南方熊楠全集9(書簡V)、630頁、平凡社、1973.3.1(91.11.25.12p)
 
(5) 昭和六年八月八日夜十一時
   中山太郎様                                          南方熊楠再拝
 拝啓。八月五日出御状、今朝八時半拝受。小生例の写生、解剖すこぶる多事にて、ようやく只今ひと切り切り上げ御状拝読致し候。
 岩田氏の「男色史」〔【『本朝男色考』特にその一部「室町時代男色史」】〕はずいぶん綿密に調べたものにて、小生大いに感心致し候。しかしこんなことがある。友人三田村玄竜氏説に、荒木又右衛が上野で仇討ちを仕遂げたとき刀を鐔本《つばもと》より折り飛ばせし、それをその地の何とかいう武士が荒木ほどの剣道家がそんなことをするとは手ぬかりの極みといいしと伝聞して、又右衛さっそくその武士を訪問し、さらに剣道の極意を伝受せしとか。小生も岩田氏の取調べの綿密なるに感心すると同時に、全きを望むの念より次のごとく申し上げ候。
 およそ男色と一概にいうものの、浄と不浄とあり。古ギリシアなどにはこれを別つことすこぶる至れり。(浄とは東洋で五倫の一とせる友道の極致に過ぎず。)これはギリシアの文学や哲学に道義学にこのことおびただしく載せあ(6)るから、古ギリシアの外にないもののように思う人多きも、東洋にも実ははなはだ多かりしなり。支那の例は只今|姑《しばら》くおき、本邦にも古く浄愛を述べし物語もあり。徳川氏のころにも大坂で討死せし小笠原秀政は、小姓を愛するに貌をもってせず、もっぱら心を見たるゆえに、討死の節|旧《ふる》く愛されたる小姓たちの侍はことごとく戦死し(死に場にあわざりしものは後より追腹切りしという)たりという。また『御前義経記』などにも、元禄ごろあずま男の意気地は元服以後も渝《かわ》らぬ由を述べあり。さがさばいかほどもあるべし。
 小生英国に到りしころ、仏人タージューの説に、男色の徒(被行者)はことごとく女化したるつまらぬもののよう述べ、一同左様に心得おりたるに、高名の文士(英人)シモンズ、この人は男色に関係嗜好を有せず、本物《ほんもの》専門でいろいろと女に関する艶名も馳せた人なるが、『古ギリシア人の徳義の一問題』という小冊を私刊し、小生も持ちおれり。これは主として右のタージューの説を撃ちたるもので、被行者上りの偉人勇士等の伝を多く列し、男色は必ずしも肛門を犯すとか猥褻なことに限らざる由を述べ、何の不道徳にあらざるもの多きのみならず、社会の様子によっては大いに世益ありしことと論ぜり。(ただし婦女同士のには、さまでの徳義も世益も発達せざりし由をちょっと述べあり。)と書き続くると、また長くなるから(今夜これよりまた朝まで鏡険を続けにゃならぬゆえ)これでよすことと致すが、とにかく本邦でこのことを論ずる輩少しも浄と不浄を別たざるは、子を多く生んだ夫婦を多婬好婬と判ずるようなやりかたで、はなはだ正鵠を失し玉石混乱を免れずと思う。
 さて小生先日、貴下へ岩田氏の宿所を問い上げしはそんなむつかしきことにあらず。さし当たり小生年代のものに周知のことで、今の若い人々には知れざると見え、岩田氏の書いたものにはなはだ玉に瑕ともいうべき謬りあるを見過ごしがたくて、同氏へ告げたく思いしなり。しかし、これは貴下へ宛てたこの状に書くから、貴下より同氏へ御転報下されたく候。その件は、
 今年八月一日の『犯罪科学』(二巻九号)九八頁に、細川政元が戸倉二郎に弑せられたことを『野史』より引きおる。(7)『野史』の文は、「永正四年六月、香西元長等、逆を謀り、政元を浴室に弑す。寵童の波々伯部《ははかべ》某、側にあり、変を見て走り出ず。ついにこれを斬るに、死なずして遁れ去る、云々」(『実録』。『武家譜』)。『実録』とは『国史実録』のこと。
 白石先生の『読史余論』三に、四年六月二十三日夜、細川右京大夫政元その下人のために殺さる(四十、一本に四十二)。これは政元家人香西又六という者反謀ありて、政元が右筆戸倉という者に賂うて伺わしむ。政元愛宕精進のためとて今夕浴室に入りしを、戸倉殺せり。近習に、波々伯部《ははかべ》という者出合いしを、これをも一刀刺してにげ去る。波々伯部は死なず。政元外法を修して子なし。下屋形讃岐守元勝が子六郎澄元を養子とす。((上略)頼之より已来、嫡流は管領たれば在京して上屋形という。頼之が弟詮春が後は阿州に在国せり。これを下屋形という。)澄元、義澄を奉じて江州に奔る。香西等相議して、政元初め九条関白尚経の末子を養い、九郎澄之と名乗らせしを取り立て、嵐山に城を構え籠る。七月、澄元兵を引いて上洛、三好筑前守長輝等兵を発して摂州より上り、京に入り、八月香西と戦う。波々伯部は先駆《さきがけ》して終《つい》に戸倉を打つ。香西矢に中《あた》りて死す。その党敗れて九郎澄之殺され、洛中静謐、澄元管領となる(十六歳)。これより三好顕わる。
 これが普通に行なわれた説にて、小生その出所をしらべ一々控えおきたる物あれども、只今この部屋菌類の生品と乾燥品と顕微鏡やら薬品やらで歩む所なく、足悪きゆえ引き出し得ず、記臆のまま手の及ぶだけ棚より下ろして申し上ぐると、『南海通記』六に、「政元、飯綱の法を信じ、婦女を帯せず。少童を愛して悋気深し。そのころ寵愛の上つ方あり。これに悋気あってややもすれば人を損ぜんとす。ここに右筆に戸倉次郎という者あり。罪なくして疑いを蒙りその適《あたり》を受くることあり。これによって逆心を含む」。
  小生幼少のころから十五歳のころも、高野坊主に上使いと下使いと寵童を分かてり。ここにいえる上つ方はすなわち上使いの童と存じ候。『一話一言』に、『太閤出生記』とかいうものを引き、秀次最期のとき松岩という草履(8)取り殉死せり、山田、不破等の小姓は殉死して名を挙げしが、松若のみ下職ものゆえ名聞こえず不便《ふびん》なり、とかありし。(徳川氏の世に、小草履取り争い、しばしば闘争して死せしことあり。松若は豊臣氏のときすでに小草履取りを愛せし風ある証拠になる。)松若ごときが下使いで、山田、不破、山本等が上使いなり。『新著聞集』にも、卑分の少年より小姓に上進されしを感銘して殉死せし一条ありしと記臆す。
 波々伯部は、近習とあれば政元弑せられしとき寵愛された美童ではなく、浴室近処に侍しおった近臣と察せられ候。それを寵童とは誤記と存じ候。『野史』に「変を見て走り出ず」とあるは、主人が弑せらるるを見すてて逃げ出でしように聞こえるが、これは白石先生が、「近習に、波々伯部という者出合いしを、これをも一刀刺して逃げ去る」とある方が正説と存じ候。すなわち浴室内に変事|出来《しゆつたい》せしより何事ならんと出合いしを、不意に一刀きり付けて、(切り付けた)戸倉が逃げ去ったということと存じ候。波々伯部はこれをきわめて残念に思いしと見え、『読史余論』に右に引きしごとく、澄元上洛して逆徒を討ちしとき、波々伯部先登して主の仇また身の仇たる戸倉を討ち取りし、とあり。そのやり方が男色盛りの少年と見えず、近習すなわち成人した若者らしく候。故に岩田君がそのとき政元浴室内で波々伯部と婬戯しおったごとく書いたは謬見と存じ候。只今右申すごとき室内の混雑ゆえ一々出所を申し上げ得ざるも、小生壮年のころ諸友より聞きしところはみなこの通りで、波々伯部はそれ以前は政元に寵されしか知らず、政元弑されし当時の寵童にはあらずと存じ候。
 『細川大心院記』に、当時の光景の記あり。「しかるに六月二十三日戌刻ばかりに御湯殿に入らせ給う。その夜の当番は竹田孫七に打《(ママ)》き(竹田孫七は弑逆の密謀に与りしもの)、心を合わして御湯殿に忍び入り、御湯帷子参らするかげより小太刀にて二太刀まで切り参らせければ、御手にて合わせ給うと見えて衡腕を二太刀切り参らせ、取り直して御そば腹をつき奉り、はね転ばし進らせて、御首をぞ掻いたりける。御足の裏までかき奉り、
  足の底をかくは、蘇生しても少しも歩み得ざらしめんためなり。『大涅槃経』に阿蘭世王その父を残して足の裏を(9)かきしことあり。松村操氏の『実事譚』合邦辻復仇の原話にも、美少年が横恋慕されて念者と謀り、その男を酔わせ殺して足の裏をかきしことあり。小生米国の農科大学で同学せし村田源三という人も、山県、品川、野村氏等より学資出たるが卒業せずに帰国し、下野のどこかの□□の方を開墾して儲蓄せし金多きをねらい、その叔父山本信三とかいう者とその子が十人ばかり一味して村田を酔わせ、熟睡せるを伺い惣掛かりにかかり、首、四肢等を手斧等できりはなし、足の裏をかきて井に投げ去り、やや久しくして露顕し、その輩死刑になれり、と明治二十八年ごろの『時事新報』で見たり。この人は長州の何とかいう小島の生れにて、嘉納治五郎氏と同じく福田という先生に柔術を学び、膂力絶倫にて嘉納氏ももてあませしと承りぬ。只今委細を申し上げ得ぬが、西洋にも足の裏をかくこと多例なり。
御湯帷子を引きかけ進らせ、御湯殿の戸をたててぞ出でたりける。かくて御座所に忍び入り、いろいろの物盗みとり出でける。さるあいだ波々伯部源次郎は毎《つね》のごとく御とのべに参るべき心中にて参りけるを、これも二太刀切りける。大心院殿にておわすと心得て源次郎畏まって申しけるは、御手を穢さるるまでもなき御事にて候、腹を仕るべく候、と申して中の御局まで追出して、御女房に刑部卿殿と申すをもつて御検使を下され腹を仕るべきの由申しければ、御坐所にも御寝所にも御見えなき由申してぞ返られける。ふしぎに思い源次郎御湯殿に参りみれば、浅ましき御有様是非なき題目なり。そのまま源次郎、御屋形様をば竹田孫七が討ち参らせたるぞやとぞ叫びける。さて澄元の方へ馳せ参り、この由をぞ申しける。(かくて夏の夜短くあけて六月二十四日の朝、逆徒等澄元を襲い戦う。賊魁香西孫六痛手負い、二十五日辰の刻に死す。)二十四日の晩に及んでの合戦には、波々伯部源次郎元継、昨夜の痛手煩いながら輿に乗りて出でたりけるが、輿の内より小太刀にて切って出で、中路七郎左衝門という者と引っ組み討死しけり。これは大心院殿(政元)の御供に腹を切り申すべきの由に候いけるが幸いのこととて討死しけるぞ哀れなる。同名五郎左衛門も見捨てがたしとこれも討死してけり。(10)これには波々伯部が出て敵戸倉を討ち取りしこと見えず。後年足利義輝将軍弑せられ、その弟鹿苑寺の周ロも三好の党平田和泉守に討たれしに、周ロの寵童美濃屋小四郎、三条吉則の刀を抜いて平田を殺し、他五、六人切り伏せて腹切り死せしことあり。時人これをみの亀に比して歌を作り称誉せりという。それを取り合わせて波々伯部が当の敵戸倉次郎を討ち取りしと作ったものか。
 何に致せ右の『大心院記』をみるに、波々伯部は当夜の宿直かなんかに出勤せし者で、主人が浴室に入ったことも知らなんだらしいからみると、決して決して浴室内で政元に婬されおりし等のはずなし。
 『野史』には前述ごとく、「寵童の波々伯部某、側にあり、変を見て走り出ず。ついにこれを斬るに、死なずして遁れ去る(この文は読み様により、波々伯部が走り出て戸倉を斬りしが、戸倉死せずして遁れ去りしようにも読まる)、云々。尋《つ》いで、香川満景、安富元顕、心珠院等(逆徒の党)、兵を合わせて澄元を攻む、云々。波々伯部元継および五郎左衝門等、みな戦歿す」(『大心院記』)と、『大心院記』を引きながら、波々伯部某(いわゆる寵童)と波々伯部元継を別人のごとく書き立てあるは、『野史』の筆者が実際『大心院記』を見たるか否を疑わしむ。それから『野史』に、澄元敗走して近江に佐々木氏を頼み、八月になりて兵を起こし京師へうち入る。百々橋を隔てて接戦す。「波々伯部元則、奮闘して先鋒と呼ばわり、進んで戸倉某の首を獲」とある。(『国史実録』と『逸史』を引きおる。)『読史余論』によれば、この波々伯部元則がすなわちいわゆる寵童に中《あた》るはずだが、『野史』に書いた様では寵童の波々伯部とは別人のようなり。また戸倉は先の本文に戸倉二郎とありながら、ここに戸倉某では、また別人のようなり。『国史実録』は小生見ず。『逸史』はこの書斎の次の倉庫に入れあるが、一体『逸史』は所出を示さず、いろいろあやしきこと多きゆえ、たしかなものにあらず。
 『野史』、右の戦争記事の続きに、「山科の一向宗法観寺、澄元の摂津にあるを援けて利あらず。時に京にありし日蓮党、一向徒と謀って、まさに日蓮徒を滅ぼさんとす。その徒、澄元の兵と与《とも》に、まさに山科を攻めんとす」(『祇園(11)執行日記』)。日蓮党が一向徒と謀り日蓮徒を滅ぼさんとすとは、同志討ちを企てたので何のことか分からず。これは『祇園執行日記』(倉中にあるも只今歩みゆき取り出し得ず)の書きようが簡略にて、前文をよくよまぬと事情が分からぬを、ただ書いたままを直訳するように漢文に書きとつたから、こんな分からぬものとなりたることと存じ候。『野史』の著者は愛国勤王家で(後に自殺せり)多事多煩中にこの書を編したから、所々にこんな分からぬことが多いと存ぜられ候。故に『野史』をむやみに金科玉条と引用は注意を要す。これに反し、右の『大心院記』は永正五年(政元弑されたる永正四年の次年で)二月十日(すなわち政元の一周忌もまだ来たらぬとき)に、政元の臣下、下村五郎左衛門が入道して書き留めたものなれば、十分信をおくに足ることと存ぜられ候。
  白石先生の『退私録稿』に、政元弑せられしときのこと出であるよう『野史』に見ゆ。小生『退私録』を見るに少しもそのことなし。世に存する『退私録』の外に『退私録稿』という書あるにや。
 また、ついでながら申し上ぐるは、細川は政元の父勝元も男色を好みしにや、『応仁前記』に、赤松政則幼名次郎法師、「幼少なりといえども、その心勇敢にしてその心大胆なり。あまつさえ器量礼容人に勝れ、寛正・文正のころ世に隠れなき美少年なり。細川勝元深く愛してその志常に厚く、この童只者にあらずと見たまいければ、いよいよもつて懇意を尽し御所へも吹挙せられしほどに、公方家も日を逐うて御恩重く次郎法師出頭せしむ。今年(寛正六年)十四歳元服して政則と名のり、云々、応仁の乱根多しといえども、第一に天下政道不正、第二に公方家御家督の御違変、第三はこの政則ゆえとぞ聞こえし」とあり。
 政則、細川の助力で赤松氏を再興せしを山名宗全安からず思いたるなり。故に岩田氏が足利氏が赤松氏の男色のために六代まで大騒ぎに及びしと説かんとならば、馬琴の小説から則尚のことを引くよりも、この『応仁前記』から政則のことを引くべきであったと思う。政則は報恩のためと思いけるか、勝元の娘極醜なるが尼となりありしを乞うて還俗させ妻としたが、女子一人できて男子なし。よって遺言して本家範資の裔をその女子の夫とし義村という。義村(12)その姑(すなわち右の醜尼の還俗せし奴)とも妻とも不快にて、執事浦上村宗|件《くだん》の還俗尼公とその娘すなわち義村の夫人に取り入り、義村を幽閉してこれを弑し、その子政村を奉じ、おのれに不利なるものを尼公と政村の母の命なりとて殺し、それよりついに国を奪いしが、浦上氏またその幕下浮田氏に亡ぼされ、浮田氏も直家死して子秀家幼く秀吉に滅ぼさるる順序なりしが、秀家の母美女で子の可愛さに毒饅頭をもって秀吉に薦め、秀吉大悦してこれを自分の子のごとく愛して利家の婿とし、浮田は五大老の一とまで成り上がりしなり。
 なお、ついでに申すは、政元より大分むかし、称光天皇も魔法を修し婦女を愛せず。故に皇嗣なかりし由。『野史』の后妃伝に、この天皇の正后はましまさず、宮人某氏、紀伊局《きいのつぼね》と号《なづ》け、氏族分からず、宮に入りて寵幸され、帝崩じてのち尼となりし一方のみを出しある。やや似たことゆえ申し上げおく。
 『応仁後記』に、政元飯綱の法、愛宕の法を行ない、一向魔法を行なうに空上へ飛び上がり空中に立ちなんどして不思議を顕わし、後々はうつつなきことのみ宣うて時々狂乱のごとくなれば、とあり。
 
 小生昨年来足裏神経痛、今春初めより脊髄辺痛み、不安心極まる。しかし今年雨量多く、いろいろと多年疑問中の菌おびただしく手に入り、日夜鏡検致しおり、毎朝一番鶏がなくとまた一日が改まると知り少眠し、または少しも眠らずにやりつづけおり、毎日同じことのみ致しおり候。今夜ちといきぬかしにこの状認めしに、もはや二番鶏がなきおる。よってこれで擱筆。せっかく書いた物ゆえ貴下御一覧の上、岩田氏へ御まわし下されたく候。また貴状に岩田氏小生を御訪問の御意の由見えるが、それは御免を蒙る。先年貴殿等御世話で集まりし寄付金、今は大分になりおり。近く一部分ずつ小生研学の結果を出板せんと、板下から記文まで昼夜自筆で致しおり、悴は小生よりも画がうまいから、健在ならば今少し早く出板ができたはずなるも、六年前より精神病にかかり、今に入院中なり。また妻も娘も一昨年来長煩い、それゆえいろいろの俗務までも小生の頭上に落ちかかり来る。幸いに妻と娘は今は平癒せり。家内だ(13)けに病人なきうちに何とか一部分でも出板したくて大いにあせりおれり。小生の学問は年に一度しか観察し得ぬこと多く、来客と空談などしておりては機会を失することおびただし。故に御用事あらば文書で申し越さるるに越したことなく、たとい来訪されても薬品や標本だらけの室へ通すこともならず、ことに菌学のことばかり念じおるから、何を話しかけられても返事も申し上げざること多く、双方きわめて不快なることに御座候。
 右何とぞ御一覧の上、成るべくは、この状このまま岩田氏へ御転致を願い上げ奉り候。           匆々敬具
 
(14)   昭和六年
 
          1
 
 昭和六年八月二十日午後五時書き始め十一時五十五分了り、さっそく差し出す
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。十六日出御状、今朝七時半安着。折から海辺よりへんな動物を持ち来たりくれたる人あり、死なぬうちにといろいろ生態の観察了りて酒精に漬し、これがため時間を潰し、只今御状拝読、本状差し上げ候。
 細川政元のこと、小生より申し上ぐる前すでに御気付き『大心院記』御覧なされた由。この政元弑せられしことは、小生等幼年のころ(明治十年ごろ)誰も彼も読みたる頼山陽の『日本外史』にも出でおり。そのころの小学または私塾教師などは、いずれも当今の先生どもよりははるかに皇朝の事歴に通じおり、また古老の話等をも聞き覚えおり、政元は寵童あるがためにややもすれば近臣等がこれに私通せずやとの疑念より人を疑うこと絶えず、戸倉も疑われたる人にて、ついに弑逆に及びしところへ来合わせたる家臣波々伯部が戸倉に切られ、後に戦場で戸倉を殺せしと、教師はほとんどみな語りおられし。しかるに、『野史』に波々伯部を寵童と書きあるにようやくこのごろ気付き、不審に存じ取り調べたるところ、前日御報知申し上げ候通り分かり候。かかること小生より申し上ぐるまでもなく、早晩御気付きのことと察しおり候ところ、果たして小生より申し上げぬうちにすでに御気付きの由、今回の御状にて承り、(15)まことに衛達眼感心し上げ奉り候。それほどの御眼力ある上は、この上小生等より何事に付きても特に申し上ぐべきことは無之《これなし》と大いに安心仕り候。
 御来示の通り、浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別のものに御座候。小生は浄愛のことを述べたる邦書(小説)はただ一つを知りおり候。これは五倫五常中の友道に外ならざるゆえ、別段五倫五常と引き離して説くほどの必要なければなり。(もし友道というものが今日ごとくただ坐なりの交際をし、知り合いとなり、自他の利益をよい加減に融通するというようなことならば、それは他の四倫と比肩すべきものにあらず。徳川秀忠が若きとき、どこまでも変わるまじき契約をしたるを重んじて、関ヶ原役後沈淪したる丹羽長重を復封せしめ、直江兼続が最後まで上杉景勝に忠を竭《つく》したるごとき、今日のごときつきあい、奉公ぶりというほどのことには決して無之と存じ候。)また貴状にみえたる年齢云々のことは論外にて、戦国ごろは大抵(馬琴も説けるごとく)二十四、五までは元服せず、これを大若衆と称え、いわば女の年増に相当して、むかしは大若衆が好まれたということ、京伝などの書いたものにも見え、大若衆の図も出でおり候。北条氏綱ごとき、北条綱成(有名な美童にて川越その他の戦に天下に名を挙げたる勇将)をたしか二十三、四で髻《もとどり》取り揚げさせたと白石先生はかきおり候。(ギリシアの哲学者には五、六十まで偕老同棲せしもの少なからず。)不浄の方にしても自分の父ほどの役者になずみたる嫖客多かりしこと、西鶴、其磧等の書に多く見え候。
 貴書に見えたる念者をタチ、若衆をウケというは洋語の直訳で、近来できた詞と察せられ候。また御示しの上婚下婿のことは、大田錦城の『梧窓漫筆』に出でたることにて、小生の創思には無之候。ただし男色にもこれあるは例すこぶる多きことにて、支那に舟を渉《わた》す平凡な男が国王最寵の少年を云々せしことあり。
  これは名高き話にて(今の人は知らぬかも知れず)、小生などはその全文を暗記しおれり。すなわち、「襄成君、始めて對《ほう》ぜらるるの日、翠衣を衣《き》、玉剣を帯び、縞?《こうせき》を履《は》いて、遊水の上《ほとり》に立つ。大夫、鍾《しよう》を鍾県に擢《ぬ》きて、執(16)将をして号令して呼ばわしむ、誰か能く王者を渡さん、と。ここにおいて、楚の大夫荘辛、過《まみ》えてこれを説《よろこ》び、ついに造《いた》り託して拝謁す。起立していわく、臣願わくは君の手を把《と》らん、それ可ならんか、と。襄成君、忿《いか》って色を作《な》して言《ものい》わず。荘辛、遷延して手を盥《あら》い、称《の》べていわく、君独り聞かずや、夫《か》の鄂君子哲《がくくんしせき》が舟を新波の中に汎《うカ》べしことを。青翰の舟に乗り、※[草がんむり/兩]?《まんび》を極め翠蓋を張って、犀尾を検し桂杜を班麗にす。鐘鼓の音|畢《おわ》るに会うや、榜竅sぼうえい》の越人、楫《かじ》を擁《と》って歌う。歌の辞にいわく、濫として草に抃《べん》し、予が昌※[木+玄]《しようげん》を濫にし、予が昌州を沢す、州※[食+甚]《しゆうかん》州焉乎《しゆうえんこ》、秦胥胥《しんしよしよ》、予を昭?《しようせん》に縵《まん》す、秦、滲?《さんてい》を踰《こ》えて河湖に随う、と。鄂君子哲いわく、われ越の歌を知らず、子、試みにわがためにこれを楚説せよ、と。ここにおいて、すなわち越の訳を召し、すなわちこれを楚説せしむ。いわく、今夕は何の夕ぞ、中洲の流れに蹇《とどま》る、今日は何の日ぞ、王子と舟を同じうするを得たり、羞を蒙り好を被《こうむ》れども、詬恥《こうち》を?《おも》わず、心ほとんど頑にして絶えず、王子を得るを知らんや、山に木あり木に枝あり、心に君を説《よろこ》べども君は知らず、と。ここにおいて、鄂君子哲、すなわち脩袂《しゆうべい》を  槍《ひ》き、行きてこれを擁し、?被を挙げてこれを覆う。鄂君子哲は親《した》しきこと楚王の母弟なり、官は令尹《れいいん》たり、爵は執珪《しつけい》たり。一の榜竄フ越人すら、なお交歓して意を尽すことを得たり。令尹、何をもってか鄂君子哲に踰《こ》えん、臣独り何をもってか榜竄フ人に若《し》かざらん。君の手を把《と》ることを願うに、その不可なるは何ぞや、と。襄成君、すなわち手を奉《ささ》げ、これを進めていわく、われ少《わか》き時またかつて色をもって長者に称せらる、いまだかつて?《りく》に遇いてかくのごとく卒《あわ》てしことあらず、今より以後、願わくは壮少の礼をもって、謹んで命を受けん、と」。
 戦国の世にはこんなことありて天下に名高く故事となりおり、その故事を引いてまた同じことを行ないしものもありしなり。わが邦にてこれに似た例は、後陽成天皇の御若姿を関白秀次が窺?《きゆ》して、それが罰に当たりて秀次は横死せしという説あり、如何のことにや。また斎藤道三は主君の土岐頼芸の寵妻を奪い長子を生ませ(実は主君の子)、その長子に後年弑せられたるほどの女好きだが、同時にまた主君の長男(太郎法師丸という)の男色にめで、しばし(17)ば艶書を通わせ、太郎法師主従の礼を欠くこと奇怪なりとて、道三を誅せんとし、事成らず、それより父も子も道三に国を逐い出されたり。(一説に、太郎法師は道三に弑せらるとありしと記憶候。)また織田信忠は秀吉を念者とし、特に懇意なり。叔母お市の方(浅井長政の寡婦、淀君の母)、浅井滅後後家住居せしを、信忠世話して秀吉の妻とせんとせしうち、信忠、光秀に弑せられ、信孝の世話にてお市の方柴田の後妻となれり。これより柴田・羽柴の戦い始まれりとなす。やや後にも近衛信尋公(実は後陽成天皇の第四子)は、若姿ことに艶にましましければ、福島正則、伊達政宗、藤堂高虎等、毎々茶湯等に托して行き通いしという。近時の考えよりは不思儀なことのようなれども、右の襄成君や鄂君子哲のこと、またこの近衛公のことなどは、専一に後庭を覘うてつめかけしこととも思われず。今日の人に分かり易く申さんとならば、東京等の高名なる芸妓へ高価の物を贈り、千金を散じて種々の人が押しかけるも、あながち百人が百人その前庭を覘うにもあらず。いわゆる「せめては言の葉をやかかると」で、一言の挨拶にあずかり、一句の短冊でも書きもらいて一生の面目と心得たることと存じ候。それを昨今来観の外国の調査員などが、芸妓と女郎を同一視するような根性では、さっぱりむちゃなり。
 清朝に成りし『品花宝鑑』を繙いても、いわゆる梨園子弟の優物どもとその交客との交情を見るに、主として文藻をとりかわし、玄談風流に耽った次第をのみのべあり。それと同時に卑穢極まる連中が、理髪師の弟子とか洗濯婆の悴とかに酒を飲ませ、寝鳥《ねとり》をさし糞が迸《ほとばし》り出たとか、脱肛したとかの醜状をも記しあり候。また古ギリシアでもアテネのごとき高士偉人のあいだに清秀たる眉目の少年が周旋して玄談歌詠すると、ある海島では毎々少年をかつぎ去りてむりやりにおしこみ、はなはだしきは輪姦せし等のことあり。何の世にも何の時にも、清濁|両《ふたつ》ながら行なわるるは、まさに然るべきのことにて、浄あり不浄あり、浄にして不浄を兼ねしもありしと知らる。また貴示中の下婬の例に至りては、前状申し上げたる小草履取りなど、その著しき例にて、阿波の三好長元ごとき、えたの子の美貌なるを小姓に取り立てしを亡国の兆と国人非難せし由。山岡明阿の『逸著聞集』に、花園右大臣有仁(これも後三条帝(?)の(18)皇子、人臣に下りしなり)が車の牛を使う少年を車の側に随身なき折を伺い、車中に召してすばやくきこしめしたことを記す。パリで今日も自働車使いの美少年を車中で犯すこと多きごとし。明阿の件《くだん》の著は戯作なるも、実際左様のことが多かったことと察せられ候。
 去る大正九年、小生ロンドンにむかしありし日の旧知土宜法竜師高野山の座主たり、しばしば招かれしゆえ、今年の勧業博覧会で一等賞金印を得たる当地の画師川島草堂(この人は橋の上に炭の屑をもって画を独習して仕上げたる人なり。久邇大宮も七年ほど前に和歌山望海桜に召し席上揮毫をさせ御覧ありし。小生むかし南ケンシントン美術館に傭われ、河鍋暁斎の粉本を多くしらべしことあり。他の画のことは知らず、狂画の腕はこの人のが暁斎の次と存じ候)と同伴して金剛峰寺へ三十余年ぶりに尋ね候。そのとき座主、特に小生のために金堂に弘法大師将来の古軸若干をつり下げ示されたり。その内に大日如来の大幅一つありし。何ともいわれぬ荘厳また美麗なものなりし。その大日如来はまず二十四、五歳までの青年の相で、顔色桃紅、これは草堂|咄《はなし》に珊瑚末を用い彩りしものの由、千年以上のものながら大日如来が活きおるかと思うほどの艶采あり。さて例の髭鬚など少しもなく、手脚はことのほか長かりし。これは本邦の人に気が付かれぬが、宦者の人相を生写しにせしものに候。日本には宦者なきゆえ日本人には分からず候。
 さて宦者もいろいろありて、普通|椒房《しようぼう》を監視するためのものと、また別に漢高の籍孺、孝恵の?孺、蜀漢の黄皓など、もっぱら色をもって人主に寵せらるる宦者あり。古ペルシアその他に、敵国を亡ぼして敵王の子を宮し、その色を愛せし王多し。歴山王《アレキサンドル》がもっとも寵せし美人は、女にあらずして宦者なりし。またローマのネロ帝ごとき、艶后ポッペイヤに死なれて身死せんとするまで憂悒せしが、スポールスなる少年の顔ポッペイヤと間違うばかりなりしより、これを宮し、婦女間に仕込みて女同前にし、大礼を挙げてこれを皇后に立て、民衆の歓声裡に公然これと接吻せしことあり。ネロ弑せられて次に立ちし帝、またこの者を寵せしが、その次に立ちし帝はかかること大嫌いにて、ス(19)ポールスの常操なく前帝と同時に死せざりしを悪み、大なる恥辱を与うるためにこれを娼妓かなんかに出で立たしめ、大衆の面前に戯場に上がらせ大恥辱な目に会わせ(強姦かなんかせしめしことと察す)、スポールスたまらず舌をかんで自滅せしことあり。この宦者の心底、情操がまた、かげまとも女とも大いにかわり候。いわゆる neuter《無性》人なり。(小生生まれしころ(まずは明治元年ごろ)までは、インドなどには十万近くもこの流の宦者あり。一群一地方ごとにその王あり。丈夫《オつと》を迎えて定まれる妻となる。装飾、衣裳、行儀、まるで女人のごとし。賀礼等の席へ出て座もち役をつとめ、酬金を多く得て、中にははなはだ富めるものあり。法律上死んだ上でなければ、男やら女やら無性やら両性やら分からぬゆえ、はなはだむつかしきものなりし。)次に半男女あり。ローマ帝国の全盛時に好色家は最高価をこれに払えりという。はなはだ少なきものなり。両性人なり(hermaphrodite《ヘルマフロジテ》)。次に、例の男色の受け手、これにもいろいろと類別あり。
 婦女のことは姑《しばら》くおき、右の三種の人の性情を実写することは、なかなかむつかしく候。いわんや、そんなものが現存せざる本邦においてをやで、本邦においては『男色細見菊の園』の序か何かに見えしごとく、明和のころすでに芝居役者にすら専門に育て上げられたる若衆形は全滅し、女方が平井権八や小姓の吉三をつとめ候。それでは女になってしまって、若衆や小姓の情緒はさっぱり写らず。故に貴下などには到底男色小説を書いても浄の男道の片影をも写すことは難かるべしと存じ候。
 一昨々年十月十八日なりしか、東京より来遊されたる上松|蓊《しげる》氏(明治二十四、五年ごろ衆議院副議長たりし故安部井磐根氏の烏帽子子なり)と当地を発し、当国日高郡妹尾官林に趣き、三日めに上松氏は御大典のことに関係ありて出立東京へ帰途につく。(日高川の吊り橋を渡るとき、串本村の男女ことごとく出てその渡りぶりを見るに、ずいぶん気を付けて歩みしも、橋板を徹《とお》して急流が遠き眼下を走るを見て、覚えず足を駐め居すくみになりしとみずからいう。)小生は一人踏み止まり菌類を写生す。初めは二百品を検して立ち去るつもりなりしが、かかる深山へ老いてまたと来(20)る見込みなければ、せめて三百品を検して去らんと思い、逗留しつづくるうち冬となり、零下五度という毎日の寒さなり。滝など画にかける不動尊の火焔のごとく飛び散ったまま堅く凝る。室内へ吹雪降り、茶を汲んで五分も座右におくと、堅氷碗にはりきって底に血のごとき流動体が澱《よど》む。茶が水と別れて底に沈めるなり。水は氷りて石のごとし。この官舎、小生の外に事務員等五人ばかり留まる。猫一疋あり、鰹節を見せるに怪しんで逃げ去る。(ただし、一度口へおし込んだ以上は毎度探りにくる。)幼き時より一疋ここに来たり世間を知らず。風少なき日は谷川へゆきハイという小魚を採って食う。牝を見たことなし。故に色気なし。舎員等時々手淫しやるに、大いに怪しんで異様に吼え出す。毎朝起きてゆき台所を見るに、図のごとく焔々たる囲炉の一側に坐し、身を焔にあてて焦げるも去らず、交わる交わる片手を出して炙り暖をとる。日を招き還した人の咄は、支那の魯陽公、本邦の清盛などあるが、火を招く猫は始めて見し。
  唐猫を清盛にする寒さかな
 この妹尾官林のことは『民俗学』昭和四年十二月分(一巻六号)三九六−三九七頁に載せたことあり。十一月中旬より明年三月初めまで日が少しも当たらず。狭き谷間ゆえ北風吹くときは官舎には南風がふき、東風が至れば西風となる等のことあり。午後峰頂に日当たれるを見て、さては晴天かと察する等のこと多し。かくて氷雪中に三百余点まで菌を集め写生するに、針で石を突くごとき音を出す。墨やインキや水彩色がたちまち凝りて堅くなり、筆のさきまた針のごとく固まるゆえなり。故に筆や彩画具を用うることならず、鉛筆のみで図を引き色合い等を記し添えおきし。この南国にかかる寒き所ありとは思わざりし。
(21) かくて一月四日まで水雪に閉じこめられ一歩も外出すること能わざりしが、一月五日天を仰いで近来|稀《まれ》な晴天と知り、朝より荷拵えして午後一時に官舎を出で橇車に乗り仰ぎ臥し、すべり落とされぬよう橇のへりをつかみ固めて駛せ下りしに危険比なし。中止せんと思いしが、氷雪道を埋めて足悩める小生が立ち処なし。よって運を天に任せ、すべらし下る。九十六町を四十五分間に下り串本に着。それより日高川に高く懸かりし針金橋を渡る。村の男女また中途で立ち留まるなるべしとて総出で見物す。小生は案内人を一人先に立たせ、その人をばかり見つめていささかも下を見ずに直行し、わずかの間に長き高き吊橋を渡り了る。それより林務所員の若者、自転車に小生の手荷物をつけ(採集品等は出立の前すでに発送せり)、小生は傘を杖ついて前行す。串井峠とてずいぶん高き山を上るに、午後三時後の夕日赫きて暑さ夏のごとし。肩ぬぎて進む。この分にては峠を下るも雪は解け氷は溶け去り別段の難儀あるまじと思いきや、下って見れば北に向かいし地ばかりゆえか、鏡面のごとく氷はりつめたり。この辺に草履というものきわめて乏しきを、串本で二足針金を入れて作らせ貯えたれば、その一を穿ちてすすむ。唐尾越《からおごえ》という難処の下に至りしときは、もはや五時なり。提灯を用意したれば臆さずに上りゆく。途中で日がずんぶり暮れる。しかし、氷雪で道白きゆえ、闇夜ながら行歩に便なり。恐れ入ったことは、昼間たまたまの快晴に土や岩にゆるみを生じ、所々途上に崩れ落ちて足が行き当たる。それを用心して巓まで上り、さらに五十丁下りて川又官林の官舎に着きしは八時半過ぎなり。
 この辺流感大はやりにて舎長以下早く臥しあり、コホンコホンとやらかしおる。小使一人無事にて舎婢をよび来たり飯を炊かせ、七十五日めに始めて生鮮な海魚で温かい飯を食えり。(妹尾官林では絶対に芋と香の物と大根の煮たのと冷飯を食えり。温かく炊いてくれても、写生に念を入れて半時間、一時間とおくれて食いにかかるときは、砂のごとく冷え固まりおりしなり。)それより安眠して朝早く起き、二十四年前、この川又官林で見出だしおきし珍異の木を求むるに、その所はことごとく伐り尽して何の木一本もなく、すなわち昨夜氷雪中を歩み来たれる長々しき車道に化したりとのことに大いに失望、しからばその木の概要を画にて示しおきたく、後日見当たらば採り送られたしとて、(22)それと同類の木を名ざし折り来たらしむるに、小使走り行きてしばらくの間に折り来たる木をみれば、前年見出だせしと同種のものなり。これならば、この辺の人家の辺に多少ありとのことに大いに歓び、跡より送ることを頼み、九時発の自働車にて官舎主任田辺へ官用でゆくと同乗して御坊町に向かう。主任はひとまず御坊町へゆき、それより乗り換えて田辺町へゆくなり。小生は御坊町の手前なる北塩屋村で下車のはずなり。
 これより四十四年前(今年只今より四十六年前)、小生東京にありしがふらふら病いとなり、和歌山へ帰り、保養のため父の生家が日高郡にあり、その親属またこの郡に散在するをもってそこここと遍歴せんと日高郡に来たりし。その時この北塩屋に高名の医師羽山氏なる豪家あり。その家に当時五男あり、その長男は繁《しげ》太郎、二男は蕃《はん》次郎という。これは御存知通り、「筑波山は山しげ山繁けれど、思ひ入るにはさはらざりけり」という歌により、苗字のは山に因みて付けたる名と察す。その宅の近所の小丘に熊野九十九王子の一なる塩屋王子の社あり。『熊野御幸記』にも載せたる旧社にて、古く俗に美人王子と号す。それゆえか、この家の五子、取り分け長男と次男は属魂《ぞつこん》の美人なり。
 長男は小生東京にありし時勧めて上京せしめ、東大へ入らんと本郷三組町の独和学塾とかいう所に入り勉学せしが、その塾長が苦堅気の人にて塾生に一切足袋をはかせず単衣寒棲を強ゆ。東京へ初めて紀州より行きて、その冬烈しき寒気に風を引き、それより肺を悩み東大病院に入りしがはかばかしからず、帰国して家にありし。そこへ小生行き泊り、また当地付近の鉛山《かなやま》温泉に遊びなどして春より夏に至れり。かくて、その夏東京より同県出身の学生ども多く帰国す。長男かくのごとくなるゆえ、次男を東大に入るべしとすすめ、そのことに決し、夏休みすみて学生等東上すべしというゆえ、小生和歌山にありしが急行してかの村にゆき、次男を東上せしむるに決し、一泊して翌朝次男を伴い、和歌山まで同行し、その翌日学生どもと東上せしめ、小生よりその後、かつて衆議院、今は貴族院議員たる関直彦氏へ頼みやり、その世話になり勉学せしめたり。
 かくて小生和歌山にありしが、家内に面白からぬことありて(小生の家は当時和歌山で一、二といわれし商家なり(23)しが、前年兄の妻を迎うるに父の鑑定で泉州より素性よき旧家の娘、まことに温良の美人を兄の妻として入れたるに、兄は淫靡の生れにて、浮気商売の女などを好み、父がせっかく定め選びし女を好まず、出奔したることあり。それを引き戻して改心せしめしも、なにさま本心より好まぬことはどこまでも好まず。それがため父と兄の間柄、常に面白からず、しかる上は小生は次男ゆえ、父は次男の小生と共に家を別立するような気色あり。小生の妻を定むなどいう噂もきく。しかる上は勝手に学問はできず、田舎で守銭虜となって朽ちんことを遺憾に思い)、渡米することに決し候。決した上は早く取り敢えず東上し、さて船等を聞き合わせた上渡るべしと思い、日高郡の親族二、三の方へ告別にゆきし。
 ちょうど九月の終りごろで、右の医師邸の二階に一泊すると、にわかにさわぎ出す。何ごとかと聞くと、医師の妻がこれまで五男までつづけて挙げたるに(十九歳と十六歳と十三歳と六歳と三歳)、また今春より孕みありしが只今産の気がつきたりといいののしる。これでは到底今夜は眠ることはなるまじと思い、二階の窓をあけて海上を見渡す。鰹島《かつおじま》といえる岩礁のみの小島に銀波打ちかかり、松風浜辺に颯々として半ば葉隠れに海上の月を見る。その風景何とも口筆で述べられず。われは当分この辺の風月を観賞するも今夜限りなり。知らぬ他国に之《ゆ》き、いくそばくその面白い目つらき目にあうて、いかに変化して何の日か帰国し、またこの風月を見得ることぞと感愴して、覚えず明くる朝の四時となる。その時家内またさわぎ立つを聞くに、これまでとかわり今度は女の児が生まれたるなり。すでに児が生まれた上は、吾輩一時間止まれば一時間の厄介をこの家にかくることと思い、朝霧四塞してまだ日光も見ぬうちに急ぎ辞別して出立して、かの長男日高河畔(清姫が衣をぬぎ柳の枝にかけて蛇となり、川を游《およ》ぎにかかりしという天田《あまだ》という地)まで送り来る。いわゆる君を送る千里なるもついに一別すで、この上送るに及ばずと制して幾度も相顧みて、おのおの影の見えぬまで幾度も立ち止まりて終《つい》に別れ了りし。
 それから東上して六十余日奔走し、十二月の初めに横浜解纜の北京市《シチー・オヴ・ベキン》という当時の大船で三十日めにサンフラ(24)ンシスコに着し、いろいろの有為転変をへて、在外十四年と何ヵ月ののち英国より帰朝して見れば、双親すでに下世し、幼かりしものは人の父となり、親しかりしものは行衝知れぬも多く、件の羽山家の長男は一度は快気して大阪医学校(今の大阪帝大医学部の前身)に優等で入学せしが、一年ほどしてまた肺を病み、帰村して一、二年して死亡。次男は小生と別れしとき十六歳なりしが、二十六歳まで存生、東大の医科大学第二年まで最優等でおし通し、もとより無類の美男の気前よしゆえ、女どもの方も最優等で、はなはだ人の気受け宜しかりしが、これまた病み付いて日清戦争終わりてまもなく死亡。三男、五男、それから小生渡外後生まれたる六男まで、いずれも学校優等なりしが、三十ならぬに死亡、ただ四男なるもの一人残る。この家積善の人で代々つづきたるに、いかなる故にかかる凶病にとりつかれ将棊倒しに子供が死に失せたかというに、そのころは今に比して一汎衛生の観念ことに田舎には稀薄で、小生泊りおるうちも、毎度肺病人を自宅向いの家に置いて、いわゆる出養生所《でようじようしよ》とせしなり。そんなものを処置するには、自宅に出入せしめず厳に自宅と出養生所との区域を立つべかりしに、そんなことに考え及ばざりしうち、病気の毒素が自宅のどこかに潜入せしことと思う。よって多くの家内のうち一人が死んだとき、さつそく支度して全く家を他へ移すか、また土でも入れ替え、井をほり改めたらよかったなれども、それまでは思い及ばなんだことと思う。
  この子供らの父ははなはだ徳望家で、当時の風として、人力車にのり診察にまわると、病家は車夫に幾分のチップを与うるの風ありし。それを気の毒がりて、老後自転車を修煉するとて過って落ちて、卒中風を起こし死せしなり。
 さて小生は渡米したが、米国の学校などいうものは実際当時のわが国の学校にも劣りおり、教師また米国だけの人物で、とても欧州と比肩すべきにあらず。かつ小生主張堅固にして少しも米人に屈せざるより、しばしば喧嘩など仕出だす。よって学校を見限り自修独学し、もっぱら図書館と野外にゆきて読書また観察せしが、そのころ米国の南部は、あまり生物の詳しきこと知れおらず。よってフロリダへゆき、また西インド諸島に渡り、その辺の動植物を集め(25)たところが、欧州へ渡らねば調査はできず。よって二十六歳の秋渡英せり。その船中にあるうちに、父は和歌山で死し、ロンドンに着いて正金銀行支店を訪いしに父の死んだ報が着しありたり。「天下|是《ぜ》ならざる底《の》父母なし、人間得難きものは兄弟」というに、いかなれば小生は兄弟に縁薄きにや、兄は父歿して五年目に父の予言ごとく破産没落し、次弟は父が別居せる跡を嗣ぎしが、これまた善人ならず、小生金銭のことに疎きにつけこみ、ことごとく小生のものをやらかし了れり。(このことを聞き及んで、小生のただ一人の男児は精神病を起こし、もはや六年半近くなるに少しも好報に接せず、洛北に入院させてはや三年三ヵ月になる。)かくて帰朝しても一向歓迎さるる人もなきより、「古郷やあちらをみても梨の花」、熊野の勝浦、それから那智、当時実に英国より帰った小生にはズールー、ギニア辺以下に見えた蛮野の地に退居し、夏冬浴衣に繩の帯して、山野を跋渉し、顕微鏡と鉛筆水彩画と紙がこればかりの身代で、月々家弟より二十円あてがいで、わびしくもまたおかしくも幾そばくその月日を送りおりたり。
 外国にあった日も熊野におった夜も、かの死に失せたる二人のことを片時忘れず、自分の亡父母とこの二人の姿が昼も夜も身を離れず見える。言語を発せざれど、いわゆる以心伝心でいろいろのことを暗示す。その通りの処へ往って見ると、大抵その通りの珍物を発見す。それを頼みに五、六年幽邃極まる山谷の間に僑居せり。これはいわゆる潜在識が四境のさびしきままに自在に活動して、あるいは逆行せる文字となり、あるいは物象を現じなどして、思いもうけぬ発見をなす。外国にも生物学をするものにかかる例しばしばあることは、マヤースの変態心理書などに見えおれば、小生は別段怪しくも思わず。これを疑う人々にあうごとに、その人々の読書のみしてみずからその境に入らざるを憐笑するのみ。(弄石で名高かりし木内重暁の『雲根志』を見るに、夢に大津の高観音とおぼしき辺に到りて、一骨董店に葡萄石をつり下げたるを見、さて試みにそこに行きみしに、果たしてみすぼらしき小店に夢の通りの石をつり下げありしゆえ、買い得たりなどいうことあり。これを妄誕とせる人は、その人木内氏ほどそのことに熱心ならざりしか、または脳作用が異《かわ》りおるによる、と小生は思う。)
(26) かの兄弟の母は多くの子供を死なせ喪うた後も第四男と共に生存し、一度小生を見て何故かかる禍難が至りしかを尋ねたしなどいいおりし由なるも、ちょうどそのころ小生この田辺町へ移り来たり、政府の神社合祀詩sをもって、伯禽のいわゆる、のち纂弑の臣あらん、まことにこれほど危うき政策はなしと思い、種々と反対運動をなしたるため、またかの村に之《ゆ》くを得ざりしうちに、彼らの母も物故せりと聞き、姑《しばら》くかの一家のことは念頭に置かざりし。しかるに、田辺の宅にありて炭部屋の内に顕微鏡をおき、昼も夜も標本を調査するうち、一日妻が当時三歳になる娘を伴い牛肉を買いに出で帰りての話に、この宅の近所の米国女宣教師の宅に十八、九の洵《まこと》に紅顔のおとなしき美人あり、毎日近町の醤油屋の隠居に生花を習いに之く。いかなる家の娘なるらんと思いおりしに、只今肉を買いて帰る途中でわれらに追い付き、娘にこの煎餅一袋をくれたから、貴娘は何の縁あってと問うに、日高郡塩屋浦の羽山家の出《で》で、兄どもは自分生まれぬ前にいろいろと先生の御世話になりしが、不幸にして世に即けりと話されたとのこと、そう聞けばまことにかの兄どもにどこか似ておる。よって面会していろいろと聞くと、その他の兄弟も死に失せ、第四男が家を継いで今もありとのこと。それよりその第四男に文通して、旧家のことゆえいろいろと珍籍を蔵すること少なからぬゆえ、それを借り受け写しなどすること、年ありし。
 今年妹尾官林に七十五日楯籠り氷雪の疲労はなはだしかりしゆえに、今二里ばかり平地を歩まば直ちに自働車に乗りてその夜の八、九時に自宅へ帰り得るところを、さらに韓尾越《からおごえ》の高嶺を夜中幾度も谷へ落ちかかる所を手にせし傘でふみ止まりこたえて踰え歩みしは、一は二十四年前に見出だしたる珍植物をつきとめたく、それよりも主として四十四年ぶりで北塩屋のかの家の跡を見たくてのことなりし。よって出立の十日も以前よりしばしば、かの家と言ったところが第四男は前年精神病を煩いしと聞くから只今のことも分からず、それより小生渡米告別にゆき一泊せし翌旦早く生まれたる女児(件の煎餅をくれたる女の姉)が、今は御坊町より南部町までのあいだで第一の豪家に嫁し、指を屈すれば四十五歳の主婦となり、五人まで子を設けあるときく、その家へ交渉しおきたるなり。川又官林より北塩(27)屋まではわずか七、八里なるも、この辺を往復する白働車は(日に二度とか)いかさま物の拾い集めで、道路また間に合わせのよい加減なものなれば、ただ道を踏み違えぬを便宜と乗りたるのみ、パンクとか何とか故障続出して朝九時に乗ったものが、七、八里の道を四時間以上かかり、午後一時過ぎにやつと北塩屋に近づき、久しぶりで海が見ゆる。かくてむかし見なれた美人王子の小丘の下を過ぎて本村の大道を走らす。
 四十四年も前に見た物は何一つ見付からず、華魁《おいらん》が長鳥場《ながちようば》の嫖客をせき立つるごとくまだかまだかと思ううち、山田という宿札が見えたから、車を駐めしめ飛び下りてその家の入口に立つと、三十ばかりの若主人がけげんな顔をする。するも道理、鳥の声さえ一度も聞かざる深林に七十余日も素食寒居のあまり、鬚髭厖々眼と鼻の外は埋もれ了り、衣服は昨夜の氷雪に沾《うるお》い徹り、芝居でする定九郎が与一兵衛の齢まで生き延びたものとしか見えぬなり。何の歓迎もされぬから手持無沙汰で立つところへ、二十歳ばかりの青年走り来たり、こなたへと乞うてもと来し方へ引き返すより聞いてみると、今立つた家は同じ山田ながら分家で、羽山の長女が嫁しある本家はそれよりも半町ほど手前で、一層大きな家なり。よってそこまで往くと、四十五歳といい条三十五、六に見える明眸、前歯を金で填め、まことに愛敬ある中柄の主婦が、入口にまちおり、これが四十四年前に一泊した翌朝生まれた女の子と問わずして知れた。先立つものは涙とはよく言ったもので、その主婦、言を発せず家内へ案内し、昨夜氷雪で踏み固まった針金入りの草履をぬがせ、これは一代祠っておくべしとて取り片付くる。それより奥座敷へ上がって見廻すと、むかし山田の庄とこの辺をいいし、その山田の庄屋たりし山田家で(『紀伊国続風土記』にも出であり)、もと多くの漁夫を使いしとき、大漁事あるごとに数十百人に急に焚き出しせし大釜を多くならべた広き部屋あり。そこの構え、田辺町などでは見られず。主人は文藻もある人で、なかなか話せる、この辺切つてのいわゆる檀那衆なり。
 もと当国|在田《ありた》郡|栖原《すはら》の善無畏寺《ぜむいじ》は明恵上人の開基で、徳川の末年より明治の十四、五年まで住職たりし石田冷雲という詩僧ありし。あんまりよく飲むので割合に早世されたれども、就いて漢学を受けし弟子どもが明治大学長たりし(28)木下友三郎博士、郵船会社の楠本武俊(香港《ホンコン》支店長またボンベイ支店長)、その他十をもって数うべき知名の士あり。その冷雲師の孫に陸軍大学教授たりし日本第一の道教研究者妻木直良師あり。二十二年前、例の小生が炭部屋で盛夏に鏡検最中のところへ来たり、いろいろと話す。ちょうど小生粘菌を鏡検しおりしゆえ、それを示して、『涅槃経』に、この陰滅する時かの陰続いて生ず、灯生じて暗滅し、灯滅して闇生ずるがごとし、とあり、そのごとく有罪の人が死に瀕しおると地獄には地獄の衆生が一人生まるると期待する。その人また気力をとり戻すと、地獄の方では今生まれかかった地獄の子が難産で流死しそうだとわめく。いよいよその人死して眷属の人々が哭き出すと、地獄ではまず無事で生まれたといきまく。
 粘菌が原形体として朽木枯葉を食いまわることやや久しくして、日光、日熱、湿気、風等の諸因縁に左右されて、今は原形体で止まり得ず、(ロ)原形体がわき上がりその原形体の分子どもが、あるいはまずイ′なる茎《くき》となり、他の分子どもが茎をよじ登りてロ′なる胞子となり、それと同時にある分子どもが(ハ)なる胞壁となりて胞子を囲う。それと同時にまた(ニ)なる分子どもが糸状体となって茎と胞子と胞壁とをつなぎ合わせ、風等のために胞子が乾き、糸状体が乾きて折れるときはたちまち抱壁破れて胞子散飛し、もって他日また原形体と化成して他所に蕃殖するの備えをなす。かく出来そろうたを見て、やれ粘菌が生えたといいはやす。しかるに、まだ乾かぬうちに大風や大雨があると、一旦、茎、胞壁、胞子、糸状体となりかけたる諸分子がたちまちまた跡を潜めてもとの原形休となり、災害を避けて木の下(29)とか葉の裏に隠れおり、天気が恢復すればまたその原形体が再びわき上がりて胞嚢を作るなり。原形体は活動して物を食いありく。茎、胞嚢、胞子、糸状体と化しそろうた上は少しも活動せず。ただ後日の蕃殖のために胞子を擁護して、好機会をまちて飛散せしめんとかまうるのみなり。
 故に、人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰《たん》様の半流動体と蔑視さるるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人間の見解がまるで間違いおる。すなわち人が鏡下にながめて、それ原形体が胞子を生じた、それ胞壁を生じた、それ茎を生じたと悦ぶは、実は活動する原形体が死んで胞子や胞壁に固まり化するので、一旦、胞子、胞壁に固まらんとしかけた原形体が、またお流れとなって原形体に戻るは、粘菌が死んだと見えて実は原形体となって活動を始めたのだ。今もニューギニア等の土蕃は死を哀れむべきこととせず、人間が卑下の現世を脱して微妙高尚の未来世に生するの一段階に過ぎずとするも、むやみに笑うべきでない。
 およそ人間の智識をもつて絶対の真理を知らんなどは及びもつかぬことなるは、ニュートンの引力もアインシュタインの相聯論でまるで間違ったものと知れた。いずくんぞ他日またア氏の論もまた間違い切ったものと知らるるの日なきことを保証し得んや。されば専門専門というて、人の書いた物ばかりよみ、あの説ももっともらしく、この説ももっともなところあるようなり、ええままよと一六勝負であっちに加担し、こちらを受売りして一世を畢《おわ》つて何の実用なし。それよりは、さし当たり相似をもって相似を、相似たる範囲内に相似たりと断定し、手近く喩えをこれに採って、及ぶだけさし当たった実用に間に合わせんには、むかしの学識というものは専門にならでは応用奏効せざりし物にあらず。花五出するは常なり。六出する花の実は美味ならず。造化全功なし。単弁花はさまで美ならねども実が立派に生じて食うに堪えたり。八重千重の花に至りては、ややもすれば食うべきの実を結ばずとか、角あるものは牙なしとか(実は過去地質期に角と牙を具えたものありしなり)、義理とふんどしかかねばならぬとか、義と女を見てせ(10)ざるは勇なきなりとか、専門に細心に穴ほぜりをしたら、ことごとく間違った皮想の見解ながら、さし当たり十の八、九まで人天を一貫したらしき道理を見付けて世用に立て実際のことをそれで済ませたるなり。禅学の玄談というは、多くかかる不十分不徹底の道理を活用して、大いに世間の役に立てたるなり。
 しかるに、今の学問は粘菌と人間とは全く同じからずということばかり論究序述して教えるから、その専門家の外には少しも世益なきなり。仏人ヴェルノアいわく、学識が世益に遠きもののみならんには世人は学識を念頭に置かざるはずだ、と。これをもって後庭を掘らせつづけて辛抱すれば、往々淫汁ごとき流動体を直腸内に生じて多少の快味を生ずることもなきに限らずなど、迂遠に無用のことを述ぶるよりも、水戸義公の政治は女を御するごとくすべし、小姓を御するごとくするなかれ、甲はすなわち上下共に喜悦し、乙は上のみ悦んで下は苦しむと一概にいいし方がよき教訓で世間を大益する。貴僧なども、人間と地獄とのことを手近く分かり易く説かんとならば、『涅槃経』の文句を粘菌の成敗で説かれよ。人々これを聞いて粘菌と人間は別の物ということを忘れて、一事は万事、世間はなーるほどそうした物と手早く解し、速やかに悟るべしと、熊楠、炭部屋の方丈でかく説き、妻木師よほど感心したと見え、受売りの備えに熊楠の説法の暗誦|惟《こ》れ?《つと》めて、ろくろく挨拶もせずに立ち去りしことあり。『覚後禅』に、賽崑崙が未央生に説く内に、真快を悦味する婦女は言語塗絶し、手足冷却し気息も聞こえず、全く死人と同じくなる、かかる女としてこそ即身成仏なれという意味のことを説くところありしと記臆す。妻木師が無言にして立ち去りしもまたまたかくのごとし。
 さて二十二年を経て当日小生山田氏宅に着きしを、家人が御坊町の山田の従兄へ電話で知らす。折ふし妻木師御坊町へ来たり、本願寺別院で説法中で山田の従兄も聴きに行き、山田妻の妹(上述煎餅を小生の娘にくれた者、嫁して材木屋の主婦たり。三十七歳だが二十五、六に見える。美人王子の申し子はみなかくのごとし)も行きあり。ところが妙なことには、妻木師ちょうど生死の一大事に関し、件《くだん》の『涅槃経』の文句を講じ了って、先年南方氏を田辺に訪(31)いしとき、鏡下に粘菌を示してかくかくの咄ありし、見る人の眼より見ればかかる微物も妙法の実相を示すと受売りを弁舌爽やかにやらかし、一同大悦、感涙にむせびしところに、山田の従兄、臆面もなく立ち上がり、妻木師に申す、その南方氏は只今ここから五分で達し得る北塩屋浦に来たり、予の従弟方に一泊というと、妻木師大いに悦び、即時ひとまず場を閉じ、皆様また夕の七時より御来訪あれということで、弟子坊主二人と自働車を馳せ午後三時過ぎ山田家へ来たり、いろいろ談《はなし》をして、午後六時過ぎ、また説法で一儲けと立ち去られし。
 その夜山田家にて久々にて牛肉を食う。夜半まで夫婦と往時を談ずるに、その妻自分生まれて一時間ならぬうちに告別して米国へ行き、その後帰朝と聞きしが、どんな人やら分からず、今日天幸こんな所へ来て下さったは、なき父母の引合せと喜ぶこと限りなく、三つの時死なれたから写真の外に見覚えぬ長兄と、十歳の時死なれた次兄とが熊楠のかたわらに座しあるごとく見ゆるとて泣く。愁嘆場宜しくで、小生は件の僧侶としゃべりくたびれたから眠りに就く。
 翌一月七日早朝に、山田妻の妹(中川という材木屋に嫁し、一男一女あり。この中川氏妻の名は末。けだしあんまり子を多く生むから、これでしまいと現して末と付けた名なるべし)二子を伴い来る。山田の子供、男二名女三名、中川の子供、男女各一名、〆七人目見えに来る。眼白鳥《めじろ》が柿を食わんとて押し合うごとく、どれが姉だか、どれが誰の子だか分からず。山田氏、紙に名と齢を記し来たり、佐和山の城で石田三成が盲目の大谷吉隆に家老どもを引き合わすごとく、小生の前へ子供をかわるがわる出して、その名と齢を唱う。ちょっと小学の卒業免状授与式のごとし。これは一月七日のことで、この朝、正月祝いに神棚へ上げたる芋、餅等を卸し、味噌で汁にして祝い食うを、この辺で福|湧《わか》しという。何か書いてくれと望むから、
  芋が子は……て福|若《わか》し
  ……は、小生近ごろ災難の打ちつづきで忘れ了り候。山田氏へ聞き合わせ後より申し上ぐべく候。と書くものの(32)これもまた忘れ了るかもしれぬ。(〔あとから「……て」を「押し合ひにけり」と書き改めて〕本状書き了って思い出し候。ただし、なお修正を要するが、当座吟ぜしままを記し付け候。)御存知通り、仏経に人の妻を見て姉妹の想を作《な》せとあり。ここには忠盛が糸我峠で零余子《ぬかご》に付いて詠進せる故事を思い寄せしなり。
 それに次いで昨日電話をやりおきし山田の従兄も来る。外に山田の叔母およびその姑婆も来る。(昨日小生まちがうて門に立ちし分家のもの。)一族揃うて羽山の旧宅へゆく。六男二女のうち、二女は山田、中川へ嫁し、第四男芳樹というのが一人のこりあり。妻は去年子なしに死亡せしと。この芳樹は小生渡米のとき六歳、当年三歳の次弟(五男)と蛙一疋を争うてその頭を打ち大騒ぎせしを、小生持ち合わせし翫具を与えて静めたことあり。それが今は五十歳になりある。久闊を叙して、その兄ども在世中のことをいろいろ聞き取る。四十四年前に山田の妻が生まるる騒ぎに寝られず、海と月と松を眺め通した二階の窓もそのままあり。
  かくまでもかはり果てたる世にわれを松風のねのたえぬ嬉しさ
 その夜眺めた松どもは千歳の色を少しも変えず、颯々の音を立ておるゆえなり。『源氏物語』に明石の尼公「身をかへて独り帰れる古郷に聞きしに似たる松風ぞ吹く」とあるに基づく。
 それよりいよいよ美人王子の社に一同伴い詣ず。こんな田舎までもいわゆる文化が及び、むかしあった神林を伐り尽して牡丹桜とかコスモスとか花屋敷的のものを植えたは、松風村雨の塩汲み姿の代りに海水浴袋の女を立たせたようであまり面白からず。この朝、海辺一面に霧立ち、この社畔の眺望を遮る。四十四年前、山田妻の長兄、小生を天田の渡しまで未明に送り来たり霧の裡に別れしときのことを思い出でて、
  忘るなよとばかり言ひて別れてしその朝霧のけさぞ身にしむ
 あり合わせた紙に書き付けて彼女の第四兄に渡し、まず往って長兄の霊前に供えしむ。それよりその宅にゆき、一|等《〔ママ〕》撮影、この写真は小笠原|誉至夫《よしお》氏(現存小生の最旧友の一人。かつて国会へ馬糞を抛げたり、鳥尾得庵をなぐりに(33)往ったり、相場師になったり、いろいろとかわりて今も和歌山に健在)が一昨年、御臨幸の前に『大阪朝日』紙へ出し、まことに立派な一族団欒なりと世評ありし。
  この小笠原は才物にて、小生大伝馬町の保証人方へ学資一ヵ月分を受けに行き帰るに、跡よりいつに似ず丁寧に話しかけ付け来る。気味が悪いので、本町の薬肆どもの前を一目散に走り出すと、たちまち大声して、スリダースリダー、薬店の小僧等立ち出で、そのころ店に使いし勇み肌の熊公、金さんなど、ふてい奴だ、この野郎と、小生の胸倉をとりすえた。小生は麁服、彼は吉原通いの美装ゆえ、スリと見らるるも異論なし。後に聞くに、逃ぐる奴をスリダと呼んで留める咄は何かの落語本に出でおる由。ここにおいて小笠原はその落語を兼ねて聞きおって当場に応用したのか、また自分の才幹で足下に案出したのかという疑問が起こる。小生は両可説を唱えたし。小笠原ほどの才物にはそれくらいの考えはいつでも湧出すべし。それと同時に毎度寄席などへ行った人ゆえ、そんな咄は脳裏に染み込んでおったなるべし。当人に聞いて見ねばいずれが真の事由か分からぬ。これと等しく、やれ『古事記』のこの文はエジプトを模倣だとか、『伊呂波文庫』のその咄は南アフリカから渡ってきたとか、日本よりは何一つ外国へ渡さず、始終遠近の外国から伝受のみしおったように説くはどうであろうか。しかるときは、日本人は(ずいぶん古い遺物製品をもち蔵しながら)昨日生まれた犬の子のごとく、何一つ自分の持ち物なしに数千年をへたこととなる。世にこの理あらんや。
 写真し了りて中川の妻は、夫が大阪へ旅立つからとて辞し去るに臨み、また何かと望まる。(この女の名は上述ごとくお末《すえ》。)
  中川の末永かれと祈るなり
 山田の従兄も御坊町へ帰るに付いて、葉山の別荘に琴やら裁縫やら歌俳諧に茶湯やら英仏語やらを教えて、故平沢哲雄氏(タゴールをつれ来朝せしめたる三土忠造君の弟。もと和歌山県知事、今は衆議院議員と記臆する宮脇梅吉氏(34)の妻の弟。この人、米国へ八歳のとき渡り、まるで欧米人のごとし。『大菩薩峠』の駒井甚三郎そのままで、まことにおとなしき人。震災のとき、永井荷風方へ逃げのき、それより小生に頼み来たり、本山氏にあい『大毎』派出員かなにかの名義でパレスチナ、パリ等に遊び、帰りてまもなくチプスになり、自由結婚の妻の腹に鮒を盛り込んだまま置き去りにして冥途へ旅立たれ候。この人特製の法螺の音が太い。その説の一つといつぱ、その人と知らずにかたわらに行きて特異の霊感に打たれた人は一生に二人、一人はポーランドの初大統領パデレウスキー、今一人は熊楠とのこと。この人の世話で小生岩崎家より研究費一万円もらえり)の遺児を守りおる吉村勢子女史へいいおくる、
     妹尾に山居せし折、逗子海岸なる吉村勢子よりそこの景気はいかにと問ひおこせたりければよめる  南方熊楠
  わが庵は奥山つづき谷深くのきばに太きつらら(水柱)をぞみる
 それから、あんまり永居すると顔に似合わぬ情深い人と別嬪から乞食女までおしかけ来るから、よい加減に三日目の夕切り上げ、自働車で四十五分|駛《はし》つて田辺の自宅へ帰る。さて妹尾で橇車ですべり下った時、固く橇の縁《ふち》をつかんだため手に凍瘡を生じ、癩病のごとく紫斑を生じ痛み悩むうち、二月初めに、宮城内生物学研究所主任服部広太郎博士来臨あり、六月に、御行幸あるから拝謁進講がなるかとのことで、重ねて四月二十四日に電信あり、よって御受け申し上ぐ。二十年来苦辛し保存せし神島で拝謁、夕刻御召艦長門へ召され、大臣、将官等二十方ばかり侍坐の席で、陛下の御前に席を賜わり進講致し候。
 岡崎邦輔氏よりの来信に、小生ごとき官辺に何の関係なき無位無勲の者を召せられ御言葉を再三賜わりしは従前無例とのこと、御臨幸の前に小生一書を山田の妻(名は信恵《のぶえ》)に遣わし、四十四年前の春、尊女の長兄と軽舸を仕立て鉛山《かなやま》温泉へ渡りし、ちょうどその舸《ふね》が渡りし見当の所に、今度御召艦がすわるなり、付いては一つの頼みあり、熊楠は生来放佚にして人を人とも思わず、これが大?で一切世間に持てず、しかるに今度この御諚あり、いささかも無礼不慎のことあっては一族知人ども一般の傷となる。仏経に、慧は男、女に勝れ、定は女、男に勝るという、自分は何(35)を信ずるという心がけもなければ、かかる場合に神仏を祈念しても誰かはこれを受けん、そこがそれ深川の小唄にもある、「むかし馴染のはりわいさのさ」で、尊女の長兄次兄とずいぶん隔てぬ中だつたから、尊女かの二人に代わりて当日、熊楠事なく進講を済ましてくるればこれに越した身の幸いなしと、一心不乱に念じくれよ、熊楠は自分に失態あつては尊女の一生に傷を付くるものと思うて、いかな気に入らぬことあるも無事を謀るべし、といいやりしに、空蝉の羽より軽き身を持ってそんな大事に当たり得るとは万思わねど、御申し越しの通り全力を尽すべし、との返事あり。しかる上は安心と決定して進講準備にかかる。
 二十七年前に見出だしおきし海に棲む蜘蛛(ギゲスと申す)をとりに行きしに、当日大風波で船人等船を出さず。ところが上に述べた川島草堂が知るところの漁夫、どこかの下女に子を生ませ始末に困つたを見兼ねて自分方へ引き取り育て小学へ通わしやった、その漁夫これ鄙人恩に報うるの日なりとて、棒組に向う見ずの伊三太的の大力の力士兼船頭一人をかたらい、小生と川島と四人で船を出す。海上|太《いた》く荒れて罎などころがりまわり、小生の衣服ラムネと海水で全く霑《うるお》い了る。また鼻の穴と耳に潮浸入して頭鳴り出す。しかし、必死に漕がせてその蜘妹のある海洞に近付いたが、浪荒くして入るを得ず。よって小生は上陸し、一人は船に留まり、他二人岩壁を九死を侵してよじ下り、わずかながら八疋まで活け取り、巣も一つとり収む。帰りは夜になり危険一層だから、小生と草堂は徒歩して帰り、船人二人は船を操縦して夜分に帰り得たり。こんなことで疲労はなはだしく、かつ進献すべき粘菌を助手なしにことごとく箱に装置せざるべからず。四日四夜のうちにただ一朝五時より七時までの間の時計を聞かざりしだけ、まずは仮寝したと思う。進献品出来上がりて浴して身を清め了れば、はや出頭の時刻なり。
 それより神島へ渡るに当日船|盪《ゆ》れて何の考えも付かず、何を進講してよいか御さきまつくらなりしが、島で拝謁、進献品に就いて奏上、次に衛召艦で、進講も幸いに標品をそれこれ見計らい持参したから、次へ次へと標品の出るに任せて奏上して退きしまで、例の鼻をすすったり咳嗽の一つも出さず、足の一歩も動かさずに事のすみしは、全く(36)ラ・ダム・ド・メ・パンセー(わが思いの貴婦)の一念が届いたものと殊勝さ限りなく感じた。後に聞くに、家にあって無事を念ずるよりはその近辺へ出かけて声援|否《いな》念援すべしとて、姉妹二人長途を馳せ来たり、御召艦の見ゆる浜辺に立って御召艦出立まで立ち続けおり、いよいよ煙立ち波湧き出すを見て帰宅の途に就いたとのことなり。
 八文字屋本の一つに、ある少年姿容心立て鶏群に超逸し、いろいろと言い騒がるるを迷惑して、行い正しき若い侍を尋ね、何とぞ兄分となり、この難儀より拯《すく》いたまえといいしに、一旦は謝絶せしが、よくよく迷惑の体を見るに忍びず承諾した上は、その少年に指一つささせず、ある時何かの場で言い出ずるものありしに、われに毛頭邪念なしとて茶碗を?み砕きし、それを見てこの人の言うところ至誠なりとて一同恐れ入ったというようなことありし。故馬場辰猪氏の話とて亡友に聞きしは、土佐では古ギリシアのある国々におけると一般、少年その盛りに向かうときは父兄や母が然るべき武士を見立てて、かの方の保護を頼みに行きし、それを引き受けた侍の性分如何によって、その少年は実に安心なものなりしという。和歌山というは武士道の男道のということなく、たまたまあったら、それは邪婬一点よりのことなりしが、武道男道の盛んな所では大概馬場氏がいわれし通りなりし由。ハラムが、中世騎士道盛んなりしとき、貴婦専念に口を借りて実は姦行多かりしといいしは然ることながら、終始みなまで姦行の口実のみだったら、そんな騎士道は世間を乱すもので一年もつづくものにあらず。
 予は今年は妻と何夜同臥したなどいうものなけれど、すでに子女を儲けた上は、夫妻しばしば同寝せしは知れておる。その通り年長の者が少年を頼まれて身命をかけて世話をやくぐらいのことは、武道(古ギリシアでは文道においても)の盛んなりし世には、夫妻同臥同様尋常普?のことと思う。これを浄の男道と申すなり。それを凡俗の人は別と致し、いやしくも読書して理義を解せるの人が一概にことごとく悪事穢行と罵り、不潔とか穢行とか非倫とかいうは、一半を解して他半を解せざるものというべし。小生数ならぬ身をもって、かつて一度も経験したことなき進講を事なく終えしは、むかし心安かりし者の妹が亡兄に代わって無事を専念しくれた力にこれ由ることと思う。陶全姜、(37)三好実休、これらは君を弑し、君夫人を辱しめた悖乱《はいらん》の徒なり。それすら二人討死の時、近臣小姓われもわれもと折り重なって戦死せること、テベスの常勝軍のごとし。弑逆の大罪なるは論ずるを俟たねど今の所論にあらず、かくまで臣僚の心を収攬した二人の、彼らに厚かつたところは買ってやらねばならぬと思う。
 貴状にかかることを調査し筆述するの不安を述ぶ。もっともなことなり。それと等しく、本状|陳《の》ぶるところも現下の世間へ洩らすべきにあらず。しかしながら、これほどの事実を身に経歴しながら全く黙してこの身と共に消滅せしむるも面白からず。よっていささか述ぶるところあり、書して人に聞かすべからざるところをも述べたり。無用のことに人を悩ましめざらんがために、貴下は当分(小生の命終わるまで)この状は貴下一人にてどうなさるも宜し、他見せしむるなからんことを望む。(たとえば本状中、かの兄弟六人の内一人を除きことごとく早世したことなどは、今日これを吹聴されては系統遺伝〔四字傍点〕等の外聞上、はなはだしく名声を傷つくることもあるべし。このこと特に御注意を乞う。本状に見ゆる人々は仮名を用いて記せんと思いしが、それでは戯作小説めきて自然信を置かれざるの惧れあり。よって猛省して少しも偽言を吐かぬしるしに本名を記したるなり。これひとえに貴下、貴下自身の事歴を隠さず陳べられしに、小生事歴を記するに仮名を用ゆるは不似合千万なことと思うをもってなり。)
 小生は貧乏にして諸知人の世話になり、研究費を集め出しもらい、妻子三人つねに重患の中にあって、六十五歳の頽齢をもって生物を研究しおれり。その間いろいろと来訪または問い合わさるる人多きも一切応ぜず。金銭|固《もと》より重しといえども頽齢の小生には時間ほど惜しまるるものはなきを知ればなり。冀《こいねがわ》くはこの上小生に時間を潰さしめざるよう、せめては本状だけは当分貴下一人の覧に止めおかれたく候。すでに夜も明けたれば、この状はこれで筆を措くべし。小生はこの状を書きたるがために、採集罎に三盃満ちたる菌耳を腐らせ了りたり。足悪きゆえ、また人に頼み指定の箇所へ採りにやるを要す。薗耳はまず五日ごとに生滅するものなれば、同じ菌耳は再び(今年中は)見るを得ざるもの多かるべし。しかる上はその写生は来年をまたざるべからず。ただし人と書面で事を論ずるには、そんなこと(38)にかまうては本意が届かぬものなり。故に決して決して小生はいささかの不満あるにあらず。この段は御安心を乞う。
 本状に認めしほどのことに気が付かず、また理解し得ざるようのことでは、とてもむかしの男道を解することはならず。テーンはその世の人となり、その世の世間に入って、その世の心をもってするにあらざれば、むかしのことを写出するは望むべからずと主張せり。一概に不潔とか非倫とか(男道すなわち真の友道は五倫の一たり)忌むべきとか穢らわしいとか非理とかいうて世俗に婚びるようでは、このことのみならず、何の研究も成らぬもので一生凡俗に随順してその口まねをするものなり。
 小生諸邦に流浪すること十五年に近かりし。学校などに入らず。(ロンドン大学の総長ジキンス氏非常に同情し、取り立てくれしゆえ、ロンドン大学には毎度出入せしも、学校教授をいささかも受けしことなし。ただジキンスの日本学上の著訳を校訂助言にゆきしなり。そのことは一九〇六年オクスフォード大学出板所刊行『日本古文』の序文でも分かり候。)ずいぶんいろいろと尋常日本人の見及ばぬ所にも立ち入り見及びし。西洋に遊びながら西洋の内情を観ざりし人の了見に間違いはなはだ多し。例せば、英国などに七、八十の老人が若い若い十七、八の娘を妻にすること少なからず。これをなにかきわめて腎張り好婬のようにいいあるくもの多し。大きな間違いなり。西洋の多くの国に養子の制なし。不幸にして早く妻に分かれ実子なき者は、見も知らぬ者が血がつづきありとて、にわかに大財産を政府より与えられ、悦んで発狂などすること多し。その者の悦びと反比例に、死んで財産が思いもよらぬものの手に落つる、その財産持ちの失意は察するに余りあり。死んでも安く死に切れぬなり。故に、そんな老人は孤児院等を視察して、いかにも素性宜しく、天稟利発ながら、不幸重なりて轍魚の涸水に喘ぐ様なるを見定め、これならばわが死後日に一度ぐらいは必ずわれを念じくるること疑いなしと思うものを妻と定め、つまり看病人介抱人のつもりで奉公させ、さて妻相当の遺産をその女にやり、実子ではないが、われを実の親のごとく身後いつも念じくるることと安心して瞑目するに候。それを知らずして、かかることを聞くごとに大助兵衛老爺などと新聞などに批評するは西洋の事情(39)に通ぜざるもはなはだし。瀕死の老翁にして少年を愛するも、実は猥褻でも何でもなく、その至誠を見ぬきて介抱人と立てる、さて財産の多分を譲るなり。
 御承知のごとく西洋に複姓多し。小生の知人に、サー・シスルトン・ダイヤーという人ありし。昨年八十四、五で死せしキューの王立植物園長で、小生もと農商務次官たりし前田正名氏をつれゆき饗応されたことあり。Thistleton《(甲)》-Dyer《(乙)》 という苗字なり、甲も乙も別々の苗字なり。松井南方《まついみなかた》のごとし。しかるに、今松井家の末主不幸にして子女なく、財産をそのままおきて頓死でもすれば、どこかの消防人足とか、どこかの軽業小屋の下足番とか、はなはだしきは下等淫肆の世話人(若い衆)とかが、わが五代前の先祖はかの富人の六代前の祖先の甥なりしなど訟え出る。寺の記録を見るとそれに相違なしとくると、政府は死人の遺産を幾分割り引きして、残りを死人生前何の面も知らざりし垢《あか》の他人以上なる下足番などにやるなり。まことに不人情なことで(この点日本人よりはずっと祖先崇拝、家系推重かも知れねど)、それを嫌う人々は生存中、他人ながらまことに自分によく尽しくれた者を見立て、『目本紀』などに見えた名代部《なしろべ》のごとく、自分の苗字をその者の苗字に加え、自分で実の系統は絶ゆるともせめては苗字だけは、後世へのこれとの執心より(日本ならば松井に南方を加え、中に挟まった二字を略して、松方《まつかた》とでもすべきところなれども、そんな気も付かぬか、旧風を守る一念よりか)、シスルトン(金を譲る人の苗字)を譲らるるものの苗字の前におき、今までダイヤー氏だった男が、シスルトン・ダイヤー氏を唱え、子孫永々その複苗字でおし通し、もってこの家は亡シスルトン氏の後をつぎしもの、ただし家の出所はダイヤー氏ということを明らかにするなり。シスルトン・ダイヤー氏の始祖は、何が気に入ってシスルトン氏より財産を享けしか知らねど、かようの複姓で通る家のうちには、少年が老翁の介抱などして気に入ってより身を起こせしものも多くあることと考うるなり。
  近く本邦の文筆に携わり学問を事とする人々の言動に、小生等若かりしときに比しても、また小生等欧州にありし間の欧州人の言動に比しても、さらに心得られぬこと多し。ただ一例を挙ぐれば、前日の『犯罪科学』に、某(40)氏が東京の公園に出であった串童《かんどう》や、ことに梨園子弟が婬を外人に提供する概況を記し(後に抗議出てひとまず編輯人が取り消せり)、さてその序引に、「本文は現時の串童売婬の状況を書いたもので、けだし活学問なり。埒もなき塵だらけの古書旧文を穿鑿して、面白くもなく、また分かりもしない冗言を陳べたるものと違う」という意味のことを初めに書き出しありし。かつて森?外か誰かが『大阪毎日』か何かへ一文を出せしに、社内の誰かが?外の件《くだん》の文は取るに足らぬという意味の、駁文でなくて厭味《いやみ》を述べたことあり。貴下の文も?外の文も、すぐさま飛んで来て紙面に現われしものにあらず、必ずや編輯人が左右詮衡して、これは十分理由の立った文として初めて印刷公示するなり。しかるに、同社友にして同紙へ文を掲ぐるものが、何の利害もなきに、これを出すに足らざるものとか、取るに足らぬものとか毀《そし》るは、その人なにか筆者に私怨でもあってこれを泄《も》らすならん。しかして最初貴下や?外の文を認是して掲載せし編輯者が、次にまたその文を毀れる文を出して平気でいるは、前日自分がこれを掲載せしときの判断は不全不良なりしとみずから暴露するものに外ならず。何たる誤謬を指摘し、何たる理由を明言せずして、ただ彼の書くことはつまらぬ、彼の説は取るに足らずなどいうは、単に人の所為を猜《そね》む小児の意地に御座候。編輯者は寄書を掲載することの可否を判断する任に当たるものなれば、第一の文を掲載した上は、何たる理由を示さず誤謬を指さずしてこれを毀るような文を出さぬが分かり切った徳義と存じ候。小生知るところ、かような文を両《ふたつ》ながら掲載するような編輯人は欧米では見及ばざりし。しかして、昨今の邦人はそんなことは何でも宜しく、甲文を読むときは甲の心、乙の文を読むときは乙の心で、何たる判断を煩わさざる者至って多きように御座候。
 小生は外国にありしときはずいぶん重く用いられたることあり。大英博物館など読書室や研究室に入るには少なくとも七日前に届出を要せしが、小生の紹介があれば規則は規則ながら、特に日本人の旅費滞留賓を節するために即日より入り得るの便宜を与えられたり。只今傲然として社会に立ち小生等には一顧を与えぬ人士にして、小生の口添え(41)でこの便宜を得たる人少なからず。しかるに、自分一向外面を繕わず、学校に入らず、学位を取らずに帰朝せしゆえ、小生の弟などは小生を畜生扱いなり。また小生は金銭のことは今に至るまで一向関知せず、年中裸でおる。それを奇貨として、小生の実印を預かりあるに乗じ、小生の知らぬ間に亡父の遺産をことごとく自分の物に書き換えあり。故にただ一人の悴は小生が頓死でもすると、この宅は取り上げられ、住所もなければ金銭もなくなる。いかにして母(小生の妻)を養うべきやに心配して、折から(六年前)高中受験に土佐へ渡る船中で精神病を発し、今に好報なし。特別監護人をおくゆえ、月々七十円また八十円送らざるべからず。まさか生物学の研究費から盗み出すわけにも行かず、つまるところ六十五歳の小生が眠る時間を減じて研究の外に翻訳の通信教授のということをして悴の入院費を拵えざるべからず。ずいぶん昼夜骨が砕け申すなり。世はさまざまなり。骨肉、しかも同父同母の弟にして、かかることを仕向け、小生が家内病人だらけなるに、夫妻して長唄の稽古なんどで日を暮らす者もあれば、見ず知らずの人にして小生の拙文に感じ入り、わずかな腰弁取りの身をもって三十円(この人の月俸の半分)を研究費に送られたる人もあり。一介の水兵にして日給五十銭を蓄えて十円贈られし人もあるなり。ことには九重の深きに渡らせたまう尊勝にして、この僻地いまだ汽車もなき僻邑にある小生を召せられ、親しく進講を聴《ゆる》させたまいしは、人間の栄耀これにましたる面目はなしと、みずから恐懼また感悦致すなり。進講済みてのち、旧知加藤寛治大将(当時の海軍軍令部長)控え室へ来たり賀せられ、いろいろと在英の時のことどもを談ぜり。その後、東京より送り越されたる書面に(昭和四年十二月六日出)、
  過日は久方振り拝姿、相変わらず神気満身の御風格にて御研究に超越遊ばせられ感動致し候。その後もたびたび貴下の御噂宮中に出で皆々景慕致しおられ候。小生も今一度貴地に遊び、大自然の美と幽とを味わい、かつ奔放不羈なる大人と快談の幸を得たく切望罷り在り候(下略)。
 また御召艦にて同大将の直話に、誰様なりしか、しかと御名前は承らず、右の山田家に二泊せしときの歌句どもを(42)書いて同大将に贈りし状をそのまま御覧に入れしに、洵《まこと》に面白いが難読極まると仰せられたとて一笑され候。
 貴下もし今の世にも果たして浄の男道の一例だもあらば示せと仰せらるるなら、小生身すなわちその一例なりとあえて言わんがために永々とこの状を走り書き候。小生はまことに書が下手にて、自分にもこの状は読みかね申し候。しかし、これまた修飾せず改竄せず走り書きのまま差し上げしところが実事譚なるに候。
 神島という島に御臨幸、小生拝謁せし地点に諸友の出資にて六百円ばかりで大坂の名工に彫らせた碑、高さ一丈三尺ばかりを建て候。
     昭和天皇臨幸之聖蹟
  一枝も心してふけ沖津風
  わが大君《〔ママ〕》のめでましし森ぞ
     昭和五年六月一日      南方熊楠謹詠并書
 右の拙詠は佐々木信綱先生に見て戴けり。
  吹く風も心してふけここはしもわが大君の……
と直されたるも、小生は、それは歌の稽古のためには謹言拝受し、碑石へは件の拙詠を筆し候。拙筆ゆえ右に申す川島草堂に字割を六時間もかかりて施しもらい、さて一筆に書き成し候。平生とかわり御稜威によりてまずは無難に出来上がり申し候。
 終りに申す。山田妻の第四兄は昭和四年の一月八日に小生山田方を辞し田辺へ帰りしが最終の相見にて、その歳の十一月十六日早朝、小生自宅の二階に眠りおりしに、ふと目を開きみれば電燈と小生の眼のあいだに黙して立ちあり。小生は深山などに独居し、また人殺しのありし宿にとまりなどして、かようの幻像を見ることたびたびあり(年老いてははなはだ稀《まれ》なり。これは九年来酒を全く止めしによるか)、一向何とも驚かず、眼を閉じて心を静め、また開く(43)に依然あり。かくのごとく数回して消失、小生はまた眠り候。前後より推すに午前四時ごろなりし。さて、ちょっと一眠りして午前五時に起き、かの幻像のことは洗うたごとく忘失して検鏡にかかる。午後一時ごろ、宅地の安藤みかん(この田辺特有の大果を結ぶみかん、拙第に大木比類なきもの三株あり、はなはだ西洋人の嗜好に合えるみかんなり)の辺が喧しきゆえ、走り行ってみると、長屋におる人々と小生方の下女がその木に登り果実を取り収めおる。よって今朝早く見たる幻像のことを思い出し、一木箱にそれを十九個入れ、午後二時過ぎ、山田方へ送り、その妻の第四兄へ転致せしめたり。(二月ほど前より何病と聞かず、病気にて山田方へ移り療養中と申し来たりありしなり。この人は去年妻に死なれ家に人なきゆえ、妹の夫方へ移り介抱されおりしなり。)
 それより鏡険を続くるうち、午後三時四十分山田妻が出せし電報が四時に到著、ハヤマケフシキヨスノブヱ《(羽山今日死去借恵)》、とありたり。今日死去とばかりあって何時に死去か知れず、山田方は混雑なるべLと思い打ちやりおき、山田の従兄(上に出でたるごとく、妻木師に小生塩屋村へ来たれりと衆中で告げた人)へ問い状を出せしに、十六日の午後〇時三十分、先日小生が一度忘れありし幻像を思い出して家人が取りいたる蜜柑十九個を荷作りして差し出すべく指揮したる時死去せしなり。
 故に変態心理学者がよくいうごとき幻像 wraith《レース》(羽後由利辺にはスコットランド同様このことほとんど普通にて幽魂という。人死する時に幽魂現われざれば、その人は情義薄き借切《しんせつ》げのなきものと嘲笑さるる由。スコットランドの諸地方の凡衆も今にさよう信ずるもの多し)はその人臨終に現わるるものならず。臨終には自分の生命さえとり留め得ぬに、いかにして他処まで推参するの力あらんや。人のまさに死なんとする前に、もはや覚悟をきわめて、平生や旧時の交友などのことを静思する。その際その思いが池に石を抛げて渦紋を生ずるごとく四方へ弘がり、もはや遠くひろがりて影を留めざるに至り、そこに受動に適せる葦の一本もあらんか、一旦ほとんど消滅せる渦紋がまたそれによって強く現出するごとく、かかる力を受くるに適せる脳の持ち主に達してたちまち現出することかと存じ候。ラジ(44)オに似たることなり。ただし、たびたび人つねに見るを得るものならねば、この上多くの実験を要し、また不偏頗なる、その即座の記載を要す。小生はかかることを少しも信ずるものにあらず。しかし、研究材料としてかかるものを見るごとに記録しおくなり。
 もし一派の変態心理学者のいうごとく、死ぬる前に思いつめるとその一念が種々の象徴となりて思いつめられた人の前に現ずるとするときは、その死人は平生|好悪《すききらい》共にきわめてその人を思い込んだものといわざるべからず。小生がかの亡兄二人をよほど思い込み、今もたびたび座右に現ずるを見るごとく(上述ごとく小生と山田妻と四十四年前に生まれて一時間ならぬうちに別れ、四十四年後に再会せしとき、小生の座右によくも覚えぬ二兄が座しおると見えるとて泣きしなど)、この兄弟姉妹はみな小生を肉身の兄以上に思いこみあるものと断ぜざるを得ず。五倫の一なる友道友愛とはかくのごとくにして初めてその名に叶うものと惟う。(女と男の差別ごときは問うを要せず。)(変態心理学者のある者は、最愛の犬や馬や猫にもかかる幻像を出すことありという。)
 貴下等は、小生がかかるへんなことを、かく長文に綴りて肝心の菌の写生を懈《おこた》り、おびただしき時間と力を空費せしを笑うかも知れず。貴下等門外漢にそんなに軽笑さるるほどのつまらぬことを、かく何の必要もなきに多大の紙筆時間を費やして書くところが小生が友愛に厚きなり。それを笑う人は自分がそんな目にあいしことなく、そんなことを聞いても何をも感ぜざるによる。男女が心中死したと聞いて検死の人にその性具の大小を問うたり、水死の女を救い上げて活《かつ》を入れ気付け薬を与うる前に、急ぎその胯間を覗くようなものなり。故ハーバート・スペンサーいわく、橋上を通りてたまたま小児が川に落ちたるをみて惨タ《さんてき》の念を起こさぬものはなし、ただしすぐさま飛び込んで救いにかかるものは百人に一人ならん、さてその一人を叩いて履歴を問い見よ、必ず目分かって水に溺れたことあるか、もしくはその父兄姉妹が水死せし者なるべし、とはもつとも千万な言と存じ候。
 まずはこんな事情ゆえ、これほどの経歴ありこれほどの自信ある人にあらざれは、数百年前の男道を小説に作るな(45)どいうことは至難のわざにて、例のハースー式の枕本の書き割りまがいの物の外は出来べからすと存じ候。もし浄き男道のことを書かんとならば、古ギリシアの関係文章を熟読し、また本邦の武士道の書どもを考察して後にかからるべし。酒井潔とか梅原某のごとく、ただこれを一条の娯楽淫戯としてかからば、男女関係に似て、しかも畸形不具極まるものの外は、どうもがいても出来ざるべし。
 小生近ごろ眼も手も十年以前ほどにきかず。こんな長き状を書くは、これが終り初物なるべし。貴下の辛抱強くかのことを調査するをわが身の若き時に引きくらべて感激するのあまり、不束《ふつつか》ながらこの長文を認めたるなり。只今十一時ごろなるべし。この状を書くうちもいろいろと俗事紛出、いわゆる座暖まらざるの歎あり。そのうち今朝七時半に件の山田妻より七十日ぶりに一状来る。第四女病気にて切断を要し和歌山市に上りあり、旅舎より出せし状なり。その筆と文の巧みなる、田舎にもこんな才媛淑女があるかと驚かるる。茶、花、絃歌、舞踊、みな一通り心得、平生深くみずから韜晦しおるほど奥ゆかしき女なり。鉛筆で走り書の末にほんの走り書きの二首あり。成っておるかおらぬかは、小生判じ得ざるも、亡兄どもを常に懐うの情の濃きを見るに十分なり。(この歌は分からぬ字大分あればこれは写すことを見合わせ候。)下女が昼飯を促しに来たから(小生箸を下ろさずば、この輩食事にかかり得ず)、いよいよこれにて擱筆仕り候。
 貴下御不審の五十条とか、略書して送り越されなば、詳しいことは答うる暇なかるべきも、せめてはなきにまさるほどの返事を申し上ぐべく候。しかし、近来いろいろの問を出し来たり低頭平身の体《てい》で望まるるから、できるだけ要領を得た返事をすると、それっきり何とか博士何とか教授より得るところ多かりしを鳴謝すとあって、小生よりの返事を満載しながら(ただし文章文体は変革して)、小生には一言も挨拶の由を載せざるもの多し。(欧米にもそんなのがはなはだ多くなり来たりし。世界一同の不人気と見えたり。)それではつまらず。        早々不宣
 
