南方熊楠全集7(書簡T)、602頁、平凡社、1971.8.9(91.11.25.12p)
 
(5) 大正十四年一月三十一日早朝五時前
   矢吹義夫様 衛侍史
             南方熊楠
                再拝
 拝復。二十八日付御状三十日朝拝受、近来何故か郵便毎々延着仕り候。先日差し上げし拙考案、会社において御採用相成り候由、寸志相届き、まことにありがたく存じ奉り候。
 尊書には第二の考案すなわち三輪の三神と有之《これあり》候えども、それは匆卒の際の御記臆違いにて、これは宗像《むなかた》の三神に御座候(すなわち安芸の宮島の三神と同体に御座候)。念のためくわしく申し上ぐると、この三神の名は、
  『日本紀』の本文に、(一)田心姫《たこりひめ》、(二)湍津《たきつ》姫、(三)市杵島《いちきしま》姫(宮島を厳島《いつくしま》というはこの第三の女神の名に基づくか。)
  『日本紀』の一書には、(一)瀛津島《おきつしま》姫、(二)湍津姫、(三)田心姫
  また一書には、(一)市杵島姫(の)|命《みこと》、(二)田心姫命、(三)湍津姫命
  また一書には、(一)瀛津島姫命、またの名市杵島姫命、(二)湍津姫命、(三)田霧《たきり》姫命
とあって、姉妹三神の順序一定せず。ただし三神の名はかわりなし。
 『古事記』には、(一)多紀理毘売命《たきりひめのみこと》、またの御名|奥津島比売《おきつしまひめ》命、(二)市寸島《いちきしま》比売命、またの御名|狭依《さより》毘売命、(三)多岐都《たきつ》比売命、とあり。
 錯列法でいろいろと三神の順序をおきかえたごとく、種々さまざまにちがいおり候。その上二神名を同一とするあるなど、定まった伝が早く失せ混じたと判り申し候が、とにかく宗像の女工の神はこの三神に御座候。大三輪の神は前状に申し上げ候通り、男神大己貴命と女神玉櫛姫命の二神に御座候。これは御採用なかりしと承れば今説(6)くを要せず。
 前日|小畔《こあぜ》氏より来状あり、貴下小生の履歴を知らんことを求められ候由、これを世に公けにして同情者に訴えらるる由承り候。しかるに、かようのことはすでにたびたび友人ども(杉村楚人冠、河東碧梧桐、故福本日南、田中天鐘道人等)がなし下されたることにて、それぞれその人々の文集に出でおり候が、さしたる効果も無之《これなく》、ただこの人々の名文で書きたる小生の伝記ごときものを読んで畸人など申し伝えられ候のみに止まり、まずは浮《うか》れ節《ぶし》同様の聞き流しに有之《これあり》候。大庭柯公が六年ばかり前、『日本及日本人』に書きたるものには、宮武外骨と故小川定明と小生を大正の三奇才兼三畸人と有之しと覚え候。また二年ばかり前、田中天鐘(逸平、この人は故塩谷宕陰の孫の由)が、『日本及日本人』に小生訪問の記を出だされ候。それには老子を訪ねた想いを懐く由を記され申し候。これらはいずれも小生を通り一遍に観察せし人々の出たらめにて、小生は決して左様不思議な人間に無之候。左に小生の履歴を申し上げ候。
 小生は慶応三年四月十五日和歌山市に生まれ候。父は日高郡に今も三十家ばかりしかなき、きわめて寒村の庄屋の二男なり。十三歳の時こんな村の庄屋になったところが詮方《せんかた》なしと思い立ち、御坊町と申すところの豪家へ丁稚《でつち》奉公に出る。沢庵漬を出し来たれと命ぜられしに、力足らず、夜中ふんどしを解き梁《はり》に掛けて重しの石を上下し、沢庵漬を出し置きし由。その後、和歌山市に出で、清水という家に久しく番頭をつとめ(今の神田?蔵氏妻君の祖父に仕えしなり)、主人死してのちその幼子を守り立て、成人ののち致仕して南方《みなかた》という家へ入聟《いりむこ》となり候。この南方は雑賀《さいが》屋と申し、今も雑賀屋町と申し、近ごろまで和歌山監獄署ありしその辺がむかし雑賀の宅なりしなり。
  鴻ノ池の主人、雑賀屋へ金の屏風を十二枚とか借りに来たりしに、雑賀屋主人二枚しか蔵せずとことわりし。鴻ノ池主人怒りて、雑賀屋は予に辱《はじ》かかせんとて佯《いつわ》りをいい、あるものをかくしてなしという、という。使い帰りて告げしに、雑賀屋主人、鴻ノ池主人のいわゆる金屏風とはどんなものか、予の方にある金屏風はこれなり、と(7)て見せしは、純金の板にて屏風を作りしなり。鴻ノ池より来たりし使い、これを見て大いに驚き、わが家主人の求むるところは金箔金泥で装うたる屏風なりということを聞いて、そんなものならいくらもあり、幾十枚でも持ち去れとて貸し与えしという。
 その雑賀屋の末《すえ》衰えて老母と娘一人のこり(男子ありしも蚤世《そうせい》す、この男子は士族に伍して藩学に学びしなり。小生は分からぬなりにこの男子の遺書を託んで学問を始めたり)、家朽ち屋根傾きて何ともならず。この娘に聟ありしが、それも死す。しかるに、小生の亡父弥右衛門の外にこの家の整理をなすものなしとて、後夫に望まる。そのころは農家の子がむやみに商人になること能わざりし制度ゆえ、亡父は商売を始め独立せんにはこの家に入聟にゆくより外に手段なかりしゆえ、入聟となり、家政を整理すとて何もかも売り払いしに、十三両ばかり手中にのこる。仏檀をも売らんとせしに、その妻手を合わせてなきしゆえこれのみ売らず。この仏檀に安置せる大日如来像は非常の名作にて、拙弟宅に今のこりし旧物とてはこれのみなり。さて、亡父家政の整理して商売にかかりしも、思わしく行かず。妻は前夫とのあいだに女子一人、亡父とのあいだに男子二人ばかりありしと聞くが、小生は知らず。かくて思わしからぬ営業中に妻もその母も死に、女子はいずれへか逐電《ちくてん》し、男子二人をのこされて亡父の迷惑一方ならず。そのころ亡父が毎度通る町に茶碗屋ありて、美わしき女時々その店に見える。この家の主人の妻の姪なり。その行いきわめて正しかりしゆえ、亡父請うて後妻とせり。これ小生の亡母なり。この亡母きわめて家政のうまき人にて、亡父に嫁し来たりてより身代追い追いよくなり、明治十年、西南の役ごろ非常にもうけ、和歌山のみならず、関西にての富家となれり。もとは金物屋なりしが、明治十一年ごろより米屋をも兼ね、後には無営業にて、金貸しのみを事とせり。父の前妻子はいずれも小生生まれぬ前に死に失せ、後妻に子多かりしが、成長せしものは男子四人と女子一人なり。
 小生は次男にて幼少より学問を好み、書籍を求めて八、九歳のころより二十町、三十町も走りありき借覧し、ことごとく記臆し帰り、反古《ほご》紙に写し出し、くりかえし読みたり。『和漢三才図会』百五巻を三年かかりて写す。『本草綱(8)目』、『諸国名所図会』、『大和本草』等の書を十二歳のときまでに写し取れり。また、漢学の先生について素読《そどく》を学ぶに『文選《もんぜん》』中の難読たる魚へんや木へんのむつかしき文字で充ちたる「江の賦」、「海の賦」を、一度師匠の読むを聞いて二度めよりは師匠よりも速やかに読む。明治十二年に和歌山中学校できてそれに入りしが、学校にての成蹟はよろしからず。これは生来事物を実地に観察することを好み、師匠のいうことなどは毎々間違い多きものと知りたるゆえ、一向傾聴せざりしゆえなり。明治十六年に中学を卒業せしが学校卒業の最後にて、それより東京に出で、明治十七年に大学予備門(第一高中)に入りしも授業などを心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書を読みたり。したがって欠席多くて学校の成蹟よろしからず。十九年に病気になり、和歌山へ帰り、予備門を退校して、十九年の十二月にサンフランシスコへ渡りし。商業学校に入りしが、一向商業を好まず。二十年にミシガン州の州立農学に入りしが、耶蘇《やそ》教をきらいて耶蘇教義の雑《まじ》りたる倫理学等の諸学課の教場へ出でず、欠席すること多く、ただただ林野を歩んで、実物を採りまた観察し、学校の図書館にのみつめきって図書を写し抄す。
 そのうち、日本学生がかの邦の学生と喧嘩することあり。これは haze《ヘイズ》とて、上級の学生が下級の学生を苦しむるを例とする悪風あり。小生と村田源三(山県、品川、野村三家より給費してこの学校にありし人、嘉納治五郎氏同門にて柔道の達人。嘉納氏も腕力は及ばざりしほど強力の人なり)、三島桂(中洲の長男。毎度父をこまらせ、新聞を賑わせし、はなはだ乱坊《らんぼう》な人。只今式部官たりと聞く)二人と話しおる日本語が聒《やかま》しいとて、学校の悪少年ら四、五輩|室《へや》の戸を釘付けにし、外へ出るを得ざらしめたる上、ポンプのホースを戸の上の窓より通し、水を室内へ澆《そそ》ぎしなり。その時村田剛力にて戸を破り、三島はピストルを向けて敵を脅かせり。小生はさしたる働きもせざりしがこのこと大評判となり、校長の裁判にて学生三人ばかり一年間の停学を命ぜらる。しかるに、この裁判の訴文を小生が認《したた》めたるをもって、小生をほむるものと悪《にく》むものとあり。その歳も終えて寄宿生一同帰郷の前夜、小生をほむる者ども、小生ら三人と寄宿室に小宴す。その時、一人町にゆきて、ホイスキーを買い来たり、おびただしく小生に飲ます。そ(9)の場はたしかなりしが、自分の室のある建築に帰るうち、雪を被《かぷ》りておびただしく酔いを発し、廊下に臥せり。校長ウィリッツ(後に農務大臣次官で終わられし。この時六十余歳の人)雪を冒して寄宿舎を見まわるうち、小生の廊下に偃臥《えんが》するを見、村田をよび来たり、灯をむけてこれを見せしめ、村田大いに弱り入りて、小生を校長とともに扶け負いて小生の室に入れたり。翌朝早く眼をさませしに、村田来たりて事の次第をいう。さて、日本学生一同議せしは、かかる珍事ありし上は早晩今度は日本学生が校長の裁判を受けざるべからず。しかるときは三人ことごとく飲酒の廉《かど》をもって放校されん、不承にはあるべけれど熊楠一人その罪を負いて速やかに脱走しては如何《いかん》とのこと。しかして当夜会飲せし米人学生らも何とぞ左様にしてほしいと望む。多人の放校さるるところを一人にて事済まば結構なりとて、小生は翌朝四時に起き、毛氈一枚もちて雪中を走りて(七マイルばかり)ある停車場に達し、それよりアナバーという処に至り駐《とど》まる。
 ここには日本人学生二十人ばかりありし。後には三、四十人もありし(粕谷義三、岡崎邦輔、川田鷹、杉山三郊、その他知名の士多し)。ここにて小生は大学校に入らず、例のごとく自分で書籍を買い標本を集め、もっぱら図書館にゆき、広く曠野林中に遊びて白然を観察す(その時の採集品は今もあり)。飯島善太郎氏(埼玉県|入不止《いりやまず》とかいう処の人、米国に十五年留学。ただし、小生同様学校に入らず実地練習し、山県侯の子分中山寛太郎氏に識られ、伴われ帰りて南品川に電気変圧機の工場を持てり。当地へ小生を尋ね来たり、旧を叙せしことあり、大正二年のこと)のみ、毎度小生と同行して植物を採れり。かくて二、三年おるうち、フロリダで地衣《こけ》類を集むるカルキンス大佐と文通上の知人となり、フロリダには当時米国学者の知らざる植物多きをたしかめたる上、明治二十三年フロリダにゆき、ジャクソンヴィル市で支那人の牛肉店に寄食し、昼は少しく商売を手伝い、夜は顕微鏡を使って生物を研究す。その支那人おとなしき人にて、小生の学事を妨げざらんため毎夜不在となり、外泊し暁に帰り来たる。二十四年にキュバに渡り、近傍諸地を観察す。所集の植物は今もあり。大正四年に、米国植物興産局主任スウィングル氏田辺(10)に来たり一覧せり。この人も、ちょうどそのころフロリダにありしなり。小生の所集には、今も米人の手に入らぬもの多く、いまだに学界に知れざるものもあるなり。キュバにて小生発見せし地衣に、仏国のニイランデーがギアレクタ・クバナと命名せしものあり。これ東洋人が白人領地内において最初の植物発見なり。当時集めし虫類標本は欧州をもちまわりて日本へもち帰りしが、家弟方にて注意足らぬゆえ一虫の外はことごとく虫に食われ粉となりおわる。捨て去らんと思いしが、田中長三郎あまりに止めるゆえ、今も粉になったまま保存しある。これら小生西半球にて集めたるもの、ことに菌類標本中には、日本人が白人領土内にて発見せるものとして誇るに足るべきもの多くのこりあり。しかるに一生不遇、貧乏にして、今に自分の名をもって発表し得ざるは古今の遺憾事なり。
 明治二十五年に米国へ帰り、その年九月英国へ渡りし。その船中にあるうちに、父は和歌山にて死亡す。英国に着いてロンドンの正金銀行支店に着せしとき支店長故中井芳楠氏より書状を受けしが、それを開き見ると父の訃音なりし。この亡父は無学の人なりしが、一生に家を起こせしのみならず、寡言篤行の人にて、そのころは世に罕《まれ》なりし賞辞を一代に三度まで地方庁より受けたるなり。死に臨みしとき、高野山に人を派して、土砂加持《どしやかじ》を行ないしに、生存の望み絶えたりと僧どもが申す。また緒方惟準氏を大阪より迎えて見せしに、これまた絶望との見立てなりし。その時天理教はやり出せしときにて、誰も天理教徒に踊らせて平癒せり、某は天理王を拝してまた健やかなりなどいう。出入りの天理教を奉ずる者、試みに天理教師を招き祈り踊らせては如何と言いし。亡父苦笑して生くる者必ず死するは天理なり、いかに命が惜しければとて、人の死せんとする枕頭に唄い踊るようのものを招きて命の延ぶる理あらんや、誰も免れぬは死の一事なりとて、一同に生別して終わられ候由。むかしアテネのペリクレスは文武兼備の偉人で、その一生涯を通じてアテネ文物の隆盛を致し、延《ひ》いて泰西《たいせい》開化の基礎を置いたと申す。しかるに、この人瀕死のさい埒《らち》もなき守り札ごときものを佩ぶるを見て、子細を問いしに、われはこんな物が病気に何のききめもなきを知悉《ちしつ》すれど、万に一つ人の唱うる通りのききめのあるものなれば、これを佩びて命を助からんと思いて佩ぶるなりと言いしと(11)か。偉い人の割りにずいぶん悟りも悪かつたと見え申し候。そんな人は命さえ助からば乞食のばばでも舐《ねぶ》るなるべし。それに比しては亡父は悟りのよかったことと思う。いわんや何の学問もせず、浄瑠璃本《じようるりぼん》すら読みしことなき人にしては、いまだ学《まね》びずといえども、われはこれを学びたりと謂《お》わんか。往年ロンドンにあって木村駿吉博士(この人は木村摂津守とて、わが国より初めて米国に使節たりしとき、福沢先生その従僕として随行せるその摂津守の三男で、無線電信をわが国に創設するとき大功ありしは誰も知るところなり)拙家を訪れしとき、このことを語りしに大いに感心され申し候。この亡父は無学ながらも達限あり(故吉川泰次郎男なども毎々その人となりを称せられし)。死ぬに先だつ三、四年、身代を半分して半分を長男弥兵衛に自分の名とともに譲り、残る半分を五分しておのれその一分を持ちあり、四分を二男たる小生、三男常楠、四男楠次郎と小生の姉とに分かち、さて、兄弥兵衛は好色|淫佚《いんいつ》放恣《ほうし》驕縦《きようじゆう》なるものなれば、われ死して五年内に破産すべし、二男熊楠は学問好きなれば学問で世を過ごすべし、ただし金銭に無頓着なるものなれば一生富むこと能わじ、三男常楠は謹厚温柔な人物なればこれこそわが後を継ぐべきもの、またわが家を保続し得べきものなり、兄弥兵衛亡減の後は兄熊楠も姉も末弟もこの常楠を本家として帰依《きえ》すべきなりとて、亡父自分の持ち分と常楠の持ち分を合同して酒造を創《はじ》められ候。
 その前に亡父が心やすく往来する島村という富家翁あり。代々|鬢《びん》付け油商を業とせしが、洋風おいおい行なわるるを見て、鬢付け油に見切りをつけ、何が一番うまい商売だろうかと亡父に問われし。その時亡父只今(明治十七、八年)の様子を見るに、酒造ほど儲かるものあるべからずと告げし。すべて至って賢明ならぬ人も、よく賢き人の言を速やかに聞き入れ実行すれば得分の多きものなり。『藩翰譜』に見えたる、山内一豊が関ヶ原役に堀尾忠氏の一言を聞いて忠氏よりも速やかに実行し、それがため徳川氏の歓心を得てたちまち一躍して土佐の大封を受け、今日までも子孫が大名華族として永続するごとき、その著しき例なり。件《くだん》の島村翁は亡父の言を聞いて躊躇せずに酒造に手を出せしゆえ、今もその後が和歌山で強勢の商家たり。これに後るること四、五年にして拙父は酒造を創めしなれど、いわゆ(12)る立ち後れにて、ややもすれば島村家の勢いに及ばざること多かりし。
 秀吉大阪に城《きず》きしとき、家康に向かってこの城は誰が攻めても落ちまじと言いしに、家康|洵《まこと》に左様という。そのとき秀吉その智に誇るのあまり、一度和睦を入れてその間に外?《そとぼり》を埋めたらんには難なく落つべしと言いし。後年秀頼の世に及び、果たしてその通りの手で大阪城は落とされし。人にもの言うはよくよく心得のあるべきことと見え申し候。
 さて小生、ロンドンにありしこと九年、最初の二年は亡父の訃《ふ》に摂して大いに力を落とし、また亡父の死後次弟常楠その家を継ぎしが、年ようやく二十三、四にて、兄より財産分けに対し種々の難題を持ちこまれ、いろいろ困りたることもありとて小生への送金も豊かならず。小生は日々、ケンシングトン公園にゆき牧羊犬の中に坐して読書し、また文章を自修せり。そのうち正金銀行支店より招かれ今の英皇新婚の式の行列を観しことあり。その座にて足芸師|美津田《みつた》という人と知り合いになる。この人はかつて明治九年ごろすでにその後小生が歴遊せし諸国を演芸して廻りしことありて、談《はなし》が合うのでその家へおとずれしに、この人の知る片岡プリンスという者来たり合わす。これは故土井通夫氏の甥なるが、何とも知れぬ英語の名人。
 むかし曽禰荒助氏などと同じくパリに官費留学して、帰朝の途次シンガポールで、もとパリで心やすかりしジャネという娼婦に邂逅《かいこう》し、共に帰朝して放佚《ほういつ》に身を持ち崩し、東京にいたたまらず、またパリにゆき、窮居中ジャネは流行病で死に、それより種々難行してとうとうあるフラマン種の下宿屋老寡婦の夫となり、日本人相手に旅宿を営みおる、諏訪秀三郎という人あり。韓国王后を刎《くびは》ねたる岡本柳之助の実弟なり。この秀三郎氏の仏語を話すを障子一枚隔てて聞くに日本人と聞こえず、まるで仏人なり。
 件《くだん》のプリンス片岡は英語における諏訪氏ともいうべきほど英語の上手なり。かつ『水滸伝』に浪子燕青は諸般の郷語に通ずとあるごとく、この片岡は cant,slang,dialects,billingsgate 種々雑多、刑徒の用語から女郎、スリ、詐偽漢(13)の套言《とうげん》に至るまで、英語という英語通ぜざるところなく、胆略きわめて大きく種々の謀計を行なう。かつて諸貴紳の賛成を経て、ハノヴァー・スクワヤーに宏壮なる居宅を構え、大規模の東洋骨董店を開き、サルチング、フランクスなど当時有数の骨董好きの金満紳士を得意にもち、大いに気勢を揚げたが、何分本性よからぬ男で毎度尻がわるる。それに英人は一度親しみし者を容易に見離さぬところから、どこまでも気長く助けくれたるも、おいおい博賭また買婬等に手を出し、いかがわしき行い多かりしより、警察に拘引せられ、ついには監獄に投ぜらるることもしばしばにて、とうとう英国にもおり得ず、いずれへか逐電したが、どうなり果てたか分からず。斎藤実氏なども、ニューヨークにありし日、片岡にひどい目に逢いしと談《かた》られしことあり。当時小生は英国に着きて一、二の故旧を尋ねしも父が死し弟は若く、それに兄がいろいろと難題を弟に言いかくる最中にて国元より来る金も多からず。日々食乏しく、はなはだしきは絶食というありさまなりしゆえ、誰一人見かえりくれるものもなかりしに、この片岡が小生を見て変な男だが学問はおびただしくしておると気づく。それより小生を大英博物館長たりしサー・ウォラストン・フランクスに紹介しくれたり。
 その時ちょうど、『ネーチュール』(御承知通り英国で第一の週間科学雑誌)に、天文学上の問題を出せし者ありしが、誰も答うるものなかりしを小生一見して、下宿の老婆に字書一冊を借る。きわめて損じた本でAからQまであって、RよりZまで全く欠けたり。小生その字書を手にして答文を草し、編輯人に送りしに、たちまち『ネーチュール』に掲載されて、『タイムス』以下諸新紙に批評出で大いに名を挙げ、川瀬真孝子(当時の在英国公使)より招待されたることあるもことわりし。これは小生見るかげもなき風《ふう》してさまよいおるうちは日本人一人として相手にするものなかりしに、右の答文で名が多少出ると招待などはまことに眼の明らかならぬ者かなと憤りしゆえなり。(小生はこの文出でし翌週に当時開き立てのインペリヤル・インスチチュートより夜宴に招かれたるなり。)この答文の校正ずりを手にして、乞食もあきるるような垢じみたるフロックコートでフランクスを訪ねしに(この人は『大英百科全書』一一板(14)にその伝ありて、英国にかかる豪富にして好学の人ありしは幸いなり、と記しあり)、少しも小生の服装などを気にかける体《てい》なく、件《くだん》の印刷文を校正しくれたる上、字書に、sketch と outline を異詞同意《シノニム》とせり。小生もそのつもりで「星どもが definite sketch を画き成す」とか書きたるを見て、これは貴下が外国人ゆえかかる手近きことすら分からぬ。これは英人に生まれねば分かりがたきことなり。シノニムはただ多く似た詞というほどのことなり。決して全く同一の意味というにあらず。sketch は図の猫Aのごとく、outline はBのごとし。definite なるは sketch にあらずして outline なり。sketch は indefinite にして definite ならず、と教えられたり。他人は知らず、小生などは、外国語を学ぶに字書のみあてにしてこのような誤ち今もはなはだ多し、と自覚しおる。
大いなる銀器に鵝《が》を全煮《まるに》にしたるを出して前に据え、みずから庖丁してその肝をとり出し、小生を饗せられし。英国学士会員の耆宿《きしゆく》にして諸大学の大博士号をいやが上に持ちたるこの七十近き老人が、生処も知れず、たとい知れたところが、和歌山の小さき鍋屋の悴《せがれ》と生まれたものが、何たる資金も学校席位も持たぬ、まるで孤児院出の小僧ごとき当時二十六歳の小生を、かくまで好遇されたるは全く異数のことで、今日始めて学問の尊きを知ると小生思い申し候。それより、この人の手引きで(他の日本人とかわり、日本公使館などの世話を経ずに)ただちに大英博物館に入り、思うままに学問上の便宜を得たることは、今日といえどもその例なきことと存じ候。大英博物館にては主として考古学、人類学および宗教部に出入し、只今も同部長たるサー・チャーレス・ヘルチュルス・リード氏を助け、またことに東洋図書頭サー・ロバート・ダグラス(この人は大正と改元する少し前に四十年勤続ののち辞職せるを、世界中の新紙に賞讃止まず、わが邦の諸大新聞にも何のことやら分からずに、ほめ立てたり)と、余汝《われなんじ》の交りをなし、『古今図書(15)集成』などは縦覧禁止なりしも、小生に限り自在に持ち出しを許されたり(『大英博物館日本書籍目録』ダグラス男の序に小生の功を挙げたり)。この大英博物館におよそ六年ばかりおりし。館員となるべくいろいろすすめられたれども、人となれば自在ならず、自在なれば人とならずで、自分は至って勝手千万な男ゆえ辞退して就職せず、ただ館員外の参考人たりしに止まる。そのあいだ、抄出また全文を写しとりし、日本などでは見られぬ珍書五百部ばかりあり、中本《ちゆうぼん》大の五十三冊一万八百頁に渉《わた》り、それをとじた鉄線がおいおい錆びるには、こまりきりおり候。
 右のダグラス男の官房で始めて孫逸仙と知人となれり。逸仙方へ毎度遊びにゆき、逸仙また小生の家に遊びに来たれり。逸仙ロンドンを去る前、鎌田栄吉氏下宿へつれゆき、岡本柳之助氏へ添書を書きもらえり。これ逸仙日本に来たりし端緒なり。(その前にも一度来たりしが、横浜ぐらいのみ数日留まりしばかりなり)。マルカーンとかいうアイルランドの陰謀士ありて、小生とこの人と二人、逸仙出立にヴィクトリア停車場まで送り行きたり。逸仙は終始背広服、こんな平凡な帽をかぶり、小生が常にフロックコート、シルクハットなりしと反映せり。明治三十四年二月ごろ、逸仙横浜の黄《ワン》某をつれ、和歌山に小生を尋ね来たりしことあり。前日神戸かどこかで王道を説きし時、支那帝国の徳望が今もインド辺に仰がれおる由を演《の》べたるが、これは小生がかつて孫に話せしことを敷演《ふえん》せるにて、つまり前述山内一豊が堀尾忠氏の言を採りしと同じやり方なり。
 小生かつて小松謙次郎氏(前日まで鉄相たりし)に荒川巳次氏(当時のロンドン領事)宅であい、談ぜしことあり。真言仏教(またユダヤの秘密教などにも)に、名号《みようごう》ということを重んず。この名号ということすこぶる珍な物で、実質なきものながら、実質を動かす力すこぶる大なり。今ここに宇宙の玄妙な力の行なわるる現象を呑み込んで、阿弥陀仏と名づけるとせよ。この名号を聞くものは漸次にこの名号に対して信念を生ず。ついには自分に分かりもせぬこの信念のために大事件を起こす。一向徒《いつこうと》が群集蜂起して国守武将を殺し尽せしごとし(越前・加賀の一向一揆等の例)。そ(16)のごとくトルコ、支那、ローマ等の諸邦は昨今強弩の末で、風呂敷一枚を貫く力もなきものなり。しかるに近年日清戦争起こると聞いて、ブータン(インドの北にある小邦。これは康煕《こうき》帝に征服されたことあり)の土民が四、五輩、義兵のつもりでわざわざ数月難苦して積雪中をふんで北京に赴き、支那の官憲大いにありがた迷惑を感じて、一日に五十銭とかを給してこれを礼遇しおったと聞く。これ支那という国は弱まっても、その名号がまだ盛んに世界に残りおる証拠なり(孫はさすがにこのブータンの例は引かず、別にカシュミル等の例を引きしと記臆す)。名号とは、一国民や一種族の続くあいだ、その脳底に存する記臆にて national reminiscence ともいうべきものなり。わが国にも田舎には到る処、今日までも蒙古《モクリ》、高句麗《コクリ》とて蒙古と高麗を怖ろしきもののごとく一汎に思い、西洋にも何のこととも分からずに、Gog and Magog《ゴツグ・エンド・メーゴツグ》という野民の来犯をおそる(おかしきことには、ロシア人はトルコ人を、トルコ人はロシア人を Gog and Magog と心得おるなり)。近時大戦争中に連合国人はみなドイツを The Huns とよべり。実はハンスはドイツ人と何の関係なきものなるに、これらにて、事実とは全くちがいながら、この名号というものが、国民の気風や感情を支配し左右する力はきわめて大なるものと知らる。
 小生はそのころ、たびたび『ネーチュール』に投書致し、東洋にも(西人一汎の思うところに反して、近古までは欧州に恥じざる科学が、今日より見れば幼稚未熟ながらも)ありたることを西人に知らしむることに?《つと》めたり。これを読んで欧州人にして文通の知己となれる知名の人多かりし。時にロンドン大学総長たりしフレデリック・ヴィクトル・ジキンス氏あり。この人幼にして横浜に来たり、東禅寺で茶坊主たりしことあり。梟雄《きようゆう》の資あってきわめて剛強の人なり。後に横浜で弁護士と医師を兼ね、日本の事物とあれば浄瑠璃、古文国学から動植物までも世界に紹介し、日本協会がロンドンに立つに及びその理事となり、加藤高明氏(そのころの公使)の乾盃辞に答えたことなどあり。この人小生が毎々『ネーチュール』に投書して東洋のために気を吐くを奇なりとし、一日小生をその官房に招き、ますます小生に心酔して、氏が毎々出板する東洋関係の諸書諸文はみな小生が多少校閲潤色したるものなり。なかんずく(17)オクスフォード大学出板の「日本古文』は、『万葉集』を主とし、『枕草紙』、『竹取物語』から発句に至るまでを翻訳したもので、序文に、アストン、サトウ、チャンバレーン、フロレンツと小生に翼助の謝辞を述べあり。このジキンス氏の世話にて、小生は英国第一流の人に知己多少あるに及べり。『ネーチュール』に出せる「栂印考」などは、今に列国で栂印指紋に関する書が出るごとに、オーソリチーとして引かるるものなり。
 明治三十一年ごろより小生は『ノーツ・エンド・キーリス』に投書を始め、今日まで絶えず特別寄書家たり。これは七十六年前に創刊されたもので、週刊の文学兼考古学雑誌なり。今度御下問の「日本に綿の神ありや」もしくは「いずれの国かに綿の神ありや」というような難題が出るときは、この雑誌へ問いを出すなり(無賃)。しかるときは、読者の中より博識|天狗《てんぐ》の輩が争うて答弁を出す。往年英米諸国で、日本の商船に丸という名をつけることにつき種々(日本の海軍と海運との関係について)疑念を抱き、この雑誌に問いを出せしものありしとき、小生答文を出したるを(一九〇七【明治四十】年八月および十一月)海軍大将イングルフィールド(『ロイド登録』の書記職)が見てきわめて要用のものとなし、ヒル氏をして提要を拵《こしら》えしめて、大正五年六月十三日の『ロイド登録』に載せしめたり。これは何でもなきことのようなれども、日本政府が船名を、あるいは丸、あるいは艦とつけるを制して、商船に限り必ず丸を称せしめたるにつきて、いろいろと飛んでもつかぬ考えを懐《いだ》きし外人少なからざりしが、この登録の文が出でてよりかかる懐疑が一掃されたるなり。(普通には船に丸の名をつけるは一五九一年征韓役に九鬼《くき》義隆が作りし日本丸を嚆矢《こうし》とすと思う人多し。しかし、それより先に一五七八年信長が九鬼の日本丸を覧《み》しことあり、また一五八四年家康の清須丸と九鬼の日本丸と戦いしことが『武功雑記』に見ゆ。しかるに一四六八年に成った『戊子入明記』を見ると、当時足利政府より支那へ送りし船には十艘までみな丸という号をつけたり。これらのことはその後何の書にも見えおれど、小生これを明言せるまでは知らぬ人多かりし。)貴下も御承知の通り『ロイド登録』は世界を通じて船舶に関係あるもの必読のものたり。しかるにわが邦には大正五年にすでに外人がかかる提要文を出だしあるに気づかず、今も舟を丸と(18)いうについて中米、南米また北米諸国でいろいろと日本船について妙な評判を聞くに驚き、さて本邦の学者に問うも何たる取調べもなしおらねば、何が何だか分からずにおるようなこと、この外にも多し。実にみずから侮って、後に人に侮らるるものというべし。
 小生大英博物館に在るうち、独人膠州湾をとりしことあり。東洋人の気?すこぶる昂《あが》らず。その時館内にて小生を軽侮せるものありしを、小生五百人ばかり読書する中において烈しくその鼻を打ちしことあり。それがため小生は館内出入を禁ぜられしが、学問もつとも惜しむべき者なりとて、小生は二ヵ月ばかりの後また参館せり。当時このこと『タイムス』その外に出で、日本人を惡《にく》むもの、畏《おそ》るるもの、打たれたものは自業自得というもの、その説さまざまなりし。小生はそのころ日本人がわずかに清国に勝ちしのみで、概して洋人より劣等視せらるるを遺憾に思い、議論文章に動作に、しばしば洋人と闘って打ち勝てり。
 オランダ第一の支那学者グスタヴ・シュレッゲルと『正字通』の落斯馬という獣の何たるを論じてより、見苦しき国民攻撃となり、ついに降参せしめて謝状をとり今も所持せり。(これは謝状を出さずば双方の論文を公開してシュレッゲルの拙劣を公示すべしといいやりしなり。)落斯馬《ロスマ》と申すは Ros《ロス》 Mar《マール》(馬 海の)というノルウェー語の支那訳なり。十七世紀に支那にありし Verbiest(南懐仁という支那名をつけし天主僧なり)の『坤輿図説』という書に始めて出ず。これを、その文を倉皇読んで Nar《ナル》 Whal《ウワル》(死白の 鯨)(一角魚《ウニコール》)とシュレッゲルは言いしなり。これより先ライデンより出す『人類学雑誌』(Archiv f r Ethnologie)にて、シュレッゲル毎々小生がロンドンにて出す論文に蛇足の評を加うるを小生面白からず思いおりしゆえ、右の落斯馬の解の誤りを正しやりしなり。しかるに、わざと不服を唱えていろいろの難題を持ち出だせしを小生ことごとく解しやりしなり。さていわく、汝シュレッゲルが毎度秘書らしく名を蔵《かく》して引用する(実は日本ではありふれたる書)『和漢三才図会』に、オランダ人は小便する時片足を挙げてすること犬のごとし、とある。むかしギリシアに、座敷が奇麗で唾をはく所なしとて主人の顔に唾吐きしものあり。(19)主人これを咎むると、汝の驕傲《きようごう》を懲らすといえり。その時主人、汝みずからそのわれよりも驕傲なるに気づかざるかといえり。汝は日本人に向かって議論をふきかけながら、負けかかりたりとて勝つ者に無礼よばわりをする。実は片足挙げて小便する犬同様の人間だけありて(欧米人は股引《ももひき》をはくゆえ片足を開かねば小便できず、このところ犬に似たり)、自分で自分の無礼に気づかざるものなり、と。いわゆる人を気死せしめるやり方で、ずいぶん残念ながらも謝状を出したことと思う。また前述ジキンスのすすめにより帰朝後『方丈記』を共訳せり。『皇立亜細亜協会《ロヤル・アジアチツク・ソサイエチー》雑誌』(一九〇五年四月)に出す。従来日本人と英人との合作は必ず英人を先に名のるを常とせるを、小生の力、居多《きよた》なれば、小生の名を前に出さしめ A Japanese Thoreau of the 12th Century, byクマグス・ミナカタおよび F.victor Dickins と掲げしめたり。しかるに英人の根性太き、後年グラスゴウのゴワン会社の万国名著文庫にこの『方丈記』を収め出板するに及び、誰がしたものか、ジキンスの名のみを存し小生の名を削れり。しかるに小生かねて万一に備うるため、本文中ちょっと目につかぬ所に小生がこの訳の主要なる作者たることを明記しおきたるを、果たしてちょっとちょっと気づかずそのまま出したゆえ、小生の原訳たることが少しも損ぜられずにおる。
  前年遠州に『方丈記』専門の学者あり。その異本写本はもとより、いかなる断紙でも『方丈記』に関するものはみな集めたり。この人小生に書をおくりて件《くだん》の『亜細亜《アジア》協会雑誌』に出でたる『方丈記』は夏目漱石の訳と聞くが、果たして小生らの訳なりやと問わる。よって小生とジキンスの訳たる由を明答し、万国袖珍文庫本の寸法から出板年記、出板会社の名を答えおきぬ。またこの人の手より出でしにや、『日本及日本人』に漱石の伝を書いて、その訳するところの『方丈記』はロンドンの『亜細亜協会雑誌』に出ず、とありし。大正十一年小生上京中、政教社の三田村|鳶魚《えんぎよ》氏来訪されしおり、現物を示して正誤せしめたり。大毎社へ聞き合わせしに、漱石の訳本は未刊にて、氏死するとき筐底に留めありし、と。小生は決して漱石氏が生前かかる法螺を吹きたりとは思わざるも、わが邦人が今少しく海外における邦人の動作に注意されたきことなり。(20)ついでに申す、むかし寛永中台湾のオランダ人が日本商船を抄掠《しようりやく》して、はなはだ不都合の行為をなせしことあり。長崎の浜田弥兵衛、かの商船の持主末次茂房に頼まれ行きて、オランダ人を生け捕って帰り大功名せしことあり。平田篤胤の『伊吹おろし』その他の日本書にはただただ浜田氏が猛勇でこの成功ありしよう称揚して措《お》かざれども、実は当時この風聞ベルシア辺まで聞こえ、仏人当時ペルシアでこの話を聞いて賞讃して長文を書き留めたるを見るに、浜田氏のそのときの挙動所置一々条理あり、実に何国の人も難の打ちどころなかりし美事なるやり方なりしと見え候。今日の米人なども無茶な人ばかりのようなれども、実は道理の前には心を空しうして帰服するの美風あり。これに対する者、例の日本男児など独讃的の自慢でなく、いずれの国にても通ずるような公然たる道理を述べ筋道を立てられたきことなり。
 小生は前述亡父の鑑識通り、金銭に縁の薄き男なり。金銭あれば書籍を購《か》う。かつて福本日南が小生の下宿を問いし時の記文(日南文集にあり)にもこのことを載せ、何とも知れぬ晒室《ろうしつ》に寝牀《ねどこ》と尿壺《にようつぼ》のみありて塵埃払えども去らず、しかれども書籍と標本、一糸乱れず整備しおるには覚えず感心せり、とありしと記臆す。いつもその通りなり。ロンドンにて久しくおりし下宿は、実は馬部屋の二階のようなものなりし。かつて前田正名氏に頼まれ、キュー皇立植物園長シスルトン・ダイヤー男を訪れし翌日、男より小生へ電信を発せられしも、町が分からずして(あまりの晒巷ゆえ)電信届かざりしことあり。しかして、この二階へ来たり泊《とま》り、昼夜快談せし人に木村駿吉博士等の名士多く、また斎藤七五郎中将(旅順海戦の状を明治天皇御前に注進申せし人。この人は仙台の醤油作るため豆を踏んで生活せし貧婦の子なり。小生と同じく私塾にゆきて他人の学ぶを見覚え、帰りて記臆のまま写し出して勉学せしという)、吉岡範策(故佐々友房氏の甥、柔道の達人、只今海軍中将に候)、加藤寛治、鎌田栄吉、孫逸仙、オステン・サッケン男等その他多し。
 オステン・サッケン男は、シカゴの露国総領事たり。公務の暇に両翅虫学 Dipterology を修め、斯学の大権威たり(21)し。この人を助けて小生『聖書』の獅《しし》の尸骸《しがい》より蜂蜜を得たサムソンの話を研究し、ブンブン(雪隠虫の尾長きものが羽化せる虻《あぶ》で、きわめて蜜蜂に似たもの)を蜜蜂と間違えて、かかる俗信が生ぜし由を述べ、ハイデルベルヒで二度まで出板し、大英博物館にも蜜蜂とブンブンを並べ公示して、二虫間に天然模擬の行なわるるを証するに及べり。このことは近日『大毎』紙へ載するから御笑覧を乞いおく。このサッケン男(当時六十三、四歳)小生の弊室を訪れし時茶を供えしが、あまりに室内のきたなさにその茶を飲まずに去りし。木村駿吉博士は無双の数学家だが、きわめてまた経済の下手な人なり。ロンドンへ来たりしとき、ほとんど文《もん》なしで予を訪れ、予も御同様ゆえ、詮方《せんかた》なくトマトを数個買い来たり、パンにバターをつけて食せしも旨《うま》からず、いっそ討死《うちじに》と覚悟して、あり丈《た》け出してビールを買い来たり、快談して呑むうち夜も更け渡り、小便に二階を下りると、下にねている労働者がぐずぐずいうから、室内にある尿壺、バケッツはもちろん、顔洗う水盆までも小便をたれこみ、なお、したくなると窓をそつと明けて屋根へ流し落とす。そのうち手が狂ってカーペットの上に小便をひっくりかえし、追い追い下の室に落ちたので、下の労働者が眠りながらなめたかどうかは知らず。正にこれ「小便をこぼれし酒と思ひしは、とっくり見ざる不調法なり」。翌朝起きて家の主婦に大眼玉を頂戴したことあり。一昨々年上京して鎌田栄吉氏より招かれ、交詢社で研究所のことを話すうち、速達郵便で木村氏が百円送られしこそ、本山彦一氏に次いで寄付金東京での嚆矢たりしなれ。まかぬ種ははえぬというが、カーペットの上にまいた黄金水が硬化して百円となったものと見え候。
 こんなことをいいおると果てしがないから、以下なるべく縮めて申す。けだし、若いときの苦労は苦中にも楽しみ多く、年|老《と》るに及んでは、いかな楽しきことにあうても、あとさきを考えるから楽しからぬものなり。小生ロンドンで面白おかしくやっておるうちにも、苦の種がすでに十分伏在しおったので、ロンドンに着いて三年めに和歌山にあった母また死せり。「その時にきてまし物を藤ごろも、やがて別れとなりにけるかな」。仏国のリットレーは若きときその妹に死に別れたが、老年に及んでもその妹の顔が現に眼前にあるようだと嘆きし由。東西人情は古今を通じて兄弟(22)なり。小生最初渡米のおり、亡父は五十六歳で、母は四十七歳ばかりと記臆す。父が涙出るをこらえる体《てい》、母が覚えず声を放ちしさま、今はみな死に失せし。兄姉妹と弟が?然《いんぜん》黙りうつむいた様子が、今この状を書く机の周囲に手で触《さわ》り得るように視《み》え申し候。それについて、またいまだ一面識なき貴下も、この処を御覧にならば必ず覚えず悽然《せいぜん》たるものあるを直覚致し、天下不死的の父母なし、人間得がたきものは兄弟、この千万|劫《ごう》にして初めて会う値遇《ちぐう》の縁厚き兄弟の間も、女性が一人でも立ち雑《まじ》ると、ようやく修羅《しゆら》と化して闘争するに及ぶ次第は近々述べん。
 この母が死せしころ、兄弥兵衛がすでに無茶苦茶に相場などに手を出し、家ががらあきになりおった。この人は酒は飲まねど無類の女好きで、亡父の余光で金銭乏しからざりしゆえ、人に義理を立てるの何のということなく、幇間《ほうかん》ごとき雑輩を親愛するのみゆえ、世人に面白く思われず。そのころ和歌山第一の美女というものあり。紀州侯の家老|久野《くの》丹波守(伊勢田丸の城主)の孫にて、この久野家は今まであらば男爵相当だが絶してしまえり。この女が若後家たりしを兄が妾とし、亡父が撰んでくれた本妻を好まず(これは和泉の尾崎という所の第一の豪家の女なり)、久野の孫女の外になお四人の女を囲いおりたり。そんなことにて万事|抜《ぬか》り目《め》多くて、亡父の鑑定通り、父の死後五年に(明治三十年)全く破産して身の置き処もなく、舎弟常楠の家に寄食し、その世話で諸方銀行また会社などへ慵われ行きしも、ややもすれば金銭をちょろまかし、小さき相場に手を出し、たまたま勝たば女に入れてしまう。破産閉塞の際、親類どもより本妻を保続するか妾(久野家の孫女)を保続するかと問いしに、三子まで生みたる本妻を離別して、妾と共棲すべしという。そのうち、この妾は借屋住居の物憂さに堪えず、蔭《かげ》り隠れて去りぬ(後に大阪の売薬長者浮田桂造の妻となりしが、先年死におわる)。
 こんなことにて兄の破産のつくろいに弟常楠は非常に苦辛したが、亡父存日すでに亡父の一分と常楠の一分を含め身代となし、造酒業を開きおりしゆえ、兄の始末も大抵かたづけし。しかるに兄破産の余波が及んだので、常楠が小生に送るべき為換《かわせ》、学資を追い追い送り来たらず。小生大いに困りて正金銀行ロンドン支店にて逆為替を組み、常楠(23)に払わせしもそれもしばらくして断わり来たれり。よって止むをえず翻訳などしてわずかに糊口し、時々博物館に之《ゆ》きて動学するうち、小生また怒って博物館で人を撃つ。すでに二度までかかることある以上は棄ておきがたしとあって、小生はいよいよ大英博物館を謝絶さる。しかるにアーサー・モリソン氏(『大英百科全書』に伝あり、八百屋か何かの書記より奮発して小説家となり、著名な人なり。今も存命なるべし)熊楠の学才を惜しむことはなはだしく、英皇太子(前皇エドワード七世)、カンターベリーの大僧正、今一人はロンドン市長たりしか、三方へ歎訴状を出し(この三方が大英博物館の評議員の親方たりしゆえ)、サー・ロバート・ダグラスまた百方尽力して、小生はまた博物館へ復帰せり。この時加藤高明氏公使たりし。この人が署名して一言しくれたら事容易なりしはず、よって小池張造氏(久原組の重職にあるうち前年死亡せり)を経由して頼み入りしも、南方を予よりもダグラスが深く知りおれりとて加勢しくれざりし。しかるに、今度という今度は慎んでもらわにゃならぬとて、小生の座位をダグラス男の官房内に設け、他の読書者と同列せしめず。これは小生また怒って人を打つを慮ってなり。小生このことを快《こころよ》からず思い、書をダグラス男に贈って大英博物館を永久離れたり。小生は大英博物館へはずいぶん多く宗教部や図書室に献納した物あり。今も公衆に見せおるならん。高野管長たりし土宜《どぎ》法竜師来たとき小生の着せる袈裟法衣等も寄付せり。ダグラス男に贈った書の大意は、日本にて徳川氏の世に、賤民を刑するにも忠義の士(例せば大石良雄)を刑するにも、等しく検使また役人が宣告文を読まず刑罰を口宣《こうせん》せり。賤民は士分のものが尊き文字を汚して読みきかすに足らぬもの、また忠義の士はこれを重んずるのあまり、将軍の代理としてその言を書き留むるまでもなく、口より耳へ聞かせしなり。さて西洋にはなにか手を動かすと、これを発作狂《ほつさきよう》として処分するが常なり(乃木将軍までも洋人はみな狂発して自殺せりと思う)。日本人が人を撃つにはよくよく思慮して後に声をかけて撃つので決して狂を発してのことにあらず。今予を他の人々と別席に囲いてダグラス男監視の下に読書せしむるは、これ予を発狂のおそれあるものと見てのことと思う人は多かるべく、予を尊んでのことと思う人は少なかるべければ、厚志は千万ありがたいが、これま(24)で尽力しくれた上はこの上の厚志を無にせぬよう当館に出入せざるべしと言いて立ち退き申し候。大抵人一代のうち異《かわ》ったことは暮し向きより生ずるものにて、小生はいかに兄が亡びたればとて、舎弟が、小生が父より受けたる遺産のあるに兄の破産に藉口して送金せざりしを不幸と思い詰《つ》めるのあまり、おのれに無礼せしものを撃ちたるに御座候。
 しかるに、このことを気の毒がるバサー博士(只今英国学士会員)が保証して、小生を大英博物館の分支たるナチュラル・ヒストリー館(生物、地質、鉱物の研究所)に入れ、またスキンナーやストレンジ(『大英百科全書』の日本美術の条を書きし人)などが世話して、小生をヴィクトリアおよびアルバート博物館(いわゆる南ケンシングトン美術館)に入れ、時々美術調べを頼まれ少々ずつ金をくれたり。かくて乞食にならぬばかりの貧乏しながら二年ばかり留まりしは、前述のロンドン大学総長ジキンスが世話で、ケンブリジ大学に日本学の講座を設け、アストン(『日本紀』を英訳した人)ぐらいを教授とし、小生を助教授として永く英国に留めんとしたるなり。しかるに不幸にも南阿戦争起こり、英人はえらいもので、かようのことが起こると船賃が安くても日本船に乗らず高い英国船に乗るという風で、当時小生はジキンスより金を出しもらい、フランスの美術商ビング氏(前年本願寺の売払い品を見に渡来した人)より浮世絵を貸しもらい、高橋入道謹一(もと大井憲太郎氏の子分、この高橋をエドウィン・アーノルド方へ食客に世話せしときの珍談はかつて『太陽』へ書いたことあり。アーノルドも持て余せしなり)という何ともならぬ喧嘩好きの男を使い売りあるき、買ってくれさえすれば面白くその画の趣向や画題の解説をつけて渡すこととせしが、これも銭が懐中に留まらず、高橋が女に、小生はビールに飲んでしまい、南阿戦争は永くつづき、ケンブリジに日本学講座の話しも立消えになったから、決然|蚊帳《かや》のごとき洋服一枚まとうて帰国致し候。外国にまる十五年ありしなり。
 帰国して見れば、双親すでに下世して空しく卒塔婆《そとば》を留め、妹一人も死しおり、兄は破産して流浪する、別れしとき十歳なりし末弟は二十五歳になりおる。万事かわりはており、次弟常楠、不承不承に神戸へ迎えに来たり、小生の無銭に驚き(実は船中で只今海軍少将たる金田和三郎氏より五円ほど借りたるあるのみ)、また将来の書籍標品のお(25)びただしきにあきれたり。しかして兄破産以後、常楠|方《かた》はなはだ不如意なればとて、亡父が世話した和泉《いずみ》の谷川《たがわ》という海辺の、理智院という孤寺へ小生を寓せしめたり。しかるに、その寺の食客兼留守番に、もと和歌山の下士《かし》和佐某あり(この人今は大阪で自働車会社を営み、大成金で処女を破膜することをのみ楽しみとすと聞く)。これは和佐大八とて、貞享四年四月十六日京の三十三間堂で、一万三千の矢を射てそのうち八千三十三を通せし若者の後裔なるが、家禄奉還後|零落《れいらく》してこの寺にいささかの縁あっておりたるなり。小生この人と話すに、和歌山の弟常楠方は追い追い繁盛なりという。兄の破産が祟つて潰《つぷ》れたように聞くがというに、なかなか左様のことなし。店も倉も亡父の存日より大きく建て増せしという。不思議なことに思い、こんな寺はどうなつてもよいから、貴公も和歌山に残せし八十歳以上の老母に逢いたかろう、予を案内して和歌山へ行かぬかというに、それは結構ということで、小生有りきり四円ばかりの紙幣をこの人に渡し、夜道一里ばかりあるきて停車場につき、切符を買わせ汽車に乗って三十分ばかりのうちに故郷に着きぬ。それより歩んで常楠の宅にゆくに、見しむかしよりは盛大の様子。これにて兄の破産につれて、弟の家道も大いに衰えたとは虚言で、全く小生の金銭のことに疎きにつけこみ、兄の破産を幸い、小生へ送金せず、小生の分を利用したことと察し申し候。当時、小生は堅固なる独身にて、弟はすでに妻もあれば二子もありし。人間妻を娶る時が兄弟も他人となるの始めと分かり申し候。
 故菊池大麓男は、小生毎度英国の『ネーチュール』、東京の『東洋学芸雑誌』へ寄書するを読んで、はなはだ小生をほめられたと下村宏氏に徳川頼倫侯が話されたと聞く。この大麓男の言に、英国人は職業と学問を別にする、医者が哲学を大成したり、弁護士で植物学の大家があったりする、人間生活の安定なくては遠大の学業は成らぬということを知り抜いたからと申されし。すべて習慣が第二の天性を成すもので、初め学問を大成せんがために職業を勉めし風が基《もと》となりて、英人は父が職業を勉めた結果、大富人となり、その子は父の余光で何の職業を勉めずに楽に暮らし得る身なるに、なお余事に目をふらずに学問をもっぱら励むもの多し。いわゆる amateur《アマチユール》 素人《しろうと》学問ながら、わが国で(26)いわゆる素人浄瑠璃、素人角力と事かわり、ただその学問を糊口の方法とせぬというまでにて、実は玄人《くろうと》専門の学者を圧するもの多し。スペンセル、クロール、ダーウィン、いずれもこの素人学問にて千万の玄人に超絶せるものなり。これを見まねてか literary men(文士)と称するものまた多し。上述の、小生が小便をひっくりかえしたる陋屋の近処ながら、小生のとかわり立派な町通りに住居せし故アンドリュー・ラングなどは、生活のためといいながらいろいろの小説や詩作を不断出し、さて人類学、考古学に専門家も及ばぬ大議論を立て、英人中もつとも精勤する人といわれたり。この人などは大学出の人で多くの名誉学位を帯びたが、博士など称せず、ただ平人同様ミストル・ラングで通せしなり。
 しかるに、わが邦には学位ということを看板にするのあまり、学問の進行を妨ぐること多きは百も御承知のこと。小生は何とぞ福沢先生の外に今二、三十人は無学位の学者がありたきことと思うのあまり、二十四、五歳のとき手に得らるべき学位を望まず、大学などに関係なしにもっぱら自修自学して和歌山中学校が最後の卒業で、いつまで立ってもどこを卒業ということなく、ただ自分の論文報告や寄書、随筆が時々世に出て専門家より批評を聞くを無上の楽しみまた栄誉と思いおりたり。しかるに国|許《もと》の弟どもはこれを悦ばず、小生が大英博物館に勤学すると聞いて、なにか日本の博覧会、すなわちむかしありし竜《たつ》の口の勧工場《かんこうば》ごとき処で読書しおることと思いおりたるらしく、帰朝の後も十五年も海外におりて何の学位をも得ざりしものが帰ってきたとて仏頂面をする。むかしも尾張の細井平洲は四方に遊学せしが、法螺だらけの未熟な教師に就《つ》いたところが、さしたる益なしと悟って、多く書籍を買い馬に負わせて帰り、それで自修してついに大儒となれりと申す。こんなことは到底、早稲田大学(むかしの専門学校)ぐらいを出た舎弟には分からず。いわんや、平凡なむかしの和歌山の女学校ぐらいを出たきりの、弟の妻には分からぬこと一層にて、この者ども小生を嫌うことはなはだしく、というと学問方法上の見解の差異のごとくで立派だが、実は小生は不図《ふと》帰朝したので、小生が亡父より譲られた遺産を舎弟が兄の破産の修繕に藉口して利用したるを、咎められはせぬか(27)との心転より出でし小言と後に知れ申し候。
 かくて小生舎弟方に寄食して一週間ならぬうちに、香の物と梅干しで飯を食わす。これは十五年も欧州第一のロンドンで肉食をつづけたものには堪えがたき難事なりLも、黙しておるとおいおいいろいろと薄遇し、海外に十五年もおったのだから何とか自活せよという。こっちは海外で死ぬつもりで勉学しおったものが、送金にわかに絶えたから、いろいろ難儀してケンブリジ大学の講座を頼みにするうち、南阿戦争でそのことも中止され、帰朝を余儀なくされたもので、弟方の工面がよくば何とぞ今一度渡英して奉職したしと思うばかりなるに、右ごとき薄遇で、小使い銭にも事をかかす始末、何をするともなく黙しおるうち、翌年の夏日、小生海水浴にゆきて帰る途中小児ら指さし笑うを見れば、浴衣の前破れてきん玉が見えるを笑うなり。兄をしてかかるざまをせしむることよというに、それが気に入らずばこの家を出よと迫る。その日はたまたま亡父母をまつる盂蘭盆《うらぼん》の日なるに、かくのごとき仕向け、止むを得ず小生はもと父に仕えし番頭の家にゆき寄食す。しかるに、かくては世間の思わく悪しきゆえ、また甘言をもって迎えに来たり、小生帰りておると、秋に向かうに随い薄遇ますますはなはだし。ここにおいて、一夕大乱暴を行ないやりしに辟易して、弟も妻も子供も散り失せぬ。数日して、もと亡父在世の日第一の番頭なりしが、大阪で十万円ばかり拵《こしら》えたる者を伴い来たる。この者は亡父の恩を受けしこと大なるに、亡父の死後、親には恩を受けたり子らには恩を受けずなどいい、大阪に止まって、兄が破産せしときも何の世話も焼かざりしものなり。よって烈しくその不忠不義を責めしに、語|塞《ふさ》がる。よって、この者のいうままに小生父の遺産を計《かぞ》えしめしに、なお八百円のこりあり、ほしくば渡すべしという。かかる不義の輩に一任して、そのなすままに計えしめてすら八百円のこりありといいしなれば、実は舎弟が使いこみし小生の遺産はおびただしかりしことと思う。しかるに、小生はそんな金をもろうても何の用途もなければとて依然舎弟に任せ、その家で読書せんとするも、末弟なるもの二十六歳になるに父の遺産を渡されず常々怏々《おうおう》たるを見て、これもまた小生同様中弟常楠にかすめられんことを虞り、常楠にすすめて末弟に父の遺産分け与(28)えしめ妻を迎えしめたり。しかるに、小生家に在ってはおそろしくて妻をくれる人なし。当分熊野の支店へゆくべしとのことで、小生は熊野の生物を調ぶることが面白くて、明治三十五年十二月に熊野勝浦港にゆき候。
 そのころは、熊野の天地は日本の本州にありながら和歌山などとは別天地で、蒙昧《もうまい》といえば蒙昧、しかしその蒙昧なるがその地の科学上きわめて尊かりし所以《ゆえん》で、小生はそれより今に熊野に止まり、おびただしく生物学上の発見をなし申し候。例せば、只今小生唯一の専門のごとく内外人が惟う粘菌ごときは、東大で草野博士が二十八種ばかり集めたに過ぎざるを、小生は百十五種ばかりに日本粘菌総数をふやし申し候。その多くは熊野の産なり。さて、知己の諸素人学者の発見もあり、ことに数年来小畔氏奮発して一意採集されてより、只今日本の粘菌の総数は百五十に余り、まずは英米二国を除いては他の諸国に対して劣位におらぬこととなりおり候。しかし、小生のもっとも力を致したのは菌類で、これはもしおついであらば当地へ見に下《くだ》られたく、主として熊野で採りし標品が、幾万と計えたことはないが、極彩色の画を添えたものが三千五百種ばかり、これに画を添えざるものを合せばたしかに一万はあり。田中長三郎氏が『大毎』紙に書いたごとく、世界有数の大集彙なり。また淡水に産する藻は海産の藻とちがい、もっぱら食用などにならぬから日本には専門家はなはだ少なし。その淡水藻をプレパラートにおよそ四千枚は作り候。実に大きな骨折りなりしが、資金足らずしてことごとく図譜を作らぬうちに、プレパラートがみな腐りおわり候も、そのまま物語りの種にまで保存しあり。実に冗談でないが沙翁《シエキスピア》の戯曲の名同然 Lover's Labour's Lost!なり。
 友人(只今九大の農芸部講師)田中長三郎氏は、先年小生を米国政府より傭いにきたとき、拙妻は神主の娘で肉食を好まず、肉食を強いると脳が悩み出すゆえ行き能わざりし時、田中氏が備われ行きし。この人の言に、日本今日の生物学は徳川時代の本草学、物産学よりも質が劣る、と。これは強語《きようご》のごときが実に真実語《しんじつご》に候。むかし、かかる学問をせし人はみな本心よりこれを好めり。しかるに、今のはこれをもって卒業また糊口《ここう》の方便とせんとのみ心がけるゆえ、おちついて実地を観察することに力《つと》めず、ただただ洋書を翻読して聞きかじり学問に誇るのみなり。それでは、(29)何たる創見も実用も挙がらぬはずなり。御承知通り本邦の暖地に松葉蘭《まつばらん》と申すものあり。このものの胞子が発生して松葉蘭となるまでの順序分からず、その隣近の諸類、羊歯《しだ》、木賊《とくさ》、石松《ひかげ》等の発生順序はみな分かりおるに、この松葉蘭のみ分からぬなり。前年平瀬作五郎氏(七十四歳で今年一月四日死亡。この人は銀杏《いちよう》の授精作用を発見して世界を驚かしたるが学位なしで死なれし)に恩賜賞金を下されし時、小生と協同してその賞金をもって松葉蘭の発生順序の研究に尽瘁することとし、小生この宅に多く松葉蘭を栽《う》えて実地検証し、平瀬氏は京都におりて毎年当地へ下り来たり、小生の報告と生本を受けてもち帰り、もっぱら解剖鏡検することと定め、十四年の久しきに渉《わた》って研究せし結果、小生|鰹《かつお》の煮汁《にじる》を地に捨てて生ぜる微細の菌を万年青《おもと》の根に繁殖せしめ、それに松葉蘭の胞子をまけば発生するということをつきとめたり。しかるに、吾輩が研究せんとする状態は毎度地中にあって行なわれ、新芽が地上に現わるるときは吾輩が知り明らめんとする状態はすでに失われおる。しかしながら、この植物が必ず発生するようその胞子をまく方法を知った上は、件《くだん》の状態を明らめうるは遠きことにあらざるべしと二人ますます協力奮発するうち、濠州の二学者が相期せずして、この松葉蘭の発生順序を発見し、エジンバラの学会に報告したりとのことを聞き出して、小生より平瀬に報じたるに、平瀬東大へ聞き合わせてその実事たるを知り、力を落として多年の研究を止めしは去る大正九年ごろのことなりし。小生はたとい濠州の二学者がそんな発見ありたりとも、小生が気づきし松葉蘭の胞子を発芽せしむる方法とは別箇の問題なれば(同一のこととするも発見の方法は別途なれば)今に屈せず研究を続けおれり。さて平瀬にこのことを報じたる某博士は、小生がこの田舎にありて今に屈せず研究を続けおるを愍然《びんぜん》なことと笑いおると聞けり。
  小生はそんな博士を愍然と冷笑するなり。身幸いに大学に奉職して、この田舎にあり万事不如意なる小生よりは早く外国にこの研究を遂げたる者あるの報に接したりとて、その人が何のえらきにあらず。言わば東京にある人が田辺にあるものよりは早く外国の政変を聞き得たというまでのことなり。小生外国にありしうちは、男のみか(30)は婦女にして、宣教または研学のためにアフリカや濠州やニューギニアの内地、鉄を溶かすような熱き地に入って、七年も八年も世界の大勢はおろか生れ故郷よりの消息にだに通ぜず、さて不幸にして研究を遂げずに病んで帰国し、はなはだしきは獣に食われ疫《やまい》に犯されて死せしものを多く知れり。これらは、事、志と違い半途にして中止せしは愍然というべきが、決して笑うべきにあらず。同情の涙を捧ぐべきなり。
  御殿女中のごとく朋党括托して甲を乙が排し、丙がまた乙を陥るる、?爾《さいじ》たる東大などに百五十円や二百円の月給で巣を失わじと守るばかりがその能《のう》で、仕事といえば外国雑誌の抜き読み受け売りの外になき博士、教授などこそ真に万人の愍笑《びんしよう》の的なれ。件《くだん》の博士は学問が好きで子を何人持つか覚えぬ人の由、桀紂《けつちゆう》がその身を忘ると孟子は言つたが、自分の生んだ多くもあらぬ子の数を記臆せずなどいうも、また当世はやりの一種の宣伝か。
 ここまで書き終わったところ、友人来たり小生に俳句を書けと望むことはなはだ切なり。ずいぶん久しく頼まれおることゆえ、止むを得ずなにか書くことと致し候。この状はここで中入りと致し候。右の俳句を書き終わりて、また後分《あとぶん》を認《したた》め明日差し上ぐべし。今夜はこれで中入りと致し、以上只今まで出来たる小生の履歴書ごときものを御覧に入れ申し候。蟹は甲に応じて穴をほるとか、小生は生れも卑しく、独学で、何一つ正当の順序を踏んだことなく、聖賢はおろか常人の軌轍《きてつ》をさえはずれたものなれば、その履歴とてもろくなことはなし。全く間違いだらけのことのみ、よろしく十分に御笑い下されたく候。かつこれまでこんなものを書きしことなく、全く今度が終りの初物《はつもの》なれば、用意も十分ならず、書き改め補刪《ほさん》するの暇もなければ、垢だらけの乞食女のあらばちをわるつもりで御賞玩下されたく候。ただしベロアル・ド・ヴェルヴィユの著に、ある気散じな人の言に、乞食女でもかまわず、あらばちをわり得ば王冠を戴くよりも満足すべしと言いし、とあり。小生ごときつまらぬものの履歴書には、また他のいわゆる正則に(正則とは何の変わったことなき平凡きわまるということ)博士号などとりし人々のものとかわり、なかなか面黒きことどもも散在することと存じ申し候。これは深窓に育ったお嬢さんなどは木や泥で作った人形同然、美しいばかりで何(31)の面白みもなきが、茶屋女や旅宿の仲居、お三どんの横|扁《ひら》たきやつには、種々雑多の腰の使い分けなど千万無量に面白くおかしきことがあると一般なるべしと存じ候。
 大正十四年二月二日夜九時
 
 前状の続き
 かくて小生那智山にあり、さびしき限りの生活をなし、昼は動植物を観察し図記して、夜は心理学を研究す。さびしき限りの処ゆえいろいろの精神変態を自分に生ずるゆえ、自然、変態心理の研究に立ち入れり。幽霊と幻《まぼろし》(うつつ)の区別を識《し》りしごとき、このときのことなり。
 幽霊が現わるるときは、見るものの身体の位置の如何《いかん》に関せず、地平に垂直にあらわれ申し候。しかるに、うつつは見るものの顔面に並行してあらわれ候。
 この他発見せしこと多し。ナギランというものなどは(また stephanosphara《ステフアノスヘーラ》と申す、欧州にて稀《まれ》にアルプスの絶頂の岩窪の水に生ずる微生物など、とても那智ごとき低き山になきものも)幽霊があらわれて知らせしままに、その所に行きてたちまち見出だし申し候。(植物学者にかかること多きは従前書物に見ゆ。)また、小生フロリダにありしとき見出だせし、ピトフォラ・ヴァウシェリオイデスという藻も、明治三十五年ちょっと和(32)歌山へ帰りし際、白昼に幽霊が教えしままにその所にゆきて発見致し候。今日の多くの人間は利慾|我執《がしゆう》事に惑《まど》うのあまり、脳力くもりてかかること一切なきが、全く閑寂の地におり、心に世の煩《わずら》いなきときは、いろいろの不思議な脳力がはたらき出すものに候。
  小生旅行して帰宅する夜は、別に電信等出さざるに妻はその用意をする。これは rapport《ラツポール》と申し、特別に連絡の厚き者にこちらの思いが通ずるので、帰宅する前、妻の枕頭に小生が現われ呼び起こすなり。東京にありし日、末広一雄など今夜来ればよいと思い詰めると何となく小生方へ来たくなりて来たりしことしばしばあり。
 かくて二年余那智にありてのち、当地にもと和歌山中学にありし日の旧友|喜多幅《きたはば》と申す人、医術をもって全盛すときき、むかしの話をせんと当田辺町へ来たり、それより至って人気よろしく物価安く静かにあり、風景気候はよし、そのまま当町にすみ二十年の久しき夏と冬をおくりぬ。独身にては不自由ゆえ、右喜多幅の媒介にて妻を娶《めと》る。小生四十歳、妻は二十八歳、いずれもその歳まで女と男を知らざりしなり。妻は当地の闘鶏《とりあわせ》神社とて、むかし源平の合戦に熊野別当|堪増《たんぞう》がこの社で神楽を奏し、赤白の鶏を闘わせしに、白ことごとく勝ちしゆえ、源氏に味方して壇の浦に平氏を殄滅《てんめつ》せしと申す、その社の維新後初めての神主の第四女なり。裁縫、生花などを教え、貧乏なる父に孝行し嫁《か》するひまもなかりしなり。この妻が小生近年足不自由になりてより、もっぱら小生のために菌類を採集し発見するところ多し。本邦で婦人の植物発見の最も多きはこの者ならん。この道に取っては海外までも聞こえたものなり。その父は如法の漢学者なりしゆえ、この女は『女今川』育ちの賢妻良母風の女なり。琴などもよくひくが、小生貧乏ゆえ左様のひまもなく、筒袖をきて洗濯耕作など致しおり、十八になる男子と十五になる女子あり、いずれも行く末知れざるものどもなり。
 また那智にありし厳冬の一日、小生|単衣《ひとえ》に繩の帯して一の滝の下に岩を砕き地衣《こけ》を集むるところへ、背広服をきたる船のボーイごときもの来たり、怪しみ何をするかと問う。それよりいろいろ話すに、この人は蘭を集めることを好(33)み、外国通いの船にのり諸国に通うに、到る所下宿に蘭類を集めありという。奇なことに思い、小生の宿へつれゆき一時間ばかり話せり。それが小畔四郎氏にて、そのころようやく船の事務長になりしほどなり。同氏勝浦港へ去ってのち、小生面白き人と思い、せめて一、二日留めて話さんと、走り追うて井関という所より人力車にのり、勝浦に着きしときはちょうど出船後なりし。そのとき、小畔氏すでに立ちしか否を船会場へ小生のために見にゆきし中野才一郎(今年三十八歳)という和歌浦生れのものが、このごろ強盗となりて大阪辺を荒らし数日前捕われし由、昨日の『大毎』紙に見えるも奇事なり。それよりのち、時々中絶せしことなきにあらざるも、小畔氏が海外航路から内地駐在に落ち着いてのちは絶えず通信し、その同郷の友、上松蓊《うえまつしげる》氏も、小畔氏の紹介で文通の友となり、種々この二氏の芳情により学問を進め得たること多し。
 過ぐる大正七年、米一揆諸処に蜂起せしおり、和歌山の舎弟宅も襲われたるの新聞に接し、兄弟はかかる時の力となるものなればと妻がいうので、倉皇和歌山に趣きしに舎弟一人宅に止まり、その妻も子も子婦《よめ》もことごとくいずれへ逃走せしか分からず。かかる際に臨んでは兄弟の外に力となるものなしと悟り候。しかるにその米高の前後、小生は米に飽くこと能わず、自宅に維新のころの前住人が騎馬の師範で、そのころの風《ふう》とて士族はみな蓼《たで》を多く植えてもっぱら飯の?《さい》としたり(松平伊豆守倍綱も武士の宅には蓼を多く栽《う》ゆべしと訓えしという)。その種子が今も多くのこり、また?《ひゆ》といいて七月の聖霊祭に仏前に供うる、うまくも何ともなき芽あり、この二物が小生宅の後園におびただしく生える。この二物を米に多く雑《まじ》えて炊《かし》ぎ餓えを凌ぎ、腹がへるごとに柔術の稽古するごとく幾回ともなく帯をしめ直してこれを抑えたり。それに舎弟は、小生が父より譲り受けたる田地二町余を預かりながら(三十石は少なくもとれる)、ろくに満足な送金もせず。しかして、その子に妻を迎えしときの新婦の装束は、多額を費やしたものと見えて、三越の衣裳模様の新報告をする雑誌の巻頭に彩色写真が出でおりし由承る。戦国時代また外国の史籍に兄弟相殺害し、封土を奪い合いしことや、兄弟の子孫を全滅したことを多く読んで驚きしが、実は小生の同父母の兄弟も、(34)配偶者の如何《いかん》によりては、かかる無残の者に変わりしということを、後日にようやく知るに及び候。
 そのころ小畔氏より三千円ばかり送りくれたり。それにて小生は妻子もろとも人間らしく飲食し、また学問をもつづけ得たるなり。大正九年に同氏と和歌山に会し、高野山に上り、土宜法主にロンドン以来二十八年めで面謁せり。この法主は伊勢辺のよほどの貧人の子にて僧侶となりしのち、慶応義塾に入り、洋学をのぞき、僧中の改進家たりし。小生とロンドン正金銀行支店長故中井芳楠氏の宅で初めて面会して、旧識のごとく一生文通を絶たざりし。弘法流の書をよくし、弘法以後の名筆といわれたり。小畔氏と同伴して金剛峰寺にこの法主を訪ねしとき、貴顕等の手蹟で満ちたる帖《ちよう》を出し、小生に何か書けといわれし。再三辞せしも聴《ゆる》さざれば、
  爪の上の土ほど稀《まれ》な身を持ちて法《のり》の主にも廻りあひぬる
 これは阿難が釈尊|涅槃《ねはん》前に仏と問答せし故事によりし歌なり。また白紙を出して今一つと望まれたので、女が三味線を弾ずる体《てい》を走り書きして、
  高野山仏法僧の声をこそ聞くべき空に響く三味線(この画かきし紙は小畔氏が持ち去れり)
 これは金剛峰寺の直前の、もと新別所とか言いし所に曖昧女《あいまいおんな》の巣窟多く、毎夜そこで大さわぎの音がただちに耳を  壁《つんざ》くばかり寺内に聞こえ渡る。いかにも不体裁な至りゆえの諷意なりし。後にその座にありて顔色変わりし高僧どもは、あるいは女に入れあげて山を逐電《ちくてん》し、あるいは女色から始まって住寺を破産しおわれりと承りぬ。年来この法主と問答せし、おびただしき小生の往復文書は、一まとめにして栂尾《とがのお》高山寺に什宝《じゆうほう》のごとくとりおかれし。そしていろいろの人物もあるもので、ひそかに借り出して利用せんとするものありときき、師にことわりて小生方へ送還しもらい、今も封のままにおきあり。今から見れば定めてつまらぬことばかりなるべきも、この往復文書の中には宗教学上欧米人に先立って気づきしことどもも多く載せあるなり。(大乗仏教が決して小乗仏教より後のものにあらざること、小生の説。南北仏教の名をもって小乗と大乗を談《かた》るの不都合、このことはダヴィズなど言い出せり。このことその前(35)に土宜僧正が言いしことなり。その他いろいろとそのころに取っては斬新なりし説多し。)小生次回に和歌山に上《のぼ》りて談判、事すまずば、多くの蔵書標品を挙げて人に渡しおわるはずなれば、その節この往復文書は封のまま貴下に差し上ぐべし、どこかの大学にでも寄付されたく候。ただし小生死なぬうちは、他人をして開き見せしむることを憚《はばか》られたく候。この土宜師は遊んだ金が四万円ばかりありし。小生くれと言うたら、少なくも二万円はくれたるなれど、出家から物を貰うたことなき小生は申し出でざりし。出家の資産などは蟻の尸体《したい》同前で死んだら他の僧どもが寄ってたかって共食いにしおわる。実にはかなきところが出家のやや尊き余風に御座候。
 大正十年の冬、小生また高野に上りし。布子《ぬのこ》一枚きて酒を飲み行きて対面(法主は紫の袈裟にて対座)、小生寒さたまらず酔い出でて居眠りし洟《はな》をたらすを、法主「蜂の子が落ちる」と言って紙で拭いてくれたところを、楠本という東京美術学校出身の画師が実写して今に珍重せり。その時、東京か大阪のよほどの豪家の老妻六十歳ばかりなるが、警部に案内されて秀次関白切腹の室を覧《み》るうち、遠く法主と小生が対座せるこの奇観の様子を見、あきれて数珠を取り出し膜拝《ぼはい》し去れり。
  洟たれし(放たれし)次は関白白書の場
と口吟《くぎん》して走り帰り候。古人はアレキサンドル大王が、時としてきわめて質素に、時としてはまた至って豪奢なりしを評して、極端なる二面を兼ねた人と評せしが、小生も左様で、一方常に世を厭い笑うたことすら稀《まれ》なると同時に、happy disposition が絶えず潜みおり、毎度人を笑わすこと多し。二者兼ね具《そな》えたゆえか、身心常に健勝にて大きな疾《やまい》にかかりしこと稀なり。
 小生は田辺にありて、いろいろのむつかしき研究を致し申し候。例せば、粘菌類と申すは動物ながら素人《しろうと》には動物とは見えず、外見菌類(植物)に似たこと多きものなり。明治三十五年夏、小生田辺近傍|鉛山《かなやま》温泉にてフィサルム・クラテリフォルムという粘菌を見出だす(これはほとんど同時に英人ペッチがセイロンで見出だし、右の名をつけた(36)り)。その後しばしばこの物を見出だせしに、いずれも生きた木の皮にのみ着きあり。およそこの粘菌類は、もっぱら腐敗せる植物の中に住んでこれを食い、さて成熟に及んでは、近所にありて光線に向かえる物の上にはい上りて結実成熟するなり。しかるに右の一種に限り、いかに光線の工合がよくても、死んだ物にはい上らず、必ず遠くとも生きた物に限りて、その上にはい上り、結実成熟するなり。それより小生このことに注意して不断観察すると、十種ばかりの粘菌はかくのごとく生き物に限りはい上りて成熟するに、一の違例なし。このことを斯学の大権威リスター女史(これはむかしメガネ屋主人にして顕微鏡に大改良を加えしリスターという者の後胤にて、初代のリスターはメガネ屋ながら学士会員となれり。その後代々学者輩出し、リスター卿に至りて始めて石炭酸を防腐剤に用いることを明治八、九年ごろ発明し、医学に大功ありし。その弟アーサー・リスターは百万長者にして法律家たり。暇あるごとに生物学に志しついに粘菌図譜を出して斯学の大権威となる。小生は初めこの人に粘菌の鑑定を乞いて、おいおい学問致せし。リスター女史はその娘なり。一生|嫁《か》せず粘菌の学問のみ致し、今年あたり亡父の粘菌図譜の第三板を出す。それに小生自宅の庭の柿の樹の生皮《なまかわ》より見出だせし世界中唯一の属に、女史が小生の氏名によってミナカテルラ属を立てたる一種の三色板の画が出るはずなり。たぶん昨年出たことと思うが、曽我十即が言いしごとく、貧は諸道の妨《さまた》げで、近来多事にして文通さえ絶えおり候)に報告せしより、女史が学友どもに通知して気をつけると、欧米その外にも、小生が言う通り、生きた物にかき上りてのみ初めて結実成熟する粘菌また十余種(すなわち日本と外国と合して二十余種)あることが分かり候。
 御承知通り連盟とか平和とか口先ばかりで唱えるものの、従来、またことに大戦以後、国民や人種の我執《がしゆう》はますます深く厚くなりゆき、したがって国名に関することには、いかに寛大博学の欧人も常に自国人をかばい、なるべく他国人を貶《けな》し申し候。したがってこの、ある粘菌に限り、食うものは腐ったもの死んだものを食いながら、結実成熟には必ず死物を避けて生きた物にとりつくを要すということも、小生と別に英国のクラン Cran という僧が、小生と同(37)時に(もしくは少し早く)気づきおりたるように発表され申し候。まことに苦々《にがにが》しき限りにて、当初この発見を小生がリスター女史に告げたとき Cran などいう坊主のことは聞きも及ばず、リスター女史みずからきわめて小生の報告を疑い、精確に小生が検定せる、生物にのみ身を托して初めて結実し得る諸粘菌の名を求められた状は今に当方にあるなり。しかるに、小生の発見確実と見るや、たちまち右の坊主を撰定して小生とその功を分かちまたは争わしめんと致され候。万事この格《かく》で、日本人が自分の発見を自分で出板して自在に世界中に配布するにあらざれば、到底日本人は欧米人と対等に体面を存することは成らず候。リスター女史などは実に小生に好意の厚き人なるに、それすらかくのごとくなればその余は知るべし。
 さて以下はまだ洋人が気づかぬらしいから申すは、小生右の一件より考うるに、どうも世界には生気《せいき》とでも申すべき力があるようなり。すなわち生きた物には、死んだ物になき一種の他物を活《い》かす力があるものと存ぜられ候。よって考うるに、今日の医学大いに進んだと申す割合に薬がきかざるは、薬にこの生気がなきによると存じ候。生きた物に、まわりくどき無機物よりも、準備合成の有機物がよくききまわるは知れたことで(土の汁をのむよりも乳の汁をのむ方が早くきくごとく)、この点より申さばむろんむかしの東西の医者のごとく、自分で薬草を栽《う》え薬木を育てて、その生品を用いるが一番きき申し候。しかるに地代が高くなり生活に暇なくなりてより、むかしの仙人ごとき悠長なことはできず。ここにおいて薬舗が初めてできる。これが営利を主とする以上は、なるべく多く利を得んがために、生きた物の使いのこりを乾かし焙《あぷ》りなどして貯えおくことになる。これより薬はさっぱりきかなくなれり。西洋とても同様で、生きた薬を使ったら一番きくぐらいのことは知れきつたことながら、生活いそがしくなり、無償で薬を仕上げることもならぬとなったところへ、アラビア人がアルコールで薬を浸出することとランビキで薬精を蒸餾することを発明したるより、遠隔の国土より諸種の薬剤を持ち渡すには、途中で虫や鼠に損ぜらるること多く、生きた物に劣ること万々なるを知りながら、止むにまさるの功ありとの考えより、蒸餾や浸液《チンキ》を専用することとなりたるなり。(38)温泉などその現場にゆきて浴すれば大いにきくが、温泉の湯を汲んで来て冷《さ》めたやつを煮てより、入ったりとてさまできかず。これ温泉の湧くうちはラジオ力に富むが、冷めた上は、その力が竭《つ》きるゆえなり。それと等しく、薬も乾かしたり焙《あぶ》ったり、またいわんや蒸餾や浸出して貯え置くは、すこぶるそのききめを減ずることと知り申し候。
 そのころ、また欧州に空中より窒素を取る発明ありたりとて、日本で喧伝され、三井、三菱等、人を派してその方法をドイツより買入れに勉むるとの評判高かりし。その前に炭酸|曹達《ソーダ》ほど手近く必要おびただしきものはなく、その炭酸曹達は、薬局法などに書いた通りの方法で、一挙していつでも木灰からできることとわれわれ十四、五歳のときより思いおりたり。しかるに、大戦起こりて外国よりの輸入絶えたるに及び、いざ実試となって見ると、これほどのものも日本でできざりし。されば自国で何の練習もせず、あれも珍しこれもほししと、見る物ごとに外国伝習をあてに致しては、まさかの時には絹のふんどしかいて角力に立ち合わんとするごとく、思いのほか早く破れてしまうものなり。たとい窒素を空中より取る法があってからが、高い金を出した相応に本当のことを伝授さるべきや、怪しき限りなり。
 小生はとても左様の大事業を思い立つべきにあらざるが、物みな順序なかるべからずで、まず第一に空中から窒素をとる一法としては、その方向きのバクテリアを養成せざるべからず。バクテリアの種《たね》を養成するに、普通用うるアガーアガー(トコロテンを精製せるもの)は今日決して安値なものにあらず。トコロテンを作るべき海藻は到る処の海に生ぜず。海中にても定まった少しばかりの処にのみ生ずるものなれば、到底空中から多く窒素をとるに必要なるだけ多くわが邦に産せざるなり。しかるに、他邦は知らず、この紀州にはずいぶん多く生ずるパルモグレアという藻《も》あり。(39)これは陰湿の丘側また山村の家の庭園などに、葛《くす》を煮て打ちなげたるごとき、透明の無定形の餅塊をなして多く生ずるなり。
 顕微鏡で見れば、このような微細の小判形の緑色のもの多くあり。これが藻の本体にて、こんな餅塊でつつまる。これが軟膠《ゼラチン》で、件《くだん》の藻の体よりふき出さるるなり。海藻よりカンテンを作るには煮たり晒《さら》したりいろいろと手数を要するが、この陸生のトコロテンは既成のカンテン同様純白無色透明で、ただ多少混入せる土砂をさえ去ればよいのですこぶる便利にもあり、土の上に生じたのを水に入れ、ちょっと洗って砂糖をかくればただちに食い得るなり。陰湿の地にさえあらば多量に繁殖せしめ得る。よってこの陸生トコロテンを多く繁殖せしめて、空中から窒素をとるべきバクテリアを安価に多く繁殖せしむる方便とせんと企てしに、第一に日光とこの藻との精確なる関係を知り明らむるを要するゆえ、一畝ほどの畔《あぜ》を作り、これに件《くだん》の藻を栽《う》えつけ冬至の日にその畔の北端まで日があたるように作り、それより一日一日と立つに随い、日光がおいおい夏至までにその畔の南端まで及ぶように作り、多年日光がこの藻に及ぼす影響を試みし。ただし、この外にもいろいろと学術上試験すべきことありて、この畔を日夜七度ずつ、夜は提灯をとぼして五年つづけて怠りなく視察しおりたるなり。
  この外に粘菌顆に、フィサルム・グロスムというものあり。これは他の粘菌とちがい、初め朽木を食って生きず、地中にあって地中の有機分を食い、さて成熟に臨んで地上に現われ、草木等にかきのぼりて生熟するが、中にも土壁や石垣等の生気なきものにはい上りて成熟すること多し。明治三十四年に、小生和歌山の舎弟の宅の雪隠の石壁に、世界中レコード破りの大なるものを見出だす(直径三寸ばかり)。去年秋小畔氏邸の玄関の履《くつ》ぬぎ石につきしものは一層大きかったらしい。他にもアフリカ辺にかくのごとく土中に生活する粘菌二、三種見出だされたるを知る。これは先に申せし、生きた物につかねば成熟せぬものどもと反対に、なるべく生命のなき物を好むとは妙なことなり。朽木腐草などを食って生活するものよりも、有機分の少なき土の中に活きおりては体内に摂取(40)する養分も少なかるべく、したがって成熟した後の大きさも、生物を食うものどもに比して小さかるべきに、事実はこれに反し、尋常生物の腐ったのを食うものどもよりも数百倍または千倍の大きさなり。これをもって見ると、滋養分の多い物を食うから身体大きく、滋養分の少ない物を食うから身体小さいというわけに行かぬと見える。このことを研究したくて、右の畑にこの粘菌をも栽え、不断その変化発生を見たるなり。また妙なことは、粘菌類が活動しておるうちの色は白、紅、黒、紫、黄、緑等いろいろあるが、青色のものはなかりし。しかるに大正八年秋末に、この田辺の知人で杓子かけ、くらかけ、ちりとり、鍋ぶた等を作りて生活する若き人が妙なものを持ち来たる。春画に見える淫水のようなものが土の上に滴下しおる。その色がペレンスのごとく青い(きわめて快晴の日の天また海の色なり)。小生はこの人戯れに糊《のり》に彩色を混じ小生を欺きに来たりしかと思いしが、ついでありしゆえその宅にゆき件《くだん》の物の生ぜし所を見るに、ちょうど新たに人を斬ったあとのごとく、青き血が滴《したた》り飛びおる体《てい》なり。およそ三尺ほどの径《わた》りの所(雪隠の前)の地面の中央には大なる滴りがあり。それより四方八方へやや長くなりて大きさ不同の滴りが飛び散りおれり。その滴りを見ると、蠕々《じゆじゆ》として動くから粘菌の原形体と分かり、大なる樽の栓をその辺へころがしおき、この淫水様の半流動体がこの栓に這い上り、全くこれを蓋《おお》うたなら持ち来たれと命じ帰宅すると、翌朝持ち来たり栓が全く青色になりおる。さて、その栓を紙箱に入れ、座右に置いて時々見ると、栓の全体を被《おお》った青色の粘液様のものが湧きかえり、そのうち、諸処より本当の人血とかわらざる深紅の半流動体を吐き出す。翌朝に至り下図のごときものとなり、す(41)なわちフィサルム・グロスムという粘菌で、多く栓の上の方に登りて成熟しおりたり。(灰茶色が尋常なれど、この時に限り、灰茶色にして外面に青色の細粒をつけておりたり。しかるに、数日のち青色の細粒は全く跡を留めずなりぬ。)むかしより支那で、無実の罪で死んだものの血は青くなり、年月を経《ふ》るも、その殺された地上にあらわるると申す。周の萇弘という人は惨殺されたが、その血が青くて天に寃《えん》を訴えたという。また、倭寇《わこう》が支那を乱坊《らんぼう》しあるきしとき、強姦の上殺された婦女の尸《しかばね》の横たわった跡に、年々青い血がその女の像形《すがたかたち》に現われたということあり。これはこの粘菌の原形体が成熟前に地上に現じ、初めは青いが、おいおい血紅となるので、これを碧血となづけ、大いに恐縮したことかと思うて、ロンドンの『ジョーナル・オヴ・ボタニー』へ出しおけり。とにかく、従来かつて無例の青色の原形体を見たのは小生一人(およびむろん発見者たる匠人また小生の家族)で、何故普通にこの種の粘菌の原形体は淡黄なるに、この一例に限り青色なりしかは今において一向分からず、この研究のためにもその種を右の畑にまき、日夜|番《ばん》しおりしなり。
 しかるに花千日の紅《くれない》なく人百日の幸なしとか、大正九年末に及び、小生の南隣の家を、ある(当時の)材木成り金が買って移り住む。もと小生の宅は当地第一の有福の士族の宅地で悉皆《しっかい》で千坪に余るべし。その家衰えて幾度にも売りに出し、いろいろと分かれて、拙宅が中央、さて北隣りの宅は小生知人のものとなり(これは本《もと》持主の本宅たりし)、南隣りの宅がいろいろと人の手に渡りてこの成り金のものとなりしなり。
 御承知の通り紀州の田辺より志摩の鳥羽辺までを熊野と申し、『太平記』などを読んでも分かるごとく、日本のうちながら熊野者といえば人間でなきように申せし僻地なり。小生二十四年前帰朝せしときまでは(実は今も)今日の南洋のある島のごとく、人の妻に通ずるを尋常のことと心得たるところあり。また年ごろの娘に米一升と桃色のふんどしを景物《けいぷつ》として、所の神主または老人に割ってもらうところあり。小生みずからも、十七、八の女子が柱に両手をおしつけ、図のごとき姿勢でおりしを見、飴《あめ》を作るにやと思うに、幾度その所を通るもこの姿勢ゆえ何のこと(42)か分からず怪しみおると、若き男が鬮《くじ》でも引きしにや、おれが当たつたと呟《つぶや》きながらそこへ来たり、後よりこれを犯すを見しことあり。また熊野の三個の最難所といわるる安堵ヶ峰に四十余日、雪中に木小屋にすみ、菌類を採集中、浴湯場へ十四、五の小女《こむすめ》、小児《こども》を負って来たるが、若き男を見れば捉えて「種曰《たねうす》切って下んせ」と迫る。何のことか分からざりしが、女陰を臼に譬えしことは仏経にも多く例あれば、種臼とは子をまく臼ということと悟り申し候。夫婦のことに関してすらこんな乱坊《らんぼう》な所ゆえ、他は推して知るべしで、今も熊野の者は行儀の作法のということを知らず。
 これは昔話のようだが、上野《うわの》という所(紀州の最南端にて無線電信局のある岬なり)に喜平次という旧家あり(旧家といっても元禄ころの地図にこの地名さえ見えぬほどゆえ、米国の旧家と斉《ひと》しく知れたものなり)、今も多額納税者なり。この家の老主婦がある年本願寺とかへ参るとて、自家の船に乗り大阪の川口に到りしに、たまたま暴風起こり諸国より集まりし船舶大いに混雑するを見て、この老婆が、みなみな静まれ、喜平次の船じゃ喜平次の船じゃと呼びしという。熊野の小天地で勢いあればとて、天下の船場処たる大阪の川口で、みなみな静まれとて名乗りしも、遠州浜松の町通り同然広いようで狭きのはなはだしきものと、後年まで万人の諺となり、笑うところとなりおる。
 それに違わず小生南隣に移り来たりし男も、川添村とて何とも知れぬ僻邑の生れで、わずかな成り金となりたれば(43)とて、他人のことを一際《いつさい》かまわぬものなり。それが小生の隣宅を買い移り来たりてのち、その長屋(前図(イ)で蜜柑箱の製造を始める。この長屋に窓二つあって小生宅の後園に向かう。これは成規によれば隣宅の内部を見るはよろしからぬことゆえ、空気だけ通して眼視るを得ざるように目かくしを設くべきものなり。しかるに、これまで南隣の宅に住せし人は小生の知人にもあり、礼儀をも心得たる人ゆえ、かつは小生よりも久しく住せし人にて、もとこれらの隣接せし三家は一人の住宅たりしゆえ、かかるこむつかしきことを要せず。拙方の者どもが後園に出れば南隣の人が長屋の窓をしめきり、拙方の者どももまた長屋に人ありと見るときは、新釈《しんしやく》してなるべく近づかざりしなり。しかるに件《くだん》の成り金がミカン箱製造を始めてより、立ちかわり入れかわり、どこの人とも知れぬ者を傭い来たり、長屋の窓を終日開けはなして拙方を自由自在に見通すから、子女ども恥じて後園に出ること能わず。幾日経ってもこの次第ゆえ、小生その窓辺にゆき、?《なんじ》らここよりわが園内をのぞくなと言いしに、それより事起こって、この南隣の者が右の長屋(二階なしの低きもの)を高さ二丈ばかりの二階立ちに改築せんとす。
 左様さるると五年このかた試験し来たりし前述の畑は冬|三月間《みつきかん》全く日光が当たらず、試験ができなくなる。よって抗議を申し込みしも聞き入れず、止むを得ず和歌山に登り、当時の県知事小原新三氏に頼み、同氏より長さ三尺ばかりの長文の諭書を出し、郡長、学務課長をして説諭せしめしに、表面半ば聞き入れし体《てい》を装い、せっかく材木を集めたことゆえまるで工事を止むることはならざるも、図のごとくロロロなる旧長屋をイイイなる高き二階立ちにするに正中の処だけは大分低くすべし、しかる時は日光が多少畑に及ぼし、あまりに全く冬中畑に及ぼさぬということなか(44)るべしとのことで、イイ〔二字傍点〕の点において構造組み立ての棟を切って見せる。よって学務課長らも安心して県庁へ引き上げ、小生もまずはやや安心して外出せし間に、隣主多くの人足を急に集め、件《くだん》の一度切ったる棟をつぎ合わせ、全く二丈ばかりの高さの建築を立てたり。これがため小生の試験畑はまるで無効のものとなり、累年の試験は全廃となり申し候。
 しかしてもつとも不埒なことは、この高き建築と拙宅界限との間に少しも空間をおかず、ただちに限界を摩して右の建築を立てたるゆえ、人足ら棟上《むねあ》げの時足場の余裕少しもなければ拙方の邸地内に多人入り来たり、件《くだん》の試験畑を蹂躙し、小生不在なるゆえ妻子が咎めると悪口雑言し、はなはだしきは小便をたれちらす。(その人足というはあまり人々の好まぬ人群といえば、そのいかようの人群なるかは貴察あるべし。)
 小生帰り来たりてこの由をきき大いに怒り、次日右の高廈《こうか》の小生方へ向けたる方に壁をぬらんとするを知り、再び小生宅地内に入り込まざるように、こちらも限界に摩接《ませつ》して、曲鉤刺《かぎばり》を具せる鉄条を三列にはりつめたり。故にこの鉄条網と壁との間に、壁ぬり人足が身を入るること能わず。いろいろ歎願せしも小生聞き入れず、到底壁をぬること成らぬゆえ、図のごとく、屋根の上より大き綱を下げ、狭き板を中釣《ちゆうづり》にし、その上に人が坐して屋根の上より渡す板を一枚一枚とりて粗壁《あらかべ》に打ちつけて、ようやくこれを蓋《おお》えり。その時小生方に軍師ありて、この高建築に近接して?《ほり》をはるべしと言いしが、小生は左様なことをすると、件《くだん》の建築が必ず小生の邸地内へ倒れ込むからと言って見合せにせり。
 当時県庁よ。吏人を派し説諭せしめ、また県知事みずから長文の諭書を出せしなどは(知事も学務課長も)法学士(45)なるにしてははなはだ不穿鑿《ふせんさく》なことにて、一年後に東京で控訴院判事尾佐竹猛氏に聞きしに、家と家との間には必ず三尺の空隙を除きおくべしと明文あり、またこれを犯せし者を訴えて改築せしめることを得れば、損償をとることもできることの由。もと当地に検事たりし、田村四郎作という新宮の弁護士、去秋来訪されしときも、民法にその箇条ありとて示され申し候。小生はいろいろの学問をかじりかいたが、亡父が、亡兄を法律をふりまわして多くの人ににくまれ、ついに破産すべき者なり、熊楠は必ず法律に明るくなるべからずといわれしを守りて、少しも法律を心得ざりしゆえ、かようの屈すべからざることをも屈せねばならぬへまをやらかし申し候。
  催眠術などで御承知の通り、精神強固ならぬうちに尊長のいい聞かしたことは、後年までもその人の脳底に改革できざる印象を押し申し候。シベリアの土民間に、男にして女の心性なるもの多し。これは軍《いくさ》に勝った者が負けた者の命をとるべき処を宥《ゆる》しやり、その代りに以後きっと女になれと言い渡すなり。精神のたしかなる土民のこととて、それより後は心性全く婦人に化し、一切男子相応の仕事はできず。庖厨縫織《ほうちゆうほうしよく》等の業のみつとめ、はなはだしきは後庭を供して産門に代え、主人の慾を充たしめて平気なるに至る。小生は脳の堅固ならぬうちに、家が商売をするについて金のためにいろいろ人の苦しむを見、前状に申し上げしと思うが、自分の異母姉が博徒の妻となって、その博徒が金の無心に来て拘引されしなどを見、また父が常々、兄が裁判所にのみ出でて金を得て帰るを見て、法律法律というものは人情がなくなる、金を儲《もう》くることが上手でも必ず人望を失うてついには破滅すべしと誨《おし》えしを、幼き脳底に印したので、金銭と法律には至って迂遠《うえん》なるが一つの大?《たいし》(?)に御座候。研究所を企てるに及んでより、止むを得ず金銭や法律のことをも多少懸念するに至りしも、ほんの用心を加うるというばかりで、このごろの金慾万能の舎弟その他より見れば、まるのおぼうさんたるは論なし。これがために一歎もすれば、また自分の幸福かとも悦び申し候。小生は口も筆も鋭く、ずいぶん人をこまらせたること多き男なれども、今に全く人に見棄てられず。一昨々年三十六年めで上京せし時も、旧知内田康哉伯(当時の外務大臣)、岡(46)崎邦輔氏ら、みな多少以前に迷惑をしたことのある人々なれども、左様の顔をもせず紀州の名物男を保存すべしとてそれぞれ出資され、ことには郵船会社の中島滋太郎氏を始め、旧友という旧友|斉《ひと》しく尽力して寄付金を募《つの》り贈られ申し候。(四十七円もち汽車中で牛乳二本のみしのみで上り、三万三千円ばかり持ち帰り申し候。)明智光秀というは主君を弑《しい》した不道の男なり。かつ最期の戦争のやり方ははなはだ拙《つた》なかりし。武勇の甥、明智左馬之介をして、あったところが何の役にも立たぬわずかの軍勢を分かち率いて空しく安土の城を守らせたるがごとし。しかるに山崎の一戦に、その将士はことごとく枕を並べて討死致し候。四方天、並河、内藤を始め、いずれも以前光秀とは敵たりしが止むを得ず降参せし人々なり。それにその人々が一人も背《そむ》かずまた遁れずに光秀のために討死致し候。小生は善悪ともにとても光秀の比較にならぬ男ながら、右申す通り、多くの人々が三十余年、二十余年の後も旧交を念じ、旧怨を捨てて尽力下されしは、小生が金銭と法律のことにあまり明るからざるよりの一得《いつとく》かと存じ申し候。その時集まりし金に本山彦一氏よりの五千円の寄付を合わせて、今も三万九千余円は少しも減らさず、預け有之《これあり》候。小生の弟は多額納税者ながら三年立ちし四年めの今日まで約束の二万円を出さず、また親戚どもより集まったはずの五千円も寄せくれず。これはやはり小生が金銭と法律に明るからざるの損に御座候。
 一得一失は免れざるものにやと存じ候。西洋では親が子を罵ることを大いに忌《い》み候。ドイツの昔話に、父が子供三人にみなろくなものなし、烏になれといいしに、たちまち烏と化し飛び去った話あり。実談にはあらざるも、女になれと言われて女になることもあれば、よりどころなきにあらず。
 右の次第にて小生は、南隣の主人の無法のために五年来の試験を打ち切らざるを得ざることとなりしにつき、県知事始め友人ら、これ全く小生多年あまりに世間とかけ離れて仙人|棲居《すまい》をせし結果なれば、何とかして多少世間に目立ち、世人より敬せられ保護さるるようの方法を講ずべしとのことにて、協議の末生まれたのが植物研究所で、その首唱者は、拙弟常楠と田中長三郎氏(趣意書の起草者、大阪商船会社、中橋徳五郎氏の前に社長たりし人な(47)りし。しかるに、この常楠というもの、幼時は同父同母の兄弟として至って温厚焉実の者なりしが、その妻が非常の悍婦にて、もと小生ごとき成り金ものの悴とかわり、代々名高かりし田舎長者の娘なり。にわか大名がひたすら公卿の娘を妻として誇りたきごとく、小生の父亡後、母が以前士族に奉公したことがあるので、悴に旧家より嫁をとりやりたしとて、この女を弟の妻としたるなり。その女の兄は明治十九年に妻を娶り、少しの間に狂を発し、今に癲狂院に入りおり、時々平癒して帰休するとまた発狂して入院するなり。その弟は発狂して人を殺せしものなり(その後若死せり)。しかして兄の妻また悍婦にて、嫁入り来たり一男一女を挙ぐるうちに、夫が発狂せしゆえ、寡居して家を守り、姑《しゆうとめ》(すなわち拙弟の妻の母)と至って仲悪く、数十年別居しおる。この姑すなわち拙弟の妻の母もまた若くして寡となりしものにて、いろいろと醜行の評もあり、それを気に病んで、その長男が発狂し、母の髪を鋏《はさ》み切りたるなり。こんな家に生まれたる女ゆえ、拙弟の妻また狂人ごときふるまい多く、何とも始末におえず、自分の里に帰りしことなしといえば、しごく貞女のようなれど、実は発狂せる兄の妻が悍婦で、姑を逐い出すほどの者ゆえ、夫の妹(すなわち拙弟の妻)を容れず、それがため、拙弟の妻は拙弟方にかじりつきて、この家で討死と覚悟を極《き》めおるから勢い凄《すさ》まじく、拙弟が頭が上がらず。亡父の時の旧番頭にて分家せしもの、また小生と常楠の末弟、また小生の兄や姉など、あまりのことに驚き怪しみ、拙弟を戒め、今少しく鉗制せよというと、この女、則天武后、平の政子という体で、威猛高にこれに反抗す。それがため、兄と末弟はほとんど窮死また自殺同前に死んでしまい、兄の娘は娼妓同前に横浜の色情狂ごときものの妻にほとんど売られおわりぬ。姉も去年死亡す。かくて、小生は久しく海外にありし者ゆえ、その間のことは一切分からず。家の伝説履歴を知った者はみな死んでしまう。小生の父母の一族は一切舎弟方へ寄りつかず、ただただ舎弟の妻の一族のみ強梁《きようりよう》しおるなり。
 物徂徠の語に「僧侶の行い浄《きよ》きものは多く猥語《わいご》を吐く」とありしと記臆す。ローマのストア派の大賢セネカも、わが行を見よ、正し、わが言を聞け、猥なり、と言えり。小生は、ずいぶん陰陽和合の話などで聞こえた方だが、行い(48)は至って正しく、四十歳まで女と語りしことも少しく、その歳に始めて妻を娶り、時々統計学の参考のためにやらかすが、それすらかかさず日記帳にギリシア字で茶曰とか居《い》茶臼とか倒澆《さかさま》蝋燭とか本膳とかやりようまでも明記せり。司馬|君実《くんじつ》は閨門中の語までも人に聞かされないものはないと言ったそうだが、小生はそのまだ上で、回向院の大相撲同前、取り組みまでも人に聞かされないものはないと心得おる。また他人とかわり、借金ということをしたことなし。至って尋常なことのようだが、これは至ってしにくきことに御座候。しかるに舎弟は、表面孔子からつりをとるような顔をした男ながら、若い時折花攀柳とやらで淋病を疾《や》み、それをその妻に伝えたるなり。漢の呂后、隋の独孤后、唐の則天などは知らず、黴毒ということ盛んに行なわるる世となりては、これを伝えられたる妻が性質一変して瞋《いか》りと嫉《ねた》みより牝獅が子を乳するときのごとく狂い出すはあり内のことで、今の世に妻に頭の上がらない夫は十の八、九はこの一つの過失ありしため、めめしくも閉口しおると見え申し候。
  今の医学者など、黴毒はコロンブスの時米国より水夫が伝染して世界に弘まれりと心得る輩《やから》多し。それが慶長、元和ごろ唐瘡《とうかさ》とて本邦に渡り、結城秀康、黒田如水、浅野幸長、本多正信など、みなこのために歿せしと申す。なるほど劇しき黴毒は左様かも知れず、しかしながら『?嚢抄』は文安時代(足利義政公まだ将軍に任ぜざりしとき)できたものなり。それに、ある鈔物にいわくと引いて、和泉式部が瘡開《かさつび》という題で「筆もつびゆがみて物のかかるるはこれや難波のあし手なるらん」と詠みしとあり。(紀州などには今も黴毒をカサという。つびゆがみて物のかかるるとは黴毒を受けた当座陰に瘡できて痒《かゆ》きをいえるなり。)和泉式部と同じく平安時代にできた『今昔物語』巻二四に、貴女の装いし美なる車に乗りて典薬頭《てんやくのかみ》某という老医師方に来たり、貴公に身を任《まか》すからと言いてなく。何事ぞと問うに、女袴の股立《ももだ》ちを引き開けて見すれば、股の雪のごとく白きに少し面腫れたり云々。袴の腰を全く解いて前の方をみれば毛の中にて見えず、典薬頭手をもってそれを披《あ》ぐれば、辺《へり》にいと近くはれたる物あり。左右の手をもって毛を掻き別けて見れば、もはらに慎むべき物なり、云々。典薬頭われに身を任せた(49)と聞いて大悦びで、種々手を尽して治療し、なお数日留め置いてこの女を賞翫《しようがん》せんと楽しむうち、この女忍んでにげ去り、老医泣き怒りしという咄《はなし》を載す。これも梅毒と見え申し候。もちろん今の梅毒と多少ちがうかもしれぬが、同様の病いたることは論なしと存じ候。一八八二年にドイツのロセンバウムが『淫毒病史』を出す。これは、黴毒はコロンブス以前よりありし証をヘブリウ、ギリシア、ローマ以下の書どもよりおびただしく挙げた大著述なり。
  小生かかることを長々しく言うは、支那の名臣|房玄齢《ぼうげんれい》、戚継光《せきけいこう》、わが邦の勇将福島正則すらも妬婦悍婦にはかなわなんだよう見ゆ。これらはその内実|夫《おつと》において疚《やま》しきことがあったので、実は黴毒を伝えたのがおったと存じ申し候。英国に下院へ一案が出たるに、これを出したる政党の首領の失策でこの案通らず、しかるに大蔵大臣がその首領の姻戚たりし縁でその辺造作もなく通過したり。バジョーこれを見て、近世政党史を編するに特に著名なる政治家の縁戚を調べて、縁戚関係が政略の成不成《せいふせい》に及ぼせる子細《しさい》を研究したら面白かろうと言いしとか。氏自身も誰もこれが研究をしたものありや、小生は知らず。過日の貴社の騒動なども内幕をしらべたら、世間に思いがけなきこの類のことがもっとも力ありしこともあるべしと存じ候。
  またついでに申す。インドの神や偉人の伝に、その父母が何形を現わして交会して生めりということ多し。鸚鵡形《おうむがた》、象形、牛形等なり。これはちょっと読むと、神や偉人の父母はむろん常人にあらざればかよういろいろの動物に化《ば》けて交会せしごときも、実は然《しか》らず。上に述べたる茶臼とか居茶臼とか後《うし》ろどりとかいろいろのやりようあるなり。それにかくのごとき動物の名をつけたるなり。本邦にもやりように、古く鶴の求食《あさり》、木伝《こづた》う猴《ましら》などいろいろの名ありしこと『類聚名物考』に見えたり。英国のサー・リチャード・バートンいわく、インド人がかかることに注意してかきとめしは大いに有意義で、やりようの如何《いかん》により産まるる子の性質に種々のかわりあることなるべし、深く研究を要す、と。
(50) さて研究所の首唱者は舎弟常楠と田中長三郎氏二人なりしが、田中氏は大正十年仲春、洋行を文部省より命ぜられ米国へ渡り、何となく退いてしまわれし。これは今より祭するに、舎弟が我慾強き|吝嗇漢《りんしよくかん》で、小生の名前で金を募り集め、それを自分方に預かりて利にまわさんとでも心がけて、小生に慫慂《しようよう》したることらしく分かったので、田中氏はのいてしまいしことと察し申し候。小生は世俗のことに闇《くら》きゆえ、そんなことと知らず、すでに研究所の趣意書までまきちらしたことゆえ、また東京では数万金が集まったことゆえ、今に鋭意して集金しおり、基本金には手をつくることならぬゆえ、いろいろと寄書、通信、教授また標本を売りなどして、わずかに糊口しおり候。舎弟は、小生意外に多く金あつまり銀行へ預けた上はそれで自活すれば可なりと、研究所の寄付金と小生一家の糊口費を混視し、従来送り釆たりし活計費を送らざることすでに二年、よってさし当たりこの住宅なくては研究安定せざるゆえ、前年買いしときの約束に基づき四千五百円で譲与を望むも、今の時価ならでは(少なくとも一万円)譲らずと主張し、またその代りに小生亡父より譲られたる田地を渡し交換せんというに、大正三年小生の望みにより名前を舎弟のものに切り換えありという。これはそのころ当町の税務署より突然小生に所得税を徴せられしことあり。小生、一向所得税を払うべき物なしと言いしに、田地二町二反余あるを知らずやという。小生そんなことは末弟らより聞きしことあるも、自分は金銭のことに疎《うと》ければ知らずと言いて、舎弟へ書面を出し、右様のこと申し来たりては面倒ゆえ従前ごとく小生に代わりこれを預かりおるその方より納税しおきくれと、代納委任状をおくれり。実印は舎弟に預けあり。よってその代納税の委任状の小生の記名を何とかして譲与証書を作り、自分の物にしてしまいしことと存じ候。小生の月々の費用は、米が居多《きよた》にて年に六石ほど食う。右の二町二反余より三十石ばかり上がるなり。それに小生は迂闊《うかつ》にして、右二町二反余の地価の九百九十円とあるを明治二十年ごろの価と知らず、わずかなことなれば介意するに足らずとして、このごろまで過ぎおりたるなり。酒屋というものは毎年納税期に四苦八苦して納税する、そのためにはずいぶん兄弟や親戚の財産を書き替えることもありと聞くゆえ、骨肉の情としていつでも間にあわせ用が済まばまた小生に復《かえ》すこ(51)とと心得、実印までも預けおきたるなり。しかるに、小生ごとき金銭にかけては小児同様のものをかようになしおわるとは、骨肉しかも同父母の弟としては非人道の至りなり。例年代納し来たりしに、この歳に限り小生依然金銭に迂なりや否を試《ため》し見んため代納を拒み、突然小生に徴税せしめたると分かる。このかけあいに前日上りしも、寒気烈しくして帰り来たり、さらに妻と妻の妹を遣わし、五時間もかけ合いしも埒《らち》明かず、春暖になれば小生またみずから上らんと思う。しかして談判のかたわら、生れ故郷のことなれば今も知人や知人の子弟は多くあり、それらの人々に訴えて集金せんと思う。今のような不景気な時節に集金は難事ながら、只今とても時々小生の篤志を感じ寄付金をおくらるる人なきにあらず。小生一度企てた以上は、たとい自身の生涯に事|成《な》らずとも、西洋の多くの例のごとく、基礎さえ建ておけば、また後継者あって大成しくるることと思う。
 御存知かもしれず、前年原敬氏首相たりし時、神社合祀の令を出し、所によりこれを強行することはなはだしく、神社神林を全滅して私腹を肥やすこと大いに行なわれ、心ある人々は国体を害することこれより大なるはなしと申せしも、誰一人立ってこれをいう者なかりし。その時伊勢に生川《なるかわ》鉄忠という神官ありてこのことを論ぜしも、ただ筆さきに止まり何の影響なかりしに、大正九年、小生このことを言い出し、代議士中村啓次郎氏に頼み数回国会へもち出し、またみずからこれを論議するのはなはだしかりしより、十八日間未決監につながれしことあり、その後もやめずにこれを論じ、ちょうど十年めに神社合祀は無益とのことを貴族院で議決され申し候。およそ十年このことに奔走し、七千円という、小生に取りては大なる金円を損じ申し候。しかして神社合祀無益と議決されし時は、すでに多くの神社が合祀全滅されたる後にて、何の役に立たざりしようなれど、これがため今も全国に存残せる神社は多く、現に当町の神社などは、一、二の外はみなのこれり。さて今日となって、神社へまいりたきも道遠くしてまいり得ざる等の事情より田舎の人心離散せること、都会で思うよりもはなはだしきもの多く、これが農村疲弊思想|濫違《らんい》の主たる源由《げんゆ》となりおり申し候。小生自分の予言の当たりしは、国家衰運に向かいしと同然で決して喜ぶべきにあらざれど(52)も、とにかく国民としていうべきことをいい憂うべきことを憂いたるは本心において慙《は》ずるところなし。研究所の件のごときも、すでに一度いい出せしことはひくべきにあらず。いわんや数万円の金ができ集まりおるにおいてをやで、この上いかに難儀するとも、鉄眼《てつげん》が一切経を翻刻せし時の心がけで集金すべく、ずいぶん骨を折りおり申し候。
 ずいぶん諸方よりいろいろの事を問い合わせ来るを一々|叮嚀《ていねい》に能う限り返事を出し、さて趣意書を送って寄付を求むるに、十の四、五は何の返事さえ下されぬもの多し。つまりこの貧乏な小生に多大の時間と紙筆を空費せしむるものなり。されど、世には無情の人ばかりでなく、この不景気に、小包郵便は一週間に二度しか扱わぬという大和の僻陬《へきすう》より、五円贈られたる人あり。また水兵にして小生と見ず知らずの人なるに、一日五十銭の給料を蓄えて十円送られたるもあり。亡父が常に小生の話をせしとて三円送り来たり、素焼きの植木鉢一つでも買ってくれと申し込まれし少年あり(植木屋を小生が開業すると心得違うたるなり)。幸いに命さえつづかば早晩このことは成るべしと楽しみおり申し候。
 むかし鉄眼、一切経を開板するため勧化《かんげ》するに、阿部野で武士の飛脚らしき者を見、一切経の功徳《くどく》を説きながら一里ばかりつき行きしに、その人一文を取り出し地になげ、われ一切経をありがたく思うて寄付するにあらず、貴僧の執念つよきに感心せるなりと言い、さて茶屋に腰かけ女のすすむる茶一椀に八文とか十文とか余計に抛《なげう》ちし由、鉄眼これを見て涙を落とし、合掌して三宝を敬礼《きようらい》し、わが熱心かかる無慚《むざん》の男をして一文をわれに与えしめたるを見て、わが志は他日必ず成就《じようじゆ》するを知ると悦び帰りし由。『南水漫遊』とかいうものには鉄眼、菴《いおり》に夜分籠りおりしに美婦一人来たり、雪の夜なれば歩進まず、何とぞ宿《やど》しくれと頼む。いかに拒むも、この雪中に死せしむるつもりかといわれて、止むを得ずそこに宿せしめ、子細をきくに、人の妾《めかけ》たりしが本妻の?《ねた》みで追い出されたるが、里へ帰る途上日暮れ大雪に逢いしという。さてその女終夜身の上を案じ眠られざるに、艾《もぐさ》の臭気絶えず、へんなことに思い、ひそかに次の間をのぞけば、鉄眼の一物|蛟竜《こうりゆう》雲を得た勢い(53)で脈を打たせはね上がるを制止せんとて、終夜|灸《きゆう》をすえおりたるなり。その女のちに本妻死して夫の家にかえり本妻となり、このことを夫に話せしに、その夫は大富なりしゆえ、感心して、その志に報いんため寺を建て鉄眼を置きし、とあり。真偽は知らざるも、鉄眼の伝にも、某という富家の婦人より大寄付を得て一切経出板を資《たす》けたことあれば、なにか似寄ったことはあるべしと思う。小生はずいぶん名だたる大酒なりしが、九年前にこの家を購《か》うため和歌山に上《のぼ》る船中、感冒に伝染して肺炎を疾むこと九十日ばかり、それより酒をやめ申せしが、近年このことにかかりてよりは滴《しずく》も用いず候。他の諸事もこれに准ず。一物も鉄眼以上の立派な物なりしが、只今は毎日失踪届けを出さねばならぬほど、あってなきに等《ひと》しきものになりおわり候。
 咄《はなし》もここまでくれば末なり。よって珍妙なことを申し上げ候。大正十一年春東京にありしとき、四月十二日に代議士中村啓次郎、堂野前種松(小石川音羽墓地三万坪をもち一坪いくらと売りし人)二氏に伴われ、山本達雄氏(子か男か記臆せぬゆえ氏と書く)を訪《おとな》いし。明治三十年ごろ、この人正金銀行の今西豊氏と英国に来たり(当時山本氏は日本銀行総裁)、小生今西氏とサンフランシスコにて知人たりしゆえ、大英博物館に案内し、その礼に山本氏と並び坐して食事を供せられしことあり。その時山本氏問いに、西洋の婦女は日本のと味が同じかとは、よく好きな人と覚えたり。さて山本氏は小生を知らぬ由をいう。この人小生の研究所の発起人なるに知らずというを小生は面白く思わず、渡英されしときのことどもをいろいろ咄《はな》せしに、ようやく臆い出したらしかりしが、なお貴公がそんなに勉学しおるものなら農相たる予が多少聞き知るはずなるに、一向聞き知りしことなきは不思議なという。
  かかることは、欧米の挨拶にはよほど人を怒らすを好む人にあらざればいわぬことに候。小生の旧知にて小生キュバ島へ行きし不在中に、小生が預けおいた書籍を質に入れた小手川豊次郎というせむしありし。日本へ帰りてちょっと法螺《ほら》を吹きしが死におわれり。この者都築馨六男と電車に同乗中、君の郷里はどこかと問われて、おれの生れ場所を知らぬ者があるかといいしに、都築男|聒《かつ》となりて汝ごとき奴の郷里を知るはずなしといいしを、板(54)垣伯仲裁せしことあり、と新紙で見たことあり。小手川の言は無論として、都築男も品位に不相応な言を吐かれたものと思う。
 関ヶ原の戦争に西軍あまり多勢なので東軍意気揚がらず、その時坂崎出羽守(西軍の大将浮田秀家の従弟兼家老たりしが、主を怨《うら》むことありて家康に付きし者、この軍ののち石見国《いわみのくに》浜田一万石に封ぜられしが、大阪の城落つるとき、秀頼の妻をとり出したらその者の妻にやると聞き、取り出せしに秀頼の後家《ごけ》本多忠刻にほれその妻となる。出羽守怒ってこれを奪わんとし、兵を構えんとするを家臣に弑《しい》せらる。故福地源一郎氏はこのこと虚談といいしが、小生コックスの『平戸日記』を見るに、コックス当時江戸にあり、このことを記したれば実事なり)進み出で、西軍などおそるるに足らず、某《それがし》一人あれば勝車《かちいくさ》受合いなりと言いしを家康賞美する。出羽守出でてのち小姓ども大いにその大言を笑いしに、家康、かようの際に一人なりとも味方のために気を吐く者あらば味方の勇気が増すものなり、その者の言葉を笑うべきにあらず、と叱りしという。咄《はなし》の始終も履歴も聞かぬうちに、われは汝にあいし覚えなしなどいわれたら、その者の心はたちまちその人を離るるものなり。スペインのアルフォンソ何世たりしか、華族にあえば知らぬ顔して過ぎ、知らぬ百姓に逢うても必ず色代《しきだい》せしより、百姓ども王に加担して強梁せる華族をことごとくおさえ、王位を安きに置きたり、と承りしことあり。
 小生いわく、秦の王猛はどてらを着て桓温を尋ねしに、桓温|勝軍《かちいくさ》の威に乗じこれを見下し、関中の豪傑は誰ぞと問いしという。実は関中にも支那中にも王猛ほどの人物なかりしに、見下して挨拶が悪かつたから、王佐の才を空しく懐《いだ》いて何の答えもせずに去って苻堅に就《つ》き秦を強大にせり。周の則天武后が宰相人を失すと歎ぜしも、かかる大臣あるに出ず。されば政府や世に聞こえた学者にろくなやつなしとて、東?《とうしよう》という藜《あかざ》ごときものは、蒙古では非常に人馬の食料となるものなり、しかるに参謀本部から農商務省にこの物の調査どころか名を知ったものなし。支那では康煕帝親征のときみずから沙漠でこの物を食い試み、御製の詩さえあるなり。万事かくのごとしとていろいろの例を挙げ、(55)学問するものは愚人に知られずとて気に病むようでは学問は大成せずとて、貧弱な村に一生おって小学の教師の代用などした天主僧メンデルは、心静かに遺伝の研究をしていわゆるメンデル法則を確定したるに、生前誰一人その名をさえ知らず、死後数年にしてたちまちダーウィン以後の有力な学者と認められた。人の知る知らぬを気兼ねしては学問は大成せず、と言い放つところへ鶴見商務局長入り来たる。この日英皇太子入京にて、諸大臣大礼服で迎いにゆくとて大騒ぎなり。
 小生山本氏をしてこの出迎いに間に合わざらしめやらんと思いつき、いろいろの標品を見せるうち、よい時分を計《はか》り、惚れ薬になる菌《きのこ》一をとり出す。これはインド諸島より綿を輸入したるが久しく紀州の内海《うつみ》という地の紡績会社の倉庫に置かれ腐りしに生えた物で、図のごとくまるで男根形、茎に疳癪《かんしやく》筋あり、また頭より粘汁を出すまで、その物そっくりなり。六、七十年前に聞いたままでこれを図したる蘭人あるも、実際その物を見しは小生初めてなり。牛蒡《ごぼう》のような臭気がする。それを女にかがしむると眼を細くし、歯をくいしばり、髣髴《ほうふつ》として誰でもわが夫《おつと》と見え、大ぼれにほれ出す。それを見せていろいろ面白くしゃべると、山本問うていわく、それはしごく結構だがいっそ処女を悦ばす妙薬はないものかね。小生かねて政教社の連中より、山本の亡妻はとても夫の勇勢に堪えきれず、進んで処女を撰み下女におき、二人ずつ毎夜夫の両側に臥せしむ、それが孕めば出入りの町人に景物を添えて払い下げ、また処女を置く、しかるに前年夫人死し、その弔いにこれも払い下げられた夫ある女が来たりしを、花橘の昔のにおい床《ゆか》しくしてまた引き留め宿らせしが、情《なさけ》が凝って腹に宿り、夫の前を恥じて自殺したということを聞きおったので、それこそお出《い》でたなと、いよいよ声を張り挙げ、それはあるともあるとも大ありだが、寄付金をどっしりくれないと啻《ただ》きかす訳には行かぬというと、それは出すからとくる。
(56) よって説き出す一条は紫稍花《ししようか》で、これは淡水に生ずる海綿の細き骨なり。海から海綿をとり出し、ただちに水につけて面を掃うと、切られ与三郎ごとく三十余ヵ処もかすり症《きず》がつく。それは海綿には、こんなふうの細きガラス質の刺《はり》あり、それを骨として虫が活きおるなり。その虫死してもこの刺は残る。故に海綿を手に入れたら苛性カリで久しく煮てこの刺を溶かし去り、さて柔らかくなりたるを理髪店などに売り用いるなり。痛いというのと痒いというのとは実は程度のちがいで、海綿の海に生ずるものは件《くだん》の刺大なる故つくと痛む。しかるに、淡水に生ずる海綿は至って小さなもの故、その刺《はり》したがって微細で、それでつかれても痛みを感ぜず、鍋の尻につける鍋墨に火がついたごとく、ここに感じここに消えすること止まず。すなわちハシカなどにかかりしごとく温かくて諸処微細に痒くなり、その痒さが動きあるきて一定せず、いわゆる漆にかぶれたように感ずるなり。それを撫でるとまことに気持がよい。むかし男色を売る少年を仕込むにその肛門に山椒の粉を入れしも、かくのごとく痒くてならぬところを、金剛《こんごう》(男娼における妓丁のごときもの)が一物をつきこみなでまわして快く感ぜしめ、さてこのことを面白く感ぜしむべく仕上げたるなり。ちょうどそのごとく、この淡水生海綿の微細なる刺をきわめて細かく粉砕し(もっとも素女にはきわめて細かく、新造にはやや粗く、大年増には一層粗く、と精粗の別を要す)貯えおき、さて一儀に?《のぞ》み、一件に傅《つ》けて行なうときは、恐ろしさも忘るるばかり痒くなる。(これをホメクという。ホメクとは熱を発して微細に痒くなり、その痒さが種々に移りあるくをいうなり。)時分はよしと一上一下三浅九深の法を活用すると、女は万事無中になり、妾|悔《く》ゆらくは生まれて今までこんなよいことを知らざりしことをと一生懸命に抱きつき、破《わ》れるばかりにすりつけもち上ぐるものなり、と説教すると、山本農相はもちろん鶴見局長も鼠色の涎《よだれ》を流し、ハハハハハ、フウフウフウ、それはありがたい、などと感嘆やまず。初めの威勢どこへやら小生を御祖師さんの再来ごとく三拝九拝して、寄付帳はそこへおいて被下《いらつしや》い、いずれ差し上げましょう、洵《まこと》にありがとうございました、と出口まで見送られた。
(57) それから十五日に山本氏より寄付金もらい、二十五日朝、岡崎邦輔氏を訪い寄付金千円申し受けた。そのとき右の惚れ薬の話せしに、僕にもくれぬかとのこと、君のは処女でないからむつかしいが何とか一勘弁《ひとかんべん》して申し上げましょう、何分よろしく、今夜大阪へ下るからかの地でも世話すべしとのことで別れ、旅館へ帰るとすぐさま書面で処女でない女にきく方法を認《したた》め、即達郵便で差し出した。
 それには山本農相など処女をすくようだが、処女というもの柳里恭も言いしごとく万事気づまりで何の面白くもなきものなり。しかるに特にこれを好むは、その締《しま》りがよきゆえなり。さて、もったいないが仏説を少々|聴聞《ちようもん》させよう。釈迦《しやか》、菩提樹《ぼだいじゆ》下に修行して、まさに成道《じようどう》せんとするとき、魔王波旬の宮殿震動し、また三十二の不祥《ふしよう》の夢を見る。よって心大いに楽しまず、かくては魔道ついに仏のために壊《やぶ》らるべしと懊悩す。魔王の三女、姉は可愛、既産婦の体を現じ、中は可喜、初嫁婦の体、妹は喜見と名づけ山本農相好物の処女たり。この三女菩薩の処に現じ、ドジョウスクイを初め雑多の踊りをやらかし、ついに丸裸となりて戯《たわむ》れかかる。最初に処女の喜見が何としたって仏心《ぷつしん》動かず。次に中の可喜が昨夜初めて男に逢うた新婦の体で戯れかかると、釈尊もかつて妻との新枕を思い出し、少しく心動きかかる。次に新たに産をした体で年増女の可愛が戯れかかると、釈尊の心大いに動き、すでに仏成道をやめて抱きつこうかと思うたが、諸神の擁護で思いかえして無事なるを得た、とある。されば処女は顔相がよいのみで彼処《かしこ》には何たる妙味がなく、新婦には大分面白みがあるが、要するに三十四、五のは後光がさすと諺《ことわざ》の通りで、やっと子を産んだのがもっとも勝《まさ》れり。それは「誰《た》が広うしたと女房|小言《こごと》いひ」とあるごとく、女は年をとるほど、また場数を経るほど彼処《かしこ》が広くなる。西洋人などはことに広くなり、吾輩のなんかを持って行くと、九段招魂社の大|鳥井《とりい》のあいだでステッキ一本持ってふるまわすような、何の手ごたえもなきようなが多い。故に洋人は一たび子を生むと、はや前からするも興味を覚えず、必ず後から取ること多し。これをラテン語で Venus aversa と申すなり。(支那では隔山取火という。)されど子を生めば生むほど雑具が多くなり、あたかも烏賊《いか》が鰯をからみとり、章魚《たこ》が梃《てこ》に吸いつき、また(58)丁字型凸起で亀頭をぞっとするように撫でまわす等の妙味あり。膣壁の敏感ますます鋭くなれるゆえ、女の心地よさもまた一層で、あれさそんなにされるともうもう気が遠くなります、下略、と夢中になってうなり出すゆえ、盗賊の禦《ふせ》ぎにもなる理屈なり。
 マックス・ノールドーの説に装飾は男女交会より起こるとあったようだが、南方大仙《みなかたたいせん》などはそこどころでなく、人倫の根底は夫婦の恩愛で、その夫婦の恩愛は、かの一儀の最中に、男は女のきをやるを見、女は男のきをやるを見る(仏経には究竟《くきよう》という)、たとえば天人に種々百千の階級あるが、いかな下等の天人もそれ相応の下等の天女を見てこれほどよい女はないと思うがごとく、平生はどんな面相でもあれ、その究竟の際の顔をみるは夫妻の間に限る。それを感ずるの深き、忘れんとして忘られぬから、さてこそ美女も悪男に貞節を持し、好男も醜妻に飽かずに倫理が立って行くのだ。むかし深山を旅行するもの、荷持ちの山がつのおやじにこんな山中に住んで何が面白いかと問いしに、こんな不躾《ぶしつけ》の身にも毎夜妻の悦ぶ顔を見るを楽しみにこんなかせぎをすると言いしも同理なり。されば年増女のよがる顔を見るほど極楽はなしと知らる。しかるに、右にいうごとくトンネルの広きには閉口だ。ここにおいて石榴《ざくろ》の根の皮の煎じ汁で洗うたり、いろいろしてその緊縮の強からんことを望むが、それもその時だけで永くは続かず。
 ここに岡崎老の好みあるく大年増の彼処を処女同前に緊縮せしむる秘法がある。それは元の朝に真臘国へ使いした周達観の『真臘風土記』に出でおり。そのころ前後の支那の諺に、朝鮮より礼なるはなく、琉球より醇なるはなく、倭奴より狡なるはなく、真臘より富めるはなし、と言うた。真臘とは、今の後インドにあって仏国に属しおるカンボジア国だ。むかしは一廉《ひとかど》の開化あって、今もアンコル・ワットにその遺跡を見る、非常に富有な国だった。しかる故に支那よりおびただしく貿易にゆくが、ややもすれば留《とど》まって帰国せぬから支那の損となる。周達観、勅を奉じてその理由を研究に出かけると、これはいかに、真臘国の女は畜生ごとく黒い麁鄙《そひ》な生れで、なかなか御目留《おめどま》りするような女はない。しかるにそれを支那人が愛して、むかし庄内酒田港へ寄船した船頭はもうけただけ土地の娘の針箱に入(59)れ上げたごとく、貿易の利潤をことごとくその国の女に入れてしまう。故に何度往っても「お松おめこは釘|貫《ぬ》きおめこ、胯《また》で挾《はさ》んで金をとる」と来て、ことごとくはさみとられおわり、財産を作って支那に還るは少ない。かかる黒女のどこがよいかとしらべると、大いにわけありで、このカンボジア国の女はいくつになってもいくら子を産んでも彼処は処女と異ならず、しめつける力はるかに瓶詰め屋のコルクしめに優れり。どうして左様かというと、この国の風として産をするとすぐ、熱くて手を焼くような飯をにぎり、彼処につめこむ。一口《ひとくち》ものに手を焼くというが、これはぼぼを焼くなり。さて少しでも冷えれば、また熱いやつを入れかえる。かくすること一昼夜すると、一件が処女同然にしまりよくなる。「なんと恐れ入つたか、汝邦輔、この授文を百拝して牢《かた》く秘中の秘とし、年増女を見るごとにまず飯を熱くたかせ、呼び寄せてつめかえやるべし、忘るるなかれ」と書いて即達郵便でおくりやりしに、大悦狂せんばかりで、いつか衆議院の控室でこのことを洩らし大騒ぎとなりし由。
 件《くだん》の紫稍花は朝鮮産の下品のもの下谷区に売店あり、と白井博士より聞けり。しかし災後は如何《いかが》か知らず。小生は山本、岡崎等の頼み黙《もだ》しがたく、東京滞在中日光山へゆきし時、六鵜保《ろくうたもつ》氏(当時三井物産の石炭購入部次席)小生のために大谷《だいや》川に午後一時より五時まで膝まである寒流(摂氏九度)に立ち歩みて、ようやく小瓶に二つばかりとり集めくれたるが今にあり。防腐のためフォルマリンに入れたるゆえ万一中毒など起こしては大変ゆえ、そのうちゆっくりとフォルマリンを洗い去り尽して、大年増、中年増、新造、処女、また老婆用と五段に分けて一小包ずつ寄付金をくれた大株連へ分配せんと思う。山本前農相の好みの処女用のはもっとも難事で、これは琥珀《こはく》の乳鉢と乳棒で半日もすらねばならぬと思う。
 植物学よりもこんな話をすると大臣までも大悦びで、これは分かりやすい、なるほど説教の名人だと感心して、多額を寄付され候。貴殿はお嫌いかしらぬが、世間なみに説教申し上ぐることかくのごとし。かかるよしなし言《ごと》を永々書きつけ御笑いに入るるも斯学|献立《こんりゆう》のためと御愍笑を乞うなり。
(60) 小生前般来申しのこせしが、三神と船はこんなふうに、船が視る者に近いでも三神が見る者に近いでもなく、視る目より同じ近さにある体《てい》に画くが故実と存じ候。しかるときは、会社を主とせるにも連合会を主とせるにもなく、はなはだ対等でよろしかりしことと存じ候。しかし、今はおくれて事及ばざるならん。
 小生は他の人々のごとく、何年何月従何位に叙《じよ》し、何年何月いずれの国へ差遣《さけん》されたというような履歴碑文のようなものはなし。欧米で出した論文小引は無数あり。それは人類学、考古学、ことには民俗学、宗教学等の年刊、索引に出でおるはずなり。帰朝後も『太陽』、『日本及日本人』へは十三、四年もつづけて寄稿し、また『植物学雑誌』、『人類学雑誌』、『郷土研究』等へはおびただしく投書したものあり。今具するに及ばず。もっとも専門的なは日本菌譜で、これは極彩色の図に細字英文で記載をそえ、たしかにできた分三千五百図|有之《これあり》、実に日本の国宝なり。これを一々名をつけて出すに参考書がおびただしく必要で、それを調《ととの》うるに基本金がかかることに御座候。
 また仏国のヴォルニーの語に、智識が何の世の用をもなさぬこととなると、誰人も智識を求めぬと申され候。わが国によく適用さるる語で、日本の学者は実用の学識を順序し整列しおきて、ことが起こるとすぐ引き出して実用に立てるという備えはなはだ少なし。友人にして趣意書を書きくれたる田中長三郎氏の語に、今日の日本の科学は本草学、物産学などいいし徳川時代のものよりはるかに劣れりとのことなり。これはもっともなことで、何か問うと調べておく調べておくと申すのみ、実用さるべき答えをしかぬる人のみなり。小生はこの点においてはずいぶん用意致しあり、(61)ずいぶん世用に立つべきつもりに御座候。箇人としても物を多くよく覚えていても、埒《らち》もなきことのみ知ったばかりでは錯雑な字典のようで、何の役に立たず。それよりはしまりのよき帳面のごとく、一切の智識を整列しおきて、惚れ薬なり、処女を悦ばす剤料なり、問わるるとすぐ間に合わすようの備えが必要に御座候。
 八年ばかり前に、東京商業会議所の書記寺田という人よりの問合せに、インドよりチョールムーグラが日本ではけ行く量と価格を問い来たが、何のことやら知ったものなし。貴下は衛存知だろうという人あるゆえ、伺い上ぐるとのことありし。これは大風子《たいふうし》とて(大風とは癩病のこと)、むかしより諸邦で癩病薬として尊ぶものに候。専門もよいが、専門家が他のことを一向顧みぬ風もっぱらなるより、チョールムーグラといえば何のことと問うに知った人ちょっとなし。ポルトガル語の専門家へ聞きにゆくと、それはポルトガル語にあらずというて答えがすむ。マレー語の専門家、支那語の専門家等に尋ぬるも、それはマレー語にあらず、支那語でないというて答えがすむ。知らぬという代りにそれは予の専門にあらずといえば、その学者の答えがすむなり。もしこれが、詳しからずとも一《ひと》通りの諸国の語を知った学者があり、それに問い合わせたなら、それはインド語だとの答えはすぐ出るところなれど、そんな人が日本に少ないらしい。さてインド語と分かったところで字書を引いて大風子と訳すると分かりて、その大風子はどんなもの、何の役に立つということに至っては、また漢医学家あたりへ聞き合わさざるべからず。いよいよその何物たるやを詳知《しようち》せんと思わば植物学者に聞き合わすを要す。しかるに、植物学者は今日支那の本草などは心得ずともすむから、大風子と問うばかりでは答えができず、学名をラテンで何というか調べてのち問いにこいなどいう。それゆえ本邦で、一つなにか調べんと思うと、十人も二十人も学者にかけざるべからず。槍が専門なればとて、向うの堤を通る敵を見のがしては味方の損なり。そのとき下手ながらも鉄砲を心得おり、打って見れば中《あた》ることもあるべし。小生何一つくわしきことなけれど、いろいろかじりかきたるゆえ、間に合うことは専門家より多き場合なきにあらず。一生官途にもつかず、会社役所へも出勤せず、昼夜学問ばかりしたゆえ、専門家よりも専門のことを多く知ったこともなきにあ(62)らず。
 小生『大阪毎日』より寄稿をたのまれ、今朝より妻子糊口のため、センチ虫の話と庭木の話をかきにかかり申し候。それゆえ履歴書は、これほどのところにて止めに致し候。もし御知人にこの履歴書を伝聞して同情さるる方もあらば、一円二円でもよろしく、小生決して私用せず、万一自分一代に事成らずば、後継者に渡すべく候間、御安心して寄付さるるよう願い上げ候。また趣旨書御入用ならば送り申し上ぐべし。御出立も迫りおれば、とても望むべきこととは存ぜねども一口でもあらばと存じ願い上げ置き候。
  日本の学者に、小生があきるるほど、小生よりもまだ世上のことにうとき人多し。名を申すはいかがなれど原|摂祐《かねすけ》というは岐阜の人で、独学で英、仏、独、伊、拉の諸語に通じ、前年まで辱知白井光太郎教授の助手として駒場農科大学にありしが、白井氏の気に合わず廃止となり、静岡県の農会の技手たり。この人二千五百円あらば、年来研究の日本核菌譜を出板し、内外に頒ち得るなり。しかるに世上のことにうときより今に金主なし。小生何とかして自分の研究所確立の上その資金を出したく思えど、今のところ力及ばず、小生在京中右に申せし処女の薬に感心されたる鶴見局長(今は農務次官?)の世話をたのみ、啓明会より出金しもらわんと小生いろいろ世話したるも、原氏本人が大分変わった人で、たとえば資金輔助申請書にそえて身体診断証を出せといわるると、今日健康でも明日どんな死にあうかもしれず、無用のことなり、などいい張るゆえ、出《で》るべき金も出しくれず。この人東京に出で来たり小生を旅館に訪れし時、その宿所を問いしに、浅草辺なれど下谷かもしれず、酒屋のある処なりなど、漠たることをいう。こんな人に実は世界に聞こえおる大学者多く候。小生は何とぞかかる人の事業を輔成して国のために名を揚げさせたきも、今に思うのみで力及ばざるは遺憾に候。この人はよほど小生をたよりにしおると見え、前年みずから当地へ小生を来訪されたることあり。  匆々謹言
 
(65)杉村広太郎宛
 
          1
 
 明治二十年七月十九日午前十一時認
  紙少なく墨|稀《まれ》に、筆さき横の方へ飛ぶ。これ曹孟徳の詩にはあらざれども、小生の現状なり。御察しの上、その字の細小にして行の迂愚なるを咎めず、蟻が木のまたをあるくように細かによんだら、ずいぶん面紺《おもこん》なこともあるべし。
 そりみになり、オホン、「大ぞらはこひしき人のかたみかは物思ふたびにながめ出さるる」、「実《じつ》もまこともつくしたふたり日々にあはねど気ももめぬ」などと和独兼備(うたとどど一ということ)に、相かわらず碌々ごろつきおり候えども、別に頭も打たず、まずは珍重珍重。二に貴君相変わらず御長盛、定めて「雪膚花貌《せつぷかぼう》、参差《しんし》として是《これ》(と申したいが、君は色が黒い)なるべし」と艶羨罷り在り候。承れば、今年中に法律学校へ御はいり相成り候由、大喜大喜。何分御勉強のほど願い奉る。僕のごときは、天才あまり純な男でもなかつたが、大路をふみちがえ、「今年歓笑し復《また》明年、秋月春風|等閑《とうかん》に度《わた》り」たるおかげで、今はかっばに尻ぬかれた五十ばかりのじじさんのごとく、しばらくは物も言えず。しかし、何分これを東隅に失いてこれを桑楡《そうゆ》に収めたる馮異《ふうい》将軍の跡に傚《なら》わんと勉強罷り在り候。貴君今年|歯《よわい》まさに盛んに牛を食らうの気あり、よろしくますます奮発して蔚蕃の才気を研ぎ出し、小生輩の友ゆえ、中にかかる豪(66)傑ありと生輩までの名を成さしめられんことを、へたばって冀望す。
 玉影を投ぜられ、感謝感謝。咋、僕領事館に至り来翰を見るに、今井義香よりの書一のみなり。まちにまちたる甲斐もなしと、憤りながら走り出ず。一人あり、後より呼んでいわく、これは君への書ではありませんか、と。示すをみれば、すなわち君の書なり。直ちに受けみるに何となく硬きゆえ、さては、写真なるかとその場で解封致しもちかえり、眺むること時余、魂躍り、魄飛び、眉下り、臍昇る。しかりといえども、漢の武帝の返魂香《はんごんこう》は結局思いの益《ま》す種とあきらめようなく、これを紙につつみ、懐中に収めおき申し候。ことに添えられたる御文中、わざわざ小生のために写し取られし厚情たとえんようもなし。『詩』にいわく、贈り物は美なるにあらず、これ美人の贈り物、と。しかして今この玉影のごときは、ただに美人の贈り物なるのみならず、贈り物も添文もみなことごとく美なり。かつその文中小生にキテイル〔四字傍点〕ような意志を表せられたるは、さすが三、四年来少年諸君に人望多かりし小生の名誉と尊位を増す品ゆえ、謹んで三拝の上巻き収め、他日事成り帰朝の上は、これをカビネットに整置し、中松などをして羨欽に堪えざらしめんとす。ついては小生の写真も呈すべきなれども、当港写真は世界に有名なる代りに一ダズン二ドルから五ドルまでするゆえ、ずいぶん困却、ことに小生|不《ぶ》おとこのくせに在国の節は毎度写真とり、人々に配り世間にありふれたること西京のかおと一汎ゆえ、この回は略す。
 小生近ごろまで Pacific Business College に在学罷り在り候ところ、当地、日本人のうけはなはだよろしからざる上に、物価はなはだ高く、そのくせ学術などははなはだあさましき所ゆえ、来八月より Bayant and Strutton's Business College,Chicago,TU.に入学仕る目的に御座候。全体御存知のごとく、米国は教方のこと等に政府より厳法を行なわぬことゆえ、同じカレッジと申すなかにも、イェール・カレッジのごとく、はなはだ高上なるものもあり、また地方のカレッジに至っては、ほんの共立学校くらいのものもあり、カレッジ、アカデミー、スクールなどと、名称は本人の勝手次第に付くることに御座候。小生今までおり候商業学校はまず日本の商業学校くらいのもの(もっとも米国の(67)ことゆえ規模は宏壮なるにもせよ)につき、この回小生の趣かんとするチカゴ府のカレッジは、同じ商業学校中ても大学の資格を有せるものにて、ニューヨークのポーキープシー(福沢の子おる)とフィラデルフィアとこのチカゴとをもって、米の三大商業学校とすることに御座候。小生着後直ちにチカゴへ行きたかったれど、何様《なにさま》言語その他百般のことに通ぜざりし間のことゆえ、遺憾ながら今日まで延引仕りおりたることに御座候。チカゴは御存知の米国四番くらいの大都会、諸方より鉄道ことごとく萃《あつま》る処、近傍にはミチガン湖あり、ずいぶん異《かわ》つた所、かつ日本人の止まりし者少なき所ゆえ、ずいぶん面白きこともあるべしと存じ候。いずれその節は早速手書の宛てどころを申し上ぐべき間、時々御通交下されたく候。はや短き間のことゆえ、その書御手に入り、小生チカゴの居処分かるまでは御出信下され間敷《まじく》候こと。
 当サンフランシスコには日本人千余人も有之《これあり》候ことゆえ、もはやほらも吹きつくしたることと存じ、別にこれと申す珍事は申し上ぐべきようもなし。日本人|菅《かん》と申す人奉公に行きしに、主婦これにその名を問う。その人主婦の仏人なるを見ながら、哲学大家の名を借りてカントなりと答う。主婦いわく、汝はなはだ良人と見受くれども、名あまり不都合ゆえ仕《つか》うことを断わる、と。その人わけ別らず、還りてこれを仏語をよくする日本人に問うに、仏の俗、女陰のことをカントというなりとぞ。また日本より来たしんまいの奉公人、店前へ水を撒くとて通行の女に水をぶっかけ誤り入るに、頭を下げて Thank you,Thank you とつづけて言うたに、その女水をかけながら礼をいうとは変なことだとながめながら、不承不承の体にて通り過ぎたりと。これはこの男ちょっと字書を見てサンクという字に謝スルと訳つけてあるを見、謝するという漢字にアヤマルと礼イウとの二意あるを知らざりしがための誤りなり、と大笑なり。
 当地はことに女権ひどし。これは全体米は殖民地より成りしなかにも、この地ごときはもっとも殖民地の新たに成り上がりしものにて、女とさえいえば渇望し立ち切っているゆえなり。故に石を擲ぐべき黒奴の女でさえ、気どって目をピカつかせゆくものはなはだ多し。前日の新聞に、コロラド州のガーフィールド郡内に、未婚の男子千百人にし(68)て未婚の女子は女児を含めやつと二十八人のみなり、と。サンフランシスコも、もとはかくのごとくはなはだしかりしなり。ボストン、ニューヨークなど、東方大都の女はほんとうの女丈夫多い。学識卓挺、一生男はもたず、女同志(男同志を男色というから、これがほんとの女色かいな)ですましおるものなどもある由なり。この港の女ほど悪いものはなし。才も識もなく、ほんの婬逸ばかりにして、しかも美装盛饌、亭主を尻にしくもののみなり。その言詞のごときも、この地の人にはよいかしらぬが、予輩より見れば紀州辺でいう「アバエル」というやつにて、一向みられません。その上顔に白粉を抹しグリスリンを塗りたりなどするばかりで、フロに入らぬゆえ垢ひどく、その上また洋服のコルセットでしめつけ、脇の下より黄汁出、または厠に入りて尻ろくにふかぬ。(これは新聞紙にてふくことゆえ、すべってよくふけぬことなり。全体洋人、塵一つ目前にありてもきたながるに引きかえ、糞を何とも思わず。小児など糞をつかむもの多きも父母平気で、いいものを握れたともいわぬが、見ているは、我輩一向解せぬことなり。)また室の建設《つくり》ようはなはだよく、ちょっと中から鍵をおとし、窓のブラインドさえしめれば昼間やつてもかまわぬことゆえ、かつは洋人は、体よく、精液満ちたるゆえ、日夜隙さえあればソファの上に相抱えソファをゆすりながらやりどおしとのことなり。
 美少年もずいぶんあり。少年も二、三人抱いたこともあり候(やりはせぬが)。しかし、いずれもフレックルと称し、日本のハイのクソのような紅点、目の下、頬の辺に生じ、はなはだ見苦し。しかし、小生のところへくる少年などは良家の子ゆえ、いつも顔を紅くぬってくることなり(女もまた然り)。加之《しかのみならず》少年(女もまた)みな歯なみはなはだ悪く、明眸皓歯なるものあれば必ず入歯なるがごとし。到底利光さんや君のようなはありいせん。我輩これについて致し方なく、少年のことは一旦絶念罷り在り候。時に「帰去来」を賦するもまた風流、羽山さんこれを聞かばまさに九腸寸断するなるべし。なんぞ商人の婦となりて水を憂い、また山を憂えんとは、すなわちこのことでござい。
 当港に酒飲みを下戸となす法を行なう人あり。散薬とかを、茶また珈琲《コーヒー》に入れのましむることなるよし。ちと喜多(69)幅に呑ましては如何《いかん》。
 当港は各種人民の大|雑合場《ざこば》なるゆえ、各国語雑混しておるは勿論のことゆえ、英語でないかしらぬが、当地一汎の語で、男陰をプリック、女陰をコックと申し候。メムブラム・ヴィリ、チー・パルブなどは一向不通なり。また、やることをスクイーズという(squeeze)。 前日(本月四日)当国独立祭日に、在留日本人(当地人はこれをジャップと申す)三百人ばかり金門園に集まり、演説等式のごとくおわりて角觝《かくてい》撃剣などはじめたりしが、みなみな安くみつもつて伴九一さんくらいのしろものばかりゆえ、ついに大さわぎとなり、叫ぶ声公園近傍にまで聞こえしにより、巡査騎して来たり、ついに解散を命ぜられ候。しかし、その巡査来たりしときは終りなりしゆえ、さまで争動もなくおさまりぬ。
 もし和歌山へ御帰省相成り候わば、拙家に南米産のタマムシ・ミカドンバイの写真、アーゼンチン邦の紙幣、インジアンの石?《せきど》等、その他数種送り有之《これあり》、御物見あるべく候なり。
 いと穢なきはなしにあれど、当地にて女に不運な男は、十一、二の美童を銭出して傭い来たり、せんずりをかかしめる由なり。あまりかかせたときは、愉快一向相感ぜぬように相成る。その砌《みぎり》は細きハリガネを穴の中に通した上、かかせるとのこと。
 本月発兌の雑誌に、一昨年極月八日に逝かれたるニューヨークのヴァンダービルト(Vanderbilt)は二億ドルくらいの遺産ありし、と載せたり。何と巨大ならずや(しかし、今に僕もなる)。これを一ドルの銀貨と見て積み重ぬれば三百五十五マイルス、横に並ぶれば四千六百七十二里、重量七千二百六十トン、汽車に積めば十二マイル半つづき、機関車十二を要す。一ドル切手としてその紙を積み重ぬれば、十二マイルスの高さに至る〔傍点〕。これで金マラを鋳れば三十二万茎を得べく、この金を投ずれば、絶世の美少年をば三万遍ほるを得、喜多幅にやるときは五万八千四百日女房をつれて礼にくるとのことでげす(ヽ点のところまで本当のこと)。『詩』にいわく、「批瘁sよいかな》富める人、哀しむらくはこの(70)※[煢のわがんむり無し]独《けいどく》」と。富人ほどよいものはげいせん。吾輩は、今はやはり銭つかうばかりなれど、そこが経済学にいわゆる散してのち得というやつなり。後日必ず大富家と相成り、貴君のような美少年とともにこれを楽しまんと欲す。(貴君のようななり、あえて貴君というにあらず。)
 次便に小生チカゴ府の居住処を通知するゆえ、それまでに君御卒業なされ、筆記学をもって、喜多幅の薬取りのババさんに対するいいざまから、森下のサーエ、三毛のソリャエーワヨー、清原のソリャアハホホンホホンホホンホホン(こればかりは今やすなわち亡矣《なし》)まで、違《たが》わず写し取りて御示し下されたく候。かつまた別紙片は何とぞよろしく御計らい下されたく候。これはこれ利光氏へ写真請求の書なり。小生に見こまれておったのが、なかなか名誉になることゆえ是非とも。
 当地に蛙を食うこと仏人中に盛んなり。この蛙は日本の蛙との同族にして、ヒキほど大いさあるものなり、なかなか旨き由。八百屋(グローサリー)の前に日本のドジョをかいたるごとく並べ有之《これあり》候。
 時下猛暑なる御地のことゆえ、西瓜、氷もまた盛んなるべし。この地は一向然らず、四時おおむね春暖なり。(しかし、ロッキーを踰《こ》えて東部は目下はなはだ暖熟なる由。チカゴ辺は九十度くらいとのこと。)暑に中《あた》らず、腹下らず、ねびえせぬようしたまえかし。オホンと申すも拙者の御寸志。
 まずは右二十一日ころ出船の便により申し通し候なり。不宣。
          米サンフランシスコ在留  南方熊楠拝啓
 日本東京麻布区六本木町一番地木梨出張所にて
   杉村広太郎君
  なお和歌山へ御文通の節、木梨頼母先生へ小生恙なきの趣きちょっと御書き下されたく候。在郷中は毎々さわぎに参り、実もつて(善助流)相済まざる儀、平に御宥恕御宥恕。
(71) 小生先日一詞を作れり。事貴君に係る。そもそも中松盛雄、昨夏初めて君を見てよりひたすらなる思いをかけおりて、東京へ帰りし後も、毎度そのことうるさきほど申し出でられ候。しかるところ今春君上京とのことにつき、小生例の妙想をもって一詞を編めり。詞の実に合えるか合わぬかは知らず。貴君|磊偉《らいい》、こんなことは怒りたまわじと思うにつけ、見せぬには増すとかんがえ、御目にかく。
  (原図。壮夫、美少年とを画き、かたわらに桃と杜鵑《ほととぎす》に月をそえたり。oはその人名なり。)
    春くれば、人の心も何となく、のどけくわたるものなるを、のどけくもあらぬわが思ひ、それもたれゆゑそなたゆゑ、今をさかりの桃の花、梅も桜もしばしの間、やがてうつろふ君の春、いとしかはいも今のうち、ちょとこち風のこちむいて、かがせておくれよ、一《ひと》つぼみ、香もつやもある御すがた、まさに一つを仇にして、人目憚るほととぎす、月〔六字傍点〕によするや、一声〔二字傍点〕を、いやだとばかり、ただきいて、こよひも帰るに如かず〔六字傍点〕とは、情知らずの怨めしさ、ひとめ三か月〔三字傍点〕、すでにはや君に心の梓弓、弓はり月〔四字傍点〕の一筋に、これまで思ふて来たものを、神もあはれと思ひ知れ、今にいざよい〔四字傍点〕いらへをば、たとひ夜中〔右○〕はすぎ〔二字右○〕るとも、あはれ村〔右○〕雲のこぬうちに、松〔右○〕の葉越しにとめてながめん。
       当地在留人の作なりとて、どど一
    よそにいろもちゃけんじゅつつかひたがひにしない〔三字傍点〕でくらうするとはまた面白いじゃありいせんかね。
     杉村君の写真に題す(詩入りにしやした)
  ならばすがたゑ、わらふておくれ
  綿々蛮々如(シ)v有(ルガ)v情、欲(シテ)v囀(ラント)轉不v囀(ラ)意自(ラ)嬌(ナリ)
  海山へだてたかひがある
(72) 貴君何分御勉強のほどは保証し、かつのぞむところ御座候。
 その他拙作多けれど、恥をさらすに庶幾《ちか》きものゆえ略す。いよいよこれにて。            再拝
   付白。今回玉影を得しこと、はなはだうれしく身に取りて面目余りあり。すなわち檀欒《だんらん》の帷《とばり》を?《かか》げて狡?を烹《に》たる思いをなせり。なお、利光氏のを送り下され候わば、この上もなく躍り上がるべく候。
 
          2
 
     小心文
 日本東京 杉村広太郎 一名きりのやかすみ君に奉る書
                       米国ミチガン州ランシソ農学生 南方熊楠 号ゑてのやたつみ
 永々しくも御細読を乞う。
 春花すでに風に堕ちたるは遠くこの春にして、梧葉まさに秋雨に落ちんとするは近くこの秋なり、とわかったことを冒頭に置き、さて月明らかに星|稀《まれ》に烏鵲樹を繞《めぐ》ること七まき半にて蛇となり、日高河底に沈むと霊異記為仁第一に見えたる候郎君は恙なきや。昨年の秋の今ごろは半七さんならで小生、中松、川瀬、今井、浅井|法印《ほういん》、木野鬼瓦、また中大黒大人、以上六|?《げつ》いずれもまらは大を尚ぶゆえ、すなわち事大党にて、はねたりとんだり朝鮮を騒がさずに和歌山中を擾乱茶々ムチャにせしが、栄え行く人|一盛《ひとさか》り花一時、あすは白井が身の果も、と権八の清元の文句のごとく、衆生済度のため様々関々流離の上、飽かぬ羽山さんに別れて今は五千里外のランシン府へ参り、百姓相習いおり候。洵《まこと》にその後老ゆれば歳華は匆々、徂《ゆ》くものは水のごとく、清原は死し喜多幅は去る世の中に、何とて松のつれなかるらん、で中松小翠もとんだことにかかり合わせ、いやはや夢のようでげす。僕の疾を養うて和歌山にあるや、思いをかけし若衆三人あり。一は言わずと知れた羽山蕃次郎、二には利光の平夫ぬし、三はすなわち貴君にて、容をもって
(73)
 
 
 
讖を下せば羽山随一、本をもって を着ればすなわち貴君第一と、いつも浅い・中松二長老(二人とも一件チョロゆえ長老と言えり、決してこれを尊称するにあらず)と小田原評定のみ致せしが、Should l have stayed a little longer 貴君も例の妙方便中に落つべかりしを、いつも御顔は物見しながら、二世かけて契る能わざりしは、光秀が母を突きしよりも残念至極にして、憾みは朝顔が阿曽二郎と同席しながらこれを知らざりしよりもはなはだし。しかるに、このほどはまた玉影をおくられ感謝感謝。文覚の袈裟におけるにあらねども、恋しきときもこれを見、かなしきときもこれを見おり候。しかして、僕のその後大いに御無音に打ち過ぎて平気なりしごときは、その実、決して平気なりしにあらず。本月八日サンフランシスコを出立いたし、一、二ヵ処歴覧の上、ミチガン州に来たりたればなり。小生アドレッスは、
  K.G.Minakata Michigan Agricultural College,Lansing, Mich., U.S.A.
 貴君、小生を男と見てくれるなら前に Mr.を付けられよ、小生をイイ人ネエとほれてくれるなら尻に Esq.を惜しむなかれ。両方付けることは御免なり。
 八月八日午後一時、荷物車に荷し、オークランド・ファーリー(渡船場)に至る。この行はネブラスカ州首府リンコルン府州立大学校に入らんと心ざせしにて、同行は山口の人村田という人なり。小生ら二人ある以上は、いかなる強敵樊彭関張の勇あるやつでも恐れず、ちっと御出でなさいと言うほうゆえ、わざと下等汽車に乗り、というと存外強いようなれども、その実は上等汽車に乗れば高価の上、まさか籃へ?肉入れてもってゆくわけにも行かず、また別に眠車を購うて眠らにゃならぬゆえ閉口の上、下等に乗りしなり。下等汽車は国の下等汽車より少しましにて、殖民汽車の名あり。殖民の便をはかりて、わざわざこしらえしものなり。車の中央はとおりみちにして、上等下等の別なくムチャクチャに往来できるなり。雪隠は毎車一つずつありて、急行のときは動揺はなはだしきゆえ、紐鐶を一生懸命に持ちていながらするなり。風、下より吹き上がり、小便顔にかかることあり。初めのうちは黄門《こうもん》蟄閉してなかなか(74)容易に出でざりき。塵埃煙煤入ることおびただしく、一日おれば顔眼は真黒、熊野の奥から生擒《いけどり》ました山男のごとし。一車の両側に図のごとく二椅子と一釣床を具えたるもの六つずつあり。一牀に二人として、一車に四十八人寝るを得べし。イ、ロなる椅子に昼間腰掛け夜は引き伸ばして平牀となり、その上に寝るなり。道中は大抵広野にて何にもなく、プレーリードグと申す小獣無数住し、うごめくこと、あたかも和歌浦のテンボカニに異ならず。
 かくて十二日午後一時リンコルンに達せしが、同府は思いのほか風儀の悪き所、物価も高貴に、かつまた日本人にして同地へ至りしは小生ら始めてのことゆえ、珍賞よりはむしろ奇怪視され、到底永居すべからざるの地につき、十三日朝立ち退き候。州立大学もあまり盛んになく候。停車場の長、余に姓名を乞うゆえ、平假名とローマ字でかき与えしにはなはだ喜びたり。
 十四日午後一時、チカゴに着す。名にしおう大都会にてチカゴ〔三字傍点〕ろ感心の外なし、としゃれざるを得ず。一間半くらいのたかさの十層の大厦など多く有之《これある》なり。レイキ・オブ・ミシガンは都の東方にあり。その大いさ琵琶湖どころにあらず。ただし近辺に山も林もなきゆえ、ナニヤラに毛のなきと等しく、はなはだ不景なり。チカゴはずいぶん風儀の悪しき、生き馬の目をぬくような所なり。停車場にていろいろ悪徒吏装に擬して來たり、こまり入り候。サンフランシスコは乞食までも履をはけども、その他はみな跣足にて、チカゴのごときも跣足の男女多し。ネッキタイまで美美しくかざりながら、跣足なるものあり。ズボン切つてあればまだしも、長々と踵までたれながら跣足ゆえ、みらるるものにあらず。わが国草履の便思うべし。その翌日ランシン府に着し、そのまた明日入塾せり。一昨日入学試験合格せり。(この学校にて日本人入学試験を受けて正しく入りしは余輩を始めとす。)いなかにて人気も至つて穏やかに、日本人を尊敬仕り候。我輩貴族と称せしにより待遇はなはだよく、今では少々コの字にマの字、あとの一字は御推文(75)
 
 
字、学校のもよう等は次便にせん。まずは右ほれた貴君のことゆえ、取り敢えず一寸《ちよつと》ネー申シ上ゲルンデスヨー。
 近ごろ小生よりの状貰いながら返信せぬものあり。小生繁忙のうちに執筆にするを何とも思わぬやからなり。はなはだ腹立ち候。貴君もこの段御了察を乞う。
 明治二十年八月二十五日夜十時認畢
              米国ランシン府  南方拜
   杉村様
  珍事有之候わば幸いに教示を惜しむなかれ。
  貴君新聞紙取りおられ候わば願わくは時々送られよ。郵便税半ヵ月まとめて五銭なり。
 
          3
 
 後記はナイヤガラ記行なり。御弁読あらば幸甚。
 本年八月七日御認め相成り候はがき一本、正に受け取り申し候。「われは今|子《なんじ》と一身にあらず、いずくんぞ死生相棄てざるを得んや」と張籍の詩は薄情極まり、「歌の中なる千松は待つ甲斐ありて父母に顔をば見せることもあろ同じ名のつく千松の」と哭せる政岡の詞は真衷至れり。何となれば、先のは朋友の中にして、後のは母子の間柄なればなり。故に朋友の薄情は咎むるに足らず。しかるに貴君先來二度御書面下され、今回またまた貴翰を投ぜらるること、小生まことにうれしく、「人の心と飛鳥川今日の今までそのやうな移り心のひもかがみ冷たい心はおおそれよ」と言える権八の辞は、どーやらうそらしく覚えらる。御書面に溢れたる貴意、小生を愛せらるるは固《まこと》に忝《かたじけ》なし。
 たとい言語自由に、風俗すでにわれに移れるにもせよ、夷戎《いじゆう》の所為一概にわが心を楽しましむるに足るもの尠《すくな》く、仮に蘇武・張騫《ちようけん》の難苦はあらざるも、小川町を片足は靴、片足は下駄であるき、九段阪上から一散にかけ下る等の珍(76)事は、自在に行なうを得ず。顧みて日本現状を見れば、世の溷濁《こんだく》もまたはなはだし。置酒長宴して婬褻《いんせつ》を厭わざるは、これ煬帝《ようだい》の政をなすなり。庫究して位階を売るは為作一に桓・霊に同じ。蝉翼を重しとなし、鐘を軽しとし、讒人高張、賢士跡を潜む。堂上の人万歳と呼んで、堂下また呼び、一国もまた万歳と呼ぶ。暴政何ぞ一に宋の康王の時に等しきや。故に、予はのち日本の民たるの意なし。しかれども、美にしてかつ情厚き君のごとき親友の存するあるをもってすれば、あに一念の故土に眷々《けんけん》たるものなからんや。八月十日小生汽車中にありしとき、旧交のことなど思い出で、「旅のころもはすずかけなれや、いつも露けき道ばかり」とやらかしやした。
 さて承るところによれば、近来和歌山人の奮発して他に出ずるものはなはだ多く、嬋娟《せんけん》たる紀文麿男は阪地にあり、奇怪なる森下徳は東京に行き、強酒の平野は東遊、色男の太田は難波に、しかして突梯滑稽|韋《い》のごとく脂のごとくなる小生第一の後見職喜多幅は西京に鎮座の由、まことに悦ぶべきことどもなり。何をもってこれをいうかと言うに、そも和歌山県はかつて関直彦君の言われしごとく古今無類の因循国にて、維新前も内股膏薬、以後はなおのこと小利を汲覓《きゆうべき》し大利を遺失し、小慾に迷い大慾を知らず、進取の気象は皆無|罕有《かんゆう》なりし。ために県下より豪傑志士の出でたるは真に少々なるにもかかわらず、衆人は平気の平気で、せめてこの後に豪傑志士を出そうともせず、研《みが》いて玉となるべき璞《たま》を昆山の土に委して顧みぎりしは、まことに遺憾事なり。故をもって小生在京また帰省の日、主として人の父子兄弟親戚までも刺衝し、子弟をして真路の学道、芸能に立ち入らしむべきを説けり。もちろん小生の外に、悠宏たる和歌山人中これをすすめたる人は少なからざるも、その人々はみな小生の刺衝を受けて初めてこれをなせるなり。故に小生は子弟他出の本家本元なれば、今その志のややとどかんとするを見て悦怡の至りに候。
 それ事をなすに前後あり、陳渉兵を興して漢祚成り、頼政義を唱えて頼朝起こる。沼津の平作死して重兵衛、河井の在り所を告げ、吉田松陰、身は囹圄《れいご》に死せしかど、伊藤、山県、山田、品川、乃至《ないし》滋野のような、へぼまでも要路に昇るを得たり、と。引き言は下らぬゆえ、これにて中止とし、何にしろ貴君らこの上夜を日に継がず、雪や螢を燈(77)に代えず、冬中単衣をきたり、こたつの中で屁をへったり、昼前に時計を見に往ったり、そんなつまらぬことはせず、ユルユルユルユルと象の歩くがごとくに勉強し、終《つい》に大成されんこと、冀望の至り、ほんに御先を致した手まえまでもうれしうござんすよ。
 我輩この米の東部に来たり日本学生の景況を見聞するに、実もって言語同断のことと申すべし。下宿屋のカカアや料理店の奉公女までもレジーと呼びてこれを尊び、日本に要のなき、かつまたいくら学んでもとめどのつかざる、ラテン、ギリシアは少し深かりそうに学べども、日本のテニヲハさえ知らず、心にもあらぬ発心して洗礼を受け、こそこそ飲みながら、人の前では「アイ・ドント・ライク、イット・イズ・バッド」と言う。国より大切な黄白をとり出し、この国に散じながら国のためになることは一つも考えず、一にも西洋、二にも欧米と、ケトウジンの屎屁までも舐《ねぶ》るを喜んで、吐くを知らざるとは、心ざまの卑しきことハキダメより下に、胆の小さきこと?螟《しようめい》よりも微なり。(註にいわく、?螟は蚊の睫毛《まつげ》に巣くう虫なり。)
 惟《ただ》小生はすなわち然らず。もとより米の新建国にして万事整わざるを知る。米の学問のわが邦の学問に劣れるはなはだしきを知る。いかほどこの国で学び一、二の学位を得たりとて、日本人がこの後そのほらに服してくれぬを知る。かつまた、この学問なるものは三年や四年何の地に学びたりとて、天から鑑札が降るでもなく鬼神が学位をくれるでもなきことゆえ、到底無益のことなり。ニュートンは常に級の下等にあり、スペンセル氏も学位なし、とそろそろ我田へ引くでもないが、何にせよ学問は一生暇あればすなわち〔八字傍点〕と出かけるべきなり。いやな学問を無我無尽にやりとおして何の益かある。いわんやこの国学問、ドイツ、イギリス等に劣れること万々、わが日本にさえよほど下れるにおいてをや。(かの自余の輩は否、否と言うなるべし。)故に予は、この国の学問はみすててしまい、無用のラテン、グリーキは習わず、レジーなるものに腰も屈せず、また前へも往かず、白人ジャとて柔術でなげつけ、ただただ文明の基本たる実業の一件を見習いおり。
(78) 実業とは何ぞ、富を致すの術なり。余|以謂《おも》えらく、日本に生まれて風俗習慣一にも二にも西洋を慕い、それがために制せらるるに至るはまことに憐笑すべし。しかれども、その実業を慕うてこれを習うは少しも笑うべからず。司馬遷のいわく、富は人の情性、学ばずして共に欲するところなり、と。またいわく、「本富を上となし、末富これに次ぎ、姦富最も下なり。巌処の奇士の行いなく、しかも長《つね》に貧賤にして、好んで仁義を語るは、また羞ずるに足るなり」と。余|以為《おも》えらく、風俗習慣は各人種各源因を異にすれば、そのまま自俗を固守するも何ぞ妨げん。富は人の情性なれば、実業は万国各人種共に相学び相|資《たす》くるべきの業なり。何ぞ一方に偏して他を排するの迂を取るべけんや。実業は本富を成すの道なり。今、日本富人多し。しかして姦富末富ならず、その真に本富なる者ありや。これ固《まこと》に万国異種の人民に対して恥ずべきのことなり。その奇士の行いなくしてペロペロしゃべるものは比々みな然り。今この国にある日本学生はみなその??《きくげつ》に異ならざるなり。余これを憾《うら》んでみずから身を実業に委するなり。故に廉服朴飾、畦《あぜ》に出馬を駆り、この米国におりながら月にわずか十七、八ドルで送りおり。願わくは和歌山より東京、大阪に遊学するの人、粒々辛苦のこのかけ稲をにくやすずめがきてはぜる、とドド一にあることを念じ、自余の在米人を学ばずして、小生を習われんことを。そのうちに小生立派に鼻ひょこつかせ、一度は帰省仕るべく候。しかしそのころは、貴君白圭のごとき美質、玉樹のごとき麗姿、果たして存するや否、余はただ情好の堅冰《けんぴよう》より厚からんことを欲するのみ。
     ナイヤガラ瀑布記行
 九月三日朝、ランシンを出発、十一時ごろアナボア府に達す。有名なるミチガン州大学のある所にして、市街は湯浅駅ほどしかなけれども、人家はずいぶんたくさん散布せり。支那の魯のごとく学問一偏の地にて、人家は過半学生の下宿をして活計しおり。すなわち友人小倉松夫氏(因州人)を訪い、ともに大学に往き観るに、只今夏休み中ゆえ学問の景況は分からず。学校はずいぶん広けれども、とてもわが帝国大学には及ばず。ただし建築宏大の一事に至っては、われついにかれに膝を屈せざるを得ざるなり。すなわちわが帝国大学ほどどころか、幾増倍も大きな大厦十二、(79)三|有之《これあり》。各科おのおの厦を異にし、わが国の大学のごとく同一の厦中に異科のものを合わせ容るることなし。書籍庫は米国中に有名なるものにして、大いさわが帝国大学全厦に数倍とはちとほらなれど、何にせよ、よほど宏大なものなり。二階には美術館ありて、古銭、古記念銭、および肖像、画絵等を陳列し見物勝手なり。
 博物館はわりあいに小さく三層なり。下層には古生物を陳列す。アムモナイト(鸚※[母+鳥]螺《おうむがい》の異属の化石)三、四百種あり。またマストドン(旧世界大象)の下顎骨あり、偉大奇とすべし。中層には動物、植物を安置す。動物の数は、十一万個あり。内に就いて小生かつて聞きて始めて見しものは、クラミフォルスおよび飛狐猴なり。クラミフォルスは、ムグラモチほどの小獣にして、鼻より背は亀のごとく、ちと軟らかそうなり。腹および手足は甲なくして、絹白の毛これを蓋い、はなはだ可愛らしきものなり。また飛狐猴、フライング・レムールは、猿類の極下等、狐猴と蝙蝠《こうもり》のあいだに立てる獣にして、その形はレムールと蝙蝠とを折衷せるがごとく、はなはだ奇なり。前者はブラジルの産にして、後者はマダガスカルの産という。三層は人類学の品物にして、インジアンおよびアフリカ土人、太平洋諸島土人の所作品多く有之《これあり》。しかしてその幾千品は全く支那の製品にして、中には巧絶美を極めたるもの少なからず。これは今の校長、もと在北京公使たりし縁により、支那政府より寄付せるところなりという。見物の人余に向かい、この品は何に用うるやこの品はどんな功ありやなど問い候。
 それより小倉に別れ、杉山三郊をその寓に訪う。故友《こゆう》松平康国来たり、今日デトロイト府よりナイヤガラ・フォールまで平生十七ドルばかりのところ往復三ドルにてエクスカーション・カー出るとのことにつき、行かぬかと勧む。余ただちにこれに同意し、杉山、松平、および吉田齢吉とて、柳原で四百でまかって二度したとか、本所で惣嫁《そうか》に思い付かれたとか、きたないことばかり話すゆえ色仙と綽名《あだな》されたる大分県士族と、以上四時ごろ出立す。
 午後七時、汽車デトロイトに着す。この所は人口二十万ばかり、ミチガン州第一の都会、ことに電気燈をもって名あり。試みに大通に出歩すれば、街間どこもここも電気燈ならざるはなく、白昼のごときとの形容は、ここに至って(80)始めてその真なるを了せり。市のほか市街諸所に電気燈を掲ぐ。竿の長さ百七十五フィート、けだし米国中なきところという。サンフランシスコやチカゴよりはよほど奇麗なり。そこで飲む口ゆえ、ちょっと一人前五セントで十二盃やらかし、ほろよいでステイションに至り俟《ま》つに、エクスカーション・カー九時半に出発、しかしこのステイションにはあらずとのことゆえハッと驚き、四町ばかり走り、他の停車場に至り、乗車出発。余と杉山は運悪く、スモーキング・カーに乗り、夷戎雑糅、無礼極まり、こまりましたよ。夜中、船に車をのせカナダに着、それよりカナダ・ラインを奔る。余は一向知らず、明日眼さむれは寒気はなはだし。
 七時過ぎサスペンション・ブリッジに着、下車。この辺はなはだ人気悪く、中村といえる日本人(元老院の弘毅の子)は二時間に二十余ドル取られたとのことゆえ、みなみな要心し、よそめもふらず歩し、八時ごろナイヤガラ・フォール(地名なり)に着す。すなわちそこここ歩し、一人前二十五セントの料理店を見つけ、なおその上決して増銭を乞わぬかと念を四辺ばかりおした上、入りて食す。この屋の店前にこの辺の産なるカナダ豪猪《やまあらし》、麋《おおじか》、黒熊等を畜《か》い、物をやりて銭を乞うこと足万に異《かわ》らず。ただし熊と相撲《すまわ》れる豪傑なきを奈何《いかん》せん。それより橋を渡り、ゴート・アイランドに往く。弁才天山公園の一倍半くらいな島なり。これより滝の上流をみれば、一目究まりなく、水勢滾々所々に渦をなし、はなはだ恐るべし。景色はなはだ日光山中禅寺辺に似たり。菩提樹多し。それより橋を渡ればスリー・シスタース島あり。はなはだ小さき島にて流水滔々と轟き至り、岩上に坐するはあぶなき思いをするほどなり。この辺風景はなはだよし。瀑布は二つありて、合衆国方より落つるをアメリカン・フォールといい、カナダの方より落つるを(81)ホールス・ショー・フォールという。※[図有り]かくのごとく崖をとりまきおつるをもってなり。ホールス・ショーの方大なり。
 アメリカン・フォールの辺に一家あり。懸崖に螺旋梯堂を建て下崖に達したり。余と松平と一ドルずつ出し、衣服すっかりぬぎ、要用品は小函に入れ亭主にあずけ、鍵を首にかけ衣をきかえ、その上に雨衣の洋服を着し、カッパの履《くつ》をはき、緒にて結び、梯を下り、下崖に達し、図のごとく、棧橋を歩して瀑布の直下に至り、それより案内者に手をひかれ、瀑布の少しく裏をくぐるに、身体まるで水中にあるがごとく、眼鼻耳ともに水だらけに相成り、はなはだ困難なりしも、生《なま》なか引いては名にも関すると思い、むやみやたらに岩がけをあるき、やつと前の棧橋の上の方に戻るを得たり。案内者は、かかる場合にても巨眼を脹《は》り平気なり。余輩は少時間も開きていること成らざりし。後に思えば実に危うかりきというの外なし。もっとも白人にても、大抵は棧橋きりで帰る者多く、滝の下をくぐるものはなき旨申しおれり。案内者言う、余は日により二十五回くらいこの瀑布の下をくぐることあり、雨天の日ははなはだくぐりやすし、と。瀑布の下は風勢はなはだひどく、時にすべり落とされ、吹き飛ばされるものありという。がけのあいだゆえ水におぼれることは少なけれども、岩にてくだくること多しという。
 それより二、三ヵ所見物し、近傍産の礦物数十ほど購収し、午餐後インクラインド・エレヴェイトルを試む。これは図のごとき装置にて一町ばかりあるところをエレヴェイトルを斜めにして上下するなり。一方の列座の人上る間に一方の列座の人下り得るしかけ、はなはだ奇なり。それより二、三の名所見物し、夜八時半発汽車にのり帰宅仕り候。右のほか種々珍事有之候えども、この回はこれにて擱筆す。
              米国ミチガン州ランシン農学校寄宿
                          南方熊楠より
(82) 日本
   杉村広太郎様
  于時《ときに》明治二十年九月九日夜十二時認畢。すなわち故国の夜六時前、しかして去年今夜今ごろはちょうど中松と二人で紀さんを見舞いし時なり。        まずは早々以上
 
          4
 
 前日所賜の玉辞、君はすなわち草蕪の咳唾と見るも、僕はすなわち海鳥の嗽金と做《な》す。そもそも君の文才一たび発すれば、すなわち宋玉の賦しがたきところを陳《の》べ、相如が述べがたきところを綴る。感心|胯《また》くぐりと言わざるを得ず。僕またみずから料らず、今朝餐後なすことなきままに一時作るところあり。それ敵に射られて答えの矢を返さぬ足利氏の軍をば、本間資氏これを嘲る。みずから逡巡するもまた卑怯の至りなり。しからばすなわち余が鉄面を肯《あ》えて冒《おか》して君に似さんと欲するところのもの、また勇あるの所為ならずや。ただし、僕の不才不文は知れきったこと、加うるに匆卒の作との肩書をもってす。庶幾《こいねがわく》はそれ言い脱れ得んか。
  哀れ催す暮の鐘〔七字傍点〕 聞くたびいとどいとどいと くもりがちなるがらす窓
  うつる夕日の影もはや 消ゆるは西よ東には 三五の君とたたへたる
  こよひころなるつきじもの さえた光にあれ村雲の かかる浮世はなさけなや
  二年《ふたとせ》さきの春の日に 所も所ふる里の 花と見るのは彼のみと
  思ひを色につつみつつ その日その日をすぎ村〔三字傍点〕や 広い〔二字傍点〕友垣ゆふ中に
  君とゆききの数繁く 和歌の酒盛吹上の宴 形見の浦の船遊び
  塩屋の浜にねとまりも 君は知らずや知るならん 千々に砕きし物思ひ
(83)  あはれともみよますらをが 心つくしの行く末は たえぬ涙のアメリカに
  はや一とせの旅衣 きつつなれにしよぎの裡 結ぶ雁寝《かりね》の幾夜かも
  さめてくやしき夢にだに せめてつげたや胸の中 はかなくすごす仮枕
  眠る間もなくうつつかや 君の姿のうるはしさ そぞろ心の勇まれつ
  よはんとすればこはいかに 暁しらす鐘の音に 驚きさめて打ち見れば〔十八字傍点〕
  西に落ちたる夕日さへ 消えしはうそかかへりきて またも東の大ぞらに
  かがやく朝日をりもよく 朝霜とけて朝げしき その朝げしきながめつつ
    永いやうでもたつ日は早い早い月日がままならぬ
 自評にいわく、総篇君が詞中の文字多きは、これ余がもっとも苦心のところ。
 この詞ただちに貴君へ送るべきのところ、小生只今はなはだ素寒貧にて一銭だも吝《おし》まれ候間、止むを得ず羽山生への状中へ封入仕り候。同氏より伝達いたすべく候。小生目下冬寒の凌ぎに三ヵ月間蟄居の地を求め当地に潜竜を擬しおり申し候。時々御出翰下され候わば幸また甚矣。
 小生名宛は K.G.Minakata, P.O.Box 713,Ann Arbor,Michigan,U.S.A. 杉村生の才の美にしてドド一を作らざるはイト野暮天極まる。それチットこれを学びたまえ。大森先生より一向音信なきこと、定めて舌を拈《ひね》りて痛快の文談のみいたされ、森田節斎を自分の親か子のように自慢されおることならんか。貴君が英学を止めて漢学を賛せらるる御所見ちょっと承りたく候。小生もそれにつきいろいろ珍論あるが、あまりいろいろと論ずると、例のアメリカ製はまた別でゲンスとホラ視さるるもわたしゃはごございます(吉村源之助氏の口吻)ゆえ、今回は略す。小生正月中旬にはまた農業へ帰るゆえ、正月中旬以後御出しの書状は元のごとく、
   K.Minakata, State Agricultural College,Lansing, Mich.
 
