中にあり、云云。その地おおむね会稽の東冶の東にありて、朱崖・?耳《たんじ》と相近し。故にその法俗、多く同じ、云々。土気温暖にして、冬夏、菜茄《さいじよ》を生ず。牛馬虎豹羊鵲なし」とある通り、古来虎豹はない。羊は後世入って来たが今に普通ならず。鵲《かささぎ》は筑前後、肥前後に多しとあるが、むかしも左様だつたか知らぬ。「神代巻」に、天照大神、弟|月夜見尊《つくよみのみこと》をして葦原中国に保食神《うけもちのかみ》を訪わしむ。保食神すなわち首を廻らして国に嚮えば口より飯出で、海に嚮えば魚類出で、山に嚮えば獣畜出た。それらをもって月夜見尊を饗したので、穢《けがらわ》し、鄙《いや》しきかなや、なんぞ口より吐ける物をもて敢えてわれを養うやと、忿怒のあまり剣を抜いて撃殺した、とある。
 熊楠は何の因果か紀州で牛長者《うしちようじや》と呼はるる生れで、稚い時から食うた物を何度も何度も吐いて?《にれか》む。御蔭で神田淡(432)路町の共立学校におって今の高橋蔵相などに英語を習うた時、賄《まかない》征伐と来たら、他の輩は飯櫃を抛げ付けたり汁鍋を覆したりして寄宿舎監に叱られたが、熊楠一人はむしむしと三十碗ばかり飯を喫うて賄方を遠巻きに弱らすばかりだから、かような静かな御方はない、決して乱暴はなさらぬと賄方から弁護してくれた。今でも首を廻らして国や海に嚮わずとも、山海の珍味を鵜呑みにして置いて吐き分けて御覧に入れる。いずれ政教社へも一度は観せに往く。英人ホーンの『エヴリデイ・ブック』やハーバート・スペンセルの『生物学原則』などで見ると、予と同類の人が欧米にも間々《まま》あるらしい。釈尊の弟子|?梵波提《ガヴアームパテイ》というたは牛?の義で、過去世に沙門を軽弄した業報で五百世、牛の王に生まれ、生々牛?病あり、しかもよほど高徳の人で、あたかも有若《ゆうじやく》の孔子におけるごとく、釈尊の跡を襲ぐべき者と目《めざ》されて大迦葉に招かれた時、望むところにあらずとて天宮中に入滅した。惟うに熊楠は阿羅漢の後身だろう。かようなことを言うと、只今三歳の娘の嫁入りが案ぜられると北の方が小言に相違ない。
 よって閑話休題、大神また天熊人《あまのくまひと》をして往きて看せしむると保食神すでに死し、頂に牛馬を化作し、その他の諸部にも種々の農産物を生じおったので、大神大いに喜び用いて耕作を興したまうた、とある。故に「牛馬なし」と言える『後漢書』は信ぜられぬと言う人もあるが、この他に史実に合うことも多く載せておるから一概に疑うべきにあらず。只今ちょっと分からぬが何に致せ、朱崖・?耳という国に近い「土気温暖にして、冬夏、菜茄を生ずる」日本の一部分に牛馬がなかったと判ずるが至当と考える。さて日本に虎なき理由を弁じて、『続々群書類従』所収『日本略記』(文禄五年の本)にいわく、日本は千里に足らず、故に虎住まざるなり、四国は百里に足らず、故に狐なし、とは面白い言草じゃ。ただし虎は千里の藪さえ潜《くぐ》ると鄙人が唄う。千里は  睦だが藪は多少|拠《よりどこ》ろなきにしもあらず。一八九七年板クルック著『印度の西北諸州《ゼ・ノース・ウェスターン・プロヴインセス・オヴ・インジア》』四六頁に、虎はただ藪《ジヤングル》が長く続いて取り廻らしたる場合に限り平野へ来たる、藪を潜るにあらずんば来たらず、とある。しかしここにいう藪は、低い樹竹が密生した意味で、竹に限るんでない。
(433) 虎に特殊の魅力ありと信ずる例を挙げんに、インド人は、孔雀、虎を視れば恍惚としてそこい止まり去るを得ず、と信ず。狩猟家チトラーなる英人、一日、林に入って、孔雀が一所を見詰めておのれを忘れ動かぬを見る、しばらくあってそこの榛中より虎出て孔雀の方に這い行く、チトラー覘うてこれを銃せんとすると、ただ見るその虎直立して前脚を天に向け、「射たまうな」と喚び、皮を脱ぐを見れば人なり、子細を聞くに、この人、常に孔雀に近づき、これを生擒《いけど》らんとて虎皮を被り虎の真似す、と(一八九九年三月二十日『ル・ヴュー・シアンチフィク』三一七頁)。
 支那には一段奇怪な説がある。『淵鑑類函』四二九巻に『原化記』を引いて、張俊なる者の妻、虎に取らる、俊、山に入って虎穴に近づき、大樹に上り伺うと、その妻すでに殺されたるが、虎に禁《まじな》われて尸みずから起って虎を拝し、訖《おわ》って衣を解き裸となってまた僵《たお》れた、そこで虎穴中より猫大の四子を伴れ来たり、争い食うところを樹上より連射してことごとく打ち取り、妻の尸を負うて帰った、とある。『説  邪』第三七に収めた宋の黄休復の『茅亭客話』に、「およそ虎の人を傷つくれば、その人の衣服、器仗、乃至《ないし》巾鞋《ぬのぐつ》を、みな摺畳《たた》んで地上に置き、裸《はだか》にして僵す。けだし虎は、殺せしところの者の人魂を、よく役使するなり。およそ虎に傷つけられて死せる者、および水に溺れて死せる者の魂を?鬼という」とある。すなわち虎が新たに人を殺した時、かつて殺した人の魂を使い、新死の者の衣を解かしむる。かく虎に使わるる幽霊と水に死んだ人の霊を?鬼というのだ。『康煕字典』を見ると、?は、「狂い行《ある》きて如《ゆ》くところを知らざるなり」とあって、また、「?鬼。虎、人を?み、人死するも、魂はあえて他《よそ》へ適《ゆ》かず、すなわち虎に隷事《つか》うるを、名づけて?という、云々。鬼《ゆうれい》の愚かなるものと謂うべし」とある。一八九四年十二月の『フォークロール』に、ワルハウスいわく、インドのある所で俗信に、虎に殺された人の魂その虎の額に坐し、新たに殺すべき人のある所へ導く、と。よって考うると、わが邦で水死の者の魂が、淋しい池底から現われて、独りその辺を歩む人を招き、何となく死にたくなって身を沈めしむと言う。『客話』の説によると、これらも虎に死して虎害を助くる魂と同じく、?鬼と呼んで然るべしだ。
(434) 『本草』に、虎の身体諸部を薬に用いる法を多く載せおるが、いずれも何の実功なく禁厭《まじない》がかったことだが、迷信家には多少利くかも知れぬような相感療法だ。二、三を挙げると、虎骨は邪気を去る、頭骨を枕とすれば悪夢を辟《さ》け魘《おそわ》るることなし、また虎骨は犬に喫まれた毒を殺《そ》ぐ、とある。虎は支那で獣の王だから、身分卑しい犬を制する理屈で、日本でも熊野などで、狼を獣の王とし、鼠に咬まれて毒が身体へあまねく廻り、腫脹《は》れたのを療ずとて、狼肉を求め煮て食う人があった。虎肉を食えば瘧を治し、三十六種の精魅を避け、山に入れば虎見てこれを畏る。三十六種の精魅とは、たぶん魚鮫竜狢兎狐虎豹狸鼈簡蟹牛獺鼠燕猪※[獣偏+兪]豕豺狼狗鶏雉鳥猴猿※[獣偏+由]雁鷹羊?馬鹿蛇蛆蝉の三十六禽から転成したものだろう。この内で竜を除いたらまず虎ほど強い奴がないから、三十六種の精魅も虎に制せられるはずだ。『茅亭客話』に、猟の名人李吹口、虎を殺して心血《いきち》を飲む、よく神を壮にし志を強くすと言った、とある。
 『抱朴子』には、三月三日、殺した虎と鴨の血を等分に合わせ、初生の草の胡麻子に似たるを、とはすこぶる曖昧だが、その実を取って合わせ用いれば、もって形を移し貌を易うべし、と見ゆ。嫌われた女を納得させたり、断わられた店へ借り倒しに往ったり、ことには借金取りが来た時、主人は不在でなどと自分で欺き還すにきわめて重宝な法だ。また虎の鼻を門中に懸け、次年取り熬って屑となし、夫婦で食えば貴子を生む、他人や婦に知らすなかれ、知らばすなわち無効だ、と。また、いわく、虎の鼻を門上に懸くれば子孫印綬を帯ぶべし、これ古えの胎教に、虎豹を見るを欲す、みなその勇壮の義を取ると同じ、と。虎の牙は?犬傷発狂、すなわち今いう恐水病ラビースを治す、爪を小児の臂に繋げば悪魅を辟く、とある。ラッツェルの『人類史』にいう、マレー人、虎の爪と踝《くるぶし》の骨を守りとして、ことに尊ぶ、と。後漢の応劭いわく、虎は陽物で百獣の長だから、よく鬼魅を辟く、今人卒中周に罹ると虎皮を焼いて飲み、また衣服に繋ぐにはなはだ験あり、と。『起居雑記』には、虎豹の皮上に睡れば人の神をして驚かしむ、その毛が瘡に入れば大毒あり、と。これは虎は人よりも強い点から言い出したのだろう。また鬚は歯痛を治す、糞は焼き研いで洒て服すれば、獣の骨が人の喉に立つたのを抜く、糞中の骨は火瘡《やけど》を治し破傷風に利く。支那人の法螺、まあ(435)こんな物だ。しかし支那人ばかりでない。バルフォールの『印度事彙』巻三にも珍妙なのがある。いわく、虎の鬚は大毒で人を殺す、故に虎を殺すと即座に焼き亡ぶ、しかし南インドのある部分では、これを持つ男は女、女は男に無限の力ありとは大変だ。ビルマ人とマレー人は好んで虎肉を食い、虎ほど勇かつ敏になると信ず、と。
 それから方術《まじない》や呪詛《のろい》に移ろう。蔵経中の『速疾立験魔醯首羅天説阿尾奢法』は不空の訳だ。それに人をして相打たしむるには、虎あるいは牛の皮に、二人互いに頭髻《たぶさ》を把るところを画き、名を書き線で纏い、火で炙り熏べ、碓臼《からうす》の下に埋める、するとその二人日々相打つ、件の皮を臼下より除《の》け去れば打ち止む、と出ず。大分費用が掛かるが、政友会などにこの法で内訌を起こさせたら大喝采だ。買文九年八文字屋板『釈迦八相記』ちう戯曲に、虎や狼の骨を数珠にして調伏法を行なうところがある。『本草綱目』に、李時珍いわく、罔両、好んで亡者の肝を食う、その性、虎と柏を畏る、故に墓上石虎を立て柏を植う、と。『酉陽雑俎』続四にいわく、俗好んで門上に虎頭を画き?の字を書す、陰刀の鬼の名で疫癘を息むべしと謂う、予『漢旧儀』を読むに、儺、疫鬼を逐うを説き、また、桃人、葦索《いさく》、滄耳《そうじ》、虎等を立つとあり、?の字は滄耳の二字を合したのだ、と。同書一六には、虎威という物乙字のごとし、長《たけ》一寸、脇の両旁の皮内にあり、尾端にもあり、佩びて官に臨めば佳なり、官なき人佩ぶれば嫉まる。これは威骨という骨だ。『茅亭客話』には、この骨、一の字のごとし、佩びて官に臨めばよく衆を威《おど》す、無官の者佩ぶれば憎む者なし、と出ず。バルフォールの『印度事彙』に、虎の肩鍵骨《クラヴイクル》は肩関節に近き筋肉中に遊処す、インド土人これを貴重すとあるが、すなわち支那で威骨という物じゃろ。熊楠は前同志社長広津友信がロンドンで一瞥して、どうも大西郷の生き写しだと称讃措かず、自分が禁酒家なるに、おびただしく酒を飲ませくれたほどで、近く日野国明が同じ評をしたと『不二』雑誌に宮武が書いてからというものは、五月蠅《うるさ》いほど活動写真の種に、やれ西郷が鼻糞取るところの、別嬪を見て見ぬ振りする体のと頼みに来る。真に雄姿堂々、気度豁達な男だから、威骨などは丸切り入らぬが、例の神社合祀濫行で予を怒らしおる地方官俗吏なんざあ、一人として満足な者なく、全く地獄から抹香の相場を聞き合わせに来たよう(436)な顔付きばかりだ。田辺は鬼門でなるべく来ぬが、その他の町村至る処、芸妓を下女に仕立てて徹夜宿らせ、警察沙汰になりかかったのも少なくない。神社滅却の張本で、去年先帝崩御の前非常に評判悪いことをした日前《ひのくま》宮司紀俊など、ことに毎度かかる醜行をやらかすが、一向芸妓に持てぬ。この輩宜しくジャワやシンガポール出稼ぎの醜業婦に頼み、虎威骨を送り貰うて佩ぶべしと、馬鹿な奴ほど不便《ふびん》とて教え置く。
 『本草』虎の条に、陳蔵器いわく、虎、夜視るに、一目光を放ち、一目物を看る、猟人|候《うかが》うて射れば、弩箭わずかに目に及んで、光すなわち堕ちて地に入る。これを得れば白石のごとし、小児の驚癇を去り悪を避け心を鎮む、と。寇宗?は、これを大法螺だと駁した。しかるに李時珍は、陳氏の説怪しむべからず、人が縊死すると魂は空に上り魄は地に入る、随って掘れば状|麩炭《きすみ》のごとし、と言った。『茅亭客話』には、猟人、虎を殺し、その頭項の処を記し、闇夜に掘り下ろすこと尺余なれば、琥珀のごとき小石を得、これ虎の精魄だ、と見ゆ。また人魄の条に、時珍いわく、縊死人の下に物あり、麩炭《きすみ》のごとし、即時掘り取れば得れど、やや遅くば深く入る、掘らずんばすなわち必ず再び縊るの禍あり、「けだし人は陰陽の二気を受けて形体を合成す。魂魄|聚《あつ》まればすなわち生まれ、散ればすなわち死す。死すればすなわち魂は天に昇《のぼ》り、魄は地に降《くだ》る。魄は陰に属し、その精、沈淪して地に入り、化してこの物となる。また、なお星の隕《お》ちて石となるがごとし。虎死すれば、日の光、地に墜ち化して白石となる。人血、地に入れば、燐となり碧となるの意なり」と。さて、人魄を水で磨《す》って服《の》めば「心を鎮め、神魄を安んじ、驚怖?狂を定《しず》む」と、人の大事の魄を服むことができたら、魄をもって魄の病を治するくらいは造作もなかろうが、人の魄が地に入って目で見、口で服し得る物質となるとは、まことに啌《うそ》の骨頂としか聞こえぬ。岩本左七の『燕石十種』所収『駿河台志』に、淡路坂上堤の下の方榎の木に縊死人あり、享保中のことなる由、松平淡路守御供先にて有徳公へ言上せしかば、その下には人魂あるべし掘って見よと仰せられしゆえ、帰りて掘らせければ、三尺ほど底に赤き塊ありしとぞ、さてその木を伐りその魂を取り捨てければ、その後はさることもなかりし由、と載せたるは、『本草』説を資《と》って、吉宗がかか(437)ることにまで気を付けたと誉むるため捏造したらしい。
 星が隕ちて石となるは今日誰も争わぬところだが、四年前、六月二十三日の『ネーチュール』に、英国学士会員マッケンニー・ヒュース教授が述べたは、ウェールやスコットランドの俗信に、星が隕ちると草の上に白い半透明の膠様の塊となって付きおる。これを星腐り(プウドル・サール)と呼ぶ。テーロールやドライデン諸氏の詩にしばしば詠み入れておる。鳥の糞だろう、ノストク藻(わが邦にも多種あり、肥後の水禅寺|苔《のり》の類)だろうと憶説ばかりだったが、一九〇八年教授みずからその物を得、学友に送って検せしむると、全くバクテリアの塊《かたまり》だったと言って来たが、この塊の一部、草の根から出たようなところがまるで透明だったから、バクテリアとは思われぬ、と。それについて米国土壌調査局のフリー氏の寄書に、一八一九年八月アマーストで星隕ちて、径八インチ、厚さ一インチの黄褐色の膠塊、臭気堪え難きものとなったを見て、一八二〇年の『亜米利加科学雑誌《アメリカン・ジヨーナル・オヴ・サイエンス》』に出した人あり、当時天文学の泰斗たりし仏国のアラゴ、翌年の『化学年報《アンナル・ド・シミー》』にその文を引き、他に多く例を挙げたのを見ると、どうも粘菌《ミケトゾア》の原形体《ブラスモジウム》らしいと論じ、それに次いで米国のフライ氏が、スプマリア・アルバという粘菌の原形体は、ちょうどヒュース教授の記載に恰当するから、教授が見た奴はきっとこれだろう、と言った。
 この粘菌類というは一群の生物で、植物でも動物でもあるようだから、ドイツ語で菌動物《ピルツ・チエレ》と名づけた学者もある。従来動物学者と植物学者がこれはわが職分外の物だと相譲ったので、近ごろあまり深く調査されなんだ。本邦にはようやく十八種知れおったのを、熊楠がこの十三年間断食苦行したり、深山で幽霊の研究をやったり、大酒を飲んだり喧嘩をしたり、監獄に入ったり、種々本業の余暇に大和・紀伊を跋渉して、邦産粘菌の種数を『水滸伝』の豪傑の員数、すなわち一百八種まで進め、昨年九月の『植物学雑誌』に出したが、その後また五種を三箇月間に発見したから今では百十三種ある。現今知れおる粘菌の総数二百四十八、そのうち百五十八種は英国、百八十五種は米国に産す。これらは歴年多数の学者が調べ上げた結果だ。しかるに熊楠は一人で、しかも酒を飲んだり踊ったり唄ったりを本芸(438)として、内職にかく本邦の粘菌数を増加したのみか、種々先人の知らぬ事実を見出だし、いささかながら国威を九鼎大呂より重からしめたつもりだ。
 しかるに菅茶山の『筆の遊《すさ》び』に、高山正之を伝して、「その地に偉人あるは村吏などの惡むこと何方《いずかた》も同じこと」と言ったごとく、和歌山県の俗吏等、熊楠を目の上の瘤のごとく忌み畏れ、年々歳々予を苦しめて止まず。日高郡三つの官知社、すなわち中古国司奉幣の神社は、近くまでただ二社のみ存す。その一つ大山神社は、徳川氏の世に天下普請とて、特に社家十人を置き、定期に幕府直接に修繕改築を施した由緒正しい古社なるを、先年合祀厳行のみぎり、官威に怖れて已むを得ず合祀請願書を出した。しかるに、その書面は文書偽造の嫌あるもので、合祀は大字民の意にあらざるをもって、熊楠その筋に訴うるところあり、川上親晴知事、大いにその意を諒とし、請願書は受けおりながら、かかる旧社を合祀するは遺憾なりとて保存に決した。今の知事川村竹治も、最初は保存の旨、代議士や県会議員に約されたが、内々郡長から手を廻して種々大字民を脅かし、ついに多数の意なりとて去年十月合祀し了った。熊楠海外に留学十五年、そのあいだ双親に別れ、日本に格別の旧識とてもなきに、国のために尽さんと帰朝し、五十近き今まで潜心学事に奔走するは、純《もつぱ》ら祖先が六百年来奉祀し来たれるこの社を恃んでのことなるに、犬猫を紿《あざむ》くごとき仕方で一朝廃合されたのは遺憾に堪えず。爾来心疾重く、昼夜かかる知事は早くくたばれば善いと、大威徳明王を念じて詛いおる。しかるに、その後一月も経《た》たぬに、知事と郡長と棒組で、和歌山市近き農林学校を日高郡に移さんとして、県会で大反対を受け、大いに弱り入り、手を廻して熊楠が学説上該校を移すの利益を証明したなら、神社をたちまち復旧し遣るというような暗示があった。壊劫《えこう》到る時梵王も身を亡《うしな》うを免れずだ。神社にも寿命がある。大山神社は六百年で命尽き、川村知事のために不意死にをやった。予は尽すだけのことは尽したんだから神もこの上に末練はなかろう。すでに多数大字民の意に従うとてたちまち古社を滅ぼし、今また多数県会議員に反対されて思う通り学校を移し得ず、大いに鼻を低うするのも因果覿面だろう、と返事した。この外にも官吏の不埒事は車載斗量に勝えぬ(439)が、一年の謀は元日にあるから、今年もまた攻撃し続けやる吉相を祝うて、本紙を借りて広告し置く。
 却説《さて》、いわゆる星腐り(プウドル・サール)についていろいろ説く者ありしも、いずれも実物を見ぬ臆測のみ多かったが、熊楠はマッケンニー・ヒュース教授が実物を獲たのと同年に、田辺でこの物を見出だし、今も保存しある。高山寺という大寺の畑に毎夏おびただしく生じ、石花菜《ところてん》を煮て落としたようで、ほとんど透明あるいは水に入れたら見えぬほど全く透明だ、それを細心して鏡検すると、最初はメソテニウムという微細の鼓藻《デスミズム》よりなるが、それが腐り始めると赤く変じ、全塊が褐色に見える。むろん種々のバクテリアも侵入蕃殖する。思うにヒュース教授、最初得た即時鏡検したら鼓藻を見得たのを、友人へ送る間に腐ってバクテリアのみ見出でたんだろう。とにかく、かかる異態の物が世にあるを、平常は学者も気付かず、星隕ちたあたりに偶然見出だして、星が腐って膠様の塊となったと俗人が信ずるも、もっともの次第だ。それから推すと、美濃で小螺の化石を月の糞と呼ぶも、人糞と同じく左に捻《ねじ》れおるからで、人が縊れ死んだ地下に異様の塊物があったり、虎が死んだ地下に琥珀様の石を見出でたりして、人魄とか虎精とか思うたのも、間違うてはおるものの、所由は正しく存すと言うべし。何とかくまで推理研究に明るい熊楠を狂人扱いにする知事などは真のき印で、智巌禅師と同様、予はわが狂せるにあらず、君儕が狂せるなりと言わんとす。
 喜多村信節の『嬉遊笑覧』八に、「ある寺に獏枕あり、伝えていう、加藤清正朝鮮より将来《もちきた》りし物といえり。その枕を見しに、すべて木彫にて漆を塗り彩りたり。歯と爪とは獣の真物を鏤《ちりば》む。その形は頭の左右より前足出て蹲《うずくま》りたる様に作り、下に筥のごとき台あり、頭上に船底の形したる板ありて、これを枕とするなり。喉の内に括機ありて、頭上板の横|側《そばだ》てば口を開く。眼の玉少し高く出て、摩すればくるくる廻り、耳も前後に動く。想うにこれは虎枕なり。虎面は長き物なり。虎骨は薬用とす。別して頭骨は頭風を治す。陶弘景は、「虎の頭骨にて枕を作れば、悪夢に魘《うな》さるるを辟《さ》け、戸上に置けば鬼《ゆうれい》を辟く」といえり。また左右前足を添うるも故あるにや。時珍いわく、「呉球の『諸証弁疑』にいう、虎の一身は、筋節の気力、みな前足より出ず、故に脛骨をもって勝《まさ》るとなす」といい、また虎は好(440)んで蹲踞するものなれば、かく作れるならむ。『格致鏡原』枕の条下に、虎枕を多く挙げたり。季広兄弟、宜山に猟して虎を射殺し、その頭を断ちて枕に作ること、『西京雑記』に見ゆ、これ虎枕の始なりとぞ。(中略)皇子降誕の時、虎の頭を御傍に置くことあり、邪魅を退けんためなるべし。『紫式部日記』に、上東門院、皇子を産ませ給い、御湯召しける日のことども書きたる条に、宮は殿|懐《いだ》き奉り給いて、御|佩刀《はかし》小少将の君、虎の頭は宮の内侍取りて御さきに参る、云々、『栄花』(初花)にも、宮は殿抱き奉らせ給う、御佩刀小宰相の君、虎の頭は宮の内侍執りて衛先に参る。また『御産所日記』「永享六年二月十一日、午の刻、御湯始め。虎頭、八入《やしお》の※[木+夕]《しやく》、御湯具等は、云々」(皇子ならでも止事《やんごと》なきあたりにはこのことありしなり)。さてこの虎頭は作り物にはあらぬなるべし。かの頭骨はかようのことに用いし物と思わる。これにて思うに、後世の犬はりこという物これらにも拠れるならん」。
 かつてインドの拝火《パーシー》人に聞いたは、かの教の旧儀として、人死する時は四つ目の犬にその尸を?がしむ、魔を防ぐものだ、と。四つ目とは淫具に縁ある名ならず。犬の眼の上に虎皮様の黄褐の点あり、ちょうど眼のごときをいう。このごろ死んだワレス氏、もとインドのある人から通信して、インドで四つ目の犬が眠りおると、何となく眼を開いておるように見える。その睡中他の獣が憚って襲わぬためにできたものだろう、と言うたのを、ワレスがもっともな説だと返事したと聞く。思うにわが邦の犬張子に必ず眉を描くも、こんな遺風に基づく防魔の用意でなかろうか。
 喜多村氏、虎頭にちなんで獏のことを言ったに、またちなんで、予もちょっと猿のことを言おう。過般石橋臥波君その著『夢』を贈られた。その二三一頁に、「獏は支那の想像の獣、形、熊に似て、鼻は象のごとく、目は犀のごとく、尾は牛のごとく、足は虎のごとく、毛は裏白の斑にして頭小さく、これを画けば邪見を避け、また人の夢を食うという。故に邦俗にも人の悪夢を見たる時は、獏食えと唱えてこれを払うことありという。また獏の字を宝船の帆に書きたるを枕下に敷くことありしがごとく、『一代男』草子に、夢違い獏の札とあるは、これを宝船と共に売りしなり。もと二物にてありしを、やがて一にしたるにこそ、今は宝船の絵に、神前の獅子、狛犬のごとき物二つ向かい合わせ(441)て画きたるは誤りにて、ただ獏一を画くべきなり、と言えり」とあって、『和漢三才図絵』に引いた『本草綱目』の文、獏の皮に寝ると温癘を駆り湿気邪気を避くべし、とあるを引きおる。かく辟邪の功あるゆえ、「唐の世には、多く獏を画きて屏《びようぶ》となす。白楽天に賛あってこれを序《の》ぶ」と蘇頌は言った。熊楠謂う、石橋君が獏を支那人がまるで想像ばかりで作出した獣というなら間違いおる。ただし鉄を食うとか、歯が至って堅いので仏牙、仏骨に充てる等、多少法螺らしい説は雑りおる。獏が現時マレー半島ボルニオ、スマタラ二島に産するタピルたることは、何とかいう仏国の宣教師が創めて言い出したが、獏の支那人の記文がよくタピルに合いおる。故に内田正雄の『輿地誌略』、須川賢久の『具氏博物学』、いずれも、タピルに獏字を充ておるは至当と思う。この獣の一属に現時五種あり、その一はマレー半島等アジアの東南端に住み、他の四種はこれと正反対に隔たった中米や南米に棲む。かく一属のものが全く山海懸絶の両地に住む一事は、学界の難解件だったが、追い追い化石学が進んで、実は以前はこの獣に種数おびただしく、その分布が優に件の二地方の間に連続しおったのが、時勢が変わって追い追い衰滅して、地下の化石片にその影を止め、ようやく残存する二種がかの二地方に余喘を保つんだと別《わか》った。ちょっと象に似た物で、南米土人間にはこれを妊婦が食うと、生まれる子がそのごとく行動遅鈍になると信ずるがある、大阪の動物園とかにも活きおると聞いた。蘇頌の『図経本草』に、「今、黔、蜀および峨眉山中に、時に獏あり。象の鼻、犀の目、牛の尾、虎の足をもつ。土人、鼎釜にて、多く食らうところとなす。すこぶる山居の患《うれ》いたり」とある。して見ると趙宋の代まで支那にも間間あったので、英国で狼が絶えたごとく、後年追い追い滅尽したんだろ。夢を獏が食うということ、一向漢籍に見えぬようだが、その皮に寝て邪気を去るから自然凶夢を見ぬはずだ。それを夢を食うと言ったは、念仏を質に置くの対で面白い。   (大正三年一月一日『日本及日本人』六二一号)
 
(442)     禅僧問答の笑話
 
 三十年ほど前、下六番町に大きな邸を構えおった故津田出氏(当時元老院議官)方へ遊びに行き、氏の次男安麿という人から種々珍譚を聞いた内に、このようながあった。いわく、どことかに禅寺あって住持一向愚物だった。ところが寺の制規で何年目とかに一度本山から高僧が来て、いきなり法問を仕掛けるに口舌をもってせず手振りばかりでする。住持よく手振りでこれを解答せば続いてその寺に座し得るが、それができずば直ちに追い出さるるはずだった。ある時高僧が押し懸け来る日取りが迫って来たので、住持到底難問を答え得る見込みなく、逃支度で弱り入りおるところへ出入りの餅屋入り来たり、あまりに顔色が悪いのを見て何を憂いてかく青ざめおるかと問うと、住持|裹《つつ》まず右の次第を明かした。すると餅屋いわく、手振りなどは先方の取りようでどうとも解し得るものゆえ、大胆出任せにやりなさい、貴僧自身で做《な》しかぬるなら私が当日御身代りに立ってもよい、と。聞いて住持大いに悦び、ともかくも頼むとのことで、その日になってかの餅屋に剃髪させ、自分の袈裟法衣を著せ、よい加減に作法一通り教えて待ち受けると、果然本山の高僧がやって来てすぐさま手振り問答を始めた。一番に、高僧、一手の指一本をもって天を指す。餅屋、これを見て透かさず一手の指二本で天を指す。二番、高僧、二指をさし揚ぐると、餅屋、後れずたちまち四指をさし揚ぐる。三番に、高僧、三指を突き出すに即応して、餅屋の贋《にせ》住持、掌を開いて五指を示した。これを見届けた高僧、大いに感じ入り、われ諸多の寺院を巡廻せること多きも、この住持ほどの偉人に逢いしことなしとて、礼拝賛歎して去った。住持、餅屋を命の親と厚く礼して、さてかの問答の時の手振りは一体何ごとを演《の》べたのかと尋ぬると、(443)餅屋いわく、高僧まず指一本出したは、僕が営業する餅一箇の価を問うたものと合点して、二指で二文と示した、すると、かれ二指を出して二箇の価を問うたから、もちろん四文の由を四指で答えた、さて三指出して三箇の価を尋ぬるゆえ、二三が六文のところを五文に負けて進じょうとて、五指を出して見せたのだ、と対《こた》えたそうじゃ。予にこの話をした安麿氏は、ハーリー、ブラックを始め、種々の落語家、芸人と広く交わった人ゆえ、たぶん件の話は当時寄席などで演ぜられた物と惟う。
 予、多年この話が何か和漢の書に出でおるだろうと探索したが見当たらず、その類話くらいはありそうなものと一切経を通覧せしも一つもなかった。しかるに頃日|不図《ふと》仏人ベロアル・ド・ヴェルヴィルの『上達方《ル・モヤン・ド・バーヴニル》』を閲すると、これと全く同趣向の話が見当たった。この書の著者は一五五八年生まれ一六一二年ごろ死んだ学僧で、命終前二年ほどにこの書始めて世に出たという。ソクラテス、プラトン、ルーテル、カルヴィン以下、古今の賢哲数十人、『昔語質屋庫』風に大一座して放談、快話したところを書き留めた物で、スウェーデン女皇クリスチナ、これを侍婢に読ませ聴いて大いに悦んだと言い伝う。
 その第一〇〇章にいと可笑《おか》しき譚あり。ピエル・ルーヴェー(一五六二年ごろ生まれ八十二歳で死す。仏国で有名な法学者また考古家)談《かた》る。夫婦、法庭で不和の理由を陳ずるに、詳しく言説せずにもっぱら手真似をもってする者あり。その男が妻の秘処について述ぶるとて、「これほどだったら」と栂指と食指を曲げ合わせ、「またせめて」と言いながら、両手の拇指と栂指、食指と食指を曲げ合わせ、「しかるにこれだから」と言うと同時に、帽子を仰向けて判官に示すと、妻も何条黙止せん、まず自分の腿を指ざし、次にその臂を示し、さて小指を示して不満を訴えたは面白かつたと言うを聞いて、アルシャト(十六世紀の伊人。カルヴィンの法敵たり)語るよう、それに似た珍事がゼネヴァにあった。ゼネヴァへ大学者が来て、言語せずに手真似で学論をやろうと申し込むと、一同恐れ入って応ずる者なし。折からモンタルギスより漂浪し来たつた大工、それは気の毒なり、われ往って論議せんと言う。市人みな大いに悦び僧の冠服(444)を大工に著せ、公衆の観る前でかの学者と立ち合わしめると、学者、拳をもって天を指し一指を露わすを見て、大工、たちまちその二指を示す。次に学者、三指を出すと、大工、握り拳を進む。そこで学者、林檎を取って大工に見せると、大工「隠し」から麪包《パン》の破片を摂り出して彼に対えた。その時大学者大工を敬仰して座を却き、この大工こそ世界一の賢人なれと称讃した。それからゼネヴァは学者の淵藪だと大評判となった。さて、ある人かの大工を招き、私《ひそ》かにかの法論問答の次第、手真似の意義を聞くと、これはしたり、「全体かの学者の野郎は人がよくない。まず一指を示して僕の一眼を抜こうと脅したものだから、しからばおれは汝の眼を双つながら抜いてやろうと二指を示した。よって怒って今度は僕の眼二つと鼻一つと合わせて三つを抜いてやろうとて三指を出して来た。その上はいっそ打ち殺すぞと僕が拳を出して見せた。そこで恐れ入って小児を賺《すか》すように林檎を見せたから、そのような物は入らぬ、一番好い物を持っておるとて、麪包《パン》の破片を示したまでで御座る」と大工が言った、と出ず。
 予の考えでは、日本の餅屋の禅問答の話と、右に述べたスイスの大工の学論の話はあまりよく相似ておるので、箇々別々に自然に生じた物でなく、たぶんインド辺にあった一話が東西に別れ伝わりて同軌異体のものとなったらしい。さてインドより日本に入るには、たぷん支那を経ただろうから、支那の多くの書籍や伝説中には必ず原話もしくは類話があることと思えど、自力で今まで見出だし得なんだ。よって本誌紙面を拝借して、このことを広告し、大方の教示を竢つ。
 ただし予は多少相似たものは必ず一方より他方へ移って変化したと謂わぬ。現に件の『上達方』の一書の八九章に、ゼネヴァでカーム節会に遊び興じて頭に鉄の壺を冒《かぶ》り踏《おど》り舞える者、鼎深く入って頭を抜き出すこと成らず、一同この上は壺を破る外に救助の道なしと歎くところを、イグナセ上人の頓智で履箆《くつべら》を挿し入れて鼻を扁《ひら》め低くし、何の苦もなく頭を抜き出したとあるなんどは、『徒然草』の鼎を冒つて踊った男の話に似ておるが、それには履箆で救うた一件ないから、まずは二話自然に別境に生まれ出たものと惟う。(六月十六日)   (大正四年七月一日『日本及日本人』六五八号)
 
(445)     酒泉等の話
 
 またしても酒のことじゃ。しかし根っから面白い上によっぽど国益にも教訓にもなる談ばかりゆえ、落ち著いて聴聞なされ。三月六日の『牟婁新報』に次の記事ありて、さっそく『和歌山』その他の新紙に転載された。いわく、
  南方先生の発見、竹の切株から好物の酒。昨日午後二時過ぎ、久々にて先生来社、子分二人随行、先生上機嫌で語っていわく、「むかしから孝子の徳に感じて酒泉が湧き出たと聞く。親のあるうちの孝行は仕難いようで仕易いが、乃公のように親が死んでから長々と五十にして慕う孝行は、仕易いようで実は仕難いのだ。その仕難い孝行を絶えずしておるによって、今度裏庭の竹の切株から紫の酒を発見と来た。それこれを見よと、博多氏に持たせある風呂敷包みを解くを見れば、中に三瓶あり。栓を抜いて?《か》ぐと甘酒の匂いがプンとする。先生いわく、今より一千二百年前、元正天皇の御宇、孝子の徳に感じて美濃国に霊泉が湧き出た。よって養老の滝と名づけ、改元して養老元年と号したのは、貴公も承りおるだろう。これを柳田氏などは訛伝じゃと言うが、必ずしも左様《そう》したものでない。近来越後の小千谷辺で杉の木から醴泉を見出でたと聞き、さっそくその村の大金持の何某というに頼み現品を送って貰うたが、乃公の宅で見出でたのと少しも異《かわ》らぬじゃ。それこれが発酵菌じゃ、分かったか。(446)他人に遠慮なく自分で命名してサッカロミセス・ミナカタエと尊号を奉るはどうだ。追い追い酒にして見せるのだが、こればかりではなかなか不足だから前祝いに軽少ながら五升ばかり飲んだ。これみな孝行の徳じゃ、恐れ入ったか。何が可笑《おか》しい。酒屋の子息が父の業を不断改良して顧客の厚誼に背かぬよう日夜試験のため飲むのじゃ。ちょっと錦城館のお富を電話口まで呼んでくれ。「わが金は丸刃にとげる腰がたな、世に使はれぬ身とぞなりける」、今なお心変りがせぬか聞いて見てくれ。面白い面白い、毎日毎夜思い続けに思うておるというか、ちょっと行って来るぞ、この通り新聞へ出して置いてくれよ」と無性に上機嫌の体なりき。
 件の新紙を家内が読んで変な顔をしておるので、何ごとか知らず、新報社へ往って子細を正し、なぜそんなことを出したかと詰ると、御自分押し返しこの通り出してくれと言ったじゃないかと反駁されて一言もなかった。しかし、この狂興より大分予が利益を受けたというは強弁にあらず。件のお富は狭い田辺に居ながら京阪までも響き渡った高名の乾娘で、天質の美冠玉のごとく、眼歌舌舞よく万客を鏖《みなごろし》にする奴だから、せめては言の葉にや掛かると押し掛ける者|踵《きびす》を絶たぬ。それに戯れ言にだに日夜思い続けおると口づから聞いたは男子の本懐過ぐるものなし。それから、平生あまり間違った言を吐かぬ予も、飲み過ぎると言辞の使い分けがはなはだ狂い、述べようと思うた考えと述べた詞が全く異っておる。ただし間違いは間違いながらそれぞれ必ず所拠因由ありで、その前数日、在ワシントン田中長三郎氏から、予の発見した多くの菌類は、かの地で調査命名は日本でするより?《はる》か容易ゆえ、なるべく図録を多く纏めて送り越せと言って来た縁で、みずから命名などと喋舌り、またその直ぐ前日、隣の百万長者と竹垣越しにかの醴泉のことを話すと、その人小千谷の何とかいう大金持と面識ある由語られたによって、自分がその大金持から現品を送って貰うたよう言うたと見える。一口に虚言とか誇張とか排斥し了ればそれまでながら、虚言や誇張の生じ来たる道筋を研究せんと欲せば、酒に酔うた時の話を筆記させ、醒めたのち自心について何の臆するところもなく精査研究して大いに得るところあるだろう、と始めて気が付いたことである。さて今日は一滴も飲んでおらぬから真面目に醴(447)泉一条について述べよう。
 むやみに西洋西洋と歎美するものの、西洋の文物学術が今日のごとく盛えるに及んだは近代のことで、そのかくのごときに達せる前に無数の起源、幾多の興廃があった由、雪嶺先生や白井博士が毎度本誌で述べられた。しかして東洋またおのずから固有の文物学術あり、多くの起源、若干の興廃もあったので、不断西洋に劣ったでなければ永久彼に駕する見込みなきにもあらざることもほぼ承り及んだ。伝説の学また多分に洩れず、東洋にも固《もと》よりあったので、秦漢の『呂覧』、『風俗通』、唐の『酉陽雑俎』、宋元来の無数の雑書から、蟠竜子の『俗説弁』、京伝、馬琴の数多の著述、いずれも所出を探り変化を詳らかにするに力めたこと、別段古ギリシアから十九世紀の中葉に至る間の欧人に劣ったよう見えぬ。さて面白きは東西一軌で、最初俗伝説くところ条理に外れたる多きを見て、程々|故事付《こじつ》けて浅近な話どもの底に懇誠な教訓が潜めるごとく説き立てた。例せば、中世大いに欧州に行なわれた『ゲスタ・ロマノルム』など、卑凡極まる俗説をすら一々キリスト教理を蔵せるように釈き、仏本生譚や諸譬喩経に、いかな嬰児向きの瑣譚でもみな菩薩や羅漢の因果を含んだごとく解き、『十訓抄』、『沙石集』等には、読めば行儀を悪くする底の物語を因縁を明らむる便《たより》に列べおる。また東西とも伝説口碑に変な辻褄の合わぬ風のこと多きを、言語の意味を忘れたり取り違えたりして生じたと攷えた学者も多い。『呂覧』に、宋の丁氏、家に井なく常に人を傭うて外から汲ませたが、自宅へ井を掘ってより一人前の傭賃が助かり、われ井を穿って一人を得たりと言いしを、井から人一人振り出したと宋君が聞き誤ったと言い、『風俗通』によれば、?《き》という牛形一都の怪物は、もと帝舜の賢臣?が多能だったから、一人で万事できるという意味で、?一にして足れりと讃めたのを、例の支那字の曖昧なるより、?は一足のみありと誤解してできたらしい。
 一八七〇年板バスクの『パトラニアス』二一四頁にいわく、中世スペインの大僧正アルフォンソ・トスタト、『聖書』を註釈してきわめて解し易からしめた。その歿後これを頌した碑文に、この書よく衆盲を啓くとありしを、愚俗勘違(448)いして、いかな盲人も一たび彼の手筆の『聖書』註を拝めばたちまち眼開いて天日を見得、と信じた。またスペインのあるいと浅い河を、むかし鯨が溯ったと伝う。学者これを解いて、実は酒庫に災起こって皮製の樽多く流れ失せる。その内一つは美酒を満盛したまま流れ下る。酒屋のおやじがうろたえ騒いで助けを求め、その一樽を指してウナ、ヴァ、レナ(一つが満ちて行く)と呼んだ。それをウナ、バレナ(一疋の鯨)と聞き損じて、むかし鯨が川を溯った伝説が生じたとあるが、いかにもズボンとはくゆえズボン、ちょいと着るからチョッキ、鵜が啖うに困るからウナンギと解くようで眉唾ものだ。予惟うに海に常住する物がたまたま川に登る例多く、カジトオシという洋中の魚がむかし田辺の会津川を上り捕われた由、年月日を明記せるあり。テームス河など往々鯨と同類たるシャチホコが皮膚に付ける寄生虫を淡水で殺除せんため登り来る。シベリアなどには同じく鯨に近いイルカが川を上ること多し。さればスペインの伝説も何か鯨類の小さきものが川に登り来たったであろう。
 かく、あるいは何の話も理屈や教訓を具えたように故事付けたり、あるいは出まかせ放題思い付き次第に、伝説はみな言語の誤解や意味の忘却から生じたように、謎を解くごとく釈かんとするは、いずれも確かな方法でない。よって近年科学の勃興に伴い種々攷究して、伝説怪談必ずしもことごとく教訓のために作られず、また語意の忘却誤解よりのみ生ぜず、実は今日いかにも不合理不自然と思わるる伝説も、実はむかしの人間が多年事物を観察して、これなら理に合うておると合点し得た知識と思想を述べたもので、その今日の人間に了解され難きは、当年の人々が見聞して常事とした件々が、現時地を掃うて世間に跡を留めざるに因ると解く学者が多いが、これがもっともその真髄を得た説と惟う。例せば、吾輩幼時なお熊野辺で待屋《たいや》という小廬を家ごとに別に構え、月事ある婦女は一週間その中に孤居した。その状を目睹した吾輩は今に忘れ能わぬほど当時経行中の婦女は実際きわめて穢らわしいものだった。したがって、かかる婦女が酒や味噌を眺めたばかりでたちまち腐らせるの、名刀もかの輩に近づかばその利を失うのと言い伝えたは、十分その理ありと吾輩には解り易いが、今日婦女の衛生処理大いに進み、月事小屋などどの地にも見る(449)を得べからざる世となつては、古人が月水を大いに怖れた意味は到底分からず。したがって米国などには月水を至って清浄神聖なものとする輩すらある由。そんな人に和泉式部が伏拝みの詠などを聴かせても全然事実らしく思わず、言実に過ぎたりとか、ほんの歌詠上の誇張とか評すること必せり。
 吾輩幼時アテモノと称え、冬夜炉辺に集まり、亡母が題を出すに答えた。問「薮の中に胡麻一升ナーに」答「蟻」。問「金山越えて竹山越えて金山のあちらに火ちょろちょろ」答「煙筒」。これらは訳を聞けば今の小児も解するが、問「四方白壁、中にちょろちょろ」答「行燈」。また、問「四方白壁、中に大の字」答「豆腐」。只今行燈を見ぬ童子多く、豆腐に大の字を印せぬゆえ、講釈を聞いても一向分からぬが衆《おお》い。有名な発句で只今何とも知れぬが多いごとく、その事その物が絶跡した世から、その実際を推し解するはすこぶる難い。それもその事物が普通だった世には小児にすらもっとも判り易かったればこそ、かかる訓蒙問答にも用いられたのだ。その辺を察せずに自分異世に生まれてそのことがちょっと分からねばとて牽強を逞しうし、四方白壁中に大字とは獄中に安臥して動ずるなかれという教訓を含めりとか、口の中に大だから因の字の謎じゃなど説かば、その実を距《さ》ることますます遠からん。ただ、むかし豆腐に大の字を印し、非人の悴も知らざるはなかつたから、小児の推察力を進むるアテモノ問答に用いられるのだと、事実を事実として知ったらよいのである。
 東洋は西洋と同じく伝説みな訓戒の深意を蔵せりと説いたり、里談ことごとく言語の誤解から生じたごとく釈いた人は多いが、よく古今時勢の推移を察し、多くの俗話が今日いかに異体不可解に見受けらるるも、実は往時権兵衛も太郎作も平常見聞して当然と做《な》し、たやすく呑み込み得た事実に外ならざる由を解して、むかしの人はどんな考えを持ち、どれほどの知識を具え、いかほどに応用して世間を益し自分を利しおったかを明らめんと志す人はまだ本邦には少ないようだ。しかして伝説を道義や宗旨に牽強して教訓の一助とせんとするは、相応の益も興もあることで決して咎むるに及ばぬが、今ひと口の連中が自分研究の足らざるを顧みず、せっかく長いむかしから万に一を存し千に一(450)を留めた旧伝民譚を、猥《みだ》りに私意をもって臆測改竄し、これはこの言の誤解、かれはその語の訛伝と断じ、その実どれもこれも自分の心得違いなるを悟らざるははなはだ不埒なことで、かくのごときは史籍載するところ口碑伝うるところ、間違いばかりで積み上げたもので、わが邦今に生まれてむかしを徴すべきもの形已下の物の外に何にもなしと言うに近からん。
 一、二の例を挙げると、『郷土研究』四巻に、本邦諸国に籠城の軍勢、用水の欠乏を敵に見せぬため、白米で馬を洗うて水多きよう遠目に見せ、敵ために屈托して囲みを解いたちう話は、城跡から焼米が出るという伝説から訛出したらしく説いた人がある。要はこの話は多くの城について話さるるから啌《うそ》らしいというのらしいが、世間のことその例が多いから虚譚どころか、食い逃げの妙計、妓女の手管、何度新紙で読んでも同じこと似たことばかりだが、それが反ってその事実たるを証する。この科学の進んだ今日さえ毎戦必ず破天荒の新発明は出でず、今度の大戦争にすら大いに眼を刮《こす》ったようなはわずかに指を屈するまでなり。されば、望遠鏡もなかった世に、あちらでもこちらでも白米を水と見せんと企てたは、今も昔も遊女が水を巧みに眼に塗って涙を擬するに同じかろう。『宋史』を閲するに、仁宗の一朝十年の間に、泥を水と見せて敵を紿《あざむ》き囲みを解いて去らしめた者、別々の城に二人あり(張旨と苗継宣)。全く別人で謀を施した委細も異なれば、決して一つが事実で他が虚伝と見るべからず。秀吉公などは一生に幾度も水攻めを行ない、また美濃攻めにも小田原陣にも一夜中に紙を貼って営の白壁の速成を粧い敵を驚かした。一生に一度は婚礼というが、それさえ十度も繰り返して平気な人もある。いわんや生死を争う戦いに同じことを何度行なうたとて、甲も乙もしたことを後れ馳せに行なうたりとて差し支えぬはずである。
 また同誌にわずか一書の一文を廓張して、諸国に鳴かぬ蛙の俗伝あるは、神がその池に降臨するも帰り〔二字傍点〕給うを見ぬの意で、帰らず〔三字傍線〕から蛙入らず〔四字傍点〕、それから蛙鳴かず〔四字傍点〕とだんだん変化したのだと解かれた人あり。しかし蛙鳴かぬ池の話は古ギリシア・ローマから西欧や漢土にも多くあって、その国々で蛙を帰る〔二字傍線〕と同似の名で呼ばぬゆえ、帰らず〔三字傍線〕の意味(451)より鳴かぬ蛙の話を生じたと言い難く、さりとて日本の話だけは特に語意の取違えより起こり、外国のは蛙の特性から生じたと説かんもあまりに日本を別扱いにしたようだ。蛙の学問を特にせぬから知らぬが、かつて英学士会員ブーランゼー氏が自著『欧州蛙類目録』を見せられたには、いわゆる歌袋の有無によって分類されあったようだ。五島清太郎博士に聞き合わさんと思いながら空しく過ぎおるが、何かの工合で鳴くのと鳴かぬのとがあるのであろう。予の知るところでは常に寒冷な淵におる奴は一度も声を出さぬようだ。
 また『郷土研究』三巻に、柳田国男氏、耳塚の由来を論じ、人間の耳は容易に截り取り、はるばると輸送もできまじければ、耳塚というものは多くは人の耳を埋めたでなかろうということで、奥羽地方の伝説に獅子舞同士出会い争闘して耳を取られたというから、京都大仏の耳塚も獅子舞の喧嘩で取られた獅子頭の耳か、祭に神に献じた獣畜の耳を埋めたのを、後年太閤征韓に付会したのであろう、太閤は敵の耳や鼻を取って来いと命ずるような残忍な人でない、諸方に存する鼻塚も人の鼻を取って埋めたでなく、花塚または突き出た端(ハナ)塚の意であろう、というように言われた。これは実にはなはだしい牽強で、養子やその妻妾を殺して畜生塚を築き、武田を殺してその妻を妾とし、旧友だった佐々の娘九歳なるを礫殺したほどの人が、たとい時として慈仁の念を催すことなきにあらざりしにせよ、敵を殺しもしくは殺す代りにその耳鼻を取らしむるくらいのことを躊躇すべきや。白石は、信長、秀吉が一銭切りとてわずかに一銭盗んだ者を厳刑したのを酷く咎めた。かつそれインドのサランバタンには近世まで敵の鼻を切って食う王さえあった。これ、その宗旨殺生を禁ずるゆえ、命の代りに鼻を取れば敵その面体を損ずることおびただしきを怖れあえて王に抗せざるゆえ、とある(一六九八年板、フライヤー『東印度および波斯《ペルシア》新記』一六三頁)。レッキーの『欧州道徳史』に、古え彼方各国人が敵民を見ること野獣を猟って何の惨傷を感ぜぬがごとし、と言った。わが邦またその通りで、純友が藤原子高を捕え、截耳割鼻、その妻を奪い将れ去り、平時忠が院使花方の煩に烙印し鼻を殺ぎ、これは法皇をかくし奉るという意を洩らせるなど、敵を??《じぎ》することむかしよりあったので、戦国に至っては戦場で鼻切(452)ること、すこぶる盛んなりしあまり、何の高名にならぬ場合多かりしよう、『北条五代記』巻三に見え、信長、長島城を攻めし時、大鳥居塁を陥れ斬首二千人、その耳鼻を城中へ贈り、斎藤道三はその臣下に討たれて鼻を殺がれた。
 国内同士さえがこれだから、外国人の鼻耳を截るは猪鹿同然に心得た者いと多かったべく、要は戦争は御互い様で、高麗人もわが辺陲へ来寇して種々無慙な振舞をした、その返報としてかかる眼に逢うたまでだ。されば太閤が征韓諸将へ下した感状に耳鼻の受取数を記したもの諸家の文書に存し、『中外経緯伝』、『征韓偉略』等にも引きある。また当時そのことを見聞した人が著わした『秀吉譜』にも、諸将より首の代りに進じた耳鼻を大仏殿側に埋め耳塚と号すと言い、辱知土佐の寺石正路氏の来示には、朝鮮人李?光の『芝峰類説』に、「平秀吉、諸倭をして鼻を割《さ》き、もって首級に代えしむ。故に、倭卒はわが国人に遇えば、すなわち殺して(殺さずして?)、鼻を割《さ》き、塩に沈めて秀吉に送る、云々。この時、わが国の人にして、鼻なくして生くるを得る者、また多し」。これは備前の宇喜多勢等、韓人の怯懦なるを見て殺すを面倒がり鼻のみ切り取り、韓人また命惜しければ抵抗せず甘んじて?《はなき》られたること、「黒田家文書」、「加藤文書」等みな記し、史実充盈、少しも疑いなし、とあった。氏また相国寺長老承兌の耳塚卒都婆文を写し示さる。いわく、「「慶長第二の暦《とし》、秋の仲《なかば》、大相国、本邦の諸将に命じ、再び朝鮮国を征伐せしむ、云々。将士、首功を上《たてまつ》るべしといえども、江海の遼遠なるをもって、これを?《はなき》って大相国の高覧に備う。相国、怨讐の思いをなさず、かえって慈愍の心を深くす。すなわち五山の清衆に命じて水陸の妙供を設けしめ、もって怨親平等の供養に充《あ》て、かれのために墳墓を築いて、これに名づくるに鼻塚をもってす、云々。時に慶長二の丁酉の竜集《とし》、秋九月二十又八目なり。敬白」。正路申す、これにて耳塚は晒し物の主意にあらず、供養のものたりと知る。耳塚と申せしは、言葉の語路宜しきにや、また他の耳塚の名に慣れてや、『都名所図会』的の命名なり。実は鼻塚と申すべし。この供養文にて見ればこの耳(実は鼻)塚の主意は、高野山上、島津義弘の寄付碑と同一意味にて、いわゆる「敵味方とも仏道に入らしむるものなり」の主意と同じ。この故に耳塚まことに鮮人の耳鼻を埋めたりとは申せ、供養のため建てし物なれば、(453)高野の碑と一視してさほど国交を傷つけざるものと存じ候」と。これにて秀吉も時節なみに敵民を??するを武道に取って尋常事と心得、諸将に命じて左様させたが、その耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあったと判る。要するに大仏の耳塚を獅子舞の喧嘩の遺蹟とか、牲畜の耳を埋めた所などいうは、どこかから頼まれて、豊公の史実を幾分損じてまでも、ある方面の歓心を買わんとするような下地でもありそうに按じられる。
 さて、いよいよ本題たる酒泉の話に入るその前に、手軽く井沢長秀の『広益俗説弁』から酒泉の説明を引いて、酒嫌いなど言う心得違いの読者までもそいつはずいぶん旨かろうくらいは惟わせ置こう。いわく、「美濃国養老酒泉の説。俗説にいう、養老元年、美濃国より酒泉涌出、不思儀なることなり。今按ずるに、酒泉これのみにあらず。『日本紀』にいわく、「天武天皇七年十一月己亥、沙門法員、善往、真義等を遣わし、試みに近江国益須郡の醴泉を飲ましむ」と、またいわく、「醴泉、近江国益須郡の都賀山に涌《わ》く。もろもろの疾病、療《おさ》め差《い》ゆる者|衆《おお》し」と。『豊後風土記』にいわく、「大分郡酒水(郡の西にあり)。この水の源は、郡の西の柏野の磐《いわ》の中より出で、南を指《さ》して下り流る。その色は酒のごとく、味|小《すこ》しく酸《す》し」と。『今昔物語』にいわく、むかし、ある僧大峰に詣るとて、道を踏み違えてある郷に出でたり。その郷の中に泉あり、めぐりに石をたたみ、上に家を作りて覆えり。水の色黄ばみたり。寄りて飲み見るに、水にはあらで酒の湧き出ずるなり、とあり。『本草綱目』にいわく、「醴泉は味|醴《あまざけ》のごとし。故に、もって老を養うべし。これを飲めば、人をして多寿ならしむ」と。『白虎通』にいわく、「醴泉は状醴酒のごとく、もって老を養うべし」と。?穆之《ゆぼくし》の『相州記』にいわく、「君山の上に美酒数斗あり」と。『広川書跋』にいわく、「醴泉銘にいう、京師の醴泉は飲む者、痼疾みな愈ゆ。またいう、その味、醴のごとし」と。『東観漢記』にいわく、「漢の光武帝の中元元年、醴泉、京師に出ず。これを飲む者は、痼疾みな愈《い》ゆ」と。また、「晋の武帝の泰始八年、河州に醴泉涌出す。これを飲めば老いず」と、などあれば養老の酒泉のみにはあらず」と。
 『延喜式』に祥瑞を列せるに、醴泉を麟鳳亀竜や海波を揚げざると共に大瑞とし、「美泉なり。その味、美甘にして、(454)状は醴酒のごとし」と注す。『淵鑑類函』三一に、「醴泉とは、美泉なり、水の精なり。崑崙山に醴泉、華池あり。君は土に乗じて王たり、その政太平なれば、すなわち醴泉出でて湧く。水に乗じて王たり、その政和平なれば、すなわち醴泉の?《ひよう》たり。神霊の滋液して、百珍実用あれば、すなわち醴泉出ず。黄帝の時、醴泉をもって漿を為《つく》る。堯の世、徳|茂《さか》んにして清平なれば、すなわち醴泉出ず。夏后の時、俊乂《しゆんがい》、官にあって、醴泉出ず。漢の宣帝の三年、醴泉|滂流《ぼうりゆう》し、借槁《ここう》せるもの栄え茂る」とあって、しごく目出たいとしたので、孝子がこれを感得した例は『大清一統志』などにおびただしく見ゆ。
 例の『郷土研究』四巻に、川村杳樹の「孝子泉の話」が二回続き、いわゆる酒泉、醴泉は、美質の水が湧き出でたので好酒を作り富を致したのを大層に言い立てたとか、その泉が古え尸童《よりまし》を立て神祭を営んだ霊場の址で、特にこの清水を用いて神に捧ぐべき酒を醸す習いであったがために、泉水変じて酒となるという伝説を生じたものと見ねばなるまい、と言われた。すなわち醴泉という物の実在を信ぜず、ただの水の美味なるを大層にも醇酒佳醴に比した虚張か、もしくはむかし神酒を作るに用いた泉水を、水がおのずから酒に変じていわゆる酒泉たりと訛伝したかより生じた虚構じゃ、と言うたのだ。ところが越後の生れで京都大学出で只今熊本医学専門学校に奉職する川上漸氏が、川村氏の説を読んで同誌に一書を寄せた。件の「孝子泉の話」の中に川村氏いわく、「顕昭の『古今集註』に、むかし孝子あり、食物の初穂を亡親《なきおや》に手向くるとて木の股に置きけるが、いつとなく佳き酒になり、それによって家富み栄えたという故事を挙げ、その木の股|三股《みつまた》にてありけるにより、酒を三木《みき》とはいえり、云々、と述べている。酒をキと呼んだ古語がこの時代にはや忘却せられていたというは意外である。ただしこの説の只の出鱈目でなかったことを思わしむるは、大和|率川《いさがわ》社の四月の祭に三枝の花をもって酒樽を飾るの式あり、よってその祭を三枝祭と名づけたことで、三枝とは百合のことだという説も久しく存してはいるが、神酒にこの物を取り付けた理由に至っては今にこれという説明もないので、自分のごときは右の誤ったる三木伝説から推測して、ことによると大むかし大木の股に溜まった水(455)を霊酒と信じ、これを用いて一夜酒《ひとよざけ》を醸した名残ではないかと思ておる、云々」。(以上川村氏の言、ただし文の前後を見合わすに、木の股に溜った水で一夜酒を醸した例少しもなく、全く氏一己の臆断なり。)川村氏のこの言に対し、川上氏はその姉婿なる越後在住星野忠吉氏の宅辺の老杉幹より当時(去年十二月)盛んに酒を噴出しおる実況を報じ、かくのごとき現前の実例を見ると、木の股や空洞から酒が湧いたという昔物語のごときも必ずしも根拠のないものでないかも知れぬ。後世万一にも川村君ごとき人々によって伝説扱いにされてしまっては困るから永久に伝え置きたい、と述べたのだ。図は十二月六日の撮影で、注連張れる老杉幹より湧き出る霊酒を硝子《ガラス》罎に受けおるを示す。ここの講釈ちょっと手間取るから次回に延ばし、とにかく麟鳳亀鶴と双んで大瑞の列に立つ醴泉の写真を『日本及日本人』のこのお芽出た號に出すべく忙いで発送に往き、ついでに上述の錦城館へ立ち寄り、お富の顔見ちゃ一分でけえられぬ。   (大正六年四月一日『日本及日本人』七〇二号)
 
