南方熊楠全集8(書簡U)、643頁、平凡社、1972.4.20(91.11.25.12p)
 
(5)柳田国男宛書簡〔所々に図があるが、みな省略。改行時に「、(、等が来たとき一字下げをしていないが、読みにくいので一字下げた。「出づ」は仮名違いなので「出ず」とした。〕
 
明治四十四年
 
       1
 
 拝呈。十九日付芳翰、正に今朝拝受。また『学生文芸』第二号も拝受、一読すこぶる感興を覚え申し候。ヤマノカミと申すオコゼは全く件《くだん》の御論文中に出で候図のものに有之侯。山男に関することいろいろ聞き書き留め置き候も、諸処に散在しおり、ちょっとまとまらず、そのうち取りまとめ差し上げ申すべく候。支那の山※[獣偏+操の旁]、また安南、交趾《こうし》、また欧州にも十六世紀ごろまでアイルランドにかかるものの話有之候。それらのことを前年大英博物館にありし日写し懸け置き候。これらもそのうちまとめて差し上げ申すべく候。地名のことは、小生一向手をつけおらず、また手がかりもなく、写真、絵葉書等はこの辺に御座なく候。
 戦国のころ(文明ころか)近江の中村某の著『奇異雑談』と申すもの、小生一覧致したく、いかに捜索するも手に入らず候。もし御蔵書中にあらば半ヵ月間ばかり御貸し下されたく候。
 小生、当県の俗吏等むやみに神社合祀を励行すること過重にして(三重県の外にかかる励行の例なし)、一切の古社神林を濫伐するを憤り、英国より帰りて十年ばかり山間に閉居し動植物学を専攻致し候も、もはや黙しおる時にあらずと考え、一昨年秋より崛起してこれに抗議し、一時は英国の学士会院等よりわが政府に抗議せしめんかと存じ候も、皇国のことを外国人の手を仮りて彼是《かれこれ》さするも本意ならずと考え直し、昨年の議会にて当県の代議士中村啓次郎氏に一切の材料を給し、内相へ質問演説を二度までなさしめ、そんなことから神社合祀は全国でほとんど中止となり(6)候。しかるに、当県の俗吏俗祝等、このことより小生をはなはだしく悪《にく》み、昨年八月小事に托して小生を十八日未決監に投じ、和歌山市の弁護士会等蜂起してこれを咎めしより、何のこともなく無罪として出し候。そのうち脚部(長坐のみせしゆえ)悪くなり、今に身体宜しからず。今年の議会へもまた右の代議士に一層手のこんだる調査書を出し演説せしめんとせしも、南北朝の争議等にて到頭右のことは議案に上らず。しかし、せっかく調べたるものゆえ、その材料をもって近日内相に面談しくるるよう頼みやりおり候。成行き如何《いかが》なるか分からず心配にて目下ぶらぶら致しおり候が、貴下、なにか然るべき新聞、雑誌等へ、右小生の議論の一部を御紹介下さるまじきや。小生の調書はなかなかの長文なれば、貴下なり誰なり、その重要の点を選抜し出し下されたく候。
 神社濫減のため土俗学・古物学上、また神林濫伐のため他日学術上非常に珍材料たるべき生物の影を止めず失せ果つるもの多く、さて神職等、素餐飽坐して何のなすところなく、淫祠狐蠱の醜俗蜂起し候こと、実に学問のためにも国体のためにも憂うべき限りに有之候。
 いずれ今月中には善悪とも方付くべき間、その上山男のことども調べ上げ、一々御報知申し上ぐべく候。
 また英国の雑誌に小生をあてこみに質問出で候も、一向手がかりなく困り入りおり候一条は、死人の最も親しき親族が見るとき尸《しかばね》より血出ずると申す(鼻衄《はなぢ》を多しとすと聞く)。このことなにか本邦の文書に載りたるもの有之候や。井上円了氏の『妖怪学講義』など見ば手がかり有之べくと存じ候えども、その書手許になく困りおり候。欧州には、殺されし人の尸、兇手者の前で血を出すと申し伝え候由、これは文書にも載りたる例多く候。
 右御返事まで早々申し上げ候。山男のことはいずれ一件落着次第申し上ぐべく候。以上。
 明治四十四年三月二十一日
                         南方熊楠拝
   柳田国男様 御侍史
 
(7)       2
 
 明治四十四年三月二十六日
 拝復。拙書差し上げ候ところ、さっそく御返信に預り多々謝し上げ奉り候。神社合併に関することは政府方はなかなかわけ分かりおり、すでに昨年の中村代議士演舌また山口主陵頭巡視報告等により、はなはだ寛和の訓令を出しおられ候に、当県のみはいろいろと理窟をこじつけ今に不届きなこと多く、小生はかの神風連ごとき考えは毛頭|無之《これなく》、ただただ学術上一たび亡び候てはなかなか億万金を投ずるも再び得がたき材料の、何のわけもなく族滅されおるをかなしむものに有之《これあり》。英国の学士院また米国政府の一部分等に尻押しを十分してくれる者多く有之候えども、皇国のことを他邦人に彼是いわしむるも如何《いかが》と存じ候。かつそのことたる当県にのみ限り候ことのようなれば、今日まで地方当局とのみ難戦致し来たり候。只今中村代議士に頼み内相と会見、事情陳述さるべき約束に有之、日々|吉左右《きつそう》待ちおり候ところゆえ、それですまばそれにましたること無之、またもし中村氏このことを済まし得ざるに極《き》まり候上は、止むを得ず何とか貴下へ御一閲を頼み申し上げ候上、何かへ出し申したく存じ候。
 先日、河東碧梧桐来訪され、『日本及日本人』へ出すべしとのことに候。
 しかし、小生の意見書はなかなかの長文にて、とても雑誌などへ出し得べきものならず、なるべくは成らぬまでも内相へ出したく候。写真類中村氏の手に廻り有之、もし不調となりて写真類返り候わばまた何とか御相談願い上げ奉るべく候。
 『奇異雑談』は御地にて写し得べくんば、小生筆写料は出し申すべく、何とぞ誰かやとい写させ下されたく候。
 『学生文芸』に出で候貴説中、川オコゼの明解は見えず。小生ついであり、本日人類学会へ他にも通信致すこと有之、よって一所にちょっと注解差し出し申すべく候。かの熊野十津川にて、生きたオコゼを山神に捧ぐなどいうは、海遠(8)き地のことなれば、たぷんこの川オコゼを指すものと存ぜられ候。これはオコゼとは類属もかわり、図のごとき川魚に有之候。『水族志』には必ず出でおることと存ぜられ候。小生合祀反対のことにて未決監に入監中、貴下の『石神問答』さし入れもらい、監中にて初めて読み申し候。また『遠野物語』はその後一読致し候。いずれも所々へ小生の書き入れ致し置き候。そのうち少々左に申し上げ侯。
 『石神問答』
 (一八七頁)「『日本歳時記』には、サギチョウヤ、トウドヤとはやすと有之候えども、果たして拠《よりどころ》ありや。今日聞くところは多くトンドヤ、ホチョウジヤというように候、云々。」
 紀州和歌山にては「ドンドヤ、サギチョウヤ」、田辺にては「チョウサヤ、サギチョウチキ、ドンドヤ」と申し候。『嬉遊笑覧』巻一〇下などによるに、朝廷の左義長の節も唱門師(名は大黒)来たりて太鼓をたたき、「止牟止也《とんどや》」とはやす、とあり。また大黒舞か何かの歌(温知叢書『大黒舞考証』とかいうものにありし)に「ドンドドンドと廓入《くるわい》り」とあり。『嬉遊笑覧』左義長の条(巻一〇下)にも、大黒舞はこの唱門師の左義長より出でたること知らるとあり、サギチョウの意はとにかく、「ドンド」は太鼓ハヤシの音を擬したると存ぜられ候。
 それにつけ可笑《おか》しきは、田辺にて六年ばかり以前より、小学教師等、生徒児童を訓戒してサギチョウを行なうを得ざらしむ。しかるに、なおこれを行なうものあり、鳴り物を用うるを得ざるゆえ、口頭のみで「ドンドヤ、サギチョウヤ、チョーサヤ、テンテコテンヤ」と申すようになり候。すなわち、太鼓の音が「ドンド」の上に、また近ごろの聞きようがかわれるゆえか、「テンテコテンヤ」を贅加したるものと存ぜられ候。下女などが物を叮嚀に言わんとて「御御膳《おごぜん》」という類に候。
 (一一九頁)御前《みさき》は『古語拾遺』などに、某神の御前を祭るということあり。欧人はこれを例の陰茎(女神ならば陰(9)戸)を祭る儀と解し候人多し。小生アストン氏等の嘱により、このことにつきしらべたるものあり。表面上のことのみ通知し、あまりに猥なることは原稿を今に和歌山の蔵庫中に秘し置きあり。
 御存知にもや、五十年ばかり前に英国にて私刊して友人に配りし Payne Knight《ペーン・ナイト》『キリスト教徒の陰茎、陰戸崇拝』(絵入り)大冊一冊にて大著述、今後かかるものはいかに研究するも出でまじとの評なり。大英博物館にも原板一本あるが、特別閲覧をのみ許すことに候。前日ロンドンにて翻刻一部三十五円ばかりにて売りに出で候。仏語訳の本一冊二十円未満で売りに出で候を、小生一月二十日ごろ購求注文送金致し置き候。そのうち着き候わば件《くだん》の和歌山に秘せる原稿取りよせ、ナイトの著と共に比較候上、「御前考」を作り差し上ぐべく候。
 かの『仮名手本忠臣蔵』、与一兵衛宅の処に「ミサキ踊りがシュンダルほどに」(『嬉遊笑覧』一二或問付録に述べたれど、明解なし)。このミサキ踊りも、なにか御前に関することに無之やと存ぜられ候。
 (八六頁)唱門師の役。左義長のほかに、内裏にまいり菊に綿をきせ候由、『嬉遊笑覧』巻一二に見え候。
 (一一一頁)御霊のこと。御霊の中に吉備公あり。そのわけ審らかならず。小生案ずるに、たしか『水鏡』に、光仁天皇即位のとき文室浄三(天武皇孫)を吉備公が擁立せんとして藤原百川等にやりこめられたることあり。これよりのち吉備公不平にて面白からず終わられたりと存ぜられ候。そんなことにて御霊の中に入れられたることと存ぜられ候。
 (一二三頁)玄武のこと。紀州にて、今も妙見祠などに図のごとく駅鈴様のものを、木、銅等にて作り、鎮宅霊符と字を刻し、一方に亀蛇相交わるの図を画きたるもの多く候。(二五〇頁八行)に、地鎮安宅法云々、と『石神問答』に出たり。
 (一二九頁)勝軍地蔵。北京より伝来の真鍮製像(馬にのれり、甲冑を帯ぷ)大英博物館にあり。勝軍(梵名ジヤセナと記臆す)、仏経にある名に候。故サー・ウォラストン・フランクス(『大英類典』第一〇板に、この人の伝あり)の嘱により、小生大英博物館宗教部整理の時、その旨名札に書(10)きつけ置き候。
 (一三〇頁)小生は山中氏と反対にて、陰陽崇拝は日本に太古よりあり、天鈿釘女命《あめのうずめのみこと》、乳を露《あら》わすとか、また紐を臍下に垂れて舞う等は陰門を出せしこと(ギリシア語に陰門を露することを臍を露わす、英語にて腹を露わす、と申し候)、また猿田彦の鼻は陰茎のことと存ぜられ候。『燕石十種』第三冊四〇八頁に、義経、僧正坊に兵法は習いましたれど、どう天狗の若衆に成らるるものか、あの鼻の体でも御覧あれ、などあるごとく、西洋でも陰の大なるをいうに鼻と申すが通常なり。菱川師宣の絵に、大兵小陰茎の憎、衆人に裸にされ、小陰を笑わるるところ、美童二人これを見て艶羞を含み、袖にて口を覆う。傍の人、「ちごたちは、こんなのをすこう」とあるとまるで反対のはなしなり。
 (一四二百)シュク。田辺近所|礎間《いそま》(古書に名高き処なり)は全村シュクなり。むかし小栗判官、熊野へ癩病治療のため入湯に下りし時、宿せしものの子孫を宿《しゆく》という、と伝う。常人に比して肋骨一双足らずなど申す。
 (二〇〇頁)田辺近傍|旦來《あつそ》〔【朝来】〕村に「ぬか塚明神」あり。合祀で全く滅却されおわりぬ。近ごろまで除夜にこの社へまいること夥《おお》し。実は除夜でなく元旦にまいるべきにて、むかしこの社へ元旦もつとも早く参りしもの升《ます》を拾い(神よりもらい)、それにて米をはかり大利を得たり。故に元旦にもっとも早く参り福を獲んとてのことに候いき。
 (二〇四頁)東牟婁郡那智村より高田(非常にさびしき村なり。ある冬日、小生、白昼に行きしも、数里の間、人なく、気味悪くなり逃げ帰りし)に行く間道に、ヨボシ石という所あり。
 (二二一百)宇賀。田辺の漁夫の話(今年一月二十九日夜聞くところ、筆記のまま)、田辺の海中にウガというものあり。(東牟婁郡の三輪崎にてカイラギという。)蛇に似て、赤白段をなして斑あり、はなはだ美なり。尾三に分かれ、中央は数珠のごとく両方は細長し。游《およ》ぐ時、美麗極まるなり。動作および首を水上にあげて游ぐこと蛇に異ならず。この物を獲れば、舟玉をいわいこめたる横木の前の板(平生この上で物をきることなし)を裏返し、その上にて(11)その尾をきり祀れば海幸多し、長さは二尺ばかり、と。
 この辺にて舟を作るとき、賽子《さい》様の立方形を木にて作り、「表見合《おもてみあわ》せ(風の方向をよく見合わすをいう)、艫《とも》(舟の後部)仕合《しあわ》せ、中にドッサリ(獲物多く)積み込むこと」と祝す。双六のサイは三と四と相反対し、その間に五(ドッサリ)あるゆえなり。さて紙にて小さき雛を二つ作り、大豆に白粉をしろくぬり、墨にて眼鼻かき(男女)顔とす。右三品を、檣柱を立つる横木の側面より穴をあけ、その中に封じ入れ、釘にて固め開くことなし。これを船玉という。
 (二二三頁)ツゲノサイ。熊楠案ずるに、古え道祖神の石を祠《まつ》れる処にて、石占を問いしこと多し。喜多村信節の『画証録』(国書刊行会の『続燕石十種』第一冊にあり)等に多く見えたり。ツゲは告にて、卜を告ぐるという意か。
 (二二七頁)大日を山にて祭ること。天文中 St.Xavier《サン・ハビエロ》尊者の日本記行に見えおり候。生身の大日現わるる、とあり。四国にも大日あらわるる滝あり。
 (二二九百)勝善は掌善か。毘沙門等に掌善、掌悪の二天子侍立する、と土宜《どぎ》法竜僧正に聞けり。
 (二三五頁)象頭山のことは、弘法大師の『秘蔵記』に、「七金山は妙高山を周匝《とりま》いて囲繞《かこ》むなり。第六、毘那怛迦《びなたか》山。この山は毘那夜迦《びなやか》神の頭に似たり」とあり。
 (一三頁)シャクジの起原を石神とする説は、坪井博士あたりに始まり候様信じおり、云々。按ずるに、この説は、『塩尻』巻一(帝国書院刊行、一三頁)に見えおり候。
 (五一頁)シャクシを宗教上の儀に用うること。霊芝《まんねんたけ》を猫杓子と唱え、丹波とかで旅人の首途に送るを礼とする由、『本草綱目啓蒙』(小野蘭山の)に見えたりと記臆候。日高郡|川又《かわまた》官林辺で聞きしに、その辺で今も霊芝を側に置き衣を截《た》つときは、截ち物乱れず、となり。また那智辺で聞きしに、舟師、山神に風を祈るにこれを捧ぐる、となり。欧州にも、婚礼に匙をおくる式あり。一九〇〇年二月十日のロンドン発行『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』に出でたり。むかし石器時代に、石にて作れる天狗の飯匙《めしかい》日本にも多し。主として獣皮をこそげて柔らかにするためのものなり。これを製するに(12)は、それぞれ専門家の蛮人今もあり。そのころは貴重なりしものゆえ、自然それを贈りし遺風にやとも思われ候。仏家に如意を宝物とするなども、かかることにやと存じ候。(如意を宝とすること、山岡明阿の『類聚名物考』に出ず。)
 (六六頁)サイの神はむかしより地蔵様の像なりしにや。『宇治拾遺』、山鹿藤次の郎党、仏を作り供養するに、何仏とも分からぬものを作りしをいうところに、斎の神のようなもの、とあり。また一昨年あたりの『大阪毎日』に、小豆島にて今に祀れる佐々木(飽浦)信胤の騒動(『太平記』に出ず)の根元たりしおさいの方の像の写真あり。全く埒もなき醜女(尼ごときもの)の頭に三角帽子をあてたり。思うに、サイの神像を『太平記』の話によってオサイの方の像といえるならん(切り抜き今に保存しおれり)。
 (八〇頁)将軍塚。紀州西牟婁郡にも将軍山あり。種々の珍談あり。例の合祀にて全くその跡つぶれたるは遺憾なり。
 (八六頁)サギチョウの基づくところ陰陽道にありと論じたるもの、いまだ聞き及ばず、云々。すでに『和漢三才図会』等に、仏道の争いに起これる由いえるは、多少この意あるにあらざるか。
 『遠野物語』
 (五三)能登には、時鳥《ほととぎす》盲目の人にて、その弟がおのれにうまき物を食わすを、おのれひがめる心より、弟は一層うまい物を食うべしと邪推し、苦しめ、弟|終《つい》に自殺せしを悔い、今になきありくということ、前年『大阪毎日』にて見申し候。切り抜き今にあれど、只今ちょっと分からず。
 (六九)オシラサマはもと養蚕神なるべき由は、『東京人類学会雑誌』昨年十一月分八一頁〔【「馬頭神について」】〕に載せ置き候。
 (七七)田尻長三郎の話は、『曽呂利《そろり》物語』巻の二、天狗の鼻摘のことといえる条に似たり。「帝国文庫」の『落語全集』にも出でたり。
 『学生文芸』の「山神とオコゼ」のこと。
 (八五頁)笑祭は、紀州日高郡和佐村にありし。和佐の笑祭とて名高し。『紀伊名所図会』にも、図を入れて出でた(13)り。里伝に、むかし出雲大社へ諸神召集されしとき、この社の女神大忙ぎで飛び行かんとし、誤って湯巻を社辺の銀杏樹(現存せしも、例の合祀にてこの社は見る影もなく潰されおわれり)に引っ掛けしを、なおすに間《いとま》あらず、丸裸にて飛び行きしを見て、群神大いに笑いしとのこと、それより笑祭始まれりとぞ。
 (八四頁)矢木山は、『続風土記』によるに、三木荘名柄村と尾鷲郷矢の浜村の間なり。今は樹木全く伐り去られたり。北牟婁郡か南牟婁郡なるべし。矢木山とあるはその辺の小字ならん。
 (八九頁)霊代を totem とせるは如何。貴文のここの意味ならんには fetiche(また fetish と書す)なるべしと存じ候。ドイツ人シュルツェの『フェチッシュ篇』とて名高き著述あり。
 totem は形あるものにあらず。支那の古書にも「木姓、風姓あり、また竜をもって官に名づく」、わが国にてなお国々楠をもって名とするもの多く(元弘ごろに紀千代楠丸、また正慶中に紀犬楠丸あり。犬楠丸の券書を見るに、文中に犬楠丸、署名に犬楠とあり。かかる略用より熊楠など生ぜしならん)、また諸神の氏子おのおの某の生物を食うを忌む等のことあるは totem の遺風と存じ候。このことは、現今濠州土人にもつとも盛んにて(fetish はアフリカ土人に最も多く行なわる)、攻伐など多くこのことより生ず。濠州土人は、今に男女交合と産子とは何の関係なしと信じ、かの黄帝の母が電を見て感じて孕み、后稷の母が巨人の跡を見て孕みしなどいうごとく、子は神霊ある某物の授くるところと固信す。交合するごとに子を孕まず、また人によりやりつづけにやりながら子できぬものあればなり。ドイツの小児は今も鸛(コウノトリ)より生ずという者多し。これらの信より totem は生ぜしなりとて、英人フレザー氏近著『トテミズムおよび外族婚』と題せる大冊二巻あり。小生購うこと能わざれども、大意は雑誌の批評にて見申し候。
 まだまだ多く書入れはあるが、右にて擱筆す。小生在外中多く土俗学また里談学に関し扣《ひか》え置き、また彼方にて出板せしもの多きも、わが邦にては出す物なく、また出す物ありとても田舎におるゆえ一向知らず、今日まで筐底に潜みおるもの多し。神社合祀一件すみ候わば、小生は植物学に潜心するほかに多少のひま有之候間、山男のことを始め、(14)なんなりとも抜き出して差し上ぐべく候。
 米国の農務省にスイングルという長官、小生の面識なき人ながら、はなはだ同情を催し、かの国へ五年前より招聘されおるも、神社一件にて今に渡米し得ず。在韓国の外波内蔵吉(海軍少将)また誰かよりこのことを聞き、米国へゆかずに日本にて用うべしとの推薦なるも、小生もと利禄のために不遇を訴うるものにあらず、学問上より合祀に反対するものなり。いずれそのうち、中村代議士より返事あり次第、事により貴下へ小生の意見書差し上ぐべく候間、御一覧下されたく候。その上、木下氏と御相談の上、事により木下氏より内相へ差し出し下されたく候。
 昏くなり候につき、これにて擱筆仕り候。不一。
                                南方熊楠再拝
   柳田国男様
 
(15)       3
 
 拝啓。「巧遅は拙速に如《し》かず」と申すゆえ、小生本日少閑あり、家人みな不在はなはだ好都合ゆえ、手あたり次第に日記、旧抄等より見出だし、順序なく左に山男のこと申し上げ候。中には貴下すでに御存知のこと居多《きよた》ならんと存じ申し候。
 橘崑崙という人の『北越奇談』に山男の話あり。また『北越雪譜』にもありしと存じ候。井上円了氏の『妖怪学講義』にも多少ありしと存じ候。『密跡力士大権神主経偈頌』(元の世に成りしもの)に、この神王を念誦すれば、「夜叉、悪鬼、山精ならびに地霊の、水府、巌穴、樹石、一切廟にあり、魍魎《もうりよう》、邪魔の久しく人間《じんかん》に住んで、反って家国を侵犯するものは、すべて摂《とら》えて除遣《おいはら》いおわる」とあり。ここにいえる山精とは何のことか分からねども、仏僧などが仏経中にかかる説あるを見出だし、自然山男の迷信に付加せることもあるべくと存ぜられ候。
(15) 『和漢三才図会』巻四〇に、九州の山ワロのことあり、支那の山精とは別条に挙げたり。
 熊野にあまねくカシャンボということをいう。六、七歳の小児ごときものにて、ケシボウズにて肯き衣を着、はなはだ美にして愛すべし。林中にあり、人を惑わすという。また馬を害すとも申す。林中にてコダマ聞こゆるはこのものの所為と申す。このもの冬は山林中にあり、カシャンボたり、夏は川に出で河童《かわたろ》となるという。東牟婁郡高田村は、小生かつて日中行きしに、二里ほどの間一人にもあわず、恐ろしくなり逃げ帰れり。また拙弟が勝浦港に売酒の支店出しある番頭は営利のために水火をも辞せぬ男なるが、高田村の炭焼き人足どもに酒を売り弘め見よと小生いいしも、到底物になる見込みなしとて行かざりし。実ははなはだしき無人の地ゆえ、おそろしかりしなり。ここに平家の落人など申す若干の旧家あり、その家を今に高田|権《ごん》の頭《かみ》、檜杖《ひづえ》(大字の名)の冠者など申す。その旧家の一人の邸へ、毎年新宮川を上りて河童ども来覲す。影は見せずに一疋来るごとに石をなげ込み、さて山林に入ってカシャンボとなるという。
 支那の罔両《もうりよう》と申すもの、小児のごとしといい、陸に棲むとも水にすむともあり、似たことのように候。
 西野文吉とて当町のもの、生来深山に入って木引きを業とす。この者の話に、図のごとく山中の谷川の一側より他側に渡りかかれる藤葛をとり用うれば祟りあり、また深山中に小舎を作るに、(1)のごとく一方行きとまりあれば吉、行きとまりなければ怪物通りぬくるを得るゆえ凶とのこと。これは山男に関せぬことなれど付記す。
 上述山ワロの話は、橘南谿の『西遊記』にもありと存じ候。
 西牟婁郡|兵生《ひようぜ》(二川村の大字、ここに当国第一の難所安堵が峰あり、護良親王ここまで逃げのびたまい安堵せるゆえ安堵が峰という、と)、ここにて聞きしに、むかし数人あり、爐辺におりしに、畏ろしさに耐えずみな去り、一人のみ残る。婆来たり、(16)米三升炊げ、という。よって炊ぐうち、熊野道者来たりければ、右の婆大いに惧れ去る。道者右の人を導き安全の所に至らしめ、右の婆は山婆にて米炊ぎ上がった上、汝を飯にそえて食わんとて来たりしなり。われは熊野権現、汝を助くるなりとて去りしという。この話、朦朧として分からねど、かかる話、他国にもあるよう記臆致し候。
 この安堵が峰にいろいろの談あり。みな些断のものに候。兵生の松若とて、生きながら山に入って今に死せぬもののことを伝う。その宅址という地もあり。松岩、少小より山中に入り、鹿などをとり生食す。身に松脂をぬり、兵刃刑棘傷つくること能わず、ついに山に入って家に帰らず。人山を行って薯蕷《やまのいも》が何の苦もなく地より深く抜き去られたるを見て、その存在を知る。最後に山に入るとき、「もし大事あらば多人数大声にわれを呼べ、われまさに千人の力をもって援助すべし」とのことなり。あるいは言う、有田郡に小松弥助とて平維盛の裔あり。松岩その家に遊べり、と(この間非常の深山重畳せり)。明治十二年ごろ、当郡富田村のシャ川という所の僧、兵生村にゆき、村社に籠り七日断食し、時々生瓜などを食らうのみ。さて、われ今日松岩を招かんとて安堵が峰を望み、「松岩やーい」と呼び、村民一同これに和して呼ぶ。婦女、小児は、松岩来たるとておそれ、戸を閉じて出でず。件《くだん》の僧、安堵が峰に今松若現われたり、それそれそこに見えるなどいう。終日呼べども、終《つい》に下り来たらず。僧、悲憤、村に帰り死せりという。そのとき大呼せし人、今も存せり。
 右は、何のことやら何の由来やら分からず。北米のインジアン土蕃中、白人と交際に及べる前のこと、一向口伝もなしというが、わが邦にも記録なき(またはありたりとて麁略《そりやく》なる)地方の民の所伝、真実なればなるほどかくのごときものに御座候。
 安堵が峰辺で伝うる山精は、
 「山オジ」、男にて山中にあらわれ、大声で人を呼ぶ。これと声を比ぶれば人|終《つい》に斃る。ただし、人まず声を発すれば、山オジ敗北す、と。
(17) 「山女郎」、美女にて林中に出て人を魅《ばか》す、と。
 「山婆」、キクラゲ(木耳)のことを、この辺で山婆のツビクソ(陰門の垢)と申す。老女体、何をするということ聞かず、上に述べたる話によるに、人を食うものか。
 「一本ダタラ」、形を見ず、一尺ばかり径の大なる足跡を遠距離に一足ずつ雪中に印す。ダタラは、例の大太郎(『宇治拾遺』に、大太郎といえる盗賊のこと出でたり。『東洋学芸雑誌』、例の拙文「ダイダラホウシ」の条に出ず)なるべきか。按ずるに、天保年中、藩侯が諸臣に命じ編纂せる『紀伊続風土記』巻八〇に、那智の寺山は、古え那智山の神領なり。那智の滝の水源を養うため樫《かしのき》を多く植え、材木の用にあらざれば伐ることなし。その実を拾えば食料となる。(この辺、古えは米穀はなはだ不自由の地なり。)いずれの時にやありけん、一蹈鞴(ヒトタタラ)という強盗この山に栖《す》んで、時々出て神宝を盗み、社家を荒らし掠むること数次なれども、社家これを捕うること能わず。そのころ色川郷樫原村に狩場刑部左衛門という人、一蹈鞴を誅す。その恩賞として、寺山を立合山となすという(那智山社家と色川郷と両方の共有)。これより年々郷人、寺山に入って樫実を拾い食物に充つ。大抵毎家拾うところ十俵より十五俵に至る。郷中の所得を考うるに、一歳の総高千二、三百石という。材木の用を成さざれども、食料となること大なる益というべし、とあり。(この山は、去年、行政裁判所にて裁判し、那智と色川郷の共有に復《かえ》されたり。例の濫伐にて、滝の水も減じ、勝景も大いに損ずること、眼前にあり。小生かの辺の文書多く知れりとて、身郡長の職にありながら尻押しを頼みに来たりしものあり。その状は木下友三郎氏へ写して出し置きたり。地方の官公吏の所行、大方この類に候。しかるに、そんなものの人民を苦しむること大なればなるほど陞官叙位などあるは、比々みな然り。)思うに、このヒトタタラも(ヒトツタタラとも仮名ふれり)、唯一の大男という義にて、その賊の躯幹壮大なりしを指すならん。
 また山中にて、猴《さる》、人を悩ますことを伝うることあり。伊勢の巨勢《こせ》という処(熊野に近し)にて、古え猟師不在に、(18)大なる猴|長《たけ》丈余なるが来たり、その妻の頭をつかみ走り行く。猟師帰り来たり、見つけてこれを追い、その辺の猟師、弾丸中に必死の場合に用うる天照大神の弾丸というもの一つあり、それをこめて打つに、その猴に中《あた》る。血の跡をつけ行くに、穴に入って死せり。妻も殺されあり。あまりに大なる猴にて、持ち帰ること能わず。その尾を切り取り帰り、今にその地の旧家に蔵せり。長き払子《ほつす》ごとき、はなはだ美に白きものなりと申す。(その辺へ行きし者に聴く。)また安堵が峰辺で伝うるは、栗鼠は山伏が変せしものにて、魔法を有す。これを打たんとするに、尾をもって身を蓋う。もしこれを打ち得ば、分身してたちまち四面八方ことごとく栗鼠をもって盈《み》たさる。むかし大猴あり、怪をなす。猟師、犬二匹伴い、その家に入る。猴、人形を現わし、これを享するとて粟を炊ぐ。その間に、猟師一睡の夢に神現じ、しかじかすべしと教う。よって間に乗じ、神勅のままに盥二つもち来たり、おのおのに犬一疋ずつ伏せ匿し置く。さて夜に入り、猴大いに悩み出す。牛鬼の医者なるを招き診せしむるに、必死の徴ありという。鬼の巫《みこ》なるを招き祈りをするに、効なしという。最後に、栗鼠の山伏なるを招き筮せしむるに、「大盥|覆《かえ》せば親猴にたたり、小盥覆せば児猴にたたる」という。時に神出でていろり(囲炉裏)に釣したる鍋をたたく。猟師、よって盥一つながら覆せしに、犬走り出で猴父子を?み殺しおわる、と。
 まず右ほどのことにて、このほかにこの辺固有の山男およびその類似物の話とては思い出さず。右は一々聞きて書き留め置きたるものを記しつけ差し上げ申し候。
 小生、貴下に承りたきは、七難のそそ(陰門)毛と申す物、近江、大和等の社寺に宝物たり。七難といえる女の陰毛なりと申す。長きものの由。つまらぬ話ゆえ記せずというようなこと、『塵塚物語』か何かで見たり。諸書に散見するが、何の所由ということを記せず。なにかこの伝説について御知り及びのことあらば御教示願い上げ奉り候。
 右、本状至って不完全のものながら、さつそく御返事の方御都合宜しくと存じ、聞書のまま増減なく写し取り差し上げ申し候。早々敬具。
 
(19)  小生は習字せしことなく、小学校で常に遊びおり、三年ばかりの間に筆四、五本で済まし候。さて洋行し、永く在外せしゆえ、字ははなはだ難渋に候。御察読を乞う。
  明治四十四年四月二十二日
                         南方熊楠拝
   柳田国男様
 
       4
 
 拝啓。前刻出だせし状に忘れたることあり、左に申し上げ候。
 猟師、二犬を伴い猴《さる》の宅に入る話。栗鼠占うて謎を吐いていわく、「チントガン、大盥|覆《かえ》せば親猴に祟る、云々」。さて神来たり猴を平らぐるに、よき時刻に及び、いろりに釣したる鍋をたたく。その昔を聞くや否、猟師外に出でて大小の盥を覆すに、双狗出で来たり親子の猴に飛び掛かる。猟師、よって鉄砲を執り、猴を打ち殺す。(鉄砲は、のちにこの話に入りしものか、もしくはこの話は鉄砲渡来ののち作り加えたるか。)「チントガン」のチンは鍋をたたく音、ガン(英語 gun に等しく)は鉄砲打つ音(あながち英語を伝えしにあらず、全く鉄砲打つ音を擬したる音の偶合ならん)とのことに御座候。
 右の言訳なくては本話の解釈不満と存じ、聞きたるまま(これは留書になきも)記しつけ申し上げ候。
  明治四十四年四月二十二日夜十一時
                         南方熊楠
   柳田国男様
 
(20)       5
 
 明治四十四年五月十八日夜中なり、午前二時より認む、翌朝出す。
 拝啓。過日御手紙および雑誌類拝受。小生いろいろ心配のこと多く、ために御返事大いに後れ申し候。近日また当国第一の難処安堵が峰地方へ罷り越し候(十日ばかり滞留)。只今深更ながら差し当たりちょっと御返事申し上げ候。『太陽』および今一の雑誌は、御急ぎでなくは今四十日ばかり御貸し置き下されたし。間《ひま》を得ばいろいろ申し上ぐべく侯。小生多用ゆえちょっと書き終わることならず、間を得てちょっとちょっとかき続け候。書き終わり次第投函致すべきつもりなり。
 山男のこと。
 拙妻の話に、山男は身体に苔はえあり、山小屋へ来たり気味悪きものなり。しかるときは鋸の目を鑢《やすり》で立つる(トグことなり)ときはたちまち去る、と。その亡父(当地の闘鶏社すなわち田辺権現(『源平盛衰記』に見えたる熊野別当、源平いずれへ付くべきかと赤白の鶏を闘わせる社)の前社司にて、かかる古話多く知りおりたり)の話とのことに候。このこと六年前妻より承り、小生の日記に扣《ひか》え置き候。さて前日山男のこと御尋ねに相成り、妻に尋ねしに何ごとも知らずと申し候。なお日記をしらべ候に右のことたしかに記し有之《これあり》、その由話し候て妻ようやく思い出したるに候。話は聞いたとき扣え置かねば、たちまち話した本人すら忘れ去ることかくのごとき例に有之候。
 このほかにいろいろ聞き合わせ候えども、前書に申し上げ候|山爺《やまおじ》、人と相罵るとき人まず声を発せば勝つと申す。安堵が峰辺の伝話のほかにこれと申すものを聞かず候。いろいろ根ほり葉ほり聞くとき語り出すものは、多くは手製の虚構に有之。古語、伝説というもの、なかなか到る処に、また遭う人ごとには存じおらず。また所により何の伝説なき場処もたくさん有之候。御存知のこととは存じ候えども、一ヵ条見当たり候につき書きつけ申し上げ候。
(21) 『続々群書類従』第八、地理部に収めたる『本朝地理志略』(「林羅山、朝鮮国信使由竹堂の求めに応じて、これを抄出す。時に寛永二十年秋なり」)の三頁に、「駿河国。阿部山中に物あり、號《なづ》けて山男という。人にもあらず獣にもあらず。形、巨木の断てるに似て、四肢あり、もって手足となす。木皮に両穴あり、もって両眼となす。甲の?《さ》くるところ、もって鼻口となす。左肢に曲木と藤を懸けて、もって弓の弦となし、左肢に細枝を懸けて、もって矢となす。一旦《あるとき》、一猟師の相逢いて、これを射てこれを倒す。大いに怪しんでこれを牽くに、岩石に触れて血を流す。また、これを牽くに、はなはだ重くして動かず。驚き走って家に帰り、衆と共に往ってこれを尋ぬるに、見えずして、ただ血の岩石に灑《そそ》げるを見るのみ」。
 これは小生請書にて見るうち、本邦の山男の記のもっとも古きものに御座候。
 山の神オコゼを好むということの解は、ほぼ見出だし申し候。これはそのうちまた『人類学会誌』へ出すべきに候。
 御下問の山男の冬中の食のことは小生かつて承らず。しかれども、冬中は山中に樫の実多く落ち積もり有之、オシドリ群れてこれを食うが奥山(熊野十津川等)の常に候。また御存知の通り、猪、鹿、そのほか諸獣は、冬中ことに美味肥好に有之、夏中食えるものとては深山の動物に無之候。(『大和本草』に、諸鳥中鷺のみ夏食うを得と有之様記臆仕り候。)現に前便申し上げ候兵生の松岩と申す山男は、雪中に足跡を見しものありと申し伝え、猪、鹿、諸獣を生け捉りして食いし調味のため、小屋へ塩を乞いに来たりしと申し伝え候。
 また御下問の燕日本を去りて後のことは、小生一向存ぜず。‘Nature’雑誌に、鳥が冬夏に随い去就するは食事のためよりも主として日光の加減によるということ、数年前論じたる人有之、その‘Nature’は今もこの家に蔵しおり候えども、ちょっと見出ださず候。小生知るところにては、ただ一つ例のボスウェルの『ジョンソン伝』に、ジョンソンこのことを論じて、燕は冬に先だって群飛して団聚をなし、水底に潜み春至るをまつ、と論ぜしことを知り候。スウェーデンの古え漁人燕を水底より網し得たることを記し(オラウス・マグヌスの記に出ず)、英国のギルバート・(22)ホワイトの状にも、燕、時として水中に蟄する由いい、『酉陽雑俎』には、燕は竜と縁あり、井中に蟄す、と言えり。このこと十余年前、仏国の雑誌(‘L’intermédiaire で論ぜし人あり。胡燕と越燕とを混じたるに起こる由いえり(この田辺辺にもこの二種あり。胡燕は村部へ来たれども市街には稀なる由)(前者は英語 martin 後者は swallow )。小生、「燕石考」と題し、燕のこと長々しく書したるもの有之、その中にこのこと載せ置き候。そのうち何かで出板致したく候。『竹取物語』の燕の子安貝のことを論じたるにて、前年小村伯より畏きあたりへ献ぜし英人ジキンスの『日本古文』(小生那智に籠りおりしうち、氏の嘱によりこれを校正し、所々に小生の註入り、また小生の著を引きし所多し)にもちょっと引かれおり候。しかし、燕が日本を去つてのち何地に行き何ごとをなすやはしらべたること無之候。この田辺辺にては常世の国へ行くと申し伝え候。常世の国を村部には訛ってトチワの国と申し候。「大和万歳トコヨのツバメ」(下の句忘れ候、秋去りて春来たるという意を述べしものに候)という俗謡有之候。
  上文の山男は(羅山の記せる)小生らのいわゆる山男とは、大いにちがい申し候。古木怪をなすの類と思われ候。
  拙妻話に、山男身に苔むしありと言うにて思い出し書きつけ申し候。
 御尋問の狒々のこと。小生、十年ばかり前にロンドンを去る数十日前に雑誌(‘Knowledge’へ投書候ところ、図等のことにつきむつかしきこと起こり、また漢字の校正をしてくれるもの無之、止むを得ず出立の僅々間際数日前に原稿をひとまずとりもどし、その後多用にて今に稿は和歌山舎弟庫中に蔵し有之候。記臆のまま引用書を取り寄せ、左に申し上げ候。右の原稿を取り寄せんとせしも、小生の手筆洋文は読めるもの無之、取り寄すること罷り成らず候。
 狒々は、合信氏の『博物新編』には、たしか英語の baboon をもってこれに宛ており候と記臆候。しかし、baboon 類は支那近くに存せず、また形状も漢書に記すところとかわり申し候。須川賢久氏の『具氏博物書訳』には、たしかに狒々をバブーンに宛ており候。小生も従来この説を至当と存じおり候ところ、在欧中毎度諸処の動物園で生きたる諸獣を観察候より、狒々は baboon (猴の類)には無之、全く熊の類と思いつき申し候(『本草』には人熊をその一名(23)とせり)。俗に申す好婬老爺をヒヒなど申し候は、?などいうものに近しと存ぜられ候。(かかるもの支那の一部にあること支那の諸書に見え、いずれも大なる猴にて、婦女を婬し、子を生ましむ、とあり。交趾にもあること、彼方の書にて見候。猴《さる》を人と混じあやまり候諸例は Tylor の‘Primitive Culture’に多く挙げたり。また実際人と猴と婬することは古ローマの文学にも見え、前年(十二、三年前の)仏国雑誌‘Revue Scientifique’に見えたり、小生写しおき候。人と交わりて子を生むとは、如何《いかが》と存ぜられ候。小生はロンドン動物園にて異属の猴が交わりて間種を生み、その子育ち上がりたるを見候。)
 唇熊と申す獣はロンドン等の動物園にて常に見る。シンガポール等の熟地の動物園には一層常に見及び候。これが狒々なりと小生は確信候。左に訳文差し上げ候(原文は洋紙へ写し封入候)。(元禄のころ越後の国でとりし狒々は名高きものにて、三世相の年代記などに図を出したるものあり。小野蘭山の『本草啓蒙』に、これは罷《ひぐま》なり、とあり。熊の大なるものと見え候。熊は日本になきものにて、小生かつて大英博物館にて中アジア産の熊類標品をしらべ、これが古支那書の非熊非羆の熊ならんと思わるる種を扣え置きたる記あり。これまた和歌山の庫中にあり、今ちょっと分からず候。麻緒のごとき色の熊に候。)また『和名抄』に、?をヤマコと訓ぜり。『和漢三才図会』に、飛驛の黒ん坊というものを?に宛てたり。あらかじめ人の意を知るといえるは、九州の山ワロ(山童、『西遊記』等に出ず。天狗、人の意を知ること、『駿台雑話』にて見たりと覚え候)に同じく、その形状明らかに猴の大なるものなり。ヤマコは今の山男のことにて、山男の話はもと猴を人と混じて起こりし話と存じ候。小生、昨冬安堵峰へ行く途中、わりあいに山浅き福定《ふくさだ》という所の民より得し猴は、新しく殺され、その肉をつるし売りありし。その皮只今この状認むるに敷き物と致しおる。鯨尺にて測るに、鼻端より尾尖まで二尺四寸、前手端の間二尺一寸有之、かかるもの深林中に坐しあらんには、小生ごとき山なれたる男といえども多少恐怖するを免れじ。いわんや、山民などは理窟の分からぬもので、至って臆病なるもの多ければ、いろいろの説を触れちらすものと存ぜられ候。
(24) J.G.Wood,‘The New lllustrated Natural History’刊行日付なし。小生は明治二十年サンフランシスコにて購えり。そのころはなはだ英米ではやりし本なり。著者は英国リンネウス学院員なり。ほぼ翻訳申し候。
 アスウェール(インド土名)すなわち樹懶熊は、行動異様、形状怪奇にして、熊群中の珍品たり。インド(熊楠いう、セイロンにもあり)の山地に産し、土人これを恐れ、また賛称す。山谷をその?遊に任せて苦しめざればはなはだ無害なれども、これを創つけ、また苦しめるときは、はなはだ怖るべき敵となる。ただし、創重からざればひとえに逃れ去ることをのみつとめ、一直線に去る。故に捕えがたし。しかれども、重く創つくるときは創つけし人にかかり来たる。はなはだしく飢えしときのみ他の有脊動物を食う。普通には諸根、蜜および蜜巣と蜂の子、??《すくも》、蝸牛、蛞蝓《なめくじ》、蟻を食い、ことに好んで蟻を多く食う。その肉どちらかといえば堅硬の方なれど、実際食いし人はきわめて善味なりと言う。その毛奇態に長く、ことに頭と頸上の毛長く、この獣、ために異態の観あり。毛色真黒にして、諸処に褐色の毛を混ず。胸に叉分せる白毛帯あり。行《ある》くとき前脚互いに交錯すること、上手なる水履乗《スケイター》が cross-roll を演ずるごとくなれども、止まり立つときは多少両脚|距《はな》れて立つなり。この熊、牙《インシソールス》を失いやすく、至って弱《わか》き物の髑髏を見るに、なおしばしば牙全く早く失われて、その跡埋没し、かつて牙なかりしごとく見ゆるものあり。故に、英国へ最初持ち来たられし物を南米の樹懶の類と心得、樹懶熊と名づけたり。また無名獣と名づけたる書もあり。一名藪熊、一名唇熊。
 このウッド氏の書はなかなかはやり候ものにて、普通に行なわるるは三冊なり。小生かつて購い、故津田三郎氏に(25)贈りしことあり(海軍大佐。紀州人のことゆえ、遺族の家、木下友三郎君存知ならん。尋ねたら、その書あるべし。また東京図書館等にもこの書はあるべし。ドイツにて明治三十四年ごろ物故、この人の兄真一郎氏は、竹橋一件のとき王子の火薬庫を奪いに往きし咎にて免職、今、北海道にあり。その真一郎氏の子、故佐伯ァ氏(海軍大佐、日魯戦争に戦死)の嗣子たり)。現に小生の手許にあるは、その三冊のうち、著しき図を抜き集め解を短く付したるに候。右の文はそれより引く。また別に三冊本あり、右と同名ながら New の字なし。すなわち題して‘The Illustrated Natural History’と申す。その一八六五年板(ロンドン板)一巻四〇九頁よりの書抜きを左に写し申し上げ候。
  この熊を唇熊と名づくるは、その両唇長くして捲き曲がらすを得べく、きわめて種々に動かし得べきに因る。この唇を奇妙奇体に延ばし、また縮め得。したがって、その顔をきわめて奇怪に種々奇的烈《きてれつ》極まる面相に変成し得。餅片、林檎等の好物を示すとき、かかる百面をなすなり。好んで半起立の位置で坐り、観客の目を惹かんがため、その鼻と唇を速やかに捻《ねじ》まわす。かくてなお人これに注意せぬときは、急にその両唇を打ち鼓《なら》して人の注意を惹かんと力む。
 Tennent の『錫蘭《セイロン》博物史』にこの獣のこと出であり、怒るときはなはだ危険なる由をいえり。今夜身傍に出でおらず、少しく暇あらば一閲の上、かわったことあらば申し上ぐべく候。
 『山海経』に、「髴々《ひひ》、その状《さま》人の面《かお》のごとく、長き唇にして、黒き身《からだ》に毛あり、反踵《はんしよう》す(上にいえる cross-roll を演ずるごとく、脚の踵《かかと》を見る人の方に向くるなり)。人を見ればすなわち笑い、笑えばすなわち唇を上げて、その目を掩《おお》う」(これは上文のごとし。小生|毎《つね》に目撃せり)。『爾雅』に、「狒々《ひひ》、人のごとし。被髪《ひはつ》にて迅《と》く走り、人を食らう」とあると大抵よく似たり。食らうとは、怒ればかみつくことなりと解すべし。日本人でシンガポール等の動物園でこれを見し人、みな老婆のごとき熊を見たりと語られ候。野女などのことに似たり。
 交趾および南康郡に出ずとは、その辺へ件《くだん》の熊に芸を教え、インド、セイロンより持ち来たりしを支那へ伝えたる(26)にやと存じ候(この熊は芸をよく習い候)。またアジア獅《しし》など只今はインドで全滅、ペルシアのは如何《いかが》なりしか知らず。しかし、有史中にすらギリシア辺にまで存せしと申す(スパルタの王家に師子《レオニダ》王族あり、師子を殺せしによる名とか)。そのごとく、件の唇熊も古えは後インドより支那南部まで広まりおりしにやと存ぜられ候。
 『方輿志』に、「狒々は西蜀および処州の山中にもまたこれあり、呼んで人熊となす。人またその掌《たなごころ》を食らい、皮を剥ぎ去る。?中《びんちゆう》の沙県《さけん》幼山にもまたこれあり、呼んで山大人となす。あるいは野人および山?《さんしよう》ともいうなり」。これらは、たとい唇熊のことならずとも、一種の熊、人のごとく立つものと存ぜられ候。熊が人によく似たるは、学者間にも、人は猴より出でずして熊より出でたり、という人あるにて知らる。
 なお申し上げたきこともあれど、小生の書室はこの坐敷と建物別にて、夜間はなはだ都合惡ければ、今夜は止め申し候。
 次に、小生知人に広畠岩吉とて五十三歳ばかりの人でいろいろ俗譚多く知れる人に承り候ことを、左に申し上げ候。
 前便申し上げ候いし兵生の松若という山男は、常に身に松脂をすりつけ、土上に転び候より、鉄砲も槍も身に入らぬものとなり候由。
 また前に申し上げ候、神、鍋をたたき相図して猟師が猿を犬に食わせし話、この故に今も山小屋にては鍋をたたくをはなはだ忌み候由。
 安堵峰(兵生の)辺にオメキというものあり。一本足にて丈高き入道なり。広畠氏の知人、今存せば九十歳ばかりの人あり。その人大台原山にて材木伐りしことあり。六十年ほど前のことならん。その時アカギウラ(東牟婁郡小口村に赤城《あかぎ》あり、その辺?)の勘八という猟師あり。兄、山にありて鹿笛吹き鹿を集め討たんとせしに、後の絶崖より大筒《おおづつ》という蛇ころげかかり咋《く》い殺さる。(大筒、小筒とて二様の蛇あり、カラサオを打つごとく、ころげまわり落ち来るなり。大筒は良く小筒は短し。これ小生が昨年七月の『東京人類学会雑誌』〔【「本邦における動物崇拝」】〕に出だせる野槌蛇か。)(27)よって鉄砲を持ち、その辺をまわり、兄の仇を討たんとすること三年なるも、大筒にあわず。ただし、一度オメキに遭えり。すなわちオメキ来たり、勘八と呼ぶゆえ、もはや遁れぬところと思い立ち止まりしに、勘八、喚合《おめきあ》いをせんとて、われよりまず喚《おめ》くべしという、いやわれよりまず喚くべしといううちに、速やかに鉄砲をその耳にさし向け一発放ちしに、汝の声は大なるかなというて失せたりという。また一所に夜、岩のさしかかれる下に宿り粥を煮おりたるに、岩の上より盥大の足下り来たり額を打つを、自若としておりたるに失せぬ。さて、向うの方にこす様の音するゆえ、鉄砲をさしむけ覘いおりたるに近づくものあり。すわ放たんと思うとき、俟ってくれと大呼す。見るに人なり、その人は茯苓《ぶくりよう》を取ることを業とするものなり、山下より火をめあてに一宿を頼まんと上り来たりしなり。互いに危きところなりしと笑い興ぜしとなり。
 右は前文に申し上げし一本ダタラと山男《やまおじ》を混じたるような話にて、広畠氏説には、いずれも一物がいろいろに化けるなり、とのことに候。
 右の広畠氏知りし人の話に、伊勢の巨勢という村をはなるること三里ばかりの山、四里四方怪物ありとて人入らず。大胆なるものあり、その山に近く炭焼きし、冬になりて里に出でんとするに、妻なる者出産近づき止むを得ず小屋に止まるに、妻にわかに産す。よって医に薬もらわんとて夫走り行きぬ。帰りて見れば、小屋に血淋漓として人なし。大いに驚き鉄砲持ち、鍋の足を三つ折り鉄砲に込《こ》めて、雪上の大足跡をたずね行くに、一丈ばかりの大人ごときもの妻の髪をつかみ、吊し持ち行く。後より追いかけ三十間ばかりになりしとき、かの者ふりむき、妻を樹枝にかける。さて、この者の顔を見るや否、妻を攫み首を食い切る、と同時にかねてかかる怪物を打たんには脇を打つべしと聞きたるゆえ、脇を打ちしに大いに呻き、山岳動揺して走り去る。日暮れたるゆえ帰り見れば、生まれたる児は全く食われたりと見え、血のみあり。翌日行きて血を尋ね穴に至りしに、大いなる猴苦しみおる。それを打ち殺し、保存の法もなきゆえ尾を取り帰る。払子《ほつす》のごとき白色のものにて、はなはだ美なり。巨勢の医家(名を聞きしが忘れたり、と)(28)に蔵しありしを、件《くだん》の故老見たり、となり。
 何ともわけの分からぬ瑣譚ながら、聞きしまま記し申し上げ候。
 小生は御話の考古学会というものを存ぜず、雑誌などむろん見たことも無之候。小生は学問上費用多く、人類学会へも入りおらず、雑誌は特別の憐愍心をもってただで呉れおることに候。
 木地引《きじびき》とかいうもののこと、小生ようやく今年『紀伊続風土記』にて見当たり、奇体のことに存じおり候。そんなものは只今は当国に聞かず候。貴論雑誌は今に拝見致さず、拝見の上写し取り雑誌は御返し申し上ぐべく候。
 学問せぬものは見聞狭く、何でもなきことを異様に信じ、また申し触らし候。猴また熊を山男、山※[?+操の旁]など申すに似たること、一つ申し上げ候。当地近く東神社と申す丘上の森中に立てる神社あり。それにホーホーホーと鳴く鳥あり。この鳥鳴く夜は近傍で堅魚《かつお》とれるとて、カツオ鳥と名づけ候。小生友人と行き聞くに、何のこともなき木菟《みみずく》なり。当町の写真屋の裏の松の枝にもカツオ鳥なくと漁夫ら申し候。写真屋主人に聞くに、木蒐来るなり、自家の庭のことゆえ毎《つね》に見及ぶ、また糞も全く木菟の糞なりと申され候。田間、沼沢等で大声出して鳴くヨシゴイと申す鳥あり、『和漢三才図会』四二巻の終りに出ず。はなはだ声の大なるものに候。独り長堤を歩むときなど後より怪物に呼び懸けらるるものに候。かかることを誤りていろいろの怪談出ずるものと存ぜられ候。ヨシゴイは小さきものに候や。小生、明治十八年夏日光へ行きしに、利根川の辺にて聞き候。あたかも怪物が人を調弄するように聞こえ申し候。
 また狒々いよいよインド、セイロンのみの産とするも、『山海経』のできしころ、これを見及び聞き及べるもの支那にありしことと存じ申され候。鴕鳥《だちよう》などはアフリカの産にて、支那にての記載も遅く、『和漢三才図会』に、鳳五郎 Fögrel フォーゲル(鳥の義)蘭国より持ち来たりし由記しあるが、わが朝にてこの鳥の見えたる始めのよう、人は申し候。『本草綱目』には食火鶏(南洋マラッカス群島の産)と鴕鳥を混じたるようなり。しかるに、小生『史籍集覧』のなにかで『本草綱目』よりずっと早くわが国へこの鳥渡りしことを識しあるを見及び候。御入用ならば捜し出し申(29)し上ぐべく候(扣えたものはたしかに別室にあるなり)。
  後記。後花園帝の時作りし『神明鏡』上巻に、孝徳天皇白雉元年、新羅国より大鳥を献ず、大にして鴕のごとく鋼鉄を食らう、とあり。
 Tennent,‘The Natural History of Ceylon’(『錫蘭《セイロン》博物志』)一八六一年ロンドン板に見あたり候につき、略訳申し上げ候。
 セイロンの土人がもっとも畏るる食肉獣は唇熊にして、セイロンの深林に住む大獣はこれあるのみ。主として樹穴、岩崖罅中の蜂蜜を求め食う。時として諸根を食わんがため土をほることあり。また?《はあり》および蟻を食う。ジャフナ近傍の森を横ぎりし予の友、この熊の吼ゆるに気づき見たるに、高き樹枝に坐し、一手をもって赤蟻の巣を口に入れ、他手にて赤蟻の怒ってその額と唇を螫すを掃い去らんと力《つと》めおりたり。島の北および東南岸の低くて乾きたる地方に棲み、山地、また西方湿潤の平原に住まず。両肩の間、背に長叢毛あり。児子みずから逃るる能わざる間はこれ(この長毛)を捉え、母につれられて逃ぐ。一八五〇年、北方州厳しく旱《ひでり》せしとき、カレチ地方にこの熊多く渇して夜間水を求むるとて井中にすべり落ち、地滑なるため逃げ上ること能わず、ために婦女井辺に集まるを止むるに及べり。この熊|稀《まれ》に肉を食い、独孤にして蜜と果を捜るをもって、その性、卑怯退隠なり。人または他獣に近づかるるとき、急に退く能わず、兇性なけれど狼狽のため自防せんとて他を襲うに及ぶ。かかる時、その搏襲はなはだ猛烈にして、森中の他の獣よりはもっともセイロン人に恐れらる。土人鉄砲を具せざるときはコデリという軽き斧を帯びこれに備え、その頭を撃つ。唇熊、人を見れば必ずその顔を覘い、人を仆せば必ず一番にその眼を襲う。予島中を旅するに、しばしばこの熊に襲われ傷つける人を見たるに、土人色黒きに反し、(30)創のぬいめ白くてすこぶる惧るべかりし。ビンテンのヴェッダス(土人)は蜜を蓄えて食資とするが、蜜の香に誘われ、この熊人家を襲うをおそるるが常習なり。郵便脚夫またその害に遭うを怖れ、炬を秉《と》ってこれを驚かし走らしむ。(註には、この熊の害を免るる符?《タリスマン》あることをいえり。)
 右、唇熊、唇をのばし戯るるところは小生|毎《つね》に見たり。真に野婆などいうものの図のごとく、また『和漢三才』等に載る図のごとくに候。
 貴説(『人類学雑誌』四月十日の分、五二頁)に載せたる『世話尽』は、明暦二年刻とも承応三年刻とも申す。『犬子集』は、松永貞徳撰、寛永八年より十年正月に至り記しおわると申す。『毛吹草』は、小生も毎度諸書に引けるを見れどちょっと分からず。いずれも小生未見の書に候。
 針千本(図上)は、かくのごときものにて河豚の類に御座候。これより長きをハリフグ(図下)と申し候。針千本は少なく(北国の海にある由)、ハリフグはこの辺にもしばしば見候。油多きものにて、取るとたちまち腐る。しかし乾物にして店の飾りなどにすること欧米に多し。米国でオイスター・ハウスと申し、下等男女の待合いごとき家には、多くはこれを牡蠣の殻と共にかんばん的に店頭に置きあり候。以前魔を禦ぎし余風と存ぜられ候。インドの神にこれを使い物にする神あるを扣えおり候えども、ある説には海胆《うに》のことと申し候。この他には伝説は一も存ぜず候。上野博物館に明治十七年ころ毎度往き見しに、二品とも有之候いし。明治三十年の『帝国博物館魚類標本目録』を見るに、ハリフグは Diodon histrix L.,ハリセンボンは Diodon maculatus Güntherとあり、両《ふたつ》ながら標本を東京市場で得たる由記せり。
 右はなはだきれぎれの話のみながら纏めて御覧下されたく候。
 貴下、舞と音楽のことの説の御参考に、 Sven Hedin,‘Trans-Himalaya’,London,1909,vol.ii,pp.390-391 のあい(31)だの板よりこの図写し申し上げ候。むかし唐代に羯鼓《かつこ》はなはだはやり候由は、玄宗のことなど記したるものに見え候。思うにこれに図するチベットの鼓舞は、そのころの遺風にて、わが国に行なわるる諸種の鼓もて踊る舞と同源に出でたるものと存ぜられ候。
  (今回の御通知は右にて擱筆仕り候。かき終わりしは五月二十五日夕にて、かき始めし日よりかれこれ一週間かかり申し候。)
 小生は至って節倹なる家に生まれ候。父は一《ひと》風ありし人にて、只今の十三円ほどの資金をもって身を起こし、和歌山県で第五番と言わるる金持となり候。木下友三郎氏と小生遊交せしころは、和歌山市で第一番の金持なりし。しかし不文至極の人なりし。したがって学問の必要を知り、小生にはずいぶん学問させられたり。父ははなはだ勘弁のよき人にて、故三浦安氏の問に応じ、藩の経済のことなどにつき意見述べしこともあり。故吉川泰次郎男など、また今の専売特許局長中松盛雄氏など、毎《つね》に紀州商人の鏡なりとほめられ候。小生は九人ばかりありし子の第四男にて、幼時は(貧乏にあらざるも)父の節倹はなはだしかりしため、店にて売るブリキ板を紙に代え、鍋釜等に符号を付くるベニガラ粉を墨とし、紙屑屋より鍋釜包むために買い入れたる反古の中より中村タ斎の『訓蒙図彙』を拾い出し、それを手本にまず画を学び、次に字を学び候。六、七歳のとき、右の『訓蒙図彙』の字をことごとく知り候。それより諸家に往き書を借り、『本草綱目』、『和漢三才図会』、『諸国名所図会』、『日本紀』等を十四歳ごろまでにことごとく写す。十一歳のとき、『文選』六臣註を読書師匠が他弟子に読書教うる間にちょいちょいと窃み見し、「江の賦」、「海の賦」の諸動物の形状(32)記載を暗記し帰り、また古道具屋の店頭に積みある『列仙伝』の像と伝を、その道具屋主人夏日昼寝する間にのぞきに行き、逃げ帰りては筆し筆ししたるもの、今も和歌山の宅にあり。右様に学問好きにて、『続群書類従』、『史籍集覧』、『類聚名物考』、『法苑珠林』、その他大抵の参考書を写せり。
 明治十九年商業学せんとてサンフランシスコに渡りしも、やはり学問好きで商業など手につかず、ランシンの農学校に入りしに、日本人と米人と闘論せしことあり。小生一人その咎を負い脱走し、それより学校に勉学するを好まず、浪人となり、諸州および西インド流浪、もっぱら動植物を集め、ロンドンへ之《ゆ》きても非常に艱苦し、馬部屋ごとき家に住み(先年旅順閉塞で名高かりし斎藤七五郎氏(今は大佐か)、そのころ少尉にて富士艦滞在中、小生艦員を大英博物館へ案内し、いろいろ学問上のものを見せしを多とし、同艦の写真を艦長および将校より右の七五郎氏に托し、その写真屋より人をやとい小生に贈られしことあり、小生の寓所分からずしてとうとう持ち帰り、その後郵便にて小生方へ届きしほどのことなり)、金さえあれば書籍を購いたり。故に今日その一部分を保存しおるうちにも、わが国にてちょっと見られぬ珍書多し。また在外中手扣えしたり、私《ひそ》かに纂録考証して書きつけたるものはなはだ多きも、難筆にて他人に読めず。
 さて小生不幸なることありて止むを得ず英国を辞し、帰朝せしは十年前にて、父母その他過半在外十五年間に死に果て、一族一家内にも知らぬ人の方多くなりあり、止むを得ず熊野に退き、那智山に偶居すること前後二年余、また諸方の山海を捜り、主として顕微鏡的の微細生物を集め、御存知のプレパラートとて顕微鏡標品およそ十三、四貫目も作り (損じやすきものゆえ一種一品ごとに五、六枚乃至二十枚ずつも作れり。実に目も心も、また身も疲るる仕事に候)、また菌類を一々彩色画にし解説を付したるもの数千葉あり。われながら人間の精力もよくつづくものと感心罷りあり候。このうち今日までようやく一部分調査すみ候は、粘菌 mycetozoa と申し、動物とも植物とも分からぬ微細の生物にて、世界中に二百五十種未満存するものを、小生の発表以前に、本邦よりは十八種しか知れおらず。それ(33)を小生三年前に東京植物学会の雑誌にて発表せしときは七十四種まで日本にあることを知り候。その後も十津川熊野にていろいろ見出だし、只今はすべて百種ばかり見出だしおり候。(故に、紀州および十津川で八十二種ばかり小生見出でたるなり。中に新種二、三有之候。)
 粘菌ごとき種数の比較的少なき一群すらかくのごとくなれば、藻、菌、地衣、苔、蘚等の種類広大なる諸群について、小生が紀州および十津川で見出でたる数は莫大のものに御座候。たとい小生の創見の新種ならずとも、世界中に植物分布の学をなすにおいてはなはだ益あることに御座候。このほか小生一向専心気にとめぬながら、上等植物においても従来四国、九州、また琉球、また熱帯地方にのみ産すと思われたるもので、紀州にあることを見出だしたるものも多く候。たとえば Wolffia と申し、これほどの植物で、世界の上等顕花植物中最小のものと称するものなど、台湾にはあれど本州にあるを知らざりしに、小生紀州和歌浦の東禅寺と申す寺の古き手水鉢の中より見出だし候。テッポウシダと申す羊歯なども、従来台湾の産と知れおりしが、小生熊野にて見出だし候。その他小生専門ならねど、前日大学の牧野富太郎氏に名を識しもらいし中に、紀州より始めて知られたるもの多し。下等植物の命名はわが邦にてはあまりよく出来申さず。故に多くは海外へまわし調査しもらいおる最中なり。しかし、標品の数多く人間にひま少なきゆえ、ややもすれば事凝滞し、なかなかちょっとすむべくもあらず。
 とにかく右様のことのみ専心潜思し従事致しおり、和歌山市郷里の人も小生は何如《いかが》なりしか知らぬがちにて、小生もそれをよきことに心得おりしに、今度の神社合祀のこと、いかにも乱暴にて、小生十年間私財を抛ち未来公益のために尽力したる甲斐もなく随処林木を滅却し、古物古墟を全壊され候こと忍ぶべからず。よって議論を始めたるにて、これがため小生は、この際非常に不利益の地に立ちおれり。先便申し上げたるごとく、今春三月末中村代議士(啓次郎)内務大臣と会見の結果、本県に制定せる一村一社の制は、大臣の意にも政府の意にもあらざること知れ、また近く古趾、旧林保存等のことを首唱する人多く出で候に、当県は今に合祀と濫減と絶えず。これはただ県知事や官吏の(34)みを咎むべきにあらず。騎虎の勢い一旦言い出して、利慾深き村吏、姦民などの乗ずるところとなりたるにて、何とか合祀を全く止めてくれるにあらずんば、これまで紀州に存せし動植物種にして全滅するものはなはだ多からんと憂慮致し候。しかして、神社の森にのみ限れる濫減にあらずして、すでに行政裁判所にて那智の神社と色川村へ下付成りたる那智山林のごときも(前月二十五日勝浦港より来たりし拙弟の酒店の番頭の言によるに)、大林区署よりはいつ切るも宜しとの許可を受けあり、那智滝の水源たる寺山の林木をもことごとく伐り払うはずにて、これを手に入れたる色川村にては二十万円ばかりの利分のうち十二万円は弁護士の酬労に仕払うつもりとのことなり。また中辺路の唯一の林木(拾《ひら》い子《こ》谷とて、小生の発見せる南方丁字蘚、友人宇井氏の発見せる紀州シダ等珍物多く、熊野の官道を歩して熊野の林景を見得るはここの外なきなり。その他はすでに濫伐のため全くの禿山にて、熊野諸王子の社は濫併のため一、二を除き全滅なり)、八十余丁と申す、実は六十町に過ぎじ。それも近々伐り去らるることの由。
 さて、その伐りたる金はみな二、三商人(多くは他国の見も知らぬ人)の懐に入り、一時人足多く入りこみ繁昌すれど、実は狐に魅せられたごときことにて、悪風姪風移り入りたる上、木伐られ果つるときは何の益なき禿山にすすきなど生え、何とも手のつけようなきこととなるなり。現に、この田辺近所にも五、六年の間に神社を合併しおわり、山頂の木を濫伐し土塊落下し、川下の方が川上より地高くなり、同じ一つの山で一側にはわずかの木を植えて防壊工事を施すと同時に、他の一側にはしきりに濫伐を行ないつつある所あり。また社地の木などは林木用のために故《ことさ》らに植えしにあらざれば、これを伐りたりとて何の功なく、わずかに一部分を室内装飾に用い得れば幸いなり。これはそんなことなく、多くは何のわけもなく焚き物にしおわるなり。焚き物を一時用もなきに多く焚くというのみなり。しかるに、今に地所を売り、コムミッションを得んとする輩のために欺かれ、合祀を強行する処紀州内に多し。東京辺とかわり、三里五里行かねば神社へまいられぬようになりては、誰も神社へ参るものなく、したがって天理教とか狐を拝するとか、雑多の卑猥なる迷信、婬風、惡俗を生じ、何とも方の付かぬこととなりおる。小生の祖先が四百年来(35)奉仕し来たれる大山神社
  当国『神名帳』に出でたり。幕府のころは徳川吉宗公の帰依篤かりしゆえ、天下普請すなわち将軍家より普請されしなり。今の社は、小生一族が二十年ばかり前に造営せしものにて、なかなか見事なり。『木国神名帳』は、他の国々の『神名帳』(『神名帳』は十八ヵ国ばかりのこりありと聞く。この中で『木国神名帳』には官知神社、未官知神社ということを分かちあり、大山神社は官知社なり)とかわり、はなはだ詳細なるものにて、『延喜式』の「神名帳」のみが古社の標準にならざるは、天日槍《あめのひほこ》の遺蹟たる淡路の社が『延喜式』に見えずして、『淡路国神名帳』(『釈日本紀』に引けり、原書は亡ぶ)に載せたるにてわずかに知れたるに見るべし。日本の諸国を通じて『神名帳』が各国にそれぞれ残らざりしは遺憾千万なり。しかしながら『神名帳』の残りし部分のみにても、なお一層これを幸いに保存すべきに候わずや。たとえば銀杏は太古には数十百種もありしが、今は化石となりおわれり。さればとて日本、支那にのみ遺存し、わずかに社寺境内にのみ生を聊する銀杏を、軽々看過すべきにあらず。友人平瀬作五郎氏、往年銀杏の精液が他の高等植物と異にして、反って羊歯等の下等植物に同趣なるを発見し、植物学界をひっくりかえせしは、実に日本にこの一種のみを保存しありし力《ちから》なり。他国に亡びたれば、ついでにいっそこの国のものをも全滅跡なからしめんとするは、人道にも天道にも反けりと思う。
も、今にその林木を利とし合祀を逼られおり、村民いずれも愚にして目前の利慾に目がくれ、小生の従弟等わずかに五戸を除くのほかは、合祀合祀と賛動し、小生一族は僅々の人数にてこれに抵抗し、今日まで無難に保留したれども、今秋までに是非つぶし見んなどと、日高郡吏等いきまきおる由。かかる郡吏を放縦ならしむるは、祖先崇拝を主張する政府の真意にあらざること万々にて、あまりに大勢大勢いうて何が大勢やら、ただただ衆愚の目前の利慾をのみ標準とし往くも、国家独立の精神を養う所以にあらざるべしと思う。(目前の私慾に目がくれ、祖先以来崇敬し来たれる古社を潰して快とするようなものは、外寇に通款し内情を洩らすほどのことを何とも思わぬこと当然なり。)こん(36)なことにて小生は日夜憂愁しおり、五、六年前までの独身のときならんには、所蔵の図書標本を挙げて外国政府に寄進し、自分も超然筏に乗り外遊してその客となりて快と唱うべきはずなれども、妻子もあり、また妻只今懐妊中にて、そんなことも成らず、何となくぶらぶら致し面白からぬ月日を送りおり候。あわれ貴下は何とか速やかに当国の神社濫減と形勝故跡の全壊を当県において全く止むるようの御計策を教え下さらずや。しかるときは、小生はすでに外国へ傭われおる身に有之、何とか早くあとをまとめ、貴下らの用に立つべきものはなるべく速やかにまとめて貴下らの用に供し、自分は一己で活計するために外国へ往き、仕官でも致したきにあるなり。只今のごとくにては大いに寿命も縮まり、せっかく書を集めたものも右様の世話絶えぬため何の用をなさず、そのうち身命衰弱して終わらんことは、まことに遺憾の極にあるなり。
 去年の初め、木下友三郎氏、小生の意見書を新紙、国会などへ出さず、すぐ木下氏を経て平田大臣へ出せ、といわれたり。小生そのとき山奥より出で来たり、政治上のこととては何も知らず、如何すべきと迷ううち、人々のいうには、かかる意見書を大臣に出したら大臣の握り潰しとなり、久しく留置ののち曖昧なる返事すなわち参考し置くべしぐらいの返事を下さるるのみ、さて、その返事下るまでの長いあいだ一言もこの意見について口外し得ず、発表し得ず、とのことなり。よってそれにては詰まらずと思い、議会へ出し、また地方と京阪の新聞でその一斑を述べたるに候。今から思うに、地方の村吏、俗吏などの悪しきに似ず、中央政府の人々はなかなかわけも分かりおり、また決して無理なことをいわず。(当県にて最初に出たる合祀の訓令などは、実に条理正しく処分も宜しきを得たるものなり。それを私慾一片の俗吏、小官、神主などがいろいろと変更して、ついに五千円という大金を標準として片端から神社を滅却し、さてその五千円調達のためと言って、また片端から林木を滅尽せしなり。この五千円という基本金を定めたる扣え書きも役所になく、また何月何日に出たということすら当該吏も覚えおらず、実に迂論千万なことなり。)故に今まで辛苦抗弁するに先だち、最初に意見書を大臣へ出したなら、はなはだ好都合なりしことと小生は悔いおり(37)候。貴下、折をもって木下氏に話し置かれたく候。
 むかしスパルタ王アルゲシラウス、エジプト人に乞われてみずから援軍に往きしに、エジプトにはその勇武を見て大いに欣び、敵は蛮民にして兵法全くなき輩なれば、この王の手に懸かったら数日にして亡びんと言いしに、アルゲシラウス大いに憂うる色なり。人の問に応じて言いけるは、敵も兵法を知った者なら無謀突飛なことをせぬから兵法をもって謀りて勝つべし、兵法を全く知らぬものは何をするか知れず、と。果たして数日後に蛮民に襲われて戦死せりと申す。相手がわけの分かった人なら、まことに致しやすきが、只今この地方のごときは、相手は無法、無慙、利慾一辺の我利我利輩にして、こちらは勢力根気に限りあれば、まことにむつかしき立場に小生はあるなり。貴下何とか速やかに当国の神社と林木のこの上破壊さるるを防ぎ止むるの御名案も無之や。
 前日、河東碧梧桐来訪、いろいろ話承りしに、肥後の五家なども、近来、古風俚伝全く忘れられ、風俗観るべきものもなく、ちゃちゃむちゃの由。熊野もその通りにて、貴下など御来臨ありても何一つ見るべきものなく、ただただ飛鳥山から板橋辺へ歩むその間の谷が深く見ゆる禿山の並んだと申すばかりに有之候。
 まずはあまりに長文ゆえ、これにて切り申し候。そのうち果てしなきことながら一件方付き候わば、また『太陽』等の御貸与中の御論をも拝見し、何か申し上ぐべく候。もしまた到底事繁くなり拝見の見込みなく候わば今より一ヵ月中に御返し申し上ぐべく候。
 明治四十四年五月二十五日夜九時過
                         南方熊楠再拝
   柳田国男様
 
(38)       6
 
 貴君は三宅雄次郎氏また井上亀六氏(『日本及日本人』編輯人)を御親識なきや。また高木兼寛氏その他名勝古蹟保存のことに熱心なる人にて御親識の人なきや。また木下友三郎氏は小生の報告書を徳川頼倫侯へ取り継いでくるる気なきや。折にふれ御聞き合わせ下されたく候。(小生は頼倫侯を識る。しかし、外国にあるときとちがい、只今は家令とかなんとかむつかしき家風もあるべければ、直様《すぐさま》小生ごとき浪人より書面を上げては、例の自分らの卑劣根性より類推して金子の無心でも言ってきたかのよう思わるるも知れず。)
 小生、例の一件心配しながら、ふと貴下の「踊の今と昔」第二を読むにササラのことあり。昨年末国学|書院《〔ママ〕》刊行、加藤雀庵の『さへづり草』巻一、二四一頁に、其角の句、竹に蜂?《はちのす》の絵に「なよ竹のささら三八宿とこそ」、疱瘡流行のときササラ三八と門に記しつくれば瘡軽しという俗伝を言いし、と。このササラ三八という名、この辺では侠客の名と心得おり候。「東岸居士」謡曲、ササラ八撥《やつばち》などに出でたることに候や。かつなにか疱瘡を禦ぐにササラ舞を二十四回催したるようのことありしにや。それを後に人の名のごとく心得たるにやと存ぜられ候。(初めはこの家すでにササラ三八を修したれば疱瘡鬼の入るべきにあらずとの意と見え候。)
 また新宮の宝物「志天天伊」(熊野三山のうち宝物のこれるは新宮のみなり。他日みずから行き見るべし)は、信節の『嬉遊笑覧』に見えたる通り、小鼓なるべし。(まずは今の品玉あやつりに用うるカンカラ太鼓のようのものか。)『沙石集』巻五、章八に、前後(の間くびれ)あるを蟻と名づくれば、輪子《りんし》等において蟻と名づけざるという問いに、「執転提《しつてんてい》等を准例《じゆんれい》せばまた爾《しか》り」。江戸の橋尽し大澤絵の唄終りに、「安宅の関が弁慶橋でステテンコロリコロブと渡るのが矢倉(?)橋」、角力の寄太鼓に寄せたると存ぜられ候。シテテイステテン、鼓類の拍子にてシタラと関係なきにや。信西の舞楽図に執転提の図ありしにやに覚え候、如何にや、小生は久しく見ぬゆえ確かならず。
(39) 明治四十四年五月二十八日
                           南方熊楠
   柳田国男君
 
       7
 
 拝啓。山精というもの、『和漢三才図会』等に一足の鬼に限るよう見えたれども、山精は概して山の鬼、まずはわが山男のようなものならん。梁の慧皎の『高僧伝』巻一二に、釈弘明(斉の永明四年、八十四にて卒す)、「永興の石姥巌において入定《にゆうじよう》す。また山精あり、来たって明を悩ます。明、捉え得て腰繩をもってこれを繋ぐ。鬼、遜謝《そんしや》して脱するを求め、のちにあえてまた来たらず、という。すなわち解き放てば、ここにおいて跡を絶つ」。繩にて縛らるるならば形体あるものと見えたり。
 また当地の老人の話に、大和吉野郡の前鬼村の前鬼後鬼という民族は、従来他村と交通せず(国書刊行会のなにかの書に、元禄ごろ初めて都会へ出たるものありし、といえり)、同族婚嫁す。田辺の人、むかしそこへゆき、戯れにわが家の茄を汝にやるべしといいしに、田辺のおのれの畠の茄子熟してたちまちことごとく亡失しぬ。これ彼輩来たり取りしなり、と。また新宮へ出て塩を求むることあり、求め得てその家を出ずると見るに、たちまち之《ゆ》き所を知らず。もっとも俗に伝うる山男に近きものなり、と。
 前状申し上げし、林道春が筆せし古木人形をなせしようの山男は、きれば血を出すなど、はなはだ欧州に伝うるマンドラゴラ mandragora, 英語 mandrake のことに似たり。小生、長論文を英国の『ネーチュール』雑誌(十五年前)へ出し、オランダの『人類学会誌』へ転載されしことあり。大体は『エンサイクロペジア・プリタンニカ』のマンドレークの条読まば分かる。ここに申し上ぐるは、『本草綱目』毒草類莨?の付録「押不蘆薬」すなわちこのマンドレ(40)ークのことで、アラビア名ヤブロチャクを音訳せしに候(このことは小生見出だせり)。また『五雑俎』巻一〇の終り、商陸根をもって魔法を行なうこと、参考さるべし。以上。
  牛込の加賀町とは市ヶ谷加賀町に候や。故士官学校長高木作蔵氏その辺に住し、小生二十六年ばかり前、日曜ごとに遊びに行き候。草花道側に多く、さびしく風景の地なりし。
 明治四十四年六月五日夜十一時出
                                  南方熊楠
 
   柳田国男様
 
       8
 
 拝啓。六月十日出芳翰および新聞一葉、まさに拝受、御礼申し上げ候。小生は目下粘菌と申すものの標品を英国へ送る最中にて、すこぶる事多く候につき、ほぼ一筆御返事申し上げ候。
 粘菌は、動植物いずれともつかぬ奇態の生物にて、英国のランカスター教授などは、この物最初他の星界よりこの地に墜ち来たり動植物の原《もと》となりしならん、と申す。生死の現像《げんしよう》、霊魂等のことに関し、小生過ぐる十四、五年この物を研究罷りあり。従来日本より(『帝国大学目録』による)十八種しか見出でざりしを、只今九十六種まで小生見出だしおり、英国にて三色写真板で大図譜出板(大英博物館蔵板、リスター卿の娘リスター女史、亡父の遺業としてこれを編す。日本の部は主として小生の標品と小生の記載を用い編入す)中にて、小生見出だせし新種の著色板はすでに出来上がりしも、アフリカ、南米等の品につき異論渋滞し、三年かかりて今に出来上がらず。この次はバーミンガム大学教授ウェストと小生と『日本淡水藻譜』を作り出すつもりにて日夜孜勉すれど、これはこの上十年ばかりかからねば完成の見込みなし。
(41) 山男のことにつき御注意を惹き置くは鬼市のことに候。小生那智山にありし日、このことをしらぺ英国の雑誌へ出せしことあり。鬼市は『五雑俎』に出でおり、支那にはいろいろあると見え、分類して出しおり候。
 肥前国に昨今もこのことある処ある由。那智にも行者(実加賀《じつかが》行者とて明治十三年ごろ滝に投じて死せしもの)の墓を祭るに、線香をその墓前におきあり。詣るもの、銭を投じ線香をとり祭る。(肥前のは、路傍に果をならべ、ザルを置く。果を欲するものは、ザルに相当の銭を入れ、果をとり食うなり。)貴下のいずれかの著に、神より物を借ることありしと記臆候。(支那にはこのこと多きように『五雑俎』に見ゆ。)今もスマトラなどにて、交易すべき物を林中に置き去れば、蛮民来たりその物をとり、代価相当の物を置き去る風多し。つまり蛮民、他国民の気に触るれば病むと思うによるなり。(蛮民他邦の人にあえばたちまち病み、はなはだしきはその人種絶滅するは事実なり。)貴下もしこの鬼市のことをしらべんと思わば、御一報あらば小生知つただけ写し申し上ぐべく候。英国には六年ばかり前に‘SilentTrade’(黙市)と題せる一書出で申し候。
 貴著『遠野物語』に見ゆる山婆が宝物を人の取るに任すということ、また『醒睡笑』にも似たことあり。これらは古えわが邦にも鬼市行なわれし遺風の話にやと存ぜられ候。
 那智の一件は、『東京朝日』および和歌山の新聞へ出で候より、県庁大狼狽して官吏を派し只今精査中にて、県庁はまたまた大物議を生ずるを恐れ、下戻しの林を保安林に編入せんとし、村民は訴訟の費用を払うに(色川十八大字にて二十万円の材木きるつもり、そのうち十二万円は弁護士へ渡す約なり)、ぜひ木を伐らんとて争論中に候。小生いろいろ事実の委細を探るも、事密にしてなかなかちょっと耳に入らず。また、かの辺は小生弟常楠なる者の製酒ほとんど一手販売の状況にて、弟の縁戚および出入りの者に関係も多ければ、小生表面から攻撃も成らぬ理由あり、こまったものに候。いずれ只今起稿中の徳川侯に呈する書(これは『牟婁新報』に書きしごとき惡口、滑稽にあらず。生物学と考古・里俗学上より神社保存の要を説き、あわせて国体上の大関係を述べたるものにて、写真および図多く(42)添え申し候。なかなか永いものにて、常人はこれを通読するもの希《まれ》なれば、節約するにはなはだ骨が折れ申し候)でき上がり次第貴方へまわすべく候間、何とぞ木下氏より徳川氏へまわされたく候。しかし、木下氏このことを好まずとならば、止むを得ず大学連へ出すべく候。
 小生は神教ごときものに別に関係なく候えども、わが国の古蹟を保存するは、愛国心を養う上において、また諸般の学術上はなはだ必用のことと思う。古蹟というに、史蹟(すなわち平経盛の塚とか、平井権八の碑とか)と、有史前の古蹟とあり。(誰の家か分からぬが、古ゴール人の塚に似たるもの当地辺にて小生見出でたり。また何人のものとも知れねど、陵墓風のものあり。和歌浦に多く古石槨ありしを、十年ばかり前に打ち破りたり。これらは誰のものと知れねど、打ち破らずに置いたらいろいろの参考になるものなり。一度打ち破ったなら、再び巨細のことを研究すること能わず。)国の古きを証するには、この有史前の古蹟の保存もっとも必要に候。白石が秋田氏の譜にいえるごとく、わが国の君も臣も百姓もみな由緒、来歴あるを証するに候。
 備前国邑久郡朝日村に「王の塚」というものあり。大なる冢にて、正中に大なる石室あり、ぐるりに小さき石室あり、みな髑髏を埋めたり。平経盛の墓なりという。平経盛は、敦盛の父で、『頼政集』などになんでもなき和歌残れり。別に何とてわが国に功ある人にあらず。しかるに、その辺に石鏃等を出し、また太古神軍ありしという。この例のごときは、平経盛の塚としては別に保存の要なきも、学術上かようの構造を具せる塚としては非常に参考になるものにて、例のわが国にむかし殉死の法ありしや否の問題等にはなはだ興味を添うるものなり。この社(飯盛神社)の社司は合祀大反対にて、小生と交りあり、はなはだ惜しみおれり。昨今合祀後この塚の荒廃はなはだしく、到底、二、三年中にわけもなく砕かれおわるべし、とのことなり。これを砕くなら砕くで、学者の調査を遂げしむること、法律上変死の検証を経て葬るようの手続きぐらいはありたきことに候わずや。
 田辺近傍にも、神社合併のあとを発掘し、斎瓶《いわいべ》などをとり出し、種々の素性話を作り、売り飛ばして奇利を得、さ(43)てその跡の石棺、石槨を滅却する例少なからず。これらははなはだ惜しむべし。斎瓶など、由来知れずに決して何の学術上の功あるものにあらず。何とかその筋の専門家をまちて検査し、一度滅却して再び見ることのならぬ構造は、委《くわ》しく記載し調図して学問に補するようにしたきことなり。つまりは、かかる学術上の調査の準備成るまでは、神社合祀は厳制されたきことにあるなり。山口主陵頭の話に、奈良県では建内宿禰の墓を滅却せりという。これも記載制図|了《おわ》りたる上その必用ありて滅却されたらんには、左まで惜しむべきことにあらず。何のわけもなく、何のかたつけものこさずに滅却せしを、小生ははなはだ惜しみ候。
 植物なども、平地の植物はただ神森にのみ生を聊しおるに候。しかるに、合祀滅却のためすでに絶滅せしもの多く、たとえばバクチノキと申すものは、半熱帯の九州地方に特産するなり。本州にはこの田辺辺に沿海の地に少々あるのみ。しかるに、神社滅却のためこの木はこの辺で見ることならず、止むを得ず加賀まで(植物園に栽え移しあるなり)見に往きし人あり。ようやく一本開花結実するものを小生見出だせしも、その社はすでに合祀されたれば、本州にてこの地にのみ特産のこの木は今明年中に全滅し、後世この木は日本で九州のみに産すと伝うるに至らん。この類、嘆ずべきことはなはだ多し。さて合祀の益とては、無智無頼の巫祝(『和名抄』に乞盗類に入れたるの至当たるを証すべき)の月給を上げて尸位《しい》素餐せしむるに過ぎず。いずれ徳川侯へ呈すべき書は、一通はまた貴下へ呈すべき間、御細読願い上げ候。
 御話のわが国にジプシーごときものありし例は、大江匡房の『傀儡子記』にて十分分かり申し候。決してただの遊女には無之候。仏国などにて、中古ジプシー様のもの来たり ribauds という一群をなし、諸種のまやかし(詐術)をやらかし、また軍陣に随い、妻、娘を軍士の婬事に供し、はなはだしきは長吏 le rois des ribauds までありしなり。このことまた御入用ならば、ひき出し写し差し上ぐべく候。美濃ごとき、曠野多く「水草を追いて」移住し得る地に多かりしものと見え申し候。塚のことも貴説に感服罷りあり候。塚より出ずるうちには、今日とてもできぬ精巧の器(44)物多く候。これをば蛮夷蒙昧の民のみの塚とするは、はなはだこじつけならん。
 榎の説は、今月末に一覧、なにか註し添え返上すべく候。
 またわが国に道教が不成文にして古く行なわれたる説も、貴下が始めてのことと仰感し奉り候。それにつき申し上ぐるは、『南留別志』に豹をナカツカミと訓するはいかなることやらん、と疑えり。小生思うには、かの豹尾神を中つ神とする等のことより起こりたるにはなきか。
 欧米各国みな Folk-lore Society あり。英国には G.T.Gomme もっともこのことに尽瘁し、以為《おもえら》く、里俗、古譚はみな事実に基づけり、筆にせし史書は区域限りあり、僻説強牽の言多し、里俗、古譚はことごとく今を去ること遠き世に造り出されしものなれば、史書に見る能わざる史蹟を見るべし、と。その著書多般なれど、みな里俗、古譚によって英国人民発達の蹟を考えたるなり。今年始の慶賀に、今皇、特にその功を賞し、男爵を授けたり。小生自身は従来ハーバート・スペンセルや福沢氏の説を固守し、何の学会にも属せざるも(ただし英国にありしとき考古学会、人類学会等へは特別に招待され、出席毎々なりし)、わが国にも何とか Folk-lore 会の設立ありたきなり。また雑誌御発行ならば英国の‘Notes and Queries’(『大英類典』に評して、もっとも古くつづく雑誌の随一とせり。近日まで今年死せしチャーレス・ジルク男、持主にて、みずからも時々書かれたり。小生はキリスト教の Wandering Jew が仏経の賓頭廬《びんずる》の訛伝ならんとの説を出してより、特別寄書家として百余篇の論文を出せり)ごときものとし、文学、考古学、里俗学の範囲において、各人の随筆と問と答を精選して出すこととしたら、はなはだ面白かるべしと思う。世界に有名の雑誌なれば、東京図書館にも一本はあるべし。この通りのもの出したら、大いにはやることと存じ申され候。
 小生、『黄表紙百種』(博文館で出せし「続帝国文庫」第三四編にあり)、「浮世|操《あやつり》九|面《めん》十|面《めん》」を見るに、西の宮三郎兵衛という町人、エビスの面を冒《かぶ》り、番頭黒兵衛大黒の面を被り、手代鬼助鬼の面を被りなど、種々の仮面の名を(45)列なるうちに、三郎兵衛の妻はふだん山の神の面を被り、時々暴れまわる、云々、この時山の神|杓子《しやくし》を持って大いにあばれる.ゆえ、今の世に十二神楽の山の神は杓子を持って騒ぐ、云々、とあり。山の神の面とは如何様《いかよう》のものにや。また十二神楽とは何ごとぞ。山神杓子とは霊芝《まんねんたけ》を左様に呼ぶ所あり。たしか蘭山の『本草啓蒙』に出でたり。熊野にては、蘭科の腐生植物ツチアケビ(山珊瑚)をヤマノカミノシャクジョウと申す(『和漢三才図会』山草類の終りにちょっと図説あり)。那智にて村人に聞きしは、この草異霊あり、人これを見出だし即時採らず、村に帰り他人に語り往き見れば、そこにもはやこの草なく、はるかに飛び移りて生えあり、と。疝気などの薬になるとて、かいに来るなり。
 また「山の神の小便《しようべん》」と熊野でいうは、イボタ?が自然にでき、葛などにかかり滝の流下するごとき美なるものなり。また山婆の髪というは、長き髪のようなもの木より下垂し、黒色なり。小生これを検せしに、マラスミウスという菌の不完全に発生したるものなり。時としては完全に発生し、傘を付けたるもあり。
 前日申し上げし大津絵「ストトンコロリと渡るのは」の次は、その道の名人に聞き正せしに「日本橋」と結ぶので、矢倉橋にはあらざる由。故に、この「ストトンコロリ」はあながち太鼓の音を摸せるにあらずと存ぜられ候。このこと正誤致し置き候。
 なんとかの犬毛人とかいう人の墓より出でし銘、このたび国宝になり候由。この人の名は『続日本紀』にありとか。しかし、名があるのみで、何ごとをなし何《いか》なる功ありし人か分からず。これを国宝とするは、主としてそのころの制度を調ぶる確証となるによることに候。只今史蹟保存、史蹟保存というは、頼朝の墓とか太閤の生れ地とか名ある人の故址と存ぜられ候。それも保存必要あり、さりながら、それよりもはるかに必要なるはわが国の世態変遷、建国の由来、古きを証する諸時代の社会一汎の風俗を視るべき古跡に候。これを保存する第一着に必用なるは、都会で二、三百年以来立ちしとかわり、ずんと昔より存する社寺に御座候。
(46) 神社合祀のために諸社滅却されて什宝紛失し、昨今当県庁にて県志編纂の主任たる内村義城氏など公然新聞に投書し、本県の神社合祀は、九州で大友、有馬が外教を信ずるのあまり一切の古えを覩るべき旧跡、神社を破損し悉《つく》して、今日いかにするも古史を探るべき手がかりなきに及べるに等しき濫法の行為と述べられおり候。今月の『日本及日本人』(発売禁止)に、河東碧梧桐が小生との対談を長々と載せたる中に見えたるごとく、かかる不法極まることを挙行して、さて和歌山県から六人すなわち最多数の大逆徒を出したるを彼是《かれこれ》いうは、酒手を与えながら車夫の乱酔を咎むるものというべし。(新宮にては、神武天皇を祀れる渡御前社を第一に大急ぎで、内務省より訓令出でて合祀を取り締まる前に破却し、公売して大利を得たり、と誇る人あり。これ取りも直さず大逆を教えるものなり。)
 小生、昨冬安堵峰でモミラン(寒中に花さき実、愛すべき青白花、紅点あり)と称する希有の樹生蘭をとれり。大学の牧野富太郎氏に送りしに、非常の珍物なりとてなお多く求めらる。小生、梅雨すんだらまた兵生《ひようぜ》へこの菌とりにゆく。その節いろいろ山男等のこときき正し、一々ひかえ申し上ぐべく候。
 この蘭は入用なら、木下氏へも送り申し上ぐべく候。ついでに聞き下されたく候。東京ではきっと育つ。
 明治四十四年六月十二日
                          南方熊楠
   柳田国男様
 
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 拝啓。前刻差し上げ候状に申しのこせしゆえ申し上げ候は、貴下のわが国の山男は主として人間の野生するものなりとの説の強固なる一柱は、外邦とちがい本邦の山男の話に一として尾あることをいえるものなきにあり。(アフリカ黒人間には山男同然に畏れられしニャムニャム人など、尾ありといえり。このほか欧州人が諸国の山男ごときもの(47)を記せるに尾ある話多し。支那の狒々も明白に「毛は?猴《びこう》に似て尾あり」といえり。)しかし、日本にも野人尾ある説全くなきにあらず、『日本紀』か『古事記』か、また某国の『風土記』か忘れたり、神武天皇(?)尾ある神人、岩より出入するに光ありしを見しということ、たしかにありし。これは貴下も御承知のことと存じ候。
 小生在英の少し先に(明治十五年ころより二十年ころまで)、欧州の見世物場で非常に有名なりし嬢《ミツス》クララは、写真今もあり、毛多き女児にて尾ありし。安南辺の蛮民山居するものの夫婦を逐いしに、逐われながらこの子を遺し去りしなり。されば、支那の書に?《りよう》とか?《よう》とか、かの辺に尾ある野民の話多きも、全くうそにあらじという人多かりし。また貴下願わくは山男を原始の人間とのみ見ることなかれ。古え経済上の準備不整なる世には、通常の人間なりとも飢荒等にて山居野処し、社会と距りすまば、堕落して二、三代の後には純然たる山男となりし例は多からん。小生在英のころ、仏国にて一島へ男女数対まるで野居し、数十年の後いかがなりゆくかを験せんとせし一挙ありしが、タバコを携帯したるを非常にその主意、宣言にそむくとて異論起これり。そのこと果たして行なわれたるや知らず候。
 明治四十四年六月十二日
                          南方熊楠
   柳田国男様
 
          10
 
 拝啓。御状拝見。御望みに任せ、『牟婁新報』のうち満足に話のつづきおり候分のみ昨夜撰出し、三十一枚新聞郵便一封として差し立て、別に小生罰金喰いし分二枚は書状として差し上げ候。この罰金の分はその筋へ没収相成り候ゆえ、わずか二枚ずつしか手許になきを一枚ずつ差し上げ候。警察官、小生の乱妨《らんぼう》にあきれおる狂画の出板などもあり、この他にも雑言ごときこと多く書き候えども、貴下らの御目に触るるべきものにあらざれば差し上げず候。まず(48)は右の『新報』にて、いかにこの県下の神社合祀より人気悪きか、官民共に奸詐百出するかを御覧下されたく候。しかして、最近小生貴下に差し上ぐべき鬼市のことしらべおるうち、ふと虫のしらせにや、闘鶏社(田辺権現すなわち湛増別当が神前で白赤の鶏を闘わせしと申す地。湛増の正統は湛英と申し、小生妻の妹の聟の兄に候。三、四代前までは京都の公家より妻を娶り候)へちょっと遊びに行き候ところ、三百年以上の古樟、実に健康状態にありしものを根から掘り、砕片となし樟脳を作りおり、よってその筋に抗議候も跡の祭り、右は老朽木として見分相済み、前々月中に伐採を許可せしという。はなはだしき不都合と存じ、いろいろ取り調べ候ところ、今二本、二百年ばかりの樟、少しも朽ちたる点なきをもすでに伐採許可、同じく老朽木とし有之《これあり》、よって抗議し、かの詐偽輩大いにおそれ入り候。委細は昨夜差し上げ候『新報』にて御覧下されたく候。こんなことゆえ東京辺でどんなよき法律が出たところが、田舎には何の効も無之候。小生の悪口も止むを得ざる義と御了解下されたく候。
 今夜承るに、右の『新報』は今朝発行配布せしものなるに、件《くだん》の詐偽申立をなし老樟を切り候張本人(非常に吝嗇な人にて、右の社の世話人、富有の人なり)、昨夜にわかに心臓症を発し危篤となりしも、命はとりとめたが中風となりおる由。今日、その孫六、七歳のもの他人につれられ、祖父の薬取りに行くを小生見及び候。本人は悪《にく》まれものながら児孫は憐れむべし、神罰などいうこと、あるかなきか知れず。しかし、あるとしても差し閊《つか》えなき限りは、あまりに迷信迷信迷信と神木を伐ることをまで恐れぬように世間を開け切らしむるも如何あるべきやと疑われ申し候。皇家に対し奉り億兆が一心忠勤なるも、つまるところはこの神罰をおそれかしこむの念に外ならずと存ぜられ候。つまり合祀励行以来、小生ごとき神仏を拝せず科学のみ修め来たりしものが、反って古いことをさえずり一種の御幣をかつぎまわり、神で糊口する神官、祠職、宮世話人、氏子総代等が一切神を怖るるを迷信と卑瞥する、さかさまの世と相成りたるに候。
 他国人に触れ、また他国人その境に入れば病を生ずるという例は、『目本紀』の孝徳帝、大化の改革の詔に見えた(49)る、諸国に旅人病みなどせしとき祓除を科し、非常の迷惑を加え、また粛慎人敦賀(角鹿)の津へ到着せしを、その地の神はなはだ厭悪し、村人に祟り病をなし、また『古今著聞集』にも伊豆国へ外夷到着せしみぎり同様のことありしなど、みなその例と存じ申され候。
 この山には、梅雨ごろに一切の虫に特様の寄生菌を生じ、冬虫夏草を多く生ず。千態万状、植物学上から見ても種数おびただし。それもこの濫伐にてほとんど全滅せり。
 右のクラガリ山には、三、四年前まで、ツルコウジと申す植物満山に繁衍し、また件《くだん》の老樟の下にヌリバシと申す風雅なる羊歯多く生ぜり。『大学標品目録』には前者の産地日向高鍋一ヵ所を挙げたり。松村教授の『植物名鑑』には、後者の産地に紀州(那智山)、伊勢鈴鹿山、肥前武雄の三処のみ挙げたり。かかる深山産のものが、この海岸低丘、しかもわずか二間四方の地に数百千年残存し来たりしを、この回の濫伐で全滅し、その上神社内の池に水を供給し来たれる清泉が全く跡形を失いたるに候。『続風土記』などを見ると何のわけもなく神社の名のみ列しある宮々も、実際はなかなか大きく、それぞれ異様の祭式、文書、古物、俚伝を付属し伝え来たりたるもの多し。それらが一切今度の合祀励行のため失われ、もしくは雑揉して調査の手のつかぬこととなりおわりたるに候。ちょうど右の些々ながら学術上趣味ある小植物が失われたると同様にて、かまわぬことといわばそれまで、また学術上の必要件といわば限りもなく必要件なる里伝が失われおわり、または失われおわらんとしつつあるに候。以上。
  小生なにか満足なものを差し上げたしと捜し候も、まじめなものはいずれも外国で出したもので一本ずつしか手許に無之、邦文で出したものは十の九みな滑稽詼謔のものに御座候。
  〔「この山」とあるは田辺闘鶏神社の境内の山をいう。また、クラガリ山はクラガリ谷にて、同神社の本殿に向かって少し左手(50)の神社の背後の山をいう。ここに、この書翰にいう大楠樹あり、ツルコウジ、ヌリバシ等繁茂しありしなり。(雑賀貞次郎)〕
 明治四十四年六月十八日夜                                            南方熊楠拝
   柳田国男様
 
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 拝啓。六月二十一日付芳翰拝読仕り候。小生は目下梅雨の候菌類の検査に多忙を極めあり。『牟婁新報』は貴方へ差し上げたるものに候ゆえ御返し下さるに及ばず。別に「田辺随筆」と題し、滑稽など入れぬまじめな文を『大阪毎日』へ投じ、日曜の同紙を埋むべしとの約なりしが、障ることありてぐずぐずするを取り返し、『和歌山新報』へ続載しおり、貴方へ送るべきようその新報社へ申し遣りしが、果たして着き候や御知らせ下されたく候。もし全部着せず、もしくは不着の分あらば、その旨御申し越し下されたく、小生手許にあるものを全部または不着の補充に送り申し上ぐべく候。『考古学雑誌』その他はみな安着仕り候。小生、上述のごとく菌学多忙、また先日の榎のこと、木地屋のこと、および『太陽』の御文を拝見、一々順序立ててなにか註加申し上ぐべく存じおり候間、今後は当分何も御送り下さらぬよう願い上げ候。「麒麟考」は『東洋学芸雑誌』で見及び、一論を草せんとかかり候ところ、梵語を調べる必要あり、所蔵『梵語大字典』は郵便にては重さ過量、和歌山より取り寄すること成らず、よつて京都大学の榊亮三郎氏へ聞き合わせ中に有之、そのうち一文を草し、貴下へ差し上ぐべく候。また考古学会へ入会のことは、小生は生来酒は無類に好き、
  『大阪毎日』去年七月十六−二二日、「出て来た歟《か》」と題し、福本日南小生の伝を書きたる中に、相違のことも多少あるが、酒のことばかりは全く事実に候。ロンドンにて大酔の即興、
(51)    飲む人も飲まるる酒と諸共に如露如小便応作如是観《によろによしようべんおうさによぜかん》
  などは、われながらよく読んだりと自讃|太《はなはだ》し。
女は全く縁なく(四十の年に始めて今の妻を迎え一交すなわち孕むで男子あり、蟇六と名づく)、また学会に入るのと学位を受けること大嫌いで、学校もそれがため止め申し候。しかし、すでに加入の旨記名されたら致し方なく、もし今に雑誌で公けにしてない方なら、何とぞ右の加入は御取り消し下されたく候。これは人に疵をつくるようなものに御座候。
 雑誌は小生入用の分、貴下より借覧すれば足れり。小生、和歌山に蔵庫に一ぱいの古器、珍物、書籍あり、実に心配なものなり。当地にもために一屋を立て八畳敷なるが、また一盃の書籍と標品あり。身を容るる処なく縁先で人と話すなり。(五月初の発売禁止『日本及日本人』に碧梧桐詳載せり。)今度また『大英類典』第一一板、大冊二十八冊着の報あり。これを容るればもはや歩む所もなきに候。そんなことゆえ、なるべく雑誌などのうち、おのれに関せぬものを一冊もほしからぬに候。
 「兵生物語」は小生書きたるが、植物学上のこと多く、彩色入りの密画も多く、これを除き去ればなんでもなき日記のようなものになり、到底出板の価値なく、わずかに一本を写し兵生の豪家で小生を客舎しくれし人の方に留め置き候。しかし近日梅雨すまばまた行き、今度は今少し念を入れて、せめて貴下の『遠野物語』ほど事項多く集むべく候。
 意見書は肝心のこれに挿入すべき写真を銅板にせんと、今月一日牟婁新報社主毛利|清雅《せいが》より、当地の泉《いずみ》治平と申す写真開業人の手を経て、五円五十銭ばかり副え為替にして、東京九段坂下俎橋多屋勝四郎と申す周旋人へ頼み、二週間ばかりで出来上がる予定にて銅板製造所へ頼みもらい候ところ、銅板も送り越さず、またいかに多屋氏を催促するも写真も金子《きんす》も返し来たらず。この人は当地の大富人の子なれば金子等のことは心配なきも、写真も返らず鋼板もできぬはこまりおり候。貴下|件《くだん》の俎橋辺御通行の節、多屋氏へ御立ち寄り、一体毛利氏より頼みし鋼板は如何なりしや(52)と御督促の上、もし銅板できずとのことなら、金子のことは別と致し、とにかく写真貴方へ御引き上げ下さらずや。写真のうちには当方にひかえあるもあり、また一切代りなきもあり、銅板にならぬものなら貴下より写真の名目を通知下され、当分貴方へ置き、小生右の写真の名目を本として論文を作り、貴方へ差し上げ、貴方より徳川頼倫侯へ送られたきに候。写真はたしかに覚えねど、たしか八枚ばかりと存じ候。
 この多屋という人は、小生も知人にてはなはだよき人なり。しかるに、この人の妻の父が楠見節《くすみせつ》とて当西牟婁郡長で、その神社合祀の方法はなはだ残酷なるより、小生は新聞にてこの人を攻撃せしこと多し、『新報』にて御覧の通りなり。また小生も、この人と相良歩と申す加賀出身の県参事官内務部長のために、未決に入れられたるなり。そんなことにて小生は久しく多屋氏とは信を絶ちおり、毛利より東京の銅板所へ直ちに頼みくれることと思いおりしところ、毛利より泉、泉より多屋、多屋より名前の知れぬ銅板所へ頼んだことと存ぜられ候。
 小生少し落ちつき候わば、なにか貴問に応じ、かの新安の手簡のように御応対申したきに候。目前現行の雑誌や新聞へ出すために書くものには、到底深秘ごく内々のことは書き得ず候。後世を期して肝胆を吐くようのことは到底世間立った文書には露わし得ず候。もしこれを強いてなすときは、「その人、おのれを利し、われを立てて」、また名聞を求むるように見え、見苦しき限りと存ぜられ候。
 小生、往年ロンドンにて一日一食して読書陋巷にありしとき、土宜法竜師(只今仁和寺門跡)パリ・ギメー館にあり、仏教その他宗教のことにつき往復せし文書すこぶる多く、小生より贈りし書翰は一切箱に入れ、栂尾護国寺に蔵しある由に候(長さ三間ばかりの長き細文字の状もあるなり)。これを右の毛利と申すもの、去年内々取り出し出板せんとせしを、法竜師よりの問合せに驚き、小生止めたことあり。とにかく世間に知らるるを期して書く文書には、深きことは書きおおせられぬものに候。小生は件の土宜師への状を認むるためには、一状に昼夜兼ねて眠りを省き二週間もかかりしことあり。何を書いたか今は覚えねど、これがために自分の学問、灼然と上進せしを記臆しおり候。
(53) 小生取って置きの「燕石考」と申すものあり。ずいぶん内外知人間には名高きものにて、(先日、陛下へジキンスより小村伯を経て呈上せし『日本古文』(‘Primaral Texts of Japan’,オクスフォールド出板)にも、この「燕石考」を引き、その出板を望む由記されあり。明治三十二年ごろ、ローマの東洋学大会でジキンス(前ロンドン大学総長)、小生のために代読のはずのところ、喉に病気を生じ出席せず、止めとなり、そのまま今におきあり。写真図を入るる入れぬの相談にて毎度議|協《ととの》わず、今に何にも出さず罷りあり候。『竹取物語』に、燕巣中の子安貝を得ればかぐや姫その人の妻たらん、と言いしことあり。米のロングフェローの詩にも、燕巣中の石を得れば幸あり、ということあり。ローマのプリニウスの『博物史』に、燕一種の石をもってその子の眼を開く、ということあり。英、独等の俚談に、クサノオウという草の汁、燕の子の眼を開くに用いらる、という。ノルウェー等の俚話に燕が持ち来る石は人の眼を明らかにすといい、支那の『本草』に石燕という介化石、眼を明らかにすという。それからこれに関係ある郎君子《すがい》の黶《へた》を媚藥とすることあり。(わが邦にも熊野比丘尼、スガイのヘタを諸国へ売れり。何に使いしということ知れず。小生これを考え出だせり。)これらの一件を総括せし考なり。どちらかというと、考古学会よりは人類学会または動物学会向きのものと思う。もし考古学会へ出しくるること必定なら、翻訳して差し上ぐるが、考古学会は主として古蹟、遺物によるとありて、怪談、俗伝を探るとは見えぬから、不相応かとも思う。
 悪《にく》まれ口をきくように候えども、考古学会うらの表紙の題号 Archaeological は Antiquarian とする方正確なり。また貴下の論文の題号 Geographical Name は Topographical Name,あるいはまだ一層適せるは Local Name,この方宜し。右、早々以上。
 明治四十四年六月二十五日午後五時
                        南方熊楠拝
   柳田国男様
 
(54)          12
 
 明治四十四年六月二十五日夜〔葉書〕
 拝呈。先刻状にて申し上げ候。多屋勝四郎氏へ写真とり返しに行くこと御頼み申し上げ置き候ところ、それにては反って証拠物とか何とか事むつかしく相成るも知れず。御面倒のことと存じ候につき、直ちに小生より督促状を出し、銅板いまだ出来上がりおらずば、小生へ多屋氏より直ちに金子と写真と返しくれるよう申し遣わし置き候間、左御承知下されたく、貴下みずから右とり返しに行き下さるるに及ばずと御承知願い上げ奉り候。
 右様のことにておいおい延引、とてもちょっと意見書はできまじく、もっとも出来上がり次第、貴下東京に御不在なりとも一本差し上ぐべく候。敬具。
 
          13
 
 葉書先刻出し置けり。それに申し上げ候ごとく、前刻出せし状に申し上げ候多屋勝四郎へは、小生より直ちに書留にて催促状出し置き候間、貴下より御督促下さるるに及ばず候。封入の小文は、一昨年オランダアーンヘム市にて出し候、オランダの‘Notes and Queries’へ三田の蘭国公使館書記ステッセル博士より頼まれ寄贈候ものの別刊に候。この雑誌はわずか八ヵ月ほど続き廃刊仕り候。珍しきものにつき後日の記念に貯え置き候を差し上げ候。小生は海外にてもっとも多く雑誌へ書きたる邦人の一人に候えども、別刊をもらいながらいずれも尻ふきしまい、残りしはこの小片のみに有之候。
 『和漢三才図会』巻六八、越中の条(終りに近く)、「安計呂《あけろの》山、越中越後の堺川の奥山なり。相伝えていう、むかし山姥あってこの山に棲む。古木の榎《えのき》あり、これすなわち携《つ》きしところの杖なり、と」。多少山の神の錫杖に縁あるこ
(55)とゆえ書き付け申し上げ候。小生いまだ貴下の榎の説を見ず、たぶんこれに載りあることと存じ申し候。
 小生いまだ読まねど、『考古学雑誌』地蔵木の条に、貴下、地蔵は支那にて作りし名のごとく記しありしと存じ候。地蔵すでにクチチガルバなる梵名あり、インドのものに相違なし。二十五菩薩中の無辺身菩薩は地蔵のことなりという。また梵教のヤマ天の乗る獣と、仏教の地蔵の騎る獣(金眼獣とかいう)と似たることあり。小生は地蔵は梵教の閻魔《ヤマ》より仏教の地蔵出でしものと思う。泰山府君は「胎蔵曼陀羅」に入れり、閻魔とは別にしあり。
 拙妻の父(三年前死せり)は当地闘鶏社の社司にて、俚談の活き字書ともいうべき人なりしが、故ありて小生と中違《なかたが》いし好く交際せず、そのままで死せしは遺憾なり。しかし、そのおかげで妻はいろいろの故事、瑣談を多く知る。昨日布を織り終わり、図のごとく織り始めのわらで結びし所を切り、小児に示すを聞くに、荒神サマノフンドシという。よって故を問うに、竈辺の荒神の龕にこの布片を結びつけささげる由に候。
 巫が娼を兼ぬることについては、小生はなはだ多くしらべ上げたるものあり。しかし、到底公刊することは成るまじと存じ候。貴下の説出ずるをまち、書翰にて詳しく申し上ぐべく候。東欧また西亜およびエジプトには男巫が男娼を兼ねしことはなはだ多し。『丹鉛総録』などによれば、漢文帝の時に支那にもこのことありしようなり。わが国には一向聞かず候。(ただし、ずつと後世、神社にも神主が嬖童を蓄えしことあるも、男色を神社で売りしこと見えず。)貴下もし前日申し上げし『奇異雑談』および『飛驛の匠物語』の図板よき旧板本、市で御見当たりあらば、代価聞き御申し越し下されたく候。前者は小生入用、後者はロンドンで出板するに候。
 右ちょっと申し上げ候。早々敬具。
 明治四十四年六月二十五日夜十時
                        南方熊楠拝
(56)   柳田国男様
 
          14
 
 今夜刷り上がりたる『牟婁新報』(明日発行)一枚、五厘印紙がないから、惜しい物だが国庫へ二銭五厘奉納とあきらめ、三銭の印紙貼し夜半に忙いで郵便局へ出しに行き候(六町ばかりある)。その『新報』第三面に見えたる阿田和《あたわ》の神樟は小生も知りおり、非常の偉観なるにこのたび伐らるるなり。老樹保存案の通過せる今日、かかる大樹を伐るは不思儀のことと存ぜられ候。貴下何とぞさつそく白井博士になり御相談、また徳川頼倫侯にでも通知し(麻布飯倉町に邸あり)、この伐採止むよう御取計い下さらずや。熊野はその植物帯半熟帯地のことゆえ、古来神社に樟あり、これを神体とし来たりたるに候て、これを伐るは何となく神の威厳を損じ候。現に植物崇拝を嫌うキリスト教の、しかも新教国たる英国でも、寺院の古|水松《いちい》yew《ユー》樹を伐るを禁じ、これを神聖視し、全英国の寺院の「水松譜」さえあり候。件《くだん》の阿田和の大樟樹は実に実に大なるものに候。(このこと通知し救済を乞いに来たりし人は、熱心なるキリスト教信者にて財産ある人に候。)かの辺の川に古えあの岸からこの岸まで蓋いし大柳樹ありしという俚伝を思い合わせて、「音にきく熊野?樟日の大神も柳の蔭を頼むばかりぞ」。
 明治四十四年六月二十六日夜十二時半
                         南方熊楠
 
   柳田国男様
 
          15
 
 二十七日の消印ある葉書、正に拝見仕り候。『和歌山新報』は、小生よりたしかに随筆出で候分、急いで貴下へ送れ(57)と申しやること毎度にて、その都度送り込みたる旨回答あるに、(十)出たる分一度しか着せぬ由。また小生方へも毎度脱漏がちに有之、和歌山市は小生生まれたる所ながら利慾もっともはなはだしき地にて、小生は帰省せずに当地に罷りあり候。右様のことにてはなはだ不面目、よって随筆を『和歌山新報』へ出すこと謝絶致し候。小生方に残りおり候もの、随筆一より三までをみずから写し取り、さて一より九まで送り申し上げ候。十、十一、十二まで小生方にあり候も、貴方へは如何。もし十一、十二も貴方へ今に着せずば御申し越し下されたく、小生より送り申し上ぐべく候。多屋氏方の鋼板は一昨日でき、送り来たり候。小生只今菌を採集の好時期にて絵をかく等に大多忙なり。故にこの時期すみ候わば、例の意見書写し候間、そえて御目にかくべく候。「燕石考」は七年前までかき加えつづけしが、その後捨て置けり。故に出すならその後得たる智識を書き加えざるべからず。しかし、果たして必ず出しくるるべき会長、会幹等の決心ありや。それを承り置かねは長々しきものを訳出し、さて引用書目(ラテン、梵語等諸種の語あるゆえ、小生みずから校字せざるべからず)を正しく写し、また刊する等ちょっと七面倒に有之。もしせっかく訳し写した上、出してくれぬとすればそれだけ小生の徒労となる。如何の儀に候べき。
 小生の会員名は必ず削り下されたく候。
 随筆(一)白蟻の条に、『蝶花形』の浄瑠璃、久吉《ひさよし》の語、「蟻の息さえ天上すれば、男は気で食らえ」。これも白蟻のことを言いしというを脱せり。『東京朝日』前月二十二、二十三に、写真入りで当地辺神社合祀の惨状出であり、これは小生の原稿に候。
 明治四十四年六月三十日午後二時半
                         南方熊楠拝
   柳田国男様
 
(58)          16
 
 拝啓。貴下越前に趣《おもむ》かるるの報ありてより、小生方へ最近版の『大英類典』および希覯の諸書多く和歌山へ着、風波のため到達遅延、それこれ凝滞を生ぜしがついに受け取り候。その前より小生、神社のことおよび「燕石考」を出さんと、当地に蔵する書を一切題号を分かって抄出するついでに、貴下、御尋問の諸項「榎木のこと」「生石のこと」「木師職のこと」等を大なる紙に題を分かち書し、一々出処を印《しる》し原文をそのまま抜記し、小生の意見を添えず、とにかく材料を多く差し上げんと大抵印しつけおわり、第一番には地蔵は新羅の僧というその本文(『宋高僧伝』にあり)を全記しおり候うち、また一大危急の厄難起こり申し候。
  那智山は御蔭をもって伐採は止み(牧野富太郎氏も大磯別荘に徳川頼倫侯を訪われ、このことを議しくれ候)、それより大騒擾となり、津田長四郎と申す張本人、伐採を禁ぜられた上は訴訟入費の取り返しようなしとて、夫須美神社(すなわち那智神社)を差し押えんとせしより事起こり、当地より検事出張、巡査刑事八人にて家宅取り巻き、書類一切押収す。新宮の豪商二、三人連罪にて拘引、新宮中大さわぎ最中なり。また三重県引作神社の大樟も、知事より伐木さし止め、村民より礼申し来たり候。
 そは封入の『牟婁新報』(『大阪朝日新聞』本月五日分にも出ず)通り、当国第一の珍植物多き神島《かしま》(西牟婁郡新庄村大字|鳥巣《とりのす》の沿海の小島、周囲五町ばかり)は、昨年九月濫伐せんとせしを、小生どもおよび鳥巣および田辺湾辺の諸漁民一同、魚つきを失うを憂え、県知事へ具申し伐木を止めしに、また客月下旬より下草《したくさ》をとると称し伐木しおり、よって小生より郡役所へかけあい、郡役所より吏を派ししらべしに、小学校建築の用途に充つるとて、下草を昨年冬(十一月ごろ)同村大字|跡浦《あとのうら》の民に三百円にて売り渡しおわり、銭はすでに受け取り、昨年中|遣《つか》いおわれりとのこと。小島の下草などにとても三百円の価値あるはずなければ実は怪しきことと、小生人を派し見せしめしに、大分大きな(59)る木を伐りおり候。委細は封入の新聞(『牟婁』及び『朝日』)にて御覧下されたく候。
 この島には、本邦にこの島ばかりと称する彎珠《わんじゆ》あり(斎藤拙堂の記行にも見え候)。また、ようやく客月三十日東京発状にて牧野富太郎氏より通知ありたるキシュウスゲのごときは、最初、松村任三氏当国黒島で発見せしも、その標品は海外へ贈り去られ、大学にも標品なく、松村先生目身も、その『植物名鑑』にこれを九州の薩摩莎《さつますげ》と同一品と見なしおりたるを(黒島には絶滅)、小生四年前、件の神島で見出だし、今度牧野氏の調べにて、いよいよサツマスゲと別たることを知るのみならず、一層精確なる標品記載を畢《お》えたるものにて、四年前にはなかなか多かりしも、人民が下草など盗むより、今年春見しに十三、四株しかなし。この他|白人《しろうと》にはちょっといえぬがなかなか珍しきもの多く、小生前日この辺で、塩生の蘚を見出だし候。(世界中で従来一つしかなかりしを、小生の発見で二種となる。)岡村周諦氏の記載で大いに世に著われしに、今春またこの島で塩生の苔(蘚とは※[図有り]図のごとく葉が輪生し、※[図有り]図のごとく瓶子状の実を結ぶ。苔は※[図有り]図のごとく葉が対生し、※[図有り四裂せる果を結ぶ)を二種まで見出だし候。このほか実に世界に奇特希有のもの多く、昨今各国競うて研究発表する植物棲態学 ecoIogy を、熊野で見るべき非常の好模範島なるに、わずかに三百円ぐらいでこの島の下草(実は下木)を除き去り、おいおい例の枯損木を生ずること、上野公園の老杉林のごとく、終《つい》にこの千古斧を入れざりし樹林が滅絶して、十年、二十年後に全く禿山となりおわらんこと、かなしむにあまりあり。
 よって岡村金太郎博士の説に従い、松村任三教授に書を呈せんと欲するも、住処分からず、また今果たして夏休み中に東京にありや否分からず。(岡村氏説には、松村氏にさえ遣わすれば浜尾氏より大臣へいいくれるべしという。しかし、夏休み中のこと、また松村氏は学者にて世事活動を好まぬ人と聞く。)とにかく、小生はそのうち松村、三好学二教授へ植物目録を具して申し出ずべきも、昨今すでに買うたものを切るに何ごとかあらんという勢いにて、新庄村長はわけの分かった人にてなるべくは下草(実は下木)刈りを中止せんとするも、三百円を戻さんという村民一人(60)もなく(植物保存などいうことさっぱり分からぬ者のみなる上、戸数多く富家多き大村なるに、はなはだしく吝嗇なる風俗の村なり)、件《くだん》の珍草木の絶滅は旦夕に迫りおる。例の中村啓次郎(代議士)は不在なり。その他は一向かかることにかまわぬのみか、反対の人も多し。こんなことゆえ、まことに毎々御苦労ながら、貴下、これ小生の私事にあらず、
  小生は顕花植物を研究せず、また嗜好もなし。故に風馬牛で、相及ばずに放置してよきなれども、学術一汎のために見遁すことならぬなり。実は木を伐ってくれ、木を枯らしてくれた方が、小生専門の菌《きのこ》多く生じ、自分の功名多くなるなり。
何とか御奮発の上、右神島を当分なりとも保安林また植物保護林とするよう、御世話さっそく下さらずや。
  仏経に、王者世を治むるに法、非法並び行ない得ということあり。当地の公園は、郡長がコンミッションを得んとして大阪の一私人に売り飛ばしたるを、小生ら苦情高く、人民騒乱せしより、たちまち県知事に申請して保安林とし、買うたもの一万円出し買いながら、借屋立つることもならず、こまりおれり。こんな非法すら人民の大体に益あるときは非法とせず。いわんや今度の神島ごときは下草をとるとて(三百円で買うぐらいゆえ実は下木なり、また実際木を切りおるなり)木をきりちらし、ついに禿山となりおわらんには、この湾内に魚来たらず漁民一同非常に困る。その上希有の植物、世界中にここしか産せざる模範品types多きにおいてをや。
 右、前日の南牟婁郡の大樟などとてもものにならぬと思いおれども、貴下の御世話にて物になりたるなれば、何とぞ渋筆御察読の上、何様《いかよう》にも御世話願いたきことに候なり。小生はなお『朝日新聞』へも出すべきも、同社の知人只今旅行中にて、小生同社の他の人々と不快のことありしゆえ、ちょっと出しくれず、また和歌山の新聞は、貴下へ新聞送らざりしことより事を生じ、いかに降参し来たるも応ぜず、家弟をしてみずから往きて断絶せしめしほどなれば、今さらこちらより兜をぬぎ頼むこともならず、実にこまりおるところに候。しかして小生は夏休みすみ皆々返り来る(61)をたしかめた上、三好、松村諸教授に具情すべく、必ず二氏始め諸学者は十分小生に同情賛成のことと、岡村博士の言にて諸教授も従来も小生に同意とのことなれども、とにかく昨今急を要する場合ゆえ、何分にも御奔走、もし果たして保安林となり得ば、小生安心のため電報(一字にて)下されたく候。保安林となし得ずんば電報に及ばず候。
 神社合祀反対また復社等のことには多少異論者もあれど、右の神島を保安林にすることに反対のものは一人もなく(村長も反対にあらず、ただただ保安林となるにあらずんば、村民が三百円を払い戻さぬゆえ、止むを得ず下木を伐らるるなり。すでに七百貫とか切りたりと村長より承り候。故に決して下草にあらず、下木に候)、小生は右のこと心配にて、衆の耳目みな小生に集まりおり、何も手につかず罷りあり候間、何とぞさつそく御奔走願い上げ候。もし伐られおわるようのことあらば、小生ははなはだ手際の迂なる男と笑わるべく候。
 山男のことは、別方面に大研究を要することを見出だせり。すなわち、狼に養成さるる人間が、たまたま今日もあることなり。その記載、いずれも貴下のいわるる山男のごとし。小生は、これを信ぜぬが、その材料ははなはだ多し。図入りにて小生写しかけおれり。神島のことどうなるとも、それは薄運とあきらめ(実は日本の学者一同の罪なり)、まずこのことを写し抄し差し上ぐべく候。
 右、何分宜しく願い上げ奉り候。
 『大阪朝日』の切抜き見当たらず、同事異文なり。見当たり次第差し上ぐるが、大略は『牟婁新報』で分かる。
 予は今朝、那須という新米の法学士より、木下友三郎氏の伝言を受け取りたり。木下氏も尽力あらんことを望めども、貴下一人にて成ることなら何分早く願う。
 明治四十四年八月六日夜二時(すなわち七日午前二時)
                        南方熊楠拝
   柳田国男様
 
(62)          17
 
 拝啓。那智山事件切逼、また神島のことも然り。
 別封『牟婁新報』七枚進じ候間、何とぞ貴下これを徳川頼倫侯、松村任三氏(白井光太郎氏に聞かば住処分かる)でも宜しく、また誰にでも貴下のもっとも認めて有力とする人に頒ち、救済の方(とて別になく差し当たりは保安林とするにあり、知事へ訓示あらば宜し)を立てられんことを望む。『新報』の記事は権多実少で、実際植物など日本中にさがさばまだこれを産する地あるべきも、とにかくに本州ではこの辺のみが亜熱帯植物を特産すること、分布学上の大材料たるは誰も異論なかるべし。
 小生は前書申し上げしごとく、大英博物館で多年こしらえし抜書集を、かたはしから大英断もて調査するあいだ、小生へ聞かれたき諸題および委細の事項を、なるべく多く書きつけて送らるれば、いっそ大|浚《さら》えついでに、少なくとも一事ずつでも、原文と訳文を書きつけ差し上ぐべく候。
 貴説出た後で加えるよりは、前もって注意申し上げ置く方、はなはだ宜しかるべし。
 小生は日夜見ること聞くこと、いやになり候。よってこの地を方付け、書籍標品を売り払い、妻子に扶持料を遺《のこ》し、海外へ行かんと存じおり候。
 四十四年八月九日
                          南方拝
   柳田君 机下
 前日申し上げ候いし山の神の仮面《めん》は、「帝国文庫」の『黄表紙百種』に出でたり。この書を校せし幸堂得知氏(と存じ候)に通知して、その原本を見ては如何にや。
(63) 大学助手牧野富太郎氏(只今九州へ行き不在)来信によれば、頼倫侯も那智のことは懸念されおる由なり。何とぞ木下氏でも頼み、那智および神島その他のことを申し上げられたく候。
 明治四十四年八月九日夕五時
 
          18
 
 明治四十四年八月十日午後二時
 拝啓。那智山一件は、新宮にて津田長四郎等の奸徒数珠つなぎになり、大騒擾、小生比隣の田村四郎作検事十日ばかり滞在、今に帰宅せず。また小生じき向いの福田権八という裁判所書記、一昨日電報かかり出立、新宮に向かう。なかなかの騒動なり。
 ただし、本日の『大阪毎日』(切り抜き封入)によれば、濫伐はまるで中止せるごとし。故に、まずは安心なり。次に一昨日申し上げし当田辺湾内の神島は、すでに金子を受け取り村役場で昨年中に費やし果たせるをもつて濫伐中のところを、小生村長と会議しなに分《ぶん》と止めさせおれり。何分にも早く保安林になるよう御尽力、徳川侯へも申し上げ下されたく侯。この一事(神島のこと)くれぐれも願い上げ申し候。早く吉報来ずば全島枯損さるるなり。
 次に当県東牟婁郡本宮は全く濫伐しおわり、中古熊野街道の遺跡として見るべきものは実に少なし。ただ西行の歌に名高き八上《やかみ》の王子社あるのみ。これも神林を、例の林野整理の名の下に伐るやの噂絶えず。また只今の本宮参詣道中に熊野林道の面影を忍ばするものとては、拾い子谷八十町あるのみ。これもすでに払い下げとなり、杉、檜等はいずれも皮を剥がれあり、実に残酷なことなり。この辺は松村任三、大久保三郎、三好学氏等が往年採集(熊野上等植物の模範標品帝大にあり)、降って宇井縫蔵発見のキシュウシダ、小生発見の蘚類数十点、菌類、粘菌類等の模範標品多し。幸いに払い下げを受けたる者どもの間に公事起こり、捫択《もんちやく》中ゆえいまだ伐られおらず。また当地近傍稲成村(64)稲荷社の大密林は、小生が十年かかりて発見せる下等植物の模範種標品数百あり。当郡|周参見《すさみ》浦の稲積《いなつみ》島は亜熱帯植物の特産地なるに、神社合祀後大阪の商人等来たり珍草の濫取はなはだし。これらは何とか保安林に編入、また神社も復旧されたきことなり。
 植物のことは君に分からぬから、小生委細を具して松村任三氏に贈らんとす。(博士岡村金太郎氏話に、松村氏は水戸の人にてはなはだ国粋家の由。)しかるに小生は面識なきをもって、何とぞ貴下白井教授にでも頼み、その紹介によりさっそく取りつぎくるべきや。
 また小生は今月末より兵生へ之《ゆ》く。その前にとても満足なことはできぬが、ちょっと大略神社合祀反対論を認め貴下へ送るから、貴下何とか直すべき処を直し(なるべく原文を存して)、七月上旬福本誠氏の紹介で『太陽』記者から植物のことか随筆を求め来たれる懇書ありし、その時小生は雑誌などに通俗のこと書くは大下手だが、柳田氏帰京せばその校閲を経て何か出すべしと言い置きし。それゆえ貴下この旨を『太陽』記者に謀り、必ず出しくるべきや。『日本及日本人』より求め来たる、これとても貴下の校閲を経たし。
 小生、例の通り睡眠することはなはだ少なし。故に夜業として前書申し上げし通り、「燕石考」を増補するついでに、当地に蔵する一切の書および大英博物館で集めし抜書をしらべるから、一浚《ひとさら》えに、この機会を利用し、なるべく多く事実を集めおくり申し上ぐべき間、何なりとも題号、事項多く記し(たとい目前入用のことならずとも)送り越されたく候。しかるときは、小生むしむしと写しとり、徐かに時々送り申し上ぐべく候。
 貴下、もし七難のそそ毛のこと書くなら、前もって申し越されたく候。小生は少々ながら集め置きたること等、書き抜き申し上ぐべく候。
 福本日南と近ごろ応酬の和歌および都々逸、和歌山の新聞社より送り申し上げしや。
 右述、神島のこと何分宜しく御頼み申し上げ候。実に海外の学者までも惜しむことに御座候。
(65)                     南方熊楠拝
   柳田国男様
 当地にえたを多く見る医師あり。その話に、特に毛長き等のことなし、また土器毛《かわらけ》もありとのことなり。故に一概に言えず。ただし、七難とは貴説のごとく七難|祓《はら》いというようなことをせし巫の名にて、その巫は毛長きを尊びしならん。故に、武州にも大和にも竹生島にも、諸処にその毛あるなり。
 
 『大阪毎日新聞』切抜き写し
  那智山林払下問題落着(和歌山)
 和歌山県東牟婁郡那智山に接続する官有林約二千余町歩は、同郡色川、高池、小川、那智、上太田の各町村民より払い下げ申請中、ついに行政裁判沙汰となりしが、このほどついに村民の勝訴に帰し、いよいよ同村民は同官有林を伐採して、これを前記各町村の基本財産とするに一決したり。しかるに、元来同付近には有名なる那智滝および夫須美神社あり。同林を伐採する時は那智の滝の水源を涸渇せしめ、夫須美神社の風致を害することおびただしきをもつて、同社神官および関係者は大いにこれに反対し、県下の大問題となりたるより、知事も捨て置かれず、このほど同所を巡視したる結果、同官有林を保安林に編入することに決し、その筋に対し編入の手続をなしたれど、村民はこれを聞き入るる模様なきより、同知事は八日村民の代表者を官邸に召集し訓諭するところあり。村民もついに同知事の意見に賛成し、ここに同問題は無事落着を告げたり。
 
          19
 
 明治四十四年八月十二日正午書始め
(66) 只今貴翰拝誦。直ちに毛利清雅氏へ状を出し、なるべく県庁へ申達を誰かに頼むよう申し遣わし置き候が、この毛利氏は大逆事件の調査書中にも出でたるごとく注意人物にて、ことには知事、相良とは大敵なれば、どーなることか分からず。
 これは新宮の社家人の子で、幼少より真言僧となり、壮年ならぬに、当地の大刹高山寺(弘法大師みずから開けりという)の住職たり。往年、土宜法竜師、オクスフォールドにマクス・ミュラーを訪ねしとき、大乗仏法の精査のため真言僧を聘せんとせしに、土宜師、毛利をもってその任に擬したることにて、東京にても田中正造鉱山毒害一件の時など有数の弁舌家なり。しかし、仏学のことはあまり詳しからず。世才に長《た》けたる男にて、清棲伯知事たりしとき悪口を書き禁獄、それより僧籍を脱し新聞出しおる。相良など毎々公席宴坐で面折せられ、また川村知事も面《まのあた》り咎められたり。何ともならぬ坊主上りなり。故に、まずはこんな人の言論は当県庁へは通らず。また?《とう》や慾いずくんぞ剛を得んで、生活上から『新報』を利用して金を集むることなどあり。決して法律上の罪にはあらざるも、正義正義と口ぐせにいう人として、小生はその人を蔑卑し、近ごろあまり親交せず。
 とにかく、貴下はなはだ恐れ入るが、小生ごとき沈重な文では間に合わず、貴下小生の状の大意を総括して新聞切抜きに併せ、松村瞭氏(瞭氏の名は『人類学雑誌』に見るが住所知れず)に転致し、また木下氏に頼み、徳川頼倫侯へ送り下さらずや。しからばその間に、小生は只今かかりおる。“Whittington and his Cat”(ロンドン市長ホイッチングトンが(十四世紀の人)一疋の猫の御蔭で大富になりしという、紀文大尽然たる英国の俗話は(『宇治拾遺』の長谷観音に祈りて一日の中に虻《あぶ》一疋から豪富になりし人の伝に似たり)今回送り来たりし『大英類典』一一板にも十三世紀までしか調べおらぬを、小生釈迦の律中よりその原話を見出だし候て‘Notes and Queries’へ、たぶん今夜までに文成り出す)を和訳して、考古学会へ貴下を経て出し、また少々なりとも前状申し上げ候ごとく、大ざらえのついでに、御下問の件々に関することを抜き出して送り申し上ぐべく候。只今当地大晴天にてちょっと菌類なく、よってこの間に右(67)の抜書を幾分かすまさんと存じおり候。
 件《くだん》の神島は実に焦眉の急にて(ここまで書きしに、毛利氏より口上で返事来たる。返事は委細あとからすべしとのことなり。これは電話にて県庁に縁ある人々へ頼むと見えたり。されど、先日もこのことありしが無効なりし。ルーソーがケイス大将方におりしとき、普仏の両王は欧州諸王に訓示し、同盟して予(ルーソー)を困迫すとあるを、ルーソーの狂人たりし所以と心理学者が論ずるが、実際小生なども田舎におりて気が小さくなったのか、当県の官公吏は公利、行政のために諸処に伐木をゆるし、勝景希物を損滅するのでなくて、ひとえに小生に対する意趣晴らしに、かかる濫行をあえてせしむるかと思う折もあるなり)、何分にも徳川、松村二氏へ一書御出し下されたきなり。ただ頼むところは件の神島が属する新庄村長、わからぬ人物でなく、小生の意見を容れ目下は伐木中止しおるも、あまり処分長引かば到底致し方なきなり。かつ人にそれぞれ長短所あって、小生は深山を夜行したり、無銭で外国を行ったり、戦場を見物に行ったり、そんなことには実に沈勇おびただしきが、前世の薫習にや、瑣細の人物が奸をなすを見れば、業火直上三千丈で、いきなり数百人ある中へ乱入したり、頭をなぐったり、また朦朧組の人足を率い警官と市街戦をやつたりするゆえ、不慮の禍を招き、半年や七ヵ月全く学問を中止すること多きはこまったものなり。しかし、何と言ったって仕方なきものは仕方なしとして、何とか力に及ぶだけ貴下の助けをまち、願わくは後日臍を嚼んで南方をして先見の名を成さしめざらんことを望むなり。
 前日抄しかけし地蔵のこと左に申し上げ候。
  木下氏、那智山のこと頼倫侯へ取り次ぐべしとの伝言、新米の法学士那須弁次郎という人、四、五日前齎し来たる。那智山はすでにまずは事かたつき、奸徒一々書状しらべ中のところ、ひとまず調べすみ本日検事以下当地へ引き上ぐるとのことなり。故に、この上木下氏を煩わさぬが、それと引きかえに何とぞ神島のこと頼み上げたきなり。(68)また当地に近き文徳天皇のときの官符に見えたる古社、日向明神というて前年合祀、その跡の大樟樹も数日前斬られたりとか。この類のこと到る処に行なわれ、これは那智事件等小生の思うままになりしより、一層奸人等の行いを早め来たれるなり。当郡前郡長杉山という人、枯損でなき大樟樹(当地闘鶏神社の神木)を枯損と申し立てて伐り、今二本をも伐らんとするところを小生に見あらわされ、社務所で会議中、中風起こり卒倒、口より涎を流し戸板にのり帰宅、右の樟のことばかり譫語して五日目に死亡。そんなことから有名なる野中王子合祀趾の一方《いつぽう》杉、二千八百円で買いありしもの、祟りをおそれ伐採を止めたり。
 趙宋の太平興国七年勅修僧賛寧等撰(三十巻あり)『宋高僧伝』巻二〇、「釈地蔵は、姓金氏にして、新羅国王の支属なり。慈心あって貌《かお》悪《みにく》く、穎悟《えいご》なること天然なり。七尺|?《く》をなし、頂に奇骨聳え、特に高し。才力は十夫に敵すべし。かつてみずから誨《おし》えていわく、六籍《りくせき》の寰中、三清《さんせい》の術内にて、ただ第一義のみ方寸《こころ》と合す、と。時に落髪し、海を渉《わた》り舟を捨てて徒《かちあるき》す。錫《しやく》を振って方を観じ、邂逅して池陽に至る。丸子山を覩《み》て心はなはだこれを楽《よろこ》ぶ。すなわちその峰に逕造《いた》り谷中《やまあい》の地を得るに、陽に面して寛平《たいらか》なり。その土、黒壌にして、その泉、滑らかにて甘し。巌《いわや》に棲み?《たにがわ》に汲んで、趣爾《しゆじ》として日を度《わた》る。蔵かつて毒の螫《さ》すところとなり、端坐して念なし。にわかに美なる婦人あり、礼を作《な》し薬を饋《おく》っていわく、小児無知なりき、願わくは泉を出だし、もって過ちを補わん、と。言|訖《おわ》って見えず。坐の左右を見るに、澗?※[さんずい+(?/日)然《かんしゆうじゆうぜん》たり。時に謂いて、丸子山の神ために泉を湧かしめて用を資《たす》くるなり、とす(この山の神は蛇にて女神と見ゆ)。その山は、天宝中、李白ここに遊び、号《なづ》けて九華となす。俗に伝う、山神は婦人なり、と。その峰、多く雲霧を冒《こうむ》り、頂を露わすこと罕《まれ》なり。蔵、もと四大部経を持たんことを願う。ついに山を下って南陵に至る。信士あり、ために繕写《うつ》し、得てもって山に帰る。至徳の年の初め、諸葛節《しよかつせつ》あり、村夫を率いて麓より高きに登る。深極人なく、雲日鮮明にして、居るものはただ蔵のみ、孤然として石室に目を閉づ。その房に足の折れたる鼎《かなえ》あり、鼎の中には白土に少しの米を和し、烹《に》てこれを食らう。群老、驚嘆していわく、和尚かくのごとく苦行するは、我曹《われら》(69)山下に列居するものの咎のみ、と。相|与《とも》に同じく禅宇を構え、載《とし》を累ねずして大伽藍を成す。建中の初め、張公厳、この邦を典《つかさど》り、蔵の高風を仰ぎ、よって旧額を移し、奏して寺を置く。本国これを聞き、率いてもって海を渡り相尋ぬ。その徒かつ多く、もって歳《とし》を資《わた》るなし。蔵すなわち石を発《ひら》いて土を得るに、その色青白くして?《ざらつ》かず、?に加えて衆の食に供す」。
 ここにいえる石また土を食らうとあるは、硅藻(diatoms)の化石なり。少々ながら滋食物を含めり。北海道にも硅藻化石の土を延胡索《えんごさく》の根に和し食らうアイヌありしと、上田英吉氏、明治十八年ごろの『学芸志林』に出だせり。
 「その衆、法を請いてもって神《しん》を資《たす》け、食をもって命を養わず。南方にて号《なづ》けて枯槁《ここう》となし、衆の宗仰せざるなし。竜潭の側《かたわら》に白?y《はくぜんけい》あり、これを取るに尽くることなし。貞元十九年の夏をもって、たちまち衆を召して別れを告ぐ。往く攸《ところ》を知るなく、ただ山|鳴《なげ》き石|隕《お》ち、鐘|扣《たた》いて嘶嗄《せいさ》たるを聞くのみにて、跏趺《かふ》して滅す。春秋《とし》九十九なり。その屍は函中に坐せしむ。三稔《みとせ》に?《およ》んで、開いてまさに塔に入れんとするに、顔貌生けるがごとし。これを挙舁《かつ》ぐに、骨節の動くこと金の?《くさり》を撼《うご》かすがごとし。すなわち小さき浮図《ふと》を南台に立つ。こは蔵の宴坐せる地なり。時の徴士にして右拾遺の費冠卿、事を序して存す。大中《たいちゆう》中、僧応物またその徳を紀《しる》す」。
 新羅僧地蔵の伝はこれに止まり、別に地蔵菩薩と何の関係なく候。故に『大明一統志』など撰みし儒者は、何の仏典上の智識なく、ただただ名の同じきより、よい加減なことを書きたるにて、いわば小生小さきとき歌人の藤原清正(白河崇徳帝ごろの人)と武将の加藤清正を同人と心得、浄瑠璃語りが義経のときの後藤兵衛と大阪陣の後藤又兵衛と混じたようなことで、仏教史にも釈迦の直弟子(十大弟子の中の)迦※[旃の丹が冉]延《かせんねん》と、経蔵を筆し伝えたる迦※[旃の丹が冉]延と別人、また南北朝には仏菩薩の名を人の字《あざな》、幼名とせる例多く、これを例せば陸亀蒙の『小名録』に、梁の昭明太子の母丁貫嬪、小字維摩、後に王維、字は摩語、陳の廃帝伯宗、小字薬王、陳の宣帝、小字師利(文殊師利に資る)、わが邦にも妓婦に千手、微妙(仏経の微妙尼による)、祇王など多し。むやみに同名だからとて新羅僧地蔵を菩薩のこととす(70)るは、遮那王(牛若、鞍馬にありし時の名)を大日如来のこととし、尊氏に光厳帝の詔書を渡せし薬師丸を瑠璃光仏のこととするに同じからん。思わざるのはなはだしきなり。
 昨日、野中村の人野長瀬忠男(『太平記』に、大塔宮の危難を救いまいらせし野長瀬庄司の後裔と称す)来たり、広見川と申す深山へ天幕を張り三十日ばかり住むゆえ来たれりとのことで、小生は晩くとも本月二十五日までに同地へ之《ゆ》き候。もっとも村長、村吏等は合祀のことから小生来るを喜ばず、この辺ははなはだしき田舎にて無人の所多く、小生天幕を張るは『牟婁新報』に見えたるムツ大明神(神体石にてそれを水に漬《ひた》せば大雨ふるという)の合祀趾なり。それより高山を踰《こ》え兵生へ出るか、また十津川近き萩という所へ出るかに候。聞き集むるところの珍話および昆虫と植物の珍種多からんと存じおり候。
                         南方拝
 
   柳田国男様
 
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 明治四十四年八月十二日三時過
 前刻一状差し上げ候後、只今また貴状に接す。当地警察署長は小生同郷人にて小生知人なり。しかし、地方の例として郡長などいうものを憚り、なかなか手が及ばず。(人民に婚娶の節届け出あるすら十二時すぎて弦歌するを禁じ、一方には相良歩などが毎度来るごとに芸妓の春を終夜買うを咎め得ず。去年大逆事件を取り調べに来たりし東京の法官の末輩らが、芸妓を下女に扮せしめて終夜これを弄せしごときも一向咎め得ざるごとく、なかなか微力なもので、ことに毛利とははなはだ中《なか》悪く、小生よりかかることを頼むときは進退これ谷《きわ》まるの状、気の毒の至りにあるなり。また実際右申すごとく力はなはだ弱きものなり。)官学の徒は、例の通り高山植物など比較的不急のことに手を出し(71)ながら、直接当国ごとき神社合祀、神森乱滅を耳が酸《す》くなるほど聞きながら、何もこれに言い及ぼさず、実に困ったことに候。しかし、只今毛利より和歌山へかけ合い中なれば、多少は力もあるべく、植物目前全滅には及ばざるべきも、千古不斧の樹林を損ずることは必定なり。とにかく貴下いずれか徳川、松村二氏へ申し送り下さらずや。
 『新報』には多少誇大の言あるも(世界中ここの外になしというごとき、実は後年精密に踏査せばまたあるかも知れず)、地方今日吏民共に物事を解せざる、かように権多の言を用いざれば耳に入れざるなり。
 地蔵という語は大乗経蔵中に始めて見《あらわ》れ、小乗経律等に見るところは、みな地中に財貨を蔵蓄せることを申し候。英語( hiddentreasures )なり。これを例せば、『仏本行集経』巻四〇、提婆大婆羅門、仏その村に来るを聞き、供養せんとするも貧にして手及ばず。その妻に語りなげくに、妻いわく、妾年少の時兵将大婆羅門かつてわれを弄し、世事(男女交合をいう)を欲求せるに、われかれのしばらく指もて触るるすら聴《ゆる》さざりし。今汝われをつれ行きかれに与え、世事を行なわしめ、それに従って、随つて多少の銭物を索め、もって仏を供養すべし、と。夫いわく、われは婆羅門なり、理かくのごときことを作《な》すべからず、と。直ちに兵将婆羅門を訪い五百銭を借る。兵将いわく、汝必ず期限に及び他より借らず自分はたらいて儲けし金で払わるべし、と。その約束で五百銭を借り、仏を供養す。そのとき妻他人の衣を借り着て仏に給侍せしに、仏去つてのち衣を盗み去らる。困究のあまりその夫屍陀林(尸《しかばね》を捨つる林)に入り、大樹に上り墜ちて自殺せんとするに果たさず、その所へ衣を盗みし賊来たり盗みし衣を埋め、その上に糞して去る。夫これを見、樹より下り、衣を掘り持ち帰る。かくと知らぬ妻は家にあり掃除すると、屋の一角たちまちみずから陥る。低頭して見るに一赤銅瓶あり、その中金を満つ。次いで多くそんな金蔵〔二字傍点〕を見出だす。夫に告げて大いに懌《よろこ》ぶ。夫、兵将婆羅門を訪い五百銭を返すに、汝いかにしてこの銭を得たるや、他より借りしにあらずやと問われ、実事を述ぶ。兵将信ぜず、来たりて瓶を開くに、その中炭聚あるのみ。提婆婆羅門心願していわく、もしわれ善業供養力のゆえにこの金を得たるならば、乞う兵将婆羅門にその金たるを示せ、と。炭すなわち全く金となる。「兵将この地蔵〔二字傍点〕(72)を見るに悉皆《ことごとく》これ金なり」。驚きて問うて仏を供養せるを知り、これ全く「汝の善業《ぜんごう》の因縁より生ずるところ」なり、他人奪う能わざるところという、云々。
 大乗教に虚空蔵あり、地蔵と相対の名と存ぜられ候。
 ついでに七難の揃毛《そそけ》のこと抄出候。
 『和漢三才図会』(巻七一、近江国竹生島と記臆せしが、今見るにそのことなし)に一ヵ所七難の揃毛のことありしを記臆す。たしか秀忠公上覧に入れしとありし。なお見当たらば申し上ぐべし。小生幼時揃毛の何たるを解せぬとき、この書にて初めて見しなり。
 源空の師皇円の作といえる『扶桑略記』巻二八、「後一条院、治安三年十月十七日丁丑。入道前大相国、紀伊国の金剛峰寺に詣《まい》る」、路次、七大寺並びに所々名所を見る、「次いで本元興寺に卸《おわ》し、宝倉を開いて覧せしむ。中に此和子の陰毛あり(さながら蘰《かつら》のごとし、その尺寸を知らず)」。熊楠いわく、此和子は女の名と見えたり。何のことか実に不詳、ここには七難の名なし。
 永禄二年、藤原某著『塵塚物語』(これは『吉野拾遺』流の偽書と思う、しかし徳川初世のものならん)巻三、光明皇后御長髪のこと、興福寺の宝蔵にあるをいう、云々。吉野泥川の奥、天の河という所に弁才天あり。ここに義経の妾白拍子静が髪とて長《たけ》八尺ばかり、これさえいみじく思い侍るに、光明皇后の御事、不思議というも余りあり。またここに七なんがすす毛という物あり、長五丈ばかり、その縁起を聞かばはなはだ尾籠のことどもなり。ただし、この物は吉野に限らず、往々に諸所にありとぞ。このはなはだ尾籠の縁起聞きたきことなり。
 喜多村信節の『画証録』に、足立郡新皇村毛長明神、以前毛を筥に納めて神体とせしを、いつのころの別当にや、不浄の毛を神体とするはあるまじきことなりとて、水の出でし時、毛、長沼へ流せしというて今はなし、云々。舎人村にも、この毛長明神の華表と相対せし男根の社|有之《これある》由、口碑に残るのみにて今はなし、遺念のことなり、云々。
(73) ほかの国の例は追って写し差し上ぐべく候。
 按ずるに、長毛を霊瑞の相とせしことは、神代に八握《やつか》の髯のことなどあり。また五代の後晋?(または梵土に付して中国を晋というかちょっと分からず)、司馬晋より梁(普通年中まで)の間の尼六十五人の伝なる『比丘尼伝』(晋、荘厳寺釈宝唱撰)四巻あり、巻二、昇明元年、蜀郡永興寺の恵曜尼、みずから焼身供養して寂するとき、「いまだ焼かざるの前|一月日《ひとつき》ほど、胡僧あり、年二十ばかり、形容端正にして、髀《もも》に黒き毛の長《たけ》六、七尺にしてきわめて細く軟らかなるを生ず。人これを訳語《つうやく》に問うに、答えていわく、従来覆せず(覆とは犯戒のことなり)、この故に毛を生ぜしのみ、と。曜に謂いていわく、われは波羅奈《はらな》国に住む、至来《きた》ること数日にして、姉《し》の捨身《しやしん》せんとするを聞く、故に銀の?《かめ》を送って相与えん、と。曜すなわち頂受す。いまだ委悉《いしつ》するに及ばずして、怱々《そうそう》として辞し去る。人を遣わして追い留むるに、門を出でてすなわち失《う》す。この?をもってその舎利《しやり》を盛るに、二合に満たずという」。
 陰毛のこといろいろ欧書に記しあるも、七難の揃毛ごとき長き毛は見えず候。
 上述、『和漢三才図会』の七難の揃毛の条、もし御見当たりあらば、何巻何国の条にありと御教示下されたく候。
 山男が人の婦女を犯すということ多く聞く。これは尋常の人が異様の凧装して、子女を掠め奸せしと存ぜられ候。ローマ市のうちにも獣禽の装いして人の妻女を犯せしものありしと存じ候。
                         南方拝
   柳田様
 
          21
 
 明治四十四年八月十三日〔葉書〕
 拝啓。小生は那智また南牟婁郡の大楠の例にならい、誰か小生の書翰と『新報』の大意により小文を草し、東京で(74)注意を惹く新聞へ出し下されたく冀うに候。このこと御世話を乞うなり。
 前刻申し上げ候『和漢三才図会』の一条は、只今(夜九時)見出だす。巻六六、下総にあり。豊田郡石下村東弘寺什物中に七難の揃毛あり。「色五采にて長《たけ》四丈有余あり、いまだ何物の毛たることを知らざるなり。相伝う、江州の竹生島、信州の戸隠山にもまたこれあり、しかしてもって什物となす、往古、異婦あり、七難と名づく、その人の陰毛なり、と。けだし『塵塚物語』に竹生島の七難の毛のことを載す。(これは良安の誤りなり。『塵塚物語』には前刻抜記差し上げしごとく、大和泥川弁天祠のこととあり。竹生島にあらず。)これまた鮨荅《けもののたま》をもって宝玉となすの類にして、ただ奇品を喜ぶのみ」。婦人が孕んで長毛また人の爪など産むことあるは畸形学《テラトロジー》に論説あり。また欧州にも、中古宮女などが陰毛を五采燦爛と彩し、あるいは糸もって飾りしこと Brantome《ブラントム》 長老の‘Dames Galantes’(名姫伝)にあり、葉書では如何ゆえ他日かきぬき差し上ぐべく候。
 また御承知ならんが、山男(と名をいわねど)と熊と似たることは(狒々のこともいえり)、帝国書院刊行『塩尻』下冊にあり、その図を出せり。
 
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 明治四十四年八月二十一日夜一時半
 拝啓。『読売新聞』一葉、正に拝受仕り候。一昨日、貴状一、正に拝受(松村氏状封入の分)。しかるに、本月十五日当地大暴風雨中、夜分|悴《せがれ》五歳になるもの大発熱九十二度に及び、盆の日にて下女は里へ帰り、小生も気分悪しく右の悴を抱えおり、妻?妊の身をもって飛瓦落簷の間をくぐり医者へ走り行くなどの大騒動、ようやく医者来たり悴の命を取り止めたれど、今に平癒せず。小生また気分すぐれず、家内大混雑につき、松村教授への状は今数日せねば出すこと能わず。
(75) 那智山事件の輩ら五人、右の大風雨の朝、当地未決へ入監さる。文書偽造の嫌疑と承る。この輩の一人より承りしに、那智事件を行政裁判所へ出せしに、証拠物およそ三百余点とかありしという。今日那智の寺社に存する宝物すらわずかに屈指するほどしかなきに、かくまで多く証拠物ありしということ受けられず。これらは行政裁判の節、何とか委細に出処を正されたかりしことなり。
 しかし、小生英国行きの論文は出来上がりしをもって、まずその方を訳出して数日中に貴下へ投ずるから、考古学会へ御出し下されたく候。こちらの取調べに念を入れ、今夜只今までよろめきながら抄録をしらべ候に、山男がかったこと少々見出で候ゆえ忘れぬうちに書きつけ差し上げ申し候。
 鬼市のことは、『五雑俎』地の部に分類して出でおり候。
 『法顕伝』(晋の義煕十二年法顕自記に係る、前後十五年インドを旅し、三十国を経しなり。一巻なり。黄檗板『一切経』の第二〇五套に収む)、その二九葉表に、師子国(今のセイロンというなり)、「その国もと人民なく、ただ鬼神および竜あってこれに居るのみ。諸国の商人ともに市易《あきない》す。市易する時、鬼神はみずから身を現わさず。ただ宝物を出だし、その価直《あたい》を題《しる》すのみ。商人はすなわち価直によって物を取る。よって商人、来往して住む。故に諸国の人、その土《くに》の楽しみを聞き、ことごとくまた来たる。ここにおいて、ついに大国となる、云々」。
 これはセイロンの原人 Veddah 族を指せるか。この人物は笑うことを知らず、丸裸で人間中最下等のものなれども、今に島住の諸他の族より非常に尊敬さるる由、鬼神の後裔ということか。M.Sonnerat,‘Voyage aux Indes-Orientales et à la Chine〉(1774−1781,7年間の記行なり),A Paris,1782(2巻あり)〔「年間の記行なり」「巻あり」は横書き、入力者注〕巻の二、一〇三頁にいわく、マラッカに食人の人あり、形状全く人にして樹上に棲み、他人その下を過ぐれば降り来てこれを食らう。またこれよりおとなしき者あり、森中に住み食人輩と交わらず、果と根を食らう。その女と交わるに旬期あること獣畜のごとし。その中にはマレー人と多少親しみ交易すれども相会見することなし。みずからすむ樹の下に山中で集め来たれる calin(何の(76)ことか、仏語字典で見られたく候)を置くをマレー人これを取り、替りに果物小品等を置く。この輩の言語マレー人に通ぜず。予、その一人幼くて擒《とりこ》に(bagatelle)され、一官人の僕たるを見しに、はなはだしきなまけ者なり。また、この辺に反踵の民ありという。(『山海経』にも、南方に反踵の民あるをいえり。)
 まだ例あるが、小生眠たくてならぬゆえ擱筆仕り候。そのうちまた申し上ぐべし。
 オボのこと、蒙古のこと書けるものにみな見ゆるが、委《くわ》しきことを言わず。
                          南方拝
   柳田国男様
 
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 七難の揃毛、「色五采にして畏《たけ》四丈有余」と『和漢三才』にあり。仏教(インド)にも陰毛異色を尊びしこと、左に記し申し上げ候。(天人は天人男のことなり。天女(玉女)にあらず。しかし、准じて天女の陰毛また然りと知らるるに候。)元魏婆羅門瞿曇般若流支訳『正法念処経』(仏教の宇宙誌コスモゴニーなり)巻五六に、「夜摩天《やまてん》の第十一処(夜摩天に三十二 section あり、その第十一なり)、名づけて常楽という。前生、常に邪婬を離れ、乃至《ないし》、画女像を見る時も欲想を念《おも》わず、かの画女において勝相を生ぜず、画女を見る時も念想を生ぜず、云々」、かかるもの、この天に生ず、「かの天の中において三処に化生す。一は蓮華台の中に生じ、二は拘?羅邪鬚《くばんらじやしゆ》の中に生じ、三は曼陀羅華《まんだらげ》に生ず。もし拘?羅邪鬚の中において生ずれば、光明および色もまたその華《はな》のごとく、あるいは赤く、あるいは青く、あるいは種々の色にて、七宝の荘厳《しようごん》すること、また拘?羅邪の鬚のごとし。云何《いか》に七宝の雑色もて荘厳するか。青毘瑠璃をもってその髪となし、目、※[目+妾]《まつげ》、眼瞼《まぶた》は、みな赤きことかくのごとし。銀色の爪甲《つめ》はまた白と紅の色にて、歯は真珠のごとし。その身《からだ》はなお閻浮檀金《えんぶだごん》のごとく、臍下の毛の色は因陀宝《インドラムクタ》(青珠と訳す)のごとし。自余の身分も処々雑色にして、(77)心の画師の画に作《なす》ところのごとし。もし蓮華台の中にあって生ずれば、色またかくのごとく、閻浮檀金の真金の色のごとしr。髪は青宝色にして、唇の色はなお赤蓮華宝あるいは??《しやこ》の色のごとし。その甲《つめ》はなお蓮華宝の色のごとく、臍下の毛の色は紺??のごとし。ただ少分を説くのみ。もし曼陀羅華の中において生ずれば、その身《からだ》と衣服に種々の色あり。中にあって生ずるゆえに、またその色に似る。相似るというは、現見法のごとく、何《いか》なる色の草にも随つて、その中に物を生じ、生ずるところの物、すなわちその色を同じうするなり、云々」。草に住するもの草と同色ということ、劉向の『説苑』にもあり。
 明治四十四年八月二十三日
                        南方熊楠
   柳田国男殿
 