(84) 明治二十年十一月十六日出
                 在米鈍夫  南方熊楠拝
 日本
   杉村広太郎君
          杉村広太郎氏宛 羽山蕃次郎君状中に封ず  みなかたくまぐす
 
          5
 
  ここは一《ひと》しお北風の烈しくて、落ちたる木の葉だに今は残り少なくなりぬ。空はれたれば鳴く雁さえもいとまれに、庭さきの松柏たれにあおあおとてか盛うらん。さても故郷のこと思わぬにあらねども、すみわびし身にしあれば、ここもまた一しおの都なりけりなどと、兼好めかして出でもせぬことをそこはかとなく、硯、否インクスタンドに打ち向かいて無理苦心最中、戸間にさし入る白き物、何かと思うて手に取り見れば、
  〔「南方熊楠住室より外望の図」および「南方杉村の書を取るところ」の二図あり。口絵参照〕
思う御方のこころざし、コラサノドッコイサで、貴君よりの手書一通ゆえ、喜ぶこと蘇武の匈奴《きようど》にありて漢人の書を得たるがごとく、黒田如水の拳隈城に(ウフン、下略)、一読いたし候ところ、筆鋒の鋭なるは中松の鎗まらのごとく、文柱の確たるは森下の茄まらに似たり、感心感心。小生ことも異状|無之《これなく》、日々|犂《すき》鍬《くわ》を操りて見習い罷り在り候段、御安心あれ。貴君の玉詞一章を投ぜられ、これまた感服には候えども、高尚壮麗、日光の陽明門と一汎、日暮らし見ても余輩には解せぬところ多く有之《これあり》、これのみ難儀にて『土佐日記』でもとくと読んだ上またまた一読仕りたく候。それよりか、頃日小生昔年のことども思いつづけ、月明らかに霜疎なる夜、腰方《こしかた》行末、何となく思いつづけて読みたるドド一、チチントンシャン、トトトトトン、チチトン、テトチットシャン、ハ、コラ。
(85)     和歌浦
  いつもいつとてきはわかうらの春の心の面白さ
     藤白嶺
  春は一きは秋あかぬそら波にあゆか夕日影
     ○
  すいなおまへにまちかけられてあけてささばやびんの口
     高野瑞皐伝を読む
  春にさけがけさく梅の花をしやつまれて香を残す
     仏人ドラフォッス氏美少年猫を招ける画に題す
  永い日なたにねんねこだいたおまへのねすがた見せてたべ
     ナイヤガラ瀑布
  音にのみこれまできいたがたきよ今も音にのみ今ぞきく
   付言。ナイヤガラとはこんな大滝は世界に二つとナイヤガラなんという洒落かと思いのほか、右は雷声という語の由、また三十マイルス聞こゆる由なり。
     加太浦(十九年夏七月二十六日加太浦より乗舸、苫島に遊ぶ、舸中二※[巒の山が女]あり、【佐竹利光】)
  かた〔二字傍点〕《・(加太)》らふひまさへはや夏の日も落ちて恨〔傍点〕《・(浦)》みの夢二つ          チテシャツシャツシャントントッテン
と、わずか二十六文字の間に千万無量寿如来ほどの深意をこめたるは感心ならずや。
 小生竜陽主義のことのみかくと御叱り、然りといえども、人|毎《つね》に一つのくせはあるものを、われにはゆるせしきしまの道。小生はこのしきしまといえるを、美少年を下にしきしまと心得おることに御座候。いやしくも姿容不   彪なら
 
        (86)ばすなわち止まん。貌の美、君のごときありながら、人に懸想さるるを拒むは如何《いかん》。人物、木石にあらず。発して情となり、現じて慾となる。人を恋い人に慕わるるも、また人生史上の一大乗ならずや。僕は到底この主義を廃する能わず。
 和歌山倶楽部の儀につき御尋ね、小生只今同会に関係なきのみか、都合有之弟をも退会いたさせ有之。しかし、右は角谷、野尻、吉田、木下、川瀬、中松、津田兄弟、浅井、佐野と小生として立てたものゆえ、今に創立員の名目は免るべからず。よって一言を左に呈し、解戯《かいぎ》に答う。
 第一、和歌山倶楽部の幹事は、言わずと知れた会員これを投票にて選び、多数に当たりしものを択ぶことなり。すなわち、第一回、木下友三郎・澤田安麿、第二回、木下友三郎・津田安麿、第三回、宮井鑑・中西唯一郎、第四回、木下友三郎・浅井宗恵、第五回、角谷大三郎・中松盛雄、第六回、木下友三郎・川瀬喜太郎、第七回、中松盛雄・澤田藤麿に候。何も中松より川瀬に譲りたるにも、川瀬みずから中松の任を襲いたるにもあらず。これらのことは会に入ればすぐさまわかるなり。また入会せずとも規則書を読めば分かるなり。故に、川瀬が自分の名にて貴君を招きしは会員に対して少しも僭越にあらず。よくよくその任を尽したるものなり。見よ、かの川瀬は君と一熟一知あるものにあらず、しかれども帰省中、しばしば面目相ふれたるの懇情をもってわざわざ貴君を招きたるものなり。しかして会員に撰ばれ、会員一致の上幹事となりたるにより、幹事の名を冒し、幹事の任を尽して貴君を会へ招くに何の不可あるべきか。これらのことは入会ならばすぐわかることなり。決して自分勝手内々の更迭などのことあらず。それらは君の管見、河伯大水を見ざりしときの見なり。
 第二、倶楽部はたれにても集会するものなり。しかし、乞丐や癩病人、会費も出せぬ貧人などは如何《いかが》か。しかし、それさえ入るべき情実ありと会員の多数が見るならば允《ゆる》すこともあらん。只今にては紀州出身およびこれに縁故ある人々(官吏、新聞屋、書生、武人)ことごとく集まる所なりと考えらる。
(87) 第三、倶楽部はよりあうて酒をのみ、清談にまれ、討論にまれ、あほだらきょうにまれ、剣舞、ステテコ、カッポレレまで思い思いにやってさわぐなり。やるまいと思えば会へ出ぬがとくなり。何にしろ酒のみて相知りあうが目的なり。また相知りあわずとも、同県人とよりあうがすなわち目的なり。また飲んで散れ散れにては一向烏合のようとあれど、規則もあれ、会員も定まり、会員の過半は毎会出席するところをもって考うれば、烏合にも御座なしと考えらる。『荘子』のいわゆる火は滅す、しかれども火は存すというやつにて、この会も毎日つづけて開くものにあらず、しかれども年に三回ずつつづけてひらくものゆえ、すなわちこの会は存するものなり。決して滅したり、生じたり、定まりなきものにあらず。
 これを要するに倶楽部は同県人集会するなり。その目的は取りも直さず集会するが目的なり。集会した上は思い思いのことをなすべし。ただし多人の妨げになるようなことは断りなり。何も別にむつかしき、へちまなことのあるわけにあらずかし。よって右ちょっと申し上げ候。委細のことは小生知らず、浅井か中松に聞くべし。まずは右早々以上。
                  米国ミチガン農学校
                       南方熊楠
 日本東京
   杉村広太郎氏へ
 
(88)喜多幅武三郎宛
 
          1
 
 『五雑俎』と申す支那の四角な書物にいわく、古人は猥《みだ》りに寒喧《かんけん》の書を作らず、と。拙者もその古人を見習うてか、昨年以来は大いに御無沙汰、まことに相済み申さず。実はこのこと日夜気がかりにて、貴君東京へ御出でなられたるやに承り候後は、東京とても広いこと、上野辺か浅草か京橋か芝辺かと、浦里が時さんを恋い案ずるごとくに罷りあり候。貴君もまた小生今に浪々の身とて、「江戸ながさき国々へ」と稲川の女房書として御心配下され候ことと存じ候。
 閑話休題、小生ことこの度とほうとてつもなきを思い立ち、まず当フロリダ州から、スペイン領キュバ島およびメキシコ、またことによれば(一名、銭の都合で)ハイチ島、サン・ドミンゴ共和国まで、旅行といえば、なにか武田信玄の子分にでもなって城塁などの見分にでも往くようだが、全く持病の疳積にて、日本の学者、口ばかり達者で足が動かぬを笑い、みずから突先して隠花植物を探索することに御座候て、顕微鏡二台、書籍若干、ピストル一挺提帯罷り在り、その他捕虫器械も備えおり候。虫類は三、四千、隠花植物は二千ばかり集める心組みにて、この辺はあまり欧米人の探索とどかぬ所ゆえ、多少の新発見もこれあるべしと存じ候。記行はやがて『時事新報』へ出すべく候間、御覧下されたく候。黒人のみの所にて、白人とてもスペイン人のみ多く、人情風俗も大いにかわり、旅舎徒然のほど(89)御察し下されたく候。
 将《はた》また写真一枚、この地にて取り候もの先日弟へ差し出し、弟より羽山氏を経て貴兄に呈上すべきよう計り置き候間、何とぞ御受領の上、貴君身辺に昼夜御置き下されたく候。
 明日当地出発、いよいよ西インドに渡航仕り候。幸いなることには、小生スペイン語ちょっとやらかし、また顔貌は少しもたがわず候ゆえ、大いに助かり申し候。右旅行見事に相すみ候後は、北カロリナ州のブラック・マウンチンと申す高山に登り、地衣類採集、それより尻に帆かけてニューヨークより英京ロンドンに渡航仕り候。英京にては投書、著述等いたし、またことによれば社会党の書記などに相成り糊口いたすべき心組みに御座候。渡英の後は、またまた手書差し上げ申すべき間、貴兄よりも毎度珍文御送り下されたく願い奉り候.近年日本の事物一として小生の気に入らず、よってかくのごとく御座候。
 右写真は五年めにてわずかにとり候もの、家族の外、中松、吉田永、谷友、野尻貞一、羽山蕃、東義太郎および貴兄の七氏を限り差し上げ候ものに御座候。小生今に貴兄を常住思いおる段、これにて御すもじ下されたく候。明治十九年の日記帳今に身にそえ罷り在り候を孤燈に対し見候にも、貴君年来御厚懇の一事、忘れがたく候。小生貴君と始めて相識り候和歌山中学校開業の二日ばかり前、おのおの受験中、中井秀弥氏、貴兄、小生三人、怪物しばいをなせしこと有之《これあり》候。その時よりのことに候て、はや十三年の永いことに御座候。十年故人|稀《まれ》なりと申す世の中には、うれしきことに存じ候。
 右中井氏小生渡米の前十数日、一度小川町にて面会仕り候。その後承り候えば大阪へ行かれ候由。この人も小生ことのほか懇交にて、十三年の春相つれて荒浜に蟹取りに罷り越し候こと、今に記臆あるがごとく覚え候。貴君御面会も有之候わば、小生今に平安の赴き御伝声願い奉り候。中松盛氏にも御面会の節はよろしく申し上げ下されたく候。和歌山市をはなれて、小生の知友にて一番古きは貴君に御座候。小生こと身の幸ありて帰国するを得ば、何とぞ(90)見捨てぬように願い奉り供。年を経るに随っては、旧交の人も追い追い心に覚えずながら疎く相成り行き候。小生ことは今に気も若く、飯もたくさん食い候。この段は御安心下されたく候。木梨先生へも折にふれよろしく願い奉り候。これはまた本とうの万里の孤客に候まま、出立前の繁忙をも打ち忘れ、ちょっと一筆啓上仕り候。なお御多祥のほど祈り上げ奉り候。
 明治二十四年八月十三日夜
                米国フロリダ州ジャクソンヴィル
                           南方熊楠拝
 日本東京
   喜多幅武三郎君 坐右
 
 
          2
 
 定めて新紙にて御承知に及ばるるならんが、当市中一昨夜より今に黒人と白人のあいだに合戦起こり、合衆国陸兵隊出張。一昨夜は白人三名負傷、昨夜は銃撃五回に及び候。戦場は小生の住所より十五、六町|有之《これあり》候。黒人およそ千人、白人三百人、民兵百人、軍隊五百人(とも三百人とも申す)。小生は今夜合戦見物に趣くつもりにて、唯今鉄炮(口《くち》鉄炮とも)用意最中に候。
 
(91)羽山蕃次郎宛
 
          1
 
 拝啓仕り候。その後ちょっと御無沙汰。(貴状中井氏方に拘留、小生手に入らず、渡英の上拝誦のはず。)小生は万事整頓、渡英せんと存じおるうち、ア府に書籍預け置けるミッセス・チーヴェルと申す婦人、大病にて六人医師立ち会い、切断術を施せる等の大争動中、荷造りするわけにも往かずとのことで、今一週二週、看病人の次第をまたざるを得ず、実に困りおり候。しかし、そのうちには荷作り出来べく、その打ち合せすみたれば、今月中には何分出立したしと存じおり候。「静かなる時は山のごとく、急なる時は風のごとき」を欲する小生のことゆえ、この地出立後少しも足をためず、ただちに渡欧のはずに候。
 さて、本日喜多幅先生へついであるにつき、この状差し上げ候が、本年春中フリステル氏の生理書二および三の巻(終りまで)二冊書留にて三好子爵宛差し上げおき候が、右は御落掌ありしことにや、ちょっと伺い上げ候。亡兄君の交誼により、一念貴君御成立のほどを願うて差し上げ候ものなれども、ずいぶん苦しきうちに拵え出だし候物ゆえ、失われては小生の遺憾少なからず。ただ小生志念届きしや否、知らんがため、ちょっと伺い申し上げ候。中松君は農商務省へ出頭され候趣き、同君は無比の才子の上、心性剛直なるところもあれば、早晩大いにあらわるることと頼もしく存じ候。小生も今年になりて一滴も口に入れず、性行ははなはだよろしく相成り候えども、身体ははなはだ衰え、一時は渡英を止め、帰国せんかとも存じたることに有之《これあり》候。しかし、相替わらず、不敵なる人物とて支那人のカスリをとりて活計罷り在り候ことに御座候。
(92) 高野礼太郎と申す英雄、前月二十六日帰国せり。この人に小生より立て替えたる金子|有之《これあり》、父弟へ聞こゆることを好まず候て、右金子は出来次第羽山氏へ返しくれ候様頼みおき候つき、もし同人より返金有之候わば、事情は小生より申し弁ずべき旨にて、ただ貴君これを帰朝の人より、南方より頼まれたりとて、受けたる赴きにて、ひとまず、舎弟常楠へ御返付下されたく候。右金子は小生舎弟より受けし金には無之《これなく》、実に辛苦して自分こしらえしものに有之候を、高野帰国の節、はなはだ難渋と申し越し候ゆえ、毎度舎弟より書籍を送らるることも苦しくて、まずそれに依托して国へもち行きもらいし理窟に御座候。
 先日藻および地衣のこと長々と御頼み申し上げ候が、なおついでに御心がけ下されたく候は菌類なり。
 これはいろいろと種類|夥《おお》く、英国などにてもおよそ三、四千種も有之候由。
 まず第一は Phycomycetes と申し、(1)のごとく、白またはその他の色の糸のようなものにて、腐敗せる物は何へでも生じ候。こいつはその付著せるものをかきとり、紙につつみて乾《ほ》してよし。(黴《かび》なり。)
 第二は Ustilagineae これは植物の花の諸部、また穀類の粒の内に生じ、(2)のごとく、ナンバンキビなどの粒おかしな風に変じて膨れるはこれなり。これもそのままかわかし、紙につつみてよし。
 第三は Pyrenomycetes と申し、(3)のごとく、粒のようなものが、多く草木の皮また葉の上につく。これもそのまま剥ぎとり乾してよし。(地衣と別ちがたきもの多し。)
 第四は Cleist-Ascomycetes これは大別して二つあり。(一)は(5)のごとく、草木の葉の上に黒点を抹せるごとくにつく。(3)とあまり分かちがたし。これもそのまま乾してよし。(二)は(6)のごとく、円毬形にて疣《いぼ》のようなものあり、なきもあり。地下に樹根に付いて生ず。これもそのまま乾して紙に包みてよし。(Tuberと申し(英語truffle,仏語truffe)、欧州にては一っかどの御馳走なり。)
 第五は Discomycetes と申し、(7)のごとく乞食椀のごときものにて、台あるもなきもあり。樹下の土上、落葉、池辺(93)の朽木、古壁上、馬糞等の上に生ず。(あまり新しきホコホコした糞上に生ぜず。採集するにあまりきたなきことなし。)また、(8)のごとき風のもあり。(7)はそのままかわかし、(8)の大なるやつは、これを中より縦截して二となし、紙にはさみ、ちょっと圧して乾かすべし。
 第六は Æcidiomycetes と申し、(9)のごとく葉上また茎上(草の)に群生し、形※[楕円の図有り]かくのごとく、黒色または朱色なり。これもそのまま乾してよし。
 第七は Hymenomycetes これははなはだ種類多きものなるが、(10)図を見るべし。(イ)、(ロ)は Clavaria と申し、ホウキタケ等と申し、棒また枝珊瑚のごとく、黄・赤・白等の色あり。(ハ)は Tremellineae と申し、樹枝、木板上の腐れるに付生し、色多くは赤く、不規則の円形にて、トコロテンのごとくベロベロせるものなり。以上はそのまま乾してよし。 (ニ)は、ズベベッタリ木の上に付生し、たとえば獣の皮を木の上にはりつけしごとし。これもそのまま。ただし、その付生せる木の皮をもなるべくかきとるを要す。Thelephoreae と申す。(ホ)は、日本で茅蕈《こうたけ》など申す類、裏に刺あり、鬼のあごのごとし、これもそのまま。(ヘ)はマンネンタケ、サルノコシカケなど申し、裏に孔あり、海綿などのごとし、これもそのまま。Polypoleae と申す。(ト)は Agaricineae これは Hymenomycetes 中もっとも多きものにて、およそ四千種もある由なるが、裏にいずれも(94)かくのごとく※[図有り]鰭《ひれ》様の膜あり(松蕈、ハツタケ等のごとし)。その肉質にして大なるものはなかなか保存むつかしく、ややもすれば腐敗し、また腐敗しなくっても乾枯の後、学問上役に立たぬこと多ければ、大にして肉質なるやつはこれを略し、ただその堅くして草のごとく、またゴムのごときやつは手でさわれば堅さで別るゆえ、これを採り、かくのごとく※[図有り]両分し(中央より縦截するなり)、紙にはさみ乾し、おくられたし。ただし肉質のやつも、小さきやつはそのままちょっと紙にて圧し、おくられたし。ただし、多分変色するゆえ、ちょっと何色ということを(幹は何色、傘は何色)記載ありたし。(ト)のごときは、大にして肉質。(チ)は、大なれども革質。(リ)(ヌ)は小なるゆえ、肉質にても保存すべし。
 第八は Gasteromycetes これは菌類中最高度に進めるものなるが、数はあまり多からず。(愚の記臆には、英国に六十余、独国に百ばかり、仏には七十五種、日本では、小生の見聞せるもの十種に及ばずといえども、日本は寒熱小距離を去りて大いに異なる所なれば、必ず百内外はあるべし。)これは保存なかなか難きものもありて、多くは欧州外の産ゆえ、今に十分しらべのつかぬもの多し。故に小生はなはだこれを望み、たとい不完全なりとも、何分その標品を得たく思う。
 (一)。図(1)のごときは Melanogaster すなわち松露にして、樹下の地中、また土上に生ず。毬形にして、多くは白色ズベなり。第四の(二)に似たれども、第四の(二)は多くは疣をかぶる、これは疣なし。しかし、二つとも数寸の径なるより数分の小さきに至る。土を掘ったとき、根に気つけられたらば、多少は見当たらん。(二)は Lycoperdon これは馬勃(ケムリタケ)の類にして、多くは多少毬形、外面に疣を帯び、色多く赭褐、柄あるも柄なきもあり、土上、砂原、草藪中に生ず。この類の難物に Geaster と申すあり、ツチガキと申す。藤白坂でとりしことあり、日光でも取り、麻布でもとれり。図(2)のごとく章魚のごとき状にて、跳ねた様子(q)のごときは実に面白し。(1)も(2)も、老後は潰してたたくときはおびただしく灰色の煙を生ず。(三)は Podaxon これは熱帯の白蟻の大なる巣の上に生ずるものにて、欧州に(95)てわずかに仏国の南端に生じ、小生はフロリダで一種を得たれども、あまり多からぬもので、小生は実物を多く見ず。日本には少なしと存ず。
 (四)は Nidularia これは小さきもので図(3)のごとくチャダイゴケと申し、茶碗のような風で口聞き、中にヘソの垢のようなもの有之候。馬糞、朽木辺の土上等に群生す。日本でも四、五種あるべし。(五)は、菌中の□□たるものにて、Phalloideae 紀州辺でキツネノチンボなど申す。図(4)のごとくいろいろ奇異の形のもの多きが、多くはかの白木屋丈八刀の裁判の落語、作は何だ、作は越前ものでござります、役人 フフン、袋は、丈 袋は越中でござります、役人 あおがいは、丈 紫でございます、役 鮫は、丈 イボでございます、役 ツバは、丈 ツバは金でござります、役 フフンなかなかのワザモノと見える、して鋒《きつさき》は、丈 (小声にて早口に)カリ、役 何だ、丈 カリカリカリと、いえるごとき一物の形にて、先にこってりとヌラヌラしたるものを付け、臭気はなはだしく、すでに(R)図のごときは、小生これをこの地に得て図をとらんとするに、臭気にむせて近づき得ず、大いに迷惑せり。すべて一夜の中に勃起し、半日にして枯れてしまう。しかして臭気をかぎ、蠅、群至し食らうゆえ、爛腐することも早し。しかし何分望ましき品ゆえ、貴君見当たり次第、(96)棹はにぎらず、カリには決して触れず(触るるときは粘液手につき、臭気はなれがたし)、こっそりと金の下を掘りおこし、然るのち棹と金をはなし、サオの中へ(多くは空なり)綿をそろそろとつきこみ、また金の内へも綿を入れ、然るのち紙を隔て火であぶれば、腐臭ある液は乾き、これに生ぜる蠅蛆は死す。然るのち紙にはさみ、圧し下されたく候。しかして(t)のごとく、その近傍をたずぬれば、いまだ発生せざる幼者を見当つるべし。これははなはだ入用なれば、そのまま掘りとり、火で炙り殺し、圧さずに乾すべし。(u)はコムソウダケと申し、はなはだ奇なるものなり。京都に生ぜしことありという。これも前述のごとく、帽の中と棹の中に綿を入れ、少しく圧すべし。およそこの Gasteromycetes ははなはだ保存むつかしきゆえ、欧州外のものはあまり知れおらず、小生はなはだ日本のものを知りたきゆえ、少々御難儀なれど、なにとぞ御贈り下されたく候。
 また(三)の類に Torrubia と申し、医書に冬虫夏草と申し、日本名はノムシダケ、『本草綱目』には蝉花とあり、多分白き色の筆状また毬形に茎あり、柔なれども細微なる堅き黒点をかぶれり。これを掘りみるに、必ず虫(ネキリ虫のような)の死せるやつより生じ、時として蜂などにも生ずという。小生はただ一品をフロリダにて得たるのみ。和歌山の畑屋敷と申す地に毎秋この物を生ずる地ありしと古老に聞く、また田辺に夥《おお》くありという。(喜多幅氏に必ず語り下されたく候。喜多幅氏にも菌のこと頼みしが、この必要のことは念失せり。)これまた御心がけ下されたく候。
 実に御勉学に余暇なき折柄、大丈夫の身として、かかる陰茎状の鄙物を、採集を、自分のみかは梓弓人をも引きつれて御頼み申し上ぐるは、定めて御一笑に付せられんならんが、一度学問に身を入れてはまた出ずること能わず、年来寒雪の中に臥し、炎熱の日に曝されて、すきありき候ことゆえ、何分よろしく願い上げ奉り候。決してわざわざ走りまわりたればとてあるものにあらず。走りまわらねばなお見当たらぬものゆえ、幾久しく心にかけ、時々野外に御遊びの折柄、御心がけ、精々御精査下されたく候。しかし、右の陰茎状のやつ等はずいぶん多からぬものなれども、(97)その他松茸様、サルノコシカケ様|乃至《ないし》葉や木皮上に黒点を呈し生ずるやつは実に夥《おお》く、死木、生木、馬糞、藁繩等には必ず多少あるものに候。この学の大祖として聞こえたる陰茎《ペニス》に縁あるフリース Fries とて、合戦最中に口をスウィッデン国の碩儒は、八歳とかの時より菌類を採り始め、終《つい》に大著述をやらかせしが、この人同国にて一ファールロング平方(日本の二丁平方未満)の地にて二千種近く菌類を得しという。たとえば蕁麻《いらくさ》一種の草におよそ四十余種の菌付生すと申す。今夏御帰省の御事ならば愚弟|許《もと》に立ち寄り、Persoon(仏国の菌学大家、右のフリースと共にこの学の元祖なり)‘Mycologia Europaea’と申し、三冊画入り極彩色にて、愚人が見たらチンボコとオマンコの図譜かと思うほどの愚本(はなはだ希《まれ》なる本なり、小生十五ドルを費やせり。日本では小生の外に所持せる者、けだしあるまじと存ず)有之《これあり》、一覧下されたく候。また小生アナバにある時、寒室にて飢えを忍んで(茂木、三好二人とも苦心せしを躬《みずから》見たり)、一々彩色画を添えし、美なる菌彙あり。御一覧あるべし。
 また貴君も医学の下ごしらえと、ちょっと生物学も御学習のこと、定めて御知りならんが、右菌類に似たもので Mycetozoa と申す一群、およそ三百種ばかりあり。これははなはだけしからぬものにて、(1)のごとく幼時は水中を動きまわり、トンボがえりなどし、追い追いは相集まりて(2)のごとく痰《たん》のようなものとなり、アミーバのごとくうごきありき、物にあえばただちにこれを食らう。然るのち、それぞれ好き好きにかたまり、(3)より(7)に至るごとくいろいろの菌状のものとなり、いずれもたたくときは煙を生ず。これは砕けやすくして保存全きことは望むべからず。しかし不完全でもよし。紙につつみ保存下されたく候。(7)ごときは、饅頭のごとき形にてはなはだ大なるものあり。Fries 以下この類を菌なりと思い、(98)植物中に入れしが、近来は全く動物なることという説、たしかなるがごとし。(レイ・ランケストルの説には、最古の世の生物はこのようのものなるべしという。)
 亡兄君は気質は小生の狂暴不敵なるに似ずといえども、かかることには嗜好はなはだ深く、熊楠年来所交やや多しといえども、いまだ亡兄君のごときを見ず。御存生のことならばいろいろ巨細《こさい》に申し上げ、特別に採集方頼みたきも、今は幽顕路を隔てて致し方なく、只今貴君もまた亡兄君のごとき嗜好を有せらるる人となりたりや否を明らかにせず。しかし、何分小生の不幸にもかかることに身を入れ、もはや脱し出ずるに路なきを愍れみ、できるだけ、御助力あらんことを望み申し上げ候。小生はかかるもの多く所持(菌・地衣のごときは、おそらく日本中もっとも多く有せる人に劣るべからず)すれば、御好きならばいくらでもあるだけ送るべし。菌はやはり所生の地と付生せる主人公(何木、何の草等)の名および時日を記し、贈り下されたく候。またこの外に蘚(moss)と申し、(1)図のごとく、Hepaticae と申し(苔類)、(2)(3)図のごときもの、これまたはなはだ多きものにて、すでに若干は贈中にあり、また心掛け御採集下されたく候。すべて蘚苔、藻、地衣、菌および Mycetozoa 等はもっとも微細なるもの、俗眼には同一と見えながら、実は異なるもの多く候えば、同じように見えても異所に生じ(一は一の木、一は他の木、一は土の上、一は沙の上等)候ものは、ことごとく集め下されたく候。
 (小生、貴君に取りかかるときに用ゆべき虫眼鏡送りたきも、落としてしまい、財政も渡英前とてはなはだ迫逼なれば、急におくること能わず。しかし、その内送るべければ、何とぞよろしく頼み上げ候。)
 実に三十近き身をもって、大きなまらも持ちながら、かかることをくだくだくだしく申し上ぐるも不埒至極なるごとくなれども、ことごとく学問上必要のことゆえ申し上げ候なり。
(99) もはや手も弱りたれば擱筆とせん。中松、園田、小松、田中竜?、寺村等諸氏へよろしく、小生より手紙一々上ぐることも成らず、不断昔日交遊の面白かりしことを、雨のふる夜も降らぬ夜も、風の吹く夜も吹かぬ夜も思いつづくる旨、御話し下されたく候。山口沢之助という人、今年東京にある由。これは有本七、長尾駿、山本義、中駒四氏と小生、今日に存する最古の友に候(六歳の時より友たり)。ことによろしく申し述べ下されたく候。
 まだ余白もあれば、前日友人高野礼太郎(洋人娼妓を妻とし、いろいろ外聞ありて帰国を得ず、ようやく前月帰国せし人)貞節なる妻と別れ候段、左に申し上げ候。外人に見せ下さるまじく、同人は小生の一の子分にて、法学博士、哲学に通じ、大胆にて熊楠とちがい威風容儀に富み、言辞に嫺《かん》になかなかの英雄なり、少々アバタあり。
  私のととさんかかさんは、たった一〔傍点〕人《・(ひとり)》の子ぢゃものと、二〔傍点〕人《・(ふたり)》の中にめでまはし、なんで行く末川竹の、うきめを三〔傍点〕《・(み)》んと四〔傍点〕《・(し)》らんせう、冥途で聞いたら五〔傍点〕《・(ご)》立腹、御道理とこそ六〔傍点〕《・(む)》理もない、七〔傍点〕《・(なな)》つ浪速のよしあしも、まだ知らぬ間におしでるや、八〔傍点〕《・(や)》がて押し出るお職とて、引く手あまたの夕だに、九〔傍点〕《・(ここの)》つとめはゆるしゃせぬ、十〔傍点〕《・(とを)》して過ごした主への操《・二上り》。
    舌でころがし、なさけではめて、主のあばたは恋の淵
  初夜から末を思ひ寝の、寝られぬ廓の百〔傍点〕羽掻《・(ももはがき)》、トレドで婚姻せし時も、千〔傍点〕代もと言ふたその口で、万〔傍点〕更《・(まんざら)》うそはいはれまい、億〔傍点〕に《・(御国)》思ひはさることながら、私を捨てて行く兆〔傍点〕《・(てう)》は、何たることと恨みかこちつ聞こゆる鐘、いかなる夢を結ぶらんと、ベッドの隅の蜘蛛《ささがに》も、糸を収めて思案顔、二人は無言で鴛《をし》と鴦《をし》、幾夜重ねて赤沼の、真菰《まこも》隠れの一つよぎ、楽しみ尽きて哀しみの、くると悟りもその中に、アメリカ風に夫の名、川といふ字を(子あれば川なれど子なきゆえ一画を省きて)リーの字に、かはす枕のをはりとは、(なぞのとくるを落つるといふ)落つる涙の玉くしげ、明けてくやしき今朝《けさ》の空、空恐ろしき因果ぞと、思へば浮世は儘《まま》ならぬ、いとしい親のあればこそ、妻に別れて孝と鳴く、軒の烏も※[庵点]苦労《・(黒)》なり〔いと〜傍点〕。
(100) 友人岡野栄太郎氏(只今チカゴにて演舌、聴衆一席に一千五百名もありという無双の才子兼難物なり)、昔年深く思いこみし女の、年をへて、福田友作にちぎりて同じ汽車で遊山に往きしと聞きて、むかし花山院の女御に寛資中納言が通いしに、一条道信中将が、「うれしさはいかばかりかは思ふらんうきは身にしむ心地こそすれ」と詠みたることも思い出だされ、水調子でドドクッテ岡野に贈る、いわく、
  二人ならんだ湖水の鯉を心をし鹿《か》がひとり鳴く
は、コリャコリャコリャと三味線を収むると同時に筆を止め候。
 六月二十一日朝、四時記畢
                       南方熊楠より
   羽山蕃次郎様
 
(101)三好太郎宛
 
 明治二十五年六月二十一日午後十一時認 托友人喜多幅武三郎氏 回送五銭切手なき故なり
                     在米  南方熊楠拝
 東京麹町区飯田町三好重臣様 御内
   三好太郎様
 用の長文、ひまに御一読下されたく候。
 朋友に屡《しばしば》すればこれ疏《うと》んぜらるとす。御承知なれど、目下荷物は作りおわり、日々ア府荷物の成否を待つうち、チーバー夫人病気にて六人の扁鵲、倉公、劉禹錫、陶弘景、朱丹渓、華佗、孫思?など申す名医立ち会い切断術を施せり(案ずるに女のことなれば、さね腫れしならん)とのことで、近所大騒動、そこへ押し寄せ荷物を作ることもならず。また卒業前多忙のことで、小生は何ごともせず日々吉報を俟ちおり候ことにて、御存知の顕微鏡も一番肝心なレンズを破《わ》ってしまい、ようやく毎朝菌を集むるのみ、他は何もせずただ荷物の出来るを俟ちおり候次第。もとより古今無双の勉強家ゆえ、筆を操らねば病を生ずることにて、ちょっと一書を差し上げ候。
 さてマーシャルの経済書御約束申せしが、右等の次第にて米国にて有する金子はほとんど底をたたき、渡英の費に充つべきだけは使わぬようにアルコホル漬けと致し所持することゆえ、この上一銭も出《で》ず、加うるに小沢の書物ことごとく書肆へ没収となり候て、エキレクロペジア一部さらに買わざるを得ず等のことゆえ、右の書は渡英の上、然る(102)べく金銭をかたり取り、さっそく二冊でも三冊でも取りそろえ、きっと八月中に貴手に落つるよう致すべく、ずいぶんうその方ときたら、斎藤文治
  これは天明ごろの京都人、ある親王家とかの家臣の由にて、うその名人なり。事は馬琴の『羇旅浸録』に見えたり。いわく、摂州高槻に里見伊助(芝居にする)が刃傷のことあり。京都人相伝えていわく、七十余人も一人に傷つけられしと、大そうなり、と。文治ぬからぬ顔にていわく、実はわれ親戚の者高槻に住するが、飛脚して告げていわく、三、四人傷つけられしなり、と。世人|以為《おも》えらく、文治は初めて本当のことをいえり、と。しかして事落着するに及び聞き糺せば、やはり七十余人の方正実のことなり。極月末に人に語りていわく、正月の初めに世人事始めをする、われはうそのつき初めをすべし、と。世人かの者いかなる大ぼらを吹くならんかと、元日早早往き訪えば、妻まじめな顔していわく、文治は今朝より他出して家にあらず、と。しかるに、表の方へまわってみれば、文治平気でおるゆえ、今日こそ汝はうその種尽きたるに当惑して引っこみしならんといえば、文治大いに笑いていわく、?《なんじ》らはうそを語るに足らず、それ昨日約束した通り今日汝らと会してうそのつき初めをすれば、語るところうそなれども、前日の約束はうそにならず。よって?らをしてわが家に来たり不在と聞きて去らしむ、これ一つのうそなり。すでに不在かと思うて去れば実は家内にあり、これうその上のうそなり、と。馬琴『蝴蝶物語』にこのことを趣向して、うそつき弥二郎の伝あり。
にもおとらざれども、貴君には前年恩義厚かりつれば、決してうそは申し上げず候。しかして吉岡書店(京橋区)発売の『古今説林』と申す書|有之《これあり》、全部四円もするゆえ、ちと御相談ものなるが、旧子分の輩へわりつけ候間、貴君も何とぞ初めの方四冊ばかり御肩持ち下されたく候。もっとも英国住処相分かり候上にて送り下さるべし。川田君も前月帰朝、定めて今ごろはいろいろ御対話の御事と存じ候。一の子分も同時帰朝候間、いろいろ談《はなし》も有之べく候。しかし師匠すら油断ならぬ高弟なれば、決してその言うところ一々御信用あるべからず、半分に聞いてもなお余りあれば、(103)よろしく※[平方根の数式]二乗根に開きて御聞き取りありたく候。
 小生書籍標品等英国へ持ち行くものはなはだ重大にして、費用にこまり入り候。しかし棄つることもならず、ならぬ工面して持ち行き候。当地は熱きこと連雀町の火事を万世橋で見るごとく、小生は日々裸かに御座候。岡野氏より毎度書信有之、貴君へ別けてよろしくとのことゆえ、ちょっと申し上げ候。彼も杉山の評などは如何《いかが》にや、はなはだ弁舌よろしく、近日出板物に自像を入れ、演説後に押しつけ売るとのことで、写真も売るつもりにや、百ドル出して千枚調えたりと申し越し候。近ごろ鬚髯をのばしたそうだから、あの顔ではこんにゃく玉のごとくならんと察し入り候。
 小生一書を送り、大いに同人をほめ立てしに、同人、書を贈りていわく、一体君は頭が平生の人より多く記臆力に富み、物に中《あた》って判断鋭く、かつ和漢洋に兼ね渉れることゆえ、願わくは共に耶蘇教のために尽力し内外に馳名したし、と。小生また答えていわく、全態君は人をちょろまかすことが上手で、女に対して至って信切に、かつ無敵の弁舌あり。物に中ってわろびれること少なく、かつ物に中っていずれが人の気に向くか否を看破すること鋭ければ、願わくはますます弁舌を磨して、日本にかかる偉大の人あり、これ日本の岡野ならず、岡野の日本なり、といわせたし、これ同居中、三好も常に望みおれるところなり、と。むかし孔融が禰衡を賛して顔回いまだ死なず、禰衡が孔融を揚げて孔子復活と、互いに味噌を揚げ合いLもかくやと覚えられ候。しかして小生より右著書の参考として、例の長文をおよそこの大いさの紙三十ページばかり認《したた》め贈れり。そのうち日本文を訳して外人に示す気点の論あり。文句の体のところ抜記し、三好君の御劉覧に供す。けだし馬の糞もこれを拾えば田圃の肥《こやし》になり、また小生などは毎度その中より無数の菌種を発見して学問を益することあり。魚の骨も犬の腹に合い、越中ふんどしの端《はし》も小指の痍《きず》を包むに余りあり。貴君一読せば少々は御役に立つこともあらん。
 一国の文体を詞も意も兼ねて失わずに訳出することは、すべて多少の難件あり。仏文を英訳し、ラチン、グリークを近代の語に訳し、乃至《ないし》もっとも縁の近きドイツ文を英訳するすら、時としてほとんど望むべからざるの嘆あり、と(104)大家がいうならずや。同語系統の梵文を、英・仏に独に訳するに何度も何度も仕直せしにて、その言の虚しからざるを知るべし。しかして日本文章のごときは、語種も語統も異なる上、許多《あまた》のむつかしき来歴由緒あるインド、漢土、歴朝の故事を雑え、「たわやめのそでふきかへすあすか風」の万葉詞より、「常磐の山の岩つつじ」の古今体から、「名にしおはばかしてくれかし小金原後になす野のあては見えねど」の狂歌体、それはまた次巻を見て知りねかしの馬琴風、わちきあもうの為永体より、あすはどの手で投げてやるの甚句体、同じどんがらがんでも外のどんがらがんと違うどんがらがんに至るまで、いやはや千差万別の沿革種異を経しものなれば、これを訳出して詞の妙なると意の曲なるを示すことは、今夜子の刻までに為若君の首を取りて見するよりも難きことというべし。しかれども、虎と見て岩に立つ矢もありといえば、まず志のあらん限り悉《つく》すときは、また成らぬことはなきものとやたらにはりこんで、成るは天、成すは人、ところが成すことの成らぬが金と智恵のなきゆえとあきらめ、もとより cork oak と同じく、上は皮は剥がれてもまだ下に厚いのがありやすというほど、顔の皮の厚き男ゆえ、ちょっと口を廻し見んに、なるほど日本の文章歌咏は沿革もあり種別もあるが、その文体ということは大抵分かっておる。どのようにもこじつけて可なりだが、今はまず川辺御杖氏の『歌袋』は大分古臭い書にして、歌の体のみを論じたるなれども、文も歌も曲調こそかわれ、語の体は同じものなれば、それに従いて追一記しおわり、さて一々いかにして訳出して可なるやの一点を論ぜんに、
 一には序《のばえ》(これらの漢字は熊楠の手製なり。川辺氏の意にかなわぬこともありぬべし)。これは思うままのことを思うままの順序でのべくるにて、七の八の六《むつ》かしきことはなし。『古今集』、「袖ひぢて結びし水のこほれるを春たつけふの風やとくらん」。寒中の氷を春風が吹いて溶くということにて、わけも聞こえやすし。されば戦国の時、織田二家に合戦ありしとき、和睦を悦ぶの使い平手中務がこの歌をくりかえせしに、そのころ無学無我の武士もあきれ歎ぜり、と室直清の随筆に見えたり。
(105)  一条天皇の后定子が崩ずるとき、「もろともに契りしことを忘れずば恋に涙の色ぞこひしき」。俗語で言えば、毎晩毎晩やったことをお前が忘れずば、まあそのことを思い出すおりに、どんな涙をこぼすだろうと思うてあたいは死にますよ、ということなり。浄瑠璃でも「母に別れしをさなごか父よとよべばふりかえり」と武石が語り、一同いよいよと感ぜしも、結句はわけが分かりやすきゆえなり。もっとも語の序排にて巧拙はあるが、これを訳するに文法と整文術さえしっかりやれば、それで十分なり。
 一には托《よせる》。詞の縁にすがりてつづくるなり。『古今集』、「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来ん」。いなばの山、まつとし聞かば、共に詞の緑にすがれり。同、「芳野川岩きり通し行く水の早くぞ人を思ひそめてし」。早くということを形容せんため、芳野川云々といえるにて、まず一種の metaphor なり。これに川辺氏は二種の varieties を付せり。第一種、掛《かくる》。語の半分を取り分け入るるなり。はしたなしということを身ははし鷹の、知らぬというを白雲白波などいうこと多し。『後拾遺』、「かへるさをまち心見よかくながらよもたたにては山科《やましな》の里」。ここにては止まんという意を山科に掛けたるなり。浄瑠璃、拙著「恋娘砕け島台」、妻の思いを白鷺〔二字傍点〕のそれなくに物あわれ鴫立つ小沢〔五字傍点〕正太郎。
 第二種、副《そえる》。それにもこれにも意の通うなり。『拾遺集』、仲文が能宣|許《もと》へ車の氈《かも》を借りにやりしに仮《カ》さぬとて恨みし時、「鹿を指して馬といふ人ありければかもをもをしと思ふなるべし」。趙高の故事に拠して、氈《かも》鴨《かも》同音、惜《おし》鴛鴦《おし》同音なるを相そえたるなり。狂歌などに尤《いと》多し。木室卯雲が直方《さねかた》氏の欠所を得んと願いしに聴かれずして日野《ひの》小左衝門に与えられしを憤れるとき、「けなげなりなるも尤《もつと》もさねかたのないた所へひのこざゑもん」。さね方といえる姓名におまんこのさね〔二字傍点〕を日野小左衛門をへのこ〔三字傍点〕と添え通わせるなり。
 浄瑠璃、石部草津で、大石や小石拾うてわが夫《つま》と撫でつさすりつ、とある大石は大石姓をそえたるにて、婿の力(106)弥をちからにて、とあるもちからに主税を添えたるなり。同、本蔵切腹の場に、かかる家来は持ちながら浅きたくみの塩谷殿。浅きたくみとあるは、当時を憚りて出雲が暗に塩谷判官とは仮作の名、笑は浅野内匠なることを添えたるなり。(ただし、この一事は少し変格、反って第一種に入るべし。)
 三には対《むかえ》。白いといわんとて黒きもの、長いといわんとて短きものを対偶せしむるなり。取りも直さず、西洋のエピグラムなり。
  「古のならの都の八重桜今日九重ににほひぬるかな」。川辺氏はこの var.一種ありとて equivocatiOn ねがい(願)という体を挙げたれども、これは一に属すべきものにて、別に解を要せず。阿古屋浄瑠璃の、鶴の脛長しといえどもこれを断たばうれいなん、鴨の脛短しといえどもこれを続《つ》がばかなしみなんは、『荘子』の文そのままなれど、やはり体は三に属す。『忠臣太平記』、矢間の妹は今盛りの娼女、妻は惣嫁《そうか》なるを対して、「鴨川やいちの小川と言ひながら流れは同じ二人づれ」。
四には拠《まもり》。故事・本説に拠りて作れるなり。『大和物語』に、渟沼《ちぬ》の二男子女を争いて生田川に投身して往生せることに拠りて、通経が、「恋佗びぬちぬの丈夫《ますらを》ならなくに生田の川に身をやなげまじ」。浄瑠璃、唐土にては晋の予譲、わが朝にては大星の由良之助、また『大功記』にたとえ樊?の勇ありともわれまた張良の謀を運らし、石屋の弥陀六が(『兜軍記』)荘子は六歳にして、云々。拙作「恋娘」に、たとい張巡妾を殺して饑えを救いし操に恥ずるとも、邦輔衣類十四点を四ドルにまげてせしめし謀にならい、一日一度は日本飯を食い申さん、のごとし。
 五には擬《かさね》。先人の文、詩歌の詞文に意を擬して作るなり。熊楠いわく、やや異なれる意を寓するなりという方よろし。業平が、「駿河なる宇津の山路のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」とあるに擬して、草庵、「夢にだに見えずといかで告げやらん宇津の山路はあふ人もなし」(これを川辺氏は四の体とせり。誤りならん)。また、「ながらへてまた越えんとは思ひきや命なりけり佐夜の中山」と、西行が一とせあずまにいた時に蟹にちんぽこ挟ま(107)れながら作りしを、四十七士の一人原惣右衛門元衣が擬して、若いときほれた縁でもあるにや、小野寺十内の妻おたんに贈れる歌、「ながらへば命ともなれ後の世に越ゆるやなごり佐夜の中山」。いずれも原作の詞そのままとりて相似て、しかして別なる意を述べたることはなはだ面白《めんぱく》なり。浄瑠璃、お園が愁言の始めに、かかれとてしも烏羽玉《うばたま》の、世の味きなさ身一つに、イーイーイーイーとなくところは、鴨菊太夫が僧になりて不遇を歎ずるとて、「父母《たらちね》はかかれとてしもうば玉の、わがくろかみは撫でずやありけむ」といえる原作により、世のあじきなさの世と烏羽玉に縁ある夜と同音なるを添えたるなり。また、かの十九世紀に有名なる南方の傑作、小沢のさわり、「都を跡に大森や、恋の品川女郎衆へいずれ変わらぬ川竹に身を沈め淵六郷の、輪廻と聞くもおそろしく、たとい妾は死ぬるとも、主の命は万年屋、冥途で枕川崎の、大師を近く伏し拝み、つるみときく名ものぞましや。唐字《からじ》読んだるあなたさえ苦労伊呂波の仮名川に、跡の程が谷思いやり、くるる思案の戸塚宿、わらじの紐をとくとくと、解くに解かれぬ藤沢や、云々」とありしは実に傑作で、世人の知らぬ妙なり。なぜと言ってみねえな、一の子分高野これを評していわく、この文全体『朝顔日記』宿屋の段と、お江戸日本橋や七つ立ちコラサノサノサーといえる唄とを体とし取れり、と。さすがは一の子分慧眼のほど感心なり。しかして唐字よんだるの句は、唐字よんだるあなたでさえも、仮名の伊呂波にゃ苦労する、といえるよしこのに擬し、跡の程が谷は、全く親分の精練に出で、戸という字のあるにちなみて、わらじの紐をとくとくと解くに解かれぬ藤沢や、という句は全く『時頼記』の浄瑠璃をそのままうつせるなり。まず自慢はこれで止めて、さていわく、
以上諸体を分けて五種《スペシイス》と二|亜種《パリエチース》となしたるが、これを訳する如何《いかん》というに、一は、思うことをそのまま述べたるゆえ、レトリックとグランマーを心得ればそれで可なり。三は、西洋のエピグラムと同一なれば、これ実は一の変体に過ぎず、何のこともなし。ただ東西事物の異なりて、高きこと吉原の天水桶のごとく低きこと品川の総雪隠のごと(108)し(風来山人の文)など、洋人に分からぬことはよきほどに新釈して西洋にあるものを用いて可なり。四は、故事・本説を明らかにせざれば、何のことやら文は分かりても妙が分からぬゆえ、ちょっと註を入れて古事・本説を解すべし。ただし、そこが訳者のきてんにて、素盞嗚尊《すさのおのみこと》が簸川上《ひのかわかみ》に八頭の大蛇を誅せしことを、ギリシアの神が九頭大蛇 Hydra を殺せしことにそのままかえ、「神代紀」の神などの故事にギリシアなどの神の故事に同似のものあれば、なるべく名を換え用いて可なり。しかるときは別に註を要せず、また分かりやすし。五は、別に本歌原文をのせずとも意は通ずべし。しかし、なるべく本歌をちょっと註すれば、日本人の文を作るに古えを採り今になぞらえることをつとめ苦しみしほども分かり、二、三分は受け合いて国威を横浜より外へ伸ばすことと知らる。
 まず、以上はそれでよし。さて、こまったやつは二なり。その亜種第一、第二は一層こまる。二は、まず西洋の metaphor なり。ただし、ちとむつかしい。何となれば、西洋のメタフォールは、goldenhair といえばきわめて美麗なる黄色の髪をあらわし、golden shit(そんな語はないが)といえばきわめて黄色鮮かなる大便ということをあらわす。また小さき男をリリップシアンとつづけるごとき、ガリバルスの島巡りに拠りし等少々は格がきまっておるが、日本にはその格のきまっておることエジプトの画法そこのけにて、桜をまつということはあれど、紅葉をまつということはなく、川風寒み千鳥なくということはあれど、海面暖かなるに千鳥なくということはなき工合に、このことのごときも、ちょっと喧嘩するにも、いやこいつあ、いそのかみ古いことをいうやつだ、そんなことをしずのおだまきくりかえしたって、那古曽《なこそ》の関のなんで聞くものか、出羽の国なるうやむや言わずに去れ、というようなとはちと大そうだが、まず万事かようでしごくむつかしい。しかして歌などには、もっともこのことをぎんみすることが届いておる。
 しかして、その亜種二つもまたその用所きわめて多く、日本の妙文という妙文(漢文およびこれによれる近代文は外なり。この論は漢文等を少しも論ぜしにはなし)には、必ず多くこれを使いておることなり。基俊いわく(『更科記』)、歌をよむに歌をよみ出だすは不可なり。まず題に付きて縁の字を求めよ。縁の字なくば縁の詞を求めよ。縁の字なく(109)て歌を作らんは、材木なきに家を建てんと企つるごとし。縁の字とは秀句なり、物を兼ぬるなり。浪のよる眼も合わぬ、といえば夜の意に寄るの意を兼ねたり。縁の詞とは、秀句にあらでただ事の便りあるなり。沖津波立ちこそまされ、などいうごとし、と。今考うるに、縁の詞とは取りも直さず二なり、縁の字とはその亜種二つなり。されば中古以来の歌に、二および二の亜種二つを入れざるもの少なし。(先人多くこれを言う。)風来の『矢口渡』の浄瑠璃を作るや、東作これを見ていわく、かくのごとくなれば、義岑、御台もろともに今の六郷通りを来るように聞こえ、矢口の渡しにかからず、しかるときはこの曲の題名に乖《そむ》くべし、と。風来すなわち筆を握りて句を成すとしていわく、六郷は近き世よりの渡しにてその水上《みなかみ》は弓と弦《つる》、矢口の渡しにさしかかり、と。東作大いに感心せしとぞ。案ずるに、かくのごとき言い訳は、西洋文にてはいかなる妙筆を用うるも Rokugo was not then;it is why they came across the Yaguchi と書くの外なきに、日本文の妙、風来の筆において特にここに大いに挙がりしものは外なし、矢口といわんとて弓と弦をそえたる一事あるのみ。西洋人は、この秀句、縁の詞ということをパロノマシア(シャレ)と称し is the lowest sort of humor と申す。女に向かいて、汝は mail をとりに郵便局へ往くか、女いわく、へい妾は年ごろだから male をほしい、などというのみなり。別にむつかしくしくみたくっても、語種がアマルガマントで、日本のアグルチナントなるに異なれば、七?八倒しても日本ほどの秀句は出ぬなり。されば語種の総体よりいって、日本文章が西洋に及ばぬところありとても、秀句の一事においては日本の語種もっともこれに的当して特異の発達をせしものとみるときは、ある意味においては日本文の方はるかに西洋より進めりというべし。(進化上かかること多し。蟻蜂は虫類中最上の膜翅虫にしていばれども、虫類中もつとも下等の羅翅虫の中にも白蟻《タールミツト》ありて、他の群をはなれ蟻蜂に頡頏《きつこう》すべき智力を有せるにて知るべし。)毛唐人の言に蠱惑されて何のこともなく腰を抜かし小便たるるやつ、留学生みなこれなるが、はなはだかなしきことなり。しかして、この秀句、縁詞というものこそ、実に日本文章の英花を主として成しおることは、試みに有名なる俊基朝臣の東下りを左にのせてこれを分析すべし。(もっともこれは『太平(110)記』読みとて、そのむかし『平家物語』を語りしごとく、一種の調にて読みしものの由なれば、特有の調もあるならんが、どど一などのほか拙者は調のことを心得ぬゆえ、それは他日弁ぜん。)
  落花の雪に踏み迷ふ片野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て返る嵐の山の秋の暮、一夜を明かすほどだにも旅宿《たびね》となればものうきに、恩愛の契り浅からぬわが故郷《ふるさと》の妻子をば行衛も知らず思ひおき、年久しくもすみなれし九重《ここのへ》の帝都をば今を限りとかへりみて、思はぬ旅に出でたまふ心のうちぞあはれなる(以上一、もっともこの中にもいろいろ故事等あるべきも、そんなこと調べて居りては果なし)、うきをば留めぬ相坂《あふさか》の(五)、関の清水に袖ぬれて、末は山路を打出《うちで》の浜(二の var.一)、沖をはるかに見渡せば塩ならぬ海にこがれゆく(三および二の var.二)、身を浮船の浮沈み(二の var.一および二の本体)、駒もとどろと踏みならす(『平家物語』、重衡海道下り、勢多の唐はし駒も轟ろとふみならし、とあるを五)、勢多の長橋打ち渡り、行きかふ人に近江路《あふみぢ》や(二の var.一)、世のうねの野になく田鶴《たづ》も子を思ふかとあはれなり(五)、時雨もいたく守山の(二の var.一)、木の下露に袖ぬれて風に露ちる篠原《しのはら》や(二)、篠分くる道を過ぎ行けば鏡の山はありとても泪《なみだ》にくもりて見え分かず(『平家物語』を五)、物を思へば夜の間《ま》にも老曽《おいそ》の森の下草に(二のvar.一)、駒を止《とど》めて顧みる故郷《ふるさと》を雲や距つらん(五)、番馬《ばんば》、醒《さめ》が井《ゐ》、柏原、不破の関屋は荒れ果てて(『平家』を五)、なほもるものは秋の雨の、いつかわが身の尾張なる(美濃、尾張と二の var.二)、熱田の八剣《やつるぎ》伏しおがみ、潮干《しほひ》に今や鳴海潟《たるみがた》(二の var.一)、傾《かたぶ》く月に道見えて、明けぬくれぬと行く道の、末はいづくと遠江《とほたふみ》(二の var.一)、浜名の橋の夕暮に引く人もなき捨小舟《すてをぶね》(二)、沈みはてぬる身にしあれば、誰かあはれと夕暮の(二の var.一)、入相《いりあひ》なれば今はとて池田の宿《しゆく》に着き給ふ。元暦元年のころかとよ、重衡の中将が東夷のために捕はれてこの宿につき給ひしに、東路《あづまぢ》のはにふのこやのいぶせきに故《ふる》さといかに恋しかるらん、と長者の女《むすめ》が詠みたりし、その古への哀れまでも思ひ尽せぬ涙なり(四)、旅館の灯《ともしび》かすかにして鶏鳴暁を催せば(五)、匹馬《ひつば》風に嘶《いば》えて天竜河を打渡り、小夜の中山こえ行けば白雲路を埋(111)み来て、そことも知らぬ夕暮に家郷《かけい》の天《そら》を望みても(五)、むかし西行法師が命なりけりと詠じつつ二度《ふたたび》越えしあとまでもうらやましくぞ思はれける(四)、隙《ひま》行く駒の足はやみ(三国姜伯約の言を四)、日すでに亭午に近ければ餉《かれひ》進《まゐ》らするほどとて、輿を庭前に舁《か》き止《とど》む、轅《ながえ》を叩いて警固の武士を近づけ、宿の名を問ひ給ふに菊川と申すなりと答へければ、承久の合戦の時、院宣書きたりし咎によって光親の卿関東へ召し下されしが、この所にて誅せられし時、「昔は南陽県の菊水、下流を汲んで齢《よはひ》を延ぶ。今は東海道の菊河、西岸に宿って命を終《を》ふ」と書きたりし、遠き昔の筆の跡、今はわが身の上になり、あはれやいとどまさりけん、一首の歌を詠みて宿の柱にぞ書かれける(一、ただし、かの詩の一、二句は彭祖がことを四)、いにしへもかかるためしを菊川の(二の var.一)、同じ流れに身をや沈めん。
  大井川を過ぎ給へば都にありし名を聞きて、亀山殿の行幸の嵐山の花盛り、竜頭鷁首《りゆうとうげきしゆ》の舟にのり詩歌管弦の宴に侍《はんべ》りしことも、今は二度見ぬ夜の夢となりぬと思ひつづけ給ふ。島田、藤枝にかかりて岡辺の真葛《まくず》裏がれて物かなしき夕暮に(一)、宇都《うつ》の山辺を越え行けば蔦《つた》楓《かへで》いとしげりて道もなし(『伊勢物語』を五)、むかし業平の中将の住処《すみところ》を求むとて(はるかに上文重衡の中将の字対す、三)、東《あづま》の方へ下るとて、夢にも人に遇はぬなりけり、と詠みたりしも、かくやと思ひ知られたり(四)。清見潟《きよみがた》を過ぎ給へば都に帰る夢をさへ通さぬ波の関守に(五?)、いとど涙を催され向ふはいづこ三穂が崎(向ふはとみるといふ意を二の var.一)、興津《おきつ》、蒲原《かんばら》打ち過ぎて富士の高峰《たかね》を見給へば雪の中よりたつ煙《けぶり》、上なき思ひに比べつつ(五なるべし)、明くる霞に松見えて浮島が原を過ぎ行けば、塩干《しほひ》や浅き船浮きておりたつ田子の(二)みづからも、浮世をめぐる車がへし(二の var/二)竹の下道行き悩む、足柄山(二の var.一)の峠より、大磯小磯見下ろして袖にもなみだ小ゆるぎの(二)急ぐとしもはなけれども(『平家物語』、急がぬ旅とは思へども、とあるを五)、日数つもれば七月二十六日の暮ほどに鎌倉にこそ、ヘイ旦那おつきと、着き給ひけれ(一)。
(112) 講釈は今さら申すもくだなり。右の名文にて日本文の妙処は多分二および二の亜種一、二なるを見るべし。しかして二の本件は形容なれば、わけ分かりやすきようにせんこと、きわめて難からず。その亜種一と二に至りては実にむつかしく、ちょっと申さば、高野「大坪君は東京へ着くとすぐ京都へ帰るかね。中川「そうさ、東京から汽車で大津ぼ越〔四字傍点〕えて西京往きさ。しかし、あの人も権〔傍点〕妻を父が持っておるそうだから、帰ったつて六〔傍点〕なことはない。時にマッチ一つくれたまえ。高野「マッチたまえ、今あげます。中川「いやまち〔二字傍点〕遠《どお》だな。高野「まちまち〔四字傍点〕に小言をいうな、それ一本上げます。まち〔二字傍点〕がわずに受け取りたまえ。中川「こいつああ、マッチ〔三字傍点〕オブライジドだ。高野「高〔傍点〕野知れたものに礼〔傍点〕をそういわれては一本くらいでたろう〔三字傍点〕ものか。中川「へたなしゃれをぬかしあがって一番|泰次《・(たいじ)》〔二字傍点〕てしまおうかと思うが、こんなことから中川るくなるといけないからよすだ。といえるごとく、ずいぶん苦しんだしゃれなれども、中川・高野輩とはかわり、あとへあとへつづいて出る一種特別の妙あるものなり。しかしてこれを訳することの難きは、先文きわめてこれをいえるところのごとし。まず愚意には、韻字とアルリテーションのことを西洋文にてよく精細にしらべおき、句の上にも下にも、また中にもよきほどにおき、用い字もなるべく日本原文とあまり遠からぬ意を有する字を撰びて、これにつづけらる。字もまた然《しか》して、韻とアルリテーションいずれにても、また両方ともかなえばなお面白し。かかるものを宜しきところへちょいちょいと入るるより外あるまじ。もっともまだやって見ぬことゆえ果たして必ずできるや否は確言しがたけれども、自由自在をもって誇る西洋文のことなれば、必ず多少は
でき得べしと思う、云々。
 右は実に拙者自身の筆さえ、自意を明らかに悉《つく》し得ぬほどの難件なれども、あるいは御参考ともなるべく、また貴君御意もあるべければ、「三人行かば必ず棒組あり」の教えに従い、御覧に入れ候。決してあまり面白いものには御座なく候。
 松永貞徳が、日本の人の口の開《ひろ》さよ、といえる連歌に上を付けて、君が代とがの字を入れてよむ歌に。(これは歌(113)を自詠して書するににごりうたぬを、当時の出来星《できぼし》連中が、がとにごりを自歌に打ちて会へもち往きしを嘲りしことと熊楠は考う。)熊楠も三百年を距てて右の下句に上を添えていわく、プルターチとチのひびきあるクラシック。
 小生歯抜け康次郎と来ておるから口はきかず。(もっとも平人の五人前くらいはきくが、演舌などは思いもよらず。)追い追いは貧乏になること必定久吉ゆえ、なにか留めて敵にさとられぬような秘趣向で投書でもいたし、チース料を得たきがゆえに、景色、別嬪等の画で挿入に堪えたるもの御見当たりあらば、時々送られんことを望む。小生もまた何か安価でかさのあるものを見つけて代価を相場上げして差し上げ申すべく候なり。
 フロリダの植物百種やつと紙にはり川田氏に贈りしに、ちょうど川田氏立ったあとにて、書留の受取はチーバー大人なりし。あるいは川田氏へ廻送ありしこととも存ぜらる。おついでに一言はなし下されたく候。
 小生は日々夕方になると床机《しようぎ》のようなものに腰かけ店先に出で、近辺の黒人の餓鬼八、九人集めつかみ合いを命じ、勝ったものにジンジェル・スナップ一つ賜わることと定め、時々怪我人絶えず。近処|小言《こごと》はなはだし。人間とはいえじ、脚に腓《こむら》少なく、かつ手の長きこと驚くべきなどありて、まず猿のようなものなり。言語なども実に簡単なものに御座候。驚くべきは、十二歳(西洋の)ばかりの女子はことごとく、恋ぞつもりて淵となるらんと独り寝のうき枕をかこちそめ、九時ごろに暗街をありくと八脚両頭の怪物を見ることしばしばなり。
 明治二十五年六月二十一日夜
                     南方熊楠拝
   三好太郎殿
 
 三好氏行
 この紙一葉 skipt. あとで分かりしゆえ白紙で差し上ぐるも如何《いかが》と存じ、すなわちむりにこじつけてちょっと認《したた》め(114)候。御存知のごとく小生菌類学はなはだ熱心につき、何とぞ御庭園内また近街の立木、その他、麻布目黒辺、上野谷中あたり、飛んで江の島めぐり、日光道中、箱根熱海と、そう毎々遊ぶばかりもなるまじきが、もしそんなことあり候節は、何とぞ旧日の面に免じ少時間を菌芝《きんし》採集に中《あ》て、多少御見出だしの上、一々引きとらえ、乾《ま》し枯らしめ、送り下されたく候。その法は御存知なれば今は申し上げず。木の葉、枝等に付いた小さきやつは、すべてそのまま乾《ほ》し、紙につつみ、大きなやつは紙間で軽く圧してちょっとはりつけ、いずれも、どこで生捕してという地名と年月日を委細記しつけ、郵便にて(決して先払い、不足税等でなく)差し出し下されたし。返礼には貴君特有の菌《きのこ》、六十の席破《むしろやぶ》りまで大丈夫、腎虚陰萎悪事災難一切|禳《はら》うよう祈?、丹誠|挺《ぬき》んずべきこと。
 しかしてもつとも望ましきは、菌中最も上等の Gasteromycetes 腹子菌と申し、図のごとく、達磨《だるま》の頭上に鬼のあごを栽え付けたようなやつ、また犬のきんだまに胡麻をかけたような、また章魚《たこ》の頭から残る煙が癪の種といげが立てるやつ、および章魚のとんぼがえりのような、また一つ目小僧が持ち出す茶碗の中に臍の垢ときているやつ、最後に、つばは何だ、金《きん》でござります、鞘《さや》は、筒でござります、きっさきは、カリカリカリと、三島の得意の落語のようなやつ、これが菌中最上等のものなるが、形状一物に酷似せる上、雁《カリ》は赤くまた紫等に光り、臭き粘液をかぶれり。これは蠅がその臭気にひかれ色彩に驚きてやって来たり、粘液を吸うと同時に、蠅の眼の玉に菌の種子が着き、遠方へ配達されて播殖するという名法なり。かかるやつ御見当たり(キツネノチンボと京大阪で申す)の時は、金《きん》の下よりこっそり掘り出し、さおと金を別ち、綿をつめこみ火にあて(紙を隔てて灸《あぶ》る)、粘液を乾《かわ》かせ、しかる後ちょっと軽圧して乾《ほ》し、紙にはりつけ、なるべく右一物の画を添え、別につばは何だというごとく問答体に彩色のもよう、一件の(115)寸法を記しそえ御送付下されたく候。何分よろしく頼み上げ奉り候。
 かくのごときもの、薄き衣をまとい、頭には深笠ときて、本蔵か彦山権現のお園のごとし。故にコムソウタケと、拙者に前《さきがけ》して菌学を日本に主張せし紀州人坂本浩然は命名せり。米国および中米、南米にもこの類ありという。もしかかるもの生じ候わば、多少臭気には閉口なるべきが、必ず御保存置き下されたく候。画さえあれば標品は不完全にてもはなはだ珍重仕るべく候。(全体この一類の菌は欧州外のもの多く、欧州に存せる標品多くは一種一品にて研究足らぬもの多し。)小生かつて貴寓に寄食中、十一月末アナバの河畔にて、かの犬の一件のようなを、朽木の中に二茎見出でしが、あまり臭いゆえ、なにか包むものをもち来たるべしと考え立ち帰り、一日たって行き見れば思う御ちんぼこは折れてあとかたもなくなりたりし。まことに残念限りなく思う。その他、木の葉、草の茎などに少しでもあやしきもの付きおれば、一々取りおき、御送り下されたく候。もっとも土の上にはえたるか、何の木、何の草に付きたるということも、なるべく記載を乞う。
 昨今は何にもしょうことなしにて、はなはだこまりおり候。日本人でもあれば、はなはだ面白い処なれど一人もなし。四辺は黒人のみにて実に一日千秋退窟の至りに御座候。
 すべて傘のある菌類※[図有り]かくのごときやつは、中央より縦截して、※[図有り]かくのごとく二つとなし、紙間に圧して可なり。その他は、一切ちょっと圧してそのままにてよろしく、また前に図せる章魚《たこ》、達磨《だるま》輩は、圧するときは鳥部野《とりべの》の煙と潰れてしまうゆえ、圧せずにそのまま紙に包み、また一件様のやつはすべて綿をもって充?して可なり。右は決して急ぐことに御座なく、然るべき機会あり候時は御探し下されたく候。
 右余白あるにつきちょっと書き添え申し上げ候。
                           熊楠拝
(116) 三好太郎様
  麻布には、荷物の儀、高野氏よりきびしくかけ合うことに致し候。
  なお、追い追い烈暑、御幼人よろしく御輔養のほど望み奉り候なり。
 以後は状面に K.Minakateous とやってくれたまえ。
付白。かの九段坂上|貂《てん》の尾を揃うるとて銭を頬にふくみ、ヒューヒュヒュヒュヒュヒュヒュ、ヒュヒュヒュヒュヒュヒュ、ヒューウウウウウ、ピーピーキピッとやらかせし一種の大厄介物源さんは、今に御見当たりに候や。また千束村のねぐその鶴さんの一連(伊勢おんどおよびかっぽれの連中なり)によろしく。毎々下谷から霊厳島まで、一文も払わずについてまわりし坊主頭の人といえば、彼も承知なり。
 
(117)中松盛雄宛
 
   中松盛雄君 虎皮下に呈す
        托喜多幅武三郎氏回致
                   南方熊楠拝呈
                       
 「浅きや見しは夢かととふほどに驚かずにもなりぬべきかな」。むかしは赤き血汐に君それと知れと生死を約せし少年の写真を送り越したるを見るに、恋せば痩せぬべし、恋せずも太りにけり。おのれは痛く痩せ細りて、むかしのままの蜘蛛状なるに、彼ははなはだ肥え太りぬ。一字をおのれが腕守りにして一字をわれに、これなんだんに浮気を止むるためなんめり、必ず朝夕見て下んせと、贈りくれたる最愛の人さえ、すでにかくのごとくあれば、東京に遊び和歌山に蟄せしとき最親友なりし中松氏に忘られたるも宜《むべ》なり。然りといえども、児の書はこれ今日の涙ということもあれば、務めて一書を呈するになん。もしなお顧盻《こけい》の情あらば、今日の紅顔は誰を第一とするや、近来いかにして面白くやっておるか、雁の脚でも梟《ふくろう》の眼玉にでも付して贈りたまえ。
 閑話休題、小生もすでに六年近く毛唐人の間に雑居し、昨年来は何とも知れぬスペイン種、黒人種の中に住することにて、さまざまのうき艱苦、これを一々申し上げんもくだくだしければ、貴君よろしく駒沢を気取りて岩代氏そりゃ許しておやりなさい、と許し下さるべく候。
(118) さて当地ではやや久しく支那公の棒組になり、八百屋を営業中なるが、小西行長と南方熊楠は商賈の子にして商事に向かぬ人物なりと『易』の繋辞にも見えたることゆえ、かつはうぬぼれながら、上天文地理より中方術風角遁甲、下飛潜動植蟻蠅セッチンムシに至るまでの智識を兼ねたるこの博識をもって、空しくフロリダ泥抄の中に理もるも千歳後まで歴史上の一大遺憾ともなるべく存じ、短くて今五日中、長くて二週間に渡英いたし候。
 何がさて、英国は米国と事かわり、各国奇物、インドよりエジプトよりペルシアよりアラビアよりここ舞台と馳せ集まりて、あるいは千年前の古いことを担ぎ出し、あるいは途方もなき珍事を目論《もくろ》むもの多き所ゆえ、小生もなにか一趣向考え、たとえばロンドン橋上を大きなやつに鈴をつけて渡つてでも、天夫子を木鐸たらしむと感嘆せしめんと存じおり候。まず第一に商買敵《しようばいがたき》と恐れ候は、近来日本の学問大いに勃興いたし、飯島・箕作二君の論は『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』の引用書目に載り、石川君はワイズマンの遺伝説に対して、秀吉に清正、家康に忠勝、関君に浅井法印、南方に池田ともいうべき大補助を与え、ドクトル北里の名は米国僻陋の地の医黌《いこう》にさえ轟き渡り、後藤惣太君の実験はローヤル・ソサエチーで大喝采、関谷君の地震計はオクスフォールドで売り出され、田中君の音楽改良には蚊も感じて翼を鼓し、高峰氏の酒造新法には飲めるなあの声、市井に喧し。
 科学すでにかくのごとくなれば、文学もまたこれに伴うものとみえ、あるいは英国には哲学者二、三人しかなしと演説する人あれば、これ首陀《しゆだ》と釈種を一視せんがために、金色の頭髪を惜しげもなく丸坊主に剃りこわしたる大雄氏の教えを継ぐ人にして、僧位を世襲にせんとする大改革家あり。ギリシアがたまりの古学家が、真神の存在はクライストの御世話に及ばず、ソクラテス、プラトーすでにこれを吹聴せりと説くに傚《なら》いしものか、また heterogenesis で生ぜしものか、男女同格は『易』にぐっすりと説文ある。ラテン奉拝家が進化論の元締めはスペンセルにあらずしてルクレチウスにあるというに似せて、孔子どころか文武周公はや社会の変遷を元亨利貞《げんこうりてい》で説いたとは、毛唐人も開いた口が塞がらず、飯粒も喉から鼻の孔へ天上すべし。なんでも石鹸の泡と学問は吹かねば光を発せず、と。問嘗《つねづね》無数の(119)珍論を捏造し、自分ばかりは、南方はそれ聖人か、なんかと味噌を揚げおり候が、一々述べたところが自分一身を離れて少しも面白からぬは承知ゆえ、ちょっとその一、二を御瀏覽にぶらさげ候。もっとも御気に入り候わば続々浜の真砂の数知れず、筆の命毛、書くに縁あるせんずりの淫水とともに、つづかん限りは必ず報せ告ぐべく候。
 一、人間の陰物、他の動物に比して前方に付けることは、全く上帝の予図に出ずること。Wallace いわく、進化論をもって到底解釈するを得べからざる件三あり。何ぞや。物体に活力を生出せること一、生物に心性を生出せること一、動物に霊智を生ぜること一なりとて、デカーツの物力論などを駁し、夥《おお》く論ぜるが、一向拙者には分かり申さず。これはこれ、よほど以前のことなり。しかして一昨々年、その大著 Darwinism 出ずるに及び、氏は特に篇末に人間発達論一篇を加え、力を尽して前説を主張していわく、人間の四肢等は構造上より見るに、他の哺乳動物に比してはなはだ不完全、頼み少なきものなり。背部のごときはもっとも毛を要すること、いかなる蛮人たりとも皮などにてこれを被うを常とするにて知るべし。しかるに、人間には背中に毛なし。また脳量ごとき、なるほど他の動物に比して、大はすなわち大なりといえども、その隔たりさして非常ならぬに、智能の発達せること、月と鼈《すつぽん》ときているは、実に不可思議なり。これをもってこれを考うるに、宇宙さらに人間より大なる物ありて、あらかじめ今日人世発達の日あるを期し、ことさらにその発達を奪わすべきため、わざとこれをして四肢不全に、背の毛乏しからしめ、しかして、別に脳の大きさを加うることはよい加減にして、握り屁をすかしこむごとき方法をもって、一種無形無体の霊智を吹き込みたるに相違なし。あにいわずや、天の「この人を生ずるや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を餓えしめ、その身を空乏《むなし》からしめ」、行い、その為《な》すところに戻《もと》り、「心を動かし性に忍び、その能《よ》くせざりしところを増益せしむる所以《ゆえん》なり。人は恒《つね》に過《あやま》ちて、しかる後に能《よ》く」いわば悪かつたと改む、心に困《くる》しみ慮に衡《はか》って、しかる後に作《おこ》る、「色に徴《あらわ》れ声に発して、しかる後に喩《さと》る」、入りてはすなわち法家払士《ほうかひつし》なく、出でてはすなわち敵国外患なきものは、「国|恒《つね》に亡ぶ」とテニソンの詩などを陽気に引いてうまくやってのけたり。
(120) 耶蘇坊主一どこの説の出ずるに遇うて、何ぞ喜悦せざらん。あたかもこれ中松の寝処へ春木が這いこんだときのごとく、日ごろ恋しと思うお方が四ツ足で御来降の上、拇指と食指を鈍角にして菊の園の芳香馥郁たるを満開せしめてくれるとは、手の舞い足の踏む所を知らず。ワレス氏は、えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、えーらいやっちゃと、天満の沙持ちを興行せり。しかるに、いかなる嗚呼《おこ》の者なりけん、かかる好事を妬む岡焼きもありと見えて、仏国にそれをうつものあり。いわく、按ずるに Wallace 氏なにか鼻薬を啗《くら》わされて宗教の御肩をかつぐものならん、と。ここにおいて氏大いに怒り、昨年新刊の essay に、執念《しゆうね》くも註を入れてこのことを論じていわく、ヘン、嗚呼、かつて Wallace 中松に如《し》かずと思えるが、わがいわゆる一大主宰とは、教義のような糸瓜《へちま》なことに関するにあらず。天神天使、矜羯羅《こんがら》童子などの名は、今日はや骨董店的なり。見ずや、世上自然淘汰行なわれてその法絶えず、無量劫のむかしより今に至りて、大は竜象鯨鯢より小は蟻螻蛄蚊蚋に至るまで、物として化せざるはなく品として変ぜざるはなからしむると同時に、別に人間がその法を自得せる人為淘汰というものありて、志賀の都の山桜は、やかたの娘八重垣姫のながめし八重にさき、その奈良の都の八重桜も、わずかの間に今日九重に香《にお》うに至り、「梅が香を桜の花ににほはせて柳の枝にさかせてしがな」とは成らぬことを望む譬喩なりしも、南方君の三ヵ月間のお仕込みに、柳の腰に桜色、髪のにおいは室中を、うめの花と発生せる平岩さんもあるにあらずや。されば自然淘汰の及ばぬところに人為淘汰あり、人為淘汰の及ばぬところに、さらにこれより大なる淘汰ありといったって、それがなんで、いけすかないんですよと、さらにくだくだしく音楽、算数等の智識は決して自然淘汰で生ずることにあらざるを極論せり。
 熊楠はこの説に感伏せず。英国のレイ・ランケストルなども熊楠と同様のようなり。しかし熊楠は弱を授け寡を救うをもって、留学生間に二代日新門辰五郎とまで号せられし?客、これ男の中の男一疋。されば、まず Wallace 氏の味方の少なきを愍《あわ》れみ、力を極めてこれを援けんに、いわく、麟も老ゆれば駑に劣り、車えびの芳ある上穴も、毛がはえてのちは蒜の臭ある下穴に如かず、と。Wallace 氏、さすがの老功ながら衣笠の義明、篠原の実盛少々ぼけたれ(121)ばにや、その論いまだ悉《つく》さざるところあり。何ぞや。熊楠はこの論に対して、実に鬼に金棒、赤飯に胡麻塩、少年のねた閨中に梅干の用意ともいうべき一大事を知りおれり。これを述べんに、テニソンの詩などは野暮なれば、いっそ二上りの浮いたやつで、どど一を引くべし。どど一に有之《これあり》、いわく、「世帯始めに二人の姿、写して嬉しやぬりだんす」と。夫婦歓喜して琴瑟相和し、チンチンカモにして一族治まるを祝せるなり。けだし一社会成りてしかる後に道徳存す。一社会の基は一族に因りて起こる。一族をひりつくるものは夫婦二人あるのみ。これをもって道徳の基因は夫婦の間の情愛に存することは、学者一人の異説を加うるものなし。もし異説を吐かんとするものは、必ずまず一度やって見たまえ、たまったものじゃない、と。そこは田島君が吉田永次郎先生を説ける論に譲りて、ここには述べず。
 さて、この夫婦が和ということは何の必用に因りて生じ、何の理由ありて成生するかと問うに、天帝に対して義務を果たさんためと言う者もあらん。前世の因縁を果たさんためというものもあらん。あるいは長いものを保全するには時々|鞘《さや》を掛くるを要するゆえ、と答うるもあらん。もしくは十六、七になれば、なんだか外円くして中央凹なるものが眼の先にちらつくゆえ、と答うる idealist もあらん。腰のあたりが痒《かゆ》くって股のあたりがぬれてたまらぬからという sensualist もあらん。いずれも一応聞くべしといえども、これらは結局の理屈にして聞くに堪えず。あるいは宗義、古語に迷える頑説、あるいはあまりに過激なる色狂論というべし。どど一に有之、いわく、「何を何して何してなにと、何でかためた起請文」と。これはこれサンフランシスコにありし日、ちょっと知人なりし飯村佐乎君の作なり。諸君よ諸君、この不成文にして、しかも成文よりも確固たる無字の起請文を夫婦の間に結べる何〔傍点〕というものは果たして何〔傍点〕でありますか。これくらいのことは各人これを a priori に訴えて可なり。どど一に有之、いわく、「夢でくどかれ現《うつつ》で解けてさめて悔《くや》しきひぢ枕」と。それ口説に、言辞の妙なるに心思の切なるを聞き、中心《ちゆうしん》相融和して実にうれしいよと感じたれば、それで思いはすむはずなるに、まだいかぬ〔三字傍点〕うちに悟《さ》めたりとて、枕をなげて悔むものは、たまたまもつて夫婦間の情愛の基礎は、実にうんすうんすの一汗にあるを見るべし。
(122) スペンセルは明らかに言えり、美を受賞する念は全く男女の情愛に出ず、と。熊楠いわく、ス氏は天下の一、二碩儒と称せらるる哲学者なり。しかして、美を愛賞する念の男女の情愛に発するを明言しながら、その道義論初めから終りまで、蚤とり眼《まなこ》で尋ねても、一言の道義心もまた男女の情愛に発せるを言いしを見ざるは、そもそも氏もまた耋《てつ》せるか。それ獣も交わり、鳥も交わり、蛙もやり、蛇もなす。しかして人間に限り、この一事より増益して、今日盛大の道徳を現出せるものは、別にその故なくんばあらず。もっとも人間外の動物中にも多少の道徳は存するものありという人あるが、たといあったにせよ、人間道徳の盛大なるに比すべきにあらず。どど一に有之、いわく、「いきな島田が小ぢれにぢれて入れておくれよ水屋さん」と。満面紅潮艶羞の体を写し尽せること無色の撮彩とも謂うべし。
 それ天下動物、かくのごとくそれ多しといえども、みなうしろより好事を幹す。特に人間においてのみ互いに妖姚の顔面を見合いながらするを得。これ天の人間を殊遇せること絶大なる所以にして、Wallace 氏の老功をもってなお逸失せるところなり。けだし死ぬ死ぬという声、実はすなわち美なりといえども、これに伴うに、いかにも死にそうな蹙?《しゆくあつ》、潜眉の顔貌をもってせずんば、これ簾を隔てて文君の琴を聴くなり。きゅっきゅっきゅっとよがる腰つき、佳はすなわち佳なりといえども、これに伴うに春色すでに酥《そ》なりの容姿をもってするにあらずんば、これ盲人の器を按ずるなり。可愛とよする口元も眼を閉じたままでは貝柱《かいばしら》をしゃぶると何の異あらん。抜かれた私の気の悪さの妖言も、出さぬが出すにまさるとは、はずかしの森に言の葉もなき状況を、後ろよりは眼が届かず、眼が届かずば興味もなし。されば少々話が後ろへまわるが、「ときはの山の岩つつじいはねばこそあれ恋しきものを」と、真祖僧正が業平中将の若姿を慕いたるも、「しらせばやほの見し花のおもかげに立ち添ふ雲の迷ふ心を」と桂海が梅若丸を忍べるも、いずれも愚人は真後ろからするもののごとく心得る道ながら、穴のみ恋しとはいわず、ただ顔色の恋しさのみを述べたるなり。しかして真後ろから、頂《うなじ》の髪にくい付いて犬然とやるだろうなどは斉東の野語、実に実に不埒千万なる。
(123) 実は少年道には、この道一時もっとも盛んなりし仏国に、la méthode de la corix と申し、そのむかし耶蘇セント・ポールの幼姿を愛し若道の契り浅からざりしおり、道に落ちある十字架の形に擬し、少年は横に臥せ自分は半横《はんよこ》になり、片手は地面と平行し一手を斜めに少年の頸に懸けたまうて蛇の睨《にら》み合いのように斜めに顔を眺め合いながらする時は、少年の眼それとはなしに秋波たっぷり、これより上の楽しみなしとよがりたまえるなること、熊楠仏国古文を読んで発見せり。されば同人が「ロマ書」に、男と男となすべからざるのことを申すなどは、真後ろからやるなということ、半横十字形は、かまいないどころか十分賛成のことと解すべし。さてまた、高野山などには、きゃたつ返しと称し、小さき蒲団様のものを少年の尻の下に敷き、菊の園を一壇高くつき上げ、三角な布に絹を入れたやつを紐にて少年の両股にくくり付け、二脚を男の肩にかけて前よりするときは、快味量りなかりしとぞ。惜しいかな、孔子も時に遇わず、熊楠はこれを試むること能わざりしといえども、留学中無数の同輩に話し散じたれば、そのうち必ず報告もあるはずなり。
  追記。?猴は前よりするという人あり、たぷん事実ならん。また鳥類中、脳力もつとも発成せる鸚哥《いんこ》属も前よりすと、日本でおるとき鳥屋の主人に聞きたり、如何《いかが》にや。もし、これらにして実事ならんには、ワレス氏の大主宰特別淘汰説は破壊さるべし。しかして謹んで案ずるに、犬は一種特別の交合法を用ゆるものなり。このことは犬の同族中もっとも相似たる豺狼狐狸と異なる特徴として、古来学者のすでに知るところなり。すなわち初めは後より腰を使い、愉快初まらんとするに臨み、雄と雌と相背向して一直一線をなすこと、これなり。このことは現にはなはだ teleology に取りて力を与うるものなり。(この一事 mechanically に説くときは、飛んだ僻論を出だすべし。すなわち何の必要あり、何の快事ありて、かかる奇体の法を用うるに及びしや、人間に知れがたければなり。)すなわち一大主宰、かつて一度は犬をもって今日の人間のごとき大開化物となさんと目論見《もくろみ》、そのことを始めしが、何分四肢が相抱きて顔を見るに適せぬゆえ中止となり、さらに四肢すでに手足と分かれたる猿属に(124)目論見付して人間を生出せるなり。これをもって犬は事業中止され、後ろとも前ともつかず迷惑ながらやっていることなり。
 撮閑話総附別処《あだしごとはさておきつ》、人間の道徳は到底夫婦前から顔を見ながらやり得るに起因するは前条すでにこれを悉《つく》せり。しかして神戸通いの船に東風、あたかもこれに便宜なるように、人間の陰物、他の動物に比してはるか前方に付きおること、実に一大大大不可思議にあらずや。前年ある人の秘蔵、会津藩の陰陽博士某が手記にかかる、ラテン語で申さば Icones Omancorum ともいうべき珍書一巻、極彩色にて四十余品を廓大して図せるを見るに、くそかけと称し陰孔地に向かえるほど下ったやつは最下等にして、陰孔天に朝せるほど上に進めるやつを、てんつきと唱え、実に千古の絶物、釈迦も達磨《だるま》もこれがために堕落すること受合いなり、と記しありし。画そらごととはいうものの、まだ進化論の出ぬ前に、見識さのみ広からぬ米国人がジョルジア州の「蝴蝶譜」あり。その画するところ、碧色の花の傍にあるは蝶もまた碧に、縦条ある草葉に住める  貼噺《いもむし》は身にまた縦条を具えたるごとく筆をはこべり。全くこの画者知らず知らずのうちに、後年バチス氏が大発見せし動物擬似《ミミツクリー》論を知れるものなりとて、学者挙げてこれを嘆ず。国|異《こと》に学同じからずといえども、この会津人もまた、期せず知らぬうちに南方先生の高論の helpinger をつとめしものといわんか。その人の名の知れざりしは学者の大いに恨むところなり。
 そもそも人間道徳の種別を説くもの、孔子は道徳を存すべき人と人との関係に資《よ》りて、これを夫婦、父子、君臣等の五倫となし、アリストートルはただちに道徳それ自身の性質に拠りて、これを寛、勇、謙、慈等の七義となせり。もし孔子の分類を奉ずるならんには、なお一言を要するものあり。何ぞや。五倫の中に朋友といえる目あり。これは今日のごとく、いや一盃のめ、ありがたい、食ってしまう、礼言ってかえる、一年も無沙汰する、というような軽きことをいえるにはあらじ。けだし孔子も内々顔回にはよほど頸をのばし、また周公の若姿の絵を見て心をまよわし常に夢に周公を見たが、年老いてのちはわれまた夢に周公を見ずと歎息せしにて、その朋友とはいかなる朋友なりやと(125)いうことは知らる。試みにプラトー、アリストートルの書を繙《ひもと》け、また欧州カバルリの盛世の史を探れ。エリザベス王世の記を見よ。寛永・元禄の物語を案ぜよ。その時代の朋友といえることは、今のごときチャラポコなることにあらず。されば五倫と道徳を分かって由来を尋ぬる日には、四倫は主として夫婦に発し、朋友の一倫は一に少年より起こるといわざるを得ず。また君臣の一倫は、吉原の女郎瀬川が徳本上人の問いに処して、諸国の大名と見奉れば民を治めたまう御方と尊敬し、いかな不男でも疎略にせぬと答えしごとく、女より起こることもあれば、この御息子大殿今にものことあらばと心がけし中井勝弥のごとく、少年より起こることもあるべきなり。しかして吾輩ごとき女嫌いの粋な男も、少年道より推して、お情けをもって別段女と見たら打ってかかりもせぬは、実は少年より生ぜる道徳もまた甚大なりというべし。
 しかして、女も少年も後ろよりしては一向道徳を生ぜず、必ず前からか、または半横《はんよこ》でせざるべからざるは、以上述べたるがごとし。かく言わば、あるいは問わん、女は前よりするがよき故なるべく上に付けるものを上とすれば、少年は半横でするを上とするゆえ、ちと横にゆがんだのが最上か、と。しかれども、かくのごときは不当不法の難題というべし。何となれば、すべて少年をする男は僕ごとき粋人ゆえ、ただともに語らうが面白きこと多く、女のようにやりつづけにやるものにあらざれば、たとい横にゆがまずとも、そこは人工をもっていかようにもよき位置を占めしむるを得ることと知るべし。Wallace 氏の論は、詩で結んだれば、わがこの論もまたどど一をもつて結ばん。いわく、「そっと手をとり静かにのりな、いくといかぬは棹《さを》次第」。棹顔、同音相近ければ通用の意でこの作あるならん。いくといかぬは顔次第とは、実に名どど一なるかな。
 全体この論は、いわゆる「知りてこれをなすもの」、Wallace の説に無理に加勢せる権道論なりといえども、teleological evolutionism に取りて大功あるものなり。しかして mechanical evolutionism をもってこれを説かんことはすこぶる易し。しかし、そうそう秘説を出すも不可なれば、まずこれにて擱筆、その説は佐藤寅次郎氏へ一本送りおけり。(126)同国人ゆえ面会の節、問わるべし。主として、ヘッケルおよびスペソセルを攻撃したるものにて、内もれ外もれ(これは高野山のテクニカル・タームなり。少年、次第にそのことを好むに至るの極、前より精を洩らすを外もれという。女のごとく変性せるやつは前陰痿縮して力なく、直腸中に快時一種の液を出す、これを内もれという。ドイツ人にこのことを論ぜし者一人ありて、書名も聞きしが、はなはだしき罕書にて公けに見ることを得ぬ由なり。いずれ欧州にて読閲の上、自説と比較し、さらに差し上げ申すべく候。小生この類の草稿はなはだ多きが、かなしいかな、挙世混濁にして世に公けにするを得ず。欧州にて有志の賛助を得て私《わたくし》にこれを刊行配布するつもりに御座候。)
 如是我聞《によぜがもん》、園田大徳は帰命《きみよう》無量の歓喜を第六天の妖女が八功徳池に洩らし羅※[目+候]羅《らごら》を得られし趣き、むかし熊楠紀州にあるころは、にいさんにいさんと言いおりし、その女子が有為のほども頼もしく、さぞや毎夜幾転変さるることと、全く喜見城裏のお楽しみを羨むのあまり、蕪辞を直呈し、尊前に奉賀す。
  ※[庵点]しづかに和尚《おしよ》と気を?利《とうり》天、率兜帝釈身《そつとしやくらば》は大亀《けしやば》氏へ
  ※[庵点]腰は迦留陀夷《かるだい》、手さきは富楼那《ふるな》、日ごと夜ごとに目?連《まがだれな》
 思うに、盛公も年ごろにて例のにきびをいつまで蕃殖さするも見|醜《ぐる》しければ、近日|伉儷《こうれい》を求めらるることと存じ候。間諜より報知あり次第、閨《ねや》の中まつ夜の十二月と題し、十二葉極彩色にて画を差し上げ祝《ことほ》ぎ奉り候べし。
 ショッペンハウエルいわく、勉学は勉学ばかりですでに難し矣、しかして人生さらに無事実の小説多く出でたるがために、勉学の難に一倍を加う。壮年の士、物を信ずること早ければ、小説まずその心に浸潤してその一部を占む。ただし、小説に蠱《こ》せられたる人は、求むるに遑《いとま》あらずして知るに及ばざる negative の無智の上、さらに兼ぬるに、知りて反って害をなすべき positive 過失を帯ぶるものなり。しかしてこの種の過失は女子においてもっとも大なり、と。熊楠いわく、何ぞただに女子のみならんや、堂々たる丈夫にして古来文に誤られたる者はなはだ多し。われまたこの種の人なり。幼にして学を好み、かつて書を読んで、兄が婦を迎え隣室に歓呼宴飲するをも知らず、『史記』を読み、(127)『荘子』も読み、『法華経』、『西廂』、『水滸』もよむ。しかして洋行後大いにわが行路を過《あやま》たしめたるものは。一日、コンラード・フォン・ゲスネルの伝を読みしにあり。(御承知ごとく、ゲスネル、スイス人、貧究中に博学せし人にて神儒の名あり。日本にても宇田川榛斎の『西説|菩多尼訶経』にその名古く見えたり。)次いでライプニッツの伝に感ぜられ、さらにスペンセル、ラボックのことに波動せらる。
 それからむちゃくちゃに衣食を薄くして、病気を生ずるもかまわず、多く書を買うて、神学もかじれば生物学も覗《うかが》い、希《ギリシア》・拉《ラテン》もやりかくれば、梵文にも志し、流るる水ののどにもあらましの万葉風より、稽固《けいこ》返りのささもつれ髪と甚句体までも研究せしが、わが思うことは涯《かぎり》なく命に涯あり。見たい書物は多々、手元に金が薄しときているから、思うままにもならず。若いとき愛せし報いにや、珪藻を探るとては鳥の旺門に手を入れ、菌芝《きんし》を採るとては馬や猫の糞を一々ひつくりかえす。必竟は何の役に立つべしとも思われず。みずから粥をすすりては「学は熊楠のなお今日あるがごとし」と嘆じ、かつ自慢し、少児の学問を初むるを見ては「人家《じんか》、夜書を読むものあるを知る」と怜《あわ》れみ、かつ入らぬ世話をやくのみ。要するに、説教習う下拵えに早歌と乗馬の沙汰で、一生を棒にふりし馬鹿者と異なることなしと、みずから知れども脱すること能わず。採ればうし、採らねば物の数ならず。可愛い少年も空しく老い、見たい両親もいたずらにぼるること、みずから揣《はか》らざるの罪は熊楠にありといえども、伝記書きしものの咎もまた、少なからんやは。けだし伝記の物たる、世実にこのことあるに拠れるものなれば、人の文を信ずること小説よりもはなはだし。しかして、ために過たるることもまた一倍の劇甚を加う。これがために一歎仕り候。
 ショッペンハウエルいわく、視覚は解を助け、聴覚は理を輔け、しかして?覚は特に記臆を振起するの力あり、と。熊楠、常に店頭チーズを切り売るに心必ず謀反を生ず。謀叛とはいかなることにや。聞く、高野坊主は納豆の香を?《か》がば心乱るること、狐が老爺に化《ば》けたるに鼠の油?《あぶらあげ》を示すがごとし、と。知らず××とチーズのあいだにはいかなる関係あるや。今は西洋料理店日本に多ければ、盛公一たび店に上り、チーズを喫して、然して後に知らん。とは何の(128)こったか、一向分からねーの。
 スペンセルいわく、純理立ちて実用挙がる。石を投ぐるに、空気の圧力も地球の引力もありて、これに加わる。しかれども一切なきものと仮定し、真空にして引力の及ばざるところを石が飛ぶとして、推算して純率を求め、然る後これを万般の飛礫、流星、銃炮、さては玉つきから銃炮より発する音声までに応用して実功を得て見るべし、と。少しくこじつけかは知らぬが、わが条約改正の一事、金瓶楼に今紫がつき出したときのごとく、一同さわぎ立つのみにて、毎度毎度水の中で屁をひるならばまだ泡だけでも揚がるが、屁に水を掛くるがごとく何にも見え申さずに止む。これは衆説一和せず、ためにいろいろ評議の中に、あいつの言葉が失敬だとか横柄だとかいう枝葉のことにまで及ぼし、神州精英の気、凝りて開化楼の集会となり、発して虎の門の爆弾となる。
 sodo《ソドウ・俎豆》(my)のことは、かつてこれを聞けり。政治のことは丘いまだ知らぬゆえ、口を出すわけもないが、さすが国を思う心は小生も持ちおることゆえ、成らぬまでも差し出しまするは、一体衆人が一同これで十分だという改正はいかなるものにや。また、これでこそと満足すべき改正後の国情はいかなるものを望まるるや。今日の欧米の強国といえども、外交上男がよくて金持でも、自意に任《まか》せぬこと多ければ、衆人が望むべき改正および改正後の国況などいうことも、石の飛んだような簡単なことにあらざること明々なり。されどまず今十二年間とか六年間とか、二十四銭あれば女郎一人と、すし三つ、とにかく一晩慰めるじゃないか、というような気楽なことよりは重みがある。したがって議定も仕やすしと存ず。何のあてもなく、まず差し当たり六年とか十二年とかで、それがすんだら、また醒めての御相談というようなことでは、痔のある少年とも知らずに返事をくれたとて喜ぶがごとし。如何《いかが》のものにや。噫《ああ》、□国日本人は挙げて衆道を解せざるものなるか。
 「羽叟は逝けり、岩丈は老いたり。到底《とうてい》熊公は上々の薄命なり」。この二人は御存知通り、実にわが紀伊の国の花なりき。日々思いを寄する者三、四十人、雪を踏んで百夜歎きし少将あれば、湯殿姿を垣間《かいま》見て思いに沈みし師直あり。(129)ただ、熊公不肖ながら男振り苦《にが》み奔《ばし》りて、しかも忌味なく、かつ美声のころがしあんばい旨《うま》かったればこそ、二つながら御手に入りたるなれ。二人の鑑識は熊公の弁を俟たず、盛公この道の本阿弥なるを知ればなり。しかれども、bishônenography は天下熊公に優る者あらざれば、ちょっと味噌を揚げんに、一は相好円満、新咲きの梅花、衆芳をお尻の下に敷きたるうちに、実なる情おのずから外に溢れ出でて、見る人|坐《そぞ》ろに心を天外に飛ばし、一は面首艶妖、満開の桜英、百卉を眼元で慙死せしめたる外に、風雅なる心持、万般の言動、一笑一撮にまであらわれ、聞く人、思いを屋上の烏に寄すということなし。しかして、一は神仙すでに洞天に帰し、幽顕すでに界を異にして、中有《ちゆうう》の野その間に寂寞《じやくまく》として広がりたれば、熊公、ただ武帝の煙に涙を催して、「あふと見てうつつのかひはなけれども」と吟じ、一は現存すといえども、眼角当情の処今いずくにかある、さすがに老の波立つ影も辱しと、山どりの水鏡にうつろう色を歎ずるにや。音信もせず遇うたところが、まさかフノリの御用も成るまじければ、うつつに一目みしことはあらずと忘れ行き、忘れ行かれなんをかなしむのみ。
 羨む、むかしダンテ九歳の五月の宴に同歳の女ベアトリツェを見|初《そ》め、二十五の時|他《かれ》は死したれども心これを慕うこと止まず、ついに『神優篇』の一書に托して綿纏の情を不朽に伝えたるを。また怜れむ、カモンエス壮時宮中の嬪に愛せられて事を生じ、一たびはインドに流され、二たびはジャワに寓して無数の酸苦を嘗め、年を経、赦に遇って一眼を盲《めしい》して故国に帰れば、「愁殺す、毛延寿の心はなはだ兇なり」、昭君すでに去りて他人の手に帰し、わが身ばかりはもとの身にして、せっかくの大詩すべてヒーゼンの意を帯びたりとて世に用いられず、空しく麪包《パン》を市に乞うて草頭の露と消え失せたるを。今熊楠、才二子に及ばざること遠ければ、汗のみ出でて文も詩も出でず。二人のことをもって後に伝うる能わざる上に悲しきは、さらに二人生別死別の二苦を兼ねて一身に引き受け、加うるに双親属望高大にして、夕には閭に依り、朝には烏の鳴かぬことはあれど、と泣くをもってす。天道様も、まあ聞こえませぬわいな。熟《つらつら》考うるに、かの二人のぐいと登《のぼ》せたる女のごときは、別に伊国第一ともポルトガルの傾国とも書いた物なけ(130)れば証拠はなし。言わば馬鹿物の男ぶり悪しきに、かなりの女がほれてくれたゆえ、乗りが来て自惚《うぬぼ》れ、二、三千丈の鼻毛を延ばしたるものに過ぎじ。わが二少年は大いにこれに異なり。すなわち盛君ごときも、当時うきは身にしむ心地するとて、頭痛がちに羨み通したることにて、実に二人の菊の花と吹上の白菊と、共に紀伊国の三芳と唱えられしものなるにあらずや。しかして一は、死んでお花が咲くものか、と大津絵ぶしの穿《うが》てるを証し、一は、こいと言うたとて往かれるものか、と糸くり唄に哀れを残し、この厚情の熊公をして、手も足もきかず、頭もひしゃげ、双眼も暈《かす》み、エテも痿《な》えしむるとは、わが前世いかなる宿業の種を撒いてより、かくまで少年難の相を帯びて生まれ出でたるやらん。But wherefore weep.
 天地は夢国なり、古今は夢影なり、栄辱は夢事なり、衆生は夢魂なり。うれしと言うた夕暮も、かなしと聞きし鐘の音も、ほんの夢の場のちょんの間ぞかし。荘子いわく、夢に酒を得る者は醒めて後哭す、と。野尻猫堂いわく、夢に別嬪を見ると寤《さ》めてのち、おかしな気もちがするです〔四字傍点〕なー、と。いずくんぞ知らん、現《うつつ》と思うて哭するも、おかしな心地がすると思うも、また一場の夢に過ぎざるを。しかして今、熊公かかる夢の国におりて、夢影を尋ね、夢事を夢魂に訴えて止まず。昔時、夢の場のちょんの間の楽しみを思い寝のあまり、夢よりはかなき夢中の人に遇い、いき〔二字傍点〕そうなところで寤めたりとて、さらにその夢たりしを恨む。熊公は、これ夢中夢を説くの痴人、夢のような人物なるかな。
 右ダンテ作は Divina Comedia といえるに傚顰《こうひん》し Divina Norokeana《ノロケアナ》と名を命じ、不朽に伝うるなり。ジヴィナ・ノロケアナ、必ずすべからく雪と花に対してこれを読むべし。必ずすべからく一日一夜の力を尽してこれを読むべし。しかして、もっともすべからく美少年と並坐してこれを読むべし。
 熊公の能文なるは知った人が知っておることなるが、高野礼太郎氏かつて歎じていわく、後世をして日本の南熊にあらずして熊公の日本なりといわしむるものは必ずこの人ならん、と。ここへつけこんで、同人妻別れの一段、これ(131)を知らぬものは文を愛する者にあらずというほど傑作なれば、もはや聞かれたならんが、さらに差し上げ候。
     Toledo 奇談 迷ふ二道(口上、この男アバタ〔三字傍点〕あり)
  わたしのととさんかかさんは、たった一〔傍点〕人《・(ひとり)》の子ぢゃものと、二〔傍点〕人《・(ふたり)》の中にめでまはし、なんで行く末川竹の、うき目を参《・(み)》〔傍点〕んと四〔傍点〕《・(し)》らんせう、冥土で聴いたら五〔傍点〕《・(ご)》立腹、お道理とこそ六〔傍点〕《・(む)》理はない、七〔傍点〕《・(なな)》つ浪速のよしあしも、まだ分かぬ間におしでるや、八〔傍点〕《・(や)》がて全盛お職とて、引く手あまたの夕だに、九〔傍点〕とめ《・ここの勤め》はゆるしゃせず、十〔傍点〕《・(とを)》して過ごした主への義理。
    舌でころがし なさけではめて 主のあばたは恋の淵
  初夜から末を思ひ寝に、寝られぬ廓の百〔傍点〕羽掻《・(ももはがき)》、トレドで結婚した時に、千〔傍点〕代もと言ふたその口で、万〔傍点〕ざらうそは言はれまい、億〔傍点〕に《・(御国)》思ひもさることながら、私を捨てて往く兆〔傍点〕《・(てう)》は、何たることとうらみかこちつ聞こゆる鐘、いかなる夢を結ぶらんと、ベッドの隅の蜘蛛《ささがに》も、糸を収めて思案顔、二人は無言で鴛《をし》と鴦《をし》、幾夜重ねて赤沼の、まこも隠れの一つ夜着、楽しみ果てて哀しみの、くると悟りはこの中に、アメリカ風に夫の名、礼といふ字をリーの字に(子があれば川の字なれど、なきゆゑ、一画を省きてリとなる作者の苦心、見る者は視るべし)、かはす枕の終りとは、落つる涙の玉くしげ、あけて悔しきけさのそら、空恐ろしい因果ぞと、思へば浮世はままならぬ、いとしい親のあればこそ、妻に別れて孝と鳴く〔九字傍点〕、軒の烏も※[庵点]苦労《・(黒)》なり。
 何と感心じゃろうがの。
 熊楠初めてアナバに到りしときは、豪傑日本人中に多く(日本人三十人もあり)、論師舌を振るい勇士腕を奮いて、なかなかその胆をとること難しと認めしかば一計を案出し、火酒、蒸餅を多くかいこみ、私《ひそ》かに室内に隠し置き、さて七日が間、戸を内より鎖して一歩も出でず、酔いては寝、寤《さ》めては飲み、夜中ひそかに溲器《しゆうき》を洗いに往くに、跣足《はだし》なれば知るものなし。主人大いにこれを異《あや》しみ、日本人一同にかけあいとなる。大坪権六(今滋賀県師範校かなにか(132)におる)回章一篇を日本人一同にまわし、いわく、急変あり、新米の客はたぶん寒気に中《あた》りて凍死せるならん、よろしく衆人立会いの上点検し、ついに死んだものなら止むを得ず一同その責に任ぜん、と。ここにおいて、汎々の輩を除き、七、八人頭株やつて来たり、まず奇巧に名ある世良氏(多一氏息)合い鍵をこしらえ、内より閉ざせる鑰《じよう》をつき落とし戸を開き、われよ先よとしりごみす。その間に熊楠はこっそりと酒罎をかたづけ、丸裸で酒の勢い熱くてならぬゆえ、蒲団薄きもの一枚でくるくると巻き、足と頭を亀乎として縮め、総身に力を入れしゃちこばりおる。しばらくして三好太郎後れ来たる。さすが軍人の子とて、棒にて体をつき試みていわく、なるほど堅くなっておる、可愛そうなことだ、松平は知人だそうだから呼びに往けと、大争動となりかかる。ここにおいて、熊楠面白さと気の毒さに、うふふふと笑いしに、世良という人一番に、いやでげすぜ、いやでげすぜと呼びながら逐電す。すでにして三好いわく、いや南方君は死んでいない、一同来たれ、と。丸裸のままつき落とされふりちんで立ったありさまは別なりし。それよりすぐ和睦の宴ときて、飲みのこれる火酒をふれまい得意の法螺、然るべき篇章を講ぜしかば、なるほど豪傑だと大いに感じ、一同ただちに平服して、子分となれり。
 御状下され候節は羽山に托するか、喜多幅氏に托するかしてくれたまえ。
                    南方熊より
   中松様
 
(133)土宜法竜宛
 
(135)          1
 
 前日来多く書翰出せり。さて書籍郵送のこと、友人の道具屋するものに頼み置きしに、目今クリスマス前にてはなはだ多忙とのことにて今に出さず。今夜小生これをとい、その旨承り、直ちに二封(ハンボルト文庫五冊、ハックスレーの『化醇論および道義学』一冊と一封、ショッペンハウエルの『多苦論』一冊、モールの『ヒプノチズム』一冊が一封)出せり。
 右は公使館へあてたり。もし受取の上はちょっとはがきで返事を乞う。明日はコールブルックの『印度《インド》宗教哲学論集』一冊(これは稀書なり、もっとも仁者《にんじや》の珍蔵を乞う)、およびハネルジアの『竺土宗教問答』およびアンムールの伝一冊、必ず出すべし。さて『仏教講義』はこの受取来たれる上どこへでも仁者の命ずるところへ宛て出すべし。故に受取書は早速出されんことを望む。日本の人は一体薄聞にて、多くはちょっとした新刊の書などを新聞の評など見て買うに過ぎず。故にあまり深いこと知らずに囀り、受売のようなこととなる。右のコールブルックは真に英国にてはインド学の首唱ともいうべき人の一人なり。故に右の書には間違うたことも今より見ればあるべきが、何様《なにさま》大家の書として敬愛あらんことを望む。このほかにも小生仁者に寄付したきもの多けれど、何様今は郵便税にもささえかぬるほどのこと、かつまた仁者旅行中不便にもあるべければ、今回はこれにて寄付を止むべし。
 以上は昨夜書けり。さて今日小生雨を犯し郵便局へ出頭仕り、二冊出せり。うち一冊は書留に致せり。すなわち、前後合して十冊出せるなり。仁者受取の上、憚りながら包みの数かぞえ、また一冊一冊の大抵の名前を記し、受取の旨御通知を乞う。もし紛失あらば、小生さらに求めて送るべし。
 アンムールの伝、および『仏教講義』大切なものゆえ(一は希書、一は高値)、仁者よりたしかにどこにおくれと命令(136)の上、直ちに呈上すべし。(これは仏国にある××人は軽薄なもののみにて、××館のやつらも、前年人の名をかたり、飲食し、また博奕放行おびただしとの風評あり。よってあるいは誤ちあらんことをおそるるなり。)
 右のコールブルックの『印度教学論集』に、左の珍事あり、仁者に一報しおくべし。
 いわく、裸身外道の最後のジナ(仏教のブッダ様のもの、すなわち仏教の賢劫の七仏などというごとし。仏教の最後のは釈迦文仏なれば、それと同様のもの出でて裸身外道を弘めしもの)(ジナは最勝と訳す)は、盛称してスラマナ(桑門)という。悉達《しつた》が三帰依を妻として生みしものにて、体膚金色を呈し、獅子をもって記号とす。『劫経』にはこの最勝尊の生涯および立法のことを説けり、云々。この経の所説に拠るに、最後の道師(すなわち桑門)は、天界の長命を脱して、さらに聖者の不死身を得んとし、第四期(今は過ぎ去れり)の終り、わずかに七十五年八月半を残せるのときに世に下れり。初めは婆羅門《ばらもん》たるリシャバータッタの妻|天喜《デーヴアナンダ》の腹に宿りし。この婆羅門はジャンブズイッパ国のバーラタヴァルシャー府の住人なり。宿りしとき妻の夢にこれを知れり。(夢に)帝釈天すなわち妙高山《みようこうせん》(ソメイロ山)の南の神にして天界の第一位におる神へたばりて、彼女の胎の聖人を拝せり。
 しかして、帝釈|謂《おも》えらく、従来偉人が浄行の?に生まれし例なし、と。すなわちその重臣はリナイグマシをして、胎児を天喜の胎内よりとり去り、悉達王の妻三帰依の胎に移さしむ。この王はイチシュワク種、迦棄《かしよう》氏の王なり。さてまた三帰依、夢を見、占者これを候してその最勝をはらめるを報ず。十月過ぎて生まれ大祝《おおいわ》いせり。父王これを名づけてヴァルダーマナという。また號して桑門またマハヴィラという。父王もまた悉達、シュリアンサ、ヤサスウィの三号あり。母もまた三帰依、ヴィデハジンナ、プラチカリニの三号あり。父の弟を善脇尊といい、その兄をナンジヴァーダナ、妹をスッダーサナという。妻の名をヤソダという。その間に娘あり、アノッジアといい、スッダーサナの子に嫁す、云々。
 二十八歳の時両親死し、後二年、世事を捨てて、人天の賞賛中に苦行を行なう。その勉強および達智のことは長々(137)しく述べたり。終《つい》に最勝尊となり、世界の渇仰を受くべきものとなり、大通大観す。七十二歳のときに万苦を離るるに至る。王舎城の近傍パウアプリ都のハスチパラ王の宮中にて、この万苦をはなるるのことを現《げん》ぜり。爾後この地を聖場とす、云々。(このあとに年代の論あるが、大法螺らしきことなれば略す。)さて二十四祖のうち、第七のスパルスウァ尊のしるしは卍なり。また第十八祖アラのしるしはかくのごときものなり。全く日本で申すマンジなり。
 右の最勝等の履歴および妻の名など、はなはだ釈尊に似たることなり。故に、あるいは仏教も裸身外道も一源に出でたることにあらざるか。(ただし、かくいうときはいずれもその始祖の伝記は作りばなしとなる。)あるいはそのころの風として、かかる伝記ある人、自然に期せずして生み出だせるにや。とにかくそのころは一汎の風俗として、かかるはなしを好みしものと見ゆ。今度送るべき『仏教講義』には、裸身外道(みずからは最勝教と称す)は仏教の一派のようなことにとけり。
 なお小生しらべて報告すべし。まずは右ちょっと申し上げ候なり。
   土宜師 上                 南方拝
     明治二十六年十二月十九日夜八時
  この一状は、公使館員の書き添え少し不十分にて、ギメー博物館へ廻致されず、小生まで返り来た、よってまた再致候なり。
 