       二
 
 川上漸氏が『郷土研究』に寄せた一書を読んで予思い当たることあり、さっそく書を飛ばして同氏を介し星野氏に杉より出た霊酒の現品を贈られんことを求めたのが一月十八日で、二月二日と十一日に星野氏よりフォーマリン液を点和したのと、杉より出たまま何物をも加えぬものと、件の霊酒を二小罎に入れたのを受け取った。その添状と川上氏の寄書に引かれた長岡市の『北越新聞』等の記事を参看して、この霊酒の湧出状況を察するを得た。いわく、越後国北魚沼郡|城川《しろかわ》村大字千谷川(小千谷町に隣接す)の酒造家星野忠吉氏宅は小丘上にあり、三面みな六尺乃至一丈廻りで高さ数丈の老杉もて囲まる。いずれも今より二百四年前、正徳三年、その宅新築の際生垣として植えたが盛長したのだ。そのうち一本周囲約六尺の杉の幹、地上二間ほどの処より、二、三分置きにプープーと音を立てジュージュー(456)と濁って白き酒様の液体を湧き出す。十一月二十六日雇人がその杉を距る四尺ばかりなる酒倉の雪囲いをなさんとて見出だした。嘗め試みると甘渋く(一にいわく甘酸く)、付近は醇なる芳香|漾《ただよ》う。発見せし節は、その液流れて白く、また一部一部に青かび生じ美観を呈し、虻蜂の属盛んに飛び来たり吸うた。噴き出しの箇所より下二間は酒花で白く浮き上がりおり、十二月初めごろは十時間に二合ほどの割合で噴き出した。一月末には零下二度くらいの酷寒なれど、五分に一回ばかりジュージュープープーと音立ち噴き出し、たちまち凝って鏡のごとく光り、氷柱となって垂れ下がるは秋末よ。も一層美わし。発見の当時、不思議の感に打たれ来たり観る者一日に二千五百人、五日間開場して五、六千人、いずれも嘗め試みて祥瑞と称えざるなく、当時一日に四合瓶一本ほど迸出したが、最初より一月末までおよそ一斗五升は得たるやらん、云々。
 予は二十余年も菌学を修めおるが、主として担子菌類《バシジオミケテス》を相手にしおり、その他の菌類は他の専門家を助くるために採集図録するに止まり何たる趣味を持たぬ。ことに奇体なるは自分が酒造家に生まれながら醸造学を知らず、家弟は西宮と和歌山で数千石の酒を作るに、此方は一度に数升を飲むばかりで?酵菌に関する知識は実に微々たる一事だ。その上、星野氏から贈られた霊酒が少量で思うままに検査するを得ず、寒国からこの暖地へ来る間には多少の変化をも受けたるべく、加うるに予近来眼も鼻も利かぬから十分のことはとてもできぬが、知人および拙妻の助力を仮りて知り得ただけを述べよう。霊酒二小罎のうちフォーマリン液を合わせたのは林檎また梨の汁が?酵するごとき香あり、何物をも加えぬ方は酒の糟の香いに多少屁の臭みあり。前者の味は甘酸に渋みを帯び、後者はきわめて甘きこと言語に絶えたり。(以下フォーマリンを合せぬもののみについて述ぶ。)鏡検するに第一図のごとくほとんど透明無色で強く光る楕円また卵形また棍棒状で、一端また両端に乳様突起ある細胞体無数と、それよりずっと微細で腸詰か状な黴薗無量数とより成る。これはたぷん共同生活を営むものだろうが、件の細胞体は?酵菌《サツカロミケス》だか糸菌《ヒフオミケス》だか只今のところ(457)断言し得ぬ。予は醴や白酒を飲んだこともなければ、その?酵を検したこともないが、このいわゆる霊酒が最初杉より湧き出た時は酒類よりは飴《あめ》に近い?酵品だったらしいと惟う。その他その性質、種別等については、追い追い自分も就いて学ぶべく、また標品を内外の知友に頒ちてその説をも問うつもりで、いささか自分が識り得たことどもなきにあらざるも、一汎読者に取っては一盃の酒ほども面白くなきは受合いゆえ、ここに述べぬとするが、とにかく予は種々精査の末、かく申すはまことに星野氏に無礼ながら、この霊酒は決して人工もて捏造されたものでなく、川上氏が保証されたごとく、真実杉の幹から湧き出たものたるを知り得た。また試みにこれを稲飯と砂糖水に加え置きしに、いずれも多少の酒精を化成したが、星野氏の原産所の記載にも見るごとく、ここの稲飯にも青かびが生じあれば、いわゆる霊酒自身が稲飯を酒精化したのか、霊酒を襲うた青かびが稲飯を酒精化したのか、何分贈られた霊酒が少量な上、防腐剤を加えずに永く保存し得ぬものゆえ、繰り返し試験するを得ぬは残念な。
 予は熊野の山野でしばしば棕櫚等の切株に柿のごとく赤くて柿が腐ったような臭ある半流動体湧き出ずるを見、その標本は現に座右にあり、鏡検して一種または数種の糸菌と黴菌《バクテリア》とが共同生活で  醸醇を起こすものと知った。星野氏から贈られた霊酒ごときものも、二、三度杉林で見たように思えど、聢《しか》と記し置かず、標品も採り置かねば、一行確言し得ぬ。しかしながらすでに星野氏宅辺の一例は確かだから、惟うに、古え樹林が全国に蕃衍したこと、なかなか今日の比にあらざる時に当たり、杉その他の樹幹からかかる酒気ある液を噴出した例は多かったであろう。川上氏来示に、杉木の主成分たる木繊維質すなわち高価の澱粉質が朽敗分解によってX(C5H10O5)のXの価の下りてほぼ普通澱粉に近づきたる時、酵母もしくはこれに近き物の作用するあって酒精を醸出せるにあらずや。ただし酒精に諸種あればCxのxの価は必ずしも5とは限らざるべく、したがって果たして濁酒と同性状のものたるべきや否は疑問あるべしと判ず、とあった。プリニウスの『博物志』一四巻一九章に諸種の木から酒を作ることを言ったはみなまで虚言でなかろう。『和漢三才図会』三二に、「近世、倭の用うるところの望子は、多く杉の葉を束《たば》ねてこれを為《つく》る。形は(458)鼓のごとし。(一休も、杉の粟立てる又六《またろく》が門《かど》、と詠んだ。)およそ酒の性、杉を喜《この》む。杉村をもって酒の桶を作り、杉の柿《こけら》を酒中に投ずるの類、また然り」とある。?酵菌の中で麦酒母などの野生はないが、葡萄酒母は葡萄園の地中に多く、その果にもおのずから著き、その汁に遭えば直ちに?酵を始める。メキシコで酒を醸すチビという物は?酵菌と黴菌がサボテンの幹上に共同生活を営み存するのだ。類推するに、本邦でむかし杉から星野氏の霊酒母ごとき物を獲て酒を醸し始めた遺風で杉葉を酒旗としたのでもあろう。
 川村氏の「孝子泉の話」に諸書から樹の根に近き空洞また地上数尺の樹間より水涌き出ずる例を引かれた。その木は松、椋、杉、トチ、シデ、柿、榎等で、何かこの種の樹木に幹を透《とお》して水を引く特性があったか、あるいはまた樹身が朽ちて後も永く存し、自然に地下水の口となったであるまいか、と言われた。予が見聞するところ、かかる例三ついずれも樟樹で、親しく目撃したのは紀州田辺の闘鶏神社の樟の大木の幹地上二尺ばかりの孔より不断清水流れ下りて神池に注いだ。それを先年ある人の発意で伐って銭にしたのを予新聞で攻撃し、ために世話人等社務所で会議の席上、かの人、口より涎出で喪心顫動|言《ものい》う能わず、戸板に載せ家に送ると七日ほどして死んだ。それより水一向出でず神池涸れがちではなはだ穢なくなりおったが、近ごろかの樟の趾地を穿つと清水たちまち土中より涌き出で神池へ絶えず注ぎ、旧観を復した。大木が水を引いたのかたまたま泉水の出ずべき所に生長したのか、いかにも研究を重ねて見たいことじゃ。上に『類函』から引いた「漢の宣帝の三年、醴泉滂流し、枯槁せるもの栄え茂る」とある外に、醴泉と植物を連記した例を知らねど、すでに酒泉また醴泉というが単に甘味を誇張したでなく、実際多少とも酒精分を含んだ噴水を意味するとせば、土や岩は酒精を含まぬから、必ず右様の樹の穴より、また樹の古株が地下に残った処より、星野氏の霊酒ごとき有機物に偕《ともな》うて水が涌き出でたのであろう。以上述べた通りで、川村氏がむかし美質の水で好酒を作りしより泉水が酒に変じたという伝説を生じたのが酒泉醴泉話の起りじゃと言われたるに反し、酒泉醴泉が往々実在したに相違ない。
(459) 上に予が川上氏の奇書を読んで思い当たることありしと言ったに仔細あり。杜詩に、「巌蜜、松花熟して、山杯《さんばい》、竹葉春なり」、古詩に、「竹葉、清香|好《よろ》し、何ぞ数杯を飲むを妨げんや」、いずれも酒に竹が縁ある。『塵添?嚢抄』一〇にいわく、「『百詠』の註にいわく、宜城より竹酒出ず、と云々。竹の葉の露たまり、酒となる故に竹葉という、と。また、ある説には、むかし漢朝に劉石という者ありき。継母に合いてけるが、その継母、わが実子にはよく飯を食わせ、孤子には糟糠の飯を与えけり。劉石、これを食うことを得ずして、家近き所に木の股のありけるに棄て置けり。自然に雨水落ち積もりて、ようやく乱れてのち芳しかりしかば、劉石これを試むるに、その味妙なり。よって竹の葉を折って指覆い、その心をもって、酒を作りて国王に奉りしが、味|比《たぐい》なくして褒美に預り、献賞を蒙りて家富みけるなり。これによって酒を竹葉と、云々」。田辺に裁縫の名人木村栄造、通称|干梅《ほしうめ》とて八十ばかりの老人、若い時大阪で芝居に働き、種々の俗説に通ぜるがいわく、漢の武帝の時セイジなる者あり。竹の上に蜘蛛の巣あり、竹の実を食いし鳥の腹よりその実竹幹中に落ち溜りて酒となれるを、蝶来たり吮《す》うを見て嘗むるに旨し。それより竹を酒肆の標とし、酒をササと呼び、水扁に酉と書き、銚子に蝶を著く。また今も大阪の芝居者、淡路の人形使いなど、酒飲むことをセイジ破ると言う、と。熊楠按ずるに、セイジ破るは制止破るか。幼年の折、亡母話に、兄と妹と、父は遠行し、家にあって継母に虐使さるるに堪えず、父を尋ねて海島に至り、共に念仏して止まず、毎唱口より蓮華を出だし終《つい》に饑死す、二人は観音と勢至菩薩で父は阿弥陀仏となった、と。この譚何かの書でも見たが今記憶せぬ。『?嚢抄』の劉石もこの話の観音勢至も継子ゆえ攷うるに、これら二談を混合した話があったのを、干梅老人わずかにその断片を覚えおったのでセイジは勢至でがなあろう。いずれも胡論《うろん》ながら古来酒と竹を縁ありとしたるを証する。
 また『著作堂一夕詰』一に、尾張国|阿波手《あわで》の森藪に香の物を見し記あり。大竹数十竿茂れる藪中に五斗ばかりも入るべき桶一つあり。蓋《ふた》して大石を載せたり。傍に札立て香の物頂戴の人は寺へ参らるべしと記したり。寺を正法寺と號す(曹洞宗)。萱津村にあり。古老伝えていう、古えは近村の農民、耕作のついでに瓜大根の顆をこの桶の中に投げ(460)入れて通りぬ。ここをもて竹藪中おのずから香の物熟せしという。『三国志』、諸葛亮、司馬懿に巾幗《きんかく》を贈る、婦人の飾なり。懿怒りて表をもて戦を決せんと請う条下に、懿がいわく、あに知らんや野夫にも功者あり、云々。藪にこうのものの俗語これより出でたりといえれど、尾張人はこれを否《なみ》してこの香の物より始まるという、いずれが是なるや、とある。そんな穿鑿は姑《しばら》く措き、藪中に香の物おのずから成りしというも多少竹が?酵を助けたらしい。それから今も紀州その他で酒成った時竹を立てて祝う。
 年来これらのことを心得ながら何の訳とも知らず過ぎおったところ、去年七月拙宅の裏なる苦竹《まだけ》の藪辺にシャンペンとサイダーを合わせたような香気鼻を衝き、酒嫌いな拙妻などはその藪に入るを嫌うほどだったので、よく視ると、前年切った竹株から第二図のごとく葛を煮たような淡乳白色無定形の半流動体がおびただしく湧き出で、最初その勢凄かったと見えて、小団塊が四辺へ散乱して卵の半熟せるを地に抛げ付けた状を呈し、竹の切口内には蟹が沫吐くごとくまだブクブクと噴いておった。数本の竹から出たのはみな白かったが、ただ一本より吐いたは図中(イ)に示すごとくその一部分菫色すこぶる艶美で清浄な紫水晶のようだった。当時予の眼すこぶる悪かったので精査し得ず、またプレパラートをも作り置かなんだが、白色の所をちょっと鏡検すると、図中(ロ)のごとく微細の菌糸と円き胞子ごときものとそれよりずっと微細な黴菌より成り、さらに廓大すると、(ハ)に示すごとくだったが、菫色の部分は黴菌のみより成り立ちおった。バクテリウム・ヴィオラケウスやバクテリウム・ヤンチヌスなど菫紫色の黴菌ありと承りおるが、この竹に生じたものはそれらと同異如何、只今知る由なきも、乾した標品は現に座右にあって黯紫色を現じおり、多量に手に入らば染料となりそうだ。さて、白い部分の酒気はおびただしかったが、不幸にも予の眼がすこぶる悪かったので記念のため乾燥して今(461)に保存しあるのみ、何たる精査を做し得ず、また星野氏から贈られた霊酒母のように飯や砂糖に加えて試験し得なんだ。しかしながら、友人の説にこの物は決して稀有ならず、当町に近き一村の竹林に毎年生ずとのことで、自宅の藪にもたぶん来夏も生ずべければ、今年は必ず多少明らむるところあらんと期しおる。とにかくこの物を見だした一得は、予が多年抱きおった何故に和漢とも竹を酒に縁ありとするかの疑いを解き得た一事である。しかして杉や竹を酒に縁ありというのも、酒泉醴泉の譚も、共に古人が実地に実物を観察して得た知識と思想を述べたもので、決して言語の誤解や教訓や譬喩に基づいてできたものでない。
 以上は古語伝説の研究方法を例示したので、ここに特に記し置くは、予は決して世間にあらゆる古話伝説中言語の誤解や譬喩教訓によって生じたもの全くなしと言うのでなく、そのようなものも実際多々あるを認むるが、それと同時に旧伝怪談必ずしもことごとく誤解や譬喩教訓よりのみ生ぜず、若人が積年事物を観察して昔人相応に合点し得た知識と思想を述べたものまた多ければ、古話伝説に遇うごとに大忙ぎでこれも語意の錯誤それも教訓のために造られたと説くに前《さき》だち、すべからく昔人の心になってその話説中の事物を観察すべしと主張するのである。よいついでだから、伝説や民俗の研究が社会の組織や履歴を調ぶるに大必要なる外に、直接に人を利益し世用を足すものあるを例示しょう。
 明治四十一年十一月十四日、予紀伊東牟婁郡小口村鳴谷という幽谷を尋ねた。高山の上に谷多くすこぶる難処だった。むかし高野の霊区を他処へ移そうとて、ここを尋ね中《あ》てたが、四十九谷ある高野より一谷少なかったので止めたという。本通りともいうべき谷の端より直下する滝を、絶崖頭に立てる唯一の檜に縋り瞰下するに、絶景危険|双《ふたつ》ながら言語同断だった。この滝は那智の一の滝より米三粒だけ短しとぞ。見|畢《おわ》りて弁当を調え食う前に、案内の土民、高さ八尺ばかりの木の生皮を剥ぎ、巻いて?燭のごとくし、火を点ずるに光明らかに漸次徐々と燃ゆること?燭の通りで、諸用を弁ずるに堪えたり。予驚いてその名を問うに、アブラキとてこの辺で夜山中を行くに必須の物、と答えた。(462)よってその枝を採り帰って、『東洋学芸雑誌』に寄書し質問して、その冬青属の一種通称クロソヨゴに外ならざるを承ったが、予諸方へ聴き合わし、また自分手近き諸書を調べしも、この木にかかる著しい効用あるを記載したものあるを聞き知らぬ。吾輩十三、四から欠かさず日記を細書すれど、毎度ゆえ珍しからぬによって飲酒と女に惚れられたことは一切載せぬごとく、彼所の人々はかの木を燭用するを珍しと思わず、別段他所の者に語らないので、一向記録にも留まらなんだのだ。都会では不用ならんも、山中生活にかかる功能ある一木一草を知ると知らざるは損益するところ知るべしだ。インドの炬木樹《トーチ・ウツド・トリー》は毎年三月もっとも茂り、その木まだ生なるうちも精製の炬同然よく燃えて民を益す、と一八八〇年板ボールの『印度藪榛生活』六五頁に見ゆ。かかる物を利用する民俗を調べ置くは実用上学芸上はなはだ緊要だ。
 それから五日のち、予大和吉野郡玉置山に登り、紀州の方へ下るとて途を失い、無人の境に日昏れ峻嶮至極の絶崖上に長夜を過ごせしに、焚火の料乏しく寒気髄に徹し、両脚萎え曲がりて九年後の今までも冬になると行歩艱難で以前通り駆け廻り成らず、まことにせっかく生み付けてくれた父母の遺体をみずから片輪にしたと歎息これを久しうす。山で夜を明かして足を痛めた翌年、予蔵書と手抄を渉猟するうち、アッシュに関して妙なことを識るに及んだ。アッシュは普通にトネリコに宛て秦皮と漢訳するが、この三物斉しくトネリコ属の木ながら別種で、アッシュは欧州に自生多く、支那の秦皮はホフマンおよびシュルテス説に日本のアオタゴだというが、ゲールツはアオタゴにもシオジにも当たると言った。松村教授の『改正増補植物名彙』によれば、本邦のトネリコ属にトネリコ、シマタゴ、アオタゴ、ヤチダモ、シオジの五種あり。いずれも欧州のアッシュと同属別物だ。さてフレンドが言ったごとく、アッシュはほとんどすべての他の植物より多く伝説に富む。フ氏の『花および花譚』と、一八九五年刊『フォークロール』巻六、アンドリューの説を合わせ攷うるに、英国デヴォンシャーの百姓の下男等、聖誕夜、森に趣き柴を苅り、最も厚き枝を中心として穣み累ね燃やして、中心なる枝焼け尽くるまで環り坐して飲み遊ぶ。柴を多くの柳条で括り一条燃え拆(463)くるごとに主人から一罌《ひとかめ》の酒が出る。なるたけ多く飲みたき人情から、なるべく多く柳条を巻き付け置くとあるから、不佞《ふねい》も往って手伝いたい。初め柴に火を伝えた燼木《もえくい》は保存して明年また同様の役に立てる。この夜、柴として特にアッシュを用ゆ。これ他の諸木と異《かわ》り、切った即時生木のまま好く燃える上、キリスト厩内に生み落とされし時、実にこの木の火で暖められた縁起あるに基づくんだそうな。かく燃え易きゆえか、スペンサーの詩に、アッシュ雷霆《らいてい》を引く、と言った。また神学者輩の通説に、キリストを礫せし十字架はオリヴ、シプレス、シーダー、椰樹の四木で合作したと言えど(コラン・ド・プランシー説)、ジプシー人はアッシュで作ったと伝う。これは生まれた時この木で暖められたゆえ、同じくはこの木に懸けて殺して欲しいと、本を忘れぬ意でもあろうか。仏典にもこれにやや似て可笑しさ勝れるのがある。「時に、舎衛国に比丘と比丘尼の母子あり。夏安居《げあんご》して、母子しばしば相見る。すでにして、しばしば相見て、ともに欲心を生ず。母、児に語っていわく、汝ここより出でしが、今またここに入る、犯すことなきを得べし、と。児、すなわち母の言のごとくして、彼を疑う。仏、波羅夷《はらい》と言《もう》す」。
 閑話休題、予フレンド等の書を読んで始めてアッシュの生木が好く燃えるを知り、たちまち想い出したは、かの夜一つを山上に明かして翌旦自分の座傍を見廻すと、かの辺に普通なトネリコそこここに生えおった。当夜かねてトネリコと同属なるアッシュの生木燃え易き伝説を心得おったなら、日が全く没《い》る前にトネリコを捜し容易にこれを得て焚き試みたらこのような頑症に罹らぬべかりしをと、みずから不覚を慙じたあまり東洋学芸社に書を遺り、邦産トネリコ属中また生木好く燃ゆるものありや、と問うた。社員の答は雑誌三三四号三六二頁に出たが、「小野蘭山の『本草啓蒙』秦皮《とねりこ》の条に、この木にも白?を生ずることイボタと同じ、とあるのみにして、?燭のごとく火を点じて燃ゆることを記さず。本邦産にて、生木のよく燃ゆること?燭のごとしと形容すべきほどのものあることを聞かず。樺の樹皮を松明とすることは皆人の知るところなり」とあって、一向予の問に中らず。前述予が親《まのあた》り睹《み》たアブラキが?燭様に燃えると述べたのと、邦産トネリコ属中に生木がよく燃ゆるものありやとの問を混同して答えられたと見える。(464)この田辺付近にはトネリコ属のもの生ぜず(もっともその後一種は生ずるを確かめたるも)、東京には植物園もあり、またトネリコは諸所に植えらるる由ゆえ、書籍の穿鑿よりは実物について試《ため》されんことを望んだところが右様の返事で、これを書いた人は定めて植物学者だったろうが、一見よりは百聞を貴ぶこと、かくのごときを見て学者無用の俗声高きももっともと失望を極めた。『韓非子』に、鄭人その足の寸法を度《さ》し記し、履を求めに市へ之《ゆ》きて寸法書を忘れたるに気付き、帰って取り持ち行けば市すでに散じた跡で履を得ず。ある人何故おのが足に合わせ買わなんだかと問うに、かの痴漢、わが足よりも寸法書きの方が確かだと言ったと載せたは、笑いごとでなくそのような人物がわが邦の読書人に多くあるので長大息じゃ。さて去年末『木曽路名所図会』三に、青多古《あおたこ》、菓|槐《えんじゆ》に似て闊く、樹皮青く味苦し、その木を伐りて薪とするに、いまだ乾かざるによく燃ゆ、猟師獣を追うて雪を侵し山に入る時、これを伐りて焼火し寒を凌ぐ、とあるを見出だした。これで邦産トネリコ属五種のうちアオタゴは西洋のアッシュと同じく生木好く燃え有益と知れた。この種(第三図)は近年田辺近い小山で多く見出でたから、そのうち山の持主の許しを受け子分多勢で押し懸け伐り積み火を掛けて、生木が好く燃えるか、火の尽くるまで飲みながら見届けるつもりだが、英国の例と異なって柴の括りが一条燃え拆くるごとに一升寄進という風の気の利いた檀越《だんおち》が見当たらぬゆえ延引しおるは洵《まこと》に「それに付けても金の欲しさよ」だ。この文を読む人誰でもよく、いくらでもよいから遠慮なく寄付してくれ。何に致せ今の学者が気付かぬことを百十二年前出た名所図会に録しあるなど、事物に注意するは古人の方が深かったようだ。   (大正六年五月一日『日本及日本人』七〇四号)
 
(465)     東西小説の暗合
 
 享保三年に一洞が出した『寛闊大臣気質』三巻三章に、こんな話がある。江戸の男、遊蕩の末京に上り紙煙草入れを百の縫賃十八文でわびしく暮らす。その南隣に二歳になる娘を育てて女の鑑と呼ぼるる若後家、そのころ長崎の人に請け出された高名の遊女野風に取り違えるほどなりとあるから、素敵な尤物と見える。ある時この後家、本国寺の末寺某坊に詰り、密かに住僧に告げたは、烏丸のそこなる江戸元結屋の亭主は貴方の旦那と承る、その家におる男が私に執心して毎度文を送るを打ち捨て置くと、最近またも書いて送られたはさても恐ろし、裏から梯子をかけ樫の木の植込みを目当てに忍ぶべし、その下は厠の屋根だから、塀よりその上に降り、戸のサンを踏んで立石の上に下りて書院の先へ通い行く、雨戸を少しあけ置きたまえ、さもなきにおいては、同じ一荷《いつか》の命と思い詰めおる様子、世上へ聞こえてはその人の命危うし、私は後家で咎むる男もなければこそ、外へかようのことを申されぬがよし、人間二人助けると思うてこのことを伝え、今後必ず文をも給わらぬよう戒めてほしい、と言って去った。住僧|件《くだん》の家へ人を使わし、かの男を呼び寄せて手強く意見すると、これは思いも寄らぬ難題、少しも覚えなしと陳ずる。坊主少しも動ぜず、身抜けのならぬ証拠あり、その方が書き付けて遣った忍びようを、後家がここへ来て逐一語られた、これでも争うかと言うと、この男分別して、自分はさらに気付かぬが、その後家ここへ来て自分のことをそんなに言うたは、いかにしても旨いところありと思案して、実は左様の難題を申し掛けたが、只今の御意見に随い屹度《きつと》思い止まる、と言って立ち帰り、その夜更くるを待って女の指図せし塀に登れば自由に忍び道を付けたり、それより忍び入って三年余(466)りの思いを叶えやり、それより後家をたらし込んで大分の金を取り出し絹商売を始めたが、また遊女通いを初めて零落した次第を述べおる。
 欧州の小説でこれによく似たもっとも有名なは、ボカッチオの『デカメロン』の三日めの第三譚だが、あまり知れ渡りおるから今さら繰り返さず。知人リー氏の『デカメロンの出処と類話』(一九〇九年ロンドン板)から、あまり本邦に知れ渡らぬものどもを少々受け売りしょう。一六六一年にモリエールが出した『亭主の学校』二段目は、イサベラ女がある美男を思い込んだあまり、その男の後見人に、その男が自分を挑んでうるさくてならぬと告げて、到頭その男の妻となる次第だが、この劇が演ぜらるると同時に演ぜられたドリモンの『精出し女』というのがある。船長の妻イサベルが近所の医師方の若い書生を慕ううち、船長が妻の監督を知人に頼んで旅立つ。するとすぐさまその妻が医師を訪うて、その方の書生が自分方の窓の下へ来ていやらしい話を仕掛けるから注意して欲しいと訴える。よって書生を呼んで叱り付けると、変なことと思うて船長の家を尋ね、師の指さした方へ訪れると、監督人が出て来て家に入れず。きっと主人の妻は立ち聴きしおることと察して監督人と高声に話すを、果たして立ち聴きする。書生が立ち去った跡へ医師が来て、わが弟子の行ないは改まったかと聞くと、主婦が、かの書生は改まるどころでなく、艶書に金四百ルイ入りの嚢一つ添えて戸の下に差し入れおったから返して欲しいと言って渡す。よって帰って弟子を叱ると、今度はまた書生が庭の壁を踰え無花果樹を踏んで自分の室へ忍び入ったと告げ来たったので、また叱り付ける。さてはわれに好方便をこうして教えることと悟って、その通りにして忍び入ったところへ船長が帰ってくると、さっそくの機転で妻が書生を幽霊と称して恐ろしく叫ぶので夫も畏れ入り、抜いた刀を書生に渡し、妻は恐ろしさのあまりに幽霊の頸にかじり付くを見て、夫が妻の勇気をほめる、とある。
 この他にもいろいろある内に、アルサスのベルンハルド・ヘルツォグが一五六〇年に書いた『シルトワヒト』には、ウインナの老医師方へ若い書生が寄宿すると、これに思い込んだ若後家がその医師を訪うて、その方の書生が私に帯(467)を贈ったとか、庭木を伝うてわが室に入ったとか訴え、ついに思いを晴らす始終を述べあって、これが若後家の恋を叙しただけ一番よく一洞の小説に似通いおるようである。
 このような例が外にも多くあるが、これら東西の小説は別々にできて趣向が暗合したものか、一方から他方へ伝わったものか、研究すればするほど判断に迷う。   (大正十三年九月十五日『月刊日本及日本人』五六号)
 
          (468)     後家が懸けた謎
 
 貞享五年出板、西鶴の『好色盛衰記』五の一は、「後家に懸かって仕合わせ大臣、思いの外なる忍び路の様《さま》、心の曇る月まち山伏のこと」と題し、後家の貞操表裏大違いなる実況を面白く写し出だしおり、三十年後れて享保三年一洞作『寛闊大臣気質』三の三に、「忍ぶ路知る山伏大臣」と名づけた一条は、全くこれを盗み写した物だ。『好色盛衰記』の文左のごとし。
  「親の身として久離《きゆうり》をきること大方ならず。昔は丹波|越《ごえ》とて京都を離れしが、これも古くなって、近年は江戸江戸と下りけるに、あて所なしにも、請人《うけぴと》屋あって命を維《つな》ぎぬ。
  『柳亭記』下に、「丹波越は京の諺、亡命《かけおち》するをいう。按ずるに、初め島原にての流言なるべし、云々。『野良虫』(万治年間印本)、町人の子どもは親の蓄え置きし金銀を盗み出して、ひた物にかかるほどに、後には親に勘当せられ、丹波越に趣くか、さらずば心より起こらぬなま同心を起こして流浪の身となりし者、まのあたりに数多《あまた》はんべるなり。『都風俗鑑』(延宝九年)三の巻、女の身として芝居元をするとて、大きなるはまりに逢いて、わが物は是非なし、人の物までおいちらし、女の丹波越いと珍らかなり。(中略)『わたし船』(延宝七年)、先性わるの軍大 将、益翁、弓張の月の行方や丹波越、西鶴。『春色旅日記』(貞享四年)二の巻に、京より大津へ三里の条、山科藪の下たばこの名物、この刻《きざみ》を呑んで輪に吹けば、ちゃっと消えずして大きになり、丹波の方へ飛ぶなり。丹波越を可笑しく書きなしたり、云々」。今日台湾落ち、満洲渡りなどいう類だ。
(469)また江戸の町人大臣|三野《さんや》の小西に戯れ過ごし、勘当せられて京に追い登され、烏丸の辺に知るべあって、商いは仮令《けりよう》にして、明け暮れ男自慢、いずれ女も好ける風俗、随分昔を捨てざりしが、この男、世渡りを知らねば、次第に内証淋しく、武州出でし時、母の方より品川まで人追い駆けさせ、金子三十両給わりしを、半年あまりになくなしてきょうまでは暮らせしが、あすの身の上悲しく、今という今、食わねばひだるきことを覚え、絞り紙の煙草入、百を十八文の縫賃、心細き糸仕事、これも命のつり緒と思い、都もうたてく東の方ゆかしく、独り寝夜の物淋しきに、前後盗みたる金銀勘定してみるに、小判二百両(『寛闊大臣気質』には二千七百両)銀十九貫目余なり。随分心任せに撒き捨てける。よき種ながら、いつの世には生ゆべしと、思えば惜しきことと合点してから、遅しといいて是非もなき今なり。何を嘆くぞ川柳、跡のことは水になして、さらり流して仕舞いける。
 「その南隣に花橘に劣らぬほどの酒屋ありしが、この亭主若死に、何故なれば内儀の美しさ、長崎の人に請けられし野風に取り違えるほどなり。この女に二つになる娘の行末を思い遣りて、若盛りに後家立て済まして身を堅めけるを、今のいたずらの世に比べて、この人女の鑑と言えり。ある時この後家、本国寺の末寺何坊とかやに密かに参詣して、住僧に初めて対面して語りけるは、烏丸のそこなる江戸元結屋の亭主は、こなた様の旦那様と承りましてござる、それにつきまして御内意まで申し上げて、その人に御意見頼みましたきことあり、私は後家ながら、浮世のことは捨てし身なるに、執心の通わせ文数々送られけれども、返りごとするまではなく打ち捨てしに、またこの程は人の見るをも構わず、書きて送られしはさても恐ろし。裏より梯子をかけ、樫の木の植込を目当に忍ぶべし。その下は雪隠の屋根なれば、塀よりここに下りて、戸ざんを踏まえて、立石《たていし》の上に跨《また》げ下りて、書院の先へ通い行くなり。雨戸を少し明けおきたまえ、さもなきにおいては同じ一荷の命と、思い詰められしこと、世上へ聞こえては、その人の命あぶなし、私は後家の身にて、咎むる男もなければこそ、外へかようのことを申されぬがよし、是非この度のこと頼み奉る、人間二人助けさせたまうに同じ、重ねては必ず必ず文をも給わらぬようにと、言葉を残して帰られける。
(470) その後、かの元結屋が方へ人を遣わし、早々寺へ呼び寄せ、老僧初めの有増《あらまし》を語り、そなたの旅と言い、京に親類とてもなく、この度不首尾あっては身の立所《たてどころ》なし、このことにおいては、構えて思い止まられよと、苦々しき顔つきにて手強く意見したまえば、この男気色変わって、これは思いも寄らぬ難題、少しも身に覚えなきことなり、御耳へ入れたるは誰にもせよ、相手生けては置かじと進むを、御坊少しも驚きたまわず、身拔けの成らぬ証拠あり、その方書き付けて遣られし忍びよう、段々これへ後家参られて、面談にての断りなるが、まだこれにても争いたまうかと宣えば、この男、江戸研きの粋なれば分別して、これには様子あるべし、此方覚えはなけれども、その後家ここに来たりて、わが身のこと言えるはいかにしても旨い所ありと、態々思案して、私若気ゆえ人に難儀申し懸けしが、御意見の通りにこの儀思い止まる由申せば、住持満足せられて、何ごとも隠密に立ち帰り、その夜のふけゆくを待ちかね、女の差図せし塀にのれば、自由に忍び道を付け置きたり。これは面白し、こんな所は跡先の思惑見返らず、木蔭に立ち忍べば、後家手を取って引き入るる。夢かと疑われて行くに、宵からねぬくもりし重ね蒲団、留木《とめぎ》の薫り深く、柔らかなる枕一つ、身も縮むばかりに恐ろしく、嬉しく、しばしはさまざまの物思いせしが、高が後家には紛れなし、何の恐るることなしと、三年あまりの思い出をさせければ、この女|現《うつつ》抜かして、浮世の浮名を構わず、これよりたびたび忍び合いして馴染重なり、後家の袖下から何にもなる物大分貰いて、身体《しんだい》京都に極《きわ》め、絹商売してありけるが、この後家もうるさくなりて、また西島に通い、左門と言えるに気を尽し、情の重なるうちに粋が身をくうとや、都に隠れなき兩替の何某《なにがし》と張り合い、半歳立たぬうちに、せっかく後家たらしたる物皆になして、また始めより浅ましく成り行きて、この大臣を今見れば、伏見の豊後橋にて山伏姿となつて、月待日待御一代の吉事、御判はんじける看板出せしが、わが身の上は何と見るぞかし(見るやらんの義)」。
 古今東西人情は姉妹で、これと髣髴たる談が西洋にも多い。なかんずく、もっとも名高きは、十四世紀にボカッチオがあいた『十日譚』の三日めの第三語で、その大要はこうだ。フィレンゼの毛布商の妻、名家に生まれ、貌美に才優(471)なり。それに昼夜賤業に齷齪《あくさく》して阿堵物《あとぶつ》をしこめたることのみに通じた不文漢に嫁せしを厭い、駿馬常に痴人を乗せて走ると不足を嘆き続けるうち、市内の一好男子を見てその夜さりいもねられず。その男日常心易く行き通う法師あるを思い出し、懺悔を聴いて欲しいと呼びにやるに法師やって来た。妻告げていわく、貴僧が懇意なかの男は妾に不浄な念を懸けたものか、このごろ町へ出るごとに妾を途中に待ち受け、妾が家にあれば向かいの窓より眺め続ける、まことに困るから貴僧より忠告制示されたい、と。法師そはけしからぬとかの男に逢って叱ると、原来艶道に抜目のない人物、さてはこの女自分によほど気があつて、もしわれまたかの女に思し召しがあるなら、その印をみせよとの暗示と暁り、それからひっ切りなしに女の宅辺を徘徊したり、滅法眼尻をさげてみせたり、頸を伸ばしてその顔をみ詰めたりすれど、詞を交すべき便りがなかった。ここにおいて女さらに一計を案じ、またかの法師を訪うて、かつて申し上げ置いた男は今に妾を思い掛けてやまず、この財嚢と帯を妾に贈って志を見せたが、夫ある身の仇し男から受くべき物ならねば、貴僧の手より返されたいとその品を渡し、また只今わが夫がゼノアへ往った留守中に、かの男|私《ひそ》かにわが園庭に忍び、木を攀じて上なる窓のあいた処より妾の寝室に入り掛けたので、妾驚いて声を立てかけると男へコタレて誤《あやま》り入ったから、妾は黙って丸裸ながら走り往って窓をしめ切った、と鼻息荒く語った。法師正直にもその通りかの男に話して詰《なじ》ると、男はすこぶる合点早く、まことに面目次第もなし、今後必ず改心すると言ったは口先ばかり、まことに結構な案内を受けたと勇み、その夜かの留守宅に忍び込み、聞き置いた木を攀じ登れば窓閃きあり、難なく這入ってかの女より大もてなしを受けたという。
 ボカッチオはこの話の初めに、この女は現存するゆえ、わざとその名を記さぬ、と断った。十五世紀の末生まれたデ・パリエーの『新奇談綺』の一一四章は、仏国オーレアンの若い婦人が一青年学生を見そめ、自分の護持僧を利用してこれを迎え入れる譚で、趣向はボカッチオのと異ならず、十六世紀に成ったアンリ・エチアンヌの『エロドート解嘲』一五章にも同譚出で、その女は現存中とある。同じことが二度、三度ないとも限らず。そのころ出家を利用(472)して、自分の寝室に忍び入る方便を男に知らすことが大流行であったとみるの外なかろう。
 この類の譚は欧州にいとザラにある。そのうちただ二、三を書き付けるとしょう。『パリの書生』という古ドイツ物語がその一で、パリの一市人の美娘が、英国から来た良家の青年学生と相思う。その父これを知り、三婢をして娘を守らしめ、納屋女一人のほか外出せしめず。娘病気と詐り、懺悔を行なうとて法師を招き、某学生が自分につき纏い歩き、また納屋女の装いして忍び来たって因る。それからこんな宝石をくれたが貰うはずなし、返して下され、必ず私を思いかけぬよう断わって欲しいと話した。法師、学生を訪うてかく伝えると、学生即座に女の意を解し、若い男が矢で素女の心臓を射貫いた像を瓔珞に刻し、願わくはかかる快楽を偕《とも》にせんと書いて贈った。法師は二人情事の仲立ちとなったをみずから知らず。学生は毎《いつ》も納屋女の装いで女に通うこと二年、のち事露われて二人は惨死し、女の父これを悲しみ順礼に出た次第を述べた物だ。予未見の喜劇、ロペ・ダ・ヴェガの『ジスクレタ・エナモラダ』(一六〇〇年ごろ)は、黠智《かつち》ある女が若い美男に懸想すれど言いよる術なし。ところへ、その男の老父またこの女を属魂《ぞつこん》念じおり、女かの老人を訪うて、その子が毎度自分にヘンな素振りをして見せるが不快ゆえ、戒めて下さいと頼み、老人その子を呼び付け目玉の抜けるばかり叱り付ける。悴はかつてそんな覚えなく、てっきりその女こそ自分に心あっての注文と察し、まことに相済まぬことをした、一緒に行って過《あやま》って下さいと、父と打ち伴れ女を訪い、父の眼前抱いて女の足を吸い、慇懃を表したと作った物ときく。
 一六六一年モリエール作『レコル・デ・マリ』の二幕には、イサベラ女自分の後見人に、自分がほれた男がしばしば自分に無礼な挙動ありと告げ、後見人その男を戒めに行き、男は悟って戒められた通りの作法で女に親しみ、ついに夫婦となる。享保七年竹本・豊竹両座で、近松門左の『心中宵庚申』と、紀海音の『心中二つ腹帯』が対立して演ぜられたごとく、件のモリエールの作が舞台に上ると同時に、他の劇場でドリモンの『ラ・ファム・アンドストリューズ』を観せた。船長の妻イサベル、かねて近所の医家の若い書生に意あり。船長出立に臨みトラポランという男にそ(473)の妻の監視を頼んだ、夫が旅立つや否、妻は直ちにかの医者を訪い、貴方の書生わが窓下に来たりいやらしいことばかりいうから叱りたまえという。医師、書生を叱ると、書生かの女の謎を解し、その家に趣き女に逢わんと言うを、トラポラン拒んで入れず。書生必定近くに女あって聴きおることと推し、高声にトと話して去った。すぐ跡へ医師尋ね来たり、わが書生はおとなしくなったかと問うと、イサベル立ち出で、おとなしどころか、一段無礼になって、書状一通と四百金銭入りの袋を戸の下へ押し入れて往ったとて返却した。医師その状と袋を書生に手渡し戒めたのち、今度は書生が船長の家園に入り、イチジクの木を攀じてその妻の室に入ったと女から聞いたと言って、また書生を叱る。書生は女の密旨を即解し、夜中かの木を攀じて女の室に入り、「かかりけるところへ亭主帰りけり」。船長急に帰り来たれるを見て、イサベルその情夫を幽霊と言い立て、恐ろしく喚き立つので、船長も腰を抜かし抜いた刀を幽霊に渡す。イサベルこの体を見て、恐ろしくて溜まらぬ様子だったが、破れかぶれと飛び懸かり幽霊の頸に抱き付くを、巴板額《ともえはんがく》三舎の勇婦と、のろま極まるその夫が嘆称するところでチョン。
 アルサスの日記家バルンハルト・ヘルツォグの『シルトワヒト』(一五六〇年)は予いまだ見ず。知人リー氏説に、右ドリモンの一幕とよく似た話を載す。ウィンナ留学の青年が医師の宅に寓するうち、ある若後家これを見そめ、毎度自分にいやな振舞をしかけるの、帯を贈り越したの、庭木を攀じて寝室に入ったのと告げて、医師にその書生を叱らしめ、青年その謎をよく解いてついに女の思いを晴らさせやつた話の由。女を人妻でも娘でもなく、若後家とした点において、この話が一番西鶴のによく似おる。英国のボーモントおよびフレッチャールの『後家』と題した劇曲またやや同趣ときけど、予は見ぬ物ゆえ何ともいえぬ。またやや流がわりなは、十五世紀にマスッチオが書いた『新話』の第三〇語で、ある室女がサレルノの皇子を慕うあまり、逆さまに皇子が自分を恋うて艶書をよこしたとて、偽書を自分の護持僧に示し、護持僧その書の真偽を皇子に聞き合わせて、ついに女の念を遂げさせやつた話である。   (昭和二年四月十日『月刊日本及日本人』一二二号)
 