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 V.Ball,‘Jungle Life in lndia,’London,1880.この著者は英国学士会員にて、一八六四−七八間の日記なり。地質学者にて久しくインドにありし。小生在英のころ存命なりしが、帰国前後(今より十一年前小生帰国)に死せりと記臆す。狼が人を子とし養うこと、その四五七−四六五頁に長々と出でたり。英文のまま写し差し上げんと存ぜしが、なかなか小生の英字難読なれば、左にほぼ訳出申し上げ候。
 ロミュルス(ローマの始祖)、そのほか神《コツド》また勇士《ヒロ》に狼に乳せられし伝なる者多し。(支那にもその例あるは『淵鑑類函』にて見らるべし。)インドの記に見るところ、狼に乳せられし人の話はもっぱら Oude(ウージュと読む)国にあり。この国に狼が人の子を持ち去り殺すこと他の諸州に踰《こ》えたり。一八六三−七〇年の七年間この州にて狼害に遭いし平均数は年々百人の多きに達せり。colonel Seeman,‘Journey through the Kingdom of Oude,’1858 一巻二〇八(78)頁によれば、インドの某部に狼小児を?《と》り去ることおびただしく、その帯ぶるところの金飾具(小生が『東京人類学会雑誌』「出口君の『小児と魔除』を読む」(一昨年五月ごろ)に書きしごとく、インドには邪視を避けんがために小児をおびただしく黄金玉?もて飾る風あり)を狼の窟巣より集めて生を営む人すらあり。よって活計を失うを恐れ、これらの民は狼を勦滅《そうめつ》するを憚るなり。
 一八七四年十一月二十五日の‘Pionee’に狼が人子を攘《かす》むる法を述べたるを見るに、夜間、狼、壁低き、または蓆戸《むしろと》の緩き家を覘い、長日にくたびれ睡臥したる母の側に臥したる嬰児を?み、自身の背に引っかけ、母が目さむる前すでに逃れ去る。これを逐うも多くは効なし。もし逐われて児を落とすときは、必ずこれに致命傷を与えあり。また翌|旦《あさ》これを見当つるときは単に遺骨少々あるのみ。ある国には狼は畜類を殺掠するも人を撃たず。たしかなる話に、一少女森中に山羊を牧せしに狼に山羊を盗まれしかば、これを尋ぬるとて狼を追い、六週間見えず。狼の多き地のみさまよいありき漿果《ベリーズ》(イチゴ等)を食い、六日すぎて無難に炭焼き小屋の辺にあらわれたり。これは欧州のブリタニアにてのことなり(仏国の北部)。
 一八七二年インドの諸新聞にあらわれしセカンドラ孤児院の報告によるに、十歳ばかりの小児、狼群の?中よりくすべ出されたり。永きあいだ狼群中に育ちし証には、この児四つ這いを常とし、また生肉を好む。
  小生七年前十月五日、那智より小口という所(西行の歌ある処)へ行くとて大雲取山を踰《こ》ゆるに、地蔵という所あり。地蔵堂とも覚しきものあり。はなはださびしき所にて、ジャコウソウおびただしく生え、生きながら冥途にあるかと思うほどなり。その辺を歩む人に聞きしは、前年ある人ここを歩みしに、篠生えたる中より嬰児這い出で獣のごとく歩む。気味悪くて何とも致し方なく一散に走り過ぎぬ。後日そこを人伴い歩みしに、件《くだん》の嬰児の首斬られて胴のみありしとか、首のみ存せしとか、たしかに記せぬがいずれかのこりありしという。それだけの話にて、その上のことはその語る人も知らざりし。すべて山民の話はこんなことにて、根ほり葉ほり問うたところ(79)が委しきことを知らず。委しきことを辻褄整然と合うて談《かた》るものは、十の九は虚構にて、こちらがそれを筆記しなどしてあとで笑わるること多し。これは日本のみならず何国にても然り。故に、古話学者、俚談学者に取って根ほり葉ほり聞くが大なる誤謬牽強を行なう基源たり。これにつけても古跡、故趾だにのこらば、また学術上精細な取調べをなし、不言不語の証拠が上がり、古語、俚話のみではしかとしたる証拠上がらぬを知るべし。変死、強姦等の験証に、その家存すれば多少の実証を得れども、家焼かれたるときは十口十様で、どれが実か偽か分からぬこと多きごとし。
  その吼声|弱《わか》き犬等のごとし。数年前もかかる子ありしに、人語を解せずといえども、喜憂を吼え示せしとなり。この新聞を見て、著者、書を発して件《くだん》の孤児院に委細を尋ねしに、Erhardt エルハート氏(院長と見えたり)答えにいわく、当院に二男児あり、狼に養われしと見え、一八七二年三月六日当院へ将来の男児はミネプーリ Mynepuri 近隣に狼を狩りしヒンズ人が見出だし、狼の?を薫《くす》べて擒《とら》えしにて当時瘡疵ありし。この児行状全く野獣にて犬のごとく飲み、何物よりも生肉を啖《くら》うを好む。毎《つね》に闇き隅に潜み、他児と雑居せず。衣を与うるに決して着ず、たちまちこれを細砕して糸となす。数月ありしうち熱病に罹り食を食わず、人工もて衛養《えいよう》分を与えしも、ついに死せり。(これ上に言える十歳ばかりの児なり。)また他の一男児は十三、四歳らしきが、およそ六年当院にあり、発音を学びたれども言語は成らず、喜怒をあらわすことはできたり。時として働くことありしも多く働かず、食うことをのみ好む。おいおい生肉を好むこと減じたりといえども、なお骨を拾い歯を鋭《と》ぐ。この二児決して斬新の例にあらず。ルクノウ Lucknow 癲狂院に四年前一人ありし。今もあるかも知れず。多年前、欧州人(医者)が狼?より掘り出せしなり。狼に養われし児が四足にて走るの捷きは驚くに堪えたり。また食う前に必ず食物をかぎ、香、適せざればこれを捨つ。
 熊楠、明治二十三年、米国ミチガン州アナバという市にありしとき、そのころ勢力ありし一将軍(子爵)の男、その地の大学にあり。(小生は大学に入らず、化物屋敷野間に孤立せるを安値で仮《カ》り独棲し、雪を踏んで三、四里ず(80)つ無人の森林に入り動植物を採り、夜間独習せり。新聞紙に小生大学にありしとあるは虚伝なり。)この人、その大学の助手某医博の娘と通じ、女子を生む。(次に男子を生む。この男子が今その家の当主として子爵なり。生まれしとき、小生隣室にありしなり。一度逢うて旧を語らんと思うところに、その父君いかなるゆえにや、はなはだおちぶれ、大阪の私立学校で教師しおる由、昨年申し来たれり。母は死につらんか知らず、異郷にしばらくなりとも憂苦を共にせし人のことにて、あわれなることなり。)このことを国元で大いに不埒なりとして勘当され、また妻女の父も太《はなは》だ怒り、夫婦ともたよる方なく、止むを得ず小生と同居し、一年近く住めり。さて小生、件《くだん》の女子を観察するに、二つばかりになりていろいろの食を与うるに、決して直ちに嚥下せず。一度人の手で口に入れられし物を自分の手で取り出し、打ち眺めたる後これを食えり。小生、只今ある五歳の男児もかくするにやと日々見しも、初めよりそんなこと一切なし。小児にはいろいろの癖あるものと見えたり。思うに狼に養われずとも、食物を?《か》いで後に食う児はありなん。
 一八七四年八月三日、著者みずからこの院を訪いしに、エルハート氏直ちに学校より件の児をよびとり、手を引いて室に入る。容貌、普通の白痴児のごとし。前額低く歯やや出歯にて、所為静かならず、よろめきありく。人よりは猿に似たるように歯をくいしばり、そのたび下齶の神経ひきつる。室内の人の様子を見たる上、牀《ゆか》に箕居し、不断掌を牀におき、諸方に手を伸ばし、猿のごとくにいろいろの紙片、?包屑《パンくず》等を拾い、これを?いで?官を用うること、特に他に逾えたり。グアバ(牛肥《ぎゆうひ》ごとき果羮、甘くて香あり)を与えしに、感動烈しく身をねじまわし、手を延ばしてこれをとり、はなはだ注意して?ぎたる上、口に近く持ち行きこれをかむ。次に未熟のカランダ果を与えしに、これを?ぎて不穏の態なり、これその辛きがゆえなり。痩長の方にて五尺三寸あり、十五歳ばかりという。このとき(一八七四年)すでに九年この孤児院にありしなり。最初は土地の知識なく近方を歩くことならざりしが、今は少々これを能くす。監視を絶やすときは少しも働かず。これを例せば人が副《そ》い行くときは籃を運ぶも、然らざればたちま(81)ち籃を捨つ。特に予の注意を惹きしは、その手の短きことにて十九半インチあるのみ。これ常に四足で歩みしによるならん。アグラにこの男児捉えられしときのことを熟知せる者あり。いわく、およそ九年前、予、地方裁判所に行き合わせしに、この男児と一老牝狼の屍と二狼児を持ち来たる人あり。男児その時全く野獣たり。四つ這いであるき、生肉を幾多でも食い、決して熟食を食わず、その後、一外科医方に置き、その脛を直くすべきため、チャールポイ char poy(土人の寝床)に縛りつけ置くこと数月にして始めて直立に及べり。
 一八七二年三月五日、この孤児院に齎来されし男児は生肉のみを食う。傷および火傷多かりしゆえ、この児を齎来せし人に問いしに、狼窟よりくすべ出せしなりという。四ヵ月ばかり院にありしうち、時々夜中ぬけ出で地を這い骨を求む。藪に遁げ入らんとせるを見出だし、つれ帰りしことあり。発音とては犬子のなすごとき哀号をなすのみ。件の二児、妙に相親しみ、長者の方、幼者に盃を手にして飲むことを教えつ。幼者院中に留まるうちヒンズ人しばしば来たり、これを礼拝し、おもえらく、「かくて狼の歓心を得て、彼輩およびその畜を狼が害するを免かるべし、と」。
 (この次に、またいろいろ例を挙げたり、その一例)一八五一年より数年前にウージュ王の数僕、グムプチ Gumptji 河の岸を騎し過ぐるに、二狼と一の何とも知れぬものと来たり飲む。僕輩これを襲い、三つながら捉えしに、その一は裸体の小男児なり。四つ足で歩み、ために膝および肘《ひじしり》に堅瘤あり。捉えられて人をひっ掻き、またかみつくこともっも力《つと》む。ルクノウに持ち来たられ、今も存命なるべし。言語を発せざれども、本能犬のごとく手まねを見て意を解すること敏なり。今一つの話はこれほどに信ぜられぬものなり。いわく、一男児、狼と共棲せしが、その身に狼臭断たず、捉えられてのち久しからず三狼来たり近づく。この児を襲わんとて来たりしものならんが、この児少しも惧れず、これと戯る。数夜して狼数増して六となる。この児最初捉えられしとき共にありし狼児も来たりしなり。
(82) マクス・ミュラー氏が『アカデミー』紙に投ぜる状によれば、チャンダウルの土人、知事より税を集めに出せる飛脚、昼午時に川側を過ぐるに、一大牝狼、三狼児と一小児をつれ窟を出ず。これを捕らんとせしに、四つ足で走ること他の狼に劣らず。窟に入りしを土人集まり到って、これをほり出す。この児、穴を見るごとにこれに入らんとす。大人を懼るれども、小児にとびかかり咬まんとす。熟食を拒み、生肉および骨を嗜み、これを掌下に踏むこと犬のごとし。語を教うるに無効、ただ犬の怒号ごとき声を発するのみ。この児、フツムプール Hutumpur の王の手より、カプテーン・ニコレッツ Capt.Nicholetts の手に渡る。氏の言に、何物をも食うがもつとも生肉を食うを好む。衣を服することなし。布団に綿入れ与えて寒夜の用に充《あ》てしに、これをひきさき多少嚥みおわれり。一八五〇年八月死す。この児笑いしことなし。また、人に親しむことなく、人語を少しく解するごとくなりしのみ。見出だせしとき九歳ばかりにて、三年生きおりたり。常に四足で這うが、たまたまは直立して歩む。語ることなく餓うれば口に指さす。死ぬ前数分に両手を頭におき頭痛を示し、水を乞う状なりければ与えしに飲んで死せり、と。
 一八四二年三月、チュプラ Chupra に夫婦あり、麦を刈りにゆく。妻、小児をつれ往けり。少し前に左の膝に大火傷を受けしがようやく直りしなり。父母麦刈るうちに、この児、狼に引きさらわる。一八四九年 Chupra より十マイルス距たりし地に、一狼、三狼児をつれあるく、一男児これに随う。辛うじてこれを捉えしに、その時父すでに去りし。母これを見て左膝上の火傷痕を証し、その子たるを知る。背の両側におのおの狼牙創痕三所ずつあり。この児、生肉のみ食う。言語教ゆるも、ただわからぬことをいうのみ、明らかに語ることを得ず。四つ這いの習いより膝と肘に堅瘤を生ぜり。一八五〇年、ニコレッツ氏これをコロネル・スリーマンに送らんとせしに、児駭き藪中に遁げ去りぬ。この一話は多少土人の言を混じたれば、全くの事実と認められず、と。またフスンプール Husunpur の王の言に、一八四三年見たる狼に養われたる男児は全身短毛叢生せり。しかるに、塩を食い習うや否、毛は脱去せり、と。この児また四つ這いにて言語せず、手まねを解すれども、発音とては野獣のごとき吼声のみ、と。これまた土人の話ゆえ(83)十分信ぜられず。
 次のは欧人の言ゆえ信ずべし。コロネル・グレイ夫婦およびサルタンプール Sultunpur にありし諸欧州人士官が見しは、一八四三年、一男児、一牝狼のかたわらに四つ這い歩きしありしを捉えしを見たり。語言せず、ついに叢中に奔り入りおわりぬ、と。またバンキプール Bankipur の地主(土人)が見しは、六歳の男児、狼に取り去られ十歳にて取りもどす。この児また手まねをさとれども言語せず。次のも土人の証言による。四つ足で歩み、肉生なるを好み食い、狼臭あること上述のごとし。親切に扱い行儀宜しくなり、直立して歩むに及びしも、言語を習わず、手まねは分かるようなりし。このほか例多きも、以上はもっとも証拠の確かなるものどもなり。いずれも言語し能わざる一点は全く符合せり。むかしエジプトの一王、フレデリック二世、ゼームス四世、インドのモゴルの一帝は、嬰児を全く人跡なき処にかこい置き成長せしめ、そのいかなる語を発するかを試みしという。今はかかること成らず。ただ、この上述狼に養われし児を察して、人間の語言は果たして自然に人間に遺伝して離るべからざるものなりや、また他の人より習うて然して方《まさ》に発生するものなるやを知るべし。(以上マクス・ミュラーの語なり。)
 著者いわく、上述の諸話真実の話なりと仮想して、いかに狼に捉われし小児が活命に及びしかを解かんに、ここに牝牡の狼、共に一?に住み、その一は人の小児をつれ来たり、他の一は一綿羊また一山羊を捉え来たるとき、羊を食うて腹ふくれ、小児を食わず?中に存命し、自然に牝狼の乳を吸い生活するに及びしならん。また、それよりも正当らしき解は、狼その児を捉え去られしため、そのあとを補わんとて人の児を捉え養えるならん。
  諸獣の牝、子を失うとき乳房はりきり不快を感じ、他の獣の児を乳すること Romanes,‘Animal Intelligence’に出でたり。猫が鼠児を乳することすらあり。牝猫が他の猫の子を乳することは『大和本草』に出でたり。猴《さる》は、猫、犬等の児を乳するを好む由。
 ここに奇なるは、狼に養わるる児は必ず男児に限ることなり、と。
(84) 右、只今夜の三時ごろにて、多少見落しもあるならんが、まずは大抵疲れたる眼に及ぶだけ十分に訳述することかくのごとくに候。
 七難の揃毛がことは、『和漢三才図会』下総東弘寺の条より引き出し、前日申し上げし。その後同書を見るに、箱根権現(伊豆国)什物中、悉難揃毛「こは何物なるかを知らざるなり」とあり。悉難は七難なるべし。七難は、『仁王経』に、「仏、波斯匿王《はしのくおう》に七難を告ぐ。一には、日月|度《ど》を失い、時節反逆す。二には、二十八宿|度《ど》を失い、金星、彗星、輪星、鬼星、火星、水星、風星、刀星、南斗、北斗、五鎮、大星、一切国主星、三公星、百官星、これらのごとき星おのおの変現す。三には、大火|国《くに》を焼き、万姓焼き尽し、あるいは鬼火、竜火、天火、山神火、人火、樹木火、賊火、かくのごとき変怪あり。四には、大水|漂没《ひようぼつ》、雨、雪、雹、江河の逆流等の難。五には風難。六には旱魃。七には賊難、刀劫《とうごう》」。これらを避くるために五大力菩薩(金剛吼、竜王吼、無畏十力吼、雷電吼、無量力吼)の形像を立てこれを供養すべし、とあり。朝家に行なわれし仁王会のことなり。しかるにそれはちょっと大仕事だから、七難即滅のために一種の女巫が七難の舞をやらかせしにて、それよりいろいろとかわり猥褻なることにもなり、陰を出し通しにては面白からぬゆえ、秘儀を神密にせんとてことさらに長き陰毛をまといしなるべし。すべて仏法に、隠れたる処に毛長きを神霊とせるは、前日申し上げしインド僧の髀《もも》に長毛ありし例(『比丘尼伝』より引く)の外に、『大唐西域記』巻一〇、中天竺伊爛拏伐多《いらんなばつた》国、室縷多頻設底拘胝(聞二百億)の伝あり。長いから写さぬが、『西域記』は貴手に近き処にもあるべき間御覧あるべし。この人は(釈迦の弟子)、足のうらに長き金色の毛あり、はなはだ奇なりとて、国王が召し見るところあり。小生近く『カマデヴァ・ストラ(好色天経)』を手に入れたり。これは世界比類なき婬学大集成の重なり。詳しくみなば陰毛のこともあるべきも、多用にて果たさず。そのうち見出だし申し上ぐべく候。
 オボ(十三塚)のことは似たること多く扣えあるが、たしかに十三塚に関係あるものを見出でず。Hucの『西蔵《チベツト》記(85)行』の英訳は必ず東京図書館にあるべし。それを見ば少々はあるなり。
 当地近き「ぬか」塚は濫伐しおわりしが、小生の説をきき千三百円にて買いもどすとて村の小民大騒ぎ中なり。小生は近野村へ由発し、それより安堵峰地方へ廻るべく準備中、近野村の肝心の宿主たるべき人の妻、静岡にて大病になり、その人迎えに之《ゆ》き、つれ帰り当地で養生中、また前日の取調書に小生予言せしごとく、その村へ長谷川(名護屋のもの、当国の森林を片はしから小木をも残さず伐り悉《つく》す。小生弟の酒店はこの徒に酒と米を売り、大いに利ありし)の人夫五百人ばかり入り来たり大人気にて、この不景気に近野村は人気休みと称し三日祭典ごとくにさわぎありく。人の婦女を姦し、喧嘩、口論等、警察の手に合わず。さて、この輩伐木し去らば、あとは荒れ果て行くなり。小生聴きてさえ面白からぬに、みずからその地へ行かばいかなる珍事にあうも知れず。妻ら大いに心配(妻は臨月)、よって見合わし、兵生へ行かんとするに、宿主たるべき人の妻の弟、大病にて須磨浦に養生、その人看病のため出張、そんなことにてちょっと行くべき方もなく、例の乱伐はますます行なわれ、本日も近所の山林(区有林)伐らるるに決定のもの二ヵ所あり。(神島のみは、小生、村長と相談し買い戻し諸植物を厳然維持の策を建てたり。)一々やかましく言うたところで日もまた足らず。毛利清雅、県会議員に出でんと選挙争い最中にて、この人出で得ば少しは益もあらんが、小生らの干渉すべきことにあらず。また、たとい出で得たりとするも、只今間に合わず。前日二回書留状もつて送り上げし長文の拙書を何と御処分下されしか、その吉左右《きつそう》のみ待ちおり候。もし、かの書面貴下また松村教授高覧の上、何の用にも力《ちから》にもならぬことと決せば、小生は最後の手段としてこれを訳出し海外へ送りたく候につき、御不用とならば御送還下されたく候。
 前年有名なる高僧にて、仏教隆興のことにつき特に小生の意見を叩かれし人あり。小生その知己に感じ、四十余日物価高きロンドンにて馬小屋の屋根に立て籠り、日に一食していろいろ調べ長文の意見書おびただしく出せり。しかるに、この長文はただこの人の参考品、座右の珍典としてこの人一人を非常に感心せしめ(この人は今に小生を非凡(86)の菩薩、当世の維摩《ゆいま》居士のごとく、会う人ごとにほめくれる)たるのみ、以後十八年何の功もなく、右の長文はその住寺の宝物と相成りおり候由。小生は前日差し上げし長文も、またかかることになりおわるにあらずやと思いおり候。いわんや、今度のはその災禍眼前に逼りおることなるにおいてをや。
 小生、貴下の土俗学研究方法の大体について言辞のみを大本として、故事、古俗を断ずるの不可を述ぶるはずなり。愚見を申し述べんと思うこと久し。しかるに、これは前日の長文などと違い、もっとも精細を要することなれば、名は書翰にて実は科学上もつとも細密なる長論文なるべし。とても只今神社や神林のこと日に逼りおるとき、概略のみをも述ぶることできざるは遺憾の至りなり。
 那智濫伐一件、裁判の決定書封入御覧に入れ候。当国の神主などいうもの、親分株からしてかくのごとき輩のみなるには困り入り申し候。
 川村知事は辞職して去り候。『和歌山新報』に、その告別の辞を長々と出しおり、その内には神社濫伐のことは実に不行届きなりしも、自分来任以前すでに着手しおりたることゆえ何とも中止し得ざりし由を懺悔しあり。たとい来任以前に着手しおりたることなりとも、那智一件を解救せるごとくに何とか応急の手段はありつらめと存じ申され候。
 小生ははなはだしき肝癪《かんしやく》持ち、また多年無謀のことをやること多かりし男なれど、さすがは英国紳士間に育ちし男にて、至誠を維持し行ないゆくことは日本人中に少なからんと存じ申し候。故に、件《くだん》の長文の功はありともなくともかまいなく、到底無効の物ならば御返し下されたく、さてその他御入用の引書捜探等のことあらば、かまわず御申し聞け下されたく、小生折にふれ扣え集め差し上ぐべきに候。
 考古学会へ出す論文は、最後の一段に至り右述の諸処濫伐等のこと等、耳に入るものますます多く、かれこれ心配致し今に出来上がらず、原文完成次第送り申し上ぐべく、宜しく御|執《と》りなし願い上げ奉り候。
 この状書きおわるとき、すでに暁四時過ぎなり。小生写しおる『一切経』の順序大いに乱れ、それを整理し、なか(87)なかひまがかかる。また今日家主の老母死し、葬式、妻臨月、小児今夜眠中おびただしく※[鼻+丑]《はなぢ》出る等、事件多く、はなはだつかれおり候えども、ついでに思い出したから、これより雨を冒し書斎に之《ゆ》き、左の一項申し上げ置く。‘Encyclopædia Britanica,’11thed.,Cambridge,1911,VOl.xxvii,p.851に「熊児」伝の略解あり、原文写す。
 Valentine andorson, a romance which has been attached to the Carolingian cycle.lt(熊児)is the story of twin brothers,abandonedin the woods in infancy.Valentine is brought up as a knight at the court of Pippin, While Orson grows up in a bear's den to be a wild man(山男)of the woods, until he is overcome and tamed by Valentine,Whose servant and comrade he becomes.The two eventually rescue their mother Bellisant, Sister of Pippin and wife of the emperor of Greece,by whom she had been unjustly repudiated,from the power of a giant. There are versions of the tale,Which appears to rest on a lost French original,in French,English,German,Icelandic,Dutch and Italian.In the older versions Orson is described as the“nameless”one.The kernel of the story lies in Orson's upbringing and wildness,and is evidently a folk-tale the connexion of which with the Carolingian cycle is purely artificial.The story of the wife unjustly accused with which it is bound up is sufhciently common,and was told of the wives both of Pippin and Charlemagne.The French prose romance was printed at Lyons in 1489 and often subsequently.……
 わが国に金時の父非業に死し、母、金時をつれ足柄山で山姥となり、熊と共にそだてしという俗話、小生幼少のとき母に聞けり。多少東国にむかし蝦夷住み、熊を子と共に育てし風あるによれるにや。ただし、これは熊と共に育てしにて(アフリカのセネガル土人は子と猿児と共に乳するという)、金時を熊が育てしにはあらず。
 ポルトガル国北部にも狼が人を育てることあり。地下にすむ Moors(御存知通りこの辺は古えムール人に領されしを、後にムール人キリスト徒に退却され、アフリカに逃れ、あるいは戦死せしなり)キリスト民の児を呪して新月形(88)をその体に焼印するとき、その児狼児となるという伝説、一九〇四年五月二十一日の‘Notes and Queries,’p.417 に短く抄出されたり。Collin de Plancy,‘Dictionnaire infernal’という仏本、東京にもあるべし。この書はおよそ百年近き前の書ながら、かかる妖怪変化がかつたことを見出だすにはなはだよき本に候。前日英国で安本売りに出たから注文したが、今に着せぬに候。
 明治四十四年九月十三日朝出
                      南方熊楠再拝
 
   柳田国男様
 
 明治四十四年九月十一日『牟婁新報』
   津田長等の有罪
     △予審終結 △那智山林事件 △八名共公判に付せらる
 いわゆる「新宮津田長事件」〔七字傍点〕として知られたる新宮町米穀商津田長四郎(五十三)、同町醤油醸造業西鷹治(四十八)、同町住原籍東京市神田区三崎町三丁目芳川正雄(四十)、那智村大字川関田原斎二(五十九)、那智村大字市野々米良十方主(五十)、同字旅館潮崎八百主(五十)、同雑貨商中川喜代美(四十四)、原籍新宮町那智夫須美神社社司尾崎正督(六十一)八名に対する被告事件は、過般来、当支部にて予審中なりしが、一昨日終結、右八名とも有罪の決定を受け、当支部の公判に付せられたり。事件は那智山林に関するものにして、予審決定書によればその内容の要領左のごとし。
一、被告長四郎は、明治三十三年十一月中、那智夫須美神社および青岸渡寺並びに那智区の三者が、農商務省に対し、以前右社寺に属せし同所字鎮守山ほか十ヵ所の国有林下戻申請をなすに当たり、その費用の支出方を引き受け、越えて同三十五年一月十七日および三十六年十二月二十四日の両度、甲山公証人役場において右社寺および那智区と(89)契約を締結し、前示山林下戻申請並びに同訴訟に要するすべての費用を支出するほか、その手続き一切を引き受けいよいよ山林下戻を受けたる時は、その下戻山林中土地および保安林の立木を除き、その他の立木を売却し得たる代金をもって費用の弁償を受け、なおその残余額の六分五厘に相当する金銭の払渡を受くべきこととし、
二、被告鷹治は松江武次郎と共に、長四郎と契約を結び、右山林下戻申請並びに同訴訟に要する費用の幾部の支出方を担任し、被告正雄は長四郎の依願により、三十六年八、九月ごろより右山林下戻申請に必要なる証拠書類の集取に力め、?次農商務省に出頭し、該山林下戻に尽力せしも、三十八年三月十三日申請不許可の指令に接したるところより、直ちに熊野夫須美神社の名義にて行政裁判所に山林下戻請求の訴訟を提起し、爾来多額の費用を投じ訴訟進行に力めたる結果、四十三年十二月二十八日前記山林のうち、字鎮守山ほか三箇所、字賢地ほか四箇所の壱部のみを、右神社に下戻すべき旨の判決を得るに到れり。しかるに、該下戻山林中、字大戸平右側および左側の二箇所を除くのほかは、ことごとく保安林に編入され、最初契約のごとくするも、保安林に編入されたる以外にては、その立木の価格はわずかに三万円内外に過ぎずして、長四郎、鷹治、武治郎等が支出したる費用を償い得るに過ぎざるなり。
  評判に弁護人八、九人東京よりも来たり、費用一万円かかるなどいう。
  右の被告中、米良は十方院、塩崎は宝厳院とて、那智山の座主、双方に分かれ、代々攻戦せし者の嫡流なり。
  今も土地のものは殿様のごとくいう。
三、ここにおいて長四郎、鷹治、正雄、斎二の四名は共謀の上、夫須美神社代表者と相通じ、同神社に不利益なる契約を締結せしめ、不当なる利益を収めんと企て、本年一月十六日四名は被告八百主方に赴き、社司代理潮崎※[虱の中が千]、同崇敬者総代潮崎八百主、および被告中川、米良等と会見し、社司代理および総代に対し、神社有の山林立木を売却するに当たりては知事および管長の認可を要し、手続面倒なるをもって、強制執行により立木を競売に付するにお(90)いては、認可を得る必要なきをもつて債務名義を作製し、競売の名義の下に下戻山林立木全部の処分を長四郎に委ねくれなば、社寺側に対し金四万円を寄付すべしと談じ、十方主、八百主、喜代美の三名はさきの契約によれば、下戻山林中、大戸平左右両側二箇所の立木代金のみをもって長四郎等の支出したる費用金を弁償し、その残存額につき長四郎対社寺側の利益歩合を定むべきものなること、並びに下戻山林立木を売却するに当たり、知事の認可を要すべきことを熟知しながら、同月十八日長四郎等に不当なる利益を得せしむる目的をもって、夫須美神社を代表し長四郎等の支出したりと称する費用三万余円について、何らの調査をもなさずして承認し、かつ知事の監督を避け下戻山林立木全部を処分し得るの権利を長四郎に委すべき旨、背任の契約を締結したり。
四、被告正督は、社司就職後これを承認し実行に同意し、四月十三日正督、長四郎、十方主、喜代美、八百主は新宮区裁判所において、神社は長四郎に対し前記三万余円のほかなお十三万余円の負債ある旨虚偽の陳述をなし、よって区裁判所をして長四郎に対し金十六万四千六百三十八円二十三銭を支払うべき和解調書をなさしめ、右調書により七月二十二日長四郎は該山林の強制競売処分権の申立をなしたるものなり。
五、右の所為は、刑法、二四七、一五七の一、一五八、五四、六〇条の各条に該当するものなり。
 ちなみに、公判期日は十月三日なり。
 
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【2】 拝啓。前日御尋ねの燕が冬中行き先のこと、今年出板の『大英類典』(‘Encyclopædia Britannica,’Cambridge,1911,vol.xxvi,p.178)により、左に概略申し上げ候。少しも小生の意を雑《まじ》えず、至ってたしかなり。
 燕は二十七種あり。アジアのと欧州の燕と通常種は同一なれども、四、五の異亜種あり。夏は全欧に達し、冬はビルマ、インド、マレー半島および全アフリカに達す。ただしアジアのものは、夏中北満州および支那に産し、冬中南(91)はビルマに達す(これのみ熊楠記す、北緯十度ばかり)。合衆国の通常燕は、夏は北アラスカ、グリーンランドまたバイカル湖(シベリア)に達し、冬は南ブラジルに達す、とあり。(熊楠いわく、遷徙の理由はむつかしく一定の論なければ略す。)冬中熱帯近き暖国にありて毛を替え、また交合し、さて春になりて日本等北部へ来たりて巣を作り卵を産むなり。(以上)
 熊楠いわく、燕が冬中泥中に蟄するものなきにあらずとの説、支那にも欧州にも行なわれ、米国の鳥学大家にして今もこれを主張する人あり。これは他の鳥と燕と混じたる間違いの由に候。
 明治四十四年九月十六日正午
                         南方熊楠
   柳田国男様
 
          26
 
 拝啓。意見書印刷相成り候わば、小生方に留め置くべきため一册は必ず小生へ送り下され候様願い上げ候。小生これに基づき、さらに有力なる書を作り申すべく候。松村氏も約束なれば一つは贈り置き下されたく候。しかし、これは御勝手なり。紀州侯へは必ず一つ送り置き下されたく候。
 御申越しの狼が人を乳すること、わが邦の例はちょっと見当たらず、支那の例を申し上げ置き候。
 『淵鑑類函』巻四二九、「『毛詩疏』にいわく、狼はよく小児の啼き声をなし、もって人を誘う。去ること数十歩にして止《とど》まれば、その猛捷《もうしよう》なる、人制する能わず、と」。これは児を乳するとはなけれども、多少縁あれば抄す。
 「『後周書』にいわく、突厥の先は匈奴の別種なり、隣国の破るところとなる。その族に一《ひとり》の小児あり、草沢中に棄つ。牝狼あり、肉をもってこれを飼う。長ずるに及んで狼と交合し、ついに孕むあり。高昌国北山の洞穴に逃れて、(92)十男を生み、その後おのおの一姓となる、云々、と」。
 「『元五行志』にいわく、至正十年、彰徳境内にて狼狽《ろうばい》害をなす。夜、人の形《すがた》のごとくして人家に入って哭し、人の懐抱中に就《つ》いて小児を取り、これを食らう、と」(狼狽とは狼のことなり。何となく狽の字を入れたるなり)。
 出所を出さずに、「烏孫の昆莫《こんばく》は野に棄てられ、狼これに乳せし時、初めて生きしなり」(生まれて直ちに野に棄てられしを狼が乳すとの意なり)。
 「『地里志』、陝西慶陽府に狼乳溝あり、すなわち稷《しよく》の野に棄てられ、狼これに乳せし地にして、後人ついにもつて溝に名づく、と」。これはローマの開祖ロミュルス、レムス兄弟を川岸に(狼、乳せるの地なり)捨てしに、牝狼来たり乳し、諸鳥食を運び養いしというに同じく、支那の古史に、「帝?《ていこく》の元妃|姜?《きようげん》、野に出でて巨人の跡《あしあと》を見、心欣然としてこれを践《ふ》む。棄《き》を生み、もって不祥となし、これを氷上に棄つ。鳥、翼を覆う。もって神となし、ついにこれを収む。児は幼きより屹《きつ》として巨人の志のごとし、云々。后稷《こうしよく》と名づく(堯の時、農師たりしなり)」とあるやつの異伝なり。
 右の『類函』の狼の条には、狼、人の女を犯し、また人、狼を奸して人を生む例多く出でたり。これは本件に関係なきゆえ抄せず、かかること西洋にも多く聞くなり。
 仏経中にも狼人を乳することありしよう覚え候えども、只今多事ゆえ、やがて次回に調べ申し上ぐべく候。小生は近野村へ出発を右の刊行物の一冊着するまで見合わせ申し候。これはそれを本として、また別に一の意見書を作り、新任県知事に呈せんと欲するなり。
 A.de Gubernatis,‘Zoological Mythology,’1872,vol.ii,p.144 によれば、ロシア、エスソニア、ドイツにも古え狼が人を乳せし話の痕跡あり。
 「猫一疋より大富になりし人の話」(『宇治拾遺』の長谷観音利生の物語の基源かと思うなり)は明日あたり脱稿する(93)ゆえ送り申し上ぐるべし。二十日〆切りに少々間に合わぬか知れぬが、なるべくは考古学会にて早く御出刊下されたく候。
 明治四十四年九月十八日夕五時出
                        南方熊楠
   柳田国男樣
 付白。Olaus Magnus の『北方民誌』(‘Historia de Gentibus Septentrionalibus,’Roma,1555. 弘治元年、すなわち元就が陶晴賢を誅せし歳出板。はなはだ高価の書なり、小生抄しておけり。スウェーデンの古俗を見る唯一のオーソリチーたりしなり)に、孕婦の臭を好みて狼来たり襲う、故に兵具を佩びたる男を伴うにあらずんば孕婦外出せず、とあり。
 小生、当国東牟婁郡七川(はなはだしき僻地なり)の人に聞きしは、狼、痘児の臭を好み、痘瘡はやるとき必ず来る、と。これらも狼が人児を捕え去る理由なるべきか。
 小生、白井光太郎君に一書を差し上げんとするも、番地住所を知らず、今日まで延引せり。左のところ切り去り、同氏へ呈し下されたく候。
 狼に関する俚話これに尽きず。小生そのうち山神オコゼを好む説のつづきとして、本書状に引きしほかのことを、ことごとく集め人類学会より出すべく候。
 明治四十四年九月十八日夕五時
                         南方拝
   柳田君
 ‘The Travels of Athanasius Nikitin’(原本は魯語なり。魯国 Tver 市の人、一四七〇年ごろペルシアとインドに旅せし人なり)は Count Wielhorsky 氏の英訳なり(‘India in the 15th Century’に出ず。発刊の年は忘る。その中に(94)収めたり)。この書の一三頁に左の記あり。
  インドの森中に猴《さる》棲み、王あり。群猴、兵具を持って侍衛す。もし人、猴を捕るときは、これを王に報じ、王猴、軍を起こしてこれを尋ぬ。よって市に入り、家を倒し、人を打つ。猴群に特別の言語あり、子多く産む。もし子生まれて父母に似ぬ時は、これを公道に捨つ。インド人これを捉え、諸手工を教え、また夜中これを売る。これ昼これを売らば元の家に帰るゆえなり。あるいはこれに踊舞を教ゆ。註にいう、古ギリシア人も猴を人の一種とせり、イブン・バツタ(アラビアの大旅行家、一三〇四年生まれ、一三七八年死す)、インドの人に聞くところを書せるに、猴群に王あり、四猴卒、棒を手にして常侍し、種々の食を供す、と。
 これらは猴を山男と混ぜるようなり。また狒々の前説を補うべきは、N.Przhevalsky,‘Mongolia,the Tangut Country and the Solitude of Northern Tibet,’London,1876,vol.ii,p.249に、予輩甘粛に着せる前に蒙古人より聞きしは、甘粛州に非常の獣あり、Kung-guressuクングーレッス(人熊の義)と言う。顔|扁《ひら》たくして人のごとく、たびたび両足で歩す。体に長く厚き黒毛を被り、足に長大なる爪あり。力強きことはなはだしく、狩人これを怖るるのみならず、その来たるをおそれて村民住を移すに至る。甘粛に入って Tangutans(タングタン人輩)に聞くに、みないわく、山中にこれあり、ただし稀なり、と。また熊のことでなきかと問うに、熊にあらずと言う。一八七二年夏、甘粛に着きしとき、五両金を懸けて求めしも獲ず、云々。ある寺にその皮ありときき、行き見しに、小さき熊の皮を藁でつめたるなり。人々いわく、人熊は足跡を見るのみ、決して人に見られず、と。今藁で詰めたる熊皮を見るに、高さ四フィート半、喙|挺《ぬき》んで、頭と前体は暗白色、背はそれより一層暗く、手ほとんど黒く、後脚長く狭く、爪長さおよそ一寸、鈍にて黯色なり、と。
 熊楠いわく、これは Ursus pruinosus 西蔵熊《チベタンベヤー》なり、大英博物館にあり。支那の羆なり。「人に遇えば、すなわち人のごとく立ってこれを攫《つか》む。故に俗呼んで人熊となす。けだし熊羆《ゆうひ》は壮毅の物にして陽に属す。故に書して、二心あら(95)ざるの臣をもってこれに譬う」と『本草綱目』に出ず。
 右書き終わりしところへ貴書状着、および刊行物も着、また松村教授よりも葉書着、御厚志ありがたく存じ奉り候。前日新任知事当地へ来たりし際、毛利清雅氏、知事を訪い、神社、森林等の一条を述べ、とにかく知事もその説に傾聴されおりし由。(毛利は只今県会議員に出る競争中にて、合祀反対の町村民ことごとくこれに付和し、はなはだ猛勢なり。)しかして、別に河東碧梧桐氏より小生の意見書を三宅雄次郎氏一見すべしとのことにつき、さらに一文を草し差し出すべく候。(只今菌類の好季節にて、小生はなはだ多事で、画をかき夜に入ること多し。)
 御下問の三条のうち、河童のことは多少しらべ置けり。神馬とはその意味不詳、ただただ神が馬に乗るということにや、また祥兆を示すに天に馬像現ずる等のことにや。ちょっと御明答を乞う。馬蹄石のことは、小生、前年故中井芳楠氏(ロンドン正金銀行支店主任にて、日清合戦の※[貝+賞]金受け取り、また松方侯が蔵相たりしとき金借り入れに力ありし人)の出資で、「神足考」という長篇を刊行し、英国で頒布せしことあり。非常に長いものなる上、その後書き加えたることも多きが、これを読まばあるいは貴下のしらぶるほどのことは十の九その中に包有されあるかとも存ぜられ候。一度に事行かぬべきも、小生の意見書刊行下されし御礼に、幾回にも分かち訳出し、御目に懸くべく候。この長篇は外国にてオーソリチーに引かるることしばしばなる物に候間(例のダイラ法師の足跡のことも含めり)、梗概のみでも貴下の「馬蹄石考」のついでに御付刊下されたく候。
 オボのこと、いろいろ尋ねしも、単にオボというものあり、石をつむなり、というほどの短解以上の物見当たらず。ロシア文学に達せる人に頼み、かの語の風俗彙纂などを見出だすのほかなしと存ぜられ候。一つ珍なこと見当たり候ゆえ、ついでに書き付け申し候。本年六月二十二日の‘Nature’(英国でもつとも広く読まるる科学雑誌にて、ダーウィン、スペンセル、ヘッケル、以下高名の寄書家多し。小生二十六歳のとき一文を投じ、その翌年の五十巻祝賀の節、特別寄書家の名を列せるうちに、日本より伊藤篤太郎博士と小生二人列名せり)五五八−五五九頁によれば、ボ(96)ルネオ島のダイヤクス Dyaks の正直なる例は、tugong《ツゴング》bula《ブラ》(虚言者塚)の設けあるにて知らる。この塚もて虚言を表せらるるときは、その人死するも塚は容易に滅せず。大虚言家あるときその紀念として木枝を積み後人を戒む。虚言で詐《あざむ》かれし人々、両村間の道側顕著なる地点に、木枝を積んで道行く者おのおのその虚言家を誚《そし》りながら枝を加え積む。一たびこれを築かるるときはこれを減するに方なし。セラトクとセベタンの間にかかる塚ありしが、あまりに道の邪魔になるほど枝がくずれかかりしゆえ、記者|燧《すい》を鑽《き》りてこれに火を点じ焼亡せしことたびたびありしも、少時間にしてたちまち枝の塚灰上に起こされたり。かかる次第ゆえ、土人いかなる刑よりもこの種の塚を築かるるを怖る。諸他の刑は、たちまちにして忘失さるるも、この塚は後世まで残り、子孫の辱となること酷し、とあり。わが国にかかることを聞かねども、塚のうちには崇拝、祭典等のほかに、異常の事蹟を記念のために建てしものはあるべしと存ぜられ候。
 備前辺にドウマンというものあり(朱鼈と書く)、河太郎様のものと聞く。たしか蘭山の『本草綱目啓蒙』にもありし。前年、石坂堅壮氏の令息何とかいう軍医、日本の食品を列挙したる著書ありし中にドウマンを列したるを、かかる聞えのみありて実物の有無確かならぬものを入れしは杜撰なりとかで、新聞で批評され、またこれを反駁せし人ありしよう覚え候(二十年ばかり前のこと)。小生も鼈が人を噬《か》むことのほかに、かかる怪物の存在をはなはだ疑うものなり。(ただし、小亀の腹の甲が多少赤黄を帯ぶるものは見しことあり。決して害をなすものにはあらず。)
 しかし、亀が怪をなし人を害すということはずいぶん外国にもあることにて、上に引けるプルゼヴァルスキ氏の書 vol.i,pp.201-202に、蒙古のタヒルガなる河にて洗浴するとき、随従のコッサックス輩、その水中の鼈を恐れて浴せず。豪古人いわく、この鼈の腹下甲にチベットの?字あり、よく人を魅す。この鼈俗人の体にかきつくとき、いかにするも離れず。ただ一つこれを離す方とては、自駱駝もしくは白山羊をつれ来たれば鼈を見て叫ぶ、その声聞きて鼈みずから落つるなり、と。(熊楠申す、日本にも鼈にかまるるもの、いかにするも離れず、雷鳴を聞かば落つるとい(97)う。『嬉遊笑覧』に、たしかその弁ありしと存じ候。)蒙古人またいわく、このタヒルガ河にむかし鼈なかりしに、忽然として生ぜり。住民大いに怖れ、近所のギゲン(活仏)に問いしに、これ河の主にて神物なり、という。それより月に一度ずつ近所の寺より喇嘛《ラマ》僧来たりこれを祭る、と。支那の古書に、?怪をなすこと多く見え、「『録異記』に、腹の下赤きものは?《げん》となし、白きものは鼈《べつ》となす」、「『抱朴子』にいわく、在頭水に大?あって常に深き潭《ふち》にあり、号《なづ》けて?潭となす。よく魅を作《な》し病を行《はや》らす。戴道炳《たいどうへい》なる者あり、よくこれを視見《うかが》い、越張の封泥をもってあまねく潭中に擲つ。やや久しくして大?あり、径長《わたり》丈余なり、浮き出でてあえて動かず。すなわちこれを格殺《かくさつ》するに、病める者は立ちどころに愈《い》ゆ。また小?あり、出でて列《なら》び渚上に死するもの、はなはだ多し」(その他怪事多く『淵鑑類函』巻四四一、?の条に出でたり)。
 当町にいろいろのこと知れる人あり。その話に、むかし信州に大亀あり、深淵に怪をなせしを一勇者討ち取り、その甲今に存せり、と。委細は聞き糺《ただ》した上申し上ぐべし。『明良洪範』に、徳川忠輝、箱根の湖主たる大亀をみずから刺殺せし話あり。Budge,‘The Gods of the Egyptians,’1904,vol.ii, p.376によれば、古エジプト人は亀を怖れて神物とせり。亀神アーペッシュは闇黒《ダークネス》の諸力、および夜叉邪力 evil の神なり。‘Book of the Dead’(死人経)には、これを日神ラーの敵とし、「ラー生き、亀死す」という呪言あり、云々。
 当田辺町から二里ばかり朝来《あつそ》村大字野田より下女を置きしに、その者いわく、カウホネをその辺でガウライノハナと呼ぶ。この花ある辺に川太郎あり、川太郎をガウライという、と。またいわく、茄子の臍を去らずに食えば川太郎に尻抜かる、と。※[図有り]この点の辺をいう。小生は臍と勝手に書くが、実は何というか知らず。
 神社合祀大不服の高田村(東牟婁郡、那智より山深く踰《こ》えてあり。まことに人少なき物凄き地なり)に高田|権《ごん》の頭《かみ》、檜杖《ひづえ》の冠者などいう旧家あり。そのいずれか知らず、年に一度河童多く川を上り来たり、この家に知らすとて石をなげこむ由なり。熊野では、夏は川におり河太郎、冬は山に入りカシャンボとなるという。カシャンボはコダマのこと(98)をいうと見えたり。
 山男、鋸の目をたつる音忌むということは、前に申し上げたと思う。
 四十二年二月の『大阪毎日』に、峰行者の「飛騨の鬼」と題せる一項あり。
  野尻を去ること四里、立町《たちまち》の駅の家々の門口に、松の薪の半面を白く削りて、大根、葫蘿蔔などと記した物が立て懸けてある。聞くところによれば、新春(旧暦)を寿ぐ儀式の一つとか。今年もかかる大根できよかしと豊作を?る心より、さては尺五寸余の薪を大根に型《かたど》つた物である。その横に、これは(十三月)としたる薪が二本添えてある、云々。むかしこの駅を荒らしに、一疋の鬼が飛騨の山奥から出て来た。村人おそれ、さまざまの難題を持ち出してその鬼を苦しめやられしが利目《ききめ》がない。一番終りの村人が、「ここは一年が十三ヵ月でござるが、その名は」と問うた。鬼、十二月までは答えたが、残りの一月を夜明くるまでに言い当つることができず、おのれがすみかへ立ち帰る。今も十三月と呼びさえすれば魔除《まよけ》になる、と里人は信じておる。
 これは本条に関係なきが、川太郎のことひかえたものより見出でたゆえ、ついでに記す。
 droit de cuissage(腿の権利)すなわちスコットランド、仏国、伊国、またインド等に古え一汎に行なわれし、臣下妻を迎うるとき初夜必ずその君主の試を経るを常例とせし風俗、日本には全くなかりしものにや。御教示を乞うなり。
 貴人宿せらるるとき、娘また妻婢を好みのままに侍せしめたことは、『古事記』その他にもその痕跡を(ロンドンで徳川頼倫侯の前でこのことを話し、西アジア、欧州、インドにもむかしはこの風盛んなりし由言いしに、今海軍中将なる阪本一そのころ中佐なりしが、小生に向かい謹しんで述べしは、何とぞこの風だけは復古と願いたいものです)見る。しかし、臣下の初嫁《はつよめ》を君主必ず破素する権利などいうこと、本邦には見当たらず、漢土にもなかりしようなり。(支那の書に嗚呼《おこ》の国人妻を娶りて美なれば兄に薦《すす》めたなどのことは、外国の例ゆえ別として。)
 拙妻および悴、とかくすぐれず、小生今に山中へ出かけずにおり候。長文の「神足考」はおいおい三、四回または(99)六、七回に訳出し差し上ぐべく候。
 神島は五、六日前、保安林になり候。しかし、日数もかかりしゆえ、保安林になる前に、小生村長に話し二百五十円ほど林の下木買ったものに村より払わせ、下木伐ることは止めさせ候。
                       南方熊楠拝
   柳田国男様
 前文のガウライ(河童)はカワワラワ、カワラ、カウラ、ガウライという風に転じ来たれるかと存じ候。
 この辺にて一汎にシビトバナ(石蒜、伊勢辺でシタマガリ、唯今満開)をカウラバナと言う。しかし、河童のことに関係なきようなり。河原辺にさくゆえ河原花の義か。
  この花をむかし英人か蘭人かが日本で見出だし、奇麗なをほめ、根をつみ英国へ送る。その船ガーンゼイGuernsey(英と仏の間の海峡にある小島)で破れ、その根漂いて島に着し盛んにはえるを、英人はなはだ美として今もガーンゼイ・リリーと称す。むかしは野生ありしが、今は栽培品のみの由。二百年ばかり前のことと見ゆ。しかるにはや、この花この島に自生せしように設けられたる古話を生じあり。その古話今は忘れたれどひかえたものあり。
 当町に広畠岩吉という人、五十四、五なり。この人多芸にて立花の宗匠なり。歌舞、吹弾より網打ち、彫刻、押し絵、縫箔、通ぜざるところなし。この狭い所にもかかる人あるなり。古話、俚談を知ることおびただし。小生この人に聞き書きせるうち一つ左に書しつく。
 当郡富田村のツヅラ(防己)という大字の伊勢|谷《だに》にカシャンボあり(河童をいうなり)。岩吉氏の亡父馬に荷付くるに、片荷付くれば他の片荷落つること数回にて詮方《せんかた》なし。ある時馬をつなぎ置きて木を伐りに行き、帰り見れば馬見えず。いろいろ尋ねしに腹被いを木にかけ履を脱いですてなどしあり。いろいろ捜せしに馬喘々として困臥せり。(100)よって村の大日堂に之《ゆ》き護摩の符を買い腹おおいに結び付けしに、それより事なし。この物人の眼に見えず、馬よくこれを見る。馬につきて厩に到るとき馬ふるえて困《くる》しむ、と。
 また丸三《まるさん》という男、右の岩吉氏方にてあう。その人いわく、ある友人富田坂に到りしに、樹の上に小児乗りあり、危きことと思い、茶屋主人に語るに、このころ毎度かくのごとし、カシャンボが戯《たわむ》れに人を弄するなり、と。
 またカシャンボは青色の鮮やかな衣を著る。七、八歳にて頭をそり、はなはだ美なるものなり、と。
 小川孝七という男、日高郡南部奥の山に石をとりにゆきしに、無人の境にたちまちかかる小童来たり傍に立つ。身の毛いよ立ち無言にしてにげ帰りし、と。
 四十一年の春なりしと覚ゆ、当町近き万呂《まろ》村の牛部屋へ、毎夜川よりカシャンボ上がり到る。牛に涎ごときものつき湿い、牛大いに苦しむ。何物なるを試みんとて灰を牛部屋辺にまきしに、水鳥の大なる足趾ありしとのことにて、そのころたしか四十一年四月の『東洋学芸雑誌』へ「幽霊に足なしということ」という題で三頁ばかり、小生出したることあり。これは見出だして別に写し申し上ぐべく候。
 支那にも馬絆というもの河より出て馬を困《くる》しますこと、『酉陽雑俎』等に見えたり。馬絆は蛟なりという説もあり。貴下『酉陽雑俎』手近になくば抄して進ずべく候。
 ロシアにも水鬼を祭るに馬屍を水に投ずる、と露国の昆虫学大家で小生と合著二冊ある故オステン・サッケン男より聴けり。以上。
 
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 明治四十四年九月二十七日午前四時認め始む。
 小生あまり勉学して写字し頭へ瘤でき、痛み睡られず、妻子安眠しおるを幸い、また起きてこの状認む。前刻、鳥(101)の跡を灰に印せるより、万呂村民が、河童は水鳥の一種と察するに及びしことを載せたる状差し上げたり。埒《らち》もなき咄のようなれど、すべて俚談、俗伝は何とて取りとめたる理由確然せず、あたかも夢に種々雑多の原因あるごとく、いろいろの妄想、錯誤が重畳して現出する例多し。いつかも申し上げたることと存ずるが、川側にコッテイドリとて大声あげてなく鳥あり。小生、明治十八年夏、日光山へ歩き詣りしとき、栗橋か幸手辺の川側で聞きしことあり。(『和漢三才図会』巻四二の終りに、「蘆五位《よしごい》鷺。状《かたち》、水鶏《くいな》に似てやや大きく、頭背腹はみな柿赤色にして黒斑あり。翅および嘴は灰黒色、脚は黄にして青色を帯ぶ。葦葭《あし》の中にあって、その形小さくして声大なること、これよりはなはだしきものはなし。宛然《さながら》牛の吼ゆるがごとし。故に俗、特牛《こてい》鳥と称す。また舂《うす》つく者|杵《きね》を下すに力を出だして慍々《うんうん》と言うに似るなり。その飛行速くして捕えがたし。肉の味は美ならず、故にあながちにこれを取らず、云々」とて、『和名抄』にいわゆるサヤツキトリ、「※[鳥+蜀]※[鳥+舂]。黄色にして、声|舂《うす》つく者の相杵《きうた》に似たるなり」に宛てたり。)川辺の叢中で人がうんうんとうなるごときあり。こんなものを聞きたるところへ、たまたま水鳥の足跡一、二見たから、河童などと騒ぎ立てたものかとも思う。牛馬が悩むにはそれぞれ病気もあるべく、また鼠、いたちなど厩に入るより悩むこともあるべし。ただし、かかることには多少その事実はあるものにや、左に濠州土人(日本とは何の縁なく、今日人間の最劣等のものの一)にも水怪のことあり。そのうちに鳥が水怪なることあるを抄出し、御目にかけ申し候。
 R.Brough Smyth,‘The Aborigines of Victoria,’London,1878,vol.ii,pp.436-437に、ヴィクトリアに欧人渡り住せしもの、最初よりたびたび聞きこれを話す。土人また諸処距たりたる地にて話せるなりとて、ある動物、形貌はなはだおそろしく貪《むさぼ》りて人肉を食い、土人を殺すことおびただしかりしもののことを述ぶ。その形状を聞くに、現存の動物中似たものなし。ただし一頭と両耳とあり、身体偉大にして、毛また羽を被むる。毎《つね》に急に起《た》って土人を掩殺す。そのうなる声は沼また深淵また海岸にて衆土人これを聞き、はなはだ怖れたり。ウィリアム・バッキーがヴィクトリア辺未開地を三十二年漂遊せし記にいわく、モデワヴァ湖および深き河水にはなはだ異常の水陸両棲動物あり、(102)土人これをブン・イプ Bun-Yipと呼ぶ。その背に黯灰色の羽あるほか何ごとをも見しことなし。十分発達せる犢牛《こうし》等ほどの大いさ、またはややそれより大なり。天気よく、水静かなるときのみ顕わる。頭も尾も見しことなければ、確かに大いさを知ること成らず。その形状も分からず、云々。パルオレ河辺の土人しばしばこれを見、いわく、この動物異様の力を人に及ぼし、死、疾病等の不幸を起こす、と。あるとき夫婦あり、鰻多きを見出だし、これを捕うるに、夫鰻を家へ運べば運ぶほど妻ますます多く鰻を獲。これブン・イプが魅術に乗れるにて、ついに夫、鰻を宅へ運ぶ間に、妻かの怪に捉え去られ、再び見えざりし。土人この怪を怖るることはなはだしく、もしこれに遇えば譫語して地に平伏し、もしくは猛獣に追わるるごとく狂奔す。予(バッキー氏なり)しばしばこの物を槍にて刺さんとせしも、土人はなはだこれを不快に思えるゆえ、もし予この怪物を殺せしならば自分も土人に殺されたるならん、と、云々。西港《ウエスタンポート》の土人この怪物を図せしを見るに、エミューのごとし。その辺にはこれを Toorroo-Dun《ツルルドン》と言う。その辺に盛夏も乾す能わざる淵あり、ツルル・ドンと名づく、この中に怪すむなり。いわく、この怪物、深淵底の厚き泥下に棲むこと鰻のごとし、土人浴すればこれを殺す。ただし土人を食わず、死ぬまで抱えおるという。
 また諸土人いわく、沼沢および深淵に海豹(おっとせい)ごとき獣あり、近づく土人を殺す、と。一八四八年、モレイ河《リバール》の土人この怪を画ける図、上のごとし。これもブン・イプと名づく。濠州人むかしより海豹をとり食らえり、故に海豹にはあらざるべし。ただし、海豹は時として遠く内地に入ることあり。熊楠いわく、濠州辺では鮫《さめ》(フカなり)類遠く内地の淡水湖にさかのぼることあり。
(103) 一八七三年三月、コワル湖にて二度見しは、頭やや老いたる土人のごとく、長き黯色の髪生えたり、云々。モレイ河近所の土人は湖水底にムルゲワンケ Mulgewanke という怪あるを怖る。その呻き声をきけばリウマチズムに罹る、と。半人半魚にて髪の代わりに蘆叢生す、と。その声遠方に大砲を打つごとく、また強風吹くごとし、また大なる物水中に落つるごとし、と、云々。ある経験ある人いわく、これは麝香鴨《マスク・ダツク》が水中に動くより生ずる音なり、と。Grey 氏いわく、この怪は女を好み殺す、と。エッシソグトン港辺のブン・イプはジュゴンのことか、と。(ジュゴンは、小生、昨年相良等のことをあてつけて書き、罰金に処せられたる「人魚の話」に出でたり。)
 右小生の訳文錯雑なるが、原文もなかなかの混乱ゆえ詮方なし。何に致せ、下等なる蛮民の伝説を聞いたままに書いたものゆえ、何とて取りとめがなきなり、また取りとめらるるものでもなきなり。河童に何の関係なきことながら類推して、小生は、前述のコッテイ鳥また海豹(むかしは紀州などにも海豹の一種アシカという獣多かりし。有田郡湯浅町に近くアシカ島とて、サンフランシスコのゴルドン・ゲイトにおけるごとく、その保護地さえありたるなり。アシカを海中の人と間違えたる古話を聞きしが、今は忘れたり)海に近き河辺へ揚がり来たりしこともあるべし、また水獺《おそ》などを誤認して河童の話を生じたる例もあるべしと思う。
 山人、村客の言なんども、合点行かぬこと多し。小生、昨冬兵生にありしに、ある夜、木挽人足四、五輩大いに怖れて入り来たる。その話をきくに、送り雀にあいたるなり、と。送り雀とは、山道を歩むに「チョッ――チョッ――チョッ」と間を長くおきて一声|閑《しず》かに鳴く雀なり。はなはだ物凄きものにて、これを聞くと頭髪身毛|豎立《じゆりつ》す。この雀はなはだ人に好意あり、狼近傍にあるを人に知らすなりという。帰りて妻に問うに、妻幼きころは当町闘鶏社(田辺権現)前の町にもありし、暗夜さびしき処を歩むを送り来る雀なりという。ただ、はなはださびしきものなりとばかりで、危きを知らす等のことを聞かず、となり。さて一友人に聞くに、その人の臆説にいわく、山中へ狩りにゆき日暮に独り帰るとき、ヒガラ、マガラなどいう小鳥チョッと一声なきて飛び去る、また歩み行くにまたチョッと一声なき(104)て飛び去る。かくのごとく道の左右そこここに宿せる小鳥が、人近づくに驚き一声ずつなきて飛び去る。それをこちらの臆病からチョッ――チョッと鳴きながら付き添い来るごとく思うのだ、とのことなり。ただし、むかしから町中にかかる小鳥なければ、この説も如何《いかん》。ある説には、蝙蝠さびしき所で人にあえば、驚いてつきまとい飛びあるく、その鳴声を送り雀というなり、と。(御存知通り、蝙蝠の声は人により全く聞こえぬ人あり。)
 ハイチ島かどこかの古話に、鶴と亀と競走を賭せしに、亀なかなか奸謀のあるやつにて、競走の全長だけに一列に水中に群亀を排次し置き、さて鶴が正直に水面を眺下して飛ぶと同時に、鶴の眼前に一亀浮き上がり他は沈み去る。その状あたかも将棊倒しのごとく、前方へ前方へ鶴に先だって浮き上がりしゆえ、鶴あざむかれてまけてけり、と。右の一友の送り雀の解説、多少似ておるが面白い。
 まずは右、申し上げ候。早々以上。
                         南方拝
   柳田様
 
          28
 
 拝啓。印刷物の儀、御尽力下され、ありがたく御礼申し上げ候。定めて多少議論出で候べく候。それにつけ何とぞ貴下より政教社気付また本宅ならなお宜しく三宅雄次郎氏へ右一部御送付、かつ小生は平素深く同氏の節義を感懐欣仰しおり、合祀反対論初めて出で候節も、土宜法竜師を通して委細書を三宅氏に呈せんとせしも、面識はあるも相識にあらずとのことで止みたるに候。そのうち河東碧梧桐との約もあり、近日まじめに整書したものを送るべきが、取り敢えずこの二稿を送るとの意を書き添え、三宅氏へ一本御呈し下されたく候。また京都仁和寺大僧正土宜法竜氏と明記し、一本出し下されたく候。三十年来小生の相識とては広い日本にこの人一人しかなく、常に小生のことを言い(105)出でて落涙され候由、承り及び候。(ロンドンにて三回面会せしのみなり。)
 明治四十四年九月二十七日
                         南方熊楠
   柳田国男様
 
          29
 
 明治四十四年九月二十七日(二十八日午前)夜二時書始め
 小生、貴下拙意見書刊行下されしを喜び、今日三時ごろより子分らを集め飲み始め、小生一人でも四升五合ほど飲み大酔、一度臥せしがたちまち覚め候。このまま暁までおるも如何《いかが》ゆえ、御約束の馬蹄石のことに関係ある「神足考」翻訳差し上げ申し候。追記を入れたる別刊物はいかに捜すとも今夜見当たらず。よって追記は後日と致し(大体の論旨に何の影響なし)、明治三十三年九月一日、二十二日、十月二十七日のロンドン発行‘Notes and Queries,’pp.163-165,223-226 および 322-324 に掲載の省略本により翻訳す。
  (付記)右子分らは突衝無前、去年、小生不条理にも相良等の計略で監獄に入れられしを憤り、裁判所へ××し、また郡長宅の門を夜半に掘り崩し乱入し、ナツミカンことごとくもぎとり放擲せり。また警察署へ突進し巡査をほりなげる、狂夢|斐然《ひぜん》として、云々、と言えるごとし。若いうちはそれもよいかとも存じ申し候。
 
       「神足考」Foot-Prints of Gods
 
                    ロンドン、南ケンシソトン、クレッセント・プレース一番地  南方熊楠
  (原英文は、今も有名なる小説家アーサー・モリソンの校正を経たり。)
(106)  右の下宿に二月ばかりおり、富田熊作(フェノロサの屍骸を持ち帰りし人、道具屋なり)、高橋謹一(大井憲太郎子分、何とも知れぬ暴漢なり)と大酒飲み、小生男根出し戸側に臥し、家主婦の娘大いに呆れかつ慕い、そのことより騒動となり追い出されたり。三島桂(中洲長男、父を銃殺するというが十八番。今は式部官かなにかなり)米国ミチガン州立農学校で米人を銃殺するという騒ぎの余波、小生に及び、小生大飲の上男根を露わし、そのときの校長ウィリッツの前へ仰臥し放逐され(喧嘩相手六人退校)、ここにても大珍事を起こす。(『藩翰譜』の「水野勝成伝」のごとき履歴ばかりなり。しかし、昆虫と地衣多く発見し、学術上の功名あり。)キュバに退《しりぞ》けり。よく男根出す男なり。只今も出しながら丸裸でこの翻訳をなす。しかし、笑うたものにあらず。世界開化の源といわるる古ギリシア人はみな出した。哲学者から美少年アルキビアデス、カールミラスみな然り。かかる非行あるにかかわらず、かの農務省|毎《つね》に小生を聘するたあ、笑に罪を悪《にく》んで人を惡まずだ(ウィリッツはその後農務次官たりし)。入らぬことながらちょっと書すなり。小生、平生至って寡言、黙してばかりおる男だが、大酔のときちょっとちょっとかかる逸話を洩らすなり。
  小生至って意地わるく、丁づけと巻づけで洋人をやりこめしことしばしばなり。おのれ欲せざるところ人に施すなかれだから、止むを得ず書籍は一々原本について至って正確にしらべる。鶏肋のようだが、せっかくの骨折りを無にせず、また万一の誤りは大方に正されんために一々出所を記入せり。
 北米にはグレート・パイプストーン・クアリーの隅に 大魂《グレート・スピリツト》が石に印せる足跡、鳥跡のごときがあり(Tylor,‘Reseaches into the Early History of Mankind,’1870,p.118)。古メキシコの衆神祭にテツカトリポカ神の足跡、地に撒かれたる穀粉上に印せらるるを見て、人この神の来降を知れり(『大英類典』第九板、一六巻二一一頁)。これに似たること、インドのホス人、葬式後、灰、米等をまき、幽霊の足跡を験し、幽霊家に帰れり、死人なお家を慕うとて哭泣す(『べンガル亜細亜《アジア》協会雑誌』一八四〇年の分、七九六頁)。コロンビアにチミザパグア神の足跡を印せる一岩あり、これはチブ(107)チャス人に紡績、織布を教え、また諸法制を作り与えし神なり(Piedrahita,‘Historia de las Conquista de Granada,’Amberes,1688,part i,p.3)。トマス尊者(キリスト教の、諸尊者中、もっとも広く旅行せしように言わるる人、明未の支那のキリスト徒はこれを達磨と混視せり。トマスとダルマと音近きゆえなり)の足跡、ブラジルのバヒアの諸浜辺に存す(Tylor,op.cit,.p.117)。ペルーにも同尊者の足跡あり、ただし欧人入り釆たる前よりありて土人に尊崇されたり(E.N.del Techo,in Churchull,‘Voyages and Travels,’1752,vol.vi,p.43)。またブラジルにスメという神人の足跡あり、東方より来たりしという。こはコロンブス前に漂着せる欧人をいうならん、と(Hans Stade,‘Captivity in Brazil,’1874,p.137)。
 欧州には、仏国 Mannè-er-Hroég(何と読むか知らず)有史前紀念物中に一対の足跡を彫れるあり。スウェーデンにも、青銅紀の岩上彫刻に跣足または草履を穿てる足の跡あり(Emile Cartailhac,‘France préhistorique,’1889,p.237 seqq.)。ダニューブ河の岩上にヘルキュルスの足跡あり(C.H.Smith,‘The Natural History of the Human Species,‘1852,p.35足註)。キリストの足跡はローマのサン・デニスまたサン・ローラン寺、また仏国の神足寺《パス・ド・ジユー》等にその例多し。ヴィアン河の岸に牝犬の足跡あり、これヴーイエーの合戦にクロヴィスの軍を導きし犬なり(Collin de Plancy,‘Dictionnaire critique des Reliques et des lmages miraculeuses,’1821-2,ii,76,iii,4)。ローマにウルシニウス尊者刎首されし際、石上に印せる両膝の痕あり(P.Skippon,in Churchill,op/cit.,p.688)。ギリシアのパロス島にはテオクリタ女尊者の足跡あり(T.T..Bent,‘Cyclades,’1885,p.378)。ポーランドではヒアシンス尊者の跡、今もガリスタンの河流上に見ることあり(P.de Ribadeneira,‘Flos Sanctorum,’Barcelona,1643。この本頁数なし、八月十六日の条)。(井上円了氏の『妖怪学講義』二巻三五五頁に、日蓮の題目、今日まで佐渡海上に現わる、とあるに似たり。)マルクス河辺(オーストリア)に足跡岩に印せるがあり、俗伝に、百姓、他の百姓と争い、予が自分の物という地面、実に自分の物にあらずんばこの岩バターのごとく柔軟なるべしと言いしに、素《もと》より虚言なりしゆえ、岩面バターのごとく柔らかになり、足跡を印せりという。また馬の足跡あり、これに乗りし士、今度の戦いに勝つべくんば、この馬の足跡岩に印せらるべしと言いしに、たち(108)まち印せられ、果たして勝ちしという(A.Kuhn,‘Märkische Sagen und Märchen,’1843,pp.25,40)。(ここまで書きしところ、陰嚢を小さき蜈蚣にかまる。ただし、たちまち誅戮す。ムカデは酒臭きものをかむと見えたり。)ダゴ島(北欧エッソニアにあり)に牝馬の足跡あり。魔これに乗り民を害せんと来たりしが、鶏鳴きしゆえ驚きて地獄に還りしという(W.F.Kirby,‘Hero of Esthonia,’1895,vol.ii,p.264)。(〔【Kirbyに傍注】〕小生知人なり、昆虫学累代の大家なり。)
 アフリカにては、エジプトにヘロドツス前すでにオシリスの足跡あり(Smith上出、一一八頁)。ベチュアナス族のモジモ神の棲める洞より出し諸獣、その足跡を岩に印せるが今にあり(Ratzel,‘History of Mankind,’Butler's trans.,IL.,iii, p.354)。
 アジアには、メジナのマッジッド・アル・バッグラー(牝騾寺)の南に石あり、回祖が肘をささえし跡とズルズル(回祖好んで乗りし牝騾)の蹄跡あり(Burton,‘Pilgrimage to Al-Madinah and Mecca,’The York Library,1906,vol.ii,p.46)。エルサレムの岩堂(カッベット・エス・サクラー)の岩上に天使ガブリエルの手跡あり、また大理石塊上に回祖の足跡あり(Burton,‘The lnner Life of Syria,’1875,vol.ii, p,88)。ダマスクスの神門《ゲート・オヴ・ジ・ゴツド》の外に回祖の足跡あり(同上IL.,vol.i, p,60)。ツル(モセスの熱湯浴)に近く、石にモセスの爪の痕あり、滅族せる蜥蜴頭の足跡ならん、もとは指跡もあり。その中に人一人臥し得たりという(同上IL.,vol.i,p.20)。エルサレムのオリヴェット山、キリスト昇天の足跡はもと二つありしが、左の方のみ存し、右足跡はトルコ人これを攘《ぬす》み、一回寺に納めたりという(Collin de Plancy,op.cit.,ii,p.76)。あるいは言う、今エル・アクス回教寺に存するがその左足跡なり、と(Burton,‘The Inner Life of Syria,’ii,p.91)。
 セイロンに有名なる仏足跡は(Tylor,op.cit.,p.117)に、梵教徒はこれを魔醯首羅《シヴア》の跡、ノスチクス徒はイエウーの跡、ある派のキリスト教徒はトマス尊者の跡、またカンダセの宦官の跡という。『淵鑑類函』二三四巻二四―二五葉およびMonier-Williams,‘Buddhism,’1889, p.511を参するに、十五世紀の支那人はこれをその始祖盤古氏の跡とし、(109)その傍の浜辺なる小さきものを仏足石とせり。浅けれども常に水盈ち、信徒これをもって眼と顔を洗えりという。サンチの古塔婆の門柱に、西暦一世紀に彫れりという足跡あり。アマラーヴァチにも二、三世紀に彫りし足跡あり(Moniel-Williams,op.cit., p.510)。『大唐西域記』巻二に、釈迦仏、毒竜を化してナーガラハラに残せる足跡のことあり。巻三に、月支国に羅漢が騎したる馬跡のことあり。巻八に、仏、最後に岩上に印せる跡を、設賞迦王、幾度磨滅せしむるも滅せざりしを怒り恒河に投げ入れし、とあり。『淵鑑類函』三一六巻七葉裏に、?薩羅《きようさら》国の仏跡は時によって大きさを異にして現じ、また帝釈《たいしやく》の騎し下れる獅の足跡のことあり。ジャイン教徒がその祖師の跡を敬することはMonier-Williams,p.509に出ず。オドアルド・バルボサは(一五二一年ごろ死せり)、インドのマレプールにてトマス尊者(上出、達磨と混視されし人)の最後の足跡を見しという(Ramusio,‘Navigationi e Viaggi,’Venetia,1588,tom.i,fol.315c)。ビルマにはバスチアン氏ヘンザダツ村で石上に仏跡を見る(Bastian,’Die V lker des stliichen Asien 1864,vol.ii,p.20)。シャムのフラバット山の西側に仏跡あり、巓上に仏これを過《よぎ》りしとき随従せし虎、象の跡あり(MouhOt,‘Travels in Indo-China,’1873,tom.i,p.280)。ラオスに存する仏足跡は無数なりという(Garnier,‘Voyage d'Exploration en lndo-Chine,’tom.i,p.280)。ジャワの西部に、ある種族人の大祖の跡を山頂に印せるあり(J.Rigg,in‘The Journal of the Indian Archipelago,‘vol.iv,p.120,Singapore,1850。
 太平洋島には、サモアに神チイチイの足跡を岩に印せり、この岩上に立ち天と地を指し分けしなり、と(Tylor 上引)。ニュージーランドのタウパ付近およびハワイ島に刑死されたる酋長の足跡残れり(Ratzel,op.cit.,vol.i,p.326)。
 日本には『神皇正統記』に、むかし天地分かれし時、地至って泥濘に人民ただ山上に住み足跡多かりければ山跡の義で国に名づけたり、という。八木〔【奘三郎】〕氏の『日本考古学』(明治三十一年出板)を見るに、足跡を尊崇せし痕趾のことを載せず。しかれども、俚伝に岩石の異形なるを足跡と見|做《な》すこと多きは、古人が足跡を尊敬せし遺風ならんか。諸州に大太ボッチの足跡なるもの多し(『嬉遊笑覧』巻四)。上野に百合若が妙義山を射貫きしときの足跡あり(『和漢三(110)才図会』巻六六)。三河国に浄瑠璃姫投身のときの足跡あり(『風俗画報』明治二十八年第八八号二一頁)。近江のシシトビ、和歌山城壁等に弁慶の跡あり。京の清水寺辺に景清の跡あり(『風俗画報』三二号二五頁)。駿河に梶原の馬蹄跡あり(『東海道名所記』巻の三)。箱根なる時宗の馬跡は石橋に印せり、これに触るるもの死す、これを崇むれば瘧を療すという(『簑笠雨談』一巻二章)。『雲根志』に、諸州より馬蹄形の石を出し、あるいはこれを硯とする由言えり。伊勢の五十鈴川の神足石これに似たり(『伊勢参宮名所図会』巻三、終り)。
 予しばしば日本人が雷公落ちて雲に昇るとて、樹木また棒柱等に爪痕を残すというを聞けり。かかる木を歯痛に効ありとて楊枝にするなり(『善光寺名所図会』五巻三九葉裏参照)。伊勢山田また泉州堺に勇士死に臨み手足を血に印せりという血天井なるものあり、蔀関月(『伊勢参宮名所図会』三巻六葉裏)これを評すらく、これ天然に木の条理、斑紋が似たるゆえの名なり、と(一八九六年八月十三日の『ネーチュール』所載、熊楠の“Mandrake”一文を参照すべし)。
 (追加)田辺にて聞くに、寺院|毎《つね》に堂の軒が古くなれば血痕ある手足形が生ずる、と。小生はいまだ見ず。しかるに、これを語る人の娘十四、五なるがいわく、寺に限らず田辺小学校の教場の間の廊下の屋根裏にも生じあり、と。小生多忙ゆえ見には往かぬが、雨|泄《も》りのあと、または菌糸などに犯され、自然にかかる紋を生ずるならんと思う。これらをもって推すに、日本人古くより足跡を尊拝し、また尊拝とまではなくとも、異様に感ぜしは明らかなれども、奇なるかな、仏足跡石とて存するものいずれも仏教漸入後の名づくるところにかかる。『一話一言』(明治十七年板、一二巻二七葉裏)に、日本に正真の仏跡は七のみあり、といえり。大和薬師寺のものもつとも名高し(『昆陽漫録』)。大和に、また雲雀山なる阿弥陀跡と大峰山なる役小角《えんのおづの》趾等あり(これは上出高橋謹一という無法者の話によれり、うそかも知れず)。上野の帝国博物館に陳列せる内に、布上に残されたる厩戸《うまやど》太子の足跡あり、その色のかわりめにて仏法の盛衰を示すという。河内に同太子の黒馬の跡あり(『和漢三才図会』七五巻)。笠置山に後醍醐天皇の馬跡あり(これも高橋の話によれり、うそかも知れず)。東京芝増上寺に阿弥陀の跡あり(明治三十一年の『風俗画報』一四三号六頁)。大三輪(111)の神が田舎娘に産ませたる児の足跡、板に残されるが常に暖かなり、と(『和漢三才図絵』七三巻)。比叡山には文殊降臨の時乗れる獅跡あり(『日吉神社神道秘密記』、『群書類従』明治四十一年経済雑誌社本、巻数忘る、その六四一頁)。その山には、常例として文殊堂を建つるごとに文殊大士が支那五台山に下りし時騎せる獅子の足跡下の土を少分ずつ土台に加えしという(『群書類従』所収『慈慧大僧正伝』)。雲州加賀郷の窟外の岸辺に大神乗りたまいし竜馬の跡あり、同州雲津に頼朝の馬|生食《いけずき》隠岐よりここへ泳ぎ着きしときの蹄跡を岩上に印せり(『懐橘談』)。(未完)
 右、一九〇〇年九月一日のN.&Q.,pp.163-165より訳出す。以下は、また数日中に訳出し差し上ぐべく候。
                       南方熊楠
   柳田国男様
 
          30
 
 明治四十四年九月二十八日午後二時五十分より訳し始む。
 前状、神足とせしは神跡の誤りなり。
 
       「神跡考」(続き)
              ‘Notes and Queries,’Sept.22,1900,pp.223-226.  南方熊楠
 上述の半宗教的の所感以外には、日本古民が足跡に神意を付せし明証を見ず。しかるに、天平以後仏教盛んなるに加えて諸道混入を得意とせる道教(老子教)、神学これを助け、日本固有の諸神をインドと支那の諸神仏と混視すること大いに興れり。その状あたかもローマ人が古ギリシアの諸神を古ローマの諸神に付和せるに異ならず(G.T,Bettany,‘The World's Religions,’1890,pp.236,426.『群書類従』所収『質田社縁起』参照。ここにおいてか、神官、巫祝輩、黙し(112)てこれに従い垂跡本地《すいじやくほんち》の説を生ぜり。これより諸神の鎮座を跡垂ると言うに及ぶ(藤岡〔【作太郎】〕・平出〔【鏗二郎】〕二氏『日本風俗史』一巻一五二頁。伊勢貞丈著『和歌三神考』第三節。また Cf.Chamberlain,‘Things Japanese,’1898,pp.360-361)。かくて若狭彦の神は西暦七一五年に白石上に跡を垂れ、武内宿禰は西暦三六七年行衛知れずなりし時、稲葉の地に双履跡を留めたりと伝う(『延喜式神名帳頭注』)。恵美忍成氏の説に、京の八幡山に八幡神の馬の跡ありという。
 高麗には、平壌の岩上に馬跡あり、その傍らの洞より始祖東明王これに騎して出でたりという(『淵鑑類函』四三三巻四葉表)。
 支那には古くより足跡に注意せし証多し。たとえば伏羲《ふつき》、后稷《こうしよく》、いずれもその母、巨人の跡を履んで孕めりという(同上、四八巻一〇葉裏。『史記』本紀。王充『論衡』三巻六章)。蒼頡《そうけつ》、鳥跡を見て字を製《つく》りし(『呂氏春秋』高誘註七巻二章)というは、たまたまビルマのカレンス族の古文字を、鶏雛が履み散らして全く読むべからざらしめたりというに反対で面白し(J.Lowe,in‘The Journals of the lndian Archipelago,’vol.iv,p.415,1850)。前出サモア島の神チイチイが天地を押し分けしときの足跡に似たること、張衡(西暦七八−一三九年)の賦に名高し。すなわち上古、首陽と華山連なりて一嶽たり。黄河止むを得ずその側を迂曲せるゆえ洪水しきりに至るを愍れみ、巨霊神(黄河の神)大神力を奮いて二山を分裂し、その手跡を華山巓に、足跡を首陽麓に印せりという話なり(『淵鑑類函』二七巻三三−四葉)。『古今図書集成』第六区五一一巻五葉裏に、咸陽に章邯の足跡あり。西暦紀元前二〇六年、漢王の軍不慮に押し寄せたる報を聞き蹉?せしときの物とぞ。
 『淵鑑類函』に足跡石のこと多きうち、若干を挙げん。ただし、その多くは仙人の跡なり。二六巻四七葉表に TuhShan〔【独山】〕(北京音、復原することむつかしい、原本につき調べるべし)上と下に一仙人の手足跡あり。I-Ning〔【義寧】〕江辺に勇士 Ma-Tang(馬当か)の下駄の跡あり、雲南に竜馬の跡あり、これに祀れば雨降る、と(同巻五一葉表)。竜山に一仙一竜の跡あり(同巻七葉裏)。Yung-Kang〔【永康】〕に二鳥跡あり、ここに鳥相闘い、これを捉うると黄金に化せしと(113)ぞ(三二葉裏)。李氏(徳裕なりしと記臆す)の名園に一仙一鹿の跡あり(三九葉表)。唐高祖も履跡を二岩上に深く印せり(四七巻一二葉裏)。西暦三世紀に洞庭湖に近き丘上を奔れる金牛の跡今もあり(二六巻一五葉裏)。Shun-Ngan〔【淳安】〕に馬と虎と大鶴の跡あり(三三八巻七葉表)。その他、葛洪が騎して上天せる白鹿趾(三三六巻一八葉裏)、Chung-Hing〔【重慶】〕に近き釣仙人の跡〔二四巻一七葉表〕、〔屈原が身を投げた河辺の石に馬の跡〕(三二〇巻一〇葉表)、I-Chang〔【宜章】〕に或る王の跡、Shun-Hing〔【順慶】〕付近の岩上に八卦を画せる隠士の跡(二六巻五〇葉裏)、Ih-Chau〔【易州】〕に一仙一竜の跡(三三六巻六葉表)、趙州の一橋上に張果仙人の驢の跡(四三五巻七葉裏)、Lin-In〔【霊隠】〕山の鍾乳窟に竜跡(二六巻九葉表)、花牛津に元封|大秦《シリア》人が献ぜし善走多力の牛の花形の跡あり(四三五巻二五葉裏)。洛州狗山に狗跡(三三五巻十一葉表)、八公山に淮南王安に従い上天せる六仙、鶏、犬の跡(二四巻八葉表)、Tsing-Chang〔【晋昌】〕天馬路の馬跡(三五二巻二五葉裏)、Kin-Chau〔【忻州】〕に異人の手足跡(三三五巻九葉裏)あり。また支那の仏跡は、Tan-Y?【潭柘】〕寺に元世祖の娘信心深かりしものの足趾跡あり(三五三巻七葉表)。呉郡の南峰に支道林の馬の四跡(四三三巻一九葉表)、雲南 Shih-Pau〔【石宝】山の羅漢跡(三三九巻三〇葉裏)、shin-Tsiuen〔【石泉水】〕なる観音の膝節蹟(二五巻二五葉表)、越州なる迦葉如来蹟(元開の『唐大和尚東征伝』に出ず)、Kiang-Ning〔【江寧】〕に四天王の足跡(同書に出ず)あり。
 (追記)『大清一統志』巻八五(四葉表)、「五指山は遼州の東にあり、云々。巌石の孤聳《こしよう》し、上に一手一足の迹《あと》あり。その大いさは箕《き》のごとく、指数|倶《とも》に全し、云々」。巻八九に、「代州の仙人山。『寰宇記』に、五台県の東南五十里にあり、石巌上に人の坐せる蹟《あと》あり、山腹の石上に手の蹟あり、山下の石上に双脚の蹟あり、みな西を向く、と」、また「公主山。相伝う、拓跋《たくばつ》氏の女《むすめ》なり、と。石上に手足の跡あり」、「将軍山。廟前の石上に馬蹄の跡あり」。巻一一〇(八葉裏)、「奉安府の宮山。相伝う、漢の武〔帝〕ここに封禅し、仙人の跡《あしあと》を見て、離宮をその上に建つ、と」。巻一二六、「南陽府。漢の南陽公主、下って王咸に嫁す。綏和の間、王莽《おうもう》、政《まつりごと》を秉《と》る。公主、云々、ついに華山において廬《いおり》を結び、歳余、丹道を精思し、雲に乗り冉々《ぜんぜん》として去る。咸これを嶺上に追い、朱履一双を遺《のこ》せるを見てこれ(114)を取るに、すでに化して石となる。後人名づけて公主峰という」。
 「鬼市のこと」これを捜すうちに鬼市のこと見当たるゆえ記し申し候。『大清一統志』二〇二、一二葉表に、「?州《かんしゆう》府の上洛山。『與地志』にいわく、山に木客多し、すなわち鬼の類なり。形は人に似、語《ことば》もまた人のごとし。はるかに見れば分明《あきらか》なるも、近づけばすなわち蔵隠《かく》る。よく杉・枋《はう》を斫《き》り、高峻なる上に聚《あつ》む。人と交市《とりひき》し、木をもって人の刀斧と易《か》う。交関《とりひき》する者は前《すす》みて枋の下に置き、却《しりぞ》き走ってこれを避く。木客|尋《つ》いで来たり、物を取って枋を下ろす。人に与うるは物の多少に随う。はなはだ信直《りちぎ》にして歎かず」。『和漢三才図会』巻四〇、怪類に木客の条あり、鬼市のこといえり。『五雑俎』地の巻に、鬼市のこと多く分類して出せるは、御承知なるべければここに省きつ。
 巻二〇六(一八葉表)、「武昌府の望夫山。むかし婦人あり、夫の出征を送って、ここに至り化して石となる。双履の跡なお存す」。巻二七九(一二葉裏)、「恵州府の霍《かく》山。大仏跡峰の石上に神の跡《あしあと》十四あり」。巻三〇七(一〇葉裏)、「武石、寧州西十里の道旁にあり。三石あって、一は人の石に類し、一は硯池に類し、一は棋局に類す。俗に仙人の作るところと伝う。旧志に、これを武石仙の跡と謂う」。以上、『大清一統志』より抄す。
 チベット・ラアッサのポタラ寺にバターに印せる宗喀巴《ツオンカパ》の手足印あり、消えしことなし(『衛蔵図識』巻四)。近年までも現存せる由、何かで見たり。またSven Hedin,‘Trans-Himalaya,’1909,vol.i,p.337 に、著者、第五世のタシラマ(一八五四−八二)廟に詣でしに、赤黄の?《わく》に嵌めたる石板に、現時の大喇嘛生まれて六ヵ月の時、印せる足跡あるを見し、と(タシルンポにてのことなり)。『唐書』には、于   《うてん》国に一|辟支仏《びやくしぶつ》が岩上に印せる跡を載せ、大宛《フエルガナ》にむかし天馬跡ある岩ありし、と『淵鑑類函』四三三巻三一葉裏に出ず。
 現時欧州に行なわるる巡拝者が記念に足跡を遺す風は東洋で聞かぬところたり。しかし、多少はあるならん。これに似たる例は、カンボジアに、上世より親族また最初に読み書き教えくれし師が手足印を絹上にのこせるを保存する風あり(J.Moura,‘Le Royaume du Cambodge,’1882,vol.i,p.197)。『近世奇跡考』に、鎌田又八、浅草寺の柱に大力の(115)拇印をのこせることやや似たり。
 人と動物の身外諸相、身と離るること能わざるは陰影反照《シヤドーレフレクシヨン》やや弱くて音声のみ足跡と比肩し得、したがって蒙昧の民このいずれもを奇異の現相、身体を離れぬものとせり(Herbert Spencer,‘The Principles of Sociology,’3rd ed.,vol.i,p.114 seqq.)。かかる所伝よりして、人と獣のみならず、非固体の霊物もまた足跡あり、土より細かき物に遭わばこれを印し得、とせり。その例メキシコ、インド等より上に引けるが、なお一、二を挙げんに、匡房卿『狐媚記』に、狐いかにばけるも必ず獣足の跡を印するをいい、尾|拆《さ》き狐また細灰上に跡を遺すという(高橋謹一話なれば、うそかも知れず)。『古今著聞集』二六篇に、西暦九二九年、宮中に牛跡大の青赤なる魔足跡ありしをいい、『酉陽雑俎』続集六巻に、「成都の妙積寺に、開元の初め、尼の魏八師なる者あり。常に大悲呪を念ず。双流県の百姓劉乙、名は意児、年十一にして、みずから魏尼に事《つか》えんと欲す。尼、これを遣《はら》いしも去らず、常に奥室にて立禅す。かつて魏に白《もう》していわく、先天菩薩(観世音のことなり)、身をこの地に見《あらわ》す、と。よって灰を庭に篩《ふる》うに、一夕、巨《おお》いなる跡《あしあと》の数尺なるが、輪《まる》き理《もよう》を成就《な》せり」、画僧楊法成これを摸せし、と著者段成式これを見て連句を作れるを載せたり。『淵鑑類函』二六巻二〇葉裏に、Kwei-Chau〔【貴州】〕に竜あり、人、竜駒を求むるとて牝馬を牽きて来たりこれと交わらしむ、そのたびに浜上に足跡をのこす、と。
 十七世紀に C.Borri師父《バテレン》、交址《こうし》にて敷石上に魔が二|掌《パルムス》より長き両足跡を印せしを見しと、その著‘Relatione della NuOva Missione…al Regno della Cochin-China,’Roma,1631,p.216 に言えり。フィジー島には以前癩神サクカ、人家に入り来たるとき、竈下の灰上に手足を印す、といえり(B.G.Corney,in‘Folk-lore,’March,1896,p.22)。インドに三、四歩ずつ距てて魔跡を印することあり(Jordanus,‘The WOnders of the East,’trans.Yule,1863,p.37注)。竜樹大士、隠形の術もて王宮へ潜入し宮女を犯せしとき、足跡を発見され殺されんとせしこと、『法苑珠林』に出でたり。(この文の終わりに付する『東洋学芸雑誌』よりの拙文抄を覧られよ。)かかることより推し広めて、終《つい》に諸方民が天の諸星(116)を足跡と見|做《な》すに及びしならん。メキシコに日跡日あり、インドの星宿の名にヴィシュニュの三足跡あり(『大英類典』第九板、二四巻七九四頁)。『酉陽雑俎』巻二に、二十八宿を記せるに足跡と連想さるるものあり。日本にも流星を夜這い星という、『和名抄』に出でたり。耶蘇紀元とほとんど同時に世親菩薩が作れる『阿毘達磨倶舎論』巻一一には、須弥《しゆみ》を囲《めぐ》れる七連山中に双足跡あるより名を得たる(熊楠謂う、たしか持双山と言いし)があり。
 人間未開のあいだは人や動物の足跡を察するに力《つと》めたること、開明の今の人が思い及ばぬところなり。これよく足跡を観ると否とはその安危損得の上に大関係ありしに出ず(Waitz,‘Anthropologie der Naturvölker,’1861,vol.iii,p.222;Petherick,‘Egypt, the Soudan and Central Africa,’1861,pp.72,98,222;Younghusbandm,‘The Heart of Continent,’1896,p.79;Galton,‘Finger Prints,’1892,p.23)。したがって、足跡を相せるについての奇談多し。日本に、狐、諏訪湖の氷を渡る足跡を覩《み》て後、始めて人渡り初めるという説あり(『和漢三才図会』巻六八。プリニウスの『博物志』八巻四二章にも似た記あり)。李石の『続博物志』に、鸛《こうのとり》が沙上に禹歩して異力を用《も》つて石を?《くつが》えし蛇を捉《と》り食らう跡を見習いて、異術を覚えし魔法遣いのことあり。『法苑珠林』巻四五に、「『旧雑譬喩経』にいうがごとし。むかし二人あり、師に従って道を学び、ともに他国に到る。路に象の跡《あしあと》を見る。一人いわく、これはこれ母象にして雌の子象を懐《はら》み、一目は盲なり、象の上には一婦人の女児を懐《はら》むあり、と。一人いわく、汝何をもってこれを知る、と。答えていわく、意をもって思い知る、汝もし信ぜざれば、前《すす》み至ってこれを見よ、と。二人ともに象に及べば、ことごとく言いしところのごとし。一人みずから念《おも》う、われは汝とともに師に従って学び、われ独り見ずして汝独り知る、と。のち還って師に白《もう》す。師、ために重ねて開《と》かんとし、すなわち一人を呼び、問いていわく、何によってこれを知れるか、と。答えていわく、こは師の常に教え導くところのものなり。われ象の小便せる地を見て、こは雌の象なるを知る(雌象の小便は直下し、雄のは前へ飛び奔るなり)。道のほとりを見るに右面の草|動《みだ》れざれば、右目の盲なるを知る。象の止まりしところに小便のあるを見て、こは女人なるを知り、右足の地を蹈《ふ》むこと深きを見て、女《むすめ》を懐《はら》むを知る(人も象も同じく、(117)女を妊むときは右の方重きなり)。われは懺密《ざんみつ》の意をもつてこれを思惟するのみ、と。師いわく、それ学はまさに意をもって思うべし、隠審にしてすなわち達するなり、と」。
  (追記)本文刊行配布後三年へて、明治三十六年十月三十一日の‘Notes and Queries,’9th ser.,xii,349, John Hebb なる人、一問を発す。ロンドンに頃日“Serendipity Shop”と家号せる希書珍画肆を聞ける者あり。この名の起り如何《いかん》、と。これに対し、W.F.Prideaux 同年十一月二十八日 9th ser.,xii,p.431 に答えを出す。いわく、この語はホレース・ワルボールが創製にて、一七五四年一月二十八日、サー・ホレース・マンに贈りし状にいわく、予はこれ(ある画題)を見出だせしはセレンジピチーと呼ぶべき秘法に出でたり。かつて『セレンジプの三王子』と題せる小本を読みしに、これらの三王子旅行中ちょっとしたことを捉えて智略を用い種々の発見をなす。たとえば、一王子、道の左側の草、右側の草より性悪きに左側の草のみ喫《く》われたるを見て、右眼|盲《めしい》せる騾がその路を通りしを言い中《あ》てたる等なり。近くワード・シャフツベリーがクラレンドン蔵相方に饗せられし席上、ハイド夫人すでにヨーク公と婚せるを知れるは、ひとえに夫人の母が食卓で夫人を尊敬すること異常なるを観て推量し中てたるにて、またこの類なり。ここにいえる小本は、一七二二年ロンドン出板、‘The Travels and Adventures of Three Princes of Serendip’という稀覯の書、この話その九−一四頁に出でたり。ただし、騾は駱駝の誤りにて、兄王子まずその一目|眇《すがめ》せるをいい中て、中王子その跛《ちんば》なるをいい、末王子その歯乏しきをいい中てしなり。この他にも三王子がなせる驚奇の発見談あれど、猥褻に渉れば述べ得ず、と(小便等のことをいうなり)。
  熊楠按ずるに、この話古くすでに『アラビア夜譚』にあり(Burton,‘Supplemental Nights,’ed.Smithers,vol.x,1894,p.359 seqq.)。アル・ヤーメソの三王子位を争い、他国王の裁断を乞わんと共に旅行す。途上草食いし迹あるを見、兄王子いわく、これ一側に砂糖煮、一側に酢漬を負いたる駱駝の食らうところ、と。次王子いわく、この駝一目なし、と。弟王子いわく、然り、しかしてまた尾なし、と。駱駝主、三人、その駱駝の状を言うを聞き来たり、(118)汝ら三人わが畜を攘《ぬす》めりとて強いて王宮へつれ行く。王これを責むるに、三王子、われら駱駝を見しことなしという。何故に見しこともなきによくその駝の状を言いしかと詰《なじ》る。中王子いわく、道の一側の草のみ食らわれたるを見て、その駱駝の眇《すがめ》なるを知れり。弟王子いわく、蛇糞、地上に円堆《えんたい》せるを見たり、すべて駝は糞する時に尾を掉《ふ》つて糞四散す、しかるに尾なければこそ地上に円堆せりと察せり。兄王子いわく、駝が跪坐せし跡を見しに、一方にのみ蠅集まれり、甘食に蠅集まり酢食を蠅忌む、これをもってその片荷は甘食、片荷は酢食と知れり、と。しかして時代よりいえば、このアラビア譚は全く仏経より転訛し出でたるなり。この通り筆して投書せしも何故か掲載されざりしは、わが邦と違い欧州には古話の専門家多ければ、小生より前すでに同一の所見を公けにせる人ありしにや。または欧人はずいぶん自族を重んじ日本人などに功名させるを嫌う風あるから、何となく握り潰し、他人の功名に今ごろはなりおるも知れず。とにかくちと長いが、後日のため貴下へこの扣《ひか》えを上げ置く。
 『淵鑑類函』四三三巻一九葉表に、支那人馬の跡を察してその良馬たるを知るべしという堅き信念を載せたり。(熊楠いわく、坐右にこの巻あり。試みに見るに、一九葉表にかかることなし、丁数の記しそこないならん、再検を乞う〔【二九葉裏】〕。)諸動物の足跡を観《み》て、多少美術思想の助けとせしことなきにあらざるは、たとえば北斎が藍を刷毛で曳きたる紙上に、足を紅に浸せる鶏を放ちてふみ印せしめ、紅葉流水に添うところを画成せしこと、梅花を犬跡、竹葉を鳥跡に比したる詩歌等あるにて知るべし。(未完)
 以下は、また明日訳出すべし。
 『東洋学芸雑誌』明治四十一年四月二十五日発行、第三一九号、一八二−五頁。
 「ダイタラホウシの足跡」(三一六号二〇頁、三一七号八一頁参照。坪井正五郎氏の問いに答えしなり。)これらは原本につき御参考あるべし。N.&Q の文に引かざる洋書のみ書きつく、他は略し仕り重出せず。
 喜多村信節の『嬉遊笑覧』巻四にいわく、「大太ボッチと言うは、『平家物語』八、豊後・日向両国の界に、姥ヶ嶽(119)という山の下に岩穴ありて大蛇棲む、云々」(この信節の一説は、本年春出でし「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」に引きたれば見られたし)。この大太法師よりして本誌に見えたる「ダイダラボウシ」「ダイラボッチ」は出でたるか。世界通有の俚伝を Benjamin Taylor,‘Storyology,’1900,p.11 に列挙せる中に、「路側の巌より迸《ほとばし》る泉は、毎《つね》に某仙某聖の撃ちて出だせるところにして、丘側の大窪はすべて巨人の足跡なり」とあるを合わせ考うるに、この名称を大なる人の義とせる喜多村氏の説は正見と謂うべし。再び考うるに、『宇治拾遺』三三章に、盗賊の大将軍大太郎の話あり。その人体?偉大なりしより、この名を受けたるならん。ダイダラ、ダイラ、二つながら大太郎を意味するか、中古巨漢を呼ぶ俗間の綽名《あだな》と思わる。果たして然らば、大太は反って大太郎の略なり。
 八年前の拙著「神跡考」に、神仏、人仙、動物の足跡と称するものの例を多く集めたるに、多くは岩石上に存するものに係り、鈴木氏の質問に言うごとき、地面にあるはすこぶる稀《まれ》なり。ただし、支那の史乗に、大沢中の巨人の跡を履《ふ》みし婦人が伏羲《ふつき》また棄を孕めりとあるは、あるいはかかる窪穴の、実に地上に存せしに基づける旧伝にもあらんか。(サウゼイの『一八一五年秋|和蘭《オランダ》遊記』に、スパ付近にルマクル尊者の足跡あり、婦女妊を欲する者詣りてこれを踏む、とあるは石に彫り付けたるなり。)しかして藤原氏の通信に見る、ダイラボッチが八ヶ岳を作るに臨み、力足を踏んで茅野に残せりという足跡にやや似たるは、サモア島の創世に、神チイチーが、天を地と割《さ》き、押し上げんとて岩上に留めたりという足跡と、漢土の昔、華山と首陽を別ちし巨霊神の手足跡のことなり。(『山城林泉名所図会』とかいうものに、足形の池のことありし、今たしかに記臆せず。)
 いわゆる足跡石は、タイロル氏も言えるごとく、天然また人工に成れる岩石上の凹窪の形、多少人間あるいは動物の足跡に類せるものにして、往々過去世紀に生存せし動物の化石的遺蹟もあるべし。俚俗これらを神仏、鬼仙、偉人およびこれに関係ある動物の足跡と見|做《な》して、幾分か宗教上の信念を加う。その最も名高きはセイロンのアダムス・ピークに現存する仏足石にして、ジェルサレムのオリヴェット山なる、キリスト左足の跡これに次いで現われ、欧州(120)諸邦に天主教諸尊者の蹤《あしあと》と称するもの、はなはだ衆《おお》し。聖母の足跡中にその尺度を記したるものスペインの一寺にあり、その模写品を三度|?《す》いしもの三百年間のインダルジェンス(縦罪)を得、と信ずる人多し。回教はもとかかるものを拝するを厳禁したるにかかわらず、ジェルサレムおよびインドに、回祖の足跡と称するものあり(David Hilton,‘Bigandage in South Italy,’1864,vol.ii,pp.76,77)。……以下、例多く挙げたり。
  (追記)シリア辺にカクとて、巡礼が記念に石をつみ上ぐること多し(Burton,‘Inner Life of Syria,’1875,vol.i,p.359)。それよりは足跡を刻み付くる方、はるかに好箇の永存記念物なるべし。
 また遊覧記念のため、塔の屋根の鉛板等に、おのれの足跡を画鐫すること、今も欧州とエジプトに行なわる(N.& Q.9th ser.,iv,1899)。英皇ウィリアム第三世の足跡、そのトルベイに上陸せし点に存して今も見るべしという。支那にも古くより行なわれしことと見えて、『韓非子』外儲説、左上、第三二に、「超の主父〔武霊王〕、工《たくみ》をして鉤梯《かけはし》を施し、潘吾に緑《よ》じ、疎人の迹《あしあと》をその上に刻ましむ。広さ三尺、長さ五尺。しかしてこれに勒《きざ》みていわく、主父かつてここに遊ぶ、と」とあり。(以下は N.& Q.に出だせる本文と大略同じゆえに中略。)
 人の足跡は、その陰影および映像と等しく、居常身体に付き纏いて離るること罕《まれ》なるものなれば、蒙昧の諸民これを陰影、映像同様に、人の霊魂の寄托するところと思惟せしは、足跡に種々の妙力を付せしにて知らる、云々。故に最初紀念のために遺されし足跡が、おいおい神異不可測の機能ありとして、崇拝せらるるに及ぶは自然の勢いなり。
(下略)
 「幽霊に足なしということ」同号、一八五−一八八頁。                          南方熊楠
 本年(四十一年)一月十一日の『ノーツ・エンド・キーリス』三四頁に、予きわめて短くこのことを論ぜり。そのこと足跡に関係多きをもって、冀《ねが》わくは前条にちなんで少しくその説を述べしめよ。
 邦俗あまねく幽霊は足なしと心得たるが、他国またその例なきにあらず。リチュアニアのカクシエン沼に棲める鬼(121)魅《きみ》は、好んで人間の遊宴に参《まじわ》り、村女と与《とも》に踊るに、脚部なきをもって、人その足を履むときその靴たちまち潰ゆるによって鬼物と識らるという( N.& Q.,Aug.31,1907,p.168)。また、ある支那人が、サンフランシスコの支那街にて目撃せし支那人幽霊は、膝より下全くなく、両腿上下に動いて止まざること、あたかも自転車を使うがごとくなりしとす(同上 Oct.17,1903)。
 熊野地方にカシャンボの話盛んなり。これは西国にいわゆる川太郎のごとく川に住み、夜、厩に入りて牛馬を悩ますこと、欧州のフェヤリー、またエルフに斉《ひと》し(Cf.Hazlitt,‘Faith and Folklore,’1905,i,p.223)。昨四十年五月、当町に近き万呂村に、この物毎夜出でて涎《よだれ》を牛の全身に粘付し、病苦せしむることはなはだしかりければ、村人計策して、一夕灰を牛舎辺に撒き、晨《あした》に就いて見れば、蹼《みずかき》を具せる足跡若干あり。よってその水鳥の類たるを知るに及べり。
 按ずるに、灰を撒きて妖怪の足跡を見出だすこと、決して新案にあらず。楊慎が『丹鉛総録』巻二六に、「夏后氏《かこうし》は金の徳なり、初めて葦?《いこう》を作り、云々。『荘子』にいわく、葦を戸に挿し、灰をその下に布《し》く。童子は入るに畏れず、しかして鬼はこれを畏る。これ鬼の智、童子に如《し》かざるなり」と言える葦?は、わが邦にヒイラギ、アリドオシ、熊野方言オニノメツキなど刺《はり》多き物を戸に挿《さしはさ》んで鬼を却《しりぞ》くるに似、「灰をその下に布く」は、鬼が足跡を見つけらるるを畏れて、近づかざるためと見ゆ。また『酉陽雑俎』(云々とて、前出の文を引き)、観自在大士も灰に遇わば迹《あしあと》を露わすを免れざると見ゆ。この他、フィージー島人が、竈灰に印せる手足の迹を見て、癩神サクカが宅裡に入りしを識《し》り、ルソン島人とインドのホスが、葬後亡魂家に帰るを験せんとて灰を布き、古メキシコの祭祀に、日神廟に玉蜀黍《とうもろこし》粉をまきて、その足跡を睹《み》てその入来を祝し、ドイツの僧俗、灰上に鶩《あひる》もしくは鵞《がちよう》の足形を見て、罔両《コボルズ》あるを知るといい、英国の旧慣、四月二十五夜竈灰に印せる足形を相して年内に死すべき人を察するなど、タイロルの『プリミチヴ・カルチュール』一五章と、予の「神跡考」二二五頁に、多く妖怪と精霊の足跡の例を挙げたり。
 そのうちもっとも著名なるは、ヘブリウの古伝に、魔魁アズモデウス、形を隠してソロモンの妃に通ぜしに、王、(122)灰をその寝床辺に布き、鶏足の跡を印するを見て、魔※[魁の鬼が虫]の姦を認め得たりという話なり。惟うに、魔魁の跡多くは鳥跡に似たりといい、したがって東西ともに邪鬼の指を鳥の指のごとく画くは、過ぎ去りし地質期に、吾人の祖先が巨大異態の爬虫類と同時に生存して、はなはだこれを怪しみ怖れし遺風なるべし。知人 W.F.Kirby,‘Hero of Esthonia,’1895 にも、諸国|蛟竜《こうりゆう》の譚はかかる古生物のことを転訛せるならん、といえり。実際において、鳥跡と爬虫跡と分別しがたきもの多く、『五雑俎』九、画竜三停九似の説にも「爪は鷹に似る」とあり。またユカタンにて、夜小児を独り灰を布ける地に置き、翌朝何なりとも一動物の跡をその上に印せるを察して、その動物を児の守り本尊とすというは、真正の動物の所為《しわざ》たること疑いを容れず。
 已上《いじよう》諸例は、実体なき幽霊と、実体ありてかつて地上に生活し、もしくは現存する禽獣より訛り生ぜる妖怪、すなわち変化の物とを通じて、同じく細灰、穀粉等に足跡を留むべしとせる迷信なり。この説によれば、幽霊に足あるは当然にして、『英国不思議研究会報』に見えたる、一八八二年より七年ばかりの間、ロンドンのカプテーン・モルトン氏邸にて、およそ二十人が目撃せる寡婦の幽霊のごとき、毎《つね》に足ありて歩むを見るのみならず、像を現ずること止むの後に及んでも、なお足音を聞くことしばしばなりしという(Myers,‘Human Personality,’1903,vol.ii,pp.389-96)。
 一方には、また実体なき諸精霊は足跡を留めず、実体ある諸怪物は、たとい魔力をもってよく形を隠すとも、必ず足跡を残すべしという説も、古くより行なわれしは、『法苑珠林』巻五三に、『竜樹菩薩伝』等を引いて、前記魔魁アズモデウスのことにはなはだ似たる譚を述べたるにて知らる。すなわち、竜樹若かりしとき、三友人とともに隠形の薬を得、遊行自在となり、「すなわちともに相ひきいて、王の後宮に入る。宮中の美人みな侵掠され、百余日ののち懐妊する者|衆《おお》く、尋《つ》いで往いて王に白《もう》し、罪咎《ざいきゆう》を免れんことを庶《ねが》う。王これを聞きおわって、心大いに悦ばず。この何ぞ不祥にして、怪をなすこと、かくのごときかと、もろもろの智臣を召して、ともにこのことを謀る。時に一臣あり、すなわち王に白していわく、およそかかることには二種あるべし、一は鬼魅にして、二は方術なり、細土をもっ(123)てこれを門の中に置き、人をして守衛せしめ、往来を断つべし。もし方術なれば、その跡《あしあと》おのずから現わる。もし鬼魅の入るなれば、必ずその跡なし。人は兵をもって除くべく、鬼は祝《いのり》をもって除くべし、と。王、その計を用い、法によってこれをなすに、四人の跡、門より入るを見る。時に防衛の者、驟《はし》りてもって王に聞《もう》す。王、勇士およそ数百人をもって刀を空中に揮《ふる》わしめ、三人の首を斬る」。しかるに、国法、王に近き七尺内に刀を用うるを禁ずるをもって、竜樹その内に奔り入り、王の側に立ち、わずかに命を全うし、その時立願して仏に帰せり、となり。
 すべて鬼魅、幽霊の属は、現世に生活せざるものゆえ、生人に比して不足の部分ありとするが通例なること、英国にて両村間の荒地に??《しようよう》する幽霊、多くは頭なしといい(N.&,,June10,1905,P.448)、ハイチ島の旧土人、亡魂男子に化して婦女に近づくことあるも、臍なきをもつてたちまち露頭す、と信ぜるなど(Ramusio,‘Navigationi e Viagi,’Venetia,1906,tom.iii,fol.36 a.)にて知らる。これらと等しく、足跡は必ず生人に伴うものなれば、幽霊に欠如すというは、ずいぶん道理ある考えにて、他の幽霊も変化の物も共に足跡ありというに比して、分別精確なりと言うべく、ムーラの『柬埔寨《カンボジア》王国誌』一巻三一頁に、その民、鬼魅は日中に影なしと信ずと記し、応劭の『風俗通』に「丙吉いわく、かつて聞く、真人には影なく、老翁の子もまた影なし、と」とあるも、多少類似の信念に基づくならん。ただし、シュレッゲルの『歴史哲学』に、天人に推理力なしと言えるは、実にその神通の大なるを意味せるがごとく、幽霊に足跡なきが、すなわちその霊なる所以にして、この点について人幽霊を笑わば、これまことに?《やすで》の多足をもって蛇の煩い少なきを憐れむものならん。
 惟うに、わが邦に幽霊は必ず足なしというも、たぶん実体なき諸精霊は足跡を現ぜずと信ぜしより出で来たれる見解なるべし。ただしこの信念の、太古よりわが邦に存せしや、はた他国よりの伝来なりやは、今にわかに断ずべきにあらざるなり。根岸肥前守の『耳袋』初編三三章に、聖堂の一書生、妓楼に宿して幽霊|階子《はしご》を上がるを聞く話あり。普通に足なしとする幽霊に、足音ある由はしばしば聞くところなり。無碍《むげ》にこのことを解せんとならば、次のある英(124)人が昨年インドより、ロンドン『タイムス』に通信せる語を心得置くを要す。いわく、東洋人の心は論理の常規を脱し、よく同時に二つの正反対せる事譚を信認す、東洋人をしてたやすく信を置かしめんとならば、その誕全く信ずべからざるものたらざるべからず、と(Frazer,‘Adonis,Attis,Osiris,’1907,p.4注)。かかる矛盾説はもとより西洋人にも多し。何ぞ特に東洋人を咎めんや。(完)
  御影《おかげ》により神社神森一件もまず「二書」の分配で結局なるべく、小生は安心して昨日より大いに勉強し得、事業も早く進行申しおり候。
 本状七枚只今訳し、また写し終われば九月二十九日午前三時なり。直ちに郵便局へみずから持ち行き差し出し候。それより一睡し、明日また最終部、訳出差し立つべく候。
 明治四十四年九月二十九日早朝
                       南方熊楠拝
   柳田国男様
 
          31
 
 明治四十四年九月二十九日夜
 拝啓。前刻、拙生の写真(小生中央)、向かって右側に姉の娘、中央に弟の一女と一男、左側に先日の「田辺随筆」那智滝の歌読みし女(小生の兄の娘)、左右に、ジキンスとダグラス男の書翰を出だせり。これは小生蔵書に貼する book-plate に鐫《ほ》らさんとて拵えたものなれど、当地および大阪には見事なる鐫手なく、今日まで延ばしおる、その原板用の写真二枚しかなきを一枚差し上げ候。小生、人に写真差し上ぐることすこぶる稀《まれ》にて、今は手許に一枚あるのみなり。ジキンスは有名な日本学者、その漢字入りの手紙珍しきゆえ差し上げ候。ダグラスは、英国に一、二の支那(125)学者に候。(『大英類典』第九板の支那の条は、この人の手に成る。)この人の手書は英国にて名高き名筆に候。
 福本誠はあまり心術正しき人にあらず(孫逸仙を先年だませしごとき)。また小生の伝「出て来た歟」六回を書いて自分儲けたか知らぬが、神社一件等につき小生より状出すも返事さえ来たらず。もし今日まで刊本御配付なきことなら御見合わせ下されたく候。三宅秀、田中芳男、徳川達孝三君は、天然紀念物保護案の発頭人なれば、なるべく送り下されたきなり。三宅雪嶺また然り。しかし、もはや本なくば致し方なく候。小島烏水氏より依頼状、貴下は如何《いかが》か存ぜず、小生はなるべく拙意を徹するに恰好の折から、何とぞ一日も早く『山岳』へなり何へなり転載してほしきに御座候。目下、小生、菌の画をかいたり、妻の出産も迫り、なかなかちょっと整然たる論文はできがたく、巧遅拙速のたとえ、なぐりがきながら反って既刊の本の方、事実を直ちに露出せるところ力あるべく、相成り候えば速やかに『山岳』へ転載しほしきに候。この田舎の新聞へ転載したところが実際何の功力なく、反って濫伐を急がせる患《うれ》いあることと存じ申され候。
 ただし毛利は、小生が客月晦日、件《くだん》の状後回の分を毛利に一覧させ、その間に借財払いに諸所廻り候わずか一時間に、後回の分を九分通り写し、すでに『牟婁新報』へ出しおり候。
 貴下へ、『和歌山新報』、福本日南、小生に送り来たれる長歌、および小生返しどど一(序言とも)を、同新報社より数月前送本候や如何。
                      南方熊楠拝
   柳田国男様
  転載のみぎり、御迷惑なら貴下の私刊本に拠る由、書き添えずに済むことと存じ候。
  小生は『山岳』のみならず、なるべく諸処へ転載また抄出されたきに候。
 
(126) 明治四十四年九月二十九日午□□《〔不明〕》時訳し始む
 
      「神跡考」(続き)    N.&Q.,Oct.27,1900,pp.322-324の分。
 
足跡を度量の標準とする民多し。なかんずく支那には、古来、足の大いさより推して人の高さを言えり。『淵鑑類函』諸巻に、巨人の足の大いさを載せたり。三七五巻二三葉に、孔子の履一尺四寸長かりし、と見ゆ。孔子の身長は『続博物志』巻三に一丈とあり。
 人畜の全像を摸する能わざる麁技の民、または事情これを許さざる際において、その人畜の手足印をもってこれを代表するは最も適宜の方たり。かくて濠州土人、岩面に手を置き、その廓線を画き遺す由(R.B.Smyth,‘The Aborigines of Victoria,’1878,vol.ii,p.309)。『大唐西域記』巻八に、阿育王、仏、最後に遺せる足跡岩の近所に宮を建て日参に便にせり、とあり。これ仏跡を仏の現身と見|做《な》したるなり。この他に神像、人像など破壊されて足のみわずかに残ること多き一事、ますます足跡を尊拝するの風を興せしならん(Sven Hedin,‘ThrOugh Asia,’1898,p.796参考)。それにまた全像破り除かれし足基《ペデスタル》のみをすら崇拝することもあるなり(Tavernier,‘Les Six Voyages,’1676,tom.i,p.172)。
 人の特性、その足に賦し存すと信ずることあり。例せば、インドの譚原《ミソロジ》に、梵天王の足より首陀姓の祖生まれたりという(『マタンギ経』)。インドの詩に、金色の無憂樹は美女の足に触れられるまで花開くを見合わす、と(G.M.Godden, in‘Folk-lore,’vol,vi,p.227,1895)。シリサ(尸利沙)樹は踏まれて肥大す(『酉陽雑俎』巻三)。大|迦葉《かしよう》、仏寂滅に後れ到り、はなはだ不遇にして悲しみしとき、仏足、金棺より露出してこれを安んぜり(『淵鑑類函』三一七巻七葉表)。馬希範の足、尺を逾《こ》える大いさあり、これに触れしもの一日に渉って頭痛せり(『淵鑑類函』二六一巻二一葉)。足すでに如上の神力あり。足跡したがってまた神力を伝うとせらるるは自然の成行きなり。伏羲と后稷はその母いずれも巨人跡を踏んで孕めり(上出)。日本の一公家の履き物を拾いはきし者、足腫れて止まず、陳謝してわずかに治せる話、渋河春海(127)の『新蘆面命』三月十九日の条に出ず。かかることより偉人の足跡を尊ぶ風起これり。これを例せば、タヒチ島には王また王后が履みし地を斎忌《タブー》す(『大英類典』第九板、二三巻一六頁)。日本に貴人の踏みし地を常人注意して避けしこと、湯浅常山の『文会雑記』付録等に出ず。銭鏐即位後、その幼時|毎《つね》に踏みし石を尊び、仏像の基石とせり(『淵鑑類函』二六巻二九葉)。慈氏菩薩、日を定めて Ho-kia-tiau洲〔【和訶条国】〕なる青岩に印せる賢劫四仏の跡を拝せんため、諸菩薩、諸神を従え、天より下るという(同上、三一六巻六菓表)。
 人の特質、その足またその足跡に賦せられ存すと信ずるより、人と足跡の間に交感ありと信ずるに及ぶ。メラネシアには、姑と婿と兄妹姉弟と互いに注意してその足跡を履まず、波至って洗い去るをまち、海浜を歩す(Ratzel,op.cit.,vol.i,p.227)。日本には、客長座して困れる僕婢、その履物に灸をすえて客を追い払う(其碩『明朝太平記』二巻一章。亀友『金持気質』五巻二章)。グリムの説に、ドイツに讐人が踏める芝土《しばつち》の一片を釣《つる》し乾かし、それと同時にかの人を衰瘠せしむることあり。イタリアの俗伝に、ガウトを療せんとて呪言しながら、その人の足跡に三度唾することあり(J.E.Crombie,in‘Folk-lore,’vol.vi,p.273,1895)。
 以上、半宗教的の諸想は、集めてもって何故に足跡を巡拝また観光の記念とするに及べるかを解するに足れり。さて今は進んで諸方民が足跡を深く崇敬礼拝せる純宗教的思想の源由を討究せん。
 そもそも足は人体最下の部分なれば、何の時、何の国を問わず、他人の足また足跡に対し低頭するは、尊長に向かい敬礼の意を表するもっとも充分の標示とせるが常なり。支那に人を足下と言いしは、書をその人の足下に侍らしむべき貴人の謂い(丘瓊山『故事成語考』巻二)にて、同国に平時焼香せず事あるに臨んで仏足を戴くというも似たことなり。シャムには、皇前に進むを金足に達すといい(Crawford,‘Journal of an Embassy to the Courts of Siam and CoChinChina,’1828,p.373)。ヴィシュニュは三歩して世界を領取せし威神なるに(Cox,‘Mythology of the Aryan Nations,’1870,vol.ii,p.104)、ブリグに蹴られしを忍んで怒らず、反って面目と謙辞せしかば、ブリグ大いに欣んでこれ真に一切人(128)天の崇敬を受くべき神なり、と称讃せり(L.R.Vaidia,‘The Standard Sanskrit-English Dictionary,’Bombay.1889,p.877)。
  (追記)三浦功氏(海軍中将)、かつて今海相たる斎藤実氏に語る。南方さんはまことに面白いが、困った疵が二つある、一には酒飲まねば物言えぬと、二つにはどんなことでもみな彼《かの》方《ほう》で説き収めるとなり、と。すべて日本人は物に倦《あ》きが来やすく、長|譚《ものがたり》のあいだに彼方の話を入れぬと聞いてくれぬから、ここにも少々入れるなり。仏教には、仏足のみならず、仏弟子、羅漢たちをもその足を戴きて敬礼の厚きを表せる例多し。義浄訳『根本説一切毘奈耶雑事』巻一一に、「難陀《なんだ》(仏の弟子にて仏に次ぐ美男子)、出家して毘舎?鹿子母《びしやきやろくしも》に詣《いた》る。母《も》、浄信を起こし、その双足を礼せしとき、手をもって彼の身の柔軟なるに触著《さわ》る。女はこれ触毒《そくどく》にして、近づけばすなわち損害《そこな》わる。難陀、稟性《りんせい》多欲にして、すなわち染心《ぜんしん》を起こし、かくて精を流して、毘舎?の頭上に堕《お》とす。世尊、知りおわり、かの不浄を化して酥合《そごう》の香油と作《な》さしむ。手に触れてこれを嗅ぎ、かくのごとき念いをなす、何によってここにかくのごとき微妙の香油あるを得るや、この仏は神通《じんつう》あってこの香物を変ず、と。ついに希有《けう》の心を生じ、歓躍の心あり、云々」。難陀みずから悔いて比丘輩に告ぐ、「仏いわく、難陀は犯すなし、もしかくのごとき多欲の人あらば、まさに皮?子《かわぶくろ》をもって盛り、疑惑を致すことなかるべし、と、云々」。自分の足を別嬪に礼せられ、なよやかなる奴に触れて勃起のあまり、別嬪の頭上へ遺精せしを、さすがは同胞で、仏、気の毒と見て取り精液を蘇合香油に化し、別嬪さらにいよいよ随喜せしより、仏、かかる多婬人は以後皮?子で男根を盛り、以後女に足を礼せらるるとき頭へにゅっと落とさぬよう、と訓《おし》えしなり。ただし、この毘舎?鹿子母という別嬪は後家かなにかではなはだしき多婬な信女なりしと見え、東晋三蔵仏陀跋陀羅と法顕共訳の『摩訶僧祇律』巻一九に、「年少の比丘、身色柔軟にして、よく家を捨つる者」を見て、「この女人多慈にして、児子の想いを起こし、また法を敬すゆえ」に、かかる年少僧に以後予の宅へばかり来たれとて多く集め、勝手気ままに食事さす。阿難これを見て、「かくのごとくなれば、不信家、すなわち悪心を起こさん」(こんなことされると、仏法を奉ぜぬもの、いろいろの(129)悪評をなすべし)という。仏これを聞き、「以後、年いまだ二十に満たざれば、具足(戒)を与受《さず》くるを得ず」とあり、「児子の想いを起こす」とありて、次に「また法を敬す」とあるにて、信心よりも美少年好きが第一なりしを知るべし。阿難これを嫉み、かかる告げ口せしと見えたり。
  本文の足の大いさをもって人の高さを知る一事は、シャーレマン帝の足を尺度の標準として、王の足 Le pied deroi と言い、死後久しからざるののちメートル尺出ずるに及び廃せり。Einhard の『シャーレマン伝』に、この帝は高き方なれども、あまりに高からず、高さその足の七倍なり、といえり。しかるに、上古よりそのころまでの風として、男子の足と男根と同長と信ぜり。(婦人の足と陰門のつり合いのことは、ちょっと分からず。ローマのホラスの嘲詩に、ある婦女の陰、横径その足の長さあり、とは過大なり。)故にシャーレマンせい高き方ならば、その高さの七分一長の男根もずいぶんの偉観なりと Marquard《マルカール》 Freher《フレエ―ル》,‘Φιλοπουημα《フイロポネマ》’に詳論せり。日本にも大陰人の陰茎を称するに三本脚などいえど、これは脚にて足の意にあらず。‘Relation des Voyages faits par les Arabes et les Persans dans l'lnde et à la Chine dans le IX※[Xの右上に小字のe] Siècle de l'ère Chrétienne,’trad.par Reinaud,Paris,1845(唐の黄巣の乱ありしとき、唐に行きしアラビア人、ペルシア人の記行にて、地理学上名高き古書なり)p.8 に、アンダマン島の土人足長し、その一人ほとんど一クーデー(肘より中指端までの長さ)あるに至る、と。注に、原アラビア文、足とも、また男根とも読める、とあり。これらも男根と足と通名なりし証か。
 (これより本文なり)ある国民は、上世より手足の紋理が箇人ごとに異に、永久不変なるを知り、注意してこれを識別せしは、支那に古くより箇人に指紋、脚紋を用いしにて知るべし(‘Nature,’vol.li,pp.199-200,1894 に載せたる拙文“The Antiquity of the Finger-Prints Method”また Schmeltz がこれを評せる文‘lnternational Archiv für Ethnographie,’vol.viii,p.170,1895)。また、カンボジアに、師兄の手足紋を保存すること(上出)あり。かくて指紋、足裏紋の形相にいろいろの畸風あるを知り出だせり。禹と老?《ろうたん》は足裏に奇異の字を現じて生まれ(『淵鑑類函』四八巻二二葉裏および三一八巻六菓表)、(130)また老?と漢の孝宣皇帝また李固はいずれも足裏に亀様の紋ありしと伝う。釈迦仏、その足裏および手裏に網状の線条ありしを、前世かつて他人を害せざりしによる、とみずから言えり(『法苑珠林』巻九)。彼の八十二相の第三十四相としては?裏《あしうら》に百八吉相あることなり、そのうち最も著しきを輪相《チヤクラ》とす(Monier-Williams,op.cit.,p.513)。これら百八吉相は、この宇宙裏の諸物、仏に従属せざるなきを意味す(同上)。
 けだし、かかる足印を尊拝する風、インドにありてははなはだ古く、たとえば仏教と早くより分立せるジャイニスム徒、今日までその諸祖師の足跡を保存せるが、あるいは白、あるいは黒にして、小さき金圏を有す。ヴィシュヌを
〔小生傭われおりたる南ケンシングトン美術館の壁に,インドの僧兵,図のごとく抛槍とチャカールを持ちて戦に行く図,掲げられありし。図省略〕
奉ずる徒は日々ヴィシュヌ神の足形を額に画き、仏跡に似たるヴィシュヌ跡を拝す(同書、五〇八、五一四頁)。輪(チャクラ)は今のチャカールにて、鋼製の釜輪様の輪なり(Taverniier,‘Travels in India,’trans.Ball,1889,vol.i,p.82;Ratzel,op.cit.,vol.iii,pp.374-375 に図あり)。今もインドの兵士これを抛って敵を腰斬す。原来、破壊の印相として用いられたるものなり。
 大乗仏経の諸天、またヒンズ教のクリシュナ、ヴィシュヌ等の神の手より抛られ、空中を廻旋し飛んで魔を斬るなり。(Monier-Williams,p.522;Balfour,‘Cyclop dia of India,’1885,vol.i,p.640.『仏像図彙』、諸菩薩、諸天、輪《チヤクラ》を持てるもの多し。)その後輪宝と変移して、輪王世に出ずるとき、その制服力の多少により、あるいは金輪、あるいは銀輪、あるいは銅輪、あるいは鉄輪、天より下降し、転輪王の行前に転じ行く、とせり(『仏説楼炭経』転輪王品第三。また Eitel,‘Handbook of Chinese Buddhism,’1888,pp.171-172)。仏は宇宙第一の制服者なれば、輪宝ついに転輪王の物より移りて仏の宝物となれるなり。今日もシャム王を、仏足通りの足裏ある王と称し(Gardner,‘The Faith of the World,’p.869. この書ちょっと大部のものなれど、出板年号なし)、カンボジア王はヴィシュヌ神の裔《すえ》にて、生まれながらに手足裏ごとに輪相ありと信ぜられ、その(131)民より神足大王と呼ばる(Moura,op.cit.,tom.i,p.222;tom.ii,p.18)。これらいずれも古え制服者(転輪王)に輪宝随伴すと信ぜるインドの古俗が、仏教に分れてインド外の国土に伝わり、残存再興されたるなり。
 次に、足跡に伴う宗教思想は、先導〔二字傍点〕の一意義なり。支那に、道徳の模範を芳蹤に比し、羨むべき善き児を生めるを祝して、有徳の足跡、吉瑞あり(この原語忘れおわれり。丘瓊山の『故事成語考』巻二に出ず)という。回々教徒、人間最終裁判の時、無罪の人はみな大淵上の狭く危き橋を、回祖の蹤《あしあと》を履んで渉り、極楽に入ると信ず(ギボン氏『羅馬衰亡史』第五〇章)。古アイルランドには、新酋長即位式ごとにその開祖の足跡を鐫《ほ》れる岩上に立ち、旧法を変更すまじき由誓言せり(J.J.Bryan,in‘Folk-lore,’vol.vii,p.82,1896)。
 結論として予は言わん。問わるるところの巡拝また観光遊覧の紀念を残さんとて足跡を鐫《ほ》る風は、その起こるところきわめて古く、最初足跡を、陰影、映像と等しく、人および動物と必ず偕《ともな》いて離れざるものと見られたり。さて、それより諸天然産物に足跡類似のもの多きを見るに及び、考え合わせて諸精霊鬼魂もまた足跡ありと信ずるに及ぶ。さて陰影また映像に比して、足跡すこぶる摸写しやすく保存しやすく、加之《しかのみならず》足跡の観察の巧拙大いに人生に利害を生ずるをもって、蛮夷輩いかにもして紀念品として足跡を保存せんと力《つと》むるに及べり。また足跡すでに人に偕うて離れざるものなるをもって、これを印する人の諸力これに付きて存し、交感作用、人とその足跡の間に存するとせらる。ここに足裏の諸線条、千態万状の異相を形成するを観察し、また足跡にみずから支配する、占領する、先導するの意義あるを知るに及び、神聖なる足跡を尊拝して、その足跡の主に守護保全されて正道に導き至られんことを祈るに及べるなり。
 最終に一言するは、宗教上また宗教らしき本意にあらずして、ただその実用上の功をのみ目的として足跡を鐫《ほ》れる例なきにあらず。日本「馬おろし」(羽前辺と記臆す)の危岩路に足跡を長く鐫《ほ》り列《つら》ねあり、これを踏まねばこの嶮路を通り得ぬゆえなり(『風俗画報』明治二十五年刊、四五号二三頁)。(完)
(132) 九月二十九日夜二時訳しおわる、それより郵便本局へ出しに之《い》く。
 右はいろいろ用事多きうちにちょいちょいと訳出し候。多少誤字はあるべきも、再読すると晩《おく》れるから、そのまま出し申し候。あまりに分からぬ所あらば再問下されたく候。
                       南方熊楠
   柳田国男様
 
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 拝啓。河童のことに関し蹼《みずかき》ある人のこと少々縁あれば申し上げ候。
 『碧山日録』(明治三十四年発行、『改定史籍集覧』に収めたり)巻一、「長禄第三歳、己卯にあり。二月二十四日、昨日、間同書記いわく、云々。また前面なる池水の勝景を説く。次いで、同いわく、(正覚)国師、〔美〕濃の虎渓にありし時、鴛鴦《おしどり》あり、相馴るること久し。国師のち西芳に逸居せし時、一宵夢むらく、紅衣の小童あり、前に跪《ひざまず》いていわく、われはこれ前身は虎渓の鴛鴦なり、久しく師に随いて法を聴きしゆえをもって人身を受く、明日より来たって随い侍るべし、云々、と。国師、覚めてこれを記《おば》ゆ。果たして一童あり、紅の?《きぬ》を着けて来たる。その手足を見れば、すなわち網羅《あみ》の相《かたち》あり(わが土《くに》、これを水爬《みずかき》という)。師、すなわちこれに名づけて空念という。行者《ぎようじや》とならしめ、奉事の余に『維摩経』を課す。卒するに臨んで入定す、云々。のち一子を生む、これまた網羅の手なり。今、老行者常観あり、その四世の孫なり。行きて見れば、なお水鳧《かも》のごとし。今に至るも池中に鴛鴦はなはだ多し。它《ほか》の鵁?《こうせい》、??《けいちよく》の類は至らずという」(ここにいえる??はオシドリでなく、カイツブリかなにかに宛てたるならん)。
 鴛鴦は日本になき鳥に候。しかし、ここにはオシドリに聞かせたるなり。
 右は、畸形児遺伝して四世まで畸形を存せし例として面黒し。近年ニューギニアにて蹼《みずかき》ある民族を見出だせしと(133)申す。委細の記文をいまだ見ざるなり。もし、かかる蹼足の児など生まれんには、河童と伝えらるること必定なり。しかして、これまた全くなきのことにあらじ。
 人熊はよく立つものと見え候。その図ついでに見出でたるゆえ上に掲げ申し候。
 尼子か毛利の臣下に河童を斬りしもののこと、『新群書類従』かなにかより抄せることあり、見出でば申し上ぐべく候。
 馬のことは、小生「首きれ馬の伝説」と題する一篇を、そのうち『人類学雑誌』へ出し、その中に載すべく候。御申し越しのごとき日本の例は、目下一つしか知らず。例の跡先き分からぬ茫然口碑なり。そは昨冬|共生《ひようぜ》にて聞きしものにて、安堵峰側に千畳《せんじよう》という処あり。小生、十一月三十日独り行きしが、岩塊磊落たる間を氷雪で埋め、まことに危険ゆえ、十町ばかり上りて引き還せり。実に淋しき、昼も地獄ごとき所なり。これを上り行くと馬《うま》の馬場《ばば》という所あり。数町のあいだ常に草低く生じ、馬場のごとし。土器、すりばちの破片出ずることあり、また小つか掘り出だし候ことあり。ここにて白(?)色の馬、時として現われ駈くるを見ることありという。この辺でむかしビョウブ左衛門、安藤雅楽の頭という二人戦いしとて、土人はなはだおそる。その故蹟に、ここで隠れたり、ここで追われたり、ここまで逃げ来たりて安堵せるゆえ安堵の峰と名づくなどいう。いつごろの人か、なにか分からず。むかし地方に小戦争絶えざりしゆえ、その話の屑片がわずかに残りたるならん。
 近ごろ、郷土誌など書くとて、いろいろと熊野の事蹟を、護良親王、南帝の皇孫、楠正成、楠氏の後裔等にこじつけいうこと大はやりなれど、一もその証なく、ただただ土豪等|毎《つね》に小ぜりあい(134)ありし遺跡と見るの外なし。この地方の小戰争は、必ずしも南北朝とか楠氏の義軍に關係あるものにあらざるなり。
 白井光太郎氏よりは懇篤なる手書、昨日受けたり。小生はおいおい白井氏へ多年所藏の標品を送らんと存じおり候。三宅雄次郎氏は、河東(碧梧桐)秉氏を經て伝語あり、よつて小生そのうち一つ根本的の意見書を作り出ださんと存じ候も、例のごとく菌多く画かにやならぬ上、妻出産|間近《まぢか》ときてちょつとできず。貴下は三宅氏へもかの刊行物御配布下されたりや。慎んで拜読すべしと申し越されたるに送らざるも如何なり。もし貴方に殘本なくば、小生別に福本氏の分でも三宅氏へ転じ、貸しもらうことと致すべく候。また貴族院にて古碑天然記念物保護案の發議者たりし三宅秀、田中芳男氏へは送り下されざりしことにや。
 河童のこと、また見当たらば申し上ぐべく、神馬のことは右に申す通り小生あまり知らず。
 また馬蹄石のことは、木内重暁の『雲根志』一番|細《くわ》しく、その他は前に訳出致し候「神跡考」にて大体御覧仰ぎ奉り候。
 小生は御尽力によりまずこの上あまりに無鉄砲なる合祀はあるまじくと存じ候て、大いに氣も伸び、妻子も喜び、只今一意學事にかかりおり申し候なり。
 右馬神のついでに申し上ぐるは、あまり古からぬ嘉永前後、天保以後のものかと思わるる婬書三卷續きのものに、美濃とかの某社は馬霊神とか申すものを祀り、年々ひとみ御供をそなう。ある年、初花という女、十六とかになる美女、富豪の娘がこれにあたり、一同泣きながら櫃に入れ神林へゥ《お》き帰る。ところへ艶容十分なる十八ばかりの若衆出で來たり色事しかけ、初花恍惚としてこれと交合すること數番にして、暁近くなるとき身体溶けて水となる。これより身が溶けるようだということ始まれり、など書きあり。その図は fly leaf《フライリーフ》あり、それを左右へまくり押え見ると、あるいは若衆が初花にしかけるところと見え、あるいは馬頭の神が初花の陰を嘗むるところと見えるしかけなり。その次には初花すでに水となり、馬頭神、自分の陰を嘗むるところなり。‘La Nature’か‘Revue Scientifique’に、十(135)二年ばかり前投書して、欧州等で古え神社で巫祝また好事のもの獣類の装いして、神に供えし素女を犯し、その素を破る風ありし由論ぜし者あり、小生抄し置きしが今ちょつと見出でず。(かくて孕む者さえありしなり。)この婬本の所伝は一向の作りごとなるべきも、わが國にも古え獣の風して女を犯すことありしにやと存じ申され候。
 明治四十四年十月二日
                       南方熊楠拜
   柳田國男樣
  県会議員選擧すみ、合祀反対の首領毛利清雅最多票をもつて本日当選せり。次点、三点当選者いずれも合祀反対の者なり。故に本郡は四人議員のうち三人まで合祀反対の有力者なれば、本郡のみはまずこの上合祀は止むべきも、合祀跡地の濫伐滅却は、いずれも利害を異にするゆえ、とても小生の思うままにばかりなるべからずと存じ候。
 
          33
 
 明治四十四年十月六日
 芳翰拜誦。土宜法竜師よりは「二書」の受取書來たり候。小生「二書」出でてよりは大いに心も安く三年來始めて閑悠を得、妻子も大いに怡びおり候。
 「伝説十七種」のうち、「杖をさして樹木生長すること」、「八百比丘尼」、「長者のこと」、「朝日夕日」、「金鶏」、「隱れ里」、「椀貸」、「打出小槌」、「石誕生」、「石生長」、いずれも外國にも似たことはなはだ多きものに御座候。もし出板前その原稿を拜見するを得ば、本邦のことのみでも多少小生の扣《ひか》え中より増加するを得べしと存じ申し候。
 白井光太郎氏よりは熱心なる同情の手紙|有之《これあり》、小生はかの博士ごとき有力者が一文でも賛成の意を公表し、世に出(136)されんことを望むに候。また三宅雪嶺氏も(この人大隈伯流で一切みずから手書を出さぬ由)、河東碧梧桐に伝言し、大いに賛成の意を洩らされ、かつ『日本及日本人』は何の欄をも小生に自在に説を出すに供用するから、大いに学閥を打破することを力《つと》むべき旨申し来たられ候。
 「手紙の使い」は『今昔物語』に似たこと一つあるほか、小生は一向思い出さず候。しかし、西鶴の『武道伝来記』巻の七に、日向国|磯辺頼母《いそべたのも》という者、その家老塚林権之右衛門の妻にほれ、権之右衛門に急用ありとて手紙持たせて自分の伯父春川主計へ使わす。主計、状を開き見るに、この者罪あり、貴方にて手討ちにしたまわれとの状なり。主計これを権之右衛門に示すに、さてはと自分の妻に主人恋慕の一条を語り、隠しおくに、脱走して遁世す。その時室に遺したる大小羽織を頼母におくり、すでに成敗しおわれりと告ぐ。頼母喜び、権之右衝門妻を灸治に事寄せ召し、すでに汝の夫を殺せりとて大小羽織を示す。妻刀ぬき飛びかかるを捕え殺す。妻の妹夫妻、他国にあり聞きてこれを恨み、浪人して頼母を覘い討ち、二人もその場で果つるという話あり。「我《われ》が命の早使《はやつか》い」と題せり。「手紙の使い」よりは「己が命の早便い」の方宜しからんと存じ候。「我が」よりは「己《おの》が」の方宜しかるべく候。
 河童のついでに、本邦に犀、水に住み、人を害せし話多少あり。頼家か実朝のとき泉三郎親衡が信州犀川で犀を討ちしという(前書申し上げし信州大亀人を害せし話、参照)。
 また三河か遠江には「犀が崖」とかいう所あり(徳川、武田の戦いで著名なり)、ここにもむかし犀ありし由、何かの武辺物語で見たり。熊野でいう牛鬼ごときものかとも存ぜられ候。(牛鬼のことは、小生一昨年春の『東京人類学会雑誌』「出口君の『小児と魔除』を読む」に出し置き候。)
 スウェーデンかロシアの付属国なんとかいう国の古話、里伝、小唄、諺語を一万か四万集めたる人あり、昨年死せり。また、その辺で篤志の士二人会集して里伝の大著述を出し(よほど著名大部のものと聞く。『大英類典』第一〇板に伝ありしが、その名を忘れたり。第一一板にもあるべきがちょっと見出でず)、欧州第一の書といわるる。何と(137)ぞ本邦にも書籍ばかりでなく、実際実地を履み、また諸家と通信によりかかるものを拵えたきことに候。当国なども書籍に洩れおる俚伝はなはだ多し。
 小生妻、今月臨月にて出産のはずなるが、今にそのことなく、人少なにて小生はいまだ出発を得ず。かの西牟婁郡近野村の近露王子下宮の大杉樹はすでに売られしを、いろいろして今まで伐木見合わせあり、また友人を遣わし村長を説かしめしに、村長も大いに後悔、伐木を今一ヵ月間見合わせ、そのうちにどこかから有力の勧告抗議さえ入らば、村会に付し、買い戻し保護すること、かの神島の例のごとくせんと、日夜抗議の到るをまちおるなり。小生は二年前より毎々抗議しおることゆえ、この上小生ばかりの抗議は無用なり。何とか貴下、白井博士そのほか四、五人でも宜し、連署して新任川村知事へ一書御出し下さらずや。この社の神林のことは、「二書」の二六および四〇頁にその大きさを明記して出し有之候。
 当国合祀中もつとも失態を極めたるは、この野中・近露二王子の滅却にて、小生みずから郡役所の記録によって調べしに、他の諸郡、諸村はいずれも諸社を滅却してその村在来〔二字傍点〕の一村社に併せしなるに、この近野村のみは地価も全無の禿山、樹も何もなき禿地へ、新たに金刀毘羅社なる無格社を作り、それへ、大字野中の村社野中王子(すなわち有名なる一方杉ある所)、大字小広の無格社小広王子、大字たかふの無格社中川王子、大字下永井の無格社八幡、大字大畑無格社八幡、大字湯川村社湯川王子、大字近露村社近露王子(上宮と下宮あり、いずれも大老杉あり。上宮はすでに濫伐、下宮は今度伐られんとするなり)、大字宮の上村社春日社、大字|倉垣内《くらがいと》の無格社丹生神社、大字下平無格社地主神社の村社四、無格社六、合して十社を合併し、跡地を滅却伐木せしなり。野中王子跡の一方杉は、小生らの抗議のため保存されあり。しかるに、その大きさこれに劣らぬ大杉ある下宮の神林を今度伐らんとするなり。
 右の列名のうち、無格社とある諸王子、いずれも『御幸記』等に見えたる史蹟に候。
 ここの神主は武田|弁次《べんじ)》とて、実は我利我慾の男にて、その不埒《ふらち》なることは「二書」二七頁にも出でたり。合祠の際、(138)諸神体を手に持ち重量をはかり、古道具同前に価格を評せしと申す博徒ごとき男なり。(以前は荷持ち人足なり。)この者の管する神社、近野村十社、二川村(すなわち兵生のある処)の珍異植物多き村社四、無格社一、合して五社も合祀されおわりぬ。非常に評判悪しき神主なり。
 毎度毎度新聞へ出すも如何《いかが》なれば、何とかこっそりと貴下、白井氏その他四、五人連署して知事へ状出し下さらずや。実に惜しむべき古神林、大老杉に候。村長は、知事より伐木をなるべく止め史蹟を保存し、老木を保留すべしと下命あらば、直ちに村会に付し買い戻さんとてまちかまえおるなり。小生よりは人をして一昨日、必ず知事よりかかる下命あるべければ、何とか伐採をしばらく見合わせ、と申しやりあるに候。毎々御迷惑ながら何とぞ御尽力を仰ぐ。白井氏へはすでに申し上げたり。
 考古学会へ出すべき論文「猫一疋より大富となりし人の話」は、本日脱稿、これより浄書の上差し上ぐべく候間、貴下の御手で御校正下されたく候。欧字はなるべく綴字に御注意、怪しきやつは字書で綴字のきれ目きれ目を見、一語をば二行に分け印する際は、特に注意して綴字のきれ目にて御きり下されたく候。従来、本邦人の論文に欧字を入るるにこの心がけ皆無ゆえ、たとえば「君が代とがの字を入れて書く歌に、日本の者の口の広さよ」と貞徳の句あるごとく、短冊に濁《にご》りを打ちて歌を書いたりするごとく、非常に物を知らぬ所行とて外人に笑われ申し候。Whittington and His Cat と二行に印すべきを、何のわけもなく場面を節せんとて Whittington and h-is または and his C-at などと一綴りの字を二つにむりに折拆《さ》くようのこと多く、また数字1290 A.D. を 129- 12- などとすること多し。これははなはだ無智の所行として笑わるるに候。Whit- または Whitting- はよし、Whitt- また Whittin- は惡し。
 合祀一件で大多用中に書きしものゆえ大いに骨折れ候。また落ち着いて書いたものとかわり文章悪しき処あり、かつ欧人は日本人の功名をきらい、ややもすれば握りつぶすこと近年大流行なれば、英国で出板ならぬも知れず。しかし読んで意味の通ぜぬような悪文にもあらず。せっかく書いたものゆえ(小生はいつも原稿を留めず捨ておわるが例(139)なれど)、今回に限り原文英文一通貴下にさし上げ置き候。もし英国で出なんだら貴下この英文の方を保存し、後年なにかに御出し下されたく候。
                             南方熊楠拝
   柳田国男様
  当地『牟婁新報』には今度「二書」配布のこと一切出さず。これは毛利選挙のことで大騒ぎ中なりしゆえなり。和歌山の新聞二つほどには、熊楠の在京一親友が刊して、僅々の人数を限り配布の旨記し置き候。むろん貴下の名は出しおらず。
 
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 明治四十四年十月七日早朝五時
 拝啓。小生昨夜眠らず、考古学会への論文を翻訳し、只今臥に就かんとて門辺を見まわりしに、本日の『牟婁新報、投げ込みあり。それを見るに、封入の記事あり。小生は前日来妻子病気、また毛利は選挙騒動にて一向新報社と関係なく罷りありしに、一昨々日夕、野長瀬というもの来たる。この者は近露の人にて久々大阪にありしが、妻病気のため養生に当地に来たりおり、近露の下の宮の大杉伐られんとするを以前より小生のためにしばしば村へ往き止めおるものにて、年若く何の思慮なき善人 bon homme なり。前日も帰村中、右の老杉はや伐らるるに逼れりと申し来たりしゆえ、小生ちょうど「二書」の刊本一部配布すべき人名を貴下より受けし日にて、全く野長瀬をして近野村長を説かしめんため『法華経』にいわゆる権多実少的の状を出せしなり。それを野長瀬読み分けて村長に説き、まずは三十日ほど伐採を延期させおり、一方小生は白井氏に状出し何とか勧告書を知事に送るよう頼み上げしなり。しかるに、野長瀬は何の考えもなく、右の状を新報社のものに見せたることと存ぜられ候。これ全く野長瀬の知ったことにあら(140)ず、小生の手ぬかりなり。小生は西洋流で(野長瀬も米国に七年おりし男)私信をむやみに新聞かきなどに見せぬことと思いおりたるに、この者毛利と心やすく、またこの状を『新報』へ出さばいよいよ村長は恐れ入り伐採を延ばすべしと思いて出させたることと存ぜられ候。
 とにかく貴状に、かの刊行物は貴下より配布せりといわぬようくれぐれも御頼みあり、故に和歌山の二新聞へは小生の在京友人がしたとのみ出し、貴下の御姓名を出だしなきに、当地の『新報』へ出だせしはすこぶる相済まぬわけに有之候が、出たものは致し方なく、もし仕様あらば小生何とでも致し申すべきが、とにかく『新報』切り抜き封入、御意見を伺い上ぐるところなり。
 
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 明治四十四年十月八日夜十二時過
 本月四日出芳翰拝見。『牟婁新報』へ貴下の御名出し候こと、いかにも不快、よって小生は毛利と絶交致し候間、これにて御宥恕下されたく候。小生は御蔭をもって大いに安楽に相成り候えども、かの近野村老杉伐らるること近日に逼りおり候ことのみ大心配に御座候。他の合祀とかわり、この村のは全然在来の神社十三をことごとく相つぶし、さて禿山山頂の無地価、無樹草の上へ、曖昧至極なる金毘羅社を何のわけもなく立て、それへ一切の神体を押し込み、「二書」第二七また四〇頁に見えたる通り、ごろつきごとき荷持人足生立ちの神主が、掌中に一々神体を弄して道具屋然と価格を評定しなどし、さて合祀跡はみな濫伐しおわれるにて、
  そのとき乱伐を掌りし中野という人は、たちまち二子熱病になり死亡、今におそれおれり。残れるは、「二書」四〇頁に見えたる老杉のみ。それをまた右の禿山神社前へ、新たに樹を植える費用を得んためとて伐り売るに候。実に遺憾千万なことなり。何とかこれは留めるように致したきものに御座候。村長は知事より訓戒(141)さえあらば、前日の神島同様、村会に付し村費をもつて買い戻すつもりに相成りおり、何とか知事より訓示出るように願いたきことに候。定家卿の『後鳥羽上皇御幸記』に載せたる野中、近露、小広《こひろ》、中川、比曽原、湯川諸王子、またムツ大明神とて小生の『牟婁新報』「山の神とオコゼ」に載せたる石六つ祭れる奇体なる神社、ことごとく滅却されたるにて、野中・近露両王子の社跡のみ一部分残りおるに候。それもこの伐木にて全滅するに候。
 右一件宜しく頼み上げ候。
 妻は今に出産せず、今月臨月なり。小生もちょっと外へ出られず罷りあり候。考古学会への論文訳出せんとするところへ御状ありしゆえ、まずその方から御返事、左に申し上げ候。
 「燕石考」は遠からず訳出致すべく候。原稿今夕捜し出し申し候。
 熊野比丘尼郎君子のことは、小生はただ一つ拠《よりどころ》あるのみ。そは西鶴『一代女』三巻三章「たわぶれの歌船」(大阪河口の光景なり)の段に、前略、比丘尼は大方《おおかた》浅黄の木綿|布子《ぬのこ》に、竜門の中幅帯前結びにして、黒羽二重の頭隠し、深江のお七指しの加賀笠、うね足袋はかぬということなし、絹の二布《ふたの》の裾短く、とりなり一つに拵え、文台《ぶんだい》に入れしは熊野の牛王《ごおう》、酢貝〔二字傍点〕、耳かしましき四つ竹、小比丘尼に定まりての一升|干杓《びしやく》、勧進という声も引き切らず、云々。これにて候。比丘尼が売婬することは釈迦の世よりあり、故に悪僧ら、そんな悪蹤を諳《そら》んじて、末世には止むを得ぬことなどと口実を設け仕出だせしことと存じ候。(欧州にもキリスト売婬女を教化せし伝多きにより、後世それを口実として比丘尼売婬のことはなはだ多し。木下友三郎氏より御譲り受けの小生の神社合祀反対意見にも多少載せあり。)
 たとえば、東普三蔵法師仏陀跋陀羅、沙門法顕と共に訳せる『摩訶僧祇律』巻四二、「仏、舎衛城に住む。その時、釈種の女、摩羅の女、離車の女、貴人の女、人をして出家せしめ、人をして端正ならしめ、外人と交通せしめ、もってみずから活命せんとし、世人の譏《そし》るところとなる。こは出家人にあらずして、これ婬女なるのみ、と。また比丘尼すなわち私《ひそ》かに園民の女を外に畜《やしな》い、婬蕩せしめ、もってみずから活命す」。仏これをきき、制止を加えしことあり。(142)支那にも例多きが、『志雅堂雑鈔』(宋の周密撰)巻下に、「臨平の明因尼寺は大刹なり。往来の僧官至るごとに、必ず尼の少艾《しようがい》なる者を呼んで寝に供す。ここにおいて寺中もっぱら一寮を作《な》し、儲尼の常に婬濫《いんらん》なるものあれば、もって不時の需《もと》めに供し、名づけて明因尼|站《たん》という」とあり。欧州には近古までかかること多し。全体、仏在世のむかし尼は必ず剃髪しおりしものにあらず(短く刈ればよきなり、病等を詐り長く延ばせしもありぬべし)。姚秦三蔵弗若多羅、三蔵鳩摩羅什と共に訳せる『十誦律』巻六、掘多《クブタ》比丘尼、もとの夫|迦留陀夷《カルダイ》比丘、舎衛国へ来たりしときき面会に行く。「すでに身体を洗い、面目を荘厳《しようごん》にし、香油を髪に塗り、軽き染衣《ぜんえ》を著《き》る」とあり。(このとき面会して、共に染著心《ぜんじやくしん》を生じ、比丘尼、罪を生ぜんことをおそれ走り出るを、比丘おっかけ精液出で衣をぬらす。比丘尼還ってその衣を洗いやるとき、汁をしぼり小便所に著け、また一分を飲みしに子を孕み生みし、という珍談なり。)
 画ときということ、唐三蔵法師義浄訳『根本説一切有部毘奈耶』巻三四、三舎城長者の子、父大海に入り珍貨を求め久しく帰らず。孤貧にして成長せしゆえ貧生童子と名づく。この人竹林園に入り、仏が寺門屋下に五趣生死の輪を画き、知解者をして諸人に指示〔五字傍点〕せしむるを見、飲食もつて仏に供せんとて富家に慵われ供養を遂げし話あり。現今のチベットに、絵解き比丘尼諸処を遊行し活計する者あり、鎌倉ごろの絵解きと左《さ》までかわらず。唐朝の風が日本へもチベットへものこれるならん。ここに古伝説を「かけもの」に就いて唄うとあり。p.353 に、比丘尼は短く髪をはやし、比丘とかわらぬ粧いなり、男とまちがうほどのもあり。ただし、帽の色、僧と異なり、とあり。(Sven Hedin,(143)‘Trans-Himalaya,’1909 より、右あらまし写し候。
 このかけものは地獄楽土の図なるぺし。チベットの地獄楽土のかけものを、小生、大英博物館にて多く見たり。
 首切り馬のこと、今夕ちょっと『遠野物語』を見しも、一つも見当たらず候。英国には首切り犬あれど馬はなし。
 柱松は御承知のごとく『源平盛衰記』にその説あり。当田辺の漁夫また東牟婁郡那智村天満でもする。図のごとく後向きに屈み、胯間より距離を測り、ねらいすまし炬《たいまつ》をなげる。なかなかちょっと桿上の籃中に炬が落ちぬものゆえ、雨夜などは人|桿《さお》をつたい上りて火を点ず。満足に抛げ中《あ》てた漁夫は、その次年漁利多しなど申す。
 どうろく神のことは、小生知らず。
 前書申し上げしカシャンボ(河童)は火車のことなるべし。火車の伝、今も多少熊野に残るにや、一昨年南牟婁郡辺に死せる女の 屍《しかばね》寺で棺よりおのずから露われ出で(生きたる貌にて)、葬送の輩|駭《おどろ》き逃げしということ、『大阪毎日』で見たり。河童と火車と混ずること、ちょっと小生には分からず。
 的を貴示の図のごとくするは、欧州また然り。欧州には、字義(盾《たて》)のごとく円盾 tar-get,targe より起これりという。今年出板、第一一板『大英類典』二七巻によるに、弓術には円環を常とし、三環が常なり。銃環には方環を常とするとのことに候。競翫射には牛眼五点、内廓四点、鵲三点、外廓二点、兵務射には牛眼四点、内廓四点、鵲も外廓も(144)二点、その外は一点というに御座候。
 蚩尤《しゆう》の眼でも何でもなく、中央点より均距離を測るには、ぜひかくのごとくせねばならぬことと存ぜられ候。
 ハマのことは小生知らず。欧州にも古くより行なわるる quoitis は、わが邦より欧州通いの船にも備えあり。図〔【前頁の下】〕のごとく釜の環ごとき革製また鉄製の輪を飛ばし、前に立てる杭に串ぬき落つるが勝ちで、貫き得ぬがまけに候。彼方の職人など、件《くだん》の輪を買い得ぬものは馬蹄鉄でやらかしおり候。
 秦氏餅を射し話は、豊後かどこかにもありしと記臆す。外国にも似た話あり。
 股の権利のこと。当県東牟婁郡勝浦港は古来はなはだ淫奔の地なり。十年前、小生その郊外の地におりしに、人の妻たるもの売婬するをほとんど名誉としおる。亭主海外出稼ぎの空閨怨ある若き妻、売婬しながら町内の寄席で祭文かなんか聞き帰り、「女の操」というは一体どんな棹だろうなど相尋ぬるをきくもおかしかりし。ここはほとんどそのころまで(今も多少然るべし)娘が十三、四にもなると、老爺を頼み破素しもらう、その礼として米(酒か)何升と桃色のふんどしを老爺に餽《おく》るを例とせる由聞けり。これは Mantegazza,‘L'amour dans l'humanite左下がり’に多く例出でたる通り、破素のときの血をはなはだしく汚穢なるものとし、僧をやとい(元の周達観の『真臘風土記』にも出ず。手をもってすると陰根をもってすとの両説あり)、梵士をたのみ、はなはだしきは奴僕をして初嫁の妻を破らしむることあり。わが国の春画などにも巧者な老巧輩をたのみ破素しもらう図多く、また男色の?童の肛門を馴らすに人を頼み毎夜掘らしめ(スバリということ、『嬉遊笑覧』巻九に見ゆ。自笑、其磧の書など見るに、これは件《くだん》の法を用うるも一向馴れぬものをいうと見え候。窄小の字を宛てたり)、その跡へ棒薬《ぼうくすり》と名づけ胆礬《たんばん》を綿に付け栓し、つまり肛門の触覚を鈍からしむる法を行なう。その技、手精を門内に洩らすことは厳禁なり。故に、これらは君主が権利をふりまわして配下の初嫁の女を試むるに反し、礼物を受け義務〔二字傍点〕上この好ましからぬ役目を果たすものに御座候。
 今夜、前状申し上げし広畠岩吉という怪談の活字典ともいうべき人を訪い聞きしに、去年人に灸すえて廻国する人(145)来たる。この人は十一年前に大病で鬼と隣をなすところで、妙な灸方を得て平癒す。独身にて思いのこすところなければ、この灸方もて人を救わんと心がけ諸国を廻る。十一年前に亡ぶべき命何かは惜しかるべきとて、奇異な所あれば危険を冒して見に行くを仕事とす。この人|話《はなし》に、信濃の某河に絶大の亀あり、深淵にすむ。人を寄せず、また人に見られず。また別に一大亀あり、これは人を害す。あるときちと痴《し》れたる男あり、その河を渡り、七、八人の百姓草を刈る輩の食を運ぶ。河中、件の大亀にあう。その者、われこの食を運び返り来たり汝と闘うべし、と約す。さて河を渡り百姓|原《ばら》にあい、わけを話し、その食を貰い食い悉《つく》し、鎌八挺借り、河中に返り大亀と闘う。百姓原驚き三町川下なる渉《わた》し場に至り、百五十人ばかり人を集め応援に趣《おもむ》き、ついに亀を捉え殺す。その亀の甲にかの男の打ち込みし八挺のほかに十二挺の鎌を打ち込みありし。これはいずれも川渡るとてこの亀に取られし人が、死闘して打ち込みしなり。亀甲をとり、雪隠の屋根とせり。その人まのあたりこれを見し、と。
 この人いわく、ガリョウというものあり、大亀にして竜頭なり。また、なまずの主《ぬし》、うなぎの主等の棲む淵は常に濁るものなり、と。広畠氏その話を聞き、田辺より二里余なる富田川に名高き大鰻すむ淵を見るに、果たして常に濁れり、と。
 またいわく、このごろ淀河筋の地より煙管替うる職工(ラオシカエという)来たれり。このものはなしにその辺の池に六畳とか八畳とかの大亀あり。石の杭で囲み神とし、年々九月某日に食を供し、神主祭詞をよむに必ず泛《う》き上がる、云々。前状申し上げし蒙古の亀人を害する等の伝説に似たことゆえ申し上げ候。早々敬具。
                       南方熊楠拝
   柳田国男様
 
(146)          36
 
 前日の「二書」配布して、これを受け取った人々より大抵は貴方へ受取書ハガキぐらいは来たりたることに候や。また小生へ御転送相成りたる白井、松村、三好、井上、賀古、小島.志賀諸氏に止まり候ことにや。(もっとも小生はそんな受取書ぐらい見たからず。)中には「二書」受け取りながら受取書ハガキ一本も出さぬものも有之《これあり》候や、伺い上げ奉り候。
 御下問のものに縁あることども、扣《ひか》えども閲して少々かきつけ候。以下は、『続々群書類従』よりとるなり。
 『世田谷私記』穂積隆彦撰。世田谷勝光院の什物に火車《かしや》の爪あり、これはある亡者を送りける時、火車亡者を取らんとせしに、この寺住持智徳あり、珠数にて払いぬ。この時この者の爪落ちたり、と。文化九年十二月五日、これを見るに爪四つなり。珠数は水晶なり。焼けたる袈裟もあり、云々。『一話一言』にも、火車切りし人の刀のことあり。また『常山紀談』にも、多田新蔵とか信濃のものにて信長を狙撃し殺さるる大勇士、火車切りし話あり。
 柱松のこと。『東大寺続要録』諸会篇(『続々群書類従』四十年二月発行、第二冊二五三頁)に、「今度《このたび》の見物(延年の舞いの)、大衆雲のごとく霞のごとく楽屋の辺に群集し、左右なく一声を揚ぐるの条、ただに寺の面目を施せしのみにあらず、当時の勝事、向後の美談なり。延年の間、柱松〔二字傍点〕等の修理|目代《もくだい》を仰せられ、用意すといえども、十四夜の月ことに晴れ、ほとんど三五の夕に同じ、云々」。
 山姥の杖に関係あること、『東大寺要録』(同書同巻に収む)巻二、「古老いわく、鯖を買《あきな》う翁あり、杖をもって鯖八十を荷《にな》うに、その鯖変じて八十の『華厳経』となる。件《くだん》の杖木は、大仏殿内東近廊の前にて地中に槌立《うちた》つるに、しばらくしてたちまち枝葉を生じ、すなわち樹木となる、これ自身木なり。今、伽藍の興廃はこの木の栄枯に従うべし、云云、と。今見るに件の木あり」。これは仏の楊枝木のことなどに基づける里伝なるべし。また仏成道地の菩提樹の盛(147)衰、仏道の消長に関する説などを取り合わせたるならん、『西域記』に見えたり。
 僧義澄の『招提千歳伝記』巻上の三に、六粒の舎利、六千となることあり。「招提寺第二十九世禅戒和尚。元徳三年春三月上旬、みずから越の前州に至り、新たに善光寺を建立せんと欲す。時に師の嘆じていわく、われ常〔【この下一字欠字】〕に当寺の舎利を恭敬尊重す、しかるに今遠く去る、奈何《いかん》ぞ造営の功成って帰るを賦《ふ》するに至らんや、久しくこれを拝せず、と。ここにおいて官に申して宝塔を開き、ついに六粒を得。しかしてかの国に到り、寺宇を興建してさらに一方の精藍となす。その功六歳を過ぎて成り、その間、恭敬尊奉してこれを守ること、あたかも眼目のごとし。故に六年のうち、六粒分かれて六千粒に満つ。師いよいよ信を生じ、功終えてすでに招提に帰る。路中たちまち二《ふたり》の禿人に見《あ》う。師これに問いていわく、卿は何人なるや、と。異人答えていわく、気伊と気多なり、仏骨を護らんがため今ここに現ず、と。師、感喜こもごも集《つど》い、それよりこの二神を崇重し、本山に帰来してさらに勧請をなし、仰いで鎮守となす。その仏舎利は諸方に散在し、古今に招提舎利と号《なづ》くるはこれなり」。
 舎利分かるること、仏書にはなはだ多し。一例、唐、釈道宣の『続高僧伝』巻一二、釈法総伝に、「仁寿四年春、また勅して舎利を遼州の下生寺に送る。光を放ち、粒分かれ、その相きわめて多し、云々」。また巻二四、釈曇栄伝、「かつて韓州郷邑県の延望寺に往き、懺悔の法を立つ。刺史の風同仁もと釈門を奉じ、家に供養を伝う。舎利三粒を送って、行道の衆を遣わす。栄、年八十に垂《なんな》んとして、みずから道俗三千人を率い、野を歩き路に迎え、二十余里よりす。?従《ひんじゆう》の盛んなる、誉れ当時に満《あふ》る。すでに寺中に達するや、すなわち衆に告げていわく、舎利の徳は、挺変《ていへん》すること無方なり、もし業を累《かさ》ねて銷《と》くるあらば、請祈《いのり》遂ぐべし、と。すなわち人々の前|別《ごと》に水鉢を置き、加うるに香炉をもってし、通夜して苦求す。明《よあけ》に至って、鉢の内にすべて舎利四百余粒を獲、云々」。
 下の一事「神跡考」の末へ必ず御書き入れ願い上げ候。慈覚大師『入唐求法巡礼行記』巻三、会昌二年の条に、「僧眩玄、奏してみずから剣輪を作り、みずから兵を領して廻鶻《かいこつ》(ウイグル族なり)国を打たんとす。勅してかの僧を(148)して試みに剣輪を作らしむるに成らず、云々」。これインドのチャカール(チャクラ)にならい、支那僧がこれを作り敵を伐たんとせしなり。さればチャカールは剣輪と訳すべきなり。
 見越し入道ということ、田辺辺に今もあいしという老人あり。寛永十六年八月吉祥日の跋ある『吉利支丹物語』に、弘治年号のころ南蛮のアキンド船に、始めて人間の形に似てさながら天狗とも見越入道とも名の付けられぬ物を一人渡す、よくよく尋ね聞けば、ばてれんというものなり。これより先に見越入道のこと御見出だしありや。『新群書類従』第一冊所収の『皇都午睡』(五二〇頁)に、河童の屁は木《こ》っ端《ぱ》の火《ひ》なり、と。同第三冊所収の『京雛形』(山下半左衛門作、八文字屋板)、又介は腰元に杓子《しやくし》を持たせ、おれを招いてたも、これで招くと三年のうちに死ぬるぞや、三年はまだるいと五、六本取り出し一々持たせ、みなよって五、六本で招いたら、命が縮まって五日か三日のうちに死ぬるであろう、云々。杓子で招けば三年のうちに死ぬるということ、そのころの俗伝と相見え候。
 土佐少掾正本『源氏六条通』に(源高明謀反を頼光平らぐることを述べたり)、公時笑ってこの坂田をよの人間と思うかや、父は赤竜、母はまた戸隠し山の山神〔二字傍点〕なり。
  小生亡母は、若いとき屋敷奉公し(徳川家茂公死せしとき毒殺とか手落とかの嫌疑で、当国友が島へ三年徳田某という医者流刑、小生母と少々縁者なり、よって亡母随い奉公せり。この徳田の妻、いろいろ古い浄瑠璃物語を読むを好み、亡母そのころ二十歳ばかりにて聞き覚えたるなり。その徳田の子は工兵中佐かなんかで徳田正稔といい、十余年前まで生存せり。その兄は本居豊頴なり。正稔の実母は十年ばかり前まで和歌山で小さきテンプラ店しおりたりと聞く。されば妾腹の子かなんかなり。豊頴氏正稔の兄ということは南葵文庫主管斎藤勇見彦氏に聞けり。豊頴氏と正稔氏といかなる兄弟ということを知らず。正稔氏自分邸に仕えし下女の子が熊楠なりと聞かば、驚きまた懐旧の種ともなり、小生亡母の逸話を聞き得るも知れず、一度面会したきも生存だも知らず。井上通泰氏、本居豊頴氏御存知ならば、正稔氏の存否聞き置き下されたく候)、亡母そのとき徳田氏の母に聞きしと(149)いうて話せしは、公時の父坂田の蔵人というもの、讒にあい腹切り、その血を蔵人の妻呑み、孕中の子父の死後生まれたるが公時なり、故に全身赤し、と。さて、母は足柄山に入りて山婆となれり、と。父は赤竜、云々、また俗書『前太平記』に、公時のおる山上に赤雲立てりなどいうは、漢の高祖の伝より出でしならん。
 『遠野物語』の鬼物にとられ子を産む女子、みな鬼に食わるること、吉田義山編輯『梵網経古迹記』、「『瑜珈論』にいわく、云何《いか》なれば諸欲は味わい少なくして災い多きや、と。頌にいわく、なお羅刹女のごとし。示親《じしん》を怨詐し、誑心《きようしん》もて悪業を生じ、苦を招いて涅槃《ねはん》を障《さ》うるがごとし。羅刹女の交わりおわつて食を致し、また怨士の親を詐《いつわ》つて害を加うるがごとし、と。『涅槃経』一二にいわく、善男子よ、いかに羅刹女婦のごとくなる。善男子よ、たとえばかくのごとし。人あり、羅刹女を得、納《い》れてもって婦となすに、この羅刹女は生むところに随つて、子生まれおわれば便《ただ》ちに食らい、子を食らいすでに尽くれば、またその夫を食らう。善男子よ、羅刹女を愛すれば、またかくのごとし」と、男女とかわれど大体は似たることなり。
 『風俗通』巻二、「武帝、仙人と対《むか》いて博《はく》をなし、碁、石中に没す。馬蹄の迹処《あと》、今になお存す」。これは馬蹄石のことのもっとも古く見えたる一つなり。「神跡考」へなり、また必ず貴下の御作中へ加え下されたく候。
 源頼宣卿の命を奉じ児玉庄右衛門尉撰『紀南郷導記』(写本なり、刊本なし)、野中在所はずれに王子の小禿祠あり、この社の前に名木《めいぼく》の継桜あり。古木は枯れてなかりしを、前君の厳命により(熊楠いわく、『後鳥羽院御幸記』にある継桜王子なり。桜のつぎ木の名木なりしゆえ名所と見えたり。今はこの中祠もなく、また桜もなきが、小さき桜をその跡に植えあり)換《かわ》りに山桜を栽えたり。今大木となれり。(この木今また枯れたるなり。)接ぎ桜はむかし秀衡夫婦参山のとき(熊野詣でなり)、剣山の窟にて出産せられ、その子をそこに捨て置き参山す。ここに至り仮初《かりそめ》に桜を手折りて戯れにいわく、産むところの子死すべくばこの桜も枯れましと言うて、かたわらの桜にさして往き過ぎぬ。下向道になりてここに来て見るに、色香盛りのごとし。すなわちかの窟に行きて見るに、幼子は狐狼のためにも犯され(150)ず、還って服仕せられて肥え太れり。夫婦悦んで奥州に供して帰りし、と言い伝えたり。
  この剣山の窟、また合祀にて今は尋ぬる人なし。日本に三つの剣山あり。(阿波の高山のやつ(上るに十二里ありとか)と、これと今一つはどこか知らず(安房?)。日本武尊の剣を納めたるという。神主は小生の妻の妹聟なり。)合祀にてはるか山麓の神祀に合わせたり。遠足、行歩、また高山に登り氣宇を養う等の妨碍をなし、気の小さくけちんぼうしみつたれ根性を助成する、かかるへげたれたる合祠ははなはだ如何なり。四、五年前の大英科学奨励会人類学部長の開会演説に、日本、ギリシア、ヘブリウの民、いずれも古今世界史中の開発者なるが、いずれも早くより宗教上山獄を攀《よじ》る風行なわれ、大いに国民の氣象を高めたり、とありし。しかるに、神主や官公吏の足労をのみ標準として、高い処、遠い処の神社ことごとく?滅ははなはだ国民の元気を削減す。
  右は前状の狼に養われたる子供の事実はとにかく、譚《ものがたり》だけは日本にあるを証するに足れり。
 『考古学雑誌』に、貴下、境目に男女和合像を立つることをいえりしと覚え候。小生、大英博物館にて見しは(秘蔵部にて公衆には見せず)(小生、前田正名、松永雄樹、徳川頼倫氏等に見せたり)牛が女を犯す図なり。石碑に高ぼりにほり上げあり。(北斎筆の玉藻前の春画三冊、姐妃《だつき》殷紂をそそのかし、人民の婦女を集めいろいろの婬虐を行ない笑楽とする中に、馬が女を犯すところあり、はなはだこれに似たり。)他人の田を犯すものの女、神罰にて牛に婬せらるべし、とのことなり。
 享保丙午年駒谷散人|槙都輯《まきのいち》『関八州古戰録』巻一四に、鹿伏兎刑部少輔が先師は天真正とて海中に住する河童という獣なり、しかれども流義においてはその名実を顕わさず、香取大明神の応身より伝統せりと詢え来る、と言えり。(刑部少輔は天真正流の祖、飯篠山城守家直入道長意が師なり。)三浦浄心の『北条五代記』巻二の福島伊賀守、これまた河童の条に加うべし、馬入《ばにゆう》川に一間ほど大なる鱸《すすき》人をとるを平らげしこと。
 『俊頼口伝集』巻上、役行者、葛城の神を縛る護法、たちまちにかつらをもつて神を縛りたまいつ、その神は大なる(151)巌《いわお》にて見え給うなれば、かつらの絡《まと》われて袋などに物を入れたるように、ひまはさもなくまとわれていまだおわするなり。『石神問答』に加うべし。
 三浦浄心の『見聞集』卷六、大鳥一兵衛なる大乱暴人の伝、幼名を十王丸という、十王に願かけ生まれたる子なればなり、云々。この者獄中にて大氣?を吐く、それ娑婆において泰時の記したる成敗の式目は、日本國の龜鑑題目、十三人奉行のうち、仁智を兼ね六人に文章を書くこと六地蔵六観音を表わす、十三人の奉行は十三仏とす、云々。十三仏のことに多少関係あり。
 『志士清談』に(『改定史籍集覧』第二冊に収む、八三頁)、天文三年、芸州吉田釜ヶ淵に化生の者あり、近辺の児女を握《つか》んで淵に入る。民間恐れて往来絶えたり。元就聞きて退治を急げと下知す。大蛇か鬼類かと衆議区々として進む者なし。荒源三郎《あらげんざぶろう》元重、大蛇、鬼類なりとも壮勇をもつて退治せば易かりなんとて、その長《たけ》七尺七十人力と唱うる大男、太刀取りて釜ヶ淵に往き、裸になり下帯に太刀をさし水に下立ちて、この淵の化生たしかに聞け、人民を悩ます咎によつてわれ来たりたり、出でて勝負せよ、と大音に呼ばわる。淵の底鳴り響き逆浪立ちて水岸に溢れ、元重が両足を水中よりひしと執りて引き込まんとす。源三郎その両手を取りて引き合いしが、山のごとくにて動かず。その面を見れば淵猿〔二字傍点〕なり。頂の窪《くぼ》き所水あれば力あり、水なければ力なしと兼ねて聞きつ。頭を執らんとするに滑らかにして執りがたきをとかくして、終《つい》に頭を?んで逆さまにふりまわす。頭上の水こぼれ力弱りたるを提《さ》げて岸に上り縛り城中に帰る。元就これを賞し加増五十貫、来国行の太刀を賜わる。元重われ数度の軍に敵を討ち取りたるにも賞禄少なし、しかれどもさらに不足とも思わず、今この畜類を生捕りにすとて過分の恩賞かえって不快と打ち笑いて太刀を捐《す》て置き追出す。
 前状申し上げ候『続々群書類従』に元就か尼子かの臣河童討ちとることありとはこのことに候。淵猿、ここにいうところは明らかに川童なり。『日本紀』景行紀かなんかに、九州の賊寇のうちに打猿《うちざる》というあり、これは何のことに(152)や、人を撃つ猴ということにや。
 黒川道祐の『雍州府志』巻九に、「帯取池。鳴瀑の西、千代旧道の東北にあり。中古この池に大亀あり、その妖霊、帯を水上に浮かべて往来の人を誑《たぶら》かす。見る者これを取らんと欲し、水上を游泳するに、すなわち大亀その人を水中に牽いて、これを食らう。その帯はまた実は水萍《うきくさ》なりという」。
  田辺より二里ばかりに堅田の大池というあり。大小二つの池あり、おのおの合祀前まで小祠あり。大池の方の小祠は鎌をまつる、小池は蛇なり。この蛇大池に来たり主《ぬし》とならんとせしに、土人いわく、この池すでに主ありとて鎌をひそかに落とし、鎌がこの池の主なり、という。蛇おそれて(蛇は鉄を忌むゆえなるべし)、小池に入り主となる。二池ことに大池|毎《つね》に人死す。六年前、小生この大池にてオオヒルムシロという稀草を見出だし、一人をして岸上に立たしめ、みずから入りてとりしも、危険はなはだしく小片をとりて直ちに逃げ帰る。実はヒルムシロ、底より永く延びはえて游《およ》げば游ぐほど足にまきつき悩ますなり。ヒルムシロはちょっとした溝?にあるときは水中茎短けれど、かかる深き池になるとはなはだ長く多く分岐し、まことに游泳を遮妨することはなはだし。こんなことを池の主にとらるるなどいい、また人水死すれば水おびただしく烈しく飲み、肛門張関して緊結《スフインクトル》(しまり)を失うゆえ、川童に尻子玉とらるなどいうことと存じ申され候。
 保科正元撰『会津風土記』、「伊佐須美大明神社。高田村にあり、『延喜式』の会津郡伊佐須美神社これなり。今は大沼郡にあり。明神嶽は、この神初現の地なり。欽明の御宇にここに移る。古来、神殿に伊奘諾《いざなぎ》・伊奘冊《いざなみ》二尊の立像あり、一木に二尊を刻む。人身鳥首、長觜《ちようし》大耳にして、両頭相交わり、手をもって相抱く。長《たけ》四寸八分なり。三月二十五日、祭礼」。これまた『石神問答』和合神の条に加うべし。
 『芸備国郡志』(黒川道祐撰)に、「出雲石。豊田郡土取村の田間にあり。土人伝え言う、この石は年を逐って長大と(153)なるなり、云々。按ずるに『酉陽雜俎』にいわく、利州の臨光寺にて石をかつて水中より得、初めわずかに拳のごとし、仏殿中に置くに、石ついに長じて已《や》まず、と」。『塩尻』にも、奥州辺の民、熊野まいりし、石をひろい持ち帰りしに、年々大になり、子を生み、神としまつることありと覚え候。
 まずは右申し上げ候。
 明治四十四年十月九日
                        南方熊楠
   柳田国男様
 