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   土宜法竜師へ 例のごとき難筆御推読下されたく候
                     南方熊楠拝啓
    明治二十六年十二月二十一日夕七時書き始め
 恁麼《いんも》にして来たるも棒を吃《きつ》し、不恁麼にして来たるもまた棒を吃す。仁者《にんじや》、小生を呼んで、舎利弗《しやりほつ》に比す。舎利弗の影にあれば鴿《はと》驚惴《きようずい》せりとか。さればこの舎利弗(小生)が、気が向いて唄歌躍舞するうちに、おのれに気が向かぬときは人にはりこみを加うる癖あるを知るべし。これまことに釈尊が和融寛大にして、鴿もまたその影に安居せるに及ばざるなり。小生、一体人とよれば棒を与えたくなるなり。ショッペンハウエルの譬喩に、豪猪《やまあらし》(  蠣《はりねずみ》のようなもの)四、五、圏中にありて寒を感じ温を欲して相密著するときは、双方の刺《はり》たちまち相痛ましむ。これをもって賢人は温を貪りて相刺さず、温を少なくして刺撃を受けざるを事とす、といえり。さればこそ小生は独孤にて人に求むることなし。仁者、小生に向かいて温を求めらる。これその刺を畏れざるなり。願わくは小生の刺に痛むことなく、単に多少の温を得られんことを望む。
 小生これより仁者昨日出せしところの書翰について、一々返答すべし。期するところは多少の温を仁者に寄進せんとするにありて、刺の如何《いかん》を顧みるに暇なし。
 小生の苦行するは、耶蘇徒が天帝の智を得んとてするごときにもあらず。梵徒が梵天の体に帰せんとてするにもあらず。すなわち日常の持身の法として一分を欠くなり。さて苦行といえど、小生は近ごろ、これもまた善し、決して苦にならぬという位置に至れり。一分を欠いた結果はあったか。いわく、仁者に呈上せし前後十三冊(うち二冊はいま(139)だせず)の書は、常人が一冊買うにも一思案するところなるが、小生は苦行の結果で、これを見つけ次第求め得たり。ちょっとしたことにもこれほどの枯果ありとすれば、天下の政を執る人、よくその事に勉むること小生のごとくならば、天下太安ならん。宗教を護持する人もまたよくかくのごとくならば、信徒十方に満つべし。すべて身体十分に佚楽《いつらく》なれば心に望みを失うものなり。すなわち其の楽を得て永持するの法にあらず。小生苦行の理観はこれほどのことなり。顔回、原憲もまた貧苦を望まんや。ただ、せめては道のために志を乱さざりしなり。これはこれ小生の境界、いわゆる因縁に随いて忤《さから》わざるの法なり。
 オッカルチズムのことは、仁者これを何の用に供するを言わず。牆を隔てて角を見てその牛たるを知り、街の辻で麝香《じやこう》を嗅いで横道から別嬪の来たるを知る。オッカルチズムのことたる、別に立派なものにあらず。一体日本にも巫覡《ふげき》などいうは、士君子たるものの正しきこととせぬことなり。仁者のこれを調べんとするは、西洋にかかるもの多く、言を仏教などに託するを聞いて、もし真に然らばこれを仏教の助けとなさんとせられしことと小生は思えり。小生は多少これらの人に摂せしことあり。またその業をちょっと受けたこともあり。しかるに多くは(小生の知るところでは十の九)、愚夫愚婦を欺くの術にて、すなわちこれを行なうものもまたみずから良心を欺きおるなり。いろいろのしかけなどもありて、手品のようなこともあり、他はいわゆるまぐれ当りなり。
 すべて人というものは非常なことを感ずるなり。それゆえ三人予言を聞いて、一人の分|中《あた》れば、その一人これを信ずること厚くして、吹聴もまた信よりすることなれば、実ありそうに見ゆ。さて中らざりし予言受けた二人も、もとよりたぶん中るものと半信で、そんなこと頼みに往くような人物なれば、おのれの分中らざりしは何かわけのあることとして、ただただ中りし一人のことを奇ととなえ妙と称揚す。さて追い追い智あるものこれを聞き及んでこれを験せんとするに、自分はその術を心得ざれは、巫覡に頼みてそのことを行なわしむるに、また十中に一、二の中ることあらば、(140)たちまち奇として、これを吹聴し、また同様の人々これを信じ伝うるなり。さてかようのまぐれ中りのことは理由のなきことゆえ、いかな人も鰯の頭も信心からで信ずればそれですむが、信ぜずにこれを駁せんとするも、すべて物事ありということは証しやすく、なしということは証しがたし。たとえば、繍虎という字は何に出ておるかといえば、『通鑑《つがん》』序、また曹植をほめた文にあり、その文はかようかようといえるなり。されど今、たちまち繍豹という字を作りて、これは支那の書に何にも出てないかと問わるれば、載籍きわめて多く人智限りあれば、たしかになしと答うることはならぬなり。それゆえ理窟家も、ただかかる巫覡の術などを条理に合わぬものとして笑うのみ、一向たしかになしということをなし得ざると見えたり。さればとて理窟家がなしといい得ざるもの、必ずしも正当の条理あるものとは言うべからず。
 小生はかつて読心術ということを学びかけたり。いろいろ法術の案はあるなり。誓言立てて習いしことなれば、書には言い得ず。要するに、こちらの気をくばりて彼の言の前後、挙動等を察するなり。小生、今も多少は出来べし。しかし、たとえば仁者と始めて会うて紀州の出生なり、云々、と語り、さて真言宗のはなしなどすれば、まず出てくるものはその辺のことと察するようなことにて、中ることもあり中らぬこともあり。かつこの道に大名ある人を公衆の中へ聘して試みたる場へ、小生も莅《のぞ》みしが、この大名ある人、学生の間にとりかこまれて究せしにや一事も中らず、ひそかに問題があまりむつかしいと言いおりたり。このことにて小生は信を破りたり。すべて条理なきことは、学問として研究するの道なきものなり。故に右のしらべなどいうことも、ただかようかようのことありたるを見るというまでなり。それはまぐれ中りもあるべし(かねてかようのものとすれば)、またうまくしおおせることもあるべし(手品様のことは)。しかれども、これらは実に研究の方法に苦しむ。何となれば、まぐれ中りの論ずるに足らざるはもとより、うまくしおおせることのごときは、ただ習練の久しきに出ずるというの外なし。
 されば例の皮想してこれを見て、ただかかることあり、かかることあり、妙じゃ妙じゃというばかりにては、何の(141)智識も発達せぬなり。すなわち管輅《かんろ》、郭璞《かくはく》等の伝記を見て喜ぶと同じ。ひまつぶしなり。故に、真にこれをしらべんとすれば、到底みずからこれを習うの外なし。小生はこれをしらべて仁者に報ぜんとせしが、無用なりとさとりて止めたり。何となれば、その報告などいうもの、いわば日本の卜者の広告のごとく、妙々妙々とて拳ぐるのみ、何の理解を論ぜざればなり。かつまた日本でもミコとか何とか、かかるもの多し。仁者もしこのことを好まば、日本でかかる輩を相手にして研《きわ》めたまえ。(前日、書肆にて有名なる魔法史二冊を見たり。こんなものでも買わば、妙なり妙なりとのこと、多く挙げたるならん。今もその書肆にあるべし。二ドルばかりなりし。他日安値のもの見当たらば買い贈るべし。)
 むかし回々法主がアレキサンドリアの大文庫を焼きしとき、この文庫の所有説『コーラン』に同じければ『コーラン』一冊で足れり、故に無用なり、また『コーラン』に異なればわが正法に益なし、同じく無用なり、とてこれを焼きたりとか。今、小生の仁者に対してかかる小術の研究などを止めよというは、もし仏教の助けにせんとならば、右にいえるごときつまらぬことにて、研究の法もなければひまつぶしなり、無用なり。また然らずして、ただこのことを知らんとするならば、仁者は仏教のことに暇なければかかることをして本事のひまをかくも無用なり。(外に力《つと》むべきこと多し。)いずれに致せ無用と申さんとす。
 ヒプノチズムのごときは、神経作用上のことにて宗教に関係なきことなり。医療に使うことあり。されど神経鈍き丈夫などには使うこと能わざる由なり。また仏国などにはこれにていろいろの悪事をなし、はなはだしきは歯医者が娘を療治する顔してこれを麻眠せしめて姦婬せるを、母その座にありながら気づかず、やはり歯の療治しおることと思いおりたりとか。その他このことにて婬行上の罪多し。あるいは、小生の考には、なにか薬を嗅《か》がすことにもやと思いおる。支那の俚書にもかかること多く見えたり。病を療するは医者でたくさんなこと、その他はかかることを行なうて罪人など出来ることは望ましからず。小生は仁者などの急務にはあらじと存じ候。(今度送り上げしヒプノチ(142)ズムの書には、かかる悪行等の例多く挙げたり。)
 小生は、仁者がいうごとき理外の理とは、多くはあるまじきことと思えり。夢は心理学上狂に相似たるものとし、すこぶる研究することなり。理外の理ということあらは、夢などもっとも然らんか。何となれば、現世に不条理なることも夢中には不条理と思わず、理と思いおることあればなり。すなわち条理はずれた理ゆえ理外の理なり。
 しかるに、小生は多年間夢のことを研究す。銭もなにもいらぬ研究ゆえ面白し。これにはいろいろ経験せしが、すべて夢さむるときに身をちょっとでも動かせばたちまち忘るるものなり。故に小生はもっともくせを付けて、夢さめてのちすぐにとび起きてこれを筆するよりは、依然として夢みしときの位置のままに臥しおり閉目すれば、今見し夢の次第を記臆し出だし得るということを発見せり。たぶん夢見るときの脳分子は不定の位置を占めおれば、ちょっとでも動けばその順序常に復するというようなことと存じ候。さて小生は多年の間かくして多くの夢を記しおけり。あまりに人に語るは宜しからぬことと思えば、別に人に語らぬが、二、三申し上ぐべし。
 弟一、小生、明治二十一年冬、米国ミチガン州アナバ府にありし日、ベッドの上に横になりて足を垂れたまま眠りたり(上図のごとし)。夢に、小生和歌山に以前すみし家(小生東京へ出る前に、小生この家に父母兄弟一同、十年ばかりおりたり)(東京より一度帰朝せしときはこの家に住まず。三、四軒はなれし宅なり。およそ九ヵ月おれり)の、小生いつも読書せし二階のはしごの上段に、下図のごとく危くよりかかりておるに、隣室に楽の音聞こゆ。しかるところへ錦旗をかかげ、兵卒多く馬にのり緩歩し来たると見るに、食堂の鈴、食時を報じ、夢さめたり。
 これは第一に、小生がベッドにかかり仮寝せる身体、ことに足の位置感覚が、昔年、和歌山の旧宅にありしとき楷(143)梯段《はしごだん》にかかりしことあると同一なるが第一の因なり。思うに、小生は少時より冬日火を用いず、右の二階にのみおりて読書したれば、この日ベッドにかかる位置感覚の同じきのみならず、その日の気候も、旧日和歌山の旧宅にてかかることせしときの気候(すなわち寒さ)に同似したりしが、第一因なるべし。すなわち寒さと身の位置感覚(感覚とはベッドにかかりてねたるゆえ、足の重く脛《はぎ》のだるきなど)とが旧日に符合または近似せるより、右の和歌山の旧宅を顕出せるなり。さて、そのころは小生に妹ありて、いつも小生の読書する室の隣の室を立てきり、それに入りて三味線また琴をならいたり。故に音楽をききしならん。さて小生は兼ねてその心得ありしゆえ、夢さめるや否、おもてへ走り出でたるに、果たして馬にのれるもの緩歩して家より多少先の方へ歩み行きたり。これは馬の足音が夢に入りて、それがため今まで見おりし旧宅の場は消え失せて、馬の夢となれるなり。
 第二、小生、明治二十五年夏渡英せんとて、ニューヨークに舎し、船をまち、また荷物大なるをまず送らんとていろいろ奔走せり。一夜、夢に、小生団々社の後の家にて囲棋《いご》を見る。ところへ小生の父、袴はきて小生の前に座す。それより小生林中をすぎ奔る。小児の音《こえ》す。よって往き見れば、前年しばしば交親せし某氏が子が泣きおれり。よってこれをなだめて、また家を辞して奔るに、かの某氏来たり書数冊を渡す。題していわく、西郷南洲、大島に流謫の日作る書、と。第一には、このときは小生いわば第二回の洋行なり。すなわち米の大陸を脱して欧に渡らんとするなり。故にその全体の識は、前年東京を出でて横浜に赴き乗車する前のことを、追記するとはなしに包含するものなり。さて小生日記を案ずるに、明日は東京を立ち横浜にゆき、明後日はいよいよ出発という日、ちょっと朝ねし、これより中井芳楠氏に為替のことをたのみ行かんと朝十時ごろより新橋へ之《ゆ》く途中、友人井林という人が宿せし高知屋という錦町辺の下宿屋へ之き、いろいろの用事を托せり。この高知屋という下宿は、その年の春までは団々社の後にあり
て高き家なり。小生毎々行き遊べり。またその前には小川町にありて、小生その家に三ヵ月ばかり止宿せしに、この家の主人毎日一声高き嚔《くさめ》をす。その嚔のさま、まことに小生の父の嚔に似たり。よって毎朝この人の嚔聞くごとに父(144)のことを思い出だせり。
 さて小生洋行前数日は、舎弟早稲田専門学校にあり、小生毎度彼のいなかにおりて面白きことなし得ざるを愍れみ、餅など買いととのえ、彼にもまたその朋友にも与えんと出でしことあり。小生はそのころもやはり読書などするより、ややもすれば夕刻ならでは出でず。故に早稲田に入るときは、はや日没し暮《くら》きこともありて、林中ものすごく風すさぶ夜もありたり。さてまた、小生前年右述の某氏と同宅し、墓所の近辺の至ってものすごき林中の一軒屋にその妻(洋人)および子と四人すめり。その子をば泣くごとに小生これを静め、もりせるなり。さて某氏の父は維新の旧勲大なる人にて、毎度そのことを承れり。かつこの人の友に薩摩人ありて、それよりは、これより一年前にしばしば南洲が大島に苦辛せることを聞けり。またそのころ新聞広告に、南洲が佐藤一斎の心学の書を抜抄せるものを売り出す、と広告せり。これにてこの夢に一々来歴あるは知らる。ただし林中ものすごきところを走ると見しまでは一条の連絡あり。さて小児なきしを楔子《けつし》として某氏を打ち出す。これは何の証拠なきも、小生の眠りおるところの隣室にて小児泣き出でしなるべし。
 第三、中井氏方にてお目にかかりし数日前、小生友人に一書を寄せし中に、高野山の僧徒が戸屋某というものを?殺《こうさつ》したることを述べ、小生前年その子孫の家を見てむかしを忍べる等のことを書せり。さてその夜早く寝に就きしに、夢に旧友波木井九十即というものと船にのりて、高野山を北に見て紀川を西へ下る。(これ理外なり。何となれば、高野山を南に見るにあらざれば紀川を西へ下ることはならぬ。)さて川を見るに、『和漢三才図会』に見えたる?《げん》のごときもの二つ泛《うか》び来たる。それより船危くしてほとんど覆《くつがえ》らんとす。二人の膝よりころげおつるものを見るに、みな書籍なり。と見てさむれば、夜雨軒を打ちて蕭条たり。
 その音によりてたちまち想起せり。今より十一年前、父母および弟と高野に詣し、帰るとき船に上がり紀川を下る。岩手にてしばし船止まり、皆々陸に上がり、大便小便などす。小生は船中に止まりおりたり。四方はみな篷《とま》にてかこ(145)いたれば外も見えず。しかるに一種異様の音しきりに聞こゆ。小生の父が伴い行きし出入りの町人松村という老人いわく、これは川が二つ会する所(野上川と紀川)にて、川底の石礫が水に軋《あつ》してなるなり、という。小生は雨の降るならんと思い、見出でしに雨にあらざりき。その老人いわく、家にありて雨をきくに似たるゆえ左様いうなるべし、と。(これは日本にて、紀州辺でオダレとか申し、銅のといを軒にかける、それに雨のあたる音のごとくなりしなり。)故に夜雨の英国で蕭条たる音とは異なり。されど、この夜雨蕭条たるが耳覚に入りて、それより日本にありし日のオダレに雨のおつることを経て、右の高野詣でのことを思い出だせるなり。
 波木井というは、その二年前に小生と友たりしが、東京に遊学せり。さてその母かなしんで、やがて父と共に三味線工を止め、東京へ引つこしたりとのことにて、子を愛する人なりとて毎度その近傍のもの来たり小生の家で話す。小生もその人を知ること久しかりしゆえ、いつもこの人のこと思えり。さてその時船中に三味線屋の男一人ありて、右の波木井のことなど語りおりたるなり。夢中に?を見しは、この日『五雑俎』を見しに?のことかきありし。船危しと見Lは考え得ず。されど書籍は、小生その夜は然《しか》せざりしが、毎度臥に就いてもなお小詞など一時間ばかり見る。ために三、四、五冊も重ね、ときとしては胸の上においたままねることあり。それより考うるに、その夜も読むつもりで三、四冊ベッドの上におきしが、小生の体動くに従いてころびしにや。かくのごとく気づいてみずからその方法をもってしらぶれば、夢なども条理来由は多少あり、ただ混雑せるなり。
 小生の事の学というは、心界と物界とが相接して、日常あらわる事〔傍点〕という事も右の夢のごとく、非常に古いことなど起こり来たりて昨今の事と接して混雑はあるが、大綱領だけは分かり得べきものと思うなり。電気が光を放ち、光が熱を与うるごときは、物ばかりのはたらきなり(物理学的)。今、心がその望欲をもて手をつかい物を動かし、火を焚いて体を媛むるごときより、石を築いて長城となし、木をけずりて大堂を建つるごときは、心界が物界と雑《まじわ》(146)りて初めて生ずるはたらきなり。電気、光等の心なきものがするはたらきとは異なり、この心界が物界とまじわりて生ずる事(すなわち、手をもって紙をとり鼻をかむより、教えを立て人を利するに至るまで)という事にはそれぞれ因果のあることと知らる。その事の条理を知りたきことなり。仁者《にんじや》試みに手をにぎり合わせて右手をもって左手をついてみよ。左手がつかるる感覚よりいわば、右手は物にして左手は心なり。右手の感覚よりいわば、右手は心にして左手は物なり。洋人を始めて見たときは何やらわけ分からず。されど外邦に久しくおりて、たちまち日本人を見れば日本人もまたおかしなものに見ゆる。これを要するに、一の洋人も日本人も居る地にありて観察すれば何のところが異なるか何のところが同じきか等、一体の事の知らるるものなり。今の学者(科学者および欧州の哲学者の一大部分)、ただ箇々のこの心この物について論究するばかりなり。小生は何とぞ心と物とがまじわりて生ずる事〔傍点〕(人界の現象と見て可なり)によりて究め、心界と物界とはいかにして相異に、いかにして相同じきところあるかを知りたきなり。
 仁者あまり西洋の哲学書よまねば、畏《おそ》らくはかようの論は心に入らぬなるべし。それは是非もなし。
 小生の易のことをのべたるは、たとえば、謙すれば益をうく、満すれば損を招くなどは、実にこの事〔傍点〕に徴してあらそわれぬ道理あり。かつ易は三才の盛衰の理を述べたるものなりとの説多きは、仁者も承知ならん。ギリシアにもピタゴラスの卦ありて、かかることをとける由なり。小生は、すなわち易をもって高島氏ごとき卜筮の書とは見ず。全くこの天地間、ことに人事(人事とは男女交合のことをいう由。ここにはただ人間に生ずる一切の事件という意)の次第を説かんとしたるものと見るなり。今、仁者の隣に八百屋あり。さて一丁さきにも八百屋あり。しかして一丁さきの八百屋は、仁者の隣の八百屋よりも値高しとせよ。十中の九(何か由来他になくば)は、仁者は一丁さきに買い出でずに隣舎で買うものなり。仁者上野辺に住んで事を人に問わんに、一人は根岸に住めども一週間に数日も家におらず、今一人は浅草に住み、いつも家にある人とすれば、仁者は十中の七、八、根岸の近きに行かずして浅草の遠きに行くべし。すなわちかくのごとく、多く事実を集めて、未来を察するの術とみるなり。ただしこれは小生の易道の(147)説なり。小生の事の学というは、易ぐらいで足ることにあらず。
 科学のみで今日まで知れたところでは、輪廻《りんね》ということはたしかにあるごときも、科学のさわること能わざる心界に輪廻行なわるるや否やという問いには、実に答えに苦しむ。何となれば、小生今日悪念を生じたりとて明日別にこれがために懊悩せず。多くは忘れ終わるものなり。されば物界に生ずる、これこれの水をこれこれの温度にたけば、これこれの蒸汽を生じてこれこれの大いさの物を動かすというとはかわり、心界に生ずる現象はあるいはつねに報あらぬものにやとも思わる。(仏教徒も多少この事〔傍点〕の変化を知りたればこそ、十二因縁等の目も出でたるなり。)これをきわむるには、小生一人の心できわむるよりほか仕方ないが、右に申すごとく、心界中のみには輪廻ということは、たしかに小生には見えぬ。
 すなわち石が堕ちて瓶にあたれば、石が因となりて瓶を破るように、今日小生善を思いたればとて、別に思うただけの報を思うものにあらず。また悪念を起こせりとて、別に後日これがため悪事を念うということもなく、ただ一座なりのようにも思う。ただ心界に感ずる因縁応報というは、心界が物界に接して作用(事〔傍点〕)を生ぜし上のことで始めてあらわるるものと思う。すなわち小生が人の物ぬすむは、小生の心が手(物)をつかいて物(物)をぬすむという(事)作用を現出するなり。その返報としては、あるいは小生が人(小生より見れば物)でどやさるること等あるべし。この物心両界が事〔傍点〕を結成してのち始めてその果を心に感じ、したがってその感じがまた後々の事(心が物に接して作用を現出すること)の因となるなり。
 さて人間の心には望ありて手足を動かし、また面貌にも見せ、屁をもへりて事を生ずるものなるが、石や瓦、水、土、机などには心なければ望もなし。故に石が堕ちて瓦を破る、水が火を滅ぼす、鉄鎚がおのずからおちて爆裂薬を暴発する、日が地球を引く、月が地球をめぐる等のはたらき(同じく事なれど)は、人間界に現ずる事〔傍点〕とは大いに異なり。さて無心物の界中には、それぞれ力というものありて、いろいろはたらきおる。それには諸科学ありて、いろ(148)いろの原則を見出だせり。さればまた心界中の諸現象、たとえば花を見て美しいと思い、また眼を閉じ耳を塞ぎてもいろいろの意想、思考等を生ずるごときは、心理学にてどうかこうか端を開けり。今、小生のいうところは、さて物にはそれぞれ力ありて、あるいは動き、あるいは静かにしておる。また心界にはいろいろ考え欲し、感じおる。この心界の諸現象が右の物に摂して、その物の力を起こさしめて生ずるものが事〔傍点〕なり(心物両界連関作用)。この事〔傍点〕の一切の智識を得たしというなり。
 英国のスペンセル氏の『第一原則』に、天地間の波動説を挙げたり。波涛が凹凸して動くより、物体の顫動、光線、音響の波動等より、病人に熱のさしひきあり。学生が試験前に勉強して、またなまけ、また勉学し、またなまけ出す等のことまで出せり。取りも直さず、易の満つれば欠く、亢竜《こうりゆう》悔いありなどいう理が、月盈つればかけ始め、潮満つれば引き始め、府庫充ちて弊事起こり、また鉄砲の玉が一番高きに達せるは落つるの始めなり、それから人間があまりいばり過ぎると零落の端を開く等の、物の力にも人の事にも通じて一大原則となりおるがごとし。すなわち、小生はかくのごとき大原則を事〔傍点〕の中より見出だしたきなり。
 小生が浮世論は、仁者が宣うごとく、人の死生に動ぜぬべきをいえり。これは小生当時病気にて熱はなはだしく、死にかかりおりしときの作なれば、自然このことをかけるなり。しかし、小生のこれを書きて友に与えし主意は、末段にあるごとく、この世には一条の理ありて、むちゃなるものにあらず、故にこの世を憑《たの》んでできるだけ事業(言をのこすも事業の一)をなすべしとの意なり。仏の大学者クァトラファジュは古今社会のことを論じて、人間に慾望(隴《ろう》得るに安んぜず、また蜀を望む)は大切なるものなり、社会の開化はこの一事におこること多しといえり。小生の右の文もこのことをいえるなり。すなわち人間は平生なにか望をもちおるべしということをいえり。望なしおわらば(さて命もあらば)、他の一事を望み成すべしという意なり。
 仁者、葛飾北斎の「人だまで」云々等のことを引きて何ごとでも死生の覚悟はあるべきをいう。まことに然り。(149)現に草賊などにも、立派に辞世よんで死するもの多し。しかしながら、むかし「程正叔、江を渡り、中流にして風浪たちまち起こるも、怡然《いぜん》として動かず。薪を負う人あり、これに問うていわく、公はこれ舎《す》てて後かくのごときか、達して後かくのごときか、と」。それ舎は性命死生を軽んずること?非告子《じひこくし》がごとし、達は脩短得喪《しゆうたんとくそう》を斉《ひと》しうすること漆園子桑戸《しつえんしそうこ》がごとし。「舎《す》つるは直《ただ》これ勇往して顧みざるもの、達するはすなわち見解《けんげ》あり。舎つる者はいまだ必ずしも達せず、達する者はおのずから舎つべし。江を渡り、中流にして風浪|作《おこ》れば、たとい舎てざらんと欲すとも、逃れてまたいずくにか之《ゆ》かん」。(謝在杭の説)私は草賊の辞世と、画師や小説家のげんきと、達人の死にようとは、異なることあるやに覚ゆ。ただし、死んで見ずば分からず。しかし小生は舎で、柔術にまけおしみで気絶せること多く、洋行後も一度ありたり。何でもなきものなり。しかし、世にはむやみに死をおそれて不義不仁のことするものも多ければ、あまりに不美なる死に様は願わくはしたくなきことに候。
 仁者、小生が仁者の問わんとするところを左道と称せるを反駁して、小生が仏法を助くるに必要なる科学哲学をもってせるを、心内の妙味なしという。すなわち小生の心内の妙味とするところと、仁者の妙味とするところと異なるなり。しかしてまた西洋には人物多しという。実に解せず。
 また小生の梵天を信ずるの説について、これは法身如来説という。しかし、貴説には体内に十界を蔵すといえり。しかるときは、小生のみずから信ずる説とは大いにちがう。小生のは、この世のみ十界相ありて、死ねば一に帰し十界もなにもなしと思う。しかしてこの世諸物と梵天体は同一地を占めながら界異なれば、仁者の影、小生の肩にうつれりとて、小生体中のものにあらざるごとく、また小生の肩、仁者の影に取らるるものにもあらず。故にこの世にある間の諸物は梵天体に属せずと思う。
 仁者、欧州の科学哲学を採りて仏法のたすけとせざるは、これ玉を淵に沈めて悔ゆることなきものなり。小生ははなはだこれを惜しむ。心内の妙味云々は、仁者一人の楽しみなり。しかして、何を修めてもそれ相当の楽しみはある(150)ものなり。一人の心は千万人の心なり、と杜牧之が既にも見えたれば、仁者一人の心を今少し広くしてこれを千万人にあて及ぼされたく候。
 小生は、仁者の真楽とは同説なり。小生は、あるいは真楽の一分は得たるにや。たとえば乞食を見れば実に乞食はかあいそうなものと感じ、老人を見れば老人はたよりなきものと感じ、月を見れば月は澄んだよな、川を見れば行く水の流れは清くして元の水にあらずと感ず。さてその感ずるには、仁者は例の内典、小生はまた手当り次第知りおきて、数千歳前の故人の言を思い出だして感ずれば、なお一層の感あるものなり。小生などは、仁者のいわゆる真楽も、今の世においては文事なしには享け得ずと思えり。小生、熱地の海浜等にて地に坐して海をながめ、いろいろ海に関係ある古人の語など想起し、また海波の岸を打つ音を聞いて補陀落《ふだらく》の順礼歌など思い出だし楽しみおりたり。側にありし黒人もやはり同じくすわりおりたり。されど小生の方、真の楽は多かりしようなり。これ多く事を知れるによる。小生、少時毘沙門天の呪を教えもらい、十一、二歳までこれを唱えて満足しおりたり。これは貧乏にて書など読むを得ざりしゆえなり。今思えば、それでも満足の地にありしなり。
 しかし、螢の光はランプの光より弱きことのようにもおもう。同の点よりいわば、諸教みな同一事を述べたるものなり。異の点よりいわば、仏乗中にも、耶蘇《やそ》教中にも、回徒中にも、氷炭の争論はあるなり。しかして小生は、実に耶蘇教に自由平等の意多く、回々徒に勇猛不避の訓え多きを知りて、実にありがたく思うなり。すなわちありがたく思うが心内を楽しむものなり。すなわち水を観ずるときは、山を観ぜずとも水を観ずるが、すなわち心内の妙味なり。また瞑目して諸哲の言行を記臆し出だすも心内の妙味なり。小生は法華門徒の老婆が、ややもすれば一を執して相|謗《そし》るを笑う。かつそれ仏教のみ宗教という極印のすわれるにもあらざれば、何の宗旨のことでも観じて楽しむは、これ真の楽しみなり。しかして諸教の中よりは、古来多くの仏教奉ずる人にまさりし人を出だせしなり。その結果として、仁者も実に海外人物あり、海内には乏しとて、小生ごとき真内の妙味少なしと思わるるものまでにも帰国をすすめら(151)るるにあらずや。海外に人物あるは、偶然一朝のことにはあらざるなり。
 小生に諸宗教のことを問わる、これはなはだ難題なり。小生は何ごとをもって概略として申し上げんかを知らず。要するに仁者みずからこれを究むるの外なし。何となれば、小生は諸教みな宗教なりとし、仁者は仏教を中央におくがごとくなればなり。ただし、小生、耶蘇、回々の二教は実に仏に比すべきほどの来歴ありて、それぞれ条理もあることと思えり。宗教の概略としていわんは、前に仁者が答えられし浄土、一向、時宗の解ぐらいのことに過ぎず、無用なり。ただし、右の三大教の外に拝火教(Zoroaster《ゾロアストル》という人の教え、梵教と帰源を一にす。この教えが今日のボンベイにのこれる拝火教(パーシイズのこと)の一派をのこせり)およびユダヤ教と梵部諸教は、はなはだ必用なるものとして学びたしと思う。しかし何をするにも信の入るものにて、小生はそれぞれ信をいれてやる。決して馬鹿とか間違えりとかは思わず。仁者も、いっそ小生が娼家に宿して娼女の間に交わりて一たび淫せしことなきがごとく、これもまた心得、通人になる道この外になしと一々大概を見ては如何《いかん》。二月上旬に出立ならば、それまでには間はあるなり。Clarke の『十宗教論』は至って簡便で概略挙げたれば、仁者、文庫にて借覧したまえ。小生の国にはあり。故に仁者買うに及ばず、小生より寄付することとすべし。
 裸身外道のこと、ちょっと前状に訳出せり。これすなわち Jainism なり。なお次回に送る『仏教講義』の中でそのところを見たまえ。ただし釈教の書にみえたる裸身外道とはこのことなりや知らず。何にせよ、裸身を主張するものなどは幾程《いくほど》もありしなるべし。キリスト教にも中古シリア国にあり、裸身にて生草を馬牛のごとくに食いたるなり。この宗教の経には、仏教を攻撃せるものもありとか。大鳥圭介君、東京学士会院で明治二十三年ごろの演説に Jainism を禅宗と訳せり。禅宗は仏教の内なり。何ぞこれを別立していわれんや。学士会員たるものすら、かくのごときよいかげんのことをする。実にわが朝には法螺の人多し。小生これを厭う。しかし人にあえば、ややもすれば自分よしと思うていうたことも誤りのあるものなり。故に人に交わらず、招聘みな就かず。ただ仁者これを吹くこと大なるゆえ、(152)小生大鳴するのみ。故に小生誰にあうてもかかることばかりいうものと思うべからず。小生、事の上に功を立てよという。そのことを念ずるゆえに、文筆の才少々ありながら一向出さずにおるなり。しかし、これは身後に分かることなれば、今いかに大きなこというも少しも役に立たず。故にだまりおれり。また雑誌投書をすすめらる。これまたただ文雅高論を衒《てら》うのみ、究竟《くきよう》無用なり。
 文庫を設立するもまたあまりに始めから法螺なく、ただ自分一人にて読む考えでやるべし。同志の人篤くこれを閲せんと願えば歓を分かつまでなり。さて行く行くは内外典《ないげてん》、種々の瑣語、小詞までの書を集むべし。ショッペンハウエルの譬喩に、メインセの大寺観ははなはだ宏麗なれど、周囲に人家稠密してその景を全くせず、といえり。これ一事起こりて発起人の意は純善業にあるも、ややもすればこれを好機関としておのれの慾を満たさんとするもの蠅のごとく集まり、ついには何の善業なきものとなるをいえるなり。何しろ地方の辺鄙にこれを立つべし。志あるものは千里を遠しとせずして来たること、足利の末に乱世をもかまわず、全国の好学の者、いり豆など携えて足利の学寮に集まりしごとくなるべし。さて余りあればその地方の小児、俗士などの読書を好むものに多少の書を読ましむれば、日本全国の文学の中心となさんなど大きなこと始めから主張して、何の事も挙がらざるにまさること万々なり。
 欧州の一汎教育に耶蘇教義多く入れるは、日本の小学読本に忠孝のこと多くあるがごとし。故に仏家の十善を入れるもよいが、従来例のなきことなれば、必ず一利に伴うの一書あるべし。道竜師の説のごときは、米国のカソリック徒が、神が世を作りしということ、神が世を支配するということを外にして、ただ理上より世の盛衰の所以《ゆえん》を論じたる、史書等を一向教科書に用いぬ等の流義のよう考う。すなわち一事一句も、仏経の意に合わぬものは廃棄捍禦するの策なるべし。その結果としては(このこと実に行なわるれば)道徳のみ頑乎として堅く、社会の進達ということなくなること、今日の回々徒、カソリック徒の邦国のごとくはならざるか。道徳至善の域に達したりとて、智識(ここにいうは心内の妙味等にあらず、社会物体上の開進に必要なる科学)進まずんば、これ化石様の社会なるべし。さて(153)その社会ばかりならばそれでよいが、他の社会の智の発進せるものの力に圧せらるるときは、一社会困究のあまり至善の域に止まることもならぬなり。小生はなはだこのことを憂う。たとえば不殺生戒のごとき、みだりに一物の微なるをも殺さぬこととすればよいが、もしこの語を守りて一蹉跌すれば、牛を解剖して人の生理を察して医術を助くることもならぬにあらずや。
 小生は、仁者の西洋の語言自由ならざるを短とす。かくのごとくにして狡獪《こうかい》集まり婦女横行する大市都に塵同し、しかしてその一国一国の偉人が心内の味を知るか否を験せんとするは、暗中に模索してあちら向いたランプの光に察するごときにあらざるか。それではチベットへ往きても、わずかに喇嘛《ラマ》の服制、僧侶の布施の高を知り得るのみ。どこへ往きても同じことなり。小生はこのことを懸念して、今その言語を学びおれり。もっとも十分に知れるはずはないが、さし当たったことと筆談のできるぐらいのことは知りおきたきのみ。いかにも事を成すには神算等のあるべきにあらず。されど、あまりに心得なくして行かんは、酒好むものが銭なくして酒店ならべるシン川《かわ》の街を走りたるごとし。一体、日本より外国に行きし人にこの流の徒多し。否、小生の知るところにはこの流の徒ばかりなり。
 西洋の哲学は方今、無神論と有神論の戦いなり。これは仏徒の関することにあらず。しかれども、希わくはこの適従するところなき無神論者をして帰するところの正を得せしめたきことなり。しかしてこの無神論者はみな科学の三験に徹して、物体開化上はなはだ有用の人物のみなり。しかして仁者いたずらに心内の妙味のみを説いて、科学の大功用、大理則あるを捨つるは、はなはだ小生と見解を異にす。しかして今の有神輩というは、実に古人の糟粕を列する輩に過ぎざるなり。あるいは一時を救うの権謀家なり。されど、その有神論者中にはずいぶん仁者がいうほどの心内の妙味を感受せる人ははなはだ多きようなり。されば心内の妙味の一段に至りては、仏も耶蘇もかわりたることあるまじ。かつそれ仏、単に有神を撃破せんとつとめたるにもあらず。ただ天部の神界に超絶せるの界を示せるものなれば、有神を唱うるの徒も、実は仏教の一部を得たるものなり。されば仏者の至穏至便の法としては、神もまたある(154)ものとして包蔵し、ただその上に超出するの法あることをとけば可なり。
 これをなすには、諸外教のことを知るはもっとも必要なり。それも多くかかることにあらず。その諸教の戒、律、経伝、理論およびその諸教の偉人の言行録を見れば知らるるなり。これをなすには、さしあたり仁者みずから脇尊が奮発にならいてやるの外なし。小生は今にやりおれり。他日もし幸いにこのことを遂げば、諸教要領とかいうもの作りて仁者に呈すべし。ただし、はなはだむつかしき事業なり。今のところは一紙筆に述べ得ることにあらず。故にただ仁者みずから小生のごとく食を減じ衣を麁《そ》にして、その事を多く求めてこれを学はんことをすすむるなり。日本の坊主ら、いりもせぬ増上寺の堂や金剛峰の大塔を心配して、成らぬことを企つるよりは、外教の経典注疏を翻訳して利用することをせぬは、実に実にたわけたことなり。
 現在ロンドンの金粟《きんぞく》如来は、今しばらく菩薩に成らず、やはり辟支仏《びやくしぶつ》でおる。ただし室内には三万二千の獅子の宝座を設けたり。ただ文殊師利いまだ到らざるをもって、「悲しみ生じて空しく懊悩し、全身|太《はなは》だ枯槁する」の時にあり。ただし仁者は大分話せる人なり。追い追い入不二《にゆうふに》の法門を説くべし。
 仁者、パリの悪党多き地におりて、その上に小盗多く、男は女のきげんとりに生まれたるという。いかにも然り。美服きて盗行のものは開化国には多し。されど今欧人が日本に来て、日本の女は男のきげんとりに生まれたりといわば如何《いかん》。われらもこのことのために国を出でて父に見《まみ》ゆることもならず、父は死せり。いかなるよきことを釈迦、孔子がいいたるにもせよ、この一事は東洋の風はなはだ悪い。すなわち小生の至親にして、今もこのことのために一家のもめを引き出しつづけおるものあるなり。小生はこれを快しとせず。されどこの者一人これを行なうにあらずして、いわば日本には尋常のことなれば、無学のもの、いずくんぞその非を知らん。小生の父もいろいろ心配もありたるなり。さればわが父の心配せしを見て考うるに、この者もまた子を持ちて後かかることのみするものならんには、この者の心配もまた父の心配を追うなり。何とぞかかる悪業因を根絶したきことに候わずや。
(155) 従来、東洋に男子が女に対する行いは、はなはだ放恣なることあるにあらざるか。されば「仙台萩《せんだいはぎ》」の騒動を始めとし、一家一属の末に至るまで、この業因のためにいろいろの苦相を顕することはなはだ多し。かつは驕奢、贅沢、無明《むみよう》の地に遊蕩して諫を捍《ふせ》ぐの智、親族に遠ざかるの術、骨肉をも鷙撃《しげき》するの心は、多くはこれより生ず。われら薄達にしてむつかしきことは知らず。せめては自分が経験し、苦痛を感じ、しかして自分の友人もまた多くこの苦を感ぜりということだけは、弊事を去りたく思うなり。弊事を去るも一利益を起こすもその効は多少なし。仏徒中にもずいぶん高名なる人で、年七旬に近く子も多きに、なお年若き妾を蓄えたる人あり。内幕にはずいぶん如何《いかが》なることもあるやに承る。かかる身の行いで小学校に仏教をおしつけんなどは、実に「これはすなわちこれ一箇の悪賊、ただ耳を掩《おお》うて鈴を偸《ぬす》むことを解するのみ」というべきか。しかして遠きに及ぼすは近きよりすることなれば、せめては仏徒中にだけなりとも、かかる行いはなからんように願いたく候。しかし仁者は、それは俗事なり、かかる火宅僧はわが宗軌になし、などいわばそれきりなり。ロンドンの金粟如来より見れば、「道《い》うなかれ、仏法を会《え》すと。箇《ひとり》の挙話《こわ》の人を覓《もと》むるに、またなし」じゃ。何となれば、仁者、一意僧門中の改良を謀りて俗事をかまわねば、俗人と僧徒と別になる。さするときは仏法少しも弘まらぬなり。
 小生は男女平等の権利を享くべきものとは到底思わぬ(科学上の理別より)。しかれども、その平等人権を得られぬような因果な身なればこそ、一層あわれんでこれを賤しめざるようにしたきことにあらずや。かつそれ女人は定《じよう》あるいは男子にもまさることの多きものなり。しかして男子もまたこれに胎し、これに育せられ教えられ戒めらる。さればスパルタのある女は、われは歌舞を解せず、強勇の男子を生むことをよくす、といえりとか。すなわち一休和尚が陰門を讃して「十方の諸仏、出世の門」といえるもこれなり。われらの父は一生われらの母と和親してすみたり。芸者買うの妾おくのなんのということは露ばかりもなかりし。もとより無学の人どもなれば、なんにも知らず。されど白貫師などに詣して聞き得たる因果話、または地蔵の和讃、大日真言などを聞かせて育てたり。この和讃、この真(156)言のかたことばかりの中に、在英の現在の金粟如来は生まれたるなり。土宜師もずいぶん渇仰恭礼したまえ。されば子の根性は全く父母の行に因るものなり。父母はその気でせず、ただ子供ねさするために唄うた和讃や粉川寺《こかわでら》の順礼歌も、子に取りては無上の教育じゃ。
 小生海外にあること七年、その間多く日本の人に交わりたり。いずれも軽薄浮転の輩なり。その人々の乱行の起りをきくに、多くは女のことより始まる。女のこと乱れ出せば金がかかり、金がかかるときは貧乏す。貧乏から借金、それから虚言となる。虚言は諸悪行の初段なり。さてその人々の父母を念ずること、いずれもはなはだ薄い。かかる子で子にあらぬほととぎすを生んだ人はいかなる父母かといろいろ承るに、多くはこれまた女の方の品行わるいとか、家においた書生とちちくつたとかいう口舌《くぜつ》のある人のみなり。されば男女夫婦間の道義は、願わくは今少し高くしてほしきものなり。禍いは閨門から生ずるとは、実によく言うたことと存ず。小生は仏徒、例の静坐沈黙して不説不問の心内の妙観などするのみといわば止まん。もし然らずとすれば、何とぞ俗士凡衆にといてこの一事を改良されたきなり。墨子が、父も子の孝を求めず、子も父の愛を求めざるに反し、小生は父は子の孝を求め、子も父の子に恥じざるほどの行いを求むるというようにしたきなり。
 門閥を削るということは、小生は主として俗間のことをいうなり。されどこれを始むるには、やはり僧徒自分でし始められたきことなり。いかにも僧はさまで俗間のことに手をさし入るるものにあらず。しかしなるべくは、俗人にもこのことを減ずるよう説かれたきなり。われらは門閥ぐらいなんとも思わねばかまわず。昨日も一人の子爵より招きに来しが、この膝久しく人のために屈せず、熊楠を友とせんとならばみずから来たれ、熊楠汝を友とせんと思わばみずから往くべし、とことわりやりたり。仁者なども、思うに今の華族などいうものは、錦著て蒲団の上の乞食同様に見るならん。しかし俗間にはかかる者に圧せられて喪気し、したきこともなし得ぬものの多くあるなり。一国元気の堕つる元なり。よろしくかかる弊事を去ることとしたし。かくいわばとて、因縁のあるものなれば、華族ことごと(157)く平らげてその公達《きんだち》のおかまほらんなどいう考えにあらず。それはその者どもの福分なれば、小生など下人ながら多少の学問はまた彼らにまさる福分もあるようなもので、一向かまわず。ただかの者ら、その福分をよく利用して、さらにその福分を益《ま》さんことをすすめられたきなり。今の華族や官吏などに、何も分からず、ただ無智無学の者をおどしつけて快とするようなこと多し。
 仏家に今日自主の気象盛んなりとは実に新聞なり。それならば、いろいろの寄付金や勧進帳をもちまわったり、また伯爵ではいかぬ公爵にせよなど請願などすまじきはずなり。たぷん小生のいう自主は、仁者のいう自主と異なるならん。
 日本の若いもののうちには、ずいぶん有為の人あるなり。この者ども何のわけもなく耶蘇教などになるは、みな仏徒がしようの悪きなり。仁者など、この輩が半わかりになりおる哲学科学は全く仏教中の理を述べたるものなるに気づかずして、哲学科学などすつれば、この徒はいよいよ背いて、止むを得ず哲学科学と全く反馳せるながら耶蘇徒がどうやらこうやらこれを包蔵しおるに感じて、それに帰してしまうなり。「如何《いかん》ぞ塵中の塵を射ることを得ん。山《さん》いわく、箭《や》を看よと」。
 前夜、中井方で参会したまえる中村錠太郎氏は好学の人なり。毎夜事務の暇に科学書を読み、間々小生に疑いを問われ、また時々博物館に同行して種々のものを見る。たとえば沙漠にすむ虫の沙色し、木葉にすむ虫の、木葉生々するときは縁に、枯るるときは赭となるごとし。この人これによりて耶蘇の教えを信ぜず。されど、ただ無神とまでにて別に帰するところも知らぬなり。日本の人にかかる人多し。かつわが国の開化上進するものとすれば、それに付いて科学上進すべし。しかるときは、この輩必ず科学原則を推して無創造説をとなうべし。しかるに、わが国には従来耶蘇の教え浸潤しおらねば、この輩相手なしの口論に口を費やすこととならんか。(神教の神は、祖先の徳を仰慕、追念、報恩までなれば、平田などの天御中主尊《あめのみなかぬしのみこと》の創世説(これは西村茂樹先生の説には、耶蘇をもととして作り出だ(158)せるとのこと、小生もはなはだ左様思う)の外は、耶蘇にいうごとき神にはあらず。耶蘇教にはずいぶん先祖をおがむことを罪としていいたるところもあるなり。仏教には小生知るところには左様な無人情なことはなしと存ず。また儒の天というものも、宋儒などは今の欧州の無神家のいうごとく、天は理なりなどいう。しかし、創世等のことは一向いわぬようなり。されば日本におりて創世説を駁するは、相手なきことに舌を労するなり。)それよりはこの輩をしてことごとくわが輪廻法を知らしめては如何《いかん》。要するに、わが仏教徒ややもすれば科学などを心内妙味なし等のことで駁撃するは、ローマのカシウスが味方の軍兵勝利を得ておのれを迎えに来たれるを敵と心得、失望して目刃せるに似たることはないか。故にいわく、淀川の水|浄《きよ》からばもってわが喉を湿《うるお》すべし、濁れりとも明礬ですまして、やはりわが喉をうるおすべし。直ちに足を洗うには及ばざるなり。
 仁者は、目今の科学ははや古いことをのみ喋々して、その説明を得意とすという。小生考には、科学の原則はわずかに三十年前後ダーウィンが自然淘汰の実証を挙げ、それよりスペンセル輩が天地間の事物ことごとく輪廻に従いて変化消長することを述べたるにより、大いに定まれるなりと存じ候。三十年前はさほど古いことにあらず。仁者が、六、七歳のときなるべし。かつ科学者が大地日月の破壊、また復生、また破壊のことを算定するなどは、実に仏経の成劫《じようこう》の説にはなはだ似たり。(現に今日も、天に星雲ネビュラとて未成の大地あるなり。)おおよそ耶蘇教は至って浅近なる言のみを祖師が言うたゆえ、科学上に一新発明出ずるごとに人の信が薄くなる。すなわち祖師の言わぬことに理証多くして、言うたことのなかにまちがいあればなり。しかるに仏教中には、これらの新発見ぐらいのことは一々予言しある、まぐれ当たりなるべし。されど、とにかく仏経は理想の深いものゆえ当たること多きなり。されば仏経を信じてこれらの発見をつとめて世を利せば、事に障礙なくして早く事が挙がるようにおぼゆ。すなわち科学は輪廻を人の功徳(発明をつとむるは、社会に対して大功徳と存ず)にて増上するなり。
 小生は、仏説中に天地間の諸理はことごとくみな神の意のままに従うなどいうことあるを聞かず。耶蘇徒の神意〔二字傍点〕と(159)いうことを主張する派、仏徒が因縁〔二字傍点〕を主張するに等し。さて因縁ということ、今日科学上どうあっても免れざることとまでつきとめたが、それに従って神意〔二字傍点〕ということの信仰はなはだ危殆の地にあるなり。この勢に乗じて、仏徒が科学をわが掌中ににぎりたらんには、それこそその教理とするところが目前に証が挙がり、かつ世用にはなはだ大なることにして、実に事理無礙《じりむげ》どころか、事理符合なり。しかるに従来僧になるような人は、いずれもかかることにはなはだうときやくだもの、または偏物のみにて、鳩摩羅什《くまらじゆう》の天文、一行《いちぎよう》の暦数、わが国には鑑真が薬物学、浄蔵貴所が算術等の外、一向科学に通ぜし人あるをきかず。これまたありとても、世人に見せて何か妙法とでも思わすようなことですましたるなるべし。今のごときは邦国競争して、物体上の開化によりて盛衰強弱あるの日なれば、何とぞして科学を興隆したきことなり。なるほど回々徒も一時科学を起こし、耶蘇の僧中にもこの学の偉人はあった。しかし、神意を軽んずるとか天機を洩らすとかいうことで、多くは忌憚されしなり。されど、多くの学者はそれをもかまわずに言いはり、ブルノなどは焼き殺され、またスピノザなどは一生友なしに石を研《みが》いて貧苦して死せり。今、わが仏教の徒が科学やりたりとて、仏教は天機とか神意とかいうことを少しもいわぬものなれば、何の障礙なく、はなはだ仏教の原理たる因縁を示すに要あることなり。しかるにかかる実効、実益あることに目は止めざるは、実に残念なることなり。
 かつそれ学問には順序あり。論理知らずに算学はできぬ。算学知らずに物理は分からぬ。物理分からずに生理は分からぬ。生理分からぬに心理は分からぬ。以上のものを少しも心得ずに、心理以上のことを知るを得んや。なるほど、仁者は心内の妙理を感受するならん。されどそれもやはり古人の糟粕じゃ。白楽天以下、近代のバイロン、シェリーに至るまで、物にふれ事にふれて妙想を陳《の》べたもの多し。「ほのぼのと明石の浦に」の詠も、意味の取りようで真言秘密の要旨に叶えりとか。経をよんで妙想を感ずるも、詩をよんで妙想を感ずるも、同じことなり。すべて事をして後に休んで楽しむこそ真の楽なれ。はじめから妙味ばかり楽しんでは世に益もなし。されば、小生は日本国の億兆こ(160)とごとく朝から夕まで妙想のみ感じ、それからまた眠りて妙想の夢みるようなことは望まず。至当の慾念もありて正しきことを望み、至当の智識ありて面白きことも聞き得、さて正しき想思ありて須弥を芥子に入るるような楽もあらんことを望む。
 たとえば百姓ごときものなら、朝おきて、雨天らしいから稲早く刈るべし、今日中に税を入れたいものじゃと望みてはたらき、さて茶を喫んで面白き咄でも聞き、夜になって例の楽しみは夕顔棚の下涼み、ててはふんどし裸《はだか》、妻は二布《ふたの》してでも蚊の声につれて和讃の一つも思い出だし、月を見てはさても今朝は陰《くも》りしに、よく澄んだことじゃと観ずる。それからおのれ正直なれば安んじて、どんな夢かは知らぬが、たちまちねてしまう。これほどのことにありたきなり。すべて妙想とかいうことは、順序をへて智識つまねば正しきものは出でずと存ず。百姓なら千松《せんまつ》の七つ八つから金山に、またおしゅん伝兵衛のそりや聞こえませぬの句でも、一つより二つ、二つより三つ知れば、そのうちに妙想はあるなり。俗人の口に、あなたのようにいろいろのこと知ったらさぞ面白かろうということ多し。これ、これら俗人も、多少のことを知れば知るほど妙想の出でて、阿波の十郎兵衛がお主《しゆう》のために娘殺したことだけにても、そぞろ感じて涙の落つるが妙想ならずや。
 世に相手なしの妙想はなし。一身すら耳目も及ばずと禅語にいえり。されば、自分で自分の心を相手にして楽しむというも楽しまるる心があるゆえなり。すなわち自分の手で自分の手を押し、小児が手で頭たたいて楽しむに似たり。その物楽しむ心とはなにかというに想像と考思なり。楽しまるる心は何かというに智識なり。智識というものは多くは身外に接して得るものなり。故に内心の妙想を楽しむというも、身外の事物を内心に写して楽しむなり。?者《きしや》が外出にこまりて、鏡にうつれる戸外の景を見て楽しむがごとし。されば身外の事物を知らずして、妙想の多かるべきはずなし。仁者経を誦し、論を記して、それを自分の心に写して楽しむか。小生もまた古今成敗のあと、先人の言行、物界に行なわるる変化、社会に起こりし事実、詩賦に見えたる人情の発表を記して、自分の心に写して楽しむなり。(161)さてわれら瞽にもあらず聾にもあらざれば、やはり形あるものを心に写して楽しむときは眼前に髣髴として見え、音あるものを心に写して楽しむときはその音も聞くごとくなれば、人間 たるものは妙想中に感覚をくりかえすなり。
 そんなら、義とか仁とか形も音もなきことを心に写すは如何《いか》に。これやっぱり、聞いて知り読みて知りたるものなれば、仁といい義という音を口よりは出さぬが心に感起して、われらは日本人のことなれば、日本語でこれを心中に述ぶるなり。断食などしすぎるときは、眼前に文殊師利、普賢、セント・オゴスチンなどを画き出して、何も言語にては心中に述べず、ただ一概に恭敬、賛歎の念を生ずることあり。されどこれすら、かつて画に見たるものなどを想起するか、また見ずとも自分の想像でその徳に応じた形を画き出してのことなり。かかる妙想は、開化国の人、学問せるものにも必ずあるべし。すなわち彼輩もまたいろいろの世間の事実や人情よりゴッドと思えば、背に翼ある人のようなものを心中に画きて恭敬、礼拝すること、われらが金剛蔵王を思うときは鬼のようなものが片足ふんばったところを心中に画くに同じかるべし。
 人間の心力のはたらきは、科学者が星辰の運行力、音響の速力、光線の進動力をはかるごとくに算数もて測るべきものにあらざれば、ゴッドを想いて妙想を観ずると、仏を想いて妙想を楽しむとは、人々の生まれてからの習慣、またその人の触れ交わりし社会の風等によりて異なるのみ。いずれが大にいずれが小なるをいうは、はなはだ不当と存じ候。ただし、われらは少時の教誨、自分の経歴等によりて、上帝を想うよりは仏の方高しと思う。一《ひと》通り申さば、事物上の事を想うよりは、事物多くより総攬し出だせる理を想うこと高し。(猫も人と同じく顔洗うということよりは、猫も人と同じく顔を洗い、また子を育するに不行儀のことあれば叱る、妻乞う鹿は角もて争闘すということを総攬して、人間も動物も似たことあるというを知るは高し。それよりもまた、似たことはあるが大いに異なるところもある、人に生まれたるはわが因果が結構にや、と思うは高し。)事物多く総攬するには、事物多く知らざるべからず。故に到底事物の識を外にして、われらは心内の妙想なしと思う。すなわち、いわば一理に深く思いを沈むるなり。あ(162)るいは一感を重く心であつかうなり。この他には陸王の徒また禅徒の無念を求むるの法もあるべし。われらもそんなことしてみしに、例の薫習か、ただ邪念ないというばかり、到底は深く思いを沈め感を集むるの域を脱せしことなし。故に坐禅すれば詩句が出て来る。
 小生は、小生の心内妙想は、あるいは多人が及ばざるほどかとも思えり。しかして、世には小生よりも大いに妙想を楽しむ人もありなん。仁者、人のせぬことをしょうという。実に小生はこれをつとめおれり。仁者もまた人のせぬほどの妙想を受くることをつとむべし。これ右述のごとく、事物を多く知り旧を脱して新に移るか、もしくは旧を守りて新を加うるかの外にはなし。
 今年春末なりしが、石川という旧友来たり、小生が食いに行きし、乞食の食店に往き、二人、茶二盃のんで果子《かし》二つずつ食うてわずかに四文ばかりなりし。ロンドンでこんな店なれば、乞食の外に食いにくるものなし。夜の八時前なりしと覚ゆ、一人の老翁来たりて、今夜はさてもよい天空《そら》じゃというて主人に挨拶し、なにも食わずにすわりてそらをながめ、ややありて去れり。この石川は三菱会社を創立せし石川某という豪傑の子にて大富人なり。父母ともにおのれの幼なかりしときに死せし由。小生右の店にて果子を食い茶をのむに、この人はあまりにむさきものとて呑まず。小生はこの時、さてもかかる乞食の間にすら、人情ありて、毎日おのれが買いて銭を払いやる主人に何のわけもなきに挨拶することを知れり。またかかる落ちぶれた身にも、この雑閙《ざつとう》の地に夜、天をながめてその澄み晴れたるを観じて楽しめることと思えり。されば人間はいかなる境界にも楽地はあるなり。しかるに、この石川という人は年々金をつかい栄華にくらせるゆえ、餅も茶もむさきものは食わず。われはさしたるものの子にあらざれど、ちょっとは地方に知れた富家に生まれたが、好んで今にかく貧乏し、むさいものを食うてもむさしとは思わぬ。われはよほど楽しき地位に達したるものなりとて、心中に子瞻《しせん》兄弟南遷して梧籘《ごとう》の間に相遇い、餅を市《か》うて食わんとせしに麁にして食うぺからず、黄門|?《はし》を置いて歎ぜしに子瞻はすでにこれを尽せることなどを想い出だし、貧人必ずしも楽しみなき(163)にあらず、富人必ずしも楽しきにあらずと、エスキュルス(歟《か》、たしかに記せず)の言に、「おのれをば足らずと天を恨むなよ、それはおん身が了簡違い、天は衆生をみな幸せになるべきようにしたり」という句なども思い出して帰りぬ。これらもまた妙想を心内に観ずるものとやいうべき。また感慨上、文天祥が海を航して難に赴く状、楠公が子に訣《わか》るる状、子路が孔子を撃たんとして屈服せし状、真田が九度山にて父の臨終に話をききしこと、祈親《きしん》が父母の追善に高野の荊榛を分けて再興せしことなど思いつづけ、死したる父の一言一行、たとえば、どんな手つきでどんなものを食い、いかなることを語りたまいしかなど、また小生は生まれて来《このかた》女色は知らず、ただその情は読んで知るばかりゆえ、一向うといが、自分の経歴ある方のことはずいぶん思い出だして人情のわりなきことなども観ず。これぞ古人を師として千載の下その人にあう心地し、または父没すればその言を観てその行に及ぼす、舜が五十にしてなお慕いしことにも合い、またはたとい色情上のことなりとも、吉原の遊女瀬川とかいうもの、徳本上人に答えて、「田の面によなよな月はうつれども心とめねばかげもやどさず」、別にまらも立ちてこねば、たださぞかの者もかようにわれのことを思うなるべしと、妙な因果を観ずるなり。
 すなわち小生には一つの覚悟禅、何にせよ、妙なことじゃと思うが妙想なるべし。小生はこれらの外に心内の楽しみはなし。しかし、これのみで楽しみはすでに大いなることと存じ候なり。感慨は物理に支配さるるものにあらず。小生辞世の句として、例のどど一秘蔵せり。涅槃に先だちて仁者にのみ告ぐべし、いわく、「見えぬ山路を越え往くときにゃ鳴かぬ烏の声もする」。鳴かぬものに烏の声が聞こゆるはずなけれども、感慨はこれで小生には分かりおれり。されば心内の楽しみは感慨を主とするものなれば、たとい事物についてのみするも、決して理則にのみからまれず。故に形而下先生にはあらざるなり。
 舎利弗《しやりほつ》が、染工の子と鍛工の子に観をとりちがえて教えしを、釈尊が正せりとか。まことに左様じゃ。小生は、小生の知ること、歴しことを縁として、観ずるより外なし。
(164) 小生の日本人の廉恥をまちがえるをいうは、口にこれをいいながら行なわぬ人あるをいうなり。小生は行ないて後に言うか、それでなければ、言うたことは少々間違っておってもやりとおすつもりなり。欧州の人、女を尊んでそのきげんばかりとるは、かかる風俗に生まれてその他を知らざるなり。盗行をよきことと心得たる人族もあり。また近年絶滅せしタスマニア土人ごときは、双親が子に縊《くび》らるるを尋常の徳行と心得たるもあり。いろいろの風はあるものなり。小生はまず日本人が、せめては口にしておるほどのことを多少は行ない得んことを望むなり。他を顧みるの暇なし。
 小生は父の存時に多く読書に金入れしが、別に父の名を成すほどのことはせず。父はなにかして書でも著わして、多年の学び得しことをあらわしてくれというて死せり。故に近年中になにかそんなものを出したきなり。自分、別に名を求めたくはないが、父の志をつぐなり。その上日本に望みあらば還るべし。日本へ帰らば酒屋をするつもりなり。しかし、小生は思い立ったことはなんでもやる風ゆえ、一向行く先のこと分からず。おのおの、これも因縁、これも因縁とあきらむるの外なし。
 出家のこと、仁者の言のごとくならば、出家せずともすむことなり。小生は、何とぞ在家の菩薩となりて、一切世間に事をなしたし。しかし孔墨が席暖まらざるまで走りあるくも、老荘が隠逸して書を遺せしも、または佯狂《ようきよう》接輿がごとくなるも、それで一生は気楽にすむことなり。何でもよきことと思えり。ただ如上の心内妙想を楽しむより外なし。しかし一国民の福分となるようなことしたしと思う。第一に、わが国の人近ごろ洋風の表面上のことばかり好むははなはだあるまじきことと思えり。かつわずかな学者が学問を伝授口訣のようなことにして衣食をはかるを、はなはだつまらぬことと思う。また例の言行一致を望む。またせめては、一郷一村なりとも人善に化し智に進まんことを望む。これは今のような支吾《しご》混雑せる教育では到底及ばず。みずから徳行を篤くした上、世を薬にしてそれぞれ人を見て薬を投ずるの外なし。故に目立自主で徳化することを望む。凡人にはむつかしいことを言うては分からず。ただ(165)悪を放《ほしいま》まにせぬようにすればよいなり。さて事物を多く知らしむべし。されば手近き智識ますうちにおのずから自嘲の風も出ずべしと思う。小生は仏徒の努めとすべきはこのくらいのことと思えり。とにかく世が移り動くものなれば、これを救わんとするものも常に移り動かざるべからず。今の仏徒の急務とするところ、ひとえに仏教を押し張らんとて、わずかに二、三万人の耶蘇徒を敵と心得、一大事とはたらくごときは、実に小生には分からぬ。この外に仏道興隆の急務はいかほどもあるなり。
 小生は家貧しきもののうちに生まれて多く感じたるは、家貧なるがため、せっかくの英才ありて読書の便を得ず、わずかに米をにないうり、薬を市《あきな》いて生を送るもの多く友人にもあり。何とぞして、これらにせめては米をにない薬を市う夜のすきまにも、少々の書をよみ得るようにしたきことと思う。これらの人、父母のために志をまげてかくのごとくするほどなれば、まさか借りた書物を盗み失うようなこともあるまじ。また橘南谿の書きしもの(『北窓瑣談』か)に、天明のころ心学ということ起こり(初めし人は中沢道二とか申す。この人篤志にて、小さき札に人間の行なうべきことを書き、諸国の寺堂に奉納し、人の見えるところにかけしと見えて、小生前年紀州道成寺の堂にて見て写したり)、三教を和らげてそれぞれ安く講ぜしに、不心得なる番頭の一朝にして感悟せるもあり、淫奔なる男女の夜あるきを止めしこともありとか。
 スペンセルなどは、社会のことはすべて大数ありて、一事起これば一害生ず、故に今日の政をなすものは、ただただ目に見えた悪をおさえて目に見えぬ悪とするの外に、化育の法なきようなことをいえり。いかにも左様なるべし。されど世にうそ言わずして盗を好み、正直にして婬行あり、孝にして信なきものも、小生は見たことなきように存ず。さてまた、この国の人はよい、あの国の人は悪いということは言われぬが、小生所々あるきたるに、村中に博場の少なき所と多き所とはあり。もっとも博奕は絶えぬものなるべし。されど博場少なき所には、あまりに人殺すほどの大賭博はなきものなり。村人の風として、ホウビキとかとなえ、またスリバチコカシとかいうて、正月三ガ日中は多分(166)は行なうことあり。これをことごとく禁ずるは無理不人情なるにや。されど、せめてはこんなことはあまりに禁ぜず、また決してすすめず、とにかく村内の人が博場などに行くものを歯《よわい》せぬ風ぐらいはおこし得べし。さて村中に賭博の徒一人にても少なくなれば、一人にても多きよりはましなり。一人賭博止めたりとて、その返報になにか他の悪事するかというに、小生はそんなことはあるまじと思う。
 故に何とぞ心学道話様のことを起こして、村中にわけの分かった老人で村のこときづかうもの二、三人はあるものにして、そんな人は必ず多少村中に重きをおかるるものなれば、かようの人々を説きて、小児または婦女子より手代男まで集め、忠信孝弟のことより、因果応報、かつはその村辺の神社などの由来、古蹟の話などきかせ、またその辺の農産のことから、(我田へ水じゃないが)村に化石の出る所あれば、これは輪廻劫転で一時は世にあったものなれど今は亡びしものの化石なり、また小児輩が見出だした微少の動物、植物の名なども教えるなど、多少智識をすすむることも雑《まじ》えて話しやれば、実に小学校でいかめしく、家へ帰れば芸妓買いに往くような先生にきくことよりも信を起こすべしと存ず。もっとも芸妓などいうもの、これもまた一つの商売だ。どこの国にも、それこそスペンセルの言えるごとく多きものなり。これを一概にやり付けんも憫然なことなれば、何とぞ芸妓ようなものも、せめてはぬいものの一つもおぼえるようにすすめやりたし。しかし、かかるものは日本には繁華な地にしかなきものなれば、まずはそんなもの相手にせずともすむことにて、その兄弟たるものでも聞きにきて語り伝うるようにしたきことなり。
 小生ごときは、例の貧家で幼少中はおくりたるに、伊達《いだつ》神社というに、神官倉田の某、提燈屋の亭主で国学かじりたるもの一人、坂上なんとかいうて薬店の隠居で学問ある人一人して、毎日曜に心学を催せるを、寒きもいとわず走りゆきて(十五、六人行きし)聞きたり。一番に笙を吹く、これにて一同静粛して礼拝す。(『大智度論』、恭敬は礼拝に生ず。すなわち小児ながらも道に入るの始めを得て、彼らの提燈屋たり薬屋たるを忘れ、一向道を聞かんとの念切なり。)さて三人|交《かわ》る交《がわ》る坐して、『忠臣蔵』の小山田庄左衛門が忠義を忘れて後に僕のために弑せられし話、書籍(167)を大切にすべきこと、筆紙墨のできし由来などを承る。他人は知らず、小生は一々おぼえて走り帰り、父母および叔父なるものらに語り聞かすを楽しみとせり。もし小生身の幸せありて一地の菩薩位に上ることありとせよ、ただ三人が二時《ふたとき》かかりてこの菩薩の因をなせることは、実に大なる功徳にあらずや。しかして十五、六人の心学ききに往きしものに、さほど悪行ある人となりしもの一人あるを聞き及ばず。多少の善因となりしことは疑いなし。されば、わが国の小児に対する教育は何とぞかようのことに致したし、と小生は思えり。小児のときにおぼえたる言語は一生忘れず。そのごとく小児のときの信は必ずのこるものなり。
 信ほど人間の言行に関係あることなし。されば西洋の有神論者が、無神論者の大山に上り風にあうて思わず神を念じて救いを求めしことなどを証として有神を説くも、理窟のあることなり。これらの無神論者はことごとく有神説中に小児の生命をおくりしものなればなり。万人が万人、才学徳兼備の人となるは望むべからず。小児のうちには大工になるべきもの、左官になるべきもの、学者になるべきものもあれば、何とぞ信を普及して、大工となりては大工をつとめ、左官となりては左官の用をかかぬようにしたきことなり。今日英国ごときは、科学家が智育をもって職人演説ということをやる。よいことはよいことなれど、人みな発明の機分を具せざれば、なにか手品でも見た気になりておるようなり。さて寺院の設けはあるが、場は塞がりて入ることならず。故に貧人は一向寺へ行き得ず。またサルベーション・アーミーはあるが、これは底の見えた無職の輩の一道落《ひとどうらく》なれば、貧人すら賤しみて行きて聴かず。されば、小生は欧州の今の教育法は到底好ましからぬことと思えり。何とぞ日本に厚志の人を集め、一致して地方に心学のようなものを起こしたしと存ず。小生は維摩《ゆいま》の不可思議の弁もないが、ずいぶん俗人にあうて分かり易くいろいろのことをはなしやれは、実に悦ぶものということを知れり。何とぞ右ようにしたきことと思う。これを聞いた上で、才気の発達のあるものには、また人を見て法をとくこと出来べしと思うなり。
 綺語かは知らぬが、小生は右様の誨《おし》え、また父のはなしなどききて、人間は言行のはずるるは恥なることと思えり。(168)ややもすれば、これを過ごして激なることもするようなるが、とにかくこれまで人に銭かりしこと一度もなし。ただ一度、友人が急事ありて遠方に往かんとするとき金を外人に借りに往くとのことゆえ、小生は恥なことと思い、懇交の方に行き、自分の名にて三十五ドル借り、右の人に貸せしことあり。その金も期限前にかえしたり。この外には、生来一文銭も人に借りしことなし。(このことは小生公言すべし。もっとも南米に往きこまりしとき、自分の書冊を質に入れて金借り送らしめたることあり。しかし、これは止むを得ざりしことなり。かつ質に入れしことなれば、口さきの借金とは異なり。)わずかの訓戒を小児に誨《おし》え与えて、その者生長の後これほどの行いを生ずるは、はなはだしき功徳《くどく》に候わずや。されば、多くしゃべりしうち一言も記せられ、一句も感ぜらるることあらば、その用ははなはだ大なり。
 むかしローマのアントニー討死するとき、わが死するは恥にあらず、死するものもローマ人、殺すものもローマ人といえり。アントニーはさほど称すべき人にあらず。されどこの語のごときは、実に憐れむべきものあるなり。すなわち自分の国民を敬愛するの情を表出せるものなり。故に日本人たるもの、成長ののち互いの憎悪いかばかり大になるとも、せめてはこれを憎むもまた国を愛するに出ずるというようにしたきことなり。これらの感情は幼時につけざれば成らざるなり。故に何とぞわが邦の烈祖名君、忠孝貞順の人のことなど、雑誌で売りつけずに心学ぐらいで幼少の人にしこまれたきことなり。たとい成長の後、幸いにみずから典籍をひもといて、この人にはかかる悪事ありなどと見出だすに及ぶとも、それはまたそのときのことなり。とにかく十人の小児ことごとく史論家になるまじければ、何分右のようなこと望まし。仁者、英国の教育法などくわしく聞くに及ばず。かかる凡俗を処するの法はよしと思うことを直ちに行なうて可なり。
 さて次には、英傑を養成するの方、これは仏者のことゆえ、万事仏の戒律を守らせて上学寮に入るることとすべし。すなわち仏教を心の主として学問せんとするものを養成するなり。されば、あまりに仏教と抵触する書、また埒もな(169)き文詞の書などは、誰にもかれにもむやみに見すべからずと存ず。これをなすには人品を見るべし。人品とは機性なり、尋常の教えになるべき書、また地理、天文以下の一汎智識を導く書をよませ、一月に一度ばかりずつその人を集めて、何ごとを知り得たるか、何を知りたきかを問い答えしめ、その上で理論の書を許し、また試みて、理論に通ぜしようなれば、これに多くの材料を与えてみずから理論を煉らしむべし。要はその人々に自修せしむるにあり。スペンセルも、あまりに書に富めるものは書を読んで心にとどめずという。まことに然ることなり。
 さて、この輩の金銭上の世話は少しもすべからず。金銭を他に仰ぐようなやつにろくなものはなきなり。志あらば八百屋の小ばたらきし、酒屋の帳面つけ、銭こしらえてでも、紙や筆はできるなり。また日本は欧州にかわり学問に志すもの多き国なれば、無一文で厄介にくるものもあるまじ。まこと銭なくして餓えを忍んでも読書にくるものあらば、写字でもさせ掃除でもさせて、飯くわせやるべし。それとても銭を与うるは入らぬことなり。かようにして試むれば、十人のうちになどか二人の偉人はできざるべき。一向来るものなければ、それでよし。まことに真の智徳を求むるに薄きこととあきらめて、独り楽しんで可なり。いやしくも一年に一人の篤志を得るにしても、十年にして十人はあるなり。西洋に耶蘇の新義生じて一大改良ありしなども、後にいうごとく鉱夫の子これを始めて、甲匠《よろいや》の子これを成したるなり。すなわち、主として二人の力に出でしことなり。小生はあまりにぎょうざょうしきことして、馬も来たり驢も来たるというよりは、一疋でも麒麟の来たらんことを望む。仁者この挙あらば、小生は主としてこれを賛成し、第一|著《ちやく》に多少の書冊を寄付すべし。小生は人間が人中の人となるは、有為の人士を作り出だすほど上のことはなしと思えり。以上は小生の答えなり。
 さてジャイニズムのことは、左に『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』のその条より訳出す。(全文なり。ただしこの紙に臨んで直ちに訳下するなれば、不満足なるべし。)この代りに小生、仁者に二つの疑問を出す。紙末にあり、返事を乞う。『大英類典』巻の十三(明治十四年出板)第五百四十三葉より四十四葉(リス・ダヴィズ先生、すな(170)わち仁者先日会せし人、この一条を書けり)。
 ジャインスは、インドの梵教の敵手中最多人にして最有力の一派にて、インド上部各州、恒《ガンジス》河沿岸の諸都市、またカルコッタ都中に行なわる。さりながら西部のメワル、グゼラットおよびマラバル海浜において、最もその徒多し。その徒多くは商賈を務め、市街に住し、富人多きをもって、人数の多少に関せずインド社会に著わる。概して統計書にはこれを仏徒と混合するをもって、その数たしかに知れがたし。インド七奇観の一たるアブ山のジャイン堂詞の宏麗多数なるを見て、この徒の財力、勢力の一斑を察すべし。ジャイン教は、キリスト紀元前五、六世紀間に、恒河の野に競起せし理想、信心より生ぜし諸派の理論中、只今までも特にインド大陸に残生せるものなり。数百年間、ジャイニズムはこれと同時同所に起こりし一大動、すなわち仏教のために勢を隠し潜居せり。仏教徒多くなるのあまり漸次廃破滅没するのとき、このジャイン教は梵教有神の信に反対すること仏教よりは少なきが、残存して多少仏教滅没の跡に代わり、梵教に対峙せり。
 この教は釈尊同時のヴァルダマナの宣述に出ずるという。ヴァルダマナはもっぱら大力士(大雄か。マハヴィラ)をもって通称とす。しかれども、この徒も仏徒と同じく、過去の無限期に諸祖相ついでこの教を宣べたるという。すべて二十四祖あり。これをジナ(最勝尊)またトリサンカラという。これ、考論諸派の勝者また導者という意なり。このジナという語より転じて、今はこの教徒をジャイナスという。ジナの徒弟という義なり。大雄はこの教を始めしにあらず。ただ教を祖述せしなり。大雄の前よりこの教は存し、大雄のじき前代の(仏教でいわば、賢劫七仏の釈迦の前の飲光《おんこう》如来のごとし。これは熊楠の注なり)パルスワ(脇尊)もっともこれを張れるがごとし。ジャインス、ジナ教徒の暦《クロノロジー》には、大雄の前二百年に脇尊出でたり(しかるときはキリスト前七百年ごろ)といえるが、それにてまずは大雄よりよほど前に脇尊出でたりと知るべし。二十四祖の目録中、過去諸仏(すなわち二十三)の記伝信ずべきものはなはだ少なし。奇なるは、その中にヒンズー教(梵)および仏徒の口碑に似たるが多く存することなり。考古の人は各祖(171)の像を見別くるに、一人一つずつの標紋を知るべし。標紋の外は各像同一形象なればなり。
 今日この教旨ははなはだつまびらかならず。しかし、年々新たに発見することもあれば、主旨の多少は知れたること疑いを容れず。この徒に二派あり。青衣派(ジガムバラス)、白衣派(スウェタムバラス)これなり。白衣派は、今日わずかに知り得たるところにては、キリスト前六百年ごろより存せしにや。ただし疑いなきにあらず。青衣派はたぶんパリー語(セイロンの)の仏経にしばしば見えたる露形外道のことなるべければ、とにかくキリスト前四百年ごろよりのものなるべし。仏経に見えたるところにては、露形外道(ニガンサス)は、釈尊と同時に存したるごとく、また露形外道の師たる尼?陀若提(ニガンサ・ナタプッタ)のこともくわしく仏経に見ゆるを推すに、ジャイン教の書に見ゆるヴァルダマナ・マハヴィラと同人なること疑いなし。かく相競立する二教の書に見えたるところ符合するにて、マハヴィラの年代をたしかに知り得。もし人ありて、なおこの教の古きことを信ぜずんば、またすべからく阿育王の制条中露形外道のことあるを見るべし。不幸なるかな、仏教典中に見えたる尼?陀若提の教旨の要は、あたかも梵教書に見えたる仏教の要と同じく朦朧として、これを読むもその詳を得ること少なし。
 その上この教の経典も現在のものは、古伝を襲えるながら、耶蘇紀元後六百年代(日本の推古帝八年より文武天皇四年までの間)より以前にできしものにあらず。最も尊き経典の四十五無比法(阿含《アガマ》)という十一アンガ、十二ウパンガ、十パキンナカ、六チェダ、四根本経(ムラ・ストラ)および他の二書より成る。オクスフォールド大学よりこのうちの数書を訳出しおれり。ジャイン教のデヴァジガニンは、仏教中のブドゴシャ(仏妙音と訳す。セイロンに仏経を集訳せる人)がなせるごとく、キリスト前六世期の間に、当時存在の古伝および教戒を集めてこの四十五阿含を作れるなり。思うにこの人以前には、この教旨は書契に依らずして記臆をもって伝受せるならん。今の欧州人は、多くは、これを不たしかなものと思わんか。されども『韋陀《ヴエーダ》』および仏典中、史学に大功を与えたる諸伝は、やはり右のごとく数百年間記臆のみにて伝受せるものなるを知らば、四十五阿含を欧州学者が知り得るのときには、吾人の智識に大(172)益ありと信ず。仏経と同じくジャイン経典も、当初はその徒の用語ジャイナ・プラクリットにてこれを書きし。キリスト後十一世紀に(日本の天慶三年、すなわち将門が亡びし年より後朱雀院の長久元年まで)至り、ようやく梵字(サンスクリタ)をその文に用いしなり。
 大雄およびその直徒弟の最も著しき外相は、全裸にて外出することなり。これを可とせずして、釈尊は特にその徒を戒めたり。メガステネス(これはギリシアより早くインドに往きて風土記作れる人)がギムノソフィスト(裸形論師)といえるは、この露形外道のことなるべし。最初この徒をニガンサと名づけたるも、原義は離繋(仏経にはまた不繋と訳せり)なれど、多少はこの露形して、もって徳ありとなすことをいえるなるべし。ただし不繋とは罪障、業因、輪廻の繋を離るるの義ありともいうなり。塔堂中の祖師の偶像は、あるいははなはだ巨大のものなるが、今も常に丸裸のものを作る。ただし、この徒ははや丸裸を止めたり。しかして青衣の一派は食時に限りて青衣を服し、白衣の一派は常時全く白衣をきる。しかして青衣派もヤチー(浄行士)のみは、右のごとくにして行なうなり。俗衆はなさず。
 この徒の無上として望むところは、仏徒と同じく涅槃と呼ぶ。されど意味はやや異なり。すなわちこの徒は人体中に霊魂存して、その霊魂の廻転生を受くるを信じ、この転生を脱するがすなわちこの徒の涅槃なり。(熊楠いわく、されば仏徒のごとく、六道間に転生すると信ずるにあらずして、人は人の間に廻転して生ず。たとえば熊楠、来世に鼠となり、次に修羅となるにあらずして、弁慶が正成に生まれ、正成が由井正雪に生まるるごときか。)ヒンズー教の木叉《もくしや》と同じきかというに、木叉は上乗神の存するを信じ(すなわち梵天王)、その体に復帰するを願えども、この徒は然ることなし。この徒の涅槃は、なにか心観を学び修めて達すべきことなるべきが、委細はいまだ知れず。ただ知り得たるは、この心観を修するの上に加うべき四徳あり、好譲、温良、慈恵、知過失、これなり。すなわち、考思、言語、行為を善にして、語ることなき動物のみか、植物にまでも信切にするなり。この動植物を愍《あわ》れむことは、仏教またこれをいうといえども、ジャイン教は一層これを弘めたり。すなわち動物植物みな霊魂ありと見て、病獣のため(173)に医寮を立つるを慈善業とす。また多数の天と魔(善と悪の)の現存を信ず。この中には梵教界の神も多し、輓近に至りては、これらをも尊拝するを妨げず。されど当初の教旨にはなきことなり(梵教の諸天また魔を拝することは)。当初の教旨のもっとも主眼として立てたるは、実に神力を信ぜず、『韋陀《ヴェーダ》』を疑い、階級(刹帝利《せつていり》、梵師《ぼんじ》、吠舎《ぺいしや》、首陀《しゆだ》等)を尊ばざりしにあり。実際今はこの徒の凡俗衆は階級を尊ぶものもあり。また述者も『韋陀』を引いて自分の教旨を助けんためにはこれを尊敬するなり。しかし階級の差をもって得道を妨ぐることなく、誰人にても涅槃に入り得ると主張す。しかしてたとい『委陀《ヴェーダ》』を引き言《ごと》するも、実にこれを十分信ずることなし。
 この教史の大家ジャコビ先生の語に、大雄はインド宗教家中、どちらかといわば平凡なりし人というべし。宗教の事件(教制)の才能はありつらめ、されど仏陀が疑いなく有したるほどの英才はなかりしごとし。仏の理論は、僅々の原則の上に規範を立てて組織したれども、大雄の教えには組織なく、諸事上の諸説を全統して心界諸相を一括せる原則なし。かつまた仏教には道義の原索ジャイン教の道義にまされるをもって優劣は見るべし。大雄は心観を修するを専一事として、道義をその付属その次級のものと見たるなり、と。
  参考書。Bhadrab?hu の『劫経(Kalpa S?tra)』。白衣派の多く信用普通する書なり。ジャコビ(Jacobi)先生これに英文の序を加えて、ドイツ・ライブチッヒにて一八七九年出板す。ヘマカンドラの『喩伽論(Yoga S'?stram)』(これはなにかドイツの雑誌に出たる由)、その他二、三書を挙げたれど、一向あやふやなものと見ゆ。さて前日呈上せしコールブルックの論中、第二巻にもこの教えのことあり(小生少しく抜訳して仁者に示せり)。この書も右の『大英類典』の参考書目を載せたり。さて Burgess の‘Cave Temples in Iindia’. これにはこの徒の洞窟中の堂のこと多く見え、図もありとなり(この書ははなはだ高価じゃ。三十五ドルばかりするか)。さて右は『大英類典』に見えたるところなるが、この外にも多少英訳のもの等あり。小生も持ちしが失いたり。また『東国聖典集』の第二十二巻は、露形外道の右にいえる四十五阿含のうちの『劫経』なり。代価は十三シリングなり。この『劫(174)経』の所説、仏経とはなはだ似たることは前書に小生述べたり。英訳なれば、仁者、他日買いたまえ。
 モニエル・モニエル・ウィリアムスの『仏教講義』(クリスマス後におくる。毎度延引じゃが、これは送る前に少少書き抜くところあるなり)には、ジャイン教は仏教よりは少し先に生ぜるものと見ゆ、といえり。(熊楠思うに、四仏のうち飲光《おんこう》と釈迦の間ははなはだしき年数を経たり。しかるにジャイン教には、脇尊(二十三世)と大雄(二十四世、すなわち仏陀と同時の人)との間わずか二百年といえば、仏典に飲光は前の世界に生ぜりというほどの想像にあらずして、脇尊もまた現世界に出でたる人とするか。しかるときは、大雄は最後の最勝尊なれど、今のジャイニズムを立てしものは主として二十三祖脇尊を推すことになるべし。これらのことで右のごとくいえるにや。)またこの徒むやみに堂を建て、行きあたるほど堂だらけの市街もありとか。これは日本に千の鳥居を建つるようなこと、またはどこにもここにも稲荷祠を建つるようなことなるべし。またこの徒、山上まいりして最勝尊の足跡をおがみ、餅などささぐれば、猿猴多く来たりてつかみ食うなど埒もなきことを記したり。小生この徒二人を見しに、青色の肉じゅばんを着し、袈裟(というよりはフンドシ)を肩にかけ結び、股引ようなもの(広し)を穿ち、跣足にてありきいたり。しばらく坐して話せしに、商人なり。至って温厚なれども、宗旨のことは一向いわず。これは謙譲の一事より起こりしことなるべし。
 小生考には、仏の古伝記また二十四仏祖の説などは、仏よりも、最勝尊よりも前にインドに伝えしことを、この二徒が無神を張らんため、またはその伝の正しく久しきことを証せんため、おのおの援《ひ》いて自分の説を作りしにはあらざるか。さいわば仁者は、またそれは茶碗の年代や古語の比較に似たことといわんか。されど何の宗旨にもすべて信を衆に取るためには、いわゆる「述べて作らず」で、孔子の堯・舜、楊朱の夏禹、許行の神農、荘・列の無懐氏・葛天氏、行基・伝教・弘法・慈覚の本地垂跡《ほんじすいじやく》、それを罵りし平田篤胤も耶蘇に傚《なら》うてか、国常立尊《くにのとこたちのみこと》を立てずして一に『古事紀』に拠りて天御中主尊《あめのみなかぬしのみこと》を立て、その序の「参神、造化の首《しゆ》と作《な》る」を推し立てたるごとく、またキリス(175)ト教ごときも、その教論とするところは、ゾロアストルの教、アレキサンドリアの哲学、近ごろはまた科学をもとり、第一のノアの口碑もいよいよバビロンの古話より取れりということ分かりたり。されば、あまりに斬新なることのみはいわぬものなり。故に仏典中にインド諸派の埒もなき口碑、昔話あるは勿論のことにて、いわばわが国の和尚輩が、日蔵上人地獄で醍醐帝を見たる、良源が山越しの弥陀を見たるなどの古話をいうこともあるに同じ。故にこれはただ考拠の学として、その原因をしらぶるは少しもかまわず、仏説にこれを引きたるは譬喩なりといわばすむことなり。過去の期に生まれたる世界すら滅したるに、いかにしてその仏の名を知るべきや。かかることはただ教えの助けとして作り出だせることというて可なり。こんなことをあまりに神聖らしくいうと、またまた科学者から駁撃を受くることとなるべし。しかるときは、智あるものは仏教を笑うこととならん。以上は、ジャイニズムの問いにちょっと答え申し上げ候。なお今回呈する『仏教講義』中にはこのことも多少見えたれば、仁者これを読みたまえ。
 また仁者、武断政治のことをいう。しかれども、これは到底免るべきことにあらず。凡人の信は、多くは感動に生ず。すなわち、なるほどえらいことじゃと思うなり。しかるに少しなにか理窟あるもの、おのおの理窟を張るときは、他の知らざるところを述べて、これを動かすより外なしと存ず。ここに人ありて、われは、仏教中に世界の始りのことはなし、これをもって仏教は他の教えのごとく分からぬことをあて推量せるものにあらずといいはらんか。しかるときは、われ『華厳経』の大海より地の涌出せし説を引証して彼を驚かして、彼、意あらばみずからこれを見て悟るの道を開きやるの外なしと存じ候。一体今日の耶蘇徒などは実に薄識なもの多し。これを破るには、理窟信仰のみでは彼もまたこれを有すれば役に立たず、ただわが智識を彼より広くして彼を驚かすの外なきにあらずや。故に日本の人は、なるべく知ったことをたしかに挙げて彼らに示すこと必要と存じ候。昨夜新聞を見しにチカゴの『モニスト』(仁者に一号もらいたりとて持ちおりたり)に、あしつ実然という僧、仏教主旨と題して一文を出せり。これらは実に洋人を感ぜしむることなるべし。すなわち洋人これを読んで、これを信ずるにあらず。ただ知らざるを知ることを得(176)て、多少は感ずるなり。故に到底われの知れるところをもって知らぬものに信ぜしむるは、彼の知らぬところを言いて驚かすより外なし。驚いてこれを知りたしと思わばよろしく説くべし。小生は仁者を驚かせるなり。
 仁者、宗教のことを知りたしという。これ仁者仏に信厚ければ到底能わざるかもしれぬ。されど、人の心を推して猫の心は多少知れるなり。猫言わねば心のうちのことは知れぬが、外に見えたる意志情感の発表にて大抵は察し得るなり。されば仁者もせめては皮想のみにても、これを自修すべし。一度は前文に断わりたれど、神光《じんこう》断臂して達磨答えたれば、小生は短くこれをいうべし。
 アムステルダムのチール(Tiele)は、実に万国宗教を集合比校して宗教科学を述べたるものなり。もし一々その所信に入りていわば、仏を信じて正を得ざるものもあるべく、石を拝して福を得るものもあらん。故に論ぜず。今はただ宗教の種類ということを同氏の説、記臆のまま述べん。ただし、やはり小生の述ぶるところなる上は、小生の見解入れるは止むを得ず。(どど一を修むるものは、どど一のうちに妙味あり、またなかなかむつかしきものなり。清元、常磐津、祭文、長唄また然り。故に、むやみに一を執りて他を駁すべきにあらず。ただ、いずれも一《ひと》とおり見て比較の後にいうべきことなり。小生は深いことないが、かかることも勉強せり。故に比較して、どど一は快活なれど、常磐津などはあまりに悲哀の声ありて、それより淫を導くようなこともあるにやと思うぐらいのことはしる。またどの文句はよいがどの文句はつまらぬというぐらいのことは分かる。長唄などいうものは、かかることは少なしということもしらる。そのように比較するをいうなり。)さてチール氏の分類は、たしか左のごとくなりしと存ずれど、はや四年前のことゆえ、たしかに覚えず。
 第一に、一物を神なりとして崇むる宗教、野蛮人に多し。妙な石を感得して神力あるものと思い、妙な木を神と思うごとし。また山河を神とするもある。
 第二には、物のはたらきを神とする。山に入りて音響の谷にひびくを山彦《やまびこ》といいなどするごとし。
(177) 第三には、祖先を神とす。日本の神教などもこれにや。
 第四には、国民教。すなわち一国伝来の古話、伝記をを集成して、その国民の他より来歴正しきことを称し、宗教を立つるにや。小生の考えには、神教は実にこの部に入るべしと思えり。この他ギリシア・ローマの宗旨もこの部なりき。またチール氏は孔子・老子の教え、今日の拝火教をもこれに入れし、と記臆す。
 第五には、普弘教。すなわち、仏教はアリアン種のインド人に生ぜしが、今は黄色人種各国これを奉じ、回教はセミチク種に起こりたれど、今はアリアン種のペルシア人、また黄色人種のトルコ人、マレー人も奉ずるごとく、キリスト教もセミチク種の人これを唱えしが、主として今はアリアン種の欧米の白人が奉ずることとなれり。
 以上は、ただ今においてその跡につきて論ぜるものに似たり。何となれば、ユダヤ教ごとき、梵教のごとき、主としてその一国民の奉ぜしものながら、今は他人種にも許すこととなれり。ただその徒、かの三大教ほどに多く普弘せぬまでのみなり。また孔子教ごとき、いかにも経義は支那を尊んで荊舒これ膺《う》ち戎狄これ懲《こ》らすとの主義なりしも、「子、九夷《きゆうい》に居《お》らんと欲す」の語もありて、とにかく高麗、安南、琉球、日本にも入れり。むかしサーキアジス大王、大軍を率いてギリシアを侵せるを、今の人称してこれ東西人の開化の決戦といえり。熊楠いわく、これ実に宗教上にも大関係ありしことなり。すなわちこの戦にもしペルシア人|克《かち》を得たりしならんには、あるいはゾロアストルの教は欧州を被《おお》いたるならん。しかるに不幸にして敗北したるゆえ、そのこと成らず。今はわずかにボンベーに拝火教の一派を残せるのみなり。かようのことなるゆえ、実は右のごとき宗教比較は、一向勝手次第で、どうでもなるものというべし。されど宗教に高下あることはきつとあるなり。木や石をおがむものと、仏教、キリスト教とは、比して同列とすべからず。故に小生は、宗教を知るには木や石や死人の亡者を単に敬懼するようなものはおいて、宗教にして多少の軌範、構成、理論あるものを知りて比較することもっともよしと思う。
 クラーク氏の『十宗教論』はこんなことなり。すなわち古今開化して大勢ありし国の宗教十を概説せり。この書も(178)また今は手許になし。ただし、その十とはたぶんは左のごときものなりしと記臆す。
 エジプト教、ギリシアおよびローマ教。(これはいわば少しく名がかわるのみ。同一の神多くあり。)以上は今亡びたり。されど、エジプト教よりギリシア教を助成し、ギリシア・ローマの教は大哲学を生じて、今の開化(欧州の)に文章、理論を与えたるなり。
 ゾロアストルの教、梵教。(これ二つは、インド人とペルシア人といまだ分かれざるときの宗教が、土地の異なるに従いて分かれたるなりという。ゾロアストルの教徒は、回々徒ペルシアヘ侵入のとき多くは改化し、改化を好まぬものがインドの西岸に逃れて、今の拝火教(パーシー)をのこせり。人数も至って少なし。されど富人多し。梵教もたびたび変化して、はじめは『韋陀《ヴエーダ》』に見えたるごとく雨や風や酒までを神としたるが、後には主として梵天を尊奉せり。さてそれもまた変化して、今度はクリシュナ、シヴァ、ヴィシュニュおよびその眷属を拝するようなことになれり。)
 儒教、ユダヤ教。今一つは記せず。されど、道教か、最勝教(すなわち露身外道)を列して可なりと思う。以上は現在やはり勢力あり、されど普行するものにあらず。いわば一地方にかたまりおり、一種の民の奉ずるなり。またシックあり。これは小生には今は分からぬが、回々と梵とより成りしもののごとし。(前日、仁者その参禅の具式を見たり。)
 回々教、キリスト教、釈教。これは普行教(Univeersal Religions)。
 エジプトの教は、祖先、川、猫、犬、牛、星辰等、あらゆる物を神とす。これは物について残り、発見さるるのみ、あまり埒もなきことと存ぜられ候。この外にバビロン、アッシリア、また古代の商売国フィーニシアの宗教等あり。前の二はベルシア人(ゾロアストル教)に滅壊され、フィーニシアの教はローマ人に亡ぼされしなり。ずいぶん妙なことありて、バビロンの教には、父の死尸を車にのせ、知己の方へつれまわり、食物を口に入れ、またフィーニシアには、女を嫁するに、必ずまず一番僧に試させる等のことを承る。これらの教の書とては、ただ考古書の中にあるのみ(179)と存ず。または当時他教(主としてギリシアのユダヤ人)の人が見聞して書きたるもの、多少は残れり。皆神教(Pantheism)。米大陸の古盛邦、メキシコ、ペリューにも、多少エジムトに似たる宗教ありしなり。また中央アメリカにも大なる寺堂など見出だす。これらのことは多少書もあるが、なにさまただ遺址の穿鑿ぐらいのことなり。
 ギリシア・ローマの教は、日本の「神代巻」ごときものにて、諸神が戦闘、遊佚、詐偽、殺伐などのことを記せり。ホーマーという楽人ありて未曽有の大詩あり。グラドストン氏などその評を作り、はなはだほむることなるが、小生にはあまりありがたからず。ただ諸神の体、例の裸体で、淫猥、交愛、勇奮のところある工技また詩などをほむるのあまり、この宗教を擡《も》ち上ぐるにあらざるか。されどこれを奉じこれを談ずるより、例のギリシア文学哲学は生ぜしとのことなれば、欧州開化には大関係あることなり。またこの二国の人がこれら諸神を崇むること、わが国の諸神を拝すると同じく、ために愛国の念ははなはだ堅かりしがごとし。デルヒ、オリンピヤの二神廟に何ごとも神託にて決せしなど、わが国の事ごとに石清水、宇佐に告げたようなことなり。仁者ただこれを文事として読まば、面白きこともあらん。一つ心得べきは、この宗旨を奉ぜし人には、ちょうど日本の武士道というようなことあり。また孝悌、貞節も今の毛唐人よりは正しかりしようなり。これはそのころの人の言行録を見るべし。多神教(Polytheism)。
 ゾロアストル(Zoroaster)の教は、ゾロアストルという人、ブラヴァツキなどは紀元前四万年に存せしとかいえり。この人教を立て、ミスラ、アフラの(平田が例の『古事記』を述べて)善悪二神、常に争うという。善行ある人はミスラ、悪行の人はアフラの眷属となるということなり。さて火を尚ぶの風はなはだしく、今も左様なり。これはただ古風の教に付いてのこりしなるべし。支那にも火正黎祝融が火を司りしなどいうことあり。またギリシア・ローマにも、男に交わりしことなき女をして火を奉ぜしめたり(ちと斎宮、斎院などに似たること)。ペルシア人というもの、武勇一辺なりしゆえにや、あまりにむつかしき教義はなきようなり。二神教(Dualism)。この経は多く翻訳あり、また英人にもこれを主張する人あり。
(180) 梵教。これ実にむつかし。何となれば、最初は諸神の伝記ようなことばかりなるに、後には理論教義立ち、いろいろの論師なども出で来たり、仏教出ずるに及び、またこれに化せられて種々の異派を生じたり。要するところは、梵天を最上尊とし、その体に帰することを望むなり。されど、その他にいろいろの神ありて、おのおの所司あるようなり。近年ラム・モハン・ロイ氏が作り出だせるブラマサマジは全く梵天のみを奉ずるようなり。多神教。始めは皆神教なり。今はまず三神教か。(ヒンズー教(Hinduism)という。)
 儒は徽存知の通り。しかしこれは一種の道義学にて、小生は宗教にはあるまじと思う。山田喜之助氏このことをいい、斯文教とか名を立てたり。道も御存知の通り、これまた今の道教というは実にらちもなきものにて、柱下、漆園の経は別に宗旨として作りしにはあらざるべし。一種の哲学なり。儒は一神(天)教にや。道は多神なり。
 ユダヤ教。これはやはり神道ようのものなれど、一神を主張せること他に特出せり。この教は、すなわち『旧約聖書』を主とし、キリストを救世主とは見ぬなり。すなわち世一汎の教とはせずして、ユダヤ人および特別に許し受けしものの教とするなり。要は日本の神道ようなものなれど、かように諸神を設けず、ひとえに神は創世してユダヤ人にのみその教を示せりとみる。ユダヤ人中多くの哲学者出でたるゆえ、この教理はこみ入りしものなり。一神教(Monotheism)。
 耶蘇教。これはユダヤ人耶蘇がユダヤの教を改良せんとしたるなるべし。ジョンというもの、蜜を飲み蝗《いなむし》を食し、麁服して説法するを聞きにゆき、これを厭うて去り、別に教を立てたりなどいうこと、釈迦が仙人輩の所行を屑《いさぎよ》しとせずして、別に立門せしに似たり。さてキリストの徒が、難を遁れ四方に散じて、耶蘇のことを記し、『新約全書』を作れるなり。すなわち何人にても上帝の楽土に往生すべしとのことにて、梵教、ユダヤ教が近日までなせるごとき、刹帝利《せつていり》、梵士、またユダヤ士人にあらざれば往生をとげるというようなことなし。一神教。
 回々教。これはマホメットがユダヤ、耶蘇の二教を研究し、編み出せる『コーラン』を主とす。すなわちユダヤの(181)諸師祖および耶蘇を救世主と見て、マホメットがこれを継述せるなり。(アラーという。)時世も土地も異なるゆえ、耶蘇の言わぬことをもいいたり。この徒は、人を神のごとく尊称することを排撃せり。故にマホメットは人にして、この教を神より受売りせるなり。決して耶蘇徒のキリストを神の子というごときことなし。かつ楽土、地獄を説くこと、耶蘇教よりは烈しく感覚に受けるものとせるようなり。(たとえば、楽土へ行かば七十余人の妾を蓄えて佚楽するようなこと。)また法敵を悪むことはなはだし。回祖のあとつぎのことに異論ありて、二派に分かれたり。耶蘇教の二派になれるは、一は新にして一は旧なるなれど、回教の二に分かれしは同一時に分立せり。故に教制は二派によりて多少かわる。一はShiism べルシア王これを奉じ、インド等にその徒多く入れり。一はSannism トルコ王これを奉じ、小アジア等の人これを奉ず。一神教。しかし今は、アラビア人などは先祖をも神とするようなり。
 さて次は仏教。これは神を立てぬゆえ、無神教(Atheism)。
 三大宗教は、実に宗教比較に第一に着眼すべきところなり。されど、仏教にもいろいろの神のようなものができたが、普賢、文殊以下、みな理体、妙想を形容せしものなれば、他の多神教が伝記履歴あるものを神とするとは大いに異なりと思う。理論に至りては、三教中古今いろいろの派を生じたれば、なかなか一筆に尽しがたし。ただし、キリスト教も一神とはいいがたきにや。何となれば、神一疋、神の子一疋あればなり。かつカソリック教にはこの外にマリーというもの、もとは大工の妻なりしが、今はなにか神の妻のようなものとなりて、到る処これをまつる。故に実は三神教なるにや。されば一神教というべきは、回々の外になからんか。さて無神を主張するは、仏教と露身外道なり。右は、小生が仁者の懇問に応ぜる走り書きなり。十分にはあるまじ。
 小生は右等の一教ずつに、祖師の伝記、教化の歴史、教理、宗制、諸派の異同、社会に対する利害、経典の大要、文体等をつづめて一部ずつにまとめ、すなわち十部、外に野蛮人の宗教概覧一部、ただし日本にある儒・仏のことのごときは日本で知れおれば、これはただ古来外教の人のこの二教に対する評批を集めて、賛すべきは質し、駁すべき(182)は駁して一部にまとめ、すなわちすべて十部として、日本の仏徒に配りたれば、はなはだ功徳あることと思う。父への追善にやって見ようか。しかし今日はただちょっとした史略ようのもののみはやる日本なれば、到底|?《とく》車に秘して好価をまつの外なく、宗教家と自称する人も多く読むまじか。
 小生もいろいろ考えておるうち、今日また弟より手紙来たり、兄はあまり母に孝養せず、姉一人弟二人、何分小生を力にしおるという状をうけ、父の遺言には、何様大抵で引き上げ、母存命中に孝養し、母百年の後はどんな乱行するもかまわずとのことなるが、日暮れんとして道遠し、わが行くこと蹉?《さた》たりで、学問はしたし、郷国は右の通りなり、はなはだ心配致しおり候。よって今しばし留学し、インドに一、二年植物を集め、所有の財産で書籍多く齎して帰らんとも思う。チベット行きはなんでもなきことなり、年々蒙古地方より幾千の順礼が往くなり。故に、むりに雪山《せつせん》越えずとも支那より往かばよし(雪山より往く路は知らず)。僧衣を着てゆけば、何のことあらんや。小生は何分往くつもりじゃが、右のようなことなり。まず詮方なきゆえ、これより眠ることとせん。      以上
  小生用事ありてしばしば外出し、この状をちょいちょいと書いたゆえ、前後つづかず。しかし大体は分かるべし。
  小生受けし袈裟および近日送らるる品は、小生もし帰国せば、これを帯して仁者に還付すべし。とにかくこれをきてインドの仏蹟を見たしと思う。
 疱瘡女神は、今度送るべき『仏教講義』に Pa??ini とあり。ついでにこの『講義』(数日間に出すゆえ、無用のこととは存じながら)の、仏教とジャイン教の関係の一節を左に抜記候。
 すなわち(五百二十九丁至五百三十六丁)、ジャイン徒の数は百二十二万二千人なりと称す。しかれども、最後の統計(この書は一八八九年の序あれば、最後とは一八八八年)には五十万とあり。
 脇尊といえる教師の教制を大雄が改良せるならん。脇尊の像は蛇に蓋われたり。(前日、大英博物館で見し釈尊のごとく、背に喉ふくらしたる蛇あるなり。)
(183) 仏陀は禅定内知をもって菩提を求め、もって輪廻の苦を脱せんとせり。大雄はこれに反して、情を伏し体を苦しむるをもって輪廻を離れんとせるごとし。一は深く観念し、一は厳苦の行をもってせるなり。
 この徒は、恥を知るは罪を包むとおもえり。故に罪なければ恥もなしと思えり。故に少々論理をまちがえて、衣を脱するは罪を脱すると思えり。故に、丸裸にしてジグ(青天)の外に衣なく日に行《ある》きて恥なきとせり。
 この徒の『劫経』に、大雄は始め一ヵ年一ヵ月間衣を着したるが、後は丸裸を事とせりという。大いに仏の正服を賛せるに異なり。
 律にこれあり。裸身苦行仙ウパカ、仏成道の直後、仏にあう。その顔色の輝くを見て、汝の師は誰ぞと問う。仏答えていわく、諸智一切みな有してわれは最上の師たり、と。裸身仙、頭をふり道を転じて去る。
 思うに、提婆達多《だいばだつた》もまたジャイン徒にあらざるか。古代の彫鐫《ちようせん》をみるに、調達《ちようだつ》は、常に丸裸または半裸にして、仏に近接す。仏はこれと大ちがいで、常に衣を着せり。明らかに知るべし、衣服の一事もっとも論点にありしことを。しかして後世には、青衣派中にも、これを非とするもの出でたり。これによって白衣派生ぜり。事は仏徒に厳寛の二派ありしに同じ。ただし、仏の二派は終《つい》に再び合して一となれり。第二大会はこの争いを鎮めたるなり。
 白衣、青衣の分立は、ジャコビ氏の説に、耶蘇紀元第一世期の前に起こりしという。青衣は白衣より古きならん。しかし、二派おのおのその古きを言う。今日までも二派並立す。ただし教義・教法上は一致なり。
 (以下は白衣徒の話なり。)白衣徒が青衣徒と異なるは三主因あり。一には、二十四祖尊のうち全裸の像を忌む。故に白衣の像は、胴の中央に一条の布をまく像を作る。ジャイン仏の像は、仏像と異なるは、胸の上に玉のごとき印あり。体色異にして一つごとにしるし紋あり。(鹿、亀、豕等の動物多し。)第二には、白衣徒は尼を許す。青衣は然らず。三には、白衣徒には自用の聖書あり。その十一アンガのごときは、紀元前三世期のものとも、紀元前四世期の終り三世期の始めのものともいう。青衣派はこれに反し、たぶん紀元後五、六世期のものたる後世のプラクリット語の(184)書を用いてこれに代え、白衣派の書は偽経なりという。
 今日のジャイン徒は、階級を保持するなり。わが会せし二僧は、梵師の級に属し、梵糸を帯びたり。これらは後世できたことなるべし。ジャインの諸聖を名づけてチルサム・カラという。浅瀬(川の中浅くして人畜の徒歩して渡り得るをいう)を作るものという義にて、輪廻の苦河を横ぎつて涅槃の彼岸に渡るの意なり。さて仏者はこの語を外道師という意にとる。第二十三(脇尊)、第二十四(大雄)の外の諸尊は烏有先生なり。ただこの二人のみ史籍徴するに足る人なり。
 この徒は諸聖の遺物を保存すべき塔(舎利塔のごときものをいう)を建てず。また一箇緊要事は、ジャインスは、箇々人、箇々の魂ありとし、仏徒がこれを否とするに反す。ジャインスの説に、木石、土塊、水滴、火分子にもまた魂あるという。仏者が動物のみに転生を限るに異なり。
 仏徒は仏、法、僧を三宝とするに反し、この徒は正信、正識、正行をもって三玉とす。五戒のうち、第五に仏は飲酒を戒むるに、ジャインスは世事に着《じゃく》するなという。不殺生の戒は仏徒よりもはなはだしく、水を篩漉《ふるいこ》して飲み、また闇室に物を食わず。微虫の口に入るを避けんとて口辺に絹をつけ、あるいは種子のあるまま果を食うすら好まず。またこの徒は善、悪、物、心、空間、時間を六原素とす。仏の五蘊《ごうん》の説を放棄す。また、三帰依の文言を用いず、これと異なるを用ゆ。また、髪は痛きを忍んで抜き去り、剪《き》ることなし。
 寺堂多きことは他教に見ざるところなり。帰依の名ある人は、みな一小堂を創す。しかして他人の堂を修めやることなし。パリタナの地は全市この堂なり。また堂ありとて必ず僧も参詣人もいらぬなり。ただ堂を建つるを善行とするなり。余の見るところにては、ジャイン宗は四周梵教徒にとり囲まれ撃たれおれば、ついには梵教に出でて梵教に入りてしまうべし。
 この書の第十八章は、耶蘇と仏の異なるところを挙げて、耶蘇を高め仏を破れるなり。しかるにその論、仏者なら(185)ずとも局外より見るも、自分が酒に酔うて人殺したことを自慢しありくごとし。さばかり仏教をしらべたりという人のかくするは、いわゆる「知りてこれを犯すものなり」、すなわち味方少なきに白布を林にかけて虚勢を示し、米で馬を洗うて水多きを示す策なり。その誇称するところは、ことごとくその拙劣なるところなるなり。この外に誇称すべきこと一つもなきなり。これ耶蘇教の理とするところ実証ある科学に合わねばなり。
 前年、故ドレーパー氏、『学教史論』を著わして、その書二十一板ばかりにも及び、大はやりにて、欧州各国はもちろん、本国のアメリカごとき耶蘇ごりの所にも、これを読んで耶蘇を疑うもの出でたり。日本にもこの一書を楯として、仏徒が耶蘇を罵らんとすること盛んなりし由、三宅雄二郎氏の文に見えたり。ロンドンの浄名居士はこのことを想起して、陳搏《ちんたん》が宋太祖が即位を聞きて、天下大いに治まらんと笑いて手をうちしに反し、これより天下大いに混雑せんと笑えり。その笑うものは、一は欧米の人のこれを読みしものに対し、一は日本の仏僧のためにせるなり。何となれば、右の一書は、なるほど耶蘇教のむちゃくちゃなる、実にふしだらなことばかりやらかしたるを貶したるゆえ、多少坊主を惡む欧人はこれを読んで袈裟にも及ぼしたるならん。しかるに、ただ人の悪口聞くのみでは、なんとやらん、「市のかりやの一鬧《ひとさわ》ぎちりぢりになる夕暮の空」で、悪口は面白かつたが、さてその代りにそれを去りていずくに帰してよいやら分からず。
 何となれば、右の一書はもっぱらアレキサンドル大王以来、エジプトに哲学の盛んなりしことより、回徒が科学哲学を保護隆興せしことをとけり。(この一事は実に小生も感心す。)それならこれを読んで耶蘇教をいやになって来たりし欧人どもがいずくに帰せんか。なるほど米国に近く『コーラン』の出板おびただしきを見れば、回教主義のもの多く出で来しなるべし。されどその回々教というもの、たとえば朝顔のぱっとさいてすらりと萎むごとくに衰えて、今は堅いばかりで、以前自分が保護隆盛せしめた開化は欧州人にとられた。かつまた回々教も、実は一神を奉ずるもので、理外の理を主張するゆえ、科学哲学とは合わぬことが多い。それゆえ、せっかく見証を開いて耶を脱し回に入(186)ったところが、やはり「陳文子、馬十乗あり、去りて他邦に之《ゆ》き、いわく、わが大夫|崔子《さいし》のごとし、と」じゃ。さればこの徒は中有《ちゆうう》の野にぶらついて、耶にも帰らず、回をも信じきらずに、異種異様の乱言をはき、妙なものができておる。故に小生は、ドレーパー氏なにゆえ回々のかわりに仏を引いて一篇の終始耶蘇に対せしめなんだかと笑うが、またおかしいことがある。
 なるほど、仏は輪廻法以下|因明《いんみよう》、心理実に細微じゃが、物体開化をすすめたことはない。これは仏徒中にその人なくして仏説にあることを応用研究利世することをせなんだゆえじゃ。されば、仏の説は科学哲学には鬼に鉄棒なるが、ただ引き言《ごと》に上げられ、またわけも分からざるオッカルチズムぐらいのことで、一向物体開化の実功なかりしゆえ、ドレーパーも麦飯に胡麻塩を加えておかしなものを作るを憚りしなるべし。回徒ごとき事理|有碍《うげ》を主張するものさえ、その主人公たる三大寺の法主がおのおの博識は神意を助くるものとのみこんで、多少のことはかまわず、科学哲学を発達せしめてこれを保護し、大へんな開化ができしなり。しかるに、仏教は科学哲学とは全く無礙《むげ》なるに、これを発達せしむることをその徒の務めざるは、実に妙なことじゃ。何とぞ今よりその徒も、科学哲学は仏意を賛するものとでも見て、隆盛せしめてほしきなり。すなわち今後かかる『学教史論』様のものできたときに、仏徒は輪廻法を証するに、世を利し民を救うことを多く発明して見せた。さてまた死んだときは極楽へも安身往生できるそうじゃと聞かば、かの千万の欧州の無神をとなえて不平でおるものは、得たり賢しとこれに帰依すべきことなり。しかるに、ただただ妙想とかなんとか夢のようなことをいうて、仏説が浸然たるゆえ、なんのことやら分からぬ。
 故に大抵の鼻さきの明るきものは、ユニタリアンやクエーカーになる。クエーカーになるは、日本の仏徒や、西洋の他の諸派の僧の所行を悪んで軽くして、信のつよきものとてなるなり。小生もクエーカーははなはだ好きじゃ。いつわり飾るところなく、年ごろの妙女すら黒衣をきて帽をかつぎ、横をみず、また誰を見ても物を施し、寺に行きても声を作り、威儀を飾りて説教などせず。時としては、一日の寺詣に一人も演説せず、ただそれきりで散ずることも(187)ある。また無学の老人が思いつき次第、歌を唄うもある。六日はたらいて寺へ往きて同志の人とあつまり、かくのごとくする。これこそ心内の妙味をたれにもかれにも分かつの法じゃ。故に小生もこれにならんかと思いしこと多きが、例の根性ゆえ止めた。またユニタリアンは、近ごろ神を拝するは、色男を持たせの金をくれのということにあらずして、神の徳を賛し報恩ということになった。されば耶蘇教にあらずして仏教みたようなものなり。
 もっとも今の仏教には、本願寺の門跡を生き如来と心得、その浴湯の垢水を一盃四十銭で買ったり、またオダキネというて大商、豪農の手入らずの娘を金をそえてそばへねさせてもらうようなことがある。この浄名が過去世に和歌山にありしときも、そんなことあった。されば土宜和尚は、小生が前の文中にいえるフィーニシア人が娘を嫁する前に一番坊主に試みもらえしことを笑うよりは、わが現在同衣同禿しおるもののことを笑うべし。ユニタリアンなどは、神を奉じて輪廻法の上におくところが仏とかわるのみ、『聖書』中のつまらぬ話などはことごとく昔話として、ただ道義のたとえにとくまで、『新約全書』一冊で事がすめば混雑もなし。いわば告朔?羊《こくさくきよう》として奉ずるのみなり。故に、日本人で科学や哲学の達人は多くはこれに帰す。何とぞわが仏徒も一冊で事のすむようにして、神の上に輪廻法をおいて、このとおりに説かば、帰依《きえ》するもの実に多かるべし。帰依するものとは、右のごとく一向仏教浩漠として下らぬものなど思いたがえ、「止むを得ざる縁」もなき外人が、告朔の?羊たる軽きことに帰しおる人じゃ。すでに智識あり、社会の発達に関係ある人々が帰化すれば、愚人は、それみたか、やはり仏法はよいと思うたが違うまい、先生方もあの通りじゃと、一同これに赴くことなり。
 また今一つ笑うたは、知れたことで、仏徒が『学教史論』などふりまわして耶蘇徒を伐つは、回々徒は虞《ぐ》を借りて?《かく》を討ったとよろこばんか。その書、ただ回々と耶蘇を批評したるまでなれば、仏徒が何の心得もなくして回徒の称辞を揚げて耶蘇を黜《しりぞ》けやるは、とりも直さず、日本人中に回々徒の地をなすじゃ。かような馬鹿なことゆえ笑うたなり。
(188) また年々本願寺より一、二疋ずつ坊主を欧州へ送り、大枚入れてなんじゃ、梵語など学ばす。その徒ただやくにも立たぬ『韋陀《ヴエーダ》』ぐらいを読み得れば、国からよびにくる。この輩、年々千円は必ず消費すべし。さて小生ほどの書籍など貯えたものは一人もなく、多くは坊主に似合わぬ交際三昧で日をおくり、帰りてはほらを吹く。その出だせしところも『仏名経《ぷつみようきよう》』や書庫の反古《ほんぐ》の目録や、そんなことばかりじゃ。むかしの蘭学者は、かほど国禁ある日にあたり、字書一つかるに半年もかかりて写して勉強した。杉田が『解体新書』の序を見て、その事の難かりしを知るべし。しかるに、今は郵便の便ある上、新聞、雑誌で万里外の新書の名も知れる。さればかかるやくざ坊主を外国へ出して、博物館の茶碗の由来や錦絵の年代など考えて半日を消せしむるよりは、書籍と字書、文典を多く貫いて誰にでも見すべし。中には金持ったものの子もあるべければ、これで自修して、いよいよという日には、家つぶれて直ちに事業にかかるものもあるべし。また貧なる者はなお幸いで、右の書籍をこの上なくありがたがりて、一々おぼえて勉強すべし。英国で梵字ならうて、なにかカルカッタ辺の僧と日本僧の通弁ぐらいできたりとしてなんにもならぬこと、また今の梵語はむかしの梵語にあらざれば、梵語話さぬとて恥にならぬことなり。字さえ知りて筆談できれば、梵士にさえ会えば、半日で発音の法ぐらいは分かる。されば、入らぬことに金を出さず、また骨を折らさずして、入ることをつとめられたきなり。
 仁者《にんじや》日本へ帰り、もし出家または在家でも、仏道に志ある者渡英するを見れば(軽薄の徒にあらざれば)、ロンドンの無垢称《むくしよう》、あまりに哲学科学にのぼせて、輪廻の心をもって輪廻の見《けん》を生じ、如来の大寂滅海《だいじやくめつかい》に至らずにおるから、往きて問疾せよと話したまえ。
 シャマニズムは、仏教の至っておちぶれたるものとも、また大乗の『瑜伽論《ゆがろん》』の原《もと》をなせりとも申す。忽必烈《クビライ》の配下などはこれを奉ぜしゆえに、元朝のはじめに八合思馬とかいえるものチベット教の主たりしを帝師とせるも、部下の蒙古を領するの一策なりしとか。これは喇嘛《ラマ》教は大乗仏教とシャマニズムと合してなりしものならん。(『仏教講(189)義』の著者は、ちょうど日本で仏神両部を生ぜしごとしという。)以下、小生の説。)故に、あるいは大乗の法相《ほつそう》以下日本へ渡りしのち喇嘛教は起こりしにや。何となれば、元朝にかきたる『西遊記』などに唐僧三蔵を喇嘛僧が招待することなどあり、されば元朝に喇嘛僧喇嘛僧というて、ただ仏僧とか僧とかいわぬは、多少変わっておったなるべし。
 とにかく、蒙古より北部シベリア、また魯西亜《ロシア》にも、シャマニズム到る処行なわれ、しかして魯国よりは政府よりその喇嘛を選定|冊立《さくりつ》すという。以上は『仏教講義』の説と小生の見解なり。されど他にはまたシャマニズムは、大乗教がシベリア、蒙古等に入り、土地の左道巫祝の道と合せしなりともいう。いずれに致せ、魔術でもち切りなりとのこと、シャマニズムのことは一向くわしからず。『仏教講義』にて多少外相のみ見たれば一見したまえ。(この『講義』はクリスマスの翌日出すべし。)何に致せ、仁者も、今日の喇嘛教と日本に渡りし諸宗と同じものとは思わぬならん。故に欧州人が、大乗仏教とさえ聞かば喇嘛教と思い、はなはだしきは小乗諸宗と喇嘛教を対峙して見たるなどは、小生はなはだ不賛成なり。
 小生、仁者に対する第一疑問は、マクス・ミュラルの『チップス』という書(以上は昨夜書きたり。今日書きつづく)に、日本僧もむかしは梵語を研究したるならん、空海はよほどよくしたる由などいう、漠としたこと書せり。小生考に、むかし入唐の僧徒多かりしときは、みな梵字を学びたるにあらずや。知証大師入唐して、大中七年、開元寺に寓して、般若多羅《はんにやたら》とて、今のブダガヤ辺の那蘭陀寺の僧に就いて梵字を学ぶ、とあり。また、泉涌寺の俊?《しゆんじよう》入宋のとき、秦里封国より象を宋朝に贈りしに、官使、三沙門と共に来たる。その語を解するものなし。俊?、悉曇《しつたん》に通じたれは、試みに梵字にて通弁して、鉢盂を乞う詞なりとて鉢を与えしに、梵僧大いに喜び、貝多葉《ばいたよう》と赤布一段を?におくれり、とあり。しかれば、梵字の学はありしなり。
 また高野山の宝性院の宥快《ゆうかい》は、悉曇の学するもの少なきを歎じ、その鈔を述べたるに、丹生明神、女躰を現じ、これを助けたり、と。これは学士伊時が木島明神の化現にあうて『遊仙窟』の訓点を得しというようなことなれど、と(190)にかく応安のころ(宥快のころ)はや末世にて、悉曇など知るもの少なかりしを見るべし。また『十善法語』の巻末に、弟子|諦濡《たいじゆ》が慈雲の伝を書きたるに、慈雲は十八とかのときより梵字をならい学びて、後ついに『梵学津梁』一千巻を作りたり、とあり。この『十善法語』を作りし人は、京の伊藤東涯に儒教を受けたりといえば、近世の人なり。されば安永(今より百余年前)ごろに、慈雲が梵学もやりしなり。日本に梵学はあったことなるべし。今もさがせば、右の『梵学津梁』の幾部はのこりあるべし。日本の坊主ら洋行して、かかることを知らず、ただ漠たる弘法大師の一事のみ挙ぐるなど、平生の心得悪しきゆえなり。
 さて仁者に問うは、悉曇の学するには必ず梵字をならうたか、または今日ローマ字で梵語を学ぶごとく、漢字のみ用いて用の達したことか。この一事はなはだ承りたく候。すなわち梵語の学は、日本にその事あるか。マクス・ミュラルなどは、また例の日本は間違うておるというならん。されど『韋陀《ヴエーダ》』学者のいうことは、仏経の上は通らぬなり。間違うておってもよし、とにかく日本に梵学の書はあるか。第二には、悉曇の学と梵字の学は違うか。小生は、そんなことなかろうと思う。もし悉曇の学は、すなわち梵字の学とすれば、日本には古来悉曇の学せること多し。何ぞ弘法大師一人に限らんや。この一事も間うなり。
 仁者また、いやいや学ぶやつあり、こいつ困難の奴なりという。いかにも、しかしされど小生の経験に、学問をするには、興まず生じて功進むことあり、功まずつとめて興大いに生ずることあれば、一概にいいがたし。言語の学などは一向小生は好まぬが、これなければよめぬと思うて功を進むれば、自然に面白くなる。また初めから面白くて、こいつもやって見ようとやりかけると、ことのほかむつかしいものも遂ぐることあり。しかし、興は勤の中にあり。勤もまた興によって生ずること、火の煙に伴うがごときか。火燃えざれば煙なし、煙上らざれは火滅す。とにかく、興味と勤勉は両がけじゃ。故に仁者など初めは一向興なくとも、科学哲学の書をも読んで見るべし。ことに科学のうち、社会学、人類学ごときは、人間の野蛮なるときの心性発育をも説いて洩らさざるものなれば、宗教家は是非読ま(191)ざるべからず。
 真如親王のことは、一向詳らかならず、またかような土地に今日まで口碑など残るはずなしと思わる。羅越《らえつ》国はいずれにや知れず。(小生前日いいしは、なお調べしに誤りおれり。)『唐書』などの外国伝にでもなきか。ただし口碑などなくとも(十の九はなし)、羅越国はどの辺ということは分かるべし。なお調べ見んが、如何《いかが》にや。
 今度送る『仏教講義』には、インド・ガヤ辺の旧蹟の地図および概略の記もあれば、インド行きのさきにちょっとよみたまえ、その他見るべきもの多し。また、これの前に出でし、同著者の『梵教および印度《ヒンズー》教講義』は、これと前後をなすものなり。これよりは安値にして十八シリングなり。仁者、他日買うべし。またクラークの『十宗教概略』の末には、おびただしく宗教書の名を挙げたり。これらのうち、よきものを買い入れ、日本にて人によますべし。
 前日、一書中に観音は支那の先王の女《むすめ》なりしという説のことを貴君に問えり。この状は着せざりしか、一向その返事は聞かぬ。右は観音とは妙荘王という王者の女にて、鬼《き》たらんことのみ望むゆえ、地獄に送りしに、地獄もこれを受けざりし。さて海島にのがれ住し、父の疾をかなしんで、自分の肉をさき、これを送りしなどいうこと、それゆえ、父大いによろこび、金手金眼の像を注文せしに、匠人誤り解して、千手千眼の像を作れり、云々。こんなことは、いよいよたしかに経中に見えたりや。右の妙荘王というは周の荘王なるべしとか、欧人はいう。されど、妙という字、周より春秋までの書には、あまり今の妙荘とつづく意味には用いずと思う。必竟これらは経説にはなきことにて、支那の俚説なるにあらずや。小生も母の話に、継母ににくまれて一女一男を海島に送りつけ、止むを得ず念仏して口より蓮花ふき出し、死して後、男子は大勢至、女子は観世音となれり、ということ聞けり。これらはなにか日本で作りしか、また古伝と混じたるなるべしと存じ候。
 俗に十三仏などいうことあり。また十三仏のうち若干を減じて、愛染《あいぜん》などを加え、胎児の一月より十月の毎月の守り本尊などいう。こんなことは経説にあることにや。
(192) 右の『仏教講義』に、近年、インドにて新教(アリヤ・サマジ)を立てたる一人の伝あり。これの釈尊の伝に似たるを示せり。釈迦もこんなことなりしならんとのことか(二百二十六丁より二百二十七丁)。ハックスレーがモルモン宗の始祖の伝(牢に入れられしを引き出し、殺されたり、今は四代か)を記し、耶蘇もこんなことじゃろう、といえり。この二つの似たもの同士を比較せば面白からん。
 書物十冊は着いたか、みな公使館へ出せり。受取下されたく候。
 明治二十六年十二月二十四日午後三時
                         南方熊楠拝
土宜法竜師
                    15,Blithfield St.
                   Kensington,London W.
                         England
 
(193)          3
 
明治二十七年二月五日
   土宜法竜師へ
                   南方熊楠呈
 小生前日より状を認《したた》め呈せんとかかりしが、何分植物整理のため暇少なく、今日に至り、しかして今朝貴翰を得たるにつき、その当座の返事を申し上げ候。
 貴説に第一答うるは、北方南方の名は、釈迦が仏教を弘めし地より北を北方、南を南方と申すなり。すなわち中天竺より北を北方、南を南方なり。ただし中天竺といえど、それは仏教より名づけしことにて、決してインド半島の中央という儀ではなく、大いに北によりておるなり。また北方に大乗生じとは、カシュミラ国辺を申すなり。釈迦が出でし地よりは北方なり(西北によりておる)。
 予はただ南北の名は小大の名と全く符合せぬぐらいのことは、欧人も知りておるということを申せしなり。しかるに仁者《にんじや》これをいう。故に予は、前日自分書き上げてある人に呈せし論には、ただに南方仏教と小乗と同実のものならざるのみならず、その上に喇嘛《ラマ》教と大乗教とも同実のものにあらざるをいいしとまでなり。喇嘛教と大乗と同実のものにあらざるは仁者の論には見えぬゆえ、仁者の説かざるところを説きたるをもって、その上を踰《こ》えてといえるなり。英語の moreover とでもいう意にていいしなり。これほどの分かりきったことを言いたればとて、智の仁者にまされりという意味にてその上を踰えてとは言わざりしなり。しかして仁者は、予と意見を異にして、喇嘛教と大乗と同一という。これはその同所を取りてのみいうものならん。しかるときは同処を取りてのみいわば、小乗と南仏教ともま(194)た同一なり。もし仁者が異所を取りてこまかくしらべて、南仏教は小乗の一部なりというごとく論ずれば、すなわち小生がいえるごとく   嘲嚇教もまた大乗の一部なるなり。
 小生『元明史略』という日本出来の書は持ちしことなし、故に知らず。しかし支那一汎に喇嘛を(名義ばかりでも)法王ごときものとせるは、実に元世祖が蒙古、チベット等の民を服従せしめんため、その信奉する喇嘛をもって帝師とせるに始まれるなり。(八合思馬という人、帝師第一世なり。)しかして、もし晋・唐間に支那帝国にて発達せる天台、華厳、南北禅等が喇嘛教と同一のものならんには、清朝の今に至るまで、ことさらに白蓮教、紅衣喇嘛教などとかかぬはずなり。元以前に、喇嘛などいう名が支那の史書に多く見えたりや、聞きたきことなり。かつこの教は、瑜伽道の外に、いろいろ西羌(羌とはチベット人)の古神を混入せること、わが三十番神のごときもの多く、観世音がその国に仏教の開祖たりし(聖徳太子様の)グプタ王に現ぜしなどいうてこれを祭り、またその妃は阿弥陀なりしとかいうて、これをも大いに尊ぶ等のことありて、日本にそんなことなく、またわが国の聖徳太子、聖武天皇はグプタ王の転訛せるなりとも承らねば、とにかく、隋・唐間に日本へ渡りしものとは大いに異なるなり。(年代も右のグプタ王の出でたるは、ずいぶんおそきことと知らる。)
 仁者、宗教の同異は寺院、寺制、儀式以下すっかりの別同をいうという。しからば、元(それより前に喇嘛のことは一向きかず)世にかきしものに、喇嘛僧喇嘛僧とかきて、尋常の僧と別のようなものにしたり。もし支那の大乗教と喇嘛教と同一ならば、何ぞかかる長々しき名を一々書するに及ばんや。故に仁者がいうごとく細かしやかに別けていうときは、ただに南仏という名の北仏という名と同一実ならざるのみならず、北仏また大乗という名も喇嘛教と同一ならずと申すなり。(欧人中には、喇嘛教という名にて、その下に大乗をすっかり記したる学者もあり。)されど、これはただ便宜のためのことにて、たとえば、白人、黒人、黄人の雑居する処といえば、何のことやら分からぬが、黄人国と一口にいえばアジア、白人国と一口にいえば欧州と、十人は十人ながら思いあたるように、南仏北仏をもっ(195)て小大の別を概指せることにて、欧州の学者といえども、北仏中にも小乗あり、南仏中にも大乗あるは(カンボジアごときは大乗なり。カンボジアは釈迦が出でし地よりは南なり)知りおるが、ただ便宜のためにかく名づけしならんといいしなり。細かくその名義を論じていうときは、いかにも南北の名は小大の名と恰当《こうとう》せざるならん。しかして喇嘛教と大乗とも恰当せざるなり。
 南部の人みずからその教えを謙して小乗というにあらず。大乗、北方に生じてよりの名なり、云々。南方の人、その教えを自称して小乗ということありや、聞きたきことなり。また、大乗教経は釈迦が説きしとかいえど、その中に釈迦死後のことなどもあれば、いかにも釈迦がみずから書きしものと思われず、儒徒すら『論語』は孔子が書きしものといわざるなり。小生は大乗は空より降りしというにあらず、釈迦の後に多くの豪傑出でてこれを成せしというなり。たとえば、かの大乗経中に、ある女人がこの経をよんだら容貌よくてよき男にほれらるるとか、「かの観音の力を念ずれば、還りて本人に著《つ》く」等の馬鹿なことを、いかにして釈尊が説くべきや。釈迦は人間なり。キリストごとき神怪のことをいいしものにあらず。三十前後から教えを立てて、八十余までに、説教四万八千回とかなんとか、そんなことあるべきや。三十三間堂で大矢を通した星野勘左衛門、和佐大八もあきるることならん。仁者などはやはり旧套を襲いて、釈迦始めに『華厳』をときしが、一同大いに呆れたゆえ、さらに小乗を説けりとかなんとかいうか。しからば、その最初の『華厳経』の中に舎利弗等五百の声聞《しようもん》あるは何のことじゃ。また、祇園精舎は成道後六年に立つとか、その精舎が最初説法の『華厳経』中にあるは何ごとぞや。この他諸経を合わせ見れば、年代等に一向衝突のこと多し。もっとも物の成るは成るの日に成るにあらざれば、釈迦は多少大乗がかったこともいいしならん。しかしただ自分の教えとして説きしのみ。当時は仏教という名さえあらざりしならん。ただ釈迦の教えとぐらい言いて通りしなるべし。何ぞ自分の説くことに、今日はかようかよう、今日はこれこれと、はなしかが天明落ち、寛政落ち、浮世講談と名目を立てて説くごときことあらんや。されば小生は、大乗は全く後人が捏造とはいわず、ただ後人が釈迦(196)の説を敷衍《ふえん》せるものと思う。しかして現存の小乗もまた然るべし。すなわち後人が多少の敷衍あるには違いなし。
 世に贔屓《ひいき》の引き倒しということあり。あまりに自己の宝を吹聴せんとして、反って落とし破《わ》るようなことなり。仁者などもあまりにわがものを尊くいわば、反って傷を蒙らんか。仁者、予に『法華』、『涅槃』等は釈尊の説にあらずというかと詰《なじ》らる。釈尊みずから書きしものにあらざるは明々なることなり。たとえば小生、今ここに仁者に説教して聞かせんとするに、その句中に自分の周囲のこと、座右のありさまなどをことごとしくいうべきや。『法華』の始めにいろいろの声聞、菩薩の名、神の名などことごとしく挙げたり。釈尊みずからこの経を説かんに、あに自分の身のまわりのことを長々しく贅語せんや。また多少の釈尊自説ありとするも、全経が釈迦の主旨にあらざるべきは、謗経の罪報を説くとて、野干《やかん》となりて、来て聚落に入り、身体疥癩、また一目なし、云々。また大蛇身を受け、「その形長大なること五百|由句《ゆじゆん》、聾?《ろうがい》無足、宛転腹行す、云々」。もし人とならば、多病|瘠痩《せきそう》、口常に臭く、淫欲盛んにして禽獣のぼぼでもする。「この経を謗《そし》るゆえに罪を獲《う》ることかくのごとし」などあるは、例の耶蘇の教書の終りに一字句を改むるものは永久地獄に落つべしといえるにもまされる馬鹿なことにて、『委陀《ヴエーダ》』や梵天などを排せし釈尊が、自分の経を誇ることかくのごとくなるは、いかにも似合わぬことなり。今ここに小生みずから文を書いて言をのこすとして、これを誇るにかかる言をもってせば、誰かこれを聞くものあらん。回々教祖のなせしことには、多少かかる言もあるようなり。されど、これは天帝より使いを得しとて、建立門せしことなれば、釈迦が自覚成道とは大いに異なり。
 小生はミュラルなどの説に、かかるくわしき破綻を見出だしたることあるを聞かず。ただ自分読みたることを引いて申すなり。またなにか小生が乳臭とかなんとかいわるるが、乳臭でもなんでもよし、項?《こうたく》七歳にして孔子の師となり、甘羅十二にして張唐に説き、近くはシャンポーリオン十六にしてエジプトの秘文を読みたれば、年をもって彼是《かれこれ》いうべきにあらず。小生はただ日本の今の仏僧たるもの、何の実行実学本事もなく、「様《てほん》によりて葫蘆《ふくべ》を画き」、張るべきことを張らず、夢のごときことを保持主張し、時世に引きずられ、後れ行き、識者よりほ好笑、凡衆よりは嘲哢(197)さるるを気の毒に思うのみ。乳臭にして小生のほどの学識あるは、まことに希代のことなり。坊主のこと知らぬゆえ乳臭というか。今の坊主は支離不条理 事伝を縫拾記臆して、その他に何の知ることなければ、これこそ小生には十倍の乳臭ならん。
 要するに、南方の仏教は小乗の一部〔五字傍点〕と大乗の方よりいわば、南方の人は、北方の小乗は真の仏教〔四字傍点〕(南方の小乗自称)に蛇足を添えたる〔八字傍点〕ものというべし。すなわち東家は西といい西家は東というて〔東家〜傍点〕、一ヵ月議論するようなものか。喇嘛《ラマ》教は大乗の一部なり。されど、大乗と喇嘛とは等しきものにあらず。数式でいわば、喇嘛教=大乗減某々のものなり。喇嘛教の後世のものなるは、史書に多く見えたり。漢・晋のころは、喇嘛という名も見えぬなり。律といえば、天台律、真言律あり。深草の元政が法華律まであることぐらいは、小生も知れり。ただし律ということは、たしかに釈迦の在日よりありしことなり。南北普通なること多し。故に律は大乗なりとも小乗なりともいいしにあらず。律ごとき普通のものもあれば、北仏は決して大乗のみといわれずといいしなり。大抵のことはよし、右の謗経の罪業など馬鹿馬鹿しきことをとける部を有する『法華』全篇を釈迦の作なりなどいうは、実に可笑《わらうべき》のことなり。かかるものを味噌も糞も金科玉条、賽銭の種として主張するようなことなら、小生は決して仏徒とならず。仏教は輪廻《りんね》の観を立てしものなり。
 さて輪廻因果ということの争われぬは、科学にて十分分かりたることにて、これを信ぜざるものは、科学上の権理なきものとなりおるなり。この一大事、仏教に取りては実に無類とび切りの仕合せじゃ。故に仏徒たるもの、論理、算理の形而上科学《アブストラクト・サイエンス》より、天文学、物理学、化学の形中科学《アブストラクト・コンクリート・サイエンス》、さて生理、生物、心理、社会、人事の形以下科学《コンクリート・サイエンス》を精究して、実事上に輪廻を主張すること、はなはだ必要なるにあらずや。しかして仏教は功徳をつむを最上のこととす。外教徒これを笑うものあるが、現に望月などいう男も、仏教は商売のようなものか、といえり。これはなにか、孔子の陳文漢か李次・原憲《げんけん》の列伝でもよみそこねてのことならんが、輪廻ということ悪く心得ると(形(198)以下の光線、音響の波動のごとく)一時間勉むれば一時間怠る、今月貧すれば来月金が来着するより推して、今生に貧すれば来世に富み、今生に好男子なれば来世に醜男となるというようなこととなるべし。スペンセルの『ファルスト・プリンシプルス』など、かかることを(小生の誤解かしらぬが)いいて、万事は波動をなすといえり。いかにも一通り左様なるべし。されど、形而上のことに至りては、全くそれのみにあらざるなり。すなわち、一時間つとめ、それを面白くつとむれば、次の一時間は一層面白くつとめらるる。正直に智徳を立つれば、今月富みたる上に来月は一層富むなり。故に、音楽が必ず一上一下せねば聞こえぬとか、蔓が左右に揺らがねは巻き得ずとかいうとは、事情異なり。かつ商売は惡《にく》むべきものにあらず、互いに無を足し有を通ずるなれば、これほどよきことはなし。すなわち、善を積んで他の善にとぼしきものに弘通《ぐつう》し、今日善を積んで子孫にのこすことは、史書をよんで知るべし。むちゃくちゃに神に悔い神に祈りて一々その意に任するごとき理観を、仏教は有せざるなり。
 されば、仏教の他教と異なるは、人間に第一必要として開進の助手たる科学と同一轍を行きおることなり。(学問ということ、理想にかかれることと、感慟《かんどう》にかかれることとあり。感慟にかかれることは、美術、詩文等。その他の学問、理を推し、事を明らむるは、みな科学なり。詩文を模型として一国一人の行いを処置するときは、時としてとんでもなきことを生ずべし。科学の外に、日常一国一身を処するものはなきなり。)故に仏徒たるもの、もっとも論理以下、社会、人事の学に至るまで、形而上、形中、形以下の科学を修めて世を益し、あわせてその教を布《し》くべし。世は動き行くものなり。教もまたこれと共に動きて伴わざるべからず。しかるになんじゃ、糞土のごとき、建立の旧ドグマ(教理、また頑説)に固着して、釈尊の贔屓の引倒しせんとは、実に苦々しき次第なり。
 仁者いうごとき心内の妙想とかいうことは、耶蘇教にも多くあることなり。それならそれをいうてみよというか。仁者みずからも何ともいわれぬところが心内の妙想というにあらずや。みずから人にいうこと能わざるところを、いかにして人がみずからにいい得べきや。光線、音響等は、数にて測り得べきゆえに、強弱大小をはなし得べし。味、(199)香のごときは、数にて測り得ぬものなり。故に強弱大小をはなし得ず。心内の妙想ごときは、數にて測り得ざること、味、香の千倍万倍のものなれば、仏者みずからこれほど妙味あるものはないといわば、キリスト教徒も然《しか》いうべし。小生が仏教を特に信ずるは、因果輪廻ということを科学(論理以下の)にて保証し得たればなり。
 右の謗経の罪業として、蛇となるとか、また二十四孝の浄瑠璃に、八重垣姫が庭前の菊を見て、思い出だせば去年霜月二十日に勝頼がお果てなされた、今日は命日一周忌と嘆き(菊は九月のものなり、この場は信州の寒国なれば、霜月二十日に菊が庭前にさくようなことはなし)、定九郎が暑い最中に綿入を着し、茶屋場に、発端に、入る月の山科《やましな》よりはとありて、さて後文に、月の光で九太夫が文をよむごとき、大すかまたな時代違いのある『華厳経』などを万代不易のものとして拝崇してのことにあらず。かかることをあまりに強会して人に説かば、大いに識者の笑いを増すべし。
 小生、仁者を踰《こ》えて云々といえるは、仁者は、南仏という名は小乗という実と恰当せぬといえるばかり、しかして小生もこのことをかつていえる上に、また、仁者がいわざる(小生に送りし書中には)喇嘛教という名もまた大乗に恰当せぬといえるなり。人の言うところをいい、その上にまたその人の言わざるところをいうは、その人をこえてというて然《しか》るべし。すなわち議論に一歩をすすめ踰えたるの意なり。何の乳臭なることあらん。また、学者くさきとか、自慢とかいう。かかることを新紙へでも事珍しく出したなら左様もいうぺけれ、小生はずいぶん口も筆も立つが、一向人の問わぬことなどに関係せず、現に少時より勉学するが、世に公示せるものとては、短き文章二篇あるのみ。今時、道に聴きて塗《みち》に説く人多き世には、数万の金を費やし、数千の書を擁し、千里の長旅をなし、百千の物を集めながら、口を噤《つぐ》みみずから楽しみおる小生のごときは、その心実に尊ぶべきことならずや。人みずから信ぜざるときは、何ごとも行なわれず。志も立たず、言うことすること一向とりとめなきなり。小生みずから信ずるところを筆して仁者に示す、何の自慢ということあらん。かつ小生、人に長たることを望むなどいいしことなし。故にたとい小生みず(200)から信ずる厚くして、ために人に長たることできずとて、自分の楽しみは胸中に余地広きことなり、何のかまうことあらんや。
 小生は一向外出せず、植物のみしらべおるゆえ、何ごとも見聞せぬなり。大抵半分ばかり片づけたり。二、三日中に一《ひと》たび止むるつもり、その上はまた論文を呈すべし。要するに、仏徒が力を極めて外教の神その怪奇の説多きを悪口しながら、自分もまた前述ごとき自家矛盾の経文や、巫祝《ふしゆく》がその術に自慢するような威嚇ばなしを如来の顔にぬりつくるは、実に笑うべきことなり。かくのごとくなれば、仏教は決して中興はできず。しかして小生は、経を謗《そし》りて大蛇となるなどいうことは、第一に輪廻因果の理に合わず、耶蘇教の神意説と同一のものと思い、また、『華厳』中に自家矛盾の時代ちがいあるごときは、耶蘇教の予言ごときことにて、釈迦死後のことなどあまりに仏経にくわし過ぎるごときは、耶蘇教のちょっとした予言ぐらいの及ぶところにあらず。かかることを奉じて、理窟に合わぬ(科学に合わぬ)ことをむりに頭に押しこむが仏教ならんには、小生はいかにも尽力してその仏教を絶滅せしめんことを欲す。何となれば、理窟と併行せぬ教理の一世界一社会に大害あるは、カソリック教の過去現在のことをみても証し得べし。科学いかに張りたりとて、少しも仏教に害なし、科学にて知り得ぬこと常に存すればなり。しかして仏教の因果輪廻の説は、科学にて知り得ることと、知り得ぬこととに、共通普存するものとして立ちたればなり。
 もし仏徒が例の頑説を守りて、インド五蘊《ごうん》の説と違うゆえ、化学原索説をおそる、文殊菩薩説かぬところゆえ、分類論理は不可なりなどいわば、小生はただその愚庸無比にして、味方を敵と心得て自滅するを笑わんのみ。また、科学を論理、数理より人事の理まで学ぶは、むつかしいといわんか、それは僻怠《けたい》というものなり。世に骨折らずして事の分かり功の立つものはなし。事理をはなれて感慟のみを主とする小説や詩文ばかりでは、何のこともならぬなり。まずは多用ゆえ、右近事申し上げ候。早々。
                  南方拝
(201)   土宜法竜師
  この論文は小生写しおけり。調査の上、洋人全く知らぬことならば、小生これを訳して出すべし。もし洋人にも知れるもの多ければ、そのままさしおくべく候。
 
 
(202)          4
 
 只今井上陳誠(御存知の有名なる漢学者。李鴻章の家に十一年おれりとか)氏の状を得たり。中に喇嘛《ラマ》教のことあり。要所のみ抜載するよりは、要所は仁者《にんじや》これをとるべしとして、全文を写し差し上げ候。
 「北京には数個の大喇嘛寺あり。紅教、黄教ともに有之《これあり》。喇嘛僧正は北京雍和宮および西山喇嘛寺におる。『西山の者もっとも尊し』(ここ『 』の間消し有之。按ずるに、氏久しく支那にありて観たるところはかくのごとくなれども、別にたしかにあらずと謙して消したるならん)。喇嘛は清帝満州以来|崇《あが》むるところにして、これにあらざれば満蒙諸族を圧すること能わず。故に清帝喪祭その他?雪?雨は喇嘛僧これを主《つかさど》る。清帝は紅教か黄教かについては、小生は黄教かと存じ候。御承知のごとく、宗咯巴(ツォンカパ)黄教創始以来、勢力漸大に至り、蔵中法王の位は、黄教徒の世襲となり、紅教は一派別教のごとく相成り、法王は毎歳使を清国帝に送り、清帝はこれを賓札すること敬はなはだし。すでに黄教をもって宗派と認め、これを尊礼し、これに法王の礼遇を与うれば、すでに黄教に属せずといわんや。しかれども現今は黄紅ともに同数に属し、紅はあたかも付属別派のごとくなりおれば、この間に敵視する意はなし。かつ清廷のこの教を崇信するは、もと政略上の策に出でしをもって、北京には紅黄両寺あり、両派の喇嘛居住せり。雍正帝、即位以前、喇嘛教を研修す。四月八日釈迦誕生日に下すところの詔は、小生すこぶるその闊達を喜ぶ。北京の喇嘛寺は、雍和宮、崇慈寺、栴檀寺、隆福寺、護国寺を首《はじめ》とし、喇嘛は総管喇嘛、班弟札薩克大喇嘛一人、同副一人、札薩克喇嘛四人、大喇嘛十八人、この他通常喇嘛は一万以上に及ぶ」とあり。
 小生は、一体、井上氏に、北京にも天台は天台、禅は禅にて、外に喇嘛教あるものか、また、天台も禅も喇嘛の配下にあるものなるかを問いしなり。しかるに氏の答えはかくのごとし。されど、その答文を案ずるに、どうも喇嘛教(203)は、他の古来の華厳、天台、法相《ほつそう》、禅ごときものと別とみえ申し候。しかしてこの教の瑜伽《ゆが》を大主張するは、仁者毎毎の言のごとくなれば、取りも直さず、真言宗にて、それに維新前の本地垂跡《ほんじすいじやく》のごとく、いろいろさまざまの戎狄、羌地の番神を加えたるものならん。しかして  嘲嚇教の大骨髄主分たる大乗法は、キリスト以後六百年より後にチベットに入れりという。左《さ》するときは、わが朝に(大いに寛容を与えて法相の入りしを紀元とするも)仏法の入りしは、やはりそのころなり。しかして右のキリスト後六世期にはじめてチベットにて字を製し、(文殊大士の化身が)経典を訳述すなどいえば、到底日本へ入りし大乗はチベットより来たれるにあらず。たといチベットを通って来たものとするも、チベットにていろいろの化け物と混ぜるものにはあらざること万々なり。
 さてチベットにはその後大乗ますます盛んにして、近隣までもふるい、いろいろの  嘲嚇を生ぜしが、終《つい》に紅衣  嘲麻に一統せられ、次いで黄衣喇嘛も出でたるにて、この輩もっぱら蒙古・満州の民を感化せるが、支那の仏教はやはり伝は異なれば、喇嘛教が支那の仏教と同一というべからず。(すでに井上氏状、別のところに)「満州が明を犯せる始めのころ、明廷よりチベット喇嘛嚇王の教旨を請い、彼らに遵服を促せしことあり。また、元祖以来、蒙古・満州人は、大抵喇嘛教を奉ず」とあり。
 故に、小生いえるごとく、元《げん》ごろの小説、たとえば羅氏の『西遊記』などに、喇嘛僧喇嘛僧とありて、仏僧と別《わか》ち、それ以前には一向喇嘛のこと見えず。(鳩摩羅什《くまらじゆう》など亀?《きゆうじ》国におりしこともありて、今の喇嘛支配の地なるが、晋時代に一向喇嘛などのこと見えず。)よって喇嘛がいばり出したは、元以後のことといえるはもっともならずや(景定元年、「元、梵僧八合思八をもって国師となす」に始まる)。決して『元明史略』などを拠《よりどころ》とせるにあらず。また玄宗が開元三年に一行《いちぎよう》を天師とし、代宗が慧果阿闍梨《けいかあじやり》の大馬鹿野郎を済頂国師とせることはあり。されど、この二人は瑜伽の親方、大|法螺《ぼら》の統領ながら、決して喇嘛にあらず。また善無畏《ぜんむい》の馬鹿野郎は、インドの王の子なりしが、伯夷をきどり、国を譲って出家せりということはあるが、これまた決して喇嘛王の子にはあらず。故に日本の瑜伽法は、(204)今のチベットのものより古き伝ならん。また喇嘛教と一口にいえど、これは奈良部とか東国部とかいうような地方をもって名づけたようなことで、内にはやはり阿弥陀を第一とするもあり、また文殊を尊ぶもあり、いろいろの小派あることと存ぜられ候。すでに黄紅のおのおのその祖師を誇るとて、一は阿弥陀の現身、一は観世音の現身というなどにて知るべく、また、観音をもって阿弥陀に抗せんとするなど、はなはだ日本の風とは異なり。(日本ではいつも阿弥陀の関脇として観世音を称するようなり。)しかして今、欧州人は喇嘛教といえば北方仏をことごとく包含するように思いおるものもあり。また左《さ》なくとも、(小乗を除く)大乗と喇嘛は全く同一なりと思いおる人もあるようなり。故に仁者ごとく、南北のことを弁じて、北方にも小乗ありというに及ばば、それと同時に小生は、喇嘛教は仏教の一派なり、決して大乗全体にもあらず、また北方仏教にもあらずといわんとす。
 仁者の先日、訳をたのまれたる状は承知せり。ただし南北の別をもって直ちに小大の別と心得ること、隅田川の東西をもって直ちに武蔵・下総と心得たるようなもの、たしかにありしや。通弁を経ての話ならんにはずいぶんあやし。小生は、北方仏教は大乗のみにあらずぐらいのことは、たれでも知りおることと思う。故に、そんな入らぬことをわざわざ珍しかりそうに弁ずるは、あるいは識者の笑を免れざることと思えるなり。また北方小乗の蘇漫多《そまんた》部のみ今日南方の小乗なりというは、小生にはちょっと新見なるが、何の証拠もなく、ただ仁者の友人の言を簡に証とせるのみ。さればその友人間違うておれば、それきりというほどのことなり。今日南方の仏教には決して蘇漫多外の小乗部なしという証拠たしかなるや。それが立たねば、かかる論文出すは見合わする方はなはだ大出来ならん。
 小生の考えには(考えでも何でもなくあたりまえの話)、禅定という語も、瑜伽の語も、むかしよりありて、釈迦もこれをやれるなれば、大乗は釈迦以前よりありしなり。あるいは直ちに大呑み込みで梵教の一派といわんか、これ大間違いならん。何となれば、梵教とは梵王を奉じて主宰とするものなればなり。その前にはまた囲陀《ヴエーダ》教あり。すなわち『四|委陀《ヴエーダ》』を奉じて神聖経典とせるなり。禅理、密法が梵教の行なわるる時代に存したればとて、直ちに梵教の(205)一部というは、荘子が孟子と同時ゆえに孔子の教を奉ぜし一派というがごとくならん。何にせよ、インドにはかかる教いろいろありしなり。しかして禅、密等を釈迦が総合して大乗の観を成し、同時に時世に合わせて、俗人のために分かりやすき道義談で小乗を述べたるなり。
 欧人なにかいうと捏造《ねつぞう》とか不純とかいう、これ大馬鹿なことなり。無中に何ごとも造り出されぬは知れたことなり。また、五采燦爛としていろいろの美を集むるにあらざれば、事は成らぬものなり。現にかの毛唐人《けとうじん》輩の自慢とする帰納法論理は、当世開化の基本というが、すなわちいろいろのものを集むるの法に外ならず。釈迦いかな手づまつかいなりとも、竜猛《りゆうみょう》いかな法螺吹きなりとも、所伝のなきことをいかにして無中より作り出だし得んや。故にインドに異論あるいは一衰し、あるいは一盛して相争える永年期の間に多少の賢士ありて仏の地をなすべき法は説いたことなるを、釈迦が世に出でて統合してこれを残し、それがまた分かれたるを、竜猛がまた統合せるなり。維摩居士《ゆいまこじ》すなわち余の前身のごときは、実にえらい大乗家なり。しかして欧人もその釈迦と同時の人(一市人)たるを疑わず。維摩別に釈迦にいろはから教えられて、かほどえらくなったとは聞かず。はじめから舎利弗や目?連《もくけんれん》に駕する見識がありしなり。これらは誰より仏教を得たりといわば、たとえば法然《ほうねん》が始めて浄土をといたときに、重源や覚明が一時に賛成(決して始めからおしえられしにあらず。もとより多少似寄った存念ありて)せるごとく(すなわち源信などの『往生要集』ごときものを読んで)、別に釈迦の教を聞いて始めて見識を得しにあらず。似寄りたる見識を自分で聞きおりたるが、釈迦説法に及び、たちまち大賛成せるものなるべし。故に維摩のごときは、釈迦前に存せる大乗法を得たるが、釈迦説法に及び(決して子分となるにあらずして)、これに協力せしなり。
 また、文殊等のこと、これも架空の屁の塊《かたまり》のようにいえど、その説いたところは実に精細なる学問にて、どうも屁のかたまりが学問すべしとも思われず。されば梵士《ぼんじ》らが作ったといわんか、仏教を仇のごとくにいう梵士が、何を苦しんで仏教に托してかかる傑作を出ださんや。かかる学説、梵教徒より出でたらば、梵教の大助となりて仏教を圧(206)倒するほどの力はあるはずなり。しかるに仏教中に存在するをもって見るに、これまた仏教徒中に文殊という人(いわずともかまわず)ありて、かかる学説を出だせるならん。本名を明かさず、また時代も何も知れぬは、その人の勝手でかくすをよしと心得たるか、または時勢の変で湮没《いんぼつ』したるならん。現に欧州にもわずか三百年ばかり前まで、法師が説教の一大方便品とせる『ゲスタ・ロマノルム』ごときは、誰の作やら一向知れぬなり。一向知れぬゆえ悪いというわけに行かず。日本にも大寺などで一向誰が立てたとも分からぬもの多し。そんなに一々分かるものにあらず。
 さて、釈迦前に大乗法伝わりおりて、釈迦最後にこれを主張大成せりとせば、その伝わった法は如何《いかん》というか。なんでもなきことなり。多少これを伝えた仙人輩、梵師《ぼんじ》輩ありしこと、周公より孔子に誰が伝えたともなけれど、孔子は別に何一つ捏造せず、「述べて作らず」、信じて古えを好み、その伝統を得たるがごとくならん。しかして賢劫の一仏二仏三仏以下、世遠くして何のことやら分からぬが、名前ぐらいはうそながらのこりおれば、そんな人ありしも知れず。ただし時代大いにかわれば、釈尊の説法通りではあらざるべし。すなわち耶蘇教は耶蘇がもっぱら主張したれども、その伝はアダム、ノア、アブラム、モッセスとつづきおるごとし。かくのごとく説くときは、例のもっとも奇怪なる露身外道と仏教といずれが古いかなどいう論は入らず。すなわち釈迦以前には曖昧として一なりしが、釈迦はその正しきところをとりて釈教を建て、他は不純なことを主張せり、というなり(荀子も孟子も孔子を継述したれども、孟子を正統とするごとく)。故に仏教を釈迦が無中より作り出だせりとすれば、大ほらなるべきが、古来の伝を統合一大成せりといわば、実によく分かることなり。すなわち竜樹は釈迦に次いで、またこれを大成せるなり、捏造せるにあらず。耶蘇教ごときも、時代代わるにしたがい、セント・アウグスチン以下、ルーテル、メランクソン、カルヴィン等に至るまで、おのおの耶蘇の旨を基として、多少の増損はあり。別にこれを捏造といわぬようなり。
 もし時代、国土かわりて宗教の末事かわるを捏造とかなんとかいわば、喇嘛《ラマ》教も、今日のセイロン仏も、天台も、法相も、なにもかもみな仏教にあらず。しかして仏が成道のときに説きし教えも、仏教といいがたく、涅槃のときの(207)語も仏教にあらざるべし。そんなこといわば、今日の宗教という宗派はことごとく宗教でなくなること、日本といえど決して日がその国より出ずるにあらずとて国号を廃し、あんな国とかこんな国とかいうて止むようなこととなるべし。右、汝米虫大馬鹿坊主に教えてやるなり。
 小生も実は今日欧州の学者などいうものは、彫虫の技で、なにか細胞体の数がちがうとか、鰻の骨組がゆがんだとか、または寺のます形が大小あるゆえ宗理が別だとか、いうようなことのみで、一向面白からず。故に大抵で一度帰国すべし。
 さて小生の父の遺産は分け別《わか》らず、たぶん下野の押領使藤原秀郷ときていることならん。これを親しきものに問うは、小生の心を汚すことなり。故にそんなことにかまわず、またそんな人の寸半《きなか》も世話にならずに、面白おかしく死んでしまわんと欲す。されど今少しの金は小生みずから有しおるなり。故に顧慮も心配もなく、書籍また植物などおびただしくあつめ、また写本も多く作るべき間、小生帰国してもし余分の金もあり、保存に差しつかえずとすれば、それで保存すべきか、そんな金も残らずとくるときは、小生はこれを散佚《さんいつ》してしまうははなはだ惜しく、また道理よりいわば、太《はなは》だ損毛となること、不徳のことゆえ、貴方へ托し、かの仏国の大博識ジーデロー先生の貧をあわれみ、その書をことごとくあずかりやりし魯国女王の行いのごとく、右の書の番人として、予を貴寺へ置かれたく候。しかして、小生は妻子などをもつ望み少しもなく、また縁故とても前述のような茶の子がかったことなれば、決してかかる大へんなものを和歌山辺の俗人に残すことを欲せず。自慢かは知らぬが、小生の集めたものを一々一人にて保存するは、小生ほど、もしくは小生に俊《まさ》りし多年の学問あるものを要す。ずいぶんむつかしき子細なり。さればこれを何とかいうインスチチューションに寄托せんとするも、小生は在来の日本の学校員などいうものの行いを、はなはだ卑劣にして人畜同様と思う。小生これまで潔行守志して、いかに究すればとて、自分と志の合わぬ盗賊ごとき者に、せっかくのものをあずくるはずなし。
(208) 一例を示さんに、前年、東京大学のやつら、二、三の少年が条約改正のことに議を入れ、ボアソナード、林、谷、板垣等諸人の建白意見書を配布せりとて、これに退学を命ぜり。しかるにその後、大隈伯が入閣して再び条約改正の騒ぎあるに及び、この輩みな協同し、はなはだしきは生徒を講堂で説諭して改正に反対の挙をなしたり。これは大学の頭たるやつら、いずれもみな幇間《ほうかん》ごときばか野郎(字は少々よめ理窟ひねくつても、またバクテリアぐらいの発見しても、道義上分の知れぬ人足《にんそく》は、小生これをばか野郎と呼ぶ)ばかりにて、かかる奇怪な両|天秤《てんびん》がかったことを行なえるなり。大隈伯の改正案は、実に柔惰《じゆうだ》なることにて、わが国に行なわざりしは幸いなり。されど井上伯の改正案よりは、万々よかりしなり。しかるに、そのわるかりしものの出でしときは、一同閉口して、少年を退校せしめて、一人の救解するものなく、よかりし(少々にても)もの出ずるに及んでは、一同|囂々《ごうごう》して、なお一層よきものを望む。『孟子』に謂うところの、昨日のこと是《ぜ》ならば今日のことは非《ひ》ならん、今日のこと是ならば昨日のことは非ならんで、決してよきことにあらざるはもちろん、小生などより見れば、小児が昨日は饅頭一つくれぬゆえ哭し、今日は羊羹一つくれたゆえ、たたかれても哭を忍ぶというような浅はかなことなり。しかしてこの輩は、帝国の教授とか、いや博士とか、カント、ヘーゲルとか、ミル、スペンセルの説によれば道徳というものは利より生ずとか、支那にも義は利の和なりとか、えて勝手なることばかりいい、人を見|下《くだ》し、帝国大学に出入せぬ者は、学者にあらざるごとく、揚々としてわずか百円内外の金のために、あったら仏性金剛三昧を摧折《さいせつ》しおるものなり。余は、かかるものは、いかなる読書、いかなる科学の発明発見、器械や塗物法を作り出だしたりとて、決して人間なみにあらずと考え、大きらいなり。かかるものになんにもやることは成らず。
 前年、小生、運賃にこまり、植物せっかくあつめしもの三百ばかり、やいてしまえることあり。実に惜しきものなり。しかれども小生は狷介《けんかい》の癖として、幇間またおかまごときぐなぐなした気象のものに物をやるより、焼いてしまうことを好む。かつ小生、従来、一にも二にも官とか政府とかいうて、万事官もたれで、東京のみに書庫や博物館あ(209)りて、地方には何にもなきのみならず、中央に集権して田舎ものをおどかさんと、万事、田舎を枯らし、市都を肥やす風、学問にまで行なわるるを見、大いにこれを忌む。徳川氏のころ、士風も学風も空虚となりしは、やはりあまりに江戸へ集まり過ぎたるにあるなり。故にその方米虫帰国の上は、なるべくその方のみにても、あまり大市街などへ出かけずに田舎を肥やすことを心がくべし。
 仁者、インドまたセイロンにあるとき、小さき草また菌《きのこ》など見当たらば、とりて書物の間へでもはさみ乾《ほ》し、二、三にてもよろしいから送り下されたく候。しかし決してあてにはせぬなり。まずは右申し上げ候なり。
               ロンドン城金粟王如来
                       南方熊楠拝呈
  パリ ひょっとこ米虫大馬鹿野郎
   土宜法竜様
    明治二十七年三月二日夜 九時出
  前日、仁者くれたる高野山寺院の一枚ずり図、小生は仁者寓へ忘れたり。右、今もあらば下されたく候。ただしこれは人にやるなり、小生入用にはなし。故に仁者方になければそれでよし。あらば軽きものゆえ、書状と共についでに送り下されたく候。
  僧は忍尋を第一とす。井上正利、常にこのことをいうて、僧が名を呼びずてにさるるを怒るを笑いしとか。汝いかなる口をきかるるとも忍んで可なり。しかるに悪口を止めよと内願するは何ごとぞや。予のごときは、衣服もやぶれ、外出ごとにろくなことは受けぬが、一向平気なり。
 
(210)          5
                     南方熊楠拝
   土宜法竜様
 小生、前状に仏者今後その教旨の出処を説くべき円頓《えんどん》の法を申し上げたり。しかしてなにかごまかし風の円頓法のごとくなれど、決して然《しか》るにあらず。もっとも秘密秘密というているがゆえ、小生には分からぬが、従来の真言宗旨は、決して釈迦に出で始まりたりとせず、大日如来より出でて金剛|薩?《さつた》、それより竜猛というにあらずや。しかして釈迦もその教(真言の外の仏教)を述べて、時を救い後を化する法を、この瑜伽《ゆが》中に得たるなり。故にいわば真言は仏教中の一派にあらずして、仏教が真言宗の支出物なり。かかることいわば、例の洋人どもは大いに驚かんが、されど実際かくのごときなり。
 また従来わが真言の相承というものもかくのごとくなるなり。釈迦が仏教を始めたなど心得るは大違いにして、釈迦よりずっと前よりありしなり。それは梵教の一部の異見といわんか、それは、なにか今日より北朝は正統にあらずというような論で、ただ言句上の遊戯なり。梵教大はやりのときなりとも、梵天より高きものを主張せるものあらば、すでに梵教にはあらず。また前状申し上げしごとく、維摩《ゆいま》すなわち余の先身のごときもののことを見よ。『法華』が釈迦の骨髄とすれば、『維摩』は維摩の肝胆を得たるものにて、二経すでに大乗の大支柱たれば、維摩は釈迦に次ぐ迦葉《かしよう》ごときものよりはよほど卓見ありし人と見ゆ。しかして、別に釈迦に教えられてかかる不可思議の広才を得たりということを聞かず。またそのいうところは多少釈迦と(言句の)ちがうた骨法もあるなり。故にこの人は釈迦と同時に、前代の仏教を釈迦とは別の師より得たるか、または自習自発見したるものにて、たまたま釈迦の出でて法を説(211)くに及び、大いに協賛同助せることなり。
 故に仏教は決して釈迦が作り出せるものにあらず。第一、仏教の字に釈迦という意少しもなし。すなわちクルソン仏、カナカムニ仏等ありて、これが先をなせるなり。もっとも時代の違えば、釈迦の説法とは大いに違うなるべし。しかれども、とにかく梵天より以上のことを説きし一段は同じことなるべし。上の図のごとく(1)と書せる点を釈迦として見よ。(2)(3)(4)は、飲光《おんこう》、金寂《こんじやく》、拘留孫《くるそん》等の諸仏が説法せしのじゃ。しかして(3)の説法は散じて(4)(5)となり、(6)(7)の伝中に混ぜるを、(2)の時に出世の仏がまた撰出して説くのじゃ。しかして(2)仏の説きし正法また散じて(a)(b)となり、(c)(d)の外物と混和|雑揉《ざつじゆう》せるを、(1)仏がまた撰出して説くじゃ。しかしていかに撰出するも、(1)(2)(3)と年代もかわり、また後になるほど外物外境の関係もかわるゆえ、骨髄は同一でも、方便、軌範等の末事はちがうなり。故に、(1)仏すなわち釈尊の説法には、華厳の種子、真言の密法、法相の要旨、天台の所起、念仏の方便、いずれもあるなり。それをまた小者その小を得るで、おのおの得手得手で発せるものが、竜樹以下の輩なり。もっともこれとても年代もかわり、範囲もかわれば、規範また方便は、釈迦の言わぬところも言いあるなり。上の図は網の目のごとく、二集まって一となり、一散じて二となるように、二倍ずつのものとせるが、実はこれどころのことでなく、下の図のごとく、レースをあんだように、百集まりて一となり、また分かれて百となるようなものと見れば、大いによく分かるなり。
 釈迦一生に (三十|成道《じようどう》として)四万八千回も説教やらかしたりとか、今の大蔵経ことごとく口授したりとか、またいつも汝に教えやるごとく、耶蘇教にすら見ざる、下らぬ謗経の罪業強迫のごときは、皆うそとして、とにかく、華厳の要旨を一時間でもとき、真言の法を七日でも行ない、念仏の所作を一日でもすすめしぐらいのことはあるなり。(212)これをときし時日短く、説法の度数少なかりしとて、人間は思わぬことをするものにあらざれば、一時間でもこれを説くには十分これを主張せるなり。
 『論語』に孝を説くことははなはだ多からず、ちょっとちょっととなり。されど曽参《そうしん》これを敷衍《ふえん》して『孝経』を作れり。また中庸のごときは、『論語』中にあまりに見えず、ようやく有若《ゆうじやく》の礼の要は和を尊ぶぐらいのことなり。されど子思《しし》これを述べて『中庸』を作れり。仁義ということ『論語』中になし。仁といい義というて別にとけることは少なくあり。しかして孟軻《もうか》これを述べて、聖道を一貫せり。
 予は、釈迦も人間にて、大便もすれば小便もし、また顔も洗い寝ることもあり。禅定《ぜんじよう》などに入るときは、よほど久しく暇をつぶせしならん。しかして三十|成道《じようどう》より八十になって死ぬ五十年に、かかる多大の大蔵経を作り出だすなどは、耶蘇経の神が天地万物を一週間に作るよりもむつかしきことと思う。しかしながら要旨を授くるということは、ずいぶん一日の間にでもできることなれば、要旨は釈迦の伝にして(決して釈迦作り出だせるにあらず、諸仏の伝を釈迦が撰得したるなり)、釈迦よりこれを後に伝えたるなり。ただし正覚《しょうがく》ということは、釈迦が古諸仏の伝を集め、みずから調合して、大いに悟り、大いに示したるなれば、これは釈迦自身の特有物なり。
 たとえば、ここに白い絵具あり、黒い絵具、赤、黄、紫等あり、また紙もありと見て、それで絵は成ったといいがたし、また何の楽しみも妙もなし。しかるに、予創意発起してこれを調え、これを筆に下すときは、一物分子の増すにあらず、一物分子の減ずるにあらざることながら、一種の妙法界を眼前に現じて、人もこれを見てたのしむの絵画となるなり。
 釈迦は絵画を作りしものなり。竜樹、無著《むじやく》等はこれを補いしものなり。釈迦が決して絵の具を無中より作り出だしたるにもなく、紙を作れるにもあらざるなり。しかるに汝米虫の馬鹿野郎ら、なにがな俗人を誑《たぶら》かし、飯米をせしめんとて、耶蘇數でいう神聖の意味を釈迦の作ったことに付し、やたらに人作にあらざるごとくするは、実にわけの分(213)からぬことなり。しかして右の絵の具、白紙は何の処より来たり、何の処に去り、釈迦、龍樹何の処に生じ、何の処に帰し、何の要ありてかかることをするかといわば、その妙不可思議が、すなわち大日如来それ自身なるなり。故に釈迦それ自身決して化け物的の奇幻なるものにあらず、少し余よりえらい人間なり。ただし釈迦を生ぜしめ、釈迦が生まれたる所以《ゆえん》のものが、大不可思議大妙ちきなる、すなわち大日如来なるなり。しかるに米虫やりこめられたるを憤り、天熟の疑痴を懐いて、金粟《きんぞく》仏に、汝は、これを何の処に得、何の誰に得たるかというが、金粟如来は答えて、われはこれを大日如来の法身《ほつしん》に得、賢劫の諸仏の伝に得たりといわんのみ。
  小生は、仏乗法は釈迦より前よりありて、一種の哲学者様のもの(縁覚輩)、または救世的の用をなせしこと(諸仏菩薩)もあるなり。ただし今の小乗は、釈迦が救世的の建立門に出ずることにて、すなわち釈迦の調合に出で、大乗法は、ずっとむかしよりありしを、釈迦が右の小乗を作るどだいとなし、しかして竜猛以下もっぱらこれを主張して、小乗のみで服せぬものに道理を示せるなりと思う。これは小生が思うなどといわずとも誰も知りておることなり。大天の異議のごときは、日蓮などのことに似て、ただただその時の上座の僧をにくみ中《なか》悪《あ》しきより、俗人むきのやすいことを清水帯弘ごとく主張せるなり。しかし、かかる異議を生ぜしめしも、一はそのときの仏僧全体の落度というべし。
 今日科学にて成劫《じようこう》、壊劫《えこう》の行なわるることを証し、争うべからざることとなりおるは、今も空中の星に壊潰《かいかい》散失するものあるにて知るべし。いわんやメンデリーフ先生は、原素進化を証して、万物ことごとく水素に帰すといえり。されば、この水素原子何より来たるかといわば、大日如来の法身というの外なし。またなにか今日ここらへ来て大枚の金を費やし、下宿の下女などにほめてもらいてうれしがり、たまたま大卓論が出、大観察が出ると思えば、友人の語がおれより下手だとか、西洋の巡査は見事なりとかいうぐらいのことで、分の知れぬ洋人の八百屋の親方などに『バイブル』の講義きいて半日を費やすような大馬鹿野郎留学生などほ、犬、猫、??《みみずく》、百舌《もず》の応身《おうじん》にして、衣を纏える(214)ばかものどもなれば、奇怪といわんが、今日わずかに三百年、すなわちわれわれが十代ばかりつづく間(予の家などは元禄十年より予まで六代なり、されば三百年はまず十代と見る)、夢のような短い間に、芝居とか狂言とかいうほどの開化は、決してさしてえらいものにあらず。
 むつかしき外国のこと引くまでもなし、漢史を読んでみよ。秦皇の咸陽、漢高の長安より、唐の貞観・開元間の盛んなりしことなど、おそらくは今のロンドンなどにかつとも、決してまくるにあらず。伝は失せたれば知れざるも、建築法や煉化術は、今とかわれども、あったことはありしなり。(かかることは、百人中に一、二人しか実にこれを能《よ》くするものなく、あとはただ使わるるのみなり。故に伝を得しものことごとく死すれば、伝は直ちに失うことなり。今の世界にも左様なり。予らの動物・植物の学など、実際予のごとく器械など自分でつかい、また長途を旅し、一々自験してこそ、少しくその伝を得たりというべし。あとはただ空文空言、いかな精微な解剖法、組織、観察も、自分でやって見ず、人のしたことを、へい左様ならと見せてもらい、むしょうに呑み込んで、人のいうたとおりに吹きちらすは、博識めかすというほどのことで、『山海経《せんがいきよう》、『典籍便覧』の暗誦して、九頭丸尾人面蛇身のものの図をかつて見たことありと誇るに同じ。されば、この輩またこれをその弟子に伝うるときは、もはや実の学は全く失せたるなり。)
 『晋書』などを見るに、晋末にはよほどの術士ありしと見え、中には蒸汽船ごときものを作りし人もあるなり。その伝の失せたは不幸なり。伝の失せたるをもって、そのことはうそなりと言うべからず。現にギリシア辺の文化の一事として伝えたる話で、うそうそと思いておりしこと、近くようやく分かりて来たこともあるなり。万里長城など築《つ》くも、何の理窟なしに作つたとは思われぬなり。いわんや地力を尽すの学、地を相するの法、水利、平準の学など、おびただしく太史公以前にありしは、『史記』を見ても知らるるなれば、かかることはきっとありしなり。
 かのアラビア人を見よ。数百年前に無数の書冊を集め、始めて緯度・経度を測定し、大いに煉化の方《ほう》を興しなど、(215)はなはだ科学の業盛んなりしに、今はアラビア人は、これらの伝を話にきいて、なにか魔法奇幻のことのごとくに思いおるなり。幸いにこの伝多少今の欧州に残りたれば、今の欧人はアラビアの古盛時を疑わずといえども、不幸にして伝全く失われたるならんには、愚人どもは全くこれをうそというべし。
 いわんやエジプトの開化など、そのピラミッドの構造ことごとく今の純正の学理に合し、おそらくは今日欧州の最精の工学者といえども、最巧の技士を得るにあらずんは、かかるものはできず。また今日最巧の技士といえども、最精の工学者と同力せずんば難《かた》しという。(図形のa頂点よりbcdの諸下点に至る距離少しもかわらず、次にbc、cd、bdの三辺は全く同長なり。次にa頂点よりqすなわちbcdより等距離にある下底中心への線は正直垂なること、次にbcd、bdc、dbcの三角は一分もたがわぬ等のこと。)しかして昨年ノルマン・ロッキエール氏の出せる書によれば、この尖塔は太陽の運行を測定するにもあえりという。
 また仁者、先日、大英博物館の入り口(入らぬ間戸の外)、水呑所の側に、かかるもの二つあるを見しならん。これはイースター島とて、実に絶海の孤島、南米よりも三千里、最近の南洋島よりも二千里余の小島にあり。八、九十もかかるものありて、最大なるは奈良大仏的の大なりという。しかしてこの島には石というは、礫少しくあるのみ、かかる石材など決してなし。されば、これを二千余里または三千余里の処よりはこぶには、よほど上手な船人と大なる船を要することなり。今その島にある人は大馬鹿野郎にして、舟というもカノー、丸木船に過ぎぬとのことなり。この外、中米に大堂壁のこれるは、仁者、チカゴ博覧会でその模型を見しならん。
 またメキシコ、ペルー二国には、大開化ありて、予をもって見れば、ほとんど支那の『周礼』ごときこみ入った制度行なわれ、百姓はたらかぬものを香する官などまでありしなり。これらがスペイン人に急に打ち殺され、壊劫《えこう》をとりしは、仁者知ることなれば言わず。あるいは(216)メキシコ帝が生人の肝心をとりて犠牲せしは似合わぬことなれば、開化とは大ぼらといわんか。しかるときは、今日欧州人が尊奉して誇張する耶蘇教の先にも、子を神に供せんと殺しあうたこともあり。また、欧州第一の開化というギリシアにも、人を川へ投げこんだりして神を祀りしことはあるなり。現に今日とても欧州人はインド人が耶蘇教にならぬとて、大砲の口へしばり付けて爆裂せしこと、今より五十年前ならぬうちにあるならずや。
 されば、ダーウィンと同日、自然淘汰説を学士会院へ持ちこみたるアリス氏(現存)は、今日開化開化と誇れども、それは、前人がしたことを段々つみかさねて得たるほどのことにて、別に何の特色もなし。ただ年代多く経たるだけが幸いとなるなり。史を案ずるに、心性上の開化は、物形上の開化とは大いに違い、一盛一衰一盛一衰するが、決して今のものが昔にまされりといいがたし。反って昔の方が今よりまされり、といえり。これは、仁者の言によく似ていて、科学上の証も挙げたなり。ハーバート・スペンセルなど、何ごとも進化進化というて、宗教も昔より今の方が進んだようなこといえど、受け取りがたし。寺の作り方や塔の焼失保険が昔より行き届き、また坊主の衣食がすすんだとか、説教の引符多くくはるようになったとかいうて、それは寺制僧事の進化とでもいうべきのみ、別に宗教が進みしにはあらず。
 足利氏の世には、将軍の兄弟はことごとく坊主にし、大名の?子《げつし》などは皆そのおかまとなれり(義教公、僧たりしとき、赤松貞村のけつをほり、それより赤松満祐|弑逆《しぎやく》の難を生ぜるほどのこと)。その時代のことを見るに、京中のみならず、天下坊主だらけなりしなり。されど今より見れば、その時代ほど仏教の衰えたるときなきは、父子兄弟相乱暴して母を殺すもの、また君を弑《しい》してその妻を犯すもの、兄弟を殺すもの(信長が信行を殺し、謙信が兄を殺し、元就も兄の子を殺せるごとく)、叔父を殺すもの(謙信)、父を逐うもの(信玄、これは瑜伽の名人にて大僧正たりし人なり)、はなはだしきは女《むすめ》を人に妻《めあわ》し、その婿《むこ》を慶筵《けいえん》にて殺すもの(竜造寺が蒲地重并《かまちしげなみ》を殺し、黒田孝高が紀谷友房を殺すごとく)、子を誅《ちゆう》する者(信玄、秀吉)、僧にして謀反をすすむるもの(安国寺、または高野の木食《もくじき》(217)上人)など、実に下らぬことのみなり。
 故に世界ということ、その開化の一盛一衰は、到底夢のようなものにて、進化と思ううちに退化あり、退化するうちにも進化あるなり。ここが科学上証拠ありて争われぬところなり。しかして釈迦はこれを未然に証言せるものじゃ。あるいはいわん、それはまぐれあたりだ、と。まぐれあたりとは、仏印《ぶついん》と蘇子瞻《そしせん》が虱《しらみ》を捫《ひね》つて、これは垢《あか》より生ず、いな衣より生ずと論じ、またギリシアの奇人どもが、飲酒放行して、面白いことはやりつくし、止むを得ず、しゃれにまけた意趣がえしに、地は水より成る、いや火より成ると、何の証も立たずに言うたこと、まぐれあたりじゃ。それすら西洋人は、ギリシア人はえらい、哲学はギリシア人にかぎると、タレスなどきちがいごときものをほめて哲学の元祖とするにあらずや。
 釈迦が因果、流転、盛衰等のことを説きしは、一々理論も理想もあるなり。そんなちょろけたことにあらず。しかして、その因果、流転等の説は釈迦以前にもありて、梵教中の一説と、高橋五郎など五十年ばかり前の英人の愚説をよんでいうが、因果、流転を梵王の上におき、梵王もまたこれを免れずという以上は、決して梵教の一説というべからず。梵教外の一説なり。今、日本に神を奉ぜざる神主ありとせよ。誰かこれを神道の一説といわん。実は彼ら耶蘇輩、なにがな仏徒をへこまさんと計略を廻らせども、第一、仏経の文句むつかしく、豪壮妙麗にして、かれら it,that で日を送る馬鹿者には、何のことだか分からず、また文殊大士などの説を撃ってみようと思えど、浅薄なる英語で修めてすら、sense と intelligence の別さえ、字義上以外に心に呑みこむことはならず。故に古紙贋説を引きずり、時代ばなしなどを持ち出して、ぐずぐずいうなり。
 かかる説は釈迦以前にありしことは無論なり。梵教の一説でもなんでもよし、不純にしてありしなり。しかして物事必ず因《よ》って起こるところあれば、釈迦よりずっと前に説きし人ありしなり。それは諸仏じゃ。諸仏の説いたことは、右にいえる、中米、イースター・アイランド、エジプトの開化が今日にのこれるごとく、わずかに影を留めたなり。(218)また、縁覚というものあり。これは梵教の盛んなるときに、異見を挟み、因果説の一片を自証して示した輩なれば、その伝はなきも、かかる縁覚ありて梵教に不平なりしぐらいのことは、口碑にありしなり。そこへ釈迦が生まれ出でて、いろいろ考究し、みずからこれを湊合《そうごう》見証し、大いにこれを自心に発輝して、衆生を済度するの道になせること、あたかも斉人が天下の敗素をあつめて紫にそめて価十倍せるもののごとし。敗素と紫根は斉人の作にあらず、ただ価十倍せしめたるところが斉人の妙巧なるなり。かくのごとく見るときは、実に仏教は所伝明らかにして事理円融することなり。しかるに汝ひょっとこ大馬鹿坊主など、ただただ釈迦を売りて食わんとし、なにもかも神変奇怪、耶蘇徒も三舎というようなことを付会するは、実に嘔吐すべし。
 また汝、オッカルチズムごとき腐ったものを理外の理などいうて求めんとす。予は常にかかることを行ない、一昨日も行なえり。これは一種の病変を求むるの法なり。故に委陀《ヴエーダ》徒はソマ草の汁を服し、南米土人はコカの汁を飲み、耶蘇徒は断食をもってし、瑜伽徒はいろいろの行法をもってす。身外を忘れて一心を弄するの法なれば、いわば至って狭きことなり。しかして狂人がかったことなり。汝、かかるつまらぬことをもって俗人にすすめんとするや。天下の人みなかかることにとりかかり休業せば、倫理一日も整斉せじ。また汝、かかることをもって自分のほらをふき、僧の衣食の計とせんとするか、予は俗人に分からぬようなことをむりに敬仰せしむるは、黎首《れいしゆ》を愚にするものと思う。また汝、かかることをもって病を救い煩を除かんとするか、それならば医薬の一事でたくさんなり。かつこのことを理ありとして研究するにも、また理外の理ありとするにも、何にしても通常の心理学の一班、諸感覚器の作用生理等は、心得おかねばならぬなり。しかるに汝は、なにがな自分の教えを漠然と奇幻にせんとて科学をうちこむにあらずや。科学は理をしらぶるの方なり。理をしらぶるの学をきらうて、いかにしてその理より外のむつかしき理を知らんや。汝の欲するところは、麻布から山の手も下町も通らずに、吉原へ一足飛びせんとして、ひとりもだえておるごときなり。
(219) 汝、パリにて、五智如来の前で秘式を行なえる啓白はよめり。第一に分からぬは、大日は大空なるに(absolute)、また哉靈異記図輪廻の相を顕《けん》す、輪廻は心より生ず、とあり。これは何たる自家衝突ぞや。この心とは、大日の心か、人間の心か、また他の九界《くかい》の生の心か。大日すでに輪廻を生ずるほどの心を有すれば、大空というべきにあらず。または人間の心、あるいは修羅等九界の生の心といわば、その生界いまだ生ぜざるうちにいかにして心あらんや。心より輪廻、輪廻より十界とあるに、十界の衆生たるものの心が、十界の顕せぬさきにいかにして存すべきや。また、大日大空なるものが何の必要あり、何のためにわざわざかかる十界を現ずるか。もし止むを得ぬ子細ありてといわば、大日の外にまた大日を支配するやつなかるべからず。
 耶蘇の創世説は妄なり。ただしこれは、主として無より有を生ぜしということの不当なるにあることにて、もとより神意を説くことゆえ、何の目的何のために創世せりということは弁ぜずとも、神意として分かりおるなり。たとえば余金粟如来、ひまで閑居静坐のおり、何の必用も痒《かゆ》いことも痛いこともなきに、髪をひきぬいてみたり、また爪をすりならして見たり、はなはだしきは、決して淫慾のためにあらずしてただちんぼをいじくりたりするなり。すなわち神意なれば何しょうと勝手次第なり。しかるに仏法は神意を説かずして因果を説くものなるに、所説汝の言のごとくなれば、耶蘇教に対する大日は何処より来るかという外に、今一つ何の必用ありて云々という疑問を生ずるに至るなり。
  戦国の時、公孫|衍《えん》は、あるときは魏のため秦を破り、あるときは五国の印を帯びて秦を相《しよう》せしという。余もそのごとく毎々耶蘇教、仏教を、あるいは助けあるいはおとし、こまらせやらんとす。何と金粟如来の理窟不可思議なるには、降参の外なかんべい。
 仁者、インドで草葉などにカビ(黴)のようなもの付いたを見、また木皮石上のコケ(苔)など見当たり、また土上木膚のキノコ、サルノコシカケ、また一切植物小さいものあらば、根より引きぬき、紙につつみ、ちょっと押し、圧し(220)乾し、状袋に入れ送り下されたく候。一、二にてもよろしく候。
 明治二十七年三月三日
                       南方熊楠拝
 