(474)     貉
          ラフカディオ・ハーン「貉」参照
          (『月刊日本及日本人』一三〇号九〇頁)
 
 「貉《むじな》」と題してハーンが書いた話は、誰かが古きを尋ねて新しく焼き直したものだ。今より百八十五年前、寛保二年に成った『老媼茶話』に、奥州会津諏訪の宮、朱の盤ちう恐ろしい怪物あり。一夕、二十五、六の若侍一人かの宮の前を通り怖ろしく感ずるところへ、二十五、六の若侍来たる。よきつれと思い同道して、ここに朱の盤とて隠れなき化物あるを聞き及べりやと尋ねると、後より来た若侍が、その化物はかようのものかと、にわかに面変わり、眼皿のごとく額に角一本、顔は朱のごとく髪は針のようで、口耳の際まできれ、歯たたきする音雷そのままなり。若侍これをみて気絶すること半時ばかり、やつと気付いて見れば諏訪の宮前なり。ようやく歩んである家に入り、水を一口望む。女房立ち出で何故と問う。若侍、朱の盤に逢った話をするを、女房聞いて、さてさて怖ろしきことにあいなさった、朱の盤とはこんな物かと言うをみると、また右のごとき顔となりおったので、また気絶し、ようやく蘇生して百日目に死んだそうだ、とある。その前章に、諏訪千本の松原で、舌長姥なる女怪が旅人を舐り殺すところへ朱の盤坊手伝いにきた話あり。面の長さ六尺ばかり、色赤くして朱のごとし、とあり。延宝五年出板『諸国百物語』という五册物にあり、と記しおるから、若侍が二度|吃驚《びつくり》した話もそれから採ったらしい。
 『曽呂利物語』は、名を曽呂利新左に託しあるが、秀吉時代のものでなく、徳川氏の世の作で、何年ごろ成ったか知れねど、『老媼茶話』よりは確かに古い。その巻三に、信濃国末木の観音堂は人家を二十四町離れた深山、昼も往来(475)まれな所にあり。村の若者寄り合い、誰か今夜かの堂へゆき明朝までおるべきや、という。一人、われ行くべしとて行き、堂内におると、夜半過ぎて座頭一人、琵琶箱を負い杖突いて入り来る。この山におって毎《いつ》もこの堂に詣で、夜は声を使いに詣づるが、かつて人のおったことなしと不審する。肝試しに来た仔細を告げて平家を望むと、琵琶を調べて一句面白く語り、今一つと所望すればまた一句語り、了《おわ》って絃に温石《おんじやく》を塗る。その物をみせよとて受け取ると左右の手に取りついて離れず、足は板敷に付きて動かず。その時、座頭、身長一丈ほどになり、頭に?立ち口大いにさけ角生えて怖ろし。汝、何とてここへきたかと言って、頭や顔をなでいろいろと嬲り脅《おど》してどこともなしに失せた。かの男ようやく温石を離し無念に思いおるところへ、松明おびただしく点して人々入り来るをみれば、宵の話友達だった。夜も明方なれば迎いにきた、何も珍事はなかったかと問うゆえ、初めよりのことどもを述ぶると、皆人手を拍ってどっと笑うをみると、また件の化物の形ゆえ気絶した。いよいよ「夜明けて人来たり、ようやく気をつけけれども、みる人ごとに化物来たりてわれを誑《たぶら》かすとのみ人に言いて、しばらく人の心地もなかりしが、ついには本性になりてかく語り侍る」と記す。
 美濃の国兼山の城主どものことを書いた『兼山記』は、初章に、斎藤大納言の捻松《ねじまつ》、明暦ごろまであったと記しおるから、明暦以後旧伝を編成した物とみえる。この書に、天正十一年正月、兼山城主森武蔵守長一、少童一人を自分の末弟忠政に偽造し、人質に送って久々利の城主土岐三河守を招き、饗応して暗殺し、その妻子を追い出して久々利城を取った。この三河守、驍勇で若い時悪五郎と称す。ある年八月中旬の白昼ほど月明らかなるに乗じ、家伝の名刀鵜の丸を横たえ弓を持ってただ一人、鹿を狩るべく久々利山麓を乗馬し行く。時に何とも知れぬ異態の物、向うの林中より出ずるを射伏せんとするに弦絶ちたり。下馬して太刀を抜かんとすれどぬけず。ところへ長《たけ》一丈ばかりの山伏一人現われてきっと睨む。悪五郎、手捕りにせんと飛び掛かると山伏消え失せ、太刀をみれば常のごとくぬけ、弓の弦また切れおらず。何となく怖ろしくなり、乗馬して長保寺の門まで帰り、内に入り客殿の障子を明けると、住持出(476)会い、深更に御出で怪しという。ことごとく次第を語るに、住持も同宿も稀有のことかなとて手を打ち、その化生の者はこんなだったかと言うより早く、鼻も目もない白瓜のごとき顔の者限りなく出で来る。「悪五郎さては今夜命を失うなり。ぜひもなき仕合わせ無念なりとて、太刀を抜かんと欲するにまた抜けず。今はこれまでと思うところ風吹き来たり、煙の消ゆるごとく寺もなく、坊主もなく、ただ野原なり。馬に乗りようやく夜明方に久々利の城に帰るなり」と見ゆ。紀の国坂を通り掛かった商人が逢った怪物は、先に娘、後に夜蕎麦売りと化けおったが、いずれも顔が玉子のように、眼鼻口ともなかったとハーンが書いたは、この久々利山麓の妖怪諸の焼直しであろう。
 予が知るところ、この筋の怪譚のもっとも古いのは、晋の干宝が今より千六百年ほど前に書いた『授神記』に出ず。ただし『増訂漢魏叢書』収むるところに見えず。『法苑珠林』(千二百五十八年前、唐の総章二年成る)巻一一や、『太平広記』(九百四十四年前、宋の太平興国九年編纂)三五九に引かれおる。曹魏の黄初中(西暦二二〇−二二六年)、騎馬して頓邱界を夜行く者が道中で行き逢ったは、兎の大きさで、両眼、鏡のごとく、跳梁して馬を遮り進ましめず。その人驚いて馬より落ちた。良《やや》久しくして怪物消え去ったので、また乗馬して数里行き、一人に逢いて心嬉しく同行するうち、その人が全体君を威したはどんな物だったかと問うた。身、兎のごとく、眼、鏡のごとく、形|悪《にく》むべしと答えると、おれの眼を見よというを視れば、前にみた通りの怪物だから、仰天して落馬した。その家人が馬だけ帰ったゆえ不審して行ってみると、主は道辺に気絶しあり。介抱してようやく蘇り、右の次第を語ったそうだ。   (昭和二年九月一日『月刊日本及日本人』一三二号)
 
(477)     水難美談
           単純人「水難美談」参照
           (『月刊日本及日本人』三六九号一〇二頁)
 
 『翁草』巻一〇三、天明三年七月、浅間嶽焼けて戸根川水出た記事中に、次の文あり。「若き女の、背に子負い前にも抱きて、屋の上にたゆたう。この子助け給えと、声を限りに叫べども、舟なければ詮術《せんすべ》なし。少し岸近くよる時に、ささ網という物を差し出だすに、抱きたる子をその中へ投げ入る。明けてまた出だすに、背に負いたるも投げ入れて、女は手を合わせて拝みけり。その母をも助けんと、流れにそい、十歩ばかり行くに、火石流れて押し懸かり、家共に波の底に押し沈めて、次第に泥押し来る。川も岡も一つになり、矢を射るごとき早瀬の水、少し静かに見えたり。坤軸という物砕けて、世界一度に泥の海となる時の来ぬらんと、肝魂も消え果て、腰ぬけ立ちも上がらず。さばかり怖ろしき中に、若き男の、老いたる母といわけなき子を二人連れたるが、子を捨て母を負い、川中へゆく時、母声を揚げて、われを捨て子供を助けよと泣き叫ぶ。折しも長櫃流れ来る。母を櫃の上にのせ、手を合わせ拝みて立ち帰り、念なう、二人の子を肩にのせ、波を踏んで走り来る。近くなると、岸の上に投げ上げて、母の跡を慕い、打ちてゆく勢い勇ましう、その志の天にや通じけん、辛うじて追い付きて母をも助けたり。これをみるに、少し息出たる心地して立ち上がる。また若き女の稚子を抱きて、浮きぬ沈みぬ流れ来る。岸近くなりたれど上がり兼ねたり。この子ははや死したるとみえて、河へ打ち捨て、女は這い上がり、声をばかりに泣き臥したり。『身にまさる物なかりけん、みどり子はやらむ方なく悲しけれども』とは、かかることをやと聞くに涙も留まらず、云々」。
(478) 蜀山人『夢の浮橋』上に、文化四年八月十九日永代橋落ちて人多く死んだ時、麻布辺の者、近所の子供両人落とし、申し訳なきとて、子細を申し置き、証拠とて羽織を残しおき入水せしとかや。またある男、実子を助け、他人の子一人失い、申訳なきとて叫び候由、然れども子に引かされて、終夜川辺に泣き明かしけるとなり、とある。かかる急難の際、義理正しく振舞うには、平素の修養がもっとも肝心で、小説ながらも西鶴の『武家義理物語』に、荒木村重の臣神崎式部、主君の次男に随って、出水最中の大井河を渡すに、自分の一人子勝三郎は無事に渡り了《おお》せたが、国に留まりし同役森岡丹後の多くの子供の一人、丹三郎を托され同行したところ、押し流されて沈み失せた。親より預かった人の子を失い、「汝世に残しては丹後手前、武士の一分立ち難し。時刻移さず、相果てよといさめければ、さすが侍の心根、少しもたるむ所なく、引き返して立つ浪に飛び入り、二たびその俤《おもかげ》はみえずなりぬ」とはえらいえらい。
 さて水難の際、ある人妻が自分の子を落として、先妻の子を助け了《おわ》ってのち、よく見ると自分が手離した子も、何かに支えられて活命しおった話は、水害に付き物で、現代に限らず、江戸時代の随筆か何かにも、すでに同型の話が出ておるかも知れぬ、と単純人が言われた。正しく同型、すなわち継子を助けて実子を手離したが、天佑で実子も助かったという話は、維新前の物にまだ見当たらぬが、親を助くるうちに子を失い、ほどなく子も助かりおると判った話は確かにある。青葱堂冬圃の『真佐喜のかつら』六に、嘉永七年十一月四日、下田大津浪の節、橋本長之助なる者、近ごろ妻に死なれたるが、老母を負い悴の手をひき山に奔る。その母、老病のわれを捨て置き孫を助けよと言えど、母を捨つるに忍びず、?躇するうち、二の波で舟一艘より来る、それに母をのすると引波で舟は見えずなり、悴も行衛知れず。翌日、図らずして悴に逢いしも、母はとても助かるようなしと、ただ泪にくれおったが、老母の乗った舟、異国船に助けられ、恙なく下田へ送り来たので、三人寄りて限りなく悦び、長之助は一層母に孝を尽しおると、近き浜村の雑質屋の主、予に語りぬ、と出ず。
 それより少なくとも七百七十年前成った『今昔物語』一九には、むかし淀河大水で家多く流された時、年五、六歳(479)ばかりで、色白く形美な男子を持ちて、片時も身を離さず愛する法師が、その子を助け岸に向かって游《およ》ぐうち、自分の母また流れ下るを見付けたが、二人ともに助くべきようなし、命あらば子をばまたも儲けても、母に今別れてはまた値《あ》わんようなしと思うて、子を棄て母を助けて岸に上ったところへその妻来たっていわく、汝は浅猿しき業しつる者かな、目は二つあり、ただ独りありて白玉と思いつるわが子を殺して、朽木のようなる嫗の、今日明日死ぬべきをば、何と思うて取り上げつるぞと、泣き悲しんでいいければ、法師、現にいうこと理《ことわり》なれども、明日死すというとも、いかでか母をば子には替えむ、命あらば子はまたも儲けてむと諭せど、妻は泣き止まず、しかるに母を助けたことを、仏も哀れとや思し召しけむ、その子をも末に人取り上げたりければ、聞き付けてその子をも呼び寄せて、相共に限りなく喜びけり、その夜法師の夢に、やんごとなき僧来たって法師に告げて、汝が心はなはだ貴しとほめた、とある。これに似た支那譚を、故芳賀博士の攷証本に見のがしおるから、ここに挙げよう。『南史』七一にいわく、陳の大儒で、のち隋に事《つか》えた王元規は、「性、孝にして、母に事えてはなはだ謹む。晨昏《あさばん》、いまだかつて左右を離れず。梁の時、山陰県に暴水あり、居宅を流漂《なが》す。元規、ただ一の小船あるのみ。倉卒にして、その母、妹ならびに姑(『陳書』三三に、孤に作る)、姪を引いて船に入り、元規みずから?棹《かじ》を執って去る。その男女《こども》三人を留めて、樹の杪《さき》に閣《お》き、水の退くに及び、倶《とも》(『陳書』この一字なし)に全きを獲たり。時の人、(『陳書』皆の一字あり)その至行を称《たた》う」と。
 もしそれ水難以外の場合に、義理からわが子を棄てた話は和漢ともに少なからず。今ただ一、二例を列ねんに、西鶴の『武家義理物語』五の二、姉川合戦に、竹橋甚九邸の妻が、敵に追われて、懐いた自分の姪を棄て、七歳ほどの夫の甥を肩に掛けて逃げた話は、支那の原譚を三田村氏等の輪講の節出し置いた。『晋書』九六に、「鄭休の妻石氏、少《わか》くして徳操あり、年十余歳にして、郷邑これを称《たた》う。すでに鄭氏に帰《とつ》ぎ、九族の重んずるところとなる。休の前妻の女《むすめ》すでに幼く、また休の父|布《ふ》、臨終に庶子の沈《しん》生あり、これを葉つることを命ず。石氏いわく、奈何《なん》ぞ舅の胤《たね》を存せざらしめんや、と。ついに、沈および前妻の女《むすめ》を養い、力《つと》めて兼《あわ》せて挙ぐることをせず。九年のうち、三(480)たび子を挙げず」。迂闊に読むと義理堅いようだが、前妻の娘と舅の庶子を育てんため、三度まで自分の子を挙げぬも酷極まる。そんなことなら始めから嫁がぬがよい。けだし最近どこやらの有閑婦人同様、外粛内蕩のたちの女だったろう。(三月十二日朝八時)   (昭和十四年四月一日『月刊日本及日本人』三七一号)
【追補】
 今度は、これらと同型異態の火難美談を申し上げる。鳶魚先生の『江戸の実話』一七九頁已下に、北村季文の『母子草』を引いて、文政十二年三月二十一日神田佐久間町から出た大火の節、八丁堀辺に住んだ柳宮の仕丁が当番で出仕した不在中、その妻六歳になる実子を負い、九歳になる継子を手曳きし、深川の知人方へ逃げのく途上、小川に遮られて渡り得ず、六歳の子を捨て前妻の子のみ負うて、ようやく川を渡り深川の志す家に到り、一夜歎き明かした翌日の夕方、夜前捨てた子を拾い助けた男が、見ず識らずながら親切にも尋ね来たり、終《つい》にその子が母の手許に還った次第を述べある。さて鳶魚先生評に、「人間味という物は、人間だけにあるので、動物と共通する物なら、取り別けて名に呼ぶはずがない。このごろは、言葉の上でさえ間違えておるようだ」とある。同じことをずっと手短く、「ゼヤー・イズ・マッチ・ヒューマニチー・イン・マン」(人間には、人間味が大分ある)と、米国のマーク・ツェーンが書いたを三十余年前読んだが、その米国の大統領さえ、大分人間味の持ち合わせがなくなったようだ。(八月五日夕)   (昭和十四年十月一日『月刊日本及日本人』三七七号)
 
(481)   小篇
 
     塔の傾斜を直す話
 
 三月十五日の『日本及日本人』六五−六六頁に見えたる、浄蔵が八坂の塔の傾きしを祈り直せし話に似たること、『宋高僧伝』巻一九、僧惟忠伝に出ず。いわく、唐の成都の法定寺の塔、「すこぶる霊異多し。人あるいは酒肉を将《も》って、酔いに乗じて聖仏の前に詣《いた》れば、立ちどころに災禍に見《あ》う、云々。塔、霆震《ていしん》をなして、その塔の心柱を抜いて外に出だす、云々。忠すなわち聖弥勒像を叩?《たた》き、天竜に告訴《うつた》う、云々。一日、迅雷烈風あって、また前《さき》の震に同じ。これを覆《あらた》め観《み》るに、すなわち竜神|旧《もと》の柱を送り、安置すること故《もと》のごとし。その柱を易《か》うるに当たり、陰雲|四合《あつま》り、四《よたり》の神人あり、身をもって扶翼し、立てて塔と斉《ひと》しくす。忠の物を感ぜしむること、かくのごとし」。建築術の精しきに誇る欧州すら、イタリアなどに、地面と基礎の国からぬによって、鐘塔の宏壮を極めながら、いちじるしく傾斜し来たれるもの多き由、一昨年出版の『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』巻五に見えたり。和漢木造の塔多きゆえ、古くよりその傾斜を直す法ありしを、博く技芸に達せし浄蔵は心得おり、活用して八坂の塔を直せるを、もっぱら祈?の力と言い伝えたるならん。
 また瑞賢が池を穿ちて塔を直せしというに似たこと、『五雑俎』巻五に、「国朝(明)の徐杲《じょこう》、木匠《だいく》をもって家を起こ(482)して、官、大司空に至る。(中略)魏国公の大第《だいてい》傾斜して、これを正《ただ》さんと欲す。計《はか》るに、数百金にあちぎれば不可なり。徐、人をして沙千余石を嚢《ふくろ》にいれて両旁《りようわき》に置かしむ。しかして、みずから主人と対して飲む。酒、闌《たけなわ》にして出ずれば、すなわち第すでに正し」。またいわく、「喩皓《ゆこう》、最も塔を製《つく》るに巧みなり。?《べん》にあるとき、開宝寺の塔を起《た》つ。きわめて高くして、かつ精なるも、すこぶる西北に傾く。人多くこれに惑う。百年ならずして、平正にして一なるがごとし。けだし  拝の地は平らにして山なく、西北の風|高《つよ》くして常に吹くが故なり。その精なること、かくのごとし」。   (明治四十五年四月十五日『日本及日本人』五八〇号)
 
     御糸脈
 
 本誌六一七号七一頁に、『轎窓小記』を引いて、糸脈とは和漢とも虚構の俗説で事実にあらざる由見えた。しかるに予往年大英博物館にて、一七〇五年ローマ板、ジォヴァンニ・ポルゲシの『一七〇四年二月十日、インド・ポンジシュリ通信』(本文二四五頁の小本)を読み、糸脈に似たことあるを見出だし抄し置きつるを、ここにイタリア語原文より訳出せん。いわく、南インドの卑民パリアまたサルテカレムとも名づく、この族中医を能くする者あり、他の種族を訪うて病を診するに、医の身分きわめて低きをもって、病人を見せずにその室より棒を出し、病人その一端を執り、戸外に在る医、他の一端に手を触れて脈搏を診す、このこと狂愚にして真に笑うべし、予欧州に在りし日しばしばこれを聞くも信ぜざりしが、今みずから目撃するに及び、わずかにその事実たるを信ずるに及べり、と。ボルゲシはローマ法王クレメント十一世の命により支那に赴きし医学博士なれば、その言すこぶる信ずるに足れり。   (大正二年十一月十五日『日本及日本人』六一八号)
【追加】
(483) 一八三七年板『ベンガル亜細亜協会雑誌』巻六の八四〇頁、コノリ氏のインド・グワリオル州ウゼニ市の記にいわく、市の中央に名高き侠妓レクマットビビの墓あり、これその売笑の収金七百ルピーを毎歳節会に施せし女なり、それに近く守操もて名高き貴婦人の墓あり、この人ナワブ・バクターカカンの妻たり、病重きに及び、その夫特に名医をスラットより招き、脈を診せしめしも諾せず、医すなわち戸を多く隔てて一糸を通じ、かの女はその一端を医は他端を執って診せんと乞う、女これを諾し糸を猫の頸に繋ぐ、医いわく、この猫餓えて死に瀕すと、夫怒って妻に糸を執れと強いしに、今度は糸を柱に繋ぐ、医診して再びおのれを欺くを知り、怒って去り、かの女もまた死せり、と。   (大正二年十二月十五日『日本及日本人』六二〇号)
 
     人名に楠字を用いること
          十文字「白子の名産」参照
          (『日本及日本人』六二二號一二二頁)
 
 このこと、明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』三一一頁に、予大和吉野郡玉置山の神、狼を使い物とすることを論ぜしついでに述べたり。いわく、「今日は知らず、二十年ばかり前まで、紀伊藤白王子社畔に、楠神と号し、いと古き桶の木に、注連《しめ》結びたるが立てりき。当国、ことに(かの社がある)海草郡、なかんずく予が氏とする南方苗字の民など、子産まるるごとにこれに詣で祈り、祠官より名の一字を受く。楠、藤、熊などこれなり。(予の兄弟姉妹九人、定楠、元楠、藤吉、阿熊、熊楠、常楠、藤枝、種楠、楠次郎という。)この名を受けし者、病あるつど、件《くだん》の楠神に平癒を?る。知名の士、中井芳楠、森下岩楠など、みなこの風俗によって名づけられたるものと察せられ、今も海草郡に楠をもって名とせる者多く、熊楠などは幾百人あるか知れぬほどなり。予思うに、こは本邦上世トテミズム行なわれし遺址の残存せるにあらざるか。三島の神池に鰻を捕るを禁じ、祇園の氏子|胡瓜《きゆうり》を食わず、金毘(484)羅に詣る者蟹を食わず、富士に登る人|?《このしろ》を食わざる等の特別食忌と併せ攷うるを要す。上文、玉置山の狼もまた、その地に多き玉置一族のトテムたりしにあらざるか」と。
 トテム、予は従来族霊と訳したれど、一族数族に限らず個人のトテムを奉ずる民もあり、また一族一氏のトテムと個人のトテム併び奉ずる民もあれば、トテムの語をそのまま用うるの外なからん。民俗学のダーウィンと称せらるるフレザーは、濠州土人の一部に男女交媾と懐妊との間、何の関係あるを認めず、婦女その祖先の霊が寄託せる特種の木石動物等に近づけば子を孕むと信じ、その物を生まるる子の真の父としてトテムとする風あるより推して、諸民族に行なわるるトテミズムは、みなかかる信念より起これりと説く。少典の妻が大電北斗の枢星を繞るを見、感じて黄帝を生み、帝?の妃が巨人の跡を践んで后稷を孕みしごとし。しかれども、フレザーの説に対してラング、ハッドン、ゴルデンワイセル等異論を立つる者輩出し、おのおの一理あるようなり。『玄同放言』に馬琴が列挙せるごとく、わが国の古史に動物を名とせる人多きは、古え本邦また多少のトテミズム行なわれし証とすべきも、古今の記録その詳を欠くをもって、わが国のトテミズムは一族一部落に行なわれしか、一個人の勝手次第に行なわれしかを知ることすら難し。
 姑《しばら》く他の諸例を推して考うるに、紀州の楠をトテムとせし一群の民は、もと藤、熊等をトテムとせし他群の民と世々婚を通ぜしか、もしくは楠をトテムとせし民群の内また藤、熊等をもトテムとせし小民群分立せしかなるべし。楠をトテムとせし理由定かならずといえども、インドにチャムパカ樹満開する時、節会を設け、男女その下に集まり舞うて婚嫁を定むることあり。その他花木を氏とする者多し。レオナードの『下ニゲル民族篇』(一九〇六年板)に、血梅(ヘマトスタフィス・バルテリ)という樹の蔭で姦通する者は罪なしと信ぜらる、とあり。想うに上古紀州の民、節時に神木の楠の下で歌垣など催し、濫会して孕み生まれし子、誰を父とも知れぬより楠神の子とせしにあらざるか。今年一月の『郷土研究』に、今も木に子を祈る所ある例二条出でたり。その一は陸前にあって、港神社の祭日、子を欲(485)する五、六十くらいの婦人群集し、社畔の大椿木へ自分の陰部を接し木に接吻すること目下大流行とあり。これら上述濠州土人の所信に似たり。
 ついでに言う、紀州で楠字の人名に用いられたる最《いと》古き例、予の知るところにては、『紀伊続風土記』付録一に引ける元弘三年の古文書に、紀千代楠丸、また正慶二年、建武四年、暦応三年の古文書に、紀犬楠丸あり。その元弘三年の文書は、文中に犬楠丸、署名には単に紀犬楠判とあり。この格で予も爾今熊楠丸と書くと美少年らしく聞こえるようだが、『今昔物語』などに多衰丸、調伏丸、鬼同丸の例もあるから、強盗のように聞こえるかも知れぬ。   (大正三年二月一日『日本及日本人』六二三号)
 
     三眼人、二眼人、一眼人
 
 前号六五頁、この見出しの下に中野正剛君、その外遊出京の前日、杉浦先生より贈られた詩中、「看取す、神州三眼の人」なる句の三眼人の由来を叩きしに、「先生いわく、これ明治初年の流行語なり。インド人、安南人等は一眼人なり。故に、泰西の文明に遇うて盲目的に屈従し終われり。支那人は二眼人なり。故にこれを警戒して鴉片《アヘン》戦争などを惹起せり。しかるに日本人は三眼人なり。故に彼の長所を看取してこれを学び、彼の野心を察してこれを防ぐ所以《ゆえん》の道を講ずとの意なり、と」と述べらる。この中野君の文を読んで明治初年かかる流行語ありしを知り得たるは吾輩の幸いなり。
 さて明治四十二年二月二十七日の『ノーツ・エンド・キーリス』に、英国の古文学者ベンスリー教授、問を出し、いわく、「ロバート・バートンの名著『アナトミー・オヴ・メランコリー』(その初板は一六二一年出たり)に、欧州人は一眼、支那人は二眼、その他の諸民すべて無眼という諺を出せり、これはジョセフ・ホールの『新世界誌』(『ムンズ(486)ス・アルター・エト・イデム』、一六〇五−七年出ず)に、かかる語あるに拠れるならんが、支那の書また外人の支那視察記行に、支那に果たしてこの諺行なわれたるを証すべき記事ありや、『漢英仏教語彙』の編者アイテル博士等に問いしも答うる能わざりき」と。
 よって予その年十月二日の同誌に拙答を出し、大正二年五月の『民俗』五二頁にも訳文を載せたるを、少しく増減してここに掲げんに、一三〇七年西アジアのシリシア王ハイトンが、その実地観察に係る蒙古事情を記せる『東国史』に、「支那人、聡慧明察なれば、外国諸民の学術巧技を蔑視し、支那人二眼、ラテン人一眼、その他全く眼なしという」とあり、目一四〇三至六年間、サマルカンドに帖木児《チムール》を訪い駐まりしスペイン使節クラヴィホの記行に、かの地でもっぱら支那人二眼、仏郎機(フランキすなわち欧州人)一眼、モール人無限、と言う由を載せ、一四三六年より十六年間タナとペルシアに旅行せるヨサファ・バーバロの行記には、彼方で遇いし支那商客みずから、「われら二眼、仏郎機一眼、韃靼人無限」と誇称せり、と出ず。『松屋筆記』巻八五に、明の崇禎中、徐昌治編纂『聖朝破邪集』に収めたる蘇及寓の『邪毒実拠』を引いて、「艾儒略らは夷人なり。万暦の間よりわが中国に入る。有識の者、その立心《どうき》の詭異《きい》にして行事《おこない》の変詐《へんさ》なるを窺い、すでにその不軌なることを疏《そ》してこれを駆《ほうちく》せしに、今やなんすれぞまた来たれるや。その故《わけ》は思うべし。また来たるも天下|惟《ただ》にその奸をよく詳察するものなきのみならず、なおかつ、さきの駆《ほうちく》の疏も、ほとんど見ることを得ざればなり。夷輩、喜んで相告げていわく、わが西土は四眼あり、日本人は三眼あり(両《ふた》たび日本に到って開教し、かれに両《ふた》たび殺さる、故に言う)、中国人は両眼あり、呂宋《ルソン》人は一眼もなし、と」。呂宋《ルソン》人、天主教に化せられて国亡びしを指すなり。惟うにこの一眼、二眼等の譬喩、中古支那と欧州またアジア間に往復する輩がもっぱら唱えしところにて、時と場合に臨み、あるいは支那人に、あるいは外人に、交互充て称えたるならん。事情これと異なれど、一眼、二眼等の諺は古梵土すでに行なわれしと見えて、北涼訳『大般涅槃経』二五に、「世に三人あり。一は目なく、二は一目、三は二目なり。目なき者と言うは、常に法を聞かず。一目の人は、(487)しばしば法を聞くといえども、その心|住《とどま》らず。二目の人は、専心聴受し、聞きしがごとくに行う。法を聴きしをもっての故に、世間を知るを得。かくのごとき三の人は、この義をもっての故に、法を聴きし因縁もて、すなわち大般涅槃に近づくことを得」、また『宗鏡録』四一に 「『法華経』にいわく、もし利根あり、智慧|明了《めいりよう》にして、多聞強識なれば、すなわち為に説くべし。およそ参玄の士は、すべからく二眼を具すべし、一は己《おの》が眼もて宗を明らかにし、二は智眼もて惑《まど》いを弁ず、と。禅宗にていわく、単《た》だ自己を明《あき》らむるのみにて目前を了せずんば、かくのごとき人は、ただ一眼を具するのみ。理孤にして事|寡《すくな》く、終《つい》に円通せず、と」と言えり。明治初年の流行語は、これら外邦の古諺を因襲せしか、はた偶然日本でできたるかを詳らかにせず。   (大正四年五月十五日『日本及日本人』六五五号)
 
     支那の裁判譚
           「東洋教政対西洋教政」(九五)参照
           (『日本及日本人』七四五号二一−二二頁)
 
 羊皮を杖で叩いて塩が少し出たからその羊皮を薪売りのでなくて塩売りの物と断定し、団糸を軽く鞭《むちう》ちて鉄屑が出たからその糸を針売り婆の所有で糠売り婆のでないと裁判したのと同似の話が、『琅邪代酔編』巻二六に出ず。江淮省游平章顕公、檄して明州の開分省に至り政をなす清明なり。城中の銀店、一の蒲団を失い、隣家より見出だしたが、隣家服せず争論す、平章至ってその故を問い、この一蒲団さしたる物でもなきに両家の好みを失わしむるとは怪しからぬ、その罰として十七杖を科してのち棄つべしとて、これを杖で打つと、銀星が地に満ちた、よって銀店の所有と判り隣家は罪された、とある。(十二月一日)   (大正七年十二月十五日『日本及日本人』七四六号)
 
(488)     赤沼の鴛鴦
           桜所「松井須磨子論」参照
           (『日本及日本人』七四八号七七頁)
 
 この話、『著聞集』に陸奥の赤沼とあるが、『沙石集』には下野の阿曽沼であったこととしておる。これらよりも古く書かれた『今昔物語』には、京都の美々度呂《みみどろ》池で雄鴨を射殺して持ち帰ると、雌鴨が慕い来たりしを見付けてその人出家した記事あって、鳥が歌詠んだ由はさらに見えぬ。支那にも元魏の顕宗が鴛鴦の雄を獲しに、雌が悲鳴して去らざるを見、鷹を飼うを禁じたという(『淵鑑類函』四二六)。『琅邪代酔編』三八に、明の成化六年十月、淮安の漁人、鴛鴦の雄を烹るに、雌恋々飛鳴し沸湯中に投死す、漁人その意を悲しみ、羮を捨てて食わず、人これを烈鴛というと、『双槐歳抄』から引いて、その著者の詠んだ詩をも出しおる。欧州でも似た譚あり。十七世紀の初めごろ、英国ウィンゾル辺の天鵝、その雌が他の雄と狎れ親しむを見、まず姦夫を追い尋ねてこれを殺し、還ってまたその雌を殺したと、ハズリットの『フェース・エンド・フォークロール』二巻五七六頁に出ず。(三月五日)   (大正八年四月一日『日本及日本人』七五三号)
 
     童話桃太郎
           君山「童話桃太郎の改造」参照
           (『日本及日本人』七七六号七三頁)
 
 桃太郎の童話が、「神代巻」の諾尊桃実を投げて醜女鬼を却《しりぞ》けし譚や、西王母の神異談や、道教に桃よく邪を駆るとする説に因緑あり。詰まるところ、桃を神霊の物とする支那思想より出たということは、大正二年五月の『民俗』(489)に柴田常恵君が述べられ、代議士田中善立氏が泉州で聞き取った類話二則をも挙げられた。桃の原産地は支那とも西アジアとも見立て得る理由あって、学説今に一定せぬ(『大英百科全書』一一板、二一巻)が、桃よく鬼を駆るという信念は日本、支那のみに限らず。インドでも石榴や桃樹の下に施食すれば鬼神懼れて食い得ずといい、フランスでも目明しが巡邏中、ある園の桃三を取り食うと家に帰って劇しく腹痛す、さては鬼に中《あ》てられたと悟り、巫男に頼むと、その桃の葉三枚を枕下に敷いてくれてからたちまち安眠す、そこへ鬼が来て戸を敲き、吾身苦痛に堪えず何とぞその葉を除きたまわれと歎願するので、葉を取り去ると快癒して去ったという。(『瑜伽集要救阿難陀羅尼?口軌儀経』。フレンド『花および花譚』五五二頁)
 何故かく桃を鬼が忌み怕るるかというに、桃はもと毒物だったかららしい。旧説に、ペルシアの桃に大毒あり、その王復讐のためにこれをエジプトに移栽せしに、地味が大当たりで全く無毒の好果となったといい(プリニウス『博物志』一五巻一三章)、『本草綱目』にも、「桃、微毒あり、多く食すれば人をして熱あらしむ」とか、「生桃、多く食すれば損うあって益なし。五果の列、桃を下《げ》となす」とか、「桃梟、一に神桃と名づく。これはこれ桃の実の樹に着きて、冬を経《ふ》るも落ちざるものなり。小毒あり、百鬼精物を殺す」など言いおる。支那の桃は選種に念を入れたこと久しいから微毒で済むが、桃のラテン名ペルシカ、ロシア名ペルシクから推すと、最初はペルシア辺に野生したその原種は大毒であったから、鬼もこれを怕ると支那までも言い伝えたのだろう。鬼が島征伐の話は『保元物語』の為朝の譚や、ヴァイツおよびゲルラントの『未開民史』巻六なるタヒチ島のヒロが多くの犬と勇士を率いて島々の鬼神を撃った話(『郷土研究』二巻四一五頁)、その他類語少なからじ。
 道家に女根を桃と見立てるとは今始めて承るが、ちょっと似たことは本邦にもある。『甲子夜話』一九に、猷廟のころは田舎の婦女嫁入りに馬に乗りしとぞ、御鷹野の時御覧ありて、「乗掛けの嫁もかすむや桃の花」と発句あり、婦女遠所を行きたると見ゆ、よって嫁とは夜目遠目ということあるに寄せられて、桃とは、かの婦女乗掛馬のことなれば(490)両足を前に伸べ出だしたるゆえに、股の幽かに露われたるをかく宣えりと覚ゆ、と載す。(二月十五日)   (大正九年三月一日『日本及日本人』七七七号)
 
     善光寺如来
 
 『源平盛衰記』九、『塵添?嚢抄』一七等に出た、本田善光が弥陀如来を負うて信濃に下ったという譚に似たのが、支那にもある。『大清一統志』三二にいわく、「奉天府の広祐寺は、云々、本朝の天聡九年の重修なり。内に自来仏一?あり。相伝う、前《さき》の代に、郷民の広寧に貿易するあり、路に童子に遇うにいわく、われは広祐寺に往くなり、よくわれを負いて往かば、銀布をもって相|酬《むく》いん、と。その人、これを諾す。数百里を朝《ひ》を終えずして至る。寺に抵《いた》れば、すなわち一の金身の仏像なり。数人にてこれを舁《か》くも動かず。寺僧、これを異とし、酬いるに銀布をもってす。康煕二十一年、駕《てんし》寺に幸して、袈裟を賜う、云々」。   (大正九年十月一日『日本及日本人』七九三号)
 
     頼朝公十四歳の髑髏
          「雲間寸観」欄参照
          (『日本及日本人』七九七号五六頁)
 
 この咄古くあったと見えて『甲子夜話』続編一七にも出ず。いわく、「豆相の神社、先年開帳とて都下に出だせしことありし時に、霊宝物中頼朝の髑髏あり。事を説く僧それかれと言立《ことだて》す。巡覧の人見て、ああこの髑髏は小さなるものなり、世に頼朝の頭は大なりと聞きしというと、僧たちまち竿を指してこれは忝なくも頼朝十三歳の御頭」と。西洋にも、閹人で熱心に男女に不犯を勧め廻ったアキレウスとネレウスの二尊者の頭が、おのおの五つずつ保存され(491)あり。正伝にジャン・バプチスト尊者の尸は不信徒に焼き亡ぼされたとあるに、その尸というもの多くの正教や天主教の寺に崇められおる由、コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』巻一および二に見ゆ。   (大正十年二月一日『日本及日本人』八〇一号)
 
     雪を豊年の徴とすること
 
 わが国で雪は豊年の貢ぎ物という。『淵鑑類函』九に「『詩』の伝にいわく、豊年の冬は積雪多し、と」、「語《ことわざ》にいわく、冬に積雪なければ、夏に余糧なし、と」、「『西岳記』にいわく、甘雪この禾黍《かしよ》に恵む、と」などいうに合う。『琅邪代酔編』二にも、「按ずるに、陳紹卿がいわく、氾勝之が書に、雪には五穀の精あり、汁を取って、もって原蚕の沙を漬《ひた》し、穀に和してこれを種《う》うれば、旱に耐う、と」。夏蚕《なつご》の糞を雪水に浸し五穀の種と雑えてまけば生えてのち日負けせぬのだ。雪が草木によき理由は蚤《はや》く福沢先生の『窮理図解』に出された。
 馬琴の『羇旅漫録』一に、四、五月のころ、富士の残雪人形のごとく宝永山の方の凹処に残るを農男《のうおとこ》という。田子の土人いう、農男見ゆる年必ず五穀熟す、と。やや似たことがペルシアにある。イスパハン城外一里、山に近く高さ二、三尺の石あり。雪積んでこの石の頂に達すれば溶けてのち地潤い草盛え豊年疑いなし。よって一番にこの吉報を宮廷に齎す百姓は百トマンを賞賜せらるという(一六七六年パリ板、タヴェルニエー『波斯《ペルシア》記行』三七一頁)。   (大正十年二月十一日『日本及日本人』八〇二号)
 
(492)     「男女毛髪の奇現象」を読む
             新井誠夫「男女毛髪の奇現象」参照
             (『日本及日本人』八一五号八二頁已下)
 
 髪を蛇と見立てること(八三頁)は仏教に限らぬ。古ギリシアで祀った復讐の神女工リンニエスは蛇を神にし、怪女ゴルゴネスも蛇を髪と帯にしおる。古支那は流異りで、蓐収《じよくしゆう》、雨師妾《うししよう》など蛇を耳にしおり、日本にもそんなことが『太平記』や『沙石集』などにあつたと記憶する。
 西洋人が金髪を尚ぷ(八三頁)と同時に、黒髪生れの多い南欧人はやはり黒髪を重んじたので、ローマのプリニウスの『博物志』二六巻には、髪を灰褐色にする薬草一に対し、黒くする薬草三種を挙げておる。
 光秀の妻が髪を売ったこと(八四頁)は、『一話一言』一五に、元禄ごろの人で明暦の大火を目撃した者の無名の随筆を引いて、光秀、元旦に朝倉家を立ち退き柳が瀬に之《ゆ》き知人方に留まり連歌などして暮らす。「ある時手前へ人数呼び集むるとて、そのもてなしを内義へ申し付けけれども、自分の食も切れければ如何せんと思いけれども、事急になりぬれば、内方の髪を切って銀二十目に売り、その日の支度を思いのままにせられたりとなり。これとは知らず、十兵衛(光秀)内方の髪のなきを見付け怒りていわく、かかる体になるゆえ見捨つべきとの支度ならんとしたたかに悪口しければ、下女出でかようかようと申し分くる。その時十兵衛感情のあまりに、かかる心入れとは夢にも知らず過言せしなり、免したまえ、この褒美にわれ天下を取りたりともまた女持つべからずと誓言せられしとなり、牢人の時より天下の望みありと見えたり」とある。
 『世説』賢媛篇に、「陶公(侃《かん》)、少にして大志あり、家はなはだ貧しく、母の湛《たん》氏と同居す。同郡の范逵《はんき》、素《もと》より名を知らる。孝廉に挙げられ、侃に投じて宿す。時に氷雪積日にして、侃の室、懸磬《けんけい》のごとし。しかして逵の馬僕はなは(493)だ多し。侃の母湛氏、侃に語っていわく、汝はただ外に出でて客を留めよ、われみずから計をなさん、と。湛、頭髪の地に委《し》くを、下《おと》して二つの?《かもじ》となし、売って数|斛《こく》の米を得。もろもろの屋柱を斫《き》り、ことごとく半《ふたつ》に割って薪となす。もろもろの薦《むしろ》を?《きざ》んで、もって馬の草《かいば》となす。日夕に、ついに精食を設く。従者みな乏しきところなし。逵すでにその才弁を歎じ、また深くその厚意に愧《は》づ、云々。逵、洛に及んで、これを羊?《ようしやく》、顧栄の諸人に称《ほ》め、大いに美誉を獲たり」とあるに倣うて作られた話らしい。似た譚はインドにもあって、『根本説一切有部毘奈耶雑事』二一に、大迦旃延尊者知るところの婆羅門、一女あり、儀容端正、美色超絶、髪彩光潤比すべき者なきによって妙髪と名づく。楽人、南方より来たり、その髪を千金に買わんとす。その父、婆羅門の法として髪を売らずという。父死後、大迦旃延来たり母これを供養せんにも銭なし。女その髪を売らんとするに、楽人、今は五百銭ならでは買わぬという。すなわち売って尊者の一行を供養し、その功徳で王后に立てられ、その王の治める国内疫癘ことごとく除き、人民安楽したので、かの女を安楽夫人と称えた、と見ゆ。   (大正十年九月一日『日本及日本人』八一六号)
 
     髪を切って夫を資けた妻
 
 陶侃の母や光秀の妻のことは、「『男女毛髪の奇現象』を読む」に書いたが、夫のために髪を切って売ったのは光秀の妻よりおよそ六百年前にも例ある。『古事談』二に、惟成、雑色だった時、花の逍遥に一条一種物といいて弁当の持ち寄りを催すことあり、惟成は飯を宛てらる。しかるに、長持に飯の外に鶏子一折櫃、擣塩一杯入れ、仕丁に担わせ行って取り出し、人々感声|喧《かまびす》し。その夜、妻と臥して手を枕に入れて探るに下げ髪をみな切りたり。驚いて問うに、太政大臣の御炊きに頼み、髪と易えて件の品々を出したと言うた、とある。しかるに惟成出身した後この妻を離別し満仲の聟となったのを恨んで、件の前妻が乞食するよう貴布禰の神に祈ったので、のち花山院出家の節、惟成も(494)出家し頭陀を行なうた、とある。貞女の嫉妬は恐ろしいものだ。   (大正十年十二月一日『日本及日本人』八二四号)
【追記】
 宋の銭易の『南部新書』辛巻に、「南中にて、云々、また諺にいわく、秋は稲を収め、夏は頭を収む、と。すなわち、婦人は歳ごとに髪を截って貨《う》るをもって常となすなり」。これは家計のために、毎年夏、頭髪を截って売ることが一汎に行なわれたのだ。   (大正十二年三月一日『日本及日本人』八五六号)
 
     光秀の大黒割り
           「光秀の大黒割り」(無署名)参照
           (『日本及日本人』八一四号一〇六頁)
 
 文禄五年愚軒録『義残後覚』二に、加藤虎之助、北野へ向かうとて、五、六人召具し江州安河を渡るに、河半ばにして七、八寸の大黒像流れ来るを馬取り拾うて、目出度や出陣の首途に大黒の御馬の足に当たりたまうこと御仕合わせ申すばかりもなき御幸、と御の字ずくめに祝うて虎之助に進《まいら》すと、虎之助何条めでたからん、この大黒という者わずか三千人より外は守らず、われは一世のうちに一万人を抱えんと思うに、かかる乏少の大黒門出に然るべからずとて、川下へ三十間ばかり礫《つぶて》にぞ打たせける。いかさま大身になる人は生まるるよりして智慧が格別変われり、と沙汰しけり。果たして所存のごとく七千の大将に仕上がった、とある。『武者物語』はいつできた書か只今分からぬが、たぶん『義残後覚』のこの話の方が光秀や秀吉の大黒割りよりも古いようだ。   (大正十年九月一日『日本及日本人』八一六号)
【追記】
 これを秀吉のこと、かつ大黒を打ち砕きたりとするは、かの『真書太閤記』以来のことなりと言われたが、秀吉、光秀征伐に姫路より上るとて、川を渉る時水上より流れ来る木像を馬副《うまそい》取り上《たてまつ》る。秀吉、何仏と問うに、大黒と答(495)う。秀吉、これを鞍の前輪に推しあて、短刀を抜いて二つに切り割り、大黒はただ千人を育む仏なりと聞けば門出|悪《あ》しし、と言い捨てられたり。この時より天下を望むの大志ありと見えたり、と『武将感状記』六に出ず。この書は『真書太閤記』より前にできた物と記憶する。   (大正十年九月二十日『日本及日本人』八一八号)
 