(46)          2
 
 昭和六年八月二十五日午前十時半
   岩田準一様                                          南方熊楠
 
 拝復。二十四日朝出御状、今朝七時四十五分拝受。小生きわめて多用にて只今ようやく拝読。『犯罪科学』の「女形行状記」の序言の言に付いての拙評を田中氏の雑誌へ出さんとの御相談は、これ累《わずらい》を人に嫁せんとするものにして、貴下としてははなはだ不似合いな卑劣事と存ぜられ候。小生は今井謹吾氏を知らねども、何の怨みも恩もなし。ただ自分が書いたものを出板しおきながら、その傍らに他人が自分の書いたものをつまらぬものと評せし文を、同じ編輯者が同じ雑誌に掲載するごときは、その編輯者が自分の不明を表白し、その雑誌の信をおくに足らざるものたるを露わすようなもの、と貴下へ申し上げたるまでなり。すなわち小生だったらそんなものへ自分の考文を出し続けぬつもりなり。学会の報告などいうものとかわり、坊間の雑誌は営利を目的とするものなれば、すでに読むに足らずと一、二人よりすら評されたものを垢《はじ》を忍んでそれへ掲載しもらうは、知りつつその雑誌へ損毛《そんもう》をかけるものに候。小生ならば、この理由をもって直ちに続掲を見合わせもらうつもりなり。このことを貴下へ申し上げたるまでにて、この上、知らぬ今井謹吾氏に恨まるることを望まず候。しかるに、貴下この私書を公示されんとならば、そは自分のいうべきことを小生に托するものにして、はなはだ不徳義なことと存じ候。小生が貴下だったら、斜二無二《しやにむに》一書を『犯罪科学』におくり、すでに一人よりなりとも、かかる批難批評をきく上は、そんなつまらぬものを続載しもらうたところが、断わられた芝居へ無理推しに楽屋入りをさせもらうようで双方面白からずとの理由で、掲載続刊をやめもらうはずに候。
(47) 貴状に直江は謙信に寵せられたごとく見ゆるも、直江は景勝に寵幸されたるに候。謙信存生のころは直江は小児たりしことと存じ候。『藩翰譜』の上杉譜など見れば明らかに知れ申し候。謙信の寵愛で大用されたるは、たしか岩井某(丹波守?)と申し候。これも勇将なりしが、後に敗死せしと記臆致し候。
 貴下は性慾上の男色のことを説きたる書のみ読みて、古ギリシア、ペルシア、アラビア、支那、また本邦の心霊上の友道のことはあまり知らぬらしく察せられ候。しかるときは、ただただつまらぬ新聞雑報などに気をもみ心を労して何の安んずるところなく、まことに卑穢賤陋な脳髄の持ち主となりて煩死さるべし。何とぞ今少し心を清浄にもち、古ギリシアの哲学書などに就き、精究とまでなくとも一斑でも窺われんことを望み上げ候。
 神巫ジオチマの口を仮りて美の骨髄を説けるなど、その謂うところは少しも女の美をいえるにあらず、男子の美に限ったことに候。仏教に文殊大士を称讃せるがごとし。それを知らずに女色にプラトニク愛などいうは、紅葉館で西洋料理を馳走されたとか、阿羅漢が天に生まれたとかいう類で、噴飯の至りなり。本邦にありふれたいわゆる哲学者などは比々こんな皮かぶりなり。
 貴状に見ゆる魚商云々等のことは、精神病学上のことで、無上愛とか、真正愛とかいう幽玄高尚なことにあらず。そんなことを知りたくば昨今密輸入の淫本などにおびただしくあることと存じ候。
 御申し越しの田中香涯は、独立奮闘して医学を成せし人なるに似ず、人の書いたものを剽窃することが至って私徳を創つけ申し候。御示しの『続門葉集』序の児店云々は、小生が二十年ばかり前、『日本及日本人』で指摘せしことに候。ほかに『今昔物語』二六の第五語に、継母がその子を人に托して拐去殺害せしめ、夫(その子の父にて年老いたり)を欺く詞に、(こんな美しき)児《ちご》を敵と思いて殺さんと思うて殺す人やはあるべき、ただ児の様の厳《いつく》しかりつれば、京に上る人などの法師に取らせんなど思いて取りて逃げにけるにや、穴《あな》悲しとも悲しやと言いつづけて音《こえ》を挙げて泣くこと限りなし、とあり。これは平安王朝の中ごろすでに児を拐去して僧に売り与うるものありし証な(48)りということをも指摘したるに、これらも剽窃しあり。(また支那より乾隆帝のとき露国に入りし使節が女皇に嬖せられしことも小生書きしを剽窃しあり。)他の博士とか教授とかいう輩とちがい(芳賀矢一は、尊上春宮にましませしときの講師たりし。この者、竹生島代々の神官の子にして正直をむねとすべきに、小生が『郷土研究』に連載せし「今昔物語考」を無断また何の礼を述べずに、その『参考今昔物語』に丸とりしあり)、田中氏ごときはずいぶん独立自修して成りし偉人なるに、人の説を剽窃するなどははなはだ本人のために取らぬところに御座候。多くの男女に思いつかれんとならば(蘇東坡などは五、六十を過ぎてなお十六歳の地位ある人の娘に思いつかれ候)、貴下なども不正直なことはもっとも慎まれたきことなり。愛道で天下を経綸せんなど広言を吐くも、実は人々みな浄変を普張して衆人の和楽を致さんとての外に致し方はなきことに候。紙がなくなつたから、これで擱筆致し候。                  早々敬具
 小生は、貴下の問はなにか哲学上のことかと思いおりたり。しかるに右様の書籍上の些末瑣細なことならば、小生は老いて記臆も十分ならず、一々書籍を調ぶるの暇なく候。
   生まれきてやがて別れしその女《め》の児《こ》六人《むたり》の母のけふを見んとは
 これは前状小生四十四年めにあいし婦人のことを聞きて白井光太郎博士の詠なり。
 
          3
 
 昭和六年八月三十一日午後二時半
   岩田準一様                                         南方熊楠再拝
 拝復。八月二十七日午後三時出御状、一昨二十九日朝八時半拝受致し候。小生は拙状により男風に浄と不浄あることを貴下が十分|御別《おわか》りになりしことを悦び申し候。
(49) 貴書に容貌とか年齢とかのことあれども、これはこのことにさまで関係なきことに御座候。今日このことの大いに行なわるる北|阿《アフリカ》(アルゼリア、エジプト等)などには、年などかまわず(髭などはことごとく抜きとり生えざらしむるから、そのほか婦女とまるで別ち得ぬ装いをなすから、また中には後庭廓大して牝戸とかわらず、吉舌《さね》まで生ぜしもあるなり)(支那でも宦者にして年老ゆるまで婦妾同然につとめ、死して妻妾同前に夫の墓に合葬されしものあり)、またいわゆる人は面《めん》より床《とこ》上手で、黒人の体内熱し、肌膚柔軟にして思うままに曲取りをさせるものなどは、顔貌の奇醜なればなるほど反って高価で求められ鍾愛さるるもの多し。トルコ、支那、ことに古ローマ帝国、ペルシア、インドその他に、妻妾ある男にして男色をもって進みしもの多し。これは小児とちがい、すでに妻妾に接していわゆる閨情と閨術が熟煉を積み、面白さ限りなければなり。(仏人タヴェルニエーが十七世紀にペルシアに遊びしとき、妻ある男が男色を強いられ拒んで殺されたるをその妻が仇討ちせしことあり。小説ながら日本にも同じ例あり。)
 日本には宮《きゆう》ということなかりしかども、小生高野山に明治十五年ごろまで上りしとき、しばしばそのころ生存せし小姓たちの老人より聞きしは、小姓はその室にあるときは、いずれも三角にしたビロウド製の小蒲団を紐付けにして両腿のつけねに縛り付けて、前陰を緊括しおし付くる(欧州にも然り。ために前陰萎縮して用をなさざるあり)、さて前からするが作法なり、いずれも婦女同然|二布《ふたの》をしたるゆえ、動作女子と同然たりし、と。故に両乳房の外は男色専門の小姓や売即は婦女とかわつたことなく、チゴ、二才《にさい》(高野では似妻《にさい》と書きし由)、納所《なつしよ》と、ちょうど娘、新造、年増というように装いはかわるのみ。妻妾とかわることなかりしなり。明治二十年ごろまでは、高野の寺坊より毎年住僧と納所と打ちつれ、拙宅などへ挨拶に来たりし。まるでカミサンという体なりし。(その僧は今は高僧となり安芸の宮島の大寺に隠居し、大悟せしと見え、何とか女史という文人画で大金を儲くる女を妻としおる。)中には若衆後家と唱え、住僧をさせ殺し跡式を握っていわゆる僧の若い燕を蓄え、檀家をこまらせしもありしようなり。
 足利時代の小説『岩清水物語』に、自分より五歳上の女を犯し(この女のち皇后となる)、自分に妻子ある常陸介(50)が時の関白かなにかの世子に愛幸さるることあり。その時代にまるでなきことを書いたところが一向読まれぬはずなれば、そんなものが多かりしと存じ候。その男を愛幸したる人の詞に、この男を愛染明王のごとしとほめあり。愛染明王は古ギリシアの愛神エロス(エロなどいう語の起り)に相当する神にて、もとは男色を司れり。彫工の名人にして、自分丹誠を凝らして彫り上げたるエロス神像を座右におき、自分の配偶同前にながめ愛して終わりしものなり。ただし、愛染明王はエロスよりは至って勇猛の姿なり。左様の神に比べたところをみると、足利時代の愛童は主としてゆゆしきを尚びしことと知らる。(足利ごろの日記に、チゴ喝食にして人を殺せしもの少なからず。後代、寛文・天和ごろの男伊達に大若衆多きごとし。)
 小生、明治十九年、川田甕江先生の婿杉山令吉氏(三郊と號す、美濃大垣の人なり。現在す)と同船して渡米せり。この人よく自分の妻と閨中の趣きを人に話してみずから悦べり。常陸生れで岡野栄太郎という人(その父は寛と申し、鳩山秀夫氏の門下にて当時政治演舌に名高かりし人なり)、毎々小生に語りて、ずいぶん世間は見たが杉山ごとく自分の妻ののろけをいう者はかつて見たことなし、といえり。キプリングの詩にもあるごとく、夫妻協融して琴瑟相和すというも実はかのことの面白きの一に帰す。東漢の光武帝が、何とかいう賢臣が家にあってその妻のために眉を描きやりしという風評をきき、賢人に似合わぬことといいしに、その人言下に閨扉の内さらにこれよりはなはだしきものありといいしに、光武帝大いに感心せりと申す。どど一に「親にもいはれぬ夢を見た」で、父母にも見せぬ所を見せる。ただし、夫の外の人に見せぬを貞淑の模範とするなり。されば夫妻同然に和融する念者と若衆の私語や私行の奥所に至っては二人の外に知るべきにあらねば、知りたしと思うがすなわち邪念に候。笑本淫画に描くところは必竟《ひつきよう》売買婬の外に出でず、真の念契とは大いにかわることなり。むかしのいわゆる家風正しかりし大名?紳には、夫妻でいながら交会の時期が定まりしものあり。はなはだしきは一生相別居せしもあり。それより推して、念契にも相敬し相愛するを究竟《くきよう》として、少しも邪念を生ぜず、邪為なかりしも多しと存じ候。
(51) 前日中山氏へ贈り、それより貴下へ転致せし状に申し上げたる英国の文豪シモンズは、自分婦女のことで苦労し物語も多き人なるが、男道は倫理上少しも咎むべきことにあらずと主張し、私費で番号を付けたる二著を出し、小生も現にもちあり。その内にいろいろとその方の名人に問い合わせしに、後庭犯などは真の念契になきことなり、まずは抱擁ぐらいが感極まったときの所為の頂上なり、とあり。三田村玄竜氏のみずから書いたものに、むかし女郎買いに之《ゆ》きて身ままになるものとは知りながら気の毒で犯す気など出なんだとあり、まずは知言と存じ候。しかして、その実際の内秘を知らんとするは、ちょうど貴公は昨夜貴妻と何番したかとか、妻君がよがつたかと聞き合わすようなもので、瓢金《ひようきん》な人はそれ相応にいろいろと返事を合わすべきが、それは一種の狂言綺語で信をおくに足らぬもの多々ならん。
 仏在世を去ることおよそ百年のころに編したる『四阿含経』に天子(天童というもの)が夜分諸羅漢の室に下り、法を聴き、また偈を説くことあり。その天子の相好によりて、仏神混成の後、本邦に諸王子(若一王子等)の崇拝大いに起こりしことと存じ候。これがいわゆる一児二山王「われならぬ人にもかくや契るらんと忍ぶに付けて袖ぞぬれける」で、男道の根本となりしことと存じ候。故にこのことをしらべんには、まず例の文殊師利童子から叡山等の諸童子、熊野の諸王子等の画像、彫像からしらべにゃならぬ。
 とにかく貴下は浄不浄のことを常に忘れず、なおよくよく御精査ありたし。「仏法の大海は、信《しん》を能入《のうにゆう》と為す」と申し、何ごとをするにも信の一念が大事にて、あたまから茶かして掛かつては深いことは知れず候。
 おいおい秋気分になり、菌類の写生ますます忙しくなるから、右のみちょっと申し上げ候。                        敬具
  小生足が神経痛にて、坐しおらばますます悪くなる。故に、この状などは椽先に紙をおき、立って書きしなり。
  筆をとるにはなはだ骨が折れる。また足痛むゆえ、いろいろと書籍を引き出すこと成らず、記臆のまま走り書き致し候。
(52)  福本日南は小生知人なり。『大毎』へ日南が小生の伝を面白く書きて出せしことあり。また長歌を面白く作りて送り来たせしことあり。まことに鬼才にて、筆力の勁健なりし人なり。しかし、自説をおし通さんため事実を枉《ま》ぐること多かりし人なり。
  貴書によって、直江兼続の謙信に愛されしと書きたるを初めて知り及び候。これは大謬りにて、直江はもと柴かりの子なり。それを景勝が見出だし、鍾愛して三十万石まで与えしなり。(当時陪臣にして無類の大禄なり。)謙信の世を去ること遠からずして書きしものに謙信が直江を用いしこと見えず。
 
          4
 
 昭和六年九月七日朝三時半認
   岩田準一様                                         南方熊楠再拝
 拝啓。二日出御状は四日午後一時拝受致し候。その翌五日の午後、小生知人にて、郵便配達人をつとめしこと年あり、そのかたわらいろいろと苦学して東京の諸雑誌へ寄書し、また当地方のこと等に付いて著述を東京で出しなどする人が来たり、奇妙な物ありとて出すを見れば、十月号の『犯罪科学』なり。その第八三頁に貴下が『犬菟玖波集』の連句の引きようが、まるで意味をなしおらぬとのことなり。
 よって小生自蔵の同集を出し引き合わせみると、まことに意味がつづきおらぬものあり。
    及ばぬ恋をするぞをかしき
  われよりも大若衆にだき付きて
(53)   内は赤くて外はまっ黒 \これは男色の
  しらねども女のもてる物に似て/ことにあらず
    首をのべたる曙の空
  きぬぎぬに大若衆の口吸ひて
    屏風ごしなる恋は届かず   \これも男色の
  きくやいかにつがひつがひの恨み言/ことにあらず
 上のごとくに引くが正しく、意味もよく分かり候。貴下のごとき引き様では意味をなさぬこと多し。
 同集に、
    花のころつまれむしられいかにせん
  すみれまじりの野べのほほ髯
    雲雀なく声に大ちご打ち出でて
 これいわゆる大若衆にて、美童の年増、煩に髯生えおりしなり。
 また八二頁、『狂言記』の「老武者」を「他愛のなき話」とあるが、そのころの人情としては決して他愛のなき咄にあらず。ギリシアの諸聖が集まりし所へ少年カルミニツスが入り来ると、一同その美に感を打たれて談論中止することあり。また七、八十の老哲学者が臨終に然るべき美童の介抱で死にたしと、一生の一大事のごとくまじめに述ぶることあり。大正初年ごろの『大毎』紙に、そのころに生存せし薩摩武士が、維新のとき明治天皇江戸へ徙《うつ》らせたまいし供奉の輩(薩摩武士)が、「及びないぞえお菊さま」という唄を盛んに唱いしということあり。小生、明治三十年ロンドンにて惣領事の荒川巳治氏を訪いしに、氏の話に、関ヶ原で討死せし島津豊久はなかなかの美少年なりし、朝鮮にて大決戦ありし前に武士を一々その前によび出して盃をやりしに、おのおの一期の思い出なりとて大いに勇み討(54)死を事ともせざりし由。有名なる高遠の城攻めのとき、仁科盛信(このとき十八歳とも十九歳とも二十五歳ともいう。いわゆる大若衆なり)を平生慕いし小山田昌行が、敗死と知りながら城へ加勢に入り、切って出て敵を靡けたので、盛信その志を感じ盃をとりかわせしを、平生の念全く遂げたりと感喜して共に自殺せり。小説ながら『三河雀』にはなかなかうまくかきなしあり(死後鴛鴦となり池に双《なら》び游《およ》ぐなど)。これらはいずれもそのころの風俗でも人情でもあり、西洋にいわゆるガラントリー、チヴァルリーに似たことで(顔をみたこともなき婦人のために敵を伐ちに廻国するなど)、決して「他愛のなき」ことにあらず。古ローマの半男女帝エラガバルスなどつまらぬ人物ながら、その美貌を仰いで車士一斉にその事を挙ぐるに与《くみ》し、旬日にして天下をとらせしなり。
 貴下は書籍をしらぶるになるべくその世に近くできたものを見られたく候。戦国ごろのことは戦国時代を去ること遠からぬ世の筆に就いて見られたく候。後世儒者などの書いたものにはいろいろと儒教の意味をこじつけあるゆえ、あてにならぬこと多し。近ごろの人の書いたものには矯飾多し。福本日南の書いたものに、もと東京で小生を知り合いなりしが、一向つまらぬものと思いおりたりしが、大英博物館で訪いしときは大学者となりもてはやされおりたり、と書きあり。福本は実はロンドンへ来るまでは小生のことは知らざりしなり。小生は米国へ同航せし小倉松夫という鳥取県人(エール大学卒業して帰朝後数年ならずして死せり)より福本のことを伝聞し、また杉浦重剛氏が福本に旨を授けてフィリッピン島経略のことを書かせたることあるを知りおれり。ロンドンにて大英博物館へ訪われしときは、孫逸仙のことで用事あり。福本は英語はできぬゆえ、岡部次郎氏(海軍参政官か何かになり死せり)通弁であいに来たりしなり。そのとき始めて知人となりしにて、決して小生在東京中よりの知人にあらず。舞文のためには事実の前後をくり合わすほどのことは、近来の日本人は何とも思わぬらしく候。そんな根性で古史を論じなどすると辻棲合わぬこと多し。
 細川政元のとき薬師寺(与一とかいいし)という武士、切腹するときの詠に、「冥途にはよき若衆のありければ思ひ(55)たちけり死出の旅路に」。死にぎわまで、抽象的に若衆を念ぜしなり。古ギリシアなどに例多きが、日本にこんな例はあまり見ず。(文献に見ざるなり。実際は多々ありしことと存じ候。)またその後、高国等、細川両家の騒ぎのとき、高柳某というもの念友柳本弾正に秘密を打ちあけちれながら従わず、引き分かれて主人方の先陣にすすみ、柳本の軍勢と戦うて切死せしことあり。また後年、芦名と佐竹と念契をつづけながら、戦場でしのぎをけずり戦いしことあり。これらは道義学上大きな問題として研究すべきことで、申さば米国などに夫と妻と選挙演説に相攻撃して余力をのこさず、さて家へ帰れば何の滞りなく夫妻和諧しおるようなものなり。(高柳のことは、『史記』列伝の伍子胥がわれ必ず楚を亡ぼさんと言いしに、申包胥はわれ必ず楚を存せんと誓いしごとし。)
 この男道とまた女郎の道徳とは特異の発達をなしたるものにて、その当時のその人の身になって十分考察すべきことなり。決して穢らわしき下等なことと一笑し去るべきにあらず。今日の?《わず》かな金に説をまげる博士とか政客とかいうものは、ために慙死すべきことなり。
 お尋ねに付き、ちょっと申し上ぐるは、小生は四十歳で妻を娶るまでは色事ということはなかりし。手淫ぐらいはせしことあるも、元来非常に勝ち気の強き男にて人にまけまじとのみ心がけたるゆえ、舎利弗尊者のごとく一度思いかけたことを止めず、かついろいろのことを学びにかかりしゆえ、多端多岐にて学事の外に何ごとも念頭におかざりし。書籍は金銭に常貧なると反比例に多く貯えあり。いろいろと不幸な目にあい人手に渡せしもの多きも、諸友の助力により書籍にはあまり事かかず、かつ筆が人より速いゆえ、おびただしく写し抄しあり。小生へ教えられたることはいかなる人なりともその人の名を添えて書くゆえ、雑誌などよみてその雑誌へ投書するよりも小生へ通知さるること多し。しかして小生は人の名を出すことを、自分の名を出すよりも悦ぶべきことと心得おるなり。
 巻き紙がこれだけで尽きたから右だけ申し上げ候。           敬具
 
(56)          5
 
 昭和六年九月十二日早朝四時認
   岩田準一様                                         南方熊楠再拝
 拝復。九月九日出御状、咋朝八時拝受。小生いろいろ用事多く、それより眠らずに只今まで仕事致し了りて、御状拝誦、只今この状を認め差し出してのちちょっと眠るべく候。
 芭蕉の同性愛ということ、小生は俳人の伝記には一向疎くてその方の文献を多く持たぬことに候が、これはいささかも証拠のあることなりや。はなはだ疑わしく存ぜられ候。謝肇  渦の『五雑俎』に、六朝のころ男色の盛んになりしことをいうて、『世説』等に人物を評するに必ずその風采を述べあるということあり。いかにも六朝の史書を見るに、風采の品評に渉れる語句多し。しかし、たしかに男色を行ないしと見るべきような叙事とてはわずかに(小生の知るところ)五件ほどに過ぎず候。故に風采のことを述べたるばかりでは、いわゆる浄の男道の好尚ありしというまでにて、果たして男男交会せしという証拠にはならず候。それと等しく、徳川中期までの俳人に少年男子の風采をめでたる句などあればとて、その人必ずしもその少年男子を犯せし証左とはなりがたしと存じ候。
 貴下、後日貴著を再出さるるようなことあらば、田中祐吉(香涯)氏をオーソリチーに引く前に、せめて大正初年より近年に至る間の『日本及日本人』雑誌や『彗星』や鳶魚氏等の『一代男輪講』や『一代女輪講』(各単行本)ぐらいは通覧されんことを望む。小生は今は忘れたるも、『細々要記』に若衆なる語が出でおるということも、たしか田中氏より先に公言した人ありしようなり。(小生自身かと思えど、只今証拠を挙げ得ず。ただしそれらの刊行物はみなこの書斎の押入れにあり。自分の書いたものだけは毎冊の表記に書き出しあり。それを只今見ることはすこぶる手(57)数なり。)そのうち通覧して何號何頁何欄何行にあるということを申し上ぐべし。多くの人の見たものゆえ、小生が黙しおりても誰かよりゆくゆくは御耳に入ることと存じ候。
 中山太郎氏は小生毎度いろいろ世話になる人なり。しかしながら、この人は多忙の人ゆえ、いろいろと氏得意のカード調べに間違い多し。氏の書いたことには出処の沙汰はなはだおろそかなり。近日小生用事ありて家宣将軍の寵女右京の方(氏は右近と誤記しあり)が夫と子を先立ててのち吉宗将軍に愛されたということを書くに、なにか出処をたしかめんと思い、中山氏の『婚姻史』をみしに、このことの『続三王外記』 に出であるよう記しあり。小生若きときも和歌山で左様に告げられた一友ありし。よって念のため夜中倉より『続三王外記』(また念のために『三王外記』をも)を取り出し、反覆通覧せしも一向そんなこと見えず。実は『兼山麗沢秘策』にちょっとそのにおいのすることが出でおるまでなり。その他にこんなこと多し。故によくよく念を入れて追究さるべし。
  氏の『日本巫女考』ははなはだ有益なるものなり。しかし麁笨《そほん》なることも多し。その内に七難の陰毛のことをいうとて、小生が柳田国男氏に与えし書翰を引き、このことの仁王崇拝より出ずというようなことあり。七難ということは『仁王経』に出であり。むかし朝家にて仁王会を行ない『仁王経』を誦せしめられし。その経名の仁王を仏寺の門側に立ちある二王(右弼金剛と左輔金剛)とを同一詞と見違えしなり。これはいささかも仏典を見たるものには大笑いなことに候。こんな間違い少なからず。
 前にちょっと申し上げたる薬師寺与一は、応仁の乱に勝元の臣下として働きし老兵なり(『応仁別記』に出ず)。政元の代になって、あまりにその物狂わしきを不快にて、阿波の澄元を迎え立てんと謀り露顕して、永正元年九月初め与一(名は元一《もとかず》)淀城へたてこもる。その弟与次等政元の軍勢これを攻め、九月十八日落城に及び、与一再挙を計り川の辺の蘆《あし》の中に潜むを見顕わされ生捕となり都へ上る。船橋という地に与一が取り立てたる一元院といえる寺へ移り、「いろいろの物語どもして一首の歌にかくばかり、
(58)  冥途には能《よ》きわか衆のありければ思ひ立ちぬる旅衣かな
と親しき方へ文ども遣わし、最後の時申すよう、皆々御存知のごとく、われは一文字好みにて、薬師寺与一、名乗りも元一、この寺も一元院と名付けたり、されば腹をも一文字にて切るべしとて腹一文字にかききり、朝の露とぞ消えにける。上下万民おしなべてみな涙をぞ流しける」とあり(『細川両家記』。天文十九年、生島宗竹六十九歳にて書きたる書なり)。
 また、その節申し上げたる柳本弾正と好愛しながら引き別れて柳本の軍勢と戦いし男は高柳と申し上げたと記臆するが、これはたしか高畠甚四郎と申し候。只今その出処をちょっと見出でず、『野史』にもほぼ出でおり候と記臆致し候。
 小生昨朝より今に少しも眠らぬゆえ、これだけにて止め申し候。    早々敬具
  前回の状に見えたる、
    けんとみてしたくぞ思ふ文殊尻
  この文殊尻の解、古来なせし人なし。小生|謂《おも》うに、文殊大士は結跏趺坐《けつかふざ》せり、故に尻が前へはり出しあり。すなわち正式に前より交接するに便りよし。これを申せしことと存じ候。(今日も朝鮮の婦女はみなあぐらをかくゆえに、陰口、日本の婦女に比してはなはだ寛大なり。)支那では相公の後庭を広くせんために、一種の按摩を行なうなり。古き画をみるに、色子が前よりされながら口を吸わせんとて首を前へまげるため背が曲がりし体多し。西鶴の『男色大鑑』に、有名の女方役者がかくしておいおい背むしになりし記事あり。何に致せ、高野山などには、前犯のために必ず若衆の腰に小枕をあてしなり。この形の枕なり。
 『太平記』に見えたる花一揆の大将|饗庭命鶴《あいばみようつる》、武蔵野合戦のとき、一揆を率い児玉党と戦うところに、生年十八歳容貌当代無双の児《ちご》とあり。これも前状申し上げたるごとく、エラガバルス帝同様、軍士一同その美貌を敬仰して、(59)その命を神のごとく聴きはたらきしと見ゆ。すなわち浄の男道なり。仏国革命のとき、発狂して死にし娼妓にして、騎馬し一揆を率い、その兵勢はなはだ強かりしものあり。同じ理屈なり。浄愛なり。今日埒もなき代議士の投票などに騒ぐものどもよりは、はるかにましなことと存じ候。
 
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 昭和六年九月十二日夜九時〔葉書〕
 拝呈。前刻一書差し上げたるとき、高畠甚九即がこと見出だし得ざる由申し上げ置きしが、只今『舟岡山軍記』より見出で候。(貴下が引きしはこの『軍記』より又引きたる文と存じ候。ほとんど同文なり。)『犯罪科学』二巻九号一〇〇頁下段に、「かくて双方に戦端が開かれると……紛乱騒擾の世が現出するのであった」とばかり見えて、高畠の始末が一向つかず。それでは戦国時代の男色の特色を見せたわけにならぬ。『舟岡山軍記』には、「互いに泣く泣く別れける」の代りに、「互いに引き別れける心の中こそまさしけれ」とあり。それより、「二月十七日(柳本)都を指して攻め上る。高国ならびに右馬頭打って出で拒ぎ戦」えども、さんざんにかけまけ、「すでに危うく見えけるところに、高畠甚九即、先度の辞を違えじと乗り入れ名のりかけ、ひとまずは盛り返したれども、引き立ちたる共《(ママ)》勢なれば、つづいて返し合わする者なかり《(ママ)》て、高畠|終《つい》に討たれにけり。高国、都にたまるべうもなくて江州さいて落ちて行く」とあり。これで君臣の義を全くせしことが分かり申し候。念契の義を立つるため、柳本より挙兵のことをききながら、丹波へ返りつくまで一切高国に告げ知らさざりしなり。まことに双方へよく義理を立てたること、『伊賀越』の重兵衛、幸兵衛以上で、またはるかにその先にあり。貴下の引いた書には何と方付けておるか知らず。
 後に肥後の有動《うど》氏が秀吉の命で誅せられたとき、立花宗茂よりそのことをききながら、新田善剛がそのことを有動に告げず。しかして有動と一所に切り死にして双方へ義理を立てたも似たることなり。
 
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 昭和六年九月十四日夜十二時
   岩田準一様                                                南方熊楠
 拝呈。本月十二日の拙書で申し上げたる『細々要記』の本文のこと、小生一昨夜より腰痛で(今夜医者、小生幼年より同級生にて小生妻を娶りしときの媒人、に見せしに、あまり座しつづくるから股関節がちがいしとのこと)、生物学上の研究検査はできぬから、『日本及日本人』等、大抵例により田中氏が又引きをせしらしき雑誌を調べんと思いしが、ちょっと倉に入り書物を片付くる際、眼前に『続史籍集覧』あり。たしかこの内に『細々要記』もありしと気が付き、一々検すると第四冊が『真本細々要記』なり。よって日の暮れぬうちに取り出して書斎におき、八時前より右の医者へ之《ゆ》き話したる上、海辺まで歩み、別れ帰れば十時少し過ぎたり。それよりまたいろいろ調べ物致し、只今右の『真本細々要記』を閲するに、( )の内の字はすべて熊楠の言なり。
  (写し初まり)
    文和二年癸巳
     二月
  (日を記せず)田に一枚と云は金(曲尺)一丈二月六尺三十枚を一丁と云云々、善性房丈平田にて問て語らる。
     七月
  十一日、奈良郷人木津へ発向す、ひきあしに七十余人うたる、珍事なり(云々)。
  十九日、六方両堂木津に発向(云々)、同二十一日又発向(云々)。
(61)    八月
  十五日、吉野へ可参にて出立す(云々)。
      九月大
  十二日、六万両堂為国中発向櫟本へ下向す(云々)。
      十一月
  十一日、月次算合在之(云々)(月なみの勘定をしたということ)。
  同日、披露云河上井水所望事、依田舎下向六方衆評定被宛行之、其状云、
    宛行、高山流末河上用水間事
     東金堂家
   右依忠功所宛行也抑彼流之水上自当堂進止地流出之上者至流末可被管領之理必然也、但於下地之管領者、不可有子細之由、所望之間依六方衆評定所宛行之状如件
    文永二年十一月ヽヽ《(ママ)》日 (貴下は文永三年としあれど、小生の蔵書は文永二年とあり)
  暗に注之間文章少しき違する事もあるべけれども大概如此、此外副状在之不能委細、又宛文の使中綱三人に□《(ママ)》貫文給之云々(云々は本文なり、熊楠のにあらず)。
      十二月
  八日、一乗院門主御受戒在之御名実−□〔原傍注に「言カ」とあり〕此御名は此四五日御事也本実−忠也御改名之後或人云実厳名字は雖替響あいに(相似)たれば可改歟云々(『細々要記』の筆者の名実厳が門主の実言(?)に響似たるゆえ、厳の名を改むべきかというなり)云々、仍八日禅実と改了。
    文和三年甲午
(62)      二月小
  十一日の条中(原傍注)河上用水事依東大寺申状悔返て此沙汰を閣へきよし、六方評定とて二十四日ふれらるると云々(云々は本文にあり、熊楠のにあらず)。
  二十七日夜、依井水事、(イ)若衆〔二字傍点〕逐電了閇門にはあらす、堂内の仏具等を取て机以下をなけさかしてうせさまに老僧も逐電せすはうらむへきよしふれ申たり、依之老君皆逐電之儀にて住房にもかく々々に注。
    (傍注に「原本に月を載せず、前後を以て考ふるに三月ならん」とあり。)
  六日、六方衆集会す(云々)、同十二日夜竜花院方より五方へよす東御門南辺にて射合了、舜覚房六方の尻を射る与力に当堂(ロ)若衆〔二字傍点〕少々供奉す(云々)。(此下より文和三年中の記に若衆という語見えず)(四年後の分は眼を通す暇なし)
  (写し終り)
 右(イ)(ロ)と小生が傍記したる二ヵ処に若衆の字見え候がこの書にこの語の見ゆる初めらしく候。その(イ)のところの頭書に小生筆にて「若衆徒、老衆徒に対する名」とあり。これは明治四十一年ごろ、小生この書を買いしとき通覧したる折の書き入れ自筆なり。
 この実厳の『細々要記』は、建武元年より至徳三年までの(西暦A.D.1334−1384 のあいだ五十年に渉る)日記中の要を抄記したるものなり。御承知の通り、建武元年は後醍醐天皇が北条を去年亡ぼしたる功を論じ賞を行なわせたまいし年で、建武二年十月に足利尊氏が反きしなり。その年に始まりし『細々要記』に文永年間の日記ありとは不審でならず。よって調べたるところ右の通り、(写し初まり)より(写し終り)までのごとく、若衆なる語が二度見ゆるは文永年間の日記には決してなくして、文和三年(北朝後光厳帝の初年で、この歳南朝の軍八幡に陣し、合戦あり、また尊氏が弟直義と戦い、これを殺せしなど大騒ぎの歳なり)二月二十七日と三月十二日の日記に出でたるに候。
 さて御覧のごとく、その前年文和二年十一月十一日の日記に、用水に関して引きたる古文書の日付が文永二年十一(63)月ヽヽ《(マヽ)》日とある、その古文書の日付を急いで見誤りて、次年(文和三年)二月二十七日や三月十六日の日記と混じ、文永二年十一月すでに若衆なる語がたしかにあったと田中君(または例により氏に剽窃されたる文を書いた人)が断じたるにて、ずいぶん疏《うと》く、またあわてたるやり方と呆るるの外なし。
  文永二年と申せば西暦一二六五年にて、鎌倉の執権北条時宗すなわち『細々要記』の初まりし建武元年の一年前に亡ぼされたる高時の祖父の時代に有之《これあり》、六年後(文永八年)に蒙古が初度の入寇をなしたるなり。文永二年より六十九年後れて『細々要記』が書き初められたるなり。
 右様のことにつき、今後かようのことを論ぜらるるには、何とぞ眼前連発する雑誌や新刊冊子にあらず、もっぱら古き書籍を又引きでなく原本原文に就いて御調べなりたきことに候。古き本を読むにはそのころの読み様もあり、またそのころの社会事相や文章に通ずるを要し、なかなか骨は折れ候も、昨今のような日本人にして日本の古文書をよみ得ざる輩のものを読むよりは、反って近道に御座候。
 小生今夜医師に診しもらいにゆき、その勧めのまま海辺まで歩み、返りて止むを得ぬ俗務をすませ、さて昨日採りおける菌を写生記載すべきところ、
  御承知の通り菌というものは、この暑さに一時間もおけばたちまち腐る。この菌は昨夕採りたるが、いろいろと注意してしばしば置き所をかえたから、幸いに今夜までもちこたえおり候。ただし、この状を出し帰るころはみな腐り了つたかも知れず。
右の『細々要記』その他引き出したる書籍を片付け了らねば、机が狭いから写生する能わず。一旦書籍を片付けて写生し了り、また書籍を引き出すはことのほか面倒に付き、夜間あまり音を立てざるために右写して御覧に入れ候。さて郵便は只今(一時ごろと存じ候)出さば、明朝早く船へつみこみ貴方へ行くから、音を打たぬよう門を開き、みずからこの状を局まで出しにゆき、それより帰宅して右の菌を写生記載にかかるなり。人間は若いときとかわり年をと(64)ると、一挙一動なかなか骨の折れるものなり。
 ついでに申す。「室町時代男色史」その四の七六頁下段にいわゆる青年に対する称呼として「若い衆」なる語も、足利氏のむかしは若衆と呼ぶらしく候。例せば、『群書類従』四二二『斎藤親元日記』(義政将軍のとき、寛正七すなわち文正元年正月の記なり)、「二月二十五日、飯尾肥前守之種の事に御成り(中略)、一、傍輩の老若〔二字傍点〕ことごとく銘物を進上す。(中略)一、傍輩中、若衆〔二字傍点〕は、あるいは銘物、あるいは糸巻、すべて注文をもって進上す。閏二月二十六日、御家御礼、御太刀(金)を進上す。一、右筆《ゆうひつ》方の若衆参上す」。ここにいえる若衆は老衆に対する若衆にて、男寵のための若衆と異なり、若い者どもというだけのことに候。
 また若衆の外に若僧《にやくそう》あり。剃髪はしながら色をもって事《つか》うるものなり。(このことはかつて三田村氏も論ぜられたり。小生、高野の若僧の写真一枚もちおれり。)また若俗《にやくぞく》という語あり。一休の句か何かに、「頼む若俗あまりつれなや」(『一話一言』に見ゆ)。『若気《にやけ》勧進帳』というもの『続群書類従』にあり。小生二十歳ばかりのときまで長州人はなまめかしき男をニヤケたやつと申し候。故三好重臣子(西南戦争のとき大阪鎮台の司令官たりし)の長男、小生と米国で同棲せしことあり。その話に、越後長岡城陥りしとき、その藩のある士の家の子が十六、七歳、にげ迷いて重臣子の陣に入り来たれり。至ってニヤケたる男ゆえ、重臣子|怜《あわ》れんで養子とせしが、明治二、三年ごろ奇兵隊を解きしとき暴徒に与したるゆえ、家におくこともならず、そのまま走り去るに任せたとのことなりし。それより後庭をオニャケと言いしこと、『昨日は今日の物語』などに見え候(『嬉遊笑覧』九にいわれたり)。
 書物を見るに、よくよく落ち着いて見ないと、大きな誤りを伝え後生を過つ。唐の代に支那にオリヴの油ありしという人多し。支那の博徒が金を賭し尽してなお腕を賭して博奕する。さて勝った者が賭けた通り敵手の腕を切り落とすと、オリヴ油を沸かしおきたる中へ、その切り口を浸すとたちまち血は止まるという記が、九世紀に支那へ渡りし回々教国人の記行にあり、とユクの『支那帝国』に出でたるに基づく。小生怪しきことに思い、いろいろ穿蚤せしに、(65)その回々教国人の記行には、ペルシア湾より支那へゆく途中碇泊したるある島(インド洋中の)の処に右のことあり。故に支那でのことにあらずと分かりし。こんなこと多し。
 小生、明治十七年、東京大学予備門に入りしとき、志摩国生れで細井|品弥《しなや》なる人ありし。その前に一ツ橋の体操伝習所教員たりし。その後如何なされたるや、御存知ならば御知らせ下されたく候。
 また伊雑の宮(この辺の人は磯部大明神と称え、明治三十四、五年ごろ小生当国勝浦港にありしとき、出入の船頭などことのほか尊崇せり) へ毎年|鮫《ふか》が来たり詣づ。社辺の樟《くす》の皮をいただき持てば、その船に鮫の害なしといいおりたり。今も右様のことをいうことに候や。                   敬具
  この状を書き了る前に、一昨年聖上へ献納せし陸生| 醇《やどかり》を畜《やしな》い研究中の、そのヤドカリが一昨日より一向餌を食わず死にかかりおり(急に冷やかになりしゆえか)、その看病やらいろいろと用事おこり、この状書き終えしは朝五時なり。よってみずから出しにゆき候。
 
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 昭和六年九月十六日夜八時半
   岩田準一様
                南方熊楠
 拝復。十四日出御状および十五日出御ハガキ、今朝八時拝受仕り候
  花のころつまれむしられいかがせん(いかに〔三字傍点〕と大野洒竹はせり)
   すみれまじりの野辺の頬髯
  ひばり鳴く声に大児打ち出でて
(66)という連句は、明治四十五年五月發行經済雜誌社の『続群書類從』卷四九一なる『荒木田守武句集』一〇三七頁に出であり。小生は前便申し上げたる郵便配達夫から俳句の宗匠になりたる人より、大野氏の校訂本(守武の『俳諧之連歌独吟千句』)を借り、みずから引き合わせ校正しあり。前夜いろいろと書籍や顯微鏡をおきならべ、あれを見これをながめながら、貴下への状を書きたるゆえ、守武の句集ということをかかずに、『犬筑波集』に引きつづき書きて、『犬筑波集』より引きたるごとくなりしまいしことと存じ候。かようのことは毎度あるものゆえ、どんな心がけのよき人の書いたものも吟味せずには受け取られぬもの、また吟味もしないで受け売りははなはだ世人を過つものと恐懼致し候。
 大若衆の彩色画はなはだすぐれたるものを、小生五十円ほどで買い(明治二十六年ごろ、ロンドンにて)持ちありしが、去年二月歿せし(七十四、五歳で) サー・チャーレス・ヘルキュールス・リード男に贈り了れり(この人は久しく大英博物館の人類學および東洋部長)。それにほぼ似たるもの、京伝の『骨董集』上編の上(五)、蝙蝠羽織のところに図出でたり。『守貞浸稿』第八編に、ある書にいわく、むかしは寛永・正保のころまでは、男は大方二十四、五歳までは童姿にてありし、これを大若衆と言いける。二百年前の古画が童姿の夥多《あまた》見ゆるはすなわちこの大若衆なり。これは全く男色の盛んなりしゆえなり。天正ごろの戯作『古今若衆序』にいわく、これより先の人々を集めてなん大若衆と名づけられたりける、云々。右(『骨董集』に出でたる)の二図、面貌おのずから十余歳の者にあらず。すなわちかの大若衆なり。井筒女之助など女装して武勇なりしというも、もとかかる風俗より出來《しゆつたい》せしことと存じ候。甫庵の『豐臣記』一八に出でたる和田弥太郎なども同樣に存じ候。(二十四、五歳までということは、馬琴の『美少年録』の發端にも出処を出さずに書いてあり。)
 『薄翰譜』一一に、福島(これはくしま〔三字傍点〕とよむ)綱成、「幼《いとけ》くして父に後れ相模國に落ち來たり、北条左京大夫氏康に仕う。綱成いまだ童なりしとき、容顔ことに麗しく、またさる者の子なりければ氏康の寵愛淺からず。二十二歳の(67)時、髻取り上げさせ名氏賜わつて北条左衛門大夫と召さる(家の系図には、綱成、氏康の舍弟の由見ゆ。覚束なし)」。二十二歳まで童姿でおりしなり。舍弟の由見ゆとは弟分として寵愛せしなり。その後も下々までも大若衆を好みしことは、西鶴の『一代女』四の三に、一代女、屋敷の茶の間女になり、ある日七十二歳になる老下男をつれ外出し、温飩屋の二階に上がり、その老僕にしかかれど一向埒明かず、むかしの劍今の菜刀《ながたな》と嘆ずるうち、下を覗けば、あたま剃り下げたる奴《やつこ》が二十四、五なる前髪の草履取をつれきて、これもぬれとは見えすきて、座敷入用と聞こえて、云々、とあり、これは貞享三年の板なれば、まずそのころの風と見え候。
 前日も申し上げしごとく、『一話一言』に引きたる杉山檢校の『太閤素生記』とかいうものに、秀次公自殺のとき草履取松若殉死、微者の身分ゆえ名が山田、不破ほどに伝わらぬは殘念、とあり。『嬉遊笑覧』付録に、堺の僧死するとき金三百兩を草履取にのこせしことあり。『陰徳太平記』にも、主人に殉死せる草履取のこと一、二ヵ所に見ゆ。寛永のころ草履取に美少年をおくこと流行し、よほどの有勢者ならずば草履取を召しつるることならぬほど、いろいろと争闘を生ぜしこと見ゆ。慶安四年正月令、江戸市中に、旧冬相觸れ候通り隱し草履取の宿一切仕るまじく、もし脇より聞こえ候わば宿賃し候者|急度《きつと》曲事仰せ付けらるべく候こと。これは草履取の自前《じまえ》で出るやつで、昼は傭われて草履持ちに出で、夜は宿所に下りて淫を売りしものと見ゆ。西鶴に、これもぬれとは見えすきて、とあれば、いわば男色の夜鷹のようなものなり。今日とても神戸などには、外國船が着くと売淫に舟へゆく少年、青年多しとのこと、前年(大正七、八年)の『大毎』で見及び候。黴毒を伝うること女よりは少なしとて、これをのみ好むもの多し、とありし。(実は支那で申す楊梅痘で、男色よりも生ずる黴毒はあるなり。明治十四、五年ごろ、横浜で外人にのみ売色して黴毒で死せし嵐|大枝《だいし》という女形役者ありし。)
 享保中の作らしき(今日いわゆる新聞小説なり)『雲州松江の鱸《すずき》』中に、池上文藏、児小姓たり、十余年前江戸に御供し、近ごろようやくと元服仰せ付けられ、中小姓相つとめ候ところ、三年以前親父病に付き帰國、とあり。帰國(68)のとき二十八歳なれば三年前は二十六なり。近ごろとあれば二十四、五まで元服を許されざりしなり。享保といえば徳川氏の中世なり。そのころまでもこんな風俗がありしなり。
 大正天皇御幼少のとき、御乳をまいらせたる女の夫は、木沢某とて本県伊都郡|九度山《くどやま》生れなり。その某は医者なりし。その弟は啓吉といい、小生と同歳にて崛強なる大男で、しかもことのほか美少年なりし。芝の近藤塾にありしとき、薩摩人がこの男を強姦せんとし逆さまに打ちすえられたることあり。日露戦争ごろ少佐か何かで九州の某連隊にありしがその後のことを聞かず。死亡せしと存じ候。この人の話に、その父は若きとき美少年にて高野山の某寺の小姓たりし。高野山の小姓ども、和尚のひまを伺い打ちつれて三里の峻路を屐《あしだ》ばきで馳せ下り、九度山の紀の川畔の婚家に通い、事畢りてまた夜の明けぬうちに三里を馳せ上る。
 小生十五、六のときまで、そんな婚家この辺にありし。ある小姓、通和散を後庭へつけてさるるときは、男ながらも快味を感ずること多ければ、女郎に施さばいかばかり悦ばんと考え、最良品の通和散を用意して下りゆく。木沢の父、おどけたる者にて、このことを察し知り、九度山に下りてどこかでとうがらしを買い他の粉と合わせ袋に入れ、かの小姓のひまを伺い通和散とすりかえおく。さて、ひそかに伺うに、かの小姓、時分はよしとかのすりかえ品を用い、女郎に試むるに、今夜はどうも一件不調なりとて通夜ことわらる。止むを得ずまんじりともせずに看病して空しく帰り去る。木沢の父は、かのすりかえたる通和散をもって、自分の相方に用いしに、うれしがること大方ならず、いやというほどもて、満足して帰り上りしとて大笑いせしという。通和散は唾でぬらして用うるものゆえ、とうがらしごとき劇しきものを用いなば、たちまち舌に感ずるはずなり。これは一場の笑話として作りしものかとも思うが、
(69)何に致せ、児のうちは知らず、若衆といわるるものは大抵女郎ぐらいは知りおりし証拠になる。さて、女郎ぐらい知ったほどのものにあらざれば情緒や技巧が面白からず。故に住職もそんなことは大目に看過して、女郎に習い釆たりし技巧をもって、いろいろと自分を満足させるを悦びしことと存じ候。小生只今座右にあるがちょっと引き出し得ぬ深川全盛ごろの江戸の情本に、増正寺の僧がかげまを伴うて深川へ芸妓を買いにゆく咄などすらあり。
 まずは右申し上げ候。            敬具
  寛永十年松江重頼編『犬子集』巻一一、
      山伏は羽黒の方を心かけ
    口すひまはる小ちご大ちご
  大ちごは歯を染めたる年長のちごなり。寛政ごろ(?)菅茶山か誰かが、四条河原に野郎どもの夕涼みの体を賦したるに、知る涅歯これ君寵、とかいう句ありし。これは高貴の人に買い占められたる野郎は、既嫁の婦人と等しく志の他に移らぬがために歯を染めありしなり。
 
          9
 
 昭和六年九月十八日早朝出〔葉書〕
 拝啓。前書申し上げたる文殊尻のこと、文殊師利《マンジユスリ》菩薩(妙吉祥と訳す)の名号によりこの語できたるは無論ながら、この菩薩結跏趺座するゆえ、後庭前へつき出で前書申し上げたる朝鮮女同様門口が寛闊にて、正式に前より行なうにはなはだ恰好なるを文殊尻と言いしなり。これに反しすばり(窄乾と書く)と申すは、この道に用うるに堪えざること、『醒※[酉+垂]笑』などにしばしば見ゆ。ずっと後の八文字屋本にまで見え候。古く、たなばたはよもさはあらじすばり星(すばる星をすばりにいい掛けたるなり)、星のあふ瀬に一度ねよかし、という句あり(『犬筑波集』)。このこと『嬉遊(70)笑覧』九に見え候。今夜、雄長老(たしか細川幽斎の弟にて慶長ごろ盛んなりし僧)の『百首』を見しに、「橋立ての松のふぐり(松毬(まつかさ)をふぐりと言う。また陰嚢をもふぐりという)も入海の浪もてぬらす文殊尻かな」。これは文殊尻広くして陰嚢までもはいるという意を、入海の浪もてぬらすとかきたるなり。とにかく文殊尻を尊ぶのが大若衆の好まれし一理由なり。小生今書名を忘れたが(座右にあり)、むかしは衆道大いに行なわれ、幼きちごより大若衆をもっぱら好みしと書いたもの、八文字屋本にありし。大曲省三氏申し越しに、弘法大師、文殊といえる年増の地若衆にもまれ、この道の祖師となる、とかいた物ある由。文殊尻のこと、小生の他に考えたものなし。貴下にのみ伝えおくなり。
 
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 昭和六年九月二十日夜十二時半
   岩田準一様
                 南方熊楠
 拝復。十九日朝出御状、今朝八時拝受。小生学事研究で太《いた》く疲れ、ほとんど終日臥したるゆえ、ようやく夜に入り拝見、御問合せの条々ほぼ左に返事申し上げ候。倉に入るべき懐中電燈が滅えたるゆえ、参考書など取り出す能わず、多分記臆のまま申し上げ候。
 第一に、頼宣卿が女色を嫌われたということ小生は一向承らず。さりとて女色を好みしということも承らず候。ただし、加藤清正の女《むすめ》を妻《めと》られしが、清正は癩病筋なりしゆえ、一生別居されし由、故岡本兵四郎中将の話と、愛宕貫忠なる老僧(三十年ばかり前に七、八十歳ばかり)より承り候。故に継嗣は側室の産みしものにて、むろん蓄妾はされたることと存じ候。小姓某の華奢を戒めた話が、その言行録に出であり。また『明良洪範』巻二〇に、あるとき頼(71)宣卿、その甥忠輝を招請、忠輝機嫌悪くさまざまに饗せしも酒をも参らず、不興なりし時に、ふと正木小源太という小姓を御覧じて所望ありければさっそく進ぜらる。かくのごときこと忠輝平生の所行なりとぞ。小源太は忠輝不審の条々にて御咎めの節、自殺をすすめしも聞き入れず、命さえあらはまた面白きこともあるべしとて自殺せず、正木は自殺せり、とあり。弟の小姓を兄に譲りしなり。頼宣卿の母は正木氏なれば、この小源太は頼宣の外従弟か外従兄弟の子なるべし。(頼宣卿母の生家は安房の里見の一族なり。紀州に仕えて卿の母の弟が国家老となり三浦長門守為春と申す。今も男爵にて当主名は英太郎、小生知人なり。大正十年五月二十七日、故頼倫侯この書斎に小生を訪われしとき一所に来られたり。)次回に英太郎男にあわば、正木小源太は頼宣卿の何に当たるか尋ね、分からば報知申し上ぐべく候。とにかく、これらにて頼宣卿は男色嫌いでなく、多少の小姓を愛せしことだけは知れ申し候。娼妓をおかざりしは武道を重んぜしよりのことと察し候。
 しかし、和歌山という処は歴代ことのほか女色の行なわれし所にて、徳川末期には娼妓とは明言しがたきも遊廓は数ヵ所でき候。(今もそれが北の新地と申しのこりあり。大坂辺よりも遊びにくるほどの女多し。芸妓というものの、実は売芸よりも売色の方なり。)光瑞法主の漢学の師たりし小山憲栄師の話に、若いとき諸国を歩きしに和歌山と金沢くらい女色の乱蕩せし地はなかりしとのことに候。したがって男色の話とては、西鶴の『大鑑』巻四に「待ち兼ねしは三年めの命」の一条あるのみ。その外に何たる話は伝わらず。ただし、市外の貸本屋また旧家に蔵する西川の画本などにらくがきしたる詞などをみるに、士分の輩の内には古く不浄の男色を玩ぶものは多少あったらしく候。また例の撃剣道場に通う武道好きの内に、そんな嗜好の者、時々あったように古い人々より承り候。牧野兵庫がことは、雑賀貞次郎氏が郷土研究社より出せし『牟婁口碑集』一二〇−一二三頁にも出であり。『南方随筆』に載せぬことども多く挙げたり。しかし、これらは県庁の輩の編纂せしところに基づきしもの多く、すべて県庁の役人は他府県の生れの人多く、心底から土地のことに興味を持たず、また土地の古いことを知らず、むやみに虚実混淆を弁別せずに集むる(72)ゆえ、えたいの知れぬことのみ多く集まり候。
 とにかく頼宣卿が牧野兵庫を登用して大禄を与えしは、そのころ高名なことにて、景勝の直江におけるごとくなりしと見え候。よほどの美男また器量のありし人と察せられ候。(牧野が頼宣に重用されたことは他にも見出だしおけるも、只今その書名を覚えず。)頼宣以後の藩主に男色を好みし者あることを一向聞かず。重倫《しげとも》といいしは、ことのほか兇暴な人なりしが、それすら男色のことはさらに聞かず候。
 小生が英国でやってしまいし大若衆絵軸は、実によく出来おりしが、写しにて本物にあらず。とにかく大若衆が娼妓か何かにいい寄らるるような図にて、女の粧いよりははるかに大若衆の方が綺羅を尽し、また濃化粧なりし。(決して俳優などにあらず。貴公子らしく見え候。)これにてそのころの大若衆のどんなものたるを解するに足るものなりし。当時パリで高名なりし骨董肆林忠正氏の手より五十円ばかりで買いしなり。そのころはこんなもの彼方には多々ありし。いつでも手に入ることと思い、やってしまえり。
 通和散、ネリギ、同物に候。ネリギは黄蜀葵《とろろ》と申し、よく支那の画に見る葵の類で、花色黄で葉がもみじのような草に候。その根を水でもむとおびただしくねばり出す。それで紙をすくなり。そのねばりを澱粉質のものと混じかわかし、主として麝香を合わせたるものなり。唾で和らぐればはなはだしく粘る。故に後庭にぬり、行なうに痛まざるなり。ただし、足利氏の中世(義尚将軍)以後朝鮮より渡ったものらしく候(今村鞆氏来状を考え合わすに)。この植物が書物に見えしは明徳元年に成りし『本草類篇』にて、カラアオイと和訓しあり。(蜀葵すなわち今いうタチアオイもカラアオイという。)故に当時実に渡来しありしやを決するに不十分なり、と白井博士の『植物渡来考』四四頁に出で候。林道春の『多識編』には、黄蜀葵、和名とろろ、とあれば、慶長・元和ごろすでに輸入ありしは明らかなり。また熊楠、寛永十五年編成の西武の『鷹筑波』一を見るに、「よそめはいかにぬめる若僧」「児達《ちごたち》へ参らせぬるはねり木にて」。これは慶長十一年来貞徳に師事せし俳人どもの句を集めたるものなれば、大抵慶長ごろより入り来たり行(73)なわれたことと思わる。(ただし、ネリギはノリウツギのことと白井博士よりの来状に見ゆれど、紀州高野等ではもっぱら黄蜀葵をネリギといい、後世の物ながら風来の『根無し草』にも黄蜀葵をネリギと訓ませあり、たといネリギが黄蜀葵にあらずしてノリウツギなりしにせよ、後庭に用うる寛窄剤をネリギといいしことが、慶長十一年より寛永十五年に至る間にたしかにありし確証となり候。すなわちそのころはやたしかにそんな塗抹剤を用いしなり。その剤が黄蜀葵よりとり、またノリウツギよりとりしか否は今の論点にあらず。)ノリウツギは日本の随所の丘陵山麓に在来のもので、輸入せずともありしものゆえ、黄蜀葵渡らざるうちはこれを用いしことと存じ候。また楡《にれ》の木の皮よりもかようの粘汁はとれるなり。またフノリを紙にひたし乾かしおき用いしもあり。
 貴状に向日葵とあるが、これはヒグルマまたヒマワリと申し、西大陸の原産にて、寛文六年板『訓蒙図彙』に初めて見え候(白井博士説)。これは粘液も何もとれるものにあらず。
 丁字、菊花等は、汚処の臭を消すため、また一つは刺激剤とも催淫剤ともなり、麝香、竜脳、ことに然り。古ローマには蕁麻《いらくさ》の細子を用いしことあり。苛痒《いらかゆ》くするなり。例の紫稍花《ししようか》(淡水生の海綿なり。白井博士|談《はなし》に、東京下谷に売りおる店ありとのこと。小生、去る大正十一年日光で採れり)、まず専門の男に後庭へ一物を入れもらい(直腸を広くするため)、ただし洩精はせずに幾晩も養成し寛闊にしもらい、抜き去った跡へ棒薬を入るる。初めは胆礬(硫酸銅)を紙線にひねりこめて入れ、直腸裏膜を腐蝕して感覚を鈍にするなり。次には山椒の粉などを棒薬にして入れる。しかるときは痒くなりて、なにか入れて撫でもらえば快くなるようになる。支那では毛病を起こさしむるとあって、行なうた後に羊毛などを入るるなり。しかるときは常に痒きゆえ、なにか入れてほしく思うようになるなり。かようの腐蝕鈍感剤と起痒剤を棒薬といいしなり。
 『児草紙』とは「醍醐男色絵」の詞書のことならん。この絵巻は小生その発端のところを見しことあり。児多くならびたる図なり。その児はいずれも美貌のものにあらず。その道の達者は美貌よりも床の上手なるを貴びしと知る。(74)また老年のものも多くありしよう覚え候。その詞書の一部分は先年尾佐竹猛氏抄しておくり越されしことあり。児みずからなにか大き物を入れ後庭を広げることありしと覚え候。(スペインのジェスイト僧徒が行なう図に、ややもすればみずからガラスぴんなどを突っ込む図ありしに似たり。)この詞書、貴下に写しあらは写しを送り下されたく候。小生はいろいろの書より、その注釈を致し進ずべく候。
 スバルはカゲマの名にはあらず。男色に用い得ざるたちの後庭を申す名なり。スバル若衆、スワリ若衆などいう。カゲロウはかげ間(かげの間《ま》)におる若き郎《おとこ》という意味で、蔭郎《かげろう》とかきしことと察し候。(古く高野山の寺の建て方を見るに、雪隠にとなりて火洞口《かとうくち》を構え、(イ)のごとき一間あり。これにて雪隠に入り、また出たときの支度(いわゆる更衣)をせしと察す。トルコなどにも例多きことにて、この間にてしばしば一儀を行ないしらしく候。この間《ま》を蔭間といい、その間にしばしばおるゆえ蔭郎といいしかと思う。一儀行ないしのち、若衆は必ず雪隠へ行き、後庭に入りある男精を瀉下す。ピーピーと鵯《ひよどり》の鳴くごとき音す。それにて一儀果てしと知りしなり。また若衆が左様の音を立てて念者を呼びしこともあるなり。またおれを呼んでいるなど言って僧が出かけたるなり。(一儀行ないし後、雪隠にゆかずに眠れば必ず痔を起こすなり。)
 さて朝に生まれて夕に死すという蜉蝣《かげろう》、またしばしの間しかつづかぬ陽炎《かげろう》と、?童の盛りの短きを思い合わせて、何となく哀れをもよおす名ともなれるなり。
 『嬉遊笑覧』九に、かげまは近き名と聞こゆ、もとはかげ子、またはかげろうといえり、そをかげうまの略なりなどいえるは捧腹すべし。
(75) 熊楠いわく、延宝六年板、松意編『幕尽し』第三に、
  大島の羽織の下に秋の風     林言
  影間野郎が移りゆく影      雅計
 この影間野郎(すなわち蔭の間におる?童)を略してかげ郎となりしことと存じ候。
 貞享三年出でたる『嵐雪拾遺集』初雲雀の巻、
  雨もよひ陽炎《かげろふ》消ゆるばかりなり  其角
  小姓泣きゆく葬礼の中            風雪
 もと小姓は士分より出でしものなれども、そのころははや艶色をもっぱらとして蔭間野郎より採用されたる小姓もありしなり。
  高野なども、小姓は多く旗本や諸国の武士の二男、三男、また子細あって出家を望むものがなりしなれども、『新著聞集』に見えたごとく、野郎を購うて小姓にし、天狗に罰せられしもあるなり。小生、大正十年末高野山に上り法主に面談せしとき、尾張の田舎出の小僧をよびにやり、法主に謁せしめ名を聞きしに、正しく原籍姓名をなのれり。(この小僧一期の面目なり。)その者の名は熊野|良雄《よしお》と申せし。なかなかの美少年、十七歳なりし。名が良雄ゆえ僧籍のものにあらず。むかしならば小僧でなく小姓でおるはずなり。そのときも法主の側には十七歳ばかりの小姓一人ありたり。法主一言するごとに叩頭するなり。
 元禄五年板『鹿の巻筆』二に、松本、尾上、もとはかげろうにておわしける、云々、花代も上げつらめ、しかしこれを親方の方へ送りてたべとて、「花代も高砂ならばこちはいや、尾上のかねを持たぬ身なれば」、返し「まつがひや前髪かづら良き夜に暁まではかけてやろふぞ」。これにてカゲロウはカゲマヤロウの略で、カゲロウと野郎と同一ということが判る。
(76) ただ野郎といえば薩摩の野郎組とて、大坂陣の前にどこかの(野田か)藤見の節、大坂城士津田、渡辺等と大喧嘩を行ないし乱暴群などあり。その武勇徒の野郎と別たんため、男色をつとむる冶郎をカゲマヤロウと長く言いしが、後には単にヤロウといい、またカゲロウともいいしと存じ候。カルシウム入りのビスケットをカルケットというと同様の略語なり。
 西鶴『二代男』三の五、「人は蔭の間を嗜むべきことなり」。蔭の間すなわち右に申すごとき、人多く立ち入らざる陰室をいう(必ずしも高野の雪隠のとなりの火洞口の間に限らざるも)。それを嗜むべしというは、君子は屋漏に恥じずの意なり。蔭間《かげま》という語は小生の手製にあらざる証に申し上げおくなり。
 著者年代不詳の『煙華漫筆』に、戯台子《ぶたいこ》と称する者大ようお姫様役までなり、云々、紫冠なき者を陰児《かげこ》とやいうか。これは芝居で公衆の見る舞台へ出しおくれた見習い子|役者《かげこ》をいえる芝居上のことばで、カゲマ、カゲロウとは別の詞と存じ候。
 故に小生は、カゲマヤロウ、カゲロウ、カゲマという順に、名の文字が一字でもおいおい減じゆきしことと察し候。まずは右申し上げ候。
 細井品弥という人が、むかしの大若衆の面影ある人なりし。そのころ小生為永の『以呂波文庫』を読みしに、瀬田主水(義士瀬田又之丞の父)に返り討ちにあいし沼沢金弥という少年十五歳のとき、津和野入平《つわのいりへい》、太藺品蔵《ふといしなぞう》(この二名は通和散に近き理由に基づきし虚構)なる二士に恋われ、二士これがために決闘するところへ走り行き和睦せしめ、みずから進んで二士に交《か》わる交《が》わるほらせ、三人兄弟となる。金弥の父子細あって旅行の途上主水に討たれ、仇を探るため金弥は旅に出で立つ。二士もその助太刀に出でしが、三十五年たつも仇を見あて得ず。赤穂在へ来たり主水方へとまる。夜談に右の履歴のぶると、主水、先年金弥が遊女の姦計に落ちて難義するところを救い、つれ帰りて食客とせしに、下女の口より主水の本名を知って、金弥、主水を夜討ちにゆき返り討ちにあいし由を語る。それより翌日、
(77)二士が主水を敵として勝負し、また主水に討たれし談あり。品蔵の品〔傍点〕と金弥の弥〔傍点〕とを併せて品弥となる今に記臆しおれり。品弥氏は小生よりは二歳ばかり年上の人なりし。そのころ芝に攻玉塾というあり、塾長近藤真琴とかいいしも志摩の人なりし。その塾に薩摩・肥前の者多く、小生と同じく神田共立学校に在塾せし河野通彦なるもの遊びにゆきしに、芋を馳走しようか少年を馳走しようかと問うゆえ、少年をと望みしに、一人の幼年生を拉《とら》え来たり、蒲団をかぶせ交《か》わる交《か》わる犯して帰りし、とほこりおりたり。ほむべきことにあらねど、今日の軟弱なる気風とは径庭の差《ちが》いあることに御座候。                 早々敬具
 この状一度封して後また開き、この付白を記し入れてまた封ずるなり。さて御下問の西洋人が仏僧となりし例は、小生只今よく知らず。ただし、小生ロンドンにありし日しばしば世話になりたりし F.V.Dickins 氏は、幼年にして広東に来たり、それより渡来して品川の東禅寺に小僧たり、剃髪して僧装して役人が来たりしとき茶を運べり、と言いおりたり。詳しきことは聞かざりし。(毎度逢うから、いつでも聞き得ることと思いおりたるによる。)この人はパークス公使として来たる前から日本に来たりおり、のち横浜で弁護士と医師を兼業とし、かのペルー国の船が支那人を奴隷に売るべく積み来たり、日本政府より抑留されて国際裁判となりし前に、ペルー人の代理となりわが政府を訴えペルー船を弁護せし人なり。そののち帰英して『忠臣蔵』、『北斎漫画』、『竹取物語』その他いろいろ著訳を多く出し、一九〇六年にオクスフォード大学より『日本古文』二巻(『万葉集』、『百人一首』、『竹取物語』、『芭蕉句集』等より成る)を出し、その序にサトウ、フロレンツ、ブリンクリー、チャンバレーンおよび小生に礼謝の辞をのべたり。小生四十一歳で妻を初めて娶りしとき、金剛石と真珠の指環をおくり来たり、その後『飛驛匠物語』を出すべくいい来たりしが(明治四十五年ごろ)、それより一向音信なし。もはや死にたることと存じ候。ロンドン大学総長勤務中、小生と合訳にて『方丈記』を出し、『皇立アジア協会雑誌』へ出し、後に小生帰朝後、万国名著文庫の一として出板され候。『万葉集』訳文は一々小生の訂正を求め来たりし。その稿本を蔵しありしが、去年、当湾の神島へ行幸記念(78)碑を建てしとき、小生詠じ書きて彫らせし和歌を佐々木信綱博士に直しもらいし礼に、七、八十日前、同博士へ呈し了り候。右の東禅寺で小僧つとめしとは仏道を修するためなりしか、またなにかの便宜上一時そんなまねをせしか、とくと聞かざりしは遺憾に候                          早々再白
 また前状に申し上げし月光殿を吉宗将軍が烝せしということ、『三王外記』続に見えずとは小生の謬りにて、昨日同書巻二より見出だし候。しかし、中山君の書くことに杜撰多きという拙見は依然|渝《かわ》らず。
 