          37
 
 明治四十四年十月十日午後四時過より八時半までかく。
 拝啓。貴下の「地蔵木」の考に、地蔵は他の諸菩薩とかわり支那でできし物ならんというようのことあり。しかるに、小生、往年『ダルマ・サングラハ』(ネポール国の仏教用語義集)より書き抜きおきしものを只今見るに、「ミスリタ、ナヴァ、ブツダンマヤナム、エテ、ミスリタ、ナヴァ、サンガアムナヤツ」列の諸菩薩のならべ方
2    1      3
  慈尊  観世音  ガガナガンジヤ
6       4   5         7
  マンジュゴシャ(文殊) 普賢  金剛力士 サルヴァ,ニヴァラナ,ビィシェガンゼー
8              9
 地蔵(クシチガールブハ) クハガルブハ
(154)とあり。故に、とにかくネポール等に存するところを見れば、支那でできしにあらず。大乗教発展の際できし菩薩と存ぜられ候。
 また地獄十王のことも、支那でできしにあらざるかと存ずる理由|有之《これあり》。何さま梵語十五年ばかりほりちらしあるゆえ、自分写せしもの只今自分で十分に分からぬこと多ければ(字書は和歌山市の倉庫に入れあり)、京都大学の同県人榊亮三郎氏へ聞き合わせ中にあり、返答来次第申し上ぐべく候。
 婬を売る比丘尼のことは、四十一年発行『近世風俗志』(国学院大学出版部出板)巻下、一六三頁に図あり。貞享印本『好色訓蒙図彙』にいう、いつのころよりか、歯は水精を欺《あざむ》き、眉細く墨をひき、帽子も思わくらしく被《かず》きて、加賀笠にばら緒の雪駄、小歌をよすがにしてくわんくわんという、しおの目元にわけをほのめかせ、云々。著者守貞いわく、『訓蒙』に載するところは京坂の熊野比丘尼なり、鳥辺野は洛東の地名、貞享中京師の高名比丘尼なるべし。『武江年表』天和の条にいう、比日はやりし唄比丘尼のうち、神田めつた町より出ずる、永玄、お姫、お松、長伝というが名取にてありしとぞ、繻子か羽二重の投頭巾をかむるによって繻子鬢と名づけたり、云々。
 熊楠いわく、右の『好色訓蒙図彙』の絵は、笠にあらず、カズラをきたるごとく見ゆ。いわゆる嬬子鬢か。剃髪、薙髪、削髪の別を先年何かで見たるが、今忘れたり。尼は髪をきりさえすればよきにて、剃るに限るべからず。また剃ったところが鬘をかぶること行なわれしなるべし。仏在世、すでに比丘尼鬘をかぶり、仏に叱られしことあり、と記臆す。座右にその抄記あり、他日申し上ぐべく候。
 昨夜申し上げし『会津風土記』の諾・冊二神の像に似たるもの、インド・ジャニプールの廃址より出でし金翅鳥《カルダ》像、(155)‘Journal of the Asiatic Society of Bengal,’vol.vii,Calcutta,1838 に出ず。
 わが邦の天狗の像多くはインドのガルダ像より出でしと見ゆ。浅草の観音堂の後の板ぶすまに、大なる二十八部衆の彩画あり、今もあるべし。その内の迦留羅王(金翅鳥王)はまく烏天狗の風で歯を吹くところに候。『仏像図彙』にもあり。天狗の鼻高きは、右のジャニプールの像を合わせ考うるに、ガルダ鳥(禿鷲、支那で霊鷲と訳するが、Gがすなわち禿鷲に正当の由、独人モレンドルフの説なり)の嘴を鼻に転じたるなり。
 加藤雀庵の『さへづり草』(四十四年、一致堂書店出板)、松の落葉の巻、七一頁、奥羽および北越また尾張辺で女陰をべべと呼べり、しかるに、関東、関西、共に小児の衣服を「べべ」ととなえておかしとも思わず。これは大間違いなり。女陰の「べべ」と衣服の「べべ」と声ちがい候。女陰の「べべ」は上の「べ」去声、下の「べ」平声、衣服のは上も下も「べ」が平声に候。字を読み書くもの少なき世には、字より声が物を識別するに大要ありしなり。小生和歌山生れにて、大江という姓を和歌山では大《去声》江《入声》にいう。しかるに、二十余年前、田辺へ人車にて来たり車夫に大《去》江《入》という家を尋ねたるに、いかにするも分からず。かれこれいううちに自分の人車その家の前にあるを宿札見て知り、ここにあるじゃないかと叱りしに、これは大《平》江《平》なりという。榎本氏は和歌山、大阪、京都等にて榎《入》本《入》の声によむ。田辺では榎《平》本《平》にいわねは通ぜず。平平にいうに一層便ならしめんがため、田辺で平常榎本をエノモトといわずヨネモトというなり。
 支那は字音すなわち一字音に一義あり。したがって一字音で多義のものすこぶる多ければ、これを分くるために声の分別はなはだ日本人より精し。日本人声を別つことはなはだ疎なるゆえ、支那で同音の字も声を分かつことならぬかわりに、いろいろと日本音をかえたり。たとえば「妾」も「切」も同音 tsieh なるを、日本(156)で一をセウ、一をセツ、姐〔左○〕も借〔右○〕も嗟〔右○〕も?〔右○〕も同音 tsie ながら声三様にかわるを、日本人まねできぬゆえ、ダツ《(ママ)》、シャク、サ、サとよみ分けたごとし。このこと白石の『同文通考』、また小林歌城(?)の『そしり草』(『鳥おどし』?)とかなんとかいうものに見えしと記臆す。
 東京辺は無茶として、上方のものは今も、蔓〔右/〕、釣〔右−〕、鶴〔右\〕、声の上下平みな異なり。鎌〔右\〕、釜〔右−〕、?〔右/〕(かます)、箸〔右/〕、端〔右○−〕、橋〔右\〕、垣〔右\〕、柿〔右−〕、牡蠣〔右/〕、みな然り。珍宝〔右−−〕と|ちん〔右○/〕ぼう〔右/〕を声を分かつのみの庸民は、さして混じ笑わず(笑う方が声を分かたぬ下手なり)。しかして、この上下また常に不転退のものにあらず。日本|橋〔右/〕の橋すでに多少|箸〔右/〕の声に近く、信濃柿は信濃〔右−〕を平にいわば柿が垣〔右\〕に近く、信濃を去声にいうときは柿〔右/〕が牡蠣に近くなる。鶴嘴の鶴〔右/〕は蔓〔右/〕の声に化し、蔓〔右−〕鍋の蔓は釣〔右−〕ると同声になる。これらは声正しき上方の声で十分研究せずば、東京辺の声では到底分からぬことなり。
 去来なりしか、この過ちなからんため上方に上り、常に上方の声を学べりという。浄瑠璃は上方に限るというもこの故なり。
 これら声の研究をせずに、仮名で書いた扣《ひか》えを元として、何の名は何より出でたり、何の名は何より出でたりと勝手にいいまくるは、公論にあらざるのみか、ますます学問を虚構することとなるべし。
 加茂真淵かなんかの説に、天をアメというは人初めて天を見てアー見よと嘆ぜし故なり、さて嘆ずるときにアアというは天を見て歎ぜしときの天の略なり、というような説ありし。論理学にいわゆる巡環論理 Petitio Principii(原始借問不究)にて、常山長蛇の陣のごとく、どちらが始めでどちらが尾か分からず。いずれも声を研究せず字音のみで議論するゆえなり。神保小虎氏かつてアイヌ人の親しく説くを聞けりとて記せるは、日本人が何という日本語はアイヌ語の何、某という日本名はアイヌ語の某名より来たると大騒ぎするが、実際その日本語をアイヌ人が聞いて見ると一向アイヌ語に似たところ少しもなしとのことなり。これは神保氏の書き様が足らぬので判然せぬが、つまり字音は同じアイヌとアイヌでも、声がア〔右/〕イ〔右/〕ヌ〔右\〕、ア〔右/〕イ〔右/〕ヌ〔右−〕という工合に全く異なれりという意味ならんと存ぜられ候。小生、二十(157)余年前在米のころバルチモーアのジョンス・ホプキンス大学で世態学の参考書に一番よしとて学生もっぱら用いおりしケヤード氏の Caird,‘Dawn of Civilization’とかいう本ありし。和歌山に小生今も持ちおる、その本にこの字音よりも字声が字をかけぬ民の事物分識に非常に大要用なるを論じありし。その外にあまり見ず。博言学者ら何とかこの語声を今少し精しく研究し、これを分別する符号方法を定められたきことなり。
 他人のことを私《ひそ》かにいうは如何《いかが》ながら、小生公然これを三年前の『東洋学芸雑誌』で討ちしゆえ申す。松村任三博士、近く『東洋学芸雑誌』へ日本語の原因を論じ続々出だす。それを見ると、『日本紀』の「神代巻」、『古語拾遺』、『古事記』、『万葉集』にある古言、みな世界中の諸語より来たりしようなり。(何故これと同時に、日本よりも世界中の諸国へ往かざりしか不審なり。)これを例せば、頭「アタマ」は、『和訓栞』に天玉《あたま》の義、玉は円形をいうなるべし、この説取るに足らず、額?の字音と胆の字音との合成なり。額は汕頭・厦門音、共にアットにて「ヒタイ」の義、胆は古音タム、字書にいただきとあり、また額末の字音にて音義|適《かな》えり。額は汕頭および厦門音 at(アット)、末は上海音 mah(マッ)にて「アット・マッ」なり、云々。跡(アト)は曳の字音なり、古音 at にて、『漢英韻府』に「足跡をのこす」とあり、云々。痣《あざ》】は黝(字書に微青黒色また黒なり)、古書 at, 血は?、汕頭音 bi, その音詰めば hi, それを si に訛り ti-chi となる常例なり、云々。?は汕頭・厦門音、共に ji, 字書に耳血なり。蒙古語、血 tchison, ベンガルの蛮族語 chnu, ビルマ語 the,athi,thwe 等、云々。万葉集のマ、熊野などいうときのマは、「名」の汕頭音 mia《ミア》の転にて、浄、明、開等の義。マ心のマは、全く異にして、「明」の字の汕頭音 mia の転、浄、明、開等の義あり。フグシは『和訓栞』に、俗にフクセまたホグシ、掘串の義とあれど、?钁の二字音にて、?は音フ、『玉篇』に筵なり(小破竹)、また小簪なり、竹串のごときをいう。钁は、広東音 kut にて a gravel, ほるもの。またクシは劃の同上音 kut にても通ず、云々。
 第一に、広東音や汕頭音が、『日本紀』、『古事記』、『万葉』を筆せし時代に存在したろうか。Eitel 常にいわく、唐(158)朝前までの支那音は今のよりは柔らかなりしものなり。日本に存する漢音、呉音で、仏経よむを聞くに、梵語そのままの音多し。日本で作りしものにあらざれば、唐音できる前の支那の音を日本へ伝えたるなり。阿弥陀アミダは梵語アミダブハのブハを略せるのみ。維摩詰は梵語ヴィマラキルチを少々略せしのみ。大体は通ず。今の北京音阿弥陀オミト、維摩詰ウィ・モ・キツよりも、日本音の方近し。濠州土人、セイロンのヴェッチ、南米の南端|火州人《フエジアンス》ごとき下等きわまる蛮族すら、頭や血に用うる自国語なきものなし。しかるに、これをチといいアタマというに、遠く他国の語(しかも難解、煩雑、その上にそのころあったかなかったか知れぬ字音)を参考して作るべきや。
 四十一年四月二十五日、『東洋学芸雑誌』に、小生、ヘブリウ語、酌人をマシュキェーというはサーキーより出ず、日本の酒(サケ)と同源なるべしと、クリストフェール・ワッツォンの説。また沙翁《シエキスピア》の戯曲に名高き英語サック sack という酒あり。紀州で頭をスコという、卑しんでいう語なり。英語にも沙翁など頭を卑しんでいうときスコンス sconce という語を用いたり。蜥蜴(日本名トカゲ。シャムに蜥蜴の一種、日本になきものトッケトッケと鳴くゆえトッケという。日本のはなかず)、八幡《ばはん》(海賊船、仏語フールバン、スペイン語フォールバン、日本より出でし字義といわず)、七五三繩(シメ、カンボジアにセマ)等を引き、『兎園会集説』に、屋代弘賢、三十一字の歌を浜の真砂のごとく尽くる期なしと言い伝えたれど、四十七言をもって三十一字を得用うれば尽くる期なきことあらじと思わるるとて、その精算を示せり。古今諸方の言語その昔多しといえども、小異を駆って大同に帰せしめば(『大英類典』第九板に、書き得るだけの語音を、いろいろ字に符を付けてあらわせり)、その数まずは百を逾《こ》えじ。今一百未満の語音よりわずかに二、三音ずつを採り綴り合わせて無際涯、森羅万象に名づけんには、同一また酷似せる事物に同一また酷似せる名称の期せずして偶著するものはなはだ少なからざるべきは、覩《み》やすきの理なり、と論じたり。
 小生、今五歳になる男児あり。この子一歳のときよりの言行を注意して(自分不在のときのことまでも妻にきき)一々ひかえあり。二歳(すなわち滿一年二月ぐらいのとき)小生|仮面《めん》きておどすに、匍匐《ほふく》しながら走り出し、オトド(159)チオトドチといいて走る、幾日するも然り。(決して誰も教えぬなり。)また英語で早く話し、あの通りまねせよというに、必ずテンテンということかわらず。(この外にもいろいろ例あれど、今略す。)ダルウィンと同日に自然淘汰説を世に出だせしワリス氏 Wallace も、嬰児を注意して察するに毎児必ず一定の語をみずから生じ、これを持し用ゆ、といえり。人種にもより体の結構等にもよること勿論ながら、簡単なる嬰児の作用にはほぼ一定の語あるものと見ゆ。そのオトドチというにて、今いうオソロシという語は日本の人間が「怖るべし」の意を発表するに、たぷん自然に出る語なるを知る。
 さて世間に古くありふれたるものは、人々これを見て感覚するところまたほぼ同じきゆえ、言いあらわすところまたほぼ同じと見えたり。(onomatopes すなわち支那で、某の動物、その名みずから呼ぶ、動物自分に人が付けた名を知りみずから呼ぶにあらず、人がその呼声に擬して付けたる人間の名なり。)古エジプトにも支那にも猫をマウといい、蝉は支那も日本もセミ(シェン)、蟹はカイ、カニなどのごとし。呼声に限らず、粗をアラシ(英語ラッフ)、滑をスベル(英語スムース)、大号呼(日本オラブ、英語 roar《ロアール》)、みな似たことなり。決してこれよりかれを生じ、かれよりこれを生ぜるにあらず。もし、これもかれも外国より来たれりといわば (吼猴さえ四十余種の異声を発するに)最下の蛮民さえ、頭や血や男根、陰嚢ぐらいの用語あるに、日本人少なくも耶蘇紀元前すでに立国せし国民でおりながら、立国にもっとも入用なる頭や血を呼ぶ名さえなく、これもそれも外国より輸入するを俟《ま》ちたりとすべきや。
 この論は他日また永いやつを差し上ぐべきも、とにかく貴下が言語名称の書いたままのみを抵当にとり珍重して、その声韻を察せず、あの語はこれより出ず、この語はこの義なり、と自分の意をもって自在に迎合するの正鵠を得ざるものなるを申し上げおくなり。
 語言をもって里俗、士風、その他人間一切の事相を説くは、はなはだ手軽きやり方なり。しかれども、もっとも間違いやすきことなるは、学者ごとに必ず多少その解説相異あり、少しも一致せぬにて知るべし。故に、ハマイバなる(160)地名中には、浜井場もあるべく、浜射場も被魔射庭も葉舞庭もあることと知らるべし。これを片はしから我意に任せ、ことごとく一源に出でたりとするは穿せりというの外なからん。洋人が日本の語声を知らず、仮名付きの字音、語訓のままにいろいろとあてじまいの説多きは、御存知のことなるべし。
 日本人はラップス、フィンス、サモイデス、トングース等と同じく、フィンノ・ウガリアン族の一なりという人多し。友人ジキンスも、『竹取物語』の訳本の序に、この物語はフィンノ・ウガリアン族の語で書かれたる文章の最古のもの、といえり。フィンランド人には、今大分大学者も多い(地衣学の大家ワイニオ等なり。『カレヴァラ』という古き史詩あり)から、例の海外崇拝で日本人はフィンスと同族とて大悦の人もあらん。そんな人に小生多年取って置きの珍談を授けまいらせんに、このフィンノ・ウガリアンの欧州および西亜にあるものは、キリスト化する前にことごとくジュムムまたジンムという大神(日なりという)を崇拝せり。これ取りも直さず、神武天皇のことだとやつたらどうだ。あるいは難じて言わん、神武の諡号は、これ桓武帝の前後、淡海三船輩が奉れるものなり、と。しかしながら、日本に在来日を神武とよび奉崇する風ありしを、そのまま支那字で神武と宛てて開国の天皇の諡とせしなりといわば、それですむことなり。烏賊《いか》は魚と全く縁なし。しかるに、近くモナコ王大洋にて魚鱗あるいかをとりし。動物などに、魚類とイクチオソールス(蜥蜴一類、今は絶滅す)、江豚《いるか》また鯨(哺乳動物)類は全く異なれど、海中にありて游《およ》ぐゆえ、同一の形を生ず。亀に甲あり、蛙の一種に亀ごとき甲を生ぜるあり。植物も全く関係なき異類の植物をして所境範囲同じきより同一形状を生ずるもの多し。木麻黄《もくまおう》は桑の類に近い樹、麻黄《まおう》は松に近い木、木賊《とくさ》は羊歯に近き草ながら、その葉は素人《しろうと》に分別できぬほど相似、仙人掌《しやぼてん》科、白前《すずめのおごけ》科、大戟《たかとうだい》科何の相互の親緑なきも斉《ひと》しく沙礫熱爍の地に生ずるより、かくのごとく多肉厚皮で葉なきものとなるごとし。里俗、民風またかくのごとし、必ずしも一処より他処に伝うるをまたず。
 たとえば、橋を見たことさえある人々は、人より教えられずとも自然におのおの橋から落ちる夢を見るごとし。『土(161)佐日記』の老海鼠《ほや》の妻の貽貝鮨《いずし》のごとき、古ギリシア人アプレイウスの書(この人年若くて友人の母の美なる寡婦にほれられ媾せしを、寡婦の一族怒りかつ焼き、魔術もて寡婦を魅せりと訴う、そのときの弁明書)に、愛敬の法にホヤ様の動物と女陰様の介を用うるをいえり。わが国、諾・冊二尊、鶺鴒《せきれい》に教えられ和合の道始まるという。西アジアに、アスタルテ(婬神)の使いは鶺鴒とせり。これら必ずしも一国より他に伝えしにあらず。故に、貴下専攻の本邦の女巫等のことも、必ずしもその風ことごとく道と仏より入らず、その中には本邦固有の巫術も遺存することと知られたく候。
 『さへづり草』松の落葉巻、三六頁以下に、水虎のこと多し。三八頁に、備前岡山、作州津山にて河童をゴンゴウというとあり。性角力を好めば金剛の由なるべし、と。熊楠案ずるに、『嬉遊笑覧』九に、?童《かげま》に付き添う男を金剛ということあり、考え合わすべし。越中富山にてカメというとは、前書に多く申し上げし蒙古等の「川亀、怪を作《な》して人を害す」と考え合わすべし。紅毛語にトロンペイタとあり、これは英語 enchanter(魅するもの、わが国にいう迷神《めいしん》(『今昔物語』に出ず)等の義)。四三頁に、シマヤの番頭ということあり。小生二十歳ごろまで東京、横浜で男色のことをいえり。後から仕《す》る(剪《き》る)という意とのことなり。春画などに多くいえり。また「島屋をきめちゃあいけねーぜ」とは、裏切りするなということ、『和合人』かなんかの小説にあり。四二頁、北国の川へび尻の穴より人に入るということ、小生只今このことを外国の書で見出だせり。(『大英類典』第一一板に見ゆ。ブラジル辺に、微細の魚、小便をさかのぼり人の尿道に入り害をなすものあり。土人これを禦ぐ一種の蓋《ふた》ある由いえり。尿道に入るほどなら肛門に入るものなしとも限らじ。)
 Edward Bancroft,‘An Essay on the Natural History of Guiana in South America,’London,1769,p.205,commode《コムモーデ》は、水陸ともにすむ蛇なり。長《たけ》およそ一丈五尺、周回《めぐり》一尺八寸、頭扁広、尾細長く尖れり。褐色、背と脇は栗色の斑紋あり、毒なし。しかれども、はなはだ迷惑なるはしばしば崖と池に来たり鶩《あひる》、鵞《がちよう》等を殺す。自分より大な(162)る動物に遇うとき、その尾をその動物の肛門にさし入れ、これを殺す。故に、白人これを男色蛇「ソドマイト・スネイク」と呼ぶ、と。別に人の肛門を穿つとは見えず。
 女陰に蛇入ることは、『今昔物語』、『一話一言』、『渡辺幸庵対話』、その他に多し。仏在世よりかかる話ありしことは、姚秦三蔵弗若多羅、三蔵鳩摩羅什と共に訳せる『十誦律』巻四一に、「仏、舎衛国にあり。その時、偸蘭難陀《とうらんなんだ》比丘尼、前に中《あ》てて衣を著け、鉢を持って乞食《こつじき》を行なう。食後、尼師壇《にしだん》(肩かけなり)をもって左肩の上に著け、安陀林中に入って一樹の下に大坐す(ペツタリと平坐すること)。時に蛇あり、来たつて女根中に入る。仏いわく、今より比丘尼の大坐するを聴《ゆる》さず、もし大坐すれば突吉羅《ときら》(罪の名)なり、もし一脚を展《の》べて坐すれば犯さず」。この比丘尼は、三処の毛(脇二つと陰毛)を剃ること婬女のごとくしたり、人の蒜《にんにく》をことごとく取り食らうたり、陰門に爪入れかきやぶつたり、種々雑多の婬行ありし比丘尼なり。仏これを叱りし言の中に、「もし比丘尼、水をもって浄を作《な》さんとすれば、まさに両指の各一節に斉《ひと》しくすべし。もし過《あやま》てば波逸提《はいつだい》(罪の名)、式叉摩那沙弥《しきしやまなしやみ》(尼の階級なり)は突吉羅(罪名)なり。犯とせざるものは、南指の各一節に斉《ひと》しくするがごとき(一節全く入れずとも無罪の義)、一節よりも減ずるがごときなり。あるいはかくのごとき病あり、あるいは内に草あり、あるいは内に虫あって、挽《ひ》き出すは犯とせず」。これにて、インドでは草芥や虫がしばしば女の陰戸に侵入するを知るべし、アーメン。右の文は姚秦三蔵仏陀耶舎、竺法念と共に訳せる『四分律蔵』巻二五に出でたり。
 同書巻二七には、「その時、薄伽婆《ばがば》(仏のこと)、舎衛国の祇樹給孤独園《ぎじゆぎつこどくおん》にあり。時に六群の比丘尼あり、種々の雑呪術、あるいは支節の呪、あるいは刹利の呪、鬼の呪、吉凶の呪を誦し、あるいは転鹿輪の卜を習い、あるいは音声を解す〔五字傍点〕」、仏これを制す。巻二九、「その時、薄伽婆、舎衛国の祇樹給孤独園にあり。時に六群の比丘尼あり、婦女の荘厳《しようごん》身具、手脚の釧《わ》および猥処の荘厳具を畜《たくわ》う。(御承知のごとく、インドは裸で熱い所ゆえ、衣服飾ったって久しくもたず汗によごれるゆえに、髪、腕、足の輪環また陰毛、はなはだしきは陰部に玉をはめる等の飾りあり。)諸居士見て、みな共に譏《そし》り(163)嫌《きら》う、云々。婬女、賊女のごとし、云々、と」、仏に制せらる。これらすでにインドに仏在時より歌比丘尼ごときものありしを証す。右申し上げ候。
  『さへづり草』、飯田町の一致堂出板、第三巻七月に出たはずなり。出たなら一つおくり下されたく候。代金は本着の上送るべく候。
                           南方熊楠
   柳田国男様
 
          38
 
 拝啓。『五雑俎』の鬼市の条、御存知のことと存じ候えども左に申し上げ候。巻三に、「『歳時記』に、務本坊の西門に鬼市あり、冬夜かつて乾柴《たきぎ》を売る声を聞く、これ鬼のみずから市《あきない》をなすなり、と。『番禹雑記』に、海辺には時に鬼市あり、半夜にして合い、鶏鳴いて散ず、人ともに交易し、多く異物を得たり、と。また済?《せいとく》廟の神は、かつて人と交易す。契券《わりふ》をもって池中に投ずれば、金すなわち数のごとく浮き出ず。牛馬百物も、みな仮借《か》るべし。趙州の廉頗《れんぱ》の墓もまた然り。これ鬼の人と市《あきない》するなり。秦の始皇は、地市を作り、生人をして死人を欺くを得ざらしむ。これ人の鬼と市《あきない》するなり」。
 椀を神鬼が人に貸すこと攷え合わすべし。『文海披沙』にもあり、『塩尻』刊本下冊に(たしか)引きあり。『文海披沙』、『五雑俎』、共に謝在杭の著なればたぶん同文ならん。
 T.Grierson,‘The Silent Trade,’Edinburgh,Green and Sons,1903 という書に詳しく鬼市のこと出である由、小生は見ず。それに従えば、ギリシアのヘロドツスすでにこのことを記し、また欧州のラプランド人も古えこれを行なえり、と。また欧州中古、流行病あるとき伝染をおそれこれを行なえりと申すことに候。
(164) 川村知事は只今上京中、本月十三日後帰県のはずとのこと。
 四十四年十月十二日夜
                       南方熊楠
   柳田国男様
 
          39
 
 明治四十四年十月十三日朝
 拝啓。十月八日夕出芳翰拝読。近野村の樹のことは和歌山の友人(町会議員)に委細申しやり、穏やかに知事へ面話し、知事より一書を郡役所また村長へ発し、道義上説諭しもらうことと致し、右町会議員五日ばかり前登庁せしも知事不在、十三日以後ならでは東京より帰らぬとのことなれば、その後面会たぶん話は成るべく候。右の町会議員にはとくと言い含め、小生なるべく知事と事を生ぜざるため自分手紙を出さず、特に温和なる人を撰み伝言すと申しやりおき候。(前知事のときは、かようの和熟せる協商はなく、頭から尾まで公けに抗議、難論せしなり。)また今の知事は何も知ったことにあちざれば、木が伐られたりとて、かかる免許を与えたる前知事を咎むべきのみ、今の知事に対し毛頭異存なしと申しおけり。
 これと同時に野長瀬忠男、また小生に相談なしに一書を『日本及日本人』および『国民雑誌』へ投じ、この木のことを論ず。十一月の分に出る由にて、小生一書を河東碧梧桐に出し、出すは勝手ながら、小生の意見書に関する人名をことごとく○○としくれるよう、わけて頼みおけり。
 「猫の話」はすでに原文でき、英国へ発送せり。訳文は貴方へ送るゆえ、貴下宜しくこれを考古学会へ出し下されたく候。小生は凡衆婦児相手の人気ものを書く気は少しも無之《これなく》、学説というものの認めようを本邦後進に示したきに候。(165)故に後人が読んでくれさえすれば、只今全く読まれずとも出してくれさえすれば宜しきに候。こんなことゆえ、従来欧米で出せし自分の論文は到底今の邦人には向かぬものとあきらめ筐底に放置しあり(「燕石考」また然り)、おのれより劣ったものを相手にしては学問は進まず、智見は鈍り申すべく候。
  (わが邦の雑誌、凡衆のみを相手にし、斬新深遠の理論を出さず。ために本邦の学問は経典余師のようなものになり、少しも奥深く進まず。また凡衆これを見て一時怡悦感心するのみ、学説を味わい学問の深くして究りなきを尊び慕う等のことなきは、志賀重昂氏、先日『大阪毎日』にて論ぜられたり。)
 とにかく「猫の話」はすでに本文成ったものゆえ和訳して差し上ぐべく、百人も心ある人読んでくるれば満足なり、考古学会へ出し下されたく候。「燕石考」もこの通りのもので、小生は後進を迷乱せしめざるため、引用書は必ず原語のまま挿し入れおきたきに候。(わが邦にはこのことなきため「『風俗通』にいわく」「『三輔黄図』にいわく」などと、みだりに聞き書きのまま記し、さて本書をいかに調ぶるもそんなこと少しもなきは、馬琴これをいえり。)
 もっとも小生は、原語の通りではとても邦人に分からぬと思い、よほど和解して出すなり。ざっと本年春の『東京人類学会雑誌』に見えたる「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」ぐらいのものとするなり。それで分からずば日本人が学性なきなり(トルコ人のごとく)、小生の過ちにあらず。小生はもとより日本人を見切り、従前のごとく一意一つでも多く欧米にて出し置かんとす。(今も出しおれり。)小生は『太陽』とかなんとか、凡衆相手のものにまじめな学説を見せるをはなはだ好まぬに候。『太陽』などへ出すには、例の啌《うそ》や嘲弄まじりの、小生が『牟婁』紙にかいた「隠れ蓑、打出の小槌」また「山神とオコゼ」様の文で、読切りに短くかくがはなはだよからん。すなわち阿房相手に人を阿房にする法なり。
 小生の亡父は一文不通の人なりしが、十三円ばかりの金もて和歌山市第一の富人になりし人なり。その訓えには、人間食うて生きおるばかりでは人間にあらず、宜しく千万人の師範となることを心がくべし、となり。この人は故吉(166)川泰次郎男など常に商人の亀鑑とほめられし。小生もなるべく痩せ我慢ながら、せめて邦人に外国人にわかるような学説の出し方ぐらいは教えおきたきに候。日本人が目前日本ばかりの凡衆にほめられたりとて後日までの功名にならず。
 「神跡考」は、西洋ではこのことの第一のオーソリチーとなりあり、故に貴下のかくものへ入用の所だけ引用下されば足れり。また全訳文は貴方へとりおき、後日なにか機会あらば出板下されたく候。小生も、邦人はとてもかかる長きものを読む辛抱なきを知る。(円覚寺、鎌倉の始祖、すでにこのことを書き、邦人の機根乏しきを笑えり。)ただし、欧米人と並び馳せて学説らしき学説を出さんとならば、まず論理により論法を計画しおき、さて材料をなるべく多く集め、かれこれ対照自説の助けになるものと助けにならぬものを分かち、よくよく分類排列して序し、終結に長たらしいやつの帰着を短く再閲して叙すること、この論のごとくならざるべからず。これをなさざるときは「二書」のごとき、何の論か何の願いか茫然と分かってはおるが、判然と分からぬものとなる。今日『太陽』とか何とかに出るものは、一つ一つのことを叙し、そんなこともあるかと思わしむるに過ぎず。もし議論がかつたものとせば大抵は「二書」ぐらいのものに御座候。故に、洋人の学問あるもの邦人の文を見て、これは何を期し何ごとのために書いたものか分からぬというが常なり。
 「槐」は、魯人タタリノフ、ブレットシュナイデル、英人スミッス、その他いずれも(支那で実物見し人)の説に Sophora japonica L.全く日本のエンジュと同一物に候。英人ヘンリーの説に、支那パツンダの地方でエノキ Celtis sinensis を朴樹また樸という、と。『詩経』に(四四二章)、?樸多く薪となる、とあり。『爾雅』に、「槐、小葉なるを榎という、と」。『正字通』に、榎は?字の古文、と。ただし出所を示さず。伍子胥、死に臨み、家人に告げていわく、必ずわが墓に?を栽えよ、?は材とすべきなり。郭璞の注によれば、?は茶のようなもので飲料とする葉を生ず。
(167) ついでに博聞のため申し上げ置く。「楷」は孔丘の墓上の樹なり、とあり。エドキンス博士、一八七三年曲阜にゆきこの樹の枝をとり、ブレッットシュナイデル(伊藤篤太郎博士友人なり)に渡せしを験せしに、Pistacia chinensis Bge.(今は水晶樹というとぞ)(また黄楝樹という)なりし、と。日本にて黄楝樹をニガキに宛つれど、二がキは清朝の俗名苦楝子なり、別物なり。これは榎のことに関係なし。
 故に槐《フアイ》huai と榎《キヤ》kia と関係なきにあらず。ただし、それは支那にてのことなり。今支那にていうところ、また『本草』に記するところの薬用上の槐は、決してエノキに関係なく、全くエンジュのことに候。
 鮪《い》という魚、日本にてはシビと訓ずること、『日本紀』に出でたり。これは日本人坐して支那書をよみ、また、たとい留学生支那に入りてその物を見たりとも、そのころ剥製また火酒品《アルコール》を持ち帰る便りもなければ(剥製は欧州でも三百年来のことに候)、よい加減に似たるままうろおぼえに、本邦の産を多少彼方の原産に似たるものに充てたるなり。鮪というもの、今も満州また北支那にあり。その火酒浸《アルコールづ》けは大英博物館に公衆の覧に供しあり。全く『本草』の所記の文に合う。万事この類で、旧来の本草家が和漢のものをむりに押し宛てたる中に不埒なこと多し。?《こう》上路側に植うるゆえに、槐はエノキならんなどいう論法は中《あた》らず。西アジアには、多くスズカケノキ、プラタヌス(近ごろ大阪辺にも路の側に栽《うノ》ゆ。ロンドンにことに多く栽ゆ)を?上に栽ゆ。古書に、神事に食を盛り、また占いにミツナカシワを用いしこと多し(「仁徳紀」にもあり)。このミツナカシワ何物やら分からず。小生いろいろしてその真物を得、牧野富太郎氏に示せしに、全く紫草科のマルバチシャノキなり。寸法はちがうが(長さ三尺という。三尺ばかりの大きさの葉ある樹、日本になければ、これは誤写なること勿論なり)、厚さといい、その他の記載全く合えり。(今は例の合祀のため野生はほとんどなく、わずかに神社辺にあるものもきわめて少なし、絶滅に近し。)熊野や伊勢に多くありしものゆえ、その辺で神事や占いに用いしなり。神事や占いに用うればとて、東京辺や西京辺のある一の木をもって直ちにミツナカシワとすること成らず候。
(168) 東洋にも西洋にも自説を助けんとて、一物の諸性諸用のわずか一、二点をとりて、これをその物この物に押し宛てんとする弊は学者にはなはだ多し。彝倫の彝(?《い》ともかく)というもの、むかし周などの聖人の出し地辺で多かりつればこそ(四川辺)、袞衣《こんい》九章の第五に用い画かれたり。しかるに、仰鼻長尾の猴とは何のことか分からず。小説的のものと思いおりし人多し。英人中にはこれをインド海島の天狗猴にあてたる人もあり。天狗猴は鼻尖り下がれり、仰鼻にあらず。しかるに先年小生帰朝前、英人チベットに行き、その辺および四川で仰鼻長尾の猴二種までとり帰り小生も見たり。その時は二種なりしが、後にメコン谷でまた一種見出だすときく(支那書に合えり)。〔【右上図参照】〕
 今坊行にある刊行『山海経』(寛永ごろ?明朝の出板本を再刻す)に、図のごとく鼻仰ぎ、尾の二端もてふたせるところを画けるはうそははだしいが、とにかく今もその実物はあるなり。日本人これを知らず。今も?をもって麟鳳同様作りものと思うは、自分らの不覚なり。このことはそのうち「塚本氏の『麒麟考』を評す」と同時に認め、考古学会へ出すべし。しかし、小生の書くものいずれも(ちと大層だが)世界の学者を相手にする心懸けに出で、日本の凡衆啓発また娯楽用にかくにあらざれば、誰も読まぬも知れず。それはその人々の勝手なり。小生の論の不満不完なるにあらず。
 わが邦の考古学者、自説を張らんために、知りつつこじつけ多し。馬琴もっともはなはだし。
 欧州人もまた東洋のこととなるとこのこと多し。チャンバレーンが日本の能登等の地名アイヌ語に出ずといいながら、そのアイヌ(すなわちわれ〔二字傍点〕ということ、エスキモー人に汝の国名は何ぞと問うにインヌイト、われ〔二字傍点〕という。古き欧人画きしアラビアの地図にドノ地という地名多し。「この地の名は」と問うに、前方の人に分かりがたくて「ドノ(169)地か」とくり返し聞き返せしなり。日本、ドーレーの木という木諸処に多し。名の知れぬ木の名を問いしに、語を解せずにいずれの木かと問いかえせしなり。例の声〔傍点〕の心得なきゆえ、問い返しを確答と心得、誤ちしなり)なる語を、犬と人の間《あい》の子《こ》という伝説より出でたりとするごとし(間の子という語は十九世紀日本へ米人来たりてよりのことと存じ候)。岩倉公の『回覧日記』にも、北米土人が官人をカミヤキンというは上役人の義にて、これら土人は古え日本より来たりしならん、とあり。カミヤキンというような語は徳川氏幕府を立てて後の語なり。わずか三百年間に日本人が北米を占領してかくまで日本人と異処多き人種を造り出し得べきや。
 「木篇に鬼」は意味あるべしという。然り、意味十分にあるなり。ただし、エノキに何の関係なし。(木にはそれぞれ多く神鬼の説あり。出口氏が人類学会へ出だせし「本邦樹木崇拝の遺風」など見るべし。)「『太公金匱」にいわく、武王、大公に問いていわく、天下、神の来たることはなはだ衆《おお》し、おそらくは試《ため》す者あらん、何をもってこれを待《ふせ》がん、と。大公、槐を王門の内に樹《う》え、益ある者は入らしめ、益なき者はこれを距《ふせ》がんことを請う」。三公を三槐ということ、その他、『淵鑑類函』四一三に、槐の神霊なる例多し。『本草綱目』、「槐は虚星の精なり。老槐は火を生じ、丹を生ず。その神霊なることかくのごとし、云々」(『和漢三才』巻八三に引けり)。安堵峰辺で、土伝にこの木で箸を作り用うれば、狐に魅せられず、また狐つきを落とすとのことに候。
 インド人の環はチャクラに何の関係なし、釧なり。土中より出ずる石製土製の釧は、ほんの死人に捧げたる供具なれば、実際死屍の腕にさせしにはあらざるべし。
 また前状申し上げし quoits は、主として正鵠に中《あた》るを目的とし、なるべく軽く草等にて作り、上円く下扁なり。古ギリシア、ローマ人の戯れに用いし discus は上も下も扁にて、主として力量を試むるに用いしゆえ、鉄等の重きもの多し、と『大英類典』第一一板 quoits の条に見ゆ。
 近野村の方は右の通りなれば、当分白井氏等の助言を要せず。一世一代の時に臨み、同氏等の力を借るべし。ただ(170)し、何とか神社合祀反対の意見を出す人は白井氏始め一人なりとも百人なりとも、なるべく多く書き世に公けにされんことを望むなり。しからずんば、単に紀州ばかりのことと見なされ、世の同情少なかるべし。
 実は合祀の苦情は奈良に、備前に、大阪に、伊勢、豊後よりも申し来たりあり。小生、実際を見ぬことゆえ黙しおるが、東京にてこの種の意見三、四も有名な人の手により公けに出れば、おいおい各府県よりも出ることと存じ申し候。
 「猫の話」は、小生やりかけたものゆえ訳出して数日中に差し上ぐべく候間、考古学会へ出し下されたく候。「燕石考」は、小生訳出して人類学会へ出し申すべく候。
 俗人相手の引用出処確かならぬ雑文や『風俗文選』様のものを出すことは、小生当分そのひまもその望みも無之候。『太陽』よりは、福本誠氏紹介にて、しきりに小生に投書をのぞまる。しかるに、小生は日本文は下手の廉をもって、また自分ごとき微細の論は到底只今の日本一汎人に向かずとてことわりたるに候。
 小生弟常楠は、小生幼少より商務に通ぜず、兄は大放埒の上、法律をかじりかき人を苦しむることを好む。(小生いろいろの学問せしがこれに懲り、法律学だけは見しことなし。)亡父、眼の明らかなる人にて、死後五年にして家亡ぶべしという。果たして五年にして兄は家を亡ぼせり。小生はこの通りの変物で、学間のみ好み、また人を凌ぐことはなはだし。故にこれは別物として学問させられ、自分の身代の一分は常楠に与えらる。この者小生より三歳若きが、木下友三郎氏等知人なり。只今四千石ばかり酒作る。一棟《ひとむね》でかく多く酒作るは全国になし。五年前、大隈伯に、「天下一統」という銘をもらい東京で売り出し、今月五日午後一時より夜九時まで日本橋倶楽部で大隈伯以下百人を招き五年の祝賀会開き大酒宴、芳町芸妓多く来たりきやり〔三字傍点〕を唄い、伯の演舌、増田義一の和讃あり。前島密題字、幸田露伴序をかき、佐々木信綱題詠ありし由、和歌山ごとき卑劣人多き所の者にしては大胆なやり方なり。しかるにそれと同夜、小生当地にて人と酒宴大騒ぎの上合祀のことで人を罵り、その人気絶とは、何と燕人張飛のような大きな声じゃ。只今この状かくかたわら人を遣わし見舞いにやれり。田舎に年久しくおると気象も衰え来るもので、弟のす(171)るほどのこともできず、老いてはまさにますます壮なるべく、究してはまさにますます固なるべしで、小生はまたむかしの気をとり直し、なるべく多く論文をまじめに草し海外で出し置かんと思い申し候。以後は海外で出た土俗・考古上の長い論文は必ず一本を差し上ぐべく候。小生よほど名を挙げた論文、ロンドンで十二年前出せし“Wandering Jew”の考あり。これも訳して本邦で出さんかとも思うが、例の長たらしき文で和漢洋梵ごっちゃまぜだから、いたずらに印刷者と校正人を煩わすのみ、誰も読む者なからん。
 スコットランドのマキントシュ男の語に、学者は二つに一つ取りの構えあるべし。今行なわれて後日たちまち忘らるるか、後年に永く伝わりて今日誰も顧みぬかの二つなり、と。チャーレス・ラムの名著は死後を期し残せるもののみなりと申す。
 小生徳川頼倫侯をよく知るが、状出さぬわけはロンドンへ故王の戴冠式を見に、外国紳士十万人入り来たりしとき、この侯アメリカン・ホテルに宿しおる。
  御存知のごとくアメリカ人は「沐猴にして冠す」で金ばかりの力で跋扈するが、欧州ことに英人の重んずる礼式作法なく、言語至って麁渋なり、また虚言吐くこと夥《おお》し。英国で大きなほら咄《ばなし》をヤンキー・ライなど罵笑す。つまり無礼ものの田舎宿といわるるなり。
 これを故中井芳楠氏心配し、何とか聞えよき家に宿を転ずることにせぬと交際上不都合なりというゆえ、小生、故津田三郎(笠置艦長)と相談し、ダグラス男(小生の写真にある名筆の人)の子十四なるが少尉侯補となり支那海へ勤務に立つに臨み、富士艦を見たしというを幸い三浦功(艦長)に話し、同艦へダグラス父母と右の悴を招待し、艦内見せ、さて侯のことをたのみしに、英国は他国とちがい知らぬ人を宿めることはむつかし、故に華族連の家へはちょっとむつかしいが、アメリカ旅館よりましと思い、予(ダグラス男)の邸へ来宿は如何とのことで、中井、田島(担)等みな賛成し、侯と鎌田栄吉、斎藤勇見彦と小生とダグラス方を見に行き、それにきまる。しかるに、公使加藤高明(172)とかの評に、ダグラスの邸はよき地なれど(ダルウィチすなわち日本の目黒ぐらいの処で、ジッケンスの小説に名をのこせしピクウィク庵今も保存されたる、その真向いの家なり)、テームス河の南だけが玉に庇なりという。
  これはロンドン中で最高手の通人《つうじん》輩のいうことで、根岸はよいが御成道の塵がおそれ入るの、木場は大家が多いが柳原を通るが殺風景だなどいうごとき勝手論なり。日本人などの言うべきことにあらず。高明なまいきの極で、かかるこというが最初徳川侯の下宿の世話を得せざりしなり。
 それをきき、なにか悪いこととでも思いしか、侯に傅《つ》いて来たりし者どもいやになり、侯もいやになり、ついにオーストリア人の下宿屋(オーストリア人は御承知通り外国へ出で、貴人などのおちぶれしようなことをいい(実際また貴人の衰え本国にすめぬもの多し)、貴族などをめがけて高等娼を営むもの多し。わが皇族、華族でこの事にかかり新聞へ金とられし人多し)に移り、さて例の日本人の癖としてダグラスの方へは何故いやになったという返事もせず。先方は侯来ることと思い、壁をぬりかえなどしたるに何の挨拶もせず、鎌田ようやく小生に迫られて硯かなにか一つ持ち行きおくり、それよりダグラスにあわず。ダグラスその礼に右のホテルに行きしときも、三井、住友、その他二十人ばかり群居わいわい日本語で話しながら、一人も出て挨拶せず。(かかるくせ日本人に必ずあり。)たまたま田島担来たり、気の毒に思い、よい加減に話し去らしめし。この仕様たる、侯は何にもなれぬ人として恕すべきも、タグラス大不快にて小生も非常にこまれり。さて侯出立の節、他の日本人一同を饗応に招待し、小生一人をばまた別に特に招待す。これは小生はつかつかと言《ものい》う男ゆえ、多人の中で右のことをいわれては騒動と思いてのことなりしと思う。小生不快にていかに招かるるも行かざりし。この他にも、傅《つ》いて来た人、この類の尻つまぬこと事多く、小生のみはなはだ迷惑せり。これを言い出さんには多少人の面目を損ずることゆえ、牛は牛づれ馬は馬づれ、つまり華族などには斬られてもつきあわぬことと、只今まで書状出すことは見合わせおるなり。
 御承知のごとくペルシア人は書道をはなはだ重んじ、その書はなかなか貴価のもの多し。日本、支那の書の速きを(173)尊ぶとかわり、※[図有り]かくのごとき字を一字に二年も三年もかかり描くことあり。美少年を重んずる国にて、美少年、鷹を翫ぶ図多し。(大津絵の唄に、お若衆は鷹をすえてうかめ顔、といえるとたまたま合せり。)その一つに、霊妙の手で弥夜書きの文字を美しく描きたるを、大英博物館の古物部長より侯にくれる(小生の紹介で)。その礼になにか帰国後これという由来あるものを送るべしとて、帰国後一年立ってもおくらず。侯の知ったことにはなく、傅《つ》いて来た者の忘失不念なり。くれた人はかかる無礼のこと日本の侯家にあるべしと思わねば、あるいは小生方へおくり来たりしを小生失いなどせしにやとの疑いなきにもあらず。こんなことで小生は非常に自分のみ心配せしこと多し。のち福本日南にこのこと語りしに、日本の華族などいうもの外見外聞に引きかえ、内実かかる不埒のもらい倒し等のことはなはだ多く、つまり家令、家扶などの不埒に出ずることながら、それが常になりおるとのことなり。さてその不念欠礼の人々が帰国後著書して西洋人は礼義厚しとか、物もらえばきっと応酬を速やかにすとかいいおるも笑うべし。
 松村教授ごときも、小生、岡村金太郎氏を介し意見書出さば必ず多少尽力しくるるべきやを確かめた上、書を送りしことなり。それにしては尽力の薄きこと驚くべし。
 近時、道徳訓とか王陽明とか武士道鼓吹とか、聞き飽くばかり名論が出るが、実際何の効力なきことかくのごとし。口や筆の感化力よりも、古社でも拝して知らず識らずのうちに精神を素養するのほかに道なきことと存ぜられ候。
 明治四十四年十月十三日朝
                       南方熊楠拝
 
   柳田国男様
 前書申し上げし奇絶峡という風景|絶可《ぜつか》の渓を、只今六万円の大工事を起こし、岩石をきり、樹木を損じ、炭薪を運ぶ道を作りおり。この道成らば上秋津村という村大繁盛すべしという。これは郡吏等留任継続のためのことにて、村民の負担重くなり、また実際そんな道作りて不断炭薪を出すほどの樹林もなく、実につまらぬことに候。
(174) 当地方は製造工業をおこすということは毛頭なく、ただただ道路を開くことのみに尽力するなり。むかし露国この通りで、人民四散、右往左往し、住所不定になり、大いに百姓の安心を妨げたるに候。
 「二書」残分あらば、台北庁大稲?建成街三丁目二九中村啓次郎氏へ一本早速発送下されたく候。
 本状認め候通りなれど、『太陽』記者すでに小生に投書を望み来たり候ことゆえ、貴下よりかけあい、もし全文(引用書欧字とも)一字もぬかず満載し(二、三回に分載でも宜し)、かつ校字を貴下にさせることならば(人類学会ごときは、校字を小生へ送り来たり、小生校字の上出したこと多し)、むろん小生の手並みを見せるため『太陽』でも宜しく候。このことは小生より原稿本御受け取り次第、一つかけ合い試み下されたく候。あるいは思いのほか宜しくはこぶも知れず。実際、小生手元には往年英米独伊で出した諸論文、また今も出さんと思う考古・土俗上の論文ははなはだ多く、到底(欧米は別にし)人類学会と考古学会の雑誌のみでは出し尽きぬに候。
 喜多村信節は、邦人としてはよほど得手勝手の牽強少なき人なり。『画証録』などに、道祖神考か傀儡師考に似たことを列挙しながら、かくいえばとて必ずこのことはかのことより出でしにはあらじ、事の成り行きとして偶然相近似し来たりしならん、とあり。かかる寛和の所断ありたきことに候。小生夢を見てこれをみずから思い出しひかえ、分析する法を考え出し、いろいろ試むるに、ちょっとした夢にも無量の源因、出所あり。土俗といい言語といい夢のごときもので、しかも一人の見た夢でなく、千古来に億兆人の夢み想い来たりし結果なれば、一つの土俗、一つの言詞にも、無量の来由ありと知るべし。
 英国ニューカスル・オン・タイン市に T.M.Allson なる医者あり。多年 flail(連伽《からさお》)が欧州で廃し行くを慨し、そのことを究め叙し、五年前一書をあらわし、拙者に校閲を求めらる。小生これを校して付加せし条々と、他の諸氏よりの答書を併せ、三年ばかり前にまた増補一篇を出す。まことに篤志感ずべし。しかるに、その内に南米パタゴニア人(明の世にいわゆる大人国)の用うるボラ bola を連伽として論ぜり。(わが国の女の仇討に用いしクサリガマ分銅(175)に似たもので、土人これをもってふりまわし、駝鳥《レア》、駝羊《ヴエクアナ》等を捕うるなり。)しかるに実際、連伽とボラまたクサリガマは何の実際似たものにあらず。無理に自分の博見を誇らんとしたり、自説を張らんとしたりすると、カラサオとクサリガマを混合して一となすような大まちがいを生ずるに候。
 小生思うに、エノキを日本で尊びしことは、エノキをなにかの原由ありて totem(族霊)とせしなるべし。『姓氏録』に、榎に基づく名多し。松、樫、藤、梅、桜等みな然り。また塚に植えるには、なにか便利なりとかなんとかいう理由あるべし。一々これを外国より来たる風とせしは確証なき以上は鑿説なり。外国にもそれぞれ特殊の樹を多く?に植える風ありということさえ分かれば可なり。塚に樹|種《う》えることは、別に外国より学ばずばならぬほどむつかしきことにあらず、探さばどこの国にもあるべし。(アフリカにもあるなり。)
 
          40
 
 明治四十四年十月十三日夜
 白井氏より来状あり。今暁拙妻女子分娩、多少取り込み中なれども、とにかく状出し答え置き候。大意は、小生今後抗議の必要あるとき二度と白井氏の署名を煩わさざるべく、また小生の外にも白井氏ごとき知名の士にして小生同様の意見を有する人あると知れなば、今後あまりに突飛な合祀再行、神木濫伐はやらかさざるべく、ことに白井氏まことに熱心の人にて、他人が手を付け得ざるところなる神社合祀反対意見を草し、自分の名にて『太陽』とかへ出さるるはずなれば、それが出れば大分、岡山、奈良、三重、大阪、愛媛、香川等にすでに大反対のもの多ければ、それらよりも一汎の輿論を喚起し得べく、そのうちまた知名の士よりそれぞれ意見も出づべく、小生は三宅雪嶺の承諾もあることゆえ、そのうち沈着なる根本的の一世一代の文を出し申すべく、それこれにて大願はたぷん成就すべくと存(176)じ申し候。よってとにかく白井氏へ右の意を申し通じ、抗議書を出しもらうように頼み置けり。
 「ロクロクビ」、乳目臍《にゆうもくさい》、この名は山岡氏の『類聚名物考』に出づ。これらのこと、貴下はいまだ材料集めあらずや。小生ずいぶん多く集めある。また女人国のこと、これらも入用ならばそのうち差し上ぐべく候。
 小生書きようわるかったか知らぬゆえ、ことに弁《ことわ》り申し上げ置くは、チャクラ(剣輪)は速やかに廻転しながら横に飛び行き中《あた》ったものを胴断りにする兵器に候。故になるべく薄くかつ実用のものは外端鋭きこと刀剣同様のものにて、はなはだあぶなきものに御座候。腕や足に入れる装飾の環釧とは何の関係なきものに御座候。
 小生は不賛成ながら、実用論理の上で貴下の自説を張らんとならば、伍子胥の「?は材となすべきなり」の語を引き、?は榎なりだから榎という(槐の一族の木)は、たぷんむかし支那で多く塚に植えられたと見える。さて日本でもそのころすでに榎を塚にうえることが行なわれたから、自然榎(支那字の)を日本のエノキに宛て用うることとなったんだろう、といわばちょっと聞こえ申すべく候。
 『紀伊続風土記』に、榎を熊野のある村で塚かなんかに植え神とせる所のことあり。熊野に榎本(ヨネモト)とよむ氏多きは、むかし榎を族霊 totem とせし風ありしかと思われ申し候。熊野の神官に榎本氏多し。この『続風土記』の文は衛存知ならんが抄記し置けり、今見えず、次回に状差し上ぐるとき上げ申すべく候。
 本日の『牟婁』紙に、近野村神木のことあり。白井氏へもおくれり。一片切抜き呈上す。なおあまりあり、事により、三、四枚おくり申し上ぐべく候間、徳川侯〔三字傍点〕その他へ御勝手にくばり下されたく候。
 「二書」出でてやれやれと一休みせんと存じ候ところ、また近野村一条眼下にせまり来たり候には閉口致し候。
 Martin Luther,‘Divine Discourse at his Table,’Capt.H.Bell 英訳 1652 に、水中に Nix(ニクス)あり、素女を(177)誘いて水に入れこれを犯し、鬼子を生ましむ(ドイツの迷信なり)とあり。『遠野物語』、河童、人の女に通ずることに似たり。
 明治四十四年十月十三日夜
                        南方拝
   柳田国男様
 
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 先刻一書差し上げ帰りてただ眠るもつまらずと、古き抜書出しそこはかとなく見るうちに、『続群書類従』神祇部巻三〇に収めたる『八幡愚童訓』巻下(『群書類従』のにはなし)、この山(八幡山)には(八幡)大菩薩、云々、あるいは御沓、御利刀を残され、あるいは御硯を留めたまいたりとて、今はみな岩となりたれどその姿はかわらず、御硯の石の中に穴あり、穴の中水溜まる。いかなる旱魃にもこの水ひることはなかりしに、文永の蒙古襲来の刻《とき》この水乾きたりけり。凶徒退散して元のごとく水満てりとぞ申しける。貴下御下問の「硯の水」とは何のことか知れず、しかしこの一条あるいは御間に合うかとも思われ記し付け候。
 また同書巻三三所収『稲荷鎮座由来』に、「私にいわく、稲荷五社は、一は大明神、本地十一面(上御前これなり)、二は中御前、本地千手(大明神の当御前なり)、三は大多羅〔三字傍点〕の女、本地如意輪(下御前これなり、大明神の前御前ななり)、四は四大神、本地毘沙門(中御前の御子、すなわち御同宿中御前)、五は田中、本地不動(先腹大多羅の女郎子なり)」。大多羅之女は「ダイダラ」(何のことか分からぬが一種の地祇なるべし。かかる地祇が後に神より怪物となり下がり、ダイダラ法師となりたるかと思われ申し候)の娘とよむにや、大明神(上御前)の妾なるべし。
 古スウェーデンのトロール Troll, 古英国 Giant の類の巨大神と見え候。古ギリシアの Dracos ドラコスも似たり。
(178) 明治四十四年十月十三日夜一時投ず
                        南方熊楠
   柳田国男殿
 
          42
 
 拝復。狐が人を魅すという話は、日本、支那に限らず、他の諸国にも多く候。また仏経および回教書には、野干(梵名シャガール、英語ジャカル)人を魅することと、ヒエーナ(食腐尸獣にて歯至って堅く狼属と猫属の間に存す)人を魅すること多く候。野干を狐と心得たるはまちがいなり。(狸も北支那のは日本のたぬきなれど、『荘子』に「狸をして鼠をとらしむ」とか、仏経に狸のこと多きは、去年渡瀬氏将来のモングースに候。)『法苑珠林』は、唐の則天より少し前に作られしものゆえ、それ以後のことはなし。しかれども、仏教の古語の大体を見るにはなはだ欠くべからざるの書なり。小生抄しおけるは、清の道光中の所  錦にて美本大本なりし、大英博物館にて見たるなり。本邦の『一切経』には南蔵北蔵諸刊本みなこれを収む。目録の末の方の「此土著述」書目の中にあり、一百巻あるなり。仏経中に古語多きも諸処に散在し、また小生の文と同じく digression(横道まわり)多く、かつ多くは暗誦に便にせんため足注韻文を用い、わざと入らぬこと、分かりきったことを幾重も繰り返せり。
  小生の文なども、欧文は foot-notes を用い得るゆえ本文の順序は整然たるを失わず。しかるに古ギリシア・ローマの文と同じく、日本には足注を用いて、本文の加勢するに止まるほどの不必要譚を別に付するの方なし。(もっとも支那風のわりこみ注、一行の本文の下に二行にかく方あれど、これも長くなりては本文を忘れおわることあり。古えは支那にこのわりこみ注もなかりしゆえ、『神農本草経』の本文に漢の郡名が出たり、『周礼』の本文に後漢のことが出たりするなり。)
(179) なかなか貴下ら隙暇少なき人の読み得るところにあらず。小生『一切経』について(小乗と中乗は了《おわ》り、大乗は今やっておる)その古話、里伝を抄記し、すでに五巻ばかり細字にてあり、おいおい御目にかくべく、また貴下一本を写す志あらば、そのうち一冊ずつ御貸し申し上ぐべく候。日本および欧州等の古話、多くは仏経より出でたりと見え候。また、たとい出でずとも同範のものがインドに先鞭を着けられおり候。
 「おくない神」のことは『捜神記』に出でたる支那俚詰をそっくりそのまま伝入せしにて、この神は蚕業の神ならんということ、小生四十三年十一月二十日の『東京人類学会雑誌』八一−八二頁に載せおり候。この話(右の『東京人類学会雑誌』には引かざりしが)、下河辺長流の『続歌林良材集』巻一にも引きたり。
 杉村より今朝来状あり、白井氏の文を『東朝』へ出す由申し来たり候。
 いずれの国にも学術家と宗教家は相容れず、わが国の国学者などまた弊多し。しかるに、小生の「二書」に散見する通りに行なわば、わが国には考古の学進めば進むほど国体の有難きこと分かり、はなはだ都合よきはずに候。(外国には古ギリシア・ローマの学分かりて Renaissance 起こると同時に、キリスト旧教は大打撃を受け、その後科学起こるに及び、キリスト新教またはなはだ打撃を受け申し候。わが国は然らず、考古、里俗の進めば進むほど、われわれ祖先の履歴と国家のいよいよ古きことが分かるに御座候。今のうちにこのことを明らめ置かずに、おいおい領地も新たに加わり、異族、外民混入するに及ばば、また国盛れば盛るほど内心すでに枯朽することローマ帝国の中葉|已下《いか》のごとくならんかと憂いられ申し候。)
 馬また牛の首等を水に投ずることは外国にもあり。小生、先年露国の昆虫学大家オステン・サッケン男 Baron C.R.von Osten-Sacken(三年ばかり前死す)を助け、Bugonia Superstition(『聖書』に、サムソン婦を迎えに行く道で獅子の屍より蜜を見出だす話の研究)に関する論文二回出板し、イタリア昆虫学会創立五十年とかの記念号に出し、またハイデルベルヒおよびロンドンで出板し、また増補を‘Nature’へ出せり。あきれ反った長文なり。「神跡考」で(180)すらあきれるほどの人にはとても読み尽し得ず。そのうち「燕石考」が済んだら、省訳して日本でも出さんかとも存じ候。そのうちにこのこと多少論じ置き候。支那には異人種多きこと日本の比にあらず。故に帝家で牛を大牢として尊重し食いしこともあり。また御申し越しごとき牛を食うを大罪悪とすることもあり候。漢神などは、その一派の牛を食うをよしとする派と存ぜられ候。人肉を食うは支那人も非とせるところなれど、それと同時に人肉を食いしこと例多し。(神田孝平翁、学士会院で述べたり。九世紀にアラビア人支那に之《ゆ》き見し紀行には、支那人開化しながら人肉を食うを何とも思わぬ由いえり。唐朝のことなり。また『水滸伝』など見れば、宋元の世に田舎で人を捕え肉饅頭として売買するが尋常のことなりしようなり。近日のアフリカ内地に異ならざりしと見ゆ。イタリアなども中世人肉を売りしこと多くあり候。)
 神母とかきてイゲと読むこと小生従来知らず。しかし、東海林氏が庄司たりしあり、東海林と書きてショウジと読む等の麁略なこと多き世には、かかることはちょっとした推察のみでは一々その真の理由は分かるべからずと存ぜられ候。
  黄興兵を起こし大乱に及び麁由電報にて見る。小生も孫文と兼約あり、もしいよいよ確定に及び候わば一度かの軍を見舞わんと存じおり候。椿蓁一郎という人当県知事たりしとき、文みずから和歌山に小生を訪い和歌浦で会談せしことありしも、汽車中より人につけられ、終《つい》に熟談を得ざりし。
 明治四十四年十月十四日午後三時
                        南方拝
   柳田国男君
 
(181)          43
 
 明治四十四年十月十五日夜より十六日夜に至り書き終わる。
 小生妻すでに出産し、母子健康なれば、近日近野村へ菌をとりに行く。しかし、いつとも分からぬゆえ、それまで時々材料抜書き差し上ぐべく候。いずれも見出だすに書籍多くひきちらし、なかなか骨折れるものゆえ、なるべく多く御間に合わせ用に立て下されたく候。かれこれするうち他人に見出だされ、先駆されてはつまらず候。
 主として石ふえること、また子をうむこと等に付き申し上げ候。ただし、他のことも見出だすままに記す。
  ここに中言申し上げ候。昨夜、例の広畑岩吉という二足生えたエンサイクロペジアを訪いしに、いわく、当郡|富田《とんだ》村|庄川《しやがわ》に瀑布あり、小さけれどもはなはだ凄き所なり。図のごとく懸崖の下に棚あり、その前にさまで大ならぬ淵あり。旱するとき近村のもの牛の首きり、えた一人に米一俵遣わし、この淵を游《およ》ぎ渡り、かの棚岩の上へ牛首を捧げ置き帰る。しかるときは大雨ふる。ある年あまり大雨はなはだしく、反って百姓大迷惑せしゆえ今はこのこと止みぬ。また、ほんとの牛でなく牛頭を張子にて拵えもち行くことあり。岩吉氏、一年えたこの式に使われし当日そのえたにあい聞きしに、わずかの淵なれど牛首を持ち行くうち、たちまち渦まき出し、なかなか米十俵二十俵くれたりとて二度と行く所にあらずといいし由。えたはいつたいこんなことを金銭とありさえすれば何とも思わぬいわゆるえた根性の者なるに、かくのごとく言えるを見れば、はなはだ危険なることと思わる、云々。
 右書き終わりしところへ白井博士より松田定久氏の詩を送らる。これ知己の辞なりと大いに喜び、右の広畑方へ走り行き七合飲み、帰りまた記す、広畑いわく、右の滝は七滝《ななたき》というとのことなり。
(182) ところへ和歌山より状来たり、近野村の杉のこと県知事より何とか調査の上処分すべしとの返事(調査調査というが小生ほど調査せしものなし)、また小生にあうた上合祀に関する意見を県知事みずから述ぷべしと、県知事、小生の知人に託し申し来たり候ゆえに、この上まさかかかる老樹を伐るようのことなかるべし。
  那智山濫伐の姦徒は本月三日裁判のところ、何か訳あり、二十一日とかに延び候由、花井卓蔵弁護に来る由なり。かの巨魁澤田というはなかなかの姦雄にして子分多く、その中には生死知らずの者多し。故に小生、事により襲わるるも知れず候。しかるに小生また大武力あり、三十余斤の鉄棒を昼夜牀頭に置き、毎日一上一下上三下四と稽古しおれば、なかなか三、四人ぐらいのものにまくること成らず、ここが見物《みもの》なり。いわんやこの辺の漁民、仲仕、人足、小百姓、博徒、みな子分なれば、いよいよ襲撃とならば、これこそ見物ならん。
 『都名所図会』巻四、遍照寺山、大道法師足形池、広沢の巽三丁ばかりにあり。大道法師は例のダイダラ法師か。
 『芸傾国郡志』、「出雲石。豊田郡土取村の田間にあり。土人伝え言う、この石は年を逐って長大となるなり」。
 『隠州視聴合紀』巻二、東郷、北の山阯に浦宮というあり。古老伝えていわく、むかし漁夫|綸《いと》を垂れて一拳石を釣り上ぐる。これを奇なりとして帰り、小社を立ててこれを納む。その石すこぶる大になるゆえ、七、八年を経て左右の板を推し破る、故に改め作る。またかくのごときこと多し。今はすでに七尺、板壁ようやく破る。
 『塩尻』(帝国書院、四十年出板本)第二冊、五五巻六六頁に、榎室連の姓は、上宮太子、山城国巡行の時、水主《みなせ》の古麿《ひさまろ》が家の門に大榎樹ありし。太子いわく、この樹は室のごとし、大雨も漏れず、と。よって榎室連という姓を賜いし由、『姓氏録』一三に記せり。されば、わが国古えより榎を人家に植うること、その枝を伐ればいよいよ繁茂するがゆえ、枝の木と呼びて人用ゆるに利あればなり(榎の木のこと)。
 椀貸しのこと。『塩尻』六六巻二六四頁、祝允明が『語怪』に、済?《せいとく》祠の神は霊験灼然として貧者に銭を貸しましますとかや。さればその祠の前に大池あり、人、銭を貸《か》らんと欲すれば、まず神前に?りて?決し、神これを許せば(183)契券を書いて池中に投ずるにたちまちこれを巻き沈め、ややありて望みし数ほど金を浮かみ出だす。借者拝してこれを持ち去る。さて約せし期に中りて子本を具し往きて神に謝し、これを池に投ずれば、やがて前に沈めし券を浮かみ返す、と言えり。
 山姥のこと。『塩尻』九二巻六三三頁、尾張春日井郡の民の妻、産後乱心して山に入り、十八年へて裸に草葉まとい山姥となり帰るに、鉄砲|中《あた》れども死せぬこと。
 七難が揃毛。『塩尻』二巻二二頁、興福寺の宝蔵に、光明后の髪なりとて、その長《たけ》一丈余の鬘《かつら》ありとぞ。また吉野泥川という所の奥に「テンノ河」とかやに弁才天の祠あり、そこに長《たけ》八尺ばかりの髪あり、こは白拍子静が髪なりと言い伝うとなん。また、ここに五丈もありなんいと長き毛あり、七難が陰毛なりと言うとぞ。熱田の社にもまたこの類《たぐい》なる物あり。
 『塩尻』二九巻四七四頁、前鬼、後鬼等、延宝元年より他村民と交わりしこと。三七巻六〇三頁、出羽延沢銀山の隣郷中島村の熊野祠は、文禄年中に村民、熊野七度詣でせし那智の浜にて一小石を拾い帰国せし。年月を経てその石大になりゆくほどに、八十年来、母石は一拱《ひとかかえ》あまりになり、形老嫗のごとしとて姥石という。この石より児石分すること二千余にて、年々に重なりふとりて、太郎石、次郎石、孫石大小あり。小石はみな卵の形に似たり、これを崇めて今熊野という由、かかることもあるにや。
  熊楠いわく、玉石《たまいし》とて図のごとく石を多く異質の石塊中に孕めるあり。これを人工もてとり出し、または風雨などにて自然にはなれ出ずるを石が石を生むと言うならん。ただし、大きく成長すということ一向分からず、虚伝と思うのほかなし。
 黒崎貞孝の『常陸紀行』(「続帝国文庫」二四編)九〇四頁、多珂郡石那坂に雷断石あり、囲《まわり》二百丈、高さ五丈ばかり。土俗相伝う、上古この石、日に長じて止まず、天にも到らんとせり。天帝これをもて悪《にく》みたまい、雷公をして二つに(184)割《さ》かしむ。その一は飛び去り、今同郡河原児村にありという。
 菅茶山の『筆のすさび』(『百家説林』第一板、巻一)二二頁に、予州三津浜、某が家に盆石あり。それを裏座敷の違棚の上に置きしに、文政庚辰の大三十日に一小石を産む。翌日見るに、傍にありてその形、母石に少しもかわらず、白き筋などもありありと見えて小なるのみ。正月中、見る人市をなしし、と同国|松山《まつやま》人岸恵造が辛巳二月二十五日に語る。
 『百家説林』第一板、巻四、伊藤東涯の『?軒小録』一九頁に、総州佐倉の城下一里ばかりある処に熊野石というあり。むかし熊野より来たる人、履底に付け来たると言い伝う。この石年々に成長し、今は大なる岩となれり。その形状傘のごとしという。ある人二十年ばかり見来たるに、その間三寸も長ずといえり。こは「天中紀」に載する活石なるべし、云々。
 『常陸風土記』、久慈郡加毘礼の天神の社、「石をもって垣となし、中《うち》に種属《やから》甚《いと》多く、また品《くさぐさ》の宝、弓、桙《ほこ》、釜、器《うつわ》の類《たぐい》、みな石となりて存《のこ》れり、云々」。
 釜器などを刻みたる石を、釜器等が石に化せしと思いしなるべし。椀貸しのことに多少縁あらんか。
 William‘Ellis,‘Narrative of a Tour through Hawaii,’London,1827,p.201, ハワイ本島のニノレ Ninole 村の浜の石ども子を生むという。土民、鉄の用を知らぬとき、この石をとり斧釿を作れり。また諸賭戯を宰《つかさど》る神像とせり。ただし、神たるべき石を撰むに方あり。すなわちよかりそうな石を撰み式を行ない賭場にもち行き試み、勝つときは神と定め、まくることつづくときはこれを破棄し、また抛げ捨てしなり。この石にて神作るとき、雄雌各一を撰び布片に包む。若干時立ちてのち小石を産む。小石長じて父母石と同大となるとき、これを祠に祭り賭戯の神とす。
 仏舎利また真珠ふえるということ、『大和本草』にあり。イサアク・ティロル説に (‘Notes and ueries,’June 22,1905,p.486 に出ず)、五十年前(一八四五年なり)、エッセッキス(英国の一州)で民信ぜしは、石、子を生むことあ(185)り、と。South Weald 寺領の小道側にあるものを見しに、水にて穴あきちらせし砂岩なり。人頭より大きく、小さき橙大の椀状の穴多し。穴内に?実《かしのみ》大の小礫あり、常に成長す。これを取り去れば、他の礫またそこに生じ成長す、といえり。‘Notes and Queries,’Nov.9,1905,p.365 にゼームス・ビルトン氏いわく、カッジングトン寺の礎の石成長し、最初壁と同厚なりしが、年々壁の両面より外へ出で来るという。(上のごとくなりしが、下のごとくなるというなり。)同誌 Dec.21,1905,p.497 に、ハーバート・マックスウェルいわく、ペリック荘《パリシユ》の北隅に小流あり。山より下る流中に小礫あり、全く透明にしてやや帯紫、ガラスをきるべきほど堅し。流上に懸かれる岩上にピン(留針)頭大の顆粒をなし、大団をなして群結し生ぜり。年々成長して、長さ一インチ、厚さ八分の三インチとなれば、落ちて流中の礫と混ず。岩にすわりこみおりたるあと、あたかも歯の根のごとし、かくのごとくなり〔【左図参照】〕。他の一端は狭尖なり。あるいは三角、あるいは長方形等にみがかれあること、あたかも最巧の玉匠の手を経たるごとし、云々。熊楠|謂《おも》うに、これは塩類《サルト》の結晶が水中より分離して生々して絶えざるなるべし。
 Southey,‘Common-Place Book,’4th series,p.241,London,Reeves and Turner,1876 に、英国シュロプシャヤーの一原野、石をもって被わる、これを取り除けばまた生ず、と。
 T.Byandell,“Notes of a Trip to the Interior from Malacca,”The Journal of lndian Archipelago and Eastern Asia, Singapore,vol.vii,1853,p.101, マラッカ内地リヤング・バツ Liang-Batu 河の中央に有名なる大岩あり。幅百五十ヤード、深さ十ファゾムなり。マレー人敬尊することはなはだし。むかしナフダツ・ラツガム(巨人なるべし)、船中よりこの石をなげ出だせしが、おいおい生長して河水上にあらわるるに及びしなり、と。
 斎藤彦麿の『傍廂』後篇、神功皇后腰に挿みたまいし石、始め指頭大の小石なりしが、おいおい成長し、今は径《わたり》三尺にも余ると、云々。
(186) まずは右のごとくに御座候。
 右書きおるうち十二日出華翰到着、白井氏の状も拝受仕り候。
 前書小生の文、意味足らざりしを小生知りながら出だせしなり。
 小生の説は葉舞場《上上上》、破魔射場《上上上上》、飯米場《平上上》、浜射場《去去上》、仮名で等しくハマイバでも声のちがいにより上の三様に写し得る。声をきき得れば葉(また被魔)、飯、浜と起因を明らかに知り得れど、書いたばかりでは声が分からず、故に起因の同異も知りがたし。(自今眼前ですらかくのごとし、無点の諷本を見たばかりで節が知れぬごとし。)いわんや多年間にいろいろと声もかわり来たりたれば、いよいよ原意の同意が分からぬと申すなり。右の上上上、平上上等は、小生が和歌山市で幼時行なわれし音を正音と見て付けし声なり。これも和歌山が必ず正音にあらざるは申すまでもなし。貞徳の説に、今の京都の声は尾張武士(織豊二家の臣)入るに及び全く声かわれりというようなことありし。江戸ッ子大いに行なわれて全国の声只今大いにかわりおる最中なり。
 故に右の諸例の宛て字の起りは、声の異なるに従い、それぞれ宛てられたるなり。
  同じ字で声ちがうと意味違う例、支那に多し(『五雑俎』等に出でたり)。仏語にも ami, amie(男友、女友)は習慣上 mon ami, ma amie といわず、破格に mon amim, mon amie という。男友のことも女友のことも雑《まじ》えはなすとき、男友たり女友たるを分かつはひとえに声の異なるによる。音声の学は、インド、それから支那も、ほぼ整頓しおるが、日本では古来むちゃなり。故に同字の名称を察するになかなか骨が折れるなり。英語には声の影響少なきかわりに、また accent の影響おびただしく、地方ごとに 地方語彙《ジアレクチカル・グロツサリー》ありてこれを詳論しおるなり。日本には、そんなことどころでなく、声の分類さえまだ立たぬなり。(支那の四声に中《あた》れども中《あ》てられぬこと多く、また四声中入声ごときは日本のいわゆる入声とちがうようなり。)
 大抵右にて「伝説十七種」に小生書き加うべきもの相済みしと存じ候間、近日恩借の『太陽』その他の雑誌類は(オ(187)コゼのこと出でたる『学生文芸』のみ留め)、他一切ひとまず御返付申し上ぐべく候(四、五日内に)。
 『大唐西域記』巻二、「健駄羅国、波刺斯城外東南八、九里に畢鉢羅樹あり、云々。釈迦如来この樹の下に南面して坐り、阿難は告げていわく、われ世を去って後まさに四百年にして、王あり世に命《ざこ》え、迦膩色迦《かにしか》王と号《なづ》く、この南遠からざるところに率都波《そとば》を起《た》て、わが身のあらゆる骨肉|舎利《しやり》は多くこの中に集めらるべし、云々。迦膩色迦王は、如来涅槃の後第四百年をもって君臨して運に膺《あた》り、贍部洲《ぜんぶしゆう》を統《す》べ、罪福を信ぜず、仏法を軽んじ毀《そし》る。草沢に畋遊《かり》して白兎に遇見《であ》い、王みずから奔り逐うに、ここに至ってたちまち滅《き》え、牧牛《うしかい》の小豎《わらべ》、林樹の間に小さき?都波の、その高さ三尺なるを作るを見る。王いわく、汝、何のなすところぞ、と。牧豎|対《こた》えていわく、むかし釈迦仏、聖智《しようち》もて懸記《けんき》すらく、まさに国王あり、この勝地に?堵波を建て、わが身の舎利多くその内に聚まるべし、と。大王は聖徳を宿《か》ねて植え、名は昔の記に符《あ》い、神功勝福まことにこの辰《とき》に属す、故にわれ今者《いま》、先に相《あい》警発す、と。この語を説きおわつて、忽然として現われず。王この説を聞き、喜慶《よろこ》び懐《おもい》を増し、みずからその名を大聖の先記せることを負《ほこ》り、よって正信を発し、深く仏法を敬す。小さき?堵波の処を周《めぐ》って石の?堵波を建て、功力をもってその上を弥覆《おお》わんと欲す。その数量に随つて恒《つね》に三尺を出で、かくのごとくして高さを増し、四百尺を踰《こ》ゆ。基址|峙《つ》むこと周《めぐ》り一里半、層基五級、高さ一百五十尺にして、はじめてすなわち小さき?堵波を覆うを得たり。王|用《も》つて喜慶《よろこ》び、またその上にさらに二十五層の金銅相輪を起《た》つ。すなわち如来の舎利|一斛《いつこく》をもってその中に置き、式《も》って供養を修む。営建ようやく訖《おわ》りしに、小さき?堵波の大基、東南隅下にその半ばを傍《は》み出せるを見る。王、心平らかならず、すなわち擲《な》げ棄つ。ついに?堵波第二級下の石基中にあって半《なか》ば現わる。また本処において、さらに小さき?堵波を出だす。王すなわち退いて歎じていわく、ああそれ人事は迷いやすく、神功は掩《おお》いがたし、霊聖の持《じ》するところ、憤怒するも何ぞ及ばん、と。慙《は》じ懼《おそ》れてすでに已《や》め、咎《とが》を謝して帰る。その二つの?堵波、今なお現在す、云々」。
 これは右の小?堵波と明記せずといえども、また石の成長のついでに引き出だし候。
(188) 『石神問答』に見えたる道家の大将軍のこと、玄嶷(もと道士たりしが則天武后のとき僧となりし人)の『甄正論《けんしようろん》』巻下に、「先生(自分なり)いわく、道士女冠もと戒律なし、かえって仏家の十戒を窃《ぬす》んで、もってかれの法に充つ。真文《しんもん》、上清《じようせい》、みな絹素《きぬいと》をもってこれを為《つく》り、その中に画いて符図を作り、および玉字を書す。その真文にすべて三法あり。一は八景といい、画いて日月星辰の象を為《つく》る。二は五老といい、画いて五老の神を作る。三は五岳といい、画いて五岳の山状を為る。三本おのおの受用するを得て、すべて受くるを要せず。上清は、そのうちに上清天中の官位および符図を書せるものなり。初め十戒を受け、次いで真文を受け、後に上清を受け、その法|具《そな》わる。?《ろく》は、その数はなはだ多く備《つぶ》さに説くべからず、略してこれを詳《あき》らかにせん。千五百将軍、三五大将軍等の?あり、この?を受くる者は、然るのち符禁|章?《しようしよう》のことを行なうべし。仏にては、尼はこれ女人にして、女人は性として嗜欲多く、機に随つて法を制するをもっての故に、〔尼の戒は〕僧よりもますます多し。道家の法?は凡人の妄造するところ、すでに根性を識《し》らず、ゆえに道士と女冠はさらに差異なし。これらの法は、みなこれ張道陵この法を偽作せしなり、と」。(仏法には、尼五百戒あり、僧は二百五十戒なり。「道士、女道士受くるところの法?は、一概に斉等《ひと》しく、さらに増減なし。ともに十戒、真文、上清の法を受け、あわせて符?を受くるのこと、いまだこの法は何人《なんぴと》の伝えしところなるかを知らず」との問いに答えたるなり。)
 『紀伊続風土記』巻八七、牟婁郡北山郷|神山村《こうのやま》、旧家倉谷善兵衛、平維盛を隠せる人の後という。その家の庭に小祠あり、丸き石を祀る、由来未詳。毎年子を産む、およそ六、七十石も生んだり。先年火災に遭いしより今は産せずという。
 右申し上げ候。
                        南方拝
   柳田国男殿 机下
 
(189)  小生は木村鷹太郎、佐々木安五郎氏の書は見ず候。当地に持ちたる人を知らず、また見たくもなし。かかる僻説を撃つ人は東京にも多からん。
  『淵鑑類函』だけは、貴下の手許に一本を備えおき、事あるごとに目録で見出だし、類似のことを見出だされたく候。まことにょき書に候。
 
          44
 
 明治四十四年十月十七日早朝
 『紀伊続風土記』巻九五に、山姥の休《やす》め木《ぎ》、各郡深林中に産す。小生いまだこの名を聞かず、他州の産物に同名のものありや。巻九六、大灘魚(オオナウオ)、形色共に※[魚+敏]魚(何のことか小生にちょっと分からず)に似て、鱗の大いさ銭ばかり、全体の大いさ五、六尺以上なり。至って大なるは量目十貫目より二十四、五貫目に至る、肉の味甘美なり。牟婁郡潮埼荘和深浦の沖百尋の底に大石あり、大灘島また大灘地という。春月この辺にて釣り採る。この魚他にあることを聞かず、大灘地に産するをもってオオナ魚と言うなり。俗に転じて婦女《おうな》魚とし、和深浦に人魚を産して魚頭に良き髪ありと言うは妄説なり。
 八百比丘尼の伝に、いずれ人魚のことも出るべきあいだ申し上げ置くなり。
                       南方熊楠
   柳田国男様
 
          45
 
 明治四十四年十月十七日夜
(190) 本月十五日出芳翰正に拝見、朝鮮より日本の宛字《あてじ》など多く伝わりしは、白石の書いたものに(坐右にあれど繙覧のひまなし)萩をハギと訓ずること朝鮮にある由、師順庵先生の説なりとかありし。御説のごとく、榎などもそんなことかと存ぜられ候。これはあながち朝鮮を咎むべきにあらず。仏人ローレイロの説に、交趾《こうし》にては(近ごろ本邦で肺病にきくとかいい、またロシア学者が実験して痛風《リウマチスム》に大功ありというなる)クサノオウを黄連と呼ぶ由。西洋にも英仏、ことにアメリカに古ギリシア・ローマの名をもって呼ぶ草木など、全くその真物に違う例多く候。
 瞽者が琵琶ひくこと、また『平家物語』様のものをかたり士気を鼓舞することは、蒙古および西亜の高迦索《カフカス》辺にも有之《これあり》。主として帳木児《タメルラン》の軍功を歌い、只今蒙古族、韃靼族の衰えたるを歎く由に候。なにかに支那、インド、トルコ、今一つはローマなりしかと存ぜられ候、この四ヵ国は国のいかに衰うるも近傍の諸民これを仰ぐこと止まず、これその国々の風がもとこの四ヵ国より出でしゆえと申すこと有之。かつて日清戦争の清国大敗にもかまわず、インドのブータン人が雪山を踰《こ》え北京へ見舞いに来たりし聞えありし、のち荒川巳次氏(ロンドン領事たりし)に語りしこと有之候。(昨今トリポリの蛮族が、平日の怨みを忘れてトルコのためにイタリア軍に対し聖軍を唱うるも然り。)熊沢了介など、ずいぶん本邦勤王論の首唱者と申さるるほどながら、常に支那の国を(『曽我物語』、『義経記』など書きし坊主と同じく)大国大国〔四字傍点〕と称せられ候。したがって支那事物本邦に入りしことはおびただしく、また本来本邦にあり来たりしことも、支那の名称を同似上より冒すに及びしもの多かるべく候。しかし、これも支那から、これも支那からと、ことごとく支那から来たりしことならんには、本邦人は支那から何も来たらぬうちに何をしておりたるべきや。本邦人がたといもとは何の国民と同種なるにせよ、今日支那人などと多少の区別ある日本人となるまでには、長々と隔離しおりたることと存ぜられ候(鬼市などを行なえるなり)。したがって日本固有の風俗は、また固有でありしものなるや疑いなく、その固有の風俗全く外来の風俗のために迹を絶ちしとは思われず候。勾玉《まがたま》のごとき、また例の阿育王の古銅鐸というもののごとき、全く本邦のみのもので外国になき由。この銅鐸が珪化、炭酸化して碧色を呈するま(191)でにはなかなか多大の年月を経たるものなるべく、とても今日のアイヌごとき蛮人がかかる精巧なものを作り出し得べきにあらず。されば日本には日本特異の多少の開化はありしこと確信仕り候。
 椋のこと小生は一向存ぜず、朴また樸をムクと訓ぜる人あり。さればホコより転訛せる名ともいえると同時に、朴また樸の音より来たれる訓なりとも申し得べく候わんか。なにか椋の木、特に矛の柄に宜しという記載有之候や。例のこじつけ西洋人などはムクの葉は物を研《と》ぎむくからムクなどと申すも知るべからず。
 次に貴下、小生の性行、行為につき苦言を惜しまれず、まことに益友なり。土宜法竜師の外にかかること言い出しくれし人なし。小生は舜が邇言《じげん》を聞いて拝せしごとく、たとい躬これに遵い行なう能わざるまでも、一針と心得て心得置くべきこと無論なり。しかしながら、何の返事もせずにかようのことばかり申し上ぐるも、ほんの通り一遍の御挨拶と思わるるべければ御返答申し上げ候。
 小生はいかにも無鳥郷の伏翼なり。しかし、かつて?鳳《こんほう》の間に起居した覚えはあり、帰来も及ばぬまでも世に後れまじきためにずいぶん斬新な著述などとりよせ見ておれり。不幸にして日本には貴下のいわるるごとき心にくき高著、深論の出でたるを見ず、また聞きしこともなし。また二十五年前には役人にて古書を読むなどいうものなかりしならんとのことなるが、小生はそんな人を多少は見しことあり。明治十八年ごろ、上野図書館に読書室の真中に眼を一方かくし読書しおり、読者が札に要するところの書名をかき持ち行かば直ちにこれをとり来たり、持ち来たり配りくれる役人ありし。なかなか貴下らと比較になる官人にあらず、小使いのちょっと上ぐらいな人なり。この人たしか大沼枕山の甥にて、名は今は忘れたり。あまり豊富の身代もなき人ゆえ、かかる微役を勤めらるると見えたり。この人『小品考』とか『拾品考』とか題し、近渡の蕃種植物を黒墨なしに彩色画に十品ずつ画き、四輯ばかり一冊にし、一品ごとに『詩経(毛詩)』を始め、『広東新語』その他清国の書に至るまで委細しらべ、漢名の考鑿をなし説註を付し、まことに見事な書なり。貧乏に耐えず、これを神田小川町より錦町へまがる角から三、四軒万世橋の方へよりし古書(192)肆へ売りし直ぐ跡へ、小生行き合わせ十二銭かなんかで買い、その人のこともほぼ書肆主人にきき、今に和歌山に所蔵せり。もし大沼氏の一家族でそんなことすきな人あらば、一本を写しとり原本を返しやらんかと常に思いおるなり。これはほんの一例なるが、その他にも微禄の官人にしていろいろ書を集め著わしたる人、十人ばかりは知りおれり。この人々はただ書を著わすことそれ自身が楽しみにて、別に後世を期するにもなく、世間へ出すにてもなかりし。
 また石黒氏、金田一氏、山田孝雄氏等のことは始めて承る。田辺の僧は大抵知るが、妻木という姓すら只今聞き始めなり。これらの人すでにさほどの造詣あらば、何とて多少世に出さぬかを、小生は奇怪に思うなり。内地でも外国へも出さぬはほんの犬死ならん。
 アストン、チャンバレーンなどを、小生は学者とも何とも思わず、ほんの日本のことを西洋へ吹聴屋というようなことと存じおり候。貴説のごとく、彼輩はどうしても日本のことほんとうに知りがたきと見え、たとえばアストンが『日本文学史』(大方某文学士の著を翻訳せしもの)に、『折焚く柴の記』の土屋戸部を、戸部は民部小輔のことを漢様にいいたるなるに気づかず、戸部《とべ》という人の名と解しある等、可笑《おか》しきこと多し。これは日本人が欧州のことを訳する中に、またさらに多く笑わるるべきこと多きと同じ筆法にて、吾輩はただただ自分謹んでかかる過失なきよう念に念を入るべきに候。
 日本人が日本で発明のごとく思ううちに、欧米人が先を着けたことはなはだ多し。往年、小生、三宅米吉氏が『元史』の孛羅はマルコ・ポロなることを見出だし『東洋学芸雑誌』へ出せしを、わざわざ和歌山の家弟へ写しおくりもらい、さてロンドンに往き(ニューヨークより)大英博物館でこの発明を紹介せんと、二、三参考書を探るうち、
  大英博物館には誰も彼も入用頻繁なる書は出し入れうるさきゆえ、読書室の周囲の内壁にならべあり、誰でも勝手に取り出しほりちらしおけば、小童来たり片づけくれるなり。大英博物館の参考書庫 Reference Library と申し、欧米諸国に書籍館立つるとき、まずこの参考書目をかいこみ、それから揃えて書籍館の首髄を作るなり。故(193)にこの参考書庫にある書は誰も彼も一読せにゃならぬもっとも入用の書なり。その内に、
大本にて『元司徒(?)孛羅記行』と金字の支那字を打ち込みたる仏国語の書あり。怪しんで見ると、仏人 Pauthier が三宅氏よりは二、三十年前に孛羅はポロなるを知れるのみか、マルコ・ポロの記行を『元史』、『輟耕録』その他の支那書と対照考証して翻訳して出せる大流行書(当時流行はすでに過ぎ去りしが)なりしに愧《は》じ入り、全篇抄記し今も持ちおれり。前年北尾次郎君なりしか、なにか数学上の大発明をなしドイツへ報ぜしに、やつとその前に同じ説がかの国人に出されありて残念なりしということを川瀬善太郎(林学博士)氏に聞き候。これらは日本に図書館整頓せず、また図書館あるもビブリオグラフィー(参考項目の目録)備わらざるゆえに御座候。わが邦の書に索引なく、あったってないよりましというばかり、それゆえ貴下らその書を手近に持ちながら、反って田舎におりて暇多き小生らに先見出ださることあるに同じ、残念なことなり。
 さて仏経に辟支《びやくし》仏(縁覚)というものあり、独覚根性という奴これなり。無仏の世に辟支仏出で、麒麟の独居するがごとく、
  麒麟とは犀のこと。犀は象に次いだ大いなもの、また脇下に火炎のごとき襞?《ひだ》多し。ただし、松村博士捜索せしに、アフリカの豹駝《ジラフ》をぺルシア語でチュリンとかチリンとかいう由。また塚本氏、支那にジラフなしといえど、化石せしものはある。このことは別に言うべし。
無言で乞食しまわる。これに食を奉ずれば、後世に福あり。しかし、返礼に説法などは少しもせず、ただ空中に上がり、身上火を出し身下水を出し、神変を現じて飛び去るばかりなり。人に教えられず縁にふれて独り覚《さと》る。故にまた人に教うる氣少しもなし。菩薩は馬が人を乗せて川を渡るがごとく、独覚は人を乘せずに独り渡るごとしなど申す。土宜法竜師説に、熊楠はこの辟支仏のもっとも顕著なる奴の由。自分のことは自分で評ができぬからそれを甘受すとして一言せんに、おのれに徳なきもの、またはなはだしき圭角多きものは千万言を費やしても入信ぜず、しかるとき(194)は独居独楽のほかなし。回やその楽を改めず賢なるかな回や、ともいえり。また馬鹿なようなことなれど、許由、巣父から蝦蟆仙人、鉄拐仙人などを目出たき宴席の床の間にかくるも、これらの者の所行、他のつまらぬものよりは多少潔かりしを感じてのことならずや。
 仏経に、一技一芸に長ずる者のおる山上に祥雲覆う、といえり。乞盗同然の巫祝の祝詞より、無言で颯々の風声のみ聞く古松林の古祠社がはるかに人心を感ぜしむるごとく、独居独楽のもの、たとい口に説きて人を感ぜしむることなしとはいえ、後人をしてその風を欽せしむるぐらいのことはありなん。これは人々のすきずきで、他より咎め勧め疎むべきことにあらず。人によって得手得手のあるものなり。朱?という人、晋末世を避けおりたるを、かの虱を捫《ひね》って当世を罵りし王景略が、大賢人なりとてほめること罷《や》まず、景略死してのち苻堅これをむりに引き出し用い、その計を用いて晋を伐ちしに、たちまち?水に風声鶴唳の大敗ありたり。寸も長きことあり、尺も短きことあり。韓信は百戦百勝の名将なれど、戦場に臨みしことなき陳平の謀で雲夢で生け捕られ、さらに愚直きわまれる蕭何の策で呂后のために斬られたり。小生は世間に向かぬ男なり、世間に向かぬ男が強いて世に向かんなどするは全敗して世を誤つのもとなるべし。
 日本に凡俗ならぬ学説多くあらば、願わくはその名目を挙げて示されたきことなり。小生は謹んでこれを拝承せんとす。しかし、なかなかちょっと分からぬ所にありというようなことなら、小生はすでに一菌一苔の微にさえ時間の少なきを憂うることしばしばなる当節、到底そんなことを捜すひまはなし。
 また小生は貴下らに小生に倣《なら》えと言いしこと少しもなし。最初、貴下、小生の「神跡考」を見んことを求めらるるゆえ、訳しておくり申し上げしなり。その訳はむろん英文ほどには成らず、これ英文には diction 撰字はなはだ自在なるに引きかえ、わが邦の文には撰字はなはだ不自在なればなり。しかして貴下これを複雑に過ぎるといわる。実際この考説はもっとも論理の順序を踏んで序したるものにて複雑にあらず。例は多く挙げたるが、実は例などは入《い》らぬ(195)ものなり。例をぬきて読まれなば、整然として所論に順序あること、篇末に résumé 再説概括して説けるごとし。しかるに、これではとても今の邦人凡衆には分からぬといわるるゆえ、小生はこの考たる、邦人凡衆をあてこみ書きしものにあらず、欧米の専門学者にあててかきたるものなり、このほかにも小生の考説多くあるが、とてもそんなことでは只今の邦人一汎の人には小生の考説は向かぬ、と申し上げたるまでなり。小生は日本人の教育を依嘱されたこともなければ、みずから邦人開発を念とするものにもあらず。自分の学問を刻一刻より上進せんと思わは、おのれに如《し》かざるものを友とするなかれと孔子もいえるごとく、自説を分からぬ凡衆などにむりに押し付けたりとて何の益あらん。下士、道を聞きてすなわち大いに笑う、と老子もいえり。しからば、小生の考説ことごとく無根拙劣なものかといわんに、ずいぶん海外の人よりはほめられ、感状など有名な人から贈られたも多くあるなり。
 貴下また今印刷物の散佚速やかなるゆえ身後を期するなどはむだな話といわる。しかしながら、本邦のことは一向知らず、欧米には生前書き蓄えたものを一生出さず、身後大いに用に立ちしもの多し。Thuret《チユーレー》という仏人は、大富家に生まれ、何か世益になることをせんとて、臨海実験所を立て海藻の学を専攻されしが、常に自分の業を満足と思わず、それよりそれとやりなおされ、一生論集を出さず。死後まとめて他人が始めて出せしが、一生出板を見合わせて念入れただけありて大いに世の益をなせり。間宮林蔵の『カラフト記行』ごとき、本邦では写本でのみ行なわれ何の聞えも高からざりしが、海外には早くこれを翻訳し大いに用に立てたることなり。これを用うると用いざると、その国民の注意不注意による。自国民が用いねばとて気を落とさず、知識は世界一汎の智識と思いて書き置きたる心の広さ、まことに欽すべし。
 貴下また百年前の人の発明を石室に入れおき、百年後蓋をとれば若者たちから遼東の豕《いのこ》といわれん、と言わる。これは貴下と小生と見様が全く違う。小生はその人をよほど奥床しく思う。すでに貴下、木下友三郎氏より得られたる小生の書きしものの内にも見ゆるごとく、新井白石が潮流異なるに随い生物変化すること、鶏の異種が交わり間種を(196)生ずるのち復原すること、菊がいろいろかわるも放置すれば復原することを知り、松岡玄達が動植物に天然にそれぞれ類属あることを知り、また関新助が外人の世話を借らずして微分積分を知りおりしごとき、たといその当時の人が一向用いざりしとするも、一向力を落とさず、悠々|逼《せま》らずこれを後世に遺した功は没すべからず。されば、学者間には priority 先達の穿鑿きわめて密に、日本人なればとて蔑せず、先にしたものは必ず先に立っただけの面目を立つるなり。
 また愛国心云々のこと、小生ほど愛国心の厚き者はなからん。キリスト教の真義を知らんためヘブリウ語まで学びしことあれど、生来一度もキリスト教礼拝堂に入らず、これがためどこの大学にも入ること成らず。
  そのころは立派な日本の学者で、キリスト教を奉ぜずに寺などへ行き、いろいろのこと起こり、帰国するや否、破宗してヒポクリット(偽信者)の惡名を伝えられ、大いに後来の日本人の迷惑となり、また今もいばりおる博士老輩で、キリスト教に媚び本邦の悪口をいい、陸軍軍人から決闘申し込まれ大閉口して謝罪せし、見苦しき人さえ多かりし。
 また米国におるときなどは、非常に不利益を一身にあびたり。大英博物館を退きしも、やはりかかることより起これり。そのとき、かの国の人士救解しくれしに、本邦の人々冷笑看過せしは怪しむべし。岩下方平の甥で簑田長政という人あり、下六番町におる。また前衆議院議員で田島担という人あり、浜口梧陵といいし勤王家の子なり。この人らに聞かば、小生いかに愛国心かたまりの男か分かる。福本日南の小生の伝「出て来た歟」など、誇大の言多少あるが、小生の外国におりて少しも外人に屈せざりしところは、小生の気に入るほど十分よく写しおる。孫逸仙と初めてダグラス氏の室であいしとき、一生の所期は、と問わる。小生答う、願わくはわれわれ東洋人は一度西洋人を挙げてことごとく国境外へ放逐したきことなり、と。逸仙失色せり。これらにてこの輩いずれもあんまりえらい人物ならざるを知る。
(197) 小生は、外人に日本のことを知らせるばかりを力《つと》めず、これと同時に外国には日本よりつまらぬこと多きを必ず付記して警告しやる。これをなさんとて、英、仏、伊、独、西、葡、希、羅等(その他も、大英博物館では字書自在に使い得たゆえ、多く国語を読み得たり)の書を原文で多く写し置きたり。たとえば、チャンバレーンが、日本人は上帝を崇むるを知らず、故に戦闘に命を惜しまずとかき新聞へ出せしを、小生駁して、日本の禄を食《は》みながらそんなことをいわぬものぞ、わずか二世紀前にイタリア人が英国に来たりし記行に、この国の者は新教を奉じ旧教の有難さを知らず、故に日夜麦酒のみ飲み酒飲むゆえむやみに強し、生命を惜しまぬは惜しきと知らざるなり、とあるじゃないか。また上帝を崇むるを知らず、故に命を惜しまずとならば、上帝を崇むるを知らば命を惜しむべきや。オムズルマンで近日鹿砦と短刀のみを力とし、数倍の英国騎兵の銃火を物ともせず奮闘して一足も引かず、犬死せし輩は、みなこれ熱心に上帝を奉ずる回教徒たりしにあらずや、といえり。(これを新聞へ出さんとせしに、日本領事館小言いい、とうとう止めぬ。)
 ロンドン大学前総長ジキンスはヘンリー・パークス(水夫上りの冒険者で阿片乱に剛勇の所置あり、それより支那公使となり、一夜夢に亡父あらわれ、われを弔うものなしとてなく。その翌日男爵に叙せられし。日本へ久しくおり、宮城へ大砲を向け、政府より小言いうて行くと、大砲を開き見するに内にパンを焼く仕掛けあり、これは大砲の廃れたるを利用してパンをやく窯なり、という。木戸、後藤ら閉口して言なかりし)の股肱として、ずいぶん本邦を痛めた男なり。(みずからいう、十四にして日本に渡り、品川の寺で日本服きて茶坊主たりし、と。)それがパークスの引きで、ロンドン大学総長となりしなり。この者、予が『ネーチュール』に一書を投じ、故ハーバート・スペンセルに一本(ちょっとしたことながら、なかなか他の日本人にそんな勇気なかりし)試みしを壮なりとし、予を招き語る。『竹取物語』の訳本を出し示す。予(その時貧困徹骨、じゃがたらいもと螺蠣《ばい》のみ食いおりたり)いわく、日本の土を履んだ人は土を履んだだけでも報恩の心掛けありたきことなり。しかるにこの訳本中、諸貴人 in their turns に姫(198)と好愛せんと求む、とあり。悪く読むと、日本には貴姫が南洋土人ごとく、今夜はこの男、明夜はかの男と七人もある男を毎夜一人ずつ抱き寝ることと思うも知れず、諸貴人の中の一人を定めてその人と好愛することを勧むと書きかえくれ、といえり。そのときジキンス大いに怒り、老人ながら彼方の人は気も剛なれば熱心もあり、大学より自宅へ返る汽車中鉛筆にて五ページばかり弁明書を筆し送り来たる。その中には日本は必ず南米ごとき百年に九十度も革命軍起こる国とならん、近ごろの日本人無礼にして耆宿を礼する法を忘る、むかしわれ汝の国にありしときは無罪のむすめ群居して門辺に羽子板を翫び、今その悴たる汝は外国に来たりながら長上に暴言を吐く、というようなことのみなり。
  そのころの日本人はいずれも日清戦争の前で、ただただ腰を外人に曲ぐることのみ上手なりし。その他は下宿屋の娘をひっかけ、私生児を生ますぐらいの功名のほかに何のこともなし得ず。
 よって小生また大学に行きジキンスに面し、われ汝を悪く思うて言いしにあらず、日本が南米のごとくならば英国はアフリカのごとくなるべし、いずれも予言なれば甲乙なし、中《あた》るも中らぬも予言なり。日本人は自国の耆老をこそ礼すれ、自国の不面目なることを捏造して書かるるような外国の老人を敬すべきはずなし。むすめが群居して羽子板を玩びしはわが邦人の大ぬかりなり、外人には評笑の種となり娯楽を与えたるならんが、本国に取りて大損なことなり。そんな風のみ行なわれしゆえ幕府瓦解し、そのむすめはみな?《なんじ》らのらしゃめんとなりおわれり。外国に来たりながら長上に暴言吐くほどの気象なきものは、外国に来て何の益なからん。汝ら外人はみな日本に来たり日本の長上を侮り、今帰国してまでも日本のことを悪様《あしざま》にいう、不埒千万とはこのこと、礼を失するのはなはだしきなり、云々と言いしに、呆れかえり、それより大いに仲よくなり、『スコットランド・ヒストリカル・レヴュー』、また『亜細亜《アジア》協会誌』などへ、南方は日本人で予が見たるうちもつとも博学で剛直無偏の人なりなど書き、また先年『方丈記』を共訳せしときも(ロンドンの鉄道ステーションで売る「世界袖珍文庫」第一四篇となり出でおる。一冊六ペンス、わが六(199)厘ほどの安さなり)、南方熊楠およびコンパニオン・オヴ・バス〔【勲爵士】〕ジキンスと小生の名を先へ出させた(これはそのころ例なかりしこと。)四年前、妻へ金剛石指環くれたときも、謹んで日本人中最も仰欽すべきわが友南方の妻におくる、云々、と長き状をそえてきた。狂人ごときことだが、外人にひけを取ったことは少しもなく、大英博物館なども館則を破り小生の一言さえあらば四日前に通知せずとも日本人に限り直ちに読書室に入ることとした。徳川頼倫、田島担、伊東祐侃、平田譲衛等みなその恵を蒙った人々なり。
 次に小生が海外で出したものは、おそらくわが邦の書籍を欧州のものと対等に引用し、彼方のものは困るにもかかわらず、押し付けて一々わが邦の書籍を欧州書同様に長々と丁付巻付を本文中に印せしめた始めと思う。また支那・欧州書に出であることも、なるべく邦人の書に出でたる方を多く引き置いた。その論多くは外国で珍しがることも東洋人すでに先にこれを知りおれり。科学、科学と欧人の独占のようにいうは大間違い、科学という名はなかりしが(西洋にも古えはなし)、科学智識の発達は古くより東洋にもあり。迷信といい、里伝といい、古話といい、俗譚というも、必ずしもことごとく言語の間違いや宗教上の惑誤より出でたるにあらず。その多くは多少間違いながらも、また多少根拠経験ある科学説、理想談たるなり。その crude 麁末なるは麁末なるほど東洋理想発達の淵源旧きを示すものなりということを主張したに過ぎぬ。『ネーチュール』ばかりにもずいぶん長いやつが多く出でおる。これは白井博士等も知っておるはずで、それぞれききめありたらばこそ、米国政府などより小生の外に適任なしとて毎《つね》に招聘されるなり。
 田舎の事物の疎却は今日神社名山荒廃の主因にあらずや、といわる。これは論理学上もっとも難題たる相互主因とでもいうべきもので、酒飲むゆえ頭痛きか、頭痛きゆえ酒飲みたくなるか、生まれぬさきの恋しき父に問わずば分からぬごとく、小生は過去のことはとにかく、今日は神社名山を破毀するより田舎の事物の疎却は層一層を早むると思うなり。かくいううちにも名山神社破毀され祭礼什器も失われおわらんに、去年のことを今年聞きて筆記したりとて到底まのあたりこれを見るほどに詳しく知れぬなり。
(200) 横浜辺の通弁、云々。小生は糊口のため南ケンシントン博物館の技手として、しばしば絵画その他の目録を作りたり。しかれども特約ありて館規と多少方を異にし、時に銭もらわずに余計にはたらき、ひたすら精細確実のものを仕上ぐることをつとめやりたり。(日本には到底欧州ほど日本の絵画なきゆえ、これは欧州のみならず、行く行くは日本のための学問の種となるべし、と思いてなり。)また責任を明らかにせんとて、目録ごとに総裁の名とついでに小生の名を入れしめたり、今も入れあるや否、知らず。『大英類典』第一〇板、第一一板の日本美術の条は、友人ストレンジ氏の筆で、その取調べは大方小生がせしものなり。故に西洋人の好奇心を元とせず、日本人の立場より一切作りたり。欧米には建築、絵画、彫刻の外を美術とせず、小生は書字また硯箱等の漆工までも美術と言い張れり。故に今度はこれらをも美術としあり、小生は審美学などを一向知らず、しかし西洋の審美学は日本の審美学に何の関係あらんやというて押し通したるなり。今日何でもなき赤十字社の金五十円ぐらい(しかも他人の金)を募れば褒美くれる、小生は外国で奉公しながら自国の言い分を立て通した男なり。それも知られねば十八日夜も入牢を申し付けらるる。さればとて「陰徳は耳鳴《じめい》のごとし、人知らずしておのれ独り知る」。あまりにこれもそれもと自分の功名をいう者を見れば、小生自分立ってこれを蹴らんとす。故に貧乏鬮は時運とあきらめ、だまりおる。おることはおるが通弁や案内とはちがう。なにか後れ馳せにシャマニズムとか、黒衣喇嘛教とか、四、五十年前に西人が言いならせしことをききかじり、何の確証なき日本固有の俗を、これもツングースあれも粛慎、あれは女直それは兀良哈、それは月氏これは楼蘭から来たなどというものこそ、反って後ればせの洋人舐唾なりと思う。
 故デンニング(森有礼の夫人に姦通せしといわれし男)は有名な傑僧で、議論卓出のところもありし。この人の説を欧州で出だせしを見るに、日本人のもっとも欠点は論理にありとのことなり。小生はこの論理の成り立たぬ議論を西洋人に見せられぬ議論と申すなり。「只今、ただ鷓鴣《しやこ》の飛ぶあるのみ」とか、峰の松風峰の松風とか感慟に訴うることは日本人になかなかうまいことがあるが、世界通してもてはやさるるような条理の正しい議論ははなはだ少ない。(201)(欧米人にも条理の立たぬ議論多し。その日本学者などいうものはさらにはなはだし。)ただし、これは貴下の『石神間答』やなんかをいうにあらず。純正の学論たる学論にして然りというなり(統計表や種物試植の結果報告、医師の病気診断等は、議論というほどのものにあらざれば除きて)。
 小生のかきし論文は大抵は和歌山の倉庫にそろいあり。また目録ぐらいは記臆し出し得るなり。小生、目録と大意だけでも案出し、作り差し上げ置かん。わが邦には雑誌、学会彙報を集むること十分ならず、いわんや pamphlet(今度の「二書」ごときもの)、tracts(日本で何と訳するか知らず、後証文献とでもいうべきか)、broadside(一枚刷り)、 gazetteer(朝報)等は、雲烟過眼、見たら(また見ぬうちから)鼻かんで棄つるを常とす。今度の「二書」また白井氏の伯父松田氏の弔い詩歌集ごときは、小冊なれば小冊なるほど図書館等に納本し蔵しおくべきものなれど、日本にはそんなこと夢にもなし。寄付でもしようものなら、それこそ大変、うぬぼれにも程があるなどいわるるなり。
 小生十九歳ばかりのときと思う。柴四郎氏『佳人之奇遇』というを著わし、大いにはやれり。その内に一寸の国権を外に延ばすは一尺の官威とかを内にふるよりも急務なりとかありし。小生はこの言を服膺眷々し、当時(今も)白人ら東洋人を人間とし視ず、開化民は白人、不開化民は白人外と相場をきめたるとき、米国にあって一論を出だし、そのとき誰なりしか『ポピュラル・サイエンス・モンスリー』に一書を投じ、学問上の迷誤が覚め来たれる順序を説き、最初地が宇宙の中心と思いし迷いがさめ、次に人が万物の中心と思いし迷いがさめ、耶蘇教が真理の中心と思いし迷いがさめたというようなことありしに乗じ、それほどさめたに、なぜ白人が人間の中心という迷いがさめぬかと問いしことあり。また日本人を見てモンキー(猴)と呼ぶこと欧米に今もあり。そのころは一層盛んなりし。小生問いていわく、猴に毛唐人ごとき赤い曲毛や茶色の曲毛の猴多し、日本人ごとき純黒直髪の猴ありや。また仏人カートルファージユ Quatrefages 輩、万物と人間のちがうところは人間のみに宗教心あり、万物にはなし、これ人間のもっとも貫きところという。さて、それはよいが、宗教は不可知的をおそるる怖畏より出ずるという。ダーウィンは、犬が傘(202)の飛びまわるのを見て不思議に思い吠ゆるを察して、これ犬等の動物にも宗教の初心すなわち不可知的をおそるる念あるなりという。小生かの邦人等に問う、犬等に宗教ありといい、なしというも、犬になって見ねば分からず、ただ怖畏の念はあること明らかなり、しかるに宗教は神を怖畏するのみが宗教なるべきや、祖先を崇拝するということ一切の動物にあることなし。(母犬に分かれし子が半日ばかり母を慕うことあるも、母の母、そのまた母のことを念頭に思いかけることもなし。)しからば、犬等すでに不可知的を畏るることある上は、これ人ばかり貴き証拠にならず、もし人の万物にまされるをいわんとならば、何ぞ祖先崇拝のことを挙げざる、と。かの邦人答うる能わざりし。またまた面白い議論で西洋人をにっちもさっちもならぬようにせしこと多けれど、今は略す。
 福本の「出て来た歟」のうち、小生とつれて大英博物館で、人間が他の動物に懸隔して優越せりという論を実物に就いて小生から聞いた説に感じ、その説は一々今に耳底に印しある、とあり。この説等は実に聞き物じゃ。そのうち時節あらば、まじめに図を入れて申し上ぐべく候。とにかく小生は日本の埒《らち》もなきことを吹聴したり、日本の不埒なことを洋人の御目どまりに入れるようなことは少しも致しおらず。ただただ枕絵の陰陽具を特に大きくかいたり、柿の渋を取りて板にぬり強くしたり、豆腐をあげたり、榧《かや》の油で精進料理を肉の昧させたり、柿の皮を煮て鰹節の味を出したり、そんな、へんな妙な小技にのみ長じあるのみと思いおりたる日本人として、いささかも「これはなかなか言語こそ分からね、分かつたら恐ろしい一の理窟を持った国民じゃ」と思わせたことは、小生ずいぶん功力がある。今度松田定久君が贈りくれた詩に、「赭鞭《しやべん》、帝の賜わるを拝し、もって新勲を収むるに足る」とあるが、植物学などよりも国体を張った上において勲章ぐらいのねうちはたくさんある。日本人が日本の金をためて節倹して倉庫立てたりとて、日本の富が増すにあらず。一銭でも外国からとればそれだけ国益になるごとく、日本には日本の在来の学問もあれば理想もあるということを知らせたについて、多少の功は小生にあるなり。ただし柳は縁、花は紅い、決して他人にかようなことをせよとすすむるにあらず。ずいぶん人に悪《にく》まれ、うけの悪い仕事なればなり。
(203) 次に小生鼻息荒く、手紙に一種の権威あるよし、これ小生の幸いなり。弘法大師は支那におりて書いた字ほどに帰国後の字がならなんだとか。小生も久しくこんな田舎におり、昔日の勇気衰え馬へ乗ったらたちまち落ちはせぬかと案じおるに、修養の功まるで空しからず、今日なお手紙に一種の権威あると貴下よりいわるるは大慶なり。『易経』に、憑河《ひようが》を用ゆ、とあり。小生昨夜眠らず、今日は小児の守りし、また近野村の民来たり復社のことをぐどぐど頼まれいろいろ用事多く、それより妻の介抱人去りて来たらず、別に人を傭いに行き夜十時までかかり、それから菌一種極微な奴を彩色で画き記載し、今何時か知らぬが空室でこの状を書き続けおるなり。この状に権威あるかないか知らず。しかし、死せし無一文字の父母のしつけよかりしゆえ、何ごとにも誠意を欠かず、この状を書くときはこの状を一心不乱にかくゆえ、至誠の届くところ自然に権威ありと見えたり。
 貴下は例せば小生の「足跡考」を見て外国人の東洋研究者が一人多くなれりと思わるるが、小生は日本人の世界研究者が特に一人出でしことと思う。足跡のこと一向欧人に分からず、問を発しもっとも満足の答を小生が出し、今にオーソリチー(福本氏訳によれば権威)となりおるなり。この足跡のこと東洋の事歴をしらべねば分からず、東洋の事歴はインド、支那を主とするが、インド人や支那人は空文を空誦するのみ、何とて学説に仕上ぐる機能なきを、小生が仕上げ、少ないやつをむりになるべく多く日本の例を引き列べたるなり。盲目八人の世の中で、事例多く上がりおるところ尺《さし》でさし、この論文中日本のことが居多だから日本は侮られぬ国というが、すなわち多少の国光を増すなり。誰やらが独りうかれにうかれて武士道の講義や、わが海軍の自慢して大いに外人の感触をそこない、国勢をも疑われ出したなどに比して、少なくとも罪の軽い方と思う。
  テーベスの軍威盛んなりしとき、エパミノンズス、ペロビダス等、制法して同一の国を重ねて攻めざりし。これは毎度同じ国を伐つと、こちらの差し手、詰め手を敵に悟られるからだと申す。武士道の自慢などはこの類で、敵に粮を送るようなものなり。その実国光を揚ぐるよりは減ずることとなる。
(204) まだ貴書を詳読せば弁ずべきこと多かるべきも、まずはこれにて擱筆す。
 小生、貴下に問うは(自分に分からぬゆえ)、小生女の陰毛を多く集め(これを集むるにはなかなか金のかかることにて、芸妓どもよりもらいしなり。小生は妻を四十でとりしまで女人と一切交際せず、上杉謙信流の男なりし。みずからこの一事は多くの聖人にもまさり、また記臆力などあまり落ちず、事に臨んで決断速かりしは職としてこれに由ると悦びおる)、陰毛の弾力を験し、法学上に応用してある奇証を立つることを考え、多少結果を得たり。これらは身後を期して書を残すが可なりや、また一代果《いちだいばて》で棄て置かんか、また外国で出板せんか、また日本の学会等で出すべきや、また通俗の雑誌へ出すべきや。
 また先年モールス(米人)、大森介墟で人骨を見出だせり、日本の先史人、入内を食いしという。
  大隈伯が諸家に作らせし『日本開化史』とかに、菊池大麓氏か箕作佳吉氏が、坪井正五郎氏、大森介墟をそのころ黙して毎度検しに行き人類学に志を起こせり、とあり。「徳孤ならず、必ず隣あり」でもあらんか、実は小生もその後大森介墟をひそかに学校休んでまでも見に行き、いろいろの土器、石器、また人骨ごとき骨も拾い、今に和歌山に置き蔵す、二十八年ばかりになる。勝安房の書いたものに、青木八太郎という巨盗は、盗んだ金を十八年立たぬうちには取り出し使わず、一生無事に暮らせしとなり。
 英独の学者これを疑うもの多し。わが国の国学者などはむろん国悪を忌む上よりこれを疑うはもっともなことなり。しかるに、土佐の寺石正路氏、二十年ばかり前に『人類学会雑誌』へ投書し、わが国に犠牲行なわれしことから、『忠臣蔵』の仇討に主君の墓前に師直の首を供えたことまでも列記して、本邦に食人肉の風ありしことを述べたり。しかし、犠牲は本邦に行なわれたが、犠牲の前に食人肉が行なわれしという直証は挙げてなし。ところが、小生いろいろと書籍を見るに、たとえば秀吉が鳥取城に山名を攻めしとき、また伊勢で滝川を攻めしときなど、人内を餓人が食いしこと、れっきと『群書類従』等にあり。また田口〔【卯吉】〕氏の『社会事彙』、黒板勝美氏の『日本歴史』なんとかいう(205)大冊のものにも、天明の飢荒に奥州で親の肉を食ったり、友を打ち殺して肉を食ったこと若干載せあり。人がするからおれもするいうにあらず。学問上モールスの冤を解かんために(モールスは御存知通り本邦の学術開進に大功ありし人)、日本に近世、近古すら入肉を食う例は間々あり、故に蒙昧太古の先史日本住民にその風ありというたりとて、証拠ある以上は疑うに及ばずと立証して、『人類学雑誌』かなんかへ出さんと思うが、これは如何。陰毛の研究同様に筐底に潜めおわるべきか、また外国で出すべきか、通俗の雑誌へ出すべきか如何。
  付白。シンダレラの譚を出したる内に(『東京人類学会雑誌』)、本邦の名僧、海外に知れ渡りながら本国で知れぬ人名多少挙げたり。浜田弥兵衛が紅夷を虜せしこともこの類で、日本ではただ強かったとほむるようだが、そのころこの話、日本より海外に名高かりしと見ゆ。そのころペルシアに往きし人の紀行に浜田のこと詳しく出し、非常にその談判の巧みなりしこと、かけ合い用意の周到なりしこと、なかなかそのころの欧州外交家等の企て及ぶべからざる由を、詳しく長々しく書きたるものあり。小生全文ひかえおけり。もし貴下、誰か史説にくわしき人にあわば浜田がことかくまで詳しく(すなわち談判処置周到なりし委細の事情)、只今日本に知れおるや、御聞き合わせ下されたく候。小生は、浜田たとい無口《むくち》にして本国で功にほこらず、一向日本中に聞こえ渡らざりしにせよ、海外しかも日本と関係なきペルシアまでも宣伝されしは、非常の人物と仰ぐなり。人は死んでしまえばそれきり、身後の名、生前一杯の酒に如《し》かずといわばそれまでなれど、前人の迹を慕い父母の恩に追念し古社古寺を保存するも、いずれも死なばそれきりという断定ありてはできぬことなり。
 小生、外人に本国の学問進まずなどいいやりしことなし。これ小生辟支仏根性にして他人のことに一切かまわぬゆえ、ただ自分の知るに及びしことを報じ、これは外人に知れきったことか、またまだ知れぬことか、と聞き合わすのみ。第一、今回「二書」の配布で少々人名を知るに及びしくらい、それより前は新聞等で名を見るも、何をする人か知らぬ人がちなりし。
(206) 只今十八日朝三時半ごろと思う、渋筆御察読を乞う。
 また貴下、小生を明治日本の一奇現象といわる。これは拙妻などよりも毎《つね》に聞くことなり。人間の成り立ちはその人の履歴を知って初めて明らむべし。小生の履歴は笑に千変百化なり。したがって不調和な性質となれるなるべし。しかし、かかることは世に多く例あり、アレキサンドル王は大節倹家と同時に大豪侈家たり、ブルタスはシーザーを国のために殺し、フィリッピの戦いに明日戦死という夜晩くまで哲学を講ぜしなどなかなかえらいが、それと同時に好んで高利貸を営み、またカトーの娘ポルチア寡婦なりしを妻とし、その後門を犯すを常とせりという。(いかなることにか、このポルチアはなはだブルタスを慕い、その死を聞いて自殺せしとか。)自分には分からぬが他人より見れば、かかる例はほとんど毎人その異処あるを認むるを得べきかと存ぜられ候。
  九月分の『人類学雑誌』出板されたりや、小生方へ未着、もし出板成ったら一本送り下されたく候。
                        南方熊楠
   柳田国男殿
 
          46
 
 明治四十四年十月二十一日午後五時
 小生旧き日記見るうちに左のこと見出だす。
 虫白   蟻、木蔓等にかかり滝の水懸下するごとく白く見ゆるを、那智山にて「山の神の小便」という。
 大雲取山にキョウラタイラ(甲斐の馬場信房の本姓|教来石《きようらいし》と記臆す、参攷すべし)という所、広さ数町、鶏鳴をきく、古え落武者の集まりし処なり。ここに大きな南天の木見ゆれども、とりに行けばたちまち見えず、と。
 安渚峰辺にも大なる南天の木あり、見たるもの人を傭い、とりに行けばたちまち他の木に化し、一向見えず、と。(207)先年予の知人東牟婁郡色川村の浦地健治という人、南天の大木(大きさは忘る)を伐り、博覧会へ出さんとしおりたり。南天は神木なるにや、なにか山の神に関係あることと存じ候。(南天葉を毒消しとて魚等をおくる下に敷くなり。また南天は難転に通ず、云々、ということ『骨董集』にあり。)この木、熊野に自生多し、小木のみなり。南天は支那名南天燭の略なり。日本の本名なきこといぶかし。(『和漢三才』に、作州等に大木ある由いえり、枕とし邯鄲の枕という由。)
 東牟婁郡太田村にも山中に赤鶏すむ所あり、平家とかの落武者のあとという。
 Ompilampes Ompezeas(マダガスカル島の種族)は、古え農民たりしに戦争絶えず畑を荒らさるる(日本にもこんな風の山男がかったものありそうなり)より、やけになり、林中に入り野獣の生活をなす、と。またマダガスカル人は水精の中くもれるものは(石、子を生む条に加うべし)、子を孕めるゆえと信ずと Flacourt,‘Histoire de Madagascar,’1658(小生は見たことなし)に出でたる由、Southey,‘Common-Place Book,’ed.Warter,1876,vol.iii,p.603 に見えたり。
                        南方熊楠
   柳田国男様
 
          47
 
 拝啓。兼ねて御話し申し上げ置き候「猫一疋から大富になりし人の話」は先日英文脱稿、本月十三日英国『ノーツ・エンド・キリス』へ出し候。一通写しは当方へとりおき候て訳出和解致し差し上げ候。御一覧の上、先日福本日南紹介にて『太陽』記者よりなにか書けと申し来たりあるにつき、貴下もし『太陽』で受け取りそうに思われなば、『太陽』へ御廻し下され、一字を増減せず引用の書目、欧字ことごとく入れ、またなるべく貴下の御校正を経得ること前方に(208)承諾候わば御出し下され候様御頼み申し上げ候。
 もし貴下御一覧の上、かかる書き様では『太陽』に受け取りくれぬこと必然との御恩召に候わば、抜かぬ太刀の高名と申すこと有之《これあり》、『太陽』へは廻さず考古学会の方へ御廻し下されたく候。これはむろん貴下すでに評議員たる上は必ず出ることと存じ申し候。右宜しく衛頼み申し上げ候なり。
 明治四十四年十月二十五日朝
                       南方熊楠拝
   柳田国男様
 
          48
 
 本月二十三日出芳翰、今朝正に拝受仕り候。『今昔物語』は本朝の変化の部(井沢長秀の出板)にて、人(鬼)より状ことづかり、それを持ち行き前方へ届けしに、受けたもの死んだとか何とかいうことなり。(故に己が命の早使いとは少々わけは違えり。)井沢の『今昔物語』は二十冊にて、変化部(怪異部とありしかとも思う)はわずかに二、三冊なれば、片はしから見ても分かるなり。『国史大系』は当地中学校にもあれど、神社合祀一件で多く材料を小生が取るから閲読を禁ぜられ候。小生は足ちんばにて板の間を歩むと大なる音す。よって従来は中学校の図書は借覧借り出しおりたるなれど、右の次第にて借覧をことわられたり。これまた冥々裡に小生中学へ昨年乱入の一源由と存じ候。
  中学校長は小生に借出しを断絶しながら、相良歩の妻の妹、画をかく者のために、従来の例を破り中学講堂を貸し、二日間書画揮毫して売らしめたるに候。前状申し上げし大英博物館で日本人に即時縦覧図書をゆるせし功ある小生に対しては、実に非道、無人情のことと存じ候。小生は常に費用多く金銭に乏しけれど、百円や二百円の(209)書籍を盗み、また失うものにあらず、贖償ぐらいの準備はあるなり。『紀伊続風土記』なども、かつて郡役所から借りありしを昨日取り上げに来る。これは、これを基としていろいろのこと調べ出し抗議するをおそれしなり。しかるに、その事は今春十夜ばかりかかり要処ことごとく写し出しある、また書は早く返しあるなり。
 新井白石は事の疑わしきをば欠如して一切世に出さざりし由。師匠順庵の訓《おしえ》によるとみずからいえり。
 小生は椋を鉾にすること定かならぬ上は貴説は定かならぬことと存じ候。
 馬琴の書きしものに、かかる不定のことを事実げに書きつけ、大いに後人を惑わすこと多し。
  右『今昔物語』のことは今明日中に本文を写し差し上ぐべきも、その所持人東京へ往きしと聞く。もし間に合わずば止むを得ず候。まず二、三日御まち下されたく候。
 陰毛のことは裁判医学上のことにて、術語多く到底出しがたし。食人肉のことは邦文にあらず、欧文で認めたるなり(九年ばかり前に)。もし貴下出してくるるなら、今度の「猫で成金物語」ぐらいに翻訳し送り上ぐべく候。それよりまず「燕石考」を訳出せんとするも、小生も久々神社反対でくたびれたれば、野長瀬氏(今東京にあり、この者は七年間米国にありしものなり)帰り次第、一度近野村へゆき、幽遠なる山谷に植物を研究せんと存じ候。
 欧州の東洋学者というもの、さすが機関ととのい、世界中の材料を比較する便宜備わりおるゆえ、われわれ東洋井蛙の輩の気の付かぬこと多し。これはその機関さえ備わらはわれわれもできることなり。(現に小生は大英博物館にあるとき、東洋のことのみならず欧州のこともしばしば顧問に応じたり。)その一事一事の研究の発表には眉に唾するを要すること多し。タリエン・ラクーペリエ氏(盲人)など、ずいぶん有名な東洋学者にて、『支那の開化西来論』(アッシリアより入りしと申す)を作り、『竹書紀年』(偽書の疑い十分なるもの)、『拾遺記』(大法螺本)その他の僻書を引き、東西ごっちゃまぜの珍説を主唱し、わが邦にもこれを尊崇、謹んで引用せる人多し。しかるに大英博物館の二階の上り口に日本の時計あり(図〔【次頁】〕のごとく旧式のもの)、それに大日本尾張名古屋不破光次創造とかなんとか(210)銘あり(本文はこれよりむつかしき漢語なり)。これをこの人強顔にも、光りを破らず天地を創造すとかいう自賛のごとき文意に解しあり。今の中世欧州史物および宗教部および人類学部長リード氏これを疑い、これは必ず何でもなく製造の所と人名なるべしとて、小生に読ませ直せしことあり。また分からぬことを分からぬといわず牽強大はやりなり。今年出板の『大英類典』中美術等のこと、小生目を通したるところはよけれど(小生、南ケンシントン美術館の技手たりしとき)、小生の関知せぬところには大法螺、可笑《おか》しきこと多し。玄奘が『大般若経』を馬にのせ帰るところを、尋常の商人が財貨をつみ帰るとせるごときこれなり。
 小生は由来こんなものを相手にせず。第一に日本人が外国人に劣るは、その言語単簡にして思想全備せぬにあり。たまたま漢語を応用して will を意識、意、欲意、我意、また eleganceを 宏雅、宏壮、全美、優美、sublimity を深宏、幽玄、幽雅、純幽などと人々勝手に訳するのみ。どっちが何故に宏雅で、どっちが何故に幽雅かと聞かれたら、その意味は付けた人も分からず、いわば一二三四と勝手に思いつき次第に名付くるのみなり。そんな語で abstract(抽象的無形、形而上)の論を出すことは当分できず、できたところが読む人その素養、素質なければむだごとなり。
 海外ではしきりに日本人は concrete 事々物々一つ一つの意想 idea を形成し得るも、abstract 抽象的の意想なしといわる。これを慨し、小生は主として頭から洋語洋想で洋人と議論することを力《つと》めたるなり。いわば上杉謙信十八、武田晴信二十七の年から国内で小ぜり合いに一生を  願殺《しさつ》するうちに、小生は(日本にはあまり例なきことながら)成吉思汗《ジンギスカーン》が天竺に攻め入り、アッチラ汗がローマに逼り、マハマッドがコンスタンチノプルを陥《おとしい》れし蹤《あと》を試みたるなり。また小生の父は無一文字の人なりしが、当国で商人の亀鑑といわれし人なり(正金銀行創立者故小泉信吉氏、また三菱創草の吉川泰次郎男等の言)。この人の常の言に、人間はただ生きて寝て金をのばし、妾でも置いてそれで能事|畢《おわ》れりとすべきにあらず、宜しく千万人の手本となることを考うべし、といえり。『一話一言』に、加藤嘉明、常の言に、(211)人は富士山ほど望んで柿の核《さね》ほど手に入るものなり、成らぬまでも望みを大にすべしといえり、とあり。(この人は三河の浪人の子(父は本能寺で討死す)より会津の大諸侯となりし人なり。)『プルターク伝』に、歴山《アレキサンドル》王インドを征せんと打ち立つ時、所有一切の財宝を友人臣下に分散す。人これを咎め、王かくのごとく空手になりて、何をもってインドを征し克《か》たんとするかと問いしに、われは望み〔二字傍点〕をもって打ち立つべしと言えり、といえり。
 小生は元来はなはだしき疳積持ちにて、狂人になることを人々患《うれ》えたり。自分このことに気がつき、他人が病質を治せんとて種々遊戯に身を入るるもつまらず、宜しく遊戯同様の面白き学問より始むべしと思い、博物標本をみずから集むることにかかれり。これはなかなか面白く、また疳積など少しも起こさば、解剖等微細の研究は一つも成らず、この方法にて疳積をおさうるになれて今日まで狂人にならざりし。ダーウィン出てより学問という学問みな生物学の心得、科学の心得あるを要する世となりて、科学の心得なきものは議論いかにうまきも、土台は他人の説を受売りせざるべからず。小生幸いに多少生物学に身を入れ、科学のことも心得たれば、西人の大家の説なりとて、むやみに受売りかいかぷらざるほどの心得を積み得たり。(中には心理学や生物学で多少自分見出だせし学理もあるなり。)根底すでに自前のものなる上は、西人と理を争うも不都合なしと思い、常に西人と理を争うことを力《つと》めおるなり。故に、あまり彼輩に侮られず。かつて徳川侯とつれてジロン卿(ロンドン塔《タワ――ル》すなわち大武庫兵器陳列所、わが遊就館の大なるもののごとし、その塔の総裁)に面せしとき、侯に向かい、この人真に驚くべき学者なりと言われしは、小生は何とも思わず、また今始めて人にいうことなるが、ずいぶんの面目なりし。以前はずいぶん筆まめにてその議論の写しをとり置き、土宜法竜師などにも送りしが、今は失いたり。法竜師の手許に少々のこれるのみなり。ただし学識学理は必ずみなみな公けにすべきものにあらず。
  仏国の Renan《ルナン》などもっともこの説なりし。アリストートルが政治学は五十過ぎねばせぬものといい、インド、ローマの旧制に、妻子あるものにあらざれば宗教の学を伝えざりしもこの類なり。英国で只今小学、中学で科学(212)教育を教うるに、蝉がつがうとか、花をつがわせるとか、間《あい》の子《こ》を生ますとか(一歩進んで気がいくとか、おびただしく気をやるとか、つがうたが気がいかなんだとか、子壺が開けるとか、春画的にいわぬが、実は生物学はかかる術語で盈ちおれり)いうこと多きは、人智の開発にはなはだよけれど、風俗邪念を挑発する結果|如何《いかん》とてはなはだしく憂慮する人多し。例の避妊等上手になり、仏、独等、開明開明という国が国民繁殖せず、米国などせっかく開化届き金銀多くたまったところで劣等多蕃殖の黒人にすっくりそのままその金銀をとらるる虞れ多し。
 世に広めて益少なく害多きこと多し。その害は単に一時春画を見て手淫を行なうたり、落語を聞いて食い逃げを覚ゆるの比にあらざるなり。呉三桂が明帝に忠節のつもりで北狄を引き入れ、社稷亡び自分も亡びしごときこととならん。故に、書籍、著述、公刊ということも、徳義上ひかえ目にすべきこと多しと存じ候。(陰毛の弾力を論ぜんとならば、陰山、大陰唇が婬念増長に従うて膨脹堅硬するを論ぜざるべからず、これすでにはなはだ壊徳に近し。)
 以前は洋人等、日本の文章を見て解せぬこと多く、また解したところが、これはつまらぬつまらぬということ多く、公けにも書かれしこと多し。枕詞、それから寄せ詞、語路等なり。『太平記』の俊基朝臣東下りの文、『朝顔日記』の関路を跡に近江路や、云々、のさわり文句、それから大津絵、二十日あまりに四十両遣い果たして二歩のこる等、日本の妙文、妙句は多くはこの語路もじりより成る。これを洋人は夢のようなこと、譫語のようなことという。さて彼輩のほめるテニソンの『イジルス』とか何とかいう長詩を見るに、理窟をくだくだしく韻を踏みていい述べしというばかり、詩は感興して志をいうものにしては、あまりにこみ入った感興なり。韻を踏んだ理窟とか屁ッ鋒論とかいうべき物多し。テニソン永々しく理窟をのべ、脳味噌を搾りて造化を称賛し(こんなものは仏経に多し、否、仏経の偈頌はみなこれなり。また『阿弥陀経』、『大般若経』など、全文こんなもの多し)、末句に Behind the veil, Behind the veil!「かくいうものの分からぬことはどこまで分からぬ、幕《まく》うーのうちー」と大津絵のしまいのような文句なり。これを外人はともかく、日本人までも分からぬなりにえらい傑作だとほめののしる。小生その人に守武の辞世とかいう
(213)  越し方もまた行く前《さき》も神路山、峰の松風峰の松風
この方がはるかに感興深く(語長きときは感興薄し。ラコニクとてラコニカ(スパルタ)の国の人語短かりしを古欧人ほめしなり)、意味深長なりしと言いしに、呆れて詞なし。感心したのかと思い、あとで問うに、欧州第一の詩人を僻地の日本の伊勢の禰宜《ねぎ》などに較ぶるは大不敬というようなことなりし。耳を尊ぶとはこのことで、詩の上手下手に大都会とか僻地とかいうこと重きをなすなら、人丸、赤人みな日本橋に生まれ、ホマー、オジセウスはロンドンの正中に出そうなものなるに、彼方でも詩聖は多くは田舎の人なり。さて連歌ということ、日本人は日本人ばかりのものと思い、ようやく支那に連句あるぐらいを知る。しかるに、ギリシアの古え scholia《スコリヤ》あり、これ取りも直さず連歌なり。また epigram《エピグラム》あり、俳句なり。(小生知るところではこれらのこと見出だし、公けにせしは小生始めなり。チャンバレーンなども、いやいやながら日本人のいわゆる epigram すなわち俳句と書きあるは、これを襲取せしと見え候。)日本にあるほどのこと、欧州にも古えはありしなり。それを今の欧人はできず、むやみにこれを羨みほめ立つるなり。あたかも裸体でかまわぬ風行なわれしギリシア時代の女や美少年を仏か菩薩のごとく称嘆するがごとし。日本では近時まで男女裸体を左までかまわず、春画などに裸体男女の絶美なるもの多し。
 欧人は足長くキリギリスのごとし。日本人は足短し。これらのことはおのおの長短あり。みずから我執して他を醜とするは公論にあらず。南ケンシントン美術館に、むかしの大名の乗物に幽艶きわまれる三十歳前後の宮女の美婦が懐剣を持ち、紫紅燦爛たる絹衣をきて正坐せる像あり。これらはさすがの欧人も感称措く能わざるところなり。要は日本流に坐し、日本流の装いせば日本人の方観美を極め、欧人欧装して欧行すれば欧人の方美なりと知るべし。
 ちなみにいう、日本人の男女の像また画、一様同態なり、丸顔をかくことも作ることもならずとは大法螺なり。邦人みずから手足を断つの論というべし。古春画などに丸顔で上手なもの多し。今度考古学会の付録巻末に出たる某求女《なにがしもとめ》という美少年の顔など実に丸顔にて美なり。半井卜養かなにかの狂歌に、美少年(役者)が天女になりしところ(214)をかける画賛に、上の句は忘る、下の句「乙女に似たり求馬に似たり」とあるはこの求女のことかと思う。
 小生往年(十八年前)土宜師に書を与え、このことを論ぜり。(それより四年ばかり前にも認めて簑田長政におくれり。今は失いやしつらむ。この簑田は頑強なる薩摩人で、耶蘇教を奉じ、日本のことは一向知らず。江藤新平というてもそれはどんな人など問い返すような人なりし。しばしば小生と喧嘩せり。しかるに、二年ほどするうちに全く耶蘇教を脱し小生に親切になり、小生クバ島で難儀するうち蔵書を小手川豊次郎(前年ちょっと名を挙げたが、今はのたれ死にぐらいか)という一寸法師せむしの男に預けありしを、その者質におき、ますます困りしをこの人片づけくれたり。千田貞暁、岩下方平等の甥なり。小生在米のころのこと、この人よく知れり。)その論は、進化論出でて世間に満足なものなきこと分かれり。たとえば人が蟻より高しというも人が得手勝手にいうのみ。人は脊髄あるゆえ(一汎有脊髄動物、鳥獣、蛇、?魚等は、無脊髄動物、昆虫、蟹、蝦、水母《くらげ》、介類等より高きゆえ)、有脊類の長たる人は、無脊類の長たる蟻等より高しというなり。しかれども、人間も及ばざる労働組織あり、また人力で及ばぬ雌雄を勝手に生み作り、また雌のうち女王をのこして他を全く無生殖力にして慾一方で日夜労働せしむる力あり。いわんやその神経中枢は容量人の脳の大に比して比べ物にならぬほど小さきに、城廓を構え、奴隷を使い、耕植蓐刈し、また娯楽のため四十余種の他の動物を飼養し、また?虫《ありまき》を畜養してその汁《しる》で子を養い、中には兵士武芸にのみ長じて奴に食わしもらわねば食事し能わざるものあり。また(小生も西インド等にて実験し知る)自分の死ぬのを知りながら少しも怯《わるび》れず、進んで一社会に代わり、食蟻獣等に食われて身を顧みぬ勇卒多し。また工兵、輜重兵の備えさえあり。(『維摩経』に、香積如来の衆生、その如来に香をもって供養し、香をもって説法を聴き、娑婆世界、衆生剛強にして、釈尊、音声といえる忌むべき荒々しきものをもって説法すときき、呆るるところあり。しかるに、蟻には香をもって言語するもの実際ありという。)
 人の体が鯨や象また鰐等より小さければとて、人がこれらに劣らぬというが正理なる以上は、蟻の体が人よりはる(215)か小さしとて人におとれるにあらず。人の小便で流され、小児にふみにじらるればとて、蟻が人に劣らぬこと、あたかもウワバミが人を飲めばとて人劣れりと言うべからざるがごとし。さて有脊髄動物で人が最長というは他に比倫すべきものなきゆえとして、まずはこれを定論とするも、実はミヴァールト氏がいえるごとく、体格上獣類は鳥類の完備に及ばぬこと多く、さて哺乳動物中では人や猴よりはるかに虎、獅子、猫、豹の一属が完備しおるなり。猫はかたわものなり。また人は一層かたわものなり。
 図のごとく、(イ)腿《もも》の付け根より(ロ)膝まで人獣相同じ、(ハ)より(ニ)のあいだ人のは非常に短縮し、さて(ニ)(ホ)のあいだが一層短縮せるゆえ人はかたわなり。しかるに、孟子が大人を作らんとして天がこれを苦しめるとあるごとく、このかたわを利用し、むりにこじつけてかたわ相応に間に合わし直立することを得たるゆえ、人がえらくなれるなり。(猴属は直立し得ず、猩々など土の上に置けばいざりあるくなり。)他の動物は頸と頭と直ぐにつづかず、故に多音声の言語するを得ず、言語なきものは先代の事業訓誨を後世に伝うる能わず、故に猫、犬はいつまでも猫、犬なり。(福本が(氏の筆「出て来た歟」に出づ)感心して、今に耳底にのこりあるはこの論なり。ただし、これより一層取っておきの玄談あり、猥褻にわたるが貴下私刊でもしてくれるなら、まじめに図を入れて評論すべし。洋人間にもおいおいこの発明を出す人あるも知れず。)
 ざっといわば、万物のうち交合の際男女顔を相見るものはなはだ少なし。蠍《さそり》などは前より相抱き交われども眼が背に付きおるから、顔を見ることは成らず。しかるに、人は男女顔を見ながら抱き交わり得(猴は人に近けれども然らず)。マクスノードーなど、美術や道義心はみな色情交合の上より起こるという。(欧人が称賛する接吻なども猥行に基因するはパスカル和尚等もいえり。)まことに交合中相手の艶羞百態なる顔を見て、夫は婦を、婦は夫を愛するより、一定不離の夫婦は起こるなり。(うそか知らぬが、下等の民ブシュメンなどは後より交合するのみ(216)なり、という。ブシュメンの女陰は他族とかわり一種の結構あればほんとかも知れず。)夫婦離れずして始めて子を愛育し一族も成り上がるなり。さて、この人間のみ顔を相視ながら交合し得る理由は、女人の陰門前に向かい開きあり、後よりするに不便多きによる。(欧州には、女、子を生み年長ずれば Venus aversa(後向き婬尊女神)と名づけ、後よりすること大はやりなり。これは交合、節をもってせず、やりすぎるよりの弊風なり、別のことなり。)しかるに人間猴属より進化せしこと疑いを容れず。猴属の女陰は後に向かえるが、それがいかにして前に移りしか。陰門は菅公の御詠に感じて一夜に飛びし梅のごとく、飛び移るものにあらず。陰門を移さんとならば骨盤からして移し動かさざるべからず、大へんな手数なり。また後に向かいしもの漸次進化して前に向かいしとせんには、前に向かいおわりし後は快言うべからずとするも、一代や二代で移らず。漸次前に向かうほど交合不都合なり。日本にも西洋にも下開《げかい》とて後に向かうものあり。これは後よりする方が快なり。さて前に向かえば向かうほどよきは知れきった通りなり。鄙人言うあり、いわく、陰門を択《えら》まば小便所に向かいて諦視せよ、女人小便をするとき頭を屈下すること多きものほど陰門快味なり、と。これ上開を択むの方法なり。しかるに学説上最難のことは、最初下開が上開より化成せんとして後より上進前向する途中、正中開すなわち股の中間に正位する世代あらざるべからず。そのときは前より突くも後より突くも全く入らぬなり。かかる女には素股《すまた》など称え、入れずにわずかに股を摩し欲を達すること仏教の律書にもあり。されど下開を上開にするためには、しばらくこの中開の不快を忍ばざるべからず。予は上帝が人の劣味を上味にしやらんとて、しばらく特にこの不快をそのときの人に忍ばせたりなど思わぬも(上帝大自在力あれば一度に飛び移られて可なり)、とにかく世間法として後日後代の快を期してしばらく大不快を忍ばする大法のあることを見出だし、また奇にして不可思議なことと思うなり。この一事を推して目前不便利、不利益なことも忍んで行なわば、後日に大利益、大発達ある例少なからぬを知るべし。
 つまらぬ例ながら、小生帰来十年僻地におり、見聞少なく、まことに貴下のいわゆる無鳥郷の伏翼なり。しかるに、(217)同時に都会の人は肉少なく羽毛のみ多き木菟《みみずく》のごとく、物にふれて徐々に観じ、正見を聞くこと少なし。これ、その境界が境界にしてかかる場合少なければなり。故に田舎に十年おったは損ながら、書を読んで得られず、人に聞いて得べからざる発見、小生に多し。前日しらべしに、大学中の人が数十年かかりてみずから集め、また見出だし、また外人の書を渉猟して書き集めたる本邦の淡水藻はすべて五十属ほどなり。小生、大酔の上みずから覚え出して書きつけ、岡村金太郎博士に渡せし当国の一部(熊野と和歌山辺)と大和の北山、十津川のみの淡水藻目録には、小生十年間集めし淡水藻少なくとも百五十属はある。(神社合祀反対で大分損失せしが、今も多分は標品のこれり。)故にききかじり学問、いつでも暇あらばできるような学問は都会宜しく(プルタークは、学問は書籍館ある都会に限る、といえり)、実際多人未見未聞のことを新たに見出だし考え出だすには田舎も蔑すべきにあらず。(スピノザは、書を読まず一生玉をみがきて業とし、自説のみ考え出だせり。今の仏国のピエール・ロチ、また一生書を読まず、仏国のアカデミー員に挙げられしとき、ロチは読書を解せずと公言して他席を驚かせり。)小生、多忙また食事を報じ来たりたれば、大雑乱ながら乱筆す、前後読み合わせ熟慮し察し下されたく候。
 バークの語なりと思う。同じ間数《けんすう》を隔てて杭を打ちこみ柵を作れるを、目を側《そばだ》てて一方より見るに、身に近きははば広く遠きは狭く、数町さきのものは数十本の杭重畳してまるで一本のごとく見える。人が過去世を見るにこの謬見多し、と。真に卓論なり。欧人は現代の欧州の開化を一定不変のものと思い、過去のことを問わぬ人多し。いずくんぞ知らん、彼輩のいわゆる開化はわずかに三百年内外に始まる。
 デンマークごとき小国すら、今日文化の蹟を開き、文人学者多きこと、日本にまされり。しかるに、三百年ばかり前までは固有の文学とては伝説、俚譚のほか皆無なり。否、自国語さえ語を成さず、ヘブリウ語で神を拝し、ラテン語で法廷へ訴訟し宣告をきき(凡民には何のことかわからず)、さて犬を叱るときのみデンマーク語を用いしという。英国なども文化の旧物とてはとても(他国伝来のものすら)正倉院の(218)御物ほどのものもなく、最古のものはわずかに九百年ばかり前の下駄一足あるのみ。(このことかつて故中井芳楠のきく前で ex cathedra 頭からかみ付くるように言い罵り、大いにある欧人をやりこめしことあり。)シャムの先皇の詞かなんかに、中古ダーク・エイジに東洋から欧州へ使節を送ることありなば、その日記は今日欧米人が南洋やアフリカへ旅行する日記に等しからん、といえり。(マルコ・ポロなどの日記、また徳川初世に明《みん》や日本へ来たりし宣教師の記に、誠実心底から西洋が日本、支那に及ばぬ趣きを記せること多し。教化に来て反って教化されたることも多し。ナヴァレット和尚の記に、支那人に妙なことあり、いかなる乞食までも自分の生れ年月日を知れり、とあり。かったいの梅毒羨《かさうら》みで、実はそのころ欧州の貴族名士にして自分の生れ年月を知らぬ人多かりしなり。)
  ついでにいう。欧州の言詞完全にして東洋の企て及ぶべきにあらずという人多し、大間違いなり。brother,sister という語、今日も兄やら弟やら分からず。史書を読むに、同胞男女とは分かっておりながら姉やら妹やら分からぬこと多し。(今年出板の『大英類典』にさえこの例多し。故に、なにかのはずみに年の多少をかいてなきものは、一切兄やら弟やら分からぬなり。)大いばりでアフリカ最下等のホッテントットに宣教に行き、『バイブル』に一向明言なきゆえ、さあそれはで呆れ戻りし人あり。何とか、アネ、オトトと簡単な語を新製せにゃならぬとは、五、六千年また一、二万歳蛮人にも後《おく》れた大穴なり。
 されば、日本の開化欧州に後れたりなどいうは、ほんの眼前の一事一相を見た談《はなし》にて公論にあらず。要は各国おのおの長所、短所あり、ただその短所の不利が目前緊切に感ぜらるること、貴人が結構美尽せる別荘に住むところへ、隣へ博徒集まり時々乱暴争闘するゆえ、これを防ぐには風流ばかりの生垣《いけがき》では事十分ならぬゆえ、生垣を不風流きわまる煉瓦造の厚壁に仕かえねばならぬほどのことなり。
 また無脊髄動物にはいろいろと大群あるが、まず一口にいわば多節類と軟体類が重立ったものなり。この多節類の体の結構は有脊髄動物とはまるで違うが、精神上の発達は蜂、蟻、また白蟻等にて著し。
(219)  蜂蟻は網翅虫なり、体格は到底甲翅虫(かぶとむし、天牛《かみきりむし》、たまむし等)に及ばず。しかし、精神上の発達人に駕するものあるは上述蟻の例で知るべし。しかるに、体格虫類でもっとも下等と称せらるる羅翅虫(とんぼ等)の中に白蟻あり。これまた蜂蟻に匹敵すべき精神上の発達あり。ことに物を食わずに自分の休より滋味を出して他の同類を養うという珍妙不思議の構造あるなり。人間人間とえらそうにいうが、南米等熱帯地では、人が常に蟻や白蟻にやりつけられ、証文、書籍のこらず。故に腹立ち断えず、蟻や白蟻のために百年に五十度の百度のと南米辺は革命騒ぎ行なわれおるなり。小生などはせっかく集めし標品多く失われ絶望して帰れり。しかるに、体格構造はまた軟体類(介《かい》類、烏賊《いか》、章魚《たこ》等)がえらく、烏賊にはすでに脊骨ごとき骨あり(他の無脊髄動物にはなし)。また章魚、いか、共に眼の構造はなはだ上進せり。(ペリューには木乃伊《ミイラ》の眼を烏賊の眼で入れるほど人眼に類しおる。)臓腑等もなかなか高等にして、中には鯨鯢類に似たる巨大のもの多く、はなはだしきは魚と同様の鱗《うろこ》を蓋《おお》えるあり。実際体格上、烏賊、章魚に劣れる有脊髄動物はなはだ多し。今無脊髄動物について上下高卑をいわんとて、体格の一事をのみとりて、章魚、烏賊が上等なりといい、また精神上の一事をのみ取りて蜂、蟻優れりと言わば、いずれも公論にあらず。あたかも女郎買いが、誰《た》が袖《そで》という女郎は腰の遣い様が絶妙だと誇るに、芸者買いが、然らず新橋の桃太郎の清楚たる姿貌は天下一だと誇り、一方は絹一匹貰って至幸なりと喜ぶを駁して、何ぞわが沙糖一斤得たるに及ばんやというがごとし。絹一匹と沙糖一斤は代価を標準として甲乙を定め得るも、腰の遣い様の巧みなると姿貌の清楚たるとは、全く別問題にて標準なし。しかして、日本の万事万物と西洋の万事万物を、何の標準も立たぬ間に、かれ優る、これ劣るというは大早計の論なり。分数を比較して大小を定めんとならば(1|3 2|5 3|10 いずれか大なるやを知らんとせば)、最小公倍数(すなわち30という標準)を定め、さて1|3は10|30、2|5は12|30、3|10は9|30なれば、2|5一番大に、次は1|3、次は3|10と明言し得るなり。東洋と西洋文化の甲乙を見るにもこの通りに標準を公撰し、一方にのみ偏在するものを23のごとく対照し、(220)両方に普通なるものは55のごときを取り除きて大小多寡を比較して始めて知り得べし。ただし、光力、電気力、器械力とかわり、道義心とか風流心とか悟脱とか煩悩とかいう、形以上のことを数量で量ることは今日できぬから、この対照比較はなかなか公平にやらねばならぬ。したがって今日ごとき偏頗多き世にはちょっと分からぬ。
  科学科学というが、香、味等を熱度や重力のごとく測定する方はまだまだなし。故に、香道や割烹には日本の方が西洋にまされること多し。画の具を合わすに、師匠と同じ分量を精細に計算して和合しても、師匠ほどの彩色は出ず。世間のこと数量や理窟のみで行けぬこと多し。(文章などもっとも然り。へたまごつくと八股文のような千篇一律のものできる。仏国のアカデミーで文典を一定してから、仏文、過去動詞の終りはみな é と ée とで畢《おわ》るゆえ、詩のしまいがエーエーエーばかりになり、一向面白からず。英語は自然の成行きにまかせ、不規則動詞 cut-cut,break-broke,sleep-slept,hold-held,holden,wear-wore などと変態多いから、文詩に勢いあり。叩く、叩かれし、往く、往かれし、まではよいが、ごとく〔三字傍点〕破格に、ごとくなりし〔六字傍点〕と永いやつがあるので、文章に変態もでき面白し。しかるを、近来ごとかりし〔五字傍点〕と定めんなど、仏国の顰《ひそみ》に倣い敗をとるものというべし。)されば数量の学識、万物に及ぼさぬ今日は tact(何と訳するか知れぬが、練熟能ともいうべきか、石切り屋がよそむきて話しながら臼の目を規則通りに角度正しく切り、何の音調の定則も譜表も持たざる芸妓が、隣人のくだまく声に合わせて三線を鼓するがごときを tact という)ということ、もっとも肝心なり。東洋のことには tact まことに多し、西洋人にはこのこと少なし。
 翻って上にいえる文章のことをいわんに、菅の根の長々しきと山鳥の尾の長々しきは、英語で elongated 延長、tapering 長くなるほど細りゆく、terete 円くて長くつづく、filamentous 糸のように長い、pilose 毛のごとく長い等のように、一語でいい得ぬゆえ、いろいろと考えて作り出でたる語なり。由来それぞれあることなり。それをただ長いことにどれもこれも使うと思うは、歌人等無学無想の杜撰なり。したがって語路、道ゆきぶり、海道下り、浄瑠璃さわり、(221)いずれもむちゃくちゃに見物に暇潰させんとて作りしものにあらず。日本はまた日本だけの言詞に異妙なる作能あるをよくよく味わい、千慮万考、精練して十分に発達|的用《てきよう》せしなり。(現に隣国のインドや支那には、かかる語路長く続くものなく、わずかに曹操、荀攸の新婦黄絹とかなんとか、謎のようなことに止まる。あたかもペングインというもの、身体の結構範囲の圧迫から図のごとくほとんど直立すること人に近きも、頭と喉と多少の角度をなし、人のごとく直ぐに続かず。故にせっかくの発達はそれだけのことで、言語を発し得ずに止むがごとし。)
 進化論からいわば、何ごとも何物も多端多様にして、しかも前後左右上下の連絡整然たるが進化のもっとも上なるものなり。しからば、日本の海道下りやさわり文句は、インド、欧州の長詩のように理窟ばかりで、われはかなしむ、如何《いかん》となれば親と子に分かれたゆえに、あたかも天人が天より落ちたるごとし、天人すでにかなしむ、われは凡夫なり、いかにしてかなしまざるべけんやというように、グドグドグドグド酒飲みが警察へ拘留された陳述のごとく、意味のみつづきて何の趣味、感動上の結構なきものにまさること万々なり。いわんや感慨、喜悦、愁慟を叙すると同時に、「石部石場で大石や小石|拾《ひら》ふてわが夫《つま》となでつさすりつ」と言う衷《うち》に、大星は実は大石のことを叙せるを明らかにし、「不破の関屋はあれはててなほ洩るものはのきの雨のいつかわが身の尾張なる、云々」という内に、道中の光景、故事を序述せLなど、これが高尚の詩にあらずして何物か高尚なるべき。「神社合祀意見二書」にもいえるごとく、言の到れるは煩いなり、道は言もてのみ尽し得るものにあらず。本邦のさわり文句など聞いて分からぬながら涙出す人多きを見て、秘密儀軌ここに至ってきわめて精巧というべし。故に、西洋今日の文芸にはそれぞれの長所あるべきも、それと同時に西洋人に分からぬから、また西洋と途を別にするから、東洋ことに日本の文芸、美術、不可不埒なりというは文盲至極の愚論ならん。
 さて、ローンは南に流れ、ラインは北に注ぐ、原《もと》づくところは一山なれども嚮《むか》うところ異なり、ローンがラインに(222)優れるにあらず、ラインがローンより正しきにあらず(ヒュームの句を敷演せしなり)と書き出し、このことを七、八年前に英国へ出し、それより大議論となりしが、中には大いに感心して小生に左袒するものも出たり。友人バサー(『大英類典』の?状動物《エキノグルマタ》(ウニ、ナマコの類)の条書きし人)は多忙の化石動物学者なるが、夜間ひまをぬすみ沙翁《シエキスビア》の戯曲につき語路《もじり》paronomasia をしらべしに二十ヵ所とか出で来る(たしかな数は別にたしかに記し置けり)。そのころ(今よりわずか三百年ばかり前)欧州にもはなはだ語路がはやりし証なり。ただし今日ははやらず。これ欧州上流に(またいわんや中流以下に)古学を修むるもの、古学、古語を味わい得る者少なくなりし証なり。語路が衰えたるなり。古学が衰えたるなり。代りによきもの出で来たるは無論なるべきも、古学、語路が衰えれば、その学問の亡びんとするなり。その道に取ってはかなしむべき限りなり。賀すべきことにあらず。わが邦には耳食の徒多し、沙翁沙翁といいながらそこここ拾い読みにするのみ、予のごとくみな読みたる人はなからん。
 御承知通り、西洋には各国 Shakespeariana 沙翁専門学あり。大英博物館には、特にその書の大目録あり、一万巻ぐらいの書あるべし。年々ふえゆくなり。小生かつて沙翁の書について和漢同蹤のものをかき集めたるもの少々あり、彼方には十襲されながら、東洋では古臭き故事、文句多し。
 第一に、沙翁最初の著といわるる‘Love's Labour's Lost’などは、そのころの宮女、王公卿と相会して艶談することを序したるにて、一向普通の今の欧人にもてはやされず、その文句いずれも語路(悪くいわばしゃれ)ばかりなり。今の人には分からぬが、そのころはもっとも行なわれたるものと見えたり。物質開化にのみ鋭意して、わずか三百年間に語路の文芸全く地に堕ちたるなり。ベーンの『修文学』に、pun(語路)は滑稽文中最卑下のものなり、といえり。大家が言えりとて日本人など首肯すべきにあらず。言語の数少なき上、理論的の用語多からざる日本人が、語路を用うることを全く捐《す》つるの日は、これ日本の文章が地を掃うの日と知るべし。
  至難のことだが、小生、ロンドンの商業中央辺ビショップス・ゲイト(国師門)より、日本でいわば日本橋通り(223)御成街道をへて千手をすぎ、ついに全く郊外のキュー植物園に至る道筋を、英語そのまま海道下りに作りし文あり。ジキンスに贈りしに、氏も大いに感心し、前年陛下へ奉りし『万葉集』訳の序には、特に従来の欧人説を駁し、欧州と異《かわ》り日本の文は語路を尊ぶ、そは日本の語路に万国無比の深味幽趣あり、感慨一時に起こり悲喜たちまち交代するの妙ある、ということを長々と叙しあり。
 今一つ論ずべきは、今日泰西の学が世界の正学にして、進化論が泰西の学論の根底という。進化論という以上は万物常に進み常に退き(実は進化ならで進退化論なり)、一刻一時も住持定止せず、故に鳥の内にも獣のごときあり(アプテリキスという鳥は獣の毛あり)、獣の内また卵で子を生むこと鳥のごときあり(鴨嘴獣等)。しかるに、西洋の学者またききかじりに、本邦人など、なにか事あり物あるごとに定義定義というは笑うべし。常変不定の世に事物何の定義あらん。ますます巧にしてますます拙なりで、定義を説くほど不定義となるなり。前日申し上げし(「二書」に出ず)開化の定義に、真の文明開化は心性物質の発達上進せる上に建築丈夫にして後代に遣るものならざるべからず、といえるごとき、これなり。不幸にして石に事をかく国(本邦、また一層はなはだしきは、月氏、?陀羅《ガンダーラ》、干?《うてん》、吐火羅《とから》等、主として砂磧中に木造の建築のみなりしゆえ、今日沙漠裏に埋れ去りしもの)多し。ただし、大乗仏法これらの地に起こり、今に至って東洋大開化の大原因をなしおれり。豈《あに》ヌビア、エチオピア等のアフリカ蛮地に大石柱、大石堂を遺しながら、誰が作ったかも臆想のほか知れ様なき偽開化の比ならんや。学問の根底たるべき定義、定説等からして、欧人の所言(すでにみずから世界の不定、世態万事物の日夜変化するをいい、その変化を開進といい開発と自称しながら、一方には人間の痩せ智恵でわずかに数語に天地間の大則を包羅せんとす)、自家撞着を極めて顧みざること、かくのごとし。われらもし欧人に模倣して万世その糞尿を嘗めて満足せんとならば知らぬこと、もし東洋人また世界啓発の責任あり義務あるを悟らば、かかることをうっかり聞き習いて傚顰《こうひん》すべきにあらず、諸他のことみなこの例なり。
(224) 小生はこんなことばかり考え、こんなことばかり言うたゆえに、聞く人多少感心するが面白く思わず、終《つい》に帰国に及びしなり。ライプニッツは doctor univerrsale(一切智)といわれし。常に書状を智識の貯蓄所《レパートアール》(あずけどころ)なりとて念入れて書き今に遺れり。その他の学者いずれも深奥重畳の学問の底処は公刊せず、多くは後年を期して一、二会心の友に書き与えしものなり(ダーウィンなどすら然り)。これ欧州に死後集の出板多き所以《ゆえん》なり。小生も今後ひまあらバ、せめてこの状ごときものを多く筆し、貴下に預け置くべし。小生、自説として自分から公言しがたきこと多けれど(小生は向う見ずに物を言い張るゆえ)、貴下斟酌してかつて南方がこんな説を吐いたが、今はどう思いおるか知らずぐらいかくは、かまわぬことゆえ、そのうち御間に合わせ下されたく候。
 遠き古えを攷うるに、北欧州人が、ギリシア・ローマの文化を何とも思わざりしごとく(前年、銅色土蕃インジアン酋長数人、ワシントン首府に来たりしを見るに、この輩も今の欧米文化を何とも思わず、?《けが》れきつたることのごとく思いおる。民少なく人智隔絶し、各族の合従《がつしよう》堅からずして亡びしは遺憾なり)、また最初のギリシアの人々が、ペルシア、エジプトの奢侈を何とも思わざりしごとく、わが邦人は支那の開化などを、妙なうまい芸道をやらかすが心性は劣等にして多詐なものじゃぐらいに見落としたるなり。これわが神道の制、斎忌の条々(不成文ながら)厳重にして容易に破り得ざりしによるなり。(小生、ブリストルの英国科学奨励会で会長の次に読みたる文に、このことをいえり。十三、四年前のことなり。)故に『唐書』等にもその使い多くは矜高みずから持すなどいい、例の目出ずる処の天子、書を曰入る処の天子に贈るとか、また本邦の大使がそのころ強盛をきわめし大食(タジクすなわちサラセン大帝国の回教主)の使者と坐位を論じ、打ち勝ちし等のことあり。
 しかるに、近日わが国の学者などいうもの、国内で手前味噌をならべ、日蓮を耶蘇より上なりと論じたり、謙信は歴山王《アレキサンドル》に比すべしとか、曽呂利新左衝門はアリストファネス以上の滑稽ありとか、縁の下の舞いを奏するのみ。海外のものに向かい、海外の学問に資《よ》り大いに正論抗言するもの少なきは、いずれも熊楠に比しては人畜生ともいうべ(225)き輩のみなり。みずから知り敵を知る者は百戦百捷といえり。那翁《ナポレオン》は、戦うに粮を齎さず、敵より粮を取って諸処に転闘し、終《つい》に敵国に入って城下の誓を成さしめたること多し。熊楠これをみずから能くせりというにあらず、能くする者なき世に能くせんと心掛くるのみにても殊勝なり。願わくは、蝉の羽の脈の数をダーウィンが四十というたが精算したら四十一であったとか、某教授の指嗾で何という病原をしらべ、某教授の発見薬を用いてその黴菌を見出だしたが、果たして治療上に何の効験あるかないかは未審とか、そんな枝葉のことのみで至れり悉《つく》せりとせず、精細に|論理の学《ロジク》(実は論理というと実用に拘する名だから予は事理と訳す)と数学を堅め、次に諸般の科学を一通り心得た上、東洋のことに精通して西洋の学を用い、欧米人のまだまだ見出でぬ原理、原則を多く見出だされたきことなり。
 今午下「猪の話」書留にして差し上げ候。右は『太陽』へ出るようなら『太陽』へ出し下されたく候。もし『太陽』へ出すも却下受合いというほどなら、考古学会へまわし下されたく候。故サー・バートン(アフリカの内地に旅行し、有名な地理学者、また二十四種の言語に精通したり)、『アラビアン夜譚』を全訳せしとき、かかる長きものを(一千一章あり)一定の文調で訳するときは語種尽き、文調涸れ、読む者たちまち倦怠すべしとて、最古の英語から今日のベランメー言葉、下等人の相言葉《あいことば》まで渉猟し、また英人に分かるべき語は、仏、西、独、インド、アラビアの雑語、雅語までも用いられし。小生も日本ごとき言詞少なき国には漢語ばかりいろいろ作り出して、貧乏、貧究、究困、困乏、虧乏、赤貧などと出し分けたところが、貧の字、乏の字が多く重なるまでなれば、読者いよいよ倦怠すべしと存じ、江戸っ子、上方詞の俗語、ベランメー語までも雑用して文章をかかんことを本邦人に勧むるところに候。書き直さずに一気呵成の訳ゆえ重複冗語も多からんが、とにかくそのつもりで御覧下されたく候。『毘奈耶』の原文など七六《しちむつ》かしく長たらしく、なかなかこれを原文のまま漢字で書きたればとて、とても読む人なかるべしと存じ、出まかせに和解致し候(鼠金鋪主の話)。しかし、どこもここも和解すると今度はこちらがくたびれ、また『牟婁新報』の拙文ごとく飛んでもなき悪謔なぞ出るから、他の短くてすむ経文は原文のまま引き出し候。
(226) 近野村の神林のことは只今必死になり争いおり候。このことはまた後便申し上ぐべく候。
 先便申し上げ候『さへづり艸』のこと御頼み申し上げ候。
 馬おろしの「おろし」は、小生は drive 追い行《や》るの義と存じ候。または船より馬を浜におろすの儀と存じ候。また道険にしてここにて下馬するの義と存じ候。かかる名、小生も多少知るも、只今それと指して申し上ぐることは成らず候。
 那智の一件の被告人は昨日公判のはずなりしに、また延引仕り候。
 明治四十四年十月二十五日午後
                       南方熊楠拝
   柳田国男様
 