     海を游いで通うた女
 
 江州石場の播磨屋旅館へ宿った若い僧に、女中が思い付けて言い寄ると、湖を隔てた比良《ひら》山麓に住む、汝の心が誠ならここから盥に乗って百夜通うて見せよと言うて、その場を逃れた。翌晩より盥を浮かべ、かの僧庵の火を目的に九十九夜通うて、百夜めにいつも燈の見える所まで游《およ》いでも火影見えず。欺かれたと知った折から、比良|下《おろ》しが吹いて水底に葬った。その女の一念で、今に三月下旬ごとに八日のあいだ天候が悪い、これを比良の八荒という(『郷土研究』一巻二号一二〇頁)。
 似た話がイタリアにある。ラグサの陸と島との間の大巌上に若い美僧が庵居する。島の一番美しい女がこれと相愛し、定刻に僧が窓に掲ぐる燈を目的に游ぎ通う。女の兄弟これを怒り、弟がまずその庵を敲いて一宿したので、僧が燈を出し得ず。兄は舟を漕いで庵前の海に至り、高く燈を掲ぐるを望んで妹が游ぎ出す。ようやく近付くに及び兄弟船を沖へ進め、真の闇ゆえ、その船の燈ばかり目的に妹が游ぎ往くと、兄弟がたちまち火を消したので妹は溺死し、その屍が三日経て巌上に揚がり、かの僧に葬られたそうだ(十六世紀に成ったストロパロラの『十三快夜譚』七夜二譚)。この類の話のもっとも古いのは、古ギリシアのレヤンドロスという若者がセスツスのアフロジテ女神に事うる斎女ヘローを愛し、毎夜セスツス燈台の光を目的に游ぎ通うたところ、一夜暴風が燈を消したので溺死し、翌朝打ち上がったその屍を見てヘローも入水して死んだというのだ。   (大正十年九月十五日『日本及日本人』八一七号)
 
(496)     百二十年の寿命
 
 『塵添?嚢抄』一に、百二十年の寿命など祝言にも言うは、さるべき謂《いわ》れあるか、如何、云々。『養生経』に、人生じて一百二十年、中寿は百年、下寿は八十年にして、竟《おわ》んぬ、然らざるはみな夭するのみ、また同経に、老子のいわく、人生まれて大期《だいき》は百二年をもって限りとなす、度を節してこれを護らば千年に至るべし、と言えり。これらの心にて言うか、と見ゆ。大隈侯よりずっと先、足利氏の時代、すでに人間は百二十まで生き得ると信じたのだ。   (大正十年九月十五日『日本及日本人』八一七号)
 
     巌となりて苔の蒸すまで
 
 一八九六年六月の『フォークロール』一四六頁にラウス氏いわく、ギリシアのレスボス島人は元旦に海へ赴き、藻が生えた石を拾い帰って家に蔵め置く。男女愛を求むる者はその石の上で石榴を割く、石榴は誠実を表わし、石は堅固を意味し、藻を生やすには一所に永く止まって動かざるべき故、と。石榴だけは抜きとして、石に藻が生えるまでというが、全く君が代の国歌と同趣向だ。     (大正十一年四月五日『日本及日本人』八三三号)
 
     小便で私刑
 
 明治十三、四年ごろ、一日和歌山付近湊村の西瓜畑を通ると、太い杭を路傍に立て、上に制札を打ち立て、「野荒(497)し致し候者は、この杭に縛り付け、小便相掛くべきものなり、村中」と書いてあった。すべてこの村に限らず、田畑の作り物を盗む者を捕えたら、かようの杭に縛り付け晒した上、大勢打ち寄って、犯人の頭といわず顔といわず、時ならぬ雨を注ぎ掛けたものだと聞く。支那にも同様の私刑法があったと見えて、元の陶宗儀が『輟耕録』巻一二に、「曁陽の南門橋に軍人の張旺なる者あり、云々。素《もと》、兇狠《きようこん》にして無頼なり。かつて夜、城西の田父の菜を盗んで執《とら》えらる。その首を溺池に濡《ひた》して、これを釈《ゆる》す。故をもって恨み骨髄に入る、云々」とある。   (大正十一年四月五日『日本及日本人』八三三号)
 
     避火図
 
 『嬉遊笑覧』巻三上に、徐渭の『青藤路史』を引いて、「士人あり、書を蔵することはなはだ多し。毎匱、必ず春画一冊を置く。人これを問えば、いわく、書を聚むれば多く火を惹《まね》く、この物よく火災を厭《はら》うなり、と。世に伝う、蔵書家はみな然《しか》す、と」。十二年前、予熊野屈指の難所、安堵峰の木小屋におった折、囲炉裏の火が板屋根裏に燃え着くごとに、婦女ども栂指を食・中二指に挟んで、オメコオメコオメコ(女陰)と連呼し、かくすれば火滅すと言った。アイルランドの古寺院の前に女人その陰を露わした像を立てたるが少なからず。これは邪視の力強き者に睨まるると寺が自焼するゆえ、その視力の過半を好物の女陰の方へ惹き去るべき方便、ちょうど避雷柱が電力を導き去るに同じと、英科学士院貝リード氏の直話であった(『東京人類学会雑誌』二七八号二九三頁。   (大正十一年四月十五日『日本及日本人』八三四号)
 
(498)     嘘八百
 
 『唐代叢書』二輯五冊に収めた王保定の『?言』(嘉慶十一年弁山楼板、一二丁表)に、「李徳裕、すこぶる寒o《かんしゆん》のために路を開く。南に遷さるるに及び、あるひとに詩あり、いわく、八百の孤寒、斉《ひと》しく涙を下し、一時に南のかた李崖州を望む」。必ずしも八百人というにあらず、八百万の神たちというごとく多数を指したので、そこがすなわち嘘八百ならん。   (大正十一年八月一日『日本及日本人』八四一号)
 
     七十二弟子
 
 『史記』の孔子世家弟一七に、孔子弟子三千人あり、身六芸に通ぜる者七十有二人、と見ゆ。一六七六年パリ板タヴェルニエーの『波斯《ペルシア》紀行』一巻二七一頁に、ジアールベキル城は二重の石垣で囲まる、外の石垣に七十二塔立つ、これは土人の説に耶蘇基督《イエス・キリスト》の七十二弟子の記念に立てられた物という、と記す。予はこの外に耶蘇の七十二弟子ということを聞かぬが、二聖おのおの大弟子の数がたまたま合するも珍し。誰かに告げたらそれは耶蘇はその実烏有先生で、耶蘇の伝は全く孔子の伝から編出された一証だなどと言うかも知れぬ。   (大正十一年十一月一日『日本及日本人』八四八号)
【追記】
 李石の『続博物志』巻七に、孔安国、孔子の弟子七十二人を撰す、劉向、列仙を伝するもまた七十二人、畠甫士安、高士を伝するもまた七十二人、陳長文、耆旧を伝するもまた七十二人、とある。これはわが邦に八景や三十六人撰が多いごとく、孔子の弟子の七十二人が大当りなりしに倣ったと見える。   (大正十一年十二月一日『日本及日本人』八五〇号)
 
(499)     陰陽相崇拝像
 
 宋の周密の『志雅堂雑鈔』上に、「瓜華哇国の燈盞、形、箕《み》のごとく、銅鋳なり。上に国王と国后の二《ふたり》の坐像あり。かたわらに一人の側に立つあり、亀胸にして形醜し。その側に両人の頭あり、殊《こと》に何物たるかを暁《し》るべからず。おそらくは燈盞にあらざるべし。その下は※[図あり]かくのごとし。徐子方、五千をもってこれを得。はなはだ怪しむべし。横径四寸、縦径約三寸なり」と載す。これは今日インドで多く見るリンガ、ヨニ、陰陽交会の像で別段珍しい物でない。件の燈盞と思われたのはすなわちヨニだ。予も始めて見た時、燈盞へ太い桃杖を突き立てた物と見た。さて件の文は宋元の際までジャワ国にヒンズー教が行なわれおった証拠になる。回教になったはその後と見える。周密は七十七歳で元の至大元年に死んだ(『疑年録』巻三)から、宋の理宗の紹定五年(わが貞永元年)の生れだ。   (大正十二年三月一日『日本及日本人』八五六号)
 
     屋根に針を植えること
 
 一九二年ロンドン発行の『ノーツ・エンド・キーリス』一一輯四巻五〇六頁に、セント・スウィジン氏いわく、数月前ある新紙より次の記事を切り抜き置いた。それは「支那の重慶へ一昨年三千百九十六万三千本輸入されたのが、昨年中に三億三千四百七十万本に増した。この針は四川省の諸部でへんな用事に使われる。支那人の家の屋根の棟の真中に漆喰で巧みに福の字を造り付けて厭勝《まじない》とする、この字を烏に損ぜられぬよう、その漆喰の乾かぬうちに多くの針の先を外に向けて植え付けるのだ」というのである。
(500) これについて思い出すは、ヨセフスが(西暦一世紀に書いた)『猶太《ユダヤ》軍記』五巻五章六段に、当時のエルサレムの本堂を記して、その屋根に烏が留まって糞で汚すを防ぐため、先の尖った串|数多《あまた》植えあると出ず、と。後徳大寺の大臣の寝殿に鳶居させじとて繩を張り、綾小路の宮の小坂殿の棟に烏群居して池の蛙を取るを禁ずるため繩を張った由、『徒然草』に見える。厭勝の福の字を針植えて護ることは日本にないが、塀の屋根に硝子《ガラス》の長い破片を植えて盗を禦ぐことあり。『埃嚢抄』に、町々の城戸を釘貫《くぎぬき》という、人を登せじとて、釘を打ち通して根を返さず、故に釘貫という、とある。『嬉遊笑覧』に、釘貫、これ今いう忍び返しなり、とあれど、予が知るところ忍び返しは、ヨセフスが記したごとく屋根に先の尖った串を植えてもっぱら盗を防ぐのだ。   (大正十二年四月十五日『日本及日本人』八六〇号)
 
     狂言「引括」
 
 幸田博士校訂『狂言全集』中巻、大蔵流本「引括」に、妻を離別する者、妻に向かい、何なりともそちが好きな物をやるほどにそれを持って早う出て行けというと、これが欲しう御座るというて袋を出し、男の首へ打ち懸けて引き行く。これに似た話がイタリアにも行なわるる。ある国の太子、狩人の家に宿ってその娘が無類に賢きを見てこれを妻とした。ある日曜日、手で車を牽く百姓と孕んだ驢を曳く百姓と寺門を過《よぎ》ると、寺の鐘鳴り始めたから、一人は門前に車を留め、一人はこれに驢を繋いで、説教聴きにはいった。その間に驢が子を産んだのを二人争うて太子に訴えた。一同は驢を曳いて来た百姓の物たること論なしと言うたが、太子のみはその百姓この驢児をおのれの物とせんため驢を車に繋いだらしいからとて、驢児を車を牽いて来た百姓の物と裁判した。敗訴した百姓、これを太子の妃に訴えると、妃教えて空地へ網を打たしめた。太子怪しんで問うと、百姓、「車が驢児を産むよりは空地から魚を獲る方が容易だ」と言う。なるほどと感じて驢児をさらに車牽いた百姓に戻した。しかし新妃の出しゃばりを悪《にく》み、一時間(501)内に一番好きな物を持って里へ帰れと命じた。妃少しも驚かず、日ごろより好きな物を食い、別れの酒に魔薬を入れて太子に飲ませ、人事不省として山家へ載せ帰り、臥さしめて屋根板を外し置くと、雪落ちて太子醒めた。私の一番好きな物を持ち往けと仰せられたから持って来ましたと言うと、太子笑うてまた夫婦となった(一八八五年板、クレーン『伊太利俗譚』三一四頁)。   (大正十二年五月l日『日本及日本人』八六一号)
 
     罪深い者が渡り得ぬ橋
 
 菊岡沾涼の『諸国里人談』二にいわく、備後国帝釈山の谷川に橋あり。石をもって切り立てたる長さ二十間、幅三間の反橋なり。これを鬼橋と名づく。土俗の説に、神代のむかし梵天帝釈天降り給い、数万の眷属の鬼来たって一夜の中に全く成ると言い伝えたり。むかしこの橋を渡り得れば浄土に至り、渡り得ざる者は地獄に堕つという。今は渡る人なし。故に草木生い茂りて山と等しきなり、と。一無軒道冶の『高野山通念集』一に、御廟の橋、むかしより罪障の深き者は川水に異形の物浮かぶと眼に遮りて渡ること能わず。当時も渡り得ざる人、年ごとにあり、云々。秀吉渡り得ざらんかと憂い、夜半人知れず応其《おうご》一人を具し渡り見るに障りなし。明日渡りて衆に見せし、と。『夫木集』、「これやこの音に高野の橋ならん聞き渡りしにたがはざりけり、法性寺入道関白」。
 予明治十五年詣った時大阪の大富豪の娘が渡り得なんだとて大評判最中であった。しかるに一昨冬詣でると、犬を牽き鉄抱を持って屁を三つ連発しながら恙なく渡る者があったので、座主の前でその体を画いて見せた次第であった。罪ある者橋を渡り得ぬ話は支那に古くある。延久四年釈成尋の『参天台山五台山記』二に、天台山に長七丈幅二至七尺の石橋あって瀑布の頭に懸かり菩提心なき者渡り得ず、近代の人その央《なかば》に至りすなわち渡り果てたと称す、成尋十一年前これを渡り得たと夢みたが今果たして渡る、とある。   (大正十二年八月一日『日本及日本人』八六七号)
 
(502)     美僧の飲み余しの茶を飲んで孕んだ話
 
 寒川辰清の『近江輿地誌略』五九にいわく、泡子地蔵堂は、蒲生郡西|生来《あれい》村にあり、云々。土俗相伝う、往古この地に村井藤竹という者あり、妹一人あり。往還に茶店を出し、旅人を憩息せしむ。ある日一僧あり、ここに来たり茶店に憩いしに、かの妹、旅僧に深く恋慕の情を動かし、旅僧の呑み余せし茶を呑みしに、たちまち孕めることあって、十月《とつき》にして男子を産す。三年の後、かの女、件の子を懐き、川にて大根を洗う。旅僧あり、かの川の辺に立ち留まっていわく、嗚呼不思議なるかな、この子の泣声経文なり、と。かの女これを顧みるに、三年以前恋慕せしところの旅僧なり。女その故を僧に語る。僧、奇なりとして、その子を吹くに、すなわち泡となって消失す。しかしていわく、この西あれ井という所の池中に貴き地蔵あり、かの子が菩提のために建つべし、と。水を替うるに、果たして石仏の地蔵あり、これを安置す。今の地蔵これなり。件の僧は弘法大師なり。それよりして、あれ井の文字を改めて生来と書く、今の西生来村これなり、と。同書七八に、坂田郡に同様の話ある由を載す。それには、惚れられた僧を西行とす。『越中旧事記』下、子撫川の条にも、弘法大師呑み余しの茶を呑んだ女が生んだ子を、大師が撫でると泡のごとく鎔け去った伝説あり。これらは支那談の焼直しだろう。漢の末、零陵の太守、女あり、門下の書佐を悦ぶ。婢をしてその手を洗うた盥の水を取らしめ、飲んで孕んで子を生む。能く行《ある》くに至り、太守その児を抱きその父を求めしむ。児直ちに書佐の膝に上る。書佐これを推すと、児、地に仆れて水となる、と『淵鑑類函』三〇に、『授神記』から引きおる。『増訂漢魏叢書』の『捜神記』には、このこと見当たらない。   (大正十二年八月一日『日本及日本人』八六七号)
 
(503)     疵付けられ料を疵付けられた者に課す国法
 
 ユダヤの古典『タルムッド』に、ソドム市に四人の判官あり、虚偽を主とし裁決を戯弄す。人ありてその隣人を傷つくれば、判官、被害者をして犯人に出血料を償わしむ。これ彼方に血を出して病を療することありしため。アブラハムの僕エレアサル、ここへ来たり住民に傷つけられし時、判官、被傷料を課す。エレアサルさっそく石を飛ばして判官を傷つけ、貴公が余に払うべき出血料を余を傷つけし者に与えば勘定が済むと言った、とある。これより古いか新しいか知らぬが、姚秦の竺法念が訳した『菩薩瓔珞経』一六に似た話を出す。いわく、獅子王が象王を殺し食ううち、その喉に骨を立て大いに苦しむ。前に木雀あるを見て、抜いてくれたら以後食物を与えようと言う。そこで木雀その口に入り尽力して骨を抜きやる。後日獅子が多く獣を殺したところへ木雀来て、少し分けてくれと望むと、われ獅子王として殺すを職業とするは汝も知りおる。しかるに汝前日分際を量らずわが口中へ推参して殺されなんだは勿怪《もつけ》の幸とありがたく思えと言い捨てて去る。その後また獅子が飽食して熟睡しておる時、その一眼を木雀が抜き取った。獅子が怒ると汝ごとき恩知らずは両眼を抜き取るも足らぬ、今一眼を留めやったは千万|恭《かたじけ》なく思えと言った、とある。   (大正十三年三月十五日『月刊日本及日本人』四四号)
 
     女の童身か否を照らし見せる鏡
 
 バートンの『千一夜譚拾遺』(一八九四年版、一〇巻一六頁以下) に、バッソラー王ザイン・アル・アスナムが新たに立って財政の急を救わんことを鬼王に求めらる。鬼王命じて、年は十五で愛敬無双で生来男を欲せず、またかつて男(504)に恋慕されたことなき女を求め、つれ来たれと命じた。どうしてそれが分かるかと尋ねると、鬼王一つの鏡を王に授け、この鏡で美女に逢うごとに照らすと、かつて曇った心を持たぬ女ならその影も椅麗にうつる、それと反して一度でも汚れた女の影は必ず暗くまたは不明にうつると言ったので、その鏡を持って美女を尋ねぬるとき、片端から照らしたが、いずれの女も影が明らかにうつらず、終《つい》にバグダッドの大臣の娘を照らしてその無疵なるを知り、つれ還って鬼王に献じ、鬼王さらにこれをザインに妻《めあわ》せた譚あり。こんな鏡のことは支那に早く言い出されおった。『西京雑記』三に、漢の高祖初めて咸陽宮に入った時、無数の珍宝を見た内に、広さ四尺高さ五尺九寸の方鏡あって、人を照らせば影が倒《さか》しまにうつる、手をもって心を捫《な》で来れば腸胃五臓を透視する、病める者心を掩うて照らせば疾の所在を知らす、また女子邪心あれば胆張り心動くものゆえ、秦の始皇帝はこの鏡で宮女を照らし、胆張り心動く者を見付け次第殺した、とある。   (大正十三年四月十五日『月刊日本及日本人』四六号)
 
     兄と夫といずれか勝れる
 
 『書紀』六に、垂仁天皇の后|狭穂《さほ》姫の兄狭穂彦王(天皇の従弟)が后に、汝兄と夫といずれを愛すると問うと、兄を愛すと答う。王いわく、それ色をもって人に事えば色衰えて寵緩む、天下佳人多くおのおの逓《たが》いに進む、永く色を恃むを得んや、われ鴻祚に登らば必ず共に天下に臨み永く百年を終えん、わがために天皇を弑せよとて匕首を授く。その事成らず発覚して狭穂彦討たるる時、后生むところの皇子を抱いて城に入ったが、兄王の命は助からず、后皇子を出して身は兄王と共に死す、とある。『広益俗説弁』に、このことを述べて、世に后を貞女といえど一事の感ずべきなし、兄王を諌めざるは不孝なり、匕首を受くるは不義なり、その匕首で自害せざるは不勇なり、帝に問われて匿す能わざるは不智なり、皇子を抱いて敵城に入るは不貞不忠なりと論じ、「むかし阮籍、子が母を殺す者ありと聞いてい(505)わく、父を殺さば可なりと。鄭伯、雍糾をして祭仲を殺さしむ。祭仲の娘で雍糾の妻たる雍姫、これを知って、その母に、父と夫といずれか親しき、と問う。母いわく、人ことごとく夫なり、父と比ぷべきや、と。この語、阮籍と異ならず。阮は母を先にして父を後にす。姫の母は父を知って夫を知らず。みな理にあらず。婦人、家にあっては父、すでに嫁しては夫に従うべし。しかるに人ことごとく夫なり、とは何等の語ぞ。あるいはいわく、この時、雍糾、姫の父を殺さんとす、告げずに置かれず、姫の身になったらどうして善かろう。いわく、姫をして義を知らしめば、その夫を強く諌めて君に辞せしめ、聞き入れずんば涕泣してこれを道引き、陰《ひそ》かに祭仲を諭し、備えをなさしめて泄《も》らすなからん。また父夫両全ならずや」と『捫虱新話』を引き、狭穂姫も兄あるを知って夫君あるを知らずというべし、と述べた。『太平記』に出た勤王家土岐の妻が夫の隠謀を父に告げて夫の敗亡を致したと同事で、希有の例のようだが、今日も選挙騒ぎなんかにしばしば似寄った話を聞く。
 さてアラビアの『クダダッド兄弟物語』に、クダダッドその妻ダリアバール公主が自分の父王に客たりと聞き、大いに悦んで、一番にわが母后、次にわが妻を訪おうとあるをバートンが注して、回教徒は妻を多く持ち得るが母はただ一人しかないからと言って、母を妻よりも上位におくと言ったは、雍姫の母と似た見解で、女はことごとく妻なり、母と比ぷべきや、というが回教徒の主義と見える。ギリシアの史聖ヘロドトスの『史記』巻三に、ペルシア皇カムビセス、エジプト遠征の留守中に宮宰兄弟二人謀反して国を奪いしと聞きカムビセス憤死す。貴族七人謀って逆臣を誅鋤《ちゆうじよ》し、七人の内なるダリウスを立てペルシア皇とし前皇の諸妃を妻《めと》らしむ。その時約して新皇が妃と同褥中でなくば他の六人の元老はいつでも宮に入って面談し得ることとした。一日元老インタフェルネス直ちに宮に入らんとするを、守衛が新皇唯今妃と同臥中とて拒んだ。イこれを憤り守衛の耳鼻を切り自分の騎馬の手綱に維いでその頸に懸けて放った。ダリウス大いに怒ってイの一族を捕え、ことごとく誅せんとす。イの妻悲しんで宮門に詣り泣き続けたから、ダリウスも同情し使いをして汝の一族中一人は助命すべし、誰でも汝が助命して欲しい者一人を名ざせと言うと、わ(506)が兄を釈して欲しいと言った。ダリウス怪しんで、夫と子ほど親しい者なきに、それを捨てて兄を釈せと乞う理由は、と問わしめると、神佑あらばわれはまた他の夫に嫁し他の子供を生み得べきも、父母すでに世を去ったからこの上得難きは兄弟だと述べた。ダリウス感心してその兄と長子のみ助命し、夫を始めその一族をことごとく誅した、とある。この女の所存から推すと、夫よりも兄弟を愛するはもと孝心の厚きより出たので、わが邦に蕩々として充満する、祖先の跡を絶やさざるために妾を多く蓄え下女に夜這しきりなる人々と同じ志に基づいたものと見える。   (大正十三年四月十五日『月刊日本及日本人』四六号)
 
     推陽節婦の話
 
 『琅邪代酔編』一九にこの話あり。その夫と里人と同じく商いに旅行する。里人平生この婦を手に入れようと心懸けたから、江を渡るうち、その夫を水中に突き落とし溺死せしめ、さて、みずから落ちて死んだ者と称し屍骸を捜し出し、慟哭して兄弟同様に喪を営み、その荷物を持ち還って死人の母に付し、おのれの親のごとく孝養累年したから、姑も感心して婦をかの里人に嫁せしめ子一人できた。そののち一日雨降り夫が独り庭中の積水を見て窃《ひそ》かに笑うを妙に思い妻が問うと、実はわれ汝を妻に欲しかったから汝の前夫を殺した、その時川の水から立つ泡を汝の前夫が指して証としたから、水の泡がいつかわが罪を露わすこともあろうと心配しおったが、今この水泡を見れど何のこともないから安心する、と語った。これを聞いて妻がその筋へ告訴し、後夫は刑せらる。それよりわれは色をもって夫二人まで殺した、生きておるべきにあらずとて淮水に身投げして死んだとも、まず後夫の子を投げ込んで次に自分も水死したともある。趙宋時代のことらしい。
 アラビアにこの類の話あり。旅人が賊に遇うてことごとく物を取られた上殺さるる時、頭上に飛ぶ鷓?《フランコリン》を証に立(507)てて死に就いた。のちその賊帰順して久しく無事だったところ、一日将軍の宴に招かれ鷓?の炙り物で馳走され大いに笑う。将軍その無礼を詰《なじ》ると、某《それがし》若い時一旅客を殺し剥いだ時、その者死に臨んでこの鳥を引き証に立てたが、今に至るも無事だから笑うたと言うた。将軍これを聞いてその不仁を悪むのあまり、たちまち剣を抜いてその男を刎《くびは》ねた時、炙り鳥が偈を詠んだ、とバートンの『千一夜譚拾遺』(九巻二八四−二八七頁)に出ず。それより古くはギリシアの詩人イブコスが帰郷の途上コリントの賊に殺さるる時鶴を証に引いた。さてコリントの民が堂に集まると鶴がその上を飛び廻る。堂にあった一賊そぞろにイブコスの仇討を見よと言ったので、糾問されて賊ことごとく処刑された。イブコスの鶴とて有名な諺だ。   (大正十三年四月十五日『月刊日本及日本人』四六号)
【追記】
 今年四月二十九日の『大阪毎日』紙、悟道軒円玉の「花の春遠山桜」一〇二回に、武州鴻巣を出て熊谷の土堤十八町、その中ほどに石地蔵の堂あり、享保ごろ武士がここで人を殺して金を奪い、この像に向かい、誰にもこのことを言うなというと、地蔵が錫杖を振り上げて、俺は言わぬがわれ言うなといったから、爾来熊谷の化地蔵という、と出ておる。前述古ギリシア、アラビア、支那の諸例、いずれも鳥や泡沫が罪人を咎めたよう伝うるが、その実良心の呵責で犯人が自分の罪を洩らしたに外ならず。洵《まこと》に石地蔵の戒めのごとし。この地蔵の話、何か書物に載せおるにや、教示を俟つ。   (大正±二年七月十五日『月刊日本及日本人』五二号)
 
     入れ目
 
 『琅邪代酔編』二七に、「崔?《さいこ》一目を失う。珠をもってこれに代う。施肩吾嘲っていわく、二十九人及第し、五十七眼花を看る、と。元和十五年なり」とある。まずは、唐代すでに麁末ながらも、義眼をくわだてた人があったと知る(508)に足る。   (大正十三年五月一日『月刊日本及日本人』四七号)
 
     米を含んで頬を破られた人
 
 蕭斉の朝に漢訳された『百喩経』に、人の聟になった者、新婦の里方へ行き、擣き米を盗んで食うところへ婦が来た。面目なさに黙して頬ばかり膨らせおる。婦その父に向かい、わが夫初めてここへ来るなり口が腫れて物が言えぬというと、父が医者を呼んでみせた。この病ははなはだ重い、刀で切り開かにゃならぬといって切り破ると米が出て盗みが露われた。この世で犯罪を隠し立てして、地蔵、畜生、餓鬼に堕ちて大いに苦しむはこの愚人のごとし、とある。『沙石集』三には、火針で煩を焼き破られた、としある。これといずれが古いか知らねど、バートンの『千一夜譚拾遺』三に類話出ず。寺子屋の生徒申し合わせてそれぞれに先生の顔色が悪いというから臥しおると、見舞に銭を集めて兄弟子が持ってくる。よって一同に休ましめる。生徒どもは休みたさに九日続けて集銭を持って来る。十日めにも持ち来たった時、先生煮卵を食い掛けたところで、そこをみられるともはや平癒と知れて集銭をしなくなるはず。よってその卵を丸で口に含むと、兄弟子がひどい腫れだと言って刀で切り開き、卵がころげ出て不具となった、とある。   (大正十三年七月十五日『月刊日本及日本人』五二号)
 
     方術をもって身を橋下に隠した詰
 
 十二世紀の英国僧ウィリアム・オヴ・マームズベリの『法皇史』に、紀元九九九−一〇〇三年の間、ローマ法皇だったシルヴェスター二世は、若かった時諸種の方術に精通せんとスペインに往きてアラブ人を師とし学んだが、かの(509)師秘蔵の一巻のみ伝えてくれず。よって師の娘に心安くなり、その助けで師を沈酔せしめ、その枕の下より一巻を盗んで走るを、師が醒めて逃ぐる方角を卜い追った。此方も卜うてとても遁れぬと知ったが、一計を案出して、ある橋の下に隠れて土にも水にも触れぬよう橋の桁より身を懸け下ろした。師の智は土と水に止まるところからどこに逃げ隠れたか、一向判らぬ。ひとまず家に帰り、卜い定めてまた追い駆ける間に、弟子は本国フランスへ航し去った、と載す。
 熊楠いわく、似た話が古く支那にある。『世説新語補』に、後漢の鄭玄、扶風の馬融に就き学び、業成って辞し帰るに、融、玄が名を擅《ほしいま》まにせんことを恐れ忌んで追い掛けた。玄も追わるるかと疑い下駄をはいて橋の下の水の上に立ち隠れた。融が卜うと玄は土下水上に在りて木に拠ると出たから、すでに死んだと判じて追うのを止めたので、玄は無事に帰り得た、と出ず。『捜神記』四には、張華が予章の太守だった時、死刑の罪人をみな放って父母に暇乞いせしめ、さて獄に帰って刑に就かしめた。帰ってこぬ者あれば卜うてたちまち捜し捕えた。ある刑人父母に別れ獄へ帰る途中大いに泣く。趙朔これを見てわが謀計を用いば免るべし、汝三遍河を渡り、竹の筒長さ三尺のものに水を盛り腹の上におき、黄沙中に三日間臥し、その後還れと教えた。教え通りやらかすうちに、この者獄へ帰らないから法司が張華に告げると、華卜い断じて、此奴は腹の上に水深さ三尺、その背黄抄に臥す、これ必ず水に投じて死んだはず、尋ねるに及ばぬと言った。一年後その者改名して郷里に帰り、死を免れた礼に重く朔に賂うたが全く受けなんだ、とある。   (大正十三年七月十五日『月刊日本及日本人』五二号)
 
     人の皮で張った太鼓
 
 昨年十二月一日ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』に、マレー半島のケダー住英人スチュアールトが文には、十五世紀の初めポヘミヤの猛将ジャン・ジズカは、死後その皮を剥いで太鼓を張り、これを鳴らしてその生存中(210)の武威を張り続くべしと遺言したというが、他国にこれに類した話ありや、このケダー州の王家の楽隊がもっとも尊ぶいと古い太鼓の皮は、人体から剥ぎ取った物の由、ただしその縁起を知らぬ、と。件《くだん》のジズカはわが大谷吉隆同様両眼盲しながら非常の軍謀家だった。
 右の問に答えた拙文は、今年二月二十三日の同誌に出た。その大要は、古支那には軍鼓に人を殺して血を塗り、その音を強くした例が多い。『韓非子』説林に、荊王、呉を伐つ。呉、沮衛蹶融を荊軍に使わす。荊の将軍これを殺しその血を太鼓に塗るつもりで、汝来る前に卜うたかと問う。卜うたと答えたから、卜いは吉《よ》かったかと尋ねるに、吉《よ》かったと答えた。今汝を殺して鼓《こ》に血を塗ろうとするに何の吉事ぞと問うと、さればこそ吉事だ、呉軍がわれを使わして荊の軍を視察せしめ、将軍怒りおると知れば呉軍用心し、将軍怒らずと知れば用心を怠るはずだ、今将軍われを殺さば呉軍用心して負けないから吉事だ、また一国のために卜うは一臣のために卜うにあらず、一臣たるわれが殺されて一国を全うしたら吉事でなくてどうする、かつ死人が知ることなければ、わが血を鼓に塗ったって少しも益なく、死人が知ることあらば、戦争中われは鼓を鳴らざらしめよう、いずれとも、われを殺して寸功なしと言うたので、荊人呉の使者を殺さなんだ、とある。『顔氏家訓』に、梁の元帝の時、周逖が言語不慎の学士の腸を抜いて鼓に塗ったとあれば、六朝までもこの俗あったのだ。ロスコーの『バガンダ人記』に、その王の重んずる太鼓に人を刎《くびは》ねた血を塗り、これを打てば王若返り強くなるという、と載せある。   (大正十三年七月十五日『月刊日本及日本人』五二号)
 
     車長持のこと
 
 万治四年板で了意の作という『むさしあぶみ』上に、明暦大火に、「さて、またはじめ通り町の火は伝馬町にやけ来たる。数万の貴賤、この由をみて退あしよしとて、車長持を引きつれて浅草をさしてゆく者、幾千百とも数知らず。(511)人のなく声、車の軸音、焼き崩るる音に打ち添えて、さながら百千の雷の鳴り落つるもかくやと覚えておびただしともいうばかりなし」。火事場で大混雑を起こすゆえ車長持は禁止になったが、田舎には依然持ち伝えた処もあったと聞く。ただし予はその物をみたことなく、『むさしあぶみ』の挿絵で知りおるばかりだったが、四十年ほど前サンフランシスコへ著いて米国製のトランクを見、これがむかしの車長持そのままと覚えた。
 さて唐の宣宗の大中四年(西暦八五一年)にペルシア人が書いた『支那見聞記』を仏人レイノーが訳したのを見ると、その七三頁に、「支那の家に階子なし。支那人の財宝等一切の蔵品は車付きの長持に入れあり、失火の際その長持に入れたまま引き出し得る。階子があっては速く引き出す邪魔になるからこれを設けない」とあるは、取りも直さず車長持だ。日本のも支那の製に倣うたものか。仏訳にエスカリエーとあって階子か梯か、両方に通ずるゆえ、いずれと分からぬ。   (大正十三年九月一日『月刊日本及日本人』五五号)
 
     死に際までも物を盗む人
 
 須磨の森本清君、今年三月二十四日ロンドン発行の『イヴニング・ニュース』の切り抜きを示し、和漢これに似た話ありや、と問われた。それは「臨終の人、僧の袂時計を盗む」という見出しで、本日クロイドンのわが社通信者よりの報知にいわく、シー・エチ・ヴァイン師が当地北町の講中で、人間もずいぶん悪道に落つれば落つるものと、その一例突飛なものを挙げ話された。夜中に師を起こしてやや下等の町に住む人の臨終の祈?を頼む者あり、すなわち往って祈?するあいだにその人両手を動かして止まなんだが、終《つい》に蒲団の中へ手を納め数瞬間にして死んだ。牧師よくみると自分が懸けておった金時計の鎖のみ留まって時計は死人が?みおった。全く神この人の諸罪を釈せと祈?しやりおる最中に盗んだのだ、と。こんな類話はちょっと見当たらぬから宮武粛門氏に聞き合わすと、そんな話は知ら(512)ぬが、俳句か何かをいつも盗む者が臨終に辞世と称して誰も知った名句を吟じ一生の盗み仕舞いといった笑話があるとのこと、それからいろいろ捜してとうとう見出だした。『関田次筆』四に、「何某の狂歌師、臨末に預け申す辞世のことと端作して、終に行く道とは、云々、の業平朝臣の歌を書けりしが、これこの世の借り納めなりといいけるは、げにも狂歌師にておかし」と出ず。   (大正十三年九月一日『月刊日本及日本人』五五号)
 
     白米
           三田村鳶魚「江戸以前」(中)参照
           (『月刊日本及日本人』九二号八九頁)
 
 城内に水乏しきを敵に知られぬよう謀って、白米で馬を洗うて見せた話は支那にもある。雲南の米花洗馬山は、むかし土人この山に拠りしを漢兵が攻めた時、城兵が米花(白米または米粉か)で馬を洗うをみて、さては水乏しからずと思い、敢えて逼らなんだと伝う。これに似たこと、宋の張旨が籠城した際、草を積んで泥をぶっかけ、苗継宣が夏軍に攻められた節、泥で藁をねって火矢の飛んでくる所へ塗らしめ、いずれも城内水少なからずとみせて敵を引き去らしめた(『大清一統志』一五六、三〇六)。『酉陽雑俎』八に、梅伯成よく夢を占う、優人李宿怜が遠方で米百斛を乞い得て帰り、弟を取りにやるに、期を過ぎても至らず、白昼に白馬を洗う夢をみたので伯成に占いを頼むと、すべて人は反語を好む、白馬を洗うは白米を瀉するなり、あるいは風水の思いに遇うたのだろう、と言うた。数日後に弟至りて、果たして河中で舟を覆し一粒も余さなんだと告げた、とみえる。これは籠城の軍謀に関せぬことだが、唐のころ、白米で白馬を洗えば、ますます白くなるなど信じたものか。さて、鳶魚先生は文亀三年江州音羽籠城に初めて白米で馬を洗うたよう記されるが、それより古い例を、予が、『郷土研究』大正五年八月分に挙げ置いた。『南朝紀伝』に、応永二十二年、北畠満雅が伊勢の阿射賀《あさか》城を守った時、足利方の大将土岐持益に水の手を絶たれたが、白米で馬(513)を洗うてみせたので水止めがやまった、とあり。『伊勢参宮名所図会』には、応永三年のこととしある。文亀三年より八十八年または百七年前のことだ。これよりまだ古い例は、『郷土研究』同年六月分に中川長昌氏が引かれた。飛驛簑輪城に建武年中、牛丸摂津守が籠った時、例の白米の一件で敵を欺き引き去らしめた、と『飛州志』に出ず。文亀三年より約百七十年のむかしだ。それより一層古いのは頼朝が義仲を征伐したころ、信州|尼厳《あまかざり》を守った尼公が、白米で馬を洗うて水に困らぬと見せたというので、文亀三年よりは三百二十年ほど古い。
 支那でこの通りの謀を行なうた例は、上に引いた雲南の一例しか知らぬが、粮米の乏しきを計略で多いとみせた故事はいと古いもんだ。『大清一統志』巻九七に、山東の米山は、相伝う、斉の桓公ここに土を積んで虚粮となし、もって敵に示した。巻一一八に、河南の粟山は、むかし廉頗の軍を白起がここで扼した時、将士に命じ布嚢をもって粟を盛り積んで山巓に至らしめたので、頗の軍すなわち退いた、とある。これも土か砂を粟とみせたのだろう。しからば瓦片の罎詰も新案でない。それから巻一一〇には、山西の関城の南に虚粮冢あり、宋の檀道済、北伐二十余戦多く捷《か》ち、歴陽城に至って粮竭き引き還した時、宋の降卒から粮尽きたと聞いて魏軍が追いかけた。道済ここに至り、兵卒に終夜米同様に砂を量り、その数を高声に唱え、跡へ少しの米を散らさしめて退却した。明朝、敵これをみて宋軍なお粮多しとて追わず、偽言者として降卒を斬ったという。   (大正十五年三月一日『月刊日本及日本人』九三号)
 
     猴に似た人の話
 
 報知新聞の中田千畝君『和尚と小僧』というはなはだ面白い著書を出し、寺の住職と弟子に関する笑話を博く集めて出処や類話を説き尽された。内に土佐で行なわるる話とて、猿和尚と綽名さるる僧が、わが顔はさほど猿に似ておるかと小僧にきくと、「それは飛んでもないこと、猿の顔が和尚様によく似ておるだけです」と答え、和尚悦んだと(514)いうのを載せた。そして、この話はもと元和九年に成った『醒睡笑』に猿顔の大名と近習との問答として出である由を記された。熊楠いわく、『醒睡笑』よりおよそ九百年前、唐の玄宗の時、安西の牙将劉文樹、能弁で上に嘉せらる。その貌猴に類するから、上が滑稽家黄幡綽をしてこれを嘲らしむると聞いて、文樹猴と言わるるを懼れ、密かに幡綽に贈賂した。幡綽承知し御前で文樹をみて、「憐れむべし、好箇の劉文樹。髭鬚《ししゆ》は、?頤《がいい》と別れて住《とど》まる。文樹の面孔《かお》、??に似るならず、??、強いて文樹に似る」とやったので、上その贈賂せるをしり、大いに笑うたという(『続開巻一笑』四)。『醒睡笑』はこれを転出したものと惟う。それよりも前に、蓮花、六郎に似たり、六郎、蓮花に似たるにあらず、と則天武后の男妾張昌宗に佞人が追従した名高い噺がこの類の諸話の根本とみえる(『十八史略』五)。本居宣長の『古事記伝』に猿が猿田彦大神に似たので猿田彦が猿に似たのでないと言ったもこれらからの思い付きだろう。筋が違うが慈鎮和尚の坊官にも、御室御所の坊官にも面体少しも猿に異らぬ者あり、一日御室の坊官慈鎮方へ参るを和尚その坊官をして迎えしめた。和尚の坊官笑うて如何《いかが》覚ゆるととうに、御室の坊官鏡をみる心地こそすれと即答し、一同を感ぜしめた由(『沙石集』三)。   (昭和二年五月十五日『月刊日本及日本人』一二五号)
【追記】
 蜀山人の『半日閑話』 二一には、秀吉参内すとて御幸町を通るを見て、京童がその顔猿のようだと高声で言うを聞いて、秀吉不快でわが顔真に猿に似たりやと曽呂利に問うと、何しに勿体なく君が猿に似たまうべき、結句《けつく》猿が君に似申すと言うたので、そうだろうと笑うてすんだ、とある。(昭和二年九月二十六日)
 
     猫や鼠と男女の関係
 
 本誌一二二号、明田氏の「源氏物語の垣間見」にみえた、唐猫が飛び出でその綱で御簾を掲げた空間(515)から女三の宮を柏木の衛門督が垣間見た一件は、名高い話だが、猫と反対に鼠が男女情事の橋渡しを勤めた例もある。一四三五年六十四歳で死んだナポリの女皇ジョヴァンナ二世は、底から湧き続けた大淫乱で、四十四で即位の時すでにオーストリア公ウィルヘルムの寡婦たり。一夜も空閨を守るべきにあらずとて、ナポリ人アロポを嬖して即位ののち内大臣とした。史家評すらく、世にこれほど名実相|畔《そむ》かざる内大臣なく、アロポは昼夜女皇の房内にあって大忠勤を励んだ、と。『宝物集』に、「五条后は仁明天皇の后なり。業平中将に値《あ》い給いて優しきことども侍りけり。さればとて催い給える御年かは、后は四十二にておわしけるに、中将は二十五とぞ申しためる」。熊楠念のため繰ってみると、后は四十、業平は二十五で、十五歳だけ業平が若かったのだ。しかるに件の女皇より件の内大臣は十八歳の弟だった。年下の男ほどしんみり可愛いとはそれこれの謂いか。
 女皇また小農生れで匪魁だったスフォルツァがおのれより二歳若きを愛して元帥とし、行平の須磨の謫居の体で、全く二人の男に参ってしまったので、群侯、一には岡焼き、二には多少の忠志から、仏皇の一族ジャク・ド・ブルボンを女皇の夫として迎えた。げに「入婿と間男までにあなどられ」で、二人の男は女皇の新夫に屈せず、「間男と亭主ぬき身と抜身なり」の騒動やまず。新皇|終《つい》にスフォルツァを追放、アロポを刑殺し、女皇を監禁ときた。時に叙任の不満から新皇を怨み女皇のためにその夫を弑せんとした者あり、女皇これを密告したので、新皇なおわれを愛するかなとたちまちのろくなって逆臣を罰し、女皇を釈した。女皇は情夫のために復讐の謀を運らし、一日自分の住む城に夫を招待し、盛宴最中にこれを縛って城内に監禁しながら毎日訪問していちゃついた。持嬲《もてなぶ》るのか愛するのかさっぱり分からぬ。馬鹿馬鹿しさに新皇、業をにやして脱け出でて仏国に帰り、僧となった。
 それより女皇またスフォルツァを重用し、ローマを攻落してこれを鎮めしめたところ、法皇マルチノ五世新たに立って女皇と成を行なうに及び、スフォルツァ引いてナポリへ還ると、正にこれ「もっとしたがるはずだがと旅帰り」、一向女皇にもてなくなりおるも道理、スフォルツァの留守に女皇は新情夫カラチオリの牛蒡を洗うてこころよがって(516)おった。それからスフォルツァとカラチオリの大喧嘩より、延いて女皇の継嗣問題を起こし、アンジューとアラゴン二国の戦争となり、ナポリ国は外寇と内乱で全く衰え、女皇も六十四歳で死んだ。その前にスフォルツァは過って溺死し、カラチオリは女皇にあかれて殺された。初め女皇、カラチオリを思いかけながら言い寄るすべなかったうち、そのきわめて鼠嫌いなるを探知し、ある日カラが将棋をさすところへ鼠を放つと大いに怖れあわてて女皇の房内に入り来たったのを執え、ヤイノをきめこみ、ついに洗濯に取り掛かり、鼠が取りもつ縁かいなと両人大いに悦んだという。   (昭和二年五月十五日『月刊日本及日本人』一二五号)
 
     西郷隆盛薩海を呑み尽すと賭した話
          「雲間寸観」欄参照
          (『月刊日本及日本人』二一九号七〇頁)
 
 この話と同じ奴が諸国にある。今夜、雨でその控えを取り出すのが大層ゆえ、ただ一つセルビアの例を出そう。国王が貧しい老農にいろいろ難題を出し、これを解かねば殺すぞなどいうごとに、老農その独り娘よりの入れ智慧でこれを解き終わる。王これは彼の娘の賢才あるに基づくと悟り、さらに小盃を老農に投げ、家に持ち帰って娘に命じ、大海が陸地となるよう、この盃で海水をくみほさしめよと言った。老父困って娘に語ると、娘は翌朝麻屑一ポンドを父に渡し、王に呈上して、委細承知仕ったが、現在の海水を一滴違わずくみほす準備に、あらゆる川流どもの水をこの麻屑でしっかり留めて下されと言上せしめた。それからまた二、三の問答の末、王その叡智に感じこれを娶ったそうだ。(一八七四年板、デントン英訳『セルビア俚談』九一−九四頁。一九二一年三板、ペトロヴィッチ『セルビア好漢譚および驚奇譚』二八七−二九〇頁)(二月十四日午前三時)   (昭和六年三月一日『月刊日本及日本人』二二〇号)
 
(517)     雷に撃たれずという伝説
 
 下女脇村捨いう、田辺町の江川浦の人、年越しの夜数えし自分の年の数の豆をとりおき、仏壇の引出しに収めおき、一年ほどへて古臭くなりたるを粥に入れ食う、と。松枝(拙妻、田辺の県社闘鶏神社の始めての神官の娘)いう、田辺では、年を数える前に神棚へ上げ置きし豆をおろしてとりおき、初雷の時食えば雷に撃たれずと言えば、数に定りなきなり。(二月十八日)   (昭和六年四月十五日『月刊日本及日本人』二二三号)
 
     古い記憶と新しい記憶
           無憂扇「壺中消息」参照
           (『月刊日本及日本人』二四八号七三頁)
 
 これについては予も鳴雪翁と同様に感ずる。むかしも同感の人があったとみえて、『笈埃随筆』六に、日向の中村町の増右衛門とて、百余歳の老人、常に著者の宿へ来たり話せしに、近年のことはおぼろげなれども、若年のことはかえって記憶すると言った、とあり。橘南谿の『西遊記』三にも、その話を伝載しある。(五月八日)   (昭和七年六月一日『月刊日本及日本人』二五〇号)
 
     猫の糞という菓子
 
 吾輩壮年のころ(明治二十年ごろ)まで、東京付近にも上方にも、猫の糞という駄菓子があった。確《しか》と覚えぬが、ま(518)ずはチョコレイト褐色で、中に豌豆《えんどう》屑を蔵め、宛然猫糞の形だった。蜀山翁が書いた物に、この菓子の名が出であったよう、朧ろげながら記臆する。必ずしも外国から移った物にあらざるべきが、インドにも古く同名の食品があったは、唐中天竺三蔵大徳、阿地瞿多訳『仏説陀羅尼集経』巻一二に、「猫児の糞、これはこれ西国の鬼の食らう餅の名なり」、すなわち外道の鬼神に供える餅の名とみえる。(五月二十一日早朝)(昭和八年六月一日『月刊日本及日本人』二七四号)
 
     紙衾
          佐久間東山「続支那譚屑」(一)参照
          (『月刊日本及日本人』二六八号五八頁)
 