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 昭和六年九月二十七日早朝三時認
   岩田準一様                                         南方熊楠
 拝復。二十四日出芳翰および書留小包『児草紙』一冊、咋二十六日朝八時拝受。『児草紙』は通覧し了り候に、脱字誤字多きと見え、分からぬことはなはだ多く候。あまり多字ならぬものゆえ、小生暇あるごとに写し取り候上さっそく御返却申し上ぐべく候。書き入るべきほどのことはなきように御座候。と申す訳はあんまり学識ある人が書いたものと見えず、また項数も五、六に過ぎざるゆえ、別に書き入れ注釈を要するようなことはなきように存ぜられ候。小生見たのは蜂須賀侯の所蔵にて、それが真本と存じ候。醍醐三宝院に古くありしを、いかなる故にや、蜂須賀家の蔵と帰したる由、旧く聞き及び候。その絵巻の発端には、稚児が多人群集してなにか眺むる体なりし。(いずれも白色の装束にて赤き裳を着し涅歯しありし。)顔はことごとく醜しとまではあらざるも、俗に伝うるおかめ(お多福)のごとく目の細き笑いおる体にて、決して美少年というべきにあらず。いわゆる男色の手取りの輩を表わしたるものと祭せられ候。年もみな十八、九以上二十に余れるものの様子なりし。後世にも野郎、かげま、いずれも大なるよしと、(79)『風流徒然草』(この本小生見しことなし)に出ずる由。そのごとく少年よりも青年を尚びしことと察せられ候。
 かようのものの画にかきし人物の年齢は、なかなかちょっと判らぬものなるゆえ、その上四十年も前に見たものゆえ、記臆もたしかならねど、とにかく右絵巻物の発端、?童群坐の図には美少年と申すべき美貌のものは一人もなかりし。ただし、画はなかなかこみ入ったものなりし。
  本物の百鬼夜行の図と鳥山石燕の写本と大いにちがうごとく、貴蔵のものは本物を後世の人気にあうように和らげたるものかと察し候。
 『甲陽軍鑑』四三品に、土屋平八郎、信玄公の御座を直し、云々、弟金丸惣蔵、勝頼公御座を直し候などあり。中山太郎氏は、この御座直しを男色の寵愛物に限るよういえり。しかるに、西鶴『武道伝来記』二の四に、金内寝間の上げ下ろしせし鞠という女、後文に妾鞠とあり。『武家義理物語』二の三、墨股《すのまた》の川屋敷に、松風という女、近くは召されながら、終《つい》に御枕を直さぬことを恨み、また元禄十五年板、都の錦作『風流源氏物語』五に、世にある人は女房のある上に、手掛け、足かけ、莚直し、腰元、茶の間、中居などとて、花のようなる色狂い、ありたいままに振るまえども、本妻さらに悋気せず。これらによると、莚直しは男色に限れる名にあらず、妾をもいいしことと判り候。
  仏経に坐菩薩ということあり。仏に侍座する菩薩なり。何の仏には何の菩薩と定まりあり。御座直しに関係なきことながら、ありそうにいいなす人もあらんかと、前に手を打ち申し上げおく。
 題号なしの百人一首体の絵本あり。宮武外骨氏説に、宝暦ごろのもので、画は北尾|辰宣《ときのぶ》筆と見ゆ、といえり。百人一首体に色道の男女を画き、その上に狂歌を書けり。なかなか百人もなく、ようやく二十ほどの画像あり。この本にも、妾、御大名方には御部屋などいい、下々には御坐直し、莚敷、囲い者などいうなり、と出でおり候。
  この本に次の一条あり。御存知のことかと思えど、棒薬のことも少し見ゆれば全文写し候。(棒薬という名はこれには見えず、他の本に見え候。その本には、前よりするを正式とし、その方法もかきあり。この本とは異なる筋多し。)
(80) 若道心得のこと。それ衆道は女色に異なりて意気地ばかりの念頃《ねんごろ》なるゆえ、僧俗とも兄分たる人かり初《そめ》のことに思うべき道にあらず。兄分よりいささかことに悋気がましくせかせかいえば、若衆の心いつとなく疏略になるなり。男色に徒《いたず》らの密夫のということなし。(これは其碩、自笑などの毎度いいしことなり。しかし西鶴時代には、徒らも密夫もありしことは、『大鑑』その他に見えたり。稲葉正休(堀田正俊を殺せし人)の父を、松永喜内という小姓が家老某と通じ、事露わるるをおそれて二人して弑せしこと、諸書に見え候。)若衆たる人、女に心を掛くることは沙汰の限りなり。これより外には、女のごとくあれにもこれにもと心多く念頃するものにあらず。兄分一人さえ窮屈なるに、何のよきことありて外の者とうしろ闇きことあるべきや。ここをよく弁うべし。また遊山参会などの人多き出会いのとき、わが若衆を他人にひけらかし、顔にびろびろと舞わしたまうべからず(まわすとはもてはやす義)。若衆大いに気の毒がるものなり。また、この道に心なき人もこれみよがしの振舞いにくき仕方と力み出でて貰いかけなどすることあれば、大いに災を招くことなり。よくよく慎み第一なり。
 さて床入りの心得は、とかく荒気の振舞いあるべからず。ことに十四、五歳の少人はおいど痛むことをいやがるものなり。このときは、山椒の粉を少し唾気にて穴にさし込みたまうべし。しきりと痒み出ずるなり。その時そろそろとあしらいて行なうべし。痒みに引かれてその痛さをこらえるものなり。さてまた若衆の心得あり。欲深く物欲しがりて、女にほれるとなりあうたびごとに何のかのと無心いう若衆は、悋気強き山の神よりはうるさく、三年の恋も寤《さ》むることなり。よくよく慎み第一なり。また女を尻目に見て下女、腰元などを、人なき所と思い手をにぎり尻をつめるなどのこと、ちらりとみても念者のあいそ尽くるものなり。若衆たる人、前髪取らざるうちは女と一所におらず、女の手より物も取らぬというほどに嗜まざれば風情なし。さてまたずいぶん手まめに湯を使い洗いみがきをもっぱらとし、口中の掃除たびたびしげくあるべし。臭き物の類食うべからず。また外郎万金丹などの匂いはけやけきなり。ただ何の移りもなく息の臭からぬよう専一なり。久しく物いわず、書物などを見、手習いのあげくなど、むつかしく(81)とも必ずうがいするがよし。口中に胃熟を含むゆえ、悪しき臭いするなり。髪は匂いを留むるをよしと心得たまうべし。身は少し伊達なるがよし。冶郎若衆ははでなるほどがよかるべし。常に行儀を嗜み、立振舞い静かに、諸芸も少しは心がけ、酒は小盃に二つ三つまではよし、大酒は興のさむることなれ。その外何にても花車《きやしや》なることは心掛けたまうべし。荒男の所作、下様の者の振舞いかたく遠ざけ、夢にも知らぬがよし。
 さて床入り前には雪隠にゆき、穴につわをぬり内までよくぬらし、さて出でて手洗い、きる物をふるいて雪隠の移り香せぬようにし、口中をうがいし、懐中の海羅《かいら》丸を取り出しよくかみしたし、念者に見せぬように肛門にも兄分の一物にも塗るべし。さて床の内にて向かい合いて臥し、兄分の顔を把えて口を吸い、その後帯解きて後ろ向きになりたる時、右の丸薬を用うるなり。兄分の鼻息の荒くなりたる時、顔をねじ向けて口を吸わすれば、兄分気を早くやるものなり。さて、とくとしまわせて、片手に揉んだる紙をもち静かに兄分の一物を拭い、その紙をわが肛門にあて、しばらく噺《はなし》などして、その後静かに床を出でて帯をすべし。兄分の側にて前を合わすれば、すそのひらめきにて悪しき香などすれば、愛憎つきるものなり。さて、それより雪隠へ行くべし。兄分のしこみたる淫水を下すべし。無性を構えてそのままにおれば痔を煩うものなり。姪水滞りあれば、若衆のため毒となるなり。必ず必ず早々下すべし。雪隠は近き処へはゆくべからず。婬水を下す音びちびちとなることはなはだおびただしく聞こゆるものなれば、程遠き雪隠に行くべし。
 海羅丸の方。ふのりをよく煮て絹漉しにし、杉原紙を引きさき、これにふのりをしたし、大豆ほどに丸じ、日によく干し、よく乾きたる時、印籠または紙入れなどに入れて懐中し、入用の時使い様右に述ぶるごとし。この薬男色ばかりに用うるにあらず、新開をわるにも便りあるなり。(以上)
 百人一首の冶郎の像の上に、「世の中は色こそはやれおいどする尻の穴でも気をばやるなれ」という歌あり。頭書にいわく、それ男色は血気盛んの法師の婬水の捨て所にて、高野大師の御作とかや。これとても非道のことかなと思う(82)に、それを売り物とすることは非道の非道といきすじばりてそしるはまた非なり。美少人の色あるに品よき芸振り、声よく唱い三絃のねじめよく、どうも言われぬさっぱりとしたる坐振りとて、歌舞伎若衆をもて興ずるなり。さるほどに諸寺の什物を宿替えさせ、親の金箱底抜けとなり、女房を去り子供をうり、騒動日々やむことなし。この故に公儀より若衆前髪を剃り落とさせたまえば野郎とはなりぬ。氏種姓は知らねども、何之丞、何之助など付けて女の姿を写し、家内の者は太夫様とあがむ。たしか見知った子じゃ、近ごろまで長吉、市坊とて子守しありき、買い食いし、硫黄割り、松売り、味噌漉し手にもち、豆腐屋から白いこまかな物(豆腐のからなり)買いて帰りしは昨日きょうなるに、いつしか色子となりて、わざとならぬ勿体《もつたい》、生まれ立ちから土ふまず、銭の数知らず、斗り炭たばね木半帖の塵紙そんな物がなんぼするやら、気《け》もない知らぬと言わぬばかりの顔付きでおらるるなり。役者ともならず、色売る一種を陰子陰間といい、旅市田舎の開帖場など出張するを飛子というなり。そもそも野郎の勤めかなしさやる方なし。くいたい物をも存分には得食わず。たまたま打ちとけしてやつても、腹が瀉《くだ》ろうかと気が気でなし。床入してはようもないによい顔し、鼻持ちならぬ口にも吸わせ、なまじい煩悩して客の鼻息荒きとき、それに催され、わが前に帆柱立つるもうるさし。痩せ地道具さえかなしきに、きょうこつな一物に出合いては酣した泪がこぼるる。それのみならず、石垣が崩れて井戸側普請止むときなく、葱をゆでておいどへあつればよいとて蒸し立つること、饅頭屋の甑よりもすさまじ。それにても叶わねば外科殿に結縁にて開帳するもうるさし。
 むかし薩摩に伝えし『弘法大師一巻之書』という写本と、故末吉安恭氏よりもらいし琉球の浄愛の歌の序文を、前年写して三田村鳶魚氏におくれり。只今置き処分からず。そのうち見出でたら写し差し上ぐべく候。 早々敬具
 
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 昭和六年九月二十八日早朝四時認
(83)   岩田準一様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。咋朝差し上げたる状に申しのこせし件を少々申し上げ候。
 延宝八年自悦撰『洛陽集』に、顔みせや十有五にして楽屋入り(千之)、顔見世や初冠《うひかうぶり》してかげまども(秋風)
とある由、『嬉遊笑覧』九に見え候。この『洛陽集』は小生蔵中にありやなしや只今覚えず。とにかく『嬉遊笑覧』によってこの句あることは存知おり候。しかして先状申し上げしごとく、延宝六年松意編『幕尽し』三に、影ま野郎が移りゆく影(雅計)とあるは、(小生知るところ)影間野郎〔四字傍点〕という名が俳句に見えたる一例に御座候。
 影間野郎とは、もと薩摩に野郎組というものあり、ことのほか荒々しき者どもにて、もっぱら男色を行ないしが、影間野郎ごとき優柔なものならず、ややもすれば争闘を事としたるらしく候。延宝三年に成りし『談林十百韻』に、一座をもれて伽羅の香ぞする(松臼)、酒盛はともあれ野郎の袖枕(一朝)、思い乱るるその薩摩ぶし(雪柴)。これは薩摩野郎を吟じたるらしく候。大坂役起こりし前年、薩摩の野郎組が城士どもと大争闘をなせしこと、『明良洪範』等に出でたり。
 この影間野郎という名を約《つづ》めて影間という名ができしと小生は思うなり。故に、失敬ながら貴下只今御存知の影間という名詞もつとも早き例は、『洛陽集』の秋風の句で、『幕尽し』に出でたる雅計の句は影間という名詞のもっとも早い例とはならず、影間野郎〔四字傍点〕という名の出でたる一例(もっとも早いか否は小生知らず)というべし。
 かつて小生関係ある(三十五、六年来今に)ロンドンの『随筆問答雑誌』へ、フッカー男(英国でもっとも家柄の植物学者)が、イサベラ色という名詞は何年ごろより見えるかとの問を出し候。
  スペインの王が久しく城を囲まれ難戦せしことあり。そのとき王后の内衣がことのほかよごれ古びたるを見て、臣下等新しき品に召しかえよとすすめたるも、后は承諾せず。われはこの囲みを破り解くまでこの内衣を更《か》えじ(84)と誓いし。これを聞きて将士一同奮戦し、とうとう敵を追い払い、城の囲みは解けたるにより、后も内衣をきかえたりという。その后の名がイサベラなりしより、植物学等の用語として、古きシャーツの色(日本で申さばかなけ〔三字傍点〕多き水に浸し乾かせし手拭等の色のごとく鼠色にきたなく黄赤き傾きあるを申す)をイサベラ色またイサベリンと申し候。イサベリンはイサベラの(色)という義で、イサベラ色(イサベラ・カラー)とイサベリン(イサベラ之《の・的》(色))と何の意義は異ならざれども、イサベラ・カラーといえば(仮名で書いても)七字になり、イサベリンは五字になり、長短がちがい候。すなわち別語同義なり。
 それを穿鑿して、イサベラ色《カラー》という名詞は千八百何十何年に始めて見えると、その書名を注して出せし者あり。しかるにフッカー男は、懐剣で(すなわちかねてそんな答をまち受けてやりこめてやる趣向で)、さつそくそれよりも早く出た一例があるとて、よほど希覯の書よりその一例を引き出し公示せり。しかるところ、右の答を出せし男またなかなかの剛の者で、「そんなことは知りおれり。しかし、それはイサベリン(イサベラ的《の》(色)《略す》)という詞の初見の例で、フッカー男自身の問はイサベリンという詞の初例にあらずして、イサベラ色《カラー》という詞の初見の例を問うたでないか、そもそも問を出す者が、自分が何を問うたかを覚えぬとは不審極まるとやり返したので、フッカー男はまけとなり候。それと等しく(イサベラ色《カラー》がおいおい約《つづ》められてイサベリンとなりしごとく)、影間野郎と影間とは、同意義の語ながら、経歴よりして議するときは、別詞としてその初見の例をしらべざるべからずと存じ候。
 しかして延宝八年の『洛陽集』、「顔見世や初かうぶりして影間ども」が決して影間という詞の初見の例にあらざるは、延宝七年成りし『西鶴五百韻』に、
  自然の時君に仕へる志             西友
  事かきになら采女なりとも           西花
  三津寺の影間〔二字傍点〕の子ではまだもあれ  西六
(85)  (これも影間〔二字傍点〕という詞ではなく、影間の子〔四字傍点〕という詞なりといわば、なるほど影間〔二字傍点〕とは別の詞に候。しかし(の〔傍点〕)なる助詞あるゆえ、ここは?魚(えいの〔傍点〕うお)というごとく、影間(【なるといえる】)子という意味にとらば、影間〔二字傍点〕は一つの詞、子〔傍点〕はまた別に一つの詞となる。)
とあるが一年古く候。この影間の子が約《つづ》められて影子となりしことと存じ候。その彰子なる詞は、寛永十年に成りし『犬子集』五に、色葉を題として読人不知で、「かげ子ども色葉ちりぬる寺の庭」という句あり。
 式とか格とかいうことを喋々せし時代には、むやみにモダーンな詞を遣わず、少人、若衆、喝食くらいをもっぱら用うるが常例なりしゆえ、影間野郎、影間の子という語が発生して世に行なわれおりし時にも、俳句には少人、若衆等で通り、さて影間野郎が影間と略され、影間の子が影子と約された後に及んでも、ようやくたまたま丁寧に影間野郎、影間の子と、影子、影間と並び用いられたことと察し候。これは女給、女優と約め呼ばるる今日でも、なだらかに物を言わんとて給仕女《きゆうじおんな》、女俳優《おんなはいゆう》という場合もあるごとく、俳句には字の数をなるべく十七より不足せしめざる用意より、短い詞を長くいいのばす必要あるより、長短完略共に自在に用いしことと存じ候。
 また延宝八年、和気遠舟の『太夫桜』に、
  わくらはに飛子上りの太夫桜    西六
飛子なる詞の早く見えたる一例なり。この西六という人、前出延宝七年の句に、影間の子では云々と吟ぜし人なり。この人はこんなことを遠慮なく吟じて快く思うた人らしく候。すべてかかる詞の書いたものに残るは、これを吟ぜし人の性質にもよることにて、誰なりしか、有名な弁護士で四十年ほどの昔、法廷で法官が「言語を吐くに意味なしということがあるものか」といいし即座に、「しからばノッペラボーノキンライライなる言語の意味は如何《いかん》」とやり返し、法官大いに返事につまりしことあり。この語はそれよりもずつと早く、小児どもが用いし語なるも、まじめな書き物(官報にありしと記臆す)に出でしはこれが初めなるべし。そのごとくかげ子なる語が寛永十年すでにありしよ(86)り察するに、かげま野郎、かげまの子、かげま等の語は、一層古く世に出でおりしことと察せられ候。
 桜子のこと。磯辺寺の住僧を頼む由、「これに渡り候幼き人は、云々、仰せ候ほどに、師弟の契約をなし申して候」とあるにて、桜子は男児と知れ候。女子ならばむやみに僧の弟子とするはずなし。いわんやそれを伴うて桜川へ花見に出ずべきか。支那にも後趙の石虎が優僮鄭桜桃を愛し、その譖を聞いて二度まで妻を殺せしことあり(『晋書』に出ず)。その鄭桜桃を女子なりという人あり。はなはだしきは竜陽君も女子なり、男子にあらずという。しかるときは世に?童というものはなくなる。あるいは薩摩人等の説に、かの平田三五郎は女子なるを吉田大蔵が男装して軍場へ同行せしなりと、鹿つべらしくいいおりたり。かかる異説は何たる所拠なきものに御座候。
 小生は、日本書の解題書とては尾崎雅嘉の『群書一覧』の外に一部も持たず。よって伺い上ぐるは、『曽呂利物語』(帝国文庫の『落語全集』にあり)は何年ごろ初めて出板され、大抵いつごろ、誰の著わせしものということに候や。何かの解題書にて御見当たりあらば、御知らせ願い上げ奉り候。『曽呂利物語』、その他これに似たる書どもに、美少年が自分をワラワと称すること多し。中には妾《わらわ》と妾の字さえあてたるもあり。『醒睡笑』等には、美少年自分をばアコと称えあり。童を妾と同じくワラワと呼ぶ点より申さば、美少年みずからを(妾ならで)童《わらわ》と称えたこともあるべきも、どうもアコというたが本統らしく候。徳川氏時代より古きものに、美少年がみずからワラワと称せしこと御所見ありや、伺い上げ奉り候。
 小生、明治十九年十二月、米国へ出立前、湯島の魚十で送別会をされし。二十七、八名打ちより写真をとりしが、今となりては四十五、六年前のものゆえ、複写もならぬほどぼんやりしたるままのこりあり。それに魚十前の柳が一本さびしくうつりあり。たぷん前日の御状に見えたる昔のかげまが植えたるものなるべし。
 馬琴の『美少年録』の初めに、北条義時が急死は男色の嫉妬より起こるということあり。このことなにかたしかなる出処ありや、御教示をまつ。白石先生の『読史余論』二に、深見三郎といえる近侍が所願(父の罪をゆるし、また(87)弟をも召し仕われんと)を聞き届けられざるを憤って刺し殺せし旨見ゆれど、男色の嫉妬とは少しも見えず。馬琴のこじ付けらしく思われ候。
 まずは右申し上げ候。         早々敬具
 
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 昭和六年九月三十日朝十時前
   岩田準一様                                          南方熊楠
 拝復。二十九日出御状、今朝七時四十五分拝受。「醍醐男色絵巻」は、小生、明治十八、九年ごろ上野帝宝博物館で見しとき蜂須賀侯家蔵と札立ちありし外に、そのころ神田御成道(今はなんというか知らず)に鬼頭《きとう》(名は悌次郎といいしと記臆す)氏なる古銭を扱う店あり、そこに日本高名絵巻物番付を出しありし(明治十七年ごろの板)。それにもこの絵巻物が大分よき地位を占めおり、蜂須賀侯家蔵と記しありし。醍醐寺は当地に縁深く、当地第一の大刹|高山寺《こうざんじ》が醍醐派にて、拙妻の妹聟の兄が例の熊野別当家の嫡流にて(本宮、新宮、岩田、富田、田辺と五家に別れたるが、富田(氏を中岩と申す。『続群書類従』に「中岩系図」あり)と田辺(氏を安部と申す。当主を湛英という)の二家のみ残る。湛英方は今も儼然たるも(醒醐寺の末寺として中僧都たり)、中岩は衰微はなはだしく小学教師か何かなりしが、その人も近年死に失せたらしく候)、熊野別当家は田辺にのみ旧跡が保存されおり候。(家宝も鎌倉または足利時代のものにて、旧文書はなはだ多し。小生整理を頼まれあるも暇なくて今日に至れり。)三十年ばかり前の醍醐寺管長は長宥匡師、小生と多少知縁ありし。ロンドン大学総長フレデリック・ジキンス叙爵のとき、小生知人および子姪の和歌を集め祝いおくりし。その時筆頭に長僧正が詠みくれ候。そんな縁ありて、この絵巻のこともかの寺の人々に聞き合(88)わせしに、一向見たことも(またおそらく聞いたことも)なきような返事なりし。
 時世により顔貌の好みも多くかわるゆえに、この絵巻の児童の顔が小生等に向かずとて、必ずしも絵巻の児童を醜なりということはならず候。有名なるアリストギトンとハルモジウス(男色のことより時の虐主を殺し、二人ともまた殺されたるなり)、そのチゴの方のハルモジウスの愛娼(獅子という名なり)を拷問されしも、一向連累者の名をいわずに、せめ殺されたり。二人自由の開祖として像を建てるに及び、この娼を標示するとて舌を切り失われたる(無言でおし通せし)牝獅の像を建てたりと申す。この二人の像を小生見しに、チゴよりも念者アリストギトンの方はるかにましな顔なり。チゴの方の顔は鬼のようなものなりし(忿怒の相)。決してそれほどの美青年とは思われず。これも時世により顔相の好悪の標準がちがうなり。
 前出状に引きし『風流源氏物語』五、莚直しは、(女房のある上に、手かけ、足かけ、莚直し、腰元、茶の間、中居など、云々、とあるから)貴下のいわるるござ敷きと同じことかと存じ候。すなわち介抱人に妾をかねたくらいのものらしく候。当国には、小生、ござ敷き、ござ直し等は聞きしことなし。
 「後庭花」は六朝の陳の後主が張麗華を寵愛して国を失うまで盤遊せしとき作りて歌わせし曲なり。商女は知らず亡国の恨み、江を隔ててなお聞《〔ママ〕》く後庭花、という名高き詩あり。それをただ後庭が尻のことに用いらるるに及び、男色のことをも後庭花と後代(支那の)小説などにかきたるに候。
 『弘法大師一巻之書』は、飯島花月氏が『彗星』に引きたる『衆道秘伝』というものとほとんど同書と存じ候。こんな物は大抵十の八まで相似たものに御座候。実際のことにさしたる関係あるにあらず。ほんの戯作に候。
 金城という人は、人の書いたことをいろいろとかき集め、自分の見識とてはいっかななき人のように候。また藤沢衛彦というも似た人物にて、よく人の書いたものを盗み、自分が読んだようにとりなし候。かつて小生ジャワの常無垢の女王が他の国の王に妻に望まれたことをかきしに(『続南方随筆』二六一頁に出(89)ず)、その女王の名をジャワ語でかかず無月信女王と漢訳して出せり(無月信は月水かつてなかりしの義)。藤沢これを盗み、自分の『ききおき(聞置き)草』とかいうものにあり、と無実の書名を出し、小生が書いたものより引くとかかず、その『ききおき草』とかも『七六八草』とかいう風に怪しき謎《なぞ》的の数字でかきありし。このことの出でたる『印度群島および東亜細亜雑誌』は揃うた売本今日かつてなく、極めたる希覯の雑誌なり。(発行の当時はやらざりしものゆえ、多くはつぶして手ふき紙などにしてしまいしなり。)小生大英博物館にありし日、逐号必要な部分を写せり。大英博物館にても、重価を賭して全部そろいしものを求めたれども、とうとう買い得ざりし。小生の書きしものを見て、京都辺の蔵書家が重費を賭してシンガポール辺で求めしに、わずか二号だけはほん〔三字傍点〕が手に入りし由。そんなものをいかにして藤沢などがよみ得べきや。また小生このことを『郷土研究』第一巻に出せしは読んだ人も多きゆえ、藤沢は『郷土研究』の拙文よりとりしということは知った人多し。しかるに、なおかようなことをしてまでも、人の書いたものを自分の発見のごとくいいたきは、実にその人みずから良心に恥ずべきことと思う。
 『男色大鑑』の御物はゴモノ(御を音、物を訓でよむゆえ不都合なり)、ゴブツ(ゴを呉音、ブツを漢音でよむゆえ、これもそろわず)とよまず、本書のふりがな通りゴモツとよむが正しと存じ候。『古今著聞集』興言利口第二十五部に、坊門院に年ごろ召し使う蒔絵師に急度《きと》参れと仰せられたりければ、あさましき大仮名にて、ただいまこもちをまきかけて候えばまきはて候いて参り候べし。これをよみ解しあてずして、いかにかようなる狼藉の詞をば申すぞ、と叱りやらる。蒔絵師あわてて参る。なぜにかような返事を申し上げたるかと責めらるるに、すべて申し過ごしたること候わず、只今|御物《ごもち》をまきかけて候えば、蒔き果て候いて参り候べしと書きて候え、と申しければ、実《げ》にもさにてありけり、仮名はよみなしということ、まことにおかしきことなり、とあり。
 同書宿執第二十三に、知足院殿に小物御前と申す御寵物ありけり、云々。御物は御寵物の略ならん。それを御蔵物(御蔵品)の略なる御物と混一して、寵愛の妾や童をも御物といいしことと察し候。
(90) マクとは交会をミトノマグワイスと訓ませ、御送寄の『児草紙』にも児を犯すをマクとかけるところしばしば見ゆ。二十一年前十津川にゆきしに、同地方ではそのときまでも女を犯すをマクと申し候。「あの人つびをまかせという(かの人われにわが陰を犯さんと望む)」などいいし。
 「只今御物を蒔き(漆で描き)かけて候えば、蒔き果て候いて参り候べし」と書いたつもりのを、「只今子持ち(孕婦)を犯《ま》きかけて候えば……」とよみそこねたるにて候。その鎌倉時代にはゴモチと訓みしを、西鶴時代にはゴモツとよみしに候。今は御物《ぎよもつ》とよむが習慣となれるらしく候。(ギョは漢音、モツは呉音ながら、これを式正とするなり。)正倉院御物などと申し候。(決してゴブツとは訓まず。またゴモノともいわず。どど一に主《ぬし》の御物《おもの》が有難いなどあって、陽物を御物ということはある。)
 本日は県議投票日にて、小生も友人のために一票入れに参るゆえ、これだけで擱筆致し候。前状申し上げたる胆礬を棒薬とすること、また前よりする法等、手近いところでは『女大楽宝開《おんなたいらくたからがい》』にもあり。(貝原先生を開茎《かいまら》先生とし、その述とせり。)この書は貴下御覧になったことと存じ候。ならずばそのところ、また写して差し上ぐべく候。             敬具
 
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 昭和六年十月五日朝六時
   岩田準一様                                           南方熊楠
 拝啓。三十日と一日出の御状二通、三日の朝八時拝受仕り候。御下問の難読の文字は「食いたい物を〔傍点〕も存分には得食わずたまたま打ち解け〔八字傍点〕してやっても」に御座候。また『嬉遊笑覧』九に見えたる、白河院は東大寺別当敏寛が児童(91)を召寵したまい、また鳥羽院は宰相中将信道を愛したまう、云々、は、小生は『古事談』、『続古寺談』、『古今著聞集』、『十訓抄』、それから楽家の書抄くらいのことに出でおることと存じ候。別段特に調べもなさずに今日に至れり。御来書により右等の書どもを一昨夜より昨朝まで取り調べしが、一向見当たらず候。あるいは『源平盛衰記』あたりのどこかに出でありしことかとも存じ候。果たして然らば各条を隅から隅までしらべ上げざるべからず。これはちょっと時間のかかることにて、只今はなし得ず候。小生は自蔵の書どもへは読み下してなにか必要と思うことのあるごとに、この通りの悪筆もて遠慮なく頭書き見出しを等しおき候。故に大抵のことはちょっと見ればわかるが、右等の書どもを通覧せしも見当たらず候。小生若きときはことのほか記臆宜しく、一度見たことは忘れざりしも、妻を娶り家を持ちてより大いに記臆|劣《おと》ろえ、ことに近年悴が重病となりてよりことのほか記臆は退散致し候。
 『玉川心淵集』は西鶴の出たらめと存じ候。三田村氏か誰かの説に、西鶴よりずつと後の寛政・文政ごろの人々の著書の奥付にいろいろと珍しき著書の予告あり。実はこんな本を作ろうと企ておるくらいのことで、実際そんな書どもが完成されたるにあらず。中には手を付けたこともなきに、作者の名聞のために人を驚かし、著述の多きに誇らんとて、かようの物を出だしたるものの由。故にそんなものを拠《よりどこ》ろとして誰某には何々の著書ありと書き立てた物ありとても、それらの書をことごとく揃えて覧んとするは大いに愚挙なる由いわれたることあり。ずいぶんそんなことは只今も多きことと存じ候。また『玉川心淵集』のことが『大鑑』に出でおるに付け込んで、後年誰かが書肆とはかり、西鶴その他に托してそんなものを作らぬとも限られず。怪しき限りに御座候。西鶴もずいぶん出たらめをいうた人で、『大鑑』の初めに大門の中将と業平と契りしとかいうことあり。大門はすなわち文殊尻のことを言いしにて、決してそんな人がむかし実在せしにも、また小説物語に出でありしにもあらず。しかるに、西鶴より習うたと明記せずしてこれを剽窃した書物も若干あるゆえ、明和五年飯袋子作『欝の色』巻五にも、また業平、伊勢が弟大門少将といえると好情ありと(ある書に)いえり、しかれどもその虚実安定ならず、とあり。そのつづきに書きたる、弁慶が牛若、妙法(92)院門跡また瓜生義鑑房が昭谷義治、後醍醐帝が日野阿新丸を愛せしなど、いずれもあて推量で、西鶴前の誰かが言い出したりと存じ候。(小生所蔵ながら久しく見ざる、何とかいうまことしやかに書いたる軍物語に、後醍醐天皇が奥州の二階堂氏の祖を愛せしことあるも、早くそんなことを作り出だしたると存じ候。)
 小生、一昨日この状を書き始めしが、足ことのほか惡く、疼み忍ぶべからず。よって中止、今朝右だけを書き候。今も痛み多少あり、またいつどうかわるか知れねど、いつそこのついでに前日申し上げし『弘法大師一巻之書』だけ左に写し上げ候。もっとも小生は中途で医師方へ往くかも知れず。然る上はいよいよ医師方へゆく時まで書き得ただけを途中で投函し、残余は痺み快方の上、またまた送り上ぐべく候。
 『弘法大師一巻之書』、明治十九年冬(小生渡米の少し前)、薩摩人|滝聞《たきぎき》武二氏より古写本を借り写す。この人は明治三十年ごろ大阪市で警部たりしを新聞紙で当時見しことあり。現在や否分からず。
 
 序、唯為人之此学弘法之道猶有工衆人皆山度時間之則為弘法先生之道唯人不可空此道自過生故古之君子者求而者私当衆人不可此道従者印候、此序以教衆士因而記     薩藩鹿府隠士 満尾貞友
 そもそも衆道というは、その古え弘法大師、文周(殊なり)に契をこめしより初まりしぞかし。衆生というは、双方より思い初めて親しみ深く、兄弟の約をなせしこと他の書にも見えたり。そのむかし弘法大師の初め給うことなれば、古今共に異朝は言うに及ばずわが朝|守《(ママ)》流行ないしことぞかし。弘法大師一首の歌にいわく、恋といふその源を尋ぬればばりくそ穴の二つなるべし。衆道根本を深く尋ぬるに、三穴楽極たり。たまたま人と生まれ来て衆道の極意を知らざるはまことに口惜しきことかな。われ数年心掛くるといえども、その道を明らめず。ここに薩陽鹿児府の満尾貞友という人あり、大乗院大師堂に一七日参籠して祈り誓いていわく、それ弘法大師は日本衆道の極意を極めたまえりと、一日に三度水にかかり不浄を清め祈りしに、七日に当たる夜、弘法大師若僧の形に現われたまい、汝よくも心掛くる(93)ものかな、たまたま人間と生まれて衆道の極意を知らぬはまことに口惜しきことかな、この世に人間の生を受けしかいもなし、山野に住みし猿さえも恋の心は知るぞかし、汝ここに参籠せしこと感ずるに余りあり、汝に一巻の書を授くれば以後他見するなかれ、と言いてかきけすごとくに失せ給う。この書知友のほか他見すまじきものなり。
 児様御手取り様のこと。一、児の人指より小指まで四つ取るは、数ならねどもそなたのことのみ明け暮れ案じくらすという心なり。一、その時児二歳の大指を一つ残してみな取るは、数ならぬ私へ御執心辱く存じ奉り御志のほど承らんという心なり。一、児の人指、中指二つとるは、衡咄申し上げたしという心なり。一、その時児扇の上に妻(この字不詳)を返し申すは、衛咄承らんという心なり。一、児二才の人指を取るは今晩、中指を取れば明晩、弁《(ママ)》指取るは重ねて叶え申すべしという心なり。一、その時児二才の中指、弁《(ママ)》指二つ取るは、人目を忍び、御咄幾度も叶え申すべしという心なり。一、児の弁《(ママ)》指、小指取るは、御咄申し上げたきことあれどもあまりに人目多きゆえ明晩も参るべしという心なり。一、支《ささ》わりあるときは二才の弁《(ママ)》指をとるなり。一、児の人指、小指二つ取るは明日の晩も参るべしという心なり。一、児二才の袂をひくは、必ず御咄に御出でなされという心なり。
 児様見様のこと。一、児の物言いたる跡に心を留めて見るべし。物いうこと静かなる児は情ある者なり。かようの児には、いかにも真実なりをみせて、少しのことに恥じ入る振りをして尋常に膝によりかかり、そのまま気をとり、児の知るように衣裳を剥ぐべき実なり。「白雲のかかれる峰の岩清水|終《つひ》には下に落ちにけるかな」。この歌のごとく白雲の掛かれるほど高き山の峰の清水も終には滝となって下に落つるなり。極意に取りてはいかに情なき児なりとも、こなたより仕掛くれば奉《(ママ)》るものなり。一、大体情なき児あり。かようの児にはうけつにこなたより仕掛け、閇など探り懐に手を入れ、次第に尻の辺に手をやり、その後衣裳をはぎ受け御(無?)詞にてするなり。「直なれる杉の梢をながむれば風ふくたびになびきこそする」。この歌の心のごとく心直なる杉なれども風強く吹けば杉靡くという心なり。一、心安き児にはこなたよりも心安く言い、柔らかにして心静かにして突くなり。「静かなる磯辺の月を眺むればわが心さ(94)へ静かなりけり」。一、武辺立てをする児なれば、こなたより児の武辺をほめ、ややもすれば武辺咄をし自然と掛け合うべし。「ふるとみば積もらん|《(ママ)》先に打ち払へ風ある松に雪折れはなし」。この歌のごとく雪松に積もれども少し積もりたる時打ち払えば積もらぬなり。荒き児には、こなたよりなお荒くすること第一なり。一、小鳥ずきの児ならば、われ好まずとも気にあうごとく小鳥咄を致すべく、学文好きの児には学文咄をしてのちするべきものなり。一、情深き児にはいかにも静かにして面白し。一、児の顔即座に見難き者は、その時自然に至鼻の毛をぬきすかして見るなり。
 尻突き様のこと。一、揚げ雲雀という仕様あり。これは雲雀のくわげん(管絃?)をいうて、空に揚がるごとく自然と入るる痛まぬ仕様なり。一、尻をするにつづ(唾)なき時は梅を思い出だし、切梅は常に用意持つべし。一、きゃたつ(脚踏とかく。『骨董集』にありしと記臆す)返しという仕様あり。これは児の二足をわが肩の上に引つかけ前よりつくなり。一、逆落という仕様あり。これは亀の尾よりそろそろと落とし入るること第一なり。一、夏ほりという仕様あり。これは堀川に尻をつけてひらひらとする体なり。小児の尻にても痛まぬ仕様なり。一、から込みという仕様あり。これはつづ(唾)を少ししめし、自然と入るるなり。大いに痛むなり(西川流の男色絵に、からこみにする画あり)。一、新|は《(ママ》れ仕出破穴という仕様あり。これは大なる閇をもち、つづを少しもしめさずふっすとぶっ込むなり。大いに痛むなり。
 日本衆道の開山弘法大師より伝受致し、弓矢夢にも他見出外あるまじきものなり。仍《よ》つて件《くだん》のごとし。
                   薩藩鹿府隠士 満尾貞友
 一、児の口細きが宜しく候。口広きはことのほか大尻にて御座候こと伝あり。
 一、色の少し赤きが宜しく、血なき尻は糞出で申し候。
 一、顔のなりふりにて尻は目前にて見、顔を一目見候えばすなわちその処しれ申し候。
 右三ヵ条を恐れ憚らず書き置き申し候。謹言敬白。  満尾貞友弟 吉寺兼倆
(95)  慶長三年三月吉日
 高野山服忌令。一、若衆忌十日、服五十日。一、念老忌二十日、服九十日。念老存生中他人へ靡かずして死去の節は服忌を請うべく、存生のうち余人へ靡き候えば服忌を請うるに及ばず。一、痛死忌五十日、服十三ヵ月。ただし閏月を除き、たとえば今年三月より来年三月まで若衆前方より念者あり、舶《(ママ)》来候えば半減服忌を請うべし。一、破穴、服五十日。一、一夜の情、服三十日。ただし尻のすと(盗人)殺するは一日の返《(ママ)》なり。尻という徒者《いたずらもの》が世に出でて多くの人をたぶらかすなり。
 右一巻は、十五歳以下の御覧御無用なる書物なり。
 衆道教訓。貴殿、児の取付様仕様を見るに、はなはだもって粗忽にして、ややもすれば道具を出し、またかの咄を仕かけ、力に任せて勇気を好み(候?)。これ血気の恋にして、喧嘩口論を恐れず、大師の好みたまわざるところなり。事に臨んで恐れ、謀を好んでこそ、滞尾貞友伝授せられしところぞかし。この以後□と□が教導するを守らるべく、左あるにおいては尻の果報人となるべきものなり。一、取付様仕様は、弘法大師より貞友授けたまいし一巻の書あれば委細ここに記せずといえども、初心貴殿かの書の奧意を知らず、文に泥《なず》まんことを恐れ、外に三条の両法、馭門当悟を授くるなり。終行積功の上、秘事人穴極意の昧感も伝うべきものなり。
 三条の両法。春。東よりくる春見えて、足引の山々のどかに霞み立つ柳に梅の匂い、なくうぐいすの面白き、これを児に譬えて言わばいかにも静かなる実儀の児なり。これを取り付くること、いとむつかしく、こなたよりもやはり春の心にて四方山の木の芽も春雨にいつ濡《うるお》うこともしらぬ様に取り付くべし。もし夕立などの様に荒くかかるは、必ず傘の様なる用心あるべし。春の様なる児は春雨の様に掛かるべし。夏。施《(ママ)》方やさても暑さやしばしとて、涼む蔭さえ夏草の凋れ果つる様なる児は、こなたがただ急にかかるべし。何の防ぎもなきに抱き倒し直に直に夕立の心なり。秋。名にしおう秋も半ばを過ぎにけり、四方の山のはのもみじ葉の様なる涼しさしみじみとしたる児は心定まらざる(96)ものなり。掛かりて落つると|気いそれで至《(ママ)》日に幾度も村時雨の降りたる様にかかるべし。(冬を脱せり)
 馭門当悟。一、これは取り付きてのち尻に閇の当たる心地にて、大穴、小穴、糞毒穴を知るなり。大小はそろそろと入れば痛み振りにて知るべし。小尻にて瓶の口に橙のごとくならば入るべからず。中穴はそろそろと入るべし。※[作を□で囲む]《(ママ)》穴にぬくることなかれ。出糞に驚くことなかれ。児をなかすることなかれ。鼻息を高くすることなかれ。糞毒に中《あた》ることなかれ。亀の尾の辺|竜《(ママ)》ありて股の方冷えたるは毒穴なり、突くことなかれ、唄うことなかれ。これを背かばたちまちうんころの用立あるか慎んで悟るべし。
 九月七日  衆道 九郎勝殿 銘々の従弟殿の従弟殿の錫《(ママ)》の従弟殿
 追って本文の趣き他見を免《ゆる》さず、万一相背く者においては、弘法大師文殊尻菩薩、別して二本松馬場金玉大明神閇罰尻罰、これを罷り蒙るべきものなり。仍つて件のごとし。
 弘法大師奥の手の心得のこと。一、そもそも尻の仕様、児の見様取付様のことは、わが先師満尾貞友の霊夢を蒙り大師より授かりたまう一巻の書あれば、ここに委しく記すに及ばず。ただ手の心得書き付くるのみ。今は貞友を贈り名とて馭法大仕という。一、尻をするに蒜の匂いあるは糞毒と知るべし。さようなときは仕舞いたる跡にて金玉を小便にて洗うべし。一、車|海老《えび》と春菊《しゆんぎく》を煮たる香するは閇のために薬となりて上穴なり、幾日も洗うべからず。一、栗の花の匂いするは驚くべからず、精水の匂いなり。一、仙香穴(細き穴?)は通和散を用うべし。一、大穴の屋形の馬場に棹をふる様にあらは、から込みたるべし。一、出糞尻と兼ねて知りたらば、いかにも静かに腰を遣い、急に押し込むべからず。一、毛尻をするにはふのりを用うべし。毛柔らかになりて毛ずり首尾の世話なし。一、糞出でて閇|親雲《ばいきん》上下城の舌(節《せつ》?)は紙にてよく拭い、その跡を焼酎にて洗うべし。ただし、親雲上下城というは頭に黄冠を戴くゆえなり(琉球の官位の名なり)。一、破穴をしたる時はそてつの葉の黒焼を付くべし。一、つづ(唾)なき時は梅干を思うべし。また常に懐中して置くべし。一、塩魚を食うたるときにうがいせずしてつづを付くることなかれ。尻にしみ(97)て痛むなり。一、九尻十二味ということあるとも、これは空説なり。実は十一尻十三味なり。然りといえども大閇は十一には無理なり。ただし、尻の穴は格別。
 右は御望みに任せて当座の愚老(存?)書き付くるものなり。極意の秘伝は不免のまま行積功の上|免《ゆる》し授くべく仍って件のごとし。弘門の弟子空言八百年偽笑先生、豚十三月四十八日猫の剋。
 衆道六年に児掛かり。兵士衆、俗に逃ぐる兵士を糞垂れと言う。これは衆道未練(本文には木燃とあり)の二才糞出の節たんな(ふんどしのこと)に糞の外れたるまま引き出して逃げたるにより名づけしなり。かようなことをよくよく心掛くるべし。末代に汚名を残すことなかれ。客あり、聞いていわく、衆道に損徳あらんや。答えていわく、三徳三損あり。いわく、願わくはこれを聞かん。いわく、それ三徳は鼻紙入にあり、三損は弥陀にもあり。三足は灯台あり、灯台の本暗くしてわが身の小を知らず。世俗の衆道を呼び損徳を語らんこと、鼻紙入、弥陀、灯台合わせて三々が九足くさきことなし。言わではいかで山鳥の尾の長月の長物語、聞き済まして聞きたまえ、と。鬱気を開きて心を慰む、これ一徳なり。いかなる愚者も人情を知る、これ二徳なり。三月のころとよ、春に詠《なが》めのさびしきに忍ぶにつたう軒の玉水の音もかすかにくるる日、徒然の折の楽しみには、これにますことよもあらじ。また三損というは、尻臭き手にて仏前に参りて拝をなさば弥陀三尊の罰を蒙り、後世尻地獄に落ち、※[尸/風]放(攻め?)にあうときく、これ二つ。無情無靡の児を無理に□せば喧嘩事口論となりて公の御咎目を蒙り、□かくや浮目を見ちのくの忍ぶ恋さえでき兼ねて鬱気|類《(ママ)》(頻?)怒の病を生ず、これ三なり。客これを聞きて、尻を叩きて笑いていわく、幸右衛門が焼酎辛くぼもつて糞毒を洗え、隆盛院の水冷たくばもって漬して閇の熱をさませ。終に去りてまた共に言わず。弘法大師一巻之書終。于時《ときに》薬尻三歳午大閇十三月三十二日。薩隅鹿府隠士、大閇尻之進。薩隅鹿府衆道山人大先生書写。
 
 幸いに写し了り候。時に昭和六年十月五日午前十時四十分なり。  以上
 
(98)          15
 
 昭和六年十月十六日夜八時出〔葉書〕
 拝復。九日出御状は十一日午前七時四十分着、十一日出御状は十三日午前七時四十分拝受仕り候。小生引き続き俗務に取り紛れおり、只今少暇あるに任せ、かの『一巻之書』の難字に関する御問にのみ答え申し上げ候。(1)北尾辰宣、ときのぶと訓む由に候。宝暦ごろの人の由。(2)大酒は興のさむることなれ〔傍点〕、とあり。小生ならば、大酒こそ〔二字傍点〕興のさむることなれ〔傍点〕、とかくところなれども、宝暦ごろは文法不穿鑿にてかく書いたものと存じ候。西鶴の文に……するこそ〔二字傍点〕口惜しし〔二字傍点〕、などあるに同じ。(3)馭門当悟の条、突くことなかれ、唄うことなかれ、その前文、鼻息を高くする〔二字傍点〕ことなかれ、に候。(4)※[尸/風]放、※[尸/風]は屁の俗字と存じ候。仏経にしばしば屁を下風と書ける例あり。尸は身を表わし、身より出す風の義で※[尸/風]、※[尸/風]放はヘヒリまたはヒリバナシと訓むべきかと存じ候。
 『吉備温故秘録』は小生見しことなし。珍事あらば写して御示し下されたく、小生またなにか傍注増加を申し上ぐべく候。              敬具
 
          16
 
 昭和六年十月二十二日夜八時半〔葉書〕
 拝啓。『備前温故秘録』は、小生知人(備中玉島辺)の知人にこれを蔵する方あり、百十何巻という大部の写本の由。これを借覧するは大事なれば、貴下この書を御通覧の上、若道に関する条々を何部の何巻の第何条(題号あらば題号とも)と御書き集めの上、御示し下されたく候。然るときは、小生その巻数と部門と題号を列記し、右の友人に送り遣わし、それぞれ抄記し送り越し貰うべく候。           敬具
 
(99)          17
 
 昭和六年十月二十四日朝十一時〔葉書〕
 拝呈。宮武省三氏より今朝来示に、「御照会のござひきまたむしろしきは、阪神地方にてもよく耳にする詞にて、これは老境に入りて妻を失うたる者へ後《あと》ぞえとしてきた女を俗にかく呼ぶものに有之《これあり》候。されば、『私が死んだら、あんたはむしろしき置くであろう』などと、家内より夫に冗談口を敲くこともあり。『あの後家さんは娘を連れてどこぞへござひきに在った』などいう世間口を耳にすることもあり。このごろ『夕刊大阪新聞』に連載の『小説金光伝』にも、ござひきという言葉がどこかに出ていたように記臆致し候。私の郷里高松市では、むしろしきまたはござひきとはいわず、あとぞえと申し候、云々」。これは貴地と同じくござひきという語が京阪にも存する証示にて、『甲陽軍鑑』のござ直しとは似て別なることながら、念のため申し上げおく。妾をもござ直しといい、小姓に限らぬことは前日申し上げしごとし。
 
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 昭和六年十月二十六日午後六時半出〔葉書〕
 拝啓。本日午後五時、二十六日出御状着、拝見。『吉備温故秘録』は岡山県に原本が四本ある由。入用のところあらば写しやるべしと申し越した人あるも、どこを写してよいか分からず。貴下御読了後、然るべき条々を大略御示し下されたく、小生、件の人を頼み、写し取り送り越し貰うべく候。支那書で御尋ねのものは、小生は見及びしことも聞きしこともなし。ただ竜子猶の『情史』は、すべて二十四巻、その第二二巻情外類(これは外色という語に基づきしものと存じ候)に、丁期を初めとし呂子敬秀才に竟るおよそ四十条の話を載す。この一巻は全くそのことのみを蒐(100)めたるものなり。しかし、『北史』に載せたる辛徳源と斐譲の間柄、また張雕武が少時その師王元則に愛されたことなどは、ずいぶん史家に知れ渡ったことなるに、さらに『情史』に見えず。したがって、あんまり完全なものにはあらず。小説にはずいぶん多く、少し長いものには必ず一、二事はあるが、小生は小説よりこれらを抜き集めた物を知らず候。           以上
 
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 昭和六年十月二十七日早朝〔葉書〕
 拝啓。前日申し上げ候御物〔二字傍点〕の訓のこと、『史籍集覧』の『中村一氏記』に、慶長十四年五月十一日、中村一忠、川狩より帰り、伯耆米子城中にて頓死す。ゴモツ(この書当時の文体にてゴモツと仮字で書きあり)の垂井勘解由十九、服辺若狭十八、両人ながら花のようなる子供、つむりを剃り衣《ころも》を着、十二日家中傍輩に暇乞うこそ哀れなり。盃をさし肴を挟み、御法度強く候えば互いに見るばかりにて、言葉をかわし申すことも御座なく、さてさて御残り多く御座候と申され候えば、互いに泪を流し申し候。十三日に殉死せしなり。この勘解由支配下に、一忠の草履取り、くいの助、かかりの助、はつしの助三人あり、はつしの助はよき児小姓に見え申し候、云々、とあり。草履取りに芙童を用うること、慶長年間すでにありしなり。
 下級の?童をワッパということあり。『異説区々』に、『明良洪範』の作者真田増誉は幸村子ともワッハともいう由、とあり。
 
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 昭和六年十月三十一日午後二時半〔葉書〕
(101) 拝啓。二十八(?)日出御状、「昨二十九日午後四時四十分拝受。倭船の炊夫をカシキとは当県諸処で申し候。これを喝食の転訛とは名説と存じ候。熊野勝浦港その他で売姪婦(舟饅頭)をサンヤレと申し候。大島辺ではピンと申し候。この二語、志州でも行なわれ候や、御知らせを乞う。また小生むかし勝浦にありしとき、碇泊の船夫等おどるときの唄に、「鳥羽のマトヤの、云々」(あるいはトマヤか、忘れたり)という冒頭でおどるを多く見たり。鳥羽とマトヤは別の処にや、またマトヤが鳥羽の一部分なりや。これまた御示しを乞う。『吉備温故秘録』は予約刊行のもの、大部と見え、厚き三冊だけ出板されあり。本日、岡山商業学校蔵本を桂又三郎氏世話にて借り受け、書留で郵着致し候。ちょっと見たるところ何ごともなきようだが、精読の上、かの件関係の条々は洩れなく写し出して御送り申し上ぐべく候。故にかかる多巻のものを故《ことさ》ら中山氏より借り受くることは御見合わせが宜しく候。             早々頓首
 
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  昭和六年十一月四日早朝出〔葉書〕
 拝啓。『吉備温故秘録』は、今まで出板の分、合巻にて三冊、大抵通覧せり。その元巻は、村や神社のことばかりで、貴下には用なし。亨巻は、仏寺や名所や城や古文書のことにて、城の部に浮田直家の寵童岡清三郎が脱籍して敵将三村に寵せられ、酔わせてこれを討ち取りしことあり。この話は『常山紀談』にすでに出でおるから、貴下にはさまで珍しからざらん。さて利巻には、岡山藩に起これる騒動、罪科、処罰等の次第を多く列しあり。その内には慶元以来元禄前の武家や町家に起これる、かの件よりの騒ぎを多く細述しあり。小説でないから文章は平凡なるも、事態ははるかに小説よりも詳しく、その時代の社会相の多分はこのことで占められありしを眼前に見る心地す。なかなか良き記事多く、小生一々写し差し上ぐることは不能なり。故に、貴下は中山君に申しやり、この利の一巻だけ借り受け、その条々を写し取られたくと御勧め申し上げ候。
(102) ついでに申す。『犯罪科学』一巻四号九九頁ののうさんの君は、小生は女と思う。(浄蔵は破戒僧にて、人見、猪野等(?)諸氏はその子孫、と何かで見たり。)また『大和物語』の、きたなげなる童をみそかに召し、事露われてその主なる御息所に聞こえ追われたとある、この童も御息所(皇妃か皇女なるべし)に仕えたとあれば、尊勝女が男童を使うたとは思われず、この童も女童なるべしと思う。また同号六七頁、貞慶のこと、『碧山日録』長禄三年の条とせるは四〔傍点〕年の誤りに候、すなわち寛正元年なり。カシキを喝食とはまことに然るべしと感服仕り候。右申し上げ候。        早々敬具
 
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 昭和六年十一月十日午前十一時
   岩田準一様                                                南方熊楠再拝
 拝啓。御申し越しの三宝院の男色絵のこと、只今三宝院にありというは蜂須賀家より返納せしものか、小説家が黒川博士と共に一覧せしとだけでは不確かに存じ候。小生古く高野山で見し諸宝、小生在外中に海外等へ售《う》られたるものはなはだ多し。それがまた今となりてはおいおい返り来るあり。いずれも贋作なり。大坂、奈良等にはそんな贋作の名工多く、真物とならべて真物よりもよく見える。何の来歴も知らざるものがそれを見て感心せりとて、その物が真物なる証拠にならず候。
 例せば、楠正行が矢尻で如意輪堂の壁に書きし「返らじと」の歌は、天誅組征伐の際、和歌山の津田正臣が奪い来たり(この兄弟|出《いずる》と正臣は自家が楠氏の後と誇称せしなり)、自分の家に旧く伝わりしもののごとくいいおりたり。すなわち博物局より出せし『国華余芳』にも、その写しを彩色して出し、和歌山県士族津田正臣蔵と題して出しあり。(103)それは出の子不肖にて死ならぬうちにどこかへ売り飛ばし候。しかるに、津田氏が亡びぬうちにすでに如意輪堂にはれっきとまた正行の壁書が出来おり、誰も彼も見たることに御座候。かかるものの真贋は博士などで分かるものにあらず。若江兼三郎とか山中三郎兵衛とか、商人でその手筋をよく明らめたるものが一番よく知りおることに御座候。小生の友人に、故生田某が彫刻工の系図をしらべ大著述をなせりとて、なにかその大著述が鑑定に間に合うよう誇称するものあり。実は古今華族の系図からして取るに足らぬもので、母は某内親王とか何の大守の第二女とか書きあるも、そんな女性は多くは虚弱で子を生まず。故に大工の娘や按摩の孫女などに御手がさわりて子を生むものなり。よって系図はただ表面を繕うての虚言のみに御座候。小生亡父は久しくそんな方の商人にて、目に一丁字を解せざりしが、彫工の鑑定などははなはだ上手なりし。大抵彫刻の名人などは素姓卑賤にして苗字もなきものなり。自分すでに大放蕩の遊び人なれば、その子は多くは監獄行きして亡び候。それゆえ、そんな名工は後世よりこそ藤原氏とか萩原氏とか行々《ぎようぎよう》しく称えるものの、実は無宿同前で、片目の八《はち》とか欠唇の金《かね》とかで通称するものに候。そんな物に何の系図のあるべき。
 大抵奸黠なる商人はいろいろと学者などを傭い、名器古什の名称をきき合わせ、右様の名工に注文していろいろの複製また偽品を誠しやかに作らせ、御馳走披露などをして博士などいうものを取り込み、よい加減な来歴を述べると、贋品が一朝にして名器古霊宝の伝来正しきものとなり了るに候。(たまたま博士などがよく鑑定し中《あた》ることあり。それは若江氏ごとき人に聞き合わせて後の鑑定に御座候。)故に誰博士が何と言ったなどは一向あてになることに御座なく候。そんなものの正偽等はわれわれの関することにあらず。ただ大体において、詞書が古いものなら古いと、その時代の他の諸文献より推して、正しきものらしきは信じ、偽りらしきは信ぜず、として可なり。貴下等のなすべきところこれに止まると存じ候。大江山鬼神を頼光に誅伐せしめしときの勅書の札とかいうもの、世に伝わり、諸書に出でたり。うそということは、その文句がその当時に匹合せざるで分かる。また正成が河内の民に籠城用意を命ぜし文(104)書というもの、前年出でたり。その内に、「持参〔二字傍点〕すべきものなり」という文句あり。持参すという詞は、そのころの文献には外にみえぬようなれば、これは捏造品とすぐ分かり申し候。
 『児草紙』ごときも、その文句を按ずれば、果たして元亨ごろのものか否か分かることと察し候。
 小生菌類の写生記載はなはだ多忙なれば、右のみ申し上げ候。  早々敬具
 
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 昭和六年十一月二十七日夜八時四十分より認
   岩田準一様                                              南方熊楠再拝
 拝啓。本月二十三日朝八時二十分、書留小包にて兼ねて恩借の『稚児草紙』一冊御返し申し上げおき候ところ、二十六日朝御査収下され候由の御状、今夕四時四十分拝受、安心致し候。右の草紙はずいぶん誤写もあるらしく、また本来あまり妙文にも無之《これなく》、別段これと言って注するほどのことはなかりしゆえ、ただ一、二ヵ処へ書き入れ致し置き候。※[弓/二]の字はトウとよみたるとジクとよみたると二様あるよう、なにか二種の別々の書にて見たること有之《これあり》、その一は馬琴の書きたる『燕石雑誌』か『烹雑記』か『玄同放言』かと覚え候も、ちょっと調べしところ見当たらず、そのうちとくと支那書に就き調べて申し上ぐべく候。また、かの草紙に「毛ぎわまで突き入れた」ということありしよう覚え候。これは女の方には十分できることながら、男の方には必ず不可能のことに御座候。このことに付いて西人の論ぜしものを写しおきしが、只今菌学精査のため室内に書籍を取り出すことはならず。そのうち申し上ぐべく候。これに反し、くじりながら腕まで深く入れたということは、虚譚のごとくなれど、これは絶無のことにあらず。西洋にも太きガラスびんなど入りたる記事は有之候。医家の証明もあることゆえ虚言にはあらず。
(105) 小生、今日岡山市の友人より『岡山伝説集』というものを贈られ候。その内に次の一項あり。いわく、久米郡の岩間《いわま》山本山寺は郡内一の巨刹である。往昔この寺の梅本坊に某と呼ぶ児僧〔二字傍点〕があった。頭顱は円《まる》め身には世を厭う墨染の衣を纏っているけれど、青糸の眉、臙脂の唇、見るからに美しく華やかな僧であった。ことに春知らぬ身の崇高さ、無邪気さ、女人禁制の僧界、それとなく言い寄る大僧小僧が尠《すくな》くなかった。なかにも備前国二国寺の僧何某は、夢幻にも忘れがたく、しばしば艶書を送って切なる心を訴えた。児僧もついに厚い情を拒み兼ね、いつのほどからか慇懃を通じるようになった。一度身をまかせてみれば、また一入《ひとしお》物の哀れを覚えるが人の情である。児僧もみずから進んで危い逢瀬を窃み楽しむようになった。ある日、二国寺の僧から手紙が来た。某の日、備前境の某の山で、絶えて久しい逢瀬を楽しみたいから、某の刻までにぜひ来ていてくれとの意味が認《したた》めてある。児僧に異議のあろうはずがない。定めの日の来るを楽しみまった。やがて約束の日がきた。児僧はいそいそと梅本坊を出で、荊棘に衣の袖をさきながら、山道伝いに全間《またま》山まできた。寺からおよそ二十町ばかりの処である。この時、日がようやく暮れ掛かって冷たい山風が雪をさえ交えて児僧の頬を冷たく打つ。雪は本降りになった。寸二寸みるみるうちに道は真白くなった。翌朝、土地の者がここを通り過ぎるとき、雪の中に冷たく死んでいた児僧の姿をみた。美しかった昨日の顔色は、再び見るに由なかつたが、妙な唇には微かに微笑の跡を残して、手には大きな石を抱いていた。村人はこの地に児僧の屍を埋め、抱いていた石をその上においた。それをいつのほどからか、この石を児石《ちごいし》といい初めた。
 これはなにかの原書にありしを編輯人が和らげ書いたものと見え候。しかるに、児僧とは妙な詞なり。児ならば僧ならず。僧となりたる上は児にあらず。何のことかさっぱり分からぬ。いわゆる若僧《にやくそう》のことかと思えど、その石をちご石と呼んだとあれば、僧ではなかったように思わる。とにかく編者へ聞き合わせ状を出しおき候。が、近年古文書や旧事を知らぬ人々が、いきなりざっばにいろいろの珍詞を作るには驚き入り候。貴下は何かの書で児僧という語を見付けたことありや。沙弥(小僧)のことを児僧とかきたるかとも察し候。
(106) 大正九年、小生、高野山に上り、一乗院に宿れり。毎度給仕に出る小僧は熊野|義雄《よしお》といい、比類なき美少年、十六歳なりし。十年冬にまた登山して同院に宿せしに、この者依然あり、時に給仕に来たる。一日、小生、金剛峰寺に法主を訪い、人を遣わし、かの小僧を呼び法主に謁せしむ。法主|徐《しず》かに貫籍を問うに、美妙の声をはり揚げて、尾張国海東郡――村――院――熊野義|熊《〔ママ〕》と名のる。その体まことに優美なりし。いずれも作法のあることと見え、かかる中学程度の少年僧が法主の面前に出で姓名を問わるるなどは一生の規模とするところと見え、大いに一同に羨まれたらしかりし。いかなる由緒、誰人の子ということを知らぬうちに小生は下山し、その後再び登山せざれは今はどうなつたか知らず。とにかく小僧にもなかなかの美僧があるものと感心致し候。
 御下問の心中死云々のことは小生にも分からず。ただ、いささか気付きおりたることは、『見た京物語』に、相対死多くあり、心中なり、別けて聖護院森という所にてたびたびあり、と出ず。また『翁草』一〇四巻に、「相対死、世俗に心中と名づく。古えはあまり沙汰なきことなり、云々」。いずれも相対死=心中、二者同一事と言えるがごとくなれども、小生考うるに相対死は合意の自死ということにて、あながち恋情に限らず。よく軍記にある落城の際夫が妻を刺殺して切腹して果て、また貧士が暮し向きにこまり妻子を殺しみずからも死する、(合意の上ならば)相対死なり。(故に、夫婦に限らず、父子の相対死もあるべし。)心中というは恋情の上よりこの世で添い遂げ得ぬゆえ未来で添い遂ぐべしと望みを托し相対死をするやつなり。故に相恋の男女(また男色の場合は念者と少年)に限る。しかして、お千代半兵衛ごとくれっきとした夫婦でも、暮し向きよりは、この世で面白く夫婦として睦み得ぬをはかなみて自殺するは、やはり心中と存じ候。もっとも事情を研討すれば一対の男女が相対死また心中死を兼ねたもの多きより、この二つを混同するはもっともなことなり。(三田村氏説に、有名な心中死は多くは財用に迫れるより起これるものの由。)
 『女大楽宝開』の若衆仕立様のことは、その本出で来たれり。そのうち写して差し上ぐべく候。
(107) まずは右申し上げ候。
 
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 昭和六年十一月三十日早朝〔葉書〕
 拝呈。小生は只今いろいろと大多忙なり。そのうちに只今ちょっと手当り次第書籍を調ぶる必要あり。小倉旧藩士小島礼重(文化十二至天保四年間の人)の『鵜之真似《うのまね》』を見るに(大正十五年三月、小倉市室町五十番地静観堂書籍部発行本)、一四七頁にいわく、古え御小姓の面々は前髪長し。しかるに向坂何某とて、ことのほか美少年にてありし、不幸にして早く死なれしに、その後仰せ出でられ、前髪を御覧なされ候えば向坂のこと思い出だされ御難渋の由にて、いずれも元服致し候様仰せ付けられ、元服致しける由。これより前髪は止みし由。向坂氏は山田吉左衛門家より分かれし由。委しく知らざるが、開善寺に墓あり、静照院様の御代の由。
 熊楠いわく、静照院とは小笠原家弟二十一世、名は忠雄といいし人なり。二十四世忠苗(静国寺殿ともうす)は、文化五年六十一にて卒せしより推すと、宝暦・明和間の人くらいに当たると察し候。と書き終わりて『続藩翰譜』を見るに、大あてはずれで、忠雄は享保十年七十九歳にて卒せしなり。右ちょっと珍しきことゆえ申し上げおく。    不一
 
          25
 
 昭和六年十二月二日夜七時前出〔葉書〕
 拝復。三十日午後一時出貴状、今朝(二日午前八時十五分)拝受。児僧は児法師を直訳したものならんとの御説もっとも千万と存じ候。小生これまで気付かざりし。しかして、児法師という語は徳川氏時代より前にもあるよう記臆(108)致し候。見当たらば申し上ぐべし。
 毛際まで云々のことは、受け身にあるものの後庭外部の構造がすでに婦女と異なり。故に痔患等にてことのほか膨れ出であるにあらざる場合は、決して二インチ以上も入ることなければ、毛際まで密着するはずはなく候。下淫上烝を好み云々のことは、錦城はただ女色の上に述べたるものに有之《これあり》。しかして、錦城のこの言はよほど以前より人口に膾炙するところで、今さらかかる誰も彼も知ったことを、小生初めて気付きたるごとく述べられざりしは幸いに御座候。しかしながら、錦城のいうところは女のことに止まり、他の方には果たして然りや否が大なる疑問にて、身分のおのれより下なるものに言い寄られて烈しくこれを拒み殺傷事件を生ぜし例は史書に多く見え候。しかしておのれより下なるものに聴《ゆる》すものに至っては、その者の情緒がすでにそのことに慣るるのあまり、婦女化の傾向を生じたるしるしにて、心理学上興味ある件と存じ候。(八文字屋が書きたるものに、外色には娼婦と異なりふる〔二字傍点〕ということさらになし、とあり。これらも男娼と女娼との間に心理上の径庭ある一証にて、はなはだ考察を要することに候。)
 三田村氏の『未刊随筆百種』は小生見たことなし。小生は毎度「西鶴輪講」を助けおれば、申しやればくれるかも知れねど、すでに同氏よりいろいろの著述をもらいあり、近来自分多忙にてあまり氏の助けをなし得ず、故にこの上要求もなしがたし。貴下御所蔵ならば、二、三冊ずつ御貸与願い上げ奉り候。小生は半月ほどのうちに抄して御返し申し上ぐべく候。倉中に生じ書籍を食う虫は、拙方にも十一年ばかり前より生じ候。これは少々危険ながら倉をしめきり硫化炭素を蒸発せしめ、卵までも燻殺するより外なし。その間近処で少しも火を弄ぶことならず。また一度根絶しても四、五年も経れば、また虫が生じ申し候。                    早々敬具
 
(109)          26
 
 昭和六年十二月六日早朝〔葉書〕
 拝復。四日出御ハガキ、昨夕四時四十分着拝見。お〔傍点〕――と称することは小姓に限らず。小児また少年を愛して呼ぶときの詞らしく候。例せば、信長の幼時(あるいは信孝?または信雄?)お茶筅と呼びし由、何かで見申し候。『川角太閤記』四に、秀次公の若君三人、おせん様日比野下野守の息女の腹、お百様は山口少雲の息女の腹、お十様は北野松梅院殿息女の腹なり、とあり(いずれも男児なり)。『信長公記』一二に、天正七年四月十八日、塩河伯耆守へ銀子百枚遣わされ候。御使、森乱、中西権兵衛、云々。巻一五、天正十年正月二十六日、森乱御使にて岐阜御土蔵に先年蔵せし鳥目を処分することを信忠へいいやる。二月八日、紀州にて討ち取りし千職坊の頸、安土へ持ち来たりし斎藤六太夫に、森乱使にて小袖と馬を賜わる。これら蘭丸を乱〔傍点〕と約《つづ》め呼びしなり。故に信長よりは蘭〔傍点〕とよび、側のものどもよりほお蘭〔二字傍点〕と愛敬して呼びしことと察し候。長谷川竹、溝口竹、三浦亀なども、側のものどもよりは愛重してお竹、お竹、お亀と呼んだらしく候。もっとも、のろけ切ったときは主君よりもお〔傍点〕を副えて呼びしことと察し候。長谷川は後に東郷侍従秀一と申し、朝鮮陣に卒せし人。溝口は後に伯耆守秀勝とか宣勝とか申し、今もその子孫あり、華族たり。三浦は直次とか申し、家康の  娶童たりし。これも子孫華族にありと記臆致し候。こんな例は外にも多くあり(『武徳編年集成』諸処に見え候)。すべてお〔傍点〕の字を添うること、貴人の幼息や寵童を愛敬して下々より呼びしことと察し候。やがてはのろけ切った主人も、その通りの称呼を使いしことと察し候。
 
          27
 
 昭和六年十二月十日早朝出〔葉書〕
 
(110) 拝復。五日出御状は七日朝八時二十分拝受。『時頼百首』は小生見たることあり。別にこれというほどのことなし。それより面白きは『正月揃』というもの(帝国文庫の『珍本全集』また『日本随筆大成』にあり)の内にある少年を思う賦のごときものに候。
 前日返し申し上げ候『稚児草紙』の内、※[弓/二]の字の小生の書き入れは誤りおりし。只今『五雑俎』(明の謝在杭の著にて、一六一〇年ごろ書きたる証あり)巻一三に、道書に一巻をもって一※[弓/二]となす、※[弓/二]は音軸、今人すなわちこれを巻と謂うは非なり、と見え候。宜しく御正しおき下されたく候。
 只今座右になきが、小生よく記臆しおるは、馬琴の『夢想兵衛蝴蝶譚』、色欲国の初めに色事の諸種を列した中に、夷《えびす》は男色という語あり。『日本随筆大成』に収めた小宮山昌秀の『楓軒偶記』巻二に、「この間、僧の陰に妻あるを名づけて大黒という。これは京に夷町あり、男色を売る所なり。これに対していうなるべし」とあり。京に夷町という所ありや。また宮川町との同異如何。
 また串童《かんどう》を仕立てる家を関東屋ということあり。小生蔵する祐信の画らしき、やや小方の横本に、梅若丸らしき男児を忍《しのぶ》の惣太と覚しき男が犯さんとするに、その童、後を顧み手を合わせて宥恕を乞う体なり。側にその男の妻らしき者がこれを諌止する様子なり。さて、その男の詞書に、「これより手を入れて、あとで関東屋へ売ってくれべい」とある。               早々以上
 