 小生は、竜猛の鉄塔は、ただ至って難事なりしを芥子一つほどの小口より見露われたりというたとえと思う。また真の鉄塔とするも、竜猛のときと玄奘のときは隔たりおれば鉄塔がさび失せたるなり。また玄奘、インドをあるきたれど、今の土地測量のごとく、ことごとくあるきたりということ見えず。日蓮のこと、ことに親鸞のことなど、一向『東鑑』に見えず。また江戸の根元かきしものに吉原の起原見えぬようなもので、玄奘が見おとしたりとて、その物天竺になしといいがたし。
 仁者が書き抜かれたる驢唇仙人の星宿のこと、全く『酉陽雑俎《ゆうようざつそ》』と同文、一字たがえず(「鬼形卍のごとし」だけはなし)。また荷邏候星とあるが、これは羅?羅《らごら》星のことにあらずや。従来、計都と羅?《らご》星は道家の捏造というが、あるいはインド伝来ならんか。
 仁者に承りたきは、迦葉以下、達磨までの伝統は、何の宗旨の伝統に候や。弘法の伝統か、また禅の伝統か。
  追白。仁者当市にありしとき、御話に、釈迦の長《たけ》一丈八尺とか、さてまた弥勒《みろく》はこれより大なりとのこと、伝ある由。弥勒はどれほど長大なるにや。かつ何の書に出でたりや。弥勒のことは知らず、釈迦長大なりしことは、今も南部仏徒いうなり。しかして耶蘇徒、ユダヤ徒もまたノア、アダム等が長大なりしことを説く。これは山崩れて大象などの骨あらわるるを人と心得てのことなるべしという。
 『酉陽雑俎』の文を左に挙げ候。
 卷之三(和刊、元禄十年、山下氏出す。中村孫兵衛、井上息兵衛蔵版とあり)十一枚め。「国初、僧|玄奘《げんぞう》五印に往きて経を(221)取《もと》め、西域これを敬す。成式(著者|段柯古《だんかこ》)、倭国の僧|金剛三昧《こんごうさんまい》に見《あ》うに、いわく、かつて中天に至りしに、寺中に画多く、玄奘の麻《あさ》の履《くつ》および匙?《しちよ》、綵雲をもってこれを乗す。けだし西域にはなきところのものにして、斎日に至るごとに、すなわちこれを膜拝《ぼはい》す、と。またいわく、那蘭陀《ならんだ》寺の僧の食堂《じきどう》中には、熱際(熱際とは何のことじゃ)に巨《おお》いなる蠅数万あり。僧の堂に上る時に至れば、ことごとくみずから飛んで庭の樹に集まる、と」とあり。成式の伝は小生くわしく知らず。しかしながら、詩人なりしことは、『唐詩選』晩唐の詩人として出でたるにて知るべし。会昌中、郎となり、官に終《お》う、とありしと記す。会昌は、有名なる唐の武宗皇帝の大馬鹿野郎、仙人に誑《たぶら》かされて仏徒を誅竄《ちゆうざん》し、慈覚大師はなはだ迷惑せることは、大師の伝にも、また『宇治拾遺物語』にも見えたり。しかして『酉陽雑俎』中続集巻五に、寺塔記というものあり。武宗登真三年夏という句にて始めたり。よって考うるに、会昌より以後まで生きおりたるなるべし。
 この『酉陽雑俎』というもの、従来、百虚一実なしとのことで、『山海経』と併《なら》べて法螺の大村長のごとく漢学者がいい(江村北海の『授業編』に見ゆ。また小生は当今有名の漢学者より聞き及べり)、誰かれも今は見る人なきが、小生少しくおかしく思う。漢学者の本尊は温故知新といいしにあらずや。しかして全くなきことを作り出だすということは成らぬことなり。さればとにかく唐のころにはどんな空談が行なわれしか、またどんな法螺がありしかということを研究するも、終日なにもせぬにまされることなり。
 よって小生は在国のみぎり、この書をとりて一々その出処等を検せしに、地理は多くは『西域記』よりとり、動植物等のことは、『列子』、『推南子《えなんじ》』、『山海経』等と同文なることも多ければ、他の部分も種のなき法螺にあらざること、もっともその道理あり。また右の寺塔記のごときは、当時の京洛の仏寺のありさま目に覧るごとく、一々詩句もあり、その詩句とても、ことごとく梵仏の語を引きたれば、柯古の詩人なり博識なりしこと知るべし。しかして小生この書の中に、?当(つちぐも)の巣のはなはだ土と同色にて別ちがたく、ために土蜘蛛は難をのがれ敵を欺くことを(222)記したるを、十五、六のときに知りおりしが、なお調べしに、巻の二〇に、およそ禽獣は必ず形影を蔵匿《ぞうとく》して、物類に同じ、「ここをもって蛇の色は地に逐《したが》い、茅《かや》におる兎は必ず赤く、鷹の色は樹に随う」とあるを見て実に感心し、ダーウィンなどがえらいもんだ、えらいもんだとほめらるる動物似色論は、紀元九世紀に、支那人が知りておりしなりということを、昨年十月十二日出の『ネーチュール』(これは当国第一のよくはやる週間科学雑誌)へ出したり。
 西洋人なにかというとローマのルクレシウスの断詩(土より進化して生物を生ずとの)などを証とし、西洋人は古えからえらいなどいえど、そんな下らぬことは仏経中に山ほどありて少しもめずらしからず。いわばダーウィンなどただ仏説のいいしことを曹参《そうしん》然と画一にいいあらわせしのみなり。しかして、なにか日本・支那人は実地の観察がうすいとか、帰納法を知らぬとかいえど、右の色似論ごときは、一々例を挙げたのみならず、およそ〔三字傍点〕という字にて概括したれば、帰納法なること勿論なり。しかして西洋人の馬鹿どもは、インド辺の草の葉に似たる形の同色の虫や、蘭の花に同色同形のカマキリなどを見て、始めて驚き、このことに気が付きしなるに、九世紀の支那人は、ありふれたる鷹、兎、蛇、つちぐも等にて、かかる説を立てしは、実に観察に富めりというべし。故に金粟如来は、科学などということは十分東洋にもありしが、ただこれを弘め伝うる法が悪かったというなり。
 シンネット氏このことをくわしくいいて、これを秘するにもまた理由のある由をいいしは、至極もっともなり。何となれば、むちゃくちゃに科学智識を弘めて、徳義なき人に教うれば、いろいろの兇事を生ずればなり。いわんやその人鈍根とんまにて、今日この辺の学生のごとく、金科玉条と人の言った験説など記録にとめたりとて、何にならんや。されば、学説(科学)をあまりに吹聴するもせぬも、さしてかわりはなきことなり。ただしこれを実用せざりしは残念なり。されどまた東洋にはそんな必要はなかりしなり。
 さてまた右の『酉陽雑俎』に、「梁の簡文の延香園にて、大同十年、竹林に一の芝《きのこ》を吐《いだ》す。長さ八寸にして、頭蓋は鶏頭の実に似て黒色なり。その柄《くき》は藕《はちす》の柄に似て、内は通《すべ》て幹《しん》に空《あな》あり(一にいう、柄の幹《しん》は通《すべ》て空《あな》あり、と)。(223)皮質はみな絶《はなはだ》白く、根の下のみ微《かす》かに紅《あか》し。鶏頭の実の処は竹の節《ふし》に似て、これを脱すればまた脱するを得るなり。節の処より別に一重を生じ、網羅《あみ》を結べるがごとく、四面の周《めぐり》は五、六寸ばかり。円繞周匝《まるくかこん》で、もって柄の上に罩《かぶさ》り、相遠ざかって相|著《つ》かざるなり。その網を結べるに似たる衆目《あみめ》は、軽巧にして愛すべし。その柄また脱するを得るなり。仙書を験するに、威喜芝と相|類《たぐい》す」とあり。これらはこのままよめば、一向むちゃくちゃなれど、金粟如来、大円鏡智にて照らせば、なんでもなし。ジクチョフォラとて、図のごとき蕈《きのこ》あり。支那に生ずるか否は知らぬが、インド、呂宋《ルソン》、南米等の熱国に生じ、十余種あり。日本にも熊本辺にありとのことなり(コムソウタケ、またジャノカラカサという)。右の記載、実に今日、小生ごとき菌学を久しくするものにかかせても、とても及ばぬほど精細にて、全くこの文をよまば、図のごとき実物を目前に見るなり。もちろん仙書に威喜芝云々とは馬鹿なことなれども、それでもそんな伝がありしなれば、今においてこれを知るは知らぬにまさること万々なり。
 小生はこの書にかけることことごとく正実なりとも、また正しき出所ありとも申さず。しかしながら右のごとくにいろいろ実証もある上、貶誤《へんご》の一篇、唐の当世に行なわれたる『続斉諧記』の許彦が綏安山中に書生にあい、これを籠に入れ負いてやりしに、その礼として口より銅盤を吐き、盤中は珍饌《ちんせん》だらけにて大愉快のとき、また書生が口より十五、六の美女を吐き、その膝をまくらにして眠るうち、その女また口中より間夫《まぶ》を吐き出す。さて書生覚めんとするとき、女が男子を呑む。書生さめて後、書生は女子および銅盤をのんで訣《わか》れ去るという大法螺は、釈氏『譬喩経』の梵志のことより出ず。
 また天宝中に中岳の道士顧玄績、?客をたのみ、丹を煉るを番せしめしに、決して言うなと命ず。さて夜更けて人来たり避けよという。動かず。次に王者の行列来たり、左右をして右の?を斬らしむ。それより夢のごとくになり、大賈《だいこ》の家に生まれ、長じて後も、玄績に盟《ちか》いしことを忘れず、言わず。さて妻をとり、三子ありしに、妻一日泣く、(224)「君ついに言《ものい》わず、われ何ぞ男女《こども》を用《も》ってなさん」と、ついに三子を殺すに及び、?、失声す。豁然夢覚むれば、「丹の鼎《かなえ》破裂し、丹すでに飛べり」という俚話は、『西域記』の中天|婆羅?斯《ばらにし》国鹿野の東に、隠者、救命池において天に騰《のぽ》る法をなすため、一烈士を求め、金を多くやり、終夕不言を求めしに、右のごとき夢を見(少しくちがう)、六十五のときに妻が子を殺すと見て発声す。空中火下る。隠者、池に入りてのち出で、この人をなじる。「烈士|慙《は》じ忿《いか》りて死す」とあるを訛りしなり、とあり。
 近くマクス・ミュレル、英人がなんにもしらずに独人独人とおそるるを機として、この国に来たり、虚声を馳せ、なにか大発明したように、仏国の乳しぼる女の俚話は、全く梵土より来たれるなどいうて、始めて俚話の伝来考証の一学を開けりなどとほらをふき、日本の留学生なども俚語の学は近く始まりたりと心得おるが、右のごとくなれば、僅語の訛りを正し伝を露わすぐらいのことは、支那に古くよりありしなり。
 西洋にもローマのプリニーとて、おそろしい博学で軍人なりしが、陣屋にて睡眠の時間をぬすんで多大の書をかき、伝聞を集め、古書を拾い入れし人あり。そのうち三十七篇は今ものこれり。この外にも十六巻とか細字のものありしというが、今はなきなり。この書は近くまで金科玉条として学者がよんだものにて、天文より以下諸方術、古伝までことごとく入れり。中には章魚《たこ》が薬を買いにきたというようなこともあれど、それはその時代にそんな話がありしなり。思うに後世にならば、今日われわれが子細らしく論じて疑わぬことも大ぼらと見らるるもあらん。かかることをもってその人を虚妄なりとはいうべからず。
 とにかく、日本の漢学者というもの、役に立ったは熊沢、白石ぐらいで、そのあとは太宰、南郭など、すでに無用の空論家なり。さて今に至りては幇間《ほうかん》侫幸《ねいこう》侏儒《しゆじゆ》、しからずんば苟廉《こうれん》屈強頑鈍の輩にて、本当に学問あるもなければ、何の発見もなし。文を書くにも、不忍池《しのばずのいけ》周囲三十里とか上野《うえの》丘高さ百|仍仞《じん》とか、蟻の測量したようなことをかき、また『左伝』とも『国策』とも禅録ともなんとも知れぬ故事だらけな文などかきて、まるでほらなれば、おのが卑陋《ひろう》な根(225)性にくらべて、智慧もなきくせに、韓愈や東坡《とうは》のまねして仏教などをそしり(実はなにも分からずに、真如とは澄んだ月のこと、三昧とは葬式の火のこと、菩提とは追善のことなどと心得おるなり)、また今に及んでは、時代おくれに、当世の軽薄な説に媚付《びふ》して、宋の王安石、秦檜《しんかい》などをほめ、また顔淵、原憲が貧を詰《なじ》り、あるいは入りもせぬことを口出しして日蓮上人の竜の口の難などを疑い、児島高徳、楠正行等はなしとか、石田三成は大忠臣とか、山陽の『外史』は間違っておるとか、さては右の『酉陽雑俎』ごとき大著述大珍典をも、百虚一実なし、というじゃ。(中島象二という人、「借書屋の庫」とかいう小説作れるうちにも、法螺本の隊長として『酉陽雑俎』を挙げたり。これらは山師学者なれば、小生は決して咎《とが》めず。しかしながら、かかることを呑み込ませた漢学者どもは罪あり。)
 小生はそんなに何ごともうそのあるものにあらずと思う。故に入らぬことながら、右長々しく見るところを挙げて、千年を隔てて段成式先生のために寃《えん》を雪《そそ》ぐ。これ一は、右の金剛三味《こんごうさんまい》西域に到るの事実ありしことを証せんためなり。成式自身にあえりと書きたるにあらずや。しかして成式の書きたること一々出処あり。また今においても見証すべきこと多ければ、決してうそにあらずと証しおくなり。(この外に今は見当たらぬが、右の金剛三味|峨眉山《がびさん》に参りしとて話せしこともあり。)金剛三昧とは誰にや。名の知れざるはおしきことなり。しかして?《なんじ》米虫ら、坊主で食い、その余流をくみながら、かかるえらい人のありしことを知らざるは大落事、大ぬかりというべし。なんと金粟如来の博識なるには降参したか。降参したなら左様申し上げよ。また先日の重野に対する書状の意も分かつたか、小生のいうところ、理ありや。そのとき左の二節脱したれば今申し上げ候。
 また先生は『太平記』は妄なりとて、兼好は哲学者なれば、決して師直のために艶書など書くはずなしというて、これは『太平記』の作者児島法師(先生架空の人物)、自己の名声遠く兼好に及ばざるを嫉んでの誣言《ふげん》なり、といえり。これこそ先生が歯|豁《かつ》し髪白きまで何の成すこともなく、陳腐なことかいても、『太平記』ほど人が読まぬを嫉んでの誣言にあらずや。兼好は哲学者なりとは、ある一派の和学者など、狭隘の卑見もつて、『つれづれ草』は和の『論語』(226)なりなどいうを付会せしならんが、兼好の『つれづれ草』というもの『論語』ほどの益なきは、先輩も論あり。仏典中にありふれたることのうち、風流寂寞たるところをかじり抜いて書き集めた雑纂に過ぎず。何ぞこれを哲学者というべけんや。また哲学者たりとするも、哲学者は必ずしも徳行よき品性よきものにあらず。(ここへ前状申し上げしごとく、ベーコン、揚雄等の卑行を挙ぐ。)いわんやこの坊主、玉の盃、底なきがごとしと、男にして色好まざらん輩を嘲り、また男女の間の艶情を述べたるところはなはだ多ければ、哲学者でも真の仏者にもあらずして、一種の俗仙なり。艶書ぐらいはきつとかきそうなり。
 また、先生なにか好んで古人に異なることを言わんとして、五代将軍綱吉の政をほめたて、聖堂を湯島に立てしことより、大名の芳原通いを止め、将軍となる当初、越後家の騒動を静めたることなどいい、西洋人ケンプルが記行にもはなはだほめて書きたりと、自分には読まぬながら誰かにきいていえり。聖堂立てたるは、儒者のためには賀すべきことながら、聖堂立てたりとて、政事惡しければ功徳なきなり。また、大名の芳原通いを止むる令を出だせしは、この将軍、男色女色ともはなはだすきにて、川越侯の邸に犬豕《けんし》を畜《か》うがごとく少年を多く貯え、嫉妬のあまり、伯叔兄弟と交話もさせず、しかして毎夜これを召して婬し、前代にはかつてなき大名を婬することを始め、また京の公家の子弟三、四人も小姓にして婬し、またわけの知れぬ浪人の娘より、先帝遺愛の平松氏の女などをも婬し、万事婬乱ばかりなりしゆえ、上のならうところ下これよりはなはだしで、下々もかかることを始めたるゆえ、止むを得ず娼妓や?童《れんどう》の禁令を出だしたるなり。されどこれがために少しも止まったということは聞かず。また越後家の騒ぎを決したはよいが、自分と同宗の大名を一時に湮没《いんぼつ》せしは、決して美事にあらず。余はかかる荒れ立った政事の今後わが邦になきことを望む。
 またケンプルの記行というもの、小生も見たり。これは日本は丸裸で犬のごとき蛮民とでも思うて来たりしに、思いの外、人民も人間らしかりしをほめたるまでなり。すでにこの記行に東海道筋ばかりのことをもって全国を押した(227)る人口の間違い法螺などあること、近く『大英類典』にも見えたり。とにかく西洋人のいうことは、みなためにする得手勝手なことのみなれば、かから輩にほめらるるもの必ずしもよきにあらず。今日も西洋人にほめらるることのみ旨《むね》として政事すれば、飛んだ悔いあらん。当時親しく世子《せいし》の侍読せる白石先生の『折焚《おりた》く柴《しば》』を見られよ。元禄までは長崎で西洋人決して日本人を蔑せざりしに、五代将軍のとき、仲間《ちゆうげん》と西洋人と争いを生じ、将軍が西洋人を宥《ゆる》して問わず、わが国の人を罰せしより、西洋人いばり出したり、とあり。しかるときは、先生なにか五代将軍がケンプルにほめられしぐらいのことで、わが国今日の開化は遠く綱吉に始まるというごときことならば、重野流の帰納法で、小生は、今日条約改正は毎度失敗す、これ綱吉に始まるというべきか。また、この将軍のとき、畜生を愍《あわ》れみ、ために人を刑したること多く、八歳の小児、吹矢で燕を殺したればとて、斬罪になりしとか。その小児も士格の者の子といえり。いかに父母がなげきつらん。実につまらぬことじゃ。この時代に犬を中野村に畜《か》い、犬医師というもの町々にでき、犬病気ごとに舁《か》きてありきし。その犬舁きの男二人話せる語を読めば、実にその時人民のあわれなること思いやらるるなり。
  一人いわく、人間として犬を舁くは恥なことなり、と。他一人いわく、然らず、犬を舁きてすら渡世ができると思えばありがたきことなり、と。『一話一言』に見えたり。
 かかる政道ありし人を、何ぞやたらにほめ立つべきか。人間は完全なるものにあらず。よきことも悪しきこともするなり。されば、善きは善し、悪しきは悪しとして伝うること、まことに史学の要ならずや。この将軍のごときは、聖堂立てまた旗下《はたもと》の女郎買い野郎狂いを禁止せしほどのことにて、始めて酒を税し、始めて無類の悪銭を作り、金銀を悪質にし、諸侯を奪封すること百万石以上に至り、諸侯の子弟、王人の子弟を嬖幸《へいこう》のものとし、犬を率いて人を食わしめ、外人を罰せずにわが民を罰し、無用の土木多く興り、武備全く弛《ゆる》みたるなど、つまらぬ政事のみありしなり。一外人がほめたりとて何の賞するに足らんや。
(228) とにかく、小生は近来、儒者は儒ならず、仏者も仏ならず、何にかに時世を迎合するような風あるを大いにきらい申し候。
 前状申し上げ候ごとく、小生は一向顧慮なく物と書とを集蒐《しゆうしゆう》するゆえ、もし小生これを日本におくる費なきの日に至らば、小生は帰国せずとも可なり。書籍等は惜しいものなれば、仁者費用を払い下されたく候。しかるときは仁者の寺へ寄付すべし。ただし小生いかに貧乏なればとて、そんなことぐらい差し支えるようなことは万々なかるべしとは思えども、そこは不定の世なれば願い上げ置き候。(洋書は国の分とここの分と合せば千冊近くあるべし。もっともこの上買うなり。この外に国元に若干の和漢書あり。されど、これはとてもつまらぬもののみなり。要するに小生の洋書の集彙《しゆうい》は、ちと法螺かは知らぬが、日本一私人の蔵としては一、二なるべく、また珍冊奇篇あることは、決して公立の書庫にもあまりは劣るまじと存じ候。しかしてこれを英俊の輩にのこし、その輩これを利用して、金粟如来ごときもの十人も出ずれば、わが国の仏教は大興立することなり。しかるに?《なんじ》米虫のいうところ曖昧にして、なにか耶蘇教の口吻のごとく、不可思議がかったことのみいうゆえ、予ははなはだきらいなり。自力でできれば自分でかかる挙をなすべし。もしできぬ日は、止むを得ず、?《なんじ》にやってしまい、予はそんなこと見切り、なにか大乱暴して死すべし。
    三月四日夜十二時追書
                     南方熊楠拝
   土宜法竜様
  一公、華厳に初謁のとき、「いわく、爾《なんじ》わが心いずれの処にあるかを看よ、と。いわく、師、白馬を馳《は》せて寺門を過ぐ、と。また、これに問う。一公いわく、危うきかな、師、何すれぞ刹末《せつまつ》に処《お》るや、と」とあり。如何《いかん》。刹末とはいかなることに候や。
 
(229)          6
 
     疑問
                       南方熊楠
   土宜師
一、不空羂索《ふくうんさく》は、『千手経《せんじゆきよう》』(小生は見ず)に観音と同じ趣きに記しあるとか。しかし、別に『不空羂索神呪心経』、また『不空羂索陀羅尼経』、『不空羂索呪王経』、『不空羂索呪心経』、『不空羂索神変真言経』等のものありという。小生考に、これは不空の絹糸をもって衆生を索《つ》るとかいう観音の力を形容せし辞で、観音と同じことにあらずや。もしこれを別のものとすれば、不空羂索菩薩と称して可なるか。
二、前日、仁者《にんじや》、春日まんだらと御教示ありしは、大般若の相好を示せりといわれたり。右は『大般若心経』のことに候か。かつかの画中に僧二人あり、その名うけたまわりしが忘失せり。右は誰々なりや。
三、政府の統計表を故細川広世氏が出だせるものに、融通念仏宗の開祖良忍とありて、総本山は摂津の大念仏寺という。この宗の寺数、全国にあるもの、明治十一年に三百六十一、十三年に三百六十二、十六年に三百五十六、教院の数はいつも五、教導職の数は三百二十七人、次年は三百九人、次年は三百八十五人とあり。この表にて見ると、れきれきたる一宗なり。仁者さきにこれは別の宗にあらずといわれたり。小生考うるところも、まず西洋で申さば、サルヴェーション・アーミー、また日本の鉢叩《はちたた》き山伏《やまぶし》、願人坊などいうごときオーダー(階級)にして、立派に特立の宗旨にはあらざるにやと存じ候。もし宗旨を立てしものにあらずとすれば、浄土に属するか、時宗《じしゆう》に属するか、何宗の派なりや。
(230)四、浄土、一向、時宗の殊別なる点を簡単に伺いたく候。(一向は女を娵《めと》り肉食し、また時宗は遊行《ゆぎよう》ぐらいの外相上の差異は、拙もこれを知れり。問うところは、内部経義上いかなる見解を異にして、これを立つるに及びしか。)
五、金剛界、胎蔵界とは、ちょっと申さば、何を基として分かち名づくることに候や。
 以上、御教示を乞う。これは大英博物館の諸仏等についてのことにて、小生その依頼を受けたれば、仁者御存知のほど御明示仰ぎ奉り候。
  仁者、南条師にあうの日は、フランクス氏、今に「忘れねばこそ思ひ出ださず」と吟じおれりと伝言せられよ。
  また、渡辺竜聖師にあうの日は、熊楠深く昔日追随のことを思い感ずと伝えられよ。
 仁者、先日、当地にて書籍多く購われたり。その目録、小生へ送ること成らぬか。かつ右は尊者一人の所蔵とするか、また友僧連の依嘱に出ずるか。行く行く(もし仁者の書庫を立つるものとして購いしものならんには)右の蔵中になかりし諸書を求め得て、仁者の庫中に預けんとす。(拙死せば、これを日本の真言宗の然るべき所へ納められたく、仁者円寂まではとにかく仁者に預けたく候。)急ぐことにはなし、間あらば目録を写し送られたく候。
 『仏教講義』一冊は、たしかに今月中、公使館にあて送るべし。訳文をも作り呈したきが、あまりに事せわしければ及ばず。然る人に頼みたまえ。別に『梵教講義』一冊あり。はなはだ好書なり。実は仁者に取りては梵教古今一切要覧ともいうべし。仁者、銭あまりあらば、他日これを購いたまうべし。仁者などに取りては、外教のこと、句を摘み字を推すは、あまりに必要ならねば、今日より『委陀《ヴエーダ》』など訳文で一々読みたりとて、あまり好益もあらざるべし。願わくは右の一書を求められよ。また、チェットメゲルという人の傑作『西蔵《チベツト》仏教説』二冊(と覚ゆ)あり。図板も多くありてはなはだ好書なり。
 一体、日本の僧徒、なんでもなき西洋の梵学者輩の言に泛《うか》されて、セイロンやシャムの小乗経典や故趾を穿鑿するは、はなはだ無用のことにて、その然る所以《ゆえん》は、儒の流変じて九となり、墨の流化して三となる、今存するセイロン、(231)シャムの仏教も果たして釈迦の真を得しものなるやはなはだ疑わし。いかに竜猛、天親《てんじん》、提婆《だいば》、無著《むじやく》以下が大乗を述べたりと申せ、一向仏の言わぬことをかくまで大そうに述べ得しとは思われず。また毎々申す通り、孟子は孔子の言わぬ浩然の気、また性善、仁義等のことをも言い、文中子《ぶんちゆうし》は『太平策』を作り、王充は『論衡』を述べ、宋に至りても、周張以下、朱子に至りては、孔子の言を演じて心性の学となし、陳同甫は功利の学となしたるごとく、初祖の言わぬことをいいたりとて、初祖の志にそむけりというべからず。また、たとい初祖の志に背くとても、例の藍より出でて藍より青きものなれば、少しもかまうことにあらず。されば大乗を述べんとするものは、小乗や中乗のことにかまわず、主として一語一句も大乗をしらべたきことなり。これをなすにはチベットの仏教を知ることはなはだ必要と存じ候。よって右の二冊は、小生心に誓って来春中に求め、なるべくはその書出来以後、チベットについて知りしことをも編して追加し、また日本にてちょっと分かりにくきところに注解を加え、仁者に呈したく候が、この書は前般御購求の中にありしや。
 某《それがし》ははなはだ、他人に異なる性質気象のものにて、一向世に容れられず。それも馬鹿にもあらざれば、なにか落語、吹弾《すいだん》、舞踊、どど一、かっぽれなど、得意の芸をもなし、少しく気象を曲ぐればはなはだ世間にもてるべきが、一向左様のことを望まず。当地にありても、知遇の恩を蒙るものは、フランクス氏とリード先生(人類学会員にて、フランクス氏に副として博物館におる人)二人ぐらいのことにて、他は一向招けども小生は辞して行かず。とにかく、これまでいろいろ難苦して世を渡りしに、悪行虚言し信義なき者のみ多く、人間というもの、十の七、八は、心に何の守るところもなく、また智識とてもわずかに書を読んで受売りぐらいのことに安んずるもののみのようにて、一向面白からず。故に常に閉居して跡をくらまし、古今の書に目をさらし、また何の冥福も畏るるところもなきが、とにかく足るを知るということにて立命安身したきばかりに、衣装等のものは、一切人の旧物を乞い受け、断食がちにて、寒暑とも裸体にており候。
(232) 私はかかるものゆえ、到底|泛《うか》み上がる期もなかるべく、幼年より真言宗(自分の)に固著し、常に大日を念じおり、何とぞ今の日本に存する一向、日蓮等の俗向きのものの外に超出して、天台、真言等の哲学を日本に興隆し、他日世界中の人がわが邦を一のアレキサンドリアとして就学せしむるよう致したしと存じおり候えども、一輪の車は行かず、誰一人相手になるものも無之《これなく》候。少年より写し、また集めたる書籍、欧米和漢等ずいぶん多く、その他近ごろ各国の本文を写しなど致したるものも多く有之《これあり》、また少年より財を傾けて集めし植物、介殻、金石、古土器、石器、碑銘等のものも多くあれば(このうち植物は実に特色ある大集彙に候)、なにとぞこれを基と致し、たとい身は沙漠に豺?《さいかん》の肉を肥やし候とも、これだけは父母の地に止めて、わが宗旨の秀才英俊のものを益したしと存じ申し候。
 それ一国の開化と申すものは、商売とか兵備とか申すもののみにあらず。また米国ごとく、一般に『バイブル』よみながら盗し、教育普通しながら無礼残暴なるを申すにあらず。それぞれ秀才、英俊、特異の人多きにもよることと、小生は堅く信じ申し候。さて、わが高野山は近く痛く落零致し、そんならと申して、来寓する大名もなきに、今さら三千の坊舎再興したりとて、国家の蠹賊《とぞく》を多く増すのみ、一向益なきことなれば、熊楠の志は、何とかしてこれに茅ぶきにてもよろしく、然るべき学斎を設立し、内外の経典を集め蔵し、また教外の諸品も集め、戒律を厳にして、乞食の子または盗賊|拐騙《かいへん》の弟にても、仏教興隆に志あるものを入れ、よくよく淘汰して後、自在に読書せしめ、もって英俊の人士を多く出したきことに御座候。仏国のシャルトラウと申す所は、ちょうど高野、日光ごとき地にて、前日ちょっと申し上げ候セント・ブルーノが引っこみ厳行せし処に候が、僧徒みなみずから耕し、至って簡単素朴にくらしながら、薬を売り出して、その銭でみずから支え、今は立派なる寺院、書庫も多く、近郷の俗人までもその化を蒙ること夥《おお》き由に御座候。私は熊沢が申せしごとく、僧の多きは仏法の衰うるなりと存じ候。すべて人に対して言うには、その方術のあるものにて、商鞅《しようおう》も秦に入るときに、帝道、王道、覇道の三を心に存せし由。拙者これまで外国に来たる仏徒と称する輩を見るに、みなただ迦文の言を誦し、『翻訳名義集』ぐらいで、外人のこじつけたる梵書(233)などに引きあて、阿縛廬枳多伊湿伐羅は、アヴァロキチスヴァラと読むべし、六神通は五神通の間違いなどいうことを知りて喜悦する輩のみにて、かつ大雄氏の教を奉ずといいながら、胆力のなきこと蒟蒻《こんにやく》のふるうて定まらざるがごときもののみなり。
 よって実は(今となりて後悔ながら)仁者もまたかかる斗?《とそう》の徒なるべしと思い、試みに言いたるまでにて、私は日本という国土や今の政府、人気、風俗等にはあまり意なきも、なにとぞ父母の国土人種をどこまでも興隆したく、さてこそ今にかく苦学しおるに候て、現になすところの学問は、みな他日本国土人種のためにせんとしてのことに御座候。今に及んでは仁者の御人体をも知り、かつ袈裟をも拝受し、どこまでも同力|共籌《きようちゆう》してこの志を輔成したきに候。むかし了翁僧都は、なんでもなき人の家に生まれながら、立志の幼年より苦究して成業し、ついに大書庫を上野に立てて衆僧を益し候由、私も何とぞこれほどのことは致したきに候。さて、第一に仏法を外国人にしらしむるは、日本人の特色を示すことにて、したがってはなはだわが国に益あることに候が、それをなすには、小乗の例の耶蘇教めきたる戒律などは、フフンそんなことか、ちっと耶蘇教に似ているぐらいのことで、一向役に立たず、それはただ、なるほど東洋にも善をなせということがあったそうな、ことに虫けらまでも殺すなとは結構なことなどいうのみで、いわば閑言語、口頭禅、時代もかわり、人事もかわり、今日に行なわれぬこと多し。されば、ただ善いことというを知ったのみで、一向感嘆恭敬することなし。これを医するの一方は、大乗教の審密高遠なる哲学を外人に示すより外なきが、これが成れば、実にえらいことと申すべし。
 御承知のごとく、ギリシアの哲学は万世の師範となりおるが、小生考には、大乗教中の哲学の審密高妙なること、ギリシアなどの及ぶべきにあらずと存じ候。さてまた兵法にも、かれを知りわれを知れば百戦百勝と申す。わが教を述べて他を化するには、到底多少の口舌をなすを遁れず。されば、外教のうち、蛮民のわけもなき乱雑混雑せる教はおいて、一群の開化民の教となりおるパーシー(古えのゾロアストルの教の余り)、ユダヤ、シック(インドの西部(234)よりアフガニスタン辺にある先日御覧の禅宗に同じき具を用うるもの)、支那の儒・道二教、および裸身外道《ジヤイニズム》、ことには今日仏教の外に万国宗教《ユニバルサル・リリジヨン》として信徒の多少を争うなる回々、耶蘇の二教、およびこれに先んじて存し、その警蹕《けいひつ》をなしたる諸旧国、エジプト、バビロニア、アッシリア、フィーニシア、およびインドの諸宗をよくよくしらべ、よきはよしとし、あしきはあしきとし、事情時勢、風俗人心の察すべきは恕し、その宗中英雄たりし人々の言行感化の力をも明らかにし、何によって盛え何によって衰えしかをもよくよくしらべ、ことには宗旨にもっとも関係ある、各国人類の学、社会の学、言語の学より、心理心想上の学問、また心界物界、宇宙諸法則の大学問たる東西諸派の哲学、および人心物に感じて精妙の思想を発する次第を見るに足るべき文学に至るまで、よくよく講究して後、始めてわが仏教の整理をもなし得べきか。
 私の存念はかくのごとくにて、諺にも富士の山ほど望んで柿の核《さね》ほど得るとか申せば、何分志は遠大を期し、わざは至賤至微のことも知りたしと、別に金もうけにあらざれども、煙草まき、八百屋の番頭、娼家の妓夫、博徒の頭取り、騙盗のわざするものにも雑《まじ》りて修行致し候。私は至賤のものの子にて、幼時手習もろくろくさせられず、父が釜をみがき、兄が店に坐し、叔父なるもの市に出でて鬻《ひさ》ぐ間に、店に売るブリッキ板一枚に、釜鍋にフチョウ付くべき用に供うるベニガラと申すものおよび藍玉を貰い、それで画を学び、唾でふきけしては学び学び致し、それより雪隠に用うるすきなおし紙十二枚ほど綴り、水にて手習いし、七歳のとき、三十銭ばかりで、反古にするとて売り来たりし『訓蒙図彙』というもの十冊買い与えられしを、三年ばかりよみて、物の名に用うる漢字を知りなど致し、ある古道具に書多く積みたるを、ぬすみよみに行き、覆えして溜水に入れ、大いにおそれてにげ去りかくれおりしこともありて、『和漢三才図会』、『本草綱目』より、『諸国名所図会』など、※[手書きで紀伊國名所圖會卷三]これほどの字にて写して学習致し、今も多く写本、家にのこれり。かようのことで習学せしものゆえ、仁者などは定めておかしく覚し召したるならん。学問も雑駁にて、多くは記臆より出で、毎度間違い多く候。しかしながら、みずから積める智識こそ実(235)正の智識にて、聞きて知り読みて覚ゆるは智識の要にあらずと存じ候ことは、今に至りてかわることなし。
 すべて人間の思想所守は、その人の履歴に出ずること多きは、仏の立志されしも、母の早く死なれ、そのころに論師横行し、また生死老病のことに感じ、浄居天《じようごてん》に遊びたまいしに出ずること、近世にても大詩人ゲーテの大詩は、ことごとくその人の履歴をよみしものにて、バクニンといえるもの魯国に虚無党を立てしも、少時、父と争論して憂苦の余に出でたることと申す。されば小生は少時より他の方々にかわり、貧家に生まれ、自学したるものゆえ、至って執拗固守の弊あり。また、かかる不自由の学問をつみしことゆえ、自得の気象多きこととみずからも思惟致し候。さりながら、とにかく人間は自分気を発して、食を忘れ身を痛めて学びしこそ真の学問ということは、仁者も思うに同意ならん。また、私は井上円了氏などとは大反対で、草木国土までも成仏すべしということを説く教を奉ずるものが、階級等のことをかれこれいうははなはだ心得違いと存じ候。そんなことなら、瞿曇《くどん》も可愛い華色の子までなしたるさんかつどのを見捨てて、馬の?陟《けんちよく》にまで別れの涙で膝を折らしめ、降りて首陀《しゆだ》の頭髪を装う等のことはあるまじ。近くインドの史を読むに、婆羅門徒が再興して仏徒を追い払いしも、まことに故あることにて、あまりに仏徒が階級の尊貴なるに出でたり。釈迦獅子の勇も能仁の仁もなくなり、人天師はおろか、畜生の規範師ともなれぬもの多くなりし自業自得の因果に出ずることと知らる。只今わが国に熊楠のもっとも不平なるは、何にかに貴族などいうことを尚ぷ風のもっぱら行なわるるなり。なにとぞ陛下は至尊なれば言わず、その億万劫の末までも転輪されんことを望むの外なし。その他のものどもは一に平らげてしまいたきことに御座候。
 西洋の耶蘇教の特色として私のもっぱら賛称するは、その平権自由と申す一事に御座候。これも『旧約全書』など見れば、いやはや、釈迦のときの梵徒の所行よりなお浅ましきことをのみ翼賛したるものながら、後世おいおい具眼の人ありて、ここまでなし上げたることにて、仏がみずから王位を抛げ棄てらるるまでもこのことを首唱されしに、その後ついに今のごときものとなり候は、文中子の所謂《いわゆる》、詩書盛んにして秦世滅せるは仲尼の罪にあらず、玄虚長じ(236)て晋室乱れしは老荘の罪にあらず、斎戒修めて梁国亡びしは釈迦の罪にあらず、(小生追加す)哲学行なわれてアゼンス亡びしはプラトーの罪にあらず、坊主肥えてローマ帝痩せしはキリストの罪にあらず、理論起こりてインド分割せしはクリシュナの罪にあらざるなり。されば私は、なにとぞ東洋の一弊事たるこのことのみは去りたきことと存じ申し候。これらのことは、いろいろ議旨も有之《これあり》候えば、仁者の問を待ちて一々これを述ぷべし。
 小生は西、仏、英、ラテン等はちょっとでき申し候が、何分、原本を原語でよまねば不自由ゆえ、只今は斎戒して、恵賜の袈裟をかけ、回徒の冠を服し、カソリックの章をつけて(傅《ふ》大士、道冠、仏衣、儒履せし二の舞い)、もっぱら内外典および原文(ギリシア)の『バイブル』をよみおり、来春よりはヘブリューを独学し、またアラビア、ペルシア、トルコおよびインド諸語をも観るつもりに候。原文の得がたきは写し取り、注解および付記評語等と抜抄することに御座候。これらは全くわが邦の後来英俊たるべき人にのこすつもりにて、孟子の三大楽にもいえるごとく、私の存念、他日多くの英俊たるべき人の種子ともなるべくやと楽しむことに御座候。私は妻もつ望みも家もつ望みもなんにもなく、また、御望みのごとく人を教うる等の志は一切|無之《これなく》候えば、物を惜しむことをせず、仁者帰国の後は、何とかして有識卓見の人士と申し合わせ、小生がこしらえし種子だけはのこり、かつその種子の九分に播がりうるよう、これのみ仁者に対して望み申し候。かようのこと申せば人はみな笑うゆえ、私はこの八年間かかることいいしことはなく、かの者は紙筆と思慮をついやして何をするにや、新聞でもかけばよいなどという人多く候。今、仁者に向かいてのみ始めてこのことをいうは、仁者の小生の好友たるを見ればなり。
 私の蔵書のうち、哲学および各宗教の書ずいぶん多く候が、これも無学の子弟いたずらに蠹鼠《とそ》の食と持ちくずさんよりは、何とかして斯教弘通のために伝えたくと存じ候。もし然るべき置き処もあり、然るべき方法の望みもあらば、御一報を乞い申し候。
 また、右述の諸蔵品(植物以下)および本草書(これまた稀覯《きこう》にして世に知られざる写本、手画本多し)等も、何(237)とぞして帝国大学へでも贈らんかと存じ候えども、この連中もわけ分からずに耶蘇教を張り、また獅子身中の虫で、今年は仏を称え明年は耶蘇を唱うるようのもののみなるやに存じ候。せっかくこしらえしものなれば。何とぞ仏教徒の助けと致したく候が、私は只今弘通する諸俗宗はきらいに候。仁者は徳も高く言行も純なれば、帰依人も多かるべく、また友人の中にも正しき人多かるべければ、何とぞしてあまり政略とかなんとかいうことをはなれ、ただただ一念に斯教に尽力さるる人と謀り、一組《ひとくみ》立てられたきことに御座候。私もこの上勉強致し、この志を屈せず、諸学を探り、諸教を知り候上、古えの童寿ほどまでなくとも、何とぞして命あらば一度は帰国し、一念斯教のために、哲学、宗教はもとより、諸末技末学までも、英俊たるべき後進と談じたく存じ候。まず高野のような俗人ひやかし連の堪えかぬるような処に会合場をつくり、至って戒律を厳にし、これまた志堅からぬものは耐えかぬるように致し、行く行く書庫を立てて、然るべき方法にて戒律正しきものを入れ、自学せしむることと致したく候(言わば志堅きもの、ここに登るを規模とし望むよう)。
 私の父は(父のこと申すもおかしいが)寒邑の里正の子にて、十三のときに志を発し、村を出で、いろいろ難苦して、今の南方の家に入りしとき、家財|悉皆《しつかい》売りしに今の一円八十銭ばかりしかなく、それで商売致し、とにかく只今は名前ばかりでも近郷の人々に知れしものとなりおり、平生例の女ぐるいなどいうこと一切なく、六十四のときまで、倉の米などはきあつめて売り候由。昨春、小生フロリダに八百屋を営み、三度まで西インド諸島に発途しおり候内、腕痛むとて湯治に行き、病を発し和歌山に返り、八月十四日死亡。私、ニューヨークの旅館にありしとき、三度まで父死服して坐すと見て、はや父は死せりと心得、父の伝を和文にて作り、紀州の豪富佐藤長右衛門の子におくり、
  これは、もと茂木寅次郎とて、横浜の原喜三郎方の丁稚《でつち》なり。秩父の里正せしものの子なり。貧にてサンフランシスコよりワシントン領に流寓し、木を伐りて金集め、ミチガン州大学に入り、自分著書を売り出し(『廃死刑論』)、名を博し、帰国後、中島信行君の世話で、右の豪家へ婿となり候。これまた独学の人ゆえ、至って固牢執拗なる(238)が、また自然に勇気逞しく、至ってわけ分かりしものにて、私と二人寒家を借り、道明寺ほしいなどいうものを食して勉強致し候。私の苦学せしありさまなどこの人よく知れり。毎度帰国をすすめられ候。他日紀州へ御出で成され、那智へでも行かるれば、一面会、私の相変わらざることを御述べ下されたく候。留学七年中に、日本人として語るべきものは、このもののみに候。
さて当地に来たり候えば、中井氏より訃を得申し候。それ十三、志を発し、多年苦行して一方の長者となりたるものすら、小生ごとき不孝死期にあわぬものを子にし、数万金を学問に費やし、一郷に笑われ、身死するの日まで、その子の何ごとをなせしということを聞かず、湯治にゆき、病を得て死し候は、まことにアラビアの大哲学者アヴェロースが言えるごとく、人は生まるるときすでに下画《したえ》をえがけり、人の行いはただうまく下画に沿うて彩色するかせぬかにあるのみ、といえるごとく、王充が人間万事は前より期するところあるといえるごとく、私はここに至り、ただただ仏氏の因縁ということの争われぬを悟り申し候。
 先年、私、米国にありしとき、一府に日本人留学するもの三十五、六人ありて、みな官吏、華族などいうものの子にて、借金多く、醜聞広まりなどす。杉本清寿と申すもの(自由党の人、大阪に狂死す)、私の寒室を訪い、君はいかにして麁食《そしよく》貧活しながら常に財余りありて友人を救い得るにやと申せしゆえ、私申すには、私は何も知らず、ただ父の行いをみてみずから傚《なら》うなり、されば今ここにある人々のごときは、乱行、借金などのみす、思うにその父たる人の言行、子の模範たるに足らざるならん、と申し候。このことを洩れ聞きて、一同蜂起し、かのものの父は乞食同前のものなり、など申されし由。私の父はまことに微者なり、諸君に対して語るに足らず、然れども州里に仰がれ、三宝を敬し、自分は卑人にて文字を知らぬが悔《くや》しい、文学あらばさぞ面白からん、富貴にして文学なきも、徳行ありて学問なきも君子にあらずとて、三人の子に教育多く与えられ、たといもとは乞食なりとも、えたなりとも、死する後、葬時に会葬する者五百人に近く、死するときの遺言に、われはわが葬式の美にしてわが家の笑われんより、葬の至っ(239)て簡にしてわが家の後たるもの人に笑われざらんことを望む、といいしにもかかわらず、立花を贈るもの四十四対の多きに及び、実に維新以後和歌山県内始めて見るの一盛儀なりし由承りぬ。
 死後かくのごとくなれば、生時のことも思いやられ候。常に小生に申し聞け候は、人は耐忍をならうべし、耐忍しがたきを先として耐ゆべしと申され候。私は今に左様に致しおり申し候。仁者もし紀州に往かば、小生の老母を叩き、私の父の志を守ることも告げられたく候。市の郊外に延命院と申す真言新義の寺あり、住職白貫勧善(今は六十ばかりか)師は、父の旧識にて、その寺に父の塚|有之《これあり》。私は近年諸国を乞食して、ペルシアよりインド、チベットに行きたき存念、たぷん生きて帰ることあるまじければ、父の墓を見ることも得ずと存じ候。何分、仁者南行も有之《これあり》候わば、何とぞ右墓にて私に代わり一|回向《えこう》願い上げ奉り候。人間生に生まれながら、私のごとき変なものもその正を得たるにあらず、しかしながらこれまた因果なれば詮方なく候。この一段は、熊楠血涙現に交瀝して仁者に申すことに御座候。
 私は故ありて兄と絶交、弟常楠なるもの、父の跡を襲い酒を造りおり候。当年二十四ばかり、今十月よめとると申し来たり候。至って忠実にて専門学校を卒業したるものに御座候。その次に楠次郎と申す弟|有之《これあり》、これは十七歳ばかりに御座候。私は幼時より女と談話せず、母も姉も憚りて親しく談《はな》さず、今においてははなはだ悔いおり候。また?行ありて多く財をまきなど致し候。綺語悪口|夥《おお》けれど、近来人に交わらねばそんな気づかいも少なし。虚言せしことはあまりなきように存じ候。小生また旅行乞食するなどいうことは、当分一切御話し成し下されぬよう願い上げ奉り候。
 小生はたぷん今一両年語学(ユダヤ、ペルシア、トルコ、インド諸語、チベット等)にせいを入れ、当地にて日本人を除き他の各国人より醵金し、パレスタインの耶蘇廟およびメッカのマホメット廟にまいり、それよりペルシアに入り、それより舟にてインドに渡り、カシュミール辺にて大乗のことを探り、チベットに往くつもりに候。たぷんかの地にて僧となると存じ候。回々教国にては回々教僧となり、インドにては梵教徒となるつもりに候。命のあり便のあるほどは、仁者へ通信すべし。インドよりチベットへ行く途ははなはだ難《かた》き由申せども、私考にはなんでもなきこ(240)とと存じ候。むかし玄奘、法顕諸師のことはさておきぬ、回々教のイブン・バツタと申すもの、アフリカ、インド、支那、チベットの間七万五千マイルをあるきたることの記録ものこりおり候えば、運命さえあらば何するもできぬことはなく、運命なければ綿の上へ死ぬ人もあることと信ぜられ申し候。前年南米へ行くとて語学など致し、また金積み候に二年余かかり候を、人はほらなりなど申し候。しかし、私は名誉のためにすることにあらず。ただ語学なくては不十分と存じたることにて、人の笑いはかまわず、ついに三度まで行き、日本人として、海外の地に、しかも開化をもって誇る人の領分にて、多少の植物を発見候いき。今度は教義の至ってむつかしきことをしらべ、かつ多くは全く記臆してあるくはずなれば、もっとも精密にしらべおきたく候。私この行にインドで集むる植物(動物は不殺生戒をまもりやめ申し候)は、一半は当国へ送り、一半はわが邦へおくり、保存致したく候が、これまた何とぞ仏教徒の手に保存しほしく候。インドの明学《みようがく》中に医療、本草のこともあるやに聞く、多少参考となるべく候。これらのことは、その期に至り何分仁者に謀るべし。
 仁者もしチベットに行かんと思わば、仁者一人にては、小生|肯《あ》えて承らず、外に証人として幾人かつれ行くべし。私は一体多人数つれて旅行すればややもすれば口舌《くぜつ》起こるものと信ず。他に制せられて小生の知りたきことしらぶることならず、他もまた小生に制せらるればなり。なるべくは陸軍の人一、二人、測量、天文等のしらべにつれ行きたし。通弁は小生なすべし。仁者いよいよ行く志あらば、拙はペルシア行きを止め、当地にて醵金し、直ちにインドにて待ち合わすべし。かつ精細の下調べをなして、毎《つね》に仁者にあてあらかじめ参考のため贈りおくべし。全体チベットには瑜伽の法術の大学校二つとかありて、はなはだ西洋人に分からぬこと多き由。拙はその大学校に入り、いかなる苦行してもこれを探らんとするなり。(ブラヴァツキの書きしものにこのこと出でたり。広室に真の月を出す等のことあり。)兼ねてチベット現存の経典理書、律蔵およびその史書を取り来んと思う。あに聞かずや、十室の邑必ず忠信|丘《きゆう》がごときものあり、と。小生これまでの経験に、どこに行きても、運命さえあれば死ぬるほどのことはなく、死(241)ぬるものは、安居宴飲しても頓死などするなり(むかし箇人にて一人にてインドよりチベットを経て支那に往き、また同じ道を経て還り、ジャワにて若死せしものあり、ペッチーという。)
 付白。衛申越しのかのセイロン島の痘神像は、博物館へ書して聞き合わせしに、同島知事の添書ありとのことにて、神名を Patieree Deva(パッチエレー・デヴァ)というとのことのみ答えを得たり。御申越しのごとく、ラクシミならんには、いかにもヴィシュニュ(?蒭天)の妻にて、すなわち日本の大弁財天のことに候。しかし私は、仁者あるいは貴地にあるものと当地のものとを間違えて同一視したるにあらぬか、と疑う。一体、南仏教の像はいわゆる儀範外にて似たものはなはだ多し。セイロンに痘瘡の女神あることは、今度贈呈すべき『仏教講義』中にちょっとありしやに覚ゆ。その節付記すべし。それにもラクシミと同一とは見えざりし。
 ?蒭天は、いかにも仁者の言のごとく、ヴィシュニュなるべし。これまでの西洋の仏徒の説には、梵教の三大神中、梵天(ブラーマ)、摩醯首羅王(シヴァ)の二は仏教にも入りしが、ヴィシュニュは、釈迦がすなわちヴィシュニュの転生なりとのことで、仏教にはなしとの説行なわるるようなり。
 裸身外道の書は、今行なわるるもの、英国には一なり、他国訳のものは安値なり。この宗旨のことは一向知れず。見出ださば買いて長谷氏までおくるべし。
 前日、当地にて、ある学者、列宿のことにつき問い五条を雑誌に出し、小生第一鞭を著けてその二条を答え、ちょっと長文を出し、すなわち印板になりて世に公布し、小生も(たぶんその蔭で)インド学会より招かるるに及べり。そのうちに小生は、インドも、今は知らず、むかしはたぷん二十八に天を分けしことあるなるべしというて、唐の段成式が『酉陽雑俎』に見えたる、インド二十八宿星の形(たとえば、斗は「人の石を排《なら》ぶるがごとく」、房は「  理路のごとし」等)と支那の『登壇必究』などに見えたるものとを比較して、このうち胃宿ごときは支那にも「鼎《かなえ》の足のごとし」、インドにも「鼎の足のごとし」とあり(符合)、また柳のごときは、支那には「柳条のごとし」、インドには「蛇のごと(242)し」とあり。觜《し》は、インドには「鹿頭の角を戴くがごとし」、支那にはなんにもないが、古文には觜は今のごとくクチバシにあらずして、??(ミミズク)の角なりとあれば、同一ならぬが、近似せることなり。されば、二国の古え期せずして同一の形に見立てたることもかくのごとくに有之《これあり》、故にかかることの同異にて人種の異同を証すべからず、と答えたり。
 しかるにその後あるインドにある人、また右の雑誌に書を寄せて、インドには(今のなるべし)天を二十七に割るという。仁者先日の話には、二十八宿ということはインドにもありしが、天を二十八天に割るということはなきようなり。しかし、大乗仏経に二十八天ということ多く見ゆ。この二十八天ということは、支那の二十八宿の分野をもって天を分かつことにならって作りしものにや、あるいは支那に入らぬ前よりインドに二十八天とありしことか、たといインドには二十八宿ということありて二十八宿の分野ということなしとするも、『宿曜経』は(むつかしき穿鑿はおき)、一般にインドにありしを漢訳せるものというか、あるいは支那で偽作せるものというか、御一答を乞う。
 御申越しの幽霊等の会のことは、小生一向知らず。ただし行く行くその会につてを求めて、一報を長谷氏まで呈すべし。またオッカルチズムのことは小生も少々読みしが、名ありて実なきようのことにあらずや。たとえば霊験とか妙功とかいうほどのことで、一向その方法等は聞き申さず。プラヴァツキのこのことの傑作前後二篇四冊のうち二冊、ずいぶん大冊なるが、前年読みしも、ただかかる奇体なことあり、かかる妙な行法あり、というまでにて、いわば『古今著聞集』、『今昔物語』等に、安倍晴明、賀茂保憲等のしき神《じん》を使いしこと多くのせたるようなことで、面白いばかり、一向核のなきことなりし。この書もし入用ならば、仁者帰国の後、貸し申すべし(和歌山にあるなり)。私は多くオッカルチズムの書に銭を費やせしが、ただただ飯くわぬ人、幽霊と話する人の伝ぐらいのもので、『周易』などのごとく法方理論もなんにもなく、はなはだ漠たるものなり。ユダヤ人にカバラという方術あり。これははなはだむつかしく入りくみしもので、理論もあり事典もあるなり。見出だし得ば古本肆で買い送るべし。耶蘇教の『周(243)易』ごときものなり。ただし偽物にて十三世紀ころの手製の由。来春は私もその書をよむつもりゆえ、間《ひま》あらば抄訳し、一本を長谷氏までにても送るべし。かかることは要するに益なく、また、仏徒がこれを借りて教えを助けんなどのことならば、小生はあまり賛成せず。
 輪宝《りんぽう》はたぶん今日公使館へ持ち行きしことと存じ候。また問い申すは、その催促状(寓主への)に船切符のことも申しやれりや。また宿主より出せりという仁者への書翰には輪宝のみのことか、船切符のこともありしや。早速返事を乞う。小生より輪宝の礼状を仁者に代わりておくり、ついでに一問し、その上返事次第みずから立ち向かうべし。
 前日ちょっと談《はな》し申せし大乗教典の仏の伝記として欧人の伝うるものは、『神童遊戯経』と『仏所行讃経』の二なり。『行讃経』の訳は和歌山に蔵す。『神童遊戯経』は日照の訳名にて、中天の法時はこれを『方等本起経』または『普曜経』と訳せりという。経中の卓文なる『法華』はすでに翻訳あるが、『維摩』はなし。小生これをなさんと思うが、所蔵の『維摩経』は全からず。仁者、長谷氏に書を送るとき、これを送らしめんことを乞う。代りになにか仁者蔵中になき宗教書をおくるべし。クラークという人の『十宗教論』は、仁者など各大宗教を概覧するにはなはだよし(もっとも例の外相のみ述べたものながら)。これは仁者いまだ買わずや、‘Ten Great Religions《テン・グレート・リリジヨンス》’と申す。なければ和歌山にあるものを仁者に寄すべし。
 小生一向先まっくらで、日本へ帰りたりとて、糊口の道なし。ギリシアのジオゲネスは、奴として勾引され売らるるとき、何ごとを能《よ》くはたらくかと問われて、「われは人を教うることを能くす」、また「われは師を要する人に仕えん」、よってそんな人出て来て、八十余の高齢まで厚く事《つか》えしとか。日本にも牡丹花肖柏《ぼたんかしようはく》、牛にのり零落して堺浦に至り、師をほしきものはわれをよべと呼びしに、豪商紅屋某喜んで迎え、和歌のことを問いしとか。小生は一層ひどく、人間はみな師弟などして学ぶべからずという流なれば、もし「学識あるものを供養したい」というような人あらば、御世話を乞う。抱関撃柝《ほうかんげきたく》はなすも可なりといえば、掃除番ぐらいのことは貞実になすべし。夜もふけ候ゆえ擱筆、(244)また二、三日中に一つ呈上すべし。仁者、インドに行き、「ふるさとの、たびねの夢に見えぬるは、うらみやすらん、またととはねば」の句を思い出だし、他日、小生その辺に死するの夕を思うべし。人間世生死大海はかなきものに御座候。喝。
  仁者、ガヤの地にて多少の苔《こけ》を集め、拙に恵贈を乞う。
 
(245)  末弟
   土宜法竜様
            旧称 二代日新門辰五郎|事《こと》
                    南方熊楠大菩薩より
               予は仏教の相伝のときようを?気上よりおしえてやったんだ。だから、新門辰五郎というなり。
 昨日一筆差し上げ候ところへ、また貴状一つ拝誦す。第一に仁者《にんじや》のいわゆる社会を思うなり。今も坊主が檀家となしおるとは、例のおさん茂兵衛の命ごいし今出川の坊主を気取り、不義淫奔の子女をかくまいおき、念仏を方便として本宅へ入るるのみならず、おやじに隠居させて口銭を取り、はなはだしきは、若い時は二度とない、朝に紅顔ありて夕に白骨だから、ちっとぁやりうちだぁ、世尊も羅?羅《らごら》が父でありとこそ聞け、などというて、不道倫なことの賛成をなし、また、せっかくおさまりかかった村の水論や博場の立て引きに荷担し、これは一番獅子吼菩薩とかなんとかいうて、修羅場を催さしめ、しかして礼謝として島の財布に金五十両を、大随求菩薩不空成就と喜んで、二一羂索、なんともそろばんの玉にのらぬようなことをするにあらずや。
 余のいいしも、またコムトがいいしも、そんなことにあらず。徳行の高くして知識の備われるものは、その貌をちょっと見ても、多少心清くなり、また馬鹿なものは、怖れよりして恥を生じ、暴なものは、悔を不言不文の間に生ずるものなり。故に左様やらかせといいしなり。なにも娵《よめ》入りや聟取り、いわんや博徒などに比周して、開帳の旗幟や、芸妓の赤いけ出《だ》しを列せしめて、二十五菩薩来迎などと、俗士を喜ばすというにあらず。また、むかしの法師は、大(246)抵は科学を知り、煉化の術、数算の学、天文、地理、薬物みな心得て、それぞれ上は一国の星暦、下は悲田院の医科までこしらえた。儒者ばかりなりしならんには、支那にかくまで物体上の発達(煉化、薬道以下)はなかりしはずなり。
 これはみなインドより入り来たれる輩が教えたることと見ゆ。わが邦へ来たれる唐招提寺の鑑真なども、目はつぶれたが、鼻で薬をかぎわけ、薬物の学をおしえしなり。しかるに今の坊主は、そんなことをいい出せば、自分米を食えず、薬物の学など始まりては、人が長生きして長生きして死ぬもの少なく、したがって寺主、沙弥《しやみ》、以下おんぼうに至るまで、かつえ死ぬならんと人の死ぬことを喜んで、自分の死ぬことをおそれ、なにがな科学をきらうは如何なることぞや。故に少しきたない主意なれど、予は仁者に教えまいらすなり。仏教の影のごとくにでも続かんことを思わば、よろしく坊主連一同に医者を学ばせたまえ。しかるときは、せめてはこれまでごとく無職業、制外の者とならずして、生きて伴わずんば死してまさに伴うべしとは、『剪燈新話』の情詩の句なるが、あいつはまた生きてもうからずんば死んだときにきっともうけるぜで、富人よりは薬料も回向料もとれ、またいかな貧乏人とても、まさか二度倒すわけには行かぬゆえ、死んだときはきっと払うべし。さてまたまちがいで盛《も》り殺しても、そこがすなわち極楽に早くやって遣わしたのだといえば、すむことなれば、少しもかまわぬなり。かくのごとくして僧の外に医師を開業できぬとか何とか、例の大内青巒、寺田福寿、以下土宜法竜、天地万物行者清水帯弘まで三十余名とか何とか、また貴族院は、例の俗臭鳥尾金馬寺請経部将軍、堀江篤輔などを頼み建白したまえ。この外に差し当たり仏教弘通の法案はなしと存じ候。
 フィロソフィーを子学といえとにあらず、それほどのことに思えといいしなり。すべて名というものは、おかしく品を付くるものなり。前年、秋月胤永氏の話に、昨日文部省で箕作麟祥氏にあえるに、麟祥氏語には、シヴィリゼーションを開化と訳せしは、今において悔ゆるなり、これは人文と翻訳したならよかったといえり、と。まことにかかること多し。故に仏経などには原語そのまま書いたもの多し、「述べて作らず」の意なり。哲学を哲は徹なりとする(247)も、一向受け取れず。また、『理学鉤玄』というは、中江が作りたることなるが、フィロソフィーは理学なりということは、十二年ばかり前に、関直彦、小生に語りしこともあり。されど、支那の宋儒の理学というものも、一派の学にて、実は仏教に抗せんとして程朱が作り出だせしなれば、いわば一の宗教なり。
 予のいうところは、西洋人の口吻にならい、タレスが地は水より成れりとか、またはエレアチック派の輩が、予輩は何ごとも保せず、否、予輩が何ごとも保せぬということをも保せぬとか、また、アリスチップスが、人は目前のみ楽しまばすむことなりとか、ゼノーが人の行くは行くにあらずといい、プロテランドラスが善悪の性は空気にありて具わり、それを心でうつすときはたちまち善たちまち惡なりなどこじつけたことは、余輩、これを釈迦や竜樹のちゃんと一貫して述べたる、それこそ哲学ほどのものとは決して思わず。今に伝わらず、また伝わりたる『十九子全書』、『諸子彙函』などは偽書なりといえば分からねど、西洋人がインド、支那の道学宗教に少しも哲学なし(有名なるエルドマンの『哲学史』第一巻の第一葉発端に、このことを断われり。鳥尾子も井上哲公も議論ありし由。小生も前日一書を出してこのことをいえり)などいうは、何の定論も見識もなく、盲目《めくら》打ちというほどのことなり。
 しかして哲学はギリシアに始まるに限るという。されどそのギリシアの竹林の七賢人などの言ったこととても今は伝わらず。ただただ千年近くおくれてかきしものに伝聞が少しずつあることなれば、至ってたしかならぬことなり。しかしてそのえらいえらい哲学の原祖なりといわるる人々の哲学というを見るに、天地は水より成ったとか火より起これりとか、そんなことは『華厳経』などにも似たことあり、また、目前を楽しむというようなことは、『荘子』のみならず、それより前に孔子を笑いし長沮《ちようそ》・桀溺《けつでき》、荷?丈人《かじようじようじん》ぐらいのことなり。また、有名なるジオゲネスが逐い出されて椀一つもちて市に?徨せしに、小児が手のひらで水を飲むを見てたちまち悟り、椀をも打ち砕いたというは、許由が頴川《えいせん》に瓢を軒にかけしに風吹きてひょうひょうとなりしを怒り打ち捨てたるに同じ。ゼノーが行くは行くにあらずというごときは、『荘子』に、恵施という男がえてなこじつけをいうて箭の行くは止まるなりといえるに同じ。(248)ソクラテスソクラテスと滅法にいえど、ソロン、クリスセネスの政法を興さんとして奔走寃死したるは、孔子が周公、召公におけるがごとしで、道徳のことは上帝上帝と少々耶蘇がかったことあるのみ、『論語』のように整いし教えにあらず。また、アーキメデスがシラキューズを守りローマ兵を苦しめしがごときは、墨?《ぼくてき》が魯般の攻城を幾度も幾度も破りしようなものなり。
 されば、かかることは東洋にも多くありしにて、死んだらどうなるものだろうとか、天地は何の処に生ずぐらいのことは、村翁、馬子といえどもいうことなり。何ぞこれを哲は徹なりとかいうて、小むつかしく哲学哲学というべきや。いわば、ただ一《ひと》理窟こじつけたというほどのことにて、それは諸子というほどのことなり。故に小生は、ギリシア・ローマの哲学などいうものは、決してそんなにえらいものにあらずということをいいしなり。何やら哲の字にくらまされて、なにか御光のさしたもののように思うもおかしければ、子学というなり。フィロソファールズとあらば、哲学者などいわずに、諸子というて可なり。また、サイエンチストも、理学者とか科学者とかいえど、中には得手勝手な無用のものも多し、必ずしも理を論じ科を分かつにもあらず。これは百家と訳すべし。諸子百家の学ということ、『史記』の甘茂列伝、また『漢書』の武帝の挙士の詔にもありしと見え、支那の古えは多くありしことなり。インドにはなお多し。
 因果等の説の釈迦前にありしは、仁者これを言う。しかして世の起り世の成立を論ずる論(コスモゴニー)は三を出でず。(1)creation 無中有を生ずるやつ。(2)evoluton 有より有を変生す。(3)emanation 有より有と無とを流出顕成す。(これは小生の解なり。)今、梵教の最初は『委陀《ヴエーダ》』にて、まずは日本の神道ごときもので、(1)体のものなりし。その後、梵王を生造して(3)の説を奉ぜしなり。しかるに後にて、梵王が大世界を自体より流出しながら、自分大海中に生ずとは、その大海は何の処より生ずるかというようななんくせを打ち込む輩ありしゆえ、(2)の変化説をいい出でしものあるなり。
(249) (evoluton といえど、進化論また化醇論とのみ訳すべからず、実は変化論なり。なんとなれば、成劫よりしておいおい壊劫《えこう》に入ることもあればなり。また、目今のエヴォリューショニストの論とても、仙台辺のホヤというもの、若いときは魚のごとく有脊髄に近きも、年老ゆれば、『荘子』に見えたる渾敦《こんとん》帝のごときなんとも知れぬ嚢となってしまうことあり。また、兎糸子(ねなしかずら)、列当(はまうつぼ)、日光山金精峠に腎の薬として売るキマラ、目黒辺に生するユウレイソウ、信濃のツチアケビなどいうものは、みな一旦は緑葉|蓁々《しんしん》たるものなりしが、ずるいつらして他物に寄生する応報として、今は全く葉を失い、植物の本色たる緑を呈せず。ことに予の多年集むる菌のごときは、前年、イタリアのサッカルド、芝《し》目録を作りしに、どうしてもたしかに知れた分ばかり六万はあるべし。英国には有花植物、すなわち尋常松とか竹とか梅とか山吹とかいうもの、すっかりで二千種に不足なるに、菌が五千五百余あり。この他、今、下等生物下等生物というものは、多くは原始のものにあらずして、一旦高等なりしものが退却せるものなり。故に進化退化を兼ねて変化とか転化とかいうべし。)
 これを言い出でしものは多派ならん、また多数の異見もありしならん。しかしながら、すでに変化をいう上は、(2)の説を駁し、したがって梵王を奉ぜざりしことを知るべし。故にかかることをいうものは、梵教内のものというべからず。これすなわち仏教の地をなせしものにて、釈迦はこのうちよりよきものを撰び集めて自証し、さてこれを道義に発布して社会に応用せるなり。故に因果説は釈迦の作成にあらず。また、釈迦の作成にあらずともよきことは信じて可なり。いわんや今日その証にもるるもの一事もなきにおいてをや(ラプラスの天象変化、ライエルの地層変化、ダーウィンの生物変化、ラボックの人類変化、スペンセルの宇宙万象変化等)。
 しかして余は釈迦の前に、釈迦の外に、この変化の理を道義に発表し、すなわち右述のごとく、寄生植物は、本分の色を失い、かつ寄主と保全すべき機会を多くせんとて、種子微細無数なり。サナダムシのごときものは、頭と称する※[図有り]これほどの所が自体で、あとに一丈も連続する帯のごときところは数千万の卵の嚢なり。これ糞より草に(250)入り、草より羊に食われ、それより人に入るにあらざれば発育せぬ等の理由あるをもって、数千万の卵子中わずかに一、二そんな目にあわんことを期するなり。またカビなどいうものも、種子ばかり多し。これも風に吹かれ次第という身の上なれば、うまく餅の上へ留まるか留まらぬか分からぬゆえ、相場のような了簡で、種子を多くせるなり。かかることを道義にあてて見よ、実によく通ずる。すなわち人の懐中あてにごまをするものには、屹度《きつと》かようの本色を失い、子孫のこと覚束ないぐらいの懸念はあるべきことなり。進化の論を道義に応用するとはかかることなり。胎内に久しくあるものは、胎を早く出るものより、力も強ければ智もあり、貯うるところ多ければなり。貯うるところ多ければ機能も多きゆえなり。人間の久しく勉め多く屈せざるものもこれに同じ。これらは譬喩にあらず、確実たる同一の事理なり。(この前、?《なんじ》、遠廻しにあらずして因果を実証せよというゆえ、実証するなり。もし如上の論に反し、なにか因果はあるだろうぐらいのことなら、三験を尊ばぬ教なり。天主教と何ぞ択ばん。)
 故に、耶蘇教の、万物は人のために成ったとか、入用なき虫あるも鶏に食われて人を助くるためなりとかいうて、スペンセルに、そんなら、なぜ人間に百余の寄生虫ありて苦しむるか、と問われて返答できぬごときにあらず。故に釈迦は因果の理をもって道義をも包み説けるなり。(しかしてこじつけて説けるにあらず。自然にありて行なわるることを口でいいしなり。因果は釈迦出でずとも行なわれおるなり。釈徒の入らぬところにも行なわれて止まぬなり。)因果の理をもって道義に譬えしにあらず。?《なんじ》ら、なにか梵教や耶蘇教に模倣して、釈迦の説を譬喩のごとくいうは、はなはだ笑うべし。譬喩は布教に俗を諭するの一方便なり。真理としては事理も教理も一貫せるものなり。しかして事理と教理を分かちこれを貫くに因果を仮《か》るというものにあらず。また、釈迦が進化論を出せしはまぐれあたりといわんか、そんなら動力の率や、鉛の分析表、一向知らぬ世から鉄砲を作り出でしも、まぐれあたりじゃ。鉄分子の水にあうて変じ、震動されて位置換わることを知らず、天国《あまくに》、正宗《まさむね》、竜泉《りようせん》、太阿《たいあ》の刀剣、?屈盧《けつくつろ》の矛《ほこ》、明珍《みようちん》の甲冑、成りしもまぐれあたりじゃ。されど、そのまぐれあたりも三験を積まずにはならぬなり。
(251) 釈迦は実、経〔二字傍点〕の二験を十分にして、これを宣述せるなり。しかして今の眼鏡などかけ、口では天主がありがたい、心では、一事一事因果ありと矛盾のこと言いながら、バクテリアぐらいのことで高名しおるものは、いわば前世に出でたる変化論を演繹して(分かりきったことを)少しく試〔傍点〕験するに止まるのみ。故に予は科学者をもって目せらるるを恥ずるゆえ、そんな人と一向交わらず、なにか菌ぐらいを見出だせりとて、今年始めてわがために生ぜるにあらず、いわば人の馬鹿にして気のつかぬ小胯《こまた》をとりて喜ぶほどのことなり。しかして今の日本には、かかるつまらぬことに一生を送りて、なにか大見証したごとく、女学校の長とか妻女の鑑定とかして、にくまるるをかまわず、仮名《かな》の会とか羅馬《ローーマ》字会とか作り、しかしてその広告をむつかしい陳文漢でやったり、また、日本の詩はむつかしいから、牧童、大工、中間《ちゆうげん》、鳶の者に分からぬが残念なり、西洋では下宿屋の下女でもよくテンニソンの詩を誦すなどと、恥にもならぬことを恥として、新体詩などいうもの作り、何のことやら分からぬながら、鎌倉の大仏を見る詩とかで、頭から「真如の月を見ざれども、見たるがごとき心地せり」と、雨天に高繩の見はらし亭へ呼ばれたようなことをかき、しかしてその序は、例の井上哲公の実に七六《しちむつ》かしき四六《しろく》とも散文とも分からぬ漢文とは、何のことだ。故に金粟《きんぞく》如来これを憤り、前年、その頭分のなんとかかんとか意気揚々たる晏子の御者、または『孟子』に見えたる、内妻妾に誇って外で人のあまりを食い礼いうような人に、左のはがきを送れり。(予毎度かかる状を出し、人をこまらすこと大すきなり。他日、「破邪顕正文集」として出すべし。)
  拝啓仕り候。毎々いろいろの珍会を催され、日本国民の頑冥を晴らさんとの御企て珍賀奉り候。さてまた例の新聞にて承り候に、今回貴殿は同臭味の人々の子息の妻女を自分の支配下の生徒中より撰ましめんと、そこはいかな西洋好きでも西洋に例なきことゆえ、『八犬伝』の八犬士が養成公の娘を鬮取《くじと》りという至極面白き一段に傚《なら》われ、生徒があるいは楊柳腰《やなぎごし》、あるいは桜桃口《さくらんほぐち》で植物学の講義きくところをこっそり、芝居で申さばミス入れにして右の人々に撰ばされし由。吾輩、ダーウィン、ミュレル諸氏が、植物の花を虫が媒介し、また風、また日本の(252)オモトのごときは蛞蝓《なめくじ》が媒介することまでは聞くが、いまだ植物学それ自身が人間の媒介せしを聴かず。しかして右のダーウィンの説出でてより豌豆《えんどう》、蚕豆《そらまめ》などの農園の事業大いに改良せし由。察するに、先生なにかダーウィンを一《ひと》まかせやらんと、今度は人間の媒介して豆《まめ》に縁ある一件の発達を試みられしものか。実に破天荒と言うても、西洋好きの人には分かるまい。俗語でコモヤブリ、年に似合わぬ??《かくさく》たる御事と珍慶奉り候。なお、ますます御奮勉毎度かようのこと企てられんことを望む。
 なんと米虫、予かくのごときの論でわが仏のために破邪顕正すれば、初地《しよじ》の菩薩は十分なれるか、返事を乞う。予は少なくとも?多《きくた》ほどの功徳と思えり。
 また、?《なんじ》やりこめられたくやしんぼうに、日本人ほど腹黒きものは洋人中に見ずなどとは、あまりに抽象にすぎたり。少しく形以下にしていうてみよ。そんな漠たること誰か聞き入るべきや。表にまわり裏にまわるとは、日本人にそんなものありや。とにかく、予はそんなことせぬなり。?輩、面前叱られながら金粟王の訓を受くるよりは、糞蛆を香米、骸骼《むくろ》を華鬘《けまん》とせる魔女に座なりにほめてもらい大喜悦する輩なり。?ごときものの説教などフーンフーンと欠《あくび》を忍んで聞く当地公使館のやつなどと、座なりにはめずに叱りてやる金粟とは大ちがいなり。一体?ら、善男善女などと人をごまかし、ただ匁《もんめ》で飯などくい倒し、ありがたくも何ともなきものをありがたがらせて喜んで化してやったなどは、大間違いなり。これをこれ腹黒き者というなり。
 また、動物保護などいうことは、パーシーに最も行なわるることにて、前年、何とかいう色の黒い新聞屋東京へ来たり、動物保護条令なきは日本のもっとも欠点なりとか、仏教に似合わぬとかいいし由。汝らそんなことに激せられ、恥とすべからざることを恥とし、寺子屋の浄瑠璃の文句のごとく「六つになる子におせられて」などと、おくればせに何がな珍事を仕出かし僧の頭を打ち上げんと、かかるつまらぬことを言い出すと見えたり。かかることに規則らしきことを出し、または政令をもってこれを禁ぜんとせば、例の鹿子を春日社頭に殺して母の病を救いし孝子を石で埋め(253)殺すようなことおこるなり。予はかかること大不賛成なり。予の和歌山の家のごときは、一町ほど長くて石垣で囲いしものなるに、春より秋まで蟹おびただしく住居し、これがため、たとえにも申すごとく、蟹の穴より堤がくずるるごとく、石垣もゆるみ、盗難の虞《おそれ》もあり。いかに寛典をもってこれを扱い、おいらの方ばかりでは迷惑だ、ちと、となりの壁へもぐりこみねーな、と言うても、蟹のことゆえ一向分からず。はなはだしきは倉の米などぬすみ、猫の足に螯《はさ》みつく等のことありて、実にこまるなり。かかる頑冥な奴は、熱湯かなにかで、ピシンピシン、シュッシュッシュッ、パラパラパランと甲殻の破るるまで鏖殺《おうさつ》するが大功徳なり。これに準じて無用の動物などはことごとく誅遺《ちゆうい》すべし。外典《げてん》とか何とかいうか知らぬが、盤庚《ばんこう》の誥《こう》にいわく、「?越不恭《てんえつふきよう》のものあらば、すなわちこれを?《はなぎ》り殄滅《てんめつ》す。遺育なからしめ、種をこの新邑に易《か》えしむるなからん」と。これ商の起こる所以《ゆえん》じゃ。
 ?《なんじ》らがなにか梵種とか輪王の子孫とか思うておる天竺の毛唐人どもは、まーよいわ、まーよいわというて、土地など悪暴の輩に渡し、終《つい》に身をおくところなきまで制服されたり。動物などむりに保護すれば、牛は角をもって人を牴《てい》し、馬は歯をもって人を齧《か》むに至らん。そんな下らぬことは小生大きらいなり。この民いやしくも道を知らば、何を苦しんで無用に六畜を苦しむべきや。事に本末あるなり。人に教うるに人の道をもってせよ、六畜の道をもってするに及ばず。そんなことするゆえ、昔からインドなどに鹿や豕《ぶた》と交合する仙人多く、また高野山にも牝犬のみ上げて牡犬を置かざりしは、勝軍《かちいくさ》の祥瑞とかなんとかいえど、実は美少年を蓄えては銭がたまらぬと、けちなところより牝犬を淫するに至りしことなるべし。(カソリックにもあり、これは羊なり。)
  王刑公の言った『法螺経』は、全二十四品、分かちて二本となす。奥州平泉寺経堂、美濃長滝寺、摂津水田三宝寺に慈覚大師齎来とのこと。
 また、汝のごとき大頑冥の人を見しことなし。今、洋人どもが大乗を疑って釈迦の真にあらずとするにあらずや。故にこれを救解せんとて、予は一汎前後の事情(梵天を奉ぜざる異派の論、釈迦前に排出せること)、また仏説と併(254)行してその全妄にあらざることを証するに足る伝(陳那《ジヤイナ》教の劫説また五蘊《ごうん》説等)、および天下普通無洩の道理(無中より有を生じ得るものにあらず。すなわち釈迦の前に諸説ありしを、釈迦が統合して説き、末弟に至りてはまたその一分一分を敷衍して説けること、たとえば、孔子の『論語』には「鬼神を敬してこれを遠ざく」というようなこと、また、怪力乱神を語らずとあるが、『礼記』には、四方の神また四季の神などいうことあり、また天を祀ると神に告ぐと別にしたことあり。『易』に蠱《こ》とか巫《ふ》とかいう(孔子の信ぜざりし)こともあり。さればとてこれを一を証として他を妄なりとか、また孔子の知らぬことと言うべからず。ただ『易』も『礼』も前よりありしを、大抵について孔子は教えを垂れたるが『論語』にのこりあるなり。すなわち孔子が組織して一発輝せるのみで、その材料はなにも私意を加えたものでもなんでもなきなり。これすなわち普通無洩の道理なり。余は、釈迦はかく大多なる大蔵小乗経典を口授せりとも腹藁せりとも思わず。昔よりその伝はありしなり。それをかいつまんではなせしゆえ、弟子どもがおいおいこれを布衍《ふえん》せるなり。布衍とてもまた、むちゃにないことを作つたにはあらず。あの人はあんなこというたが、それを知りたれなどと古伝について調べたなり)。この三つをもって?《なんじ》らの難儀を、?気をもって救いやりしに気がつき、あまりありがたさにはっと思いながら、まけおしみに、例のドグマすなわち頑説、一歩も経典外に脱せざるこじつけをもって、『大日経』とか『梵網経』とか、なにごとぞや。今、欧州人は『法華経』『維摩経』を疑うて竜樹、無著《むじやく》などがこしらえたというなり。それを弁ずるに、『法華経』に多宝如来がどういう、また、『維摩経』は維摩居士が問答なりなどと、人がそれを疑いおるものを証として疑いを排せんとするは、自分の夢を正として、人がそれは夢なりというを駁するごとし。実に小生は、仁者などよい年をして頑冥なるに呆るるなり。当国の牧師などにそんな人多し。『バイブル』の注ばかりを証として、『バイブル』の正しきことを唱うるなり。
 顕微鏡て一分のものが千分の大になるをはからんとて尺《ものさし》をあてがえば、尺もまた千倍の大きさになるゆえ、一向分からず。そのときは、余のごときは(他人はまた他の方あるべし)、右で鏡内、左で鏡外を見、鏡外ながら、鏡内(255)に物のあると同じ高さの所へ尺をおくなり。しかるときは双眼界中のもの相合して見ゆるゆえ、幾千倍になりたりということが分かる理由なり。もし鏡外のみをもって鏡内を議し、または鏡内のみをもって外を議すれば、婦女子は虫めがねで見て、蚤は米の大きさなり、いや、もちっと大なり、山の大きさなりなど勝手次第なれば、何ともせんかたなし。感情は数をもって測るべからず、故に鏡面の蚤を富士山よりも大と思う人もあらん。また、一向もとの蚤でおると思う人もあらん。かのごとくなれば、耶蘇は、いや耶蘇がえらい、仏は、いやなんとなくありがたい〔十字傍点〕ところが仏のおかげだ、汝らなんとなくありがたいところが分かるめいが、と言うてつかみ合うようなことなり。むかし『法華』には煩悩を火宅にとなえたり。しかし、もはやそんなことは古い。故に仁者今の『法華』を述作せんとせば、耶・仏の、おのおの我慢ばかりいうて種のなき争闘するを、虫めがねで蚤を見てこれを測るの方を知らずに、いや小さい大きいと争うに譬《たと》えたまえ。これ金粟如来がおしえてやるなり。また、まけおしみでそれも『梵網経』にあるとかなんとか言うて来るなかれ。
 また、『梵網経』など引いて大小釈迦のことなどいうて、予の発明を先越しせんとす。大小釈迦のことぐらいは、予八歳のとき、『日本外史』京方広寺鐘銘のことで、板倉がぐずぐず片桐を責めしことにて知りおれり。何の事実なき譬喩なり。?《なんじ》ら、西洋のやつにやりこめられ、何ともへんのかえしようなく、大乗は竜樹の手製というに一言もなさそうゆえ、不便におぼしめし、事理円通の教えを授けてやりしに、別段言うに足らずなどは何のことじゃ。梵土で梵教に反対せし仏と陳那《ジヤイナ》が一原なることを教えてやりしゆえ、ははあ、そうかと気づきしにあらずや。
 また、陳邪教に迦葉《かしよう》を祖師の一人とするゆえ、禅と同じとは言いがたからん。何となれば、仏教にも、賢劫過去の仏に迦葉すなわち飲光《おんこう》仏があるならずや。かつ迦葉ばかりでなく、中井方で面会のときいいしごとく、脇尊と同名の祖師も陳邪教にあるなり。とにかく、かかる同似の名、同似の説、この二派に普通にして、他に聞かぬこと多し。故に二教は初め一にして末分かれたるなり。すなわち釈迦その一を得、大勇他の一を得たるなり。しかしてその道義制(256)上に異見少なからざりしは、あたかも孟も荀も孔子の流なれど、一は性善、一は性悪を主張せるごときなり。回も耶もユダヤ教より出でしごとし。分かれて以後のことは争い、以前のことは同じく奉ずるなり。仏教もまた釈迦出ずる前のことは、勝教とほぼ同伝をもって奉ずるなり。?《なんじ》、中井の世話で予に拝顔せずんは、いかでかかることを知らんや。別段言うに足らずなどいうゆえ、以後は何ごとありても教えやらぬなり。
 仁者、御地に××××という人あるべし。ずいぶん××な人物なり。小生知人にて、以前陸軍中将津田出氏の宅へ予もこの人も遊びに行きしことあり。そのころはおとなしき上等公子なりしが、今は××××ゆえに、仁者あまり関係したまうな。御地にある日本書生はことに××な由、前年、谷干城氏の話にもれきけり(座末にてちょっと)。たしかに今も左様と存じ候。人間卑劣なるものは、いかに学問しても、またその理を知りても改められぬものと見ゆ。この一条は、仁者読過後ただちに破りすつるか磨し去り、右の人名を留むることなかれ。
 神光《しんこう》が道を求めて臂を断ちしことは、仏の教えになきことゆえ、達磨は仏に関係なしとはいいがたかるべし。日本にも、近くまで、羅切《らせつ》せるものもあり。成田山などへ詣ればいろいろの苦行人あり。また、役公小角の大峰などでは、人を岩屋につり下ろすようなこともあり。少しく曲げた伝かは知らぬが、謡曲(「谷投げ」とかいう、四十番の外なり)に、真言僧が少年をつれて葛城山にまいりしに、病気になりしゆえ、止むを得ず山制なりとて谷へ投ぐるを、金剛薩?《こんごうさつた》、竜となりてすくうところあるなり。かかること仏の教になくとも、仏法と共に入り来たれるに相違なし。また、例の芭蕉の句に「角大師《つのだいし》井手の蛙のひぼしかな」といえるごとく、良源、美少年にて、門外へ出ずれば婦女が笄《こうがい》を車になげこみ、福《ふく》やんの顔見世という塩梅《あんばい》で、どうもこうもならねえのだから、わたいは思いきってこんなになりましたのやと、焼き鏝《ごて》をあてて※[図有り]こんなものになりしという俗伝もあるなり。現に?《なんじ》も曇鸞《どんらん》大師が流支《るし》三蔵に遇うて『仙経』十巻を焼き捨てしことを称賛しながら、これほどの状にも、長寿をのぞむなどいうこともいうなり。故に、仏者と称せらるる輩にして、仏の言わぬことせぬことを言行するもの、何ぞ神光一人のみならんや。この(257)臂を断ちしことをもって、禅は仏にあらずと言うべからず。
 『イソップ』が仏教に出でしとは、欧人中にこれを駁するもの多し。もしそれがそうなら、欧州の小説はことごとく仏経より出でしならん。要するに、青木昆陽が仮名のん〔傍点〕の字はオランダのn《エヌンナ》の字より出でしというようなこじつけなり。このことは三年ほど前に駁論出でたるなり。陸象山がいえるごとく、東西この心相同じきなり、符合するもの多かるべし。何ぞ一々伝来伝来といわんや。
 第一、小生は仁者が仏法改良とかなんとかいうを解せぬなり。世間には、ずいぶん正直律義の父母にして、その子たるもの、ややもすれば婦人のことより親族反目し、よき人はほめてくれぬようなものを生ずるは、あながち一軒に限らず。否、小生の知れる一市街、わずかに四町つづきし間に、この十年間に、かかることで不評判のみか、実際破産(自家にきずを付くるなり)また借り倒し逐電(自家と他人に疵《きず》つくるなり)を生ぜるもの、小生この海外にあり、わずかに一、二の人より伝聞するところが、五、六家もあるなり。しかしてこの人々は、小生と同じく小学や中学にありし日は、小生ごとき乱暴なものにあらず、いずれも行儀よく言語軟らかに応対挨拶も見事なりし人なり。小生の亡父などもいつもこれを称揚して、小生の暴慢無礼を戒めしほどなり。されば、その人々の父母また一族が喜んで望みを属《しよく》せしことは知るべし。しかるに目今の日本には、とかくこの男女の関係上の風俗はなはだ緩《かん》に過ぎるよりして、右のごとき人々も、十六、七のとき、始めて親の名代に頼母子講《たのもしこう》にゆきて、半《はん》芸子に盃でもまわさるるときは、赤面汗顔して首の座に直るように思いしことなれども、二度三度とくるうちに、飛んでもなきことをおこし、中には陰謀などもやらかすなり。
 なるほど真言宗は女に関係なしとして、坊主の内政はそれですむべし。しかし宗教のはたらきは、頁諦にあらずして俗諦にあることならずや。今、十人の人ありて、毎日夜、仁者の前で大日真言を唱え、さて一時間ずつ女郎買いとか芸者買いとか、また女房の頭をはりまわしなどするものあらば、大日真言でもってこれらの不行儀を被《おお》いかくし消(258)し帳にし得べきや。余は現今のセイロン、チベット、南天竺辺には、兄弟数人、一婦を娶るの風行なわるるを知る。しかしながら、別に釈迦がかかることを奨励せりとは聞かぬなり。入らぬ世話ながら、なるべくはかかることは止めてほしい。しかし、これは小生に関係なき国土のことなれば、言わずして可なり。ただし、わが日本のごときは、目今、少々資産ありまた虚名ある人にして、上述のごとき醜事なきものはほとんど少なく、これがためにいろいろのことを生じ、災厄、やけ、狂妄、乱暴、病難、詐偽等のことを、父子兄弟の間ですること多く、したがって他人を欺くぐらいは何ともなきようにて、小生は至って多くそんな人を見たり。
 小生在米の間に、多少の金を借り倒されしこと、およそ十人あり。しかしてそのうち、家内にかかる因縁なきものは、わずかに二人なり。しかしてこの二人は借り倒せしも、止むを得ざることにて不時不慮に家に難を生ぜしなり。他の人々は、みな、おかしなものが母をせせり出してあとへ入り、おのれ幼少のときいじめられたる怨みを父に向けて晴らすつもりでもあるか、家のはじもなにもかまわぬ放逸の行いをなし、出たらめのうそをいうなり。小生、金借り倒されたるははなはだ迷惑なれども、この実事を見出だしたるはうれしきことにて、はなはだ低価な調査料と思えり。それ人の父たるもの、その子に見すかさるる(僕のおやはれこがすきだなどと公然いうて、中には得色ある人も多し)ような行いありて、しかしてその子の常人とならんことを望むるは、無理なり。いわんや非常の士となるを望むにおいてをや。
 しかして人間社会の整不整は、道徳のえらい人とか、学理のきいた人とか、一、二人ありしとて何にもならぬは、江戸に斎藤弥九即が住んだけれども、別に江戸の人が剣術強いというわけに行かなんだごとし。宗教を弘通《ぐつう》するもの、秘法とかなんとか巫蠱《ふこ》のいうようなこと、もしくは内心の妙味とか吉原通がひとりで女郎ののろけをもちこむようなことを、宗教の弘通と心得れば止まん。もし社会を整えて多福を享《う》けしむるものとせば、父は子のために善業を蒔き、子もまた父の蒔きしものを尽さずに、さらに孫のために蒔くように敬うべきことならずや。しかして、かかることは(259)学校などで子供のとき聞きたりとて、その者年長ずればさらに覚えず。故に社会公衆の相談相手として、せめては事にふれ機を見て、僧徒よりいうべきことにあらずや。仁者は、善業を蒔くということを、寺へ金の百疋でも寄付するか、頼母子講の世話でもするぐらいのことに思いおるにや、一向余には分からず。しかして、予よりこのことを注告してやれば、大いに悦んで受くべきに、さはなくて顧みて他を言うは、いかなる心得にや。また、余は一家内のことを推してこのことを歎ずるは、仁者が一派のことを推して一宗の衰えしを、なにか一人で匡済《きようさい》の意でもあるようにいうに同じ。
 予は仁者の志の奇特なるを感ず。それと同時に、予が一家の恥をもかくさずしてこのことを仁者にいうの志をも愍《あわ》れむべきにあらずや。父母の不行届きとかなんとかいえど、左《さ》はいわれまじ。父母乱行にしてその子たるものまた乱行なるは、いかにも不行届きというべし。それは当然のことなれば、予は別にかまわず。あたかも予が咋日銭つかいつくせば喜んで今日は絶食するがごとし。しかしながら、一社会の風俗かくのごとくにして、非なるを非とせぬ人ばかりにて、なにか放行一度せぬものは男にあらずなど心得る輩もあり、また、年老いたくせに他人の子弟を唆《そそのか》していろいろのことをさせて快とする人(実は?《なんじ》の徒に限ってかかることを煽動するもの十中の九なり、幇間僧という)もある世にて、正直なる父母にも不直なるものを生じ、義の堅い人の子に不義なものあり。放逸なるものが謹直なる家に生ずるは、その因は一社会にありて存するをなげくなり。盗して斬らるるごときは、予決してかほどに歎ぜず。今、自分正直にして地を画して後に生ずるものが、ただかかる社会に遭際せるのゆえのみをもって、かかる不埒なる人を子とするをかなしむなり。故にあながち不行届きというて止むべきにあらず。もし、それも因果じゃ、自然に任せというか。そんなことならば、仏法もほっておけ、かれこれごたつくに及ばぬなり。
 一体|其許等《そこもとら》坊主連が一向人にもてぬは、そんな了簡で推し量り、ただ死人の世話やきとか、検死の立合いとかいうことを職業と心得、さて、うばかかの涙流させに分からぬ落し話して、銭をせしめんと計るよりのことなり。これを(260)もって寺に忠義なるおやじは、必ずせがれの汗で貰《もう》けた銭箱を空にするの人なり。僧にほめらるる婆は、必ず秋茄《あきなすび》よめにはくれじと意地の惡き女なり。故に智恵あるもの、了義で早合点して寺院など一向かまいつけぬなり。仁者、他のことはともかく、この一事、すなわち家族の不和などいうことを一向平気で、家族不和でも、人の妾たり、隠売婬者、飯盛女たりとも、寺へ銭さえ出せば結構な信女じゃという了簡ならば、予は一向相手にせぬつもりなり。実に不真実、不信切なることと申すべし。予かかる堅いことを人に言うにあらず。他の人にかかることいわば笑わん。笑うものは何ぞ。ただ一時を快にして、身後も兄弟も思わぬような人のみ今日に多ければなり。
 仁者、仏道興隆という。仏道興隆は物に因りてあらわるるものにあらず。(寺院聳えて那爛陀《ならんだ》をあざむくに至るとも、何のことなし。百年以内に腐れ失せるなり。)また、心に限りて存するものにあらず。(いかな大仏者が見証をひらいても、身死すればそれきり亡ぶ。)ただ事に因りて行なわるるものなり。その事とは何ぞや。日々入れかわり死に失せ、生まれ出で、宿がえしするながらも、一社会に事として盛んに伝わりて止まぬこと、一秒前の血液と今の血液、今の血液と一息後の血液はかわれども、血液流通して身体を維持興隆することは止まざるがごとくならしむるなり。今、仁者が望むところのごときは、ただ心臓中に血を蓄え集めていばらんとするごとし。心臓の血を作るは、身体に融通せんがためならずや。もし身体に融通せずんば、心臓中にいかに多くの功能ある血を蓄うるも、何のことかある。しかして、見す見す身体衰うるに従い心臓も衰えて自滅するなり。
 仁者、社会の弊風を撓《たわ》め衆生を救うの念なくんば、なにか熊野辺の山中に小家でも立て空気を吸いてすみたまえ。それでもやはり一身のつづく間は仏教護持者なり。とにかく、仁者の望むところ、何ごとを仏法改良の目的とするか、一向知れぬなり。また、坊主は妻を持たぬゆえ、そんなことは知らぬというか。そんなら、君を持たぬゆえ人が不忠なことをしても、寺へ金くれるなら大賛成か。高野の興山は、秀吉がその助言を冀《ねが》うて、秀次に表面上切腹を命ぜしに、これを止めては寺がつぶれるとて、一言の救解せざりしを、秀吉も「山僧われを誤れり」と歎ぜりとか。仁者な(261)なども、ただ人の物を食い倒したり、また銭はらわずに人の行くところへ招かれたりして、それで祖師の意が達したと思わば、大きな心得違いならん。余は仁者ぐらい悪口して諍論地獄とかなんとか言ったつて、何とも思わず。しかしながら僧俗の別はここにあることなれば、金粟が言うてかまわぬことも、竜樹が言うて不似合いなこともあらん。とにかく、小生は、仁者の仏教というは、なにか煉化の秘法とでもいうようなこと、もっともあきれ入る。
 一体、仁者は人を馬鹿とか何とかいうて(?《なんじ》いい始めたなり。愚論を訳して出しては笑わるるならんといいしに、慚汗のあまり、馬鹿〔二字傍点〕な言《こと》をいうの語をもって難を構え出せるなり)、何故予を愚庸輩と同似して、愚庸輩に施すと同一法にて詐り欺かんとするや。「秘密は胎蔵界に釈迦院ありて釈迦を一部分とするゆえ、無関係といわぬ」云々。その浩蕩として何でもかんでも混入せる秘密式を、欧人が竜猛以下の捏造なりというにあらずや。しかるに、その捏造と指《さ》さるる本物を引いてその捏造にあらざるを証するは、狂人がみずから何ごとも知るゆえに狂人にあらずなどいうて人を拒むに同じ。その何ごとも知るなどいうが、すなわち狂なるなり。すべて事物は自然に存し、また心界より生ぜしことも、一たび物界と交差作用して事を顕わすときは、事の蹟、多少は多人の心界にのこり、また物界にも止まるゆえ、後々に及ぶもこれを見出だし得るなり。
 たとえば、予が昨夕ハイド・パークを歩みながら、「世の中に面白いこともある、云々」と観じたは、今夕予がその地に行きたりとてきっと想起するものにあらず。いわんや他人は決して思慮も足らぬなり。しかれども、予が昨夕ハイド・パークに行き、なにか疳積と思うのあまりに木の皮に爪がたを入れしとせよ、ずいぶん予のみならず、その時同伴してそのことを知りし輩には、疳積と思いしことを想起し得るなり。すなわち怒りを、爪のさき伸べたという事〔傍点〕によりて、木皮上の爪痕(物)と旧怨(心)より尋ね出だし得るなり。今、大乗秘法は竜猛が作り出したか、それより前にあるかを求むるは、頼母子講、富鬮、阿保陀羅経、芸者屋業、茶番等のことがいつのころにはありしかと、そのこと自身が社会に存せしか存せぬかを求むるにて、決してえてにこじつけて、この事にこうあるから、こんなことはき(262)っとあったはずなどいうべきにあらず。いわんやその経典たる、すなわち捏造云々と指さるる本尊なるものにあらずや。小生にその経典を引いて証として何か大発明でもしたるごときは、いかなることにや。これを洋語でドグマというなり。教理という意なれど、今は少しく通人は、頑説とか愚論とか思いおるなり。?《なんじ》、『大日経』などの前後の文字の誤り、すなわちさきに馬という字が、あとで同一の句法意味のところに驢とあらば、これは事情により馬とも驢とも証して正し得べし。『伊勢物語』の古本よんで、先後を推して一箇所のかなつかいを正すようなことなり。今、あわざるところは左様にあらず。『大日経』それ自身を欧人は疑うに、それに対してわずかに『大日経』の文句をもって証とするは、いかなる愚事ぞや。
 すなわち『大日経』外、いな、梵教等の諸外教の事情を考え、履歴を推し、また、一向関係なき宗教沿革にてこれと平行せる場合を引いて、『大日経』は竜樹の捏造なりとも、その教は古えより存せりといわば見事なり。小生も秘法は昔よりありしことは証するも、『大日経』ごとき下らぬものを正しき仏教の伝とは思わぬなり。今の秘密の式にある天部中には、梵部中最後に出で来しもありて名の衝突など笑うべし。また、明王ごときも、ほとんど梵教再変して今のインド三教となる際の神に対し、芝居の番付のごとく、角の芝居は雀右衛門だから、こちらはきられ与三郎に坂彦《ばんひこ》を出せというごとく、それも芝居はもとからある人間なれど、こいつはまけおしみに皆無の法相の形容詞などを人形にして出せしのみ。余は、今現存して汝ら糊口の資本として護摩法すなわちごまかしを行なう秘密式などは、なにか大坂落城のときの一枚ずりとか、長州征伐行列の次第とか、安政地震の細見図ぐらいに、ばけもののエンサイクロペジア、支那の荒唐不経の親方『山海経』ですら、三舎をさけるものとして、一笑に付し、なにか化物話でも作るときの参考にせんとするのみ。その曼陀羅の繁冗にして怪奇千万、ほとんどほら吹けるだけのあるまじき形を集めたるは、実におかしさ余りて口も開けぬなり。余はかかるものの伝統をいうにあらず。かかるものに誤られし秘法の正真のところの伝統をいうなり。
(263) 一体、『大日経』は汝の一本棒で、なんぞというと『大日経』『大日経』というが、他人には左様にありがたく見えぬゆえ、欧人もいろいろの議あるなり。??《おこし》売りの歌に、お竹という婢女《はしため》のことをいうて、「からかみそっとひきあけて、のらんとすればこはいかに、大日如来のおんすがた、おまんこに御光がさいてゐる」という。これ本町の新富座は団十郎を出し、市村座は菊五郎を出す。しかして座元より下駄番に至るまで、一は市川はえらい、一は尾上はえらい、といわば、いずれも公論にあらざるなり。それを公平に見るは、芝居をはなれながら二座を比較するにあるなり。すなわち役者の家柄などをもってせずに、審美の一事にあるなり。?の『大日経』など引くは、尾上、市川の自分のじまんなり。半六という手代がお竹に恋慕し夜這いに行きしに、陰門の中に大日現じて化度《けど》せりなどいう口碑あり。?らの『大日経』もまた、これほどの馬鹿なことなり。しかして右の??売りの唄なども、方便とか何とかいうて、説教一向はやらぬゆえ、品をかえてかかることを作り出し、きつと汝らの徒より伝えたることなるべし。さて、その唄がはやると、じきにお竹大日というて、えも知れぬものをまつり、愚人をありがたがらせ、賽銭をせしめた上、帰るところでまた極楽行きの切符、疫病除けの守札、迷い子の薬など、分からぬものを売る。これらはみな?らの徒のすることにて、はなはだ卑陋なることなり。
 ?、『大日経』の文を証として大乗秘法の伝統虚実をいうは、右の豊年糖売りの唄を証としてお竹大日のことを主張して実伝とするごとし。かかること、今も田舎のおやじなどにあるなり。この輩は定九郎の茶番を見て、昔は七月三十日に綿入れきたものと思い、また、『腰越状』の三段目をきいて、昔は裸で茶の湯に行き、上下《かみしも》きて肩輿|舁《か》く風俗もありしと心得、なにかいうと浄瑠璃ばかり証として、『蝉丸』の浄瑠璃を見れば、三善清行は大忠臣で皇子を救い、また、『菅原伝授鑑』巻の一、章八九によれば、この人は菅公を譖せりと、さればこの人は一度は大忠、その後は大不忠に心替りせるならんとか、『和田合戦』を見れば、義盛は北条と戦いし親方なるに、『鎌倉三代記』には同心して頼家を諌めしとあれば、始めは同心して後に合戦した。右の『三代記』に、重忠が子重保、京より遊君あこやを(264)召しつれ来たりしを、頼家が奪わんとして遊君あこや自殺することあり。しかして『壇浦兜軍記《だんのうらかぶとぐんき》』下巻|琴責《ことぜ》めの段には、榛沢《はんざわ》六郎の情をもって、重忠が四相を察して、阿古屋をゆるし、景清の方へ行かしむ、とあり。しからば、阿古屋は景清を尋ねあたらずして子を孕めるくせに、また重忠の子重保にさせたるなり、自殺せしは気の毒じゃが、しょうもないなどいい、はなはだしきは、軍談に真田幸村討死のところをききて帰り、一夜眠られずに女房を叱りしものもありとか。汝らのするところ、秘密、軍談とかわれども、大方はこれほどの馬鹿なことなり。
 ?《なんじ》ら、欧人に究迫され、何のちゅっともすっともいえず、仏はなんとなくありがたいとか、言われぬところが仏の妙だとか、霞のようなことばかりいうて、たまたま証すれば、第一|発頭《ほつとう》に欧人に批評されおる「大乗大法螺経」の法螺文に過ぎず。しかして金粟如来は弱いものを助くるは昔よりの御誓願なれば、かりに後藤又兵衛氏房、幡随院花川戸親分の相を現じて救いやりしに、はっと気がつき、なるほどと思いながら、元来義理もなにも知らぬ豪悪残忍|狼戻《ろうれい》なる坊主どもゆえ、そんなことは『大日経』に出ておるなどは、何のことじゃ。『大日経』に出ておるそのことを人が疑うゆえ、『大日経』外のことを証にしてこれを救いやりしなり。しかるに、自分を助けくれし人にかみつくは何ごとぞや。実に大馬鹿野郎話すに足らず、予はかかる輩と多く話すの暇なし。?ら勝手になんとでもこじつけて見よ。予はわが眼を抉《えぐ》りて東門にかけて?らがずずつなぎに修羅界中にほりこまれるを見んとす。実に年四十に垂《なんな》んとしながら、馬鹿にも程がある大馬鹿なり。
 智によりて識によらず、了義経《りようぎきよう》によりて不了義経によらずという。その智といい了義経というも、ただ旧物をそのまま智と心得、了義経と心得れば、たちまち識と不了義経に化するなり。故に?みずからこれを開くの外なし。これを開くには材料が入るなり。一体、今の坊主どもは何にも知らぬなり。しかして何かいうと『大日経』などを引く。これ動物学盛んにして鯨鯢《げいげい》は哺乳動物、人間や猿や馬と同族なるを知るの日に当たり、『バイブル』に鯨鯢は魚とあるから魚なりと主張して、今ノルデンショールト氏(スウェーデンの男爵。北氷洋を航し、日本に来たり、四千冊の(265)書を書いて帰れり)、それに抗するとて魯国より追い払えるごとし。漢学者などに、今も蝙蝠《こうもり》は獣類なるを疑うとて、羅願の『爾雅翼』に飛禽を鳥というとあれば、蝙蝠は鳥なりとか、また虫へんに書けるゆえ蝙蝠は虫なり、蟹も虫へんゆえ蟹と蝙蝠は二等親だ、葬礼の時知らさぬは薄情じゃなどという輩もあるなり。これらは、英国人というにやはり不英敏な人も多いとか、魯国というに聖廟一つもない、察するところ、『史記』に見たとおり、項羽に屠られただろうなどと、狂人ごときことを考えておるなり。?らもかくのごとき大馬鹿のど天上なり。
 ?《なんじ》、前状に金粟王如来の事〔傍点〕を説明せしを、分からぬくせに、当否はさて置き面白しとは、何のことぞや。実に文殊大士再現すとも説き得ざる大発明を授けやりしに、一向気づかぬは何ごとぞや。むかし由井正雪と金谷《かなや》半兵衛重国と有馬山中に試合して、半兵衛いかにも上出来のつもりで、正雪の袖へ銑マ《しゆりけん》一つ留めおきしゆえ勝つたと誇りしに、正雪笑いて、?首筋を捜《さぐ》れといいしに驚き捜ったに、銑マ二つあり、髪の際に立っておったんで、大いに辟易して子分となりしといえり。金粟如来、?、竜猛の頑愚を自開自発せしめんために、蘇公が張儀を激して秦に相たらしめし策をもって導き、将棊でいわば両馬《りようま》おとしでもんでやったんじゃ。
 果たして?は今はいかにも鹿《しか》つべらしく、大乗は混雑せり、小乗の方が改良しやすしなどと、尋常の見解を有するに至り、狂人界を脱せり。しかしてその上にかの一大難事たる賢劫仏《げんごうぶつ》、秘密伝等のことを、勝教のことよりして教えてやりしゆえ、大いに安心してまずまず維持できると内心ひそかに喜びおるに及び、かつまたドグマを言い募らずに、理学上よりして立派に、仏を信ぜざるものに向かいても、ドグマ一つも用いずに仏を張り得るように教えやり、またなお一歩すすめて、たとい多少の弊事ありたりとも、また全く弊事のみなりしにもせよ、今後の宗教は必ず仏教に帰一せざるべからずということまで教えやれり。実に慈尊下生するとも、かかる広大真正の教えはむつかしきじゃ。しかるにこれをおしえてもらい、大喜悦しながら、なお東海道の雲助が金もらうごとに小言をいうごとく、つけ上がりて不平をいうは、似合わぬばかなり。汝のごときものに法竜などとは勿体なし。仁人これを放流す、という句もあれ(266)ば、以後放流とか名を改めよ。天熱ごときものもついには成道し、また十三祖|迦毘摩羅《かびまら》ごときは大毒竜なりしにあらずや。しかれども、なお馬鳴《めみよう》に感化されて、入りて法燈を掲げたり。支那にも、顔?聚は大盗なり、段干木は巨?《きよそう》なり、子路、澹台滅明《たんだいめつめい》なども至って下らぬ人なり。されど学問して善人の言に服し、子路ごときは「いまだ行なわざれば、ただ聞くあらんことを懼る」で、善言を服膺し、いずれも豪傑となりて道を張れり。
 汝粳虫などは、自分より先を越し上を言うものあれば、たちまちこれでは自分の株が失われるなどと邪推して、小児がマラを見られては笑われると心得て、一生懸命に厠の戸をひっぱるごとし。しかして、内々は大いに感心しおるなり。汝、金粟先来教えてやりしことを、自分の発明らしく言いふらすことなかれ、みな教えてやりしなり。それ金粟如来は、無辺無涯際の識、無尽無究の智を有せり。この他に教えてやること多きなり。されど汝の悪念を起こさしめ、独り角力で狂わしむるも入らぬことなれば、以後何にもいわぬなり。これよりは今度小言言うてきたこと、一々弁じて聞かせやる。ただし、深いこというても分からず、分からぬなりにこれを自分の知ったふりで言うては、汝、万人の嗤笑たらん。故に深いことはいわぬなり。(予は、汝が愚論を翻訳してくれぬゆえ憤りて悪声を放つなど、はなはだ陋《ろう》なることと思う。)
 因果論師や因果梵士は、釈迦ごとく因果を道義に応用して、善因を積んで悪果を(実は全無というにあらず、中和するなり。たとえば、ロシア人が毒菌《どくきのこ》をかまわず醋《す》に入るるときは毒なくなる。これ、菌が林下にありて蓄えたるアルカリ性毒分を、醋の酸性で中和して無毒のものとするなり。中には、毒なものと毒でなきものと合して、無毒のみならず、かえって有益のものも生ずるなり。?《なんじ》ら、善をつんで悪を滅ぼすように心得おる、大ちがいじゃ。悪は悪のままであるが、悪のはたらきを自由にせざるじゃ。禅録にも、昭明太子、仏経を世話せる功徳の業終われば、また、悪因の業の勘定のきえのこりて死んだとあり。今日の科学の証するところ全くかくのごとし)制する実行をなせりや。予の知るところにては、この輩は、ただ火が消えてなくなると見ゆるは消ゆるにあらず、物食えば腹がふくれるなど(267)ということを論じて、中にはずいぶんこじつけもありしなり。それきりで、要は公孫竜、虞卿、恵施などが弁論のみで実用なく、またローマのソフィスト輩が酒間にえてなこじつけ論を闘わして君侯のなぐさみとし、はなはだしきは落語家やまた汝ら坊主があらかじめ申し合わせおいて面白おかしくしゃべりあうような一つの芸なりしなり。いわば島田の宿屋で身の上はなしもまた一興と、昔はさしも秋月の娘みゆきが因果ばなし、語る大夫の面《めん》次第で、聴きに行く人還る人、ここのせりふが妹《いも》かった、あそこのとどは面白かったといいしに過ぎず。
 かかるものは仏家より見れば、実に異様の傀儡《くぐつ》師、また阿保陀羅経、これを最上にして民中《みんちゆう》、善孝、永喜太夫、伊東巳代治、都築馨六、有賀長雄ぐらいの議論、口先に過ぎず。また、輪廻転生、これはメテンシコシスとて、ギリシァのピタゴラス輩も言いしことなり。ギリシアのプルタルクなどもこのことを主張して、カトーが老馬を人に売ったことなどを喋々して責むること、汝らが事なきに苦しんで動物保護で仏徒のやんやを博せんとするに同じ。転生などいうことは一向証拠なし。何にしろ因果説を道義に応用し、漠然と天をおそるとか神意のままに任せずに、因果に安んじて因果をよくせよとおしえたるは、釈迦氏の外にありや。もしあらば、予は以後釈教などに関係せぬつもりなり。汝の議論は、家康以来三河武士がえらくなったというに反して、その前にも三河の吉良などは南北朝のときに強かったればこそ『太平記』にも見ゆるなどとこぜくるようなものなり。
 また、仏家に独覚というものあり。これは、いかにも因縁によりて因果を悟り、自見はありしならんが、不幸にして志を行なう能わざりしもので、今こそ名は伝わらねども、釈迦世のときには、ずいぶん名もあり、また多少の著もありしことなるべし。あたかも浅見安正とか竹内式部とか、勤王を念じて一向行ない得ざりし人の名も著も今に少しは伝わりおるがごとし。?《なんじ》、金粟の教えにはっと気がつき、大乗は釈尊の言の布衍《ふえん》なるを悟りながら、釈迦の説もまた一々出処あるを知らず。子貢は一を聞いて二は知りしに、汝は一を聞いて半をも増減すること能わず。しかして、ただむやみに人を嫉み害して、そんなことは経に出ておるなどと、自分の贓品を自分で訴えて得色あるごときが、予(268)が侫姦譖誣《ねいかんしんふ》の小人ならんには、?は狗盗|穿?《せんゆ》の悪党なり。実に不愍《ふびん》の至りなり。
 一体、日本の仏教中、もっとも異議あるは、汝らの真言宗にして、祈?、呪?《じゆろく》等の外は何の益もなく、明治維新までは、僧つねに少年を姦犯して、ために京の宮川町に通和散とか名づけて、そのことに用ゆる薬を大発売せしもあり。それでなお足らずとして、予輩高野に登りしときなども、毎夜四里近きところを下駄はいて下山し、九度山や玉屋与次兵衛方で発娼し、また梨木坂とかいう処に僧正がいろ的を尼としてすえたあともあり、小姓が和尚を召《よ》ぶに屁をもって相図《あいず》するなど、第一|人《ひと》ぎきが悪いは、その他、清閑寺のふすまに画いたる十二天や二十八宿の顔をみて手淫するものもあり、また竜沙川の大王の子なりとて、現今この地動物園にもあり、また大坂辺でえびざこ中に雑《まじ》りある海馬というものを見せたり、恒河の蛇神なりとてヨウジウオというものを見せたり、仏法僧なりとて烏を彩色したり、いやはや一向はなしにもならぬことのみなり。しかして、?《なんじ》かかることをいわるるごとに、そんなことは知っている知っている、いうないうなというは、一手をもって大河のくずるるを塞《ふさ》がんとするがごとし。
 金粟如来これを憐れみ、古いわるいことはことごとく流して滌《あら》い去れというに、何ぞというと『大日経』などいうて小理窟いうなり。しかして実際日本に益ありしことといえば、根来《ねごろ》の杉の坊が種が島を銃することを東国へ弘めたぐらいのことなり。その他は興山が三成のために冨田知信を降し、護持院が犬|畜《か》うことをすすめ、維新のとき無頼の浪人をかくまい幕府をこまらせ、またなにかの間違いで、もと穴ほらせおりし?童輩の中より外務大臣一人出したのみ。その外に何の功徳なし。それすら金粟如来、広大の慈悲をもって、なるべくは今において旧悪を悔悟し、社会に向かいて、まっぴら御免ねい、大日おやかたが悪いんでないんだ、わつらが惡かったんだ、向後は改心するから、そう思ってゆるしてくんねいとやり直せというものは、この教は因果を応用して社会を幸福せしむるものにして、ただ漠と譬喩上より、因果があるそうだからおそれよおそれよというごときにあらざればなり。
 すなわち電気は形なきものなれども、その原則を知りてこれを用うれば、電信も電話も電燈もできる。これと同じ(269)く因果の原則を認証応用して、人間の身心に便利、幸福、安寧を与うべしというなり。しかるに?ら百年ほど時世に後れおるゆえ、なにをいうても知れず。アシタ仙人は、悉達《しつた》を見て、教えに及ばずと泣きしとか。それは仙人すでに年老の時なれば詮方ない。?ごときは、眼前金粟王如来にあいながら、好んでこれを嘲哢す。これあたかも桓温が関に入りて、王景略面前において、関中の豪傑を問い、しかして問わるる当人が関中第一の豪傑たりしを知らなんだごとし。実に余は?のために惜しむなり。しかし、これまた因果なれば詮方なし。?は何を聞いてもこれを行なうことも、またせめてはその言に服することもできず、ただただ『大日経』ごときつまらぬ陳文を十襲するばか坊主なり。予が讒謗地獄の本場《はんば》をふむものならんには、?らは本場の地獄へも行けず。なにか空食空住して益なかりしことゆえ、米粒形の有情とか、また例の目?連が見たりという殿堂楼閣形の有情、あるいはおかまほったりなどせるやつは、例の独孤地獄で永世火にやかれてなくじゃ。
 仁者、仏道興隆とかなんとかいう。しかれども社会整備せずんば、決して仏道は興隆せぬなり。仏寺塔ぐらいふえたりとて、みせ物小屋多くなりしぐらいのことなり。しかるに倫理、一家内の和合すべきこと、兄弟の相譲るべきこと、夫婦の好愛して、しかも別あるべきこと、臣僕の君主に義を尽して末々までも見とどくべきことなどを度外にして、不忠、不義、不孝、不悌、不慈、不寛、不猛、柔惰、乱戻、逸蕩の輩でも、また社会に大害あることをなしおる輩でも、一たび南無仏と唱うればというところだが、今はそれではすまぬゆえ、一文でももってくれば、やたらにほめ立てなどするを、仏道の興隆と心得おるか。
 仁者、ライブラリーを建つるという。はなはだ賛成なり。しかしながらライブラリーで、智鋭く識広きのみの者をこしらえたりとて、一家をさわがし、優勝劣敗とか何とかいうて兄弟を押領し、また、これも輪廻なりとて、父叔の放蕩を再行しなどして、しかして寺のために毎度勧進とか奉加とかの発起し、また芸妓など、一つはおのれの顔の聞こえた(実は恥の聞こえた)ところを見せ誇らんために、そろいの浴衣などきせて寺へ練り、供養にでも出せば、仁(270)者は知らず、十中の八、九の坊主は大喜びなるなり。しかして仁者、今、小生が自身の験し証するところを推して社会の弊を痛論するを聴きて、一言の賛成感嘆はせぬのみか、これを嘲笑するは何ごとぞや。
 ?《なんじ》知れりや、五代将軍のとき、地妖天変を禳《はら》わんと僧を集めて問いしに、?と同臭の悪僧は、いろいろ大威徳の法とか不動明王とか、いろいろのことを建議せしに、祐天は、近く犬のために人を斬る、鳥のために人を流す、かくのごとくんば、いかなる名法を修するも何の功かあらん、といえり。?ら、また動物保存など、妾保存|乃至《ないし》歓喜天などを新建して、芸妓繁昌、恋の祈?などせんとす。祐天に対して恥ずることなきか。?は、不仁不義、乱蕩淫猥、いわば犬馬にして人面なるものでも、その行いは少しも改めずに、ただただ虚名または金銀をもって坊主に奉ずれば、信士善男とするや。余は大乗であろうが、瑜伽であろうが、社会に混入しておる間は、さしてえらいものとは思わず。やはり純一の一大理則がかくのごとくに変じあらわれて社会を整うるために作用するものと思えり。すなわち一大理則、一大正法が社会の用をなし、社会の人々を益せんとて存するばかりに、社会にあらわれおるなり。しかるに、汝はこの一大正法と、また社会にあらわれたる、わずかに一部分なる現在仏教をもって社会を助くることをせずに、反って仏教のために社会ができたものと思い、飯盛りのようなもの、また芸妓、盗賊、騙拐《へんかい》、狡獪《こうかい》、大?《たいそう》、幇間《ほうかん》、侏儒《しゆじゆ》、侫幸《ねいこう》、音色つかい、えたがしら様のものでも、ことごとく寺の用をなさしめんとし、寺の用さえすれば、いかなる乱雑|乖戻《かいれい》の行いありとも、信士善女とでもいうつもりか。大正法は無際限、無辺大なり。その一部、社会に現われて仏法となりおるじゃ。大正法は決して社会のために存するにあらず。社会上で人間絶滅するとも、火、下へ燃え、水、上に騰《あが》るとも、大正法は一向かまわずにおるじゃ。しかして、この大正法の一部分が仏教となりて社会を整えんとするじゃ。すなわち社会のための教にして、教のための社会には万々あらざるなり。
 しかるに?《なんじ》、予が日念自証して、定めて他人もかかることでは悪因によりてまた悪因を増殖すべしと思い、かつ多く世間を見るにずいぶん例多きことゆえ、これを拯《すく》うは仏法の急務としていいしことを、?は頼山陽や篠崎小竹よう(271)の字面上で、伯夷伝のようなものをもって、われを嘲るは何ごとぞや。予このことを新聞へ広告せしとか、またあう人ごとに語りしとか、語るにその人を得ざりしとかならば、まことに余の不埒なり。されど、余は?にのみこれを語りしに、?、これを左様にいうは何ごとぞや。いかにも怨慕するはよきことにあらず。されど、これをのべて他の多くの人のかかることあるを拯《すく》わんとするなり。余自身今において怨慕するにあらず。ただずいぶんかかる場合になれば、自分も怨慕しそうなことなり。また他にこれをせしもの多きをもっていいしなり。?かかる急なることすら一向かまわず、ライブラリーなど立てんとは、ただ虚妄玄誇の王戎、山濤様のものは、多くこれをえて俗人を乖乱《かいらん》せしめ、ことごとくそれをして寺院に従わしめんとの策なるべし。予はかかる下らぬ、えて勝手の拳に賛同は御免なり。
 汝ライブラリーを建つるの日、予は世間の孝子順孫を率いてこれを秦皇の一火に付すべし。一体?らのすることろくなことなし。前年に、加藤弘之など節酒会を立てしとき、汝らの同臭の姦僧黙雷、日薩、坦山、行誡等、節婬会とかいうものを催し、あまりに外聞おかしきゆえ、新聞にも名は立たざるほどのことなり。その拙劣にして恥もなにもかまわざる、笑うに堪えたり。?らもその末班に列入せしならん。実に古今無双、奇怪千万のことなり。邪推かは知らぬが、婬心ということ全く箇々の了簡にあることなれば、会合して説教ぐらいしたりとて、何の益なきことなり。あるいは平生は婬せずに、会日に会席で一同に茶屋女でもつかまえてやるということにや。実に実に呆れかえるなり。俗人の大工とか?工《おこう》とかいう平凡なものにも、かかる会合はいまだ名も聞かぬなり。余、今このことを筆するにさえ、おかしくておかしくて引っくり返るなり。実に?等《なんじら》輩《ども》の所為《しわざ》、妙なことばかりで、平人の消化をたすくるものというべし。
 しかして、余は右のうちの一人、その時しゃれをいいしを聴きしに、南無妙法蓮華経の妙とは、少《わか》い女また少《ちつと》の意なれば、これは少《わか》い女に少しほれんげきょうとて、少しほれるはかまわぬこととやらで、狂歌などよみ、また酒などのみ、踊りおりたり。実にわれわれこのことを思い合わすと、呆れて呆れて笑うにも程があるというべし。汝、実に(272)平素の口のごとくかかることせし覚えなければ、汝は伯夷、屈平、僧中に生出せりというべし。とても今の世はだめだとあきらめ、寺をすてて山に入り、緑覚となれ。予はこのことを観ずるゆえ、縁覚でおるなり。
 予のごときは婬心などいうことなければ、清浄のものじゃ。十年ばかり前に、美少年を有しおりしが、これは渡外後死んでしまえり。われこのことにより大いに悟ることありて道に入れり。察するに観音大士の童男変身して利益せるならん。しかしながら、かく書くうちにも、そのものの「巧笑|倩《せん》たり、美目|?《へん》たり」が見ゆる。誰かは知らぬが、文覚かばかり剛勇の荒行をして密教の高僧となりながら、袈裟の絵姿を首にかけ、かなしきときも見、うれしきときも見たりしを、笑いて拙といいしが、文覚のせしことも無理にあらず。その志は愍《あわ》れむべし。もしよくこの心を推して正しく他に及ぼさば、こいつ人情をかみ分けたものといいつべしじゃ。しかして、釈迦が華色を妻とせしこと、以下金粟如来の美少年談に至るまで、一々案問すれば、汝米虫が一生やらぬなどいうことは、うそなるに相違なし。
 『宇治拾遺』に、雅俊という人、一生不犯の僧数十人を招請し念経せしめしに、中に一僧ありて、美少年を犯したは如何《いかん》といいしに、それは幾度やったかといえば、昨夜もやれりといいしに、一同大笑しければ逃げ去る、とあり。平田篤胤評に、この僧は大正直ものなり、その外この坐に一生不犯とてまじめな顔しておりし輩は、みな大やりなりしこと、といえり。故になんと米虫、その方ら不犯などとまじめらしくいうは、反って外をつくろい、内にはマラ立て通しなるものなれば止めかし。以後は男子|妻《めと》りて四十とか五十とかまで世才ありて世に大功をなし、さて世をあいてきてから仏僧とすることにしたらどうじゃ。
 律に五不男五不女を僧とせぬこともあり。人情を知らぬものが人天の師となるとは可笑《おかしな》ことじゃ。この一事、金粟より米虫に教えやるなり。このこと調わぬうちは到底出家人はうそつきにて、毎々内心に淫慾絶ゆることなきはずなり。また、僧でいながら破戒淫犯し、さて恥じてマラを切るやつあり。ロシアにはそんな宗派もあるなり。これはルーソーが小児を教うるには、なにがな事に懲らしてみずから改むるを要すといえるようなことなれど、一生ついた疵(273)は直らぬなり。故に余は、もはや僧になるに少年より一度もやらぬものなどには止《やめ》にしたらよかろうと思う。
     Divina《ジヴイナ》 Norokeana《ノロケアナ》
 金粟王如来、逆流縁因境を脱する能わずして、ロンドン城に居し、臥病三旬、人の訪ね来たるなし。ただ米虫の、時に状を出して愚見を申し上ぐるあるのみ。如来無聊のあまり、筐底を払うて故人の文を閲するに、十年以前、生死を盟《ちか》いし美少年の遺詞あり。むかしダンテ幼少のとき、五月宴会に、おのれと同齢の女を見初めて、長ずるに至りて忘れず、その女死して、なお音影と終身し、伴れて冥界を観て、『ジヴィナ・コメジア』を作れり。金粟王、身を枯木死灰となしながら、今、この遺詞を閲するに及び、涙交り血|瀝《したた》る。この詞けだし応答の情歌を双《なら》べしものなり。西行法師発心して家を出でしとき、すがり付くる嬰児を抛げて去りしが、修行完成するに及んでは、宿を江口の君に乞えり。それ物、始めあるに始まりて、終りあるに終わる、これをよく終わるものとなす。迷わざるの悟り、世あにこれあらんや。米虫、色を離るといえども、また人情なけんや。いささかこの応答の詞を双べ立てて米虫に示すものは、われは悟りてのち昔の迷を序述し、かれはみずから悟りて他の迷を観察すべければなり。示す者、示さるる者、共にすでに如来菩薩の神聖なるなり。こののろけ、あに一概に遊冶《ゆうや》談となすべけんや。よって名づけて「神懐篇 Divina《ジヴイナ》のろけあな」という。
  この贈答の歌の一は暁鐘をもって起こして晩鐘に畢《おわ》り、一は晩鐘に起こりて暁鐘に終わる。実に感心だろう。しかして贈の方は少しく予これを訂せしところあり。これは少年は年足らぬものにて、句などなれざりしゆえなり。?《なんじ》米虫、感心ならば感心というてこい。この美少年は六年前に死せり。
                         明治二十年四月寄送
                               平岩内蔵太郎
     思ひのますかがみ
  暁しらす〔四字傍点〕鐘《かね》の音《ね》に  驚きさめて打ち見れば  茜さす日は早高く  東のそらに上りける
(274)  つらつら思ひ廻らせば  眠れるときは何ごとも  忘れてさらに知る由も  なきつる鳥にさまされて
  おくればまたもわが胸の  うやむやいとど晴れがたく  思ひ出だすはうさばかり  こぞに捕へし螢火は
  今年も早く照らせども  恋路の闇は照らされず  いざよふ月は晴れたれど  おのが心はおぼぼしく
  こぞに眺めしその花は  今歳も早くさきぬれど  花に今宵の主《あるじ》なし  積もりし雪は解くれども
  積もる思ひのとけがたき  くもりがちなる己《おの》が胸  君が秋風吹かせなば  涙の雨やしぐるらん
  せつなき思ひに己《おの》が身は  楽しき日とてあらずかし  楽しき日とてあらざれば  うさを慰むすべもなし
  秋の日よりの定めなき  君の心もいかならん  ツイ二年《ふたとせ》の旅衣  袂分かちしその後は
  わなみのことも打ち忘れ  思ひに思ふこの程《ほど》を  君に語らふつてもがな  めづる月日にまかせなば
  いつかは帰り来まさんと  指折りかぞへて松が枝に  きてなく鳥もいとどしき  あはれ催すくれのかね〔五字傍点〕
                   明治二十年五月答
     心のはれがたな         逆流因縁の金粟王如来
  あはれ催すくれのかね〔五字傍点〕  音《ね》につれ寒き風そよぐ  草葉にすだく蟋《こほろぎ》の  つづれさせてふねもうしや
  露を待顔に夕顔の  いふに言はれぬあはれさを  しるや知らずや白雲《しらくも》の  たなびくくまに入る月か
  山科ならぬアナバー《(東ミチガンにあり)》に  早|二年《ふたとせ》の草枕《くさまくら》  結びかねたる世渡りも
    さうしたまことがお前にあらば つらい月日もいとやせぬ
  渡りくる雁|一列《ひとつら》と  けふ来にけらしふる里の なれが玉章《たまづさ》手にうけつ  厚き誠を杯に
  くみて飲みつつ菅《すが》の根の  長き昔もうかみ出で  今はいかにと思ひやる  心の底を千早振る
  神もあはれとはかりしれ  君をこふらん木枯《こがら》しは  まだ吹かねどもありし夜の  その睦言もきえやらぬ
  雪の夜中の友千鳥  春の晨《あした》の鶯宿梅《あうしゆくばい》  あきもあかれもせぬ中を 縁《えん》尽きぬればこの国に
(275)  片割髪《かたわれがみ》の片思ひ  声もかなしう聞こえくる 汝《なれ》が姿を写し出す  歌もよみ候《そろ》からうたも
  ゆがみくの字に作り候  水の絵の具をときどきに  色にこの身を染寺の  かけし誓ひを力とて
  習ふ道を行く跡や先  いそげどはかの行かざるは  足《た》らはぬ我と身をもせめ  つとめ勉《はげ》みもするならば
  やがていそいそいその海  潮干《しほひ》に乾く暇もなき  しめりがちなるアメリカを  いつかはあとにミナカタは
  なれが笑顔に色添ふる  また日の本に立ち帰り  昔はうかりつちかりしと  語らふ折もありなんと
  思ひつづけて肱《ひぢ》枕  夢の通ひ路ふるさとに  恋路のやみや内蔵太郎《くらたらう》  見るに胸さへ轟きて
  やよと呼んだる声につれ  心勇めのその暁《・あけ》の鐘〔五字傍点〕
 金粟王が円覚になりしは、ことごとくこの一事の因縁による。しかして右の美少年は、はや六年前に死したり。死するときにも、小生に遺言することどもありて死したり。この男、美少年絶世なるのみならず、小生と同じく、いろいろの学問を好み、また胆勇あるものなりし。実に金粟王も力を落とし、それより世を憤り浄行身を現ず。?《なんじ》米虫、感心したか。感心なら感心というて降伏せよ。しかし右の美少年は、小生とわずかに一歳ちがいなりしゆえ、今まで生き延びたりとて、はや二十七なるべければ、一向やくに立たず。ただ今ただ鷓鴣《しやこ》の飛ぶありで、顔前にその人の音容を見るが、すなわち Plato 的の愛にて、愛中最高のものとするなり。(この Plato という男も、世界中もっとも美なるものは、十六、七の美少年を丸裸にして相撲とらするにありと、その問答に見えたり。)?伽米虫など口に世慾を脱したようなことをいいながら、やはりちんぼをいじくるを免れず、大いに金粟王がこれを詩賦感慨の上に述べて楽しみとするに及ばぬこと遠し。いわんや米虫より下なるものにおいてをや。
 ?米虫、書籍目録を作り、送り来たれ。なきやつは余より恵贈し、また国元にあるやつは仮《か》してやるなり。また?米虫に教えやるは、今のセイロン山のやつらが仏教を国教にするに及びしは、南天のタムル人は勝教を奉じ、セイロン山のやつは仏教を奉じて戦えるより、自然、二国民の戦いが二宗教の戦いと符合するようになり、しかして仏教が勝(276)ちたるによるとのことなり。故にセイロン島に至らば、勝教のことを聞きて見るべし。かつ仁者、セイロンにつてあらばちょっと知らし下されたく候。小生もいずれ行くことゆえ止宿したきなり。しかし、これは何時でも帰国の上でもよろしき間、その上ちょっと御報知を乞う。?米虫、この状に答え、教えてやったことに一々異議あらばまた申し来たれ。実に?ら凡庸の才にて、金粟王如来を小?《しようしよ》するとは、狂気の沙汰なり。また?状に、今の清帝は元帝と同じく蒙古人なれば云々とあり。そんなことをいうな。元帝は蒙古人にして、清帝は満州人すなわち古えの粛慎の人なり。かようのことあまり麁末《そまつ》にいうべからず。
                          金粟王如来
                           南方熊楠より
 
 米虫ひょっとこ坊主
   土宜法竜様
    明治二十七年三月十九日夕出
  追白。羅氏の『西遊記』に、玄奘は一生元水を洩らさざりしゆえ、これと交合すれば九千年生きるとか言うて、琶琵洞のムカデの化物が淫を得るのあまり殺さんとすることあり。これはむろん小説なり。しかしながら多少|拠《よりどころ》ありしなるべし。高野坊主が少年を婬するは尋常のことと思いて、俗人がこんな粋なことを知らぬかとて笑うということ、風来の『そしり草』とかいうものにあり。しかし、これは戯文ゆえそれでよいが、いやしくも引書も挙げずに、学士会院で、玄奘は清僧にあらざるゆえ、法相宗にては女犯を当然と思えり云々とは、あまりな有害の大法螺ならずや。それを?米虫ら、坊主して食いながら、一向気がつかず、ついてもはねかえしができぬとは、これを米虫というなり。
 
(277)          8
 
 『仏教講義』一冊、書留にて尊師宛ギメー博物館へ宛て出したれば、受領の上ちょっと返事を乞う。またムールという英国の女の神異がかったことの伝一冊仮綴、きわめて今は稀書なり。これも右と一封せり。故にこれも受取りを乞う。この『仏教講義』は、他の小乗と大乗を別にして説いたものにあらずして、大乗小乗を合概して一冊に編みたるものなれば、作者のこれによりて名を得たるは知るべし。しかして、この書の末段一章こそ、実に太史公の貨殖、遊?伝ともいうべき骨髄にして、すなわち全冊はこの一段の参考までに述べたるなり。しかして、この一段は仏と耶とを比較して、その優劣を示せるものなり。尊者原文にて読むべし。しかし、ちょっと訳文をも載す(小生の例の議論は入れずに)。(また大要のみ訳載す。)
 第一に読者は、耶蘇教は最初より宗教にして、仏教はとにかくその初世また最も純真の形にては少しも宗教にあらず、単に多苦説を基として立てたる道義および理論の組織なりし、というを知るべし。それには吾人(毛唐人)が宗教とは何ごとということを定義すべし。むろん道徳というのみにては宗教を意味せず。しかして、これに反して宗教は必ず道徳を意味するものなり。古えの聖賢、厳に道義を享けて生活しながら、少しも何の宗教も奉ぜざりしものあるは疑いを容れず。今日といえどもわが党の秀士に宗教家といわるるを忌み、無涯時勢〔傍点〕、無涯時力〔傍点〕の外、何をも信ぜぬもの多し。しかる上は明らかに知るべし、宗教の定義はなはだ難《かた》+く、字義もまたこれを解くに定まれることなきを。(あるいはよく祈?尊拝するをいい、あるいは神に帰依する義といえり。)さりながら、吾人は宗教という字義の当たれるは、何宗旨においても、一生活、真正にして無限威力、無限智、無限愛なる神にして、可見、不可見の万物を創造し、匠料し、保存するものを土台とするものなりというべし。
(278)  (在ロンドンの無垢称は不問不説ですますつもりなりしが、あまりに三十二菩薩のするところもどかしきゆえ、また議論じゃ。ここにいうごとくなれば、仏教は作者の眼より宗教でなきなり。我輩仏教が外教徒の目に宗教と見えぬとてちょっともかまいなし。たとえば植物学者の一派が自分の口弁にまかせて、植物は炭酸を吸いて酸素を吐くものじゃというて、菌芝(キノコ)は炭酸を吐いて酸素を吸うゆえ植物じゃないというごとし。たれか松?《まつたけ》、シメジ、椎茸、キクラゲを動物なりといわんや。「誰か黄葉は黄金なりといわんや」。仏教は西洋人に宗教と見えずとも、仏教徒には西洋人がその宗教とするところのものを見るごとく見られ、奉ずるごとく奉ぜられおるなり。されば、欧人の定義には宗教にあらずして、仏徒の定義には宗教なり。また耶蘇の教えのごときは仏徒の定義より言わば左道巫祝の道のようなことなり。)(仏教は、最初は宗教にあちぎりしという。これは最初より寺を建てなんだとでもいうことか。最初宗教でなくとも、後人が前人を継述して宗教となしたらんには至ってよきことなり。)
 また宗教の定義には、すべからく人魂人霊の不滅、未来の真存、不見世界の真存を土台とすべし。その上に、人は生まれながらにして箇体神に依る。すなわち神を尊び神を愛するの感覚の、神の正見、至貴、至智、大力、厚愛を信ずるより生じ、みずから神に比してはなはだ弱きを深く省み、罪業の人に存し、人を苦しめ人を罰するを知りて、これを脱せんとするより、右の感覚ますます大になるものあるを認めざるべからず。
  (維摩居士いわく、これは米を炊《かし》いだものでなければ飯にあらずとかいう定義じゃ。しかるときは、他の人はまた麦を炊いだものでなければ飯にあらずというべし。麪包《パン》は飯にあらず、飯は麪包にあらずというはもっともなり。しかるに今、日本人の食うものは麪包にあらざるゆえ、食事なきものといわば可ならんか。いかにもユダヤ、回々、耶蘇、またインド諸教、拝火徒も、右の定義のごとき神を土台とし、これを土台とせぬは、今日は仏教と裸身外道ばかりなり。されば、多数でかかること推し通すべきか。これは日本の飯も西洋のパンも穀類(279)より作る、よって穀類より作りしものを食わぬは本当の食事じゃないというがごとし。しかし、芋やソテツの根の粉、またタピオカ(薑《はじかみ》のようなもの)、椰子類等より、穀類より取ると同様の成分をとって食事するものは世界に多し。その輩より見れば、穀類食うものが間違うておるように見える。)(人間に生まれながら神の念あるというは、今日の科学者また哲学者のうち、時世に阿附《あふ》せぬものはみなこれを非とす。すなわち神念もまた経験より出ずるものなり。)
 さて、如上の定説を基として四件事を加えざるべからず。(一)宗教は創化主の天性と、創化主がその創始して作れる人に賦与せるものを見証すべし。(二)人自己を見証すべし。すなわち人目己の天性と歴史を知りて人は如何《いかん》ということを明らめ、また何故に人は作られしか、何の方に行かんと傾くか、人は当今上等地より堕落中にありや、下等地より高登中なるかを知るべし。(三)宗教は無限際の創世主と有限際被造者(人)の交通しうべき方則を見出だし、これによりて創世主に達し近づき、これと連結し、自分の罪行の結果より助け出さるることを求むべし。(四)かかる宗教というべき組織は、人の天性を改補し、考思、慾望、情慾、感情を司配し、悪心を服し、人自分の天性を変じて神と同似のものとすべし。かくのごときものを宗教なりとせば、当初の仏教は真の宗教にあらず。この四者を満たすこと能わざりしなり。当初の仏教は、箇神の存在を容れず。また人の上等、大力に依るをも容れず。人に不限時の自心なるを疑い、身外より不天然(神変)の現示あるを見ず。其の僧徒なく其の祈者なく、真の崇拝なし。罪ということの真の観念なく、赦を真に願わず。また救世主の助力にて人目分の罪果を助けらるを力めず。なおかつ自力の外何物の力を仮りて自分の罪を脱することをもせざりし。
  (維摩言う、(一)より(四)までのことは仏教にも十分あり。ただ神を奉ずると奉ぜぬとの異ばかりなり。また自力云云といえど、この目力にて釈尊の教えにしたがい、信をおけば、別に救世主など出でずとも、自力が救世主の他力より千倍の力となるなれば何のことなし。仏性《ぶつしよう》という語などあれば、人々人より高き性を具すとすら信ずるな(280)り。人いつまでも人の性を具せず、人より高き性をとりうると信ずるなり。不天然の神変など奉ぜぬは至極結構なことなり。)
 前のカルコッタの僧正、予に語りていわく、あるとき寺域外仏教流行の地に信心らしき仏教徒一人を見て、これに問いていわく、汝は何を欲して誦経するか。答えていわく、欲するところなくて然《しか》す。また問いていわく、誰に誦経するか(原語の意は祈願なり)。答えていわく、誰にもせずして誦経す、と。ここにおいて僧正驚いていわく、何じゃ、何をあてにもせずに誰にするとなしに誦経するか、と(原語は祈願)。けだしこの古語は真の仏徒のデモ祈願(祈願らしきもの)に合えりというべし。実にこの人は右のごとくなりしなり。すなわち一種の式の語を連ね誦して、野には種を蒔いて穫を望むごとき功徳あるものと思えるなり。この人キリスト教の意味通りの祈願せるにはなし。
  (実に然り。仏者はキリスト教徒のするごとき一豚蹄、酒一壺で甌窶満篝《おうろうまんこう》、?邪満車《おやまんしや》、御子孫も繁昌、壱岐の松のいきのびるほど煩悩を増すごときことを祈るものにあらず。その誦経は誰をあてにせず、何ごとをも望まずとも、自分善をなすのたしなみ、履やハンケチのことのみ心配するものにまされり。)
 さて、予の反対者は、予に汝は自分前章にいえるごとく、仏者も後には当初の所信に反するまでも生長に伴いて改良したれば、ここにいえる誦経者のごときは、当初の仏教に属するものなるのみ、と問わんか。然り、仏法僧を敬するの語は必要に従いて出で来たれり。しかしてついには諸仏および諸菩薩を神として祈るに至れり。予は仏教を判断するには、これを全体に丸めてすべしと存ず。その後世に至り発達して無神、不知神の説が漸次有神多神の説となりしを十分考察すべし。吾人はすべからく仏教は諸国に弘まるに及び、実に有神の組織のものとなり、不正ながらも多少は耶蘇教と同一の点あるに及べりというを知るべし。
  (この文にて、はやこの作者の論の公平ならざるを知るべし。何となれば、これ黒を取り白を駁するものなればなり。)
(281) しかれどもすべてかくのごときことをまけてやり、仏教を贔屓《ひいき》して言ったところが、仏教と真の教えの間に大隔たりの地あるを見る。今日教化十分にしてみずからキリスト教と称する人民に、ややもすれば喜んで仏訓を享けんとするものあるは珍事なり。これその仏を悦ぶの輩が仏教の一切黒闇の諸点、一切の瑣車、一切の無意の贅語《ぜいご》を隠して、その道義例典よりよきことばかり(原文、光輝ある宝玉ばかり)を出してその美を誇り示すに惑わされて、このよきことばかりもまた、悪しきことをかざりたるまでにて、実はその教典中の著しき一切の訓と戒とはキリスト教徒たるもの、決してこれを誦して唇を汚す能わざるものなるを知らざるに出ず。(いわゆる瑣少無用のことは、たとえば律中の云云とあるごとし。)(熊楠いわく、全文は長きゆえ略。すなわち比丘衆が鉢を壁にかけ、床または柯上におき、風吹くところにおき、手に持ちながら戸を開きなどを戒められ、また楊枝の長短に過ぎて戒められしなどのこと。)
  (ここの原文は、施耐庵、東坡の文なり。さてちょっというは、何とぞ瑣事の例を長々しく律の文を引いて看官を倦《う》まさんよりは、一切黒闇の諸点を名目だけにても示されたきことなり。いかにも時勢人情かわれば、右のごときは瑣事無用の長語というべし。されど、われらより見れば、『旧約・新約全書』にも、羊をどこまでつれて行けとか、パンをどうこうしたとか、また悪魔を耶蘇が豕《ぶた》の頭へ追い込んだなどいう、ずいぶん欧人には短簡かもしれぬが、われらより見れば瑣末の長話らしきことはあるなり。)
 また『聖書』中の話は、キリスト前五世紀に仏教が世に初めて導き入れたるを基とすること多しと確言する人さえありたり(ドイツ人セイデル)。これのみならず仏教を賛する輩は、仏は道徳の真義のみか諸種の高尚なる真義を教えたりとて、キリスト教の仏にまさりて世界の宗教となるべきを暗知しながらこれを隠して、仏教をアジアの光と称して、もって正を得たりとするもあるなり。(エドウィンをいう。しかし、名はささずにあり。)
  (『聖書』中の話は、仏に先をかけられたりとは気の毒なり。されど詮方もなく、また学問上の研究は『聖書』の大洪水のはなしすらバビロンに先をかけられたりとのことなれば、キリスト教にはあまり珍しからぬ剽窃なるべ(282)し。インド学知れぬころは欧州の人ピタゴラスがインドへ往きてインド哲学の基となったなどいうて誇れり。)
 今|瞿曇《くどん》は真にアジアの光といわれて可なるかを問い正さんとす。第一に、かかることいい出せる連中は、仏教はただ東部アジアに弘まりしものにて、孔子教、ゾロアストル教、回々教もまたアジアの教と呼んで可なり、というを忘れたり。
  (好笑、しかるときは欧州の無神論はヨーロッパの光、またアメリカの諸州に弘まれるモルモン宗は米国の光か。アジアの大風呂敷とでもいうたら、右の評は当たれり。光とは場面をいうにあらずして、輝の純にして明なるをいうなり。かつそれ欧州も今ユダヤ教、回々数ある上に、北部には喇嘛《ラマ》教あり。もし拝火教、孔教がアジアの光なれば、ユダヤ教、回々教また仏教は欧州の光なり。)
 しかして、実に地上何の地方の光として仏教を呼んで正しきか。仏教の主意は智力を照輝するにあることはたしかなり。すなわち第一に、心の光輝を広大なる自心内凝集および自心内反省の広大なる抽象(アブストラクト)の思観より出ずるものと、自分の推理力と直覚力の修煉とを合せるに求むるなり。しかして、仏より射出せる智識は何性のものなりしや。みずからその全く弱なるを知れるか。その心の不徳を知れるか。果たして罪の深を知れるか。否、仏光はこの諸処を照らさず全く黒闇なりき。その自白にもこれら大要件には全く不知なりと示せり。罪の最根源(第一罪行)は、仏に取りては不可解的の秘事なりき。さてまた仏光は箇体神の善、正、聖、全能を知れるにあるか。神は人の父たるを知れるか。否、仏光はここにおいてもただ闇《くら》かりし外なし。すなわちこれら諸点をも全く知らずとあきらめ、自身より高きものを知らざりき。しからばすなわち、仏に就いてあらわれたる光は何ごとぞ。これを書にし、これをはやせるその光とは何ごとぞ。仏のみずから見出だせるというところは、ただ受苦の原と受苦の救いなりしのみ。仏が達得せる一切の智識光明とは次のごときに過ぎず。いわく、願望に湎溺して苦を受け、特に生の長きを願望して然り、この苦は生と離すべからず。諸生物は一切苦しむ。願望を抑圧して箇人の存在を消して、もって受苦を脱すべ(283)し、と。ここにおいては初めて一大反対を見る。仏はここに来たりわが徒となれというて受苦を脱せしめんとし、願望を除去して苦を脱せよ、と話せり。耶蘇は、来たれ、われに随伴せよとて、受苦を命ぜり。耶蘇は人に向かい手その苦を栄とせしめ、苦によりて諸性を完成するを望ましめたり。
  (この一段は熊楠も同意。しかしながら、仏説もまた今日種子を蒔いて今夕食を望むことを教えたるにあらざるは正覚成道して直《じき》に涅槃に入らざりしにて知るべし。苦を脱するために願望を抑うること容易ならんや。耶蘇あにまた好んで苦を取るものならんや。必竟は二人の二句を、一は悪く一はよく解釈せること、継母の二子を扱うごとき作者の心底。)
 二教共に諸被造物(動物のこと)の苦、痛、悩中に煩い呻くを証言せるは著しくたしかなり。しかれども二教の教化に大にして活なる別あるを見るべし。一は苦を忍んで苦体の栄を望み、一は苦に忍ぶことなくして苦体の全滅を教えたり。われらの『聖書』は何を言うか。わがキリストの徒はキリスト一体の部分なり。すなわち彼の肉と骨たるなり。かつて体に苦を受けたる神体の部分なり。十字架に殉ぜし体の一部分なり。しかして、今は光栄、常生、常与する体の部分なり。これをもって、吾人に教うるに、人体を愛し、人体を敬し、しかのみならず人体を神視すべきまでをももってせり。
  (予をもってこの文に擬せしむれば、一は苦を忍んで苦体に愛着して無上の栄とするを教え、一は苦を忍びながらも苦を脱して、ついに苦体を滅するを願えり。われらの経説は何を言うか。わが仏徒は仏界の諸員なり。すなわち仏と並坐するの諸仏なり。楽を共にするの諸仏なり。かつて十全王位を道のために脱せる人の接伴なり。虎口に、魔口に殉ぜし人間の伴侶たり。しかして、今は常楽、常安、常愛する仏の同等なり。これをもって吾人に教うるに、仏性を愛し仏性を敬し仏性を恭敬すべきをもってせり。)
 しかるに、仏徒は然らずして体の諸部を蔑視し、仏体の一部分たるを不可成の閑話とす。灰に帰し粉となり、箇身(284)滅してまた共に消えたる仏体の一部、仏徒いかにしてよくならんや。
  (磔《たく》せられ、土に埋められ、蚯蚓《みみず》に食われ、腐化敗壊せる体も同じこと。また七日後に天へ上ったといえば、影のようなもの、いかにして人体をもって影の部分とならんや。)
 かくいわば、仏を賛するもの、あるいは言わん。とにかく汝は、仏が罪を避け、清浄、聖の生を望むべきを教えたりとは認むべし、といわんか。仏は神意に逆らうを罪とするを知らず。真聖は何ごとたるを知らざりしなり。ただ仏のいうところは悪事の不功徳なるを脱し、善行してもって功徳を積めといえるのみ。
 (仏は自分の意に合わぬものを全市焼殺し、自分の意に合えるものに娘を妻とするを許せしようなものの、意に逆らうを罪とせず。否かかる意を自在に行なわんとするを罪とし、かかる意に迎合するを力《つと》むるを罪とす。真聖とはどんなことか知らぬが、仏は無上の真聖なることを知れり。悪事を止めて善を行なう、この外何の望むべきことかある。)
 今余をしてその功徳を積むこと銀行に金を資積するごとくする決心は何たるやをいわしめよ。すなわちキリスト教神力にあらざれば抜き去ること能わざる人生の傾向、人情に耐うる能わずして深浸せるものの一なり。これ人心に存して絶えざること、西において東において南北において常に見るところにして、常に到るところ人性に伏せる諸善本性を常に害すること、草艾の麦中にあるがごとく、果皮に黴菌あるがごとくなりというを再証しつつあるなり。
  (かくのごとくなれば、キリスト教徒、不断草艾たり黴菌たるものを去るを力むべきに、神力今に見えざれば、これを去ることは神力もいまだその証を顕せず。なにか易にてもたしかに見たるにや。)
 数日前、パンジャブのシック一人智あるものにあって、シック教のことを問えり。答えていわく、われは一神を信じ、ジャプジーなる諸?詞を毎朝夕となう。また偶像を拝せず。ジャブジーは六枚ずりなるが、十分時多少にてこれを通誦すとてこの速やかなる誦経を大功徳とてほこれる気色なりき。予問う。汝の宗旨はその他何を要するか。答え、(285)アムリッツァルまで一回巡礼せり。八十五階を歩して達すべし。一階上りて太《いと》速やかにジャプジーをとなえ、下りてし、二階に上りて一誦し、下りて浴す。かくのごとく八十五階八十五上下して八十五誦文八十五浴水せしに、午後五時より次の夜の七時まで断食して、十四時間ちょうどかかれり。予問う、これをなして汝は何を望めるか。答え、予は多大功徳を積みて永時予に伴うものと望む。これインドの真想なり。梵、新梵(ヒンズーイズム)、拝火、儒、回回の徒の真の元素なり。それよりも多く仏教の元素なり。何となれば、仏教は善事で功徳を積むを最もいい、過去現在生中に積める悪事大力を少減するはこの外になし、とするなり。また仏は、罪を脱し、過ぎたる悪を洗い去る、と言いしことなし。またかつて罪の報、力、存を免るるものあり、といいしことなし。人の腐身の癩を医せしことなく(魔術や説法で癩病がなおるか)、死せんとする罪人を活かせることなし。(注にいわく、『普曜経』には、仏を耶蘇が救世主とするものに同じきもののように記せり、云々。しかれども、いかに善にして大なる人なりとも、(仏)自分の行、徳のみにて苦痛を脱し、その脱するというは諸箇々存在を滅するにありというものが、救世主といわるる格あらんや。キリストの救世主たる格は、自分の十全の功徳を不十全の諸人に移して死より不滅生に導き、生の全滅に導かざりLにあるなり。)これに反し、仏はその輪廻の教をもって人の手足を縛して、各自の悪行の必然の結果に維《つな》ぎつけたり。いわく、汝は汝自分の作りたる苛責の奴たり、汝が過去になしたる、また今なしおる行、言、念は常住、汝自分を罰す、と。詩にいわく、汝の諸行は善悪に随いて汝を導き、影となりて汝につきそう、と。またいわく、汝、物を殺し物を盗し、偽言、不浄、飲酒せしならば、次の生にその報あり。一の地獄に苦しむか、野獣に生を受くるか、不潔の動物、可厭の蛆虫、あるいは魔、あるいは餓鬼となるべし。然り、汝の行くべき方は定まれり。噫《ああ》、人衆、天にあらず、海中なちず、自業の力を遁れんに山洞岩罅なりとて、あにかくれ得んや。ただ汝、汝みずから解脱を望むべし。神も人も汝を助くることならず。われもさる力はなきぞ、と。
  (実に然り。未来どころか、今生にも蛆となり魔となるものあり。)
(286) さてまたキリストの第一説法の短語少しをのせて、これに対すべし。いわく、神の霊はわが上にあり、何となれば神は貧人にわが教示するを欲して、われを油点せり。神はわれを囚人のために自由を求め、盲者に眼を復し、縛られたる牢人の、牢を聞かんために送れり。
  (仏のところには故《ことさ》らに長いものを引き、キリストのところにはどんな意味にもとれるような短句を引いたは不偏頗じゃ。しかし、短句ながらも誤解しやすき句じゃ。もちっとましなものはないか。貧人にのみ教示するとは分からぬ。また精神の貧しきものという意ならば、精神富んだものはどうするか、ほっちらかすか。囚人たるもの、むやみに自由を得れば、世間がこまりじゃ。盲者が眼開いて父兄の前に「これは、これは、初めてお目にかかります」というは落し話のようなこと、また盗賊の牢開くなどは博徒などのすることなり。何故、無実で牢舎、眼のあきそうで悩みおるもの、と言わざりしか。もしまた、よい医師を紹介したとか、良薬やって目明いたとか、保釈金払って牢を出したとか、貧人に職業を与えたとかいうことならば、われらも多少やったこと、少しも神力にあらず。)
 然り、前世の輪廻の羇を出だし、先週の牢を出だし、過去を全《まる》けしにし、吾人に仇せる手書を丸消しにし、各罪汚点を洗滌し去り、各人に新路を開いて新たにやり始めしめ、自由に赦されて罪人をすくい、過人《とがにん》をすくい、ことに極悪人をもすくうはキリストの外になし。
  (過ぎたこと丸消し帳とはありがたいが、そうすると悪いことばかりして丸消しを冀《ねが》い、消してはまた冀うか。キリストは足利義政じゃ。徳政をしばしば行なうと見え、今も耶蘇徒ことに旧教輩がおまんこした数まで述べて、四ドル五ドルと奉賀するはこんなことから始まった。)(これは一週間ごとにすることゆえ、いわば賄賂を月に四回払うようなこと。)
 これてもなお、われは、ある仏を好む輩、言うをきく。いわく、この反対を看破せる力は実に強し。しかしながら、(287)仏律に耶蘇経典と符合せる美訓あるを知るべし。すなわち、人々世を愛せずして金を惜しまず、敵を悪《にく》、不正を行なわず、不浄せず、善もって悪に勝ち、おのれ欲するところを人に施せ、という美訓なり。
  (この作者、実に名文家なり。問者の境界をますます狭くして、答うるものの力を増す。『水滸伝』の一賊と戦うごとに梁山泊が一賊を増すの法なり。)
 然り、予はこれを認む。のみならず、予はこれより多くをゆるす。何となれば、キリスト教はただ節制、加減よさを用うるところに、仏教は全廃をすすめたり。ただし、二教の大異は教文の如何《いかん》に関すること少なく、実行の力如何にありというのみ。
  (実行の力とは、いかなることの実行にや。今日の耶蘇徒、果たして仏徒よりもよく経文通りに実行するか。それ迦文の教を称するものは、なおせめては節制ぐらいのことは行なえり。耶蘇徒は戸外に節制を示し、内実その言をすら誦せざるにあらずや。また一人の実行力は一国として大いにあらわる。エジプトを従え、インドを圧し、南洋無数の土人を殺戮絶滅せしむ。おのれは塩を食うて、かれに塩税を重くし、藁《わら》を海水にひたし持ち帰りて食を調えせしめ、このありがたき教に化せずとして数十人を大砲で爆死して得色あるは、実によく、われは嫉神なりの言句を実行せりというべし。ただしスペンセルの語によれば、英国では『聖書』中の、人わが一頬を打たばさらに他頬を打つに任せ、とある句を除いて軍人に読ましむるとか。されば、分けの分からぬことを実行して、実用の訓誨はキリストの語も用捨すると見ゆ。)
 仏経にいわく、汝みずから勉めて正しくなせ、諸苦、諸箇身立、諸生命の汝にあるものを去らんとしてつとめよ、と。キリストいわく、上天が汝に栽《う》えたる力によりて、正しく自由に汝に賦与し、常に汝に住する生力をもって正しくせよ、と。仏その徒に告げていわく、われにとるなかれ、みずから任ぜよ、と。キリストいわく、一切われに取れ、みずから任ずべからず、われは汝に常住の生、天の食、生命の水をあたうる、と。これらの無価の贈(288)餽《ぞうき》は、不動にあらずして活勢力をもって人心を激発し、貴行、自克のことをなさしめ、かかるありがたき宝をうけて、然るべき猛者たらざるべからしむるなり。
  (これは、これ火をもって火を広ぐるの法なり。火を止むるの素質なきものを如何《いかん》せん。)
 小生は右のごとく書きかけたが、植物など室内に取り散らし塵かかりてほまた損するゆえ止むる。書物はこの状と共に送れば末段その六より読みたまえ。作者は実に耶蘇の護法せるなり。すなわち仏教経典中の屑を持ち来たりて耶蘇教のよきところとくらべたるなり。しかして、日本の僧連これに一評入れしものもなきは如何なることにや。実に注意悪しきことと申すべし。
 