 『農政全書』三八に、「陶弘景いわく、武陵の人、穀皮の衣を作り、はなはだ堅好なり、と。『広州記』にいわく、蛮夷は穀皮を取り、熟《よ》く?《う》ちて掲裏の?布《けおりもの》となし、もって氈に擬す、はなはだ煖《あたた》かなり、と。『農桑通訣』にいわく、南方の郷人は、穀皮をもって衾を作り、はなはだ堅好なり、これを鬻《う》れば実に貧家の利となる、と」。『広東新語』一五に、「長楽に穀紙あり、厚きものは八重を一となし、衣服を作るべし。これを浣《あら》うこと再びに至るも壊《やぶ》れず、はなはだ暖かにして、よく露水を辟《さ》く」。さてこの長楽の穀紙は、唐代より重んぜられた由を記す。佐久間君が引かれた『于湖集』の撰者とほぼ同時だった陸游の「待制の朱丈の紙被の?《おくりもの》に寄せ謝す、二首」あり、云々、「紙被身に囲《めぐ》らして雪天《ゆきぞら》を度《すご》す、狐腋よりも白く綿よりも暖かなり。放翁の用うるところ君知るや否や、これ蒲団にあらずして、夜坐の禅なり」、また、「木枕|藜牀《りしよう》して席《むしろ》にて経を見、臥して看る飛雪の?櫺《そうれい》に入るを。布衾と紙被とは元《もと》相似たり、ただ高人の為に銘を作《つく》るを欠くのみ」。また劉子?は朱子早年の師という(『四庫全書総目』一五七)から張孝祥や陸游より古い人だ。その「呂居仁の建昌の紙被を恵《たま》わるに答う」詩にも、紙衾に寝心よき由をのべある(『古今図書集成』考工典二三三)。
 『太平広記』二八九にみえた、唐の代宗に信仰された紙衣師、『朝野群載』の性空上人、『今昔物語』一四の源信内供《げんしんないぐ》、(519)『古今著聞集』と『十訓抄』にみえた安養尼(源信の妹)等、おのおの紙衣や紙衾を持戒苦行の一助に具えたらしく、したがって初めのほどは、ずいぶん麁末な品だったとみえるが、追い追い世間に弘まると共に、種々と改良さるるに及んだ。されば宝暦四年平瀬徹斎著『日本山海名物図絵』四、紙子製造図の詞書に、「奥州仙台紙子。地紙強く、よくもみ抜きてこしらゆるゆえ、柔らかにしてつやよし。奥州は木綿少なきゆえ、中人以下は多く紙子をきるなり。夜具も大方は紙子にてこしらゆるなり。そのほか諸国紙子の名物、肥後八代紙子、播磨紙子、紀州花井紙子、美濃十文字、大坂松下一閑紙子」とみえ、それより四十一年前に成った『和漢三才図会』二八にも、紙衣の製法を載せ、「奥州の白石、駿州の安倍川、紀州の華井、摂州の大坂、これを出だす。華井紙衣特に佳し」とある。華井はケイと訓み、三重県南牟宴郡華井村である。
 二十六年前、予紀伊の国は音無川の水上に立たせたまえる船玉山へ詣ずる途中、華井村に立ち寄りて、華井紙子の始末を尋ねんと、出合という処で船をまつところへ、その五、六年前、この田辺町で全盛した侠客の娘が、その辺の青年に嫁したと聞いた、その女がようやく生んだばかりの子を負い、初冬に淋しい石河原を歩み来たったので、奇遇に驚き、共に天涯淪落の相合うたりし身の上と、やたらに泣言を交えあえるに、荷持ち男、はや舟に乗れ、日も暮れなんというに二度びっくり、尽きせぬ名残で別れたものの、その女の影消ゆるまで見送ったのでいよいよ時間が潰れ、華井行きを止めて、直ちに川上へ登った。爾来かの女のことは時々想い出すが、紙子のことを全く忘れおった。ところが一昨年、かつてその調査を頼み置いた新宮町の篤学の耆老小野芳彦君が、みずから華井村に就いて詳しく探索し、報告書に、維新前代々紙子製造を業とした旧家に旧蔵した紙衾の大切片を添え贈り越されて、一年立たず、逝かれた。その紙は久しく用い続けたゆえ大分汚れおるも、いわゆる仙台紙子ごとき柔らかな物ならず。以前これを用いた老女が、至って煖かな物と小野君に語った由。類推して支那説の虚言ならざるを知る。(六月四日)   (昭和八年七月一日『月刊日本及日本人』二七六号)
 
(520)     地諱
 
 佐久間君の『続支那譚屑』(一)に、「支那の各省には、地諱というものがあって、江西のごときは號して臘鶏という地諱がある。この俚号は古くから用いられておるとみえて、明の李時(北京人)がかつて夏貴渓(江西人)に戯れて、「臘鶏、独り江西の味を擅《ほしいまま》にす」とやったところ、貴渓はたちどころに応じて、「響馬、能《よ》く冀北の群を空しからしむ」とやり返したという話がある。けだし李時の郷里北平の地諱を響馬というからだ」と出ず。
 熊楠、頃日、南宋の洪邁の『夷堅支志』乙巻六に次の紀事あるを見、南宋のころ、諸州に公諱なるものあること、あたかも明清代の諸省に地諱あるに似たりと知った。いわく、「江准?浙、土俗おのおの公諱あり、杭の仏児、蘇の?子、常の殴爺の類のごとし。細民、あるいは相犯して、闘撃するに至る。宣和中、真州の倡、新守を維揚《いよう》に迎う。揚の守、置酒して、大いに両邦の妓楽を合す。揚州は欠耳を諱《い》み、真州は火柴頭を諱む。揚の倡は、みずから会府たるを恃《たの》んで、意《こころ》に属城を軽んず。故に茶酒兵をして火を?《た》かしめ、煙?あり。小鬟《こまづかい》をしてこれを戒《いまし》めしむるに、すでにして止まざれば、呼んでこれを責めていわく、貴官、大庁の上にあって筵を張るに、如何《なん》ぞ火を焼《た》いて謹まず、却って柴頭《たきぎ》を着《もや》せるや、と。咄詈《しか》ること再四なり。真の倡、笑語していわく、行首《かしら》の三、四度指揮するに、何ぞ聴かざるを得んや、汝はこれ耳朶ありや耳朶なしや、と。揚の倡、大いに慚《は》ず。乾道中、?《ちよ》州の教授、揚府において考試す、すでに院を出でて郡集に赴く。帥《すい》妓に命じて觴《さかずき》を侑《すす》めしむ。教授なる者は?子《けんし》なり。一《ひとり》の倡を呼んで側にて歌わしむるに、その指《さしず》のごとくせざるを怒り、これに謂いていわく、大府の楽籍、かえって山野《がさつ》なることかくのごときか、と。倡、徐々《おもむろ》に答えていわく、?を環《めぐ》るはみな山なり、と。この客、愕然として、終席またあえて一語を出ださず」と。
(521) 想うに、(日向の炭焼き)、越後のムク鳥、紀州のツレ小便、淡路女にマラ見せななど、それぞれの土風を他処の人が嘲った綽号が、おいおいその根本理由を忘られ了って公諱、地諱となったのだろう。『老人雑話』乾巻に、義教将軍の庭前に枯れた松あるを、山名持豊見て、あの赤松斬って捨て申さんと言った。「赤松(満祐)さしも歌学に達し、口きき者なれば、山なをかといえり。山名に宛ててなり。これよりいよいよ中悪しく、終に普光院(義教)を弑す、云々」。紀州等では今も、山の松というべきを山な松という。近時の方言の謬りかと想うたが、実は室町時代の京都振りを伝えたのだ。地諱、公諱に無関係ながら、二人の即意の妙なる、件の真・楊二州の慧倡に類するから、ついでに載せおく。(六月三日午後十一時)   (昭和八年七月一日『月刊日本及日本人』二七六号)
 
     銭を兄という
 
 明の丘瓊山の『故事成語考』下に、孔方といい、家兄というは、ともに銭の号たり。『晋書』九四に、晋の元康ののち綱紀大いに壊る。南陽の人魯元道、時の貪鄙を傷み、姓名を隠して「銭神論」を著わし、もってこれを刺《そし》る。その内に、銭の体たる乾坤の象あり、内はすなわちそれ方、外はすなわちそれ円、云々、故によく長久、世の神宝たり、これを親しむこと兄のごとく、これを字して孔方という、これを失えばすなわち貧弱、これを得ればすなわち富昌、とあるに基づく。室町時代の中ごろできた『下学集』下に、孔方兄《コウホウヒン》、銭の異名なり、孔は穴なり、銭の穴四方なり、兄は尊敬の義なり、と出ず。当時のハイカラは銭をコウホウヒンと称えたとみえる。蕭斉の時、訳出された『百喩経』上に、「むかし一人《あるひと》あり、形容端正にして智慧具足し、また銭財多し。世を挙げて人間《じんかん》にて称歎せざるはなし。時に愚人あり、そのかくのごときを見て、すなわちわが兄なりと言う。しかる所以は、彼に銭財あれば、須《もち》うるにすなわちこれを用い、この故に兄となすなり。その債を還すを見て、わが兄にあらずと言う。傍の人、語っていわく、(522)汝はこれ愚人なり、云何《なん》ぞ財を須《もち》うるに、他《かれ》を名づけて兄となし、債を負う時に及べば、また兄にあらずと言うや、と。愚人答えていわく、われは彼の銭財を得んと欲するをもって、これを認めて兄となせり。実はこれ兄にあらざれば、もしその債を負うときは、すなわち兄にあらずと称うるなり、と。人、この語を聞いて、これを笑わざるはなし」とあるを見ると、古インドにも晋人と似た考え方の者があったと知る。(六月二日)   (昭和八年七月十五日『月刊日本及日本人』二七七号)
 
     寝れば身大きくなる人
 
 唐の高宗の竜朔二年、釈道宣撰『三宝感通録』三下に、西晋の末、李恒、一僧に遇う。いわく、君福まさに至らんとす、しかるのち禍来たらん、もし貧を守りて仕えずば殃《わざわい》滅休せん、金紫を帯び三郡に主たるごときに至らば、一郡においてすなわち止めば善し、と。恒、性疎にして、もと寒門なり。恒いわく、しばらく富貴ならば何ぞあらかじめ後を患《うれ》いん、と。この僧留まり宿る。夜視るに一牀に満てるを見る。恒驚き、家人を呼んでこれを看るに、また化して鳥となり、梁上に峙《そばだ》つ。天|暁《あ》けて形を復して出ず。恒送り出ずるにたちまち見ず。これによって仏を信ぜしも、またその言を用うる能わず。のち西陽、江夏、廬江(三郡)の太守となる。太興中、銭鳳の乱に誅せられ、この僧の言|謬《あやま》らずという、と出ず。
 大河内秀元の『朝鮮記』は、明治八年、フォン・フィツマイエルが独語に訳し、ウィーンで刊行した。三十九年前、大英博物館でその訳本を原文と対照した時、巻末に、毎度豊太閤に伽した老女とかが、記者に語って、太閤寝たところを覗うと、その身大きくなりて室内に満ちあった、と載せあったと覚える。数年前、続群書類従完成会出板の『続群書』巻五九〇の『朝鮮記』には、このこと全くなし。もし予の記憶の間違いならば、このこと正しく何の書に(523)出であるか、諸君の教示をまつ。(『広文庫』一五冊、「ねぷとり」の条、三六四−五頁に引ける『朝鮮物語』下巻。)(六月九日午前二時)   (昭和八年七月十五日『月刊日本及日本人』二七七号)
 
     紀文が火事で儲けた話
 
 九月号二九頁に秋刀魚子が出された「虚説」の尻馬にのせて戴けそうな一件がある。明治十五年売り出され、多く読まれた菊地三渓の『本朝虞初新誌』上に、今日世間に洽聞する通り、本郷丸山火事が、まだ鎮まらぬうちに、紀文が大急ぎで木曽に趨き、小判でガラガラを造り子供に与えて土人の信用を博し、有り合わせた材木をことごとく買い入れ、自分の極印を打たせて江戸へ廻送し大利を獲た話あり。其蜩の『翁草』八にほとんど同一の譚あれど、紀文でなくて河村瑞軒のこととし、一説にこれは、冬木が先祖いまだ柊屋とてわずかの材木屋なりしが、木曽にゆき、この手で大利を得て冬木の名を発すという、とある。いずれにせよ紀文説は最も晩出らしい。
 さて南宋の洪邁の『夷堅戊志』にも、「裴老智数」と題し、「紹興十年(丸山火事より五百余年前)七月、臨安に大火あり、城の内外の室屋数万区を延焼す。裏方の寓居、質庫および金珠の肆《みせ》あり、通衢にあるもみな顧みず。遽《にわ》かに紀綱《きこう》の僕に命じ、分かれて江下《かわしも》および徐村に往かしめ、身《おのれ》は北関を出で、竹木、?瓦、蘆葦、椽桷《てんかく》の属《たぐい》に遇えば、多寡大小を論ずるなく、ことごとく評価してこれを買う。明日、旨《たつし》あり、竹木の材料は征税|抽解《ちゆうかい》を免ず、と。城中の人、屋を作る者、みなこれを取《あがな》う。裴、利を獲ること数倍、焚《や》かるるところを過ぐ」とあり。『戊志』が失われぬ内に按《ひか》え置いた人の書から張元済の『夷堅志再補』に引きある。河村や冬木の話もこの支那説の模倣ならずや。(十月十一日午下)   (昭和十三年十一月一日『月刊日本及日本人』三六六号)
 
(524)     当人みずから在らずという話
           杜生「当人みずから在らずという話」参照
           (『月刊日本及日本人』三六六号三九頁)
 
 春台より前に、これに似た話が外国で書かれておる。ただしこんなことが広い世界にただ一ヵ処にのみ起こるに限らぬから、自然日本にも実在したかも知れぬ。趙末の釈契嵩が編修した『伝法正宗記』三に、天竺第十八祖伽耶舎多、教化して月氏国に至った。これより先、その国の婆羅門、鳩摩羅多《くまらた》の家に一犬あって、十年間家の簷下《のきした》を離れず。いくら逐っても些《ち》とも去らず、大いに手古摺った。また一夜の夢に見たは、自分とその師たる梵志と暗室中に在るを、金色の日光が来たり照らすと、自身は琉璃のごとく透明、それを無数の蟻が取り巻いて食うに引きかえ、師の身の中には何物もなかった。そこでこの二件の起因を師たる梵志に問うたところ、自然にして然り、因縁あるにあらずとのみ答えたので、鳩摩羅多は、かくのごとくみな自然と謂わば、何ぞ夢にして夢を説くに異ならん、もし別に智者よく解釈をなすに遇わば、われ願わくはこれを師とせんと謂い、すなわち梵志と絶ち、還って自宅におった。その時、伽耶舎多尊者、仏の予言により、法統を嗣ぐべき者を求めてこの国に来たり、衆を率いてその辺へ来たので、鳩摩羅多出て尊者の侍者に、この師は何人《なんびと》ぞと問うと、これは仏弟子だと答え、原来仏教嫌いの婆羅門種に生まれた鳩摩羅多は、かくと聴いてさっそく返って戸を閉じた。尊者その宅から異気が起《た》つを見て、求むるところの法嗣ここにありと知り、その扉を叩くと、内に応ずるあって、この舎に人なし〔七字傍点〕といった。そこで尊者が、なしと答うる者は誰ぞ〔十字傍点〕と問うた。さっそくの機転に、鳩摩羅多、これぞわが平生の疑問を解くべき智者だろうと思い、すなわち戸を開き、尊者を入れて供養し、犬のことを問うに、尊者弁じて、この犬は汝の父が畜生に転生したのだ、むかし人間だった時、器中に千金を入れ、窃かに簷下に埋め置いたが、臨終に汝が居合わさなんだから、汝に渡し得ず、今までも番しおる、汝がそ(525)の金を取りさえすれば、犬は必ず去るはずと教えのままに、掘ってこれを獲ると同時に犬は去った。次に夢のことを問うに、尊者判断して、汝が夢みた日は仏で、汝と汝の師と暗室におったは、二人の心いまだ明了ならざるなり、日光身を照らすは、無明の宅を出ずるなり、身琉璃のごときは汝が清浄となるなり、師の体に物なきは、婆羅門行は、自分一身を利するのみで、他人を済度し能わざるを示し、蟻が汝の身を食うは、衆知識が湊《あつ》まり泊って汝の法味を享け食うを示したのだと告げたので、鳩摩羅多歎伏して出家し、伽耶舎多に嗣いで第十九祖となった、とある。
 この、この舎に人なし、なしと答うる者は誰ぞ、の問答を敷衍して、『古今図書集成』交誼典一〇二に引いた『笑禅録』には、「挙《こ》す。舎多那《しやたな》尊者、まさに鳩摩羅多の舎《いえ》に入らんとす。即時に戸を閉ず。祖、やや久しくしてその門《と》を扣《たた》く。羅多いわく、この舎人なし、と。祖いわく、なしと答うる者は誰ぞ、と。(説)一《ひとり》の秀才、路旁の人家に投宿せんとす。その家、ただ一《ひとり》の婦人あって、門《と》に倚《よ》り、答えていわく、わが家に人なし、と。秀才いわく、?《なんじ》は、と。またいわく、わが家に男人《おとこ》なし、と。秀才いわく、我は、と。(頌《じゆ》にいわく、舎の内に分明《あきらか》に箇人《ひと》あり、無端《はしなく》も答応《こた》えてみずから相|親《ちか》づく。門を扣いて宿を借るは他《ひと》にあらざるなり、爾《なんじ》と我と原来《もと》これ一身。)」と出しある。これと等しく、春台が書いた話も、たぷん伽耶舎多と鳩摩羅多の問答に基づいて、誰かが作ったものらしく惟わる。   (昭和十三年十二月一日『月刊日本及日本人』三六七号)
 
     禅
            道明寺「禅」弓乗合船」欄)参照
            (『月刊日本及日本人』三六六号一一三頁)
 
 いつごろ誰の作と確かに判らぬ『凌雨漫録』という書は、『随筆大観』第四編や『日本随筆大成』第三期四巻に収めある。その末条を、「禅学を学ぶ益」と題していわく、「東都に賈人《あきびと》あり、禅学を好みけるが、いまだこれとて悟通せ(526)しこともあらざりけるが、ある夕べ坐禅して、ふと数年前人に物を売り、いまだその価を取らざりしことを思い出だし、翌日すぐにその人の方へ尋ね行きて価を取り帰り、悦びてその子に言えるは、坐禅の益大なり、その忘るることを思い出ださしむ、汝が輩《ともがら》必ず禅を学ぶべしといえりける」と。すべてこの書に記すところ、他から抜き集めたこと多きより、件の条も左あるべしと思い、多年出所を捜しおったに、今度道明寺子の寄書により、春台の『浸筆』の文をやや引き伸ばしたに過ぎずと知り得たるを厚謝す。
 さて、この話また支那譚の焼き直しで、『古今図書集成』交誼典一〇二にその原譚を『笑禅録』より引き出しある。いわく、「挙《こ》す。『楞厳経』にいわく、たとい一切の見聞覚知を滅し、内に幽閉を守るも、なお法塵のために影事《ようじ》を分別す。(説)一《ひとり》の禅師、一の斎公に教えて、万縁を屏息し、目を閉じて静坐せしむ。五更に至り、徒然《にわか》に想起すらく、某日、英人、一斗の大麦を借了《かり》たるにいまだ還さず、と。ついに斎婆を喚び醒ましていわく、果たして然り、禅師、われに静坐を教えて益あり、ほとんど某人に一斗の大麦を騙了《かた》られんとしたり、と。(頌にいわく、兀坐《こつざ》静思して麦帳を陳《つら》ぬ、何ぞかつておのずから如々《によによ》たるを討得《もとめ》んや。もし諸相の原像《もとかたち》にあらざるを知らば、物に応ずること井《いど》の轤を?《うかが》うに同じきがごとし)」と。(十一月十日夜)   (昭和十三年十二月一日『月刊日本及日本人』三六七号)
 
(527)     自殺につき
 
 十月一日号「嗚呼乃木将軍」第一頁に、「もと天主教は何故に堅く自尽を禁ぜしか、云々。事情は種々なれど、中にも現世の劣り、天国の優るを説き、聴く者の早く天国に到らんとするを防ぐの必要あり。将《は》た初め信徒の貧賤より出で、強者に反抗するを難じ、あたかも耶蘇の甘んじて刑に就きしごとく、甘んじて刑に就けよと教えざるを得ざりしなり」とあるは、予のごとき寡聞の者に最も耳新しく、よく当時の事情を穿てる説と思わる。そのころかの教を信奉せし婦女を誅するに、多くは先ず無頼下劣の民を放ちてこれを強辱せしめ、さてこれを殺したるに、いずれも甘んじて強辱を受けたるのち死刑に就けり。中には下劣なる娼婦なども多かりしが、これすら、いずれもその素女点を全うして成道せりと、後世まで称讃渇仰す。よってジスレリ等、教説上の素女は生理学上の素女と全く別物なりと嘲笑せり。壮年の折しばしばウェストミンスターの学僧等にこのことを尋ねしに、正教を奉ぜぬ輩の解し得るところにあらずなど答えしが、今貴説を読みて、甫《はじ》めてかの殉教輩多くは下賤の女性どもゆえ、みずから引決するの勇気を欠きたるに由ると知れり。
 さて耶蘇教とても全然自殺を非難するにあらざるは、ソフロニアの例にて知るべし。この女ローマの判官《プレトル》の妻、斯教を奉ずること最も厚く、美人の誉れ高かりしを、淫虐なる皇帝マキセンチウスに召されけるに、その夫至極のへげたれ〔四字傍点〕にて、輒《たやす》く命に応じぬ。妻免れざるを自覚し、化粧の時間を請い、刺腹して死したるを、決疑論家あるいは正当、あるいは不正当として今に決し得ざる由なり。わが邦にも将軍義教が、若狭の守護一色義貫の夫人を強奪せんとし、(528)夫人の輿中に自尽せしより事起こりて、義貫を誅し、また秀吉公、肥前の波多野三河守の妻を召しけるに、同様のことありてその領地を奪われし由。細川忠興の妻に対しても秀吉濫りがわしきことありけるに、その懐剣を用意せるよりそのこと止みし、と『常山紀談』に見えたり。自分の命を捨つるのみか、夫までにも禍を及ぼせしは遺憾の至りながら、他に遁れようなき時は、自殺の外なかるべし。これを『塵塚物語』に見えたる師直の臣下輩、また西史に載せたるローマのオクタヴィウス帝の官従どもが、妻を主人の秘宝に召さるるを黙従して看過し、武田元次の妻京極氏が、夫を殺されながら、甘んじてその仇の妾となりて栄華に傲りしに比ぶれば、品性徳行の差違|霄壌《しようじよう》も啻《ただ》ならざるを見ん。されば『三都勇剣伝』、船越氏の妻が、夫の不在中に上官に汚辱されて、委細を夫に語りて潔く夫の刃に伏ししは、ローマのルクレチアとヴィルギニアの伝に異ならず。沙翁《シエキスピア》この二伝を混じて、タイタス・アンドロニクスが家の恥を除かんとて、強いて辱しめられたる娘を手刃することに脚色せり。自殺といい親に討たるといい、教義に乖きながらも、止むを得ざる場合に余儀なき行為と判断する人多ければこそ、かかる戯曲も行なわるるなれ。非道に逢う者、力余りあらば禦ぐべし。力足らずんば遁るべきは知れ切ったことながら、十一月一日号に頸大生が、「自殺を否認するならば、人の危急に赴くことも否認せねばならぬ」と言えると等しく、死に様が自殺となるを懼るる者、いかでか非道人に抗し身を全うし得んや。十一月初め、奈良地方にて、隧道近き所において強辱さるるを遁れんとて、汽車の窓より飛び下り、万死の覚悟の内に助かりし婦人あり。自殺を懼るる根性では成らぬ決心なり。
 さて自殺を禁ずること耶蘇教に限るにあらず。仏の律蔵またこれを禁ぜり。一は上帝の意に背くとし、一は何事も業報と諦めて忍べというが異なるのみ。むかし妙賢女、妍華婦徳、輪王の玉女宝に比せらる。大迦葉を夫とし、与《とも》に一柱観に居り、十二年内堅く妙業を修し、浄行厳潔、始終踰えず。のち夫出家して、妙賢また無衣外道に入夥し、五百人に不断軽辱され、受苦耐え難く、その師に告げしに、業報如何ともし難しとて、「ついに泥印を行ない、二百五十人をして、もって番次《じゆんばん》をなさしめ」、やや憂悩を減ず。のち迦葉これに逢いしに、その貌|故《もと》のごとくならず。推問し(529)てそのすでに汚されたるを知り、勧めて仏に帰せしめ、すなわち「阿羅漢果を証得し、転じて清浄無生の女となる」(耶蘇教の娼婦得道して素女を復するに同じ)。時に未生怨王、父を弑して楽しまず、大臣、妙賢のきわめて美なるを見、逼って法衣を脱せしめ、厳飾盛粧せしめて悪王に進め、ついに凌辱せらる。かくてもこの女自殺せず、毎度多人の淫掠に任せしを、仏、宿業滝のごとしとてその因縁を説聞せし由。(『根本説一切有部?蒭尼毘奈耶』巻二。シェフネル『西蔵伝話』参取)
 仏典にも多くかかることを教えしゆえに、仏法盛んなりし世には人心柔軟にて、僧尼になり過ちを覆う者多く、淫風盛んにして、自殺など少なかりしは、ヒュームが欧州中古耶蘇教全盛の世に、柔弱卑屈のことのみ多く、勇猛剛毅の風乏しかりLを論ぜるに同じ。幸いに古学復興して、その教育というもの多くはギリシア、ローマに基づき、スペンセルが言えるごとく、六日はギリシア、ローマ、日曜の一日だけ耶蘇の教を受くることとなりてより、性質も改まり、気風も昂まり来たれるなり。中世の淫風今に上流に留まり行なわれ、実際一婦にして多夫なる者多きこと、わが平安朝に異ならず。因襲の久しき、ガラントリーとてこれを称揚す。近世著名の夫人、モンタグ、スタール以下比々として然り。史家グロートの夫人のごとき、このことなかりしを特書せるほどのことなり。名操のため自殺をこの輩に望むべきにあらず。下等社会の婦女が、辱を見じとて、また辱を恥じて自殺する者多きは、タージューの『風俗罪論』等に見えたり。すべて欧州諸国の田舎に、自殺人を四辻に埋めて車馬に踏ませ、十字架を立つるを禁ずる等のことあり。故《ことさ》らにこれを困《くる》しむるためなどいうを察するに、未開の世に痛く自殺者の霊を怖れし古俗の残れるらしきこと多し。一に耶蘇の教理にのみ因らず、幾分か蒙昧時代の俗を襲いて、自殺を忌むと見ゆ。
 人ごとに毛嫌いということあり、また毛好きともいうべきことあり。谷本博士は乃木の名を聞くも厭な気持がする由。ハーリー・ハーヴェーは敗徳人なり、ただし予は彼を好む、汝試みに犬をかく名づけよ、予はたちまちその犬を好まん、と博士ジョンソンは言えり。予は知らぬことながら、予の知人は、従来みな、谷本の名を聞くも厭な気(530)持すと語る。その故を聞くに、先年豊太閤の伝を講ずるとて、伊藤公の一事一行を讃め、京都の老妓君尾に途中慇懃に挨拶したなどいう些事までも称揚せり。「五経地を掃う」とはこの人なり、と言えり。死せる乃木を貶して、生きたる東郷を揚ぐるなど、吾輩庸人にはできぬ芸当なり。また乃木将軍が一言一行古人の真似せしと嘲る。ワレス、ピットソヴァルス等が言えるごとく、世にことのほか斬新な事物は一もあるなし。非凡極まる人は知らず、通常人には古人の言行を真似るほか、琢磨の術なからん。かつ世に左まで斬新なことなくば、古人と期せずして合する言行も多かりしならん。『徒然草』の一章一句、これは何より採れり、これは誰より仮れりと挙ぐる人を、塙検校笑語して、兼好はそれほど博識なるまじと言えりとか。東郷大将の令詞の出処ならんとて、おびただしく挙げ示されし英人に予答えしは、西洋の例を捜るまでもなし、梁の慧皎の『高僧伝』に、康僧会が孫権に強いられて、仏舎利を祈り出すに、「請いて七日を期す。よってその属《やから》に謂いていわく、法の興廃、この一挙にあり、今、至誠ならざれば、のち将《また》何ぞ及ばんや」とあるが、大将このような物を読みたりとも思われず。人|豈《あに》ことごとに温故してしかして言行すべけんや。博士また乃木将軍の死後、その骨相自殺の徴ありしを審言す。兼実公の『玉葉』四二巻に、災禍起これる後、前年出たる星の凶星たりしを論じ、『逆櫓松』なる戯曲に、法印が占を問う者、姉が遊女となる身の上を尋ぬと聞きて、なるほど籠鳥のごとしと卦に出でありと言う一節あり。谷本流の邪推で言わば、博士の骨相判断もこれらに真似たるものか。謝在杭の言に、『拾遺記』に、善く馬を判つ者、馬死してその脳を破り視るに、色血のごとき者は日に万里、黄なる者は千里を行くと言えり、馬すでに死して、幾里行く馬と知れたりとも、何の効かあらん、と言えり。要は骨相学の妙を誇らんとならば、死なぬ内に判断して、人々に告げ遣り、もって殃を未然に防がれたきものなり。
 田舎住居不便にして、浮田博士の『自殺論』を読み得ざれど、いかなる事情あるにせよ、自殺者を称讃すると、キリスト教を奉ずる西洋人の評判が悪くなると論ぜられたりと聞く。一応もっともなことなり、さて、これまた伝聞ながら、博士は近年避妊術の必要を説かるとか。避妊術はキリスト教義に背かざるや。ニューヨーク医学校のガード(531)ナー教授このことを論ぜる書、『ゼ・コンジュカル・リレーションシップス』二万部売れたりとて、今夏知人が送り越ししを見るに、欧米で避妊術に対する声すこぶる喧しく、関係もなき蕃国へ宣教師を遣り、堕胎殺児を戒しむるより、自国の寺院にて避妊妨止の説教を出精すべしなど痛論しあり。自殺と避妊と、人を減殺し評判を悪くするにおいて大した違いありや否や。   (大正元年十二月一日『日本及日本人』五九五号)
【追記】
 『川角太閤記』巻三に、柴田敗れ、佐久間玄蕃盛政|虜《いけど》られし時、秀吉、蜂須賀彦右衛門をもって玄蕃に降を勧めけるに、「自害と存じ候えつるが、待てしばし、我事心(我等事)いかようなるきうめいにも相《あ》うべきことを悲しみ、玄蕃自害したるよと取沙汰これあるにおいては、かばねの上の不覚なるべきため、自害はとまりぬるなり」とて、みずから乞うて人眼に掛かるべき美服を著し、繩を懸けられ、一条の辻より下京へ引き下ろさせ、上下に見物させ、腹切らず繩のまま刎首されたり、と見ゆ。甫庵の『豊臣記』に、玄蕃辞世とて、「世の中をめぐりも果てぬ小車は火宅の門を出ずるなりけ。」と、仏家の語を雑えたる歌を載せたれば、この人天主教を奉ぜりとも思われず。もって自殺すべきところを自殺せぬ者、必ずしも天主徒に限らざりしを見るべし。また、飯田氏の『野史』に、佐々成政、邪教を奉ぜり、とあり。たぶん天主教を指すならん。しかるに尼崎で自殺せしは、この一事に限って斯教の制戒を手ぬるしとせるにや。識者の教えを待つ。   (大正元年十二月十五日『日本及日本人』五九六号)
【再追記】
 宗旨に拠って自殺せぬこと。小西行長を始め(『古今武家盛衰記』五)、横田内膳を切った茶道宗把(『中村一氏記』)など、耶蘇信向の上から自殺すべきところをせなんだ者が多い。ただし、かつて本誌に出したごとく、佐久間盛政など宗旨外の理由より故《ことさ》らに自殺せなんだのもある。また天草一揆の大将時貞の妹などは熱心な耶蘇徒ながら武道を専念して自害した(『島原記』二)。平重衡は、人の胸には三身の如来あり、身より血を出だすは仏を害するはずとて(532)自殺せなんだ由(『源平盛衰記』四五)。支那でも晋の恭帝、位を宋武帝に禅《ゆず》ってのち、「秣陵宮におり、嘗《つね》に害せらるるを懼る。?后と共に一室に処《お》り、みずから牀前にて煮て食らう。高祖、?后の兄弟|淡之《たんし》等をして后を視《みま》わしむ。后、別室に出でて相見《あ》う。兵すなわち垣を踰《こ》えて入り、薬を帝に進む。帝飲むことを肯んぜずしていわく、仏教にては自殺する者は人身に復するを得ず、と。ついにもってこれを掩殺す(『宋書』?淡之等伝)」。世にキリスト教のみ罪を懼れて自殺せぬよう心得た人多いから、仏教にもかかる例あると注意し置く。   (大正十年九月一日『日本及日本人』八一六号)
 
(533)     古書保存と和歌山城の破壊
 
 七月一日の本誌一五〇頁に、古書保存事業と、スウィングル氏購書を機会として古書保存について、粛堂君の警告が載っておる。それを好機会として数言を述べんに、まず予が粛堂君に呈したる書翰にス氏が巨額の書籍を購うた由記したは、ス氏の直話でなく、五月の『東洋学芸雑誌』に、ス氏が東京で購書に費やすところ二十五万円、同氏が勤むる米国植物興産局の経費が一億万円とあったのを、記憶のまま書いたのである。ただし、その書翰にも断わって置いた通り、予はその時も只今も標品の整理に多忙で、四十八また五十一時間も眠らずに働き続くること毎々なれば、渋筆意の通ぜぬところも多かっただろう。
 さて粛堂君が編輯さるる古書保存会の雑誌『典籍』に、柳田君また雪嶺先生も述べられたように思う、古書保存はそのこと必要に相違ないが罷り間違うと玩物喪志に近く、ハーバード・スペンセルが古銭学と数学を比戟して学問中にも必要の大小あるを例示せるごとく、同じ書籍という中に就いても、世間に鴻益あるべきに著者が僻地に住んだために田舎に竄伏しおるものを捜出保存する方が、世に知れ渡りながら手写印行の時代の古いものを惟《こ》れ求めて保存するよりはずっと必要なことと思う。また、古写『永楽大典』一冊をス氏が百五十円で購うたを驚くべきことのように言わるるが、百五十円は英米でわが国の十五円ほどの比例なり。ス氏は別に大金を投じたとは思わず安値だから購うたと想いおるであろう。予などロンドンで馬小屋の二階に住み、かつて富士艦の士官一同から、かの艦の写真をその写真師方より送らしめしに、いかに探すも分からずして艦へ逆送した、それほどの貧乏だったが、一冊百五十円の欧(534)書は幾部も購うて持っておる。日本の板行絵本なども外国の物になってしまうは惜しいと思うた物は、いかにも悔しいが、日本人の店から一冊五十円、六十円で多く買い戻したこともあった。これらは売買人の勝手次第で何とも他より致し方のないことと思う。かつてアイルランドで小さき金の盃を掘り出し、それが米人の手に渡ろうとする時、知人故サー・ウォラストン・フランクスが発起して、豪家どもより醵金して莫大の金を払い、買い取って大英博物館の常備品とした。売りに出した者を当局から売らぬよう干渉はならぬから、何とかかかる貴重品の醵金購買保存組合でも奨励するか、政府へ買い入るるかの外なかろう。欧米人一般が日本人固有の美点を覚悟するに至ったのは、吉田松陰の伝や、一向の宗義を見聞したよりも、かかる古物、美術品に親灸した力はるかに多い。だから国情を外国へ知らすために貴重な古物、美術品を、ある程度まで外国へ売らしむるは構わぬことと、故大鳥圭介氏は言われ、外国人が日本の物を購うと同時に日本も精励して余贏《よえい》を得、外国の珍宝を買い入るるべしと、鎌田栄吉氏、予に話されたことあり。近ごろ、志賀重昂氏が何かへ書かれた物にも、あまりにかかることにまで制限を設けて偏固の気象を示すを得策にあらざる由を述べあったと記臆す。
 古書の保存よりもずっと大事なのが古蹟名勝天然記念物の保存で、天然記念物のことはしばらく措き、古蹟と名勝が国民の感化に口筆の企て及ばざる力を有するは、玄奘の『西域記』に、「妙理は幽玄にして、言談の究むるところにあらず。聖迹は昭著《あきらか》にして、足趾相尋ぬべし」と言った通りだ。和歌山県会議員毛利清雅氏は、故マクス・ミュラーが瑜伽秘密の教旨を究めんため、その教師を土宜法竜僧正に求められし時、その道に擬せられた人で、予と喧嘩もすればまた和睦もするが、熊野の名勝古蹟天然記念物が幾分横暴な官公吏の手を免れて現存するは、この人勧誘の力多きに居る。この人、那智の滝が追い追い人工斧鉞を加えられて今に見すぼらしき物にならんとした時の慨言に、「守信とか介石とかがよい加減に筆を揮うて、見もせぬこの滝を画いたのが国宝となり、さて古往今来無量の国宝を作り出すべき肝心の手本たるこの瀑布は、貪餐な官公吏や無智の我利者のためにその形を失うに至るは長大息だ」と(535)あった。
 さて先年貴族院の大勢が古蹟名勝天然記念物保存の建議を通過した時、我輩手を額に加えて勇み立ち、件《くだん》の毛利氏と東奔西馳して紀州の古蹟等の保存を勧め、一旦全滅したハカマカズラをも再生せしめ、諸処の神林伐採をも中止せしめ、これがため予は唯今わずかの田地の外に無一物となりおる。しかるに去年、また折もこそあれ旧藩主頼倫侯が紀州巡回に際し、私慾上から和歌山の城隍を埋めて借家を立て、その上り高で市役所を宏壮に立つべしとの議起こったのを、予同志と協力して必死に働き、ようやく中止となってまず安心と思うて休む間もあらず、只今また本多静六博士の設計で、今度は南竜公以来虎伏山竹垣の城とて、維新万事改変の後までも旧観を改めず、南紀随一の見物たる和歌山城の、そこを崩し、ここを平らげて、和歌山市にはまだ不相応な、イタリア式とかフランス式とかの公園を作るとて、近日その工事に取り懸かる様子。この城は南竜公が加藤清正の聟で、清正は築城の名人、部下の将士にもその法に精しい者が多かったので、いろいろ加藤氏の方法を研究して築かれたと、故岡本兵四郎氏(陸軍中将)から承聞した知人あり。故サー・ヘンリ・パークス夫妻明治二年この城で七日間駐まりし時の記にも、優雅荘厳、身仙境《フエヤリー・ランド》にあるを覚ゆとありて、ジキンス氏の『日本古文』にも引かれおる。
 かく外人にまで仰がれた名城を、日光街道の並木を全伐するとか、九段の招魂社を深林で覆うべしとか、自分の腕前を見せたい一偏で他を顧みざる人や、仏国革命前の窮民同様、日傭い賃になりゃあ名城も古襦袢も何ぞ択ばんという風の者どもに潰させては千載の遺憾ならずや。しかしてことに怪訝に堪えざるは、前年古蹟名勝保存建議の発頭人にして現今そのことを専一の目的とする会の頭たる和歌山旧藩主頼倫侯が、これに対して一の抗議をも出されざることなり。嚢昔、秀吉小田原征伐の路次、岡崎の城を一寸借《ちよつとが》りせんと家康公に相談を懸けた時、本多重次、公の後に立ちはだかり、城を他人に貸す根性の者は北の方をも貸し兼ねざるべし、と言った。近日讃岐の高松城を大典記念のため公園とせんと市民の申込みに対し、大典記念には他の方法多からん、わが先祖が苦辛留意して作った城をむやみに(536)群衆の足に委すべきにあらずとて断わられたと伝う。大上は徳を植え、功を立て、その次は言を述ぶとか聞く。日本の人民、南宋の上下が西湖に遊びながら亡びたごとくに、公園に散歩のみして日を過ごすべきにあらず。
 御大典記念には徳を植え功を積み言を述ぶる三者の中に就いて、いかようにも相応の事業あるべし。何ぞ近ごろ大流行のすでに合祀した神社をまた興したり、用もなき所へ樹を植えたり、いわんや三百年間一市に大威望を加え来たりし名城を崩し平らげ変革するを用いんや。もし鬼作左をして今日に存せしめば、これを惟《こ》れ黙過任為する旧藩主は自分の妻を眼前に凌辱されてもこれ因果の余業と澄まし込むべきか。十年ほど前に加藤弘之男は旧藩主を旧領民が訴訟するの国体に反するを論ぜり。しかして今日は旧領民が永々君主と仰ぎし家の開祖が建てた名城を破却して名を御大典の記念事業に借りんとす。しかしてこれを黙過する旧藩主もまた祖先に対して太《はなは》だ罪あり。いわんやそのこれらを保存するを声言する会長たるにおいてをや。むかし阿育大王あまねく五印土に百万の寺塔を建て、その裔|弗沙密多《ふつしやみつた》王はこれを潰し尽すを無上の名誉とし、身横禍に死せり。   (大正四年七月十五日『日本及日本人』六五九号)
 
(537)     博士輩の出放題
 
 わが邦にバクテリアほど殖えた博士中に、ずいぶんその学位に寄托して杜撰極まる言を吐いて平気で通す人あるは、その輩の厚顔無双でもあれば、国民がかかる虚号を過重する弊風の表現でもある。例せば前日の『大阪毎日』に、佐多愛彦が人種改善学の受売り評を演《の》べた発端に、この学の開祖ガルトン氏は、「英国のダーウィンとまで持囃《もてはや》された碩学」とあったが、佐多はガルトンを天竺人とでも思うのかしら。ガルトンがかつて指紋法は古く東洋にあったというばかりで明証がないというように述べたのを、予が明証を公表したので首肯したは誰も知るところで(ガルトン自身『ネーチュール』で公言した)、頼倫侯がキューの天文台の内部を見たいと望まれた時、こればかりは公使館の力にも及ばず、予が斡旋して見せ申した。その時、台の評議員だったガルトンがこのことに関する手紙は、今に鎌田栄吉氏が持ちおるはずで、それほど知った人ゆえ、予はガルトンは天竺人でもなく英人ダーウィンの従弟たることを明言する。
 さてまた今日の『大毎』に、本多静六が台湾に移植したき熱地植物を挙げた中に、「曩《さき》に果物の王と私が命名したドリアン」とあるは、剽窃か不明か知らぬが、博士号に対して無識極まる。ドリアンを果中王というは波羅辺で毎度聞くことで、例せば、ダーウィンと期せずして同時に自然淘汰説を出したワラスの『巫来《マレー》群島記』(四十六年前、明治二年初板、五章)、すでにこの物と他果との優劣論を載せ、「もし予に諸果について最優のもの二つを択べとならば、予はドリアンを諸果の王、橘を果中の后と名づくべし」とあるに、四十六年後の今日向う見ずに、「私が果中の王と名づけた」もすさまじい。また前日の『大毎』および『和歌山』の新聞記者に語った筆記を読むと、この陸には汽車あり馬(538)車あり自動車ある世の中を、安閑と官費で旅行して、外国では知れ切ったことどもを見聞しながら、「真に虎嶽?海を跋渉した」など、玄奘やスタンレーが言うて初めて然るべきような法螺を吹いておるが、紀州へ来てそんな贅は言わぬがいい。二十四、五年前、予ほとんど無銭で単身西インド諸島から近傍諸国を渉猟し、当時のみかは今も欧米の学者が気付かぬ生物を多く採り、前月来訪のスウィングルなども大いに羨望されたることである。例せば、ヒロデス・クニアプスという鹿は大英博物館にもその標品なかったを、英学士会員ブーランゼーが非常に勧めるからかの館へ寄付し、大いに悦ばれて翌日公使館の小池張造、故山座円次郎また岩崎弥之助の息男なども見に来て、鱈腹《たらふく》呑ませくれた味を今に毎度夢に見る。とにかく予意気揚々で一日サー・ロバート・ダグラスの官房で、どの国でどんな目に逢うたなど人もなげに旅行譚をする座右に、スコットランド生れの十七、八の娘が傾聴するを顧み、予が、貴嬢も国外へ蹈み出したことがありやすかねと冷やかすと、貴下は西大陸の一部を蹈んだらしいが、私は父の伝道に幼児から伴われて五大州を識っておる、と答えられて南方先生ギュツと詰まり、この世界中を借家同前に心得た英国で自分ほどの小旅行を喋々するは、孫悟空が如来の掌中を宇宙と心得たような笑柄と大いに愧じ入り、その後一切旅行譚を止むるのみか、当時採集した多くの標品も空しく倉庫中に放置しある。さて只今は濠州の鉱山からブラジルの大沢、メキシコの高原まで、男子はおろか少女までもおびただしく紀州から出でおるその紀州へ来て、官費旅行で読案内記半分の短日月の視察談を、司馬相如や郭璞の口調で虎嶽?海(実際には?は海に棲まず)を跋渉したの、山婆に惚れられたのなどの法螺は、少なくとも紀州人の御座へは出さぬがよい。かような人足のために日光の霊境が裸にされんとしたを、有志の防禦で幸いに中止したと安心すると、懲りもなく和歌山の名城またその禍を受けんとするは、この世界に神も仏も座さず、南竜公の文徳武威もすでに竭きたるにや。
 このついでに言うは、非列賓《フイリピン》群島中サマルとアルバイより出るバラオ油は、予一度逢うた独人ヤゴルの『非列賓紀行』(一八七三年ベルリン板)に、舟釘を一度この油に漬けると十年間少しも銹びず、また材木に塗れば白蟻犯さぬこと(539)妙なりとあるより、自分購うて験せんとしたが、ロンドンにも多からぬ売品で十分実験を得ず、わが海軍士官や前田正名氏に、何とか台湾へ移植して研究せんことを勧めたが、いずれも気に留めなんだらしい。しかるに非島が米領となりてより、この油のこと以前に比して一向書物にも見えず、報告にも載らぬは奇怪で、前日拙宅でスウィングル氏に糺さんと気付いたが、罷り間違うて敵に糧を輸《いた》す始末とならんことを恐れて問わなんだ。われらごとき一生私産を傾け、いやな酒まで呑んで学問に困苦する者と異り、本多などは政府で重用され、民間でも毎度の公園新設、古蹟破損の計画は無報酬ではしやさんすまい。したがって何とぞその声望地位を国家真に緊要のことに利用し、田舎者威しの「江の賦」「海の賦」的の駄法螺を全廃し、せめてこのパラオ油を出すアペトン樹を台湾に移植して、海軍節費に大効あるべき防銹の研究でも始められたい。昨今ごとく身徳川家に重恩あり、史蹟保存会の評議員でおりながら、日光の霊区、和歌山の名城の破壊改革を、注文さえあれば何でも計画すること、?手《かいしゆ》が奉行の命令のままに、強盗の首も烈士の頸も斬るごときは、本多一人のみでなく会員全体の名を汚す次第と惟う。(七月三日)   (大正四年七月十五日『日本及日本人』六五九号)
 
(540)     青柳君の説につき
 
 本誌七〇一号九九頁に、青柳有美氏がある公判記事中の法医学的弁論を読んで、女子の月経は犯罪と非常に密接な関係があるばかりでなく、妊娠力の旺盛なのも月経時が一番で、フランスの某孤児院の統計によれば、女子がただ一度男に接しただけで受胎した者はすべて月経時であったと書いてあると言われた、と見えた。青柳君は定めてご承知ならんが、右の趣きは古く仏経に載せある。例せば、『大宝積経』巻五六、仏説入胎蔵会一四の一に、「仏、難陀に告ぐ。母胎ありといえども、入るあり、入らざるあり。云何《いか》にして生を人の母胎中に受くるや。もし父母|染心《ぜんしん》して共に淫愛をなし、その母の腹|浄《きよ》くして月期の時に至れば、中蘊《ちゆうおん》現前す。まさに知るべし、その時に母胎に入ると名づくるを」。また陳の天竺三蔵真諦が訳した『立世阿毘曇論』一に、劫畢他林の南にある六大国の開祖は?生の男女が夫婦となりし者なる由を説く、いわく、「過去久遠のとき、王の出家するあり。その王の夫人、また出家するを得、国師の婆羅門もまた随って出家す。すでに出家し已《おわ》り、おのおの相《たがい》に捨離《しやり》し、山に入って道を学ぶ。この王夫人、時あって月水あり、月水の浄《きよ》き時、往きて王の所に至り、王と相見る。すなわち王に白《もう》していわく、大王、われ今月水あり、古昔《むかし》の人は児息を尊重す、と。王、棄捨して妃の意に従わざらんと欲するも、事の重きを思惟し、(541)また不可なるを恐れ、ついに共に和合す。すなわち大福徳の子あり、男女二人、倶《とも》に時に胎に託す。王を捨てて去り、すでに時節を経て、その後、腹大となる」。衆人これを見て、この女人は出家ながら妊娠とはけしからぬ破戒者と罵り、妃深く慚悔を生ず。この時、国師婆羅門すでに五神通を得て山林に住む。妃尋ね往きて王の子を孕んだ由を告げると、かの仙人、王の旧恩を憶い別処に葉屋を起こして王妃を養い、月満ちて男女二子を生んだまま王妃は去った。仙人二子を養育して麦を食うことを教え、二子、夫妻となり子孫生長して六国を建てた、と。この文によると、古インドの作法として、子あらんと望む婦人は月信まさに到るを俟ってその夫に告げたので、爾時《そのとき》和合せば必ず孕むと信じたのだ。(四月十三日)   (大正六年五月一日『日本及日本人』七〇四号)
【追記】
 前掲拙文が出たのち、蕭斉の朝、僧伽跋陀羅が訳した『善見毘婆沙律』巻六に、次の文あるを見出でた。いわく、「女人、まさに受胎せんと欲すれば、月華水出ず。華水とは、これはこれ血の名なり。女人の法《きまり》として、懐胎を欲する時、児胞の処に一の血聚を生ず。七日にしておのずから破れ、これより血出ず。もし血出でて断えざれば、男精|住《とどま》らずして、すなわち共に流れ出ず。もしことごとく出ずれば、男精をもってまたその処に還復《かえ》し、しかる後に胎を成す。たとえば、田家《のうふ》の耕治調熟のごとく然り。大いに水を過《や》り、穀をもって中に下ろせば、穀は水上に浮かびて、四面に流れ出ず。何をもっての故に。水大いなれば、穀は泥に著かず、故に根株を成さず。女人もまたかくのごとし。もし血尽き已《おわ》れば、男精も住《とど》まるを得て、即便《ただち》に胎《はら》むあり」。これは田に水多き時種を蒔いても根を下ろさず、水まさに去って跡が乾かぬ処へ蒔けばたちまち生えるごとく、経行中は妊まず、経行ちょうど止んだ時よく妊むというので、「およそ経水尽きて一日より三日に至るまでは、新血いまだ盛《み》たず、精その血に勝って、男の胎成る。四日より六日に至るまで、新血ようやく長じ、血その精に勝って、女の胎成る。六日より十日に至っては、成ることあるもの鮮《すくな》し、たとい成るともまたみな女の胎なり」と言える支那説に近い。しかるに『毘婆沙律』前文に続いて、「また女人(542)に七事の受胎あり、云々。何を相触受胎と謂うか。答う、女人あり、月水生ずる時、男子と喜楽《たの》しみ、もし男子、身をもってその身分に触るれば、すなわち貪著を生じて、すなわち懐胎す、云々、と。問う、何を見色受胎というか、と。答う、一の女人あり、月華水成って、男子の交合するを得ず、欲情きわめて盛んなれば、ただ男子を視るも、即便《ただち》に懐胎す。宮女人のごときも、またかくのごとし」。これ経行中もっとも妊娠力強く、はなはだしきは男子を視たばかりでも懐胎する者ありとしたのだ。故にこの律が成ったころのインドには、経行中もっとも懐妊し易しというと、経行済んだ直後もっとも孕み易しというと、両説並び行なわれたと知るべし。(五月十七日)   (大正六年六月一日『日本及日本人』七〇六号)
 