          28
 
 昭和六年十二月十四日早朝三時ごろ認む、夜明け出す
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
 
(111) 拝啓、八日出御状は十日朝七時五十分、書留小包一は十一日午前十一時四十五分拝受。当地急に寒風烈しく、小生手自在ならず、只今まで御受け遅なわり申し候。『最明寺殿百首』は小生見しことあり、また抄しおきしと覚ゆるもたしかならず。いろいろと探せしも只今見当たらず。故に今夜はただ自分思い付くままに御返事左に申し上げ候。
○文殊観音さては天神。天神はむろん菅神北野のことと存じ候。
○神仏多き中にも山王は児をまつりの神とこそきけ。児をまつ〔傍点〕りにては意通ぜず。これは児をまも〔傍点〕りと存じ候。一児二山王ということ、種彦の『柳亭筆記』に、一児二山王とは叡山にて児を尊むよりいい初めしなり、とあり。ここの意味はそれと異なり。和歌山市等で古来山王は嬰児を守ると言いつたえ、山王に縁ある猴は安産のまじないになると申し候。小生幼時和歌山郊外に小さき山王祠あり。それをのぞくと瓦焼きの猴像をおびただしくまつりあり。安産を祈るもの、これに詣で、番人に頼み件《くだん》の猴像を一つかりうけ、帰りてまつる。さて子産まれて七日めに、その子を抱き賽礼に詣づ。その節瓦工方にゆき、別に新しき猴像一つ買い受け、もと借りし像とともに返し納む。故にその小祠内には猴の像ふえるのみで減ずることなし。数年前本山桂川の出せし『土の鈴』などいう風俗雑誌にも、その猴の像の写し出であり。小生もなにか補説を出したることありし。猴は至って産の安きもの、また痘瘡の軽く済むものという。これに加えて山王に産王の音あるより、山王をまつれる叡山に児を尊びしことなどに付会して、山王は児の守り神など言い出でたることと存じ候。すなわち僧徒が寵愛せし稚児と子供のちごを混一同視せるなり。
○歌物語、さてはゆひすて。ゆひすて〔八字傍点〕は言ひ捨て〔四字傍点〕にて、言下に面白く人に感ぜしむること。不意に吐く秀句をいうことと存じ候。
○けら腹立てばつぐみ喜ぶ。『和漢三才図会』五三に、「按ずるに螻蛄《けら》は能く小鳥の病を治す。?《うぐいす》を養う者、もし煩《わずら》うことあれば、すなわち螻蛄を取って餌とすれば即時に治して、神効あり。諺に、百舌鳥《つぐみ》喜べばすなわち螻蛄|憤《いか》る、と謂うはこれなり」。それより先にできた『本朝食鑑』六には、「鶫《つぐみ》は性好んで螻蛄を食らう。故に、これを捕うる人、(112)まず多く竹木を削り、黏《もち》を塗って?《はご》となし、もって樹枝に夾《さしはさ》み、あるいは羅《あみ》を林間に張る。糸を用《も》って螻を繋ぎ、竹竿に着けてこれを掉《ふ》るときは、すなわち群鶫、螻を見て相集まり、竟《つい》に羅・?に罹《かか》る。これを俗に鳥馬《ちようま》を舞わすと謂う」。『和名抄』に馬鳥をつぐみと訓じあり。『本朝食鑑』の著者人見必大の説に、「今俗、馬鳥を誤って、もって鳥馬と称す」。博文館の『気質全集』の『世間学者気質』二巻二章にも、けら腹立てりゃ、つぐみ喜ぶ、とあり。小生は幼時よりかつて聞きしことなき諺に候。
○へたてなくなにとむすはん中なりと、おとこなからんところへはいろ。この歌は誤写と見え候。十分に分からねど、いかに縁濃き中なりとも男なきところへ入るなかれの意味らしく候。
○香はまた数をたしなみきくぞよきされども香炉ひさにとどむな。ひさは膝と存じ候。数回きくはよけれど、おのれの膝の上に永く留めず、次の人にまわせとのこと。
○髪けづり足手つまりを尋常に。宗祇『児教訓』にも、髪ゆはず手足洗はず爪きらず、とあり。つまり〔三字傍点〕はつまそろい〔五字傍点〕(爪揃い、爪の世話ということなり、爪をよくきれいにしおくこと)のことと存じ候。爪揃いを爪りとつめたるなり(つまそろい−つまそり−つまり)。爪揃い尋常にということ、西鶴などにもしばしば見え候。
○湯屋風呂。御察しの通り、浴場浴室のこと。『甲陽軍鑑』巻九下、天文十四年の条、「風呂はいずれの国にも候えども、云々」。京伝の『骨董集』上編下後巻の二三条をみれば、文治・承久ごろの書『今物語』、ある僧板風呂に入りしことあり、また文永三年の『日蓮御書録』、『太平記』延文五年の条、風呂なる詞あるを引けり。鎌倉幕府の初時すでに風呂なる詞ありしなり。浴湯のことにて、茶の湯など初まらぬときのことなり。
○こころにはそきけぬ人の来たるとも、云々。そきけぬ、ちょっと分からず。誤写なること無論。
○あまり人□しからずげに近くは。口はけ〔傍点〕なり。けしからずげに近くは、なり。
○髪乱れ片肌ぬぎて物きかで礫を打つはえせ児のくせ。印地打に限らず、石のなげあいなるべし。宗祇の『児教訓』(113)にも、用にも足らぬ柿の核、胡桃の皮をとり集め、向いの人に投げ付けて、かなたこなたへ投げ廻し、などあり。
○爪きらず額もとらず鉄漿付けず、云々。足利氏の世の書『世鏡抄』に、主君より勘当受けたるうちは鉄漿付けずに引き籠りおれ、ということありしと存じ候。
 この『最明寺殿百首』の内に、いくたびか思ひ定めてかはるらん頼むまじきは心なりけり、という歌は、『薄雪物語』とか『新薄雪物語』とかいう古本(小生の亡父の生家旧蔵)にありしを、明治十九年夏その家にて見たる内に出でありし。この『百首』より採ったものか、また以前一汎に知られたるを双方共に録入せしものか。
 以下、『細川殿百首』。この細川殿とは頼之のことなるべし。賢相として以前はなはだもて囃さる人なり。
○まちけぬき。これは分からず。
○油断すな主君にくてき火の用心、わか女傍輩貧のぬす人。にくてき〔四字傍点〕は悪敵(?)、自分を悪む敵。わか女は若き妻(『古今著聞集』鳴門物語の条にあり)。傍輩は自分の同僚。いずれも油断のならぬものといいしにて、わが女傍輩《めほうばい》にはあらずと思う。男が女を傍輩とすることなく、女が男を傍輩とすることなければ、女傍輩の男傍輩のということなく、男の傍輩はいつでも男、女の傍輩はいつも女と限るべし。
○何なりとせめて一つの芸あれやにがひしやくにもとりえとぞ思ふ。畔田伴存の『古名録』四三に、『本草類編』、苦瓠、和(名)仁加比佐古、今名にがひさご。ひさごは瓠、乾瓢《かんぴよう》に作る。甘し。苦味のものは苦瓠、ひょうたんなり。懸瓠と言ってこの形のものあり、これを二分して柄杓《ひしやく》とす。瓠を和名ひさこ。さて『本草綱目』に、「木にてつくれるを杓といい、瓠にてつくれるを瓢という」とありて、瓠で作りし杓は瓢というべく、杓というべからざるを、ひさこのさこ〔二字傍点〕がたまたま杓《しやく》と近きより、柄杓と和製の文字ができ、ひしゃく〔四字傍点〕とよませしなり。後世矢の羽にひしゃくはな、またひさこはなというあり、(114)と『伊勢雑記』にあり(共に瓠の花のごとき白色の斑をいう)。もってひしゃく〔四字傍点〕はひさこ〔三字傍点〕に同じきを知るべし。されば今この歌ににがひしゃく〔六字傍点〕とあるは、にがひさご、苦瓠なり。苦瓠は食用に堪えざれども、図のごとき長き頸あるときは柄杓に用い得、すなわち取りどころがあるというなり。取《と》り柄《え》あるということ、この地方で今も取りどころあるの義に通用致し候。かの男は大酒家ながら能弁ゆえ取り柄があるなどいうなり。
○万能の本意なりける読み書きはそうぞく〔四字傍点〕共にまづならふべし。僧俗共に〔四字傍点〕に候。当時僧でなければ読み書きは無用などいいしなり。
○こうぎをば若きときより習はせよにはかに成らぬ物とこそしれ。講義でなく公儀なるべし。官事なり。若いときより役所むきのことを習わせねば、にわかには事なれずして成らずというなり。
○見分くべし、けなげなものとたくらたと臆病またうと〔四字傍点〕これぞまぎるる。たくらた〔四字傍点〕はたわけもの〔五字傍点〕なり、狂言などにしばしば出ず。またうと〔四字傍点〕は者《もの》の誤写?
○知音せよくすし物しりかうの者、云々。かうの者、剛の者、また功の者(多分この方)。似たること、『徒然草』にも出ず。
○吹く笛のあながちさうに物をみてねさしをするぞふきやうなりけり。あながち〔四字傍点〕の穴に笛の穴をいいかけたり。あながちそうは漫然ということなるべし。何の審視もせずに物を漫《みだ》りに評《ねざし》するは不器用なりということなるべし。不器用を吹き様にいいかけたるなり。
○何ごともわれしりかほに、云々。つめたるつめたるは誤写なるべし。分からず。
○世の中のものはしいふなちやうりやうのその戒めののりもこれなり。みだりにものいうなと張良が戒めたなどいうこと、そのころ行なわれし話と見ゆ。張良の兵法に長ぜるを剣術に長ぜりと心得た世の中ゆえ、いろいろのことを張良に付会せしなるべし。
(115)○数万騎のそのつはものの内にても心油断は敵とこそなれ、数万騎の軍兵に衛らるるとも心油断せば従兵みな敵となるというなり。
○敷島の道を知らねば児若衆しういんしてもむやくなりけり。しういん〔四字傍点〕は執心かと思う。
○ぶげんなる人さへあしきいたかぶり〔五字傍点〕ましてぶんなき人は見苦し。ここにいえるいたかぶり〔五字傍点〕は威高振りなるべし。威丈高になるという略と存じ候。『職人歌合』などにいたか〔三字傍点〕という賤民あれども、そのこととは覚えず。
○喜べやこれしき者のまんしゆより。まんしゅは万銖か。何に致せ多量なことと存じ候。
○ろさいして世渡る人の立ちのきてそしるはわれが恥とこそなれ。ろさいは邏斎なり。物をもらいあるくことなり。後世、弄斎節というも、その輩の唄いし節に候。
○いくさせばけなげな〔四字傍点〕者のそばにいよ、云々。これは貴察通りけなげな〔四字傍点〕なり。
○児法師、女や尼の手柄立て。どうもこの児法師は小僧のことと存じ候。この詞の外に小僧に当たる詞古くみえず。
○やふししき〔五字傍点〕もの知顔の|いたかふり《〔上に注せり〕》。やふししき、分からず。
○ときぐひにゆくまで僧の長ふせり人のやうなる牛とこそみれ。これは仏典にあることなり。長々しきゆえ只今尋ね出だし得ず。小生何かに書いたことあり。小生自分が幼時よりこのくせあり。今に牛のごとく何度も何度も食ったものを出して食う。かようのもの西洋にも希《まれ》にあり。釈尊の後継と衆僧に望まれしを辞退せし牛首栴檀《ごずせんだん》という尊者もこの癖ありしという。小生幼時、ある村辺にはかかるものを牛長者《うしちようじや》といい尊敬せり。寝ておって食えるという咄なり。
○ふけんそう、またはしんるいようふつし。これは全然分からず。
○仏事とてけんけう僧をよばんより、云々。検校僧? 分からず。
○人はたたいしやうの二つきりこせう一期の大事ここに極まる。これは全く分からず。
 右、智恵のありたけを揮い、註し申し上げ候。
(116) 一月の『犯罪公論』に、一六八−一六九頁の間に、伏字のみながら婦女を鶏姦したようなところあり。伏字ばかりで何とも分からず。これは編輯者に乞いて、その稿を写し置かれたきことなり。この婦女の鶏姦のこと、小生かつて『此花』にかき、また『続南方随筆』に出したれど、本邦には徳川氏以前の文献にはなきようなり。『逸著聞集』に、大江為武の娘が夫に鶏姦されんとして、法典を引いてこれをせめしことあるも、こは著者山岡明阿の全くの戯作で、何の拠《よりどこ》ろあることにあらず。とにかく女を鶏姦した記事は徳川氏以前にはなきようなり。また股間に淫することは仏経にははなはだ多きも、これまた徳川氏以前の文献にはなきように候。笑本には婦女の後庭を犯すところは少々あるも、男の股間を犯すところは見たことなく、女の股間を犯すところは、為永の小説を春本化せるものに、「秀八(?)義理に迫りて藤兵衛に素胯をふるまう」とかいう一図あるを識るのみ。
 種彦の『柳亭筆記』「一児二山王」の条に、『狸状』一名『少人申状』万治年印本というものを引く。木下長嘯の著らしく候。貴下はこの書を見たことありや。『若気勧進帳』か『滑稽詩史』、また『甲子夜話』に、狸が少年に化けて僧に破穴され死んだ咄あり。そんなことを述べたるもっとも古きものかと存じ候。(狐が少年に化けて破られた噺は、『夜譚浸録』か『聊斎志異』にありしと存じ候。)
 『随筆未刊集』は小生すべて民俗学上のことを抄したくての望みなり。のちのち御購得ありたる節、少しずつ御貸し下されたく候。
『最明寺百首』、『細川殿百首』は小生写し置きたく候付き、今数日御貸し置き下されたく、用済みの上はさっそく書留にて御返送申し上ぐべく候。
 まずは右申し上げ候。               早々敬具
  題簽は、小生只今眼宜しからず、手も不自由ながら、余儀なき御頼み、別段むつかしきことにもあらざれば、自分の蔵書に書き付くる同前に書き付けおき候なり。小生は拙筆なり。これは久しく海外に留まり和漢の字の用い(117)どころなく、別段習熟せざりしによる。
 
          29
 
 昭和六年十二月十七日早朝〔葉書〕
 拝啓。『百首』合本一冊写しとり候付き、本日書留郵便小包にて御返し申し上ぐべく候。十四日昼出御葉書は昨日午後二時五十分拝受。えびす町のこと御答え下され難有《ありがた》く大いに相判り申し候。過日『民俗学』へ質問を掲げおき候に、誰一人答えしものなし。貴答を一月か二月号に載せるよう申しやるべく候。『最明寺殿百首』、末近きところに、「盤の上同じ遊びと思ふともおりは双六さして好むな」とあり。『嬉遊笑覧』四に、「おりはという名は古き物にはみえず。貞徳が『油渣』に、一二一二と文字ぞ見えける、おりは打つ賽に将棊のさまをして。その他『古今夷曲集』、三吉野の花をおりはのこつちめを主ぞ打ちぬる丈六の堂」。よって考うるに、このおりはという詞あるより、この『百首』も大抵徳川氏の初期ごろに作られたるものと存ぜられ候。        早々敬具
 
 
(118)   昭和七年
 
          30
 
 昭和七年一月八日午前九時出〔葉書〕
 拝復。六日出御状只今拝見。高野山のむかしの地図は、『仏教大辞彙』の高野山の条に入りあり。また『紀伊国名所図会』第四編にも出でおりしと覚え候。なかんずく『紀伊国名所図会』(牟婁郡を除き(これは出板されずに終われり)すべて六編二十三冊あり)のもの、もっとも詳しと存じ候。小生、二、三日中にしらべ見るべく候。『未刊随筆百種』は全二十巻各冊売価三円送料十二銭と、東京早稲田下戸塚四四八大観堂書店より咋朝送り越したる去年十月発行『円本全集販売目録』九三頁に出でおり候。その書店に取り揃えあるように候。右申し上げ候。      敬具
 
                                                  31
 
 昭和七年一月八日午後九時出〔葉書〕
 拝啓。高野山の全図は、大正三年六月冨山房発行『仏教大辞彙』巻一、一二三八頁の次にあり、文化十年の版本に拠る、とあり。しかし、きわめて略図で、寺院の図多くあれども一々寺名を付しおらず。故に何とも詳しく知るに由なし。小生記臆す。『紀伊国名所図会』第四編には、数葉に捗りて山の全図を詳しく一々寺の名を出しありし。これが一番宜しと存じ候。只今も探し求むれば山の全図あるべきも、寺坊多く廃止合併されたれば、旧日の十が一も留め(119)ず、享保ごろのことは一向知れずと存じ候。小生は以前高野山の旧図を多少持ちおりしも、和歌山の生家におき留め、今はどうなったか久しく行かぬから成り行き分からず候。まずは不十分ながら右御答え申し上げ候。   以上
 小生は、明治十九年洋行の前にまいりしのち久しく無沙汰し、大正九年と十年に二度詣り候。大いに旧日とは変わりおり、只今は一層かわりたることと存じ候。故に旧日のことを見るには、右の『紀伊国名所図会』の図に拠るの外なしと存じ候。これには詳しく解説出でおれば大いに往時を見るの便《たよ》りとなり候。
 
          32
 
 昭和七年一月十四日午前一時より書く、夜明けて出す
   岩田準一様
                   南方熊楠再拝
 新禧申し納め候。元日に貴ハガキ一枚、また八日に御状一拝受、難有《ありがた》く御礼申し述べ候。小生は毎冬脚はなはだ悪きも今年は左もなくして越年し、また毎年家内に病人絶えざるも、今年は(悴のみは今に平治せず入院中なるも)妻と娘健全なるは幸いに御座候。されど、例によって仕事は絶えず、昨年十一月より今に顕微鏡を使いおり、ようやく昨日より休み候も、それも他の用事あってのことにて、その用事をすませ、また明日より顕微鏡にかかる。
 ちょうど一昨日倉に入り標品を調べ出すうち、かの『女大楽宝開《おんなたいらくたからがい》』を見出だし候付き、今夜取り出し、これより要処を写して明朝差し出し上ぐべく候。
 この書は安永ごろの物らしく候(これは宮武外骨氏説)。小生在英のころ、パリの故林忠正氏店より買えり(五十円ほどに)。元来貝原篤信先生の『女大学』を注釈せる、『女大学宝箱』とかいう本あり(小生只今倉中に蔵せり)。それをどこからどこまでもことごとく細大洩らさずわ〔傍点〕印《じるし》に模倣したのがこの本なり。
(120) 原書の初めに麒麟、鳳凰の彩刷色画あり。それを、この書は鳳凰の顔を女陰、麒麟の首を陽物に作りあり。また、この二禽のあいだに原書に仁義礼智信と書きあるを、この本には腎和愛美心とかきかえあり。次には農民男女四季耕収の図あり。それをこの本にはいろいろと農働きをしながら男女相戯れ、また女が犂の柄の端を自分の物に入れおる等の図あり。その次の一枚半は『源氏物語』を毎巻わ〔傍点〕印に画き、おかしく作れる和歌をのせたり。それより『女大楽』の本文、「一、それ女子は成長して他人の家へ行き夫に仕うる者なれば色道の心掛け第一なり。一、父母も本よりその道を好みたる故に子孫も尽きざるなり」などとありて、終りに開茎《かいまら》先生述とせり。それより女の体相の図解、また種々の男女の人相図あり、また美女三十二相の条等あり。次に扇で男女の間を卜《うらな》う法の図解あり。次に色道の実語教あり。次に三ヶ津色里直段付けあり。次に艶簡の手本、次に里気色と題し、色里に遊ぶ体を小説体にちょっとかきあり。次に閨中の趣きを助くる道具の図解あり。また女郎にきをやらする術の図説、最後に新開、上中下開の図解にて終わる。小生の蔵本は本来の表紙を失い、題簽もなし、また最後の葉がありやなしやたしかならず。
 このところに十五ペイジだけ本文あり。(ただし、上段は男女の人相の図説、下段は美女三十二相のことを説き、その中段にのみゆえ、文はわずかの長さなり。上図の風にして画が十五入りあり。いずれもいろいろに若衆を弄ぶ図なり。)文辞は左の通り。
  若衆仕立様の事
 一、衆道を仕立つるに、不束《ふつつか》なる|はいで《這出》を子がいよりかかえとりて、たとえば、みめよき生れ付きにても、すぐさまつきだしにはならず。あるいは顔に色気あり、また眼本風俗卑しからずとも、そのままにては|しよ《(ママ)》うつらず不束なり。これを仕立つるには、幼少より顔手足尋常、きめ美しくすること第一なり。この薬の仕様は、ざくろの皮をなまのあいだに採りて、白水に一夜つけ、明くる日いかきなどにあげ、その日一日かげほしをして、またその夜白水につけ、(121)右の通りにして三日晒し、その跡に随分ほしあげ、細かく粉にして袋にいれ、これにて洗えばきめ美しくして、手足尋常になること妙なり。また歯を磨くには、はっちく(淡竹《はちく》)の笹の葉を、灰にしてみがくべし。多くは消炭にてみがけどもあしし。また鼻筋の低きは十《とお》、十一、二の時分、毎夜ねしなに檜木《ひのき》の二、三寸くらいなるにて(この図は『続南方随筆』「淫書の効用」なる条に正しく廓大して出しあり)このごとく摘み板を拵え、右の通りに紐をつけ、鼻に綿をまき、その上を右の板にて挟み、左右の紐を後にて、仮面《めん》きたるごとく結びてねさせば、いかほど低き鼻にても鼻筋通り高くなるなり。ただし、十二の碁より仕立てんと思わば、初め横にねさし、一分のりを口中にてよくとき、彼処へすり、少し雁だけ入れてその夜はしまうなり。また二日めにも雁まで入れ、三日めには半分もいれ、四日めより今五日ほど、毎日三、四度ほんまに入るなり。ただし、この間に仕立つる人きをやるは悪し。右のごとくすれば後門|沾《うるお》いてよし。また、はじめより荒けなくすれば、内しょうを荒らし煩うこと多し。また十三、四より上は煩うても口ばかりにて深きことなし。これは若衆も色の道覚ゆるゆえ、わが前ができると後門をしめるゆえ、客の方には快く、また客荒く腰を使えば肛門のふちをすらし、上下のとわたりのすじ切るるものなり。これにはすっぽんの頭を黒焼にして、髪の油にてとき付けてよし。右記せし仕様の品は、たとえ町の子供にても、右の伝にて行なうがよし。また新べこには、仕立てたる日より、毎晩|棒薬《ぼうぐすり》をさしてやるがよし。この棒薬というは、木の端を二寸五ぶほどにきり、綿をまき、太みを大抵のへのこほどにして、胆礬(硫酸銅)をごまの油にてとき、その棒にぬり、ねしなに腰湯さしてさしこみねな(さ?)せば、煩うこと少なし。ただしねさし様は、たとえば野郎、客に行きて、晩く帰りたる時は、その子供の寝所へ誰にても臥し居て、子ども帰ると、その人はのき、すぐさま人肌のぬくもりの跡へねさすべし。かくのごとくして育つれば無病なり。とかく冷《ひえ》のこもるわざなれば、冬などこたつへあたるは悪し。野郎とても晩く帰るときは、右の通りにしてねさすべし。これだい(一?事?)のことなり。
(122) 一、一分のりというは、ふのりをよくたき、きぬのすいのうにてこし、杉原紙に流しほし付け、これを一分なりに切りて、印籠に入れてもつなり。また酒綿とて酒を綿にて浸しもつなり。これはねまにて客の持ち物、あまり太きがあれば、右の酒をわが手にぬり、その手にて向うのへのこをひたものいらえば、自然とできざるものなり。客もあわずにかえる術なり。得あいませぬといえば、客の手前すまざるゆえ、これにて、両方共にたつしほう、それゆえ野郎はねまへ入ると、早速しなだるる体にて客の一物を引き出しいらうなり。ことさら女とちがい、色少なき物ゆえ、ずいぶんとびったりとゆくがよしとす。
 一、若衆の仕様は仰のけにしてするがよし。若衆はいやがるものなり。そのいやがるゆえは、客ぶ案内にて行なうゆえなり。この仕様は初め後より入れ、肛門の湿う時分、一度抜きて、両方共によくふきて、それよりあおのけにして、またつけなおし、いるれば、くっつりとはいるものなり。はじめより仰のけてすれば上へすべり下へすべり、思うようにはいらざるゆえに、ひたもの唾をつけつけ、ひまをいれるゆえ、けつほとびてびりびりとするゆえ、けがすること多し。それゆえ一げんにてはできぬことなり。若衆のねまにも、多くしなありて、ねまへ入る前に裏(厠)へ行くもあり。これ若衆は体の弱きものゆえのことなり。かようの若衆は客の方にその心得すべし。裏へ行きてすぐにさせばよくはいれども沾いなし。また、しばらくまちてすれば肛門よく沾いたる時、初め記せし通りよくはいるものなり。一義しまい跡にて裏へ行くが大法なり。客もしばらくけつにてよくなやし抜くべし。若衆も跡のしまりよし。                           (完)
 まずは右申し上げ候。             早々敬具
  付白。小生、去年十二月上海より『月令広義』二十四巻を買い入れたり。その第二十四巻の次、付録の末の若干枚が不足なり。貴下どこかでこの書を見当たらば、巻末の付録の末の方に「金花猫」という一条をさがし、御写しおき下されたく願い上げ奉り候。ネコマタのことに候。このことのために買い入れしに、その条を脱し、大失(123)望せり。
  右に申す「月令広義』(明の馮応京といいし人の輯なり)巻二三に、漢の宮門に禁あり、侍衛の臣にあらざればあえて入らず。董賢、上(漢の哀帝)に幸せらる。休沐といえども出でず。上、賢の妻をして籍を通じ、宮殿中に入り、止宿するを得せしむ。とあって注にいわく、籍を通ずとは、その年貌姓名を紀して宮門に懸くるなり、と。されば哀帝はしばしも側をはなさず董賢を嬖寵しながら、賢の妻を公然と宮中に入れて、時にその夫と密会せしめたるなり。これは大若衆が妻と会うほど閨中の趣きが上達するゆえ、賢を御するに面白みが増せしなり。
 
          33
 
 昭和七年一月十七日午後四時半〔葉書〕
 拝復。十五日出御葉書二葉、今朝八時十分拝受。御尋ねの岡山城主保国公は、『藩翰譜』続篇によれば、初名保教、正徳五年将軍家継の諱字を賜わりて継政と改む。安永五年二月八日、七十五歳で卒す。故に元禄十五年赤穂義士復讐の歳の生れに候。正徳四年より宝暦三年二月まで城主たりしなり。その二月六日致仕して、明くる三年剃髪、空心と称せり。
 でかんしょう節の文句は知らねど、小生若きとき(明治十六年ごろ)、東京の書生等この唄をうたいし。「どうせなさるならでかいことなされ」、末句はしやれ〔三字傍点〕ををほれ〔三字傍点〕といいし。角力甚句の節なりし。こんなこと古くよりいいしと見えて、『実事譚』に何かの書を引いて、水野十郎左衝門の四天王が町男たちを懲らすときのせりふを挙げた内に、金時金左衝門が「大江山の酒?童子を若衆にせし金時金左衛門とはわがことなり」というような詞ありしと覚え候。(『実事譚』は只今もこの宅に持ち合わせおり候。)
 「江湖」とはいわば討論会のようなものにて、禅で問答を大勢集合してすることと聞き及ぶ。江湖を置くとは、その(124)会合を催すことと存じ候。その会長ごときものを江湖題ということと存じ候。右早々御答え申し上げ候。 不一
 
          34
 
 昭和七年一月十八日早朝出〔葉書〕
 拝啓。昨日ハガキにて申し上げたる酒呑童子を若衆にせし云々のせりふは、明治十四年発行『実事譚』(これは四十編あり。この年三月初編を出し、毎月一篇ずつ出版して翌十五年七月に全部大尾となれり。当時はなはだ行なわれ、発兌元兎屋というは大もうけをしたり)第七編に出でおり候。水野十郎左衛門が四天王を従え、ある芝居を見にゆきしに、町奴雷十五郎なる者、坐席の争いより桑原二十五郎というものをねじ伏せる。金時金左衛門、主人水野の命により十五郎をねじ伏せ、その上に跨り、「狂言を始めよ、丹波国大江山にて酒呑童子を若衆にせし坂田の金時金左衝門なり。雷め動かば串ざし太鼓の皮念仏ほおばって葬礼の支度せよ」と罵りつつ押し伏せたり。その際に二十五郎は逃げ去る。ところへ幡随院長兵衛出で、件《くだん》の金時をまた捻じ伏せこらす。唐犬権兵衛、来たりて金時の両刀を奪い投げ棄て、水野大恥をかかさる、とあり。武勇にほこるとては、誰某を若衆にするということをいい罵る風行なわれしと見え候。これは編者松村操氏が何かの古書より引きしものにて、自分の手製にはあらじと覚え候。
 御示しの、どうせなさるならでかいこと云々の唄〔岩田注記。平田篤胤『しづの岩屋』上巻所載、とても為《す》るなら大きなこと為《し》やれ奈良の大仏のけつ為《し》やれ、の流行唄を指す〕は、平田の何の書に出でおり候や。小生只今ひかえ置かんと貴ハガキを捜せど見当たらず。下女が廃紙と思い夕刻焼き棄てたらしく候。遺憾に付き再応御示し下されたく候。これは昨今新しきと思うことはややもすれば古くよりあるという例として、何かの節引用したく候。もっとも貴示の趣きを明書すべく候。     早々敬具
 
(125)          35
 
 昭和七年一月二十一日午後五時出〔葉書〕
 拝復。十九日夜出御ハガキ、今朝八時二十分安着、只今拝見。(小生大朝寝をなし午後四時近く起きたるなり。)御下問の『南海通記』は、讃岐の兵学者香西成資の著で、享保己亥(四年なり)八十八歳のときの自序あり。若きとき小幡景憲に称せられ、黒田家(筑前)に事えたといえば、この書はまんざらな虚言ばかりにはなかるべし。二十一巻あり。『改定史籍集覧』第七冊(明治三十三年十一月発行)に収めらる。『昭代記』は只今しかと覚えねども木板なりしと存じ候。これは上野の図書館で(またはお茶の水にありしときの東京図書館で)抄し候。黄色な表紙の印本なりし。小生が引用せる書籍|毎《つね》に必ずそれぞれ巻数を記しあり。故に巻数を記しあらは幾冊もあるものにて、巻数を記しおらずは一冊全本のはずなり。小生の抄録に巻数を記しおらねば、これは一冊本かと察し候。荒木又右衛門の名乗りがどうしても知れざりしに、この書により始めて村光と分かり候。(もっとも明治十八年のことに候。)何年ごろの撰かは分からず。宕陰先生の伝を見れば分かることと存じ候。(宕陰はさまで古き人にあらず。)この二書が出でおらぬ国書解題はずいぶん麁末なものと存じ候。『昭代記』は明治十八年ごろ、谷干城子の学士会院また史学協会に出だせる論文にしばしば引用されしより、小生もしらべたることに御座候。                               不壱一
 
          36
 
 昭和七年一月二十二日夜八時〔葉書〕
 拝復。二十一日出御葉書只今拝読。池田継政の年代不定なる由。大抵本邦諸侯などの生卒の月日など(また時には年も)一定せざるは、むかしは生死の年月日や時刻の正確ならんよりは、その吉日佳刻に当たらんことを望みしなり。(126)現に大正何年なりしか崩ぜられたる某太后の崩御はたしかに夜前の八時なりしに、御遺体を地方より宮城へ移しまいらせ、その翌朝何時かの崩御と公示されたることあり。外国人などほ死ぬる時刻に吉の凶のということあるべきかと非難致し候。小生当年の『太陽』紙上にこのことに論及せることあり。只今『大阪毎日』に掲載中の徳富氏の『近代国民史』、家定将軍薨去の時日なども四日やら六日やら一向分からぬらしく候。されば生死の年月日等は、史籍上よりも陰陽道上よりわり出したこと多く、それが現場の書き留め、世間の風評等といろいろくいちがうたことと存じ候。しかして大名などは、幕府への届け出でと地方内葬の記録とが、またくいちがうことと察し候。故にこんなことをかれこれ精しくしらべたところが分かるものでなしと存じ候。これがまた欧州人の筆に残ったこととなると、欧人は欧人の暦日を用うるゆえ、大坂の落城など、英人や西人の記と日本の記と三ヵ月もちがうことと存じ候。                            早々以上
 
          37
 
 昭和七年二月三日朝十時半〔葉書〕
 拝啓。先日御申し越しの書籍は今に着せず候。別に差し上げ候大坂三隅屋の書目に、高野山の地図二種出でおり、どんなものか知れぬが、先日御尋ねの寺院等の在処を知るにあるいは便宜のものかとも存じ候付き、御覧に供し上げ候。この三隅書店は従来小生取り引き候に、はなはだ正直また代価も廉に有之候。        早々以上
 
          38
 
 昭和七年五月五日午後十時〔葉書〕
 拝呈。その後小生今に足はなはだ痛み起居不自由、加うるに上海の四十六年前別れし旧友が白髪になって尋ね来た(127)りなど致し、それがため大いに御無沙汰仕り候。さて今日午後一時東京早稲田下戸塚大観堂書店より『未刊随筆百種』第一−第十一、第十四、第十六−第十九、計十六冊(第十二、第十三、第十五、第二十の四冊欠く)、普通小包二個にして安着、難有《ありがた》く拝受御厚礼申し上げ候。先日何かの雑誌で、地方で?童を売る店ありしやの御問ありし。小生友人毛利清雅氏(久しく本県参事会員たりしが今年始め落選)、明治二十年ごろ高野に僧たりしそのころ、河内の三日市に野郎店の跡のこれり、庭に機関《からくり》を設け水車を動かすようにしたのがなおのこりありし。(座敷でそれを見て京都往来の高野僧が?童と慰み遊びしとのこと、今より考うればいかにも素朴な遊び方なり。)本年三月十一日河内の人にあい聞きしに、高野山を下り紀川を渡り紀伊見峠を越え、峠頂より六里にして三日市に至る。(南朝の跡たる天野観心寺へ三日市より二十四町。)以前は往還にて四十五年前まで娼家十二軒あり。今は汽車が長田《ながた》という地を経過するによりさびしくなれり。今とても願い出ずれば許可さるるはずなれども、通り客なきゆえ自然廃絶に及べるなり、と。想うに、高野山の全盛のときはもっぱら野郎茶屋のみなりしが、のちに女郎屋に転ぜしことならん。    以上
 
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 昭和七年五月六日午後四時十分〔葉書〕
 拝啓。今朝十一時五十分またまた大観堂書店から小包着。前回の二《ふた》包に不足なりし『未刊随筆百種』の十二、十三、十五、二十、二十一−二十三、〆七冊安着。これにて一冊も欠本なく大いに悦び難有《ありがた》く御礼申し述べ候。
 前日御示しの『最明寺殿百首』に付きいろいろ考え候ところ、寛永十九年板『可笑記』に、むかし去る人の言えるは最明寺時頼公御徒然の御当座なりとて、「幾度か思ひ定めて変るらん」等の歌七首を挙ぐ。その七つの内に、「咄すうち不思儀のことをきくならばみずから行きて打ちとけてきけ」という一首などは、貴蔵のこの百首にはなきように見受け候。なお詳しく御目を通し成されたく候。        敬具
 
(128)          40
 
 昭和七年十月二十一日午後五時前
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。十九日の夜出御状今朝八時二十分着。小生、本日は朝寝ことのほか長くようやく只今拝見仕り候。前日御送り下され候『未刊随筆』は今に読みおり、いろいろ未見聞のことを始めて見及び候段、厚く御礼申し上げ候。小生は八月ごろより足はなはだ痛く、また腰ひきつり、腸が捩《ねじ》れ、医者にかかり候も何とも匙を擲《なげう》たれ候より、自分でいろいろと考察して治療、この五、六日来当分快方なりといえども、いつまた発作するも知れず、困却のあまり茫然として坐しおるのみ。故にこみ入りたる調査などは、腰が立たぬからとても手に及ばざるが、御不審のことあらば手の及ぶだけは申し上ぐべく候。近来人の説を盗むもの多く、それが博士とか教授とか、その道々に取って第一等の高名ある人々に多きようにて、小生も何を聞きにきても返事など致さずにおり候。そんな人々のためにこの痛腰を労するほどならば、自分も自分で自分の説として売り出し、相応の原稿料を貰う方が安全かつは腹も立たぬことと存じ候。
 故になにか御説あらば御成稿の上全篇を示され候わば、小生これを一再読の上その追補として別に書き列ね差し上ぐべく候。それを小生の貴説の追補また批評として貴文とともに出刊下され候様願い上げ候。しかるときは読者に取ってもまことに便利、後世のためには誰の説はこれ、誰の説はそれと、はなはだ明瞭に分かることと存じ候。
 前日拝借の上御返し申し上げたる『稚児草紙』か最明寺か細川頼之かの百首に見えたる※[弓/二]の字のこと、その後病臥中見出だし候付き左に抄出し申し上げ候。
 清の虞兆※[さんずい+隆の旁]『天香楼偶得』(『説鈴』本、四十葉表)、「※[弓/一]はすなわち巻の字なり。『真誥』中に、一巻を謂いて一※[弓/一](129)となす。あるいは※[弓/一]をもって弔の字および篇の字となすはみな非なり」。これによれば、※[弓/一]は巻と同字なればカンと読むべきなり。
 また清の高士奇の『天禄識余』上巻、「道書に一巻をもって一※[弓/二]となす。音は周にして、軸と通用す。陶九成の『説郛』にこれを用う。仏書に一条をもって一則となし、洪景盧の『容斎随筆』と史繩祖の『学斎|?畢《てんひつ》』にこれを用う」。これによればシュウまたはジクとよむべく、軸と通用あり。
 『康煕字典』には、「※[弓/一]、『真誥』に巻と同じ。※[弓/二]、楊慎の『転注古音』に、音は樛にして、すなわち『説文』の糾の字なり。道経にて借りて巻帙の巻となす」とあり。※[弓/一]とも※[弓/二]とも書くらしく、省文、すなわち本邦で彌の字を弥、辨を弁、菩薩を※[草がんむり/草がんむり]とかくような略字らしく候。
 観音の画云々は、なにか酒酔上のなぐり書きと存じ候。仏画など申すものはなかなか精進してかからねば画き得ず。小生只今左の半身自由ならず、したがって画はかき得ず。娘をして自分に代わり写生せしめおり。それも写生すべきもの多くて、画では間に合わぬから、もつぱら写真術を稽古せしめおり候なり。
 長く坐っていると左の半身がはなはだ疼むゆえ、右だけにて御免を蒙り候。                早々敬具
 
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 昭和七年十月二十九日夜九時
   岩田準一様
                    南方熊楠再拝
 拝復。二十五日夜出御状は二十七日午後五時拝受。小生、今に病後の疲労去らず、手足だるくさつそく御返書を差し上げ得ず。今晩やや軽快に付き、なるべく手短く本状認めさつそく差し出し候。
(130) ちご石は男寵の稚児か尋常の小児かということは、どうしても分かるはずなし。たとえば女塚というものを売色の女だろうか白人《しろうと》女だろうかといい論ずるごとし。元禄庚辰(十三年)出板、石橋直之の『泉州府志』三に、「児の松。上野の原、辻堂の辺にあり。(上野の原は和泉郡にあり。)相伝う、むかし奥州の児順礼してこの地を過ぐるとき、にわかに産を致して死す、塚上に植うる松なり、と。余按ずるに、男児|豈《あに》子を産まんや。想うに、それ西国三十三所の霊場多く女人を禁ず。故に奥州の弱婦、偽って男児の装をなして順礼するか。またいわく、児亡じて母存し、その児を葬る処か」。
 むかし婦女が稚児の装いして旅行せしことあるは、『義経記』、義経北国落ちのとき、北の方を山伏が伴える稚児として平泉寺に宿る条あるにて知るべく、また稚児が時として出産することありしは、『今昔物語』の異本に見えたり。これは神怪な譚なれども、多くの内には本当に女が稚児の装いして僧坊に蓄えられしもあるべし。しかして順礼の子が死して母が埋めたも、名目はやはりチゴなり。いずれもチゴに相違なきも、時代も分からぬ古えにチゴとのみ称えたものを、何の証拠品も掘り出さずに、男寵のチゴか、女が男装せしチゴか、はた親に伴いしチゴかを決するは、全く水かけ論と存じ候。
  ヨリマシ童をチゴということは、小生は聞き及ばず。それは大抵ワラワとか童子《どうじ》とかいいしことと存じ候。(『盛衰記』第一一巻に見えたる熊野本宮第一の女巫が妖霊に会いて生みたる双生児、皆石、皆鶴をチゴと書きあるも、この二児がヨリマシ童なりし記文なし。祐金阿閣梨の寵児なりし点よりチゴといえることと見え候。)
 児塚などを寺僧と稚児との色情上よりの悲話より生ぜしものとのみいうも不徹底ならん。大抵稚児同宿は後に剃髪受戒して僧となるものなれども、中には僧とならぬうちに死せしものも多く、それらは寺内に葬ることがならぬから、寺外の松蔭や道傍に埋めし。それがすなわち児塚、そのしるしの石が児石と存じ候。心ある人々は行くさ帰るさにそれに向かって回向したることと存じ候。されば稚児の遺跡には相違なきも、必ずしもことごとく色情上の悲話に連な(131)るものならずと存じ候。
 寛永より元禄ごろまで全盛を極めし遊君が死んだのち葬られし様子を日本人も欧州人も記したるを見るに、実に牛馬犬猫を葬るごとき無残なものなりしようなり。貧民の子などにて寺にチゴに出でおりしものなどの死んだものは、ずいぶんあわれな扱いを受け、ほんの土饅頭に埋められ、はなはだしきは滝の壺に沈められなどせしことと察し候。それが児塚、児の滝等なるべし。
 小生、明治十九年夏、前月死せし川瀬善太郎博士(東大の学長か何かたりし。その子も小生知るが工兵中将か何かなり)と高野山に上りしに、当時山の衰頽はなはだしく、いずれの寺のちごやらん、腰きりの半袖という風の単衣垢じみたるを纏い、所もあろうに弘法大師御廟の傍らの杉木の下に喘々として腰かけ、陰部を捜りおりたり。(なにか湿瘡でも生じたるなるべし。)小生、川瀬氏にオイと注意すると、そのちご頭を上げてこちらを見やりたる顔が、そのころ玄々堂と申す銀座の石板屋より出たる、何とかいいし柳橋の名妓像そのままにて、東京でいえば意気極まる顔にて、その紅顔の美しさ名妓などの及ぶべきにあらざりし。これは便りにせし寺坊衰廃して往き所なく、あの坊この坊とさまよいありき、飲食に代えて婬を呈せしものと察し候。(かかる中には素行宜しからず、女で申さば浮気多くて追い出されしもあるべし。)かかる者が餓死などせば、むろん林下や道傍に仮埋葬され、そのしるしに石を立てたるがすなわち児塚で、最初はその者の名も知れおりしも、久しき間にはその者どころかその者のおりし寺坊も全廃となるから、名も由緒も知れず、ただ児塚で通ることと存じ候。
 小生、明治十五年高野へ上りしとき、五十五、六歳の老人、拙家へ出入りせし貸家の集金人せしもの、小生父母の気に入り、かつ久しき知人ゆえ、一世一代の思い出なりとて拙父母に随行せり。その人の話に、登山にいろいろと路ある、その一つの梨の木坂という処に、以前門主の妾が比丘尼となり、庵を営み、昼間は殊勝げに念仏を申し、夜に入ればまた門主が潜行してこの尼に御勤めを申しにゆくをかかさざりし。もとどこかで高名なりし遊君なりしと、そ(132)の門主と尼の在俗のときの源氏名を咄《はな》されしが、小生一向気に留めざりしゆえたちまち忘失。
 さて、この十一年、十二年前、二度登山して百方手を尽し尋ねしも、その女の名も門主の名もそれほどむかし高名なりし美尼の住みし庵室も知ったもの一人もなく、それのみか梨の木坂という所からして、どことも知ったもの一人もなかりし。故に所詮こんな穿鑿は、まずは今日となりては絶望で、強いて求むるといろいろの虚言を提出さるることと存じ候。
 次に、稚児七人石となる、云々。これは、むかしの修験道などにて死することを金になるとか石となるとか申し候。『沙石集』にその例あり。その石になるといいしを、真に石になれりと信じて、わざわざ石をすえなどせしことと存じ候。
 峰稚児様というは、峰千代とか峰松とか峰丸とかいう名のチゴと存じ候。寺の大黒をお峰様、お峰奥様など田舎人が称えしに同じことと存じ候。
 『理尽抄』云々は、しばしば聞くことなるが、あてにならず候。畠山箕山の『色道大鑑』の引用書は、今日存せぬもののみなり。実はその自著を確からしく見せんために、架空の書名を設けしものと存じ候。西鶴などが戯作に引用せし書にも虚構多し。そんなことを何とも思わざりしなり。『理尽抄』またこの類と存じ候。
 右様のことを穿鑿あらば、何のあてもなきことに時日を費やし、結局何の獲るところもなかるべし。
 オイトシボというは『忠臣蔵』の六段目にも見え、可愛い坊ということで、そのころの流行詞と存じ候。坊というは、むかしは西洋と等しく平民の悴はみな七、八歳より寺坊に通い学びし。また小生なども生まれ落つるより八、九歳まで、必ず髪がのびると頭を剃りたり。(今日もシャム、セイロン、みなこの風あり。すなわち幼年より仏の御弟子となるという表識なり。)右に限ることにあらず。
 男色事歴の外相や些末な連関事条は、書籍を調べたら分かるべきも、内容は書籍では分からず候。それよりも高野(133)山など今も多少の故老がのこりおるうちに、訪問して親接を重ね聞き取りおくが第一に候。十年ばかり前まで、山の高名な大寺の住職六十八、九歳なるが(俗称比丘尼《びくに》さん)、男子の相好は少しもなく、まるで女性なり、それがまた他の高名の高僧(この人は今もあり、著書も世に伝う)と若きときよりの密契とて名高かりし。こんな人に接近せば、話をきかずとも委細の内情は分かるものに候。また今も高僧には多少少年を侍者におきあり。その者の動作にても、むかしの小姓などいいし者の様子が多少了解され申し候。そんなものを見ずに、ただ書籍を読んだだけでは、芸妓と茶屋女と遊女を混じて一団として見るようなことが多く、ただ、その方に通じたような顔を(何も知らぬ者に対して)ひけらかし得るというばかりで、いわばあたら時間を何の益もなきことにつぶすものとなり了るに候。
 小生は先日来はなはだ不快なりしが、昨今また多少恢復せり。本職の薗学の方がことのほか多事なり。室内に未調査の標品充?して、他のことに関する書籍などはみな倉へ片付けしまえり。若いときとかわり、一々原書を調べねば、思わず識らずいろいろと不実のことを誠らしく述ぶることもあるべし。さりとて不自由なる身体を運んで、一々倉庫より書籍を出し入れすることはならず。また書籍をしばらくも置くべき場処もなし。故に三年、五年後にでも宜しく、なにかまとまった御論説あらば書留にして送来されたく、小生一々原書に拠って増注して差し上ぐべし。年老いては運筆に多くひまをとるから、些末なことを一々書き加えておりては、自分の活計にも差し閊《つか》うるようになるべく候。
 まずは右不満足ながら、万一御間に合うことかとも存じ本状差し上げ候。  敬具
  また御示しの雨夜に児石へ霊灯が現ずる話なども、小生はこれを少しも虚誕にあらずして事実と認め候。すなわち今日のインドなどに汎く行なわるるごとく、自分と同じ境涯なりし死人の塚に、ならぬことを工面して燈明を献じ供物をささげなどすれば霊験ありということは、天主教などにも信ずるもの多し。されば家計上より寺へ稚児に出である者、再び故郷に還り父母兄弟にあいたき稚児等が、寺坊の勤め終わらぬうちに空しく死して山辺に埋められ誰弔う者もなき塚に、雨夜を撰んでひそかに灯明を供えなどして、自分の苦界を脱することを?りしこ(134)とと存じ候。(歯痛を悩みし人の墓に歯痛き者が夜中に詣で、年季の明けかぬる遊女が無縁の遊女の墓を弔うに同じ。)今の人はやれ十銭奉加したの一円寄進したのと、自慢半分にする善行多けれど、仏教には、そんなものは成仏も何もせず、わずかに阿修羅や下劣な天部に生まれ得るのみ、と申す。故に、むかし仏教に信念厚きもの多かりし世には、そんな広告半分なことをせず、なるべく人に隠れて修善をつとめしなり。これは日本にははや亡びたようなれども、インドなどには今日も多く見るところに候。無名で飛行機基金を寄付するようなものなり。
 
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 昭和七年十一月七日早朝五時よりかき始む、夜明けて出す
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。本日は当地鉄道開通式とて大いに勇み立ちおる人多し。しかし、昨日来大雨にてどうなることか分からず。小生は相変わらず病思を押して働きつづけおる。それがため、二日の夜出の御状および原稿一は、五日朝八時半と六日午後四時四十五分に安着しながら、只今までとくと拝見せざりし。これより一眠につく前に拝見しながらこの状を差し上げ、また原稿もこの状と同時に御返し申し上ぐべく候。四日出御ハガキも右の御稿と同時に拝受、まずこの方より申し上ぐべし。
 『沙石集』一巻八章、熊野詣での女、先達に口説かれ愁えしに、下女、主の女に代わりて先達に密会したる条。さて、夜、寄り会いたりけるに、先達はやがて金になりぬ。熊野には死をば金になるといえり。小生、この金になりぬを石になりぬと覚えちがいたるなり。死を石になるということ、なにかにて見しが、只今ちょっと思い出さず。見出だし次第申し上ぐべく候。交会するを寄るとか寄り合うということは、今にこの辺で申し候。
(135) 巻六の妻男は、小生の蔵本(『説教学全書』第八編、明治四十一年六月第五板、発行所京の東六条法蔵館、とあり)には、ツマオットと傍訓しあり。夫婦をオトメと訓せずしてメオトと訓するごとく、支那にも牝牡、雌雄とのみ言いて牡牝、雄雌といわぬごとく、女を先に男を後にいうが古風と見え候。(女権を重んずる西洋では、反ってマン・エンド・ウーマン、男と女は男を先にいい候。)何故ということはちょっといい得ざれども、後インドで、隣同士にすむ安南人は男が女に先立ちて歩み、ラオス人は女が男に先立ちて歩むなど承る。先に立つものを先駆と見れば後に立つものを重んずる理屈かと存じ候。必ずしも後に立つものが随従者とて賤しまるるわけにもあるまじ。
 巻十上の一のカラオリの道行は、ちょっと分かりかね候。(以上御ハガキの返事)
 次に御原稿を拝見しながら、ちょっとちょっと書き入れをここに致すべし。
 仲算が仙童を慕いしこと。これは恋慕といえば恋慕に相違なきも、それに脳(または心)より来ると、生殖器(支那で申さば腎)より来るとに分かつ。甲は愛情、乙は淫念とも申すべきものなり。仲算のは甲ゆえ、普通の恋慕とちがい、景仰とか欽慕とかいうべきものに候。当世、日本ではこの二つを混ずるゆえ、はなはだ乱雑致すなり。『品花宝鑑』など支那の書には、この二つをなかなかよくかき分けあり。この仲算はなかなかの学僧にて、安和年中、宮中で天台・法相の大宗論ありしとき、叡山の良源大僧正は、『法華』方便品の「若有聞法者無一不成仏」の句を、もし法を聞くことあらん者は一として成仏せざることなしと訓じたるを、仲算は法相の意として、もし法を聞く者ありとも無の一は成仏せずと解きたるは有名な談で、それほどの哲人が恋慕云々とはうけられず。西哲プラトーンが、美少年の美を天下の最美と仰ぎ、美少年の介抱で死にたしなど老後に言いしというようなことと存じ候。プラトーンの聖哲会に神女ジオチマ現われて美を説く。その美というは只今いうごとき女の美では少しもなく、一に美少年の美に候。こんなことを心得ずして、やれ審美学の純美観のといきまくは、辻芝居のみ見て誰が上手の下手のと高声に芸の巧拙を論ずるようなものに候。
(136) 地蔵菩薩は少年というよりも、若僧《にやくそう》の模範と見て然るべしと思う。小生、高野山の若僧一人と懇意なりしが、実に慈悲の相と弁才を兼ねてすぐれたものなりし。かかる若僧、法衣をきて正坐せるを見れば、そぞろに渇仰恭礼の念を起こすを禁じ得ず。
  また、御ハガキに見えたる、妻が離縁さるるとき、家の物を何なり心にまかせとり去るを得ということは(心に欲するものを一つとり去ること、それはいかほど重宝なものでも)、『狂言記』にもあり、イタリア等の俚譚にもあり。先年、『日本及日本人』へ出しおき候。もっともほしきものを一つとり去るを拒まぬなり。むやみに多くとり去るを許すにあらず。これは「髪きらぬ後家は犯すもかまわぬ」とか「後家は男七人まで許されおる」とかいうような俚民間の不成文律のような俗習と見ゆる。いずれの国にもこんなこと多し。
 天童云々は、『阿含』には多く天子とありと記臆致し候。しかし、その記載は天童なり。その出現の仕様がはなはだ高野で女神が僧室に現出せし記事によく似おる。よって天子を天童として申し上げたるなり。(天子というも、支那でいう皇帝とちがい、天神の子という意味ゆえ、すなわち天童に当たる。)回教にも楽土(天)に天童あり、これは天女と均しく淫楽のためらしく候。天童という語は仏経にしばしば見ゆ。例せば、『受十善戒経』に、「長者の女《むすめ》、名を提婆跋提《だいばばつだい》という、一《ひとり》の男児を生むに、端正無双にして、紅き蓬花のごとく、天女も比《たぐい》なし。母はなはだ憐念《いとし》み、抱いて仏の所に至り、仏に白《もう》していわく、世尊よ、わが児は愛すべくして天童子のごとし、と」。その男児の美に「天女も比《たぐい》なし」といえるにて、美なること知らる。
 十禅師の本地は地蔵ということ、『沙石集』にもあり。貴稿中に書き入れおけり。
 稚児に王の字を付くることは、支那にその例多し。しかして、それはもと仏教より来たる。蟻王、牛王、薬王、馬王、鵝王、亀王など、物ごとに王(酋長)あるなり。それをまねたるなり。妓名にも祇王、大玉王などあり。支那六朝のころの貴人の幼名にこんなのが多し。思うにそのころの優童などにも多かりしにて、それを日本でまねせしこと(137)と存じ候。
 若は、今若、乙若、牛若(義朝の三子)、亀若、鶴若(為義の子)、駒若(義仲のこと)等、これらは幼者ゆえ若と付けしなるべし(若とは幼稚の義)。秀吉時代にも、黒田孝高の臣下に秦野《はたの》桐若とて有名な勇士ありたり。これなどは成人しても桐若で通りおりしなり。
 麿は、古えは大人の自称(女もみずからマロと称せしことあり)で、和気清麿、藤原黒麿、文屋綿麿などありしが、後には幼者の名となりしなり。これらみな男寵の少年に限れる名にあらず。ただし男寵の少年に麿(また丸)、若、王が多かりしというまでなり。千代という名も多少あり。時田鶴千代とて、栗田刑部の嬖童で、討死したとき女か男か分からず。眼瞳の所在を見て初めて男子と分かりしという美艶の少年もありし。しかし、武田勝千代(信玄)などもあり。単に幼名というばかりで、嬖童に限りし名にあらず。松を付くることも存外古く、平安朝すでにありし証あり。
 北条綱成は有名なる猛将なりしが、二十二歳まで元服を許されず、氏康の嬖童たりし。この人、幼名は今ちょっと覚え出ださず。その弟は弁千代と言いし。また氏康の寵童たり。河越の戦に名誉の使いせし人なり。氏康は綱成と同歳にて念者たりし。しかして妹を綱成の妻とし、生まれた子氏繁に自分の娘を妻とせしなり。戦国の世には、こんな男女色上より二重の縁者の例多し。注意すべきことなり。
 熊野九十九王子など申す(この田辺付近だけにも出立《でたち》王子、上野山王子、蟻通し王子、麻呂王子、三栖王子、八上王子、岩田王子など多くある)、この王子も、もと仏経より出でし語にて、神の子をまつりしとの義にあらず。菩薩はもと梵語ボジサットア(菩提薩多と音訳す)を約め音訳せるにて、旧くはこれを法王子と意訳せり。例せば、『大方等陀羅尼経』に、「南無釈迦牟尼仏、南無文殊師利法王子、虚空蔵法王子、観世音法王子、毘沙門法王子、云々、かくのごとき菩薩|摩※[言+可]薩《まかさつ》は、まさにその名を念ずべし」。両部神道には諸王子をこの法王子すなわち菩薩の現身と見(138)たるゆえ、法を省いて王子とせるなり。すなわち出立《でたち》王子は観世音法王子の現身という風に見立てたるに候。
 ヨリマシということも、わが邦に本来似たことはありしなるべし。しかし、中世以降のは、もっぱら仏法より起これることなり。『大毘盧遮那成仏神変加持経』中巻に、美童を択みてこれに神や魔を降すことあり。
 延年の舞ということあり。純《もつぱ》ら童子が舞いしと見ゆ。これも仏経より出でしことにて、『不空羂索神変真言経』一一巻に、竜が真言の法力で童子に化せられ、真言者に延年甘露を与うることあり。こんなことより出でしことと存じ候。(不空羂索は観世音の一身で、奈良の南円堂に奉祀されあるなり。)
 稚児を寺におくことひとえに淫慾よりのこととし、全く経儀になきことのようにいうもの多し。これも仏典をよくみぬからのことで、『大方広普賢行願品』六に、善財童子、閻浮提《えんぶだい》畔の無垢聚落《むくじゆらく》に海幢《かいどう》比丘を尋ね見るところに、「すなわちその経行《きんひん》の林側にあって結跏趺坐《けつかふざ》せるを見る。端身正念《たんしんしようねん》して出入の息を離《さ》り、別の思覚なく、不思議広大|三味《ざんまい》に住み、三昧の力をもって大神通を現じ、云々。両足の下よ。無数の仏刹と、極微塵《ごくみじん》数の長者、居士、婆羅門衆とを出だし、身雲《しんうん》に相似たり。首《こうべ》に華冠を戴き、身に瓔珞を垂れ、明珠を項《くび》に繋《か》け、被服荘厳にして、無量の童男をもって眷属となす、云々」。こんなことを拠ろとして童男を聚めて荘厳とする風が起こりしと見ゆ。
 前に述べたる天童来下のことは、やや詳細に申すと、『雑阿含経』の三六巻に、美貌極まる天子(皇帝を天子というと異なり、天の子ということなり。天とは天、人、修羅、地獄、餓鬼、畜生と六道に別ちし内の天にて、天に住む衆生なり。俗に天人、天女などいうやつなり。天の子ゆえ天童というも可なり)、夜中に天より下りて仏を訪問する例多く出でおり候。一例は、仏、給孤独園にありし時、悉?梨と名づくる天子、「容色絶妙、後夜の時において来たって仏の所に詣《いた》り」、自分が天に生まれし因縁を説くことあり。四八巻には、天女が夜分独り仏を訪うことあり。比叡の高僧を夜分王子神が訪うたり、日光の法主を女神が訪うたりする話は、みなこれより出でしと存じ候。天主教にも、聖母マリヤなどが夜分坊室に現ぜし話多し。
(139) また菩薩をも天子ということあり。『須真天子経』に、文殊師利須真天子とあり。ちご文殊などは、この相をとりたるものと存じ候。『広方大荘厳経』三に、釈尊誕生のとき、父王の宮殿中に三十二種の諸瑞相現わる、その第十一は、無量の天のもろもろの嬰孩あって忽然として現われ、?女懐抱して宛転として遊戯す、とあり。すでに天に嬰孩さえあれば、少年も青年もあるはずなり。小生は只今見出だし得ざるも、たぷん仏の前生が非常な美少年にて、その師にはなはだ(その美貌と才気のゆえに)好愛されたことを説ける経ありし。見出ださば申し上ぐべし。
 これより十一月二日の夜出御状を読み、注書す。
 「伝説には、女児に比して何故稚児ばかりが多いのでしょう、云々」とは、さらに分からぬ御詞なり。伝説とは何の伝説か知らぬが、これは「男色の伝説には何故稚児ばかりが多くて女児がないか」と聞こえ申し候。児石とか児塚とかいうもの(たとえば)この紀州などには三十もなからん。これに比して、女が身を抛げた井とか女が自害した家とか、女に関する遺跡や伝説は、この田辺町ごとき狭き地にも多々あるなり。「この塚は柳なくともあはれなり」から真間の手古奈女の歌まで、男女に関する古跡の百の九十九までは女を対象としたもので、男色のことは至って少なく候。ちと話がかわるか知らぬが、松村操の『実事譚』四十篇を通覧しても、徳川時代に流行した戯曲や狂言本の主人公たる、男女関係の趣向が、婦女のみ多くて少年のとては、例の「梅若丸」や「合邦辻」など寥々指を屈するまでに候。支那の『情史』を見ても、男色のことは十の一にも足らず。さればこそ男色のことは一向分からぬなり。
 これに加うるに、男色などのことは十分これを秘密にしたもので、これはわが情少年(情婦という詞に比していう)なりとひけらかしたものにあらず。また世間に誇らんとてつれありきしものにもあえあざれば、その実話の伝わらぬはもっとも千万なことに候。
 むかしの人の子が十の九まで仏弟子として剃髪せしことは、『狂言記』の「比丘貞《びくさだ》」などでも分かり候。すなわち、かな法師という男児が成人して名を付くるに、お寮様(比丘尼の頭領)に名を改めもらう。お寮は自分のことを人々(140)がお庵〔二字傍点〕というにあやかれとて、庵太郎と付けた、とあり。信長の子弟に三法師、吉法師、御坊丸などありたるごとく、今もこの辺で子供を坊とよぶごとく、大抵のものは一生に一度は僧弟子となる心得で頭をそりしなり。
 山鹿甚五左衛門の書いたもの(『山鹿義訓』とか申し、松浦伯が出板せり)に、常州の牛久かどこかで、百姓が代官か何かに虐殺さる。その子牛坊というものと庶子(その百姓が下女か何かに生ませた子)沙弥《しやみ》というものと、成人して謀って代官邸に打ち入り仇を討ちしが、その場で牛坊は殺さる。沙弥逃れ去って隠れおりしが、また打ち入って仇の子弟を討ち、その子細を札にかきて立てて立ち退いた話ありし。まことにへんな兄弟の名なるが、そのころはみな現世よりも未来世のことを思い、子供にはこんな名を付くるもの多かりしなり。
 あまり古きことにあらず。大正十一年、小生、日光奥へ行きしに、何とかの滝とて、まことに幽遠な谷あり。その滝の下にさびしき茶屋あって、七十近き老婆一人おりたり。日本犬一匹あって、小生を見て吠え立つる。よって餅を買ってやるに尾を掉《ふ》つて喜ぶ。この犬の名はと問いしに、地蔵〔二字傍点〕と答えたり。思うに、辺土には今も犬までも仏菩薩の名を付くる所少なからじ。西洋西洋と言って有難がる、その西洋の高名な人士から、横浜辺で乞食するルンペンに至るまで、ジョージとかジョンとかの名多し。これみな天主教の尊者の名をとりしなり。東も西も、以前は宗教のあまねく深く人心に浸潤せしを見るに足る。されば、舎那王の多聞丸のと名を付けしも、その世にあらば、今のジョン、ジョージ、ジェイムスと何も変わったことなかりしなり。(ビルマ、カムボジア、アラカン、シャム、セイロン等では、いずれも小児はみな寺の弟子となり、いわゆる寺子として仏に縁ある名を付け候。)
 貴下また男色の発達を考えんという。これは心理学から社会学までやった上でなければならぬことに候。男色というもの、発達ということはなし。どちらかといえば今の方が大いに堕落頽廃したるなり。変遷とか移易とかいわば、そんなことはあるべし。発達というようなことはなしと存じ候。たとい、ありたりとて、前に申すごとく、もともと秘密にしたことなれば、いわゆる密道で、何も今日より証拠にとりて取り調ぶべき手がかりがなきなり。所詮そのこ(141)とに経験ある古老先達にあいて、その心にとり入り、少しなりとも聞きおくの外に取り調べの方便はなし。書籍などはほんの聞き書きで、実際とは大いに懸絶せるものに候。
 小生は相変わらず多用なり。今日はまた午下、小畔四郎氏来るはずなり。この人は越後長岡の人で、河井継之助の神将たりしが敗軍して退きおりしが、西南役に募りに応じ出陣し、出水という処で激戦して敵六人斬り戦死せる人の子なり。そのとき、ようやく三、四歳なりし。兄弟三人、姉一人、いずれも苦難して出世し、四郎氏は只今近海郵船の神戸支店長たり。小生、明治三十三年、十四年海外に遊びしのち帰朝せしに、父母すでに下世し、兄は和歌山で第二と謂われし豪富なりしが、万事勝手にふるまいて身代限りし、弟は相応に営業しおりしも、その妻が美人、したがってなかなかの?婦で、小生を好遇せず。よって熊野に退居して那智に寓し、十二月三十一日の極寒に浴衣一枚繩の帯して、一の滝下に地衣《こけ》をとりおりたり。そのとき、小畔氏、外国船の事務長にて、蘭を捜して来たり合わせしが縁となり、今に助成しくれる。北ウラジオストクより南濠州、東はインド、西はメキシコまで、いわんや、日本は到るところ、また韓地、満州、この人ほど広く粘菌を蒐めたものなし。それを小生毎度取り調べる。昭和四年御臨幸の節、当湾で小生を召し、神戸で小畔を召し、小生は進講、小畔は二百点ばかりの標品を説明の上差し上げたり。いよいよ「日本粘菌図譜」を出すに付き、打ち合わせに来るなり。小生はこの状を差し出したのち二、三時間眠り、さて、いろいろと小面倒な標品を取り出し、小畔氏に渡し、同氏は今夜の汽車で神戸へ帰るはずなり。それゆえ、その方のことをいろいろ考えながら本状を認めたるにより、多少の誤記なきを保せず。しかし、貴稿中に本状により書き改めらるべきこと多し。書き改めらるるには、本状の趣きをなるべく字句のたがわぬよう写し入れて、小生の説として出されたく候。しかるときは間違いありても、貴下の不徳とならず、小生の責任となるなり。
 『よだれかけ』という本、小生見たことなし。一夜読めば大抵は暗誦するから、御差し支えなくば衛貸し下されたく候。またまた、なにか書き副えて返上すべく候。
(142) ちごを稚児とかくを和製の拙作のごとく心得て笑う人多し。これも実は支那より移りたるに御座候。只今原書を身辺に持たぬが、見出だしたら申し上ぐべし。
 小生はこんな思い付きがはなはだ多くあり。若いとき思い付いたことは今に忘れざるも、昨今思い付いたことは書き留めおかぬと霧のごとく散佚し了る。しかるに、老いていよいよ多事で、たちまち思い付き、たちまち忘るること多し。なるべく書き留めておき申し上ぐべき間、小生より聞いたと明記してかき込み下されたく候。しかるときは後代までのこり候。(小生は、かかる思い付きを書き集めて世に出すような暇なきゆえなり。)     早々敬具
  十一月七日朝六時書き了り、みずから出しにゆく。十禅師の本地は地蔵ということ、『沙石集』一上の六に見ゆ。
  『山王知行記』と『沙石集』といずれが古きか。
  御稿は、今日は小畔氏来たり、その方にかかるから、明八日中に返上申すべく候。
 
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 昭和七年十一月八日早朝〔葉書〕
 拝呈。別状に申し遺せしことを申し上げ候。「谷行《たにこう》」という謡曲あり、御存知ならん。少年が峰入りの山伏一行に加わり、登る途中で病めば、必ず生きながらこれを谷に陥し、上より土石をなげて埋め了るという厳法ありしなり。このごとく、得度以前に天折した少年は決して寺域内に埋めず、域外の地に埋め、ただ石をすえおくというような規律あって、その石が児石と存じ候。(回々教には今も碑石を立てず。ただ、石をすえおくなり。)
 また、小生幼時寺子屋へ通いし折、草紙の上へ上図のごときものを書き、巧拙を争いし。深山《みやま》通る稚児《ちご》の盃《さかずき》とよむなり。京坂にも古くせしことと見え、西沢一鳳の『皇都午睡』か何かにも見えたと存じ候。何のことか知れぬが、狂言「老武者」に見えた通り、足利氏(143)の世などに上品な稚児が山村を過《よぎ》ると、老若出迎え争うてその盃の滴《しずく》を申し受けて悦ぶこと、高僧の経過するところの男女が出迎えて十念を授かり喜びしようであった。その余韻と存じ候。これらのことは今の人には分からず。(小生幼時すでに何のことやら分からざりしなり。)      以上
 
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 昭和七年十一月十二日午前十一時半
   岩田準一様
                  南方熊楠
 拝啓。九日夜出御状と十日夜出御葉書、今朝八時五十分着。明十三日大演習終了、十四曰には夕刻御休息の余暇少しくあらせらるるに付き、町尻侍従武官より、近海郵船神戸支店長小畔四郎氏を大坂行在所へ招かれ、小生小畔と査定命名せる粘菌標品を文武の侍従諸君に示し、小畔より説明、あるいは非公式に不時に拝謁仰せ付けらるることもあるべきに付き、小畔はモーニング着用の上出頭するようとの申し達しあり。よって今日中に、小生は自分命名の最珍の粘菌二種(いずれも小生門人近年発見)を撰定し、今夜までに小畔へ送るはず。只今昼飯前にちょっと休暇あるに付き、この状を差し出し、さて昼飯、それより右の件に取りかかり申し候ゆえに、長く筆を採ることはならず。ちょっとちょっと返書申し上げ候。
 「思いざし」ということは薩摩にも美童にも限ることにあらず。もっとも有名な思いざしは、例の『曽我物語』巻六に、和田の一党大勢の酒宴に、大磯の長者の宅で虎を召せども出で来たらず。よって虎とともにその情夫祐成を招請す。その座にて「始めたる土器虎が前にぞ置きたりける、取り上げけるを今一度と強いられて受けて持ちけるが、義盛これを見て、いかに御前、その盃何方へも思し召さん方へ思い差し〔四字傍点〕したまえ、これぞ誠の心ならん、とありければ、(144)七分に受けたる盃に千々に心を使いけり。和田に差したらんは時の賞玩異議なし。されども祐成の心の内恥ずかし。流れを立つる身なればとて、睦びし人を打ちおきながら座敷に出ずるは本意ならず。ましてやこの盃義盛にさしなば、さらにめでたりと思いたまわんも口おし。祐成にさすならば座敷に事起こりなん。かくあるべしと知るならば、初めより出でもせで、内にていかにも成るべきを、再び物思う悲しさよ。よしよしこれも前世のこと、思わざることあらば、和田の前下りにさしたまう刀こそ、妾が物よ、ささゆる体にもてなし奪い取り、一刀《ひとかたな》さし、とにもかくにもと思い定めて、義盛|一目《ひとめ》、祐成一目、心を使い案じけり。和田はわれにならではと思うところにさはなくて、許させたまえ、さりとては思いの方を、と打ち笑い、十郎にこそさされけれ。一座の人々目を見合わせ、これはいかにとみるところに、祐成、盃取り上げて、某《それがし》賜わらんこそ狼藉ににたり、これをば御前に、という。義盛聞きて、志の横取り無骨なり、いかでかさるべき、はやはや、と色代なり。さのみ辞すべきにあらず、十郎盃取り上げ三度ぞ酌む。義盛居丈高になり、年ほど物うきことはなし、義盛が齢二十だにも若くば御前には背かれじ、たとい一旦嫌わるるともかようの思い差し〔四字傍点〕よそへは渡さじ、南無阿弥陀仏、と高声なりければ、ことのほか苦々しくぞ見えにける。九十三騎の人々も、義秀の方をみやりて事や出で来なんと色めきたる体さしあらわれたり。十郎もとより騒がぬ男にて、何程のことかあるべき、事出で来なば何十人もあれ義盛と引つ組んで勝負をせんずるまでと思い切り、嘲笑《あざわら》いてぞいたりける」。このころ曽我にありし五郎時致、しきりに胸騒ぎ、何か兄祐成の身の上に急変起これるならんと推して、裸馬にのり駆け付くる。それより義秀(義盛の三男)と大力のくさずり引きあって座敷に入り大盃を傾け、兄と虎とをまとめて曽我へ帰る。小生等幼きとき、諸神社仏閣にこのときの体を額に画きて掲げありし。
 また男色の思いざしのもっとも名高きは、高遠落城の日のことで、花翁の戯作にこれをうまく綴りある。「恋慕の化《あだ》一盃のこと」と題していわく、信州高遠のほとりにすすき、刈萱、萩、女郎花など折り知り顔にたばねゆい、片ばかりの庵、引き廻したるあり。貴き桑門山居し侍る。仏前に供うる蕨餅に飯の付きたる鉢の子を洗うて沢岸に休らい(145)侍る。水中を見れば鴛の雄二翅遊べり。僧思うよう、鴛は愛執深き鳥にて番《つが》い番いあるべきに、雄二翅つれ侍るは哀れ阿曽沼の猟師にやとられぬるかと思いしに、たちまち美わしき男子となりて、僧に向かいて言うようは、われはむかし武田信玄の子仁科五郎なり、一人は忠臣小山田備中守なり。われ若冠のころ、高遠の城主に選まれ、織田城之助四、五万騎の勢をもって八重二十重に包まれ、城中の士卒男女共七、八百人龍城せしも、残らず同じ枕に戦死す。某《それがし》、幼年ながら戦場に死を軽んずるは大将の思い出なり。しかし、ただあわれなるは、これなる郎等小山田備中なり。恥かしながらわれらが美麗なるに恋慕して、数万騎の中より高遠の加勢を望み、一所に討死を遂げ侍る。日ごろはさもこそ思うらめど誰かは媒せん。さぞや未来までもつれなく思うらめ。笹の小笹の一節の情もなく、せめて誠ある詞を通わす便りもなく、神ならぬ身の年月打ちすぎし(こそ?)悔しけれ。繋念無量業、愛情の妄執、煩悩の犬となる身に染め付けて輪廻し侍る。姿婆にては父が威を仮り武栄に誇りしが、冥土黄泉にては、三尺の剣をにぎれども獄卒の猛きに挫かれ、一巻の言も閻王の攻めにさく。あわれ御僧、わが跡弔いて修羅道を免れさせたまえ。そのむかしを御目に懸けんと、そのまま幣《さい》振り立つれば、大将の下知に付いてたちまち数千の鴛、水中に飛び込むとみえしが、みな甲冑をよろい敵味方入り乱れて半時ばかり切り結び、双(方?)へさっとひくと見えしが、松風も音閑かに釈迦の岸に庵ばかりぞ残りし。
 この時仁科五郎が小山田に思いざしして屠腹せしことを、なにかに詳しく書きありしが、只今思い出さず。『野史』一一六、仁科盛信の伝には、この男色のことを一切かかずにあり。このとき小山田昌行はとても勝ち軍の見込みなきを知りながら、平生慕いし仁科を見届けんとて、わずかの兵を率いて入り援け籠城せしにて、いよいよ共に切腹する場になりて始めて平生の志を述べ、仁科思いざしして共に討死せしなり。盛信は二十五歳とも十九歳ともいろいろにいう。何に致せ非常の美男なりしと言い伝う。藤沢氏の『日本伝説叢書』信濃巻、高遠城址などの条下にあるべしと思う。今は記臆せず。
(146) ロンドンにありし日、故荒川巳次氏(薩摩人にて当時ロンドンの総領事たりし。のち久しくメキシコ駐在公使たり。それより帰国して大正七、八年ごろ死亡)話《はなし》に、島津豊久(関ヶ原で討死)ことのほかの美少年なりし。征韓の役に臨み、家中の勇士を一人一人前へ呼んで思いざしせり。それゆえ猛士みなおのれ一人を主君はことに愛せらると思い、みなみな一気に猛戦せしということなりし。また徳川氏の初期、君公より思いざしされた寵童はことごとく追い腹を切りしが常なり。誰なりしか、主公が寵童どもに、われに殉死せんと望む者に思いざしせんと言いしに、一座白けて進み出ずるものなかりし。その座にあまり主君に愛されざる一少年ありしが進み出でて、臣その盃を賜わらんと言いしに、主君大いに悦び思いざしせり。さて、その主公死せしに、その少年約を履んで殉死せず。家老がこれを詰《なじ》りしに、われよりも特に寵愛されたもの若干あり、しかるに主君がわれに殉ぜん者に思いざしせんといわれしとき、その輩一人も応ずるものなかりし。主君は一旦言い出だして応ずるものなきゆえ、はなはだ力を落とした体なりし。われ見過ごしがたしと思い、進んでその盃を申しうけ、その座を無事にとりなせしばかりなり。そのとき主公最愛の寵童は今も若干あり、その人々が殉死せばわれも殉死すべしと言いしに、もっともなりとてその沙汰已みぬ。この者は、この致し方はなはだ思慮ありしとて、他藩より招かれ重用されしという話、何かにありたり。
 モオズは、当地また和歌山辺ではモウゾウと申す。古えより妄想とかく。八文字屋本などにも出でおり。夢中遺精のことなり。
 北条綱成のことは、『薄翰譜』の「北条譜」と『続群書類従』の「北条(福島)系図」にあり。この福島はクシマとよみフクシマとは読まぬらしく候。もと村上源氏、福島氏なりしが父が今川氏の内乱のとき殺され、綱成七歳にして小田原に亡命し、大いに寵愛せられて北条氏を賜わりしなり。
 国書刊行会の諸書は、小生はほん〔三字傍点〕を数冊もつのみ。他は手当たり次第借り写せり。『よだれかけ』は見しことなし。『男色比翼鳥』、『男色今鑑』なども、不幸にしてまだ見ず。
(147) 稚児落しなどのこと、今の人は全く嘘のように思うべきが、小生十八歳のとき、日光の奥に行きし日記、今もあり。それに日光より湯本まで六里の間を馬にて米を運ぶに二斗に付き運賃五十銭、とあり。そのころの物価では非常なものなり。(三円あらは東京より和歌山まで、左まで醜きことなくして帰り得たりしなり。和歌浦第一の芦辺屋という大料亭で半日飲みつづけて四十銭払えばよかりしなり。和歌山の拙弟の宅は、今も安くみても十五、六万円のものならん。明治十一年に二百四十円で亡父が買われたりし。そんな時に比しては、二斗を六里運ぶに五十銭の運賃は大したものなり。)それが平安朝とか鎌倉・足利時代に、日光・湯本間よりずつと峻路多かりし大峰山上とか、出羽の三山とか熊野三山とかの道路を思いやれば如何《いかが》あるべき。いかに寵愛の稚児なりとも、艶容の若衆なりとも、一人病み出されては限りある日数に予定の行法を遂ぐることならず。今のごとき担架もなければ、かんづめの食菜もなし。山伏などみなみな斧を手にして山に分け入るを要するほどの困難な道中に、そんな病人など出来ては、涙に咽んでこれを捨て去るの外なきなり。近く徳川勢が伏見より紀州へ落ち来たりし、小生二歳のときなどすら、江戸|旗下《はたもと》の士で創負いたる老父を介抱して立ち退くことならずより、首を打ち落とし腰に付けて落ち来たりしもの一人に止まらざりしと、これを目撃したる亡母の語られし。それに五、六、七百年も八百年もむかしの山伏などが、只今ののんき遊山半分の巡拝団体ごとく、金を落とせば打電さえすれば局待ちの為替が届き、金さえ出せば、日光の山奥で鎌倉えびの生《なま》なやつを食い得るはずと思いしは、大きな時代知らずに御座候。また、なにかヨリマシの童を祀ったとか何とかいえど、最愛の童子さえ行きなりばったりに谷行《たにこう》を行なわねば、一同がにっちもさっちもならぬ世に、何の因縁あってヨリマシの童などを祀るべき。口というものはよくよく重宝なものと存じ候。
 栗田刑部の愛童時田鶴千代がことは、最も古く出でおるが、なにかの軍記様のものなりし。今は忘れ候。しかし、『常山紀談』にも『牛馬問』にも(出処は記せずに)載せあり候。栗田は善光寺の僧官が、大和の筒井のごとく、軍をしたものに候。それが何かのことで遠州辺に来たり、高天神城に籠りしときのことと記臆致し候。と書き終わりて(148)座の左のふすまを開くと、棚に『常山紀談』あり、よってさっそく見出だし、左に写し出し候。
 東照宮|高天神《たかてんじん》の城を囲ませ給い、柵を付けて固く守らせらる。(熊楠いわく、武田勝頼の兵、小笠原長忠の勢と共に龍城し、徳川氏と戦いしときのこと。)城中|後詰《ごづめ》を乞えども、勝頼出でず、粮尽きけり。栗田刑部、使をもて幸若が舞を一曲所望し、これを今生の思い出にせんと申しけるを、東照宮聞こし召し、やさしくも言いけるよとて、幸若に「高館《たかだち》」を舞わせらる。栗田が最愛の小姓時田鶴千代といいし者に、絹紙ようの物を持たせ出だして幸若に贈り与う。その後落城のとき、時田討死しけるを首を取りたれども、女の首なるべしと人々疑えり。東照宮聞こし召され、眼を開きみよ、女ならば白眼なるべしと仰せありければ、開いてみるに黒眼あり。また幸若忠四郎も「高館」を舞いけるとき見知りたりければ、時田が首に定まりけり。
 ついでに申す。落城とか、自分が追放さるるとかの時に、最愛のものが敵の手に落つるを憂いて、納得させた上、または欺きて、寵愛の男女を谷へ落とし滝壺に沈むるほどのことは、いかほどもあるべし。今日もアフリカやアメリカの土蕃の間にはしばしばきく。つまり殷紂が玉帛を衣《き》てみずから焚死し、平家が宝剣と共に海底に沈み、また松永久秀が自殺する前に、信長が垂涎する平蜘《ひらぐも》の釜を打ち破りしと同じ覚悟なり。君寵を得る童は殉死を覚悟し、僧兵に囲われた若衆は谷に沈むくらいのことを覚悟せねば、戦国などには相応の立身も出世もならざりしことに候。
 「茶屋のおかかに末代そはば、云々」の唄は、小生聞いたことなし。これは茶屋のかか衆は気のかわり易きものゆえ、末代まで(すなわち永く)そいとげ得るなら、伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕様へは毎月詣りで礼賽せんということと存じ候。お伊勢七度、熊野へ三度、云々、は、小生幼きころは誰も知りたる、本町《はんちよ》二丁目の糸屋の娘、姉は二十六、妹は十九、妹ほしさに御立願こめて、お伊勢七度、云々、とて名高き木やり節ありし。これも古きが上に古きがありて、寛文ごろの(あるいはそれよりも古く)伊勢へ七度、云々、という唄あり。それをいろいろと作りかえたると存じ候。例せば、小生十一歳のとき西南戦争あり。九月二十四日城山陥落して、おいおい兵卒が帰郷致し候。その輩み(149)な「りきうとかご島と地つづきならば」の唄をおぼえて盛んに唄いし。しばらくして芸妓など至る処これを三絃に合わせて唄いはやらせし。さて、只今ラジオや蓄音器で串本節とか何節とか唄うを聞くに、多くは節はこのりきう節そのままで、ただ土地に随い、いろいろと勝手な方言などをとり入れ、串本節は串本の風景、新宮節は新宮の自賛を唄うというまでなり。伊勢へ七度、云々、の唄もこの通りと存じ候。
 本月十日(一昨日)の『大毎』紙の何ページかに、一九三二(今)年最終の豪奢版『映画之友』の広告出であり。小さき場合を塞げり。その『映画之友』の四字(黒地の長方形に白字で四字)の下なる女の顔が、小生前晩申し上げし亡友そっくりの面貌にて、そのとき(小生その人に別れし)生まれし妹が只今存するが、すなわちこの像の通りの顔の婦人なり。こんな顔を見て、敬愛の念を起こすのみで淫念を生ぜぬを、仏経に姉妹の想をなすと申し候。姉妹いかに端正なりとも淫念を生ぜぬはずなり。こんなものを見て、ありふれたる芸妓女給(魔女の顔)などとごっちゃまぜにするようでは、到底哲理の玄談のということは論じ得ず。
 まずは右申し上げ候。     早々敬具
 