          49
 
 『改定史籍集覧』第九冊『今昔物語』第二七巻、本朝付霊鬼、「美濃国の紀遠助、女の霊に値《あ》いて、ついに死にし語《こと》」第二一、今は昔、長門の前司藤原孝範という者ありき。関白に仕え美濃の国|生津《なまづ》の庄を預る。その庄の人紀の遠助を仕《つか》い付けて東三条殿の長宿直《ながとのい》に召し上げたるが、宿直|畢《おわ》りて美濃へ下る。勢田の橋上に女にあい、懐より小さき箱、絹もて裹《つつ》みたるを引き出して、この箱|方県《かたかた》郡の段《たん》の橋の許に持ち卸《おわ》したらば、橋の西の爪に女房御せんとすらんに奉りたまえと托せられ、おそろしきゆえ諾す。ただ橋の許に行かば女来たるべし、それに渡せ、この箱開くなといい去る。遠助の従者には見えず、馬より主下りて由《よし》无《な》くて立つと怪しむ。美濃に行きてこの橋の許を忘れおわり、家に帰りて思い出し、何とか渡しやらんと壺屋立ちたる所の物の上におく。遠助の妻、嫉妬はなはだしくこの箱を京より買い下り他の女に遣らんとすと思い、夫の不在中開き見るに、人の目を抉《くじ》りて数《あまた》入れたり。また男の※[門/午]《へのこ》の毛少し付け(227)つつ多く切り入れたり。妻怖しくなり、夫帰るをまち示す。夫かかるもの開き見しを悔い、橋のもとに持ち行くに女房出で来たる。箱を渡すに、受け取りていわく、この箱は開きて見られにけり、と不快なり。遠助家に帰り病んで、妻が箱開きしを恨み死す。(大意をとる。)
 委細は右の題号にて『国史大系』につき見られたく候。己《おの》が命の早使いとは大分ちがい供えども、己が授かりしもの、ついに己が死の因となるは同趣相似たることに御座候。近ごろまで南洋諸島の taboo 斎忌にかかる事例多し、見まじきもの見て病を発し死するなり。以上。
 明治四十四年十月二十六日夜十一時出
                       南方熊楠
   柳田国男様
 
          50
 
 拝啓。小生貴下の「榎の樹」の一篇を見るに、榎は椋実ほど食わぬというようなことあり。小生は知らぬことながら、『和漢三才図会』巻八三に、榎の子《み》、「大いさ豆のごとく、生《な》るとき青く熟せば褐色なり。味甘くして、小児これを食らう。早晩の二種あり。椋鳥《むくどり》、鵯鳥《ひよどり》、喜《この》んでこれを食らう。(和歌山辺にてヨノミと呼び、小児食らう。)子《み》は甘平にして、咽喉の腫痛および骨《ほね》?《た》ちたるを治す、云々」、木は柱とならず砧《きぬた》となる、「最も薪に宜《よろ》し。相伝えていう、その火気、人身に益あり、と」。また榎※[竹/譚の旁]を食らう。(巻一〇一に、エノキタケ、ナメススキ、二つながら榎に生ず、とあり。榎に黒白二あり、黒は生ぜず。ナメススキはことに上品の茸なり、とあり。たしか Collybia velutipes とて、他の※[竹/譚の旁]と異なり、極寒中、雪中に生ずるものに候。寒気を禦《ふせ》がんがため蓋上にトコロテンごとき粘液をかぶる、故にナメ(滑)ススキ(煤色の茎)の名あり。)また椋は、八三巻に、「その子《み》、黒色にして円《まる》く、竜眼肉の皮を去りたるものの(228)ごとし。小児、喜《この》んでこれを食らう」。矛に作ること見えず。椋《むく》※[竹/譚の旁]、人工にて作ること、巻一〇一に出たり。榎エノキは和字ゆえ、右の『和漢三才図会』の榎子の菓子、また薪の火、人に益あること等は、支那の伝には無之《これなく》、全く日本の俚談に候。さて椋と榎と多少 totem(族霊)等の旧風より本邦人に異重されたりと覚えらるるは、『源平盛衰記』巻二一、聖徳太子椋の木|付《つけたり》天武天皇榎の木のこと、太子、守屋と戦いまけ、大返しという所にてただ一人|扣《ひか》え給いけるに、守屋と勝海とに行き遭い逃れがたくおわしけるに、道に大椋木あり、二に分かれて太子と馬とを包みかくし、その木すなわち愈《い》え合うて太子を助け奉る。天武帝、不破関にて大友王子の軍に襲われ危く見えしとき、かたわらに大なる榎木あり、二つに割れて天武をかくし奉りし、云々。頼朝、伏木の空にかくれたる語のついでに書きあり。
 貴下、また件《くだん》の新紙に、杉と松と古え支那人は分かたず、とは異聞なり。『爾雅』には分かちあり、※[炎+占]また艪ニあり、※[炎+占]、音杉 shan《シヤン》,『別録本草』に至り杉とす。この杉は Cunninghamia sinensis(支那で杉また沙木といい、本邦には自生なく支那より移栽し、広葉杉《こうようさん》またオランダモミという)。日本の杉も『本草綱目』によれば、杉の一種、日本より来たる、云々、とあり。Cryptomeria japonica,これも今は杉なれば、実は日本杉とも漢名をつくれば正当せり。貴下いわゆる松と杉とを分かたずとは、日本の杉と支那古来のいわゆる杉(すなわち日本でいう広葉杉)(この二つは上に見えるラテン名で知るる通り別属のもの)とを、李時珍ごろは分かたざりしということの間違いかと存ぜられ候。ただし、針葉樹科にはかかる混同各国に多ければ(ギリシア、テオフラスツスの植物書などに、Abies モミ属と Pinus 松属を一斉に松と呼べる、また本邦で杉をもマキと呼びし古俗ある由、したがって羅漢松《いぬまき》(杉をマキというに対し、偽《いぬ》マキと言いしか)に宛つるに艨i『爾雅』に艨=ヲ[炎+占]=杉、すぎのことなり)字をもってせる等、いろいろ混同多し)、右申し上げ候。
 近野村の神林は、昨日、県会議員毛利清雅、和歌山市会議員柴田太平二人、県知事に面談せしに、大部分を保存し、多少は伐木さする由。
(229) 近露王子は、『源平盛衰記』康頼熊野詣に見えたる近津井王子で、野長瀬の先祖野長瀬庄司(また近露六郎という)が大塔宮を救いまいらせたる等の故事あり。野中は、継桜王子とて建仁元年『後鳥羽上皇御幸記』にも見え、秀衡継桜の故事あり(土俗、親子桜という)。熊野街道に神林ある神社とてはこの二つのみのこれるなり。予は何とかしてこの二社の全林を残さんことを望むなり。いずれも毛利氏明日あたり帰るから相談の上申し上ぐべく候。
 後年幸いに皇族またかしこきあたりが熊野詣で等あらんに、神林ある社一つもなしとありては、いかにもつまらず候。
 明治四十四年十月二十六日夜
                         南方拝
   柳田様
 
          51
 
 御下問の「あかごめ」は、小生も幼少のとき見たことあり。今は唐人米《とうじんまい》と呼び候由、うまくなきものなり。また脚気起こるなど申す。トウボシはトウ(唐)乾飯《ほしい》の義と存じ候。乾飯として焦《こが》しに作り、また焦《こが》しにいろいろの薬味(紫蘇の乾したるものなど)まぜ、香煎とするなり。粘り気きわめて少なきゆえ、湯にまきちらすに宜しきことと存ぜられ候。『松屋筆記』巻六四に、『全浙兵制』下巻付録に、「日本人、われを大明と呼び、大唐といい、わが国の人を呼んで唐人となす。久しく倭の地に住める者は旧唐人という。けだし、唐の威令もと夷狄《いてき》に行なわれしをもっての故なり」、ケトウジンというも旧唐人《くとうじん》の訛りにや、または怪唐人《けとうじん》かとあり、云々。
  ついでに記す。同書巻五三、蛇の尻に入るは、多くは烏蛇とて小さくて黒色なり。好んで人の尻穴に入るに、その人さらに覚えずとぞ。この蛇、穴に少しばかり首をさし入れたらんには、いかに引き出さんとするも出ること(230)なし。寸々《ずたずた》に引き切っても、首ばかりはなおのこりて腹に入り、ついに人を殺す。これを引き出すにサルノシカケという木の葉にて巻き引き出せば、わずかに尾ばかりさし出たるをもたやすく引き出すと言えり。サルノシカケは、赤色の小実あり、熟すれば黒色となる。味酸く甘し、葉はカンボクの類なり。小木にて大樹はなし。武相の間にてヨソゾメと呼ぶ。サルノシカケという名は、越後にて呼べり。
  水蛇のこと、『北越奇談』にもありしと存じ候。
  右は、先日河童のついでに申し上げし南米の男色蛇に似た伝話なり。当国にて小生親しく遇える烏蛇は(那智で八年ばかり前、春か夏、去年安堵峰へゆく途上、大川という所にて十一月十四日見る)、小ならず長《たけ》一尺に余り、黒色にて光あり、人を追いかけ来るものなり。
  尋常種の蛇が故ありて水を游《およ》ぐことあり。しかし、英国学士会員爬虫専門の大家ブーランゼーに聞きしには、日本の本州には水蛇あるを聞かず、台湾にはありとなり。尻に入ることは聞かざりし。また『渡部幸庵物語筆記』には、蛇、女陰に入りしとき、これを割《さ》き山椒末を入るれば出るとあり、と記臆す。小生、和歌山にて少時老人に聞きしも然《しか》いえり。
 さて、同書巻五、武蔵、相模などの国人が常にダイラボッチとて形大なる鬼神のようにいいあざむものあり。相模野の中に大沼という沼あり、それはダイラボッチが富士山を背負わんとせし時、足を踏みし跡なりという。また、この原に藤絶えてなきは、その時背負いし繩の切れたれば藤を求めけれどもなかりしゆえの因縁なり、と言い伝えたり。『笈埃随筆』にも、大多法師が足跡ということを記したり。与清案ずるに、『台記』久安二年九月二十七日の条に、「この日、石山寺に詣で、云々、閼伽井《あかい》を見る。乗恵いわく、道場法師、爪をもってこの井を掻き出だせり、と。また、道場法師の屐《げき》の跡一、二の石に弁《ありあり》とあり」と見え、『本朝文粋』、『日本霊異記』、旧本『今昔物語』等にも、道場法師が怪力の由あれば、そのころ事々しく世に言い伝えけん諺が今なお田舎に残れるなるし。
(231)  前日写し申し上げしうち、『尾張名所』か『都名所図絵』かなにかに、道場法師の跡とか硯池とかのことありし。
 巻六一に、『犬筑波』に、「日本のものの口の広さよ」、「大唐《だいとう》を焦《こが》しにしてやのみぬらん」。この大唐は今のとうもろこしなり。「粟津の原の茶こそ苦けれ」、「兼平《かねひら》やこがしを呑みて帰るらん」。
  右の前の二句は、『一話一言』には、貞徳が誰かの「日本のものの口の広さよ」という句に、「君が〔傍点〕世とが〔傍点〕の字を入れてよむ歌に」とあり、とうもろこし(玉蜀黍)ではなく、件《くだん》の大唐米《だいとうまい》のことと存じ申し候。
  米国農務省の頼みにより玉蜀黍のこと少々しらべたるものあり、今ちょっと見当たらず。それには松屋大人の説のままに大唐を玉蜀黍とせしが、時代がちと早すぎるように思う、大唐米のことなるべし。
 野長瀬まだ東京より帰らぬから、その弟只今村にある人に頼みやり、今度白井、戸川二氏より故障入りしため、また毛利、柴田二人知事へ直接談判のため、県属近野へ出張、その案内解説を野長瀬の弟にさせ申し候。同人帰るまでの間に小生少閑あるゆえ「燕石考」を訳出せんと欲す。これは考古学会へ出してほしきに候。例の引用書目を挿入すること『太陽』などはちと小言あるべくと存じ候も、これをせぬときは大いに後進をして原文探索にひまとらしむべくと存じ候。ちょっと見せるばかりでなく、後日までもオーソリチーたるべきものを出すには、なるべく出所を明示し置くが後進の利益と存じ候。手近く普通の何でもなき書を引いて珍しそうに、ある書にいわくなどとやられては、後人その原処、出処を捜るにはなはだ無駄の労をとらねばならぬことと存じ候。西洋にも、ジスレリ(大宰相たりし人の父の方)の‘Curiosities of Literature’にこの論ありて、あまりに出所を精確に出し過ごし、何の何巻にいわく、何氏が何日ごろ話せしは、これを友人某氏より聞く、誰某の直話になどとかくと、その引用や引かれた人の名のみ残り、引いた人の名は一向忘らるるという論あり。(このジスレリの件《くだん》の書は、今日調査せる人の説に、多く誰とかいう人の随筆未刊本より盗みあり、と。)わが邦にも『和漢三才図会』、『塩尻』、『和訓栞』三書に、同一の文字語句のみか同一の議論断説多し。これは誰か二人は他の一人のを盗みしと見え申し候。下って京伝、馬琴など見苦しきまで(232)剽窃多く、『しりう言《ごと》』によれば、京伝『北越雪譜』を作るとて人の物をまるで取り、その返しにまた何とかの説を松屋与清に盗まれ、そのことを論じ憤死せし、とあり。貝原篤信のみは、かかることはまことに大人君子の所為にあらずとて一々出処を出しあり。
 小生も在英のころ、渡世上の困乏より人から銭を貰うたかなしさに、自説を人の説として世にもてはやされおること多し。果報の薄きとあきらむるものの、まことに勢《せい》なきことに候。おのれ欲せざるところ人に施すなかれだから、小生一人はいかなることあるも、引用書や教えくれし人の名を(たとい博覧博聞にほこるごとき観あるまでも)、一つも略せぬようと心懸けおり候。故に、今度訳出すべき「燕石考」なども、洋文大葉十七頁のうち二頁は引用書のみだが、これを略するは良心にすまぬなり。ことに海外のことを叙《の》ぶるには、確固と引用書の丁付巻付を出すほどの決心なくては、ややもすれば麁悪恵の翻訳をやり流したり、不都合な牽強を無責任にすることと相成り申すべく候。前日送り申し上げし「猫で成金」の話など、引用書目、目障りになるほどのことも無之《これなく》候や。ただし、日本の学問を進め、また通俗書の貫目を上げ、普通欧州の読み本雑誌論と比肩し得るようにせんとならば、ぜひ作者の責任を重んずる方より斗《はか》りても、引用書を挙ぐることと、教えくれし人、話を聴かされし人の名を、なるべく明らかにだすように致したきことに御座候。読者が眼が肥えてくると、引用書の高下を見て、たちまちその論の読むべきか否を知るぐらいになるものに御座候。右御返事、早々申し上げ候。
  前日御廻し下され候諸雑誌は、そのうち封じ荷に作り返却申し上ぐべく候。人手少なく毎日多忙ゆえ、ちょっとでき兼ね申し候。
 前日、大阪の府誌とかなんとか撰みし人、某氏の前に撰みし書を多く引きながら、序文にすら一言せざりしとか。また当国和歌山中学校長、当県地誌を作り、内村義城老人(「二書」の第二の書に出でたり)調査せしことを丸取りにし、一向内村の名をも acknowledge せず、大もめを起こし、見苦しきことに候。かかること欧州には少なく候。
(233) 小生思うに、断見、結論さえたしかに自分のものたるを示し得れば、瑣末の材料など引用書を明示し、教えくれし人の名を言うたちとて、決してジスレリの思うほどに自分の貫目を下げずと存ぜられ候。
 明治四十四年十月二十八日夜十一時
                       南方拝
   柳田君
 
          52
 
 明治四十四年十一月六日夕
 拝啓。近野村の一件どうやらうまい具合《ぐあい》に事往きそうなり。委細は白井氏より御聞き下されたく候。小生とても尋常のことで叶わずと思い、必死になり手を廻し運動の上、昨夜みずから終夜一字仏頂輪王の降伏法を修したるに候。
 前日の手書、女陰の後より前へ移ることは結局論《テレオロギー》に相違ないが、小生これを新たに引きしは、日本の文法、語句の貧弱等さることながら、これを develop 発展さすることその法を得んには、その貧弱が反って特殊異光ある大文章をなすべし、という論なり。また動物の開進対照もそのごとく、白人には白人の長所あり、東洋人には東洋人の長所あり、一を執って他を蔑し、一を羨んで他は絶望すべきにあらず、という義なり。大抵御察しありたるべきも、何様《なにさま》書き流しのことゆえ、この弁明足らざりしかと存じ、またここに申し上げ候。
 小生は、五、六日中に近野村へ之《ゆ》く。しかし、今度は逗留長からず、また貴状は必ず廻送すべき手筈なれば御遠慮なく拙方名宛当所にて御出し下されたく候。
 帰り次第、燕の子安貝のことを訳出し差し上ぐべく候。『考古学雑誌』に、貴下、地蔵は唐朝より支那で崇拝盛んなりしよう御記し有之《これあり》。しかるに、永徽二年、玄奘三蔵が奉詔訳せし『大乗大集地蔵十輪経』一〇巻の前に、『仏説(234)大方広十輪経』あり、これは八巻にて地蔵のことを書けり。訳師の名は分からねど、『一切経』の編輯者これを北涼時代のものとなし有之候。すなわち五胡中国を乱りしときのものに候。故に、地蔵の崇拝は唐朝より盛んなりしとするも、地蔵の名は決して唐朝に起こりしものに無之候。趙末の西天三蔵天息災奉詔訳せる『一切如来大秘密王経』にも、「また三摩地《さんまじ》あり、大平等智慧力および護世菩薩、いわゆる観自在菩薩、金剛手菩薩、慈氏菩薩、虚空蔵菩薩、普賢菩薩、文殊師利菩薩、除蓋障菩薩、地蔵菩薩を出生す」とあり、趙末の代の翻訳ながら、前日申し上げしごとく、この順序名目はネパル国の所伝に同じ。故に、何様竜猛菩薩前後よりインドにありしことと存じ申され候。なお、おいおい探究の上申し上ぐべく候。右述『大方広十輪経』巻三に、「その時、衆中に大梵天あり、名づけて天蔵という。久しく善根を植え、第十地に住む」。地蔵はこの天蔵菩薩に相対の名と存じ候。また唐の景雲元年五十九歳にて歿せし于?国の三蔵沙門実叉難陀の訳せる『地蔵菩薩本願経』巻下に、宝貝もて地蔵を供養すること多し。これは銭貨としてのことなるべきも、何となく子安の因縁となりしにあらざるか。また玩具を供することもあり(今も本邦にてすることなり)。仏、観世音に告ぐ、「もし未来世に善男子、善女人あり、あるいは治世により、あるいは公私により、あるいは生死により、あるいは急事によって、山林中に入り、河海を過渡《よぎ》つてすなわち大水に及び、あるいは険《けわ》しき道を経るとき、この人まず地蔵菩薩の名を万遍念ずれば、過ぐるところの土地鬼神衛護し、行住坐臥、永く安楽を得、乃至《ないし》虎狼|師子《しし》において一切の毒害に逢うも、これを損《そこな》う能わざるべし、と」。こんなことから、地蔵は道祖神と同じく道を守る菩薩となりしことと存じ申され候。
 また十王のことは未詳、ただしネパル国の瑜珈法の書(小生別に抄し置けり)に、?摩徳迦《ヤーマンテカ》等の十忿怒王に供養す、とあり。この?摩徳迦は諸忿怒王中の大立物で、「大惡相を現じ、色は黒雲のごとし。六つの面《かお》あって大醜相を作《な》す。面《かお》に三つの目あり、狗の牙《きば》を上に出だす。荘厳《しようごん》具足して水牛の座に乗り、手中におのおの大猛悪の器仗を執り」、文殊菩薩の心中より化出す。この側立《わきたち》に?魔王《ヤマデーヴア・ロカ》あり、「身《からだ》はみな黒色にして、二臂あり、大悪相を現じ、?摩徳迦の(235)ごとし」と『一切如来大秘密王経』にあり。思うに、親分の?摩徳迦の棒組がすべて十(忿怒王)あるにより、それに擬してまた?魔をも一王ならで十王とせしものと存じ申され候。
 椋は一名松楊、葉柿に似たり、とあり。その記載はムクよりはジシャノキに似おり候。ジシャノキは熊桶案ずるに持者の木ならん。持経者の杖に用いしことと存ぜられ候。カキノキダマシと申すほど柿の葉によく似おり候。(『和漢三才図会』に、旧伝を襲い椋をムクと訓じ、『本草』に柿葉に似たりとあるは訛れりとあるは牽強の間に合わせに、本説を疑うこと、あたかも『仮名手本忠臣蔵』ばかり見て、薬師寺公義は義理正しき武士たりしを疑うに同じ。)
 小生、今夜、真言曼?羅の諸尊の名を梵語と対照し、一々書き付くることにかかりおり候につき、右にてまずは擱筆と致し候。
 なお「猫で成り金」の話は如何《いかが》相成り候や。もし『新日本』、『太陽』、共に四の五のいわば、小生はすでに英国で出るのが面目至極なれば、別に日本で出ずともかまわず、考古学会または人類学会へ御出し下されたく候、早々以上。
                      南方熊楠拝
   柳田国男様
 
          53
 
 明治四十四年十一月十二日夜認十三日朝出
 拝啓。十一月八日付御手紙、昨朝着拝見仕り候。近野村の一件は県知事より、須藤と申し、県視学にてはなはだおとなしき人、小生と幼少よりの旧友を派し、小学校視察の途次二社の神林を視察せしめ、その人当地へ三日前に参り小生宅へひそかに来訪、二十五年めに対面いろいろ申し述べ置き候。あるいは一字仏頂王の法ききしかとも存ぜられ候。しかるに、野長瀬氏は只今帰村、復社運動にかかりおり候も、かの村は人悪しきことおびただしく、村会議員四(236)人屈強にして最初新設の社の費用のため『後鳥羽上皇御幸記』に見えたる旧社湯川王子社(熊野八庄司にて、『太平記』、下って天正ごろまで名高かりし湯川庄司はこの社家領より起こりしに候)外数社を滅却伐木し、千円ばかりに売り用いあり。故に、近露下宮および野中の神林をも伐木せざるべからず。もし伐木せずとならば、件《くだん》千円ばかりの金をその大字(湯川等)へ返付し、また神社をも復旧せざるべからずと言い張りおり候。つまり故蹟保存とか何とかそんなことに少しも意なく、ただただ新社設備という名の下に伐木して、多少私懐を肥やし、もしくはこれまで伐木運動に使いたる金の幾分を快復せんとの意に有之候。しかるに、本県前年、神社存置の標準基本財産六千円と定めたるも、のち中村啓次郎氏の演説また小生等の抗議出るに及び、
  神社には規定通りの基本財産なくとも維持の見込み確実なるものは存置を得
との訓令出で候。これは明日牟婁新報社を調ぶれば分かることなるも、当県の乱脈なる、すでに当郡役所などは基本財産五千円と修正されしが、何年何月何日のことという手扣えさえ存しおらず。そんな県庁の訓令は新聞紙へちょっと出るのみ、郡役所へは達しおるべきも村役場へ達せしか否分からず。たとい達したりとするも、村吏等得手勝手にあるいはこれを村民に示し、あるいは一切これを村民に示さず、握り潰すのみか、訓令を保存せぬ等のこと多く、さっぱりむちゃなり。とにかく「基本財産五千円なくとも維持の見込み確実ならば存置を得」という訓令を、小生明日さがし出し、右の村にある野長瀬氏へ送るべきも、なお一層明了を得んがため、貴下白井氏状には井上神社局長も保勝会評議員とのこと、よって白井氏へも本状同趣の状今夜出したのみおき申し候。井上神社局長御存知ならずば何とぞ木下友三郎君を煩わし、同君より井上神社局長へ今日もなお紀州の諸旧社は(近露は『源平盛衰記』、野中は『建仁元年後鳥羽上皇御幸記』に載せあり)五千円の基本財産を備うるを要することなりや、また単に従前ごとく維持し行き得ればそれで保留し得ることなりや、伺い下され候上、御返事下さらずや。急を要する場合、小生は木下君の住所を扣えおらず、何とぞ貴下より御依頼下されたきに候。従来いずれの抗議も有力なりしに、今回に限り、戸川、白(237)井二氏の力瘤を添えられたるさえあるに、仕負け候ては実に小生一連の力も落ち申す理窟ゆえ、何分宜しく頼み上ぐるに候。
 野長瀬氏は兄弟あり、そのむかしの六郎七郎(大塔宮を救い奉れる)ごとく、兄隼男はすこぶる英物なれど商業用にて只今大阪にあり、弟忠男は学者なれど純樸の人にて才幹兄に及ばず、村にありてずいぶん苦戦中に有之。小生みずから趣《おもむ》かんとするに、野長瀬氏帰村の翌朝、小生の妻、晨に下女を起こすに三十声出せしも起きず、よって怒って蹶起せしに、産後三十日未満のこととて帯下《こしけ》ごときもの下り始め、気絶するような心持すとて医師を招き診断を乞いしに、表面は左までにいわねどちょっとむつかしき様子、小生不在になりては妻と子二人、下女一人、自然下女が妻の気にさわるようなことありても不便なれば、小生暫時妻を看病せずばならず、和歌山の宅なら常に百人ばかりは使いおるゆえ、どんなこともなるが、当地は仮住居にて思うよう事行かぬに閉口致しおり候。紀州全体、田舎ほど随って人悪しくなり候には困却致しおり候。
 小生は「二書」発行後少々は閑あるべくと楽しみおりしに、この近野村一条のため何ごとも成らず、例年通り菌の採集も今年は少しもできず、日夜懊悩致しおり候。毛利氏は熱病にて今に臥蓐、二十日に県会開くるゆえ上るはずなるに、果たして間に合うやそれも分からず、小生は時々やけ酒をあおり、なすこともなく罷りあり候。したがって、エコロジー等の論も委《くわ》しきことは当分でき申さず、ただついでゆえ左に差し当たりたる御回答のみ申し上げ候。
 「猫成金の話」、御出し下され候由ありがたく厚礼申し上げ候。小生は「燕石考」を訳出し、考古学会へ出したく存じおり候えども、近野事件のため、やりかけては止めやりかけては止め、今に埒明き申さず候。年久しき以前に認め候ものゆえ、漢文の英訳を本文に引き直すはなかなか記臆も乏しく相成り、ちょっとは事行かず候。また陰毛一件は、仏文、英文、ラテン文ごちゃまぜにて図も入ることなり、到底昨今と申すわけには参るまじく候。『桂川地蔵記』は『史籍集覧』に有之候。地蔵詣での群集の景況を記したるものにて、あまり地蔵尊のことはなかりしことと存じ申さ(238)れ候。傀儡のことは、小生おびただしく材料蓄え有之、仏国に中古これに似たるものあり、rois de ribauds 淫郡王(宿長《しゆくのおさ》ごときもの)も有之、軍陣に随い、倡女のこと日本とはなはだ似たこと多く候。訳出して差し上げたきも長々しきことはなはだしく、なかなかちょっと訳のできぬことも有之、いずれ近野一件すまば少々なりとも御参考のため差し上ぐべく候。口髭君のことは小生も存知おり候。本朝の女に口髭あるもの、このほかにも例は有之候。そのうち申し上ぐべく候。欧州には看病婦、女学生また娼婦に間々有之侯。virago と申し、女々相姪を常習とする者も多く候由、小生も見しことあり。(女子の卵巣をぬくときは、かかるもの生ずること、あたかも男子を宮すれば一生鬚髭生ぜず、声かわらぬと同じ。)(雌鷄の卵巣抜き去るときは、雄鷄ごとく鷄冠大きくなり、距《けづめ》はえ、大になり、闘いを好む。)
 ジシャの木のこと貴説のごとくば、侍者か、または持呪者の義なるべく候。男子を女装せしめて神に仕え呪事を司《つかさど》り、また託宣を述べしむること、外国にも例多く、支那にも『丹鉛総録』に漢時代すでにありし由記しあり。五年前出板の Fraze,‘Adonis,Attis,Osiris’(Attis は母にほれられしを免れんとてみずから宮せり、それよりこの風起こるという)という大著述に多く例あり。小生所持するが、今この室にはなし。児捨とはあて字ながら児上《ちごあが》りという意味と存ぜられ候。(男色に用いらるる?童、愛弛んでのち捨てらるる状すこぶるつまらぬことは弥子瑕《びしか》等例多く、葦名盛高を弑せし寵童の古物大場三左衛門のことなどよき例なり。西鶴の『大鑑』に、高野法師の古寵童、田舎で米つくところを法師に見られ、羞じて逃ぐるところなど、その光景をよく写し出せり。)チサノキはジシャノ木とかわり、チサノ木科に属し、エゴノキとも申し、熊野ではチョウメンノキと申し、その皮を煮た汁を川に流し、うなぎ等魚類を酔わせ捕るなり。斉?果に宛つれども、斉?はヘブリウの sait, アラビア語の zaitun,『酉陽雑俎』にこの樹を記せるが、全く今のオリーブ樹のことに候。ジシャノキは柴草科に隷し、別物に候。アリノキのこと小生知らず。しかし、熊野でヤマアリノキという大木多し、これは山《やま》ハンノキに候。思うに、アリノキは赤楊《はんのき》のことと存じ申され候。
 小生も貴下と同じく、今年は多事多忙のため、外国で出したる文は、「猫成金の話」のほかに、京伝、西鶴等の小(239)説に見え候、医者を眼かくしせしめて賊寨につれゆき賊主の大疵を治療し、さてその宅へ帰すに裁判官その医者を糾問して山寨に仏法僧が鳴きしという一事より推し、古歌を誦出してその山寨の所在を推し中《あ》て賊を捕えしという話、欧州にもペルシアにも似たものあり、その話の系統を論ぜしもの一つのみ。その他は片々たる十|乃至《ないし》二十、三十行の小文で、ほかに何も出し得ざりしは遺憾に候。出したきことはすこぶる多きに、近野村の一条のために今に延引致しおり候。まずは右御返事まで、早々以上。
  一字仏頂輪王の法は前方へどれほどきいたか、小生はこれがため非常にくたびれを感じ、身体疲労はなはだしく二、三日何ごともできず、ようやく今日より快復致し候。まことに人をのろわば穴二つなり。
  小生、孫逸仙と約束あり、かの人の事成らば広州の羅浮山を天下の植物園とすることにかかることに候。何とか早くかの人位置少々でも堅まり次第、瑣末なる紛擾を放棄してかの国へ渡りたく存じおり候。
  『宇治拾遺』に、某高僧、呪師小院とかいう美童を愛せしことあり。この呪師は、たしか(ノロンジと訓ずるが)ジュシショウインと訓じたる本あり。真言法行なうとき素女童男を用ゆる、その童男が男色にも用いられしことと存じ候。呪者(ジュシャ)また持呪者より持者となりしにあらざるか。呪者がいろいろの木を護摩にたくは御存知の通りなり。ジシャの木を護摩にたきしことと存ぜられ候。
                          南方熊楠拝
   柳田国男様 御机下
 
          54
 
 明治四十四年十一月十六日夜
 拝啓。小生赤子連日病気の上、小生も脚気ごとき病気になり気絶するような気持のこと有之、命に替えられぬから(240)神林等のことに関することを当分止め申し候。しかし、野長瀬氏は只今も近野村で苦戦、村民の多くはこれに加わり申し候も、何様村吏等の勢い強く、この上|如何《いかが》なり行き候やらん。ただし、毛利氏は病気ほとんど快愈、明後日当国神職総取締り紀俊と会見、また二十日には和歌山へ行き、県知事および県会へ持ち出すつもりの由に候。東京の保勝会よりの声援だに今少しく強く候わば事成り申すべきに、返す返すも惜しきことにて、当国民が保勝会も徳川侯も惧れ虞るるに足らずという観念を抱くに至りては、到底小生らの微力の耐うるところにあらずと存じ申され候。毛利等はなお小生に奮闘をすすめられ候えども、小生は右述ごとく妻子もまた小生も病気になり候上、関係すること能わず中止致し候。白井先生等へ御言いわけのため、二十六年ぶりに昨夜頭を丸め全く剃り落とし、芸当はとても師友の土宜法竜に及ばぬから南方|法蚓《ほういん》と号し、素性法師でないが法師の子は法師なるぞよきとて、悴五歳になるものも剃頭させ法蠏《ほうかい》と法号せしめ、閉門して一切世事を謝し、新聞紙を見ず、塵外の思いをなしおり申し候。
  御隣の三重県にはすでに神林保存会というもの数日前出来申し候。しかるに、当県今度の川村知事は前の河上氏よりも一切神社のことに無頓着で、神林の伐らるるもの日に相つぎ、巡査を派して神殿を破らするとか村吏などの往着《おうちやく》きわまるも制止せず。この上小生かかることにかかり合いし候ては、また入牢するか、あるいは人の二、三人斬り殺すような珍事なしとも限られず、よって命が惜しいから中止仕り候。なお委細は白井氏より御聞き下されたく候。
 前日『太陽』へ投ぜし拙文、『西域記』、瞿薩旦那《クスタナ》国の金鼠王、鼠を使い敵軍の兵具をかみ全敗せしめたることを引ける次に、『松屋筆記』巻八一に、この故事に並べて、『吾妻鏡』巻一、治承四年八月二十五日の条を引けり。その大意は、平家方俣野景久、駿河国|目代《もくだい》橘遠茂と兵を合わせ、甲斐源氏を襲わんと、昨夜、富士の北麓に宿せしところ、景久並びに郎徒が帯せる百余張の弓弦、鼠に喰い切られ、思慮を失う。安田、工藤ら、これを討ちしに、弓弦絶たれて防戦する能わず、景久打ち負けて逐電す、となり。
(241) 右一条、相成るべくは御書き加え下されたく候。
 先状申し上げし(呪者の条に)支那にも男子女装して巫たりしことは、楊慎の『丹鉛総録』巻二六に、「『呂覧』に、楚の衰うるや巫音《ふおん》を作為す、注に女は巫という、と。『楚辞』九歌に巫もって神に事《つか》うるとするは、それ女妓の始めなるか。漢には総章といい、黄門の倡という。しかるに、斉人魯に帰って孔子行き、秦の穆《ぼく》〔公〕、戎《じゆう》を遺《わす》れて由余《ゆうよ》去る。また楚に始まらざるなり。漢の郊祀志に、郊畤《こうじ》の宗廟を祭るに偽飾の女妓を用うとあるは、今の装旦《おやま》なり。その神を褻《けが》すことはなはだし」。
 『類聚名物考』付録巻七、影向の椋、嵯峨の上京の七の社の御前の古木なり、と。
 石、盛長すること、伴信友の『方術源論』(国書刊行会全集、第五冊一四六頁)、享保七年に著たる『佐倉風土記』に、印旛郡太田村なる熊野石、「百五十年前、村民、紀伊国の熊野社に詣づ。帰らんとして、青石、鞋《わらじ》に著く。大いさ桃の核《さね》ばかりにして、従って棄つれば従って著く。これを怪しみ、取って便袋に盛る。日々その長じ、かつ重くなるを覚ゆ。家に還るに逮《およ》んで、すなわち袋に容《い》るるべからず。ついにこれを神とし祀《まつ》りて熊野権現となし、奉承することはなはだ欽《つつ》しめり。しかして、その長ずることまた已《や》まず。初め屋後に祠《まつ》り、後に諸《これ》を外に移す。その民すでに四世にして、石は今三尺九分、周囲一尺四寸にして、状《かたち》は収めし傘のごとし。いわく、一歳にして長ずるところ、必ず米の大いさばかりなり、と。これを四十年前に校《くら》ぶれば、すでに長ずること六、七寸なり」。
                        南方拝
   柳田国男様
 
          55
 
 拝啓。もう間に合わぬか知らぬが、『尤の草紙』二八段、とらるる物の品々に、「童部の川遊びは亀にとちる」とあ(242)る。これは慶長、寛永ごろ童部がカッパに取らるるというて亀にとラると言いし証なり。『日本紀』、武埴安彦敗死の条の歌にカワラとあるは、白石説に甲《よろい》(カワラ)の義の由、あるいは河童「カワラ」は亀甲《かわら》に通ずるかとも存じ申され候。また同書、良きものの品々に、「七難のそそ毛」見えおり申し候。また前日申し上げし欧州の的《まと》鏡に用うるを※[□が三重になっている図]様にせしは※[冂の中に三重の○がある図]様のあやまりに候。的そのものの方なるにあらず、的の台が方なるに候。これはアヅチとか何とかいい、わが邦にもあるなり。ついでに申す。『新編御伽草子』中の『貴船の本地』 に、鬼が乱をなすを禦ぐ法とて、毘沙門鞍馬別当に告げ、わが朝に五節供ということを始めて鬼をたばかるべし、正月七日に若菜をつみて七草とて叩き、三宝に奉るべし、フシ矢の的を射ること、鬼の眼を射るということこれなり。例の蚩尤《しゆう》の伝より出でしか。
 明治四十四年十一月十七日
                                                       南方熊楠
   柳田国男殿
 
          56
 
 拝呈。明日の『牟婁新報』只今差し上げ候。その第二頁、野長瀬忠男氏の「神林の運命に就て(下)」という第二段に、河童のことあり、ちょっと面白し、御参考までに申し上げ置き候。ついでに申す。河童が馬を悩ますということ、熊野にもっぱらいう。和歌山市およびその近傍にはもっぱら人を殺すことをいいて、馬のことは一切伝説なく候なり。
 明治四十四年十一月二十日夜九時
                       南方熊楠
   柳田国男君
 
(243)          57
 
 明治四十四年十一月二十八日午前二時認め始むる。
   柳田国男様
                       南方熊楠拝
 貴状数通、逐次拝見。
 槐《えんじゆ》のこと、あまり本邦の書に見えず。(『和名抄』にエニスと訓せり。後世、燕窩菜輸入されて(インド島の海辺の洞にすむ燕の?なり、トコロテンごとき質のもの)、エンスと重箱訓みにせしに比して、なにか円樹《エンス》というような支那語訛来の詞にあらざるか。)山本北山の『孝経楼漫筆』(「続帝国文庫」正一〇編六六一頁に出づ)、「『子母秘録』に、槐枝、東方にさしたるをとり、産婦の手に握らしむれば産しやすし。『日華子』に、槐実、五、七粒を呑まば産下す、催生《はやめ》の良薬なり。『愚管抄』に、神功皇后、三韓より御帰朝ありて、筑前国糟谷郡蚊田という所にて皇子誕生まします時に、槐の枝に手をかけたまい衡平産まします、と、云々」とあり。『愚管抄』は、鎌倉将軍の初めごろにできしものと存じ候。(小生その本を見しことあれど、槐のことは記臆せず。)これより前に槐のこと、わが邦の書にありや、小生は知らず。
 御下問の酢荅《さとう》のことは小生長々しく扣《ひか》えたるものあり。多くはラテン文にて、狗宝、牛黄、豪猪石、猴棗、人魚の玉、鸛、?《アジユタント》(インドにある鳥にて、今は和州で?子というなり)、その他|?蛄《ざりがに》の石までのこと、ごたごた混雑しおり、ちょっと見分けがたきにより、さしあたり一、二書より左に申し上げ候。
 酢荅は、蒙古語ヤダッの転と覚え候。英語は bezoar《ベゾアル》(pietra《ビエトラ》 bezoar《ベゾアール》より来るか)、ヘイサラ、バサラのバサラなり。これを金剛《ヴアサラ》vadjra の転と解する説(『茅窓浸録』にありと覚ゆ)あれど、BとVと音異なり。日本へ輸入せしものは(244)小アジアまたパルシアの野生山羊(学名 Capra hircus aegagrus )の腹に生ぜしものを主とするがごとし。ただし、東洋酢荅苔という(oriental bezoar)。西方鮓荅は、ペルーの駝羊《ラマ》に生ずるものなり。没食子酸を含む。解毒の功ありとてもてはやされしなり。欧米の今の薬局方には用いず。小生十五、六歳までいろいろと酢荅を聚めあり。日本には羊なかりしゆえ、日本産のは多くは馬、またまれに羚羊《にく》等より出でしものに候。(木内重暁の『雲根志』に多く挙げたり。)小生、在外中名札を混じ、また失いおわられたるため、標品は今も和歌山に蔵するが、果たして馬のはどれ、鹿のはどれということ分からず、困ったものなり。どれもこれも成分同じければ(もしくはほとんど同じければ)、到底所出を明らむるのことならぬなり。
 一八二一年フロレンス出板 Targioni《タルジオニ》-Tozetti《トツゼツチ》の『薬剤書《マテリア・メジカ》』に、この山羊の酢荅を記す。いわく、表面清明に黝色なく、手にて摩し、熱するとき麝香様の香あり。毒を解し、また伝染病をふせぐ。黒死病《ペスト》にすら効あり。患者をして盛んに発汗せしむ。価貴し。西方酢荅はインド酢荅ほどの薬力なし、と。
 『マルコ・ポロの記行』六一章にいわく、毎年三ヵ月間、大汗(忽必烈、元の世祖なり)Chandu(上都)に住む。そのあいだ雲また雨風が帝宮を蓋うを避くるため、術士を召して法を行なわしむ。術士を Tepet《テペツト》また Kesimur《ケシムール》と名づく、実は術士が出でし二国の名なり(チベットとカシュミール)。梳《くしけず》らず、浴せず、弊衣を着る。
 Yule 氏註にいわく、蒙古人が天気を呪するに yadat《ヤダツ》(鮓荅)また名 yadat-tash を用いたり、水盛れる盆に浸し、もしくは上に懸くるにいろいろの式あり。アラビア人にて旅行せしイブン・モハラールが見しは、突厥《タールキ》の大族たるキムク Kimuk 族、かかる石を有せり、と。成吉思汗《ジンギスカン》とアウング汗となお同盟中、一二〇二年ナイマン等の諸族同盟してこれを伐ちしとき、アウング汗の子セングン往きてこれを禦ぎ、魔術もて雪霧を起こし、これを破れり。このことミルコンド記せしは、ナイマン族の王ブイルク汗、鮓荅師 yadachi《ヤダチ》をもって幻術を始めしも、反ってその害を受け敗軍せり、とあり。ランズツジンの記に、一二三一−二年、ツールイ Tului 河南を攻めしとき、鮓荅をもって天気を転じ(245)勝軍せり、と。帖木児《チムール》の記に、Jets《ジエツツ》族を攻めしとき、彼輩大雨を起こし、ために騎兵進まず。よって敵の yadachi《ヤダチ》を捕え、これを刎せしに雨やめり、と。
 この文によれば、祈雨師とでも訳し申すべきか。雨を降らす術を yadah(鮓荅)といい、これを行なう石ゆえ、その名をとり石をも鮓荅といいしか。
 一五五二年、ロシア人カザンを囲みしとき、大雨降り止まず、露軍大いに困《くる》しむ。韃靼方の女王の術により降れり、と信ぜり。ペルシアのシャー・アバス、韃靼の雨を行なう法を学び、固くこれを信ぜり。一七二四−五年、清帝、八旗兵に訓令せるに、朕一心に雨を祈るもなお雨《ふ》らぬことあり、いわんや愚民ら、道士、和尚等をして術をもって天意を変ぜしめんとするも得んや、とあり。
 今日ヒンズスタン語一汎に、幻師を jadu《ジヤズ》また jadugiri《ジヤズギリ》という。ここに雨を祈る泉の例、欧州のもの二、三挙げたり。石のことはなし。太平洋のサモア島人も両石を用いて雨をふらせり。
 大槻磐水の『六物新志』にも、たしか鮓荅のことありしと存じ候。
 先日御尋ねのタイトウ米〔五字傍点〕のことは『成形図説《せいけいずせつ》』には見えず候や。小生この書の不全本を見しことあるも、久しき前のことゆえ、今ろくに覚えず候。
 狼を山神とすることは多少傍証あり。「鬼瓦」という狂言は小生の蔵する『狂言記』にも『続狂言記』にも見えず。小生そのうち少々落ちつかは土宜法竜師に状出し、因幡堂の鬼瓦のことを問い合わせ、師に分からずとも誰かそれらに関係ある人にしらべさせもらわんと存じおり候。
 女の眼にすずを張れということ、小生は一向聞き及ばず、鈴か錫かそれも分からず候。
 『太陽』の文に、『東鑑』の文、永々と挿入すること成らずば、いかようとも短く(たとえば、
  『吾妻鏡』、治承−年−月−日、平家方の弓弦、鼠に咬断されて敗軍の条、見合わすべし、(246)というほどに)挿註下されたく候。猫のこと書きしゆえ、拙宅|牀《ゆか》下へ猫来たり棲み、一昨夜より台所へ出で食物を盗むこと断えず、はなはだ困却す。(ここまでかき臥につき、翌日すなわち二十八日午後二時より書きつづく。)
 今日只今受け取りし大阪宮武外骨氏出板『此花』第一八枝(十一月十五日出板)、寛文元年刊本『吉原かがみ』より下図のごとき遊女の画を転載せり。小生ちょっと模写は下手だが、何に致せ大きな眼なり。寛文ごろは女の眼大なるを尚びしとのこと、そのころの日本の美女の風をタヴェールニエール(仏人にてペルシア、インドに旅行せし人、日本のことは聞き書きなり)が記せし文などを見るに、美人の標準今と全く異《かわ》り、浮世絵師のうち、栄之、湖竜斎などは、ことに細眼を尚びしようなり。これは九代将軍以降軟弱の凧ことに盛んなりしよりのことかとも思われ候。婦女が美童の装いし、また奴風《やつこふう》を倣いしときなどは眼の細きを尚びしにあらじ。(ただし、後日、美童を女装する世となりては、むろん男子も眼の細きを尚ぶこととなりしなるべし。もっとも初代豊国などの画にも、眼の大なる美女多し、一概に言われぬことか。)
 柳の根鬚。中流の両側に水楊《かわやなぎ》生え流中一面に根鬚はえることあり。流水のために根鬚動き、それより楊も動く、風なきに楊動くかと見え、魔所なりなど申す。かかること那智山の奥に多し。かかる根鬚を、たしか川席《かわむしろ》と申し、『万葉集』に出でたりと存じ候。蒲団の代りになりそうなり。
 オボのこと、その後いろいろ取り調べしも詳しき記なし。ただし、露の大旅行家プルジェヴァルスキーの蒙古紀行に、オボの周囲にて蒙古人時々踊りを催すことあり、と。ロシアは政治はつまらぬ国のようなれど、凰俗学の調査ははなはだ進みおり、先年(明治二十六年ごろ)、故露人オステン・サケン男(チカゴの露国総領事たりしことあり、
(247)両翅虫(蠅、?等)の大専門家なり。この老人(六十四歳のとき、小生と文通始む)小生を非常に崇重され、ロンドンの馬部屋の二階に小生一日一食しておる処へ馬車にて尋ねられ、小生近処より茶器かり来たり茶を出せしに、小生の生活あまりきたないから茶を呑めば頭痛すとて呑まずに去られし珍談あり)とブゴニア伝話(Bugonia 牛、獅子等を殺し腐らせば蜜蜂生ずるという話なり)の書を著わせしことあり。その時オステン・サケン男が引用せし、なんとかいう風俗古語俚談大類典ありし。小生その名を扣えたもの和歌山にあり、この地になし、それを見たらオボのこと詳しくあるべしと存じ候。ただし、その大類典はなかなか高価のものなれども、何とか篤学の金持にすすめ、一本本邦へ買い入れさせたきことなり。
 髭の君のこと。F.Lamairesse の『色神経《カマ・ストラ》』(一八九一年パリ板、インドの色事の事法一切を述ぶ、驚き入った御経なり)訳の注一一七頁に、「女の半男女は吉舌《ひなさき》長く、子宮、卵巣等はなはだ小さく発生す。腰細く恥骨平らに、毛多く、上唇に鬚あり。声太く、男子を好まず。多くは男子然と女を愛す」。博士マーチノーが経験には、トリバデ(女を婬する女)の陰部、別にかわりしことなし。ただし、大陰唇の発達非常なり。ルーボーの説には、卵巣ほとんど全くなく、特に騎馬を好む、と。マーチアルの嘲詩に、かかる女きわめて武勇、かつ大食強飲、好んで女子の陰を嘗むることをいえり、云々。
 小生鬚ある女のことおびただしくしらべあれども、「神足考」の五、六倍の長さ、かつラテン詩文多く、ちょっと訳出すること成らず。当町にも美女にして三十七、八(?)、鬚あるものあり。別に女を婬することも愛することも聞かず。夫を持てり。数年になるが、子を孕みし沙汰なし。小生、従来本邦に見し女に鬚あるもの、みな子なし。女を婬する等のことは絶えて聞かず。男子の半男女にして子あるものも多ければ、一概に言えぬことと見えたり。『取替ばや物語』などには、かかることを天狗の所業とせり。ただし、わが邦にも女子の半男女ありし証なり(ただし、鬚のことはいわず)。アラビアの一地方、またウガンダ国など、女子の兵隊あり、みな女子相婬を行なうと聞けど、その(248)女どもに鬚多きことを聞かず。鬚ある女子は必ず女子相婬を行なうなどいうは、鶏姦されしものみな心身の発達|悪《あ》しLといい、宦者の心身の発達は不充分なりというと等しき、一偏の僻見と存じ候。
  英国の詩人シモンズ、『希獵《ギリシア》道徳の一疑問』また『方今道義の一疑問』と題する二書を著わし、私刊にて番号を自筆せり。小生二書共に有す。この人は、自身は名高き女を婚せる名高き談《はなし》さえあるなるに、男色必ずしも悪事にあらざるかの論を私刊して識者に問いしなり。(すでに死せり。)それを見るに、法皇、将相等に男色の童より成り上がりし英俊多し。わが邦にも、堀直寄、松倉重政、石田三成、井伊直政、直江兼続、長谷川秀一、その他人物?童より出でしもの多し。また宦者にもローマ史など見るに豪傑多し。僧にはなお多し。
  小生知る老婆に、ホクロより鬚一 二根長く生ぜる人少なからず。これらは色上のことに何の関係なしと存ぜられ候。
 ドイツのコボルズ、ウェールスのエルヴス、英国のロビン・グドフェロースなどという小鬼、乳糜《ちちかゆ》等をもらい、礼に木を伐り穀を磨ぎなど手伝う由。古えリパリ島にてかかるもの来たり、旧き鉄細工をなおす手伝いせり。トロサヌスの説に、往日かかるもの仏国に多かりし由。氷州《アイスランド》にも、むかし家ごとにかかる鬼あり。ノルウェーにも、トロールとて水を汲み肉を割《さ》きなどせり。これらいずれも待遇よからぬときはいろいろの変化をなし人を悩ます(十七世紀の人 Burton,‘Anatomy of Melancholy,’part 1, sect.ii)。思うに、これらはわが邦の山童《やまわろ》が、塩をもらい人を助け木をひきなどせしというように、一種の山人古え諸国にすみ、時々村落に来たり村人を助けし風ありし、その山人らが死に絶えし後もいろいろと記臆にのこり、虚談半分に伝わりしにて、『遠野物語』に見えたるワラシュ(わらわの意なる由、橘春暉いえり(『東遊記』))などもこんなことかと存ぜられ候。山人、栄養不足にして被髪し身体矮少なりしより、童子と見られたるかと推され申し候。
 近野村の神林は今に伐られず。委細はたぷん野長瀬氏より白井博士へ申し入るべく候。貴下は、小生が政治家連を(249)味方にせしを非難さるれども、今日、日本世間のことみな政治家の左右するところにて、われら純粋に学問上の議論など出したところが一人も付和してくれず、多少政治家の一味ありしゆえ紀州の神社、神林はいささかも残存しおるなり。純粋の学論が世に通るものなら、小生かくまで永々財と時間を費やし心身を疲らすに及ばぬことなり。貴説のごとく当県の人はまことに人惡しし。毛利氏は只今和歌山にあり、県会へ出でおらるるが、その県会は議員十七名と十三名の二派に分かれ(毛利氏一人のみ孤立、いずれへも付かず)、おのおの人数の揃うをまち勝ちを制せんとかまえ、日々流会し、県政の要路に当たる議員等、開会当日より今に議事にかからず散会のみ致しつづけおり候。そこへまた県庁吏員が予算案の秘密を一方の派に洩泄せしとかにて、左様の卑晒なることに嗷々喧争中に有之候。県会すらかくのごとくなれば、県の施政などいうこと、なかなか中央の東京などにて想うと大ちがいに御座候。これに倣《なら》うて郡会、村会などというもの皆々かくのごとし。つまり郡民の所願と少数政治家の志嚮と隔絶しおり候。
 貴下また真正面よりの攻撃よりは内密に相談をかけよといわる。最初小生も左様せしなれども、いつも握り潰しゆえ真正面の攻撃となり、終《つい》に当郡長などは和解を申し出で、毛利等は和解したるも小生のみはせざるなり。しかし、真正面の攻撃もその功ありて、川上前知事ごときは辞職前にはずいぶん小生の議を容れ、例の那智山ごときみずから老?をもって視察に出かけ、また神島のごときも律義に視察員を使わし保安林とされしなり。しかるに、今の知事はあまり雅量のなき人で、就任早々人の説にばかり随うておりては自身の貫目《かんめ》が下がるというようなことを毛利氏に洩らせし由。ようやく七、八日前、毛利氏当地を去る前に、同氏より聞けり。学術上のことを自分の貫目云々によってかれこれせんとするは、まことにへんな所存と小生は存じ申し候。
 小生とても外人の助力を仮《か》ることは最初から面白からず。すでに二年前に米国政府部内の人で助力を申し出でし人ありしも、小生は何となくそのままに過ごせしなり。また糸田の猴神社ごとき、そこにある珍物の専門家(英人)がその社趾を保存するに必用なる金(百五十円ばかり)出さんと言いしも、小生は面白からず、別に返事もせずに捨て置(250)き全伐されしなり。しかし、外人がわが国の勝地を保留せしは、例なきことにあらず。保勝会にて阪谷芳郎男の演説に、駿州清水港辺かどこかの古き名高き土堤をつぶさるるを、英とか米とか公使の口を仮りて止めたることある由。また神社を再興せんとか復活せんとかいうことと事かわり、神社址の樹林や珍植物の保存のことを外人が言いたりとて、左ほど酷きことと思わず。小生は欧州の知人に出さんと、陳情文はほぼ成りあり。ただしわが邦には、星を刺した伊庭が神妙にその筋の人の手に捕われ刃物を渡したところを、椅子を持ち来たり頭を血に塗《まみ》るるまでどやしたような卑劣な偽義勇の人多し。もしいよいよ止むを得ずして欧州の知人に陳情を出すなら、妻子の処分をした上のことと、いささか?躇《ちゆうちよ》罷りあるなり。(合祀反対のため、この二、三年妻子非常に困りしこと再三にして止まらず。)
  小生知人に片岡鶴雄なる人あり。備前犬島(犬神を退治するに名高き神にて、四国より犬神に犯されたもの参詣絶えず)の神官なり。その父は神官に似合わぬ剣客にて、大井、小林等の朝鮮征伐に一味し、警察官を気絶するほどどやし、その罪にて多年獄に繋がる。大井等の朝鮮征伐は、国難を構えたというものの朝敵逆賊にはあらず。しかるに、国賊の子なりとて近隣の人々、鶴雄氏そのとき五、六歳なりしに外出するごとに石を抛《なげう》つことおびただしく、それがためこの人気質怯弱になり一生身心強固ならず。坪内雄蔵氏方へ独り押しかけ、わずかにその食客となるを得、いろいろ苦労して中学校教師試験に及第し、この田辺に去年までありし。福島正則、邸を開きし時、女子の手を捉え鳥居忠政に托せしことなども思い合わされ、小生も子女のためにちょっと心配も致すなり。いかなるゆえにか、欧州などにはかかるとき頼りになる人多し、わが邦にはなし。これらは風義上悦ぶべきことか悦ぶべからざることかちょっと分からぬ。
 白井博士はまことに一徹な人と存ぜられ候。小生に対し、文通を謝絶せられたり。むかし古田重然(織部正)わずか一万石の小大名で、太閤の恩を思い、他の諸侯が秀頼を見殺すを憤り、奇計をもって二条城を焼き打ちせんと企てしが、その婿なる人復讐で殺されしより事起こりせっかくの事露われ、板倉に捕えられ、大坂落城と共に切腹を命ぜ(251)られたり。その時言い訳《わけ》せば切腹せずに事すむべかりしに、言い訳せずに切腹せりという。何のことか小生は委細を知らねど、池田光政少将、常にこれをほめられしと承る。小生また白井博士に対し、御言い訳は仕らず。ただし、今後誓って同氏に累を及ぼすようなことは致さぬなり。一書を呈したきもすでに文通を謝絶せられし上は、これを呈するも追従らしきゆえ、わざと差し扣《ひか》え置き候。野長瀬は今に近野村にあり、これまた妻(和歌山でずいぶん大きかりし士族の女《むすめ》、なかなかかかる田舎へ来るべき人にあらざりしも、時節にて野長瀬に嫁し、良《やや》久しく大阪にありしも、病気にて田辺に療養中、伐木のこと起こり、野長瀬帰村に伴い寒村にあるなり)病気、女子も病のところへ、村民ら野長瀬に同意なれども、村吏らに伐木一件よりにくまれ、ずいぶん弱りおり、郵便配達夫(村長の甥)にすら心をおき、洋文で通信するほどのことなり。小生何とか救援したきも、小生家内また病気で独絃鼓しがたく何とも詮方なし。和歌山には小生の味方多く、毛利も県会へ出でおれども、例の政治騒擾で何が何か分からず。
 さて『日本及日本人』に白井氏の論文出てより、日高郡切目川筋の神林なお切られずにあるものなどを保全せんとて、村民一同、小学校長などを代理とし、いろいろ申し来ること多く、小生も長々の辛苦、費用も多く、家内は病み、ずいぶん途方に暮れ申すなり。要は保勝会より何かよき影響のあるべきと、今一つは中村代議士が台湾より東上するをまちおるのほかなし。しかれども、白井氏すでに文通を絶せられたれば、この上保勝会に頼むことも成らず、まことに貴説のごとく日本の神社合祀は早晩止むべく、その代りに紀州の合祀濫伐は到底この上ますます行なわるること、あたかも水戸の内訌で両派とも全滅し、さて水戸が率先せしうまい汁を薩、土、肥、長が吸いしごとくならん。白川楽翁は一生宿なしの相ありしとか。小生も早く父母を辞して海外に留学した罰で、一生みずから生まれた国に尻のすわらぬ相ありと見えたり。よってそろそろ片づけにかかり、また海外へ傭われにでも行かんと欲す。
 「燕石考」は漢文を復原することなかなかむつかしく延々せしところ、今夕その漢文の扣えを見出だせり。これは原文十余年後の今にちゃんとそろいあるを散佚せんも惜しければ数日中に訳出し、挿図共に差し上ぐべく候あいだ、何(252)とぞ多人が読まずとも宜しく、考古学会の方へ御出し下されたく候。右樣のことにて、小生近来はなはだ沈みおり、自然これまでのように考証の学などに気を配り得ざることと相成るもはかられず候。
  右状、小生脚気様に足重く、座しおること成らず、ために書きてはやめ書きてはやめ、三十日夜十一時書きおわり、ようやく出しに往き申し候。
  小生年来、十津川および熊野にて集めし粘菌というもの、白井氏を経て農科大学へ寄付するつもりで品はすでに択みあり。当地には恰好の紙箱なく、かれこれするうち、妻の従弟大阪より来たる、この人紙箱を作ることを知る。そのうち紙箱作りもらい粘菌を装置し、貴下へ贈るゆえ何とぞ白井氏に御手渡し下されたく候。小生手狭にて到底この上長くかかるものを蔵すること能わず、棄ておわらんも惜しければ、農科大学へ寄付したきなり。
 前日御廻し下され候「神社合併に関する件」ほか一条三葉は、同封御返し申し上げ候。これは白井氏方へ留め置きたき由書信されたるゆえ、何とぞ貴下より御廻送願い上げ奉り候。
 また小生法蠏に頭剃らせ、おのれも剃りしは、おどけにあらず。ハミルカーが幼少のハンニバルに壇を築きて必ずローマ人と共に天を戴かぬ旨誓言せしめしに志は同じ。
 
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 明治四十四年十二月一日午前三時
   柳田国男様
                      南方熊楠拝
 拝啓。先刻小生一書を郵便本局へ持ち行き投函し帰りしに、県下の新聞紙、拙宅の郵便函に入り有之《これあり》、いろいろと取りひろげ見るに、那智山の水力電気会社、昨三十日那智向山(官林にて那智滝付近唯一の密林なる処)開会式を行(253)ないし由記しあり。「二書」に見え候クラガリ谷、陰陽滝もおいおいつぶさるることと存ぜられ候。また海草郡西脇松原、松江村、木本村の八十松原(いずれも加太淡島神社参詣道の古き松原、風致林なり)も保安林解除、その他東牟婁・有田郡で名高き神林も、保安林を解除されたるもの若干あり。
 小生は先日来申し上げぬが、前日毛利氏が知事に面せしとき、知事いうには、県下のことを東京の人々に告げ頼み、その勢力にてかれこれ威圧せんとするは不都合なり、というようの語ありし由。小生これを聞けば、昨年ごとくまた和歌山に上り知事に面会を求むる等のことあるを慮り、毛利氏は久しく小生に隠しおりたるなり。とにかく狭量なる人で、妙なところに意地強き人と見え申し候。小生も果てしもなくかかることに苦労するもつまらず、よっていよいよ県下の新聞を見ぬこととし、参禅でも致し、荷物を片つけ、妻子をあずけ、どこぞへ自分は去ることにかかり申すべく候。今かく思えば、「二書」の刊行配布|已來《いらい》は、他府県(たとえば隣県三重県のごとき、すでに神林保存会まで成り立ちしに)に引きかえ、当県ではいよいよ樹林の運命を早めたることと存ぜられ候。
 小生の荷物はなかなかちょっと方つかぬが、どうせ方付けねばならぬものに有之《これあり》、順序を追って方付くるが、ついでだから何か御下問のことあらばこの荷物一度方付いたらちょっとは出しにくく、また親属、近親といえども手の付かぬほどこみ入ったもの多くあるゆえ、当地にあるうちに幾十条でも幾百項でも御下問のこと書き付け御送り置き下されたく候。しかるときは、白石が『停雲集』を編んだ心持で、なるべく多く下らぬことまで書き付け、後に遣る心持で差し上げ置くべく候。悴はわずかに五歳、兄弟いずれも俗人にて、扣え書きの中には熱帯国でもちありき、白蟻等の害にかかり、今とても紙葉散佚しかかり候もの多く、到底小生二度見出だすまで保たぬものも多く候。また小生無双の悪筆にて人に進じたところがなかなか読めず、いわんや諸国雑多の語字雑糅したれば、他人には目方のみ重き反古同前なり。
 小生は身みずから白井博士を何一つ犯せるにあらず、ただ小生の方法が博士の気に入らぬという差別のみなり。さ(254)れば、小生に文通は断たるるとも、今後も願わくは当国の神社、神林を見捨てなく、一ヵ処なりとも保存の立つよう御尽力下さるるよう、貴下を経て願い上げ置くところに御座候。紀州は人のよからぬ所にて、そのうち和歌山市はもっとも然り。小生は十六歳の早春までその地におり、それよりはわずか帰朝後八日ほどと昨夏八日おりしのみ。父母の墓にも詣るいとまもなく、なるべくその地を避けおり候。言うたことを言わぬ、言わぬことを言うたというぐらいは、何とも思わぬ風の地に有之候。『曽我物語』に、討入前十郎か五郎の詞に、人生まれて三国で果つるということ有之、小生は和歌山で生まれ諸国流浪、またどこで死ぬるか知れず、三国どころか三十国ぐらいで果つるなり。
  故郷は旅寝の夢に見えもせず、訪はぬを恨む人もなくして
 
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 明治四十四年十二月十日午前二時認
   柳田国男様
                                                      南方熊楠拝
  小生白井氏へ一書差し上げ罪を謝せんと思うも、読んでくれざるを慮り、貴下に寄せて本状の意の伝達せんことを望むに候。
 拝啓。小生外人に神社一件頼むことは、昨今寒気のため思うように手動かず、筆を操ること心に任せず、かれこれ延引中いろいろ考うるに、到底自分の一分をいささか立つるというような卑劣なことにて、実際分厘の功もなく、心得違いが起こると飛んでもなき誤釈を引き出し、存じの外なることを仕出かすも知れず、かつ二年前、かの人々の中に助力を申し来たりしときならばまだしも、今日たとい長文を送ったところが十分の同情を得ることはむつかしく、三流四流のさしたることもなき弥次連の賛成ありたりとて何の益もなかるべく、よってジキンスへ申しやることは断(255)然止め申し候。その概要、県知事へ通知するよう安江という人へ頼みやりしも、この人只今県会書記長にてそんな暇なく、
  家弟常楠なる者と至って懇意なれば、家弟思慮あるものゆえ、わざと見合わさせおりしかと思わる。
そのまま握り潰しにしありし由にて、その書は小生手許へ戻り来たりあり。右様のことゆえ小生過ちを知りてみずから改めたる由、貴下何とぞ白井博士に御通知、小生心得違いの段御謝し下されたく候。英米の学者が小生に海外で苦情を出せとすすめに来たりしことは一にして止まらず。しかれども、従来、小生は貴下らと同様の量見もち、これをそのまま聞き流しおりたるなり。(大阪府の人、無名にて、血判もてすすめ来たりしものもあり、その状の写しは前日白井氏へ差し上げたり。)しかるに先月下旬毛利氏に聞くに、前日知事に面会のみぎり、新任知事は白井、戸川二氏より抗議書来たりしを大不機嫌にて、かかる抗議を東京の博士連を頼み出さしむるなどはこれ県政を掣肘するものなり、と。つまり貴説のごとく、知事相当の意地を張り出せし由きき、かかる上は止むを得ずとて、折ふしジキンスより申し来たりしにより、委細のことを具し、外人の連署を頼まんと思い立ちしに候。
 近野村の神木は本月五日より切り始めし由、村民申し来たる。その木は田辺の監獄署の囚人操業に家根板を作る原料に用うるはずの由。野長瀬氏は只今東京にあり、いまだこのことを知らざるならん。また小生祖先四百年来奉祀し来たりし日高大山神社(写真二葉、白井氏の手をへて旧藩主侯の覧に供せり。旧幕のころは幕府より普請せしものなり)も、今月十五日神職取締員来たり整理に着手とのことなれば、むろん潰さるるならん。小生一族より寄付金でもせば残存すべきも、金銭をかかることに入るるは反って事弊を増長するものゆえ、小生は貴説のごとくこれを止むを得ぬこととあきらめ、
  一切皆帰減 無有常安者 須弥及海水 劫尽亦消竭 世間諸豪強 会必還衰朽
  〔「一切はみな滅に帰し、常に安らかなるものあるなし。須弥《しゆみ》および海水は、劫《ごう》尽くればまた消竭《しようかつ》す。世間のもろもろの豪強も、(256)会必《かなら》ずやまた衰朽す。」〕
万世不動と崇められたる神さえ無常を免《まぬか》れず。いわんや吾輩法蠏父子ごとき者、どんな説が通らぬとも世間を歩み得ぬほどの恥辱にあらずと悟道し、合祀反対の旗はこれ限り引き下ろし申し候。
 しかし、世には奇特な人もあるものにて、小島久太氏が拙書を『山岳』へ出せしを読み、日本博物学同士会幹事とか、江原竹二氏(武州南埼玉郡大山村人)、本県有田郡の素封家東京市選出貴族院浜口吉右衛門氏に件《くだん》の拙書を示し、貴族院にて議案を提出させ見んと申すようなことを申し越され候。その他にも県内諸処に同意の人多くなり、いろいろ申し来るも、小生は右の事情にて大いに力も衰え、長々の苦労でくたびれたから、集聚の材料を同志の人に譲与し、自分は引退致し候。故に今後は県下にて合祀反対の大将は毛利氏にて、諸市町郡の新聞記者、政治家、これに同意し、中村代議士も今月中には帰県すべく、相変わらず議論をつづくることと存じ候。大和国吉野郡長は非常の敬神家にて、白井氏等の論を愛読し、続々復社また合祀中止に力《つと》めおる由、十津川の千葉久常という勢力家より昨日聞き及ぶ。
  毛利氏は県会議員になり、只今和歌山にあり、なかなかの勢いにて、第一着に議員および官吏の旅行手当を削減し、次に大水の防ぎに県有林というものを諸郡水源近くに設け、濫伐を防ぐ議を通過し候。小生は人と争うに真向うのみ心がけ、計策事は真に下手なり。毎々妻にすらやりこめられ、閉口捧首すること多し。『呉越春秋』か『越絶書』に、無双の勇者(名を専諸といいしか)喧嘩に出かくるところを、妻に叱られ引き返す、伍子胥その怯を笑いしに、何ぞそれ然らん、一人に屈するは千人に伸ぶといいし、とあり。『五雑俎』に、鴻門のことを論じて、項羽、樊?にまけしを「勇にして能《よ》く怯なり」とほめたことあり、と自分勝手な好例を引きちらし置き候。
 右述通り小生合祀反対の意見は撤回せぬが、真正面に立って攻難することは止め、またいわんや外人などにかかることの助言頼むことは全く止め候あいだ、恥ありてかつ格《いた》る者と御愍笑の上、白井博士においても怒りて移さず旧悪を懐わざるの情をもって、小生心得違い万々御海宥下さるるよう、折をもって御取り持ち下されたく候。けだし小生(257)別に氏に対し破廉恥、人非人の言行を仕向けたるにあらず、孤立勢い極まりて狂奔せんとせしなれば、氏もその辺は十分察恕さるることと存じ上げ奉り候。
  那智の伐木禁止、神島、保安林に編入、東西牟婁郡に残りし神社若干(合祀請願書に調印し許可を得ながら小生尽力にて合祀せざりしもの)、いよいよ月次幣帛を受くることとなりし。これらが少々ながら微力の届きしなり。エスソニアの『カレビペグ』と申す長物語に、前後不顧の勇士、ずいぶん思うままにふるまいしに、川を渡るとて刀を落とし誤ってその一足を?《あしき》る、それより万事不運で終わるところあり。小生も近野村一条まではずいぶんうまくやつたが、近野一条がすなわち川に落とせる刀なりし。この一事に敗亡せば小生のみかは保勝会の鼎重を田舎村夫に知らるるわけと、ことに力を入れ過ぎて反って同意の人士の機嫌を損《そこ》ねしは是非もなきことながら、花千日の紅なく、人百日の幸いなし、「人生不如意なるもの十のうち常に八、九なり」、浩歎のほかなし。
 右申し上げ候。早々敬具。
 
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 明治四十四年十二月十二日夜
   柳田国男様
                        南方熊楠
 拝啓。貴下にはすでに知れきつたことならんも、小生ようやく今日見当たりしゆえ申し上げ候。『関秘録』巻五に、車捨というもののことあり。その文を見るにえたのごときものなり。豊後辺にあり、肴など商う、俗にシャアという、安徳帝の御車を破りたり、云々。巻七に、県神子は降巫をいう、ワイフというは釜払のことなり。土のことをまつるものなり、地者という。地かたは、山伏の中に神子の地者を妻にしたるをいうなり。『遠碧軒記』上の三に、地しゃ(258)というもの、男が女体にて白き単《ひとえ》の広袖の物を打ちかけて、数珠を首にかけ下駄をはきてあり、釜祓の類か、または行者と見ゆ。髪はありて男が女のまねしたるものなり。今年春ごろ出板の『此花』第一三枝に、名は忘る、かかるものの図あり。その原図の出でたる絵本(河太郎とかいう大阪の放蕩人放蕩の事伝なり)、当田辺町に持ちたる人あり、享和ごろの本なり。そのころまで大阪にありしと見え候。今も当町にかかるもの一人あり、狐を祀り人を蠱す。(小生知人蠱せられ狂になりしものあり。)その図貴下御覧なければ小生写して進ずべし。女装して鬚ある乞食なり、はなはだ醜きものなり。五年ばかり前出板 Frazer の‘Adonis’という著に、かかるものの例おびただしく集めあり、理由も詳しく論じあるなり。
  一方杉きりにかかり、昨日杣人木より落ち大負傷の由申し来たれり。
 
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 明治四十四年十二月十四日夜九時
   柳田国男様
                       南方拝
 十日出芳翰咋朝着のところ、小生外出中酒七升ほど飲み、前後忘れて帰り臥し、今朝ようやく拝見仕り候。近露の神林は全然保存、野中の王子は図のごとく社殿側の(乙)の一部分の杉、檜三十本ほど切らすこととなり、すでに杣十人ばかりかかり切り始め候ところ、杣一人樹より落ち大負傷、またこれを指揮せし村長の悴十二、三歳のもの肺病となりおる由。例の一字仏頂輪王の呪がききたるものと存じ申され候。しかし、人をのろえば穴二つで、拙方も妻腸を悪くやみ出し小事《こごと》絶えず。小生もために不快にて、何ごとをもなし得ず、茫然としてお(259)り候。明十五日はいよいよ小生祖先来四百年奉祀し来たれる日高郡の大社大山神社を整理のはずで役員等来る由。これはわずか三十六戸ばかりの村方、小生の従弟に剛の者ありて、この三、四年抗議し続け固守せるものなり。
 県知事は小生の議を容れたきも、例の相良内務部長、また前日毛利に公開演説でどっしりやりつけられたる紀国造紀俊等の妨害あり、終《つい》に野中神林は一部切ることとなりし由。知事みずから小生の使者に話なり。
 よって小生今度は手を替え、貴説に従い、毛利氏など鋭舌の人をさけ、別におとなしき人を頼み知事へ懇願、いよいよ聞かれぬときは止むを得ず、一族より相当の資金を出し右神社を保存し、さて小生は合祀反対の旗をまき、このことに全然関せず引き申し候。
 那智事件は、田辺裁判署長肺病で長く上京滞留、よって延引、いよいよ近日和歌山で開廷の由。当郡熊野三勝の一、富田中《とんだなか》村の金毘羅社は、いよいよ昨日県庁より指令あり、復社され、村民大悦びなり。
  この辺に古え熊野の神|座《おわ》せしに、海波の音やかましきをきらい本宮へ飛び行きたまいしという。さてまた松風のやかましきを厭い、
    波の音きかずがための山籠り苦は色かへて松風の音
  波の音きくがいやさに、云々、という都々逸はこれより出でしことと存じ候。
 このほか熊野の社で小生抗議のため基本財産もなんにもなし、只《ただ》匁《もんめ》で残り、今回いよいよ月次幣帛を寄進と定まりしもの若干あり。那智の林木および神島を保安林に編入、また今度の近野神林(すでに伐採権を村民が持ちたるを)、一部分のほか保存等は、まずは九分まで小生持論の通りしなれば、よき引退時と存じ申し候。
 中村啓次郎氏は、三、四日前、台湾より帰県、また今日あたり東上、たぷん議会へ劈頭に例の合祀反対演説を持ち出すことと存じ候。白井氏の論文出てより、復社を請願するもの県庁へ輻湊し、ずいぶん困り入りおる由なり。小生は神林さえ伐らずに置かば、左様むやみに請願せずとも中央政府よりそのうちに何とか復社を許す規則書が出ずべけ(260)れば、それまで見合わす方宜しかるべしと訓えおき候。復社のもっとも盛んに行なわるるは、隣国吉野、十津川、北山等にて、吉野郡長は常にポケットに数珠を入れ、到るところ神社、仏閣を礼拝しあるく人にて、みずから率先して復社にかかりおる由。十津川上湯の川(豊臣秀俊(秀吉の嗣秀次の実弟)ここの湯に入り死せしなり)などは、五十八戸の小村なるに、五、六の数ある社ことごとく復社せし由にて、千葉久常という南朝の後胤、数日前、小生を招きに来たり候。今に武骨きわまった処にて、小生行かば必ず良《やや》久しき間には大喧嘩など生じ申すべし、と案ずる人あり。よって見合わせ申し候。小生は合祀反対を止め候えども、一件の調べ書一切は中村代議士持ちあり、故に氏より議会へ出る節は何とぞ白井氏その他より相応の声援を与えられたきことに候。
 かかる中にせめてもの心やりなるは、どうやら「猫で成金の話」はロンドンで出たらしく候。小生方へはその雑誌は届かぬが、これを読んでの評言が来たり候。また粘菌と申すもの小生久しく採集候ものも、十一月下旬大英博物館で三色写真で『粘菌譜』出で、小生一昨年冬まで見出だせし分ことごとく出でおる旨申し来たり候。これにて少々みずから安じおり申し候。
 小生十四、五年前、在英国総領事荒川巳次氏宅で氏に向かい、日本人は日本の国境外に帰化し外国人となり果つるもかまわず、日本人がことごとく日本帝国民でおらねばならぬなどは今後不通の論なり、と申し候。これは米国が英国を離れ、南米・中米の民がスペイン、ポルトガルの手を放れながら、やはり祖先、言語、宗教、慣習の同じきところより、年々祖国に費やし入るる金がはるかに祖先等の異なる他国に入るるより多きより推した論なり。しかるに、荒川氏ははなはだしくこれを非難し、また同席なりし小松謙次郎氏(先日盗人に斬られし)は温厚の人ながら、世には妙な議論を持つ人もあるものかなと短く言われ候。しかるに、今年新渡戸氏がカリフォルニアにある移住民どもに演説せしをきくと、主として日本本国が万事米国に劣れるを暴露嘲笑し、決してかかる下国に還りたしと思うな、永く上国たる米国の民となり、その下に安んじ、行く行く日本人の裔が大統領になるようなことあるよう力《つと》めよといわれ(261)たる由なり。小生は全然新渡戸氏の説に賛成するものにあらざれども、官のためにする者は官のために鳴くで、十四、五年前官途の人は夢にもかかることに同意を洩らさざりしに、十四、五年経た今日反って官にある人も小生よりは一層きわどき説を公言するに至る。
 されば小生が外国学者がわが政府へ勧告書を出すを望むも、今日はとまれ後日にならば何のこともなく思う人も多かりなん。いわんや最初小生一人合祀反対を言い出せしときは、到底合祀反対説は行なわるるべきにあらず、ただ一人の合祀反対を言い出せしものあるを竹帛に載するよう、外国に向け声を高くせよとすすむる人も多少ありしなり。(白井氏の文通にも、外国人などは定めて合祀を無謀千万のことと嗤笑するならん、とあり。)その文通は小生一人に宛てられたる私言なれども、『日本及日本人』には、わが国は戦争に勝ちながら内実は亡国に趣きおるなり、というような暴言あり。『日本及日本人』は日本人のみが読むに限らぬことは、毎々この雑誌が露国で翻訳され、また韓地で発売禁止さるるにて知るべし。しかしながら、今日かかることを外人に乞うもすでにその時機が後れおり、またややもすれば、とんでもなき誤解をおこし、慮《おもんばか》らざるに国家に対し奉り非常の不忠とならんことをおそれ、小生は外人に援を乞うことは止め申し、その文は秘蔵して後日にのこし申すべく候。
 前夜葉書にて申し上げし車捨のこと、全文左に写し申し上げ候。これは定めて御存知のことと存じ候えども、小生は始めて知るに及べるなり。関係なきことなるべきが、この田辺で小児が犬にけしかくるに手を左右にふり、「シャシャシャーシャー」と申し候。
 『関秘録』巻の五、車捨は豊後の辺におりて、肴など商いける者なり。百姓の交りもならず、尤縁をも結ばず、その類ばかりにて暮らす。えたにもあらず、えた同前なり。これを誤り、俗にシャアと呼ぶ。魚などうるにもシャアヨ、シャアヨと呼ぶ。人に構わずつんとしておる者を、京、江戸にもシャアとしておるという。なお江戸にてもシャシャとしておるというなり。この者のむかしは、安徳天皇御入海の場にて捨てられたる御車ありしを、この者ども打ち寄(262)りて打ち砕き薪にしけるとなり。御運拙きとても天孫にて渡らせ給うに、無下なるものどもとて交りをはずしけるより、おのずとその党きりのものとなりける由。右俗言のほどはこれなり。(末文、意しかと分からず。)
 同書巻六、『本草』に、嶺南に物あり、一足にして、反踵、手足みな三指、雄を山※[獣偏+?]という、また山丈、また巨霊。雌を山姥という、また野婆。むかしより鬼を画くに、三指にかくという。九州にては山丈を五道七郎という由、いかなる故にや。熊楠いわく、紀州熊野、一本ダタラのことに似たり。
 巻八、山崎宝寺蔵打出の小槌の図あり、この形を板行して守りに出す。もっとも求め得がたき守りなり。その守りの上包には「打出小槌、甲子神」かくのごとくあり、さて形は打出し小槌と二つなり、云々。
 田辺辺で豆のさやと実を別つに※[図有り]かくのごとき棒二つをもって打ちたたくなり。アフリカなどにも、カラサオの代りにかかる棒用ゆる所ありしと存じ候。
                     南方熊楠拝
 
          62
 
 明治四十四年十二月十五日
   柳田国男様
                       南方熊楠
 拝啓。ジキンスの問いに困り入り候につき、左の件援兵至急願い上げ奉り候。石川雅望の『飛驛匠物語』自序に、
  この草紙読み見てのち、さてもおさなくはしたなき心ばえや、こうざまのことにしも心を入れて、あらぬことども作りひがめて、かがやかしとも思わずよ、とそしりおこづく人もありなん。さるは阿倍野に隠れて、むしろ織(263)りけん某法師がむかしをも得知らぬ人の辞《ことば》なるべし。
 この阿倍野に隠れて席《むしろ》織りし法師、誰のことで何の故事に候や。至急御答え下されたく候なり。
 
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 明治四十四年十二月十八日
   柳田国男君
                       南方熊楠
 拝啓。小生例の先祖の神社のこと今に片付かず困り、はがきにてちょっと申し上げ候。川太郎の本は他人のものなれば、そのうち借りて写し申し上ぐべく候。染屋は以前非常に卑蔑されし物なり。(紺屋の白袴などもこれを識別するためのことと存じ候。)アオと呼びえたの専務たりしようなり。『続史籍集覧』に収めたる『三好記』とか『阿波記』とかいうものに、三好長治乱政の一事として、京師より紺屋を呼びよせ、重用して富貴させ、その子を?童にして嬖幸したるを亡国の徴と特書し、また紺屋を近づけしことを非難しあり。近江屋とて年々この地へ来る古き京都の染物取次人に聞くに、人骨を灰にし用うれば紺ははなはだよく染まる。今とても上等の紺染には人骨灰を用ゆ、と。こんなことより隠亡《おんぼう》などが紺染を専務とし兼ぬるに至りしゆえ、いやしまるるかと存じ申し候。また南天のこと、『和漢三才図会』に火難を禦ぐとあり(日本の伝と見えたり)。『骨董集』に、毒けし、また難転《なんてん》の音よりころばぬまじないとすることあり。さて『和三』に、邯鄲の枕というものを南天の木で作る、とあり。ちょっと分からざりしに、ふと『増補頭書訓蒙図彙大成』巻一九に、この木を悪しき夢を見たるときこの木見ればその夢消ゆるということゆえ、多く手水所の向うに植え置くなり、とあり。和俗にいろいろ伝説多き木と見え申し候。早々以上。
 
(264)          64
 
 明治四十四年十二月二十日夜十時
   柳田国男殿
                       南方熊楠
 拝啓。阿倍野に隠れて席《むしろ》織し法師の儀、大いにありがたく存じ候。畠山健氏へも法竜僧正を経て問い出しおき候えども今に返事来たらず、たとい来たところが貴答の外に出ぬことと存じ、只今英国へ貴書の通り返事出し置き申し候。
 河童が牛をなやますこと(当地方|万呂《まろ》村に数年前ありしことは前状申し上げ候)につき、左のこと多少関係あるようなれば写し申し上げ候。ただし、すでに御存知の御事と察し奉り候。
 滕成裕の『中陵浸録』巻一二、薩州の農家にては獺《おそ》を殺さず、もし殺す時は馬に祟りをなす。祟ること七代にしてようやく止むという。大いに恐れてあえて殺すものなし、云々。熊楠案ずるに、万呂村の牛なやむとき灰を撒きしに蹼《みずかき》ある足跡を印せりというは獺なるべし。小生、獺を畜《か》いしを見しことあるに、はなはだ伶俐にて種々の悪戯をなすものなり。
 また同書巻一一、先年信州の戸隠山に往く路に池あり、土俗大太法師の足跡という、六、七丁四方の陥りたる所なり、云々。『朝日新聞』で土伝を集むるとは、『大阪朝日』にや、また『東京朝日』なりや。いずれも小生は見ぬものなり。いずれか出たやつを小生に送られ候わば、時々なにか申し上ぐべく候。
 毛利氏、先年『新報』で俚話を集めしも、とかくうそ話多くて不成功に候いし。
 
(265)          65
 
 明治四十四年十二月三十曰夜
   柳田国男様
                     南方熊楠
 拝啓。藍染屋を忌むことはインドにもあり。北涼(五胡の乱のときの)沙門釈法衆訳『大方等陀羅尼経』巻四、護戒分第四に、「復次《また》、善男子(この陀羅尼を持するには)また五つのことあり。脳皮家(皮をなめす人?)と往来するを得ず。藍染家〔三字傍点〕と往来するを得ず。養蚕家と往来するを得ず。圧油家(胡麻等を圧し、油をとる人)と往来するを得ず。掘鼠蔵家(インドの賤民は今も鼠を掘り捕え、常食とす)と往来するを得ず。かくのごとき五つのことは、行者の業《ごう》の護戒境界なり」。
 破素権 droit de cuissage のことは、日本にも多少似たる例見出だせり。『牟婁新報』へ出すから連続送り申し上ぐべく候。
 川村知事は、自分手許へ貴下より配布の「南方二書」を『和歌山新報』に貸与し、公刊させおり候。これは小生海外へ援を求むると伝聞してより、緩和の方便を取ることとなりしと存じ候。
 
(266) 明治四十五年(大正元年)
 
          66
 
 明治四十五年一月二日
   柳田国男様
                        南方熊楠
 恭賀新年
 『人類学雑誌』九月分、小生方へ送り来たらず。只もらい候ものゆえ催促もならず。しかるに、右号に貴下の「「イタカ」と「サンカ」のこと」(一)出でおる趣きに察せらる。貴下の状に前日このことちょっと見えたが、小生には何のこととも分からざりし。小生何か追記したく思い候間、得ちるることなら右九月分一冊買い求め御送り下されたく候。
 「セブリ」というは、この辺の俗語に、たとえば小児が父母に銭、菓子などをむりに乞うことをセブルと申し候。「ジュリョウシ」は、呪療また治療師かと存ぜられ候。和歌山辺には、河原乞食と申し、大阪辺には山家《さんか》とかくよう存ぜられ候。
 
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 明治四十五年一月十五日夜
(267)   柳田国男様
                       南方熊楠
 拝啓。『人類学雜誌』一冊、本日着、拝受仕り候。イタカのことは今日着の分とその後の分と見合わせ候に、まだまだ小生一辞を増減すること能わざることのみに候。いずれ全璧拝見の上、またまた何か申し上ぐべく候。
 今期議会にまた例のこと演舌する人有之《これあり》、その人は予算委員にて多忙なるをもって、小生その演舌の稿本を作ることに有之、目下すこぶる多事に有之候。
 ついでに申す。熊野にて河童のことをカシャンボと申す。これは疑いもなく火車坊の意に候。(支那にも罔両《もうりよう》と申すもの、水にすみ、また死人の魄を食らう、とあり。河童と罔両と似たことなり。)しかるに今日、カシャンボが死尸を犯すという伝話は、小生知るところにては絶えおり候。全く河童のみを申すなり。(ただし、死人、火車に取られ候ことは、今も南牟婁郡辺には多少行なわれ候由。)さて、亀の梵名羯車婆と申し候。(『梵語字彙』当地になきゆえ正音は知らず。)前般申し上げ候諸国に亀が人を取ること、河童にはなはだ近き話多し。軽卒なる人は火車のことを知らずに、カシャンボは羯車婆の訛りにて、取りも直さず河童の話は、亀、人を取る話より出でしということも難きにあらず。例の言語のみで古話、俚談を判ずるの誤り多き例として申し上げ置き候。
 
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 明治四十五年一月十七日夜
   柳田国男様
                       南方熊楠
 拝啓。十四日出芳翰、今朝拝読。『太陽』には、脱字多少あり、誤字もありしも、重要なる間違いはなかりし。御(268)骨折のほど謝し奉り候。小生は「燕石考」を何とかあまり小むつかしからず和らげ整理し、写真図を添えて『太陽』に出さんかとも存じおり候。しかし、「燕石考」では何のことか分からず、三月に縁あるから「燕の子安貝と石燕と酢貝」とせんには長過ぎる、勘弁中に候。『人類学雑誌』は土器と石器の品定めならよいが、品定めずにただごてごてごてと究極際涯なく、採集人の自慢話のみで、局外のわれわれには古道具市の目録を見るごとく一向面白からず。わが国にも独立して俚俗学 Folklore Society の建立ありたきことに候。
 高木氏の「左義長考」今日着、拝見。南半球は知らず、北半球には安南以北にいずれの地にも多少このことなきはなしと存ぜられ候。もっとも高木氏は、スラヴの書を読んだからとて、日本の左義長はスラヴより移りしとはいわず。しかし、いずれの国にも左義長類似のことを年の始めまた春の初めに行なうことに有之《これあり》、その例はとても書き尽されぬほど多く、いずれも大同小異に御座候。
 犬神人、これは何と訓み候や、誰に聞きてもたしかなことは分からぬに候。
 
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 明治四十五年一月十九日午後
   柳田国男殿
                       南方熊楠
 前日ちょっと申し上げ候藍染屋を賤民とすること、見当たり候につき書き付け申し上げ候。これによれば、えたが紺屋を業とせしに候。出入りの西京の染物仲立人近江屋というに聞きしは、人骨もっとも染物によしとのことなれど、獣畜の骨もっぱら染物に用いられしより、自然えたが紺屋を営むに至りしかと存ぜられ候。
 『三好記』(『読史籍集覧』に収む)、三好長春様の御自害のこと。えったがばけものに成して、あおやそめと申すこと(269)仕り出 だし候は、天文十年に上方よりあおや四郎兵衛と申す者罷り下り、阿波国にあわ染と申すこと知りたる者なく候ゆえに、事のほか米をもうけ仕合せ能《よ》く成り候。四郎兵衛が子を青屋太郎右衛門と申し候。また一人は西条へ有り付き候。その次丈太夫と申す者をば長春様の小姓に召し遣われ候。これゆえに三好の家亡びたると申し伝え候。その子細は、えったは賤《いや》しき百姓さえ、同じごきを食わず、同在所に住居《すまい》させず、事のほか改《あらた》め申し候。えった交わる者は、必ず亡び候と申して堅く改め申し候。えった交わりて家の亡びたる証拠、いかほども御座候。えつたの孫《そん》、男女によらず、悪しきとむかしから申し伝え候。
 次に、この青屋を旦那として他寺より絶交されし寺のこと。また米百石青屋よりもらい、その子を聟とせし侍、青屋に着衣きせたる小姓山井図書のこと。太閤様の時、京中の青屋をかり出し三条河原に御置きなされ候こと。
 小生十四歳のとき別れし旧友、今度手紙寄す。この人の宅に、『長秋夜話』三巻、『南紀地侍誌』一巻、『南紀名甲録』二巻(兜の名品の記)の三書、写本で伝わりあり、あまり他に見ぬものなり、小生、往年借り写せり。今もこの人所持する由、貴下、写本目録へ入れられたきことに候。
 末筆に、青屋と申すは化物にて候を、年寄よりほか存ぜず候。人間は生まれぬ前のことは正《まさ》しく存ぜず候ゆえに、化けて人交わり仕り候。必ずこの交わりは悪事出来申し候。あしき例《ためし》をもってむかしより申し伝え候。
 
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 明治四十五年一月二十四日夜九時
   柳田国男君
                        南方熊楠
 拝啓。大山神社は知事すでに存置を許可しくれたるに、神職や郡吏また村民の一部等、金銭上のことより今にぐれ(270)ぐれ申しおり、困ったものなり。知事が最大好意をもって許しくれたるに、村民等紛議とは実にえた根性の輩なり。小生もかかる些事末項の一つ一つのことに関係するは飽いて来たり、よって断然干渉を止め、古話学上の著述を出さんと存じ候が、今二つ三つ『太陽』その他へ出し、世人の気向きを考察すべく候。不日「燕の子安貝」脱稿すれば送り申し上ぐべく候間、然るべく御世話下されたく候。
 「鬼瓦」の狂言はその処写し御送り下されたく候。また、その本二十日間ほど御貸し下されても宜しく候。小生は「山神とオコゼ」の続篇を作り、人類学会へ出し申したく候。
 「ビナヤカ」障礙神のこと、真言の法を妨碍する神衆なる由。これを路頭に立つること経に見当たらず。しかるに本日唐の中天竺三蔵輸波迦羅と沙門一行と共訳の『蘇婆呼童子経』巻上を読むに、「ビナヤカ」に四部あり、摧懐部、野干部、一牙部、竜象部、おのおの無量の毘那夜迦を包有す。中に食香〔二字傍点〕という奴ごときは、塗香を献ずる法|闕《か》けたるとき念誦人につけ入り寡婦を思わしむ、とあり。また「もろもろの毘那夜迦、身《からだ》に入れば、すなわち心に迷惑を生じ、西をもって東となし、南をもって北となし、もろもろの異相を作《な》し、あるいはすなわち吟詠し、あるいは縁事《わけ》もなきに遊行《ゆぎよう》せんと欲せしむ、云々」とあり。すなわち南北東西の道に迷わしめ、また何のわけもなく浮かれありきたくならしむる、吾輩中朝のいわゆる迷神ごときものと存じ申され候。
 
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 明治四十五年二月十一日午後二時
   柳田国男様
                       南方熊楠拝
  一昨日付芳翰、正に拝受候。「鬼瓦」の狂言のこと、狂言と申すもの必ずことごとく徳川氏初世にでき候ものに候(271)や。小生たしかに覚えぬが、平出・藤岡二氏の『日本風俗史』とか申すものには、狂言を足利氏の(晩くとも)末ごろのものとして見たり、と見ゆ。その部すなわち室町史の条下に、狂言、鮓屋と薑売〔【「酢薑」】〕の、酢《す》こん、はじかみこん、と言い競う一段を出し有之《これあり》候。またずっと後のものながら、『牛馬問』(新井白蛾の)などに、道春の博学を称すとて、狂言のうちの難句を執政等問いしに即座にこじつけ説かれたる由記し有之候。故に、足利氏はおろか鎌倉幕府ごろの古伝も狂言中に残しあるよう存ぜられ候。もと狂言は能とは何の関係なく別物なるが、後に能の中入りに宛《あ》てはめられたるものと存じ申され候。貴下、「鬼瓦」の狂言は徳川氏の世に成りし、決してその以前に成りしものならざる明証有之候や。『幸若』などもその通りで、小瀬の『太閤記』すでに『幸若』中の百合若のことなど引き、徳川氏の初めに成りし『甲陽軍鑑』に、武将、武士多く『幸若』中の語を引きしことを小生も知り、また常山の『文会雑記』にもいえり。因幡堂平等寺は在原|行《〔ママ〕》平建立、のち義教将軍中興、自筆縁起あり、と『和漢三才図会』に見えたり。小生は鬼瓦もあるいは義教中興のとき設けられしにあらずやと思う。よって小山源治、土宜法竜二氏京都におるを幸い、右鬼瓦の存否および時代問合せに状出し置き候。その世(徳川氏初めにせよ、また足利氏末織豊の世にせよ)に名高きものあらんに、必ず狂言一つのみに引かれ他のものに引かれざるべき制限なし。『古事談』、『今昔物語』、『古今著聞集』に、同一の話多く出で、また多少異態ながら謡曲などにも出であり。謡曲作りしもの必ず右等の書を読みしにあらず、そのころは写本にて名家の秘蔵とせしもの(ようやく徳川氏の世に原本出でしくらいなれば)なればなり。こは一汎に頼光や頼信の話、行なわれたるならん。
 降って少々事は違うが、谷川士清の『和訓栞』、寺島氏の『和漢三才図会』、天野信景の『塩尻』等、ほとんど同時作にして同一の話を記したるところ多し。これらも必ずしもそのうちの一人が他の二人の創造を盗みしにあらず、自然かかる説世に行なわれしを書き記せしと存じ候。一汎に鬼瓦の大なるを見て田舎の妻を思い出すという伝え話ありしより、かかる狂言にもまた山の神の草紙にも記されたることと存じ候。女の眼に鈴をはれも、そのころの諺または(272)はやり唄の文句ならん。ただし、かようの草紙に足利氏の末か徳川氏の初めか時代の分からぬもの多きことは、平出氏の『室町時代小説集』の序にも出でおり、『史記』、『山海経』、『呂氏春秋』と『戦国策』に同文あるごとく、早くからあったものを後のものに書き入れしといわんに、その話は後に書き留められしが、それ以前より存せしとも言い得ることと存じ候。
 小生は、狂言はことごとく足利氏以来(足利氏を除く)のものと思わず。もし織豊また徳川初世のものならば、狂言に太閤とか、小野木殿の何とか、早川玄馬のふんどし、加藤肥後の銀の烏帽子の兜、帝釈栗毛の馬、本多平八の鑓、井伊の赤甲冑、また江戸への海道下り、高麗陣、大坂攻め等のことも、ちとありそうな物なるに一向なし。(三代将軍、四代将軍のころまでも、かかることは一向かまわざりしようなり。三代将軍のとき、大野主馬が秀頼のために諸大名に送りし状、家康のことを非常に悪くかきありて出板せしものあり、処刑さる。そのころよりようやく著作の禁厳になりしよう聞く。)
 次に小山源治氏より聞くに、『奇異雑談』は六冊にて三十余条とかの怪談をかきしものの由、その内容は大略小生も読書より又引《またび》きしてひかえあり、つまらぬものと思う。しかし、『和漢三才図会』に引きたれば、それより以前のものと思う。文明中の書とはうそなるべし。
 『塵塚物語』とて、これも足利氏の末世に書きたりというものあり。『吉野拾遺』、『太平記』などと同一の虚談多少あり。足利氏の末世に托して、徳川初世の浪人などが活計のため書きしものと見えたり。しかしながら、七難の揃毛、また義経と弁慶が、ある旅宿の妻が夫の子六人|妾《わたし》の子六人合して九人ありと言いしを、義経は即座に解し、弁慶は一夜考えてようやく判じ得たるとかの話(たしかに覚えぬが、この妻前夫の生れ子三人、今の夫の子三人ありしなり)などは、そのころ(徳川氏初世)に引かれし世話なるべく、ある人立身して老姉に孝養すとて若き男妾を蓄い奉りしこと〔北魏の史書にかかることあり)、師直が臣下の妻を片端から召して姦せしこと(秀吉かかることせしという、ロ(273)ーマにもオガスタス帝常にせり)などは、あるいは時代を違えながら当時のことを記し、あるいは古書でよみかじりしことを日本のことのごとく記せしことと思う。一国の文化風俗の変遷を見るに、由来正しき実話のみならず、虚構|依樣《いよう》の書もその前後のことを見るに便りあるもの多し。
 今の『旧事記』は偽作なり。しかし、古い偽作ゆえ自然古い伝話も多く入れあり。『先代旧事本記』などは丸うそで、その本人の名も分かりあり。それすらうそ話はどれほどまで作り得るという研究になるなり。五年ばかり前、英人パルマー氏、文学上の偽話大家の伝を出せしことあり。台湾が世界中に名高くなりしは、ザルモナッサルという蘭人(?)、百虚無一実の書を作り、台湾の実在譚を述べ、言語文法ことごとく虚構して世を紿《あざむ》き、死するに臨み慚罪せしより名高くなりしなり。水戸の鵜飼信興の『古今珍書考』、小生も写しを持つが、うその書目のみ引けり。(橘南谿は、これをうそと知らず、ほめあり。)しかるに、小生詳しくしらべしに、その内に実事一つあり、まるでうそばかりはいえぬものなり。またうそをいうにいかに骨折れるかが知れる。
 理屈はこれほどに致し、『奇異雑談』に、一所で死せしもの、同時に他の距てたる所で人に見《まみ》えしことあり。これは今もスコットランドなどに常事と考えおる人多し。小生も八年前に自分の家の主管たりしもの、小生と不快なりしゆえ音信久しく絶えたり。無言で小生の前へ出で来る、よって当座にこれを日記に扣《ひか》えおき今に口外せず。後日、その寡婦(小生の従姉、大阪現在)に親しくあい、またその女死しなんにはその子にあい、右の出で来たりし男の死んだ年月日と時刻をたしかに調査し、いわゆる wraith《レース》(死際に他所へ見《あら》わるること)の在否をたしかめんとし秘しおれり。(今これをいいちらすと、前方の遺族多少事実をまちがえ虚構するおそれあり。)右の男はその年に死去せしことだけはたしかに知りおるなり。また『奇異雑談』に、寡婦が店頭に胡瓜をつるしおきしを、小僧通りてこの胡瓜は和尚の一物に似たりといいしより思い付き、一計を案出する話あり。仏人タバーニエールの記行に、十七世紀にトルコ・コンスタンチノプルで、宮女に胡瓜を?《きざ》まずに売るを禁ず。インド海のある島では、女に切らざるバナナを与うるを(274)禁ず。これ女子独婬また相婬を禦《ふせ》ぐためなり、とあり。されば『奇異雑談』はうその書とするも、晩くとも徳川初世より wraith《レース》の迷信多少世に行なわれ、また女子が胡瓜をもって自淫する風(もしくは世評)ありし証拠にはなり申し候。もし偽書といわば、『源平盛衰記』、『平語』、『曽我語』、『義経記』、『太平記』、みなうそなり。日本貞女の鑑といわるる袈裟御前の話、醍醐帝、女の哭するをききてその姦を知りし話、米糞上人の話、『源平盛衰記』や『今昔物語』で名高きもの、みな外国談の模倣なること、小生、前年『早稲田文学』に論じ置けり。
  友人リー氏話に、facetiae《フアセチアエ》すなわち『古今著聞集』風の笑談、全く異様特殊のものは十三しかなし。欧亜を通じて必ず研究すると、この十三態を多少作り替えたるものなり。故に、人間がいろいろの種族に分かれぬうちからすでに存せしものならんとのこと。小生はまた、生物の万態千様なるも、帰するところは大抵その特態が知れおる。哨乳動物の指の数はことごとく五を基とするごとし。生物さえかくのごとくなれば、人間の考案も限りあるより、いかに考うるも、足の裏に眼ある人や、頭上に男根ある人などの話は終始作り出すこと成らず、したがって大抵きまりきった同範のものが、何度しても浮かみ出ることと存じ候。
 とにかく『奇異雑談』は、小生これほどの近世書中『塵塚物語』などと並んで徳川初世に早く出た書で、そのころの社会思想の一汎を見るに必要なるものと思い、議論など出すときに又引きではたしかならず、なるべく何巻何章何段と明示せねば欧米の学会では受け取らず、小生またその規則の主張者たれば、悉皆写し取りてほしきに候。紙数は知れぬが、まず三円ばかりで写され得ることなら写させ下されたく候。小生今は余裕ないから、全部三円内で写すことならずば、その幾部分でも、試みに一枚三銭ぐらいで写させ下されたく候。
 次にフォークロール会のこと、これはちょっと難事ならん。しかし、うまく行かば考古学会や人類学会は乾燥無味の土器や古器の図録のようなものにひあがり、フォークロール会はなかなか俗人が見ても珍談ばかりで面白きものとならん。名称は実にむつかしく候。民族学会、伝説学会、里伝学会、いずれも不適当なり。そのうち一考致すべく候。(275)小生は日本にさえおらば書くことは不断書くべきも、合祀反対一件でおいおい貧乏になり、いつ外国へ出るか知れず候。『大英類典』一昨年刊行の分により、英国にて学者がフォークロールの範囲内とする事項、左のごとく申し上げ候。
 第一 Belief and Custom 信仰と風習
  (A)Superstitious beliefs and practices 迷信、迷習
 
(a)天然現象《ナチュラル・フエノメナ》および不生物界《インナニメート・ネーチュール》に関するもの。(b)草木に関するもの。(c)動物に関するもの。(d)幽霊《ゴースツ》および魑魅《ゴブリンス》。(e)巫蠱《ウイツチクラフト》。(f)俗医方《リーチクラフト》。(g)魔術《マジク》・占法《ジヴイネーシヨン》。(h)幽冥界のこと eschatology。(i)雑迷信迷習《ミツセラネアス》。
  (B) traditional customs 古伝の習慣 (a)節時の祭儀。(b)生、死、婚等、人一代に関する祝喪の礼儀。(c)戯法《ゲームス》。(d)雑土俗《ミスセラネアス・ロカル・カストムス》、穀神に関する農の儀典等。(e)舞踏《ダンセス》。
 第二 Narratives and Sayings 話伝、言句
  (A) 話伝、言句(a)実車談説《サガス》。(b)御伽談《マーシユン》。(c)教訓談《フエーブルス》。(d)奇異談《ドロールス》、譬喩談《アポログス》、キュミュラチヴ・テイルス(鶏が戸をけり、戸やかましきゆえ、姥、水をなげ、火消え闇《くら》くなり、鶏あわてて戸をけり、云々、と幾度も幾度もつづくなり。日本ではあまり多く聞かぬが、近松の戯曲などに似たことあり)。(e)myths 鬼神説と訳するか。まずは譚原と訳する方宜しからん。『風土記』また京伝の黄表紙流のこれ何々を何することの起りなり、これ紀伊国を木の国ということの起りなり、というごとし。(f)土地伝話《プレース・レジエンズ》(竜門山へ塩屋伊勢守の霊出るとか、安堵峰に松岩というものの屋敷あるとか)。
  (B) ballads and songs 俗伝唄(巧芸がからぬ)。鳥追い、万歳などの季節に唄い来るうたを申す。
  (C) 子守唄《ナサリーライムス》 、謎《リツドルス》、無茶唄《ジングルス》(こいつは訳が難しいが、チョコマカリキリキキリキンヒュヒュヒユヒュラノヒューなどと唄うをいう)、諺話《プロヴアーブス》、綽号《ニツクネ―ムス》、土地唄《プレース・ライムス》(和歌の浦には名所がござる、一に権現、二に玉出島の(276)るい)。熊楠いわく、tongue twisters 舌もじり、たとえば和歌山の七曲《ななまがり》という町|湊《みなと》の町の七曲《ななまがり》をいうとて、にくい七曲がり、曲がって見れば七曲がりやすい七曲がり、の類などもここに加うべし。
 第三 Art 巧芸 (a)俗音楽、フォーク・ミュジック。鹿児島のりきゅうとかご島、古市の伊勢音頭のるい。(b)俗戯曲、フォーク・ドラマ。こいつの例はちょっと思い出さぬが日本にもあるべし。
 この分類は不判然のものたることは、俗音楽は土地唄を離れず、myths に多少の迷信、迷習を含まぬはなく、俗医方、多くは魔法、占法と混ずるにて知る。故に、えー加減なものなることは著者自分もいえり。
 次に、当県は今度私有林までも開墾を禁制となり、当郡役所ごときは表《おもて》むき古木老樹の調査を云々しおる。多少拙意見が届きしなり。合祀は当郡などは請願書出たる分までも中止、また復社もあり。しかし、日高郡などは依然励行で、大山神社は県知事より存置許可の旨中村代議士をもって伝えたるに、郡吏等さらに指定村社一つの外に他の村社を保存するには、その氏子は大山神社の社費と指定村社の社費と二重に負担を要すとて合祀を迫りおり。もはや合祀されたかも知れぬ(小生は一月中病気にて一切関係せざりしゆえ)。よって戸川残花氏は未知の人なれど、昨夜一書を出し候。徳川侯より内相に聞き合わせを頼みしも、侯は小生に親切なる人なるも、家令とか家扶とか七六《しちむつ》かしき輩の中言もあるべければ、ちょっとは聞き合わせくれまじ。
 何とか貴下神社局長御存知ならば、早速御聞き合わせ下さらずや。知事すでに許可ありしに、かかることを郡吏がいい張るはまことに心得られず、然りとて再三知事へいうも、知事しばしば不在にて埒明かず、貴下も何とぞ井上氏に御聞き下さらずや。以上。
 
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 明治四十五年二月十二日午後四時
(277)   柳田国男君
                      南方熊楠拝
 只今高木敏雄君より来書あり、『奇異雑談』をその隣人宅にて見たりとのことなり。よって小生直ちに只今一書を出し、五、六日借覧を申し込めり。たぷん貸してくるるならん。よって貴下写させることは、右高木氏より吉左右《きつそう》あるまで御見合わせ下されたく候。
 勝軍地蔵の像、北京より真鍮製のもの大英博物館にあることは前便に申し上げ候。故に決して日本手製にあらず。また、たしかチベットのもの画像、南ケンシントンの美術館にありし。画の製法異なるのみ、画相は日本のに同じ。尊氏これを尊信せしことは『太平記』にもありしと覚え候。しかして『南畝  有言』巻下(四)に、僧横川の『京華集』巻七に、山中右馬允橘守俊という者、梵漢両字に写すところの地蔵を出して讃を乞う。(熊楠いわく、細字で経文を写し、字で線をなして仏像を画くなり、西洋にもあり。)いわゆる勝軍これなり。むかし等持院大将軍いえることあり。わが三尺の剣を提げて天下を馬上に定む。殺すところ多しといえども十方に過ぎず。工に命じて願王を造るもの十万体、これを京の等持院の大殿に安置し、また(勝軍?)将軍をもって安置す。吁《ああ》千古の亀鑑なり、なすことある者はかくのごとし、と称美せり、云々。このことは貴下御承知ならんも、(四)の見出しに関せぬことでちょっと探し出しにくいから申し上げ候。
  前度御申し越しの妻木氏は、木下友三郎氏の詩の師、故石田冷雲と申す大酒飲僧の二男にて、長男も詩人、大酒、当地へ来たり毛利氏世話になり、その宅にて死なれし由。
 
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 明治四十五年二月十六日夜十一時
(278)   柳田国男君
                      南方熊楠拝
 貴下、一応高木氏へ聞き合わせ、高木氏すでに小生のためにその隣家より『奇異雑談』を借り送らずとならば、何とぞ誰かに借り、十二日間(往復共)御貸し下され候様願い上げ候。
 さて、亀が人を?《なやま》すこと、河童にちょっと関係あるゆえ、インドの例申し上げ候。康僧会(天竺の人。呉の孫権のとき支那へ来る)訳せる『六度集経』巻五に、『槃達竜王経』を収む。いわく、むかし拘深《くしん》国王、名は抑迦達《よくかだつ》、一男一女あり、「清浄を執行す。王はなはだこれを重んじ、ために金池を作る。二児池に入って浴す。池中に亀あり、亀名づけて金といい、一眼を瞽《めしい》す。また水において戯《あそ》び、二児の身《からだ》に触る。児驚いて大いに呼ばわる。王すなわちその所以《ゆえん》を問うに、いわく、池中に物あり、触《つつ》いてわれらを怖《おど》す、と」。王怒って?《あみ》を施してこれを捕え、刑せんとするに、斬首せよというあり、生焼きせよというあり、「これを?《きざ》んで羮《あつもの》を作れ」というあり。「一《ひとり》の臣いわく、かく殺すも酷ならず、ただもつて大江中に投ずれば、これいわゆる酷なるものなり、と。亀笑っていわく、ただこれ酷なり、ただこれ酷なり、と」。王これを江に投ぜしめ、亀免れ去り、竜王にすすめ、かの王の女《むすめ》を求め妻とせしめ、十六竜臣とともに王城に至り、女を請う。亀、他の使臣にいう、「汝らはここに止《とど》まれ、われは往って上聞せん」とて逃げ去る。「またと来たらず」。十六臣憂いて城に入り、女を請うもくれず、変化《へんげ》、災をなす。王、止むを得ず女を竜王に与え妻とす。一男一女を生む。(以下、話長し、亀のことに関せず。)この亀は悪をなすを好む、性の宜しからぬ奴なり。支那にも?というもの怪談をなす由、多く『淵鑑類函』等に例見えたり。
 
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 明治四十五年二月二十日夜
(279)   柳田国男殿
                     南方熊楠
 拝啓。『奇異雑談』は高木君写し送らるる由なれば、貴下より送り下さるに及ばず候。山うばに関係のこと、『続博物志』に陳搏(宋の真宗のとき京師に至りし名高き仙人陳図南なり)華山に隠るるうち、かつて毛女と交わる。故に人これをそしる。また毛女は毛全身にあり、軽捷飛鳥のごとし、というようなことありしと存じ候。『淵鑑類函』の仙女の部など見ばあるべし。『続博物志』は小生今座右になし、この毛女はやまうばごときものと相見え候。つまらぬことながらちょっと見出でがたき用事の少なきことゆえ、思い出せしを幸い申し上げ置き候。「燕石考」は数日中に送り申し上ぐべく候。当県はまたまた合祀励行となり候。邦、道なければ刑戮に免るで、もはや小生も断念の時節と存じ申し候。
 
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 明治四十五年二月二十六日朝
   柳田国男君
                      南方熊楠拝
 東晋西域三蔵吊尸梨蜜多羅訳『仏説大灌頂神呪経』巻八に、山精四十九の名を挙ぐ。「もし四輩の弟子にして、山精鬼の害するところとなる者は、その名を呼べば、すなわち毒を摂《おさ》めて害をなす能わざらしむ」とあり。むかし道中でごまの灰の親分の名をいえば、子分ら害をなさざりしに同じ。ちょっと見出でがたきものにつき申し上げ候。
 青色山精、赤色山精、白色山精、黄色山精、黒色山精、高大山精、卑小山精、広大山精、無頭山精、無手山精、無脚山精、竜頭山精、蛇頭山精、馬頭山精、狗頭山精、虎頭山精、人頭山精、※[獣偏+爰]頭山精、鳥頭山精、銜火山精、火殃山(280)精、蛇形山精、竜形山精、男形山精、女形山精、三脚山精、六手山精、九頭山精、三頭山精、四眼山精、四十九眼山精、三眼山精、聚会山精、歌楽山精、喜歓山精、愁憂山精、悲哭山精、跛脚山精、??山精、歎咤山精、相拘牽山精、闘諍山精、吐青毒山精、吐赤毒山精、吐白毒山精、吐黒毒山精、吐黄毒山精、両頭共身山精、亀形山精。
 日本の山男に相当するものはちょっと見えず。女形山精は例の山女くらいか。
 『奇異雑談』は全部高木氏写し取り、一昨日郵送当方へ着仕り候。小生はこの書により大いに発明するところ多し。そのうち申し上ぐべく候。早々以上。
  小生は相変らず白井氏と連合、例のことに奔走罷り在り候段、御憐察下されたく候。
  土宜法竜、小山源治二氏より因幡堂へ尋ねくれ候ところ、寺僧何も知らず、むかしの建築はまるで焼失、縁起には鬼瓦のことなしとのことに候。
 
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 明治四十五年三月六日
   柳田国男殿
                      南方熊楠
 拝啓。貴著『石神問答』山中|笑《えむ》氏の状に、仏教に十三の数に関すること少々挙げたり。しかし、十三仏ということはなし。小生按ずるに、この十三は十二に一を合わせたるものならん。(十二月に一の太陽を合わせ、十二神将に一の薬師仏を加うるごとく)、なにかまた暦占学・天文学上より出でたることかと存じ候。さて今日まで一切経およそ十分の六、七通り見たが、日本にいう十三仏は無論ないが、十三仏名ということはあり。貴下に目下何の用もないことかも知れねど申し上げ候。宋の紹興年中に王日休が校輯せる 『仏説大阿弥陀経』巻上に、十三仏号分第十三あり、弥(281)陀仏の十三の名を挙げたり。無量寿仏、無量光仏、無辺光仏、無礙光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、難称光仏、超日月光仏の十三なり。貴下の「己《おの》が命の早使い」の条はすでにでき上がりたりや。小生これに類せる話一、二見出でたれど、すこぶる長く要を摘むに困る。貴下のその条全文見せ下され候わば、貴下の入用らしき相似の点のみ書き抜き添記申すべく候。
 
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 明治四十五年三月十日午後八時
   柳田国男殿
                     南方熊楠
 これは貴下に知れきったことならんが、三浦浄心の『見聞集』巻六、大鳥一兵衛という大乱暴漢の牢中の剛語長々しくあり。つらつらこれを案ずるに、それがし娑婆にて十王と言われし身が、この地獄へ来たること因果歴然の理《ことわり》、遁れがたし、云々。それ娑婆において泰時が記したる成敗の式目は、日本国の亀鑑題目十三人奉行のうち、仁智を兼ね六人に文章を書くこと六地蔵六観音を表わす、十三人の奉行は十三仏とす、将軍を炎魔王につかさどり、善悪理非を沙汰すること炎魔の帳に罪の軽重を付くるを学ぶ、云々。乱言を乱筆せしことゆえ委細分からねど、あるいは十三仏は鎌倉のとき御成敗式目の奉行十三にこじ付けてできしにあらずや。また『改定史籍集覧』所収『藤葉栄衰記』(奥州の二階堂氏のことを記す)巻中に、葦名感興十七にて死しければ盛隆を嗣とす、日本の十三大将の内なり、とあり。たしかこの十三大将の名、『甲陽軍鑑』のしまいの方に載せありしと覚え申し候。右は貴下御存知のことなるべきも、『石神問答』十三仏の条に見えぬからちょっと申し上げ候。
 合祀またまた励行となりしところへ、中村代議士、去る二日衆議院へ質問書出し、内務省より電信あり、本県の神(282)社係、四、五日前倉皇上京、また白井氏等の世話で貴族院へも建議案出るはず、小生は成敗のわけ目この時なりと、日夜眠らず不安罷りあり候。
 『改定史籍集覧』所収『長沢聞書』に、大阪へ五鬼(後鬼)善鬼(前鬼)も残らず籠りおり候由、某は見ず候。これは新宮の堀内がこもりしとき、おそろしき人族をつれ来たれり、と評判せしならん。(鬼市の条へ付け加えらるべし。)
 
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 明治四十五年三月十一日夜九時出
   柳田国男君
                      南方熊楠
 御状拝見。因幡堂は土宜法竜師より寺僧に聞きくれしに、書上《かきあげ》を寺僧よりよこす。火事のため今は瓦なく、また瓦ありし伝もなしとのこと。小山源治氏もみずから寺に就いて聞きくれしに、その通りの返事なり。因幡堂に大なる鬼瓦ありしという記録、記事が徳川氏の世にできし書に有之《これあり》候や、御尋ね申し上げ候。狂言はいつのものか知れず、しかし、その内に大坂とか江戸とか駿府とかいうこと少しもなきより見れば、多くは徳川氏前のものと存ぜられ候。狼を山の神とするらしきことは他にも少々聞くことあり。そのうち人類学会へ出すべし。山の神オコゼを好むことも、小生は徳川氏前に記したるものあるを見ず候。土俗上必要のことにして、徳川氏前の書に一向見えぬことはこの外に多し。マルコ・ポロの支那記行に、支那人が家を食うことを少しもいわぬごとく、われわれ西洋に久しくおつたが、かの土でありふれたことは直《じき》に珍しくなくなり、日記に付けぬごとし。
 御尋問のトウボシは、小生は唐のホシイイということと存じ候。軍旅盛んなりし世にはホシイイ大切なりしゆえ多く用い、したがってかかる名もできしと存じ候。禾本科の牧草(雑草 grass)にはトボシガラ、またそれに準じて大《おお》ト(283)ボシガラという草も有之候(松村氏『改正増補植物圖彙』一二四頁)
 鬼の手紙のうちのインシデント、己が命の早使いに似たことは、デンマルク語にて長き物語なり。小生走りがきに扣《ひか》えおけるが、デンマルク語はわずかに植物の記載を読み得るまでにて十分に読み得ず、字書を和歌山におきたるゆえなり。かつ貴著に用事少なき様子ゆえ、他日字書を取り寄せ悉皆読み訳し見ん。ちょっと摘要というわけに行かぬ、こみ入った長話なり。
 十三仏は、五仏、七菩薩、一明王の混淆なり。これを仏と称すること、いかにも俗人より出しことと存じ候。田舎には、今も紀州で、仏、菩薩、明王、諸天をカンカハン(神様《かみさま》)などいうに同じ。なお障礙神法しらべ申し上ぐべく候。
  他のことはそのうちまた申し上ぐべく候。卍を万とよむは、インドにてこの印をマンとよむと覚え候。決して日本のことにあらず。賛斯の諸仏みな紋あり、これは釈迦仏の紋章に候。鍬形のこと、所考あり、次回に申し上ぐべく候。
 
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 明治四十五年三月十二日午後六時
   柳田国男殿
                       南方熊楠
 拝啓。卍と※[卍を逆にしたもの]の別、一切経中に論じありしが、ちょっと見当たらず。吉祥印 symbol Of fortune にて、釈迦のみならず諸仏菩薩の印とすること多し。たとえば『不空羂索神呪王経』巻下に、聖観音像胸前卍字印、また壇場を荘厳する諸印文のうちに卍字印あり。小生知るところにては仏像の胸印に卍あると反対に、ジャイナ教(仏教いわゆる裸身外道)の諸像は、はなはだ仏像に似たれど、胸印に※[爆弾のような図]宝珠を印し候。このことモニエル・ウィリアムス氏の『仏教講義』(284)にも載せたり。大英博物館の宗教室は、小生その整列に参与したるゆえ、このこと十分に見おり候。欧州にはこの印を gammadyon《ガンマジオン》「ガンマ聚印」と申す。ギリシア|γ《ガンマ》の字の正字 Γ《ガンマ》四つ集めたようなればなり。デンマークの上古骨塚より出づる刀の装飾にも、ローマに亡ぼされしエトルリア国の古金環にも(耶蘇前)、古欧州発掘の器にこの印多し。インドと支那には耶蘇前十世期すでにこの印を飾りに用いありとのこと、エジプト、アルメニア、シリア等のキリスト徒、摩尼《マニ》教の勢力を蒙り、耶蘇教ながら肖像を禁ずること回教徒のごとくなりしとき、もっぱら装飾にこの印を用いたり。
 ※[卍の逆の形]をマン、万の音に訓むこと一切経で見しが一昨夜のこと(吉祥万徳の集うところ、とあり)なり。さて昨日、塞?悉底迦また室悉底伽、貴問にあい、その一切経の部分を四時間ばかりしらべしもちょっと見えず。しかるに『康煕字典』を見しに、十の部に、「卍。『字彙補』に、内典の万の字なり、と。苑咸《えんかん》の詩に、蓮花卍字すべて天に由《よ》る、と」と見え候。故にこれを万字とよむは、とにかく支那より移りしにて、決してマジという和語より出でしには無之《これなく》候。一八七三年、カンニングハム氏がインド・バールットで見出だせし高さ四丈二尺の大塔の入り口・通路は卍にてはなはだ見事なるものの由、右大体『大英類典』一昨年および昨年第一一板より摘要申し上げ候。
 鍬形のことは次回に申し上ぐべく候。
 
          80
 
 明治四十五年三月十三日午後五時
   柳田国男君
                      南方熊楠
(285) 拝啓。昨夜申しのこせしこと、ここに申し上げ候。往年‘Nature’紙上に卍の源を説きし人あり、名は忘失す。その説に、行燈の火光などを目を細くしてながめつめる、久しくしてたちまち一眼を閉じ、また他の一眼を閉じ、また一眼を閉じ、かくのごとく順次左右眼をあるいは聞きあるいは閉じるときは、図のごとく光線を放つよう見え、おいおい働きを急にするときは、終《つい》に卍様の光線を放つように見ゆるに至る、とのことなり。小生みずから試みしにこの図のごとくまではなりしも、卍にはならざりし。しかし、修法者など特別の燈のしかけで、かくのごとくすれば、あるいは卍を見ることかとも存じ申し候。永い往年のことゆえ、‘Nature’の何の巻また何年ごろということは忘れ候も、右ちょっと思い出し候まま申し上げ候。
 
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 明治四十五年三月十九日夜十時出
   柳田国男殿
                        南方熊楠
 『大宝積経』第二〇、不動如来会第六の二、涅槃功徳荘厳品第五(唐の菩提流志訳、則天后のときのことなり)、「復次《また》、不動如来|応正等覚《おうしようとうがく》、身《からだ》より火を出だしてみずから闍維《じやい》し、舎利遺骸みな金色と作《な》る。たとえば低弥羅樹の、分断する処に随つてみな※[几の中央に縦棒を入れその頭にノをつける]字の文《もよう》あるがごとし。如来の舎利も、またかくのごとし。復次《また》、舎利弗《しやりほつ》よ、不動如来のあらゆる舎利は、分々周円にして、表裏にみな吉祥の相あり(相表の文、その状下のごとし、※[几の中央に縦棒を入れその頭にノをつける])。舎利弗よ、たとえば補羅迦樹の、解《けず》る処に随つて中表にみな吉祥の文あるがごとし」。(巻末に※[几の中央に縦棒を入れその頭にノをつける]音万とあり。小生ちょっと見しに『康煕字典』にこの字なし。※[卍の逆の形]を転じて支那字※[几の中央に縦棒を入れその頭にノをつける]となせしか。)
 また仏法、右旋を尚ぶ。仏塔を左旋するごときは非常に惡いこととするなり。故に、卍が本字にて※[卍の逆の形]は正字にあら(286)ずと存じ申し候。
 大英博物館に上図のごとき銅製のものあり。本邦の寺で灰上にこの字を印し、その凹所に末香をおき、片はしより火を付くれば徐々に字のままに?《こ》げ火を保つなり。清原公潭師に聞き合わせしに 「キリク」と称する器の由。これも吉祥印相と等しく、「キリク」の梵字をかくのごとくむつかしく篆字状に引きのばしたるものと存ぜられ候。
 
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 明治四十五年三月二十日夜十一時
   柳田国男殿
                      南方熊楠
 滕成裕の『中陵浸録』巻一一に、卍字、世俗まんの字という。ある人いわく、もと十字なり、十字は大禁なるゆえ、これを曲げたりという説をなす。この説然らず。案ずるに、袁中郎詩に、「竹は隠す千花の径《みち》、事は開く卍字の欄」とあり、音万なり。故に千の字と対すこと知るべし。
 
          83
 
 明治四十五年三月二十一日朝六時
   柳田国男殿
                      南方熊楠
 『夏山雑談』巻四に、「父母死んて十三月過ぎざるに嫁娶するは八虐罪のその一なり、云々。また夫死して十二月過(287)ぎざるに改嫁する女もまたこれに同じ、云々。当時行なわるるところの服忌令は、父母の服十三月、居五十日なり、云々」、十三仏と申すことは、この十三月に関係あることにあらざるか。十三仏のうち、大日阿弥陀?薬師は如来にて、観音、勢至、文殊、普賢、弥勒、地蔵、虚空蔵は菩薩、不動は明王なり。何のわきまえもなき俗人が、十三月にまつるものをことごとく仏と心得て、かかる称出でしことかとも思われ申し候。
 次に『三余叢談』に、『真俗雑記抄』というものをしばしば引けり。二十の巻云々とあれば、二十巻ばかりありしなるべし。その記事を抄せるを見るに、みな高木敏雄氏写し送らるる二冊物『奇異雑談』にあることどもなり。『奇異雑談』は『真俗雑記』という書の抄物かと思う。『真俗雑記』という書、貴下見たることありや、伺い上げ奉り候。
 
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 明治四十五年三月二十九日
   柳田国男君
                    南方熊楠
 拝啓。鍬形のことは後便に申し上ぐべく候。合祀一条中村代議士の演説は大出来なりしが、柳原伯方は提出されざりしにつき、小生また一篇を『日本及日本人』へ出すにつき多忙なり。
 卍字を如来の胸のしるしとのみ申せしは麁漏なり。『華厳経』巻四八に、「如来、口の右の輔《ほおばね》と下の牙《きば》に大人の相あり、仏牙雲と名づく。衆宝の摩尼《まに》、卍字の相輪《そうりん》、もって荘厳となし、大光明を放ってあまねく法界を照らす。中においてよく一切の仏身を現じ、十方に周《めぐ》り流れ、群生を開悟せしむ。これを(毘盧遮那如来《びるしやなによらい》、九十七の大人の相の)四十一となす」、「また如来の胸臆《きようおく》に大人の相あり、形卍字のごとく、吉祥海雲と名づく。摩尼の宝華、もって荘厳となし、一切の宝色、種々の光?輪を放って法界に充満し、あまねく清浄ならしめ、また妙音を出だして、法海を宣暢《せんちよう》す。こ(288)れを五十三となす」。
 また仏教者、陰毛(七難のそそ毛参照)に注意せしことは(すなわち陰毛の美なるを体相好の一とせしことは)、後魏瞿曇般若流支訳『毘耶婆問経』巻下に、「仏いわく、大仙、三十三天帝釈天王第一天后は名を舎文という。百千の天女、歓喜林に住み、種々の花あり。光明を開発し、集めてその身にあり。煩は蓮花のごとく、唇の色はなお金頻婆果のごとし。第一の光明、微細の衣服もて、林間に戯笑し、安行|遨遊《ごうゆう》す。天の荘厳《しようごん》をもってよく耳を荘厳し、宝釧天珂もて手臂を荘厳し、好《よ》き瑤珞《ようらく》および半瑤珞をもってその身《からだ》を荘厳し、脚には宝釧《ほうせん》を著く。釧に妙声あり、種々の音楽をなす。歓喜林中をかくのごとくして遊行す。頬の分は寛博にして、妙花地に落ち、上にあって行《ある》く。臍下陰上に細毛の文あり、妙宝の跨衣《こい》をつけ、行《ある》けばすなわち声を出だす」。これは○本に毛のちゃりちゃりいうほどおし込みなどあるごとく、陰毛が裳下の衣襦にふれて鳴るを賞せしなり。
 右記しおわりしところへ土宜法竜師より状あり、よって別ハガキに記し、御覧に入れ申し上げ候。
 
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 明治四十五年三月二十九日
   柳田国男殿
                      南方熊楠
 土宜法竜師、只今来書にいわく、※[卍を逆にしたもの]字(土宜師は※[卍を逆にしたもの]とかけり卍とせず)高説のごとく存じ候なり(吉祥万徳の集うところ、の万〔傍点〕より万音とせりとの)。『翻訳名義集』に(三)、「梵に宝利靺瑳(靺《まつ》の字また万音に近し)といい、ここに吉祥海雲という。『華厳経音義』にいわく、※[卍を逆にしたもの]字を案ずるに、もとこの字にあらず、大周長寿二年、主上|権《はか》ってこの文を制し、天枢《てんすう》を著《あら》わし、これに音をつけて万となす、吉祥万徳の集うところを謂うなり、云々」。卍と※[卍を逆にしたもの]と万と同字(289)なるべし(これは土宜師の案なり)。
 小生『牟婁新報』に書きし妻の腹に牛また羊を画きし笑話は、欧文の分、貴下へ差し上げたり。また『東京人類学会雑誌』、シソダレラの話にも載せたり。これに似たるもの、仏書には今日まで見出ださず。しかるに『笑林広記』巻の一より見出だせり。この文小生に十分読めず、貴下または貴下の御知人、なにとぞこれを和読して御示し下されたく候なり。知らざるを知らざるとし、陶潜は難読を強いて解するを力《つと》めざりしというから、あえて御問い合わせ加勢を乞い申し上ぐるなり。
 掘荷花。一師出外坐館、慮其妻以人私通、乃以妻牝戸上、号荷花一朶以為記号、年終解館、帰験之日、落後無復痕迹矣、因大怒、欲責治之、妻曰、汝自差了、是物可画、為何独揀了荷花、豈不暁得、荷花下面有的、是藕、那些来往的人、不管好悪、那個也来掘掘、這個也来掘掘、都被他們掘乾浄了、与我何干。
 〔「荷《はす》の花を掘る。ひとりの師、外に出でて館《じゆく》に坐《つと》めんとし、その妻の人と私通するを慮《おもんばか》り、すなわち妻の牝戸《ほと》の上に荷《はす》の花一条を号《しる》し、もって記号となす。年終わって館を解かれ、帰ってこれを験《あらた》めていわく、落ちてのちまた痕跡もなし、と。よって大いに怒り、これを責め治《こらし》めんとす。妻いわく、汝みずから差《たが》えたり。なにものにても画くべきに、いかなればひとり荷の花を揀《えら》べるや。あに暁《し》らざらんや、荷の花の下にあるは、これ藕《れんこん》なるを。かれら来往《ゆきき》する人は、好悪にかかわらず、かれも来たつて掘り、これも来たつて掘る。すべてかれらに掘り乾浄《つく》されたり。われと何ぞ干《かかわ》らんや、と。」〕
 これは藕根をほり去つたから蓮花が失せたということなれど、委細小生には解し得ず、和解を乞うなり。
 
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 明治四十五年三月三十一日夜九時
 拝啓。鍬形のこと、小生も年来疑いおり、この飾りを鍬形というも少しも鍬に似たることなし。しかるところ英国(290)ニューカスル・アポン・タイン Newcastle-upon-Tyne 市の医者 T.M.Allison 六年前‘The Archaeologia Aeoliana’誌に連伽《からさお》のことをかきし中に、日本の連伽のことありしにより、小生へいろいろ聞き合わせに来たり候ついでに、一九〇七年十一月三十日付状中に左のことあり。今夜いろいろ探し、ようやく見当たり候つき、写し申し上げ候。
 いわく、「このごろバスク Basques 間に旅行せしに、liah《リアー》なる農具を見る。これ他の人民間に見ぬところと信ず。木造なり。毎人この器二を手に執り、(一手に一つずつ)三、四人一列に立ち、まずこれを挙げ、次に土につきこみ、跡へ引き足もて一を土中に押し入れ、一同に土を前方へ起こす。かくて犂同様に長きあいだ土を起こしありくなり。この国は今もツムをもつて糸をくりおる。紡績のこれも単簡なる方なり」(上図、いちぶ一体違わず写す)。御承知ごとく、このバスク人は他の欧人民と容貌左まで変わらざるも、言語は世界中に類なきものにて(polysynthetic 複多点合、すなわち南北米のインジアンの語と似た語法なり。ただし語はこれとも全く異なり)、言語学上、実に希有のものたり。その文献は十六世紀以前のものなし。スペインのビスケー湾辺にすむ民に候。(一昨年出板『大英類典』巻三によれば、只今六十万人あり。外に南米ラプラタ辺に十万移住とのこと。)
一九〇四年四月二日の『ノーツ・エンド・キリス』に、英国のバスク好き E.S.Dodgson が、アイヌ語とバスク語中相似たるものを撰出せること左のごとし。前のはアイヌ、次のはバスク。
  Aashi,to be shut――Echi,in composition,e.g,
  Aba,relation――Aha,tribe,clan,family,(abo――father in the Daffla language of Assam. 北インド)
  Au,branches of horns or trees――Abar 同左
  Chiri,bird Chori(said to be Japanese also)sometimes written Hori
  Chisei,house――Eche,echi
(291)  Epa,to fulfil time ――Epe, delay,space of time(qy.Latin,spe,through(e)spe,then epe?)
  Eren,three persons ――Eren,heren, third(cf. Armenian eresun=30)
  Heashi,the beginning――Hatse,haste,beginning;hashi,hasi,begun
  Heise,the breath――Haise,Wind,Cf.※[ギリシャ文字省略](ハネモス),animae,anima
 熊楠いわく、このギリシア・ラテン語は少しもアイヌにもバスクにも似ておたず。
  Huibe,the inside fat of animals――Kcipe
  Oiki,to touch――Hunki 同左
  On,ripe――On,good;ondu,onthu goodend,ripe(of fruit)
  Sak,without――Zaka,Saka,qy.Irish Sech?
  Shi,to shut――Echi(whence house=Keltic dun,originally encloused,fortress)
  Shiri,earth,land――Hiri,town
 バチェロール氏これを見てドジソンに状を贈り、かかる同似の語これよりも多くば、予はアイヌとバスクをもって、その一は他の dialect(方言)と見るほどよく似たり、といえり。
 同年五月二十八日の『ノーツ・エンド・キリス』によれば、以前カナダのモントリール市のジョン・カムベル博士、契丹 khitan 族の語種というものを作り上げ、小冊子を出せり。この契丹族語譜は、(旧世界の分)一、バスク、二、カウカシアン、三、シベリアン、四、日本(日本、琉球、蝦夷、高麗)、(新世界の分)南北米(十三属に分かつ、今略す)、外に今亡びたるエトラスカ、フリギア、リシア、ケルチベリアン等、古欧州および西アジアの語をも入れたり、となり。
 小生は、例のごとくバスクとアイヌに多少似た語のあるを偶合とするものなり。しかし、右のアリソン博士の状に見えたる珍具より考うるに、わが国(またアイヌに)〔【次頁】〕古え図のごときものありて、これをもって土を掘り起こし犂(292)鋤の用をなせしより、これに似たる兜の建物を鍬形と称せしにあらざるか。何の用とも知れずに蝦夷が兜の鍬形ごとき鉄製の器を珍蔵することは、旧記にしばしば見るところに候。支那に斧鉞を尚ぶなども、実は木を伐る斧が以前非常に尊ばれしときの遺風で、後世、斧が尋常の道具となりし後にも、玉斧とか石鉞とかを尚び、わざわざ貴珍の材料もてこれを作り、飾具とせしことと存じ申され候。
  払子は何でもなき蠅払いなれど、後には希有の毛をもって作り、法燈を伝うるしるしとせしごとし。
 右早々申し上げ候。二股の木をたっとぶことは、小生、前年『ネーチュール』へ長々しく出したが、今ちょっとその号見当たらず、また材料広博にして一々思い出さず、後日に譲り申し候。
 合祀一条は、三月十二日、一時間に渉れる中村氏の質問演説(早川竜介、翠川鉄三、山根正次、武藤金吉等、六十六人賛成あり)あり、『万葉集』など引き、未聞の永演説なり。多少聞きしと見え、内務省より「神社設備心得」を出せり、小冊子なり。たぶんこれにてあまりの励行はなきことと存じ申し候。(岡山県の神官より申し来たりしは、もはや同県は実際中止の由。)少々のことは一生いいおるもはてしなく候。小生も只今出しおる『日本及日本人』の論文にて陣を引かんかと存じおり候。白井氏もずいぶん骨折りしも、柳原伯の建議案は中止になり申し候。
 『人類学雑誌』、イタカの話中に見えたる?虫《まいまいむし》のこと、今もこの辺の巫《みこ》は神社の拝殿にてまうこと、かの虫のごとし。また小児むちゃくちゃに速やかに舞うとき唱うる辞、「まいまいこんこんきりこんこん、眼が舞うたら灸《あいと》すえよう」。何のことかちょっと分からず。
 御尋ねの Sayce 氏は、オクスフォード大学の教授にて、アッシリア学の大|巨擘《きよはく》に御座候。
                      南方熊楠拝
   柳田君
 
(293)          87
 
 明治四十五年四月二日夜十時
   柳田国男殿
                      南方熊楠
 『笑林広記』の解答、高木氏より来たる、小生の解と大体同じ。
 鉄糞塚は当国にもあり。これは所の者が鍋釜など鋳直せし塚なり。むかしは鋤犂までかかる塚にて鋳直せしことと存じ候。山路を歩くに、ふと異様の鉄塊を拾い、天より降りし隕鉄ならんと十襲するうち、いろいろ聞正してその辺にむかし鍋鉄《なべかね》鎔《と》かせし処ありと聞き、試験するに果たして鉄糞で、大いに失望せしこと一、二度あり。学者がことごとしくいうものの中に、かかること多くあり。(伊藤篤太郎氏の『多識会誌』に、田中芳男君、古代の人形と思いしらべたら伏見人形を製造する型なりし由、見えたり。)当地に近き小野崎《おのさき》の稲荷社合祀跡より、鰡魚《いな》の心臓《うす》ごとき土製のものたびたび出る。小児ら雷《かみなり》の臍《へそ》と名づけ弄ぶ。珍奇のものと重宝せしに、五、六十歳の百姓来たり、それは以前予ら若きとき、ここで土瓶など焼きしが損亡して廃業せり。それは土瓶の足を別に多く作りたるが、廃業の節無用になり棄て埋めしなり、と。先年、小生在米のころ、鮫《さめ》の上齶の化石なりとて、歯磨きブラッシュの柄の古びたるを拾い自慢しあるきし人ある由、『ネーチュール』に見えたり。
 
          88
 
 明治四十五年四月十日午後二時前
 拝啓。七日夕出芳翰只今著、拝承。五葉三葉のうつ木《ぎ》のことは小生知らず。また、みつばうつぎと申すもの、熊野(294)にも東牟婁郡川湯辺に多し。これは漢名省沽油に宛て来たり、うつぎとは別科のもので、すなわち木患子《むくろじ》科のもの、うつ木は虎耳草《ゆきのした》科のものなり。小生は、長者になる云々の話は見しようなれど、今覚えず。これは例の三枝《さいくさ》等の字より出でたることと存じ候。
 里談−文章−里談。内外国の里談が文章に著われ、それよりまた退却して里談となりしものと存じ候。
 金糞塚。小生前便申し上げしは、東牟婁郡那智村大字|稲成《いなり》にも隕石と覚《おぼ》しきかなくそ、土中より雨にて露出せしことあり、検するに鉄糞なり。また小生、明治十八年ごろ英画冊をもって人と交換せし古き弄石家の石類を集めたるもの、古風の重ね箱七箱ばかり今に蔵せり。その中に天糞(星糞? 今たしかに記せず)とか題せる一小塊の隕鉄ごときものあり。これも隕鉄にあらずして鉄滓なり。この他東牟婁郡にかかるもの三、四ヵ処見えたり。むかしこれを鎔かせしと覚しき処は炭焼き窯のごとく、また実際鉄も溶かし、その前後に炭をも焼きたるごとく(炭を焼きたるは炭屑のこれるほかに、Rhizina《リジナ》など申す菌、また Funaria《フナリア》 hygrometrica《ヒグロメトリカ》 と申す蘚など、炭やきし跡を好んで生ずる植物あるにて知る)、いずれが先やら跡やらちょっと小生には分からず。あるいは炭をやくとき不意に鉄を落とし込み、炭と鉄と合して鉄糞となりしかとも思う。別に意を込めて特に調べざりしゆえ、今となりては夢のようなり。ただし、井関のはたしかに近年まで(近年とは四、五十年前)鉄やきし、と小生親族のものの手代申し候。その辺の老人も申し候。いずれも現存ならん。今より十年ばかり前のことなり。小生の父、鍋釜売り身代作り上げし人にて、そのころ(四十年ばかり前まで)は和歌山に金屋町《かなやちよう》というあり、主として鍋鉄《なべかね》を鋳る。その職人は一種特別のもののごとくなりし。いろいろの祭りもありし。調べおいたら用に立つべかりしに、毎日小生見ることとて何の気もなく過ごせしは遺憾なり。
 小生ロンドンにありし日、会津の栗原|金太郎《きんたろう》という人に半年ばかり交際せり。四十六歳なりし、今は六十歳ばかりならん。この人は鋳工《いもじ》なり。この人話に、会津に塩川掃部介という鋳工の大親方あり、烏帽子大紋にて受領を代々受(295)くるに、何十人とか人従え京都へ登るに、大名と同じ対等のつきあいなり、とか申されし。その他のこと多く聞きたれぢ、酒飲んでばかり聴きしゆえ今覚えず候。
 鍬先のこと、小生かの夜すこぶる疲労しおり、毎度認めんと思いおりしをその夜むりに書き走らせしゆえ、麁略な書き方なりLと存じ候。蝦夷の珍重するものは、必ず日本または粛憤辺より入りしものと小生も存じ候(蝦夷錦のごとく)。しかして、小生は蝦夷に古来全く耕植のことなかりしと思わず。極北のエスキモーのごとく草木全くなき地は知らず、草木多少ある地には多少地を穿ちて根を取り食らい、また土を掘りて貨を蔵し、また樹を植うる等のことはありと存じ候。これらは耕の字には不適当なれど、果を植え木生え、その果をとり食らうも言わばまた耕というべし。このごろは一向読まぬが、三十年ばかり前、今のジョン・モーレー卿が『ペルメル新聞』編輯長なりしとき、小説家兼進化論者として名高かりしグラント・アレンの説に、耕は植より起こるとて古学《クラシツク》の例多く引き、また蛮人の所為を参して、太古人を埋め墓上に珍しき樹草を種《う》え、また樹草の子《み》を蒔く、それが長じて自然有用の果を結ぶをとり食らいしより、農稼を覚えたり、といえり。(小生はこの説の真偽を知らず。)ともかく蝦夷、かかるものを粛憤なり日本なりよりして得て尚びしが、今は本国には失われ忘れられ、蝦夷にのみのこりしを、日本の兜の鍬形に似たるゆえ、日本人が蝦夷の件《くだん》の器を鍬形と呼ぶなるべし。(南蛮シャン国の孔明陣太鼓と称する銅器同様、実際の用を今忘れられたるなり。)さて日本の兜の鍬形を鍬形とよぶは、日本でもむかし鍬の原始はバスクの土を掘る器に似た※[図有り]こんなものなりしことと存じ候までなり。あるいは鍬行なわれし世まで辺鄙にかかる※[図有り]器ありて、多少鍬の用をなすゆえ鍬形と名づけ、それに似たるゆえ、兜の前立を鍬形といいしかとも存ぜられ候。しからずんば、兜の前立を鍬形ということちょっと分からず。
 この辺に「たたき」というものあり、何のこともなきこんな※[図有り]棒なり。一本または二本もち、豆の莢《さや》をはずすとき、また胡麻《ごま》の子《み》を分かつときなど莢をたたくなり。また、がんぞう(稲の穂をしごきて残り稿《から》に付く(296)る分)をたたく。この物は前日申し上げしバスクのこと申し来たりし博士の説に、農家穂をたたき分かつ(枷《からさお》、また『唐土訓蒙図彙』に見えたる牛に旋廻しながらふます法等あり)方法中、もっとも簡単、原始のものの由。かかるもの後世日本へ入りしと思われず、必ず「からさお」より先、また晩くとも同時に発明され、また外より入りしものなるべし。しかるに、『和名抄』その他を見るに、右の「たたき」というものの名一向見えず、それらしきものの名もなし。件《くだん》の鍬形の器もこの類で、古文書に一向見えぬが兜に鍬形あり、またバスク人に似たものあり。アフリカ土人のもっとも簡なる農具また掘根器に、何のこともなきこんな※[図有り]尖れる棒を珍重するに比して、古えかかる掘土具、日本にまた蝦夷にありしを知る。ただし前状にも申し上げしごとく、小生はかかるちょっとしたもの、必ずしもバスクより蝦夷に伝われりとか、粛慎、蝦夷よりバスクに伝われりとか信ずるものにあらず。下駄がきれたら五歳の小児も繩でくくることを発明するごとく、必用に応じてそれぞれ製出し伝用せしものと存じ候。アイヌは耕作を知らずとあれど、古えその土にその風ありて、今全く忘られたるもの多し。
 すでに本朝にも『延喜式』のころ乳を作り(『万葉集』を見れば、そのころの人は反芻獣の腹中の芻(英語 cud)を珍重して食いしなり。今日洋食盛んなるも、かかるもの食う人なく、また食う法さえ知らず)酥を製せしほどなるに、後世全くそのことを聞かず。外人が牛、羊の乳を呑むと聞きてたちまちへどを吐く人すら多かりし。
 マルコ・ポロの記行に、そのころ支那人約婚して死せる男女の位牌と婚することを記せり。ポール・ラクルアの訳せし『蒙古史』にもその詳細を記し、元人この風を支那に注入せり、とあり。小生、宋末の韓なんとかいう人〔【康与之】〕の『咋夢録』を見しに、このこと金人が支那へ持ち来たれる風のごとく記し、奇怪なことに記しあり。よって(只今もこの風支那にあり、支那固有在来の風のごとくいう人ありしゆえ)十七、八年前『ネーチュール』に一文を投じ、右は支那在来の風にあらず、北狄の風を入れしなり、と論ぜり。
 しかるにその後『丹鉛総録』を見るに、このこと古く周漢のときよりありしようなり。『咋夢録』の記者およびその(297)ころの支那人一汎に、奇異狄夷の奇習として、さてこそ特に書きたるなれども、その古えは実に支那の風、また支那と北狄とに共通の風なりしを知らざりしなり。よって小生の論をも破棄《はいき》する旨近日公言せんと思う。
 万事この類で、小生米国へ渡りしときトランク長持に車輪付けしものを見て、非常に便利なものと思えり。しかるに明暦の火事の記など見るに、車長持というもの、そのころ町の煩いをなすまで多かりしなり。わずかに二、三百年ほどのことだに、本邦にありしものを本邦人が忘れ、他邦にあるを見て希有の想いをなすことかくのごとし。一昨々年あたりパリで発明せし鼻を隆《たか》くする器あり。※[図有り]かくのごとき器にて、夜眠るとき鼻をはさみて臥す由なり。珍しきことのように友人ら思う。しかるに小生往年パリの林忠正氏より購い、今も蔵する『女大学』作りかえの春画一冊に、野郎を育て上ぐるに鼻低き子を高くする具とて図出しあり、全く今度パリ発見のものに同じ。また人力車を、米国と貿易始めてのち江戸、横浜辺でできしが世界中で嚆矢のようにいう。しかるに十七世期のオランダ繁昌記のようなものにこのことあり。その図も出でおる。欧人それに気づかず、日本のが嚆矢のようにいいはやせしなり。支那の何なりしか忘れたり、朝鮮より入来たるにあい、古書に記したるその国の風俗を問うに、一向そんなこと今はなしと答う。これをもって案ずるに、まことに中華のみならず、辺土の民にもまた沿革あり、古今の差あるを知る、と大発明のように記しあり。(例の清朝の始めに、流?《りゆうきゆう》人を人肉を食うとかきしに、琉球の使、今はそんなことなしとて駁論を上《たてまつ》りし。)
 まことに智恵の足らぬ人発明と笑う人も多いが、実は今日の人類学者、風俗学者、制度学者も多くはこの類で、書伝ある国は一年内にすらいろいろの流行変異あるを呑み込むと同時に、書伝なき国は古えも今も風俗習慣一定して全く変移せずと飲み込んだ人多し。故に原始人民《プリミチヴ・ピープル》、自然人民《ナチユール・フオールカー》などと並称して、ヴァイツごとき大人類学者すら、自然人民とて諸蛮夷は書契なく、したがって風俗に改良を加うるを知らずと定義し、中には大学者でおりながら、(日本、支那をすら)欧米および欧米開化に関係ありしユダヤ人等の外の民を一切自然人民としたるもありし(もっとも(298)日露戦争後かかる人はなきようなれど)。
 ハーバート・スペンセルなど、さしも議論を正議するようにみずから信じ人も信ぜし人ながら、太古原始の民と今日の辺夷裔俗を同視して、事あるごとに上古民と今日の未開人を区別せず、勝手次第に引き用いたり。さて、その辺夷裔俗の風俗伝話は過半は開化民の創製を伝えたるもので、いわゆる「礼失われてこれを野に求む」なり。このことの不当なるは独人ボースドールフという人前年論じたり。
 右のごとくなれば、アイヌが古来全く耕植を知らざりしものと小生は思わず。また知らざりしにしたところが、鍬形の名義に関係なし。すなわちむかし本邦の※[図有り]鍬形に似たる器今は用を失いしが、アイヌその形を珍重するなり。また、その形あまり扁なりとは兜の鍬形の薄扁なるをいうならんも、そは装飾に用いるゆえにて、諸社の祭儀に用いる鉾なども、もとは兵具に相違なきも、今用いる鉾はなかなか薄くして人を突くの用をなさぬもの多く、『骨董集』に見えたる、京辺で進物にするぶりぶりは、全く台にひっつきおわり、振舞いすべき緒の孔もなく、ぶりぶりの用をなさず、ぶりふりとは何のことに使うものやら、全くその物を眼前に見ながらその用を知らざるごとくならん(南洋土人等は、今もぶりぶりを秘密儀の一大事とし、これをふる所を見る婦女をたちまち殺害する由)。
 また、クワは鍬を意味するは日本にてのこととあれど、自分に勝手よきときは思い付き次第に遠方の語まで邦語の語原として引用し、さて都合悪しきときはたちまち近方の語までも閑過するが、言語をもって物を判ずるの弊なり。右に申すごとく、いずれの国、いずれの蛮民にも語原の変遷失獲古来多ければ、クワという語全く古来アイヌ語になしとも判じがたかるべし。
 今のトングースの風俗はなはだ本邦の中古のものに似たること多き由、先年仏人の著にて見たり。また『輿地誌略』で見たる安南国王および大官の冕服《べんぷく》など、全く日本の袞竜衣《こんりようい》の制なり。これらは申すまでもなく、日本よりトングース(粛慎や安南に移りしにはなく、等しく古支那の遺風が残りしなり。粛慎から蝦夷・日本へ伝わりしなど心得るう(299)ちにも、実は等しく古支那より伝わり残れるもの多きことと存じ申し候。ただし、簡単なるものはいずれの地にも特自発生もすべく、またこじ付けていわば人間の祖先が多方に分居せぬうちすでに創製しおりたるものなるべし。
 ソキシン、たしかに識神に候。一切経の内より見出だし扣《ひか》え置きしが、小生目下顕微鏡の方多忙で眼悪くちょっと見出でず、そのうち見当たらば申し上ぐべく候。
 「石神考」等にて本邦の両部神道に仏教の外に道教多く混入せること承知仕り候。しかるにこの道教と申すもの、本邦の神道同様支那在来ながら、今のごとく神号を設け組織して道教となるに至りしは、後漢の世に仏教渡来後、多くそれに付会、模倣または沿襲してできしものに候。天神、大王、大将軍以下の号、みな実は婆羅門《バラモン》教より出で、仏経にあるを支那へ襲用せしこと、あたかも神道の六根清浄、鉄丸を呑む、天神、天王、八幡等のごとし。このことは『十門弁惑論』、『甄甄正論』、『破邪論』、『弁正論』など見れば一目了然に候。
 小生、近ごろ少間を得て、仏律に見えたる男女交会の方法、その他|?吻《キツス》、ルーデサック等、種々猥雑なことを、欧州の古今の書および本邦の春画の詞書につきしらぶるに、かれにあることはこれにあり、これにあることはかれにあり、別に他国また他人より教えられて始めて了《さと》りしと思わるること少なし。誰でも少々智恵あるものは思い付き得るようなことのみなり。万一そのことなき場合には、必ずその物料なき場合に限れり。(ゴムをもって男橋形《おはしがた》を作るごとき日本にはなし、ゴムはインド等にあれど日本にはなかりしゆえなり。)これと等しく飛行機や汽車ごときこみ入ったものは別と致し、ちょっとしたものはいずれの国にもあり、またはかつて一度や二度は行なわれしものと存じおり候。故に、かかる簡単なことを穿鑿してどこの国で初まり、どこの国に伝わったなどというは実際に迂《うと》き論で、正しくいわば、どこの国の文献に始めて見えた、どこの国の文献には晩くまで見えぬというべきことと存じ候。
 リング・ロスとて、英国で名高き人類学者あり。小生へ状おくり、日本には箚青《いれずみ》盛んなるに支那には一向なし、しかるに日本で箚青後湯を皿に入れその痕を熨《の》すに用うる皿に永楽とかの銘あり、不審なり、と問い来たる。よって返(300)事に、今日「日本製」、「マンチェスター製」など印記せる品に実はドイツ製多きごとく、むかし日本で支那製を慕うのあまり、今も沿襲して皿や鉢に支那の年号を書くなり。また支那に今は箚青あまりはやらず、しかし、むかし大いにはやりしことは『水滸伝』の浪子燕青、九紋竜史進で分かる。岳飛ごとき高官の人すら尽忠報国と箚青せりという。故に時代に変遷あり、古今有無あること東洋も西洋とかわらずと答えしも、一向飲み込まず。学者にかかる一闡提《いつせんだい》無仏性の分らず屋多し。またエルウォーシーとて『邪視(Evil Eye)』の大著述なせし人あり。この人むかし江戸で小児がかきまわりし浅間権現の額打ちたる神輿を手に入れ、大英博物館へ奉納し、これはノアのアークより出でしものなりと固張す。小生、そんなむつかしきものにあらず、小児の祭りの翫具なりといいしも聞き入れず。実に難儀な爺様なりし。
 しかしながら、歴史は繰り返す(この語もまた欧人の発明にあらず。杜氏『通典』の序に、夏殿周は起こりようは異なれど亡びようは同じというような言あり、はなはだ似たことなり。孔子が損益するところ知るべしといえるに拠りしにもあらざるべけれど、とにかく少し智恵あるものは誰も言い得る語なり)で、このごろわが国に考古学など弘まるにつけ、どうやらわが欧人を笑うところのものをわが邦人もまたくり返しおるらし(小生もむろんその一人かも知れず)。すなわち見付き次第自分に都合のよきことを正論とし、知らぬことは知るに足らず、はなはだしきは自分の知らぬことは真の智識にあらずとして立論するなり。(欧州にかかる人多きはウォーロール和尚これを述べ、また古くは論理学ばかり発達しても肝腎の論理を立つる土台が間違えば何にもならぬとて、ロックは‘Understanding’(理解論)一冊を著わせり。真言の教にも煩悩は業罪重けれども除きやすしとて、降三世明王、自在天を踏むに力を入るること、烏摩《うま》天后を踏むほど入れず、天后は所知障《しよちしよう》に象る、所知障は知らぬことを知るは難し、おのれが知らぬことありというに気付くことすこぶる難ければなりとて、女は柔軟ながら、性質、執拗、頑冥はるかに男にまされりとて、所知障の除きがたきを天后に比し、必死になり、これを強く踏めり。)
(301) 小生、往年大英博物館におり、書籍至って自在に用い得たゆえ、東半球のみならず西半球の諸語をしらべ、一々反照して扣えしに、同じ物や同じことに同じ語の付くものはなはだ多し。よって些末のことは姑《しばら》く置き、西半球の語が東半球より来たりしものと見て、これはかれより、これはかれより来たるとおびただしく書き付けたるうち、静夜ふと気づきしは西半球の諸国を新世界と唱うるはコロンブスが発見して以後、東半球人に目新しいからとて名づけたことなり。実は西半球にも古くいろいろの開化ありしは、中米等の大故墟、その地へ欧州人至りしころ、すでに誰が作りしやら一切伝なかりしで分かる。また南米ブラジル等で古き火山岩や氷河の下より人の遺骸化石を出だせしことすらあり。今その地は大熟地なるに、そこまで氷河の届くほどの世の前にすでに人ありしなれば、新世界どころでなく実は東半球の人より古く人ありしかも知れず。わずか三、五百年来かき留めた語彙をあてにして、かれこれ語の伝来など論ずるは無用と思い、言語をもって事を判ずることは一切止め申し候。これに加うるに、言語にはそれぞれ韻あり、響あり、字で書かば一つながら実際まるで違うこと多ければ、あまり古いことは言語で論じ得ぬこと多し。
 小生神社合祀の件も、まずは中村氏の長演舌で事すんだらしいから、頃日一向閉戸杜門して顕微鏡のみ使いおる。妻と子二人、下女一人で至って事なし。しかるに朝起きてより夜戸を鎖すまでの間の、一家族経歴の事項を一々記し置き、その原因、沿縁を見るに、なかなか二、三百頁で書き終わり得ず。一日のうちにわずか四人の家内すらかくのごとし。いわんや原始より今日に至る諸邦人民の履歴においてをや。これをわずかに二、三の言語や三、四の用器作法に取りて、これはかれより出ず、かれはこれより出ずという今日の学者の所為は、みな大間違いに徒労するものと存じ候。
 また今六歳になる男児と二歳になる女児を、生まれしときより注意して書き付くるに、人間の一通りの性情を漸次人が教えぬにみずから発生し習熟す。今日たちまち首ふり出し、明日手をふり出し、明後は歯ぎしりかむことを数時間熱心に習うごとし。また言語も初めは哭きつづけ、次にはオクンと言い出す。他は知らず、この辺の嬰児、物いい出す始めはみなオクンという(仏書にいう呵吽かも知れず)。さて機嫌よきとき、怒るとき、悲しむとき、急《いら》つとき、(302)いずれもオクンの一語でいいあらわすが、その響きも声も早緩も大いにちがう。また自分で物に勝手な名を付け、朝夕忘れずに不慮にもその名を適用することあり。小生の男児、物いい始めに、少しも教えずにおき不倒翁《おきあがりこぼし》を示すに「ゴッチョ」という。これを収めおき四、五日へてまた出すに「ゴッチョ」という。(ゴッチョとはこの辺で意地のわるき者を意地わるゴッチョという。)何のことか分からぬが、これをゴッチョと呼ぶには多少の意あること、麁《あら》きものを「アラシ」また英語「ラッフ」、滑らかなるを「スベスベ」また「スムース」というような意なることと存じ候。音韻の学も心理の学も麁《そ》なる今日、これらの理窟を見出だす能わざるは残念なれど、精究年を積まば必ず多少の得るところあること、われら幼年に誰にも学ばずに磁針が多少傾くことを見覚えしが、のち書を読むに及びその原則あるを知りしごとくならんと存じ候。これらの研究は、むやみにこの語はかの語より出ずなどという稽古よりは、はるかに満足有益なる研究と存じ申し候。
 小生には一向分からぬことながら、おさがめという海亀はむかし大海に生じ、それが陸近く棲むようになり、また只今大海に棲むこととなりし沿革を証すべき痕跡をその甲に留めおる由。ちょっと変移しがたき亀の構造すらかくのごとし。いわんや言語など申すものは誰も慰み半分まねしたがり、またもっともまねし移りやすきものに候。(どもりのまねして真のどもりになる人多し。)されば、多くの言語の中には、此方に生じて他方へ渡り、また他より此方へ輸入せしこと幾度も重なりしもの多かるべしと存じ候。実例はちょっとたしかに挙げ得ぬが、今日支那人が日本の方語と心得る言語中(折角《せつかく》とか、兎角《とかく》とか、頓着とか)、実は古え支那より日本へ入りたるもの多し。今のギリシア・ローマ人が英・仏語と思い嗤笑するその語が、純正のギリシア・ローマ語なること多きに同じ。
   柳田国男様
                      南方拝
 