(289)          9
 
 貴翰一通および高野山境内の絵拝承仕り候。小生は、去る二十八日間屏居していろいろ学びたるをもって、一歩も外へ出でず。二、三日中にちょっとブリチッシュ館へ行き申し候。さて、別紙は前日貴問に対しての答えなり。そのうち、教理無碍(釈迦などのごとき迂遠なものにあらず。今後、金粟王が説くべき)として、功利を教相に符一円融せしむるの法案は、右のうちにつまびらかなり。すなわち寄生植物が子孫を盛んにするの機会少なく、また、本分の色彩光華を失うと、居候《いそうろう》が子孫盛えずしていろいろ心配もかかり、本分の人間らしき行いもなしえざるとは、耶蘇教ごとき譬喩〔二字傍点〕にあらずして、実に一の大則が二つの事実によりてあらわれたるものなり。(もしこれをも譬喩といわば、今日のカント以下の唯物・唯心両派の哲学、すなわち万則を統合するという学理は虚妄とならん。スペンセルが、一法則として万物に一張一弛は免れず、すなわち光線音線が上下し、一国の盛衰し、一人の筋骨弛緊するにて知るべし、といえるごときは、一の大則が幾多の事実となりて行なわるるを総合して証せるにて、決して譬喩にあらず。)さてこの大則は何かというに、一因あらば必ず一果あるの理なり。因果説ぐらいは釈迦の外にありしは、予もまたこれを知る。しかしながら、耶蘇教というものは、神意すなわち一に神の機嫌を主とし、また、ゾロアストル教、梵教のごときは、なにとも定めず、ただ雨の神とか風の神とかいうて、女郎屋はちんぼが御客なればとちんぼを崇拝するほどのことなれば、決して因果をもって道徳を製せる(すなわち、道徳は因果を慎むに生成す)釈迦の教えごときものにあらず。もっとも釈迦は時代もちがえば、これほど深いことは知らなんだかもしれず。されど毎度申すとおり、物界の進化ははなはだ目立つものにて、事物についてあらわるるゆえ、いやテレフォンが出たとか、蓄音器が出たとかいうこともあるなり。
(290) しかし人間にこれほどの発明あるは、さして珍しきことにあらず。数千百年間、これがために一生創設せる先哲の経験が、それぞれ一歩一歩をすすめて、今に至り効を現わせるなり。第一に、言語、文字、絵図の発明ありしは、千倍もそれよりは妙なことなり。しかして事物の開化は、人間がその場でぱっと一《ひと》功名し、また獲るところの物体上の利、すなわち食わしてもらうとかなんとかいうことも多ければ、かように進み早きならん。心界の徳義、高美、玄微などいうことの発達は、ずいぶんおそきものなり。いな、おそからざるにあらず。さして古えも今も変わらぬなり。
 されば釈迦が因果のことをもって道義上に用いしは、まぐれあたりとはいいがたし。何となれば、たとい当時理学など一向薄かりしにもせよ、かかる大則は、物理学ぐらいを学ばずとも知れきったことにて、ギリシア・ローマの開化にも多少はあるなり。ただヘブリウの教義一たび浸入して、いろいろの行き違いより、これを奉ずるもの、一向狂人ごときものばかり(小生は、耶蘇教の始めは仏教と大いにかわり、釈迦ごとき円満具足の教主、また弟子もおとなしき人のみなりしに引きかえ、高利貸の店を打ち破りしなどのことを考うるに、なにか今のシケタイ組、清水帯弘の徒のごときものと考う。これは英人ラング氏もいうことなり。前書申し上げしハンボルト・ライブラリー中、『来生問題』というやつ、末篇に、耶蘇のばけを剥いでその生伝をのべたところあり。著者は耶蘇信者なり。さればその言はよほどおまけはあるに相違なし。しかれどもこの人は科学者なるゆえ、その説おまけありとしてよんでも、中に耶蘇のことを察するに当たり得たる便利あるなり。仁者《にんじや》、かの書を買いよみたまえ)にて、以来もその徒が事をなすに、ややもすれば軽く生命を捨てて進む。
 真正教の快復と称して、クエーカル輩が、米国にて残虐を受くる地と聞かば、男女数百ともに相率いて枚されに行きしなど、全く狂人の沙汰なり。(予はあまりに死を軽んずる教えは真の教えにあらずと思う。現に martyr と申す語あり。カソリックには、信徒中殺されしもの、すなわちセント・アグニスなど申して、女で耶蘇教をときまわりたる刑として、町にさらされ、数百人に一番ずつ犯されたるものなどを始めとし、近くは長崎で焼死されたる人々などを(291)尊ぶことなり。しかして新教にも、やはりこれを敬するの念は失せぬなり。マータールは以身殉教とでも訳すべきか。かかる一宗の語にて、宗教のためにみずから殺すという語、仏教に一向見えず。耶蘇教が神をおがむに、zeal とか ardor とかいうて、よきこととす。すなわちなにか狂人じみるほど熱心という意なり。passionate zeal などいうは、情をもってのという意なれば、宗教に情を用うるとは、ちとおかしきことなり。とにかく、仏教とは大いに成立を殊にし、ややわが国中古の一向、法華ともいうべきありさまなり。小生は、仏徒がかかる乱暴なことをし、耶蘇教に多く見ゆるごとき、神の名の下に?《なんじ》ら異教徒を絶滅討勦すなどいうことは、一向承らず。このところ、もっとも注意を要す。かかる宗旨ゆえ、欧米人の乱暴、麁躁にて、下等人などが少しく毛色のかわりしものを見れば、これを辱しむるをもって天意に合うと心得おるごときも、怪しむに足らざるなり。しかしてわが仏徒たるものは、何とぞこの乱暴、麁躁の沈重、威容、謙遜、退忍に及ばざることを、口これを言わずに、百千年を期して彼らに教えたきことなり。)
 その狂人風の勢に、衰えかかりしローマ帝王は、やってのけられ、せっかくギリシアより伝えし多少の因果を説きしものは、ことごとく虐殺しおわられ、おりからコンスタンチン帝、下等士官より入りて帝王となり、もとより無学なりしゆえ、かつは旧人気を圧倒せんがために、耶蘇教をもって国教とし、以後つとめて因果を説くものを誅戮せるなり。このとき、セルシウスが一書を著わして、全盛に向かわんとする耶蘇教を駁せし文中に、ギリシア・ローマの教理は、一として事物について理を求めざるはなし。事物について理を求むるの外に、情義に合一するの方なければなり。?《なんじ》天主徒は、一として理を求めて人情に合するをつとめず、一にもすなわち天主、二にもすなわち天主、と。小生の外祖母は、浄土宗のくせに、唯心講とかいうものに入り、一向を奉ずること厚かりしが、屁をへっても南無阿弥陀、またおかしきは、よめの悪口をいいながら、絶えず、文句の切れる間に阿弥陀阿弥陀というなり。何をしても阿弥陀といえば罪を免るると思うのみならず、晩年には、阿弥陀の意を奉じて、万事|我《が》をふるまうというように見えたり。耶蘇教はこんなことなりしなり。故にわが仏が一々人情に合しておとなしく説ききかせたるとは、大いにたが(292)えり。
 そのいうところとては、天の門は正に開かれたりとかなんとか形容(譬喩というほどには至らず)の法螺的大言にて、一々感働(庸人の)を刺激することをつとめたるがごとし。大いに仏がしずかに譬喩をときしに異なり。しかして洋人のうち耶蘇を弁護するものは、ややもすればこの狂暴沙汰をば神の子の神の子たる威風なりとかいうことで、現に四年ほど前に、小生の友人が持てるなんとかいう学校にも生徒一同天啓示を得たりと、宋の真宗在世ならば、年号を大中祥符と改むべきほどの大法螺にて、熱心(狂風)に道行く人の袖をとどめて広告紙(何をかきしか知らず)の配布し、疑わしきことあらば御宅まで行きて説かんなどといえりとか。青山辺にある学校なり。感働の強き(すなわち事物を考うるの理想乏しき)人には、かかることもあるものなり。欧州に中古ダンシング・マニアとて、小児が数百人つれ、手をひっぱりて村より村へ踊りありき、死ぬまで踊り、さてその他の村々の小児もまたこれに伝染して加わり、官命して止むれどもきかず、多く死せしことあり。
 蟻の塚を小生南米にて掘り、蟻多く出で来たる所に猛汞をふりかけると、一同に大さわぎをして、小生を?《か》まんとせし蟻がたちまち歩を止め、同士打ちを始め、図のごとくかみ合うて死ぬるなり。少し殺生なことなれども、仁者帰国の上一つやって見たまえ。これは実に妙なことなり。何となれば、猛汞は別にこれというほどの臭気あるにあらず(人間には)。また毒物なれども、この外にこれよりひどき毒物は多くあることなり。しかるにこの品にかぎり、蟻が狂気して(狂気というよりは幽鬱して)、躁ぐことを止め、今はこれまでなりと覚悟せるごとくに同士打ちを始むるは、実に奇なことなり。(このことは、小生『大英類典』で久しくよみおぼえたるを、南米の蟻多き地にて行なえり。)されば、人間には分からぬが、いろいろの事情範囲には、人間をして宗教をわけ分からずに奉信して乱躁し、是非にかまわざらしむるようなこともあるなるべし。すなわち右の蟻が猛  求にふれて同士討ちを始むるごときことと存じ候。
(293) さてこの狂風の耶蘇教教相は今に改まらず。改まらぬゆえ欧米人もあいて来たれるなり。ことに寺では因果ということを大駁撃し、黌《こう》では因果ということを大奨励するをもって、人間の智識を防遮して迷わしむること、単に漢字の学びがたきほどのことにあらず。現に帆足鵬卿がいえるごとく、欧米人にこんなものがまあ人間にもあるかと思うほどの馬鹿なものはなはだ多し。なにか洋語をしゃべる故えらいように聞こえ、当地の日本人などは、一にも二にも平服しておるが、洋人が洋語を正しくしゃべるとて、何のことかあらん。現にわれわれが「こそ、けれ」「をぞ、ぬる」「をや、いうらん」より、「だから、したんだ」「こんどこそは、しようと思うて」「だって、もー」など、少しもまちがえずにしゃべるは、洋人が少しもまねできぬにあらずや。されば実は今日の欧米の寺、学校にて教うるところは、実に要事でもなきことなるなり。故に予は何分にも因果をば学理と教理を通じて教えんことを望む。(小生昨夜眠らず。故にこの文に足らぬところあり。それは別状で見合わせ判断を乞う。)
 ?《なんじ》は人の言いしことを、さも自分の発明らしくいうこと上手なりと見ゆ。ハヌマンが天中の猿なりしことは、小生久しく知りおり、貴下へも話したり。当地インド博物館には、三、四十もその像あるなり。また、迦楼羅《がるら》すなわち金翅鳥《こんじちよう》が天狗ならんとのことは、兆殿司《ちようでんす》の画、また『仏像図彙』等に、観音の二十八部衆を画けるに(浅草の堂の後の板ふすまにもあり)、迦楼羅は全く日本でいう「からす」天狗(烏のごとき  背《くちばし》をもてるゆえか)に一なるを見て知るべし。また、庚申の猿はハヌマンなるべしとは、予は当地へ来しときより知りており、フランクスに問いしに、氏も然《しか》いえり。予、近日、このことを投書し、?《なんじ》の愚考も同一なりと書いてやるから、?、人の発明をわが発明のごとく事々しくふれちらすなかれ。京伝は高田与清にわが発明せしことをぬすまれて憤死せしということなり。瑜伽と禅が釈(294)迦の仏教とかわることなども、予より教えてやりしなり。しかるに、 ?、これをさも行々《ぎようぎよちう》しく書き立て、勧進元に向かいて御尊考|如何《いかん》とは厚顔ならずや。
 帝釈は?も知るごとく、雨またはそら(風なりしかもしれず)の神なり。備中かどこかに帝釈山とて雨を祈る所ありと、菊岡沾涼が『里人談』にも見えたれば、日本にも帝釈を拝して雨を乞う風はありしならん(少なくとも徳川の中世宝暦ころまでは)。さて、これはインド人(首陀《しゆだ》を除く)が西北の高原におりしとき、すなわちペルシア人といまだ分かれざるとき、もっぱら奉ぜしものなるが、のちペルシア人と分かれ、一西一東、「桜ばなかよ、ちりぢりに」となるに及び、インドの広原は炎熱はなはだしく、冷雨を好み冷風を好み日熟をおそるるより、帝釈が大いに尊ばれて、日熱(阿修羅)は大いに忌まるるに及び、これに反し、ペルシア人(すなわち今のパーシーの先)は、高原にすむをもつて、冷風冷雨を厭い日熟を尊び、例の善悪の神の名も、アフラ(阿修羅に相当)というが善玉の方の神となりおるなり。このことは、先年、米国の『ポピュラル・サイエンス・モンスリー』(一八八七年の春の分)に、短く書きし人ありし。教授とかなんとか一向威ばった法性寺的のなき人ゆえ、その論は当時評も出でざりし。されど、よほど卓論なりと小生は覚えたり(外に一鞭つけた人あるや否は知らぬが)。
 この帝釈の外にも、例の日天、月天、風天などのやつがあり。またはなはだしきはソマ天(酒のごとき飲料の精)もあるほどにて、民神|雑糅《ざつじゆう》して適合するところを知らざりしゆえ、これらより抽象して一大梵王を生ぜしというが、今の欧人の説なり。しかしながら小生の考えには、これもまたなにか小説の亡是公烏有先生様の捏造仮空にはあらずして、一時とにかく(神武天皇的の)梵王という大王ありて、インド部類に大勢力ありし古伝を敷衍して、右のごとくいろいろの風天、水天などを圧倒するまでに大梵天王を作り出だしたるなるべし。故に小生は、梵天が梵土の人の祖先にして、梵種は神種ということは、わが国に皇神の両別が蕃別外別に対して立つごとくにて、たとい大法螺を加えたりとするも、とにかく梵王という王がありしものとは信じ、また梵種が古来、梵王の神種なりといいしは、正伝あ(295)ることと存じ候。故に欧米人がいうごとく、ただただ作り出だして自分の種を神聖にし他を圧せんがための策なりとは、ちと受け取りがたし。
 欧人、今はルーソーの『民約論』を顧みるものもなく、社会は一人の約束号令で作り得るものにあらず、けだし大勢に従うの外なし、という。しかして学問(史上の)神の部分においては、ややもすれば捏造捏造というて古伝を打ちけなすは、はなはだ奇怪なり。釈迦が大乗教経ことごとく作る能わざるは、知れきつたことなり。しかして、これを竜樹、天親、無著、提婆、世友、馬鳴輩の捏造という。今、この捏造と指《さ》さるる人をまず(実際は六、七より多く洋人は指し能わざるが)十人とみるべし。釈迦一人で作る能わざるものを、この十人にて作り得たりや。十人にてもやはり人数が足らぬこと明白なり。また、右の梵天王のことのごときも作り出だせりということなるが、梵天ほどのものを空中喚起して作り出だすは、ずいぶん大英才の人にあらずんばかなうまじ。しかして、その作りし人の名の一向伝わらざるは、奇怪なことなり。されば小生は、神武天皇風の一の主権者の伝に付して、哲学上よりいろいろの大自在力を付せしものと思う。帝釈天教の答えはまず右のごとし。なおも進んで、ウィリアムスの『梵教講義』は、八シリングばかりなれば、他日買いて呈すべし、それで?見よ。
 文殊師利のことは、予特に尊考あり。しかれども?毎々|鉤距《こうきよ》の法(この法、漢の超広漢刑せられてより、後るること千有余年、土宜これを南天の鉄塔に得て金粟王をひっかける)、すなわち鶏の価を間わんとして、まず犬羊豕の価を問うの法をもって、予の秘儀を叩き、さて教えてやれば、直ちに自分のものとして、予にさかねじにほこるをもって、これは今は言わざるなり。
 ?《なんじ》は唐以前の仏教は多く知るが、五代以後宋元明の仏教は、一向読まぬと見える。八万四千の説法ということは、広東辺の博徒などもいうことにて、支那では一つの諺語とまでなりおるなり。?、宋元の書を見よ、毎々ここに夥《おお》く出でおることなり。とにかく、今の支那の仏徒は、かかる行々しきことをいうて、釈迦の骨折りを誇張するなり。(も(296っとも多くは禅書にあり。)?は古に明にして今に盲なる大馬鹿坊主なり。
 ?、瑜伽を学ばんとならば、耶蘇教の Gnosticism を見よ。これ今はほとんど全滅せしが、書はあるなり。『大日経』ともいうべき大著述もあり。例の捏造捏造といわる、されど何しろ玄妙なものなり。五智如来の配置にはなはだ似たることもあり。いろいろの秘密法あるなり。また目今、数十万の信徒を有するスウェーデンのスウェズンポールグ氏の教え(New Churchとかいう。欧米到る処に寺あり)は、全く?らのいうような奇怪なこと、すなわち理外の理を主張す。しかして元祖スウェズンボールグの  伽よりえらきは、さすがの英雄なれば、理学を精研して、合戦のときは大敵を打ち破る器械までも成し、一同の心を圧服して後に、珈琲《コーヒー》ばかり飲んで終夜一室に鬼語し、われは上帝、ノア等と会話すとて、乗り出だしたる、とあり。すなわち「知りてこれを犯す」の本分にして、宗教を愚俗に敬うるには、この手段あるを要す。
 現に那翁《ナポレオン》が欧州の政治社会を一滌蕩せるほど、欧州の学理社会を一洗滌し去れりとて、井上円了など哲学祭とかいうてまつるカントも、スウェズンポールグと会話のとき、たちまち戸外に走り出で、今わが故郷の何処何家より出火しおる、ただし某の家にて止まり消えたりといいしを、狂人ごとき法螺かなと笑いしに、明日、使い来たりて状を報ずるところ、一々スウェズンポールグの言と符合せりとて、大いにこのことに呆れたる由を自記せり。金粟王の考には、スウェズンポールグ、金を某々の貧人に与え、ひそかに何時何分に家に火をかけ、何時何分までに消せと命ぜしことと思う。しかしながら、カントのごときすらなお彼には欺かれたるなり。?、オッカルチズムなどいいながら、スウェズンボールグ教のこと一向言わざるは、一向知らぬにや。無数のスウェーデン、ノルウェー人はこれを奉じ、また他国人も奉ずるありて、ニューヨークのアストルプレッス、すなわち右のハンボルト文庫を売る家の向えに、大きな会堂ありて説教し、またその新聞をも出すなり。
 刹那、刹帝利ぐらいのことは、金粟如来として飯を食うものが、知らぬということなし。摂末ということをききし(297)なり。『酉陽雑俎』続集巻の四、貶誤部に、「相伝えていう、一公初めて華厳《けごん》に謁す。厳、坐を命ず。しばらくありていわく、爾《なんじ》わが心いずれの処にあるかを看よ、と。一公いわく、師、白馬を馳せて寺門を過ぐ、と。また、これに問う。一公いわく、危うきかな、師、何すれぞ刹末に処《お》るや、と。華厳いわく、聡明なること果たして虚ならず、試みにまたわれを観ぜよ、と。一公やや久しくして?《ひたい》に《あせ》し、面《おもて》はなはだ赤く、礼をなしていわく、師、普賢《ふげん》の地に入れるにあらずや、と」。これは『史記』の淳于?が「意を承け色を観るを務めとなし」、魏の恵王に見《まみ》えて、王の志は駆逐にあり、王の志は音声にあり、といえるようなことなるべし。寺門、刹末とつづけたれば、刹(寺堂)のえんのはしに危坐すという意かとも思わるるなり。
 三宝荒神が三神の変化などは、パーリーの『万国史』見たものもこれを知り、また、俗間の小さき書にそのことをかきし人、明治十五年ごろにありし(宮崎とかいう人)。今ごろそんなことに?は気がつくにや。『仏像図彙』の所持物は、図のごとく、右に三鈷《さんこ》、矢、刀、左に三鈷、弓、?《ほこ》なり。この神仏道三混合の一物の古伝(『??《ほき》内伝』的の)は、『東海道名所記』に了恵大徳が述べたるにて知らる。何にしろ、帝釈に敵せしものとのことなれば、摩醯首羅《まけいしゆら》王を敷衍せるものならん。
 天狗のことは、『旧事本紀』に、素盞嗚尊、噴く気、胸臆に満ちて、化して天狗の神となる云々、ということあり。『旧事本紀』は、聖徳太子の作は失せて、後に飛騨の坊主が偽作という。されどこの偽作も古きものにて(藤原氏の盛世と記臆す。何にしろ源平などよりは前方なり)、毎度申すとおり、全くのうそはいえぬものなれば、なにか少々古伝ありしならん。従来天狗のことを論ぜるものに、あまりこのことを引かざるは奇怪なり。馬琴の『天竺雑記』にはたしか引き(298)たりと覚ゆ。
 『梵天所問決疑経』は、別状のはしに記せるごとく、三箇所に三本あるとのことなり。仁者帰国の上、一つ捜して見たまえ。慈覚大師将来ということなりとか。
 高野山の図、ありがたし。これはリードという古物学者、弘法大師の像を得たるにつき、ほしいとのことにて、小生いつも文筆上添刪を乞いなどするよりのことに候。また伺うは、小生今度大英博物館へ珠数と袈裟を寄付せんとす。しかして仁者よりもらえるやつは多小汚れ、また、小生仁者よりもらえるものは手離しすべきにあらざれば、国元へ新たに注文しおわれり。しかし、あまり高価ならんには見合わせといいおくりたり。一体袈裟、通常のものは(博物館へ日本の袈裟と記し示して別に人を欺かぬほどのもの)いくらほどよりいくらほどまであるや。また、金剛子の珠数というもの、ケンシングトン博物館にあり。小生も国元に金剛子はもちおるが、一体これは何に御座候や。天然のなにかの種子か、また彫刻せるものに候や。かつこれで作りし珠数は一貫いかほどするものに候や。これも小生注文せり。しかし得がたきものにもやと案じおり候。小生、仁者にもらいし如意を持ちてあるくと人が咎むるゆえ、右はかくしもち、建物に入りてのち出すこととせり。こいつは博物館にもあり。
 ?、なにがな人を?《きよう》して秘するところを聞き出さんとすること、はなはだよからぬ了簡なり。
 科学的教育というものは、ただ智を益するのみで、徳義上あまり功なきは、スペンセルのいえるごとく、破産欺騙の大悪人、多くは算勘の達者なやつ、またはいろいろの物を偽造する応用の巧みなるやつなるにて知るべし。スペンセルのごとき、実に偉人なるが、その教育論、ただ科学をもって智をまし実用に務めしむべしというと、しかして別に学問無用のこと多く知りて不直なるよりは、ただただ一随に正直に業をつとむるものを望むべしというと、はなはだ支離せることのようなり。その正直は何の処より来たるか、智育により生ぜざるは知るべし。されば氏の論はちょっと自家矛盾なり。
(299) これを医するには、らだ道義をも智術をも因果の一理に包蔵円融して教うるにあるなり。因果ということの実際、一張一弛のみにあらずして、やりようにれば一張さらに一張、さらに一張しうるは、僅々の年間に、人智を加えて、無数の新種の動植物を作り出だせるにて知るべし。もっとも油断すればたちまちもとへかえるなり。されど油断せぬゆえ、今にその種は伝わりおれり(耳のたれた兎、口の開いた狆《ちん》、毛の長い猫、羊を牧する犬等)。しかしてこの人智は何の処より来たるといえば、これぞ仏性にして、至極妙不可思議の一体の一部なり。現にスペ公のごときも、その持論の結句として、世界大いに進化するの日は、宗教は禍福を求厭し、神巫に婚諛することは全く止み、ただこの一大体、すなわち智育すすめばすすむほど不可思議の度の加わるものを尊敬称賛して、人心もために清浄なるの一事に止まるべし、といえり。これすなわち、わが仏教にしておることにあらずや(少なくとも真言の讃誦ごときは)。
 故に今日の西洋の大哲学者などというものは、西洋ではいかにも珍説ならんが、東洋のことに比するときは、かの『西遊記』の初めに、孫行者が九万八千里を一瞬に飛行して、?斗雲《きんとうん》の功を誇り、釈尊の掌中を出ずる能わずして、九万八千里外の大柱に、「孫行者、雲遊してここに至る」と書き、返りて大いに誇れば、釈尊、手を合わせ行者を閉じこめて、?誇れどもわが掌中を出ずる能わず、大柱と見しはわが中指に過ぎずとて、指上の題字を見せしほどのことにして、スペンセル、いやカント、ヘーゲルなどの論は、仏経中に陳皮《ちんぴ》ほどありて、何でもなきことなり。しかるを?米虫ら勉学の功足らず、青年輩の法螺におどかされおり、また、たまたまほらを吹き返さんとしても、説陳腐にして一向聞くに堪えぬじゃ。いわんや留学生とかなんとか、東洋の書は少しも見ず、諸葛孔明は今日アフリカの黒奴の軍師のようなもの、舎利弗《しやりほつ》はサルヴェーション・アーミーの親方、などと心得、ただただ東洋をば今日の蕃族ごときものと心得、たまたま学理を出すといっぱ、大石以下が首を供えしは南洋島人の食肉風習の残余とか、またはなはだしきは、チャンバレーンが、日本の神道で紙で幣を作り藁でしめを括るは、日本人は天性けちなるからだなどという珍説の出るじゃ。しかるに古学者などは、洋人やまた洋書よみかじりの者の説といえば、一向あきれてろくな言が(300)出ぬじゃ。?らもその一派の人ならん。
 兼好艶書のことは受け取れぬとか。そんなら『太平記』にあることは皆うそなるべし。兼好は当時、浄弁、頓阿、慶運と和歌の四天王と唱えられ、また、師直も有名なる歌人にて、四条畷合戦の前夜、連歌の会せしこともあるなり。国学者小中村などは、例の我田論で、艶書は師直と塩谷と駢死《へんし》して足利の勢を弱めしめるためなりとあれど、証拠なきことなり。予はただ哲学者哲学者といわるる人間が必ずしも通行の正しきものにあらずということを保証せるまでなり。現に当国のロックなどは『アンダルスタンジング』を著わして、いかに人間が論理学上手になるも、またその論理が至極当たれるも、論理の根底立たずば何ごともなしということを述べ、今にその小冊は不朽のものとなりおれり。しかるに、この人は隠遁を止めて相となり、王に危言して首をロンドン橋上にさらされ、娘が首をぬすみし話などあり。その外にも哲学者にして往々不似合いな死に様などとりしものははなはだ多く、また有名なるアプレイウスごときは、玉を欺く美少年ながら、一生女にふれずと誓いて学問周遊中、友人の母に見初められ「わちきぁも一死にますよ」との言で、止むをえずその子のすすめにまかせ右の後家を婬したるにつき、魔法をもって富家の金を詐偽して取れるとて、焼き助連より訴えられしときの答弁が今もあるなり。
 されば、とにかく哲学者の行いは、決して終始一なるものにあらず。現に今日も哲学者と人もいい、また自分もいわるるうちには、妻を離別逐い出して、娼妓を外国よりつれかえり、またそれを「細君」と題せる小説にして出せる友人もあり(この人は審美哲学者として至って名高き人)。また、大学の部長になりたくて、多年恩を受けし旧人をやりこめる哲学者もあり。はなはだしきは人の隠事をあばきて出したる哲学者もあり。またいわんやそれを出さぬようにと平伏して乞いたる哲学者もあるなり。いわんや兼好の著書中、女が月経にて引きこもりたるを問うは意気なものなりとか、または男にして色好まぬは玉の盃底なきがごとしとか、また、千本の堂にて通夜せしに、女中がしなだれかかりしゆえ、自分席を立つ、後にきけばある女房がわが心を引き見るため試みたるなりなどいうこともあり。す(301)べてわが国の仏者は、仏の理もなにもかまわずに、ただ無常無常ということを主張して文辞に出すを楽しみとしたるごとし。しかして太宰春台も論じたるごとく、淫心は悲哀に発するものなり。可憐などいう字にても知るべし。ベーン先生なども、愛慾は助け少なき、便り少なきを愍れむ心によりて厚しといえり。これは小生なども多少は経験のあることなり(もっとも女の方のことは知らず)。
 されば兼好ごときものは、艶書ぐらいのことは十分ありしかもしれず。何しろ断じてなしというよりは、小生はありしかもしれずというの穏当なるを覚ゆ。スペンセルの哲学の問答に、世界に丸のうそはなきものといえり。また、浅野内匠頭の家老たりし人の語にも、茶屋の段に、うそから出たまこと、ということあり。小生もずいぶんうそはいうが、いかな不可思議な弁才をもってするも、全無のことはいわれぬものなり。たとえば、われは逆行の人、三目の女を見たりというとせよ、行くといい、逆といい、人といい、三といい、目というは、それぞれ通常のことなるにあらずや。前年、伊藤伯が戸田伯の妻を強姦せりという噂ありし。また、女学校で矢田部が妻のえり取りをやらかせしということもありし。いずれもたしかにそんなことありしか否は知るべからず。されどその人物たる、ずいぶん二人ともかかることのありそうな人なる上、多少そんな疑事は十分ありしなり。これと等しく兼好の艶書も、そのときにはそんな似たこともありしならん。
 小生はただ重野が証拠一つなきに、兼好はそんなこと決してする男にあらずと保証するを咎むるなり。すなわち今日の漢学者で東洋哲学博士とかいうものは、多くは人の妻をぬすみ(川田のこと)、梅毒で陰茎を切断し(三島のこと)、また秦檜などをほめ立て(三島)、また南朝の名臣を大義を知らずなどという(重野)人もあるなり。これは日本のみならず、西洋とても哲学者などいうものに、聞いて驚き、見てまた驚く人は多きなり。小生はそのことをいいしなり。しかるに仁者は、なにがな予を嫉み、一本くらわせんとして一々反対するは、はなはだ小生において心得ぬことなり。?は大馬鹿坊主の親方なり。
(302) チベットのことは、そのうちフランクスに談じ込み、一切しらべ、ことによれば小生みずから.パリに行き、有名なる『西蔵《チベツト》字彙』ただ一冊あるやつを、小生の例の『三才図会』を写せるこんきにて一本写すべし。これは公使より頼めばよきことなれど、予は好まず。故にオクスフォールド辺より頼むこととせん。しかしてこの字書は写し終われば、日本へ運致すべき間、仁者においてもっとも叮嚀に保存を望む。チベットは羌《きよう》に御座候。羌という名は、小生知るところにては、晋末五胡の乱のときにもっとも著しく見えたり。(御承知の『豪求』に見えたる周処が行を改めて戦うて討死せる斉万年という強いやつは、たしかに羌種なりしと記臆す。)亀茲《きゆうじ》、于  關《うてん》等は、右のチベットよりまだ西の方、すなわち今のトルキスタンの辺なり。今もおびただしく仏蹟ありとのことなり。
 ?は大馬鹿坊主なれば、まだまだ別にいうことあるが、これは止めにする。
 ?の愚論「南北弁」は翻訳せり。予は当地の『アジアチク・クォーターリー』に出さんと、明日かけ合いに行く。文はリード(王立古物学会副長にて小生の友人)に添削させる。しかしてちょっと仁者にいいおくは、右の文のはじめのところを少し変えて、ただ客舎一人ありて云々といわずに二人ぐらいのことでかかることを出すもおかしければ)、「浅見をもってすれば、今日の欧米人のうちには、南北をもってただちに大小の異名と心得たるがごとき人多きようなり。もし果たして浅見通りならんには、一つ弁じおきたし」という序品にして可なるか。また、小乗諸部の名目を一々並べられんことを求む。もっとも、かかるむつかしき文を訳するには、トランスレーションすなわち熊を bear と訳するにあらずして paraphrase《パラフレイズ》 すなわち熊を「山中穴居する黒熊の大獣」と訳解するを要す。故に小生この上一々しらべて注を入れて出すべし。しかし、右の小乗諸部の名目をちょっと乞うなり。捜索の弁のためなり。もし当地で相談できずば、ケラス氏へ送り、米国で出さしむべし。しかし、世間は小生のままにならず。もし出してくれずとも、仁者、ぐずぐずいうなかれ。しかるときは、余は一本をダヴィズ、一本をマクス・ミュレル氏に送るべし。
 ダージリング、有名なるハンガリーの貧貴族クソマフガスが死せしところなり。この人は年に四十ポンドとかの少(303)資にて、祖先すなわち匈奴種の原地を摂せんとて、チベットに入り、瑜伽を学んで究死せるなり。?が真如のあとを見んというと同一の漠然たることなり。
 予、近年内にまた旅行するかもしれず。しかるときは、書籍などをまた人に托しおきて失わるるも本意なきことなり。(前に西インドへ行きし二年間に、小生の書籍六十冊ばかりは質に入れ失われ、また植物も多少不足、外に紛失物多し。)故にこいつは、小生旅行に出立し、同時に仁者方へ大箱に入れておくれば、小生帰国まで保存してくれ。また帰国せずに、一年立っても二年立っても、千松《せんまつ》の金山ゆきときたら、汝これを着腹して寺へのこせ。要はかかるもの一人でかくし誇ったところが益なきゆえなり。しかれども予はただ仁者を識るのみにて、仁者後はいかなる人ということを知らず。故に自分帰国すれば、また自分の企てもあるべきゆえ、右は小生帰国まであずかり置かれたく候。しかし小生のいうことゆえ、一向あてにはならぬなり。
 また汝、セイロン、インド等へ行かば、あまり朝早くおきて外出するなかれ。きっと大病を生ずるなり。また、蛇咬を気つくべし。小生も一度かまれ、血|縷《いとすじ》のごとくにして出でしことありしが、勇猛無双の余のことゆえ、植物を入れる箱にて打ち殺し、さて黒人の廬に入りて創を手当せり。熱帯のいなかを行くときは、杖をもち、なるべく大きな音をさせてありくべし。これ一大事なり。また、?セイロン、インドで行錫のとき、庭園、田畑等で、封入せるごとき、枯草、生薬の上に微細の黴《かぴ》生ぜる、あるいはさるのこしかけ、また菌類いろいろ、また小さき草等見当たらば、一、二にてもいいから送り下されたく候。ことにガヤでなにか小さき草でもええから、折りて書の下へでもはさみ、熱帯ゆえじきにかわく、それを送り下されたく候。
 喇嘛《ラマ》教は六世紀にチベットに入れり、三世紀にあらず。小生前状の六の字を三と読み違えたるならん。また、チベットというは、チベット人の語にていつごろよりか知れず。日本のヤマトというはいつごろよりかということ知れぬがごとし。しかし普通には、兄弟三人、争いを生じ、父の屍を析《さ》きておのおの去りしが、一は支那、一は蒙古、一は(304)チベットとなれりとか、また、先祖は猿猴なりしとかいうなどのことはあるなり。
 また、?、予が状を直ちに写取して、誤りて行々しく、唐朝に至り華厳、天台大いに行なわるとあれど、予の考には、華厳は六朝が大いに盛んなりしことと思う。天台のもっとも盛んなりしは陳、隋と唐の初世にして、晩唐は真言に圧倒されしように思う。何か証拠あるかといわば、『晋書』以下『五代史』まで、その方一年もかかりてよんでみよ。
 仁者、インド等の地で、路傍の枯葉、木枝等を至細に点検すれば、かくのごとく、おかしなカビはえおるなり。いろいろの色はあるなり。何しろカビはえたとはえぬとは、小児にも分かることなり。スウェーデンのフリース先生は、四町四方の林中に二千種の菌を集めたり。まことにどこにでもあるものなり。数日前、予はこの雑沓なるロンドンのハイド・パークで、犬の糞の上より一の奇菌を見出だしたり。いずれ識者の鑑定を乞うつもりなり。熱地にはことに多く、落葉、落枝等を検すれば、ほとんどカビを生ぜぬはなし。また、大きな菌も多きものなり。それゆえ見当たらば何とぞ送り下されたく候。日本へ帰りて後のことは、委細集め様を他日国元へ申し上ぐべく候。
                        南方熊楠拝
  米虫事
   土宜法竜様
  予あまり久々不沙汰ゆえ、一週間ばかり後に中井氏方へ行く。なにか用事あらば申し来たれ。シンネットの愚説、予、これを他日一シリング六ペンスで買えり(古本)。汝に贈らんと思いおりしが、今回の状にて、もはや受けたりとのことゆえ贈らず。この外書籍安値のものはなはだ多し。
                        明治二十七年三月十九日記
(305)  チベットへ大乗の入りしは、チベット王が明帝と同風に使節をつかわしてインドより学びとりたることなり。しかしてこれを助けし二妃は、観音とか普賢とかの化身なりとておがまるることなり。別に無畏、分智、不空が伝えしにあらず、それよりは少し前なり。時代を考うるに、ちょうど支那の晋の八王の乱ごろのことならん。故にそのこと、一向、支那の史には見えぬなり。
 
(306)          10
 
 明治三十三年八月十六日
                      南方熊楠拝
 拝啓。客月二十六日付御返書は正にありがたく拝受致し候。小生は日々例の真っ黒になり海藻など集めおり他行多く、したがいて返事差し上ぐる儀大いに後れ申し候。尊師御病気にて転地遊ばされ候由、これまた返事延引の一原因にて、小生は先年御依頼後、かの不思議会のことは時々調査、また西洋に現行の真言儀軌のことも片はしを窺い申し候ところ、ずいぶんわが真言教はやり方によりては有望と確信致しおり候。ただし東西ともいわゆる事の弊は多きものにて、いろいろとわが国向来の真言師の鑑して戒むべきこともまた多大と存じ候。この辺のこと少なくとも尊師の手許に物の残り存じ候様、一々出所を挙げて列記致すべしと、前述植物学の余暇かかりおり候えども、なかなかこれらに関する小生の筆記抜萃のみにても浩瀚にて、規則整正、順序不乱に仕上げんことは容易に無之《これなく》候えども、すでに尊師と値遇の縁ありてせっかく筆記だけは致し置けるものなれば、これを尊師の眼に触れしめざるもいかにも残念に候ところへ、小生はなかなか小むつかしき男にて何ごともちょっとちょっとと私見が這入《はい》り候。この私見たる、実に小生|一己《いつこ》の僻論かは存ぜず候えども、そのちょっとちょっとと、たとえば当座なりとも感発するところに、なかなか妙味のあるものに御座候。(実際は博覧強識いろいろの故事を引き出し、他人の言をいかに賢哲のことなればとて列記するのみなるは力の入らぬものにて、つまらぬことなりとも一箇の了見が真の論説に候。)よって何とも詮方なき鶏肋《けいろく》なれば、時々尊師在パリのころ差し上げしごとき書き流しの思い寄る記に綴り差し上げたく候。すなわち御返事次第、次回より何か申し上げん。
(307) 小生は海外にあることすこぶる久しく、かつその間本邦人と隔居すること多かりしをもって、帰朝後一向外国へ来たようにて一向面白からず。現在宅には雑人多く、これより酒造期とならば日に五十人ばかり家内に宿泊し昼夜喧噪し困り入り申し候。在外中に父母共に死亡致し、浦島じゃないが帰りて見れば知らぬ人のみになりおり、ちと可笑《おかしい》が長生の厭《いと》わしく覚え候。
 前日愚庵という禅居士の咄《はなし》、新聞に出でたるを見しに、今日の仏僧も信徒も無茶苦茶なるは寺と僧の数が多いからという論なりし。前年小生の申し上げしと符合し候。尊者は予と協力して僧綱《そうごう》とか本寺末寺とかそんなことに拘《かかわ》りなく大真言を興すの意なきか。近く小生この市にありて見るところのごとき真言僧の所体《しよてい》、実にかかるものに引導を頼むは屠児に父母の骸《むくろ》を剥《さ》かしむるものと思うばかりに候。しかして尊者またかかるもののうちにありて、何とかかとか齷齪??《あくせくげんぎよう》さるるは、小生もっとも解せず。
 小生は少々事情ありて、当分は当地におり申し候。これは何様《なにさま》長き間の在外ゆえ、ちょっと跡をまとめるに困るによる。小生の宅は和歌山第一の広大なる私地を有しおるが、家内多く小生の書籍標品を列《なら》ぶる所なく、今年の梅雨などにははなはだしく害を受け、今にこまりおれり。また一人一箇にてほうりこみ置くべきものにもあらざれば、何とか多人の益に立てたきものに候。
 栂尾《とがのお》の隣寺の脱俗僧とは誰のことに候や。生死無常大竺蓮法師の例もあれば、その人の名前、尊師より受け取り置かん。小生は今に前年とかわらず仙人風にて稀嗜欲ときておるから、商人に生まれながら商人にはなれず。(ただし、母死後は心配なければ身体はなはだ健壮なり。尊者今小生を見ば別人の思いあらん。)早かれ晩かれ僧になるつもりなれば、右の人の名前承り置きたく候。
 尊者に今一つ頼まれたる寺制のこと、これは記録等は少々持ち帰りしが、法制に関すること多く、小生には分からぬ。ただし、そのうち尊者と対座していろいろ話承った上調べ、相応に断ずれば良法もあらんと存じ候。
(308) 曇鸞《どんらん》なりしか、聖経を読んで不死の法書を焚き失《す》てしというが、小生も久しく智識博物のことのみに務めおりしが、三十五歳の今になりて始めてその非を了《さと》り候。しかして、わが国にはかかる穴ほぜりの学風、これからますます盛んな様子、比較宗教学とかなんとか言うて袈裟の染色や剃髪の適齢をくらべたり、何の所信所仰もなくして宗旨宗義は経文のてにをはの遣い方で分かるごとく心得たり、老衰で死んでしまいしミュラル先生の若いときの論が、今日にはやり出したり、またはやらせたり、一向仔細の分からぬことのみぞ多き。「慨するに勝《た》うべけんや」。
 只今は何の地におられ候や。この状御笑覧の上ちょっと御知らせ下されたく候。
 尊者もし公平なる眼をもって小生の行く行く呈すべき旨を見られなんには、今日欧米に行なわるる密教は取りも直さずわが真言教に出ずるものたるを知悉せん。他人は知らず、小生は例の見ず嫌い連の言を信じ久しく調べざりしが、近年始めて調べてはしくれを知り、大いに驚き候。また灌頂式はもっとも有益なものとして有之《これあり》候。これには種々雑多の珍説多し。おいおい申し上げん。
 小生より小生当地を去りし報着せぬうちに、尊師または御知せの人にて話せる人当地近く来られんには一訪下されたく候。小生は金銭はなく、宅はまことに混雑ながら、少しくはなれたる眺めよき広き室と書籍多く、種々雑多の奇僻珍怪の物多く持ちおれば、面白く談《はなし》はでき申すべく候。
 そのうち小生も一度は参上致すべく候が、僻暑《ひしよ》など申すことは従来致さず、暑いときほど小生は多忙に候。
 尊者はすでに御了知にや。前年申し上げし、かの大乗諸教の盛隆なりし中央アジア諸旧邦のうち、吐火羅《とから》国(友人福本日南の談に、『日本書紀』に見えしものは同名ながら別物にて呂宋《ルソン》島のことの由)は、一昨々年スウェーデン王の賈にて旅行せしスウェン・ヘジン発見致し、沙漠中に埋もれおり候を掘り起こし候。写真を見るに、まるで日本の火事場の焼預りのごとく、木造の家屋ゆえ、実に遺址は茫乎たるものに候。仏像および仏足型出で申し候。委細は余便に申し上ぐべく候が、かほどのことすらわが邦人には多く知れず、また知る気もなきは残念至極に候。(羅什《らじゆう》、曇(309)鸞等教化の地はみなこの辺と存じ候。)
 末筆ながら尊師に問うは、尊師は前年申し上げし書籍館を建てて真に好学の僧徒を養成するの意なきか。今日の系勢《けいせい》、人は刀釜われは魚肉にて、到底雲照ごときものの説なる、科学は学ぶを見合わせよなどいうことにては、教説の活用はますます時代後れとなりゆくなり。たとえば、小生は本邦のことは一向近く読まぬが、因果説、輪廻《りんね》説で加藤博士とかいう人に雲照やりこめられ候由。この加藤という男、例の洋人の陳言腐説の焼き直しにて、それをまじめに率直に受け戦いし律師は気の毒というの外なし。今日の科学というもの底の知れたることにて、底の知れぬところあるという底を知り得るもまた科学なり。近く見れば、これは赤、これは白、これは黒、これは黄の線なりと、芝居の看板の画を分析して得意なるが科学者の常業ながら、数歩去りて虚心にこれを見れば、宛然活動するごとき人形山水に、見ずと思うとも見ずにおられぬ。その理窟は科学者は知らずとか知れぬとかいうのみ。ただし、人形たり山水たることは見えおること了々たるなり。
 なにか進化進化というが、一概に左様にいわれぬ。世が開けるほど人が悪くなり、旦那楽しんで下女ますます忙しく、袈裟いよいよ美麗にして僧道地に堕ち、葉が萎衰することはなはだしきほど花が美になる。現に寄生植物の数は自活植物に数倍せり。また、ありとあらゆる動植物は多少の変形違式の相を具せざるはなし。すなわち退化じゃ。猫の足〔a〕に比して人の足〔b〕この間がはなはだしく退化じゃ。されど、退化したればこそ直立歩走もできる。鳥の前肢は指を失うて翼に退化したるが、それなればこそ飛び得る。南方先生巨万の黄白を失うて学問せしもそんなことにて、退中に進あり、進中に退あり、退は進を含み、進中すでに退の作用あるなり。これが因果じゃ。さてまた、たとい万物みな進むものとするも、進の次に退が来るは、月球すでに寒くして消え、火星もすでに然り。はなはだしきは日にして消え失せたるもの無数あるにて知るべし。また新たに生まれおる天体もある。これすなわち輪廻なり。これらは科学科学という奴ら、(310)すなわちその科学にて破り得る、科学のみを確証と心得る人物にはこの外の手なし。故に尊師などもこの上科学上の視察をもっぱらとし教説上に応用されたきことなり。
 例のハーバート・スペンセルの進化説に、社会の万事みな進化なりとて、宗教進化を説く。その説を名に驚かずして熟読するに、まるでむちゃなり。すなわち最初一条一様の袈裟をきしが、おいおいいろいろに染めわけ、助長の外の別なかりしが今は大和尚、大僧正、大僧都より味噌|摺《す》り乃至《ないし》隠亡《おんぼう》に至る分別生ぜり、というようなたわ言なり。これは宗旨の進化よりむしろ退化を示すものにて、単に宗教外形式正の進化というまでのことなり。宗旨の進化は珠数の顆数や経巻の数で分かるものにあらず。また、もっともおかしきは、長くて整うて前後の関係ついたものを進化という、と。長崎から強飯《こわめし》のようなことをいうが、洋人のくせなり。しかるに心内のことに立ち入る機能なき凡夫われわれ、『万葉集』中の一向人口に膾炙《かいしや》せぬ挽歌の長々しきものと、芭蕉翁の短句にて味多きものと比較して、いかに後者の前者に優れるを説き得るか。それだから日本のことはいかぬというか。洋人も邦人も口には言うが、とんと実歴ないらしき天下文明の元締というギリシアの文学を検せよ。ずいぶん短ければ短いほど名高の詩文がある。それは文字の数が少ないが意味が長く深いというか。さあ宗教も文章もそこなり。真意、興味は数で量られぬ。したがって長いから進化、短いから退化というわけにはゆかぬ。道徳また然り。これほどのことを科学者の洋癖|糞舐《くそねぶ》りに言い聞かせ得る緇徒《しと》もわが邦にはなきにや。(科学の今日の微弱なるは、たれが見ても科学者におまかせ申す外なしと公認すべき臭〔傍点〕と味〔傍点〕の学すらとんとない。否その分類すら、漢学者の陰陽五行ほどのことなり。)
 聞くところによれば、北米合衆国モルモン宗の伝道師三人とか、いよいよ渡来せし由。久々恩を蒙りし仏教をすてて、かかるものになる人の多きは望ましきことにあらずとは、仏徒のみならず、誰も彼もいうところならん。しかして近きより姫め実践より行なわるるは人情なれば、かの徒の主張するところの多妻は、わが邦にありがちのことを一層恥じねべきこととする力を強くし、彼輩の富強なるを見ては何の考えもなく、悪いことならあんな身代はできぬは(311)ずなどと考うるが愚人の常なり。この上こまったものに候わずや。前年在パリの日、小生尊師にわが邦女人の位置のことを言いしに、その返事はずいぶん不満足なるものなりし。わが邦上流には、公然ならずとも一夫多妻の風はなはだ行なわる。さればこそ(上流に行なわるるゆえ、また行なわれ来たりしことゆえ、教旨上別に真言僧に関係なきことゆえ)、行なわるるままにてよろしとか、また多妻の風を奨励とか保存とかすべしというようなことにや。
 邦人ことに仏僧の口癖として、万代不易の金科玉条を製しおくというようなことをよく言う。仏教は有為無常、時々刻々、世事転変極まりなきを観じおわりてのことに候わずや。されば金科玉条と立つることも、金のごとく玉のごとく貴く用に立つにあらずして、金のごとき凝固頑牢に玉のごとき不活動体というほどのことになり、一向時々活用せぬなり。いわば常に時勢、新事件に後れゆくこと、電信の受取り書くとて字書を借りに走るごとし。そんな病は医書に見えぬといいし藪医《やぶい》のことに似たり。仏教にも祖師の言にも一向見えぬことにて、人間一体の倫理、それから少々私曲ながら寺院僧侶の生命に大影響あること、なかなか本山の伽藍宝物の紛失火事どころにあらざる事件は今後ますます多からん。たとえば早晩欧米同様に起こるべき労働問題ごときこれなり。働き人のことは僧と職がちがう、要はただ寺へやとうときに賃銀を根切るまでなりとてほっておけというか。今日すでに紛々事件続出し、故三田先生などが、尤《もつと》も憑《たの》む仏僧の説教といいし、工人と傭主間の反目などは如何《いかが》する。さてまた工人などは上等の人士に比して信の驚きものなれば、その帰依の得失は一教の盛衰に大影響あること、何のわけもなく遊山かたがた登山する富人どころの比にあらず。ことによれば一教全滅さるるに及ぶこと、欧州に絶えず見るところなり。この外かかること多し。しかるにわが真言徒ごとき、何の設策予備のありとも聞き及ばぬは怪訝《けげん》の至りに堪えざるなり。
 先年尊者の問いに答えて、カンボジアは大乗といい、尊者またギメー館にて見るところをもって大乗らししといわれたり。その翌年小生とくとしらべしに、柬国《カンボジア》は小乗にして中乗を混ず。ただし、バクという(元の周達観の紀行に見えたり)仙人梵志あり。わが国の修験道のごときものにて、常に三宝に侍し、梵教を持す。この輩の儀式混ぜること(312)多きゆえ、天部諸尊の崇拝等自然大乗に似るに至りしと見え申し候。
 なお爾後時々珍事申し上ぐべく候。尊師御容体は如何《いかが》に渡られ候や、伺い上げ奉り候。なにかちょっとした調べごとにてもあらば、仰せ付けられたく候。
 末筆ながら、かのフランクス氏は明治三十年夏胃癌にて死に候。同人は一生無妻なりし。死ぬる一年ばかり前に男爵になり申し候。また井上陳政氏は昨年夏北京にて討死致し候。
 
(313)          11
 
 本月二十五日出芳翰、正に拝誦仕り畢《おわ》んぬ。前書申し上げしごとく、小生方はまことに大俗の塵裡に有之《これあり》、学問などでき申さず。ことに兄弟多く紛争絶えず、制裁の功一に小生を俟《ま》つことに有之候が、到底際涯なきことにて坂地より拙家の旧老を招び寄せ委托の上、小生は明朝出帆の汽船にてひとまず熊野の支店へ趣き、また一、二ヵ月植物採集致すつもりに候。
 婚姻、紛争、酒造期、加之《しかのみならず》葬式(本日)すら加わり来たり、何ともごたごたに有之、例の蔵書等一切は倉皇箱につめこみ、置き去りに致すことに有之候。何とぞ仁者《にんじや》の御尽力にて、これのみにてもいずれかへ安置致されたきことに有之。今日上京御相談申さんかとも存じ候えども、仁者病気にして各派会合の噂も近き、何とも叙事の暇も無之《これなし》と慮り、またまた不遇ながら転地致し申し候。なにか仁者病も快癒、事務も寛《ゆるや》かに相成り候はば、また一書を裁し当家宛にて御発送下されたし。しかるときは急途上京親しく面晤《めんご》、事情旧新縷述申し上ぐべく候。
 外国とはかわり、日本はまことに危殆なる社会にて、一切事物信を措くに足ること少しも無之《これなく》、まことに薄氷を踏むがごとく感ぜられ、その上都鄙、奢靡《しやひ》淫奔の風はなはだしく瀰漫《びまん》致し候。小生ごときは看板つきの馬鹿物と笑われ、かの二眼具えたる者が一眼国に遊びしほどのことと呆れおるのほか無之候。            匆々頓首
 明治三十四年十一月三十日朝
                       南方熊楠拝
   法竜師 座下
 
(314)          12
 
 拝啓。貴状拝見。学校のことは往かぬどころでなく、必ず往くなり。ただし、小乗末輩の人々事を興すところへ、金粟王如来に裏面より論鋒を加えられては、三千大衆五百の声聞《しようもん》いよいよ狼狽せんことをおそれ、しばらく事定まるを俟って修繕を加えやらんと思うまでなり。『輟耕録』は到着後二時間にみな読んでしまった、どこが出ても答えができる。もはや不用なり。これは返却申すべきか。また購うてくれたものなら、代価申し下されたく候。このうちに「蘇子瞻《そしせん》ほ、泛《ひろ》く天下の士を愛し、賢と不肖となく懽如《かんじよ》たり。かつてみずからいわく、上はもって玉皇大帝に陪《はべ》るべく、下はもって卑田院《ひでんいん》の乞児《きつじ》に陪るべし、と。子由《しゆう》は晦黙《かいもく》にして、許可《ゆる》すこと少《まれ》なり。かつて子瞻に交りを択《えら》ぶべしと戒む。子瞻いわく、われ眼前に天下を見るに、一箇《ひとり》として好《よ》からざる人なし、と」。これは僧徒|汎《ひろ》く人に接するものの虔仰すべきことと思う。「三輪川の清き流れにすすぎてし衣の袖をいかでぬらさじ」。これは玄賓の歌の由。貴公も大概で讃州に退き、紛争を避けては如何《いかん》。
 ラサレにありし鈴木大拙、かつて書を寄せて事を論ず。その中に宗教は道徳と別のものなり、このところ不可言の旨なりという。このことまた大いに味あり。到底行なわれぬことながら、わが邦の愛国とか忠君とかいうことを喋々する仏僧などの一針と思う。たれか妖怪学とかを唱えて、忠君愛国の資となさんといいし人もありしやに思う。
  妖怪学は取りも直さずデモノロジーにて、英国博物館にはこの学の群書一覧ともいうべき索引さえあり、公衆に見せおれり。前々世期に妖怪を列して駁撃せしチェールという僧の著書などは一たび通覧するに半年ばかりかかりし。王充の『論衡』もこの類なり。これはキリスト前七九年ばかりに作りしなり。また例のコラン・ド・ブラ(315)ンチーの『妖怪類典』あり。画入りにて翻訳せば大|貰《もう》けならん。こんな在り来たりしことを今ごろ一派の学にせんとて大誇し、世人も許可するは、そこがいわゆる十日の菊も花より外は訪う人もなき山里の栄にて、世間万事知らぬが仏、また知らぬところが花じゃ。
 宗制の法服は米国の外は必ずあることなり。このことに関する答えはすでに高藤師へ出せり。ヒンズー教、回々教の頑徒さえ、フロックコートに法章を付けるほどの今日なれば、洋服に輪袈裟《わげさ》か、またはセイロンの仏像のごとく肩に袈裟めきた布片を縫いつくる方、第一魚河岸連の湯上りにどど一《いつ》を唱う風に見えて、妙意女などは一番に感化さるべく、「われ日々に憶念《おも》う、もと宿世《すくせ》にて時に戯女《あそびめ》と作《な》り、種々の衣服を着して、雅語《みやこことば》を説く。あるいは時に比丘尼《びくに》に作《ふん》して、これを衣《き》て戯笑をなせり。この因縁をもっての故に、迦葉仏《かしようぶつ》の時に比丘尼と作《な》れり、と」と『本生経』にあるは確かなれば、意気な風もまた好事善為たらん。
  加藤高明に招かれて、敷島《しきしま》艦進水式に小生フロックコートに仏徒の帽をかぶり、化石学大博士バサーの夫人とつれて出かけし。楽隊手、楽を止めて大喝采。当日の海軍省士官のとりし写真は小生を中点にせし。なんと金粟も粋なことをやる男だろうがの。
 米国はちょっと知らぬが、欧州には僧が兵式体操等のことは聞かず。ただし体操はするが、それも幼年生徒に限るごとし。鞠《まり》を蹴りブーメランを抛《なげう》つほどのことなり。これ等はほつておけば、例の世話焼き政府より何とかいうてくるならん。それよりは好み次第諸処の寺塔へ巡拝に往かしむること、もっともよろしと思う。
 霊魂の死不死などは、題からして間違っておる。神道ごとき麁末《そまつ》なるものにすら、アラミタマ、クシミタマなどということがある。神にまた魂塊ある説なり。魂と魄の別などは、太古から支那にあったらしい。すでに霊魂といわば不死を飲み込んだ下題《げだい》なり。もし人間の人間たる所以《ゆえん》の精(エッセンス)が死か不死かとの説ならんには、予は他の動物とかわり不死と答うべし。またそれを死というものあらんには、その人みずからこれほどの問題を下し、また究め(316)んと欲する所以の心に問えば分かることなり。
 10を3にて除するに3.33333333+乃至《ないし》幾億万回を重ぬるも極処に到らず。到らぬが、二回は一回より、三回は二回より実境に近くなる。3.3へ3を乗ずる(9.9)より3.3へ3を乗ずる方(9.99)が百分の九だけ10に近くなる。人のこの世にあるは安心を好む。安心は愉快の極なり。安心に等差あり。9.9の安心あり。9.99の安心あり。また9.999+の安心あり。いまだ10に至らずといえども、安心深きものほど10の安心に近し。この世の安心と身後の安心は種類度数に多少の差あることながら、この世に安心をきらうものなきは、身後に大安心あるによる。芸妓買わんと欲して金もうけにかかり、金もうけては利息の多からんことを欲し、利息積んで事功《じこう》を励み、事功成りて徳行を楽しむ。種類は違うが、少愉快より大愉快に到るのすじみちは立ちおる。徳行積んで智恵を開き、智恵を聞きて大解脱す。これこの世にあるうちの大愉快なり。もしそれ大解脱底後の最大愉快は如何《いかん》。種類の違うは勿論のことながら、その大やこの世の大なるものよりさらに大なることは知れおる。12345より無究大(∞)に到るを知る。∞変じて0となるの理なし。また動物衆生の安心は如何と問わば、一休が、汝生きて?々たらんよりはわれに食われて成仏せよ、とて鯉を食いし一事にて、鯉が人身となりて鯉の精は大安心せることを知るべし。
 死または道の境――人の体――鯉の体――蚯蚓《みみず》の体――微虫の体――小植物の体――土塊水等の体
 人の安心処    鯉の安心処/蚯蚓の安心処/微虫の安心処/植物の安心処/土水の安心処/
 康煕なりしか乾隆なりしか、支那の帝王にして、天地一大劇場、堯舜は立ち役、桀紂は惡方《あくがた》などと言いし人ある。予をもってすれば、世界一大劇場、法律は刑罰場、色事はぬれごと場、議論は相談場、憂苦は阿波の十郎兵衛、殺伐は六段目、謀計は七段目、立志は天河屋《あまがわや》の段、短慮は八百屋お七恋の火桜、これのみ。さて死んだら感相同じ一大柩、悪方もああ苦しくつとめた、ぬれごと師もつまらぬことに骨折ったがずいぶんうけましたろうかねと、一大愉快を催すこと、虎渓の三笑そこのけなり。竹田出雲というもの『忠臣蔵』作りて師匠の門左衛門に見せたとき、見物が勘平(317)は与一を殺さざるを知りながら、人形の勘平がそれを知らずに腹切り、郷右衛門があ早まったり死なしたりとて、今まで鉄砲|瘡《きず》を切り疵と紛《まが》えしの迂《う》をさとり、四十九日や七七日《なななぬか》ずいぶん供養やらかされよとへらず言《ごと》をきくところが面白い、とほめた由。
 要は大悟円通の金粟などは、かかることを知らずにさわぎおる衆生の中にはいりて、あまり下手な芝居をせぬよう、見物にさわぎ声の高からぬよう、いわんやまた役者も見衆も上《のぼ》せて卒倒せぬよう世話する役なり。見物が静かに見、役者も骨折りて楽しみながら自他を面白く芝居し、さて世話人がいろいろと見る衆のあかぬように批評賞賛しやらば、芝居中も面白く、はてての後も面白いと申すものなり。惡趣下愚の人間、急に泛ばれず、死んでも六道に迷うは、芝居が混雑して手拭をおとしたるを尋ねまわり、役者が楽屋《がくや》で役割の当不当を論じ、給金や花に葛藤を生ずるほどのことで、まけおしみから今一度やって見たくなり、無理な算段して今一度|櫓《やぐら》を立てかえさんなどいうやつが、再生輪廻を脱せずに、馬の足となり鬼卒となりまわるようなものが、とにかく科学では10を三に除し切るほどのこともならぬものなり。また哲学などは古人の糟粕、言わば小生の歯の滓一年一年とたまったものを、あとからアルカリ質とか酸性とか論ずるようなもので、いかようにもこれを除き畢《おわ》らば事畢る。それを除く法を議せずに小田原をきめおる、愚人の骨頂と存じ候なり。これより歯医者へ出かけるから今日の芝居はこれ限りに致し候。
  明治三十五年三月二十二日午後二時半
                      南方熊楠拝
   土宜法竜様
 
 小生は三十六歳になり候。ついに女犯せずにすましたは鳩摩羅什《くまらじゆう》に優ること万々なり。また身体も貴公らとかわり、「問疾品」にある通り心すでに疾なきゆえかはなはだ強健にて、同志社長たりし広澤友信なども、南方は老西郷の生(318)き写しなり、これをして維新前後に生まれしめば万戸侯《ばんここう》あに言うに足らんや、と賛め候。
 藻はずいぶん面白し。これは一切西京へ持ち行くから貴殿歓喜して見られよ。さてこれを集むるにはなかなか苦心艱難する。その苦心艱難が身に取りてはよほど面白い。されば苦楽合一境に到るにあらずんは真の事は成らぬものと存じ候。
 前文、霊魂死不死に対する小生の弁は、アナロジー(相応)にしてホモロジー(符合)にあらず。魚は腮(あぎと)で呼吸し、人は肺で呼吸し、魚は水に活し、人は空気に生する。呼吸するところの似たるのみで、機関もまた範囲も異なるはアナロジーなり。人と猫と同じく肺で気を吸うはホモロジーなり。故に芝居と世間と異なりという人もあらん。金粟ほどのもの、そんなこと知らずにあるべきや。現に光線を吸う力強きものほど油気多しとて、炭より金剛石に到るまでの有機物より生ぜしことを証せしごとき(実は吸光力と有機物の後裔たることとに何の関係なきことなれば、アナロジーながら一々あんまりよく偕《ととの》うから)ホモロジーそこのけというほどに思いおりしも、銅鉱にそんなものありて一向有機物を含まぬゆえ、がらりと砕け去りてもとのアナロジーに止まることとなれり。
 しかしながら、これらは希有の例、また議論の行き過ぎたるところもあることにて、実は世間に今日ごとき人智にてはホモロジーすなわちどこからどこまで符合するものは一もあることなきは、猫を見てたちまちどれも猫と見れども飼いつけた主人には同異が判然たるごとく、世間に一切符合する別物別事あることなし。幾何学には、三角形が三辺と三角と相応すれば符合するということあり。されど、これらは想像仮説に止まることにて、今紙上にいかによく相応する三角を画するとも線の厚さ等に異同あれば符合とはいいがたし。さればアナロジーということ、決して軽んずべきにあらざるのみか、実は論理にはこのことの外相手にするものなしと知れ。このことはかつてロンドンにて鎌田栄吉に諭《さと》したることもあり。同人も心服して随喜せしことあり。
 科挙者など、死後のことは科学で分からぬから安心ならぬと騒ぎまわるが、従来あまりに人智外のものなきにて、(319)死後も人智で分からぬことなきを知るなり。むかし和歌浦の某寺に他国より僧をすわらせしことあり。そのころの国主は、重倫(菩提心院)と申し、今も伝唱する暴君なりし。この人右の僧を招き、地獄極楽ありや否と問いしに、答うるは、一向知れず、ただし経説にそんなこともある。さて他郷にありしとき和歌山の模様を聞き、定めてよき所らしく覚えしが、躬《み》自《みずか》ら践《ふ》まぬことゆえ、たしかならざりし。今回来て見れば委細のことは聞きしに違《たが》うこと多きが、まずは聴きしほどのよき地なりといいしに、一言なかりしと申す。これほどのことと存じ候。夢や『山海経』の図で、眼が一つの人また股間に一物《いちもつ》の代りに鼻ある人など見れば希有に思う。しかしながら、すでに人といい眼といい、いわんやこれをあらわす画像、いずれもありふれたことにて、別に斬新望外のものにあらざるごとくならん。
  あだにのみ思ひし人の心もていくたび花を惜しみきぬらん
 幾度考えても同じことなるに、今年も来年も花は妙だなどと議するはさっぱりうつけものの所作にて、世間にとかく猴多く、いろいろと思いまわし言いまわすのみ。要は金粟の直指心入《じきししんにゆう》にかなわぬと安心して往く所へ往け。
 予は仁者と縁あり、値遇に感ずるから、京に到らば諸葛亮が「旧きを談じて、もって志を養う」といいながら毎事必ずみずから視しごとく、八方あたりではたらくゆえ、まずは大げさな傭入れ員などなるべく節して、時節柄節倹してまたれよ。中井氏には面会せず候。たぶん京浜間にあることならん。この人外債を募るに関し功あり、勲五等になれり。借金してほめらるるは破天荒のことにて、これも珍事の極みながら、例のアナロジーからいわば軍士陥陣とさしてかわりしことなし。それぞれ相応の功ありしことならん。
 
(320)          13
 
 京都八条大通寺
   土宜法竜師宛
            和歌山県東牟婁郡
              那智村大字市野々大坂屋  南方熊楠
 明治三十六年六月七自認、八日出す。
 毎度手紙差し出さんと思いながら、いろいろ標品等のことにつき多忙にて荏苒《じんぜん》致し候。委細のことはとても一筆に申し上ぐることならぬが、前日通知し置きしことのちょっと一斑を、小生忘れぬうちに申し上げ置き候。御弄読あらば幸甚。
 揆《き》益するところ百世といえども知るべしという語あり、杜氏の『通典』なりしと思う。その書の序に、殷は夏に継ぎ周は殷につぐ、その跡は異なれどもその揆は一なりというようなことがある。わが邦の人、社会学などいう名義に泥《なず》み、東洋には古来真の社会の史なしというは大間違いにて、実は『漢書』の諸志等すでに今日西洋の社会史の体を得たるものなり。さて右の『通典』の序にいえるごとく、まことにいかに突飛なように見える進歩あるとも、実はその履《ふ》むところの揆は各国同一の順序を追うことにや。今来わが邦仏徒の履歴まことに中世以降耶蘇徒の履むところと同一のことをくりかえしおれり。人に後れて同じ履歴を経るは、実は一歩おくれるに外ならず。余このことを慨するのあまり長文をおくらんとせしが、?《なんじ》米虫ら薄識弱志の上、得手勝手な糊口立義の偏頗多いから、まず人を怒らすも入らぬことと、それは中止とし、差し当たり一急務は、
(321) 近頃比較宗教学とかなんとか博覧会の人類館ごとき皮想《ひそう》の学起こり、ちょっと面白く、またそんなことに口を出すと官費で洋行させてくれるから、何の信も仰もなき輩がそんなこと囀りかかるもの多し。この影響として(すなわち右にいえるごとく、その揆は一なりで、耶蘇教の過ぎし史上に見ると同じく)仏徒の上に落ち来たるべき一厄は(実は金粟王などから見ると、麦わらを粉にしてぶっつけられるほどの些事ながら、?米虫らはたちまちあごのひ上がらんことを恐るるのあまり、蟻の?《す》へ小便へりかけられしごとく噪《さわ》ぎ立て、これまたその揆は一なりで、その耶蘇坊主のこじつけにならい、南贍部洲《なんせんぶしゆう》とは太陽系のこととして、鶏足山とはアジアのチベットのこととか、前に新説出ずるたびにこっちも顰《ひそみ》に傚《なら》うて説をやどがえさすごとき拙事を出すに相違なし。これと知りながら妄語と綺語の難|出来《しゆつたい》なり。戒むべく、また恥ずべし)、例せば大乗非仏説を史上よりあれこれいい来るにあり。?らこれに答えんとならば、右ごとき埒《らち》もなきこじつけやまた顕微鏡下に鯨尺を用いんとするごとき、自家の勝手に自家の教説、伝説のみを用い頑張るを止めよ。
 さて逆《さか》よせに前者に問え。しからば、大乗非仏説なら、(1)大乗は誰が説いたものか、(2)釈迦のみを仏と心得たる説の所由《しよゆう》出所|如何《いかん》、(3)大乗非仏説なら何かそれがために大乗は悪しきことありや、(4)例として問わん、耶蘇教は一字一句までみな耶蘇の説いたものなりや。
 予ちょっとこれに解を下さん。(1)大乗は非仏説という。これは、『論語』には『孟子』ほどに仁義ということ見えぬから、『孟子』は孔子の教えにあらず、というごとし。また性善説など孔子ちょっともいわぬから孔子の説に戻《もと》れりというごとき論なり。(荀子も、孔子を祖述す。しかるにこの人は性悪説を述べたり。かかる相背馳するはなはだしき説に至りては、祖先の説にあらずというも可なり(孟子を合わせて)。しかしながら、礼楽をのべ、勉強をすすめ、樸訥《ぼくとつ》をほめたところなど、二説同一なるに至りては、たとい祖先いわずともこれを儒説というに何の不可あらん。また古えは周孔の学、文王武王の学、夏禹殷湯文武の道などいうた。儒は孔子に始まるにあらず。聖人というも宋儒の(322)いうごとく堯舜禹湯文武に限れるにもあらず。このことは支那およびわが邦の(太宰など)少しく古説を主張し、古経を解する者の知るところなり。儒教は孔子の作ったものというと、仏教はみな釈迦の説いたものというと、その謬りは同じ。ただし、孔子の外に儒教の祖多きごとく、釈迦の外に諸仏は多かりしなり。)大乗は釈迦が説かず、故に仏説にあらずといわば、この人は仏の何たるを解せざるものなり。耶蘇教中耶蘇の言いしことのみ耶蘇教にして、その先聖(モセス、エノック等)および高弟(ポール、ピーターよりセント・オガスチン等)の説は耶蘇教説にあらずといわば、この人は宗教ということを、この句は芭蕉、この句は其角と、俳句でも撰《よ》るごとくに心得たる馬鹿物なり。
 次に大乗非仏説なら、大乗は何より出でしか。およそ教えの出ずるは必ず人の言によりて述べらる(現身の仏および菩薩等)。ただし、教えの真底は天然に宇宙のうちのみならず宇宙を包蔵してなんとも感ぜぬほどの大なるところに存するものなり。これを言うもの、誰がいうたからそのもののみの功名というべきにあらず。大乗に、すでに大日如来よりその教えの涌出せしことをいう。このところすでに形以上の義なり。自分の朝から今までのことすら小は記し大は忘る。為替延着すればその通知ありしより着手するまでのあいだ苦慮す、その苦や非常なり。しかし、別に書きつづけようなきゆえ、日記へはちょっと記すか、または多くは身の恥等より、記さぬがちなり。針で爪を傷つけ血ちょっと出でしは、これを日記に記す。餅一つ買えば勘定を付ける。これが人間の常体なり。(列子、堯舜のこと万に一を存し、目前のこと百に一を記す。)インドごときは、古えより物を書すること具わらず、梵文のもっとも古きものがわずかにわが法隆寺に存するほどのことなり。加之《しかのみならず》、その人多くは清淡にして虚誉|空囂《くうごう》を好まず。故に思いついたことは秘蔵の弟子にいうのみ、決して行々しく人中でいいちらす等のことはなかりし。今のわが邦人の耳にきいて口へぬけるようなものと大違いなり。されば仏説は、久しくしてインドに右のごとき(秘密流の諸仏、いわば緑覚《えんがく》)ありしを、そのうち分かりやすきところを釈迦が小乗としていいしのみ。釈迦は大乗を知らなんだなら、それは釈迦の損なり。ただし、釈迦すでに仏といえば釈迦も仏の一人なり。その説大いに世にあてはまりて、釈迦の説をい(323)と口《ぐち》として仏教大いに興りしゆえ、他の諸仏の説ける大乗として世に出ずるに及べり。いと口を出せる釈迦の功は没すべからず。故に真言すでに釈迦院を設けたり。
 真言は誰が説きしか。答え、右のごとく、今のごとく名誉など好みむやみにしゃべくらぬ諸仏の幾千万年間に鋭きしところなり。その説は劫初よりあり。人間出ずるに及び、人間間に出でしなり。時世に応じていろいろに説きしが諸仏なり。古え本多正信、家康公をある人が諫《いさ》めしをきくにつまらぬことばかりなりしに、公少しも倦色なくこれを聞き畢《おわ》り礼をいいしとて、これ賢をすすめ忠を褒《ほう》するの道なりといいしに、子の正純、父にその人は誰にしてその人の言いしことはいかなることなりしやと問いしを、父正信大いに叱りてそんなことを問うて何にするかと詰《なじ》れり、という。たとい『バイブル』にアダムから耶蘇までの系譜たしかに出ずるとも、事理よりいうに、その人々の名あんまりたしかすぎて年齢常人より多すぎるから、うそということ分かりおる。知りて益になることにあらず。ただし諸仏の名号は『仏名経』その他にあり。いずれも抽象的の道徳、美徳の名のみといわんが、それはそれでよきことなり。第一、これを誦するといろいろと美徳の数を並べ出でて心を楽します益がある。(2)釈迦のみを仏と心得たる人にその理由を聞くべし。
 前年ポーター・スミスという英人、上海かで演舌せしインドと支那の比較で、妙なことには支那には史籍というものあるが、インドは国の古きに似ず人種混雑また人種間の懸隔はなはだしき等より史籍というべきものは近来に始まるのみ、少しもあてになる一統一覧のものなし、といえり。例の梵経また『委陀《ヴエーダ》』ごときもただそれ自身にそれが分かりおるのみ、他と比戟しようにも史籍なきゆえ分からぬなり。往年インドへ植物採集に行き殺されし仏人ジャクモンごときは、仏像・仏典は盛んに備われるに梵経・梵像に何一つたしかなものなきを見て、仏教がインド最古のもので梵教は後より出でしもの、といえり。これらはその学にうとき人の語ながら、都会の三百代言より田舎の富翁の方、言信ずべきごとく、はなはだ味わうべきところある言なり。仏教は決して一朝一旦に釈迦を俟《ま》って出でしにあらず。(324)その前にも後にもその教の聖者ありしと知るべし。ただし今日になりてこそこの田舎ですらこの材木会社は合資か非合資かと聞けば直ちに分かるが、三十年前にはそんな分別がないから、そんなこと問うても分からぬのみか、答うる必要もなかりしごとく、仏教盛んになる(今一層たしかにいわんには仏教現在の仏教となる)前には、仏教がかった聖人(後に分かる、そのときは、ただそんなものというばかり)多くありしなり。仏教という建立の名号なきときゆえ、そんな仏という名もなかりしなり。ただし、仏という語は単簡なる語にて晩出の語とも見えざれば、それより古くすでにあったことらしと思うなり。インド人の名が名だから、抽象的の性質の名の仏なりとてあながちに仮空といえず。(支那にも、雋不疑《せんふぎ》、公孫去疾などいう抽象的の名古くある。)
  西洋に近来アストロノミカル・ミソロジストなどいうて、古人の名などをいろいろ釈義して天象等を人間が付会して人の伝とせしなどいうことを大いにやるなり。予今度一生一代の大篇「燕石考」を出し、これを打ち破り、並びに嘲哢しやりし。そのうち見せるなり。右様のこと、なにか大斬新と心得る邦人もあるにや。実は天保ごろに馬琴がかきし『玄同放言』というものに、蛭子《ひるこ》命は昼子なり日の子なり、スサノオの尊は風スサムことなり、などと論じたのがある。後漢の『風俗通』に見えたる、堯のとき?《き》よくはたらき、ために?一にして足れりといいしを間違って?は一足と心得たり(『唐土訓蒙図彙』等に  愛を牛のごとき獣一足のものに画けり)というに同じ。人の誤りあばかんとして、ゆきすぎのあまりみずから過ちに陥ること多し。ホイトニーという坊主、この輩を嘲哢して、ナポレオンも実在の人にあらず、コルシカ(東)に生まれてセント・ヘレナ(西)に没したるは日にあらずや。十二の大将ありしは十二宿に形《かたど》る。母の名もギリシアの日神の母の名に近し、云々と、なかなか面白くこじつけて嘲哢せり。
 釈迦の前に前仏ありしことは、前年|?《なんじ》パリにありし日これをいえり。故に今はいわず。また前仏ありしということ予一人の説にあらざるはクルソン、迦葉《かしよう》、カナカム二等の諸仏の跡というもの、古くインドおよびビルマ等に存する(325)にて知るべし。
 (3)大乗非仏説なら、それがためになにか仏教に害ありや。前年原坦山の話に、仏説に三験《さんげん》あり、分からぬことは研究するを阻まず、といえり。現に諸部の羅漢等毎々論議で争いしにて知るべし。すでに論議する以上は教義のふえるは知れたことなり。耶蘇教とても、中世の諸尊者以下いろいろと耶蘇のいわぬことをいいしも多く、また耶蘇のときには必用なき故ちょっというたことも、後に必用を感じてこれを祖述せしことも多し。決闘廃止、奴隷廃止等、みなその蹟なり。祖師言わずとてよきことを言うは祖師の主意に叶うものなり。また中には謙を美徳と心得ればこそ、自説とせずにこれわが祖師の功なりというも多し。それを撰挙の投票に立ち会うごとき心得にて、これは誰の言誰の説といわんには、第一何の宗教にも戸籍また人の姓名録ごときもの完全しおらず、インドなどには今に箇人の名すらなき種族の人民多し、まずは祖師の功とするの外なきなり。ただし、わが大乗の教にはそんな混雑をふせぐため、これを三世常住の大目の説という。それに法身、応身、化身ありという以上は、一切を網羅して何の不足なきはずなり。
  サン・フランシスは、耶蘇教中興というよりも、実は耶蘇の次の聖人にして一教を立てしものと見るべきほどの人なり。しかれども、この人自謙してわれは耶蘇を祖述すといい通せり。故に今に耶蘇教の一脈と見る。このこと仏の名家ルナンの説なり。故に竜猛《りゆうみよう》、馬鳴《めみよう》等を仏といおうが、またその人々の自謙のごとく仏の子分といおうが、(世にみずから仏と称する馬鹿者なければ)その人の勝手なり。またかかることはいわゆる人気《にんき》ものにて(徳川氏の初世に古田重治という人、石見の浜田(?)の城主たりし人の弟にて、兄死して家継ぐべき由家康より命ぜられしを辞して、兄の子をそだてそれに家つがせ、自分は、世の人は病身ゆえ辞退せしかと疑いしに、少しも怠らずに家康に侍す。世人これを聖人〔二字傍点〕と称す。これらは余のことを金粟王などいうごとく、何も深いことしらぬもののいう口なり。いわるるものの悪しきにもあらず。博奕《ばくち》打ちの通り名のごときことなり)、一は世間の人今の学者ほど字引きなどを見ぬから、よいかげんに仏とも菩薩とも称することもあるなり。これまたその人みずから投(326)票を買いしにもあらざれば何ともせんかたなく、そのままにてよきことなり。これを一々|穿鑿《せんさく》すると朱子の『通鑑綱目』ごとく、万足《まんぞく》な人一人もなくなる。さて評する本人はどうかというに、あまりえらくないように見えること勿論なり。
 (4)例として、なにか他の宗旨に、一字一句みな祖師が説きまたは書きたるまま行なわれおるものありや、と問うべし。むろん、そんなものなきことに極まっておる。たといありとするも何の益にならぬことなり。たとい一字一句みな祖師の説いたものとするも、研究の仕様により一字一句出処また似たことを他の説より見出だしうるものなり。故にその祖師自身特有のものとてはあることなし。某《それがし》実は、大発明をやらかし、わが曼陀羅に名〔傍点〕と印〔傍点〕とを心〔傍点〕・物〔傍点〕・事〔傍点〕(前年パリにありしとき申し上げたり)と同じく実在とせることにつき、はなはだしき大発明をやらかし、以為《おもえら》く真言の教は熊楠金粟王如来によりて大復興すべし、と。よって今年中に英文につづり、英国の一つ科学雑誌へ科学者に向かいて戦端を開かんとするなり。もしこの秘密義を聞かんとならば(なかなかむつかしい。例の科学を基《もと》として立てた論なり)、その旨ハガキにて申し来たれ。しかるときは予山行きを三日ほど止め、くわしく訳しておくるから、当分自読の上他に見せず、分からぬことあらば幾度でも昨年の霊魂不死論のときのごとく尋ね来たれ。(予は目下日本では聞こえぬが、不断英国にて大戦争中なり。)
 付記。バックルの詞に、道義学というは不用のものなり、何千年研究しても不孝してよしとか不貞のものほむべしとかいうような新義見えぬ、要は無用の套語をくり返すのみ、故に無用のもの、といえり。予思うに、この説大体は然らん。ただし、道義を実行するに世態に応じて変化する、その方法を講ずるの要はあるべきにや(活劇の世界に小笠原流を廃するの可なるごとく)。白石の話とて鳩巣の書きしものに、人と物をかえることは自然と多寡を争う心を生ずるものなり。故に友人と物かえるということは不道なり、とあり。蜀山人これを評して、まことに左様なり、ただし、友人われに多きものを一つ二つ欲していい出しかねたるとき、われよりわが欲するもので友人の多く有するも(327)のと替えんと申し出でんは(ただやるといわば先方困るから)、はなはだ道に益あらん、といえり。道義学で実行について研究すべきはここらのことなり。
 さていうは『つれづれ草』に、京の人はうそ多し、東土の人こそたのまるれ、とある人いいしを、三浦の某という武士、僧となりて悲田院の堯蓮上人といいしが聞いて、左様にあらず、京の人は心やさしいところからありのままにそれはない、それもないというがきのどくで、ないものをまずたずねておきましょうとにごすなり、といいしとか。されば客の立つ足を見て、お茶つげなどいうも、とがむべきにあらず。ただし小生今度帰朝して観るに、用事を人に頼みやるに、「それはなし」、「それは不能」と返事せずに、「そのうち送ろう」、「それは尋ねて見る」というごとき返事で、こなたそれを頼みに俟《ま》ちおるに、一向そんな沙汰もなき人多きようなり。今は兼好時代とかわり、右のごときは一の契約と見て然るべきことなれば、言い出せしものの「心待ち」また「都合」も時間ではかるほどの時勢となりたれば、あまり当座すませの返事などははなはだしき不道徳の程なるべきにや。故に今度頼み上げし稲村氏の和歌ごときも、小生なぐさみに頼みしにあらざれば、できればできる、またできねばできぬ旨返事下されたし。小生はこちらよりむやみに人に物頼みやり、できずとて怒るべきわけもなければ、さっそく自詠および他の諸人のと合わせて英国へおくるなり。
  返す返すも遺憾なるは、真言宗に釈迦を祖師とも本尊ともせしことなきに、真言の輩一生懸命に釈迦のことのみにかかることなり。他の諸神のことを忘れて「いなり」信者が狐にのみ奉仕するごとし。西洋の仏徒仏徒いう輩、多くはその教え入りやすく、また破壊的なるより、小乗を好み、仏教は無神教なりなどいいふらす。しかして、わが大乗徒大いにこれを悦ぶは何のことやら分かりかぬるなり。
 
(328)          14
 
 明治三十六年六月三十日夜
 京都八条大通寺
   土宜法竜様
                和歌山県東牟婁郡那智村市野々
                      大坂屋 南方熊楠
  貴下病気は如何《いかが》候や。もし死ぬに極《き》まったらぜひ電信して予をよべ。
 二十八日出芳翰拝読。長大僧正および稲村師の詠数首御送り下され、ありがたく御礼申し上げ候。この外にも大分短冊集まり、これは一々番号付し、後日オクスフォード大学に保存するなり。多く集めた中に、英雄の血脈は畏ろしきものにて、小生の姪楠枝十六歳(前日呈上せし写真の小生の右の手に坐せる別嬪)のが一番よろしい。かの長爪梵志の姪のことも思い合わされ、後日舎利弗でも妊んで小生を腹の中からやりこめはせぬかと心配仕りおり候。この父は小生の兄にて和歌山市一の富家なりしが、例の通り女と相場で家財蕩尽、昨年この女を横浜の町人へ養女にやり候。右の小生姪の寄滝祝の歌は「君ならで誰にか見せん楠が枝を、石となるまで洗ふ滝水」。おのれの名をよみ入れしなり。
 まだ妙奇的烈《みようきてれつ》な珍談あるが、それは後便にして本題に移らんに、
 貴状「小生は大乗ことに大日直説秘密大乗は正面より釈迦の不説なり。このことはもとより一定なることを信ず」。この文中、不説の不の字、〓こんな字にて、ちょっとよめず。これは不〔傍点〕に相違なきや。貴下らが本教に対する見解にしてこの一字のごときはもっとも重きものなれば、再応聞き上ぐるなり。
 次に当県のものて天台宗なりしが、ある富家に宿するうちその娘に通じ子を生み、それからしゃれて帰根斎とかい(329)う号を庵につけ、別荘など作り、禅宗大僧正になったものがある。貴下の知人なり。境、人を化すとかや。
 小生二年来この山間におり、記臆のほか書籍とては『華厳経』、『源氏物語』、『方丈記』、英文・仏文・伊文の小説ごときもの、随筆ごときもの数冊のほか思想に関するものとてはなく、他は植物学の書のみなり。それゆえ博識がかったことは大いに止むと同時にいろいろの考察が増して来る。いわば糟粕なめ、足のはえた類典ごときことは大いに減じて、一事一物に自分の了簡がついて来る。今に至って往日貴下の言われし、博と強は智見を輔《たす》くるが、そればかりでは空器画餅、何の実なきということを了《さと》りぬ。ただし、これもまた境、人を化すで、実はどれがよいとも分からぬものなり。(ただし、人間箇々の心の独立の上より見れば、博識より自智のまされること万々なり。)小生は貴状を見て、貴下もまた病気等の事情で(帰根斎ごとき羅什《らじゆう》風の禍なしとするも)、真言よりは禅の方になってきはせぬかと疑う。小生いまだ真言の秘事を知らず。しかし、大抵その外相にあらわるるところをもって見るに、この教は智を尊ぶ。すなわち軽く易くいわば、一事なりとも多事なりともに精通して、その道の上よりおりにふれ事にふれ無尽の楽しみを享《う》くることを智として、これを尊ぶにやと思う。
 宇宙万有は無尽なり。ただし人すでに心あり。心ある以上は心の能うだけの楽しみを宇宙より取る。宇宙の幾分を化しておのれの心の楽しみとす。これを智と称することかと思う。故に今の禅学などの放恣自矯して、「なんでもよいは」、「天地間は運次第」、「恥もくそもないもの」というようなさとり様とかわり、「一切の事相になんでもよいこともあり、またわるいこともある」(たとえば、星辰ごとき無識のものも巡りよう悪きときは相衝突して砕け、その星の近処を擾乱す)、「天地間は運次第、その道に大抵どれほどの規律がある」(日本には大地震が大抵三十年に一たび起こる。またこの世界へ隕石大いに群しておつることは三十三年めぐらいに一度あるを常とす)、(恥もくそもないもの、ただし恥ということは大抵生物にどれほどの程度より起こるか。豹のごときは覘《うかが》いし物をとりはずせば恥じて狼狽して飛びまわり静まらず。われわれとても自分のみ知ることで別に人にかまわぬことながら、思い出すと三斗の(330)慚汗《ざんかん》出だすことなきにあらず)と知りて、これを楽しむが智なりと思う。今の学者が世界中の人みな哲学者になる世を望むも、実は書籍多くよみ脳に不用のことをつめこむにあらず。自分の境に応じて宇宙無尽蔵の事相を一班なりとも心に考察して楽しむを望むに外ならざるべし。(日常の用に取りては業務を楽しむということとなる。わが邦やロシアの人がしばしば商売変わるとかわり、英独の人は、たとえば靴墨作るものまでなんとかよきものを出ださん、いかにしてよく光らすべきなど楽しみて事に従うごとし。)小生はこの智ということを、今後は真言の教えの要たる用処とせんことを望むなり。しかるときは事理|無碍《むげ》にして、かつ日常のことに益あることはなはだし。
 次に前日真言の中学へ寄付せしプルタークの列伝に、「神を人があがむるは、あるいは畏れ、あるいは愛し、あるいは賛す。畏るるものはその威力を畏る。威力は人にもあり。愛するものはその力によりて幸を頒《わか》たんことを祈る。幇間《ほうかん》が金主に諛辞《ゆじ》するごとし。賛に至りては真にその無限の妙を感じ、これに化せらるるなり。世に神を人同然に心得、畏るるもの、愛するもの多きが、賛するもの何ぞ乏しきや」というようなことありしと覚ゆ。不動明王、烏慧沙摩童子を恐れ、愛染、弁財天、大黒天を愛するは多し。大日を賛するものの乏しきはちょうど右のギリシア人が二千年前に言いしに異ならず。(インドにも、三大主のうち?爲天《ヴイシユニユ》を祈りて幸を求め、摩醯首羅《シバ》王を懼れてこれに侫《ねい》するもの多きが、肝心の梵天のために立てたる寺とては一つもなしという。)この大日を賛するものの少なきは人の心、慾情のために触せられて、ただ侫と怖の二事をのみ急務とし、智(前文の)を研《みが》き楽しむことなきによることと存じ候。されば、いかに商工業とか学校教育とかが盛んなるも、この宇宙の幾分を自分の力に応じて楽しむという智なき以上は(と書きしところ、今夜大雨にて、小生の室内小さき蛙一面にとびありき、この紙の上、それから今回送り下されし短冊、蛙だらけになる。よって一々かきあつめ庭へ放つ)、人間の人間たるところも真言宗も何の教えもむちゃと存じ申し候。されば、いかがしてこの楽しみを衆人に普《あまね》からしむるべきかといわんに、経文はもちろん、時に応じ国に応じて本人むきの文字なり技芸なり要処から授け、その心を興奮せしめ面白くて面白くて端緒さえ得たらんには、(331)みずからどこまでもやり通すというようにするの外なし。「たとえば幻師の現ぜざるものなきがごとし」で金粟王の必用はここじゃ。貴下文、三世一如十界一相をさとらば、大乗非仏説ごときは介意するに足らずという。それは本人|一己《いつこ》の勝手なり。ただし、わが徒一同としては、そんなことはいうべからず。むかしスパルタ王アゲシラウスという人、エジプト人に乞われて援兵にゆく。その敵は蛮民にして軍法も軍略も全くなきものなりと聞いて大いに患《うれ》うる色なり。人これを問いしに王答う、敵が物を心得たる敵ならんには、あまりつまらぬことをせず、したがって無鉄砲なることをせぬゆえ、こちらも敵の意を籌《はか》るに順序あり。しかるに、敵何も知らぬ無法者とありては、自家の損徳《そんとく》にかまわずむてんぽなことをするゆえ、こちらなんともあらかじめその防ぎをすることならず。無用のことに味方の人多く失われんといいしとぞ。実に然り。
 貴下は、わが宗のこと心得ぬ者の言は介意するに足らず、という。小生は、かかる不心得の者ほど恐ろしきものはなし、と思う。すなわち貴家先年予を付して謂いし利口というものにて、これがためにいろいろの迷反者を生ぜん。しかるときは、彼と同様の程度に、それと同様の論法、論拠を取りて事を弁ぜんほか致し方なきにあらずや。たとえば、彼は百倍の顕微鏡をもって蚊の翼は小さしといい、われは千倍のをもつて大きしというごとし。彼をもってわれをはからんにも、われをもって彼をはからんにも、双方度の違うもの詮方なし。しかるときは、すでに大いさの定知せるもの(たとえば一寸の千分の一の大いさのもの)を取りて、双方の鏡下に照らして、しかして後に双方の大いさの違いを知りうるごとし。予が前状いうところは、耶蘇教すでに古文学|穿鑿《せんさく》および科学のために打撃を受くることはなはだしく、その返答とては実に迂なるこじつけをなしたるなり。しかして今日、右の帰根斎等が南贍部洲《なんせんぶしゆう》とはヨーロッパ等のこととかなんとかこじつけるは、実にその覆轍なり。それよりは、これはインドのそのころの通説なりと軽くやらかし、十万億土もそのころの通説、□□羅樹下に生まれしもそのころのめでたきこと、と経説中の風俗や評判ぐらいのことは弁護するに足らずとして、法説にて大いに正大なるところを張りたきこと、というにあるなり。
(332) わが国のみならず、いずれの国にも現象〔二字傍点〕と理由〔二字傍点〕を誤る人多し。否、それのみかとも思う。葉が縁なるは如何《いかん》と問うに、十の八、九はクロロフィル(葉緑素と対訳す)があるからという。すでに名からしてクロロ(緑)フィル(葉の義)という。人はなぜ二本足あるか、答え、人の外に二本足のものなしというようなことで、名がひねくったるのみ、少しも理由にあらず。しからば正しき理由はと問いしに、「そもそも葉は日光を分解して栄養を空気より取るべき物料を具す。この物料の色が緑なるゆえ葉が緑に見ゆる」。論理学者はこれを正しき理由という。しかるに、実際はこれはなぜその物料の色が緑なるに限るかとか、なぜ外の色にあらぬかという解を与えぬことゆえ、ただ偶然「葉の栄養を空気よりとるものが緑なり」という現象を言い述べしのみ、少しも理由とするの価値なし。しかして、緑色光線が葉の栄養を空中よりとるになぜ必用ということは分からず。それが分かれば始めて理由なり。
 今日、理由理由と科学者のいうところ、みなこの類なり。水は酸素と水素とより成ったゆえ、燃えて成るという。これも現象を見ることやや広くて言いうるまでなり。理由にはあらず。数学ごときも、x2をx1でわればx2-1=x1となる。x3をx3でわればx3-2=x1となる。x5÷x2=x5-2=x3 この例でx0すなわちxを無〔傍点〕度乗じたら何になるかといわんに、x1÷x1もx2÷x2もx100÷x100もみなx1-1またx2-2またx100-100いずれもx0なり。さてx1をx1でわり、x2をx2でわり、x100をx100でわるは、同一の数を同一の数でわることゆえ答えは一〔傍点〕なり。さてx0すなわちx100をx100またx2をx2でわるなど、同一の数を同一の数でわったとき出るものは一〔傍点〕なり。故にx0は一〔傍点〕なりというのほか詮方なし。理由というものは一つもなし。何となれば、結果はいつも同じことながら、2を2, 8を8と同じ数を同じ数でわるということと、x2をx2, x3をx3でわりてx2-2, x3-3となるという、乗数より乗数をひくということと、全く観念(数〔傍点〕自身に取りては事相)がちがう故なり。故に微細に論じつめるときは譬喩説、また南贍部洲とか金剛薩?《こんごうさつた》はあった人とかなかった人とか、不空三蔵と一行《いちぎよう》とは同人とか異人とかどころの論でなく、理由理由いう科学の根拠たる原子、分子、数量すら、理由とするに足るものなきなり。いわんや、それ以上の勢力常存説、進化説、自然淘汰説等に(333)おいてをや。
 また貴状の煩悩とかなんとか、これは貴下一人の口ではいうべし、一派の人を団体と見て煩悩とかなんとかいうは何の功なき空言語とならん。世間に閑をのみ願う人ばかりなるものにあらず。また左様にしては世間が立たぬなり。また金粟ごとく、貴下のような煩悩少しもなく、反って即菩提《そくぼだい》で煩悩をも楽しと見るものもあるなり。(謝肇?が、『詩経』に「夜|昏《くら》く鶏鳴いて已まず」、まことに煩悩きわまる殺風景ながら、よく修辞したるゆえ風雅きわまる、といえり。ショッペンハウエルいわく、天地のこと文の好材ならざるなし、ギェーテ、シラー等はよくこれを観ぜしものなり、常人は観ずること能わず、故に文章できず、と。煩悩のたとえによき例なり。商工人等は煩悩なくて一日も立ち行かぬなり。忙しくて叶《かな》わぬというほどを本業とするなり。さればこれを忌むよりこれを楽しむことを教ゆべきなり。由来、仏教が一身一箇のみの教えといわるるはこのことにあるなり。)もし多人を一団と見ての煩悩といわんには、これ取りも直さず、その智見の誤れるものを指すの外なし。しかるときは、例の智を研《みが》き識を拡ぐるの必要を見る。いたずらに箇人煩悩を去ったとて、社会の制裁で白死するか、否《しからず》んば他人に迷惑かけて生活するの外なきこととなる。しかるときは、他人の団体一面に多少の煩悩を及ぼすこととなる。
 小生、真言の曼陀羅の名〔傍点〕と印〔傍点〕のことにつき、考え出したことあり。次便に申し上ぐべく候。今夜書くべく思いしが、前文申すごとく室内蛙だらけにて何ともこまりおり候て、その掃除にかかるなり。
 貴下は何月ごろ再び京都へ出でられ候や。このこと伺い上げ奉り候。必ず返事下されたく候。
 英国の、小生より賀の歌出す人は、前ロンドン大学校長ジッキンスとて、十四、五のとき神奈川辺の禅寺に小僧し、それゆえ英公使パークスの帷幄《いあく》に参謀し、故老西郷、大久保、木戸、後藤伯等知人なり。『竹取物語』、『北斎画譜』、『樺太日誌』その他、当国のことに関する著多し。来年一世一代の日本の著書のしまいとして、かの『竹取』を再板し、『日蓮大士伝』、「高砂」の謡曲、『万葉集』の中の長歌、それに小生の『方丈記』の訳(これは小生只今の身に取(334)り実際ゆえ、はなはだよし)、事により『義経記』か『曽我物語』も小生訳し、合本にして出板するなり。この人は法律のバリストルまた医学士なり、別に博士にあらず。小生この人には金銭上|保庇《ほひ》を受けし恩あるなり。(ただし、いろいろ手つだいしこと多し。)
 去年英王即位の祝いに、南洋土人火渡りせし。輝石と申し、鋼鉄の熱を伝うる力を千と見てわずかに七ほどの少なき伝熱力の石を赤くやき、木の枝にて打ちわり、至審にぎんみしてその赤くやけたる方を下に、今われたる裏面を上にし、その上にもえにくき木の青葉をまき、その上を今までひやしありし足にて渡るなり。わが国の火渡りもこんなことかと存ぜられ候。
 小生また学資でき候につき、近年中に英国へ再渡するつもりなり。今度はたぶんかの地で畢《おわ》るべし。何とか少々のものを故郷の国へのこしたき上、およそ一万円ばかりなくばかの地で永住むつかしく、小生の資産その半ばに少々不足というほどゆえ、むやみなこともできず。かつ日本のこともちと学びおきたきゆえ、そのうち京都へ之《ゆ》き、それも面白からずば大隈伯方へ之《ゆ》く。何とか今一度貴下に対面したきことと、これのみ存じおり申し候。蔵書等多くちょっと置く所なく、その方《かた》づけかたがた京都へ之きたく候。
 小生『方丈記』を訳する末文に、「ただ傍らに舌根を傭いて不請《ふしよう》の念仏両三返を申してやみぬ」、この不請〔二字傍点〕の念仏と申すは何のことに候や。仏経より出でたる鎌倉時代の俗語のように候。また周梨槃特《しゆりはんどく》、この周梨〔二字傍点〕は何のことに候や。坐右に書なくこまりおり候。教示を乞う。
 『大英類典』(エンサイクロペジア・ブリタンニカ)第一〇校出で候。これに日本人で伝の始めて出でしは猩々暁斎と申す浮世絵師に候。(支那人で始めて、また唯一に出で候は、第九板に孔子、老子、孟軻と玄奘。)一国の人物を論ぜんに、浮世絵師に限るべからず。また絵師のみを取るも暁斎に限るべからず。しかれども、今日の洋人の目に映ずるところは、これにてその標準を知るべし。真理とか理由とか今日学者のいうところも、宇宙の眼から見たらんにはただ(335)一時の人気向きということ、この例に外ならずと小生は思う。しかしながら、われわれ人間として世にある上は、またこれを甘受し、これと伏仰せしこと、止むを得ぬことと存じ候。笞?《ちすい》の下なお楽土あり。(スペイン人オワビオ、宗教上の罪にて土牢に入れらる。身を転ずるの余地なし。みずから世界に死して牢中に再生せるかと思う。また他日妻子とつれて歩みし、楽しみLは前世なりしように思う。それすらいろいろの理想を自問自答自弁して楽しみとせしという。牢を脱してオランダにありし日の記に見えたり。)もし世にあること止むを得ずとすれば、智の及ぶだけこれを楽しむは、やけにこれをすつるにまされり、と思う。余白があるから、小生去年夏|湯崎《ゆざき》より椿《つばき》という地へ温泉を兼ねて植物集めにゆきしときの即興の大津絵ぶしを記す。経歴の地名を順に入れ、同伴の書生酒のみ、芸妓ごときものに三味ひかせ、夜さわぎせしことを、自分のことのごとくに入れたり。田辺という町(もと一万石ほどの城主ありし地)の芸妓など、この唄をひきおるもおかし。そこが随順世法度衆生《ずいじゆんせほうどしゆじよう》か。
  ※[庵点]せうことなさに、思ひついて、なれし湯崎〔二字傍点〕《・ゆざき》を遅《おそ》じまひ、朝来帰〔三字傍点〕《・あさらぎ》早く行く途中、椿〔傍点〕《・つばき》(唾)同様の金づかひ、袋〔傍点〕の底をたたいても、高瀬〔二字傍点〕の知れた、田舎ぞと、元気ひるまぬ常磐楼〔三字傍点〕、飲んだあげくは、草堂寺〔三字傍点〕(この寺に応挙の画多し、国宝たり)、富田〔二字傍点〕《とんだ》奇縁で、あのやつと、肱《ひぢ》を枕の、うたたねも、応挙〔二字傍点〕(起きよ)の声に、夢破られ、あかぬ中村〔二字傍点〕かへりみて、吾妻〔二字傍点〕《・あづま》と呼ばはる、宿屋の二階。(千代といふ芸妓ごときもの、鼻はなはだ大なり、飯給仕に来たる)どど一 ※[庵点]「千代〔二字傍点〕も変はらぬ、椿の色を、あまり大花《おほばな》で眼をまはす
  こんな気散じな、わたしぢゃもの、今まで妻《さい》の(才野〔二字傍点〕)ない、運の悪川〔二字傍点〕《・あくがは》と、なんぼ(南方〔二字傍点〕)みなかた〔四字傍点〕がたがいはんしたても、鴨井〔二字傍点〕《かもゐ》やせぬところが、男ざかり。
 この富田という郷に、小生幼時の乳母あり。小生は海外にて父母に死別し、「そのをりにきてまし物を藤ころもやがて別れになりにけるかな」の歎あり。乳母の外に親しかりしものは失せはてたれは、三十年目に尋ねゆきし。世の実事すべて小説がかったこと多し。因果説など一概に笑い陋《いやし》むべきにあらず。
 
(336)          15
 
   子分 法竜米虫殿
                    金粟王如来第三仏
                       南方熊楠
 
    明治三十六年七月十八日
 貴状拝見、今度讃岐へ帰るとか、船中にて見るためにこの状ちょっと永く書くなり。よくよく味わいたまうべし。しかし、予は只今英国へさし急ぐ投書あり。(九年かかり草せしものを、あまり多種の国語にて書きしゆえ、一人にてちょっとよむ人なく、返し来たりしを(科学雑誌より)、なおそのまま順序をおきなおし、文学雑誌へ出すなり。)また、「新方丈記」一巻(これは予みずからの『方丈記』なり)作り、オクスフォード大学へジキンスが遺すべき文庫中、自筆のまま保存するを、稿|畢《おわ》りしが所々直す。その方うめばこれをかき、この方倦めばかれをかくという風に認《したた》むるから、前後の序は、よくみずから直して読まれたく候。
 今日は希有の快晴、那智村の滝の祭にて、楫取《かじとり》の心は神の心なりと貫之が言えるごとく、村人みな慾を離れて一生懸命に炬火《たいまつ》をふりあるく。やがて行列も出る。徂徠は神社仏閣より配る御ふだを門に打ちつけ、仁斎はきちようめんにみずから年こしの豆をまき、また、福沢翁も常に祭礼に寄付金をしたから、予も往ってなにか音頭取りでもやってやらんかと思いしが、何様《なにさま》暑さはなはだしきゆえ、また予の室にはちょっと二千円ばかりのものがあるから、用心悪く、留守居しながら、法布施《はうふせ》のためこの状を汝に賜うなり。近来、洋文のみ認めおるから、こんなものは書けず。さりとて無順序なこともかけぬから、ちょっと順序立てをしるし付けた紙を左にし、さて、かくなり。
(337) 第一に予の姪楠枝の歌、さすが米虫ごとき心なきものでも感心せしとは、感心なり。今一人のお倉とて予の姉の子、これは十四歳になる。これも予が字くばりをしてやり、ジキンスの賀の歌よませしに、八日ばかりかかりてこのほど送り越せし。年劣れるから楠枝ほどにはならぬが、さすがは金粟王の姪なり。やはりおのれの名をよみ入れて見よといいLに、かかる難題をよくよませし。「千早振る神の代も見し那智の滝、尽せぬ年の底や倉〔傍点〕なる。」滝の底は尽せぬ年を倉のごとく貯えたかと問う意なり。二人ともよくも詠めり。むかし清水寺の大旦那田村将軍というは、身長八尺に余り、怒るときは猛獣|懾伏《しようふく》せしというに、その孫にあたる葛井親王というが、九歳とかにて、嵯峨帝の御前にて的《まと》を射あてしに、起《た》ち舞いて?《よろこ》び、親王を抱き、「某《それがし》公けの威により東夷を平らげ仲成を殲《ほろば》したが、それは年積んで上のことなり。いかでか親王の若く弱くしてかく武功あるに及びまいらすべき」と申せしを、人の親の子を思うほどあわれなることはなかりけりと、天皇も感嘆したりという。今、金粟王もまたかくのごとし。しかるに、かかる子を持ちながら、家族をかまわず遊佚放産などするもののわが邦に多きは歎ずるに余りあり。これみな汝米虫の咎《とが》なり。
 予の父は偉人なりしが、その後は男子にろくなものはなく、女子にみなかかるものあるは、陸象山を、陸姓のなんとかいう芸妓が、遜・抗・機・雲の没してより、陸氏秀邁の気、婦女に萃《あつま》つて男子にあらず、というて辱《はずか》しめしごとく、辱しきことの至りなり。むかし小式部が住吉の浜で、波の上に鳥居るをよめと母和泉式部が言いしに、千早振るといいしかば、波に千早振るは如何《いかが》と人々あきれたるに、やがて「千早振る神のゐがきにあらねども波の上にも鳥居立つとは」の名吟ありしとか。お倉の名の倉と滝とは一向ふつり合いのものなるに、よくもよみたりと感心致すなり。
 不請の念仏は、小生は一向分からぬから、すでにたれも請ぜずにする念仏、すなわち何となく出た念仏ということと解し、その旨出したり。しかし、貴言の方よろしと思うから、さつそく通じ直させやりし。
 舎衛《しやえ》の三億の家はその世にありてなお世尊の出世を知らず、ということあり。米虫もこの類にや。第三仏とも自尊するものに、何をまことにつまらぬことをいい来たる。ついて一つの話あり。耳を清めて聞け。
(338) むかしイタリアに一の信神者あり。神に向かいて、予に教うるに世にあるにもつとも大事ならんことを一つ見せよという。ガブリエル天使来たりて、予に随い来たれとて、諸国を周遊す。まず一市に至るに、十八、九の美少年、杖を挙げて、八十に余りたる老爺を打って血を出すに至る。観る者みな快と称して救わず。次に一寺に至るに、信心堅固の老僧、数十の竜虎を集め、斎《とき》を食い経を誦す。その体もっとも厳重なり。さて臥しおわる後、件《くだん》の老僧ひそかに油をその屋に満布し、炬火を投じて、一同の僧徒数十人を一時に鏖焚殺《おうふんさつ》す。この人ここにおいて天使に謝す。いわく、予はなにか道のためによき心得になるべきことをこそ願いたるなれ。しかるに見せらるるところのこと、いずれも無理非人情のことのみなり。かかる異常のことは訓誡となるにあらず、故にこれより分かれん、と。
 天使いわく、神の心を知らざるものは?《なんじ》なり。居《お》れ、われ汝に告げん、世間のことみなこの類なり。皮想《ひそう》の観るところと実事の裏底とは大いにかわる。これを心得よ、これを心得るが第一ということを示せしなり。まず先刻の美少年は、年が百に余れるものなり。この者信神厚く、養生世に超えたれば、年百を踰《こ》えてなお十八、九に見える。八十に見えしものはその子なり。年わずかに五十に満たざるに、不養生、奢侈、淫靡のはなはだしき、身体枯れて八十ばかりに見えるなり。されば、何故にわれのように養生せぬかと訓誡するに、聞かざるのみか、老父を嘲哢することはなはだしきより、稠人《ちゆうじん》中でこれをたたきしなり。次に老僧は、その国に希有の聖人なり。その国の件の山に古大寺観あるが、今は道行|棄《すた》れて戒を守る僧とては一人もなし。件の数十人の僧は、盗賊を職とし、外面に経巻を誦し、威儀衣を着て、田舎質朴の家に宿り、夜に入れば財を奪い人を殺し、その妻女を姦淫することやまず。幸い今日、年に一度の盗贓品《とうぞうひん》の総勘定するとて、件の山に集まりて、右の老僧これを饗応して酒のませ、一同臥したるところを、国土のために大害を除く心得にて、みずから戒を破りて焚殺し尽したるなり、と。世界のこと、この類多し。
 貴書によるに、なにか予は春画とかを弄し、人に春画談などをし、酒ばかり飲むとか。金粟王如来とも自称する正遍大智のもの、いかんぞそんなことぐらいにみずから気づかざらんや。気づかざるにあらざるのみかは、そのこれを(339)仁者《にんじや》に告げしものの名まで知りおれり。この者は世にいわゆる小才子にて、田辺で新聞など出し、「新方丈記」にはあらねども、なんとか自分のよみし書数とか、自分幼きときの素養とか、そんなことをかきちらし、あに然り、それあに然らんや風の文章で、蛙や蟹の上に目の付いたる向う見ずで、人を虚喝取財し、また芸妓に子はらませ、ことに米屋の妻(夫あり)年四十三ばかりなると通じ、それからその寺は旧藩主の菩提所にて、今に馬鹿者多く病に医療もせでこもりに来る。その上《あが》り高多いとて、寺の料物にて法律稽古に上京しおり。(寺料を私に用いて銅湯を呑まされ、またナマズになりし話、『宇治拾遺』に出ず。西洋にもかかることを多く伝う。)はなはだしきはその父、寺の下の庵においてくれというを拒み、法庭に訴え捫択《もんちやく》せししれものなり。
 御存知のごとく、小生は西洋、ことにおちついた英国に久しく留まり、そのいわゆる紳士風を仰ぐものなり。(ビスマルクは、さしもの豪傑、剛情一点張りの人なりしが、老後嘆息して、ドイツが英国に及ばざるは、紳士風なき一事なり、と。マファツフィーは、英国と大隙断えざるアイユランド人なるが、その言になお英国を称して、英人は紳士として世界を横行しうること、古アテネ人がギリシアにもてはやされしに異ならず、と。春秋のころ、魯が弱いながら第一流の名ありしも、かかることにや。数百年の後も、項羽のために義を守りて降らず、漢高これを囲みしに、?唔《いご》の声なお断えざりしを感じたり。某いわく、孔子の言は当世に行なわれざりしが、その言全く用いられたりとしても、その結果は今日の英国に及ばず、似たるのみならん。その君子といえるが、すなわち今日の英国紳士のことに過ぎず、実は及ばぬなり。)
 英国の紳士というものは、衣|弊垢《へいこく》たるも、なおシャツのよごれたるを恥とす。人といやしくも交わらず。予かつて五百人ばかりの中で人を斬りたることあり。さて徐《しず》かに見やりしに、その中なにかの機会でこれを見おるものは、三、四人に過ぎざりし。この風は実に仏の大威儀といえどもこれに如《し》かじと感歎せり。山本達雄もかつてこのことを予に話せしことありし。されば、いやしくも人と言をかわさず。ただし、一旦交りを結ぶ以上は、見捨てることあること(340)なし。すでにジキンスのごとき、その一例なり(このこと後日面晤《めんご》のとき、くわしくいわん)。しかるにわが国の人は、米国など雑種|混糅《こんじゆう》の国情察せずして、その風を習い、懇親会とか歓迎会とか、町人も士も、貴族も幇間《ほうかん》も、えたも成上りも相交わり入れ混じて、粗雑無用の胡語乱説し、終日対坐して何の得るところなく、さて川船の乗合い同様、ちょっとしたことを尋ねても返事もせず、また知らねば知らぬと断わってもくれず、物贈るも受取りは来たらず、たまたま話したことは、根から葉の末までとり捜して、これはうそだろう、これは法螺《はら》なるらめと、公けに吹聴評論す。
 予は前日高藤師より仁者に転致せしめし状中に、バックルが、道義学というものいかほど研究するも新しきことは出でず無用のもの、といえるを駁して、千年研究したりとて、親の頭はったらよいとか、姦通するほどよいとかいうことは出ぬ、出ぬが、巨細《こさい》なる場合においての心得処分法には、時代によってかわることあるべし。これを心得ぬときは、身に損あるのみか、社会の進行を阻害すべきことあるをいえり。
 たとえば、この地方で、今も人に飯を供するを礼とす。予の弟の支店、勝浦という所にあり。予たびたび用事に行くに、大急ぎに白米を買い来たりたきて、魚を撰み高値出して買い来たり食わす。その地第一の豪門は、予の弟の妻の兄の支店なり。そこには人も多く、味噌あり(余は味噌を食うことを好む。他人とかわり、何もこれとて食にすき好み少しもなし)。故にその方にゆき、味噌をもらい食う。しかるに予の弟の番頭なるもの、これを憾《うら》みとす。折角たいたものを食ってくれぬという意なり。しかるに、実は予は用事すこぶる多く、かの地へなにか薬品など取りに往く間でも、この地で取りし植物がひあがる等のことあり。故に腹へったら、あり合わせたウドンごときものを一、二盃くい、また、身体には味噌がよきゆえ、味噌をなめてすむことなり。それを、右番頭は主人の兄なればとて右様にこしらえる。しかるにその店は手狭に急がしき上、子供多く、なき通しにて、なかなか飯を落ちついて食えぬなり。故に他に之《ゆ》きて食う。いわば双方の便宜なり。それに因習の久しき、これを憾みとするなり。かかることいわゆる時代後れなる上、ちと察しのきいたものならは、わざわざ白米買いていそがしきうちにたくよりは、この人は至って淡泊(341)なる上、物にかまわず、用事早くすますことをのみ好む人なればとて、ウドンとか、ソバとか、また味噌ずきと知らば、別に本人の好まぬものを、たとい式法なればとて、魚肉など買うて(本人なんとも思わぬことゆえ)食わすに及ばず。いわゆるその志を察しその行いを見るで、なんとか軽き仕様もありそうなものなり。スペインは礼法の正しき国にて、ストーブの火|熾《さか》んにもえ過ぎしに、消すべき役人坐にあらずとて傍観するうち、王病みつきて、それがために?崩《そはう》せしことあり。孟子のいわゆる嫂《あによめ》溺れんとするとき抱きて拯《すく》うべしというも、この類なり。
 今、その一例として、今日日本に急なることをいわんに、わが国の人は、これはうそであろう、それはうそであろう、はなはだしきは、今こんなことを君いうたがそれはほんとうかなどの語を、何の気もなくいい出る人多きに、予は今度帰朝してよほどうその多きことと呆《あき》れたり。礼式のこまかき国は実は無礼のもの多きに出ずると、マファツフィー言いしも思い出ださる。(前日、高藤師より『曽我物語』借覧せしに、五郎、十郎、人にものいうに、まことに礼が正しい。それと同時に、ちょっとしたこと腹立つとて、厚恩ある叔父母、養父同様の人らにあたりがはなはだひどい。)されば、これらの人に訪わるるごとに、用心して言わねば、たちまちうそつき、法螺吹きなどいう。すべて人間の言詞は不十分なるものにて、現に小生など自国へ二十年|不満《みたず》で帰り来たって、馬力強いとか、ずぼらをやるとか、分からぬ語多く聞く。それと同時に、こっちのいうことも若い人には通ぜぬ。その上、西洋と事情もかわり、さればとて望月小太などの流で、半解の英語|雑《まじ》りでいうも、人を見下すに似たり。ために思いつき次弟に訳解していうことも多し。それも、他人のいうところ、平生書で見しところとかわればとて、たちまちにほらなどという。よく思うても見よかし、吾人この身一代の履歴三十年間のことのうち、何ひとつたしかに人に語り得ることありや。日記を案ぜんにも、大いに急がしきときは日記など付くるひまなし。故に日記などに書きしことは、用少なき閑事のみなり。大は忘れて小は記すというものなり。されば巨細《こさい》に検せられんには、吾人の口上、一として正伝あるものなく、みな多少の法螺ならん。
(342) しかるをわが国の今の人は、交友親族の間も、今こんなこというたはほんとうかと聞きかえすなどは、実におかしき弊事故徳の国風といわざるを得ず。さて、なんでもなき日常の談話さえ人に正直をせむること、なにか憲兵が国事犯関係者でも検するごときに引きかえ、われらこの輩に聞かんとするは、不意不識に正直ならぬ言を吐くものと、何の理由因起なきに、たちまちあいたる人などに、さして自分の大事ならぬことまでも、これはあれはと一々聞き問うものと、その罪の軽重は如何《いかん》。英国などには、インキジチヴネス(inquisitiveness)というて、小児などの第一として人に物をあれはこれはと聞くを不礼と叱ることにあるなり。(西洋に、疑い〔二字傍点〕は学問の最要素、むちゃくちゃに古人などを信ずるは学問を阻むと言い、わが邦にも、知らずんば知るまで措《お》かずというは、これらと全く異なり、第一にみずから疑いを発しみずから疑いを決するまで研究せよというなり。むちゃくちゃに人に問いまわれというにあらず。否、人に物問うをのみ学問と心得るものは、自分の心を喪い果てたる胸中無主人のものなり。受売りの本家なり。学問すべき人間にあらず。)問わるるものの迷惑さを察しても見るべし。
 田辺は亡中井芳楠氏やや久しく潜みおりし地にて、帰国後、錦を衣《き》たる心にや、その地に遊び、旧識不旧識多く集まり会せしに、例の好問がはじまる。中には英国の網は撤網《なげあみ》か引き網かときくもあり、また、海亀を畜《か》う方法は如何《いかん》と聞くもあり、医者の給料、茶代の有無、間男の相場、頸くくりの処分、そんなこと続々問い出で、肝心の歓迎の意は天外に飛び去り、夜二時とかまで問答し、敵は多勢こちらは一人、銀行の外に出でしこともなければ、まことに無用のことに時をつぶしたりと憤《いか》りし由なり。さもあるべし。それに今一つ考えられたきは、小生は外人とかわり、一生独立で通した男なり。もっとも父の遺産によることとはいえ、その外に誰に諛《へつら》うて引いてもらいしにもあらず。また誰にものを習いしということもなし。ただその道を好む人が、小生の無智を歯がゆくて、技癢の感のあまりに好んで知らせくれたというのみなり。しかるに国税の幾分をくいかじりし留学生などと同様、報告として視ていろいろのことを根問い葉問う。その人これを聞いて、ただ南方の弁はこうだ、紀州なまりは今に失せぬ、こんなことはくわし(343)いが、あんなことは一向観察せなんだそうなと評し合うのみ。その人々に益なく、こっちに時を失う。まことに双方無用の至りにあるなり。
 さて小生は平生人とむやみに交わることを好まず。これは小生一人に限ることかもしれぬが、まずは人の天性の美しく発達せるものと小生はひそかに思うなり。一旦人と交わる以上は、その人いかに落ちぶれ急難あるも、見捨てるは交遊の意を度外せるものと小生は思う。しかるにわが国の人は一般に、支那人の詩に、手を覆えばすりばちとやらになり、手をくつがえせばたちまちラッパの口となるとやらいいしごとく、今日交わるものは明日は無挨拶、そんなことは引き受けるというて、さて少しく頼むに一向そんなことは知らぬなど、馬琴の「食言郷」をまのあたりに見る心地することのみなり。されば、小生、田辺にありて、これらの人むやみに来るも、亡父の知己なりし人、また自分の旧友の外はあわず。それらとても、一《ひと》通り挨拶するのみ、あまりに言はいわず。さてその中に心易きものに興に乗じてなにかいうに、これらの人の口は漏斗のごとくたちまちいいちらす。そを伝聞して、見せ物同様に、多く押しかけ来るから、こちらは植物採集などいうことは、天気にもより、三百六十日ことごとくできるものにあらず、たまたませんとするとき、そんな人来るから、止むを得ず、まじめではかなわじと心得、春画など見せるなり。いわば世を愚弄の心なり。
 さてこの春画というもの、小生もかの地にていろいろ見しことあるが、わが邦のほどよくできたるはなく、文章とても、わが国の偉文として海外に誇るべきものは、『土佐日記』にも『枕の草紙』にもあらず、春画の文に止めたり。「日の本は岩戸神楽の始めより女ならでは夜の明けぬ国」で、東坡《とうば》のいいしごとく、上《かみ》玉皇大帝より下《しも》悲田院|乞児《きつじ》に至るまで、このことを好まぬものなし。小生は婦女とろくに話《はなし》せしことは、母姉といえどもなし。いわんや、女と交会せしことは一度もなし。されど世にあって世と事を話さんには、その人情の至極に達せざるべからず。試みにこの大社会の人世より、色事をもって一大急に引き去りて見よ。のこるところは、枯桑死灰のみならんこと照々たるにあら(344)ずや。人にすすむることにあらず。予のごとき女にうときものが人情を知るの最捷径として、予はこれらの学までも深くなしおるなり。平賀源内が、時のしかつめらしく『源語』などを講ずるものを嘲りて、彼らは上下《かみしも》きてまおとこのなり筋を講ずるといいしごとく、ギリシア・ローマの古学といい、わが『日本紀』といい、下りて『源氏物語』、『枕の草紙』、いずれかこのことに止まらざる。
 支道林なりしかと思う、僧に似合わぬ鶴を囚して愛せしを不相応のことと人の詰《なじ》りしに、貧道ただその捷軽を愛すといい、また、重野より数年前に、実は予の亡父の出でし家より見出だせる、『播磨石』という忠臣蔵の古小説に、むかし摂津に鶯塚とて鶯をかえる僧あり、人これを笑いしに、われは鶯が『法華経』を誦するに比して、自分の勤行《ごんぎよう》の粗ならんことを顧み尋《は》じるためといいしとか。今日ごとき崖岩削々《がいがんさくさく》として儀貌峻酷、刀の鞘さえあつれば喧嘩してみたいというような国には、予は春画を弄ぶ人の多からざるを憾《うら》みとし、「如来ただその和合を愛す」と答えんのみ。されば上述の道義はかわらぬことながら、時代につれて相応に場合に応じてその儀を制するの上よりも、予は人の正直を一言一語の閑話中にも咎むるような風、またむやみに人に根おし葉おし物を聞き正す風などを止めんには、春画でも見せて、何となく一心不乱にその方のみ思い、和楽ということを抽象念入さすることを必要とみて、つまらぬものや口論ずきらしきものには、自分は何もしらぬが春画を大すきで大分もっておるから見よと見せて、言句の繁、時間をつぶさるることを避くるなり。人を怒らせず、人を和すること、これに如《し》くものやはある。帆足万里も、『源氏物語』にいうところ、一として誨淫の詞にあらざることなし、父帝の后と通じ、人の妻と通じ、はなはだしきは、自分の生んだ子が生長したるに懸想す、されども、その間優長和悠の体あることは、大いに人心を融通するの器たり、といえり。これを見て逆上して無心の域に至るも、また一大|攘罪《じようざい》の具に候わずや。(法律上のことはここに省く。)
 徂徠は、若きとき上総で僧の中に人となる。その八代将軍に 上《たてまつ》りし政論中に、僧は淫念を断たず、これ外を飾ることをつとむるゆえ、といえり。現に真言などには、僧徒に猥行のもの多く、否、猥行のもののみになり、予ごとき(345)はこれがため悲しんで今に墓参もせぬなり。一向宗には、わりあいにあまりに語るべからざるほどのことなきは、橘春暉の『北窓瑣談』にも内に足るところあればなり、といえる。止水観とかなんとか、実は心の中で手淫すると同一なり。西洋にもローマ教は女犯を禁ず。それゆえ男色行なわれ、また『聖書』に何の一言なき聖母というものを作り出だし、はなはだしき美婦人にかきなすを争い、中にはこれを拝して、仰敬の念よりは一番したいという念の方|熾《さか》んなるものもあり。仏国の学者にして、ローマ教僧の聖母より天啓を夢中に受けしと称するは、実は手淫せぬのみ、心の手淫のはなはだしき思い込みのど天上なるもの、といえるあり。
 わが国の『日本霊異記』にも、河内辺の僧が吉祥天像に懸想せしはなしあり。高野に幼時ありしとき見しに、われら、「心なき身にもしたさ〔三字傍点〕は知られけり、高野《たかの》で行《ぎよう》に秋の夕暮れ」(なんと金粟は、楠枝、お倉二美女の名歌の叔父だけありて、即席はうまかろう)。悉達多《しつたつた》(一切義成)のしゃれとでもよみたかったほど、坊主ら女にこり、所々の寺院の屏風まで、別嬪の天女、女菩薩多くかきあるに驚きたり。また、女きらいのやつは、文殊周利のシリという音に近きを幸い、童身文殊など信心し、祖師の像中にも、美童を何の用もなきにそばに書きたるなど、いずれも内心したきゆえにあらざるはなし。よろしくそんなにしたくば、打ち明けて予の弟子になり、他のことはならえぬから、和合門ばかりでも研究せよ。したきものをもせぬこと、いな、せぬように見せん見せんとのみ心がくるから、そんな外儀のことにのみ時をつぶし、真実の教義もなにも耳に入らぬなり。『呂覧』に、これを禁ずる能わざればよろしくこれをほしいままにすべし、ということあり。やりすぎて飽き満つるときは止むものなり。
 また、わが国の人の口の早き、その一つをいわば、予、当国にていろいろ珍しき植物見出だす。培養の仕様によりては、国益ともなり、たとい庭園に植うるとも、それ相応の楽しみはあるものなり。しかるに、これをちょっと口外すれば、たちまち何になるものとも知らず、これを取り尽し、その物|天晴《あつぱれ》名山霊岳にその福分を与うべきを、一朝にして全滅す。かかるものにかかるもの見するは、罪を作るというものなり。この優劣の争い劇《はげ》しき世界に、今の今ま(346)で生息して、わずかに一山隅一樹下に生存したるは、よくよくの因果あるものなり。それを南方がとったから、金になるものに相違なしなどいいて、何のわけもなく全滅せしめて、何の得るところもなきは、予は「始めて傭《よう》を作る」の譏《そし》りなからんや。これにて予の穏やかに人をさくるための春画弄戯なることを知られよ。道は人ごとに説くべきものにあらず。万人の中に一人、千人の中に一人ぐらいのものなり。しかるをこの輩、何の所決も何の所志もなく、あの奴の方へゆけば面白いことがあるだろうなどいう漠たることで、ひまつぶしに押しかけ来るは、畜生同然の自亡者なり。何を見せたりとてかまうことあらんや。いわんや、春画見せてもらい、自悦大喜して去るにおいてをや。
 仁者《にんじや》、また心して件《くだん》の小才子、生意気の新聞かき坊主などの言を聞くことなかれ。青砥藤綱《あおとふじつな》の詞に、君(時頼)われを八幡の夢告なりとて重任せんには、他日、八幡の夢告なりとてわれを懲罰するの日あるを怖る、といえり。一面の識もなき吾輩のことを、たといほめたりとて信ずべきにあらず。ただし釈尊も、石女黄門の輩は出家しおわるとも擯出《ひんしゆつ》せよ、といえり。いわんや、今日この活劇の社会に、女人も起ちてその大半の動機たる世に、女を知らぬぐらいを面目と心得るごときは、まことに浅はかな了見といわざるを得ず。しかして、金粟は海外に学問久しく、そんなことのひまなかったから、何となくそのことなく、今となりては、それを知らざりつればこそ、学問は面白くできたれと悦びおるなり。それもでき、学問もできる人はなおよし。世に希有なものはおのずからねうち高し。一休は悟《さと》りたれども子を設けしことある人なり。予はそれや帰根斎に比して、みずから高しと喜びおり。ただし、歌人はいながらにして名所を知る、一件の秘事、その場数《ばかず》へしものよりも、予はよく心得おり。毎々、上は(かの地の)皇族より下は乞児、博徒までも和らげ笑わすの功は、大勲位にも優れり。これあに春画の功にあらずや。ただし、達と称して女人と裸にして同浴せし李夢陽《りぼうよう》の狂風にも傚《なら》わず、任と称して衆中に醜部を露わせし周《しゆうぎ》の放を学びしこともなければ、その辺は安心あれ。(件《くだん》の破戒僧は、小生一面識せしことなし。このことまた心得置かれたく候。)
 予が仁者ならんには、上述ごとき破戒僧は、鉄如意か金剛杵で.つきとぽしやるなり。予は帰国後、家内に事情あり、(347)やや長く遊びおれり。知人はみなひかえて、新聞かきに知人多いが少しもかかず。しかるに、件《くだん》の破戒僧はこれを書き、「東寺へ之《ゆ》く由、云々。知らず、わが仏教界、果たして南方氏を入るるの余裕地ありや、ウンハア(これは春画の語なり)」とかきたり。予は田辺にて親しきものに、今英国へ引き還すこともちょっとならず、東寺には土宜師あるゆえ、その方へでも寄食せんと思う、云々、といいしを聞き伝えてかきたるなり。第一、僧としてウンハアなどいう語を心地よげにかくも、心なきわざなり。また、人間にはそれぞれ内情あり。予のごときは、兄弟およびその子供多く、いろいろ(自分は独身ながら)その方《かた》も付けざるべからず。隠しうそいうにはあらざるも、あまりに用なき人には、知友間といえども、よい加減なことをいうも、止むを得ざることなり。また、予の一身の一動一作、なにも新聞へかいて世間へ披露するほどの関係あるにあらず。それをかかることをかくは、人の陰事を暴《あば》くの一端ならずや。また、わが邦のものは、近来、何の出処もなく、閑言語(英語に gibbering《ジツバリング》何の意趣もなきに場面ふたぎにいうこと)をかくが風なればとて、いやしくも予を容るるの余地ありなしなどのことは、いわずもよきことなり。はなはだ心なきものの所為といわざるべからず。貴下もし真に徒弟に人物を出さんと思わば、これらのことは、よくよく心得られたきことなり。
 ついでにいう。貴下の井上円了の哲学館の祝詞、また、誰の筆か知らぬが高等中学林図書館の趣意書に、三字つづきの語多し(鉄健児などという類)、これは、威儀を尊ぶわが宗では、梵語直訳(半択迦《はんちやか》、薜茘多《へいれいた》の類)の外は、不相応のことと存じ候。なんとなく後進のものを軽率にするなり。この類のことは、修辞上、欧州文学にもやかましきことにあるなり。さすがは福沢翁などの先生の書きしものに三字の漢語なきは、敬勤の外なし。
 それからまだ面白いことがあるんだから、ついでにいう。ただし、右の新聞かきの破戒僧などに口軽く言うは、心得ありての上のことにしてもらいたい(実は仁者これを言うの要なし)。田辺に大福長者がある。その人は今の賢人にて、一生に五十万内外の金を作り、和歌山には今はこんな大きい家はない。子多くて、いかにも和気|藹々《あいあい》たる家な(348)り。少しも奢侈のことはせず。有名なる歌人にて、屏居《へいきよ》して歌よみ、戸外に少しも出でず。この世は仮り物、運というものは父も子に伝うることならずとあきらめて、第宅《ていたく》は広いが修せずに、圃広くかまえ、予よりおくる珍卉など植え、また有益の農桑《のうそう》して、娘などにもさせ、ひっそりくらしおる。この人の家は紀州に国造《くにのみやつこ》のけて第一の旧家にて、脇屋刑部卿が伊予へ渡るときも、南朝の味方して、兵船三百艘仕立て送れり、と『太平記』にもある。旧藩主も年頭に第一にこの人祖先に挨拶し、さて次には家老ということなりし。予の父盛んなりしときの交友にて、故中井氏、田辺にぶらぶらせしとき、銀行へつかいもらいし恩あるゆえ、去年中井氏帰朝するや否、挨拶に夫婦づれで来たり、右の人も大いに喜び、久々戸外に出ぬに、始めて出でて海辺でも興ぜしなり。そのとき中井氏、予のことを話し出し、この者は希有のものにて、センチ虫の研究に七年を労したるほどの奴なりといいしに、かの父は知れる人なりしが、兄放産しおわりしは気の毒なり、あわれその人を見ばやといいおるうち、小生帰朝し、この広き県下に幼時の友とては二人しかなきその一人、今田辺で医者しおると聞いて尋ねたる。それより右の家へ行きしに、父在世のときは毎度馳走されし礼なりとて、いろいろ世話になれり。
 この人に娘多し。長は東牟婁第二、三の豪家、漁業その一郡を養いおるといわるるほどのものの妻なり。次は十八歳ばかりにて、前日天覧になりし石井という彫刻師の博覧会に出せし象牙彫りの田舎娘稲扱きの顔と一分ちがわぬ、すこぶる穏やかなる美女にて、まことに愛敬ある女にて、おとなしく毎夜十二時、一時まで夜仕事し、予その兄弟と飲んで帰るをまちおり、下女の手にかけず臥床を調えくれる。和歌の達者なる上、手蹟すこぶる美事、琴ひき、布織り、海を游《およ》ぐことも、西洋料理も心得たるものなり。予一言いいしことだになし。しかるに、予その家を辞して当山に籠りてより、たびたび予よりその父へ和歌をおくる、その返歌など認め来る。あまりに手蹟見事なる上、実情あることのみかき来るから、予も記臆にまかせ、古えありしおかしかりしことなど画にかき、また物語にし和歌添えなどして贈りおれり。
(349) 話はただこれだけなるが、それにつけて考うるに、西洋にチバルリー(chivalry)ということあり。これはわが朝、ことに支那などには、ちょっと訳のできぬことにて、人の妻でも娘でもよし、中古の武士が守り本尊のごとく一人女を胸中に認めて、ただその女に辱《はじ》かぶせず、ほめられん、ほめられんとのみ武道を励みしことなり。(『嬉遊笑覧』というものに、宮本無三四が天草一揆討ちに打ち立つとき、吉原の名妓が羽織おくりしをきて出で立ちしことあり。それらはちと似たることなり。)下って哲学者にもたまたまこの類ある。デカルツは予と同様の偏人なりしが、一生に一度可愛いと思う女ありし由。またコムトはなんとかいう後家と交わり(いやらしきことは一切なしになり)、その励みのために哲学すすみし功あることをみずから述べたり。(仏の十八世紀のいわゆるヴォルテール、ルーソー輩のは、これと異に、まことに学者に似合わぬ人の妻と親交する風大いに盛んなりし。本夫もこれを咎めぬを美風とせしなり。gallantry(ガラントリ)という。これは、わが中古の和泉式部が夫ありながら道命阿闍梨と寝、敦貞親王に通わせなどせしようのことにて、わが邦にはありし。)
 予の心中、今さら一少女ぐらいなんともなきは、米虫これを知れり。しかしながらこれをもって推すに、男子たるもの、意中に真に可変いと思う女のありなんには、まことにその人の業進み行修まり、意固く心たしかになる功あること、ちんぼ立つに土砂《どしや》ふりかけたり、埒《らち》もなき田夫の娘を大黒にしたり、また、たとい満足に表むき妻持ちうるも、六つ指とか脇臭《わきが》とか、どこか欠けたものにあらざればきてくれぬ、今日の真言坊主らの心中の土台すでに壊劫《えこう》を経おわれるものに比すれば万々ならんか。ただし金粟如来、過去に善を修すること無類にして、今生すでに相好円満なり。(ただし、最近過去に親のすねをかじったから、今生に歯みなそろわぬは遺憾ながら、その代《しろ》にまた禁戒守るとしもなけれども堅固にして、その功徳で、一物大なること、かの釈迦のが須弥《しゆみ》を七巻き半|周《めぐ》りて余りあり、頂より紅蓮を咲き聞きて、その精進を黄門ゆえかと怪《あや》しみし卑劣下根の宮女どもを感嘆させしにも劣らぬなり。金粟かかる大物を持ちながら、一度も帰根斎様のことなきほ、米虫もっとも渇仰すべきところなり。)
(350) かつ中井いろいろ予のことを吹聴して、妻なきゆえ今のようにぶらぶらなり、妻ありたらんには実に王佐の才などといいしゆえ、前年、錦織某の義心の聞え高かりし時、小山という女、数万円の家の娘なるが、その義を助けやりたさに妻となりしようなことにやも知れず。何しろ人の言を聞いて人を慕うものは、またたちまちに人の言を聞いて人に反く。右述の青砥の言のごとし。ここらの見解は肝心なり。ただし、糞土の中すでに大道ありて、餓鬼の火?は天女の瑠璃と見るところなり。金粟如来、この善女人の好情にあうて、あに綺語の楽しみなからんや。少々記して(これは、英国では、予はずいぶん名高い投書を多くし、今もしておるから、必ず後に予の伝を尋ぬることが起こる。よって面白く綺語を事実に加えて、「新方丈記」一冊作り(英文)、今度ジキンスに送る。オクスフォードの図書館の石室に収むるなり。その体はルーソーの『自懺篇』にならえるものなり。そのうちにあるから)米虫に供養せん。よろしく随喜されよ。
   田辺なる多屋《たや》の高子が那智のやどりに文しておとづれたりけるにかへし遣はすとてそへたる
 田辺な〔三字右○4つ〕る多屋〔二字右○〕】がか〔右○〕どべに〔右●〕か〔右○〕けし橋〔右○●〕ふみ〔右●〕(文・踏)見〔右●〕るた〔右○〕びに人〔三字右●〕もな〔右○〕つかし〔右●〕
  注。これは金粟の大奇歌じゃ。わが邦の生な文学者など、西洋西洋というて、西洋には首韻《アルリタレーシヨン》・尾韻《ライム》の両者あり、わが国には尾韻なしとかこち、前年、森田思軒がこのことを『国民之友』に喋々して、「さ〔右○〕いたさ〔右○〕くらに、な〔右○〕ぜこまつなぐ〔右●〕、こ〔右○〕まがくるへば、は〔右○〕ながちる〔右●〕」、この俗謡に首韻(○)、尾韻(●)あるは、せめてものわが国の面目なりというようなことで、また、団十郎のせりふに(「春藤玄蕃《しゆんどうげんば》」)、「上意〔右●〕を権〔右○〕威〔右●〕に検〔右○〕使〔右●〕の役目」といえるは、両韻ふみえたりとてほめたり。これらはわが国のこと知らぬものの言にて、『万葉集』に、持統天皇外二人の歌に、首尾韻共にふめるがある。また、名高い静女が蔵王権現の前で、米虫の前身ともいうべき女ずきの僧に強いられて、法楽を奉る歌にも、「あり〔二字右○〕(蟻)のすさみの、にくきだに〔右●〕、あり〔二字右○〕きのあ〔右○〕とはか〔右○〕なしきに〔右●〕、あり〔二字右○〕ては〔右○〕なれし面影を、いつの間〔右○〕にか〔右○〕はわ〔右○〕するべき〔右●〕、わか〔二字右○〕れのことに哀〔右○二つ〕しきは〔右○〕、おやの別〔右○〕れ〔右●〕、子の別〔右○〕れ〔右●〕、すぐれてげにもかな〔二字右○〕し(351)きは、夫妻の別〔右○二つ〕れな〔右○〕り〔右●〕けり〔右●〕」。これも首尾両韻ふんでおる。しかしながら、なんぞ右の如来の御詠に及ぶべき。また、もっともむつかしきこと一つして見すべしとて、
  十二月一日、熊野へ出で立つとて田辺はなれんとするとき、この夏、多屋の高子がこのほとりにて浴衣《ゆかた》姿の清げなりしも、今ははや半年の昔となりけることと、わが身の行衛定めぬにつけて、浜の真砂の朝な夕なに所かはる由なんど思ひつづけてかくなん
 今はとて〔右●〕ゆ〔右○〕かた(浴衣)ゆ〔右○〕かしき〔右●〕人に袖〔右●〕遠くなる身(鳴海)のしぼり(絞り)そめてき〔右●〕
これは首尾両韻ふみし上に、鳴海絞り(浴衣の)のしゃれまであるなり。
  田辺にありしとき一言だに雑《まじ》へざりしに、山ごもりしてくさぐさのもの用あるたびにたがはずおくりこすをかたじけなき由かきつけて、をはりに
 鳥の足の跡も定かに見えぬまで恋ひにけらしな吾ならなくに   金粟王
   返し
 おぼつかなまだふみ知らぬ鳥の跡なに習ふとて人に見せけむ   高
  なんと金粟の風流には降参か。楠枝の歌ぐらいに呆るるほどなら、長僧正はこれを見ば気絶すべし。
 まだ面白いことがあるんだ。紀州の田辺というは妙な処で、町家に入れこみて芸者屋がある。故にどこへでも入り来る。猫というが、ほんに猫同然ちょっとも違うところなし。すなわち件《くだん》の破戒僧、予と一面識なしに予のことを仁者にいいしものなどは、はなはだ都合よい。それだから、予は芸妓などいうものと面も合わしたこともないが、久し振りで酒のむからとて、友人が申し合わせ、予酒のみながら書よむところへ、同地で第一というもの三名来た。さて読書もはたへさわるからやめて、予元来音曲すきゆえ、「あれ見やしゃんせ与三郎、三十余ヵ処のかすり疵」という踊りを所望した。ところがその踊りは舞子のすべきもので、芸者のすべきにはあらざれども、金粟の仰せだから、同
 