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 昭和七年十一月十六日午後二時〔葉書〕
 拝啓。十四日出御状、先刻(午後一時五分)拝受。『木芽漬』は御貸し下されたく候。三日ばかり読んで直に返却申し上ぐべく候。『比翼鳥』と『今鑑』は、先年国書刊行会よりなにかの集中に入れて出板の由広告を見及び、切り抜き今も所持致しおり候もちょっと見当たらず。田能村竹田の文集と同時に刊行の由に候。
 花翁の戯文は、小生その文を眼前に引き出して書面をかきたるも、只今何の書に出でありしか失念致し、ちょっと思い出し得ず。また花翁の誰たるかも只今忘失致し候。稚児の文字の出処は、小生約束の随筆稿にして出坂元へ発送(150)したれば、出板後まで人に語るを得ず候。       早々敬具
 
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 昭和七年十一月二十三日午前四時
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。十四日出御状は十六日午後一時五分拝受、ちょっと葉書で御受け申し上げ置き候。書留小包一(『花街風俗叢書』第七巻)は二十一日朝九時二十五分拝受。しかるに小生生物学の方に取り込みたる仕事|有之《これあり》、ほとんど三昼夜眠らずに働きたるため、昨日大いに熟眠致し、ようやく昨夜七時に起き出で、只今御受け申し上げ候。
 『木芽漬』ははなはだ珍しきものに有之、全篇写し取りたく候付き、何とぞ一月ほど御貸し置き下されたく、十二月中旬には御返し申し上ぐべく候。
 『いはつつじ』は、小生久しき前より聞き及び、また抜書を見たことあるも、全篇を見るほ今度が始めてなり。これにはまたまた洩れしことが多しと考え候。
 前日御下問の花翁云々は、その後いろいろ考えしも臆い出だし致さず。しかるに、昨日熟眠中に夢にて思い出だし候。これは『三河雀』という書の著者の号にて、すなわち『三河雀』に前日抄記して差し上げたる小山田昌行と仁科盛信の霊魂が両鴛に化したる話を出だしおり候。抄記したるものは、その後標品をおびただしく取り出だしたるため、どこかに片付け、只今見えず候。この小山田と仁科一条は、『野史』の武田晴信列伝によく書きあり。しかし、例の漢文ゆえ、あんまり面白からず。本文は『武家閑談』に出である由、夢中に思い出だし候。この書は小生四十年ばかり前、ほとんど暗記するばかりくりかえしくりかえし読みたるも、今はしっかり覚えず。また自分蔵中にもなし。世(151)間には多きものらしきゆえ、御一覧下されたく候。
 また御下問の轟きの橋のことは、小生一向存ぜず候。ただ今度の御状につきこじつけ候は、明治二十三年か二十四年ごろの『風俗画報』に、そのころ崩御の高貴の御方の御葬儀の記ありし。それに八瀬とかより御柩を引く牛車を出だすに、その車の軸とかが車の体ときしりて、非常に悲哀な音を出す。それを聞くと人のみか牛までも悲愴に打ちしずみ御供するという記事なりしと覚え候。轟きの橋もさようの構造にて、ひときは異なる音響を発する橋にあらずやと存じ候。もっとも『太平記』、駒も轟ろとふみ鳴らす瀬田の長橋打ち渡り、とあれば、轟きの橋は必ずしも喪葬のための構造と限ったものにあらじと存じ候。
 稚児論議のことは、しばしば見及びたるようなれども、今記臆致さず。強いて一例を申し上げんには、元禄十三年の自序ある石橋貞之の『泉州志』一に、「高野山の快尊の伝にいわく、尊は泉陽の人なり。年|甫《はじ》めて十一にして宥快師の室に入って、巾錫《きんしやく》に侍す。年十六にして得度し、指を三密に染む。宝性院|成雄《じようゆう》滅して、院席を次補す。終《つい》に院を良雄《りようゆう》に譲って、心王院に退去す。一夕、両所の大神の霊験を感じて、児童|豎議《じゆぎ》の論会《ろんえ》を企つ。すなわち令旨を賜いて、問答講の香燭料は名手《なて》の荘の租税立果をもつてす。文正元年七月二十三日寂す」とあり。これが稚児論議と存じ候。僧同士の論議は今も時々行なわれるよう承り及び候。
 水原堯栄師は小生面識あり。只今五十余歳の人と存じ候。大正九年、小生登山の節、金剛峰寺にて法主に面会せしのち、法主よりこの水原師を使者として、小生の宿坊一乗院へ来たらせ、葡萄酒一びんを贈られ候。この人は、野山のことを十分によくしらべあり。例の立川派の陰陽教に関する著書もあり。よほど学びたる人に御座候。貴下登山あらばこの人に御面会いろいろ聞き合わさるるときは、大いに得るところあらんと存じ候。
 前月の『南紀芸術』と申すものへ誰かが書いたものをちょっと見しに、野山には今もいろいろの伝説多く、例せば、千体稚児という怪あり、冬の雨夜古き寺の椽をあるく由、わずかに一、二尺高さの美童がおびただしく行列して足音(152)立てて静かにあるき来たり、障子に穴をあけて室内を覗くとか。また現存の旧記中にも、僧が児童を争うての確執の件がおびただしく見える由に候。
 今回拝借の『木芽漬』二の二、媒は去りしむかしの兄分の条に、男猫が男猫を犯して死を致し、死せし猫が人間に生まれて端女郎となり、「悲しいかな因果の引くところとて、大尽の無理所望に遇いて、その後が痔漏となりて程なく身まかる」ことあり。婦女の後庭を犯すことは、これらが小生には日本での最も早き記文に候。(『逸著聞集』に、大江為武の娘が情人に酔いて後を犯されかかることあるも、これは明和ごろ山岡明阿の作なれば、はるか後れたり。)当地の芸妓置き屋に久しく役介《やつかい》になりおりし小生知れる老人(中風にて五、六年前死す)七十余歳なりしが、三十歳前後のとき、流浪して伊予道後温泉辺のある遊廓に遊びしに、当地の士族の娘十八歳とかなるが、芸娼妓の二枚鑑札を受けあり。郷里の人と聞いて一層なつかしく、毎度すきまを見て寛待《かんたい》されしが、ハクサという病気にかかり尋常の情事は成らず、毎度後庭をもってもてなされしに、少しも常法とかわりなかりし由。それには、また、その方訣ありて、彼輩の内に伝授することといいし、と語られし。わずかの金で身受けのできたことなりしも、持ち合わせ乏しくて終《つい》にあかぬ別れとなりし、程なく死に失せつらん、と悵恨致しおりたり。こんなことは今もあるものにや。仏国などにはこのこと盛んに行なわれ、それよりまた黴毒を伝うることもあり、大騒ぎなり。
 それから申し上げおくは、貴下も御存知ならんが、『嬉遊笑覧』にもよい加減なことなきにあらず。「三井寺の児は歯白《はじろ》になりぬらん、つくべきかねを山へ取られて」という歌を『太平記』に出でたり、としあり。『太平記』にさらになし。これは慶長年中成れる『寒川入道筆記』に出でたるに候。
 当地方にて「玄猪《ゐのこ》の晩には宵からお出で、たなごと済んだらぬれ手でお出で」といいはやし候。この唄全部御存知ならば、御教示下されたく候。ただし、貴地方にはこんな唄はなきかとも存じ候。           以上
 
(153)          47
 
  昭和七年十二月五日午後一時
    岩田準一様
                 南方熊楠再拝
 拝復。十一月二十五日出御状は二十六日午後四時拝受。いろいろ用事多くて只今ようやく御受け申し上げ候。
 前日申し上げし「高野秘史」(木谷蓬吟氏)の一条は、『南紀芸術』第八号(十一月一日発行)にあり、定価三十銭で和歌山市四番町五番地猪場毅という人へ申しやれば送らるることと存じ候。右の「秘史」は題号は大きいが、わずか三頁で強いて書き成したというほどのものに過ぎず。(この人は何もそんなことに造詣も素養もなき人らしく候。)
 しかし、かの山にはこれ以上にいろいろと秘史が今ものこりあるということは分かり申し候。小生写して差し上げんと今日まで御受けを延引せしも、今朝写しにかかりしところへ、またまた二里ばかり距たる村より、当方下女の幼弟がおびただしく菌類を持ち来たり、早く写生せぬと腐るから、わずかの時間もその方に向けざるべからず。止むを得ず写して差し上ぐることは止めと致し候。実はわざわざ送金して買わねはならぬほどのものにあらざるゆえ、そのうち間《ひま》を得ば走り書きに写して差し上ぐべし。
 「ゐのこの晩には宵からお出で」ということは、紀州到る処いうことなり。しかるに、志州ではいわぬことに候や、
 志州でも申し候や。このこと御伺い申し上げ候。
 女の後庭を犯すことは、『続南方随筆』一二〇頁に引きたる『小柴垣』巻二にもあり。この書は元禄九年板なれば、元禄十六年板の『木芽漬』よりは七年早し。しかし、このことのために痔を煩い死せしとあるは、『木芽漬』が一番早いようなり。(欧州にも鶏姦と痔の関係を明記せるものは中世紀以前にはなきようなり。)このことを(154)春本に見るは、はなはだ稀なり。小生はあまり古からざる(アニリン彩色を用いあるから)小本の安価の四十八手図に、搦め手と題して年増女の後庭をする図あるをただ一つ見しことあるのみ。また女の胯間をする画もただ一つ見たり。それは極彩色で歌川家の誰なりしか名手が、為永春水の小説を春本に画きしもので、「秀八義理に迫られて藤兵衛に素胯を振舞う」とか題しありし。
 この胯間ということ、また一大事にて、濠州土人は御存知通り婦女少なきものから、なかなか中年以上までは女が中《あた》り来たらず。故に相応の壮夫になれば童妻というものを娵《めと》る。婚式から忌服まで、それから彼輩に厳重なる親縁の禁忌(妻の母と決して言《ものい》わぬとか、妻の姉の行った道を通らぬとか)も、まるで妻女に対するに同じ。しかるに、後庭を犯すことはきわめて忌む。このことをさらに分からぬことのようにいう人あるが、何でもないことで、実は胯間を行なうに候。むかし高野山などにても胯間をふれまうことは、後庭をふれまうほどには重大視せざりしなり。野郎の記事に多少あるが(遊女の方には一層しばしば見及ぶ)、地若衆の方にこの胯間のことを記したるを、古来本邦の文献に見及ばず候。
 まずは右のみ申し上げ候。           早々敬具
  歌麿か誰かの画いた上品な画本に、三十四、五の後家とそれよりやや若き男が始めかけておるところあり。詞書に、女「私もその当座は一生後家を立て通そうと思うたが、月日のたつにつれておりおりおかしな夢を見るし、それにそなたのようなさっぱりした男があるから、どうもこたえられぬ、云々。」男「それはそのはずだろう。こんなうつくしいものを後家にしておくは、云々、ほんに入れ仏事〔四字傍点〕というものだ」。この入れ仏事ということ、文化・文政ごろの芝居の文句などにおりおり見るが、和歌山辺では、小生一向聞かざりし詞なり。何のことに候や。徒労というほどのことと察するが、入れ仏事の意味分からず。御教示を乞うなり。        再白
 
(155)          48
 
 昭和七年十二月八日早朝〔葉書〕
 拝啓。昨夜用事ありて後魏の※[麗+おおざと]道元の『水経注』(西暦五世紀の作)を見るうちに、その巻四、蒲坂県の注に、これより西南に出ずること六里、また一神に至る(神は祠なるべしと細注にあり)、名づけて胡越寺という、神像童子の容あり、と見え候。寺とあるからたぶん社寺なるべきも、特に神と書きあるから、仏菩薩等の像でないかも知れず。(この『水経注』には仏教のこと多く載せあり。)とにかく西暦五世紀の支那には、わが児文殊やまた熊野日吉の諸王子ごとき童形の神をまつれる寺社もありしと分かり候。何でもなきことのようなれども、多少わが国の諸王子の崇拝に緑あることかも知れず。『水経注』は四十巻あって、ちょっと眼を通す人只今なきようなれば、見当たるままに御一報申し上げ置き候。他日、支那に古く「わが童子王子のごとき神の崇拝なかりし」などいう人あらば、これを引き出して反撃されたく候。ついでに申す。この『水経注』の作者※[麗+おおざと]道元は剛骨な人で、後魏の孝文帝の子汝南王悦が房中(女)を絶ち、さらに男色を好み邱念という少年を愛し、常に与《とも》に臥起し、州官を選ぶに多く念のすすめを用いし。道元、このことを悪み、念が自宅へ還りしところを捕え、獄に下す。悦は霊大后に啓し、念の身を全うせんと請う。勅あってこれを赦さしむ。道元ついにその命を尽し(殺せしなり)」よってもって悦を劾す、とあり(『魏書』に出ず)。そんなことより人ににくまれ、終《つい》に殺されたり。         早々以上
 
          49
 
 昭和七年十二月十一日早朝
   岩田準一様
 
(156)               南方熊楠再拝
 拝呈。七日出御状は九日朝八時二十分拝受。小生菌学の方多忙、只今まで苦辛、ようやくその方を片付け、この状差し出してのち眠りに就くつもりなり。疲労ことのほかなるゆえ、なるべく(只今知っただけを)簡単に申し上げ候。湯屋若衆は、遠くギリシアのことをいうに及ばず、只今のトルコ浴房に充盈せり。(トルコ浴房とは、トルコ風の浴房の義で、実は諸国の少年青年がつとむるなり。浴板の上に仰臥しおると石鹸を溶かした手で玉茎までも洗いくれるから面白くなり、それに日参する日本人も少なからず。ローマ帝のうちには、魚と称えて美麗の嬰児に一件を吮《す》わしめ楽しみしもあり。またコンスタンチノプルで浴房で婦女の相乗盛んなりしことは誰も知るところなり。
 前にしょうか後にしょうかと娼が問うことは、中米のガチマラ国などに一汎の風なり。ただし、これは真の後庭にあらずして、川柳にいわゆるケツモドキなり。
 『松屋筆記』は、一々引くところは孫引きたるを免れず。本家本元の原書はやはり仏の律蔵にあるなり。例せば『四分律蔵』五五に、「その時、比丘あり、体軟弱にして、男根をもって口中に内《い》る。彼疑う、われまさに波羅夷《はらい》を犯せるなからんか、と。仏いわく、犯せり、と。時に比丘あり、藍婆那《らんばな》と字《あざな》す、男根長くして、持って大便道の中に内《い》る。彼疑う、われまさに波羅夷を犯せるにあらんか、と。仏いわく、犯せり、と」。藍婆那という一比丘に限り、さようのことをよくせし希有の例なり。小生只今臆い出せぬが、律蔵中の何かにこの比丘はもとかるわざ師で身体が自在に曲がりしということありしと覚え候。和歌山中学校に木沢啓という美少年ありし。後に陸軍大尉までなりしが、後のことを知らず。(その兄の妻は聖上に乳をまいらせし者なり。乳の質はなはだよかりしなり。これら兄弟の父は若きとき高野で小姓たりしが、後に資金を得て九度山で薬店を営めり。)麁剛なる性質のものなりし。「わが物と思へど覗《のぞ》けぬけつの穴、覗かうとすればとんぼ反り」と自作の唄を大声で唄い罰せられしことあり。かるわざ師など生来身のよく曲がるものには、できぬことはあるまじと思わる。(157) 辛し風呂云々は、男女また男々交接の節いろいろの味覚を感ずる。歯医者に舞わし錐で歯をもみほらせるとき喉内もに酸味を感ずるごとし。帯下を煩う女と交わるとき、喉内にアルカリ味(ソーダのごとき)を感ずるごとし。辛し風呂も、それを言いしものと存じ候。もっとも人により感じは多少かわるべし。
 姉御の殿御が所望云々は、小生よく知らぬが、妹の詞と存じ候。女が自分をオレということ、むかしの武家などには珍しからぬことで、元禄ごろまでありしと存じ候。例の近松の『堀川波の鼓』という劇曲にも小倉彦九即の妻お種の妹お藤が彦九郎へ艶書をおくり、事露われて姉と争論する場あり(もっともこれは姉の咎を免れしめん謀より出でしことながら)。捜さば史実としても妹が姉の夫を慕うた例はいくらもあるべし。只今疲れおるから、ちょっと思い出ださず候。
 それから十一月十日の『大毎』、『映画之友』今年最終の豪奢版の広告に出でありし婦人は、川崎弘子などとは大違いで、どうも西洋婦人の顔を日本製に作りなしたものと見受け候。小生はこれほど愛敬に富める顔を日本の婦人にはただ一例の外は見たることなし。
 三田村氏はたしか転居致し、その後小生へ信書来たらず。故に今の住処分からず。
 入れ仏事ということ、当地でも古き人は今もいう由。ただし、入れ仏とのみいい、事〔傍点〕の字なし。貴下の方言研究に対する御申し条はもっとも千万な言なり。ただし、小生はまた異なる点より方言研究ということは正確にならぬことと存じおり候。それはせめて浄瑠璃の符号ごときものを作り出して、一語一語の韻《おん》を正確に記さぬうちは方言研究も言語研究もならず候。支那にはわずかな音しかなきが声は実におびただしきものなり。それを心得ずに作るから、日本人の詩は詩に成りおらず。同じ音ながら春〓《チユン》と椿〓《チユン》は同じく〓蠢《チユン》とは声がちがう。方《フアング》〓芳《フアング》〓と妨《フアング》〓房《フアング》〓と声がちがう。〓口《カウ》と,〓《カウ》と〓紀《キ》と基《キ》〓と〓記《キ》と〓忌《キ》とちがう。皆《カイ》〓と〓戒《カイ》と〓懈《カイ》とちがう。それを別たぬゆえ日本人の作ったものは通ぜず。明治十九年、小生、渡米の前に告別のため和歌山よりこの田辺へ来る途中、岩代という処で人力車にのる。田辺の誰(158)方に行くかと問うゆえ大江方へと答えし。そのころ大坂でも京都でも堺でも和歌山でも、百人一首の大江の千里の大江をオオエ《\−\》(恩《おん》のオ《\》、往来《おーらい》のオ《−》、縁《えん》のエ《\》でオオエ《\−\》)と必ず発音せり。その通りの声で大江《\−\》方へ行くといいしに、車夫そんな人は田辺にないという。そのころ小生の兄が和歌山の四十三銀行の頭取で、田辺の大江秋濤という人が副頭取たりし。この小さき田辺町より和歌山第一の銀行の副頭取となるほどなれば、田辺では誰知らぬ者なかるべき豪家なり。それを知らぬというは、この車夫は田辺へ往きしことなきものならんと思いし。さて幾度も幾度もくり返しても、そんな大江《\−\》などいう家は聞きしことなし、という。そこで小生その大江氏の弟は渡辺鉄心といって県下第一の槍術家なり、さきごろまで和歌山の市長を勤めし人なりと言いしに、「旦那よく分かった、ははあ、はははは、それはオオエ《\−\》でなくてオオエ《−−−》(往来《おーらい》のオ《−》を二度いい役《えん》の行者のエ《−》を一ついう)のことだ、といいし。文字を読み得ぬ車夫としてはオオエ《−−−》とオオエ《\−\》を全く別語と心得しももっとも千万なことなり。
 喜多村信節の?庭なんとかいう書(または『画証録』か、今しっかり記臆せず)に、越後とかで女陰をべべというに上方でべべとは衣服のことなり、と書きある。いかにもこの二語、音は同じながら声が全くちがう。和歌山でボボという処を熊野那智辺ではべべ〔二字傍点〕(紅《べに》というときのべ《\》を二つつづくる)という。越後のも同声なるべし。さて大坂でも京都、堺、和歌山、みな衣服をばべべ《−−》というなり(弁舌《べんぜつ》のべ《−》)。同音ながらまるで異声ということに、信節の博洽にしてなお気付かざりしなり。いわんや信節ほどの心がけも心得もなき輩においてをや。さて事はこれだけで済まず。鶴《つる》(ツル《\/》)、釣《つる》(ツル《−−》)、蔓《つる》(ツル《/\》)と分かった上に、黒鶴《\/》となるとツル《\/》が蔓《/\》の声にかわる。その蔓がまた蔓桔梗《つるぎきよう》となるとツル《/\》ではすまず、必ずツル《−−》すなわち釣の声にかわる。肩《\−》、型《//》、潟《−−》も、一肩《ひとかた》ぬぐというときは依然カタ《\−》なれども、両|肩《−−》ぬぐというときはきつと|かた《−−》(すなわち潟の声)にかわる。さて三肩より十肩までは、またカタ《\−》で通る。型《//》も紋切《もんき》り型《かた》というときは必ず潟の声にかわる。その潟も大潟というときは依然カタ《−−》なれど、八郎潟となると肩(カタ《\−》)の声にかわる。何のわけでかくかわるかとか、何を本としてかくかわるが正しきか等は、小生には分からず。分からぬな(159)がら小生どもはみなかくいろいろ自在にかえていい、かくかえていい得ざるをカタコトいうとて笑いたるなり。
 こんなことは今は上方でも無茶になりたること多し。故に浄瑠璃や諷い狂言の文句を聞いても、どこが面白きか、何が悲しいかわからぬなりに分かったふりをしてすますのみなり。また、これのみならず、上方以外の人には一向通ぜぬ語も少なからず。たとえばスペインなどで近年までしばしば見たるカヅキというものあり(被衣とかく)。これが何やら分からず、有名な博士の書いたものにカツギと傍訓しあり。カツギでは被衣の意に合わず。肩でかせぐ男をカセギという例により、物をかつぎになう男をカツギというなら聞こえるかも知れず、女の上身を被う(カヅク)被衣をカツギではさっぱり意味をなさぬ。(この博士は、したがって『鉢かづき』の草紙を『鉢かつぎ』とよませある。つまるところ、この人の生まれた地にはカヅクという語を知らぬ人のみなりしなり。)
 さて、只今好んで、やれ雅言の俗言の方言の郷語のと鹿爪らしく論ずる輩には、関東者あり、奥羽人あり、薩摩人あり、近時は琉球人まで、いかにも日本の正しき語は沖繩から産まれたような狂語を大道狭しといいわめく。また大隅とか日向とか種が島とか屋久島とか、われら少《わか》きときは鬼のすむ片土のごとく思うた所の者どもが、そんなことをいいののしる。これでは方言が何やら、どこの語が正しいのやら、何もかもさっぱり無茶苦茶に御座候。(小生過ぐる大正十一年、三十七年ぶりで上京せしとき、そのころ東京で鳴らせし浄瑠璃語りにあえり。この人は浄瑠璃文句の伽羅《きやら》とは何事か何物か知らず。しかし、知らぬを知らぬとして小生に聞きしところが賞むべしで、一知人に頼み横浜にただ一片ありし伽羅の小片を買い受け、その人に説明して与えしことあり。この人などは知らざるを知らずとして問うだけが感心なり。その他の天狗どもに至りては、西鶴の輪講に大坂の九軒を何のことやら知らず、九軒の家が並んだ所だろうなどとは大笑わせなり。西沢一鳳がいいしごとく、上方の人が上方のことに一向念慮を払わず、手前のことを何も心得ざるより、事ごとに辺土の者に笑わるるも、また困ったものに御座候。
 
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 昭和七年十二月十四日早朝
   岩田準一様
                   南方熊楠再拝
 拝復。十一日夜出御状、咋十三日朝八時十分拝受。いろいろ多事にて夜通し働き、只今(午前三時半)拝読致し候。はなはだ眠たきゆえ手軽く御返事申し上げ候。自分の生支を自分の後門に入るることは、もろもろの律に見え候。『摩訶僧祇律』巻一に見え候を小生控えおき候は、「仏、舎衛城にあり。一《ひとり》の比丘あり、南方より来たる。先にこれ伎児(かるわざ師)にして、文節|調柔《しなやか》なり。婬慾|熾盛《さかん》にして、すなわちみずから口中において姪を行なう」とあり。自分の後門にあらずして、自分の口中に行淫せしなり。これはずいぶんあり得ることと存じ候。(二、三歳の小児、好んで自分の足のゆぴを舐るものを小生見たことあり、猴のごとし。)『南紀芸術』八号は見るに足らぬ物に候。
 糞野郎ということ、いつのころより始まりしかは小生知らず。クソオンナと罵ることも幼時よりしばしば聞き候。また女が男をクソオトコといいしことも聞き候。また力を出すときナニクソということは今も昔も紀州には普通なり。いずれも男色に関係あることと思われず候。糞をはなはだしく忌むことはいずれの国も同じことで、ハヴロック・エリスなどは、人間ことに婦女が陰部を人に見らるるを忌むは、実はその場が後門に密接しあるゆえなり、あながち交会に関することにあらず、もし男根女陰が足の裏とか手の先とかにあったなら、その陰部を左まで恥ずべき部分と思わざるならんとの説を述べあり候。(諸天のうちに抱擁して歓をなすあり、相視て究寛《くきよう》するあり。タコ、イカの類は、一本の足が本体をはなれ游《およ》ぎゆきて雌の一本の足に達し輸精する。蜘蛛も足で精液をとり集め雌の体へすりつけ孕ま(161)す。魚類などは、牝が卵を下しおき牡がその卵へ精をぬるなり。こんな場合には猥褻尾籠等の欲念の起こるはずなし。)
 年強年弱ということは、学齢や徴兵令が出てよりのことにあらずやと思う。拙宅の長屋におる通運業をする人の幼子は去年元日に生まれたり。故に年強なり。大抵四月ごろまで生まれた者が年強で、それより後に生まれたるが年弱なる由、拙妻の説なり。小生は維新前の書に年強年弱ということの有無を知らず。
 シモンズの著書二冊は薄ぺらなもので、あまり高価ならず。また時々売本の広告を見る。小生の蔵書はみな有志の人々の出資をもって買いたるもので(小生、以前金を多少持ちしとき買いたるものも他人出資で買いたるものに編入せり)、死後目録を引き合わせ有志の出資者へ引き渡す約束なり、年に一、二度その人々検閲に来たる、また来たらぬ年もあれども、右の次第にて一切門外不出なり。薄ぺらな本ながら写すということはちょっと困難、かつ写して送ったところが読んで十分わかる人がまずはなかるべしと存じ候。
 『アラビアン・ナイツ』に、ある女聖が男色女色の優劣を論ずる長文あり(アラビア文学にこの論はなはだ多し)。『アラビアン・ナイツ』の全訳出たと聞くが、果たしてこの論も出でおるや。出でおるなら貴下等一読されたきことなり。
 また御尋ねの二書は、支那人でなく朝鮮人の紀行なるべしと存じ候。今村鞆氏、こんなことに至って委しきゆえ、ついであらば聞き合わせて、返事来たらば転送申し上ぐべく候。
 まずは右のみ申し上げ候。
  近く大曲省三氏の『末摘花通解』第四編を見るに、三田村氏説とて、男色の子供を仕立つるにヒジキを用うる、まことに残酷なこと、とあり。これは痛まぬよう「ふのり」の粘液を用うるなり。海藻(フノリ)をヒジキとよみちがえたるなり。今の有名な人にもこんな間違い多きは、露伴博士のカヅキをカツギと読みしと共にちょっと大息致し候。
 
(162)   昭和八年
 
          51
 
 昭和八年一月三日夜七時
  岩田準一様
                 南方熊楠再拝
 謹賀新宿。新年の御ハガキは元旦朝九時二十分に拝受、御礼申し上げ候。
 今朝、朝鮮今村師氏より来信あり、御訊問の件詳報ありたるに付き、左に全文写し出し御覧に供し上げ候。
  『海遊録』は、徳川吉宗の将軍襲職を賀すべく粛宗王よりの使。正使洪致中、副使黄?、従事官李明彦、これを三使と称す。江戸まで行きし一行四百七十五人。一行中の製術官申維翰。右享保四年十月、江戸城にて吉宗に謁す。
  『海槎録』は、寛永十三年(朝鮮仁祖十四年丙子)、海内一統太平を賀するため、正使任絖、副使金正濂、従事官黄※[戸/木]、三使と称す。江戸までの一行三百六十余人。本書は副使金明国(字《あざな》)の日記なり。
  『海槎線』に、日本に蜂蜜、人参なし、とある。蜂蜜なしとは誤聞なり。また帰途十一月二十日京都に滞在中、正使病気になり岡本玄冶の診を請い、投薬かつ五福延齢丹一合を呈した(呈せらる? 熊楠)。その病を論じ薬を講ずる、みな朱丹渓(震享)を祖述しておる。その伎倆は朝鮮の医官と比べ物にならぬというようなことを書き(163)ある。
 すべて朝鮮人の日本紀行は、内心日本に往っておったまげても、帰って書物とする時にあまりほめると都合が悪いから、何かしらん悪く書いたところがある。特に大抵男女の風俗を悪く書いてある。
 熊楠いわく、この二書のいずれか、また二書の外の物か忘れたが、朝鮮使に随行したものの日記に、日本の野郎のことをかき、ことのほか大層な美観のように書きあるを見しことあり(誰かの書に抄出せるを見しなり)。一生にかつて見ぬものとかきありしと存じ候。そのうち見当たらば申し上ぐべく候。
 高野山にて小姓と取り組むに、前より本式にするに、上図ごとき三角の(ビロウドに綿を入れなどせる)蒲団ごときものをあてて、その男根を倒さまにしておさえ、四つの紐にて両腿に括り付けし。仏国等でも、こんな物を用うるなり。けだし男色第一の用具なり。これを何と呼びしか、所見あらば御示し下されたく候。これなければ自在に前より行なうことならぬなり。        早々敬具
 
          52
 
 昭和八年一月六日午後九時
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。五日出貴書は今夕五時四十分拝受。『作陽誌』は、小生年来読みたく存じおりたるも手に入らず。もし御不(164)用ならば久米郡の部だけでも宜しく、御送り下されたく候。『作陽誌』全部幸いに手に入り候わば、その節久米郡の部は御返し申し上ぐべく候。とにかく御送り越し下されたく候。
 先状申し上げしと存じ候が、また申し上ぐる。三田村氏の住所は東京市中野区文園町二六に候。
 柳田氏の、かつぎ云々、笑止千万なることに候。この人の兄井上通泰氏は歌よみにて、時々御前に進講など致し候。その縁で柳田氏もよく『万葉』とか『古今』とか、歌人らしきことをひねくり廻す。しかるに、時々へんなこじ付けあるには驚き入り候。それにしても同氏の関係ある『旅と伝説』今年一月號口絵にカヅキの写真ありて正しくカヅキと訓ませあるは感心に御座候。また御申し越しの『秋風帖』は小生見ぬが、神童文学などこれまた笑止千万のことに候。
 貴地の古本屋にもし『紀伊国名所図会』二十三冊揃い、また『西国三十三所名所図会』十冊揃い売本あらば、代価聞き合わせ御申し越し下されたく候。小生是非入用のことあり、諸処に聞き合わすも不揃いのもののみにて揃うたるものは方外に高価なり。
 これはかつて申し上げたかも知れぬが、若衆という詞必ずしも美少年に限らず。只今はこの辺ではもっぱら壮者という意味に用い候。もっとも美少年をさすときは、以前和歌山また高野等でわかしゅう〔五字傍点〕と申せしが、小生幼時も今も和歌山、田辺等で壮年の男を指すときはわかいしゅ〔五字傍点〕と唱え候。地つきなどの唄に、「若いしゅしっかりやってくれ」など唱えたり。(四十年ばかり前まで、今の青年団というごとく、若衆連、若衆組など書き付けたる神灯などをしばしば村部で目撃せり。)この美少年をはなれてもっぱら壮者を若衆と呼びしことも、古くよりありしと見えて『群書類従』の武家部、足利氏の中ごろまでのものに、この意味の若衆の字見えたり。(これはかつて申し上げしことと記臆す。)昨日また見出でし一例をここに申し上ぐるは、『続群書類従』巻八〇〇『内山寺記』(応永二十六年の日記を同年写せし書なり)、「□□□□□(月日なるべし)ある方より密々に、真言堂の盗人は□□□にして、宮仕杉本の前裁殿の由、告げ知らせらるるの間、若衆十余人忍びおり、彼《か》の近処にて便宜《びんぎ》(一夜一日)を伺い、搦め取るべきの支度(165)のところ、云々」。これは忍びおる盗人を搦め捕らんため、究竟の青年壮士を近処に忍ばせ搦め捕らんとかまえたることなれば、美少年の意味にあらず。
 右ちょっと御受けまでに申し上げ候。      敬具
 本状一度封せしが、また書き付くべきことを憶い出し、切り開きてこの片紙を入れ再貼封致し候。
 『雍州府志』に、「児《ちご》社は、広沢池の西にあり。相伝う、遍照寺の寛朝、一旦天に昇り、之《ゆ》くところを知らず。侍児、別れを悲しんで池水に投じて死す。社を建ててこれを祭る。寛朝の登天石、今に存す。一説に、この児は文殊の化身にして、常に寛朝を護り、遷化の後、水に入って去るという」。
 仏教盛んにして愚俗等これを妄信せる世には、高僧が遷化するとき、近処に石をすえ、この石より上天せしと唱え尊がらせたことにて、その愛童が今さら身のおき処にこまり、また後家となり、今まで見下げたあとつぎの僧の愛童となるも如何なり、水死せしなどしばしばあり。それを文殊としてまつりしことと存じ候。
 『裏見寒話』巻二、甲州身延山、児が淵。むかし応永のころ、花若月若というて両人の児あり。容貌美麗なりしかば、一山の僧、男色にめでたるをもって、二人身を投ぐるとて、月花と思はれし身も徒《いたづ》らに如露又如電応作如是観《によろいうによでんおうさによぜくわん》(熊楠いう。この二句は『金剛経』の文句で、大内義隆辞世の歌にもあり)と辞世の詠歌を遺し身を投げて死す。衆僧憐れみて禿倉《ほこら》を立てて児文殊という、とあるも似たことで、この段二人同時に児文殊となりしわけなり。これは今日の芸妓見習いの女子などにしばしばある例で、あんまり尻の勤めのつらさに二人同情して身投げして死したるなり。月山か羽黒かにも、一人の児があまりに衆僧に争い翫びにされて死せしこと、『真澄遊覧記』にありしと存じ候。
 『山州名跡志』巻八、「葛野郡広沢、遍照寺の開基寛朝僧正は、長徳四年六月十二日、松の梢より天に上る(『元亨釈書』ならびに伝記)」とあれば、元亨ごろもっぱら行なわれた説なり。登天の松、寛朝、登天の松なり、「池の北の峰、上より十間ばかり下にあり」。児社、「池の西の林中、路傍の北にあり。社は南に向き、祭るところは寛朝僧正の侍童(166)の霊なり」。伝にいわく、古えこの所釣殿あり、件の児童一夕この所に来るに所在を失う、と。
 『雍州府志』と『山州名跡志』はあまり距たりし時代のものにあらず。しかるに、入水といい所在を失うといい、説くところ定まらざりしなり。ただし、師僧がなくなりてのち児童も見えなくなりしことは疑いを容れず。こんなことがいろいろと伝説付きで祀られ、それが平安朝より多くの星霜治乱をへて元禄ごろまで存せしもの往々あるをみると、平安朝の高僧が男色を愛でしことの盛んなりしが察せられ申し候。   早々再白
  ついでに申す。万治二年板『百物語』下に、「広沢の月見、今の世にも翫びしといえども、古えはことに人多く聚まりけるとなり。ある時、沢に浮草茂りて月影水に映らず。人みな空しく帰りしに、宗祇も月見に出られけるが、水の上へ杖を投げて萍のばっとのきしとき、月の水に映りしをみて、『浮草をかきわけみれば水に月、ここにありとは誰もしるまじ』とよみて、深く自慢したまいて、この歌をへぎに書き付け池の辺に立てて、また一首の歌を添え置きける、『この歌の心はしらじ、おそらくは定家家隆も釈迦も達磨も』と詠みて置かれしかば、云々。その辺に児の宮とて禿倉《ほこら》あり、このほこらより童子一人出でて、われらも歌に添歌よまんとて読みけるとなり、『釈迦達磨定家家隆も知らせずば歌にはあらで牛の糞かな』」。
  小生は別段こんな物を名歌とも秀歌とも思わぬが、とにかく死後までも宗祇に対抗するほどの歌をよむと思われしほど、むかしの稚児にはなかなかの文才あるものが多かりしなり。今日の雑誌よみかじりの少年などとは大いにちがい候。
 
          53
 
 昭和八年一月九日夜七時出〔葉書〕
 拝啓。左の件は比較的あまり世に普行されぬ書に出でしものゆえ、あるいはいまだ御存知なきことにもやと推し、(167)写して御報せ申し上げ候。「古え御小姓の面々は前髪長し。しかるに、向坂何某とて、ことのほか美少年にてありし、不幸にして早く死なれしに、その後仰せ出でられ、前髪を御覧なされ候えば、向坂のこと思い出され、御難渋の由にて、いずれも元服致し候様仰せ付けられ、元服致しける由。これより前髪は止みし由。向坂氏は山田吉左衝門家より分かれし由。委しく知れざるが、開善寺に墓あり、静照院様の御代の由」。
 『小倉叢書』(小倉市室町五十番地静観堂大正十五年三月刊行)『鵜之真似』一四七頁に出で候。著者小島礼重は、文化・天保間の人なれども、その伝あまり詳らかならず。静照院とは、小倉城主小笠原右近少監忠雄にて、享保十年七十九歳にて卒去(『続藩翰譜』六上)。しからば正保四年生れで、その三、四十歳のころ右の件あつたとすれば延宝・貞享の間で、五十歳の時あつたとすれば元禄九年なり。すなわち諸家に小姓を賞せる最中なり。  早々以上
 
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 昭和八年一月十二日午下〔葉書〕
 拝啓。九日出御ハガキ一は十日朝九時二十分着、同日出ハガキ一および小包一は咋十一日〇時三十五分|難有《ありがた》く拝受。
 若僧、雪中に石になりし話は、どうも今の語に引き展ばせしよりは、『作陽誌』の文の方がよく分かり、かつ趣きも勢いもあり。近ごろの引き展ばし訳ははなはだ面白からずと考え候。『作陽誌』は大いに役に立ち申し候段厚く御礼申し述べ候。
 只今小生『宋高僧伝』を閲しおり(北宋の太平興国七年勅して僧賛寧等をして撰せしめ、端拱元年成る)、その巻一八に、「唐の武陵の開元寺の慧昭は、云々、人と言を交《かわ》すに、かつ馴狎《したし》まず。関を閉じてみずから処《お》り、左右に侍童なく、毎日|乞食《こつじき》す」とあり。乞食せねばならぬほどの貧僧にも、特に「左右に侍童なし」とことわりあるを見ると、唐朝には寺僧ごとに侍童ありしことと知れ候。その風を日本へ移せしことゆえ、児童は寺ごとに多く、それを水葬せ(168)し処(むかしの寺には水葬多かりし)が、児の滝、児の池等、土葬されし処が児塚、児石等と存じ候。また唐の釈道宣の『続高僧伝』巻七、梁の大僧正、釈慧超、「童侍を羅列し、雅《はなは》だ王侯に勝る」。この僧は普通七年(わが継体天皇二十年)死せり。故に仏教が本邦へ伝えられしころ、すでに支那の寺にこの風盛んなりしなり。弘法を俟って初めて学び倣いしにあらず。
 
          55
 
 昭和八年一月二十三日夜九時半
  岩田準一様
                南方熊楠再拝
 拝啓。十五日出御ハガキは十六日午後三時四十五分拝受。小生、本月二日頭を剃りしに理髪店より帰途少しのきり創にバクテリアが潜入せしと見え、四、五日ごろより少しずつ痛み出し、十四、五日より大いにはれ上がり疼みはなはだしく、昨日より少しずつ痛みは去り候ものの、今に平癒せず。これがために御返事延引致し候。
 御尋ねの醍醐の男色絵は、小生、明治十六年ごろ見たものは蜂須賀家所蔵にて、巻頭の絵一枚のみひろげありし。左のごとく多くの(十二、三、四人もありしと覚え候)児童が群坐して左の方にいずれも顔を向け、なにか望み見る様子なり。その中央に法主ごとき老僧が一人ありしかとも覚ゆるが、そのことはたしかならず。しかして右の児童どもは、いずれもはなはだしく盛り過ぎたるものにて、顔に皺のよりたるもの多かりし。決して美少年にはあらず。ただ粧い衣裳が稚児めきたるばかりなり(169)し。只今貴下等が見る「醍醐男色絵」は冒頭に右様の一面あり候や否や。
 ちょうどその時出でたる古絵巻類の番付にも「【醍醐】男色絵、華族蜂須賀家蔵」とありし。その番付は外神田御成り道(万世橋より上野松坂屋の方へ通る鉄道馬車筋)の西側、鬼頭《きとう》−吉(悌吉なりしか)とてもつぱら古銭を店頭にならべ商う家の店頭に出しありし。その北隣か一軒おきて北となりかに、ちょっと大きな古本肆あり。小生只今座右にある『本草啓蒙』、『桃洞遺筆』など、みなその肆にて買えり。毎度その古書肆へゆきしゆえ右の番付は毎度見たり。明治三十三年久々で帰朝して、三十四年末より三十七年秋初まで那智に籠居せり。その間に旧知ジキンス氏叙爵のことあり。小生主催して知人どもに短冊かきもらいジキンス氏におくれり。そのとき醍醐寺管長大僧正長宥匡師も一、二枚かきくれたり。そのとき使僧に(これも華厳の専門家で高名の学僧なりし)、貴寺に高名な男色絵巻今もありやと問いしに、そんなものはなきようなり、との答えなりし。
 かつても申し上げしごとく、『国華余芳』(上野博物館蔵版)に、和歌山県士族津田正臣蔵として小楠公の「返らじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞ留むる」の壁書を写真して出しありし。小生和歌山にありし日、古き人々より聞きしに、この津田という人(墓は小生亡父の墓とならび、同じ寺にあり)、維新のさい勤王を衒《てら》い、楠公の後胤と称していろいろのことをなせし。その一として天忠組征伐に向かいしとき、如意輪堂に入って威勢にまかせ、右の壁書を奪略し帰れるなり、と。(この津田という人は、兄|出《いずる》氏とともに、早く進止を見限り致富の方にかかり、ずいぶん身代を拵えありしが、兄弟ともども末はあんまりよく行かず、その家断絶せり。)小生ロンドンにありし日、正金銀行支店長中井芳楠氏(日清戦争済んでその贖金を受け取りし人)に招かれ談話中、このことを言い出し、津田もけしからぬことをする人なり、と言いしに、何の証拠でそんなことをいうか、それこそけしからぬ言なり、といわれし。しかるに、件の『国華余芳』はロンドンにも大英博物館を始め諸処に備わりあり、それをみるとやはり右の写真を掲げ和歌山県士族津田正臣蔵と印刷しありし。盗んだ盗まぬは別として、如意輪堂にもとあった正行の正筆の和歌(170)が『国華余芳』の出板の歳(明治十三年ごろと記臆す)ごろには、津田の蔵となりしなり。しかるに、このごろ聞くに、その品がもとへ戻つたか、また天から複写品が降ったものか、如意輪堂にはれっきとして小楠公の手跡の和歌が存する由。
 こんなことは明治十五、六年ごろまでは盛んに行なわれたことで、磯の上《かみ》という枕辞のあとへきっと出てくる大和の布留の社の神体は、至って荘厳なる石剣とか銅剣とか、それを故井上馨伯がちょっと貸せと言って持って帰ったまま帰さず、当時の神官はなはだしくこれを気にやみおるということを大坂の新聞で見しことあり。(そのころの新聞はこんなことを臆面もなく書き立てしなり。)わずかに七、八年か十二、三年前の『大毎』紙にも、井上家整理のとき、奈良の唐招提寺の住職が、今度こそ井上家も先人(馨侯)の旧悪を浄むべき時なれ、この寺に鑑真和上が将来せる有名の香炉をちょっと貸せとて持ち去ったまま帰さず、いろいろ迫ると模擬品をすえおかせるからというたまま、いつまで俟っても模造品も送り来たらず。有名の古刹になくてならぬ旧什を没収してまで、自分の耳目を娯しませたいとはこまった人なりし。今度整理するからは外人にでも売らるるかも知れず。と言って貸し借りの証文はなし、まことに困ったことなり、と言ったということを『大毎』紙で見及び候。
 小生、明治十五年春、高野山へ上りしとき、山内の古器什宝の展覧会を青岸寺(今の金剛峰寺)で行なえり。漢の蔡?の石経、鴻池家奉納の玳瑁《たいまい》製の万年青など、まことにおびただしきものにて、さしも広き寺内に迷路のごとく屏風を屈曲してとりまわし、両側に什宝をならべて、七日ごとにことごとく置き替えし。それが七度までおきかえて、なお今七度おきても覧悉《みつく》されず、というほど品物多かりしが、季節が過ぎて登山に便ならぬこととなるから、それで打ち止めとなりし。さて、十八年のち小生帰朝の船中に神戸の川崎正蔵氏乗客たりし。いろいろ承るに、件の蔡?の石経など数千字もありし大字を、そのままでは面白からぬゆえ、きりきざみて多分をすててしまい(『常山紀談』に見えた古田織部のやりかたそのまま)、五字、十五字をのこして、川崎氏へ十五字とか某伯へ八字とかを高価にうり、(171)坊主や奸商の餌食にしてしまいしなり。明治十五年の展覧会の目録を一枚刷にし、また扇子両面にすりしものも小生持ちおりしが、東京に上りしとき真言宗信心の人に望まれ与え了り、今に存せざるは遺憾でもあれば、また、そんな物があらば毎度惆恨の種子となるから、いっそ保存せざりしがましとも存じ候。
 今曰霊宝館に保存せるものなどは、いずれもそのときの展覧会などには夢にも出す見込みなかりし、つまらぬもののみに御座候。その展覧会に出したるものは、あるいは一部分または半部または四分の一に分かたれて、伝来書などは全く焼き失われ、パリの旅館の入口の間の飾りとなったり、イタリアの娼肆の火炉の被いにされたり、妓室の天井に釣り下げられたり、靴の台にされたり、日本の物らしいが、どこにあったものだろうと訝かるのみで、千万歳一たび失うた履歴書を恢復する見込みなくして呻吟しおることと存じ候。
 こんな次第にて、小生ごときそんなことに無頓着なるもののいささか経歴したるだけでも名だたるものの失われ易きこと、物の正贋が乱れゆくことを見たること、かくのごとし。いわんや奈良といい大坂といい京都といい、その他片々たる辺鄙地のいずれの地にも、物をすりかえたり、偽造して偽品の方が正品よりも正しく見えるようなものを作り出す名人のおびただしきには、小生も在欧中その輩と交際して三驚を吃し候。それを貴下などが、後生少年の中山太郎君がどう言ったとか、何々博士が堅く保証するとかいわるるは、その人々ぐるめにだまされおるを自証するものに御座候。
 貴下は、右の小生が見たる「醍醐男色絵」を「児観音縁起」にあらずや、と言わる。小生は「児観音縁起」というものを知らず。ただし、「長谷観音縁起」の一部に「児観音縁起」あることは知る。(『和州旧跡幽考』はこれより引き出したるものなり。)「長谷縁起」の画巻というもの現在の有無も知らぬほどなれば、「児観音縁起」の画を知るはずも見るはずもなく候。
 小生、今夜『翁草』巻六四の謡曲の目録を見るに、六百番の目録中に、「童堂」、「児塚」、「禿物狂」等あり、また(172)「学文物狂」あり。高野山の上り口に学文路《かむろ》という宿場あり。むかし稚児をおきし所とかという。この「学文物狂」すなわち「学文路物狂」で、「禿物狂」と重複せずやと疑う。また七百番の目録中に「鬼女谷行」あり。これは鬼女が山伏の一行に出あい、例の谷行に処せらるることを演べた物かと思う。小生はとても手が届かぬが、貴下便宜あらば御調べ遊ばされたく候。          敬具
 
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 昭和八年一月二十八日早朝出〔葉書〕
(第一ハガキ)
 拝啓。二十二日出御ハガキ、二十四日午前八時四十五分拝受。石子づめのことは、小生かつてしらべたることあり。高野山等にては寺領内の不逞の徒をこの刑に行ない候(僧徒にしてはなはだしく不如法なりしもの、また寺領の民にして寺法に反抗せしものなど)。小生二十歳のとき、三好《みよし》村という所の紀川《きのかわ》岸に、戸屋新右衛門とかいう人の後裔を尋ねしことあり。これは植木枝盛氏の『東洋義人伝』とかいうものにも出ず。高野領の課税がことのほか苛刻なるを幕府へ訴え、苛法は除かれしも、寺法を行ない石子詰に処せられたりという。貴著書に見える稚児の石子詰はすなわち谷行〔二字傍点〕にて、嗷訴等の罪を犯せしを必とせず、「谷行」の謡曲に見ゆるごとく、途中、病気、負傷等にて一同の迷惑になりしものを、止むを得ず生埋めせしことと存じ候。かかることは、今日では偽説のごとく聞こゆるならんも、現に伏見敗軍の節、幕士が重傷負いたるその父の首を刎ね、腰に帯びて紀州路を下り来たりしを、小生の亡母が目撃して、毎度落涙して咄され申し候。
 小生二十二、三のとき、米国ミシガン州アナバという小市の郊外三、四マイルの深林に採集中、大吹雪となり走り帰るうち、生まれて一月にならぬ小猫が道を失い、雪中を小生に随い走る。小生ちようど国元の妹の訃に接せし数日(173)後で、仏家の転生のことなど思い、もし妹がこの猫に生まれあったら棄つるに忍びずと、上衣のポケットに入れて走りしも、しばしばそれより出て走る。小さいものゆえ小生に追いつき能わず哀しみ鳴く。歩を停めて拾い上ぐ。幾度も幾度もポケットに入れしも、やがてまた落ち出る。漢の高祖が敗走するに、その子恵帝と魯元公主が足手まといになるとて、何度も何度もつき落とせしことを思い出し、終《つい》にその小猫をつかんで、ある牧場の垣の内へ数丈投げ込み、絶念して一生懸命に走り吹雪に理もるを免れたり。
 
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 昭和八年一月二十八日早朝出〔葉書〕
(第二ハガキ)
 その猫やがて雪中に埋もれ死せしことと今も惆恨致し候。こんなことは小生一身ずいぶん開け切った米国ですら経歴せしことあり。しからば、幾百年前のむかし峻嶮莽鬱たる山谷を跋渉するには、必ず万一途中で不慮のことにあわば、命はなきものと思い定めて、固く誓約して出かけたことと存じ候。(『古今著聞集』に、西行、峰入りの途中の苦難に耐えかね、はなはだしく先達を怨みしことあり。)
 さて、昨夜『古今図書集成』職方典五二五巻を読むに、陝西の?陽県西三十里にある石魚娘々廟のことあり。「娘娘、その里(生処)を知らず。世に伝えて言う、すなわち女子、奮烈して生を捐《す》つ(強姦されかけて自滅して難を免れしなり)。遺骨あって乱石灘(川原なり)にあり。旧廟は雨を祈るに験あり、云々」。一昨年、拙宅の北隣の家(甲府辺の高等か中学の教師なり)の長男が支那巡廻して還りし話に、今諸省に娘々廟という小祠多し。ちようど本邦田舎街道の石地蔵や庚申像ごとく多くあり。土地土地の人々にきき正すに、誰を祭ったやら何の所由やら分からぬもの多し。ただ女子(棄てられ死んだ女児多かるべし)を祭ったものというだけは別るとのことなりし。ここにいえる石魚娘々も、(174)なにか石を魚に化して人に食わせ救うたとか、不信心な奴が惜しんで献ぜざりし魚を石に化して懲らしたとか、縁起があったらしきも、それがはや明のころ、すでにその伝を失い、ただもっぱら貞操を重んじて自滅した骨を理めたと伝えられたるなり。こんなのはまだましなり。北隣の長男が見たのは、多くは何の謂《いわ》れも名号もなく、ただ娘々娘々と崇めらるるばかりなり、とのことなりし。児塚、児石、またほぼこの通りで、一々祀られた謂れもあるはずなれど、それはみな忘却され、ただある児の遺跡とだけ覚えられたので、中には病死、変死、情死、殺害、寵死、いろいろと死に様はかわれど、小児や少年が死して、その処へ埋められた塚と墓標をかく呼ばるるは一なりと存じ候。ただヨリマシ童を崇拝のためにあらざるだけはたしかに明らかに候。       早々敬具
 
          58
 
 昭和八年二月一日午前十時〔葉書〕
 拝復。三十日出御葉書、今朝八時十分拝見。前状申し上げたる『東洋義人伝』は、『東洋義民伝』の謬りで、著者は植木枝盛氏でなく小室信介氏と記臆致し候。征韓論で辞職した副島、江藤、後藤、板垣氏と連名で民撰議院設立の建白をした信夫氏の養子で、そのころより明治二十年ごろまで名高かりし人に候。植木氏にも同似の著書ありしが、それは小生見ざりし。高野一件で石子詰になりしは戸谷《とや》とかいいし人で、その伝は小室氏の著に載せありし。石子詰のことは、『郷土研究』に友人寺石正路氏が書いたもの出でありし。右の植木枝盛氏も名高き自由党員で、第一回の衆議院議員なりしが、早く死せり。この人の『西郷隆盛伝』とかいいしものに、西郷、大久保二氏毎々不快の中なりしは、村田信八若きときことのほか美少年にて、西大二氏がこれを争いしより不快が一生つづけり、ということありし。古ギリシア、アテネの二偉人テミストクレスとアリスチデスが美少年の争いより一生|不中《ふなか》なりしことなどより作り出したことかとも考えたることあり。まずは右御返事まで。            早々敬具
 
(175)          59
 
 昭和八年二月二日夜九時半〔葉書〕
 拝呈。『西国三十三所名所図会』は、すでに買い入れ候。『紀伊国名所図会』はまだ買い入れず。もし貴地方にて見当たり五十円くらいならば御一報下されたく候。
 次の歌は、『岩つつじ』にも、貴下これまで書いた中にも見当たらずと覚ゆれば抄し差し上げ候。
 (日光山、云々)一山の老弱、酒宴を興行して、椎児|童《わらわ》数輩集まりていろいろ曲を尽し侍りき。宴席終わりて藤乙丸といえる少年、休所に礼に来たりてしばらく物語りし侍りて帰りけるが、次の日いい遣わしける、「音にぞと言ひしもさぞな相見ての心尽しの誰かしらまし」。藤乙丸返し、「相見しは夢かとばかりたどれるをうつつに返す言の葉の末」。ある夜、またかの稚児おとずれ侍りて、あまりに月の面白さに誘われ侍る由申して、しばし物語りし侍りけるに、一首よみ侍るべき由強いて所望しければ、取り敢えず、「月見つつ思ひ出でなば諸共《もろとも》に空しきそらやかたみならまし」。名残もきょうあすばかりにて侍りければ、夜のふけゆくをも知らず遊びけるに、五更の鐘すでに告げ渡りければ帰りて、長門豎者して申しおこせたる、「いかにせんまたたのみある世なりとも秋の別れは愚かならめや」藤乙丸。返し、「わかれぢの露とも消えん時もあれ秋やは人にとのみなげきて」。添えて遣わしける歌、「忘れめや一夜の夢の仮枕人こそかりに思ひなすとも」。(道興准后『廻国雑記』)         以上
 
          60
 
 昭和八年二月七日午後三時出〔葉書〕
 拝復。五日出御ハガキ、咋六日午後四時四十分拝受。『神谷宗湛筆記』は小生毎度見るが、御示しのことにはいま(176)だ気付かざりし。そのうち閲覧致すべく候。また『廻国雑記』の件は、すでに御掲載ありし由、小生はそれを拝読せざりしことと存じ候。今日『日本及日本人』二月一日号を受け取りしに、その九〇頁に、無題号にて、また無署名にて、「昭和八年一月七日志州鳥羽町岩田準一という人より奇問を受く。その書にいう、『高野小姓を床にて扱うに、前より行なうに三角の、云々。南方氏より伺いおり候ところ、云々。御示教のほどひとえに願い上げ奉り候』。怪しからぬことを聞かるるものかな」とあり。
 明治四十三年ごろ、故福本日南が『大毎』紙へ小生の伝のような物を出すとて、無断で明治三十三年小生が同氏に贈りし書状を転載せしことあり。小生はその無作法なるに驚き入り候(もっとも、その書状は出されたりとて一向かまわぬものなりしも)。当時はそれに驚き入るほどの世間なりしなり。しかるに、今日はそんなことは尋常になりおるなり。今回の三田村氏のやり方ははなはだ不穏当と思うが、貴下が三田村氏というはどんな性質の人ということを知らずに、また紹介人なしに、突然右様のことを尋ね状を出せしならば、これも不穏当のことと存じ候。(宮武外骨などは毎度かようのことをする人に候。むかしの十返舎一九なども、書いたものを読むとさっぱり物に構わぬ人のように見えたが、実際はことのほかむつかし屋で、よるとさわると機嫌の惡き人で、毎事虫のすわりが悪かりし由。)一向小生の関することならぬも念のため申し上げ置き候。                   敬具
 
          61
 
 昭和八年二月十日午後四時〔葉書〕
 拝啓。前日『水経注』より、むかし支那に童子を祠る風あることを申し上げしが、それはただ童子とあって美童となかりし。左に美童像を祀りし例を申し上げ候。
 『古今図番集成』職方典第九三六巻、「浙江省杭州府の青衣洞は、呉山の重陽庵の後にあり。故老相伝う、むかし人(177)の洞口に至るに、青衣の童子あり、明麗なること玉のごとし。これに問うも応《こた》えず。やや久しくして洞に入り、またと見えず。形《すがた》を尋ねて追遂するも、ただ風雨の声を聞くのみ、毛髪|悚々《しようしよう》として出ず、と。青衣泉あり。『銭塘県志』を按ずるに、明の洪武中、常徳の丁啓東、杭に至り、羽衣《うい》(仙人のこと)の二重子を携えてこれを示すを夢む。翼旦《よくちよう》追憶して往訪《たず》ぬるに、童子の塑像、儼然として昨《ゆうべ》の夢のごとくなるを見る。年を踰《こ》えて子《むすこ》の潤山を生む。啓東、ために事を麗泉の上《ほとり》に建つ。宣徳中、潤山、賢良をもって?県の主簿となり(知事になりしことなり)、杭州に道して、すなわち殿宇を建つ」。
 潤山は、件の美童神の申し子というわけになるなり。原文は多少の助注を入れねばよみにくいから入れおき候。
 右書き了りしところへ、九日出貴状拝受仕り候。『日本及日本人』の三田村氏の短文は、例になく全然無題号また匿名にあらずして全く無記名なり。故に岩田なる人が誰へ問い合わせしか、分からぬことなり。    不壱一
  去年十二月の『民俗学』別刊拙文出で候もの、このハガキと共に送り上げ候。
 
          62
 
 昭和八年二月十七日午後六時半〔葉書〕
 拝復。十五日出貴状拝見。その貴状に御示しの、今月十日小生より申し上げたる『古今図書集成』職方典よりの抜き書きは、大体どんなことなりしや。職方典の第何巻ということ、御一報願い上げ候。当時小生病み上りにてたしかに記臆せざるも、それに連関して今一条申し上ぐべきことありしも眠たくて捜しあて得ざりし。右の巻数御示し下され候わば、それを便りに(たぷんその巻より遠からぬ巻、この書は大部のもので大抵五巻より、七、八巻を一冊に合わせとじあるなり)右のまだ申し上げおらぬ巻を捜し出し申し上ぐべく候。かかることは忘れぬうちに抄し出さぬと、なかなか二度と見出だすものにあらず。『花街風俗叢書』七は今少し長く御貸しおき下されたく、これは一々写しとり(178)おり、病み上りのゆえに速く写し得ず候。       敬具
 
          63
 
 昭和八年二月十八日夕六時出〔葉書〕
 拝復。十七日出御葉書只今拝見。御尋ねの件は、『古今図書集成』職方典(支那内地の地理志なり)九三六巻にあり。『集成』はすべて一万巻あり、乾象、歳功、暦法、庶徴、坤輿、職方、山川、辺裔等の三十二典に分かつ。乾象典ごときは、ただ一〇〇巻なれども、氏族典は六四〇巻、官常典は八〇〇巻、芸術典は八二四巻、職方典は最多巻で一五四四巻あり。故に『古今図書集成』○○典第……巻と典の名を明示せざれば、再度探出は成らず候。今度御下問のは、小生まだ職方典という記臆新たなるゆえ、さつそく見出だし得候。本文は、「青衣洞は(浙江省杭州府)呉山の重陽庵の後にあり。……青衣泉あり(泉とは水のわき出ずる泉水、すなわち小さき池なり。日本社寺に弁天池、天王池等あるごとし)」、この下につづいて、「『銭塘県志』を按ずるに、明の洪武中、常徳の丁啓東、杭に至り、羽衣《うい》(仙人のこと)の一童子を携えてこれを示すを夢む。翼旦《よくちよう》、追憶して往訪《たず》ぬるに、童子の塑像、儼然として咋《ゆうべ》の夢のごとくなる見る。年を踰《こ》えて子《むすこ》の潤山を生む。啓東、ために亭を麗泉の上《ほとり》に建つ。宣徳中、潤山、賢良をもって?県の主簿となり、杭州に道して(任に赴く道中に杭州を通り、立ち寄った)、すなわち殿宇を建つ」。自分が仙人の童子の生まれたものと聞きおったので、その童神のために殿宇を立てたというなり。    早々以上
 
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 昭和八年二月二十八日午前四時出〔葉書〕
 拝復。御下問の件、「聖道にてはちごといい、禅宗にては喝食」というのが常例で、喝食の児というは、僧の侍童(179)はみなちご〔二字傍点〕、そのちごのうちに、食時に食堂へ僧衆を喝《よ》ぶ職務のものあり。それを喝食〔二字傍点〕のちごと言いしを、後に略して喝食と言ったことと独り合点したることと察し候。この辺の田舎女が、貴客に対して叮嚀を極めたつもりで、御膳というべきを御御膳《おごぜん》と言うようなものなり。小生青年の時、到り風《ふう》で紅葉館《こうようかん》で西洋料理を饗されたとか、立食《りつしよく》の節ナイフを落としたとか、したりげにいうをききたることあり。紅葉館は、特に日本料理の粋を保存のために設けられた物、立食は狩場で匆卒の際の食事ゆえ指ばかりで食う作法ということを、底まで知らずに広言を吐きたるなり。この人の兄は高名な歌人の由なるが(本職は眼医者)、小生昭和四年、自分が保存せる神島の海渚で拝謁を賜わりしとき、御野立ちあらせられたる地点に翌年碑を建て、「一枝も心してふけ沖つ風、天津日嗣のめでましし森ぞ」と歌をしたためて、友人を経て見せしに、これでよしとなり。天津日嗣のすめらみこととつづくべき形容詞で、決してこのまま彫るべきにあらず。みずから「わが大君の」と改めて彫らせ候。天津日嗣が何々するなどは浄瑠璃などにいうことなり。それをこれで宜しなどは片腹痛し。兄弟とも慢心して事をなおざりにするは家風と見え候。
 
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 昭和八年三月二十六日早朝出〔葉書〕
 拝呈。十一日夜出御葉書、十三日朝九時拝見。小生本月八日より右眼血膜炎、おいおい左眼に移り、日々医師方にて一時間半ほどかかり四回点薬、帰宅後一日に四回点薬また四回眼を薬液でむす。それゆえ筆を執ることならず、はなはだ迷惑罷り在り侯て御無沙汰申し上げ候。
 児店一件は、店また廛という字義から正しくかからざるべからず。古く娼家を女肆また仏書に淫肆という例より考うれば、あるいは児の売色肆の義かと存じ候。『康煕字典』を見るに、「崔豹の『古今注』に、店は置なり、貨鬻《かいく》の物を置くゆえんなり」とのみあって、家の義少しも見えず。後世店というは駅宿のことらしく候。(明清朝の辺土の地(180)誌にしばしば見ゆ。)故に、小生はやはり淫肆同様のことと存じ候。あるいはまた、小田原の外郎《ういろう》売りなどごとく、児に貨物を売らしめ客を引きし店かとも存じ候。漁家を漁店というも、漁師の住宅の意にあらずして、獲り来たれる魚介をならべ売買するミセにて、そこに必ずしも漁師の一族が住むを意味せぬことと察し候。江戸で店《たな》受け、店子と申せしも、もと店《たな》に従事する人の受け、店に従事する住人の儀で、店とはもっぱら商家をいいしことと存じ候。寺や社家や庵や浪人の宅を店と言いしことはなしと存じ候(徳川氏のとき)。鎌倉時代には一層なしと存じ候。
 『花街風俗叢書』若衆篇は、目わるくて写し得ず、今少し御貸し置き下されたく候。      早々敬具
 
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 昭和八年四月十二日午後五時〔葉書〕
 拝啓。中行堂書店より今日午前十時前、書留小包にて『紀伊国名所図会』二十三冊全部到着。はなはだ美麗なる無瑕の完本にて、六十円ではすこぶる安値なり。さつそく送金致したり。
 右|難有《ありがた》く御礼申し上げおき候。小生は今に眼癒えず、はなはだ困り入りおり候。       早々敬具
 
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 昭和八年四月二十五日早朝〔葉書〕
 拝啓。兼ねて御尋ねの地方野郎茶屋のこと、河内三日市の外に、左の一事見当たり候。たぶん御承知とは察し奉れども念のため申し上げ候。
 中山太郎氏の『日本民俗学』随筆篇三二五貢に、富田|伊之《これゆき》(荷田東麿門人)の『奥州紀行』(安永六年の旅行の記なり)、八月十八日、白河へ下りに左の方町中に茶店あり、暖簾に「出弥即、ほてい屋」と書けり。所の者に承り候えば、(181)これを野郎茶屋と言う由。熊楠言う、布袋は小児を愛するというところより付けたる家号なるべし。  早々敬具
 
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 昭和八年四月三十日午前一時
   岩田準一様
                    南方熊楠再拝
 拝復。二十七日出御状、一昨二十八日、朝八時半拝受。眼がまたわるきゆえ昨日拝見致し候。白川の野郎茶屋のことを記したる中山氏の一節は「紀行文に現われたる東北の遊女」と題し、『郊外』一〇巻一一号所載と注しあり候。東海道小田原の外郎売りのことは従前しばしば文献で見及びたるが、只今何々の書ということをたしかに記臆せず候。ただし、西鶴作とある人々が信ずる『好色旅日記』五、清見のところに、「膏薬売りの若衆多し」(『武道伝来記』四の一にも出ず)と明記しながら、小田原のところには単に、「小田原にかかる宿の左に外良売り」とのみ記して、一向若衆のことを記せざるを見れば、そのころは外良を若衆が売ることはなかりしかと存じ候。
 御尋ねの船につかわるる十一、二歳のものは、勝浦辺では(明治三十四、五年のこと)カシキといわずボヤンといい候。(坊様という意らしく候。)炊事に限らず、いろいろの小用を弁ぜしなり。また和船に男色のことは一向小生は聞かず。これは到るところ売女多きゆえに候。船中にて情事は一切忌む。湊に入りて碇泊し上陸してはかまわぬことと存じ候。航行中そのことなきゆえ男色などは行なうひまなきなり。
 ただし、支那には船中の男色もありて清の趨翼の『簷曝雑記』巻四に、乾隆三十四年番禺県の海賊陳詳勝の徒を捕えし記事中、諸賊の罪に軽重を別つに、「懼れていまだあえて従わざる者あり、病を患《わずら》いて艙に伏す者あり、誘《いざな》われて火夫となり飯を炊《かし》ぐ者あり。甚しきは、年二十以下にして、すなわち指《なざ》されて盗首の嬖童となるものあるに至る。(182)初めはあえて服せざりしも、尋《つ》いで生路たるを知り、また恥を忍んでこれを認む」とあり、また清の沈景倩の『敝帚斎余談』に「契兄弟」の一条あり、いわく、「?人《みんじん》、酷《はなは》だ男色を重んじ、貴賤|研?《けんし》に論なく、おのおのその類をもって相結ぶ。長《としうえ》の者を契兄となし、少《としした》の者を契弟となす。その兄は弟の家に入り、弟の父母これを撫愛《いつく》しむこと婿《むこ》のごとし。弟の後日の生計および妻を娶るの諸費は、倶《すべ》て契兄より取弁す。その相愛する者は、年|而立《じりゆう》を過ぐるも、なお寝ぬるも処《お》るも伉儷《めおと》のごとく、他に淫して告※[言+干]《あば》く者あるに至れば、名づけて※[田/女]奸という。※[田/女]の字は韻書に見えず、けだし?人の自ら撰《つく》れるところならん。その昵厚《むつ》びて意を遂ぐるを得ざる者は、あるいは相抱き繋《くく》りて波中に溺《しず》むに至り、また時々これあり。こは年貌の相若《あいに》たる者に過ぎざるのみなるも、近ごろ契児と称する者あるは、すなわち壮夫の好淫にして、すなわち多くの貲《かね》をもって?姿《ほうし》の韶秀《うるわ》しき者を聚め、与《とも》に衾?《きんちゆう》の好《よしみ》を講《かたら》う。父をもって自ら居り、諸少年を子舎に列《つら》ぬ。もっとも逆乱の尤《はなはだ》しきものとなす。そのこと海寇に肇《はじ》まると聞く。いわく、大海中にては婦人の師《いくさ》の中にあるを禁ず、これあればすなわち覆溺に遭う、故に男寵をもってこれに代え、しかして酋豪はすなわちついに契父と称せしなり、と。よって思うに、孫恩(東晋朝の大海賊首なり)は、晋にありて、諸妓妾を軍に随わしめたり、豈《あ》に海神の好尚《このみ》また今古に随つて変改せるや。ただし、契父もまた本《もと》づくところあり。嘉靖の間、広西上?州の土知州の趙元恩なる者、幼にして父を失う。その母なお盛年にして、太平の陸監生なる者と通じ、これを久しくして、ついに留めて去らず。元恩、よって陸を呼んで契父となし、これに事《つか》うること厳君のごとし。その尊称は?寇と同じきも、第《ただ》、その称謂の故《いわれ》は大いにr《ひと》しからず。『南史』に、王僧達の族子の確《かく》、年|少《わか》くして美しき姿容あり。僧達、これと私《ひそ》かに款《まじ》わる。後、逼《せま》ってこれを留めんと欲するも、避けて往かず。よって屋後に大坑を作り、確を誘い来たつてこれを殺さんと欲す、と。男色の嗜み、族属尊卑を避けずして、かつ凶忍を行なうことかくのごときに至る。また  関俗の祖《もと》なるか」。
 この通り 国の支那人はもっぱら船中に童愛を恣《ほしいま》まにせしなり。日本にはかかることを聞かず候。ただし、『常山(183)紀談』(他の書なりしか、今ちょっと忘る)に、加藤嘉明、唐島の水戦に年わかき児小姓が韓人に殺されしを老後まで無残なりしと語りし由見え候えば、軍人武将には船に小姓をつれしもありしなり。次に倭寇が(倭寇といえどその過分は支那の海賊なり)支那の諸地を犯し、婦人や少童を抄略せし記事は、支那の史書や地志にはなはだ多く候。
 また御下問のスイノ(この紀州でもスイノウと申す。漉水嚢《しやすいのう》の略詞なり)を魔よけとすることは、『南方随筆』三八および四四頁に弁じあり。邪鬼が人をにらみ害せんといきまくうち、目籠《めかご》や漉水嚢の網目《あみめ》を見付け、一々その目《め》の数《かず》を算え尽すに眼力がくたびれてその邪勢が衰え去るというなり。これは疳《かん》の強き小児やある種の狂人にそんなものを見すると、その網目をかたはしから算うることに精神を集中して兇勢が衰弱し去る。ちょうど騒ぎ狂う猴に糸のもつれたる毬を投げ与うると、そのもつれを解くことに執心して騒ぎが止まるごとし。篩は、『和漢三才図会』三五に、和名ふるい、今粗なるものをトオシ、密なるものをフルイという、とあり。只今もこの辺で粗なるもの(籐《とう》や竹条で網を作れる)をトオシ(左官、農夫など用ゆ)、密なるもの(はりがねなどで作れるもの)をフルイと申し候。一層あみめの細かきもの(細きはりがね、また鳥の尾などで作り、糊などを漉すもの)を水嚢《すいのう》と申す。
 『犬著聞集』というもの、何巻ありていつごろ誰の著に候や。小生見たことなし。これは近ごろ出板されおり候や。
 『紀伊国名所図会』は御知らせ下されたる田中正男氏店より至極美本二十三冊そろい六十円にて得候段難有く御礼申し上げ候。その後、名古屋の松本憲治郎という書店の目録にも二十三冊そろい桐箱入六十五円とあるを見出だし候。しかし、田中氏の方は無類の上本にて一段安価なりしことに御座候。
 まずは右まで御返事申し上げ候。       早々敬具
 