(303)          89
 
 明治四十五年四月十二日朝出
   柳田国男様
                     南方熊楠
 八百比丘尼ということ、劉宋天竺三蔵求那岐陀羅訳『菩薩行方便境界神通変化経』巻中に、「世尊この経を説く時、八百の比丘尼、優多羅僧衣を脱し、もって上仏を奉ず」。文学麁なる時代には、こんなことを説解して、八百人を八百歳と合点し、伝説できしかとも存じ申され候。
 シメジガ原、サシモグサは衆生のことなるを、シメジガ原の艾《もぐさ》は名産と心得、例の瀉をナミから片雄波も名所となり、蜀山人の書きしものに、松年《まつとし》という女郎に、キカバという雛妓もできし由。
 今日まで見るところで、地蔵菩薩の名は東晋天竺三蔵仏陀跋陀羅等訳の『大方広仏華厳経』巻四五に大地蔵菩薩とあるがもっとも古く(乞伏秦の聖堅訳『羅摩伽経』には持地蔵菩薩とせり)候。唐の般若の訳には同じ処にただ地蔵菩薩とあり、それより先(後漢等)には持地菩薩とせり。この菩薩は仏法入りしころより支那に知られおり、地蔵の名は東晋ごろより行なわれしことと存じ候。
 かつて写し申し上げし、林道春の書いたものに出でたる山男は、樹が人体様をなしたるものなり。趙末の施護訳『守護大千国土経』巻中に、樹形|矩畔拏《くはんだ》(鳩槃荼ともかく、鬼の一類なり)あり、似たことと存じ候。
  右申し上げ候。識神の出処はまだ見出でず。しかし、この字仏経に出ずることはたしかに記臆す。そのうち見当たらば申し上ぐべく候なり。
 
(304)          90
 
 明治四十五年四月十二日夜十二時
   柳田国男君
                      南方熊楠
 拝啓。小生眼悪きも押して昨夜と今夜四時間ばかり探し、ようやく一ヵ処識神という字見出だし、ちょっと見当たりがたきものゆえさつそく写し、即時投函に行き申し候。東晋三蔵法師仏陀跋陀羅訳『摩訶僧祇律』巻三二?陳如比丘(釈迦の父の家来の子で、釈迦出家のとき五人逐いて出家せしが、その苦行止めしを卑劣とし、別処に苦行す。釈迦成道後、他の四人と共に一番にこれに随う。いわゆる五比丘の一なり(歿して、「四魔天、来たって、その識神を観んと欲せしも見えず。すでに白鳥に変じて去る」。文簡にして十分分からぬが、四人の魔天来たり、識神を見んとせしとき、すでに白鳥に化して去ったあとゆえ見えなんだということ(人の魂、神鳥に化する信仰、インド外にもあり、日本武尊の御事なども似たことなり)と存じ候。他にも識神という字ありしと存じ候えども、只今ここに引けるところの識神は人の魂〔六字傍点〕ということと存じ候。晴明等の識神は、その前後の支那の道家がこの仏家の識神より変じて作り出だせるものながら、死霊をつかうというようなことで、あまり仏家のここにいえるところとかわらぬことと存じ候。
 
          91
 
 明治四十五年四月十五日夜十一時
    柳田国男殿
(305)                      南方熊楠
 拝啓。貴状拝見。鍬の一件は小生間違いなるを知る、故に降参致し候。識神のことは、一昨夜はがきにて申し上げ候。また猿を馬厩また象厩に畜《か》うこと、安南、支那、シャム等にもあるが(『東京人類学会雑誌』、小生の「本邦における動物崇拝」に出ず)、インドにも古くあり。東晋三蔵法師仏陀跋陀羅、沙門法顕と共に訳せる『摩訶僧祇律』巻五に、過去世に一王あり、二鸚鵡を養う。「王はなはだ愛念し、盛るに金籠をもってし、食にはすなわち案を同じうす」。大臣あり、十?猴を奉る。「人情、新を楽しみ、王すなわち愛念し、飲食《おんじき》養育、鸚鵡に勝る」。二鸚鵡、偈を説く、「今この?猴の子、久しからずして、まさにまたこの利養を失うべし」という。「この?猴の子、小なる時、毛色潤沢にして、跳踉|※[走+兆]擲《ちようちやく》して人の戯弄するところとなる。ようやく長大なるに至り、衣毛憔悴し、人の見るを惡《にく》むところとなり、耳を竪《た》て口を張り、小児を恐怖せしむ、云々。大王、愛意ついに尽き、すなわち左右に勅して、馬槽柱に繋〔五字傍点〕がしむ」。そこへ王子少年にて飲食をとり来たり与えず。猴大いに瞋《いか》り、王子の面を傷つけ、衣服を裂き、王大いに怒り、人に勅して打ち殺さしむ。この外にも一、二ヵ処、猴を馬厩につなぐことあり。見当たらばまた申し上ぐべく候。
 ウツギはウツギ、マルバウツギ、今一つなんとかウツギ(ヒメウツギ?)と三種この辺にあり。また別のものながらミツバウツギあり。標品知人持ちおるから、そのうち一訪し実物を写生して呈すべく候。ありふれたものゆえ、書籍に図するところ反ってあてにならず候。
 海草郡貴志の猿まわしは、今にその家あり。前にこの郡(西牟婁)長たりし小山漸という人は貴志の人なり。選挙騒動すまば、小生『和歌山新報』主筆に頼み、貴志へゆき、かの経を借り写さしむべし。さるまわしといわるるを恥ずる風ある由。
 
(306)92書簡の挿図 1.ベニウツギまたタニウツギ〔以下、説明文と図省略〕
 
(307)          92
 
 明治四十五年四月十七日午後二時
 前状御下問のウツギの図、大抵左〔【前頁】〕に写し申し上げ候。地方には四月にさく花をウツギと心得たるまでにて、どれが正しきウツギなどいうことはなきように候。雄松も雌松も五葉松も姫小松も松というがごとし。
 右にて大体御分かりのことと存じ候。この辺でウノハナと称し、四月八日に釈迦をまつるに用うるは、右のうちウノハナ、マルバウツギと題せる二品に候。しかし、山家にはタニウツギ、ハコネウツギをも用うることと存じ候。その他はこの辺でウツギまたウノハナと称せず、名も知れぬものと致しおり候様子に候なり。
                       南方拝
   柳田君
 
          93
 
 明治四十五年四月二十一日夜十一時
   柳田国男君
                       南方熊楠
 小生の「動物崇拝」(一昨年三、四月ごろの『東京人類学会雑誌』)に、英使節クローフォードが、百年ばかり前、シャムの王宮で象厩に猴を畜《か》えるを見、問うてその病を去るためというを記せり。
 東晋のころ訳人の名知れず『菩薩本行経』巻中に、須達《しゆだつ》、仏に教えられ、「家に帰って諸婦女に問う。われ今、愛欲すべてすでに永く尽き、また欲することなし。汝らもし夫婿を須《もと》めんと欲する者あらば、おのおの好むところに随(308)うべし。ここにあらんと欲する者には衣食を供給し、乏少《かく》るなからしめん、と。諸婦女らおのおの意に従ってその楽《この》むところに随う。時に一《ひとり》の婦人あり、※[女+(マ/刃)](sic)穀にて?《むぎこがし》を作る。※[牛+羊]牴《しようてい》あり、来たつて※[女+(マ/刃)](sic)麦を?《ひ)》き、奈何《いかん》ともすべからず、火杖を捉?《つか》み、もって※[牛+羊]牴を打つ。杖頭に火あり、羊毛に著いて住《とど》まる。羊、毛に火を得て熱く、用《も》って象の厩に揩《こす》る。象の厩、火に然《も》え、あわせて王の象を焼く。象、身《からだ》爛破し、便《すなわ》ち?猴を殺し、用《も》つて象の身を拍《う》つ。天、空中において偈を説いていわく、瞋恚闘諍《しんいとうそう》の辺《あたり》にては、中において止《とど》むべからず、羯?《けつい》共に相|牴《あた》り、蠅蟻は中において死し、婢は  拝牴と共に闘い、?猴は坐して死す、智者は嫌疑を遠ざけ、愚人とともに止《とど》まることなし、と」。
 これは唇亡びて歯寒く、春酒薄くして邯鄲囲まれ、判官腹切りてお軽売らるる類だが、「便《すなわ》ち?猴を殺す」とある便の字などより按ずるに、この猴はやはり象の病のまじないに厩にかいありしものと存じ候。同じ『東京人類学会雑誌』に載せたる通り、猴は痘疹かるいとて痘瘡のとき猴の頭を堂よりかり来たり厭《まじない》することあり。猴は至って快捷のものゆえ、無病の意をもって象馬の厩につなぐことと存じ候。早々以上。
 ついでに申す。日本の猴にはなはだ近きバーバリー・エープはジブラルタルにあり、欧州唯一の猴なりしが、今度全滅せし由。小生在欧の日は石を兵営に抛げたりしたり。
 
          94
 
 明治四十五年四月二十三日午後四時
   柳田国男君
                     南方熊楠
 絵葉書受け取り申し候。猴を厩につなぐこと、馬は常に用心して気がゆるまぬときは健強なり。猿は擾躁にて静止せぬものなり。故に、常にさわざまわり馬をして静止鬱幽せざらしむるため、厩にこれを飼うということ、本邦の書(309)で見たることありと記臆候。ただし、その書は俗書にて名を記するまでのことなしと看過し、ついに忘れおわり申し候。
 ウツギを呪詛のとき用うること本邦にあり、入用ならば調査し報じ申し上ぐべく候。これも俗書ながら坐右に扣えあり。猴、烏帽子を着けたるところを白粉屋かなんかの看板にする古風、近古の書に見え候。アストレーの『旅行記全集』大冊四巻、和歌山より取りよせ見たるに、アフリカの一地で(前鬼後鬼のことに似、また九州の山ワロのことに似たり)、塩をほしさに黒人が物を持ち来たり、西洋人と鬼市することあり、短文なり。たぷん Grierson の書に出であることと存じ候。もしなくば申し上ぐべく候。
 
          95
 
 明治四十五年四月二十四日夜
    柳田国男殿
                     南方熊楠
 前鬼後鬼と申すことは、次の文などよりよみかじり、今日ならば a鬼 b鬼、甲鬼乙鬼、第一鬼第二鬼というべきを、不学の徒が言い出せしことと存じ候。西晋安息国三蔵安法欽訳『阿育王伝』巻五に、摩突羅《まとら》国の人|優婆?多《うばきくた》尊者に就き出家し、またいやになり辞め去る。途上、寺に宿す。「尊者すなわち夜に一の夜叉《やしや》と化し、死人を担《にな》いて来たる。さらに一の夜叉あり、空手にして来たり、二鬼共に諍《あらそ》う。一いわく、われは死人を担いて来たれり、と。第二なるものいわく、われは死人を担いて来たれり、と。前の一鬼いわく、われに証人あり、この人われの死人を担いて来たれるを見る、と。時にこの人念じていわく、われ今|畢定《かなら》ず死せん、ついにまさに実語を作《な》すべし、と。後鬼に語っていわく、この死人は前鬼の担い来たりしにて、これ汝の許《もの》にあらず、と。後鬼、大いに瞋《いか》って、その一臂を抜く。前鬼、(310)死人の臂をもって還償すること故《もと》のごとくす。後鬼また一臂を抜く。前鬼さらに死人の臂を抜いてまた補処す。後鬼その両脚を抜くに、前鬼ことごとく死人の脚をもってこれを補うこと本《もと》のごとくす。かくのごとくして二鬼共に抜きしところの新たなる肉を食らい、すなわち出で去る。ここにおいて、身を愛するの心すなわちすべて滅す。後に尊者の所に至りしに、度して出家せしめ、ために法要を説いて、阿羅漢を得しめ、すなわち、籌《ちゆう》を擲ちて、窟中に著《お》かしむ」。
  御存知のごとく、優婆?多は優留曼荼《うるまんだ》山に窟房を作り、広さ二丈四尺、長《たけ》三丈六尺、一人を度して阿羅漢を得せしむるごとに、長さ四指の籌一を房裏に著《お》かしむ。一月の中に一万八十籌あり、房裏に満てり、と申すなり。
 馬の頭まつること一条見出で候て書き付く。『和漢三才図会』巻七四、摂州多田郷慈光山普明寺の什物、馬頭。満仲、竜女のために大蛇を平らげ、礼に馬を貰う。のち満信の世に馬死す、仲光これを冢に埋む。文明二年、馬冢に毎夜光明を放つ。和尚礼するに馬首出現す、金堂に納め竜馬神となす、と。
 
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 明治四十五年四月二十七日夜九時
   柳田国男殿
                      南方熊楠
 高木敏雄氏より今日状あり、かの『雑宝蔵経』の下女が怒って火柴で羊をどやし象厩を焼き猴死する話は、『パンチャ・タントラ』に出でおり、それには象でなく馬を焼くとある由なり。貴家の利益となるべきことゆえ申し上げ候。この『パンチャ・タントラ』は、西暦五世紀の末に、ヴィシュニュ・サルマン梵志がダビシュリム王の諸子を教えんがために集めしものなり。五章に分かちしゆえ名づく、『五章経』とでも訳すべきか。『雑宝蔵經』は、元魏の世に吉(311)迦夜と曇曜の共訳なり。元魏といえば西暦五三四年に東西魏分れし前の名にて、三八六年太祖建国よりおよそ百四十九年間なり。四世紀の末より六世紀の始めまでを指すゆえ、いつとたしかに分からぬが、まずは四四六年崔浩が大いに仏教を亡ぼせしは、仏教あまり盛んなりしによれば、その前に訳されしものと見て五世紀の上半なるべし。故に、支那訳の方、インド集彙の方より先なるべく、象の方が馬より正しと存じ申し候。『高僧伝』を見れば、吉迦夜と曇曜の時代たしかに分かることと存じ候。『一切経』、中土著述の部にあり。
 象は、古え支那になし、形を見ず。想象するゆえ象と名づくと、『韓非子』か『呂氏春秋』にありと覚え候。
 
          97
 
 明治四十五年四月二十八日午後五時
   柳田国男君
                     南方熊楠
 二十六日出芳翰、拝誦。当地方には、えたに氏神、産土神なし、あるいは最寄りの氏神を奉じ候。白山の神社は有田郡にありしが、合祀の節二千円とかの行衛知れず、その外に聞くことなし。
 ?(葦毛)は白馬にあらず、青白雑色(青とは英語の drab すなわち黝灰色にて、蒼味を帯びたるなり)と、『和漢三才図会』に見え候。寛政元年刊『増補頭書訓蒙図彙大成』一〇の巻に、猿|舞《まわ》しはふるきことなる由、今京都へ来るは伏見の辺より出ずる由、年の始に御所方へ嘉例として上り目出度《めでた》きことを舞わしむ。また、田舎にて牛馬を飼う所は秋入の時分、祈?のためにとて舞わしむとかや。そのゆえは猴は山の父と称し、馬は山の子というゆえなりと、『?嚢抄』という書に見えたり(下に図あり、略す〔【「南方来書」の註】〕)。
 小生かつて申し上げたるかも知れねど念のため申す。唐釈道宣撰『続高僧伝』巻二四、「釈世瑜、隋の大業十二年(312)出家して、云々、益州綿竹県の響応山に入り、独り住むこと多年にして、四猿、山果等の食を供給す。信士の母の家生者〔【奴隷が生んだ子】〕あり、糧《かて》を負うて来たり送る、云々。すでに還るに、半路にして、両人の形はなはだ青色にして状貌の世に希《まれ》なるを見る。おのおの蓮華、庶芋を負い、しかして言う、われは禅師に供給し去《ゆ》くなり、云々」、貞観十九年六十三にて死す。このことちょっと前鬼後鬼に似申し候。
 また、『宋高僧伝』巻一六、「後唐の天台山福田寺の従礼は襄陽の人なり、云々。ただ慈忍を行ない、恒《つね》に衆に示していわく、波羅提木叉《はらだいもくしや》はこれわが大師なり、すべからく知るべし、出家は戒にあらずんばすなわち猿攫の鎖を脱せしがごとし、と」。園の蔬枯るるとき、「礼いわく、ただ真君堂に焚香せん、と。真君は周の霊王の太子にして、久しく仙となり去って仙官をもって任を受け、桐柏真人の右弼《ゆうひつ》となると聞く。王は五嶽を領し、帝晨に司侍す。王子喬、来たつてこの山を治む。この故に、天台山の僧坊、道観は、みな右弼の形像を塑し、薦むるに香果をもってするのみ。これより俗間|号《なづ》けて山王の土地となすは非なり、云々」。これにて山王祠が天台山に古くよりありしこと分かり申し候。また猿のこといいしも、その山に猿多きより、ふと近き喩《たと》えに申し出でたるかと存じ申し候。
 
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 明治四十五年五月一日夜一時
   柳田国男殿
                     南方熊楠
 小生、四月三十日朝より今に眠らず、顕微鏡を捻し、はなはだ疲れたれどもこの状認め、明朝下女をして出さしむ。
 滕成裕の『中陵浸録』巻六に、川太郎のことをいうとて、奥州にこの害なけれども、西国には時々この害に遇う、云々、とあり。しかるに、貴書によれば羽後にある由なり。また『遠野物語』によるも、奥州にあるなり。ひとえに(513)書を信ずべからざること、かくのごとし。
 さて同書(『中陵浸録』巻一三)に、万病回春に扛板帰あり、和名イシミカワという草に充つ、今時薬肆にもこの草を売る、よく折傷、打傷を治すこと妙なり、という。按ずるに、日向国より出ずる河白《かつぱ》相伝正左衝門薬というあり、よく骨を接《つ》ぎ死肉を治す妙薬なり。この由来を尋ぬるに、日向国に古池あり、毎歳河白のために人命を失う。ある人、薄暮この池の辺を過ぐ、河白手を出して足踵を引く。この人|鎌《かま》をもって河白の手を切り取って帰る。この人梁下に釣り置く。これより毎夜来て板戸を叩いてその手を請う。この人、大いに罵って追いちらす。およそ来ること一七《いちしち》夜、この人河白に謂いていわく、この手乾枯して用に立つことなしと言えば、河白対えていわく、われに妙薬あり、妙薬をもって生活《いけいか》すという。これによって、この人戸を開きてその手を投じ去る。この夜のうちに一草を持ち来たり置く。この人考うるに、妙薬と言いしはこの草なるべしとて、乾し置き、人の金瘡および打傷の人に施すにはなはだ妙なり。これによって毎歳採って打傷の薬とす。これを名づけて河白相伝正左衛門薬という。(314)はなはだ流行するに至って、その近隣の人々この草を知らんとすることを恐れて、今は黒霜となすなり。余案ずるに、毎夜来て板を扛いて帰るという、回春に扛板帰という意に暗に相合す。おそらくは、扛板帰の名はなはだ解しがたし、河白はすなわちカッパなり、この草湿草にして河白の住むべきところに多く生うる草なり、その理その自然に出ずるなり。
 扛は『康煕字典』に「横関《かんぬき》を対挙《さしあ》ぐるなり、また挙ぐるなり」とあり、成裕はたたくの意にこじつけたり。似たことながらはなはだ正しからず。板をかつぐもの筋ちがうて板を持つに堪えざりしに、この草の即効にてたちまちふたたび板を扛《あ》げかついで帰れりというような意、山帰来に似たことと察し候。この草をイシミカワということ分かりがたし。『塩尻』(帝国書院刊本、巻六)に、イシミカワという草、河内国錦部郡石見村のみにあり、他所になしとその所の者の話、とあり。これは石見《いしみ》という名よりこじつけたる説と存じ候。なにか乱世のころ、この草を用い薬とし、威神膏とか一心膏とか名づけたるより、イシンコウ、イシミカワと転訛したるかと察し申し候。
 多紀安艮(?)の『広急赤心済方』(今の『家庭漢|一《〔?〕》療類典』ごときもの)にもこの草を図し、その神効を説きあり。扛板帰《いしみかわ》をカッパグサまたカッパノシリヌグイと言う由は今始めて承る。ただし、イシミカワと同じく蓼《たで》属中のもので、ママコノシリヌグイというものあり。未熟な採集家はよく間違うなり。田辺辺すべて熊野にはママコノシリヌグイ多きも、イシミカワは見当たらず、和歌山近在にはイシミカワ多く、ママコノシリヌグイ少なし。右『塩尻』に一村にしかなき由いうところを見ると、なにか薬用に使いしらしく候。全く無用のものなら、そんなことに気を付けぬはずなり。
 ウナギツカミ。これはこの辺の田間にはなはだ多き草なり。他に異品あり。アキノウナギツカミ、ナガバノウナギツカミ等なり。
 右三品いずれも蓼属に属する草なり。(一)(二)〔【イシミカワとママコノシリヌグイ】〕はやや蔓草の体あり、(三)〔【ウナギツカミ】〕はまず偃地し後に直上す。
(315) ウナギツカミはこれをもって、ウナギ、ナマズ等すべっこいものをつかむに、鉤刺《かぎはり》あるゆえ難なく?み得るなり、ママコノシリヌグイ、イシミカワ、いずれも鉤刺一層強し、人を傷つけるなり。ママコを悪《にく》む継母、これをもってその尻を拭うて傷つくという意なり。イシミカワはカッパ人の尻ぬく返報に、人がその尻をこの草でぬぐい苦しめやるべしという義にて、カッパノシリヌゲイというも同意と存じ候。河童身滑りて捕えがたきゆえ、この草をもって執え得と信ぜるより、カッパ草《ぐさ》ということと存じ候。
 さて支那の扛板帰に充てて薬効ありと信ぜるより、和俗の名にちなみてカッパよりこの薬法を伝えたと言い出せしことと存じ候。田辺辺の屠児、牛黄をゴインと申す。これは牛黄と熊野の牛王と同音なるゆえ、牛王=牛王印にちなんで牛黄を牛印というに似たることと存じ候。マタタビは、貝原の説に、真の実※[図有り]と、御承知のごとく猪に食わす実《み》のごときもの実は寄生虫の巣※[図有り]と、二様の実を結ぶゆえ「再実《またたみ》」の義の由、真偽は知らず、とにかくマタタビという名古くよりありしなり。しかるに、牟婁・日高郡の山民の話に、むかし旅人あり、霍乱にて途上に死せんとす、たまたまマタタビを得てこれを舐《ねぶ》り霍乱愈《い》え、再びまた旅に上り行きしゆえ、復旅《またたび》というと言い伝え候は、一層似たることなり。(『和名抄』に、和名ワタタビとあれば、貝原の説ははなはだ疑わし。)
 前便申し上げ候『訓蒙図彙大成』に見え候、京の猿|舞《まわ》し、伏見より出ずるということ、黒川道祐の『遠碧軒記』上の三に、猿牽は京に六人あり、所々にありて外のは入らず。京にては因幡薬師町に住す、山本七郎右衛門という。子供あれども一人ずつはまた拵ゆ。伏見のも京へは入らず、他所のは入らざるはずなり。伏見のは装束をさせて舞わす。京のは内裏方へ行く時は急度《きつと》装束す。正月五日に内裏へ行き、その外は親王様誕生の時は内裏に行く、姫宮のときは参らず。常も町をありきて他処のは入らざるなり。この六人のもの猿を六疋使う、内裏にて官をあがる、銀一貫ほどずつなり。
 猿舞しのことは『嬉遊笑覧』に多くかきあり、御存知のことゆえ今ここに抄せず。
(316) 北村季吟の『岩つつじ』という書、貴下見しことありや、承りたく候。『続門葉和歌集』ごとく男色に関する物語の歌を集めたるものの由、平田篤胤の『妖魅考』に見え申し候。小生多年捜せども見当たらず、今も存するものにや。
 オボのこと、Burton の『メジナとメッカ記行』によれば、アフリカおよびアラビアにも似たものある由なり。しかし、別に抄するほどのことなき略註なれば、ここに抄せず。
 すこぶる睡たきにつき擱筆す。以上。
  本書封せんとして『和漢三才図会』蔓草類を見るに、赤地利をイシミカワに充てたり(今はミゾソバに当つ)。「骨を接《つ》ぐこと膠《にかわ》のごとし(堅固にするゆえ)、石膠《いしみかわ》と名づく」、ミカワはニカワの訛りなり、と。
 
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 明治四十五年五月二日夜十一時
   柳田国男様
                     南方熊楠
 拝啓。小生、今午前三時貴方への状認めおわり眠たく、それより臥し今夕眼さめ、かれこれするうち一、二町内の当地第一の旅館失火全焼。かの毛利氏の妻の里方にて、毛利氏は今夜中村啓次郎等来たり、山口熊野の選挙運動大気?最中の全焼ゆえ、大狼狽のことと存じ申し候。小生は近ごろ合祀一条は全く放棄し、顕微鏡学にのみかかりおり、眼惡く、さりとて中止するわけにも行かず、一昨日来眠らず、今暁よりようやく今夕まで眠り候。そんなことゆえ精神弱り、考えも鈍り候ゆえか、「カッパの尻拭い」の義、今朝差し上げ候状のはちと考え過ぎた説と存じ申し候。すなわちこの名義は「カッパの尻をこの草の刺《はり》でぬぐいこまらせやり復讐することならん」と申せしは考え過ぎにて、「カッパの体は尻また糞までも滑るゆえへ、尻の拭い料なきゆえ、かのウナギツカミでウナギをつかむごとく、この草の刺(317)ありて物にひっかかるを利用してカッパがこの草もて自分の尻を拭う」という義と存じ申し候。右訂正候なり。故に、ママコノシリヌグイと鉤刺は等しくありながら、カッパノシリヌグイのはその鉤刺を利用、ママコノシリヌグイのは害用することと存じ候。
 
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 明治四十五年五月二十一日早朝
   柳田国男殿
                     南方熊楠
 『一話一言』(刊本和本仕立、集成館蔵板)巻一三に、『謙亭筆記』(小宮山杢之進昌世謙亭の)より抄していわく、「奥州は大国にて、国中一揆起こることむかしはたびたびなり。官軍を遣わし、また国主、郡主、一揆の党を鎮むるに、兵粮に不足なきように糒を詰めたり。その風残りて今に仙台の糒名物のようになりしなり」と。
 小生、前日御下問のトウボシのことに関し、古えわが国に軍陣に乾飯を要とせし由記せしは、この一条に基づきたるに候。年久しく見ざりしゆえ忘れおりたるに、只今出処見当たり候ゆえ申し上げ候。
 
          101
 
 明治四十五年五月二十三日朝出
   柳田国男様
                       南方熊楠
 識神という字、仏経でもっとも正しく古き出処は『増壱阿含経』と存じ候(黄檗板『一切経』第八六巻)。苻秦三蔵曇(318)摩難提訳、巻一二、三宝品第二一に、「仏、諸比丘に告ぐ。三因縁あり、識〔傍点〕来たつて胎を受く。云何《いかん》ぞ三となす。ここにおいて比丘、母に欲意あり、父母共に一処に集い、与共《とも》に止宿す。しかれども外識〔二字傍点〕いまだ来趣に応ぜざれば、すなわち胎を成さず。もしまた識〔傍点〕、来趣を欲すれども、父母集わざればすなわち胎を成さず、云々。もしまた時あって識神〔二字傍点〕の胎に趣くも、父行きて不在なればすなわち胎を成さず(この次に識神〔二字傍点〕という字三、四用いあり)、云々。もしまた比丘、父母の集いて一処にあり、父母に患なく、神識〔二字傍点〕の来趣あり、しかして父母ともに相見るあれば、これすなわち胎を成す、云々」。この文は父母交会および父母別居の状体いろいろなるにより、子たるべき者の霊が来たりて、あるいは胎に入り、あるいは胎に入り得ぬことを述べたるに候。識、外識、識神、神識〔七字傍点〕と四様に訳しあれど、みな一と見ゆ。すなわち英語で soul《たましい》というほどのことなり。故に、むろん晴明などの使いしというものと全くは一致せず候。タマシイを使うという意味から、陰陽家にも用い出だせしことと存じ候。ともかく識神〔二字傍点〕の字の古き出所として今夜見出だし候つき申し上げ候なり。
 
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 拝復。法律問題の儀、ありがたく御礼申し上げ候。貴書のごとくならば、英国の Nuisance 法、また Smoke abating 法のごときものは、全然わが邦になきことと知られ申し候。まことに不安心きわまることなり。また英国には寄付品物を寄付者の素志通りに必ず保存する制あり。小生が大英博物館へ寄付せし仏教に関する諸品は、今日となりては見るに堪えぬもの多きも、同館にはこれを常備品として縦覧させおり、決してあとからよき物出で来たりたりとて、これを片付け去ることなし。件《くだん》の地処小学校地面は己有《こゆう》財産なりしを、その筋の勧告に基づき、その小学校を改造、永久に保存する条件にて、前年市へ寄付せしなり。しかるに、今となりてはたちまちこれを一私立会社に売り、二、三万円の剰余金を得んとて市会より煤煙云々を申し立て、学校を他へ移し、その地を売却せんとするなり。これらははな(319)はだ寄付の素志にもとることなり。かかること行なわる以上、わが国に万世を期して公共事業に寄付等をなすものはなかるべしと存じ候。
 自分の命の早使いに立つ件《くだん》の出所をのみ望まるるゆえ申し上げ候。一昨年出板『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』のハムレットの条下、および『六度集経』(黄檗板『一切経』第五三套(萬))巻五、一二葉に有之《これあり》候。民俗学会雑誌第一号へ(小生ひまあらば)投書致すべく候。七月一日に出ずる由なれば、それにて御覧下されたく候。
 明治四十五年五月二十三日夜九時
                       南方熊楠
   柳田国男様
 
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 拝啓。苻秦の曇摩難提訳『増壱阿含経』巻四四に、耆闍崛《ぎしやくつ》山にて、舎利弗《しやりほつ》、金剛三味に入る。毘沙門《びしやもん》天王の使いの二鬼、毘留勒《びるろく》天王の所に至る。(一は伽羅、二は優波伽羅と名づく。)虚空を過ぎて舎利弗を見、伽羅鬼、他の鬼にいう、「われ今、拳をもつてこの沙門の頭を打つに堪任《た》う。優波迦羅鬼、第二鬼〔三字傍点〕に語っていわく、汝この意を興して沙門の頭を打つことなかれ」、これは智慧第一の仏弟子なりとて止《とど》む。「惡鬼〔二字傍点〕いわく、汝この沙門を畏るるか、云々」とて聞き入れず。「善鬼〔二字傍点〕聞きおわってすなわち捨てて去る。時にかの悪鬼、すなわち手をもって舎利弗の頭を打ち、この時、天地大いに動き、四面に暴風疾雨す」、地分かれて二となり、「この悪鬼すなわち全身をもって地獄中に堕つ」。
 わが国の剣客に、善鬼という名の人あり。『武芸小伝』巻の五、伊藤一刀斎、その弟子神子上典膳をして同じく弟子たる善鬼と闘わしめ、典膳、善鬼を殺しければ、瓶割の名剣を伝うとあり、下総相馬郡善鬼塚今なお存す焉(正徳中のこと)、「世人呼んで善鬼松という」とあり。また前鬼後鬼を善鬼後鬼と書きたるものあり。右の『増壱阿含』の(320)第二鬼とあるゆえ後鬼〔二字傍点〕とし、善鬼〔二字傍点〕(すなわち第一鬼)を前鬼とせしより、二疋の鬼を前鬼後鬼と呼ぶに至りしかと存じ候(毘沙門の脇立に掌前掌惡二童子あるごとく)。
 『日本文庫』のうち、『光台一覧』なる冊、一冊御貸し下されたく候。一覧後前日御送り置きの『太陽』、『仏教史学』と共に返上すべし。『学生文芸』は、オコゼの説近日認め『人類学雑誌』へ出すまで、御貸し下されたく候。『人類学雑誌』本年三月の分は貴方へすでに配布されたりや、配布否御聞かせ下されたく候なり、ただし送り下さるに及ばず候。
 明治四十五年五月二十九日夜十一時
                       南方熊楠
   柳田国男殿
 
          104
 
 『日本文庫』は咋朝着、ありがたく御礼申し上げ候。小生眼惡きゆえ一ヵ月ほど貸し下されたく、『太陽』、『仏教史学』等と共に一切一ヵ月内に還付仕るべく候。今朝‘Notes and Queries’猫一疋の話、英文の方、副本まいり候つき(二冊つづきもの)、一本さし上げ候。
 古い浄瑠璃本に、小栗判官、駻馬を騎り、横山をおどろかすところにヤウモンを唱うることあり、ヤウモンとは何に候や。
 また伺い申し上げ候は、『七十一番職人尽歌合』枕売の画に添えたる詞に、※[草書十六字分ほどあり]を、小生は「今一つの方も持て候」とよみ、いわゆる東《あずま》形、はり方《かた》などの建具(『松屋筆記』等に、連歌の書を引きて足利氏の世すでにありしをいえり)を、いわゆる「今一つの方」といい、「ひそかに召し候へ」というと思えり。西(321)鶴の古浄瑠璃本等に、小間物屋(枕等をもうる)笑い人形〔四字傍点〕を売ること多し。しかるに宮武外骨氏は「と一の方」とよみ、讃州方言「と一」(情人のこと)(熊楠いわく、女子相愛を今もト一ハ一などいう)を引き、汝の情人も持てりの意とす。しかるときは「ひそかに」の義弱し、如何《いかん》。
 明治四十五年六月八日夕五時
                      南方熊楠
   柳田国男君
 
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 明治十八年ごろ刊本『一話一言』巻三、三枚表に、河童銭、天明五年乙巳□月のころ、麹町飴屋十兵衛なる者、常々心正直なる者なりしが、夕方にある童子の来たりて戯《たわぶ》れ遊ぶをあわれみ飴を与う。それよりして夕つ方ごとに来たる。怪しみて跡を付け行くに、御堀の内に入《い》りぬ。さては河童なるべしと恐れ思いけるに、ある日来たりて一の銭を与う、その後来たらず。その銭、今番町能勢又十郎殿家に収む、その銭のかたを押したるなりとて、浅草馬道に住める佐々木丹蔵篁?が贈れるをここにおし置きぬ。
 『日本文庫』第一〇編は、一昨日安著致し候。貴志の猴|舞《まわ》しの甚兵衛は今ありや否知らず。しかるに、小山漸という前西牟婁郡長は、小生弟知人にて同村の人なり。たぷん小山政氏の子孫などいうものならん、『勝善経』あらば借り写すように今申し遣わし候。
 馬櫪神の支那書出処、大英博物館で見出だし写し置きしも、今ちょっと分からず、分かり次第申し上ぐべく候。また勝軍地蔵騎馬の画像(膠画)の厨子ごときもの、チベットより将来、ロンドン南ケンシングトン美術館にあり、小生たしかに知る、日本のに同じ。
(322) 明治四十五年六月十日午後二時
                       南方熊楠
   柳田国男殿
 
          106
 
 拝啓。『ノーツ・エンド・キーリス』は主として文学字句の穿鑿を主とするものゆえ、貴家等御購覧の値なきものなり。小生はただ「猫の話」出したるゆえ差し上げたるまでに候。『勝善経』のことは、前に西牟婁郡長たりし小山漸氏は亡父知人ゆえ弟より聞き合わせたるところ、
  御来示の件は(貴志の甚兵衛の家)は小生宅のことに御座候て、従来取り調べ候ことも有之《これあり》候えども、従来のことは分かりがたく候えども、なお取り調べ追って御報告仕るべく候。今にわかに申し上げがたく候条、ここ一週間くらい御猶予相成りたし、云々。
 小生右の文体を案ずるに、猴舞したりしといわるるを深く慙ずる様子に有之。しかし、なることなら『勝善経』の有無だけにてもしらべたく存じおり候。また思うに『大宝積経』などに『想善経』というような名の経名多く候。一一しらべたら『地神経』同様、なにかの経の一部品の名かと存じ申され候。
 宮武氏の説は了阿を引き、大阪発行『此花』五月分に出でおり候。『此花』は浮世絵専門の雑誌、古雅な仕立の物なり。小生も同号に「婦女を?童に代用せしこと」を出だしあり。
 M.R.Cox,‘An lntroduction to Folklore,’1895,p.16 に、吾人の先祖(英・独人)は、スラブおよびフィン種の諸国民、またペルシア、梵土の民と斉しく、馬を神物とし、その嘶《いなな》くを吉兆とし、しばしばこれを牲《にえ》し、肉を食い、占いに用い、また馬の頭を斬り挿みて凡百の魔法に用いたり〔馬の頭〜傍点〕。魔は時として馬蹄あり。ドイツの小魅(コボルト)また然(323)り。支那に邪鬼を禦ぐとて馬蹄を戸にかくること、あたかも欧州で蹄鉄を用うるがごとし(外人には分かるが、小生らには全く分からぬこと多し)、とあり。故に、馬形神、馬頭神等のことは日本のほかにもおびただしくあることと存じ候。インドの楽神|乾闥婆《けんだつば》また馬首なり。
 明治四十五年六月十四日午後一時
                     南方熊楠
   柳田国男殿
 
          107
 
 拝啓。前日御答え下され候柳谷謙太郎氏サンフランシスコ領事たりしは明治九年至十六年とありしと覚え候。しかるに何年何月より何年何月に至るということ忘れおわり、件《くだん》の貴葉書は小児のため失われおわりぬ。今一度御知らせ下されたく候。このこと分けて願い上げ候。
 『勝善経』の返事、今に小山漸氏より来たらず。これは猿舞しの家というを恥ずることと存じ候。勝善は称善かも知れず。(仏語を尊びし世には、何でもなき一言一句をも経により言い出でしなり。)元魏の慧覚訳『賢愚因縁経』巻一〇、摩訶令奴品、第四八、令奴王、位を譲るべき子を撰ぶ十箇条の第七に、「七には、諸王群臣歓喜し、敬礼す。称善〔二字傍点〕無量」なるを要す、とあり。
 四十五年六月二十二日午後三時
                       南方熊楠
   柳田国男殿
 
(324)          108
 
 前刻伺い申し上げ候柳谷氏サンフランシスコ領事たりし年月日のこと、今一度御答え下されたく候。
 厩に馬をかうこと、古く郭璞の伝には猿に似たるものとあるのみ。しかるに、只今宋の許洞(※[寇の攴が攵]適莱公と同時の人ゆえにまずは趙宋の初めなり)の『虎ツ経』二〇巻あり、『粤雅堂叢書』第七集に収めたり。その巻一〇を見るに、「馬忌、?猴を坊内に養《か》えば、患を辟《さ》け疥癬を去る」とあり。猴が馬の皮膚の虫を拾い虱などを去るより、かかる説出でしかと存じ申され候。とにかく猴を厩にかうこと趙宋の初めにありし証に御座候。
 当地の人のいうに、猴舞《さるまわ》しいずれも川渡ることを非常に忌む。これは猴と川童と兄弟分にて、猴、川水を見ればややもすれば急に飛び入りて去らんとするによるとのことに御座候。また芸妓屋等に猴舞しをはなはだ忌む。去るの音あるゆえなり。花屋という家の主人などことに忌み、必ずサルといわずに野猿(ヤエン)と申す。予それにサルといわしめんとし、この男、行きしことあるまま、甲斐の国のこといろいろ話す。突然猿橋のことに及びしも、彼、心得おりサルハシと言わずヤエンバシと言いし。
 明治四十五年六月二十二日夜九時
                      南方熊楠
   柳田国男君
 
          109
 
 ?米タイトウマイのこと、見出で候ゆえ申し上げ候。
 『醒睡笑』(寛永五年三月、作者安楽庵策伝、板倉侍従に与えし跋あり)巻六に、「貧々《ひんひん》と世をふる僧の思いに堪えか(325)ね、児《ちご》を請《しよう》じ、大唐米の飯《いい》を出だせり。これは珍しき物やなどとほむる人もありけり。亭坊《ていぼう》の言わるるよう、せめての御馳走に米を染めさせたるとあれば、かの児《ちご》箸を持ち直し、そうかして大唐めしのような、と」。
 これは大唐米の粒赤きゆえのことと存じ候。安くてそのころやや珍希なものをと、貧僧心を配り煮て饗せしことと見え申し候。
 同、巻の七に、「越中には、舞々《まいまい》に大波座、小波座とて二方《ふたかた》あり。さる人大船を作りたる祝儀とて数多《あまた》集まり、酒宴なかば舞々の出でたりし。上座より、その方は何がかりぞと問うに、大波座と答う。舟の祝いに大浪はのという。いや大波座、小波座とて、もとは一つに候いしが、このごろ二つにわれて候とぞ」。不意に不吉のことを重ねていい出でしなり。この舞々は何の種の舞をさすにや。
 明治四十五年六月二十四日午後三時
                      南方熊楠
   柳田国男殿
 
          110
 
 六月二十六日芳翰拝誦。小生は言語をもってかれこれとこじ付くることは本意にあらざれども、ここにはなにか御参考のためと存じ、左に申し上げ候。『校正西宮記』巻二三、寛和二年五月十七日の勘文に、強盗の名を列せるうち、藤原童子九、六人部法師丸、秦犬童丸。この犬童はイヌワカ、また『源語』にあるごとくイヌキなどこじ付くる人もあるべきが、鬼同丸(鬼童という語仏経にあり)の例より思い、また童子丸、法師丸より思うに、やはり湯桶《ゆとう》読みにイヌドウまたインドウなるべし。また、明治十四、五――二十年ごろまで銀座辺に印東玄得《いんとうげんとく》と申す医者ありし。新宮の人にて、大学の講師もせり。小生知人の保証人にて毎々小生その門へ之《ゆ》けり。里見忠義のとき、政を乱りし印藤采女《いんとううねめ》、(326)印藤河内介(相模小田原の大久保忠隣の女、忠義に嫁したるに付添人なり)あり。印東、印藤、共にどこかの地名にちなむ姓と存ぜられ候。右申し上げ候。
 明治四十五年六月三十日夜十時半
                      南方熊楠
   柳田国男君
 
          111
 
 大正元年八月四日午後二時[葉書]
 拝啓。何の役に立たぬことと存じ候えども、読書中見当たり候ゆえ申し上げ候。一昨年板(ロンドン)John Hedleyy,‘Tramps in Dark Mongolia’九七頁にいわく(今より五、六年ばかり前の蒙古地方記行なり)、パイ・ニュー・ツンの蒙古|喇嘛《ラマ》廟の前に壮大なるファイ・シュ(槐樹、locust tree)あり、この樹、北支那に普通にて、その美なる花は染料に用いられ、種子は痔疾の験薬とす。この薬功と多少関係してにや、パイ・ニュー・ツンのこの大樹にかかわる迷信あり。すなわち小児、生質虚弱にて育しがたきときは、この樹につれゆき、本人また親族これを拝してその児の母とす。予この樹を見し日、赤紙片を樹に付けたるを見るに、一支那人張子安の男子、この樹を母とする由記せり。小児この樹の霊により健康に復せる者、みな小旛を枝より懸下し謝意を表せり。予その神験を疑いしを、樹の側に立てる若者一人、真面目に責め立てたり、云々。locust tree とあるにて、今も支那で槐というはエノキにあらず、エンジュなること知れ申し候。loCust tree はハリエンジュと申し、邦産なし。槐に似たものに候。ここには似たものゆえエンジュをハリエンジュ(locust tree)と訳しあるに候。以上。
 
(327)          112
 
 拝啓。昨日ハガキ差し出し塊樹のこと申し上げ候ところ、只今貴ハガキ着、また槐のことかきあり。また、『柳亭記』というは小生聞くところの書なり。(『百家説林』第一板は小生蔵するも、続篇は見しことなし。)
 「今一方」云々の解、小生のとほぼ同じき由、これまた偶合奇なり。しかしながら、世間のこと千の九百九十九までは偶合にて(ハーバート・スペンセルのいわゆる大一致 general agreement)、さほどまで偶合多からず一々講釈を聞かねば分からぬようだったら、社会は成り上がらず、人々思うところ言うところことごとく異にして孤立角闘のほかなからん。小生女子只今十ヵ月なるが、いろいろ出まかせに物いう、その多くは語をなしおる。何の意味なくいうことながら、聞き取りようでしごく意味あるように聞こえ候。あちら向くとき「さよなら」、物を取らんとして「それから」などいうごとく聞こゆるごとし。これにて世間のこと偶合多きを知り、また偶合ばかり多くても学問上の何の参考、たしかな証拠にならぬを知る。
 『此花』最末枝(七月十五日)、小生、貴下へ差し上げんと、四部只もらうつもりで三項まで永々しく書き、出板すみしも一部しかくれず、もしくれたら差し上ぐべく候。それに「千人切りの話」、「神罰にて二根合して離れぬ話」〔【「奇異の神罰」の別題】〕出でおり候。
 右、『柳亭記』のことは宮武氏へ通知致し置き候。なお『此花』は次号より東京にて朝倉無声という人が出板の由。
 竜猛大士の『広大発願頌』(北蔵黄檗板、第一七八套にあり)に、諸菩薩の名を列せるうちに、「虚空無喩法能宣、願わくはわれ虚空蔵のごとくなるを得、地よく諸世間を長養して普《あま》ねく利せん。願わくは地蔵尊のごとく、貧苦を息除し衆生を利すること、願わくは宝蔵神と異なるなからん」とあり、虚空蔵、宝蔵に対する名にて、竜猛の時すでに地蔵尊はありしに候。また同項の終りに、「われここに仏の功徳聚を讃し、最上勝善、広大を極む」。勝善という語、(328)この外にも仏経に多く、ソウゼンなどこれより出でしか。
 大正元年八月五日午下
                     南方熊楠
   柳田国男様
 
          113
 
 昨日、妻木頼良氏来訪され候。さて御申し越しの信景のえのきの説は、『塩尻』(帝国書院本、下冊一〇〇頁)、椿の字をゑの木と読む、枝多き木なるがゆえにいう。『類聚三代格』には、槐材ヱノキと訓ぜり。按ずるに、槐はエンジュと訓む。槐の音クヮイ、呉音ヱなるが、ヱはエンの音便なるべし。小生はなにか芽出たき木とでもいうことで、延寿の義かと思いおりしが、槐の音、呉音ヱなれば、槐樹エンジュとよむというも、ちょっと聞こえたり。また、その音に便りて槐をエノキにも宛てたるにや。また、上冊五六二頁には、衣摺朴、『日本私記』に衣《え》の支《き》と訳す、今いう榎樹なるか、とあり。
 八月七日午後二時
                       南方熊楠
   柳田国男殿
 
          114
 
 拝啓。荊妻八月中に脳底二度割断、その後永々医師にかかりおり候ところ、近日ようやく快方、小生はまた永々眼悪く、何とも迷惑はなはだしく罷りあり候ところ、頃日ようやく読書を得ること相成り申し候。恩借の書籍、雑誌類(329)はそれぞれ抄記の上、一月までに御返し申し上ぐべく候間、それまで御貸し下されたく候。
 さて小生、本日初めて外出、菌類採りに行きしも、時期遅く、はかばかしきことはなかりしが、いろいろの里俗を聞き込み申し候。そのうちに、数十年前まで、この近村へ信濃巫子なるもの来たり、梓巫子よりはよくはやりし由(功験多かりしゆえ)。これは例の弓を用いず、箱に例の猴《さる》の髑髏を入れたるものを担《たずさ》う。宿屋にて呪言をとなえ、さて宿を出ずるとき、必ず衣のすそをかかげ、前後とも湯具を露し、宿を出で宿に帰るまでその通りなり。人、占いを問うときは、右の箱にもたれ、睡るごとくにして神降りつき占いを述べし由なり(打臥《うちふし》の巫のごときか)。この湯具を露すること、例の七難の一件に関係あるかとも存じ候つき、本日聞いたまま早々申し上げ候なり。
 数日前、友人、岩田という村へ梓巫をききに之《ゆ》きし。六道寄せということをす。六道銭を冥途の旅路に一文ずつ仕払う次第を、かなしく述ぶる由に候。小生には初耳なり。
 大正元年十一月二十五日夜
                      南方熊楠
   柳田国男様
 
          115
 
 十二月五日出御状まさに拝受。ジプシイのことは、欧米各国にジプシイ学会あり、報告も著書も多し。セイス氏の言われしは、古くより普通に行なわるる説に候。(セイスは、バビロン等の学はまことに大家なれど、ジプシイの専門家にあらず。)小生調べしに、ドラヴィジアンのみに限らず、黒人間にも黄人間にも(御承知通り、蒙古および中アジア人はいずれも車中にすみ移徙を事とす、国が行くというわけにて古今行国と呼ぶ)、また東半球と全く別なる古来西半球にも似たものあり。故に行為が多少似たからとて同源というわけにはゆかず。(故バートン男は、親しく(330)その地を踏んだ大家で、アラビア沙漢と北米曠野のインジアン蕃(世にこれほど相互無関係のものは少なし)につき、生活の風が似たゆえ、気風、習慣はなはだよく似ておることを述べあり。
 ついでにいう、わが邦の学者は、何ごとも欧人の踏んだ順序を追わねば開化にならず、学問にならぬように思い、また思わずとも自然そのように成り行くは惜しむべし。東西を参考して一《ひと》飛びによき物を採るの聖旨に戻《もと》れり。これは今に始まったことにあらず。熊沢蕃山など勤王の嚆矢のごとくいわる。しかるにその書いたものには、支那を大国と唱え(大国とは、支那の仏僧が天竺を称したる語にて、天竺にも十六大国等の語あり。『曽我物語』、『源平盛衰記』、『義経記』等に、みな支那を大国といえり。熊沢のころ、かかるものはやりしゆえ、自然今日の邦人が泰西などいうごとく、何の意味もなく沿襲のまま使うたのかと思うが、勤王家の言としては、水戸光圀が人もあろうに則天武后の作つたという圀の字を名とせしごとく、奇に耽り世に阿《おもね》ったように思わる)、また伊勢の大神は実は后稷を祭るなどいうことを名誉らしく書きあり。
 このごろは、西洋には何が何より来ると、世界中の事物みな一源より出でしごとくいう説は、すでに多分過去のこととなりおるに、邦人は今にその旧轍を襲い迂回するは、主として書を購い、書を読むの費に乏しき御蔭と嗟歎仕り候。これは学者の上に止まらず、維新のとき商業組合をつぶし(日本の商業組合は日本にてできたるものなり。スペイン人、オランダ人などの書にもこれを称揚して書きたり。もしこれを欧州にまねたりといわば、足利氏の世より泉州堺に商人の政庁ごときもの武力を具したるをすら、ドイツのハンセアチク・リーグ(ハンセ団)にまねたりとせんか、鑿のはなはだしきものなり)、さて後に欧州に組合あるを知り、品川子ら大周章して組合を作成せり。その他神社合祀といい、漁林の乱滅といい、森林に掃除行き届きて森林枯失することといい(これらは他県は知らず当県には只今六鋭意して復興中なり)、みなせでよきことをなし、さて後悔|臍《ほぞ》を噬《か》むに及ぶ。西洋にはどうするこうすると、一事一事はなればなれに聞きかじりて一々そのまねをなし、さて委細ききて西洋でこれを悔い復興するとききてまた復興す(331)るなり。隣児酒をよく飲むとききてみずからも大飲し、隣に借金できたりと聞きてみずからも禁酒するは、最初、隣児酒を飲むと聞きたるとき、直ちに事の始末を考え、これは必ずよかるまじと思わば、最初より自分酒を飲まぬに如《し》かず。
 小生は邦人の毎事毎事欧州を規矩とするをはなはだ面白からず思う。世界中のこと一様に行かぬは、欧人は牧、農、商を世の改進の三変としたるも(今はせず)、本邦ごとき必ずしも牧をもって始まらず、南洋諸島ごとき、牧をせんにも畜なかりし地には牧をもって始むる道理なし。また石、青銅、鉄を三期とするも、アフリカの黒人(欧人が下等とする)は最初より鉄を知れりという。とにかく、小生は本邦にはジプシイ入りし等のことなしと主張す。またジプシー風の風俗少々入りたりとも、かかる風俗は遊牧遊行の諸民に共通のことにて、ジプシイに限るにあらず。もし車にすむこと、テント生活等を特にジプシー風とせんには、これ大いに誤れり。何となれば、車に一族すみ、テントで生活することは、ジプシーよりも蒙古人の方はるかに進み、盛んにこの風を行なうたればなり。(伯夷・叔斉のとき、周武王が文王の像を車にのせて紂を討ち、また将棊《しようぎ》に車戦を擬して香車あり、飛車あるがごとく、唐の房?(?)が上古の車戦を復興して大敗せしごとき、その記多し。もっとも車戦はエジプトにもインドにもありしことは小生も知り、車戦は車住と関係の厚薄あることも知るも)、小生久しく筆とらぬゆえ、これらの論は今詳らかに筆し得ず。賢察を乞うなり。
 紀州にて、地方の俚俗、珍談、異説を集めたるもの、『墨痕涙草』と称し、四〇巻とかあり、『新著聞集』風のものの由、小生も十三、四のとき見しことありと記臆するが、たしかならず。あるいは南紀文庫にあるかとも思う。
 当地闘鶏社に田所氏(熊野別当の胤にて当主は小生の知人なり)の「万代記」というものあり。慶長ごろより明治近くまでの田辺の日記にて、その上に熊野の土地の異事、屑談ことごとく入れあり、大部のものなり。(長持に一荷ほどありという。新聞記者等に貸し、多少失えりと聞く。)小生そのうち抜萃をなし置かんと思う。
(332) また、マレーのことを見るに最も著しきもの左に申し上げ候。
  Swettenham,‘Malay Sketches,’1895.
  (この人はマレーに関する著書多し。その一を拳ぐ。)
  Clifford,‘Studies in Brown Humanity,’1898.
  Clifford,‘In a Corner of Asia,’1899.
  Skeat and Blagden,‘Pagan Races of the Malay Peninsula,’1906.
 蛮族の大抵のことを見るには、
  H.Spencer,‘Descriptive Sociology,’
  Waitz und Gerland,‘Anthropologie der Naturv lker,’
もっともよろしく候。いずれにもマレーのことも多くあり。
 右申し上げ候なり。早々以上。
 大正元年十二月八日午後二時
                     南方熊楠
   柳田国男様
 
          116
 
                  〔この断簡は日付を欠く。おそらくは前状または次状に同封されたものか。〕
 『人類学雑誌』は、貴方へ何月分まで届きおり候や、御申し越し下されたく候。ただし、小生は当地にて調《ととの》え得るゆえ、送り下さるに及ばず候。小生方へは七月分までしか届かず。
 
(333)十三塚の蒙古沙陀地方の古伝、考古学会へ出だせしも今に出でず候。
 
          117
 
 前日申し上げ候シナノ巫子は、外出のおり必ず衣をはし折り、白き湯具を露わすゆえに、俗に白湯文字(白湯巻)と呼びし由なり。川北氏の『近世風俗志』に、白湯文字と称する売淫婦大坂にありしとて、その価まで記しあり。もと巫子をまねたるか、またはこの巫子自然口よせの外にかかる婬売に及びしにや。
 右の白湯文字のことを咄《はな》せる人の言うに、一妙開程よしの画ける「吾妻振り」に、信濃巫子に自分のもとの情女の口を寄せしめる人、その巫子の貌が件《くだん》の情女に似たるより発情し、聴衆散じて後その巫子と親?する画あり、とのことなり。よってその画を見しに、信濃巫子といわずただ口よせとあり。また白き湯具を露わして口よせる図もなし。尋常の婦女ごとく座しあり。(旅宿を出るより帰るまで白き湯具を露わすというに反せり)。また片手をつっぱり、ややうつむき眼を睡り、前に盆に白き嚢(米入れたるか)を盛り、側に茶碗に水入れ、それと自分の間に風呂敷包みの小さき箱をおき、その上に※[図有り]図のごとき小さき弓に箭を加えたること弩のごとし。さて、うしろには菅笠と旅装ごときものおきあり。詞の末に、おのれはこれで帰るなり、これより跡のことはササバタキ(笹葉焼きか、笹|簸《ばた》きか)に寄せしめよ、ということあり。何のことにや。とにかく、この図は梓弓を用うるゆえ、件《くだん》の人自分の語によるに、信濃巫子にあらず、尋常のミコかと思う。
 大正元年十二月九日朝
                      南方熊楠
   柳田国男君
 
(334)          118
 
 芳翰拝見。ジプシイはシベリアまた濠州にも、今日はあり。これは十九世紀前後よりのことと存じ候。仏教には、インドに釈迦前に車に棲むものありし由見え候。また、車にすむこともっとも偉大なりしは、マルコ・ポロごろの蒙古人にて Yule の『ポロ記行』にその図あり。『文選』にも、張衡(後漢)の賦に、車子という人の伝あり。車にすむ人の車中にて生まれた由なり(『江談抄』にも出でありしと存じ候)。江師の『傀儡子記』と同一の遊女群のことは仏国中世にもあり。
 貴下、マレー半島族に神道の諸儀に似たること多きをいう。このことは小生も知れり。しかるに、本邦の上古の諸伝話、諸祭儀に酷似せることは、古ギリシアにもその他の国にも多くあり。なにか精細な統計表でも作り計算した上ならでは、どの国にもっともよく似たか分からず。(また国によりても時代の異あり。わが邦中朝のガラントリー、幽艶の風がはなはだ欧州中古のガラントリーに似ておるかと思うと、戦国より慶元ごろの男色の風がすこぶるエパミノンダスごろのギリシア風に似ておる。)似たゆえに、それが同源とかまたは伝来とかいうときは、日本の事物ことごとく万国の事物より来たように思われる。
 さて、文筆記録伝われる国は比較的に新しく、古い国には文筆伝わらぬゆえ、実は同源といい伝来というも、本統の道筋は分からず。ほんの似たということを、同源また伝来と語を換えて言うばかりになる。マレー半島族よりも一層本邦の祭儀等に似たるもの南洋等に多し。
 『人類学雑誌』七月分今日受け取り候。何故かく後るるか、資金乏しきによることにや。『民俗学』誌も、小生投書はしてあるが、今に一向出ず。ようやく同じく石橋氏の幹する『人性』という雑誌へ、小生の「常世国考」が出たばかりなり。右様にては、小生は何を出すこともならず、徒労となる。
(335) 田所氏の日記は、小生、来春抄記せんと思いおり候。社外へ持ち出すを許さず(これは小生らの主張による)、故に毎日社へ行かざるべからず。大長持に一ぱいか二はいかあり。まず抄記|了《おわ》るに一月か四十日かかり申すべく候。
 角屋は、ロンドンでは街の角《かど》は必ず居酒肆なり。三井物産会社員の倶楽部に合田《ごうだ》栄三郎という人、益田孝氏の従僕なりしが、十六、七年前かの倶楽部の賄いなり。この人英語を知らず、居酒肆を角屋という。このことを小生、福本誠氏に話せしに、日南それはよき名なりとて、小生を角屋《かどや》先生という。小生、大抵ロンドン中部・西部の居酒肆をことごとく知りおり、毎日大英博物館より帰りに一軒一軒、一盃ずつ呑み歩きかえるなり。故に八時に館を出て帰宅は十時また十一、二時なり。よって角屋と名づく。(日南の文集にもこのこと出でありと聞く。今年春出た由。小生は見ず。)
 蝙蝠は、貴下の状に鳥なき郷の蝙蝠とありしゆえ、取りて号とす。土宜法竜は面白き坊主で、なにかの問答のとき、小生、土宜師を汝のごときヒョツトコ坊主云々と言いしに、それよりみずからヒョツトコ坊を号とし、毎々書留小包で書物貸しくれるその書留の受取書まで、ヒョットコ坊という名前なり。郵便局にも呆れおることと存じ候。蝙蝠というものはつまらぬものながら、まことに飛翔自在にて、世が開進して獣類みな滅し往くも、このもののみは反って殖え行き、かついかなる大洋島にも極寒の地のほか蝙蝠のなき地なし。支那にも蝠を福の音に取りて、福禄寿の縁で蝙蝠と鹿と百合(柿か)かなにかかくことありと、喜多村信節はいえり。目出度《めでた》きものにつき、取りて号と致し候。小生、佐藤直方が一生入りもせぬ号など付けざりしを偉とし、どこの国に行くも偽名など用いしことなし。しかし、妻病気にてややもすればかかることで事を仕出かすを気づかうゆえ、今度だけは戯号を用い申し候。
 前日申し上げ候ミコの六道づけ(六道おろしにあらず)は、その後その村の小学校長に頼みききにやりたるも、巫輩一切|噤口《きんこう》言わず。しかし、その辺のもの何度も何度も巫寄せをききたるものあり、それらにつき少しずつ記載しいろいろ参取せば大抵は分かることと存じ候。「石ふる山が百十町、火ふる山が百十町」などいう句もある由。また烏帽子(夫か)、鏡(妻か)、枕(子か)などいうことをくりかえしくりかえしいう。故にちょっと素人には分からず。(336)通弁ごときものありて、その人を便りて問う。その者あるときは、「寄せのかかりよし」という。しからざれば、「かかり」悪く一向かからぬという。今のシャッポごとくに烏帽子をもっぱら着けたる時代に作りし語と思われ候。また 「吾妻ぶり」なる春画に※[図有り]は、図のごとき小さき弓に箭をはり書きあるも、この辺のは一尺余の大なる弓にて、尋常綿打つもののごとし。しからざれば、かく大きな音が出ぬとのことなり。米一升袋に入れもち行き、それを賃としてたのむ。しかるときはその米を盆にあけ入れ前におき、それへ梓弓にて「アビラウンケン、云々」と字をかく。さて数珠おしもみ仏をおがみ、次に黙して数珠をくりつつその珠を見るうちに、冥界の事相一切その珠の面にあらわる(西洋の crystal gazing に同じ)。それより梓弓をたたき、寄せにかかるなりという。右の次第ゆえとてこの辺では米に字を書くことを忌み申し候。拙妻の説には、むかし姑、家を出るとて米に字をかきて出ず。嫁知らずにその米を触れ字亡くなる。さて姑帰りて嫁が米に触れしを証し、大いにこれを責めたるゆえ(嫁は死んだぐらいのことならんも、妻は覚えず)、それより不祥事として米に字を書かぬなりという。他方にも米に字をかかぬことに候や。
  (小山漸という旧家よりは、今に『勝善経』のこと返事なし。猴舞しといわるるを深く恥じてのことと存じ候。)
 大正元年十二月十三日夜
                      南方熊楠
   柳田国男殿
 
          119
 
 小生、英国の科学週間雑誌『ネーチュール』へ、真珠が子を生むこと(この信ボルニオにも行なわるる由)につき小文を投じ(この文の大要は次回に申し上ぐべく候)、そのうちに貴下の『太陽』に書かれたる子産石のことの文〔【生石伝説】〕をオーソリチーとして挙げ置き候。
(337) 巫子の烏帽子云々は、小生の書き様悪しかりし。小生申せしは、巫子の口寄せの語中、烏帽子、鏡、枕ということをしばしばいう。烏帽子の心変わりやすく、鏡の思うところを憚り、枕の心中を思いやるというごとし。この烏帽子は夫のこと、鏡は妻のこと、枕は子のことというごとく、この外にも隠語多くある、と申し上げたるなり。右様ゆえ、巫のことを素人《しろうと》がちょっと聞きても分からず、その隠語に通暁せし者を通弁として召し連れ行くなり。さて家内に重要なる人を烏帽子と称うるぐらいゆえ、推して、この巫子の今日用いおる六道よせとか口寄せとかの詞は、いずれも家の体面上、身の容飾上、烏帽子、鏡、枕等を必要不可欠のものとせし世にできしものたるを証するに足る。(かんざし、こうがいなどいうものは、その世に第一のものとせざりしなり。)
 右認めおるところへ、拙児幼少のとき預けありし婦人来たる。このものは巫子等を毎月よぶような頑冥の村婦なり。巫子を多く知り、近日また巫子方へ往く由。よって小生(小生は人に多く畏れらるるゆえ自分往けず)の子分に、かかることにちょうど向いた男あるを遣わし、巫子に就いて六道よせの詞を写させることと致し候。成るか成らぬは知れねど、たぷん成る話と思う。
 さて婦人の言に、烏帽子は家の相続人、枕は死人の子供、鏡は夫または妻(英語 consort)の意味なり、という。このものは毎度巫子の通弁するほどのものゆえ、たぷんは間違いなかるべしと存じ候。
 市野々の烏帽子岩は小生知りおり。そこにみずから往きしときのこと、『人類学雑誌』、去年か今年上半のうちに「イスノキに関する迷信〔【里伝】〕」の所にかきあるべし。今も人のおそるる魔所なり。
 前文申し上げ候、信濃巫子を白イモジという。その節申し上げ候通り、白き湯具(ユモジという)を露わして営業に出ずるゆえ白湯文字なりと申す。
 ついでに申す。鈴の御子と申すことあり、『空華集』か『碧山日録』にもあり。また鈴の御前(鈴鹿御前)の古語もあり。小生、律蔵を見るうち、インドに仏の前後すでにかかるものありしを見出だし候。今ちょっと分からぬが、(338)写しは座右にあるなり。
 また、昨夜当地と山一つ隔てし岡《おか》という大字の小学校長来たる。この岡には今も代々の巫子数家あり。よって小生よりこの人に頼み、巫のことを委細調査し報告するよう頼みたるなり。しかるに、右校長言うには、只今はその大字の駐在巡査、非常に巫子をやかましくいい、四年前に一たび検挙ありしより、一切口を噤みて行なわず。故に聞き出すこと、いわんや実験などは思いも寄らず。しかし、そのうちそのことを毎度見聞したる輩に委細きき集め輯纂すべしとのことに候。この人の言うには、三毛猫を縛りおき鰹節を示しながら食わせず、七日経るうちにその猫の欲念その両眼に集まる、そのときその首を刎ね、その頭を箱に入れて事を問うなりとのことなり。(かかることは毎度聞く。安南にも犬をかくすることあり。わが国の犬神に同じ。また国により人の胎児を用うることあり。『輟耕録』に見えたる、小児を生剥ぎして事を問う術なども、大抵似たことと存じ候。)
 この岡の巫子はオンボウ(死人を焼きなどする男)の妻なりと聞く。小生思うに、猴、犬、猫などは仮話にて、実は人の頭を用うるならずやとも存じ申し候。(広畑岩吉という人いろいろかかること知るは前状申し上げ候。その弟もまたかかること多く知る。ただし、虚実定かならぬこと多し。この弟のいわく、二十年ばかり前に、大阪にて猪の頭骨を黒焼きにし身に帯びて相場を企てしものあり。しかるに、過去と現在のことはことごとくうるさきまで知り得るも、未来のことは一向知れず。うるさくなりこれを脱せんとするに、いかにするも猫鬼退かず。よって一計を案じ、猫は至って水を嫌うものゆえ、川中に潜り入りしに猫鬼ようやく去れりとのことに候。いろいろ聞き正すに、伝聞のままとのことなり。)
  『千手千眼大悲心陀羅尼経』に、「仏、阿難に告ぐ、云々、もし猫児の著くところのものあらば、弭哩?那(死せる猫児の頭骨なり)を取り、焼いて灰と作《な》し、浄き土泥に和し捻《こ》ねて猫児の形を作り、千眼像の前において?鉄《はがね》の刀子《かたな》を呪すること一百八遍すれば、段々にこれを割《さ》くことまた一百八段、遍々一たび呪して一たびかれの名を(339)称《とな》うれば、すなわち永く差《い》えて著かず、云々」。死猫児の霊が人に着しを除く法なり。ただし、死猫児頭骨に弭哩?那という特別の称あるを見て、このもの多く他の呪にも用いられしを知るべし。『大英類典』一昨年板の withcraft の条にも、今のインドの巫は猫を使うとあり。仏国にて中古盛んなりしが、仏王に急に全滅されし templiers の罪状にも、黒猫を回祖マホメットの霊として祀りし、とあり。『淵鑑類函』の猫鬼のことなど攷え合わすべし。(昨年一月一日および二月の『太陽』に出だせり)。
 これは申し上げたるか、記臆せず。神の物を人が借る一例、左に申し上げ候。
  ドイツのブルンスヴィクとハルバールスタットの間なるダルデシャイム小市近く、スマンスボーンと名づくる最浄泉あり、小丘より出ず。この丘にむかし矮鬼すめりという。むかしこの辺の人、式日の晴れ着、また祝宴の珍器を要せしとき、この丘の前に往き、三度土を(?)たたき、明らかに告ぐらく、
  明日、日出前に、われら借らんとする諸物、丘より出ずべし。
 かくして所要の品を借りしなり。丘の矮鬼は祝宴の馳走少々をさえ供えくれたら、それで滿足せしなり。(Thomas Keightley,‘The Fairy Mythology,’1884,p.220)支那にて槐を植うるはその陰を賞せしと見え候。唐の釈道宣の『大唐内典録』巻四に、元魏の朝、煕平元年、霊太后胡氏、永寧寺を作りしことを詳しく述べたるに、「その四門の外にみな青き槐を樹《う》え、亙《めぐ》らすに?《きよ》き水《かわ》をもってす。京邑の行人、多くその下に庇《いこ》う」と見え申し候。この例で支那に槐を一里塚に植うることあらば、そはやはり陰をとるためと存じ候。
 十三塚のことは、最初十三の塚ありしゆえ、それに付会して十三仏ということを作り出でたるにあらずやと存じ候。前日の『考古学雑誌』に載せたる蒙古沙陀の十三大宝塔なども、由来古くより十三の大塚あり、何とも知れざりしを、後に李克用に十三子ありしゆえと言い出でたるかと存ぜられ候。(克用果たして十三子ありしや、『五代史』で見たく(340)候。また十三子ありしとするも、十三子みな死なぬうちに、その父に媚びんとて沙陀の民が十三子のために塚を築くということ、前後顛倒せしように御座候。)
 たしか『仏像図彙』に、月の三十日を仏にわり中《あ》てたるものあり、法身、応身、化身の仏、菩薩、また明王もあるかと思えば、竜猛菩薩ごとき仏滅後数百年の人も有之《これあり》て、正しき経説にあらざるは勿論のこと、俗間の武家百人一首などいうものに、大将軍も偏将も士卒も双《なら》びあるごとく、いかにも杜撰に押し並べたものに候。十三仏には、仏というものの大日、阿弥陀、阿?、薬師(御存知通り阿?と薬師は同仏)、釈迦の五仏、観音、勢至、弥勒、虚空蔵、文殊、普賢、地蔵の七菩薩、不動の一明王を混在し、何たるわけもなく、ただただ俗間に名をよく知られたる流行《はや》り子《こ》ともいうべきもののみ集めたるは、最初十三の塚にそれぞれ何たる名称正しきものを祀らざりし証拠と存じ候。歓喜天は今もインドにて障礙神とする由なれど、十三塚を築くこと見えず、および仏経の本説にも見えず候。真言の法ならば、あるいはビナヤカ神と十二天とかとも存じ申され候。真言の護魔壇の周囲には、必ず那羅延天、風天、火天、水天以下の十二天を配置することに候。
 ついでに申す。この辺に、今もビナヤカ(歓喜天と混ぜることは御承知の通り)を祭るに、必ず餅で男女神の像を作り、七日夜とか油にて 《あ》げる、その内に男女神相抱くときは方成就とか申す。さて油餅※[図有り]かくのごときを作り、俗に茶巾《ちやきん》袋ちて七福神の側に※[図有り]こんな袋を画く、それの形という。沙金袋の義と存じ候。その餅を七つばかり人の家へ配る、それを食うと、食うた家の財が修法者の宅へ移ること金蚕などのごとし。小生面白きことに思い、前年欧米のドーナッツ doughnuts を作る法で、右のごとき袋形の果子多く作り、法を修せずに田辺の富家へ配りしに、その人々はなはだ機嫌悪かりし。右の餅を煮て油であげる法は経にも見えたりと存じ候。また、この方を修するときは暴《にわ》かに富むも、七代後にははなはだしく貧困すと申す。故に、この法を修する家をはなはだ(内々ながら)忌むこと、尾さき狐の家を埼玉辺で嫌うごとし。
(341) 上述、神に物を借ること、唐の釈道宣の『三宝感通録』巻一に、「益州城南空慧寺の金蔵は、穴あり。寺の近くにあって道士あり、素《つと》に蔵あるを知り、来たって寺を守るの神に乞う。神、穴に入って二升の金粟を取らしむ。言によってすなわち入れば、ただ地下の金甕、行々《なら》び相対してその辺(辺際《かぎり》という意なり)を測るなきを見る。寺僧、通知するも、あえて侵す者なし」。古インド、アラビア、また昨今の西アジア、また欧州のトルコ領土などに、古え地下に財を蔵せるを見出だす話多し。鬼物これを守り容易に人にとらせぬ由を伝え候。仏経の真言法などにも地蔵(伏蔵ともいう)を見出だし取り用うる法多し。(転輪王の七宝に、主蔵臣宝あり、この人はいかなる地蔵をも千里眼もて見出だし、王の用に供するなり。)わが国にもむかしかかる伏蔵多かりしより、自然神より宝を借る話、言い出だし候かと存ぜられ候。(西アジアには、今日も穀物を地下に蔵匿する風行なわるる由。銀行とか倉庫業とか確固たる受合いなき国には止むを得ぬことにて、南洋にも介殻を貨として富を計《かぞ》うる国には、その介殻を地下に匿し、なかなかちょっと他人に明かさぬ由に候。)
 『高僧伝』などに見えたる阿育王塔というもの、事体を案ずるに、多くは誰のものとも知れぬ大古塚にて、それを後に仏法入りて阿育王の塔塚と付会したることと存じ候。『三宝感通録』巻一に、「倭国はこの洲の外、大海の中にあり、会稽を距《さ》ること万余里なり。会承という者あり、隋の時ここに来たつて学ぶ。諸子、史統および術芸、事として閑《なら》わざるなし。武徳の末になお在り。貞観五年に至って、方《はじ》めて本国に還る。会に問う、かの国は昧谷《まいこく》の東隅にあって、仏法|晩《おく》れて至る、いまだ知らず、已前《いぜん》に育王の及べるや不《いな》や、と。会答う、文字は言わず、もって承拠するなけれど、その事迹を験するに、すなわちこれ帰する所なり。何となれば、人の土地を開発するに、往々、古塔の露盤、仏の諸儀相を得。故に素《もと》ありしことを知るなり、と」とあり。いわゆる阿育王の古銅鐸もこの類にて、実は仏法と何の関係なき古墳、故墟を、仏法の旧跡にしてしまいしことと存じ候。さて、それらの塚へはいずれも仏塔を立てしなり。十三塚も、最初は仏法に縁なき十三の塚なりしを、後に十三神また十三仏のものとしておいおい仏化したるものと存ぜ(342)られ候。ちようど最初ローマの古廟をつぶしてその基礎の上に耶蘇寺を立て、それがまた回徒に討平されて回教寺に化せられたること、コンスタンチノープル、サン・ソフィアの大堂のごとくなるか。
 この地より二里半ばかりの地に、小生、千体仏という大冢を見出だせり。小生は見ぬが、たれかに聞きかじり、杉村〔【楚人冠】〕の『麗人麗語』とかいう本にもちょっと載せある由。その塚は車塚様のもので、小生知れる博徒、曲玉、管玉、金を嵌めたる太刀等、掘り出だせり。その中腹には、何とも知れぬ像を多く中高に掘り上げたる石板あり。仏教の物と見えず、地蔵のごとくなれど円光なし。さて、その丘の上には、仏式の墓碑多く、中には元禄ごろのものもあり。また円礫に※[図有り]こんなものを掘りたるもある。いかにも幼稚にて、元禄ごろのものと見えず。これらも、最初は仏教未弘前の塚なるを、後に仏像など多く飾り付けて、ついに村の墓地となりたると見え申し候。中古|故《ことさ》らに十三塚を築いたものならんには、せめて少々十三塚を築くという記録、日記はありそうなものなるに、少しも見えず。俗家は勿論、寺家、社家の記録にも見えぬよう存ぜられ候。故に、十三塚は上古よりありしものにて、それを後に仏家よりこじつけて十三仏などをまつり候こととなりたるかと存ぜられ候。この状は小生いろいろ事多きゆえ、ちょっと書いては止め、ちょっと書いては止め致し、まだ書かんとすれど、また用事でき(別紙の通り)候ゆえ、これにて止め申し候。大正元年十二月二十八日夜十二時。
  西洋には子産石のこと、伝はなはだ少なく候。
  末筆ながら、ロンドンの大書肆に『ノーツ・エンド・キリス』一八四九至一九一一年全部百二十一巻、二十二ポンド十シリング、二百二十五円ほどにて売りに出で、小生方へも申し来たり候。ちょっと買手もなかろうが、もし好事の人入用なら小生まで御申し越し下されたく候。今はなかなか全部そろわぬものに御座候。
 大正元年十二月十五日書き始め、二十八日夜終わるなり。
                     南方拝
(343)   柳田国男様
 
          120
 
 小生夜来眠らず、故に例のごとく渋筆、御察読を乞う。さて、当地方神社一件は、官民双方|憊《つか》れて仕舞い、加うるに御大葬の御事ありてより、かかることに騒擾を重ぬる訳にも参らず、神地、神林そのままなる向きはおいおい何となく神社復興(これは御大葬前後、遠地より神社に参るを得ず、大いに手こずりし等のことあるにより候と存ぜられ候)、また魚付林は伐るどころか再建にかかりおり候。小生も永らくかかることに時間と金銭を浪費するは、もっとも学事と家事の妨害に相成り候につき、一切関係を絶ち、例の『日本及日本人』への投書も見合わせおり申し候。また、かの毛利清雅という男は、合祀反対で小生の味方して大逆事件の連累で危うかりしところを免れ、それより顔を売りて県会議員となり、今度は国会議員とならんとて、今春中村啓次郎氏の合祀一条の演説が近郡の村民へ洩れては中村の威名におのれを圧せられんことをおそれ、平日合祀反対の本尊ごとく自推せし『牟婁新報』へ中村氏の演説を少しも載せず。つまり、かかることを手段としておのれの威力を増し、他を陥墜せんとの卑劣心の人と見破り、小生は爾来絶交、「悪眼の話」、「蟹と巡礼の話」、「常世国について」の三長篇を、近ごろ当地にできた毛利反対の新聞へ出し候より、同人大いに弱り入りおり候。右三話は、例の通りの文ながら、古俗学上の御参考ともなるべきこと多く編入しあり、貴下読んでくるるなら一通りそろえて差し上ぐべく候。
 さて今夏、白井博士を歴て頼み上げ候、当湾へ朝来《あつそ》村の泥を排出する一件は、図〔【次頁】〕のごとく朝来の泥地をタキナイ(滝内)なる鹹水の谷へ排水せんとするものにて、この地は沼と申せど実は印旛沼ごとき泥水を湛えたる沼には無之《これなく》、東京の浅草・下谷辺に小生ら三十年前おるころ、大雨がふると地面が一面に何ともならぬ泥餅のごとくなる地なり。たとえば豆腐を圧搾すれば水分出で去り、さて湿気を加うればまた水でふくれ上がるごとし。これを沼と称し、至っ(344)て堅固なる岩石の山をほりぬき、図中、滝内《たきない》へ落とさば一丈八尺とかの滝を生じ、それより水力電気を起こし得べしとの見込みの由、揚言す。これは艶子とかお艶とかいう小女の名を聞くと、『徒然草』にいわゆる面を見ぬうちからその人の姿を思いやらるるごとく、滝内という名称より思い付いた洒落《しやれ》ぐらいのものにて、到底かかる泥餅ごとき土の水分を排して滝も水力電気もできるものにあらず。費用はわずか四万円ばかりにて、只今三十人ばかり近所の農民とかを使い起工しおるも、第一、四十丁(実は田になるは、二十四、五丁)ばかりの泥地を百四十人も持っておる、その地主会も開きおらず、何が何やら分からず。
 この村は合祀の時、由来正しき神社三つをことごとく全滅して、わずかな樹林を伐り終わり無神となりしようの人気の悪き処にて、右の沼地は従来他の諸村に稲のでき惡きときはよくできる、それを大阪等へ持ち行き良田のように風聴して人を欺きしことしばしばにて、終《つい》に信用全く地に堕ちたるところへ、当郡長(今月免職になれり。この者と毛利と和睦し、諸処へ入りもせぬ土工を起こし、民人大いに困りおりたり)、虚誉推奨を好み、県吏の意を迎え、実地の見分もろくにせずに、右様の工事を興さば一廉功名にならんとて起こせしことにあるなり。当県今年の大風に費用おびただしくかかりたれば、到底かかる不急のことに金など出ずべきにあらず。しかし、すでに願い済み(実は県庁より強制)の上はとて、どこかから低利の金を借り来たり起工中と聞けど、実際いかほど金を借りたりやも知れず。ただ一つ知れたるは、最初工事受負いの投票の節、受負い人輩、ダンゴということを企て、非分の利を取らんとして検挙され(この輩の中に毛利の一党もあり)、(345)それがためはなはだしく名誉を折り、信用を欠きおるなり。右のごとく万事浮いたことどもゆえ、小生は、この工事は徒労にて抗議とか何とか歯牙にかくるほどのものにあらず、と冷笑して過ぎおり候。
  白井博士より廻されたるその筋の答えを見しに、この排水工事行なわるれば、富田川の中の魚類の滋養分ことごとく田辺湾に流れ入り、魚類絶ゆるどころか大いに蕃殖すべし、などあり。これは実に麁漏千万な言にて、図のごとく、河童(カウラ)川とか申す小川、従来泥地より富田川へ通じあり。しかるに、この小川はたちまち埋もれ溝のごとくなりあるなり。すなわち富田川の流域とは谷《たに》という意味にて、富田川の流域ながら川と泥地の間の地が高きなり。もし流域ゆえ苦もなく富田川の水が泥地へ入りやすきようのことなら、わざわざ四町余もある岩山を開きて海へ排水するを要せず。カウラ川ごとき溝を多く川へ落として、川へ排水して可なり。また富田川の水が朝来泥地を歴てたやすく滝内へ落つるようならんには、富田川の水たちまち減じ、到底富田川口へ筏を下すことならざるに及ばん。これ大事件なり。愚案には、右図のごとく朝来泥地の側には無毛の禿山はなはだ多し。その土石をヤエン(はりがねにて箱を運ぶ器械。この器熊野にて石炭また材木を運ぶに多く用ゆ。遠くうち見れば、この箱の動くを?鼠《むささぴ》の飛ぶと間違うことあり)にて村民どもにはこばせ、右の泥地を埋めなば何の苦もなく埋まり、立派な有税の宅地が出来申し候。また果樹畑等何にでもなるなり。(露国の旧都モスコウなぞかくして塵を埋めて都を建てたりという。当田辺町にも大なる旧城隍をはきだめ棄場として過半埋まりおわりたり。小生も東牟婁郡天満にてはきだめを捨てさせ、泥地を畑に化したるを見候。)実に易々たることにあるなり。しかるに、海へ泥を排するなど大業なることを申し出で候は、官吏等名を貪るのと、村民等の奸人が私利を営まんとの志より出でたるものに候。
 右述のごとく、小生は一向冷笑にて過ごしおり候てこのことに関せず。そのうちに近傍の漁民大いに騒ぎ立ち、心配一方ならず。官辺の調査候漏にて、田辺湾の海を日高・有田郡辺のかかる海と思い混じて、かくのごときことを許可(346)したるなれど、右の図に示せるごとく田辺湾は袋のごとき所にて、綱不知《つなしらず》など申し、船少しも動揺せぬゆえ纜《つな》を要せぬ所などあり、海波至って穏やかにて湖水のごときが、湾の東半の状体なり。(明治二十二年大洪水ののち二、三年間、フナ等の川魚が海底にすみしと申す。今日のバルチク海なども、波静かにして淡水一たび入ればちょっと海水と混ぜぬゆえ、川魚が海底にすむという。)幸いに会津川がその東方に注入する外に海へ入る淡水少しもなきゆえ、今のごとく珍異また有利の海産多きも、この上この静かなる所へ淡水、ことに泥が入り候ては、図中、内の浦辺のカキ、真珠、礒間浦民が専利するコノシロ、アジ、また滝内、内の浦の谷海に限って捕り得る谷鰹《たにかつお》(メジカともいう)、鰯《いわし》の子は全く失せる。したがって、田辺町の一部なる模範漁民(県下で第一の大人数の漁地なり)が、年々今のごとき麁末なる方法をもってすら十五、六万円を獲りおる鰹漁を営むべき餌《え》を全く失うことと心配致しおるなり。
 近年江川の民に、漁猟の改良せよとて石油発動機船など作らせ、その船大きなるに過ぎて石炭を焼くことおびただしく、ために経費つぐのわず。西洋のストーブ、また日本の七厘《しちりん》ごとく、※[図有り]図のごとく穴を炉の辺《へり》にほり、外部にまたその穴に合うべきフタを作り、石炭多く燃えるを要せぬときは柄をマわしてふたして徐行し、さていよいよ鰹多きを見るや否、フタを外し石炭を多く燃やし、急にそこに趣《おもむ》くこととでもしたらばよかつたに、官民ともこれほどのことに気付かず、むやみに炭を燃やし急行するのみゆえ、何も漁せずに帰ること多く、止むを得ず鰹取るために作りし舟にてシイラ(至ってつまらぬ魚、この辺にて綽名《あだな》天保という)を漁しおる。政府奨励の素志ははなはだよしといえども、県吏や人民の所為手ぬかり多きこと、万事この例に候。
 県庁また郡衙などは、何もかもできるだけ事を起こして、利害の相衝突するを顧みず、一方に水産を奨励するかと思えば、一方には年々十五、六万円とれおる漁業の餌を潰すまでも奨励して、さてわずかに年に四千円ばかりの収獲ある(純益にあらず、上り高なり)稲田を得んとて、かかる排水を行なう。白井博士より岸上博士等に尋ねもらいしに、鰯の子は絶えまじとのことなり。しかし、かかることはその土地のものの方経験あること多く、また湾内には鰯(347)の子絶えざるにしても、右の谷海の外にはいろいろ大字よりの故障あり、また不経験のため件《くだん》のアジロ場(俗呼。すなわち鰯の子を古来とり来たれる所)の外は、なかなか鰯の子をたやすく多くとり得ぬなり。そは汽船常に航しなどするゆえ、鯖の子ありてもたやすく海面に安閑と出で来たり遊ばぬなり。たとえば表面だけ用心よき親爺が、狭き家の内で、第一女は縹緻よきゆえ琴三味線を習うて芸妓になし置かば大臣に引かさるるも知れず、第二女は学問のタチ好きゆえ教員となさんとて読書を教え、弟三女は内気《うちき》な質ゆえ大百姓の妻にもらわるるようと機《はた》を織らせ、狭き家の内で三絃と読書と織工との稽古でやかましくて、おのおの疳積を起こし、誰一人満足に卒業し得ぬようなやり方と存じ申され候。
 図中、会津川、二十二年の大水で埋まり、毎年埋まり行き、それまで船舶多く入り泊せしも、今はそんなわけに行かず、風雨の節は田辺より三十町ばかり東の文里《もり》という細長き湊へ入りおるなり。この文里も年々浅くなり行くゆえ、近々何とか浚《さら》えざるべからず。しかるに、その御近処の滝内へ泥が雨ふるごとに入るときは、この港も到底物にならぬなり。
  付白。前日白井博士より受けし官庁の答弁に、この辺は七、八月大水ありとのこと書きありしも、この辺にはそんなことなし。やはり梅雨のときもつとも水多く出るなり。梅雨のときの淡水、泥水、多く海に入るときは、海潮くさく、海藻等腐爛し、海産物にはなはだしき永遠の害をなすなり。
 しかるに、右の諸関係大字のうち滝内、内の浦、鳥の巣等の大字は、直接大関係あるに係《かかわ》らず、右の朝来村よりわずかに二千円の※[貝+賞]を獲て苦情を止めたる様子なり。これは内実止めたるにあらざるも、県吏の強制に卑劣なる心底の小民等、小言を言えば罰せらるると心得たると、今一つはこれら大字を包有する新庄村の他の大字(海見えぬ所にある輩)の民が、一村へ二千円なりとも入らば全村の費がそれだけ助かると心得、他の漁民大字に人数少なく人物乏しきを幸いに、多数もって無理に推しつけ勝ちたるなり。また、この漁事に関係なき新庄村の大百姓中に、件《くだん》の隣村朝(348)来の泥地の持主があるゆえ、その威勢で圧制しおおいたるなり。
 しかるに、コノシロ、アジ等の漁利を主とする礒間浦(古歌で名高き処)と、鰯の子を餌として鰹猟を大いに営む最多数漁民ある江川浦民ははなはだしく心配し、小生は到底関係せぬものと見とめ、小生に問わずに田辺町長以下の連判を得て県庁へ右の事情を陳述し、この排水事を止めんことを求めたるに、先日却下となりおわりぬ。この上は行政裁判へ出すべしという。また、ある者は、新庄村の人数少なき輩すら二千円とりたれば、江川浦は明治三十六年より向う三十年間、右の鰯の子の捕獲借区を獲あるものゆえ、少なくも一、二万円の※[貝+賞]を求むべしという。しかるに本年の凶荒その他で各町村とも大いに疲弊しあるに、また多くの黄白を散じ弁護士等に左右され、永々と裁判にかかるを小生はなはだ不便に思う。よって貴下まことに畏れ入り候えども、県庁すでに却下なりたる排水中止請願書は、順序として何の処へ差し出して然るべきか、またこのことを上陳し審らかに事情をしらべもらうべきもつとも然るべき方法はいかにして宜しきか。何とぞ然るべく御考勘の上、はなはだ恐れ入り候えども、拙生まで御教示下されたく候。
  小生は、こんなことを言ったところが、今日の世態、到底何の功もなしと存じ候。また右申すごとく、この排水は前後曖昧にして成し遂げ得ることにあらずと冷笑致しおり候。ただし、官辺の仕方いかにも麁漏無頓著なことゆえ、そのうち貴下および白井氏、その他箇々の人に関係をいささかも及ぼさぬ方法もて、今日地方濫政また政府不始末の標本として世論に訴え置かんとも存じおり候。小生の思うところはこれに止まる。しかれども、多人数が困却依頼するを全く杜絶するにも忍びず、よってなるべく順序を追ってその筋へ事情を述べ得べくんは左様せしめんと欲す。
 新年早々はなはだ御面倒ながら、ある輩のいうには県庁への請願書却下後三十日立たば行政裁判所へ訴うる権利を失うとの言なり。請願書却下されてすでに十二日ばかりになる。しかして小生は、右申すごとく漁民等がまたまた代言人等にいろいろと苦しめらるるを哀れみ、なるべく裁判にかからずに素願の達すべき方法をふませやりたくてのこ(349)とに有之《これあり》。彼輩裁判を仰ぐと否とは小生の知るところにあらざるも、とにかくなるべく早く返事したりたく候つき、その御積りにて願い上げ奉り候。
  請願書と却下通知書、封入御覧に入れ候。これは入らぬものなれど、念のため御返事と共に御返し下されたく候。
 七難のそそ毛のことにつき、後考書き置きしも、いろいろ事多く本状何時出し得るか分からぬほど多用につき、むりに本状認め差し上げ候。そそ毛の後考その他は見出だし次第差し上ぐべく候。以上。
 大正元年十二月二十九日早朝認め、十二月二十九日夜九時擱筆。
                     南方熊楠
   柳田国男様
 
(350)   大正二年
 
          121
 
 芳翰拝誦。早速海図により当地方の図を小生みずから調製し、双方の実情を統計もて示したる上、意見書近日出来次第差し上ぐべく候間、宜しく頼み上げ候。しかるに、ここに伺い上げ置くは、小生強いてかかることに加わるを好まず、故にどうなつても宜しく、ただいかにも不始末なことゆえ、世の注意を惹き置きたきまでにあるなり。故に右意見書は、成行きの如何《いかん》に係《かかわ》らず、世にはかかる不埒のことも行なえば行なわるるものということを後記に留め置くまでに一斑を公けにせんと欲するが、それにても御取次ぎ下さるべきや。(今の当局者にして万一愚言採用、あるいは再審に付し、または断然中止を命ぜらるるとすれば、たとい右の公表出ずるとも決して今の当局者の?《きず》にならぬことに候。)(川上親晴氏ごとき、世評はともかく小生の乱暴を罰しながらその言を用い、みずからわざわざ徒歩して那智を視察し、関係者を夜中通して延見して伐林を止めしめ、また相良を遣わし、特に神島を視察せしめ保安林とされたるなどは、その所為まことに公明にして、政党内閣政党内閣とよきことのように言いながら、政党議員などの私懐を肥やすことのみ行なうに比すれば、万々まされり。故に小生は、昨年四月十五日の『日本及日本人』にて、公衆に向かい、川上氏に前年の自分の過言を謝し置きたり。)昨年も公表せんとせしも、白井氏より紹介人の名を出しては不都合とのことゆえ見合わすうち、右のごとく実行となり、奸人等は小生を口ばかり大きく何のなすところなき歯牙に掛くるに足らぬものと笑いおれり。
(351) 貴家と同じ加賀町二、三三に、福本日南住む由申し来たり候。貴家近処なりや。
 大正二年一月三日夜十二時
                        南方熊楠
   柳田国男様
 
          122
 
 小生、朝来《あつそ》沼のこと起草致しおり候ところ、今朝、江川町漁業組合事務所へ刑事巡査来たり、「最初朝来村より排水工事出願の前に、この江川町漁民に故障なきや否を問い合わせありたりや」との問いなり。よって事務所書記、当町および礒間浦へ一向問い合わせ等さらになかりしとの答えなり。刑事巡査、「しからば、新庄村(この村の豪家二人が朝来泥地の持ち主なり)の漁民は二千三百円※[貝+賞]を取りたれば、江川町および礒間浦も※[貝+賞]金にてすましては如何《いかん》」とのことなり。書記は、当方には漁民死活の問題なれば、新庄村の一部の民がわずかに内職に礒釣りや牡蠣《かき》拾いする比にあらず、弁償にては事すますつもりなし、ただただ排水工事止めてくれればよきなりと申し放ち、小生方へ告げに来たり候。
 右は、小生本月六日江川漁業組合支配人および書記と沿海をみずから巡視し帰りし。小生は身体角力取りのごとく大にて眼につき事を生ずべきを憚り、右二人をして排水坑に臨ませ、自分はヌカ塚神社滅却跡に潜み地図を作りおりたり。さて宅へ帰りしは点灯後なりしに、妻言うには、朝来村の旧神官(合祀につき免職さる、酒飲みにてあまり上等の人にあらず)等三人、今朝および今午後二度面会に来たりたりとのこと。さて食事すませ湯に之《ゆ》かんとするとき、ちょうど九時半なるに、右の神官等三人念強くもまた来たる。一人は酔い、二人は素面なり。よって三人より旨趣をきくに、右ヌカ塚を砕かんとすものあるも(前刻申し上げたる毛利に妻と娘を捨身施せし呉服商がこの神社跡地を買(352)いたるも、毛利のすすめにより潰すこと見合わせおるなり)、何とぞ保存したしとのことゆえ、小生はこの神社のことに一切かまわぬが、ヌカ塚というもの他国には多くある由なれど、熊野にはここしかなし(抗議書、地方官会議(十五−十七日)、知事上京の間に合わさんと思うが、今夜ごとく頭腫れては間に合わぬも知れず)、
  以前は、大晦の夜より元日の暁まで、近村また当町より商人等おびただしくまいる。日置浦の素封|桝屋《ますや》(三本《みもと》氏)の祖一番早くまいり、升《ます》を拾い(あるいはいう、樹の枝に懸下しありし、と)、それより今の富家になれり、と。
故に史蹟として保存すべしと教え、さてそれとなく排水工事の事情を問うに、村の有力者は一切かかりおらず、森という以前巡査で免職になり、後家の男妾になりゴロツキを業とするもの、もっぱら排水工事を起こし、一、二の有力者名前を仮《カ》せと逼られ、止むを得ず名を貸したるまでとのことなり。その他、官へ届けたことと実地と齟齬のことども多し。(一人は酔いてしゃべるを、素面の二人そばより一々訂正するなり。故に三人の語るところを酌取して大体の事実は分かり、それをまた官への届書と比較し見れば、大抵虚実は分かる。)その日朝来村にて小生つれ行きし輩が問い合わせしも、なかなか秘して言わず、大いに困りしに、その村の輩が三度まで執念《しゆうね》く小生を尋ね来たり秘密を語りしも、ヌカ塚の神の冥護にやと面白し。かかる民利になるべきことを一切秘密にすることはなはだ心得がたし。これにてもこの工事の公然明白ならぬものたるを知る。
 刑事巡査はかかることに関係すべきものにあらず。よって思うに、件《くだん》の森という発頭人がもと巡査たりし縁故をもって、ひそかに刑事巡査に頼み、漁業組合を勧めて和解求※[貝+賞]に出でしめんとせしなり。これは小生当日微行なりしも、小生はすこぶる人目に立ちやすき男にて、何となく朝来村の多人の眼に立ちしか、または件《くだん》の神主等が帰宅後しゃべりしものならん。とにかく、刑事みずから突然「最初出願前に苦情の有無を漁民へ問い合わせありしや否」を問うにて、森始め発起人輩が「隣村漁民利害上苦情さらになし」と県庁へ詐称したることを知り得申し候。
 ただし当地警察署長は、従前例なき発明の人にて、工事起こる前に入札の節一同申し合わせてダンゴということを(353)行なわんとせしを検挙し、また本月二日より工事にかかり、日夜爆裂薬をもって岩を砕くをも、成規により夜間作業を禁じたほどのことなれば、あるいはまた官辺を欺きし廉をもって検挙のためかも知れず候。
  毛利は、小生に「悪眼の話」を出され、大いに威を失い降を乞うも赦さず。よって十郎蔵人行家が木曽にも鎌倉にも中違《なかたが》いして何のわけもなく丹波から平家を襲い大敗せしごとく、和歌山へ上り、県会にて右の警察署長が万事規則づめにするととて攻撃を加え、広瀬直幹氏に逆さまにやりこめられし。(これは大逆事件のとき広瀬氏の蔭で辛くゆるされおりたる故なり。)
 増資聖は、幼時蝴蝶の舞のまねとかをやって見たかったがそのひまなく、老年臨終に及びこの念を果たしてならでは安眠しがたしとて、その舞のまねをやらかし死したり、と聞く。小生今度の一条、実地踏査その他事多く、頭の後部に癰ごときもの昨日よりでき、今日はなはだ不快なり。抗議書の起稿は必ずすますが(漁民およそ三、四千名の命を救うことゆえ)、それがすまば、臥蓐して切断術を施さにゃならぬかも知れず、事により死ぬかも知れぬ。(今日箇条書を製するつもりなりしも、この腫物のため組合所員小生宅へ来ること断われり。)よってすこぶる略ながら兼ねて御頼みの「己が命の早使い」の一件左に記し、新羅三郎然と伝授申し上げ候。(欧州の方は出処の原文長たらしく、文字錯誤多く、小生には読み得ぬところ多し。故に『大英類典』により、大意英文で書きたるものを写し、この状中に封入候。左に筆を走らすはほんの略訳なり。)
 『大英類典《エンサイクロペジア・ブリタンニカ》』一九一〇年板(第一一板)巻の三。ハムレットの条。沙翁《シエキスピア》の戯曲に名高きハムレットの話は、戯曲にはデンマークのこととしあれども、英国にも似たる古伝あり、Havelok,‘Horn and Bevis of Hampton’等の諸伝これなり、ということを論じたる後に、別紙の通りの話あり。サキソ・グランマチクスの『嗹国史《ヒストリア・ダーニカ》』巻三および四より採れり(この書原文小生所持せり。しかし、右申すごとく古嗹国の名など小生には分からぬこと多し)。次に、やや永く論あれど、それはハムレットの伝に関することにて、おのれを殺すべき状を托さるる一条に関係なし。(354)(略訳を述べんとするも、頭はなはだ痛むゆえ止め、その代りに 『類典』の文を、なるべく分かるようにおそくかき申し候。)この英文の条末に、この話の状を書き更える一条は、仏、インド、またアラビアの譚にもあり、と書きあり。アラビアとは『アラビアン・ナイト』なりしと思う。小生、バートンの全篇訳を持ちおる。大部(十二冊)でちょっと分からぬが、頭直り次第しらべ、もしあったら申し上ぐべく候。インドとは何の譚か小生は知らず。しかし、仏経にあるものを左に写し申し上ぐるなり。
 三国の呉の天竺三蔵法師(康居国(支那の外国)の人で、三国時代の支那の俗語で訳せしなり。故に今日となりて読みにくきこと多し)康僧会訳『六度集経』巻五に、釈尊の前生を説く。「むかし菩薩、貧家に生まれ、貧家育てず、?《ぬの》をもってこれを裹《つつ》み、夜人なき時、黙《ひそ》かに四衢《よつつじ》に置き、銭一千をあわせて送ってその首に著く。国俗この日をもって吉祥の日となし、率土《そつど》野会し、君子小人おのおのその類をもって盛饌《せいせん》快楽す。梵志《ぼんじ》、戯を観て会者を讃していわく、嗟乎《ああ》、今日会者の別して、粳米《うるち》の純白にして糅《まじ》るなく、その香|?芬《ひつふん》たるごときものあり、もしそれ今日産まるれば男女なく貴にしてかつ賢ならん、と。庭中、一理家(富家なり)あり、独りにして嗣《よつぎ》なし、これを聞いて黙《ひそ》かに喜ぶ。人を四布して子を棄てし者を索《もと》めしめ、路人に問わしめていわく、児を棄てし者あるを覩《み》るか、と。路人いわく、独りなる母あり、これを取れり、と。人をしてこれを尋ねしめ、その所在《ありか》を得。いわく、われは四姓にして富んで嗣なし、爾《なんじ》、児をもって貢がば、衆《おお》くの宝を獲べし、と。母いわく、可なり、銭を留め児を送り、欲に従って貨を索む、と。母、獲ること志のごとし。児を育つること数月にして婦《つま》妊娠す。いわく、われ嗣なきをもつて、故に異族を育つるに、天、余《われ》に祚《さいわい》を授く、今や子を用《も》つてすることを為さんや、と。?《ぬの》をもってこれを裹《つつ》み、夜、坑中に著《お》く。家羊、日に就《つ》いて乳す」。
  熊楠謂う、当地などにて、子なきもの他人の子を養うときは自分に子できるという。しかる上、その養うた子を大切に養わねば、自分新たに生みし子に災天生ず、と申す。かくのごとき訳で小百姓の子が大家の財を襲《つ》ぎしも(355)の、また大部分を得て分家せしもの間々《まま》あり。
 「牧人|尋察《みまわ》って、児を覩《み》てすなわち歎じていわく、上帝何に縁《よ》ってその子をここに落とせるか、と。取り帰ってこれを育て、羊の?《ちちしる》をもってこれに乳す。四姓(四姓とは長者をいうなり)これを覚《さと》って詰《なじ》っていわく、縁《よ》って(何に因《よ》ってということ)?を窃《ぬす》めるか、と。対《こた》えていわく、われ天の遺子を得て、?をもってこれを育つ、と。四姓、悵《うら》み悔いて、また数月を育つ。婦ついに男《むすこ》を産み、悪念さらに生じて、また前のごとく?《ぬの》をもってこれを裹《つつ》み、車の轍《わだち》の中に著《お》く。児の心に仏の三宝あり、慈をもってその親に向かう。晨《あした》に商人あり、数百の乗車、経路ここに由《よ》る。牛|躓《しぶ》りて進まず。商人その所以《ゆえん》を察《しら》べ、児を覩《み》て驚いていわく、天帝の子、何に縁《よ》ってここに存するか、と。抱いて車中に著《お》き、牛の進むこと流るるがごとく、前《すす》むこと二十里にして息《やす》む。牛の停《とど》まれる側に独りなる母あり、商人に白《もう》し、乞いていわく、児をもって相恵み、わが老窮を済《すく》え、と。すなわちこれを恵む。母育つることいまだいくばくならずして、四姓また聞き、愴然としていわく、われの不仁にして天徳を残《そこな》えるか、と。また衆《おお》くの宝をもって児を請いて家に帰り、   噎《むせ》んで自責し、等しく二児を育つ。数年の後、児の智の奇変縦横なるを覩《み》、悪念また生ず。いわく、この明なること度を溢《す》ぐ、わが児|否《しか》らざるや、必ずこれを虜《しもべ》にせん、?《ぬの》に裹《つつ》んで山に入り、しばらく竹の中に著《お》かば、食を絶して必ず殞《し》なん、と。児、慈念を興《おこ》していわく、われ後に仏を得て、必ず衆《おお》くの苦を済《すく》わん、と。山、谿水《たにがわ》に近し。児、自力にて揺すり、竹より地に堕ち、展転してその水《かわ》の側に至る。水を去ること二十里、死人を担《かつ》ぐ※[こざと+聚]《むら》あり、※[こざと+聚]に人あり、行きて樵《たきぎ》を取る。遙かに小児を見、就《つ》いて視て歎じていわく、上帝その子を落とせるか、と。抱き帰ってこれを育つ。四姓また聞いて、その恨むこと前のごとく、衆《おお》くの名宝をもって請い帰り悲泣す。あわせて書数、仰観俯占、衆道の術を教うるに、過目《かもく》せばすなわち能う。稟性仁孝にして、言すなわち導化す。国人、聖と称し、儒士雲集す。父、兇念を生じ、その悪《にく》むこと前よりも重し。家に冶師《いものし》あり、城《まち》を去ること七里なり。図って児を殺さんと欲し、書して冶師に勅していわく、むかしこの子を育つ、子わが門に入りてより、疾疫|相仍《しきり》にして、財|耗《つ》き畜死す、太卜《たいぼく》占っ(356)て、児この災を致すという、書到らば極《ただち》に摂《とら》えてこれを火中に投ぜよ、と。訛《いつわ》って児に命じていわく、われ年|西夕《くれ》なんとし、加うるに重き疾《やま》いあり、爾《なんじ》は冶師の所に到り、銭宝を諦計《つまびら》かにせよ、こは爾が終年の財なり、と。児、命を受けて行き、城門の内において弟の輩《ともがら》と胡桃《ことう》を弾《はじ》いて戯《あそ》べるを観《み》る。弟いわく、兄の来たれるはわが幸いなり、わがために折《まけ》を復《とりかえ》せよ、と。兄いわく、父の命あり、まさに行くべし、と。弟いわく、われ請《ねがわ》くは行かん、と。書を奪って冶師の所に之《ゆ》く。冶師、書を承けて、弟を火に投ず。父、心|?々《しようしよう》として怖れ、使いを遣わして児を索《もと》む。使い、兄を覩ていわく、弟かくのごときか、と。兄、状《さま》のごとく対《こた》う。兄、帰ってこれを陳《の》ぶ。父、駅馬にて児を追うも、すでに灰となる。父、躬《み》を投じて天を呼び、結気内に塞《ふた》がって、ついに癈疾となる。また毒念を生じていわく、われ嗣《よつぎ》なし、この子を用《も》ってすることを為さず、必ずこれを殺さんと欲す、と。父、邸閣《みせ》あり、国を去ること千里なり、すなわちこの児を遣わしていわく、彼わが財を散ず、爾《なんじ》往て計校《とりしら》べよ、今邸閣に書を与え、嚢に蔵《い》れ?もて封ず、爾急ぎもって行け、と。書に陰《ひそ》かに勅していわく、この児到らば疾《と》く石をもって腰に縛し、これを深淵に沈めよ、と。児、命を受けて稽首し、軽騎もて路を進む。路を進むこと半道にして梵志《ぼんじ》あり、父と遙かに相|被服《ひふく》し、常に相|問遺《もんい》し、書疏《しよそ》を往来す。梵志に女《むすめ》あり、女すでに賢明にして、深く吉凶、天文、占候を知る。児行って梵志の居《す》む所に到っていわく、わが父親しくするところの梵志、まさにここにあって止《す》む、と。従者に謂いていわく、今、過《たちよ》りてこれに礼を修めんと欲す、可ならんか、と。従者いわく、善し、と。すなわち過りて覲礼《きんれい》す。梵志喜んでいわく、わが兄の子来たる、と。すなわち四隣の学士、儒生、耆徳に命じて雲集せしめ、娯?《ごえん》歓楽す。あわせて衆《おお》くの疑いを咨《はか》るに、欣  惇《よろこ》ばざるなし。日を終えて夜を極め、おのおの疲れて眠寐《ねむ》る。女ひそかに男を観るに、その腰帯に嚢封せる書を佩ぶるを見、黙《ひそ》かに解《ほど》き取り還し、その辞を省読す。悵然として歎じていわく、こはいかなる妖氏sようれい》の仁子を賊害せんとして、すなわちここに至るか、と。書を裂いてこれを更《か》え、その辞にいわく、わが年|西垂《くれ》なんとして、重き疾《やま》いに日ごと困《くる》しむ、かの梵志はわれの親友なり、その女《むすめ》すでに賢かつ明なれば、児の匹《つれ》となるに任《まか》せしむべし、極《ただち》に宝(357)帛の聘礼《ゆいのう》を具《そろ》え、務《つと》めて好《よ》く小礼大|娉《へい》し、納妻の日にこの勅を案ぜよ、と。書をなしおわり、間関《くしん》してこれを復す。明晨路を進むに、梵志衆儒、尋《つ》いで歎ぜざるなし。邸閣、書を得て命を承け、礼《ゆいのう》を具えて梵志の家に詣《いた》る。梵志の夫妻、議していわく、それ婚姻の儀は、これを択行《たつこう》、問名《もんめい》、占兆に始む、彼のよく礼備われるは、すなわちこれを許《みと》むるも、今現に男媒《なかだち》せずして礼聘すなわち臻《いた》るは、豈《あに》彼まさに慢《おろそ》かならんとするか、と。また退いて宴思《しあん》していわく、男女|偶《つれあい》をなすは古えより然り、男賢女貞まことにまた値《あ》いがたし、と。ついに礼を納れて宗《しんるい》を会す。九族歎じていわく、この栄、世に伝わらん、と。納妻の礼成り、邸閣|馳《は》せ啓《もう》す。四姓これを聞いて、疾《やま》いを結ぶこと殊《こと》に篤《あつ》し。児、親の疾いを聞き、哽噎《むせ》んでいわく、天命は保しがたし、なお幻のごとくして真にあらず、と。梵志、良日を択んで還《かえ》らしめんと欲す。菩薩、内に痛みあって従わず。その室家《しつか》馳《は》せ帰って堂に昇り稽首す。妻|尋《つ》いで再拝し、泣《なみだ》を垂れて進み、三歩にしてまた拝す。名を称えていわく、妾はこれ子男某の妻なり、みずから妾を召し某のためにせしむ。まさに宗嗣|箕箒《きそう》の使いを奉じ、礼を尽し孝を修むべし。ただ願わくは大人の疾《やま》い?《い》え福|臻《いた》つて、永く終りなきの寿を保ち、われをして情を展《の》べて孝婦の徳を獲しめんことを、と。四姓、結忿内に塞《ふさ》がって殞《し》す。菩薩、殯《かりもがり》して送り、慈側《じそく》哀慕し、一国孝を称《たた》う。喪|畢《おわ》つて行を修し、馨《いさお》は十方に薫《くん》ず。仏、諸比丘に告げていわく、童子はわが身これなり、妻は裘夷《きゆうい》これなり、四姓は調達《ちようだつ》これなり、菩薩の法忍は無極に度《わた》り、忍辱を行なうことかくのごとし、と」。
  御覧の通り、この話中、弟がみずから進んで兄の持ち行くべき手書を鍛冶工へ持ち行き、焼き殺されて兄の命が助かるのと、梵志女が件《くだん》の兄の男にほれて状をかきかえ、目代その状を信じて(原文は目代第へ行かば淵に沈めよとありしなり)梵志女とその男を婚礼せしめしと、「己が命の早使い」なる状を知らずに、他人が持ち行きて身代りに立つと(好んでせしことならねど)、好んで状をすりかえ、ほれた男の命を救いおのれの夫とするのと、命助かるところが一語に二ヵ所あるなり。
(358) 例の『ノーツ・エンド・キリス』へ、碩学の八十翁が問いを出せしに応じて、英国の学者等、多年畠小屋に烏、梟、蝙蝠、?鼠等《うごろもち》を磔する風古く何に見えたるかを調べしも、ちょっと分からず。小生、前年、支那の古礼に梟を磔すること、また金の代にウゴロを元日に焼きしこと(今も当地には、玄猪の日、石を繩でくくり、かくのごとくし※[図有り]、カナタライをたたき、おごろさんは内にか、なまこさんのおみまいじゃ、と言いて、土をうちありくなり)、中世エジプトに鰐の首を梟すること、今もペルシアに師子《しし》の皮を懸くることなどまで挙げたが(いずれも懲膺のためと見ゆ。ペルシアの師子のみは馬が師子の臭をきくとはなはだ怖れて前《すす》まぬ故なり。臭に馴らすなり)、彼方《かなた》の人はようやく十八世紀の書(『ロビンソン・クルーソー記』)より前にこのことあるを挙げ得ず。さて小生、昨夜頭痛く、臥して紀元後二世紀アプレイウスの『金驢伝』を読むうち、梟は凶鳥ゆえこれを捕え梟する風、ギリシアにそのころ行なわれしを見出だし申し候。万事この例で、まだまだ洋人の気づかぬことが彼方の書にさえ多く有之《これあり》候。何とぞ図書館を西洋のごとく盛んにするのと、今一つは、読書を好む官吏などには、あまりに俗務を、入りもせぬに功績を挙げよ功績を挙げよと多く生ぜしむることなく、事に敏にして業に慎むで、なるべく事業少なく事務早くすむようにし、読書研究考察のひまを与えられたきことなり。むやみに俗子下等人などに図書館を公開したりとて、これまた図書館の事務を繁多にするのみ、何の益なし。それよりは真に読書を好む人を優遇して、考察研究闡明のひまを与えられたし。俗務のみ多く事務繁多に進捗したりとて、跡へ跡へ出来くるときは、世の開進、民の増益に何の益なし。
 七難のそそ毛のことも愚考書き付けんと思うが、肝心の出処の洋書が別建築にあり、寒夜何とも往きがたきゆえ、また次に申し上げ候。
 大正二年正月九日午後九時書き始め、それより湯に入りに之《ゆ》き、帰りて二時過ぎ終わる。
                     南方拝
    柳田樣
 
(359)          123
 
 葉書拝見。小生今に頭腫れおり、何もできず。しかし、かの工事はおいおい進み行く様子につき、何とか早く意見書出すべく候。
 「蟹と巡礼の話」(八回)、「常世の国について」(五回)、十三葉送り申し上げ候。その他にも朱を付し候所々は、小生また、他人が書きしものにて、本話をよむ鍵《キイ》ともなるべく、事情を明らかにする輔助になるものなり。破鎮峰《はちんほう》とあるは、正義の子分にハチンボの生れのもの一人あるを指す。ハチという、宿《しゆく》にもあらず、えた非人とはむろん別なり。このハチは、当国海草郡|山東《さんど》村の伊太杵曽社の近処にあるものなり。また正義は新宮《しんぐう》の社家人《しやけにん》の出なり。これは禰宜の子分のごときものなるが、やはり他人と別火を要するを常とし、もとはなはだ俗人に忌み嫌われたるものなり。(公家が大名行列を妨げ忌まれしごとし。)右のハチンボに、今も染物屋を業とし、また籠細工のもの多し。七難のそそ毛のことは、似た例を多くインドおよび欧州で見出だす。とてもちょっとまとまらず。故にそのうち一論と致し、『人性』へ出さんと存じおり申し候。貴下は小石川辺の朝倉無声という人御存知なきや。この人宮武氏の『此花』を続刊する計画の由なり。宮武氏は妻病気にて一切の書籍を提《たずさ》え、只今泉州浜寺におり候。フォークロール雑誌のこと話し見んと思えど、とても話にならず、気の変わりやすき人なり。『紙魚の友』という考古雑誌出し、『骨董集続編』出板し小生にくれる約束ながら、今に一号も出さず。全く無責任の人なり。
 大正二年一月十七日午後三時出
                    南方熊楠
   柳田国男殿
 
(360)          124
 
 拝啓。二十一日出芳翰拝見。小生頭に癰ごとき何とも分からぬ物でき、迷惑致しおり候ところ、当地辺にはこれと申す医者もなく、よって自分手製の薬にて焼き抜き候ところ、痛みはなはだしかりしも本日?《かさぶた》を結び、快方に付き、御答え差し上げ申し候。「悪眼の話」等は、主として田舎人が、民俗学など何のことか分からず、瑣末の士風などを筆記して多きに誇ると心得たる輩に、一国一事物の沿革を徴するに民俗学の必要なること、はるかに虚偽多き古人の伝記や官府ばかりで得手勝手に作った官人大衆の履歴書より優れるを示す一法として出したるものに有之《これあり》。ただ切れ切れの話を載せたるばかりでは、地方の者これを読まず、またいささかたりとも地方固来の俚談土俗を抑扣《ひか》え留めて通知しくれる気など毛頭なく、よってかかる地方に素してかかる地方人に行なうの方便として出したるものに有之。決して貴下ばかりの意に叶えんとして書きたるものに無之。今日地方人趣味の下劣なるは、かかるものが好んで読まるるにて知るべく、かかるものが好んで読まるる証拠には、これらの三話が出で候『紀伊新報』、新しき出刊ながら大いに読者数を増したるにて分かり申し候。
 従来政友会の横肆なりしを制する一方としては、小生は桂公の新政党を大分有効と存じ候
  当紀国などは、政友会員のみが政治家にて、毎度無用の土木を興し、鉄道を布くと称して人の先祖来の墳墓地などを強制収容し、さて見込み違えりとてその地を元地主へ返さず、売却して私懐を肥やす等のこと、毎日行なわれおり候。
と等しく、地方の下劣なる輩をいささかも寒心自省謙遜せしむるには、かかるものも入用に御座候。その上少々なりとも従来三文の価値なきもの、世の開進に害のみありて益なしと一概に思われおりたる屑譚俚俗中に、それぞれ地方民固有の系図を暗示しおる明珠あるを知り、十把|一《ひと》からげに伐り去るべき古樹の一本も残り、捨て去らるべき古碑、(361)古什の二、三も保存さるるに至りしは、右等の話を出す方が出さぬに優れる証拠に御座候。もし、これらの諸文の一汎のたちが宜しからぬといわば、今日大新聞の広告に「屍姦」とか「窃み去られたるわが妻」とか題してその筋の注意を惹き、さてそれは覚悟の前で、また題号を替えて同様の趣意の小説を出し、売れ高の多きを悦ぶなど、世間みな然りで究竟は何も書かぬが一番優れることとなるべし。小生は、ジョン・スチュアルト・ミルと同じく、医者に対して病因を洩れなくいわぬ患者は治療の見込みなく、姦人の姦を明言せぬ攻撃は姦人の姦を除く功能のなきものと存じ候。
 また、人間詳しく穴ぐらば自分にも多少の過ちはあるべしとは、よく人の言い、また聞くことなり。されど、小生は四十になるまで婦女と交わりしことなく、四十以来も妻一人のほか交わりしことなく、その方は実に無疵に御座候。故にこのことの上で誰の不品行を駁するも自分に疚しきこと一つもなく、只今は全く止めおるが、ずいぶん大遊宴を催せしことも多きが、常に人の十人も伴い行き騒ぎ飲み一度に引き上ぐるので、酒の上の過失はあるも酒飲んで婦女にどうこうのということは少しもなく、ずいぶん世には卑劣な人もあるもので、いろいろと刑事巡査など頼み、極密に捜索懸賞するも、少しもそんなことなし。
 また、毛利の醜行は隠れたることにあらず。この者は、大乗の開祖竜樹の伝などを熟読して、人間は理窟さえ立たば何をなすも構いなしというごとき一様の見解を立て、すでに当地の豪富の妻など病と称し高山寺へ通夜参籠してこれと関係を生じ、切るに切られず、夫、迷惑ながら金銭上その尻押しをなさざるを得ず、これがため政治上の勢力はなはだ強大なり。従来、警察署長何度変わるもみな一様にこれを何とかせんとしたるも、爪牙強固にして法文に何の制条なく、何とも致し方なかりしなり。右の悪眼等の話出でて、今の署長、特に刑事に嘱し、小生の筆せしところいかにもうそらしきとて調査せしめしに、人民はみなそれぞれ知りおることとて、小生の筆せしところことごとく事実なるが上に、続々小生のいまだ知らざる古き?事をも聞き出し、一同呆れおれり。それほどのことゆえ、小生は人の(362)隠微を発せしにも何にもあらず、ただ年来多人が勢いに怖れて言い得ざりしところを酌量なく言い果《おお》せしなり。もし、それもつまらずと言わば、小生は一事一行必ずつまることのみする素志を懐かずと答えて止まんのみ。禅宗の第二十九祖(慧可)、「光を韜《つつ》み跡を混《にご》して儀相を変易し、あるいは諸酒肆に入り、あるいは屠門を過ぎ、あるいは街談を習い、あるいは厮役《しえき》に随う。人これに問うていわく、師はこれ道人なるに、何故にかくのごときか、と。師いわく、われみずから心を調《ととの》う、何ぞ汝がことに関せんや、と」。
 およそ人の技に長短あり。この毛利という男、ちょっと変わった了見ある男で、因明の捨置記入《しやちきにゆう》(つまらぬものが議論しかけるとき、一切取り合わぬを勝とするなり)の法を能くすと誇りしことあり。小生は徳義心というものなき世は知らず(強盗などに、かかる無頓着法を修煉し精通せるもの多し、と聞く。ギリシアのアプレイウスの『金驢篇』にも、囚われた女の愁涙に動かさるるようなものは強盗になり得ず、とあり。イタリアの山賊などは何の望みもなきに、物に動ぜぬ稽古また標識のために、よい年をして鬮《くじ》に当たり生け捕りし女を強辱する者多し。ドイツの刑法学者で、一昨春、世界中へ盗賊、悪人等の習慣襲俗を箇条書にして問い合わせしものあり。その内の一条に、盗人、人家に忍び入りてまず糞をするは何のためという解説を求めありし。奇態千万にも、その問書が小生に達せしその夜、小生隣の宅へ盗入り、小生は最初より知りおり、鉄砲のだいを手にしまちかまえおりしに、およそ一時間ばかりかかり室の人眼さめ呵《しか》りつけ、盗人狼狽してまちかまえたる小生の方へ来たらず、他の方の垣をこえ走り去れり。その室を見るに糞しありし。これは室主の眼さまさぬ調伏の法といい伝う。小生思うに、盗が他人の室に入りて糞を徐かにし得るほどなれば、必ず心おちつきしものなるべし。故に、心を落ち著ける修煉にせしを、後に糞たれ得るほどならば挙動静かにして多くは室主が眼さめず、故に眠りを調伏のためといい習わせしことと見ゆ)、徳義心ということ生じたる世に、一種特別の修煉の積みたる人にあらざれば、徹頭徹尾、捨置記入の法などは行ない遂げ得ぬものと疑いおりたり。
(363) さて、今度右の三話出だせしに、当分毛利は外出し得ず。そののちも諸処へ勧化演舌に行くに、旅宿で必ず自分の『牟婁新聞』よりもまず『紀伊新報』の件を話して見る由に聞く。故にこの男などは口でえらそうなことをいうも、大悟徹底、捨置記入の法はちょっと行ない得ぬことと知り申し候。これは貴下らには面白くも何ともなきことか知らず、そのことを特に調べる小生には非常に益あることに候。また折をもって申し上ぐべきが、高僧とか哲人とかいわれながら、言うほどのことを(正邪は別にして)行ない得ざる例は、小生多くみずから経験して知りおり候。他日申し上ぐべく候。
 ついでに申し上ぐるは、明治二十四、五年ごろ、小生キュバ島その他にて落魄して曲馬師《きよくばし》の?中に寄生せしことあり。小生は各国の語を早く解し、ちょっとちょっと埒の明きやすき男で、郷に入れば郷に従えとあきらめ、曲馬中の芸女のために多くの男より来る艶簡を読みやり、また返書をその女の思うままにかきやり、書いた跡で講釈し聞かせ、大いに有難がられ、少々の銭を貰い、それで学問をつづけたること良《やや》久しかりし。ロンドンに行きし折、病気にて食いつめ、また売婬女(日本のむかしで申さば白人《はくじん》ごときもの)の宿と知らずに下宿し、毎夜そんなことのみ聞きおりたり。いずれの夥《なかま》に入るも、その女ども小生に対すること至極まじめにて信切にするが、色がかつたことは少しもせず。さて新しく入夥する婬女と談《はな》すをきくに(いわゆる cant terms で、この輩の用うる語は尋常の人には少しも分からぬもの)、新しく入夥せしもの、かの人(小生のこと)はときくと、何の造作もなく「女嫌い」と答う。新しく入夥せしもの、これをききてより、また前人のごとく小生には至ってまじめに交わり、いやらしきこと少しもなし。小生この輩と別るるに臨み聞きし答えに、世間弘く交わるわれわれに、これほどのこと分からずには一日も商売できずと言いおりたり。その鑑定法の大略をも聞きしが、今は煩わしきゆえ述べず。
 しかるに、不思議なるは大都は知らず、小生帰朝してこの田舎に退き、また近所の鉛山《かなやま》など温泉場でずいぶん多く都会の人物も入りこみ、喧鬧《けんとう》する所にも毎々行き、人々と交わり見るに、わが国には「女嫌い」(実は「女のことに(364)関係せず」)というものも別に一人もなく(もっとも唄の文句などに多くあれど、それは西洋の misogynist と全く別のものたり)、また色を業とする者にも全くそんなものを鑑識する心得なきようなり。英国などには、ロンドンの目星の所に bachelor's club とて、女に関係なきを主義とする貴人学者のクラブさえあり。有名の人多く、女と物いわば大枚の罰金払い追い出さるるなり。(小生顧を蒙りし考古大学サー・アウガスタス・フランクス、また南ケンシントン博物館へ自分の設備で最高価の陶皿類集彙を寄付せしジョールジ・サルチンゲなどもこの属なりし。)五年前出板、英語で唯一の好書と評せらるるウィリアム・マクドゥガルの『社会心理入門』にも、今日心底から生来性慾を放棄し果《おお》せたる人士、ロンドン中に千をもって算うるほどあるべしというような言ありしと記臆す。性慾のことより一家に救うべからざるの大波潤、抜くべからざる大災禍を蒙れるを幼時より目睹せるもの(小生なども然り)、みずから性慾のことを堅く忌むに及ぶは、仏経にも耶蘇教にもその他にも例示多し。
 さてまた呆れしは、小生とはなはだ親交ある、日本にはなかなか高名の高僧にして、一日(小生二十八歳のとき)、小生一切女人と交わりしことなしというをきき、まじめにその言は信ぜられずといいし人あり。小生はこれを聞きて、この高僧の高名なる所以たる清行(むかしの修行積みたる禅僧などはいずれも人の一生犯不犯ぐらいはちょっと見れば分かったものときく)をも疑うものなり。わが邦には欧米ごとく、実に性慾(または婦女)に懸念絶無なる人、欧米に比してきわめて少なきにや。また、わが邦の婦女そのことを業とする者がかかる人を鑑識する者少なきほど、わが国にかかる人が欧米に比して少なきにや。裁判方法等の上にも大いに関係あることゆえ、誰かに聞いて置きたく思うなり。
  『孟子』に、人を見るに瞳子を観よ、という語あり。欧米にて女に関係なき者を見るも、まずは一概にいわば瞳子を見るを主とするなり。委細は必要あらば小生調べて申し上ぐべし。
  人間は皮想のみにて分からぬものなり。英国に百年ばかり前、有名なる博愛慈善の士にして刑場を見るをはなは(365)だ好みしものあり。宮武外骨氏は、箇人としてはなはだ品行のよき人にて、きわめて篤実温厚の人の由、この人を毎々扱いし警官その他より承り候。かかる人が『滑稽新聞』など出し、三十余回も入牢に及びしは、時世がこの人を「焼け」になしおわりたるものと存じ候。書信で多少人を判ずることがなるものとすれば、小生へ毎々の書信などで判ずるに、この人に少しも浮薄なるところなし。しかるに、世に対して毎度出板物など勝手次第なことをするようなるは、いわゆる世と推し移ることをよくするに及びしものと存じ候。
 ハチのこと小生には分からず。ハチタタキということも、小生にはちょっと知れず。ただし、この辺には今も食具をたたくことをはなはだ忌み申し候(前日申し上げ候、兵生にて山小屋で鍋たたくを忌むごとく)。小生、母に聞きしは、?《おし》は茶碗をたたき物を乞いし由なり(『和漢三才図会』にも、?《おし》が茶碗たたく図あり)。仏律に、乞食の作法に鉢をたたく作法、もしくはたたいてはならぬ制禁ありしよう覚え候も、今ちょっと分からず。川原者のこと、当国新宮に今もちょっとしたものは河原に多くすむ。大水出ずれば住宅を失うなり。ただし賤民と限れるにあらず。しかし、古えは賤民ならでは、かかる危険不定の所にすまぬことと存ぜられ候。
 当地にある津村兵太郎という人(士族にて小学教師なり)、その家もとは日高郡に住せり。この人の数代前の人、当町へ移り来たれり。この人が田辺城攻めの惣大将小野木縫殿助重勝(公郷《きんさと》と書きしもあり)の後という。田辺とはむろん丹後の田辺のことにて、当地のことに無之《これなく》候。小生書き様惡しかりしか知らず。決して当地へ細川が籠りしとの伝えには無之候。当地を田辺ということは、「熊野別当系図」にもあり。『平家物語』の剣巻、『古事談』等にすでに出でおり候ことと存じ候。土地の者の言い伝えには、白河帝、熊野仰敬厚く、三十二度とかまいりたまい、三十三度めにここまで御幸ありてもはや参り得ず、よって当地へ熊野の宮を迎え勧請されしとか申す。その時漁家六軒とかありし。その所、今日の江川本町《えかわほんまち》にて、その漁家の子孫、今に他所へ散ぜずことごとく伝わる。(今度の鰯|網代《あじろ》排水抗議一条で小生しらべしに、漁家戸数三百六十九戸、人口二千五百ばかりあり。もっとも役場調査洩れ多く、また五十歳ばか(366)りのものが二十歳になりある等、無茶なり。)姓に鈴木氏多し(鈴木は御存知通り熊野神に縁厚し)。御所谷《ごしよたに》という谷あり。その辺にシュクまたハチ多し。これは漁を業とせず、西王子《にしのおうじ》(本名|西谷《にしのたに》王子、先日復旧せし社)の氏子なるが、祭儀は他の良民と別にす。思うにこの社の最初の氏子はシュクおよびハチなりしを、後に他の良民がわりこみ来たり、またその氏子となりしならん。この輩は農を業とし、どうかこうか立ち行く。困つたは右の二千五百ばかりの漁民にて、今に漁のほか何ごとをもしらず、地所皆無ゆえ間業を営むこと能わず、漁なきときは非常に困る。さて先祖来田辺の土着民という廉をもって、この地を去るを好まず、東牟婁郡勝浦辺へ傭われ行くもたちまち帰り来る。故に、今度ごとき排水工事で鰯を失うとなると、この輩全く餓死か暴乱の外なきなり。
 小生は排水一事心配、その上、頭の腫物痛くて坐臥ともならず、ぶらりと致しおり、近所の床屋《とこや》などへ行き、来る人々をつらまえていろいろの話をきくに、都会また欧米とかわり、人ごとに必ず多少の珍談あり。前日も大工の子分にきくに、初物食えば七十五日生き延びるとは、むかし斬罪になるべきものに何なりとも望みの物を食わす、小才智あるもの死にぎわに、その時、世間になき食物を望み、官、止むを得ずその物を作りて与うるに、生育までに七十五日かかり、それを食うて七十五日首をつなぎ、さて斬られたるゆえ、初物食えば七十五日生き延びると伝う、となり。
 貴下、高木君と出さるる雑誌へ、小生かねて、民俗学会雑誌へ出すべく石橋〔【臥波】〕氏の手許へ出し置きたる「話俗随筆(一)」十項を出し下さらずや。石橋氏へ廻したものを貴方へ取るは如何《いかが》のようなれど、民俗学会の雑誌絶望とあらば、右の随筆はもはや石橋氏には入らぬものにて、貴方の雑誌へ出さるれば、小生は続々あとをも出し得べきゆえなり。右随筆の大綱は小生扣え置きたれば、再び書くことも成らぬにあらざれど、細目は再調査の上にあらざれば調いがたく候。会雑誌成立の見込みなきに右原稿を久しく手許に留め置かれては、何の故ということ分からず、小生は徒労に相成り、困り入り申し候。
(367) 当地闘鶏社にて、なにか社に関係ある建築落成の折、つねに町内の芸妓等(今は八十人ばかりある)異容の行列をし詣るに、頭分たる女将、官女の風袋にて、笏の代りに大なる杓子を持ち行き、それをもって拝するなり。ただ滑稽の趣味ですることか、また言われあることか一向知れず。なにか古え巫が杓子を用いし風の復活かとも思われ候。古石器に天狗の飯匙《めしかい》というものあり。これを拾うもの何とかに用ゆということ、木内小繁の『雲根志』にありしよう覚え候。これは scraper すなわち皮を製して衣などにするとき、皮に付し筋骨等をこそげ取るものなれど、形は杓子に似たれば、ちょっと杓子また匙の用にも用いしことと存じ候。前日、『ノーツ・エンド・キリス』へ、植物が同情《シンパシー》を有するということにつき、問いを出せし人あり。西洋にはかかる例少なきにや、一向返事出せし人なし。よって小生調べて答書を出し置きぬ。支那、インドのみならず、本邦にもかかる例は多きにや。小生聞くに、当地にてはサンショウの木、また蓮芋《はすいも》は銭を好み、その種《たね》を分かちもらうもの、必ず無価でもらわず、一文なりとも代価を払う、然《しか》せずんは繁茂せずと申す。またサンショウは哭くことを好み、これを摘むもの啼いて摘まばその木後々大いに盛え、歌唄うて摘まば衰微する由に候。
 当国、海と川の間にウグという魚あり。※[図有り]図のごとく口辺に髭|週《めぐ》り生じ、鰭《ひれ》の所に※[図有り]かくのごとく逆向せる刺《はり》あり。これにつかるる者の話を聞くに、蝮《まむし》どころの騒ぎにあらず、はなはだしく苦痛する由なり。しかるに、小生勝浦にありし日、大いにあわてて婦人の陰毛を乞う者あり。狂人かと思い尋ねしに、まじめに創処をおさえ、宿のよめの陰毛をもらい受けおる。全くこの魚にさされたる創口へ、三本とか陰毛をさし入るるときは痛み止むとて貰いおるなり。誰にきくもかくいう。陰毛を魔所に用うること外国に多きも、本邦にてまのあたり見しはこの一事なり。
 友人川島友吉(この人のこと押川春浪とかが記伝して、一昨年とか『冒険世界』とか申す雑誌へ出しありという。ただし、同誌へ海野氏とかが出せし小生の伝と同じく、全く無根のことのみ多く載せたりとて本人不快なり)、一昨(368)日アオサギを銃したりとて告げ来る。小生、頭今少し快くならば見に行くつもりなり。その鷺の胸の所とかに妙な脂《あぶら》の塊とかありとのことなり。この鷺飛ぶとき光出ずること古書にも見ゆ。小生も(鷺とは知らぬも)五年ばかり前に見たり。また小生方へ鰻売りにくる老翁、若きとき幽霊飛び来たり木綿の畑へ入るを見しとて語るを聞くに、この鷺の様子なり。ウブメという鳥のこと、この鷺のことにあらずやと思いおりたるに、この鳥のことなりと書きたるものその後見出でしと存じ候。件《くだん》の脂の塊などが乳のごとく見ゆるにあらずや。一見の上、図して申し上ぐべく候。
 排水一条の意見書は、頭痛いながら少しずつ認めおり、人を傭い清書の上差し上ぐべく候間、何分宜しく御頼み申し上げ候。日夜爆裂薬もて石を破る音、二里ばかりなる当地まで聞こえ、人民大いに不安なり。当郡も郡長かわり、また土木大好きの事務官も他県へ転任、この後はこんなことを無闇に起こす気遣いなかるべきも、何分多人の生活に大影響あることにて、はなはだしく不安の念を抱きおり候。土木のこと、まことに貴下御申し越しのごとくなるも、これがため支出する金銭(昨年九月の大風雨のため不埒なる土木ことごとく崩壊、ために今度復旧の費用、当県七十万円に上り)多く、人民はなはだしく困却致しおり候。
  丹後の人に聞きしは、田辺を舞鶴と改称せしは、紀州の田辺と誤混を避くるためなりしとのことに候。小生思うに、細川三斎、物好きにて舞鶴の指し物はなはだ威勢よく、家康とかに望まれしことありしと承り候。それより舞鶴という地名を拵えしにあらざるか。ただしは舞鶴はもとより田辺の城地の名にて、それに因みて故《ことさ》らに三斉が件《くだん》の指し物作りたるにや。
 大正二年正月二十四日夜八時半書き畢る。
                    南方熊楠再拝
   柳田国男様
 
(369)          125
 
 
 先刻申し遺せしよう存知候つき申し上げ候。『紀伊新報』の三話は、小生当地方の人に見するに足らざるものと思い、わずかに五部取り除け置きあり。しかしながら、その内に散載せる古語、俚譚等は、前年『人類学雑誌』および昨年末の『人性』に載せたるよりは多く、材料残さず書き入れたるゆえ、見る人あらば呈せんと思い、貴下へも三話の性質を具してあらかじめ見て下さるべきや否を問いたる上差し上げたるなり。(杉村縦横は毛利知人にて、見るを好まずと言い来たる。これは毛利清忌深き人にて、かかるもの見られたと知れば、今後通信上の邪魔になるべき故なり。故に送らず。他は古俗学好きの人、後日望まれなば送らんと今に取りのけあり。)
 小生、只今『五代詩話』巻一を見るに、「南漢の劉隠、広州に僭拠し、四世を伝《つ》ぎてみな昏虐なり。多く疑冢を立て、もって発掘を虞《ふせ》ぐ。今、北郭の外にこれあり、云々」(『双槐歳鈔』より引く)とあり。曹操死せしときも疑冢を立てしこと史に載るところなり。小生思うに、わが国の冢、また十三冢などの内にも、かかる疑冢がなきものにや。真田昌幸など尸を河の中に埋めしとか、信玄も(諏訪湖に埋めしと申す)多少そんなことなりし。(中古欧州の帝王にも、河に埋めし上、工人を鏖殺し、その所在を秘せしあり。)尸を河に埋めさえするほどなら、疑冢を設けるぐらいのことは必ずありたるなるべじと存じ候。書史に見えざるが、すなわちこれを秘密にせし故ならんかと存じ申され候。人一人にて冢諸処にある例は少なからぬことと存じ候。
 大正二年一月二十四日夜十時
                     南方熊楠
   柳田国男様
 
(370)          126
 
 拝啓。小生また眼悪く困りおれり。旧友孫文、小生と和歌山にて会見したき由、伊東知也氏に語られたりとのこと、『大阪毎日』等に出で、和歌山より人々よび出しに来たり候も、眼惡きゆえ一人にて海上旅することならず、何もできず梟のごとく黙坐しおる。
 先日申し上げ候随筆の原稿は、石橋氏、来月に『日本民俗』〔【実際は『民俗』】〕というのを出す、それへ掲載すべしとのことゆえ、右はそのまま石橋氏に任せ申し候。これは年に四回出刊の由に候。さて考古学会へ火斉珠の詳論出すにつき、このごろ眼悪くなる前に梵書しらべ候ところ、ついでに見出だせしに貴下の猴|舞《まわ》しの説にも関係あることゆえ、ちょっと申し上げ候。
 シソズ・ハヴァなる語は、形容詞、信都《シンズ》国に生まる、川より生まる、海より生まるの三意あり。また名詞としてはシンズ国生まれの馬という意になり候。思うに最初、信都国生まれの馬は名馬なりしを、同語異義なるを混訛して海より竜馬生ずる話を作りしものと存じ候。また stucha《スツチヤ》とて、梵志犠牲を供うる式に、特種の木にて作れる杓子で酥を火に澆ぐことあり。この杓子ははなはだ神聖視し大事にする由、わが国に杓子を重んぜしに似たことと存じ候。
 大正二年二月二十日午後四時
                      南方熊楠
   柳田国男殿
 
          127
 
 大正二年三月十七日午前十一時出[葉書]
(371) 拝啓。灯台もと暗し、拙方に去年二月まで六年勤続したる下女は、どうやらハチンボらしく候。その者の部落|籃《かご》を編むを業とすること前日申し上げ候ところに同じ。
 榎の実を食うこと、小生は一向食いしことなきが、わが邦むかし異邦の珍果種々渡り来たらず、世にはこれもまたはなはだめでられ、したがって実を求むるために植えられしかとも存じ候(日本には今日、この辺で小児だも見かえらぬものながら、支那には桑の実(椹という特名すら付けあり)を珍重して摘み食いしこと見え候ごとく)。それにつき申し上ぐるは、欧州の古書に嘖々《さくさく》たる Libyan lotus 果は、やはり榎 Celtis sinensis と同じ榎属の樹、学名 Celtis australis の果と見え候。小さき桜実の大いさで、赤く、次に黒くなる由。古ローマ人これを樹蔭を得んため道傍に栽えしと申す(『大英類典』一一板、巻一七)。この果すこぶる甘し。地中海辺よりアフガニスタン、またヒマラヤ山地方にまで生ず。英国にも栽うるなり(同、巻一九)。
 ただしホマーの詩に、むかし、オジセウス、ガリビヤに往きしとき、舟人多くこの果を食いて郷里に帰るを忘るとあれば、棗の類とも波斯棗《ペルシアなつめ》date ともいい、今に正論なし。ギリシア・ローマ人は忘るることを lotus 食うと言いしなり。
 
          128
 
 拝啓。拙方、妻と一子風邪のところ、それが直ると次女子(三歳)肺炎になり大いに悪く、何ともならぬところ、昨夜十一時ごろより下女大病、虫腹にて七転八倒、今に大さわぎなり。どうなるか分からぬが、この件治らば小生もまたまた気苦労|息《やす》めに日高郡石灰岩地へ石灰生植物の研究に之《ゆ》く。故に、本日受け取りし『郷土研究』第二号へはちょっと寄稿ができず、明日少々も間に合わば雑報種を差し上ぐべく候。
 さて、混雑で昨日のハガキに申し漏らせし件ここに掲ぐ。この辺で村中のものに交りを絶たるることを「笠《かさ》をきせ(372)られる」とも、ハチブされるともいう。風来の『六々部集』を、だれか六部になり廻国するものによそえた誰かの序に「八分《はちぶ》せんとにはあらず、全くこれ巡礼に御奉謝」という末文ありしと記臆す。故に、この八分という語はこの辺に限るにあらず。この辺の人は、世間にハチブさるるからハチブというのを、ハチンボと訛りしという人多し。新井白蛾の『牛馬問』に、六ナヤツ、四ノ五ノイワズなど、博徒より出でし語を挙げたり。博奕の賽子の目は一より六までに限るが、ハチブもそれに似た牛馬買いなど卑賤なる商売人の営業上より出でし語にあらざるか。
 大正二年三月十八日午後三時
                    南方熊楠
   柳田国男君
 
          129
 
 山男が、人なり、怪類にも寓類にもあらずとは、百年前にハンボルトが『南米記行』に、すでに述べおり候。(リンネウスは山男、山女を半人半猴とし、延いて只今の動物学のごとく、人と猴を同一類と立てたるなり。見た材料は間違いおったが、立てた議論は正しかりしなり。)小生訳出して『郷土研究』へ投ぜんと思うが、前状申し上げし通りの大混雑にて、今夜は休まざるべからず。そのうち原本を授し出し申し上ぐべく候。原本は当宅にあるなり。
 大正二年三月十八日夜九時半
                    南方熊楠
   柳田国男殿
 
(373)          130
 
 拝啓。小生また眼悪く夜分何ごともできず、強いて読書などするとおびただしくやに出る。加之《しかのみならズ》、種々事件多きには困りおり候。当分長いものは書け得ぬが、思いつき次第短きものを『郷土研究』へ出すから、なるべく早く出しくるるよう願い上げ候。眼が見えぬようになったら、自分の書いたものを読むこともならぬべし。小生方、家内みな風邪、下女は虫腹で宿へ下り、あとへ傭いし下女、一家みな病気にて今に来たらず、家事にのみ関係し、何もせずに小生はおる。
 さて、『曽呂利狂歌咄』(寛永中の人安楽庵策伝作)巻三に、土岐蔵人の侍|過《あやま》つことありて、曹洞宗の和尚を頼みて走り入りけるを、さまざま詫言《わぴごと》せられしかども聞かずして、後にはこの寺の僧わが許《もと》へ出入りするなとて、侍を引き出だして打ち殺しぬ。かかる政法荒けなき国の主には、何か心の止まりて侍らんとて、出でていにけるが、寺の柱に書き付けける、「日本に憚るほどの傘《からかさ》を持ちては簑《みの》は入らぬものかな」。簑は美濃をいいしなり。馬琴の『玄同放言』の目録に、傘を持ちて寺を去るという一項あるも、そのころは出板されざりしと見え、今の本になし。とにかく、傘持ちて寺を退くこと、寛永ごろすでにありたることと存じ候。仏律などしらべなば、寺退くとき傘を持すことあるべきかとも思えども、今分からず。『狂言記』などにもあるべきことかとも思われ申し候。以上。
 俗謡に、ハチブ切れても二分のこる、という辞あり。これはハチンボの名に関係なきことに候や。
 大正二年三月二十七日夜八時
                    南方熊楠
   柳田国男殿
 
(374)          131
 
 拝啓。一昨日子爵酒井忠一氏来訪、その節小生いろいろ談《はな》し中、当郡安堵峰付近(西牟婁郡二川村大字兵生および日高|上山路《かみさんじ》村大字|丹生川《にゆうのかわ》等)には、毎家、家の割合に厠をしごく大きくかつ綺麗に構え、ちょっと見ると客間のごとく(尾籠の話ながら、大便しながら手が戸に届かぬゆえに、厠外に下駄ぬぎあるを見て、その内に人あるを知るほか致し方なし)、きれいな畳しきつめあり。さて奇怪千万なるは、その厠内の四壁に棚を作り、麦(米も?)、ひきうす、すりばち、干瓢、椎蕈、氷豆腐等、上等の食物を蓄え、また玉蜀黍、とうがらしなどを天井よりつるしある。実に希有のことにて、衛生上いかがわしきこと(小生一昨々年宿せし大家など赤痢患者を生ぜしことあり)と申せしに、このことは他の国にも例あり、貴下詳しくしらべある由、子爵の話なり。如何のこと、また何の国、何の地にかかる風今に行なわれ候や、伺い上げ奉り候。
  小生、少年のとき、日高郡また高野山にていわゆるかわやを見しことあり。それには食物等を貯うること決してなかりし。
 大正二年四月二十二日午下
                     南方熊楠
   柳田国男君
              〔以上、「南方来書」収録の書簡〕
 
          132
 
 大正二年五月七日午後二時〔葉書〕
(375) 拝啓。昨夜、風呂屋にて栗栖川村に久しくありし人に聞く。滝尻社の上に、山本主膳(天正に秀吉公紀州打入りのとき対捍し、青木一矩、藤堂高虎等と戦い、ちょっと勝ちしが勢孤にしてつづかず降参し、のち秀長に暗殺さるという。子孫、小生知人なり)が籠りし城跡とて、馬場の壇《だん》というがあり。壇とは、山腹に小さき平地を開き、石をきれいに積み、高さ一、二尺、幅二尺より三、四尺ぐらいのもの七、八、今も存す。何のことか土地の者も知らず、また名も別になし。右の小生に話せる人の説は、草を刈るとき丸石を今後の邪魔にならぬよう積み上げしものか、と。しかし、同人またいわく、それでは今にかかるものを憚り、取り除かぬ理由分からず、やはり何か宗教上の遺意あるにや、と。小生も昨夜これを聞きて初めて気付きしが、今の円石堆は見たることあり。この辺古えの熊野官道近処なれば、なにかオボ流のことかと思う。
 
          133
 
 大正二年六月二十七日早朝〔葉書〕
 衛手書拝見。「南方随筆」は長きに過ぐる趣き、小生もほぼ左様存じおり申し候。よって、これは今後の分は宮武外骨氏の『不二新聞』へ出し、毎日連載させ申すべく候。その分は、宮武氏より貴下へ進ぜしむべく候。前年の『人類学雑誌』へ書き候オコゼの条に、山神とは狼のことならんと申し置き候。今年春ふと小生同町住町田蔦次郎という人(狩猟の熱心家)狼のことを山の神というを聞き、とくと糺《ただ》し候ところ、当西牟婁郡二川村大字ヌルミ川、内井川、また富田村で、山詞に左様いう由申す。よって富田村の人多くにあい聞き候ところ、全く山の神とは狼の山詞の由に御座候。また、御客様ともいう由、兎をミコドモと申す由。人々いうには、右の大字に限るにあらず、熊野大抵の地でいう由。
 
(376)          134
 
 大正二年九月十三日午後七時〔葉書〕
 その後大いに御無沙汰。ミコオロシの詞は、大様聞き出し、福本松造氏に筆記させたり。(小生は時に眼病ゆえ参会せず。)これはこの辺より公けにしては、その輩に気の毒な事情もあり、貴方の扣《ひか》えにのみ当分写入さし置きたきが、貴下は他の地方よりもミコオロシの詞を多少手に入れ有之《これあり》候や。
 次に当町辺へ五、六、七十年前、婆が鼓を打ち、ハーリーヤ、ハーリーヤと唱えて針売り来たりし由。そのうち探し出し申し上ぐべく候。只今八十ばかりの人ならでは記臆せず。
 次に今日着の『郷土研究』にも見たが、カシャンボ(火車坊? 山童なり)が、冬には山林にありてカシャンボたり、もっぱら人の招声に応じて怪をなす(コダマなり)。夏は川に入りて河童(ゴーラと読む)たりというは、和歌山辺では聞かぬが、田辺以東熊野一汎の信に候。西牟婁郡岩田村大字岩田辺の伝に、夏土用の丑の日より川に入り、冬玄猪の日より山に入り、木を伐る音のまねし、また異様の音して人をよぶ、と。当町付近新庄村などには、河童、山童の区別つかぬように候。小生知人小学教師に、これにあいしものあり、詳しく聞きて記し申し上ぐべく候。
 また、富里村大字大内川で毎年今も猿舞《さるまわ》し来たり、牛小屋の前に猿を神主ごとく坐らせ、経よむ由。大内川の人にとくときき、少しにてもその誦文を申し上ぐべく候。当地にある大内川、人多きも、一向覚えおらず。
 
          135
 
 大正二年十月十八日朝十一時〔葉書〕
 拝啓。大山神社合祀の件につき、小生東上し内務大臣に面謁せんと、泉州浜寺まで到り候ところ、日野国明民来会、(377)左までの儀に及ばずとあり、日野氏みずから和歌山県庁に到り知事にかけ合われしも、何分多年の励行で、大字民の腰が弱りおり、三十五戸のうち三十二戸までひたすら合祀を望むとのことにつき、止むを得ず勝手次第に合祀させ、小生は田辺へ帰り申し候。目下は万事放棄し、菌類を図録致しおる。米国よりまた招かれ候も、今日の事体かの国へ行くだけは御免にて、怏々としており候。
 『郷土研究』十月分は未着なり。
 月刊『不二』(神田雉子町東京堂書店に卸売す)十月十五日の分(第二号)四〇頁に、「鍛冶は不具者に始まる」という石巻良夫氏の文あり、はなはだ面白し。貴君に益あるかも知れぬから申し上げ置く。アビシニア国には、鍛冶が魔法の伝承者として恐れらるる由、Mansfield Parkyns,‘Life in Abyssinia,’1853 に見え候。石巻氏はこのことを洩らしおる。
 神籠石は小生見たことなし。それと全く別物ならんも、当県東牟婁郡那智村辺に、シシガキと申すもの、考古学会に出た神籠石にちょっと似ておる。猪の侵来を禦《ふせ》ぐため、山腹の畠地のぐるりに石垣を作り立てたので、小生等より見れば、実に愚案至極のものなり。他県にもあるものに候や。
 
          136
 
 大正二年十二月十三日の夜おそくなり、十四日午前三時書き始め。
 拝啓。その後大いに御無沙汰に打ち過ぎ、多罪謝し奉り候。小生祖先来祀り来たり候大山神社、郡吏の意趣にて十一月に合祀され候より、小生、県知事に関し、『不二新聞』へ一書を投じ、大阪警察より告発され、
  これは宮武が大阪警察の攻撃を大広告せしより、警察にすきを覘われたるに候。しかして宮武は他の記事にて、久々裁判中、ついに入獄致し候。しかし右等のことよりか、大阪にて警察、刑事、巡査等の大検挙となり、大騒(378)ぎ中なり。
延いて『不二』雑誌の方にても告発され、二百円罰金求刑のところ、欠席裁判にて、小生百円、社が二百円の罰金に判決、只今控訴中に有之《これあり》。こんなことより、県知事を攻撃する者多く、大山神社復旧の旨内意ありしも、小生は、かかることは氏子の卑劣なるより起こるものなれば、この上復旧を望まず、知事よりは必ず今後かかる合祠は行なわぬ旨約束され、事すみおり申し候。右樣のことにて混雑多く、兼ねて拝借の『日本文庫』およびその他雑誌類、今に写し得ず。正月にならば、写すべきものは写し、意見を付すべきは多少付して、半分にても御返し申し上ぐべく候。
 当県合祠はとうとう半成にてまずすみ申し候。復社もおいおい有之、無茶苦茶なり。
 小生眼至って悪きゆえ毎度延引候が、今夜おそくまで調べ物ありて見出で候ゆえ、また忘れぬうちに申し上げ候は、兼ねて御尋ねの識神と申すこと、何かに式神とかきたるがありしと存じ候。ただし、記臆は至ってたしかならず候。もし果たして式神とありしが本当なら、左の文は多少その参考に相成るべきかとも存じ申し候。
 『世説新語補』巻の四(大本にて藍表紙なり、出板の年|扣《ひか》えなし)二十葉に、馬融たしかその術を鄭玄に伝えてのち、彼がおのれに勝たんことをおそれ、人をして追い殺さしむ。記臆定かならず、以下は扣えあり、「「玄また追うあるを疑い、すなわち橋下に坐し、水上にあって屐《げき》に拠る。融、果たして式を転じてこれを逐い、左右に告げていわく、玄は土下水上にあって木に拠る、これ必ず死せるならん、云々。劉いわく、式はもって追うを卜するところなり」と註にあり。『宇治拾遺』などに見ゆる式神のことか」と、明治二十六年、ロンドンにて小生の扣えにあり。式とは何のことか、只今一向覚えず、車の軾を転ずということにや。
 数日前、拙宅と隣の家の間なる低き竹垣を芟《か》り繕わせ候うち、見なれぬ木一本出で来る。常にはかくれあるが、垣の竹を刈り除くと見え出す。その木は幾年経たりとも知れぬ榎の本なり。毎度、枝を低く切らるるゆえ、上にも横にも延びず、わずかに前後へ少しずつ枝出る、それがまた出ると切らるるなり。木は瘤諸処に生じ、かたわものになり(379)おる。忍冬《にんどう》、枸※[木+巳]《くこ》等、その辺に雑生するゆえに、常にかくれおるなり。小生宅は、図のごとく前狭く後広くなりおり、前日も隣宅と境論ありしなり。第(一)図中‥‥の点に榎木植えあるなり。右の人足《にんそく》言うには、この榎が二家の境目なりとのことなり。年代いかにも古き木ながら竹垣と等しく至って低きなり。その男いうには、榎は根本より?《ひこばえ》を生ぜぬものなり。故に、幾年頂を刈らるるも根本より若き木を生じて位置を移し播《はびこ》るようのことなし。故に、古き屋敷地には必ず榎木を境目に植えしとのことなり。よって近町の屋敷を見るに、みな境目に榎木植え有之候。
 最初、境論のとき、小生いいしは、もし古え第(二)図イ線のごとく垂直に竹垣ゆいありしが、おいおい竹が蕃殖してロ線のごとく斜めに隣地へきりこんだものならば、ニなる古家がホの点において竹垣ロに触れ、ハなる角は行き詰まりて通行絶ゆべきはずなり。しかるに、第(一)図ごとく、ニなる古家が、ロなる竹垣に平行して立ちあり、ハなる通路開通しあるは、最初《はじめ》、ロなる竹垣が斜めなるを承知で、それに平行して家を建てたる証拠なりと申し張り候。実はこの辺の風俗として古え竹垣の中には必ず多少の榎木を植えしを知らざりしなり。
 右はなにかの御参考になるべきこともやと存じ、忘れぬうちに申し上げ置き候。
 木地引《きじひき》にあいし人、先月来たり、いろいろ話聞き候。美女多き種族にて、先祖は阿波より来たりし由申し伝うる由。ゴヘイ(御幣)餅とて、ヘイのような形の餅を作り、みそを付
※[図省略]
(380)けて焼く、香高く異様のものの由、至って契約を守らぬ輩にて、同族婚を行なうとのこと、外に聞きしことあるも今扣え出で見ず。見出でたらば、『郷土研究』へ書くべく候。
 大正二年十二月十三日夜四時〔【十四日午前四時のこと】
                      南方熊楠拝
 
   柳田国男様
 
 大正二年十二月十四日午後八時 追記
 前(別)文認めおわり候後、今朝眼さめ、急を要すること生じ候ため、貴状出すを忘れ、闘鶏社神庫に行き、いろいろ書物しらべ申し候。兼ねて申し上げ候「万代記」もあり、大なるからびつに一盃|有之《これあり》、到底二、三時では梗概をも見尽す能わず、何とかして一本に抄し集め、内閣文庫へ差し上げ置きたく候。もっともつまらぬことはなはだ多く、某町何屋の妻が縊死したとか喧嘩したとかいうこと多く、有要の件と無用の件とを見るには、一月ばかりもかかるべしと存じ申し候。
 次の件は、他人に利害を及ぼすこと大なる惧《おそ》れあるにつき、地名、人名、書名は一切略し申し候。また、さるべきことあるべき虞れなけれども、当分は他人に御話しなきよう願い上げ候。
 小生父出で候家といささかの縁ある者、ある村にて有名なる医たり。受領ごとき名前を付き、謂わば土豪にて、その人の一言にて近郷ことごとく騒ぎ立てたり。この人、安政か嘉永か、世の騒がしくなるべき前に、大彗星出でたる年あり。至って筆達者な人にて、世上騒がしくなるにつけ、いろいろ聞き込みたることども日々記し付け、また近地の風俗、その他いろいろ雑多のこと、大は将軍家の起居より小は長命丸の製剤方まで記し付けたるもの、和とじ百五十冊(中本)あり。小生、明治十九年洋行前一宿し見たことあり。そのころ、その人はすでに故人となり、子なくて他(381)家より女子を養い、それへ養嗣し、その間に男子五人ありし。長男は絶世の美男兼才物にて、小生、東京へつれゆき、修学し医学志すうち、肺病になり帰郷、小生、その家に宿せしとき、すでに帰郷しありし。よって小生洋行の途次、二男を東京へ上らせ、これまた兄に劣らぬ人物にて、至って学問でき、大学に入りしが、二十四、五にて同じくかの病にて死す。その後のことは一向知らず。小生帰郷して酒ばかり飲み、また山林にのみおるゆえ、尋ねもせぬうちに、その父(件《くだん》の随筆ごときもの書きし人の養子)も死去、そのころ当地に六男(小生洋行後生まれしものの由)中学に通いおるとききしも、小生は面会せず。その者も学業優等なりしが、後に他県の医学校に入り、死去。
 さて、小生一向気に留めずおりしに、今年二月某日、小生書室に入り、旧蔵写真の類を見出だすに、件の二男死して十八年になるものの写真に汚点を生じあり。迷信の西洋人、よく写真に汚点入ることにつきいろいろのことを申すにより、小生へんなことと思い、日記に付けおく。その翌日、拙妻、牛肉買いに之《ゆ》き、帰りて奇異のことありというにつき、訳を聞くに、去冬より拙宅と同町の米国女宣教師方に、抜群の縹緻ある、いかにも豪家の娘らしきもの住み、立花、裁縫何くれと習学しありく。毎度叮嚀に拙妻に挨拶す。(小生は街道近き書室にあれど、外をのぞくことなければ一向知らず。)只今牛肉買いに行きし帰りに、兄二人、先生(熊楠のこと)の知を辱うし、先生みずから来宿されしこともある家の女《むすめ》なり、一度参上せんと思えど、一向人にあわぬと聞くゆえ遠慮しおる、というとのことなり。よって姓名を尋ぬるに、右二人の末妹なり。ちょうど小生洋行のとき宿せしとき生まれありし女あり、その次にまたできたる女子にて、小生は一向その存在をも知らざりしものなり。小生当時多用にて、面会の機会なく、よって妻をしていろいろ尋ねしめしに、この家、男子六人、女子二人ありしも、男子五人将棋倒しに死に果て、一人残る、そのものも今また病み出だせしとのこと。女子二人いずれも健在、小生宿せしとき生まれて当歳なりしもの出でて嫁し、一切生家のことを世話しおり、父は先年死に果て母は存するも、あまりに子多く死にたるをかなしみ、失心の様子、しかして右の末女二十一歳なるが、今残存せる男子(兄)また病出でたるをもって、家を嗣ぐ予備に嫁せずしてある、(382)とのことなり。
 かの随筆ごときものは、小生在米中交わりし、ある世嗣ぎたりし人(今は廃嫡され大阪辺に流浪)帰朝の節、珍しきものゆえ史料として借りたしとて、小生、状を添え貸せしに一向返さず、よって小生よりその父子爵に状を出し大いに責めて取り返せしことあり。五十冊と記臆しおりしに、右の妹、家へ帰るとき、妻をして頼みて調査せしめしに、百五十冊ありとのことにて、今も現存する由なり。小生洋行のとき一宿して少々写し抜きしもの今に存するを見るに、世に公けにならぬ徳川幕末の記事珍しきこと多し。地方風俗、伝話等のことは、一つも抄しなきもいろいろ記しありしなり。かの末女は、三箇月ばかり前まで米国宣教師方にありしも、小生一向面会せぬゆえ来たらず、そのまま帰郷し、以来来たらず。察するところ、兄のうち一人もしくは二人とも、また死したることと存じ候。次第を案ずるに、俗にいう労?《ろうがい》にて死に絶えおる最中と存じ候。
  労?は金持に限ると俗に申し候。英国にて、貧人が脱疽《だつそ》を病むと生意地なと笑うということ、ハーバート・スペンセルの『社会学』にあり。ちょうどそのごとく、この辺にて貧人に労?はなきものと致しおり候。当地近き市の瀬という村に、大家が労  疾にて死に絶えんとするとき、残りし主人一人、家を焼き、一切の所有物を放棄し、フンドシ一つで、日高郡|南部《みなべ》町(この間およそ七里ばかり)まで走り立ち退き、そこに住み候に、やはり労?にて死に候由。また小生現に知る商家は、もと大家なりしが、この病家内に生ぜしとき、世諺に随い、金一箱(一千両なり)を万呂《まろ》村の藪中に棄つ。これを拾いし者、今は大家となり盛えおる。(労?を移すという。拾いし家果たして今労?なりや否知らず。)しかるに、一箱捨てし家は、それがため大いに家勢落ち候も、今に労?は絶えず。
 右の様にて土俗、労?をおそるることはなはだしきより、死にし人どもの旧知の当地人、また拙家の者どもまでも、件《くだん》の末女の来るを悦ばず。したがって小生も今その末女と知り合いにならば、父とも兄どもとも至って心易かりし点(383)より、家整理など頼まれては迷惑のことを生ずべしと存じ、わざと面会はせぬなり。しかるにまことに惜しきは、件の随筆百五十巻にて、小生当県で多く見たる文書中、かく巨細にかき集めたるものを見ず。(たしか艮斉、拙堂等との往復文、それより奇兵隊の隊長したる人などとも交際広かりし人ゆえ、いろいろの内実、今日に知れぬことども多く扣えあり。)かの一族死に絶えるは止むを得ぬとして、何とかこの書だけは写してでも抄してでも一本を内閣文庫辺に保留したしと存じ候。これは決してできぬことにあらざるも、件の末女の姉なるもの、前年小生世話で華族に貸し返納渋滞せしことあるゆえ、世にかかる書あるを公けにするを好まず。小生にならば必ず貸してくれるなり。
 しかるに、小生眼前かかる烈しき遺伝病の連発するを見ては、労?というもの、たとい金を拾わずとも、書を借りてでも移るべきかとおそれ、また迷信かは知らぬが、死せしものの写真を見て不思議に思いおりたる翌日、思いがけなく(その人生まれありとも聞きしことなき)妻がその末妹にあうなどを考攷して気味悪くも覚ゆるなり。
 貴下はかかる風の病気連発する家の蔵書を借覧するとその病が移るものと思わるるか。このこと如何《いかが》に候や。消毒せば無難なるべきぐらいのことは知りておるも、労?なるものがすでに生まれながらに死刑の宣告を受けたもののように聞くゆえに、蔵書を借るも、なかなか消毒ぐらいできかぬことかとも存じ候。
 何に致せ、惜しいものなり。もし一向そんなことに頓著《とんじやく》なく、この近くへ来たりし途次、かの書をひそかに写したしというような人あらば、小生何とか世話して写させ進じたきことに存じおり候。
 小生、来春和歌山に之《ゆ》くついでに、右の一夜宿せしとき写せしだけにても書き取り進呈し、果たして珍しきものなるか否、御審査を乞いたく存じおり候。
 右、眼はなはだくたびれおり、筆粗末にて、渋字御察読をこれ祈るに候。
 