   (352)地で有名の妓杉村愛子というものが踊った。予は劫にして郷関を出で、かかることは見るが初めだから、今一度と所望し、さてあまり上手だから纏頭《てんとう》をやった。
 それから、同地はかかるものは出入り自由な処で、纏頭引いたる礼と称し宿へ来たから、その者の身の上の話をきくと、予の亡父の旧知で、陸奥伯の家扶せしもの(この世話で楠枝を横浜の商人へやった)の弟にならず者あり。去年アルコールの倉で火を発したる怪我で焦げ死にたり。この者は世にいう判人《はんにん》にて、以前幼年の娘を拐《かどわか》して芸妓などに売ることを業とす。それに養女にもらわれて、今ある家へまた養女と称して売られたるなり。この者の父は伊賀上野の士族で、維新の直後に究迫はなはだしく、妻子離散せんとするとき、子どもをみな人に子にやれり。さて今は大坂にてちょっとした洋服仕立てして満足に暮らしおる。男子二人も宣教師として食いおるなり。
 この女は貌《かお》は不?《ふよう》の方だが(二十四、五)、歌舞、吹弾、抹茶、礼式から、俳句ときたらうまいものにて、まことに磊?《らいかい》なる風あり。されば入り金も多いから金若干貯えて、右の服仕立屋しおる父におくり、自活するほどの金はあるから、何とぞ表向き今の妓の抱え主へかけあい引き取ってくれといいやりしに、父のいい出ずる言こそ、其の耶蘇流義なれ。いわく、芸妓というは賤業なり、一度そんなものになりし身は、霊魂すでに腐敗したから、身を終うるの後も、エホバの天国に詣りがたし、よろしくソドムの鹹果を味わい、ゴモラの死海に沈んで、最終裁判の至るをまてというような分からぬ言なり。よって金をつき戻し来る。この妓答う、しからば心もなき、この幼かりし身を、何故に芸妓になるような成り行きを虞《おもんばか》らずに、判人するようなものに子にやったかという。父答う、その時は上帝の意衷、何とも仕方なく、汝のみならず、今宣教師しおる二男も、人に子にやったり。芸妓にすると知らば、子にやるにあらず。まことしやかに白《しろ》うとにそだてるようにいうから、やったなり。この父の知ったことにあらず、と。そんなことにて、この妓職止めんにも、まじめなことはできず。できぬにあらず、する土台たるべき父が右様の分らず屋にあるなりとて、かなしむ。金粟王も、流離転変、いろいろの目を一身に見たることとて、大いにこれを哀しみ愍れみ、そのころ(353)大坂の豪商今西某からくれたる仏国のバイオレットの高値の香水を一瓶、名残りと共に惜しげに遣わすとて、有合せの短冊に、
  めぐりあふた流れはなんの因果経
 白楽天の「琵琶行」を千年の後に躬《みずか》ら見る心地して、おかしくもまたあわれにも侍りし。「津の国のなにはのことやのりならぬ、遊びたはむれまでとこそきけ」と、一本書写上人をやりこめし宮本という遊女のこともあれば、これも一つの法楽なりと知りたまえ。
 右のごとく女に思いつかるること、秋の稲にいなむしの付かるるがごとし。しかし、法喜をもって妻となし、慈悲心をもって女となしたまう金粟王のことだから、何ともないが面白い。「神に教へた鶺鴒《せきれい》よりも鴛鴦《をし》のつがひが羨《うらや》まし」というどど一あり。予はみずから鶺鴒となりて、わが国の出家どもも、よろしく立ちつづけのちんぼに土砂ふりかけたり、楊柳観音や文殊師利童子を見てせんずりかくよりは、鴛鴦を学んで芸妓遊びでもやらかし、人情の奥義を極めるか、またそれよりはまじめに妻をとり、それこそ「鶺鴒も一度教へて呆れ果て」と、奥義なら子宮の奥の卵巣まで極めよとすすめるなり。ただし、ルーテルが率先して尼を妻として見せしと事かわり、金粟はすでに無形の法喜を妻としおるから、この上一生浄行で果つるなり。
 惺窩《せいか》先生は、出家にろくなものなきを恥じて還俗し、儒家の大祖となりしが、一生肉食妻帯せずして死なれたり。その詞に、徳極めて高からん人は万人の信あれば知らず、予のごとき不徳の者は、ややもすれば人が自分肉を食いたく妻を持ちたくて仏教を離れ還俗せしといわれんこと、後進の志を摧《くじ》く手本ともなりぬべし。故に自分は肉をば食わず女犯せぬほどの辛抱はあり。ありながら、仏教より儒道は正しという理窟のみより単に還俗せしと示すため、一生出家とかわる行儀はとらぬ、といいたまえりとか。金粟のこと、またこれに似たり。今の人はなにかいうと、例のそれは偽りだろう、法螺だろうというからのことなり。
(354) ついでに言う。右の破戒の、米屋の妻に密通し、父を訴えなどせる僧、小生は酒を多くのむとかいいしとか。その人そんなこと知るはずなし。面識一度もなく、予のそばへそんな卑晒なものよせざればなり。(小生、兄の家は亡びしが、自分および弟は今も平人よりは上のくらしは致しおり、田辺辺に一年ばかりおりしが、一月に百二十円内外のくらしにて、一人広き宿にとまり、また右述の豪家にとまり、右の破戒僧ごときものは、門前払いなり。その外も身分持った人にあらざれは坐敷へ通さず。)小生酒多くのむという聞えは、ずいぶん海外の学者間にも聞こえたれば、それで満足なり。ただし、これも皮想の観、外聞の伝唱と実事とは大いにかわるものなり。小生伝声のごとくに酒多く飲まんには、何をもってこの多岐の学術末技までも修め得るのひまあらんや。幇間というものは常に酔うておるが、実は酒のむにあらず。酒の代りに茶を同じ色に拵《こしら》えそなえおくものなり。また、小生、借金などいうことせしことなし。伝説のごとく酒多く飲んで借金なしにおり得べきや。人来たりたるとき、いやな、しかんだつらするよりは、酒でものませ、のんで見せ、元気よく見せるも、世相の一福瑞なり。人の前で酒多くのめばとて、大抵人の腸の大きさは知れたるものなれば、そんなに飲めるものにあらず。
 むかし宋江、三十六人を率いて河南に横行す。侯蒙、宋帝に上書していわく、この輩、賊なりといえども、わずかに三十六人にして天下を物ともせぬは、必ずその為人《ひととなり》の異常なるなくんばあらず、朝廷よろしく採用して国難を理せしむべし、といえり。まことに然り。もし伝説のごとく多く酒飲んで、しかして、日中は数百の昆虫を集め、数千の植物を顕微鏡標品に作り、また巨細《こさい》に画し彩色し、英国にて常に科学の説を闘わし、また文学上の投書し、かつ不断読書し、また随筆し、乃至《ないし》この状のごときものを草案もせずに書き流し得とすれば、これ大いに偉事に候わずや。いわんや、その人何の世を煩わすところなく、何もかも現金で払うところを見れば、その経済の方は、まことに穏やかなる法を秘し行ないおるものといわざるべからず。たとい伝説にもせよ、事理上そんな飲酒ばかりで命も身も続く理は万一なきに、そんなものありとすれば、これを難ずるよりも、仁者、喜仰渇仰してその人に敬服して可なり。如何《いかん》。(355)これより本論に入らん。
 貴状、秘密大乗は、金剛|薩?《さつた》より竜樹に伝う、云々。知れ切ったことなり。予はその伝説について異義あるにあらず。ただし予はわが真言徒に何たる断見あるものの少なき、かの卑近最賤の小乗の、猫を見て礼したり、女が縫い物するところを後からふとんをかぶせて姦したものは、何々の罰というようなつまらぬことを、至れり悉《つく》せりと称揚する小乗、およびそれを分かりやすいからほめる洋人などの説に雷同し、仏教は(大乗を入れて一概に)無神教なりとか(大乗は大日およびその他無数の神を尊奉す、断じて無神教にあらず)、また、人間の至近な得手勝手から(中江いえるごとく)この世で自分らがこの貧国に住み、不義理なことばかりして、貧乏困渋すればとて、たちまち万有みなかくのごとしと悪く思い取り、寂滅入涅槃《じやくめつにゆうねはん》、何にもしらずにねころびあるく猫を羨むような小乗などと同視さるるを、ひたすら耶蘇教と異処あれば、あればよいことと心得よろこび、晏子の御者然と騎りほこるを不可不似合といいしなり。
 法令煩にして人いよいよ乱るることは、後北条氏のことを引いて福翁もいえり。漢高は関に入りて法わずかに三章、英国のマグナ・カルタの法四章にして世界第一の国の隆を成せり。百戒、五百戒などと、オメコせし数を数うるごとく、介々《かいかい》と保つこと多きにほこるは、その人の罪に陥りやすき心の弱点の多さも知られて、他教のものに比して恥かしきことにもあるなり。いわんや違式?違《いしきかいい》をよんで小便を大道でしたくなるようなもので、この罪はこれこれの科《とが》とあまりにきちょうめんなるほど、これを逃るる工面をかんがえ、また一方には、若きものなどいろいろと罪状をよむより罪を犯してみたくなること多し。故に大乗の者の目より見れば、実は小乗よりはまだ耶蘇教の方がましといわざるを得ず。何となれば、小乗は何というて奉尊するものなく、ほんの梵教徒等に対する世間法上よりの不平を漏らせし一時の建立に過ぎざればなり。
 近く史を繙《ひもと》いて見よ。支那諸朝、ボッカラ、梵衍那《ぼんえんな》、インドの諸邦、中アジアの諸邦、隆替はあるが、それは止む(356)を得ぬこととして、大乗の行なわれし国は、勢威強く、諸事盛んに行なわれ、諸工興り、偉人輩出せり。それに比して、南方小乗の国は、なんとなくぶらぶら生存しつづいたというのみ。天地の眼より見て、今年も春きてなたねさき、今年も秋きて鹿鳴くというようなことのみなり。これはそのこと由なくはあらず。むかしアレキサンドル大王、壮にしてインドを攻め世界を平定せんと打ち立つとき、一切の珍宝所有をもって友人諸将に分与す。大将軍これに問う、王は所有一切を一々人にやりて、自分は何物を残存して大国を従えんとするか。王単に答えていわく、ただ望〔傍点〕あるのみ、と。小乗には望なし。期するところが無楽を楽とすればなり。燭盛んに珍饌佳肴あり、美姫?童乱舞する中に、倦きたればとて、早く燭きえたら休まれる、またくらがりでなにか面白いすきなことでもできるかも知れずというようなことなり。
 大乗は望みあり。何となれば、大日に帰して、無尽無究の大宇宙の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台買うてだに一生見て楽しむところ尽きず、そのごとく楽しむところ尽きざれはなり。涅槃というは、消極性の詞なり。すでにこの世にあいて涅槃をのぞむ。涅槃に入れば、また涅槃を飽き厭うに及ばん。また、この世にあくというも、実際お迎えは延期を乞うような自家衝突のぶらぶら不定の想に過ぎず。故に大乗徒が小乗徒と同視さるるを喜悦するなどは、小生もっとも不同意なり。
 予の友人に、宗演の弟子に田島担というあり。これは当国の豪商故浜口梧陵の?子《げつし》なり。ケンブリジに留学せしが、都合ありて中途で帰れり。船中にて洋人この人に仏徒は何人ほど世界にあるものにやと問いし。これは実はその気に入らんとていいしことにて、仏教はもっとも世界中に数多しと答うるをまちしなり。しかるに担氏の答えには、一向知らぬが、宗旨の深浅、弘不弘は人数や寺の数で知れるものにあらじ、といえり。まことに名言なり。
 この熊野地方はまことに徳化のゆきとどいた所にて、今も予きたなき風して深山中に入るに、炭やく男、柴かる女、みなはちまきをはずし、腰を屈めて挨拶す。また、人間のあらあらしきに似ず、戸障子あけはなし外出するも、室内(357)に立ち入る小児なし。さて三里、四里へだてて巡査一人あるのみなり。これは反って徳化の行なわれしを表するものにてあるなり。前述の禁戒の多いほどその教えはつまらぬと同じく、都市悪人多く行儀悪き所ほど、警察などもいそがわしきものなり。寺院などもその通りなり。
 大・小乗合して仏徒の数多ければとて、何の役に立つことにあらず。ショッペンハウエルいわく、?《はりねずみ》が刺《とげ》多くて互いに近づかぬうちは喧嘩なし、寒かろう、寒かろうとて相集まり相暖まらんとするときは、刺が邪魔になりて争いの基となる、と。宗教同じければとて何の役に立たぬものなり。ヌビアという国は堅固なる耶蘇国なり。アビシニアは牢頑なる耶蘇教国なり。しかるに、前者は欧人の旅行者を一向取り合わず、後者は前年イタリア人を?《とりこ》にすること四千人、それが不平のもととなりて、イタリアの前王、小生帰朝の前に弑せられたり。トルコ人とペルシア人は、同じく回教徒ながら、相嫉視することはなはだしく、同宗の敵一人を殺すは異教の敵七十二人を殺すの功徳ありなどいいふらす。ロシアのキリスト教はローマ法王ともっとも近きものながら、今にはなはだ中《なか》悪く、反って新教国と中よし。つまり何の役に立たぬことにあるなり。しかるに、大・小乗合併とか何とか、それに付けては物入りもかかるなり。物議も俗間に生ずべし。
 さて合併の見込みあるものなら、最初から大・小乗とは分かれぬはずなり。とにかく、予は大乗は大乗にして小乗と別、たとい耶蘇教と同じく有神教なるも(有神の性質は全く別)、白猫の悪しきにも黒猫の正しきにもあらず、少しもかまわず、みずから有神教なりと称し(大日をたしかに尊拝す。小乗の何とて別に拝するものなく、あてもなく、寂滅のみを冀《ねが》うようなとまるで違う)、また、釈迦不説か説かと問わば、人体身の釈迦不説なり、法身の如来の説なり。釈迦は法身如来の権化として、わが教えのようやく一部を説きしなり。あたかもユダヤ教の教えを、耶蘇がうけついで耶蘇教を立て、回祖は受けついで回教を立てしごとし。(現に回教には耶蘇をその聖人の一人としおれり。)しかるに本来のユダヤ教は、この二人を偽なりとして入れぬより、今になんじゃかじゃと無用のことにもめ、平和慈愛(358)を第一とすべき宗旨にして、反って相残害すること絶えず。
  ユダヤ人、この二祖を認識せぬより、その人民、大禍を受くること今にやまず。しかして、英仏ともに今となりては耶蘇教に回祖を聖人とせざりしを、インド、アルゼリアの領地鎮圧政策上、はなはだしく悔いおる。予のありし日、仏国にてこのことを建白せし人ありし。真言に釈迦のみか梵天までも入れしは、まことに和寛というべし。と、かくいうて笑うてやれというなり。米虫には分かったか。
 わが大乗仏教は、劫初無尽劫の前より在来のものにして、拘留孫《くるそん》仏はこれによりて拘留孫教を立て、迦葉波《かしようは》は迦葉波教を立て、迦奈加無《かなかむ》尼はカナカ教を立て、諸縁覚は少々の所得を守り、現存の勝教またその一派にして、釈迦はまたその幾分として釈迦教を立てたり(小乗)。いずれも時に応じ機に投じ、自分の所得を拡張して世を救わんとせし教えゆえ、全体の大乗教(一切諸仏教とでもいわば適宜なり)、これを敵視せぬのみか、よくもそのいずれの部分をも応用したと喜ぶこと、三井の旦那が本家にありて、呉服店も繁盛、銀行も利息よくまわり、政府のかかりも仕そこないなく、台湾の出店もよき機に投じたりと喜悦するごとく、釈迦院、蓮華明王院などと、一部一部間に合い次第これを表出して、喜悦しおるなり。何ぞ一部の教説の出ずる早晩を論じて本別両宅の争いをなさんや。
 次に、貴下は禅を喜ぶとか。しかして弘法大師、「この山よろしく禅定《ぜんじょう》すべし、云々」といい来たる。しかり、予もこれを知る。ただし真言にいう禅定というは、静意観念して、宇宙の外を包む大なるものとおのれと結合し、無尽の安楽を取るの謂いにして、今日の棒で頭をたたいたり、宋元時代のべらんめい語、糞?《ふんけつ》とか屎尿滾々とか、なんとかかとか、同時代にできた『水滸伝』の李逵、魯智深等、博徒・草賊の激語と同一のものをもって、埒《らち》もなきことを公案として舌戦する、そのことすでに不立文字《ふりゆうもんじ》というに背けば、達磨《だるま》の禅の本意ともまるでちがえり。俗語でいわば、さあなにか分からぬ、なぞをかけてみょ、即席に「よしこの」で答えて見せるというような落語家の根性なり。このこと前年ロンドンへパリよりの仁者の状にも見え、「その威儀すでに児戯となりおわる」とあり。かつその旨たる、(359)何の智をつみ識をつんでのことにあらず。故に宗匠たる人すでに得手勝手の我慢了見を開くというのみなり。ややもすれば、「なんでもよい」、「学問はするに及ばぬ」、「了《さと》りて見ればつまらぬもの」、「フフンあんなことか」。またその僧も、何の定見も胆智もなきに、広言吐いて、「笑うに堪えたり黄面老子」とか、「目前に見証して見せる」とか、品玉つかいの法螺と異ならず。しかして、実は学問どころか卑近なることさえ、やは。頓悟というわけにはゆかず、三験が入るから、帰根斎のようなことが起こる。近く有名な禅僧にして、覚王殿の建築費ちょろまかし、妾を蓄えたもありとか。その徒の行い悪ければとてその教えをけなすべきにあらず。しかしながら、その徒の行い悪きもの多く目立つときは、その教えの高下も実用の多少にて判じ得らるるなり。
 かつこの教えは、真言のごとき曼陀羅《まんだら》もなんにもなければ、森羅万象、心諸相、事諸相、名印諸相、物界諸相を理だてて楽しむというようなことは、もとより行なわるべからず。しからば、万事万物研究して世用に充て、実際に人間を救うことの必用急務なる今日の世界にあてはまらず。要は一人を潔くし、他はなんでもよい、自分さえよければよい、さてそのよければよいも、究極の悟りは、なるようになれば、よいもわるいもないところがよいというような、八、九歳の小児にも分かりきったことに過ぎず。人をおしのけつきのけ、木戸賃出さずに芝居に入り、力のままに乱妨《らんぼう》して、小屋を破りて外に出で、面白いも面白くないもないが、なんとなく酒に酔ったままにしたから仕方がない、咎めるやつは野暮だ、旅の恥はかきずて、浮世は三分五厘、間男は七両二分、それもなければ出されず、なろうことなら間男もやってもかまわぬというような了悟に過ぎざるなり。そんな悟りなら、稽古も修行もせずに、泥棒にでもなれば、じきにできることにあるなり。もし貴下、悟れば何も同じことなり、直指進入《じきししんにゆう》も談経諸学も同一なりなどいわんには、それは真に然らん。ただし、そんな了見のものに取りてのみ然るなり。さて、そんな悟りなら、開かずとも開いたも同じことならん。何となれば、なんの外相にあらわるることにあらず。また外相にあらわれて、世に何の望みある悟りにも期するところあることにもあらざればなり。
(360) 故に真言の禅定と、鎌倉やそこらの喝一喝などの、立文字、不離文字の禅と同一といわんには、白も黒にして智も愚なり。常磐津の文句に「提婆《だいば》の賢《ちえ》も槃特《はんどく》が愚」といえるごとく、さてそれを語る芸妓が何のこととも知らずに語るも、知ったと同一とならん。しかるときは、一体何の必用所期ありて、そんなことを一心不乱に(あるいは不乱らしく)、おのれも高い飯米くい、弟子にもくわせて研《みが》くか。実はそんなことを修めるも修めぬも、雨ふるもなりゆき、風ふくもなりゆき、乃至《ないし》死ぬもなりゆき、古えの??《きゆうりゆう》仙ごとき、また目前ここに臥しおる猫が明日を知らぬも知ったと同前なれば、たとい自分はなりゆきとするも、寺を建て、経を板行し、施米を募り、乃至|頼母子講《たのもしこう》を奉加するような、他人その道を好まぬ者まで煩わして、さて右のごとき有無同一、何ごとも成り行き次第、調達の阿鼻落ちは、釈尊の双樹下の金足よりもまじめなり。
 お半長兵衛の迷死も、恋心比丘尼の百焚火化と同じ悟りなりというような、すなわち言うに及ばぬことを、「一は一にして、二を二でわったもの、百を百でわったもの。また、一を一乗したものにして、一より零を減じたもの。千を千で除しても、万を万で除しても、一を雨ざらしにしても、天井に釣っても、思うも思わぬも、小便かけるも、質におくも、書物の数として見るも見ざるも、聞くも聞かざるも、人の頭へ抛げつくるも、足で踏むも、唾かくるも、鶯に食わすも、蟹にはさますも、灰の中に埋むること千年なるも、九百九十九年と三ヵ月なるも、それより五日多きも少なきも、また、飯の数とするも、男女交合の数とするも、そのときつかうた塵紙の枚数とするも、天皇陛下に聞かせ上ぐるも、平将軍に聞かすも、鎌足公の墓前で数うるも、ルーソーの筆に上すも、また、巫《みこ》のことをむかしはイチというた、それも音は一なり。ワゲのことをイチというも、音は一なり。何もかもどうするもこうするも一は一なり」。右様の分かりきったことを、阿保陀羅経《あほだらきよう》のごとく、いいならべ思いならべて飯米を費やすものを、仁者は何か見どころありてこれをほめぬまでも、まじめなことを少しでもしおるものといい得べきか。ただ「一は一」と心得たらすむことに候わずや。
(361) 予は真言と禅は所期の(人間より見て)目的(実用上の)は同事ながら、その所期さるるものの観念は大いにちがうと思う。すなわち数学上でいわば、一方は乗数、一方は除数を増して、1×1と1/2とより1×2と1/20よりだんだん1×200,1/200:1×20000000,1/20000000……とまし、ついに又無究寛大)と0(無涯限小)となるほどのちがいと思う。口ではいいあらわし得ぬという度〔傍点〕(デグリー)は相似たり。その性質《クオリチチー》は大いにちがうことと思う。しかしながら、右のごとき狂人ごとき輩のことゆえ、それもそれでよし。それでも悪し、そんなこと言うに足らずといわば、それきりなり。
 ただし、そんなことは宗教として決して世に立たず。何となれば、一人の主義ということはいえるが、宗教は一人のものにあらずして、人間の多数の団体のものなればなり。故に狂人が飢えたるを満腹と心得、火で足のもゆるを蓮花を踏むと心得てみずから悦ぶと同じく、その人の勝手と断ずるに止まる。ただ冀《ねが》うところは、人間は(社会動物にて)狐つき、天狗つき、欠《あくび》までも(何の信仰も所用もなきに)うつるものなり。故に右様の狂人ごとき、世にあまりはびこりなんには、世間法の一事として法律の制裁をもって、かかる狂言閑惰のみか、人聴を煩わすもの、社会を攪乱するものを厳罰せんことを冀うなり。平易にいわんには、かくつまらぬことをくり返して、悟り悟りと世にも人にも用なきことを喋々して、みずから悟れりと心得、また心得たるように見られんとするものは、よほど悟りの悪き人間にて、なにかまじめに世間に一日も顔出しのできぬ陰匿悪事でもあるじゃと察せらるるなり。米虫は如何《いかん》とするか。(インドのセルヴァカ仙人の教えはこの通りなりし。すなわち一切のことみな、わが思うところのまま推し通すべし、自分の外のものは虚妄なり、というようなことなりし。何というて用に立つたことも、またまじめな人が一人も奉じたことも伝えたことも聞かず。そんな教えならば、その人自分の所期も立教の本旨もあるはずなければなり。)理窟の筋みちのつづいた狂人なり。
 しかして実際は、胆力が弱いから大いにしたいとか、狂《きちが》いになりそうだから安心したいとか、実に些少なその本人(362)のほどの知れるような趣旨から、右のような洪大漠濛の教旨に入るを見るとおかしい。ちょうど 1/2 より 1/20,1/200,1/2000 とだんだんまして、除数を大きくするほど本数が小さくなるごとく、1/∞ 無究大で1数をわると果がまことに無究小の 0 となる。これに反して、無究小 0 で1を除すると果が ∞ 無究大となるごとく、本人の了見小さきほど悟ったような言詞が大きくなる。まことに妙なことじゃ。
 入我我入《にゆうががにゆう》とか、身平等、意平等、そんなことは、一日三文で食えるインドや、樹下で行《ぎよう》しおれば、村の別殯が醍醐味とまでなくとも、握り飯や豆腐のから持ってきてくれるような、簡単な世にしていうべし。今は然らず、すでに古えのチリをのけて(今は全滅しおわれり)、わが日本、支那ほど人のぎっしりつまった国はない。されば小生ごときは、帰朝はしたものの、少しく都会へ之《ゆ》くと、昼鳶《ちゆうえん》国というべき新想像界に入りしごとく、約束は全く憑《たよ》れず、物買うても送り届けくれず、見本と買品と違う、誓うた時に物のできあがったためしはない。本来仏性ある人にして、好んで悪を行なうにあらず。ただ人間多き上より、少しでも人の目をかすめ、気のつかぬところで労を省く外にもうけはなきなり。かかる世にありて自他利益せんこと如何《いかん》といえば、国産を起こし、融通財貨の活発ならんことを期し、海外に貿易するとか、用品を安く多く作りて、剰余のものは不断外国のものと交換するとか、それぞれその急務はあるなり。
  ただし米虫らは、因位《いんい》のまわり合せでこんなことに当たらぬから、一切無関係かもしれず。されども知らぬが仏というほどのことで、今にその果がまわり来たり、用心せぬと、仏国のゼシュイト徒が昨今あうようなひどい目にあうに及ぶなり。信長公が叡山|焚《や》きしと同様のもっともなことなり。
 その急務を果たすには、科学教育が入る。この科学教育には、宗旨と同じく、実用説と原理説とある。されば、原理説心得ぬときは、実用ができぬ。さて(微細でなくとも)事理の順序の立った科学原理説(一はいつまでも一、水素と酸素と合して水と化す、動植物は細胞より成る、勢力は形を変えることあるも量は不変等)を峻拒するときは、(363)国が繁盛せず、餓?《がひよう》に及ぶから、それは米虫も願わぬとして、さて科学原理説の例で、一々その通りの方法を推して、従来の四、五千年前の梵志《ぼんじ》説や、南北朝混乱し、支那人同士、索虜《さくりよ》・島夷《とうい》と川を距てて悪口し、自国という観念すらなかったとき入り来たり、あちこち流離した達磨《だるま》のいわく無功徳ぐらいの一言や、またなにかよい加減に泰山府君や児文殊を入れた真言曼陀羅などを相手に打ちかかり来るときは如何《いかん》。われは悟れり、またわれは信ず、故にそれでよしといわば、いかにもそれでよし。しかるときは、無形の伝来物、無用の口碑、仕儀などを存し記したものがある、それが死んで伝が断《た》えたというにておわる。何でもなきことなり。もし宗旨は社会に不可欠一機関なり(予はこれを信ず)、科学の原理説(これは何というてしっかりした極理のあるものにあらざることは前書にいう)ぐらいばかりでは、世間はつづかず。何とぞ、こちらも宗教を拡張して、彼らの不足処を足し、共に社会を益せんという日になると如何。ただただ受け身〔三字傍点〕にのみなりて、そんなことは言うに足らず、そんなことは当方の所伝になし、これは先師のいわぬことなり、故に関係なし、そんな原理あろうがなかろうが、われわれの悟りは悟りなり、と千金丹うりをことわるようにてのみで事はすむべきや。
 小生は、科学方面より宗教の外面をいうこと、かの有神教・無神教とか、何の宗教は普通教なり、何の宗教は万有教なりなどというにあらず。ただし、社会の変遷につれて、社会というものは必用を基として立つものなれば、その社会の必用と乖離《かいり》せる陳言腐詞のみをいいはりて、社会に何の益ありや。社会に益なきとも、信心堅固の一箇人に何の増減なきは勿論なり。ただし、法燈はそれで絶ゆるなり。故に真言の教え断えてもかまいなし。別に信徒なくとも、真言は真言なり、宇宙に瀰漫すといわば、いかにも然り。予は世相の上より、世相にあらわれおる真言宗の泯《ほろ》びなんことをかなしむなり。もし予と同心にして、仁者その法燈の永くつづかんことを思わば、時代に相応してその用意なかるべからず。現に験術といい、呪詛、調伏といい、今日になりては言うに足りぬことながら、また、その教えの本意にもなんにもあらざることながら、それまでも、そのことの功験ある世には、取りてもってわが用としたるにあら(364)ずや。☆
 ここに一言す。不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。理不思議あり。大日如来の大不思議あり。予は、今日の科学は物不思議をばあらかた片づけ、その順序だけざっと立てならべ得たることと思う。(人は理由とか原理とかいう。しかし実際は原理にあらず。不思議を解剖して現像《げんしよう》団とせしまでなり。このこと、前書にいえり、故に省く。)心不思議は、心理学というものあれど、これは脳とか感覚諸器とかを離れずに研究中ゆえ、物不思議をはなれず。したがって、心ばかりの不思議の学というもの今はなし、またはいまだなし。
 次に事不思議は、数学の一事、精微を究めたり、また今も進行しおれり。論理術なる学(論というと、人が二人以上より、または自問自答する人為すなわち人を所立地として見る意が大部を占む。故に事理というか性理(数理に対して)といいたきことなり。このこと、前年、パリへ申し上げたりし)は、ド・モールガンおよびブール二氏などは、数理同前に微細に説き始めしが、かなしいかな、人間というものは、目前の功を急にするものにて(代数学の発明はありながら、数千年、世に出でず。指南皐を知りながら、羅針盤は晩く出でしごとく)、実用の急なきことゆえ、数理ほどに明ならず、また、修むる老少なし。
  予実は一昨々夜来少しも睡らず。これは英国へ急ぐ投書ありて、すこぶる長文のものゆえ、直しおるうち、また書き添ゆべきことおこり、一を出してはあとがちょっと記臆し出せぬという双方相対のものゆえ、睡らずにかきたり。なにか三日三夜も睡らずに生きておるは妙と思う人もあらんが、前田正名氏などもこの流義の由みずから語られしことあり。小生またかかることに誇るべきにも、この状誰にか、仁者の外に見るべきにもあらず。ただ実をいうなり。しかして今夜少々ねむけさすが、かかるものは、馬と同じく、一度休むときはあとがなかなか出にくいものゆえ、強き茶をのんでかきおわるつもりなり。ただし、むつかしき外国文(九ヵ国の語にてかけり)かきし上のことなれば、精神弱りゆき、字句判然せず、また誤脱もあらん。そのときは猶予なく聞き返されよ、(365)答うべし。しかして知らぬことをいわぬ例に、右のド・モールガンとブール氏の微細論理式をこに少々のせんとしたが、何様右の事情ゆえ、かくも間違いの一もあらんには、何の用もなきこととなるから、ここには省くなり。小生実は知らずして知ったようなことをいうと思わるるもかまいなし。ただし、せめてはそんなものあるということを知っただけは実事と思われよ。
 前年、パリへ申せしごとく、易理また禅の公案などは、この事理の(人間社会また箇人より見て)ごくごく麁《そ》なるものながら、その用意ありしは感心なり。
 さて物心事の上に理不思議がある。これはちょっと今はいわぬ方よろしかろうと思う。右述のごとく精神疲れおれば十分に言いあらわし得ぬゆえなり。これらの諸不思議は、不思議と称するものの、大いに大日如来の大不思議と異にして、法則だに立たんには、必ず人智にて知りうるものと思考す。さて妙なことは、この世間宇宙は、天は理なりといえるごとく(理はすじみち)、図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長《たけ》、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍《ふえん》追究するときは、いかなることをも見出だし、いかなることをもなしうるようになっておる。
 その捗《はかど》りに難易あるは、図中(イ)のごときは、諸事理の萃点《すいてん》ゆえ、それをとると、いろいろの理を見出だすに易くしてはやい。(ロ)のごときは、(チ)(リ)の二点へ達して、初めて事理を見出だすの途に着く。それまではまずは無用のものなれば、要用のみに汲々たる人間にはちょっと考え及ばぬ。(ニ)また然り。(ハ)ごときは、さして要用ならぬことながら、二理の会萃せるところゆえ、人の気につきやすい。(ホ)(366)また然り。(ヘ)ことに(ト)ごときは、(人間を図の中心に立つとして)人間に遠く、また他の事理との関係まことに薄いから、容易に気づかぬ。また実用がさし当たりない、(ヌ)ごときに至りては、人間の今日の推理の及ぶべき事理の一切の境の中で、(この図に現ずるを左様のものとして)(オ)(ワ)の二点で、かすかに触れおるのみ。(ル)ごときは、あたかも天文学上ある大彗星の軌道のごとく、(オ)(ワ)の二点で人間の知りうる事理にふれおる(ヌ)、その(ヌ)と少しも触るるところないが、近処にある理由をもって、多少の影響を及ぼすを、わずかに(オ)(ワ)の二点を仲媒として、こんな事理ということは分からぬながら、なにか一切ありそうなと思う事理の外に、どうやら(ル)なる事理がありそうに思わるというぐらいのことを想像しうるなり。すなわち図中の、あるいは遠く近き一切の理が、心、物、事、理の不思議にして、それの理を(動かすことはならぬが)道筋を追蹤しえたるだけが、理由(実は現像《げんしよう》の総概括)となりおるなり。
 さてこれら、ついには可知〔二字傍点〕の理の外に横たわりて、今少しく眼境を(この画を)広くして、いずれかにて(オ)(ワ)ごとく触れた点を求めねば、到底追蹤に手がかりなきながら、(ヌ)と近いから多少の影響より、どうやらこんなものがなくてかなわぬと想わるる(ル)ごときが、一切の分かり、知りうべき性の理に対する理不思議なり。さてすべて画にあらわれし外に何があるか、それこそ、大日、本体の大不思議なり。それまではここに説かずして、史籍以来また今存の史籍一切の前に人間が知りえたる理は必ずしも今の物不思議境の幾分に限らぬことと思う。(この一傍証としていわんに、近来アッシリアの大開化のこと、大いに分かり来たる。小生はいまだその概略すら聞かず。しかしながら、人より聞くに、それを読むときは、今日開化の頂上という欧州の開化など智識などは、それに比べて、よく人間もこれほど堕落したものかと思うほどなる由。)また、その方法としても、今の器械的、数量的にあらずんば、必ずしも理は分からぬものにあらず。
 現に今の人にも tact というがあり。何と訳してよいか知れぬが、予は久しく顕微鏡標品を作りおるに、同じ薬品、(367)知れきったものを、一人がいろいろとこまかく斗《はか》りて調合して、よき薬品のみ用うるもたちまち敗れる。予は乱妨にて大酒などして、むちゃに調合し、その薬品の中に何が入ったか知れず、また垢だらけの手でいろうなど、まるでむちゃなり。しかれども、久しくやっておるゆえにや、予の作りし標品は敗れず。この「久しくやっておるゆえ」という語は、まことに無意味の語にて、久しくなにか気をつけて改良に改良を加え、前度は失敗せし廉《かど》を心得おき、用心して避けて後に事業がすすむなら、「久しくやったゆえ」という意はあり。ここに余のいうは然らず。何の気もなく、久しくやっておると、むちゃはむちゃながら事がすすむなり。これすなわち本論の主意なる、宇宙のことは、よき理にさえつかまえ中《あた》れば、知らぬながら、うまく行くようになっておるというところなり。
 故にこの tact(何と訳してよいか知らず。石きりやが長く仕事するときは、話しながら臼の目を正しく実用あるようにきるごとし。コンパスで斗り、筋ひいてきったりとて実用に立たぬものできる。熟練と訳せる人あり。しかし、それでは多年ついやせし、またはなはだ精力を労せし意に聞こゆ。実は「やりあて」(やりあてるの名詞とでも言ってよい)ということは、口筆にて伝えようにも、自分もそのことを知らぬゆえ(気がつかぬ)、何とも伝うることならぬなり。されども、伝うることならぬから、そのことなしとも、そのことの用なしともいいがたし。現に化学などに、硫黄と錫と合し、窒素と水素と合して、硫黄にも正反し錫にも正しく異なり、また窒素とも水素ともまるで異なる性質のもの出ること多い。窒素は無害なり、炭素は大営養品なり。しかるに、その化合物たる青素《シアン》は人をころす。酸素は火を熾《さか》んにし、水素は火にあえば強熟を発して燃える。しかるに、この二者を合してできる水は、火とははなはだ中《なか》悪きごとく、またタピオカという大滋養品は病人にはなはだよきものなるに、これを産出する植物の生《なま》の汁は人を殺す毒あるごとし。故に一度そのことを発見して後でこそ、数量が役に立つ(実は同じことをくりかえすに、前の試験と少しもたがわぬために)。が、発見ということは、予期よりもやりあての方が多いなり(やりあて多くを一切概括して運〔傍点〕という)。
(368) 比例に一例をいわん。鳥卵、殻の堅きは、中の卵肉を保護するが功用なること誰も疑わず。また落つればわれる憂いあればこそ堅きなり。しかるにこの経験たる、くりかえすことならず。何となればちょっとでも破るれば全体が死ぬ故なり。故に自然に、または卵自身の意で改良を重ねしにあらず。なんとなくやりあてて漸次堅くなりしなり。まことに針がねを渡るようなことなり。偶然といわんにも偶然にはあらず。偶然が幾千万年つづくものにあらざればなり。故に、すじみちよいやつにやりあてて、はなさざりしという外なし。
 さて物不思議界は、大きさのあるものゆえ、また箇々体が別ゆえ、数量が間に合い幅をきかす。心不思議、また事不思議界(のうち数理をのぞく)に至りては、大きさということなし。また、断然たる箇々分明ならず。(秀吉の一生も一生にして、宝町将軍十五代も一生なり。鎌足公より三条公までも藤家の一生にて、これに天児屋根命《あめのこやねのみこと》以後のことを加うるもやはり一生なるごとく。)故に数量は便宜上そのこと履歴の遠近、相違を記する年歴の要用あるに止まり、その方の不思議を研究して理由すなわち現像《げんしよう》団を括り出だすに要用なし。心理学上数の入用なるは、感覚の智鈍ぐらい知るに止まり、誰は誰より何倍賢いとか、秀吉の望みは謙信の望みの十倍などいうこと言われず。故にこの方の研究には、数量よりも右の tact が入用かと思う。近時、形以下の学大いに発達して蓄音機より、マルコニの無線電信、また]光線できる。それよりまたラジウムというて、自体に強熱を蓄え、またみずから]光線を発する原素を見出だす。次には、井の水にかかる性質のもの所々にあることを見出だす。金粟負け惜しみいうにはあらぬが、自分いろいろ植物発見などして知る。発見というは、数理を応用して、または tact にうまく行きあたりて、天地間にあるものを、あるながら、あると知るに外ならず。蟻が室内を巡歴して砂糖に行きあたり、食えるものと知るに外ならず。蟻の力にて室内になき砂糖を現出するにも、今まで毒物なりし砂糖を甘味のものに化するにもあらず。
  雷有終なりしと思う。『荘子』を人がほめるをきいて一本を求め読んでみて、たちまちいわく、これまた人意の解するところを人意に解しやすく言いしに過ぎず、と。実に万事この例なり。
(369) 一例をいわんに、数量のことは、予期たしかなれば例までもなし、tact のことをいわん。明治二十三年、予、フロリダにありて、ピソフォラという藻を見出だす。これはそれまでは米国の北部にのみ見しものなり。さて帰朝して一昨年九月末、吉田村(和歌山の在)の聖天へまいれば、必ず件《くだん》の藻あると夢みること毎度なり。よりて十月一日、右の聖天へまいりはせぬが、その辺をなんとなくあるくに、一向なし。しかるに、予の弟の出務中なる紡績会社の辺に池をほりあり。(これは小生在国のときなかりしものゆえ、小生知るはずなし。)それに黒みがかつた緑の藻少し浮かみあり。クラドフォラという藻と見えたり。それは入らぬゆえ、ほって帰らんとす。されども、何にもとらずに半日を費やせしも如何《いかが》なれば、どんなものか、小児にでも見せて示さんと思い、とりて帰る。さて顕微鏡で見るに、全く夢に見しピソフォラなるのみか、自分米国で発見せしと同一種なりし。(英国の『ネーチュール』に出せり。)
 小生は夢など信ずるものにあらず。また、東西半球をへだてて、かかる希有のものあるべしと思われず。(この族の藻は一切西半球のみに産せるなり。ただし、南米の蓮についてキュー(英の)王立植物園へ来たり、ちょっと盛《しげ》りしことあり。また、その後、右の発見を公示したるに対し、小生知らぬ間に、日本より遠きセイロン、アフリカ、南洋のサモア島、東半球で三種発見したることをいい来し人あり。また、予の発見せるは、この族の一種の一亜種にあるなり。亜種というものは、多くは一偏地方に産するものにて、かく太平洋をへだて、その上、中、西の米国を全くへだてたるほどの距離に、同一亜種の産するは罕《まれ》なる例なり。)
 これらは、例の心理学者にいわさんに、小生帰朝後その地に遊びしことなきも、幼時吉田村という地は知れり。故に、なんとなくその辺の水がフロリダの右の藻を生ぜし水と同一なるを感受しおり、さてそんなことすきゆえ、帰朝して吉田村を思い出すより、自然そんな藻ありはせぬかと思いて夢に見たるなり、というべし。この言、理ありやなきやは、右の文をとくと味わうて貴断に任すのみなり。さて、そんなら一例をまた引かんに、今度は本月五日の夜クラテレルスという菌(画にて見(370)たることあり。実物、画よりはるかに大なるに驚く。後に画をしらぶるに縮図の由。予の一度も見しことなきところに記しおる)、那智の向山をさがせば必ずあるべしと夢みる。翌日、右の例もあるから、おかしきことに思いながら、向山をさがすになし。それから夕になり、帰途はなはだ艱苦、あるいは谷に堕つるの患《うれ》いあるから、遠き路をまわり、花山天皇の陵という処をこゆるとき、この菌を多く見出だす。これは予が見しこともなきもの、また、画をだけは見しが、どんな地に生ずるものとも、何の木の下に生ずるものとも読みしことなし。今も読み得ず。(画のみにて何にもなきなり。右の大きさの付記別にあるのみ。)しからば、右ごときは tact というの外なし。
 さて予はこの夢のことを案ずるに、実は前の藻の例は見しこともあり。また、生ずる地の経験もあることながら、後の例は見しことも、地もなんにも知らず、ただそのものあると、名と図を知るのみなり。しかるに見出だせしは、心理学者の理由とするところ、あてにならぬに似たり。予をもって見れば、上等植物とちがい、下等植物(菌《きのこ》、藻など)は、気候さえ大差なくば、藻は水中、菌は土上、しかして深林にはいよいよ多種必ず生ずるものなり。寒帯、温帯、熱帯の産は大差あるもなきもあるが、東西の国の異によりてあまりにかわりのなきものなり。故に一国に目について一国につかぬは、人の要用、学問上の興味いまだ多からぬゆえ、精出して授すこと少なきなり。捜しさえすれば、何国にもあるものなるなり。故に予は仮《かり》に夢の告げに動かされて、よく気をつけて捜しあてたというまでのことなり。すでに向山にあるべしと夢みて、そこにはなかりしをもって見れば、この夢何の本拠なく、また、妙にもあらず、向山を踰《こ》えて遠路まわらなんだら、見当てざりしなり。故に、人間が孫悟空の?斗雲《きんとうん》ごとく一瞬に一万八千里も走ることを得、また、随意にどこにも行き得る神足を享け得ば、どんな夢見て、どんなものを捜し当てることもできるものと知るべし。
 さて今もしこの人間世界だけでもよろし、それより一切物体界を実在と見ずに、数量の用全く知らずとして、この人間世界を見るとせよ。しかるときは心界が実在となりて、tact が大方便、唯一方法となる。かかるときにおいては、(371)あたかも物理を応用して、マルコニの無線電信、またX光線よりつてを引いて、ラジウムというみずからX光線出す原素を見出だすごとく、種々雑多の(数量ではかられぬゆえ名づくることできぬが、種々別性(別は数に関することにあらず)の)心性を見出だすべし。これを応用し得たらんには、呪詛、調伏、その他今日名もなきいろいろの心性作用の大所作、大工事のできること疑いなし。(ここに一言いいおくは、呪詛、まじない等の道理および応用も、決して科学外のものにあらずと知れ。故に理外の理にあらず。物理または今日の心理外の理なり。)
 さて少々数量を知り、尺《ものさし》を用いうれば、不十分ながら在来の小屋を立て箱を作ることできしごとく、tact にあたること多きときは、さまでのことなくとも、心性作用を利用して(多少)公益私用のことありしことは、疑いなし。故に予は、真言で古え行ないしまじない、祈?、神通、呪詛、調伏等は、決して円了などのいうごとき無功比々として法螺ばかりのものと思わず。このこと近来科学者間にもはなはだやかましくなれり。わが朝のことは少しも新聞を見ぬから知らず。そのことに法螺多きことは、小生これを認むること十分なり。しかしながら、詐偽多ければとて、そのこと無根なりとはいわず。これのみならず、今日有名の機械場で作りし器械などに、完全に用に立つものははなはだ少なし。されども用事の性質と功験の気受けがちがうから、さまで科学を法螺とも無用とも詐偽ともいわぬばかりなり。要は予は、今日狂人、気鬱進んで世をつまらぬと思いきりたるもの、女を思い込んだもの、学説、議論を堅持するのあまり変性せる男などを療するに、ブロム・カリとかなんとかの物料〔二字傍点〕を用うるを、これとちょうど同理、同程度の塔の傾けるを直さんとて説法し、鳥飛ぶを落とさんとて印結ぶよりも、なおつまらぬことはなきや、と呆るるものなり。
(これより☆印の本文に続く。)果たして然らば、今日の世はすでにその調伏、呪詛等のことは行なわれぬ世となりにたり。また、行なわるるとするも、今日の社会と箇人に匹敵するほどのものならざるべからず。これをなさんとせば、その研究を要す。またその実験を要す。すなわち科学の功を見る。
(372) 仁者《にんじや》、予を欧州科学、云々という。予は欧州のことのみを基として科学を説くものにあらず。何となれば、欧州は五大陸の一にして、科学はこの世界の外に逸出す。もし欧州科学に対する東洋科学というものありなんには、よろしくこれを研究して可なり。科学というも、実は予をもって知れば、真言の僅少の一分に過ぎず。ただその一分の相《そう》を順序づけて整理し、人間社会を利するに便するをいうに過ぎざるなり。仁者はただ科学をもって法の本際を知るの一階段とす。何ぞそれ然らん。今日の真言徒の要用第一急事は、世間を弘益して衆生を現世肉身安楽ならしむること、次には心性安楽ならしむること、宇宙の無尽無窮なるを知らしむること、その宏大無辺を嘆美せしむること、法相真如、実際において楽の種尽きざることを知らしむること、しかして最大必用なるは、これらの諸大事が相衝突すること、今日の平日は極楽手に入ったようなことをいいながら、一朝病になれば叫喚して、あるいは医を嘲りて巫《ふ》に就《つ》き、あるいは巫を卑しんで医を招く等の矛盾なきを期するにあり。
 むかしゼノはストイク哲学の祖たり。その所説、人間はこの世を苦と知りてその苦を辞せざるにあれ、となり。しかれども、この人修養到りたればにや、常に悠々として楽処あり、無間の地獄に陥ちて、なお瑠璃の大河に浴するごとくなりし。その徒みな然り。これに対してエピキュルスは、エピキュレアン派の鼻祖たり。その所説、人間はこの世にありて楽しみを期すべし、楽しみさえすれば十分なり、というなり。しかして、この人大患に罹り、他人ならば七転八倒大叫喚すべきを、これもまた一楽事なり、この境に臨《のぞ》まずんばこの楽あらんやとて、悠々として逝きぬ。これらはその教えとするところ異なりとはいえ、実に言、行、志の三の者融和円通の美事といわざるを得ず。今、わが徒の所為を見るに、大いにこれに異なるものあり。その委細はこれを言うを憚るをもって言わざるも、思うに仁者またその同輩についてこれを悟らん。故|如何《いかん》となれば、この輩の教えとするところ、土台からしてすでに二而不一、口に梵天宮|乃至《ないし》諸応身、仏事までの無常を説く。しかして、一方には化け物の番付ごときものを作り出だして、皇基をして万世不動ならしめんとす、という。口に「美婦はこれ血を盛るの袋」と嘲る。しかして、行なうところは帰根斎(373)のごときこと十にして八、九なり。口に頓悟と説く、行いには迷乱す。口に澹泊《たんぱく》と説く、行いは俗人の高利貸に劣る。口に弘済と説く、行いは世間の厄介物なり。これその土台下の土台たる心の持ちようが表裏あるによる。科学の必要は認む、しかして一方には科学などは教旨に要なしという。
 仁者、今日の社会の闇黒なるをいう。その闇黒は主として何より起こるか。衣食足らず、倉廩《そうりん》満たず。国税重く、交通正しからず。民に商工農の理に精しきものなく、上に弘済経画の士なきに出ずるにあらずや。芸妓なるものあり、娼妓なるものあり。この輩あに好んでみずからこれをなすならんや。その父母また何を望んでか、喜んで子女を売らん。食足らず衣乏しければ、われはまだその芸娼妓のお召しのきものを着うるを祝するものなり。行い正しきもの、内じゃお飯《まんま》も食いかねるときは如何《いかん》。女人、道で小便するとて国辱という人あり。然り、予も欧米の大市街の人に対してこれを恥ず。これを止むること如何。女人に小便したきとき用事に出るなと制すべきや。また、むやみに道傍の人家に走り入れというべきや。この輩あに好んで立小便するものならんや。わが国貧にして更衣所(ラヴェートリー、英国などには市街に更衣所とて、男子と特別の内よりせんをさしうる婦女の便所を石造で立てある)を立てえぬ間は、子宮病者を億万人生ずるまで、道傍の立小便を禁ずるも、害ありて益なし。この一事のごときは、わが国論の道徳におけると、実用におけると(婦人の膀胱は弱いものなり。故に男子に比してしばしば小便せずんば、たちまち病となり、難産、死亡等となる)反馳背乖せるのはなはだしきものとして、予はこれを両様に説教する俗僧等のために気の毒に堪えざるなり。いわんや、世ますます活劇にして、しかして道徳(行儀、礼作法も道徳の一客なり)と実利と相反することかくのごとし。しかして、仁者ら、ただ唐朝の故経、晋訳の古書をよみ、その時代に大実用ありし諸尊を敬礼するのみ、今の世に大実用あるべき科学(真言の世間物質開化上の応用)を排除す。
 むかし大公、斉に封ぜられて、その政を更《あらた》むる初めに、海上の処士の名あるもの二人を誅して、民人|懾伏《しようふく》す。これ説高く信厚きのみ。世間に何の実用なく、かかるものをほむるときは、他のそれほどの器量なき者まで、これを慕い、(374)そのまねをするもの多くなるをおそれてなり。この世界の衆生にして、形体なく飲食なくして、くらしうるものとせば、まことに科学もなんにも入らず。もし然らざらんには、この外に僧が世間を実際融導して法燈を永続するの方便も利用もなからん。予をして為政者たらしめば、大公のごとくかかる無用の蠹物《とぶつ》は、刃で殺すまでなくとも、勝手に自活して見よとて、餓死か還俗して奴《ど》たらしめんのみ。
 故に汝米虫まさに知るべし。金粟如来のいわゆる科学とは、今日の染物や左官、車力の学のみにあらず。また、動物の分類を論じたり、植物の細胞の数よめとばかりにもあらず。心、事、物の不可思議の幾分なりともを、順序正しく、早く、人の間に合うように片づくることをつとむべしとなり。祈?がきくと思わば、その道すじを研究して可なり。神通の実行を望まば、その方法を講じて可なり。道筋だに明ならんには、いずれも科学として用あるなり。(余はこれらを無理空想の法螺のみと思わぬは上述せり。)ただ汝ら今日なすところは、がやがやと理外の理などと自家衝突の言をいいはり、俗をくらまかし、銭をちょろまかし、祖師を売り、寺号を褻《けが》し、宗旨において一点の益するところなくして、国民の体面上、無数の飯米を蠹食《としよく》す。加之《しかのみならず》、前条所述ごときつまらぬ悪僧なども、寺の上り銭さえ満足に本山に納むれば、才子とか大竜とかこれをほめる。
 予はいやになって来るから、近々また洋行せんかとも思うなり。今度洋行したら、姜維《きようい》がいえるごとく(予は本草学者だけに)、ただ遠志《おんじ》あるべし、当帰《とうき》あることなしじゃ。汝ごときは、少々事理をも解し、満足とまでなくとも、なんとか実用と教理との円融ぐらいははかるべきに、なお不二不一とか、自我我入とか、狂言の文句ごとき、何千年いうも同一の閑言語をくり返し、人の言うことをききはつって、理由もなしに、科学は浅はかとかなんとかいい来たる。予は科学の厚薄浅深を論ずるにあらず。ただこの外に、今日宗旨の実用を(例の葬式屋や経よみ、諷誦等の芸業の外に)発暉《はつき》すべき道なしというなり。自我我入や二而不二等のことは、いやでも応でも、坊主になった上は、それで飯《めし》くわねばならねから、芸者の三絃、ちょぼくれの木魚じゃ。それを捨てよというにあらず。
(375) 終りに臨んで一言す。目下念仏宗わが国に盛んなり。他宗の比すべきにあらず。ただし、この宗は今日また今後の世に莅《のぞ》んでは、まことに無意味浅はかなものと思う。故に早晩取って代わるべきはわが真言なり。
 ユジン・ビュルノフ(子の方)いわく、宗派というものは、義理の上より別るることは至って少なく、時々の事情世態の上より起こること多し、と。真に然り。わが国の古え法統これなり。摂関の子弟は必ず門跡、公卿の子弟は僧正、武士・家人の子弟は僧都以下というようなことなりしゆえ、第一に、「けふこのごろはくふやくはずに苦労する」と六角堂の鹿仙がおどり出し、それから、佐々木兄弟に頼朝が約束の日本半分くれぬとか、熊谷が久下に訴訟でまけたとか、いろいろの事態世相の捫択《もんちやく》より諸宗派起こりしなり。今はこの分離の事情すでに伝を失するまで遠くなりたれば、おいおい融和合同すべきにやと思う。さて包有の攻撃にまされることは経王と『維摩経』にて知るべし。一は和俗の気あり、一はなければなり。故に真言は金粟王の指揮に従わば、今後大いに勃興するに決せり。
 ついでに申す。念仏ということも弘法大師はいうたが、前述禅定と今日の口頭禅とちがうごとく、心の中で仏を念ずるというと、ぶつぶつとロで念誦せよというは大ちがいなり。予これまで親族などの中に寺詣りすること荐《しき》りなる女をみるに、みな若いとき淫奔の行い等面白からぬことありし人のみなり。さて、この輩は真言などは面白からずとて、みな念仏宗に帰す。さて、このごろ英国の雑誌に、名は忘れたが、予と同じく縁覚で有名なる英国のドクトル・サリー(心理学の大家)をやりこめたやつあり。その説に、笑いということは愉快にしてのみ起こるにあらず、実は不愉快より生ずること多し。心に鬱のたまりしとき、精神の倦みしとき、神経のこりしときなど、それに関係ある神経を動かし、それに纏《まと》い付ける血脈の積血を散ずるためなり。自家であったらなんとも哭かねばならぬようなつまらぬこと(たとえば(これは金粟の言)強姦のまね)を、衆とともにおどけ芝居で見れば、これを笑う。つまらぬこと、ひどいほど笑うなり。そのことの愉快なるにもなんにもあらず。ただ衆とともに大笑して無心無念になり、酒のむと同じく不愉快を外へ導きちらすなり(金粟いわく、避雷柱のごとくに)。わが子の悪事を人中で新聞で見、おのれをし(376)かりし奴の顔を悪評して笑う等、みなこの類なり、云々。まことに至言なり。支那には笑、哄、?《きやく》、胡盧《ころ》、その外苦笑とか、冷笑とか、さがさば『佩文韻府』などには多くあるべし。その字を見ても不愉快なるほどの字多くあり。
 さて予この論を読んで、念仏申すやつを多くこの順礼宿で見るに、深く思いいって力を入れていう人物ほど、なにか忘るるに忘られぬほど罪障深きことをしたるものなり。実に宗旨のためなりとて隣人の左右をも憚らず(しかも何の定時刻もなく、定儀式もなく、案内も予期もなきに)、七面鳥のなくごとく、不意に人の耳ざわりをもかまわず、かかる無意味の仏名などをいいちらすは、万国に比類なき曲事《くせごと》たるべし。すなわち右の笑いと同じく、自分|一己《いつこ》の旧罪より忘るるに忘られぬ不愉快を発散せんとするより出ずる一小事にて、第一、不意にかかることをいいつづくる心持ちの人の根性から分からぬなり。世態上かかるものは永続せぬことと思う。人に害あればなり。すべて事は一時に二所二様に斉《ひと》しく行なわれぬものなれば、予はわが宗ごときも正期に一同の諷誦の外、音をたてて「法身如来妙ちきちん」とかなんとか、おどけ半分の高声誦経は制止せんことを望むなり。声高ければ高きほど鬱は散ずるかしらぬが、心中の信念は薄くなるものなり。
 次に科学を真言の一部として(せずとも実際然り)、宇宙一切を順序立て、人々の心の働きの分に応じて、宇宙の一部を楽しむことをせしめて見よ。いかなるものも心内の楽は数で算えられぬものゆえ、自分の随喜執心次第でいかほども深く長く楽しみうるなり。欧米にはこのことの素養を懈《おこた》りしゆえ、今はただただ数量上の勘定から、有限の物体上の快楽のみを貪り、社会党とか無政府党とかいうもの出で来たれり。もしこれをして取るに尽きず量るに限りなき心、物、理、事の諸不可思議の幾分を自分の思うままに斉整順序して楽しむことを知らしめたらんには、かかる無懺《むざん》乱暴なことは出でざりしはずなり。世が哲学時代にならんことを望むは、学者一汎の冀望《きぼう》なり。ただし、哲学時代とて人ごとにロック、ヘーゲル、ハーバート、ニーチェ、プラト、カントなんと今古の人の名を列し、その糟粕を闘わす世になちんことを望むの真意なちんや。また親の意見きいた意趣ばらしにその状のてにをは咎むるごとく、ドイ(377)ツ語の訓釈して福沢翁の心学早学文をやりこめたりするの謂《い》いならんや。要は、人々この宇宙無尽の事、物、理、心の諸相を取りて、思い思いに順序立てて(すなわち科学風に)観念し、研究なり称賛なりして、米虫ごとき無用の飯米つぶしは一人もなきようにならんことこそ望ましけれ。この外に開化も教化もなきことと存ずるなり。
 右金粟如来ずいぶん疲れたが、?《なんじ》ら米虫穀牛輩を愍れむのあまり禿筆を走らせぬ。分からぬことあらば何度でも聞きに来たれ。暁も近く八声《やごえ》の鶏も聞こえるからちょっと横になり、明日は早くからまた山中へ珍物見に行く。故にこの状校字せずに出すから左様心得察読あれ。末筆にいう。(前述、今の禅宗のことについて)予はなにか頓智の稽固《けいこ》また落首の指南等に禅を学ぶとならば、その人にいっそ連歌を学べといわん。禅の語録の、女の前などでいえず、また欧州人などに訳しきかされぬような胡語乱詞よりは、この方優美の風を添え、文学上のたしなみともなりてよろしからん。左に一つ名吟を示す。
  ロンドンで銭乏しく、高橋という食客と二人、濠州の兎肉のカンヅメは量多くて値安いからとて、それのみ買い来たり食らう。高橋「こよひはや兎|一《ひと》カン食ひ尽し」。金粟王「ブリキの底にのこる月影」。     以上
 終りに言わん。?《なんじ》米虫は頑固にも例の帰根斎に同情を寄せ、その南贍部洲説などを庇保す。須弥四洲の説は、インド人が北方が高いからそれを山頂と見て平地を山腹と見ての古説なるを、?前年パリより申し来たれり。しかり、その古説の行なわれしころは、それが間にも合いしなり。何の不都合なかりしなり。しかるに、今インドより西に当たるヨーロッパを南贍部洲なりなどいわんには、その立脚地すなわちヨーロッパを南に見るべき地は何地あたりなるべきやというような、千両箱の底を楊枝でほぜるような疑問が生ず。北氷洋に大陸なし。故にそんな地はあるはずなきなり。故に四洲の説すでにインドの古えの言にして、教理に一毫の関係なしとすれば、今さら帰根斎流の時代後れのこじつけは入らず。それよりは、教理の高いところを事実に応じて順序を立てて分かるように述べ(すなわち科学)、実用に便にすること、書籍の目録索引を作るごとくにして可なり。すなわち森羅万象を今の時代の必須に応じて、早(378)く用に立つように分類順序づけるなり。いわば曼陀羅の再校なり。古え五十二類と経にあればとて、それで万物を尽せりということなし。そのころの人はそう思い、またそのころの智識はそれで足り、役に立ちしなり。今はそれより多く物分かった、また物の用に立てようも五十二類ぐらいよりは微細になったゆえに、五千万類でも六千万億類でもよし、今日まで分かっただけに、信徒に率先してこれを順次し、教え導くに用に立てやれというなり。かの耶蘇坊主の葫蘆を依様に画きて、今日こんな発明あればとて、たちまち経文をそれに拠りて解きかえ、明日またその科学説ちがえばとて経文を説きかえるようなことをするな、というなり。今日動物学などで、昨日一種と見しを十種と分かり、百種と見しを一種に合わせ、また人ごとに説ちがう等のこと、毎日のことなり。
 われわれは、酒?童子とか葛の葉とか、そんな理にはずれることを信ずるものにあらず。今日の児童もこれを笑う。しかしながら、古伝としてこれを唱うるとき、第一、自国はそんなことを信ずる世から今までつづいたという履歴ある系図となり、なんとなく国を愛するの風を育てるものなり。古伝の功ここにあるなり。必ずしも四角四面にこじつけて、酒?童子の仁義を説いたはなしとか、葛の葉は畜生すら子を愛する理を説いたなど、説くに及ばず。左様な説を称するときは、どうせ時代の違ったことゆえ、理に合うこと多いほど、理に合わぬことも随いて多きものなり。前日高藤師に『曽我物語』借覧せし。その内に兄弟裾野へ復讐に打ち立つ途中、祐成いろいろの腰折れ歌よむ。時致これを怒り、諫めて、そんな歌を考うるうちに讐を復すべき念慮が散乱せん、また万一討ちおおせぬときは、世の人吾輩を嘲りて彼輩はあんなことをいうて人を惑乱させ、何の讐討ちに念が厚からざりしなりといわん、といいしところあり。
 今日の急務は、仁者の説のごとく闇黒社会を照らすにあり。しかして、そのこれを照らさんとする人の闇黒なる、急務の第一たる教理と実功と相同相応すべき科学(科学とは他の宗は知らず、真言曼陀羅のほんの一部、すなわちこの微々たる人間界にあらわるるもの、さてあらわるるもののうち、さし当たり目前役に立つべきものの番付を整え、(379)一目了然で早く役にたつようにする献立帳を作る法に過ぎず。原子といい進化といい、ほんの曼陀羅の見様の相場付の定度なり。何の根柢あることにあらず。汝に真言の本義深奥処に比ぶれば、衣裳をなす糸条と外面人目に反射して現出する紋とほどちがうなり。物界に限らず、心界、事理界のこと、みな科学をはなれて研究も斉列もできず。いいようを換うれば、大日不可思儀本体中、科学はわずかに物界、心界、事理界等の人間にようやく分かりうるほどの外に一歩を出だす能わず)をば忽諸《ゆるがせ》に見、しかして口少なき息男が隣家の秘蔵娘をむしむし慕うごとく、または男悪しき下男が主人の寡婦を思いつめるごとく、二六時中不断、入我我入とか不二法門とか三千一如、十如一切とか、何千年いうも分かりきったこと(道義学の仁義、忠孝等を何千年いうも、その外のことは見出ださぬ、とバックルがいいしごとく、すなわち姦通を正しとする世に貞操の何たるを説き、不孝を正しとするところに孝を説いても、その世に応用なき故なり)をむしむし、くり返し、酒のみのたわ言のごとくいいつづけて自癖狂《モノマニアク》となりたりとて、それが宗教全体また社会のおのれの外の人に何の益ありや。もし人に問われて、入我我入等の理を今日にも通じ明日にもまた通ずるように説かんとせば、やはり科学の外にその方法を見ず。
 しかるを、それを知りながら左《さ》いわず、世間に害あるべき佐田介石流の了筒で、得手勝手に南贍部洲は欧州のこととか、地獄はアフリカのこととか、吉祥天は祇園新地にありとか、多聞天は武大ながら財宝多く持つから山口素臣、真鍋斌輩のことで、そんな奴でもおがめば福を下さるなんかんと、これは金粟の悪口だが、まずそんなこじつけも言いかねまじき根性ゆえ、羅什《らじゆう》三蔵のことなどを幸いに帰根斎等のことが起こるなり。大悟徹底などいうて、これほどのことにぐにゃりとなる。いわんや、それは金粟ごとく気振りがまことによいから、あちらから思い付かれたならまだしものこと、帰根斎などは大恩ある旦那の家に宿しながら、こちらより夜這いに行きしにおいてをや。世にこれほど詐偽のひどいものはなかろうと思う。羅什すでにかのことのために死にぎわに安楽なること能わず、神呪を呪してみずから救えり。いわんや帰根斉等においてをや。要は南贍部洲等のこじつけは、曽我十即のかたき討たぬ中の辞世(380)で、まことに道を急ぐものには入らぬ道草というべし。予は断然かかることをいうて愚夫愚婦を一時|苟安《こうあん》させんよりは、直ちに政府すでにそのことあるから科学教育を協力してすすめよ、というなり。
 また前書永々述べやりし、例の比較宗教学とか(実は比較宗外相学)なんとかいうものを、例の博士とかいう油虫同然のものがもちこみ来たるとき、その方ごとく、当方にはこんな伝で満足するとか、そんなことは勝手にいえとか、受け身〔三字傍点〕になるは、第三人称に当たる人たちから見ればまことに弱く見ゆる。その方ら米虫を弱いと見ず、真言大乗宗というものは根低から弱いものと見るなり。たとえば雪隠の中にいて、予は幼少よりこの臭いに狃《な》れたり、人の言きくに耐えず、いやなら勝手により付くなというごとし。もしその人の居室の香りが果たして依然安楽すべき芝蘭《しらん》の香りなるか否を証せんとならば、よろしく障子をあけはなち、土足のまま来たりてなたね畑の芳にほこるものを歓迎して入れてやり、双方をくらべさせ自証自判せしむべしというなり。それをなすは、こちらの主張のみでは行なわれず。まず先方に理窟いわせ、その理窟通りの理窟でこっちも応答するに外ならず。すなわち、大乗は釈迦が説かぬゆえ仏教にあらずといわば、しからば汝は仏教の仏とは釈迦のみを仏と心得たるかと問う。然りといわば、いかにも左様なり、権兵衛のみ人にして七兵衛は人にあらずと心得たる人は、権兵衛の外に人なきは勿論のことなりというの外なし。もし仏とは仏陀円覚の義なりといわんには、仏教は釈迦のみに限るにあらず。竜猛《りゆうみよう》のごとき、自分謙遜して仏とはいわなんだが、実は立派な仏なり。これを仏といわんに何の不可あらん。仁義、忠孝、さまで珍しきことにあらず。ヒウチ石で火を出し、帚で席《むしろ》を掃き、紙で糞をふく、何の世に誰が発明せしということなきに同じ。橋から落ちる夢は誰も彼も別に人から習わぬが見る。橋というもの危きを誰もかれも十分幼少より呑み込みおればなり。乃至《ないし》矢鏃石《やのねいし》の削り方など、いずれの地どの国の蒙昧不通の世のものも同一式なり。かつて紀州侯世子頼倫氏に陪して鎌田栄吉と英学士会院クラブに饗応を亨けしとき、陪膳のガウランド氏(旧中島造幣所長)いわく、妙なことは日本の古代の神剣も今ここに(そのとき、テームス河の底より出でたるを、世子の覧に供せしなり)ある古ブリトン人の太古の剣も、(381)銅と錫の合わせ方幾千分の一匁というまでも微細に合うことなり、といえり。これとてもこみ入ったことゆえ、一世一代にでき上がりしにあらず。いずれも幾千年へて研究せしゆえ、自然一定の割合がもっともよきということを何となく自得したるなり。すなわち前文にいう、天地間には自然の理あり、ゆるやかに気長くかかりおれば必ず帰着するところは一なること、予が毎日この辺の杣さえ往かぬ絶巌にゆき、雨にあい降ることも上ることもならぬこと毎々あるも、落ちついてかかるときは、まさかに岩より穴へ陥ちて挫けずに、必ず上へか下へか出る道がつくなり。さて二度、三度といて見るに、妙なもので存分考うるということないが、落ちついてかかるときは必ずもっとも容易な筋道へ出るなり。それと同一のことと知るべし。
 されば、予は幼少より我流《がりゆう》で歌を弄び、姪または右にいう美人の歌など直すことあるが、いかなる上手なるものも下手なるものも、全く前人のいいし句をはなれていうことはならず。これを剽窃せり、剽窃せりというは酷評というべし。屋代弘賢なりしかと思う、三十一文字を錯列法で算勘して、わが国の和歌を幾百万首とかよむときは、もはや三十一文字ではその上に歌を一つもよみ出ずることならぬ世が来る、といえり。現に大友皇子か大津皇子かの詩と同一の句二つばかりつづいて出でたる、明代の名人の詩がある。また『詩経』の「貽《おくりもの》美なるにあらず、これ佳人の贈《おくり》もの」というと同一の句、ローマ時代にある。また全く旧世界の開化と拒絶《きよぜつ》反対せる(たとえば、女は立ちて尿し、男は坐してする。酒を多くのむに肛門よりつぎこむ)メキシコ国ですら、その十二支は全く支那と同じことで、ただ虎が西大陸にないから、その代りに豹、竜というものは考え及ばぬと見えて、その反《かわ》りに響尾蛇《がらがらへび》あるのみ。その響尾蛇のモゼイク(組立て石)を見しに、予は講釈きくまでは全く東洋人のかきし竜と思うほど似おれり(ただ足なし)。(『つれづれ草』を、羅山がいろいろと注して出処を示せしを、塙保己一が聞いて、実は兼好はそれほど物は知らなんだはずじゃといいしとか。『方丈記』の始めの、ゆく水の云々を、『文選』より出でしというもいかがにや。長明は『文選』はよみたるなるべし。しかし、それによりて必ず作れりと予は思わず。今予のかく長文の状も一々出処あり。(382)されば捏造というべきにや。)また『山海経』は禹が書いたというはこじつけかもしらぬが、たとえ郭璞《かくはく》のこじつけ捏造の贋本とするも、米国の発見よりはるかに古い。しかるに、その中に米大陸にのみある動物に酷似せるもの多くありて、故西村茂樹氏『輿地誌略』の米国の部かきしとき、いろいろの新訳字を用いんよりもましと、『山海経』の字を多く用いたるに、はなはだよく当たれり。
 これにて、人間の想像の区域に大抵限りあり、材料に定数あることを知るべし。(天文学などは、実に錯揉《さくじゆう》せることを研究する。それでも必用が大きいから人がくる。故に千年ぐらいの間のことは一秒違わずに分かるなり。)故に、このことはこれより出た、このことはこのことより出たと、釈迦の説などをその先の人より出た出たという人あらば、試みに抽象的に、例は挙げずに、人間の至道、日常の倫理等で、一向先人のいわぬ、故人の気のつかぬことを、なにか一つ言うてきかせてくれというて見よ。実に一つもなきにこまることならん。否、そんな人あらばそれこそ大自在天、無中有を生かしうるの造物主と驚くの外なし。ワリス氏(ダーウィンと同日に自然淘汰説を出せし人、現存)いわく、今日斬新斬新という巧技の発明も、一として漸次旧に依って改良の余りに出ぬものは一つもなし、と。この人は世にいわゆる大斬新の自然淘汰説を出し、諸学問に大影響を及ぼせし人なり。しかるに、みずから述ぶるところかくのごとし。いわんや、宗旨いうところは、人間に切実なることと宇宙間の大道至理のみ。これを誰がいうたりとて功名になることにあらず。ただし、その一斑を伺うもののみ打ちつづきおりし中に、釈迦出でてこれを総括して、その要処を言い得、それより大乗の端緒を啓《ひら》く。加減の二法のみ知りしものは、二を十乗せよといわば、その方を容易にすること能わず。2+2+2+2+2+2+2+2+2+2と永々しく二を十度珠数つなぎに加うるの外なく、また百を二十でわれといわば100−20−20−20−20−20と20を五度ひいてみて、さて0となる。そこで20を幾度引いたら100が零になりしとよんで見て、五度ゆえ100を20除すれば五と答うるの外なし。それを敷衍して乗除の法を出だせしが大乗教なり。乗除は加減を基とす。すでに乗除を知らば加減の要なし。否、その迂にして事を阻むを見る。しかし(383)ながら、加減の功は没すべきにあらず。
 釈迦出でて外道を掃蕩し、人間は勝手次第とか、運次第とか、数ばかりで成るとか、むやみに一偏の説を掃蕩せしにあらずんば頓教《とんきよう》出ずることあるも、真言出ずることあるも、何としてその真意を布くことを得ん。故に釈迦の功は没すべからず。釈迦は仏と称す。その前にも仏はあるが、時代久しくしてその方は伝わらず。(ベーン氏いわく、目前至って事実なることも、わずかに八百歳立ちなば虚実いずれと分からぬに及ぶ、と。わが邦でうそ八百というも、かかる事理に合えるにや。)故に、最後の仏が釈迦ゆえ、便宜上今の世を釈迦の出世で紀念して、釈迦を単に仏ということ、Jesus the Christ(諸キリストの一人なる、または現代のキリストたるイエス)といわば正しきを、単にイエス・キリストというごとし。世間の人は、博言学で独国へ留学して下宿の娘ひっかけるような暇あるものにあらず。また一々言う前に史籍をしらべるとか、古文を開発するものにもあらず。牛馬に動《どう》といえば止まり、止《しい》といえば動き出すごとき、間違いは間違いながら、何ともそれで用がすめばよきなり。
 実は竜猛も仏なり。馬鳴《めみよう》は第二仏といえり。また金粟も仏なり、これは現世にあり。(大乗には仏をムカデ一疋と見る。その一節一節にしてみずから活動し、全体を動かし、後節を導くものが、釈迦、竜猛、金粟たるなり。三にして一、一にして三、争うに及ばぬことなり。)しかれども、別にわけ立てて釈迦に対して肩を張るの必要もなく.他の諸仏すでに悠久にして伝を失したるに、二仏三仏と出でしことは煩わしければ、それをいわざりしは仏教の長処にして、諸祖師の穏和なるなり。(回教には、たえずマージ(聖人)というもの出る。自分でいうことゆえ、どれがほんとうか分からず。相互の争議で入らぬ災いもかかる。耶蘇教にも、ルナンの説に、サン・フランシスなどは、もし耶蘇の前に出ずるときは耶蘇教反ってフランシス教にして、耶蘇がサン・ヤソ(ヤソ尊者)といわれねばならぬほどの人なりし由。これもその人穏和謙退なりしゆえ、そんなことを方立てて言わざりしなり。今日米国など、プロフェットと自称して輩出するその人々は、えらいには相違ないが、いわでもがなと思わるること多し。)
(384) 諸経これを人造といわばよし(釈迦も人)。捏造とかなんとかいわんは、何の意趣なきに誹謗するものといわざるを得ず。いずれの国も古えは人の名に同名多く、また今日ごとく板権を争い前後を訴うる等の必要もなし。故に荘周かいたら『荘子』とか、源氏のことを書いたら『源語』とか、著者の名そのときは知れきっておりて、今は知れぬもの多し。いわんや、仏経の編輯はいろいろと大衆がよって、かかる上かきしものなるをや。一人でかかぬもの必ずしも道理に外るるにあらざるのみか、実は多勢かかったものほど、念の入ったことというべし。右のごとく、前方にも分かり、第三人めの傍聴者にもわかりやすく理由を言わんことは、ただただわれはわれの伝でよし、そんなこと聞きにくるなというより、はるかにましにあらずや。また穏当なる人道応待の作法にあらずや。また理に叶《かな》えるにあらずや、というなり。それをかたくなに討ち返して、そんなことはいうに及ばぬとか、何ともいわばいえというごときは、酔狂者が自分が酔っておって人が相手にせぬをよいことと心得て、水を持ってきてくれた人に盃を地げつくるごとき無作法に候わずや。もし地を換え位を変じて宗教弘通のために人にすすめに往く場合を思え。おれのいうことは聞け、人のいうことは聞くな、何でもえーから分からねは分かるまでわれのいうことをむりにおぼえ誦せよ、ということとなる。これ実に宗教の本意ならんや。
 右よくよく味わい見られたし。むかし道安、老いに莅《のぞ》んで苦誦苦読はなはだ力《つと》む。若きものに向かいて、老僧これを東隅に失して桑楡《そうゆ》に収めんとす。たとい、その事なるも、全きこと能わじ。願わくは、諸師壮なり、老僧の悔いに及ぶことなかれ、といえり。米虫いまだ五十に達せず。しかして、自亡自棄して帰根斎と同じく禅などいうことを主張す。予の取らざるところなり。筆二本全く敗《やぶ》れおわれり。故にこの状の賃として細筆二本おくり来たれ。また、はがきでもよいから、この状受けたら、受けた、降参した、とかき来たれ。                 以上
 
(385)          16
 
 明治三十六年八月八日
                   南方熊楠
   土宜法竜様
 前日の筆六本ありがたく受領。不足郵税六銭とられたり。以後は念を入れ局に就いて聞き合わせ下されたし。わが国の郵政はむちゃくちゃにて、毎度かかることあるに閉口せり。前日、家弟より紙三十枚ばかり送り越し候。上に商品見本とかかず、ために不足税三十二銭とらる。紙一枚に一銭五厘ばかりの郵税となる。秕政《ひせい》の極ここに至る。慨するに堪うべけんや。これみなわが国の経済すでに究迫の極に達せるに出ずるなり。しかして、貴下等は二而不二とか無用極まることを囈語《げいご》して止まず。むかし朱文公は、宋|祚《そ》まさに覆《くつがえ》らんとするの不祥時に出でて、道徳の閑言語を述ぶ。それすら吾輩は嗤笑《ししよう》するなり。いわんや米虫ら何の分かりしこともなく、二而不二など罵りちらし衣食するは、一向|国蠹《こくと》というものに候わずや。
 その故をいわんに、二而不二とは不二而二ということなり。「紙のようじゃが玻?《はり》なり」、「玻?ながら紙のごとし」。何の異かあらん。およそ世に行なうことは、一言の末なりとも実用あるを尚ぶ。また右ごとき「二而二」無用の語も、実は実用を期していうに他ならず。ただ、その言い様がつまらぬなり。二而二なるか不二なるかは、二をも一をもとくと見すました上ならでは、容易に言いがたし。その順序をふまずして、かかることをいいちらし、その後またこれを伝え空唱空言するのみで、悟りようによりては、「何をするもかまわぬ」、「恥も恥にあらず」というような悪を賛するのアルコールとなりて、善を慎むの言となること多し。二而二とか二而不二とかは、そんな無用の論高まりしと(386)き、これを鎮定するの一方便に過ぎず、実際何の用事なし。予等はそんなこと少しも面白くないが、面白くば面白い人のみ心中に左様思いおるがよし。人に教えすすむるに及ばず。今日の世、それよりさし迫りたる要件は多々あるなり。たとえば、動力と光力と電気力のごとき、相融通転化して少しも減ぜず。これ三にして一なるものなり。しかるに、神経力に到りては、他の諸力との関係はなはだ詳らかならず。故に唯力と唯心の議論あり。二而一やら二而全別に二なるやら分からぬなり。それをわかるまで、順序ふまず、研究せず。酒どれたものが隣家の喧嘩を聞いて、半酔中に助けに行かんと思うのみ、囈語するのみ。自分も疲れ、人もうるさきまできばりて、手足少しもきかぬというがその方らの現状なり。第一に、手足からきくようの方便を立てざるべからず。むちゃくちゃにウンスウウンスウ責め念仏のごとく坤《うめ》くも、何の功かあらん。
 □語に、道側に好景と??《すくもむし》を同時に学ぶ、という諺あり。漠然とあれもこれも見たというほどのことなり。貴公らの所為これに外ならず。世に益あるよう、また大へんに悟ったように一時に言わんとす。しかして、実はその方法立たぬから世には益もなく、また何の悟りも得ぬなり。さて??一疋道側に死にたるも好景を助くとか、好景は??を学ぶを助くとかいうが、二而不二のいいかたなり。実はその場合には、二物全く別に二而二なるなり。これを学ぶも、別々に二而不一なり。もし道側の??も景気も一といわば、そはその見様のあわてたるを証するに止まり、一時に二物を見たというまでなり。何の学もなく、何の益もなし。また呪詛、祈?等は、患者依頼人の信仰次第で、外見から少しもきかぬとき本人これをきけりと思い、安んじて死ぬること多し。一方も信じて行なう以上は、不信にして引導渡し、後家をあてに湯灌しやる坊主などよりは、はるかにましにて、志だけ届くというものなり。それぞれ儀式等、またひまもつぶすから、相応に報酬とるも不都合にあらず。二而不二など一向益もなく骨も折れぬなり。のちは素餐《そさん》すること、これより大なるはなし。かかることを教うるは、手品、品玉の伝授よりはるかに無益なり。また、ひまをつぶすから実は有害なり。
(387) 次に禅の奥処は真言に同じ、云々。然《しか》いうときは何ごとにても奥処は真言に同じ。それ故、真言というなり。賢人が泥酔して狂語するを賢人というべきや。今日の禅というものは、語録やなにやかや弊事にて泥酔しおるものなり。いわんや、末輩のやけくそを慰むるためとか、大胆不敵になりたいとか、なにか祭酒でも飲むように心得てこれを学び、また教うる輩においてをや。故にそんなことなら、今少し教受《きようじゆ》に順序あり娯楽に趣味ある連歌でもするがよいというなり。糞土にも道あり。煩悩即菩提なり。ギリシアの哲学などいうものは、主として娼婦と?童《れんどう》と談笑するより成れり。さればとて、娼婦、?童と再興隆起せしむべきや。およそ事には弊の多きものなり。その弊の多きほど、その事が悪しきなり。あわび貝は肉味は大抵同じものながら、外にかき多くつくほど料理しがたきものなり。故に、かき多くつきしより、つかぬを尚ぶことなり。心地を清涼ならしむるものは禅に限らず。何でもそれほどの功は用いようであるものなり。故《ことさ》らに弊事多きものを用いるに及ばず。今天理教の教祖の書きしものを見るに、実に意を鄙近《ひきん》に取りて人間に切実なる教えなり。そして、誰も彼も悪しというは、その教に弊事多く出で来たればなり。貴公らの言うところは、一反五、六銭の麁布《そふ》を着て、木綿も一円も出せば絹に劣らぬのがあるからというて自慰するごとし。しからば、何ぞ一円出してそれほどよき品を買うの工夫をせざる。現に五、六銭の麁品きるようなことで、木綿の好《よ》きにほこりがたし。予、世間の芸妓など根引《ねび》かせ妻にせし人を見るに、大工の子じゃが先祖は士だとかなんとかいう。知れたことなり。系統絶ゆるほど悪しからんには、その人現に世に存するまでつづくべきや。そのつづくだけよき系統の中の好否を争うことにあるなり。しかるを、右のごときこというは、よきことに一もいうべきことなきゆえ、尋常のことをよきようにいいほこるなり。うぬぼれとか堅意地とか阿呆とかいうの外なし。予は直指真入《じきししんにゆう》ということが、今日の世間に害あるをいうなり。直指真入は微細の智識をすてたるものなり。
 今の世間は経済が第一なり。経済を立つるには漸指漸入の微細智識が入用なるなり。腹へってもひもじうないとか、死んだら分かるぐらいの悟りは、別に学問も坐禅もするに及ばず。誰でも究すれば分かるものなり。腹へってつまら(388)ぬからひもじうない法、また人をもひもじがらせぬ法、死なずにすむことを死ぬようなことのなき方、また人を死なせぬ法を知るが必用なれば、直指進入等は無用有害のことなり。むかしのごとく、人間ひまにて精神上いろいろの閑苦(ennui《アンニユイ》ショッペンハウエルは富人なりし。その説に trouble《トラブル》難苦よりは ennui《アンニユイ》閑苦が恐ろしいといえり。俗にいう所在《しよざい》なしなり。富人に多く見る。智足らず、学薄く、下劣の根性にて働かずに食えるから、何してよいか分からず。芝居見ても飽き、茶を飲んでも面白からず、女やり過ぎて腎虚し、酒のみすぎて迷乱二日酔いし、向え酒ととなえ、また飲んでもじきに醒めるから面白からず、というようなことなり。予の一族にもかかるもの現にあり)多かりし。経済ゆるやかなりし世には、直指進入、坐禅などよかりしならん。今は経済さしせまり、難苦(くらしにこまる、親族に渋難物が多いというように事件多きなり)多き世なり。それを閑苦を済《すく》うべき直指進入、相対して笑うぐらいのことでは、直らぬのみか、実は酒でものまねば笑うこともならぬ世の中なり。教えも悟りも世相に伴わざるべからず。今日禅などはすでに世に合わぬなり。壮士でも作るにはよからん。ただし、その壮士というもの、すでに世に害あるなり。いわんやその本尊たる人、下等船に乗り煎豆食ってセーロンに旅せしを無上の堪忍でもせしごとく誇るようなことでは、その教えすでに頽廃傾極なり。何ぞいうに足らん。
 むかしギリシアのジオゲネスは市朝に坐して稠人《ちゆうじん》中に手淫す。クラテスはそれ相応の美女を妻にして、白日に衆中に交合す。またバールを祭る国教は、神に子を捧ぐとて太鼓につれて踊りながら手淫す。これらとて全く益なきことにはあらざりしなり。ただし今日には合わぬなり。冬来て葛を衣、夏来たりて麻をきるは常法なり。貴下らの言は葛も剥がば麻の用はありなん、麻も重ぬれば寒をふせぐの功はあるべし、というに同じ。その説迂にして、第一、人間の短き世には行なわれぬなり。一銭出して直ちに見らるる芝居と、五銭出して半日まちて見らるる芝居とありとして、その芝居同様の程度のものならんには、貴下はいずれをとらるるか。興は同じことなればとて五銭出して半日またるるか。また余は一銭して直ちに見らるる方よろし。しかし、五銭出して半日まって差し支えなき人は左様すべしとい(389)うほどのことか。そんなことは言わずも分かりておるなり。もし早く見たいというて教えを乞うものあらば、よろしく早く見て価を費やすこと少なき方を指定しやらんこと定まったことなり。
 科学を棄つるにあらず、学校とてもそのつもりで教えおる、云々。今の学校の教うる科学というもの、光線が一秒に六千マイルを走るとか、酸素は水素より重いとか、虫に脚六本、たこに八本、いかにもというような、きれぎれのことなり。物を多く識るばかりで、それを一々つづけて考えねば何の悟りも用もなし。科学とは順序立てて智識を陳列整理することなり。故に貴下ら何でもよし、自分の知ったことを順序立てて、たとえば常山の長蛇のごとく、頭打たるれば尾来たり、尾打たるるときは頭到り、胴を打たるれば首尾とも応ずというぐあいに、斉整して見よ。貴下らの文書を見るに、漠然として何の順序なく、思いつき次第に物をいうというのみ。何のことやら分かりがたし。自分の知っただけのことも整いおらず。思い出したことは思い、思い出すにちょっと骨折れることはわざと力めて忘れ遣《や》るというようなり。すでに科学を学ぶべき本地すら、かのごとく乱雑住なり。いかにして事理とか心理とかいうことを縦横にくみ立てて心得えんや。また随読随忘などいうことしばしばきく。物は左様に忘らるるものにあらず。要は毎旦毎夕いがみなりにでも自分の知り得たることを総勘定して、この類あの類と別してそれぞれたばねて閲し見よ。決して忘らるるものにあらざるなり。記臆法とては已知《いち》の諸識を勘定して、さあといわば間に合うように連想しおくこと、銀行家が諸国よりの来状を部分けして常々くりかえしおれば、いかなることおこるも差しつかえなきに同じ。ただ、むやみに未聞未知を聞き知らんことをつとむるごとき、他人のかいたものを翻誦するごときは、知識を得るの法にあらざるなり。
 貴君らすでに科学を享受すべき白地すら持たず。いかにして曼陀羅ごときこみ入ったものを受解し得んや。これを教えんとならば、まず諸科学の根底からいわざるべからず。ただ読んで面白がられるのみでは、合戦物語か恋愛小説も同じことなり。予は全くこれを今の多忙なる日々無用無益の業と思うなり。よろしく『エンサイクロペジア・プリ(390)タンニカ』、東寺学校に旧板を買ったというから、それについてでも、諸般の科学を毎条よみ心得、さて金粟王の教えをきくこととされよ。
 ただし、予は自分に腹案なきことを虚喝するものにあらず。簡単に示せとのことながら、曼陀羅ほど複雑なるものなきを簡単にはいいがたし。いいがたいが、大要として次に述べん。すなわち四曼陀羅のうち、胎蔵界大日中に金剛大日あり。その一部心〔傍点〕が大日滅心〔四字傍点〕(金剛大日中、心を去り《(力)》し部分)の作用により物を生ず。物心相反応動作して事を生ず。事また力の応作によりて名〔傍点〕として伝わる。さて力〔傍点〕の応作が心物、心事、物名、名事、心物心、心名物、……心名物事、事物、心名、……事物心名車、物心事、事物……心名物事事事事心名、心名名名物事事名物心というあんばいに、いろいろの順序で心物名事の四つを組織するなり。
  例。熊楠《(心)》、酒《(物)》を見て《(力)》、酒に美趣《(名)》あることを、人に聞き《(力)》しことを思い出だし《(心)》、これを飲む《(事・力)》。ついに酒名《(名)》を得。スクモムシ《(心また物)》、気候の変《(事)》により催され《(力)》、蝉に化し《(心また物)》、祖先代々の習慣《(名)》により、今まで芋を食いし《(力・事の変)》を止めて《(力)》、液《(物)》を吮う《(事)》。ただし、代々《(名)》松の液《(事)》をすいLが、松なき場処《(力・物の変)》に遭うて、止むを得ず相の液を《(事の変にして名の変の起り)》すう。
 右のごとく真言の名〔傍点〕と印〔傍点〕は物の名にあらずして、事〔傍点〕が絶えながら(事は物と心とに異なり、止めば断《た》ゆるものなり)、胎蔵大日中に名〔傍点〕としてのこるなり。これを心に映して生ずるが印〔傍点〕なり。故に今日西洋の科学哲学等にて何とも解釈のしようなき宗旨《クリード》、言語《ランゲージ》、習慣《ハビツト》、遺伝《ヘレジチー》、伝説《トラジシヨン》等は、真言でこれを実在と証する、すなわち名〔傍点〕なり。
 実証。トルコ人は、一四五三年に欧州に乱入し、コンスタンチノプルに建国す。その後、不断ジョルジア、カウカシア等の白人(例の科学人種学上の)を妻妾とし、今日すでに白人の血の方はるかに多く、以前の日本人などと同じかりし黄人の跡は、はなはだ少なし。いな全く白人化しおるなり。しかれども、その履歴《(名)》の重きがため白人として万事に行作し得ず、今に黄人同様の(万事に)行作また受行作しおるなり。実は物(体質)、事(外交、宗式等)、心(心性)(391)等に一として然るべき理由なきが、全く無形無実不可捉得の名〔傍点〕(言語、伝説等)が現存実在するがために然るなり。(インド人は、白人と同人種ながら、何となく、支那、日本と同一の行動するごとく、名〔傍点〕ということ輓出にしてはなはだ活動するものなり。)ただし、心は事によってあらわる。事をはなれて心を察すること能わぬと同じく、名もまた事によってあらわる。(事の重畳複積して、単箇の事々でなく、全く単箇の事々と別になれるものが名、酸素一原子と、酸素のみながら三原子重複せるオゾンと、作用行動異なるごとく。)(田辺近処に麁火家《あらびか》という村あり。この村のものは下戸が二升というほど飲むなり。一人の一飲みに取りては事〔傍点〕、一村に取りては名〔傍点〕、さて飲むといえば、この村を記出する心上の映が印〔傍点〕。物〔傍点〕みな印〔傍点〕あり。物に付くる一切終始の事〔傍点〕どもの総括なり。)
 因〔傍点〕はそれなくては果〔傍点〕がおこらず。また因〔傍点〕異なればそれに伴って果〔傍点〕も異なるもの、縁〔傍点〕は一因果の継続中に他因果の継続が竄入《ざんにゆう》し来たるもの、それが多少の影響を加うるときは起〔傍点〕、(甲図。熊楠、那智山にのぼり小学教員にあう。別に何のこともなきときは縁〔傍点〕。)(乙図。その人と話して古え撃剣の師匠たりし人の聟ときき、明日尋ぬるときは右の縁が起〔傍点〕。)故にわれわれは諸多の因果をこの身に継続しおる。縁に至りては一瞬に無数にあう。それが心〔傍点〕のとめよう、体〔傍点〕にふれようで事〔傍点〕をおこし(起〔傍点〕)、それより今まで続けて来たれる因果の行動が、軌道をはずれゆき、またはずれた物が、軌道に復しゆくなり。予の曼陀羅の「要言、煩わしからずと謂《い》うべし」というべき解はこれに止まる。これを実例を挙げて演繹せんには、なかなかむつかしく、一生かかるも言い尽し得べからず。いわんや、これを実用公益に便わんとするにおいてをや。大抵右にていろいろ考うれば分かることと存じ候。しかして名印〔二字傍点〕を真言に実在とせることは、この解釈にて十分その正しきを証し得べし。今日の西洋の問題にてはこの最大の必用件を単に事〔傍点〕相中の一事と見るゆえ、いろいろと難題が出るなり。これ実在にして名〔傍点〕(印は物とはなれぬもの、今日物を論ずるも、実は印の論に過ぎず。真実の物は知れざればなり)を立てた上、始めて事々の重複せるものを(392)概括して、それぞれ名を付し、分類し得ることとなるなり。(因果は断えず、大日は常住なり。心〔傍点〕に受けたるの早晩より時〔傍点〕を生ず。大日に取りては現在あるのみ。過去、未来一切なし。人間の見様と全く反す。空〔傍点〕間また然り。)故に、今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みあるが)、縁〔傍点〕が分からぬ。この縁〔傍点〕を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり。ついでに申す。『傅子』という晋ごろの書に、宇〔傍点〕は空間、宙〔傍点〕は時間に恰当の解あり。わが邦の訳者、この二字を用いざりしは遺憾なり。
 右、簡単にいえとのことゆえ、あえて全く辞せず、筆にまわるだけは述ぶることかくのごとし。
 今年 Myers《マイエルス》という人、一生かかりてかのロンドン不思議会をしらべたる研究の結果として Human Personality and its Survival of Bodily Death《ヒユーマン・パルソナリチー・エンド・イツツ・サーバイバル・オヴ・ボジリー・デツス》(人間箇人質とその体の死後の留存)と題し、二冊(上巻は序文四十六頁と本文七百頁、下巻は序文二十頁と本文六百六十頁)の大本出でたり。二十一円ほどするなり。これは、右述の曼陀羅の心〔傍点〕にはあらざるも、その一部が人体に托せる人心〔二字傍点〕の秘奥《ひおう》を論じたるものにて、ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』(物理学等の物科学開祖称導の本)に対すべきほどの書という。(すなわち後日心〔傍点〕の学開くるに及び廃冊となるは心得ながら、心科諸学は必ず成るべきという開発の書なり。)小生注文せり。来着の上、貴下にも見すべく候。しかして人心の学いかに開くるも、そは形体に托する心なる上は、やはり科学を脱せず。故に小生の右述の曼陀羅の心の学とは全く異なるものなり。
 東寺の学校に『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』第九板二十五冊、例のタイムス社より買いしと高藤師より聞き及ぶ。かかることは、はなはだ面白からず。予はそれを所持するから学校へ貸してもよかりしなり。第十板は十一冊にて昨冬より今年できたり。およそ二百円ほどなり。また関税等かかるから、二百二十円ばかりとも思う。貴下ら醵金して学校へ買う気はなきか。しかるときは、小生も多少金を出すつもりにあるなり。予は永くこの国に留まるの(393)意なく、かかるもの一人で買う気はなし。また学校へおくものなれば、予一人にて買い、寄付など、今の予の家の情体上面白からぬこともあるなり。すでに新板できた上は、第九板は二十四、五年前のものでその学識全く廃物となりしことも多きなり。二百円は高いようだが、いろいろのつまらぬ費用を節すれば、十人もよればできることと思うなり。このこと帰京の上謀り下されたく候。
 また?《なんじ》は卑劣心から芸妓は金ほしく、お嬢さんは奇人を珍しくてのことなどいうが、実は今日の芸妓ほど世間の公案を実用する禅の奥儀に達したものはない。ソクラテスがアスパシアと談ずるを第一の哲学道としたるなど思い合わさる。またお嬢さんとても年二十歳なれば、そんな奇人を珍しい等のことのなきこと、その和歌のうまきにても知るべし。経にもある迦葉《かしよう》の先世の妻たりし女のようなことじゃ。今の科学者は唯物唯物というて歴史を器械学同様に説かんとする輩すらあるに至る。これは米虫ごとき馬鹿なものが多くて、因果〔二字傍点〕のままに動くのみ、死物が多いからじゃ。今年発見のラジウムという原素が非常の熱を自発するごとく、如来位に到った予などは、事にふれ物に莅《のぞ》んでみずから発動して起〔傍点〕をなすことが多い。故にあうところ見る物みな活動するじゃ。また?は予の三十二相を悪口などするが、そは天人の目に瑠璃と見えるものを舎利弗は荊棘と見るごときことじゃ。一体いずれの国でも馬鹿な女は形にほれる。次は気だてにほれる。さて最も長じたものは一物の大いに健やかなるにほれるものなり。その上になれば、右の迦葉《かしよう》の妻のごとく、いわゆる天人界の「相歓ぶをもって合となす」じゃ。しかるを汝ら下劣にして、かの光明皇后が実忠の美貌にほれて入湯するところをのぞいたり、また例の道鏡法王のことなどまでは知るが、『荘子』に、哀駘它《あいたいた》というせむしが到るところ女どもにべたぼれにほれられたことを知らぬと見える。
 前書に、今日の科学は数〔傍点〕を基とし至ってたしかそうにいう、しかし数〔傍点〕もまた定まらぬものなることをいえり。今一証を挙げんに、夏は暑いから時計の鍼《はり》がふくれる、したがって動くことが遅くなる。冬は早くなる。されど普通にこの世界の一地方の空気も何もかも、それ相当にふくれ、また縮むから、時計を基としてあらかた時を数ではかり得る(394)なり。今太陽ごとき、日夜の別なく不断同様にもえ熱しおる世界に時計ありとして、この世界の日夜冬夏でとけいの進動に多少の遅速ある世界の時計とくらべ見よ。幾千年の後には、はなはだしき差違が生ずるなり。いわんや、その太陽の熱も幾億万年間には漸次冷え減じ行くをや。故に数というもの、今の科学者の思うほどたしかなものにあらず。事物を宇宙の一部一局にて測ることとなるが、実は事物によりて存するものなり。あたかも美醜をもって女を別ちながら、それはその場合場合のことにて、美も醜も女の容貌からわり出したことなるごとし。事物の根本にあらずして、その外を|性質づける《クオリフアイ》一種のものなり。しかして、諸事相中一番人間に必用だから、一番発達しおるなり。数の外に確精なる事相なしというは早計もまたはなはだしというべし。
 (今日の科学は数で量れぬものを度外視す。臭、味のごとき、その学なし。数で計ることならぬゆえなり。されど、臭にいろいろあり。味にもいろいろあるなり。これにて今日の科学の不満足なるを知るべし。光線の学ごときも、数で測れるだけは科学立ちおるが、数で測れぬことはむちゃなり。経験、推測等によるのみ。されども、そのことなきにあらず。すでにカシュミル国には、例の|肩かけ《シヨール》にする羊毛布を織ること進み、一つの色にして同国人は二百余の別名を別けおるなり。欧米人はわが国に緑も青も「あおし」というを笑うが、ここにまだおかしきは brother《ブラザール》, Sister《シスタール》というのみで、わが国のごとくに兄、弟、姉、妹という語がない。それゆえ年上のブラザール、年下のブラザールといわねば分からぬが、それをいうと長くなるから、詩などに字数合わず、散文にも不都合なること多しと見え、誰は誰のブラザールとのみかきたること、十に八、九なり。これを書く人念を入れて、両人の年かなにか別にかきそえたるにあらざれば、兄か弟か分からぬことすこぶる多し。これにて数〔傍点〕の外に分別〔二字傍点〕法いろいろあることを知るべし。)
 しかして、かくのごとく今日の科学の不満足なるをいうと、宗教家は喜悦す(仏徒に限らず)。これは自分の愚をあらわし誇るものにて、はなはだ謂《いわ》れなきこと、たとえば不孝懶惰の子が、隣の子が孝行で役所へ傘もたずに父を迎えに行きてぬれ帰りしを、孝行してもつまらぬ、といって笑うほどのことに過ぎず。科学家の弊は万事科学科学いう(395)て、科学で分からぬことはうそのようにいうにあり。すなわち世界は器械にして、人間は動物なり、道徳もなにも虚偽なりというようなことになるなり。されど、この世界、現に科学ほど必用なものはなく、科学の必要なるは科学がえらきにあらず。この宇宙が今日の科学ごとき麁なるものですら間に合うようになりおるが妙なるなり。故にこの妙を賛し、この妙を示し、この妙を拡充用にあてんために、予は米虫らに科学を一層精妙至細にせんことをすすむるなり。
                       以上
 
(396)          17
 
 明治三十六年八月十日夜より認《したた》め、十一日より中止。二十日再び認めつづけ出す。
                     南方熊楠
 
   土宜法竜様
 御住所分からざるにつき、十三日後御覧のことと察し、八条あてにてこの書出すなり。
 予の両親は無文の人なりし。文字は書き、また新聞仮名つきぐらいは読みしが、いわゆる文学が少しも心得なきなり。常にこのことを拙きことの限りと嘆ずる中に、予は神童の聞えあり。かつそのころ多忙切迫の家計なりしうちにも、店先に売りしブリキ板と釜鍋などに符丁入るる鉄朱《べんがら》にて、紙屑買いが商売の鍋釜等包む料にとて荷ない来たりし中村タ斎先生の『訓蒙図彙』(漢字と仮名つきで、獅子、驢、牛から、一切の手近き物体を画《えが》きたるものなり、十冊あり)について、字も文も画も学びし。それをいろいろとほめる人などありて、何となく他の兄弟よりは多く奨励されて学問するに及びし。別に師恩というほどの師匠とてはなかりしが(十一歳のとき『文選』の「江の賦」「海の賦」を師匠より早くよみ、並びに漢文にてその内の動植物の解をかきし。また『和漢三才図会』『紀州名所図会』『都名所図会』等を悉皆《しつかい》反古紙のうらに写せし。これは今も少々のこりあり。細字のはなはだしきものにあるなり。これらのことにて、予は細字を早く書くことのみ長じて、文字、筆勢などいうことなきには閉口なり)、父母の恩は(かく活計のむつかしきうちから、特に世話して学問されしことなれば)他の人々にもまさりて著しきことなり。しかして、不幸に在外中に父母は去られし。
 『七変人〔三字傍点〕』という滑稽談に、茶目公《ちやめこう》とか言う男、自分の親の頭をたたき、きかぬといわるるを憤りて頭をどやし叱ら(397)れ、また今度は肩たたきて『朝顔日記』宿屋の段をうなり、父大いに喜ぶところあり。愚かなる放蕩漢だに、それ相応に報恩の仕様はあることかくのごとし。しかるに、予の父母は無文なりしゆえ、むつかしき学問上のことは一向分からず。予もまたこれを和らげていうなどのことに気づかず。そのうちに洋行して、ただただむつかしき、人に分かりにくい学問のみすると聞かれしのみ、一向その実情は知られずに死に去られしは終世の遺憾にて、予は今日であったならなにか大馬鹿なことを目にかけ、また例の「あれ見やしゃんせ与三郎」くらいの舞いの一つもまって酔狂でも見せ、せめては苦笑いの一つもさせたらんには、前書苦笑もまた憂苦を払うの一具として、それ相応の孝養になりしものをと(これまでかきかけ、十一日採集に之《ゆ》き、何とも知れぬ山を一町ほど上る。下るに岩石こぼれ落ち、はなはだ時間とり夕に到り帰る)、思えど詮方なし。
 夜分は何というて仕事もなく、例の植物の画かかんにも、ランプは電気灯とかわり彩色乱るるからこの状を草して法楽に備うるため貴下に呈す。さて、ここに金粟、南米にありし日、黒人の乱にかこまれしよりなお困る一条|出来《しゆつたい》。というは今十一日採集に出かくる前に、予の隣室へ二十二、三歳の新流に浴せし柳ともいうべき艶容の上、太り脂つきたる女一人来たる。たしなみよき女と見え(この辺は暑きゆえ、室の間のふすま、昼はあけはなしあり)、終始予が画をかくをさけるため他に之《ゆ》きおる。しかるに、今夜帰りて見るに、右の女やはり隣室にあり。そこへ前書因縁の例にちょっとかける、予の撃剣の師なりし人の女婿(この人、予と一面あるのみ。師匠の女《むすめ》は産のために死せり。予が師匠の婿たるを知ることは、いまだ本人は知らず)来たり、この女と話すを聞くに、なにかこの師匠の女婿小学校長しある小学校に奉仕する教師、伊勢にありしとき?親《じつしん》せしことある女にて、それがこの教師を慕い、当地近所の勝浦に逃げ来たり、今に国元へ状出さずとかなんとか。さて裁縫の助教とかにてその職で予の親戚その地にある者の番頭旅宿を営む方に手伝いにゆきおるが、今日尋ね来たりしなり。かくここまでかきしところ、右の教師らしき者尋ね来たれり。隣室にて話し始まれり。「われも鹿鳴きてぞ人に恋ひられし今はとなりにねをのみぞきく」という歌あるが、(398)予は鳴きしこともなく鳴かせしこともなきに、近来何の因果にや、また今夜かかることになり、安眠もならず。
 よっていよいよ暁まで、右のごとき不心得の男女の気の毒ながら、懲戒かたがた眠らずにこの状を認め、父母に三世の奉恩のため仁者に法楽を供す。それと同時に、隣にはなにか面白きことも始まり、大喜楽仏灌頂もやることなるべく(わが国ことにこの辺の人かかることに無作法なるは、蛮民とかわりしことなし)、すなわち小生が法楽されながら、また仁者に法楽を供するなり。これもかのお高さんという令嬢にほれられた因縁の果てかもしれず、何でもなき和歌のやりとりさえかかる大焦熱の苦を報わるるなれば、因果因縁ということはなかなか争われぬものといよいよ発心仕り候。(実は予はとなりに話などすれば一向眠られず。さればとて、二年以上占領する自室ことに高価のもの多くある所を、今夜に限り転ずることもならず。よってこの状認むるなり。今隣室に談じおるが一向耳に入らぬはさすが金粟じゃ。それが耳に入らば、何となくまた罪業の基となるじゃ。)
 予は前書|陳《の》べしことをこの状にて補うところあらんとす。その状に、閑苦、煩苦(ennui,trouble)のことをいえり。お分かりになりたることと存ず。今日の日本などの常人、またことに煩多事業中の欧米人などには、閑苦ということちょっと分からぬと思う。(貴人、富人には多し。ロンドンなどの市街に、身体肥満して自歩すること能わざるものが、人に扶けられ、時計屋などの門にぽかんと立つもの多し。またむちゃくちゃに強烈の火酒などのみ、何という定説も定見もなく、蟻に火を付けしごとくに死ぬもあり。ショッペンハウエルこのことをいえるは前書に申し上げ候。)しかるに、熱帯国などに行くとこの閑苦が実に多い。予はやや久しくそんな地にありしものにて、自分そんな目にあいしゆえ申す。
 すなわち第一に、暮し向きが安値にて容易にある。ずいぶん夢のような、うますぎたことも多い。ブラジルなどで地方にあり、テオブロマなど申し、図のごとき大木に不断果実がなる。そのなるが幹の下のところになるなり。ちょっと手をのぼせばとれるなり。さて年中断えず。滋養量多く、またちょっと手数、(399)乾すときは例のココアという、またチョコレートという、まことに程のよい興奮料もできる。インド辺に椰子多く、それがため?も砂糖も柱も葺屋も飯も別に製するに及ばぬは貴下も知れること、またビルマの賢人が英国に竹なしと聞いて、竹なきにどうして国が建ち行くかと疑いしという珍談もあるほどにて、何にしろ熟地はくらしようがうますぎるなり。(もっとも近来は、例の交通頻繁また政略貿易上剰余のものは他へはけるのみか、今食うものを食わずに貯えおき、多人の迷惑となる等のこともなきにあらず。故にここにいうは今世以前のことと知られたし。)
 綺語かは知らぬが、予の友人に栗原金太郎とて、荘内のいかけやでジャワ、マレー等に久しく住みしものの話に、かの地の土人は用事ということなく、ただただバナナ(甘蕉)実をとりては食い、とりては食い、淫水たまってしかたないからやりどおしなりというようなことなり。今日のことは知らず(記者が隠すから)。十五、六、七世紀のアフリカ、インド等にゆきしものの記行で到るところ、この輩土人に歓迎されて、その歓迎の目的とては不断腎水強健にして女子を御すること止まざる法を問わるるためなり、と見ゆ。また一体に気候も暑く、女子の月経も早く、衣服|麁《そ》に万事に慎みなく、これを欲するも慎むの必要もなく、またできざるようになりおるなり。故にこの所作為《しよざい》なし、すなわち閑苦よりして厭世の念|夥《おお》く生ずることと見えたり。温帯、寒帯はこれに反して働かねば食えず、否、働いても食えぬことが多い。それ故、神とかなんとかを尊敬し、その稗補《ひほ》をもって楽を享けん(ここにいう楽は食衣多く子孫多く得んというような物質上の楽)という念よりして、楽天の念また祈?とかなんとかが生ずることと見えたり。(今日まで比較宗教学とかなんとかせしもの多いが、かかる説は金粟が始めなりと思う。わが国には学説の盗人多し。故に貴下、予が巨万の富を費やしてようやくこれぐらいのことを練出せしことを愍れまば、このことはちょっと他の人に聞かすを憚られたきことにあるなり。)
 されば梵天等のヒンズー教は、みなアリア人がペルシアの高原の寒地また温地より入りしものの、天を拝して物質の幸を得んとせるに因するものにて、仏前および釈迦の小乗諸宗は、在来の熱地の人が閑苦より生ずる、何をおがん(400)でますます享けんという望みはなく、ただただ世を厭うて閑苦を脱し静寂につかん(いくらやってもやり尽し得ぬから、腎虚を補する薬を望む念を断ちて、全く色慾を度外に忘《ぼう》じ去る等)とするの教えなり。一概にいえば、宗教ながら宗教にこの二大別あるを知らざるべからず。欧人およびわが邦の耳を尊ぶ輩が、宗教とはなにか実在のものを認識し尊敬し標準とするものならざるべからずなどいうは、実に笑うべし。宇宙の間に自然に存するものを、なになにならざるべからずとは卑?の御本人をみずから大自在天と見たる狂見といわざるを得ず。
 ただし、世間の繁多なる交通、人種の転徙《てんし》、土地の異同、世態の治乱、いろいろのことよりして、寒温地の人も厭世に到り、五穀豊饒を祈りし祈?も抜苦解脱のためとかわり、厭世の解脱を求むる法式が変じて痘瘡の禁呪となる等、いろいろとこみ入りたること、あたかもいまだ学ばずといえどもわれはこれを学びたりといわんといいし孔子の教が、学ばねば明盲と笑わるる科挙の一事にのみなってしまいしごとく、達磨の禅が撃剣の伝授となり、神主の祝詞《のりと》が芸妓の坐付き「立たせたまふは船玉山《せんぎよくさん》」などとやらかされ、「なむからたんのうとらやあとらやあ」は空しく阿呆多羅経《あほだらきょう》の起句となるようなもので、これらは事の末ゆえ本論に関係なし。ただし、予が毎々いう、世間がどうしてもなんとか立ち行くように、たとえば糸のもつれは百千ながら、どれから求めても筋が付くようになりおるが妙じゃというごとく、一つ著しきことは厭世抜苦のために立てし妻帯厳戒の一事が、数百万のアジア人に不意にその益ありしことなり(もっとも喜《この》ましからぬながら、ないよりましというほどに)。
 このことは一昨春いいしと思うが、またくり返さんに、蒙古等の広大の沙漠地すなわち喇嘛《ラマ》教の及ぶ地は実に荒地にて、水草を追いて徙《うつ》るに、社会党もこれほどに実行したら如何と思うほどの規則あり。人間の数のみならず、一族にかう羊の数が一疋多きに過ぎても、たちまち隣人隣族の迷惑となりて、その羊一疋の飲食料の草と水より争動が起こるなり。(人間のみならず、蒙古、シベリアに水草の欠亡より、兎幾千万とも知れず群をなして鹹湖《かんこ》にゆき、鹹泉をのみ斃死して腐気天に沖《あが》り、これがために人間まで病疫すること毎度なり。)現にかかるところへ蒙古人蕃殖すぎ(401)て食えぬ所より支那へ打ち込み大乱となり、またインドに乱入し、また欧州人を全く転徙混合せしめしことは史に見えたり。しかるところへ幸いに喇嘛《ラマ》教起こり、その教は女色禁制にて、その代りに喇嘛にさえなれば教百千万の信徒の尊敬厚く、また家の面目一村一郡にはなはだしく、遊んでおって食えるというぐあいゆえ、子を生めば、ちょうどその部落に過不及なきほどに家にのこり、あとはことごとく喇嘛になるなり。女色を禁ずるかわりには手淫とかなんとかははなはだ盛んなること、その祖師の作りし曼陀羅、すなわち例の大喜楽仏定とて歓喜仏が交合するところ、またダッポとか夜叉ごときものが天女と淫するところ、その他男色の像など多きにて知るべし。故に、いわば子さえ生まねばよしという風にて(司馬江漢『春波楼筆記』に、わが国の徳川ごろの僧もまた然りしことをいえり)、小乗国ほどの厳守律戒なきものは、実に地に寒熱の違いあり、暮しに難易ありて、熱地のインドほどに閑苦ということを覚えざればなり。(この状はおどけごときものにあらず。しかるに隣室に話して何となく考えが障《さえ》ぎらるるから、これから読書することとし、十一日夜はこれで擱筆す。)
 学者というものは無理なもので、予の知人などに豪古人かくのごとく切迫ならんには、大徙転して他の民族を困らせ、または多い子どもを僧にして、一生女犯を止め、手淫のみせしむるに及ばず。(☆へつづく)
 ここまでかきしに、隣室実に不都合にも終夜私語し、翌朝ことの外早くまだ月輝くうちに、下女戸開き来たる。右の女はしゃあつくで、予の隣室に横臥しおるところへ、山の杣人二人来たり、ねさん、夕べは和尚様からずっしり取ったかえというから、いろいろ様子を聞き合わすに、この女は新島(伊勢のはなはだ猥なる地なり)のもので、勝浦へ売婬に来たりあるを、那智の観音の僧が招き来たり、当宿で予の隣室で一夜かくのごとくやりつづけしなり。さて外聞を恥じて、かねて宿屋へ申し付けおき旦《あさ》早く戸開けさせて去りしなり。当宿で予の隣室の外に部屋は四、五もあるに、涼しいからとて右の処に宿し、夜中やみごなしにかかることに及び、隣室の予は終日この暑きに深山に艱歩し植物集め疲れたるに、睡ること成らざらしめて顧みず。今日は俗人野夫すら公徳とかなんとかいうに、那智の和尚にして所(402)為かくのごとし。先日は貴下の同臭味の若僧にして、口に賢《かしこ》らしきこといい、内実何とも仕方なきものが(父を訴え、立ちのきを迫り、米屋の妻を攘《ぬす》み、新聞にて恐喝取財を業とし、また寺料にて宗教外の法律を学ぶ等)、予が面会しくれぬから、それを遺恨に春画とかなんとか貴下に言いしをきく。しかるに、右の那智の和尚の所行ごときは、それよりも増したることにて、予は呆れはて今十歳も若くば一《ひと》喧嘩するところなれど、そんなこともできず。止むを得ず宿屋へ談じて巡査よび来たるべしとて、右の売婬女立ち退かせたり。
 貴下先日、何とかいう十二歳になる小僧を度せしことを告げらる。これは孔子のいわゆる、かの人の子を損うというものにあらずやと思う。ローマには五十歳にならずば僧とせぬ制ありし。わが国にも、弘法大師すら十九歳にしてようやく度牒《どちよう》を受けしほどのことなり。しかるに、心の定まらぬものが「おんころおんころおんころ」とか「なむからたんのうとらやあとらやあ」ぐらいの文句を美声でやらかし、女どもにかわいがらるるを羨み、たちまち出家を望めばとて、いやみに出家さするは実に一社会に一人の害物を(また害とまでなくとも無用の物を)成長せしむるものと小生は思う。もし真に切に望むなら剃髪さするに及ばず。然るべく内典を教えやりて可なりと思う。内典を俗体で学びしとて損になることにあらざればなり。
 右様のけしからぬことにて、予は興も明日《あす》もさめ果ててこの状中止。然るところ咋夕貴状一本到り郵券十枚受けたり。これは何のためなるや知らず。小生申し上げしは、当地郵政むちゃにてはかり〔三字傍点〕も手許になし、故に前度の長文万一貴方で先払い不足税とられしようのことあらば心得のため申し越されよといいしなり。第三の状も、所々にてはかりもらいしに、いずれも重さちがう。これは古い秤《はかり》など雑《まじ》り用うるゆえなり。よってその状三銭貼りて出すが、不足税とられたら申し越されよ、以後心得て出すべし、といいしまでなり。ただし、郵券とてもこの地の売捌所に種切れの日あり、故に大いに間に合い申し候。
 わが国|秕政《ひせい》はなはだしく郵税にまで及ぶにや。前日弟より紙二十四枚おくり(見本として)来たりし。包みはなく、(403)ちょっと封しその白紙たるを十分表より見えるようにしたるなり。しかるに、見本の二字をかくを忘れたりとて、これを書状と見なし(書状は封したるもの、これは封せず帯紙せしのみなり)、不足税三十二銭とらる。然るときは、そのとき貼付の四銭の税と合して総計三十六銭すなわち紙一枚(一厘ほどのもの)に一銭一厘弱の税なり。まことに不注意はこちらの不注意ながら、苛刻《かこく》なること海外に例を見ぬことなり。先日哲学館で外人の著書を論ずるに批評すべきところを批評せざりしとて罰せられしと同例なり。
  右様のことにて、せっかく法楽のために書き始めしこの状、つまらぬことになり候えば、大抵にて結ばんと欲す。ただし第三状読みおわったら、また第四の状差し上ぐべく候。
 ☆よろしく然るべき発明して、然るべき方法にて沙漠を灌漑し、牧を止めて農を行なうべしなどいう。かかる不毛の地にいかにしてそんなことなるべきや。さてその学者に、大沙漠を灌漑する法ありやと聞くに、ありそうなものじゃぐらいの話なり。学者というもの想像のみ過ぎて何の功なきことかくのごとし。一概に想像の上に立つ宗教をそしるべきにあらず。
 今わが国の仏僧なるを見るものに、せめては閑苦を煩わしとするより生ずるほどのものすらなく、実は世態活計の困難より、難苦をここに避け衣食せんとて僧になるもの多し。故に「心をば柴の庵《いほり》にさそひきて心は身にもそはぬなりけり」じゃ。しかして、貴下らはこの難苦を避けんとせしに出ずる出家を救済せんとして、古えの熱国等で閑苦を救うに用いし方法を用いんとす。これあたかも店先に帳面合わぬに茶を立て月琴を鼓して家声を張らんとするに同じ。清見潟の塩尻が富士となり、隅田川が加茂川ほど澄む世になるとも、このことは成るべからず。故に断然他の諸宗派に先んじて、わが真言教徒ことに教徒の模範たる仏僧の改良を謀らんとならば、第一に自立自活のみならず、寺から里へというごとく、俗人をば僧から救護衣食させてやるようにせざるべからず。
 小生荘内の人にきくに、その辺には三、四十年前まで大寺に食堂あり、貧民なり旅人なり所出所由を論ぜず餓えた(404)るものには相当の焚き出しすること断えざりしという。およそ世間に普通のことは書籍に載らぬものなること、日に三度飯くうたことを日記に付けぬごとし。事に弊なきはなければ(その弊をよしというにあらざれど)、それは論ぜず。わが国の歴史を按ずるに、平常も変事も仏僧が世俗人を救いしことは絶えざりしことと見えたり。すなわち尋常のことたりしなり。現に井といい、田といい、畑といい、山道、橋、渡し、弘法とかなんとか僧の縁起もたぬものはなし。この大旧功あればこそ、今に上述のごとき不時、破廉恥の僧さえ安閑と売婬買いながら、多少仏僧といえば俗人に頼まれ尊ばるる縁起あるなり。
 しかるを、口には即身成仏といいながら、行いは満足至極にしてからが、わずかに女犯せず、魚肉食わぬぐらいの消極的の(せぬにまさるという)閑苦退治の一方法(実は閑苦の退治すべきものなきに)に過ぎざるごときは、はなはだ時世に後れたることと言わざるを得ず。しかして、古えの名僧智識が世を救い世に推されしは不二を談ぜしにもあらず、直指進入《じきししんにゆう》のゆえにもあらず。実に科学を専有してこれを実行し、大いに衆生を救いしは、一行《いちぎよう》が暦を正してそのころの儒家すら一行はそれ聖人かといいしごとく、また行基、小角、弘法、智証等が山を開き業を教え、良忍が田を開きし等、『元亨釈書』に多く見えたり。ある学者(名は忘る)の言に、十戒の一なる神号を呼ぶことは近くまで犯すものはなはだ多かりし。
 ついでにいう。耶蘇《やそ》教で神〔傍点〕と呼ぶを十戒の一とす。わが専修念仏の輩が常住阿弥陀仏を口さきで称うると異なり、予常々このことを奇体に思い、名号を唱うるは、せめては口さきばかりでもこれを忘れぬためにはなはだよきことと思いいたりしが、今度帰朝してわが国の水兵などが良民を苦しめ人を打つとては天皇陛下、人を叱るとては国家のためと、国家と天皇陛下の名の安売り大はやりなるを見て、なるほど耶蘇の戒は到れりと思い始めし。あまりに唱えると、唱えらるるものが濫用のために値打を下げるなり。されば、わが国にも誓言《せいごん》、金打《きんちよう》などするものは短命なりということ、近松の戯曲に見え、また新井|正済《まさなり》が息白石を戒し、言葉に神や貴人の名を唱えて誓言するくせはその人に佯《いつわ》(405)り多きを示すものなり、とあり。
 しかるに、すりび〔三字傍点〕の発明ありてより、燧《ひうち》を打ちそこなうこと少なく、年々誓言罪を犯すもの著しく減じたり、といえり。罪業は抽象的のものにあらず。必ず行作によって著わるるものなり。されば、行作を制せんには罪業おびただしく減ずるなり。これをなさんことは科学を実用するの多寡によるなり。
 二而不二、これは科学上の勢力保存説などもっともこれを実証するものなり。すなわち熱が電力と変じ、電力、熱と変じ、また光と変ずるも、少しも量を減ぜずということなり。しかるに、近時科学者にしてこれを疑うもの出で来たりし。昨今発見のラジウムという元素は、不断熟を生じて減ずることなし。故に太陽にラジウム多く、太陽は従来思いしごとく冷却し終わるべきにあらず、という人あるに至れり。勢力保存説ほど聖かりし説すら、実は堅からざることかくのごとし。故に二而不二等のことは実体上も認識上もはなはだむつかしく、ちょっといい難きものに候。(この状、法楽を供するつもりでかき始めしに、僧の不品行のことから大いにかきおくれ、前後揃わぬものとなれり。しかし、過半筆したるものゆえ、失うわけにも行かず。未充分ながら、これにて結び、差し上げ候。また注問次第次の状差し上げ申すべく候。)
 前書願い上げ候『文選』の張車子の件しらべ御送り下され候様願い上げ奉り候。 敬白
  曼陀羅のことは、曼陀羅が森羅万象のことゆえ、一々実例を引き、すなわち箇々のものについてその関係を述ぶるにあちざれば空談となる。抽象風に原則のみいわんには、夢を説くと代わりしことなし。そのうち小生|面《まのあた》りいろいろの標品を示し、せめては生物学上のことのみでも説き申し上ぐべく候。
 
(406)          18
 
 明治三十六年八月二十日
  仁者《にんじや》、予筆なくはなはだこまりおれり。故に細筆少々送り下されたく候。このこと忘るるなかれ。予、弟方より多少来たりしを置き処わすれ捜すにひまかかるから、それを捜さずに前書とこの状かきしなり。昨今来たりしものをまた注文するも、弟を煩わすに似たり。しかして、室内さがすひまなし。
 前書に左のことを書くべきを脱したるゆえ、それなくて全文不完全ならんも遺憾なれば書き添え申し候。
 人間の智恵の至微下劣なる、真同一、真符合等の物を見ること能わず。またその想像だになすこと能わず。故に、世間、人間の理窟、理想は、みな影応《アナロジー》論理による。四季に序あるをもって天地もまた序あるを察し、介殻《かいがら》の堅固なるを見てみずから用心する人の堅固なるを見るごとし。
 この影応論理というもの、実は比ぶるものと比べらるるものの間に何の関係なき、曽参《そうしん》の木から落ちて母が家にありながら胸痛せしというごときにあらず。故によく合うもほんの機会上のこと、永くやつてる中には合わぬことが起こる。ニュートンは影応論理よりして、炭素ふくめるものは、光線屈折力、炭素ふくまぬものより多きを、オレーフ油、松《テレピン》油、樟脳《しようのう》、亜麻仁《あまに》油、および琥珀《こはく》より知り、さて金剛石も光線屈折力尋常のものより多いから、必ず炭素を含めるものならん、といえり。のち化学盛んに開くるに及び、分析して金剛石果たして純炭素なるを知れり。
 影応論理は、図中(一)のごとく(イ)(ロ)の黒線ずいぶん酷似するを推して、これと伴える(イ)(ロ)の二虚線また酷似するか、多少似るべきを知るなり。(二)は黒線と黒線全く符合する符合論理。しかるに、ニュートンの推せしところ金剛石までなりしゆえ、幸いに氏の影応論理は中《あた》れり。もし氏の生存中にグリノッカイト、オクタヘド(407)ライトという二礦物世に出でおり、ニュートン金剛石を推すと同様の論理にてこの二石にまで及ぼしたらんには、大あてはずれなりしなり。(この二石は、金剛石よりもまだ屈折光線力過多なるに、炭素を少しも含まず。故に世に必ず(一)(二)のごとき論理の存するのみに限らず。またまわり合せで悪いやつにつかみあたると、(三)ごときことあるなり。(イ)(ロ)ははなはだ並行し酷似するに、これに伴う(イ′)(ロ′)は全く反馳し、少しも似るところなし。)(たとえば、この村の南端と瀬戸の湯崎とは山勢、土質および気候はなはだ似る。故に大抵同様の植物あるべしと思い、ゆき見るに果たして然り。しかるにその他の事情、たとえば湯崎は潮風当たるから海辺草本のものが多い、この地は海を距たるからない、ごとし。) しかるに、気の毒なるはこの人間世のこと多くは、否、全く実は影応論理のみにて、符合ということ一もあることなし。たとえば、幾何学にイロハ、イ′ロ′ハ′の二の三角形あり。その三辺相等しければ(イロ=イ′ロ′、イハ=イ′ハ′、ロハ=ロ′ハ′)、この二の三角形は等しという。等しといわば可なり。世には同じというなり。決して同じきことなし。第二に墨にて画ける色の濃厚の差あり。第二に線の太少の違いあり。ゆれあんばいの差あり。およそちがうものなり。ただ同似の部分あまりに目立つから、同じというのみ。実はこの世に符合同一ということは一もなし。これは全く白い同大の猫を見ちがえるほどよく似たと思うも、ならべて見ればどこかかわる。図のごとく眼のすわり様、頬のふくらし様など、どこかがかわるものなり。もしこの世界に同一符合のことばかり行なわれたらんには、今日のごとく、事毎《ことごと》に物と物を比較し、言うにたとえをひき、文|認《したた》むるに形容詞を用い、教えとくに因縁比較説を用うるに及ばざることなり。しかるに、不幸にして右のごとく万事が影応不符合のことばかりの世間ゆえ、文かくとては形容詞に富める辞書を引き、論認むるとては故事を『淵鑑類函』に取り、教えとくためには種々雑多の近例遠例を取らざるべからず。た(408)めに不立文字の教えも、今は詩|偈《げ》から稽古せねば分からず、真言秘密唯一の教えも鬼や鳩茶多の性質、生れ故郷からしらべるようなことになる。されば直指進入とか一刀して金剛界尊の胸に鑽入すとかいうものの、符合論理で世相世態、物相物態、心相心態からこの理を察し極《きわ》めての後ならざるべからず。これをなすに捷径は今日の場合には科学の外なし。科学とは整順せる智識ということなり。今日の智識は進んだから昔より錯雑なり。むやみに例をとると、(三)図のごとく一向例にならぬことが〔八字傍点〕多きなり。されば、一々少ないか多いかを自分で検するよりも、またむちゃに(禅徒のごとく)放恣に得手勝手にこじ付けるよりも、世すでに智識順列の法整いたる上はそれに就〔傍点〕くのもっとも易きを覚ゆ。人間一身の智識の自証することは命短いからはなはだ少量なり。また人に聞く乱説は実も虚もまた伝聞の間違いあり。直ちに学問に就くに如《し》かず。
 次に予は今日仏僧の迂闊《うかつ》なる、科学をつとめて大いにその教義を実証し、またその教旨を実用して弘益済度、目教を堅固ならしむることはせず、いたずらにその経文の末文末句を取りて小児が品玉《しなだま》をつかい文字のさわりをつづるごとく、いろいろやりかえてみずから楽しむなり。その人の機分相応のことゆえ、他より咎むことはならぬが、信徒にすすめんとするの無益なるをいえり。すなわち帰根斎の、欧州のことを釈迦は南贍部洲《なんせんぶしゆう》といえり、云々のこと等これなり。予らは幼少より南贍部洲とはこの世界というようなことにて、日本はなんにせよ南贍部洲の一部分なり、と知る。また仏経などにちょっとも手出さぬうちから、父母などより文盲ながら南贍部洲とは仏教の通ずべき仏経の領分のことというぐらいのことは承わりおりたり。エウロッパというは地名にて、エウロプといえるギリシアの神名によること無論ながら、何故付けしか誰も知らず。アジアという語に至りては、何国の語やら、いつごろ誰が何の地に付けしやら分からず。アフリカも古えいいしは北部の一小部分をいいしにて、全部はリヴィアといえり。現に『和漢三才図会』などには利未亜とあり。これも神の名に当たるは知るが、何の故ということ知らず。また本土の人そんな名も考えもなきことゆえ、なんでもよきことなり。
(409) さて科学をするに、分布(ジストリビュション)の学というがある。たとえば世界中の蟹類を分けるに、大抵この類の蟹はどこからどの辺にある、どの類の蟹は何州から何州に多いという区分別なり。(藤原氏は陸奥より下野に、相模には八平氏、甲斐信濃には新羅三郎の末の源氏はびこれり、というごとし。実は相模にも須藤などは藤原の末なり。下野にも足利源氏あり。新羅の末の強き源氏は甲信に限るにあらず。常陸に佐竹の一家ことに大なりしごとく、ほんの便宜上の学名なり。)
 この科学上さしも精細らしくいう分布ということも、毎年人の智のすすむたびにかわりゆくなり。カロストマという菌の一族あり。世界中に今は二十種内外あるべし。はなはだ美なる菌なり。さてこれを当世無双の菌学大家マッセー氏が、分布を大別して東西二群とす。東群は東半球のみに産し、その種子を顕微鏡で見るに、図のごとく球状にして刺《はり》あり。西群は北南南米大陸の外に濠州のみに産し、その種子長楕円にして刺なし。この西群という名すでに不可なり。何となれば地球の南半球に名を東西と付けしに、濠州は西半球にあらずして東半球中のものなればなり。しかる上に、一昨冬、予偶然に勝浦の親戚の土掘場よりこの属の一種の菌をおびただしく取り出す。これを験するに、全くその種子長楕円にして刺なく、西群のものなる上、北米カロリナに産する一種と同一のものたり。日本をば東方東方と誰もいう。少しも西といわず。しかるに、この西群の菌日本にある上は、便宜上とはいえ長楕円子群といわば可なり。すでに日本まで包みながら西群というは誤解多かるべき名の付け方と思う。よってこのことを右学者と『ネーチュール』雑誌へ通知し、予の短文を公けにせり。よってこれまで世に知られざりしこの菌の一属日本にもあると分かり、しかして日本は北米および濠州と同群のものとなれるなり。しかるに、今年四月|件《くだん》の勝浦を距《へだた》ることわずかに一里半ばかりなるこの那智山中にて、予はさらに右と同属の菌にして、右とやや異なる菌を見出だす。同一のものと思い、すておけり。しかるを、前月ちょっとしらべるとはなしに偶然鏡下に照せしに全く別種にして、その種子(410)は図のごとく円くして點あり。いろいろとしらべしにセイロンにある一種と全く同種と知れり。されば、今度は日本のこの一属菌の分布上の位置はまことに混雑にして、従来東西二群と分けたる二群の楕円子《(西)》のものと円球有刺子《(東)》のものとふたつながら、日本、しかもこの当国当郡中わずか里余を距る地に混居するを知れり。故にこのカロストマ属の菌の存在は、東西二半球に別存するという一事と、円・長の二様の種子あるということと何の関係なきを知るべし。いわんや、日本すでに(濠州の外に)東半球にありて、また西半球と同様の種を産すれば、東西の名は実に無意味というべし。事により誤解のもととなるなり(この名のみを聞いて、西群とは西にのみ〔二字傍点〕あり、東群とは東にのみ〔二字傍点〕あると思わば)。
 そもそも科学は精細、至細を尚ぶ。その科学上のことすら、毎年毎年われらごとき微弱短才なるもの、ちょっと偶然したる発見にてすら動きかわることかくのごとし。これ人間の智も見も識も、ことに言詞も、この宇宙どころか世界上の一針点大のことすら十分に知りいいあらわすこと能わざるに基づくなり。しかるに、世悠久にしてその俗もその人もすでに異なる。仏経これに加うるに、翻訳せし人必ずしも日本人のみによくわかるようにと精誠を挺《ぬきん》でしにもあらず。その経文経句の末を取りて、気繊弱根なる帰根斎ごときものの狭少なる智見、学識でもつて南贍部洲は欧州のことというて以来、無数の人が日本も南贍部洲の内とか、また予の父母のごとく根のないことながらもっとも無罪に(イノセント)、南贍部洲は仏教の行なわるる国、行なわるる国を総称すること、たとえば芸妓屋で金持って女にのろいものは、何の理由か何年ごろの製造かいかでかは知り及ばん、便宜上のフチョウとして青頸《あおくび》と称し、その理由も出処も知らぬを恥じぬごとく、また出家が章魚《たこ》を天蓋、美少年を善男子と綽称《あだな》するごとく、なんともなく心得たるものを、今さら何を苦しんでかかる新付会をなすや。釈迦が未来を知りて、欧州必ず仏教に化すべしと知りていいたりという意か。しかれば欧州いよいよ仏陀の教えに化せるの後にあらずんば、事知るべからず。いわば贔屓《ひいき》の引き倒しなり。釈迦が教えを熱心に述べしときは、欧州のみならず、大千世界みなこの教えに化すべしと思い込みしに相違な(411)し。されば、反って予の父母の思いしごとく、南洋諸島の果て北南両氷洋の末みな南贍部洲にして、南贍部洲の大きさは仏教の拡不拡により縮張不定なること、右のカロストマの東西両群の定まらざるがごとくならん。
 欧陽永叔は、文をかくものは字を削ることを学べといい、耶律文正公は、一利を興さんよりは一弊の種を去れといえり。すべて言句というものはややもすれば間違いの種となるものゆえ、なるべく言わぬことは言わずに扣《ひか》えるが利なり。今欧州を南贍部洲と釈迦いいたりといわんに、これをいう人と同様のひまな人ありなんには、必ずしからばわが日本は如何《いかん》と問わん。日本はしからずといわば、しからば旧来の説にこれを南贍部洲とせしは誤りかと問わん。その答えなかるべからず。また日本もその内といわんには、しからば欧州と日本の間のシベリア、満州、支那は如何と問わん。これも南贍部洲といわんには、しからばこれら諸洲合して、すでに世界の四分の一よりはるかに大なり。何故|北拘盧《ほつくる》等の他の三洲に比して、南贍部洲そんなに大なるかと問わん。また支那、シベリア等は南贍部洲にあらずといわんには、何故経説には正しく須弥の四方四側おのおの一洲ありといえるに、汝の南贍部洲の両部の間に他の一洲が挺入したるかと問わん。もとより問う者は非常の閑人、好弁の者なることは論なし。かかることを挑発して平地に波を催す帰根斎の愚もまたはなはだしからずや。
 しかして、かかることは見様によりてははなはだしく一宗一門全体の嘲笑をとること、かのギリシア教の坊主が、今日魚肉は食えぬ禁制を何がななまぐさものは食いたくて介《かい》は魚にあらずとてこれを食わんといろいろの経文を引き相舌闘し、またローマ教の僧も、南米にて魚は食わぬが、イグアナという美味の蜥蜴《かげ》を食いたさに、これは四足あるゆえ獣《ビースト》の内なりと経文を解すれば、一方にはまた鱗《うろこ》あるからやはり魚の類なり、食うべからずとて戦うこと断え間なきごとく、素面《すめん》な白人《しろうと》にはこの坊主等は狂妄発熱せるやと一笑を催さしむるに余りあり。これというも、今日科学ずくめの世となりて、さすが帰根斎また?《なんじ》米虫らも科学で言わねば小児も聞いてくれぬから、いろいろと不景気中の屋師《やし》、香具師がサンショウウオにしゅろの毛をかぶせて河童《かつぱ》と称し、またアテテンカなど称し女の陰部に喇叭《らつぱ》を装置(412)して陰門からデルファイの神託を下さるなどと称し、一もうけせんより、なき智恵嚢を搾りきるごとく七転八倒して、しかして素養のなきかなしさに、かかるつまらぬ宗祖のつらに猫のうんこを塗り奉るようなことをいい出すと見えたり。?もし予に向かってかかる煩瑣の論弁はいうに足らずといわば、第一に帰根斎にいうて、以後かかる人聴を煩わす、つまらぬ無用のこじつけをやめしめよ。あたかも目的の地にわれも人もいそぐ途上に、なにかちと面白いことでもやって見たいという気で、買う気もなきに人の持てるものを直段《ねだん》つけして事を起こし、その物買わねばならぬこととなりて、すなわち弥次郎兵衛北八が梯《はしご》もって京入りし、宿屋で大争動となり、誤り一札入れねばすまぬこととなるがごとくならん。しかして、実はかかる苦肉無謀のこじつけを出すにても、今日科学(順序ある智識一汎)の必要を?らずくにゅう〔五字傍点〕輩の感じおること、日一日より切なることは知らるるなり、これを然らずというは大妄語なり。
 次に「意に介せず、云々」。意に介せぬは、汝一人のことなり。もし一宗として一団体としてこれをせめ来たるときは、かかるこじつけなど一人にても言い出だしたる一宗一団体は、全体はなはだ迷惑なることなり。あたかも一家静穏、世間と和順しおるに、止むを得ず引き取りたる疏線ものの父《てて》なし子が、近処の子に毎日犬をけしかけ負創させ、それより一家が一村のものに悪《にく》まるるごとし。故に、一宗一団としてかかるものは追い出すか、または平生そんなことをいわぬよう注意してやる外なし。
 その方の言い分をきくに、「自分はこれでよし」、「自分の了見はかようなり」などいう受け身のことばかりで、鰒《あわび》というものが人さえ音すれば岩に付けば無難なりというような了見と見ゆ。知らずや、鰒というものはそんな了見ゆえ、石と共に持ち去られ、石と共にやかれ、さあそうするとしかたがないから、止むを得ず全熟して石から離れるところを、醤油をかけて皿が入らぬだけ手数が省けると、有馬皇子の「旅にしあれば椎《しひ》の葉に盛る」の歌などのしゃれ言いながら、舌打ちして食わるるなり。これほど重宝な肴はないと、みな容易にとられて今はだんだん少なくなりて、政府も漁夫もこまりおること、わが朝の坊主、なんでもよい、悟りさえ開けばよいと、人の娘に子はらませても何の意(413)義なく、改宗しても大僧正にさえなればよいというような、意自分一点の外かまわぬものばかりゆえ、正法行なわれず、親の頭はったり、兄の妻を取ったりするもの多くなり、大僧正さえ恩ある旦那の娘へ夜討ちし、帰根などとしゃれたまう上は、これほど機根のすぐれたことはないなどとしゃればかりになり、まじめなものは一人もなく、政府も人民も、また帰根の子にも父を見ならう子ゆえ、そんなものできるに相違なければ、誰もかれも大後悔の日すでに近きにあるなり。
 仁者また須弥説や大日父母説等のほんの寄根説なることは一向本教に要なし。要は「今日仏教を弘通するにかかることを喋々せずに、現社会の暗黒局面を拯救《しようきゆう》するの方法を実地に講ずるが第一の捷径と存ずるなり。すなわち実地の菩薩行にして実際的宗教の働きなりと思う、云々。かの如来常鋭の仏によりて口を糊するようなものは、その教えもその人も無用と存ず、云々」。然り、これまた誰も望むところなり。ただし仏教を弘通するには、一方にその実益他教にまされるを実行、実証すると同時に、まことに面倒ながら、俗にいう喧嘩買いの多き日本ゆえ(それも前書いえるごとく、汝のいうところはうそだろう、ほらだろう、また何の用もなきひやかし等は、枕本でも見せるか酒でものませておいやられるが、中には例の福沢先生の親切なる分かりきったことを分かり易くいいだし、近き説を自分一己の学名を挙げ、なんでもなき「目を卑しみ耳を貴ぶ」輩を驚かし、本屋から翻訳の注文でもとりたさに、字義などの講釈してやりこめる博士
  ついでに仁者に申す。この博士ことごとしく、黄老黄老というは、老子の前に黄帝の哲学というもの特に存せしなり、云々、とさも新説らしくいうた。これは周孔、云々のことを引いて、小生前年パリへ申し上げたり。ただし、小生ごときものの言、この博士取るはずもなく、また右様のこと仁者世に泄《もら》すべきにもあらず。そは偶合としておき、誰も知れる李石の『続博物志』の発端に、黄老というは黄帝の書というものありしなりと、荘列を引いて言いおるを知らぬかおせしとすれば、ちと卑劣なることなり。また真に気がつかなんだとすれば、ドイツの(414)言詞などの講義して、福翁みずから予は俗人なりと号するをやりこむるひまに、いまちと和漢の書をよまれたきことなり。世にこの類の人多し。
などのある国ゆえ)、まじめくさって例の比較宗教学、
  むべ山風の一件は、仁者これを知れり。予の老友ジキンス、『江戸名所図会』の序を翻訳するとき、著者の家は世に出でけん八百屋の御用つとめたり、とあるを深くとりて、代々偉人を出だし政府の政策を助成賛助すること八百屋が人々の庖厨を飽かしめて欠かざるがごとし、とありしを、予直せしことあり。予は、人の過ちは過ちなり。予は口の過ち多きものなり。口の過ち多き予にすら、かかる過ちを直さする君はまことに好道の士というべし。ただし予も人なれば、口の過ち多し。万一このことを人に語ることあるも恨むなかれと約しおきたれば、かまわぬこと、また仁者かかることむやみにいうべき人にあらざればいうなり。わが国の支那の太古説とか原人論とかいうことを喋々するものは、必ずプリチシュ・ミュジアムの故テリエン・ラクーペリー(仏人にて盲目)の書を引く。この書は、わが邦の水戸の鵜飼信興の『珍書考』(種《たね》はありながら、こじつけはなはだしく、無類の奇矯の書。円了など多くこれを引けるは如何《いかが》か)と同じく、いろいろ疑うべきこと、予の知れることだけにても多し。知らぬということをいやな人にて、同館の二階正面に飾り付けたる尾張の名古屋不破光兵衛とかこれを製《つく》ると銘ある大時計を、名古(シ)v屋(ニ)不v破(レ)光(ハ)兵(ヲモツテ)衛(ルナリ)というような、出処もなく、また真の語格に合わぬ訳を下したる、希有の押し強き人なり。故フランクス男も、時計にそんなむつかしき銘ある例なしとて、予に内々聞き合わせしことなりし。こんな人の言ったことを金科玉条とする比較宗教学なれば、そのほども知らるるなり。よって博言学と比較宗教学は、今に科学として見ぬなり。人々のこじつけみな異様にして一定せねばなり。有名なるマクス・ミュラル氏、英語ドーター、梵語タウヒヒテル(牛乳を搾るの義)に出ず。故に太古アリアン人種いまだ分かれざるとき、家ごとに牛をかいし証なり。また牛を搾るは家の娘の役なりし、(415)とあり。正座静意に考えても見よ。人間娘ありて父女母子一家にすみ、牛をかうほどの世ならんに、そのとき初めて娘に娘という名を付くるを考え出だすべきや。またタウという牛にすでに牛の名あり。しかして一家の娘に娘の名なくてすむべきや。博言学というものまことに拠《よりどころ》なきこと、かの落語家が目〔傍点〕は見え〔二字傍点〕の略、鼻〔傍点〕は歯〔傍点〕の上の穴〔傍点〕、歯穴〔二字傍点〕の切、口〔傍点〕は内へ食いこむから食〔傍点〕う内〔傍点〕、チョッキはチョットキルの意、マンテルはきるにひまがかかるからマッテイロ(待っていろ)の略、さて膳にそなえしウナギは如何《いかん》と問われて、??《う》が食うとき長くて難義するからウ難義〔三字傍点〕の略といえると少しもかわることなし。順廻原理という誤論理《フアラシー》あり。契冲阿闍梨《けいちゆうあじやり》が、天《あめ》はアー見え〔四字傍点〕の略、アー〔二字傍点〕は天を見てアーメ〔三字傍点〕といいし略といえるごとく、どちらが原始どちらが次に出でしと分からぬごとし。このことは浜田健次郎氏これを言えり。ただし洋人もかわることなし。しかして日本人の説はこれを笑い、洋人の説はこれに服す。哄すべきのはなはだしきなり。
博言学などの末をもって一々押しつけ難論し来たらんには、こなた利口の邦家を覆すをうれうるの意よりして、またこれに応戦せざるを得ず。しかしてその場合に莅《のぞ》み、かれはかれのいうところ学説をもってし、われはわがいうところ教経の義のみをもってせんには、喧嘩果つることなし。しからばこれを平和に平易に決せんは、科学(すなわち万事万物に通ずる一切智識を順序立てたもの)に拠るの外なからん。故に自分がそれでよければとて、世間に解せしめんとせば、止むを得ず論理の一部ぐらいは心得置かねばならぬ。さればこそ古え仏徒はみな因明《いんみよう》を学べり。今は因明ばかりでいかぬから、その上の帰納法、階級法、分類法をも心得よというなり。(ついでにいう。因明には譬喩法あり、西洋にはなし。今もいうごとく、世界中のことみな符合符一のものなく、近くとも遠くとも多少の影応のみなる上は、事を早く分かるようにし、早く同異を弁明するには、譬喩法はなはだ必要なり。)故に仁者のごとく、これにかまわぬというわけに参らず。
 次に「仏教を弘通するに暗黒局面を救うが急なり」とは、同一のことを別詞でいうのみ。「妻をとるに男女和合せ(416)ざるべからず」というごとし。ただし暗黒局面を救うが急務なるにあらず。それがすなわち仏教弘通の目的、一日も離るべきにあらず。たとい一時その幾分を救い得たるとも、宗教の目的はここに外ならざれば、不断このことのみ心がけざるべからざるなり。今日の急務のみにあらざるなり、常住の本務なり。すなわち科学(智識一切を順序立てて持つこと)の必要がここにて、ちょっと物いうにもその心得なき米虫らのいうことは何の味なき紙墨つぶしとなる。実は「今日仏教弘通に第一の急務は、大いにその実利実益を挙行して、教説経義とその実用とを円融実証するにあり」というべきところなり。しかしてこの実地の菩薩|行《ぎよう》をなすこと如何。八十年、九十年、頭を如意でくらわされ、玄賓のごとく鳥逐いまでし、デカルツのごとく華冑《かちゆう》の家を辞し兵士とまでなりて経験して、さて自証自悟すべきことを、何というてろくな勤行もなく、糞?《ふんけつ》とか堪笑とか麁野卑穢《そやひわい》の語録等に閑日月をついやし、またなんのこともなき仏の荘厳相をひちくどきまで千万言して陳述せる、あほだら経的の経文などを幾年間耳ふたぎに誦したればとて、剣術の皆伝書(禅僧をやといかかせたものゆえ、剣術のことに何の関係なし)の虚文を全誦したりとて、面《めん》小手のきめようも十分ならざるごとく、何の埒《らち》もなき空文誦呪にあたら年月をついやさしめ、さてなにか得るところあるかとまってもまっても何もないから、いっそ手近く世態の方から入りて見んと、後ればせに四十、五十から帰根斎の復轍《ふくてつ》をやってみるなり。
 たとえば、金持の子は金をおろそかに見る、そのもうけようのむつかしさ知らねばなり。天狗につままれ富岳の上に落とされ育ちたる子ありとせよ。その人は成人の後までも、富岳は高いと知らずに世界一切低いものと見ん。されば、内典ばかりいかによきことをいい無上味の正覚を包めりとも、そればかり空文として呪誦しては何の役もなきこと、浄瑠璃、春画に及ばず。外典の功あること、これにて知るべし。その上に科学すでに一切智識の索引なり。かじや大工の道具箱なり。今田一つ作るにも、その心得なくて叶わず。(糞汁の加減、土質の高下等、予は書をよむのみを科学といわず。聞くのみ見るのみでもこれらのことを順序して知り心得るを科学という。)ノット氏へ元工部大学の教(417)師(今は英国学士会員)いわく、朝おきて顔洗うに科学摩擦の理を知らざるべからず、と。現に予ごときはその心得麁にしてむやみに石鹸を浪費せること多し。この山中にありて必要の提網《たま》のワクのつなぎ目の白目《しろめ》はずれ、それがため天気よき日も虫とることならず。田辺、新宮までおくらんにも、郵便局までもち行かねば受け取らず。故に一日を費やさざるべからず。幸いにかかる滑面のはずれてはなれたるは、その間に渋?するものの小片を入るれば、一時を弥縫するほど止めることはなるに気づき、藁のあらきものを薄くへぎてその間に入れ、それにて間に合い一日もむだにせずに用事をすませおれり。なんでもなきことのようなれど、その身その時に取りては武士が刀を折られしような大事件にあるなり。この外郵便印紙はりそこない、はずすことを知らず。たたみに墨こぼして洗う法を知らず。そんな些末なことで些末なるほど多く煩わしく、金銭を浪費し、無用の手数受けしこと多し。)
 しかるにこの万事にもっとも必要にして事々近卑ながら、その理は万象の深蘊《しんうん》に出ずる科学を学ぶことはせずに、何として仁者は世間を救済し得んか。すでに地獄極楽の遠近、刀山刀樹、糞汁池等の有無はいう必要なしという。然り。然らばこれを今日の人に説いて、世を救うこともまた望みなきのみならず、例の帰根斎のごとく入らぬ喧嘩を買うの基たらん。しからばただ因果経や譬喩品を説き、世のはかなきこと不定なること等のみを教えんとするか。寺へ金にても出させんと山庄《さんしよ》太夫ごときものに説く法としてよからん。一切この世間それよりも用事多き、さしせまりたる人間は相手にせざることならん。しからば入我我入とか不二の法門とかいうことを説かんとするか。それを説かんには卑近なる世相心相から説かざるべからず。しかして人間の常として、日常に関係なく少しも役に立たぬことはきかぬものなり。その上今日の世界は?頓悟したりとてやはり生きておらねばならぬ世人のことゆえ、そんな入我我入等はたとい分かったのみでは何のこともなし。分かるも分からぬも同じことならん。要は世間に対する義務を果たし、人間の大倫たる子を育《はぐく》んで満足なものにし、父のあとを堕とさず、保続しおわりたる上の死にぎわの大事にあるのみ。(418)一旦悟りたりとて日常に用なきことを毎日くりかえさんには、ひまつぶしにして反りて冥誤を生ずるの基たらんこと、帰根斎がひまなるあまり、ちょっと夜這いを思いつくがごとくならん。故に知るべし。科学をすておいて世界の暗黒を救うことに執心するは、夢中に人を救わんとするがごとくならん。執心厚きこと、おのれ一人知るのみ。手足すでに夢中のことではたらかぬから、目的には一つも達するに方便なきなり。詩人が、精衛という鳥、父が海に沈死せるを憤り、海を埋めんとて日々木の枝一本ずつ銜《くわ》え投ずるを、人はその愚を笑い、その志をわれは愍《あわ》れむ、といえり。この鳥、木の枝一本だけにても持ち行くがましにて、詩人の同感をも招き得たり。仁者のごとき、夢中の人が世にある人を救わんとあせりもがくごとく、手足縛られ口をまかれたる亭主が、目前におのれの妻を輪姦さるるを憤り思うごとく、思うのみで千万年ふるも何の功もなく、単に思う思うといわんも一向その働き見えぬから、例のうそであろう、が始まるなり。すなわちいたずらに好意をいいつのり、それに托して腹を養うものと見|做《な》さるるも、事実なれば詮方なからん。
 すなわちかかるものは亡ぼすの外なしという人、自分亡ぼさるるの外なきことを言いおるものなり。古えは社会単純にしてその悪というも、賊《ぬす》みし姦通し、または兄姉妹相通じ、母子相姦するぐらいのことに止まる。その害は社会一汎に及ぼさず。それでそれ相当の譬喩、血盆地獄説とか阿修羅道《あしゆらどう》の記とかいうものありて役に立ちしなり。今日は然らず、なるべく産を興し利に通じて一社会を繁盛隆盛ならしむるにあらざれば、全社会たちまち他の奴隷となり、母も異国人の婢にされ、姉も弟の目前に姦せらるること、一昨年の支那の乱にて知るべし。兵備も必用なり。殖産も必用なり。ことに科学教育が必要なることは、近来欧州、米国の例を見られよ。安閑として千年いうも、実際その人の心中に入りて見ねば分からぬ不二法門、入我我入等の悟りなどは、何の益なきことと知れ候。(一朝にして世間の不発達にかまわず、かかるつまらぬ閑事に国民を尽瘁せしめば、たちまちに安南、ビルマが戒律盛んに誦経行なわれて亡びしごとくならん。)
(419) およそ道の要は、その道の正真にして、生まるるより終わるまで要あり益あるにあり。今わが真言の教えは万有を網羅して残すことなし。故に科学というもその一相なり。人間界もその一微分子分なり。いかにこれを扱いもちなぶるも、その教旨を主張するの一具となるのみ。少しも障碍なきこと、かの欧州|耶蘇《やそ》教の初めのいいがかりが不出来なるを強いて守らんとて、ややもすれば科学と反馳するに比しては、まことに幸甚なることなり。
 予は今山居して書は携えなし。故にくわしきことは引き得ぬが、また自説のみ麁暴にいうも如何《いかが》なれば、大体記することをビュルノフの書を読みておぼしままにいうべし(予これに感心するゆえ)。耶蘇教のゴッドというは、人の解しようにもよるべきが、貴状に見ゆるごとき大日と同体にはあらず、全く異種の誤見のしかもはなはだしく混雑して、何とも一定見を下しがたきほど混じたるものなり。初めユダヤの民はいかなることよりか(その理由は例の比較宗教学者等に問え。また問わずとも必要にあらず)エホバという一神を尊奉す。しかるに同じ民のうちにも、これと異様のもの、たとえば金製の牛像または外人種の教え等を奉ずるもの多し。モセス等これを憤り神勅と称し、その民を殲《ほろぼ》してその教えを絶やす。これそのユダヤ人なるものの性質の残忍なる(また、いわば殺されし輩の頑強なる)、わが国に土蜘蛛、佐伯(?《なんじ》米虫らの祖なり)などいって、いろいろの土着の細民亡びながら、その神は『延喜式』のいわゆる神名帳に祭神不詳として告朔《こくさく》の旧物を存しやりしような、また大乗教に、黒女天、大黒天、泰山府君、薜茘多《へいれいた》、鳩槃荼《くはんだ》、那良延《ならえん》、蟒神、緊那羅《きんなら》(これまでかきしとき庭上村童らわめきののしるから出で見るに、白蛇一疋池の辺に出でたるなり。実に金粟王はえらいから、世末なりといえども、この状かくを遙仰して竜王の現出せしなりと、米虫も衣の袖をぬらせ)、迦楼羅《かるら》等らちもなきものを入れやりしような穏和の気は少しもなきなり。(これを彼輩宗教に熱心なりと enthusiasm《エンシユシアズム》と称して、称揚しうぬぼれる。その弊として今も異教人相残害嫉視する風が絶えぬ。)次にこのユダヤの民、他の民に制服せられ、その制服王非常の権力ありしゆえ、これに従わぬものは殺し尽され、従いしもの(420)はみなその制服者を被制服者の地位より神〔傍点〕(上帝)と称するに及ぶ(日本武尊を神と被制服の蝦夷がいい、また『万葉集』の古歌に「大君は神にしあれば」の例)。
 『聖書』に見ゆる、われは嫉の神なり、またわれよりも父を愛するものは?《きよく》せん、また汝の民のみはわれの特愛を得し徴《しるし》に陰根の前皮を切れ等は、このときのことなり。これらの人間の権力つよきを称する神として、バビロンに拘禁奴傭中にならいし無中造有の上帝説と(この証はブリチシュ博物館現存のバビロンの石壁楔状字の碑にのこり証したり)相混じ年処をふるうち、ダヴィド、ソロモン等は、例の支那流の帝中帝、王者王の意を推して、わが享命干天《めいをてんにうく》風の上帝を尊奉す。それからいろいろと年処をへて耶蘇に至り、ローマの属国は随えらるること久し。しかしながら、そのローマ帝(属地の民には神の生たるものといいおしえしなり)の外に、なお一層上の神〔傍点〕があるということを大いに拡張して、ついには殺さるるに及ぶ。(耶蘇の外にもこのことをいいし多少の祖師、仏教の釈迦と別に維摩《ゆいま》、また勝教祖ありしごときものはありしなり。)その教えいろいろの事情により(コンスタンチン帝、生れ賤微なる上残忍にして、ちょうど支那の周の某賢人(尹吉甫か)と同じく、その後妻が子にほれ恋の叶わぬをいきどおり讒せしを信じ、長子を殺す。それらのことを悔い、何とも詮方に尽きたるところへ、耶蘇教の上帝の前には微者も卑賤にあらず、また人を殺せしものも懺悔すれば罪なし等のことあるに力つき、これをやみくもに用い、その教えに従わぬものを全滅せしこと、ちょうど阿育王が人造地獄を作り、無数の美妃、前王のために節を持し、われにさせぬを誅し、また妃の恋の叶わぬ讒により拘拏羅《くなら》太子を盲にせしを悔いて仏教に化したると同一事なり)、ローマに入り、いろいろの変遷ありて今に及べり。
 故にこの上帝というは、わが国神道の偉大の先人を尊び、また儒教老荘の黄帝堯舜を称するようなことから、バビロンの造物主(甚《いと》梵部の梵天に似たること)となりたるなり。この造物主ということの観念は、まことに梵天説に比しても卑近浅薄なるは貴下も知るなり。故にその徒中にも例の議論を外より受くるごとに、難局を弥縫せんとて、その説(421)梵天説に近く、または法身如来説に近きものになるが(万有神説、毎処有神説等)、何様《なにさまその前にありしギリシア哲学、》エジプトの宗教とあんまり近く、一目瞭然としてその模倣ということが分かるのを、米虫風のまけおしみで今に造物主、造物主と主張するが、造物ということのあるべき理由は一つも言い得ぬにこまりおるなり。故に一切を支配するものは一切のいずれもを改竄《かいざん》することを得というような遠まわしの理をこじつけて、今は造物主とは無中生有の義というをあまりいわず、知らーぬ顔にて、造物主とは一切を支配する主というように本義をわざと忘れたふりして説きおるこそおかしけれ。
  大日は劫初の最前よりあり。釈迦の説出ず。これその一部がそら出たなり。竜猛《りゆうみよう》出ず。これまたその一部を増した、そらでたというのみ。教主すでに人間にあらず。これを説くもの、またあまりにみずからを大日と同等とか、その子とかいわず。故にはなはだ解しがたし。(五大尊中の釈迦は人身の釈迦にあらざること勿論なり。)
 故に大日と上帝〔二字傍点〕は同一ということは、名義上どうあってもならぬことなり。もしそれもよしなんでもよしといわば、別に真言徒弘通自宗の労とるに及ばず、キリスト教を歓迎するよう衆生にすすむるか、また放任して可なり。しかしながら理窟の立てかたすでに違うから、耶蘇教というもの実際に行なわるる日には万事万物について圧制がひどい。すなわち上帝は万物を支配す、故に上帝の次なる人間は人間外の万物を支配す。犬も猫も草も木も、人の用のためにできたものなり。何の理由なくとも、人々面白くば苦しむるも可なり。また、それより推して何となしにヨーロッパは世界の中心、白人は人間中の主人公というような意が盛んになれり。一体、自由説、平等説、西洋に盛んなるは、前書状にいえる警察行き届く所ほど内微の陰悪多く、戒律条目|夥《おお》いほど僧徒の内行悪しきと同じことで、試みに欧州の史乗を繙《ひもと》いて見よ。わが国には例もなき圧制のこと多し。(英国などにも近世まで、一例として、素女を人の妻にするとき、初三日その夫の領主がする権ありし。素女権という。こんなこと、この外にも多し。わが国にもあったことかも知れず。また今もそんな人あるは知る。しかし、素女権などいう名目のなきところをみると、世間に公認する(422)ほど盛んに弘行せしにはあらざるなり。この類のこと多し。)しかして、?《なんじ》ら帰根斎などはこの素女権をほしきならん。
 ついでに申す。わが国には男女同権なしというて、これを遺憾とする人多し。加藤弘之氏の説に、これはわが邦に古来牛乳にて児を育するの風なきゆえ、女の容色はなはだ容易《たやす》く早く衰えるにある、と。すべて論理学の原則として、いな世界の事相の大道として、近因の見るべきものあるに遠因を見ることを求むるを避くるなり。たとえば、小生酒を好むは何によるか。答え、叔父に酒のむ人あり、何となくその人のすることを面白さに見習いしなり。これにて足れり。また答え、この者は小さきときより人と交わるを好まず、生平寡言なり。故に不平のこと多きも、もらすに由なくて、酒をのんで自問自答して心中に述懐をやるなり。これにてもよき答えなり。また答え、彼の先祖の中に無類の酒ずきありしによるならん。この答えは不当なり。何となれば、予の系図には五、六代前までのうちに酒ずきなし。いわんや、酒ずき先祖にありとも、数世の久しきを距てて出ずるものか否は十分に証なし。これに比して、世界中に系図を幾十代もしらべんに酒ずきの一人も出でざりし家はなし。また酒すかぬものの後に大酒すき出ずることは間々あればなり。また答え、南方酒をすくは日の照るに出ずる。日照るときは熱あり。熱にあたるときは汗多く出る。その入れ合わせに酒をすくなり。この答え全く不当なり。いかにも、酒すくのみならず、何ごともかごともこの世の中のこと、十の十は日に出ずるは無論なり。これ地球の世にあるは、すでに日の存するに因すればなり。しかしながら、かかる瑣車の一々の特因とすべきにあらず。故に男女同権なきを牛乳云々のみに帰するははなはだ不当なり。その一因たりしかも知れず。しかしながら、因をしらぶるにはこのことありし故このこと起こるとは言い易し。このことなかりし故このことなしと言うはよほど精細にしらべねばならぬなり。世態は煩雑千万なれば、かかる論理行なわれず。
 さてわが国には牛乳用いざりしが、太古より乳母をおくことあり。欧米とても人の乳で自育せしこと多し。また蒙古の人は千古今にまて馬乳、牛乳、羊乳のみで子を育つ。しかるに男女同権ということなし。さて面白いことは学士(423)会院始めて英国に設けられしとき、魚死すれば魚生きたるより体重重くなるという理由|如何《いかん》と持ち出した人あり。当時に名を得し大碩儒等甲難乙駁七日に及ぶも決せず。ところが末輩の奴に気のきいたものありて、一体そんなことがあるものかと、みずから生魚と死魚とかけ比べしに、別に死んだ魚の方重いということなし。大笑いになりて止みしという。今わが国に西洋人が皮想の観をもって男女同権なしというを、たちまち西洋人が左《さ》いえるとて、その通りと思うのみならず、単にその重大の源因を(よしこのことありとするも)牛乳の有無に帰せんとするは、如何《いかが》わしきことにやと思う。
 さて予の見るところをもって、わが国の男女不同権ということ一向実証なし。その故は西洋キリスト教の経義たる、女をば男の奴隷、男を喜ばすために生まれ出でたるものという。しかしてその弊として今もダウリーということあり。すなわち子女を嫁せんとするものは、必ず男を喜ばすだけの資金を付けやることなり。かのジーデローがさしもの偏窟不屈の人なりしに、二女子が年|長《た》けながら嫁資なくて空閨に空過するをかなしみ、秘蔵の書籍一切を公売せしに、仏国一人としてこれを顧みるものなきを、英国女帝カタリン(孝謙帝と伯仲する人、一夜に二十四人|間夫《まぶ》ありしとか)遠く勅してこれを買い取り、先生一代はパリにおき、先生みずからその図書の監督たるべしとて年金やりしを喜び、わざわざ英国京に詣《いた》りて、先生が女帝と話せしことあり。またギリシア第一の正直なりしアリスチデェ(わが北条泰時のごとき賢人)、身死して女《むすめ》を嫁する資なきを国人あわれみ、国費にてこれを資して嫁せしことあり。世いそがしくして父母女を嫁する資なきより、女のみずからこれを作るためにはたらく。さすがはたらいて作ったものゆえ、男もそれを自在にできず。さて資の多少にて女の力大になることもあるなり。これ真の男女同権なり。(近く日本の威勢強く、日本の人に英国などの女多々ほれるというも、事実は事実ながら、そのわけは異なり。かの地の男に嫁せんにはこの資が入るなり。日本人は法螺ばかり吹きて、むかし上方ものが江戸へゆきていずれもみな公卿の落胤のごとく言いしと同じく、みな由来ある人のようなことを大きくいうゆえ、そんなことならそんな方へ嫁したいと年(424)|長《た》けるまで資なきゆえかの地で男に遇えぬものが思いつく。日本人はもとよりたびの恥はかき捨てという心でかかることゆえ、資もなんにも入用ならず、ただすれば〔三字傍点〕よしという気にてするなり。早晩あらの知れることにあるなり。)
 日本は然らず。女に資というものなく、ただ少しばかりの持参金、中人以下はそれもなく、衣装ぐらいのことなり。しからば、もとより奴婢同様のものなり。しかるに、これにたちまち家の権を与え、その言を信じ、それに迷網《めいもう》せられて、骨肉在来の兄弟を逐い出し、その資産を隠匿《いんとく》するものなど、比々《ひひ》としてわが国の風なり。これをもってこれを見るに、わが国の女は資もなくて夫の家の全権を握り、早く夫をさせ殺したり、あとへ米虫などを間夫に勝手次第の濫行あるも、従来の親族一語を挿《さしはさ》むこと能わず。まことに予をもって見れば、わが国ほど女権の強い国はなしと思うなり。また加藤はわが国の女容色早く衰うというが、それは洋人と比較の上のことなり。洋人を知らざるわが国幾千百年間に、何ぞそんな比較をできぬものをできたりと想像して、女権を卑《ひく》くすることあらん。(実際はかの国の学者の言に、かの国のもの肉食はなはだしき故、女早く色衰うるという。予はこれを証するものなり。然らんには、牛乳一件のために日本の女早く衰え、肉食多きためで洋人早く衰うるといわざるを得ず。すると、この比較は、こっちの息男は学問に金を徒費し、隣人の子は衣装に徒費すというようなことで、双方打消しとなるから、たとえそのことを実とするも、比戟せば立消えとなり成立せぬはずなり。)このことついでにいいおく。故になんの宛《あて》もなく、かかる不しだらなるわが国の婚嫁夫妻の制のしまつなる上、女がちょっとはたらかずにいて、女権の高きを望むなどはもっての外のことにして、もしこれを許さば、仏国の現状のごとく、かかだんな、かか勝手次第の世とならんのみ。いわんや、この細元《ほそもと》の日本にそんなことならんには実に大珍事ならん。
 外書に見ゆることは、外国人に珍しと見ゆることのみかき、その国に普通なることはかかず。われわれ日々の日記帳に、蚤に多くかまれた、蜂にささるなどつまらぬことはかくが、この日三度満足に飯くうた、この日も三度飯くうたとかかねに同じ。金粟かの国の実情をいろいろとみるに、かの国の女権まことに卑《ひく》き一例あり。仏人などは淫乱な(425)るもの多く、金粟(玄奘が一度も女せぬを、それにさせるときは三千年生き延ぶるとて、女王、女魔などよりしばしば拘留せられたごとく)女一度もせぬこと、どこかで分かる由にて、男ありの後家などに多く招かれたることあり。その輩に多きことなりし。これは、セパラシヨン(英語セパレーション)とて夫妻の間に乖離することあり、離縁は『バイブル』の文に背くからちょっとできぬゆえ、これをなすなり。すなわち夫の自産と妻の持ち来たりし産を始めの入れ高に|比して分かち《ジヴオールス》、一生別居するなり(当国の離縁と異なることなし)。ただし、かく別居した上もその女は一生夫の名姓を称せざるべからず。予の知りしにマダム・ユージャーン(ユージャン夫人)のごとし。夫婦乱淫の仏国など、乖離すればとて必ずしも女の方が悪しきに限らず。しかるに、離縁は『聖書』に背くから大恥なりとして、ほんの名目上これを避けてかかる異風のことをする。さて夫の名を一生なのる制ゆえ、あれは離縁された(実は当国の離縁と同じ。その式あるとなきとの別なり。当国の離縁、式というものなし。故にこのセパレーションの方近い)女と誰にも分かるゆえ、まずはまじめな人が手を扣《ひか》え、またこれと通ずればなんとなく有夫の妻を姦する類ゆえ、罪に罪を重ねしむるごときこととなる。はなはだしき女に取りての不利益なり。これらはわが国に離縁多しなどいうて欺く西洋崇拝者は、書物で読まぬことゆえ知らず。なぜ西洋には何々夫人という名の独居のものが多いだろうなど怪しむ。実は女権の卑《ひく》きことというべし。
 
故にわが真言徒が、ゴッドが大日などいう語は容易に吐くべきにあらず。これみな?《なんじ》ら無学の致すところなり。すでにこの幸甚千万のことあり。教理も経説も(些少付庸の伝は除く)実用もみな相障碍せぬなり。しかる上は、実際にはこの法相(心相、理相、宰相、境相、物相――予は今坐右に経巻なし。故に仮に思いつきにかく分類するなり。たとい少々経巻のいうところとちがうとも、上の四図のごとく、一項ごとに多少の増減あるも総計いずれも六なるごとく、何ち(426)がいなし)を分類順序立てて、早く世用にあうようにし(科学なり。順序のつかぬ智識(法相を人心に感受して記臆して存するをいう)は、ちょっと用に立ちがたきこと、整列して巻冊を貯うる人はじきにしらべて役に立つることができるが、そこに一冊ここに一部とほりちらす人は、急なときに十分にしらべのつかぬごとし。いそがしき社会に事をなすに手間かかる)、十分衆生を益し、また衆生みずから益すべきよう先導して教え、さて世間は世間ゆえ、止むを得ずかかる法相を応用せねばならぬが、それに着《じやく》すべきにあらずと真の理をもおしえ、大日の霊妙なるを推し察せしめて、仰敬おのずから悠々楽地あらしめんことをいうなり。
 芝居見ぬものに、実際団十郎の妙は分からず。ちょっと上芝居に之《ゆ》き悪《にく》きものに、土間から見せながら十分益を受けるようにするの法なり。直指真入《じきししんにゆう》とか不二法門《ふにほうもん》とかは芝居見あいた上、見るも見ぬも同じという悟りなり。真実には、芝居見た上見あいた上でなければ、その悟りは出ぬものなり。見ずにそんな悟りいうは真の悟りにあらず。むかしは世間ひまゆえ、また芝居にあく人が多かったから、しまいまで見ずに芝居がつまらぬ、見るも見でも同じと芝居は見ずに台帳要領をよんで止めたが、今に直指真入、不二法門などと書物でおしえる経巻禅儀あり。しかるに、今日の世は社会が混雑して、人々是非にいやでも応でも芝居見にゃならぬ世となったから、どうぞ芝居見るに熱して最後のさとりはずさぬようというが、見るときはよく見、よく見ながら最後の悟りを忘れず期し、さて悟る場合にも真にその場をへたことゆえ、実によく間違わずに悟るというが、金粟の教えなり。禅学のゆるしなど受けた人で、ちょっとした世間向きの義理をも欠き、ために金粟すこぶる迷惑したこと多し。とかく未熟のさとりは(一人にはよいが)、社会に対するにその方の用意には一毛の助けもなきのみか、大へんな不理窟、不人情の種子となること多し。「業平も飯くふてこそかきつばた」という句に対して、「金粟も水のんでから|しし《(尿・獅子)》の座よ」と予は言わんとす。飲まず食わずに悟りつづけ難し。いわんや、一切の人々悟らせんには、その順序なかるべからず。
 今、仁者らの徒に授くるを見るに、袈裟の着ようから五百戒の名目、経巻の字義、何の意義もなき翻訳の間違いで(427)牛車馬車などあるを、かつて牛は何に喩え鹿は何に喩うというような無理なことを(シベリアには鹿に橇《そり》引かすこと)あり。インドその他鹿に車引かすことなし)までおしえきかす。これを教うるものすでに随読随意と自称す、聴者これを一年も保ち得んや。そんな無用なことはヤソ教ですらやはり最後の悟りとし、また実にそれに相応の世にはそう益もありしなれども、今時そんなことなんの益もなく、鰯の頭も信心からというに、間違いと知った上は信ずることならず。信ずることならぬものを、いくらおし付けられたりとて聞く気も出ぬものなり。故にこれを信ぜしめんとせば、たとい後世に及んではまた間違うと見ゆることも、自今もつとも世法に相|中《あた》れることを教え喩ゆるの外なし。仁者すでに須弥説、地獄所在説、極楽里程論等を無用という。然り。然らんには、長たらしき経巻の一字一字の義釈などは、たとい誰がいうたことにせよ、今日これを人にすすめ教うるの益なし。(西洋の『バイブル』も、いろいろつまらぬこと多いから、抄訳に抄訳を重ねて今のになりたるなり。原本にはいろいろとつまらぬ有害無功のこと多し。)しかるに一方で、この目前の急なる科学を自分心得ねばとて、ただただなにか娯楽か、最上のところで経説の助註ぐらいに心得、一方には教説に何の関係なき、いわばひまにねころんだ上、面白いところをしらべようと思うなら勝手になさいともいうべき陳腐無用の、何度よんでも同一のことを永々とくりかえしたる経巻などを、年若く物ごとに活?なるべき壮若輩にしいんとするは、果たして何の心ぞや。まだ書くこともあるが、まずは擱筆す。以上。
                南方金粟王如来
   土宜法竜様
                                                 筆忘れずにおくりくれられよ。
  末筆にいう。?ら僧侶の学術なき、門外軽薄の徒がいわく、仏教は無神教なり、いわく、真言は万有教なり、いわく、宗教は改革すべきなりなど、何の信もなくして、皮想一時の思いつきよりかれこれいい来るを、おのれに何たる智識のなきより、動乱仰天して、ただただ然り然り、誰が何と言うてくれたなどいう。以後は門外漢のい(428)うことを決して検査して聞くことなかれ。単に悪きことをきくなというにあらず。ほめたようなことも、検査なしにきくことなかれ。僧徒無学のほどが知れるなり。
 付記。本書および前書いうところにて大分分かりしと思うが、なお念入れて申すは、小生の申す科学とは順序立てた智識の儀なり。故に形而上学を、幾分にても切りとり   岨蜻して整列し、原則を求め階級づけて形而下学とするも科学なり。もし幸いに形而上を形而上のままで整列原則を求むるを得ば、いよいよ可なり。とにかく漠然切れ切れの推察予想を脱して、順序綱目ある智識とするを申すなり。しかして古えのことは知らず(古人は、今のようにむやみに物を言いちらさず、その機を見てその事を伝えしなり。故に古えいかなる大智識ありしや知れず。これを全くなしというは大間違いなり)、今日は物質開化大盛なり。故に家を建つるに建築師一人のみならず、工夫までも、その何の故に何様に何の理で建つるということを知るときは、事早く整いやすし。故になるべくその方の学識すすむを望み、いろいろの秘事を忌むなり。それすら予の考うるところにては、あまりむやみにいろいろの事をいやなものに伝え、またすきなりともむやみに伝うるは事の害ありと思うこと多し。すなわち前書にいう、予が珍しきもの取れるに傚《なら》いて、何のこともなくそれを取り尽すもののごとし。
 しかして、今の科学なるものの不完全なる、物質のことに必要なるゆえ、抽象科学、中にも数学は大いに盛んなり。これに反して、事理学(論理学)は物質のことにあまり必要ならぬゆえ、原則とては同一のものは同一、一旦あるものはなきこと能わずぐらいの二、三のことと、例の三段論法(これは実用のまことに少なきもの)が、特にわかりおるのみなり。この粗なる抽象科学(数と論理)のみにて形而上のことをきり取らんとするは、まことに至難のことなり。形而上のこと、すでに量なし。太極両儀の一と二とは、一匁二匁、一貫二貫の一と二とは全く異なり、一つ二つ、一箇二箇ということにあらずして、全きもの、相異なるものというようなことなり。故に物質上ことに開けたる数学は、形而上の学に何の用なきこととなるなり。されば、今日このきわめて発達せざる麁なる論理のみをもって、形而上の(429)学を切り取りて科学とせんことは、なかなかむつかしかろうと思う。故にまずこの論理からして十分発達せしめざるべからず。また前書にいう「まわり合せ」ということもよほど必要なり。しかるに、その研究の次第さえ今につかぬなり。
 科学上(今日の)より見て、麻剤のんで気がかわり、酒のんでおとなしくなり、惑乱狂Lなどするより、
  ここに一ついいおくは(仁者に言うたかもしれぬが)、エジプトは男色大はやりの国なり(例の女は顔をみせぬ国風ゆえ)。今も多くマメルックとて?童《れんどう》がある。これが客に大麻《たいま》葉をくれる。昏酔剤なり。この大麻というもの飲むときは、抽象的に満足識ともいうべき識を生ず。(予、前日より投書彙集し、また論難の答弁、加うるにジキンスへの短冊まとめおくらざるべからず。そこへ大水の報あり、蔵書の安否心元なし。友人に洋行するものあり、その意見を述べざるべからず。そこへ山へ深入りして、今月六日、この深山の三の滝のまだ八町ばかり上に出でしとき、日暮れ、集めしものはもとより器械一切もちて、絶壁の間をむちゃに一歩三礼して徐歩して還るに、岩に中《あた》りて必要の器械砕け、まことにこまり注文せしが着せず。また東京に銭の勘定長引きすまぬ一件あり。そこへこの状をかきかけ、まことに四、五日つづけてわずかに三時間ばかり眠りしのみなり。しかるに妙なことは、昨日に至り一切これらのことすみ大いに安心、このことはすむこのことはすむと具体的にあらずして、ああ一《ひと》安心したとも何とも思わず、何となく満足するなり。その通りに。)この外にもいろいろの麻剤を多く試みんには、いろいろの道義上の心性を顕出することと思う。現にコカ・マインド(狂)というて女に多し。コカを用うること烈しきときは盗性を生ずるなり。富人の女にして、なんでもなき料理屋の皿一枚ぬすみ、訴えられしを見しことあり。猫などに盗を好むものあり。かかるものは善悪の差別なきものなるに、別けて盗を好む。家で物を与うれども食わずに、他家のものを盗むなり。これらは、なにか食物とか寝所とかによることならんと思う。これに比して、予は心性作用の万般異なるより、物体上の諸相千万態なるを現出すと思うなり。(430)物質開化盛んなる物質科学より、これらのことを見て、一切の心性の万般の諸相は、みな物質上の変化より生ずという人多し。しかるに予をもって見れば、これと同時に(物質を一切無と見て、力〔傍点〕とか作用〔二字傍点〕とか無形のものばかりでこの世を塞ぐと見るなり)、心性上にもまたこれと同様の差別の無尽の相、無尽の力ありて、それが相互の変化動作にて、物質上の諸相を現出すということもいえるなり。故に大日の心界の極分子の動作雑合に起因して、物質世界の諸相これに影応す。その末として、物質世界の諸相相つづき因縁すると思う。白川の白幽子は(『白隠広録』に出ず。このことは白隠の手製とかいう。しかし、それより古きものにも見たることあれば、多少種のありしことにてよし。これは無根のこととするも、類例はありしことと思う)、禅坐して全体蜜に浸さるると思い、それで身を養いしなどいうことあり。身を養う云々のことは知らぬが、現に狂人などに、気楽なる狂人は気楽なることばかり思うゆえ、はなはだ長寿なるもの多し。また、加藤弘之など、ただただ物質を元として、少しく心性を主とすることをいえば、それは迷なりなどいう(予は弘之ごとき下劣なものを相手にとる気はなし。しかし、都合がよいからとるなり)。また科学者にして物質のことのみを主張する哲学士輩が、年老いて多くは心性上のことを述べ変説するを、耶蘇教に魅せられたるなりなどいう。(かくいわば、例の米虫ら、少しにても耶蘇教の不名誉になることを悦ぶ心より大いに悦ぶならんが、実は唇亡んで歯寒しじゃ。これらのことに至りては、真言も耶蘇教も斉しく、かかる安危なり。現にわが邦も、三十年来多少の科学者出ずるが、この輩老ゆるに及び、多くは天台義などに向かうもの多きにて知れ。)
 今、予はさまで老いたるものにあらず。身体はすこぶる健壮なり。また盗人や地震の外におそろしきものなし。しかるに、人間と拒絶してこの辺の杣も行かぬ所にゆき、久しくおりて見るに、すなわち物質界の影響を受くることなるべく少なくして見るに、心界にいろいろ雑多の相を現出す。その妙はちょっといえぬなり。また実に筆にすることがならぬなり。今の心理学に意、思、識と三別するような麁なことになく、実に千万無量の異なる無名不可名の心相のはたらきを規出す。これをもって考うるに、今日は社会に人多く事務繁きより、心界の諸動作、応用、現相という(431)ことは、大いに物界の諸動作のために蝕されて、古え閑静なりし世のごとく発達せぬことと思う。現に欧米諸市街の貧民労働人などのうちには、その智の繊弱にしてその心根の劣等なる、牛猫に及ばざること遠きもの多し。また大学校などに出入して見るにも、何とて自分の了見あるものは少なく、ただただ鶯が囀るごとく空言を文句なりに心中で陳列するを智識と心得たるもののみなり。予のごときもブリチシュ・ミュージュームにありて、居多《きよた》の珍籍を見、珍書を読み抄するに、いわば活字を整えて新聞を印するごとく、かのことこのこととかきぬき、同を同、異を異として、どうやら読めるような順序のものに書き成すというばかり、どれがよいやら悪いやら、いわんや、それらから練出して断見を下し、新案を生ずる等のことははなはだ少なかりし。今この閑地にありてこの状認むるほどの自見というものが出ぬなり。故に物質開化盛んなればなるほど、慾〔傍点〕とか情慾〔二字傍点〕とか強念〔二字傍点〕(人のもの、むりにとることを考える)等のことは発達すべきも、宇宙の一部を摂取して妙を構え感ずとか、みずから発揮したる道理を練成する等のことは、すこぶる至難の希事と思う。
 グラント氏、かつてわが国の車夫が発句など味わいうる者多きを感心せり。欧州にはそんなものは百人に一人なり。車夫などにはなし。故に学者にして、年老いてようやくその味を知るに及ぶなり。これを迷えりといわんには、たとえば予が山居して自活する仙人として、その目よりいわんには、またわずかな物質開化に執着して、電気とか熱とか生理とか感覚とか、それほどのつまらぬことを、天地間のことこれに尽く矣と心得たる物質学者をも迷えりと冷笑し、彼らはせっかく感受せる心性の諸作用を悉《つ》くすこと能わざる不具者というに及ばん。いわんや、その人たる五十、六十になり、博士になりたりとて祝宴を挙げ、人の博士になるを妨げ、大礼服きたりとて喜び、男爵になれりとて(心性を楽しむものより見れば、いわば宿札に二字かき加えたるのみ)熱をあげるようなものは、蟻が腐肉の臭いに摂して狂奔するに異なることなしとせん。故に予は今日の世にこれを望むにはあらず。あらぬが、心性の諸作用を十分発達せしめんとせば、今日ごとき物質開化の世には行なうべからず。また心性の機能を尽してこれを学研せんにも、この(432)心性諸能の発達不十分、または堕落退歩せる今日には、不可能事と思うなり。
 故に予は、せめてはそのことに任ぜる僧徒だけにても、主として物質の科学は世にいわゆる科学者に任せ、何とか順序立て、方法を整えて、この心性の未解のことを科学的に攻撃して、分かるだけ少しずつなりとも分かりて順序ある綱目とせんことを望むなり。それをなすに、従来のごとく、これも不思議不思議と前々書にいえる火渡り、またコックリ等の物質をはなれざる不思議に驚き人に吹聴するは、少しも心性研究の順序にあらず。沈思冥黙して自分の心に求め、また諸動物につきておいおい端緒を求めんことを望むなり。今の科学者、またわが邦の物質科学だにろくに通ぜざる書物よみの哲学者などの、決してできることにあらず。この輩、学も思想もすでに麁にして直ちに形而上を攻めんとするは、なお米虫らが帰根斎やまた前書いえる新聞かきの姦通僧などに、何の行儀もなく経験もなくして直ちに不二法門を了《さと》らしめんとするごとく、二つながら行なわるべきことにあらざるなり。
 予近く庭前にわさび多く生いたるを、蟹が「わさび食ふ蟹もすきずき横に這ひ」とも申すべきか、毎日来たり食うを見る。試みに飯粒を与うるに、上に眼の付いたものゆえ眼の用は少なきにや、足にてなんとなくわかると見え、足ぶみのしようにて跳れると見ゆるやいな、たちまち走り来たり、足にてさわつて見て、さて右の手にてつかむ。今一つ飯を抛るに、またかくのごとくして左の手にてつかむ。さて今一つ飯を抛るに、今度は右の手にてつかみしものをすてて、さらに新しくほりなげやりし飯をつかむ。故に蟹などいうものも浅はかながら考えはありて、つかむところの多きよりは、つかむ度数の多きをよしと心得たると見えたり。パスカル(これは例の僧堂ながら哲学団として名高き、わが国などに例のなきポート・ロヤル坊の哲学僧の親方、金粟と同じく幼時神童の名あり、それを少しもくずさずに、一切世利をはなれ、帰根斎流のことなくして、科学も哲学もふたつながらなしたる人なり)の言に、「人間に一番眼に立たぬが、悪いことはよほど悪い一事は、要もなきにこれではならぬという奮発を出すことなり」と。一昨年の大坂の銀行多く象戯《しようぎ》倒しに倒れしごときも、貯蓄銀行の常識たる、貯蓄ばかりでは百年立ったところが知れてい(433)るというようなことから、悪いと知りつつ相場に手を出せし奮発が害になりしなり。予は今、蟹のことを道徳のたとえに引くにはあらず。しかしながら、蟹すらかかる奮発(誤解の)の萌しはありと見るなり。このように実地について生きたものについていろいろと料を集め、階級順序を立てて、さて始めて心界の研究ができる。今のところ材料さえなきなり。
 三つ子に付いた癖は百までということあり。西洋人は耶蘇教が神を怖れよ、神を怖れよというに幼時から馴れたから、スペンセルごとき上帝を攻撃しながら不可知的を賛するを真の宗教という。前年、亡寺田福寿師、なんとかいうものをかき、中井氏へおくり来たり、予に評せよという。序文成りし後、寺田師逝きしと聞き中止せり。予熟思するに、この不可知的という名すでに怖畏の意を脱せず。分からぬから気味悪うておそれ、その災いとなすをおそれて賛するの意と聞こゆ。氏が哄笑する耶蘇徒が上帝の罰をおそるるとかわること、ただ一階のみ。予が大日を賛美せよというは然らず。妙相千万にして尽くることなり。
 縦に視るもその理あり。横に見るもその理あり。上下に見るも然り。左右に見るも然り。前後また然り。離るること万|恒河沙《ごうがしゃ》にして、しかも近きこと睫眉《しようび》の間なり。千歳も一頃《いつけい》なり。由旬《ゆじゆん》も一秒なり。(西洋哲学に心酔するものは、時と空間ははなるべからずという。糟粕なめのはなはだしきものなり。夢中に空間なし。また二十年前のことをまるで現今に見る。時間あることなし。それは夢みる一人になきなり。そのものの寝眠る周囲には空間あり、時も立つにあらずやといわんか。この身亡くて心ばかりのこるとせば如何《いかん》。しかるときは夢ごときものが実在となりて、物質体みな外相となる。)知るも知るも知り尽されずして(人間の世よりは)、しかも沙粒もその内にまた理あり(大宇宙あり)。洪河も見様で大河の一点滴となる。すでにこの世にあり、楽を冀《ねが》い苦をいむ。楽のいと安きは物に拘せられ、体に煩わされざるにあり。この無尽無劫の最大至微の妙相を、その一部を窺うてその大と微とを察し、常住歓喜してこれを賛せよとの意なり。故に不尽知なるに、その未知なるを知るの楽しみと望み尽くることを楽しみ愛し謝して賛(434)するの意なり。
 ?《なんじ》以上の文を誦して感心せんには、これより演繹して、これら楽しみの諸相を一々おしえやらん。その前によく分かるか分からぬか、分からぬことあらば何度にても聞きに来たれ。
 それから、かかるむつかしきことばかり読むは、弱根の?米虫病い重《おも》らんことをおそる。故に狂言中入りとして、面白いことをきかせやる。予の旧友に木津某というがある。はなはだしき才子なりし。予留学のとき最後にあいし人なるが、死んだと聞きしに、田辺へ昨年遊びおるうち、名古屋で銀行員しおりたるが肺病にて家へ帰りしにあいたり。この人その地のよき家の娘と婚せしに、同地に有名な妓あり。これは予の家の一町内のものなり。すてきな別嬪、なんともいえぬ美女にて、県知事思いをかけしに、この男に義理立てしてきかず。七日とかおしこめられ、幸い氷砂糖さがし出して食い、命つづけたる由なり。それらのことにて、右の妻実家へ帰り、父は古え気風の武士ゆえ永世勘当となり、右の女と二人大坂で紙箱作りなどして、実に苦しきくらしをなす。この女はだかになり、衣装質におきしことも毎々なり。かくてようやく友人の世話で、名古屋で銀行に入るや否、二人とも肺病となり、恥を忍んで故郷へ帰るも父は面会せず。弟の世話で養生するうち、五ヵ月ばかりして父大患で死せんとす。親族のはからいとして、許しもなく最期に父のそばへ往かしめしに、かほど頑丈なる父も子を可愛と思いしにや、断えなんとするいきの下に泪を落として、「しっかりせよ」と一言して絶したり。ちょうどその翌日、予その地に至り、右の夫婦の宅へ往きしに不在にて、とらるる物もなきゆえ、あけはなしなり。入りてみるに、件《くだん》の女の自筆にて、句は成さぬながら紙に鉛筆してかきつけ、柱に貼り付けたる、「長々と世をしおくり、夜よくねられて安心じゃ」。金粟、例の涙を流し、さても名句じゃ、よく書いたり、払子を手にし如意を持つ長老のよりも、この一句こそ本心のすえどころじゃ、これなればこそこれまでの貞節苦操もありしなれと思いて、忌もあきて後、むかし姉分たり妹分たりし二妓(一人は前文にいえる「めぐりあふた流れは何の因果経」の本人)とこの夫婦とを厚く饗応して、二妓には一夜休ませやりし、金粟の心ぞ(435)殊勝なる。
 さて一日右の男と予と併坐して話しおるところへ、当世風の豪富のもの来たり、今時はなんでもはたらいて国益をなさねば義務が立たぬなどいい罵る。予悪しき言い様かなと思い(このものは、台湾で木材会社を興し四万円ほどちょろまかし、今日明日北海道へ逐電という場合に、右のようなことを予ら内実を知らずと心得いいしなり)、いわく、世間のことあながちはたらいたから幸いあり、遊ぶから災いあるにも限らず、これ宿習の因って致すところなるにや。また縁起の因果するところなるにや。たとえば蟻を見よ。庭前にむれて、暑熱の夏をもいとわずはたらきて休まず。しかるに人これを見てほめず、うるさいやつじゃとて小便をしかけ、ノアの大洪水となりて押し流されおわる。蝉を見ずや。十七年間芋畑をくいあらし(スクモは十七年間くいあらさねば蝉にならず)、さて悪事にあきて羽化登仙して蝉となり、霞を吸い気を食うて瀟洒として樹上に唱和す。春のジージーのハルセミ、夏の夕ぐれのヒグラシあり。秋末に至りてなおツクリンヒョーシなどとさわりをやらかす。しかも人たちまちそのスクモのときの悪業を念ぜずして、そのぬけがらまでも「なほ人がらのなつかしきかな」などとほめらる、とまでいいしに、右の木津という男、傍より大いにこれを賛し、いわく「それはそうじゃ、その上に蝉は歌がすむと人の頭の上へ小便をひりかけ去るなり」とは、夫婦ともどこまでも剛情な人物に候わずや。奇を好むものは奇禍にあい、好事の者は奇事にあうといえるごとく(前文にいえるいずれのところにも条理ありといえるごとく)、予の一生すべて小説同様に面白い。好景色の地に遊んで身を画中に置くというが、金粟はこの微妙の世界に生まれて身を小説の中に置くじゃ。ちょっとしたへたなつづき物よりも、予の伝の方が面白かろうと思うは如何《いかん》。生死に安んずる、またかくのごとし。何ごとも心のおきどころで面白い。
 この春余寒烈しく夜長きころ、一の滝の前のさじきに通夜してまどろみたるに、「行きかよふらん月とあらしに」という下の句を得たり。何のこととも分からず、光風霽月のことにやとも思う。そのうちまた詠をつのらんと欲する(436)が、自分の句もまだ出ぬから、今はすておく。定家が住吉で「汝月明らかなり」と神託ありしに、その後ある人和歌の稽古始めんと住吉へこもりしに同じことを聞いたから、和歌の稽古せしにもってのほか失敗して、再びこもりて神に訴え申せしに、「そは汝のききそこなり、汝ツケ明らかなり、といいしものを」と宣いし由。予の感得も、今に財布の底がつき、博奕の土場あらしともなりなんとの神意かもしれぬ。
    観音さんの多く垢じみたるきものに付きければよめる、
  南無大悲大事のころも垢つきて白み〔二字傍点〕にるまでなむ山ごもり
    ただ遊んでおるもつまらぬから、親戚の地面、那智にあるを借りて、植木いろいろ培養するとき、釵子股《ぼうらん》を得て人におくるとてよめる、
  棒蘭を下からよめば乱坊につかふて酔のさめた植木屋
    この夏その草へ花さきたりと聞きければ、また遺はしける、
  酔ひて来て乱暴ならぬ棒蘭に過ぎた喧嘩の花のさきける
 