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 昭和八年五月四日早朝〔葉書〕
(184) 拝復。一日出御葉書、昨日午後四時四十分拝受。ボヤンは上方人が棒《ぼう》というときの音《おん》にて、ヤンは盆踊りの口説きの末に、「出てゆくのが女郎買い姿やんれ〔三字傍点〕」というときのヤンと同音なり。人の子を坊様《ぼーやん》というときは亡魂《ぼーこん》のボーと同音、僧を坊様《ぼーさん》というときは孑孑《ぼーふり》というときのボーと同音なり。ボヤンのボはそれらとは異音に候。
 『簷曝雑記』は貴筆の通り、間違いなし。
 陳詳勝の生地は番禺県にて、『和漢三才図会』巻六三の広東省のまん中、広州府の内にあり。広州府〔三字□で囲む〕と書きたる名題のすぐ右方に見え候。
 次に『敝帚斎余談』中御尋ねの二字は自居で、「父をもって自ら居り、諸少年を子舎に列ぬ」とは自分が十分諸児の父たる気分でおり、諸少年を子供部屋にそれぞれ入れ列ねおくという義に候。
 ついでに申す。?とは今の福建省のことを申す。福建がむかしの?越、広東・広西はむかしの百越なり。越を粤とも書く。         早々頓首
 
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 昭和八年五月二十一日朝九時半〔葉書〕
 拝啓。小生眼は大分快愈致し候。次の件は毎度申し上げんと思いおりたるが、正しき本文を突き留め得ず、今日に至りしところ、現に見出だしたるに付き、忘れぬうちに申し上げ置き候。
 唐の?賓《けいひん》国三蔵般若、詔を奉じて訳せる『大方広仏華厳経』巻六に、善財童子、解脱長者の教えに随い、「南行して閻浮提《えんぶだい》の畔《ほとり》の無垢聚落《むくじゆらく》に向かい、周遍《あまね》く海幢《かいどう》比丘を尋ね覓《もと》む。すなわちその経行《きんひん》の林側にあって結跏趺坐《けつかふざ》せるを見る。端身正念《たんしんしようねん》して、出入の息を離《さ》り、別の思覚なく、不思議広大|三昧《ざんまい》に住み、三昧の力をもって大神通を現じ(中略)、両足の下より無数の仏刹と、極微塵《ごくみじん》数の長者、居士、婆羅門衆とを出だし、身雲《しんうん》に相似たり。首《こうべ》に宰冠を戴き、(185)身に瓔珞を垂れ、明珠を項《くび》に繋《か》け、被服荘厳にして、無量の童男をもって眷属となす、云々」。童男を随侍せしむることは、僧の戒行乱れて後のことのように思うが普通なれど、大乗仏教では、初めから海幢比丘尼ほどの聖人がすでに多くの童男を眷属として随従せしめしと経文に見えあるなり。故に、高僧どもが童男を侍従せしめしは、これらの聖人の行作にならいしなり。                     以上
 
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 昭和八年五月二十三日午後七時〔葉書〕
 拝啓。『日本随筆大成』第三期一三巻一四六頁に、『翁草』巻一四三は春画の巻なり、今刊行にこれを除く、とあり。この『翁草』のこの巻のことを、従前の彼方のことを書きたる諸書に引きたるを見しことなし。今も写本には存することと信ず。貴下どこかで見当たらば、その巻を写し取りおかば、行く行く貴下の精究にいろいろと便を与え、新識を授くること多かるべしと存じ候。ちょっと申し上げおく。    敬具
 
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 昭和八年六月二十二日朝九時
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。五月二十三日出御状は二十五日午前八時半拝受、また六月一日出御葉書は二日午后四時半拝受。しかるに拙妻またまた発症、医師を日々呼び迎え注射等の騒ぎ、また小生は五月三十一日限り眼病は全快、薬用を廃止し得たるも、あまり久しく坐して写生図を作るより脚腰および腸肝が悪く、まことに動作不自由、そこへ数十年来心掛けおり(186)し希有の植物が一時に手に入り来たり、打ちやりおくときは今後何十年にしてまた手に入るか分からぬ次第にて、日夜その解剖精究にかかる等、多事のため今日まで御返事大いに後れ申し候。恩借の『花街風俗叢書』若衆篇も写しさしたるまましばらく謄写中止、まことに相済まず、しかし近日一気呵成に写したる上御返し申し上ぐべく候。今日も希代の菌が手に入り、至って腐り易きものにて前月二十四日来これで第三回も手に入り候も、毎度写生半ばに腐り了り候。今日は涼しきを幸い、これより手早く写生するつもりにて、只今絵の具調製中ちょっとこの手紙差し上げ候。
 右の六月一日出御葉書は、多忙にまぎれ只今紛失ちょっと見当たらず。よって五月二十三日出御状にのみ御返事申し上げ候。「いけにえ」云々のこと、これは世界各地に行なわれたることらしきも、わが邦にたしかにこのことのありしという証拠はいまだ十分に挙がらざるように存じ候。存外の野蛮人にも、このこと一向行なわざるものあり。また、至って開化せる人民にも盛んにこれを行ないしもあり。世界の多くの地に行なわれたるゆえ、わが邦にも行なわれたりという論は、全く成立せずと存じ候。さて外国よりいろいろといけにえの話が伝来してより、いろいろとこじつけて、そのこと古く本邦にありしごとくいいなし、書きなし、また行ないもし、今となつてはそのこと実にあったごとく思う人多きことと存じ候。
 似たる例をとれば、世の進化するに随い、石器、青銅器、それから鉄器を用うるが一汎の順序という。しかるに南洋諸島など、十九世紀、はなはだしきは今世紀までも石器のみなる処、処々にあり。また遊牧、農業、工業という順序に、社会は世態をかえたりと申す。しかし、インドの多くの部分などには遊牧をせずに始終農業で通した所もあり。どうも世界諸国みな一律にはまいらず候。ヨリマシの一事ごときも日本に神代よりヨリマシを使いしということ一向見えず。これに反し、仏経にはそのこと明らかに見え候。故にヨリマシはインドに始まり、それより中亜を経て(支那でいわゆる西域)、それよりシベリアのシャーマン、日本の両部神道のヨリマシになりしことと祭せられ候。例せば、唐朝に中天(竺)三蔵輸波迦羅が弘法大師の遠祖師に当たる一行阿闍梨と共訳せし『蘇婆呼童子経』中巻に、美(187)童を撰み、それに神また魔を降し、童子の相《そう》を見て神が下りしか魔が下りしかを判ずることあり。こんなことが両部神道に入りてヨリマシなどできしことと存じ候。
 小生只今眼前に菌が腐り始めおるから、この上いろいろと巨細には述ぶることを得ず。要するに、かようのイケニエとかヨリマシとかいうことを論ぜんとならば、十分本邦のことをもしらべ、また外国のことをも準備した上でなければ、世界中のことは今となつては大抵相似たものとなりたるゆえ、何ごとも外国より入り来たったことと見えもすれば、また平田篤胤同様、外国のことみなみな日本のことを多少まちがえて伝えたようにも聞こえ申すべく候。日本に文字を用い事を記し残すようになりしは、ようやく千六、七百年前のことなり。人間社会がそこここにできし昔に比ぶれば、昨日と五十年前とほどのちがいなり。さて、社会の世相のということを論じ始めしはようやく徳川氏の初世以後のことなれば(それも儒教見識よりつまらぬことで擯斥蔑如されて)それより前のことは一向分かりおらず候。ただ推測をもってかれこれ言ったところが始まらず候。
 ついでに申し上げおくは、児達《ちごたち》(児立ちとかく方宜しからん。ただし、児《ちご》よりこの域に達せしという意にもとり得る)という詞、『沙石集』に見え候。後深草上皇なりしか、熊野御幸の節、随従の人足の内に梅の花の名歌を詠ぜしものあり、よくよく身元を正せしに児達なりしとのことなり。これは『沙石集』を読むもの、従前多くは見遁し来たれるところなり。小生、在英中菱川師宣の古画版本を見しに、一人ありて、小男ながらことのほかの大物にて、楯板を七枚ばかり重ねたるを一物もて見事に打ち貫くを一同呆れ驚くところあり。次に、弁慶ごとき大入道を仰けに臥さしめ、公家官人等立ち会いて検査するにはなはだ小物なり。これにも一同今さら吃驚のところなり。そのかたわらに、ちご一人と若衆小姓体のもの二人とこれを見おり、ちごは口に袖をあて艶羞の態を示す。かたわらの詞書きに、「チゴタチはあれを好《す》こう」とありし。少年は一物の大なるを好まぬ意味なり。このチゴタチは稚児|連《れん》という意なり。『沙石集』のはそれと異《かわ》り、少年のおり稚児として奉公したりということなり(稚児|仕込《しこみ》なり)。箕山の『色道大鏡』(188)に、たしか、喝食たちの禅僧と、禿《かむろ》立ちの太夫と、それから連歌立ちの俳諧宗匠とが立派な本物だというような言ありしと記臆致し候。(『大鏡』はこの書斎の座右の書棚にあるも、今多事にて繙閲に及ばず。)
 次に小姓達という詞あり。これは小姓としてしこまれて士分になりしということなり。この詞しばしば見受けたようなれども、たしかに記臆するは、故重野安繹博士の『義士考』とかいうもの(博士の口演を『大阪朝日新聞』の西村天囚が筆記せしなり)(和歌山におき当地に持ち合わさず。明治二十二年ごろの板)に、萱野三平は浅野家の小姓達なりし、とありし。この詞、今度出板の大槻博士の『大言海』には見えず。
 次に若衆達という詞あり。これは近日ようやく見当たり候間注進しおく。『当代記』九、「慶長十九年四月、この近年、大御所近習の女房衆、駿河において金銀を商売せらる」。この使い神子なりけるが、かいがいしく才覚して、本利相調え献上すること毎度なり。去るころ、池田備後(荒木久左衛門子)(熊楠謂う、この人の名は知政とかいいし)も借用のかの銀を神子、催促せしむる間、備後用人(若衆立)銀ある由言い含め、皮袋を渡す。神子たびたびのことなれば、符を切り見るまもなく請け取り、両替町へ出で、商人へ渡す時これをみるに、その内に石をつつみたる多之《これおお》く、神子大いに驚き、すなわち皮袋持ち帰り、備後小姓に申しければ、全く左様のこと知らざるの由申す間、神子と言《い》い事《ごと》になる。(熊楠謂う、言い事とは紛議と見ゆ。)そのとき、神子申しけるは、汝は余を媒にて、「備後、妻を犯せる由申し、近ごろ隠謀すでに露顕し、すなわちかの者を押し籠められ、大御所もこのこと聞き給えども、かくのごとき儀は町奉行彦坂九兵衛、相計るべき由いう。この金銀、過分になりければ、備後、返弁なりがたく、その上外聞を失える間、身上いかがあるべき、と、云々。右借銀、千貫目なる間、備後に限らず、歴々の衆、借用せしめ、今速やかには返弁なりがたし、と、云々」。右の文によれば、若衆立は小姓達と同意味の字と存じ候。
 まずは右のみ申し上げ候。
 貴下、前日『犯罪公論』にかきし、小笠原と不破がかご中で通ぜしという話の出でたる書は何というものにて、い(189)つごろのものに候や、伺い上げ奉り候
 
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 昭和八年七月二日早朝出〔葉書〕
 拝呈。客月三十日出御葉書、咋一日午後四時拝受。御尊母御入院の由、何とぞ一日も早く御快癒御出院を冀い申し上げ候。拙方も、小生は近日まずは無病になり候も、拙妻こと一月十日より今に臥しおり、神経衰弱という曖昧な患にてこまりおり候。
 御申し越しの『古典全集』一巻は、『片言』は小生所持しおるも、『物類称呼』はかつて見しことなく、小生輩には毎度緊要のものなれども、その本を得ず。先年東京にて謄写板を私刊し有志に頒つ由承り及び、さっそく手蔓を求め甲し込みしも、会員が思うほど集まらず、無期延引ということになり候。この次第に付き、その一冊は何とぞ御恵送願い上げ奉り候。また、かの『犬つれづれ』、『涎かけ』等の一冊は(小生方の『江戸文芸資料』欠本にて)、かつて見しことなし。これは例の若衆篇を写し了り返上ののち、もし貴方にあらば御貸し下されたく願い上げ候。
 小生は多忙にて二昼夜眠らず、これより一眠に付き右のみ御答え申し上げ候。
 『武功雑記』(『続史籍集覧』本)に、亀井政矩(山中鹿之助の婿、津和野の城主)の子が男色のため命を失いしとかいうことあり。大名の子にしては希有の例と存じ候。このこと御存知にや。然らずば写して本文を差し上ぐべく候。
 
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 昭和八年七月六日早朝出〔葉書〕
 拝啓。四日午前出御ハガキおよび小包、咋五日朝十時着拝受。『物類称呼』大いに役に立ち難有《ありがた》く御厚礼申し上げ候。
(190) 『武功雑記』所載の条、左に写し御覧に供え候。
  松浦鎮信(太閤のとき征韓役に従いし鎮信いわゆる松浦法印と同名ながら別人にて、法印の曽孫なり)の『武功雑記』(『続史籍集覧』所収、この『集覧』には冊数を記せず。しばらく黒板博士の定むるところによれば四十冊の一巻なり)巻下の二五葉表に、亀井宇兵衛に恋慕して失命せしは百々仁左衛門という人なり。宇兵衛、後に豊前守という。(以上)亀井が殺されしように前回申し上げしは暗記の失なり。系譜を見るに(『白石全集』の『藩翰譜』の末に付せる系譜)、茲矩《これのり》(武蔵守、秀吉の臣にて山中鹿之助の婿なり)――政矩、右兵衛佐従五位下慶長九年叙任、同十年豊前守と改む、元和五年八月十五日卒す、年三十歳、とあり。茲矩の蹟《あと》をつぎたる人なり。茲短は五十六歳にて慶長十七年卒す。
 右の一件、小生いろいろとあされど、少しもこの外に記せしものを見ず。亀井家にて録したるものを見ば、あるいは見当たるかと存じ候。元和三年政矩、津和野(石見国)の城主になされし以前は、因幡国の鹿野《しかの》城にありしなり。「因州因幡の鳥取街道で、鹿野大道のまん中で、三人の娘が出会いしが」と唄う、「しかも大道の」と唄うは謬り、と故小倉松夫氏(エール大学生、小生と同じく渡米)にきき候。                  以上
 
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 昭和八年七月二十六日午後十時〔葉書〕
 拝啓。近ごろ多事にて久しく御無音に打ち過ぎ候。さて前日御尋ねに預かりし、純友の子重太丸といえる者が美童なりしことは、『今昔物語』巻二五の「藤原純友、海賊なるに依って誅せられし語《こと》、第二」にのみ相見え候。その他辞書に見えるは、みなこれを敷衍したる作りごとに御座候。               早々敬具
  貞任が子千代童子という者も重太丸と同歳にて、「形、端正なり」、よく戦いし由、同物語同巻第一三語に見え候。(191)(『陸奥話記』には、齢を記さず、容貌美麗、とあり。)頼義これを怜れみ赦命せんと欲せし、とあり。これらが軍陣の美童物語の始めならん。  再白
 
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 昭和八年七月三十一日午後一時半
   岩田準一様
                    南方熊楠再拝
 拝復。二十四日出御状、今朝九時十分拝受。御申し越しの藤沢衝彦というは、田中香涯同様、独学にてたたき上げたる人の由なるが、田中と等しく引用書のことははなはだ杜撰なこと多く候。かの伝説、伊賀之巻、阿波之巻、安房之巻など申すもの十三巻ある、その初め(何国之巻か忘れ了る)に、『一二三八草』とか『一三四草』とか、おかしな数字で書きたる珍書を秘蔵しあり、それより時々奇聞を引き出だす由記しあり。その一条は、南洋島の無月水女王という女が多くの国王の求婚を却けし話なり。これは、むかし(今より七、八十年前)シンガポールで英人が出せし雑誌より小生見出だし、『人類学雑誌』へ載せ、その後『南方随筆』に掲げたるもので、日本などで見られぬ希本なり。(大英博物館にもしまいまで揃いおらず。)それを小生の書いたものよりぬすみたるものに候。(右の『一二三八草』とか『一三四五草』とかいう書名も捏造空構にて、「あつめ草」とか「ひろ(拾)い草」とか、よい加減な訓を施しあり。かくまで啌《うそ》を作りて、人より採ったものをおのれの発見のごとくしたきにやと、その根性を愍笑致し候。)この人の書いた内には杜撰また謬記のこと多し。
 貴状に見えたる重太丸国貞の少年勾奪ということも、『純友追討記』に、「天慶二年十二月下旬、備前介藤原|于高《ゆきたか》、(純友の悪事を奏間のため)妻子を相具して陸より道を上る。純友、郎等《ろうとう》の文元等をして追わしめ、摂津国菟原郡須岐駅(192)に及ぶ。同十二月二十六日、純友の郎等、矢を放つこと雨のごとく、ついに于高を獲《とら》う。すなわち耳を截《き》り鼻を割《さ》き、妻を奪いて将れ去りしなり。(于高の)子息等、賊のために殺され畢《おわ》る」とあるなどを誤記せると察し候。子息等殺されしとあるを、妻を奪われしと混ぜるなり。「重太丸、幼稚なりといえども、父と共に海に出でて、海賊を好みて長《おとな》に劣ることなかりけり」と『今昔物語』にあれば、それを敷衍して重太丸国貞などと言い出だしたるならん。
 さて御承知通り、『前太平記』というもの、『今昔物語』、『古今著聞集』に『太平記』を加味したる明白なる偽書なるが、その第二巻に純友の舟を襲いし海賊、純友に捕えられ、その党となる。その首領兄弟二人、「われわれは去る延喜年中に伊勢国鈴鹿山にて官軍に討たれし山賊の首領伊賀寿丸と申す者の孫にて候、云々」とて、純友のために海賊を集めしことを記す。(この兄弟は伊賀寿太郎、伊賀寿次郎とあり。)これよりまた敷衍せしものか、寛延二年青山某著『葛飾記』(『燕石十種』に収む)下巻に、朱雀院の御宇、鈴鹿山に籠りし賊の首領で伊賀寿丸という類族あり、国々の賊なり(諸国より集まりし賊ということ)、純友の手下の者なり、云々、右伊賀寿丸を亡ぼしたまうは六孫王経基、多田満仲公等なり、とあり。また、「宝永三年富士吹き出だせしは天地人の三才同根なる故に、古えよりの朝敵叛逆の人の籠れる怨念を吹き出だしたるなるべし。大友王子、平将門、云々、伊賀寿丸、その他平家一党並びに島原、天草等の怨念ならんか」とあり。この伊賀寿丸というもの、延喜の朝とも天慶の朝とも一定せざるが、とにかく徳川氏の世に言い出だされたもので、寛延ごろには実在の賊魁ごとく信ぜしものもあるなり。伊賀寿丸、重太丸、共に丸を名とするところから混同して、賊団が人の子女を拘するなどいう文句より粗に考えて、少年を拘せしなど書き出だせしかとも察し候。『前太平記』には、不思儀にも重太丸は年幼なりしことはいえれど美少年なりしとは書きおらず候。(小説を作るにふとしたことから夢中にあるごとく作り合わすこと多し。承久の乱に後鳥羽上皇に誅せられたる伊賀守藤原定季の子に寿王冠者というあり、この伊賀と寿王の寿と取り合わせて伊賀寿丸に作り成せしかと存じ候。)
 前日申し上げかけたる児達、小姓達などいうこと、左に申し上げ候。
(193) 児達《ちごたち》 『沙石集』にあり。
 小姓達 『野の宮問答』、舎人とはいかがの条に出ず。(『広文庫』一四巻九一頁に引く。)
 若衆達 前日、『当代記』より引き申し上げ候。
 喝食達 箕山の『色道大鏡』巻一に、ある書にいわく、よき物三つあり、喝食立ちの僧、執筆立ちの連歌、禿立ちの傾城、と。
『燕石十種』第三冊所収『新吉原町定書』(四七九頁)、元禄八年亥八月二十四日御触連判、前々相触れ候狂言、芝居野郎、浪人野郎、又者役者に出でざる前髪|有之《これある》者并びに女の踊子、かげま女、方々へ遣わし候儀堅く御法度に候間、向後右の者ども一切何方へも遣わすまじく候旨、云々。(元禄七年七月二十六日の触書にもあり。)このかげま女とあるは、当時野郎に倣うて踊り舞う女子を女踊り子といい、踊る等の芸なく、ただ後庭を売る女をかげま女と称えしことかと存じ候が、この称この触書の外に見当たられ候や、伺い上げ奉り候。             敬具
 
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 昭和八年八月八日早朝出〔葉書〕
 拝啓。四目出貴原稿は五日午後四時半拝受。一読せしも、小生には踊子のことは一向分からず。よって一、二日中に書留にして送還申し上ぐべく候。
 次に、『元史』巻二〇一、列女伝に、「也先忽都は蒙古の欽察氏にして、大寧路の達魯花赤なる鉄木児不花の妻なり。夫の恩をもって雲中郡君に封ぜらる。夫、事に坐して官を免ぜられ、大寧に居す。至正十八年、紅巾の賊至り、也先忽都、妾の玉蓮と与《とも》に尼寺の中に走《のが》れ、賊の得るところとなる。衆《おお》くの婦と与《とも》に衣を縫わしめらるるも、拒んで肯《がえん》ぜず。賊に刃をもって嚇《おど》さる。也先忽都罵っていわく、われは達魯花赤の妻なり、汝は草賊なり、われは針工をなして(194)もって賊に従うこと能わず、と。賊、怒ってこれを殺す。玉蓮、みずから縊《くび》るることすべて三《み》たび、賊あわせてこれを殺す。これより先、その子完者帖木児、年十四、父と与《とも》に城を出でて賊に執《とら》えらる。完者、拝して哭し、身をもって父に代わって死せんことを請う。賊、完者の姿|秀《すぐ》れたるを愛し、ついに挈《ひきつ》れてもって従う。これを久しくして、すなわち脱れて帰るを獲、母の屍ならびに玉蓮を訪《たず》ねてこれを葬る」。親の助命のために、敵に身を委した少年のことは、本邦にもあるべしと思うが、ちょっと思い出さず。馬琴の『美少年録』の初めに陶珠之介の母が山賊に囚われその妻となり、珠之介もその賊栖に育ちしことあるも、別にその賊に寵愛されしとは見えざりしと存じ候。       早々敬具
 
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 昭和八年八月十六日早朝三時
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。十日出御葉書二枚は十二日朝九時拝受。貴稿は十三日の午後二時十五分に書留にて御返し申し上げ候。踊りのことは一切小生には分からず、何一つ書き添え差し上げ得ざりしは遺憾に候。
 『嬉遊笑覧』巻九に見えたる、「三井寺の児は歯白になりにけりつくべきかねを山へとられて」、『太平記』に出でたるよう記しあれど、『太平記』に見えず、『寒川入道筆記』に出でおり候。慶長十八年ごろの記なり、『続群書類従』にあり。
 『朝倉始末記』巻八、天正二年四月、朝倉景鏡滅亡したる時のことを記したる中に、「ここにまた物の哀れを止めたることあり。波多野千能丸と申して、生年十六歳にておわしけるが、容貌美麗世に勝れて嬋妍たる眉黛は秋の月の遠山より出てしかと怪しまれ、宛転たる紅顔は春の花の後園に綻ぶるかと覚え、肌は仙方の雪、形は陶門の柳の風に靡(195)くに似たり。丹華の唇、柔和の眸、御志の深きことは滄海却って淺し。一度清容を見奉れる人、門の頭《かしら》に徘徊し恋慕の思いに胸を焦がす。平生詩歌を翫び給しうゆえ、一山(平泉寺)の崇敬斜めならず。頃日は式部大輔(景鏡なり。この者は義景の一類なりしが、反覆して信長に内通し義景を弑せしなり。今度一揆に平泉寺で攻め殺さる)にも玉章を通わせたまうと聞こえけるが、思いの外なるこの乱にあい給いて深山に隠れおわしけるを、山賤ども捜し出し参らせて、衣裳を剥ぎ取りて怪しげなる藤の衣を出してこれをきよというほどに、御覧ずれば秋の野の古棠に鳴きて淋しく、鶉衣のそそく(け?)つつ(そそけるとは衣の古びて綿毛の立つをいう)何ともさらにいうしでの肩にもかかるべくもなし。袖も裳も朽ち果ててそそぐともなく垢付きて、手にするだに物うきに着ては如何と思えども、肌隠さん、そのために啼く啼く取りてぞ着給いける。角て家太夫情なく追い立て草をからせ牛をひかせ薪を負わせて召し使いけり。誠やらん、むかし用明天皇こそ恋ゆえに草を刈り牛をかい給うとはきけ、われはそれにもあらず、ただこれは雨夜の島、牧の犢の三年にて、鼻さすほども堪え難き身や、片臥沈み給いつつ何方へも忍び出でばやと思しけれども、雲さえみえぬ谷間隠れなれば道ある方も知り給わねば、泪とともに月日を送り給いける御心の中こそあわれなれ。その他老僧阿闍梨達も、衣袈裟を奪いとりようよう命を赦して追放せば、山田の鹿のごとくにて臥しど荒れたる草むらに萩や薄を折り敷きて起きもせずねもせで夜を明かしつつ越し方行く末のことのみ思いつらねて「往事|渺茫《びようぼう》として都《すべ》て夢に似たり、旧遊零落して半ばは泉《よみ》に帰る」という朗詠など吟じおわしける。また、去年関東の客僧この山に詣で、当寺の体を賦して詩一首作して講堂の柱に書き置ける、今それを思い出ださるる、「初めて平泉なる秀異の郷を見る、玉楼銀閣数十房、終宵酒宴しまた歌会す、錦上に花を敷き座に香を焼《た》く」。かくのごとく書き置ける講堂、拝殿、三所権現、社堂、今宮、若宮、大師堂、大塔、宝堂、行堂、三の宮、三社の鐘楼、この外末社の宮いくそばくぞや。寺内院々坊々、朱欄、金台、玉殿、甍をならべて造立し置かれたるも、片時の寸煙にともないて空の灰儘となり、容顔美麗なる児若衆上臈達も殺害、北?郊原戸を曝し、清体花の形も野笛の風にさそわれて草根の塵《ちり》に雑わり、丹花の唇も烏鵲の嘴舌に懸かり、(196)百媚も鮮やかに笑める貌も腐皮爛壊して虎狼争うて深谷に不浄をさらせり。養老元年に泰澄法師草創ありしより以来すでに八百五十余歳、この哀れを聞かざりけり。これしかしながら当山の衆徒欲心不義より事起こり、かくのごとく滅亡せるこそうたてけれ」。
 右全文に御座候、これによれば、この千能丸は平泉寺の僧に愛せられおりしが、後に朝倉景鏡にも寵されたらしく候。
 まずは右申し上げ候。             早々敬具
 
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 昭和八年九月二日午後五時出〔葉書〕
 拝啓。毎度気付くことながら失念、只今また思い当たり候ゆえ、念のため忘れぬうちに申し上げ候。
 『五雑組』巻五、「(三国呉の)虞翻《ぐほん》、子のために婦を娶るに、遠く小姓を求む。子を生ましむるに足るのみ。けだし婦の驕妬淫佚なるは、多くは後嗣をして夭閼《ようあつ》せしむればなり。しかれども尽《ことごと》くは然らざるなり」。
 この小姓は卑賤な小民の女子ということと存じ候。男寵の侍童とは別ながら、はなはだ混じ易きゆえ注意申し上げおく。また意味は違うが小姓〔二字傍点〕という語が本来支那にあった証拠となり候。
 『室町殿物語』巻二、ある時紹巴、玄以へおわしまして、終日御振舞の中休に、小姓衆と雑談どもありけるに、鹿馬《かめ》三介と申す人、新しき扇を一本取り出でて、硯取りそえ、紹巴に向かいて、この扇に憚りながら狂歌一首遊ばしたまわるべき由申されければ、扇取り押し開げ、筆をとりて、「腰元にさしつかはれて骨折に主人の気にもあふぎなりけり」。
 そのころは、腰元は女に限らざりしなり。小姓をも然《しか》言いしと見ゆる。          以上
(197)
          80
 
 昭和八年九月十》日早朝〔葉書〕
 拝啓。先日御照会の大踊りのこと、普通には家光将軍より大流行となりたるよう言いならわす。しかるに『駿府記』に、「慶長十六年八月二日、宰相殿(義俊)(熊楠いう、後に義直と改む、尾張の始祖なり)、中将殿(頼宣)、少将殿(鶴君)、藤堂和泉守高虎の亭に渡御す。?飯以後、能五番あり。(中略)次に相撲あり、筋力ある者は五番をもって勝となす。次に風流躍りあり、和泉守の侍児三十余人、錦綉を裁《た》ち金銀を縷《ちりば》め、飾り粧《よそお》いてこれをなす。奇観とすべきなり。(中略)今日のこと、御前において公達《きんだち》に語らしめ給う、大御所すこぶる御喜悦の気あり、云々」とあれば、慶長中すでにもてはやされたるなり。
 恩借の「若衆篇」は小生ことごとく(『大鑑』の外)写し、一々比較研究したり。御存知か知らぬが、『木芽漬』の内の、盗賊が少年を使うて強盗を行なわんとする一条は、『太平百物語』か何かにも出であり。同一の支那小説を二様に作り替えたることと見え、只今十分しらべ中なり。小生脚悪きため手もはかどらず。また菌学の方、秋は多忙なるゆえ、今月中に写し了る能わず(研究すましてまた写し、また研究してまた写すゆえ)。十月末までには必ず写すべき間、貴下の東京行きはそれまで御延期下されたく候。            早々敬具
 
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 昭和八年十月十二日午後四時出〔葉書〕
 拝啓。小生いろいろ多事、ことに去る八日早朝六時、突然李王殿下この近地|鉛山《かなやま》へ来遊あり、御召に預かり、午後荒波を冒して渡りゆき、予定一時間のところを一時間半ばかり蘭《らん》類に付き講演、殿下より種々御下問、小生の御答え(198)をみずから筆記さるる等のことあり。そのとき持ち行きし標品の片つけがひまどり候。しかるうちにも、昼夜不眠で「花街篇」は終に写し了り候付き、咋十一日午後三時五十五分、書留小包として御返送申し上げたれば、たぶん今夜ごろは御受け取り下さるることと存じ候。右遅れながら御案内まで件のごとし。           早々敬具
 
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 昭和八年十月十七日早朝〔葉書〕
 拝啓。甲府で御差出しの御ハガキは十三日午後三時半拝受。「花街篇」は小生多忙中一気呵成に写し了り、十一日午後三時五十五分に書留小包として差し上げ置き候が、少しのことにて行き違い全く御間に合わざりしは遺憾千万なり。
 さて、昨夜多忙中見当たりたることを忘れぬうちに申し上げ候は、『吾妻鏡』巻二〇、建保元年四月十五日の条に、「和田新兵衛尉朝盛なる者は将軍家の御寵物(一本には御寵愛とあり)なり、等倫あえてこれを諍《あらそ》わず、云々」と見え候。この御寵物の寵字を省きて後世の御物となりしことと察し候。
 右申し上げ候                  敬具
 
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 昭和八年十月二十一日早朝〔葉書〕
 拝啓。前書申し上げ忘れしゆえ、また忘れぬうちに申し上げ置くは、去る九日兼ねて申し上げ置きたる高野山|親王《しんのう》院住職水原堯栄師より、あることに付いて質問されたり。いまだ答書は出さざるが、近日出すとき、貴下のことを通知し置くべし。故に、そのうち登山せば知人となり置かれたく候。小生(六十六歳)よりはずつと年若き人なれど、一件に関する最高の博識家に御座候。     早々敬具
 
(199)          84
 
 昭和八年十月三十一日早朝出〔葉書〕
 二十九日出御ハガキ、咋朝八時三十五分拝受。衛下問の紫梢花は、『和漢三才図会』巻四五、吉弔の条に出でおり、『重訂本草啓蒙』に、巻三九、弔の条に見え候。梢の字を書くべし。
 琉球の書翰は、旧知故末吉安恭氏(純粋の琉人なり)が写して贈りくれたり。そのうち見出ださば写して差し上ぐべく候。『煙華漫筆』という書は小生見も聞きもせざることに候。上田丹後のことも小生は聞き初めに候。右御答え申し上げ候。Symonds《シモンズ》の書は、今も時々売本あり、広告を見たら申し上ぐべく候。これはギリシア、ローマの古典学をしたものならでは分からぬこと多し。小生閑あるごとに少しずつ(一葉二葉ずつにても)訳して差し上ぐべく候。只今はきわめて多事なれば及ばず。まずは右申し上げ候。           早々敬具
 
          85
 
 昭和八年十一月五日夜七時半
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
  下文に引きたる白子木工右衛門尉は有名なる狂歌詠みにて、天正五年秀吉播州を領せしとき、白子祝うてよむ、
  播磨なる三木赤松を伐り捨てて羽柴は山の大木となる
 拝復。二日出御状は咋四日朝八時五十分拝受。御尋問の件、小生への称呼は南方熊楠氏と御記し下され候様願い上げ候。平素先生などと尊称し、さて久しき間にはなにか事件起こり、それよりはなはだしき不遜の詞を用いなどする(200)こと、毎々他人の上にも自身の上にも視聴きすることにて、はなはだ面白からず。そんなことを予防するため……氏と書いてもらうが一番心安く存じ候。(『翁草』か何かに、某宗匠は決して門人を拵えず。これは初め門人門人と嬉しがりおるものが、後日必ず多少の我意を募り、先日先生と拝せしものを仇のごとくにいいけなすこと多きを惡んでのこと、とありし。馬琴の京伝における、飯盛の真顔における、すなわちこの類と存じ候。)(先生というは、小生自分の号のごときものに候。林権助、内田康哉、鎌田栄吉、岡崎邦輔諸氏よりの来状、みな先生宛てなり。よって、小生、先生を自分の号のごとく心得おる。翁と書かるることは好まず。小生今も二十三、四歳のもののごとき気持にて、少しも翁の気分にあらず。故に氏と書かるるが一番快く候。)官学の輩よりの来状に先生と書し、さて出板物には氏をもって称するもの多し。まことに表裏ある仕方なり。それよりは何処何時でも氏を用いらるる方潔く候。
 『煙華漫筆』というは小生知らず、『日本随筆大成』二巻に『煙霞綺談』あり、この外知らず。
 稚児伝説に付き、参考のため申し上げ置くは、『越中旧事記』上に、婦負郡医王山各願寺、真言宗、大宝元年勅願寺、云々。伝えていう、この各願寺は天台宗にて比叡山の本尊と一体にて三千坊あり。越中より東国はこの寺にて灌頂などせしという。これによって山門の衆徒大きに憤り嗷訴に及ぶ。鹹頂等停止せしむる由勅使をもって各願寺へ仰せ下さる。各願寺の衆徒、贋勅使なりとて、これを殺害すと、いう。今の勅使塚これなり。その後、叡山の衆徒大勢にて極月下旬越中へ馳せ向かい医王山を攻むる。これによって一山の衆徒並びに郷民等防戦し、寄手打ち負け、極月晦日三戸田という所へ引き退く。各願寺の衆徒郷民等、きのうの軍に勝ちほこり、正月朔日、衆徒は本堂に登りて勤行し、郷民は家々に帰り油断しける折節、三戸田の山門勢また押し寄せけるに、軍不意に起こりければ一山たちまちに攻め落とされ堂宇を始め三千坊一時に焼き払いけるとなり。このとき多く児のありしに谷へ逃げけるを、寄手の者どもここかしこに切り伏せ、ことごとく打たれける。児谷という、今にあり。
 これは事実で、かかることは諸処にありしと見え候。この児どもとても、降参して敵の心のままに順わば無事なる(201)べかりしに、戦国の習い児までも頑強にて、なかなか降伏せざりしゆえ殺されたると察し候。甲州亡びて信長恵林寺を焼きしとき、喝食等多く楼ににげ上り焼き殺されたるも同じ。十四世紀にトルコ人コンスタンチノプルを陥して多くの美童を淫略し、そののちキリスト教の美少年を虜とし、強いて回化せしめ、これを兵士とせり。軍中の美花と称せらるるいわゆるジャニザリーこれなり。この輩のちのち跋扈して、その勢い制すべくもあらず。ついにトルコ朝の歴代の大患をなせり。支那に中営軍など称し、宦者の近衛兵あり、のちには歴朝の帝王を威圧せるに同じと存じ候。日本にも、比叡山に美少年ばかりの軍隊ありて、竹の下の合戦かに先登し討死せしを見て、念者たる悪僧等、大いに怒り、進んで足利勢を敗りしこと、『太平記』に見えたり。こんな風儀ゆえ、件の各願寺の稚児等はなかなか敵に随わずして虐殺されたることと存じ候。信長、叡山を焚きしときもおびただしく僧徒の蓄えし美女や美童を殺せし、とあり。これも戦争中、石をなげたり湯を澆《そそ》いだり、いろいろと抵抗せしゆえ、はなはだ悪まれしと見え候。そんなものを殺せしところを児ヶ谷、児ヶ浦、児ヶ淵など称うることと存じ候。
 伊勢かどこかの役に、信長の前へ美少年を縛り来たりしに、われに仕えなば釈《ゆる》さんとありしに、聴かずして刑せられしこと、『信長記』か何かにありしと覚え候。こんな例は多かりしことと存じ候。清の趙吉士の『寄園寄所寄』九、「献賊(明末大乱を起こせし張献忠という巨賊なり)に美僮あり、二孩子と名づく。時に年十八、技武絶倫にして、常《かつ》て黄靖南と対陣す。甫《はじ》め出で戦うや、僮にわかに矢を飛ばして、その手に中《あ》つ。黄|幾《ほと》んど敗障せんとして怒りはなはだし。兵を伏せてこれを擒《とら》え、その勇を愛し、降《くだ》らしめんと欲するも、僮応ぜず。侯笑いていわく、賊は夜、汝の腹上に臥すと聞く、本鎮もまた能く汝を撫せん、何ぞ速やかに降らざる、と。僮、堅く允《したが》わず、その食を絶して死す」。こんなものはわが国にも戦国に多かったことと存じ候。
 『勢州軍記』下巻、そのころ(天正九年ごろ)信長公の御下知をもって、諸国において高野聖を擒にし、これを誅伐す。所以は何となれば、在岡(荒木村重が籠城せしところ)牢人高野に隠れおるや、将軍(信長)これを出だすべき(202)の由、かの山に下知せらるるなり。その使者催促悪しきこと、高野僧徒これを憤り、たちまちその使者を誅戮す。信長これを怒って、かくのごとし。勢州において数百人これを松島に誅す。信雄、信孝、床木に腰を懸け、これを見物す。かの聖ども、みな斬り捨てらる。その後十五、六歳の小聖一人残る。美僧たるにより信雄これを助く。信孝これを笑い、白子木工右衛門尉を召していわく、尻ゆえにこそ命助かる。白木たちまちこれに付けていわく、ささがにの糸哀れにも引き出して。信孝これを感ず。かの小聖、天道と号す。しかして信雄これを愛す。のち道也と号す。しかして出頭す、云々。これはいわゆる若僧なり。
 小生、去る大正九年夏、高野に上り、一乗院(去年焼けたり)に宿りしに、給仕に出ずる十六歳ばかりの小僧ことのほかの美男なり。小生、金剛峰寺に詣り法主と対面せし際、使いしてこの者を召させ法主に謁せしむ。これは希代の例なり。法主、姓名を問うに、大音はり上げ、愛知県海東とかいいし郡……村……寺、熊野秀雄、生年十六歳と名のる。さて叩頭して退けり。これは一生の眉目とするところと聞こえし。右の小聖などは死に場所を失いたるものにて、その世では嘲笑されたことと察し候。       早々敬具
  信州上田市の飯島花月氏、今春六十九歳にて死亡。今度冨山房でその遺藁を集め、『花月随筆』を出す。四円五十銭で売る。小生には遺言によって息貞助氏より一部贈られたり。その内に『狸状』というものあり。『若気勧進帳』の序かに見えたる、狸が美童に化け所化僧に契り破穴されて死せしことを作りたるものにて、むかしは腰越状のごとく手習いの手本としたものの由、小生は初耳なり。
 
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 昭和八年十一月二十四日午後八時〔葉書〕
 御下問の○○公主は魯元公主、また『寄園寄所寄』の字は、いずれも貴問の通りだが、黄戦〔傍点〕敗は黄幾〔傍点〕敗、僮遂〔傍点〕飛天(203)中其手の遂〔傍点〕は遽〔傍点〕を正とす。本鎮とは将軍が自分をさして呼んだ称えなり。本官というごとし。
 
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 昭和八年十二月六日午前七時
   岩田準一様
                南方熊楠再拝
 拝啓。昨日『文化公論』新年号を社より贈られ拝見。「稚児伝説」はなかなかよく整然しおるが、惜しいことには印刷に誤字多く、ためにせっかくの筆者の意が届かぬこと多きは遺憾なり。こんなことは、後日に正誤を出したところが誰も読まず、いたずらに社の方の面倒を来たすのみなれば、何とぞ以後の尊稿は精々明らかに筆写し出されんことを祈る。左に気付きし所々(多くは小生の関係せるもの)を申し上げ候。
 一〇九頁(註七)『東斎随筆』。これは『十訓抄』の文をほとんどそのまま採りたるものなり。『十訓抄』は建長四年の作にて、『東斎』の兼良公よりは二百年余早し。かようの際には晩出のものよりも早成のものを引くを規模と致し候。『十訓抄』の条は、『日本文学全書』本の第六「可存忠直事」の第二六章に有之候(一五六−一五八頁)。この『十訓抄』の本文の初めの方は、『続古事談』巻二、臣節のところに出であるとほとんど同文なり。さて、その次の長き文は大抵『東斎随筆』と同文なり。故に小生上述ごとく『東斎随筆』の文は『十訓抄』より採りたるものかと思えど、『続古事談』は『十訓抄』よりまた三十三年前建保七年成りしものゆえ、三十三年前にできたる『続古事談』がその文を三十三年後れて成りたる『十訓抄』より採るはずなければ、『続古事談』前になにか在衡公の伝様のものあって、『続古事談』はまずその一部分(『十訓抄』に出でたる文の初めの部分)をそれより採り、『十訓抄』は『続古事談』に出でたる分と出でざる分とで、その伝の様のものより採り、さて『東斎随筆』(204)は『十訓抄』もしくはその伝のようなものより『統古事談』に出でざる分を採り収めたることと察し候。故に、『東斎随筆』必ずしも『十訓抄』よりその文を採れると決し難きも、何に致せ、この在衡公が寺にて童子に遇いたる話は『東斎』よりも『十訓抄』に出でたる方が早し。故に、引用の正規として『東斎』よりは『十訓抄』を引用するが然るべしと申すなり。
 このついでに申し上げ置くは、『東斎随筆』の終りに近く、延喜帝の御子雅明親王が七歳にて舞を奏し万人を感涙せしめたり、「あまり御容の光る様にしたまいしかば山の神めでて取り奉り給いてしぞかし」とあり。(たしか『大鏡』にも、このこと出ず。山の神のれうじ奉りし、とありしよう記臆す。小生幼稚のころ、和歌山の父の宅へ当国有田郡の津木《つぎ》という山村の青年奉公しおりし。そのものは物を占有することをれうずる〔四字傍点〕と申せし。領ず〔二字傍点〕という字かと存じ候。)神が美童を愛して取り去ることは、支那その他に多く例あり。(例せば、明の銭希言の『獪園』巻一二に、「万暦壬寅、蘇城の査家橋の店人張二子、年十六なるが、白皙にして美しき風儀なり。一日、遇《たまた》ま五郎神、形をその家に見《あら》わし、誘いて淫乱を与《とも》にす。大いに珍?を設け、もろもろの異《かわ》れる味多し。白昼、手力《しもべ》に命じて、鰻を焼く数器を置かしめ、酣《さか》んに讌《さかもり》して歓呼す。倏忽《しゆつこつ》として往来するに、略《ほぼ》嫌忌するなし。後たちまち召して中胥《しようしよ》となさんと欲し、限《にちげん》はなはだ促《せま》る。父母、哀れみを乞うも許さず。尋《つ》いでその子死し、三月の間に人亡じ家破る」)。
 一〇一頁、四行、手長稚子。手長とは給仕人のことなり。ことに食を盛り持ち運び来るを職とする。『宇治拾遺』の大江定基、宋に渡り、釈迦を現ずる条等に見えたり。
 同頁(註一)六行、文殊師別〔傍点〕は師利〔傍点〕と直すべし。
 一〇三頁、一行、河〔傍点〕野九十九王子は熊〔傍点〕野九十九王子。
 一〇八頁「支那に於ける美童の祠」の本文、四行および六行、他〔傍点〕人は仙〔傍点〕人。
 一〇九頁、三行、営中での営〔傍点〕は宮〔傍点〕と直すべし。
(205) 一一〇頁、一行、愚愚〔傍点〕等は愚僧〔傍点〕等。
 同、一行、妄作〔傍点〕は盲信〔傍点〕。
 ここに申し上げおくは、美少年を神とし祀ること実在せしは、ローマの賢帝ハドリアンの嬖童アンチノウス、ニル河で水死せしことあり。(何故ということ分からず。)帝大いにこれをかなしみ、その近処にアンチノポリス城を建てこれが記念とし、エジプトとギリシアにその祠堂を建て、天下に令して至る処これを神とし祀らしめたり。その一社よりは神託を下せり。諂臣あって、この童の魂星となり現ぜしと啓せしゆえ、その星にこの童の名を付け、今にその星をその名で呼ぶなり(スミス『希羅《ギリシア・ローマ》伝記神誌名彙』一八四四年ロンドン板、一巻一九二頁)。熊楠この少年の像を見しに、体格は美壮なれども顔貌は格別のものにあらず。また『唐書』に、唐太宗の太子承乾、優童を嬖するのあまり恪勤を怠り、太宗怒ってその童を誅し、太子その童を神として祠り、そんなことよりついに太子を廃するに及びしこと見えたり。美童を神とし祠ることは実際ありしなり。
 一一六頁、七行、欲全〔傍点〕降の全〔傍点〕は令を正とす。
 九八頁(註四)、玉菊の死の伝説。他の諸条ことごとくその所拠を列挙しながら、この一条に限り出所を記さぬははなはだしき御瑕瑾と存ぜられ候。
 まずは右誤刊小生に関するもののみ申し上げ置き候。       早々敬具
 
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 昭和八年十二月九日
 八日出御状、只今(九日午後四時半)拝受。『獪園』の字の訂正左のごとし。御申し越しの件は、小生またまた娘が病臥しおり、かつ年末すこぶる多用なれど、少暇あるごとに多少書き加うることがなるべければ、貴方(206)に蒐集せる文献を御廻しになれば多少とも補注追加して差し上ぐべく候。(ただし、多少ひまがかかるかも知れず。)    早々敬具
 この紙の裏を御覧を乞う。当方に用紙なきゆえ、この紙の裏に書く。
 今月の『ドルメン』に、名古屋人ときく酒井潔という人の小生に関して書きたる文あり。この者ははなはだしきいかさま師にて、かつて一昨年夏昆布一折もちて小生を来訪せり。その来訪記に小生の像まで入れて、また断わりもなく小生のハガキ通信までも写真にして巻頭に掲げ、『薫苑夜話』という一冊を出だせり。それには笑話学者には百余年前から知れ渡り切ったことを今ごろ気付いたように大発明らしく書きあるから、注意しやりしに、春画のことを笑い本というからたちまち笑話学とは春画学のことと心得、笑話と春画を混同して大へんな間違い論を臆面もなく出だしあり。よって、そのうち一文を『ドルメン』に出し、読者に注意し置くつもりなり。この酒井というはその筋よりも注意されおる者の由にて、初めは人をきわめて拝み倒し、さていろいろと釣り出してその人の説を自説のごとく種々と追加して出し、さてその人のどこかの点をとりて多少のすきまに乗じてこれを排撃し、専心自分の誉れをとらんと勉むるものなり。そのうち必ず貴下へも何か言ってくるから(英仏独語を多少解し、いろいろ雑多の素姓不明の欧米書をふりまわすから、知らぬ輩にはきわめて造詣の深い人らしく見える)、貴下は注意してあまり関係なきよう御勧め申し上げ候。むかしの多田南嶺|様《よう》の人物にて、金にさえなれば親疎を論ぜず人に疵を付け目分の名を弘むる(また多少の金にする)風なり。かようの者に関係すれば毎々入らぬところに腹を立て、大いに貴下の専攻の邪魔になるなり。こんな者が今日東京にははなはだ多く候。羞恥なき人物ゆえ相手が疲れきるなり。
 
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  昭和八年十二月十一日早朝〔葉書〕
(207) 九、稚児死霊〔二字傍点〕の詠歌は、稚児神鬼〔二字傍点〕の詠歌としては如何。(神は神といわれたる霊、鬼は死後世間に放浪してまだ落ちつかぬ魂。)というは左のごとき一例あり。貴題のいずれにも入れ難きものたり。すでに児の宮といわれたる上は、死霊というは如何なり。また誰の死霊とも分からず。
 広沢の月見今の世にも翫|びし《(ママ)》といえども、古えはことに人多く聚まりけるとなり。ある時、沢に萍《うきくさ》しげりて月影水に映らず。人みな空しく帰りしに、宗祇も月見に出られけるが、水の上に杖を投げて澤のばっとのきし時、月の水に映りしを見て、「浮草をかき分けみれば水に月、ここにありとは誰も知るまじ」と読めりて、深く自慢したまいて、この歌をへぎ(熊楠謂う、薄き木板なり)に書き付け、池の辺に立てて、また一首の歌を添え置きける、「この歌の心はしらじ、おそらくは定家家隆も釈迦も達磨も」と読みて置かれしかば、云々。その辺に児の宮とて禿倉《ほこら》あり、このほこらより童子一人出でて、われらも歌に添歌を読みけるとなり、「釈迦達磨定家家隆も知らせずば〔五字傍線〕歌にはあらで牛の糞かな」。(万治二年板『百物語』巻下、『近世文芸叢書』六冊めに出ず。――を引きたるところ本のままに写せし。これでは神の歌としてはいと拙し。広沢辺に児の宮ありや。『山州名跡志』等でしらべ下されたく候。たぶん貴下の二の註十に引かれたる余児社と同一と存じ候。(拙蔵の『山州名跡志』には余の一字なし。本文は貴下の引かれた通りなり。)
 
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 昭和八年十二月十四日午前三時ごろ(書斎に時計なきゆえ想像なり)
   岩田準一様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。十一日夜出御状、昨朝八時五十分拝見。貴題目が稚児に限られ小姓がないから、当惑すること多し。ここに(208)はなるべく稚児にのみ関することを申し上ぐる。
 稚児死後の詠歌、『日向の伝説』は新著ならん。それよりも引かれたきは、『豊薩軍記』一〇巻、寛延二年作者長林樵隠誌自序あり、長林樵隠という名か。その巻二に、天正六年十一月十二日、高城河原合戦に薩州勢勝利、大友方多く死す。臼杵勝之太郎統景十七歳、容貌物具美わし、郎等三十一人と討死す。三年後の秋の末、ある修行者、薩州より日向に至り高城山の麓を通るに、山際の方より、十六、七の美少年忽然として来たり、散り残りたる紅葉の枝に短冊を結び付けたるをかの僧の前におき、豊後へ御通り候わば臼杵名字なる人の許へ伝えさせたまえと言いも敢えず消え失せぬ。修行者あまり不審に思い、月の光に向かい、かの短冊を読み見れば、題はなくて、「行き巡り六つのちまたを出でやらぬ身の後の世を問ふ人もがな、統景」。死人の従弟にて嗣ぎ立ちし臼杵美濃守鎮尚、これを見て泪にむせび、修行者を導師とし若干の僧を供養し作善す。鎮尚が夢に仏果を得たる由見る。短冊は臼杵の末輩今に伝えて所持す、と。
 『大和の伝説』は例の高田十郎氏の作か。この人々書籍よりひねり出したことどもを、伝説伝説というが気にくわぬ。二人の親友云々は、『和州旧跡幽考』に出ず。これは延宝九年林宗甫自序あり。その第四巻に、石淵《いわふち》寺、廃亡は古老伝えていう、天地院に児あり、石淵寺の僧何の故にやありけん、この児を刃に掛けてその身も若草山の西麓にして同じ枕にぞ失せける。このこと天地院の法師等遺恨安からず。あるいはやなぐいを負い、あるいは三尺(の剣か)を横たえて、三笠山の東の山道をへて、石淵寺に押し寄せんとす。石淵寺にはかくと聞きて、去らば逆寄せに寄せんと出ず。この法師等は西大路をへて寄せけるほどに、両陣道たがいて、人もなき寺に互いに寄せたり。鬨を作り火を放ち、この両寺同じ時にぞ煙となる。それより両寺は長々絶えにけり。天地院の跡は東大寺の艮《うしとら》若草山の東にあり、かの児法師も若草山の西の麓に塚につきけるが、おりおり火の出でて闘うことありければ、俗に逢う火の塚とぞ(呼ぶなるとかなんとかいうべきところなり)。二親友の魂火となり途中に会合とはこれを訛りしか。
(209) 『和漢三才図絵』七三には、「中古、当(岩淵)寺の僧、天地院の美小人《ちご》を若草山において殺し、同処において自殺す。後、両寺の闘諍となり、終に寺院を焼き滅却するに至る。二人が塚は若草山の西麓にあり。今もまた燐火の出でいぇ戦うことあり、俗呼んで逢火《あうひ》の塚という」。
 化生の稚児に、一眼一足のことを記されざるは大脱漏なり。『男色木芽漬』に出であり、その他にもしばしば見ゆ。叡山に名高かりしものなり。
 稚児の異類通婚。男色を一種の婚とみるなら、狸が少年に化けて人に犯された話多し。『甲子夜話』にもあり。今年出板、故飯島花月氏の令嗣より送り来し『花月随筆』(六二一至六二三頁)にもつとも精し。『続群書類従』に出た『若気勧進帳』に載せたる、伊賀の阿閇郡で山寺に狐が美少年となり来たり、小僧に犯されて翌朝死んでありし談をのせ、次に足利末期ごろの作らしき『狸少人状』が徳川初世に広く手習い手本として行なわれたとてこれを出しある。また徳川上半期(元禄、宝永ごろ?)の小説に、狸が門跡に化けて稚童を犯さんと来た話ありしと覚ゆ。『沙石集』には、女子が大蛇に化けて懸想せる男子(稚児なり)を密房中で飲み殺せし話ありしと存じ候。一々写して差し上げたきも、今夜寒気烈しく、小生は書斎に火を用いぬゆえ、手がしびれてこの上多く書き得ず、これだけに致し候。『江戸文芸資料』なりしか、十二冊物でその初めの方の冊に怪談のみ聚めたる一冊あり。その内に男色の怪談多かりし。支那よりの訳述と思わるるもの多かりしが(支那には男色の怪談は多からず)、その内に多少貴材料となるべきものもあるべしと存じ候。                早々敬具
  右の他に、婦女が稚児に化ける話あり。常磐御前が稚児に化けし譚は、徳川早期の戯曲にあり。『義経記』の、義経の妻が稚児の装いして、平泉寺僧侶の前に奏楽せしなどは名高し。思うに、授さば稚児が女に化けしこともあるべし(あんまり明白な小説ながら、『八犬伝』の犬坂毛野のごとく)。これも取り入れられては如何。黒田騒動の紅葉《こうよう》(高陽?)という僧が要《かなめ》(後に忠之の寵妾お秀の方)という女子を男装せしめて小姓として賞翫し、八(210)条の宮が遊女を稚児として寵愛せし類。
 
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 昭和八年十二月十六日早朝
   岩田準一様
                 南方熊楠再拝
 拝復。十三日出貴翰、一昨日午後四時五分拝受。御申し越しの通り、徳川氏初期のものを貴稿に取り入れては、稚児の妖怪などは『曽呂利物語』等に、稚児の逸話等は『醒睡笑』等にいくらもあり。しかし、そんな物を一々収集して入れては、全稿が茫漠たるものとなり了るべく候。ところが伝説というものは、今日の日本にはもはやいかほども残存せず。チゴなどいうものは、常人の思想も及ばざるものと成り下りおり候。和歌山県で普通にチゴと申すは、浄土宗などに、今も時々|練《ねり》供養をするに、小生知人の女児が出ることあり。それは女児が(以前はチゴ髷に結いしが今は髪さえ女児のままにて)袴をはき作り花を持ち行列して歩くことにて、その女児をチゴと申し候。むかしの僧徒の侍童などいうことは想像も付かぬもの、したがって真のチゴに関する伝説というものは皆無に御座候。
 小姓というものは一層想像の付かぬものと成りおり候。明治十二年ごろまでは、県知事が学校に   叢《のぞ》む際など、美少年が洋服など着て付き来たりしことあり。それを和歌山市などでは小姓と申し候。(明治十八年、本郷赤門の加賀屋敷に東京帝大が新築されし落成式か何かに、明治天皇御臨場、伊藤公が演説されたり。その時希有の美少年が金時計を懸下して、聖上に扈従して来たれり。これは公家の壬生鯉若丸という仁なりし由。只今も存生にて基《もと》−何とか称え、皇族の婿になられおる由。当時薩摩出の学生など、これをチゴが来たと言いおりしが、もはやそのころ小姓とは言わざりしようなりし。
(211) 故に、只今伝説伝説というは、大抵は伝説にあらず。古書より引き出されたる物に御座候。
 リーとかいう米人がイタリアへ毎度行き、いろいろとイタリア国の伝説を集め著書を出せり。その内に、真の俗間に伝うる口碑などいうものは、決して当今学者が持囃《もてはや》すグリンムの『伝説集』とか、ケートレイの『精魅譯《フエヤリーテイルス》』とかいう綺麗なものにあらず。十の九まで多少猥褻の意多きものなり。故に伝説の出板されたものは、その実物を去ること遠しといわれあり。小生、諸国諸民の家内に立ち入り聞き伝えたる昔話というものは、ことごとくいわゆる士君子の口にすべきものにあらず。帰朝前後今日まで聞きしところもことごとくそんなことのみに候。高橋勝利君が下野の栗山という至極の僻村で輯めたる伝説をおくり来たれるを見るに(これは発行禁止と察し候)、みなかの方に関するもののみなり。また誰かが陸中で集めしを高橋氏より伝えられしを見るにも、慶長の乱に和賀、稗貫の一族亡滅離散せしとき、和賀か稗貫か忘れたり、その城主の奥方が一家臣に扶けちれ民間に潜むうち、ある夜奥方が一儀を催して忍ぶべからず。これも一つの忠義とその家来が考案して、何とかの木の葉を膣にさし込み、それを隔てて奥方の慾を静め奉りしということありし。これは聞いた人が十の十人まで虚伝として嗤うところなるべきも、古く仏律蔵にも僧などが婦女を犯すに隔《かく》を用いしことしばしば見ゆ。われわれも近年まで和歌山辺の大賈の家などに、後室がこの法で手代や出入の男と交わりしことはしばしば承りし。また、それよりいろいろと事を生ぜしこともあれば、十の十ことごとく虚説にもあるまじ。
 男色の方でも、小生十八、九まで、むかし高野山で小姓をせし人よりいろいろのことを聞きし。自分より年長の小姓の、年|長《た》けて納所《なつしよ》になれる者に口説かれて、江島の白菊同前の究境に立ちしとき、止むを得ずその納所の思いを晴らさせ、しかも主僧にも義を立つるべく素股をふるまいしに、どうやら闇中ながら相手がその納所でなく、このことを取り持ちし寺男の様子ゆえ、さてはとさっそくの機転で速やかに股を開き、返す力で烈しく股を打ち合わせて、寺男の一件を折れるばかり挫きやりしなど、いろいろとそんな咄ばかりなり。また主僧があまり長く人と話すを、小姓(212)が自分の室へ呼び寄せるにはおのおの屁を放《ひ》る。その音をきき分けて主僧が、「またおれを呼びくさる」と呟きながら中坐して入り来たりしとか。それから前年申し上げしと覚ゆる、小姓打ちつれて九度山まで娼妓を買いに下るに、通和散ととうがらしの粉をすりかえ、自分は女郎に大もての代りに、友の小姓の相方妓は大いに悩み出せし等の話。こんなことは、小生十八、九までは、高野近き伊都、那賀、有田三郡の人が寄り合うごとに咄したことながら、今は誰一人覚えたものなし。そのころ聞書を致し置いたなら、種々と珍談もあったはずなれども、今日となつては何とも致し方なし。東京新吉原の咄なども、今二十年も立たば何ものこらぬこととなるべしと存じ候。
 小姓の幽霊が歌の下句を付け煩うて毎夜詠み聞こえたという咄なども、『燕石十種』か『新燕石十種』に(なにか徳川下半期に作りし江戸のことを書いたもの)出でおりし。これらも、必ずしも徳川以前にあった説とは思われず。前便申し上げたる、日向の美少年が臼杵家へ歌を修行僧に托しておくりし咄、また大和の無理心中の僧と稚児の鬼火の闘いの咄なども、貴下が引かれし近作の二書が「伝説」と題号持ちたるゆえ「伝説」と思わるるようなれど、実は徳川氏の世に書されたるものに候。
 『日本伝説集』とか『甲斐昔話集』とかいうもの近時多く出る。大抵は支那書、または西洋書の翻案もしくは直訳なり。伊豆国には、水仙は自分の美貌にほれて水に陥り溺死したものの屍より生えしという由。これは誰も知りたるギリシアのナルキッソスの伝の直訳なり。(故に水仙の渾名をナルキッソスと呼ぶ。)『甲斐昔話集』に出でたる、商人がその同行の商人を水に落とし殺してその妻を娶り、子を生ませてのち安心して雨水に泡がたつを見て笑う。妻が問うと、汝の前夫を殺したとき水に泡が立つを指さして泡に後日証拠に立ってくれと言って沈み死にぬ、今泡が立つも何の証拠とならぬを見て笑うなり、といいし。妻これを聞きて前夫の後夫に殺されたるを知り訴え出て、後夫は所刑《しよけい》され死んだという。これは『琅邪代酔編』等に出である、唐宋ごろの支那譚そのままなり。本邦に泡を引いて証とするなどいう風習なし。『代酔編』はいろいろの珍談を諸書よりかき集め、はなはだ博識ぶりに重宝なる書ゆえ、延宝ご(213)ろ本邦でふりがな付きで翻刻されたから、甲州辺の山村でも、法螺に志厚き村夫子はこれを買わぬまでも写し伝えて、いろいろと自分で作ったかに吹聴して俗耳を驚かしたることと察し候。また柳田氏の『昔話集』に、日本中の諸州の伝説を集めたるが、中には近江の大井子が薩摩の氏長を自宅で飯飼い、白分に劣らぬ大力に仕立てて京都へ角力に上らせた咄(『宇治拾遺』か『古今著聞集』にあって、『北斎画譜』にも描かれ、名高いものなり)、
  これも、笑は飯を食わせたばかりでなく、毎夜毎夜、夜相撲でもんでやつたというような咄だつたのを削ったことと存じ候。
また長崎で外国人が壁の石をかいに来たり、あんまり高価に付けるゆえ主人が売らず。その外人帰国してのちその石を削るに、中より生きたる魚が飛び出し、のちに外人が大金を持っていよいよ買いに来たりしが、魚が去ったのちゆえ大いに惆恨したという。これは安永ごろできた近江山田浦の木内重暁の『雲根志』に書きあり。南宋の世に成った『雲林石譜』に同一の咄がちゃーんと出でおり、長崎の伝説にも何もなく御座候。柳田という人は兄の井上通泰より和歌を伝授して歌はどうやらよいが、気骨の乏しき人で、深く博く事物を研究せず、日本人は日本のことを第一に研究すべしといいはり、日本に行なわれ、また行なわれたとあれば何でもかんでも集めて、和泉式部の足袋とか景清の眼薬とか、獅子舞はむかしはみな鹿踊りなりしとか、日本のことはみな日本特有のごとく説き候。はなはだ手軽で簡便なやり方ながら、『槐記』に日本のことは大抵みな支那より来たれりといい、林子平が日本橋下の水はテイムス河に通ずと論ぜしなどに比して、はなはだ固晒一偏の頑説に候。
 まずは右申し上げ候。とにかく小生は、稚児の伝説というもの、徳川氏の世に書されたるものを除きては何ほどもなく、たまたまあったところで、道興准后の「むかしここで稚児が盗賊に殺されたと聞く」くらいに止まり、何の珍しくもなきことが多いと存じ候。   早々敬具
 
(214)          92
 
 昭和八年十二月十八日午後二時
   岩田準一様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。十五日御状は咋十七日朝九時拝受。昨日より寝ずに菌類写生致しおり、今日は早くより人を傭い、庭の大木(樟《くす》)の大枝を伐り払わせおり、その差図等にていろいろ事多きゆえ、御質問の件、みなまで答え申し上げ得ず。ここには差し当たり只今小生の手に合うべきことのみ申し上げ候。
 伝説というものはそうそう多くあるものにあらず。欧州にても、伝説編などにあるもので多少面白味あるは、十の七、八まで中古その国に行なわれたる説経用書(『沙石集』ごとき)の諸話を換骨したものに候。古河辰がいえるごとく、今の人に道理に合わぬと思わるるほど、それが古伝に近し。それと同様に、今の人の道理に合いよく了解さるるものは、多くは偽作に御座候。故に昨今なるほどと思わるるよう書いた伝説はみな虚説が雑りおるなり。
 一眼一足のことは、只今疲れてちょっと材料思い当たらぬゆえ、明日でも一眠の上考えあてて申し上ぐべく候。
 朝欣上人のことに付き徳川時代に成りしものを引かんよりは、『続群書類従』七九九巻下の『長谷寺霊験記』下第二二「朝欣上人生身観音に遇い奉り、すなわち発心せること」の条を引かれたく候。永享七年より以前のものなれば、はなはだ御役に立つなり。
 例の生半可な輩が伝説伝説と称え、小姓も喝食もごっちゃにしていろいろ書き替えをやったり、また柳田輩に誑かされて「よりまし」などと言い直したり、読んだところが時代相応の用語が変替されあるから、一切その鑑定がつかぬとは困り入り候
(215) 『花月随筆』の要処、左に写し差し上げ候。(昭和八年九月発行、著者飯島保作、東京冨山房発行、定価四円八十銭)
狸の伝説
  六二〇頁(すべて十五行のうち十二行。三行は前の題号の条の終りにかかる)より六二一頁(すべて十六行)のうち九行とおよそ三分の一行は諏訪明神の狐使のこと、『摂陽落穂集』に出た川辺郡東多田村鰻繩手の狸火のこと等にて、貴下には興味なきことなり。六二一頁の第十行の三分の二より写し出す。
 また狐が主として美女に化けることは既述の通りで、玉藻の前や殿の妲妃以来、その例枚挙し難いが、稀《まれ》には美少年に化けた例もある。『続群書類従』に収められた『若気勧進帳』に、「伊州阿閇郡に一の山寺あり。寺後に深山あり、老狐栖めり。ある夜かの狐妖、蟄居の振りをなし、かの寺中を徘徊し、童子を嬲り法師を誑かす。ある坊の小新発意、窃《ひそ》かにかの妙姿を見て、寤寐《ごび》忘れず、云々。終《つい》に一夜の盟を結ぶ、云々。古えより人畜の孳(これはツルミと訓むべきか)、たちまちその祟りあり。翌日、かの狐、丘を首にして死す、云々。(熊楠いわく、これは『古今著聞集』などに、平安朝に宮庭にて男女に化けた狐が官人に挑まれ、死を覚悟しながら思いを協《かな》えやり、翌朝死しあったという咄に拠るなり。)詮なき妖畜たりといえども、なお身を失うを顧みず、人の望みを達す、云々」。(文字の錯乱が多い。今「百和香」本と照合し、仮名交り文に書き改め、解し易からしむ。奥書に文明壬寅とある。)(六二一頁)
 文明壬寅といえば足利の中ごろだ。遉《さすが》に男風旺盛の時代だけあって、狐が美少年に化けたのは異《あや》しむに足らずだが、やはり足利朝末ごろの作かと思わるる『狸少人状』(一に『狸状』または『狸申状』)によれば、あの黒い毛ムクジャラな痴純な動物たる狸までが美少年に化けているのは、時代の風潮とは申せ、滑稽千万で、ことに坊主どもに見顕わされて摺子木で擲られ、ほうほうの体で遁げ出し、その後さんざんに愚痴を述べているのは、狸だけにへまなところが見えて、重ね重ね滑稽感を起こさしむる。この『狸状』は徳川初期に習字手本として広く行なわれたらしく、延宝板の物もあり。また天和から元禄・正徳ごろの書籍目録に、大抵その名が見える。されば珍しくもなけれど、短文物(216)だから、その全文を仮名交りに書き換えて見る。文字の素朴古拙なことは、到底『若気勧進帳』の妙に及ばぬが、古い刻本は滝本流の能筆で、たぷん足利期の末ごろ、比叡山の僧侶などの作った文章と思われ、素《もと》より戯文で事実の有無などは考証すべき限りでないが、そのころこういう伝説があったものと思われる。上州館林の茂林寺では茶釜が狸になったとされているから、江州竹林寺の狸がオカマになったのもまんざら縁故のないことではあるまい。
    『狸申状』一名『狸少人状』
 それ当山の興りは、桓武天皇の御願所、延暦寺の末寺なり。比叡山のうち竹林寺と申す山寺は、鎮護国家の道場にして、真言止観の霊地なり。しかるに、なお当山においては一児二山王《いちちごにさんのう》と、云々。就中《なかんずく》畜類の態《たい》たりといえども、少人垂髪の顔《かん》はせを顕わすのところ、左右なく味噌磨木を頭上に当てられ申すの条本意なきところなり。ことにもってかの枝(杖の誤りか)三つの科あり。一には円頓の教法を被り、二には山王七社の諸神の御恵みを失い、三には少人垂髪の礼儀を蔑《ないがし》ろにす。かれといいこれといい、罪科遁れ難きの条、もちろん世上において理不尽の旨、もっとも沙汰するところなり。はなはだもつて(以上六二二頁)傍若無人の至り、言語道断なるものか。およそは月氏また震旦日域の童形、みなもって仏法遺跡の方便にして、恵命相続の妙形なり。しかるに、今畜類たりといえどもなおその情《なさけ》あり。夜々《よなよな》枕を並べ、日々又顧〔二字傍点〕(頸を交ゆるの誤りか)のところ、たちまち出仕を妨げらるること、悲しきかな。その身いやしくも人倫におりて報答なきの上、あまっさえ邪見の苛枝(杖か)に当てられ申すの間、恋逆無道の対罰を酬いて、寺中いよいよ少人の威光を照らさんと欲するものなり。よって打擲遺恨の鬱憤申し述ぶるの状、件のごとし。
 狐が男に化けた咄は『古今著聞集』あたりにあったはずだが、美少年は『若気勧進帳』が初めてであろう。『狸少人状』は、たしかにこの『勧進帳』を真似て、狐を狸に置き替えたものと考察する。この『狸状』の絵入本には、坊さんが写経しておるところへ美少年が茶を運ぶ図を絵《えが》き、少年の裾から太い尻尾を出して、狸たることを示してあるのも面白い。そもそも若道は足利期が全盛で、徳川期に入りても、元禄ごろまではかなり盛んに行なわれ、芭蕉翁も.桃(217)青時代には、君寵を蒙ったといわれ、井原西鶴などは、ことに斯道の猛者で浮世草子や矢数俳諧の作品を通して、その目覚ましい発展振りが窺われる。しかし、だんだん世が降って、坊さんなどが女を翫ぶ便宜が多くなったゆえか、この非倫の風俗は廃れ行きて、終に江戸は芳町、湯島、神明前、京都は宮川町、大坂では道頓堀辺の蔭間茶屋に余命を保ち、それも半ばは後家や殿女の隠れ遊びする場処となったようである。しかして寺には稚子喝食あり、また樽拾いの小僧が独身男に手込めに遭ったりした例は、川柳、黄表紙、滑稽本を通じて散見すれど、江戸末期にはこの風はなはだしく衰え、却って世人に不快を感ぜしむるようになったと見えて、天保以来できたおびただしい艶画本にも、これを載せた物はすこぶる稀《まれ》となった。今日では狐狸はもはや美女にも美少年にも化けず、わずかに狸には腹鼓《はらつづみ》や赤小豆磨《あずきと》ぎ、狐には狐憑きや狐火の迷信が往々存在する(六二三頁)に過ぎぬ。またもって古今の変を知るべしである。(六二四頁)
 右あまり面白くもなき文ながら写して進《まい》らせ候なり。    早々敬具
  右の小生注に申せし、狐が化けた美女、人と交わって死せし咄は、『古今著聞集』魚虫禽獣第三〇篇に見え候。『日本文学全書』第二一篇の本、四二九頁より四三〇頁に至る。「ある男、日暮れてのち、朱雀の大路を通りけるに」という書き出しなり。
  日が昏くなり筆鋒が分明ならず、御察読を乞う。
 
          93
 
 昭和八年十二月二十一日早朝出〔葉書〕
 拝復。十八日付御ハガキにて御下問の、弘治三年元就出雲の熊野城攻めのことは、『野史』元就の条には一向見えず。ただ、この歳三月、元就、大内義長を攻め亡ぼし、周防長門を占領し、「十一月、兵を出だして郡県を徇《したが》え、土(218)寇を討って、みなこれを平らぐ。備後もまた平らぐ。しかる後に尼子氏と兵を交え、抗衡して連年|解《と》けず」とあり。この際熊野城を攻めしにやと存ぜられ候。すべて『野史』には、毛利・尼子二氏の列伝に熊野城のこと見えず。『陰徳太平記』には、永禄六年熊野城に熊野兵庫助久忠寵り毛利勢と戦いしことを載せたれども、山本松丸のことは一向見えず。熊野城の成り行きの記もなし。『雲陽志』には、熊野山のことあれども熊野攻めのことはなし。
 一眼一足のことは、ややまじめらしく書きたるは、『徳川文芸類聚』第四冊の『万世百物語』二巻五章に候。寛延三年成りしものゆえ新しき方なれども、その咄は旧伝によったものと察せられ候。同冊に出ずる『狗張子』五巻の末章、文禄三年、伊勢の北畠氏の小姓杉谷源次が深見喜平という侍に恋歌を遣りし。これを人に泄らせしより、深見杉谷を殺して目殺す。諸共に塚に埋みしに、火夜ごとにもえ出ずることあり。これは石淵寺の翻案かと察せられ候。         早々以上
 
          94
 
 昭和八年十二月二十二日早朝〔葉書〕
 御尋ねの件は、『続燕石十種』第二冊の三木隆盛著『其昔談』(ただ一冊ものなり)にいわく、むかし江戸隅田川のほとり真崎稲荷の社に御出で狐あり。茶屋の者揚げ豆腐を持って、御出で御出でと呼べば、社の椽の下より出でて食いけること年久し。寛政四年ごろ本国陸奥松島へ帰る。帰る前、茶屋の娘につきて暇乞いす。形見にとて扇に一首の歌を書く、「月は露露は草葉に宿りけるそれこそここよ宮城野の原」。その体、娘の手跡よりみごとなり。むかし松島雲居寺に白菊という児、和歌に執心深く、月の夜宮城野へ出で、右の上句を案じ出で、下の句を案じおること毎夜にして病死す。夜々出でて右の上句を吟ず。往来絶える。雲居禅師、宮城野に出で、椅子に凭ってまつ。深更、児、上句を吟じ、禅師、即座に下を付け、それより霊出でず。その霊を白菊の宮とて雲居寺にあり。神体は右の歌の短冊な(219)り。かの狐それを知りて書きたるなり、とあるので、異伝ではなく、後日譚と申すべきものに御座候。       敬具
 
          95
 
 昭和八年十二月二十三日早朝〔葉書〕
 拝啓。小生このハガキと同時に田中直相氏へ発状、『文化公論』への寄稿をことわり、かつて貰える『吾妻鏡』三冊は書斎中の煙煤に多少汚れたるゆえ、東京で新たに友人が買い求め、田中氏へ返すことと致し候。(三冊中一冊表紙に少損あり、改綴し、たぷん昨日出来つたはず。)小生が投書にと聚め置きたる材料は、折にふれ岩田氏へ傾瀉する由、申しやりおき候。(小生投書をことわりし理由は、主として貴稿の文字校訂が麁雑なるによる旨明言しおき候。)この段申し上げおく。故に『文化公論』に貴稿が載せられた分は、一々田中氏より小生へ送らるるよう貴君よりも田中氏へ頼み置かれたく候。        早々敬具
 
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 昭和八年十二月二十三日朝九時出〔葉書〕
 拝復。二十一日出御葉書只今拝見。御下問の件は、小生そのうち岡書院より出すべき随筆の稿本に具しあり。その稿本このごろ血眼になって探るも、そのところおよび前後数葉のみ紛れこみて分からず。暗記せるだけ申し上ぐれば、これは『太平記』や『沙石集』その他多くの本に出でおり。只今知るところでは、平康頼が自筆という『宝物集』に(『続群書類従』巻九五二所収。同巻に康頼『宝物集』三巻あり、これは後人の所作という)出でおり候ものが一番古しと存じ候。『今昔物語』にありしや否、小生覚えず。この本話らしきもの支那に二、三ありしと記臆すれども、何の書に出でしということ、只今覚えず。不思儀なことには、一切経にこの話の本話らしきものはなかりし。類話らし(220)きものはありしと覚ゆるが、只今心当たりなし。貴下の白菊の話の注にある遊女玉菊の話に限り出処を出だしおらぬが、これはすこぶる怪しき談なり。何の書に出でおり候や。例の講談本などにあらずや。講談本など申すものは、昨今の大衆文芸同様取るに足らぬもの多し。   早々敬具
 