     英国婦人の前垂れ
 
 明治三十七年五月十八日、パリ発行の『ル・タン』紙に、当時日露戦争で露帝親征とあって、それにつき露国中流社会の気象を窺うに足る奇徴として、露国の一学者が報じていわく、「この件について近ごろ盛んに噂さるはサロフのセラフィム菩薩の予言で、この上人はサロフの沙漠に棲み、生前すでに予言者、またしばしば神異を現わすとして尊ばれ、七十年ほど前円寂した。そののち彼が毎《つね》に祈?した処に遠からぬ井の水よく諸病を治すとて巡礼人引きも切らず。その筋より取り調べていよいよ霊験偽りなしと判定の末、菩薩号を贈られ、去年創立の新寺へ盛儀もて改葬された。その節、露帝一族を伴れて臨場あり、帝自身と四人の大公がその遺骸を担い運んだ。新寺内部装飾の模様に至っては久しく難有屋《ありがたや》になり給える露后|窮《みずか》らこれを選んだ。さて、この菩薩の予言の一にいわく、わが遺骸を寺へ移すとその翌年露国に対して怖るべき戦争を起こす者あって多くの禍害随って生ぜん、爾時《そのとき》露帝|親《みずか》ら出征すべく、われまた伴い行き助力して英国婦人の前垂れ(エプロン)を破るべし、と。この予言を予が聞いたは昨年七月(日露開戦より七箇(543)月前)だった。露帝も定めて予言通り出陣さるるだろう。聞くがごとくんば、宮廷中にもかの菩薩が帝と同行すべしと信ずる者多く、その輩の説に、菩薩の冥助で被らるべき英国婦人の前垂れとは、必ずしも英国との戦争を意味せず、全く英国が影に廻って使い来たった日本を指したんだ、と。あるいは言う、件のセラフィム上人は、今より四代前の露帝で、一八二五年|暴《にわ》かに崩じたと伝えらるるアレキサンドル一世に他ならず。その父帝ポール一世が弑せられたは自分の発意に因らざるも、止むを得ず嗣いで立った罪業を脱せんと、窃《ひそ》かに遯世《とんせい》してサロフ沙漠に残年を送った。さればこそその遺骸を移すに皇帝、皇族までも親しく手伝うたのだ、と。上流の露人中かく信ずる者少なからず」と。
 事の始終を稽うるにこの予言一向|中《あた》らず。菩薩の冥助もその効なく露国の負け続けだったから、今となってはかの国にもこの菩薩を尊ぶ者はなかろう。英国婦人の前垂れなどいえるは、ヴィクトリア女皇が久しく英国に君臨した内に捏造された予言という証拠になるかと思う。とにかく痴人の夢のような咄で、今となっては取るにも足らず、記憶に留めた人もなかろうが、かかる報道が仏国首都の新紙に出で英国の物どもにも転載されたので、当時身命を抛ち国運を賭して戦うた日本を、露国は固《もと》より欧州諸邦の多くの人は単に英国婦人の前垂れと愍笑し、英人中にもまことに左様と頷く輩が少なからねばこそ臆面もなく転載したのだ。自国の生死を決する一大事と必死に戦うてさえこの通りだから、昨今風説通り何の子細も定かならぬ喧嘩場へのそのそ出兵とあっては、今度は英国婦人の前拭いとか尻ふきとか言わるるかも知れぬ。もっともそれ式の人の口は構うに足らじと言えばそれまでなれど、当事者がまた揃うて些細な人の口にばかり気を揉む連中のみゆえ、気の毒さに一言し置く。(十月三十一日)   (大正六年十一月十五日『日本及日本人』七一八号)
 
(544)     千代加代
           久津見蕨村「英雄と美人の関係と様式」参照
           (『日本及日本人』七四七号二六四頁)
 
 祇園新地でこの二妓が嬌名を馳せた最盛時は明治十二、三年で、奈良屋千代はロムニー画ハミルトン夫人に似た妖嬌で、それと等しく半裸の写真が持囃《もてはや》され、それに比すると加代は剣道師江羅大蔵の娘だけに姿貌淑貞らしいところがあったが、眼がやや俗にいう烏眼《からすめ》に近かったと毎度見たように話された人があったが法螺かも知れぬ。千代は元老院議官町田久成氏に嬖されその子を生んだが、久成氏出家する時悲惨なことがあったとか。加代は武州の華族松平家へ落籍されたが久しからずして帰洛し、富人三井高辰氏の邸に移り栄華を尽した末、肝臓病と腸カタルの併発で大正五年一月四日五十四歳で死し、六日三井家の旦那寺たる真如堂で葬式あったと『大毎』紙で見た。紀州田辺の剣術家柏木常雄の自伝に、天保十年この人十九歳で京都に上った時、江艮大蔵とて高名の剣客あるを訪い対面するに、年のころは五十余なり、教場に至り、その子秀四郎(三十余歳)と試合し、また江良の高弟で寺町に稽古場を張り今弁慶と綽号立った西林寺の一道斎智門と試合した、とある。それから推算すると、加代は大蔵が八十近くて儲けた娘らしいが、あるいは秀四郎が二代目の大蔵と名乗って五十余歳で生んだものか。二妓の盛時、世人もっぱら千代加代と言って加代千代と言わず。これは発音の便宜から出たのでその品藻を上下したるにあらじ。『世説新語補』に、「諸葛令と王丞相と、共に姓族の先後を争う。王いわく、何ぞ葛王と言わずして王葛というか、と。令いわく、たとえば驢馬と言って馬随と言わざるがごとし、驢いずくんぞ馬に勝らんや、と」と見えたと同じく、言わばどうでも言い得たはずだ。(一月二十九日)   (大正八年三月一日『日本及日本人』七五一号)
 
(545)     ストライキ
           麦生「版摺職工のストライキ」参照
           (『日本及日本人』七五二号六八頁)
 
 麦生君は自笑の『当世誰が身の上』によって、徳川幕府の中葉すでにストライキが多少本邦で行なわれたと立証された。それは京都の書物屋どもが印刷の手間賃を引き下ぐるに一党し、職工三百余人大いに困るを見兼ねて、職工上りの義人次郎助が、平生勤倹貯蓄した内から彼輩に資金を与え、思い思いの小商いに取り付かしめたので、書物屋ども大いに手古摺り謝罪して、職工が復業したちう譯だ。この同盟罷工は傭主まずロック・アウトを催し、止むを得ず随って工人がストライキを起こした訳ゆえ、そのころ本邦にこの二事ともに行なわれた証になる。さて『赤染衛門集』に、この婦人がその夫尾張守大江匡衡と尾張へ下った時の詠歌を列ねた中に、「そのころ国人腹立つことありて、田も作らず種取り上げ乾してんというと聞きて、また、ますたの御社という所に詣でたりしに、神に申させし、『賤の男の種ほすといふ春の田を、作りますたの神にまかせん』。かくてのち田みな作りてきとぞ」と見ゆ。神に歌を献じてストライキを鎮めたとはいかにも受け取れぬようだが、当時上下共に厚く神を敬したから、浮れ節で危険思想や米一揆を予防するより万倍利いたのだ。この一例で自笑の書より七百余年、今日より九百余年前、日本に多少ストライキが行なわれたと分かる。(八月二日)   (大正八年八月十五日『日本及日本人』七六三号)
 
(546)     華族女の駆落
          城西一閑人「鍋島駆落事件」(『日本及日本人』七七五号一一一頁)、同「小さんの母」(同七八三号一〇〇頁)参照
 
 『大智度論』に、女は貴賤を嫌わずただ欲すればこれに随うとは、駆落男女のために無上の福音じゃ。『毘奈耶雑事』の王女天授と出光王、『史記』の卓文君と司馬長卿、『伊勢物語』の某貴女と業平、『更級日記』の某女官と竹芝の男など、古く東洋で著名の駆落男女だ。降って徳川時代には、笹山藩老職で堅固な儒者松崎白圭の『窓のすさみ』に、「貴人の息女、婦人など、出奔のこと聞きも及ばぬことなりしに、今(元文已後)は常のこととなりて耳をそばだて聞く者なきがごとくなり」とあって、ある旗本の息女家中の若士と出奔せるに、その父騒がず、三日続けて客を招き遊宴して世間の取沙汰を止め、出奔した男女に金五十両遣わし、安く暮らし得るよう取り計らうたから風説なくて止んだ、近ごろ悪しく執成《とりな》して恥を広げるものありと述べて、この旗本の仕方をほめある。『西鶴諸国咄』四に、大名の姪、若侍と駆落して、男は膏薬売り、姫は手馴れぬ洗濯業して、陋巷に困苦するを見出だされ、侍は刑死、姫に自殺を勧めると、人間に生まれて女の男一人持つこと作法なり、おのれより下の男を思うは縁の道なり、有夫の婦と異《かわ》り、男なき女の一生に一人の男持つは不義にあらずと言い張ったはえらい。   (大正九年四月十五日『日本及日本人』七八一号)
【追記】
 山県大弐の孫、竹尾覚斎の『即時考』四にいわく、「人生まれて婬心を生ずること、男女早晩ありといえども、みな陰陽の和合にして、この念のなきもの、生ける身としてなきこと能わず。しかるに、ままその時に至れども嫁がしめず、故に種々の悪評の起これることあるに至りて、にわかに驚かせしむること、父母の不正というべし。当時、山口周防守妹は、四十に余りて嫁がしめず。また文化元年には、木下辰五郎(五千石交替)女は十九歳にて、同じころ(547)琴針教業とせし盲人と家出せられ、文化十二年、織田左衛門(一万石、麻布)女は、抱えの歩徒と家出し、衣類路用みな町へ出し分を掠められ、終《つい》に三浦辺にて捉えられ、帰家の後、半年余は座敷に押しこみ、のち家長の養女として、ある与力に嫁せしめらる。また寛政中には、水野飛驛丸(三万五千石、紀伊家大夫)奥方は、中小姓と家出せらる、大風雨の夜、僕のふりにて、提灯持ちとなられ出門ありしという。これらの類、世に多くあるは、父母の心なきが致すところなり」と。   (大正十一年二月十一日『日本及日本人』八二九号)
 
     露国女主、支那人を寵せしこと
 
 清の陽胡趙翼雲ッ撰『簷曝雑記』にいわく、「康煕中、聖祖かつて侍衛の托碩を遣わして彼《かしこ》(莫斯哥未亜)に至らしめ、辺界のことを定む。托碩、美しき鬚眉《しゆび》にして、女主の寵するところとなる。およそ三年にして、始めて帰るを得。定むるところの十八条、みな枕席上に従って訂盟す。河秋濤按ずるに、これ烏有のことなり、愈理初すでにこれを弁ず、定界碑約はただ七条のみにして、十八条なし」と。いわゆる女主は一六八二−八九年(康煕二十一−二十八)のあいだ摂政た。しソフィア・アレクシェーヴナで、ずいぶん非凡の婦人だったから、件の枕席訂盟の珍聞も何か拠るところあったものか。   (大正九年五月十五日『日本及日本人』七八三号)
 
     日本人入るべからず
           「北米における排日」(無署名)参照
           (『日本及日本人』七八四号五三頁)
 
 リチャード・コックス『駐日本日記』一六一六年(元和二年)六月二十三日の条に、「昨夜ジャワのバンタムより英船(548)トマス号平戸に入る。吾輩(英人)、王(松浦侯)より制札を得て船に立て、猥りに日本人が船に入るを許さず。これ日本人好んで船員を揶揄し疲労せしむるをもつてなり」と載す。まずは 「日本人入るべからず」の嚆矢であろうか。   (大正九年六月十五日『日本及日本人』七八五号)
 
     大本という神号
 
 近来物議の種となりおる大本教の名は何に基づいた物か知らぬが、大本という神号は古く安芸の厳島にあったと見える。古河辰の『西遊雑記』に、「この島、往古は大本明神の社地たりしを、清盛公の下知として大本の社をば傍に移して、厳島明神を今の所に建立ありしこと故に、市中の者は大本明神を生神と心得ておることの由、大本明神の神主を上野市正という。厳島の御社ありて、今に市中より地借の代を市正を取ることなり。もっとも古えを忘れざるは田舎の風俗にて、殊勝ともいうべし、云々」と見ゆ。享和二年菱屋平七の『筑紫紀行』二に、「厳島の大元社、大山住命と国常立命とを一つにいわい奉る、神秘の説者とぞ」とあるは大本明神と同一らしいが、仏法の大元法あたりから出た神号のように思われる。大元、大本いずれが古いか、『厳島図会』、『芸藩通志』など見たら知れるだろうが、座右にないゆえ間に合わぬ。   (大正九年十一月一日『日本及日本人』七九五号)
 
     絶食同盟
         「絶食同盟の実行者」(巻頭言)参照
         (『日本及日本人』七九六号一頁)
 
 本年五月二十九日ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』に、匿名書を寄せた人あり、有名なるサミュール・(549)ペピスの『日記』より、英国で事の先例十七世紀にあるを証した。この『日記』、現に予の座右にあるゆえ就いて抄出すると、一六六九年五月二十六日の条に、本屋を営業とし兼ねてウェストミンスターの保安審判官たる、サー・エドモンド・ベリ・ゴドフリーが、サー・アレキサンダー・フレジャーが薪料三十ポンドを済《わた》さぬとてこれを捕縛せしめたによって、王大いに怒り、命じて捕吏どもを囚え昨夜厳しく鞭打たしめ、ゴドフリーは辛うじて遁れた。しかし今は彼も囚中にあるが、判官多くその主張を正とすれば、人民一般のために甘んじて受苦すとて、ほとんど一物をも食わぬ、とある。かくて囚居数日にして釈されたが、一六七八年、他のことで自殺とも暗殺されたともいう。この人執法公正にして慈善家で、ロンドン大火およびペスト流行の際大功あったが、王の侍医フレジャーが竜遇を頼んで専横なるを悪《にく》み、捕縛したらしい。
 ついでにいう。文天祥、元兵に執《とら》われて燕京に送らるる、「道に吉州を経、痛恨して食らわず。八日にしてなお生く。すなわち後に食らう」とはどう思い直したものか、日本人に分からぬ。   (大正十年一月一日『日本及日本人』七九九号)
 
     女を突いてあるく男
 
 一種の狂人、闇い所で婦女の尻などを突き傷つけて楽しみありく者、西洋に少なからず。わが邦にも往々都会の地にあるは近年に限ったことと思う人多い。しかるに、むかしもあったと見えて、『鼠璞十種』所収、『宝永年間諸覚』に、宝永五年二月、「このころ往来の女の腰を小刀にて突き申し候こと時花申し候、取り捕え候ところ、中川因幡守中間の由」と出ず。   (大正十一年十一月十五日『日本及日本人』八四九号)
 
(550)     「日窟瑣談」を読む
           増島六一郎「日窟瑣談」参照
           (『月刊日本及日本人』一〇〇号、一〇一号)
 
 大正十一年七、八月の交、植物採集に日光へ往って湯本の旅館に泊った時、隣室に京浜のよほど豪家の子息らしい十七、八の若者が洋人二名と宿りおった。その様子が英語練修のため洋人の費用を出して起居一切英語専用で旅行とみえた。その若者がイロイロ話すをきくと、ゼという冠詞を一々注意してザと発音する。二人の洋人もお姫様が屁をすかすごとく徐《しず》かに話し、必ずゼといわずにザといいおった。さて四年立った今日、この紀州田辺町の中学生にもゼをザと発音するを時々聞く。世間に疎い予は何の訳でこんなことが起こったか解するに苦しむが、むかし日本人の漢字や漢文に倭習というものを生じたごとく、近ごろ日本へくる洋人が手っ取り早く日本人に都合のよいように、舌を曲げて歯にあててなどというむつかしいことは抜きにして、ゼをザと教えてすますようなことが大流行となってきたのでなかろうか。これでは洋人を傭うてもちっとも役に立たぬ。   (大正十五年七月一日『月刊日本及日本人』一〇二号)
 
     南方熊楠氏より
 
 (前略)毎々『日本及日本人』誌上、大衆文芸家とやらんの用語等につき、いろいろ御批判、その都度繰り返し繰り返し拝誦、大いに小生どもまでの心得となり、ありがたく御礼申し述べ候。只今の『大毎』紙(あるいは『東日』紙にもか)に連載中の子母沢とかいう人の『国定忠次』前月ごろの分に、夜が明ければ死刑に行なわるべき二囚人のうち、一人が籠の中より他の一人に向かい、いろいろと話しかくる詞に、その人を「御同役」と呼ぶところ数回あり。(大(551)手順道とかいう浪人が定市とかいう悪徒の賤民にかく呼ぶなり。)これはこれで宜しく候や。また本日の分にも日光円(日光円蔵)が忠次のうしろへ「鉄拵えの脇指」をひそかに押しやるということあり。鉄拵えというがある物に候や。この二ついずれも間違いおらばそれきり、もし間違いおらずはちょっとその旨御示し下されたく願い上げ奉り候。(昭和八年二月十二日午前八時半)   (昭和八年三月一日『月刊日本及日本人』二六八号)
 
     南方熊楠翁より
 
 (前略)ことに昨年二月より十二月まで脚悪く、ほとんどイザリ同様に相成り、さて、今年十一月二日に頭を剃り候ところ、少しの剃刀疵よりバクテリア潜入、丹毒のようなものに罹り、二月八日まで何にもならず、それとほとんど同時に、妻が郊外の蛭子祠へ、十日夷子に参詣の帰途、眩暈を起こし、その夜より臥褥、飲食諸事ことごとく臥内にて済ませ、ようやく四、五日前より小用にのみ独りで起ち出ずるを得れど、まだまだ依然臥しおり候次第、しかしてその上にまた小生は十二、三日以来右眼に血膜炎を生じ、五日ばかり前より左眼にも拡がり、毎日一時間半ほど、医師に四回ずつ点眼しもらい、自宅では目に四回点眼の上に四回罨法とか申し、中里介山の『大菩薩峠』なる机竜之助同様、布片に薬液を含ませ、両眼を温む。かくて今に少しもキキメが現われざるには閉口致しおり候、云々。   (昭和八年四月一日『月刊日本及日本人』二七〇号)
 
     南方翁より第二信
 
 ――神島。新庄村の小学校建築のためこの島の神林を伐採して、売上高にて無料に充てんと村会議決、直ちに一部(552)分伐採に著手せしを小生聞き込み、毛利清雅氏と二人、いろいろ当時の村長榎本宇三郎氏に説き伐採中止、買い取り人に交渉して納金を返却し、契約を罷め、神林を保存に及び候。これはこの神林に特有の彎珠という植物(古来熊野詣での輩、この蔓生植物の実を一つ持てば道中悪虫に螫されず、諸事無難なりと尊信せしもの)の絶滅をことのほか遺憾とせしによる。(この外にもこの辺に珍奇の生物多し。)それ故小生右の村長に語り、二十年を出でずしてこの島保存の功は内外に弘聞すべしとなり、それが果たして当たりて右伐採中止より十九年目に(昭和四年六月一日)聖上この島へ臨幸あり、大いに内外に面目を施し申し候。よって臨幸の翌年六月一日に小生筆にて
  一枝も心して吹け沖津風 わがすめらぎのめでましし森ぞ
と書きて建碑せり。右伐採中止の時の村長榎本宇三郎氏、その後村長をやめおりしが、昨年末より再び村長になりおり、小生その多年尽瘁の労に酬いるため、一帖に神島神林保存次第を述べ、前後に腰折を一つ二つ認めて近日同氏に贈るつもりにて、只今挿入用の絵の稽古を致しおり、眼がわるきため当分中止致しおれど、視力恢復ののち直ちに事にかかるつもりに候。
 しかして最初右神林伐採中止については、いろいろと物議も起こり、片付かざりしところ、小生『日本及日本人』に神島のことを、写真を入れて載せたるより、県庁も聳動されて一旦伐採決行をさし許せしものをついに撤回されたるにて、申さば同誌も神林保存縁辺のあるなり――   (昭和八年五月一日『月刊日本及日本人』二七二号)
 
     『大菩薩峠』の歌
 
 『大菩薩峠』の清澄の茂太郎とかいう少年が何ごとでも感ずればすぐさま歌になる、その歌が維新前の歌でなく、吾輩十四、五、六歳のとき、大竹碧、外山正一、矢田部良吉諸氏、当時の大新し屋輩が発せし、「今を去ること数ふれ(553)ば、六百年のそのむかし」いわゆる新体詩風なるは小説にしてもあんまりな時代違い、英国ベーン先生がいいしごとく、たとえば斜めに柵を見るがごとく、柵の杭と杭とは等距離ながら、やや遠くなればなるほど、杭と杭とが重なり合うて一となれるようみえると言ったのが当たれるよう思われ候。けだし古いものにもよく気を留めてみれば、寛永、寛文ごろの語や唄で、戦国時代にあったことのごとく述べたり、宝暦、明和ごろの語で、慶安、承応ごろのことらしく書いたりしたものは沢山あることと察し候。(二月二十四日)   (昭和八年三月十五日『月刊日本及日本人』二六九号)
 
     信仰―――株式心理学
          仏法僧「信仰」、鬼柑子「株式心理学」参照
          (『月刊日本及日本人』四〇一号六〇頁)
 
 仏法僧君が説かれた津島の痘瘢《あばた》社家と同じ論法の答えが、明和九年板『話稿鹿子餅』に出ず。すべて獣類中で爪の割れた物は迅く走る、犀など爪が割れているから波の上を疾走するというを聞いて、馬は爪が割れていないがよく走るでないかと問うと、馬が爪がわれておらぬから人が乗れる、爪がわれていたら、不断飛ぶようで乗れる物でない。そんなら牛は爪がわれていながら道が遅いがどうだと尋ねると、あれか、あれは爪がわれているから道を歩く、割れていなかったら、だいなし動くこっちゃない。
 鬼相子が前川翁の著書から引かれたと、ほぼ同じ話が『東坡文集』に早く出てある。北宋の紹聖間、道人あって相国寺に坐し、秘伝書を売る。「博奕に負けぬ方」と題したのを一少年が千金で手に入れ、家に帰って開き視ると、初めから博奕に手を出さぬが最上方だと書きあった由。「株式心理学」を書いた米人は、これをききかじって焼き直したでなかろうか。また『安斎随筆』に、「享保のみぎり、辻売の奇妙の秘伝書に、鰹に酔わざる方、新しき魚を択みて食うべし、食わざるもよし。外も大方この類なり」とある由。このこと、かの随筆、帝国図書館本巻八に見ゆと、太田(554)氏の『日本随筆索引』に出るが、座右の『故実叢書』本には全くないようだから、『嬉遊笑覧』巻八より孫引とした。
 また往年コッホ博士が来朝して、鼠が病菌を伝うる害を演説した跡で、鼠を防ぐ妙案を問うて、博士に猫を飼えと教えられて感心した者多かったも似たことだ。(九月二十七日早朝)   (昭和十六年十一月一日『月刊日本及日本人』四〇二号)
 
(555)     中古支那の共産主義
 
 六月一日の本誌七四頁「大絃小絃」に、昨今本邦の大学生の容態を書き列ねた内に、「平安朝時代と鎌倉時代と、どっちが先なるか、いくら首を捻っても思い出せず、云々」とあったは嘘にあらず。まだまだ豪いのがあって、昨年の『大毎』紙に、東京の立派な官立学校長の鹿つべらしい時代観のような説教中、「三国干渉、遼東還付を憤って、津田三蔵が大澤事件を起こした」とあった。予が海外流浪中のこととて、年月を確かに覚えぬが、米国フロリダのジャクソンヴィルで洗濯屋の支那人方に食客中、横浜で大津一件を聞き、大噪ぎに逢った支那人が来て、予に話した。それから西インド諸島を巡り、英国へ渡り、大津事件より三年あまりののち、日清開戦、ロンドン公使館から、政府へ恤兵金を送った名簿の発頭に、自分の名が出ておった。だから、遼東還付は、大津事件より少なくとも四年ほど後だったと思う。校長さえ、当身の記憶がかくのごとしだから、数百年前のことを、学生が思い出さぬは当然かも知れぬ。しかして隣邦支那の人々またこれと同様と見える。
 十九世紀の末予が交遊した支那学生どもは、西洋に一発明一発見の出ずるを見聞するごとに、必ず、このこと中国古くこれあり、驚くに足らずと言って旧い考証を持ち出した。しかるに昨今全然欧米に心酔し切ったあまり、また中国古くこれあり、驚くに足らずと言う者なきに至ったとみえる。さればあまり望ましからぬことながら、近時流行の共産主義なども、誰も彼もこれを至極の新義と信じ、似たものが古く中国にあったと気付かないようだ。よってここ(556)で年来自分が気付きおった二条を列ねて参考に供える。
 その一条はいわく、「宋の太宗の淳化四年(一条天皇正暦四年、紫式部が卒した翌年、西暦九九三年)、青城の民王小波、乱を作《な》す。初め蜀亡び、その府庫の積《たくわえ》、ことごとく?京《べんけい》に輸《はこ》ぶ。自後の事に任ずる者、常の賦の外において、さらに博売務《はくばいむ》を置き、商賈を禁じ、私に布帛を市《う》るを得ざらしむ。蜀地は土《とち》狭く民|稠《おお》く、耕稼するも、もって給するに足らず。これによって兼并《けんぺい》せる者、ますます賤《やす》きを糴《かいい》れて貴《たか》く販《う》り、もって利を規《はか》る。青城の民王小波、よって衆を聚《あつ》めて乱をなし、かついわく、われは貧富の均しからざるを疾《にく》む、今汝がためにこれを均しくせん〔わ〜傍点〕、と。貧者争って付き、ついに青城を攻め彭山を掠めて、県令を殺し、その腹を剖く。旁邑も響応す。西川の都巡検使張?、与《とも》に江源に戦い、小波を射殺し、しかして?もまた死す。その党、小波の妻の弟李順を推して帥となし、州県を寇掠す。衆、数十万に至り、綿・漢・彭・?州を攻陥し、成都に進攻して、これを陥《おとしい》れ、大蜀王を僭称す。
 「五年正月、宦者の王継恩に命じて両川招討使となし、雷有終を転運使となして、これを討たしむ。王、果たして兵を率いて剣門に趨《おもむ》き、尹元、兵を率いて峡路に由《よ》って進む。二月、李順、衆数万を分かちて、剣州に寇す。剣門の都監|上官正《じようかんせい》、卒数百あり、激《はげま》すに忠義をもってし、力戦してもって守る。たまたま成都監軍|宿瀚《しゆくかん》の兵至る。正《せい》すなわちこれと合し、賊衆を迎撃して、大いにこれを破る。斬 潮《ざんかく》してほとんど尽き、余の三百人、奔《のが》れて成都に帰る。順、その衆を驚かせるを怒って、ことごとくこれを斬る。王師、長駆して西進す。順《つ》いでまた施州を攻めしも、また利兵の敗るところとなる。三月、詔して、およそ脅やかされて従い、よく帰順する者は、並《みな》その罪を釈《ゆる》す。四月、王師、小剣門路よりして研石寨に入り、その衆を破り、五百級を斬首し、追って綿州に至る。順の兵、風を望んで奔走す。殺戮せられ、および溺死する者、計《かぞ》うるに勝《た》うべからず。また曹習を遣わし、賊を老渓に破り、進んで?邑、蓬剣等の州を復す。五月、賊の十万の衆を破り、三万級を斬首し、李順を獲《とら》えて成都を復す。偽枢密使の計祠具、文賞等を生擒《いけどり》にす。並《みな》、甲鎧し、僭偽《せんぎ》の服用、はなはだ衆《おお》し。その党の張余、また嘉・戎等の八州を攻陥す。継恩および上官正(557)等、兵を総《ひき》いて賊を討ち、ようやく功を成すあり。師を頓《とど》めて進まず、もっぱら飲むと博《う》つとに務め、その下、恣横《ほしいまま》に剽掠す。余寇は山谷に匿《かく》れ、険を恃《たの》んで結集し、勢また張大して、州県多く陥る。
 「八月、張詠、益州に知たり。詠至るや、言をもって正等を激《はげま》し、その親《みずか》ら行かんことを勉《すす》む。よって盛んに供具をなして、これを餞《はなむけ》す。酒|酣《たけなわ》にして爵を挙げ、軍校に属《しよく》していわく、爾曹《なんじら》、国の厚恩を蒙り、もって責を塞ぐなし、この行、まさに直ちに寇塁に抵《いた》り醜類を平蕩すべし、もし老師、日を曠《むな》しくすれば、すなわちこの地また爾の死所とならん、と。これによって決行して深く入り、大いに克捷を致す。時に寇掠の際民多く脇従《つきしたが》うものあり、詠、文を移《まわ》し諭《さと》すに恩信をもってし、おのおの田里《いなか》に帰らしむ。かついわく、前日、李順は民を脇《おど》して賊とならしめ、今日、われは賊を化して民とならしむ、また可ならずや、と。次年の正月に至り、帝また詔を下して、己《おのれ》を罪す。聞く者、感悦す。二月、余寇眉州を攻む。翰、撃ち敗ってこれを獲《とら》え、余党ことごとく平らぐ」と(『古今図書集成』職方典六二六、祥刑典一一四)。
 聖主の称ある宋の太宗が、詔を下して己を罪したほどの大乱で、乱魁が、われ貧富均しからざるを疾む、今汝がためにこれを均しうせんと宣言し、県令を殺してその腹を剖いたなど、現時の共産軍そっくりのやり方だ。と教えやると、支那学生はまたこのこと中国古くこれあり、驚くに足らずと言い出すだろう。また宗の仁宗の慶暦中、貝州宣毅卒王則が、釈迦仏衰謝し、弥勒まさに出世すべしと流言して反したなど、支那や朝鮮にしばしば弥勃出世に托した騒動あり。本邦にも乱世の民間、私《わたくし》に弥勒の年号を通用した跡あり。「大和よいとこ女の夜這ひ、をとこ弥勒の世ぢゃわいな」なんという俗謡も伝わった。これみな多少弥勒仏世界に貧富の別なしという仏説から出たので、金銭のみかは女の情までも、なろうことなら平等一切施と願いたいくらいのことは、和漢とも古く心掛けられたと知れ、新しくも、珍しくもなくなる。
 今一条と言うは、『元史』一九七、孝友列伝に出で、「張閏は延安の延長県の人、軍籍に隷《ぞく》し、八世|爨《かまど》を異《こと》にせず。家(558)人百余口あれど、間言《いさかい》するものなし。日ごとに、諸女と諸婦をして、おのおの一室に聚まって、女の功《てしごと》をなさしむ。工《しごと》畢《おわ》れば、斂《おさ》めて一の庫室に貯《たくわ》え、私蔵するなし。幼稚《おさな》きもの啼泣すれば、諸母の見たる者、すなわち抱き哺《やしな》う。一婦|帰寧《さとがえり》して、その子を留むれば、衆婦、共に乳をのます。いずれがおのれの児たるかを問わず。児もまた、いずれがおのれの母なるかを知らず。閏の兄の顕卒す。すなわち家事をもって、姪の聚《しゆう》に付《わた》す。衆、辞していわく、叔は父の行《じゆん》なり、叔よろしくこれを主《つかさど》るべし、と。閏いわく、姪は宗子なり、姪よろしくこれを主るべし、と。相譲ることすでに久しく、卒《つい》にもって衆に付す。縉紳の家も、みずから如《し》かずと謂う。至元二十八年、その門を旌表《せいひよう》す。また蕪湖の?世通《ぜいせいつう》なるものあり、十世同居す。峡州の向存義、?梁の丁煦《ていく》は、八世同居す。州県、朝に請いて、並《みな》旌表を加う」というので、飛驛の白川郷のような家風のわずかに残ったのらしいが、工賃や幼児の扱い振りは、共産主義そのままだ。そんな者を旌表したは、胡元の胡たる所以か。   (昭和八年十一月一日『大日』六六号)
 
(559)     水牢の責
 
 昨年五月大日社発行『江戸百話』一六二−一六三頁に、鳶魚先生は、焉馬の戯曲『碁太平記白石噺』に出でおる、「親の水牢見ておられず、孝行からの勤め奉公」とは、作者も「飛んだことを書いたもので、江戸時代には水牢などいうものはありはせぬ」と謂われたが、予はこれに対し、二、三の文献から、元和偃武後も地方にはやや久しく水牢が行なわれたと立証し、『百話』一六四頁已下に、その拙文を収められある。
 その追加としてここに録するは、釈了意の『浮世物語』(寛文初年初出)巻三に、狩猟好きの領主、百姓を制して、田を荒らす雁を追い払わしめず、百姓ども「血の涙と共に、いかにお雁様、左様に稲をあがりては、われらは水牢に入れらるるか、妻子を沽却致すにといえども、常《ひた》食らいに食らうほどに、一畝二畝は今の間に藁ばかりになす。これを刈りとる時の悲しさ、思いやるも哀れなり」と述べ、次に唐土の故事を引きおり、その故事に水牢がかったことさらになし。故にこの物語もまた徳川三、四代将車の時、水牢は実際全廃されなんだと証する。ハラムやレッキーの書にも、欧州中古の君主、狩猟を好んで、はなはだしく農産の発達を妨げた論あり。その冊、現に眼前にあるも、泰《タイ》米のお蔭で脚気を煩い、棚より取り下ろし得ぬ。
 『百話』に収められた拙文(一六四頁)に、『善庵随筆』より、五代の漢の高祖の水獄のことを引いたが、最近、『隋書』七四、元弘嗣伝からも、やや水牢がかつたことを見出だした。いわく「大業の初め、煬帝、潜《ひそ》かに遼東を取るの意あり。弘嗣《こうし》を遣わして東莱の海口に往かしめ、船を造るを監せしむ。諸州の役丁、その捶楚《むち》に苦しむ。官人督役して、(560)昼夜、水中に立たしめ、ほとんど、あえて息《やすま》しめず。腰より以下、蛆を生ぜざるなし。死ぬ者、十に三、四なり」と。
 ついでにいう、一、二月前のたぶん大阪の新聞で読んだは、作州とかの某村へ鶴が雌雄巣をくい、雛を育てるを、天然記念物として永く保護さるるはよいが、蕃殖するに随い、禾穀の荒らさるることおびただしく、まことに困った物じゃとの投書だった。その辺の百姓は、『浮世物語』の口調で、血の涙と共に、いかにお鶴さま、左様に稲をあがりては、われらは水牢に入れらるるか、妻子を沽却致さにゃならぬ、と嘆きおることと推察する。(十月四日午前四時)   (昭和十五年十一月一日『大日』二三四号)
【追記】
 鳶魚先生の『江戸百話』、「水牢の責」の条の発端を読んで、浮瑠璃本にこのことを出したは、安永九年焉馬作『碁盤太平記白石噺』を嚆矢と想う人が少なくなかろう。しかしそれより六十五年前、正徳五年に、近松門左が出した『持統天皇歌軍法』第五段に、土民どもが香具山城に馳せ参り忠勤する、一番に飛鳥の庄屋孫右衛門が女房、「夏冬の洗濯物一度も不覚の名を取らず、年貢の鉾先未進の矢先、打ち払い切り払い、水牢〔二字傍点〕に入ること十三度、命果報のこの女、この度の大将と、会釈してこそ通りけれ」。そのまた八年前だから、『白石噺』より七十三年前、門左作、『丹波与作』中之巻、関の小万の詞に、「私が親の未進米、この六日の吉書《きつしよ》に立てねば元の水牢〔二字傍点〕、この世から八寒地獄へ落とす私が心」とあり、捜さばまだ古いのがあるだろう。
 南宋の洪邁の『夷堅支志』乙九に、「江東の兵馬|ツ轄《けんかつ》の王瑜《おうゆ》、天資峻刻にして、ほとんど義理を知らず。婢妾、少しくその意を承けざれば、すなわちその衣を褫《は》ぎ、毎《つね》にこれを鶏籠の中に坐せしめ、圧するに重き石をもってす。暑きときは、すなわちその旁《かたわら》に炭を熾《おこ》し、寒きときは、すなわち水を汲んで淋灌《そそ》ぐ。死なざるものあるなく、前後はなはだ衆《おお》し。ことごとくこれを園中に理む」。これも一種の水牢だ。明末清初の世変を親しくみた王逋の『蚓庵瑣語』に、順治二年嘉興の乱を述べて、「各処に劇盗の金を輸《はこ》んで投降するあり。陽《おもて》にては投順をなし、陰《かげ》にてはなお?《うば》(561)うことを得。郷野の民の貲《しんだい》を在城《まち》に寄せ頓《とど》めしによって、盗はもって?《うば》うすべなし。すなわち縉紳富人|并《なら》びにその愛子を択び、擒《とら》えて盗穴に匿《かく》し、千金万金を勒《もと》めて※[貝+賞]《みのしろきん》を取る。期を愆《たが》えて至らざれは、水牢〔二字傍点〕、河泥、糞|窖《あな》、煙もて眼を薫《くす》ぶる等の刑あり、云々。毒を流すこと幾十年にして、のち漸次|勦滅《しようめつ》す」とある。ずいぶん久しく掛かって、『二十一史』や『古今図書集成』や一切経について、心当たりの巻々を捜したが、支那書で水牢〔二字傍点〕という語を見たは件の『瑣語』の一ヵ処に止まる。順治二年はわが正保二年で、家光将軍の末に近い。そのころ支那で盛んに行なわれた水牢を、その名と共に日本で踏襲したとせんにも、水牢は本邦戦国の世すでにあった。
 伊勢貞丈が山岡俊明に、『庭訓往来』の毛挙〔二字傍点〕なる語の由来を問われ、わが国の俗語かと答えてのち二十余年心掛け、やっと『史記評林』の読史総評、王維禎の文にこの語あるを見出だし、わが国の手製でないと判ったと、『安斎随筆』巻二〇に書いた。ただし『庭訓往来』は王維禎に先立った物ゆえ、王の文からこの語を採用したはずなし。
 もちろん貞丈自身も左様に言わず。惟うに毛挙、水牢、共に旧く支那に行なわれた俗語で、それが久しく本邦に伝わりおりたるを、のちにたまたま文書に載せらるるに及んだであろう。近衛|家煕《いえひろ》公説に、手習の二字を和字のように覚えたるは違いなり、漢字なり、「筆道の書に見えたり」と。何という書と知らぬ人々は俗語と思う。水牢もこの類だろう。(五月二日夕六時半)   (昭和十六年五月十五日『大日』二四七号)
 
(562)     多乳房と多胎産
            田中香涯「大衆医談」(七)参照
            (『大日』二五二号六三頁)
 
 「大衆医談」に、和漢に旧《ふる》く伝えた多乳房の例が見えぬから、ここに二、三を申し上げる。伊勢亀山の城主関氏は、代々四乳ある子が襲《つ》ぎ立った。天正中、関盛信の長子に四乳なく、次男に四乳あり。家臣二派に分かれ、次男を立てんとした派は滝川一益を頼み、盛信と長子の方人《かとうど》は秀吉を便りて戦うたが、次男の党ついに敗れ降って、四乳なき兄が城主となった。しかし、それが死んで嗣なく、弟の息が相続したから、家督は依然旧例通り四乳の血統に戻ったのだ。(『野史』一七。『勢州軍記』下。『退私録』付言)
 支那では、北末の王安石の政敵だった苑鎮は、その兄死して遺腹子ありと聞き、両蜀間に徒歩すること二年してこれを得ていわく、わが兄は人と異にして体に四乳あり、この児また四乳あろう、と。すでにしてその通りだったという。古いところでは、初め支那人草を衣《き》たが、辰放氏の世に初めて木の皮を爛らかして、多島州人のタパス様の著物を製したらしく、その辰放氏に四乳あった由。周文王も四乳あり、唐の高祖に三乳あった。南斉の叛臣王敬則は、年長じて両腋下に乳を生じ、おのおの長さ数寸とあり、この人も四乳あったのだ。元代に真定の民劉驢児は、みずから三乳あるを異となし、不軌を謀って礫裂された。(『路史前紀』四。『淮南子』脩務訓。『唐書』一。『南史』四五。『宋史』三三七。『古今図書集成』人事典八)
 双児、三ツ児の育て方は、いとむつかしく、『菅原伝授手習鑑』に、梅王丸が、「桜丸とわれとおのれ三人は、世にまれな三ツ児、顔と心は異っても、著る物は三人一緒、ひょんな者産んだと、親父が気の毒に思うた」とある通り、(563)双児、三つ児ともに、一切の手当て、飲食著物、髪月代までも、毫も偏頗なく、至って均等にして取らせねば、たちまち不測の大患に罹るから、並大抵の親どもが養い能うところにあらず。むかしは特別にその料を恩賜あったものだと毎度故老より承った。三十年ほど前、余の知人に双児の扱いにいささか片落ちのあったを、親が気付かずに過ごしたところが、兄の方が痴呆化して行方|不知《しれず》、数日後に近所の林下に自殺しあった一例に遭うた。ガルトンやマヤースの大著によると、双児、三ツ児の相互の連感は微妙を極め、往々万里を隔てて同日同刻に同じ夢を見、同じことを予知し、一方は変死し一方は急病で終わることなどもあるようだ。人に限らず、多年蛙や亀を孵しても、しばしばこんな例を見た。双児、三ツ児にかかる七六《しちむつ》かしい子細あるに頓著なく、梅は散り、桜は枯るる世と知らず、「そちの嬶も若いほどに、うますなら俺にあやかりや」と、白太夫が十作に言い放った気持で、二子、三ツ子までも産めよ殖やせよと噺し立てる人々の頭は大分どうかしておる。
 ついでに申す。フムボルトの『回帰線内米洲旅行談』に、病妻に代わって、自分の体より出る乳汁で、その男の子を育て上げた人に会うた記事を載せ、古今諸国にあった類似の諸話を列べ、またハノヴェルで一牡山羊が牝以上に乳汁を出した例をも出しある。露国では往々乳汁多き男子ある由。わが邦にもあるものなら、一人洩らさず搾取して御用に立てたらよい思い付き案だろう。よってこれも「祖先戻り」の異現象なるかを香涯先生に質し、併せてこんな例が日本にもあるかを伺う。支那には、唐の元徳秀が、兄死してその幼児の乳母を傭う能わず、自分の乳で育てた等『唐書』一九四の例あり。(九月三十日)   (昭和十六年十月十五日『大日』二五七号)
【追加】
 多乳房のインドの例を挙げると、『パンチャタントラ』の末段に、王女三乳を持って生まれたので、王|梵志《ぼんじ》に諮《と》うと、こんな身支に過不及ある女は貞操全からず、その夫を殺す、また三乳ある女《むすめ》をその父が見ると速死を招く、だから誰にでも妻《めあわ》せて国外へ放逐したまえ、と勧めた。よって父王十万金を懸けて、王女を嫁せんと募ったが、応ずる者(564)なきうちに、王女は年ごろに達した。時に城中に盲人あって駝背(せむし)を手引きとした。二人謀って女と金さえ得たら、竟《つい》に殺されても構わぬと一決し、盲人すなわち進んでその王女を娶り、十万金を得て三人他国へ逐われ、一家に住んで気楽に暮らした。そのあいだに王女駝背と通じ、盲夫を殺してしまわんと勧めると、駝背承諾して死んだ毒蛇を拾い来たった。王女これを切って鍋に入れ、今日旨い魚を調理して火に懸けある、自分は用事が多いから、よくかきまわして勝手に召し上がれ、と勧めて退いた。盲人大いに悦んでかきまわすうち、蛇の毒気が目に廻るとカスミがまくれ去ってよく物が見え、魚とは詐りで毒蛇と判った。しかしそんな素振りを見せず、依然盲目の態で通しおるところへ、駝背入り来たって三乳王女とダンマリでいちゃつき出した。盲人それを見て、無明の業火直上三千丈、いきなり駝背の両足を執って、一生懸命に自分の頭上で振り廻すと、駝背の胴が強く王女の胸に打ち当たり、第三の乳房は体内に引っ込んで跡を留めず、駝背も瘤が潰れて背が真直になったという。天下のこと何が仕合わせになるかも知れず、こんがらかったことも一時に鳧《けり》が付く。ローズベルト毎々の虚喝等一切惧るるに足らぬという譬喩だ。
 『正法念処経』七〇には、須弥四洲の内、西瞿陀尼洲、一切女人みな三乳あり、と記す。『長阿含経』に、北鬱単越洲の人、懐妊七、八日して子を産むと、四辻に置いてけ堀とする、すると通り合わせた人々が、指を出してその児に含ませる、すると指より甘乳出て児の身に充遍し、七日立つとその児成長して、かの人と等し、とある。さればこの洲の人は男女共におのおの十乳房を具えおる訳だ。
 滅法界な多胎産の話が、インドにある。蓮花夫人が般沙羅王のために五百卵を生み、卵ごとに大力の王子を出した等だ(故芳賀博士の『攷証今昔物語集』五巻六語)。支那にも、南宋の洪邁の『夷堅丁志』二に、潮州城西の婦人孕んで期を過ぎ、児を産むに及び、才《わず》かに手指の大きさのごとく、五体みな具わるもの幾百枚、蠕々としてよく動く、籃をもって満載して江に投ず、婦人また恙なし、古今この異なきなりとは、ホンにそうだんべい。(十一月四日早朝)   (昭和十六年十一月十五日『大日』二五九号)
 
(565)     伽藍を焼く猛火で自滅した人
 
 赤堀君が「高野山焼失記」より、本誌八一号六一頁に出された、永正十八年二月十二日、かの山大火の際、それに走り入りてみずから焚《や》いた者四人、走り入るところを引き留められた者一人、それも翌日頓死したという記事の先蹤ともみるべきものが、その前九百八十七年、支那にあった。後魏の楊衒之の『洛陽伽藍記』一に、後魏の孝武帝の永煕二年二月、洛陽の大伽藍永寧寺が焼けた時、「雷雨|晦冥《かいめい》し、霰と雪を雑《まじ》え下《ふ》らす。百姓、道俗、みな来たって火を観る。悲哀の声、京邑《みやこ》を振るい動かしむ。時に三《みたり》の比丘あり、火に赴いて死す。火、三月を経《ふ》るも滅《き》えず」というのだ。いずれも、罪業を焼尽して、全く輪廻《りんね》を脱するというような目的でしたので、例のインドから起こった作法と察する。(六月三十日夕六時)   (昭和九年七月十五日『大日』八三号)
 
     本邦同盟罷業の始め
 
 九月十五日号二三頁に、「本邦の同盟罷業は藤原氏に始まるか」とて、『続古事談』に出た、後三条(566)天皇が大和国司の重任を許し給わなんだ時、関白教通が藤氏一門を率いて退廷したことを挙げて、その初例とされた。拙見の及ぶところ、同盟罷業の例はこれより先にもあり。『群書類従』二七七所収、『赤染衛門集』に、「そのころ国人腹たつことありて、田も作らず種取り上げほしてんというと問きて、また、ますたのみ社《やしろ》という所に詣でたりしに、神に申させし、『賤の男の種ほすといふ春の田を、作りますたの神に任せん』。かくて後、田みな作りてきとぞ」と見ゆ。赤染衛門は後三条天皇竜潜の日、侍読たりし大江挙周の母で、一条天皇の后、上東門院に事《つか》えた和泉式部と名を斉しくした(『大日本史』二二四)とあるから、件の同盟罷業は、後三条天皇の御世より前のことと惟わる。(十月十三日早朝)   (昭和九年十一月一日『大日』九〇号)
 