(384)          137
 
 大正二年十二月二十七日
   柳田国男様
                     南方熊楠
 芳翰拝読。ありがたく御礼申し上げ候。大山神社のことは、たとい郡村の吏の強制が悪しきに致せ、村の者が一致して不服をいわば、決して合祀さるるにあらず。しかるに、ただただ無頓着にして懈怠がちの者どもゆえ、多年かかることに苦しむは迷惑というようなことより、むやみに人を疑い(内務省の達しなど見せても、これは熊楠が作ったものなどと疑い)、ついに合祀に及びしにて、何とも致し方なく候。もっとも『日本及日本人』新年号にちょっと記し候ごときことにて、只今復社を願い出ずれば悦んで県庁は復社を許すなれども、小生はこの一社が復旧したばかりに、他の諸社がまたまた潰さるるを悦ばず、ただただかかる不埒、放佚の大字民は自業自得で、成り行きにまかせ困らせやるが頂上と存じ、復社は全く断念致し候。しかし、県会にて毛利に県知事以下どっしりやりこめられ、今後合祀せぬ旨誓言せし由なればこの後合祀はなかるべく候。
  毛利、中村等、神社合祀反対を自分らの発達に応用した輩の旧惡を一々京阪で暴露すべしと脅かせしにより、大いに惧れてこの次第なり。なお中村代議士、毛利県会議員と新年にそろうて右の大字へ行き、復社を請願すべく勧告に行く由なれど、小生は一切ことわり申し候。
 右様のことにて合祀は全く止み申すべく候。これは知事は当地方へ軽鉄を通すべく発議、しかるに、毛利等、小生の機嫌を伺い、古蹟名勝を全潰して軽鉄を通したところが何の益あるという論鋒にて大いに勝ちしなり。まずは毒をもって毒を療じたようなことにて、当節この辺に満足な人物は一人も無之《これなく》候。
(385) 小生も合祀一条で大いに少々の資産を減らし食い込みおり、止むを得ず少々貰うつもりで、宮武の『不二』へ投書致し候ところ、また事を起こし、罰金は小生自分払うものにあらざるも、抗訴とか上告とか面倒なこと多きにはこまりおり候。只今集まりおる植物をあらかた調べて外国へおくりおわらば、その上は何とでも身のふり付きはなり候えども、その間の経費に事を欠いては到底植物標本の片付けもできず、いろいろ困りおり候。米国よりは毎度招かるるも、小生かの国人を大嫌いにて行く気にならず。加うるに、妻は一向の国粋風の士族の娘にて、第一肉類を食うことができず、小生外国へ行かばずいぶん金はできるべく候も、家内つれ得ずでは家事経済まるで立たず、また大酒を飲みて人を傷つけるぐらいのことに終わるべく候。
 衝尋問の鵠のことは、小生いまだとくと読まぬゆえちょっと分からず。しかし、蛇を平らげた鳥獣をまつる例、仏経その他にも例多く候。
 まず蛇きらいの人多き所にて、蛇を平らげた鵠をまつりしと見るか、または国府の台という地名を釈せんとして鵠の縁起を作りしか、といわんに、小生は後者の方に傾き申し候。
 蛇の子を多く下ろしたということは、小生の『民俗』に出た「話俗随筆」二に引きたる『霊異記』にも有之侯〔【「蛇を引き出す法」】〕。
 このコウというもの蛇の仇ということ、ロシアなどにもいう由。しかるに、欧州で多くコウを神鳥として尊ぶに(ドイツなどでは今も人は鸛より生まる、父母より生まるにあらずと信ずるもの多し。小生実際交わりしドイツ人にも左様信ぜるあり)、当国は古来コウをあまり尊ばざりしよう存ぜられ候(支那には、蛇を呪する歩法を鸛が知り、禹王それを学んで禹歩ということ始まりしと、『博物志』にありしよう覚え候)。なお外邦のことども一々しらべ申し上ぐべく候。
 叢書〔【「甲寅叢書」】出板なり候わば、一冊送り下されたく候。小生もなにか書かんと思えど、とかく目下眼わるく、永き仕事はできず、これには大いに弱りおり申し候。
(386)  燕の子安貝の話
  秀郷竜宮入りおよび一ツダタラの話
  漂浪ユダヤ人の話 The Wandering Lew
 この三つ、外国にて出せしうちもつとも長きものにて、その後もいろいろ書き加えおり候。
 ?虫というもの、英語で whirligig《ホワーリツギツグ》という小虫なり。和歌山辺でまいまいむしという。?(当国の納豆のごときもの)に似たる形ゆえ名づくと先輩に聞きおりし。しかるに、当地近傍上芳養村の百姓話に、このもの方言ミソムシ、手につかみ?《か》げばみその臭あり、犬に食わすとたちまち死に候由、これにて全く?虫と法名付け候は、もと?はみそと似たるものにて、みそに臭の似たるよりの名と分かり申し候。『本草』など書籍の探索のみを基礎として作りたるものゆえ、実際のことに通ぜず、その辺は土百姓の方反って実際を知ったこと多きものと存ぜられ候。『本草啓蒙』などにも、?虫をミソムシといい、臭がみそに似たること載せてなしと存じ候。tongue‐twister を字のままに舌擾《したならし》と訳し置きしが、これは古く日本で早口という由、『嬉遊笑覧』等に見えたり。
※[図有り] 図のごときものにて柔魚《するめいか》を釣る、これをシュッテイとこの辺で申し候。これはたしか?《ふりつづみ》(『栄花物語』、『増鏡』等にあり、当地方の神庫にもあり、むかし遊戯にもまた舞業にも用いたりと見ゆ)を支提(ししていもまたかくのごとし、と『沙石集』に見ゆ)といいし、鼓※[図有り]の端に長き刺あり、この刺と相似たるゆえ支提の意にてシュッテイと訛りしにあらざるかと存じ候。
 ついでにいう。足利氏の代にできしという「百鬼夜行図」、※[図有り]図のごとき一つ眼小僧ふりつづみ持ちたる図あり。今のごとき小児用のふりつづみ、そのころすでにありしにや。また、この妖怪のかけたる腹掛は紀州で「スッポン」と名づくるものなり。かかるもの足利氏の世にすでにありしにや。もしくは右の一つ眼小僧の画は後人の竄入したるにや。まずは御受けまで、右草々以上。
 
(387)大正三年
 
          138
 
 大正三年四月十四日午前四時
   柳田国男様
                      南方熊楠
 拝復。『考古学雑誌』のこと、古谷氏に対する寄書は、。パーソナルにして公衆に見すべきものにあらずと愚考致し候。よってその内にある小生外国にありし日、外人と議論致し候一事は今後またかようのことを認むるひまも有之《これある》まじく候。貴下、小生の逸話として御一覧下し置かれたし。(小生、単に記臆より書きたるものに無之、そのころの日記および往復書簡を所拠として認めたるものに候。)とにかく一度小生懇切に撤回を望む旨をもって、「火斉珠に関し古谷氏に答う」る文は、貴下まで御引き取り、御一読の上、原稿は書留郵便もて当方へ御返却下されたく候。しかる上は、小生は一切の私語を除剪し、「火斉珠に関する書籍上の答え」すなわち古谷氏の難問は、論理学にいわゆる「知りてこれを犯す」、「顧みて他を言う」の法にて、共鳴を得ず、清人考証の学は前人にまさること多きも角を矯めて牛を殺すこと少なからず、李時珍のころは謝承の『後漢書』をも『続漢書』と称したること『本草綱目』に見えおり、また露人ブレットシュナイデルも同説なることは、すでに古谷氏が難ぜらるる小生の文に頁数を引いて引証しおり、
  わが国には今日後れ馳せに支那や中アジアの研究にかかりおるも、十の七、八はすでに手後れで、三、四十年前(388)欧人が穿を尽した余穴を掘るに過ぎず。今の日本人の生《なま》かじりの穿鑿や又聞きよりは、三十年、四十年前の欧人の調査の方が詳しき方が多く、大夏、大宛、安息、月氏等の国名などは、みな件《くだん》のブレットシュナイデルが考え中《あ》てたものにて、邦人近ごろようやく再伝三伝して、これを何の礼謝もいわずにおのれの考定らしく言いふらしおる。
李時珍すでに『綱目』の引用書目に、歴然、謝承『後漢書』とせず、謝承『続漢書』とかきあり、ブ氏またその大著述に『事言要文』を引きて謝承『続漢書』とあり。清人の杜撰多きはいよいよ密にしていよいよ疎なること多く、古谷氏が清人の書に拠って−氏『後漢書』、−氏『後漢書』とせる書目中に、『隋書経籍志』など見れば、実際題号が、『後漢書』にあらずして『後漢紀』とか『後漢志』とかいうものもあり。とにかくその書を見ずに、後人の撰によってかれこれ書名を論ずるならば、一年も早きものに出たる題号を正とせざるべからずというだけのことを書き縮めて出し申すべく候間、それをも出してくれぬと、読者は小生が全く無拠のことを吐いたように思わるるもすこぶる遺憾なれば、縮めた分を出すよう御取り計らい下されたく、長文の原稿は、何分小生これを人の性を傷つくるものとして撒回したく候つき、御取り廻《かえ》し下されたく候。
 次にまた「ラーマ王物語が古く和漢書に見えたこと」を寄稿致し置き候。これは誰にもさわることに無之《これなく》候間、なるべく出すよう頼み下されたく候。もっとも小生も多用、ことに眼が時々悪く候つき、以後はあまり出さぬよう致すべく候。
 小生は金銭上の用あって、今日午後和歌山へ急航致し候。ちょっと四、五日は当地にあらず。しかし、右の事件はなるべく早く原稿御取り戻し、当方へ御廻送下されたく候。小生などはおいおい老衰、俗務多紛、かつ世間新しきことに摂せぬゆえ、大いに学問は古臭くおくれ申し候も、都会読書の便多き地にある人が、出まかせに小生よりも古臭きことや疎論な説多きは、遺憾一層に候。
(389) 『西域記』の研究に多年費せし人にして、牧牛人、穴に入りし話が『慈恩伝』にあるを知らず(『慈恩伝』は至って短きものにて、小生は半日にて全く写しおわり候)、みだりに「もちろん『慈恩伝』にはこの話無之候」と断言するなど、実に麁論の極に候。『古事記』を見ずに『日本紀』を釈し候様のものに候。
 右の古谷氏に対する文は、他の雑誌へ載することならず、読者には何の問答やら、何のことやら分からず、これを分からさんには、最初よりの双方の論文をくりかえさざるべからず、かつ火斉珠ということは、郷土学やその他の雑誌に何の関係なきものに候。
 高木氏がみだりに『日本紀』の文を、これも竄入、これも竄入というは、実に杜撰な説に候。たとえば、鮫は魚にして神にあらず、鮫に人を供するは犠牲にあらずなどいわれ候。宣長の歌に、虫けらまでも神の内、という意味のことあり。鮫は魚にして神にあらずと理窟が分かる世の人は、すでに犠牲はせず候。ローマの末世、芝居にヴィナス、ジュノなどを演ぜし日は、すでにローマ古数の精神亡びおりたるなり。耶蘇教興らずとも、その教すでに衰え尽せるなり、とギボンはいわれ候。また、『古語拾遺』に、白き動物数種を牲にして田利を?りしとあるは、外国にも白き動物を牲することあるゆえ、外国より入りし風と申され候。しかれども、白き物を神に供うるはいずれの国も然り。日本に灰色の物を尚びしとか、茶色のものを尊びしとか明記なき以上は、白き動物を牲するも、何の必ずしも外国より入りしということあらん。この文つづきに射干《ひおうぎ》を祭儀に用うることあり、『月令』に冬至射干初めて生ずとある外に、いずれの国にも射干に関する式話なし。射干を祭儀に用いしは、本邦固有特異のことにて、それと同時にありし白獣を牲することも本邦固有の風なりしこと疑いなし。また人身御供は橘姫のことの外に例なければ本邦になかりしこと、橘姫のことは後人の偽作とかいう。しかれども、諸国の俚伝、祭儀に人身御供のこと多し。当地近処一里以内にも、三ヵ所まであり。もし例一つしか載せぬゆえ、そのこと疑わしといわば、月水(仲哀天皇の『古事記』)や、涅歯(同上)も一つしかなし。涅歯はさておき、上古の邦人は女に月水なかりしというべくや。残酷なることは本邦の固有に(390)あらずといわば、ずっと後年、大化のころまで、信濃国で寡婦を死んだ夫の葬に必ず縊《くく》りし旨、勅令とも見るべき詔に見えたり。その詔文も偽作というべきや。今日ロンドン、パリにも迷霊を拝したり、人血人脂を薬用するものあり。大正の日本にも狐を神と信じ、福を祈るもの数十万人あり。その学者というものの中にも、支那の古人同様国悪を諱《い》んだり、おのれにありもせぬ徳化を云々して古えの正文を滅せんとするものもあるなり。
 高木氏『郷土研究』立退き一件は、石橋氏と紛争一条より見てもすこぶる面白からず。小生は、その紛争は何のことたるを知らず。しかし当時、妻木氏の状などにも、このことは石橋が重々|悪《わる》いとありし。石橋氏よりはまた相応の言い分もあるらしく、小生は承聞せり。とにかく、あまり骨のなき人たることは、高木氏のために石橋氏に対して、「果たして豎子《じゆし》の名を成す」と嘆息せざるを得ず。実に御困りのことと存じ候。しかし高木氏の来状を見しに、家内なかなか十分の活計なき人のようなり。貴下の御迷惑は察知に余りあるが、もし今後小生が論文らしきものを出すこととなると、小生は、民俗とか神誌とかいうものは仮想や詩想や寓意に出でしものにあらず、その当時の人の理想や実験説をのべたもので、ラジウムの発見なかりし世の化学者は諸元素は不変のものと固く信じ、米国南北軍のとき北軍は黒人も白人も同祖と信ずれば南軍は異源のものと信じたるごとく、これも分からぬ、あれも分からぬではすまぬゆえ、実際分からぬなりに分かったつもりで述べたもの行なったものが、古語、伝説、民俗という見様を主張す。
  今日アストロノミカルミスとか、神託を言語上より解すとか、いろいろ紛説あり。いずれも近来欧人の発明のごとく虚吠する人多きも、こんな考えは何国の人にも出るものにて、後漢の応劭(『風俗通』)、すでに舜の時の名臣|?《き》一足とて、?は牛の形で足一つの神獣との伝説を駁して、?ははたらき多かりし人物ゆえ時人これを讃して、いくら事件が多く生ずるとも?一人あらば一切事がすむゆえに?一にして足れりといいしをまちごうたのじゃ、とある。スペインの古詩に鯨が川に浮いたというを、今人が解して、むかし皮の嚢に油とかを満てて川に流した、そのときヴァレナ vallena(行く、満ちて)と人々が呼びしを、西語にはわが邦と同じくbとvの区別なかりし(391)ゆえ balena(鯨)と誤伝したのじゃ、というごとし。これ言語学上、古語、古話の解釈なり。また、山岡明阿(『類聚名物考』)に、『日本紀』、『古事記』に、何かいうと兎とか牛とか畜生の話多し、これは地上の畜獣でなく、全くそんな名の星を述べたのだろう、とあり。(小生も、濠州土人ごとき下等の民も星の名多く指すに、日本には星の名『和名抄』にわずかに四、五しかなきは奇怪、と『ネーチュール』で論ぜしことあるが、明阿ほどの説は出だし得ざりしは明阿に劣れり。)これ取りも直さず、天学でミスを説くものなり。古話、神誌を実際の事蹟、事実の観察より生ぜる理想説なりと断言せしものは、和漢になきかあるか知らぬ。その風の解釈を一事に親しく試みし人は多し。馬琴などの著にも間々見ゆ。
 故に、事ごとに従来の高木君の論文とはまるで異様のものが出で、何も分からぬ読者は何とも路頭に迷うことと察せらる。貴下一人で継続は労力が非常なるべければ、植物学の方のひまのゆるす限りは尽力致すべきも、もし高木君の代りに毎号論文と雑篇出すこととすると、小生も時間を定めて特にその方にかからざるべからず。毎月一回のものゆえ、左まで難事にあらざるも、小生も近ごろ合祀反対運動の結果(債金とては一文もなきも)、身代空尽し、何とて定まれる収入もなく、途方にくれおれり。今日午後和歌山行きもその相談であるなり。今一年ぐらいは当地にあるべきも、その後のことは分からず。そのあいだ助力申し上ぐるとして、何ほどか定まった原稿料を出し下さるるわけに行かずや。高木氏とても全く無報酬で勤めたるわけにはあるまじくと存じ候。小生はまずは有福な方なりしが、在外中一族にいわば私産を勝手にされおわり、帰朝してそのことを追究すると、骨肉間の恥をさらし、父祖の名を汚し、また不良の輩ながら只今多人数を育しおるものを廃業離散せしめざるべからず。小生は至って猛勇な生れで、人を殺すぐらいは何とも思わざりしものなれど、そんなことをしたところが何の益もなく、何となく隠遁して山岳に野生しおりたるなれど、妻子もできれば、このままにては妻子の先途が付かず、伯夷・叔斉流にすまし通しても、今日口でほめてくれるのみ、実際家内が迷惑するばかりなり。止むを得ず今日談判に行く次第にて、一家に取りては実に面目(392)次第もなきことなり。右様の次第ゆえ、何とか相当の時間つぶれの料だけは下されずや。もっとも従前ごときちょっとちょっとした資料報告ぐらいは、機会さえあらばいくらでも出し得べきも、ただただひまを潰すばかりで、前後そろうた論文を出すことは、到底自分の職業を幾分損じてまでも、つづけて出すことはむつかしかるべく候。
 民俗学入門ともいうものは、小生久しく心がけおり、七十日もかかればちょっとしたものは出来申し候。これはたしかに収益の見込みあらば作り申すべく候。
 「燕石考」は『太陽』へ出さんと存じおり候も、『太陽』も小生ばかりが記者というわけにもなく、元日号の虎の話ののこり、毎月予告のみ出でて、いまだに出板されず、小生のものを毎月連載というわけにも行くまじく、よって和歌山へ行く用事快く事すまば、帰り次第まず完全にかいて見るべく候。もし『太陽』へ出してくれるなら、懸け合いの上、貴方へ廻す分の内より抄出和解して出すべく候。しかしながら、とても数百頁という本になすほどの長きものにはなく候。このことは申し上げ置き候。
 外国のフォークロールの書目解題、これは Keitl とか申す人のフォークロール書目解題あり、そのうち取り寄せ見るべく候。小生は主として novelle(『古今著聞集』様のもの)、すなわち夜這いに行くを間違えた話、下女の身代りに母が臥しおり、下女に夜這いする実子の子を?みし話、人の妻を姦せんとておのが妻をおのれが心かくる女の夫にまず姦せられし話等、中世イタリアに大流行の談類の考証に全力を注ぎしゆえ、その方のことはちょっと知りおるも、その他の民俗、古語のことには力を致せしこと偏頗多く、とても一汎に渉りてまでは存ぜず候。
 先日申し上げ候ごとく、拙宅に藻類のプレパラート六、七千枚、菌類の標品五千余点、その他いろいろの標品(昆虫、植物、古物等)多く、何とも維持費継続の見込みなく、外国へ売却のつもりにて、昨今点呼調査中に有之《これあり》。そこへ兄弟多く不和等のことでいろいろ俗事多く、かつ小児八歳、数日前より小学へ通うもの、麻疹うつり帰り坤吟しおり、小生一昨夜より昨日、昨夜とも一睡せず、只今朝五時ごろより、一睡の上和歌山へ趣き候。海上は例の大風波に(393)あるなり。右様の次第ゆえ、この状乱錯ちょっと分かりかぬべく候えども、大体右にて御返事申し上げたるつもりに候。
 大隈伯入閣の趣き、臭いものに蠅が集まる、はやまたまた猟官運動など始まりおり候由、伯は毎度小生のことを尋ねくれ候つき、一度出京面会致したく存じ候も、何様《なにさま》小生は多人と折れ合いむつかしく、ことに加藤男などは平素小生を狂人ごとく目せられ候上、何たる出世立身等の望みもなく、困りきった人物に御座候。従前は語学のみはなかなか熟達しおりしも、このごろはことに忘れやすく、英語すら字書なくては一向遣い得ず候。
 錦城館の書付は貴方の分だけ調べさせ、小生和歌山より帰り次第差し上げ申すべく候。
 
          139
 
 大正三年五月十日午前二時書き始む。
   柳田国男殿
                     南方熊楠
 拝啓。五月二日芳翰、着せしは五日朝なりしも、小生また眼惡くて、只今まで御返事延引致し候。毎号十頁の論文は、毎号にてはちょっとむつかしく候。これは小生記臆往時のごとくならず、したがって一文一句一字までも一々原書に就いてたしかめるゆえ、すこぶる人の知らぬところに骨が折れるに候。(今日まで『郷土研究』に出せし拙文に引くところの書、日本七十五、支那六十二 英四十九、仏十三、ドイツ五、ラテン二、スペイン二、イタリア二種、合して二百九種、『民俗』に出せしところに引きたる書、日本四十一、支那三十二、英十六、仏三、イタリア三、オランダ一、合して九十六種、これらみな日中一通り原書を出し運びおき、夜分写し入れしにて、たまたま日中出し置かざるときは、一度一度足を運び、戸を四五開闔して、ランプ片手に捉りに行く、その苦労すこぶる大なり。)故に、毎(394)月きっと一文はむつかしく候も、事のついでに書くときは一月に二文も三文もできることもあるべければ、まず毎月一つぐらいの割にできるかと思う。とにかく七月または八月号よりやって見るべく候。その前に従来高木氏へ送り置きし「南方雑記」の残分(泣き仏の一条いまだに出ておらず)と、「紀州俗伝(七)」、また「あとはんいくつ」の追加を出さんことを望む。この三つはずいぶん前に出したものと記臆す。
 論文の第一に、一本ダタラの話、もしくは「筑摩祭の鍋の話」を書かんと思う。一本ダタラは、熊野の俗伝にいうところで、独脚鬼なり。これに相関するゆえ、第二に田原藤太の話をかかんと思うが、それには図を入るるを要す。しかるに、図を入れし条は従前『郷土研究』に一つもなし。むやみに図を入るると、さして必要なき図も入れにゃならぬこととなり、他人の図を拒絶して小生ののみ出すという訳にも行くまじ。故に、一本ダタラだけは『郷土研究』へ出し、藤太の話は『太陽』へでも出すべし。オコゼの話なども、必ず図を入れねばならぬゆえ、『郷土』へは出すこと成らず。しかし、小生は『郷土研究』へは徹頭徹尾図を入れぬ定めがよかろうと存じ候。
 小生の「紀州俗伝」は、民俗学材料とはどんなものどもということを手近く知らせんため書き出でしなり。伝説とか古語とかには、うそ多く新出来も多く、また、わけ知らぬものがたちまち出逢うと俚談らしくて実は古い戯曲などに語りしを伝えて出処を忘れたるもの多し。それよりも土地に行なわるる諺語や、酒落詞、舌擾《したなら》し(『嬉遊笑覧』に謂うところの早口)、また土地のものが左までに思わぬ些々たる風習、片言等に反って有益なる材料多し。とにかく、近ごろ諸国諸方より「紀州俗伝」風の蒐集が出で来たれるは、郷土研究のためにも研究者のためにも賀すべし。一国の植物群を精査せんには、いかなるありふれた植物でも諸地方よりことごとく集めた上のことなるごとく、関西地方にありふれたことも、仙道に至っては微かに存し、東京辺には全くなき等、民俗の分布を知るには、かかる些事些言の蒐集がもっとも必要なり。縁起経や神誌や伝説ばかり集むるは面白いが、そは比較文学に似たことで、民俗学唯一の事業にあらざるなり。小生は、民俗学が社会学の一部なるごとく、話説学《ストリオロジー》は単に民俗学の一部に過ぎず、と主張す。
(395)  上方に「法師さん」という戯あり。一人、眼を縛し、他の一人、扇をもって周囲の人々を指し、「法師様え法師様え、この酒どこえさーしましょ、ここか」。眼縛りし者、「まだまだ」。扇もつ人、「ここか」。眼縛れる人、「まだまだ」と言いて、また「ここか」。眼縛りし者、「そこあたりじゃと思います」。ここかと指されし者、ここにおいて酒を飲む。さて、その人眼縛りてまた上のごとく行なうなり。この戯れの詞、いろいろ土地によって異なり。田辺では、「べろべろの神様は正直な神様で、おささの方へ面向《おもむ》ける面向ける」というて指すなり。小生十七、八のころまで、和歌山、大阪等で、花見の宴などに必ずこの戯れをせし。しかるに小生知るところでは、この戯れの詞に、異同の有無どころか、この戯れのこと記せしもの一つもなし。むかし花見等の宴に、必ず盲法師を伴いしときの遺風らしいが、何という戯れやら名も知らず。吾輩いずれもただただ「法師さん」をやろうというを聞きしのみ。世にあまりにありふれて、しかも文章に関係なきことなるがゆえに、一向文献に残らぬものこの類のこと多し。これらは、諸方諸国より「紀州俗伝」ごときものあまねく集まる内には、多く後代へ書き残し得ることと存じ候。
  かかる些事些語は、小生一代にも全く亡びて記臆にのこらぬもの多し。きわめて普遍で筆するに足らずと看過するによるなり。
 第一巻の索引ははなはだ不完全なり。この弊は西洋にもしばしば見る。実際、本誌その号に用いた題号が索引に一向見えぬ例多し。年若きうちは記臆力よく、誰も題号を心宛てに記臆するものなり。しかるに、記臆のままその項を索引に求むるに一向見当たらずとあらば不都合千万なり。また、諸種の唄、諸種の遊戯を十把一束に子供の唄、遊戯というごとくに集めて索引に出せるあり。これらは唄の種類、遊戯の種類をあらまし区別分類して載せられたきことなり。
 例、万町歩節。本誌に題号あり、索引には一向なし。柚の木怪をなすこと、柚の字索引になし。擂木《すりこぎ》は索引あり。(396)実はこの項柚の木を怪木として家辺に植えぬ由が主眼で、柚の木で作りし擂木が老婆に化けたは従なり。索引に柚木、また柚木が化けるとあるか、柚木を栽うるを忌むとあらば、趣意が分かるが、擂木とあるのみでは何のことか分からず。誰とても柚木怪をなすこととは思いかけざるなり。先日分配せられしところの索引ごときは、首尾を通して幾度も幾度も本誌を精読せし人にして始めて用い得べく、うろおぼえにかのことこのことを探らんとする人、もしくは後日初めて第一巻について(たとえば)樹木崇拝の縁により樹木成怪の例を探らんとする人には、ちょっと役に立つまじ。牧野兵庫の墓のごときも索引になし。土団子をその墓に供うるゆえ、土団子を探したらあるかと思い捜るもまたなし。墓に病を祈るとあるかと思い探るもまたなし。かくて牧野兵庫のことは、ちょっと一頁ばかり塞ぎおるに、これに関することは、一切只今小生には索引で見出だし得ぬこととなる。
 とにかく、索引の一〇頁わずか六行を印行し、二欄と一欄の大部分は白紙でのこすほどならば、今少しく叮嚀に、牧野兵庫のごときは(例せば)
  牧野兵庫  墓に病を祈る  土団子を墓に供う
と三回出すをよしとす。俗謡なども「所詮女房に」など頭の句を見出しに索引へ入れたら、大いに便利と思う。『今昔物語』出典ごときも、一々金翅鳥よく子を食うとか、話の題号を出すべきことと思う。
 索引を精確にするためには、編輯人の断見をもって、務めて諸項の題号を精確にする必要あり。
 『研究』での例ちょっと思い出ぬから、石橋氏の『民俗』について言わんに、最近第二年第二報に「民間療法について」という某氏の一文ありて一頁に余れり。さて、その本文は民間療法について汎《ひろ》く論ぜるにあらず、唯一の民間療法すなわち「韮をもつて鉄の中毒を解くこと」についてのみ説けるなり。石橋氏は、石橋氏の勝手として、かかる文が『郷土研究』へ出さるることあらんには、小生はまずこの題号を「韮を解毒剤とすること」ぐらいに改められんことを望む。しからざれば、「湊川の合戦」と「南北朝の戦乱」、「源平の争い」と「壇浦合戦」を一視せるようにて、(397)はなはだしき名下不一 mis‐namer たるべし。索引より索むる者がどうしても索むるところを得ぬは、かかること多きによる。
  言ったら怒るから言わぬが、わが朝の植物学者は、こんなことに気付かぬと見え、ある藻《も》をヤブレグサ、ある水生の顕花植物をミミモ、苔、蘚、辞、地衣をことごとく(例せば)丁子ゴケ、丁子ゴケ、丁子ゴケと付くるようなこと多し。最初、(1)ヤブレモ、(2)ミミグサと定めなば、(1)は藻(alga)、(2)は草(すなわち草本の顕花植物)ということがれっきと分かる。また、苔も蘚も地衣もコケ、コケ、コケと和訓すれど、それはむかしこの三群の別が精確ならざりしときのことで(西洋でも古くは然《しか》く混合せり)、今日学説で三群の別確立した上は丁字苔《ちようじたい》、丁子|蘚《せん》、丁子|地衣《ちい》と名を付くれば、一目してその苔たり蘚たり地衣たることが分かる。すなわち丁子という形容詞で三群に別用して無碍なり。しかるに、この科学の精確に誇るの日にあって、なお俗人をむかし同様の俗人と見|做《な》し、二、三歳の児女に教ゆるごとく、苔も蘚も地衣もコケ、コケ、コケと訓ずるゆえ、いったん丁子という形容詞を蘚に用いた上は、苔と地衣に用うることならず。それがため常々用語に事を欠くこととなる。苔と蘚と地衣の別を初歩として教ゆべき人が反ってこの三群をコケとして混用雑糅、その物を見、その図説を読まねば、名を聞いたばかりで何の類か何の群か、分からぬようにしおる。
 『民俗』第二年第二報に出でたる『郷土研究』の広告、資料を求むる要件綱領は大いに不完全なり。民群団体《コンミユニチー》の発達、沿革等に関する方はしばらく措き、民俗学(フォルクスキュンデ)に関する諸項を、左に一一板『エソサイクロペジア・ブリタンニカ』より抜き列し候間、さらにそれによって概略の綱領を序《つい》でられたく候。(この分類は作者トマス氏自身も決して区画判然のものとは言わず。また、民俗ごとき交互錯糅せるものに区分判然たるべきはずなし。)
 (I) 信念および風俗
   (い) 迷信およびこれに伴う行事 (1)天然現象および下生活物に関するもの、すなわち礦物、岩石、土地等 (2)草(398)木に関するもの (3)動物に関するもの (4)鬼魅 (5)巫蠱 (6)俗医方 (7)魔法の方術、卜占 (8)冥界思想 (9)雑信、雑行事
 (ろ) 旧慣 traditional customs (1)祭事 (2)吉凶の式事 (3)遊戯 (4)地方に関する諸習慣 (5)舞躍
 (U) 譚説および言辞 Narratives and Sayings
 (1)史談 sagas (2)marchen 俚譚 (3)譬喩譚 fables (4)笑話 drolls, apologues 動物譬喩譚、カチカチ山等のごとし。cumulative tales ?積話、今月一日の『太陽』虎の話の末頁にのせたり、日本には少なし。 (5)myths (6)土地譚 local legends (7)歌唄(美術的ならぬ) (8)子守唄、謎 jingles 真黒毛の毛などいう流行歌、諺、綽名、土地の唄
 (V) 巧技
 (1)俚僅楽 (2)俚劇
 早口《はやくち》tongue‐twitter, 酒落《しやれ》 puns, 尻取り scholia? これらは右の目録にないが〔Uの〕(8)に入るべきものか。
 材料の報告もっとも必要にて、書籍に載せた話の比較などは、実はあとまわしたるべし。ただし、比較の議論を多少載せぬと、俗人は小児の話を列ねた目録を雑誌にして出すようなものと受け取るべし。故に論文は、通常何でもなきこと、何のむつかしくもなきことと思わるるものにも、それぞれ深い理由と久しい伝歴あるということを示すよう、諸邦の例と比較して書かねばならぬ。「今昔物語の研究」ごときは、実は文学雑誌か史学雑誌相当のものと思う。それよりも雷の鳴るときクワバラというたり、杓子をいろいろのまじないに用いたりする等のことについて論を示すことが必要と思う。
  クワバラは桑の原と思う人多し。しかるに、当地方の少し田舎には、今も雷鳴るとき鍬《くわ》をなげ出す所あり。また以前、雷鳴に鍬のさきを高竿に結んで樹てた所あり。なにか今の避雷柱様の電気導下法に因あることと思う。杓子は婦女の印相 emblem と思うこと多し。(上流の女は鏡を印相とせるごとく、むかし鏡はなかなか下等の女の(399)手に入らぬゆえ、杓子を下等の女の印相とせるなり。)西洋にも婚時匙をおくるなり。
 当紀州辺で普通なことを、奥羽で伝えたのを『郷土研究』でみると、多少のちがいがある。このちがいを研究することすこぶる必要なり。それをするには、ぜひ諸方からつまらぬことどもを集めざるべからず。かかるつまらぬことは、世が進むに従い何ののこるところなく消失す。小生等幼時聞きしは、日があたりながら雨ふれは狐嫁入りす。これを見るには、石をまくり、その跡の土に唾はくべし、しかるときは唾液に狐の嫁入りがうつり見ゆる、となり。(crystal‐gazing とて、欧州で大流行せしことあり。ドクトル・ジーとて、エリザベス朝に水晶の円顆を見て吉凶の相を見し名人あり。その人用いし水晶玉、予も見たり。仏図澄《ぶつとちよう》は油《あぶら》に対していろいろの相を見るといえり。小生の知人にもガラスのかがみ、またけさんなどを見て占う名人あり。小生はかかること信ぜぬ生まれゆえ、いかに見わけるも一度もかかる現象を見ず。)また、拙妻は指を組み合わせて狐の嫁入り見る法を祖母より伝えたり。しかるに、おいおい不信の者のみ多くなり、只今小生方に来たりおる神子浜の下女などは、日が中《あた》りながら雨ふれば狐嫁入りすと知ったままで、これを見る法を一向知らず、また聞きしこともなし。かくのごとくして種々の方は失われ行く。また、これと反対に、方式のみ伝わりて、何のための方式か分からぬこととなりおわれるが多し。リヴァルスの『トダ族篇』に、いろいろの小むつかしき式、今もトダ人に行なわるるが、何のことやらさっぱり分からぬもののみ、といえり。これは当地の闘鶏社の祭式の行事また唄などにもあることにて、故老に実際見た行事全部を聞くと分かるが、只今一部のみ行なわるることとなりては、何のことかさっぱり分からぬ。かようのことはなにとぞ今においてなるべく悉皆《しっかい》記し置きたきことなり。
 貴下は、今のごとく便宜に任せて外国のことと比較はまずおき、内地のことについてのみ研究されたし。このこと一番必要なり。内地のことのみ研究したればとて、真鴻を射がたきに限らず。反って他に類なき原則を見出だすものなり。レンノア科を立ておるレンノア属のレンノア一種が、カリフォルニアにのみ特産するがごときことあるべし。(400)一国にあるもの、必ず他の二、三の国、また諸国を通してありと言わば鑿せり。
  レンノアは、わが国のまずはユウレイタケ(石南科)に似た寄生植物で、蔓生す。他の諸国の植物のみ見た者には、考えのつかぬ奇物なり。
 小生前状に申せしごとく、黒歯の風は檳榔と関係あるごとくいう人多きも、実は檳榔かまぬ所にも黒歯の風ありて、これは斎忌に基づけるらしく、その証は主として本邦で知り得。わが邦には他国になきことを今も見得る例多し。その中には古来全く他邦になきこともあるべし。欧人等大層らしく博採帰納などいうが、実際を見ぬあて推量多く、観察と推量と得手勝手ごたまぜで、真理に遠きこと多し。ユダヤ人が婚時来客一同盃を破る式あり。これはエルサレムが落ちて他民の手に入りしを憾《うら》むのあまり憤慨を洩らすなりという。しかし泉州辺で、今も婚礼にとこ入りとなると、一同さわぎ立ち、スリバチなどすりわり、たたきわり、われた、われたとさわぐ。インド等にもかかることあるを見れば、実はユダヤの風も、われた、われたを祝うたのを、後年かかるむつかしき理窟を付会せしなり。(前年、一論を短く草し、『ノーツ・エンド・キリス』へ出したり。)諸国に成女期に遅れた女子を闇室に閉じこむる風あり。フレザー、これは月水を不浄とする斎忌に出ずと言いしを、大発明なりと学者どもいう。こんなことは議論までもなし。日本では誰も知りきっておるなり。あたかも古来人糞をもって土地の肥料不足を補いおるを、一昨年ごろようやく気が付いて欧州の学者が感心せるごとし。この外こんなこと多し。(兄弟相婚は同父同母にあらざる限り正当とせし理由など、ヒュームの大発見のごとくいう。しかるに、そんな説は石原正明すでにこれを述べたり。)原理原則は万国を通ずるものなれば、一国のことを精査して見出だし得べし。現に欧州の学者が比較比較と縁もなきことまで探しあるくに反し、米国の学者は蓄音機まで用いて目今失せつつある諸些譚、些語まで蒐集しおる。材料豊富ならずば真の比較はなりがたし。ただし、小生は書籍のみに拠らず、なるべく俚間の実際について材料を多く集むるがもっとも必要と思う。書籍には面白い所のみ筆するゆえ、実際必要なことはぬけておること多し。
(401)  日本の春画を見て小陰唇ことのほか大なるは、画が誇張に過ぎるか、またはブシュメン族ごとく、日本の婦女も陰唇硬堅症多きならんなどいう学者多し。(ブシュメン族は、ステアトピギアとて、成女期に達すれば、腰辺に脂多く膨脹し、その大なるほど美女とした。尻の上に小児が立ちて母が歩くなり。それと同時に小陰唇大いに長くなり、朝顔の花のしぼめるごとくまきて垂れ出ずるなり。故に、この民の女を強姦することは不可能にて、交合の節婦女みずからその中陰唇を捻《ね》じ開きてするなり。)小生の知れる日本の医学士などにも左様いう人あり。これらは実に膠柱の論で、小陰唇を死体の解剖図やアルコール漬で見るゆえ、小さきものと思うが、生時ことに交合の際は、小陰唇膨大してその趣きを大いに助くるなり。されば日本の春画は生態を活?々地より写し、西洋の春画は猛戦中の兵士に死人の首を添えたるごとく、死女の小陰唇を采戦中の女体に加えたるなり。イノメ(猪の眼、印の目など、白石など議論多し)という所、何のことか正説を知らず。春本にイノメという所あり。これらも古語ののこれるにて、その箇所を明らむれば、斧等のイノメは何の所ということが分かる。小生かかる些事を一々書き付けたもの多くあり。これらもなにかへ出さんと思うが、些末なことばかりゆえ、何へ出してよいかちょっと分からぬ。
 『郷土研究』へ書くべき議論は、必ず十頁また十貢以上というわけには参らぬ。強いて頁数を合わさんとすると、むやみについでに言う à propos 的のことを、本論に大必要なるごとく事々しく書き入るる弊が起こる。「知りてこれを犯すもの」で、文章としては止むを得ぬこと、また妙方かとも思うが、学問の研究法としてははなはだまずい。高木君の月読尊が御食神を殺して、穀食より畜生までもその尸《しかばね》より生まれたが、なぜ介《かい》も生ぜなんだかなど論ぜるは、かかる頁数を?むる必要より生まれたことと思う。
  介《かい》という類、日本上古その詞なし。今日といえども、爬虫(蛇、鰐、守宮、亀等)という語に相応する俗語、通語なし。(西洋でも、鰐も蚕もミミズも十六世紀まで worm といえり。)濠州土人、今日も、クワ、クス、スギと(402)いうごとく一種一種の木に名あるが、総名の木という詞なし。紫(むらさき)という詞、わが上古になし。青も緑もこの辺では今もアオといわねば分からず、ミドリと言っては分からぬ人多し。
 故に、あるいは二論で十頁を?めることとなるかも知れず、むろん一論で二十頁、三十頁に及ぶこともあるべし。ただし、小生は書きかけたら例多く材料多く挙ぐるゆえ、題号で紙面をごまかす等のことは嫌いなり。二論並出のときは、この論欧州の雑誌の例にならい、
  月と生物の関係を説く俗伝――桑名徳蔵の話  南方熊楠
という風に題号を出し、(一)――、(二)――と本文を二に分けてかけば宜しと思う。すなわち「話俗随筆」の体であまり短いものは出さぬとすべし。
 「燕石考」は学者相手に書いたものゆえ、どうしても和解して書くと長くなり申し候。とにかく一度書いて見るべきが、大体いつごろ出板し得るや。あまり長くかかるようなら、直ちに数回に分けて『郷土研究』へ出すこととすべし。ただし挿図が必要なり。
  借用の『日本文庫』等は、大抵抄しおわりたれは、今月末までに返上すべし。貴下、『甲子夜話』持ちあらば貸し下さらずや、当地にはなし。
 右十日朝六時まで書き終わる。
                     南方熊楠
   柳田国男様
 仏国の学士会員(御存知通り、仏国の学士会員は、欧米学者の規模とするところで、ダーウィンなども死前数年ようやくなり得たるなり)、シャンボンニエー去年死し、その遺文を学士会諸部の総会で行々しく読み候。trepanning すなわち頭顱を鑿開して痛を治する法は、古今未開民に行なわれたが、ギリシア、アラビア、インド、支那等、開明民(403)には行なわれなんだ、とあり。小生これに対し一文を数月前『ネーチュール』に寄せ、インド、ギリシアにこの術ありしことを述べ候。インドの例は、チベット、支那等の伝より取りしゆえ、仏国人に知れがたかったかも知れぬが、ギリシア人がこの方を用いしは、医聖ヒッポクラテスの書に多く見えおり候。これほどのことも、かほどの大学者が知らず。欧人の学問というものもよい加減なものと存じ候。(小生の駁論正しかりしと見え、出板後誰一人再駁し来たらず。)故に、欧人の書いたものを金科玉条と守り、それを楯に取って、わが国のことなどかれこれいうは、沙汰の限りというべし。学問は飛耳長目の術と荀子はいえり。この僻地におりてすら、理窟さえ立たばずいぶん議論は通り申し候。
 また、小生、明治三十二年ロンドンで「漂泊ユダヤ人考」を出し、この話は賓頭盧《びんずる》尊者の訛伝ならずやと論じ候。
  耶蘇刑せらるるとき、履工の門に息《やす》む。履工、腹黒くて、「耶蘇、汝、今刑せられなば、永久に息を得べし。何を苦しんで少息するか」と罵る。耶蘇怒って、「われは刑せられて永久に息まん。汝は過言の咎で、永久息み得じ」という。それより、この靴工、世間を奔走して、少時も息を得ず、常に罪を悔いて死に得ぬという。
 しかるに、昨年正月に至り、フィラデルフィアの男、一論を出し、イタリアにて漂泊ユダヤ人を賓頭盧の名で呼ぶ所あるから、件《くだん》の日本人(小生のこと、欧州の学者がややもすれば、日本人を姓名呼ばずに、ある日本人、件の日本人などいう、失敬千万、また卑劣千万なことなり)の説、正鵠を得たるを知る、ただし賓頭盧が漂泊ユダヤ人の話の本根たることは、四十年前ビュルノフすでにこれをいえり、と公表せり。ビュルノフのことは小生も知るが、ただ『雑阿含』から賓頭盧、仏の戒に背いて永くこの世にのこされ、無余涅槃《むよねはん》に入るを許されずとある話を訳出せしまでにて、少しも漂泊ユダヤ人話の根本たる由を言ってない。しかるに、まけおしみ強く、かかる言を吐く。小生常に欧米人と学論するに、かような腹の立つこと多し。これしかしながら、日本人が万事欧人の尻を拝み、諾々としておめず臆せずに論議せぬ余弊なり。早々以上。
 
(404)          140
 大正三年五月十四日夜一時
   柳田国男様
                     南方熊楠
 頃日、菌多く生じ、小生解剖図画に眼を疲らし、よく眠らず。故に先刻差し上げし状、十分意を尽さざるをおそれ、また一書差し上げ候。
 アウブレイとて古え名高かりし英国の牧師の言に、弁護はむつかしき業なり、弁護を頼みに来る人の口述、十の九は、自分に咎なき由を弁護す、全く咎なき者が弁護を頼むはずなし、自分で申し啓《ひら》かばすむことなり、それを難渋に思うて頼みに来るにて、その人すでに咎あるを知る、されば弁護を頼まんとならば、一切終始隠さずに事実を申し述ぷべきに、左はなくて弁護すべき弁護士におのれの咎を隠してみずから弁護す、何の用にも立たぬことなり、とありし由。貴下、前状、小生に何か心付きのことあらば細大洩らさず申し上げよとの懇請なりしゆえ、小生は心付きしことを申し上げたるまでにて、取捨は貴下の御勝手次第なり。小生は貴下御自身の弁護を聞かんとて申し上げたるには毛頭なし。
 索引のことは至難の業にて、米国などには索引の学問さえ立ちており候。小生毎度投書しおる『ノーツ・エンド・キリス』は、別《わか》らぬことあれば『ノーツ・エンド・キリス』へ出せ、とサッカレーの小説などにも見え、只今では英、米、蘭等に、地方地方にそれぞれ『ノーツ・エンド・キリス』誌を出し、仏国、ドイツなどにも、名こそ別なれ、これに倣《なら》うて雑誌を出しおるほど有用なものなるが(只今までおよそ百五十巻はあるべし)、そのうち第二輯、第三輯あたり、およそ十二年分ほどの索引が粗略なりしため、実際引きもらすこと多く、只今改作を毎々催促されおり候。ま(405)た、はなはだしきは、一七八〇年に始まり一八三二年まで五十二年かかりて成れる『アンシクロペジア・メソジク』(類序百科全書)は、百六十六巻半の本文と図板六千四百三十九(五十一部)、小生その法理学の部を処々写し持ちおるが、実に今日においても有用のものなり。しかるに、この書全部に対する索引なく、一部一部の索引ほぼ備われるのみなれば、何がどこにあるやら分からぬこと多く、数日かかりてようやく少々見当たるようなことで、せっかくの大著述も役に立つこと少なし。これは特別として、御存知のタイラーの『原始人文篇』ごときも、索引十分ならず、故に実際本の価値が大いに落ち申し候。小生思うに、一号出るごとに索引を作り置き、また一号出ればこれに加記するようにせば、労も一時に多からず、よきものができることと存じ候。
 『郷土研究』が地方経済、閭村制度を主とすることならば、「巫女考」などよりは、一層経済と制度に属することを、貴下みずから「巫女考」ほどの論文を作りて示されたきことなり。小生は、最初より『郷土研究』に古談、昔譚の論文は不適当と思えり。しかるに、高木氏主としてそのことばかり書かるるゆえ、それに付随して、多くかくこととなれり。一本ダタラや山男や桃太郎のことは、地方制度より見れば、実に小事なり。これをくりかえし、くりかえしかくは、あたかも『動物学雑誌』に人間のことを毎度書くようにて、人間も動物といわばそれまでなれど、すでに人間には、人類学や(人間の)生理学、心理学、社会学、風俗学等備われる上は、体面上人間のことはなるべく書かぬべきはずなり。小生、大英博物館入館の届け書は(保証人、只今館の利き物たるリード男)、社会学研究にて、二、三年欧州の中古の封建時代の institutios(制度)を調べたり。只今たしかに覚えぬが、わが邦に似たこと多し。ただ一つ attorney(今は弁護士のことになりおる)というは、わが国の地方の別当という半僧半官に当たるとみずから了《さと》りしことなり。その他にも多く調べたことあり。わが国同様、宿長者などもあり、また長吏、弾左衛門様のものあるなり。fief;liege;vassal;serf, これらかの時代の重要なる名目、わが邦に今日も果たして定訳ありや知らず。とにかく目代ごときものあり、代官ごときもあり、五人組ごときもあり、社領、寺領、大家の荘園、荘司に似たこと多く、農工商のことども(406)また似たこと多し。久しく風俗学、伝説学のみするゆえ忘れたれど、その書も控えも今も多少あれば、貴下おいおい郷土制度に関する論文を出されなば、小生また付和し、なにか書き続くるを得べし。
 高木氏の最初送り来たりし綱領の下書ごときものには、売婬の字までもありし。しかるに、今度の貴状を見るに、猥鄙なことは紙上に上さぬ由、これまた道のためには然るべきことなり。しかしながら、ここに申し上げ置くは、世態のことを論ずるに、猥鄙のことを全く除外しては、その論少しも奥所を究め得ぬなり。御存知ごとく、英国は礼儀の外を慎むこと、言語の末に及び、陰陽に関することのみか、今といえども厠、便処、虱、糞等の語すら慎み、ギリシア・ラテンの古書、中古の書ども、また他国の文学を訳するにはなはだしく困難し、一切これを省くこと多きがゆえに、真意分からず、これがために学問が外国に先を越されしことすこぶる多し。貴下、小生の文を一切和らげ仮名を付けよとあれど、知識は必ずしも万人を通じて分かりやすからしむべきものに限らず、故に仏国でギリシア・ラテン文をその自国の語に訳解するの弊、いろいろの知らんでもよき淫事を伝うるに反し、ドイツではこれを原文のままかく。特にその必要ある学者のみこれを読み得て、凡庸無益の人にはちょっと分からず、これを分かり得るほど学問するうちに、そんなことに迷わぬほどの定見を開くという用意と見ゆ。
 御承知通り、今日、西洋で大博士を L.L.D. とかくは、諸法(また双法)の博士の義で、寺法と民法を兼備せるを意味す。故に、また民法のみを知悉せる意で、D.C.L. あり(Doctor of Civil Law)。これは、むかしは僧俗とももっぱら寺法をもって制戒されしこと多きゆえで、わが邦もまた制度の根底、仏律に出でしこと多し。いかに鄙猥を禁ずればとて、多人がその教を奉じ、その恩を蒙れる仏律を引くを禁ずるまでのこともあらざるべく、仏律を秦訳や晋訳、唐訳の難読のやつで引き、仮名を副《そ》えねば、ちょうど右申すギリシアの古文をそのまま引くと同じく、平凡のひやかし連には読めず。もし苦辛してこれを読み得るほどなら、多少の誘惑に対する相当の自制力はありそうなものなり。昭憲太后は、平素『源氏物語』をことのほか好ませたまい、その多分は暗誦されし、と細川潤次郎男の書きし(407)ものに見え、小学読本にも出でおれり。この『源氏物語』は、古来世の尊唱するところなるが、実際は聚?《しゆうゆう》に始まり、それより姦通、迫姦、男色、また養女を愛するところ、はなはだしきは継母、死尸を見て念を起こすところ、破素されて発汗するところ(発汗は素女たりし特徴)、鄙猥のこと兼ね備われり。しかるに、これを読みて左までに思わぬは、かの砂粒や籠の目を見て数うるうちに、悪鬼の邪視が弱るごとく、文字が今体ほどに直ちに脳裏に入らぬから、眼で観、心で味わううちに邪念が半ば散り失せるゆえにあらずや。故に、小生は(『郷土研究』は別として)仮名付けずに古文をそのまま引くは決してかまわず、また当時のことを論ずるには避け得べからぬことと思う。たとい風俗、古語のことは除くとしても、たとえば苗字のことなど論ぜんに(制度に必要なる)、また戸籍のことを論ぜんに(経済に必用なる)すら、多少の鄙猥のことは免るべからず。全くこれを除外せんには、全くこれを論究し得ぬこととならん。
 田舎に、家の氏と別なる氏の人の末と称する者多し。偽言も多からんも、みなまで拠《よりどころ》なきにはあらじ。たとえば、宮道氏の人にして藤原氏の末というごとし。これは高藤公の例のごとく、貴人が旅行、田猟などに出でしとき、田舎の土豪の娘などを一夜寵愛して生まれし子が、その家の孫として相続しながら、種を伝えし氏を記臆して誇りとなせしなり。常盤御前、三子を助けんとて清盛の妾となりしは貞義ながら、後に大蔵卿の妻となりしは不義なり、と論ずる人多し。近年、ウェルス氏が首唱するごとく、そのころは一定の期限ありて、その期限だけ人の妻となり、その期限(たとえば喪中の三年)過ぐれば、また改嫁するを尤《とが》めざりしこと見ゆ。(期限をきりて妻とること、今もアラビア等にあり。九世紀に唐に入りしアラビア人の記行に、唐土にこのことなきを怪しみ書しあり。)いわんや、常盤は義朝の正妻にあらざるをや。常盤が大蔵氏に嫁して生みし子(長成とかいう)は、後日義経大物浦へ落ちる日まで随行せり。また、曽我兄弟、復讐の相談を京の小次郎(曽我の母、土肥の娘なりしと記臆す、室にありていまだ嫁せざるとき、京より下る商人に私して生みしものにて、曽我兄弟の異父兄なり)に持ちこむことあり。今よりしては奇妙(408)なことなれども、そのころは母姓系統の風田舎にのこり、母を重しとして父を軽く見たるなり。小生の隣へ数日来たり住む一友、芸妓と好愛し子孕む、その子誰の子やら分からず、その妓|旦的《だんてき》に持ち込み、大家を構え出産し、多く供給を受けおること数年、その子おいおい実の父(すなわち小生の友人)に似て来たので、始めて旦那《だんな》の子にあらずと知れ、その母追放され、いろいろ苦辛の末、件《くだん》の男とそいとげたるなり。
 仏教に一婦と婬するとき、他婦の想をなして通ずる制戒あり。たしかに記臆せぬが、一男と会するとき他男の想をなす制戒もありぬべし。テレゴヒーとて、初め黒牡馬と交わりし牝が、次に白牡馬と交わるも黒き子を生むことあり、また黒白斑の子を生むことあり。今の学説には、なにか最初交わりし牡馬の身分が牝の身内にのこるゆえ、という。小生毎度聞き、また読むは、女がいかに多くの男と交わるも、最初破素されし男のことは終始全く忘られず(subliminary sense すなわちあらや識、また、まな識ごときものに感じて)、したがって死後は必ず最初会せし男と一蓮に托生すという。(貴下の『遠野物語』にも、海嘯で死せし女の前夫とつれて現ぜしことあり。)未来世のことや幽霊|咄《ばなし》は種なきこととするも、かかる咄が幾千百年伝わるを見ると、それほど忘れがたきものと分かる。
 今日、心と境との関係の明知されざるは、釈迦の時代とかわりしことなきも、物界のこと全く心界の影響を受けぬという証拠なし。されば仏経に、玉女、賢女は必ず懐妊の刹那みずから妊めるを知る、といえり。こは心落ち着きてさえあらば、女人は卵巣受精せしを感ずるということにて、拙妻など然り。これほどたしかなことなし。たとい即座に知れずとも、経行等の上より、数日、数週間中には、必ずたしかに知れるなり。しかるに、男子にはそんな知識なし。牝魚が卵を生み置きたる上に、牡魚が男精を放下するも同じことなり。それに加うるに、出産のときみずから産んだ子を自分のと知らぬはずなく、立会い人またその父の誰たるを知らずとも、その母の誰たるは必ず知り得ることなり。されば男子は、いつ孕ませたやら孕まぬやら、また、いつ産んだやら誰が産んだやら知らぬがちなるに、女人は必ずいつ孕みしより、いつ産んだまでたしかに知るものなれば、父系統よりも母系統をたしかと見たる古人の所為(409)は、理窟十分なり。他県は知らず、当県の古き記録を見るに、婚姻した後も、南方熊楠、南方松枝と書かずに南方熊楠、田村松枝でおし通せし例多し。これらみな、古え母系統を主とし重んぜし遺風と見ゆ。したがって大蔵某など、父は異父ながら軽く見、母は同じく常盤を重く見て、義経を実の兄と見しこと、今の人、異母弟を其の弟と愛するに同じく、曽我が京小次郎をたのみしも、母は一人なればなり。
 また、筑摩の鍋のことを、「つれなき人の鍋の数見ん」など婬性の女のことによそえ詠みたるは、後日の興言にて、実はこの鍋必ずしも婬奔の女の戒めに行ないしにあらじ。むかし一婦多夫の行なわれし地方にむしろその女の晴れ自慢としてなるべく多くの鍋をかずき歩きしと見えたり。??《エフタル》(欧州に謂うところの白匈奴《エピアルテス》)の婦女、夫の数だけ帽に角ごときものを戴き、玄奘の『西域記』にも雪山北にそんな地あるを載せ、アフリカにもあり。(夫が自分の妻を愛するもの多きを自慢する風、前書申し上げ候ごとく元朝の『真臘風土記』にもあり。またイタリア、仏国等には、今も遺風あり。)これは、今も三重県の新島《にいしま》辺で、海女は真黒にはたらき、夫は象戯《しようぎ》さしてありく。夫を遊ばせてかせぐ女を、所のものほめる。他の地方で男が妻を楽にくらさせ得ぬを働きなしと笑わるると反対なり。かかる所には、自然女の権勢強く、多夫を持つは免れざるところで(『北条五代記』の八丈島へ板部岡江雪が行きし記見るべし)、新島ではどうか知らぬが、八丈ではたしかに男がおのれの妻が多くの男にあうを悦びし風ありしと聞く。(今も多少あるは、この辺のものサヨリとりに行き、流されて八丈に行くごとに、処女のみか人妻に賓待さるるにて知る。このこと名高きことと見え、十六世紀のスペイン人も記しあり。)
 この風のもっともはなはだしきは、マルコ・ポロの紀行に見えた中アジアの一地方で、元世祖これを禁ぜしより、土地繁盛せず、税を増し納れて、この風の再興を乞えり、とあり。すなわち人の妻が多くの男を迎えて、笠をしるしにかけおく、それにそのあいだ夫入り来たらず、売春して収利多かりしなり。また宝暦ごろの書に、紀州加太にては、娼家に男とまる間は舟の※[楫+戈]《かい》を戸口に立ておく、とあり。これも夫が家内へ入らざりし風より娼家に伝わりしと見ゆ。(410)マラバルのナイル族は、子が生まれたら誰の子やら父の名がさっぱり分からぬを常とす。ここの婦女、また一男と会うあいだは、その男の盾を門にたておき、他男入らぬなり。この族は男の財産は必ず男の姉妹に伝う。姉妹の子を見ることおのれの子のごとく、おのれの子と知れてもおのれの子をば一向顧みぬなり。ここの母毎々交会、男の上に騎《の》る。これは権勢強き表識ならん。
 ついでに言う。「燕石考」、貝子を東洋で懐妊安産の符とし、また西洋で利尿剤とする、またヴィナスの印相とするを説くには、必ず女陰に似たことをいわざるべからず。
 西洋のことはラテン文で俗に分からぬようかき得るも、日本でこの介《カい》、女陰に似たこと誰も知る通りだが、古く明文なし。ようやく忠臣蔵の何とかいう戯曲に、大尽(浅野の弟)大散財するとき、幇間と尻取り文句で遊ぶところに、「仏ももとは凡夫なり」と一人唱うと、他一人がそれを受けて、「凡夫|形《なり》したる子安貝」。凡夫はボボの意味なり。これらは小生等が見ると少しも不浄の念が起こらず。そのころ、そんな幼稚なことを言って楽しんだと優《やさ》しく覚える。アラビアの古諺に、「きたなき心のものに清き眼なし」。また「根性の汚なき奴には何ごともきたなく見える」。『維摩経』に、水を、人は水、天は琉璃、餓鬼は火と見る、とある。あまり不浄不浄という人の根性が反って大不浄と思う。とにかく、かかかることすら筆するを得ずとありては、せっかく「燕石考」を書いても肝心のところが骨抜けとなり、書き甲斐がなからん。
 貴君は、ただ人の書いたものを読者に紹介することばかりの任務でない、といわる。しからば、小生また人の読まぬつもりで書きたるにあらざれば(ことに火斉珠の再度の文にあるごとく、冬風強きに非常に奔走して、夜中眼のわるきを押してしばしば書きたるものなれば)、もし『郷土研究』へ出すに足らず、また出す見込みなきものは尋常の反古とさるるも遺憾なれば、それだけまとめて拙方へ返されたきことなり。もっともいずれの雑誌も一々投書を還すわけに行かぬは十分知悉するながら、小生のは最初何たる制限なく(すでにこのほども望まるる通り)、多くは雑誌(411)中に載せた他人の文に追加し、また批評的に書いたものなれば、その尽力は他人が思い付き次第に書いたものと同視さるべきにあらず。小生近ごろ記臆がわるく、筆力また駛《はや》からず、一度書いたものは他人に用なくとも手前に保存して、後日の用に供したきなり。再度調べ出すことは、眼惡きゆえ、すこぶる煩わし。
 前に申すごとく、小生は封建ごろの欧州の制度(田舎をも含む)を多少調べたことあり。今も控えを見れば分かる。また、その方の書籍も少々持ちおる。しかしながら、本邦の地方制度の論はどんなものを書いてよきか分からず、故に何とぞ貴下また誰でもよし、真に郷土制度の研究に篤志にして心得ある人が、ちょっとした柿がよくできるの材木が出るのという半日紀行のごときものでなく、真摯なる制度論を二、三回出して示されたきことなり。しからば、その程度に小生も制度に関することどもを書いて見るべく候。貴下の巫女、毛坊主など半風俗、半制度のことが論文として出ると並んで、小生の一本ダタラや筑摩鋼、風俗・俚談的論文を出さんには、到底風俗、俚話に偏重の弊は除き去り得がたかるべし。時々、タナとか五人組とか、制度といえば制度らしき質問は見受くるが、多くは名唱を論ずるに止まり、何たる制度純粋の論を見しことなし。
 地方経済また然りで、改善せりというは、体裁上の改善か実際の改善か、結果良好とは、役人の勝手が好くなったのか、人民が真に安楽になったのか、分からぬこと多し。という評判じゃぐらいのことでは、真の研究にあらず。一地方一地方のことは、なかなか一月、二月逗留したものには分からず。某博士に五十円包んで半日農学の講義を聴いたといえば、その地に農学盛んなるごとく心得、一村に鯉子三疋配れば魚族改良したと吹聴するが今日の通態なれば、地方経済の論などは容易のことにあらず。模範村と公示される村へ往つて見て、涙のこぼれるような悴状多きは誰も知るところで、前日も申し上げしごとく、わずか二十四町の田を作り上ぐるに四万円ばかり費やし、成ったところで年々十数万円の水産業を荒廃せしむるようのこと多ければ、よほど眼を広く活かして実地を洞視し廻った上ならでは、地方経済の論はなかなか立たぬことならん。(神社合祀の結果良好なりという報告のみで、成蹟不良というのは一つも(412)ない。その結果といい、良好というは、官吏が目的通り仕事をして月給を受け取つたという唐名なり。)とにかく、郷土経済と制度の研究を主とする雑誌へ伝説や風俗のことを書くは、『古文真宝』へ『梅暦』を添えるようなものなれば、小生は論文から経済制度のものを多くつづけ、質問また材料報告にもその方のものを多く出されんことを望む。もしその方の寄書少なきゆえ止むを得ずとならば、その方の研究を望む者少なきにて、ちょうど欧州に反し、今の日本で飛行機の雑誌やアッシリア学の雑誌を出しても売れぬと同例ならん。小生旧知に滝本誠一なる人あり、一向久しく行方聞かざりしが、上総とかに僑居し、おびただしく経済に関する零冊瑣巻を蒐めたるが、今度福田氏等の世話で、立派な文庫となりたりと聞く。地方経済など調ぶるなら、その文庫にでも就いて調べたら、また一段の論文も多く出で来ることと存じ候。
 このごろ笑話の本で見し(何でも慶長ごろのもの、名記せず)、大名、美童を愛したるに、奥方大いにこれを妬み、長刀とか持って美童を追いしときの詞に、「今よりお飯匙《だいかい》を渡そうぞ」とありしよう記臆す。その書は座右に積んだ中にあるが、眼が悪くてちょっと分からぬ。またむかし、大阪辺でいざり勝五とか、小栗判官乞食の妻と共に養生し、少快して出立するとき、村の者どもいろいろのものをおくり、言葉をつらねる、その内に、ままたきお鍋、大なる飯匕《しやくし》を肩にし来たり、さて、その次の……は、ままたきおなべが申しましょとて、飯たく法かなにかいうところあり候。(小生は芝居を一生見しことなきも、看板で見、また兄なる者至って芝居好きで、毎度見て帰りまねをせし。)これらをもって考うるに、鏡は上流の女の印相 emblem また護符 fetisch, 杓子(飯匕)は下流の女または台所の印相また護符なりしと存じ候。今も当地の闘鶏社へ当地の芸妓等まいるに、首魁たる女将、緋の袴で、大なる杓子を笏にし持ち行列の前に立ち、社前でこれをとり直して拝し帰るなり。蒙昧の世に天狗の飯匙《めしかい》というものを作る(scraper すなわち皮コソゲなり。獣皮を衣とするに欠くべからざるもの)。小生も和歌山に内外産多く持てり(『雲根志』に図あり)。これについても必ず多少の伝説あることと思う。去年、デンマークの何とかいう博士、『雷器神話』とかいうもの著わ(413)し、英訳もでき、大いに行わるる由、小生はいまだ見ず。とにかく、杓子の研究は天狗の飯匙に付いての俚話等より始むべきかと存じ候。
 「紀州俗伝」は、なかなかちょっと尽きぬほど書き集めあり。これは御不用なら石橋氏の方へ廻したきにつき、ひとまず御返し下されたく候。
 小生二十歳ばかりのとき(只今四十八)、鈴木券太郎氏(只今大阪辺で中学校長)、メーン・クラブというものを立てられ候も、直《じき》につぶれたり。その時何か出したもの筆記等あらば、大いに郷土制度・経済の学論を建つるに都合よきことと存じ候。小生には何のことか分からず、のちメーンの伝を読んで初めて閭里制度の学を起こした人と知り申し候。
 この辺にはないが、東国にはむかしから馬を始めいろいろの市多く行なわるる由、この市の制度などはまず研究に着手されたく候。
 御存知通り、当国の海部郡は、小生等十三、四のときまで海で隔離されたる四部分より成りし。(1)、(3)は名草郡に合して海草郡となり、(4)は日高郡に合せられ、(2)は和歌山市となれり。このことすら今の役人は知らず、近日知りしとて大発見のように報知しおる。さて、以前和歌山領と田辺領は岩代(日高郡)の一部にて区画され、田辺領と地続きにて、和歌山領とはおびただしく海を隔てたる瀬戸、鉛山、鴨居、この三大字(西牟婁郡の内)のみ、また和歌山領に候。これは見通し〔三字傍点〕というて、岩代の堺分線よりまっすぐに線を引き、その線より内を和歌山、外を田辺領としたものの由。思うに、むかし王朝のころ、道路不便多きより、この(414)見通し同似の法をもつて海を隔てたる四部分を海部一郡とせしことと存じ候。備前の児島郡が、備中に續き、備前と何の關係なきに備前に屬せしも、かかることと存じ候。欧州などにもかかること多かりしことと存じ候。今その例を覺え出ださず。
 十五日朝六時半記しおわる。
  小生那智にありし日、借家の持地へ植物とりに行くに、宿主、鍬かたげ從い來る。持主が誰何すると芋掘りに來たと言えばそれですむ。山の芋ほるといわば誰の地面に入るもかまわぬなり。何の理由か分からず。しかるに、このごろ拙宅の小児ら、門辺で庚申さんという遊びをなすを見るに、「山の山の庚申さん、お鍬かたげて芋ほりに」という。むかしは庚申を祭ること盛んにて、庚申に山の芋をそなえるというと、他人の地に入るもかまわなんだことと存じ候。
 
          141
 
 大正三年五月十六日早朝〔葉書〕
 昨日の状に申し上げのこせしゆえ申し上ぐるは、五月号『郷土研究』一九一頁「雜誌の批評」に、本誌は地理や農業經済の話まで出しおるに、いずれの雜誌にも『郷土研究』の記事はいつでも考古・風俗の部に必ず編入されおると、その不都合を責めおる。「このこと、まことに無分別なこと」である、とある。小生をもつて見れば、「これぞまことに分別善き撰択」と言わねばならぬ。すなわち『郷土研究』に從來出されし諸文中に、考古・風俗に關するもののみ著しく目立つて面白く、地理や田舍經済に係わる諸篇に一としてこれぞと思わるる名篇なきなり。すでに昨日の『日本及日本人』にも、柳田國男は、云々、「『郷土研究』という雜誌を出し、古代風俗に精通す」とある。すでに一卷一二号の七六八(末頁)、二卷一号以下掲載すべき論文の予告にも、貴下の海岸の研究一つのほか、十四はことごとく民俗(415)に関することのみなり。すなわち吾輩すら『郷土研究』は経済・制度・風俗の三を研究するものということは全く忘失しおり、一に風俗・伝説の專門雜誌と思いおりたるなり。故に、發行の趣意を徹底せしめんとならば、以後は予告までもなるべく經済・制度の論文を主として出さるべし。鮓荅の話などは、実に『郷土研究』に縁遠き題号と存じ候。
 よく日本人が間違う例を見るから申し上ぐ。地方の地理は topography(トボグラフィー)で、一國一州一大陸、すべての地理 geography と別物に候。
 
          142
 
 大正三年五月十六日午後四時
   柳田國男樣
                     南方熊楠拜
 
 『甲子夜話』はなるべく早く御貸し下されたく候。前日来拜借の分とかわり、『夜話』はちょつと見たらすむゆえ、到着より十日ばかりうちに、必ず御返し申し上ぐべく候なり。郷土制度等にもつとも必要なる書籍、小生控え置き候分、左に申し上げ候。小生持たぬもの多く、また未見のものもあり。ただし大必要なること疑いなき物のみ。
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 小生は巻一しか抄せず,この書貴下ごとき人に大必要かつすこぶる便利簡約なり。
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  野蛮人、未開人、また半開人と謂わるる輩の村制等は、このスペンセルの『記載社会学』で見るが一番分かりやすく候。慶応義塾に全部あり、と鎌田氏に聞けり。スペンセル十一冊ばかり出板して四万円ほど損し中絶したが、(420)死際にまた遺言して金をのこし、死後三冊とかできたり、と聞く。小生は八冊しか見ず。
 要するに、風俗学とかわり、制度経済の学にはしっかとしたる大著述すこぶる多し。しかるに、今日まで本邦の制度について何たる大著書あるを聞かず。またいわんや、外国と比較研究ごときは少しも聞かず。『郷土研究』に出るものに、外国の書名一つだに引きたるものあるを見ぬは、この学は一向口と望みばかりで、実際修めおる人はなきことと存じ候。
 前書申し上げたる中世欧州の attorney は、初め半俗の僧官にて、それが寺領をあずかり押領し、後ついに大名となりたるにて、その跡すこぶるわが大和の筒井氏に似おり候。これは大名に関することだが、村閭の風俗制度に関しても、わが国に似たることすこぶる多し。農を事とするゆえ、欧州も日本も無縁ながら同様の制度できしと存じ候。それが遊牧また剽掠のみを事とするアラビア人などとなると、全く別物に相成り候。その代り、またアラビア人と全く無縁で、人種が日本人と近き北米インジアンなどの制度が、はなはだしくアラビア人に似おり候。
 『傀儡子記』に、水草を追うとか穹廬《きゆうろ》におるとかあるを、『漢書』の匈奴の記文より何の実事なきに虚文をぬすみ作れり、という人あり。その人は、本邦そのころ(のみか徳川氏の中世また維新後までも)、本邦東部・北部におびただしく広野未墾の地あるを気付かぬなり。那須野、青野原、武蔵野は申すに及ばず、水草を追うて馬牛と群をなしてちょうど恰当なる地はすこぶる多かりしことで、そのころ農桑をつとめしものなどは、この輩より見れば大馬鹿なりしなり。
 シュクモノが織具のオサを作る。このオサはつり合いをとることすこぶるむつかしく、尋常の人にできぬものの由。このオサのつりあいをとること上手なるより、自然のつりあい(あやつり)人形を作り、劇曲を演ずることとなりたるならん。このこと、貴下の文に明示なかりしと思う。田辺近き小泉という所にシュクあり。綿打ちを業として富めり。これらも梓巫を業とせしより、自然に弓をうつこと上手なるによるかと存ぜられ候。されば賤業のものの兼職は(421)必ずその故あることにて、まるで縁なき芸を兼ぬることはまずなきこと存じ候。
 鄙猥な文ありて出しにくきものは、全部御返還下されたく候。小生は一つの雑誌に出せしものをなるべく他の雑誌に出さぬ定めゆえ、まるで没書にされると、没書にされたと分からぬうちは、永々そのことを他の雑誌へ書くことならず、返還にさえならば採用なきことと分かるゆえ、直ちに翻訳して外国でなりと出し得申し候。小生在英のころ、小学校で多くは生物学を教課とせず。これは生物学を教えると、進化論、それには雌雄交合のこともっとも多く教えざるべからず。小児にツガワスとか、間種を作るとか、愉快を感ずるとかいうことを聞かすも不都合なり、との教義一遍の議論による。しかるに、今日はおいおいそれではドイツ等他国に知識が後れるとて、進化論を説き、また交合のことを説き聞かせるも、小児これになれて一向何とも思わぬ由なり。雌雄交合のことを教えずには、農桑の改良も牛畜の改善もまるで成らぬなり。これと等しく、『郷土研究』などに、男女間のことを仏律よりも引きたりとて、小生等は反ってこれを荘厳なことと思う。しかるに、これをすら鄙猥云々というは、その人よほど鄙猥ずきの人ならざるべからず。『聖書』には淫精を盛りて神使が立つなどいう語さえ多し。
 わが国はまことに耳食の徒多し。『アラビヤン・ナイツ』を「この無邪気第一の小説」云々と広言せし新聞あり。『アラビヤン・ナイツ』は、『旧約全書』、ラブレーの著と並んで、天下唯三の大猥雑書と、訳者がみずから言いしほどのものなり。英国の学士会員の若き輩集まりて性慾のことを論ずるところへ、小生行き合わせしに、南方は二脚あるエンサイクロペジアなりとて、一人問いしは、東西の書典に従来見ざる淫法一つだにありや、とのことなり。小生いわく、女子が?師父《はりかた》をもって男子の後方を犯すことなしと言いしに、いかにもそれどころでない、女子が男子に男色を口説くことすらあるはずなし、まことに東洋の聖人にわれら一籌を輸せり、と笑われし。しかるに小生、バートン全訳の『アラビヤン・ナイツ』(私刊して大議論となりしとき、バートン右の『旧約全書』云々の名言を吐けり)を通覧せしに、久しく別れおった情女が一地方の王となり、そこへ情夫が流浪し来たれるを弄ばんとて、男装してその情夫(422)に鶏姦を逼《せま》ることあり。まことに天下あらざるところなしと謝肇制の言を思い出でて感心せり。
 盗跖《とうせき》は糖《あめ》を見て鍵をはずさんと思い、曽参は老父を養わんと思う。吾輩、多年日本の女の髪容をしらぶるに、春画によるの外なし。春画は真に逼るぐらいではまだまだ効なく、真以上に優致あるを要す。故に春画という春画、他の部分はともかく、髪師には非常の写生力を用いあるなり。髪容を春画につきてしらぶるに、今日類別の見当すらつかぬもの多し。それを手近く春画を見るという名に拘してこれを忌み、したがって何の精査もせず。わずかにこれを京伝や信節がわずかに百部ばかりの埒もなき零冊古本に記された名目のみを沿襲して、実際その図を見ぬゆえ、まずは万国に無類の日本の髪容の研究ということ少しもなし。万事この通りで、男女間のことを仏律より引きたるをかれこれいう人などは、この男女間のことを記悉せる仏律(仏律中、盗、潜等のことは少なく、男女間の犯戒巨多なるは御存知通り)は、玄奘、義浄が十七、八年難行苦行して往き写し、苦学して訳出せるものなることを、一向気付かぬと見えたり。上述、小学における雌雄交合のことと等しく、丁年以上のものに男女間のことを学事上に引きて読ますとも、何の誘惑あるべき。
 物茂卿の語に、僧は外を慎みかざるゆえ内心淫念断えずといい、バックルまた女と僧ほど根性きたなきものなし、これ外を慎めばなり、と言えり。中古の欧人魔に魅せらるるをおそれて膚を露わさぬを盛徳と心得、尊者の伝、女聖の伝には、必ず幾年沐浴せずということを書きあり。しかして、その輩の伝中、また絶えず魔が来たりて男女に化し魅?せんとせしを、あるいは陰部にやき鉄をあて、あるいは氷塊をのせて忍び、永年の後ついに魔来たらざりしことを載することすこぶる多し。見るなといわるるものは見たきと同じ。セネカはローマの大賢なりしが、その言に、わが語は猥なり、わが行は正し、といえり。人間の家内は、いつも笑声絶えぬほどでなければ病人鬱生す。世間も左様で大体の品行論ぐらい心得た上は、大抵のことは言うて笑うもかまわぬこと、また大いに養気の術に叶うことと思う。妓家の男女は反って品行正しく、その主人は女に関する邪念など少なきものなり。果子屋の小僧が沙糖を盗まぬに同(423)じ。それを戦々兢々として、おのれに何の修養も充実もせぬに、かれこれ猥褻の何のというのは偽善の極なり。
 烏帽子の前額にこんな所あり。ヒナサキは吉舌(唐朝の俗語なるべし)clitoris, ヒレは小陰唇(ハタヒレという)、ヒタイは陰山、またヨモコウシは小陰唇か。当地近傍の小村に、老人の仲仕男、この名所をことごとく心得たる者あり。小生、田本仁七(楠本松蔵)を遣わし、新羅三郎に笙を伝わりたる人のごとく、毎々伝授を乞わしむるも、その人貧はなはだしく、常に外出して会わず。(明阿の『逸著聞集』にはちょっと四つだけ出でおる。)この烏帽子の前額の名所は全く女陰に象《かたど》れること疑いなし。かかることをも猥褻なりとて隠して言わぬときは、せっかくの研究が何の役に立たぬのみか、大いに後日の継述を阻碍するはずとなる。
 庄内の老人に聞きしは、維新ごろまで、そこでは道祖神の祭りに大なる陽形を作り、その地第一流の大家の若き女房、衆人の見る前でそのさきを吸うまねす、これを望んで各家競走せり。これを見るものも、するものも、一向邪念起こらざりしとのことなり。むかしの人がかかることせしは、おどけにせしにあらず、また、し得ることにもあらず。かかることを聞きて笑わぬほどの素養を、せめては学者といわるる輩に与えおきたきことなり。この素養なきときは、あれも野蛮これも未開で、今後いずれの地いずれの民族に入るも、十分に風俗制度の奥所を研究することは成るまじ。要するに、奇醜のことを奇醜と笑うて、座《ざ》なりに人前をつくろう風よりは、奇醜のことを奇醜とせぬ風を作りたきことなり。洋人が買物するあとからつけ廻り、寝た所をのぞきに行くなど、不礼千万なこと多きは、みなこの心がけなきに出ず。「燕石考」ごときは、いわゆる鄙猥なことを抜きにすると、何のことやら分からぬものとなる。
 近く英国で美なる奇鳥(風鳥等)絶滅に近づくを禁止せんとする運動盛んなり。しかるに、その発起人が美鳥羽もて頭を装える女をほめ顧みる。まこと絶滅を禦がんとする信切《しんせつ》あらば、鳥羽もて装《かざ》れる女を一切醜女と見る修養必要なり、と公言せる女あり。猥事多き郷土のことを研究せんとするものが、口先で鄙猥鄙猥とそしるようでは、何の研(424)究が成るべき。自心で同情なき物を、いかにしても研究どころか観察も成らぬものなり。
 
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 大正三年五月十九日夕六時より書き始む。
   柳田国男様
                    南方熊楠拝
 十七日付御状、今早朝着。一見の後、例の菌類を解剖し、只今六時ようやく御返事を認め得。例の通り眼悪く一眼で書くゆえ、渋筆御察読を乞う。
 ベーリング・グルドの書に、姦婦強弁をほとんど特種の美術とまで嵩進せしめたる者あり。一日、その夫、彼女に、汝は不誠実なりし、姦通を行なえり、といいしに、われは夫と婚縁を絶たず、故に不誠実ならず、婚姻するときの誓約にこの縁いかなることあるも破り得ずと言えり、故に姦通したりとて、いかなることあるも、破り得ぬものは破れた気遣いなし、然るときは不精誠にあらず、という。次に僧の前で、おのれの罪の懺悔した跡で、また汝は不貞実なりしと言うに、不貞実なりし覚えなし、懺法は一切の罪を滅すというにあらずや、すでに懺過して滅んだ罪があとへ残るはずなし、と答う。次に、汝は姦罪 adultery を行ないしというに、われは adultery を行ないしことなしとて『聖書』に用いたる語例を引き adultery を idolalry の義にわざと取り做《な》してこれを弁却せり、とあり。貴下の弁、小生の弁、共にこの類で、尽くる期あるべからず。しかし、せっかくの御状ゆえ、小生は小生の位置より再度弁じ申し上げ候。
 小生は「何なりとも思い寄りもあれば腹蔵なく申し上げよ」とのことなりしゆえ、思い寄りを申し上げたるのみ。洋諺に、「人を怒らさんと欲せば忠言を加えよ」といえり。こちらより望まぬに人より加え来たる忠言は、小生みずからも大いにこれを好まぬ。ただし、貴君みずから望まれたるゆえ申し上げたるまでなり。『郷土研究』は、別に小生(425)の仕事に大した利害あるにあらず。ただ南方は民俗の方をしらべあるという広告になるまでなり。その広告が間に合い、何か利益になりしこととては、眼に見えるほどかつてあらず。反って郵券三銭封入でいろいろ瑣事を問い合わせに諸処より来状が着き、多少迷惑を受けたことがあるぐらいなり。『郷土研究』の趣意に土のこと一切とあるは小生も知る。しかるときは、地理も生物も鉱物も地質も気候も風景も、その他こんなことみな土のことなり。(実際、本家のドイツ Länderkunde の雑誌には、故蹟より風景、風景を伴う flora 植物団、はなはだしきは微幺《びよう》なる浮遊生物《プランクトン》まで論じ及んだのがある。)
 しかして、六号までは Volks=Heimatkunde と裏表紙に題しあるをもって、小生は民俗と閭里の起原、現状等の雑誌とようやく分かりしほどにて、貴下『郷土研究』出す前の御状には、民俗のことをかき、御思召次第の雑誌と致すべく、云々、とありし(制度、経済等の字はなかりし)。また、高木君も小生に民俗の綱領を問われしことあるも、郷土学ということは問われざりし。民俗学ということすでに漠然たるに、郷土学というはいよいよ漠然たることにて、小生に問われたならむろん知らずとか力及ばずとか答うべきで、民俗の綱領を問われしゆえ、前日貴方へ上げたと同様の分類を差し上げ置きたり。すでに一巻の終りに出されたる二巻の予告中にも、貴下の「海岸沿革考」の外には、漁民の信仰生活とか、鮓荅とか風俗、習慣、伝説のことのみなり。たとい貴状にある通り、思い当たったまま書されしとするも、十五、六も民俗のことばかりの考で、一つだけ制度の方とありては、制度経済の学のためにまことに心細き次第といわざるを得ず。制度経済の方に出すもの少なく、またほとんどなきゆえ、坐して出で来るをまつのみといわば、いよいよ心細き次第にて、学問せんとて博奕場に通夜するごとく、いくら俟ってもちょっとやすっとで出で来るべからず。故に、小生は発頭人たる貴下が隔号にでも制度経済に関することを出されんことを望みたるなり。
 また貴書の趣きにては、小生の書く民俗学上の応間、小篇、随筆等は、制度経済の方の論文出すうちの場埋めの木の葉のようにて、すこぶる面白からず。故に、さしたる見込みのなきものは、一《ひと》まとめにして御返却下されたし。小(426)生、何とかまとめて石橋氏の『民俗』へでも出すか、また後日の備忘に取って置くべし。
 ついでに申す。人は見懸けによらぬものということあり。小生、諸邦を廻り芸人などの間に食客したせいか、舞など執心する男女は多分薄志弱行の者で、これは朝から晩まで浮いたことばかり考え、眼づかいなどに心を入れ、ちょっと事ありても身振りをするほどの嗜みでなければ舞は上達せぬゆえ、舞が名人なればなるほど男女とも浮気なものと信じおりたり。しかるに、日本へ帰りて知人になった人の妻に、艶容人を蕩かし、舞がなかなかの名人なるに、婦女の模範ともいうべきほど貞節固く、かつ辞令に富んだ上に、所帯持つて実に行き届ける上、胆略充盈、恭敬自持、実に申し分なき婦人あるにあえり。世間では、舞の名人のみと心得おるに、内実はかくのごとし。小生は何の薫習か知らぬが、書くことが多くつまらぬことが入るから、民俗学ぐらいが頂上と思わるるか知らぬが、大英博物館で争闘して逐い出さるるまでは、社会学すなわち主として制度の学を志し、手扣《てびか》えたもの今もすこぶる多し。ただし、件《くだん》の博物館出てからは、美術館の技手となり、浮世絵などの解説を受け合いおったから、自然民俗学の方に深くなり、今もその方の雑誌、出板物は絶えず取るが、制度の方は、明治三十年以来、新材料供給の道が絶えたるゆえ、今時の事の委細は知るの便りがない。しかし、和歌山に置いた扣え(大部のもの)を取り寄せたら、制度経済がかったことばかりで、また「南方随筆」や「紀州俗伝」ぐらいのものもでき、かつこの方は欧州、米国に大著述が多いから、古くとも明治三十年までの分を買ったのも大分あるから、それを何とか述べて行くと、制度の方でもちょっと尽きぬほどの材料は持ちおり候。
 たとえばえたの制、これは本邦ばかりではいろいろ臆説あるのみで、何説が中《あた》れりや分からぬ。しかるに小生十九歳ごろまでのカンボジアの制度・風習を調べたに、異部落が争戦して捕虜になり、死すべき所に死ななんだものはみなえたにする、えたの祖先はみなかくのごとしということが分かった。日本とカンボジアとあまり関係ないが、とにかく日本でも俗に俘囚をえたにしたりという。その風は日本では久しき以前に止んだが、カンボジアでは仏領になる(427)少し前まで実際行われおった。
 また隠居のこと、これは『人類学雑誌』へ載せた通り、支那書にあまりその制は見えぬようだが、「陸賈伝」などに見える。それと同様のことがインド北西部、またノルウェーにあり。それから前には欧州北部に多くあったらしい。それから、むかしの学者が陶淵明ほど貧でも(日本にも似たのが多くある)、今の人よりは学問がよくできた。これは今の人の出精が足らぬのでない。奴隷(名は何でもよしとして)というものがあった。すなわち主人が貧でも、奴隷が富んでも、主人は奴隷を使って閑居静坐して、学問ぐらいはできたからだ。また、へんな話だが、山若衆というものがあったと聞く。山かせぎするもの相手の變童なり。軍陣と同じく、一生懸命の仕事に出かけるには、出産、月水等のさわりなく、この方が便利だったらしい。この類のこともしらべたことがある。日本へ帰って、この穿鑿をしようにも、右申すごとく新書籍雑誌の便がないから中止しおるが、学理は二十年や三十年の間にまるでかわるものにあらざれば、帰朝前にしらべたことは今も間に合うこと多し。
 小生、「紀州俗伝」などは、民俗とはどんなことを研究するものということを知らせんため、いろいろ異類別区のものをとりまぜて出しおるが、実は貴状のごとくならば、これは郷土研究の発展にさしたる益なく、いわゆる慵を作りしもので、まことに徒労なり。「今昔物語の研究」、また高木氏しきりに望まれたから書いたばかり、『郷土研究』にも合わず、風俗学にもまことに関係薄きものなり。故に、これらは今後は書かぬことと致し、別に民俗学の雑誌出るに及び、また出すこととするか、まとめて別刊すべし。民俗、伝説のことならずとも、右申すごとく、外国諸邦の制度に関する書どもの抄記は、民俗、伝説の抄記と同じほど、もしくは一層多くあるから、改めて以後はとても毎号とは往かぬが、制度に関する論を出すべし。当地の「万代記」を抄して外国のことと対照しても、ずいぶん永い制度経済の論文はできるはずなり。また、政府の忌諱にふれぬ程度に地方経済等を論ずる方法はいくらもあるべし。今の地方報告は仮偽、また全くの無実のこと多きは、前答申し上げし通りなるも、たとえば虚言と虚言をよく比較しても、(423)大体の見識は立つを得べし。柿八百本増殖した、利益多し、というような書き様では書かぬ方ましだが、八百本植えて何年のうちに従来何円の上り高なりしものが何円の上り高になれり、という風の虚報だったら、真の儲け金高は分からぬが、大抵儲けの率が分かる。
 貴下、また対世間の判断は俗吏の方が上手とあれど、小生のかなしむところ、今日の俗吏に真の俗吏あらば結構なれど、真の俗吏は金の草鞋で見るとも見当たらず、すなわち真俗いずれとも分からぬ、読書の応用をその場で俗事に当てんとするような人物のみなり。当県のある役人(もと小生と予備門で同級なりしゆえに、四十八、九の人なり、決して経験に薄しといわるべき年にあらず)、先日熊野と十津川境いの萩という大字で視察し、日本に米国同様地価率の高い土地がある、何ぞ景気の不振を憂えんというような報告ありし。この萩という地は、つまらぬ川原なれど、十津川より新宮へ下る筏がここで一休みす、故に冬期は田辺からでも売淫女の四十人も行き、萩で生まれて萩で死ぬものなしというほど急劇の地で、田辺近傍神子浜という地より、百姓のひまに、氷豆腐、干瓢、(近ごろは)カンヅメ、その他雑貨商に急化する百姓がおびただしく出かけ、もうけ高で菌類等いろいろ山産物を買い、田辺へ帰り売るなり。故に、かの地に神子浜の者多く、父老ゆれば浜に退き、子がまた行きて店を管す(小生妻の縁戚のもの、その地に一番古く営業す)。そんなことゆえ、小さき家並み食物と雑貨の店のみで、無職の家は医師一、二軒のみなり。右の理由で、地価が至って高くなったので、実際米国ごとくその地その物に真の価格あるにあらず。そは夏日萩に行けばすぐ分かる。すなわち筏少なく、売淫女は退散したときたら、真の伏拝み(和泉式部が月の障り云々の歌読みし)王朝のころと異《かわ》りしこと別になし。(ただし、例の合祀で一面の沙原となり、樹林も何もなき不毛の禿地と化しおわれり。)しかるを、冬中一、二日その当景を目撃して、たちまち米国と同様繁盛の見込みある地などいうは、大学を出でた疲れた脳で空拳乱堕して物を見るものなり。
 また夢下の状に、前日、小生当田辺湾に谷海多きを申し上げたるを読んで、たちまち古来人間競生の劇《はげ》しきを想わ(429)る、とあり。このこと小生に何とも分からず、去年ノルウェー人が、谷海(fjord.ただし、ノルウェーの谷海は規模はなはだ大なるもので、当国の瀬戸内海ほどの幅が谷海になり、数百連なりあるは御承知通り)の研究の大著述出せしを、見しことはないが、その梗概を雑誌で読みしに、谷海に人間競争のはなはだしき跡あるを見ず。数百丈の岩壁が切り下って拆開されて、うかうか歩めば阿鼻へ落つるような谷海も多く、また高山と高山との間の谷海も多ければ、ずいぶん危険なもので、谷海へ上の山から釣を垂るることもならず、何の益もなきもの多しと思う。田辺湾辺のは、そんなはなはだしきものにあらざるも、海が細長く丘陵と丘陵との間に入り来たれるものゆえ、丘陵の横側に道を作るも、ややもすれば海へなだれ落ち、通路しばしば絶えて非常に不便なり。船を借るにあらざれば何ごともならず。そこへ例の中流から土砂が流出するゆえ、谷海の口が浅くなり、おいおい埋もれ行くはよいが、泥土ゆえ何にもならず、葦原などとなり、全く無用なり。この辺で谷鰹(タニカツオ)またメジカというもの(鰹の一種)これに入り来るを漁し、わずかの牡蠣《かき》を取り、冬中|跣《はだし》で売り歩き、口の所に真珠を植えたが、今に成蹟分からず。今さえかくのごとくなれば、古えは人生競争どころか、落人か乞食ならでは住むを好まぬ所たりしこと疑いなく、今も一谷に二家、一谷に二十家、十七家という様子なり。小生の申し上げ様|悉《つく》さざりしか知らぬが、今の世にかかる所ありと聞いて、その真況を察了し得るような真の俗吏は、赤真珠よりも少なし。人おのおの思わくあり所志あれば、いやしくも人意を迎うべきにあらず。小生また、ただ貴問に応じ腹蔵なく郷土研究のために所思を述べたるまでにて、貴下を屈服させんなど思いてせしことにあらず。
 しかし、「あとさんいくつ」の唄、馬が人になった咄、杓子の崇拝、国文学の杉、『今昔物語』考源、これらは到底郷土学と並立して一雑誌に載すべきものにあらざれば、小生は貴下が一人の編輯者となられしを機会とし、この上みずからもまた人にも、なるべく多く制度経済に関する論文を出され、土伝、習慣等に至っても、主として制度経済に関係|渥《あつ》きものを出されんことを望むなり。土地土地の制度経済を一々箇々に縷述しおりては、一小字十戸の僻地にも、(430)新平村にも、やはりそれぞれ縷述して尽きぬほどの事歴はあり。これは何の用もなかるべし。
 しからばどうしてよいかというと、民俗・伝説の学に何たる統合帰納せる総論はなはだ乏しきに比して(英語ではフレザーの『金椏篇』、ハートランドの『ペルセウス篇』の外にまずなし)、制度経済の方にはおびただしくその著(論)あること前便に申し上げしごとくなれば、何とぞ最近刊のもの五、六でも求め、本邦の事実に対して外国の例を示し、同を同、異を異として、同はこれを大体の論に併せて述べ、異はこれを新たに本邦より新事例、新原則を見出だせしものとして訓導するところあらば、けだしまじめな人は、民俗学などの材料雑多の珍談にして何の実《み》がのこらぬよりも、ありがたく思うべし。
 徳川氏の中葉までは、女の手跡に遊女の筆を学べといいしこと、箕山の『大鑑』に出でたり。和歌浦妹背山の塔に蔵せし吉野が写せる『法花経』など、ことのほかの名蹟なりし由。アゼンス、インドなどまたこの例で、遊女にのみ学問多かりし。アスパシャごときは、ソクラテスも感服し、ペリクレス下にしかれたり。されど、遊女の手蹟を手本にするは、止むを得ぬことで、これ取りも直さずそのころの女子の教育、その法立たざりしなり。面白ければとて『郷土研究』に民俗、俚譚のこと多く入るるはこの類で、遊女の手蹟学ぶ女は識らず知らず淫奔のことを聞き知るごとく、民俗、俚譚多くては、自然に経済や制度を忽諸《ゆるがせ》にすべし。
  ここで思い出したゆえ申し上げ置く。摩訶羅《まから》というもの?賓〔二字傍点〕国(カシュミール)の仏法を訳せし仏経に多し、無知と訳す。もっぱら毛坊主のことを指せし語と見え候。『阿育王伝』などに多し。摩訶羅二人、子生まれしとき約婚する等のことあり。毛坊主にて婚しながら宗務をつとめし庵僧ごときものか。カルフォルニアの田舎などに、文憲不備のあいだは、かかるもの到る処にありしを見る。平日八百屋を営み、人死すれば僧となりて引導渡す等のことをせり。今日もありや知らず。いずれの国にも必要に応じ、また止むを得ずしてかかる僧も生ずるなり。カシュミールがわが国の飛騨同様むかしつまらぬ寒地なりしも同じ。
(431) 小生の手紙は、小生このごろ二日一夜とか二夜一日とか睡らぬこと多く、かつ和歌山の一族中に事を生じ、すこぶる心配致すこと有之《これあり》、ずいぶん心配する。何をするも手につかぬようなことにて、書状でも書けば苦を助かるという考えのなぐりがきゆえ、何と書いたか十分に覚えず。しかし、貴下これを面白く思われ、かつは御用に立つものと御断定ならば、小生今後民俗のことを『郷土研究』へ出さぬいいわけになり、かっは『郷土研究』には直接に制度、慣法、経済に関係ある外は、一汎民俗や俚伝、話説、子守唄は無用なるを証するに功あるべきにつき、いかようにも右状御出し下されて宜しく候。ただし、これを出すに先だち、この状は貴問すなわち『郷土研究』を改善するに入用と思うことは何なりと思《おぼ》し越せとの貴答により認めたることと、右申し候ごとく十分準備して順序を整斉して書いたものに万々|無之《これなき》由を付記下されたく候。
 今月一日の『太陽』に、近重という博士の「学問研究に就いて」とかいう論文あり。知れきったことながら、まことに順序|斉《ととの》い面白く読まれ申し候。それに、本邦人には論理の学の片端だに心得なし、故に事物聞くごとに、これも面白い、これも面白いで、ただただ自分の知らぬことが面白く、理窟に合う合わぬは頓着なし。故に、理窟立たぬことも大いにほめられ、条理立ったことも面白からねば何とも留意せず。かかる国にあっては、研究を進めるの励むのということは望むべからざるなり、という論旨なりし。たとえば、過日の、火斉珠について古谷氏に再答の文なども、実は全然不用のものにて、古谷氏が小生の見解誤れりとて細《くわ》しく論ずる『続漢書』を謝承の著とせるごときは、小生これをかの人の著とせしにあらず、露国の大家ブレットシュナイデル(すなわち大夏はパクトリア、大宛はフェルガナ、安息はアンチオクなどと、今日東京辺の学者が通用し分かりきっておることも、以前は分からず、それを二十余年も研究して明らめ公表せし人)の説なること、小生の最初の答文に出でおり、頁数、書名までも明記したり。(後でしらぶるに、李時珍また『続漢書』を謝承の著とせり。康煕の世に成りし大編慕『古今図書集成』にも然《しか》せしところあるゆえ、小生は康煕朝までありしものと思い、ダグラスに乞い、北京へ注文せしなり。)しかるに、論理の術にも(432)つとも卑陋とする、自分に勝手よき時、先方の言ったことを聞かぬふりする法、もって小生を難ぜられ候。
 さて、きたなき話ながら、当郡で考古学会員たり、また、かの会の雑誌読む者は、いずれも神職連で、年来合祀のことで小生に痛められおるゆえ、何がな報復せんと慮ること止まず。小生、古谷氏の説に再び答えずにすますときは、彼輩諸方馳せめぐり、果たして田舎の蝙蝠なり、都会の青年にすら及ばず、やりこめられて返事出し得なんだなどというなり。一向かまわぬことのようなれど、実際は無知の村民などこれをきき、さて南方は田辺でこそ物は言うが東京辺へ出しては御話にならぬ代物など心得、小生世話にて保留せし森林、勝地など、また無茶苦茶に濫滅さる。田舎にはかかる誤解多く、さりとて貴下の拙状引き出し、答文の出し様では(小生は貴答を再駁するを欲せず。かかることは、人々の意見次第、どうでも言い得ること、この状の初めに引きしベーリング・グルド氏の引いた姦婦の弁術のごとし)、小生は入りもせぬ論をしかけ全く打ち敗られしを憤り投書を息《や》めたことと思わるるに及ばん。しかし、右申すごとく、小生は風俗学ばかりでなく制度のこともしらべたことあるから、投書は全然止めぬつもりなれば(また風俗学上の論文は、図さえ入るれば『太陽』なり何なりへ面白く出し、面白く読まるべき準備はできおれば)、少々のことはかまわず、『郷土研究』は、民俗学の材料報告集覧を主意とせず、制度経済を主として、この学問の趣味を人々におしえこむにある由を、小生のみならず読者一汎に弁明するにははなはだ好都合と思わば、しかるべく御出し下されたく候。しかして、小生はこの上、民俗、俚譚等に関することは出さぬつもりゆえ、さし当たり出しがたきものは、原稿まとめひとまず御返付下されたく候。小生、一家族同士不和のものあり、その調停を兼ねて標品しらべに和歌山へ上りしが、事の諧《ととの》わず、今にごたつきおり、何とも憂慮最中にて、昼は菌類を解剖するが、夜分は心落ち着かず、仕事なきゆえ、かかる長文を認め申し候。『郷土研究』のことのみが一心なるゆえに無之《これなく》候。
 終りに臨み、教科書と新聞広告の違いは、貴下の言わるるごとしと、小生も信ずる由を申し上げ、兼ねて然る上は、地方閭里の経済・制度・習慣に関する俚譚、古唄、葬婚の式、祭弔の行事、云々、とすれば、はなはだ十分にて、一(433)々細目を挙げずとも分かることと存じ候と申し上げ置く。世間のこと、進化、退化、また停滞中にて縦横錯雑したれば、定義条項などあるべきはずなし。しかしながら、哺乳動物の例として兎鼠のみ挙ぐるも足らず、猫虎のみでも足らず、牛馬のみ挙ぐるも足らず、人のみ挙ぐれば一層不満足なり。人、猿、犬、馬、猫、鼠とせば、一番よく哺乳動物を表識し得るごとし。二手のもの、四手のもの、有蹄獣、有爪獣をことごとく挙げたればなり。
 
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 大正三年六月二日午下
   柳田国男様
                    南方熊楠拝
 只今葉書拝見。小生方へ御送り下され候『甲子夜話』は、続篇の首巻までにて、後篇八十巻はなし。また目次索引は別に一冊として刊行す、とあり。この一冊は御送り下され候内になし。むろん小生当用なきものゆえ省いて送られざりしかと思うが、実際小生へ送られず、また貴方にも配達なくんば、全書未完刊の証にて、後篇八十巻は刊行されぬことと存じ候。
 この書は小生従来又聞きに、ただ逸話、瑣聞のみと思いおりたるに、このたび物見するに、叙述の記事、学術上入用のこと多く、文章またはなはだ細《くわ》し(林述斎、書き直し、書き加えしゆえか)。わが朝の随筆などのうちで比類なき詳しきもので、今日西洋名家の随筆にもこれほどのものは乏しく候。小生一人考合したごとく思いおりしことにて、この書に歴然と出でたること多く、ことにわが邦人の考えが西洋人に劣らずありし証拠となること多く、とにかく学術発達史を作るに非常の益あり。(風俗学等の瑣事の上には反って思いしほどの益なし。)外国でたびたび論を出すに、全文を確証せざるべからず。よってなるべく全文を写すこととし、過日郵着より数日経て、右の次第見定めし日より、(434)日夜かかり写し、第一冊二百二十四頁まで写せり。おいおい写すこと上手になるゆえ、正篇のみ三十日もかからば必ず写し取らん。しかる上は、正篇御返し申し上ぐべく、続篇もまた三十五日もかからば写し取るべく候間、何とぞそれだけ御貸し下されたく候。
 小生は、これがため、菌を画くことと、プレパラート作ること、また過日森田義郎氏来たり、八月の『日本及日本人』(増刊号一冊一円の由)へかくこと頼まれし人形の根(マンドラゴラ)、小生先年大論文を英国で出せしを和解して出すことも中止し、また「燕石考」、民俗入門、ヒトツダタラ、その他ことごとく全廃して写しにかかりおるゆえに、予定より早く写しおわるべくと存じ候も、とにかく右様の日限のつもりで御貸し下されたく候。
 ここまでかきおるうち、下女、小生の眼前二間足らずの朽木より粘菌の原形体見出だす。見るにフィサルム・ジロスム Physarum gyrosum とて、従来ブラジルとドイツと東京小石川植物園で(草野俊助博士見出だす)とりしが、いずれも小さく、今度のははなはだ大きい。この原形体は、小生和歌山拙弟方の厠の壁で十二年ばかり前見出だしたものが、無類の大きいもので、半円体状をなしたばかりで半円の径が六寸(曲尺)ありし、天下無双のもので、名を挙げたり。そのとき実地についていろいろ験せしに淡紅色なりLに、欧人はみな淡黄色という。しかるに、今、下女が見出だせしは乳白色なり。それが淡紅色にかわりおるところなり。故に欧人の説も、小生の従来の主張も、やや老いたるものについての観察で、この下女が見出だせし乳白色が正当の色なり。何でもなきことながら、学術上すこぶる考察を要することで、小生多年研究の、異種の生物の原形体を混ずれば間種できるかできぬかという実験に恰好の種なり。しかれども、右の謄写後るるゆえ詮方なく放棄しおわる。
 貫下の『文章世界』(山の神)、また『太陽』(舎利のことあり)、いずれも大いに還送後れおるが、これは小生、山の神の考ありて、実物の写真(川オコゼ)そえ、また当地の人の蔵する山の神物語(かりにかく小生名づく)の屏風全写して返上の節差し上げんと思い、また一論を草せんと思いおるゆえなり。しかるに、その屏風蔵する人、例の紀(435)州根性で、なにか小生これがため数百金でも得るごとく心得、ちょっと屏風を貸さず、ようやくいろいろ計りて近日小生より五円ばかり払い、画工して全写することなり。また舎利のことは、小生年来の論文ありて、前日英国へ出せり。これも走り書きでなぐりがきに考を付し、右の冊共に御返し申し上ぐべく候。このごろは眼大分宜しけれど、何分眼鏡をかくるゆえ、手足まといになり、かれこれ書籍を捜るにはなはだしく時間をつぶす。
 小生、大英博物館で写せしもの、前日|計《かぞ》えしに四万八百枚あり(頁にあらず)。わが邦で見られぬもの多く、またアルメニア、アラビア、ペルシア等の語で、わが邦人が読み得ぬもの多し。このままでは実に無用の長物なり。さりとて出板は思いもよらず。(中にはごくごく専門の人の外、解し得ぬこと多し。)火災の恐れもあれば、そのうちわが邦で普通の学者輩に分かるべきことども和訳して控え置かんと思い、かかりおるが、眼悪くなりてより全廃せり。小生死んだらほんに無用の長物なり。幸いに眼つぶれなんだら、小生老耄後、誰か銭出してくれ、右の写本を全訳して、一本、内閣辺へのこしおくことに世話しくれる人なきか。(小生、欧州で毎々やり合うに、この写本より希覯の書を全文訳出して引くに、驚かざるものなし。それもそのはず、英皇ジョージの秘庫の本、大英博物館に一本しかなきもの等、彼方の人にも容易に見せぬものを多く控え置きたるなり。)
 今年雨多く、菌類はなはだ多く、従来小生考えおりし疑問を解すべき機会はなはだ多し。右申すごとく、『甲子夜話』写すに前後六十五日の日子を貸し下さるなら、二、三事は菌学上考え置いたことを解決することができる。すなわちその生品を下女にとりにやり(下女は阿房ながら勧学院の雀で、すでに去年より四十ばかり新種を見出だし、また粘菌についていろいろのことを観察し、返り報ず)、小生謄写する室より二、三間眼の前におき、小便に立つときどき見れば分かるなり。右六十五日にて宜しきや、一報を乞う。
 貴下は東京におり書籍を主とさるるゆえ、田舎で知れやすきことで分からぬことありと見ゆ。狼を山の神というごとき、当郡の山村ではもっぱら今にいうことなり。また、河童、冬は山に入り山童となるということも、東・西牟婁郡(436)の山村はもちろん、田辺でも古来もっともいうことに候。田舎の下等宿にとまり、いろりの側に臥し、またちょっとした小市なら、銭湯に行き長入りし、雑多の人にあうて話をきくが、かかる話一番多く聞き出す法に候。小生は多年この地におりて、少しも内外へ出ぬ月多し。ただ毎夜必ず銭湯に入り、二、三時間入る(湯屋へはそれだけの心付けをする)。銭湯に入る人々にも、大抵一定の時間に一定の種の人が来る。只今の時候ならば、まず夕刻が子供、次に書生、次に商家の人々、次に職人と農夫、次に車夫、次に按摩、次に妓家の主人、最後に妓丁という風なり。これらの話を毎度くりかえしくりかえし聴きおると、大抵話の真偽、有拠無根が分かる。教育ある輩の話は、書籍で読んだことを加え入れるゆえ、その地のことをきくにたよりになり申さず候。
 ヒトツダタラという怪、毎々|山茶《つばき》の木で作りし槌を使いし。今に熊野で山茶の槌を忌む、化けるという。また誰か(貴公子?)を鶏に化し使う。その鶏、竹林中で(使われぬうち栖むなり)「竹の林でひとり寝《ぬ》る寝《ぬ》る」という唄をうたい、薄命をなげきしという。一体日本には、妖巫《ウイツチ》が人を物に化し使うということ、西洋に比してすこぶる少なし。この咄は西洋と同じく人を物に化して使いしなり。
 小生七、八歳のとき、和歌山で、小児間に右の話を多くはなせし。また、拙妻もその亡父より毎々聞きしが、前後|悉《くわ》しく覚えず。いろいろ苦辛して熊野中の知人また老人に聞き合わすも、たしかに右の話前後そろい知りしものなし。わずか四十年の間に、以前誰も知った譚が失わることかくのごとし。山茶の槌を忌む理由と、人を鶏に化し使う他の例は考え合わせあるが、肝心の右の噺《はなし》まとまりて知れず。貴下御覧になりし諸書の中に右の咄ありや。右の咄は、ヒトツダタラの譚中もつとも必要な件にて、これなくては鰻の蒲焼に皮を付けぬごとく、一向噺に成らぬにこまりおり候。
 ついでに申し上げ置く。前日、英国で小生の毎々書く雑誌へ、新しき女一人、名高き新文章家なるが、一文を投じた中へ、πουσγω パウストとかいう語を書き入れた。これは、古ギリシアの学者が、いやしくも足がかりがちょっと(437)さえあらば全地球を動かし見せると言った、足がかりというような語なり。(『甲子夜話』にも、三尺の棒一つ持たば十丈ばかりの壁をかけ上り得とかいう咄あり。当地に小生知れる男、終身懲役なりしが、英照太后の崩御の節免され出て正業に従事しおるあり。この人釘一本あれば高屏越え、行燈の上でも踏みさえすれば天井へ飛び上がる。)これに付いて、英国文壇に議論やかましく、これほどの意味をあらわすに、十万ある英語中に的当《てきとう》の語なかるべきかとの難なり。
 小生在英のころ、アーサー・モリソンという人と交わり厚し。小生大英博物館で大喧嘩し抛り出されたとき、即日、南ケンシントン美術館へ世話して技手にしくれた人なり。小生、毎々動物館へつれゆき動物の講釈するに、その礼なりとて、サベージクラブで饗応さる。往つて見ると、昨日小生座りし処に、プリンス・オヴ・ウェールス(今より見れば、前皇エドワード七世)坐し、当日このクラブへ招きし北氷洋探険家ナンセンに頼み、小生の眼前なる柱に小刀でその名をきりこませたりとて示さる。小生何のことやら分からず、モリソンごときつまらぬものが英皇と等しくこのクラブ員たること合点行かざりし。しかるに、一昨々年新板の『大英類典』を見るに、従来の例を破り、まだ死なぬ人もよほど高名の人は伝を出すことにしあり。その内にモリソン伝短くながらあり。よほど有名な小説家と見えたり。小生と三年ばかり親交し、小生毎々その宅へ歌麿の浮世絵などの詞書をよみやりに行きし。しかるに、この人一語も自分のことをいわず、ただわれはもと八百屋とかの丁稚なりし、外国語は一つ知らず、詩も作り得ず、算術だけは汝にまけずと言われしのみなり。小生誰にも敬語などを用いぬ男なるが、ことにこの人の服装まるで商家の番頭ごときゆえ、一切平凡扱いにせし。只今『大英類典』に死なぬうちにその伝あるを見て、始めてその人非凡と知れり。(『金椏篇』のフレザーすら、かく有名なるに、その書は多く引かれながら、その伝は見えず。)
 この人、平生小生の英文を見、ロンドンにある外人中、貴公ごとく苦辛して英文を書くものはあるまじ(これは小生一文作るに、必ず字書をしばしば見、なるべく同意味の語に異文字を多くつかうなり。かくせざれば長文は人が見(438)あくなり)、今十年も修煉せば大文章家となるべし、マクス・ミユラルなど学問はえらいが、英文は軽忽にかくゆえ、熊楠の文ほど煉れおらずとて、その例を示されし長文の状、今も保存す。これはお世辞として半分に聞かれんことを望むとして、さて申し上ぐるは、この人の話に、英文は英語のみで書くべし、英語で言い得ることを、他国や古代の語を用うるは、その人学問に誇る卑陋の見識なりといわれし。小生このことを聞きて、いろいろ名家の文を調べしに、なるほどモルトケ将軍が多種の語に精通しながら、独語をもっぱら用い、その文辞みな黄金と称せられ、また六ヵ国の語で沈黙すといわれしも、もっともなる心得なり。外国の語を入りもせぬに用うる人にろくな文章なし。されば、日本人は日本の文をかくに、なるべくは和漢の語のみ用ゆべきことと思う。
 名を指すは如何《いかが》なれど、一昨年ごろ、小生世話して高木君へクラウストンの『小説の移化篇』二冊を買い求めたり。この書見て後、この書に多くつかいたる仏語モチフなる語を、多く『郷土研究』中の論文に用いられたり。モチフとばかりでは、貴君のいわゆる中学卒業程度の読者には、何のことか分からず、世に涅槃といえば死んだこと、寂定といえば土の中に埋まりおることと、中《あた》ったようで中らず半解の人多きは、かかるものを読んで早了見を出すからのことなり。モチフという語、場合により理由また動機などいろいろに邦語で言いあらわし得べし。仏語ではモチフだが、英語にすると cause(原因)、incitement(動機)、reason(理由)等、いろいろの意味あり。英人にすら何の意味に限るということ毎文について必ず前後で考えねは分からず。いわんや語種、語原を異にする邦人が、右の語をきき、仏字典を繙き閲したところで、理由という意で書いたのやら、原因の意か動機の意か、少しも分からぬ。いわば、ただ経之するは不届なりとあるのみでは、之《これ》を歴過するのか、之を縊殺するのか、之を正すのか、分からぬごとし。一向入らぬ見えにて、確然、動機とか理由とか、邦語でかいて然《しか》るべかりしところと思う。
 さて貴下の『郷土研究』にも、文字語言にはかかる例なきが、これはまた一層むつかしく、文句の意味が全く洋人の心になりて見ねば分からぬような直訳風の文句若干あり。今、例を挙げ得ぬが、たしかにあり。毎々この辺の者の(439)小言をきく。貴下、編輯の心がけを小生に問いしにあらず、文の構造について如何《いかが》わしき所あらば腹蔵なしに言えといわるるゆえ申し上げ置く。(例は見出だし次第申し上ぐべきも、今ちょっと分からず。たとえば「理由は虚偽を成立せしむる必然の助力でない」というような書き方なり。文を短く強くかかんには止むを得ぬ方かも知れぬが、場合に随い「虚偽は理由を申し述べたりとて必ず通るものに限らず」とでもかかばよく分かるなり。)しからば小生は如何《いかん》というに、小生は日本文に全く望みのなき者にて、今も自分の書く英文には一字一句大家の点を求めおるが、習わぬ経は読めずで、日本文は習いしことなく、最初から○点と断念しおる。
 邦人が入りもせぬところに洋語を入るるに二重の誤過あり。第一、先にいえるごとく、ただ洋語を知ったという自慢のみで、文章に何の益なきのみならず、第二に、これを入るる人が十分入るる洋語を適用し得ずという大過失あり。日本語とかわり、英語などは語数十万以上あるべし。語数も多く、したがって語の意味は字書で見れば同一ながら、実際いうにいわれぬところにちがいあるは、ウェブストルの字書で同意語《シノニム》の解を案ずれば分かる。glimmer;glitter;gleam ほぼ同意ながら、第一は朧ろげな光(霧中、提灯を見る)、第二はきらきらと小さいながらはっきり光る(金剛石の砂、また氷砂糖の粉)、第三は光が弱いながら明らかに見える(夜明け前の暁の日光)。小生初めて『ネーチュール』へ天文学上のことを出せしとき、故サー・オガスタス・フランクスに点刪を頼むと、発端から大笑いで、definite sketch とあるは何ごとぞと問わる。字書に sketch とは輪廓のみ画いた画のこととありという。フランク男いわく、それならば outline なり。字書には、二語同意に出すが通常なれど、実際あらかた線のみ引いて成した画を sketch,ゆえにdefinite なはずなし。線をはっきりとあらわすを outline というなり。これほどのことを気を用いざれば文章は成らず、といわれし。邦人が日本文に洋語を入れたるを見るに、fashion と Style, pattern と model と type, 何の差別もなくむちゃくちゃなり。manner と custom の別さえ判らぬ人多し。かくては、その字を入るること何の用なく文を害するのみならず、その上に語意を錯乱して誤りを弘むるの具となるべし。小生壮時、辰巳小次郎先生かかることに殊《こと》(440)に注意せられ、遂《つい》には at length, 終《つい》には at last などと分かちおられたり。
 かかるところへ、近所の裁縫匠、また多年小生疑いを懐いておりし菌の発生を全く知り得るべき標本を、三日間注意して老少未発芽のものまでとりそろえ持ち来る。かようの儀は、一年に一度しかなき機会ゆえ、何とかせざるべからず。かようの次第ゆえ、『甲子夜話』は何分右申す日限御貸し下されたく候。もっとも三十日内に必ず前篇だけは返し申し上ぐべく候。早々以上。
  町村制の五人組のこと書かんとしらべかかりしも、和歌山に控えあり。ちょっと弟には見出だし得ず。故に、まず『甲子夜話』写しおわらば、「一ツダタラ」でも書き申すべく候。
  かかるところへ、また白蛇を捕え持ち来るものあり。これより見にかかる。この通りにて田舎棲居もなかなか多事に候。
 
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 大正三年六月三日朝六時出
   柳田国男君                                           南方熊楠
 拝啓。小生、昨夜眠らず、『甲子夜話』巻一九まで抄写し取りたり。この分ならば左までむつかしきことなく、今月中には前篇だけにても御返し得申すべく候。ただし、眼が悪くなるとおそくなるべく候。しかるときは、今月末までに前篇写し得ずば、もはや行なわれぬこととあきらめ、ことごとく御返却申し上ぐべく候。
 かつて御尋ねに相成り候式神のこと、これは識神よりは式神《しきしん》の方が正しきかも知れず。式とは卜占の式の意にて、陰陽家、卜占の神を式神と称せしかと存じ候。「楓、棗の二木はみなよく神霊に通ず。卜卦する者、多く取って式盤、(441)式局となす。楓木をもって上となし、棗心を下となす。いわゆる楓天棗地これなり。『霊棋経』の法に、すべからく雷の劈《さ》ける棗木を用《も》つてこれを為《つく》れば、すなわちもつとも神験あるべし、と。兵法にいわく、楓天棗地はこれを槽《かいばおけ》に置けばすなわち馬|骸《おどろ》き、これを轍《わだち》に置けばすなわち草|覆《くつがえ》る、その異《ふしぎ》かくのごとし、と」。卜占と方術とに兼ね用いたるものと存ぜられ候。この文は『五雑俎』一〇に出ず。『淵鑑類函』四一六にも、似たること見えおり候。
 当地久しく大雨つづき、麦作十の五、六なるべしと申し候。
 
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 大正三年六月六日午前十時半〔葉書〕
 拝啓。『甲子夜話』は一九巻まで写しおわる。中止すると長くなるから、万事を廃し、かかりおれり。もっとも菌類今年おびただしく生ずるゆえ、その方は半日以上かかりおる。他の等観事《とうかんじ》は全廃なり。標品いまだなかなか整理せず。整理しおわらば、小生みずから東京へ持ち出し、何とかすべし。農科大学になき品だけ図を写させ、または多くある標品は寄付すべきも、なかなか急にはまいらず。小生は高価で米国へ売らんとも存じおり候。昆虫類など、保存の管理人なく、毎年二分ずつ腐りゆくが、何とも手が廻らず、今に放置しあり。(西インドの昆虫は、ことごとく粉齏《ふんさい》しおわれり。)右、草々以上。
  紀州は維新の改正まで、えたは布織ることできず、日高郡〇〇〇という所のみ織りてもかまわなんだと、近日シュクの老婦より聞き及び候。
 
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 大正三年六月二十九日午前九時より書き始む。
(442)   柳田国男様
                    南方熊楠拝
 拝啓。その後いかなることか、小生眼大いに宜しく、薗茸おびただしく画くと『甲子夜話』写すとにかかりおり、『夜話』は八六巻まで抄し候。抄すというものの大部分は全写なり。この内に「燕石考」中、小生創見のごとく思いおりしことで、すでに静山侯の知りおりたること、四、五条あり。故に、忙《いそ》いで続篇まで目を通すつもりに候。正篇のみは数日間に必ず畢《おわ》り申すべく、しかる上はさっそく返上申すべく候。「燕石考」は白井博士の『妖異考』(このほど御送り下され、大いに益を得申し候)の割合で考うると、かかる簿冊四冊ほどになり申し候。故になるべく二冊に縮むるか、またはとにかく全部一度貴下の御目にかけ、その上小生また刪るなど致すべく候。文はすでに全くできあるが、ただ邦人にちょっと分からぬこと多きゆえ、注解を入れるを要し、入れると長くなるに候。これは今三十日もかからば図共出来申すべく候。洋文の稿は二通あり、故に一通は貴下に差し上ぐべく候。
 小生、右ごとく一意勉学罷りあり候ところ、またまた飛んだこと起こり申し候。それは和歌山の城?を埋め立つれば借家多く立て得ということで、前年よりその議を出すものありしも、小生はこれを一部投機心の盛んなるヤシ連の所行と思いおり候。しかるに、今回の和歌山市会へ、その議を市長(加藤某と申し、茨木中将の弟)より出し候。四月に小生和歌山へ行きしとき、弟常楠を市会議長にせんと企つるもの大分ある由聞き、家業の邪魔になることゆえ、見合わすよう申し聞けて帰り候。が、その後も常楠は議員を勤めおり、この男は和歌山なみの拝金宗の大家なるが、三百年来の旧蹟にして和歌浦に次いだ勝景の一部たるこの城?を、借家を立て金ができるなどいう慾一点のことよりつぶすは、いかにも遺憾なりとて、?埋立てに反対を唱え、代議士岡崎邦輔、前代議士神前修三等諸氏も反対に御座候。前日岡崎氏帰省の折、このことにつき市長加藤を詰《なじ》り、加藤、語塞がり座を退きしと申す。
 和歌山城は、陸軍要塞近地ゆえ写真をとることならず。しかしながら非常の勝景なり。一八七〇年三月、故パーク(443)ス男、英国公使としてこの城に遊び(紀州侯より招請による)、「あたかも仙境に遊びたるごとく覚えたり」と自記しあり。(ジキンスおよびレーンプールの『パークス伝』第二巻に出ず。)
 この埋立ての理由の漠然たること(市役所の役人等、自分も別に埋め立つる必要なきも埋め立つれば金になる、と申す)、また市会議事の埒もなき事体は、小生昨夜より今に一睡せぬゆえ、かつは昨夜顕微鏡用い眼弱りあるゆえ、書くこと能わず、封入別紙家弟よりの状四通、また新聞の切抜きにて御覧下されたく候。すなわち壕を埋むれば丸之内と申す一区、東京でいわば麹町区ごとき所の排水が塞がる、それを一向頓着なく、埋むれば金になるという了筒に候。しかして、これに賛成する者いずれも私利打算の上のことに外ならず。また何たる定見もなく、ただただ強いて金を要する理由を求めて、市役所を新建せにゃならぬなど申す。
 西洋では、市役所などはいずれも古風の古建築を修理して、百年、二百年、またそれ以上のまま用いおり候。これは、この市はかく発達したが、もとはこんな風の小さき家のみだったという旧風を存するに候。『甲子夜話』を読むに、浅草三社まつりの二日間のおどり衣裳を作らんとて、娘三人とか女郎に売りし者あり。むかしリコルゴス、スパルタを改革せしとき、一貴族、われは最下等の果子を喫し、最下等の葡萄酒を飲む、しかるに費用多くかかるゆえ、この上節倹はできずと言う。リコルゴス冷笑して、果子の代りに麪粉、葡萄酒の代りに水を飲んでは如何《いかん》、と言いしとか。無用のものは最廉の価を払うてすら、買い入るるに及ばぬ(444)なり。市役所など新設したりとて、市の風景、民の慰安上、何の益あるにあらず。牢獄を宏麗にし、娼楼を盛興するに同じ。蜀江の錦を売りて、はでなふんどしを作るに異ならんや。しかして、もっとも怪しむべきは、保勝会の会長たる徳川頼倫侯の御手許に、かかる景勝古蹟大破壊を行なわんとする者あるに、侯爵はこれを何とも知られざるごときことにて、この城濠埋立て成らんか、県下現存の古蹟名勝の滅却は、これを手本にしていよいよ盛んに行なわるるも、吾輩これを咎むるの辞なきに至らん。
 前日、神戸高等商業学校教諭津村秀松なる者、徳川頼倫侯は古蹟天然物保存会の長にして、何たる保護を旧藩地に加うべく出資せぬは不審極まる、と論ぜり。小生は、和歌山の人は何とも知れぬずるきもので、小生などはこれをおそろしくいぶせく思い、十四年前帰朝より、わずかに四度しか和歌山へ往かぬぐらいなれば、金銭など侯爵家より出して保存を計らんには、たちまち奸詐百出し、ここへも百円、ここへも二百円と請求され、実にうるさからん。のみならず、その出資はややもすれば目的外のことに使われしまうを十分知悉するゆえ、侯爵がいささかたりとも金を出して県下の勝景古蹟を保存することを望み奉らず。しかしながら、今回ごとき理由もなき理由の下に、三百年来の史蹟勝景をつぶされんことは、いかにも遺憾と思う。よって何とか侯御自身よりならずとも、せめては史蹟天然物保存会辺より城?埋立ての儀は、三百年の旧蹟を滅し、祖宗の御威光にも関することなれば、なるべく慎重に議せられたしぐらいの一書を、和歌山市会議長や市長では埋立ての発頭人ゆえ隠匿して出さぬかも知れぬゆえ、和歌山市会議員一同へでも宛てて出さるるよう、貴下、侯爵閣下へ御直話下さらずや。
 貴人にはとにかく実際のことが耳に入りにくきものにて、利欲に関することは曲枉の報告多きものなり。小生、事多く、また疲労はなはだしく、到底この上書き得ず。故に、失礼ながら舎弟よりの来状四点、新聞紙切ぬき(二種。和歌山には四種ばかりあるも、他の二種は一切このことに立論せず、また記事も委《くわ》しからず)三枚を同封するゆえ、まことに御面倒ながら御一読の上、然るべく御話し申し上げ下さらずや。
(445) 拙弟は、三十年ばかり前に東京に遊学せしことあるも、今は商業に久しく従事し、全くの俗人なり。その状にも見えるごとく、「何ごとも分からぬながら、いかにも不条理の至り、また金ができるから旧蹟をつぶすとか、いかにも不都合のこと」と思うて、多用中四度まで状を馳せ来たれるに候。この外は、一層の俗人にて、おそらくは筆の立たぬものもあるなり。かかる輩が市会議員にして、勝手出放題に軽々しくかかる重大のことを議するは、実に危殆極まりなし。小生は自治ということはよいに相違なきが、今の地方自治ごときは、取りも直さず地方自乱なること、ロックが憂いたるごとく、論理学はまことに結構欠くべからざる学問ながら、これを濫用すると飛んでもなき誤見、僻論を生ずるごとし、と存じ候。
 小生在英のころ、故ルクルー Reclus(大地理書十余巻の大著あり。パリで人をおだて爆裂弾を抛げさせしとき、南洋島へ謫徙されしを、学問のために惜しとて、ハーバート・スペンセル(平生こんなことに一向手を出さぬ人)以下連署して取り留めたことに候。この人の兄弟姉妹みな過激危険の人なりし)、英国民は不思議のことあり、他国民の企て及ばぬところなり、すなわち至って自由平等を尚ぷ先天的の平民あると同時に、中等上等の人はきわめて秩序旧物を頑守する、これなり、と申され候。実に実にわが邦只今のごとき民情は、危殆の極にて、小生は少々賄賂ぐらいとるまでも、何とぞ人民に秩序を重んぜしめ、旧物を保存するように、指導倦くなき圧制家の上に立たんことを望み申し候。至善究竟のことにはあらざるべきも、只今のごとき我利我慾、他を顧みざる私党横行の自治よりは、はるかに確乎たる圧制家の方が望まれ申し候。
 参考書類中、貴下等には分からぬ地誌上のこと多し。しかしながら、それらは旧藩主侯の方が小生等よりもよく知悉されおるはずに候。
 右、小生は神社一件以後大いに食いつめ、閉戸して世事に関せぬところ、今回の城?埋立てはいかにも不埒極まることにつき、貴下、幸いに貴族院に奉職さるる縁により、何とか旧藩主君に御話し申し上げられたく願い上げ奉り候。(446)これほどのことに何とか一言なくんば、史蹟保存会などははなはだしく体面を損ずることと存じ奉り候。
 小生、夜来の労《つか》れにて、この上書き得ず、万事御推量を乞うなり。早々頓首。
  小生三十年前在京のころは、不忍池まことにきたなく、埋立ての議盛んなりし。しかるに、保存し置かればこそ今日の用にも立つに候。かかるものは一度滅却すれば再度|興《おこ》しがたく候。
 
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 大正三年六月二十九日朝十時 この状は他人に見せぬよう願い上げ候。
   柳田君
                   南方熊楠
 小生は、貴下がなるべく早く徳川侯に御話し下さるるを望む。しかし、御多用にてそのこと成らずとならば、別状○付けたるものと参考品(拙弟状四通、新聞切抜き三通)とを白井教授に送り、白井氏と川瀬善太郎氏(林学博士、紀州侯の江戸詰の家臣の子なり、小生も拙弟も以前至って心安かりし)と相談の上、この二氏共に保勝会員なれば、何とか仕方もあるべくと存じ候。ただし和歌山市会は、只今月末で銘々金銭上のこと多忙ゆえ、本問題中止の体なるも、月が改まると、またいかなる急議決をなすも知れがたし。故に小生は、とにかく一言でも貴下より侯爵に御話し下され、さてまた、別紙類を白井、川瀬氏に送り何とかさるるようにでも願い上げ候。この辺のことは、貴下に一任申し上げ候。
 実際のところ、今の頼倫侯は他家より養子に来られ、紀州のことにはあまり興味有せず。それもそのはず、紀州の人は至って惡く、詐偽ごときこと、乞食様なことばかり言うて往くからのことなり。この旧藩民疎遠主義は、侯家のためにはまことに結構安全の良策に御座候。故に、なるべく因循姑息なものを身辺に置き、一角あるものは前侯(茂(447)承公)のときより近づけず、またその人々も近づくを好まぬなり。陸奥宗光、津田出、岡本柳之助、こんな謀反相のものは、みな藩主と始終全くつきあわざりし。人物は人物ながら、侯家のためにはまことに畏ろしき面倒な人間でありたるなり。今の岡崎邦輔氏なども左様で、一向つき合わぬ様子、実は藩臣は頼宣公以来の藩臣で、殿様は今のは一橋より養子、前のは西条(伊予)より養子、それゆえ三浦安とか他国のものが大いに用いられ、在来のものが用いられぬなり。今切つてまわしおる鎌田栄吉は、もと和歌山の足軽の子に御座候。
 小生もロンドンにおるとき、頼倫侯来られ、宿所をどうしても見出だし得ず。それもそのはず、前女皇のジュビリーを見に欧米の人士十万人も入り来たれるに、わずか四、五万円持って来た日本の侯爵の世子などを相手にするものはなきなり。当時、止むを得ず、知己より頼まれ、小生、ダグラス男(四十年間一職を奉じ、退職のとき世界中の新聞でほめられたる人、有名な支那学者なり)の宅を世話し候も、鎌田もつれて見に往き、それでよしとのことで、ダグラス男、他の来客を断わり、いろいろ修理を加えし。しかるに、公使館の誰か知らぬが、加藤高明とか伊集院彦吉ぐらいのものが、ダグラスの邸はよいが、テームス河より南にあるだけ面白くない、と洩らせし。これは、田舎の至りものが東京へ出て通人を気取り、山の手はよいが四谷街道に近いだけが名折れだなどいうようなことで、自分らが何と探しても(日本公使館員などはロンドンでの交際範囲は知れたものゆえ)、侯爵のために宿を世話し得ず、さて人が世話して事が成ると、かかるワンザンを言う。実に身分不相応の小人なり。侯爵(当時世子、若き人なりし)このことを気にし、約束しながらずるずるに流してしまい、ダグラス方に移らず。ダグラスそのわけを聞きにくると、みな遁げてしまい、ようやく田島担(浜口)が出て挨拶せしようなことで、礼儀をもって鳴る日本人の礼儀が支那人に下ること数十等、小生は入りもせぬ世話をして、はなはだしくダグラスに顔を悪くせり。鎌田など、なにか口を開けば、泰西泰西という。しかして、自分その泰西人に対し、礼儀を東洋の支那人ほどにも行ない得ざること、かくのごとし。小生このことを大不快にて、侯爵出立の節、特に小生のために宴を張り招待されしも、いかに人々すすむるも往かざ(448)りし。牛は牛づれ、馬は馬づれ、日本の華族などと日本の平民は相関するものにあらず、と悟れり。故に、今後とても何一つかかる人の世話になる気はなし。今度の堀埋立てのごときも、侯爵一向何とも思わぬ容子にて、小生は後日このことを楯に取って史跡自然物保存会を公然駁撃せざるを得ぬ場合もあるべしと思う。しかしながら、埋めてしまうた跡で委細の事情を聞いて、それは惜しかつた、何とか一報、実事を知らすぐらいのものはありそうなものなど言わるるが遺憾ゆえ、とにかく一度は侯の御耳に入れ置きたきなり。
 岡崎邦輔氏など、この埋立てを実に非難致しおるも、旧藩侯すでにかく旧藩地に冷淡なる上は、何とも致し方なしと一言もせず、また、したところが益もなしとすておくことと見えたり。社稷重しとなす、君主軽しとなすの義においては違《たが》えりと存じ候。
 白井氏へもこの状と同時に短状出し置けり。この人はまことに篤実な人ゆえ、何とか世話しくるべきも、事多き人ゆえ、たぶん手後れならん。とにかく貴家の御一考、何とかなされんことを望む。茨木惟照(男爵、大阪司令長官たりしことあり)など、老いてはこれを戒め得るにありで、その弟(加藤某)が市長なればとて、よい加減な報告を旧藩主へ出し、弟が私利を獲るに便ならしめんとするは、実に武士というものすでにわが邦に尽きたりと存じ候。
 とにかく一度誰なりこの事実を侯の耳に入れくれたら、小生は旧藩主三百年来の旧誼に報いるを得たるつもりなり。
 神職大会では、かほどまで神社撲滅に鋭意せし人々が、今度は旧社再興の建白せし由、万事この通りで城壕も埋めてまた掘るような徒労あるならん。
 
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 大正三年七月六日午後三時〔葉書〕
 拝啓。堀埋立ての儀、三浦〔【英太郎】〕男(紀州頼宣卿生母の家にて、安房の里見の一族、『八犬伝』に見えた正木大膳の後(449)なり)も反対にて説を公示され候。また頼倫公は、今月中に鎌田栄吉、木下友三郎等諸氏と同伴和歌山へ来らるる旨承り候。故に、とにかくこの際前日の舎弟の状および新聞きりぬき、侯の一覧にさえ入れ置き下されば、大いに結構と存じ候。
 熊野人の随筆というもの、一つも見当たらず候。小生蔵に『南紀名甲記』(紀藩の諸士に蔵する、名あるカブトの由緒書)、『長尾家系図』(有名なる算士長尾隼人の系図。この子孫は小生七、八歳よりの知人にて、只今の陸軍大佐駿郎と申し候)、『南紀地侍誌』(紀州、ことに和歌山辺の地侍の家伝を集む)あり。これらはいまだ出板も弘布もされぬものと存じ候。和歌山の万昌院という寺に、当地「万代記」ごとき瀚なる日記ありと聞くが、今はどうなつたか知らず。また、『墨痕涙草』と申し、和歌山地方の怪談異聞を『新著聞集』流にかき綴りたるもの、四〇巻ばかりありし。たぶん南葵文庫にはあることと存じ候。拙妻親戚中田熊峰(紀州で名ある書家)家に、二十年ばかり前まで蒹葭堂の自筆の『熊野遊記』ありしが、今いかにその子孫に頼みさがすも見えず候。
 水虎のこと書きもらせしこと多し。そのうち集めて差し上ぐべく候。和歌山にては河太郎をドンガスと申し候。小生幼時、川太郎というても分からず、ドンガスとのみ申し候。
 
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 大正三年七月二十日早朝(四時)
   柳田国男様                                           南方熊楠
 拝啓。拙妻病気にて、その上炎暑はなはだしく、小生眼は近来宜しきも、かれこれ事多く、一昨夜より少しも眠らず、只今ようやく仕事しまい、この状差し上げ候。
(450) 前日の因縁ついでに、封入の拙弟より小生宛葉書一枚、『和歌山新報』三葉(切り抜き)、相成るべくは旧藩主公へ然るべく御伝達願い上げ奉り候。昨今、志賀重昂氏、『大阪毎日』紙にて、本邦人は我利の観念のみ厚くて同情の念ということ一向|無之《これなき》由、論じおられ候。この同情の念|無之《これな》きうちは、郷土研究、地方経済等の論文は、到底世間へ通用せぬことと存じ申し候。封入の新聞紙切抜文、一は三浦男爵(頼宣公御生母の縁家)、一は小生一向不存知の町人中村新助と申す人にて、埋立て事件調査委員長に有之《これあり》、調査員七、八名中この人一人特に反対を唱え、今に埋立てを百方防止致しおられ候。一は小生の論文に有之、埋立てを主張する人々は一人として満足に公然意見を発表する等の者は無之、ただただ欠席とか多数とかを利用して、我利我見を張ることに有之候。小生は神社合祀反対で大いに時間をつぶし、この城?埋立て一件には立ち入らぬ心掛けに有之候ところ、家弟(市会議長候補者に毎々挙げらる)埋立てにことのほか反対にて、終始故障を申し立て、折から地方新聞に旧藩侯当夏帰省さるる由伝えられしより、何分それまで右事件決議を見合わすべしと主張しおり候様子、兄弟の間柄、ことに城?埋立てには小生も最初より反対の心底に有之、成らぬまでも弟の先途を見届けたく、毎々御面倒ながら右宜しく御頼み申し上げ候なり。敬具。
 ここより御きりはなし
 右状相そえ、封入のはがき一枚、新聞紙切ぬき三枚とも、何とぞ旧藩公へ御進達下されたく候。他に然るべき人無之、また小生より直《じか》に送るも侯の眼にふるるや否、心元なく御座候。
 茨木中将はこの埋立てに賛成の方と聞き、小生大いにこれを恨みおり候うち、突然死去致され候。小生、人を恨んで骨髄に徹すると、まもなくその人死し、はなはだしきは全家死歿せし例しばしば有之、小生はただこれを偶合と思いおるが、多少の解説なきにあらず、これはそのうち一論を作り、真言調伏儀等に照らして、泰西説をも合わせ、貴下だけへ差し上げ申すべく候。要は人の恨みがきくぐらいのことはあるかも知れず。実際あったところが、それをもって人の霊智が玄妙なというに足らんという拙見に候。
(451) 山婆の髪毛、今夜標品しらべの節出候つき、二条小さきもの差し上げ候。実物はなかなか長く候が、木片の大なるものに付きたるゆえ、ちょっと書状と共に差し上ぐることはならず候。
 芳賀博士より、「今昔物語の研究」は小生の文『郷土研究』に載せ候分は、氏の今昔物語纂訂本の末に付するはず、かつまた未載の方は聞かせくれよと、石橋尚定という人をもって申し来たり候。小生考には、『郷土研究』に載せたる分は、『郷土研究』編輯人に断わりて採取もしくは転載するが順序ならん。しかし、このことは言わず。小生は単にすでに今年首の『郷土研究』に広告(予定)出でたる上は、やはり『郷土研究』へ掲載する旨、答え置き申し候。
 和歌山城?埋立ての件ごときは、小生等地方の履歴を知るものに取りては、実に父母を殺さるるに次いでの痛心事に候。しかれども、他地方の人は何とも思わぬのみならず、現に旧藩主(養嗣として入家)すら小生等その地に生まれしものほどには感ぜられぬことと存じ候。これにて地方経済や地方制度のことは、狸の話や管狐《くだぎつね》、山婆ほどの面白さの百分の一の感興もて読者に迎えられざることが分かり申し候。
 前日森田義郎氏来たり頼まれ候つき、九月の『日本及日本人』へ、古話に関するもの三、四種出すべく、只今よりかかり申し候。それがすむと、右城?の一件を筆して、同じく『日本及日本人』へ出すべく、他に植物学上の調査事も多く、妻は病気、実に人間は思うままにならぬものに有之候。
 しかし「燕石考」だけは、あまり久しからぬうちに差し上ぐべく、また河童に関することにて、従来申し上げのこせしことどもは、扣《ひか》え帳より写さばすむことゆえ、それは今月末までに差し上ぐべく候。
 前日申し上げし百五十冊ある見聞録ごときもの、おいおい虫多く付き、この上保存もむつかしき旨申し来たり候。よって恩借の『甲子夜話』(正編三冊は前日書留小包もて返上、続編第一冊は昨日写しおわる、故にあと二冊のこる。これは来八月上旬に必ず返し申し上ぐべく候)抄しおわらば、とにかく右の随筆十冊ばかり取り寄せ、三十ヵ条ばかり小生みずから写しぬき、御目にかくべく、もし三十ヵ条のうち三分一か半分ばかりは貴家これまで見聞なきことな(452)らば、小生何とか示談致し、二十冊ずつでも貴方へ貸し進ぜさせ申すべく候。また貴家これまで見聞されしこと、その十の七、八を占むるようなことならば、到底話にならず。前方も外へ出したがらぬものゆえ、止めと致すべく候。とにかく昨日ちょっとその話、前方へ通じ置き申し候。当地よりはわずか八里ばかりなれど、不便の地にて、さっそくとは決答を得がたく候。
 貴下は、佐渡の国に今も(もしくは近時まで)主婦が杓子を持つ権利あることを衛存知に候や。すなわち商家の家主が算盤、武家の主人が騎馬をもっぱらするごとく、一家に杓子を扱う権利を専有する女が一人しかなく、隠居退身のときに臨み、杓子をあとのものに譲ることに候。
 かく書きおるうち、夜あけに近く、近処に水汲む音致し候。二日以上眠らぬことゆえ、これより寝に就き、四、五時間眠り、また山へ植物観察に赴き候。
                   右、渋筆御察読を乞う。
 本年一月号の『太陽』に小生ちょっと記し候通り、欧人が支那に旅行せしものの記に、馬虎というもの川にすみ人を害すとあり、水虎のことならんと申し置き候。しかるに、『襄陽記』の本文を見候に、水虎は形馬のごとしとあり、『本草綱目』等には、この馬のごとしの字を略しおとせり。一々原書を見るはむつかしきことながら、孫引きには誤り多く、また肝心眼目の字句が見えぬには弱り入り申し候。故にカッパと馬と縁ありというは支那説に縁あることかとも存じ申し候。またダイバノ虫に似たること、『酉陽雑俎』に馬絆という怪虫のこと出でおり候。小生、先年オステン・サッケン男(有名なる昆虫学者にて蠅?《はいあぶ》類の分類法を立てた人、露国よりチカゴ市駐在総領事たりし)の著書に加註せしとき、大いにこれを喜ばれ、拙寓を訪われ候。(小生、当時、馬小屋の二階にすめり。)その節|咄《はなし》に、露国の誰とかの 『霹国土俗大辞典』という大冊あり、稀覯の書にて、男、自分も見しことなし、それを見し人の通信に、露国のどことかに、年々馬を殺し、その尸を川に沈めて水魅(カッパごときものながら婆なる由、すなわち山婆に対し水(453)婆ともいうべきもの)に供す、その馬の尸より蜜蜂始めて生ぜりという口碑ある由、小生ひかえ置きしが手許になし。
 また明治二十六、七年ごろ、陸軍軍医石坂某(堅壮翁の子と存じ候)、『日本食品一覧』というようなものを著わしたるに、その内に水虎(カッパ)を載せたり。水虎は食えるものかという難論起こり、いろいろ議論ありし由、当時『時事新報』で見たり。その時、一通信者平然として報ゆらく、カッパは岡山県では毎々見る、決して珍しきものにあらずとて、その状を略記せるが、まるで『本草啓蒙』等より朱鼈(ドウマン)のことを丸写しにしたるようなりし。一体この朱鼈なるもの、果たして岡山県にあるものにや。そのころありて今絶え失せるはずなければ、『動物学雑誌』へでも疑問を出して然るべきことと思う。右の議論は、白井博士などはたぷん覚えおらるることと思う。
 マメタと申し、狸の一種、至って小さく猫ほどのものあり、田辺湾の小嶼に至り、まめ種《う》うると夜々来たり掘りて食う。小生みずからその頭顱を得たることあり。例の通い帳もち禿頭《かぶろ》にて舌出しあるくという。このマメタなどは、儼然たる一の変種にて、決して尋常の狸にあらず。しかるに、今日まで動物学者がこの変種あるを記したものを見ず。世にはこの類のこと多く、ただただ欧人の説をのみ尊び、欧人の書かぬものは調査するに足らずとするより、かかる遺脱あるなり。朱鼈ごときも、必ずなにか種のあることと存じ候。
 
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 大正三年九月二十三日午後五時半〔葉書〕
 恩借の『甲子夜話』および『日本文庫』は三、四日内に必ず御返し申し上ぐべく候。他の『仏教史学』四冊と『文章世界』と『太陽』は、今少し御待ち申し下されたく、これは小生いささかながら控え置ける条項を写し添えて差し上ぐべく候。
 前日御申し越しの地蔵のことは、小生かつて貴下の『考古学雑誌』の「地蔵考」を読みし以来、蔵経中の地蔵に関(454)する条項、零句までことごとく控え出し置き有之《これあり》。おびただしきものにて、ちょっとまとめることならず、せめては貴著に混入されるよう、議論はなしに条項と文句のみ書き列ね差し上げんとかかりしが、小生控えは小生一人に分かるよう隠語符牒を用いて記し付け有之のみゆえ、一々本文と対照せねば分からぬこと多く、容易なことながら、ひまとることおびただしく、目下菌類繁生の時候、とても事果つべくもあらず。故に遺憾ながら、この秋から歳末までには到底叶わぬことと申し上げ置き候。
 『源平盛衰記』巻四五、重衡斬らるる条に、その情女(?)大納言典侍、その屍を迎えに遣わす。地蔵冠者という中間《ちゆうげん》と十力法師という力者《りきしや》をその時にそえ遣わす、とあり。これは今も田舎でおとなしき人を地蔵さんと呼ぶごとき綽名と存ぜられ候。妙な名ゆえ申し上げ候。また『義経記』巻二の三章、阿野禅師に対面のことの末近きところに、「その日は伊豆の国府に著きたまう。夜もすがら祈念申されけるは、南無御堂大明神、走湯権現、吉祥駒形、願わくは義経を三十万騎の大将軍となしたまえ、さらぬほかはこの山より西へ越えさせたまうな」と祈る、とあり。吉祥駒形は何のことに候や。駒形ということ、北条氏の世(『義経記』は北条氏の末に作りしと聞く)ありし証にはなるなり。『走湯山縁起』(『群書類従』二、神祇部)を見たが、駒形という神に似合うたことも一向なかりし。
 馬蹄硯のこと。『遠碧軒記』下の三、馬蹄硯、和州法隆寺にあり来たる、蓋を絹にて張り、牧の絵あり、天竜寺沢竜湫、大井川にて石を拾い、馬蹄硯十三面を切らす、今流布して間々《まま》あり。法隆寺にあるは、あるいは唐土の物にて、この硯を馬蹄形にすることは、支那よりの伝来かとも存ぜられ候。『甲子夜話』に、武士は二色の馬をきらう、二心なきため、とあり。葦毛きらうはこの故にもありなんか。
 
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 大正三年十月十一日午後四時〔葉書〕
 
(455) 御不用のはがき御返し下されありがたく候。正に拝受致し候。この他にも会の御不用の分あらば、御返し下されたく候。また、たとい『郷土研究』に出すに及ばずとも、後日御自分の参考とも相成るべきものは、御留め置き下されたく、もし後年誰人かの用に立ちて、もしくはこんな説は柳田氏は南方よりの通信にすでに見えおると分かり得ば、せっかく書いただけの効は有之《これあり》申すべく候。
 次に小生、筑摩鍋のことにつき、『郷土研究』の問に答えた体で、委《くわ》しく一文を草し(むつかしきことにあらず、在欧の日すでにできおるを訳出すればよきなり)、貴下まで差し上げ置かんと思う。これは昨今御公示下さるに及ばず。しかし、たれかに御控え置き、または本稿を失わぬよう永年御止めおき下されたく候。バックルの『卯杖考』(女の尻たたきて交合すれば必ず子を孕むという信)、グロートの『聖夥考』(工パミノンズス等、テーベを武強にするため男色組、わが薩摩のヘコごときものを組みしなり)などは、今に出板されぬながら、ちゃんと保存されて、その本稿は有志の特別参考を許すことなり。
 また『郷土研究』に、五大力と状の封に書くことにつき、小生推察のまま、第一答を出し、次に西沢一鳳の書より小生推察の中《あた》りしを答え、これまた出し申し候。さて小生、往年、故林忠正氏より購いし(なんでも五十円ほどとられたり)無名の春意の百人一首(この本はめずらしからぬものと見え、一友人も持ち来たれり)を今春わざわざ和歌山の庫より捜し出し持ち来たり、五大力と封にかきし状の図式と解説たしかにあるをつきとめたる上、小生の推察全く外れざりしを答え申し上げ候。この答文はいまだ出ず。あるいはその本が本ゆえ出されぬことかと思う。これを例せば、「柴垣の草紙」は春意〔二字傍点〕どころか春態〔二字傍点〕を現わしたる淫画なるも、それが古え婦女は閨中に?襠をば着けざりし証と相成り申し候。(『嬉遊笑覧』には、むかしの女は裳の下に、さらに?襠を着せざる証とせり。)しかし、貴下右の筑後の答文は出すに不都合と判ぜらるるなら、欧州の編輯局の例にならい(小生は編輯人たる貴下に性質の知れおらぬ人物にあらざれば)、何とぞ右の問を出せし本郷赤門生まで、たしかに小生の答文を御転致下さるるか、または赤門(456)生の実名宿所御知らせ下されたく候。然る上は、小生よりさらに文通すべし。
 本文は東京人類学会へおくり、さらに増補追加して英国へおくり申し候。
 
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 大正三年十月十一日午後四時半〔葉書〕
 本居宣長の歌、早速御送り下され、ありがたく厚謝し奉り候。
 貴下、地蔵のことをかくなら、次のことあるいは参考ともなるべく候。
 何々地蔵という例のもっとも古きは何書に出でたるか。小生ちょっと今言い得ず。しかし、『宝物集』巻三、東山に老母を失いし女、年来六波羅の地蔵へ常に詣りしに、夕暮に行脚の僧来たり、故を問い、さしよりてひしひしと認《したた》め背にかき負いて山へ送り孝養し、見えずなりぬ。忌明けて地蔵へまいるに、地蔵の御足に土着けり、それより山送りの地蔵と名づく。これらずいぶん古きことと存じ候。恵心僧都、山越の弥陀などの例もあれば、仏に綽名付くることは、それ以前よりむろんありしことと存じ候。『郷土研究』の何號かに、某氏がその地方の地蔵のことを報ぜる見出しに、色地蔵とありき。文中には、その地蔵の色地蔵と呼ぶ由明記せず。故に某氏が名を付けたのか、従来その地で色地蔵と呼びしか分からず。しかるに、和歌山市元博労町に古く色地蔵と呼ばるる地蔵あり。諸家の婦女、ことに下女など男を求むるもの夜々詣り申せし。思うに、これはむかし流行せし風ののこり存せるにて、色地蔵〔三字傍点〕という名の地蔵は諸方に多くあったことと存じ申され候。
 地蔵は天蔵に対する名にて(ほかに虚空蔵、日蔵等の菩薩の名多し)、天蔵は虚空蔵の別訳か、またまるで別菩薩か、今ちょっと知れず。曼陀羅には天蔵という菩薩はなかりしと記臆候。『酉陽雑俎』一一に、「近ごろ仏画中に天蔵菩薩、地蔵菩薩あり、云々」とあり。見ておると光を放つよう見える由いえり。
(457) 支那で古く地獄へ沙門形の菩薩が来て人を救うことをかけるに、地蔵とも何とも名なく、また観音等の地蔵のほかの菩薩としあり。小生かつて『酉陽雑俎』続七を引いて、梁朝すでにこの話ありしよう申し上げしが、その文をよく見るに、梁崇義(唐朝の人?)という姓名にて、梁の朝の崇義にあらず、故に正誤致し置き候。
 
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 大正三年十月十五日夜九時出〔葉書〕
 このことはかつて申し上げしと存ずれど、念のため申し上げ候。『考古学雑誌』に出でたる貴下の地蔵の説に、地蔵菩薩の名は唐に至りて初めて見ゆとかいうことありし。しかし、唐より先にこの名あるは、乞伏秦の沙門釈聖賢訳『仏説羅摩伽経』巻一に、「仏、給孤独園《ぎつこどくおん》にあり」、侍坐の菩薩の名を多く列せる内に、持地蔵菩薩。また東晋の仏駄跋陀羅訳『大方広仏華厳経』巻四五には、大地蔵菩薩。(同じ経、唐の実叉難陀訳、巻六〇、また唐の般若訳、普賢行願品、巻一二は地蔵菩薩。)故に、この菩薩の信仰とまでなくとも、名ぐらいはすでに東晋以降知れおりたるに候。また前書申し上げたる『酉陽雑俎』の天蔵菩薩は(地蔵と並べ出でたり)虚空蔵か否は知らねど、北涼ごろの訳『大方広十輪経』三に、「その時、衆中に大梵天あり、名を天蔵という。久しく善根を植え、第十地に住む」(すでに十地に住すれば菩薩なり)。
 また、かつて申し上げ候ごとく、欧人が早計に地蔵はもと韓国の僧とせしは、『宋高僧伝』(黄檗板『一切経』二〇四套)巻二〇、「釈地蔵は、姓金氏にして、新羅国王の支属なり、云々」、唐の貞元十九年、九十九で死す、とあり(延暦二十二年、すなわち空海入唐の前年なり)。支那の九華山に苦行し、土を食いし人の由。これを地蔵菩薩の名の所拠とするは、盧遮那《るしやな》は義経の幼名に甚づき、観音、勢至《せいし》いずれも日本の遊女の名より転出して菩薩を立てしというようにて、冠履倒置なり。右、貴下、地蔵のことをかくに入用と存じ、重ねて申し上げ候。
 
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 大正三年十月十六日午後二時〔葉書〕
 小生、調べ物ありていろいろ見あるくうち、地蔵のこと少々出で来たりしゆえ申し上げ候。小生すこぶる多忙にて、地蔵のことはみずからちょっと書くこと能わず、故にこの葉書で申し上げ候こと、御勝手に御応用下されたく候。
 唐朝より前に地蔵の名見えたる例。
 御存知通り、真言の胎蔵界曼陀羅十三大院は、中台八葉院の外に、観音院(蓮華部)、薩?院(金剛部)、この三つを基院とす。遍知院、釈迦院、文殊院、持明院、虚空蔵院を仏部とし、地蔵院を蓮華部とし、除蓋障院を金剛部とし、外金剛部院三院を三部の護法とす。すなわち地蔵菩薩が地蔵院主にて、除一切憂冥、不空見、宝印手、宝光、宝手、持地、堅固深心、除蓋障の八菩薩、これに属しおり候。これは唐朝に伝えて支那に入りしものながら、必ず唐以前より西域、北竺に存したものにて、小生、カルカッタの『亜細亜《アジア》協会雑誌』で、チベット、ネポール等の曼陀羅を調べしに、やはり地蔵は有之《これあり》候。
 北涼訳『金剛三昧経』総持品八に、「その時、地蔵菩薩、衆中より立つ」。
 『唐代叢書』第七集第一冊、陸亀蒙の『小名録』に、地蔵という雅名付けたる人ありし、と存じ候。ただし記臆のみゆえ、たしかならず。しかし、六朝の世に、大地蔵でなく、今と同じく地蔵という菩薩号ありしは、右の北涼訳の経にて分かり申し候。
 泰山府君は唐沙門法琳の『弁正論』二に、『幽明録』(劉宋の劉義慶著)を引き、晋大始五年七月三日夜、清河の人超泰死して地獄に行き、泰山府君を見る、とあり。故に、西晋、またおそくとも劉宋の世、すでに泰山の神を地獄の主とせしなり。
 
(459)          156
 
 大正三年十月二十七日午後三時
   柳田国男様
                     南方熊楠拝
 拝啓。小生、一生人に紹介状副えたことなし。しかるに、只今二十一歳になる女子に貴下宛紹介状副え申し候。この女は広畑きしと申し、兼ねて御話し申し上げたる広畑岩吉(もと富田郷の僧、大名中岩の分れと申す。『続群書類従』に「中岩系図」あり)の長女にて、幼にして母を喪い、永々父に孝養致しおりたるところ、このたび兄、大阪より帰り来たり、家狭きにつき、立身の望みにて東上致し候。どちかというと貧家にて、父は頑迷なる古風の人に有之《これあり》。それに父の素性を継ぎ、読書、図画、立花、茶技、裁縫、押絵、縫箔、音楽、その他至って技功の方に有之。容儀挙止また田舎にしてはちょっと稀《まれ》なる方に有之。日常往来する輩の中にあらば自鶴の鶏群におけるごとく、何となく気高く(小生東上の節つれ行くべかりしところ、小生毎度例のごとく遅延、いつ上るか分からず)、ために思わしき縁辺もなく、思わしき方へは右申すごとく、家富まざるゆえ不釣合い、望み手多い方へは左右その人にあらざるをかなしむという風に有之。兄弟姉妹六人、いずれも名高き孝子にて、兄二人はこれまで大阪にて石板画工致しおり、幼少なる妹三人と父に奉事来たりしところ、今度兄久々にて帰り来たり、妹もそれぞれ成人したるにより、何とぞ一度は大都へ出で立身もしたくとの志にて、出立致し候。
 最初は白木屋の売り子たりし女と二人上るべき約束のところ、その女は東上見合わせになり候つき、一人にて上り候(荷物すでに東京へ送りあるゆえ)。東京にはほんのちょっと知りたるもの新橋へ迎えに来てくれるのみ、これという別懇の人も無之《これなく》、単身出途|如何《いかが》と存じ供えども、右の次第、荷物もすでに送りたる上は、止むを得ず上京致し候。(460)本人は何と申すあても差し当たり無之ゆえ、白木屋の売り子にでもなり、それを手蔓に何とか方向を付くべしと申しおり候えども、誘惑多き地にて、最初よりかかることは如何とすこぶる案ぜられ候つき、はなはだ速断な話ながら、貴下および木下友三郎氏(今度紀州侯来下の節、本人ちょっと面識あり)へ拙生紹介状をそえ候あいだ、一度御あいやり下され候上、本人の様子も御覧、またその志をも聞き、然るべき堅気な口も有之候わば、何とぞ御世話やり下さらんことをひとえに望み上げ奉り候。小生も御地に今も旧友多く有之候も、いずれも乱暴至極なる軍人また狂士風のもののみにて、右きし女ごとき、妙齢でちょっと爪はずれよき女子をかれこれ頼むことは望ましからず。何とぞ本人に一度御面会御差し許しの上、然るべく奉公なり何なりさせやられんことを頼み上げ奉り候。
 小生は従来紹介状などを書きしこと無之、それを知るゆえ本人ならびにその父兄も毛頭小生に頼まず。しかるに、今日突然右女暇乞いに来たり、知らぬ地へ誰一人心宛ても〔なく〕出すは同情至極と存じ、特に紹介状相副え申し候段、万々御察恕下されたく候。また、いかに特立の気象に富めばとて、頭から白木屋の売子などいうも如何《いかが》わしき儀と存じ候。しかし、只今御地の状況は一向小生には分からず。何分本人に御面会差し許され、とくと本人の意向御聞きの上、何とか御助成あって然るべきなら御助成、また何ともならぬものならば御放下のよう願い上げ奉り候。(本人は、今夏徳川侯来田の節、給仕人に撰まれ、すなわち当日給仕つとめしことあり。それらの縁より、もし旧藩主邸にでも奉公し得ば、望外の悦びならんと察し申し候。とにかく、片田舎の痴漢どもを載せて走るがきらいで、大都会で行く行く有望の方へ縁付きたき望みと、小生は察し申し候。)右、何分宜しく願い上げ奉り置き候。
  この女の父、小生と懇意なること、徳川侯も知られおれり。ただし、本人何を望みか、小生にはとんと分からず。小生また女に関することは不得手なれば、とくと聞きしことなし。
 和歌山城埋立て一件は、去る十二日か十九日ごろ、議案撤回と相成り申し候。なかなか油断のならぬことながら、まず小生は少康を得申し候。しかるに、小生は本年一月より今に一度も外出せず、筆硯と顕微鏡にのみ齷齪《あくせく》致し候。(461)ために下半身麻痺致し候。テーブルと椅子を買い用い居り候も、なかなか直らず。したがって地蔵の考などは、材料座右に山積しながら到底御間には合わぬべく候。左に少々書き付け候間、御間に合うべくば合わせ下されたく候。
 小生が見たる限りは、地蔵菩薩の名号は唐前にもあるが、尊崇は主として隋唐朝に著われ、宋元に至りてますます盛んなりしごとし。(『水滸伝』、揚雄の妻が僧と通ずるところなどに、地蔵の願掛けということ散在す。)小生多忙ゆえ、以後順序なく書きしるし申し上げ候。
 唐三蔵法師菩提流志等奉詔訳『大宝積経』巻二一、被甲荘厳会第七の一、「仏、王舎城の迦蘭陀《からんだ》竹林に住む、云々。無辺慧菩薩問う、諸菩薩のための故にわれ両足尊《りようそくそん》に問う。一切の知見者、はなはだ仏法の義に深し。大乗の修行するところ、何《いかん》ぞ定めてよく発趣せん。われ今みな請い問うて、諸衆生を饒益《にようやく》せん。云何《いかん》ぞ善丈夫、よく無辺の甲《よろい》を被《き》るや。かくのごとく甲を被《き》おわつて、云何ぞまさに発趣すべけんや。云何ぞ楽欲を起こし、云何ぞ彼を愛せんや。云何ぞ大精進し、云何ぞ放逸せざらんや。云何ぞ諸菩薩よ、この大乗に乗るや。乗りおわればまた云何ぞや、このことまさに説くべし。云何ぞ大乗に乗って、菩薩道を発趣せんや。ただ願わくは世導師よ、速やかにわがために宣説せよ。云何ぞ平正の道を、平等に発趣し、諸見《しよけん》の稠林《ちゆうりん》において、剪伐|恒《つね》に倦むことなけんや。諸境界中において、云何ぞ超越を得んや。云何ぞ平等をもって、貪愛《とんない》の網を裂かんや。云何ぞ黒暗を除いて、大智の光明を得んや。かの諸菩薩ら、云何ぞまさに発趣すべけんや。云何ぞよく観察して、衆《もろもろ》の結縛を遠離せんや。云何ぞ諸菩薩、縛を離れて善《よ》く安住せんや。云何ぞ諸菩薩、大怖畏を超過し、諸法の義を善巧《よく》し、無上を発趣せんや。菩薩よ、彼は何の尊にして、無辺の大甲冑あり、この甲冑を被《き》おわつて、この大乗に乗れるや。云何ぞ諸菩薩、平正の道を発趣せんや。われ今問うところを、世事まさに演説すべし。菩薩よ、云何ぞ大甲冑を荘厳し、無上乗を荘厳せるや、世尊まさに演説すべし」と永たらしく大乗を甲冑にたとえ、問答しおる。結末に、「復次《また》、無辺慧よ、この大甲冑は名づけて妙法厳具荘厳といい、また最上不可壊とも名づく」とあり。(この『大宝積経』は、黄檗板『一切経』第二五套にあり。)小生記臆するとこ(462)ろ、たしか無辺慧は地蔵菩薩の一名と存じ候。この甲冑のことあるより、勝軍地蔵像が起こりたることと存じ候。
 明治二十七、八年ごろ、北京より喇嘛《ラマ》宗の鍮金像多く大英博物館に来たり、今も列しある中に、たしかに勝軍地蔵の像あり。たしかに記臆せぬが、馬も菩薩も、全体、甲を被り、手鉾のような錫杖を持ちたる様、今日のアビシニアの騎士のごとくなりし。また南ケンシングトン美術館に size《サイズ》(水漆)にて彩色画の勝軍地蔵図像あり。日本画の聖徳太子像と思いおりしが、とくと見るにチベット国の伝来にて、日本のものにはあらざりし。
 地蔵菩薩、地獄を治すること、『剪燈新話』(只今手許になし、『江湖雑録』を引く)巻二、六丁うらにあり、宋元の世の俗信見るべし。
 『翻訳名義集』巻一一、「僧涅《そうね》。一にいう、僧那《そうな》は大誓にして、僧涅は自誓なり、と。一にいう、僧那は鎧を言い、僧涅は著《き》るを言う、と。大鎧を著るを名づけて、また荘厳ともいう。故に大品にいう、大誓は荘厳なり、と。正言は※[月+册]那訶、ここには甲といい、※[月+册]捺陀は、ここには被といい、あるいは衣という。甲を被《つ》け、甲を衣《き》るを謂うなり」。これら勝軍地蔵の被甲に関係あることと存じ候。
 『宋高僧伝』巻一四、「百済金山寺の真表」、唐の開元中、薙髪して、「誓願し、弥勒《みろく》菩薩のわれに戒法を授くるを期せんとす」。七宵の後、「詰旦《きつたん》、地蔵菩薩の、手に金錫を揺るがし、表のために策をもって教を発し戒縁を発し、前方便を作受するを見る、云々。二七《にしち》日満ちて、大鬼あり、怖るべき相を現じ、表を推して巌下に墜とす。身、傷つくところなく、匍匐《ほふく》して就いて石壇上に登る。加うるにまた魔相いまだ休《や》まず、百端千緒をもって、云々。第|三七《さんしち》日に、吉祥の鳥あり、鳴いていわく、菩薩来たれり、と。すなわち白雲の粉を浸《ひた》すがごとく然《しか》り、さらに高下なく、山川に平満して銀色となるを見る」。菩薩来たりて、「みずから三法衣《さんほうえ》と瓦鉢《がはつ》を授け、また名を賜いて真表という。また膝下より二物を出だす。牙にあらず、玉にあらず、すなわち籤検《みくじ》の制なり」。これらによると、地蔵菩薩は、弥勒菩薩など重大なる尊位の前駆、小使いのようなものなりし、と存ぜられ候。
(463) 唐沙門釈法琳の『弁正論』二に、他方(支那より外の)大士の徳化著しきものを挙ぐる中に、「文殊は迹《あと》を当世に屈し、弥勒は処《しよ》を未来に補う。観世音は色身《しきしん》を現じ、恵みは遐劫《かごう》に覃《およぼ》し、地蔵は震旦を讃持し、化は無窮に給《あた》う」。次に馬鳴《めみよう》と竜樹を挙げあり。「震旦を護持し、化は無窮に給う」とあるにて、唐朝ことにこれを支那守護の尊としたること知らる。
 地蔵を女身とすることは、唐于?三蔵沙門実叉難陀訳(学喜と訳す、景雲元年五十九にて死す)『地蔵菩薩本願経』(『一切経』黄檗板、九九套にあり)巻上に、地蔵、前身|婆羅門《ばらもん》女たり、母の所生を知らんとて地獄に至ることあり。また女人、女身を厭い地蔵を供養すれば男となり得ること、また女身を厭わずして供養すれば、「百千万億生のうち、常に王女および王妃、宰輔《さいほ》、大姓、大長者の女《むすめ》となり、端正にして生を受け、諸相円満なり」とあり。巻下に、宝貝をもって地蔵を供養することあり、また一切玩具をもって供養することあり。これらは多少陰相にも、また、さいの河原流の小児を救うことにも関係あるにや。
 「毎日、菩薩の名を念ずること千遍にして、千日に至れば、この人まさに菩薩の、所在の土地《うぶすな》鬼神を遣わし、終身衝護するを得べし。現世にて衣食豊溢し、諸疾苦なく、乃至《ないし》、横事その門に入らず。何ぞ況《いわ》んや身に及ぶことをや」。「もし未来世に善男子、善女人あり、あるいは治世により、あるいは公私により、あるいは生死により、あるいは急事によって、山林中に入り、河海を過渡《よぎ》つてすなわち大水に及び、あるいは険《けわ》しき道を経るとき、この人まず地蔵菩薩の名を万遍念ずれば、過ぐるところの土地鬼神衝護し、行住坐臥、永く安楽を得、乃至《ないし》虎狼|師子《しし》において一切の毒害に逢うも、これを損《そこな》う能わざるべし、と」。これは地蔵の役目、ほぼサイの神と同じ。
 子安という字の出処ともいうべきは、趙宋天息災訳『微妙大曼拏羅経』巻二、大随求菩薩の法を行なうとき、「時に、かの女人、子〔傍点〕の安穏〔二字傍点〕を得」。
 持地菩薩、胎蔵界隻曼羅、地蔵の眷属なり、いわばその分身なり。姚秦竺仏念訳『菩薩瓔珞経』五に、「持地菩薩、(464)すなわち座より起《た》ち、仏足を頂礼《ちようらい》し、仏に白《もう》していわく、われ念ず、往昔《むかし》普光如来、世に出現せしとき、われは比丘となり、常に一切の要路、津口において、田地険隘にして如法《によほう》ならず、牛馬を妨損するあれば、われみな平たく?《うず》め、あるいは橋梁を作り、あるいは沙土を免《のぞ》き、かくのごとく勤苦《ごんく》す。無量仏の世に出現せしときを経て、あるいは衆生あって、??《かんかい》の処において人の物をフ《あ》ぐるを要《もと》むるあれば、われはまずためにフ《あ》げて、その所に至り、放《お》くを請われてすなわち行き、その直《あたい》を取らず。毘舎浮仏《びしやふぶつ》の在世に現ぜし時は、世に饑荒多く、われはために人を負い、遠近を問うなく、ただ一銭を取るのみ。あるいは車牛の淤泥《おでい》に溺《おぼ》れるものあれば、われは神力あり、そのために輪を推《お》し、その苦悩を扶《たす》く、云々」。これも、持地菩薩がサイの神よう道路の安全の守護せしを知るべし。地蔵は本尊、持地は眷属ゆえ、その役目、効験は、むろん相互融通されしと知らる。
 唐前の地獄のこと書きしこと多きに、その獄中へ沙門形の菩薩現われ苦を救うことをのす。しかるに、いずれも地蔵と明記せず、中には観音と明記せるもあり。『曼荼羅私鈔』下に、ある抄にいう、地蔵菩薩は、観音院の三十一尊大悲至極して、正しく悪趣の衆生を手を下して利益するの地蔵と言うなり。諸仏の大悲をば観音に集むるゆえに、「一切如来の大慈悲みな一体の観世音に集まる」と言う。これ観世音の大悲窮極して一重下化するを地蔵と言う、故に「大願大悲、諸菩薩に過ぐ」と言う。この謂《いわ》れか、云々。(『曼荼羅私鈔』刊本、胎蔵界の巻、二七枚御覧下されたく候。)ここに地蔵の名の起りを説きあり、大要違いなしと存じ申し候。
 『西域記』は唐朝のものなるが、それにもインドに地蔵を特に崇めしこと見えず。観音がその代りらしく候。(ただし、チベットまたニポールの曼陀羅には地蔵あり。)『西域記』巻八、「菩提樹の垣《かき》の西北に、遠からずして?堵波《そとば》あり、鬱金香と謂い、高さ四十余尺なり」。その由来を説く、むかし漕矩?国の商人、海に入り、商業す。摩竭《まかつ》大魚に遇い、死せんとす。「商主、諸侶に告げていわく、われは聞く、観自在菩薩は諸危厄においてよく安楽を施すと。よろしくおのおの至誠にその名字を称うべし、と。ついにすなわち声を同じくして帰命称念す《きみようしようねん》、云々。にわかに見る、(465)沙門の威儀|庠序《しようじよ》として、錫を杖《と》り虚《そら》を陵《こ》えて、来たって溺れしものを拯《すく》うを。時を踰《こ》えずして本国に至れり。よってすなわち信心貞固にして、福を求め回《よこしま》ならず、?堵波《そとば》を建て、云々」。(以上、おわり)
 