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 昭和八年十二月二十四日午後十一時〔葉書〕
 拝啓。十一月の『民俗学』五巻一〇号八九三−四頁に(太刀川総司郎君の寄書)、「天狗のとまり木」の条に、「浦賀町新井の叶明神社の山頂に松の大木があるが、上の方はどうしても葉が出ずに、折れたばかりのように見えるので、これを天狗様のとまる所と言い伝えている。山の上へ登る石段も、幾度修繕しても崩れるので、これも天狗様が歩かれるからだという。房州の漁夫が(失敗談はこちらではみな房州の人にするようだ)土地の人のとめるのを開かずに、夕方この山へ上って天狗隠しに逢ったともいうし、または神様は御稚児の風をして〔八字傍点〕おられるという。緋の袴〔三字傍点〕を着けた神様は、たそがれ時に境内を遊歩される。だから、そのころこの山へ上るのは勿体ないのだ。漁夫が知らずに夕方ただ一人で上ったら、この緋の袴のお姿を見た。それから熱を出してまもなく死んでしまったともいう。同じ浦賀の久比里に天狗の毛抜場という所があると聞いたが、私はまだそこへ往って見ない」と出ず。これらはきつすいの伝説〔二字傍点〕と申すものに候。これにて、その辺にむかし(年代はもちろん不明)稚児の粧いした童男を神と奉祀したこと(一)、その神がのちに天狗として怖れられたこと(二)、その辺の稚児は官女と等しく緋の袴を着けたこと(三)と、この三つの古俗古信念ありしことは分かり候。
 和歌山市よりようやく一里ばかり東に和佐《わざ》山という小山あり。『神名帳』に、これは何とか比売《ひめ》の神といって祀りし古社なり。比売とあるからむろん女神なり。それが小生幼少のころまでは神名を知ったもの少なく、ただただ和佐(221)山|高《たか》の御前《ごぜん》と唱え(神名兼山名)、嶮しく高い山の義で付けた名なるべきに、高《たか》(天狗を)天狗といわず鼻高《はなたか》の義より神《たかがみ》、高様《たかさま》などいいし)の名に因んで、女神ということは忘られて、天狗とのみ畏れられし。四時以後人上らず。小兒生十九歳のとき一友と共に夕刻上りしことあり。かくのごとく女神も少年神も天狗となされ了ることあるなり。
 
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 昭和八年十二月三十日早朝四時
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
 拝復。二十六日夜出御状、今朝八時四十五分拝受。御下問の信頼成親一条は、小生も何かで見たことあり。たぶん『塩尻』ならんと思い、帝国書院本ことごとく眼を通せしも、見るところなし。あるいは『翁草』にあらずやと存じ候。これも坐右にあれど(『随筆大成』本)、眼を通す暇なし。天野信景は奇妙な人で、仏教をきらいのようなことを吐きながら、ややもすれば仏経を引き、徳川氏をほめたたえながら、徳川に亡ぼされた諸家を愍れむ。さて何ごとに付けても、機会あれば男色のことにいいよせる。この人その方を好きしにやと思う。巻二〇の末に近く(帝国書院本上冊の三三五頁)、わらわより見しもの故ありて、云々、の条見合わすべし。ただし、これはしかと男色の契りありしものとは判じ難し。しかして信頼成親もまた後白河天皇に愛せられしとまでは分かるが、いよいよ男色の契りありしとは判じ難し。貌美なるものを愛しながら、少しもこれを犯さずにすむ例はなはだ多ければなり。(この法皇たしかに某の夜誰を非処行犯したということは、多くの書籍にただ一事を記しあるのみ。)
 さて先便申し上げし和歌山付近の和佐山|高《たか》の御前《ごぜん》をただ一つの小山のよう申し上げしは小生の間違いにて、和佐山と高の御前は別らしく候。和佐山は大分高き山のようにて小生は知らず。和佐山は南にあり、高の御前は北にあって(222)相対す。小生等聞きしは、和佐山には高津比古《たかつひこ》の神、高の御前には高津|比売《ひめ》の神を祭るという。(いろいろと異説は『紀伊国名所図会』四巻上に見ゆ。)中古、女神を御前と称すること多きゆえ、女神の意味で高津比売を高の御前といい、この山の名も同様に称えしことと察し候。その女神が近時天狗(男性)のように心得られおるなり。ただし十二年前高野へ登るとき、その高の御前のすぐ北側を汽車で通りしに、むかしとかわり、さしも高峻なる小山を伐木しキンカンか何かを栽培しありし。小生二十歳のとき登りしときの畏ろしさは少しもなかりし。そんなことをするゆえ、山の土が崩れ落ちて紀の川に流れ込むことおびただしく、紀の川の口が全くつまりて船舶が入り来ること能わず、和歌山市衰微の源をなしおり候。只今川を浚え港口を掘るなどいいおれども、誰も金を出すものなく、小生が生まれたる同市は日一日と衰え行く。これは和歌山市のみならず、貴地もどこもここも同様と存じ候。右ちょっとしたことながら、正誤したくこの状差し上げ候。    早々恐々
 
          99
 
 昭和八年十二月三十一日午後十一時出〔葉書〕
 拝啓。先状申し上げしごとく、小生前年中山太郎氏より頼まれ、『文化公論』へ何か投書すべく、その前礼として『吾妻鏡』三冊もらいあり。しかるに近年生物学上の攻究に多時間を要し、かつどうも田中氏の出す雑誌は校字が小生の意に協《かな》わず。これではせっかくなにか書いて出したところで、校字の上よりついに口舌を生ずべしと存じ候付き、小生の寄書はことわり、本月二十五日在京の友人に『吾妻鏡』三冊貫いて(表紙を新装せしめ)、田中氏へ返戻致させ候。その書留領収証は当方へ送来しあり。しかして岩田氏の寄書はその都度小生一閲して、心付きし件々を岩田君(223)へ報知したきゆえ、岩田氏の投稿の掲載されたる分に限り毎度送らるるよう、田中氏へ頼み遣りおき候ゆえ、たぶん左様なし下さるることと察し候も、もし然《しか》されざるときは、小生は貴書が何月何日に出たやら分からぬこととなる。故に今後貴書が掲げられたる都度、ちょっと当方へ御知らせ下されたく候。         早々敬具
 
 
(224)   昭和九年
 
          100
 
 昭和九年正月二日早朝〔葉書〕
 新禧申し上げ候。御ハガキは昨早朝拝受。小生昨夜『奥羽観蹟聞老志』を見るに、その第六巻上に例の宮千代の詠歌のことあり。そのついでにいわく、むかし信州に寺あり、云々、とあって、無名の少年が「今宵の月は空にこそあれ」という句を発し、月は地に堕つるかと問われて大いに羞じ、自経して死す。それより夜々亡霊出で寺は廃亡す。勇あるもの一夜これにあうに、上の句をなさんことを求めらる。すなわち、池水の上は氷に閉ぢられて、と吟ぜしに、霊大いに満足して怪これより絶えたり、とあり。例の伝説伝説とこの『奥羽観蹟聞老志』より拾い攘《ぬす》んだのでなくて、この書より前またほとんど同時にこの書を見ずにその信州の話を筆し伝えたるもの有之《これあり》候や、伺い上げ奉り候。また『聞老志』同処に、宮千代の「塚の上に花草を生じ、花紫と称す。青き葉、紫の茎にして、初秋に花を著く。その花、豆花のごとし。その色は紅紫にして、糾《あざな》える繩のごとく相似たり」。同巻二十葉うらにも、この草を記し、モジズリと同一物なる由を記し、宮千代が墓址すこぶる多し、とあり。これはこの辺の原野堤防下に多く咲く草で貴地にも多からん。学名スピランチス・スピラリスと牧野博士が命名せるもの、蘭科の小草に候。      以上
 
(225)          101
 
 昭和九年一月十日早朝出〔葉書〕
 拝復。七日出御ハガキにて御下問のことは、『日吉社神道秘密記』、十禅師、云々、御神力現形、古今種々事、童形にて慈鎮和尚へ通い給う時御歌、「ほとほととたたくつま戸はさもなくて、思はぬ方に明くるしののめ」。慈鎮御歌(非御返歌〔四字傍点〕)、「われならで誰にもかくや契るらんと、思ふにかはる胸ぞ焦がるる」。また『近江輿地誌略』巻一九、十禅師社の条に引ける『日吉記』も大概同文ながら、通い給う時〔五字傍点〕を逢う時〔三字傍点〕に作り、慈鎮御歌(非御返歌)を慈鎮和尚其時〔六字傍点〕に作る(すなわち返歌とせるなり)。小生はよほど以前にこの歌を慈鎮和尚の詠として(十禅師神の歌なしに)二十一代集の内の何かに出でありしを見しと存じ候も、只今記臆せず。
 一昨日、二月号『文化公論』着、このたびも恐ろしく誤植多し。その八一頁、「兄妹心中」の唄は、明治三十四、五年ごろ、当国勝浦港で船頭相手の女ども毎度唄いし、「兄の文平《ぶんぺい》が妹にほれて」という唄なり。石川県では兄のモンテンがとなりおり、何のことやら分からぬ様子、これは貴地にも船頭相手にした女はみな暗《そら》んじおることと存じ候。七八貢、梅丸殺す噺は、『甲子夜話』続篇六巻の、河内藤井寺の条にもあり。師の坊を殺せといいて、みずから殺されたる稚児の名を幸松丸とし、文覚より三百年前のこととしあり。   以上
 
          102
 
 昭和九年一月十日夜十時出〔葉書〕
 拝啓。先日御尋ねの信頼成親みな男寵より終《つい》に世を乱るるに及びしということは、小生いろいろ記臆をたどるに、あるいは『そしり草』にありしかと存じ候。これは風来山人の筆といえども、実は風来の筆にあらず。ただし、『帝(226)国文庫』か『続帝国文庫』の『風来山人全集』に収めありしと記臆候。小生は明治三十五年か三十六年に読みしのち久しく見ず。右ちょっと申し上げ候。有無たしかならねど一度御捜しあるべく候。これには文覚が六代の男色を愛し、またその母をも(維盛の妻)云々とか、例の鴨長明が門前の小童を云々ということなどもありし。はなはだいろいろと気をまわして書きし咲《わら》うべき毒筆なり。     以上
 
          103
 
 昭和九年一月十五日夜十一時
   岩田準一様
                   南方熊楠
 拝復。十四日出御状および『木芽漬』臨写本、今朝八時四十分|難有《ありがた》く拝受。只今までかかり臨写本に就き拙写本校正致し候ゆえ、明十六日御返送申し上ぐべく候。
 御申し越しの、壮者が自分のことをワラワと唱えしことは貴状にて初めて気付き、すなわち『曽呂利物語』(『続帝国文庫』の内『落語全集』)を見るに、巻三の第四条、一色好みなる男ある、また恋に手をとること一の条に、その文よりその上に往年小生の自手にて、男みずからワラワという、と頭書しあり。この書年代不知なれども、大抵文体詞辞、『因果物語』によく似たれば、寛文前後のものと覚え候。そのころの人、男もみずからワラワと称せしと解するよりも、作者不文にして(今日のえせ大衆文芸家同様)、沾《ぬ》れごとの場合には男もみずからワラワと称することと心得ひがみしことありしと解するが宜しと存じ候。
 石中に生魚あること。『雲根志』より前『金玉ねちぶくさ』とやらんに出である由、小生には珍聞なり。何とぞその書名、出板年月およびその全文を写し御寄示願い上げ奉り候。小生は貴示の由を明記して何かに出したく、このこ(227)と偏えに願い上げ候。
 怪談物は大抵支那小説を日本に翻案せしなり。小生いろいろと書きたるもの多し。そのうち少しずつ出板せんと思う。只今書名を忘れたるが、山城国御香の宮の絵馬の美少年が他の美少年を?み、酒器を打ち付けて傷つくるところを夢みたる(その絵馬堂に仮寝せし)人がその絵馬をみると、果たして一美童の絵が創付きありし話あり。これはもと支那小説にて、それには美少年でなく美女が美女を?みて創つけし話に候。『拾遺御伽婢子』巻三「女智略之敵打」(美女お初《はつ》十九歳、美少年の装いして父の仇を尋ぬるうち、奥州に至り、伊佐半右衛門という壮夫、これを美少年と心得口説き女たるを明かされ、助太刀して仇を討たす話)、また『万世百物語』巻四の一、「信州に山賊美童、付悪心和らぐ情の道伴れ」(同じような話、『男色木芽漬』五の一「情は旅宿の楯杖」にあり)なども支那よりの翻案と思うが、なかなかうまく翻案しおり、ちょっと原話を尋ね知り得ず候。しかし、翻案物にはどうも日本にはありそうもなき点があるので、それと分かり候。
 神仏が美童と現じて僧俗と交情を結ぶ話(『秋夜長物語』もたしか解脱を祈る僧を救わんため菩薩が梅岩丸と化して契りしことと記臆致し候)は、先便申し上げたる王子神が稚児と現じて慈鎮和尚に通い、また『長谷霊験記』に見えたる、観音が稚児と現じて朝欣上人に事えし話、『今昔物語』の毘沙門が美童と現じて貧僧に仕え黄金を産みし話など、まだまだ捜さば多くあるべし。
 支那にはこんな話多し。『法苑珠林』三七に、「唐の?州郷県の人、姓は張、字は忘る、かつて県尉に任ず。貞観十六年、京に詣《いた》り選《しけん》に赴かんとして、途《みち》に大山を経《ふ》。よって廟にて福を祈るに、廟中の府君および夫人、ならびに諸子等、みな形像を現ず。張、時にあまねく礼して拝し訖《おわ》り、第四子のかたわらに至るに、その儀容の秀美なるを見る。同行の五人のうち、張|独《ひと》り呪《いの》りていわく、ただ四郎と交遊し詩を賦し酒を挙ぐるを得れば、一生の分《ぶん》畢《おわ》る、何ぞ仕官するを用いん、と。行くこと数里に及び、たちまち数十の騎馬、鞭を揮って至るあり。従者いわく、これ四郎なり、(228)と。四郎いわく、向《さき》に兄の垂顧さるるを見る、故に来たって仰ぎ謁す、と。よって言いていわく、兄の選せられんと欲すと承る、しかれども今歳は官を得べからず、またおそらくは前途にまさに災難あらんとす、また去《ゆ》くを須《もち》いざれ、と。張、これに従わずして、執別して去《ゆ》く。行きて一百余里を経て、張および同伴、夜行して賊に劫掠せられ、装具並びに尽く。張ついに呪《いの》りていわく、四郎、豈《あ》に相助けずや、と。頃《しばらく》あって四郎の車騎、畢《ことごと》く至る。驚き嗟《なげ》くことやや久しくして、すなわち左右をして追い捕えしむ。その賊、?仆《たお》れ迷惑《まよ》いて、却《かえ》って本《もと》の所に来る。四郎、人に命じ、決杖《むちう》たしむること数十。その賊、※[月+陛の旁]膊みな爛る。すでにして別れ去らんとして、四郎、一の大樹を指さして、兄還るの日、ここにおいて相呼べという。「この年、張果たして官を得ずして帰る。もと期《やくそく》せし処に至り、大いに四郎と呼ぶ。にわかにしてすなわち至る。よって張を引いていわく、相随いて宅を過《おとす》れよ、と。すなわち飛楼綺観、?《たか》きに架して虚《そら》を凌《しの》ぎ、雉?《ちちよう》参差《しんし》として常にあらず壮麗なり。侍衛厳竣にして、峙《そび》えて王者の所居《すまい》に同じ。張すでに中に入るに、いくばくもなくして、四郎すなわちいわく、すべからく府君に参じて始めて安坐すべし、と。よって張を引いて入れ、十余の重門《ちようもん》を経て、趨走《はし》って進む。大堂の下に至って、謁拝して府君を見るに、非常にして偉絶す。張、時に戦懼《おのの》いて、あえて仰視せず。判官は事を判ずるに朱書を用うるがごとく、字きわめて大なり。府君、侍に命じて宣《のたま》いていわく、汝すなわち能くわが児と交游し、深く善道をなす、よろしく停《とど》まって一、二日讌聚《くつろ》ぎ、便に随つて好《よろ》しく去るべし、と。すなわち引き出して、一の別館に至らしむ。盛んに珍羞《ちんしゆう》を設けて海陸|畢《ことごと》く備わり、糸竹は楽を奏で、歌吹は耳に盈《み》つ。すなわち四郎と同室にして寝《やす》む。
 「すでにして一宿を経、張、明旦に至り、よって庭序を游戯し、徘徊往来して、ついに一院を窺うに、まさにその妻の、衆《おお》くの官人の前において枷《かせ》を著けて立てるを見る。張、堂中に還《かえ》って意はなはだ悦ばず。四郎、怪しんでその故を問う。張、具《つぶ》さにこれを言う。四郎、大いに驚いていわく、嫂《あによめ》のここに来たれるを知らず、と。すなわちみずか(229)ら往きて司法所に造《い》る。その類すなわち数十人あり、四郎の来たるを見て、みな走って階を下り足を並べて立つ。手をもつて一《ひとり》の司法を招いて近前《すすみき》たらしめ、具さにこのことを言う。司法、報《こて》えていわく、あえて、命に違《たが》わず、しかれどもすべからく録事に白《もい》して知らしむべし、と。ついに録事を召す。録事|諾《だく》していわく、すなわちすべからくこの案を衆案の中に夾《さしはさ》み、方便もて同判すべくんば、始めて得べきのみ、と。司法すなわち断じていわく、この婦女は、別案の内を勘《かんが》うるに、かつて写経|持斎《じさい》の功徳《くどく》あれば、即《ただ》ちに死すべからず、と。ついに放って帰らしむ。張、四郎と涕泣して別る。よって張に嘱していわく、ただ功徳を作《な》して、もって寿を益《ま》すべし、と。張、本《もと》の馬に乗り、その妻、四郎より馬を借り、妻と同《とも》に帰る。妻は精魂なりといえども、事は平素に同じ。行きて家に至らんとするに、舎を去ること百歩ばかりにして、たちまち見えず。張、大いに怖懼《おそ》れ、走りて家中に至るに、すなわち男女《こども》の号哭するに逢い、またすでに殯《かりもがり》せしを知る。張、すなわち児女を呼んで、急ぎ往《ゆ》いてこれを発《ひら》く。棺を開くに、妻たちまち起きてすなわち坐するを見る。?然《てんぜん》として笑いていわく、男女《こども》を憶うがためなり、先に行きしを怪しむなかれ、と。ここにおいて、すでに死して六、七日を経、しかるに蘇るなり。?州の士人、これを説いていうこと爾《しか》り。(冥報記(この書は今伝わらず、『珠林』にこれを引けるなり))」。冥界王の第四子の兄分となりしおかげで、その妻冥府に落ちしをこの世へつれ帰るを得たるなり。
 また妻ある男を神が婬し、その妻がその夫と同宿し得なんだ咄あり。『獪園』巻一二に、「蘇州山塘の全大用、象山の尉《じよう》となる。贅婿《いりむこ》の江漢あり、年弱冠にして風儀下らず。ついに五郎神と遇い、綢繆?婉《ちゆうびゆうえんえん》として情はなはだ伉儷《むつ》む。その室人《つま》、竟《つい》にあえて夫と同宿せず。江郎、病み瘠すること日にはなはだし。全氏、茶筵を設けてこれを讌《もてな》すも、終《つい》に断つ能わず。丙午の歳《とし》、異人に遇いて飛篆《ひてん》もて禳除せられ、ついに跡を絶す」。この五郎神というは、種々の動物の形せる神で、人の妻女などにつきて毎度これを婬す。その代りに欲するものは何でもその家へくれるなり。その中には男色を好むものもあるなり。中古の欧州にもこんなもの多し。
(230) 宮千代の墓に生ぜしという草は、学名 Spiranthes spirais Makino《スピランテス スピラリス マキノ》な。。淡紅き花が螺旋状にまきあるなり。この辺でネジバナという。またヒダリマキとも。
 御同封の文は『説苑』巻一一に出でたり。これは前漢の劉向の著という。この文には戦国の時の楚や越の語が多く、なかなか今日となっては意味分からぬこと多く候。
 去年秋末の『大毎』紙に、車次某という三十二、三歳の?童が情人を絞殺せしこと、しばしば出でたり。その後は裁判等一切掲載を禁ぜられおると見え、一向聞かず。とにかく近年類例なき異聞なり。大坂の飛田遊廓付近はこんなものが数百人もおる由。その遊廓に娼妓三十人ばかりおきある家の女将の情夫で、その家の全権を握りおりし西田松太郎という人、大坂より熱田通いの船の事務長で、はなはだよき人なりし。小生至って心易かりし。船を止《や》めて白浜土地会社に入り重役たりしが、同輩に悪《にく》まれ排出され、程なく大正十三年ごろ死せり。この人今もあらば飛田の右の輩の様子を親しく見聞し得べかりしに、今はその人なければ手蔓なし。貴下一度視察に行かれては如何。書籍などで見るとかわり、大いに知り明らむるところ多かるべしと思う。     早々敬具
  小生は去年一月より久しく身体諸部わるく、ことに妻が一月より十一月上旬まで病気にてまことにこまれり。しかるに、このごろ夫妻とも快方で、よって近日よりまた生物学の方にかかる。しかるときは顕微鏡や薬品を扱うゆえ、あんまり書籍を繙読し得ず。
 
          104
 
 昭和九年一月十九日午後八時半
(231)   岩田準一様
                   南方熊楠再拝
 拝復。十八日出御状、今朝九時十分着。本日はなはだ寒く、また暗く、小生は終日臥し、只今ようやく拝見致し候。石中魚ある話、御写し遣り下され難有《ありがた》く拝承。これは『雲根志』の話のたしかなる出処と存じ候。今日事々しく伝説とか何とかいい囃さるるものの内に、こんな例がたくさんあることと存じ候。
 御下問の規模は、小生等幼少の時しばしば和歌山市の古風な(多少学問ある)人士より聞かされたる語に御座候。一昨年十月発行、故大槻文彦博士の『大言海』一巻七九九貢に、規模の三義を釈く。規はぶんまわし、模は型《かた》。(一)物事の広さ、狭さ、構え、かかり、結構、繩張り。(三)ほまれ、面目、名誉、光栄、他の模範となるべき意。この二つは小生いうところの意にあらず。(二)法度《のり》、法式、模範、拠るべき例《ためし》、手本。張衡『帰田賦』、陳2三皇之軌模1(軌は規に通ず)、『徒然草』九十九段、庁屋の唐櫃、見苦しとて、めでたく作り改めらるべき由、仰せられけるに、云々、累代の公物、古弊をもって規模とす、たやすく改められがたき由、故実の諸官等申しければ、とある。まずは故実〔二字傍点〕という意に小生は承り、また用い来たり候。また正例〔二字傍点〕というにも近きことと存じ候。
 『法苑珠林』の文は、「行きて一百余里を経て、張および同伴、夜賊に劫掠せられ、装具並びに尽く。張ついに呪していわく、四郎、豈《あに》(この豈は、こんな時に来たり助けぬということはあるものかという意味なり。ちょっと和訳し難し)相助けずや、と。頃《しばらく》あって四郎車騎、畢《ことごと》く至る」。末文、「すでに死して六、七日を経、しかるに蘇るなり。?州の士人、これを説いていうこと爾《しか》り」。『獪園』一二の文は、「丙午の歳《とし》、異人に遇いて飛書《ひてん》もて禳除せられ、ついに跡を絶す」に候。飛篆とは篆《てん》書で符を書き、それを焼きて空中に飛ばすというぐらいのことと存じ候。こんなことは支那人間にも古今いろいろの異説考証あり。なかなかちょっと分かり難し。書いた人が何のこととも分からずに書いたものも多しと察し候。
(232) 飛田のような所で多く彼輩にあい、親しく聞いたら分かろうかと思う一事は、小生壮時、和歌山生れで高野で小姓たりし川島正久という人にあい、いろいろ聞いたることあり。(この人は明治十九年ほとんど小生と同時に渡米しサンフランシスコにありしが、また二、三年中に帰朝し、どこかの警部たりしと聞く。今はすでに物故せりと存じ候。かつて大浦兼武氏の部下で警部たりしとき、何かのことで大浦氏を弾劾せしことあり。その弾劾文の写しを見せられたことあり。また西南戦争のとき、西郷菊次郎氏を訊問せし、その口供書を小生借り写しあり。紀州ことに和歌山のものはよく啌《うそ》をいう。しかし、この人のいうところは大抵証拠品ありしゆえ、それより推してまるで無根のことはいわざりしことと察し候。)この人|咄《はなし》に、内洩れ外《そと》洩れということあり。真実に至誠をもって交歓するときは、小姓が陽具より精を洩らす。これを外洩れという。しかるに、その上の小姓に至っては、興極まるとき直腸内に一種の粘液を洩らす。これを内洩れという。この内洩れする小姓に至っては、情緒全く変じて婦女と異なることなしとのことなりし。哺乳動物(人もその内)もとは一孔なりしこと、動物系統学で明らかなれば(今もエキドナ、プラチプスという二類の獣は、鳥と同じく一孔にて卵生す)、前後二門に別れて後も多少以前の感じを保留しおり、それが大いに興奮するときは、内洩れぐらいのことはありそうに存ぜられ候。このことはかの飛田輩のある者のごとく、全く性格情緒のかわりたるものにあらざれば正確な答えを得ること難しと存ぜられ候。まずは右申し上げ候。    謹言
 
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 昭和九年二月九日夜十一時
   岩田準一様
                 南方熊楠再拝
 拝復。七日出御ハガキは昨八日午後四時十分着。御尋ねの増田勘之助とあるは甚之助を正とす。『男色大鑑』一卷(233)四段に見え候。そのころよほど名高かりし男色武勇伝らしく候。『江戸時代文芸資料』二冊の『野傾友三味線』一の三には、甚之助となりあり、勘之助にあらず。「森脇に十層倍の御執心、伽羅にも増田甚之助殿」という落首も『男色大鑑』に出でおり候。寛文七年三月二十六日の決闘の由明記しあれば、たしかに史実と察せられ候。
 次に御尋ねの菊が少年に化したこと。これはむろん作りごとに候。ただし、「染井に立ち寄り花屋の伊兵衛が花壇、云々」。この伊兵衛は数代名高き植木屋にて、享保中、吉宗将軍も立ち寄られしことあり。単なる植木屋に止まらず、文才もありしものにて、伊藤氏なり。享保四年、『広益地錦抄』八巻、のち続篇付録、また『長生花林抄』五巻等を出し、今に重宝がられ候。芭蕉の精が女と現われしことは、『夷堅志』(南宋時代)等にあり。今も琉球でいう由。楓が美童と現じたることは、只今出処を覚えねども、この木は古来鬼神の寄るものとしたるにて、例せば、北宋朝の初めに成りし『太平広記』に、『嶺表録異』より、「嶺中の諸山に楓樹多く、樹老ゆれば多く瘤?《こぶ》あり。たちまち一夜、暴雷驟雨に遇えば、その樹の贅《こぶ》すなわち暗《ひそ》かに長ずること三数尺。そこの人これを楓人という。越の巫いわく、これを取って神児を彫刻《ちようこく》すれば、異《ふしぎ》にして霊験を致す、と」、また『臨川記』より、「恒山の楓樹、数千年なるもの、人の形をなすあり、眼鼻口臂あって脚なし。山に入る者これを見、あるいはこれを?《き》るものあれば、みな血を出だす。人みな藍をもってその頭に冠し、明日看て藍を失えば楓子鬼となす」、また『述異記』より、「南中に楓子鬼あり。楓木の老いたるもの人の形をなすなり。また呼んで霊楓となす」などと引きあり。されば、その楓子鬼が美童に化けることと察し候。(楓《ふう》(ふうのき)は日本になし。支那より移し植えたるはあり。当町にも拙妻の縁戚方に一本大木あり。他所より見に来るなり。)菊が美童また美女に化けることは支那にあり。その出処は只今覚えおらず。支那書は索引なきゆえ、調べ出すにおびただしく時をとり候。
 前便申し上げたる人が神と密契を結ぶ例、一つ見出でたれば、左に写し進《まい》らすなり。『集異記』(唐朝の書なり。小生は見しことなし。ここには『古今図書集成』神異典巻四二より孫引きとす)にいわ(234)く、衛庭訓は河南の人なり、「挙《しけん》を累《かさ》ぬるも第《ごうかく》せず」、天宝の初め、すなわち琴酒をもって事となす。およそ飲めばみな敬ってこれを酬ゆ(酬とは神に酒をささぐるなり)。恒《つね》に東市に遊び、友人に遇えば酒肆に飲む。一日たまたま一挙人に値《あ》い、相見てはなはだ歓ぶ。すなわち邀《むか》えてこれと飲む。庭訓またこの人に酬い昏然として酔う。庭訓いわく、君いまだ飲まず、何ぞ酔うぞや。いわく、われ人にあらず、すなわち草原の梓桐神なり、昨日酒肆に従って過ぐ、すでに君の酒に酔う、故に今日君を訪う、たまたま酔うはまた君の志に感ずるなり、今まさに廟に帰るべし、他日及ばざるところあらば相訪わるべきなり、と言い訖《おわ》って去る。のち旬日すなわちこれを訪うて廟に至る。神すでに二使をして庭訓を迎えて廟に入らしむ。庭訓拝せんと欲す。神いわく、某は年|少《わか》し、請う弟たらん、と。ついに庭訓を拝して兄となし、ために酒食を設け歌舞す。すでに夕にして帰る。来日また詣り、これに告ぐるに貧をもってす。神顧みて左右に謂う、華原県下富人命衰うる者あるを看て生魂を収め来たるべし、と。鬼あまねくこれを索むるに、その県令の妻韋氏衰う。すなわちその魂を収め、その心を掩うに、韋氏たちまち心痛み、ほとんど絶す。神、庭訓に謂いていわく、往って二百千を得て療を与うべし、と。庭訓すなわち主人に帰し自署していわく、心痛を医するを解す、と。これを召し、庭訓入って二百千を求め、始めて薬を用ゆ。令、これを許す。庭訓投薬して、すなわち癒ゆること故《もと》のごとし。児女|忻?《きんべん》して、令もまた喜ぶ。銭を奉じて留まり飲ましむ。爾《それ》より日として酔わざるなし。主人これを諭していわく、君まさに貧窘を隠すべし、何を苦しんで使用節せざるや、と。庭訓いわく、但《ただ》梓桐神在るあり、何ぞ貧を苦しまんや、と。主人もつて令に告ぐ。令召してこれを問う。具《つぶ》さに実をもって告ぐ。令怒って庭訓を逐い、しかして梓桐神廟を焚《や》く。庭訓、夜、村店に宿す。たちまち梓桐神来たるを見る。いわく、兄の過ちにあらず、すなわち弟|合《たまたま》衰う、弟今濯錦江に往き廟を建てきわめて盛んなり、ここにおいてかれに詣《いた》るべきなり、と言い訖《おわ》って見えず。庭訓また濯錦江に往く。果たして新廟を見る。神、夢に郷人に見《あわ》われ、衛秀才を請いて廟祝となすべしという。明日、郷人請いてこれを留む。歳暮に、神、庭訓に謂いていわく、われまさに天曹に詣り兄のために禄寿を間わんと(235)す、と。去って数日にして帰り、庭訓に謂いていわく、兄、来歳|合《まさに》名をなすべし。官陽県主簿に至らん、秩満たざるに人あり迎えて判官に充てん、と。ここにおいて、神、酒を置いてこれを餞す。京に至るに、明年果たして名を成し、褐を釋《と》いて陽県主簿を授かる。在任二載にして、公務の間暇独り庁事に立つ。一黄衫吏あり、書を持って入り拝していわく、天曹命を奉じて判官となす、と。ついにこの夕に卒す。神が人を念者に望むは、前便申し上げしと一様に候。       早々以上
 
(235)          106
 
 昭和九年二月十三日午後五時〔葉書〕
 十二日朝出御ハガキ、只今拝受。植木屋伊兵衛が思わく外れ、云々、のことは、小生は聞かず。楓(ふう)木を召され御城まで召されしことなど何かに記載あり。よほどの特典を受けたようなり。貴下のいわるるとは別の話、別の人ならん。
 前便申し上げたる『集異記』は、『新唐書』芸文志に、唐の長慶中、光州刺史たりし薛用弱の作で、三巻とあり。この方に前便の孫引き文があるなり。長慶は唐の穆宗の年号なり。韓退之に用いられて京兆尹たりしときなり。本邦嵯峨天皇の末年なり。別に『宋史』芸文志に、陸勲の『集異志』二巻あり、唐人らしく候。志〔傍点〕と記〔傍点〕と名紛らわしきゆえ分かつを要す。二書ともに今は存せずと見え候。支那の書今に存せざるもの多く、それを古書に引きたるを、また自分が読んだような顔して孫引きすること多し。故に、かれに引きたるとこれに引きたるとそろわぬこと多し。
 困ったことなるが、岡村千秋氏は柳田国男氏の親類なれども、昨今あまり気が合わず。それゆえ援助を得ること少なく、常に失意の地にあり。『郷土研究』はいつ出るか分からずと存じ候。
 二百千というはインドの数え方にて、仏教盛んなりし六朝より唐まで、支那でも毎々用い候。御存知のごとく、欧(236)米でも二十万という字はありながら、普通二百千といい候。200,000 サウザンド千で数えるなり、200,0000 ミリヤッド万で数えず。二百千銭すなわち二十万|文《もん》なり。
 本月十一日午後一時十分、小生旧知にて、小生の研究所へ大正十一年寄付金をくれたる石田勝三郎氏突然来訪、しかるに小生はその前夜感冒にて臥しおり失礼せり。名刺を置き去りしが紛失、下女の記臆に東京湾汽船会社鳥羽出張所詰とありし由。貴下ちょっと御一訪、右の趣き御話し、今後来らるるならまずもってハガキでも下さるるよう御話し下され置き候。      早々敬具
 
          107
 
 昭和九年三月一日早朝
   岩田準一様
                  南方熊楠
 拝啓。二十六日出御状は咋二十八日午後二時半拝受。当町も風引き多く、小生一家はまずは無事なるも、長屋にすむものことごとく打ち臥しおり候。
 御尋ねの件は、小生只今眼力弱く一々御答え申すことはならず。なにとぞ原書に付いて御調べ下されたく候。『改定史籍集覧』は左まで少なきものに無之候が只今手許になし。内藤氏がいいし、幸長男色で精疲れ死せしということは、小生その出処を知らず。この人は娼妓遊君を多く落籍させ、それがため死せしという説も、なにかにて見しことあり。その遊女の名も知れおりしことと記臆致し候。内藤氏の『十五代史』は和歌山市におき当地にはなく候。『集義外書』は当地図書館にあるも、小生往きて覧ること能わず。ただし、右三事は、『続南方随筆』一一五−一二一頁に出でおり候。背孕みのことも一二〇−一二一頁に出でおり候。そこには述べざりしも、背(237)孕み稀《まれ》にあることにて、これは胃癌のごとく、双生すべき二人の胎児の一人が小さき胎児のまま他の胎児の体中にまきこまれ、イなる大胎児が成長したるのち、ロなる小胎児がその胎内にあり、それがある機会にイなる人の体外に出ずるをみて、男子が子を生みしと驚く。もと畸形学上のことに候。
 腹上死のことは支那書にしばしば見る。台湾等ではこれをもっとも幸福なことと敬仰する由。これと反対に、『金瓶梅』には、春梅という淫婦が、ある将軍の愛妾となりて、将軍戦死したるのち、おのれより年若き青年と昼夜淫楽するうち頓死し、その青年大いに驚き腹上より下り、有り合わせた金銭を盗みにげ、隠れしところを将軍の旧臣等に見出だされ撲殺さるることあり。こんなのは例少なく候。聖徳太子のは委細を知らざれども、チベットでむかし喇嘛《ラマ》教の男聖が女聖と互いに顔をみつめながら二人とも往生し、または男のみ往生することありし。それに似たることと存じ候。
 アテガキは『若気勧進帳』にありしと存じ候。笑本どもに、自分が思う婦女(または?童を)を現在眼前にあるごとく熟想してかくのをいうごとく記したるものあるも、およそ手淫に相手を想像せずに弄するものはまずはなきはずなり(狂人は別として)。小生知るところアテガキは、小生壮時まで、東京蠣殻町の水天宮の祭日とか、また旧幕ごろの芝居場にて、自分のすぐ前に立ちたる婦女の顔をみつめながら弄すること多かりし。またおのれの想う女の像を画かせ、また写真をみつめて弄する等、必ず想像のみならず、画とか像とか本人とか、その物体あるにあててかくに限る名と存じ候。故に、仏律蔵にある、托鉢中見初めたる婦女の顔をよくよく見覚えて坊に帰り、さてその顔貌を想起精思して弄するは、アテガキにあらず。眠れる人や、隣室に化粧する女や、わずかにうつった女の顔を見ながら弄する、また死人をみて弄するのがアテガキと存じ候。
(238) 玉菊のことは小生聞きしことなし。これは例の碁の手を切れといいしを誤聞して僧の頸を刎ねし支那の語より転出せしと存じ候。
 菊の精が少年に化けたことは知らぬが、美女に化けた支那譚は見出だし置きて、写して差し上げんと捜すに見当たらず。見出だし次第申し上ぐべく候。ここまでかき了りて用事起こり中止、以下は三月二日早朝|認《したた》む。
 前述、浅野幸長、男色に精衰え死せしということ、内藤氏何によって書きしか分からず。浅野が?童《れんどう》を好みしことは、左の一文にて知れ候。
 『当代記』巻五、慶長十四年五月十八日、浅野紀伊守(紀伊国主)悉皆の用人(家政部長なり)松原内記を左内という(年十七)者指し殺す。その故は、かの左内、京都の者なりしが、紀州へ奉公望みによって下すべきの由、伝をもって松原内記方へ言い送り、内記すなわち承引し、小袖以下を遣わし招請せしめしところ、内記恋慕はなはだしくなりける間、紀州へは出ださずして私に抱え置き、懇志ならしむ。六月、丹波国普請あるべしとて、かの内記をも紀州より遣わさるべしとなり。かの左内こと、紀州内々聞き及ぼされ相見ありたく思され、たびたび内記所へ行かれけれども、深く隠す間、終に見らるることなし。このたび丹波国にて露顕あるべしと思いけるか、かの左内を二十日已前に人を付け京都へ上せける。さて跡より状をもって左内方へ申し贈りけるは、向後内記相抱え間鋪《まじく》となり。左内この状を見て大変気色、さて父母親類に隠れ紀州へただ一人下り、かの内記常の居間へ来たる。内記転寝しておりけるところを大脇指をもって三刀に殺害す。すなわちその身も相果つる。かの左内はなはだ美麗と、云々。その後左内|介法《かいほう》の伯父坊主、この儀を内々存ずるかとて、紀州より駿府奉行中|并《ならぴに》城の女房衆へ申し贈られ、叔父坊主を抑留せらる。大御所御承引なく、所司代板倉伊賀守もこのこと紀州の存分然るべからざる由申しける。京畿の者ども何もこれは紀州申さる間鋪《まじき》ことを申されけると批判しける、と、云々。このこと浅野紀州このまま打ち置きなば京都外聞然るべからずとてしきりに駿府へ訴えければ、黙止し難しとてかの叔父坊主を十一月紀州手へ相渡し籠舎せられけるとなり。(239)小生目わるきゆえこれだけ申し上げ候。
 車次という苗字、これは何とよみ候や。シャジなりや、クラツグなりや。
 
          108
 
 昭和九年三月八日午前四時〔葉書〕
 拝呈。先年申し上げ候『夢想兵衛蝴蝶譚』の好色郷に売色の類を列して、夷《えびす》は男色、云々。昨日午後三時過ぎより六時四十五分まで、京都の田中紅緑氏来談の節問いしに、これは宮川町の裏通りに夷子通り(町?)という処あり、夏禹王の社あり、今は夷子祠と心得られおる、大繁昌の由。それにちなんで、むかしの通人が宮川町を夷子と唱えしならんかとのことに候。
 次に趙宋末の西天三蔵法護等詔を奉じて訳せる、法称菩薩の『大乗集菩薩学論』五に、「復次《また》、梵行を然修して廻向《えこう》し、天女の衆中に生まれんと願い、説いて大鉢訥摩(大紅蓮なり)と名づくる地獄に堕つ。この処に岸あり、名づけて鹹河という。汎涌《はんゆう》し焼然《しようねん》して、鎔《と》けたる金《かね》の汁のごとく、身をして銷《と》け爛《ただ》れしむ。髪毛は草のごとく、肉滓は泥のごとく、聚まれる骨は石のごとく、腸は魚などとなる。この地獄において無量の時を経、復次《また》、邪欲あり。二男子の正行を毀壊すること無量の相あるをいう。かの『(正法念処)経』に説けるがごとし。かくのごとく正行を毀《やぶ》る者は、かの鹹河において、妙童稚のその中に出没するを見るや、むかしの悪業によって、極まれる愛楽《あいぎよう》を生じ、かの河に入り已《おわ》るや、すなわち憂苦の纏い逼《せま》るところとなる」。妙童稚、この字また稚児の字の一起原かと存じ候。  以上
 
          109
 
 昭和九年三月十二日午前十一時半
(240)   岩田準一様
                 南方熊楠再拝
 拝呈。今朝九時五十分、十日出貴ハガキ二通拝受。御下問の『医学天正記』か『道三一渓配剤記』のうち、いずれか一つは『改定史籍集覧』に収めありしと覚えるも、たしかならず。古医書を集めたるものあるべければ、それに就いて御捜索あらんことを望む。『大乗集菩薩学論』は法造菩薩の撰という。小生この菩薩につき知るところなし。深草の薄墨の梅のことは、『醒睡笑』を常に座右に置き毎度見しも、貴書により今回始めて気付き候。
 夷子町のことは(夷子通にあらず)、前年の貴書は失いたるも、昭和七年二月の『民俗学』四巻二号二五〇頁に、その貴書の写しを出しあるを見るに、夷子町と宮川町は別町と分かれど、夷子町は宮川町の最も近処にて、すなわち宮川町のすぐ裏通りということ貴書に見えず。小生は田中紅緑に承りて初めてこのことに気付き、宮川町の芸娼妓が今も夷子町の夷子社に肩入れ厚きより、定めてむかしも宮川町の蔭間どもがその夷子社に肩入れ厚かりしゆえ、当時の通人どもが宮川町のことを夷子〔二字傍点〕と呼び、さてこそ馬琴の小説にも夷は男色云々と書いたことと分かれり、と申し上げたるに候。小生初め、貴書に就いて宮川町の外に別に夷子町という町ありしことは分かりたるも、夷子町が?童どもと何の関係あるやを詳らかにせざりしところ、宮川町の氏神(または産土神)ともいうべき夷子社が、すぐ宮川町の裏通りたる夷子町にありしより、宮川町を夷子と呼びしと判りしと申し上げたるなり。貴書によってこの二つの町の別々なるを知りしのみ、二町の遠近も分からず、宮川町の外に蛭子町また男色肆ありやと疑いおりたるところ、田中氏の話にて蛭子町にはそんな物なかりしも、最も近所ではなく、宮川町界涯の産土神なるゆえ、宮川町を酒落《しやれ》て夷子といいしことと初めて分かりしなり。すなわち貴書はただ書籍の抜き書きに止まり、それ以上は貴下の推測のみ。田中氏のは実際よくその辺のことを見知りおっての上の言ゆえ、もっとも小生に益を与えたり。(田中氏(241)がくれたる自著の小冊子には、その夷子社の祭の写真も出しあり。)
 肥後の有動《うど》氏は、また宇土とも書く。延元四年、懐良《かねなが》親王九州に下向のとき、故名和義高(長年の長男)の嫡男顕長、一族以下三百余人を率い供奉して肥後八代庄にゆく。それより菊池氏と協力して北朝勢と戦う。顕長のち出家し、弟顕興継ぎ、それより六代め顕武に至り、相良《さがら》氏(人吉城主)と戦い勝つてのち、宇土城に移り居る。顕武の子重行早世し、顕武の弟行興嗣ぎ、宇土氏を称す。宇土また有動と書く。行興、天文二十年、豊後国主大友義鎮とよく戦いしが、終《つい》にその麾下に属す。行興の子行憲また早世し、行興の弟行直嗣ぎ、行直の嫡男顕孝相続いて宇土城守たり。天正六年、島津と和し、これに属す。同八年、顕孝、島津氏と牒し、大友氏の軍を破る。同十五年、秀吉公九州に発向し、佐々成政して宇土城を攻めしむ。顕孝終に降る。秀吉、肥後国を成政に賜い、顕孝に五百町の地を賜い成政に属せしむ。その後成政苛虐の政多かりければ一揆蜂起す。秀吉、島津氏に命じてこれを戒めしむ。顕孝は一揆に与《くみ》せざる趣きを陳述せんため上洛し、弟顕輝をして宇土を守らしむ。顕輝、終に一揆に与して籠城す。秀吉怒り肥後の将士をして顕輝を討たしめ、顕輝、薩摩の出水に遁る。島津氏これを討ち、顕輝、従兵百七十人と奮戦して自殺す。兄顕孝はその後小早川氏や福島正則方に□して終わりしようなり。初め顕輝誅せられし時、その兄弟か何かが小早川氏か何かへ呼ばれおるところで、立花宗茂に嘱して誅せられしことあり。新田善剛云々のことは、そのときのことなり。この始末を書きたるもの、小生方にありしが、只今見当たらず。出で来たらは御知らせ申し上ぐべく候。その時新田善剛の致し方はなはだ奇怪なる由の評は、湯浅元禎の『常山紀談』の凡例にあり。(凡例の終りにいわく、天正年中、肥後の有動を秀吉柳川にて殺されしとき、立花宗茂、有動が臣の供して来たれる新田善良〔傍点〕(善剛とは小生が記臆の謬りなりし)が剛の者なりとて、惜しみて告げ知らせられしに、善良そのことを有動に隠して告げ知らせず。運を啓くべき道なきを知りたればとて、わが主君の明日禍にかかるべきことを告げざるを、いかにしてその時は褒めたりしにや。こは非義の義なるべし。さればかかる類はこの書に記さず、とあり。)
(242) 右書き終わりて『陰徳太平記』巻七四を見るに、宇土と有動は別氏らし。天正十六年、佐々成政、肥後に入国し苛政はなはだしかりければ、まず隈府《わいふ》の城主隈部相模守親永、城守して対捍す。その子山鹿の郡主隈部式部大輔親安は、相模守の子ながら父と不和なりしゆえ、士大将有動大隅守兼元に軍卒三千をそえ成政に加勢して、その陣後に備えしむ。相模守より使して子を頼みければ、合戦の節裏切りすべしと父へ申し約す。しかるに、城中反覆の徒あり、相模守を襲いしゆえ、相模守切腹し、親安は山鹿城に籠る。それより久しく戦いしが、秀吉、成政を切腹せしめてのち、(喧嘩両成敗の義により)福島正則等をして肥後の騒動を静めしむ。山鹿の城は扱いになり、籠城するところの隈部親安、有動大隅守兼元、同志摩守、北里三河守四人は、安国寺恵瓊と浅野長政の扱いにて、秀吉に御礼まで小倉城まで召し上らせ、小倉城主森勝信して誅せられ、親安の父親永とその弟親房は柳河の立花宗茂に預けられ、翌年そこにて誅せらる、とあり。『常山紀談』にいえる、有動が立花に誅せられしはその時のことにて、これは有動大隅守兼元の子弟かと存ぜられ候。新田というは、むかし懐良親王九州下向のとき、北畠、名和、新田の一族、多く供奉し下れり。その新田氏の末の人にて、おちぶれて陪臣となれるかと存じ候。小生、前年、熊本県人に聞きしに、有動も宇土もウドと訓み候、といえり。しかし、この『陰徳太平記』や『野史』を読むに、どうも別氏のごとくに候。早稲田大学出板の『陰徳太平記』には有動をウトウと傍訓しあり。おのずから宇土《うど》と別なる称なり。そのころ九州の風として兄弟叔姪にても、多くは所居の村里郡囿の名により家名を立つゆえに、史籍を熟読した上ならでは判然せぬこと多し。なかなか卒急にはまいらぬこと多し。
 小生ついでに見出だせしゆえ、背孕みのこと、左に抄出御覧に入れ候。
 明の徐応秋の『玉芝堂談薈』(この書巻九に、著者崇禎八年乙亥、?に仕官せし由見ゆ。西暦一六三五年(本邦寛永十二年)なり。そののち作りし書なり)巻一一、男子孕育の条。
 「(前略)『宣和雑録』に、建炎戊申、鋲江府の民家にて、児生まれて四歳にして、暴《にわ》かに腹の脹《ふく》るる疾《やまい》を得、数月を(243)経て臍裂くるに、児あって裂けたる中より出ず。眉目口鼻ともに全《まつた》きも、ただ頭以下と手足は分明《あきらか》ならず。また白汁を出すこと斗余、三日にして子とともに死す、と。(これは前状申し上げし双生児の一児が他児の体中にまき込まれし顕著の実例らしし。)晋の時、曁陽の人任谷、野に耕し、羽衣の人を見て、就《つ》いてこれを淫す。ついに孕む。期に至ってまた至る。刀をもってその臍下を穿《うが》つに、一の蛇子を出だす。ついに宦者となる。『耳談』に、斉門の外なる臨甸《りんてん》寺に僧あり、二十余歳にして蠱疾を患《わずら》う。五年|差《い》えずして死す。荼毘《だび》に及び、火まさに熾《さか》んなるとき、たちまち爆響一声して、僧の腹|裂《さ》く。中に一の胞あり、胞破れて一人を出だす。長《たけ》一寸にして、面目肢髪|畢《ことごと》く具《そな》わらざるなく、美鬚鬱然として腹に垂る、と。また宿遷の男子張二、一男を産み、地に落ちて呱々《ここ》たり、?中の張令、親しくこれを見る、と。『漫筆』に、呉県九都の一鄙人孔方、年五十四歳なり。嘉靖二年十月のうち、晩に曠野を行くに、両次《ふたたぴ》その名を呼ぶ者あるを聞くも、ともに人を見ず。のち夜ごと睡夢の中にて、一の小児の旁らにあるを覚ゆ。かくのごとくなること数次にして、十一月の間に至り、腹内に肉塊あって、目に漸《しだい》に長大となるを覚ゆ。四年正月のうち、腹内に時に攪痛を加う。二十四日、穀道より出血して止まらず。二十六日|巳《み》の時、一の胞を産み下し、当即《ただち》に暈倒す。妻の沈氏、随つて磁瓦を将《も》つて画《さ》き開くに、一の男子の小?の内に在るあり。身の長《たけ》一尺あり、髪二寸にして、口耳目鼻ともに全し。隣婦の徐氏、看て怪異と称し、すなわち太湖の中に棄つ、と。また『宋史』に、宣和六年、青果を売る男子あり、孕んで女《むすめ》を生む。蓐母《さんば》、収むる能わず、七人を易《か》えて始めて娩《うみおと》し、しかして逃れ去る、と。『庚巳編』に、嘉定の江東に沈?なる者あり、病|革《あらた》まる時、尻の後ろより一人の長《たけ》寸ばかりなるを儻《まろ》び出だす。両目手足肢節|畢《ことごと》く具わらざるなし。のち数日にして?死す、と。謝在杭いわく、近日、男色は女よりはなはだし、これ必至の勢なり、と。(下略)」
 この末文は間違いあり。謝在杭の『五雑組』巻五に、右の「晋の時、曁陽の人」と「青菓を売る男子」のことを引きたるのち、「国朝(明朝)の周文襄、姑蘇にありし日、男子の子を生むことを報ずる者あり。公、答えずして、ただ(244)諸門子に目くばせしていわく、汝輩《なんじら》これを慎め、近来、男色は女よりはなはだし、それ必至の勢なり」とあるを、急いで抄するとて多少意味をとり違えしなり。雑纂の書には毎々原書とちがうたところがあるものに候。
 小生去年六月末より係争事にかかりおり、今に結んで解けず、はなはだ多煩なり。右のみ申し上げ候。           早々敬具
  中山太郎氏はまことに博覧なり。しかし、いろいろと他人|便《たよ》りに雑纂の書を拠ろとすること多きにつれて、原書には全くなきことをありと心得たり、また証拠不十分にしていろいろとまちがうた推測の言はなはだ多し。貴殿も人を便りにせず、なるべく自身にて摸索し発明されたく候。
 
          110
 
 昭和九年三月十七日午後六時〔葉書〕
 拝復。今朝八時四十分、十五日出状着。小生長寝してようやく只今拝読。法称菩薩が正しく候。小生の後状に法造とせしは誤りなり。この論のこの所は『正法念処経』の本文に拠り論を立てしものなり。この所のかの経の本文は、元魏婆羅門瞿曇般若流支訳『正法念処経』、すべて七十巻の大部なり。小児を強犯、僧を強犯などと、種々の犯をのす。ここには成年男子の強犯のみの条を写し出す。
 巻六に、「何を邪行となすか。男の男を行なうを謂う(行なうは為《す》るということ)。かの人、この悪業の因縁をもって、身を壊《やぷ》り命を終わり、惡処に堕ちて大地獄に合し、苦悩多き処にて大苦悩を受く。業力《ごうりき》を作り集め、地獄の中において本《もと》の男子を見《あらわ》す。熱き炎の頭髪あり、一切の身体、みなことごとく熟き炎なり。その身堅硬にして、なお金剛のごとく、来たってその身を抱く。すでに抱かれ已《おわ》れば、一切の身分、みなことごとく解散し、なお砂のひ搏《ひとにぎり》のごとし。死し已《おわ》ればまた活く。もと不善なるをもって、悪業の因の故にかの炎人において、きわめて怖畏を生じ、走り避けて(245)去り、嶮《けわ》しき岸《がけ》より堕つ。下《お》ちていまだ地に到らずして空中にあるとき、炎《ほのお》の嘴ある鳥あり、分々《ずたずた》に攫《つか》み断ちて芥子《けし》のごとくならしむ。尋いでまた還《ふたた》び合す。しかる後に地に到り、すでに地に到り已《おわ》れば、かの地にまた炎の口ある野干《やかん》あり、これを?食《くら》いて、ただ骨の在るあるのみとなる。また還《ふたた》び肉を生ず。すでに肉を生じ已《おわ》れば、閻魔は人を羅《あみ》し、取って炎の鼎に置き、またこれを煮る。かくのごとくして無量百千年歳のあいだ、これを煮、これを食らい、これを分かち、これを散ず、云々。もし人中の同業の処に生まるれば、無量の妻を失い、一妻をも得ず。究竟《くきよう》かくのごとくなれば、設《たと》いみずから妻を有《も》つも、すなわちこれを厭離し、他人の邪行を喜楽す、云々」。
 
          111
 
 昭和九年三月二十一日午前十一時出〔葉書〕
 拝啓。先日御問い合わせの菊が化けること、妖童に化けし例はまだ見出ださぬが、?女に化けたる例は、竜子猶の『情史』巻二一にあり。「菊異」と題し、大分長大ゆえ写し出す能わず。『情史』は貴地でも見らるることと存じ候。(貴下何かの篇に引かれありしと記臆し候。)戴君恩なる女人が深山で大家を見るに、門内より二美女、黄衣と白衣せる者出で来たり、酒をふるまい、三人おのおの菊の詩を吟ず。その夜、二女、君恩と交わる。別るるに及び、白衣の女は銀釵を、黄衣の女は金掩鬢をくれる。君恩、家に帰りて思慕止まず、また行きて尋ぬれども見ず。掩鬢鳳釵を視るに、みな菊の黄白弁なりしとの譚に候。
 今月□日、高野山地蔵院(怪しき尼のすむ寺なりと評あり)にすむ(現時は大津市に住む)上田晋敬という人来たれり。(九大のある教授の紹介にて)満州、蒙古等に医師また国事探偵たりしようの口ぶりなりし。この人細井岩弥氏を知れり。細井氏は現に鎌倉住とのこと。この上田氏は的屋より数里はなれたる小浜とか島浜とかいう町の生れなり、と。若きとき尾崎行正(行雄氏の父)来たり、そこの寺に住みしに給仕たりし、と。貴家はもとなぎさ家(246)といいし家ならんかとの話なりし。ちょっと怪しき人なり。 以上
 
          112
 
 昭和九年三月二十三日早朝二時〔葉書〕
 拝復。二十日出御ハガキ二通は二十二日朝八時五十分拝受。小生風邪にて臥しおり、ようやく只今拝見致し候。貴著へ何々の項を組み入るる御相談、かくのごときことは単《ひと》えに貴下御一己の判断によることにて、他人へ相談の上決せらるべきことにあらず。他人の判断に随つて自見を左右せられては、自作にはならず候。小生は平生、自分の家でも容易に自分の脳力次第成るべきことを、大枚を費やし万里の海外に航して、某国某教授の指導の下にかくかくの発表をなせりと表白して功名顔する人々を、虫けら同様の根性の人と愍笑することに御座候。
 前便、『正法念処経』よりの抄文に同趣のものを見出で候ところ、左に写し出す。
 東晋天竺三蔵法師仏陀跋陀羅訳『観仏三昧海経』(一〇巻あり、『観経』また『海経』という)巻五に、「仏、阿難に告げていわく、何を名づけて火車地獄となすか。火車地獄なるものは一々の銅?、縦広《さしわたし》まさに四十|由旬《ゆじゆん》に等しく、中に満たして盛んなる火あり。下に十二の輪あり、上に九十四の火輪あり。おのずから衆生あり、仏の弟子、および梵天九十六種に事《つか》うる出家の徒衆および在家者たるものにして、誑惑《まどわ》して命を邪《よこしま》にし、諂曲《へつら》いて悪を作《な》すあり。かくのごとき罪人は命の終わらんとする時、風大《ふうだい》まず動き、身冷たきこと氷のごとし。すなわちこの念《おもい》を作《な》す、何の時か、まさに大猛|火聚《かじゆう》を得て、中に入って坐する者永く冷病を除かん、と。この念を作《な》し已《おわ》れば、獄卒の羅刹《らせつ》、化して火車と作《な》り、金蓮華のごとし。獄卒、上にあって、童男の像のごとく、手に白払《ほつす》を執《と》り、鼓舞して至る。罪人、見|已《おわ》って心に愛著を生ず。かくのごとき金華の光色|顕赫《かがや》き、われを照らして熱からしむれば、必ず寒冷を除かん、もし上に坐するを得れば、快さ言うべからざらん。この語を作《な》し已《おわ》って、気絶え命終わる。火車の上に載すれば、支節火に燃《も》え、(247)火聚の中に堕ちて、身体|焦《こ》げ散ず。獄卒、活《い》きよと唱《とな》うれば、声に応じてまた活《い》く。火車、身を轢《ひ》くこと、すべて十八|返《へん》にて、身砕けて塵のごとし。天、沸きたつ銅《あかがね》を雨ふらし、あまねく身体に灑《そそ》げば、すなわち還《ふたた》び活く。かくのごとく往き返りして、上れば湯の際《ふち》に至り、下れば?《かま》の中に堕つ。火車の轢くところ、一日一夜にして、九十億たび死し、九十億たび生く。この人、罪|畢《おわ》れば、貧窮の家に生まれ、人の使うところとなり、緊《きび》しく他に属して自在なることを得ず。(下略)」
 
          113
 
 昭和九年四月十三日夕六時出〔葉書〕
 拝復。十二日出御ハガキ、今十三日午後四時二十分拝受。小生只今感冒を追い込み不快中なり。
 明人(?)の『今古奇観』巻二の第一四回に、宋金というもの、妻の父母に見はなされ、舟より上りて柴を集むるうちに、妻の乗りし船ににげ去らる。大いに当惑してさまよいありくうちに、林中に群盗が財宝を隠しあるを見付け、舟を傭い積みて南京に之《ゆ》き、その財宝(七つの内一箱)を売り数千金を得、「ついに儀鳳門の内にあって、一所《いつけん》の大なる宅《やしき》を買い、些《いささ》かの器物を置き、奴僕を畜養《やしな》う。また、その六箱を些か変売《かねにか》うるも、数万金を下らず。門前に典舗《しちや》を開き、また田庄《じしょ》数ヵ処を買い、家僮と管事の人|群《むれ》をなす。また美童四人を畜《やしな》い、跟《つ》き随えて使喚《つか》う。満京城《みやこじゆう》すべて他《かれ》を銭員外と称す」。また、宋金、妻を求めて、妻としたき女の船を訪うところに、「しかる後、自己は錦衣と貂帽をつけ、両個《ふたり》の美童、跟《したが》いて船に上る」とあり。何でもなきことなれど、徳川氏の中葉ごろ、身代よき商人などが美童を随えてありき、誇りとせし風によく似おり候。         以上
 
(248)          114
 
 昭和九年五月二十五日早朝〔葉書〕
 拝呈。四月十七日に貴ハガキ一つ拝受。小生当時ことのほか俗用多く、今日まで御受け延引、悪しからず御了知下されたく願い上げ奉り候。
 次の一条は、これまで貴著中に見えざりしよう覚え候付き、ちょっと御知らせ申し上げ候。
 『看聞御記』、「応永二十八年四月十日、雨降る。御香宮の猿楽、雨はなはだしきによって明日に延引す。楽頭の矢田、梅岩を雇い、云々。この梅若は、仙洞御寵愛の間、暇申して罷り下る、云々。同二十九年正月二十六日、晴。長資朝臣帰参し、世事を語る。経興卿、この間、公武にて突鼻《とつぴ》あり、籠居せしめらる。濫傷(濫傷は濫觴すなわち事の起りということなり、誤字と見ゆ)は児賞翫のことなり、云々。応永三十年七月十九日、云々。そもそも今日仙洞にて舞あり、御覧なされ、堂上の所作人は老者を除かる、云々。若衆の御点なり。ただし、所望の人々、大略《おおよそ》参る、云々」。若衆とは老者に対し、若者《わかもの》ということか。
 
          115
 
 昭和九年五月二十七日夜七時出〔葉書〕
 拝復。二十五日出御状、今朝八時半着。小生大朝寝を致し只今ようやく拝見。御申し越しの本は只今小生標品を取り出しあり、山のごとく盛りたる下の箱に入れあることと存じ候えども、なかなか早急に動かすことがならず。また目悪きゆえ写すこともならず。人をして写さしめんことも面白からず。よって当分は不可能のことと御了解成し下されたし。右申し上げ候。          早々敬具
 
(249)          116
 
 昭和九年六月二日早朝〔葉書〕
 『続群書類従』第七〇一巻『女房進退』に、一びくに、またおとこかっしき、女房かっしきなども、こしの通りに、少ししもをつまみて、ぬい上げをしてめすなり、これが賞翫の心なり(下略)。男喝食は分かりおるが、女房喝食とは珍しく、ちょっと申し上げ置き候。  早々敬具
 
          117
 
 昭和九年六月四日早朝〔葉書〕
 拝復。一日出御ハガキは咋三日朝九時十分拝受。闕文の補写は、なにさま標本をおびただしく取り出だし積みたる底にあることゆえ、ちょっと手軽く近日中には成らず候。蔵の二階にありて、小生近来両脚ことのほかわるきゆえ、事によると階子より落ちて死なねばならず。さて只今、宝永三年楢林長教撰『室町殿物語』より見出だせし一条あり。忘れぬうちに御通知申し上げ置き候は、巻一〇、天狗変じ来たることの条に、芸州西条の和尚は大悟大徹の長老にて、世の人尊み奉ること類いなし。ある時和尚仏前に坐禅をして坐しあるところへ、年の程十六、七にみえける、いかにも美目よき小僧いずこともなく来たりて、東堂の前に畏まりおりけり。禅師御覧じて、小僧はいかなる人にていずこより来たれるぞ、怪しさよ、と仰せければ、小僧のいわく、この辺に罷り在る若僧にて候、云々、とあり。この文によれば、若僧とは小僧のことらしく候。              以上
 
(250)   昭和十年
                                                  118
 
 昭和十年七月十三日午後三時半〔葉書〕
 拝復。十一日出御ハガキ、今朝八時四十分拝受。小生は長々病気にて足立たぬ上に、指の骨痛みはなはだしきあり。故に、なるべく執筆を見合わすよう医者に禁ぜられおり、やや長文を認《したた》むるとたちまち指骨が痛み出すところへ、やや久しく健康なりし妻が、また一昨日より臥しおり、明日より二日間大掃除なれども、妻が病臥中ゆえ如何やと案じおり候。(小生は指痛ゆえ何も成らず。)
 寛延三年作『万世百物語』二巻五章、叡山の禅学院の僧が一眼一足の怪を見るところに、十五、六にも見ゆる喝食の、云々、とあり。前年御示しの『男色木芽漬』六巻の一章に、児とある方正しきように思わる。しかし、『万世百物語』に、禅学院の来歴を説くこと所拠ありげなる上、すでに禅学院というからには、その院に限り児でなくて喝食であったことと察す。高野山の一乗院は法華、熊谷寺などは念仏寺なり。そのごとく叡山にも禅を修むる寺院があったと察し候。ここに喝食と言って児といわぬは正しきことと存じ候。別になにかに児と喝食を混一したる誤謬のものありや、あらば御知らせ下されたく候。
 昨年十一月の『ドルメン』(「摩羅考」)、今年一月の同誌(「蓮の花開く音を聴くこと」)は御覧下されたりや。別刊本十五、六本もらいしが手許に一つものこらず、差し上ぐること成らず候。
 
(251)          119
 
 昭和十年七月十七日午後二時〔葉書〕
 拝啓。本日拙宅大勢にて大掃除、小生はみずから働かねども、やはり見張りを要するゆえ、ハガキのみ差し上げる。ハウハンは捧飯? 貴兄如何、小生にはよく分からず。根若はコンニャク(蒟蒻)なるべし。梁武帝が禁断した肉の代りに用いたほどゆえ、昔はよほどの珍味としたことと存じ候。(只今当地方には蒟蒻の吸物ということを聞かず。)
 柳田氏が喝食文学などということ、いかにも貴見通り物知り顔の一痴半解と存じ候。(小生はただ一眼一足の場合に限り、柳氏が二者を混ぜることと心得おりたり。しかし、貴書のごとくんば、全くいつでも二者を混同しおると見え侯。)次回に小生同氏の『一目小僧その他』の批評を出すとき、貴説として、この不当の語を尤《とが》めやらんと存じ候が、貴名を明記して宜しきや。人の文通を公けにするには、その本人の許可を得置くのが肝心なれば、ちょっと伺い上げ奉り候。もし御不同意なら、遠慮なくちょっと御申し越し下されたく、誰と名をいわずに、こんな文通もあるということを出し申すべく候。『片言』に「聖道にてほ児といい禅林にては喝食」と言を弄したるを見るに、元禄ごろすでにこれを混ぜる人多かりしにや。しかし、禅宗寺が立ったより前の僧の侍童をことごとく児といわばまだ聞こえるが、ことごとく喝食というては、真間の手古奈や檜垣の姫、静御前から亀菊、近江のかね、仏、千寿までを、一斉合斉《いつさいがつさい》「おいらん」文学というようで、はなはだ小生意気《こなまいき》な驕りぶりの恥さらしなるべし。      早々以上
  『ドルメン』は板本《はんもと》より送り上げしむべし。
 
          120
 
 昭和十年十一月十二日早朝〔葉書〕
(252) 拝復。九日出御葉書、咋十一日朝九時拝見。小生は近来脚はなはだ惡く、また眼力乏しくなり、はなはだ困りおり候。それゆえ読書すること少なく、何も学問は進まず茫然と致しおり候。昨日たまたま旧き自分の日記を見るに、次のことあり、いささか珍しきようゆえ申し上げ候。
 『甲陽軍鑑』第一八品に、「今井市郎、こはそのころ信玄公御座を直《なお》したる人にて、その年二十歳、晴信公に二つ年増しなり。飯富兵部|小舅《こじゆうと》にて、信虎公追出の御談合、この今井市郎分別よきゆえ、少しも大事なし。ただし、韮崎合戦四度めに討死なり」とあり。おのれより二歳上のものを寵せしは如何《いかが》なれども、これは中里介山の『大菩薩峠』に福松という旅芸妓がおのれより年下の宇津木兵馬を仕込んでやろうというごとく、男道と武道と一途なりし世には、年少のものを取り飼うて仕上げやるという意味なりしことと存じ候。(ギリシアに古く哲学者にしてこんな行いのもの少なからざりし由、エルシュおよびダリューベルの『百科全書』、外色の条に見え候。)        以上
 
          121
 
 昭和十年十二月四日早朝
   岩田準一様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。小生近ごろ脚わるく、眼も毎度宜しからず。また寒きときは指が?疽《ひようそ》ではなはだ病むゆえ、大いに御無沙汰致しおり候。
 さて、このたび旧稿を出板するに付き、何とぞ左の件御教示下されたく、願い上げ奉り候。かつて一度伺い上げしことと存じ候が、たしかな記臆なきに付き重ねて明教を仰ぐに候。
 (1)『南方随筆』二五−二六頁。伊勢国(志摩国)磯部大明神(伊雑宮)は、今も船夫漁師に重く崇めらる。(253)(以下、明治三十四−三十七年の間、勝浦港等へ来泊せし諸国の船人より聞く。)鮫を使者とし、厚く信ずる者、海に溺れんとする時、鮫来たり負うて陸に達す、という。参詣の徒、神木の樟の皮を申し受け所持し、鮫、船を襲う時これを投ずれば、たちまち去るとぞ。タヒチ島の例と均しく、神使の鮫は、長さ四、五間、頭細長く、体に斑紋あり。エビスと名づくる種に限る。毎年祭礼の日、この鮫五、七頭、社に近き海浜に游《およ》ぎ来たる。もし前年中人を害せし鮫ある時はこれを陸に追い上げ、数時間これを苦しめて罰す。この鮫海上に現わるる時、漁夫これを祭り祝う。「エビス付キ」と名づく。毎日一定の海路を游ぎ来たるに、無数の堅魚《かつお》これに随行するを捕え、利を得ること莫大なり。信心厚き漁夫の船下に潜み游ぐ。信薄き輩の船来たればたちまち去る。これに漁を祈る者、五日、七日と日数を限りて漁獲を求む。日限おわるまで漁しつづくる時は破船す。その船底を見るに、煎餅のごとく薄く削り成せり。これこの鮫の背の麁皮《そひ》をもって磨《こす》り去れるなり、と。古老の漁人の話に、海浜に夷子の祠多きは実にこのエビス鮫を斎き祀れるなり、と。
 ここに記せることどもの幾分なりとも、今日貴地辺にていい伝うることに候や。また全然そんな言い伝えはなきことに候や。
 (2)貴地にて鯨またシャチホコをエビスということありや。当地辺には、右にいえるごとく、鮫(サメまたフカ)をエビスということあり。またマンボウ、※[図有り]こんな魚をもエビスという。とあり。鯨やシャチホコを然《しか》いうことなし。
 (3)志摩国には、むかし鯨をとりしことありや。また今も鯨が見ゆることありや。
 右御教示を乞う。
 小生、前日、大和田建樹氏の『謡曲通解』を見しに、喝食とは幼女の仏道に志して有髪ながら尼に仕え仏道を学ぶものなり、というようなことで、幼男たることを少しもいいおらざりし。よってそんな解釈を他にせし人ありやと、(254)『広文庫』を見しも、幼女を喝食といいし例少しも見えず。(ただし、『看聞御記』などには幼女の喝食も見えたりと記臆す)。大和田氏の説には何か根拠のあることと思う。
 『金瓶梅』に、西門慶が一物になまこの輪《わ》様の鍔ごときものをはめて金蓮の後庭を犯し、出血するを見て大いに悦ぶところあり。このこと、どうも合点ゆかず。本邦には無例のことと存じ候。
 只今その書(二つとも)この室内にあるが、脚不自由にて高き棚よりとりおろすこと成らず。
 小生の「摩羅考」と「蓮の花開く音を聴くこと」の二文の別刊は、いろいろさがしてようやく所持者をつきとめたり。手入れた上多く書き入れして送り上ぐべし。指が痛きゆえ早急にはできず候。      早々謹言
 
          122
 
 昭和十年十二月六日午後四時〔葉書〕
 拝復。五日出御ハガキ只今拝受。千万|難有《ありがた》く御礼申し述べ候。
 柳田氏は、漁師のいわゆるエビスは鯨に限るよう説かれ候も(主として実地に臨まざる都会人の聞き書き、漫筆等により)、この地方では鯨をエビスということなし。土佐でもいわず。いずれも鮫にエビスザメあり、それに磯魚が随い游ぐと申す。かの人の癖として、事面倒なるゆえだまっておれば、閉口敗北降参したるようにいいちらし書きちらす。よって今度多くの引用証拠を出して徹底的に打ちのめしてやらんと欲す。貴説を一々引証し得ば幸甚に付き、いかなる短句にも引くごとに岩田氏いわくと明記して断りおくべければ、何とぞできるだけ多く貴文を御示し下されたく候。以前とかわり、今日はこの辺の漁師等、仙台とか南洋とかへ航すれど、志摩などへは行く者はなはだ稀《まれ》なれば、伊雑宮の鮫のことなどは誰一人知ったものなし。      早々敬具
 
(255)          123
 
 昭和十年十二月二十九日夜九時半〔葉書〕
 拝復。二十八日出御葉書、今日午後三時半拝受。前日差し上げたる「蓮の花開く音を聴くこと」の別刷本は、伏字を?めて差し上げたはずのところ、昨夜残冊を閲して、その節誤って伏字を?めぬ本を差し上げたと別《わか》り候。よって只今さらに伏字を?めおり、成竣ののちその本を差し上ぐべきに付き、前日差し上げた分は、このハガキ御覧後直ちに御返戻願い上げ奉り候。きわめて手に入れ難きものとなりおるゆえ、右様願い上げ奉り候。前日拝受せし磯部宮の鮫のことは大いに間に合い候が、今日となってはもはや鮫のことも一向何たる口碑が貴地に行なわれおらざる様子に承り、大いに失望致し候。        早々敬具
 
(256)   昭和十一年
 
          124
 
 昭和十一年一月五日夜十時〔葉書〕
 拝啓。「蓮の花」の別刊本、伏字書き  填めた上、只今このハガキと倶に御送り申し上げ候。時刻遅きに付き、書留にせず、そのまま送り上げ候間、安着の上ちょっとハガキにて御知らせ下されたく願い上げ奉り候。 早々敬具
 
          125
 
 昭和十一年一月十二日午前三時半
   岩田準一様
                    南方熊楠再拝
 拝啓。一月七日出御状は八日午後三時二十五分到着。難有《ありがた》く拝見致し候。小生近来不健康にて身支意に任せず。只今少しく快方ゆえ、御問い合わせの状、下に御返事申し上げ候。
 安和年中、仲算已講が良源僧正と法論のことは、『古事談』か何かにありしと覚え候も、いわゆるうろおぼえにてたしかならず。近いものには、『しりうごと』(『百家説林』明治二十四年板、巻五)に出でおり候。
 『南方随筆』は大部のものにて、只今まで書き集めたるもの千四百五十一条あり。その一条の内には単行本として然(257)るべき長さのもの多し。出板を望む人多きも、浄写に時を要するから、到底みな出すことは不可望に候。十二禽の話は、大正年間、その年に応じたる禽のことかき候。寅より亥までほぼ備わりあり、子丑のみ欠けたり。また未の年の分不完全なり。かく欠けたる部分ありながら、中村古峡氏に五百円で原稿を売れり。しかるに、中村氏そののち精神病院を品川御殿山に建つること蹉跌し、延《ひ》いてこの篇の出板が今に後れおり候。子丑未の分を完成せば、中村氏より板権を買い取り出板したき人があるなれども、小生、近年身体衰え、右の不足分を補うこと能わず、そのまま未出板に相成りおり候。とにかく板権は中村氏に売ったことゆえ、今さら小生が何とも致すことならず。『南方筆叢』に入るべからざるものに候。
 琉球人の男色の状文は、故末吉安恭(純粋の沖繩人)氏が写して送られたるものにて、今も倉の二階にあり。しかるに、小生脚悪く倉の二階に上ること能わず。上ったところがちょっと分からず。故に何とも致し難く候。かつ近来?疽にてことのほか指の骨が痛むから筆写はできず候。小生も今年は七十歳に相成り、筆写はさておき、この状など認むるにもなかなか骨が折れ申し候。
 元禄十四年出板、自笑の『傾城色三味線』鄙《ひな》の巻第四章、「今時の若うど、何ぞ変わったことにあらでは面白からず。歌舞伎狂言にも、昔よりありふれた継母事も、手を拍つほどに変わらねばよいとはいわず。まして鍔屋《つばや》衆道、女乱れ髪などいう古めかしいこと、辻打ちの放下師《ほうかし》が話にもせざりき」とあり。この鍔屋衆道ということ何のこととも分からず。ちょうど吾輩若いとき盛んに唄いし、「本町二丁目の糸屋の娘」などいうことを今の青年に聞かせたところが一向面白がらぬごとく、元禄十四年ごろ全く面白がられざりし鍔屋衆道という狂言か何かありしことと察し候。
 昨年十二月二十八日の『大阪毎日』紙の和歌山版に、小生と水原堯栄師の写真を掲げ、「山の聖人と海の学者、新春紀南で会わる」と題し、左の文を載せたり。
  道心堅固で学徳に勝れ、高野山の至宝とされている親王院の水原堯栄師は、金剛峰寺執行を罷めてから再び古書(258)いじりの生活に還り、過般来名刹宝寿院の書庫を探って学山高野の昔を偲び、現在の高野山教学の振るわざるを痛く嘆いているが、同師は近くかねて畏敬する田辺の南方熊楠翁に見参して、高野山の古学につき翁の教を乞い、心ゆくまで語り合うことになった。
  この両者の引き合わせ役は、今回高野山に出家帰復を伝えられて居る毛利県議で、水原師の南方翁訪問はたぶん来春一月になる模様であるが、同師はこの機会に、高野山古来の法楽論議やお経や声明の音韻の学である四声、邪教立川流、真言宗の秘密観念などについて、積年の研究を披瀝し翁にただして見たいと言って居る。
  これらの諸問題に通じた学者は現在の高野山にはほとんど皆無だが、南方翁の高野山に関する研究は常人の企て及ばざるものがあると言われる。ことに水原師が質したいというこれらの問題は多く秘事に属し、中にはエロ味やグロ味豊かなものもあり、定めし翁の独擅場ではないかと想像されるので、春浅き紀南の海辺に行なわれる、海の学仙南方翁と山の聖人水原師のこの会談は非常な興味を持たれて居る。
 小生は一向関せぬことながら、新聞記者が仮空で書いたものとも思われず。もし水原師が来たら、後日貴下が登山して調べたいことがあらば、十分斡旋しくるるよう頼みおき申すべく候。
 まずは右御返事まで申し上げ候。            敬具
 