     歳暮録二則
 
 (一)宍道湖の埋立 今年八月二十日の『大毎』紙に、大阪飛行場の佐々木航空官が十八日に松江市へ飛んで来て市長と会し、宍道湖を幾分埋め立て陸上飛行場を建設に極めるらしいと出であった。その後どうなったか知らぬが、そのうち、それが実行さるるかも知れぬから、事後に悔なきよう一言する。明治三十年五月、予大英博物館人類学部長チャーレス・リード男(一昨年七十三で死亡)から、中世英国兵が用いた弾弩(アルバレッタ・ガレ)を貰い、九段遊就館へ寄付する前に、武庫頭ジーロン卿の鑑定書に署名しもらうため、一夜考古学会へ往った。たまたま仏国から来た徳川頼倫侯と鎌田栄書氏が往って見たいと望むから同道した。鑑定書のこと済んで、リード男が、侯が予の旧主と知り、当夜の論題だった最近テームス河底より掘り出した大銅剣を侯に示し、種々説明し、閉会の後、中の島造幣局の創立者ウィリアム・ガウランド氏と二人で、侯と鎌田氏と予を数丁離れた学士会院|倶楽部《クラブ》へ伴れ行き饗応された。先刻の銅剣について予が種々問い、リ・ガ二氏こもごも答えられた末、ガ氏いわく、あんな銅剣は日本にも多くあるはずだ、(567)かつて出雲の宍道湖をみたが、いかにも神代以降の古物が、年代を乱さず理もりおり、一たび沈んだ以上逸出の仕様がないから、順序正しく底をかいたら、学術と歴史上無価の異宝を多く得るだろう、と。八、九年前、本山彦一氏来訪された時このことを話したが、実行せず死なれた。埋め立ててのちは何ともならず。かの湖底をかくくらいのことは、今日造作もないことゆえ、埋立前に一応やって見るよう、好学および慾張り連に勧めおく。
 (二)石油とヘリウム 昨年十月二日、和歌山県知事清水長策氏、陸軍中佐乾忠夫氏等、五、六人来訪された。その時、予雑談の中に、淡水藻学上しばしば文通した英国の故ジョージ・ステフェン・ウェスト教授の来示に、石油を前世期の樹木の油とは受け取れぬ、古今大海に不思議的多量に産する珪藻中の油分が集まり成った物だろう、と。いかにも珪藻を鏡検するごとにそんな気がする。ここに近い瀬戸の京大臨海研究所の赤塚助教授などはずいぶん薄給不如意とみえ、この田辺町住、拙妻の従弟方へ紙箱を誂え、内職に海苔を製し、大阪へ売って家計を助成するようだが、そんな苦労をして、差し当たり実用なき珪藻の分量や種別を調べるよりは、何とか工夫して、多量に珪藻を集め、微塵に打ち砕いてその油分を採し、点化して石油を取ることに尽力されたら、大いに国のためにも家のためにもなるはず、吾輩もやってみたいがそこが浮世で、種々と他に係わったことがあるので手が及ばぬ、と言った。さて今年八月十八日の『大毎』紙に、仏国ルーアン自動車会社の技師サウールが、海水から石油を採る法を発明、その秘法伝授料三億円とあった。虚実成否はその後承らねど、やはり海水中の珪藻等から採る考案とみえる。まるで成算のないことと思わぬから、志ある人々に試験を勧めおく。
 明けて十月三日に、三土鉄相が白浜へ来ると聴いて、田辺駅長より途中の御坊駅まで電話を出して貰い、みずから田辺駅に迎えて、白浜で十五分間の会談を申し込んだが、多用の由で断わられた。見れば京阪の利権屋六十余人、芸妓三名、その他有臓無臓、追随者で列車皆満、松崎氏なる県内務部長、この様子では到底鉄相と一語を交うべくもないから、熊楠宅へ行こうとのことで伴い帰った。途中での話に、御坊へ電話が達すると、鉄相、予のことを話し出し、(568)この男エロ談無量の弁才ありなど言いおった由。けだし大正十一年予上京中、故平沢哲雄氏の案内で、一夜、三土氏を訪い、かの辺の談を始めしに、翌朝教育者大会とかへ臨む身をもって、八時より一時まで聴き入って感に打たれたるによる。それはそれとして君子は器ならず。当日予が十五分の会談を申し込んだのは、非常時に取っての重大事で、在英中世話になった故ノルマン・ロッキャー男が、毎度分光鏡で太陽面にあるヘリウム(日素)を検査した。当時何のこととも分からなかったが、後に聞くと、日素は水素よりはずっと軽く、砲撃されても爆発せず、圧迫して液体、固体ともなし得ぺければ、飛行機用にその効はるかに水素に優る。その六、七年前より白浜に温泉を掘ること絶えず、一丈、二丈あるいはそれ以上に熱泉噴騰して空しく海に流れ去るものあり、一々その道の者をして仔細にこれを検査せしめば、いかに微量たりとも、塵積もって山を成す、もし日素の存在を検出し得ば、これ国家の大慶事ならずやと進言するつもりであった。けだしこれより四、五年前、ドイツの国勢きわめて?弱《おうじやく》なりしに関せず、密使を派して、米国の噴泉地より高価をもって日素を購い去りしと知れ、米国政府急に日素の輸出を厳禁したと聞き及んだによる。しかるに金の無心かエロ談を演《の》べに来たよう断わられて、のち、むかし並河天民が「無情なるは最もこれ関門の吏、王者三たび過ぐるも曾《かつ》て知らず」と賦したことを、駅を通るごとに思い出す。たとい白浜になくとも、本邦のどこかにあるかも知れぬから、有志の注意を促しおく。   (昭和九年十二月十五日『大日』九三号)
 
     南帝の御末
           釈瓢斎「吉野朝再興運動史」参照
           (『大日』一八一号五三頁)
 
 釈瓢斎君は、『菅政友全集』、「南主の行方」から孫引して、「『甲斐妙法寺記』、文明十年霜月十四日、甲州小石沢観音寺に御坐とあり、応仁開戦の翌年だから、小倉宮と認め奉ってよかろう、とある。なお同記、明応八年霜月、王は(569)流されて三島に御著、早雲入道やがて相州へ送りたまうとある由」と言われた。『続群書類従』八七八や『続史籍集覧』五〇に収めた本書を見るに、前条の文は、文明十戊戌霜月十四日、王京より東海へ流れ御坐す、甲州へ趣き、云々、とあって、京の兵乱を避けて東海道筋を流浪したようにも窺わる。しかし後条の文は、「この年霜月、王流されて三島へ付きたまうなり、早雲入道諌めて相州へ送り賜うなり」とあれば、やはり流罪だったものか。早雲諌めて相州へ送ったとは、何か子細がありそうだ。こんなことは本書の一字をも改めずに読む方、他日の発見を助くべければ、注意申し上げます。そのころ王が流寓し来たということ、奥州辺にもあったと覚えるが、只今見当て得ず。王とあるから小倉宮と推量は如何《いかが》にや。瓢斎君の文を見ると、大抵この辺で南帝の御末は全滅したようだが、『武徳編年集成』一三、天正元年二月九日の条に、南帝の御末、木寺の宮と称し、遠州に沈落し、入野四百石の地を四十年来領知したが、去年より家康に叛き信玄に属したまうゆえ、頃日、本多作左衛門、從兵を遣わし、これを追却せしかば、這う這う洛陽へ走り幾程なく卒去した、と見えるのが、文献上、最後の南帝御末だろう。(八月十七日夕五時)   (昭和十三年九月一日『大日』一八二号)
 
     ?鯉――ソバカス
 
 頃日病臥中、本誌の旧号どもを歴覧するうち、去年末の一六五号五八頁に村田君が、浙江省で伊東忠太博士が睹《み》た外に、活きた?鯉を見た邦人はないと思う、と述べられある。それはいつのこととも明記ないが、予の知った日本人で活きたこの物を見たのが数人ある。ただしいずれも伊東博士より後れてのことかも知れぬ。ただ一つ確かに博士よりも先に見たのは、和歌山の士族橋爪伴卿という人で、明治七年征台の軍に従うた時、蛮人がこれを捉うると縮んで球状をなした、土名を問うとサンガ(山甲か)と答えた、と語ったを覚えおる。この人の甥くらいに当たる東(570)大出の工学士か工博で、久しく旅順で教授した神谷豊太郎氏は、現に大森辺に住み、至って記憶に富んだ人ゆえ、当年橋爪氏(明治二十七、八年死亡)の目撃談を、予よりはずっと詳しく伝えおると惟う。
 蘭山の『本草啓蒙』に、「この甲、舶来多し。赤色を帯ぶるものは鱗長く全身細長し。黒色を帯ぶるものは鱗広く全身肥え短し」と記しあるので、享和のころ?鯉の鱗片のみかは、その全身もしばしば輸入されたと判るが、それより約百年のむかし、宝永・正徳年代には、西川氏の『増補華夷通商考』に全く?鯉を載せず。益軒の『大和本草』また然り。寺島氏の『和漢三才図会』には?鯉の条あり。穿山甲《せんざんこう》、処々より出で、多くは福建、廈門より来たる、本朝にも九州の深山大谷中、?鯉|希《まれ》にこれあり、俗にいう波牟左介、と書いた。『本草啓蒙』に、ハンザケ(石州)、ハンザキ(作州)、共にサンショウウオを指す、と見ゆ。正徳ごろは東南支那から多少?鯉の鱗片を輸入したが、全身は来たらず。医術で法橋にまで昇った寺島良安さえ、サンショウウオと?鯉を混同したのだ。ついでにいう。南米産の食蟻熊はアジア、アフリカの?鯉と等しく、長い舌もて蟻ばかり啜り生活するので、飼養の望み絶えおったところ、明治三十一年ごろロンドンの動物園へ一疋到着、衰えずに活動しおった。予園丁に尋ぬると、牛肉をきわめて細く切って啜らせると答え、程なく同じ趣きが、『ネイチュール』誌に出でおった。台湾の?鯉も同じ方法で内地で飼い、活きた奴を覧せ得べしと考える。また、ついでにいうは、『本草綱目』に?鯉を竜の類とし、本邦諸書みなこれに随うたので、明治九年文部省から諸府県の小学校に頒たれた「博物指数図」に、?鯉を鯨と共に獣と同類に列ねたを見て、当年十歳なりし予はきわめて訝かったが、いずれも胎生哺乳するからという道理を聴かされて安心した。?鯉が一身に鱗と毛を兼具せるは村田氏が述べた通り。さて唐の釈道宣の『三宝感通録』等の支那書に、竜に毛ある話あるは、この?鯉に毛あるから思い付いたものだろう。
 十月一日発行本誌一八四号七七頁、水島君がソバカス調査を厚生省がやり出すかも知れないという杞憂、穿ち得て面白い。南方先生一事に逢うごとに一考あり、水島君の寄書を読むと同時に上心したは、梅原氏の『談奇(571)館随筆』第二編に、ある書より珍説を引く。その書の著者、当時の蘭説に、眼下の神経、私処に通ずるゆえ、眼下の肉を吸えば、云々、というと聞き、それから種々推理して、ヤブニラミの女を称揚し、さらに進んで、「世諺に、ニキビ男にソバカス女と称するも一理あり。ソバカス女は妙多し。ニキビ、ソバカス共に?血表発するによれば、悪血凝滞より起こるゆえ、云々。腋臭の女は毎日入浴せずとも、臭きことなし。これは臭気他所へ漏るるゆえなり」と論じたようだ。
 明治十八年、予、神田錦町住人で、故鈴木万次郎氏の舅、同苗久七氏方に下宿した。隣に天保銭人総生寛おり、日本の美女にことごとく六十四能を解せしめ、これを洋人に実施して巨万の黄白を吮《す》い取ったところを、相応の俳優に思い付かせて捲き上ぐるが無上の富国策と、真面目に説きおった。それより五、六年のち、エドウィン・アーノルド男が妻に死なれ、娘が哀しみ続けて病みそうなるを慰むるため、偕《とも》に来遊中、大磯辺で、日本女の海に浴するを見て心大いに浮かれ、黒川という軍人の寡婦を娶って、自分の子女と中違いしても悔いず、事あるごとに率先して日本の肩を持ち廻るを見て、さすがの猶太《ユダヤ》奴も日本の女に生擒《いけどり》されたと生粋《きつすい》の英国華族どもが唄いおった。これ全く日本女の身分、他に優れたるによる、容姿とか徳性とかに係ることでないと、初め彼の寡婦を取り持った男(現在ロンドン)が毎度予に語った。したがって予はドイツ男子のソバカスよりも、日本女のヤブニラミとソバカスと腋臭の調査を、何分の急務と考える。(十月九日)   (昭和十三年十二月十五日『大日』一八九号)
 
     浄瑠璃作者の義憤
           田中香涯「今昔雑話」(四)参照
           (『大日』一九六号七二頁)
 
 田中君の一文を読んで、寛政六年公演『日本賢女鑑』なる院本の作者が、当時の著作家、史家の舞文曲筆に対する(572)反感義憤に基づき、淀君を日本賢女の鑑とまで賞揚したるを、識り得たるを感謝す。それより五年ののち、大阪の宿儒で、懐徳書院の教授だった中井積善が、大命により府庁に詣り、上進したその所撰の『逸史』には、みずから序して、「もし夫《か》の季年の大阪の両役は、大義深仁、もって天下後世に暴自《あか》すべし。しかるに俗士あるいは猜忌の私を挟《さしはさ》み、妄《みだ》りに横議を発するは、阪府の豊氏の墟に係《かか》るをもってなり。土人は往々、前代の廃滅を閔《いた》んで、奇説を偽造し、もって旧図を鳴らし、また今日の煕洽《きこう》の沢《めぐみ》を念《おも》わず。これみな憎むべきのはなはだしきなり」といい、通篇秀頼公を?孺また孺子、淀君を悍母また黠婦と称え、また庚子役の上方勢と、元和役の城兵を賊と呼びおる。祖父已来大阪に住み、その先代の人々は、徳善院、黒田、脇坂等、豊臣氏に従って起こった家々に事《つか》えたという儒者にしては、はなはだソツゴせぬやり方と思わる。五十年ほど前、何かで読んだは、家康かつて惺窩先生に湯武放伐のことを問うた。けだし自分を湯武、秀頼を桀紂に比し、心|窃《ひそ》かに先生が自分に都合よき答をせよかしと冀うた。ところが都合よく答えくれなんだので、家康大いに失望した、と。同じ程朱の説を奉じたものの、先生と積善と人品が大分ちがう。田中君の細説通り、どうも学力も才筆もない院本作者の方が、しばしば世にいわゆる宿儒よりも義理明るく、気節に富んだように思わる。(四月五日)   (昭和十四年四月十五日『大日』一九七号)
 
     出征兵士へ女人厚情の慰問品
 
 前日『大毎』紙に、大毎新聞社で、日清・日露戦に功を立てた宿将、老兵を招いて、懐旧談を聞いた時、ある老兵が、陣中で、面も知らぬ女人よりの慰問品に添えた手書を読んだほど、嬉しいことはなかったと語ったとか、出でおった。そんなことは、千年已上のむかし、唐代の支那にすでにあった。竜子猶の『情史』四にいわく、「開元中、頒ちて辺軍に賜う\衣を宮中において製《つく》る。短袍を得たる兵士あり、中より詩を得。いわく、沙場、征戍の客、寒苦|若《いか》(573)にしてか眠らん、戦袍、手を経て作れども、阿誰《た》が辺に落つるかを知らん、意を畜《こ》めて多く線《いと》を添え、情を含んでさらに綿を著《い》る、今生すでに過ぎたれば、重ねて後生の縁を結ばん、と。兵士、詩をもって帥に白《もう》す。帥、これを玄宗に進《たてまつ》る。命じて詩をもって六宮に遍《あま》ねくせしめていわく、作者あれば隠すなかれ、われ汝を罪せず、と。一《ひとり》の宮人あり、みずから万死なりと言う。玄宗、深くこれを憫《あわ》れみ、ついに詩を得たる人に嫁せしむ。よって謂いていわく、われ汝と与《とも》に今生の緑を結べり、と。辺人みな感泣す。僖宗、内より袍千領を出だして、室外の吏士に賜う。神策軍の馬真、袍中より金鎖一枚と詩一首を得。いわく、王の燭にて袍を製《つく》るの夜、金刀をもて手を呵《あたた》めて裁《た》つ、鎖を千里の客に寄するも、鎖《とざ》せる心は終《つい》に開かず、と。真、市に就《つ》いて鎖を貨《う》り、人の告ぐるところとなる。主将その詩を得て、僖宗に奏聞す。令して闕に赴かしめ、この宮人を訪ね出だして、ついにもって真に妻《めあわ》す。のち僖宗、蜀に幸す。真、昼夜、衣を解かずして、前後を悍禦《ふせ》ぐ。竜子評す、されば一《ひとり》の女子のことはきわめて小さきも、兵士をして天子の辺を念うの情を知らしめ、その感発することもっとも大なり。いわゆる王道の人情に本《もと》づくこと、その則《のり》は遠からず」と。(四月二十日)   (昭和十四年五月一日『大日』一九八号)
 
     家光将軍について
             田中香涯「今昔雑話」(七)参照
             (『大日』一九九号六五頁)
 
 『元寛日記』巻七に、「寛永十九年二月三日、服部佐五右衛門召し出だされ、来たる九日若君(家綱)御宮参りあるべきの時、扶助奉るべきの由仰せ付けらる。于時《ときに》八十歳ばかりなり。渠《かれ》が息五左衛門は、家光公御若年より御傍衆《おそばしゆう》たり、無双の出頭人なり。しかるに家光公十六歳の御時、慮《はか》らずも上意に背き御手討遊ばさる。然る後、佐五右衛門も蟄居して年月を送るのところに、今度、召し出だされ右の仰せを蒙り面目を施す」。その事由は、同書巻二に、「時に家光(574)公十六歳、佐五右衛門は、慶長九年公御誕生、翌年山王権現の御宮参りの時、秀忠公仰せにより抱き奉りたる者なり。これ子供|余多《あまた》これを持ち、繁昌ゆえこの儀に及ばしむ。この由緒をもって、息五左衛門こと、家光公に付けられ、御近習に召し仕う。しかるに五左衛門家光公に恋慕奉り、折を見て委細を申す。家光公御情を懸けず、殊に被召仕不便。しかるに今日、公、御風呂に入らせられ、御小姓衆同じく風呂に入る。五左衛門もまた御垢役を参る。公、小風呂に御座し、五左衛門も小風呂にあり、潜《ひそ》かに御小姓衆に戯る。公、御覧あり、御風呂より上がらせられ、唯今の不作法覚えたるかとて、すなわち誅せらる。一太刀にて死す。天罰に懸かるとみな囁きけり」と、元和二年五月十四夜の記事が見える。
 予が蔵する写本、誤脱あるらしく、委細判然せぬが、五左衛門が公を侮り、もっての外の無礼を働いたとだけは十分|解《わか》る。かく近臣に侮られたは、この公あんまり賢いたちでなかったと証拠立てる。(六月二日朝七時)   (昭和十四年六月十五日『大日』二〇一号)
 
     臍くらべ
 
 今年五月大日社発行、鳶魚先生の『江戸百話』一一一頁已下に、『総見記』を引いて、天正八年、無辺という妖僧が、夜の丑の時に、「秘法を伝授すると披露し、あるいは子を持たざる女、あるいは病者なる女を勧め入れ、臍くらべということをさしたる由」の咎で、信長の命で首を刎ねられたことを記す。むかし海外にあって梵・希諸古文を学んだ時、臍下の玄妙門をその本名で呼ばず、臍という語で言い表わした例を多く識りおった。それらと同様、『総見記』の臍くらべという称えも、正しき物を名ざすを忌避した隠詞と察せらる。
 支那にもそんなことがあったとみえ、『古今図書集成』職方典一〇七八巻、(福建)汀州府雑録に、崇禎乙亥(八年、(575)明正天皇・寛永十二年)、銭謙義という蘇州府常熟の人あり、邪術をもって人を魘す。江に来たり、帰依する者に食わすに米?一片をもってすれば、すなわち酔夢のごとく室家を棄て、葷酒を断ち、すなわち壺秤|倶《とも》に手に近づけず。衆数百人を集め、男女を分かたず、夜に入り香を焚き臍を摩して説法し、毒、郡邑に流る。のち舒姓の室女を拐かし逃れしをもって、寧化より捕獲され、獄に械死し、党衆星散す。しかるにその術なお伝習する者あり、と出ず。臍を摩して説法したその詳を知り得ねど、大抵無辺の臍くらべと似たりはったりな手妻を行なつたと推する。(十月三十日夜)   (昭和十四年十一月十五日『大日』二一一号)
 
     夏は炭の目重くなるという説
 
 『存採叢書』所収、小栗百万の『屠竜工随筆』に「月に暈のある時、蘆の灰を窓の元に蒔いて、かたえよりその灰を掃いて行けば、掃くに随って、上にあるところの暈消ゆる、と『淮南子』にみえたり、覚束《おぼつか》なきことなり」と不審したはもっとも千万だ。しかるにまた、「炭は夏買い置くこそ便なれとて、多く買って積み置くあり、しかして『淮南子』に、夏の炭の目重しと出でたり、炭は秤って直《あたい》を定むる物なるに、目の重きをも知らずして、多く買って所狭ゆに積み置くこそ可笑《おか》しけれ」と書いたは、月暈のことについて疑うた『淮南子』を、炭については十分実験して確信したように受け取らる。『淮南子』の本文は、天文訓に出で、いわく、「日の冬至《とうじ》には、すなわち水これに従い、日の夏至には、すなわち火これに従う。故に、五月は火|正《さかん》にして水漏る。十一月は水正にして陰勝つ。陽気は火たり、陰気は水たり。水勝つが故に夏至には湿《うるお》い、火勝つが故に冬至には燥《かわ》く。燥くが故に炭軽く、湿うが故に炭重し」と。『史記』天官書にも、「冬至は短きこと極まれば、土と炭とを県《か》く。炭動けば、鹿は角を解《と》き、蘭の根出で、泉の水|躍《わ》く。ほぼもって日の至れるを知る」と出で、『集解』に、「孟康いわく、冬至に先んずる三日は、土と炭とを衡《はかり》の両端(576)に県《か》けて、軽重|適《まさ》に均《ひと》しくす、冬至の日に陽気至れば、すなわち炭重く、夏至の日に陰気至れば、すなわち土重し、と。晋灼いわく、蔡?の『律暦記』に、鐘律《しようりつ》を候《み》るには土炭を権《はか》る、冬至の陽気、黄鐘に応じて通えば、土炭軽くして衡|仰《あが》り、夏至の陰気、?賓《すいひん》に応じて通えば、土炭重くして衡|低《さが》る、進退先後は五日の中なり、と」とある。そんな事実が多少あるものか。炭を買い置く人々の留意を冀う。(六月一日早朝)   (昭和十五年六月十五日『大日』二二五号)
 
     伊勢講の初見
          中山太郎「伊勢参宮民俗記」(上)参照
          (『大日』二二六号六七頁)
 
 中山太郎先生は、通説に、伊勢講の初見は永禄年中にありというに対し、それより約五十年前、永正十一年宗鑑が編んだ『犬筑波集』の「結解《けつげ》をやする伊勢講の銭」という句が正しき初見だと述べられたようだ。
 ところが永正十一年より五十二年早く、「寛正三年八月九日辛未、云々。備州に村民あり、合議して、共に伊〔勢〕の大廟に詣でんと欲す。しかれども、道路の貲なし。おのおの米穀|少許《すこし》を出だし、これを一人に委《ゆだ》ね、もって贏利を増さんとす。彼、その貲をもって、一牛を買い、もって田を耕す。この人、にわかに狂疾を発し、久しく痊《い》えず。ある時、その牛の一脚を打ち傷つく。神、牛に託して人語をなしていわく、?《なんじ》いずくんぞ神に詣ずるの貲をもって、私《わたくし》に牛を買うをなせるか、加うるにもって脚を折《くじ》くの禍を致す、その過ち?《のが》るべからざるなり、と。しかして、この人ついに死し、その妻子も相継いでことごとく死し、家、空虚たり。牛また語を作《な》していわく、われ神廟に詣でんと欲す、しかして一脚すでに折《くじ》け、歩むを獲ず、と。聴く者、車を造り、もってこれを載せ、人をしてこれを引かしむ。里邑村県、造次《じゆんじ》にこれを送り、この日、京師に達す。路人、競いてこれを視る」と、明治三十五年発行、『史籍集覧』二五冊所収、『碧山日録』巻四に出ず。伊勢講という名を出さねど、通説よりおよそ百二年早くそのことが行なわれお(577)ったと立証する。また、江戸時代にしばしばあった、畜生の伊勢参りも、そのころすでに多少噂されたと示す。(七月七日午前五時)   (昭和十五年七月十五日『大日』二二七号)
 
     近藤勇
 
 昭和十一年政教社発行『江戸の実話』一三八頁已下に、鳶魚先生が、その祖父と大伯父二方、また千葉弥一郎氏の直話を参して、「近藤(勇)が剣術の道場を持っていたなどという話は私は聞いていない。とても剣道の指南などをするほどの腕前があった人ではないのであります。しかし粘《ねば》っこいだけに、臆面もなく道場を出していないとも言われない」と述べられてある。
 只今座右にないが、明治二十一年末の予の日記に、当時、予米国アナバーで、松平康国氏と酒肆に飲み、大雪に逢って自宅に帰る能わず、氏の宿所に一泊して、種々承ったことどもを書き留めあるその中に、近藤勇、牛込辺で道場を開いた時、弟子入りさらになかった。さっそく計って、下駄で荒らかに板の間を踏み躍り、両手で両竹刀を敲き合わせ、通行人をして、この道場は弟子多くて、不断稽古しおると想わせたので、追い追い弟子入りがあった、とある。康国氏の実父を大久保右近将監といい、二条城隍辺で毎度早朝に兵隊を調練したのを、幼眼ながら見覚えおる、近藤勇はその猶子《ゆうし》として取り立てられた、と語られた。依田百川の『譯海』に、勇が一時大久保大和と名乗ったとあるもそんな所由あるか。本誌二二九号六八頁三段に大久保一殿とあるは、右近将監のことか。康国氏は現に健在すれば、伺われたい。(八月二十二日)   (昭和十五年九月一日『大日』二三〇号)
 
(578)     故沼田頼輔博士
            中島利一郎「紋章学者沼田博士の一生」参照
            (『大日』二三五号四二頁)
 
 中島利一郎君は、「山本先生(沼田博士)は……小学校長の辞令書を(中野)県令の前で机下に叩き付けて辞職した、当時小学校長が神奈川県令の頭を辞令書で撲ったと伝えられた」と書かれた。大正十一年四月、沼田博士が予を下村宏氏の妾宅に訪れた時、過ぐる大正九年四月の『考古学雑誌』で、予が博士の釘ぬき説に加勢した時、考古学会の予に仕向けたやり方の卑劣千万だったことを話すと、まことに不埒な奴原、これから伴れ立ち詰問に往って撲ってやろうといきまいた。予いかに不埒なればとてなぐりに往くも不穏当となだめると、博士がかつて中野県令の頭をなぐり、それからかえって県令に好遇された次第を述べられた。したがって予は博士が頭を撲ったは事実と信ずる。(十二月五日夜九時)   (昭和十五年十二月十五日『大日』二三七号)
 
     仮名という漢字
           高田集蔵「仮名という呼称果たして不穏当か」
           (『大日』二四一号二八−三二貝)、水島爾保布「巣鴨より」(同誌二四二号七四頁)参照
 
 高田集蔵君の「仮名という呼称果たして不穏当か」の一文を拝見して大いに感心、さっそく賛成の意を申し述べようと取り掛かるうち、水島画伯が例の絶妙好詞もて、いと面白く高田君の尻馬に乗られたので、この上、年寄の冷水を添うるに及ばずと、仮名という呼称について、一辞を賛せずと決した。
 だが、仮名という漢字は支那でできたものでなく、全く邦人の捏造物とのみ想う者が多いようだ。よってここに、(579)本誌二四七号六三頁に述べたる、毛拳、水牢、手習の三語と等しく、仮名なる文字も、また何の理由なしに拵えられた手製品にあらずということを申し上げおく。宋西天三蔵天息災、詔を奉じて訳せる『一切如来大秘密王未曽有最上微妙大曼拏羅経』巻二に、如来、金剛手菩薩に、目、月、惹羅、母祖?、妙香という五息法を説き、「息は有情の命なり、五つは仮名《けみよう》もて分別す」と言われた、とある。本邦でカンナなる語に仮名の二字を充てた始めは、宋朝の初めよりも早いと惟わるるが、件《くだん》の経の訳成以前に、仮名なる文字を出した経巻絶無という証左もなく、いわんや経巻の現存せぬものも、秘伝口訳でのみ伝えたものも少なかるまじければ、それらの中から真言徒などが、仮名という二字を採って、カンナという邦語に充て初めたことと考える。(五月二十四日午後四時)   (昭和十六年六月一日『大日』二四八号)
 
(581)     今井君の「大和本草の菌類」に注記す
 
 二、松露 本書に、麦蕈《ばくじん》は「松林に生ぜず、かつ松気のあるものにあらず」とあるは、この紀州田辺辺でムギショウロと呼ぶ物だろう。麦が熟するころもっぱら生ずるゆえ名づくときく。シイ、カシ、ヒノキ、スギ等の混生林下に生じ、白、黄褐、洋  撒褐と色を換える。松露よりは円いもの多く、松気なく、触れても赭くならぬから、松露と判別しやすし。素人《しろうと》騙しに市へ出すことあるも、買う者少なし。至細に検査したら、三種ほどになるだろうが、そんな暇がないから当分 Rhizopogon luteolus Fr.と付箋しある。これに似た物で、夏生じ、触れると鼻糞のごとく粘り出し、黒変して手を汚すのがある(先達て今井君へ贈った)。『本草啓蒙』に、予州・雲州で粟松露また麦松露、外黒く内黄だとあるものだろう。R.nigrescens Coker et Couch と察する。故にいわゆる麦松露も一種と限らず。拙蔵中にすら三、四種はある。これらの査定が済まないうちに、本書いわゆる麦蕈の何物たるを判ずるは望むべからず。今井君あまり長引かずに視てくれるなら、取り揃えて送り上ぐべし。昨年末、拙方の下女、紺藍色のものを獲、今夏今井君御存知の北島脩一郎氏は、菫紫色のものを獲、この属の菌はここに大繁盛なり。近来一眼しか用い得ぬゆえ、鏡検十分に成らず。思召しあらば図記を添え送り上ぐべし。総じてこの属の菌、時節と遭際により、重ね重ね外部内部とも変色変質するから、よほど注意して始終自身で観、自身で図記せねば信憑すべからず。年久しくずいぶん多く手に入れあるが、混雑はなはだしくて実際無用の品多きにはてこずりおる。粘り松露、餅松露等は上述『啓蒙』に見(582)えた外黒内黄、予州・雲州で粟松露また麦松露というもの R-〔斜体のローマ字は入力が煩瑣なので最初の一字だけにし、あとは-で略す、以下同じ〕Coker et Couch が、触れれば粘り付くからの名と察するが、当地方におけるがごとく、触れて赭くもならず、また粘りも出さず、さしたる香気もなき数種を併せて麦松露と呼ぶ所も多々あるだろうと惟う。加うるに田夫樵男、属種の定義に頓著なき上、世間逼迫、人気鋭化せるため、地下菌や半地下菌、多少松露らしい物あれば、たちまち松露として売りに来たり、その芳香なきものは、買う者挙げて麦松露として突っ返すから、少なくともこの田辺辺で、もと何の種に限って麦松露と称えたかを確かむるは、今となっては望むべからずと思う。ついでにいう。白井・大沼二氏の『本草図譜考訂』に、五四巻所載、四品の松露をことごとく R- Tul.としあるが、その第一図は R- Coker et Couch 二図はたぷん R- Fr.またはその近種、三図、四図は R-Tul.と察する。
 今より六百八十八年前、南宋の淳祐五年(将軍頼経廃せられた翌年で、彼を廃した北条経時が死んだ前年)できた陳仁玉の『菌譜』に、「麦蕈《ばくじん》は多く渓辺の沙壌|鬆土《そうど》の中に生ず。俗に麦丹蕈と名づくるも、いまだ詳らかならず(この名の意義が分からぬということ)。味ことに美絶にして、北方の?紋《まこじん》に類す。品、最も優る」。これだけの全文では、水辺砂土中の地下菌とは察し得るが、何やら分からず。清の屈大均の『広東新語』に、明らかに地腎が松下に生ずる様子を記悉しあるほど、松露に近くない。その麦蕈を本邦で松露に当てたは、中《あた》らずといえども遠からずとして、貝原先生はただ、麦松露と麦蕈と、麦の字を入れただけが似ておる一点から、直ちに麦松露を麦蕈と定め了《おわ》ったのだから、一向条理が立たぬ。
 五、金菌 『本草啓蒙』に、キシメジ、播州でキダケ、筑前でキンタケ、雲州でシモダケ、と出す。和歌山市辺でシモフリと呼ぶ。かの辺で十二月上旬もっとも多いが、一月中もしばしば生えるをみた。二月は大抵旧正月に当たり、旧暦の春の初めだから、「冬春の間に生ず」と言うは当たっておる。キンタケは、播州同様、もとキタケ(貴蕈)と呼んだのが一転したものか。この田辺辺で冬春のあいだ生ずる T- Bull.は、最も金菌と称え(583)て然るべき色あれど、誰も左様称えず、かつ苦くて食えそうもないから、致し方なし。
 八、?磨@これをヒラタケに当てるは『本草』の記載に合わず。『本草図譜』五七巻九葉裏に、『薗史』より写出したキツネノエフデは、白井・大沼二氏の『考訂』に、学名未詳としおるが、多年拙宅地の竹林に毎夏多く生ずるから、見慣れた目で視れば L- Fr.たること疑いなし。明治二十九年ごろ、在英の日、久しく支那にあった伝道師で、本草に注意した人に、このモクシンという種名の本字を尋ねると、造作もなく、『網目』所出の?紋だと答えた。後年白井博士が当地に拙宅を訪れた時、また尋ねると木蕈の義によると言われた。木の字にモクという支那音なければ如何なり。「?紋は、その中|空虚《うつろ》にして、いまだ開かざる玉簪花のごとし」というは、 L- Fr.の頭と茎とをよく形容しおる。この腹子菌は初め卵形の白い袋だが、熟すると袋頭裂けて、徴紅色の茎と、赤い指を撮み合わせた状した頭に、暗オリヴ色の粘膠を著けたるを出す。(七年前拙児は、その頭赤からず、美艶な菫紫色なるを見出だし、現に保存しある。)この段『本草』に?紋の赤きを言わず、全く白い物のように書きあると合わぬ。しかし例の君子は庖厨を遠ざくで、こんな臭い菌を調理して膳に供うるまでには種々と手段を尽し、生時の色全く失せて、白くなりきりおるのかも知れない。本邦にも料理に出る青昆布のみ識って、昆布は本来緑色の物と信ずる人が少なからぬ。?紋が L- Fr.なりや否は、実際を視た人に承ることと致し、とにかく、この漢名をヒラタケに充てたのは、不当と断言する。けだしむかしシイタケの培養盛んならざりし時、僧侶などもっぱらヒラタケを賞用し、多少培養法のようなこともあって、培養し得るという一事が相似たから、?紋をヒラタケにあてたものかと察する。
 『本草啓蒙』に、ヒラタケ、紀州高野山ことに多し、乾かして遠きに寄す、と出ず。よって大正九年夏登山した時、尋ねたが知った者なし。島田公雅師に問うと、当時はシイタケもっぱら用いられ、ヒラタケとては、登山の道中、紙屋という所の、金川館と呼ぶ旅宿の裏に、大きなケヤキ一本あり、その木に毎年藁をどうやらしおくと、秋末多少の(584)ヒラタケを生ず、それを旧慣に仍《よ》って、諸寺坊へ配り来るとのこと。よってその節その蕈を送り呉れるよう頼み置いた。果たして秋終わるころ数本を送られたので、検査したが、大分乾きおったので満足に判らず。そのまま書斎の庭へ棄て去った。ところが翌年初夏に、竹籬を隔てて、隣家の枇杷の枝間の朽穴に、大きな菌が横生しあるを見、それを取って貰うて審査すると P- Fr.だった。これで古く僧徒が賞翫したヒラタケは、この種の菌と確かめた。また適宜の方法をもってせば、繁殖しやすい物とも知った。
 一一、柳耳 この辺で寒中もっぱら生じ、氷雪中にも盛うる柳タケという物は、榎タケ C- Fr.と同一物だ。日高郡川上村、寒川村等に秋冬のさい生ずる楮タケも、ほとんど同物とみえるが小さい。また茎の毛が淡い。
 一四、紅菰 本書にベニタケと訓ませある。種名は知り得べからざるも、この辺で称うるところも、『本草啓蒙』や『本草図譜』に図説するところも、ベニタケはみな R- 属の菌である。『日本産物志』に、「蓋紅色にして背白く茎淡紅なり、これを食すれば下利し、あるいは死に至るという」とあるは、例の R- Fr.らしいが、邦産のこの属の菌で、この解説に合うものは、件の一種に限らぬようだ。さて本書のこの条に全く無関係ながら、このついでに述べ置くは、白石先生の『紳書』に、松岡玄達が、およそ物には類あるなり、まずよくよくその類を別つべきなり、竹木より鳥獣魚介みなことごとくその類あるなり、相構えてよくよくその類を推し知りたまうべきなりと言いき、とあって、ことのほか感心した書き振りだ。科学の発達低かつた世には、事々皮想に拘束されて実際に留意せず。鯨や?鯉は魚|偏《へん》に書くから魚類、蝙蝠は虫偏ゆえ虫類、また飛ぶという点から鳥類、鼠は遠く『蘭雅』に、その毛を被った点から獣としたが、歴代の「本草」多くこれを虫魚部に入れた。欧州でもウェイルスの旧伝『マビノギオン』などに鼠を爬虫と呼んだが多い。腹を地に近づけて行《ある》き走る態、犬馬よりもトカゲ、ヤモリ等によく似るからで、その尾に鱗を被るから魚に近いと見立てたとみえる。それが追い追い観察を拡め累ぬるに随い、一汎の形態と性質を(585)巨細に比戟検査して、およそ物には類あるということを知るに及んだ。これ片々ながらも分類論理の初歩に進み入ったので、字彙これ学識だった昔に比べて、よほどの大進歩だ。例せば、『綱目』巻一五、一六、濕草類の発頭、菊已下の十余品は、みな今の菊科の物に係り、竜葵等の四品は茄科、藍より?蓄に至る十七品は、まま出入ありながら、多くは蓼科の物を列ねおるごとし。この外、あるいは名称の相近きを、あるいは効用の相似たるを次第せるもの、また多しといえども、とにかく多数の草木間に若干の自然分科関係あるを知るに及べるは、リンネ已前の泰西諸名家に対して愧じずと謂うべし。さて本条ベニタケ属の特徴を問わるると、解剖組織の上で答うるはまことに易々たりだが、その他に手短く答うるは難件と惟う。しかるに、『本草啓蒙』、『本草図譜』等の邦書に、少しも紅色ならぬこの属の諸菌を、みなベニタケの品種として載せたるは、その名称に拘束されずに、よく物に類あるを弁えたやり方と、予は毎々感心する。されば西洋より輸入なくとも、これに仮すに歳月をもってせば、菌の分類法くらいは、本邦自身で立派に竣成したはずと考う。
 『本草啓蒙』に、ベニタケ、漢名紅菰(『常熟県志』)、朱菰(『八?通志』)、?脂菰(同上)、紅菌(同上)、とみゆ。引用された二書は手前にないから、如何《いかが》記載されおるか知らぬが、『古今図書集成』の職方典一〇八三巻、福建の『興化府物産考』に、「蕈は俗にこれを菰《こ》と謂い、色の紅《くれない》なるものを?脂菰と名づく。香菰というものあり、味|香《かぐわ》し。木耳菰というものあり、黒色なり。ともに腐木の上に生ず」。これによると?脂菰は腐木に生ずる紅色の菌で、土に生えるベニタケでない。三年前トチの木板に新種の粘菌が付いたのを貰い、自宅地の竹林下におくと、今年七月かつて見聞しない美麗な帽薗一本を生じた。鰓の色、初めは白きが漸々桃色となり、一宿をへて深?脂色となり、美しさ口筆に絶す。レンズでみると鰓面に網眼様の脈条あり、それに紅い胞子が集まり積もって奇観たり。よって P- Fr.Minakata と名づけて図記し置いた。しかるに八月になって、ちょっと遠方のある人から、広東の白鹿洞辺で、草魔ニ称うる菌の胞子を獲たのを、培養して、こんな物が生えたとて送り来たったのをみると、全然一月前自宅(586)に生えたと酷似しおり、P-属の物に相違ないが、炎暑の道中に鰓が大分腐れおったので、子細に鏡険し能わぬ。従前内外産のこの属の菌を十余種見たが、食えそうなは一つもなかった。この品も茎細く傘薄くて口に満つるに足らねど、鰓が広くて、初めは桃花、次に?脂、最後に辰砂のごとく美なるより、旨く味を付けて、食用は第二で、第一に膳を飾ることと察する。類推するに福建地方の?脂菰も、この草魔ニ同じく P-属の菌で、決してベニタケではなかろう。
 一六、シメジ 今井君の言に、本邦で現時シメジの代表的種類は T- Quelet とされおるとあるが、予が古老より聞き及ぶところと、『本草図譜』や『日本産物志』などの図を併せ稽うるに、かの種のごとく、多本の茎が下方で癒合して団塊をなすものは、千本とか、疣とか称え、単にシメジと称うるは一本立ちで群生する。一本立ちで独生するを一本シメジという。いずれも似た物が外国にあるも、多少の違いあり、老若に随って形色も異に、熟したものと未熟のものと、まるで別種のように見えるのが多いから、多く図記しながら今に纏まらない。T- Quelet はこの辺にも生ずるが、その鰓があるいはT- あるいは C- 型を現じて一定せず。そんな物をシメジの代表種としては、シメジの説明はむつかしからんか。
 二三、桑耳 ここにいう桑の木に生ずる猴の腰掛は、多分『本草啓蒙』にみえたコンブ(瘤か)の諸品であろう。吾輩幼時和歌山の岩橋氏なる大薬店で多く見たが、さらに詳しく記憶せず。近年肺結核の妙薬とて売りに来るをみると、対馬産という。F- 属の硬い木質菌だが、種は一定せず。亡姉の縁戚の者、土地会社を起こし、種々と宣伝して、この田辺湾の景勝を破壊壊す。数年前肺結核で死にかかり、医療手を尽すもますます重《おも》りゆく。ところへ件の桑耳を浪人が売りに来た。一つ三十円の五十円のと、きわめて不廉の値を求む。その病人、人を介して予にその菌どもを示し、必ず利くものだろうかと尋ねた。予こんな悪人はなるべく大金を費やさしめた上、コロリと往生させたら大功徳になるべしと惟い、値は忘れたが、中でもって一番高価な奴を択び、これを買って煎じ詰めて飲め、必ず平癒するといい(587)遣りしに、それを買って如法に服用し続けて、トウトウ直った。その菌は味わいきわめて渋く、半日も煎じ詰めた濃汁を呑まば、おそらくは硫酸を呑むほど困っただろと問うと、果たしてそうだったと聞いた。四十二、三年前、予西インド諸島を巡り、集めた昆虫を、英国へ持ち渡って調査し、帰朝の時、一箱に二百種ばかり容れて来たが、和歌山の舎弟方へ預けたまま遠ざかりおった。十余年歴て往ってみると、一向世話しくれなんだから、ことごとく蠧食されて粉となりおったが、F- 属の硬い菌に寄生するムコファガ属の甲虫だけは、全く無難に残りおった。これは、タンニン分をおびただしく含む菌を食う甲虫は、全身タンニンもて満たされ、大抵の微生物はこれを侵し能わぬによると察した。同じ理由で、かの分に富んだ菌の濃煎汁を服すると、肺部に禍いする微生物は、テコネてしまうのかと惟う。かの桑耳は高価ゆえ、予の手に入らなんだが、それとほとんど同種と惟う物を蔵しおる。F- Fr.に似て?《はる》かに小さい。これも今井君が査定しくれるなら送り上げん。
 二四、鹿の玉 はたしか、『怡顔斎菌品』に、麁末な画を出し載せあったと思うが、座右にないから不確かだ。二十三年前、熊野三難所の一たる安堵峰辺に、四十余日を過ごして歳末に引き上げた。そのあいだしばしば小屋の人々より聞いたは、深山の木洞中にカノヘゴあり、神物として尊ばる。樵夫など時々競飲して歓楽するに、酒量多からざる者、その席で呑まんと欲するだけの酒をカノヘゴに吸い取らしめ、さて乾かして布に包み、腹に巻き付け往って呑めば、カノヘゴが吸い取っただけの量を飲むも少しも酔わず、強酒の誉れを博して、肩身が広くなるとのことだった。よって百方手分けして探さしめると、果たして一塊を獲て持ち来たった。と見れば何のことだ。欧米や北|非《アフリカ》にも産する H- Bull. だった。本書にみえた通り、「水を多く吸う」ところより、こんな迷信もできたと思われる。東牟屡郡静川村のセイという所へ往った時も、名の知れぬ古社あって、大カシの大木を神体のごとく祀り、その幹の空洞に、時々カノヘゴが生えるというから、捜したがなかった。あまり多くなく、あっても見当たり難い異様の物ゆえ、古くはこの菌が生えると、神が降ったなど信じたでもあろう。多くは山深い寒地の大カシに生えるが、(588)日高郡矢田村大字入野という、至って浅山の暖地のウバメガシの枯幹から獲たこともある。本書の記載がよくカノヘゴと合うによって、鹿の玉すなわち H- Bull.たるは疑いを容れず。W.D.Hay,‘An Elmentary Text-Book of British Fungi,’London,1887,p.119 に、その肉軟にして靱、また弾力あり、白く厚し、芳香あって昧|美《よ》し、上等の食物で、消化しやすく、マシュルーム同然に賞翫さる、と書きおるは、調理に手を尽してのことなるべく、予が食い試みたところ、薬臭くてさっぱり気が進まず。本書に「味美ならざれども食すべし」と言えるは当たれり。さて鹿の玉は判っておるが、カノヘゴは何の義か知れず。丹峯和尚の『新撰類顆聚往来』は永禄九年作という(『柳亭記』上)。その上巻に菌類の名を列ねた内に鹿舌あり。何物か分からぬが、あるいはこの菌を指すので、ヘゴは舌のことならずやと推する。左はいうもののなぜこれを鹿の舌に比べたかと問わるると、今度は行き詰まるの外なし。『紀伊続風土記』に、鹿玉をカノタマと訓《よ》ませ、国内に産す、とある。
 以上|認《したた》めたのち、大正六年十一月、故白井博士が出版直後、恵贈された『訂正増補日本菌類目録』をみると、H- Bull.和名ヤマブシタケ、上戸ナバ、鹿の玉と、チャーンと出しあり、昭和二年の第三版一六五頁には、鹿の王〔傍点〕と誤刊しある。熊楠謂う、山伏の胸に掛けるスズカケにこの菌がやや似るから山伏蕈、上記のカノヘゴよく人を強酒たらしむという俗伝より上戸ナバ(ナバは、菌の九州と中国での称と、『物類称呼』に出ず)。それから牛の額に白い旋毛あるを採って牛の玉と称え、吉祥物とする。これを牛黄と誤り、また自狐の玉と詐る者あり、と『本草啓蒙』に説いた。多少似たところよりこの菌を鹿の玉と称えたと察する。鹿は薬香ある物を好み食うといえば、この菌などをも嗜み食うて、玉のごとく愛重するなど、言い伝えたかも知れぬ。   (昭和八年十月『本草』一五号)
 