(437)          19
 
 明治三十七年一月四日夜
                   南方金粟王如来
   土宜米虫様
 三十一日出芳翰、今夕拝誦。御病気の由。文筆というもの、魏王の病を療ずるに、これを怒らせてみずから煮られしことあり。ただし、怒りの力で王は直りしと『呂氏春秋』に出でたり。よってこの状でも読んで、汝のごとき業《ごう》の悪い人間は怒ったら直ることと存じ申し候。郵便の儀もつとも御世話かけありがたく不足分返上と同時に『五雑俎』小生手へ譲り受けたく候つき、『五雑俎』の代価御申し越し下されたし。しかるときは、早々合算の上返金申し上ぐべく候。『五雑俎』は、ほら吹くとき座右に欠くべからざるものにつき譲り受けたきに候。ただし、貴下も必ず一本を座右に置き、時々一覧して注でも入れたら大いに博学の便りとなるなり。
 大晦日に、小生宅後の山腹に、幼時湯をあび頭半分禿げたる十歳ばかりの男児あり。頭半やかんゆえ斬髪料七銭とるは高し、三銭五厘が至当なれど五厘という半は不吉ゆえ三銭にまけよと、小生つれゆき床屋をやりこめたることあり。その恩を報ぜんと常々心がけおりたるに、その日猫がくわえ来たりしが、皮硬くして食わえること能わず持ちなぶりおりたりとて、小さき鼠様のもの持ち来たるを見れば、金毛のウゴロモチなり。獣は多くは毛が褐色、黄色、赤色等のものにて、金色のものはこの?《うごろ》の外になきすこぶるの希品なり。よって功を論じ賞五銭を与う。また猫も希特なりとて牛肉の脂少々やる。これだから猫というものは大事にせねばならぬ、といえば貴下らは芸者買いにでも往くならん。(一昨夏、故小山憲英に聞きしに、貴下ら仏骨とか何とか大下手な山勘《やまかん》をやらかし、俗人を誑《たぶら》かし取り上げ(438)し金で祇園に妾宅を囲いし由。何と金粟の天眼にかなうまいが。)
 また元日に、故中井芳楠氏盛日、予は人の盛んなる日は別に拝趣せぬが、人衰えまた死にたる後、終始弔うものは予のほかになしといいしことあり。ずいぶん寒いが止むを得ず一僕を随え、妙法山の奥の院しきみ山とてすこぶる高き峰の丘に登る。わずか二丈四方ほどの処なり。古仏二?あり。一つは木仏にて作はなはだよろし。金粟王はるかに田辺の空をながめてとはうそにて、そこから田辺の方は大雲取の峰で遮られ見えぬが、かの令嬢、芸妓(この芸妓は自由廃業して逐電)などを思い出だすとはないが、なにさま那智は寒気烈しき処、毎夜の大風に寝入ることも希《まれ》なれば、早くあの方へ往きたいと恋しくや思いけん、「大方は山へもゆかじこれやこの登れば人を思ひ出ずるもの」。それから本堂に詣で大師を拝し、生まれてから嚆矢の賽銭、僕と二人前合して大枚一銭ほりこみ、生前多くの苦労かけし亡父母尊霊、また中井公までも必ず救いとらせたまえと念じて立ち出ずる。頭上より大なるもの落ち来たるをとれば、わが邦に例なきデーダルスという希品の菌の、しかも絶大なるものなりし。それより死出の山路という処を過ぐ。四方クマザサのみにて、物凄きこといわん方なし。人間の生死測るべからずといえども、こんなひどい処に生を貪るよりは死んだがましにて、生死一如の観をなす。今年明日たちまち死するも、何の悔ゆるところかあらんと思い取りて、「仕合せや死出の山路は篠《ささ》ばかり」というたら?《なんじ》らには分かるまいが、大石力弥の辞世に「仕合せや死出の山路は花盛り」とあるを作り替えたるにて、篠に酒《ささ》をいいかけたるところは、金粟どこまでも酒ずきにて、?仏《しゅぅぶつ》の米汁を好むを愛せし蘇晋の生まれかわりとなし見上げにける。
 それから村へかかると、平日予の弟の支店の得意先で、まことに議論むつかしく、金払い悪く、何とも仕方の尽きたる男あり。その男在宅と見しが、まさか元日から債促《さいそく》もできずとあきらめ、走りかかる後より、金粟は歯ぬけだから、かの男おいおいおやじどのと呼ぶから、また金払わずに酒一樽の注文かと走りかえる。僕ふみ止まりわけをきくに、島の財布に金十五両、この金そちらへ返しっかわすとのことで、大いに安心。元日から金毛のうごろは手に入り、(439)希代の珍菌は落ちかかり、またむつかしき人から大枚の返却とは、全く妙法山の名空しからず、一銭の賽銭千万倍になる、利益功験灼然たりと感心致し候。大抵|俗諦門《ぞくたいもん》の信心はこれほどのことにて、要は用事ある人は寺まいりして一日の閑を養うと同時に、なにか精神上に面白きことを得、またたといそれまでなくとも、内にありてごろごろ閑に苦しみ人をいじめる輩をして、何となく罪作らずに菌の一つも拾うを楽しましむる、至極まわりくどい得用さえあらばよきことと存ぜられ候。
 なにか合戦|作《おこ》るとか。もし然らば今度は小生を人牲に挙げて、一つわが宗得意の大調伏法を行ない、勇ましくいかめしく不動大勝、烏瑟膩沙《うしつにしや》童子を祭り、一七日《いちしちにち》大精進で魯国を調伏せんこと、もっとも小生の望むところなり。
 前日『東洋学芸雑誌』に算盤的論理という加藤の演説あったから、どんなものかと思い買いて見しに(実は西洋には、今日論理を講ずるに算盤に似たる器械を作り用うることあるなり)、相変わらず例の何ら定基もなき数量をもって科学を尊推し、科学のほかに一事なしとする古めかしき論法ききあきたり。たまたま菌を集めたるを英国に送るとて、袋作るため持ち来たりし明治二十二年ごろの古『ネーチュール』敗紙を閲せしに、事理を微分積分同様精細に説き始めしブール先生の寡婦マリー女の投書あり。南濠ニュージーランド島のエデン山の一測量師がニュートンの算式もなんにも知らずに、人間の考えと万物の発生とは一定の則ありということを思いつき、一つの考思を式通り紙にすじ引き、それを切りしに、天然の葉と正しく合える形を生ず、それをまた器械を発明し廻転するときは、葉形に切りし白紙の形に従いいろいろの色を現出するが、主として葉の緑色を基とせる色なりとのことなり。『ネーチュール』は、予も特別寄書家にて、世界第一の大科学雑誌にして、これを言う人有名なる算学教授の妻なり。迂論なることあるべからず。十年余も立ちしことゆえ、その発見者今は死にたるも知らぬが、何とぞ一つその器械を得たしと英国へかけ合い中なり。
 これにて仁者わが国人と洋人と学問に執念の深浅を知れ。一は堂々たる帝国学士会員にして、なにか黒岩涙香とか(440)が、英国のアリス氏の耶蘇教心酔の強語(この世界は天河の中心にあり、これ上帝特に人間を発達せしめんとのことに出ずるとの説。ワリスは有名なる科学者にして、ダーウィンと同時に自然淘汰説を言い出だせし人ながら、年もより死も近いから、俗にいう引かれ者の小唄とて、いかな卑劣|?弱《きようじやく》の男でも首斬られに行くときは小唄うたうて体裁作るごとく、科学ばかりでは安心ができぬからというて大乗仏法などは知らず、例の西洋人の生かじりでほめる、身死して虚無ばかりでは大乗仏法などにはとても落ち着けぬから、相変わらず生れ生国の耶蘇説で、かかる説を出だすなり。小生思うに、この世界天河衆星の中心なりとて、別にえらいこともなんにもなきは、西京の中央に貧乏人多きと同然ならん。またいわんや他の大科学者にして、この世界は衆星の中心なる証拠一もなしと論出せしもの、その後多きにおいてをや)を取りかきし随筆ごときものを打つとてかかる題を用い(実は論理にも何にもあらず、双方とも狂語なり)、他は便利少なき山中、しかも開化の中心を去ること多き山中に、ニュートンの算式も知らずして、かかるものを発明す。
 仁者らは、また数と完全とを混合して、言語上の間違いより二而不二、一而二なりなどと空言す。なにか要用ある書のこというても買うような気色もないから、小生自費で今度ド・モルガン氏の事理を微分様に説きし書を求めにやりしに、幸いに手に入り近日当地へ着くはずなり。小生読みおわらば貸すから然るべきものに読まされよ。
 付白。古え名論(スコラスチシズム)の盛んなりしとき、英人仏国の寺院にゆき、その論を聞くに感に堪えたり。さて数年かかり旅をおえてまた同じ寺院に往きしに、議論かくるものも答うる者も、前年と少しもかわらぬ題にて少しもかわらぬ議論の言い様をくりかえしおるに二度吃驚せり、とハラム氏の『中世欧州史』に見えたり。仁者らなにか奮発して日将月改その徒と共に新見を断出して絶たぬならえらいが、ただただ何のわけもなく二而不二などいいののしるは、博奕打ちがいかに上手なるも争うところは一と六に出ぬごとく、ついにはその妙論もただただ空言を復習すること、安宅の関の芝居を何度上手にやりても弁慶の答えと富樫の問いがきまりきっておるごとくなるべし。浩哄の(441)至りに候なり。
 最後に、今度郵便局の受取書にセーンド・ロートジ、リッケンス氏宛と書きし。ドイツを歴て(Via Germany)と書きし。終りにちょっと英国とあり。この局員はジッキンスをリツケンスと書くような人なるにや。また Lodge ロッジ、日本にいう斎とか廬とかいうほどのこと、すなわちジッキンス氏斎号を(田舎には番地よりも人口に膾炙するから)、セーンド村のセーンド斎ということなるに、それを知らずロッジをドイツ風にロートジなどとよみ誤りしにや。不都合なる局員というべし。郵政のこと大抵これにて測らるるなり。ただしドイツを歴て英国へおくるとははなはだ迂回のこととなるが、止むを得ずとして(早晩着することとして)、貴下右の書物包の上に一々たしかに前方の宿所 Seend Lodge,Seend,Wilts., England(英国ヴィルト州セーンド村セーンド斎の義)と一字洩らさず洋字にて御認め下され候や。このことすこぶる掛念につき何とぞ御一報下されたく候。
 小生当地で採るところの物はなはだ多く果てしなき様子につき、旧正月前後に一度かたづけ、器械等は勝浦支店へ置き、一部は和歌山へおき、一部は神戸より英国へおくり、さて自分貴地へ往き様子見んと欲す。小生再航せんと欲するも、今日ごとき為替相場の貴《たか》きにわが国の金銭を考えなく外国へ落とすこと面白からず。よってしばらく御地におらんと思うが、住所にすこぶる困ることと存じ申し候。(この地でちょっとこの辺の植物しらべと海外へ何でもなき投書の参考書のみで、すでに十六畳の宝に書籍標品満盛し、そこここ飛びはねあるく様のことにあるなり。いわんや和歌山に蔵する一切の書籍など持ち行かんには、西京辺に到底恰好の住所もなく、またありとてもはなはだ不廉にして、毎々事件多き不安心のことならずやと慮りおり候。)当地寒気烈しく候えども、山間相変わらず珍品の発見多し。
 楊万里のことはもはや入らず。また下火《あこ》とは何のことか。貴下もし観音が子を抱きし像見しことありや。御知らせ下されたく候。善財童子とは何のことか。
 この状一度封せしが、思い出ずること少々あるから、死なぬ間に聞かせやるなり。
(442) 前年ロンドンにありし日、仁者の室を訪いしとき、空海の作でイロハの歌があるというは疑わしき由、予いえり。この「いろはにほへど散りぬる」は、疑いもなく中世今様の体で、弘仁ごろのものにあらざるなり。しかしながら、古伝にはそれぞれ核のあることなれば、予思うにいろは仮名を作りしものは大師にして、これを記誦に便ならしめんため、中世今様盛んなるに及び今様に作りし人が別にありしことと存ず。この歌全く無常のことを述べたれば仏者の作たることは疑いなし。中世酒のむとき美妓、?童など今様を唄いしことは『平家物語』等にも見え、また御室の千秋、三河といえる美少年、今様を唄いしことも出でたり。それにつけて思い出だすは、貴家らは何故オンコロコロとかフンダラマーとか、唐人の寝言ごときことをくりかえすのみで、今世の今様によりて、かの書写の上人が布施受けざりしとき「遊びたはむれまでとこそきけ」とよめる亜流の津の国難波の琴から都の三絃までも、なにがな仏意を布く便りとせざるか。
 小生国を出でしころは、わが国に何とてわが国のわが国たることを小児に教えふくまする道は絶えおりしに、今度帰りて小児の歌などまでもいがみなりに行き届き、わが国のわが国たることを小児が老人に教誨するようになりおるに驚けり。いわんや仏説は無常に始まる、また荘厳に終わる。(何と名言だろう。)この無常ということ常に恋と往復相通ずることは、太宰春台の『独語』にも見えたりと記臆する。『伊呂波庫』の磯貝十郎左衝門が浪人の娘に入りこむところなど、よみて見るべし。しかして荘厳ということは取りも直さず、別殯の殯たるところの別極まりしというに外ならず。中世すでに今様ありて、名高き妓女の謡いしは多くは仏意なり。はなはだしきは磯の禅師、袈裟、祇王、祇女、いずれも仏意の妓名にして、美童の名にまで、瑠璃王丸、薬王丸、遮那王、梵天丸など、いずれも同様なり。大乗の観は草木竹土一切仏ならざるはなし。何を憚りて俗語の今様で聊《いささ》かたりとも仏意を弘め、仏道に導くことを力めざる。予の弟の妻、常々真言の家に門徒の御文章ごとく児童まで朝一回夕一回つとむるほどのものなきことを遺憾なりという(この女は和歌山有名の美女にて、名高き医華岡随賢の曽孫なり。随賢の家今にあり、真言宗なり)。
(443) ただし貴下のことゆえ例の通り金粟王如来乞う隗《かい》から始めよというに相違ないゆえ、先日申し上げし芸妓の請いに応じ、即席に作り上げ美声でやらかせし二上り新内「隅田のほとりにすまひして、萩のしをり戸、四でう半、歌俳諧や茶の湯して、主《ぬし》と二人でくらしたい」というのを作り替えりしを再校せず、その即席のまま聞かすべし、「恒河のほとりに涅槃《ねはん》して、毘耶離《びやり》の方丈、獅子台、般若成覚成道して、弥陀の浄土でくらしたい」とこうだ。前後そろわぬようながら、音曲に合わぬものは字音また歌のころがし節等を考え合わすものゆえ、そんなむつかしいことは入らぬ。むかし性空《しようくう》が周防宝積の遊女の俗謡を、眼をあいて聞いたら俗謡で「ささら浪たつやれこらさ」と聞こえ、眼を閉じて聞けば普賢の法文なりしとは、このことじゃ。何と米虫大感心未曽有と称するならん。
 それから、貴下前年パリの啓白文を読みしにはなはだ美壮宏麗にして感心せるに引きかえ、恵美忍成という人の持ちし貴下の哲学館の祝文かなにか見しにすこぶる悪い。また前日示さるるところの詩なども、第一高等学林図書館の趣意書(これは誰の筆か知らざるが、やはり師匠のまねするものは、大谷刑部が栂指なきため止むを得ず槍にくだを入れしを栂指満足なものがくだ槍など申しはやし何の功もなかりしごとく、とかくよきまねをせずにその弊を学ぶものなり)なども、三字の漢語(実は漢語でもなんでもなく、宋元の胡説乱説のべらんめーの語およびこのごろわが邦の手製)多く、真言宗徒の筆とは見えず。何か無文宗の禅学半学びの老人の筆のごとく、さっぱりむちゃじゃ。そもそもわが国の真言、天台、下りて天台の条派の用うる文字は、それぞれ出処あり。弘法大師の詩、伝教大師の文、降りて親鸞、蓮如の文章に至るまで、粛はその粛を極め、和はその和を究め、平易流暢なるは乞食、痴人を怡悦《いえつ》せしむるに足るものなり。その語とても一々わが国の語の源と梵音の精細を考え合わせ、いわゆる呉音とて支那の昔ながら支那の音にあらず、特に多綴の語を読下するに便りになるものを用い、清濁の訓点さえなかなか容易に下さず、よほど念を入れてわが国の風に合わせたるものなり。
 しかるに徳川氏の世漢学盛んなるに及び、その徒わが国に存する漢語の出処反って当時支那の用法より正しきを知(444)らず、また知りながらただただ新奇珍怪を喜び誇るより、いろいろの難指の字を引きずり出し、維新の直後に至りては、無智の民が子を苦しめたとて「裁判文に常に食わすに苦楚をもってす」というに至る。この弊近来ますますはなはだしく、たとえば、わが国の語には綴読字(の)あり、支那人にはこれなきためややもすれば意味不明より的〔傍点〕の字を用ゆ。このわが国不用の的の字を無用のところに応用して、経済的、遊侠的より、延いて別品的の、高価的の、高価有理的のなどと長たらしくいうに至る。字にかけばわれらには分かるが、面と談ずに言うのみにては何のことかさっぱり分からず。十二月中このことを、予、英国の一文学雑誌へ出せり。その要は、挨拶、会釈、狂言、普請、幽霊、勘定、存知、無念、これらは多少本意と叶わぬところあるが、定めて朗詠または仏教の容易なる説教等より出でしことにて、語まことになだらかに、今の支那人はその本意どころか字も知らぬほど、すでに固有の日本語となりおわれり。しかるに、耳にやかましく、まぎれやすき同音多き漢音の語を、字原句意は支那人ほど正しく知らざる日本人が、かれらほど手まねまた文字を常用しつけずに、近来ますますそやしもて、同文同文というは、実は被同文というべく、その造作の功は俗にいう犬骨折って鷹の功となりおわらん。
 古史を見るに、語ほど国体に関係ありて国風を維持する力となるもの少なし。しかるに、一国の語必ず永続する否、他国に弘まる否は、大いに研究すべきことにて、それぞれ深意のあることと見えたり。国強ければ語弘まるというかしらぬが、今のドイツ語ごとき無用のむつかしきこと多き語は弘まるとも永存する道理なし。(英語には冠詞に男女性なし、きわめて便利なり。いわば日本語よりも、一か一より多きか、今いった人か、また外の人か等を別つの功あり。しかるに仏語に至りては、すでに男女性を分かち、ドイツ語は男女中の三性あり。支那字の※[田/女]《き》(男子婬を売るもの)、媒等の字、女に従いながら女性の人また事にのみ限らぬごとく、実は何のわけも今日はなきことにて、ことに実際牝牡あるものについて、男女、牡鹿牝鹿、雄鶏雌鴨、陰嚢牝戸と別つでなく、ちょっと卓上のものも、いずれも男にも女にも、また中とも知れぬながら、刀は中性、肉叉は女性、匕《さじ》は男性などいうことゆえ、漢詩をむりに学ぶもの、本(445)音を実際口から出すことは不能ながら、山は平音とか日は仄音とか拙は入声とか女は去声とかむりにおしこむごとく、まことに入らぬ労というべし。これに加うるにドイツの語は、わが国現今の漢語と同じく、道徳学的判断、有為人物現存録的記事、有権仮貸催金的談判的強行的脅迫事務設置的行為などと、一語の中に行の字が再び戻りてくるようなこと多きは、ウルニングス・リエベンニッシュ・ゲシヒトリッヒ・デンクスマール(不倫恋愛歴史的詩術】)などの語多く、詩歌など全く少しく作りそこなえば三百代言の言合いのごとく、少しも優美なるところなきは独人みずから了するところなり。)古えローマ、ギリシアを制伏して、文人「勝った方が負けた方に、語と文で全く制伏さる」の嘆あり。フィーニシアなどいう国はずいぶん古く長く欧非諸州に商事盛んなりしが、その語とてはわずかに半可解の碑文に徴し得るのみなり。御存知のごとくスウェーデンは一時欧州に名高き強国なりしも、何の文も語もその辺に留まらず。ペルシアは全西亜を蹂躙せしが、その語は今亡びたるアラビアの語を用ゆ。故に語の他国に行なわるるは国の強きのみならず、箇有可観の文化あるを要するなり。(満州人、支那を制伏して三百年ばかりのうちに、満州の語、実は全滅せり。五胡、遼、金、元、大理の語みなこの例なり。)
 しかるに不幸なるはわが国固有の文化というもの、あることはありながら、神代の話、正成の忠、良雄の義、何から何まで文学徳義上のことは、支那にも、もちつと大げさにありふれたることのみにて、科学、商工、近代のことは、欧米の開化をそのまま漢語に訳したというまでなり。されば日本人徒労して支那人その功を収むるの日には、先導の功は記念すべきも、そは記録、記臆上の一事にして、てにをは等は一向入らず。また飛鳥川とか逢坂山のさねかずらとか、そんな例は漢土にどっさりありて、実はわが邦の朗詠も今様も俗文も能曲も、支那のことの翻訳翻案のみ十の九にあることゆえ、原書よむものが訳本を見るごとく、さし当たり至極無用のこととして、漢字用ゆれば用ゆること多きほど、支那人の気では日本化されたとは少しも思わず。日本人の用ゆる間違い多き漢字漢語を採用したとか何とかいうに止まり、二、三十年後には支那のものとなってしまえば、進歩の字は『康煕字典』にないとか、社会をソサ(446)イエチーに用いしはあてそこなうておるとか、そんな穿鑿すらしてくれず、日本人の訳出ということすら知らざるに至らん。小作人が自米《じまい》で作った彼岸の餅を田主に送りて疑わるるようなことならん、云々、というにあり。
 この救拯《きゆうしよう》策もあるが長いから今夜眠くて略するが、貴下らも反省して、あまりに近来の漢語など用いず、新井白石の『藩翰譜』のごとく、また福沢翁の書きしもののごとく、なるべくなだらかな字と語を用い、荘厳精細の意を要するときは、なるべく祖師以来用いなれし字句を一つなりとも多くうまくつかいまわされんことを、偏えに金粟は望むことに候なり。如何。語というは妙なもので、「いとたえなる」というと「しったりかんたりかくたり」などいうと、その人の鼻息、肩のぐあいまでちがうように思う。
 
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 明治三十七年三月二十四日書き始む
                      南方熊楠
   土宜米虫殿          この状すべて8葉なり。
 本月二十一日芳翰拝読。小生の曼荼羅《まんだら》に関することは、なかなかちょっと申し尽しがたければ、本書をもってその梗概を認《したた》め差し上げ候。それもほんの一部また一斑と申すまでなり。その前にまず少々雑事申し上げ候。小生もずいぶん多く植物採集しおわり、昨今は過半纏め和歌山へ送り、今一、二件のこり候こと有之《これあり》。それを仕舞い次第、前記申し上げ候奥山へ趣き申し候。中辺路《なかへち》の五村《ごむら》と申す地にて、これは前夏申し上げ候小生の歌代筆せし女の父の所有の大山林に候(那智より山路二十三里ばかり)。これより事により竜神の温泉へ之《ゆ》くも知れず。極嶮の難路十三里、しかし器械等持ち運ぶこと到底むつかしき地と承り候につき、今年は竜神行きは止めるも知れず候。しからば、五村より田辺へ下り八里ほど(この間に有名な潮見峠あり)、それより三里ばかり距たる地に旦来《あつそ》と申し、十五、六町まるで沼地にて今に開墾の成らぬ地あり。菰《まこも》、あやめなどさき乱れ、絶景の地に候。それにて淡水藻を集め、英国にて目録出すに候。(これは只今もはや出かかりおり、海藻とちがい淡水藻は銭にならぬものゆえ、小生ごときひま人がなすにあちぎれば、到底三五の年に少々なりとも、これをなすものはなかるべく、みな外人の高名と成りおわるに候。)
 次に菌のこと、『仏祖通載』よりの抜記は、前年の御書状には無之《これなか》りしことに候。小生ちょうど只今右五村行きの前にこのことを認めかかりおり候つき、なるべく御しらべの上、御送り下され候わば幸甚。小生は貴名を添えて出し(448)申すべく候。(前日の湯殿山の三尊、旭日上に現ずることも、『ノーツ・エンド・キーリス』(英国にて最も古くつづきおる文学兼考古学の週報)へ貴名を添えて、貴状のそのところ同載致せし。かかるもの何一つ貴名に添え加うるべきにあらねど、出処を明らかにし、人の功を攘《ぬす》まぬために候。もしまた『仏祖通載』の中にこのことに関する文は、小生前条に申し上げし『付法蔵伝』中の某尊者の祖先吝嗇とかにて、代々家の庭樹に菌を生じ、伐っても伐っても生ずということの外に候わば、はなはだ御面倒ながら『付法蔵伝』中の某尊者の条も御写し出し下され候様願い上げ奉り候。二等とも、出板の年月、著者の名、時代、葉数、表か裏かまでも御併記下されたく候。然らずんば洋人小生の文を見て、なにかうろおぼえ、または内外に多き耳食剽窃信を置くに足らぬものと思わるるは遺憾に候。無用のことのように候えども、わが国の人々内に嗷々囂論《ごうごうごうろん》して知れきったことをいいながら、外に向かっては(語学の不十分か、勇気の不足か、または河海の量外人の議くらいに不足株とするか)、かれのわれに対する誤謬百出なるのみか、仏徒は仏経をろくに読んだものなし、自分の経文をすら暗記せずなどいわるるが、すなわちやはり仏威を損ずる一端なること、国界を犯され、また縁もなき韓国の従通をこちらへ許さぬから国権を損ぜられたというと同じことにて、世相としては止むを得ざることと存じ候。
 次に『大日経』不可得云々のことを引く。これは浄瑠璃などに見えたる「浮世のことは何もかも分からぬものじゃよのう」というようなことを、漢文で少々満足に書きたるのみと存じ候。それだけのことにて、外に何の意味も奥義もなきを、経に書いたから荘厳と思い、また荘厳といいちらして飯くいの手すきにするは、ロンドン橋上に労《はたら》き先を失いし日傭人が石を川に勉げ込み、「あれあれ、あれあれ、あんなものがある」などといい、彳立すること暫時にして人多く集まり来たり、果ては向うの看板の獅子の尾が動いたといえば百人中には、二、三人はなるほど動くようだといい、それより千人も集まり喧嘩など起こるうち、巡査来たり、最初石を川に地げ込み人集めしものをつれゆき見事に牢に入れくれる。われらまじめなものの目より見れば狂気の沙汰なれども、そこは人ごとに人の心ありて、この(449)者はせっかく働いてすら満足に飯は食えぬに働き先のなきところを、右様の奇策にて牢の中でうまい飯をはたらかずに食えると悦ぶ。(実際こんなこと、小生在学中にありし。)また石を抛げ込んで川に渦紋の起こるも、見れば面白いもので、「あれあれあれ、あんなものがある」というは、実際のことを実際にいいし真言なれば、少しも咎むべきにあらず。しかしながら、千馬方車相軋る橋上にてかかることをいい、人など(たとい偶然にも)集まるときは、大害あるものとて巡査が群集を解散し、発頭人を罰するは至当の世相と存じ候。
 必竟、不可得とかなんとかいいて楽しむ(またはあきらめる)は世間外の行事なり。世間内には閑言語にしてことにより有害の種子となる。今日食えるも不可得なり、食えぬも不可得なりといえば、+《プラス》1と一《マイナス》1とで合算すれば悟りも何にもなし。さてそれへ、人間世にある上は蚤を取るか天下を取るか、飯を食うか糞を食うか、一事はなさざるべからず。しかるときはこの一事を誤として、食えるも不可得の見+1に加え x+1,さらに食えぬも不可得の見−1に加え x−1,さて両式を合算するに(x+1)+(x−1)=2x せねばならぬということ、(x)は留存するのみか、二倍(2x)して留まり、せっかくの食えるも不可得、食えぬも不可得の高見解は(+1)+(−1)=0 無に帰す。実際にあてていわんに、あれもせねばならぬ、これもせねばならぬ、いずれをすべきかという際に、とくと実際に引きあてていずれかに決せずに、あれするも不可得これするも不可得などと、了《さと》りに時間を費やし、さていよいよという段にいずれも不可得ゆえ、いくら考えても不可得の見は何の益もなく消えてしまい、あれもこれもせねばならぬと、一つしてよいことが二重に混雑して精神を悩乱す。実際心理学上生理学上よりいうも、実用のことに入るべき滋養分考察力が、無用のことにつかれただけ鈍る道理なり。
 しちむつかしきことをいうようなれど、すでにいかなる高見さとりを開いたからとて、人に通ぜしめんとする日には言語議論を要す。一人の真言よりは二人間の直言、すなわち今日の僧などはずいぶん爪の長い評判も多ければ、眞〔傍点〕の字の下の爪を斬り去り直〔傍点〕言の方がよろしと考うるなり。外典には師父にはへつらうとも可なりとか、また経説の末(450)文には常不軽《じょうふきよう》菩薩が人に石なげられながらその人をほめしということあり。(実はこの菩薩もなかなかの悟り通人にて、経にいえるごとくその石抛ぐる奴の功徳を賞賛せしにあらず。馬鹿にも加減のあるものと、その馬鹿さ、またまじめに骨折りて石抛ぐる遠近の度を、いよもちっとしっかりやれやれと子供をおだてるごとくほめしことと見ゆ。)しかれども、これは真底にいわば、はなはだ先を馬鹿にしたる行いといわざるべからず。心にその非を知りながらこれをほめるなどは、二重心のものというべし。故に今後も直言のみいうから、左様心得られたく候。
 要は今日少々宗旨とか弘教とか道徳とかのことをいうほどのものは、みな一切世相、世外相みな不可解なるを知りての上なること、日本人が会談するに「日本語で談《はな》そうじゃないか」と契約を要せず、赤いは赤い、白いは白いというは、この世界に太陽が光を与うる上のことと前置きせずとも分かりおり、尋常の談話に「猫一疋ほしいものじゃ」といわば四足の猫のことで、祇園とかに囲いしとかの人間の猫にあらず、また鼠を捕らすためで外の用に供するにあらざるは分かりきったごとし。仏僧などが世間に対し、弘教化人の任を持ちながら、なにかその説を高尚にでもすると思うにや、事ごとに不可解不可解などと分かりきったことを故《ことさ》らに喋々するは、「猫一疋ほしい、わしのほしいは四足の猫で鼠とらすため」、「前日大久保でツツジを見たが、赤白交互して錦のごとし。それも昼見たからのこと、夜見たら見えぬはず」、「今日来客あるはずで待っておるから御同伴はできぬ、ただし人間には病気もあり故障もあり、また親族の関係もあり、その親族にどんなこと起こるもしれぬから、約束はしながら来ぬかもしれず」というがごとく、いたずらに言語を費やして談話注意の綿密にほこるがごとし。もし馬鹿なものなど、これをよきことと無法にまねするときは、何ごとも不可解不可得ゆえ昼寝しておる女と見れば犯してよし、人の物は知らぬうちにとるもかまいなし、取られたもの迷惑するようなれど、実は喜悦するのかもしれず、これまた十分不可得というようなことになる。すなわち前にいいし不可得の悟りの得と損は相さし引きて無となり、その悟りの影響で人間が受くべき害が二倍する。
 次に小生今日真言僧に限らず僧徒が、あるいは遊惰に、あるいはなにか小事は拘《かかずら》うに足りぬというような見解の(451)高き(?)より、古えほど経文などの『三字経』ほどの近きことを一向知らず、それと不相応に、外典ならまだよいが外典とも何ともつかぬ僧侶外の新聞社説、人の評、悪口、贅語《ぜいご》(お望みならば人名を指摘し、その標本を呈上すべし)などには、俗人が三舎するほど心得よきをなげかわしきことと申せし。『鶴林玉露』というものに、宋のころ筑紫の僧安覚というもの入宋して、経巻を買うほどの力なかりしと見え、日夜一切蔵経を暗誦す。その志は経巻を買うことはならぬから、一切暗誦して帰国の上写し出すべしとの望みなりとかありて、支那の儒者何のわけもなき詩文などに遊ぶに、この海外の夷狄の坊主にしてその道を求むるの急なる、真に儒流中国の士を慙死せしむ、というようなことありしと覚ゆ。これも今日になりてはつまらぬことなるのみならず、安覚は万僧の嘲笑するところたらん。小生思うに、仏法僧とならべいう僧は抽象的のものにして僧の僧たる真実分なり。それならば御経の文句など衝存知なきも可なり。もし僧分が人間に宿り、人間界に処する僧人たらんには、いかなる末文なりとも仏経の句は一字なりとも多く知りおるを本分のことと思う。
 貴状にはこのことを直言といわる。実に小生は直言せしなり。今日の僧というもの、古えに比して非常にくらし安く、ために扇屋とか袈裟屋|乃至《ないし》隠亡《おんぼう》の妻《かか》、葬式の泣き婆々、天蓋持ち、花屋などに旦那旦那といわれ、子供に三文でもくれるとあの坊様は菩薩じゃなどと称賛するを毎々きく。はなはだしきは、その輩のうちより捨身施を閨中で受くることも多き由。(現に予の旦那寺は住職つねに左様なり。小生このことより今に墓参りせず。他日父母の骨を掘り出し、焼きて川に流す方よろしと考えおる。)この輩の言に比すれば、小生の言は罵詈《ばり》かもしれず。およそ罵といい詈というは、字からして网(あみ)に従い、言に馬に従い、高声を意味す。すなわちこの言を聞くものの外の耳にも達するということなり。今小生の言は、小生の筆《ふで》に出でて封状にあり。貴下の目にのみふるるつもりで出だせし。これを罵詈ということありや。貴下もし静坐して前後左右を考え今の状況に照会せば、小生が言うほどのことは、自心にいくらも浮かみ出ずべきほど分かりたることに候わずや。僧家に僧の学を力めよといい、僧の学を力むるには、たと(452)い「譬喩品」の末、『付法蔵伝』の怪説までも、三百代言の報告や新聞の雑報よりはよく心得おくべしというに、何の罵詈かある。
 実はかかる末事末句がよくよく入り用なるにや。不立文字《ふりゆうもんじ》という禅の語録など見るに、秦の荘襄王が仏教渡る前に死し地獄に落ちて幽霊に出でしことなど、ちょっとした漢学者などにはなかなか分からぬ出処の奇僻なるものまで引用しあるなり。しかして、例の通り内典のことは語録にあんまり多く見えず。(笑うとき罵るときの外国語アララ、ララリ等は内典になく、元・宋ごろの蒙古、西戎《せいじゆう》等の俗語と見ゆ。)外典の穿鑿のみ多いから、教外別伝かもしれず。それなら習外別伝の方、実に近き名なり。
 また百年ののち松籟下の白髑髏となるの日、この罵言|如何《いかん》を問えといわる。小生四歳のとき、和歌祭(和歌浦東照宮の祭礼、大にぎわいなり)へ舟にて行く。しかるに、小さきときよりさわがしきことを好まず。他の人々はみな祭見に行き、小生は船頭一人と渚汀およそ六、七町も行列よりはなれたる所にて、何をせしか今は記臆せず。他人の帰るをまつ。当時のこと一も記腰せぬが、ただ沙上を蟹蛻《かにのぬけがら》一つあるを見て面白きことに思えり。さて明治十九年久々にてその渚を通るに、十六年前に見し通りの白き蟹蛻あるを見て、初めてそのときのことを思い出だす。昨春またその地に遊び、十七年と三十三年前その地にありしことを思い出だす(今度は蟹蛻ありしや否は記《おぼ》えず。しかし、小さきとき蟹蛻を見しことを思い出だす)。四歳のとき蟹蛻見たりとて、今三十七、八歳になりて蟹蛻は左まで面白きものにあらず。過ぎ去りしとき蟹蛻見しとき、この所に同行せしは誰々やらん、そのころは父母世にありて何業をなしおりしやなどと、いろいろ四回して目を挙ぐれば、山河の異はなくして四周人みなかわれり。夢かと思うに四季は交替しながら、今春もまた和歌祭とてさわぎおる。今われ一人存命せずば、誰かこの所に昔日和歌祭の日蟹蛻ありしを知らんや(蟹は皮を蛻ぐに定時あるものなり)。夢かと思えばわれも渚も存せりといろいろ懐想して、ろくな懐想にあらざるながら、出家で米屋の妻を姦したり、大僧正で旦那の家の妻女を覘うたり、または観音の化身といわれなが(453)ら鵝脂一隻妓女十人を甘受するようなものよりは、満足なる面白みのあるものと思いし。
 貴問にすでに松籟下に今日の罵詈を思えといわる。思えといわるる以上は、小生一種の迷いよりこの濁世を履のごとく脱し得ず、なお松籟を聞き、また過去のことを思うほどの執着と感覚あるものと前認してのことに決定《けつじょう》す。その通りの小生ならんには、すでに松籟を聞き、また昨春の小生が四歳のときの蟹蛻だけにても、和歌浦、和歌祭と連想し得しほどの連想を生じ得べしとすれば、むろん小生は今日の直言(貴下のいわゆる罵詈)を思い出だして、土宜という奴は仏法|澆季《ぎようき》の世に廻り合せ悪く生まれて、何とも詮方なく無頼の同仏徒を弁護せんとの微志重積して、仏僧は内典を外典よりも精習せよ、内典の経文末句はなるべく人に問われて即答できるように講習させよ、小僧どもの余課には、教課というものは何にもならぬものゆえ、自分奮発して聊《いささ》かなりとも内典中機に応じ性に合ったところをみずから写してでも心得を厚くしておけと教えよ、と分かりきった真実言をすら罵詈と心得たるは愍然なものじゃ、そんなことで果たして成仏はできたことであろうかと笑いながら、?気嚢をかついで娑婆へ人命の債金取りに行く阿房羅刹、またなにがな、うまい商法はないかとうろつきまわる鳩槃荼《くはんだ》、蔽茘太《へいれいた》、よめが在所へ孫抱きにゆく三途川の奪衣婆様に探索を頼まんとす。また貴下にして金粟如来は権《かり》に熊楠身によりてこの文を草す。熊楠の身を脱すれば、すなわち如来位(如来身に未来も過去もなし、いつも常住の現在なり)、すなわち例の『浄名経』にも説きしごとく、「質直なるは、これ極楽」で直言が即身の極楽じゃ。大日如来の光?中に無数の如来あり、あるいは香を供養し、あるいは薬師となり、あるいは音で説法しあるいは芳で説法する。金粟如来は直言をもって開発す。決して自己のみの利益とも思わず。また仮身の生理上よりすることにもあらず。これらは死した後思うを俟たず、今から答えが分かっておる、また死んだ後の思い様も今から分かっておるなり。
 次に、貴下征露軍士の勉強して死にたきに驚かる。古え夢窓国師千窟城の跡を過ぐるとて、元亨・元弘のことを思い出だし、「いたづらに名のためにだに捨つる身をのりのためにはなど惜しむらん」。似たことなり。しかしながら、(454)仏法というもの今の世のごとき外相に埋もれて没するに定まったものならんには、小生は征露軍士の方が賽銭や斎料を寺に抛つものより千万ましと思うなり。よって「いたづらに小坊主のためにやる金を国のためにはなど惜しむらん」と詠じて、当地の支店の男にさとし三百円出さしめたり。まだ出さんと思いおるが、手続きとか願書とか、山間の住いでは不似合いのむつかしきことゆえ止め、和歌山より出さしめたり。いわんやこの事たる何の理由なき朝鮮征伐や、ほんのかかり合いなる北清事件、またいわんや内乱などとちがい、この二百年内外の間ずいぶん苦しめられたる仕反《しかえ》しにて、いわゆる百王の恥を雪ぐものにあるなり。他県は知らず、この紀州には今も淫乱の法主が自業自得で出来《でか》したる借金を払うためとて、子女を不義理なつとめさせ、日々竹筒に金銭をなげこみ、その法主に捧げ、また今はなきが、家を売却してさし出したるもあり。こんなものに比ぶれば、勉強して今度の軍に死にたきは当然のことなり。
 またこの戦争は有所得の妄念より起こるという。また日露両国この妄念を断ずれば何の戦争かこれあらんといわる。実に然り。しかしながら、妄念に不得止と得止の二あり。この戦争のごときは不得止なり。第一に両国人民|衆《おお》くなる。第二に今日は国権を張るを要す。第三に十九世紀以後ことに商業も殖民も何もかも兵力で保護するの風を生ぜり。故に一国これに執着せぬときは、一国その妄念なきがために亡ぶるなり。すなわち妄念なきがために妄人民となりおわるなり。いわんや世間のことは図体大なれば大なるほど事件事由も大なり。一国は苅萱道心《かるかやどうしん》が即日今道心というわけには決してゆかず。セイロンとかビルマとか、いずれもこの妄念を国民が挙げて抛ちしゆえ、今は妄民となりおわり、その妄念を断ぜし所以《ゆえん》の教えを正しく行ないつづけ得ざるにあらずや。他を問うまでもなし。前年貴下パリより帰国の後、新聞紙に出るまで野村洋三と法庭に争論せしにて知るべし。(小生当時貴下仏国にあるうち、桓温が殷仲文を征するとて恵遠を訪い、仁者何の望みかあると問いしに、遠公さすが出家のことにて、願わくは檀越《だんおつ》平安に他をしてまた復《また》他なからしめん、あなたもあっちもまずまず怪我のないようにといいしことを引き申せし。これほどのことを知らぬ貴下にあるべからず。しかれどもなお法庭にまで持ち出すに及びしは、日露戦争に比べてはまことに泰山と蚤(455)の金玉ほどの小さきことながら、貴下において止むを得ず妄念を断去し得ぬこともあリしと知らる。)小生当時その新聞の題号はよみしが、委細は見ざりし。貴下に面識なき者は新聞通りにいろいろの悪口などいいおりたり。もし悪口までなくとも、小生このことにつきなにか貴下に問わんに、貴下必ず相当の返事弁解はあることと存じ候。これまた日露おのおのの妄念と同じく、不得止の妄念を妄念後に重ぬるも、また不得止妄念の場合ありと知るべし。
 世界は物と力の界なり。その他にイーサー(ether)あり。その外にまた心界あり。心界より光を放つも、イーサーの波動によらずんば到底(光としては)現われず。さて物界力界に届くも、物のこれを受くるものなければまた光としてはあらわれず。物界は妄念界なり。しかしながら、すでに物界におる間は妄念を脱し得ず。また妄念が必用にあるなり。右は貴状への即答なり。妄念の妾〔傍点〕は心界より見て立てたる名なり。その名に着《じやく》して妄を全妄とするは、妄字に着する大妄念なり。
 世界通常のことは、経験より成れる習慣性により行なう。石を切りて火を出だし、背痒くして爪でかくごとし。それより小むつかしきことは少々理論が入用なり。それから暦を作ったり、大砲の速力通り定めて射んとせば、まず太陽の引力を引力のみとして純粋にしらべ、また空気なきところに物体が飛ぶ速力をしらべて後、いろいろ地上の障碍とさし引く。さて効果あるなり。事物心一切至極のところを見んには、その至極のところへ直入す《じきにゆう》るの外なし。さてそれを悟って如何せんとするか。悟ったゆえ、それでよしとするか、それで安身して可なり。ただし、おのれ悟ったのみで実用なし。人にも悟らしめんとするか。しからば多少の方便道なかるべからず。それにはこの世に実用ある否を調べざるべからず。いやしくもこの世に存する以上は人も物も多少の実用ということを全く離れ得ず、また離るべきにあらざるなり。大毒薬を知り置くも、なお医療上間に合うがごとし。(もし大毒薬にして何の益なきものありとせんか、それすら有害物を毒し去るの功はあるなり。)たとえの少なき例ながら、古えアテネにチモンという豪士あり。人のよしということをきらい、人の悪《にく》むほどのことを好む。この人の庭に一樹あり、いかなるゆえにか、人つね(456)に来たりてこの木で縊死す。この人これを喜び広告して、近日右の無花果《いちじく》樹は斬らねばならぬ都合につき、後日遺憾なきため、首くくらんと思う御方は早々御遠慮なく御入来くたばり下され候、敬白、と公布せりという。またアルシビヤデスとて、有名なる美少年ながら乱淫|奸傲《かんごう》詮方なきものあり、後年必ず大事を仕出かすべき者という。しかるに、このチモンこの少年を見てその後年必ず自国を亡ぼすべきを知り、何物の老姐か寧馨児《ねいけいじ》を生むと大いに悦び、他人には一切せぬ饗応せしという。全く常情に正反対の人なり。しかしながら、これほどのことすらこの人には自分に面白かった、すなわち自分だけには有益実用ありしというべし。今貴下らこの世のことを一切不可得とか妄念とか悟る。それを悟って自分に楽しむはよし。かく悟りながら、実地にはその妄念は妄念ながら、悟った人なりとて少しもゆるしくれぬこと、兵事は無用無効大有害と悟りきったものも、身体健全ならんには必ず兵役に出ねばならず、自分の悟り通りせんとすれば死するか、また一層大なる妄念を起こし、世間一汎の人に妄念を及ぼさしめて脱走するかの外なきがごとくならん。しかるときは、この悟りは何の実用なくただ一個の頑狂心となりおわらん。もしまた自分の悟りはよし、故に世上一汎のものにもこの悟りを持たし、兵事を全廃させたく候との菩薩心あらんか、それならばまず国土事相に相応して、毎度いう通り科学の研究を要す。兵事止むを得ぬは人が多きに過ぐることなり。故に人間の道義にそむかぬように人のふえぬ工夫とか、また人はふえてもよろしいから、それに応じて暮しの安き工夫とかせざるべからず。現に仁者らその悟りはありながら、やはり妄念に資《たよ》り妄念より産出せる衣食に生活しおるならずや。全く世を妄念ゆえ絶念するがよしといわば、癩病人や胃癌やみが死ぬにきまりながら世を罵りて、しかも一日一日と生を聊するような怯なことはせず、支那の道士が剣をもって尸解《しかい》するごとく自殺して可なり。自殺は人に迷惑かかるというか、世を一切妄念と見たるものが、その妄念のみの人間に何の迷惑かかる懸念あるべき。
 これより曼荼羅のことにかかる。耳を洗い眼を清め、また妄念を去りて読まれよ。
 ついてに申す。津田三蔵という者、無前のことを仕出かし、上下に大迷惑をかけたるは遺憾ながら、尋常の暴挙と(457)かわりよくよく思いつめたることと存ずるなり。(委細のことはある筋より聞きおるが、今これをいい得ず。)何とぞ仁者おついであらば、無用の式などは入らず、念頭にこの者の名前だけにても思い出だし追善しやり下されたく候。小生そのうち、ひそかに遺族の成行きを見出だし得ば少々|賑救《しんきゆう》しやりたしと存じおり候なり。
 また申す。前年日清戦争のころ、福島大佐が清人を珠数連《じゆずつな》ぎにして首斬る錦絵をブリチシュ博物館の美術室にならべ、公衆に見せしことあり。山本達雄氏小生と同館見しときも、鎌田栄吉氏らの一行、また富士艦士官らもみなこれを見て、美術観を示すならこんなものを出さぬようにしてほしきことと慙色あり。小生多少同館に関係あることとて、毎度|小言《こごと》を聞けり。小生とても当時はなはだ困却せしことにて、かかるつまらぬもの(合戦は人の首を無残に多く斬りたりとて勝つものにあらず。またかかる絵を見せたりとて人間は血なまぐさくなるのみ、真実の愛国心も勝利念も出ずるものにあらず。反って残忍、すなわち人の忍び得ぬことに忍ぶ無情のものとなる)を出す館員に向かい立論せしことあり。しかるに館員の返事は至当のものにて、この館は英国で立てたるものにて、世界中の事相を善も悪も公衆に示す。主として英国の臣民の知識を博むるを目的とす。右の錦絵には公然板権持ちたる人の名、官許の年月も出しあり。しからば日本は、政府も人民もかかるものを喜び、戦時に正当のものと心得たる国民の気風道徳の程度の標準として、わが英国の民に示すに足るものと思い、出せしなり、云々。これには小生返答し得ざりし。
 近日聞くところによれば、軋轢死夫《アレキシフ》などと(支那人が倭奴、暗危利士《インギリス》、黒鬼などと、犬の糞で敵討ちにいろいろと悪字を撰び、外国人の名にあてて不平を洩らすごとく)(福沢先生|話《はなし》に、幕旧のころ外国使節へ書面おくるにこの風のこと多く、「申し聞かす」「出頭恐れ入るべきこと」などとやらかし、外国人またその通りにかき、此方《こなた》大いにこまりし由)悪字を付けて、戦争に何の関係なき敵将等の首に小刀をさしこみ、また屍体を暴露し流血淋漓たる体などを画はがき等にし売りあるく由。臣みな主のためにすで、これらの敵将はほんの使わるるだけなり。またこれを使う大臣、幕僚とても、国民のために謀るところにして、わが国に何の意讐あるにあらず。また戦争は一人や百人の大将の(458)首斬って勝つものにもなく、他国人を無残に惨殺せしめて他国民が服するものにもあらず。必竟は大人君子の購《あがな》い覯《み》るものにあらず。しからば小児のためといわんか。小児にはかかることを教え感染せしむべきにあらざるなり。このこと万一貴下新聞記者等にお会いの節は、先年山本氏らかかるものを見て不快なりしことと小生はなはだ迷惑せしこととを併せてお話し下されたく候。『万朝報』かなにかに右はよき思いつき云々とありしようおぼゆ。もっとも小生只今顕微鏡のみにかかりおり、新聞は見ず、物を包み送り来る反古などにてちょっと見ることあるなり。
 この辺の小児、村夫などは小生が奇物を好むを知り、いろいろのつまらぬものを持ちくれに来る。その目的は信切に出ずることにて、別に礼酬ほしきにあらず。しかし愚人どものことゆえ、なんでもなきもの多く、また目前に二物をならべ、その差異を示しきかせ、こちらを持ち来たれ、こちらは入らぬといい聞かせても分からず、やはりつまらぬもの持ち来たる。しかれども、その中にはしごく面白く、小生が未見のもの多し。ついて申すは、むかし吉見《よしみ》幸和というは、八十五歳の老人で名古屋の神官とか、かねて両部神道ということに疑いを抱き帰伏せず。しかるに契沖が大坂にありて古学の聞え高きより、慕わしく思い親《みずか》ら高津に来たり、講釈を乞う(『万葉』かなんかのことなりし)。契沖謙遜の人にていかに辞退するも、承知せずみずから下座にへり下り、見台をとりてすすめて止まず。止むを得ず契沖座に上り師匠の体にて一段を講じ聞かせしに、老人涙を流して喜びしという。両部神道よきか悪きかは、小生の知るところにあらず。名古屋の東照宮の神官で従五位下(そのころは例少なきことなり、吉見姓は蒲冠者範頼の後なり、この人素姓賤しきにはあらじ)の身、ことに八十余の老齢にて見るかげもなき孤僧をたずね、みずから見台をとりて道を聞かんとせしは実に感心のほかなし。
 小生も及ばずながらこの辺の田夫、仙人などにいろいろのことを聞くに益を得ること多し。「月令」に、季夏の月、腐草化して螢となる、は誰も知ることながら、一概に支那人は間違いというのみ。その所由を知る人なし。また『礼記』ともいわるる朝廷の月令に特書して時候の特徴とするほどのことゆえ、間違いは間違いながらわけのなきことに(459)はあらじ。このこといろいろしらべしも分からず。しかるに、近日この辺の見るかげもなき村人に聞くに、この辺のカヤという草の根は、ちょうどそのころになれば毎年はなはだしく光る、螢と間違うことある由。小生その物を見ねば知る由なきも、この村人は無智のものなれば偽りにあらず。思うに、ある土地には雨候後一種の菌を特に多く根に生ずる草ありと見えたり。(昨夏末、小生村人よりことのほか夜光る菌を多く得たり。これはあるいは右の草根に生ぜしならん。)故に周の暦官等が親《みずか》ら見る地には、毎年季夏に燐光を放つ草根多かりしことと見えるなり。この村人は実につまらぬもの(癩人)なり。しかしながら土地のことに詳しきものにて、予これにへり下り聞くより、かかる思いのほかの所得もありしなり。従来よほどものごとを書き貴下に贈るに、そんなことは知るに足らずとか、悟上に何の益なしというような返事のみなり。真言宗は即身成仏を説く、故に死して西方往生することのみを望む教えにあらず。(また二而不二とか世事の不可解ぐらいを悟るは一秒時にして成ることなり。この悟りと世法と含め行なうがむつかしきなり。すなわち世法の学の研究が大必要なるなり。また悟りより世法を知悉すること能わず、世法より悟りを開くは易し。)
 護国平天下、現世には衆生を利益し、来世はそれぞれの修せしところに従い天人になり、菩薩になり、明王になり、如来になり、如来の聖衆《しようじゆ》になり、ならんことを期するに候わずや。またその教えたる無神論や、小乗涅槃のごとく、皆無になればよろしというにはあらず。未来のことはこの世のものとは不可得なり。故に未来のことは信の一字に任せ(信は信ずる通りになり徃かんことを信ずると同時に、信通りにまるで違った未来にあうとも今日の信を悔いぬという信がすなわち信なり。朋友に信切にすれば必ず相応の所報を得ると信ずると同時に、たとい信切に報ゆるに不信をもってせらるるの日に及ぶとも、信切をよきことと信じて尽しただけがすでに十分に満足なりと信ずるが、信の奥義なり。故に善事を修して極楽へ往くと信じて善事を修し、さて思いのほかに地獄へ往くとも、それは地獄が間違えるにて、こちらはともかく善事を修しただけが得なりと信ずるなり。この辺の信なきものに信心堅固というべからず。(460)故に信ははなはだ堅固なるものにて泛《う》いたことにあらず。カントいえるごとく、地獄おそろしくて善をなすものは真の善にあらず。善を修して地獄に落つるにきまったものなら、地獄に落つるほど善を修すべし。これそのときの極楽は全く間違いたるものにて、地獄におとれること万々なればなり)、今世すなわち不可得界中にありながら、多少は可得なる分際に処置のなるべく完全なるようするの法なり。
 前年チカゴのケラス方にある鈴木貞太郎(大拙と号す)と書簡にて往復す。この人の説に、熊楠は所説一切、不可得を完全体となすごとしという。(小生のほかにデカルツなども不可得を完全体とせり。大拙は知らざりし、または気がつかざりしなり。)小生答えには、不可得は完全体か不完全体かはすなわち不可得なり。しかしながら、今日既得の分よりは大いにかつ完全の度高きものたることは推し知るべしといえり。今、図のごとき大邸宅あり。黒線――は土塀なり。※[長方形の図]は栞《しお》り戸なり。虚線……は土塀か、また土塀にあらざるか、視得ず。さて土塀というものは、曲がる処は直なる処よりは多少崩れやすく、また曲がる処は気をつけぬと不意な石など抛げられ、糞をふみ、案摩《あんま》に突き当たり、蛇が蟠《わだかま》りなどするものなりとせよ。(この図ほどにはなきが、小生始めて東京に出でしころ、麻布広尾辺で夕方に大邸宅のみにはさまれ、小道、路次縦横せる所に入り、はなはだこまり入りし実地のこと覚えあるなり。)さて図のごとく曲がった邸地、広いことは広いが、いずれ涯分《がいぶん》あるもの(この邸地外の邸地のことは除き)として、※[斜線八箇]道路を歩きながらこの邸地を察するに、垣高くして邸内のことは分からず。しかしながら、歩けば歩くほど邸の垣の曲がりあんばい、歩数、角度よりして、邸の広袤《こうぼう》面積は別《わか》る。また歩くうちに、垣に少々すきまあり、また笑語の声を聞く等にて多少邸内の景況も分かる。※[斜線八箇とそれに縦に交叉する棒三箇]は邸内ながら※[右上がり斜めの長方形]な(461)る栞り戸にて外人の入らぬようにせり。邸内より※[右上がり斜めの長方形]等の小門をあけて、使いに出たり、また密来の談客等はこれより出入して、さて外の※[右上がり斜めの長方形]なる栞り戸を開き、罕《まれ》に出入するなり。これらの人を察し、また聞き合わせ、また※[右上がり斜めの長方形]栞り戸の開きし間に内を伺えば※[右上がり斜めの長方形]内の※[斜線八箇とそれに縦に交叉する棒三箇]の地面も面積も曲がりあんばいも知れ、幸いに※[右上がり斜めの長方形]栞り戸も※[右上がり斜めの塗りつぶし長方形]中門もあきたるとき伺えば、ちょっとは邸内のことも知れるなり。故にこの邸無辺大の大なるものとするも、瞎象の譬喩のごとく、審密意をもってあるけばあるいただけが得になり、知識が広がるなり。(もっとも、そんなことは得にあらず、知識にもあらずといわばそれまでなり。ここには一種の閑人ありて、邸内のことを知りたきに知る方便が立たず、ぶらぶらあるきまわるものありとしていうなり。)かくして知ったところが、この邸一つのことを知るのみ、他の邸を知ることはならず。しかしながら、大抵諸他の邸もこれに比して如何様《いかよう》のものという、大体のことは考えのつくものなり。故に不可得は完全にして、梗概は知り得るものと知るべし。これを知れば知るほど糞ふみ蛇に喫まれる患《うれ》い少なくなるなり。
 かく書きしところへ小生用事起これり。勝浦の支店に主たる者、決算のため和歌山へ上り数日留守なり、そのことのためなり。よって今日は曼陀羅のことは止めるが、左の件をちょっと返事乞い上ぐるなり。
 吉田兼好の『つれづれ草』に、「またいかなる折ぞ、ただ今人のいうことも、目に見ゆる物も、わが心のうちも、かかることの何時《いつ》ぞやありしがと覚えて、いつとは思い出でねども正しくありし心地のするは、わればかりかく思うにや」。これは只今の詞でちょっと申さば、今始めて貴下より承ることも(たとえば『仏祖通載』の文、今度小生望むところ、これは小生は未見のものなり。しかして『付法蔵伝』中の某尊者のことにあらず。他のこととして)、承りおわりてこんなことはどこかで聞いたことがあると思うなり。これはプロムネシア(promnesia前知謬)と申し、今始めて知ることを以前から知っておったことと間違える一種の謬病なり。小生などには多し。さて人間の考えには正確(葉数、書名までひかえたる場合のごとく)の知識あり、また漠然たる知識あり(これは、以前はやはり正確なり(462)しが、無数の経歴により、あるいは正誤し、あるいは間違いに間違いを重ねて何となく脳底に固着し残る分なり)。たとえば『中山伝信録』とかいう、ちょっと罕《まれ》な書物にて、松寿という美少年が女におわれ鐘下に死する話を見出だせば、なんとなくこの話は聞いたことがあると思うは、少時より道成寺清姫の詰、また『元亨釈書』の話等で知りおればなり。しかしながら正確にあらざることゆえ、全く同一か少々違うかば容易に決言しがたし。
 貴下は少時より仏典を読み、またいろいろの外典、外国のことをも知れり。しかる上は、いかなることを小生がいい出ずるとも、こんなことか、これは知れたことなり、余はそんなひまがなきが、ひまがあらば記臆中より案出整列せばそれほどのことは必ず出る、熊楠の所為は別りきったことを別りきるようにひまつぶして列記したるのみ、といわん。実に然り。(小生の友に小沢政行というものあり。ハーバート・スペンセルの哲学を聞かせやりしに、それはほんの分かったことを分かるようにかきしのみ、といえり。また『世説新語補』にも、雷有終とかいえる人、初めて『荘子』の講義を聴きて驚くかと思いのほか、ふふん、こんなことか、予が知ったことをこの講義で特に思い出だすのみと言いし由、もっともなることなり。)小生の曳陀羅云々のことを仁者に説かんとするも、仁者に知れきったことの復習をして、思い出だされくるに過ぎず。ただしこれを整斉列記して、仁者が思い出だしてみずから整記するの手数を仁者のために省くということを思われざるべからず。
 予は僧にあらず。また真言とか天台とかいろいろ宗旨別れ、思い思いに化度する以上は、ただただどれもこれも二而不二とか万事不可得とかを悟れば、それで僧の本分がすむというばかりとも思わず。しかしながら、たといこれら曼陀羅とか何とか種々雑多のものは、畢竟僧の本意として不二法門の一言一句また万事不可得ぐらいのことを単簡に知り得るためということは、小生には分かるがちょっと他人には分からぬ。それほどのことばかりなら、水を観るとか、また女をするとか、何をしても乃至《ないし》頭をかいても屁をへるほどのことでも、二而不二ぐらいの悟りは得たるものと思う。さてこれを得て何とするか。二而不二と知った上、そのことのみ思いつづけて命終せんとするか。それなれば今(463)死ぬがよろしからん。人間の記臆は手足の爪や皮と同じく、久しく事になるときはかたくなりて敏捷ならぬものなり。二而不二と悟ったら、悟ったときが干心《かんじん》なり。悟りつづけておるうちには、せっかくの悟りは囈語《げいご》となり、何の力なからん。また世間に取っても、それほどのことを悟りつづけるとて(五十年二而不二を念じつづけても、二而不二になる以上はその上の悟り出ずるものにあらず)、五、六十年も無用の身を養うとて米をくいつぶすははなはだしく世に害あることというべし。しかして僧職もあり、食米の上に給料もあるは、やはりこの世間をなにか益せんとてのことと考うるなり。しかる上は、二而不二の悟りをこの世法万象に合わせて、少しにても人を益し衆生を利することと考うるなり。しかして今日僧徒の(不品行等のことは別にして)実に熱誠なる人というを見るに(愚を教え悪を懲らし等)、常俗の人でも同様の熱誠あらばできるほどのことにて、その上に(恤兵演舌、撰挙の運動等)、僧制ということにさわること多いから、熱誠なればなるほど、常俗より嫌《うたがい》を受くるようなこと多きにやと思う。(小生の知人に多少かかる疑事ある僧あり。)他宗旨のことは置く、小生の知るところには、真言は即身成仏儀にして(成天人でも成畜生でも成非人でもよろし)、未来のことのみをいわず、今世すでに六界また超六界中のものと説く。故に仏になる悟りあらば、その悟りを久しくいいつづくる必用なし。その場で仏となりおわるなり。その上は他のつまらぬ輩を救うて、同じく仏なり菩薩なりにしてやることを必用と思う。またそのほかに用事なきなり。しかして従来、二而不二とか不可得とか先人の口まねはするものの、それにて不安心なる廉《かど》ははなはだ多い。前日中江の書出でしとき仁者の問いに答えしごとく、二而不二とは一と悟るということなり。
 しかるにこの一という字がすでに一にあらず。すなわち完全なるものという意(一国、一人、一宗、一団体等)と、百を百分し千を千分し、または三より二をひき、また百九十八より百九十七を減ぜし残りという意(一斤、一匁、一両等)と二つあり。また二而不二の二という字も相対(すなわち善あれば悪あり、天あれば地あり、陰陽乾坤等の)の意と(俗語でいわば敵味方、舅と嫁、猫と犬)、三より一を減じ、百より九十八を減じ、四を二除し二分一を四合わ(464)せたる二との二つの意があり(幾何学でも、点〔傍点〕(・)すなわち一大と線〔傍点〕(・−・)すなわち二大とは、定住なきものなり。体〔傍点〕(三角形になる棒線の継ぎ目三つにそれぞれ・がある)すなわち三大に至りて、宇宙間における三点の位置が定まる)、故に地獄八界皆一なりというは、どれへ行っても地獄なることは一ということ、六界皆一というも三千大世界皆一というも、六界の苦は多少があるが苦は一なり。三千世界住人動植みな異なれども、有情がすみ得ることは一なりというまでのことなり。二而不二はこれで推すべし。すなわち二は二ながら、一なる点は一なり。嫁と舅は異なりながら、飯くい糞し女の情あり、一度なり数度なり人に嫁した覚えあり、交合のときは男の下になりしという点が一なりというに過ぎず。
 仏も本《もと》は凡夫なり、凡夫も末は仏なり、すなわち一なり。しかしながら、本といい末という以上は決して一にあらず。仏になるつもりなきものは一|闡提《せんだい》にして、末も仏にあらず。不可得の言またこの類なり。不可得ながら得る場合もあるなり。万物みな不可得なるものにあらず。これ得という得に、それぞれ分量の多少高下あればなり。腹へりて飯を食い得れば、これ得なり。公債証書持てるものはそれだけの金になる、これ可得なり。決して不可得にあらず。故に結局不可得とするも、世相上得らるるだけよきものを得るは得なり。もし不可得に定まったものゆえ、その悟り通りにするといわば、何を苦しんで不可得中に得を求めてこの苦世に永いきせんとするや。故にそんな悟りは実際無用のものと知るべく、またなにか失望でもしたとき、あきらめの一方便となるのみ。さてそんなことは全くすててここに申し上げたきは、小生近来潜思熟考するところによるに、世相は決して山にあらず、また不可得にのみ限らず。従来不可得と思いしことにして得べきこと多し。第一、心界のことに、いろいろの従来知れぬことあり。これを現世に応用して(たとえば印を結ぶ)、実益はなはだ大なることあるなり。しかしてこれぞ従来のわが曼陀羅教の本事として、その僧徒の本職として、上一人より下万民の信を得たるところにあるなり。小生只今|親《みずか》ら行ないおれり。それにはそれぞれ式作法あり。
 たとえば姦乱のものを一朝にして全くまじめにし、盗人に盗させず、記臆悪しきものをよくし、不中《ふなか》の兄弟を和ら(465)げ、妙相を練出し、美を愛し優を敬するの念を出だしくるの法なり(要は従来の真言の呪言加持、定印等に同じ。)仁者がみずからきらいながらこれを愛するという、かの胡喝乱喝、糞?とか尿滾々とかいう禅学ごとき遠まわしのものにあらず。忽然にして人心の原子を整理する法なり。(たとえば酒のみもこの法を用うるときは糞を食わんと試みるごとく、むりに飲まんとするも身体一体にこれを蛇のごとくきらう法なり。)この法は誰でも行ない得るかは小生はいまだ知らず、ただし多少世人一汎に行なえる。またつまらぬ奴にほどよくきくことは受合いなるなり。小生は只今研究中ながら、真言の秘法というは全くこれと同一と思う。よって自分の研究つんだ上、貴下に面し得べくんば、只今は反古《ほご》同然になりおる真言の秘密儀をききて比較し、さらに仁者に授けんとするなり。この法は仁者が行ない得るか否は分からず。しかしながら、その人を得て行なわれたるときは、実にわが真言宗、従来魔法、山師同然といわれし恥をすすぎ、また世界にとりて医者よりも何よりも大効験、大利益あることにて、真言の実用は(二而不二等は世間に何の益なし)、このほかになしと思うなり。作法行儀は口でいうべからず。しかしながら仁者これをききて、またそれは分かりきったことなどいわずに、よく小生の状をよむべきなり。一応右の『仏祖通載』の文とともに返事を乞うなり。
 小生はこのことのために二十一円を投じ、英国不思議会の報告を買いしなり。冗長にして仁者らはよむひまなからん。小生は顕微鏡のみでは何様《なにさま》眼上に幻相を生じ、また雨天には何ごとも成らず、無事でおればろくなことは生ぜず。また眠ること少なき小生のことゆえ、まことにこまるから、仁者の返事次第で山奥にて右の報告を抄訳し、それに小生の注を付し、最後に小生の論を付し、大いに真言宗の後起に力めんとするなり。行儀作法は後のこととして、この世界のことは決して不二ならず。森羅万象すなわち曼陀羅なり。その曼陀羅力を応用するの法およびその法あるべき理論を精述するなり。むやみに未熟で世に出すときは大害を生ずるものゆえ、まず仁者に真言として伝えんと思うなり。事実の条述は大抵左のごとし。
(466) (一)箇人心は単一にあらず、複心なり。すなわち一人の心は一にあらずして、数心が集まりたるものなり。この数心常にかわりゆく、またかわりながら以前の心の項要を印し留めゆく(このことは予実見せしことなり)。(二)しかるに、複心なる以上はその数心みな死後に留まらず。しかしながら、またみな一時に滅せず、多少はのこる(予は永留の部分ありと信ず)。(三)右を実証す。(四)天才(genius《ジエニアス》)のこと。坐禅などはこの天才を涵養する法なり。しかるに、なにか大胆になるとか不平をしのぐとか心得は残念なり。不意に妙想出で、また夢に霊魂等のことあり。これ今日活動する上層の心機の下に、潜思陰慮する白心不覚識(アラヤ)の妙見をいう。
  予前年米国にて一族の希有の藻発見し、一昨々年その藻あるべからざる東半球に、また夢にてこれを発見す。これらのことは昨夏申し上げたり。当熊野にナギランというものあり。伊藤圭介先生の祖師に当たる小野蘭山、当郡向島という地でとりしことを手記せるを予は知る。飯沼翁の『草木図説』にはその図説あり(見しこと少なしと見え、図も説も実物と多少ちがう)。それより誰も見しものなく、大学にも標本はなく、小説ごときことになりおり、学名もなし。しかるに今月八、九日つづけて予の宿前の禿山のある所にて必ずこれを得んと夢みる。禿山にそんなものある道理なく、この辺のものは蘭と見ればほり来たりて売るなり。故にそんなもののこるはずなし。あまりに幾度も夢みたるゆえ、九日午後その点に行きしに、果たしてナギランの実物(『図説』のは不完全のものなり、実物は『図説』の図よりははなはだ美大なり)五株をとる。その翌日いかにさがすもわずかに一株しかなし。よって右を然るべき人々に托し栽えしむ。しかるに本月二十三日朝、またなお往きて見るべしと夢みる。そんなはずはなしと思いながら往くに、右の五株とりし跡にまた十四株を得。古今希有のものを得れば、小生常に亡父の冥福を祈ること寸時も止まぬから、そんなことかと思い、この少なきものを自生地でとるは如何《いかが》と思いLが、今とらずんば絶ゆるにきまったものゆえ、前年申せしごとく懺法を行ないてとり、四株は標品として英国へおくり、また自分へとどめ、他は友人の庭に栽えしめ保存することとせり。
(467)  何となくこの辺でそんなもの見しことあり、図を夢みしといわんか、右の実物は『図説』とよほどかわりおるなり。故にそんな気遣いなし。木内重暁は山田浦(江州)の豪士にて、石を多く集め石の話せぬ者は入れぬこととせりという。この人の著『雲根志』に、奇石を得るごとにその前に夢見ることをいえり。小生これを疑いしが、今に至りて信ずるなり。この天才ということ自慢のように聞こゆるが、実はアラヤ識が高昂せるにて、近来天才を狂人の一種と論ずる学者多し、故に小生決して自慢にあらず、実事を申し上ぐるなり。今述ぶる真言の妙法は道徳等をこのアラヤ識に訴え直すの法なり。
 (五)静的神通(遠きことを見る、聞く等なり)。(六)幽霊。(七)動的神通(遠きことを手でかきまねで示す等なり。南方金粟如来の秘密事なり)。(八)入定。(九)実用。(十)教用。(十一)真言宗向来の意見。
 ご承知のごとく人間の識にて分かる、また想像の及ぶ宇宙は大日に比してほんの粟一粒に候あいだ、それは無用の穿鑿と致し候。まず、この人間の識、理想が中《あた》らぬながら遠からぬほど及ぼすべき宇宙中の曼陀羅を、右の実功とともに、心相、名印相の大要とともに説かんとするなり。事相のことも書籍はすでに受け取り、只今しらべ中に候。これはすこぶるむつかしく、高等数学を知らねばちょっと説きがたし。物相のことは標品を持ちて説くべきに候。(いずれもこの宇宙のみのことと知れ。)
 右の通りにつき、仁者よろしく予を竜猛再出と心得、敬喜して返事し来たれ。また予西京へ之《い》ったら多く飲ますやつ多きよう今弘法様と吹聴しおかれよ。如来大邪推智に入り(相手が相手だから)、米虫が何がな如来の言を悪口悪口と悪口する所以《ゆえん》を察するに、これはなにか状中の文言通りの虚言難詰で、誰にでもかれにでも会う人ごとに一盃機嫌で、土宜法竜はこんな馬鹿なことを聞きに来たなどと自分の自慢兼ねていいちらし、衆愚の一感賛を買わんとするものとの邪推、恐懼に出ずることなり。米虫は安心されよ。予は植物学を三十二、三年もするに、今に植物学者と自称したることなし。また他の学問はなおさら然り。また平生人と語るに漢語すら用うること一字もなし。衣類が衣類(468)だから田夫野人と同一なり。
 先日曙とか東雲《しののめ》とか吉原の細見《さいけん》にあるごとき名の軍艦の水夫さん三、四十名、一の滝を見るとて行く途上出合い、滝案内を命ぜられし。案内せし途中、だんな方は世界中漕いでまわるだから広いことでしょうというを始めとして、英国のことなどきくに、中に一人、英国ロンドンか、おれは三ヵ月おったなどと承り、持ち合わせしタバコをおれに一本よこせ、一本よこせでみなしてやられたり。むかし富士艦の士官一同より講義頼まれ往き、司令長官室にて講ぜしに、一艦中誰一人予に敬礼せぬものはなく、いろいろの進物あり、停車場まで士官数人おくりに来たりし(このとき士官一同より叡覧に供えたる写真一枚、本艦へ謄録の上予にくれたり。本艦碇在中閣下の厚意を謝す、−−と士官一同の名あり)が、そんな如来も、今の身となりてはかくのごとき目にあうなり。李白が失意して華山に遊ぶとて、酔いて驢《ろ》に跨りて県宰の門を過ぎて咎められしとき、名はいわずに、「かつて竜巾を用《も》て唾を拭《ぬぐ》い、御手《ぎよしゆ》もて羮《あつもの》を調う。力士は靴を脱がしめ、貴妃は硯《すずり》をフ《ささ》ぐ。天子の殿前をすら馬を走らするを容《ゆる》されしに、華陰道上、驢に騎《の》るを許されず」と書きしことも思い合わされ、ジキンス氏へ状かくとき一笑してこのことを記せし。「知らぬからたばことられて仏なり」。
 御一笑下されたく候。こんなことゆえ誰一人文通ということもなく、またたまたま飲宴するも、ちんぼ出して踊ったり、春画の講釈やそんなことばかりで、学問らしき気は少しもなく、ただ見世物に出す珍物を集めまわる変人というようなことに候。故に、貴下はもとより、出家などの評は少しも出でず、またそんなこと聞くべきものは一人も只今小生の知人に無之《これなく》候。文通すべき相手なきゆえ、かく禿筆を走らせ貴下へ毎度出状するに候。故に右の小生の大邪推智のごとしとすれば、仁者は放念して今後もいわゆる悪口をきかれたく候。予の悪口はなかなか金のかかった悪口にて、文学上大分価値のあるものと見え、欧人間にははなはだほめられ申し候。
  イロニー(人をほむるようで、まのあたり刺《そし》る、しかし本人は知らず)、パラドクス(人を驚かし、驚かしたに(469)気はつかぬ顔して、その驚きし後ようやく気がつき文意を悟るを黙して視ておる)などと申し、わが国やまたちょっとした漢文などになき文の法も体もいろいろあるものに候。禅書など読みし仁者にして、これほどのことに気づかず。小児が、父が毎夜外出する、何のわけか、食う物は依然悪しきに衣服を美にしてくれた、知らぬ人が毎日見える、と見ることはたしかに一々見ながら、「これはわが父は不正の行いをするゆえ探偵吏が入った」ということに気がつかぬごときは奇怪に候。それもそんな気のつかぬ顔をするのかも知れず。
 小生長文|認《したた》むるに筆なし(紙はあり)。買うときは悪しきもののみなり。(この辺は大和の行商人が売れ残りを持ち来たり、一年一年交換して去るゆえにろくなものなく、すなわち只今使いおるものも仁者昨年くれたもの、さっぱり禿してしまい、字がこの通りなり)ゆえに、長文望むなら筆五、六本送り下されたく候。もっとも只今仁者より受けしもの、まだ一本はつかわずにあり。
 『仏祖通載』の文忘るることなかれ。急用あるゆえ、これにて擱筆す。以上。
  半偈《はんげ》に捨身せし人の後胤と自称する人が、自分らの過失をいわれたりとて罵詈というは分からぬことなり。もし 望むならば、小生に向かい(世人一汎に向かいてもよし)、小生のことを罵詈して見られよ。小生は単に新聞に広告して、その厚意を謝するつもりなり。
 仁者、今日の「大和国全図」と貝原篤信の『大和めぐり』入用じゃが、聞き合わせ送ってくれんか。今後はきっとこんなこと頼まぬなり。またできずばできずと即答を乞う(代価は書物受けたら払うなり)、東京へ頼むなり。これはジキンス、『万葉集』を出すにつき、『万葉集』中の名所を地図に点して巻首に掲げたきなり。小生は『方丈記』受けよく、今日同男を経て書肆より馬琴の抜訳頼まれたから、さし当たり日本人に多き「食言郷」の一節を抄訳するつもり。これは金粟化身にあらざればできぬことと、仁者には思うならん。(馬琴の文はよみ切り、詩ほほよろしく、かつ博覧の人ゆえ、訳するものも一通り知らねば分からぬなり。)
(470)  付臼。人のせっかく書きしものを、おのれ愧《は》ずることありて、とくと読まぬ者多し。貧精神(プシラニミー)という怯弱卑劣のこととするなり。よろしくこの状通読されよ。
 
(471)          21
 
 大正五年五月八日午後二時半
   土宜法竜様
                     南方熊楠再拝
 拝呈、その後大いに御無沙汰に打ち過ぎ申し候。小生こと長々この地におり、空しく年を取り申し候。小生海外より帰国に及び候にはよくよくわけのあることにて、小生は一生海外に留まり得ざりしを今に大遺憾に存じ候。そのわけを述ぶれば他人の疵となり候ことゆえ、ここには申し述べず。さて小生永らく無病なりしに、今春二月中旬和歌山上りの汽船中流行風邪に罹り肺炎と相成り、只今全快と申すものの余恙いまだ全く除かず、大いに気力も衰え申し候て、子供二人(男は十歳、女は六歳)の成立後のことを慮り、多年蔵蓄の書籍什物標本を(主として外国へ)売却せんと存じ候も、何様多大のもの、かつ科学に渉れるものはその物の性質明白なると一向分からぬとは大いに価格にちがい有之《これあり》。只今までの借宅にては手狭にて何とも致し方無之、よって今度なき袂をしぼり四千五百円で四百坪余の(小生に取りては)過分なる広き邸を買い取り、それに立て籠り一意客を謝して右の書籍と標品の整理調査にかかり申し候。これらしらべおわり売却して子供の資金ができ候わば、小生は日本を遯世《とんせい》致し外国にゆき流浪して死ぬつもりに御座候。小生自由独行の念深く、またことに本邦の官吏とか博士とか学士とかいう名号つけたるものをはなはだ好まず。日本にありては埋もれおわるか自暴自棄のほかに途なく候。
 さて毛利氏、先年小生に何らの相談なく貴方に蔵せらるる小生在ロンドンの日差し上げ候拙書翰どもを貴下より申し受けんと請われしことあり。自分の不在中、他人がその帳面や書翰をのぞきたりとて毎度呶々する人にしては、(472)はなはだ不似合いの行為と存じ候。しかるに、近日また小生に右の書翰を取り寄せ、『牟婁新報』へ掲載、または小生自分これを刊行発売すべしとすすめられ候も、貴下に宛てたる小生の書状などは、その当時に取りてこそは多少の珍事をも含みたれ、今日となりてはことごとく陳腐のことのみにて、決して世人に示すべきものにあらず。しかし毛利氏が言わるるごとく、土宜師は子孫とてもなく、書状どもを土宜師百歳後見も知りもせぬ人の手に委《まか》し、むやみに失われ候はまことに遺憾、また熊楠に取りてはむやみに世に示されなど致し候ては、中には他の諸氏の姓名の出ずることも多少あるべく、まことにすまぬことにも有之《これある》べくと存じ候。
 よって伺い上げ候は、右拙書どもは栂尾《とがのお》とかに蔵されある由なるが、格別貴方に特別の御用なき限り、小生に一切御返付下されずや。しかるときは、小生間をもって一々これを検し、その中世に伝えても苦しからぬことにて、後進の参考ともなり自分立言の証拠ともなるべきことどもあらば、これを抜抄して小生の遺稿とも申すべきものの末に付け加え子供に遺しやれば、子供不肖で何とも活計に苦しむとき少々の印税ぐらいにはなり申すべし。小生本来至って身体不養生なりしゆえ、この上四、五年のこともみずから保しがたきを知り、子供、右申すごとく幼少にて前途何とも測りがたき者どもなれば、ずいぶん懸念もなきにあらず。このこと年来申し上げんと存じおり候中、近くまたまた毛利氏よりこの談《はなし》ありしゆえ、小生も自分の書翰を他人にいろいろ利用されんよりは、子供万一の糊口の資にものこしおきやりたく、よって右願意御聞き届け下さるべきや否、伺い上げ奉り候なり。敬具。
  右書翰の中には、当時あまり世人の注意せざりしことにて後年大いに問題となりしことあり。また小生の先見が中《あた》りしこともあり。妻木という一向僧に話せしことあり。それより伝唱して、東京柳田氏の書きたるものにもこの書翰どものこと出でおり候ことにて、貴下百年後必ず誰かがこれを引きずり出しなどすることと存じ申し候。小生すでに従前も自分の書きしもの、出せし説が、空しく見も知らぬ人の博士論文に応用されたり、懸賞論文に利用されたるもの多し。拙劣な申し分のようだが、いささかもうまい汁を他人に吸わるるよりは、自分子弟の得
(473)分にのこしやりたく存じ申し候。
  小生決して右の書翰どもが何たる世益あるものと自信主張するものにあらず。ただし、今日はかかるつまらぬものまでも悪い虫が付きやすく、空しく他人を肥やして自分が馬鹿を見る例が多きなり。
 
 
(477)松村任三宛
 
          1
 
 拝啓。先日ハガキ一枚差し上げ候ところ、昨朝、岡村金太郎氏より来信|有之《これあり》、当県植物乱減の件につき、小生より自在に意見を貴下へ申し上ぐれば、必ずお読み下さるべき旨、紹介しおわりたる旨通知有之候。小生は、これを機会として、植物のみならず、史跡、名所、またことに風俗、里伝等の保存、分けては愛郷心より推して愛国心を堅固にすることにまで及ぼせる良き意見書を作り、貴下を経て、大学諸士の一覧を煩わさんと存じおり候ところ、旧藩君徳川頼倫侯へも一通進じたり、長きものゆえ、ちょっと写しおわること能わず。家内に事多く、小児病気等のため、まずはここ十日ばかりかかり申すべく、かく申すうちにも、諸神社および神社趾の乱潰《らんかい》日々挙行せられおり(県郡当局者はこれを神社整理と称うれども、実は風儀破壊、神社不整理を行なうものなり)、一刻も早く少々なりともさし当たり意見を陳述すべしと存じ、本状差し上げ申し候。三好教授その他と御評議の上、徳川侯にも示し合わせ、何とか御処置願い上げ奉り候。ここに記すところは、思い中《あた》ることどもを前後混雑して記《しる》しつけ申し候。
 第一に那智山濫伐事件は、すでに『東京朝日』等にも相見え候通り、実に危険きわまることにて、新宮町の津田長四郎と申す勢力家(実は巨盗ごとき者)、警察、郡長以下ことごとくその配下に有之、六十歳ばかり、この者数年前より那智山神官、および色川村等、山の付近の人民をおだてまくり、種々証拠物を集め、行政裁判所へ那智山下付の(478)ことを訴え出し、最初は農商務省の勝訴なりしに、さらに証拠を集め、
  なお、西牟婁郡長楠見節と申す人より、熊楠は那智山におること年久しく、証拠品もっとも多く写しおるときき、楠見を経て、小生に右一切の証拠文書を借り出さんことを求めらる。そのときの状は、今に保存、前年その筋へも出し、また昨年当路の官人にも見せ候。別にかまわぬことながら、政府の公吏たる人が、みずから政府に対し、人民方の利益になる文書を集むる周旋などするは、はなはだ如何《いかが》のことと存じ申し候。この楠見というは、はなはだしき奸物にて、毎々山林のことを世話し、賄路《わいろ》私利を営むと評判高し。
去冬、ついに農商務省の敗訴に相成り、山林は那智神社と色川村へ下り、大林区署よりは何時伐木するもかまいなしとの許可ありしとて、斫《き》りにかかるところを小生聞き込み、東京の新聞へ出せしにて、それより大物議となり、県知事も、かねて神林の大濫伐にて内外に評判を悪くせる罪滅ぼしに、倉皇みずから行きて現状を視察し、右山林を保安林に編入せんと苦心するを聞き、奸徒ら私訴を起こし、下戻入《さげもどし》費等十六万円に対する右山林差押え強行公売を捉訟し、その当日、急に津田長四郎外三名ばかり(うちに県会議員あり)書類を調べられ、本月十五日、当監獄未決監に収容、今に面会も許されず、当地よりは、検事、書記等、十四、五日新宮町へ出張、書類を調査せり。
 小生初めこの姦徒より承りしは、証拠品百五十点とか三百点とかありしとのことなり。しかるに小生知るところにては、熊野三山の荒廃はなはだしき今日、新宮には多少足利氏時代の神宝文書あるも、本宮には何にもなく、那智には神宝三、四件をのこすのみ。目録は多少存するが(それも小生手許にはあるが、那智山には只今ありやなしや分からず)、何たる証拠などはなし。しかるに百五十点も三百点もあるとは、実に稀代のことと存じおり候ところ、今回彼輩入獄の理由は、噂《うわさ》によれば文書偽造の廉《かど》なる由。大抵かかる古文書は、文体前後を専門の文士に見せたら早速真偽は分かるものに候。しかるに、かかる胡乱《うろん》過多の証拠品を取り上げ、日本有数の山林をたちまち下付せしこと、はなはだ怪しまれ申し候。かの徒の書上《かきあげ》中にも、三万円は運動費(悪く言わば賄路)に使うた、と書きあり。しかして、(479)色川村のみの下付山林を伐らば二十万円村へ入る、一戸に割りつけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で粟を攫《つか》み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ。さて霊山の滝水を蓄うるための山林は、永く伐り尽され、滝は涸渦れ、山は崩れ、ついに禿山となり、地のものが地に住めぬこととなるに候。
 維新のとき諸藩侯伯の城を取り上げたるなど、止むを得ず無理を行ないしこと多し。大阪辺には、これがため諸藩へ金を貸したるが返らず、今は乞食などする人はなはだ多し。それすら国家大事には致し方なしとあきらめおるなり。しかるに足利、豊臣、北条、また南北朝のころの証文、たとい実にありたりとて、山林を下付せねばならぬほどの効力あるものにあらず。ことに、南北朝のころの証文には、実際自分の手許になき財産不動産を寄付の文書多し。すなわち、勝って手に入ったなら、そのときは寄進すること間違いなし、ということで、熊楠が百万円の小切手をふり出すと同じことなり。新田義宗など、当時身を容るるに由なく、死んだ年月住処さえ分からず。そんな人の寄進状が何の効力あるべきや。十年の役に西郷が出した紙幣を正貨に引き換えんことを強請するに同じ。
 よって思うに、かかる古文書などを証として、今後も維新前のことを争い出し、山林土地返付を求むるを聴《ゆる》さば、その弊に堪えざるべければ、何とぞ少々の無理はそのまま押し通し、名勝の地の山林等、すでに官有となり国有となりたるものは、一切いかなる理由あるも人民に下付せぬよう、願い上げたきことなり。
 本宮の大社なりしことは、小生もこれを疑わず。しかるに、これまた本宮領なりしとかいうことは、旧神官の末葉鳥居などいうものが訴訟して、拾《ひら》い子谷《こだに》(東西牟婁郡の間八十町にわたる、熊野には今日古熊野街道の面影を百分の一たりとも忍ばしめるところはここあるのみ。ただし、古えの熊野本宮参詣の正路にはあらず。大学目録に、野中とあるはこの谷のことなり。宇井縫蔵が近く見出だせしキシュウシダ、小生発見の※[図有り]葉なき熊野丁字ゴケ、また従来四国で見出だしおりしヤハズアジサイ、粘菌中もっとも美艶なる Cribraria violacea その他小生一々おぼえぬが、(480)分布学上珍とするに堪うるものはなはだ多く、かつ行歩少しも峻ならぬゆえ、相応の保護を加え、一層繁殖させなんには、最も植物学の実祭をなすに好適の地なり。この拾い子谷の外に、田辺より本宮に行く間に、今日雑樹林の繁殖せる所とては半町もなし。少々あるは例の杉林にて、杉林の下には何とて珍しき植物なきは御存知の通りなり)、この拾い子谷も、行政裁判所にはすでに鳥居らの手に渡りしに、この者この谷が手に入らぬうちから大放蕩を始め、ために負債多く、負債のためにこの林を人に押えられんとするを見、同味のものども大いに惶《あわ》て、只今私訴を起こし、互いに攻伐中なり。
 さて山林中の要部、すなわち杉、檜等の林は、本年六月か七月の『日本及日本人』に、河東碧梧桐の俳日記に出でたる通り、ことごとく皮を剥がし、誰が訴訟に勝つも必ず死なねばならぬようになしあるなり。実に残酷きわまる不仁の所行なり。しかして、前に申す雑木林すなわち希珍の植物多き部分は、シデ、ミズウメ(欅《けやき》の一種)、サルタ(ヒメシャラノキ)等、あまり利にならぬもののみゆえ、今もそのまま置きあり。この訴訟連の一人は小生知人にて、冒険の徒ながら小生のことはよく聞くゆえに、小生は、小生家内の病気少しく快くなり次第みずから行き、何とか一日も濫伐を延期させんとし、その者もすでに応諾しおれば、この上その者と小生と二人して村人関係者に説けば、たぶん少時間は延引すべきも、小生には有力の後楯《うしろだて》なく、言わばむてっぽうに虚言を吐きに行くようなものゆえ、はなはだ面白からぬなり。
 何とかして、那智のことはまず右樣にて、ちょっと濫伐はせぬから、
  知事みずから色川その他八ヵ村ばかりの人民総代を自邸に招き、伐木思い止まるよう喩《さと》せしも、なかなか聞き入れず、いろいろ説いた上、無理に納得させ保安林にせしなり。これをなすに津田らの奸徒世にありては、なかなか面倒ゆえ、そのあいだ旧罪を追いて入監せしめたる苦衷と相見え候。要は、かかる胡乱《うろん》な訴訟を十分審査せずに、偽文書を採用した行政裁判所の大手落ちに候。
(481)また新聞紙報ずるところによれば、かの奸徒輩、那智の神官、氏子総代らと共謀し、那智|夫須美《ふすみ》神社が津田より十六万円の借金ありと偽証文を作らしめ、実際、津田が山林|下戻《さげもどし》の運動に出したる金は三万円なるに、十三万円丸儲けし、その返礼に三万円を神官以下に贈与の約束にて、この偽証文を新宮裁判所に提出して、即時山林差押え強行公費を求め、認可を得るところを、かねて犯罪構成を待ち設けおりたる警官に家宅捜索を受け、津田はじめ神官らも、すでに田辺監獄未決囚中に収容されたるとなり。
右の拾い子谷(一部は西牟婁郡、一部は東牟婁郡)の雑木林を保安林にすべきよう至急御運動を願うなり。
 また小生みずからはすでに採集を了《お》えたゆえ、別にさしかまいのなきことながら、那智参詣のついでに、同山中最勝の植物区として観察すべきクラガリ谷(陰陽の滝とて、図のごとき二流の小瀑布交錯して下る滝あり)は、珍植物、ことに羊歯類、リユウビンタイ、スジヒトツバ、エダウチホングウシダ、ヒロハノアツイタ、アミシダ、その他はなはだ多し(標品の一部は牧野氏に去年おくれり)、たとえば、岩窪一尺四方ばかりのうちに落葉落ち重なれるに、ルリシャクジョウ、ヒナノシャクジョウ、オウトウクワとホンゴーソウ、また Xylaria filiformis と覚《おぼ》しき硬嚢子菌混生する処あり。秋になれば帽菌おびただしく生じ、夜光るものもあり。なかなか三年やそこらの滞留では、その十分一も図し上ぐること成らず。実に幽邃《ゆうすい》、夏なお冷《さむ》き所なり。
 しかるに植野又一という男、ある技手にすすめられ、この滝の水をもって水力電気を起こし、新宮より串本まで十余里間の町村に電燈を点ずべしとて会社を発起し、そのために自分が管する天満銀行の金三万円を横領の廉《かど》をもって三年半の所刑を受けしを、不当とし、只今上告中なり。およそ一年も過ぐれば入獄するかもしれず。この会社のためには、クラ(482)ガリ谷の一側の民有林をすでに伐尽《きりつくし》にかかり、クラガリ谷より西側の向う山官林をもおびただしく伐尽するつもりにて、すでにその許可を得たり、と右の者の書記で半年処刑せられ、十日ばかり前に出獄し、拙宅へ来たれる者の話なり。さて、いよいよこの滝の近傍を、かく乱伐、荒廃させて所期の水力電気ができ、長く続き得るかというに、そもそも一の滝(すなわち八十余丈という大滝、それは八十余丈かしらぬが、百七十年ばかり前に樹木少なくなりしため三分一強埋もれり。御承知のごとく、一の滝下にアルプス山で見る boulders のごとき大滑落岩塊多きは、この出来事の記念で、濫伐の好記念なり)、先日『大阪毎日』(今年八月二十日分)によるに、確かな技師の言には、那智の一の滝と陰陽滝との水の全力を用うるも、八百馬力しか力を生ぜぬとのことなり。
 そんなあやふやなことを強行して、このクラガリ谷の勝景、植物を滅却するは、いかにも惜しきのみならず、せっかく大金かけ岩石|開鑿《かいさく》、山林滅除した後には、その水力果たして乏しく水源は涸れ、数年ならずしてこの電燈会社もつぶるるとせば、実に隋侯の珠《たま》を雀に擲ち失うようなことで、つまらぬことと存じ候。那智山那智山と言えど、すでに貴下ら二十余年前見舞われしときと打ってかわり、滝の辺はことごとく老杉老樟を伐り去られ、滝下へ人力車がすぐに付くようになり、滝の上は向う山官林(これも年々濫伐のため、実は数えるほどしか大木なし)□□□ことごとく禿山となり、わずかに今度濫伐せんとする寺山をのこすほどのことゆえ、
  寺山は大樫の密林なり。古え滝水を蓄え四時涸落せず。その実《み》は米穀少なき山民の常食とするに任せ、材木の用をなさぬものなれば濫伐の憂えなしとてこの樹を撰み、種《う》えつけしと申す。しかるに、昨今大樫の木に価格出で来たりしゆえ、これを伐らんとて訴訟起こせしなり。
何とぞこのクラガリ谷付近は、一切保安林とするよう御運動を願いたきなり。たとい水力電気のこと頓挫して官林の濫伐は止まるとするも、その近傍の民有林かくのごとく濫伐さるるときは、いろいろの弊事を生じ、ついには久しからずして、この谷も濫伐する方がましというように荒廃するに及ばん。
(483) 小生八年ばかり前、この辺でリュウビンタイを多く見出だし、二本、人に餽《おく》らんとて小さきものを掘り来たり、宿所の庭に植え置きしに、村民らこれを伺い知り、いろいろ伝唱して、ついには新宮の新聞に出で、南方はクラガリ谷で黄金《おうごん》シダを発見せり、これは黄金と同重量で売買の価《あたい》あり(小生の知人が常時土佐と田辺の間には平瀬長者介《ひらせちようじやがい》を見出だし、小生に鑑定を求め来たり、小生の指図で京の平瀬与三郎氏に売与せしことをきき違え、作り出だせしならん)とて、新宮始め七、八里の距離の所より件《くだん》のリュウビンタイを求めに来たり、那智の某という百姓、庭園中の梅樹下の芋畑をことごとくほりかえし、件のリュウビンタイを盛んに作る。しかるに、いかなることにや、リュウビンタイ盛んにはえ出し、近所を害し、その畑は無用のものとなる。ところが一向誰も買いに来たらず、南方は吾輩を誑《たぶら》かしたとて大いに憤りおるを見ておかしく、汝らはみな猿智恵で、人のすることを私《ひそ》かにまねし、ありもせぬ風説を信ずるから、こんな災難が起こるのじゃと、逆さまに嘲弄しやりしことあり。
 また当田辺より二里半ばかりに、奇絶峡《きぜつきよう》とてはなはだ好景の谷一里ばかりつづけるがあり。美景は耶馬渓に優《まさ》れること数等なる上、珍植物多し。この辺に染物屋一軒あり、紺をそめてたちまち庭より走り下《くだ》り渓水で洗うなり。その渓の岩上にあわもり升麻《しようま》多し。小生そこへ行きしに、村の僧来たりこの草の名を訪う。小生これはあわもり草とて、むかし、どこの国にも婦人の病に用いしなりと言いしに、七日ばかりへて行けば、はや一本もなし。いかなることと伺いますに、件《くだん》の紺屋、自宅の庭同様の近さにある件の岩岸にあるあわもり升麻を一切引き抜き、自宅の構内の小便桶を埋めしかたわらの芋を引きぬき、その跡へことごとく栽えつけしに、何条たまらん、あわもり草はことごとく枯死しあり。万事この類で、何か話すとたちまちその物を自宅へ持ち行き、栽え枯らすこと大はやりにて、こまったものなり。
 ナチシダの生えた辺は、八、九年前より伐木せしゆえ、今ははなはだ少なくなれるならん。ユノミネシダは湯峰に七本しかなく、それも新宮の中学生などむやみに引きとり、十町も歩まぬうちに捨て去るゆえに、むろん今は絶滅な(484)らん。ホングウシダは、本宮の生出ではなはだ綿密なる小学校長に精査せしめしに、本宮辺に一本もなし(当地近傍にはあり)。ナチシダは、小生当郡|水上《みなかみ》と申す処、ユノミネシダは那智の金山《かなやま》という所には少々見出だせしも、今はありや否知らず、ガンゼキランと申すものは、小生は図のみ見たばかり、実物は?葉《さくよう》すら拝見せず。これは古えは熊野に多く、見《けん》にして、生姜《しようが》の代りに祭日の料理に用いしほど多かりしと申す(見《けん》とは、熊野は魚少なき所ゆえ、今もカシュウイモを横にきり、蒲鉾の代りにつかい、目を怡《よろこ》ばしめ味を助くる。そのごとく客を懌《よろこ》ばすべき show なり)。
 紫葉は近くまで、この田辺|辺《へん》の山野が名産なりしが、今は一本もなし。紫葉を見たものなし。ホタルカズラ、ヒメナミキ、いずれもこの田辺辺の出立《でたち》松原に多くあり、開花の節はなはだ行客の眼を怡ばしめたり。しかるに四年ばかり前に、小学校建築という名目の下に、この出立松原をことごとく伐り(村民松を抱えて哭《こく》するを、もぎはなして伐りつくせしなり)しため絶滅す。その松は白蟻にかまれ、小学用にならず、今に幾分を腐らせ放捨し置く。さて魚類田辺湾へ来ること少なくなり、夏日は蔭なく、病客多くなり大閉口、その学校もかかるつまらぬ木で立てしゆえ頽《くず》れ落ちる。この出立松原は『万葉集』にも顕われ、元禄のころ浅野左衛門佐という人数万本を植え副《そ》えしなり。ここに載するところの紫葉、ホタルカズラ等は、他にも産所あれば、はざはざ惜しむべきものにあらず。しかし素人《しろうと》の考えとちがい、植物の全滅ということは、ちょっとした範囲の変更よりして、たちまち一斉に起こり、そのときいかにあわてるも、容易に恢復し得ぬを小生まのあたりに見て証拠に申すなり。
 万呂《まろ》村の天王の社には大葉ヤドリキ多く、中には寄主たるシイノキよりも二倍も長きあり。いずれも秋末に紫褐色の異様の花を開く。小生は山中でこの木多少見しも、ここのごとく年々盛んに花実あるを見しことなし。しかるに、これも俗吏らむちゃくちゃに、神社の威厳を持《たも》つには神林を掃除すべしと厳命し、さなきだに、落枝、枯葉を盗み焚料としたき愚夫ども、得たりかしこし官の御諚《ごじよう》なりとて、神林という神林へは、ことごとく押しかけ、落葉をかき取り、土を減らし、また小さき鋸を持ち行き、少々ずつ樹木を挽き傷つけ、秋枯木となりかかると、たちまち枯損の徴(485)ありとて此を伐り去るなり。下芳養村の託言の神社ははなはだ古き社にて、古え人犠を享したりとて、近年までも「鬢女郎《びんじよろう》」と名づけ、少女を撰み人牲に擬しそなえし、大なる冬青《もち》の樹あり、はなはだ古いものなり。その社の四周に吉祥草とタチクラマゴケ密生し、はなはだ美なりし。しかるに、官命とて掃除ばかりするゆえ、今は一本もなし。別に惜しむべきことならねど、つまりは件《くだん》の老大の冬青樹を枯らすこととなる。当田辺の闘鶏権現のクラガリ山の神林またなかなかのものにて、当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり。これも公園公園というて社を見下し、遊宴場を立つるとて樹を枯らし、腐葉土 humus の造成を防ぎしゆえ、年々枯れ行くを伐りちらし、この山、古来有名の冬虫夏草(酉インドの guepe vegetale と等しく、上図のごとき大冬虫夏草を生ず。この他ミミズ、ムカデ等にも、それぞれ別種の冬虫夏草を生ず)は、今日はなはだ少なくなれり。ルリトラノオ、ミヤマウズラ、ツルコウジ、わが海辺の低地に珍しく、この上にありしが、みな絶滅す。ハマクワガタ、牧野氏説に希種の由、これも少なくなりゆく。三百年ばかりの老樟はなはだ康健なるがあり、およそ紀州の樟樹は古くなると必ず下図のごとき Ptychogaster の新種を生ず。
  この新種のプチコガストルは、英国博物館の Smith 嬢に贈りしに、多忙なりとて今に名つけず。何に致せ、珍しき新種なり。もし名つけくるる人あらば、小生は多量に進上せん。かの嬢多忙にして命名に遑《いとま》あらずとのことゆえ、他の人に命名しもらうもかまいなし。小生、書籍至って坐右に少なく、書籍を持って採集すると、いろいろの僻断 prejudice を生じ、田中芳男男のいわゆる書物の方が正しく天然物が間違ったように見えるものゆえ、書籍なしに片っぱしから図を取りおれり。この Pt.はPt.-albus Corda と同大同形の胞子あれど、albus の胞子淡黄赤色なるかわり黄灰色、また albus のは滑面なるにこれのは刺あり、または条理あり。(486)また一種の Peziza を生ず。それより必ず枯損し始める。しかるに、この老樟には幾年見るも、そんなものなし。枝条蓊鬱として、その樹株の下より清水断えず下り神池に注ぐ。実にクラガリ山の名に背《そむ》かず。官有として置きしを払い下げて伐らんとするものあり(その者は小生の妻の一族)。よって前社司(拙妻の亡父)神林枯滅して神威を損ぜんことを憂い、いかなる事情の下にも伐木せぬ条件で神林を払い下げ、社有とせしなり。
 しかるに、小生の舅二年前死亡後の神主、たちまち世話人と申し合わせ、右の健壮の大樟を枯損木と称し、きり尽し根まで掘り売り、神泉全く滅す。小生これを知らず、珍しき健壮大樟の写真とり保勝会長徳川侯へ呈せんと六月末に行きしに、右の次第ゆえ大いに呆れ、郡役所へかけあうに、枝の一部に枯損ありしゆえ枯損木なりという。それは鳥が巣を作りたるなり。しかして、この樹を掘り取るとて、わざと乱暴に四方へあてちらし、他のマキ、冬青《もち》等の樹十三本を損傷せしむ。これまた枯損木を作り伐らんためなり。よって甚《いた》く抗議せしに、郡長止むを得ず、件《くだん》の社の社務所より世話人を集め語る。その最中に発頭人(前郡長たりし人)口より涎出で動くこと能わず、戸板へのせ宅へ帰り、五日ばかり樟のことのみ言いちらし狂死す。ほかに今二本の大樟を枯損木と称し、すでに伐採の許可を得たるも、小生見るに少しも枯損の趣きなし、これは残る。また県庁への書上《かきあげ》には、この社の林に樟木二十五本あり、とあり。しかるに小生みずから行き見るに、右の三本しかなし。すべて地方今日のこと虚偽のみ行なわるることかくのごとし。
 また公園公園とむやみに神林を切り開き、裸にし、博愛場または密婬処を作る例多し。この熱地で山を裸にすることゆえ、熱さはなはだしく公園としたところが他所より人が来るにあらず、村民は樹林なくなると神威薄くなり敬神の念いよいよ少なくなるなり。ハガキにて申し上げしホルトノキ、ミズキ、クマノミズキ、オガタマノキ、カラスノサンショウの大木一、二丈のもの、自生のタラヨウ一丈余のものなどは、何の用もなきものゆえ、わずかに神社の森を asylum として今日まで生を聊《りよう》せしなり。それが突然はなはだ少なくなり行くはこれがためなり。ホルトノキは、小生のみならず当地方で久しく顕花植物を集むる人々にきくも、どんなものか知らず。近古まで多かりしは、この辺(487)で蘭法医がホルトガルの油とてオレーフ油の代りに、この木より油多くとりし記あるにて知らるる。ようやく三本を見出だせしが、一本はたちまち移し去られ、生死知れず、一本は例の神林清潔法のため枯死、一本あれど道路傍にあることゆえ今はむろん切られたるならん。
 跡浦《あとのうら》という村に、山田の神社とて山田の大蛇を祭る古社あり。毎年祭に大蛇の形をにないありきし、はなはだ勝景の地なり。社殿の傍にただ一本バクチの木を見出だす、只今花も実もあり。また伊勢大神宮等で古式に火を燧《きり》出すに用いしというヤマビワの木あり。この社も廃社となり、樹木をきらるるところなれど、これを切ると、この大字《おおあざ》中にここにしかなき飲用水の大清泉、一丈四方ほどのものが濁り涸《か》れるなり。その由を申し立てさせ、今に伐らずにあり。しかし神が廃せられたることゆえ、早晩|件《くだん》の木は亡び、当国に花果あるこれらの木は見るを得ざることとなるべし。
 バクチの木を、古え当国より一本加賀金沢へ持ち行き植えし人あり。花さくという。栗山昇平とて熱心な植物学好きの人、広島幼年学校教師なるが、当地方に古えこの木を産せしと聞き、いろいろさがすに一本もなし。宇井縫蔵という人、わずかに一本見出だす。それも神社合祀のため今はなし。次に例の神島《かしま》にて多く見出だすも、老木なきゆえ花果なし。止むを得ず花果を見んため金沢へ旅行せしことあり。さて小生と伴い、右の跡浦で一本始めて花果あるを見出でしなり。すなわち地方合祀励行のため、土地固有の珍植物が花果あるもの全く亡びて、他州へ往きてわずかに見得ることとなりしなり。
 西牟婁郡|周参見《すさみ》浦の稲積《いなづみ》島は、樹木鬱陶、蚊、蚋《ぶと》多く、とても写真をとることもならぬほどの樹木多き小島なり。神島と等しく、この島神はなはだ樹を惜しむと唱えて、誰も四時以後|住《とどま》るものなく、また草木をとらず。小生もこの島固有の名産タニワタリ(『植物名彙』にタニワタシ Asplenium Nidus L.)一本とりにやりしに、杉の幼木一本買い、代りに植え返りしなり。珍木アコウノキもあり。習慣として古来タニワタリを少々とるに、必ず同数の幼木を植えしめしなり。しかるに例の合祀のため、この島周参見の汽船の着く所に近きを便利とし、このごろは大坂より植木屋多(488)く入りこみ、何のわけもなくおびただしく引きぬき去る由。神社を置かば、例の草木鳥獣採るを禁ずる制札の権利があるから、制限自在なるも、神社なきゆえ悪行《あくぎよう》勝手次第なり。
 御承知の古座浦の黒島も、この稲積と並んでタニワタリの名所なり。小生八年前行き、同島植物片っぱしから採りしに、そのころは一本もなく高芝《たかしば》、下里《しもさと》などいう村の旅宿などに栽えたるもの多少ありしのみ。去年、児玉親輔君行きしときは多少黒島にありしと聞く。しかし、とてもかく採集しきりにては、葉の長《たけ》二尺にも及ぶ大なるものはなからんと存じ候。那智の秋海菓またこの例で、一の滝の付近に七、八年前までは一、二本ずつありしが、七年前にただ一本を見る。その一本は小生これを採り保存す。さてその後は一本もなし。もし今あらば、そは寺院等に植えたる品が復原して野生となりしものならん。野生は人家に栽うるものに比して、はなはだ大きく、またことに多汁なり。花の数少なく、かつ美ならず。那智には寺院多かりしゆえ、アヤメ、セリバオウレン、キリシマ、ハクチョウゲ、イワフジ、シジミバナ、また芭蕉も野生することあり。古老にきくに、いずれも今は野なれど、むかし寺院の庭たりしなり。
 神島のこと柳田氏を経て尊慮を煩わせしが、これは村長比較的に物の分かった人にて、ついに小生の意に随い、下木《したき》を三百円で売りありしうち、七百貫目はすでに切りたるゆえ、その代価を引き去り、余分を見積もり、入札人へ返却することと四、五日前村会で決議。ワンジュは年に只今五升しかとれず、さて古来の習慣で京都の数珠屋へ売る、二百一顆を数珠一連として三十銭の卸売なり。これは今日物価|貴《たか》きに、いかにも不当に賤価なれば、買わねば買うてもらわずとも可なりとの決心で、まず一連九十銭くらいに売ることに致させ、そのうちまた横浜の外人等へ売先を得らることと致し候。巡礼など、この豆を持たば旅中|蛇《へび》蝮《まむし》にかまれぬとて買いに来たり、役場にて売るなり。(英国の北都にも Virgin Mary's Nut と称し、熱地より流れよるシロツブを数珠の親玉とし、巫蠱《ふこ》witches 邪視 evil eye を避くる風ありとのこと。)只今花盛んに開きおり、小生右の村長と近日写真とりに行くゆえ、よくできたら一葉差し上(489)ぐべく候。
 市江《いちえ》と申す所、この田辺より五里ばかりの浦なり。そこにもある由なれど、実《みの》らず。この而江の社より、前日宇井氏キキョウランを発見す。これも、只今は栽培品は湯浅町にあれど、自生はとんと少なし。これらは口外すればたちまち取り尽さる。また口外せずとも、すでに合祀せる跡ゆえ、早晩絶滅なり。この市江という所は、不便きわまれる海浜の小村にて、もっとも近き他村へ、いずれへ歩むも二里ばかりあり。郵便配達夫毎度面倒がり、書状を沙《すな》の中へ蔵《かく》しかえり、数日に一度蔵した書状多くなりてのち配達するので、罪に落ちるほどのことなり。故に数里はなれた所へ合祀されて後は、小児の名づけ、その他に、自分ら祖先来の神に詣ること叶《かな》わず苦しみおれり。
 本県合祀励行一村一社の制を強行して、神社乱滅、由緒混乱、人民|嚮《むか》うところを失い、淫祠邪魅盛んに行なわれ、官公吏すでに詐道脅迫をもって神様を奪い得る。人民また何なりして官を欺くがよろしというようなことで、当県官公吏の犯罪(村長の)全国第一たり。加うるに、高野、熊野その他に山林濫伐、偽証払下げの罪人多く生じ、当該官当局またこれを悔ゆることはなはだしけれども、今度は人民の方一層狡猾になり、小生千辛万苦して、せっかく数千の私資金を費やし、多大の年月を消して作りたるプレパラート(主として黴《かび》、菌《きのこ》、淡生藻。粘菌は、当県および十津川にて、すでに百種まで見出だし、大英博物館に列品せり)の洩れ損ずるをも顧みず、去年ついに牢舎につながるるまでも奔走説得して保留せる神社多きも、今では反って神社を置いた所までも神林を伐るもの多く、小生の親戚すら前金を置きまわり、神林を伐り売買してコンミッションを獲て営業とするものあり。実に困りきったことに御座候。
 日置川《ひきがわ》筋の神社合祀は実にはなはだしく(去年三月二十三日ごろ、すなわち衆議院閉会前日の官報で御覧下さるべき通り、代議士中村啓次郎氏の神社合祀に関する長演説あり。これは小生が起草して中村氏が整頓したるを演説せしものに候。その中にも見ゆ)、三十社四十社を一社にあつめ、ことごとくその神林を伐りたる所多く、また、今も盛んに伐り尽しおり、人民小児の名づけ等に神社へ詣るに、往復五里、はなはだしきは十里を歩まねばならず、染物(490)屋(祭りの幟)、果物屋、果子【かし》小売等、細民神社において生を営みしもの、みな業を失い、加うるにもと官公吏たりし人、他県より大商巨富を誘い来たり、訴訟して打ち勝ち、到る処山林を濫伐し、規則を顧みず、径三、四寸の木をすら伐り残さず。多数無頼の人足、村落に充満し、喧嘩、争闘、野中村でのみ去年中に人の妻娘失踪せしもの八人あり。
 さて木乱伐しおわり、その人々去るあとは戦争後のごとく、村に木もなく、神森もなく、何にもなく、ただただ荒れ果つるのみに有之《これあり》。紀州到る処、山林という山林、多くはこの伝にて荒らされおり候。もとより跡へ木を植えつくる備えもなければ、跡地にススキ、チガヤ等を生ずるのみ。牛羊を牧することすら成らず。土石崩壊、年々風災洪水の害聞《がいぷん》到らざるなく、実に多事多患の地と相成りおり申し候。この他、地方官公吏自分の位置を継続せんとて、入りもせぬ工事を起こし、村民を苦しめ、入らぬ所にトンネルを通じ、車道を作ること止まず。さてその工事成るころは、すでに他にそれよりよき工事でき上がるため、せっかくの骨折りも徒労となり、いたずらに植物の絶滅、岩土の崩壊を見るのみ。慨歎の至りに御座候。
 山林等は国家経済の大体にも関することゆえ、微生等智恵の及ぶ所にあらずとして、第一に植物保存の点のみより願わしきは、閣下ら、何とか一日を躊躇せず、合従《がつしよう》して徳川頼倫侯に話し(この人は貴族ぶらず、はなはだ好き人物で、いかにも度量寛弘、気宇闊達のところあり。小生も在英のとき毎々前へ出て酒を飲み、くだをまきたり)、差し当たり当紀伊国は、三好教授の『植学講義』にも見るごとく、土は本州ながら、生物帯は熱帯、半熱帯のもの多き、まことに惜しむべき地なれば(英国でコーンウォール州、またジャーシー、ガーンゼーのみに、仏国と同様のものあるごとく)、学者の一通りの研究がせめてすむまで(事務行政上、実際何の害なきことなれば)、生物および古物、勝景、史跡(ことに近年欧州には、キリスト教のために全く屑片しか止めぬをすら、種々尽力して捜索しおる有史前史跡、また一国の民が一国を愛するは、一郷一村の民が一郷一村を愛する心に由るものなれば、その一村、一大字、一小字についての民俗 Volkskunde の調べの一《ひと》通りすむあいだ、なるべく旧慣、土風、屑譚、里伝を保存するよう)、土(491)俗、里風を保存するために、すでに全県神社の五分の四を合祀しおわり、全国中には合祀励行第二位に位するこの和歌山県
  本年六月二十五日、『大阪毎日』によれば、神社合祀のもっとも励行されしは、伊勢、熊野(日本でもつとも神社の本尊たる所)で、すなわち、
         現存    滅却 現在の社数が合祀前に存せし社数に対する割分
   三重    942    5547 〔省略、以下同〕
   和歌山   790    2923 
   愛媛    2027    3349 
   埼玉    3508    3869 
   長野    3834    2997 
  長野は全社数の二分一未満、埼玉は二分一強、愛媛は三分一未満に減じたるに、和歌山県はほとんど五分の一、三重県はほとんど七分の一に減少せるなり。今年のことは知るべからざるも、合祀一向行なわれざる県多く、たとえば秋田県か青森県は、昨年六月までにわずかに四社を減じ、北海道は全道でわずかに十四社を減ぜりと申す。すなわちこの合祀なるもの、各府県思い思いに行ない、あるいは行なわれ、あるいは行なわれず。古跡また珍生物保護の必要少なき地にして、反って合祀少なく、古跡と珍生物等多き地にして、反って合祀多きを知るべし、むちゃくちゃなり。
の神社合祀をこの上全く中止し、また、その神社址は(すなわち神森、古墳、古建築の社殿等は)、当分遙拝所として神社同前に尊敬し、従来通り、鳥獣竹木を採り、建物付属品を破損するを厳禁し、塚、碑石、燈籠、手水鉢を移動するを禁じ、徐かに中央政府また大学、学会等より人を派し、実地を調査するを俟《ま》つこと、との一事を至急何とか御(492)勧告下さらずや。
 今日とても、東西牟婁郡および日高郡には、小生の説を容れ、多少残存せる神社あり。またすでに合祀はされながら、そのあと地跡、建築そのまま残れるもあり。はなはだしきは人民屈強にして、ついに復旧せるもあり。和歌山県庁も、最初神社をなるべく多く潰して高名せんと心がけ、自治政成績展覧会を一昨年ごろ高野で催せしとき、神社を滅却せる数多きを自治成績の一に数え立て、特に他県に擢《ぬき》んでて、最初は五百円なりしを五千円まで基本金を上げ、五千円の基本金なき社をことごとく合祀し(実際五千円を積み得る社は一つもなし)、また一村一社の制を設け、直径五里六里往復の大村にすら一社しか残立を許さず。これがため、御承知の熊野九十九王子社、すなわち諸帝王が一歩三礼したまえる熊野沿道の諸古社は、三、四を除きことごとく滅却、神林は公売にさる。しかるに、小生、中村啓次郎氏に托し、平田大臣に滅却濫伐の惨状の写真を示してより、大臣大いに驚き、訓示ありてより、甚本金なくとも維持の見込みある社は存立を許すこととなりしも、困りきったことは、当県知事は何故か実際に通ぜぬ人にて、さらに一社ごとに神職をおくべし、神職なき社は滅却すべしという。もし神職を置かんとならば、何とか西洋の寺領税《パリツシユ・タクス》のごとく、漸をもって、毎月、毎年、毎戸より積み立てさせて後に置いて可なり。
 神職は只今その人なく、いずれも無学無頼の者のみなり。別に差し上げ候本日の『牟婁新報』拙文にて御覧下されたく候。この輩に只今急に俸給やったところが何の功もなく、少々跋扈し出すと、例のごとくニューヨーク辺の天主教長老同様、今日の教育が気に入らぬとか、丘浅次郎氏の進化論、石川千代松氏の化醇説は、天皇陛下を猿の子孫というもの、国家に対し不忠など、自分の鄙劣《ひれつ》心から飛んでもなきことを言い出し、教育改進に障害を及ぼす輩のみなり。今日すでにこの辺では、神主に俸給をやりながら何の功もなく、諸社兼務多きゆえ、大祭日の祝典を二日三日延ばすこと多し。米国にも英国にも、僧なしの熱心なるキリスト教徒あり。当国にも、近来僧入らずの新仏教あり。僧や神主はほんの教えを伝うる方便なり。この辺の民は千古神を敬し、朝夕最寄りの神へ詣し、礼拝讃唱するを楽しみと(493)し、一家安全の基《もとい》としおるものなり。従来かようにして何の不足なく数百十年を経歴し、神社また何の不足なく維持し来たりたればこそ、今日合祀の大難にあいしなり。
 およそ金銭はいかに多く積もるとも、扱いようでたちまちなくなる、至って危うきものなり。樹木も財産なり。確固たる信心は、不動産のもっとも確かなるものなり。これを売りこれを潰《つぶ》し少々の金にしたりとて、一ど失えばまた返るべからず。神主どもが貧乏になるは自分らの不注意なり。かかるものに金を増し与えたりとて、神道が盛んになるにあらず。後年、公園公園とさわぎて多大の金銭を投じ、村民|逸楽《いつらく》の場を買い戻さんとするも、なかなかできることにあらず。また欧州にも、最寄り最寄りの公園には必ず礼拝堂、十字架の設けあるを案じて、いよいよわが国の神社は、これ本来の公園に神聖慰民の具をそなえたる結構至極の設備と思い、外国人が毎々羨む通り、さしたる多額を費やさずに、村々大字大字に相応の公園あり、寺院あり、加うるに科学上の諸珍物を生存せるアサイラムとして保存されたきことなり。たとい樹林を伐り、建物を滅するも、いたずらに破壊乱伐の惡気象を児童鈍夫につぎこむのみ。その売上高はは、決して樹木、神宝、生物、勝景をそのまま保存し、不識不知《しらずしらず》のあいだに、良朴、愛国、剛毅、不動の国風を村夫児童に教えこむの大財産たるに比すべきにあらず。
 本郡川添村は、神社合祀の模範とも称すべき大合祀を行ない、十四村社を合一して一万余円の基本財産あるつもりにて神林を伐り、社田を売りLが、実際何の風化もなく、わずか二年後の今日、その本社の屋根洩るるも修繕する銭なく、神主途方にくれおり。人民は本社へまいりたきも、往復十里を歩まずばならず、全く無神の状況にあり。風儀悪くなり、樹林|一《すべ》て空しくして、樹蔭ある樹林を見ることならず、全く禿山住居なること満州辺に同じ。(神林の樹木は、材用のため殖林せしにあらざれば、枝、幹の下方より生じ、節多く、二足三文何の価値なく、多くは焚き物にするのみ。)たとえば今度御心配かけし当田辺湾|神島《かしま》のごときも、千古斧を入れざるの神林にて、湾内へ魚入り来るは主としてこの森存するにある。これすでに大なる財産に候わずや。しかるに合祀励行のため、村役場員等なるべく(494)無性《ぶしよう》をかまえ、また利益を私《わたくし》にせんと心がけ、なるべく村役場近き社は、たとい由緒なき狐や天狗を祭れる小祠なりとも、これを村社と指定し、由緒あり神林多き社も、村役場に遠きをば挙げて合祀させ、これを濫伐せる余弊、筆舌に尽きざるに候。
 神島のワンジュは、島の一部にのみ生じ、いかにするも他へ生ぜず。ブラジル辺で見るごとき festoon を形成し、図のごとく蜿蜒《えんえん》し、大なるものは、幹十インチ以上あり。外国には、耳輪、腕環などにかかる sea・beans を用うることおびただしければ、このものを今少し多く繁殖させなば、なかなかの営利ともなるべきものなり。しかるに、合祀のため只今濫伐に及ばんとし、たとい濫伐せずとも、神祠すでに去りたるをもって人これを憚らず、種々に枯木をとり去るゆえ、かのカレキス・マツムラエのごとき、四ヵ年前小生見出だせしときは十四、五坪の間に弥浸せしに、今春末牧野富太郎氏の嘱に応じ往き見たるとき、わずかに十二株しかなきなり。故に一株につき幾分ずつ、その株にきずの付かぬようかきとり、牧野氏へ送りしなり。この島には由来キセルガイの種類多かりしも、合祀と共に全く絶え果てたり。ついでながら申す。この島は千古、人が蛇神をおそれて住まざりし所なり。自生の楝《せんだんのき》あり、また海潮のかかる所に生ずる塩生の苔 scale‐moss あり。奇体な島なり。
 小生は少しも動物学を知らず。しかし小生のごとき素人から見ても、当国の山林また神森には、まだまだ記載を畢《おわ》らざる動物多きなり。ヤマネ dormouse などは、どうしても一種にあらず。また当郡瀬戸|鉛山《かなやま》村には、毎年夏末秋より冬にかけ、海より上り陸に棲み、はなはだしきは神森の木に上る寄居虫《やどかり》あり。小生も前年手に入れ、久しく養いしことあり。小笠原島産のものに似たり。全身碧紫にて、大きく、はなはだ美なり。また鉛山の温泉場の前岬の岩井に、図のごときヒトデ、足に大小の懸隔はなはだ大なるありし。これでは歩行に不便ならんと観察せしに、廻りあるく gyrate なり。英国へ持ち行き大英博物館の専門家に見せしに、ニュー(495)ジーランドの特産なる由。小生|手本《てもと》に一箇今に残せり。ほしき人あらば進ずべし。これらも、役人不注意、人民勝手きままのため海中の岩少しもなくなり、右の温泉へ波烈しきごとに海潮打ち入り海荒くなりしため、今は全滅せり。前日|安堵峰《あんどがみね》(当熊野第一の難所)へ行きしに、無智の山人の話をきくに、ハタフリというものあり、話の様子をきくに、イモリごときものに紅き鰓《ギルス》が一生つきおり、動くごとに旗ふるごとくなると見ゆ。思うに、例のアキソロトルシレンス様のもの、この辺にあるかと存ぜられ候。
 こんなことゆえ、学者の記載調査もすまさずに、むやみに山林全伐したり、またたとい深山に多きものなりとも、大学生など限りある日数と限りある費用を持って来たり研究せんには、なるべく人里に近く薪水の便宜ある所で研究する方都合よければ、最寄《もよ》り最寄りの神林などはいささかも調査のすまぬうちに伐らぬようにせられたきことなり。(これを伐って実際髪毫の益なく、大患をのこすは前述のごとし。)
 小生は植物大家などとちらほら東京、大阪の新聞へ出で候が、小生は植物学を正則に学んだことはなく、在英のとき書籍学《ビブリオグラフイー》を日々の営業とし、そのひまに遊んでもおられぬゆえ、手当り次第に書籍の contents を誦じたり。さて帰国のとき、大英博物館のモレー George Murray を訪いしに、日本は隠花植物(菌、藻等)の目録いまだ成らぬは遺憾なり、何とぞひまあらば骨折られたきことなりとのことにて、帰国後、商業はきらいなり、すでに十一年、この熊野におり、主として淡水藻と菌類および粘菌を集め画し、粘菌はその発生経過等のことを少々潜心して研究せり。どこにてもあるものゆえ、どこの森を伐ろうがかまわぬじゃないかと言われんが、実際は然らず。二十町三十町|地押《じお》しするごとく委細に調ぶるとも、全く普通種一種をも出さぬ森あり。また当田辺町を去る三、四町ばかりの糸田の猿神社のタブの老木株のごとき、一丈に満たぬものなるに、従来日本になしと思える粘菌三十種ばかり見出だし、その一は新種なり。さればここのごとく、町に近き便利な地に三十種も年々粘菌を定まって生ずる地を点定しおくと、何の点定もなく探したらあるだろうとてぶらぶら捜しまわるとは、学者の経費上に非常の径庭《けいてい》あり。学問の進歩にも大関(496)係あることなり。
 一所不定と称せらるる下等隠微植物すらかくのごとくなれば、高等顕花羊歯群植物等、住処にはなはだ癖のあるものは、なるべくはその住処を知りおき、そこそこに保存されたきことに候わずや。(右の糸田の猿神社は全滅、樹木一本もなく、村の井戸濁り、飲むこと成らず。)これを例すれば、カラタチバナと申すものは、前年牧野氏が植物採収に出かけたときは、土佐辺の栽培品に基づき記載されしと存じ候。小生知るところにては、本州には紀州の外にあまり聞こえず。さて九年ばかり前に、那智には小生、三、四本見出だす。このものは変態多きものと見え、自生品にすでに白斑《はくはん》あるもの二本ありし。その後一向見出ださざりしに、この田辺より三里ばかりの岡と申す大字の八上《やかみ》王子の深林中に宇井氏見出だす。それより栗山昇平氏、一昨年栗栖川の神社合祀跡で見出だす(むろん只今は湮滅)。寛政七、八年ごろカラタチバナ大いに賞翫され、一本の価千金に及べるあり。従来蘭や牡丹の名花は百金に及ぶものあれど百金を出でし例を聞かず、と『北窓瑣談』に見えたり。hortorum の名をつけしも、この栽培品によれるならん。何に致せ、当県では少なきものなり。
 しかして右の八上王子は、、『山家集』に、西行、熊野へ参りけるに、八上の王子の花面白かりければ社に書きつけける、
   待ち来つる八上の桜咲きにけり荒くおろすな三栖《みす》の山風
とて、名高き社なり。シイノキ密生して昼もなお闇《くら》く、小生、平田大臣に見せんとて写真とりに行きしに光線入らず、止むを得ず社殿の後よりその一部を写せしほどのことなり。この辺に柳田国男氏が本邦風景の特風といえる田中神社あり、勝景絶佳なり。また岩田王子、すなわち重盛が父の不道をかなしみ死を祈りし名社あり。
 これらの大社七つばかりを、例の一村一社の制に基づき、松本神社とて大字岩田の御役場のじき向いなる小社、もとは炭焼き男の庭中の鎮守祠たりしものを炭焼き男の姓を採りて松本神社と名づけ、それへ合社し、跡のシイノキ林(497)を濫伐して村長、村吏等が私利をとらんと計り、岡大字七十八戸ばかりのうち村長の縁者二戸のほかことごとく不同意なるにも関せず、基本金五百円より追い追い値上げして二千五百円まで積み上げたるを、わざと役場で障《ささ》え止めてその筋へ告げず、五千円まで上りし際村民に迫り絶対《ぜつたい》絶命に合社せしめんとするに、その村に盲人あり、このことをかなしみ、小生方へ二、三度言い訴え来る。よって小生このことを論じて大いに村長をやりこめ、合祀の難をのがれ今日までも存立しおる。小生みずから走り行き、役場員が呆れ見る前で写真とり、歩行して松本神社の大いさを量りしに、わずかに長さ三十二歩幅二十六歩ばかりの小境内なり。それへ酒屋の倉の屋根のごときものを移し来たり、他の神社九を蜂の子のごとくに押し込み、さてその九社の跡の神林を私利のために伐り尽さんとせしなり。
 この村長は松本甚作とて模範村長たり。この人お上《かみ》を欺くに妙を得て、まずその村の小学校へ校医と裁縫教師幾名置けりと報告す。その校医たり裁縫教師たる人に逢うてきくに、一向そんな任命はききしこともなしという。また村の実況を書き上げよと托されたる教員が、村の一部に博奕するもの多少ありと実況を書きければ、たちまちこれを放逐す。政府の御用新聞たる『国民』子すら、昨年書きしごとく、今日の模範村長などはみな書上《かきあげ》をよくすることをのみ力《つと》め、実は模範村長となりて鼻糞金三、四十円頂戴するために、村民の迷惑、風俗の壊乱、古物名蹟の乱滅はかなしむに堪えたるものに候。(この松本神社等の写真は、中村啓次郎氏、平田子に示し、その不都合を言い立てたり。)
 当県知事は、前日内務省地方長官会議に一本大臣からまいられ、帰りて訓令を出し、神社合祀は決して勝景を害せずといえり。しかれども、本邦に神社ほど勝景に関係あるものなきは欧人も知るところにて、わが国のごとき薄弱不耐久の建築にては、いかに偉大なる建築を施すも、到底、ローマ、アッシリア、インド、回々教国の石造、煉瓦造のものに及ぶはずなし。(されば、往年チガコ出板の‘Monist’紙上に、開化の定義の一として、建築が後代に永く遺り、たといその国民亡ぶるも建築が伝わるべきものにあらざれば真の開化にあらずと言いし学者ありしは、至極珍ながら欧人の気質を発揮して面白し。)しかるに、近曰の『大阪毎日』に菊池幽芳氏が書きしごとく、欧州の寺院等は建築(498)のみ宏杜で樹林池泉の勝景の助くるないから、風致ということ一向なし、というも至当の言たり。今わずかに五千円やそこらの金を無理算段して神社を立派に立てたところが、濠州木曜島帰りの出稼ぎなど帰り来たりこれを見て、何だこれはメルボルン郊外の曲馬小屋にも及ばぬというに違いない。現に和歌山の県庁、煉瓦造りで立派になったと聞いて、十年ぶりに去年和歌山へ帰省し拝見せしに、欧米に半生を厮殺《しさつ》したる吾輩にはシンガポールのラシャメンの妾宅ほどにも見えなんだ。せっかく自国固有の伝説通りに古人が意を込めて経営した神社などつぶし、埒《らち》もなき間《あい》の子《こ》の社殿を立て、ペンキぬりの白鳥居やブリキ蓋《おお》いの屋根など立つるよりは、やはり北条泰時が大廟をほめたごとく、素朴簡易にして、しかも近づくべからず、樹林森々として風に琴音《きんいん》を出す方がありがたく覚えらる。ギリシア・ローマの早世期の神社の風として、今に美術社会に尚《とうと》ばるるもの、みなかくのごとし。されば、千円や二千円の木造社殿やブリキ屋根を新設して得たりと誇る当県知事などは、実に風流雅尚を解せぬ俗物で、せめては歳時記の一つも買うて俳句でも稽古させたきことなり。
 例として封入する、(1)西の王子は出立の浜と称し、脇屋義助、熊野湛増、また征韓の役に杉岩越後守等、みなこの出立の浜を出船せるなり。御存知通り熊野兵は昔よりどちらともつかず、ただ報酬多き方へ傭われたること、『平家物語』、『太平記』にて知られる。南北朝ころは、薩摩、大隅まで加勢に行き、また戦国には北条氏、里見氏までも援兵にやとわれ候。悪いことのようなれど、ハラムの『欧州開化史』にも、傭兵(マーセナレー)起こりてより戦士本気になって働かず、ある戦いに三日とか数万の傭兵仏国で大戦争し、戦死無慮三名、それも大酩酊の上馬に乗り行きしゆえ馬より落ち不慮に死したるなりと知れ、敵も味方も阿房《あほ》らしくなり、ついに戦争少なくなれり、とありしよう覚え候。しからば、ちと牽強ながら、慶元の際邦人|兵戈《へいか》に飽き足りしとき熊野兵のようなものありしゆえ、いよいよ戦争がつまらなくなり、終《つい》に徳川三百歳の太平を享けるに及べりと故事《こじ》つけ得べく、恐縮ながら赤十字社などや平和会議の先鞭を着けしものの史蹟として保存すべきものなり。古老に聞くに、関ヶ原の役に、杉岩の兵ここより出で立ち、(499)徳川へは徳川方、石田へは大阪方たるべきような通牒をなし、そろそろと艤《ぎ》し行くに、和歌山まで十五日かかる。さて和歌山へ着せしに、家康より状来たり、関ヶ原で大捷ゆえ目出度く引き取りくれとのことで、熊野兵大いに悦び半日の間に田辺へ安着せり、と。
 しかるに、この神社は無双の勝景で、熊野九十九王子の一たるに、村人二千五百円まで基本金積みしも聞き入れず、五千円を積むか神社を合祀せよ、しからずんは氏子総代を入牢さすべしと、堀という郡書記脅迫を加え、止むを得ず合祀せしが、今も社費を納めず、合祀先の本社へ一人も参らず、祭日はこの神社跡で神体なしに行ない、神主の代りに近傍の坊主を招き、経を読ませ、神やら仏やらさっぱり分からず、よって懲《こら》しめのため、この社阯の樹林を一切濫伐すべしとの命を下し、村民小生方へ走り来たり、小生弁解して事すみたり。無双の勝地たるのみならず、この樹林を伐らぬさえ大風雨のとき、土崩れ官道を損じ、人家を潰すなれば、原敬氏内務大臣たりしとき、合祀訓令にありしごとく、由緒《ゆいしよ》来歴のみならず、地勢にも顧み、神林はたとい神なくとも保存されたきことなり。(ウマメカシ、シャシャンボ、クスドイゲ等の雑木と松のみなれば、伐ったところが何の益もなきことなり)。
 また(2)出立王子は、御存知のごとく、『後鳥羽院熊野御幸記』に塩垢離《しおごり》をとるとある御旧蹟にて、塩垢離とらせたまえる岩は今も存せり。御譲位ののち二十八回とか熊野へ御幸あり、諸処王子の社にて御歌会を催され、関東討減の軍議を催させたまいし。ことに、ここにて万乗の尊をもって親しく潮をあび、祈請せさせたまいしなり。その跡を何の苦もなく破壊し、図のごとくきたなき貧民の衣服をほさせ、また小生の四辺を取り囲める悪少年ら日にここに集まり、下なる民家へ小便をたれこみ、婦女の行水《ぎようずい》を眺むるなど、悪行醜態言語に絶せり。これを漬して何の益もなく、ただ丘上の小学校へ通う路を不恰好に大きく取り広げたるのみ、四隣の人民迷惑はなはだし。さて今も帝徳を慕うのあまり、一人も合祀社へ参らず、祭礼を勝手自前に行ないおれり。この一条には平田子も閉口し、中村代議士に対し返答できざりしなり。(小学校へは後鳥羽上皇の尊像を配りしと聞くに、その御遺蹟を悪太郎どもの小便場と化し去る(500)もまたはなはだし。)何とか御あとへ遙拝所くらいは立てそうなものなるに、今に放置しあるなり。ないよりはましという心得にや、この辺に狐を拝する道場生じ、只今大はやりときく。
 (3)三栖中宮、(4)三栖下宮なり。これは閣下らが三栖を通りて御存知の通り、なかなか立派な宮なり。熊野街道の風景を添うることおびただし。しかるにこれをも例の通り、境内の樹木を伐るため上三栖のより劣れる小さき社へ合祀しおわりしが、小生の抗議により今までは樹を伐らずにあるなり。この村は千円や二千円の基本財産にこまる所にあらず。しかるを何様《なにさま》、社を滅却して功名とせんとて五千円まで基本金を値上げせるゆえ、五千円という金はちょっとできず、止むを得ず合祀せしなり。今日史跡勝景保存会といいて、全く古えの風を存せざる飯田町や不忍池畔へ馬琴や季吟の碑や像を立つるよりは、何とぞ只今救わば救い得るこれらの熊野諸社の林地を保護し、成ろうことなら復社させやるよう御運動下されたきことなり。
  西洋に、林地には必ず礼拝堂あり、また十字架を立つるごとく、当地方では神威を借るにあらずんば樹林の守護はできがたきなり。すでに去々年、当地近き新庄《しんじよう》という村の小学校、紀念のため児童をして校地に桃樹、桑樹一千ばかり植えしめしに、一月立たぬうちにことごとく烏有となりおわりぬ。またこの田辺の浜へ今年松苗二千株ばかり樹《う》えしに、昨今一本も存せず。
 右は小生調べ集めたる材料のうち百分の一ばかり御覧にかけ候。本宮ごときは、白井光太郎氏も『日本及日本人』に書きしごとく、二十二年の水害に宝物文書流失し、本社も潰れ、古えを忍ぶものとては川中の小島(すなわち旧本社の跡)の古樹林のみにて、その昔、山また山を踰《こ》えて参詣したまえる聖帝、また月卿雲客《げつけいうんかく》、平重盛、平政子、仁科盛遠、いずれもこの老樹林の下に跪拝せしことを念《おも》い出だして苦を忍びしその老樹を、神官の私宅を建つるためにとて昨年七月までにことごとく伐り倒し、小生ら異議を申し立てしもきき入れぬのみか、野暮な方なことをいうと嘲笑され候。さてその神官は他所の者でどこの馬骨か知れず、たちまち他へ転任になり、只今小生ら小言いうも相手なく、狐(501)につままれしごとし。今の本宮に旅順で分捕《ぶんどり》の大砲など並べあるが、こんなものは器械でできる。別に右の神樹老木に比して何の恭敬の念を起こさず。石燈籠、手水鉢、古いものはみな毀却《ききやく》し、新しきもののみゆえ、何の史蹟という点少しもなし。手水鉢、石燈籠など、昔のは今日見られぬよき花崗石《かこうせき》など多く、また友人バーミンガム大学教授ウェストが言う通り、石質によりはなはだしき珍藻あり。たとえば、妙法山の大手水鉢中より小生見出だせしテトラストルム((1)図)のごとき、確かに新種と存ぜられ候。またラジウォフィルム((2)図)、セネデスムス・フラヴェッセンス((3)図。微少なる甲介虫《クラスタセア》を擬せるごとし)は欧州にも稀有のものなるが、当地より四里ばかりなる富田《とんだ》の道傍の地蔵前の石手水鉢より見出だす。顕花植物中最微の物たる Wolffia((4)図)の一種を、和歌浦近き東禅寺の弁天祠前の沙岩手水鉢より見出だせり。ことに奇なるは、那智山一の滝下旧祠堂廃趾の四角なる手水鉢の傍らなる石筧《いしとゆ》は、過半希異の赤色硬藻ヒルデンブランジア・リヴュラリスで、けだし素人が見たら、花砂を含める珪石か、またはアカシダマ石で筧を作りしかと思わるる美観なり。神社の手水鉢等は、多くは合祀に伴い放置され、また破却されしものなり。
 新宮では、神社合祀を東牟婁郡中に励行せしに、まず郡内手弱き麁朴《そぼく》の民多き七川《しちかわ》郷より始め、神社多く合祀、しかし添の川という所で暴動起こり少々?躇《ちゆうちよ》これがため高田という山村また那智村辺は全く抗議し、今日まで残存せり。その入れ合せに、小生が昨年の国会へこのことを持ち出さぬ前にと、大忙《いそ》ぎで新宮中の神社ことごとく破却公売し、新宮神社へ合祠す。その時の励行は実に烈しく、鳥羽院に随侍し来たりし女官が立てたる妙心寺という寺までも、神社と称し破滅せんとするに至れり。当時新宮第一の学者小野吉彦(これは学問のみならず、篤行をもってはなはだ人に重んぜらるる人)の来状、左に抜き出す。
 強制的神社合祀のこと、小子らにおいても、その(502)理由存するところを審《つまび》らかにする能わず。賢台(毛利清雅、この者当国で一番に合祀を民の随意に任すべしという論を言い出す。『牟婁新報』の主筆なり)
 小生は、従来|山※[獣偏+操の旁]《やまおとこ》ごとき独身生活を山中に営みおりしものにて、毛利ごとく政治行政のことに少しも関せず。
 英国のトマス・ブラウンは英国大内乱の際、一向介意せず、所学をもっぱらに研《みが》きしと申すが、小生もそんな風の男なり。毛利は政治家で功過相半ばす。しかし世間を相手に主張を貫かんには、新聞記者などをも味方とせざるべからず。むかしウチカのカトー、ローマの内乱に臨み、シーザルも悪人なり、ポンペイまた純善の人にあらず、しかしながら二つ取りにせんにはポンペイの方まずは国家に害心少なしとてその味方し、ポンペイ敗死するに及び、ちょっと頭を下ぐることシセロのごとくせば、シーザル喜んで死を赦せしはずなるに、屈せずして死せり。小生もまたこんなことにて、神社合祀反対を立てぬかんため『牟婁新報』で筆禍を得、罰金を命ぜられ、また乱暴して監獄行きとなれり。今日の世には味方なしに何にもできず。当時小生は三好氏の保勝会等のことを少しも知らず、訴えんにも訴え所なく、ついに入監にまで及べり。
および南方先生等の挺然御奮起、侃々《かんかん》その非を御論議成し下されおるを伝承仕り、陰《かげ》ながら深く感謝申し上げ候。すでに当新宮町ごとき合祀を断行致し、渡御前《わたるごぜん》社(神武天皇を奉祠し、もっとも民の信行深し)を始め、矢倉神社、八咫烏神社ごとき由緒|旧《ふる》く、来歴深く、民衆の崇仰特に厚かりし向きをも、一列一併に速玉《はやたま》神社境内大琴平社と飛鳥社とに合祀しおわれるのみならず、当時矢倉町なる矢倉神社、船町の石神社、奥山際地なる今神倉神社(祭神熊野開祖|高倉下命《たかくらじのみこと》の御子天村雲命)のごときは、すでに公売に付しおわり、石段は取り崩され樹木は伐採移植せられ、神聖なる祠宇は群児悪戯の場となり、荒涼の状真に神を傷《いた》ましむるもの有之《これあり》候。近ごろ、郡参事会員某氏の話に、氏の村内某大家のごときはこれを悲しむこと、ことに深く、合祀実行の日は全大字を挙げすべて戸を閉じて、号泣哀痛の意を表し、また自分の大字の氏神のごときも、やむなく他に合祀せられたるも、こは別(503)に遙拝所を設け祭礼を執り行なうはずと話されおり候。神倉神社(史籍にその火災を伝書し、古歌に名高き社)も速玉神社の摂社として遷され候。奥山際なる今の神倉神社の例の大老樟の立ち掩える社地は、宮本熊彦氏坪九円計七百円にて落札せるが、その日の中に千円にて他へ譲り渡し、奇利三百円拾得致し候由、云々。(しかして新宮の神官宇井という者は、件《くだん》の神武天皇社の滝の水を自宅へ取り込み、また社有の藪の筍《たけ》の子《こ》の売上高を私《わたくし》し、賽銭を祭日にわずかに一円と書き上げ、その他を着服すとの評高し。只今一厘銭はなく少なくも五厘銭にて、新宮ははなはだ華奢《かしや》の地なれば、祭日の賽銭一円とは虚言もはなはだし。今回の那智事件も、どうやら神官尾崎(前に郡書記たり)も入監されるらしく候。神職というもの、みなこの通りのつまらぬ人物なるに、それに厚給を与え、学校教師と背馳して旧いドグマを説かせ、国家の進歩を計らんとするは心得られず。新井白石の『読史余論』には、経忠公が南朝に奔りたまえる条に、公家《くげ》と僧侶ほど徳義心の薄きものなき由いえり。しかるに、かかる不条理の合祀行なわるるに及び、蹶然《けつぜん》その国体に害あるをいいし神官とては、伊勢四日市諏訪社の神官|生川《なるかわ》鉄忠氏一人の前後になかりしは、実にわが国のために憂うべきことと言わざるを得ず。)(参照、中村啓次郎、衆議院の演説中に下の一節あり。日高郡|南部《みなべ》の雨水という人の何の心もなく書きし俳句の小引に、一月七日、神社合祀の令、厳〔二字傍点〕にして背《そむ》くべくもあらず、ついに決してこの夜を期とし、大字の神を村社に送る。一戸二、三人送らざるなし。神灯長く続きて外観賑やかなりといえども、人々|寂《せき》として声なし。門の外、辻の辺、婦女童男莚上に脆《ひざまず》きて見送る。惜別の情禁じかねてか、時に嗚咽《おえつ》を聞く、云々。)
 しかして当局者は、合祀は敬神の実を挙ぐとか、その真意は善しとかいうが、真意はどうであろうが成蹟ははなはだ悪しく、すでに当県の村長が県庁を紿《あざむ》き県費をちょろまかせし数二十二に及び、全国第一の名あるあり。また合祀のもっともはなはだしかりし三重、和歌山の交界点たる新宮町に、大逆事件に最多数(六人)の逆徒を出せり。それ無智の村民も、召伯の甘棠《かんとう》を伐るに忍びず、緇徒《しと》の最悪なるもの、なお甘茶《あまちや》を釈迦に灌《そそ》ぐを忘れず。しかるに君子、(504)人を愛して屋上の烏に及ぶと言うに、国祖皇宗神武天皇の社を破壊公売して快《こころよし》と称するは、これすでに官公吏率先して大危険思想を挙行するものにあらずや。(このことは『東京朝日新聞』へ小生出し、次いで『万朝』かなんかへも出て、当局大いに返答にこまれり。)
 むかし回教の勃興せし際は、回祖回宗《マホメツトカリツフ》みずからみな一日に若干時の営業をなせり。(はなはだしきは籃《かご》を編みて道路に売りしあり。)只今その教衰えるに及んではムーラ、ハジなど称し、国の法界坊ごとき遊食の徒おびただしく、安楽坊|梅八《うめはち》ごとく、踊り廻りて銭を乞うものはなはだ多きは、松村教授トルコに遊びて実見のことならん。神官が貧乏になれるは假輩の罪なり。その満足のものはいずれも役場へ勤め、小学校を助教し、それぞれ世益ありしなり。ロンドン、ニューヨークの盛といえども、寺院は七日全く拝み通しのものにあらず。僧侶それぞれ内職に学問を教え、文学を著述し、小学を教え、孤児を誨《おし》えて寧日《ねいじつ》なし。有名なる僧侶にして、淡水藻のプレパラートなどを手製し糊口の資とせし人あり。菌学の父といわるる故バークレー氏なども、糊口のためグリーク語を誨え、菌学はわずかに夜間眠時を節して勤められしなり。
 しかるに、当国只今のごとき逼迫の世に、神道ごとき不文不典の教を、強いて、この無智、無学、浅見、我利我慾の劣陋神機の輩に拡張せしめんとし、強いて旧史、地誌、土俗、郷風に大関係ある神社を滅却してまでも、その俸給を増さんとするは心得られず。もし実に民庶文化の開けざるを導かしめ、足らざるを補わしめんとならば、よろしく市町より始めて村と大字に及ぼし、徐かにその人を養成して、しかして後これを改補し、数社を兼務してもっぱら神事を掌《つかさど》り、遊食片時なるを得ざらしめて可なり。しかるに、今神主その人を得ず、またその人数に満たざるに、強いてまず神社から潰してかかること心得られず。西洋にも一僧にて諸寺管を兼ぬる例多く、その人ために空手遊食せず。神事また斉《ひと》しく挙ぐるなり。いわんや大市大町と等しく、三千円五千円の金を一時に積み立てんことを寒村|僻邑《へきゆう》に迫り、これを積み立てずんばその社を滅却し、古樹老木までも全滅してなお十分の一に足らざるを知りながら、強いて(505)これを濫伐せしむるは、はなはだしからずや。もし実にその社の永続を期せられんには、民の自由に任せ、その民神社の存立を願わば、二十年なり三十年なり五十年なり、永世を期して一定の社領税を課し、漸々これを積み立てしめて可なり。
 わが邦の人は、由来一種欧人に見得ざる優雅謹慎の風ありとは、小生が二十四、五年前米国に留学せし時毎度聞きしところなり。その後十年ばかり前に英国にありて、わが国に古く往来せし人士より荐《しき》りに聞きしは、わが邦人は年年にこの美風を失い行くとのことなり。こは、わが邦由来封建の制にて君主藩侯なき土地とてはなく、したがって長上に対して生来|敬慎《けいしん》の美風を養生せし遺風多きにおること勿論なり。今日は昔とかわり、われらごとき素町人の子も時を得れば才次第で男爵くらいには成り得る世なれば、大臣や次官くらいを見ても何とも思わず。すでに心底から何とも思わぬものに、上述のごとき謹敬|欽仰《きんこう》の念起こらぬは知れきったことなり。いわんや、その長上たる人、多くは敗徳不名誉の行いあり。狼に冕冠《べんかん》せしめたるに過ぎざるにおいてをや。しかるに、ただ一つ封建の制より一層古く邦民一汎に粛敬謹慎の念を銘心せしめおるものあり。何ぞや。最寄り最寄りの古神社これなり。いわゆる何ごとのあるかを知らねど有難さに涙こぼるるもこれなり。神道は宗教に相違なきも、高語論議をもって人を屈従させる顕教にあらず。言詞杜絶、李白も賦する能わず、公孫竜も弁ずる能わざるの間に、心底からわが邦万古不変の国体を一度に感じ、白石が秋田氏の譜(『藩翰譜』)にいえるごとく(たとい有史前は多種の人種混雑せりとするも)、有史以後、啻《ただ》に皇族の万世一系たるのみならず、非人、えたに至るまでも、みな本邦の原人より統を引きたるものたることを不可言不可説の間に感ぜしむるの道なり。故にその教は、古え多大繁雑の斎忌 taboo system をもって成れる慣習条々(不成分律)を具したるのみ、外に何というむつかしき道義論、心理論なし。
 時かわり世移りて、その神主というもの、斎忌どころか、今日この国第一の神官の頭取奥五十鈴という老爺は、『和歌山新報』によるに、「たとい天鈿女《あまのうずめ》の命のごとき醜女になりとも、三日ほど真にほれられたいものだ」など県庁(506)で放言して、すぱすぱと煙草を官房で環《わ》に吹き、その主張とては、どんな植物があろうがなかろうが、詮ずるところは金銭なき社は存置の価値なしと公言し、また合祀大主張紀国造紀俊は、芸妓を妻にし樟《くす》の木などきりちらし、その銭で遊廓に籠城し、二上り新内などを作り、新聞へ投じて自慢しおる。こんな人物がいかにして説教したりとて、その感化力はとても小学教員には及ばず、実は教育の害物なり。現に従来祭日にのみ神官に接せし諸村民は、神官なしに毎朝夕最寄りの神社に詣して国恩を謝し、一家安寧を祈り、楽に基本金なしにそれぞれに醵金して今日まで立派に維持し来たり、神主はそれぞれより補助されて祭典を挙行し、何不足なく自分もそれぞれ内職に教員なり百姓なり営み来たれること、上述、欧州また古回教国の例のごとし。されば、神官はほんの扶助物 accessory にして、国民に愛郷愛国の念、謙譲恭慎の美風を浸潤せしむるは、一に神社その物の存立によることなり。
 プラトンは、ちょっとしたギリシアの母を犯したり、妹を強姦したり、ガニメデスの肛門を掘ったり、アフロジテに夜這いしたり、そんな卑猥な伝話ある諸神を、心底から崇《あが》めし人にあらず。しかれども、秘密儀 mystery を讃して秘密儀なるかな、秘密儀なるかな、といえり。秘密とてむりに物をかくすということにあらざるべく、すなわち何の教にも顕密の二事ありて、言語文章論議もて言いあらわし伝え化し得ぬところを、在来の威儀によって不言不筆、たちまちにして頭から足の底まで感化忘るる能わざらしむるものをいいしなるべし。小山健三氏かつて、もっとも精神を爽快ならしむるものは、休暇日に古神社に詣り社殿の前に立つにあり、といえりと聞く。かくのごときは、今日合祀後の南無帰命稲荷祇園金毘羅大明権現というような、混雑|錯操《さくそう》せる、大入りで半札《はんふだ》をも出さにゃならぬようにぎっしりつまり、樹林も清泉もなく、落葉飛花見たくてもなく、掃除のために土は乾き切り、ペンキで白塗りの鳥居や、セメントで砥石を堅めた手水鉢多き俗神社に望むべきにあらざるなり。
 小生家内事多く、昨夜来眠らずすこぶるくたびれ、また明日は英国のリスター女史へ粘菌送るため、これから顕微鏡の画をかかざるべからず。それがすむと、野中村へ神林の老木伐採を見合わすよう勧告に、往復十七、八里を歩ま(507)ねばならず。
 野中《のなか》、近露《ちかつゆ》の王子は、熊野九十九王子中もっとも名高きものなり。野中に一方《いつぽう》杉とて名高き大杉あり。また近露の上宮にはさらに大なる老杉あり、下宮にもあり。上宮のみは伐採せられしが、他は小生抗議してのこりあり。何とか徳川侯からでも忠告してもらわんと、村人に告げてまず当分は伐木せずにあり。しかし、近日伐木すると言い来たり、すでに高原《たかはら》の塚松という大木は伐られたから、小生みずから止めにゆくなり。後援なき一個人のこととて、私費多き割に功力|薄《うす》きにはこまり入り候。いずれも一間から一丈近き直径のものに候て、聖帝、武将、勇士、名僧が古え熊野|詣《もうで》にその下を通るごとに仰ぎ瞻《み》られたるに候。この木等を伐らんとて、無理に何の木もなき禿山へ新たに社を立て、それへ神体を移したるなり。これらは名蹟として何とか復社させられたきことに御座候。この三社の神主は荷持ち人足の成り上りにて、何にも知らぬごろつきごときもの、去年小生その辺へ行きしとき、妻と喧嘩し、妻首縊り死せし所なりし。かかるつまらぬ者の俸給を上げんために、かかる名社をことごとく滅し、名木を伐り尽すは、いかにもつまらぬ話と存じおり候。
 大抵、諸他の村々の合祀は、在来の一社を指定して村社となし、他の諸社をこれに合併したるものなれども、この近野村の合祀は破天荒の乱暴にて、全く樹林を濫伐せんがために、七、八百年来あり来たれる村社四、無格社九、合して十三社を全滅濫伐し、その代りに木もなく地価も皆無なる禿山頂へ、新出来無由緒の金毘羅社という曖昧至極の物を立て、それへ諸神体を押し籠め、さてその禿山へ新たに神林を植うるという名目の下に、周囲二丈五尺以下、一丈三尺の大老杉十余本を伐らんとするなり。合祀の際、件《くだん》のごろつき神主、神体を掌に玩び、一々その代価を見積もり、公衆前に笑評せり。合祀滅却されし十三社中、野中王子、近露王子、小広王子、中川王子、比曽原王子、湯川王子の六社は、いずれも藤原定家卿の『後鳥羽院熊野御幸記』に載りたる古社古蹟なり。
(508) 玄奘三蔵の『大唐西域記』に、むかし雉《きじ》の王あり、大林に火を失せるを見、清流の水を羽にひたし幾回となく飛び行きてこれを消さんとす。天帝釈これを見て笑うていわく、汝何ぞ愚を守りいたずらに羽を労するや、大火まさに起こり、林野を焚《や》く、あに汝、微  躯のよく滅《めつ》すところならんや、と。雉いわく、汝は天中の天帝たるゆえ大福力あり、しかるにこの災難を拯《すく》うに意なし、まことに力甲斐なきことなり。多言するなかれ、われただ火を救うがために死して已《や》まんのみ、と。小生すでにこの三年空しく抗議して事はますます多く、妻子常に悲しみ、自分は力と財とますます耗《へ》り行き、また所集の植物を発表することもできず、訴うる所もなく困りきりおれり。東京には旧君侯(頼倫侯の御事)を始め、すでにこのことを防止すべき有力なる会まで立ちてありと聞く。従前、平瀬作五郎氏に托し大学へ頼み申し上げしも、達せざりしと見えたり。このごろ岡村博士の来県にあい、始めて貴下の国粋保存御熱心家なる由を承聞し、欽仰に任《た》えず、この長文を筆して成敗を天に任せ差し上げ候間、何分にも同志諸士と御議定の上、
  当県神社合祀を中止し、合祀趾は一切保存し、神職の給料は漸をもって積み立てしむること。
  次に英国の treasure《トレジユア》 trove《トローヴ》の法に倣《なら》い、土器、石器、そのほか土中より掘り出す考古上の品は、一切皇室の物とし、その筋へ献上し、その筋にて御査定の上、大学または帝室博物館へ留め置かれ、さまでにもなき品は本人に下付して随意に売却せしめ、また社地より出たるものは、これをその社に下付して神宝とし、永世保存せしむること。
   このことはもっとも必要なることにて、只今も当地近く、古塚より曲玉《まがたま》、インベ、管石等おびただしく出で候も、小生は往き視ず。視たところで、ただただ姦商を惹き出し、種々悪策を生ぜしむるのみなればなり。この辺で出る古器に珍なもの多きも、何のわけもなく散佚するは惜しむべし。何とぞ政府にこのことに関する bureau を作り、軽便なる方法をもって、かかるもの出るごとに役場より一切ひとまず政府へ送らせ、大学等にて鑑査の上、取り上ぐべきものは皇室の御有として、大学等へ留め置かれ(英国も然《しか》り)、不用の分は本人へ還すようありたきことなり。
(509)  さて、漸をもって諸神社蹟また古塚等を巡廻して発掘させ、一切皇室の御物とされたきことなり。(それぞれへ御貸し下げは適宜とす。)
 友人柳田氏はもっとも本件に尽力され候人、小生一面識もなきに、かくのごときは何かの宿縁かと存ぜられ候。よってこの状柳田氏の一覧を経て貴方へ衝廻し申し上げ候。
 明治四十四年八月二十九日夜九時四十五分書終
                       南方熊楠拝
   松村任三様 御侍史
  時刻迫り候につき不再読、誤字渋筆万々衛察読を乞う。
 