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 大正三年十一月二十一日夜二時半(二十二日午前)
   柳田国男様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。広畑岩吉の悴、大阪にて画学びおるもの、亡母の法会のため帰り候つき、兼ねて申し上げ候山の神とオコゼの絵巻物全部ひき写しに写させ候ところ、今日出来、彩色は純金また古き白緑などつかい、なかなか綿密にて、一月もかかりなばざっと模し得る由なるが、当地になかなかかようの彩色なく、また小生などちょっと買うこと成らず。故に一遍墨写しのものは小生方に置き、他の一通色彩を付記し候。そは明日大阪へ上るにつき、同人に持たせ上し、大阪にて彩色の上、機会あらば何かへ出したく存じ候も、ことのほか細密なる画にて、動物の像、人物を合わせ百に余り、右〔【次頁】〕に出すほどの大いさゆえ出板は到底容易ならぬことと存じ候。
 山の神は右の(1)の通りに有之《これあり》。これは小生ほんの略々臨写候ものなれど、大要は違わず。もっとも彩色細かくいろいろの紋などあり、到底小生の水彩色具にては写し得ず候。この山神に尾あり、また、この画に野猪、狢、狐、狸、熊、鼠、栗鼠、兎、猿、獺あるに、狼は別に画かず。かつ今も当郡日置川筋一帯、また東牟婁郡の山村一帯、狼を山中でオオカミといわず、お客、また山の神というを参考するに、狼は山の神、山の神はオオカミと存じ候。蟾蜍《ひき》の皮もて作れる鹿笛で鹿を招くに、第一に到るものは山の神すなわち狼にて、笛吹く人の頭上を数回飛びまわる由に御座候。(この笛小生図しあり、説と共に『郷土研究』へ出すべく候。)右の巻物は画七つより成り、画一つごとに障子の(466)幅ほどあり、一枚はこれに倍す。故に、これを極彩色にて画きしには、よほど長時間を費やせしことと存じ候。(広畑これを写すに、朝より夕までかかりて六日かかれり。もっとも二通写せしなり。)
 (2)鹿が、鳥を竹に結んで山の神とオコゼの祝言の式に趣く。この鹿の右の腰に付けたるはタバコ入れかと存じ候。もしタバコ入れならんには、この画は貫説の通り徳川氏の世の物にて、決して小生申せしごとき足利氏の世の物には無之《これなく》候。ただし、タバコ入れかなにか小生には分からず、あるいは薬籠かと存じ申され候。
 「燕石考」は、前日より書き立ておるも、なかなか長く、小生足至って惡きゆえ、テーブルと椅子を求め書きおるも、参考書を一々つきとめることすこぶる困難に有之、原文は三通有之、まるで失うも如何《いかが》ゆえ、少々汚れあるが、もし訳文整理十分の一も試み見て不可能と断じ候わば、欧文のもの一通差し上ぐべく候。これはきわめて読みやすく浄書したるものにて、ただ貴方へ留め置き下されたく候。
 かかること申し上ぐるは御耳障りかも知れず候えども、先日申し上げ候広畑きし女こと、今夜その兄、右画でき上(467)がり持ち来たり、いろいろ尋ぬるに、当地にありては思うほどの出世もできず(これはその家古えとかわり、明治二十二年の水害その他いろいろの災難にあい凋落し、父とこの女と立花等の指南し、兄は大阪で画工となり、今一人の兄は紋画《もんかき》となり、妹ら三人それぞれ奉公に九州、大阪等へ出でおり)、何とか自分だけなりとも身を立て父の苦労を省きたしとの志より、かれこれ捜索中、東京の白木屋に売り子せし女の旧友帰郷し、今一度上京するゆえ一所に伴れ行くべしとのことにて、白木屋へかけあいしに、然らば来たれとの返事ありしゆえ、衣類、夜具等を出荷し、さて出立の間際に及び、右の友女は家事都合で上京見合わせとなりしも、すでに衣類、夜具ことごとく送りし上はこの地に留まるべきにあらずとて、単身上京し、当地の質屋《しちや》で和歌山の銀行の重役たる人の子息(十八歳なれど富家の子ゆえ十五、六歳らしき人物)の姉と旧交ある縁により、その人の下宿にすませもらい自炊しおるところ、白木屋は満員にてちょっと口がなく、また衣類、蒲団は倭船へつみしゆえ今に着せず。当地、広畑と二軒へだてて喜多幅武三郎という医師あり、
  小生妻娶りしときの媒人にて、小生の兄とこの人の亡父と四十三銀行の頭取と副頭取たりしことあり。小生十三、四のときより今に別懇にて、小生帰朝してこの地に永くすむも主としてこの人の緑による。明治十六年、小生和歌山中学校卒業、この人と共に上京のはずのところ、その父卒死し、にわかに貧苦し、大学に入る見込みなくなり、諸処に食客して開業に及び、今は盛んに営業し、かつ学問はなはだすきにて、地方の象皮病など私費にて研究せり。貴兄井上博士、下谷の和泉橋近くにありしとき知己を蒙り、毎日麁末なる弁当を貴兄方へもちより、茶をもらい食いおわりて、また学校へ通えりという。今年春も上京して貴兄を訪いしに小生の話出で、故乃木大将が「南方二書」を読んで挨拶に博士に贈り釆たりし状を貴兄が探せしも、どうしても見えぬ由、同人に伝言ありたり。この人言うには、毎日貴兄君の宅の玄関とかで茶をもらい飯食うに、弟君ごとき若き人、袴を着し和歌を吟ず。それを兄君が直すを障子越しに聞きたり、その若き人は柳田君ならんと言いおれり。
(468)この人、眼科の機械、書籍など、損失をおそれ、毎度東京より和船にて当地へ積みもらうに、短きときは七日とか、長きときは六十日かかる由なり。されば右の広畑きし女、写真(出立の間際にとりしもの、封入)通りの衣類(袷)一枚で手軽く上京し、衣類は今に着せず、当地へ申し越したところが、家に母も姉妹もなく、父は多忙千万、到底衣類や夜具を再調して送ることも成らず。右の画工なる兄も(以前荒木寛畝氏方にありし)上京するつもりなれど、大阪の師匠多忙にて、この男が弟子中の最高弟ゆえ手ばなしくれず、今年中はつとめねばならず、きし女を寄食せしめおる学生は、小生等より見れば小児ごときものなれば、万事智恵がまわらず、きし女は袷一枚で夜具など借り、外出もせずにおる様子で、今月十四日まで白木屋の方の返事のみ懸念し、到底ちょっと見込みなしと見てとり、この上は何方へなりとも奉公したしとて(小生は万一の場合に限り、貴下また木下氏へ小生よりの紹介状出すべしと申し付け置き候)、貴方へ一書差し上げしも、十七日までは吉左右《きつそう》なく、当地今日みぞれ降る、東京は寒からんに、知らぬ地に、処女一人(かの学生は無口《むくち》のものにて、毎日学校へ往き、何をどうしてよいか、計りごとを運らしくるる人にあらず)困りおる様子に御座候。
 父兄においては、かかる軽きことをいい出して東上をすすめ、出立間際になりて自分出立中止せし女友をはなはだ不快に思うらしきも、今となりては何とも致し方なく、すべて紀州人の東京にあるものはあまり親切になく、この近所よりも今年中に男三人、女一人東上して面白からざりしことあり。小生、きし女の上京のことを最初より知りおったら熟慮すべく勧告すべきなりしも、長く病中にて一向知らず、告別に来たりて初めて知りしようのことに有之、その幼少のときより存知おるもののこととて、ずいぶん心配も致し候。しかして、右申すごとく困りおらば、久しきうちにはどうなるも知れず。同じ奉公するなら、この辺より上京しある不埒千万な紀州根性のものの食い物になるはいかにも愍然に有之、貴下はなはだ恐れ入り候えども、今後はこんなことを頼み上げぬゆえ、一度御あいやり、いずれかへ早く奉公させやり下さらずや。もしまた、おいおい議会も多忙になる際、とてもそんな御世話できずとならば、(469)同人へ一書出し、只今多忙にて到底世話はできぬゆえ、小生より申し越せし意に随い当分面会はできがたしとの意を、ちょっと御伝えやり下されたく、然る上は貴方は絶念してまた何とか、みずから方向を捜すことと存じ申し候。小生は万一を慮り、今夜その兄に万一なんか色情等のことより上京せしにあらざるやを十分尋ねしに、全く上述のごとく、長くこの貧地に埋没さるるを好まず、出世したしという一念よりのことと分かり申し候。この兄は篤実なるもので、独学で只今月に三十円ばかりとる画工となりしものゆえ万違いなし。きし女も早く母を失い、今まで老父と三妹の世話し来たりしも、田舎で立花の指南では食うこと十分ならぬなり。
 今時、何の資力もなく女子が東京へ飛び出して立身などいうこと覚束なきは万々にて、本人の望むところは、もし立身などの口なくば、さしあたり下女奉公をしたしとのことにて、その下女奉公に付いて、小生はなんとか然るべき家へ下女奉公をさせたく、この地より出た下宿屋や足袋職の方へ下女奉公はさせたくなきに御座候。この女子、小生、その父と懇交なるのみならず、妻も知人にて、拙方の小児なども毎度世話になり候ものゆえ、小生も捨て置くことならず、只今は国会開会期にて貴下到底かかることはできまじと今夜も兄なるものに申し聞かせたれど、人の子のために謀るは子を持つものの心まさに然るべきことなれば、右御頼み申し上げ候。
  きし女宿所は明朝その兄に聞き合わせ申し上ぐべく候。
 
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 大正三年十一月三十日夜十二時過ぎ
   柳田国男様
                   南方熊楠拝
 『日本及日本人』新年号の予告を只今見るに、貴下の「夜泣石」あり。正月に夜泣石とはどういう縁故か知らぬが、(470)あるいは別に季節にかまわず出されたることと存じ候。小生『郷土研究』に書きたる夜泣石の条〔【「『郷土研究』一至三号を読む」の「頭白上人縁起」】〕に、『東海道名所記』を引いて、佐夜中山で夜泣きの松の皮をもって小児の夜啼きを止めることをいえり。頃日、押上森蔵氏『飛騨遺乗合府』を贈られしを見るに、そのうち一九八頁に、「一つ松、大野郡宮村にあり、児童の夜啼きする時、この松皮を枕下に置けば止む」と有之《これあり》候。
 また、『山島民譚集』に追加すべきこと、諸項いろいろできおり候も、未刊の分「大太法師」の参考に申し上げ候は、一九〇六年板、スキートおよびブラグデンの『巫来《マレー》半島異教民誌』(Skeat and Blagden,‘Pagan Races of the Malay Peninsula’)の二巻二八四頁に、サカイ人いわく、人目に見えず、大なる人ごとき物あり。人その体を見ることなし、ただし柔《やわ》き粘土上に大足跡一ヤード(あるいはいう一メートル)長きをのこす。このほかに何ごとも知ることなし。ただし、半島住のマレー人の説には、藪榛中《ジヤングル》に住む民、体の他の諸部別に常人とかわらぬに、脚ばかりかく大なり、と。
  注に、パハン住マレー人いわく、テカム河岸の野人の足長さ半メートルなり、と。回教徒中の迷信に、足非常に長き人民あるという説弘く行なわる。それがマレー人を通じてサカイ人(回教を奉ぜず)に移りしならん、と。ヴォーアン・スチーブンス Vaughan Stevens 説には、かかる大足人の話の起りは、かかる野人の多くは沼地を渉《わた》るに、足に樹葉また樹枝を結び付けて泥に没脚するを禦ぎ、また、その跡を敵よりかくさんことをつとむるに出でたるなるべし、といえり。この考は、一ツダタラ等につき、小生年来考えおりたるが、昨夜右の書みて同説早く言いし人あるを見出だし候つき、先人の説をむだにせぬため、特に申し上げ候。しかし、これほどの考は貴下すでにありたることと存じ申し候。タイロル等、さすがの大学者ながら、この考はなかりしように候。『甲子夜話』に、駿河の国で泥地をあるくに、ことのほか大きな板を下駄のごとくはく由を記し、たしか図あり(471)しと存じ候。
 小生、只今『太陽』へ「兎の話」かきおり、わずか二十四葉ゆえ直《《じき》に畢《おわ》り候。それより二、三日、菌とりに遊行し、さて正月にちなみ「夷子」という魚のことをかき差し上げ申すべく候。鮫崇拝のことを趣向しあるが、材料あまりに多く、到底ちょっとできぬゆえ、その一端をとりて夷子鮫のことを主としてかき申すべく候。十二月の(最もおそくとも十二、三日)に貴方に着するよう致すべく候あいだ(小生は九日ごろまでになるべく出すつもりなれど、菌の研究、図を引くは、ややもすれば二、三日おくれる)、なるべく正月号に出し下されたく候。ただし報酬等は下さるに及ばず候。只今作り出すものにあらずして、すでに集めたるものを整理するのゆえ、字を写すほかに労大ならぬゆえに候。
 きし女へ昨夜小生より状出し、すでに売子等は評判面白からず、故にひとまず帰るか、また帰ることならずとならば、下宿などに漂泊してはすこぶる不得策ゆえ、柳田氏方へ移り、当分下女奉公し、そのうち然るべき方あらば、また下女奉公をつとむべし(同人より兄へ申し来たりしは、いよいよ究迫せば、四畳半の家でもかまわず奉公するつもりとのことゆえ、それほどの決心あらば、今少しましな所へつかい貰うが上策)と書き、走り行きて父に見せ候ところ、父も何分左様に小生よりすすめくれとのことに御座候。いろいろと父より話をきくに、同女諸家よりよめにもらわれ、今春とかも日高郡の小竹という御坊町の呉服商より、俗にいう拵《こしら》え取《と》り(すなわち衣装万端、前方聟の方より仕立て、持参金も持参の物もなしに娶る)で貰いに来たりしも、つり合わぬは不縁の基と、忠臣蔵のお石の語を引きて取り合わず。
  小竹はシノと近ごろまでよみしも、今はコタケとよむ。小生、父の母の出でし家が本家で、その末流今も多く、いずれも豪家なり。内に佐衝門とて百万円近きものもあり、いずれも一家なり。
 きしは、あるいは例の向上心から行きたかったことと存じ候も、何様《なにさま》父が頑丈なる昔人《むかしびと》で、自分の家職(呉服衣裳の紋を画き、生花の指南所)に大いに邪魔となるを顧みず、町人をよびすてにする等、へんな人物なれば、痩せ我慢(472)でかくのごとし。さて少々満足な人間とては小生のみ、銭湯に近きゆえ、毎度夜分長話に行くのみ。他は職工とかなんとか、そんな輩のみ来たり(看板、染物の下画等を父がかくゆえなり)、何年おるも満足な所へかたつく見込みなきゆえ(所または近在の富家へゆかば、前条のごとく、娘のかげで安楽に食わんとて、駿驥《しゆんき》を痴漢にやつたなど評判立つは、田舎の常なり)娘も気をあせり、何とか都会に出て給料でもとり、かたわら芸を身に付けて、自分同様独立の気象ある人に片付きたしという意から上京せしことと存じ候。しかして、学生(これはその父も兄も毎度世話になる銀行重役(兄の俸給を預りくれおる人)の息)と同居は、その学生自分よりおとなしき年少者ゆえよいとするも、学生の所へは必ず他の学生が集まるものにて、自然小生はこれを面白からず思う。父兄もあまり悦ばず。また、その学生の父とても歓迎はせぬことと思えども、何様他に知人なく止むを得ぬことと存じ候。
 右の次第につき、何分厚顔ながら貴方へ押しかけおいて貰うようと申しやり、また疑儀なきよう貴下の御手書をその兄にまわし、兄一読の上きし女へまわすよう申しやりおき候えども、それはどうするか知れず。とにかく下宿などにこの上おるが不得策と分からば、さつそく柳田氏宅へおいてもらうべく、それがいやなら、その上は小生においても何ともこの上世話の致し方なしと申しおき候。よってもし罷り出で候わば、当分貴方へおき、東京に居なれるまでおきやり、その上実体らしく見え候えば、また何とか御世話下されたく、もしあまり物になりそうもなく候わば、その上にて御ことわり下されたく候。国元にては、父兄また叔父ども非常に貴邸へおき下され候を面目に思いおり侯も、本人は如何《いかが》思いおるや。小生へは今にたよりなく、あるいは左思右考いろいろたずねまわり思案にくれおるのかとも存ぜられ候。小生は、国会開けては御多用なるべければ、なるべくその先に貴邸へ移るべし、と申しやり置き候。
 右のエビス鮫の話、もし正月号にすでに予定の論文そろいおることに候わば、ちょっとはがき下されたく、然る上は見合わせ申すべく候。また正月号に載せ得ることなら、別段御多用中御知らせ下さるに及ばず。(二月号でも三月号ても宜しきつもりにて、とにかく書きて進《まいら》すべく候。)
(473) 一ツタタラのこと、ようやく昨日に至り上芳養村の人かねてたのみ置き候が、兵卒入営見送りのため来たり、書付をのこしおき候により、完全に近き伝説を入手致し候。かかること、われら少壮のときは誰も知りたるに、今となりては一向知れず。この様子では、伝説などいうものは、この上五十年も経《へ》ば全く存せざるに至ることと存じ候。
 きし女父、希有の奇人にて、名知れぬ人来るもかまわず、その店頭クラブのごとし。小生は、今年少しも外出せず、この家のみは湯に入りに行くごとに多少の時間訪問していろいろのことを雑輩どもにきく。昨夜奇異のことをきく。長島金三郎という郡山の士、おちぶれて当地へ来たり、茶と花おしえ、また金魚屋を営みおる、五十五歳なり。この人言う、十四のとき、生駒山に預けられ寺におる。例年四月一日に大法会あり、護摩を修し、士女|麕集《きんしゆう》す。十四のとき、その前年、前鬼の和尚さんとて、五十余歳で、眼深く仙人顔なる和尚、毎夜この寺へ茶話に来るに高下駄はきたり。食事すんで、自分の洞川の寺より来るという。さて十時ごろまで話して、また洞川へとて去る。(洞川より生駒山までは十何里か知らず遠距離なり。)あるとき寺の小僧等、和尚に法会のとき天狗をつれ来たり見せられよというに、つれ来たる。尋常の小児七、八つのもの数人にて松の上にあそびおる、これ天狗なりという。小供の天狗は面白からず、大人の天狗をつれ来たれというに、それは難事なり、しかし試むべしと言う。昨年(すなわち長島十四のとき)大法会に、かの和尚独り来たるに向かい、貴僧は約束を忘れ、天狗をつれ来たらざりしことよというに、つれ来たりてそこにあるでないかというて護摩壇を指す。その方見るに何もなし。何もなしというに、なるほど汝らに見えぬはもっともなりとて、和尚、自分の衣の袖をかざし、それを隔てて見せしむ。長島等、その袖をすかして見るに、護摩壇辺に天狗充盈す。たしかに覚えねど(熊楠いわく、幽霊始めかかる鬼形のものは、見るときたしかに覚えるを得ず)、頭は坊主で男女ありしと覚えたり。衣、袈裟等、尋常の僧に異ならぬもの多く、中に鼻至って高きものもあり、上に向かい、または下に向かいあり。(『前太平記』か『弘法大師一代記』とかいう俗書のいずれかに、天狗の鼻をみな上下に鉤曲して画きたり。)その常人と異ならざるものも、和尚の袖をすかさずに見れば、一向見えぬにて、天狗と知り(474)しという。
  また、きしの父言う。播州の人、大峰に先達してのぼること三十二度、しかるのち前例にて前鬼村へゆく。一民舎にとまるに、小児来たり湯の加減を問い、ふろ桶の端に手をかけゆするに、その人入りたるまま大なる桶動揺す。小児の父来たり、おどけをするなと叱り止めしという。この先達の人、茄子、云々、のことありしなり。(故に田辺でなく、播州へ茄子とりに来たりしなり。)この前鬼の村民、足非常に疾く、新宮(にあらず)より川を上りて前鬼村に向かう。やや開けたる村へ油と塩のみ時々買いに来る。新宮の行商その所に行き合いたるもの、前鬼の行き所を見んとて追い行きしに、徐かに歩するようにて、たちまち見えざりし、と。
  これも前に申し上げたるを正誤のため申しおく。
 右話しおるところへ、二十七、八の非常に体格よい紅顔の婦人、身なり賤しからず、髪も結《ゆ》いあり、背に三歳ばかりの男児見苦しからぬなりしたるを負い来たる。小児はうつむきあるが、眠り入らず、時々顔をあげて見る。人を憚りたる声にて、なにかいうが分からず。小生とりつぎ口上をきくに、大阪の者にて夫に死なれ、本宮に縁戚あるをたずね下るに、ここまで来たりて路金を空しくし、何とも恥かしきが、子供もあれば恥を忍んで合力を乞うとのことなり。小生は持金もなくかれこれするうち、きしの父二銭銅貨一枚出し、小生手伝って渡しやり、熊野は難路にて、新宮ならば汽船で之《ゆ》き得るも、本宮は中辺路十七里(今の二十里ほどなり)、行くは冬寒に大儀なれば、急がずにゆるゆる歩めといい、その婦人厚礼して去れり。自分の娘、単身東京にあるに思い合わせてかなしく思うたることと、小生も不便に思い帰り候。
 この通りのことゆえ、きしに面会ならば右のこともはなし、相成るべくは身を慎み立身とまでなくとも老父の面目を汚さぬよう、くれぐれも御話し下されたく候。リットレーは、七十に余りて、若きとき死に別れし妹のことを毎々思い、現に座右にあるごとく覚ゆ、と記せり。小生なども若きとき客気にまかせ、外国の、しかも日本人一人もなき(475)所をさまよい、いろいろ面白くまた難儀な目にあううちに、父母死し、今早朝(朝三時半)孤燈この状をかくに、亡親の眼晴の光、衣の衿の色までも自身の側にあるごとく、またその音声をきくごとく覚え候。
  『大日本地誌大系』出板に小生加入したるに、第一回『御府内備考』の一送り来たりたるのみにて、第二回以下の通知なし。例の不景気で不払い込み多く、出板中止ということにや。貴方へは送本ありたることならば御知らせ下されたく候。
 
(476)   大正五年
 
          159
 
 大正五年十二月二十三日夜十二時出
   柳田国男様                                       南方熊楠再拝
 御状拝見。小生こと今年宅地買い入れ移居致し候も、春来永々肺炎を病み候ために、何ごとも致し得ず、ぶらぶら致しおり、十月ごろより全快候も、万事手後れ、わずかに菌類少々研究致し候のみ、空しく一年を終え申し候。
 貴状に、小生「竜燈は不知火の漢訳」と主張致し候様相見え申し候。よって宵より只今十二時近くまでかかり拙篇〔【「竜燈について」】〕を通覧候も、小生竜燈は不知火の漢訳と主張したること相見え申さず、また、それに類したることも見えず、ただ山岡明阿の『類聚名物考』に、「竜燈のこと和漢の古書に見当たらず」とあるに対し、『佩文韻府』より、竜燈という字は、夏竦「上元応制」詩に竜燈の字出である由を引証し、また貴説「竜燈という漢語は、もと水辺の怪火を意味しおる。日本でならば、筑紫の不知火《しらぬい》、河内の姥《うば》が火等に該当する」(『郷土研究』三巻四号二〇六頁九行〔【尾芝古樟(柳田国男)「竜燈松伝説」】〕)とあるに対しては、果たして筑紫の不知火、河内の姥の火等のものを竜燈という漢語ありや。『本草』にいわゆる竜火は、欧州でいわゆるエルモ尊者の火と、本邦でいわゆる竜燈を指すらしく、すなわち怪火の内から水湿の地の鬼火を引き去った高空中の怪火を竜燈と言ったらしい(『郷土研究』三巻七号三八五−六頁)、と述べたるまでにて、不知火を(477)竜燈に当つるは小生の文中に一切|無之《これなく》、反って貴説に、竜燈なる漢語は不知火か、姥が火に該当する、とあり候。その他の拙文は、竜燈という成語は小生いまだ支那書で見当たらざるも、竜燈の現象は多く支那書にあり、天燈、聖燈などいう。竜燈といわぬものの、ほとんど似た名や字句はあり、ヨングハズバンド大尉が見たる竜が出す燈、また、『六度集経』の竜王のおる上にとぼる燈等、これなり(三巻七号三八七頁および九巻五三〇頁)。故に竜燈の信は、たぶん梵土に起こり支那に成りしを、渡唐の仏僧が本邦へ伝えしものなるべし、と申せしことに御座候。
 その後インドのこと書きしものを見るに、竜王(那伽《ナーガ》すなわち帽蛇《コプラ・デ・カペロ》のうち神聖なるやつ)が宝珠を蔵し、夜分燈火同様に光を放ち、その光もて餌を求めありくということ、多く記文を見出だし申し候。(『郷土研究』に引きたるヨングハズバンドの説にも、あるいは竜の眼より出る光といい、あるいは竜の頭上の宝珠より出る光ともいうとあれば、もとは支那でも竜がその所蔵の珠より光を出し仏に献るといいしものと存じ候。)故に小生、自分一向竜燈は不知火の漢訳と申さざるのみならず、反って竜燈なる漢語は不知火と姥火に該当すという貴説の所拠を承りたき存念にて書きたる拙文に有之候。
 大要は、小生は、竜燈という語が今日支那に存せぬまでも、竜燈の信は、例の梵土、それから支那に存せしを、渡唐の僧が伝来せしものという主張に御座候。すなわち尾芝君が「竜燈」を五山の学僧の倭製のごとく言われたるを(三巻四号二〇六頁一一−一二行)誤りあるかと惟いしにて、今も左様思いおり候。
 夏竦は小生只今たしかに覚えざるも、唐末から五代・宋初までの人なりしと記臆致し候。故に夏竦の詩に竜燈とある以上は、五山の僧よりは早い世にすでに竜燈という成語はありしことと存じ候。また、『六度集経』に、竜燈という成語はなきも、竜が蛇身となり、「蟠屈して臥し、夜はすなわち燈火の明あり。かの樹上にあって、数十、光を放つ、云々」とあれば、竜王が燈火を現出するという説は、三国の呉の朝すでに漢訳せし人あるに候。なお竜燈という字、支那の歴代の地誌に必ず一、二は見当たるべくと存じ候も、当地にそんな書はなく、幸いに『古今図書集成』の地誌(478)のうち、そこここ往年書き抜きおりしを取り寄せ閲覧仕り候も見えず。当地図書館に『大清一統志』あるゆえ、それにて見出ださんと存じ候も、全部拙宅へ持ち来ること成らず、故に就いて通覧にかかり候ところ、不幸にも右図書館の閲覧室をもって当分裁縫教授所に充てられ、女教師数名と数十名の女生徒(多くは村部の人々)来たり稽古する、そのかたわらにて小生が終日書を見あるくと、女ども小生の動作に気を奪われ、落ち着いて裁縫せず、すこぶる双方の害となるゆえ中止致し候。しかし、右裁縫教授は一時的のものとのことゆえ、一同業を終え候わば、いつまでも永続せぬはずなれば、その折またまた往き探るべく候。
 竜燈のことはまず右のごとく、しかして小生の文|麁《そ》にして意|周《あまね》からざる、自分の主張すら読者に達せず、読者、自分の主張を忘れて小生の主張とさるるようにては、到底日本文で何をかくもむだと存じ申し候。(英国にては幸か不幸か、戦争中売文者大いに減ぜし。その補欠にもあるべく、小生の投文は、前週より予告を出して載せられおり申し候。)よって今少し稽古致し、英文にでも綴り出すことと致し候。まず民俗学上のことはあまり書かぬよう致すべく、したがって今度申し上げ候耳塚のことも、材料一々速記文字ごとき符牒を記したまま打ち捨て置き申すべく候。
 これは竜燈などと事かわり、各国を通じて??また男陰を截ることをしらべ列ね(これらは支那には刑の中にあれど、欧州やわが国には定まった刑条に見えず、見えぬながら例は多々あり。まずは私刑というべきものにて、例の藤原純友が藤原于高の鼻をきりたるなど、刑やら車敵を扱う方やら、一向判然せぬこと多し。ただし、レッキーの『欧州道徳史』にも見しごとく、いずれの国もむかしは戦敵を野獣また罪人と同視せしものゆえ、目然??は罪人をも敵民をも処する即決刑罰として手っ取りばやくしばしば行なわれたることらし。鼻や耳をきることがはなはだ不都合曖昧なる結果を来たすことは、われわれがいうまでもなく、当身そのことを視聴せし三浦浄心の『北条五代記』すでにその論弁あり)、しかして、かかる濫刑(刑とは罪人に対してのみならず、敵兵、敵民を処分する方法をも刑と申しおく)がわが戦国時代にむちゃくちゃに多かりしは、『読史余論』に、信長、秀吉の世に一銭断りとて一銭を盗むも(479)のを指截りし論あるに照らせば分かることにて、マホメット、シャーレマン、リチャード獅心、ナポレオン、また近ごろ死んだキチュナーすら、時と場合に応じ、残酷極まる軍事上の行い多きは止むを得ぬことにて、秀吉が朝鮮人に対してのみ特に??を行なわしめたるにあらざるは、斎藤義竜に父子の戦を諍諫せし士が、いよいよ戦争となり、止むを得ず義竜の父道三を殺してその鼻をそぎ持ち帰り示し、自分は遁世せしとかいう咄あり。
 また、『信長譜』に、天正二年八月、信長勢州大高居城を陥れ、二千人を首きり、その耳鼻を長島城中に贈りしことあり。慶長二年八月、南原の城を陥れしとき、藤堂高虎、二百六十九人の首をきり、鼻を本営へ送りし受取り感状、島津義弘と又八郎(豊久とかいう人)四百二十首討ち取り鼻をおくりし受取り感状、太田飛驛守(一吉)百十九首きり鼻をおくりし受取り感状、いずれも『中外経緯伝』巻六に出でおり候。慶長三年、泗川の戦いに、島津大いに明兵に打ち勝ち、「義弘、命じて城畔の地二十間を鑿《ほ》らしめ、斬りし首を埋め、塚を築いて京観となす」(『島津家記』)、「その?《はなき》りしところをもって十の大樽に盛り、名護屋城に贈る、云々」(『秀吉譜』)と。また、「比年《ひねん》、諸将、明と朝鮮と戦い、斬獲|許多《あまた》なり。その首級を運び難きをもつて、?《はなき》り?《みみき》りしてこれを献ず。秀吉、これを平安の大仏殿の側に埋めて京観となし、耳塚と号《なづ》く、云々」(『秀吉譜』)と、川口長孺の『征韓偉略』にあり。『秀吉譜』は小生年来蔵しおり候えども、和歌山に置き、ここにあらず。しかし、この文が『秀吉譜』にあることは、十五年前たしかに見及び候。この書はたしか道春か永喜かの作で、いずれも京都生れの人にもあれば、若いとき秀吉の盛世に遇いし人ゆえ、『京土産』や『近畿遊覧記』よりはたしかなものと思う。
 この他いろいろ扣《ひか》え置きたれど、小生只今日中より黄昏まで邸内のみかんとりに忙《いそが》しく(霜が降ればみかんはだいなしになる。今日中に二十貫ばかりとる)、夜分自分の扣えたものを自分で読み得ず、故に自分扣えた中から右だけどうかこうか写し取り、寺石〔【正路】〕氏の状は、自分の扣えよりは大字で読みやすきゆえ、寺石氏の状より、同氏がおくり下されたる材料を左に写し申し候。もっともことごとく写すときは夜明けにもなるべきあいだ、少々に止め置き申(480)し候。この寺石氏は、はなはだしき寡黙の君子人にて、小生と同級生なりしが、一語を交えたことなきに、わざわざ小生のために材料を集めおくられたるゆえ、これを世に出してもかまわぬかと問いしに、かまわずとの許しを得たる上、写し申し上ぐるなり。氏はかかることを小むつかしくしらべたところで、到底『郷土研究』へは載せぬ方|然《しか》るべしとの意見を書きおくられ申し候。これは、氏はまことに温和恭謙の性質にて、むやみに人の書いたものを打ち込むを面白からぬやり方と考えられてのことと存じ申し候。小生は、また例の『水滸伝伝』、「賭銭場中に父子なし」で、かかることを調ぶるに父子の間とて論究に斟酌は入らぬことと存じ、これを世に出してもかまわぬかと糺し、承諾を得たる上のことと致し申し候は、いささかの他人の見出でたる功を窃《ぬす》まぬ心がけに有之候。もっともここには引き出だし得ざるも、寺石氏の材料中に小生がすでに知りたるものも若干有之候。
 以下、寺石氏の状、そこここ抜記す。
 
 御手紙末文に有之候京都耳塚は、仰せの通り韓人の耳塚に相違無之、実際には鼻塚にて、耳鼻は邦人の無頓著にて誤り、真実は鼻塚、間違うて耳塚になりたるもの、云々。元は分捕品頸代用の品に候。(耳は二つあり、間違うゆえ、一つの鼻となる。)京の塚はその実検済みの物を供養に埋めたるものに候。土佐の長曽我部も六千の鼻を切り、塩漬にして伏見に送り、薩摩の島津は泗川の戦に明人一万余の鼻を切り取り申し候。韓人李?光の書に、「平秀吉、諸倭をして鼻を割《さ》き、もって首級に代えしむ。故に倭卒はわが国人に遇えば、すなわち殺して(熊いわく、殺さずして?)、鼻を割《さ》き、塩に沈めて秀吉に送る、云々。この時、わが国の人にして、鼻なくして生くるを得る者また多し」。「鼻なくして生く」とは、御承知の備前の宇喜多等の兵、韓人の家に至り、韓人の怯懦なるより、その人を殺さず、面倒なるゆえ鼻のみ切り取りたること有之、韓人また命惜しきゆえ抵抗せず、鼻を切らしめたることにて、「黒田家文書」、「加藤文書」等、みなそのことを記し、史実充満、少しも疑いなしと存じ奉り候。
(481) 氏また上に小生引きし『征韓偉略』、泗川の戦を引きて、「この日、義弘、忠恒、明兵を追撃して、午《うま》のときより申《さる》のときに至り、首を斬ること三万八千七百余なり、云々。その?《はなき》りしところをもって十の大樽に盛る、云々」。正路申す、これ御承知通り、太閤薨後、明韓兵、わが軍の志気阻喪を慮り大挙追撃したるを、島津父子、最後の大奮戦もて打ち破りたる名誉の軍にて、三万の首級はかの土に埋め、その鼻のみを取りおくれるもの、山陽の詩に、石曼子と歌いたるはこの軍なり。太閤薨後、出征の将士は一切行賞せざりしも、島津一人はこの功をもって、徳川氏等五大老の評議にて、特別に賞ありしなり。
 高島正重著『元親記』(慶長二年(元年を正とす))、この赤国のこと、高麗を八州に割る、その一なり、云々。文禄五年八月二日に、高麗竹島を打ち立って、十月四日までの武者押なり。元親はコブ(古阜)、ラジュウ(羅州)という二郡請け取るなり、云々。いずれも残りてある者をことごとくなで切りにし、鼻を取り、この郡にて討ち捕る、註文六千六人なり。鼻には塩して千一つずつ桶六つに入れ、御横目衆に渡す、云々。御横目は垣見和泉守、云々。(熊楠謂う、『義残後覚』にも、たしかこの時ごろの条に鼻をきることを記せり。座右に扣えあれど、細字にて読めず。)
 「吉川文書」に、慶長二年、珍原戦いに鼻きりし数八百七十の受取書あり。熊谷内蔵允、垣見和泉守、早川主馬頭、連名なり。
 相国寺長老承兌の『日用集』、耳塚卒都婆文、「慶長第二の暦《とし》、秋の仲《なかば》、大相国、本邦の諸将に命じ、再び朝鮮国を征伐せしむ、云々。将士、首功を上《たてまつ》るべしといえども、江海の遼遠なるをもって、これを?《はなき》って大相国の高覧に備う。相国、怨讐の思いをなさず、かえって慈愍の心を深くす。すなわち五山の清衆に命じて水陸の妙供を設けしめ、もって怨親平等の供養に充《あ》て、かれのために墳墓を築いて、これに名づくるに鼻塚をもってす、云々。時に慶長二の丁酉の竜集《とし》、秋九月二十又八日なり。敬白」。
 正路申す、これにて耳塚は晒し物の主意にあらず、供養の物たるを知る。耳塚と申せしは、言葉の語路宜しきにや、(482)また、ほかの耳塚の名に慣れてにや、云々。実は鼻塚と申すべし。
 この供養文を見れば、この耳塚の主意は、高野山上、島津義弘の寄付碑と同一の意味にて、「いわゆる敵味方とも仏道に入らしむるものなり」の主意なり、云々。この故に耳塚をまことに鮮人の耳鼻と申すも、供養のため建てしものなれば、高野の碑と一視して、左ほど国交を傷めざるものと存ず、云々。
  熊楠謂う、右の文に秀吉を大相国とは如何《いかが》なれど、そのころは必ずしも太政大臣に限りて大相国といわざりしことにや。
 
 小生は、右の寺石氏の文を抄するに当たり、いろいろ引き申したきこと多きも、何様扣えが細筆なる上、一々原書を持ち来たり写すことは、夜中、妻子下女の安眠を害するをもって止め申し候。
 この他に、??がわが邦の戦国また古来戦争中、さして特に残忍というべきほどのことにあらざる論もかき置きしが、なかなか事長く、ちょっと写すわけに参らぬゆえ、止めと致し候。
 貴文に『関田次筆』を引きて、京観ということを、しかと御つきとめなしに、蒿氏も秀吉の耳塚は真に耳鼻を埋めしものにあらずと断ぜられたるがごとく記されしところあり。この京観ということ、小生は幼時『左伝』を暗誦せし男なれど忘れおわり、何のことか分からず。しかし、右に引きし『征韓偉略』にも、島津が明・韓人の首を埋めて京観となしたり、と見ゆ。漢学者には知れきつたことのようなれば、いろいろと捜すうち、隣家へ遊びに来合わせたる安藤治三郎と申す人より教えられ候を気付き、『左伝』そのところをしらべ候に、京観はすなわち敵の首や耳鼻等を埋め、塚を築き武威を耀かすというようなことにて、高氏が耳塚すなわち京観なるべしといいしが、本草家が、蘿蔔は大根、胡蘿蔔はニンジン、水芹がセリ、黄独がカシュウイモに当たる、といいしごとき言と存じ申し候。安藤氏の教示そのまま写し書き付け申し候。
(483) 「もって京観となす」(『左伝』宣公十二年の終りごろに見ゆ)、「潘党いわく、君なんぞ武軍を築き、晋の尸《しかばね》を収め、もって京観を為《つく》ちざる」とあり、注に、「軍営を築き、もって武功を章《あらわ》すを、武軍という。尸を積み、土をその上に封ず、これを京観と謂うなり。顔師古いわく、京は高丘なり、この京はけだしその崇積の状を象《かたど》って名づけしならん。大いに罪人を誅し、首級を積んで崇《たか》からしめ、もって四方に観示し、兇慝《きようとく》を懲らしむ、故にこれを京観と謂う。なお後世の髑髏台の意のごとし」。以上、竹添井々氏の『左氏会箋』による。(熊楠、隣家より『左民会箋』を借覧するに、果たして然り。)
 右の通りにて、この状は止め申し候。すなわち竜燈の方は、竜燈を不知火の漢訳と小生が主張したことは、少しも拙文に見え申さず。ただ五山の学僧が竜燈なる語を捻し来たりて、云々、とある貴説に対し、竜燈の信仰は、インド、支那にありしを、わが国の渡支那僧が伝来せしものにて、竜燈という語も支那にあり(夏竦の詩)。また竜燈の現象を記載せる支那書も多ければ、今日もヨングハズバンドが見しごとき、竜の限また宝珠より出ずる光ありという燈巌《ランプ・ロツク》などの例がある。したがって「怪火《あやしび》としては固《もと》より怪しむにも足らぬが、常に一定の松杉の上に懸かるというに至っては、すなわち日本化したる竜燈である。察するところ、五山の学僧などが試みに竜燈の字を捻し来たってこの燈の名としたのが最初で、竜神、燈を献じたという今日普通の口碑は、却《かえ》ってその後に発生したものであろう、云々」と貴説なるも、一定の樹に神光を現ずる記は、『西域記』等に多くあり。竜のおる上に燈光現ずるということ、呉のとき訳された『六度集経』に出で、ヨングハズバンドの竜の眼また宝珠より現ずる燈巌ごとき、普賢天燈、文殊天燈、昌国聖燈等に参すれば、天部の神たちが献ずる燈か天燈で、竜が燈を献ずるとの意味で燈巌というたなるべく(天竜八部を混じてビルマ今日の仏教には天と竜を一部とする由)、『東遊記』に載せた渡宋の僧が伝えたらしき越中の眼目山には山燈、竜燈並び称うる等の例もあれば、竜燈という信念、支那よりの伝来で、別に日本化した竜燈の、五山僧の新製の竜燈ということなし、と主張したまでに候。しかして小生は眼が十分宜しからぬゆえ、見落しなきを保せぬ(484)から、貴状今回御申し越し通り、小生が竜燈は不知火の漢訳と主張せし箇処あらば、その文句が何冊何号の何枚何行にありや、御明示を乞うところなり。
 次に耳塚のことは、小生の本状は前後の順序明らかに立たざるをもつて、すこぶる貴意に満たぬも知れず。また寺石氏が所引の文書は、小生多くは見しことなきものなるも、まさかなきことは申し来たるまじく、もっとも寺石氏とてもことごとく極正本に就いて原本をしらべたるにあらざるべきも、普通刊行本|一《ひと》通りはしらべられたることと存じ候。かく申すわけは、氏の末筆に、「前便申せし朝鮮人李?光の著書は、『芝峰類説』と申し、その中に記載有之由、小生人より承り写し置きたり」とまで注意書きしたるほどゆえ、あまりな孫引きや聞きかじり書きにはあらざるべしと存じ候。承兌は高名な学僧にて、その当時みずから敬白文を作りし、その文に寺石氏引くごとくある上は、もっとも耳塚が真に韓人の耳(鼻)を埋めたる証拠と小生は存じ候。ただし小生は承兌の文をみずから見しことなし。しかれども、戦国に耳や鼻をきりし記載は、右に小生また寺石氏が引きたる外に多々例あり。これに反し、獅子舞の喧嘩で切りたる耳や鼻を埋めてかかる大塚を築いたなどいうことは、小生には想像ができ申さず候。故に、小生は寺石氏と同じく大仏の耳塚は真に韓人の耳鼻(寺石氏の説によれば鼻)を埋めたるものと確信致し候、と右申し上げ置き候。
 ついでに申し上ぐるは、小生、山人の衣服かなにかのことかきしとき、「衣服を要するような山男は真の山男にあらじ」と書きしこと有之、その真の山男の意味を問われたることありしも、場合なくて答えずに過ごし申せし。増賀聖人は、若き時蝴蝶の舞をやらかしたかりしも、一生その暇なかりしとて、末期にその態をちょっと演じて快く死なれ候由。小生、『郷土研究』の休刊に先だちて、この状を機会として、真の山男の意味を答え申し上げ置く。『郷土研究』に、貴下や佐々木が、山男山男ともてはやすを読むに、小生らが山男とききなれおる、すなわち真の山男でも何でもなく、ただ特種の事情より止むを得ず山に住み、至って時勢おくれのくらしをなし、世間に遠ざかりおる男(または女)というほどのことなり。それならば、小生なども毎度山男なりしことあり。また、じき隣家にすむ川島友吉(485)という画人などは、常に単衣を著、もしくは裸体で、和紀の深山に昼夜起居せしゆえ、これも山男なり。仙台辺に、芸妓がいきなり放題に良《やや》久しく山中に独棲せしことも新聞でよめり。
 そんなものが山男山女ならば、当国の日高郡山路村から熊野十津川には、山男が数百人もあるなり。かつて恩借して写し置きたる『甲子夜話』にも、山中で山男にあい大いにおそれたるが、よくよく聞き正すと、久しきあいだ山中に孤居して松煙を焼きおった男が、業を終えて他へ移る所に遇うたのだつたというつまらぬ話あり。今は知らず、十年ばかり前まで、北山から本宮まで川舟で下るに、川端に裸居または襦袢裸で危坐して、水の踊るを見て笑いおるもの、睨みおるものなど、必ず二、三人はありたり。これに話しかけても、言語も通ぜず、何やら分からず、真に地仙かと思うばかりなり。さてよくよく聞くと、山居久しくして気が狂いしもの、毎度かかる行いありという。(アラビアなどの沙漠高燥の地にも、毎々かかる精神病者が独居独行するものありと聞く。)すなわち狂人なり。また九十余歳にして、子孫みな死に果て、赤顔白髪、冬中単衣をき、『論語』の文じゃないが、あじかをになうて川を渡りながら歌い行くものあり。小生の舟が玉置川《たまきがわ》の宿につくと、その老人は近道をとり、むちゃくちゃに川を渡りありくゆえ、早く宿につき、魚を売りたる金で一盃のみおる。子細をきくと、この者死を求めて死に得ず、やけ屎《くそ》になり、大和の八木《やぎ》という所より、一週に一度、南牟婁郡の海浜に出で、網引きして落とせし鰯等をひろい、件《くだん》のあじかに入れにない、むちゃくちゃに近道をとりて、ただちに川を渡り、走りありき、売りながら八木へ帰るなり、という。話して見るに、何にも知らぬほんの愚夫なり。こんなものも山中であわば、仙人とか神仙とかいう人もありなん。山男もこの仙人と同例で、世間とはなるるの極、精神が狭くなり、一向世事にかまわず、里を離れて棲むものを山男というなら、脱檻囚や半狂人の山男は今日も多々あるべし。
 小生らが従来山男(紀州にてヤマオジという、ニタともいう)として聞き伝うるは、そんな人間をいうにあらず。丸裸に松脂をぬり、鬚毛一面に生じ、言語も通ぜず、生食を事とする、いわば猴類にして二手二足ある(猴類は四手(486)にして足なし)もので、よく人の心中を察し、生捉《いけどり》し殺さんと思うときはたちまち察して去る(故にサトリともいう)というもので、学術的に申さば、原始人類ともいうべきものなり。この原始人類ともいうべきもの、日本に限らず、諸国にその存在説多きも、多くは大なる猴類を訛伝したらしく、日本にも遠き昔はあったかも知れず、今日は決してなきことと考う。(ただし、今も当郡の三川・豊原村の奥山などには、この物ありて、椎茸を盗み食らうに、必ず傘のみ食らい、茎をすてあるなど申す。)山男が人と吼《ほ》え合いして吼えまけしたもの命をとらるなど申し、近野村でウン八《ぱち》とかいう男が、自分吼える番にあたり、鉄砲を山男の耳辺で打ちしに、汝は大分声が大きいと言うて消え失せしなどいう。その鉄砲は神社に蔵しありしが、今は例の合祀でどうなつたか知れず。山男とこの辺でいい、古来支那の山※[獣偏+燥の旁]・木客などに当てしは、右様の(仮定)動物、『本草綱目』の怪類にあるべきものに限る。
 貴下や佐々木氏の、山男の家庭とか、山男の衣服とか、山男の何々といわるるは、この辺でいう山男にもあらねば、怪類の山※[獣偏+燥の旁]・木客にもあらず。ただ人間の男が深山に棲むなり。前にも申すごとく、深山に久しく棲む人間は、精神がわれわれより見れば多少かわりおる。したがって、挙動も深山に慣れぬものにはいぶかしきこと多し。しかしながら、それはやはり尋常の人間で、山民とか山中の無籍者とかいうべきものなり。これを真の山男すなわち山※[獣偏+燥の旁]・木客と混ずるは間違っておると申せしなり。山民を見たくば、今日も西牟婁郡の兵生《ひようぜ》、日高郡の三つ又、東牟婁郡の平治川などへ往けば見らるる。三つ又のものは小生方へも来る。まことにへんな人間にて、人の家に入れば台所までずつと通り、別段挨拶もせず横柄に用事をいい去る。こんなものを山男と悦ぶは山地に往復したことなき人のことで、みずからその地に至りその家に遊ばば、言語応対が緩慢なるのみ、人情に少しもかわりなきことが分かる。ただし、三つ又ごときは、一村(一大字)のもの三人と顔を見合わすことなしというほどの寒村にてあるなり。しかれども、それ相応に理屈もいえば計略もあり。山にすむ男ゆえ山男といわばそれまでなれど、かかるものを山男山男というは、例の馬琴などが、江戸の市中に起こりし何でもなきことを、江戸で珍しさのあまり、いろいろと漢土の事物に宛てて、(487)女の声する髪結い少年を人妖とか、雷声の少し変わつたのを天鼓とか言うて怡《よろこ》んだごとく、吾輩毎度自分で山中に起臥したものなどに取っては笑止と言うを禁じ得ず候。
 小生、八年前、三番という所より、山を二、三里|踰《こ》えて長野という所へ下るに、暑気のときゆえ丸裸になり、鉄鎚《かなづち》一つと虫とる網を左右にもち、山頂よりまっしぐらに走り下る。跡へ文吉とて、沙河の戦いに頭に創を受けし屈竟の木引き男、襦袢裸にて、小生の大なる採集ブリキ罐二個を天秤棒でにない、大声挙げて追いかけ下る。熊野川という小字《こあざ》の婦女、二十人ばかり田植しありしが、異様のもの天より降り来たれりとて、泣きさけび散乱す。小児など道に倒れ、起き上がること能わず。小生ら二人、かの人々逃ぐるを見るに画巻のごとくなるゆえ、大いに興がり、何のこととも気付かず、ますます走り下る。(その処危険にて岩石常に崩れ下るゆえ、足を止むれば自分ら大怪我するなり。)下まで降り付きて、田栽中の様子に気付き、始めてそれとわが身を顧み、その異態にあきれたり。それよりいっそのこと、そのまま長野村を通り、田辺近くまでそのまま来るに、村の人々、狂人二人揃うて来たれりとさわぐ。これらは入居近き所ゆえ、これで事すみたれど、山中で臆病なものにあうたなら、必ず雷神にあうたとか山男にあうたとか言うことと存じ候。(現に山中で雷神にあうたなどいい山男にあうたなどいうを聞くに、パッチを穿ちありしとかハンケチを提《たずさ》えたりとか、胡論《うろん》なこと多し。小生自身も、山男ごときものが、除夜の夕、一升徳利に酒を入れ、深山の渓川をとび越え走るを見しことあり。実は深山に籠り仕事する炭焼きにて、その輩、里へ斬髪に出るを見るに、まるで狼ごとき人相なり。)まずは右申し上げ候。
 この状、十二時に出しに行くつもりで書き始めしが、はや三時になり候間、これより臥し申し候。
 恩借の『光台一覧』は、写しのこし候分写し、正月中には御返し申し上ぐべく、他の雑誌も一斉にその節御返し申し上ぐべく候。
 
(489) 大正十五年
 
          160
 
 大正十五年五月二十四日午前十一時過ぎ出〔葉書〕
 拝呈。二十二日出御はがき今朝九時拝見。中山太郎氏今度出板のものの跋文等に、なにか小生または小生知人にささわることあるよう、今朝岡書院より陳謝し来たり、小畔四郎氏その他より故障を申し来たりし由にて、拙方へ小畔氏よりもその旨申し来たり候も、この本は大冊と見え郵税おびただしくかかる由にて、岡書院は二十部を通運に托したるゆえ、なかなか小生方へは到着せず(時として半月も後れて着することあり)。したがって何ごとかわからぬが、小生にはさらに臆測すら出来申さず候。小生は昨年三月来、永々と病児の介抱して夫妻とも困りはており、中山氏の申し越しに任せ、一切のことを同氏に委《まか》したる上は、何ごとも小生より口を容るべきにあらず、ただ芳賀博士の『参攷今昔物語集』の末に『郷土研究』より小生の「今昔物語の研究」を丸とりに致しながら、これは小生が『郷土研究』へ出したものということを序、凡例その他にも一言もなしおらず、また、大場柯公が宮武外骨、小川定明と小生を大正三奇才と書きしを、中山氏が『同人』へ書きしことあり、書きぶりがあるいは小生のみずから左様のことを言いしように聞こえざるにあらざるゆえ、これは何年何月何日の『日本及日本人』に出でたりと、この二件を申し添えたるのみにて、他のことは一切関知せず。なにか小生の小疵になることならば、小生は一向かまわざるも、貴殿などにささわりあることなどは、何とぞただちに中山氏へ御かけ合い下されたく候。
 
(490)          161
 
 大正十五年六月六日朝七時前
   柳田国男様                                          南方熊楠再拝
 拝啓。岡書院より小畔氏が訂正および書加えを要する箇処に付箋および書入れしたる『南方随筆』一冊送来、一昨日午後三時ごろ相届き申し候。しかるに、小生、家に二人まで病人あり、介抱人二人まで傭い入れ、かつ只今菌類発生期にて例年の通りいろいろ注意して図記すべき箇条多く、その多くは一、二時間も経ればたちまちに色変わり腐り去るゆえ、何とも言われぬ多忙に有之《これあり》。また、小畔氏は日々会社事業に鞅掌《おうしよう》する人にて、あまり文筆になれず、したがって訂正する方がせぬ方に劣るようなところもあるらしく、到底かかるものに目を通しおりては、さらにいろいろと訂正すべきことを見出だし申すべく、しかる上は、いっそ自分筆を操りて自分のことを述ぶる方手早きように思われ申し候つき、訂正等は致さず、そのまま岡書院へ返送致し候。
 中山君は「私の知りたる南方氏」という題にて書き立て、中に聞き違いもあるべしということも断わられあれば、小生みずから自分の略歴をのべたるにあらざることは明白に有之。しかる上は何を書かるるもさらにかまわぬようなものに御座候。しかしながら、誰々がいえりと名をさして書かれたる人々に取りては、一向自分の言わぬことを言つたと書かれて、黙しおるも異なものにて、例せば小畔氏は一番多く名を出されおるが、これは小生より出たことは小畔に聞くべしと中山氏へ申し通せしゆえにて、小生は笑に小畔氏に気の毒に思いおり候。また、本多光太郎博士が小生のことをいえりとあるが、本多博士なる人を小生少しも知らず、ようやく一昨日あたりの『大毎』紙の広告にて、その人が仙台東北大学にあるを知りたることに有之。また、故土宜僧正は小生の飲友とありしよう覚ゆるが、土宜師(491)は酒をのまぬ人に有之。さて、貴殿が小生入監前後、在京友人惣代として見舞いに来られしとか、小生監を出たとき七升とか酒をのみしとか申すことも無根にて、貴殿と文通を始めしは、小生入監より一、二年おくれてのことと記臆致し申しおり、決して在京友人惣代として見舞いに来られしには無之。
 また、小生貴殿への書信に書きたる「一交而孕」の句を一発にてたちまち孕んだというようにかきなされおり候が、「一交而孕」は仏書を少しく見しものは必ず知る通り、鳩摩羅炎《くまらえん》が故事に有之。申すまでもなく、インドやアラビアには、婚礼すみて新夫妻は臥してその夜孕むを、その妻の平素の操行節制、身もちのよかりし徴験と致すことにて、このことなきを恥と致し候。さればこそ、その用意に種々の身もちの作法も呪誦までもあることに有之。王者、祖師などは、必ずこのこととその夜の父母の交合の姿勢(鸚鵡形、象形、猴形、天鵝形等)を明記し有之。(『類聚名物考』に、山岡氏がむかし遊女たりし老嫗より聞きしとて、山の井、雨得花、連なる枝、鶴のあさり、木つたう猿などと列ねあるも、かかることより作り出でたるにや。)サー・リチャード・バートン評に、欧州の学者が漫然優生学などと唱えて、滋養分の体格のと吟味喋々するが、事を行なうときの姿勢、動作等に一向頓着なきは何の優生学かあらん、インド等のこの姿勢説等は深く精査を要すとか申しおり候。日本にも古き人の申すごとく、新夫婦閨に入りて、まず庭の木の名を問うなどいうことあり、必ずその作法ありたることと存じ候。「一交而孕」をことのほか愛することは、和歌山などにも小生の幼時まではありたり。中山氏はずいぶん民俗学、ことにかかることに念を入れしらべた人らしきに、「一交而孕」ぐらいの故事を知らぬは怪しむべし。その他かような、俗に申す勘違いのこと多く、それを一々正しておりては小生本職もできねば介抱もできず。よって小畔氏書き入れの本は、そのまま手をつけずに岡書院へ返却致し候。
 すでに売り出したものを、只今かれこれ致したところが何の甲斐もなかるべく、それよりは第二板を出すに及び、この中山氏の「私の知りたる南方氏」の文を全部除きて出されては如何《いかが》にや。前日の御はがきにも二板にはもちろん(492)取り除かしむべしとありしは、やはりこの文を全然取り除かしむべしとの御意と存じ申し候。
 拙方に二人まで病人でき候につきては、ずいぶん人情あるものが聞かば酸鼻に堪えぬべき由来のあることなり。只今これを申しのぶるは易きことながら、どうも近来さしたることもなきに法廷へ召喚されたるごとく、むやみに人の文通をひき出して証拠とする風はなはだ行なわれ候ようにて、かくては五倫五常の一と数えられたる朋友という道は少しもなく、心底を打ちあくるの肝胆を披するのというつもりで書いたものは、たちまち不測の災難を招致するの裏切り道具となる、故に自分の外の人には一切物を打ちあくることのならぬ世となりたるように存じ申し候つき、ここには申し述べず。いっそ間違いのなきよう、その時に及ばば自分で世間へ公表致したく存じ申し候。最初、岡書院より『南方随筆』一冊到着せしとき、
  これは貴君よりの勧めにより送られしなり。他に六部もらいしは、小畔氏より末広一雄、中道等、平沼大三郎氏等に配分しもらい、今二十部は去月二十五日発送されたる由なるも、和歌山市駅より当地へ転送が渋滞し、今日までも到着せず。
拙妻などその末文を見て、この大病人をかかえたる男がいかなる事情あるにもせよ、今も日々酒二升、ビール二(?)本ずつ平気で飲むなどは、誰が読んでも狂気の沙汰としか思われず、はなはだ変なことを書いてくれたものと申し候。しかして、この文について小生に書信して、なにか小生に宿怨でもある人が書いたものかと聞き合わせ来たりしものあり。小生、研究所の基本金に寄付しもらうべき人、また、もらいたる人々に対してもはなはだ面白からぬことに御座候。岡氏よりの書信には、小生、編纂その他一切中山氏に一任すとのことゆえ、中山氏の書いたままに出板したりというような申し条ながら、かかるあんまりなことあるを見ば、何とか出板の前に小生へ御聞き合わせもありて然るべきことなり。最初中山氏より小生へこの稿を同氏へ売り渡すについての条件書を寄せる内に、本書の編纂は一切不肖(中山)に一任することとあり。要するに中山氏は岡氏へは小生より一任されたゆえ、止むを得ず承諾したといい(493)(序文、凡例にも左様書きあり)、小生には一切自分に編纂を一任することを要件として板権譲渡しをすませたるなり。故に詐偽を働きしことに相成り申し候。
 子供が全快後に及んでも、自分病気のためにかかることを書かれてまでも忍んでかかる書を出板黙過したなど聞き及びては、くり返しくり返し否難するも知れず、熊楠生きておるうちはよしとして、万一のことありて後はいかがすべきやと妻女どもが愁い申し候。
 英国の千万長者の娘で、小生と学論を久しくつづけおる人あり。近来、小生の文通絶えたるに、その女、亡父の遺篇を出板し、それに小生の学問成績を多く載せたれば、何とぞ一本を送りたきも文通なきものに送る能わずして、種々苦辛の末一計を案出し、他の英国貴紳が西京にありしとき駐《とま》りしホテルの支配人へ書信して小生の現状をしらべもらいたり。しかるにその支配人、何と心得たか、和歌山県庁警察部へ聞き合わせ、それよりそれと伝うて当地警察署より巡査来たり、小生の安否動静を聞かれ候。ちょうど病人の臥しいる次なる玄関へ来たりしに、妻居合わせ、心得て長屋へつれゆき、子細をきき、小生の動静を報じて事すみたるも、もし下女などが居合わせたるときに巡査が来たりとせば、玄関でそのまま応対が始まりしなるべく、病者は巡査来たれるを知りて非常に驚き興奮せしことと存じ候。しかして、小生かの女へ状を発し、そのホテルは西洋の貴紳を扱うほどのホテルにて、支配人も大抵日本の世間ぐらいは注意しおるべく、その巡査来たりし十日ばかり前に『大毎』紙に国自慢とか題し、和歌山県の人物として、知事二人(今、前の)、次に熊楠、次に安田、岡崎、有馬、野口などを写真と共に出しあり、熊楠は悴大病のため非常に困りながら、夜々研究をつづけおると書き立てあり、京都ホテル中に『大毎』紙を見るもの一人ぐらいはあるべきはずなり、実にけしからぬ支配人のあるホテルに貴国の紳士はとまるものかなといいやりしに、前方よりは二度びっくりとはこのことなり、巡査をして平人の安否を問わしむるも欧州にはあまりなきことにて、第一、人の伝をかくにその子息が病臥しおると書き立てるさえ、米国の外はなきことなり、貴国人はよほど米化したりと見える、と鸚鵡返しに(494)やりまくられ申し候。
 まことに誰かが秀吉公を筑紫で嘲りし歌のごとく、「世は逆さまになりにけり」で、万国|一《ひと》通りの作法は乞食までも心得たりとほめられた日本人が、これほどにまでなるとは驚き入ったことに候。世間がこの通りなれば止むを得ぬことかも知れぬが、小生に多少取るべきところありと思わばこそ出板されたる文稿集の末に、その小生が大患の子供のために痩せ衰えおるまではよいが、それと同時に平気で日々二升、二本ずつ飲酒するなどは、どうも前後揃わず、何のためにかかることを書いて本集の末に添えられたか分からず候。
 小生少しも聞きたがらぬに貴君のことを告げ来たるものあり、そのことははなはだ面白からぬことゆえ、見合わせと致す。ただ小生そのことをある一人に語れり、これは小生の過失なり。しかして、これを告げ来たれるものは貴君に何の恨みもなかるべき人なり。小生はその後かかることをいうものはろくなものならずと思い、何となく絶交しおわれり。その人は何故絶交されしか気が付かぬかも知れず。またこのついでに申す。小生はずいぶん酒を飲みたる男なり、これを飲みしには飲むべき理由がありたるなり、このことはゆくゆく世間に分かり申すべし、いかなる理由ありても酒を飲んだものが、今も酒を飲むように言いはやさるるは是非なきことかも知れず。しかるに、中山氏ほど書き立てた内に、小生が下女の閨へ這い込んだとか、私生児を孕ませたとかいうことは少しもなし、全くなきことは鬼もまた犯す能わずとさとり申し候。
 まずは右申し上げ候。敬具。
 
 
(495)   高木敏雄宛書簡
 
(497) 明治四十五年(大正元年)
 
          1
 
 明治四十五年一月三十日〔葉書〕
 拝啓。『東京朝日』小生の集めし諸話出で候分なるべく御送り下されたく候。小生は少しも外出せず、したがってかかるもの一向眼にふれず候。
 左義長のことは拝見仕り候。これは北半球には交趾《こうし》支那を始め、それより北方には必ず多少似寄りたること有之《これあり》候。『ジャータカ』の英訳は、
 Rhys Davids,‘Buddhist Birth Stories,’London,1880. 巻一出でしのみ。
 ライス ダヴィヅ
 Chalmers,Neil,Francis and Rouse,‘The J?taka,’V.Fausböll の独訳より英訳6volumes《6册》,Cambridge,1895-1907.
 右の外に完全なものはなきように御座候。なお‘Journal Of the American Oriental Society,’vol.xviii,1897 に Sergei Oldenburg の『ジャータカ』の論文あり、参考として必要に御座候。
 正月の『太陽』に出し載せたる「猫一疋より大富となりし話」は客年十二月二十三日の『ノーツ・エンド・キーリス』に出であり、『一切有部律』より見出だせしなり。貴下仏教の里伝、古話を見んとならば、『ジャータカ』よりは小乗律蔵の諸本を見らるべく候。一切経の中にあり。
  小乗律の諸本とは、『一切有部毘奈耶』、『一切有部毘奈耶雑事』、『十誦律』、『四分律』、『一切有部|?芻尼破僧《〔ママ〕》事』(498)等に候。
 
          2
 
 明治四十五年二月六日〔葉書〕
 拝啓。『朝日』へ載せらるべき猴《さる》退治の話の末へ、そのとき神鍋をたたきて相図としたるゆえ、今に山小屋にて鍋をたたくをはなはだ不祥のこととし禁ず。また、リス(栗鼠)を魔性のものとし、一匹打てば打つものの前後左右ことごとくリスを現出し、取り囲まるという。この二事は柳田氏へ報ぜざりしよう覚え候ゆえ付記致し候。
 『奇異雑談集』というもの六巻ありという。小生幼少の時より見たく存じ心掛くれども、見ること能わず、貴下の知人等御所持なきや。また東京図書館にありと聞く。誰か相当賃を出し、小生のために全本写しくれずや、御問い合わせ下されたく候。欧米の図書館読書者中には写本を業とするもの多く、小生もこれを糊口の資とせしことあり。
 
          3
 
 明治四十五年二月二十五日〔葉書〕
 拝啓。俗小説|神洞《しんとう》(『明和水滸伝』など申す)と申す賊、常陸|牛久《うしく》の士の子なりしが、幼少のとき外祖父方へ往き、小柄《こづか》を草履の下へ挿み、盗み帰りしを見て、その父太田嘉伝次これを武州へつれ来たり、旅宿へ放置し去りしと申す。この話は『奇異雑談』より出でたること分かり申し候。この他にもいろいろ大いに益を得申し候。
 さて小生、昨年四月柳田君と文通を始めてより、五十余通の細字の書簡を、柳田氏、人に写させ六巻となしある由、そのうちに今度御尋ねの werwolf に関することも少々ありしと覚え候。小生は近ごろ家事係累多く、かつ植物学と神社合祀といろいろの学事摸索と一時になるゆえ、かかる長々しき書簡はこの上認むること能わず。貴下なるべく柳(499)田君に着の六巻を借り覧《み》、貴下に用ある処を抄し置かれたく候。夜より寝ずに調べ、また翻訳せることも多く、中にはわが国で見られぬ希珍の書も多く候。小生がしらべしのみで小生の功にあらず、多くは先輩東西人の書を抄記したるなり。小生の見解採るべからずとするも、材料としては十分参考に資すべきものに御座候。右ちょっと申し上げ置き候。柳田氏方に一本あるのみなれば、失いおわられたらそれきり二度と世に出ぬものに御座候。早々以上。
 
          4
 
 明治四十五年三月十日午後二時〔葉書〕
 葉書八日付まさに拝誦。鵠女の朝鮮の話は小生知らず。何とか申せし、世界中の最近伝話学上の項目を列せる目録毎年出ず。これを見ればはなはだよからん。その題目は神社事件すみ次第さがし出し差し上ぐべく候。ただし本邦にはありや否知らず。鵠女に似た話、『古今図書集成』高麗部にありしように存じ候。その部はことごとく写し取り、只今眼前にあれどもちょっと見出だせず、見出だし次第申し上ぐべく候。ただし記臆確かならぬゆえ、貴下ことさら捜しても全くなきも知れず候。また、ミダス王の話のうち、その箇々のインシデントの類話は多く有之《これあり》。これも何様《なにさま》只今神社一件で貴衆両院より神社一件出で、小生はその発頭人なるゆえ、はなはだ多事なり。小生関係もっとも深きをもってちょっと捜し出し得ず。ただ一つ申し上ぐるは多少これに似たる話(すなわち髭剃がミダスの耳驢のごときを穴の中へ囁きこみしこと)、Niebuhr の『アラビア紀行』に有之、その全文も右坐右にあるがちょっと写し得ず。すなわちアラビア人ははなはだしく屁を厭い愧じ、屁ひらんとするときは沙漠中、人《ひと》隔《へだ》てたる処に走り行き、砂掘りその中へスーツとすかし込み、あとを砂で埋め何くわぬ顔して返るということなり。
 柳田君近ごろ音信なし。小生「燕石考」は只今材料品写真とりおる最中なり。貴下は『太陽』記者に知人ありや、また、右「燕石考」同誌へ出すこと世話し下さるべきや。世話下さるるなら、四、五日中に写真類共に原稿貴下へお(500)くるべし。
 
          5
 
 明治四十五年三月十日午後八時〔葉書〕
 前刻状出の後、小生一昨年『牟婁新報』へ出せし「隠れ蓑、隠れ笠、打出の小槌」の材料等を集め候手帳みしに、Sir G.W.Dasent の‘Popular Tales from the Norse’に、三兄弟おのおの望みを叶《かな》えもらうに、長と次はポケットに手入るるごとに金銭を得、しかるに季《すえ》は出逢う女ごとにほれてくるという望み叶う。三人共に旅するに、旅舎主の妻|季子《すえつこ》にほれ、はさみ一つくれる。これをもって空中より最妙の衣裳を仕立て得、次の旅宿の妻またこれにほれ、広げさえすれば最妙の食を生出する卓掛けをくれる。次の旅宿の妻またこれにほれ、いつでも最妙の酒を出す吸い口 tap をくれる、云々。委細は小生只今記臆せず、また Dasent の書は人にやってしまい今はなきゆえ見ること成らず。右のポケットに手入るれば金銭を得るという話、ややミダスに似たればちょっと申し上げ候。ミダスとは大分違うが、唐の菩提流志訳『不空羂索神変真言経』巻五に、不空羂索の呪をもって薬精神を捉え、それを打ち、その身出すところの甘露をとり貯え、木瓦石銅銀に塗るにみな金に変ず。また巻一一に、悉地王、真言をもって白芥子を加持し、功徳天像を十万遍打つとき像より光明出ず。また、白芥子を加持し一千八遍打つとき、功徳天空中に現われ、珍宝を雨《ふ》らし、壇上に満ち、壇内の供物みな金に変ず、と。
 
          6
 
 明治四十五年三月十五日午後三時
   高木敏雄様
(501)                 南方熊楠拝
 拝啓。十三日付尊翰拝見、鵠女伝説は仏経および支那に多少|有之《これあり》候ことと記臆仕り候。例せば、『六度集経』巻八に見えたる、天女浴するところを道士に衣とらるる話など、似たことに候。文あまり長きゆえ、今写すこと能わず。姑獲鳥のことは swan maiden にはなく、changelings の話類に属するよう存じ申し候。その考証は、拙文「出口君の『小児と魔除』を読む」(明治四十二年五月二十日の『東京人類学会雑誌』三〇五頁)に出でおり申し候。また、紅皿欠皿のことはシンダレラの話属と存じ候。これは四十四年三月の同誌発頭に「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」と題し有之候を御覧下されたく候。
 一切経は浩瀚なものにて、とてもちょっと見通し得ず。小生は十分の七まで目を通し申し候。抄したること多きも、索引なきためちょっと一々見出だし得ず。まずはフォークロールの参考とならば、第一に目録について、「西土聖賢撰集」『出曜経』以下『十二遊経』まで(一七三套至一七八套)、次に小乗経「阿含部」を『中阿含経』より『仏説楼炭経』まで(七八套より八七套に至る)、次に「小乗律」のうち『十誦律』より『善見毘婆沙律』まで(一〇八套−一二一套まで)御覧あるべく候。しかるときは、今日西洋でかれこれいう『ジャータカ』などよむよりは、はるかに益多く御座候。「阿含部」と「小乗律」とに重複のこと多し、故に「小乗律」をさきに読むも宜しく候。しかしいずれもフォークロール外のこと多し。故に「西土聖賢撰集」は純粋に話ばかり、「イソップ」「グリム」様に集めたものゆえ、貴下ごとき多忙の人概梗を知らんとならば、必ず「西土聖賢撰集」をまず読まるべし。右読んだ上、多分は複重ながら、小乗経の「単訳経」の部、『正法念処経』(八九−九〇套)、『仏本行集経』(九一−九二套)および「五大部外重訳経」のうちの『六度集経』(五三套)を見らるべく候。
 このほか読まんとならば片はしから読み抄するほかなし、実に手数繁きことに候。
 右経の名の下に添えたる套数は黄檗板(貞享・寛文間の)(北蔵)の套数なり。貴下のは何の板か知らねど、大抵右(502)の套数の順で見当たることと存じ申し候。
 小生、御存知通り神社合祀反対のことに奔走すること三年、去る十二日衆議院にて中村啓次郎氏(代議士)大演舌をやりし由にて少々安心するものの、その演舌の筆記出たる官報今に手に入らず。さて白井博士(光太郎氏)小生に同意し、大奔走して柳原伯等より貴族院へ建議案出るはずのところ今にその沙汰なく会期は迫る。また、今年は総選挙にて自分打って出で当選せしため、同じく合祀反対の張本人にして内訌を生じ、合祀などのことをすておき、また、互いに嫉視するため合祀賛成を唱うる者出で来たり、まことに成り行き心配致され、いろいろ空想苦辛致し昨夜も眠らず、何とか早く成功すればよいがと存じ候も、身田舎にあり一向思うように参らず、毎夜心配のため熟眠せざるをもって、眼はなはだ弱り、筆とる手先明らかならず、長文を抜記することは出来申さず、しかしそのうち何とか方付き申すべしと存じおり候。
 Baring Gould,‘Curious Myths of the Middle Ages’(この書は明治二十年ごろの目録に上野図書館にもありし。著者は小生と同じく久しく大英博物館に読書せし老人に候)に鵠女の条あり。それにはアジア民のこの譚、韃靼人、契丹《カタイ》人、サモイデス、フィンス等のものを挙げ有之《これあり》候。朝鮮のは何分小生の走り書き、自分ながらちょっと読みにくく、そのうち眼を息《やす》めた上とくと通覧見出だし申し上ぐべく候。似た話を探し出すと底のなきものに御座候。
 『今昔物語』に、紀州の白鳥の関の故事あり、女が弓になり、弓が女になる話なり。この話、末欠けたれば何とも分からぬが、これもやや鵠女の話に似たことに候と記臆す。
 三保の松原で伯竜という男が天人の衣をぬすみ、妻とするなど、みな鵠女譚の属なり。支那のやつは、『淵鑑類函』の鳥の部を(なるべく鵠、鶻等の水鳥)通覧せば、必ず多少あることと存じ申し候。
 『改定史籍集覧』の『四国通記』〔【『南海通記』】〕に載せたるサルレ(讃留霊)王の話、これまた徳川氏前の俚話なり、似たもの北米土人等の間に行なわる。
(503)  小生、眼弱りおり、長く筆操ること能わず。「燕石考」は写真みな出来上がりしが、そのうち書き直し送り申し上ぐべく候。
 
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 明治四十五年三月十五日〔葉書〕
 前刻状差し上げ候後、『古今図書集成』を写したるを見るに見当たらず、覚えそこないと存ぜられ候。『淵鑑類函』の地理部および神仙のところ、また、『大清一統志』(『大明一統志』も大概同じ)の地名を一々見れば、似たこと多々あらんと存じ候。小生手許にある『類函』中少々似たことを左に申し上げ候。ただし、水鳥が人に化けたという点のみ似たるなり。
 巻四二六、二葉裏、「晋の大元中、章安郡の史?《しかい》のもとに、駮《ブチ》の雄鵝の善く鳴くものあり。(ハクチョウ swan を天鵝とも鵝王とも申し候ゆえに、ここにいえるは鵝 goose か swan か分からず。)?の女《むすめ》、常にこれを養う。食らわず。荀倹《ジユンケン》、苦《ねんごろ》に求めてこれを得るも、鵝すなわち食らわず、すなわちもつて?に還《かえ》す。鵝、女にあらざればまた数日して晨《あした》に起くれば女と鵝を失う。隣家、鵝の西に向かえるを聞く。追いて水《かわ》に至れば、ただ女の衣と鵝毛の水辺にあるを見るのみ。今この水《かわ》を名づけて鵝女渓となす」。これは鵝雄が人の女と通ぜしというように聞こゆ。
 二五葉表、『江湖紀聞』にいわく、「宋の時、潮州に富人あり。江《かわ》を行きて二子の美貌なるに見《あ》う。いわく、一は兄、一は妹にして、双生なり、早く怙恃《ふたおや》を失い、舅氏《おじ》に養わる、舅《おじ》の母《つま》容れず、丐《ものごい》してもって日を度《わた》る、年十三なり、と。よって携《ともな》いてもって帰る。兄はよく魚を捕え、風雪にも倦《う》まず。魚を得れば、主《あるじ》に献ずるのほかは、分かちて二子のために啖《くら》わしむ。妹は鴛鴦の?刺《ぬいとり》をもっぱらにす。毫毛も倶《みな》備わり、その工巧《たくみ》を極む。居ること三年にして、女長ず。富人これを犯さんとすれば、すなわち年|幼《おさな》しと辞す。彊《し》うべからず。その襦《はだぎ》の間に詩を題していわく、云々」、(504)兄と共に「双《つがい》の鴛鴦と化して飛び去る」と。鴛鴦は水鳥なり、おしどりにあらず。日本になし。
 
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 明治四十五年三月二十日〔葉書〕
 芳翰十七日付拝見。民俗学会のプログラムは今少し書き様ありそうなものと存じ候。先日柳田氏へ送り置ける『大英類典』一一板より引記、御覧参考下されたく候。貴案のごとくにては、医方 leechcraft, また種々の文学にあらざる歌唄、謎、洒落《しやれ》等の置き処なし。また、工芸は小生巧技とか技芸とかする方宜しと存じ候。原語は同じことならんが、工というと左官、大工、彫刻等に限ることのごとく見え申すべく候。信仰は所信とでも訳したら faiths(superstitions のことにもなる)に当たるべし。起原談(博文館の『黄表紙百種』にあり。京伝等はわざと多くいろいろのこじつけを作れり。これ……することの起こりなりという話)、myths(鬼神誌と訳するは中《あた》らず。鬼神の入らぬ myths 多し。もとゆいを水に浸せばはりがね虫に化し、山の芋がうなぎになると信ずるごとし。不十分ながら間違うた経験より出たるそのころの science なり)などは、(一)に入るべきか(二)に入るべきか如何。風習は風習、作法と明らかに二つに分くるをよしとす。風俗と習慣は二にして一なり。作法とかくほど判然たらず。正五九月に婚姻を行なうもの多きは風習にして、欧州人が交合の前必ず陰戸を見、マラバル人は必ず女、男の上になりて行なうは作法なり。
 『和漢三才図会』に、浄蔵が八坂塔を祈りしこと『奇異雑談』にありという。しかるに貴下より写し送られし本にはなし。貴下のは略本と存じ候。義浄訳『根本説一切有部芯芻尼毘奈耶』巻一七に、むかし婆羅?痘斯《はらにし》城に一金宝作師あり。「妻を娶り、いまだ久しからずして、ついに一女を誕《う》む。年長じ大きくなりしとき」、父死して鵝王と生まれ、「飛んで宝洲に往き、一の宝珠を銜《ふく》み、晨朝《あした》の時に女《むすめ》の門の下に置く。女、宝珠を収む。毎常《つね》にかくのごとし」。この女、のち鵝の来たり送《とど》くるを伺い知り、「この鵝の身中|並《みな》これ宝蔵なり」と思い、羅《あみ》を張り執《とら》えんとす。その恩に負《そむ》(505)くを怒り、また来たらず。これは鵠女のことに関せねども、人が鳥に化し信切を尽すという話の一例、インドにありとして申し上げ候。
 
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 明治四十五年三月二十三日〔葉書〕
 拝啓。別に必要なきことなるべきも、鵝王に関すること、ちょっと申し上げ候。『大方等大集経』巻二二、曠野鬼品第一二に、「その時、曠野菩薩はすなわち鬼身を現《げん》じ、散脂《さんし》菩薩はすなわち鹿身を現じ、慧炬《えこ》菩薩は  禰猴《びこう》身を現じ、離愛菩薩は?羊《こよう》身を現じ、尽漏《じんろ》菩薩は鵝王身を現ず」とあり。インド今行なわるるヒンズイズム諸神像中にも、鵝か鵠に乗りし神ありと記臆仕り候。古い本ながら Moore の(Hindoo Pantheon)とかいう書にその画ありしと存じ候。佐夜の中山夜鳴き石とか申すこと、貴下の蒐集中に有之《これあり》候や。小生は『東海道名所記』に、ここで盗人とかが女を殺せしに、その子ふしぎに腹中にありて死せず、僧とかに助けられて出で活き生長の後、かの盗を殺し返讐す。命なりけり佐夜の中山、と唱えながら盗を斬りしとかありしと記臆す。それより古き書に見しことなし。後の小説にはいろいろ脚色せるもの多し。『名所記』の記するところは実に短く候が、貴下はその他にも寛永から万治ごろの書に御見当たり有之《これあり》候や、またそれより古きものにも見え候や、御教え下されたく候。
 小生、大英博物館にありし日、肥後の井沢蟠竜子の(?)『広益俗説弁』というもの見たり。貴下伝説を集むるにはなはだよき土台として下題《げだい》を得ることと存じ奉り候。
 長谷川宣昭の『三余叢談』に、『真俗雑記問答抄』二〇に、とて天井に女を磔にかけ、その他多く引きたるを見るに、多くは『奇異雑談』にあることなり。『奇異雑談』は『真俗雑記』という二〇巻もある書の抜記かと存じ申され候。
 
(506)          10
 
 明治四十五年三月三十日夜九時半
 昨夜眠らずに十三枚かき、今朝書留郵便して差し上げ候。小生英国送りの植物標品数十、五、六日かかりしらべ、ろくろく眠らず、また、神社一件にて心配たえず、ために昨夜眠たきを推して、原稿(もっとも長大なるもの、とても雑誌へ載らず)より要点を書き抜き候。すこぶる不出来に有之《これあり》、よって十三葉にて止め、それだけ差し上げ候。これが載らば、あとの分はなるべく気をつけて書き直し、読む者に興味を持たすよう心がくべく候。
 実は白井博士の論文、中村代議士の演説その他に材料を給してしまいしゆえ、なるべく重複のことなきようと心がけて書き抜きしゆえ、flat 索然無味のところ多く相成り申し候。
 電信料は二十五銭と存じ候。今夜銭なく、明日銀行へ金とりに行き候帰途、御返し申し上ぐべく候。
 右、今朝郵便差し上げ候後、夕まで眠り、それより起きて申し上げ候。
 貴下の編纂のフォークロール集は、一応題目拝見致したく候。しかるときは、小生より貴下のに洩れたる題目を加え得申し候。
 次に acknowledgement のことにつき、小生従来欧州にてしばしば大喧嘩を仕出かし候こと有之。前日も英人エー・コリングウッド・リーが Bocaccio の諸談の類似品を集出すとて、小生に材料を頼みに来たり、供給しやりしに、婦女が男の上になりて交会すること(支那にて倒澆?とか申す)を、イタリアの古書より見出だし、教えやりしに、小生見出だせし由記せず、自分見出だせしよう記し有之、はなはだ卑劣なる仕方と存じ、その後音信を絶ち申し候(A.Collingwood Lee の‘The Decamelon, its Sources and Analogues’)。また、大阪のある名高き(?)史家が友人某学士の書より多く説を採りながら、少しも acknowledge しなき由承り候。
(507) 小生、本邦に海波を好む蘚《こけ》あるを幼年より知り、英国にていろいろ調査せしも見当たらず。帰国後、九年前、当国で人のあまり行かぬ荒き海浜でこれをとり、秘し置きしに、同国人岡村周諦氏は斯学熱心の人なれば、かかるものを知るかと問い合わせしに知らず、欧米に名高き海波を好むグリンミア・マリチマというもののことを知るかと問い合わせしに、知らずと答う。よってみずから和歌山に之《ゆ》き、自蔵書をさがし、その記録を見出だし写して送り、同人始めて気づきしなり。さて件《くだん》の、小生当国で見出だせし海生蘚は、岡村氏これを分析験して、果たして小生いうごとく、海潮に生じ塩分を含む蘚に相違なきをたしかめ、新種として一昨年公表せり。海潮に生ずる蘚は、これにて世界中に一つより二つとなりたるなり。しかるに、この公表の印刷物中に、
  予(岡村氏)かねてより欧米にグリンミア・マリチマなる海生蘚あるを知り、年来その採集につとめしも見当たらず。しかるところ、近日南方熊楠氏、多くの蘚を送らるる中に、「海波のかかる処に生ぜるもの」と付記せる一品あり、これを検してグリンミア・マリチマ外に本邦また新たに一の海生蘚あるを発見するに及べり、云々。
とあり。これでは、小生わざわざ和歌山に往き、年来知りおりし文献について、グリンミア・マリチマのことを探り出し岡村に報ぜしことは、一向消えてしまい、小生に教えられて始めて気づきながら、年来捜しおりたりとは虚言にて、小生は何の考えもなく、ただ一の海生蘚を岡村におくり検定をたのみ、偶然その海生蘚なることを岡村によって見出だされたるように聞こえ、小生は小児が何の気もつかず、馬の糞と思いながら金塊を拾い、人に見せて初めて分かったような書き方なり。
 さて岡村氏はどんな人かというと、実に気の小さな謹慎綿密の人であるなり。小生(また誰も知る)親しく観察するに、ギリシア、イタリア等の南欧の人にうそはなはだ多し。うそを挨拶のごとく心得おる。たとえば、昨夜なぜ来なんだかと問うに、「昨夜か、昨夜は親族に病人があったから」など即席に答う。実際うそなるは、そこへその病気なるべき親戚が来合わす等のことあるにて分かる。されば、風俗学者は、南欧人と北欧人を分かつに、このうそつき(508)症の有無を一の特徴とする人あるほどなり。小生みずからも十五、六歳のとき、始めて東京へ出で、関直彦氏を訪いしに、馳走すべしとのことなり。小生何の気もなく、今日は用事あり、明夜参上すべしといいて帰る。かかることは、和歌山市の人は、挨拶と心得おるなり。しかるに、関氏も和歌山人ながら東京そだちゆえ、これを真実語と心得、明夜、日報社行きて、福地源一郎氏に断わり見合わせ、中松盛雄(只今専売特許局長)氏を招き、旧友のことゆえ悦ぶべしとて、小生をまつこと三、四時間、小生は何の心つかず宿屋で睡りて過ごせしことあり。和歌山はかくのごとくうその多き所なり。故に兄弟骨肉といえども、言うたことを言わぬ、言わぬことを言うたくらいのことは恥ずるに足らずと思いおり。小生久しく海外で育ち、帰りて自分の惡いことも人の悪いこともかまわず直話するを聞いて、狂人のごとく思いあきれおる。そんなことゆえ、自分生まれた所ながら、一向和歌山へ往かず。さて世界中から見ると、日本人全体がちょうどこの和歌山的のうそを何とも思わぬ風はなはだ盛んなり。官報などよみて、政府当局と議員とのかけ合いなど見られよ。双方うそと違約のほかに何ごとをもいわぬ有様なり。されば岡村氏ごときも、みずから事実を枉《ま》げたるに気づかぬか、または、あー書かねば文章がちょっとかけぬくらいのことと存じ申し候。
 小生は当地にも和歌山の自宅にも、蔵書は日本人としてはずいぶん多き方なり。また、大英博物館で、長くおるうち、奇僻希珍高価の書をずいぶん多く書き抜きたるもの今もあり。これを何の益にも立てずにおいたりとて何にもならず、また、ちょっと他人に読めぬもの多し。(小生かの地にありし間は、かの地には字書とポリグロット本 polyglot(対訳本)自在なるゆえ、十八、九の語を自在に読み、書き抜きたり。只今は四、五しかたしかに読み得ず。)しかるに今度の神社一件の論文ごとく、他人に入用のところを自在に供給して世間へ出し、さて自家には何にも残らぬとなる上、これを引用する人、ただみずからその書を見たようにのみ書かれては、小生は徒労の訳生か写字生のようなものとなる。故に、貴下も注意して一々標識しては字数もふえるが、然るべき方法で、小生より申し上げた著しきことだけは、acknowledg されんことを望むなり。
(509) これも誰氏から承る、これも彼人から承るとかき続けては、文章にならず。さりとて、人から聞いたことを自分見出だせしようにかくも、卑劣千万なことにて、京伝が『北越奇談』をどうしたとか、高田与清が京伝の説を盗んだとかの争いで、京伝は血を吐いて死せし由、『しりう言《ごと》』に見えたり。ジスレリーの‘Curiosities of Literature’にも、“Quotation”と題し、人の説を引く心得を論じたり。右は小生何一つ貴下にこれという材料を給せしことなきも、後日万一の場合にそなうるため申し上げおく。これほどの準備なくては、十分に意見を述ぶることならず。合祀意見ごときは、始めから誰が功を立つるとも、合祀さえ中止さすればよしという見解でかかりしことゆえ、義士討入りに、敵の首取りしものも、屋根に上りて注進に行くものを禦ぎ留めしものも、功に甲乙なしと定めたるごとく、小生全く材料を他の諸氏に引き取らるれば取らるるほど、小生の喜悦するところたり。
 御下問の、逃ぐるとき物をなぐる話、本邦にも少々ありしと覚ゆるが、今思い出ださず。ただし支那にこの話あまりなきようなるが、文献外に古くこの話ありしが仏者の伝となりて残れりと覚ゆるもの、左に一つ申し上げ候。(なお『列仙伝』等探らばあるかも知れず候。)
 梁の慧皎(承聖甲戌、五十八にて死す)の『高僧伝』巻八に、釈玄暢、虐虜(魏と存じ候)仏法を滅するとき、「唯《ひと》り走《のが》るることを得。元嘉二十二年閏五月十七日をもって平城より発し、路は代郡・上谷に由《よ》る、云々。路に幽《ゆう》・冀《き》を経、南に転じて孟津《もうしん》に至らんとす。ただ手には一束の楊枝と一|扼《やく》の葱葉とを把《も》てるのみ。虜騎|逐追《ちくつい》して、まさにこれに及ばんとす。すなわち楊枝をもって沙を撃つに、沙起こって天|闇《くら》く人馬|前《すす》むあたわず。しばらくあって沙|息《や》み、騎すでにまた至る。ここにおいて身を河中に投じ、ただ葱葉をもって鼻孔中に内《い》れ、気を通じて水を度《わた》る。八月一日をもって揚州に達す、云々」。
 この地におりて貴下の知った分と知らぬ分を判断するはすこぶるむつかしく(二月の『人類学雑誌三【二八巻二号】〕に、柳田氏のサンカとクグツの論あり、南方熊楠氏の言に、娼と巫と兼ぬるは外国にも例多しとのことなり、とあり。これ(510)は小生には分かりきったことで、その例はおびただしく扣《ひか》えおる。また、わが国のクグツに酷似せる例も多く知りおる。柳田氏も定めて知りおることと思い、特に注意せざりしなり。柳田氏知らぬと知らば、多く例を訳出し渡すべかりし)、自然、これは高木氏存知なるべし、これも高木氏知りおるならんと斟酌して、差し扣える気味になる。これもっともなることで、入らぬことを多く写して進ぜたところで、貴方にはすでに知りおること、小生方には無用の暇潰しとなる。故に、なるべくは貴下の知ったことを一々箇条書きにして示され、それになきことを求めらるるか(柳田氏が『人類学雑誌』〔【二七巻一号】〕に出せる「山の神をこぜ」のことの条のごとく)、また、馬琴が『烹雑記』を北村慎言(屋根職を業とせしが博覧なりし由)に示して補漏を求めしごとく、原稿を示されなば、小生はそれに対し自分の意見を付するを得て、はなはだ便利に有之《これある》べく候。
 貴下は、W.A.Clouston の‘Popular Tales and Fictions:their Migrations and Transformations,’1887 を通覧したりや。これに“Ungrateful son”と題し、姥捨山類似の話多く集めおり候。例の『枕草紙』の蟻通しの翁の話も、多少これに類せることなり。(これは今もインドに行なわる。)小生多日眠らぬつかれにて熱出で気分悪しきゆえ、これにて擱筆致し候。
  寂照、唐朝で鉢を飛ばせし話(『宇治拾遺』)は、似た例貴方に多くありや。小生前年 Notes and Queries へ一文出せしことあり。
 
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 明治四十五年四月一日午前四時
   高木敏雄様
                    南方拝
(511) 拝啓。前日の電信料は二十五銭と存じ候つき、二十五銭郵券(三銭のもの八枚と一銭のもの一枚)ここに封入仕り候。小生、『日本人』 への稿認めたる後、一昨日夕まで眠り、それよりその夜少しく眠りたるまま、昨日終日顕微鏡用い、眼大いに痛みたるも、柳田氏へ通信することありて夜前認め、それより『華厳経』を抄し、そのついでにまたこの状差し上げ候。貴下御存知のことなるべきも、姥捨山のことちょっと申し上げ候。
 『大和物語』に見えたることは、ずいぶん実際ありそうなことにて、別に奇怪なことなし。それよりやや体裁を具えんために変化して作り設けしと覚ゆるは、小生は見ず候えども、川島友吉(昨年の『冒険世界』に押川春浪のこの人の伝出でたり。画は無双に上手なれども、惜しいかな勉強せず。大胆の人にて、小生かつて百円渡し立山に植物を採らしめしに、土地の者の行き得ぬ嶮路を歩み、三町ばかり谷へ落ちたることあり)という人の話に、『田毎の月』という書あり、それに、むかし男あり、母を山へ捨てに之《ゆ》く途上、その母樹枝を枝折《しお》りすること止まず、頂上に之《ゆ》きて、何故枝折りせしぞと問いしに、
  奥山に枝折《しを》りするのも誰《た》がためぞ、わが身を捨てて帰る子のため
 すなわち子が還るに道を失わぬよう、捨てられに行く母が枝折りせしとなり。子大いに感慟して、また母を負い帰る、と(この人は歌など知らぬゆえ、暗記おぼつかなし)。これは小生 prose に訳し、リー氏さらに訳して詩となし、四年ばかり前に、『ノーツ・エンド・キリス』に出せり。前状申し上げし Clouston の書に、“Ungrateful son”(原憲、車を帰せし類語)多くあるを、リー氏またおびただしく増補し、『ノーツ・エンド・キリス』へ出せしときなり。
 しかるに右のほかに談を奇怪にせしものあり。下河辺長流の『続歌林良材集』(貞亭元年板)巻上に、子のために枝折りすること、
  奥山にしづが枝折るはたがためぞ、わが身ををきて捨つる子のため
 右、むかし駿河の国に住みける者、父の年老いて死なぬことをうるさしと思いて、富士の山にもて往きて捨てんと(512)て、かの親を抱きて行くに、その親道すがら枝折りして行く、これはわが子の帰らんときに道を迷わさじがためなり。さて山に入りて父を捨てんとする時、たちまち地裂け、この子奈落に落ち入らんとしければ、父悲しんで、かの者のたぶさを捉えて、この歌を詠みたりければ、子の命助かりけり、といえり。それよりのち富士の山をば枝折り山と名づけたりと、云々。
 これは仏経より出でたること疑いなく、後世|売僧《まいす》の所設ならん。『雑宝蔵経』巻七に、子が美麗なる母にほれ、病んで死せんとするをあわれみ、ついにこれを許す。「すなわち児を喚び、その意に従わんとす。児まさに床に上らんとするや、地すなわち擘破《さけ》て、子即時に生身陥入す。母、驚き、手をもって児を挽《ひ》き、児の髪を捉え得たり。しかして児の髪は、今日なおわが懐中にあり。このことを感切し、この故に出家せるなり」と、母、比丘尼になりて語りしことをいえり。その次八巻に、「不孝の婦、その姑を害せんとして、反ってその夫を殺す縁、第一一二」とて、婦、夫に勧め、その母を殺さしめしに、その夫、母をつれ出し、「曠野中にて、手足を結縛し、まさに害を加えん」とするところを、霹靂に打ち殺されし由いえり。この二話をもじり合わせ、本邦のこととせしと存じ候。
 貴君は、右の Cloustonの‘Popular Tales and Fictions:their Migrations and Transformations’を読みたりや。英訳の『ジャータカ』なんか求むるより、この書を読むことはなはだ必要と存じ候。『ジャータカ』は、漢訳の『六度集経』、『仏説生経』くらい読まば沢山に候。英訳の『ジャータカ』は、簡単なる小児咄のようなことばかりに候。
 スウェーデンの Moa と、今一人と終始一致してその全国の古話を集めたる大著述あり。実に見事なものなり。小生は何とか貴下と協力してかかるもの編みたく存じ候。
 柳田氏より聞かれたる当郡|兵生《ひようぜ》の話、猿と栗鼠《りす》と兎と牛鬼が化けて猟人に打たるる談は、やはり一つの myth(起因譚)にて、結局が「これ山家《やまが》にて鍋をたたきて音を出すを忌む所以なり」というに候。
 また、柳田氏に申しのこせしと存じ候てここに書き付け候は、兵生辺にて、今に栗鼠は魔物《まもの》なり(故に右の話にも(513)山伏とせり)、これを打つときは、四面八方ことごとく栗鼠を見ると申し伝え候。
 今は栗鼠 squirrel をこの辺でキネズミ、山鼠《やまね》dormouse(栗鼠と鼠の間のようなもの)をギスと申し候。リスの訛か。(ラテン語の一態にも、山鼠をたしか glis と申し候。ギボンの『羅馬《ローマ》衰亡史』にも見えたり。)栗鼠、むかしは東京の上野にもありし由。ヤマネは富士山等にあり、当国当郡共生の安堵峰《あんどがみね》にもあり、木材などの中に、どこから入りしともなく入りて蟄しおる。死したるごときを取り来たり室内に置くに、いつともなしに逃げ去る。奇怪のものゆえ、魔物とせしならん。この輩いずれも、鼠を相《み》るに礼あり、人として礼なけんや、と漢人がいえるごとく、立って拱礼するがごときゆえ(礼鼠というものもこの一種ならん)、山伏などと作りしならん。動物が一つ打たるると、その側へ多く集まることあり。むかしこの辺にかかる獣多かりしときは、一つ打つと、たちまちおびただしく集まり来たりしことと存じ候。
 小生往年(明治十八年ごろ)鈴木万次郎氏(ランプ議員)の舅方におりし。神田錦町なり。その庭に蛙出るを、なぐさみに石もて打ち殺せしに、近傍の諸処の石穴より蛙出で、怒れるごとく、呆《あき》るるごとく、肩を怒らして出で来たりし。田舎のもの、蝮《はみ》を殺せば必ずまた蝮来たり、蜈蚣《むかで》も然り、という。
 魯国のクロポトキン公(無政府党の親方、地理学の大家)は、蟹傷つくとき他の蟹出で来たり扶け去るという。支那にも、かかることを見て(足もがれたるを他の蟹来たり負いて退く)、殺生やめし人のこと、『淵鑑類函』に見え候。しかるに、小生、八年前、那智山にありしあいだ、三月ごろ、庭の小流にわさび多く生いたるに、ヒメガニわさびを好み、多く来たり摘《つ》めり食らう。試みにその一を礫を飛ばし殺せしに、たちまち他の一蟹来たり蟄《はさ》み持ち徐々に去る。よって小生ひそかにそろそろとその辺に行き、虫眼鏡もて熟観するに、扶くるにあらで、その蟹の創口より肉を食いおるなり。蟹の口は小さき足多く、それにて掻き食らうなり。その辺はちょっと人眼に触れぬゆえ、扶けて逃ぐるように見ゆるに候。思うにクロポトキン公の説は謬れる観察に基づくことと存じ候。これらより押すと、リスなどが一(514)匹打たれて他の物出るとするも、同情で寄って出るのか、また、死んだのを害せんとか食わんとかで出てくるのか分からず。ただし栗鼠は肉食にあらざれば、まずは呆れて迷い出ることと存じ申され候。しかし鳥など打つと、他の鳥が悲しむこともあれば、真に悲しんで弔いに出るのかも知れず候。とにかく、事実を実地より推して考察すれば、かかる俚話にも多少の根基はあるものと存じ申され候。
 はなはだ眠たきゆえ、これにて擱筆仕り候。不一。
 
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 明治四十五年四月八日夜書き始め九日夜終わる。
 六日出御状拝見。『日本文庫』は、儒者の話、随筆等、主として孔孟の教えに関するものを、内藤恥叟氏が集めしにて、あまり面白きものにあらず、堅固なることのみなり。しかし小生は別に入用のあるなり。御見当たりあらば、代価聞き合わせ御申し越し下されたく候。小生には制度をしらぶるに入るなり。貴下のいわゆる『望海毎談』等の入りたるは、『温知叢書』十二冊なり。これは小生所蔵致しおり候。また、謡曲のうちにも、たとえば梅若の母が狂して子を尋ねる等は、童話と存じ候。一体、童話と古俗との分解も判然たるものに無之《これなく》、小児がみずからかかるものを作り出すはずなければ、古語の中より、幼稚に向くものを大人が撰びて、あどけなく小児に面白く分かるよう作り設けしが、童話と存じ申し候。かの兵生《ひようぜ》にて話し候栗鼠と牛鬼と兎とが猿の病を訪いし話などは、実際決して童話でなく、大人輩も話し候ゆえ、ただ怪談というまでに御座候。要は山小屋で鍋釜をたたくを忌む、その起原譚 myth に御座候。しかし右申すごとく、童話とその他の諸話種との分別は実に曖昧なるものなれば、実用上、色事などなき話を童話とするも可ならんか。すなわち童子にも分かる談という意なり。
 右、六時ごろ書き、それより顕微鏡検査、只今(九日午前三時)まで致し、それよりまた書き付け申し候。
(515) 亀が小児を助けし話は、貞和四年の著たる『峰相記』(播州峰相山鶏足寺へ参る紀行なり。『続史籍集覧』(三十九年第三板)に収む)二一葉おもてに、犬が主人のために姦夫を誅する話あり。これは類語はなはだ多し。小生の『東京人類学会雑誌』四十三年七月号、三二六−二八頁「本邦における動物崇拝」に大略出しおき候。二二葉うらに、「また、白国山の麓に亀井寺というあり。こは山陰中納言、所領に付きて筑紫へ下られけるに、愛子を継母あやまる由にて海底に沈めんとす。ここに大いなる亀一つ浮き出でて、かの幼童を甲に乗せて山陰の前へさし上せたり。大いに悦びをなし、海上の辺り北に当たって一伽藍を立て、かの後世を訪うて亀井寺と号す。かの幼童出家して、如無僧都とて、止んごとなき智慧高貴の僧なり。この寺にて仏法を行ず。安和年中炎上の後再興なし。かの寺仏具等みな亀を文とせり。その類《たぐい》増位山、広峰山等にある由聞く」。この話は、たしか『宇治拾遺』にも『元亨釈書』にもあり。
 これに似たること、元魏の西域三蔵吉迦夜、曇曜と共に訳せる『付法蔵因縁伝』巻三に、薄拘羅《はくら》(釈迦の弟子中もつとも無欲な人)前世貧僧たり、一|訶梨勒《かりろく》果を有す。頭痛する僧これを求めしに、施して病|愈《い》ゆ。この因縁にて、「九十一劫、人天の中に生まれ、いまだかつて病あらず」、最後に一婆羅門の家に生まる。母終わりて父、継妻を娶る。薄拘羅、年幼し。母餅を作るを見、これを求む。母憎んで児を餅炉中に擲入し、?《なべ》をもってこれを覆うに焼けず。父帰りてこれを求むるに、釜中より応ず。乎全、故《もと》のごとし。次に母、河上に至る。薄拘羅、衣を牽《ひ》きこれに随う。母これを河に投ず。大魚に呑まる。魚を取り市に売る者あり、多価にして買う者なし、旦《あした》より暮に至りて臭爛せんとす。その父至って価やすくこれを求め、腹を割《さ》くに薄拘羅出ず。仏に就いて羅漢となり、諸功徳を具す。年百六十にして「いまだかつて病あらず、云々」とあり。
 人を馬にする話は、クラウストンに多く例あり。それに見えぬやつ一つ差し上げ候。法救菩薩述『出曜経』巻九に、「むかし一の僑士《たびびと》あり、南天竺に適《ゆ》く。一人と同伴す。かの奢婆羅《じやばら》呪術家の女人と交通す。その人発意して家に還帰《かえ》らんと欲すれば、すなわち化して驢となり、帰るを得るあたわず。同伴語っていわく、云々、この南山の頂《いただき》に草あ(516)り、遮羅波羅《じやらばら》と名づく」、この草食らわば人身に復し得べしと、云々、「汝|次《じゆん》をもって草を?《くら》わば、おのずからこれに遇うべし」(かたっぱしから草を食い行かば、そのうちにはこの草にまぐれ中《あた》るべし)と。終《つい》にその通りし、人となり、帰る。
 本邦で古え童話などを教訓また娯楽にせし証は小生ちょっと思い出さず(語部《かたりべ》は無論かかることを伝えしなるべし。『万葉集』に見えたる、しうる志斐の嫗《おみな》なども然らんか)。『骨董集』に、恵心僧都か誰かの記を引いて祖父祖母の物語ということありしは記臆す。朝鮮に古くパラブル、アレゴリーをもって誡諫に用いしことは存じおり候。
 『古今図書集成』方輿彙編、辺裔典男二八巻、新羅部彙考第一に、『朝鮮史略』を引いていわく、「貞観十七年、(唐の)百済将軍允忠、新羅の大耶城を陥《おと》す、云々。王(新羅の女王善徳なり)、伊?《いそん》(官名)の金春秋を遣わし、高句麗に師を乞いて、これに報《むく》いんとす。品釈の妻はすなわち春秋の女《むすめ》なり。故をもって、憤然として百済を滅すの志あり。(大耶城陥りしとき、都督金品釈、妻子を殺して自刎《じふん》せり。故に品釈の舅金春秋憤りしなり。)金?庚信と指を?《カ》みて帰期《きき》を誓う。麗国に至り、師を乞う。麗王いわく、麻?・竹嶺はもとわが国の地なり、地もし還《かえ》さば兵を出だすべし、と。春秋、抗辞してもって対《こた》う。王、怒ってこれを囚《とりこ》にす。春秋、青布をもって寵臣の先道解に賂《まいない》をす。道解、春秋に喩《おし》うるに亀と兎の説をもってす。いわく、俗に言う、東海の竜女、病はなはだしく、兎の肝を得んことを欲す。一の亀あり、竜王に語っていわく、われよくこれを得ん、と。ついに陸に登って兎に見《あ》い、海島安居の楽しみを極言す。因《よ》って兎を負いて、行き視る。三里にして、その故を言う。兎いわく、われは神明《かみ》の後《ちすじ》なり、よく五臓を出だし、洗いてこれを納む。日者《さきごろ》少しく心の煩《もだ》しきを覚え、ついに肝を出だしてこれを洗い、しばらく岩石の底に置きて来たり。もし帰って肝を取れば、汝の求むるところを得ん。われは肝なしといえどもなお活く。あに両《ふたつ》ながら相宜しからずや、と。亀、これを信じ、すなわち還す。わずかに岸に上がるや、兎脱れて草中に入れり、と。春秋、悟って王に移書していわく、臣還るを得れば二嶺は還すべし、と。王これを信じ、厚く礼してこれを帰す」。この春秋、後に唐太宗に見《まみ》え、大兵(517)を請い帰り百済を滅せしなり。
  熊楠案ずるに、ほら多き書ながら、『甲陽軍鑑』に、古語、俗諺を引きしこと多し。人を諷するに的当《てきとう》なりしと見ゆ(例、アスナロウという木、ひの木にあすなろう、あすなろうという話)。
 右の亀と兎との話は、仏経にしばしば見えたる?猴《びこう》と亀の話より転ぜしこと勿論なり。
 また、これよりたしかずっと先に、三韓のうち、いずれかの国で、王を諷するに身体の諸部相争うことをいえり。(忘れたが、たしか、口と手足と位の上下を争い、口怒りて物食らわず、それより手足大いに衰えしとかいうことなり。)筆記座右にあれど、眼惡くてちょっと見出だしがたし。たぶん国書刊行会発刊の『高麗史』とかいうものにもあるべしと存じ候。これと平行のこと、プルタークスの『カイウス・マルクス・コリオラヌス伝』、ローマの議官《セネイト》と平民と不和を生ぜしとき、Menenius Agrippa これを調停につとめ、最後にかの名高き fable をとく。いわく、人体の諸部、一同に腹に背《そむ》く、いわく、腹は平生何もせず、怠惰なり、しかして手足諸部を使い、おのれの食欲を充たさんとす、と。腹笑うていわく、愚なるかな人体の諸部や、彼輩は知らず、腹実に一切の滋食の分を受くといえども、またこれを調えて諸部に配当するものたることを、と。これと等しく、議官よく善政を議定して一汎に民の幸福を普及するならずや、と。
 右の亀と?猴の話、よく引くやつなれど、出処たしかに知らぬ人多し。よって支那に入りしもっとも古き訳文と覚ゆるもの、ここに念のため書き付け申し候。呉天竺三蔵康僧会(孫権のときの人なり)訳『六度集経』巻四に、「むかし菩薩(釈迦の前生)、無数劫の時、兄弟|貨《たから》に資《よ》つて利を求め親を養う。異国に之《ゆ》き、弟をして珠をもってその国王に視せしむ。王、弟の顔華《かおだち》を覩《み》、欣然としてこれを可とし、女《むすめ》をもってこれに許し、珠千万を求む。弟、還って兄に告げ、兄、追《したが》って王の所に之《ゆ》く。王また、兄の容貌堂々として、言すなわち聖典、雅相|斉《たぐ》えがたきを覩る。王、重ねてこれを嘉《よみ》し、女《むすめ》を転じてこれに許す。女の情《こころ》?予《たのし》む。兄、心《おもい》存《あ》つていわく、婿《むこ》の伯《あに》はすなわち父にして、叔《おとうと》の妻(518)はすなわち子なり、ここには父子の親《しん》あれど、あに嫁娶《かしゆ》の道あらんや、この王は人君の尊きに処《お》って禽獣の行いをなす、と。すなわち弟を引いて退く。女、台《うてな》に登って望んでいわく、われ魅蠱《みこ》となって兄の肝を食らう、可ならんか、と。生死を展転して、兄は?猴となり、女《むすめ》と弟とはともに?《べつ》となる。?の妻、疾あり、?猴の肝を食らわんと思う。雄《おつと》、行きてこれを求め、?猴の下って飲むを覩る。?いわく、爾《なんじ》かつて楽《がく》を覩たるか、と。答えていわく、未《いま》だしなり、と。いわく、わが舎《いえ》に妙《たえ》なる楽あり、爾観るを欲するか、と。いわく、然り、と。?いわく、爾わが背に昇れ、爾をして観せしめん、と。背に昇ってこれに随い、半渓にして、?いわく、わが妻爾の肝を食らわんと思う、水中に何ぞ楽のあらんや、と。?猴、心に?然《じくぜん》としていわく、それ戒は善の常なるを守るなり、権は難の大いなるを済《すく》うなり、と。いわく、爾早くに言わざりしか、われは肝をもってかの樹上に懸けたり、と。?信じて還る。?猴、岸に上がっていわく、死?虫よ、あに腹中の肝にして樹に懸くべきものあらんや、と。仏、諸比丘に告ぐ、兄はすなわちわが身これなり、常に貞浄を執って終《つい》に淫乱を犯さず、宿〔宿業〕を畢《お》えし余殃《よおう》をもって?猴中に堕つ。弟および王女はともに  幣身を受く、雄は調達(提婆達多)これなり、雌は調達の妻(般遮羅女とかいう仏敵なり)これなり、云々、と」。
 金拾い難題いいかくる話は、次回に申し上ぐべく候。
                    南方拝
   高木君
 
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 明治四十五年四月十日夜九時
 金ひろいしものの話は、『沙石集』巻六第一一章、正直の人宝を得ること。近年帰朝の僧の説とて、ある人の語りしは、宋朝に卑しき夫婦あり、餅を売りて世を渡りけり。ある時、道のほとりにして餅を売りけるに、人の袋を落とし(519)たりけるを見れば、銀の軟挺《なんてい》六つありけり。家に持ちて帰りぬ。妻、心すなおに欲なき者にて、われらは商うてすぐれば事も欠けず、この主いかばかり歎き求むらん、いとおしきことなり、主を尋ねてとらせよという。男もさるべしとて、普《あまね》く触れければ、主という者出で来たりてこれを得て悦びて、三つをば奉らんといいて、すでにわかつべかりける時、思い返して、煩いを致さんために、七つこそありしに、六つあるこそ不審なれ、一つは隠されたるにやという。さることなし、もとより六つなり、一つ引きこむる心地ならば、何しにかように披露して奉るべきという。かように論じて、はては国の守の許《もと》にしてこれを断わらしむ。国の守、眼賢しき者にて、この主は不実の者なり、みつけたる者は正直の者と見ながら、なお不審なりければ、かの妻をめして、別の所にして、事の子細を尋ぬるに、夫が詞にたがわず。この妻も正直の者と見て判じていわく、夫妻共に正直なればこそ、引き籠めずして触れて、主という者出で来たるに渡さんとすらめ、いかでか一つを引き籠むべき、さらば六つながらこそ取らめ。今、主と名乗るもの七つありけるを落としたらば、さてはこの軟挺にはあらざりけり、七つあらんを求めて取るべし。これは別の軟挺なりしなりとて、六つながら夫妻にたびけり。宋朝の人、いみじき成敗とぞほめののしりける。心なおければ、おのずから天の与えて宝を獲たり。心まがれば、冥の咎めにて財を失う。返す返すもこのことわりを弁《わきま》えて、正直にして冥の加護を願うべし、云々。
 一五六七年、ロンドン・フリート街 H.Wykes 出板‘Mery Tales,Wittie Questions and Quicke Answeres’(原本は小生見ず。一八八一年、W.C.Hazlitt が校訂出板せる本を所蔵す)第一六章に、
 A certaine marchant betwene Ware and london lost his bodget anda clitherin,Wherfore he caused to proClayme in dyuers
と原文写しかけたが、中世英語で、ちょっと分かりにくいから、貴下を困らすようなものと存じ、大意、左に訳出す。
  第一六章、Ware《ワヤール》とロンドンの間に財布失いし商人の話。商人あり、ワヤールとロンドン間で百ポンド入れし財(520)布を失う。誰でも見つけて持ち来たらば二十ポンド与えん、と諸市に触れ告げしむ。一正直の小農あり、これを拾い、ワヤールの Baillie(判事?)に持ち来たる。商人、二十ポンドを惜しみ、虚構すらく、原来この財布には百二十ポンド有しありしゆえに、今二十ポンド持ち来たりくれざるべからず、という。二人相争うて好裁判官 Vavasour《ヴアヴアスール》君に訴う。判官、判事に問う、財布|何処《いずこ》にありや。判官いわく、その内にはたしかに百ポンドありや。判事答う、然り。判官、拾い人に語る、汝これを持ちみずから用いよ、もし今後百二十ポンド入りの財布を見出だすことあらば、この正直なる商人に手渡しするを怠るなかれ、と。ここにおいて商人叫ぶ、われ実は百ポンドを失いしのみ、と。判官いわく、モー遅い。よって知るべし、人を紿《あざむ》かんとするもの、しばしば他に紿かれおわるを。また知るべし、人を陥《おとしい》れんと塹《ほり》を掘るもの、みずからこれに陥《おちい》ることあるを。(完)
 『四分律蔵』、姚秦三蔵仏陀耶舎・竺仏念共訳、巻一八に、「その時、仏、舎衝《しやえ》国の祇樹給孤独園《ぎじゆぎつこどくおん》にあり。その時、外道《げどう》の弟子|居士《こじ》あり、拘薩羅《こうさら》国より道を行き、道辺に止息《やす》み、千両の金嚢を忘れて去る。時に衆多《あまた》の比丘あり、またかの道より行く。後に来たつてまた道辺に止息《やす》み、この金嚢の地にあるを見る。みずから相謂いていわく、しばらく持ち去って、もし主《あるじ》と識《わか》る者あらばまさに還すべし、と。すなわち持って去る。時にかの居士、この金嚢を忘れて前《すす》み行くこと数里にして、すなわち憶《きづ》き、疾々《すみやか》に還る。諸比丘、はるかに見て、みずから相謂いていわく、この来たる人行くこと疾《すみや》かなり、必ずこれ金主ならん、と。諸比丘すなわち聞いていわく、何所《いずこ》に至らんとするか、と。居士|報《こた》えていわく、汝みずから去れ、何ぞわれに問うを須《もち》うることをなさん、と。諸比丘いわく、見《いま》往くところの処を語るに何ぞ苦しまんや、と。報えていわく、われはすなわち其処において止息《や寸》み、千両の金嚢を忘る、故に、今かしこに在ってこれを取る、と。諸比丘すなわち金嚢を出だしてこれに示し、いわく、こは汝の物なりやいなや、と。居士報えていわく、こはわが嚢なり、ただしこの中の物は何故に少なきか、と。諸比丘いわく、われら実に正《た》だこればかりを得しのみ、と。居士すなわち官に詣《いた》つてこれを了《あきらか》にす。時に王の波斯匿《はしのく》、身みずから座にあって事を断ず。信《つかい》を遣(521)わして諸比丘を喚び、諸比丘往く。問いていわく、大徳よ、このことを云何《いかん》とす、かの人の語のごときや不《いな》や、と。諸比丘、王に白《もう》していわく、われらの得しは止《た》だこれあるのみ、さらに他なし、と。時に居士いわく、われの有せしところのものは、すなわち若干《そこばく》に至る、と。王すなわち人に勅して、かれの説くところの斤両のごとく、庫中の金を取り来たらしめ、この嚢中に盛著《みた》す。すなわち教えのごとく金を取ってこれに盛るに、その嚢受けず。王、居士に語っていわく、こは汝の物にあらず。汝はさらにみずから求め去れ、と。すなわちその罪を治《さば》きて、さらに家財物を税し(没収することならん)、この金を并《あわ》せて一切を官に入る」。
 この文はなはだ分かりにくき処あるが、大抵は察読下されたく候。
                 南方拝
   高木敏雄様
 
          14
 
 明治四十五年四月十二日朝〔葉書〕
 童話とにはあらねど、『宇治拾遺』に、貧女の宅へ人来たり金《きん》を見出だす話ありしとたしかに記臆す。もし貴下これをも書中に加うるなら、次のこと入用ならん。北涼天竺三蔵曇無讖奉詔訳『大般涅槃経』巻七、仏説く、「善男子よ、かくのごとし。貧しき女人の舎内に多く真金の蔵あり(蔵とは hoard 地蔵、伏蔵など訳す。hidden treasures なり)。家人大小とも知る者あるなし。時に異人あり、よく方便を知って貧しき女人に語る、われ今汝を雇わん、汝わがために草穢《ざつそう》を耘除《くさぎ》るべし、と。女すなわち答えていわく、われ能わざるなり、汝もしよく我子《われ》の金蔵を示さば、然るのちにすなわちまさに速やかに汝のために作《な》すべし、と。この人またいわく、われ方便を知る、よく汝子《なんじ》に示さん、と。女人答えていわく、わが家大小ともなおみずから知らず、いわんや汝よく知らんや、と。この人またいわく、われ今(522)審《つまび》らかに能《よ》くす、と。女人答えていわく、われまた見んと欲す、あわせてわれに示すべし、と。この人すなわちその家において、真金の蔵を掘り出だす。女人見おわって、心に歓喜を生じ、奇特の想いを生じて、この人を宗《たつと》び仰ぐ」。明の陸応陽の『広輿記』巻二に、「隗?《かいしよう》は汝陰の人なり。易を善くす。終に臨んで板に書して妻に授けていわく、のち五年の春、まさに詔使の姓|?《きよう》なる者の来たるあるべし、かつてわが金を負《か》る、すなわちこの板をもって往きて責《とりた》てよ、と。その期に至って、果たして?便至る。妻、板を執って往く。使、惘然《ぼうぜん》たり。良《やや》久しくしてすなわち悟り、蓍《し》を取ってこれを筮《ぜい》し、歎じていわく、われ金を負《か》りず、汝の夫みずから金あり、わが易を善くするを知り、故に板に書してもって意を寓せるのみ、金五百斤、屋《いえ》の東、壁を去ること一丈ばかりにあり、と。これを掘るに卜《うらない》のごとし」。今、『宇治拾遺』座右にないが、この二談に似たところあり、『拾遺』につきおしらべ下されたく候。柳田氏へおくるべきことありて扣《ひか》え書をしらべるうち見当たり候まま記して送り申し上げ候。また、西晋の聶承遠訳『超日明三味経』下巻に、「?《ちゆ》なるものは化して虎となれば、人たりし時のことを覚えず。尋《つ》いでまた家中《かぞく》を害《あや》め、その親疎を別《わか》たず、云々。   謳また変じて人となれば、すなわち家親の属を識《し》る」。狼人のことによく似たり。
 
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 明治四十五年四月十二日朝〔葉書〕
 『宇治拾遺』、男が貧女の伏蔵を見出だす話(つづき)。
 東晋仏陀跋陀羅訳『観仏三昧海経』巻一〇に、「譬うれば長者、財宝|多饒《ゆたか》にして、諸子息なく、ただ一女あるのみ。この時、長者百歳を過ぎ、みずから朽邁して死なんとすること久しからざるを知る。わがこの財宝は、男児なき故に、財はまさに王に属すべし、と。かかる思惟を作《な》し、その女子《むすめ》を喚び、ひそかにこれに告げていわく、われ今宝あり、宝中の上なるものはまさにもつて汝に遺《のこ》すべし、汝この宝を得れば密蔵すること堅からしめ、王に知らしむることな(523)かれ、と。女《むすめ》、父の勅を受け、摩尼《まに》珠および諸珍宝を持って、これを糞穢に蔵す。室家大小とも、みなまた知らず。世の飢饉に値《あ》い、女の夫、妻に告ぐらく、わが家貧窮して衣食に困《くる》しむ、汝は他《よそ》へ行き自活の処を求むべし、と。妻、夫に白《もう》していわく、わが父の長者、命終に臨める時、宝をもってわれに賜い、今某処にあり、君これを取るべし、と。時に夫掘り取って、大いに珍宝と如意珠を獲《う》。如意珠を持って焼香礼拝し、まず願を発していわく、わがために食を雨《ふ》らせよ、と。語に随ってすなわち百味の飲食《おんじき》を雨《ふ》らす。かくのごとく種々のもの意に随つて宝を得。時に夫、得おわつて、その妻に告げていわく、卿《なんじ》は天女のわれに宝を賜うがごとし、汝この宝を蔵せるをわれなお知らず、いわんやまた他人においてをや、と。仏、阿難に告ぐ、念仏|三味《ざんまい》もて堅心動かざればまたかくのごとし、と」。山内一豊の妻、馬かう銭を出せしなどに似たることなり。
 一休和尚、小児に石なげられ、少しも怒らず、あれへ来る人にも石なげよ、ほめてくれるといいて過ぐ。小児その通りしあとへ来たりし武士に石なげしに、大いに怒り、のちひどく罰せられしという話、貴下すでに貴著に編入したりや否や。
 人を馬に化するに似たことは、『大集経』巻三〇に、無量浄王の夫人、婬にして驢と交わり、頭部、驢に似た子を生み、厠に投ず。驢鬼、これを収め、雪山中にて甘美薬をとり、児に食わせ、人となりおわる。唇のみ驢のごとし、故に驢唇仙人と名づく。
 
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 明治四十五年四月十二日夜十一時〔葉書〕
 前書申し上げ候?が猴の肝を求むる話は、隋の天竺三蔵法師闍那崛多訳『仏本行集経』巻三一には、「仏、諸比丘に告げていわく、われ念《おも》う、往昔《むかし》大海中に一の大いなる?《みずち》あり。その?|婦《つま》あり、身まさに懐妊す。忽然として?(524)猴《びこう》の心《しん》を食らわんと思欲《ほつ》す、云々」とあり、大?猴は仏の前身、?は破旬とあり、趣向は同じきが?と?と異伝なり。
 介《かい》が人形を現じ助命を乞うこと、『古今著聞集』畜生之部にあり。貴著に加えらるべし。似たること、「唐の成都府法聚寺の法江、慈憫をもつて懐《こころ》となす。多く逆《あらかじ》めその来たるを知り、言にいささかの誤りもなし。かつて房《へや》の中にあり、門人に謂《お》いていわく、外に万余の人あり、ことごとく帽を戴き、形かつ攣※[足+灌の旁]《れんけん》し、われに従《よ》って救いを乞う、汝速やかに寺外に出でてこれを求めよ、と。人物を見ざれば、弟子、師の言は何ぞそれ倒乱せる、と怪しむ。徙倚《しい》の間に、数十人あり、竹器中の螺子《にし》を荷担して至る。江いわく、これ是《こ》れなるか、と。命じて銭を取ってこれを贖《あがな》い、水中に投ず」(趙宋の賛寧等奉勅撰『宋高僧伝』巻二一)。
 前状、小生、『峰相記』等の犬が主人を助くる話(『東京人類学会雑誌』、小生の「本邦における動物崇拝」に多く例出せり)に似たこと、蕭斉の外国沙門僧伽跋陀羅訳『善見毘婆沙律』巻六に、「迦蘭陀《からんだ》(迦蘭陀|竹園《ちくおん》とて仏説法の所)は、これ山鼠の名なり。時に毘舎離《びしやり》王、諸妓女を将《つ》れて山に入って遊戯す。王、時に疲れ倦んで一樹の下に眠る。妓女、左右四散して走り戯《あそ》ぶ。時に樹下の窟中に大毒蛇あり、王の酒気を聞《か》ぎ、出でて王を螫《さ》さんとす。樹上に鼠あり、上より来たり下《くだ》って、鳴き喚《さけ》んで王を覚ます。蛇すなわちまた縮《しりぞ》く。王覚めおわってまた眠る。蛇またさらに出でて王を螫さんとす。鼠また鳴き喚んで下り、王を覚ます。王起きおわって、樹下の窟中に大毒蛇を見、すなわち驚怖を生ず。四顧して諸妓女を求むれども、また見えず。王みずから念《おも》いていわく、われ今また活《い》けるは鼠の恩に由《よ》るなり、と。王すなわち思惟して、鼠の恩に報いんとす。時に山辺に村あり、王すなわち村中に、今より以後、われの禄限《ねんぐ》はことごとく廻して鼠に供せよ、と命ず。この鼠によっての故に、すなわちこの村の名を號《なづ》けて迦蘭陀村となす」。『和漢三才図会』に見えたる参河の犬頭犬尾社のことなど見合わすべし。
 
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 明治四十五年四月十三日早朝〔葉書〕
 小生久しくみずから書かんと思いおりしが、肝心の本文座右になきゆえ、委細を綴る能わず、延引せる一事あり。百合若がウリッセスなることをいいし人さえあれば、この一事また早晩気のつく人もあるべし。故にいっそ貴下に伝授するから、貴下今まで実際気のつかなんだことなら、「この一条は南方の申し越しにより気づき、さてみずから調査攷究せるところなり」と前置きして書かれたきことなり。それは Psyche が Cupid と恋せしためにいろいろの難題にあい苦しむことあり。これは疑いもなく、照手姫が小栗と恋せしために災難にあい、いろいろの難題を命ぜられ、苦辛してこれを解く話より《〔ママ〕》転化せしものかと思う。(国書刊行会の『新群書類従』か何かに、その古浄瑠璃か舞の本がある。また、『用捨箱』にも引いた所あり。戦国中にできし話と思う。)Psyche の難題は何であったか一々おぼえぬが似たことに候。敬具。
 
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 明治四十五年四月十六日夜九時
 貴状十三日付まさに拝誦仕り候。『冒険世界』のこと、御聞かせ下され候記者は小生一向知らぬ人に候。人の伝など書くには、その本人へ聞き合わせくれさえすれば、多少たしかなことも知れ申すべきも、伝聞談にては虚聞多く、なにか本人が虚言を伝えしごとく、はなはだ面白からぬことに候。生前にすら myths 多く生ずることかくのごとくなれば、百年、二百年前の人の伝など一向たしかならぬと存じ申し候。しかしこれも一つ研究の材料にて、数学懸賞云々のことなど(例せば)木村駿吉氏、小生をロンドンへたより来たり、二、三日同居せしこと有之《これあり》、氏、そのとき(526)螺類の螺旋を数学にて説きしことあり。小生、大英博物館へ案内し、いろいろ介殻を示せり。そのとき小生、木村氏に話せしは、日本人が科学の発達、洋人に劣れるは、その学の学才が足らぬにあらず、学問上の問題を見出だす智慧乏しきなりとて、図のごとく蕈類の裏の?《ひだ》の整列の方が種属によりみな異《かわ》りおる、今日までも洋人専門家も、これを何のわけか看過し、また記載の方法さえ立ておらぬが、何か理由のあるべきことと思うから、一つ数理で考えみられよ、と話せしことあり。(小生は今も自分考案し出せる方法にて研究をつづけおり候。)こんなことから出でしことにて、世間に全く無根のこともなきものと存じ申し候。
 ついでに申す。小生、中学校にありし日、気に合わぬことをむりに勉学するも入らぬことなりとて、ただただ落第せぬことを心掛け、勉強を少しもせず。その方法は、漢学と今一つ何かと二課で、試験総点の五分一はたしかにとれる(小生は漢学等がはなはだ上出来、百点とること受合いなりし)。五分一とれば落第はせぬなり。その上多少の点数を取ったところが、国王にも巨富にもなれず、また、一番になるには骨が折れる、つまり精神を労するだけの損毛と心得、試験で白紙を差し出し逃げてくる。しかし右の二課で五分一は必ずあるから、落第はせぬなり。十四歳の者にしては妙な考えなり。後に『史記』の孫?の伝を読みしに、田忌方へ客たりし日、馬を競わすを見、忠告して、此方《こなた》の最下の馬と彼方の最上の馬と合わせて、わざとまけてやり、さて次には此方の中の馬と彼方の下の馬、次に此方の上の馬と彼方の中の馬と競走させて、一度まけて二度勝ち、大体競馬の勝ちとなったという話あり。似たようで似ぬようなことながら、こんな智恵は誰にでも自然に出ることと存じ候。故に myths 等を説くに、各自特成のものも、また、伝聞|依様《いよう》のものもあることと存じ候。話中の諸 incidents 多く符合するにあらざる以上は、この話はかれより出たり、これはかれに擬して作れりと言われぬことと存じ候。
(527) 小生、夜来、眠らず、大いに眠たきゆえ、委《くわ》しくは書き得ぬが、御下問の件々左に申し上げ候。
 一、長者の婿取り。これは少しく似たること Chauce rにありしかと記臆候も、今たしかならず、仏経にもありしように存じ候。
 二、長者の富の争い。『八犬伝』の犬村大角が偽父(猶怪)に子を殺せとすすめらるるところに、「子にまさる宝なかりけり」云々の歌あり。この歌の出処今覚えねど、とにかく、子を真の宝とする歌なり。
 三、継子出世の話。これはシンダレラの話なり。小生、『東京人類学会雑誌』「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」に引きたる『酉陽雑俎』の文など然り。御伽草子の『鉢かづき』、また、「日本文学全書」にも、『落窪物語』、『住吉物語』等に、多少似たことありしと存じ候。『小落窪』というものもあり。
  『鉢かづき』を鉢かつぎとせる本、近ごろ多し。これ東京訛りなり。幸田露伴の『狂言記』を訂正して出せるを見るに、箕かつぎとせり。それでは三日月《みかづき》という洒蕗に落ちがこず。スペイン辺で女が被《かづ》く mantilla 様のものを、近古京都の女がかづきしを「かづき」といえり。かつぎといわず。
 四、馬鹿婿。これはクラウストンに多く例ありしと存じ候。そのうち見出だし申し上ぐべく候。
 五、小僧、和尚を欺く話。これはちょっと覚え出さず候。
  (1)榎の僧正のことは、出所知らず。似たこと、『古事談』かなんかに、曽根好忠を曽根丹後掾という、次に曽丹後という、次に曽丹という。好忠歎じて、いつかまた、われをソタと言わるべし、といいしことあり。似たことに候。
  (2)千方のこと、金鬼、風鬼等のことは、似たこと仏経にありと存じ候。今はちょっと言い得ず。千方の火という鬼火のこと、『諸国里人談』に出でおり候。
  (3)馬を後へ引き取りしこと、これは似たことあるや否、知らず候。
(528) 小生、眼わるく、眼を用うる時間を節せざるべからず、非常に困難致しおり候。これは顕微鏡を用い過ぎたるに候。まずは右申し上げ候。以上。
  教育博物館というもの、小生、東京にあるころ、ありたり。近日、官報を見るに、今も高等師範学校か何かの付属となりて存在する由。この博物館の動物列品目録、小生持ちおりたるが、失いおわれり。貴下もし手に入らば、購い送り下されたく候。小生のは明治十六年ころのもので、二十銭ばかりなりし。今のはたぷん改正にて、それよりは高からんも、さまで高価にもあるまじと存じ候。
  民俗学会は、誰等が組織せるものに候や。
                  南方拝
   高木敏雄様
 
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 明治四十五年四月二十日朝九時出〔葉書〕
 プシチとクピドの話に似たる照手姫の一条は、小生、亡母より童話のごとく承り候も、今は十分記臆せず。舞の本で見しと存じ候も、今見当たらず。『新群書類従』(国書刊行会の)第五冊、明暦・万治ごろの『小栗の判官』なる戯曲に多少相見え候。照手、小栗と恋せしため難儀し、青墓の宿で長者に仕う、娼事をすすめらるれども従わず、いろいろと難事をもってせめらるること(三〇九−三一〇頁に見え候)。しかし徳川以前のものにあらざれば、小生の覚えそこないと存じ候が、調べなば以前よりありし古話と存じ候。
 前便申し上げ候博物館の動物目録の儀、何分頼み上げ候。これなきため、「燕石考」十分に書き得ぬところあるに候。
(529) 小生の撰択、徳川前にあるゆえ、はなはだむつかしく候。実際徳川前か後か分からぬもの多く、また、徳川前よりありしものらしくも、書に筆せしはそれより後のもの多し。猿蟹の戦、桃太郎等も、徳川後に初めて筆せられしものと存じ候。また、朝比奈地獄行き等、狂言に見えたるも、徳川の前やら後やらちよっと分からぬもの多し。
 『鉢かづき』の原話とも覚《おぼ》しきは仏経にあり。やや変態せるもの、『今昔物語』(『国史大系』の巻一六)天竺仏法部、巻三「跋提《ばだい》長者の妻、慳貪女《けんどんによ》の語《こと》」(一〇三−一〇四頁)に出でたり。
 愛護の若という話、むかし大いに行なわれしようなり。これは何のことに候や。小生には委細とんと分からず候。『広益俗説弁』にその弁はありしと存じ候が、本話の résuméを知らず。
 『和漢三才図会』陸奥の条にくわしく述べある安寿の前、つし王丸という話も、何のこととも知れず。これもなにかギリシア・ラテンのことより出でしにあらざるか。
 『祖庭事苑』は、小生見しことなし。土宜法竜師へ聞き合わせ申すべく候。
 
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 明治四十五年四月二十一日午後三時よりチョイチョイと書き出し夜投函。
 拝啓。十八日付御状まさに拝受、博物館目録宜しく頼み上げ候。それがなければ、「燕石考」出すこと能わず。動物の方は、小生、植物ほどに知らず。学名分からぬと、とんでもなき間違い致し候。例のタヌキ(coon-dog とすべきを)を badger(日本の※[獣偏+灌の旁]《あなぐま》)と訳し、『荘子』に見えたる、狸をして鼠を捕えしむるの狸(猫の一種、日本になし)をタヌキと心得たるごとし。
 さて御下問の件、左に申し上げ候。
 一、鬼に瘤取らるる話。類語はなはだ多し。後日申し上ぐべく候。
(530) 四、鼻長の僧のこと。人を鼻長にする話は類多きも(すなわち『酉陽雑俎』等にもあること、『牟婁新報』「かくれ蓑」の条に出せり)、『宇治拾遺』のは実話と存じ候。その人は寄生虫のため、一種の病になりおりしならん。
 五、柿木に仏現ずること。『改定史籍集覧』巻一二か二二かに、野猪が仏となりて現ずる話あり、二、三あり、似たことに候。
 六、舌切雀。このうちの荷物重きを望み失敗すること(incident)と類話あり。他はちょっと見出でず。右の類したインシデント、左に申し上げ候。
 元魏沙門吉迦夜、曇曜と共に訳せる『雑宝蔵経』巻八に、「むかし婆羅門《ばらもん》あり、その婦《つま》少壮《としわか》く、姿容艶美、欲情深重にして、志、婬蕩に存す。姑《しゆうとめ》あるをもって志を遂ぐるを得ず。密《ひそ》かに姦謀を作《な》し、姑を傷害せんとす。孝養をなすと詐《いつわ》り、もって夫の意《こころ》を惑わす」。いわく、姑を天に生ぜしむべし、「何ぞ必ずしも孜々《しし》として世の供養を受けんや」。夫これを信じ、野田に大火坑を作り、大会《だいえ》を設け、「親党、婆羅門衆を招集し、ことごとく会所に詣《いた》る。鼓楽絃歌し、歓を尽して日を覚《おわ》る」。客散じて後、夫婦、母を坑に投じ、「顧みずして走《さ》る」。母、坑中の小際に堕ち、尋《つ》いで出でて叢林を経《ふ》るに、虎狼をおそれ、卑樹に上り避く。賊人多く財を偸み来たり憩う。「老母、自制する能わず」、樹上に咳す。賊、悪鬼と心得、散走す。天明に、老母、樹より下り、「財宝を選び取って家に帰る」。起尸鬼(死人に鬼つくなり)なりとて、夫婦近づかず。「母すなわち語っていわく、われ死して天に生まれ、多く財宝を獲」とて、婦に瓔珞《ようらく》等を示し、「こは汝の姨姑《おば》姉妹の用《も》ち来たつて汝に与うるなり。わが老弱にして多く負う能わざるによって、汝に語って来たらしむれば、恣意に与うべし、と。婦、姑の語を聞いて」、大いに悦び、われ往かば必ず多く得んとて、火坑を作り、みずから「身を投げて?爛《しようらん》し、ここにすなわち永く没す、云々」。隣の老婆が多大の財得んとて失敗に終わりしに大意は似おる。
 七、長谷寺参籠男の正しき出処は知らず。
(531) 八、博突打の婿入り。これは仏律に多少似たことあり。次に申し上げん。
 九、生贄を与うること。これは犬のことは『淵鑑類函』にありと思う。次に申し上げん。
 十、不尽の米袋。これは至って類話多し。『牟婁新報』へは少分出せり。次回に申し上げん。
 さて(二)竜門の聖のことは、記臆には仏前身説《ジヤータカス》にははなはだ多し。『華厳経』に、仏の前身の総覧ともいうべきものあり、それにもありしと存じ候えども、手許に扣《ひか》えなし。その他にも経中にしばしば見ることなれど、小生あまりに知れきったことと思い、扣え置かざりし。今日、御状に接してより、二回、法輪寺と申し、自宅より三町ばかりの寺の経蔵にまいりしらべしも、和尚不在、小僧等団子食いながら大木魚をたたき、棒を持ち大合戦にて、面白くまたやかましく、およそ四時間かかりしも、さっぱり分からず。よって心当たりの経を持ち帰り見しもなし。実にこまったもので、When found, make a note of と、ジッキンスの小説より名言を(Notes and Queries’の題辞に用いたるは、よき箴《いましめ》と存じ候。経蔵浩漠にして、小生も用事多ければ、近日中にちょっと見出だし得ぬも知れず、よって類話のみ申し候。この類話は、右の本話(聖人が鹿の皮をかぶり鹿に代わって射られんとせし話)よりは、一層|夥《おお》く諸経に見えたるもので、貴下も百も御承知と存じ候。
 T.W.Rhys Davids,‘Buddhist India,’1903,pp.190-193. クマラ迦葉《カツサバ》の母、奸をもって誣告されしを、仏、その無罪を証す。弟子輩、夕にこれを仏に問う。仏答う、ただ今生われこの母子を救いしのみならんや、過去世におけるもまた然りとて、因縁を説けるは、ビナレスに、梵摩達多、王たりしとき、菩薩(仏のこと)魔王に生まれたり。バニヤン(菩提樹)鹿と号す。その毛金色なり。王の囿《その》に二鹿群あり、バニヤン鹿、その一群に王たり。王の守囿人、王の厨《くりや》に鹿肉を供えんとて、多く無用に鹿を殺傷するを見るに忍びず、他の一群の王にすすめ、日々|鬮《くじ》をひき、当たりし一鹿みずから厨に行くべしと約す。かくて無用に殺傷さるること止みぬ。一日、他群の?《はら》める牝鹿、鬮に中《あた》り、その鹿王に詣《いた》り、わが身に子あり、われ鬮に中りたればとて、子まで殺さるるは不当なりとなげく。その王聞かず、死にに(532)行けと命ず。牝鹿かなしみのあまり、バニヤン鹿王に愁訴す。王これを愍《あわれ》み、みずから往きて死に中る。国王かねて二群の鹿王を殺すべからずと令せり。このことをきき、大いに驚き、車に乗じて来たり問うてその志を感じ、鹿王をも牡鹿をも赦命す。鹿王いわく、われらは死を免るれども、諸余の鹿は如何、と。王すなわち鹿をすべて殺さぬこととす。ここにおいて鹿王、人王に慈悲の教えを説く。かの牝鹿の子生長してその群の鹿と遊ぶ。その群の王を樹枝《ブランチ》と名づく。母牝鹿、偈を説きていわく、むしろバニヤンに随え、樹枝を助くる(cultivate)なかれ。バニヤンとともに死する、これ樹枝と共に長生するに優れり。バニヤン王、人と約す、樹葉を結び付けたる田畠には鹿入らず、と。これ、田畠に樹葉を結び付けることの起りなり。(わが国のシメナワごとし。taboo 斎忌のしるしなり。)仏いわく、そのときの樹枝鹿王は今の提婆達多《だいばだつた》、その鹿群は今の提婆達多の徒弟、バニヤン鹿王はわれ、牝鹿はクマラ迦葉の母、その子はクマラ迦葉なり、と。
 この話、『六度集経』(三国呉の時に訳せり)巻三に出でたり。また、巻五か六にも二箇条似たこと出でたり。
 鹿衣は隠者の服に候。例せば、『六度集経』巻二、須太拏《すだな》太子、万物を施すとき、諸国の王議して、その父の蔵する白象あるうちは、諸国まけてばかりおるからとて、白象を太子に乞いにやる。梵志八人を遣わす。鹿皮の衣履を著けて、「瓶《かめ》を執り杖を?《ひ》いて」、千百余里を行く、とあり。太子、白象を梵志にやりしより、父に遂われ山居す。「女、※[横目/がんだれ/(炎+立刀]拏延《けいなえん》と名づく。鹿皮衣《ろくひえ》を著け、母に従って出入し、山に処《す》む」とあり。
 オバステ山に因《ちな》める、老父を捨つる話(グリムにもあり。友人エー・コリングウド・リーの説には、アイルランドの古語に、凶年に父にケット一枚与え追い出す話、これに同じ)は、『雑宝蔵経』巻二第一六章、「むかし世尊、諸比丘に語る。まさに知るべし、往昔、波羅奈《はらな》国に不善法あって世に流行す。父、年六十となれば、敷※[婁+毛]《しきもの》を与著《あた》えて門戸を守らしむ。その時、兄弟二人あり、兄、弟に語っていわく、汝、父に敷※[婁+毛]を与えて門戸を守らしめよ、と。屋中ただ一の敷※[婁+毛]あるのみ。小弟すなわち半《なかば》を截《き》って父に与え、しかして父に白《もう》していわく、大兄の父に与うるなり、われ(533)の与えしところにあらず、大兄、父をして門戸を守らしむ、と。兄、弟に向かっていわく、何ぞことごとく敷※[婁+毛]を与えずして、半を截ってこれを与えしや、と。弟答えていわく、適《まさ》に一の敷※[婁+毛]あるのみ、半に截って与えざれば、のちさらに何処《いずく》よりか得ん、と。兄問いていわく、さらに誰に与えんと欲するや、と。弟いわく、あに留めて兄に与うるを得べけんや、と。兄いわく、何をもってわれに与うるや、と。弟いわく、兄まさに年老ゆれば、兄の子また兄を安んじて門中に置くべし、と。兄この語を聞いて、驚愕していわく、われもまたまさにかくのごとくなるべきや、と。弟いわく、誰かまさに兄に代わるべき、と。すなわち兄に語っていわく、かくのごとき悪法はよろしく共に除き捨つべし、と。兄弟相|将《ひき》いて共に輔相《ほしよう》の所に至り、この言論をもって輔相に向かって説く。輔相答えていわく、実に爾《しか》り、われらまた共に老ゆるあり、と。輔相、王に啓《もう》す。王この語を可とし、国界に宣令して、父母に孝養せしめ、先の非法を断《た》ち、さらに爾《しか》することを聴《ゆる》さず」。
 猴の肝求むる話の variant 一つ申し上げ候。
 西普三蔵竺法護訳『仏説生経』(『ジャータカ』なり)巻一、『仏説鼈?猴経」第一〇、「聞くことかくのごとし。一時《あるとき》、仏、舎衝《しやえ》国の祇樹給孤独園《ぎじゆぎつこどくおん》に遊び、大比丘衆千二百五十人とともにあり。時に諸比丘、会して共に議し言《かた》る。この暴志比丘尼なる者あり、家を棄て業を遠ざけて、学道を行《ぎよう》ず。三宝に帰命《きみよう》し、仏をすなわち父となし、法をすなわち母となし、諸比丘衆をもって兄弟となす。本《もと》とするに道法をもってし、沙門となって道誼を遵修し、三毒の垢《く》を去って仏法および比丘僧に供侍し、一切を愍哀《あわれ》んで四等心《しとうしん》を行ず。すなわち得度《とくど》すべきに、反って悪を懐い、仏を謗《そし》り尊を謗って衆僧を軽毀《かろ》んず。はなはだ疑怪《あや》しむべし、いまだかつてあらずとなす。時に仏、徹《とお》して聴き、往つて比丘に、何の論ずるところなるか、を問う。比丘、具《つぶさ》にさきに議するところの意を啓《もう》す。時に世尊、諸比丘に告ぐ。この比丘尼は、ただ今世に如来の悪を念《おも》うのみならず、在々《あらゆ》る所生にも、またかくのごとし。われみずから憶念《おも》う。すなわち往《い》にし過去無数|劫《こう》の時、一の?猴王あって、林にある樹に処《す》み、果《み》を食らい水を飲む。時に一切の?行喘息《きこうぜんそく》する人と(534)物の類《たぐい》を念い、みな度《ど》して無為に至らしめんと欲す。時に一の鼈《べつ》と、もって知友たり。親々《した》しく相敬し、初めは相誤らず。鼈はしばしば往来して?猴の所に至り、飲食し言談して正義の理を説く。その婦、これを見、しばしば出でて在らざるは、これ外において婬蕩して節ならざるものと謂《おも》い、すなわち夫聟《おつと》に、卿《けい》はしばしば出でて何所《いずく》に至湊《あつまり》をなすや、外において放逸無道なるにはあらずや、と。その夫答えていわく、われは?猴をもって結んで親友となす、聡明にして智慧あり、また義理を暁《さと》る、出でてすなわち往《ゆ》けば共に経法を論ず、ただ快事を説くのみにて他の放逸はなし、と。その婦信ぜず、謂《おも》いて然らずとなす。また、?猴のわが夫を誘い※[言+求]《そその》かし、しばしば出入せしむるを瞋《いか》る。まさに図《はか》ってこれを殺さば、わが夫すなわち休《や》むべし。よってすなわち佯《いつわ》って病み、困《くる》しみ劣《よわ》って床に著く。その聟、瞻労《みと》って医薬もて療治するも、ついにあえて差《い》えず。その夫に謂いていわく、また意を労してその医薬を損《そこな》うことなかれ、わが病ははなはだ重し、まさに卿の親々《した》しきところの?猴の肝を得れば、われはすなわち活くべし、と。その夫答えていわく、こはわが親友なり、身を寄せ命を託し終《つい》に相疑わず、云何《いかん》ぞ相図って用《も》以って卿を活かさんや、と。その婦答えていわく、今、夫婦にして同じく共に一体なるに、相|済《たす》くるを念わず、反って?猴のためにするは、まことに誼理にあらず、と。その婦、夫に逼《せま》って、またこれを敬重す。往つて?猴に請い、われしばしば往来して君が頓《やど》る所に到るも、仁《そなた》は枉屈《おうくつ》してわが家門に詣《いた》らず、今、相|請《しよう》じて舎《いえ》に到り小食せんと欲す、と。?猴答えていわく、われは陸地に処《す》み、卿は水中にあり、いずくんぞ相従うを得んや、と。その鼈の答えていわく、われまさに卿を負うべければ、また儀を枉《ま》ぐべし、と。?猴すなわち従う。負いて中道に到り、?猴に謂いていわく、仁《そなた》知らんと欲するや不《いな》や、相請じし所以は、わが婦《つま》病に困《くる》しみ、仁の肝を得て服食し、病を除かんと欲す、と。?猴|報《こた》えていわく、卿、何をもっての故に早く相語らざる、わが肝は樹に掛けて齎将《も》ち来たらず、促《すみ》やかに還って肝を取らば、すなわち相従わんのみ、と。すなわち樹上に還り、跳踉《ちようりよう》して歓喜す。時に鼈聞いていわく、卿まさに肝を齎《も》ち来たってわが家に到るべきに、反ってさらに樹に上り跳踉|踊躍《ようやく》し、何の施すところをなすや、と。?猴答えていわく、天下に至って愚(535)かなること卿に過ぐるなし、何所に肝の掛けて樹に在るものあらんや、共に親友にして身を寄せ命を託せるに、しかも還《かえ》って相図り、わが命を危うくせんとす、今より已往《のち》、各自《おのおの》別に行かん、と。仏、比丘に告ぐ、その時の鼈の婦はすなわち暴志(比丘尼)これなり、鼈はすなわち調達これなり、?猴王はすなわちわが身これなり、と。仏かくのごとく、説きたまうに歓喜せざるものなし」。
 小生眼悪く、また、日間、鹿に代わらんとせる聖人のこと捜すにくたびれたから、これにて擱筆候なり。
                南方拝
   高木君
  貴下は肥後の生れの由、小生在英の日、福田令寿とて、スコットランドに在学し、エジンバラ大学のラテン語特待生たりし人を知れり。また、佐々友房氏甥かなんかに吉岡範策という海軍士官、毎度大英博物館へ案内し、いろいろ講釈聞かせたることあり。この二人は今も健在にや。福田の従弟に、宇土の人で村田忠蔵という人も知れり。
 
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 明治四十五年四月二十二日夜九時〔葉書〕
 拝啓。前状申し上げ候竜門の聖、鹿の命に代わらんとせし話は、本日また寺へ之《ゆ》き(本日また和尚不在、小僧等大合戦なり)、『大宝積経』(『華厳経』にはなし)巻八〇を閲《けみ》し候に、仏自分過去いろいろのことにあいしを序述しあり。そのうちに   映子《せんし》のことあれども(また前状申し上げ候鹿王のこともあれど)、鹿に代わりて射殺されんとせし話はなし。故に全く小生の記臆の失にて、竜門聖のことは、支那にて生ぜしか、または日本の手製ならん。この話の原話はなく、類語として鹿王の話を挙ぐるより外なしと存じ候。?敗子の話とは、『六度集経』巻五にあり。釈尊前身、?と(536)名づく。二親と山に処《お》る。父母共に盲なり。孝養して娶らず。親のために水汲みに行くを鹿と心得、迦夷王に射らる。王知りてこれを哀しむことはなはだし。父母を召すに、屍の所に来たり、手にてさぐり触れて哭す。その声、天帝釈を動かし、下り来たりて?子を活かす。一国これに則る、という話なり。?は仏、王は阿難、?の父母は仏の父母、帝釈は弥勒の前身となり。支那の故事あらんかと『淵鑑類函』を見しもなし。
 
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 明治四十五年四月二十四日夜八時〔葉書〕
 二十三日付御状拝見。御申し越し下され候目録は、みな小生所持致しおり候。よって帝宝博物館目録は、この上だめと存じ候。なにとぞ教育博物館の動物列品目録御捜索下され候様願い上げ候。これは一冊か二冊で、さまで高価のものに御座なく候。小生一本東京教育博物館有脊髄動物目録持ちおりしも失いおわり申し候。小栗・照手の浄瑠璃は、小生の扣《ひか》え、先日申し上げ候通りに御座候。その文冗長にして、ちょっと写す能わざれど、多くの風呂に火をたやさずに焚け、またセイナン、トウナン、カイロウとかいう七色の品物を求め来たれなどいう難題に候。小生少時ノゾキカラクリ等にせしところにも(ちとちがうが)、宿の主の娘、小栗にほれ、照手を妬み、右様の難題をいうところあり。カイロウは海老で、カゴモリは??《ところ》のことなどと解して、そのことを果たせし由なり。
 愛護の若は、馬琴の小説にこの題のものありしと記臆す。継母に悪《にく》まるる話というだけ知りおり候。小生の扣えには、『俗説弁』にある由扣えおれり。『俗説弁』は幾編もあるなり。(新聞へ出た分は毎号小生へ送り下されたく候。)『著聞集』、手なき者釜を盗む話の出処、小生の「九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」に出しおき候。これは童話とも申すべきにや。
 右教育博物館の動物列品目録、一度御捜し下され候様願い上げ奉り候なり。
(537) ただし『俗説弁』の愛護の若の弁は、実に短きものなりしと記臆す。また、ただ道徳上の短き評判なりしと記臆す。
 
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 明治四十五年四月二十七日夜九時〔葉書〕
 馬焼かれて猴《さる》死することは、『雑宝蔵経』にあり。元魏の世に吉迦夜と曇曜の訳なり。『高僧伝』に伝あるべきも、今座右になし。一切経の「此土著述」の中にあり、見るべし。元魏は西暦三八六−五三四の間なり。崔浩が仏教はなはだ盛んなるを悪《にく》み、僧を大虐殺せしは、四四六年なり。その前に訳出されしと見れば、支那本の方が『玉章経』(パンチャ・タントラ)より前なるべし。象は支那になし。(想像するのみゆえ象と名づくと、『韓非子』かなんかにあり。)かたがた象の方がもとと存じ候。『玉章経』は、西暦五世紀の末に、ヴィシュニュ・サルマン梵志が、ダヒシュリム王の諸子に教えんとて、旧話を集めたるなり。
 次に愛護の若のことは、たしか馬琴の『蝴蝶物語』に、愛護の若にあらざれば、木に上りて助けんようなしという句、夢想兵衛、鷲につかまれ、木の上に留め置かれしところにありしと存じ候。猴が物をとり、木に上り、何ともとりかえしようなきを、愛護の若が手段にてとりかえし、それより女に思いつかるるというようなことと存じ候。愛護の若ということ、徳川中ごろの書に多く出でおり候も、本文が分からぬから、一向何とも致し方なく候。貴説の麻を麻緒になるなと呪詛するなど、童話じみたことと存じ候。『新群書類従』巻六に収めたる『瑠璃天狗』巻の二(四五一頁)に、『愛護稚名歌勝鬨《あいごのわかめいかのかちどき》』という浄瑠璃の文句、「恋しき人を慕いては剣の山にも昇るという」句の注あり。また、照手姫の難題のことは、〔【『新群書類従』第五所収『小栗の判官』】〕巻四(三〇九頁)に、七所の釜の藁火を消えぬようにたき、その間《あい》に七つの苧《お》をうむべし、それしまわば、十八町あなたなる水を七桶汲め。三一〇頁に、料足《りようそく》渡し、これにて世の中の市に出で、トウナン(土筆《つくし》)、セイナン(芹)、ウゴモリ(山芋)、カゴモリ(ところ)、カイロウ(海老)、イチジ(葱)、ナミノオノツ(538)レオノコ(コトノハラ、何のことにや)、七色買うて帰れ、一色違わば流れを立てよ、と命ず、とあり。
 
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 明治四十五年五月二十三日夜一時
   高木敏雄様                                        南方熊楠再拝
 二十一日付はがき今朝来着拝見。いろいろ事多く、夜中返事差し上げ候。民俗学雑誌へは、思いつき次第の随筆体のものを二、三差し上げ候間、紙面の御都合にてあるいは全部、あるいは一部を御載せ下されたく、もし一部のするならば、あとは次号へ載せ下されたく候。材料は一年や二年で尽きぬほど有之《これあり》候。しかし右投書〆切は何日までに候や、伺い上げ奉り候。
 次に大地主神《おおちぬしのかみ》の白猪、白馬、白鶏等のこと、外来の分子たるべき由、この外来の二字は解しようにより、如何様《いかよう》とも立論され得申し候。いずれの国にも全く他国と交通を絶ちし世はなきものゆえ、外来といわば、日本のこと十の八、九は外来なり。また、日本人も大陸より来たりしに相違なければ、その点よりいわば、日本の人物、事物ことごとく外来に候。もし貴下のいわゆる外来とは、史書すでに存して後の外来という意味ならば、小生は然らずといわん。何となれば、白き畜禽を犠牲にするは、ギリシアに限るにあらず、支那、インド、このことあるは、すでに申し上げたり。今もイロコイス(北米の土人)のキリスト教を奉ぜぬ輩は、新年に白狗を牲にす。ボヘミアの土俗に、白?を殺さずして、穀に利ありと信ずることあり。(牲にするも保存するも、つまるところは、神意に気に入らんとするは同規なり。)このほか、小生|扣《ひか》えたる中に、白鶏、白馬等を牡にする風は諸国に多し。しかして黒色のものを特に牲に具えたることを日本で聞かず。白色は黒色より快を感ずればなり。これいずれの国も同じことなり。(ヘリオス特に愛す(539)るものは、白色の諸動植、ことに白馬、白鶏、白楊なりしと同時に、その使い物として、諸霊場に赤と白の牛を畜《か》えり。これは白と赤が日の色なるゆえなるべし。大地主神のは、白は米の色ゆえそなえしことと存ぜられ候。ギリシアには稲を古え作らず、したがって白を尚ぶは一ながら、その理由は異なりと存ぜられ候。)色白のみヘリオスと大地主神が合うておるが、片巫《かたかんなぎ》、肱巫《ひじかんなぎ》、麻柄《あさがら》の?《かせ》、烏扇(この草は今は北米にも野生する所あるが、日本、支那の特産と存じ候)、蜀椒《なるはじかみ》、いずれもギリシアになく、東洋の特産なり。そのうちにも烏扇などは支那の古話、故事等にも一向見えず。スズも字を?苡に中《あ》てあるものの(?苡は、ハトムギ。川穀《じゆずだま》の変種なり。川穀は字のごとく四川辺の本産)、ミスズ刈るなどありて、?苡にあらず。本邦にて特に神と縁あるものなり。図のごとく白色の獣畜を牲する一事のみ同一で、他の諸件(一は日の神、一は地の神なること等)ことごとく一致せざるに、強いて白色の一事を執って、外来(小生は貴書によりてギリシアより移り来たれりという貴意と察す)というは、はなはだしき牽強と存じ候。
 たとえば、誰も橋より落つる夢、歯ぬける夢などを見るは、別に伝授によらず、橋のある国には必ず多少橋の夢見、歯のある人は、洋の東西を問わず、歯ぬける夢を見るがごとし。神代のことは、いずれの国にも多少似たることあり。これ草創の世に顕著なりし事物は、各国大抵相似たるものなればなり(わが天目一箇命《あめのまひとつのかみ》、ギリシアの Cyclops(眼一神)も鍛工なり。日本にもかの地にも多頭の竜蛇を殺す話あるごとく)。貴下もしギリシアの神話のみを捜索せず、たとえば Waitz und Gerland の‘Anthropologie der Naturvölker’の多島海人《ポリネシアンス》の巻を繙き見よ。また、マラヤ人種の記載を見よ。日本に似たる話は、一層多くあるなり。しかるときは、貴下は、日本の神話古伝はこれらより来たれりといわんか。歴史はそれ自身を繰り返すで、欧州にも耶蘇《やそ》教会盛んの日は、各国の古伝みなヘブリューより出でたりというを自慢のごとく心得、次に文学復活以後なにもかもギリシアより出でしごとくいいはや(540)し、また、十八世紀以後、ペルシア、インドの学入るに及び、どれもこれもインドより伝わりしごとくいいしが、今日に至っては、かえってインドの古伝中に西アジアより入りしもの多きをいうに及べり。また、アッシリア学盛んになりてより、古インド、ギリシアの文物、アッシリアより入れるもの多きをいい、エジプトとアッシリアに至っては、どっちが原でどっちが次なるを決せず、今にかれこれいい募りおる。しかし人類は最初分派してから、今まで種別を生ずるに至るまでには、長々の孤立を成したものに相違ないから、最初分立せぬうちより伝わりし古伝と、分立後の古伝とあるべし。この分立後の古伝は必ずそれぞれ別かというに、人間の範囲は、全く異なりたること、エスキモー(氷雪の中にすみ、樹木なし)と、マラバル辺の氷雪を見しことなき人ほど異なりたるは、比較的に少なく、大抵相似たるもの多ければ、範囲相応に相似たる古伝を生ずるは、当然のことなり。
 アラビアと米国の西部とほど拒《へだた》り、また、無関係の地はなかるべし。しかるに沙漠生活の上より、この二所の民に、風俗気質、習慣古伝、酷似せるもの多きは、バートン躬《みずか》らその両地を旅していえり。近く、米国の人類民俗学者に、驚奇の説少なく、一汎に dull(霧暗)なりという人多し。小生思うところは然らず。米国人ごとき法螺《ほら》ずきの新米物《しんまいもの》が、臆説のみ出すを止めて、ひたすら一事一物、いやしくも学問の材料となるべき事物古伝を、根ほり葉ほり、蓄音機でインジアンの俗唄・俗話までを蓄えてまでも、ひたすら集蒐|遺《のこ》るなからんことを期し、もって後日の大綜合大帰納的理論の基を立てんとするは、感心の至りなり。
 わが国は然らず。小生など自分の妻六年前に娶り、毎度その口より聞くこの田辺の一地の古伝のみにても、従来思いかけざりしこと多く、中にははるかに洋海をへだてたる国土と同一または酷似のもの多きに驚くことしばしばなり。しかるに神社合祀といい、旧物破壊といい、迷信打破といい、かかる物を一切破滅して顧みず。俗吏などはともかく、その学を専攻すと称する人士にして、なお『新著間集』や『里人談』など筆に載せたものを千万遍も引きちらすのみ。現に口碑、老人話にわずかに存し、その人死せば再び得べからざる珍奇希有の諸伝を、ことごとく顧みずに捨ておく(541)は驚くべし。わずかに国史や『古語拾遺』、『万葉集』ぐらいを採って千万遍論じたところが、道傍で鉄屎《かなくそ》一つ拾うて、その地に鉄を産す、いな産せず、他国より来たれりと論ずるがごとし。委《くわ》しくその地を掘り地層沙礫を検査して後ならでは、いずれの論も立たぬなり。
 およそ人間には、自分に初めて聞くことを新発見の学理と解する癖あるものなり。数年前、日本人は青銅鏡を尊び拝す云々のわずかのことを証として、ケンプル(綱吉のとき日本に来たりし人)の『日本史』により、日本人はヒッチテス Hittites の後裔と論ぜし人あり。また、オランダ出板の『人類学会雑誌』に、『新撰姓氏録』に、蕃人の後が日本にあるを見て、日本人、ハンガリー人の同祖より出るを宣《の》べし人あり。また、サミュール・チュークとて予もちょっと知る人、ビルマに、街上に図のごとき門を作り、turan《トウラン》という(支那の甬道《よちうどう》ごときもの)からとて、日本の鳥居はこれより出ず、故に日本人はビルマ人の後と立論せし人あり。はなはだしきは、神功皇后の征韓から、何から何まで、日本の古伝はみなギリシアの伝記を伝え訛《あやま》りしという人あり。(神功の征韓等に多少似たる話は、ギリシアより近き国にも多々あり。)これらは思いつき次第に物をいうと申すものにて、十六世紀ごろに、英仏独の古伝の毛一つ飛んだほどのことも、ギリシア、ヘブリューより出たりと説きしに同じく、後の今を見ること、今の古を見るがごとく、大笑いの種と存じ申され候。
 小生ごとき者の鄙見を、事々しく述ぶるも如何《いかが》なれど、まずは今日は、自国の古伝を、文書のみならず、古伝話その他俗間に存せるものを、なるべく洩れなく集むること米人のごとくし、さて満州、韓国、また呂宋《ルソン》、カロリン島(この島に日本に似たことはなはだ多しとか)、南洋諸島等、手近い所のことをなるべく詳らかにし、さて遠方の諸伝と比較して、相似の諸点の多少浅深を詳らかにしたきことに候。
 似た点があるから、これがあれから来たというも、これがあれから来たとも言い(542)得れば、あれがこれから往つたとも言い得ること多し。文章にもっとも古く載せたことが、必ずしももっとも古きにあらざればなり。欧州諸語のうち、Lettish など(わが国には聞いたことなき人多しと見え、前年露国に従軍して捕囚となりしレッツ人二、三人ありしを、官報にはラチン人とありし。木村駿吉博士の話に、チョコレートを貿易表の訳表に、炭の類(木炭チャーコールと混ぜしならん)と官報に出しありしとのこと、明治二十八年のことなり。似た大間違いなり)は、イサーク・テーロルの説に、梵語よりも古き組織のものなれども、文学少しもその語より出ざりしゆえ、わけもなきつまらぬもののごとく思われおるとのことなり。故に今日、田舎に存する俚話、伝説に、実は国史に飾りを加えて書かれたるより古き正伝多しと知らる。小生日々顕微鏡を用いおり、眼わるく、したがって考えも悪く、正々とかくこと成らず、故に察読を乞うなり。
 ドイツのモール Moll の説に、異なりたる国民間にも以心伝心ありとて、西洋に諸種の小説始まりしと同時に、東洋にも似たもの起こりしことをのせたり。東洋のことに委細通ぜぬ人にしては名論なり。御存知の通り、物語類の長たらしき文の日本に起こりしときは、西洋にも同様のものの起こりしときなり。(一篇をよむに一代かかりても尽きぬほどのものありという。)また、小生知るところにては、facetiae すなわち『著聞集』流の笑談も、日本と西洋と同時に起これり。白馬非白馬、蔵三耳等の公孫竜子の詭弁、支那に行なわれしとほとんど同時に、西洋にもかかる理窟行なわれたり。これらのうちには、相伝えしものもあるべきも、また、特に同時に異処に期せずして発生せしもあるべし。世間のこと千態万状ながら、人間の所為にも考えにも限りあり。おのれに翅なければ、飛ぶことを日々考えず、足の底に眼なきゆえ、外にあやしき音するごとに、足を窓より抛げ出してこれを伺わんとも思い寄らず、前額に男根なければ、美女を見るごとに、まず頭をもってこれに触れんと思わず。範囲さえあまりに違いなき限りは、衆人の考えや所行は、大抵、東西万里を拒てながら、兄弟なりと存ぜられ候。故に、白色のものを尚ぶくらいの簡単なことは、いずれの国にもその人に差支えなき以上は、浮かみ出る趣向と存じ申され候。
(543) 英国にクリスマスの前夜、ホリー(冬青《もちのき》の一族)を売ること、わが国節分に枸骨《ひいらぎ》を売るごとし。ホリーの葉に刺あるものは、素人《しろうと》には枸骨と見分けのつかぬほど似たり。葉に刺あるを戸にさせば男の威強く、刺なきをさせば女の権強しなどいう。小生は何故これを用うるかはちょっと知らぬが、まずはやはり刺にて鬼を逐う旧風ののこりと存じ候。(クリスマスは、ヒーゼン時代の冬至また新年を祝せし季節が偶然キリスト降誕に近きゆえ、それへ持ち込みしなり。)また、アプレイウスの『金驢篇』に、陰茎様の海動物と女陰様の貝とを和合愛敬法に用うることあり。『土佐日記』に、例のホヤの妻の東海夫人《いずし》のことあり。これらは別にあれよりこれへ伝えしにも、こちらよりあちらへ伝えしにもあるべからず。今もユダヤ人の新婚の夜、酒盃を打ち破《わ》り、和泉辺で擂鉢《すりばち》をわり、われたわれたと喚ぶと等しく、事が似たるゆえ、似たる物を似たることに用うるまでなり。
 もし人ありて、日々、他人の思いよらぬ、他人と全く異なる所為のみして見せよといわば、円い畳を注文したり、四角なスリバチを求めたり、臥して飯を食い、走りながら読書し、雪隠で三味線ひき、頭へ靴をはくなど、十箇条もよく遂行し得んや。これは probability 庶幾数《しよきすう》の算を運んでも分かることにて、全く異族の人間(テラ・デル・フエゴの人とアフリカの黒人)が集うても、火は熱いもの、水に入りて游《およ》がずば溺るくらいのことは、論理学にいわゆる大一致 general agreement の多く存するものなり。決して蟹が腹の外に卵を孕み抱きて、人の腹内に子あるを怪しむごときにあらず。黒人を除き(黒人というもの、小生やや久しくその間に住し、観察するに、黄人、白人と全く別原のものと思わるること多し)、その他の諸民の幽霊の多くは蒼白にして白衣をきる。春画の美女ごとき嬌娟艶笑花装せる幽霊あることを聞かず。(そんなものあらば、幽霊といわず、天女またネレイズなどいう。)
 純白色のものを珍異し、神に供するも、その趣きこれに同じ。
 コロンブス、西大陸を発見してより、新たに発見したればとて新世界という。学者いろいろ論じて、インジアンは、シベリアから来たとか、南洋から来たとかいう論断えず。論をするは勝手ながら、第一義を忘れおる。第一義とは、(544)この新世界は、実に新世界にあらず、それは、ほんの東半球人の勝手につけた名目なり。中米、南米に、古く太陽暦を用うるを知り、動物苑に数千の異動物をかいし大開化あり。また、今もユカタン、ガチマラ等に、何とも由来の知れぬ大廃墟多し。(発見のときすでにその伝を失いおりしなり。)ことに南米、またカルフォルニアの火山岩の底より、人の遺骸を出せるさえあり。実は東西大陸いずれの方がもっとも古いか知れぬ。新世界というから、新世界の事物みな東半球より伝えやりしごとく思いおるが、吾輩日常用うるもののうちに、タバコ、唐がらし、ハンモク(揺網牀)、トウモロコシなど、西半球から伝えたものが多い。(御承知のごとく、アイユランドごときはポッテートーなくば只今くらし得ず。この物は西半球の原産なり。)ギリシアの文物が古く、幸いに伝わりしゆえとて、本邦のもの似たもの、みな彼より移れりなどいうは、似たる大早断なり。
 ゴムの『フォークロール・アズ・アン・ヒストリカル・サイエンス』に、フォークロールの心理学上原素とて、誰よりも伝来せぬに、ひょかっと手製《てせい》の説を出し、はやり出すことある由いえり。たとえば英国等の無智の輩、何となく、チェラブ(支那の白鶴童ごとく、幼稚無罪のもの、死して天使のごとき小児となる)は、小児の頭に翅生えたるものと思うがごとし。(かかるもの小生画にて見たることあり。)これらは、何の由来なく、ただ手製的に思い立てるなり。すでにかかることある以上は、相異なるもあれば、また時に諸処に思い立てられながら偶然相似たるもあるべし。手近くいわば、人肉を食えば難病を治するの、童女を強姦し、また、犬また鶏を姦すれば梅毒が直るのというようなことは、古伝なくとも、たちまちやってみたらなおるだろうと(他に詮方尽きたるゆえ)思い立ったのが、日本にも英国にもペルシアにもあることと存じ候。
 小生在英のころ、裁判医学を研究したるに、ある名高の人、小生に男女交会の法にちと変わったがあるかと問われし。『カマ・ストラ』など、ずいぶんこのことを論じあるが、又復《また》人意の外に出でずで、わが邦の枕本数百巻(英国には日本より多く保存せる人多し)と対照するに、別にかわりしことなし。ただし一つ、どこの国の文献にも図画に(545)も見しことなきものあり。これ人の思い到らざればなり。すなわち婦人が長二官《はりかた》をもって男子の肛門を犯すことなり、といいしに、その人、まことに汝は博覧宏才なり、と大いにほめられし。まあこんなことにて、世間に伝うることは行なうことに出で、行なうことには人体機関と範囲に限らるるゆえ制限あり。件《くだん》の婦人が角先生もて男子を犯すは、なし得ざることにあらざれども、それすら尋常なかなか思いつかぬことゆえ、多くの図画にも本にも見しことなし。(ただし『千一夜譚』には、妻が夫に別れてのち、一国の王となり、夫を捕え来たり、自分男装して、これに男色を口説くことあり。)いわんや心の到らざるところ、誰かこれを夢みん。世間に、とてつもなき変わったことはなきものなり。もしあらば、そは空気がなかったり、珪素が非常に多かったりする、他の遊星にすむ衆生のことならん。
 小生の男児、本年三月二十八日(ちょうど四年九ヵ月)石板へ画をかく、全く自習なり〔【左の上図】〕。何ぞと問うに虎なりという。(虎生きたるを昨年正月見しことあり。その後も毎々画を見るなり。)昨夜拙児たちまち語るらく、虎はもと人なりしが、灸すえられ黒くなり(黒条紋をいう)、口をひねられて虎になれり、と。またいわく、象はもと蛇なりしが、象になれり、と。(象鼻、蛇に似たるゆえなり。)これら箇人手製の myth 譚原なり。鶺鴒を見て交会を思うくらいのことは、誰にもありぬべし。(バビロンにも、アスタルテ神(婬神)鶺鴒を使いとせり。)
 下の画は、一八七八年、ロンドン出板、R.Brough Smyth,‘The Aborigines of Victoria,’四三七頁に載せたる水中の怪物の画なり。巨大にして海狗 seal 状すという。(画は seal に似ず、カンガルーに似たり。拙児の虎の画と等しく、ほんの獣たるを示すに止まる。故に蒙昧幼稚のものの画など、ウナギのつもりで鯖をかき、鶏のつも(546)りで雀をかくこともあるべく、わずかに一、二例を取りて、たしかな論拠とすべきにあらず。)右の二図を比較するに、毛もしくは斑紋あるということを示すに、図のごとき筋をひくと見えたり。もっとも一汎にあらず、ただ拙児の趣向と、濠州の土人(一人の)趣向(一八四八年に画けりという)と相似たるまでなり。これにて、人種も時代もかわり、何の縁もなきものが画くものにも、たまたま似たるものあるを知るな。これとても、似たといわば似たなり、異なりといわば異なり。見様によることにて、熱度、光力ごとく、数量にて測り得ぬことなり。
 友人エー・コリングウッド・リーの申し越しに、インド・欧州中の facetiae(『著聞集』流の婬に関する笑話)を綜合して考うるに、全く別種の筋書は十三に限るとのことなり。十三という数はどうか知らぬが、天地間に(ことに人間に)あまりかわつた出来事なきを知るべし。出来事と出来事との組み立てが繁雑なるゆえ、みな別なように思うが、上手の碁打ちが見れば、これというほどの新手もなきごとく、手に前後あるのみ。手は大抵きまったものなり。小生、少時、和歌山の岡山という砂丘に小児集まり、砂?子※[図有り](こんなもの、沙に穴ほり、蟻を食う。よく闘う)を集むる。声々に、「ケンケンケソソ(この虫の土名なり)叔母の宅焼ける」という。然るときは、あわてて出で来るという。フロリダにありし日、小生、八百屋の支那人の留守番する店前へ、小児(黒人の悴ヒュ一、十三、四歳)来たり、この虫を集める、ズロ、ズロ(duro?スペイン語、難《むつか》しということ。この虫の名とせるか)、ハウス・オン・ゼ・ファイヤ(汝の家が焼かる)と唱う。この風、他の地にありや否きかず。これらは、白色の牲を神に供うることの偶合よりは、はるかに酷似せる二条件(虫相同じ、語相同じ)を具すれども、要は偶合と判ずるの外なし。(また(547)は黒人と日本人と分立せざる(同一祖より出ずと見て)前より、人間には、かかる小虫を掘るとき、火をもって脅《おど》すという傾向、心裏に伏在 latent せりというの外なし。)ヘリオスの諸話に、大地主神に似たること一つもなし。大地主神のは、男茎形《おはせがた》を牛宍に加うるなど、収穫豊穣をいのる神なること明らけし。別に日の神らしきところなし。要するに何の関係もなきことと存じ候。(ついでに申す。宍は古えの肉の字、ここには陰物とせしならん。西尾肖柏という人(父は名高き漢法医なり)二十二年前、米国にありし日、小生に語りしは、宍戸|?《たまき》氏、在支那公使たりしとき、かの国の人、その姓宍戸を非常に怪しみ笑えりとのことなり。)
 右、小生眼わるきゆえ、しかとかき得ず。しかし貴酬まで如斯《かくのごとし》。御察読を乞うところなり。
  末筆ながら記す。大英博物館に、有史前(すなわち西人打入り前)メキシコ人の作れる整巧なるモザイクあり。竜と見まがう。実は響尾蛇(西半球特有の)なり。同似のものは同趣向を生ず。ミカンにつくイモムシさえ竜の形をなし、眼に似たる斑点あり、紅き角を出し、人を驚かすなり。
 
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 明治四十五年五月二十五日夜十時過ぎ
   高木敏雄様                                           南方熊楠再拝
 前日申し上げ候姥捨山の話、下河辺長流の『続歌林良材集』巻上、「奥山にしづが枝折《しを》るは誰がためぞ、わが身ををきて捨つる子のため」。友人川島友吉の話に、『田毎の月』と題せる本にありという。長流の説は、駿河の人、老父を棄てにゆく話、川島氏のは、老母という。
 今按ずるに、『今物語』(鎌倉の世のものと見ゆ)に、
(548)  八幡の袈裟御子が、さいはい〔四字傍点〕の後、打ち続き人に思われて、大菩薩の御事をしりまいらせざりければ、若宮の御祟りにて、独り持《も》たりける娘、大事にやみて、目のつぶれたりけるを、こと祈りをせず、娘を若宮の御前に具して参りて、膝の上に横様《よこさま》にかき伏せて、
   奥山に栞《しを》る枝折《しを》りは誰がため、身をかきわけてうめる子のため
 という歌を、神歌に、なくなくあまたたび歌いたりければ、やがて御前にて、疾《やまい》やみ、目もさわさわと明きにけり。
 文の体を案ずるに、この巫が神歌に歌いたる歌は、この巫の作でなく、以前より存せし歌と覚えられ候。何に出で、誰の作れる歌に候や。誰かに聞かれたく候。
 右のさいはいの後とは、何のことに候や。
 明治二十五、六年ごろ、江東中村楼で、春・秋季皇霊祭を期し、年々二度、思無邪会という芸くらべの会あり、土方、大隈、渡辺国武、末松子等も出たりという。その時のこと記せるもの見るに、曹洞宗大学林教頭山田弘道師、「玉磨けども一向光らず」と題し、諸君の性根玉はいかなる玉に属するやと喝破し、狂歌四つ、
  磨くなら磨いただけの光あり、性根玉でも何の玉でも
  磨いても磨いただけは光るまじ、こんな狂歌の性根玉では
  光るかのこんにゃく玉も藍玉も、たどん玉でもふぐり玉でも
  磨いても光らぬ物はきん玉よ、まして屁玉は手にも取られず
 『一話一言』、長崎土産の条に、この狂歌出たり。大坂の何とかいう狂歌師(心学者?)、第一の狂歌を額にして、生玉の社かへ奉納せしに、第二、第三の歌をその側に落書せし者ありしとのことなり。(第四はありしか、今覚えず。)宗教家が前人の狂歌を丸取りにして自分の作のごとくいうは、はなはだ如何《いかが》わしきことと存じ申し候。すべてこの類で、知らぬものに其新しきことも、出所古きもの多し。
 
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 大正元年八月十九日〔葉書〕
 御葉書まさに拝誦。郵券にて一円は慥《たし》かに受け取り申し候。Cowell の『ジャータカ』の索引を見、Whittington とか cat とかいうことありや、ちょっと御返事仰ぎ奉り候。猫の致富談は、小生は小生独特のように存じ候も、このほど、六年前出板 M.D.Conway の‘My Pilgrimages to the Eastern Sages’を見るに、この話は『ジャータカ』より出たるかという説あり(もっとも正鵠を得ざれども)。(鼈、狐、蛇が人を救う話あり、それを訛伝せしならん、とあり。)あるいは Cowell の書すでに件《くだん》の話の出処として、鼠金舗主の伝を出しあることかとも存じ申し候ゆえ、ちょっと伺い上げ候。もっとも、委細は知らせ下さるに及ばず、ただ巻の索引に cat とか Whittington とかいうことありや、ちょっと御知らせ下されたく候。英国では小生のを一汎に斬新の創見のよういいはやしおる由に御座候。
 
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 大正元年八月二十五日〔葉書〕
 拝復。『ジャータカ』の猫の話、御記し付け下され、厚謝し奉り候。御書状のごとくならば、この話はすでに西洋の仏教学者に知れ渡ることなるも、ホイッチングトンの話は猫を主とし、仏教のは鼠を主とせるゆえ、ちょっとホイッチングトンの話の、話の出処としては知れおらざるようにて、まずは小生先鞭を付け得たるは、幸いにして免れ得たるものなり。それにしてもなるべく早く東洋のだけにても、古記の類集、分類、比較等を概略調べたきことに候なり。ついでに述ぶ、インドにて白畜を牲《にえ》にすること、一昨日見当たりしゆえ、書き付く。『経律異相』(梁の世に成る)巻二七に、『藍達王経』(小生見しことなし)を引いて、舎衛国の王、藍達と名づく、雨を祈らんとて梵志に問うに、(550)答う、「今、大祠に当たって、まさに童男七人、白牛・白馬各十頭、焼いてもって天を祭るべし。しからば雨を獲《う》べし」と。王かくなさんとするに、国中騒擾す。仏、目連を遣わし教化せしむることをのせたり。
 
(551)   大正二年
 
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 大正二年一.月一日
 恭賀新禧
 昨夏衝頼みの、大三輪神、糸を付けて跡を見出だせしに似しこと、南洋にありと申し上げしも、原文を見るに全く違いおり候。
 ミダスの秘密を洩らせし斬髪師の話に似たること、北アジアのキルギース人(御承知の通り、回徒ながら、メッカ巡礼をせず、特別に自国生れの聖人の墓を拝す)間にある由、左に全写し申し上げ候。
  (Notes and Queries,10th series,Vol.vii,p.126,Feb.16,1907).
 Tartar Legend of Alexander the Great.−To vol.xxi,of the Transactions of the society for the study of Archaeology,etc,.in connexion with Kazan University,Mr.N.Y.Sarkin contributes the following Kirghiz tradition of Alexander of Macedon(Iskander Zu'1−Karneine).The monarch had horns,the existence of which his subjects did not suspect.As Iskander feared that the rumour would conduce to his deaths every barber was killed after completing his task on the prince.
 Gratification of every earthly wish was not enough to satisfy him,and having heard of the water of immortality (552)he sent two vizirs,Kidir and Elias,inquest of it.During their absence,Iskander required the services of abarber.and on this occasion promised to spare the man's lifeif he could keep the secret.The barber did so for sometime,but reticence became intolerable,so he whispered the secret into a well.The fishes heard,repeatedit allover the steppe,and a herdsman watering his nocks learned it.The prince’s time to die arrived,and when the emissaries returned with the water,it was too late to save him.The vizirs Kidir and Elias became immortal,the former of whom wanders invisibly over the earth,seeking to aid good men,While thelatter chiefly watches over cattle.Some Khirgiz believe that rani is the water of immortality,While the vizirs appear to correspond to the“Christian Prophets Elijah and Elisha”.(Cf.the shadowy thunder−deity Ilya Muromets.In one of the Lermontov's Eastern tales Khaderiliaz designates St.George.)
 While in the act of procuring the water Kidir and Elis noticed a stranger,and asked who he was and his business,remarking that he seemed to be a Mussulman(Eastern tradition says that IsKander was a Mussulman,a hard case to explain).The stranger reported that he was also a great prince whose every mortal wish had been fulfilled.Like Iskander,he desired immortality and quaffed of the spring.After a while his empire fell away,misfortune came,and he went forth a wanderer over the world.Weary of earthly life,the stranger would have renounced both soul and body,were that possible;but God did not permitit.Having fled the world,he had arrived at the sprlng agaln.
 Needless to say,We have the stories of the asinine ears of the foolish Midas of Phrygia and the Wandering Jew,occuring in a stsange conglomeration of Greek'Slavonic,and Christian tradition,attached to the name of AIxander the Great.
 