(589)     物産学、本草会、江戸と『本草綱目』および本草学
 
 故白井博士の『増訂日本博物学年表』二頁に、徳川氏の世に盛え出した物産学を、従来あるところの本草学の外、汎《ひろ》く動植庶物の形状、名称、効用、来歴、産地等の講究、と釈きおる。物産のことは、古く『山海経』、『管子』、『呂覧』、『史記』、『漢書』等に散見し、追いては『益州方物記』、『南方草木状』、『嶺表録異』、『桂海虞衡志』など、もっぱらそのことのみ筆した物も出たが、本邦にいわゆる物産学は、どれほど古く支那にあったかを審らかに知らなんだ。ところが頃日ようやく、そんなものが唐朝すでにあったと知り得た。『唐書』二〇二、文芸列伝中に、玄宗朝の人鄭虔は「学んで地理に長じ、山川の険易、方隅の物産、兵戍の衆寡、詳らかにせざるなし」と出で、この人は地理学を精究した関係上、諸方の物産を調査したのだ。まずは早く物産学に心懸けた一人たるに相違なかろう。
 『増訂日本博物学年表』二六頁にいわく、「かくのごとく本草、名物、物産の研究、漸次発達するに従い、物産会(一に薬品会、また産物会という)なるもの起これり。この会は、宝暦七年、田村藍水が江戸湯島に開設せるをもって始めとす。(中略)寛政中、幕府医学館また薬品会を創む、云々。天保六年三月、水谷義三郎、石黒正敏、大河内存真、伊藤圭介の諸氏、物産会を名護屋一行院に開き、乙未本草会物品目録を作り、上木す、云々」と。これでみると、物産会、産物会、薬品会、本草会は一にして二ならず、みな宝暦七年、江戸湯島で田村藍水が催した以後行なわれ出したようだ。しかるに『蒹葭堂雑録』一に出た自伝に、蒹葭堂十六歳の春、その母に従って京都に入り、津島彭水の門人となり、爾後しばしば文通して物産の説を聞き、彭水も毎歳浪華に下り、本草の会ありてしばしば出会す、宝暦四(590)年彭水客中に卒す、とあるっ蒹葭堂宝暦六年二十一で妻を娶ったと自記しあれば、その十六歳だったは、宝暦元年。同四年に客死したまで四年続けて毎歳彭水が大阪へ下り、本草会を催したのだから、同七年に湯島で藍水が開会せるより、少なくも三年早く大阪で彭水が本草会を催したのだ。
 ところが本草会は決して宝暦年間に創始せず、それより七、八十年も古く行なわれおった。鱗長の『猿源氏色芝居』一の二に、堕胎薬と頼母子で身代を仕上げた文盲な男が、「せめて子供らを人にしたいと、兄息子を師匠取りして読書せしめ、素問、格致、原病式、本草の会〔四字傍点〕にも利発なるところありと、先生もいかい、褒美に、鳶が鷹とやら油をのせ、末憑もしう励ませし奇特はそろそろ、手前にて講席を開き、云々」。その兄息子が、後に鎌倉(江戸のこと)に下って有勢の医者となった、とある。この書は享保三年の作で、七代将軍の生母月光院や、営婢江島の生立《おいたち》と淫行を描いたもので、この二女よりはやや年上の件の医者が少年だった時とては、天和・貞享より元禄初年ごろだろう。享保三年に筆を操って天和初年のことを書くは、昭和八年に日清戦争を叙べるごとく、丸でなかった物をあったように説いては、読者が承知せず。故に藍水の湯島の物産会に比べ物にならぬは勿論ながら、医師やその弟子どもが折々会合して、薬物を品評するくらいの本草小会は、天和・貞享ごろの上方に往々行なわれたと判る。それを宝暦中までもっぱら本草会と呼び、その七年に藍水が湯島に開いたものは、薬品以外の物をも陳列したから、始めて物産会と称えたでなかろうか。されば宝暦七年に始まったは物産会で、薬品会や本草会はその前すでに久しく行なわれたと明言しおく。白井博士の「物産会(一に薬品会、また産物会という)」と言われた、薬品会の三字は削り去って然るべしだ。
 本誌一四号四五頁に、江戸の本草熱を叙べるとて、「林家の『本草綱目』献上(慶長十二年)はあまりに有名」と久内君が言われた。倉卒これを読むと、慶長十二年に『本草綱目』が江戸に達したようだが、実は然らず。この年道春長崎に往き、これを得て、駿府居住の前将軍に献じたので(『増訂日本博物学年表』三八頁、引『林氏家伝』)七年後れてこの書は初めて江戸に届いたらしい。『駿府記』に、「慶長十九年四月二十八日。(591)今日、安藤対馬守、御前に出ず。江戸幕下に御任官の儀、伺わしめ給う。勅定の旨、違背に及ばざるの由、仰せらる.また『本草綱目』これを遣わしめ給う。江戸においてはこれなきが故なり、云々」(『玉露叢』三、ほとんど同文)。家康は駿府に隠居して、種々と学芸に配慮し、また「金よりも水が欲しいと隠居言ひ」で、多くの女どもを悦ばすために、膃肭臍《おつとせい》を駿府へ献ぜしめなどしたに反し、江戸の秀忠は、劇務に当面して、あまり学芸に身を入れ得ず、かつ汽車もなかった世には、『綱目』一部を運んで箱根を踰えるさえ、相応に骨が折れたと察する。
 ついでに申す。『嬉遊笑覧』に、「江戸にて本草学問する者出で来しは、松岡恕庵召されてよりなり」とあるも如何。故白井博士の『増訂日本博物学年表』六六頁に、享保元年、京都の人下津元知『図解本草』一〇巻を上木す、とあり。他の例より類推するに初板を指すもののごとし。しかるに拙蔵のこの書には、これより三十六年前、延宝八年庚申の編者自序あり。最末頁に、享保元より三十一年前、貞享二年、江戸日本橋青物町、藤本兵左衝門、京(都)柳馬場二条上町、田中理兵衛開板とある。仮に京都で印刷して、江戸で売り弘めたと解しても、読む者乏しき地へ書籍を送り売るべきか。故に予は江戸で本草学問を修むる者は、貞享二年、すでにこの書が発売さるるほど多くあったと断ずる。それが松岡氏召されてより、一段盛んになったと言わば然るべし。   (昭和八年十一月『本草』一六号)
 
(592)     桃花魚
 
 これは本草書には見えぬが、支那のある地方に特産した物らしく、したがって多少本邦本草家どもに気付かれおったことと察するから、本誌へこれについて寄稿して差し支えなかろうと思う。ただし予の寡聞なる、後藤先生の『物品目録』その他の邦書に、かつて桃花魚の名が載せられた例を知らぬ。
 呉青壇の『説鈴』己集所収、清の鈕eの『觚?』にいわく、「呉公|受茲《じゆし》、名は晋錫《しんしやく》、永州に司理たり。崇禎の壬午、?《い》に入って士を校《しけん》す。夜、一婦人の素粧して麗質なるもの、饌を携えて呉に餉《かれい》するを夢む。魚の羮《あつもの》を指していわく、これ桃花魚なり、と。よって詩を出だして相|貽《おく》る。中の一聯にいわく、桃花魚は桃花水に漾《ただよ》い、錦を濯《あら》う人は錦を濯うの詩を吟ず、と。次の夕《よる》夢みるも、また前《さき》のごとし。尋《つ》いで一の巻《とうあん》を獲るに、その二場の表聯に、すなわちこの二語あり、心はなはだ驚異《おどろ》く。よってこれを薦《すす》めて?《こう》に入る。榜の発するに及べば、すなわち江陵の姚士升《ようししよう》なり。たまたま同年の友、眉山の朱公|拙修《せつしゆう》とそのことを話《かた》るに、朱いわく、これわが姨《おば》某氏の詩なり、氏は少《わか》くして慧《さと》く、篇詠を嫺《なら》う、夫|蚤《はや》く殀《し》し、苦節十余載にして、某歳をもって卒せり、第《た》だ何に縁《よ》って夢に入りしかを知らず、と。いまだいくばくならずして、姚、入謁す。その生まれし辰《とし》を詢《たず》ぬるに、まさに氏の卒せし歳なり」と。苦節を守って死んだ女が、死んだ年内に男子に転生し、それとみずから知らずに、前生に作った詩をまた作ったのだ。
 この桃花魚は何物かと、種々捜索して、『古今図書集成』禽虫典一四八よりやっと見出だした。「肥潭は上蒙保にあり、竜南県治を去ること八十里なり。闊《ひろ》さ二丈ばかり、深さ数尺にして、源は地より湧く。肥魚を産し、骨なくして(593)味|佳《よ》し。二月に出ずるものは桃花魚と名づけ、八月に出ずるものは桂花魚と名づく。今、潭は涸《か》れ、魚もまたなし」とあり。同書、職方典一一九五にも、「桃花魚は彝陵《いりよう》に出ず、魚にあらざるなり。水に生ずるが故に、これに名づけて魚という。桃花の開く時に生ず、故にこれに名づけて桃花魚という。形は楡の莢のごとく、大小一ならず。蠕々然《ぜんぜんぜん》として水中を旋遊す。動けばすなわち一たびは斂《ちぢ》み一たびは舒《の》び、人の指を?《お》って収放する状のごとし。人を避くるを知らず、取って盂《はち》の水中に貯うるもまた然り。水より離して取って視れば、涎《よだれ》の一捻《ひとすじ》のごときに過ぎず。綿軟《ふわり》としてまた形体なく、また虫類にもあらず。ただ一渓にのみこれあり。渓は松隠庵の後にあり、城を距《さ》ること三里ばかりなり」とみゆ。
 上に引いた夢に現われた婦人の詩に、「桃花魚は桃花水に漾《ただよ》う」、漾は水が揺動する貌だ(『康煕字典』、この字の条)。それとここに、「形は楡の莢のごとく、大小一ならず、蠕々然として水中を旋遊す、云々」とあるを対照すると、どうもこれは淡水産のクラゲの食うに堪えたものと見える。『和漢三才図会』六二および六三、『皇朝文献通考』二五と『大英百科全書』一四輯二四巻の地図七〇を参照するに、永州は湖南に、彝陵は湖北に、肥潭は江西にあり。現時これら諸地の淡水に生じて、食用さるるクラゲありや。また、なろうことならその学名、および学術上の記載文を承りたし。   (昭和八年十二月『本草』一七号)
 
(595)     蝙蝠および鳥類の花粉媒介につきて
 
 蝙蝠によりて花粉を媒介せらるる植物としては、第二版『エンサイクロペジア・ブリタニカ』第二二巻三頁において、ジャワ産なるフレイシネチアと、トリニダット島産なるバウヒニアとの二種類を記載す。余またかつて『唐代叢書』第三集第一冊に収むるところの段公路の『北戸録』において、「紅蝙蝠は隴州に出ず。みな深紅色にして、ただ翼脈のみ浅く果し。多く双《つがい》にて紅蕉花の間に伏《かく》る。采《と》る者、もしその一を獲れば、すなわち一は去らず。南人、収めて媚薬となす」との記事を見る。(本書は支那南部亜熱帯地方のことを録せるものにして、抄文中なる隴州は龍州を正とすべきものにして、今の広西の太平府なり(Bretschneider,‘Botanicon Sinicum,’pt.iii,p.578,1895)。)紅蕉とは、『和漢三才図会』には美人蕉なりとせり。たとい然らずとすといえども、紅花を開く植物なることは、その名によりて想像するに難からず。余の初め本記事を見るや、そのいわゆる蝙蝠なるものは、その花色と相似たる蝙蝠状の蝶なるべしとし、その蝶双々相携えて花間を飛翔するものと解したりき。しかるに近ごろ、これを本文のごとく想い翻せり。すなわち本文にいわゆる蝙蝠なるものは正しく蝙蝠にして、毛色紅に近き濃赭褐色の小蝙蝠の一種なるべしとせり。これ熱帯地方の蝙蝠には、その色、鮮黄、深橙赤、または濃赭褐のものありて、紅色に近き色を呈し、その美を艶鳥と競うものあり、またその体小さくして、コロンボ付近には僅々黒蜂に過ぎざる小蝙蝠ある(Tennent,‘Sketches of the Natural History of Ceylon,’pp.24,20,1861)を考え合わせるをもってなり。もし本文いわゆる蝙蝠なるものは、(596)今余が解するがごとく果たして蝙蝠の一種なりとせば、この紅蕉もまた蝙蝠によりて花粉を媒介せらるることあらんか。いわゆる紅蕉、いわゆる蝙蝠なるものは、唐代より今に至るまで南支那の地にその子?の栄うること、もとより知り難しといえども、かの地に遊ぶもの閑を得て本書の記事を実地に探るもまた興味少なしとせず。
 『エンサイクロペジア・ブリタニカ』第二版第二二巻四頁にいわく、「熱帯の地に鳥媒花あり。東半球のものは吸蜜鳥《ハニー・サツカーズ》これを媒介し、西半球のものは蜂雀《ハンミング・バード》これを媒介す」と。本邦においては、鳥が花粉を媒介する例を記載せるものはなはだ少なし。ただ頃日岡村周諦氏より、藤井博士著『普通教育植物学教科書』(第一版明治三十四年三月一日発行、開成館出版)第四五頁、および同氏著『普通教育植物学中教科書』(第一版明治三十五年二月十八日発行、開成館出版)第四五頁には、左の同文の記事あるを聞き知るのみ。
  「また小鳥の来たりてこれを吸うことあり。ビワ、ツバキ等の花にはヒヨドリ、メジロなどの来ること、人の知るところなり」
余も多年これらの小鳥の花を訪うて花粉を媒介することを確かめたるをもって、今、次にその観察せる事項を記し、もってこれを読者に報ぜんとす。
 紀伊の東部諸郡にては、冬の初めより寒中までビワの花開く。(西牟婁郡|中三栖《なかみす》村の里老いわく、「梅は寒明けてのち盛開す。寒中花盛んなる樹はただビワあるのみ。これビワの葉には特異の薬効ある所以なり」と。『本草綱目』にも、「枇杷、盛冬に白き花を開く」とあり。)メジロ多く来たりてその蜜を吸う。日高郡|南部《みなべ》町の東郊なる椿坂に近く、枇杷《びわ》山と称し、枇杷おびただしく生ずる小山あり。花時香気高く、メジロ幾千羽となく群至して蜜を吸うを見る。Kunth,‘Handbuch der Blütenbiologie,’i Teil, Leipzig,1904 にいわく、「日本において元来虫媒花たるビワを移殖せる南米にあっては蜂雀、南アフリカにあっては吸蜜鳥その花を訪う」と。しかれどもビワは本邦においても一部鳥媒なることは前述の記事によりて了するを得べし。『エンサイクロペジア・ブリタニカ』二八巻一〇四四頁には、「メ(597)ジロ属の諸種、主として虫を食い、また果実を食う」と記して、蜜を食うことに言及せず。本邦のメジロははなはだ蜜を嗜み、これを飼養するものは、病鳥に蜜を与うるに、喜んでこれを食うを見、また尾長糞虫(ぶんぶん虫の仔虫)を蜜に擂《す》り和して与うれば、その病癒ゆという。ウバメガシの幹よりは、冬期甘き粘液多く出ず。メジロまたこれにも群至してこれを吸うことを見る。故に小児これに擬してこの樹皮を傷つけ、唾液を付けてメジロを誘い揃うること多し。(ちなみに言う、ウバメガシは、和歌山辺にてはウマベまたはバペ、田辺《たなべ》にてはバベまたはウマメと称す。これらの意味は美芽の義なるか。定家卿の『後鳥羽院熊野御幸記』、和泉紀伊の条にはウハ目王子〔五字傍点〕の社を載せたり。余はこの樹に関係ある名らしく思う。)
 大和田氏の『謡曲通解』に、信光作「胡蝶」の条に、「蝶は大方の花に親しむ習いなるに、ただ梅花に縁なきを歎きて、『法華経』の功徳を頼みに来たれることを作れり」とあり。暖国にては蝶が梅花を訪うことなきにしもあらず。本年三月十三日、余が田辺町の宅なる庭の梅花にヴァネッサ蝶来たり止まれるを見たり。三好博士の『新編植物学講議』下巻には、花虻が梅花に来たれる写生図あり。梅はかくのごとく虫媒花なると同時にまた鳥媒花なるべし。田辺町近辺の梅林にはメジロ冬中多く来たりてその花蜜を吸う。余の家の梅にも毎目時を定めて来るを見る。住嘉という料理事の庭前には梅樹多く、満開の時至ればメジロ多く群至す。その家の食客、余と親しき者、毎日これを捕え炙り食うにすこぶる美味なり、と。二月二十日のごときは、午前に八羽を捕えたりと語れるところ面白し。
 山茶《つばき》の花蜜はもっともメジロを誘うことは、田辺町付近にては誰知らぬものなきほどなり。野生のものは邸地のものよりも蜜量多く、花に触るれば垂るるばかりなり。時としては小虫蜜槽近く来るをもって、メジロまた好んでこれをも食う。蜜を吸いたるメジロは必ず嘴《くちばし》付近に花粉を着く。この鳥はまた桃花をも吸うを見る。ある人いわく、秋末淡路方面より渡来して、主として茶の花を訪うメジロの一変種あり、俗に茶の樹眼白〔五字傍点〕と呼ぶ、と。メジロは寒冷なる山地を出でて温暖なる海辺に来たり、上述の諸花の蜜を吸い、また虫を食う。里民これを観て山地寒気の早晩強弱(598)を賭す。今冬のごときは寒気烈しかりしをもって、メジロ早くよりおびただしく海辺に来たれり。
 ヒヨドリまた好んで山茶花の蜜を吸う。性躁がしき鳥なるをもって、花脱してその頭に載ることあり。性また黠智《かつち》に富むをもって、人容易に近づき難しといえども、窃《ひそ》かにこれを観察するに、その鼠色の羽毛に花粉の付着する様《さま》、眼白鳥の場合よりも鮮かに見ゆ。『和漢三才図会』に、「あるいはいわく、山茶の花を食らいて腸|消《と》く、この時|炙《あぶ》り食らえば、すなわち肚《はら》に腸なく、味最も甘美なり、と」と記せり。田辺付近の者いわく、「頭に山茶花の花粉を付くる時、味最も宜しく、晩に樟の実を食い、喉腹|膨《ふく》るる時は味|好《よ》からず」と。またシナイを捕えて見るに山茶花の花粉を付くることあり。肉桂を多く栽培せる地の人いわく、「その花開く時ウソ多く来たりて蜜を吸う」と。西牟婁郡秋津村にはウソ多く桃の未開花を啄《ついば》み落とす。花開けば来たらずと言えば、花粉媒介に関係なきがごとし。また鶯《うぐいす》の雌《め》という鳥しばしば山茶花を吸うという。ただし真の鶯の雌鳥にあらず。ヤマガラ、コガラ、ヒガラ等も諸樹の花を訪うことありと言えど、みずから視ぬことゆえ確言し難し。(三月三十日、紀伊国田辺町にて誌す)   (大正二年五月『植物学雑誌』二七巻三一七号)
【追加】
 予は本邦の鳥類が花粉を媒介することに関する文献として、藤井博士の著書のみを挙げたり。しかるにその後、植物学会員宇井縫蔵氏の教示によって、大渡忠太郎氏の『近世植物学教科書』(明治四十二年一月訂正第七〇版)にも、これらを載せたるを知れり。よってここにその文を写し追加とす。いわく、「山茶《つばき》の花は鳥媒花なり。眼白は好んで山茶に集まり来たり、嘴を雄蘂の間に挿入して花蜜を吸う。このさい、花粉は眼白の口辺なる毛に付著し、もって他花の柱頭に達するを得るなり。眼白が山茶の花より花蜜を吸うには、花弁にその趾の爪を懸けて体を托するものなれば、すでに鳥煤を受けたる花冠には、小さき孔の傷つけるを見るべし。また花冠は盛りを過ぐる時は落ちやすきものにて、かかる花にはもはや花蜜を生ぜず。また鳥の止まらんとするや、直ちに落ち去るものなり」。
(599) また、前回予の雑録に次の文を脱したれば、ここに記す。いわく、メジロ最も山茶の蜜を好み、その花に首を入れて、他事を顧みず蜜を吸う時、黏竿《もちざお》もて揃捕ることすこぶる易し。また山茶花を多く竹筒に挿し、その枝葉に黏を著け、あるいは側《かたわら》に囮《おとり》を置いて誘い捕うること行なわる。村里の小児、竹藪中の野生山茶花の蜜を舐り楽しむ者、メジロが来訪する花を採れば必ず蜜あり、メジロが顧みざる花には蜜なし。メジロの嘴辺おのずから黄色の毛を生ずるものあり、児童等これを花粉に染まること久しくして変色するところと謂うも、実は急性の鳥みずから嘴辺を物に擦り付け、一たび禿げてのち生ずる毛が黄色なりという。もって古来メジロと花粉との関係繁きを児童までも知りおりたるを証すべし。   (大正二年七月『植物学雑誌』二七巻三一九号)
 
(600)     本邦産粘菌類目録
 
 本誌第二三五号一八一−一八二頁に、明治三十九年、予がブリチシユ博物館に寄贈せる粘菌の標品を、リスター氏親子が検して、新たに日本に産することを知るに及べる二十種の名を載せたり。その後続いて採集し発送せる粘菌にして、両氏の鑑定を経たるもの、さらに三十六種を増せり。かくて、本邦産この類の総数は七十四種に達し、中に予発見の新種一、新変種若干あり、左に目録を具して同好の士に便す。その拠るところはアーサー・リスター著『粘菌譜』(一八九四年版行)、同『英国粘菌手引草』(一九〇五、再版)、リスター親子が度々『ジョーナル・オヴ・ボタニー』に出せる諸篇と、予に宛てたる数回の書信、および本誌二一一号、草野氏所集の「粘菌目録」等なり、しかして、整列の順序は、主として昨年五月の『ジョーナル』に掲げたる、リスター親子合作の「粘菌目属種一覧」に従う。
 略語を用いて産地を示すこと左のごとし、また希品と異様の品は、各その下に、本邦の外に今日まで見|中《あた》りたる国名を挙ぐ。
 (東)東京、草野氏所集に係る。(小)小笠原島。この他はすべて予が紀州にて明治三十三年以降見出だしたるものにて、
 (和)和歌山市、(荒)同市近傍荒浜、(歌)和歌浦、(川)日高郡川又。西牟婁郡には、(田)田辺町、(糸)糸田、(稲)稲成《いなり》、(湊)湊村、(西)西ノ谷村、(鉛)鉛山《かなやま》、(瀬)瀬戸、(神)神島《かしま》。東牟婁郡には、(天)天満、(市)市野々《いちのの》、(那)那智山。
(601) 1.〔学名略、以下同じ〕(和、田、那)
  (瀬、稲)
  (天)
 2.(那)
 3.(田)
 4.(田、西)
 5. セイロン、ボルネオ、喜望峰、米
 6.(瀬)
 7.(田、那)セイロン、ボルネオ、ジャワ
 8.(市)米
 9.(田、糸、瀬、稲、那)
  (小)
  (糸)
  (田、稲)セイロン
 10.(東)米
 11.(田)米、濠州
 12.(和、瀬、川)スイス、米
 13.(田、糸)
 14.(東)
(602) 15.(和、田)
 16.(東、稲)
   (田)
  (稲)
  (稲)
 17.(鉛)セイロン
 18.(和)
 19.(東、和)独、ブラジル
 東京およびブラジルの品は直径十五ミリメートル、ドイツのものはこれより小さかりしに反し、予が和歌山なる弟常楠宅の厠の石壁に付けるを見しは径三寸ばかりありし。その原形体は形色|倶《とも》にはなはだしく人糞に類し、所柄とてすこぶる厭うべき状を呈せり。段成式の『酉陽雑俎』巻一〇に 「鬼矢は陰湿の地に生じ、浅黄白色にして、あるいは時にこれを見る。瘡を治《いや》すに主《よろ》し」と言えるも、かようの原形体がたちまち生まれ出ずるを怪しみ鬼の糞と心得て付くる名にあらざるか。
 20.(田、那)
 21.(田)
 22.(川)米
 23.(東)ジャワ
 24.(田、糸、稲、天)
 25.(和)英、米、キュバ
(603) 26.(田)
  (和)
 27.(田、市)
 28.(糸)
 29.(川)
 30.(那、東)
  (湊)
 31.(東)
 32.(田)英、独、米、セイロン
 33.(糸)
 34.(東、和、田、糸、市、那)
 35.(和、田、糸、市)
 36.(東、歌、瀬、稲、川、糸)
 リスター氏の『粘菌譜』に、この種の胞子の大きさ六至十ミクロンとあり、わが邦にはこれより小さきもの多し。八年前和歌浦の愛宕山にて獲し物のごとき、わずかに四−五ミクロンの大きさなりし。
 37.(東、和、稲)
  (那)
  (和、西)
 38.(東、稲)
(604) (稲、湊)米
 39.(瀬)
 40.(川)
  (和)墺、米
 41.(糸)
 42.(東)
 43.(荒、糸)
 44.(田)
   (和、田)
 45.(稲)
 46.(東、稲、天、那、川)
  いまだ命名せず(川)去年三月十九日リスター氏よりの書面にいわく
 “This specimen differs from the type in the persistent purplish wall,in the less crisped and less dense capillitium,and in the darker spores……It is unlike any we have seen before.”
 47.(荒)ノルウェー、スウェーデン、ボルネオ、セイロン、米
 48.(湊)
 49.(稲、瀬)
  (那)米
 50.(田)
(605) 51.(糸)独、米
 52.(川、稲)
 53.(和、田)
 54.(稲)独、米
 55.(和、神)
  (和、糸)独、英
 56.(東、稲、瀬、那)
 57.(小、稲、那)米、キュバ
 58.(東)英、独、米、セイロン
 59.(東、田、稲、市)
 60.(市)米、セイロン
 61.(歌、川、糸、稲)
 62.(川)
 63.(那)
 64.(小、糸、那、川)
 65.(稲)英、米、セイロン
 66.(歌、市、糸、稲)
 67.(東、田、稲、鉛、瀬、糸、和、那)
 68.(和、田)英、ポーランド、米
(606) 69.(東、和、糸、田、那、稲)
 70.(田)熱帯に産す。欧州にはポルトガルのみこれを出せり。
 71.
 一昨年および昨年の夏、きわめて小量を糸田の猴神社趾辺の朽木上に獲たる先例なき珍品なり。その記載はリスター氏近日世に公けにすべければここに略す。
 72.(歌、田、糸、神)
 73.(田)英、米、セイロン
 74.(川)英、ノルウェー
 リスター氏の計算によれば、今まで確かに知れたる粘菌の種数は二百二十未満なるがごとし。しからばわが国に現に知られたるところは全類の三分一ばかりに過ぎず。英国の種数およそ百五十の半ばほどなれば、もって邦人が従来この類に注意することの十分ならざるを知るべし。   (明治四十一年九月『植物学雑誌』二二巻二六〇号)
 
(607)     訂正本邦産粘菌類目録
 
 明治四十一年九月発行本誌二六〇号、三一七至三二二頁に、予の「本邦産粘菌類目録」掲載後、毎年採集を続け、ために該「目録」所載七十四種の外、さらに三十四種を見出だし、現時予が知れる本邦産粘菌は、合わせて一百八種を算す。その内東京と小笠原島の産を除きて、他はことごとく予がみずから採り、もしくは少数の知人より得たるところにして、念のため英国に送り、リスター親子の審査を経たるもの一百六種に及ぶ。D-とL-の三種のみ、二氏の一覧を経ざれど、特徴顕著にして、他種と紛うべくもあらず。二氏の『粘菌図譜』は、一昨年末その第二版を発行され、日本産すべて八十三種を挙げたれど、その後予が見出だせし二十五種は無論これを掲げず。よって斯顆を研究する人の便宜のために、かの『図譜』中の属種の順序を追い、グリエルマ・リスター女史の最新訂正を経たる種名に従ってこの「目録」を作る。
 種名の次に括弧に挿める異名は、四十一年出せし予の「目録」所用の種名にて、『図譜』第二版により廃せられたるものなり。『図譜』初版に原形体《プラスモジウム》の色不詳と記せるを、予が実物につきその色を確かめ、第二版に収録されしもの多し。予その後また見出だして、ロンドンの雑誌『ネーチュール』(一九一〇年八三巻四八九頁と昨年九〇巻二二〇頁)に載せたるもの若干、なおその後見出だして今日まで公けにせざるもの多少あり。かく散在するのみにては、ちょっと要ある人の眼に触るることむつかしければ、第二版『図譜』に不詳とせる原形体の色にして、予が確かめ得たるところは、ことごとく本「目録」それぞれの種の下に付記す。
(608) 略語を用いて産地を示すこと次のごとし。また本邦の外に産地三国以上を算せず、もしくは欧州と北米合衆国共に産せざる種に限り、今まで見出だしたる国名を掲ぐ。
 (東)東京、草野博士所集。(小)小笠原島、リスターの図譜に拠る。(札)札幌地方、五年前伊藤哉誠哉君予に贈れるもの。
 この他はすべて、予明治三十三年以来紀伊・大和二国にて見出だせり。
 (玉)大和国吉野郡玉置山、(和)和歌山市、(歌)和歌浦、(荒)海草郡湊村荒浜、(有)四箇郷《しかごう》村大字有本、(川)日高郡川又。○以下西牟婁郡。(田)田辺町、(神)田辺湾内|神島《かしま》、(糸)糸田、(稲)稲成《いなり》、(西)西ノ谷村、(湊)湊村、(竜)上秋津村竜神山、(瀬)瀬戸、(鉛)鉛山《かなやま》、(拾)近野村|拾《ひら》い子谷《こだに》、(水)栗栖川村大字|水上《みなかみ》、(安)二川村|安堵峰《あんどがみね》、(坂)同村|坂泰《さかたい》。○以下東牟婁郡。(那)那智山、(天)天満、(市)市野々《いちのの》、(鳴)小口村|鳴谷《なるたに》、(大)請川《うけがわ》村大山谷。
 1.(和、田、那)人家近処、山林共にはなはだ多し。
   (有、田、稲、瀬)
   (田、竜、天)前二者に比して少なし。
 2.(那)米国
 3.(田)
 4.(田、西)米
 5.(田、西)米、ドミニカ島
 6.  (田)Plasmodium light primrose yellow,then(609) orange.Was found in a small quantity on dead Bamboo leaves and rotting wood on the ground,where also there grew in abundance Craterium concinnum,with which it was mixed in growths here and there,and to which it bore not very slight a resemblance,in the garden of my present residence,3 August,1911.Subjoindis a part of Miss GULIELMA LISTER's letter anent this Mycetozoon,the words in square brackets being my own supplements:−“A very curious and unusual form.The sporangia very much in size and shape(approaching in both Craterium leucocephalum var.sdyphoides);some are almost sessile.Nearly all have a white lid-like(rugose)upper part to the sporangium-Wall,but dehisces irregularly;the spores have the strong broken reticulation of var.dictyospora.The capillitium shows slender hyaline threads connecting some of the lime-knots,instead of being of an entirely Badhamia character;this howeveris not a very unusualcharacter.At the first glanceI thought this was Craterium concinnum (with which the growth was associated in part).The columella is present in the sporangium I have examined,but it is very fragile(as is also the whole sporangium),and easily breaks away from the sporangium-Wall,if indeed it is always attached to the base.”
 7.(田、西、市)
 8.(田)米、アンチグア、セイロン
  Plasmodium orange yellow.
 9.(瀬)
 10.(田、西)
 11.(田、西、稲、那)セイロン、ボルネオ、ジャワ
(610) 12.(市)セイロン、米
 13.(田、糸、稲、瀬、那)
   (小)
   (札、糸)
   (田、西、稲)セイロン、西インド
 14.(東、拾)米、ブラジル、ボルネオ
 15.(田)米、ニュージーランド
 16.(川、安、坂)米。安堵峰と坂泰にきわめて多し。
 17.(和、川、田、西、瀬)
 18.(田、糸)
 19.(東、田)
 20.(和、田、西、糸)人家近処に多し。
 21.(田、西、鉛)ポルトガル、アンチグア、セイロン。Plasmodium dull ochraceous.
 22.(東、西、稲)
   (田)
   (稲)
 23.(田、稲)セイロン、ルソン、ジャワ、ニカラガ
 24.(和、田)Plasmodium mormally watery-white,sometimes pale yellow.
(611) 25.(東、和)The specimen from Wakayama had its entire mass 6 inches broad.
 26.(田、那)
 27.(田、糸、稲、西、天、那)
 28.(和)人家近処に多し。
 29.(東)ジャワ
 30.(田)
 31.(田)米 Plasmodium milky, then cream-colored,whereas Lister's Monograph,2nd edition.p.95,says it is Yolk-colored.
 32.(田、札)
   (和)米、ジャワ、セイロン
 33.(田)
 34.(田)
 35.(田、西、市)
 36.(田、鉛)スコットランド、セイロン
   田辺にはこの種梅雨中諸処に多し。
 37.(糸)
 38.(安、鳴)シレシア、ウェールス、米
 39.(安)
 40.(川、安)
(612) 41.(田)
 42. Plasmodium dingy watery-white with greenish or olivaceous tinge.then odlraceous.then ferruginous and dirtv throughout.
 43.(東、田、那)
  (湊)米、チリ、ジャワ
 44.(安)スイス、ノルウェー。Sporangia dulllead-color with a weak metalliclustre.?を含める唯一の粘菌。
 45.(東)英、米
 46.(田)
 47.(田、稲、糸、西)随処春夏の間おびただしく生ず。
 48.(東、和、田、西、糸、那、市)この亜種は、初夏より秋末まで随処多きも、欧州に多き本種は、かつて紀州で見しことなし。
 49.(和、、田、糸、西、神、市)随処多し。
 50.(安、泰この二処にきわめて多し。
 51.(東、川、安、田、糸、稲、瀬、玉) Plasmodium white,but in one instance deep blood-red.(歌、安)
 52.(東、和、田、稲、西)
(613) (水、那)
   (和、田、西、拾)Plasmodium normally creamy-white,but rarely sulphur-yellow.
   (田)
 53.(東、稲、水、安)
 54.(田、稲、湊)米
 55.(札、瀬、水、大)
 56.(糸、田)
 57.(田)スイス、米
 58.(田、糸)
 59.(田、和)
 60.(田)
  (和、田)
 61.(荒、田、糸、札)
 62.(東)
 63.(田、稲)
 64.(東、稲、田、天、那、川)雑木林に多し。
 65.(田)
 66.(玉、安、坂)
 67.(田)
(614) 68.(荒)
 69.(湊、西、鉛)
 70.(田、稲、瀬)
  (那)米
 71.(田、水、安、坂、玉)
 72.(糸)
 73.(田)
  (川、西、稲、糸)
 74.(和、四、糸、水)〔英文略〕人家辺に多し。
 75.(糸)
 76.(糸、田、稲)
 77.(安)
 78.(拾)
 79.(和、田、神、拾、安、坂、札) 人家をよび雑木林に多し。
  (和、田、糸、西、安)
 80.(田)米、   微小すこぶる睹別け難し。予の庭前のザボンの枯枝より、少しく去年見出だし、今夏蘇鉄の枯果実より多く得。
(615) 81.(田、稲、糸、西、瀬、水、拾、安、那、東)
 82.(小、稲、糸、那)
 83.(安)米、スウェーデン
  ロスタフィンスキはこの種によって 属を建てたり。〔英文略〕
 84.(田)薮中に横たわれる枯竹の内面に付く。
 85.(安)米
 86.(田)
 87.(東)
 88.(東、田、稲、糸、西、市、鳴、大、安、坂)随処多し。
(616) (水、安)米
89.(市)
90.(和)
91.(玉、安)
92.(歌、川、稲、糸、水)低地の雑木林に多し。
93.(安)
94.(安)
95.(糸)
96.(川、安、坂)黒木山林にはなはだ多し。
97.(那)
  (玉、安)
98.(田、稲)日本の外にいまだ発見されず。予の前年の「目録」には故アーサー・リスター翁と相談の上、田辺産を  稲成産を  とせり。Plasmodium watery cinnamon.
99.(小、稲、糸、那、川、札)
100.(歌、稲、糸、西、市)
101.(東、田、和、稲、瀬、鉛、糸、神、竜、那)はなはだ多し。
102.(和、田)
103.(東、札、和、田、糸、稲、西、水、那)
(617) 104.(田)
105.(糸)外国産なし。
106.(田、西、拾)〔英文略〕
107.(歌、田、糸、神)
108.(田、川)
 現時予が知り及べる粘菌類の総種数は、二百四十八、しかして英国百五十八種、米国百八十五種を出だせり。この「目録」載せるところ邦産百八種、遠くかの二国の種数に及ばずといえども、こは主として予が見聞の狭きと、わが邦いまだこの類を集むる人多からざるに因る。『図譜』に拠って、リスター親子が、多年その閑棲地ライム・レギス地方にて集めたる総種数を算うるに、六十二種あり。これに対し、予が諸事多忙の暇をもって、過ぐる九年間、田辺町より一里以内の地にて見出だすところ、合して実に七十八種を計え、その五十一種は、左まで広からざる予の生地内に生ぜり。もって本邦に粘菌の好産地多きを察すべし。よって想うに世間博志の諸士、各自その住地に就いて精査蒐集せば、僅々数年にして、英米を駕すべき多数種類が、本邦に産するを確知し得べきは必然ならん。
 ついでに述ぶ。  は、十一年前、予紀伊の鉛山にて創めて見出だし、次に七年前、ペッチ氏これをセイロンより検出し、如上の名を付けたり。日本にて活きたる樹(桃、梅、マキ、エノキ、橙)の皮にのみ生じ、決して枯枝、僵幹等の朽木に付かざる粘菌は、この一種あるのみ。このこと大いに考察を要す。近日リスター女史の通信に拠れば、活樹を限りて生ずる粘菌は、この物の外ただ四種あり、  これなり、と。熊楠田辺等にてしばしば見たる  は、生きたる梅と樟の死せる皮に付きおりたれば、これは  (618)ほど、活樹皮に限りて生ずる程にあらず。また付記す。四、五年前ニューヨークの住人予に一書を贈り、化石せる粘菌を発見せる由を報ぜる者あり。頃日リスター女史より来書中、またこのことに談及し、いわく、いわゆる粘菌化石手に入りし時、化石学の大家ジー・エチ・スコット博士と共にこれを精査せしに、全く粘菌の化石にあらざりし、と。   (大正二年九月『植物学雑誌』二七巻三二一号)
【訂正および追加】
 2.の次  活きたる杏の幹および枝に著く。紀州田辺 英国、ポーランド、セイロン
 6. この名を取り消し、31.の次に  を置くべし。田辺にて一度見出でたるのみにして、海内海外共に見出ださざる新種なり。(  は( ) と訂正す。
 49.の次  樟の落葉に著く。田辺闘鶏神社 ジャワ、セイロン
 52.の前  田辺なる拙宅地の柚の枯枝に、毎歳春と秋とにおびただしく生ず。この変種は  これを一特立種となし、  と名づけたるものにて、リスター氏の『図譜』にはその記載なし。今   の記載を引かんに、  米国産の胞子は七乃至八ミクロン径というに、予(619)がしばしば獲る田辺産の胞子は九乃至十ミクロン径なり。
 98.の次  拙宅地ザボンの小枝の生活せしものおよび枯れたるに著く。その外観および内部の構造共に著く常態と異なるを見たり。よって自分上記の名を命じたり。リスター女史、ノルマン、ハッデン氏等はこれを賛せられたれども、爾来これを観察するに、この変種と本種との区別明ならず。二者のあいだその連鎖となるべき諸形態多きに似たれば、予が命ぜし変種名は永久に保留すべからざるにやとも想う。なお多く材料を集めたる上精査すべし。
 105.の次  田辺近郊神子浜より持ち来たりしハゼの枯幹に毎夏生ず。リスター氏の『図譜』に載せたる米国における産地四ヵ所の外、予みずからこの種をフロリダにて採り今も保存す。英、独、フィンランド、セイロン、ネパル諸国にも産す。   (大正四年九月『植物学雑誌』二九巻三四五号)
 
(620)     本邦産粘菌諸属標本献上表啓
 
 粘菌の類たる、原始生物の一部に過ぎずといえども、その大気中に結実するの故をもって、一見植物の一部たる菌類の観あり。これをもって動植学者輩互いにこれを自家研究域内の物と思わず、相譲り避けて留意せざりしこと久し。西洋にありては、承応三年(西暦一六五四年)ドイツ人パンコウがルコガラ属一種の発生する状を図して速成菌と名づけたるが粘菌最初の記載なるも、その後二百年間著しき科学的研究をなさず。安政六年(西暦一八五九年)ドイツ人デ・バリー粘菌説を著わしてその本性を論じ、その門に出でたるポーランド人ロスタフィンスキーが明治八年(西暦一八七五年)粘菌譜を作ってその分類を講じてより、諸国ようやくその専攻の学者を出し、研究随って盛んなるに及べり。支那にありては、唐の段成式の『酉陽雑俎』に、「鬼矢は陰湿の地に生じ、浅黄白色にして、あるいは時にこれを見る。瘡を治《いや》すに主《よろ》し」の短文あり。その詳を知るに由なしといえども、多分はフリゴ属の粘菌の原形体が突然発生して形色すこぶる不浄に似たるより、この名を負わせしなるべく、果たして然らば西洋人に先だつことおよそ八百年、支那人すでにこの一類を識りて記載したりしなり。しかるに爾後一千年の間、東洋人が一言を粘菌類に及ぼしたるを聞かず。帝国産するところの粘菌に至りては明治の初年外人が小笠原島に産する僅々数種を採り去って調査定名せしことあるも、明治三十五年理学博士草野俊助集むるところの十八種をケムブリッジ大学に贈り、故英国学士会員アーサー・リスターがその名を査定して発表せしを、秩序整然たる本邦産粘菌調査報告の嚆矢とす。和歌山県人南方熊楠は、明治十九年海外に渡り欧米諸国に遊ぶこと十四年、その間西インド諸島に粘菌等を採集して創見するとこ(621)ろあり。故英国学士会員ジョージ・モレイの勧めにより、帰朝後粘菌の研究を続けて倦まず、新種新変種は固よりその発生、形態、畸病等についても創見するところ少なからず。大正二年「訂正本邦産粘菌類目録」を出して一百八種の名を列し、大正十年かつて英国菌学会長たりしグリエルマ・リスター女は南方発見の一種に拠って新たにミナカテルラ属を立てたり。臣四郎熊楠の指導により内外諸国に採集すること歳あり。よって獲しところに右の「目録」出でてのち熊楠および同志諸人が集めしところを合わせ現時帝国産粘菌を点検するに、実に三十八属一百九十三種を算し、うち外国に全くなきもの約七種あり。現今世界中より知られたる粘菌すべて五十三属約三百種の中に就いて、英国は四十四属二百種ばかり、米国は四十一属二百二十三種を出だすに対して遜色ありといえども、帝国にこの類の学開けて日なお浅く人少なきを稽うれば反ってその発達の著しきを認めずんばあらず。
 今回台覧の恩命を拝戴し、一種あるいは数種の標本をもって邦産粘菌の各属を表わし、すべて九十品を撰集して献じ奉る。ただし邦産三十八属の内、ラクノボルス属の標本は解剖し尽したるをもってこれを開き、オリゴネマ、ジアネマの二属は邦産の標本きわめて微少なれば英国生の品を代用せり。冀くは嘉納あらんことを。臣四郎恐惶謹んで言す。
  大正十五年十一月       従七位勲五等功五級 小畔四郎
       標本献上者 小畔四郎 品種撰走者 南方熊楠 邦字筆者 上松蓊 欧字筆者 平沼大三郎   (大正十五年十二月『植物学雑誌』四〇巻四八〇号)
 
(622)     現今本邦に産すと知れた粘菌種の目録
 
 本誌第二六〇号に予の「本邦産粘菌類目録」を出した時は七十四種、第三二一号に「訂正目録」を出した時は一百八種であった。しかるにその後十三年間に、辱知諸君やそのまた諸友の熱心なる採集により、おびただしく種や変種を本邦で見及ぶに至った。昨年十一月十日、予が撰定し置いた品種を小畔君が整い揃えて、摂政宮殿下に献上した時の表啓に、「現時帝国産粘菌を点検するに、実に三十八属一百九十三種を産し」とあったが、そののち平沼大三郎君が今年夏秋の採集品四十六点を贈られ、鏡検して新種一と、本邦で初めての種二を見出でたから、只今帝国より知られおる粘菌の種数は一百九十六である。件《くだん》の表啓文を本誌へ載せられたに、これら一百九十六種の名を出さないと物足らぬようだから、その目録を拵えて差し上げ置く。変種の名をもことごとく書き入れ、また予が新種と判定して名を付けた物どもの図録をも掲げようと思うたれど、家内に故障あって糸状体や胞子の大きさを精細に観察することがならず、よってその図と記載は追って別に出すこととし、今はただ各種の名を列するに止めおく。
 種名ごとの次に、その種を日本の版図内で初めて見出だした地の名と人の名を出す。それを見ていかに小畔君が多年粘菌学のために広く諸方を駆け廻り、鋭意詳察しておびただしく稀有また斬新な物を見出だされたかを知られたい。
 T- は、明治三十六年、予那智山陰陽の滝の奥で、イスノキの枯株についたのを見付けたことあるも、その品胴乱の中で砕けて保存の見込みなく、已むを得ず捨て了った。よってこの目録に載せず。本邦でいまだ本種を見出ださねど一つもしくは一つ以上の変種を獲た物は、その唯一の変種もしくは最も早く見出だされた一変種の名を、本種の代りに載す。
 
(623)  現今本邦に産すと知れた粘菌種の目録
        JAPANESE SPECIES OF MYCETOZOA
1 C-和歌山市 南方熊楠
2 B-田辺町 同
3 B-那智山 同
4 B-日光 朝比奈泰彦
5 B-陸前黒森山 和川仲治郎
6 B-田辺 南方
7 B-同 同
8 B-同 同
9 B-北見国 小畔四郎
10 B-陸中長倉山 和川
11 P-相模高麗寺山 小畔
12 P-那智山下 南方
13 P-田辺 同
14 P-紀伊瀬戸村 同
15 P-相模 小畔
16 P-日光 同
17 P-男体山 上松蓊
18 P-田辺 南方
19 P-安房清澄山 小畔
20 P-那智山 南方
21 P-日光湯本 江本義数
22 P-那智山下 南方
23 P-同 同
24 P-紀伊稲成村 同
25 P-東京 草野俊助
26 P-朝鮮京城 小畔
27 P-田辺 南方
28 P-伊豆湯ヶ島 小畔
29 P-信濃有明村 同
30 P-紀伊坂泰官林 南方
31 P-伊豆湯ヶ島 小畔
32 P-日光 同
(624)33 P-和歌山市 南方
34 P-田辺 同
35 P-東京 草野
36 P-和歌山市 南方
37 P-東京 小畔
38 P-紀伊鉛山 南方
39 P-東京 草野
40 P-紀伊稲成山 南方
41 P-田辺 同
42 P-和歌山市 同
43 P-東京 小畔
44 P-京城 同
45 P-田辺 南方
46 P-東京 草野
47 P-那智 南方
48 P-男体山 平沼大三郎
49 F-那智 南方
50 F-和歌山市 同
51 E-東京 草野
52 C-駿河赤石沢 平沼
53 C-田辺 南方
54 C-同 同
55 C-男体山 平沼
56 C-田辺 南方
57 D-石狩藻岩山 小畔
58 D-田辺 南方
59 D-同 同
60 D-紀伊鉛山 同
61 D-石狩丸山公園 小畔
62 D-渡島大沼公園 同
63 D-信濃有明村 同
64 D-高野山 南方
65 D-紀伊稲成村糸田 同
66 D-清澄山 落合英二
(625)67 D-紀伊小口村 南方
68 D-紀伊安堵峰 同
69 D-相模神武寺 小畔
70 D-石狩軽川 同
71 D-田辺 南方
72 D-武蔵三峰 小畔
73 D-東京 草野
74 D-陸中江刺郡藤里村 和川
75 D-紀伊安堵峰 南方
76 D-東京 小畔
77 D-同 草野
78 D-小樽市 小畔              
79 D-紀伊下秋津村 楠本秀男
80 D-羽前鶴岡公園 小畔
81 D-田辺 南方
82 D-東京長者丸 平沼
83 D-駿河赤石沢 同
84 D-和歌山市 南方
85 D-日光梵字石 六鵜保
86 D-猪苗代湖畔 小畔
87 D-田辺 南方
88 M-札幌藻岩山 小畔
89 L-紀伊安堵峰 南方
90 C-同 同
91 S -東京 草野
92 S- 駿河田代 平沼
93 S- 東京 草野      
94 S- 青森市外 石館守一
95 S- 同 同
96 S- 東京 草野
97 S- 田辺 南方
98 S- 駿河井川村 平沼
99 S- 紀伊瀬戸村 南方
100 -田辺 同
(626)101 C-田辺 南方
102 C-和歌山市 同
103 C-相模神武寺 小畔
104 C-田辺 南方
105 C-樺太豊原町 小畔
106 C-紀伊海草郡荒浜 南方
107 C-猪苗代湖畔 小畔
108 C-田辺 南方
109 C-相模大山 小畔
110 C-東京 草野
111 C-同 小畔
112 E-紀伊稲成村 南方
113 L-八甲田山 石館
114 L-東京 草野
115 L-田辺 南方
116 L-大和玉置山 同
117 L-日光 小畔
118 L-羽後仙戸石沢 上松           
119 C-紀伊荒浜  南方
120 A-田辺 同
121 L-紀伊稲成村 同
122 C-日光湯本 上松
123 C-高野山 南方
124 C-朝鮮元山 小畔
125 C-日光湯本 南方
126 C-大和玉置山 同
127 C-日光湯本 上松
128 C-同 同
129 C-田辺 南方
130 C-同 同
131 C-渡島大沼公園 小畔
132 C-紀伊糸田 南方
133 C-甲斐身延 平沼
134 C-紀伊糸田 南方
(627)135 C-紀伊安堵峰 南方
136 C-北海道 小畔
137 C-紀伊近野村 南方
138 D-和歌山市 同
139 L-田辺 同
140 L-同 同
141 O-同 同
142 T-東京 草野
143 T-小笠原島 外人
144 T-紀伊果無山 西面欽一郎
145 D-田辺 南方
146 E-青森市外 石館
147 E-紀伊安堵峰 南方
148 R-田辺 同
149 L-東京 草野
150 L-同 同
151 L-那智 南方
152 T-和歌山市 同
153 T-大和玉置山 同
154 T-和歌浦 同
155 T-紀伊安堵峰 同
156 T-同 同
157 T-紀伊糸田 同
158 T-樺太豊原町 小畔
159 T-男体山 平沼
160 T-紀伊川又官林 南方
161 T-那智 同
162 T-大和玉置山 同
163 O-釧路 小畔
164 C-大沼公園 同
165 H-小樽市 同
166 H-胆振登別 同
167 H-紀伊稲成村 南方
168 H-小笠原島 外人
(628)169 H-台湾阿里山 小畔
170 H-小樽市付近 同
171 H-大沼公園 同
172 H-和歌浦 南方
173 A-日光 小畔
174 A-和歌山市 南方
175 A-田辺 同
176 A-和歌山市 同
177 A-東京 草野
178 A-相模長尾山 平沼
179 A-田辺 南方
180 A-紀伊糸田 同
181 A-田辺 同
182 A-北海道藻岩山麓 小畔
183 A-和歌浦 南方
184 A-日光湯本 同
185 A-東京 小畔
186 L-函館 同
187 P-紀伊近野村 南方
188 P-和歌浦 同
189 P-相模高麗寺山 平沼
190 P-朝鮮東莱温泉 小畔
191 P-紀伊安堵峰 南方
192 P-田辺 同
193 M-同 同
194 M-紀伊川又官林 同
195 D-高野山 同
196 D-武蔵高尾山 小畔
(昭和二年二月『植物学雑誌』四一巻四八二号)
  〔2019年5月8日(水)午前9時3分、入力終了〕