          2
 
 拝呈。一昨夜柳田氏を経て、貴下へ一書差し上げ候。右は長文にて、小生は文字を習いしことなきゆえ、はなはだ御難読の御事と恐縮に候。さてその節の長文、大意は御了解相成り候ことと存じ候えども、なお遺憾なきよう左に増補申し上げ候。
 明治三十九年原敬氏が内務大臣たり、水野錬太郎氏(小生と大学予備門にて同級なりし)が神社局長たりしとき、出されたる合祀の訓令には、『六国史』、『延喜式』に載りたる神社、勅祭準勅祭諸社、皇室の御崇敬ありし諸社(行幸、御幸、奉幣、祈願、殿社造営、神封、神領、神宝等御寄進ありしもの)、武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし神社(寄進等、上に同じ)、祭神その地方に功績あり、また縁故ありし諸社は、必ず合祀すべからず、また勝景、地勢、土俗に関係重きものも然《しか》りとのことにて、つまり八兵衛稲荷とか、高尾《たかお》(遊女)大明神とか、助六《すけろく》天神とか、将《らち》もなき後世一私人、また凡俗衆が一時の迷信から立てた淫祠小社を駆除するにつとめたものなり。
(510)  那智山に実加賀《じつかが》行者とて巫蠱《ふこ》をもって民を乱迷せしめ、明治十四、五年のころ滝より飛び降りて自殺せるものを、大なるしかけにて、今に香花《こうげ》絶えず。かかるもの到る処多く、また寺の中に天狗、蛇魅、妖狐等をまつるもの多し。在来の旧社の信仰を奪うのみならず、はなはだ淫猥の風を増す。かかるものは新しくて履歴正しからぬはことごとく駆除されたきことなり。
 故に、この原氏が出せし合祀令は実に至当なるのみならず、小生はその励行をもっとも望みたる一人なり。しかるに原氏内閣を去り、平田氏内相となるに及び、例の二宮尊徳の「シミタレ宗」を尊拝のあまり、件《くだん》の原氏の訓令を改修し、務めて神社を潰すことに訓令を定め、金銭を標準として神社を淘汰するに及び、かつその処分は一に県知事に一任し、県知事はまたこれを無学無識の郡長に一任せしより、歴史も由緒も勝景も問わず、いわんや、植物、またことに小生が専務とする微細植物などのことは問うはずなく、ことに当県は官公吏無識無学なる上、土地に関係なき他国よりの出稼ぎ吏員多きこととて、おのおの得《え》たり賢《かしこ》しと神狩《かみが》りを始め、いつのまにやら五千円という大金を基本財産と定め、五千円積むこと能わざる神社を一切掃蕩に及ぶ。故に、いかなる神社も五千円の基本金はできぬゆえ、止むを得ずいやいやながら泣きの涙で県庁のいうがままに一村一社の制を用い、指定一社外の諸社をことごとく伐木し、地処を公売して指定の一社の財産とし、神官神職の俸給を出すこととなる。これがため人民の一番淳樸なる有田郡は一村に一社の外の諸社はことごとく掃蕩され、日高郡これに次ぎ、只今一村一社の外にのこりあるは三社のみと聞き及ぶ。
 この辺は平原低地で昔より田園早く開けた地ゆえ、土地の植物を視察するは神社の林地の外に見様なく、さてその神社つぶされ、神林ことごとく伐られたるゆえ、有田、日高、すなわち三好教授の言われしごとく、東西牟婁を本州特有の半熱帯として、その半熱帯と他の本州の諸温帯植物境の境界線たる所で、従来小生見るところによれば、??《はまびし》などは日高郡和田村まで生ずるが、それより南には決してなきと同時に、有田、日高の神社に比較的寒地生の樹木(511)(熊野には決して見ざる)サワラの木頂に熱地植物たるマツバランが叢生する等の珍観ありし。神森濫伐のため、かかることは今日夢にも目撃し得ず。
 ついでに申す。和歌浦辺にノグルミの林ありし。はなはだ希《まれ》なるものなり。また小生十一年前帰国のときまでは、和歌浦にハマボウ(貴槿)なお自生ありし。今日そんな原産物は全く絶え、代りにコウヨウザンなど外国のもので、土地、形勝不似合いのものを多く栽え、植物学上の分界を乱すことはなはだし。
 御存知の通り、日高郡はさまで広からざるも、日高川は屈曲はなはだしきため四十八里の長さありと称す。そのかたわらに有名なる愛宕《あたぎ》の大神林を始め、いずれも上述亜熱帯と温帯と、またことにより寒地植物の交錯点にて、研究|考覩《こうと》になかなか便利多き地なり。しかるにこの郡は人民おとなしく郡吏等をおそるること鬼のごとく、唯《ただ》命に是《これ》従うで、愛宕の神林も和歌山の南楠太郎という豪富(成り金)が神職に賄賂《わいろ》して村の者と公事《くじ》を起こし、村民費用に任《た》えず、ついに大部分濫伐されおわり、その他の諸神林も、あるいは濫伐され、あるいは濫伐中のもの多く、社殿荒廃、諸人が古え家が絶ゆるとむこればかりは遺《のこ》れとて、寄進寄付せし、田地、石鳥居、石の礎《いしずえ》破毀移有され、まるでタメルラン、アッチラに制伏されしインド、ペルシアの史乗を現前するがごとく、人民|寧処《ねいしよ》せず、人気凋落して、小生などは二度と往き見るを望まぬなり。東西牟婁郡は小生の抗議もつとも務めたるゆえ、今も多少は神林の残るあるも明日を聊《りよう》せず。『水滸伝』は、官を賊となし、賊を官とせる書なりと申し、奇代千万なことと存ぜしに、あに料らんや、当県は目下そのごとく、一私人たる小生の力の及ぶところは(たとえば当田辺町ごとき)一文の基本金なしに諸社維持し行き、湯浅、日高には、位階儼然たる大社にして、その基礎をすら認めぬまで潰されたるもの多し。日高郡|上山路《かみさんじ》村ごときは、大小七十二社を東という所の社に合祀し、その神宝、古文書を一切集め、社殿に展覧なせし夜、合祀を好まざる狂人ありて火を放ち、七十二社の諸神像、神宝、古文書ことごとく咸陽《かんよう》の一炬《いつきよ》となる、惜しむべきのはなはだしきなり。
(512) むかし水戸の義公は日本の諸古文書を写させ、これを一所に置かず、火災を防がんため諸所に分遣されしと申す。只今東京辺で考古考古と言うて京伝や種彦が書いたものをひねくり、得色ある人多し。隅田川の梅岩《うめわか》塚は徳川中世の石出帯刀の築きし所にして、その神像は大工棟梁溝口九兵衛の彫るところ、鴫立庵は三千風より名高くなり、その大磯の虎の像は元禄中吉原の遊人入性軒自得の作という。そんなものすら、それぞれ古雅優美なる点もありて、馬琴、京伝すでにそのことを追考し、立派に考古学の材料となりおる。しかるに西沢一鳳が論ぜしごとく(『伝奇作書』また『皇都午睡』)、東国の古物はその源|晩《おそ》く、京畿近方には古きものなかなか数においても物においても東国の比にあらざるに、かれを重んじ、これを逸するは歎くべし。只今国宝調査ということありて、千年近きもの、また特に美術品として外国にほこるべきものを調ぶ。それすら年々見出だすこと止まず。いわんや、たとい千年以後なりとも、またさまでの美術品にあらずとも、数百年前の本朝の文明文化のほどを観《み》、風俗人心の大趣を察すべきものは、当県などにはなはだ多きなり。件《くだん》の上山路にて焼け失われしうちに、神像数百年のもの多く、いずれも、足利、織豊ころの風俗を見るに足る人形なり。また金幣《きんべい》というもの多かりし。これも今日なかなか作ろうにも資本のかかることなり。土地の者は見馴れて何とも思わぬが、学術上は大いに参考となるべきものなりし。無学無識何の益なき俗神職の俸給を急に作り上げんとて、かかるもの、かの地この地に失うは惜しむぺし。たとい、これを売り、また焼くにしても、徐かに学者の査定を待ちて後に行なうべきことに候わずや。神職の俸給上がりて何の政教に益なきは、今日神社合祀すればするほど土地の人悪くなり、日本第一の多数の官公吏犯罪を当県より出し、また合祀もっとも励行されて神武帝の社をすら公売して悔いざりし新宮町に、大多数の大逆徒を出せしにて知るべし。『戦国策』に、甘竜といいし人の語に、聖人は民を易《か》えずして教え、智者は俗を変ぜずして治むる、といえり。また、古法によって治むれば吏習うて民はこれに安んず、といえり。人のきらうことをして学術上の材料を滅却混雑せしめて何の成蹟あらんや。
 当県風土誌編纂総裁内村義城という老人は、身官吏にてありながら、昨年冬より今春始めに至る間、長文を『牟婁(513)新報』その他に投じ、みずから海草郡、有田郡にて見しところを報告し、かくのごとく旧蹟を滅し、神体を掠め去り、神殿を毀《こぼ》ち、神林を根から抜かれては、大火跡を見るに等しく、何の郷土誌、何の地史を論じ得んや、と公論せり。これに対し、弁明とては一つも出し得ず。
 神職の俸給は樹林を切りたりとて必ず堅固にできるものにあらず。すでに有田郡などは多くの神社を潰し、神林を伐りて金の行衛知れぬ所多く、客年三月十五日の『紀南新聞』(日置郡御坊町発行)に、いっそ神林、神社の合祀の取調べを比較的確実なる警察に一任すべしとの議を出せり。同郡には三千円ばかりの神樹伐採の上り高の行衝知れぬ所さえあるなり。
 故に、今度原敬氏が内相に復せしを幸い、何とぞ神社は最初原敬氏内相たりしときの訓令に復し、すなわち当県のごとき過度惨酷にすでに合祀を行ないし地は、神林を伐り去らずにある神社址地なりとも、当分 status quo 維持現状のまま、従前通り衆庶に「神林の竹木鳥獣一切採るべからず、学者等特別の理由ありてこれをなさんとするものは特別に手続を要すること」とされたきことなり。もしすでに合祀されたから、された分は伐木すべし滅却すべしといわば、到底、今後薄資かつ日数少なき大学生など夏休みに来県されたりとて学術上何の獲るところなからん。
 当国の山は大塔峰《おおとうのみね》(東西牟婁郡界に連亙《れんこう》す)三千八百尺ばかりを最高とす。次は大雲取(三千二百尺)、大甲《たいこう》(三千三百尺ばかり?)、また小生がつねに往く安堵峰(三千四百尺?)等なり。しかるに、これらはいずれも北国に比してつまらぬもので、頂上は茅原《かやはら》リンドウ、ウメバチソウ、コトジソウ、マルバイチヤクソウ等ありふれたものを散在するのみ。それより下にブナの林あり。ブナは伐つたらすぐ挽《ひ》かねば腐って粉砕す。故に濫伐の日には実に濫伐を急ぐなり。この半熱帯地にブナ林あるもちょっと珍しければ、少々はのこされたきことなり。しかるに目下そんな制度少しもなく、郡長などいうもの、何とかしてこれを富豪に払い下げ、コンミションを得て安楽に退職せんと民を苦しめ、入りもせぬ道路|開鑿《かいさく》をつとめること大はやりなり。村民これを知らず、道さえ開かば村民にくれることと思い、必死となり道(514)を開く。その後郡長たちまち辞職して大豪富を他府県より伴い来たり、いろいろと訴訟してその山を他県人に渡し、濫伐せしめ、村民は他県より入り来る人足工夫に妻を犯され、娘を拐帯され、借金を倒され、土風瓦解し、淳朴の俗たちまち羅刹に変じて、土地衰微し、大水|荐《しき》りに至るなり。
 さて、それより下の山麓近き密林にいろいろと珍しきものあり。もしそれ半熱帯の特有珍品に至りては、山麓または谷間または低原の神社の神森にのみ生を聊《りよう》するもの多し。当地近き稲成村の稲荷社の神林ごときは、幸いに今日まで大いに伐り取られず、ヨウラクラン、カヤラン、ミヤマムギラン、シソバウリクサ、ホングウシダ、シャクジョウソウ等多きのみならず、小生図するところの帽菌およそ四百ほどあり。粘菌中 Enteridium 属と Lindbladia 属は、実に別属にあらずして同一属たるを証し得べき標品なども、ここにて取れり。これも例の俗吏が神林を掃除せよと毎々命ずるので、腐葉土なくなり行き、毎年、樟《くす》、柯《しい》が枯れ行く。
 こんなことゆえ、もし愛国心とか古風俗を観察するとか地誌郷土誌とかのことは閣下らに関係なしとするも、なお三好教授が言われしごとく、備前とか伊賀とかいう国とかわり、当国は海産も山産も野産も、生物が半熱帯と温帯との交錯点なれば、その考究は実に学者に必要なり。故に何分にも神官の俸給は、漸をもって西洋のごとく社領税をかけて徐々に積ましめ、また神主をも漸次その人を養成するようにし、当分は神社跡地の神森、神地等を従来のごとく保存するよう御運動下されたきことにて、只今かく認《したた》めおるうちにも、神林の滅却を逼り、神殿の破壊を逼りおる処断えず、何とぞ巧遅よりも拙速で何とか早く御運動下されたきことなり。
 封入の写真(甲)は、小生が故リスター氏(英国学士会員)に贈りしものにして、小生神社合祀反対を三年前申し出せし発端の動機を示すものなり(『大阪毎日新聞』昨年二月十二日?のに出ず)。(イ)は、前状申し上げし粘菌おびただしく生ずる糸田猿神社の小神林にて、ケヤキ、ムク、ミミズバイ、ハイノキ、タブ、ルリミノキ、ジュズネノキ、ヒョンノキ(当町より三丁ばかりの地になかなか見られぬ大木のみを拳ぐ)その他より成り、そのタブノキ(515)にマツバランの大 株つけり。岡村周諦氏査定の、従来本邦になしと思いおりたる、アストムム・シュブラツムもあり。アーシリア・ゲラウカは、世界中この辺にのみ連年見出だせる新種なり。しかるに四年前厳命してこれを(ニ)なる稲成村の稲荷社へ合祀し、跡木一切、アリドオシノキごとき小灌木までも引き抜かしむ。明治八年とかにも一度含祠したるに、今度は必ず神が帰り得ぬようにと、かくまで濫伐し、かつ石段を滅壊せしめ、石燈籠その他を放棄せしむ。故にこの地点のみ、回々教の婦女の前陰を見るごとく全く無毛となり、風景を害するはなはだしきのみならず、土壌崩壊して、ジンバナ井と申し、近傍切つての名高き清浄井水を濁し、夏日は他村の無頼漢、えた児などここに上がり、村中の娘の行水を眺め下ろし、村民迷惑一方ならず、よって交通を遮断し、今に畑にもなんにもならず弱りおる。(ニ)は、前述植物多き稲荷社の柯《しいのき》林なり。これも何とかせずば、今にまた事由を付し切らるること受合いなり。(ハ)は、弘法大師が臨んで影を留めたという弘法の淵なり。『後鳥羽院熊野御幸記』に見えたる、河に臨んで大淵ありとはここの外になし。この椋《むくのき》も三年ばかり前に伐らんといいしを、小生ら抗議して止《とど》む。さて、その伐らんといいしものは今春即死、また件《くだん》の糸田の神森を伐り、酒にして飲んでしまいし神主も、大いに悔いおりしが、数月前、へんな病にて死す。
 祟《たたり》などいうこと小生は信ぜぬが、昨今英独の不思議研究者ら、もっぱらその存在をいい、小生も神社合祀励行、神林乱伐に伴い、到る処にその事実あるを認む。思うに不正姦邪の輩、不識不知《しらずしらず》の間にその悪行を悔い、悔念重畳して自心悩乱することと存じ候。かかることを、当国官公吏また神職らは迷信といいて笑うことおびただし。しかるにいずれの国にも犯神罪あり(sacrilege)、キリスト教国にもこれを犯して神罰で死すること多きは小生つねに見たり。万世一系の国体を論究して皇室を仰ぐも、天子を見つむれば目潰るるとて小児に不敬を戒むるも、実際教えにおいて大差なし。小生は、迷信を排除して、なにか世間に顕著なる効益を挙げたほどのことを一つも聞かざる神職らが、神体を擁しまり、神社を潰し、神森を公売濫伐して、千古よりこの方わずかに神林によって生を聊し、種族を伝え来たれ(516)る諸生物を濫滅し、さてこれを惜しみかなしむ者を迷信迷信と指嘲《しちよう》するほどの人に、果たして、敬神、敬皇、敬愛国の其念ありやを疑うものなり。いわんや、かかることには心を責められて樹から落ちて死んだり、発狂して死するほどの腰抜け輩においてをや。
 (ロ)は竜神山とて、上り路三十丁あり。古えは桜樹の名所なりLに、濫伐打ちつづき、土砂崩壊して小川を埋め、毎年洪水絶えず。しかして頂上(ロ)と書きしところに闇?《くらおがみ》の神祠あり。自今日本にあまり多からぬ神にて、『日本紀』などに見えたればもっとも崇敬すべし。この頂上に神池あり、清泉涌出す。そのかたわらに、この山頂を絶海の孤島のごとくにして、カキノハグサ、ウリカエデ、メグスリノキ、フデリンドウ、マメヅタラン(東牟婁郡にもあるが多くは開花せず、ここのは必ず開花す)、それから、小生発見の(1)図のごとき反橋《そりはし》形の大珪藻、オオルリソウ、また淡水藻シリントロカブサの一種、また鼓藻の熱帯産なる珍品トリブロチソス((2)図)、また奇体なるミクラステリアス・トランカタの変種、(3)図のごとくつづけるあり。またヤブコウジより小さき小灌木、赤花なるあり。牧野氏に見てもらいしに、ベニドゥダンの由。ベニドウダンは丈余に至るものの由なるに、ここのは数寸(三寸を過ぎず)にして、花あるも奇なり。また Lycoperdon の新種あり。加うるに、四方眺望絶佳にして、山川溝港湾岬|丘巒《きゆうらん》等の地理を、小児に示すに屈強の処なり。しかるに、これも村人が否むを、むりに山麓の社に合祀し、大なる石鳥居を移す。この山は冬と夏二度、近県より夜も昼もまいり、柿店《かきみせ》等出で大いに賑わい、村民および近町のものの利となり、また小児なども健足の便《たより》となり、四望して気象を養成するによし。村民はこの祭日をあてこみ、無賃で総出《そうで》となり、道路を修め山林を整えしなり。しかるに、神社むりに合祀されしため、隣村この山の小さき林木を争うこと絶えず。アカメヤナギ、ノグルミ、呉茱萸《ごしゆゆ》等、この近傍にはここにしかなきものも追い追い滅跡し行きて、神流にありし無数の鼓藻、バトラコスペルマムの異品も絶え失われ、洪水多くなり、山は荒れ、土はくずれ行く。この小山の一方に杉林を(517)作り防崩林を営むに、一方には樹木濫伐、土壌崩壊に任ずるを見るは、実に行政上の大矛盾、一奇事なり。一昨春末、この上に上る路上スズメノオゴケ様のもので、花色黄なるを多く見出だし、牧野氏におくりし。すこぶる珍品とあって今年とりに行くに、土砂崩壊のため見当たらず、小生手許にわずかに二本しかなく困りおる。山林を伐ってあとへ柴《しば》を植え付くるとか羊を畜《か》うとか、そんなことは少しもなく、ただただ濫伐し行くなり。流下の諸村は、なにゆえか近年大水ひどくなったというのみ。これまた似た物同士で、山頂の樹を伐るゆえ水が驟《にわ》かに至るということに気づかず。官公吏はただただ神社を一つも多く潰し、自治制のよく行なわるる徴候と自慢し、神がなるべく旧址へ復《もど》らぬようと、いろいろ尽力して樹を伐らせ、その金は伐木賃を差し引けばどうなつたか分からぬなり。件の竜神山を合祀して俸給増せし神主は、牛肉食いしことなきを、これで牛肉食い得るとて大悦びの由。こんな例は五十ばかり集めあり(東西牟婁郡すなわち小生の抗議の強く及びし所のみで)。小生聞見の及ばぬ他郡は一層多しと知られたし。
 (乙)は、前状述べし奇絶峡《きぜつきよう》とて、田辺を去ること二里ばかり、耶馬渓そこのけという絶景の地なり。希植物多し。これも、何のわけもなく道路作るとて破壊はなはだしく、また石を伐り出すゆえ、地質学、考古学上の参考たるべき大足跡石など、まさに亡びんとす。毛莨《きんぽうげ》科のタニモダマも他所に少なくこの辺に多し。ホウライカズラもこの辺のみありて開花す。チャボホトトギス、ジョウロウホトトギス等あり。
 (丙)は、当国|南部《みなべ》辺の社趾より出でしという、珍しき小土器なり。裏に栂印あり。チャンをかけ、横に蓋あり、それを鋲にて打ち付けたり。口を白粉《おしろい》ごとき細かき白粉でつめあり。ローマの涙壺《ラクリマ》のごとし。小生ずいぶん欧米の博物館でかかるもの扱いしが、こんなものを見ず。しかるに五個出で、みな小生手に入れり(一個五銭で買えり)。出でたる所を推間し、その塚等を実写せんとするに、売りしもの一同後難をおそれ口を箝《つぐ》みて一切言わず、こまったものなり。珍物というのみで、どこから出たか何の由来かさっぱり分からず。松村瞭君は貴息なりと今度始めて柳田氏より承る。もし考古学上珍なものなら、御申し越しさえあらば、経てもって人類学会へなり、また大学へなり、実物を寄(518)付致さん。備前国|邑久《おく》郡朝日村にオコウベ(御首)様《さま》という社あり(飯盛神社)。ピラミッドごとき塚にて、その内部構造、中央に巨魁《きよかい》、ぐるりに子分の遺骸を収めたるなり。決して新しきものにあらず。神軍の伝話あり、また石鏃《せきぞく》をこの辺より出すを見れば、古きものたることを知るべし。旧藩のときは、池田侯より年始に大なるシメナワを寄進あり。崇敬他に異なりしに、例の合祀にてつぶされ、只今は寥涼の光景かなしむべし。伝話によれば、これは平経盛の塚なりという。何の国にも古いことは、その人の姓さえなき世のことゆえ失われやすく、
  チュンベルグ日本へ来たりし記行に、日本の天子の御名を、人民いずれも知らず、これを聞き出すにはなはだ苦しみしことをいえり。昔は、君上のみか、大酋長、大土豪の名さえ言わぬこと多かりしより、自然にその伝を失い、後に大己貴命《おおなむちのみこと》とか天照大神《あまてらすおおみかみ》とかを勧請《かんじよう》して維持せしと見ゆ。また只今にても小生の祖先の出でし村などは、南方熊という姓名多く、現に当町にも南方熊太郎という人あり。つねに郵便配達のまちがいにこまるなり。(一昨年の『大阪毎日』に、摂州に同姓名六十人とかある村のことを記せり。)近来でも、カンボジアなど全国男女同名多く、姓氏なきゆえ証文を断ずるにはなはだ苦しむ由、Moura のその国誌に見えたり。故に、辺鄙に同名の諸神の異伝多く(『日本紀』すでに異伝の神話多し)、学者これを記伝になければとて片はしから虚談とするは、反ってはなはだ実情に遠きものなり。また犬養部《いぬかいべ》、鳥取部《ととりべ》などの部族各国に分かれ住みければ、その祖先の伝も同名の人多きと共に、ますます同名の神に異伝を多くしたることと知らる。近く、ゴム氏(今年正月、古俗俚話学上多年の功労により授爵されたり)古話俚伝ことごとく有書史前の史実なりといえるも、大分道理あることなり。
回々教国には、偉大の跡はことごとく回祖、アレキサンドル王に帰し、日本にも、大力の跡は弁慶、風景の処は金岡、霊験の跡は役小角《えんのおづの》、弘法大師に帰するが習いなれど、かかる一人一人に関する古跡は実証あるにあらざれば、さまで大騒ぎをして保存するの要なしと思わる。件《くだん》の飯盛塚が実に経盛の葬処たりしところが、この経盛という人敦盛の父(519)というばかりで何の益もなく、ただ歌集にあってもなくてもよきような歌が三、四伝われるのみなれば、遺跡を滅却して畑となし、平経盛之碑と一本塔婆を立てばすむことなり。しかるに上述ごとき塚の結構とありては、とても経盛ごろのものでなく、全く古え酋長を中とし、殉死または戦死の臣下の死尸《しし》を周囲に理むる風ありしを実証するもので、書史の不足を補い、わが朝にはわが朝固有の風俗ありしを証する大益あるものなれば、たといその塚が何の誰と人の名を指して知れずとも少しもかまわず、わが国文化開進の履歴を証するものとして、もっとも保護を加えたきことに候わずや。
 白井権八の死んだ目黒も古跡なり。村井長庵が刑されし小塚原も古跡なり。上州には巨盗国定忠治の古跡あり。当国根来には石川五右衛門の古跡あり。古跡古跡と言うて古人が一挙手一投足せし処を榜標《ぼうひよう》せんに、その限りなきこと、美術美術と言うて坊間流布せる春画を集むるよりもはなはだしからん。されば今日何の実際の関係もなきに飯田町へ馬琴の像を立てたり、不忍池畔へ季吟《きぎん》の碑を立てたり、目黒へ小紫、二ツ又へ高尾、泉州堺に曽呂利新左衛門、九度山へ真田左衛門佐、樫井へ塙《ばん》団右衛門、若江堤へ木村重成、八尾《やお》へ長曽我部盛親、穢多ヶ崎へ薄田隼人と、まるで大坂の軍評定のごとく、それぞれへ紀念碑を差し立てられんも、ますます後日真を攪《みだ》り古を失うの基となりなん。
 それよりは人の名は知れずとも(また上古のことは、帝家の旧記たる記紀の外にその書物なければ、分かるはずなし。ただし八百万神《やおよろずのかみ》のうちにはわれわれ下民土人の祖神もむろんあり。その祖神の伝話もむろんいろいろと土俗俚諺となり、古神社に付属して存しおるなり。アビシニア人は、日本皇室よりその国王メネリクの系統はるかに古しとて自慢し、ロシア人はその国に隷属の諸王室、世界中で古きもののみを集めたりと自負す。しかれども、わが国の皇室権貴のみかは土民非人までも、おのおの神の末にして、その神祇それぞれその社を伝え、その俚伝あるに下ること万万なり)、俚諺、古俗、また発掘の古器物、四辺の地勢地層の変遷等に照らし合わせて、吾人祖先の古くより日本に存し、日本固有の風俗徳化ありしを証すべきもの多ければ、何分にも入らぬ碑石など新たに立つることを止めて、現(520)存の古神社を一つも多く保存し、無智無識の神職を神林神殿まで滅却して増置するに及ばず、最寄りの小学教師にでも神職を兼摂せしめ、もって後日徐々に神職その人を得、俸給も社領税を積み立てて支弁し得るの日を待たしめられたきことなり。
 長寛中、勅して伊勢熊野の神の優劣を問いたまいしことあり。今もその伝を失したれど、この辺に春日神社の神森を有する者多きを見て、藤原氏権門の人々がいかに熊野を尊信し、その近所に庄園を有したるかを知るべし。しかるに、肝心の本宮社司相攻伐することはなはだしく、那智また山徒二に分かれ相闘い、新宮も騒乱絶えざりしため、社伝などいうもの多く失われ、本宮ごときは元禄ころすでに何の伝なく、天野信景ごとき全く他州の人にその伝記を作りもらいに行きし由、『塩尻』に見えたり。いわんや、維新後我利我慾の者の巣窟たりければ、伊勢に並んで旧儀を見るべきものとては三山にはなはだ少なし。しかるに三山を離れては、多少旧を考うべきものあり。たとえば那智村浜の宮の王子の社殿ごときは、五彩をもって画《えが》き、幸いに両部神道の社殿はいかなるものたるやを知るに由あり。(小生知人中村、田代などいう村人の抗議はなはだしく、今日まで合祀を免れおる。)また日高郡丹生川という山村の丹生明神社ごとき、その社殿は本宮番匠鳥居某が本宮の成規通りに建てしものにして、大いに他の神社に異なり。(今は合祀されおわり神体は焚《や》き失われしが、小生村人に訓《おし》えて社殿は保存させあり。この神殿前に古きこま犬二あり。異様の製《つくり》して一枚木の木塊より成る。いずれも木の理条が整然として虎の紋をなしおるなり。村の者は何とも思わぬが、かかる奇珍のもの僻地の社には多し。これらを徐々に取り調べて学術、史学上に益せずに、あるいは川へ流させ焼き失わしめるは、実に無恥無慚のことと存じ候。)
 当地に近き神子《みこの》浜という所に神楽神社というあり。小生土伝を考えて、必ずこの近地に古塚あるべしという。二年前にこれを聞いてその地を買収し、夜分ひそかに発掘してインベ十一を得、私蔵する人あり。それより小生は、かかることを話すは反って科学上有益の古蹟の滅却を早くするものと思い、そんなことを一向言わずにおる。この他考古(521)上小生気づきし塚など多し。昨今も一、二見出だし、盛んに掘りおり、警察署へ届けよというに届くるも受け付けずとのことで、つまり発掘品は散乱さるるの外なし。前年、和歌浦で貴人の塚と覚《おぼ》しきもの七、八箇、ならんで発掘せしを見る。小生少慾な男かつ後難を恐れ、何一つ貰い置かざりしは遺憾なり。掘出物は全く散乱せり。定めて由緒ありしものならん。また、なくとも学術上の参考品たること無論なり。また当国第一の官幣大社日前宮の横を十年前に歩みしに、田畑の中そこにもここにも古塚だらけなりし。しかるに、昨夏往き見しになし。この大社の宮司は神社濫減の総発頭人だけありて、銭にさえなれば何でもよし、と何の気もつかず開拓破却せしなり。古土器など地下に置きたりとて何の功もなきものなれば、これを掘り出して世に彰《あらわ》すは埋めし人の面目ともなることならんも、今日のごとく胡論《うろん》に掘り次第、採り次第、売り次第というは、はなはだ学術上に損害ありと思わる。
 松村、三好両教授、中辺路《なかへち》を御通行の際は、まだ多少の樹林ありしなり。しかるに、今回の神社合祀にて熊野街道の樹林は絶滅せるなり。そのうち高原《たかはら》の王子(『源平盛衰記』によれば、今日チベットのラッサに上るごとく、熊野を死神の楽土とし一同上りしにて、この高原王子を下品下乗の最初階楽土とせしなり)に、八百歳ばかりという大樟樹あり。この木を削りて棒とし、これを神体とす。この樟を伐り利を営まんため合祀を逼《せま》ることはなはだ切なりしに、田舎人にして大豪傑なる宮本という男、政府の力にて神社を合祀せんとならば、よろしく警察吏を派して、片っぱしから処分すること流行病を扱うごとくなるべし。しかるに毎度毎度来たりて、あるいは慰喩し、あるいは脅迫して、合祀請願書を作り、むりに調印を勧むること心得られず、これ必竟政府の意にも内相の意にもあらざるべく、全く卑陋なる県郡当局吏の私曲なるべし、と気づき、基本金五千金を一人して出すべしと諾す。故に宮を潰すことも木を伐ることも成らず。さて五千金の催促に来るごとに、近傍栗栖川の料理屋へつれゆき飲食遊宴せしむ。官吏酒に酔い遊ぶうちに日程尽き、自分の旅費日当足らずなり閉口して去る。かくのごとくして永延《ながび》くうち、県当局五千円の基本金を中止し、神職に俸給を給すべしという条件のみ残りしゆえ、今に神職に何もやらずに高原王子は立派に残る。
(522) 次の十丈峠の王子は、一昨年までありしを、村役場より村の悪党二人に誨《おし》えて、汝ら十丈王子の神社に由緒あるものの子孫と名乗り合祀を請願せよ、しかる上は合祀後神林の幾分を汝らに与うべしとのことで、二人由緒あるものの後裔と偽称し合祀を済ます。さて約束通りくれたものと思い、右の神林を濫伐売木せしを、役場より盗伐として訴え、一人は牢死、一人は一年近く入監、今に罪名定まらぬ由。かく官公吏が人民を脅迫教唆して悪をなさしめたる例はなはだ多し。士風壊乱の原《もと》は官公吏と神職これをなすなり。また小生今回乱伐を止めにゆくべき野中・近露王子の老樹は、左に大きさを掲げ候。いずれも写真にとれぬほど大きなものにて、古え帝皇将相が奉幣し祈念し、その下を通り恭礼せられし樹なり。これらはすでに二千八百円で落札したる者あり。幸いに金はまだ全く村へ受け取りおらぬゆえ、何とか乱伐を止《とど》めんと小生出向かうはずなり。
  近露村上宮には、絶大の杉ありしも伐られおわんぬ。
  下宮のは、周囲|曲尺一《かねじやく》丈八尺三寸、一丈九尺一寸、二丈五寸、各一本。
  野中の一方杉、小広《こびろ》峠より風烈しきを受け、杉の枝西南に向かい、はえおるなり。
  周囲二丈五尺一寸、二丈二尺、一丈八尺三寸、外に一丈三尺以上のもの五本あり。
  地勢峻烈に傾斜はなはだしきため写真をとること成らず。
 これらの木を伐らんがため、九十九王子中もっとも名高き野中と近露王子を、何の由緒も樹木もなき禿山へ新社を作り移し、さて件《くだん》の木を伐らんと言い来る。只今の制度悪く何村第何号林何号木という書きようゆえ、名木やら凡木やらちょっと分からず。小生前に心がけおりしゆえ、これを抗議せしに、村長なるもの、しからば下木《したき》を伐らせくれという。小生いわく、下木をきれば腐葉土なくなるゆえ、つまり老大木を枯らす、下木は断じて伐るを禁ずべし、と。村長恥じていわく、その下木(大杉叢の直下に雑生せるヒサカキ、マサキ、サカキ、ドングリ等の雑小林)をいうにあらず、一方杉の生ぜる所よりずっと数町下の谷底に生えた木を下木という、とごまかし去り一笑にてすめり。しか(523)るに、この辺の公吏は郡長も町長も、昼夜木を切って上前《うわまえ》をはつることのみを内職余課とする曲者《くせもの》どもにて、只今また乱滅せんとかかりおるなり。
 この状また長くなり尽くるところを知らず。故に、これにて擱筆。何分にも小生一人と、何の心得なき新聞かきなど、その他は無智無識の農夫漁民のみで今日まで抗争し来たりたることにて、今小生身を引かばたちまち後日学者間に大物議を惹き起こさんこと疑いなく、さりとて人間、精力、資金にも限りあれば、この上一年も小生は自家の学事、家内の生計を放棄してまでも尽力すること能わず。神社復旧、神職俸給供助法等のことは来たるべき国会へ、中村啓次郎氏その他を頼み、出し申すべくも、森林伐採は実に目睫下《もくしようか》に迫りおる大事なれば(かく申しおるうちに、すでに朝来《あつそ》村の、ぬか塚、その他当郡にも多く伐り尽されたり。いわんや、両牟婁郡以外の諸郡においてをや)、何とか小生の志を愍《あわ》れみ御運動の儀ひとえに願い上げ奉るところなり。再拝。
  昨年十月十五日『大阪毎日』に、大垣公園に腹白き老狐現出、児童に苦しめられおるを、佐久間仁左衛門なる者、柵をもって囲い食物を与え、一百余円の経費にて稲荷大明神と崇し奉る、と電報あり。また昨年二月ころの『大阪毎日』に、東京帝国座で、河上貞奴ら、天照大神に扮し岩戸神楽の演劇やれり、とあり。(英国にありしとき、故アーヴィング男、耶蘇に扮し芝居せしを、諸新聞これを神聖を汚すとし、難論やかましく、その芝居改題せしことあり)。
  みずから侮《あなど》って人これを侮る。一方には狐を神とし、天照大神の芝居して、天照大神は別嬪だとか愛敬が足らぬとか鰐足《わにあし》で歩くとかホクロが多いとか評笑せしめ、しかして一方には、神林と無数の生物種を滅族せしめてまでも庸劣《ようれつ》無智の神職を存立し、もって風教徳義を奨成せんとするは、一向小生にわけ分かり申さず。
  小生実験によるに、当県到る処神社合祀を教唆するものは、学識なき神職にして、実に無義不道の徒なり。多年それがために衣食し来たりながら、みずから先に立ち神社をつぶし、神木を伐り、小祠を焼き、また川へ流す。(524)こんなものは、敵軍強き日はたちまち内通して露探となるべき輩なり。これに反し、到る処の小学教員、校長はみな口に出して言わざれども、内心神社合祀を嫌悪し、昨年小生このことで入監のときも、公吏、村吏に悪《にく》まれ職を奪わるるを厭わず、多く内々小生の家族に慰問し、はなはだしきは未決藍へ慰問書を出され候。この輩いずれも多少今日の学術を知り、また多分は村々の郷土誌編纂の主任となり、神々を潰しては到底風化も徳化も智育も土地の人をして土地を愛し安住せしむることを得べからざるを知悉するを見るに足れり。(小生は平生孤独なる性質にて、小学教員などと交わりしことなし。)日高郡|比井崎《ひいさき》は応神天皇誕生の地にて、その時|産湯《うぶゆ》たきし火を保存し、毎戸その火を分かち用うる古俗あり。この社を劣等の社へ合祀せんとする村長を憤り、小学校長津村という者騒動を起こし、双方入監、校長勝ち出監せり。
明治四十四年八月二十一日
                     南方熊楠拝
  松村任三先生 御座右
 
(525)川村竹治宛
 
 明治四十四年十一月十九日夜
                田辺町中屋敷町五二
                  南方熊楠稽首
 
   川村竹治様 御坐下
  小生こと、本邦の府県知事へ公私ともに手書など差し上げたることかつてなく、書式等の心得|無之《これなく》、強いてかかることに拘泥致し候ては、反って衷情を吐露すること難《かた》く候つき、略書もって申し上げ候段、万々御|海容《かいよう》をこれ祈るところに御座候。
 過日毛利清雅氏に寄語下され、小生存じ寄りのこと、ただちに腹蔵なく申し上ぐべき旨敬承、よって本書を書留状にして差し上ぐべく存じ候えども、夜分間に合い申さず、止むを得ず安江稲城氏の手を経て呈上仕り候。『和歌山新報』報ずるところによれば、野中王子、近露春日社の神林は一部保存、一部伐採を許さるる趣きに有之《これあり》。しかるに、この二社の神林は、今日、本宮街道にただ二のみ残存せる史蹟の名林に有之、本邦希有の老大杉の外に、辛夷《こぶし》その他世に稀《まれ》なる古木多く、例せば、目通り周囲七尺九寸のコバンモチのごときは、単にその例少なき大木なるのみならず、従来九州地方にのみ産すと知られたるこの木が、紀州にまで分布しおりしを証する生物分布学上の顕著なる標本に有之候。
(526)  コバンモチと同属のホルトノキと申すは、これまた九州辺に多きも本島には紀州の外になかりしが、神社合祀の結果、小生知るところにては、紀州にも今日は見るを得ざることと成り申し候。
 二社の神林いかに珍奇の古木に富むかは、本書とともに差し上げ候本月十七日の『牟婁新報』切り抜きにて御覧下されたく、この外に、これらの古木に種々雑多の寄生植物、托生植物あり。いずれも熊野植物の精華を萃《あつ》めたるものに御座候。御承知ごとく、殖産用に栽培せる森林と異《かわ》り、千百年来|斧斤《ふきん》を入れざりし神林は、諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出で来たりおることに御座候。しかるを、今無智私慾の徒が、単に伐採既得権云々を口実とし、是非に、かかる希覯《きこう》の神林を、一部分なりとも伐り去らんとするは、内外学者に取りても、史蹟名地のためにも、はなはだ惜しまるることに有之。よって未見の師友白井博士に頼み、このことについて、本月十四日、華族会館発会の史蹟名勝天然記念物保存会評議員会席上、井上神社局長に質問しもらいしに、局長の返事は、本書に添えて差し上げ候『牟婁新報』切抜きのごとく、神林を伐りて神社基本金を作ることは絶対に相成らずとのことに有之候。しかるところ、本月十八日、当田辺町開催、神職講習会閉会の節、本県神職取締り紀俊氏の講説には、神社と神林は全く別の物なり、神社を存すべき基本金のためには、神林を伐るも何の不可あらんや、との言に有之候。従来神社に関する官省の本意は、ややもすれば田舎の町村に布達されず、村吏、神職等相率いて奸をなすこと絶えず。
 例せば、当田辺町闘鶏社司小川勝門は、氏子総代秋山徳隣を語らい、社の後丘クラガリ山を、くらがりにするほど盛茂せる大樟樹を、何の損処もなきに枯損木と詐称し、郡吏その場に臨みしも、その言のままにこれを枯損木として、伐採せしめたり。小生このことを見出だし、郡長に告げ、郡長止むを得ずそのことを警告せしに、当夜秋山は、神社の社務所にて会議中発病し、件《くだん》の樟のことのみ言い罵《ののし》り、七日ばかりの内に死亡せり。かの大樟は切り去られたるをもって、今日その枯損木にあらざるを言うも水懸け論なりといえども、それと同時に枯損木と詐称され、まさに伐ら(527)るべかりし二樟樹、幸いに小生の抗議によって今に残留せるが、少しも枯損にあらざるを見て、他の大樟もまた枯損にあえあざりしを知るべし。この類のこと到る処例多きは、前日差し上げたる『南方二書』にてその一斑を御覧下されたく候。
 故に前例をもって推すに、たとい神社局長、白井氏に誓われたるごとく、本県へ訓令を出さるることありとも、その訓令は、とても早々各町村に実効を見ること難からん。これ村吏、神職など、多くは虚偽を申し立て、私利を営むにのみ急なればなり。さて小生は在欧中、本邦が近く名声を第一、二等国と斉《ひと》しく馳《は》せながら、科学材料の調査すこぶる欧米に劣れるを慨し、帰国後ただちに熊野の山野に退居し、峰を分け海を潜り、十一年一日のごとく、その精査をこれ?《つと》め、老いのまさに至らんとするを知らず。もとより迂愚《うぐ》の質、これに加うるに一私人の事業にはあり、家累も多く、資産また薄きも、運を天に任せて多少は成功せるところあり。その研究の結果を発表して、いささか国恩に報じ、外侮を禦《ふせ》がんとするの際に至り、神社合祀の濫行さるるより、自分が発見し、記載し、図録せる諸生物、日を違うて絶滅し行き、影のみ留まりて実物は失われ、せっかく連歳精密の検究を続けおりしも、実物全滅のため、九仞《きゆうじん》の功を一簣《いつき》に欠くようのこと多く、十一年の労苦を挙げて水泡に委する例|荐《しき》りなり。
 学問は一人の私事にあらず。只今言うところのごときは、小生一人の損失は、すなわち学者全団の損失なり。されば、神社合祀の濫行は、愛国心の基底たる愛郷心の破壊にて、社殿を破り神林を伐るは、取りも直さず、本邦守護の諸神祇の威を殺《そ》ぎ、民に破壊思想を注入するものに外ならざる等、合祀反対の理由は一朝にして述べ尽すべきにあらずといえども、わが国の損は他邦の得にして、此方の隙は彼方の乗ずべき機なれば、それらのことは一切黙して言わず。ただただ世界学術開進の上より見て、本県神社合祀と、これに偕《ともな》い行なわるる古蹟、古物、名勝、神林の破壊濫伐は、尋常ならざる罪悪事なる由を縷述し、欧州著名の人士に質《ただ》し、その連署して一篇の告文をわが政府へ遺《おく》られんことを求めんとす。おりから咋朝、英国ロンドン大学前総長フレデリック・ヴィクトル・ジキンスの書翰に接し、氏(528)は必ずこのことを斡旋さるべきを確知せるにより、早速|件《くだん》の文を草し、発送致すべく思い立ち候。小生、前年神社合祀反対を唱《とな》え出だせし時、何故あらかじめ本県知事に告げざりしか、と責めたる人あり。小生みずから心に疚《やま》しからずといえども、その人は小生の所為を過《あやま》てりと見たるなるべければ、今また過ちを再びするの誚《そし》りなからんがために、先刻−状を発して友人木下友三郎(行政裁判所評定官)氏にこのことを神社局長に告げんことを求め、只今また安江稲城氏に頼み、この書面と『牟婁新報』切抜き二葉を閣下に差し上げ置き申し候なり。
  小生は手習いせしことなく、文字すこぶる難渋なり。いかに書き直すも、これより満足に書き得ず。また多年半開また蛮夷の地におりしをもって、ややもすれば言辞礼を失すること多し。みずから知りながら、十分匡正し得ざるを悔ゆるも及ぶことなし。故に旧知の勧誘多く、顕貴の援奨しきりなるも、好んで退《しりぞ》いて山野に尾を曳《ひ》き申すなり。本書中定めて失敬の廉《かど》少なからざらんも、そは大山は糞壌《ふんじよう》を譲《ゆず》らざるの御宏量もて御宥恕を願い奉るところなり。恐々謹言。
  再白。ジキンス氏に送るべき陳述書は、発送の節一通写し置き、進呈仕るべく候なり。
 
(529)白井光太郎宛
 
 明治四十五年二月九日朝六時
                   南方熊楠拝
   白井光太郎様
 原稿はいろいろ用事多く昨日中に送り上ぐること能わず、昨夜徹暁、只今写しおわり候。難筆ながら、これより清浄に写し得ず、よってそのまま差し上げ候。手|痿《な》えて十分に筆を運び廻し得ぬなり。中村氏へ返事の催促出し置きたるゆえ、四、五日中には小生へ何分の返事|有之《これある》べく、その間、貴下、本書御精読の上、通じがたきところは御直し下され、さて小生より中村氏の方|不調《ふちよう》とならば申し上ぐべく候間、誰にても篤志の議員に話し申し上げられたく候。
 しかし準備をも要するなるべければ、中村氏より返事来たらぬうちにも、あらかじめ然るべきに見せ、意中御探り下され、心底から感心、賛同しくるる人あらば、その人に頼み申し上げたく候。
 この稿はすこぶる骨折り写せしものにつき、何とぞ失わぬよう願い上げ候。ただし、貴方にて御用に立ち候わば、当方には写し一通あるゆえ、別段御返し下さるに及ばず候。
 万一不幸にも中村氏も演じくれず、また貴方にも誰も演じ手がなしとならば、止むを得ず小生はこの書を今一度書き直し、『日本及日本人』へ出さんと存じ候。しかるときは、あるいはこの草案御返戻を乞うをも知れず候。しかし、(530)それはまたその節のことに御座候。                      右、草々申し上げ候。
  小生は誰も彼も演舌《えんぜつ》しくれぬときは、物にならぬまでも紀州侯に一覧しもらわば、何とか仕様もあるべきかとも存じ候。しかし、只今の紀州侯は往日小生|親灸《しんしや》せし当日と事情も大いに異なるべければ、この田舎でありては何とも推測及ばず候。当県は官公吏ら大いに閉口、小生に取りては大山神社の一事のみ遺憾なるのみ(これは只今かけ合い中に候)、他はこの上大なる合祀励行はなかるべく、また濫伐もまずはなかるべしと存じ候。しかしながら、政府案に合祀を中止しくれぬときは、例のごとく一上一下で請願書出しある諸社は、いつ一挙して全滅さるるか分からず、実にすこぶる不安心に候。いわんや他府県はこれより励行されんとする今日、なにとか全国で中止されんことを望み申すなり。
 
   神社合祀に関する意見(原稿)
 
 最初、明治三十九年十二月原内相が出せし合祀令は、一町村に一社を標準とせり。ただし地勢および祭祀理由において、特殊の事情あるもの、および特別の由緒書あるものにして維持確実なるものは合祀に及ばず、その特別の由緒とは左の五項なり。
 (1)『延喜式』および『六国史』所載の社および創立年代これに準ずべきもの、(2)勅祭社、準勅祭社、(3)皇室の御崇敬ありし神社(行幸、御幸、奉幣、祈願、殿社造営、神封、神領、神宝等の寄進ありし類)、(4)武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし社(奉幣、祈願、社殿造営、社領、神宝等の寄進ありし類)、(5)祭神、当該地方に功績また縁故ありし神社。
 神社には必ず神職を置き、村社は年に百二十円以上、無格社は六十円以上の報酬を出さしむ。ただし兼務者に対しては、村社は六十円、無格社は三十円まで減ずるを得。また神社には基本財産積立法を設け、村社五百円以上、無格(531)社二百円以上の現金、またこれに相当する財産を現有蓄積せしむ、とあり。つまり神職もなく、財産、社地も定まらざる廃社同前のもの、また一時流行、運命不定の淫祠、小祠の類を除き、その他在来の神社を確立せしめんと力《つと》めたるもののごとし。
 しかるにこの合祀令の末項に、村社は一年百二十円以上、無格社は六十円以上の常収ある方法を立てしめ、祭典を全うし、崇敬の実を挙げしむ、とあり。祭典は従来氏子人民好んでこれを全うし、崇敬も実意のあらん限り尽しおれり。ただ規定の常収ある方法を新たに立てて神社を保存せんとするも、幾年幾十年間にこの方法を確立すべしという明示なく、かつ合祀の処分は、一にこれを府県知事の任意に任せ、知事またこれを、ただただ功績の書上《かきあげ》のみを美にして御褒美に預らんとする郡長に一任せしより、地方の官公吏は、なるべくこれを一時即急に仕上げんとて氏子輩に勧めたるも、金銭は思うままに自由ならず。よって今度は一町村一社の制を厳行して、なるたけ多くの神社を潰すを自治制の美事となし、社格の如何《いかん》を問わず、また大小と由緒、履歴を問わず、五百円積まば千円、千円積まば二千円、それより三千円、和歌山県ごときは五千円、大阪府は六千円まで基本財産を値上げして、即急に積み立つる能わざる諸社は、強いて合祀請願書に調印せしむ。
 むかし孔子は、兵も食も止むを得ずんば捨つべし、信は捨つべからず、民《たみ》信なくんば立たず、と言い、恵心僧都は、大和の神巫《みこ》に、慈悲と正直と、止むを得ずんばいずれを棄つべきと問いしに、万止むを得ずんは慈悲を捨てよ、おのれ一人慈悲ならずとも、他に慈悲を行なう力ある人よくこれをなさん、正直を捨つる時は何ごとも成らず、と託宣ありしという。俗にも正直の頭《こうべ》に神宿ると言い伝う。しかるに今、国民元気道義の根源たる神社を合廃するに、かかる軽率無謀の輩をして、合祀を好まざる諸民を、あるいは脅迫し、あるいは詐誘して請願書に調印せしめ、政府へはこれ人民が悦んで合祀を請願する款状《かんじよう》なりと欺き届け、人民へは汝らこの調印したればこそ刑罰を免るるなれと偽言する。かく上下を一挙に欺騙《ぎへん》する官公吏を、あるいは褒賞し、あるいは旌表《せいひよう》するこそ心得ね。さて一町村に一社と指定(532)さるる神社とては、なるべく郡役所、町村役場に接近せる社、もしくは伐るべき樹木少なき神社を選定せるものにて、由緒も地勢も民情も信仰も一切問わず、玉石混淆、人心恐々たり。
 拙見をもってすれば、従来神恩を戴き神社の蔭で衣食し来たりし無数の神職のうち、合祀の不法を諤議《がくぎ》せるは、全国にただ一人あるのみ。伊勢四日市の諏訪神社の社司|生川《なるかわ》鉄忠氏これなり。この人、四十一年二月以降の『神社協会雑誌』にしばしば寄書して、「神社整理の弊害」を論ぜる、その言諄々として道理あり。今その要を撮し、当時三重県における合祀の弊害を列挙せん。いわく、従来一社として多少荘厳なりしもの、合祀後は見すぼらしき脇立小祠となり、得るところは十社を一社に減じたるのみ。いわく、従来大字ごとになし来たれる祭典、合祀後は張り合いなし、するもせぬも同じとて全く祭典を廃せる所多し。いわく、合祀されし社の氏子、遠路を憚り、ことごとく合祀先の社へ参り得ざるをもって、祭日には数名の総代人を遣わすに、多勢に無勢で俘虜降人同然の位置に立つをもって、何のありがたきことなく早々逃げ帰る。言わば合祀先の一大字のみの祭典を、他の合祀されたる諸大字が費用を負担する訳になり、不平絶えず。いわく、合併社趾の鬱蒼たりし古木は、伐り払われ、売られ、代金は疾《と》くに神事以外の方面に流通し去られて、切株のみ残りて何の功なし。古木などむやみに伐り散らすは人気を荒くし、児童に、従来あり来たりし旧物一切破壊して悔ゆることなかるべき危険思想を注入す。いわく、最も不埒なるは、神殿、拝殿等、訓令の制限に合わぬ点を杉丸太で継ぎ足し、亜鉛葺き等一時|弥縫《びほう》をなし、いずれ改造する見込みなり、当分御看過を乞う等で、そのまま放置する。いわく、多年等閑に付し来たれる神社を、一朝厳命の下に、それ神職を置け、基本金を積めと、短兵急に迫られし結果、氏子|周章《しゆうしよう》、百方工夫して基本金を積み存立を得たるも、また値上げ、また値上げとなり底止《ていし》するところを知らず。造営までなかなか手が届かぬを定規《ていき》に背くとて無理に合祀するは苛刻《かこく》もはなはだし矣。いわく、神官の俸給を増し与えたりとて、即刻何の効験、化育の功績も目に見えるほど挙がらず。従前と変わりしこともなければ、氏子また策を運らし、俸給を定規より少なく神職に与え、ないよりは増しだろう、ぐずぐず言わば合祀するぞ、(533)と今度は氏子より神職を脅し、実際は割引で与えながら規定の俸給を受けおるような受取証を書かすこと。熊楠いわく、むかしより伊勢人は偽り多しと言うので、仮作の小説たるを明示するため『伊勢物語』と言う書題を設けたと申す。まことに本家だけあって、三重県の御方々《おんかたがた》には格別の智恵がある、和歌山県に行なわるる合祀の弊害はことごとく生川氏の指摘せるところに異ならぬが、神職の俸給を割引して受取書を偽造させるようなものは、いまだ和歌山県に聞き及ばず。しかし、追い追いは出で来るならん。生川氏、結論にいわく、右のごときはただ埒明的《らちあきてき》合祀にて、神社の整理か縮少か将《はた》破壊か、かかる神社と神職とに地方自治の中枢たらんことを望むは間違いもはなはだし、これを神道全体の衰頽と言うべしと断ぜられたるは、まことに末《すえ》を見透せし明ありと嘆息の外なし。
 かくて三重県に続いて和歌山県に合祀の励行始まり、何とも看過しがたきもの多きより、熊楠諸有志と合祀反対の陣を張り、地方および京阪の新聞紙をもってその説を主張すること年あり。明治四十三年三月二十三日、同志代議士中村啓次郎氏衆議院において一場の質問演説をなし、次に四十四年三月三十日大臣官房において、中村氏、平田内相と面会し、熊楠|撮《と》り置ける紀州諸名社濫滅名蹟亡減の写真を示してこのことを論じたるのち、内相よりその年の貴族院にても中村氏同様の質問盛んに起これる由を承知し、また内相も中村氏と同一意見を持し、一時に基本金を積ましめ一村一社の制を励行するを有害と認むれば、四月の地方官会議に再び誤解なからしむるよう深く注意を加うべし、と約束さる。(この四月の地方官会議に多少の訓示ありしは、白井氏、前日井上神社局長より得たる秘密書類の写しで明らかなり。ただし少しも実行されず。)そののち聞くところによれば、四十三年六月ごろ、基本財産完備せずとも維持の見込み確実なる諸神社は合祀に及ばずと令ありしとのことながら、地方郡役所へは達しおらず。さて合祀は年を逐うて強行さる。その結果、去年十二月十九日と今年一月二十日の『読売新聞』によれば、在来の十九万四百社の内より、すでに府県社五、郷社十五、村社五千六古五十二、無格社五万千五百六十六、計五万七千二百三十八社を合併しおわり、目下合併準備中のもの、府県社一、郷社十二、村社三千五百、無格社一万八千九百、計二万二千四百(534)十三社あり。残れる十一万ばかりの神社もなお減ずべき見込み多ければ、本年度より地方官を督励して一層これを整理し、また一方には神社境内にある社地を整理せしむべし、とその筋の意嚮を載せたり。また当局は、合祀によって郷党の信仰心を高め、おびただしく基本金を集め得たる等、その効果著し、と言明する由を記せり。
 そもそも全国で合祀励行、官公吏が神社を勦蕩《そうとう》滅却せる功名高誉とりどりなる中に、伊勢、熊野とて、長寛年中に両神の優劣を勅問ありしほど神威高く、したがって神社の数はなはだ多かり、士民の専崇もっとも厚かりし三重と和歌山の二県で、由緒古き名社の濫併《らんぺい》、もっとも酷《ひど》く行なわれたるぞ珍事なる。すなわち三重県の合併はもっともはなはだしく、昨年六月までに五千五百四十七社を減じて九百四十二社、すなわち在来社数のわずかに七分一ばかり残る。次は和歌山県で、昨年十一月までに三千七百社を六百社、すなわち従前数の六分一ばかりに減じ、今もますます減じおれり。かかる無法の合祀励行によって、果たして当局が言明するごとき好結果を日本国体に及ぼし得たるかと問うに、熊楠らは実際全くこれに反せる悪結果のみを睹《み》るなり。
 よってその九牛の一毛を例示せんに、西牟婁郡川添村は、十|大字《おおあざ》、九村社、五無格社、計十四社を滅却伐木して市鹿野《いちがの》大字の村社に合祀し、基本金一万円あるはずと称せしに、実際神林を伐り尽し、神殿を潰し、神田を売却して、得たるところは皆無に近かりし証拠は、その神殿が雨風のために破損を生じ、雨洩りて神体を汚すまでも久しく放置し、神職を詰《なじ》るに、全く修繕費金なしとのことなり。
 また日高郡|上山路《かみさんじ》村は、大小七十二社を東《ひがし》大字の社に合併し、小さき祠《ほこら》はことごとく川へ流さしむ。さて神体等を社殿へ並べて衆庶に縦覧せしめけるに、合祀を好まぬ狂人あり、あらかじめ合祀行なわるれば必ず合祀社を焼くべしと公言せしが、果たしてその夜、火を社殿に放ち、無数の古神像、古文書、黄金製の幣帛《へいはく》、諸珍宝、什器、社殿と共にことごとく咸陽《かんよう》の一炬《いつきよ》に帰す。惜しむべきのはなはだしきなり。むかし水戸義公は日本諸寺社の古文書を写させ、火災を虞《おそ》れて一所に置かず、諸所に分かち置かれしという。金沢文庫、足利文庫など、いずれも火災少なき辺土に立(535)てられたり。件《くだん》の上山路村の仕方は、火災の防ぎ十分ならぬ田舎地方の処置としては、古人の所為に比してまことに拙き遣方《やりかた》とやいわん。さて焼けたる諸社の氏子へ一向通知せず、言わば神社が七十二も焼けたるは厄介払いというような村吏や神職の仕方ゆえ、氏子ら大いに憤り、事に触れて、一ヵ月前にも二大字|合従《がつしよう》して村役場へ推しかけ荒々しき振舞いありし。件の社の焼跡へ、合祀されたるある社の社殿を持ち来たり据えたるに、去年秋の大風に吹き飛ばされ、今に修覆成らず。人心合祀を好まず、都会には想い及ばざる難路を往復五、六里歩まずば参り得ぬ所ゆえ、大いに敬神の念を減じ、参らぬ神に社費を納めぬは自然の成行きなり。
 熊野は本宮、新宮、那智を三山と申す。歴代の行幸、御幸、伊勢の大廟よりはるかに多く、およそ十四帝八十三回に及べり。その本宮は、中世実に日本国現世の神都のごとく尊崇され、諸帝みな京都より往復二十日ばかり山また山を踰《こ》えて、一歩三礼して御参拝ありし。後白河帝が、脱位ののち本宮へ御幸三十二度の時御前にて、
  『玉葉』   忘るなよ雲は都を隔つともなれて久しき三熊野の月
 巫祝《みこ》に託して、神詠の御答えに、
         暫くもいかが忘れん君を守《も》る心くもらぬ三熊野の月
 また後鳥羽上皇は、本宮焼けてのちの歳の内に遷宮《せんぐう》侍りしに参りあいたまいて、
  『熊野略記』 契りあらは嬉しくかかる折にあひぬ忘るな神も行末の空
 万乗の至尊をもって、その正遷宮の折にあいたまいしを、かくばかり御喜悦ありしなり。しかるに、在来の社殿、音無《おとなし》川の小島に在《おわ》せしが、去る二十二年の大水に諸神体、神宝、古文書とともにことごとく流失し、只今は従来の地と全く異なる地に立ちあり。万事万物新しき物のみで、露軍より分捕の大砲など社前に並べあるも、これは器械で製造し得べく、また、ことにより外国人の悪感を買うの具とも成りぬべし。
 これに反し、流失せし旧社殿跡地の周囲に群生せる老大樹林こそ、古え、聖帝、名相、忠臣、勇士、貴嬪《きひん》、歌仙が、(536)心を澄ましてその下に敬神の実を挙げられたる旧蹟、これぞ伊勢、八幡の諸廟と並んでわが国の誇りともすべき物なるを、一昨夏神主の社宅を造るとて目星《めぼし》き老樹ことごとく伐り倒さる。吾輩故障を容れしに、氏子総代、神主と一つ穴で?言《ようげん》揚々として、むかしよりかかる英断の神官を見ず、老樹を伐り倒さば跡地を桑畑とする利益おびただしとて、その時伐採り見て哭《な》きし村民を嘲ること限りなし。その神主は他国の馬骨で、土地に何の関係なければ惜し気もなくかかる濫伐を遂げ、神威を損じ、たちまち何方へか転任し、今日誰が何と小言吐くも相手なければ全く狐に魅《つま》まれしごとし。その前にも本宮の神官にして、賽銭か何かを盗み、所刑《しよけい》されし者あり。あるいは言わん、衣食足りて礼を知り、小人究すれば濫するは至当なり。賽銭を盗み、神林を伐りて悪くば、神官に増俸すべし、と。これ取りも直さず、世道の標準たるべき神聖の職にある人が、みずからその志操を忘却して乞盗に儔《たぐ》うるものなり。平田篤胤が世上の俗神職の多くを謗《そし》りて、源順朝臣が『倭名抄』に巫覡《ふげき》を乞盗部に入れたるを至当とせるを参考すべし。
 次に新宮には、ちょうど一昨年中村氏が議会へこのことを持ち出さぬ前にと、万事を打ち捨てて合祀を励行し、熊野の開祖|高倉下命《たかくらじのみこと》を祀れる神倉社とて、火災あるごとに国史に特書し廃朝仰せ出でられたる旧社を初め、新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売せり。その極《きよく》鳥羽上皇に奉仕して熊野に来たり駐《とど》まりし女官が開きし古尼寺をすら、神社と称して公売せんとするに至れり。もっとも如何《いかが》に思わるるは、皇祖神武天皇を古く奉祀せる渡御前《わたるごぜん》の社をも合祀し、その跡地なる名高き滝を神官の私宅に取り込み、薮中の筍《たけのこ》を売り、その収入を私《わたくし》すと聞く。さてこの合祀に引き続き、この新宮の地より最多数すなわち六名の大逆徒を出し、その輩いずれも合祀の最も強く行なわれたる三重と和歌山県の産なるは、官公吏率先して破壊主義と悖逆《はいぎやく》の例を実示せるによる、と悪評しきりなり。大逆菅野某女が獄中より出せる状に、房州の其処にて石地蔵の頭を火炙《ひあぶ》りにせしが面白かりし由を記せるなど考え合わすべし。
 ことに苦々しきは、只今裁判進行中の那智山事件にて、那智の神官尾崎とて、元は新宮で郡書記たりし者が、新宮(537)の有力家と申し合わせて事実なき十六万円借用の証文を偽造し、一昨年末民有に帰せる那智山の元国有林を伐採し尽して三万円の私酬を獲んと謀り、強制伐木執行に掛かる一刹那検挙されたるにて、このこともし実行されなば那智の滝は水源全く涸れ尽すはずなりしなり。この他に熊野参詣の街道にただ一つむかしの熊野の景色の一斑を留めたる大瀬の官林も、前年村民本宮に由緒ありと称する者に下げ戻されたり。二千余町歩の大樹林にて、その内に拾《ひら》い子谷《こだに》とて、熊野植物の模範品多く生ぜる八十町長しという幽谷あり。これも全くの偽造文書を証拠として山林を下げ戻されたるにて、只今大阪から和歌山県に渉り未曽有の大獄検挙中なり。これらはいずれも神社合祀の励行より人民また神威を畏れず、一郡吏一村役人の了見次第で、古神社神領はどうでもなる、神を畏るるは野暮の骨頂なり、われも人なり、郡村吏も人なり、いっそ銘々に悪事のありたけを尽そうでないかという根性大いに起これるに出ず。
 むかし京都より本宮に詣るに、九十九王子とて歴代の諸帝が行幸御幸の時、奉幣祈願されし分社あり。いずれも史蹟として重要なる上、いわゆる熊野式の建築古儀を存し、学術上の参考物たり。しかるにその多くは合祀で失われおわる。一、二を挙げんに、出立《でたち》王子は定家卿の『後鳥羽院熊野御幸記』にも見るごとく、この上皇関東討減を熊野に親しく祈らんため、衛譲位後二十四年一回ずつ参詣あり、毎度この社辺に宿したまい(御所谷《ごしよたに》と申す)、みずから塩垢離取らせて御祈りありしその神社を見る影もなく滅却し、その跡地は悪童の放尿場となり、また小ぎたなき湯巻《ゆまき》、襁褓《むつき》などを乾すこと絶えず。それより遠からず西の王子と言うは、脇屋義助が四国で義兵を挙げんと打ち立ちし所なり。この社も件の出立王子と今一大字の稲荷社と共に、劣等の八坂神社に合祀して三社の頭字《かしらじ》を集めて八立稲《やたていね》神社と称せしめたるも、西の王子の氏子承知せず、他大字と絶交し一同社費を納めず、監獄へ入れると脅すも、入れるなら本望なり、大字民七十余戸ことごとく入獄されよと答え、祭日には多年恩を蒙りし神社を潰すような神職は畜生にも劣れりとて、坊主を招致し経を読ませ祭典を済ます。神か仏かさっぱり分からず。よって懲らしめのため神社跡地の樹林を伐り尽さしめんと命ぜしも、この神林を伐ればたちまち小山崩れて人家を潰す上、その下の官道を破るゆえ、事行(538)なわれず。ついに降参して郡衙《ぐんが》より復社を黙許せり。
 また南富田《みなみとんだ》村の金刀比羅《ことひら》社は、古え熊野の神ここに住みしが、海近くて波の音|聒《やまか》しとて本宮へ行けり。熊野三景の一とて、眺望絶佳の丘上に七町余歩の田畑山林あり。地震|海嘯《つなみ》の節大用ある地なり。これを無理に維持困難と詐称して他の社へ合祀せしめしも、村民承知せず、結党して郡衙に訴うること止まず、ついに昨年末県庁より復社を許可す。可笑《おか》しきは合祀先の神社の神職が、神社は戻るとも神体は還しやらずとて、おのれをその社の兼務させくれるべき質《しち》に取りおる。しかるに真正の神体は合祀のみぎり先方へ渡さず隠しありしゆえ、復社の一刹那すでに帰り居たまう。燕石|十襲《じつしゆう》でこの神主の所行笑うに堪えたり。この他にも合祀の際、偽神体を渡し、真の神体を隠しある所多しと聞く。
 かつて薩摩の人に聞きしは、太閤本願寺僧をしてその国を細作せしめしより、島津大いに恨み一向宗を厳禁せしも、士庶のその宗旨を奉ずる者、弥陀仏像を柱の中に収め朝夕|看経《かんきん》して維新後に及べり、と。白石が岩松氏に与えたる書翰にも、甲州の原虎胤が信玄より改宗を勧められて肯《がえ》んぜず相模に走りしことや、内藤如安、高山友祥が天主教を止めず、甘んじて呂宋《ルソン》に趣きしことを論じて、こは宗教上の迷信厚きに過ぎしのみなるべからず、実は祖先来自分が思い込んで崇奉する宗旨を、何の訳もなく、当時の執政当局者に気に入らぬという一事のみのゆえに、たちまち棄てて顧みずとは、いかにも人間らしくも、男らしくも、武士らしくもないと思い詰めたる意気の上より出でたることならん、と言えり。
 上述の村民らの志も、また愛国抗外心の一原素として強いて咎むべからざるにや。また西行の『山家集』に名高き八上王子《やかみのおうじ》、平重盛が祈死で名高き岩田王子等も、儼然として立派に存立しおるを、岩田村役場の直前なる、もと炭焼き男の庭の鎮守たりし小祠を村社と指定し、これに合併し、その跡の神林(シイノキの大密林なり、伊藤篤太郎博士の説に、支那、日本にのみ見る物なれば、もっとも保護されたしとのこと)、カラタチバナなどいう珍植物多きを伐り尽して、村吏や二、三の富人の私利を営まんと巧みしを、有志の抗議で合祀は中止したが、無理往生に差し出さし(539)めたる合祀請願書は取り消さざるゆえ、何時亡びるか分からず。全国に目下合祀準備中のもの二万二千余あると、当局が得々と語るは、多くはこの類の神社暴滅に罹《かか》らんとするものと知らる。モンテスキューいわく、虐政の最も虐なるは法に執《しゆう》して虐を行なうものなり、と。吾輩外国人の書を読み、かかる虐政行なわれたればこそ仏国に大不祥の事変を生出せるなれと、余所事《よそごと》に聞き流したる当時を、今となって反って恋しく思うなり。
 次に熊野第二の宮と呼ばるる高原王子は、八百歳という老大樟あり。その木を?《けず》りて神体とす。この木を伐らせ、コミッションを得んとする役人ら、毎度合祀を勧めしも、その地に豪傑あり、おもえらく、政府真に合祀を行なわんとならば、兵卒また警吏を派して一切人民の苦情を払い去り、一挙して片端から気に入らぬ神社を潰して可なり。しかるに、迂遠千万にも毎々旅費日当を費やし官公吏を派し、その人々の、あるいは脅迫し、あるいは甘言して請願書に調印を求むること、怪しむに堪えたり。必竟合祠の強行は政府の本意にあらじ、小役人私利のためにするところならんとて、五千円の基本金を一人して受け合う。さてその金の催促に来るごとに、役人を近村の料理屋へ連れ行き乱酔せしめ、日程尽き、役人|忙《あわ》て去ること毎度なり。そのうちに基本金多からずとも維持の見込み確かならば合祀に及ばずということで、この社は残る。
 次の十丈《じゆうじよう》の王子は、役場からその辺の博徒二人に誨《おし》えて、汝らこの社に因縁ある者と称えて合祀を願い出でよ、しかる時は酬《むく》ゆるに神林の幾分を与うべしとのことで、終《つい》に合祀す。件の悪党、自分にくれた物と思い、その樹林を伐採して売りしを、盗伐と称え告訴し、二人入獄、一人は牢死せり。官公吏が合祀を濫用して姦を勧め、史蹟名勝を滅せし例は、この他にも多く、これがため山地は土崩れ、岩墜ち、風水の難おびただしく、県庁も気がつき、今月たちまち樹林を開墾するを禁ずるに及べり。しかれども合祀依然行なわれおれば、この禁令も何の功なからん。かかる弊害は、紀州のみならず、埼玉、福島、岡山、鳥取諸県よりも聞き及ぶ。
 合祀濫用のもっともはなはだしき一例は紀州西牟婁郡近野村で、この村には史書に明記せる古帝皇奉幣の古社六つ(540)あり(近露王子、野中王子、比曽原王子、中川王子、湯川王子、小広王子)。一村に至尊、ことにわが朝の英主と聞こえたる後鳥羽院の御史蹟六つまで存するは、恐悦に堪えざるべきはずなるに、二、三の村民、村吏ら、神林を伐りて営利せんがため、不都合にも平田内相すでに地方官を戒飭筋《かいちよく》し、五千円を積まずとも維持確実ならば合祀に及ばずと令したるはるか後に、いずれも維持困難なりと詐《いつわ》り、樹木も地価も皆無なる禿山頂へ、その地に何の由緒なき無格社金毘羅社というを突然造立し、村中の神社大小十二ことごとくこれに合祀し、合祀の日、神職、衆人と神体を玩弄してその評価をなすこと古道具に異ならず。この神職はもと負荷人足《にもちにんそく》の成上りで、一昨冬妻と口論し、妻首|縊《くく》り死せる者なり。かくて神林伐採の許可を得たるが、その春日社趾には目通り一丈八尺以上の周囲ある古老杉三本あり。
 また野中王子社趾には、いわゆる一方杉とて、大老杉、目通り周囲一丈三尺以上のもの八本あり。そのうち両社共に周囲二丈五尺の杉各一本は、白井博士の説に、実に本邦無類の巨樹とのことなり。またこれら大木の周囲にはコバンモチというこの国希有の珍木の大樹あり。托生蘭《たくせいらん》、石松類《なんかくらんるい》等に奇物多し。年代や大いさよりいうも、珍種の分布上より見るも、本邦の誇りとすべきところなる上、古帝皇将相が熊野詣りごとに歎賞され、旧藩主も一代に一度は必ずその下を過《よぎ》りて神徳を老樹の高きに比《よそ》え仰がれたるなり。すべてかかる老大樹の保存には周囲の状態をいささかも変ぜざるを要することなれば、いかにもして同林の保存を計らんと、熊楠ら必死になりて抗議し、史蹟保存会の白井、戸川二氏また、再度まで県知事に告げ訴うるところあり。知事はその意を諒とし、同林伐採を止めんとせしも、属僚輩かくては県庁の威厳を損ずべしとて、その一部分ことに一方杉に近き樹林を伐らしめたり。過ちを改めざるを過ちと言うとあるに、入らぬところに意地を立て、熊楠はともあれ他の諸碩学の学問上の希望を容れられざりしは遺憾なり。かくのごとく合祀励行のために人民中すでに姦徒輩出し、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹木著しく少なくなりゆき、濫伐のあまり、大水風害年々聞いて常幸となすに至り、人民多くは淳樸の風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落し行くこそ無残なれ。
(541) これより予は一汎に著《あら》われたる合祀の悪結果を、ほぼ分項して記さんに、
 第一、神社合祀で敬神思想を高めたりとは、政府当局が地方官公吏の書上《かきあげ》に瞞《だま》されおるの至りなり。電車鉄道の便利なく、人力車すら多く通ぜざる紀州鄙地の山岳重畳、平沙渺茫たる処にありては、到底遠路の神社に詣ずること成らず。故に古来最寄りの地点に神明《しんめい》を勧請《かんじよう》し、社を建て、氏神、産土神《うぷすながみ》として朝夕参り、朔望《さくぼう》には、必ず村中ことごとく参り、もって神恩を謝し、聖徳を仰ぐ。『菅原伝授鑑』という戯曲三段目に、白太夫なる百姓|老爺《ろうや》が七十の賀に、三人の?《よめ》が集《つど》い来て料理を調うる間に、七十二銅と嫁に貰える三本の扇を持ち、末広《すえひろ》の子供の生い先、氏神へ頼んだり見せたりせんとて、いまだその社を知らざる一人の娘を伴い参詣するところあり。田舎には合祀前どの地にも、かかる質樸にして和気|靄々《あいあい》たる良風俗あり。平生|農桑《のうそう》で多忙なるも、祭日ごとに嫁も里へ帰りて老父を省《せい》し、婆は三升樽を携えて孫を抱きに?の在所へ往きしなり。かの小窮窟な西洋の礼拝堂に貴族富豪のみ車を駆《は》せて説教を聞くに、無数の貧人は道側に黒|?包《バン》を咬んで身の不運を嘆《かこ》つと霄壌《しようじよう》なり。かくて大字ごとに存する神社は大いに社交をも助け、平生頼みたりし用談も祭日に方《かた》つき、麁闊《そかつ》なりし輩も和熱親睦せしなり。只今のごとく産土神が往復山道一里|乃至《ないし》五里、はなはだしきは十里も歩まねば詣で得ずとあっては、老少婦女や貧人は、神を拝し、敬神の実を挙げ得ず。
 前述一方杉ある近野村のごとき、去年秋、合祀先の禿山頂の社へ新産婦が嬰児とその姉なる小児を伴い詣るに、往復三里の山路を歩みがたく中途で三人の親子途方に暮れ、ああ誰かわが産土神《うぶすながみ》をかかる遠方へ拉《と》り去れるぞと嘆くを見かねて、一里半ばかりその女児を負い送り届けやりし人ありと聞く。西牟婁郡三川豊原村は山嶽重畳、一村の行程高野山を含める伊都郡《いとごおり》に等しと称す。その二十大字三十二社を減じて、ことごとく面川《めんこ》の春日社に併せ、宮木をことごとく伐りて二千余円に売りながら、本社へは八百円しか入らず。さてその神主田辺へ来たり毎度売婬女に打ち込み、財産差押えを受けたり。この村は全く無神になり、また仏寺をも潰しおわり、仏像を糞担桶《こえたんご》に入れ、他の寺へ運ばしむ。村長|家高《いえたか》某という者、世に神仏は無用の物なり、万事村長の言をさえ遵奉せば安寧浩福なりとの訓えなり。
(542) 白石の『藩翰譜』に、秋田氏暴虐なりしを述べて、その民の娘、年長じても歯を黒め得ざりしと言えるをさえ苛政の例《ためし》に覚えしが、今はまた何でもなき郡吏や一村長の一存で、村民が神に詣で名を嬰児に命ずる式すら挙げ得ざるも酷《ひど》し。その状あたかも十七世紀に、英国内乱に際し、旧儀古式を全廃し、セントポール大寺観を市場と化し、その洗礼盆で馬を浴せしめ、愚民|嗷語《ごうご》して、われは神を信ぜず、麦粉と水と塩を信ずと言い、僧に向かいて汝自身の祈?一俵を磨場《つきや》に持ち往き磨《ひ》いて粉にして朝食を済ませよなど罵りしに同じ。『智度論』に、恭敬は礼拝に起こると言えり。今すでに礼拝すべき神社なし、その民いかにして恭敬の何物たるを解せんや。すでに恭敬を知らぬ民を作り、しかして後日長上に従順ならんことを望むるは、矛盾のはなはだしきにあらずや。かく敬神したきも、敬神すべき宛所《あてどころ》が亡われおわりては、ないよりは優れりという心から、いろいろの淫祀を祭り、蛇、狐、天狗、生霊《いきりよう》などを拝し、また心ならずも天理教、金光教など祖先と異なる教に入りて、先祖の霊牌を川へ流し、田畑を売りて大和、備前の本山へ納め、流浪して市街へ出で、米搗きなどして聯生《りようせい》する者多く、病を治するとて大食して死する者あり、腐水を呑んで失心するもあり。改宗はその人々の勝手次第なるも、かかる改宗を余儀なくせしめたる官公吏の罪|冥々裡《めいめいり》にはなはだ重し。合祀はかくのごとく敬神の念を減殺《げんさい》す。
 第二に、神社合祀は民の和融を妨ぐ。倒せば、日高郡|御坊《ごぼう》町へ、前年その近傍の漁夫が命より貴ぶ夷子《えびす》社を合併せしより、漁夫大いに怒り、一昨夏祭日に他大字民と市街戦を演じ、警吏等の力及ばず、ついに主魁九名の入監を見るに及び、所の者ことごとく合祀の余弊に懲《こ》り果てたり。わが邦人宗教信仰の念に乏しと口癖に言うも、実際合祀を濫用して私利を計る官公吏や、不埒千万にも神社を潰して大悦する神職は知らず、下層の民ことに漁夫らは信心はなはだ堅固なる者にて、言わば兵士に信心家多きごとく、日夜|板《いた》一枚の命懸けの仕事する者どもゆえ、朝夕身の安全を蛭子《えびす》命に?り、漁に打ち立つ時獲物あるごとに必ずこれに拝詣し報賽《ほうさい》し、海に人落ち込みし時は必ずその人の罪を祓除《ふつじよ》し、不成功なるごとに罪を懺悔して改過し、尊奉絶えざるなり。しかるに海幸《うみさち》を守る蛭子社を数町|乃至《ないし》一、二里も陸(543)地内に合併されては、事あるごとに祈願し得ず、兵卒が将校を亡《うしな》いしごとく歎きおり、ために合祀の行なわれたる漁村にはいろいろの淫祠が代わりて行なわれおり、姦人の乗じて私利を営むところとなる。これ角《つの》を直《ただ》さんとして牛を殺せるなり。
 学者や富豪に奸人多きに引きかえ、下民は常に命運の薄きを嘆くより、したがって信心によって諦めを啓《ひら》かんとする念深く、何の道義論哲学説を知らぬながらに、姦通すれば漁利|空《むな》し、虚言すれば神罰立ちどころに至ると心得、ために不義に陥らぬこと、あたかも百二十一代の至尊の御名を暗誦せずとも、誰も彼も皇室を敬するを忘れず、皇族の芳体を睨《にら》めば眼が潰るると心得て、五歳の髫?《ちようしん》も不敬を行なわぬに同じ。むつかしき理窟入らずに世が治まるほど結構なることなく、分に応じてその施設あるは欧米また然り。フィンランド、ノルウェーなどには、今も地方に吹いたら飛ぶような木の皮で作った紙製の礼拝堂あり。雪中に一週に一度この堂に人を集め、世界の新聞を報じ、さて郵便物の配布まで済ませおる。老若男女打ち集い歓喜限りなし。別に何たるむつかしき説法あるにあらず。英国なども、漁村には漁夫|水手《かこ》相応の手軽き礼拝堂あり。これに詣る輩むつかしき作法はなく、ただ命の洗濯をするまでなり。はなはだしきは、コーンウォール州に、他州人の破船多くて獲物多からんことを祈り、立てた寺院すらあるなり。それは過度ならんも、漁夫より漁神を奪い、猟夫より山神を奪い、その祀を滅するは治道の要に合わず。いわんや、山神も海神もいずれもわが皇祖の御一家たるにおいてをや。神威を滅するは、取りも直さず、皇威に及ぼすところありと知るべし。
 西洋に上帝を引いて誓い、また皇帝を引いて誓うこと多し。まことに聞き苦しきことなり。わが国にも『折焚く柴の記』に、何かいうと八幡神などの名を引いて誓言する老人ありしを、白石の父がまことに心得悪しき人なりと評せしこと出でたり。されば、梵土には表面梵天を祀る堂なし。これ見馴れ聞き馴るるのあまり、その威を?《けが》すを畏れてなり。近ごろ水兵などが、畏き辺《あた》りの御名を呼ばわりて人の頭を打ち、また売婬屋で乱妨《らんぼう》などするを見しことあり。(544)言わば大器小用で、小さき民や小さき所には、たとい誓言するにも至尊や大廟の御名を引かず、同じく皇室御先祖の連枝《れんし》ながらさまで大義に触れざる夷子《えぴす》社や山の神を手近く引くほどの準備は縦《ゆる》し置かれたきことなり。教育到らざる小民は小児と均《ひと》しく、知らずして罪に陥るようのこと、なるべく防がれたし。故に、あまりに威儀厳重なる大神社などを漁夫、猟師に押しつくるは事件の基なり。
 また日高郡|原谷《はらたに》という所でも、合祀の遺恨より、刀で人を刃せしことあり。東牟婁郡|佐田《さだ》および添《そえ》の川《かわ》では、一昨春合祀反対の暴動すら起これり。また同郡|高田《たかだ》村は、白昼にも他村人が一人で往きかぬるさびしき所なり。その南檜杖《みなみひつえ》大字の天王の社は、官幣大社|三輪《みわの》明神と同じく社殿なく古来老樹のみ立てり。しかるに、社殿あらば合祀を免ると聞き、わずか十八戸の民が五百余円出し社殿を建つ。この村三大字各一社あり。いずれも十分に維持し来たりしを、四十一年に至り一村一社の制を振り舞《まわ》し、せっかく建てたる社殿を潰し他の大字へ合祀を命じたるに、何の大字一つへ合祀すべきか決せず。四十三年二月末、郡長その村の神社関係人一同を郡役所へ招き、無理に合祀の位置を郡長に一任と議決せしめ、その祝賀とて新宮町の三好屋で大宴会、酒二百八十余本を飲み一夜に八十円費やさしめ、村民大不服にて合祀承諾書に調印せず。総代輩困却して逃竄《とうざん》し、その後召喚するも出頭せず。よって警察所罰令により一円ずつの科料を課せり。かくて前後七回遠路を召喚されしも、今に方つかずと、神社滅亡を喜悦するが例なるキリスト教徒すら、官公吏の亡状を厭うのあまり告げ来たれり。これらにて、合祀は民の和融を妨げ、加えて官衙の威信をみずから損傷するを知るべし。
 第三、合祀は地方を衰微せしむ。従来地方の諸神社は、社殿と社地また多くはこれに伴う神林あり、あるいは神田あり。別に基本財産というべき金なくとも、氏子みな入費を支弁し、社殿の改修、祭典の用意をなし、何不足なく数百年を面白く経過し来たりしなり。今この不景気連年絶えざる時節に、何の急事にあらざるを、大急ぎで基本財産とか神社の設備とか神職の増俸とかを強いるは心得がたし。あるいは大逆徒出でてより、在朝者、神社を宏壮にし神職に(545)威力を賦して思想界を取り締らしめんとて、さてこそ合祀を一層励行すといえど、本県ごとき神武帝の御古社を滅却したり、新宮中の諸古社をことごとく公売したりせるのちに、その地より六人という最多数の大逆徒を出せるを見る者、誰かその本末の?倒に呆れざらん。また、只今ごとき無慙無義にして神社を潰して自分の俸給を上げんことのみ勤《つと》め、あるいは枯損木と称して枯損にあらざる神木を伐り売るような神職が、何を誦し何を講じたりとて、人民はこれ狼が説法して羊を欺き、猫が禅定に入ると詐《いつわ》つて鶏を攘《ぬす》まんとするに等しと嘲弄し、何の傾聴することかあらん。まのあたり古社、旧蹟を破壊して、その惜しむに足らざるを示し、さて一方に無恥不義きわまる神職をして破壊主義の発生を妨遮せしめんとするは、娼妓に烈女伝を説かしめ、屠者に殺生禁断を主張せしむるに異ならず。
 むかし隋の煬帝《ようだい》、父を弑し継母を強姦し、しかして仏教を尊信することはなはだし。車駕一たび出で還らず、身凶刃に斃る。後世、仏者曲説保護せんとするも、その弁を得ず、わずかにこれこの菩薩濁世に生まれて天子すら悪をなすべからざるの理を実証明示せるなりと言う。嗚呼《ああ》今の当局もまた後日わずかにかの人々は宰相高官すら神社を滅却すればその罪の到来する、綿々として断えず、国家の大禍をなすを免れずという理を明証せる権化の再誕なりと言われて安んぜんとするか。今日のごとき不埒な神職に愛国心や民の元気を鼓吹せしめんと謀るは、何ぞ梁の武帝が敵寇至るに沙門を集めて『摩訶般若心経』を講じて虜《とりこ》となり餓死せしに異ならん。むかし張角乱を作《な》せしとき、漢廷官人の不心得を諷して向翔と言える人、兵を将《ひき》い河上に臨み北向して『孝経』を読まば賊必ず自滅すべし、と言えり。また北狄《ほくてき》が漢地を犯せし時、太守宋梟、涼州学術少なし、故にしばしば反す、急に『孝経』を多く写させ家々習読せしめば乱たちまち止みなん、と言えり。神社合祀で危険思想を取り締らんとするは、ほとんどこの類なり。
 和歌山県の神主の総取締りする人が新聞で公言せしは、神社は正殿、神庫、幣殿、拝殿、着到殿、舞殿、神餐殿、御饌殿、御炊殿、盛殿、斎館、祓殿、祝詞屋《のつとや》、直殿、宿直所、厩屋、権殿、遙拝所の十八建築なければ設備全しと言うべからずとて、いかに神林大いに茂り四辺神さびたる神社を見るも、設備足らずとてこれを滅却す。今時かかる設(546)備全き神社が、官国幣社を除きて何所《いずく》にかあるべき。真に迂儒《うじゆ》が後世に井田《せいでん》を復せんとし、渡天の律僧がインドより支那に帰りて雪中裸かで水で肛門を浄むるに等しき愚説なり。神殿は絶えず破損し通すものにあらず。用いようによりては地方に大利潤あるべき金銭を、この不景気はなはだしき世にかかる何の急用なき備えに永久蓄積せしむるは、世間財理の融通を障《さえぎ》り、不得策のはなはだしきで、地方に必要の活金《いきがね》を地下に埋め投ずに同じ。神社の基本金いかに殖えるとも、土地がそれ相応に繁昌せずば何の甲斐あらん。いわんや、実際地方には必ず多少の姦徒あり、種々方策してこの基本金を濫用し去らんとする輩多きをや。一昨年の『和歌山新報』によれば、有田郡奥山村の白山社を生石《おいし》神社に併せ、社趾の立木売却二千五百円を得、合祀費用三百五十円払いて、残り二千百五十円行方不明、石磴《いしだん》、石燈籠、手水鉢等はことごとく誰かの分捕りとなる。かかる例多きゆえ、『紀南新報』に、今の合祀の遣《や》り方では、故跡旧物を破壊して土俗を乱して得るところは狸一疋くらいに止まる、いっそ郡村の役所役場より比較的正直確実なる警察署に合祀処分を一任しては如何《いかん》、と論ぜる人ありしは明論なり。
 また従来最寄りの神社参詣を宛て込み、果物、駄菓子、酢《すし》、茶を売り、鰥寡《かんか》貧弱の生活を助け、祭祀に行商して自他に利益し、また旗、幟《のぼり》、幕、衣裳を染めて租税を払いし者多し。いずれも廃社多きため太《いた》く職を失い難渋おびただし。村民もまた他大字の社へ詣るに衣服を新調し、あるいは大いに修補し、賽銭も恥ずかしからぬよう多く持ち、はなはだしきは宿り掛けの宿料を持たざるべからず。以前は参拝や祭礼にいかに多銭を費やすも、みなその大字民の手に落ちたるに、今は然らず、一文失うも永くこの大字に帰らず、他村他大字の得《とく》となる。故に参詣自然に少なく、金銭の流通一方に偏す。西牟婁郡|南富田《みなみとんだ》村の二社を他の村へ合祀せしに、人民他村へ銭落とすを嫌い社参せず騒動す。よって県庁より復社を命ぜしに、村民一同大悦しておのおの得意の手伝いをなし、三時間にして全く社殿を復興完成せり。信心の集まる処は、金銭よりも人心こそ第一の財産と知らるなれ。
 日高郡|三又《みつまた》大字は、紀伊国で三つの極寒村の第一たり。十人と集まりて顔見合わすことなしという。ここに日本に(547)ただ三つしかなきという星の神社あり。古え明星この社頭の大杉に降《くだ》りしを祭る。祭日には、十余里界隈、隣国大和よりも人群集し、見世物、出店おびただしく、その一日の上り高で神殿を修覆し貯蓄金もできしなり。しかるを村吏ら強制して、至難の山路往復八里距てたる竜神大字へ合祀せしむ。さて従前に比して社費は二、三倍に嵩《かさ》むゆえに、樵夫、炭焼き輩払うことならず、払わずば社殿を焼き払い神木を伐るべしと逼《せま》られ、常に愁訴断えず。西洋には小部落ごとに寺院、礼拝堂あり、男女群集して夜市また昼市を見物し、たとい一物を買わずとも散策運動の便《たより》となり、地方繁栄の外観をも増すが常なるに、わが邦にはかかる無謀の励行で寂寥たる貧村をますます貧乏せしむるも怪しむべし。
 すべて神社の樹木は、もとより材用のために植え込み仕上げたるにあらざれば、枝が下の方より張り、節多く、伐ったところが価格ははなはだ劣る。差し迫りしこともなきに、基本金を作ると称し、ことごとくこれを伐らしむるほどますます下値となる。故に神林ことごとく伐ったところが何の足しに成らず、神社の破損は心さえ用うれば少修理で方《かた》つくものなれば、大破損を待って遠方より用材を買い来て修覆するよりは、従来ごとく少被損あるごとにその神社の林中より幾分を伐ってただちにこれを修めなば事済むなり。置かば立派で神威を増し、伐らば二束三文の神林を、ことごとく一時に伐り尽させたところが、思うほどに売れず、多くは焚料《たきもの》とするか空しく白蟻を肥やして、基本金に何の加うることなき所多し。金銭のみが財産にあらず、殷紂は宝玉金銀の中に焚死し、公孫?は米穀の中に自滅せり。いかに多く積むも扱いようでたちまちなくなる、殆《あやう》きものは金銭なり。神林の樹木も神社の地面も財産なり。火事や地震の節、多大の財宝をここに持ち込み保全し得るは、すでに大倉庫、大財産なり。確固たる信心は、不動産のもっとも確かなるものたり。信心薄らぎ民に恒心なきに至らば、神社に基本金多く積むとも、いたずらに姦人の悪計を助長するのみ。要するに人民の好まぬことを押しつけて事の末たる金銭のみを標準に立て、千百年来地方人心の中点たり来たりし神社を滅却するは、地方大不繁昌の基なり。
 第四に、神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄うし、風俗を害することおびただし。『大阪毎日新聞』で見しに、(548)床次《とこなみ》内務次官は神社を宗教外の物と断言し、さて神社崇敬云々と言いおる由。すでに神を奉祀して神社といい、これを崇敬する以上は、神社は宗教内のものたること明らけし。仏を祀る仏寺、キリストを拝する耶蘇教寺と何の異あらん。憲法第二十八条すでに信仰の自由を公許さる。神道に比べて由緒はるかに劣れる天理教、金光教すら存立を許しおれり。神祇は、皇祖皇宗およびその連枝また末裔、もしくは一国に功勲ありし人より下りて一地方一村落に由緒功労ありし人々なり。人民これを崇敬するは至当のことなり。神霊は見るべからず、故に神社を崇拝するは耶蘇徒が十字架や祭壇を敬するに同じ。床次次官、先年欧米を巡廻し帰りて、その諸国いずれも寺院、礼拝堂多きを教化の根本と嘆賞せり、と聞く。わが神社何ぞ欧米の寺院、礼拝堂に劣らんや。ただそれ彼方《かなた》には建築用材多く、したがって偉大耐久の寺院多し。わが国は木造の建築を主とすれば、彼方ごとき偉大耐久のもの少なし。故に両大神宮を始め神社いずれも時をもって改造改修の制あり。欧米人の得手勝手で、いかなる文明開化も建築宏杜にして国亡びて後までも伝わるべきものなきは真の開化国にあらずなどいうは、大いに笑うべし。バビロン、エジプト等久しく建築物残りて国亡びなんに、どれほどの開化ありたりとてその亡民に取りて何の功あらん。中米南米には非凡の大建築残りて、誰がこれを作りしか、探索の緒《いとぐち》すらなきもの多し。外人がかかる不条理をいえばとて、縁もなき本邦人がただただ大建築を慕い、民力を料《はか》らず国が亡びても残るべき大建築を起こさんなど望む者あらば、これいかなる美女を生むも芸妓になるべき意気な容姿なきは悦ぶに足らずと憂うると異ならず。娘が芸妓にならねば食えぬようになりなんに、何の美女を誇り悦ぶべき。欧米論者の大建築を悦ぶは、これ「芸が身を助くるほどの不仕合せ」を悦ぶ者たり。
 ただし、わが国の神社、建築宏大ならず、また久しきに耐えざる代りに、社ごとに多くの神林を存し、その中に希代の大老樹また奇観の異植物多し。これ今の欧米に希《まれ》に見るところで、わが神社の短処を補うて余りあり。外人が、常にギリシア・ローマの古書にのみ載せられて今の欧米に見る能わざる風景雅致を、日本で始めて目撃し得、と歎賞措《お》かざるところたり。欧州にも古えは神林を尊び存せしに、キリスト教起こりて在来の諸教徒が林中に旧教儀を行な(549)うを忌み、自教を張らんがために一切神林を伐り尽せしなり。何たる前見の明ありて、伐木せしにあらず、我利のために施せし暴挙たり。それすら旧套を襲いて在来の異神の神林をそのまま耶蘇教寺の寺林とし、もってその風景と威容を副えおる所多し。市中の寺院に神林なく一見荒寥たるは、地価きわめて高く、今となって何とも致し方なきによる。これをよきことと思いおるにはあらじ。されば菊池幽芳氏が、欧州今日の寺院、建築のみ宏壮で樹林池泉の助けなし、風致も荘麗も天然の趣きなければ、心底から人心をありがたがらせ清澄たらしむることすこぶる足らず、と言えるは言の至れるなり。後年日本富まば、分に応じて外国よりいかなる大石を買い入れても大社殿を建て得べし。千百年を経てようやく長ぜし神林巨樹は、一度伐らば億万金を費やすもたちまち再生せず。熊沢伯継の『集義書』に、神林伐られ水|涸《か》れて神威|竭《つ》く、人心乱離して騒動絶えず、数百年して乱世中人が木を伐るひまなきゆえ、また林木成長して神威も暢るころ世は太平となる、といえり。止むを得ぬことといわばそれまでなれど、今何の止むを得ぬこともなきに、求めて神林を濫伐せしめ、さて神林再び長じ神威人心の復帰するまで、たとい乱世とならずとも数百年を待たねばならぬとあつては、当局者の再考を要する場合ならずや。
 神社の社の字、支那では古く二十五家を一社とし、樹を植えて神を祭る。『白虎通』に、社稷に樹あるは何の故ぞ、尊んでこれを識して民人をして望んでこれを敬せしむ、これに樹《う》うるにその地に産する木をもってす、とある由。大和の三輪明神始め熊野辺に、古来老樹大木のみありて社殿なき古社多かりし。これ上古の正式なり。『万葉集』には、社の字をモリと訓《よ》めり。後世、社木の二字を合わせて木へンに土(杜字)を、神林すなわち森としたり。とにかく神森ありての神社なり。昨今三千円やそこらの金を無理算段して神社の設備大いに挙がると称する諸社を見るに、すでに神林の蓊鬱《おううつ》たるなきゆえ、古えを忍ぶの神威を感ずのという念毛頭起こらず。あたかも支那の料理屋の庭に異ならず。ひたすら維持維持と言いて古制旧儀に背き、ブリキ屋根やら、ペンキ塗りの鳥居やら、コンクリートの手水鉢、ガスの燈明やらで、さて先人が心ありて貴重の石材もて作り寄進せしめたる石燈籠、手水鉢、石鳥居はことごとく亡われ、(550)古名筆の絵馬はいつのまにやら海外へ売り飛ばされ、その代りに娼妓や芸者の似顔の石板画や新聞雑誌の初刊付録画を掛けておる。外人より見れば、かの国公園内の雪隠か動物園内の水茶屋ほどの?爾《さいじ》たる軽き建築ゆえ、わざわざこんな物を見に来るより、自国におりて広重や北斎のむかしの神社の浮世絵を集むるがましと長大息して、去りて再び来たらず。
 邦人はまた急に信仰心が薄くなり、神社に詣るも家におるも感情に何の異《かわ》りなく、その上合祀で十社二十社まるで眼白鳥《めじろ》が籠中に押し合うごとく詰め込まれて境内も狭くなり、少し迂闊《うか》とすれば柱や燈架《ガスとうだい》に行き中《あた》り、犬の屎《くそ》を踏み腹立つのみ。稲八金天大明権現王子《いなはちこんてんだいみようごんげんのおうじ》と神様の合資会社で、混雑千万、俗臭紛々|難有味《ありがたみ》少しもなく、頭痛胸悪くなりて逃げて行く。小山健三氏、かつて日本人のもっとも快活なる一事は休暇日に古社に詣り、社殿前に立ちて精神を澄ますにあり、と言いしとか。かかることはむかしの夢で、如上の混成社団に望むべくもあらず。およそいかなる末枝小道にも、言語筆舌に述べ得ざる奥儀あり。いわんや、国民の気質品性を幾千年養成し来たれる宗教においてをや。合祀は敬神思想を盛んにすと口先で千度説くも何の功なきは、全国で第二番に合祀の多く行なわれたる和歌山県に、全国最多数の大逆徒と、無類最多数の官公吏犯罪(昨年春までに二十二人)を出し、また肝心の神職中より那智山事件ごとき破廉恥の神官を出せるにて知るべし。また近年まで外国人口を揃えて、日本人は一種欧米人に見得ざる謹慎優雅の風あり、といえり。封建の世に圧制され、鎖国で閑《ひま》多かりしゆえにもあるべけれど、要は到る処神社古くより存立し、斎忌《ものいみ》の制厳重にして、幼少より崇神の念を頭から足の先まで浸潤せることもっともその力多かりしなり。(このことは、明治三十年夏、ブリストル開会の英国科学奨励会人類学部発会の日、部長の演説に次いで、熊楠、「日本斎忌考《ゼ・タプ−・システム・イン・ジャパン》」と題し、読みたり。)
 神社の人民に及ぼす感化力は、これを述べんとするに言語杜絶す。いわゆる「何事のおはしますかを知らねども有難さにぞ涙こぼるる」ものなり。似而非《えせ》神職の説教などに待つことにあらず。神道は宗教に違いなきも、言論理窟で(551)人を説き伏せる教えにあらず。本居宣長などは、仁義忠孝などとおのれが行なわずに事々しく説き勧めぬが神道の特色なり、と言えり。すなわち言語で言い顕わし得ぬ冥々の裡に、わが国万古不変の国体を一時に頭の頂上より足趾《あしゆび》の尖《さき》まで感激して忘るる能わざらしめ、皇室より下|凡民《ぼんみん》に至るまで、いずれも日本国の天神地祇の御裔《みすえ》なりという有難《ありがた》さを言わず説かずに悟らしむるの道なり。古来神殿に宿して霊夢を感ぜしといい、神社に参拝して迷妄を闢《ひら》きしというは、あたかも古欧州の神社神林に詣でて、哲士も愚夫もその感化を受くること大なるを言えるに同じ。別に神主の説教を聴いて大益ありしを聞かず。真言宗の秘密儀と同じく、何の説教講釈を用いず、理論実験を要せず、ひとえに神社神林その物の存立ばかりが、すでに世道人心の化育に大益あるなり。八年前、英人ヘンリー・ダイヤー、『大日本』という書を著わし、欧米で巡査の十手《じって》を振らねば治まらぬ群集も、日本では藁の七五三繩《しめなわ》一つで禁を犯さず、と賞賛せり。この感化力強き七五三繩は、今や合祀のためにその権威を失いつつあるなり。合祀が人情を薄うし風俗を乱すこと、かくのごとし。
 第五に、神社合祀は愛国心を損ずることおびただし。愛郷心は愛国心の基なり、とドイツの詩聖は言えり。例せば、紀州地方より海外に出稼ぐ者多きが、つねに国元へ送金するに、まずその一部分をおのが産土神に献じ、また出稼ぎ地方の方物異産を奉り、故郷を慕うの意を表す。西牟婁郡|朝来《あつそ》村は、従来由緒もつとも古き立派な社三つありしを、例の五千円の基本金に恐れてことごとく伐林し、只今路傍に息《いこ》うべき樹林皆無となれり。その諸神体を、わずかに残れる最劣等の神社に抛り込み、全村無神のありさまにて祭祀も三年来中止す。故にその村から他処へ奉公に出る若者ら、たまたま自村に帰るも面白味なければとて永く帰省せず。芳養《はや》村も由緒ある古社を一切合祀せしゆえ、長さ三里ばかりの細良き谷中の小民、何の楽しみもなく村外へ流浪して還らぬ者多く、その地第一の豪農すら農稼に人を傭うに由なく非常に困り、よって人気《にんき》直しに私《わたくし》に諸社を神体なしに再興せり。もって合祀がいかに愛郷心を殺減するかを見るべし。神職が無慙不義にして、私慾のために諸神社を検挙し撲滅するより、愛国心など説くも誰も傾聴せぬは、(552)上にすでに述べたり。例せば、西牟婁郡高瀬という大字の神職は、かつて監守盗罪で処刑されたる者なり。自分の社へ他の諸社を合祀せしめて、その復旧を防がんと念を入れて自大字の壮丁を傭い、他大字の合祀趾の諸社殿を破壊せしめしに、到る処他大字の壮漢に逆撃されて大敗し、それより大いに感情を悪くし、すでに復社したる社二、三あり。君子交り絶えて悪声を放たずと言うに、自己の些細な給料を増さんとて、昨日まで奉祀して衣食の恩を受けたる神の社殿を、人を傭いてまでも滅却せんとする前科者の神職あるも、昭代の逸事か。
 また日高郡矢田村の大山神社は、郡中一、二を争う名社にて、古え国司がこの郡で三社のみを官知社として奉幣せるその一なり。その氏子の一人、その社の直下に住む者おのが神職として日勤する劣等の社が村役場に近きを村社と指定し、村民が他の諸社を大山神社へ合祀せんとて作りし願書を変更して、大山神社を件《くだん》の劣等の社へ合祀せんと請うごとく作り、合祀を強行せしめんとしたるに、熊楠は祖先が四百年来この社を奉祀し来たり、かつ徳川吉宗公以降幕府より毎々修補あり、旧藩侯よりも社家十人までも置かれたる大社にて、只今の社殿、廻廊等、善|尽《つく》せる建築はことごとく自分一族の寄進に係る由緒あるをもって抗議を申し込み、県知事大いにその意を諒とし、すでに一年四、五十円の入費で存置を認可しおるに、郡村の小吏ら今に明治三十九年の勅令のみを振り舞《まわ》し、その後の訓示、内達等を一切知らぬまねして、基本金を桎梏《せめどうぐ》として合祀を迫ること止まず。かかる不埒の神職が少々の俸給を増し得んとて、祖先来四百年以上奉崇し釆たれる古社を滅却せんとする心もて愛国心など説きたればとて、誰かこれを信ぜん。こんな小人は日和次第でたちまち敵軍のために自国をも売るべし。要するに人民の愛国心を減却するのはなはだしきは、我利一偏の神職、官公吏の合祀の遣り方なり。今も日高郡などは、一村に指定神社の外の社を存置せんとせば、その大字民はその大字の社の社費と、それからまた別に指定神社すなわち大字外の社の社費を、二重に負担せざるべからず。これ三十九年の勅令の定むるところなりとて人民を苦しめ、ために大字限り保存し得べき名社を、止むを得ず合併せしむるなり。大山神社ごときは、県知事すでにその独立を許可されしも、郡吏この二重負担の恐るべきを説きて、(553)まさに合併せんと力《つと》めおれり。
 第六に、神社合祀は土地の治安と利益に大害あり。むかし孔子に子貢が問いけるは、殷の法に灰を衢《まち》に葉つる者を?罪《あしきり》に処せるは苛酷に過ぎぬか、と。孔子答えていわく、決して苛酷ならず、灰を衢に棄つれば風吹くごとに衣服を汚し、人々不快を懐《いだ》く、自然に喧花《けんか》多く大事を惹き起こさん、故に一人を刑して万人慎むの法なり、と。西洋諸国、土一升に金一升を惜しまず鋭意して公園を設くるも、人々に不快の念を懐かしめず、民心を和《やわ》らげ世を安んぜんとするなり。わが邦幸いに従来大字ごとに神社あり仏閣ありて人民の労働を慰め、信仰の念を高むると同時に、一挙して和楽慰安の所を与えつつ、また地震、火難等の折に臨んで避難の地を準備したるなり。今聞くがごとくんば、名を整理に借りてこれら無用のごとくして実は経世の大用ある諸境内地を狭めんとするは、国のためにすこぶる憂うべし。
 近ごろ本邦村落の凋落はなはだしく、百姓|稼穡《かしよく》を楽しまず、相|率《ひき》いて都市に流浪し出で、悪事をなす者多し。これを救済せんとて山口県等では盆踊りをすら解禁し、田中正平氏らはこれを主張す。かかる弊事多きことすら解禁して村民を安んぜんとするも、盆踊りは年中踊り通すべきものにあらず。さて一方には神社ごとき清浄無垢在来通りで何の不都合なき本邦固有特色の快楽場を滅却せしめ、富人豪族が神社跡に別荘を立て、はなはだしきは娼妓屋を開きなどするに、貧民の婦女児童は従来と異《かわ》り、また神社に詣でて無邪気の遊戯を神林中に催すを得ず。大道に匍匐《ほふく》して自転車に傷つけられ、田畑に踏み込んで事を起こし、延いて双方親同士の争闘となり、郷党二つに分かれて大騒ぎし、その筋の手を煩わすなどのこと多きは、取りも直さず、灰を市に乗つるを禁ぜずして国中争乱絶えざるを致すと同じく、合祀励行の官公吏は、故《ことさ》らに衢に灰を撤きて、人民を争闘せしむるに同じ。従来誰も彼も往きて遊び散策し、清浄の空気を吸い、春花秋月を受賞し得たる神社の趾が、一朝富家の独占に帰するを見て、誰かこれを怡《よろこ》ばん。貧人が富人を嫉《ねた》むは、多くかかることより出ずるなり。危険思想を慮る政府が、かかる不公平を奨励すべきにあらず。
 また佐々木忠次郎博士は昨年十月の『読売新聞』に投書し、欧米には村落ごとに高塔ありて、その地の目標となる、(554)わが邦の大字ごとにある神林は欧米の高塔と等しくその村落の目標となる、と言えり。漁夫など一丁字なき者は海図など見るも分からず、不断山頂の木また神社の森のみを目標として航海す。洪水また難破船の節、神林目的に泳ぎ助かり、洪水|海嘯《つなみ》の後に神林を標準として地処の境界を定むる例多し。摂州三島郡、また泉州一円は合祀濫伐のため神林全滅し、砲兵の演習に照準を失い、兵士は休息と露営に事を欠き、止むを得ず田畑また沙浜においてするゆえ、日射病の患者とみに多くなれり、と聞く。はなはだしきは合祀伐木のため飲料水濁り、また涸れ尽せる村落あり。
 また同じく佐々木博士の言えるごとく、政府は田畑山林の益鳥を保護する一方には、狩猟大いに行なわれ、ややもすれば鳥獣族滅に瀕せり。今のごとく神林伐り尽されては、たとい合祀のため田畑少々開けて有税地多くなり、国庫の収入増加すとも、一方には鳥獣絶滅のため害虫の繁殖非常にて、ために要する駆虫費は田畑の収入で足らざるに至らん。去年十二月発表されたる英国バックランド氏の説に、虫類の数は世界中他の一切の諸動物の数に優ることはるかなり。さて多くの虫類は、一日に自身の重量の二倍の草木を食い尽す。馬一疋が一日に枯草一トン(二百七十貫余)を食すと同じ割合なり。これを防ぐは鳥類を保護繁殖せしむるの外なし。また水産を興さんにも、魚介に大害ある虫蟹を防いで大悪をなさざらしむるものは鳥類なり、と言えり。されば近江辺に古来今に至るまで田畑側に樹を多く植えあるは無用の至りとて浅智の者は大笑いするが、実は害虫駆除に大功あり、非常に費用を節倹するの妙法というべし。和歌山県には従来|胡燕《おにつばめ》多く神社に巣くい、白蟻、蚊、蠅を平らぐることおびただし。近来合祀等のためにはなはだしく少なくなれり。熊楠在欧の日、イタリアの貧民蠅を餌として燕を釣り食らうこと大いに行なわれ、ために仏国へ燕渡ること少なくなり、蚊多くなりて衛生を害すとて、仏国よりイタリアへ抗議を申し込みしことあり。やれ蚊が多くなった、熱病を浸布するとて、石油や揮発油ごとき一時的の物を買い込み撒きちらすよりは、神社の胡燕くらいは大目に見て生育させやりたきことなり。
 また和歌山辺に蟻吸《ありすい》という鳥多かりし。これは台湾の?鯉《せんざんこう》、西大陸の食蟻獣《ありくい》、濠州のミルメコビウス(食蟻袋獣)、(555)アフリカの地豚《アルド・ワルク》と等しく、長き舌に粘液あり、常に朽木の小孔に舌をさし込めば、白蟻輩大いに怒りてこれを螫《さ》さんと集まるところを引き上げ食い尽す。日本の蟻吸のことはよく研究せぬゆえ知らぬが、学者の説に、欧州に夏渡り来る蟻吸と日本へ夏渡るものとは別種と認むるほどの差違なしとのことなれば、多分同一種で少々毛色くらい異《かわ》るならん。さて欧州のものは、一夏に十|乃至《ないし》二十二卵を生む。日本のものも必ず少なくとも十や十五は生むならん。保護さえ行き届かば、たちまち毎夏群至して繁殖し、白蟻を全滅はせずとも従来ごとくあまりの大害を仕出さぬよう、その兇勢を抑制するの功はありなん。しかるに何の考えもなく神林を切り尽し、または移殖私占させおわりたるゆえ、この国ばかりに日が照らぬと憤りて去りて他邦へ行き、和歌山辺へ来たらず。ために白蟻大いに繁昌し、ついに紀三井寺から和歌山城の天主閣まで食い込み、役人らなすところを知らず天手古舞《てんてこまい》を演じ、硫黄で燻べんとか、テレビン油を撒かんとか、愚案の競争の末、ついにこのたび徳川侯へ払い下げとなったが、死骸を貰うた同前で行く先も知れておる。
 むかし守屋大連《もりやのおおむらじ》は神道を頑守して仏教を亡ぼさんとし、自戮せられて啄木鳥《てらつつき》となり、天王寺の伽藍を啄《つつ》き散らせしというが、和歌山県当局は何の私怨もなきに、熊楠が合祀に反対するを悪《にく》み、十八昼夜も入監せしめたから、天、白蟻を下し、諸処を食い散らさせたものと見える。ただ惜しむべきは、和歌山城近くに松生院《しようしよういん》とて建築が国宝になっておる木造の寺がある。この寺古え讃岐にありしとき、その戸を担架として佐藤継信負傷のままこの寺にかつぎ込みしという。これも早晩城から白蟻が入り来たり、食い崩さるることならん。蟻吸のことは学者たちの研究を要す。今は和歌山辺に見えず、田辺近傍へは少々渡るなり。合祀が民利に大害あること、かくのごとし。
 第七に、神社合祀は史蹟と古伝を滅却す。史蹟保存が本邦に必要なるは、史蹟天然物保存会の主唱するところなれば、予の細説を要せず。ただし、かの会よりいまだ十分に神社合祀に反対の意見を公けにされざるは大遺憾なり。よって少しく管見を述べんに、久米博士の『南北朝史』に見えたるごとく、南北朝分立以前、本邦の土地は多くは(556)寺社の領分たり。したがって、著名の豪族みな寺社領より起これり。近江の佐々木社より佐々木氏、下野の宇都宮の社司より宇都宮氏、香椎・宇佐の両社領より大友氏勃興せるがごとし。しかるに、今むやみに合祀を励行し、その跡を大急ぎに滅尽し、古蹟、古文書、什宝、ややもすれば精査を経ずに散侠亡失するようでは、わが邦が古いというばかりで古い証拠なくなるなり。現に和歌山県の県誌編纂主裁内村義城氏は新聞紙で公言すらく、今までのような合祀の遣り方では、到底確実なる郷土誌の編纂は望むべからざるなり、と。すでに日高郡には大塔宮が熊野落ちのおり経過したまえる御遺蹟多かりしも、審査せぬうちに合祀のために絶滅せるもの多しという。有田郡なども南朝の皇孫が久しく拠りたまえる所々を合祀のために分からぬことと成り果たしたり。
 また一汎人は史蹟と言えば、えらい人や大合戦や歌や詩で名高き場所のみ保存すべきよう考うるがごときも、実は然らず。近世欧米で民俗学《フオルクスクンデ》大いに起こり、政府も箇人も熱心にこれに従事し、英国では昨年の政事始めに、斯学の大家ゴム氏に特に授爵されたり。例せば一箇人に伝記あると均しく、一国に史籍あり。さて一箇人の幼少の事歴、自分や他人の記憶や控帳に存せざることも、幼少の時用いし玩具や貰った贈り物や育った家の構造や参詣せし寺社や祭典を見れば、多少自分幼少の事歴を明らめ得るごとく、地方ごとに史籍に載らざる固有の風俗、俚謡、児戯、笑譚、祭儀、伝説等あり。これを精査するに道をもってすれば、記録のみで知り得ざる一国民、一地方民の有史書前の履歴が分明するなり。わが国の『六国史』は帝家の旧記にして、華冑《かちゆう》の旧記、諸記録は主としてその家々のことに係る。広く一国民の生い立ちを明らめんには、必ず民俗学の講究を要す。
 紀州日高郡|産湯《うぶゆ》浦という大字の八幡宮に産湯の井あり。土伝《いいつたえ》に、応神帝降誕のみぎり、この井水を沸《わ》かして洗浴し参らせたりという。その時用いたる火を後世まで伝えて消さず。村中近年までこの火を分かち、式事に用いたり。これは『日本紀』と参照して、かの天皇の御史跡たるを知るのみならず、古えわが邦に特に火を重んずる風ありしを知るに足れり。実に有記録前の歴史を視るに大要あり。しかるに例の一村一社制でこの社を潰さんとせしより、村の小(557)学校長津村孫三郎と檀那寺の和尚浮津真海と、こは国体を害する大事とて大いに怒り、百七、八十人徒党して郡役所に嗷訴し、巨魁八人収監せらるること数月なりしが、無罪放免でその社は合祀を免れたり。その隣村に衣奈《えな》八幡あり。応神帝の胞衣《えな》を埋めたる跡と言い伝え、なかなかの大社にて直立の石段百二段、近村の寺塔よりはるかに高し。社のある山の径三町ばかり全山樹をもって蔽われ、まことに神威灼然たりしに、例の基本財産作るとて大部分の冬青《もちのき》林を伐り尽させ、神池にその木を浸して鳥黐《とりもち》を作らしむ。基本金はどうか知らず、神威すなわち無形の基本財産が損ぜられたることおびただし。これらも研究の仕様によりては、皇家に上古|胞衣《えな》をいかに処理せられしかが分かる材料ともなるべきなり。その辺に三尾川《みおかわ》という所は、旧家十三、四家あり、毎家自家の祖神社あり、いずれも数百年の大樟樹数本をもって社を囲めり。祖先崇拝の古風の残れるなり。しかるに、かかる社十三、四を一所に合集せしめ、その基本財産を作れとて件の老樟をことごとく伐らしむ。さて再びその十数社をことごとく他の大字へ合併せしめたり。
 和歌山市近き岩橋村に、古来大名が高価の釜壺を埋めたりと唄う童謡あり。熊楠ロンドンにありし日、これを考えてかの村に必ず上古の遺物を埋めあるならんと思い、これを徳川頼倫侯に話せしことあり。侯、熊楠の言によりしか否は知らず、数年前このことを大学連に話し、大野雲外氏趣き掘りしに、貴重の上古遺品おびただしく発見せり、と雑誌で見たり。英国のリッブル河辺の民、昔より一の丘上に登り一の谷を見れば英国無双の宝物を得べしという古伝あり。啌《うそ》と思い気に掛くる人なかりしに、七十二年前、果たしてそこよりアルフレッド大王時代およびその少しのちの古銀貨計七千枚、外に宝物無数掘り出せり。紀州西牟婁郡滝尻王子社は、清和帝熊野詣りの御旧蹟にて、奥州の秀衡建立の七堂伽藍あり。金をもって装飾せしが天正兵火に亡失さる。某の木の某の方角に黄金を埋めたりという歌を伝う。数年前その所を考え出し、夜中大なる金塊を掘り得て逐電せる者ありという。
 かかる有実の伝説は、神社およびその近地にもっとも多し。素人には知れぬながら、およそ深き土中より炭一片を得るが考古学上非常の大獲物であるなり。その他にも比類のこと多し。しかるに何の心得なき姦民やエセ神職の私利(558)のため神林は伐られ、社地は勝手に掘られ、古塚は発掘され、取る物さえ取れば跡は全く壊《やぶ》りおわるより、国宝ともなるべく、学者の研究を要する古物珍品不断失われ、たまたまその道の人の手に入るも出所が知れぬゆえ、学術上の研究にさしたる功なきこと多し。合祀のためかかる嘆かわしきこと多く行なわるるは、前日増田于信氏が史蹟保存会で演《の》べたりと承る。大和には武内宿禰の墓を畑とし、大阪府には敏達帝の行宮址を潰せり、と聞く。かかる名蹟を畑として米の四、五俵得たりとて何の穫利ぞ。木戸銭取って見世物にしても、そんな口銭《こうせん》は上がるなり。また備前国|邑久《おく》郡朝日村の飯盛《いいもり》神社は、旧藩主の崇敬厚かりし大なる塚を祭る。中央に頭分《かしらぶん》を埋め、周囲に子分《こぶん》の尸《しかばね》を埋めたる跡あり。俗に平経盛の塚という。経盛の塚のみならば、この人敦盛という美少年の父たりしというばかりで、わが国に何の殊勲ありしとも聞かざれば、潰すもあるいは恕すべし。しかるにこの辺に神軍《かみいくさ》の伝説のこり、また石鏃《いしのやのね》など出る。墓の構造、埋め方からして経盛時代の物にあらず。故に上古の墳墓制、史書に載らざる時代の制を考うるに、はなはだ有効の材料なり。これも合祀のため荒寥し、早晩畑となりおわるならん。
 古い古いと自国を自慢するが常なる日本人ほど旧物を破壊する民なしとは、建国わずか百三十余年の米国人の口よりすら毎々嗤笑の態度をもって言わるるを聞くなり。されば誰の物と分からずとも、古えの制度風俗を察すべき物はみな保存しさえすれば、即急に分からずとも、追い追いいろいろの新発見も出るなり。和歌山市の岡の宮という社は、元禄ごろまでは九頭《くす》大明神と仏説に九頭の竜王を祭れるごとき名にて誰も気に留めざりしに、その社の隅にありし黒煤《くろすす》けたる箱の書付から気がつき、この地は『続日本紀』に見えたる通り、聖武天皇が紀伊国岡の宮に駐《とど》まりたまいしという御旧蹟なるを見出だせしゆえ、今の名に改めたるなり。昨年一月拝承するに、皇族二千余|方《かた》の内ただ四百九十方のみ衛墓の所在知れある由。神社はもっとも皇族に関係深ければ一切保存して徐々に詮議すべきに、無茶苦茶に乱滅しおわるは、あたかも皇族華冑の遺跡が分からぬうちに乱滅するは結句厄介払いというように相聞こえ、まことに恐懼憤慨の至りなり。合祀が、史蹟を乱すと、風俗制度の古えを察するに大害あること、かくのごとし。
(559) 第八、合祀は天然風景と天然記念物を亡滅す。このことまた史蹟天然物保存会の首唱するところなれば、小生の蛇足を俟《ま》たず。しかし、かの会より神社合祀に関して公けに反対説の出でしを聞かぬが遺憾なれば、少々言わんに、西牟婁郡|大内川《おおうちがわ》の神社ことごとく日置川《ひきかわ》という大河の向いの大字へ合わされ、少々水が出れば参詣途絶す。その民、神を拝むこと成らぬよりヤケになり、天理教に化する者多く、大字内の神林をことごとく伐らんと願い出でたり。すでに神社なければ神林存するも何かせんとの意中もっともなところもあるなり。かかる例また少なからず、大いに風景を損ずることなり。定家卿なりしか俊成卿なりしか忘れたり、和歌はわが国の曼陀羅《まんだら》なりと言いしとか。小生思うに、わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅ならん。前にもいえるごとく、至道は言語筆舌の必ず説き勧め喩《さと》し解せしめ得べきにあらず。その人善心なくんば、いかに多く事物を知り理窟を明らめたりとて何の益あらん。されば上智の人は特別として、凡人には、景色でも眺めて彼処《かしこ》が気に入れり、此処《ここ》が面白いという処より案じ入りて、人に言い得ず、みずからも解し果たさざるあいだに、何となく至道をぼんやりと感じ得(真如)、しばらくなりとも半日一日なりとも邪念を払い得、すでに善を思わず、いずくんぞ悪を思わんやの域にあらしめんこと、学校教育などの及ぶべからざる大教育ならん。かかる境涯に毎々到り得なば、その人三十一字を綴り得ずとも、その趣きは歌人なり。日夜悪念去らず、妄執に繋縛《けいばく》さるる者の企て及ぶべからざる、いわゆる不言《いわず》して名教中の楽土に安心し得る者なり。無用のことのようで、風景ほど実に人世に有用なるものは少なしと知るべし。ただし、小生はかかることを思う存分書き表わし得ず、その辺は察せられんことを望む。
 またわが国の神林には、その地固有の天然林を千年数百年来残存せるもの多し。これに加うるに、その地に珍しき諸植物は毎度毎度神に献ずるとて植え加えられたれば、珍草木を存すること多く、偉大の老樹や土地に特有の珍生物は必ず多く神林神池に存するなり。三重県|阿田和《あたわ》の村社、引作《ひきつくり》神社に、周囲二丈の大杉、また全国一という目通り周囲四丈三尺すなわち直径一丈三尺余の大樟あり。これを伐りて三千円とかに売らんとて合祀を迫り、わずか五十余戸(560)の村民これを嘆き、規定の社殿を建て、またさらに二千余円を積み立てしもなお脅迫止まず。合祀を肯《がえ》んぜずんば刑罰を加うべしとの言で、止むを得ず合祀請願書に調印せるは去年末のことという。金銭の外を知らずと嘲らるる米国人すら、カリフォルニアの巨栢《ビグトリ―》など抜群の注意して保存しおり。二十二年ばかり前、予が訪いしニューゼルシー州の一所に、フサシダの一種なる小草を特産する草原などは、兵卒が守りおりたり。英国やドイツには、寺院の古?《かしわ》、老|水松《いちのき》をことごとく謄記して保護を励行しおるに、わが邦には伐木の励行とは驚くの外なし。されば例の似而非《えせ》神職ら枯槁せぬ木を枯損木とて伐採を請願すること絶えず。
 むかしは熊野の梛《なぎ》は全国に聞こえ渡れる名木で、その葉をいかに強く牽《ひ》くも切れず、夫《おつと》に離れぬ守りに日本中の婦女が便宜してその葉を求め鏡の裏に保存し、また武士の金打《きんちよう》同様に女人はこの梛の葉を引きて誓言せり。定家卿が後鳥羽上皇に随い熊野に詣りし時の歌にも、「千早振る熊野の宮のなぎの葉を変はらぬ千代の例《ため》しにぞ折る」とあり。しかるに濫伐や移栽のために三山に今は全滅し、ようやく那智社境内に小さきもの一本あり。いろいろ穿鑿せしに、西牟婁郡の鳥巣《とりのす》という浦の社地小丘林中におびただしく自生せり。これも合祀されたから、早晩全滅ならん。すなわち熊野の名物が絶えおわるなり。オガタマノキは、神道に古く因縁深き木なるが、九州に自生ありというが、その他に大木あるは紀州の社地のみなり。合祀のため著しく減ぜり。ツグノキ、バクチノキなどは半熱帯地の木で、田辺付近の神林にのみ多かりしが、合祀のため今わずかに一、二株を存す。熊野の名産ナンカクラン、ガンゼキランその他希珍の托生蘭類も多く合祀で絶える。ワンジュ、キシュウスゲなど世界有数の珍なるも、合祀で全滅せんとするをわずかに有志の注意で止めおる。タニワタリ、カラタチバナ、マツバランなど多様の園芸植物の原産も合祀で多く絶えんとす。
 熊楠は帰朝後十二年紀州におり、ずいぶん少なからぬ私財を投じ、主として顕微鏡的の微細植物を集めしが、合祀のため現品が年々滅絶して生きたまま研究を続け得ず。空しく図画と解説の不十分なもののみが残存せり。ウォルフ(561)ィアというは顕花植物の最徴なるものなるが、台湾で洋人が採りしと聞くのみ。和歌浦辺の弁天の小祠の手水鉢より少々予見出だしたる以後見ることなし。ウォフィオシチウムなる微細の藻は多種あるが、いずれも拳螺旋状《さざいのまきかた》をなす。西牟婁郡湊村の神楽神社《かぐらのやしろ》辺の小溜水より得たるは、従来聞かざる珍種で、蝸牛《かたつむり》のごとく平面に螺旋す。かくのごとく微細生物も、手水鉢や神池の石質土質に従っていろいろと珍品奇種多きも、合祀のために一たび失われてまた見る能わざる例多し。紀州のみかかる生物絶滅が行なわるるかと言うに然らず。伊勢で始めて見出だせしホンゴウソウという奇草は、合祀で亡びんとするを村長の好意でようやく保留す。イセデンダという珍品の羊歯《しだ》は、発見地が合祀で畑にされ全滅しおわる。スジヒトツバという羊歯は、本州には伊勢の外宮にのみ残り、熊野で予が発見せしは合祀で全滅せり。
 日本の誇りとすべき特異貴重の諸生物を滅し、また本島、九州、四国、琉球等の地理地質の沿革を研究するに大必要なる天然産植物の分布を攪乱|雑揉《ざつじゆう》、また秩序あらざらしむるものは、主として神社の合祀なり。本多博士は備前摂播地方で学術上天然植物帯を考察すべき所は神社のみといわれたり。和歌山県もまた平地の天然産生物分布と生態を研究すべきは神林のみ。その神林を全滅されて、有田、日高二郡ごときは、すでに研究の地を失えるなり。本州に紀州のみが半熱帯の生物を多く産するは、大いに査察を要する必要事なり。しかるに何の惜しげなくこれを滅尽するは、科学を重んずる外国に対して恥ずべきの至りなり。あるいは天然物は神社と別なり、相当に別方法をもって保存すべしといわんか。そは金銭あり余れる米国などで初めて行なわるるべきことにて、実は前述ごとく欧米人いずれも、わが邦が手軽く神社によって何の費用なしに従来珍草奇木異様の諸生物を保存し来たれるを羨むものなり。
 近く英国にも、友人バサー博士ら、人民をして土地に安着せしめんとならば、その土地の事歴と天産物に通暁せしむるを要すとて、野外博物館《フイールドミユゼウム》を諸地方に設くるの企てありと聞く。この人明治二十七年ころ日本に来たり、わが国の神池神林が非常に天産物の保存に益あるを称揚しおりたれば、名は大層ながら野外博物館とは実は本邦の神林神池の(562)二の舞ならん。外人が鋭意して真似《まね》んともがく所以《ゆえん》のものを、われにありては浪《みだ》りに滅却し去りて悔ゆるなからんとするは、そもそも何の意ぞ。すべて神社なき社跡は、人民これを何とも思わず、侵掠して憚るところなし。例せば、田辺の海浜へ去年松苗二千株植えしに今はすなわち絶えたり。その前年、新庄《しんじよう》村の小学校地へ桃と桑一千株紀念のため栽えたりしも、一月内にことごとく抜き去らる。故に欧米にも、林地には必ず小さき礼拝堂や十字架を立てるなり。
 かくのごとく神社合祀は、第一に敬神思想を薄うし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心と愛国心を減じ、第六、治安、民利を損じ、第七、史蹟、古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す。
 当局はかくまで百方に大害ある合祀を奨励して、一方には愛国心、敬神思想を鼓吹し、鋭意国家の日進を謀ると称す。何ぞ下痢を停めんとて氷を喫《くら》うに異ならん。かく神社を乱合し、神職を増置増給して神道を張り国民を感化せんとの言なれど、神職多くはその人にあらず。おおむね我利我慾の徒たるは、上にしばしばいえるがごとし。国民の教化に何の効あるべき。かつそれ心底から民心を感化せしむるは、決して言筆ばかりのよくするところにあらず。支那に祭祀礼楽と言い、欧州では美術、音楽、公園、博物館、はなはだしきは裸体の画像すら縦覧せしめて、遠廻しながらひたすら一刻たりとも民の邪念を払い鬱憤を発散せしめんことに汲々たり。いずれも人心慰安、思慮清浄を求むるに不言不筆の感化力に須《ま》たざるべからざるを知悉すればなり。わが国の神社、神林、池泉は、人民の心を清澄にし、国恩のありがたきと、日本人は終始日本人として楽しんで世界に立つべき由来あるを、いかなる無学無筆の輩にまでも円悟徹底せしむる結構至極の秘密儀軌たるにあらずや。加之《しかのみならず》、人民を融和せしめ、社交を助け、勝景を保存し、史蹟を重んぜしめ、天然紀念物を保護する等、無類無数の大功あり。
 しかるを支那の王安石ごとき偏見で、西湖を埋むるには別にその土沢を容るべき大湖を穿たざるべからざるに気づかず、利獲のみ念じ過ぎて神林を亡《うしな》えば、これ田地に大有害の虫?《ちゆうさい》を招致する所以《ゆえん》なるを思わず、非義|饕餮《とうてつ》の神職よ(563)り口先ばかりの陳腐な説教を無理に聞かせて、その聴衆がこれを聞かぬうちから、はや彼輩の非義我慾に感染すべきを想わざるは無念至極なり。この神職輩の年に一度という講習大会の様子を見るに、(1)素盞嗚尊《すさのおのみこと》と月読尊《つきよみのみこと》とは同神か異神か、(2)高天の原は何方《いずかた》にありや、(3)持統天皇、春過ぎての歌の真意|如何《いかん》など、呆れ返ったことを問いに県属が来るに、よい加減な返事を一、二人の先達がするを、十余人が黙して聞きおるなり。米の安からぬ世に、さりとは無用の人のために冗職を設けることと驚き入るばかりなり。かかる人物は、当分史蹟天然物保存会の番人として神社を守らしめ、追い追いその人を撰み、その俸給を増さんことこそ願わるれ。世に喧伝する平田内相報徳宗にかぶれ、神社を滅するは無税地を有税地となすの近道なりとて、もっとも合祀を励行されしという。いすくんぞ知らん、その報徳宗の元祖二宮氏は、田をむやみに多く開くよりは、少々の田を念入れて耕せ、と説きしにあらずや。たとい田畑開け国庫に収入増したりとて、国民元気を喪い、我利これ?《つと》め、はなはだしきは千百年来の由緒あり、いずれも皇室に縁故ある諸神を祀れる神社を破壊、公売するより、見習うて不届き至極の破壊主義を思いつくようでは、国家に取りて何たる不祥事ぞ。
 近ごろ英国高名の勢力家で、しばしば日本学会でわが公使、大使に対し聖上の御為《おんため》に乾盃を上ぐる役を勧めたる名士よりの来状にいわく、むかし外夷種がローマ帝国を支配するに及び、政略上よりキリスト教に改宗してローマ在来の宗教が偶像を祭るは罪深しとてこれを厳禁したのは、人民に親切でも何でもなく、実は古教の堂塔に蔵せる無数の財宝を奪うて官庫に充《み》てんがためなりし。よって古教亡びてまもなくローマ帝国の民元気阻喪し四分八裂して亡滅しぬ。露国もまた彼得《ペートル》帝以来不断西欧の文化を輸入し、宗教興隆と称して百姓ども仕来りの古儀旧式を撲滅せんとしたが、百姓にも五分の魂《たましい》なかなか承知せず、今に古儀旧法を墨守する者はなはだ多く、何でもなき宗儀作法の乖背《かいはい》から、民心帝室を離れ、皇帝を魔王《サタン》と呼ぶに及び、これが近世しばしば起こる百姓乱や虚無党や自殺|倶楽部《クラプ》の有力なる遠因となれり。盛邦、近年神道を興すとて瑣末な柏手《かしわで》の打ち様や歩き振りを神職養成と称して教えこみ、実は所得税を多(564)く取らんために神職を増加し、その俸給を増さしめ、売れ行きの悪い公債証書を売りつけんために無理早速に神社基本金を積ましむる算段と思わる。財政の紊《みだ》れたるは救う日もあるべし。国民の気質が崩れては収拾し得べからず。われ貴国のために深くこれを惜しむ、とあり。岡目八目《おかめはちもく》で言いたいままの放語と思えど、久しく本邦に在留せし英人が、木戸、後藤諸氏草創の難に思い比べて、禁ぜんとして禁じ得ざる激語と見えたり。とにかく、かかる評判が外国著名の人より発せらるるは、近来日本公債が外国市場で非常に下落せるに参照してはなはだ面白からず。
 正直の頭《こうべ》に宿るという神を奉祀する神職と、何の深い念慮なき月給取りが、あるいは脅迫あるいは甘言もて強いて人民に請願書に調印せしめ、さて政府に向かっては人民合祀を好んで請願すといい、人民に向かっては政府の厳命なり、違《たが》わば入獄さすべしとて二重に詐偽を行ないながら、褒美に預かり模範吏と推称せらるるは、これ民を導くに詐《いつわ》ることをもってするものにて、詐りより生ずることは必ず堂々と真面目一直線に行ない遂げぬものなり。すでに和歌山県ごときは、一方に合祀励行中の社あると同時に、他の一方には復社を許可さるるあり。この村には一年百円を費やさざれば古社も保存を許されぬに、かの村には一年二十円内外を払うて、しかも月次幣帛料を受くる社二、三並び存置さるるあり。今では前後雑揉、県庁も処分に持て余しおるなり。かかれば到底合祀の好結果は短日月に見るを得ざる、そのうちに人心離散、神道衰頽、罪悪増長、鬱憤発昂、何とも名状すべからざるに至らんことを杞憂す。
 結局神社合祀は、内、人民を堕落せしめ、外、他国人の指嘲を招く所以《ゆえん》なれば、このこといまだ全国に普及せざる今日、断然その中止を命じ、合祀励行で止むを得ず合祀せし諸社の跡地完全に残存するものは、事情審査の上人民の懇望あらばこれが復旧を許可し、今後新たに神社を建てんとするものあらば、容易に許可せず、十二分の注意を加うることとし、さてまことに神道興隆を謀られなんには、今日自身の給料のために多年奉祀し、衣食し来たれる神社の撲滅を謳歌欣喜するごとき弱志反覆の俗神職らに一任せず、漸をもつてその人を撰み、任じ、永久の年月を寛仮し規定して、急がず、しかも怠たらしめず、五千円なり一万円なり、十万、二十万円なり、その地その民に、応分に塵よ(565)り積んで山ほどの基本財産を積ましめ、徐々に神職の俸給を増し、一社たりとも古社を多く存立せしめ、口先で愛国心を唱うるを止めて、アウギュスト・コムトが望みしごとく、神職が世間一切の相談役という大任に当たり、国福を増進し、聖化を賛翼し奉ることに尽力|?瘁《きよくすい》するよう御示導あらんことを為政当局に望むなり。
 右は請願書のようなれど、小生はかかる永たらしき請願書など出すつもりなし。何とぞ愛国博志の人士が一人たりともこれを読んでその要を摘み、効目《ききめ》のあるよう演説されんことを望む。約は博より来たるというゆえ、心中存するところ一切余さず書き綴るものなり。
 
(566)   神社合併反対意見(付録)
 
 明治三十九年末、原内相が出せし合祀令は、一町村に一社を標準とせり。ただし地勢と祭祀理由において、特殊の事情あるものと、特別の由緒あるものにして、維持確実なるものは、合祀に及ばずとす。その特別の由緒とは次の五項なり。
(一)『延喜式』および『六国史』所載の社と、創立年代のこれに準ずべきもの。
(二)勅祭社、準勅祭社。
(三)皇室の崇敬を有せし社(行幸、御幸、奉幣、祈願、殿社造営、神封、神領、神宝等の寄進ありし類)。
(四)武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし社(奉幣、祈願、社殿造営等、上に同じ)。
(五)祭神当該地方に功績、縁故ありし社。
 さて神社には必ず神職を置き、村社は年に百二十円以上、無格社は六十円以上の報酬を出さしむ。ただし兼務者に対しては、村社は六十円、無格社は三十円まで減じ得。また神社には基本財産積立法を設け、村社五百円以上、無格社二百円以上の現金、またこれに相当の財産を現有蓄積せしむ、とあり。つまり神職もなく財産も定まらざる廃社同前のもの、また運命不定の淫祠の類を除き、その他在来の神社を確立せしむるに力《つと》めたるなり。
 しかるにこの合祀令の末項に、村社一年百二十円以上、無格社六十円以上の常収ある方法を立てて、祭典を全うし、崇敬の実を挙げしむ、とあり。祭典は従来人民好んでこれを全うし、崇敬も大臣が一片の訓令を待たずとも朝夕誠意(567)を尽しおれり。新定の常収ある方法に至っては、幾年内にこれを立つべしという明文なく、加うるに合祀の処置は、一にこれを府県知事に任せ、知事またこれを、功績の書上《かきあげ》にのみ汲々たる郡村長に一任せしなり。地方の官公吏は、なるべく速急に成績を挙げんとて氏子どもに勧めしも、金銭は容易に集まらず。よって一町村一社の制を励行して、地勢、民情を問わず、なるたけ神社を多く潰すを自治の美挙と做《な》し、社格の高下に関せず、最初五百円積まば千円、次に二千円、三千円と糶《せ》り上げ、和歌山県は五千円、大阪府は六千円まで、基本財産を増加して、さっそく積み立つるよう人民に迫り、もって合併を強行し、多くは郡役所、村役場に近き社、もしくは伐るべき樹木少なき社を、一町村一社と定め、由緒、地勢等を一切構わず、諸社を濫《みだ》りに合併して神林を伐尽せしむ。よって人民の恐惶迷惑一方ならず、奸人機に乗じて私利を営む者多し。
 四年前の『神社協会雑誌』に、伊勢の神官|生川《なるかわ》鉄忠氏が神社整理に伴う弊害を列挙せるは、あまねく諸府県に行なわれし事実にて、伊勢に限るにあらず。氏いわく、従来一社として多少荘厳なりしを、合祀のため、卑晒なる脇立小祠に変じ、つまり十社を一社に減じたるのみ。また大字限り行ない来たれる祭典は、張り合いなしとて全く廃止す。また合祀されたる社の氏子、路遠くて多くの時間を要し、合祀先に参り得ず。わずかに総代のみ詣ずれば、合祀の社殿を有する部落の勢い優れるに比して、俘虜のごとく戦々たり。ついに祭日社参せざるに至る。また社地の鬱林老樹は伐り払われ、売りて得たる金は、疾《と》くに他の方面に流用し去られて、空しく切株を見る。ことにはなはだしきは、神殿、拝殿等にして、訓令の制に合わぬ点を、杉丸太の亜鉛葺き等になし、いずれ改造する見込み、当分|御不勝《ごふしよう》を願うと胡麻化《ごまか》しおわる。また多年等関に付し来たれる神社を、一朝厳命の下に、その人もなきに、それ神職を置け、基本金を積めと、短兵急に迫られし結果、氏子周章、百方工夫して、辛うじて存立を得たるも、造営までの手、なかなか届かず、また氏子ら工夫して、神官の俸給を割引すること行なわる。これ実に一時埒明き合祀なり。神社整理か、縮少か、破壊か。かくのごとき神社と神職とに、地方自治の中枢たるを望むは、ある一部にては神道の衰頽と言う、(568)と結論されたり。
 五万の神職、私利のみ打算して、親方の潰るるを平然歓喜する中に、生川鉄忠氏は真に鉄中の錚々《そうそう》と謂《い》いつべし。しかしながら、住吉の松さえ枯れ尽さるる世の中、神風も一向伊勢に吹かぬと見え、誰も生川氏の後詰《ごづめ》をなす者なく、さしも神教の聖地と外国まで聞こえたる、伊勢、熊野の土について、昨年六月までに、三重県は五千五百四十七社を減じて九百四十二社、すなわち在来数の七分一のみを存し、和歌山県は、昨年十一月までに三千七百社を六百社、すなわち従前の六分一ばかりに減ぜり。例せば、伊勢の相可《おうか》一村のみにても、式内社三社を破却し、式内大分神社は式外の社に併《あわ》され、相鹿上神社は名のみ他の式内社に併せて、神林を全伐し、他の一の式内社は、合祀後訳もなく相生神社と改称さる。世間のこと何ぞ対なからんや。紀州の滝尻王子社は、古え熊野参詣の輩、これを下品下乗の第一の楽土と仰ぎし由、『盛衰記』に見え、陸奥の秀衡が黄金ずくめにて建立せる七堂伽藍、天正時代まで存し、殊《こと》にて前年大学にて叡覚に供し奉りし滝尻懐紙の成りし名所なり。しかるに合祀の後これを十郷神社と号し、神職の社宅を作るとて老樹を伐り売り、その神職はたちまち死亡せるも、今もなお近傍の神林を伐りつつあり。
 予かかる亡状を歎き、同志とともに抗議すること三年、なかんずく代議士中村啓次郎氏、衆議院に一時間ずつの質問演説を試むることすでに二回、また予が蔵する合祀惨状の写真を平田内相に示し、懇談するところあり。政府の訓令|※[穴/(さんずい+帚)]々《ようやく》寛和に趣《おもむ》くといえども、地方の吏員、手を換え品を換え、合祀を強うること息《や》まず。大臣や神社局長は、決して合祀詩sを好まずと明言せるに、本年二月和歌山県知事の神社に関する訓示には、危激厳酷の文字もて「洩れなく整理せよ」、「神社収支決算の時期来たれり、この機会をもって厳に窮迫督励を加えよ」など述べたり。これがため日高郡などは、神社の収支を、事実に関わらず、二百五十円以下に認むるを得ず、と令するに至る。正直の頭に神宿るといい、民信なくんば立たずと言えり。しかるに何ら急激事にもあらざる合祀を遂行せんがために、民に強うるに虚偽をもってするもまたはなはだし。
(569) 支那と言えば、詰まらぬ邦と愍笑するが、本邦人の癖なり。されど予が目撃するところをもってするに、今日地方長官や属僚が、任所定まらず浮萍《うきくさ》と一般なるより、永久的に地方のためを謀らず、書上《かきあげ》を美しくすることのみに勉め、苞苴《ほうしよ》盛行、虚偽|惟《こ》れ?《つと》む。加之《しかのみならず》淫虐亡状、民を視ること猫犬にだも及ばざるは、清国の満州官人、北アフリカのトルコ人と異なるなし。唐の宣宗、聡察あり、ひそかに韋澳をして、州県境土風物および諸利害を纂次せしめ、一書となし、『処分語』と号《なづ》く。刺吏入り、謝して出ずるあり、その処分驚くべきを言えり。建州刺吏入りて辞す。宣宗問う、建州京師を去る幾何《いくばく》ぞ。いわく、八千里。宣宗いわく、「卿のかしこに到って政《まつりごと》をなさば、朕みなこれを知る。遠しと謂《おも》うなかれ、これ階前すなわち万里というものなり」。わが為政者、地方官吏の報告を信ずるに先だち、多大の聡察を用いるところあれ。
 去年十二月十九日と、今年一月二十日の『読売新聞』によれば、その筋の意嚮として、在来の十九万四百の神社より、府県社五、郷社十五、村社五千六百五十二、無格社五万千五百六十六、計五万七千二百三十八社を合併しおわり、目下合併準備中のもの、府県社一、郷社十二、村社三千五百、無格社一万八千九百、計二万二千四百十三社あり。残る十一万ばかりの神社も、なお減ずべき見込みあれば、地方官を督して一層これを整理し、また神社境内の社地を整理せしむべし、と記せり。また当局は、合祀によって郷党の信仰心を高め、基本金を集め得たる等、その効果著し、と言明せる由なり。
 これと対照して怪訝《かいが》に堪えざるは、前和歌山県知事川上親晴氏の言として、二月二十一日の『和歌山新報』に掲ぐるところなり。いわく、氏退職の前、記者に語っていわく、神社整理は必ずしも悪《あ》しきにあらず、和歌山県の神社整理ははなはだしき惡結果を来たせり。すでに先任知事の時に合祀されたるものを復活するは困難なれども、合祀と定まりたる諸社といえども、まだ合祀せられずして合祀取消しの希望あるものは任意とすべしとて、通牒を役所へ発し、さらに基本金を標準として合祀をなすの非理なるを述べ、いわく、甲乙の二家あり、甲家が、乙家の貧にして祖先の(570)霊を祀る能わざるを理由として、その仏壇を自家に祀らんとせば、乙家必ず服せざるべし、と。また合祀後、神林濫伐を実視痛憂し、新宮の神官が、その神体を撮影して、外国へ出さんとせるを憤れり、と。
 この人在任中、予ら合祀反対にて騒動を起こし、十八日収監され、昨年朝野の名士に配りし『南方二書』に、氏のことを善く書かぬところ若干あり。ただし獄内にて歩行中、従来ステモニチス・フスカなる粘菌の原形体は、白色と定めおりたるに、深紅のものなることを見出だし、大英博物館へ贈りしところ、リスター卿の姪グリエルマ嬢より、斯学の犠牲たりし人の好記念、新発見とて永く保存す、と言い越されたり。また煙草を慾望せしならんという友人もありしが、そは幸いに米国の実業植物局において、獄の庭に多きハナヒリグサという草の実を採り、鼻莨《はなたばこ》に代用することを知れるがゆえに、さらに不自由なく、かえって面白く、「必要は経済の母」と感歎せしめたり。かかる新発見新応用は、全く名尹川上氏の賚《たまもの》なり。いわんや、氏がその後、予の言を容れて、那智の濫伐をみずから出張して禁止し、また神社保存を謀られたるをや。ここに謹んで先年悪口の罪を謝しおく。さるにても、川上氏が出したる合祀取消令が氏の退職後たちまち廃せられたるは、返す返すも遺憾なり。
 当局者の言として『読売新聞』に載せたる通りの合祀の好結果ありやと問わんに、予は実際反対の悪結果のみを見る。他府県のことは措《お》き、紀州のみについて述べんに、西牟婁郡川添村は、十大字、九村社、五無格社を滅却して、一村社に合わせ、基本金一万円あるはずというに、実際神林を伐り、神田を売りて獲るところ皆無に近かりし証拠は、神殿風雨のために破損し、雨洩りて神体を穢すまま放置しあり、神職を詰《なじ》るに、修覆資金なしという。日高郡上山路村は、大小七十二社を大字東の社に合祀し、小祠はことごとく川に投ぜしむ。さて神体などを社殿に列べ、ことごとく焼失せるは、白井博士の文に見えたる通りなり。その焼跡へ合祀されたる一社の社殿を持ち来たり据えたるに、去年秋の大風に吹き飛ばされ、今に修覆できず、咋今なお社費を納め得ざる村民に対しては、それが炊飯の唯一貴重品たる鍋釜を外し取るなど、村吏が民を脅しおるありさまは、都会にありては到底想い及ばざるところなり。山(571)路を往復五、六里歩まずば参り得ぬ所に合祀し、その後村吏の不注意よりして、神体神宝ことごとく焼き尽し、通知もせず、よって大いに敬神の念を減ぜり。参詣もなし得ぬ神社に社費の納めがたきは自然の成行きなり。
 熊野は、本宮、新宮、那智、三山とす。歴代の行幸、行啓、伊勢大廟よりはるかに多く、およそ十四帝八十三回を算え奉る。されば、長寛二年、伊勢、熊野二神の優劣を勅問あり。その本宮は、実に日本国現世の神都と尊崇され、諸帝みな一歩三礼、山また山を踰《こ》えて参拝ありしなり。しかるに、去る二十二年の大水に、社殿、神宝、文書一切跡を留めず流失し、今は已前《いぜん》の宮地と異なる地に社殿あり、新たに出来《しゆつたい》せる石燈籠や、旅順分捕の大砲のほか観るべき物さらになし。旧社地に生いたる老樹大木の林こそ、古えの聖帝、名相、歌仙、貴嬪、高僧、勇士が、心を澄まして敬神の実を尽したる旧蹟にして、当国の誇りとすべき物なるに、一昨年夏、神官の社宅を作るとて伐り倒さる。氏子総代、神官と一つ穴で揚々たり。かかる英断の神官、氏子総代、古来比類稀なり。老樹を伐り倒さば跡地を桑畑とするに便利なりとて、これを見て哭く村民を嘲る。その神官は他国人にて、土地に関係なく、濫伐にて十分神威を損じ、たちまち他方に転任し、今日小言いうにも相手なく、まるで狐に魅《つま》まれしごとし。その前の神官は、石垣費七十円を着服し、懲役になれり。他の神職輩、弁護していわく、貧すれば誰でも盗みます、と。いずれも盗賊を恥とせぬ種族と見ゆ。次に新宮には、熊野の開祖高倉下命を祀り、火災ありしごとに廃朝仰せ出されしという神倉神社以下ことごとく合祀し、社殿、社地を一日中に公売しおわれり。ことに神武帝を奉祀し来たれる渡《わたる》御前社をさえ合祀し、その跡に名高き滝を神官が取り込み、藪の筍《たけのこ》までも私すという。往年この地より最多数(六名)のかの大逆事件に関連せる逆徒を出だせるは、官公吏率先して破壊主義の実行を示せるに因由するところなしと言うを得んや。
 また苦々しきは、現下裁判中の那智事件にして、その神官(以前郡書記)、地方の有力者と共謀し、十六万円借用の証文を偽造し、さきに民有に帰せる那智の元国有林を伐り尽して、三万円の報酬を得んと謀り、伐木にかかる一刹那、検挙されたる一事あり。この挙にして実行されんか、瀑布は水源涸渇して、さしもの景勝も一朝にして泯滅《びんめつ》すべかり(572)しなり。熊野参詣街道にただ一つ、むかしの熊野の面影を留めおる拾《ひら》い子谷《こだに》の官林も、かかる詐偽にて濫伐さるべきところ、事暴露し、それより引いて全国に渉れる未曽有の大獄は目下検挙中なり。いずれも合祀|詩s《れいこう》の結果、人民素朴より険悪に化し、一郡吏、一村長の意見次第により、神はどうでもなる、神を畏るるは野暮の骨頂なり、われも人なり公吏も人なり、できるだけ悪事をなすべし、と思うに出ず。むかし京都より本宮に詣ずるに、九十九王子