(553)          29
 
 大正二年一月十六日夜八時〔葉書〕
 拝啓。先月二十四日『日本及日本人』新年号到著。小生、貴下の「牛の伝説」を補うつもりにて、二十五日、葉書を政教社へ寄せ候。その略は、「高木君の一篇に、ヤマ(?魔)が水牛に乗ることを書き漏らされたり。また、真言の?曼徳迦《ヤマンタカ》忿怒尊(大威徳明王)(この明王、牛に乗りて、あらわれしあり。牛滝山と名づくる地、本邦にあり)は、?魔を眷属とす。この明王また青牛に乗る(その相を挙ぐ)。これもヤマより化生してできしものならん、云々。また、牛に牽かれて善光寺詣りの話(小生は『三国伝記』を見しことなし。『新沙石集』か『続沙石集』を見候)の原話らしきものは、仏経(今ちょっと名を忘る)に、釈迦如来、舎衝《しやえ》郊外、毘富羅山《びふらせん》にて説法の時、城内の地より、美なる花を生じ、瓶沙《びようしや》王の諸?女、これを採らんとするに、手に近く空中に浮きながら採れず、飛んで件《くだん》の山に趣くを、諸?女追うて仏前に詣り、仏ために説法して、諸女得道、女身を転じ男身を獲、花に引かれて如来詣りともいうべき話なり」(右葉書の大概)。本日(十六日)、本月十五日の『日本及日本人』著《ちやく》。件《くだん》の小生の通信は、余白なきゆえか、または事情あるか見えず。しかして無題として?摩《ヤマ》が人面幢を持ち水牛に駕したる一頁の画あり。この画者は、?摩、水牛に騎ることを素《もと》より知りおりて、画きたるものと存じ候えども、万一右の小生の葉書通信が次号(二月一日)分に出さるることありとせば、貴下あるいは小生が右の画を見て、さて気がつき、件《くだん》の葉書を政教社に致せLと思われんことを慮り候につき、右小生の通信は、先月二十五日差し出したるものにて、件《くだん》の画像を見てのち思いつきたるにあらざる由、申し上げおき候なり。
 
(554)          30
 
 大正二年一月二十四日夜九時〔葉書〕
 御下問の牛を尋ねて穴に入りし話、原文は『西域記』に有之《これあり》候。また、『酉陽雑俎』にも出でおり、いずれも『法苑珠林』の文に大同にて、字が少々違いおれど、実に少々のことに有之候。『宇治拾遺』のは、これより写せしものの、記臆が少々間違いしことと存じ候。猫で成り金の話に出せしごとく、『今昔物語』の金鼠、クサタナ国王を救いし譚なども、鼠の大きさがちょっとかわりおり候。かかることは、伝話に異伝 variants を生ずる基にて、要は、写本少なかりし世には、これを伝えるもの記臆を主とし、記臆定かならずして、みずから知らざるうちに、他の話の一部分を混入し、または知りながら手製の言を嵌入せるに外ならずと存じ申し候。
 
          31
 
 大正二年二月二十日午後三時〔葉書〕
 御葉書拝見。「盗人国王の倉に入る」の話は、クラウストンに出でおり候。只今その書座右に無之《これなく》、頁数等は分からず。針をもって衣にさし男を探ることは、前日申し上げ候ほかに見当たらず。蘇民将来のことは、ギリシアの Philemon and Baucis のことはなはだ似たり。人を馬に化する話は、インドその他到る処|有之《これあり》候。小生は眼またはなはだ惡く、夜間全く何にもできず、早く臥すことに致しおり、かつ当地にもこの上永くおりがたきも知れず。藻の標品を英国へ渡すことに苦心しおるも、眼惡きゆえ顕微鏡使えず、毎日不快がちにており、一昨日、孫逸仙より伊東知也氏を通じて、小生和歌山まで上らば、孫も和歌山へ下り会見したしと申し出でられたる旨承りたるも、海上の旅あぶなく、家弟に命じ断わらせ申し候次第、右様につき、当分あまり巻数や頁数の調査はできがたく罷りあり候。
 
(555)          32
 
 大正二年十一月二十二日夜十時
 拝啓。小生、本月六日の『不二新聞』に、「情事を好む植物」、また来月一日の『不二』雑誌に、「月下氷人」と題して出せし文は、いずれも風俗壊乱をもって大阪にて起訴され、小生差し支えありて行き得ず、宮武外骨氏、代人となり出廷せしも、十八日の公判に、名代を許されず、そのまま審理進行、出板人二百円、編輯人二百円、小生また二百円の罰金を検事より求刑され候。今日判決ありたるはずなるも、いまだ左右を聞かず。右の雑誌(只今手許になし)にたしか『郷土研究』の「南方随筆」を引きたる所ありと記臆候。これは決して貴方の厄介になることにあらず。しかるに右様の次第にて、小生もし今日の判決にて無罪となるを得ずとすれば、今後自然、『郷土研究』について、小生に対するその筋の注目は厳密を加うることと存じ候。よって次回に掲載さるべき
  「山人資料」等二、三条一度に差し上げ候分と
  問答欄の分と
  「南方雑記」残分と
  「紀州俗伝」と
には何たる故障なかるべきも、
  「今昔物語の研究」の一条
には、あるいは大いに貴社の累をなすものあるを憚り申し候。もし検挙となると、小生も罰金重加し申すべく、また貴方も小生のために連累となることありては、すこぶる貴方へすまぬのみか、雑誌差押え発売禁止等となりては、事体すこぶる面倒、また読者一同へ相済まざる次第に候。よって右「今昔物語の研究」は、当分原稿貴下へ御預け申し(556)上げ候間(御返しに及ばず)、『郷土研究』へ掲載の儀は御見合わせ下されたく、もしそのうち一、二箇月内に小生|間《ひま》を得候わば、一度申し上げた上、原稿御返しもらい、全く書き改めて差し上げ申すべく候。また、小生たとい万一無罪になり候とも、いささかたりとも貴社を煩わすを好まず、故に右「今昔の研究」のみは御掲載御見合わせ下されたく候。
 右宜しく御頼み申し上げ候。
                 南方熊楠再拝
   高木敏雄様
 
(559)   佐々木繁宛
 
 大正五年一月十九日早朝
   佐々木繁様
                 南方熊楠
 過日御状賜わりありがたく御厚礼申し上げ候。山の神魚の儀、只今五、六寸のものは時々上がり候。この地方にて山の神を仙人が祭るには、この五、六寸のものを用い申し候。また歯痛む者も、心当たりの山の方に向かい願をかけ、さて平癒すれば、礼にこの五、六寸のものをその山の方に向かい宅内にて供え申し候。一、二寸のものを用うるとは、『本朝食鑑』に出である外に小生は聞かず候。一、二寸のものはテングリと申す網にて多く上ぐる。テングリは当時当地方には行なわず、日高郡塩屋浦という所でもっぱら行なうときき、知人へ頼み遣わし、毎日相まちおり候えども、今に送り越さず候。しかしはなはだ多く有之《これあり》、また一向無用のものにて、その辺では手に入り次第|刺《はり》にささるるをおそれ、打ち捨つるくらいゆえ、早晩手に入り申すべく、然《しか》るときはまたまた差し上げ候。拙宅に只今奉公中の下女は、日高郡|南部《みなべ》町の近傍山内と申す僻地のものなるが、その宅へ聞きにやり候ところ、山神魚の一、二寸なるは、夏中はなはだ多きも、只今はいずれもみな五、六寸なり、と申し越し候。これは土地により、小さきものあるもこれを漁する網なきゆえ、手に入らぬことと存じ候。多きものゆえ夏になれば必ず送り申し上ぐべく候。
 右様の懸合いにて、今日まで右五、六寸のもの送り上ぐるを見合わせおり候えども、一、二寸のもの何時手に入る(560)やも知れぬことゆえ、まず差し当たり昨夜五、六寸のもの二疋差し上げ申し候。すなわち木箱に入れ書留小包にして差し出し申し候。山の神(狼)が山の神魚を見初め、獺《かわうそ》を媒介として婚姻するを、たこ、いかの属妬み横奪せんとする物語画|有之《これあり》、十二年ばかり前、小生当地にて見出だし、絵の詞書を『東京人類学会雑誌』へ出し候。昨年春、米国農務省植物興産局生理学主任スウィングル氏来朝、当地へ小生を訪われ候節、右の画を見て感賞措かず。依嘱により小生知れる画工に写させ、小生別に山の神魚の画をかき、詞書を自分写し渡し候ところ、はなはだ喜び金装して桐の箱に入れ、かの国立博物館の常備品として保存すべく、携帯して帰国致し候。
 右山の神魚入れ候箱に、菌類十六種入れ有之《これあり》、このうち(15)は、おついでの節御返し下されたく候。ただしおついでの節で宜しく候。貴地方は当地と全く樹木の性質を異にするゆえ、いろいろ小生等かつて見ざる菌類多きことと存じ候。松蕈、しめじ等の肉質のものは到底遠路中腐り申すべきゆえ、御送り下さるるも用なく、ただ封入候ごとき乾かしても生品とさまでかわらざる菌類、多少に限らず見当たり次第御集めの上、何月何日何地何の木また何の草に付く(草木の名分からずばそれで宜しく)と明記の上、なるべく一品につき多量に標品を御送り下されたく、小生一々調査の上、新種あり候わば貴名を付して欧米にて公けに致したく候。只今は貴地氷雪多かるべきも、氷雪中にも林中には落枝落葉等におびただしく菌は付きあり申すべく候。小生より差し上げ候見本は、山神魚を傷損するを慮り、至って小さきものを小量に差し上げ候えども、貴方よりは、なるべく大なるものを多く御送り下されたく候。サルノコシカケなど申し候樹皮枯枝等に多くつき、冬も枯れずに多くあるものに御座候。また、草も枯れた草を見ると、細微の斑点をなして、微なる菌が多く付きあるものに御座候。
  山神魚はなお御入用なら御申し越し下されたく候。
  まずは右御案内まで、早々以上。
 
(561)   胡桃沢勘内宛
 
          1
 
 大正五年一月二十七日早朝
  信州東筑摩郡島内村
   胡桃沢勘内様
                 紀州田辺町中屋敷町五二
                       南方熊楠再拝
 拝復。槌に関する件々、早速御聞かせ下され、ありがたく御厚礼申し納め候。なお、この後も御聞き及びのこと有之《これあり》候わば、御教示願い奉り候。
 封入の画はヒドルルス・フェチダと申す藻に有之。藻と申すもの、ある学者派連はこれを下等の動物とも見|做《な》し候。小生は生品を見たること無之《これなく》、洋書どもより数様の画を写し、御覧に供し申し候。図〔【次頁】〕のごとくいろいろの形、色、また大いさあり、ぬるぬるとすべり候ものにて、軟骨ほどやや堅きもの、あるいは痰塊のごとく半軟半堅のものの由に候。これは前年岡村金太郎博士、松本城?にて寒中おびただしく水中に生じあるを見出だし候由、同氏拙宅を訪われしときも承り候。欧米にては、主として滝などの水が氷り、寒《かん》すぎて溶くるころ、懸崖の巌面に付き申し候。
(562) しかしとにかく岡村博士は、松本城?の中の水の流るるところ(落ち口か)にて、多く採られ候由、貴下もし右城?近くへ寒中に趣かるることあらば、何とぞ多少御採集の上、厚き紙に載せ、暖かなる室に置き乾かし(乾くときはほぼ画のごとく紙面に膠着すべし)て、御送り下されずや。小生これを鏡検致したく候。紀州にていろいろさがし求め、寒中深山に何度も上り候も、見出だし得ず候。
 色は淡褐、黄土、また淡緑、また灰縁等に候。欧米にては図のごとく、滝の水の裏に懸下するなり。思うに松本城?のも、止水の中にはなく、城?の水の急に流れ落つる、その水の裏面の岩石等に付くことと存じ申し候。
 小生近年神社合祀の弊を極力論争して、しばしば奇禍を買い申し候。しかしながら、果たして小生が申せしがごとく、この合祀のこと行なわれてより、地方民質樸の風全く地を掃い、悪事のみ殖え行き、今となつては神人|雑糅《ざつじゆう》して何とも治めようなく、大いに手古摺りおり申し候。貴県にも、一昨々年あたり、合祀をかなしみ候あまり、大|乱妨《らんぼう》せし村民ありしと承り申し候。貴地方も当県ごとく無茶苦茶に合祀を励行され候ことにや。また、その結果、承り置きたく候。
 松本の城主なりし石川玄蕃頭康長は、天主教を奉ぜし人の由、今もなにかその跡、また口碑、のこりおり候や。
 当地方にて何か御役に立つ用向き有之《これあら》ば、御申し聞かせ下されたく候なり。             敬具
 
(563)          2
 
 大正五年四月七日夜八時
   胡桃沢勘内様
                    南方熊楠再拝
 拝呈。その後大いに御無音打ち過ぎ候うち、小生遅綬ながら快方に有之《これあり》。しかし今も手足十分きかず、何をなすともなく服薬罷りあり候。
 石川康長が天主教を奉ぜしとは、小生の記臆そこないにて、頃日いろいろ年来書き集め置き候ものを閲せしも、一向天主教を奉ぜしこと見当たらず、たぷん『新著聞集』等に見えたる、康長が五輪等をつぶして鑵子《かんす》を鋳たることを、誤り記臆したることと存じ申し候。また、この人、大久保長安(この者は天主教を奉じ、南蛮人を味方とし、諸大名をかたらい、徳川氏を傾けんとせしなり。そのこと欧人、当時の日本記行、種々の書にも記しあり)と、連累ありしことは、その証あることと存じ申し候。そのころに廃絶されし富田、里見、佐野等の諸大名中、この連座多きことと存じ候。
 『藩翰譜』等を見て明らかなるごとく、康長の父数正、最初徳川家一、二の忠臣なりしに、のち(本多正信の勢い盛んなりしよりのことと記臆す)豊臣家に奔り仕えられ候。したがって家康、数正と真田昌幸を事の外にくまれし由、『武功雑記』に見え申し候。数正は九州征伐のとき豊臣家の軍監となりしが、文禄中死亡、康長継ぎ立ち、豊臣氏の盛時はずいぶん栄えしも、権力徳川氏に移りてより、その父がもと徳川氏の叛将たりしゆえ、はなはだもてなんだことと存じ候。もっともこの人も、この人の弟康勝(のち大坂に籠城し討死す)も、康という字を名とせるは、旧主家康の康を賜わりしことなるべく、初めはよほど家康に愛せられたことなるべきも、父が豊臣氏に奔り仕えしよりは、(564)叛将の子として徳川氏よりはなはだ惡《にく》まれたことと察し申し候。関ヶ原の役に、康長秀忠に従い山道を攻め上りし功により、所領を安堵せしも(これも当時の勢い信州に真田のみ大坂方せしゆえ、いきおい止むを得ず秀忠に随行せしことと存ぜられ候)、なにさま叛将数正の子ゆえ、常々不安心にていろいろ不平不穏のこともありたるべく、そのうち長安に加担して、滅亡せしことと存じ申され候。
 前日矢沢氏よりおたずねのヒドルルスの種名は、フェチズスが正に候。小生これをフェチダとせしは、このものを最初発見せし人がこれをコンフェルヴァ・フェチダと命名したるを、百年ばかり後に属名をヒドルルスと改めし人が、その属名と字の性を合わすべきために、フェチダをフェチズスと改めたるにて、小生これをフェチダと書き改めしは、小生が今も関係多少ある大英博物館には、諸動植の種名は、一切最初発見せる人が用いたる種名を用ゆべしとの制あるより、最初の種名フェチダを不図《ふと》かきしに候。しかし右申すごとく、この藻の属する属名、今はコンフェルヴァと分離して、ヒドルルスにきまった上は、フェチダにては字の性が相応せず、何分フェチズスと書くが正しく候。
 小生右の御礼に、貴下へ山の神魚(例の狩猟の神をまつるときは大利ありという海魚なり。このことは御承知のことと存じ候)、矢沢氏へ当地方にのみ今日知れおる淡水藻一、二種、差し上げんと思うが、ついでに承りたきは、小生粘菌類という生物の一類(植物とも動物ともつかぬもの、ただし小生はたしかに動物なりと主張せし)を多年集め、以前他人が日本で見出だすところ十八種に止まりしを、只今百二十種近くまで小生一人で見出だしおり、東京『植物学雑誌』、また外国にても、毎度公けに致し候。しかるに他人が集めしはわずかに小笠原島と東京に止まり、小生のは紀州と大和の一部に過ぎず、ようやく一昨年までに札幌と福岡より少々手に入り候のみ。右矢沢氏、今年貴地方にて集まるだけ集め下さるるなら、大いに学問上の益と相成り申すべく、集めて下さるるなら、小生より手本として十余種ばかり、右の山の神〔魚〕等のついでに、同じ箱中に入れ差し上げたきが、このこと如何《いかが》にや、御尋ねの上、御一報下されたく候。
(565) 粘菌は春末より秋末にかけ、ことに夏中梅雨また夕立後おびただしく生ずるものに有之《これあり》、信州は当地と大いに気候もかわれば、必ず従来知れおらぬ珍種が出ることと存じ申し候。鑑識はさまでむつかしからず、小生方へ送り下さるれば、十日を出でずして御返事申しあぐべく、また小生に分からぬものは海外の知人などへ聞き合わせ、直ちに分かり次第、報知申しあぐべく候。            敬具
 
 信州また甲州辺にて、「はりばこ」ということある由、『膝栗毛』等にて見、また甲州人に聞き申し候。この「はりばこ」とは、何事の意に候や。小生聞くところは、他邦のもの商用でゆくときは、土地の風として、定時滞在中の妻なくては万事不自由なり、半娼半処女の女を見定め、この女かの女と臨時の妻を定むるときは、その女裁縫具入れたる針箱を持ち来たり、その商客の室におく。しかるときは、もはやその女を他の女に改めかえることならず、その女を妻とし滞留中万事手つだわせ、いわゆる内助の功を得て、去るにのぞみ多分の礼物をおくる。その礼物を蓄えて、多く蓄えし女が富貴の家の妻にのぞまれしと承り候。出羽の鶴岡などもかかる風ありし由、また外国には古今かかる風の処はなはだ多し。ただし右の信州の「はりばこ」のことをいいし人は、あまりたしかならぬ人にて、滑稽など出まかせにいいし人なれば、果たして信か否、御伺い申し上げ候。
 今日より見れば如何《いかが》わしきようなれど、いずれの国にも商客をもてなすに、妻や娘を出せしこと、古えはあり内《うち》のことにて、当国などにもかかる類似の伝えある処少なからず候。小生これを集め、『郷土研究』へ出さんとせしことあるも、柳田氏は在官者ゆえ、かかることを出すを好まず、それゆえ見合わせおり申し候。すでに郷土とか里伝とかいう上は、かかることを出すをきらうべきにあらずと存じ候。
 貴方にある小さき実のなるシナノガキ、これは野生もあり候や、また、家生のものの種子をまかばはえ候や。当国には和歌山辺に一ヵ所にあるのみ、熊野では見ることすら難きものに候。
 
(566)          3
 
 大正九年二月十七日夜七時過
   胡桃沢勘内様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。その後大いに御無沙汰に打ち過ぎ多罪に候。小生植物学研究上のことより、一月下旬みずから雪中に鍬をとり、堅き土中に穴をほり候て、左の胸に大なる贅《こぶ》を生じ、薬を塗るうちその皮をかき破り、入浴中炎毒が侵入致し、左手全く鉄の棒のごとく重くなり、それより大騒ぎ致し、膏薬をぬり、吸出しをかけ、ようやく四、五日前より快癒致し候も、右の贅は直らず、石のごとく硬く、まずは二、三年後ならねば全く滅え失せぬことと存じ申し候。
 矢沢君へは粘菌の書を送り置き候。先年戴きし信濃柿の種子は諸家へ頒《わか》ち蒔かしめしも、多きは七、八本、少なきも二、三本生え候。拙家は一、二本しか生えず、それも消滅、しかし他家に生えたる分を三本貰い栽えしに、二本は今に盛えおり候も、その一本は形体あまり宜しからず候。
 さて本状をもって新たに伺い申し上げ候。『和漢三才図会』に、
 「千斤。久岐奴木《くぎぬき》、俗に万力という。『類書纂要』にいわく、千斤は旧釘《ふるくぎ》を起こすの器なり。按ずるに、千斤は方寸半ばかりの鉄器、随って穴を透す。別に長さ尺ばかりの鉄梃、大いさ穴に応ず。これを嵌《は》むること鐔《つば》のごとくにして、鐔と梃との間に旧釘を挾みてこれを抜き起こす。千斤・万力の名、共に強剛の義を取る」(イは方寸の鐔のごときもの、ロは鉄梃子なり)「一種、形は鋏のごとくにして肥《ふと》く、その頭|円《まる》く、もって旧釘を鋏みてこれを抜く」(ハ図)。
 去年十月の考古学会にて黒川真道氏は、この『三才図会』の万力の説は全然虚構にて、釘貫の紋を解せんとて、著(567)者寺島良安がこんなもの実在せしごとく想像より創設せしなり、と申され候。しかるに小生家は、維新前より明治十四年まで金物屋を和歌山市に営み、いろいろ古き鉄道具を蔵せし引出しの中に、実際※[図有り]こんなものあり、梃とては別に見えざりしも、家兄などが戯れにヤスリなどを梃として、かくのごとくに釘を抜きたるを見申し候。
 もっともこれは果たして釘抜のために作られしや、またはもと他の用に供せしものを、偶然家兄が右様の用に供すべく思いつき、実試して多少役に立ちしか分からず。
 しかるに、越前の人にて小生と植物研究に同じく従事する人が、昨年拙宅へ来たりしとき、小生の家紋釘貫なるを見て、自分も釘貫を家紋とする由話され候ゆえ、この紋の起こりはと尋ねしに、亡父君に聞きしは、万力という釘貫き器より起こりしとのことなり。この人は『和漢三才図会』など読みしことなきように存ぜられ候。さて青森県の友人へ聞き合わせ候ところ、同地には古くより近時までこの具(万力)を用うる人多く、今も蔵する人あるべしとのことなり。その友人方にも蔵し使いおりしが、近時西洋丸釘の盛行と共に自然廃止し失いおわりしとのことなり。また美濃の人より考古学会へ申し出でしは、現にこの万力を蔵し使用すとのことなり。ただし少々『和三』の図とかわり、※[図有り]この図のごとき方柱形の鉄梃と、『和三』に図するごとき座金《ざがね》とに御座候。かかる(万力)釘抜き具は、貴地方に実在せしことありや、また今も蔵する人ありや、御答を俟つ。
 当田辺には、右様の万力を只今蔵するものを見当たらず。しかしそれより化出せしと覚ゆるコゼヌキと申すものあり。小生近日借り来たり写生せしは左の通りにて、明治九年作と作りし人がみずから申す(六十四、五歳の車力《しやりき》の親方)。外にも六十二、三歳の人が、七、八歳のころ見たりと申す人あり。故にこの片田舎(今日も汽車電車なし)に、五十四、五年前すなわち維新の当時ごろ、すでにありしことは疑いなければ、外国伝来にはなく、古く日本にありしものと存ぜられ候。このコゼヌキ体の釘抜き具は、貴地方にも以前または今も蔵することありや。
 右のコゼヌキは、旧時家をくだくとき、旧釘の大なるものはなかなか※[図有り]こんなくぎぬきでは抜き得ず、必ずこ(568)のコゼヌキを用いしなり。
 このコゼヌキと申すもの(コジ上げて抜くよりの名なり)、貴地方にて旧《ふる》くより見当たり候や、これまた伺い申し上げ候。もっともコゼヌキ様のものにて西洋の丸釘をぬくに軽便なるよう小さく作りしものは、新聞社等にて紙の荷などつきしとき多く用うる。それは近来の輸入かと存ぜられ候。
 次に伺い申し上げ候は、信濃国守たりし小笠原家の紋は松皮菱※[図有り]なり。しかるにその分家たる阿波の三好氏は、これに釘貫を加え申し候。これは江侍とか申す旧家釘貫の紋なりしを打ち亡ぼして、その霊が崇るを鎮めんとて、その紋をとり自家に用いしと申す。「小笠原系図」を見るに、その一族に馬場氏あり、釘貫を紋とす。また木曽の上松《あげまつ》に木曽の分家なる上松氏あり、それが後に小笠原と改称せしが、それも釘貫を紋とする由、上松蓊《うえまつしげる》という友人より聞く。(この人は衆議院副議長たりし故安部井磐根翁の烏帽子子なり。)また小笠原の一家に東方、西方、南方、北方四氏あり。東西北は知らず、南方氏すなわち拙家なども丸に釘貰※[図有り]を家紋と致し候。しからば小笠原の一族が、阿波に渡りてのち釘貫を紋とせしというは、一種の付会に止まり、信濃にありし日よりすでに小笠原氏は多少釘貫を紋とせしにあらざるか、また今も東方、西方、南方、北方という家が貴地方に多少|有之《これあり》候や、伺い上げ奉り候。
 右一々何とぞ御答え下されたく、小生一文を考古学会に出すに当たり、きわめて入用にて、貴答さえあらば必ず貴状を全載して(もしくは要分を全抜出して)貴名を付し、出したく候。
 当地方へ信濃より杣人など多く入りこむ、その輩の言に、信州ではナメクジおよび蛇を食うを何とも思わぬ所あり(569)と、これは真に候や。これまた御答え下されたく候。
 釘抜に関し御答えを下さるる節、はなはだ失敬ながら貴下の御年齢を承りたく候。単に予の幼時とか、親父に聞きしとかにては、証拠になりがたき場合多からんことを虞《おそ》るるなり。小生は慶応三年生れにて、只今五十二年十月に御座候。          謹言
 
          4
 
 大正九年三月三日夜九時過
   胡桃沢勘内様
                  南方熊楠再拝
 拝復。二月二十一日付御状は二十三日、二十五日付御状は二十七日に拝見、千万恭なく御礼申し上げ候。衛教示の件々は、考古学会へ出す拙文へ貴名を明記して掲出致すべく候。
 まんりきという名で言いならわせるものに二様あり。一は『和漢三才図会』の釘を抜く道具にて、これは知人より数日前申し越せしは、青森県、盛岡地方では今も※[図有り]このようの釘抜き道具を万力と申し候由、しかるにいま一つは宝暦四年に竹田出雲等が出せし『小野道風青柳硯』と申す浄瑠璃に、天王寺の鳥居に足場組み掛けて額引き上ぐる人夫ども、ろくろ〔三字傍点〕まく手に音頭取るところへ、土地で口利く出臍の又九郎なる男馳せ来たり、今日は休みじゃ、釣り上げた額の綱しっかりと留めておこう、おっと合点と人夫ども、綱しっかりと万力へ、笠木にかけたこの綱を、下へ取って、こう留めたれば、落つる気づかい微塵もなし、とあり。それより後文に、勇婦が万力の綱を切って落とせし鉄の額に打たれて、悪人が死するところあり。この万力は小生に分からざりしが、二十五日付御状にて、滑車のことと始めて分かり申し候段、御礼申し上げ候。
(570) ヒドルルス、一尺以上のなるべく大なるもの何とぞ三つばかり御とり置き御送り下されたく候。これは貴下御面倒ならば、矢沢君に御頼み下されたく候。まずは右小生前日申し上げし胸の腫れのため、大いに御受けおくれ候御断わりまでに申し上げ候。                                    早々敬具
 
(571)   中道等宛
 
          1
 
   中道等様
                   南方熊楠再拝
 二月四日〔【大正九年】夜八時
 拝復。三十一日付衝書状只今拝見仕り候。御列記の諸書中小生見たきものは無之《これなく》、もし小生前状に差し上げ候書目中御手に入り候品|有之《これあり》候わば、御貸し下されたく候。しかし小生借覧仕り候余暇あるや否、長々のうちには受け合い申されぬゆえ、一つにても御手に入り候わば、ちょっと御前報願い上げ奉り候。然《しか》る上、小生より(余暇ある場合には)改めて拝借の段、その期限を切って申し出ずべく候。
 九戸氏城守の節白米洗馬の一条は、すこぶる面白く拝見致し候。この話、本邦諸書にあるも、貴地方〔【青森県三戸郡】〕までありしことは知らぬ人多く御座候。なお、これは伝説に止まり候や、またはなんとかの書物に出でおり候や、もし然《しか》らばその書目を承りたく候。
 『和漢三才図会』二四巻に、千斤《くぎぬき》(久岐奴木、俗に万力という)と題し、二物を出し、「按ずるに、千斤は方寸半ばかりの鉄器、随って穴を透す。別に長さ尺ばかりの鉄梃、大いさ穴に応ず。これを嵌《は》むること鐔《つば》のごとくにして、鐔(572)と梃との間に旧釘《ふるくぎ》を挟みてこれを抜き起こす」とあり、釘貫の紋とて奴の装束などにあるは、これなりという人多し。実際かかる釘貫の具を貴下は見たることありや、これならずとも万力《まんりき》という名の器は貴地方にありや、このこと伺い上げ奉り候。
 当地方に下記のごときものあり。貫木金《かんぬきがね》または長持の環ごとき鉄製の格《わく》を、鉄梃の頭に付けたるなり。梃頭の側面を少しくふくらしたるゆえ、ある格が下に下がらず、空間を生ず。釘をこの空間にはさみ、梃を上へ挙ぐればどんな釘でも抜くるなり。これをこの地方にてコゼヌキ(コジ挙げて抜く義)という。『三才図会』に出る図のものを合して改良し製作したるようなり。ただし『三才図会』に見るごときものは、当地方で見し人も聞きし人もなし。いずれにても貴地方にこの二つの、またその一つがあれば、御知らせ下されたく、また貴地方にて何と呼ぶか、むかし(維新前)よりありや、維新後のものなりや、御教示下されたく候。
  〔原手簡には、コゼヌキの図(胡桃沢勘内または沼田頼輔宛書簡参照)が描かれていたのではないかと思われる。〕
 
          2
 
 大正九年二月十三日夕五時〔葉書〕
 貴書只今拝見。
 バンドリは英語で flying squirrel(飛栗鼠、和歌にはムササビとよむ)、当地方でもバンドリと申す。これは鼠や兎と同じく囓歯獣にて、プテロミスとシウロプテルスとエウペタウルスの三属より成り、種類多し。欧州、アジアおよび北米に産す。日本にはバンドリ、モモンガ、オカツキとたしか三種ありと記臆仕り候。支那の?鼬も日本と別種ながら同じくプテロミス属のものに候。正月号『太陽』一三九頁上段〔【「猴に関する民俗と伝説」一節】〕に述べ置き候ごとく、飛膜の張り様が全くコルゴと別に御座候。歯や乳の排列も別に御座候て、両属のあいだ、何の近縁もなく候。そのやや相似たるは、(573)飛膜ありて樹より飛び下り得る一事なれども、これはアサガオとヤマノイモと別類にて少しも縁なけれど、いずれも生活上の必用より蔓を具して樹にはい上る、また鳥類と海亀と何の近縁なけれど、生活上の必用より等しく堅き嘴を具するに同じことに候。バンドリはこの地方にも多く有之《これあり》候て、土俗これを捕え、その皮を剥ぎ、産婦に見すればきわめて安産するなど申し伝え申し候。右申し上げ候。        以上
 
          3
 
 大正九年二月十三日夕六時〔葉書〕
 拝啓。只今一書差し上げ候(バンドリの御答)ところへ九日付芳翰着、ありがたく拝見仕り候。この貴答により小生は議論勝利に相成り申し候。すなわち貴書を全載して証拠と致し、出し申すべく、出板の上は一部差し上ぐべく候間、宜しく御高覧下されたく候。まことに御教示の段ありがたく候。千万御厚礼申し上げ候。
  小生一月下旬より大患にてようやく昨日より平癒、今に手動かず、渋筆御察読下されたく候。
 
          4
 
 大正九年二月十四日早朝四時認め
 拝啓。昨日の御状の意を左のごとく解して宜しきか、御返事を乞う。
(第一問)右の桿《さお》の厚さいかほどなりや。
(第二問)右の座および桿は何をもって作るか。(鉄か鋼か。鉄とすればたびたび用うるに従い、座の内側および桿の四穴が滅し、または広くなり行き、久しく用うることなるまじ。)
 右の桿に穴|二《ふた》通りあり。貴説に、〔【原手簡には、この部分に図があったものと思われる】(574)部は鋼鉄を別に張り付けしものにて、幅一分半ばかり、と。
(第三問)果たして右の桿に二様の穴ありとすれば、右のごときものと心得て宜しきか。しかして(イ)なる鋼鉄貼り付けたる部と、(ロ)なる貼り付けざる部は、同一面に並び存するか。すなわち右の桿を横断すれば、然るときは(イ)部は(ロ)部より少し(鋼鉄貼り付けたるだけ)高くなる理屈なり。板に釘を打ち込みあるを抜かんとせば、桿面の小さき穴一つをその釘の尖《さき》にあて、桿の裏をカナヅチでたたく。然るときは釘の頭が上がる。
(第四問)「このとき桿面の大穴をもって縦横自在に釘頭を動かす」とは、大穴を釘頭の一端にあて、ねじまわしでもすることに候や。または、大穴は釘頭が全くはまるほど大きく、釘頭を全く大穴に入れて、ゆりまわすことに候や。
(第五問)一体右の大穴四と小穴四は、桿の表より裏へ通り穿ちあるか。または穿てるも裏まで通りてはなきものにや。
 さて(第六間)かくのごとく「大穴もて縦横自在にゆり動かしたる上、方寸(すなわち座)の空間に頭を入れて抜く」とあるが、縦横自在に動かし得るほどなら、座を用うるに及ばず、桿の大穴に入れてゆり動かすのみで、すでに釘は抜けるはずに候わずや。別に座を用うる必要なしと存じ候。
(第七問)座を用いて釘を抜くには、桿のさきの大き頭を釘の頭と反対の方にして、(この図では釘の頭が上を向きおるゆえ、桿の大き頭は下に向かわしむ)座に通し、釘の頭を座と桿のあいだの空処に入れ、さて力を極めて桿の尾の方を持ち引き上ぐれば、座がしまりて釘が抜けることに候や。その時一つの手で桿を持ち、一つの手で座を持つ必用はなきか。かくのごとくにもちゆき、かくのごとくに座をなるべく下へ落として抜き得るは容易なるべきも、それまでには釘の頭がよほど上へ出るように釘の尖《さき》(尾)の方よりたたき上げざるべからず。さほどたたき上ぐるほどなら別段座の必要なく、桿の大きな穴のみで事すむべきに候わずや。
 右の辺のところ何とぞ小児に鋭くように(少々語がくどくあるまでも)詳しく御説明仰ぎ上げ奉り候。
(575)  小生当地の左力《さりき》に聞きしは、以前釘戻しと申す具あり、鉄製なれど前部に鋼を付けあり、または前部全く鋼にしあり、形は笄《こうがい》または圧尺《けさん》または鉄扇をたためるごとし。長さ八寸、幅七分、厚さ五分くらい、その前部(鋼)に四つばかりの孔あり、大小不同なり。(いずれも表より裏へ明き通りあり。)あるいは穴が表の方広く裏に向うて漸次狭くしある。釘を抜かんとするもの、その釘の大小に従いこの穴の大小を撰び、その釘の尾を相応の孔に入るだけ入れ、下よりカナヅチでこの釘戻しなる具をたたけば、釘の尻が鋼の穴に入るだけ入った上は、止むを得ず釘の頭が板をはずれ、上へ上へと抜け出るなり。さて釘の頭がよい加減に板より上に出でしところを、通常のくぎぬきでぬきとりしと申す。
  思うに貴下は、あるいはこの「釘戻し」と『和漢三才図会』の万力の桿とを混同して記臆されしにあらざるか。
(第八問)大小の孔は、(甲)全く同一面に二行に並びありしか、(乙)大孔は桿の表に、小孔は桿の横側に、列しありしにあらざるか、この辺のこと承りたく候。貴図を見るに二様に画けり。どうも(丙)は座に対する桿で孔を具せず、(丁)は右に申す釘戻しで、孔を具する。この二つを混じて一物を記臆されしにあらずやと疑わる。また右の四孔は同じ大いさなりしか、それぞれ大いさ異なりしか。
 小生議論の相手は有名なる学者なるゆえ、何分詳細に御説明下されたく候。ただし今日世に名高き東京辺のいわゆる学者は、実物を知らずにいろいろ臆説を吐き散らす。この疑いは小生勝利疑いなし、貴書面を証拠として明らかに争いたきゆえ、何分右のへんのことども、その他小生の疑問中になきことまでも、御心付きの段は、いかにくどくとも宜しく、御縷述、御教示を仰ぐなり。
  当地中学校の動物学教師に青森県人高見勘次郎という三十一、二の人あり。妻君は二十七、八なり。一子六歳ばかり。この妻君の母とか姉とか流感にて、一月中旬ごろ子を留め置き、この妻君一人帰県し、さて病人は快方にて妻君帰るや否、流感にて夫妻子供までも臥蓐《がじよく》し、はなはだ気の毒なりし。ただしもはや快方らしく候。拙宅へ(576)一度来たりしのみゆえ、青森県とまで知るのみ、何地の人というを承らず。
  まずは右申し上げ候。                    早々敬具
  貴下は何とかしてもし見当たらば、この万力を一具写真にとり御送り下さらずや。小生これを東京の雑誌へ出したきなり。
 
          5
 
 大正九年二月十六日午後五時
   中道等様                                                 南方熊楠再拝
 拝啓。只今東京考古学会雑誌〔【『考古学雑誌』】〕二月号を受け取りたるに、黒川真道氏の『和漢三才図会』の釘抜き一名万力の図はまるで想像のみに出でたりという説に対し、沼田頼輔氏の駁論出でおり、それには主として『和漢三才』通りの実物を作り試みしに十分釘が抜けるゆえに、まるの想像とも言いがたし、また越前辺に今も『和三』に図せし通りの釘抜きが遺存すると聞くゆえ捜索中、とのことなり。次に美濃国の片田舎の板津七三郎という人、これは旧幕時代に釘を抜く工人の頭梁手代をつとめし家にて、この人の家に現に万力を蔵すとて図を出せるが、『和三』に図するところとも、貴下の御示しのとも、拙生当地で見出だし候コゼ抜きとも違い候が、理屈は全く同じ物理学上の作用に因《よ》るものと知られ申し候。
 右の次第にて、二氏の説くところは黒川氏の説を駁するに力あるに相違なきも、貴下の実際の観察談ほど強力のも(577)のにあらず。故に何とぞ前書状もつて願い上げ候諸項、詳細の御答を得て、小生一論を出し、この疑義を明らかに致したく候。ついては今後もし貴地方にて万力の実物を見出でたる人|有之《これあり》候わば、その器をちょっと御借用、写真にとり御送り下されたく候。写真がちょっと面倒ならば、誰か画に精しき人に写生させ、寸法を明細記し付けられたく候。
 なお左の件々、伺い上げ候間、何分御明答下されたく候。
 『和漢三才図会』の解説を読むと、どうやら、最初釘戻し穴に釘の尻尖《しりさき》をあて、たたき上げて釘の頭を高く出し置き、板に深く入れる。釘の頭を高くたたき出し置き、さて別にかねて桿の太い瑞を下にして座を串《つらぬ》き、その座の一隅に釘頭を通し入れ、さて力を極めて桿を上へ引き上ぐれば釘が抜ける、という意味らしく候。
 しかるに、当地のコゼ抜き〔四字傍点〕のやり方および沼田氏の実験(これは氏が『和漢三才図会』の図によりみずから作り試みたる自流の方法)によれば、まず釘頭を通して座を貫き下ろし置き、さて桿の端を斜めに釘が板に入る所に当てて、座を力点として、釘を上の方へコジ上ぐれば、おいおい釘が抜け上がる、という見解なり。
 貴下御観察のやつの仕用法は、斜めにコゼ上げたりや、また上へ抜き上げたりや、このところ御明答下されたく候。
 次に、むかしの釘は今のごとく円径ならずして、方径なり。しかる上は、貴下前状御示しの桿面の孔もまた円孔ならずして、方孔ならざるべからず、如何。
 また右の孔に大小二行ありしことは承る。この大の一行と小の一行とについて、大孔にもそれぞれ多少大きさが差異あり、小孔にもまたおのおのに大きさに差違ありしや、または大の一行は(たとえば四孔として)四孔ことごとく同径、小の一行また四孔ことごとく同径なりしや、このことまた伺い上げ奉り候。           謹白
  小生は慶応三年四月十五日生れにて、只今五十四歳なり(五十二年十ヵ月)。失敬ながら貴下は今年何年何月にて、何年号の何年に生まれられしや。このこと本論を草するにすこぶる明了なるを要するにつき、伺い上げ奉り候。
 
(578)          6
 
 大正九年四月六日夜十一時〔葉書〕
 拝啓。四月三日出御尊翰只今拝見。(今日午前着せしも、小生宅地のことにつき測量等多用のため只今拝見。)シャチホコは、支那にて古くより鯨類の像を屋根に立て候。支那の開化は海なき地より始まりしものゆえ、周漢の際に筆せし星宿の名を見るに、海に関する星宿の名は、東海、南海等、わずかに二、三の名しか見えず。しかし『呉越春秋』か『越絶書』に、呉王が宮殿を営むに鯨鯢の像を土瓦に飾りしということありしと記臆致し候。小生英国で論文を書きしこと有之《これあり》候(このこと二十七年前)。とにかく今日とかわり遠洋に出ぬ世ゆえ、鯨鯢を珍しく異様の竜ごときものに画きたるに候。西洋にてもシャチホコをドルフィン(江豚)と呼び、建築の飾りに竜様の、ちょうどシャチホコ体のものを掲げ候。(西洋の古書にみな同様のものを画き江豚を表わし候。)日本でシャチホコと申すは、サカマタまたはタカマツと申し、江豚(イルカ)に似たるものにて、鯨を逐いまわすはなはだ猛烈なるものに候。その猛威ことに怖るべきものゆえ、例の邪視を避くるため、また水族は火を防ぐというところから、屋根に用いたるものと察し申され候。右御回答までかくのごとく申し上げ候。        早々敬具
  『考古学雑誌』へ貴説出で候わば、早速東京の知人より一本差し上ぐべき約束なり。着の上は御一報を乞う。
 
(579)   沼田頼輔宛
 
 大正九年三月十六日午後十時
   沼田頼輔様                                          南方熊楠再拝
 拝啓。十三日付芳翰、今日午後三時ごろ到着拝見、忝なくありがたく謝し候。キムラカウの解釈貴書にあり、大いに了解仕り候。『帝国文庫』に出せる諸浄瑠璃文句の校訂者、一向気づかざりしと見え、木ムラカウ、木ムラコウ、また木村郷と書き直したるをもって、小生には全く見当つかざりし儀に御座候。男爵三浦英太郎氏(紀州の頼宣卿の母の兄弟の家にて、『八犬伝』に名高き正木大膳の後なり。紀州の家老で、水野、安藤を除き第一の大身に有之《これあり》)へ貴書を抄出し、果たして黄紫紺《きむらこう》の幕紋今に残りありやを尋ね申し候。返事来たらば申し上ぐべく、また『考古学雑誌』へ小生の釘貫についての一文掲載相成り候わば、「木ムラコウ」の紋についてと題し、訂正文を出し申すべく候。
 前年、瑠璃・玻?について古谷清氏の説を駁し候文を掲載相成り候のち、古谷氏は瑠璃等については小生の駁論に服せしごときも、例のこの流の人の癖として、なにがな負け惜しみを述べて見たく、小生が瑠璃に関し謝承の『続漢書』という書目を孫引き致し候を、この書は『後漢書』といえど『続漢書』といわずとて再駁され、瑠璃の議論に取りて大関係ありといわれ候。しかし小生は孫引きの由を明言し置きたることにて、瑠璃の議論さえ正しくば、書目などは左まで大関係あることにあらず。(580)今回の黒川氏の引用のごときも、実ははなはだ粗漏のこと多く、『?嚢抄』は七巻、『塵添?嚢抄』は二十巻、しかして黒川氏は 『塵添?嚢抄』を引きながら『?嚢抄』を引いたごとく記しおられ候。かまわぬことのようなれど、編輯の時代が少々ちがい、したがって釘貫の古く記されたる早晩も多少かわり申し候。また『嬉遊笑覧』には、釘貫のことを記せる場処三ヵ処あり(しかも同じ巻一上に)。しかるに氏は門の釘貫の処一分処を引き、他の二を引かず。他の一はこの木戸にはなく、この木戸の側につづける囲いの柵を釘貫というように記しあり。(近松浄瑠璃文を参取せば分かる。)今一は釘抜き※[図有り]のことを記し、そのうちに例の『沙石集』の座とさおとのことをも引きあり。(ただし『嬉遊笑覧』著者は、※[図有り]かくのごときくぎぬきの頭を※[回のような図有り]の紋の起りと見たるらしく候。)とにかく『沙石集』の文か『嬉覧』に出であるを見のこせしは、よほど麁漏なことにて、あるいはわざとおのれに不利なるゆえ、知って知らぬ顔をきめしかと思われざるにあらず。
 しかるに、謝承の『後漢書』をむかしは『続漢書』ともいいしにや。『本草綱目』の引用書目には『続漢書』とあり、また、露人にて支那学の巨擘《きよはく》たりしブレットシュナイデルの説に、『事言要元』にも、謝承の『続漢書』と明記しある由。しかして古谷氏は『文選』にある「西京賦」を知らぬほどの人なれば(小生は九歳のときこれを暗誦せり)、万事ききかじりと見え、右謝承の著は『後漢書』といい、『続漢書』と決していわぬと、長々述べたる中に引ける清人の著書の中に、支那の古史の名を列せる中に、いろいろと正しき本名と間違えるものあるを小生見出だし、人のことをいう前に自分のことを気をつけよと申す一文を出せしに、これは何のわけか出さずにすておかれ候ゆえ、止むを得ず柳田氏を介し原稿を取り戻し申し候。徒党を組んでかかることをするは、はなはだ卑劣なる仕方で学者にあるまじきことと存じ申し候。しかしその原稿は今も保存しあり。
(581) 右のようなことゆえ、あるいは小生の今度の原稿も没書となるも知れず、まず二、三ヵ月まち候のち、出されずんば貴下を介して取り戻すとか何とか致すべく候。小生この原稿「釘ぬきについて」を出せしときは(三月十日)、貴下といまだ一音信も交えざりしときにて、もとより貴下にも黒川氏にも何の憎好あるにあらず。ただただ『沙石集』に明らかに鎌倉時※[図有り]万力ありし証あるを、貴下も黒川氏も気づかぬを遺憾に思いてのことなるより、そのことを報じ(今月分の雑誌によれば黒川氏はこのことに気づきたる由なれど)、かつ青森、長野諸県には今も※[図有り]が現存する実況を図入りにて詳報致し、それが進化改良して今日この地方に存するコゼヌキとなりし経路を述べたるに御座候。二十行二十字詰二十枚と九行、すなわち八千百八十字の長文にて、図をも大分板行に便にせんため、破傷風にて手痛むを忍び薄紙にみずから認め差し出せしに御座候。昼間は妻が病臥しおるゆえ、十歳になる女子台所仕事致し、小生また畑の世話し、娘の手が届かぬゆえ井戸をくみやるなど用事多く、夜分|人定《にんじょう》後認めたるもの、ずいぶん労苦したるに御座候。このへん御酌量の上、もし三、四ヵ月も掲載されずに打ち過ぎ候わば、小生より委任状差し上ぐべく候間、何とか御かけ合い下されたく候。
 今回の御状に、これは吉宗公が、釘抜、松皮、黄紫紺は三浦家紋、と心得おられし由、この吉宗という人はあまり文学に精しからざりし人の由、しかるにかく心得おられしは、そのころ「釘抜、松皮、キムラカウ、このキムラカウと申すは三浦平六兵衛義村が家の紋なり」という句が、何か世間に知れ渡りおる読み物、語り物のうちにありしことと存じ候。近松の曽我の浄瑠璃にも、紀海音の曽我の浄瑠璃にも、等しく出でおり申し候。(この二人は御存知通り競争反対の浄瑠璃座に関せしものなれば、一人の作り、他の一人が引くはずなく、二人ともなにかその以前に行なわれたるものより引きしと存ぜられ候)何故紋尽しの始めに、釘貫、松皮を出せしか、小生に分からず。
 三浦の紋が釘貫、松皮、キムラカウなりとは、有徳公の麁漏なるべ(582)し。釘買松皮は阿波の三好の紋にて、それはむかし阿波に江氏の武士あり、南朝方にて足利方の手にあまるを、京の小笠原、阿波に下り打ち平らげ、その江氏の紋釘貫を自分在来の紋松皮に加えて、釘貫松皮を作りしと申す(『続群書類従』の「小笠原系図」)。
 思うにこの文句は、三好氏京洛に執柄として大いにその威を振るいしとき作られたる、何かの謡い物等の中に出でたるに無之《これなく》候や。なお拙文掲載されたる上(もしくは貴手を経て戻さるべきその時)、御覧下されたく候。また釘貫松皮とはいかようなる紋に候や、衛存知あらば図をもって御示し下されたく候。
 黒川氏の文に見えぬが、釘貫紋を用いたるもっとも勢力ありし家は、広島の福島正則と存じ候。清須城にその紋のこりありし由、『塩尻』に見え申し候。このことも右文に記し置き候。
 小生の「釘ぬきについて」の前半文は、遠く本十一月中にすでに成りおり、しかるにそのころ諸県の知人へ問い合せ状を出し置ける結果として、諸方より万力は現存するような返書来たりし。そのうちに盛岡地方に篤志の人ありて、小生のために実物を捜しくれ候に、梃のみ手に入りたる報あり。※[図有り]座も必ず手に入るべければとて、盛岡市へ出で、その他諸村を探しくれおる由ゆえ、何とぞなるべくは実物を手に入れ、写真にして出さんと存じ、かれこれするうち、小生一家病気になり、本文を出すこと大いに後れ申し候。しかし後れおるうち、右の友人より※[図有り]の用い方につき、またその種別につき、よほど詳細の報知を得候は幸いなり。よってその人(中道等という人)の状の大略も抄書して、拙文に付し置き候。             早々敬具
 
(583)   出口米吉宛
 
          1
 
 大正九年十月十一日夜十時〔葉書〕
 拝啓。御恵贈下され候貴著『日本生殖器崇拝略説』、今朝九時着、忝なく厚謝申し上げ奉り候。小生明治十九年より三十三年まで欧米流浪致し候間、この類事おびただしく調べ書き留めたるもの有之《これあり》、いつか一纏めに致したしと存じ候うち、いろいろ多事中に馬齢を加え、近来眼力弱り、思うままに相成らず候。そのうち貴著を通して拝読致し、何か思い当たることあらば時々申し上げ候。まずは右御礼御受けまでかくのごとくに御座候。      恐々
 
          2
 
 大正九年十月三十日午前七時出〔葉書〕
 拝啓。絵ハガキおよび写真図版一、二十八日まさに拝受、忝なく鳴謝し奉り候。この像大きさは正確なるところいかばかりの物にや、おついでにいつでも宜しく御教示下されたく候。貴著に見えたる『傾城太々神楽』の陰物呪狙すること、十八年前当地にて小生見たること有之《これあり》、その時記し置き候ものを写し差し上げんとあせり候も、小生八月末より九月上旬まで高野山に菌を採りに行き、一々調査のため只今室内すこぶる乱れおり、その控えちょっと分からず、(584)出次第差し上ぐべく候。なんでも土にて陰物作り針をさし焙烙にて煎る、その時呪言は、「内おえ外なえ、内おえ外なえ、内おえ外なえ」と三度くりかえし、さて逆手にて屋根へ地げ越すなり。陰物は大きさ形状等きわめて呪誼さるべき人の物に似するを要す。故に巧者なものは、誰が呪誼されたとその陰物を見て直ちに分かるという。ある婦人この法を行なううち、うかとして、「外おえ内なえ」と申し、それよりその夫ますます妾狂いせりと聞き申し候。これと相似たる法、仏国などにも中古大いに行なわれ候由。
 
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 大正九年十一月十一日早朝〔葉書〕
 拝啓。大正四年の日記より左の通り見出で候つき、左まで御用なきことと存じ候えども、今も実際かかることをするものある証拠として写取、御覧に供え申し候。(大正四年十月二十日発行、田辺町発刊、『牟婁新報』より写せり。)
 十月十九日午前一時ごろ、田辺町大字下片町観音小路の角に、直径七寸の新しき法楽(焙烙)の中へ、長さ四寸二分、廻り約三寸ばかりの土にて握りたる陰茎形へ三十三歳と書き、その中央に蒲団針を刺したるを捨てあるを、おりから巡廻中の巡査が発見し、拾得物として警察署へ引き上げたり。夫が外にて浮気をする時、妻がかかる物を四ツ辻に捨てなば浮気が止むという俗信あり、たぶんそれならん、云々。
 
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 大正九年十一月二十一日早朝出〔葉書〕
 拝啓。貴著五九頁、伊予大三島神社記事あり。小生、明治三十四年十月紀州東牟婁郡勝浦港に滞在中、安芸のキノ工という所の人の持ち船、持主訴訟のことありて、この港に寄港中たちまち差し押えを厳命せられ、事片づくまで港(585)外へ出ること成らず、五十日ばかりも滞留しおりたり。その船長松浦梅吉というもの、小生と懇意になり、いろいろ話すうち承りしは、伊予の国の大三島社は長さ一寸八分の稲粒を神体とす。むかし神あり、もっての外の大陰にて、それを後に一まわし背に負い (帯にはさみ通したと聞きしが記臆定かならず)田植えせしが、その田にできたる米なりという、云々、と。今少し委《くわ》しく聞くべかりしに、いつでも聞き得ることと思い、そのまま打ちやりおくうち、別れ申し候。森田義郎氏は件《くだん》の社の神官の子にて、世襲の家に生まれた人、前年聞き合わせしに、左様の伝一切承知しおらずとの返事なりし。よって右の船長の誤聞と思いおりしも、今夜貴著を読みて、何か大三島の社境内に、左様の大陰神を祀りしことあるにやと存じ付き候。件《くだん》の松浦は諸国を航行して親しく拝せしと申しおり候。御参考までに申し上げ置き候。
 
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 大正十年二月二十六日夜八時認〔葉書〕
 拝啓。御状今朝拝見、御来意敬承仕り候。小生災難のことありて、只今ちょっと書籍取り探り得ず、そのうち事済み次第、またまた何か申し上ぐべく候。左の筆記は前日申し上げ候節申し漏らせしことと記臆候。けだし異伝なり。鶏肋とは存じ候えども写して差し上げ候。故楠本松蔵氏(楠本氏は一昨年ごろ死亡、当町の提灯屋なり。田本仁七と仮号し、しばしば『郷土研究』投書せり)に聞きしは、夫が外の女に通うを止めんとする本妻、夫の根の太さと永さに均しく土の根を作り、外なえ内おえと三たび唱え、焙烙にて熬り、四辻に棄つる時は、夫が外の女に行くも陰萎して事成らず。もし誤りて外おえ内なえと唱うれば全く反対の事を仕出だす。ただしこの方を行なえば、その土製物、人に失わるるゆえ、夫の勢力を自宅後まで快復する能わず、夫婦旅行中事叶わざるなどの憂いあり。この憂いを予防するには、かの土製物を四辻に棄てず、自家の屋根を越して投じて落ちたる所にゆき拾收し、夫の陽を外にて力なく(586)して置き、さてその力を外より恢復せしめんと思う時、取り出して前と反対の方向に抛げ返すべし、と。
 
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 大正十年三月十五日早朝〔葉書〕
 拝呈。小生『太陽』へ「鶏の民俗」を起稿するうち、西鶴の『一代男』巻三、の章に、二日は年越にて、ある人鞍馬山にさそわれて、市原という野を行けば、世之助二十四歳「一夜の枕物狂い」厄払いの声、云々、心も空《そら》になりしに、鶏の真似さすことあり、これに目覚め、おのおの帰る折ふし、云々。
 鞍馬山寺より年越の夜鶏の真似して参篭人を寤《さ》ますことありしように見え候。このこと何か御見当たりこれあらば、御知らせ下されたく、貴下の『土俗覚帳』を調べしも、見えぬように御座候。
                           敬具
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 大正十三年三月十七日午後四時〔葉書〕
 拝啓。その後打ち絶え御無沙汰に打ち過ぎ候ところ、御多祥御事と遥察し奉り候。さて小生、このごろ英国にて質問出で候、シャーレマン大王が蛇を救うて珠を得、その珠を持ちたる人に王の寵がもっぱら向くと申す一語の出処を論じ、答文を出しおわり候ところ、それにつき分からぬこと二つ有之《これあり》。
(1) 「娘道成寺」という唄|有之《これあり》、小生幼時など大坂辺にてもっぱら三味線また舞いの稽古にこの曲あるを知り申し候。これの作り替えにや、美麗なる処女盛装して鐘の開眼供養の場へ来たり、その鐘は女につかしめぬを承知ながら、その守衛たる坊主どもをうまく紿《あざむ》き、右の鐘をつき、鐘の功徳を滅せしめんと謀るような話ありしやに覚ゆ。(『釈迦八相倭文庫』に似た趣向ありしと存じ候。)この話は一体何に出でおり候や。またその次第大要御示し下された(587)く候。「娘道成寺」という唄もどういうことを作りあり候や、今に至りてはこの辺に知りたるものなし。併せて御教えを乞う。
(2) おしどりの剣羽を思い羽というは、夫婦の間を宋王にさかれて死せしものの魂がこの鳥になりしより思い羽という、と『曽我物語』にあり。小生の母など常にこの羽を鏡筐の底に蔵し、夫婦偕和のまじないの由申し候。玉虫やなぎの葉を鏡底に入るることは、『四季物語』、『用捨箱』等に見ゆるが、この羽を入るることは何かに見え候や。御示し下されたく候。                    敬具
 
(588)   矢吹義夫宛
 
 大正十三年十一月二十九日午後二時
  日本郵船会社大坂支店副長
   矢吹義夫様
               和歌山県田辺町中屋敷町三六
                        南方熊楠再拝
 拝呈。前日小畔氏より御状廻送、貴社より大日本紡績連合会の関係者に贈らるべき記念品のことにつき御下問相成り、承知仕り候。しかるに御状の趣き大至急を要する由につき、即時御返書差し上ぐべきところ、小畔氏より廻送の貴状、一切御名宛所の手懸り無之《これなく》、あるいは只今例の会社重役選立等のごたごたより、御上京中御宿所より小畔氏へ御問い合せに相成りたることかと存じ候。御滞京、事長くなるようならば、小畔氏へ直送の方が早く御手に入ることかとも存じ候。小畔氏へ電信をもって(十一月二十三日夕発)貴殿御宿所窺い上げ候ところ、二十四日朝返電|有之《これあり》、すなわち大坂川口御支店へ返書差し上ぐべき旨指令、しかるにそれとほとんど同時に、当町警察署の刑事訪問され、一《ひと》事件起こり、それがため種々配慮すべきこと有之《これあり》、その方に取りかかり、電信書状の往復等に事煩わしく、前月来顕微鏡過用等のため、うつむいてばかりおるより、鼻たけと申す病を生じ候ところ、それがいろいろと事多きため充血はなはだしく、一昨日より昨日にかけ発熱の上、いき出来申さず、今日医者の手にかけ切断致すべきはずのところ、(589)小生の鼻たけはすこぶる悪質のものにて、今年五月三十一日に切断致し候ところ、出血二、三日にわたり、それより脳病となり、八十日ばかりかかり平癒致せし例も有之、今日切断候上は、あるいはちょっと御返事差し上げがたきも知れず、またいろいろの事件を切断前に処理致し置く必要あるより、それぞれ知人を招き候に、朝十一時より只今二時までまつも来たらざる向きも有之、到底今日切断はむつかしきにつき、明日切断のことと致し候。右、心まち致し候友人が来る前に、下記の通り御返事差し上げ申し候。
 近来郵便いろいろと延着することしばしば有之、二十五日午前十一時付御状は、一昨日二十七日朝十時ごろようやく拝受致し侯。故にこの状ごときもあるいははなはだしくおくれて御手許に着することかとも存じおり候。かようのことなきよう、なるべくは御宿所を承りたかりしなり。夜分会社へ着等のことありては、到底その翌日、(また日曜日を挟む場合には)翌々日ならでは、御手許に入らぬ儀と存じ申し候。
 右刑事来訪一件は、小生多年多くの菌類を発見し有之、中にも只今編纂中の『大英百科全書』、また来年出板すべきドイツのエングレル、プラントル二先生の『植物自然分科篇』(これは全世界の植物学者の『ウェブストル大字彙』とも申すべき必用の大参考書)に、(別に小生が特にえらきにはあらざるも出板の順序上)日本の学者が発見せる新属植物の第一番めとして出ずべきミナカテルラ属の粘菌も、ここにのみ特産する当町にある県社|闘鶏《とりあわせ》神社、俗称田辺権現社の神林に近く工場を立てたるものあり。その煤煙のため神林が年々衰えゆくべきを察し、ことにその工場は県庁の認可もなきうち建築にかかりし等、不法の行為ありたるをもって、小生より当時県知事鹿子木小五郎氏に訴え、只今沖繩県知事たる松本純氏(当時本県警察部長)等、当地へ下り拙宅を訪われ、いろいろ商量ののち、夏中はその工場の煙が神林に及ぶこと少なければとて、夏むき半年の間は石炭をたくことを許されおり候。しかるに今度新たにこの工場(久しく廃業しておりたるもの)を買い入れたる人(小生の弟の悴の舅)が、目下木炭を焼いては引き合わぬ由をもって、年中石炭を焼かんことを請願し、いかなる故にか刑事をして、小生の意中を探らしめたるなり。
(590) 御存知ごとく、三年前小生七年かかりて空中より窒素をとるため、バクテリアを多量安価に培養繁殖せしむべき養料の藻を試植せる畑に接して、法規に背き、成り金の男が高き建築を立て、日光を遮断して、七年間私資を投じたる研究事業を妨害しおわれることあり。小生は小畔氏より御聞き及びなるべき通り、従来久しく仙人生活の男なりしも、かようの妨害毎々起こりては、到底学問を遂げること能わざるより、県知事を始め友人一同のすすめにより、研究所を立てることに致し、舎弟始めその縁属に多額納税者多く、いずれも相当の出資すべしとのことゆえ、三十六年めにみずから上京し、首相以下に謁し、徳川侯一万五千円、岩崎小弥大男一万円を筆頭として、貴社よりも、中島滋太郎氏は旧友なるをもってその世話と、小畔氏取り持ちで、伊東前社長以下それぞれ寄付さるるところあり。貴殿も御寄付金ありて、今に銀行へあずけ利子をつみ立ておれり。
 しかるに、その金高が小生ごとき仙人風の男にしては意外に多く集まりたるをもって、親属などの私人に管理せしむるときは公評が面白からず、よって銀行へ預くることと致し候。それが舎弟その他の気に入らざりしと見え、約束の出資は一文もなさず、また小生もと家を継ぐべかりしを、学問一心のため舎弟が家を継ぎたる義理上、月々百五十円ほどずつの妻子生活科を送り来たりしをも、一切何の弁明なしに支給中止と相成りおり候。小生としては、ぜひ談判に上るべきなれども、研究にその日その日を追われ、今日までは小畔氏等の助力で、また自分寄書、著述等の所得で、どうやら不十分ながら妻子を養い来たり申し候。しかるに今度また舎弟の縁属たるものが、小生畢生の事業の中心基礎点たる右の神林を潰しにかかるなどは、いかにも血も涙もなきの至りなり。右の工場はほんの借地にて、この近所に工場を立てるほどの地面はいくらもあるなり。また数日前教化団体より内相に返答せる国体復興の急務七項の第一にも、敬神云々のことあり、第二項には、我利を捨て公共精神を養うとあり。しかるに県社の神林を蔑如して一会社の私利をはかるなどは、実に不埒なることと存じ申し候。
 小生は大栗博物館にて社会学を専攻せしものにて、クロボトキン公なども知人に有之、したがってそのことを知れ(591)る輩よりは、毎度いろいろの誘惑(悪くいえば)にかかりしことあるも、今日まで社会問題や思想の方に口を出せしこと少しもなし。しかしながら右述の次第より考うるに、わが国のいわゆる資本家なるものは、欧米の資本家と事かわり、全く公共精神ということ少しもなく、我利我慾で、もうけさえすればよしという根性のものと分かり申し候。しかる上は、かかる資本家は骨肉とても恕すべきにあらず、一日も早く撲滅するを要する儀と考うるにつき、明日あたり鼻たけを切りてやや平癒候上は、上京して面識ある加藤首相に謁し、このことを述べたる上、資本家撲滅を主唱せんと存じ候。しかして従来学問上の関係ある英米二国の大使にも謁してこの次第を述べ、相応の助言注意をわが政府へ加えもらわんと存じ申し候。しかして小生が果たしてかかることをいうほどの権威あるかなきかを立証しもらうため、合計千点ほどの植物標本を提携して上京せざるべからず。(それは、来年中に小生の研究所の基本金はいまだ定額に達せざるゆえ、少分の着色出板料を小生より出し)英国の学会(リンネ学会、英国菌学会等)と米国シンシナチ市の巨富ロイド氏の菌学博物館より、小生二十余年来研究の成績として出板しもらうためにて、その前に東京大学の博士等にも見せ置かんと欲す。
 付して申し上げ置くは、小生は英国そだちの男で、万事英国風のこと多く、人より手紙を受くれば必ず早速返事を出し、その返事は必ず自書する。しかるに日本には悪い癖ありて、人の書翰を集めていろいろのほらを付け売る等のことあり。これまでも学問上の疑問などを書き来たり、小生が親切叮嚀に返事を出すと、それきり受領書も礼状一本も寄せず、その小生の書状を二円、三円に売り飛ばしなどするもの多し。またはなはだしきは新聞社へ売り、内事内情を暴露して平気なるものあり。よって研究所の発起人のうちより小生を戒飭《かいちよく》して、寄付金を贈り来たらぬ者には、一切問い合せの返事を出すことを禁ぜられおり申し候。
 貴殿はすでに一昨年御寄付金を下されたる御事ゆえ、決してその儀に及ばざるも、小生目下何の収入もなく、かかる難件また勃発して、上京のことはしばらく措き、ぜひ和歌山県庁までは上らざるべからず、旅費に事をかき種々こ(592)まりおるべしと御察し下されなば(研究所への寄付金は一切和歌山なる四十三銀行へ定期預金としあれば、中途にして只今取り出すことならず)、幸いにして只今御答え申し上ぐることどもが、いささかも貴会社の御参考に相成るようなことあらば、何とぞ一円、二円でも宜しく、この上の御寄付を願い上げ置き候。ほんの時間をつぶしただけのことにて宜しく御座候。かかることは後日かげでぶつくさ申すよりは、厚顔に願い上ぐる方が自他のために都合好かるべしと存じ、願い上げ置き候。多くて晩きよりは、出立も迫りおれば、少なくても速い方を願い上げ候。
 
 以下     答申
 
【本文】御下問の綿の神というものは、なしと存じ候。
 支那にて古く綿といいしは、蚕よりとりしものを主としたらしく候。しかし、太古の神農が作りしという『本草本経』に杜仲あり、三国の魏の呉晋の『呉氏本草』に、杜仲一名木綿とあり。これが木綿という名の見えた初めなり。この杜仲一名木綿は、Eucommia《エウコミア》 Ulmoides《ウルモイデス》 とて北支那に自生し、古来腎虚の妙薬と致し候。小生は見たことなけれども、日本のカツラノキなどと同科に属する木で、皮にも枝にも葉にも弾力性ゴムを含むこと多く、これを折るとちょうど綿のごとき細き毛となりて無数のゴムの筋が出る。小生在英のころ、この木で紙を作るを目論見《もくろみ》た人ありと聞きたり。しかし分かり切ったことは、紙よりもゴムとしていろいろの工業に応用することに候。北支那に産し、また多く栽えるとのことなれば、何とぞわが国相応の地に移植して、例の国難の幾分を救うためゴム工業に応用したきことなるに、そんなことをおくびにも言い出す人のなきは、よくよく迂闊無心配の官民共に逸する国風と慨嘆仕り候。
 只今いわゆる木綿というものは、宋のとき、初めて支那に入りし由、『本草綱目』に見えたり。宋の謝枋得の詩に、「嘉樹、木綿を種《う》う。天なんぞ八?《はちびん》に厚き。その土桑に宜しからず、蚕事ことに艱辛《かんしん》たり。木綿千株を収むれば、八口貧を憂えず」とありて、蚕業挙がらぬ地には、ことの外必要なものとしたるなり。しかして明の何喬遠の『?書南(593)産志』に、綿の実を聚めて、あるいは弾くに竹弓をもってし、あるいは絞るに輪車をもってし、これを木綿花となす、とあれば、只今のワタのことを綿花と称うるは、明朝すでにあったことと存じ候。日本には『農業全書』巻六に、「本朝にも百年以前その種を伝え来たりて今あまねく広まれり」とあり。古え木綿なき世には、庶民はもとより士族も、貧なるものは麻布をきて冬寒にこまりしに、幸いにして木綿輸入されて貧者までもその恵みを蒙る由を述べたり。この書は元禄八年成りしものなれば、百年前というは文禄四年なり。秀次公が高野山に自殺した年で、征韓役の最中なり。そのころ渡り始めしことと見え候。
  (【増補】)熊野の山奥などには、あまり遠からぬ世まで木綿なく、冬籠りに家婦の仕事とては藤の繊維で衣を織ることなりし由承り候。『?余叢考』巻三〇に、梁の武帝木綿の?帳《そうちよう》を送ることより、夏の禹王の時、織貝といいしも木綿なる由を載せて、古えは交趾、広州等の南地にありてきわめて珍しき物とせしを、宋末にその種を支那本部に伝えしなり、と判ぜり。日本にも、桓武帝の時、天竺の人が持ち来たれる木綿の種を紀伊、四国、九州等に植えしめしこと、『類聚国史』一九九に見えたれど、この種は絶え果てて、秀吉公の時さらに植えたようなり。太田覃の『一語一言』巻三九に引いた松井精の『野語述説抄』に、その祖母の話に、われ十五、六の時岐阜にあり始めて木綿の服を着た。その時の人これを珍しがること?紗《ちりめん》、花綾《とびざや》のごとし。そののち木綿の種を植えることあれども、その製法を知らず、紡織の粗鄙なること今の巧好精緻に遠く及ばず、云々。相伝う、上世より永禄・天正ごろまで下民の服はみな麻葛の類なり。故に今に至るまで賤者の服を布子と名づく、とあり。この書は貞享元年の物なれば、祖母十五、六歳はちょうど永禄のころなるべし。『和漢三才図会』に、布は総名で、今は蚕綿で織るを絹といい、木綿で織るをモメンといい、麻糸で織るを布という、三品おのずから別なり、とある。正徳ごろまでは、依然絹や木綿以外の粗い繊維で織った物をもっぱら布というたから、賤者の服を布子と言ったものと見える。なお古代のいわゆる木綿のことは、『天野政徳随筆』二に出であり。参考すべし。)
(594) かようの次第で、日本、支那とも木綿が渡り来たりしは比較的はなはだ新しく、したがって特に綿の神というものあるを聞かず。ただ縁につれてもよりもよりの氏神や産土神、または一汎農家の神をまつりて綿の豊作をいのりしことと存じ申し候。また綿を製する者は、それぞれ大黒とか夷子とか商工の神を祭りしことと存じ申し候。『郷土研究』三巻三号に時田良輔氏報告あり、上総の五井では正月十五日、欅《けやき》の枝に餅を付け、綿の花と謂つて神前に供える風習あり、と載す。これは内田邦彦氏の『南総俚俗』などを見ても分かる通り、いずれの国にても正月十五日に鳥逐いの式を行ない、また果樹を打ちて今年多く実《みの》らずんば伐ってしまうと脅かしなどす、つまり農作を祝する日なるより、綿を作る地方では綿の形を作りて神に供えるので、別に綿の神というものあるのでなく、一汎農作の神や、家々にまつる神に供えることと存ぜられ候。
 摂津国豊島郡池田町に呉織《くれはとり》神社、綾織《あやはとり》神社あり。これはわが国に神代より蚕桑はあつたが、衣服を縫うことを知らず、応神天皇使いを呉国に遣わし、工女|兄媛《えひめ》、弟媛《おとひめ》、呉織、穴織の四女を得たが、天皇崩じてのち本朝に着し、兄媛を胸形大神に乞われて奉り、あとの三婦女をつれて使人が摂津に着し、仁徳帝に奉る。この工女が死して神にまつられたのだという(『摂陽群談』巻一一)。そののち雄略帝の時、また工女を呉国に徴し、来着の上、そのうちの衣縫兄媛《きぬぬいのえひめ》という女を大三輪の神に奉った、と『日本紀』に見える。これをもって考うると、胸形(宗像)大神と大三輪神が日本で衣類を作る業の守護神と見える。誰も知るごとく、大三輪の神は大己貴命《おおなむちのみこと》で、この神が毎夜天より降って女に通うて孕ませしに、誰がしたことと分からず、父母その女をしてある夜男が来たときひそかにおだまきの糸を付けた針を男の裳にさしこましめた。男去つてのちその糸を尋ね行くに、三諸《みむろ》山に留まったので、その男に化けて通ったのは三諸山の神と分かった。すなわち大己貴命であったという。これらはむかしの俗説らしいが、とにかく大己貴命が女工すなわち裁縫、紡績、機織等衣服を製する一切の業を司る神だったから、雄略帝が特に呉国から招聘した工女を奉り、また右のおだまき(おだまきとは糸をくりてまきつけおくものなり)の話なども出たことと思う。
(595) 『新撰姓氏録』は、弘仁六年嵯峨帝の勅撰なり。その第一七巻に、大神《おおが》の朝臣(熊楠申す、故谷干城子は大神朝臣の系の由、みずからいわれたり)は、素佐能雄《すさのお》命の六世の孫たる大国主(すなわち大己貴命)の後なり。初め大国主の神、三島の溝杭耳《みぞくいみみ》の女、玉櫛姫を娶るに、夜来たり曙に去る、いまだかつて昼到らず。ここにおいて玉櫛姫|苧《お》を続《つ》いで衣に係く、明けに至り苧に随いて尋ね求め、茅渟県《ちぬのあがた》の陶邑《すえむら》を経て直ちに大和の国|真穂御諸《まほのみむろ》山に至る。還って苧の遺《のこ》りを見るに、ただ三?《みわ》あり、因《よ》って姓を大三?と號す、とあり。くわしくは知らぬが、緒ののこりがおだまき(糸巻き)三まわりまわるだけのこりたるより、大三輪と号したというなり。初めは大国主すなわち大己貴命を大三輪神と言ったのが、のちにこの神の子孫の姓となったのなり。大三輪の大神の子孫ゆえ大三輪とも大神《おおが》とも姓をいうたことと見える。
 次に、これまた女工の神と察する胸形《むなかた》大神のことは、『日本紀』神代巻に、天照大神、素戔烏《すさのお》の尊の十握の剣を索め取り、折りて三段となし、天の真名井に灌ぎ、咀《か》んで気を吹いた。狭霧に生ずる神を田心《たこり》姫という。次に湍津《たきつ》姫、次に市杵島《いちきしま》姫、すべて三女を生ず。この三女神ことごとくこれ汝が児なり、とて素戔烏尊に授けしむ。これ筑紫の胸形君《むなかたのきみ》等が祭るところの神なり、とあり。
 後世の物ながら、『宗像軍記』上に、この胸形大神(宗像大明神)に奉仕せる宗像大宮司の家の始終を序した物はずいぶん参考になる。それにいわく、この三女神、地神三代天津彦火火|瓊瓊杵《ににぎ》の尊の御時、筑紫国室木の六岳という所に出現したまい、御胸より光を現わし、御肩より光を放ちたまうによりて胸肩と申し奉る。その後、孝霊天皇の御宇に至りて宗像三所に鎮座したまうなり。それより代々の帝もこの御神を尊敬したまい、御社をも建立し、神領をも数多所《あまた》寄付したまうなり。太政大臣藤原忠平公は一向《あながち》にこの御神を尊敬したまい、この御神と現《うつ》つに物語りなどせさせたまい、御神位をも申し増させたまいたる由。(とあり、のちに足利尊氏は筑紫にありし時、この神を祈りて多多良の浜の戦いに勝ちしことを載す。)
(596) 胸形という神号は、もとこの神が天より降ったとき青い玉、紫の玉、八咫《やた》の鏡と、三つの品を神自身の神像としてそれぞれ三つの宮に安置したので身形《むなかた》(自身のみのかたち、むなかたと言いしなり)という義で、その辺の土地を身形郡、後に宗像と書き改めた、と『筑前風土記』にある由。この書は小生見たことなし。
 胸形君《むなかたきみ》という一族は、『新撰姓氏録』によると、上に述べた大神の朝臣と同じく大己貴命の後なり、姓《かばね》(英語で caste ごときもの)は初め君〔傍点〕たりしが、天武帝のとき朝臣と賜う。何故この胸形君の一家が右の三女神(すなわち胸形大明神の三神)を奉崇するかというに、『古事記伝』にその弁あり。それは、『旧事記《くじき》』というは、本書は亡びて今は伝わらず、ただし今存するものも偽作ながら古いものゆえ、まるのうそばかりでなく、種々の古伝を保存し伝えたことも多し。それに、大己貴命が宗像の奥津島にいます神田心姫の命(すなわち宗像大明神三所の第一位におる女神)を娶りて味鋤高彦根《あじすきたかひこね》の命を生み、また宗像の辺津《へつ》の宮にいます高津姫の神(上に『日本紀』より引ける湍津《おきつ》姫に当たる)を娶って事代主《ことしろぬし》の神を生む、とある。つまり大己貴命はよほど女ずきで、大和国では玉櫛姫をやらかし、筑紫ではまた宗像の三女神のうち姉妹二人ともに子を生ませたのだ。さて生まれた事代主の神もまた女ずきで、八|尋《ひろ》の熊鰐《わに》に化けて三島溝杭(これは事代主の父大己貴命が神の形を見せずに夜な夜なかよい孕ませたゆえ、おだまきの針で見あらわされたと上に引いたる玉櫛姫の父、三島溝杭耳と耳の字の有無だけで、実は同人であろう)の娘|活玉依《いくたまより》姫に通じ、天《あま》の日方奇日方《ひかたくしひかた》の命を生んだとあるから、自分の父の妻、今でいわば自分の継母の妹に子を生ませたわけなり。
 さて、この天の日方奇日方の命の五世の孫、阿田賀多須《あたかたす》の命が、『新撰姓氏録』によれば、胸形の君の先祖なり。すべて神代には母系を重んじたから、皇室なども女神天照大神の後ともっぱらいう、そのごとく、大己貴命といい、事代主の神といい、子をこしらえる日傭い人足同前、大和、筑紫と流れあるいて、女神どもを悦はせまわつたから、いわば宿なして、女神どもはそれぞれ一家一処に定住し、子を生んではこれを養育したゆえに、子供は母をたしかに知るが、父はそれと聞いたばかりのこと多く、中には自身は誰の種やら分からず、ただ生出せし畑のみ知ったのが多(597)い。したがって父よりも母を重んじて.胸形の君の一家は、もっぱら宗像大神すなわちおのれらの先祖を生んだ女を尊祀したことと思う。
 (〔【右の七行を次のごとく改訂】〕むかしは何の国にも貴族は特に血筋を重んじたから、西洋にもこの類のこと多く、娘に相応な婿見当たらぬゆえ、父が止むを得ず娘を妻としたるさえあり。今日の考えもて猥りに笑い蔑視すべきにあらず。さて、この天の日方奇日方の命の五世の孫、阿田賀多須の命が『新撰姓氏録』によれば、胸形の君の先祖なり。すべて神代には母系を重んじたこと多く、今も尊勝の系図に始祖が女神なるもあり、猿女《さるめ》の君《きみ》の家のごときは、女神天の鈿女《うずめ》の命を祖とし、後代までも家長は世々女人だったと見える。すなわち女神どもはそれぞれ一家一処に定住し、子を生んではこれを養育したゆえに、子供は母をたしかに知るが、父はそれと聞いたばかりのこと多く、中には全く父を知らざるもあり。したがって父よりも母を重んじて、胸形の君の一家は、もっぱら宗像大明神すなわちおのれらの先祖を生んだ女を尊祀したことと思う。)
 大神《おおみわ》の朝臣の先祖も、宗像の君の先祖も、等しく大己貴命に出ずるに、なぜ前者は大己貴命を先祖とし、後者は宗像の女神を尊祀したかというと、これは今もアフリカや南洋の蛮民間にこみ入りたる族制があるごとく、男祖と女祖との位の高下とか、年齢の差違とかによることで、ちょうど只今、大臣の子が母の業を継いで待合茶屋の亭主として畢ったり、無学の水夫が一朝子爵の家を相続したりするごとく、その時代にはそれぞれ小むつかしき習慣法があったことと思う。この宗像の神が大いに著わるることは、太政大臣忠平公がことに尊信したからのことだが、何故かく尊信されたかというと、只今ちょっと分からぬが、この忠平公の母が胸形君の一家より出たとか何とかそんなことであったと思う。天子の御母の家に尊信し来たつた、すなわち天子の御母の先祖の神を、帝室より特に尊ばれた例は、伴信友の『蕃神考』に、桓武帝の御母は百済人の帰化せるが子孫なり、さて桓武帝位に登りてのち、その御母の生家が祀り来たれる百済国の神を特に大社を建ててまつられた、これが今の官幣大社平野神社である、と出ず。藤原家の大(598)臣輩がことに宗像神を崇めしも、まずはそんなことであろう。
 右の理由をもって小生は、本邦に木綿の神というものはないが、女工、すなわち婦女の専務たる紡績、機械、裁縫等の守護の神のもっとも早いものを強いて求むれば、大三輪の神と宗像の三女神だと申すべし。
 ただし大三輪神はもっぱら大己貴命のよういえど、上に述べたおだまきの故事より見るも、玉櫛姫を大己貴命と共に大三輪神と祀ったことは明らかで、上に述べたごとく、大己貴命は諸国をやらかしまわりたれば、この社はもっぱら玉櫛姫の鎮座所であったろう。
 『和漢三才図会』に、勢州|奄芸郡《あんぎのこおり》の猟人が異女に逢うて、ハアハアスウスウとやらかし、児を生んだが、母も子も行方知れず、「恋しくば尋ねても見よわが宿は三輪の山もと杉立てる門」と一首をのこせり。夫尋ねて三輪の社の神木の本に至った。(御承知通り、三輪の社は神木のみありて、社なし。)それより三人共に神となった。当社の祭に勢州奄芸郡人が来てこれを行なう、とある。(この咄は足利時代にできたもので、『蔵玉集』というものに出でたりと記臆す。)
 されば大己貴命が諸国をやりあるいたのみならず、女神玉櫛姫もまた大己貴の一件にあきたらず、諸国をさせあるいたのだ。これは冗談だが、とにかく、中古こんな説が行なわれたので、大三輪神の社は大己貴命よりも玉櫛姫が主であったと分かる。この社の主たる神が女であればこそ、上に述べた通り、応神天皇が徴した女工が呉国から来着したとき、その一人を胸形の神(三女神より成る)の乞わるるままに奉りし例を追うたものか、雄略帝の時、また呉国より女工が来たときは、その一人をこの三輪の神に奉ったことと見える。
 されば大三輪の女神(玉櫛姫)をもって記念品の神像とせんか、ちとぐあいが悪いというは、大三輪の社は大和にあり、全く海の見えぬ所で、海を事とする郵船会社とは縁至って薄し、さて胸形の神は如何というに、これは勿外《もつけ》の幸いともいうべきことあり。『和漢三才図会』巻七九に、安芸の厳島大明神は「祭神三屋、市杵島姫神《いちきしまひめのかみ》、田心《たこり》姫神、湍(599)津《おきつ》姫神、松尾《まつのお》の社および宗像《むなかた》の社、これと同体なり」。『延喜式神名帳頭註』にも、「安芸佐伯郡|伊都支島《いつきしま》、厳島大明神と号す。天照、素戔と誓《うけ》て生むところの三女、その一神、市杵島姫《いちきしま》姫なり」とある。その他(〔【増補】〕『釈日本紀』、『大日本一宮記』、『続沙石集』等の)諸書みな、厳島すなわち安芸の宮島の神は宗像の神と同じ女神をまつるといわざるはなし。(市杵島姫一座とも、他の二女神を加えて三座ともいう。)両部神道(すなわち仏道と神道を和合して、神道に何神というは仏道の何尊、何天に中《あた》るという組織)盛んなりしうちは、この厳島の神を仏教の弁財天女が垂跡《すいじやく》したとしたもので、すなわち弁財天女が厳島の神の本地たり。御承知のごとく、弁財天女は財富の神で、これを信ずるものは富を得ると信じたから、平清盛、毛利元就など、ことに宮島を等崇せしなり。『和漢三才図会』、厳島大明神の条に、江州の竹生島、相州の江の島、奥州の金華山、和州の天川《てんのかわ》、芸州の宮島、これを五弁天という、とあり。弁天の像は誰も知る通りだが、一人ではさびしいから、同じくは宗像また厳島の神社に奉祀せる三女神を、姉妹の年頃《としごろ》を貴下がすき次第に見立て、姉二人は上にも述べたごとく大己貴命の子を生んだのだから、まずは三十四、五の、彼の処から御光がさすような大年増、すなわち彼の所が海老茶《えびちゃ》色で、次のは二十五、六の薄紫、第三女神はまだ色知らぬ淡桃色の素女として、この三人で綿から糸を繰っている処を作り、さて沖の方に威勢よく日本郵船会社の船が綿花を積んで来るところを作ったら如何と思う。この三女が神であるということを示すためには、図のごとく、三女神より外《そと》の方に(神は内にあるべきものゆえ)鳥居を立て、鳥居に雌雄の鶏をのすべし。これは鶏のことをゆうつけ鳥という。夕を告ぐる鳥ゆえとも、むかしは木綿《ゆう》(今の木綿にあらず。むかしの木綿なかりし代のハマユウなどいう植物の繊維)もて作れる布片を幣のごとく鶏に付けて神に奉りしゆえ、そのとまり木を鳥居といい、にわとりを木綿付《ゆうつけ》鳥といったという。(〔【上記のハマユウをカジノキと改め、次のごとく増(600)補】むかし木綿の字を充てしユウは、カジノキの皮で作りし糸もて織りし布なること、『天野政徳随筆』巻二に出ず。)鶏さえ鳥居にとまったところを作れば、三女の神ということも、三女が繰るのは木綿ということも、分かるだけの智恵あるものには分かるべきはずなり。ただし、あんまり思案にこりると功を失うものゆえ、鶏などはない方がよしとも思う。何となれば、鶏を木綿付鳥と書くことはあれど、実はその木綿というものが今のキワタにあらざればなり。
 ただし右のごとくするときは、三神女すなわち紡績の方が主となりて、船の方が客になる。紡績女どもが木綿の廻送し来るをまつ体になる。それでは紡績連合会の方から、この通りわれらは貴方に恩を荷い冀望を属しおるとて、景品を作ってくれるように思わる。故に会社からおくる景品ゆえ、会社が主位にあり、紡績連合会を客と見て、郵船会社の船に綿花のカーゴを満載して、着岸する向うに鳥居あっても宜しく、なき方も宜し、三神女が糸をくりながら此方を歓迎する笑顔の体を作るが正当と存じ候。
 ついでに申す。宗像の三女神の名、および姉妹の順序は、『日本紀』より上に引いた本文の外に二、三の異説を『日本紀』に載せおる。小生右に述ぶるところは、名や順序はさしおき、ただただ姉二人は子を生み、末の妹は素女と作り立つべしと申すなり。
 (参考) 三女神紡績するということは、全く小生の新案のみにあらず。古ギリシアの信念に、Fates(英語、フェイツと読む、運命と訳す。宿命と訳する方宜し。すなわち生まれたときから人に打ちつけられある運命の極印《ごくいん》なり)、ギリシア語でΜοτραι《モイライ》(宿命司神)というがあり。一女神とするもあり、三女神より成るとするもあり。三女神とする説は、クロト Clotho,ラヒェシス Lachesi,アトロボス Atropos という三姉妹あり。クロトは紡績者の義で、生命の緒をつむぎ出す。ラヒェシス(運命を定むる者の義)は寿命の長さを定むる。それを定めた丈《たけ》にアトロポス(止むを得ざるの義)が切りはなすなり。かくて子が生まるるとき、この三女がその子の命運を定むるなり。これは三女神ともはなはだしくおそれられたもので、これより右の考案出たなどいうことすら禁物だが、まずこの画のように三女をまくば(601)り、ハサミなどは切れ物で不吉ゆえ一切ぬきと致し、何とか二人が糸を紡績しおると末妹神が沖に船の来るをながめるとか、三女神はたらきながら船を歓迎する色を示すとかいう体に作られたきことなり。
 また、かかる象徴的のものは物の大きさなど一向頓着なきものゆえ、船を主とし三神女を客とするならば、船の方によほど立派なものがなければならぬゆえ、船に綿花のカーゴを満載したる、その荷物の中央に(あるいは荷物の上に)、インド綿を生ずる木綿の花実をそなえたやつを大きく作り出して載せ、幸い木綿の花は黄色なるものゆえ、只今の節倹令に違背するかも知れぬが、金《きん》を用いて飾るも一策と存じ候。
 右、綿の神というものなしと答うるだけでは貴意に副わぬことと存じ、他に名案も出でおらずとすれば、女工の神たる宗像の三女神を綿の神と見るに不都合なしと存ずるにつき、まずは両部神道盛時の考えのごとく、この三女神を弁財天の体に作り、綿花と船とをうまく排置して記念品とすることを提案申し上げ候。
 (参考)欧米にも別に綿の神とかいうものはなし。これインド地方より綿布の輸入は早く盛んなりしが、綿花を輸入して紡績業を営むことはずっと後れたれば、もはや耶蘇教はびこりて一神を限り崇拝することとなりたる後なればなり。小生記臆するところによれば、英国などは十八世紀の中ごろランカシャ(602)ヤーで綿布を織ることができた後も、なお英人は多くインドより輸入の綿布を尊重し、インドより大量の綿花を輸入して工業に応用することは、全く十八世紀の最末年よりのことなりし。こんなことゆえ、綿の神というもの夢にも欧州になし。毛や木綿の外の繊維を紡績する業は上古より無論ありしゆえ、その神はあり。すなわち古ギリシアでは Ath?n?《アテーネー》女神を、古ローマでは Minerva《ミネルヴア》女神をもって、紡績と織工の神としたるなり。エーラカテー(英語で distaff《ジスタツフ》すなわち『妹背山婦女庭訓』の浄瑠璃にあるお三輪という処女がもつオダマキに相応するもの)という糸をまくものをこれら女神の象徴とし、また女工をもっぱらとする未婚女の印《しるし》ともしたるなり。この二女神の像はいろいろありて、小生も持ちおるが、只今ちょっと紡績の神としての像を見出ださず。置き処を忘れたから、小生よりは京坂の美術家に聞いたら分かることと存じ候。しかしどうも貴社の記念品には、一向東洋にもまた木綿にも縁なき神ゆえ、不当かと存じ申し候。(かつ、この二神は、いずれも弁財天ほどの艶容はなく、ちと賢女すぎた形ゆえ、貴殿などはいずれ小畔同様の御人物と察するから、せっかく拙僧の説教を聞いて催してきたやつが、痿《な》えてしまうことと存じ候)。また天主教(キリスト教の旧教)には、捜したら必ず紡績守護の女尊者はあるべきも、これまた今日は、天主教徒といえども知らぬほどの偏僻なものに相違なく(しからざれば、小生は記臆しおるはず)、故に不当と存じ申し候。
 ついでに申す。木綿はインドの最古典たる『リッグ・ヴェダ』にも出でおり、上古よりインドにあったもので、仏教にも自?《はくちよう》と称し、古くより載せあり。現にこの座右にある『ジャータカ』(釈迦尊の前生にいろいろと経歴した話を集めたもの)にも、三ヵ条まで木綿に関する話あり。しかるにどういうものか、梵教にも仏教にも、これを神聖視せず(菩提樹、菴羅《あんら》果など、梵徒や仏徒が神聖視する植物多きは御承知通り)、相愛する男女忍び会うて、イクイク(603)イクと、きをやりしまい、枕本にいわゆるがつかりした体を、木綿の種をまいたのち手がふるえるに比したり、木綿の果実が熟して白い綿を吐くところを、人が笑うて白い歯をむき出すに比したりしおる。よって、百姓男が若い娘に気をやらせ、娘あんまりよくつて気絶し、男びっくりして、これはやり殺したと思い逃げるを、木綿はその綿花の重さに屈みながら笑うなどいう俗唄あり。かく綿花をつまらぬものと見た理由は分からぬが、小生考えには、これは木綿は元来インドの原産でなく、外国(例せばマレー地方)より伝殖したゆえと存じ候。鶏なども非常に有用なものだが、ヒンズー教にはこれを不浄物と致し候。これは、鶏はもとインド洋諸島の原産にて、のちにインドに入りしものなればなり。日本でも、さつま芋などきわめて有用なものなれども、今に屁をひるとか何とか申し、これを比較的何の必要もなき稗とか黍とかいうものほど尊ばず、神にも捧げず候。もっともピルなど申し、比較的おそくできた小神(日本で申さばコックリサマとか道了さまとかいう俗神)には、綿花に関するものあるように、クルックの『印度宗教および迷信篇』などに見えるが、かかるものはいずれ容貌もつまらぬもので貴需に応ずべきにあらず。マレー地方やインド洋諸島のことを調べたら多少そんなものあるべきも、只今その時間なし。
 真にこれぞ正真正銘の木綿の神と申すべきはブラジルにあり。それはアガッシーの説に(『ブラジル旅行記』に出ず)、人類の始祖カロ・サカイブは、その子プライルがおのれに従順なるも一向これを愛せず、サカイブ一計を案じ、帯獣《アルマジヨ》armadillo(ちょっと兎のような獣で、全身鱗甲をかぶり、土をほることすこぶる速やかなり)を作り、尾だけ地上に露わして、他は地下に埋めおく。それから悴よ、帯獣をとらえ来たれと命ずるに、プライルが往って獣の尾をつかむと、たちまち強くこれを地下に引きこんでしまった。プライル頓智をもって地上ににげ帰り、地下に往つて見ると耕作上手の男女がおる、と父に咄す。サカイブ、悴にだまされて世界始めての木綿の繩を作り、地下に下ろして地下の人を引き上げると、上がってきた人間ははなはだ小さく醜し。しかし繩を引き上げれば引き上げるほど美しき人間が上がり来る。よっていよいよ尽力して(604)最も美しい人間を引き上げんとする刹那、繩は切れて一番上等の人間は永く地下に残った。これが地上に住むわれわれ人間に美麗なものが少ない理由だという。すなわちこのサカイブこそ初めて木綿を作った神だが、この木綿はインド木綿と別のブラジル木綿で、かつ南米の土蕃など到底日本で美術品に作るに堪えぬことと存じ申し候。
 まだまだいろいろと贅語を述ぶれば窮りなきが、御忙ぎのことにもあり、これにて止めと致し申し候。大坂へ返書を上げてよいか、小畔氏へ上げてよいか分からぬばかりに大いに逡巡中、小生に事件起こり、また鼻が大いにはれ出し、脳悪くなり、それがため大いに答申後れ、もはや間に合わぬことかとも存じ候が、とにかくせっかく調べたものゆえ、以上申し上げ候。小生幸いに今回の事件、事うまく片づき得ば、またいずれの日にか御目にかかることもこれあるべく、事うまく行かぬ日は自殺もできぬから坊主にでもなり申すべく候。まずは右後れながら答申かくのごとく差し上げ候。
 病中また多忙中の筆ゆえ、万々御察読、不明なことあらば御聞き返し下されたく候。         敬具
  文中卑猥なこと多少あるも、小生は従来尊貴の御方、大臣ども、日傭人足、乞食と話すにも、一件のことを雑《まじ》えるから、内々は悦服して話がよく分かり申し候。これを雑えぬと、書くものも読む者も堅くるしくて、たちまち飽きが来たり申し候。
 
(606)   西村真次宛
 
          1
 
 昭和二年四月二十八日午前十時過
   西村真次様                                          南方熊楠再拝
 拝啓。その後長々御無音に打ち過ぎ申し候。定めて末広一雄君より御聞き及びに渡らせられんが、小生ただ一人の悴、一昨春、十九歳にて中学校卒業、土佐の一高受験のため、高知へ上陸するや否、精神異状を呈し總より、人を派して当地へ伴い帰り候てより、今に二年以上の久しき間に少しも平快致さず。ために門を杜《ふさ》ぎ、客を謝して、今日まで夫妻およびかの者幼時育てくれたる老夫婦にて介抱致しおり候も、さらに全快致さず。ことに前月中ははなはだ容体惡く、小生は家の入り口に日夜見張り番を勤めおり、ために貴殿および末広君へも御無沙汰致したる訳に御座候。
 「丸」に関する拙文は、英文の方末広君の手にてタイプライチングに付したるところ、エリザベス朝の古字多く、十分分かりがたしとて、正誤のため拙方へタイプ書を廻送され有之《これあり》、これは悴四、五日来少しく静まり候つき、校字の上、三、四日中に末広氏へ返すことに御座候。右拙文の大要は、船に丸の字を付くることは、芳賀矢一、下田次郎二氏の『家庭百科事彙』に、秀吉征韓の時、九鬼嘉隆が作りし日本丸が嚆矢なり、とあり。しかるに、小生、近藤(607)氏の『続史籍集覧』の『戊子入明記』より、足利氏のころすでに金比羅丸、えびす丸、住吉丸等の船名あるを見出だし、丸をもって舟に名づくることは、足利氏の中葉以降すでにありしことを知り、その旨書きたるに候。西洋にては舟を主として女性のものと見立て候も、日本では男性と見たるにや、後鳥羽院のころできたる『駿牛絵詞』などに、車をひかしむる牛の名をいずれも丸と付きあり。たぶん車と同じく乗り物にて、多力を要するとの点より、舟をも男と見たものにて、右様舟に車と等しく丸の名を付けたることと察し申し候。
  丸という語の原意についてはいろいろと説あれども、この者あの者という者という語のようなことと存じ候(英語で男女とも者という場合、wight《ワイト》と申し候ごとく)。古いものに奴隷の名を注するに、男は……丸、……麿、女は何々女と記したる例多し。しからば丸は男に尊称するごとくなれど、『和泉式部集』などに、女がみずから丸と称せし例も見え候。(和泉式部、幼名御許丸と、『中古歌仙三十六人伝』とかいうものにあり。)この例より見れば、駕牛や舟を丸と称したればとて、あながち男性と見立てたるものと限らず、女性としても丸と称したるはずなり。
 外国の、丸の船名について多少説きたるは、チャムバレーン氏の‘Things Japanese’だけ小生は知りおり候。それは斎藤彦麿の『かたひさし』のその条を訳したるものらしく候。(この条も斎藤が誰かの書から移しとりたるものなるも知れず。)それにはただ真の意味は分からずというような曖味なことなりしと存じ候。
 小生初めて『ノーツ・エンド・キーリス』に出せる文は、チャムバレーンが筆せしところ、丸なる詞は最初は何の意に用い、次に何に用い、さてまた何の意に移りし、と順序立てて書きありしを、左様の順序整然と移変せしものにあらず、古くよりあの意にもこの意にも用いたること多しと例証を挙げたるに御座候。
 さて、ヒル氏がこれらの文を案じてのち、しからば丸とはまず mascot(延喜祝い)ごときものなれば、日本で舟を人と見て何々丸と称せしは、ちょうど英国で近古、舟を箇人同様に見立てて、The good Duke Robert などと等しく、(608)The good Ship Albert などといいしと近き例なれば、日本の丸(阿波丸等)を訳するに、The good Ship Awa とするがもっとも適当なるに近からんとの説を『ロイド・リスト』に出したるに御座候。
 小生が末広氏まで(今日までに)差し上げたるは右に止まる。
 しかるにその後校正中にいろいろと多少の誤謬、また脱漏あるを見出だし候。何様《なにさま》二十年ばかり前に書きたる物ゆえ、さらに書き直して差し出さんと存じおり候。
 小生は幼少の時より植物学を好み、十九歳のとき米国に渡りてより菌学と藻学に志し、諸国を流浪し、いろいろ採集また研究せるところあり、自分発見せるものも多く、明治三十三年帰朝後も熊野に退居し、もっぱら右様の植物を研究しおり、多少の成績を発表せんと欲するも、その資本に事をかき候より、植物研究所を設け、原摂祐氏(この人は外国にはあまねく聞こえたる菌学者ながら、駿河の静岡郊外に住し、県技師かなにか勤務しおられ候)などと研究成績を発表せんと存じ、東京へ三十六年めで大正十一年上り、旧師高橋是清子その他より寄付金を申し受け、郵船会社当時の社長伊東米治郎氏よりも五百円戴き申し候。只今七万四千円ばかり出来あり。これでは足らず。よっていろいろ苦辛して積み立ており候。白仁社長は小生と同校にありし人にて、小生は同氏の面だけは覚えおり、今回「丸」のことに関するものを書きて差し上げるのついでに、多少の寄付を乞わんと存じおり候。故にその「丸」に関する文書には、この寄付金に関することも雑《まじ》わり入り申すべく候。また、左なくとも白仁社長に差し上げるものを、社長まで出さぬうちに貴下の御覧に入るるということは、はなはだ手落ちのようにも相察し申し候。また、貴殿におかせられても、「俺がわったといふなよと女衒いひ」という川柳句のごとく、御目見えのすまぬものを内覧あつても面白からぬことに有之《これある》べく候間、これは白仁社長一覧すみ、その上何かの形式で公益出板相成り候後に、御一読下さらんことを小生切望致し候。
 白仁氏の手で出板成らずば、小生近く出すべき岡書院よりの拙文集に必ずこれを出し申すべく候。(609)申すも如何ながら率直に申すと、わが邦の学者、著者が priority に頓著なく、人の書いたものを自分のもの同然に書きなすの風、おびただしく行なわれ、小生など毎度不快のこと多し。『郷土研究』を読みたる人のことごとく知る、小生が同誌に連載せる『今昔物語』諸話の出処の研究を、故芳賀博士が自分の『参攷本今昔物語』にことごとくとり入れ、(自分門下の輩に対してはその助成の労を序文に謝しおきながら)一言もこれらは小生の考出せしものということを書きおらず候。はなはだしきは小生『続南方随筆』に出せる「千人切りの話」を、いかにしてか、まるで acknowledgment なしに切りとりて、「初夜権の話」とかいう書に作り、拙著よりさきに売り出して儲けたるものもある由、いわゆる羮《あつもの》にこりて氷を吹くで、小生は毎度こんなことあるを望まぬものに御座候。
 かつて柳田国男氏へいろいろ文通せし折り、氏よりの断わり状には、小生より同氏に通知して同氏が気づきたることどものうち、氏の見聞せざりし書物にあることは、一々小生より聞きしと書き添うべきも、氏の見聞せし書物にあることは、小生より聞いて気づくとも、その旨を一々書き添えぬとのことなりし。これは小生の存念とは大いに径庭あることにて、小生ならば、自分の見たことある書にありながら自分が気づかざりしことを、注意されて初めて気づきしならば、一層これを感謝して、その旨を明記すべきことと存じ申し候。
 小生かつて米をもって馬を洗うて城中に水乏しからざるを示したる和漢の例を列せしとき、ある城内に水乏しかるべしと察して使を遣わし、その使、故意に手を洗わんことを望みしに、城主の侍童水を満々と汲み来たり、使者が手を洗いおわるをまちてのち、おし気もなく庭へ水をことごとく捨てしを見て、使者返り、城内まだまだ水多しといいし話を、なにかで読みたるもその出処を忘れたりと記せしに、旧友寺石正路氏これを読み、書を飛ばして、それは『常山紀談』にありて柴田勝家がことなり、と教えられしを、さらに寺石氏の教えにより出処を知り得たりと明記して出せしことあり。『常山紀談』はありふれたる書にて、当時小生の座後の押入れに二本までありしも、寺石氏に教えらるるまでは気づかざりしなり。自分の手近にあればとて必ずことごとくこれを知り覚えおるものにあらざれば、そ(610)のうちにある由人に教えられた上は、必ずこれを明記して、かかる親切の益友あるを感謝すべきことと存じ申し候。
  側聞《そくぷん》するところによれば、貴君拙文を見たき御趣意は、貴君目下近藤男の奨学金によって船舶の沿革とかの御考論を出さるる参考までに拙文を見たくと思し召さるることの由、しからば「丸」のことは主眼にあらず、ただその傍景たるに止まると察し申し候。巧遅拙速に如《し》かずと申すゆえ、取り敢えず拙文(前年英国にて出せるもの)の概要を右に申し上げ候。
  小生目下家に病者ありて日々混雑を極めおり、白仁社長に呈すべき文は、いつと日を期して成稿の程を申し得ぬ境界にあれば、右の大要にて御納受の上、小生の再考文の成るを御待ち合わせ無之《これなく》、御自分の御論考を御進め下さらんことをひとえに願い上げ奉り候。今日はこの状を朝より書きにかかりしが、午後に至り、拙児病気発作の徴あり、いろいろと懸念致し候ため中止致し、夜分は自分の入れ歯が痛く損じたるをもって歯医へ出かけ、九時半帰宅候ところ、家内みな疲れて臥しおわり、病人は起きおり、この室に来たり坐しおるゆえ、徐かにその退き去り就眠するをまち、さて、いろいろと本日、月末仕払いの勘定致しおわり、只今夜二時よりまたこの状を書きつづけ申し候。
 前日『民族』誌上、なにか貴殿と柳田氏との議論あるを見及び候も、多忙の際ゆえ今に詳しくは読まず。しかし大体については貴論の方を正しと信じ申し候。民族や伝説を過去の事実に基きしものとする、故アンドリウ・ラングやゴム氏の説は、大いに拠《よりどこ》ろあることにて、いずれの邦民も、今の世にありて、自国にそんな野蛮なことがありそうなはずなしと思うようなことが、実は以前世間に普通なりしこと多し。以前どこやらでなく、今も路次、小路にすむ辟民中には、われわれが考えも及ばぬようなことのみ信ぜられ、行なわれおるなり。例せば、この田辺町は小さな町なるが、その大部分を占むる江川《えかわ》、出崎《でざき》など申す晒巷に、密棲する人々の言い行なうところを見聞するに、なにか少しく奇異なことあればこれを神怪に帰し、その手当てとして巫祝、狐狸、生霊《いきりよう》にたよるが普通に御座候。
(617) 近く小生方に前年までありし下女の兄が、女をこしらえながらまた他の女に思われ、その新しき情婦方へ入婿となりしに、その夜より新婦が発狂して婚儀を行ない得ず、さりとて今さら出ることもならず困りおり、それは旧情婦の生霊が新婦に祟るということを、その辺の者は一同に信じおり、さらに疑うものなし。またその辺より拙宅へ魚を売りにくる漁人の妻など、一日商売して夜分帰宅の途次、疲労のあまり足をふみちがえ、溝へ落つることなどあるごとに、疲労より眩暈を生ぜしとは思わず、直ちに自分は天狗に蹴られたと申し、他の人々もみな左様に信じおり候。また父死して子が茶屋の味を覚え、夢のごとくに蕩産して多人に迷惑をかけ、裁判沙汰となり法廷へ出で、何故左様の過行をなせしかと法官に問われて、全く狐につままれたるなりと臆面もなく答え、聴衆も左様確信するなどは平常のことに御座候。(その本人は当世の教育を受け、県社の社掌までつとめたる人なり。)今さえかくのごとくなれば、むかしのことは、なかなかわれわれの思うところと丸でかわつたことの多きものと存じおり候。
 柳田氏は、初め日本の随筆や地誌を多く読みたる人(内閣文庫に就きて)なるも、洋書はあまり読まず、小生すすめてフレザーの著書を購い読まれ候。それよりフレザーの『金椏篇』に倣うて「巫女考」などを出し、前後一貫せるものを出して、その部分また傍出して「ささら考」とか「鉢坊主考」とか、いろいろ書かれ候も、根があまり外国のことを多く心得、呑み込みおらぬゆえ、ややもすれば言詞の上より伝説や民俗を説く傾き著し。わが国の言詞は、きわめてこじつけやすきようにできたるものにて、国学者などはこれを言霊《ことだま》の国のすぐれたる徴《しるし》などと申しはやし候が、この言詞の研究は、言詞をカナで留め書きしたものばかり見ては、これまた実際とは大いにちがい申し候。
 小生、四十年ばかり前、和歌山市の自宅を出で、二十里距てたるこの田辺町へ来たり候途中で、人力車にのり走らすうち、車夫が田辺町の誰の宅へゆくかと問うゆえ、大江氏方へゆくつもりと答えし。大江氏は田辺で高名な銀行家にて、誰知らぬものなき著姓なり。しかるに車夫が一向そんな苗字の人が田辺にありと聞かずという。これは大江の千里(百人一首の)などを、当時京坂和歌山で発音するに、オ《\》ーエ《\》(そのオーは上方《かみがた》で王様《オーサマ》と発音するときの王《\》の通(612)りに発音し、エは上方で縁《エン》カイナというときのエ《\》の通りに発音致し候)と申し候。しかるにわずか二十里離れたる田辺町ではオ《−》ーエ《−》(上方で邦畿《ほうき》千里と読むときの邦《−》の通りにオ《−》オー、エは上方また東京で abcd と読むときのa|エ《−》ーのごとく発音致し候)。されば字でかけばオーエながら、オ《\》ーエ《\》を無文の者はオ《−》ーエ《−》と同一音とは心得ず、全く異音と心得たるゆえ、一向分からざりしに候。猴(サ《\》ル《/》)、去(サ《−》ル《−》)、鶴(ツ《\》ル《/》)、釣(ツ《−》ル《−》)、蔓(ツ《/》ル《/》)なども同様、カナは同じことながら、発音は全く異調に御座候。このことを少しも念頭におかずに橋《ハシ》と箸《ハシ》と端《ハシ》を同音にして同因より出でたる語と思わば、大きな間違いたるべく候。
 故に、支那に韻学起こりしごとく、日本にも語原や語の変化転訛をかれこれいわんとならば、まず右様の発音の声を精査した上でなければ、言いやすからずと存じ候。これに加うるに、いわゆる言霊《ことだま》の妙なる、橋《ハシ》を単に一語きりはなすときはハ《−》シ《\》なれど、弁慶橋というときはハ《−》シ《\》がハ《\》シ《−》(箸と同声となる)、橋本というときはハ《−》シ《−》(端と同声となる)と転化致し、まことにこみ入ったことながら、この転化自在ならずしては話が少しも分からず候。このへんのことに少しも頓著なく、鎌も釜に通じ、羽根《ハネ》も跳《ハネ》と同声のように呑み込んで、鎌は釜を潰して作ったもの、羽根ははご板でたたけば飛び跳るからこの名ありなどいわば、鑿するのはなはだしきものと存じ候。すなわち鶴の頸は蔓のごとく長いから、橋には心ず端があるからと説かば、はなしか〔四字傍点〕が鰻は鵜が呑まんとするもすべりて難儀するゆえ、鵜難儀《ウナギ》の意なりなど説くと同じ笑い草たらん。韻声の研究なしに(只今までその符号さえなし)言詞を論ずるは、はなはだ無用のみならず、きわめて危艱なることと存じ候。
 前年柳田氏日本諸方に蛙が鳴かぬ池ありと伝うるは、神がその辺へ降るを見るも返《カエ》り上《ノボ》るを聞かざるの意にて、返る聞かずの池といいしを訛って蛙聞かずの池というに至りしとか論ぜしことあり。しかるに小生これを駁せしは、蛙鳴かぬ池ある話はいと古くギリシアに行なわれし由、プリニウスの『博物志』などに見え、降って中世天主教の諸尊者の伝に、和漢の僧や仙人の伝と同じく、蛙が誦経の妨げとなるとて呪して蛙を封じ、鳴くことなからしめた話多し。(613)神が池へ下りながら上るを見しことも聞きしこともなしとて、返る聞かずの池と呼び、それが蛙聞かず、それより蛙鳴かずの池と転ぜしという想像は、日本で返ると蛙と同訓なるにはよく合いおる(実は強いて合せたるなり)。(ただしこれも返るはカ《−》エ《\》ル《\》、蛙はカ《\》エ《−》ル《−》で声がちがひ候。)それと等しくギリシア、フランス、ドイツ、支那等に蛙鳴かざる池の話あるは、いかにして説くべきや。ギリシアの hylas, フランスの grenouille, ドイツの FroSCh, 支那の蛙《アー》また蛤《ハー》等に、それと同音また近音の返るという意味の語ありや。これはずいぶん綴字多き仏語などとなると難題ならん。もしまた外国のこれらの話は、蛙と返るとの同訓なるより生ぜしにあらずといわば、さてそれらを如何《いかが》解くべきや。およそ蛙はいつも鳴くものにあらず、雌雄の情念盛んなるとき熾《さか》んに鳴き立てるなり、そのときは浅き水に群れ浮かんでなく、冷たき池に退きおるときは鳴かぬものなり。されば深く冷たき池にあって、性慾の鎮まれるとき鳴かぬを見て、その池の蛙鳴かずというは、事実に基きし話なり、ただ蛙は鳴くときと鳴かぬとき、鳴く場と鳴かぬ場あるを知らざりしによるなり(種類の異なるに随い異同あるは勿論のこと)と申せし。
 また驚き入ったことは京の大仏の耳塚を韓人の耳を埋めたとは受け取れず、東北国々いい伝うるごとく、むかし多くの獣を神にそなうるに、全身を持ち運ぶは大層なれば、その耳をきりて神にそなえし、そなえ終わりて埋めしが耳塚なり、というようなことを述べられし。小生も諏訪明神などにそんな儀式ありしことと聞くが、京都にそんな風俗ありしことを少しも見聞せず、なにか当時韓人懐柔にあせりし政府の機嫌に迎合して、こんなことをいわれたものと考えし。国のため教えのための語としてはきくべきも、太閤が征韓のとき韓人の耳を切って耳塚を築きしことは、当時の書史に多く見えおり候。(藤堂家や加藤嘉明家の太閤への注進状、また受取書に耳いくつと数まで出だしあり、『続群書類従』 の「山県源七郎伝」にも、蔚山攻めのとき浅野幸長が多く敵の耳をきりしことあり、おびただしく例を見出だしたりしが今は記臆せず。)さて友人寺石正路氏に聞き合わせしに、もっての外のことなりとて、耳塚を築きしときの供養文(清韓長老か誰かの作)を全写して送られし。それにはれっきと韓人の耳を埋める由記しあるなり。(614)それらをまとめて柳田氏へ送りしに、ただ数行の細字にてこんなものをおくられたとか書かれたばかりで、拙文は全く没書となれり。しかして小生へは、他日この清算返礼をすべしとのことなりし。意趣を含んで返報すべしということと聞こえ申し候。それより以後は馬鹿馬鹿しいから、小生は同氏の説に何言をもいわず、しかし柳田氏毎度毎度の書く物を見るに、民俗を民俗とし、古伝を古伝として研究するという意は毛頭見えず、ただ主として文字や言詞の上より解釈するばかりと見え申し候。
 前年『大毎』紙新年号へ書かれし「椀貸し伝説」なども、なにか言詞上より説かれありしが、小生は詳読せざりし。その内に奇態なことは、貸借ということは必ず利息のつくものと、氏は心得おるらし。実はむかしは借りたものに利息をつけて返却ということはあんまりなかりしなり。さればこそキリストなど高利貸し(すなわち高利に限らず利息をはたるもの)を咎むるのはなはだしきより、かえってみずから殺すまでに及び候。宮武省三氏説に、氏の生所高松市では、氏の父君の幼かりしころまでは、そろいの膳椀というものを蔵せるはよほど由緒ある大家に限り、したがって万一多勢の客を饗するときは、低頭して借り用いたるものの由。拙宅へ十年前この地より三十町ばかり距たりたる幽谷にすむ者の娘奉公に来たり、一年おりし。その家で祭時その小字の人々を饗応するに、かつて用いし箸をすてずに家の前の渓水で洗い蓄えおき毎年用うる、饗すみて帰るに臨み一同、洗い箸(よく洗うた箸)で馳走され有難《ありがた》し、と礼を述べて帰り去るとのことなりし。箸さえかくのごとくなれば、膳椀などはその村の大家でなくば備わらず、よほど貴重なものと見えたり。さればずっとむかしは一村に多人を饗すべき膳椀などを持ったものとては、神社のほかになく、その神社に蔵する膳椀を借りんとて、証文をかきて洞穴の口におきなどすれば、詞官それを見てひそかにそろえて洞穴の口にならべおくを、借り返り用いしことと見ゆ。けっして利息をそえたり礼金をそえたりせしにあらず。さて返礼として庸調の制ごときもの不言のうちに定まりあり、資力あるものは毎年作物をその社に献じ、資力なきものは石を運び木を植えなどして返礼に充てたことと存じ候。すなわち膳椀を貸した穴とか池とかいうは、言詞上より(615)間違いを生じた虚誕でなく、実際行なわれたる旧俗をかたり伝えたるなり。(日本に限らずインド、ドイツ、英国、支那その他にもあり。)
 また柳田氏白米城の話を書きしとき、これも諸処の城跡より焼米出るより生まれた作りごとなりと断じ、伊勢の北畠氏が白米で馬を洗い水乏しからざるを示したという城など、城として守るに足らぬ地勢で、攻めらるれば粉摧すべき峻山孤立せしものなりとか言われたが、これも通ぜざる論で、北畠がこの山で南軍を起こしたときは大砲も鉄砲も日本になく、飛道具とては弓矢のみなれば、ただただ高くて峻嶮な山を城守の第一とせしことに候。今の眼をもって古えのことを断ずべきにあらず。寺石氏通信に、北畠顕家が拠りし陸奥の霊山《りようぜん》などは、今日からいわば未開民の賊匪などにして初めて拠守すべき、不便極まる峻岨な処の由。近く『民族』に、紀州の糸我《いとが》峠で、むかし旅客が通行中毎度餓鬼にとり付かれたというを評して、立派な官道で低い山なり、餓鬼などのつきうる所と見えぬなどいわれたり。これは今日人力車や自働車が通ずるよう機械力で岩を削り山を穿って平易な道を作りし以後のことにて、吾輩十八、九のころ(明治二十年前)しばしば炎天にこの峠を越して、なるほど低き山なれども樹木少なく飲水なく道路迂折して、その辺の食物とては麁末極まるもののみなれば疲労はなはだしかりし。それを今日の官道を見た眼でかれこれいうは、古今の区別を知らぬ愚眼というのほかなし。賈似道の悴なりしか、三人集まりて、米はどこから出るか知っておるかと議論せしに、一人は台所より出るといい、一人は俵より出るというに、今一人倉より出で来るといいて、それこそ出所をつきとめたと誇る色ありしというも、むやみに笑いごとには無之《これなく》、柳田氏ごとき根性の人は、大坂から関ヶ原まで汽車で五、六時間もたたぬうちにゆき着き得るに、関ヶ原の役に大坂勢が関ヶ原まで押し出すに一月も二月もかかりしは迂遠の極、気でも狂うた奴ばかりというなるべし。こんな人が『民族』を出し、民俗学を唱うるから、世は不思議なものに御座候。
 小生は帰朝後那智山に二年半おりし。今とはちがい自働車もなんにもなく、実に辺鄙不自由なる所にて、二年半も(616)おると仙人ごときものになりおわり候。寒冬また炎暑中重き胴乱を負い林下谿谷を走り廻るうち、しばしば餓鬼につかれ、一度は渓流中の岩に頭を打ちつけ仰《あおの》けに仆れしが、胴乱が頭の下に落ちありしゆえ、幸いに大きな負傷をせずにすみたり。かく仆れるは食物が不自由なりしゆえ、過労の極、急に脳貧血を生じ茫然として手足たしかならず、歩を失してそこへ僵《たお》るるに候。そのふせぎに米などの澱粉質のもの、また香の物などもちゆき口に入るれば、つきそうな餓鬼もつかずにすみ候、餓鬼が付くとは急発脳貧血に候。少生みずから毎度この難にあいしのみならず、他人に餓鬼が付くを見しことしばしばなるもまたかくのごとし。みずからその難にあうてそのことを述ぶるに少しも耳を仮さず、埒《らち》もなき随筆(実際そのことにあいしにあらず、二伝三伝して聞きかじりたることを面白半分吹きちらしたる)などを、かれこれ引き陳べたとて、このこと研究を要すなどいいののしり、実地そのことにあいしものの話に傾耳せず、不思議不思議などいうようなことでは、その人の唱うる民俗学は、実際に遠き聞書き集たるに留まることと存じ候。
 もはや二十九日午前四時となり候つき少しく眠りたく(朝は七時に娘が学校へ行くためこの室を通るなり)、これにて擱筆致し候。久々家累あり、筆硯にはなれおり、この状を書くに意のごとくならぬこと多し、御海宥を惟《こ》れ祈る。
                        早々敬具
 
          2
 
 昭和二年五月八日早朝
   西村真次様
                    南方熊楠再拝
 拝復。五月二日夜御出しの御状、五目の朝九時前拝受、早速御受け申し上ぐべきところ、前日申し上げ候通りの事(617)情にて、書状など認め得ず、ようやく只今(五月八日午前一時)この状認めおき、夜明けて差し上げ申し候。
 「丸」の拙文のこと、社長一覧後、何らかの形式をもって刊行致し候後、御覧下され候様、御願い申し上げ候ところ、早速御承知下され、まことにありがたく存じ奉り候。一旦承諾致し候ことを改変致し候こと、はなはだ面白からず候えども、前書申し上げ候通りの事情ゆえ、悪しからず御海恕願い上げ奉り候。
 小生は今に多難にて、『民族』を蔵中より取り出して貴下の柳田氏に対し難ぜられたるは何ごとなりしかを詳らかに知るを得ず、しかしあるいは柳田氏が人柱のことを議せしに対してのことにあらざるかと漠然ながら想起候つき、ちょっとここに人柱のことだけ申し上げ置き候。人柱のことはちょうど拙児発症初まりし直後に、宮城の門下にその痕阯を認めたりとかのことを、『東京日日』が申し出だし、『大阪毎日』がこれをふれちらしたるに候て、小生はそれを読むと直ちに病人と同室しながら一文を草し、『大阪毎日』に出だし早速載せられたるも、宮内省辺より小言ありしと見え、本元の『東京日日』には掲載されざりし。その拙文を増注して『南方閑話』に載せ、さらに増加して『続南方随筆』に収め候。いずれもおびただしく増注せしも、『大毎』紙へ出だせし分を少しも刪《けず》らず。
 ただし、その際東久世伯が『東京日日』記者に語りしとて公けにされたるは、太田道灌が江戸城を築きしときの遺跡としては只今少しもなく、また、そんなものありしとも聞かずとのことに対し、小生はかつて宮城建築に主任たりし故人の子より聞いたることにより、道灌が城を築きしときよりそのころ(明治二十二年ごろ)までそのまま残りしものは、吹上御園とか紅葉山下とかに小溝流ありし。宮城建築につき、旧幕臣たる榎本武揚子はこれをつぶすべしといいしに、上野景範子はかかる故蹟は何とか保存すべしと争いしということを載せ申し候。(この小流はいかがなったか知らず。)とにかく禁?《きんい》にあり、それらのことを心得おるべき人が、これほどのことを少しも知らざるは疎漏極まることと存じ候。しかるにこの一事はことにささわるところありしと見え、『大毎』紙きりで、他の新聞への転載は許されざりしやに記臆致し候。よって自分も『閑話』と『続随筆』には載せざりし。
(618) 柳田氏は、別段小生にさわらぬ程度において『民族』に議せられしは、人柱を入るるに、衣を横に継いだものとか、島の布を衣服として着たものとかの条件のものを入るべしと発議したものが、みずからその条件を具しおったので、人柱に入れられたという話は諸国一規だから、人柱の話は外国から渡り来たもので、日本に人柱という行事はなかったと言われ申し候。
 小生の考うるところはこれと異なり、外国に人柱の話がいろいろありても、日本に人柱ということさっぱり皆無だったら、たといその話を輸入し焼き直したところで、日本人に信受されざるべし。
 たとえば支那やインドや安南や回々教諸国の伝説に、男児を宮すること多し。しかるに森尚謙(?)が日本の一美事として説けるがごとく、人を宮するということ、古日本には絶えてなかりし。(羅切といって陰茎を切りしことはありし。後鳥羽上皇のとき、法然の徒が宮女を尼にしたとて、その弟子が羅切されたことあり。その後も多し。しかしこれは真の宮刑に処せしにあらず。真の宮刑とは睾丸を去ることなり。日本にはその方法さえ知らず。)故に珍説としてはずいぶんもてはやさるるべき多くの宮刑譚、たとえば女を思い込んで親《ちか》づかんためみずから宮したまねをなすとか、仇敵の跡を絶たんため冤家の子弟を宮するとか、幼き美貌の童児を拐《かどわか》して宮して売るとか、悪いものながらその艶容を惜しんで少年を宮し、これを狎愛するとかが、支那等より伝わりながら、ただ眼をみはりてその異聞に驚くのみ、少しもそのことをわが国に実在したらしく作った説話は無之《これなく》候。
 ただし、『雍州府志』に、朝鮮の宦者が生け捕られて本朝に来たり、北政所の奥につかえ、後に僧となりしことなど見ゆれば、わが邦人が宦者というものを全く見ざりしにあらず。また川柳に、「羅切してまた下になる長局」。これは僧などが女犯のことあって羅切したるが、尼などの装いして深宮にまぎれ込み、ハリカタを用いてまた女官を犯すくらいのことはありしことと察せらるる。しかしきわめて希有の例たりしことは論なし。
 されば人柱に関する伝説が、いろいろと日本へ輸入されたにしても、日本に人柱ということ全くなきこと、あたか(619)も宮刑のごとくだったら、日本で到る処、これを日本にあったこととして信受し、宣伝せぬことと存じ申し候。
 故に、人柱の伝説の、あるものは外国より輸入点化されたことはあるべきも、それがために人柱ということ、日本に全くなかりしとは言い得ぬことと小生は存じ候。いわんやそんな伝説に偕わずして、ただ人柱をここで行なうたとか、何という女が人柱に入れられたとか、人柱の遺骸が出てきたとかいうだけの口碑が、日本の諸処にあるにおいてをや。
 弓で石を突いて飛泉を出したという話は、外国に古来あり。故に頼義が御内で弓で石を突いて泉を出したという話は外国談のすげかえとはいい得べし。かかる話が外国から伝わったものゆえ、上古来日本に弓はなかりしというは不道理と存じ候。
 まずはこれだけ申し上げおき候。         早々敬具
 
(620)   後藤捷一宛
 
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 昭和五年十一月十七日午前十一時
   後藤捷一様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。本月十三日出御状と、『染織』雑誌第三〇号一冊、去る十四日午後〇時三十分拝受。御下問の件は、小生の専門外なるをもって十分分からず候えども、あらまし左に申し上げ候。
 『本草綱目』巻一五に、「時珍いわく、番紅花は、西番回々の地面および天方国に出ず。すなわち、かの地の紅藍花なり、と」とあり。時珍の時は、番紅花の生品を見ざりしゆえ、その用途より一概して番紅花は西番回々地や天方国の紅花《べにばな》なりと言ったので、例せば、サトイモ(天南星科)やヤマノイモ(薯蕷《やまのいも》科)と全く別科のキクイモ(菊科)、サツマイモ(旋花《ひるがお》科)、ジャガタライモ(茄《なす》科)などあり、『和名抄』に、烏芋をクワイと訓む、燈心草科の水草なり、のちに大陸より慈姑入り来たれるが、その根が相似たると、食用になることも等しきより、慈姑をシロクワイ、鳥芋をクロクワイと言ってこれを分かつ。近時に至りては、もと単にクワイといわれし烏芋がクロクワイ、しかして慈姑が反って単にクワイの称で通りおり候。(クワイすなわちシロクワイは沢瀉《おもだか》科に属す。)今日のような科学智識の世に出でざ(621)る時代には、この通り外形や用途が似れば同類と見たるに候。西洋でも貴説に見ゆるごとく、鬱金《うこん》をもサフランをもサフランと唱え、紅花をもバスタード・サフランなど称え候。紀州にはカラムシ(蕁麻《いらくさ》科)もアサ(桑科)もイチビ(錦葵《ぜにあおい》科)をも作らねば、三つながらその草を見知った者今に少なし。故に苧《からむし》と大麻《あさ》を別たず、概してこれを緒といいなしたり、今も左様なり。そのごとく、時珍は番紅花の生品を見たことなきゆえ、ただその色と用途の同様なる点より、これをすなわちかの地(回々等の)の紅藍花といえるにて、本邦には古く紅花を呉地より得て何やら分からず、用途の似たるより推して呉《くれ》の藍《あい》、それよりクレナイと言ったと異なることなし。誤謬といえば誤謬に相違なきも、生品が手に入らぬ以上、できる限りの智恵を搾って西番の紅花なりとて番紅花と名づけたは、至当のことと存じ候。故に小生は『万葉染色考』の著者がサフランは紅花の一種と言われしは、ほんの『本草綱目』の文を漫然直訳せしものと存じ候。
 また貴説に、サフランの用途を述べたるうちに、これを香料として大いに用いられたることを一言されざるは如何にや。(食物に香を添うることは述べられたれど、古ローマ帝国などは、食物以外にこれを市街に撒いて帝王の通路を馨《かお》らせ、また古ギリシア、ローマの名妓もこれを香剤としておびただしく用いたり。)小生は、スペイン人の間に住んで毎度サフランなどで黄色に染めたる飯を食いしことあり、アロッス・アマリヨス arros amarillos《稲米黄色》 と言いし。万治元年成りし『東海道名所記』巻三に、駿河国《するがのくに》藤枝より島田へ行く途中、「瀬戸の染飯《そめめし》はここの名物なり。その形小判ほどにして、強飯《こわめし》にクチナシをぬりたり、うすきものなり。男、染飯は黄色なりけり旅人は淡路の瀬戸とここをいふべき」。黄色の粟に淡路をいいかけたるなり。これは右のスペインやポルトガルにてする黄飯《きめし》をまねたるかと存じ候。ただし『嬉遊笑覧』に、光広卿の歌を引いて食料に作りたるにはあらじと記せり。その歌は、「つくづくと見てもくはれぬ物なれやくちなし色の瀬戸の染飯《そめいひ》」。
 また貴説に、紅花の原産地はエジプトと信じおる由見ゆれど、その信念の起こる理由を記されず。ド・カンドルは、アラビアが原産地かといい候。ただし同氏もいえるごとく、久しく死にはてたる梵語に紅花あれば、インドにもいと(622)古くからありしものらしく候。トウモロコシ、ツルレイシその他原産地の知れぬもの多し。培養品のみ伝わりて野生の物が全滅せしなり。それを何の実証品なしにかれこれ信じたところが水かけ論たるべく候。
 また申す。伊人〔ママ〕 Verbiest が支那に来たりて作れる『坤輿外記』に、「雑服蘭は香草なり。もっとも善《この》んで蜜を食らう。養蜂家、四周に雑服蘭を種《う》うれば、すなわちあえて入らず」とある由、『本草図譜』巻一二、番紅花の条に引く。『外記』は小生三十余年前英国で見たことあるも、右の条を記臆せず。草が蜜を食らうとは珍事なり。プリニウスの『博物志』には、サフランは蜜に和《まじ》らぬ由をいえり。とにかくこの雑服蘭はサフランのことなりや、穿鑿を要し候。
 小生夜来眠らずに顕微鏡を使いおり、眼くたびれ候間、右のみ候。               早々敬具
 
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 昭和五年十一月二十三日午後一時
   後藤捷一様                                          南方熊楠再拝
 拝復。二十日出御状今朝八時着、小生朝寝致し、十一時に拝見仕り候。紅花を古エジプト人が用いしことは小生も知る(毎度大英博物館のエジプト室に出入したるゆえ)。これは今のごときベニをとりたるにあらず、黄色に染めたるに御座候。「稚馴染《をさななじみ》とベニ花染めは、色がさめても黄《き》がのこる」と、都々逸がたしか『偽紫田舎源氏』に出でありしが、実は色がさめて残るにはなく、紅花をもって染色を作る時に、まず黄色が出て、赤いベニを取り出すまでに、なかなか思慮と経験を積みたることと承り候。すなわちまず黄が萌して後に稚馴染になるに候。
 また古エジプト人がマンミーの纏衣を染めたるに紅花を用いしゆえ、紅花はエジプトの原産というは、受け取りがたき見解法なり。いずれの国にも染色料を尊びし時は、遠路を辞せずしてこれを致せしものにて、本邦にも今に生臙(623)脂《しようえんじ》は何から製するか知った人はなはだ少なきに、遠き昔より百方これを支那等経由して求め用いしなり。(これは主として指甲花と申すものより作る。この植物はインド、エジプト等に多く作り候。見たところまことにつまらぬ植物ゆえ、小生は多くこれを植えたる地をたびたび通行して気に留めなんだから、どんなものか覚えず。帰朝後人に問われてやっと注意し、植物辞典などにて図を見てようやく知りおることに候。)丁子のごときは、日本で奈良朝ころより用いたらしいが(香具また染料また医薬に)、今に至りてもその生品を見たものなく、支那はもとより西洋でも、十六、七世紀に書いたものを見ると、肉桂とカルダモムと丁子は一つの木の異部より採るという説を、れっきと明書しあり。御存知のごとく、この丁子は南洋のきわめて限られたる一島(モルッカ島)のみの原産なるを、近代に及び蘭人がその近島(アンボイナ)等、二、三の地に移蕃せしものに候。しかるに、今にその何たるか見知らざる本邦には、平安朝ころすでに盛んに香具にこれを用い、燈花を丁子がしらというなど知れ渡りおりたるに候。
 この例により、古エジプト人が紅花を用いたればとて紅花はエジプトの原産というは、『日本紀』神代巻に、日本最古の男女たる伊弉諾尊が伊弉冉尊の手下の鬼どもに追われた時、桃をもってこれを却《しりぞ》けたとあるから、桃は日本の原産というような見解にて、正論ではなし。(桃はどう考えても日本の原産にあらず、支那のものなり。)しかして一方、ド・カンドルの『耕播植物起源考』に、十三世紀のアラビア人の談を引きて、紅花に二種あり、一は栽培、一は野生なり。ふたつながらアラビアに産す。種子をエル・カルツムと名づく、とあるを引きたれば、とにかくそのころまで野生の紅花がアラビアにありしにて、小生はエジプト人はこのアラビアの紅花を用いしことと察し候。インドにも死語たる梵語に、クスムブス、カマロックウなる二名あれば(またインド諸島におびただしく栽えらるるは御承知通り)、インドが原産地なりしかも知れず。
 野に生えたものがことごとく原産というわけにも参らず。(feral すなわち非原産、野生のものずいぶん本邦にも多く)、和歌山県のツキミソウ、東京にてマツヨイグサというものなどは、小生幼時ようやく紀の川原に野生し始めし(624)が、そのころはなお外国の花とて、毎朝その苗を田夫の子が売りに来たり、買うて鉢栽えにして賞翫せしが、今日は和歌山辺はおろか、この田辺地方にもいたる所生えおり候。またオキサリス・ローザ(ムラサキカタバミ)などは、小生壮年のころまで(明治二十年ごろ)植木屋にて売りしが、今日はこの田辺にも田園に密生し、拙邸などは十二、三年前より到る処に密生して大いに他の植物を困らせおり候。こんな外来野生は、昨今のみ生じて古代は生ぜざりしという理由なければ、むかしもいろいろの外来野生がありしにて、哲学者ヒューム説に、この世界は割合に古からぬものなり。チェリーは西暦紀元前一世紀にルキュルスが初めてアジアより欧州へ移栽せし明記あり、それより欧州の地味気候によく合えるより広く野生して今に亡びず、こんなことならその前に早く移植したはずなるも、移植されなんだところをみると、この世界はわりに新しい、と。
 小生考うるに、ルキュルスが桜桃を移栽、明記のある一例なり。しかしながら、むかし不文の人の多かりし世には、明記なしの移栽野生は多かつたことならん。椰子のごときは東西半球の熱地に到る処に野生して鴻益をなす。いずれ東か西かどこかの一地より生じ始めた物に相違なきも、今となりては永代判らぬなり。それと等しく、紅花のごときも、東半球のどこかの地に原産地ありしを、早くして染料を製するために栽培広くなりて原生品は消滅せしなり。それを今となりかれこれ論じたところが、もっとも早く用いた地とか、もっとも古い紅染布が残った地とかは分かるべきも、これらは原産地とはおよそ異なる仲なれば、到底原産地は分からぬことと存じ候。小生常に考うるは、本邦官家の古い織物の紋章の比翼鳥なり。今日ニューギニア辺より来る剥製の比翼鳥そのままなり(風鳥の一種)。紛《まが》うべきにあらず、比翼鳥なり。ニューギニアそのものが欧人に知らるるに及びしは、十五、六世紀よりのこと、その輩が当邦へ輸入し初めたるなり。さればそれ以前に比翼鳥の形だけでも本邦へ知れしは、琉球等を通じて自然と南洋より再三伝えて知れたことと存じ候。(支那にもこの鳥のことは明《みん》朝より知れたるなり。)まずそのごとく、紅花なども支那や西欧ではその物自身よりも、それで染めた絹布がまず知れおり、見たところサフランに似たものゆえ、似寄りの(625)名を付け用いたるなり。しかして紅花の原産地はどうも分からず、何となれば原産(野生)の紅花はどんな物か分からねばなり。
 これは紅花に限ったことにあらず。ミカン、キンカン、ことに種々の豆類、瓜類(西瓜、南瓜が入らぬうちに東都にてはアコタ瓜というもの大いに賞用されたらしく、兜《かぶと》にアコタ形というがあり、足利幕府への進上物目録にもしばしば見る。それが徳川氏の中世よりすでにどんなものか分からず、今となりては絶え果てたり。また小生幼時この和歌山県下田舎にいろいろの大豆を作り、三月の節句に雛人形に供えたり。小生叔父たりし者おびただしき種類の大豆を作り、それを箱に入れ花などを組み立て、博覧会へ出し賞与されたことあり。そんな色豆は只今何の用なきゆえ、再び求め出だし得ず、全滅せり)など、みな原産野生品はどうあせつても見出だし得ず候。しかして一番古き遺品がのこれるゆえ、その地がその遺品のできた地らしいことはすこぶるあり得べきも(それさえ他の地にて作りて、その地へ賞用された例少なからず)、その物質がその地の原産ということは言いがたし。出雲などより、今も存せる石器などに、全く出雲にも日本にもなき石ある由。そのごとく、エジプトのマンミーの纏衣に紅花染あり、またエジプトのピラミッドより掘り出た物中に、栽培紅花の葉片ありたればとて、エジプトはもっとも古くこれを栽用せしならんとは言い得べきも、それがために紅花はエジプト原産といいがたしと存じ候。
 紅花よりサフランが古いものと信ずるが間違いだろうかとの貴問は、その要領を得ず。茶といえば支那茶のことと解するが普通なるも、近代アッサム茶大いに擡頭せり。これがためにアッサム茶は支那茶よりも新しく(アッサム国外に)世にはやり出せりというは宜し、アッサム茶は支那茶より晩く生え出せりというは大なる間違いなり。すなわち支那茶、アッサム茶、共に幾百万年来ありしも、またアッサム人は多少アッサム茶を用いおりしも、貿易品として輸出流行せしは、アッサムの方がはるかに支那よりおそかりしなり。梵語(久しき以前死語となれり)すでに紅花の梵名二つまであれば、しかしてサフロンの梵語は外来品たるらしき意味なれば、むろん古インド人に取りてはサフロンの(626)方が紅花より新しきこと、支那では番紅花が紅花より新しきごとし。梵名よりははるかに新しくできた英語に、紅花の英名がサフロンなる語より転出せしものなるは、サフロンが紅花よりも早く人類に知れ用いられたという証拠にならず、英語それ自身がきわめて新米なるを証するに止まる。近い話が米国にパーシンモンなる果あり。よってそれと同属の日本の柿(実は支那の原産)をジャパニーズ・パーシンモンと呼ばれて、日本柿が米国のパーシンモンよりも晩く食用に出でたるにあらず。米国という国がようやくわが足利氏の中葉以後に見出だされたるなれば(しかしてそのころすでに日本には栽培の柿にいろいろの種名あり、柿の譜(『柿本系図』と題す)などもありしほどなれば)、英米人が日本柿を米国パーシンモンより晩く知ったというまでにて、日本の柿が米国のパーシンモンより晩く栽培実用されたにあらず。
 『万葉染色考』の抄写御示し下され初めて大体が分かり申し候。この著者は植物のことを初歩までも知らぬ人と驚き入り候。著者|少《わか》き時盆栽せしとあるは、サフランモドキと申し、石蒜科の草花で、これは小生ども幼時ようやく和歌山辺にはやり出し、サフランと唱え候。そんなものをサフランと混一するとは驚き入ったことなり。ただしこれももっともなところもあり、明治二十三、四年ごろ小生フロリダにあり、そのころ大いに行なわれし東京大学植物標品目録に、右のサフランモドキを、英語でいわゆるアタマスコ・リリー(Zephyranthes atamasco)としあり、これは小生のおりし所に野生多きゆえ、毎度見たるに全くサフランモドキと別物なりし。(葉がサフランモドキより狭く、肉が剛く、花白くて、つまらぬものなり。)そののち本邦でもサフランモドキはメキシコ原産 Zephyranthes carinata と同属ながら別種と訂正され候。植物学者の親玉達が編みし東大の標本目録にすら、こんな杜撰なことがあったので、また今も多少はあるべし。故に素人の人々が古い文献をのみ標準として、紅花の一種のサフロンとか、サフランモドキをサフランと心得るなどは、毎々その例あることと存じ候。
 かかる歯の浮くような迷説を駁するには、第一にその原文を引き出し、さて一々その一言一句を批判されたきこと(627)にて、前方相応に此方もいろいろ雑多の旧著旧聞を長くまるまる列挙、どこが間違ってるのか、どこを指批していることか分からず、打たるるものも打つ引用書も頼りなき伝聞推測説多ければ、引けば引くほど間違いを多く混生し、駁撃の力が大いに弱り申し候。実は今日のことごときは、『本草図譜』よりサフランと紅花の図説を引き出し、『草木図説』よりサフランモドキの図説を引き出したら、それで十分なりしことに御座候。維新前の草木・物産・本草学など申すは、その当時にありてこそ役に立ちたれ、今日とならば冗長無駄なこと多く、そんな物を引き、そんな説を撃つは、そうめんを束ねて豆腐を打つごとく無用の徒事と存じ申し候。右御下問ありしゆえ腹蔵なく申し上げ候。本日はなはだ多用にて渋筆御察読を乞う。        早々敬具
  本状認めた後、去年出の『大英百科全書』を見るに、古エジプト人が紅花を用いしはその黄色分をもって stain 色付けしなり、dye 染めしにあらず。紀元前二千年ごろインドで mordant 邑留《いろどめ》を発見せぬうちは、紅花の紅分はでき上がらざりしことと存じ候。
〔2015年12月26日(土)御前10時30分、入力終了〕