          126
 
 昭和十一年四月二十七日早朝出〔葉書〕
 拝啓。その後大いに御無沙汰致し候。先年の御状に、小田原の外郎《ういろう》売は美少年なりしというは確説にあらずということありしよう覚え候。しかるところ、今月二十一日夜、宝暦元年板、長谷川光信筆『絵本|家賀御伽《かがみとぎ》』を見しに、相州小田原外郎店の図あり。主人も番頭も見えず、店員とてはただ振袖著たる少年二人袴をつけ、客に応待する態にて、(259)その一人に対し老僧が見とれおる様子なり。それより考うるに、小田原の外郎店ももっぱら美童を使い薬を売らしめたることならん
  右の書は、大正三年神田区駿河台袋町日本風俗図絵刊行会発行『日本風俗図絵』第七輯に収めあり。
 
          127
 
 昭和十一年六月十八日朝九時半〔葉書〕
 拝啓。六月一日の御葉書は三日午後三時二十分、十六日出御状は本日午前八時二十五分忝なく拝受。しかるに、小生今年二月中旬に、ただ三本よりありし下の歯をことごとく抜き去らせ、惣入れ歯を作らせたところ、一本も取りかかるべき歯なきより、惣入れ歯が移動して安定せず、毎度修補に往くも方付かず、昼夜痛むこと息《やす》みなく、それより身心|不聢《ふたし》かになり毎度臥しおり。かつ今年はや七十歳と相成り、多年の疲れ一時に出でしと見え、不断不健康にて筆を操ること良きに渉り得ず困りおり、ために長き状を差し上ぐるを得ず。幸い今少し快気に及び候わば、委細申し上ぐべく候。『方丈記』の訳は『亜細亜協会雑誌』に出だせしは南方およびジキンスと題しありしを、小生帰朝後グラスゴウ市にて再板の節、ジキンス一人の名で出だせしに候。その再板は『万国名著文庫』の一冊、至極の安値本なりしため(汽車の内で読むように)もはや遠き昔に絶板となりおり候。この他オクスフォード大学よりジキンスが出だせし『日本古文』二冊は、小生が訂正せしものなり。そのときのジキンスの稿本に小生訂正を加えし内数葉は佐佐木信綱博士がもちおり候。
 
          128
 
 昭和十一年十月四日早朝出〔葉書〕
 
(260) 拝啓。小生近ごろ少々快方にて、今月の『旅と伝説』七九−八五頁に、「婦人の腹中の瘡を治した話」を出し候。その内八四頁に「西洋でも遠き昔は、医術の手段不備なりしより、今から思えば丸啌《まるうそ》のような変な方法を執ったもので、ギリシアの古方に、慢性痢病を痊すに、患者の非路を犯し乾かすのがあった(一八四五年ハレ板、ロセンバウム『黴毒史』二一五頁)。本邦にも、南風を脚気の薬と言い伝えたこと、元禄七年板、石川流舟の『正直咄大鑑』黒の巻五に出で、『末摘花』四に、『脚気のくすりにと玄恵おひ廻し』とある。これらの療法、果たして百中したか否かを知らねど、久しい間、種々と試みたものゆえ、中には争われない発見発明もあっただろう」。この外色を脚気の薬ということいかなることか、右二書の外にも御見当たりありや、伺い上げ奉り候。             敬具
 
          129
 
 昭和十一年十月七日夜十時前
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
 拝復。六日出御状、今日午後三時半忝なく拝受。「夷は男色」という語の貴解はなはだ面白し。支那にも、戦国時代すでに美男は老を破るという諺あり。なにかわけのあったことと存じ候。ただし、貴書に俗信と医説を分かたれたれど、古えは俗信と医説は一にして二ならず、同じものに御座候。しかして川柳に、「脚気のくすりにと玄恵追ひまはし」。すでに追いまわすことができるぐらいなら、足なえにはあるべからず。小生はどうも男色の受け手の腸内がことのほか熱く、それが足なえを温めるなどいうことより薬になると信ぜられたことと存じ候。
 古ギリシアのヒッポクラテスの書に、慢性痢病を療するに、患者の肛門を犯してこれを乾かすということあり。委細の方法は伝わらねども、これも腸内を摩擦して発熱せしめ、それを乾かして痢を止めしことと存じ候。
(261) 只今足悪くして高き棚より取り下ろし得ぬが、徳川中葉の小説に、若き息子の鬱症を予防せんとて幇間ごとき者をして女郎買いを勧めしめしに、その息子これを好まず、男色ならば用いんという。よって店の小僧と臥さしめんとせしに、地若衆の肛門には毒あり、売り若衆に如《し》かず、というところあり。また『弘法大師一巻之書』という物などにも、毒穴、葉穴ということあり。これらより推すに、どうも男色を補益の法の一つとして養生術に用いしことがあったように察し候。
 高野へは御上りなかりしことに候や。小生異父異母の姉(小生の父は南方家へ養嗣に入りしなり。そのとき妻たりし家付きの娘には前夫あり、死亡、前夫との間にできたる女子一人、男子一人ありし。さて家付きの娘は件の二人の前夫との子をのこして死亡、拙父途方にくれ小生等の生母を後添いに迎え、小生等八人ばかり生めり。父の前妻の男子もまもなく死亡、南方の家の血は絶えたり。女子はなにか後妻すなわち小生等の生母に不快にて、泉州へ脱走し、博徒の食客となる。その女は非常な美人なりしゆえ、妾生活でもせしならん。それが拙父大儲けして明治五年小生六歳のとき、博徒に使嗾され小生の父母の宅へゆすりに来たり、博徒は捕縛せられ、その女は久離をきられたり。その後のことは誰も知らず。小生のみ知るも、六歳のときのことゆえ、ただその光景を幻のごとく覚ゆるのみ、一切事情を知らず。しかるに、近ごろ小生老衰して六十四年前のことをおりおり追懐すると見え、毎夜この書斎へ件の姉が現わるる。そのうち金ができたら、その姉通りの女を招き真言の法を修し、水原堯栄氏を請いて戒名をつけ貫わんと存じおり候。その節頼みおくゆえ、その後貴下登山されたく候。
 高野山に福島正則が作りし六時の鐘という名鐘あり。鳴らせば山中にひびき渡る。その鐘を預かりおる穴半《けつはん》という男あり。今は六十四、五歳なるべし。当田辺町の桶屋の子にて、天資女子そのままなりしより、所におるをものうく思い、高野に上り、久しく小姓生活をなし、金を蓄え(右の鐘の番預かりもよき俸給をとる)、利殖してなかなかの金持なり。大正九年、小生登山せしとき、ちょっと面会せり。貴下登山せばこの男に近付きになり、漸をもって聞き(262)正さば、なかなかにこの人亡後は再び聞き得ぬことどもを聞き得べしと存じ候。
 小生知人に幼時この者と心易かりし画工あるゆえ、紹介状ごときものを作りもらい進呈しおくべし。このこと前日申し上げんと思いしが、小生病中にて気付かずに打ち過ぎおり候。     早々敬具
 
          130
 
 昭和十一年十月十三日午後一時前
   岩田準一様                                         南方熊楠再拝
 拝啓。去る九日出御葉書は十日午後四時五分拝受、御礼申し上げ候。
 前筆、『後言《しりうごと》』より概要を申し上げたる、仲算の論議のこと、出処を心がけ捜したるも見出でず。しかるに、頃日ふと『史籍集覧』所収『碧山日録』巻二を見しに、ふとこのこと見当たり候まま、左に写して御覧に入れ候。
 「長禄四年八月二日丙午、客あり、いう。往昔、応和年中に、清涼殿に就いて、天台|法相《ほつそう》の碩師を召され、法華講を啓《ひら》き、かつ宗義を抗論す。この時、法蔵、南京より来たり、五性各別の義を顕わして、成仏せざる者ありと説く。叡峰の良源、その対者となって、いわく、草木の無情なるもみな成仏す、いわんや有情においてをや。故に『法華』にいわく、もし法を聞く者あれば、一として成仏せざるなし、と。また『円覚』、『涅槃』等の経を按ずるにいわく、地獄も天宮もみな浄土たり、有性も無性も斉《ひと》しく仏道を成《じよう》ず、一切衆生ことごとく仏性あり、と。これみな一性に成仏す、豈《あ》に成ぜざる者あらんや、と。法蔵、その理に泥《たず》みて言わず。時に南京に松室の仲算あり、享年十有八にして、聡頴絶倫、もっとも論議に長ず。すなわち来たつて、蔵に代わってこれに答えていわく。汝の解するところ、おそらくそれ謬りならん。『法華』に、それ、これなくんばこれなき者は成仏せずというは、これまさしく定性を指せるな(263)り。また『円覚』に地獄も天堂もみな浄土たりというは、有性も無性もともにこれ仏道を成ずるあるなり。また『涅槃』に一切の衆生ことごとく仏性あるを得というは、すなわち成仏すべしとなり。汝、ただこれを和点に失せるのみ、理として豈《あ》に然らんや、と。ここにおいて、源、すなわち仏容を現じて光を放つ。君心、感泣して、希有と嘆ず。算、これを見て微笑し、すなわち遍計所執空為門《へんげしよしゆうくういもん》の文を誦し、扇子を挙げてこれを扇《あお》ぐに、その光、手に随つて滅す。算、磬《けい》を鳴らして起《た》つ。一会《いちえ》、善なりと称《たた》う。会|畢《おわ》るや、帝、その優劣を三論の英某に問う。某いわく、おのおの一義に拠って並びに相違せず、と。帝、判語の偏ならざるを悦ぶ。しかして、これより八講の宗論あれば、すなわち南京の徒は先に磬を打って、これを始め、これを終る。算の一たび勝を得しがためなり。「初め算、法蔵の服せしを聆《き》き、憤を抱いて北京に赴く。木津河に至り、舟なし。算、木履を着けてその波を蹈《ふ》むこと、陸行する者のごとし。岸上に一翁あり、鬚眉|皓然《こうぜん》として、はなはだ異貌あり、算に教えていわく、台宗の揚ぐるところは、この三経に拠って、ただ草木の成仏を立つるなり、公この点をもってこれを詰《せ》むべし、と。言い訖《おわ》って見えず。のちに春日の神の化形なりと知る。算、禁中の論場より、直ちに熊野の那智山に赴き、瀑壺《たきつぼ》に入り(わが俗、飛泉の落ち深き窪みとなれるをもつてこれとなす)、その跡を蔵《かく》す。後来、春日管内の地に生まるる者は熊野に詣でず、算の瀑淵に入りしを忌むなり、と。日録にいわく、旧史を案ずるにいわく、算、熊野山那智滝の下において、『般若心経』を講じて、たちまち千手千眼の像を現じ、講し已《おわ》つて岩上に昇り、これより見えず、と。あるいはいわく、慈恩寺山に入って、のち出でず、ただ草鞋を遺《のこ》せるのみ、と。余の意にいわく、岩に昇ると山に上ると淵に入るの異ありといえども、ただ、その終うるところを見たる者あるなきなり。果位《かい》の中より来たりし聖人は、その化もって測るべからざるのみ」。 以上
 
(264)          131
 
 昭和十一年十月十六日午後八時〔葉書〕
 拝啓。十五日出ハガキ、今日午後三時拝見。前状供覧せし『碧山日録』は『改定史籍集覧』第二五冊(明治三十五年発行)に収めあり。『続史籍集覧』のは同書ながら別冊すなわち『改定史籍集覧』に出でたる諸巻の後の巻どもを収めたるに候。年次が別に候。
 玄恵のことは、大抵享保以前は史学をするもの支那の歴史伝記のみを探り本邦のことを度外におきしより、往々仏僧などが日本の史伝をしらべても史実に忠実ならず。それにまた曲学の浪人講釈師などが加わり、出放題のことをのべちらしたるゆえ、無根の虚言多し。井沢長秀の『俗説弁』に弁じたる偽史虚伝は、みなそのころの作り物なり。
 『吉野拾遺』から『前太平記』、その最たるものなり。就中《なかんずく》、南北朝のころのことにかかる作りごと多し。いずれも『太平記』を読みて、その跡始末を付けたく思うあまり作り出でしなり。新待賢門院忠良を多く亡ぼせしが、後に後醍醐帝に追放され、尊氏方に寄り高師直と通ぜしとか、楠正行の遺腹子が池田勝入の先祖だなど、作りごとなり。玄恵も『太平記』時代の人なれば、資朝俊基の無礼講に雑りしことなどあるより、他の人々は美女と戯れた間に美童を追ったくらいのことを、そのころの小説に作りありしことかと存じ候。近松門左以前の院本などにあることと察し候。     早々以上
 
          132
 
 昭和十一年十月二十二日午後三時〔葉書〕
 拝復。十月十八日出貴書ハガキ一、二十一日午後三時四十分拝受。御下問の件、『近世文芸叢書』巻一〇『麓の色』(265)(明和五年板)巻五、男色の条に、脇屋義助の子義治、天下無双の美童、山門の衆徒を始め皆人恋慕せる中にも、妙法院の門主特に心を悩まされ、越後下向の時はなはだ名残を惜しみたまい、また越前杣山の城主瓜生保が弟義鑑房深く執心して忠節を竭せしこと、『太平記』の評に〔六字傍点〕みえぬれば、云々。また日野資朝の子阿新丸、美色あり、後醍醐天皇寵幸したまうと言えり。あるいはいわく、尊氏公、松帆丸に重宝の刀を与えしとなん、云々。これは『太平記』に魔王が尊氏の寵童に托して宝刀を買い受けたりとあるによる。松帆丸にあらず。義治美童なりしこと、一向『太平記』に見えず。しかるに、西鶴の『大鑑』の発端にこのことをいえり。業平大門の中将と云々のこともあり。これらは西鶴の創造ならん。『太平記』の評とは寛永・寛文の際、素人《しろうと》地若衆の道盛行せしとき、『太平記評判』というもの諸種出でたり。浪人輩が活計のため作りしもので法螺だらけなり。小生は一つも見たことなし。(多くは危険な人物の作なりしゆえ絶板なり。)その諸種の『太平記評判』を見たら、仮作の男色物語多くもしあるなら、玄恵のこともその中にあることと察し候。日野阿新丸のことなど、その輩が言い出したことと存じ候。(『太平記』にそんなこと少しもなし。)『続々古事談』という物にある奥州二階堂氏の祖が後醍醐帝の寵童たりし件などもこの輩が作り出だせしことと察し候。                          敬具
 
          133
 
 昭和十一年十月二十七日早朝〔葉書〕
 拝復。二十四日の御ハガキ、咋二十六日朝九時拝受。御下問の五明は、『塵添?嚢抄』八の四九条に、扇を五明というは何ごとぞ、五明はただこれ扇の異名なり、云々、舜の御門の造り給えるは五明扇という、その形日本の扇に似たり、と。「後人、これを呼んで旋風扇という、云々」。『下学集』巻下にも、「五明。舜帝、五明扇を造る。その形、日本の扇子のごとく、後人これを呼んで旋風扇というなり」。崔豹の『古今注』に、「舜、視聴を広くして、賢人を求(266)め、もってみずから輔《たす》け、五明扇を作る」。
 雲門は茶のこと、楊花は酒のことかとも存じ候えども記臆たしかならず。『下学集』下に、「雲脚。悪茶の名なり。言は、茶の泡早く滅《き》え、浮かべる雲の脚の早く過ぎ去るがごとし」とあり。それをまちがえて記臆せしかとも存じ候。『塵添?嚢抄』巻一〇の三六条、酒の異名を多く挙げたる中に、松華、梨花、桃花あり。これらに対して楊花というもありしかと察し候。なお詳しく捜して見出では申し上ぐべし。と書き了つて『格致鏡原』巻三二を見るに、「『原化記』に、松花酒をもって老人に飲ますれば寿を益《ま》す、と。『長慶集』注に、杭州の俗、酒を醸《かも》し、梨の花さく時に趁《およ》びて熟するを梨花春と号《なづ》く、と。『初学記』に、酒に桃花を漬《ひた》してこれを飲めば、能く百病を除き、顔色を好くす、と。『孔六帖』に、滄州、国を去ること万里にして、菖蒲酒、桃花酒を出だす、これを飲めば神気清爽なり、と。「南蛮伝」に、訶陵《かりよう》にては、柳(楊に通ず)の花をもって酒を為《つく》る、と」。いずれもいろいろの花を酒に入れ飲みたるなり。それを日本で酒の異名と心得しと見ゆ。
 
(267)   昭和十二年
 
          134
 
 昭和十二年一月三十一日早朝
   岩田準一様
                                               南方熊楠再拝
 拝啓。二十八曰出御状、咋三十日〇時半拝受。御尋問の件は、『源平盛衰記』巻一九の初段「文覚発心、付東帰節女のこと」。文覚、僧となりて後までも、むかしの女のこと思い出だして、その肖像を写して恋しきにもこれを見、悲しきにもこれを弔いけるこそ、責めてのことと哀れなれ。かかる例《ためし》は異国にもありけり。むかし唐の東帰の節女と言いけるは、長安の大昌里人という者が妻なりけり、云々、とて、そのことを出しあり。これは前漢の劉向の『列女伝』に出でたる文なれども、手許にこの書なきゆえ、物集高見博士の『広文庫』第七冊より孫引きして左に写し出し候。
 「『列女伝』にいわく、京師の節女は、長安大昌里の人の妻なり。その夫、仇人あり。その夫に報いんと欲するも道なし。?《ただち》に、その妻の仁孝にして義あるを聞き」(熊楠、『古今図書集成』閨媛典第四〇巻、閨義部列伝一の七葉裏を見るに、この?の字を径に作れり。『康煕字典』に、?は急なり、とあり。これでは意味分からず。ここは『集成』のごとく徑と見るが正し。その夫に報ぜんと欲するも道徑なしとよむべし。徑はコミチと訓み、歩道(『説文』)また小路(『玉篇』)なり、とあり。その夫に報ぜんとするも方便がなかりしということなり。「無道、?」と点付けしを「無2道(268)徑1」と正すべし)「すなわちその妻の父を劫《おぴやか》し、その女《むすめ》に要《もと》めて中?《ちゆうけい》をなさしむ。父、その女を呼んでこれを告ぐ。女、計《はか》り念《おも》うに、これを聴かざれば父を殺して不孝なり、これを聴けばすなわち夫を殺して不義なり。不孝不義は、生くといえども世に行なうべからず。身をもってこれに当たらんと欲し、すなわち且《しばら》く許諾していわく、旦日《あす》、楼上にあって、新たに沐《もく》し東首して臥するものすなわちこれなり、妾請う、戸?《こゆう》を開いてこれを待たん、と。その家に還り、すなわちその夫に告げ、他所に臥せしむ。よってみずから沐して楼上におり、東首して戸?を開いて臥す。夜半に仇家果たして至り、その頭を断《き》って持ち去る。明けてこれを視れば、すなわちその妻の頭なり。仇人、これを哀痛して、もって義ありとなし、ついに釈《ゆる》して、その夫を殺さず」。(『図書集成』の引くところは、この下になお多くの字あり、「君子|謂《い》う、節女、仁孝にして恩義に厚きなり。それ仁義を重んじて死亡を軽んずるは、行いの高き者なり。『論語』に、君子は身を殺してもって仁を成すあり、生を求めてもって仁を害するなし、というは、この謂《いい》なり」と。)『広文庫』第七冊には、この前に『太平御覧』より袈裟御前に似たる一話を引く。ただし、袈裟御前とは反対に、姦夫をしておのれの夫を殺さしめんと謀りたる姦婦の話なれども、みずから髪を洗うて殺されたことは同じ。その文は、「『異苑』にいわく、北海の任?《じんよく》、字を彦期といい、従軍十年にして、すなわち帰る。還《かえ》るに臨《のぞ》み、粟を握って卜を出だす。師いわく、屋にあらざれば宿るなかれ、食時にあらざれば沐するなかれ、と。?、伴を結ぶこと数十にして、暮に雷に遇い、相《たがい》に巌下に庇《よ》る。窃《ひそ》かに屋にあらざれば宿るなかれの戒を憶い、ついに担を負いて櫛沐《しつもく》す。巌崩れて圧し、停《とど》まる者ことごとく死す。家に至れば、妻先に外人と情を通じ、共にこれを殺さんと謀り、請いて湿髪をもって識《しるし》となす。婦、宵にすなわち?に勧めて沐せしめしも、また、食時にあらざれば沐するなかれの忌を憶い、髪を収めて止む。婦、慙愧して?《はじ》を負い、すなわちみずから沐し、髪を散じて同《とも》に寝ぬ。通ぜる者、夜に来たり、婦なるを知らずして、首を斬って去る」。
 右の通りに御座候。
(269) 雑誌の題号は、『阿豆那比研究』などは、はなはだ不穏と存じ候。そんな罪名など用うるよりは、『いはつつじ』流に穏和なる名目を和歌の内より見出すが宜しくと存じ候。小生、只今記臆せねど、『万葉集』に大伴家持が美童と贈答の歌一つならずありし。そんな歌の文句中よりいくつも見出だし得べしと存じ候。季吟の『岩つつじ』には見えざりしが(貴下の書いたものにありしやなかりしや覚えず)、『源氏物語』に、源氏が空蝉の寝所に忍び入ってにげられ思いを果たさず、空蝉の弟なる小君を犯すところあり。その辺の文句などにも、なにかありそうなものなりと存じ候。
 小生、前日、大和田建樹氏の『謡曲通解』を見しに、喝食を女に限るもののごとく注しありし。すなわち尼にならぬうちの有髪の少女で仏に事《つか》うるものとしたるなり。この人ほど謡曲の文を暗《そら》んじたる人が喝食を少年のことと気付かざりしは希有のことと驚き入り候。大部のものにて索引なきゆえ、ちょっと見出で難く候。見出でたら報告すべく候。
 『群書類従』巻四九〇、「横川の別当は、衆入の一老が持なり。衆入とて児立の衆徒なり。たとい児立なれ(り?)とも、行断とて擯出せられて帰れば衆入にてなし。別当不持なり。東塔西塔の執行は横入(他宗交衆入る人なり)、他方来も事により持なり」。衆入とは若衆より入るの義? 児立は稚児出身なり、『沙石集』にあり。横入のことは、『関田耕筆』か『次筆』にありし。衆人のことありしや否覚えず。ただし、稚児出身のものを貴ぶ由見えたるはたしかに覚えおり候。この書(足利氏の世のものらしい)に、武家の息の児、長絹を用い、公家の息の児は水干を着る。また児と御童子との眉の図を出す。また児が法師の肩車にのることあり。『義経記』平泉寺の条にもあり。これらのこと調査を要す。
 『史籍集覧』の『渡辺幸庵対話』、清見寺膏薬は、今川氏真の家臣、駿河滅亡の後は剃髪して清見に庵を結びおりける。この者、膏薬を合わせ、往来の人在々の者に施し、銭あるいは五穀をくれ申し候をもって飢を凌ぎ身命を繋ぎ、里の(270)童を誘い薬をとり集め、子供に頼んで松脂をとり、調合手伝いとするゆえに、調合練り様まで子供見習い、自分に調合売り弘む。その由緒をもって今に子供の売ることとはなれり。かの庵主は弟子に跡を譲り、次第に繁昌して、かの庵は寺となりけるなり。これによれば、清見寺に美童が薬売りは、寺の始まりしときよりその萌しありしなり。西鶴が『武道伝来記』巻四の一、「それより世上を知るため清見寺の膏薬(売りか)に遣わし、藤の丸屋の見せに置きしに、美少なれば旅人の目に立ちすぐに通るはなかりし」とあれば、貞享のころは寺と薬店と全く別れおったことと知る。
 徳川氏の末期に、大坂板にやと思う、小さき折本製の色刷り絵に、四十八手と題し、男女取り組みの仕形四十八手を示せるものあり。そのうちにただ一つ婦人の後庭を犯す図あり。搦め手と題す。徳川氏の初期にできたる『昨日は今日の物語』下に、ある出家、傾城町を通る。その袖に傾城取り付くを長老叱る。傾城、まず出家は若衆を用い給う由聞き及びて候、われらもおにやけ〔四字傍点〕を御用に立ち申すべしという。坊主聞いて、それは耳寄りに候、さて御布施はいかほどぞと問えば、そのことにて候、表向きはわれわれもすきの道にて候えば、いかようにも御意次第にて候、搦め手はむりに嗜み申すゆえ、ちと高値に御座候、と言う。坊主のいわく、御覧じ候ごとく、貧僧と申し老体といい搦め手の難所不案内にてはなかなか叶い申すまじ、ただ大手にて一鑓参ろうとて、頓《やが》て物せられた。前〔傍点〕を表向き、後〔傍点〕を搦めといいたるなり。右の四十八手にも、その通り後庭を搦め手といえり。むかし衆道はなくて婦女の後を犯すこと流行りしときよりの語と見え候。このこと支那の書にはしばしば見ゆるが、日本にては少なく、右の物語のが一番古いようなり。後年『末摘花』などにはしばしば見えたり。「顔みせの約束女房けつをされ」、「浅黄裏おゐどをせせり叱られる」、その他なおあり。山岡明阿の『逸著聞集』三に、明法博士大江為武の女、その情人左大弁某が酔ってその後庭を犯しにかかるを、律令に就きて勘定せば門籍なくして公門を闌入するという罪なりと責め、陳謝せしめたことあり。小説ながら、「かかる振舞いはあるまじき徒らごとなれど、また左までいい勘じなん、女々しき方はうとかるべししと評しあり。書物には見ゆること少なけれど、ずいぶん時々あったことのように相見え候。
(271) ドイツ出の百科全書中もっとも大部のものは、エルシュおよびグルーベルのものにて、一八一三(文化十)年に初まり、明治三十三年(一九〇〇年)小生帰朝の歳までになお完結せず。今日まで百六十七巻出である由聞けど、それで完結せるか否聞き及ばず候。なかなか大部のものにて、今日きわめて希本なれば、とても本邦に渡る気遣いはなかるべし。その内の男色の条は、この研究に取って欠くべからざるもの、言わば支那史に取っての『二十一史』また『通鑑』のごときものなれども、邦人にてこれを通覧せるはきわめて希《まれ》なるべし。小生幸いに大英博物館にありし日、全篇を写し今もあり。何とか訳述して本邦に伝え置きたきも、難語のギリシア文多く、久しくギリシア文を読まぬゆえ、只今解せぬところも多く、これを訳述したとて、哲学、美学、道義学等に博通せぬ者には通ぜざることと存じ候。しかるに、もはや小生も七十一歳となり、昨年来久しく不快にて十一月上旬より一月十日まで臥しおりたり。今もしっかり致さず、この状を書くにもなかなか骨が折れる。人間の命というは短きものに御座候。去年十月の『旅と伝説』に出せる拙文「婦人の腹中の瘡を治せし話」の別刷本は二十部ばかり刷らせたるが、貴方へ送りしと覚え候。貴方へ安着せしか伺い上げ奉り候。
 『男色一寸鏡』という書、貴下御覧になりたることありや。何冊にていつごろの物に候や。御教示を乞う。
 『風流比翼鳥』(宝永四年江戸板)巻四の七に、男色に十ヵ条の損ありと挙げたる、その第八、男色は女道と違い腎水大分に洩らすゆえ命縮まること朝顔に等し。このことこの書の外に一向見えぬようなり、如何。
 まずは右御尋問の袈裟御前の話の所出を御答え申し上げ候。      早々敬具
 
          135
 
 昭和十二年二月五日早朝〔葉書〕
 拝啓。前日小生病臥中の御来状に、吉田兼好が愛童ありしということに付き、多少御尋ねありしとほぼ記臆するよ(272)うながら、たしかに覚えず。最近『本朝浜千鳥』という小説(宝永出板)にそのことを見付け出だせしも、たぶん貴下もこの小説を読んだ後御尋問ありしことかと存じおり候。
 『狂言記』の「酢薑」の終り近く、薑売り「なうなう、清水寺にはおちごなりとやらかしき成りとやらがあるというが、其方《そなた》は望みはおじゃらぬか」、……酢売り「なう、お児なりとやらは過ぎたと申すわ」とあり。これはなにかの法会などに稚児が行列をなし、また喝食が行列して出ずるを、お稚児成り喝食成りと言いしにて、それを大人までも見に行きしことと祭す。今日までも稚児供養など申し、女児が稚児の装いして行列(渡る〔二字傍点〕という)するはこの遺風と存じ候。何でもないことながら、『狂言記』に出ずるを見て申し上げ候。
 また「末広がり」の狂言に、戯絵《ざれえ》というは、あるいは児若衆などをさっと書いたこそは戯絵なれ。柳亭が『還魂志料』に言いし若衆人形よりも古く、大人までも若衆を扇に画かせ見て楽しみしなり。
 
          136
 
 昭和十二年二月五日午後二時出〔葉書〕
 拝啓。前日の御状によれば、昭和十一年十月號『旅と伝説』、拙文「婦人の腹中の瘡を治せし話」別刊本を差し上げしと覚えおるが、貴方へ着かざりし由、遺憾千万に候。これに本邦で男色を脚気の療治に用うること、また古ギリシアで痢病の療治に用いしことなどを記しあり。小生一代の傑作と人々申し候。今においては別刷本を作ること絶望なれば、何とぞ売り切れにならぬうちに、昨年十月号『旅と伝説』を本社より購い、御一読願い上げ置き候。           早々敬具
 
(273)          137
 
 昭和十二年四月一曰午後四時出〔葉書〕
 拝啓。
 『難波立聞昔語』貞享役者評判
 『蓑張草』元禄野郎評判
 『古今役者大全』八文字屋撰、寛延中 六冊
 右の三書貴下御覧に相成り候や。しからば大抵どんな内容のものか御知らせ願い上げ奉り候。
 
          138
 
 昭和十二年四月六日午後十時半〔葉書〕
 拝復。五日出御状、本日午後四時拝受、御礼申し上げ候。東京市下谷御徒町二丁目二十一番地吉田書店より四月の書籍目録来着、左の項あり。
 二〇八号『難波立聞昔話』貞享役者評判、複製、半紙判、一冊、一円二〇銭。
 二〇九号『蓑張草』元禄野郎評判、同、同、二冊、二円五〇銭。
 二一〇号『古今役者大全』八文字屋撰、寛延年中、中形本、六冊、十五円。
 以上に候。貴君入用ならさつそく御注文遊ばさるべく候。代金引替え郵便が宜しと存じ候。もし御手に入りて面白く思わるるなら、御用済みの上半月ばかり御貸し下されたく候。       早々敬具
 
(274)          139
 
 昭和十二年八月十七日午後四時〔葉書〕
 拝啓。七月二十五日午後出御葉書は同二十六日午後四時拝受。しかるに、小生今春来あまりに久しく座し続けて写生のみ致したるゆえ、背の肉亀甲のごとく堅硬となり、かつ頂後に大なる贅を生じ、いわゆる頸も廻らぬ次第。御尋問の阿の字のこと、前年何ごとを申し上げたか一向失念、今さら何の手掛りもなく、御答え申し上げ得ざること遺憾の至りに御座候。前年高野山の地図を御聞き合わせに相成り候ところ、小生存知の大阪市北区曽根崎上四丁目三三番地高尾彦四郎氏書店の今年七月の『維新以前刊本筆写本目録』、番号87、高野山細見大絵図、橘保春行画、文化刊、大一帖、代一円五十銭とあるは如何に候や。見当たりたるままちょっと報告に及び申し候。     敬具
 
          140
 
 昭和十二年十二月十三日早朝〔葉書〕
 拝啓。小生久しく眼を煩い一日に四回点薬、ようやく十月に入って平癒、ところが妻が九月二十四日より腎盂炎にて、氷を三十貫ばかり用い日夜冷やし通し、ようやく四十日ほどかかりて平治、それらのことのため大いに御無沙汰致し候。さて、『甲斐国妙法寺記』(『続群書類従』に収む)に、「文明十一年己亥、世の中十分|吉《きち》、兄弟契約限りなし」とあり。松屋与清、頭注に男色とあり。このことに付き小生一文を出だし、初半分は本月の『旅と伝説』に出であり、近日別副本来着の上送り上ぐるから御笑読を冀う。
 この田辺近傍にて、松の落葉をゴという。また海より打ち上がる藻《も》をモクという。藻をモクというは紀州ならでも例あり。藻屑(もくず)の略ならん。和歌山、田辺、讃岐の高松、日向の宮崎市、大坂等ではゴミ(塵埃)をゴモク(275)と申す。これは大風波ののち海辺に落ちたる松葉や打ち上がりたる海藻をかき集めて乾かし焚き物とし、また肥料とせしゴ(落ち葉)とモク(海藻)の混成物ゆえゴモクと言いしを、後には一切の塵埃をゴモクということとなりしと存じ候。貴地にても落葉をゴ、藻をモク、塵埃をゴモクと申し候や。御教示願い上げ奉り候。
 時節柄貴下にもあるいは召集され出陣遊ばされたるなど存じ候まま御機嫌伺いまでに右申し上げ候。   敬具
 
          141
 
 昭和十二年十二月二十二日早朝
   岩田準一様 小生手不自由ゆえ難字御祭読を乞う
                  南方熊楠再拝
 拝復。十五日出貴状、十七日朝八時十分拝受。さつそく『新編会津風土記』を調べ、兄弟契りの条を見出だし候。しかるに、咋二十一日午後三時半、また御葉書拝受、同書を御書き抜いて示され、難有《ありがた》く御厚礼申し上げ候。この『新編会津風土記』の記事を見れば、兄弟契りとは同年輩の男女が特に兄弟同様の懇情を結ぶことにて、申さば今日諸学校に行なわるる校友会、同窓会ごときことと存じ候。すなわち昭和元年卒業の組同士、同二年卒業の組同士が相会して飲宴し、旧を談じ交誼を暖めることにて、その同組の会合が一時に(諸組打ちそろうて)行なわるることと存じ候。日光辺の記事もその通りに候。藤井万喜太氏は、これをむかしの?歌、今日の盆踊りのようなことと解したるも、原文はそんな淫猥なこととは解せられず候。明治の世になって行なわれ出せし町村諸郡の懇親会様のことと存じ候。ただし、『妙法寺記』に見えたるところは、兄弟の契をなし飲酒無限とあるから、中には乱雑なこともあったなるべしと察し候。
 とにかく、高田与清が男色と解せしははなはだ不当で、貴意のごとく、そんな臭いは少しも感ぜられず候。高田氏(276)ははなはだ博覧な人なりしが、すこぶる世事の実際に迂なりし人と察せられ候。『松屋筆記』に、子宮と吉舌《さね》を同一物ごとく解しおられ候。支那の明の世に耶蘇教徒ですこぶる博覧なりし方以智などもよく似たる人にて、その著『通雅』や『物理小識』を見るに、文書上より推察するのみで事物の実際を少しも別たず、彼我同異を混雑せしことすこぶる多く候。もっとも人によりおのれを清潔無垢なるよう見せんとて、知りおることをも知らぬふりしてこじ付くる人もあるべし(子宮と吉舌を同視するごとく)。
 この癖は西洋の学者にも顕然たるもの多し。スペンサーおよびギレンの『濠州土蕃視察記』に、ある種族には女が少なきより妻を娶る年に達した男も容易に妻を得ず。しかるときは、五、六歳より十歳くらいまでの小児を童妻として娶ること多し。これを娶る娉礼《へいれい》より万端(たとえば妻の母とは決して言詞をかわさず、常住坐臥その影を見ることすら避くる)、服忌までも女を娶るとかわることなし。これを娶りてどうするのか知れず。後庭を犯すのかと問うと、そはゆゆしき罪業なりとて戦慄して忌み嫌う。しかる上は、童妻を娶りて何にするか全く解すべからず、と説きある。これは分かり切ったことにて、後庭を犯さねど胯間を弄ぶなり。それほどのことに気の付かぬはずなきに、知ってしかして全く知らざるふりをするところが洋人の矯飾に候。
 十五日貴状(十七日拝受)に、「塵埃の方言について、当地鳥羽においては燃料の枯松葉をゴクモ〔三字傍点〕、藻は未知なり、塵埃をゴミと申しおり候。ゴモクの語は雑多な菜類を副え入れて加味したる飯にのみ使いおり候。これも五目などの文字は宛字にて、本来は塵埃のゴモクなどと原を一にするものかと愚存仕り候。ゴモクの語はさらに汎用せられて、種々雑多の何でもつっこみの状態なるにも使用致しおり候」とあり。傍点を小生が付したるゴクモは、それで宜しく候や。ゴクモにあらずしてゴモクが正しきに候わずや。折返しハガキにて御再示を乞う。ただし、ゴクモが正しく候わば、はなはだ小生の持説に強みを与うるなり。その持説とは左の通り、全文御読み下されたく候。
(277)  和歌山市発行『紀州文化研究』第一巻一一号(今年一一月発行)五七頁より六〇頁に及ぶ。
 方言のゴモクについて、南方先生のお説
       雑賀貞次郎(これは郵便配達夫より自修して著書多く出したる人にて、現に当田辺町会議長たり)
            〔〕中の語は小生みずから後に付け加う。
 梅垣実氏の「紀州方言語原考」(本誌一巻九号)にゴモクを「五目飯などとかくところから考えて、このモクは種類というほどの意で、詰まり加薬を五種類入れた飯という意から転じた物であろう。もちろんこの五はおそらく漠然とした意味に用いられているに過ぎないだろうけれども」と記されておる。『大言海』に、「ごもくずし(五目鮨)、五目とは種々の物の意、数目といわんがごとくなるべし、五目飯というも同じ」とあるので、一応は頷けるが、しかし加薬が五種と限ったことも聞かず、
  数の多さを言わんとならば七とか八とか九とか十とかいうべし
何だか落ち着かぬ気がした。たまたま南方先生をお訪ねした際、このことをお伺いすると、先生も梅垣氏の物を読んでいられて、御病中ながら、次のような興味あるお話をして下さった。
 『紀伊史料』第四号(昭和二年二月)に、故崎山信吉氏が「田辺名物考」と題して、天明三年紀州藩のお国名物調べの際、田辺組大庄屋田所八郎右衛門、田辺大年寄多屋平次、外二名から、田辺地方産として書き上げた栃木塗細工、太平など十七種を古記録により紹介されたが、その中に「松の葉」がある。崎山氏の付記に、「こんな物どうして名物に入れたか、何か特定の物にや。昔の人テナ呑気な物で厶《ござ》るな」とある。松の葉を名物などいうと、崎山氏ならずとも、一応は誰でも変に思うであろうが、これは松葉の落ち枯れたるを拾い、長さ太さの同じ物を撰り揃えて束ね、都会または他国に送り出し、茶人会席の用とした物である。(主として便所の竇《ひ》中に?めて、小便の音の聞こえぬようにし、また庭に撒いて土をふみ痛めぬようにする義もあつたと聞く。今も便所の竇に杉葉等を?める所、往々あり。)(278)田辺の扇が浜、神子浜等の松原でその松葉を拾うたので、名物としたのだ。この松の葉をゴと言ったという。松の葉をゴというは、今も田辺では一般的であるが、むかし松葉をゴというたのは、紀州以外にもあって、昭和二、三、四年の交、林若吉、三田村鳶魚、木村仙秀、山崎楽堂諸氏等、西鶴物の輪講をなし、吾輩(先生)も参加した時、松の葉をゴということについて、いろいろと諸氏の説が出たのを記憶する。
  法眼二南斎の徒に南?とかいう人あって紀州に遊びし時の日記に、海辺で松の落葉を掻き集め「謂(ウ)2之(ヲ)呉《ごト》1」と漢文で書いた小冊子を大正七、八年ごろ借りてどこかに写し置いた。その時南?とは二南斎の別号という人と、その弟子の号という人と議論ありし。
  田辺では大豆を水に浸して生ずる粘汁をもゴという。鳥居や漁船をベニガラで赤く装い塗るに、この大豆の汁で合わせ用ゆる。『魚類精進物語』等に、大豆を御料と称うることあり。松の落葉をゴと称うるも便所や露路《ろじ》の御料すなわち御用品という意であっただろう。
  西鶴『一代男』一の一、東北の家陰に、南天の下葉《したは》茂りて敷《し》き松葉に御|尿《しと》洩れ行きて、云々。『輪講』、山崎「濡れ椽から小便をしたのが下へもれて行ったんですね」、木村「敷松葉は、東京では普通冬敷くようですが、これは夏のようですね」、三田村「これは敷きっ放しの奴でしょう」、勝峰「貞徳の『御傘』でみると、廬次《ろじ》に松葉をまくも赤葉なれど、その志は松を愛することなればとあり、重頼の『毛吹草』にも、敷松葉廬次に用ゆ、当所の葉照色よしというともありますから、霜除ばかりに限つてもいないんでしょう」。
  『雍州府志』六、「倭俗、書院ならびに茶事の庭を露地と謂う。その径《みち》に平石を点じ、賓客その上を歩む。これを飛び石と謂う。また、樹木を種え、山野の風致を摸して、その下に枯れたる松の葉を撒《ま》く。これを松葉を敷くと謂う。松葉は赤色を貴ぶ。所々これありといえども、近江の勢多山に出ずるものを宜しとなす。その葉長大にして、その色淡紅なり。土人、携え来たつて京師に売る」。『近江輿地誌略』九六ほぼ同文なり。写し取りしごとし。(279)貞享四年板『好色四季咄』三の三、忍之介とて隠れ笠で身を人に見せぬ男が、婿を求むる女を媒人がだまさんとするを憐れみ、またにくみ、婿の悪性劣質をその女に告ぐること数回にて、婦人の欺瞞行なわれず。大いに呆るるところに、その後また色よき男を伴いしが、座敷に入りさまに、敷松葉の壺に立ち寄り用事叶える(小便たる)を(忍之介)先へ立ち廻りて見澄まし、鼻に相違の(鼻の大きさに似ず陰茎の小さい)男と書き付けてみせければ、娘思う顔にて、そここそ楽しみの第一よ、吟味するまでもなし、何とぞ不足のなき男を穿鑿して頼む、とあれば、云々。
 またモクは、故岡村金太郎博士の海藻に関する諸著述にしばしばみゆるごとく、海藻の名にモクと唱うるものが多い。博士の著書は蔵に入れあって、今ちょっと出せぬが、単に座右にある故松村教授の『帝国植物名鑑』を見ただけでも、モクダマ、イソモク、ギバサモク、アカモク、ササモク、ノコギリモク、ヨシモクと七種まで出ておる。藻を藻屑というは古く歌詠にもしばしば見えるが、モクは藻屑の略で、当田辺湾内の鳥の巣浦生れ故植坂久米吉氏など、毎々海浜に打ち上がった雑多の藻を概括してモクというを恒《つね》とした。さてまた和歌山で、
  日野巌博士と宮武省三氏の説によれば、宮崎市と高松市でも吾輩(先生)幼少の時から明治十九年同市を去るまで、塵埃をゴミ、ゴモク、ゴモクタなどいうを毎々聞いたが、今もこの語を慣用する老人が少なくないだろうと思う。田辺では今も普通にそういう。故に、ゴモクとはもと松葉の枯れ落ちたると、波に打ち上げられた藻屑との総称で、海浜の住民が、風波ののち、これらの物をかき集め撰り別けて、焚き物、肥料などにした、その雑物堆をゴモクと総称せるが、のちには一切の塵埃をゴモクと呼ぶに到ったものであろう。
  あえて田辺から始まった語というにあらず。むかし上方諸邦に行なわれた語で、その、もと松の落葉をゴと呼んだことだけが田辺地方に残存するというのである。
(280) ゴモク鮨は西洋のハッシュ同様、正しき献立用の菜根魚介の残屑を、それこれとかき集めて、正式ならぬ臨時の饌用とした物ゆえ、多少卑蔑に謙遜の意味を兼ねて、今は残屑を掻き聚めず、わざわざ人を走らせ特に買い調えて作った物までもゴモクズシ(またはメシ)と称するに至ったであろう。
  半二の浄瑠璃『新版歌祭文』(安永九年板)油屋の段に、ゴモク飯という詞出である。
 それからゴモクを種々の物の意すなわち種数や量の多きをいうとすること、和漢共に一向出所がないようだ。西沢一鳳が謂った通り、関東の人は、上方の言葉にも世態にも不通で、上方のことさっぱり別らず。喜多村信節の説に、越後では女陰をべべというが、上方で衣裳をべべというと聞いて笑う、と。このこと今も東京の学者がよく引用するが、本邦はいわゆる言霊《ことだま》の国で、実際はそんな不便や混同なし。熊野の那智で、明治三十五、六、七、八年の間、聞き慣れたは、その辺の人、女陰をベベ《\−》(上のべ《\》は箸《\》、下のべは端《一一》の音)、衣裳をベベ《−−》(両|べ《−》共に端の音)で発するから、少しも混雑しなかつた。和歌山市の人々は女陰をべべ《\−》と言わず、ボボ《\−》という時、上のボ《\》を箸、下のボ《−》を端の音で言い別ける。字語の発音すらかくのごとし。いわんや事物の由緒経歴においてをやだ。
 前にも言った西鶴物輪講の時、新町遊廓に有名な九軒が何物か分からず。こんな青楼でもあったのであろうという解釈だったのを、宮武省三氏が呆れおられたが、全く明治の文献を講じて、八百善とか、紅葉館の何たるかを知らぬようなものだ。また東京で近松、並木等の上方浄瑠璃を調べた第一人者に遇うたが、「ガンマチナ」、「エエカと思うて」、「オクセン」(情人)等の言葉の意味を解せなんだ。これらは吾輩幼時上方で毎度聞き馴れた常用語である。一鳳が言ったごとく京伝・種彦以降江戸人は好んでこんなことの穿鑿を事としたに反し、上方人は一概に詰まらぬこととして取り調べなどに気がなかった。それに乗じて関東人がいろいろと杜撰をやらかしたが、『大言海』の五目の解などもこの類たるを免れぬ。
  貞享五年版『色里』三所世帯』京の巻の末章に、幇間ども、金をくるれば種々の難行を勤めんといううち、一人は、
(281) 一日一夜を小判十両で五木の下へ埋もれておりましょう、と申す。ゴモクを五木と宛て字せり。五は数の多き表示と言ってすみなまし。木を何と釈くべき。ゴモクは多く木からできるとでも説かんか。
 紀州におりながら、そんな迂遠な説を襲用するは、それこそ遠交近攻の策というものだろう。(下略)
 要するに、ゴモクは多くの物と数の多きを言ったでなく、さまざまの物をかき集めたと混雑の形容詞と解するを正しとす。
 
 右御文中のゴクモはゴクモにて、ゴモクを御誤書なされしにあらずや。御来示を俟つ。        敬具
 小生家の先霊の内に、二十前後で家を出でどこで果てたか知れず、今に戒名もつかず弔いも受けおらぬものあり。
 このごろ毎々小生の眼前に現ずる。よって著書でも出し、金を拵え、水原師を招き戒名を付けもらい追善したく思いおり候。その節水原師に貴下登山の節いろいろ穿鑿の便宜を与えくるるよう特に頼みおくべく候。
 
(282)   昭和十三年
 
          142
 
 昭和十三年一月十五日夜十時〔葉書〕
 拝啓。備前岡山かどこかで明君が出て仁政を施されしとき、孝子が老母を負うて乞食せしを賞して米を多く賜わりしを真似て、乞食輩が自分どもの母でもなき老婆を負うて乞食に出でしをこれまた賞揚されしを、臣下が、これはにせ者なり、厳罰したまえ、と申し上げしに、よき行いを真似るものは賞せざるべからずとて罰せられざりしということ、何かの書にて御見当たりならば御明示を願い上げ候。
 『岩津々志』上巻にあるべきことにて、そこにも補遺にも見えぬことゆえ、あるいは貴下また御承知なきかと思い念のため注進致し候は、『拾遺和歌集』恋二に、「源公忠朝臣、日々(『日本歌学全書』本による。『橿園随筆』等にはいずれも日毎に〔三字傍点〕に作る)罷り逢い侍りけるを、いかなる日にかありけん逢い侍らざりける日遣わしける、貫之「玉鉾の遠みちもこそ人はゆけ、など時のまも見ねば恋しき」。中島広足の『橿園随筆』(『日本随筆大成』一輯巻の二にあり)に、「傍註にいわく(熊楠謂う、誰の傍註か分からず)、恋の部にはいれば、男色の中にや」、今按ずるに朋友のいとしたしき交りなりしなるべし、云々、とて、恋の部必ずしも男女のことに限らぬ由を説きあり。熊楠考うるに、これは必ずしも男色というべきにあらねど、至って親交せし様子見えたれば、ギリシアにいわゆる浄の男色くらいのものならん。さて、この公忠朝臣の息寛祐法師の童子に遣わしたる歌、「数多見し豊の明りの諸人の」の歌、『岩津々志』(283)に出でたるを見るに(この歌また『拾遺集』より引きたるなり)、公忠父子、男色の傾きを遺伝せりといわんか。
 風来の『根無草』、瀬川路考が船遊びの船中で、河童の化けたると契るところに、路考みずから妾《わらわ》と称すること数回なり。これは『曽呂利物語』などと時代もちがい、直ちにワラワと称したるにあらざるべきも、そのころの野郎や女形役者が男に逢ったとき、アタシとかワチキとかアタイとか、必ず女の身になった心で女性用の第一人称代名詞を用いたるを、雅語に移して妾《わらわ》と作ったことと察し候。
 十一日の夜、当地方激震ありし。拙方は無事に候。   早々敬具
 
          143
 
 昭和十三年一月十九日朝九時〔葉書〕
 拝復。今朝八時に十七日出御ハガキと御封状各一拝受。御葉書に見えたる、拙問「乞食が親孝行して賞揚された話」の一態を最近何かで見たと言われしは、たぶん昨年十二月号『昔話研究』四一頁、武田明氏の 「三豊郡志々島昔話」の「親孝行」の一項と察し候。すなわち小生はこの項に付註して多少の原話らしきものを集め置きたるを次々号に出さんと存じて、拙問を呈したることに御座候。これに近似の話は『本朝語園』(奥州のこととす)、また『武野燭談』(江戸にてのこととす)にあり。やや似たことは西鶴の『本朝二十不孝』に出ず。しかし、もっとも古く、小生が幼少より聞きおりしは、備前の光政少将の領地に起こりし出来事のよう年来固く信じおり、さて今度念のため、光政少将のことを記したるものどもを見るに、さらにこのことなし。はなはだしく狼狽して諸方へ問い合わす第一着に貴殿へ伺いしところ、貴ハガキによりいよいよ光政少将のことと分かり、あわせて所出を知り得、大いに安心致し候。すなわち貴殿教示による由を明記して本日寄書に及ぶべく、この段分けて御礼申し上げ候。
 今年初めの『東京日々』紙に、長谷川時雨女史が「未見の恩師」と題して小生のことを書きたる由、昨日銚子市に(284)住む一友より申し越し候。しかるに、小生には初耳にてそれを見ず。貴殿見られたりや。もしその新紙今に御近所にあらば御送り越し御貸し下されたく、要処を写し候上さっそく御返し申し上げ、またなにかそれに付き『東日』紙へ寄書して大笑を博すべく候。
 塵埃をゴモクということ、近ごろ寛文十二年黒川道祐筆『遠碧軒見聞随筆』より見出だし候。     早々敬具
 
          144
 
 昭和十三年二月八日午後四時出〔葉書〕
 拝啓。御ハガキ七日出、今日午後〇時三十五分有難く拝受致し候。かの新聞は幸いに東京の一友が全紙二枚取り置きたるをそのまま送りくれ候付き一読を得候。かようのことにて尊慮御手数を掛け候こと、はなはだ相済まず、右御礼までかくのごとく申し上げ候。   敬具
 
          145
 
 昭和十三年六月七日早朝
   岩田準一様
                  南方熊楠再拝
 拝復。六月四日出御状は四日午前八時拝受。種々御来示|難有《ありがた》く御礼申し上げ候。小生は久しく両脚きかず、まことに困り入りおり候。御尋問の雲門はいろいろ調べたが分からず。足利時代の禅家は、ちょうど今日のモダーン文士のごとく、当時の支那の一部の流行語などを(今日の文士がロンドン、ニューヨーク、シカゴからカリフォルニア辺の田舎方言の区別なく道に聞いて道に説くように)聞き込み次第いいはやらかせしゆえ、支那の鄙土片境の一時的流行(285)語などは支那に残りおらぬもの多く、今日となっては蹤を尋ねんようのなきもの多きことと存じ候。
 明治二十四年、小生、米国最南端のキイウェストという小島へ渡りしことあり。その地に洗濯業を事とする支那人数輩の家へたびたび遊びに往きしに、その主人、小生に汝の国の神は三ばいさん〔五字傍点〕というものなり、毎夜酒を小徳利に一本ささげて願をかけ、願が叶えばまた酒を捧ぐる、云々、という。小生かつて見聞せしことなければ、そんなことは一切なしといいしに、その主人大いに怒って日本人にして三ばいさん〔五字傍点〕を知らぬということがあるものか、汝は正真の日本人ではなかるべしとのこと。怪しきことに思い、よくよく聞き正すと、この者長崎にて下等の娼婦に親しくせしが、その娼婦が中国辺の田舎農夫の娘にて、その田舎の農夫は三ばいさんという俗神を祀りしらしく見え候。それより三十年ばかり後に、『郷土研究』か何かに中山太郎君が投書せしものを読んで、始めて中国辺の辺土に三ばいさんという農神かなにかの俗祠ある由を知り候。(委細のことは只今忘れ了る。)
 禅林の書などに出ずる支那のことは、大抵この三ばいさん程度のことで、ほんの一時的に支那の一地方にはやりしことと存じ候。それを誤聞したり曲解したりして伝えたものゆえ、今日となつては穿鑿しても功なきこと多しと察し候。例せば、『禅林小歌』(『続群書類従』五六一所収)に、茶式に用うる果子を列せる内に、茘子《れいし》(「山開の形に似て、熟す時その色金色なり」)とあり。茘枝のことならんも、茘枝の生品は今も日本へ輸出しおおすることはなはだ困難なり。日本の温室で熟せしことも聞かず。七、八年前、小生、生品を福州より得たるに、百中二十も満足なものはなく、他はみなかびを厚く生じおりたり。されば、『小歌』の記者のいわゆる茘子は真の茘枝にあらず、山開(やまひめとよむ)とは山の開すなわち女陰でアケビのことなり。アケビは開《あ》け女陰《つび》の義の由、先輩もいえり。茘枝は熟しても開くものにあらず、かつ金色のものにあらず。これは欧米へ行って見ずに、よい加減にバッジャー(※[獣偏+灌の旁]《あなぐま》)をタヌキと心得たるごとく、半可通なモダーン学僧が、ツルレイシ(苦瓜)を茘枝と誤解したるなり。苦瓜は熱すればアケビのごとく開裂し、また金黄色を呈するなり。(よって(286)苦瓜は足利氏の末に日本に入りありしと分かる。)苦瓜は瓜科の草、茘枝はムクロジ科の木で大きな見当違いに候。)
 こんなことゆえ、普通書籍に見えぬ当時の物の、名のみのこりしものを、今日何物といいあつることは至難のことに候。ただし、『下学集』に、瓜を東門、また青門といえる(「秦の東陵侯、瓜を長安城の東に種《う》ゆ。瓜に五色あって、はなはだ美なり。これを青門の瓜、東門の瓜と謂う」)ことあるを見れば、それに倣《なら》って和製の漢語を作り、(たとえば)雲居寺の辺とか雲林院の前の畑とかよりよき瓜が出たのを雲門と名づけたくらいの落ちにあらずやと存じ候。
 槿花も小生には只今分からず。山薬は薯蕷《やまのいも》の署の字も預の字も趙宋の二天子の諱《いみな》に触れたるゆえ、山薬と改名せしこと、『本草』にしばしば見えおり候。茶の座で薯蕷を多く賞せしと見え、『禅林小歌』にも茶果子の名を列せる内に、薯蕷(「山野の伊茂《いも》なり」)と出しける。自然薯《じねんじよ》の粉をとり乾かし用いたる由(葛の粉同然)、『大言海』に出でおりしと存じ候。
 和歌山の稚児の像のことは知らず。一昨年ごろ、水原堯栄師が弘法大師の諸像を写真板にとり集めて出したるもの一部|《おく》られし内に、弘法大師の童形の図像ありし。大師に限らず、諸高僧や名ある人々の童形の図や像を祀る風は、諸寺にありしようなり。(尾崎久弥氏が『観音』という雑誌へかかれたり。)高野山に千蔵院という寺あり、拙父その檀家のような者で、小生明治十五年ごろまで毎々参詣せり。そこに石堂丸の童形の木像ありし。それは火事で焼けて今はなし。
 以上貴問に答う。以下は余白?め。
 君の寵童が君の妾嬪と通じて君を弑する話は、小笠原長時その他例多きが、妾が君を弑したるを君の寵童たりし者がその妾を誅して自分も自裁したという、稀有の例ただ一つ見出だしたから、ここに抄す。
 『陰徳太平記』巻三六に、天文十七年、伯耆国鹿野の城主山名源七郎、二十余りの若武者にて色を好む。鳥取の城主(武田高信、舞女に謀を含め源七郎にすすむ。源七郎愛することはなはだし。源七郎が男色の寵を受けし岩村某(源七(287)郎と同年)諌むれども聴かず。その女よき時節を覗い毒酒もて源七郎を殺す。岩村その女のなすところ疑いなしとて刺殺し、自分も切腹して主人に殉ぜし、とある。
 横山重、巨橋頼三二氏の『物語草子目録』(昨年出板)三五六−七頁に、『新蔵人物語』写本一巻、古川躬行いわく、この物語は蔵人何某が娘、あやしく女を嫌いて男子の姿になりて新蔵人とて内に宮仕えするを御覧じそめて、めで寵したまう物語なり。この巻、書画一筆と思わるる体裁なり。元来題号なし。今|姑《しばら》く『新蔵人物語』と名づく。躬行所蔵。またいわく、画工未詳、詞今出川義視入道(義政将軍の弟)、と。熊楠いわく、横山氏へ書翰出だし、この物語を見たことありやと問いしに、見たことなしとの答えなりし。女が男装せるを天子が見初めて寵せしとは、美少年と認めてのことに相違なし。しからば、その天子は男色好きなること勿論なり。さて、いよいよその場に臨んで女と知れても、なおその後庭を愛せしか、また改宗して前庭を犯せしか、聞きどころなり。貴下はこの物語をこれまで聞き及ばれしことありや。
 同目録三六九頁に、『大仏物語』刊行二巻。京都大仏の仁王門にて行脚の僧と一貫《いつかん》という者との問答に托して、武士の本義、水かけ祝い、追腹、若衆を愛することを始め、君臣父子の道、儒道・禅道に至るまで、当時の風俗世教などにつきて説けり。終りに、寛永十九年暮春吉日、とあり。刊行の年月なるべけれども、著作の時代もこれに遠からざるべし、とあり。横山氏に聞き合わせしに、この刊本は帝国図書館にある由。男色の略史ともいうべきものは、弥子瑕より季節推に至り、また仏経にどうあるとか、『普書』に何と書いたとか、大抵定まりおる。小生知るところ、万治年間の板行『野郎虫』にもっとも古く出た叙事を、後来の諸書が盗用したばかりと思うが、あるいはそれより古くこの『大仏物語』にあるかも知れず。よって一書を横山氏に送り、少暇あるの日帝国図書館で、この書の内「追腹」および「若衆を愛すること」の二条だけ写して示されんことを望みおき候。到来の上かわつたことあらば申し上ぐぺく候。
(288) 幽霊が高僧に公案を授けられて解答できず、また生前一句をよみて跡の句がつづかず、案じ続けて浮かばれないというような咄多し。『雨月物語』の巻五、青頭巾の話に、快庵禅師|古寺《ふるでら》の老住職が食人鬼となりたるに、「江月照らし松風吹く、永夜清宵、何の所為《しよい》ぞ」という句を授け、その意を求めしむるに、食人鬼、日夜この句を唱え、その意を求めて已《や》まなんだ、とあり。『其昔談』に、松島雲居寺の稚児白菊、月夜宮城野へ出で、「月は露露は草葉に宿りけり」という上句を吟じ、下の句を案ずること毎夜にして死す。それより夜ごとに出でて、右の上句を吟ずるゆえ、往来絶ゆる。雲居禅師、宮城野に出で椅子に凭ってまつ。深更に及び、児の霊出でて上句を吟ずるや否、禅師、下の句「それよりここよ宮城野の原」と付け、それより霊また出でず。その霊を白菊の宮とて、右の歌の短冊を神体とし、雲居寺にその祠あり、と。こんなに句偈の解や歌の下句などを思い入つて浮かばれざる霊が、その解や下の句を得て得脱し去ったという話、もと禅家より出たらしいと思うが、小生その例を知らず。ただ一例を知るが(唐代の支那、ただし禅家にあらず)、貴下は禅録など読まるる内に支那の例また日本でも徳川氏より前の例を知らば、御教示を乞う。貴君より示されたと明記して、小生一文を出したく思うなり。   早々敬具
  手が不自由にて字よめにくきゆえ、これだけにて本日は止め候。
 
          146
 
 昭和十三年六月十四日早朝
   岩田準一様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。八日出貴翰、十日午後〇時四十分恭なく拝受。御厚礼申し上げ候。本月十日の『大毎』紙和歌山版に、当地生れ浜田半七という人の小伝および写真出であり。和歌山版は当県にのみ配布され貴地には到らぬものゆえ、同封御(289)覧に入れ候。これは幼児より男子の性情を全く失い、女装女行して僧どもに奉仕し来たりたる有名の人物なり。貴下登山せばゆるゆると取り入り、然るべき方便をもって尋ねたら、いろいろの話を聞き得ることと存じ候。かかる人物の常としてなかなか容易に打ちとけて話さぬものに御座候が、今日野山にもこれほどの経験に富める人は少なく候。
 今一人何とか院の住職にて、比丘(尼)さんと通称する人あり。これも性情全くの女僧にて、有名なる権田雷斧師と夫婦のごとく多年偕老せる人なり。この人は小生かつて面識なし。(権田は妻を何度も替えたる人にて、北支、満州、蒙古等より来る 喇嘛《ラマ》僧も、そのやり方に呆るる由、田中香涯の書きしものに見えたり。)
 『新蔵人物語』は、横山重氏もいまだ一見せざる由なれば、なかなかの希書と存じ候。この物語の主人公は、女子ながら女子をきらい常に男装して蔵人として朝廷に仕えしが、時の帝これを寵愛したまいしことを述べたるものの由ながら、子細少しも詳らかならず。しかるときは、その帝はこの人を初めから女子と知って寵愛せしにあらずして、美少年として寵愛されたることと惟わる。いつごろの作か小生は知らざるも、そのころは帝にして男色を好まるる方が少なからざりしことと証に立つものと存じ候。(田楽役者などを宮中に召したことはしばしば読んだが、官人を寵愛されたることはその例を知らず。ただし徳川氏の世に、時として宮中に侍童を置かれしことは『光台一覧』に見え候。明治天皇の侍童に壬生鯉若丸と申すがありし。よほどの美少年なりし。この人は後に某内親王(または某女王)と婚せし。
 幽霊と僧の問答の例、貴書に洩れたるを一つ申し上げ候。それはかつて御恵送に預かりし『未刊随筆百種』の第八冊に収められたる、長谷川元寛の『かくやいかにの記』第一六段に、「柳亭翁読本『奴小万物語』(五冊中形本にもあり、一名『新とりかへばや物語』)の内、武蔵国石浜浄観寺の住僧果円が小万に恋々してこれを挑み、後に小万が浄観寺を立ち退く時に果円に対して、小万が歌の下の句のみ問いかけて、『たちそふ雲の迷ふ心を』、果円この上の句を案ずるうちに立ち去る。果円この句に執着して生きもやらず死にも至らずありけるを、津の国住吉郡津守寺の智識、(290)この上の句を詠じて果円を済度する。この歌の出所は、寛永十九年印本『秋の夜長物語』の内に、比叡山の律師けいかい三井寺の児梅岩丸に懸想して贈りし歌、『しらせばやほのみし花の面影に立ちそふ雲の迷ふ心を』とあるを仮用せり。智識が果円を済度の条は、上田秋成が『雨月物語』の内、青頭巾の条を仮用せしものなるべし」とあり候。
 また、かつて申し上げしか知らぬが、僧と児との問答にやや縁ある一語は、『百物語』(万治二年板)下巻に、広沢の月見、今の世にも翫ぶといえども、古えはことに人多く聚まりけるとなり。あるとき、沢に萍《うきくさ》茂りて月影水に映らず。人みな空しく帰りしに、宗祇も月見に出られけるが、水の上へ杖を投げて澤のばつとのきしとき、月の水に映りしをみて、「浮草をかきわけ見れば水に月、ここにありとは誰も知るまじ」と読みて、深く自慢したまいて、この歌をへぎに書き付け池の辺に立てて、また一首の歌を添え置きける、「この歌の心はしらじ、おそらくは定家家隆も釈迦も達磨も」と詠みておかれしかば、云々。その辺に児の宮とて禿祠《ほこら》あり、このほこらより童子一人出でて、われらも添歌をよまんとて読みけるとなり、「釈迦達磨定家家隆も知らせずば歌にはあらで牛の糞かな」。
 小生このほど金一円で、神戸より『野郎虫』一冊を購い、始めてこれを読み候に、西鶴始め諸書にかきたる男色の史略ともいうべき概説は、全くみなこの書より襲用したるものと判り候。その内に、歌舞妓若衆に「老若男女腰を抜かし、以作ちょいちょい死にまする〔五字傍点〕と声々に呼ばわる」とあり。春本に多き死にます死にますという詞は、初めは若衆の所作に魂を奪われしとき発せし讃辞にて、それがおいおい閨中|究境《くきよう》に達せしときの喊声となりしことと察し候。また、「まず野郎という子細は、金銀をやろうといえばこうたい〔四字傍点〕をこなたへ向けるということにて、やろうとは名づけ初めたり」。また吉田伊織の評に、「いつごろにか、やつこの茶の湯にあいてかうだい少しそこねてありしを、黒谷や押小路の焼物師がつくろうとの取沙汰なり、云々」とあり。かうだい〔四字傍点〕は後庭のことに相違なきも、語源は高台などにて茶の湯の詞にあらざるか。やつこの茶の湯とは、やっことはこの書にも見えたるごとく(浅木権之助の評に、随分のやっこなり、よき侍衆の鎗持なるべし、いかなるゆえにや、人よりにくまるること、熊坂の長範がごとし。人はた(291)だ心をおむくに持ち上はなきに、入らぬ奴の長刀かなと唄う人もあり。されども面体は見事なるところな(あ?)り)荒々しきをいう。茶の湯は廻して呑むものなれば、やっこの茶の湯とは荒男どもに輪姦されて肛門を損ぜしことならんと思うが如何。
 小生このごろ健忘にて弱りおれり。何かありふれたる書をよみたるに、「野郎を買うものはもっぱら自分よりも年上の野郎を好む」ということを言いたるがありし。わずかに五、六日前のことなるに、いかに思慮するもその書を思い出でず。貴殿御存知あらば御教示を乞う。
 新聞切抜きに出でたる半七という男は、きわめて醜き男なり。若いときより知ったものの言を聞き合わすに、いずれも少しも取りどころのなき顔なりといいおれり。男色の盛んなるエジプトなどでも、有名なる野郎に醜男多し。かつて明治十六、七年ごろ、上野博物館で「醍醐男色絵」を見しに、巻物の初めのところのみひろげありし。多くの稚児が一斉に左の方に向かい、なにか眺むるところなりし。それらの稚児の顔、いずれも俗にいうおたふく〔四字傍点〕ごとく、また老婆のごとく、一人も吉三、権八、牛若、久松ごときはなかりし。これ実際の写生にて、顔貌よりも主として床《とこ》上手を尊びしなり。
 小説『金瓶梅』を見るに、西門慶が潘金蓮に美服を買ってやる条件で、その後庭を犯し出血せしむるところあり。その他にも、他の女をその通りに行なうところあり。いずれも硫黄製のつば〔二字傍点〕ごときものなどを陽具にはめて行なうことを述べあり。かかることをして何の面白きことありや。一向分からぬことに候。いわゆる女悦の具がその所にあらざるに用いらるれば、一向女悦を起こさず、女大不悦となるはずなり。
 『よだれかけ』、『男色今鏡』、この二書小生見しことなし。大体どんな体のものに候や。       早々敬具
 
(292)          147
 
 昭和十三年六月十五日早朝〔葉書〕
 拝啓。前状に申し残せしことを申し上げ候。季吟の『源氏物語忍草』に、源氏が小君の男色を行ないしこと一向見えず。『湖月抄』には如何ありや知らず。『岩つつじ』には全くこのことなし。明治の二十年ごろ、故角田浩々歌客が『大毎』紙にいかにも自分の創見ごとくこのことを摘発せしことあり。しかるに、このごろ『江戸時代文芸資料』とか、『徳川時代文芸類聚』とか申す、国書刊行会または類似の会より出せる叢書中のなにかの小説中に(元禄より享保ごろまでの作)、『源語』に男色のことなしとは麁略な見識にて、実は小君のことがそれなり、と論じたるものありし。その書は小生には珍書でも何でもなきものゆえ、別に気に留めざりしが、今に至りいかに捜すも分からず。かかる論はこれをいい始めた者の名を旌表するが、後生われわれの義務と思うから、貴君御気付きあらば右は何の書なりや、御来示を乞う。    早々敬具
  また、これはすでに御気付きのことかと察するが、竹内寿庵の『越前名勝志』(元文三年成る)に、大野郡弁の滝は平泉寺の乾一里ばかりの山中にあり。いずれの時か平泉寺の児、名は和光、弁の君といえると志互いに浅からざりしが、いかなるゆえにや、和光この滝に入水して死す。弁の君これを恋慕して、同じく滝に入りて死す。よって弁の滝の名あり、と。日光山の弁の石が大輔公を念者とせるに反し、これは弁の君が和光の念者たり。一つの話が他の一つの話に拠って作られしにや。ただしは男色関係の者に弁の君と名のるもの多かりしにや。
 
          148
 
 昭和十三年六月十九日早朝
(293)   岩田準一様
                      南方熊楠再拝
 拝復。十五日と十六日出御ハガキ二通、昨日午前八時十分拝受。御下問餬餅は胡餅が正字に候。餬という字は糜なり、と『爾雅』註に見え、わずかに粥をすすりて生活することを餬口と申し候。糜は粥のことに候。胡餅というのは、もと餬(粥《かゆ》)と別物にて、『釈名』に、餅は并なり、麪を溲《しゆう》して合并せしむるなり、「胡餅は、これを作るに大いに、漫沍せるなり。また胡麻《ごま》をもって上に著くるを言うなり」とあり、後漢の代すでに大なる餅と胡麻をふりかけた餅との二説ありしなり。
 降って唐の白楽天が、「胡餅を寄せて楊万州に与う」の詩に、「胡麻の餅の様《よう》は京都《みやこ》に学び、麪|脆《もろ》く油|香《こうば》しくして新たに炉を出ず。飢?《きさん》の楊大使に寄せ与う、嘗《な》め看てもって興を輔《たす》くを得るや無《いな》や」。これは胡麻をふりかけた餅に相違なく候。しかし、『廷尉決事』に、「張桂、私《ひそ》かに胡餅を売り、のち蘭堂の令となる」、『続漢書』に、「(後漢の)霊帝、胡餅を好み、京師みな胡餅を食らう。のち董卓、胡兵を擁して京師を破るの応なり」、後漢の末に、「李進、数頭の肥牛を殺し、数十石の酒を提《だ》して、万枚の胡餅を作り、先きに持《じ》して軍を犒《ねぎら》う」、王隠の『晋書』に、「王羲之《おうぎし》、幼にして風操あり。?虞卿《ちぐけい》、王氏の諸子みな俊才なるを聞き、使をして婿を選ばしむ。諸子みな容を飾り、もって客を待つ。羲之独り東牀に坦腹して胡餅を食らい、神色自若たり。使|具《つぶ》さにもつて告ぐ。虞卿いわく、これ真にわが婿なり、と。誰なるかを問うに、果たしてこれ逸少なり。すなわちこれに妻《めあわ》す」などあるをもって見ると、以前東京の車夫等が食いし大福餅様の粗末な大餅ようのものと察せらる。
 さて『趙録』に、「石勒、胡を諱《い》み、胡物みな名を改む。胡餅を博炉という」。これは、その餅を焼く炉《かま》が広博《ひろ》いということで、餅が大きかつたと知る。それを石虎に至ってまた改めて麻餅と言ったとあるから、大きな餅に胡麻をふりかけて焼きたるなり。上に引く楽天の詩に「麪脆く油香し」とあるも胡麻の油の香なり。『幽明録』に、「(秦の)姚泓(294)の叔父なる大将軍の紹総司戎政、胡僧を召して問うに休咎《きゆうきゆう》をもってす。僧すなわち麪をもって大なる胡餅の形を為《つく》り、径一丈あり。僧、坐して上にあり、まず正西を食らい、次に正北を食らい、次に正南を食らい、余《あま》すところは巻いて、これを呑み、訖《おわ》ってすなわち起《た》ち去り、了《つい》に言うところなし。この歳五月、楊盛、大いに姚の軍を清水に被る。九月、晋の師、北に討って潁と洛を掃定し、明年、ついに?と鎬とを席巻して、泓を生禽《いけどり》にす」。
 和歌山にて神社の餅まきに、小さな円き餅をなげ了りて、最後に牛の舌とてこの形の大きな餅をなぐる。それを拾いしものは、次の年中、幸運つづくとて、大いに争うて拾う。巻きて食うたとあるから、胡餅はこの形なりしと察す。米国などでパンケイキ(いそなべ餅)と称し、そばの粉等をねり、この形にして焼くうち、その上に牛肉、鶏卵焼き、煮たる野菜等を並べ載せ巻き込み、焼き了りて食うことありし。そんなものと存じ候。
 『?素雑記』に、「胡餅とは胡人の常に食らうところなるをもって名を得たるなり」とあるはもっともな説にて、その餅一枚を食えば、飯一膳を食いし同様に働き得たることと存じ候。(胡人は常に騎馬するゆえ、馬上で食うに適用せしなり。)後世の物ながら、『癸辛雑識』に、「回々国、経るところの道中、沙碩数千里あり、草木を生ぜずして、また水泉もなく、塵沙目を?《くらま》す。およそ一月にしてはじめて能くここを過ぐ。毎《つね》に麪をもって餅を作り、おのおの水の一?《ひとかめ》を腰間に貯え、あるいは牛羊の渾脱皮《かわぶくろ》に水を盛って車中に置き、毎日|略《ほとん》ど餌餅を食らい、これを濡らすに水をもってす、云々」。胡餅はこんな必用より創作されたことと存じ候。
 日本で胡餅ありしことは、『続群書類従』三六四所収『新撰類聚往来』上に、諸羮および煎点の名を列せる内に胡餅あり。?(もち)、油?、次食《かいもち》、鰻頭、?飩(餅に肉をつつみこむなり。今いうパイなり)、曲勾《まがり》(今いうドーナッツ)、円鏡(かがみもちか)等と別に名を立てあり。小生知る限りこの書の外に胡餅見えず。故に、とにかく本邦に(295)も支那より伝えて胡餅という物ありしが、他の餅類ほど行なわれざりしことと察し候。「この分、涯分用意仕るなり。金岡圏、栗棘蓬、鉄酸?、鉄饅頭風情、いまだ所持せず候。御助成に預るは千万多幸の至りなり。また茶子果子の類は、山海の珍産を集めたく存じ候。尋ね出だせる分有之」とて、その名を次に列しあり。支那の料理書を伝えていろいろと製し試むる者ありたるなり。
 胡餅のことは、右にて大抵御分かりと存じ候。それがいつのまにか餬餅と書かるることとなりしなり。
 このごろ偶然、明代の初めにできし『遵生八牋』淫具の名を列せる内より、金剛?というのを見出だし候。串童を仕立てるときに使う棒薬《ほうぐすり》のことと察し候。        早々敬具
  右に引きたる諸書は、『古今図書集成』より見出だしたるにて、一々原書を調べたるにあらず。故に孫引きなれば、たしかに受け取り難きこともあるべし。
 
          149
 
 昭和十三年六月二十三日早朝三時認め、夜明けて出す
   岩田準一様
                 南方熊楠
 拝復。二十一日出御状、二十二日午後三時三十五分拝受。小生只今昼夜菌の精査写生にかかりおり、貴書を精読するの暇なきも、写生の彩色の乾くを待つひまひまにこの状を認め差し上げ候。左様にせぬと多忙に取り紛れ、そのまま打ちやり了るの虞れあるなり。
 雲門とは餅のことなる由、小生は従来一向知らざりしことに候。寒晒餅とは何のことか分からず。時代により、また同時代でも土地の差に随い、食物などにはいろいろと同名異品もあるものに候。
(296) 貴書に寒晒餅とはかき餅のことならんとあるも、小生幼時(明治五、六年より十二、三年のこと)和歌山市辺でかんざらし〔五字傍点〕と申せしは、冬中(主として大寒中)雪に米を埋めおき、雪が溶けて米粉を浸す。大寒あけてのち、その米をとり出し粉に磨《ひ》きたくわえおき、夏になりてその米粉で団子を作り、井より冷水を汲み、それにてひやし、砂糖を掛けて客に供するを寒晒《かんざら》しと申し候。そのころはまだ氷を蓄えて夏売ることはなかりしゆえ、かようのことをして井水にて冷やして珍物とせしなり。故にかき餅とは大いにかわった物に候いし。この田辺などでは、大寒中に氷に浸せし米の粉を貯うる等のことはなく、ただ三伏の暑きとき、米の粉でだんごを作り、また赤小豆を煮て砂糖を合わせ、水で冷やして用うるを寒晒しと申し候。それでは寒の字の意が分からず。惟うに、以前は和歌山と同じく、大寒の雪水に米を浸せしが、そののち横着になりて、炎天に団子を作り冷水に浸して用うるを、寒晒しと称するに及びしならん。
 餅を馳走として酒を飲むことは、当地のやや通人めきたる輩(主として大工、左官など)が出入りの家の餅搗きを手伝い、搗き了りてまだ熱き餅に大根おろしを加え、それを食いながら酒を飲むことあり。以前は東京でもせしことで、東京にて明治二十年前後承りしことあり。また禅僧が腹を固むるとて餅をもっぱら食うことも聞き及び候。厳冬に参禅修行するとき風を引かぬ由承り候。小生の前書はそんな禅家の風に説き及ぼせしにあらず。
 ただ貴下が餬餅とは何かと問われしゆえ、その答えまでに申し上げしにて、餬とは粥のことに候。『爾雅』疏に、濃き粥を糜《び》、うすき粥を鬻《しゆく》と申せしようなり。一説には稠《こ》きを?《せん》といい、希《うす》きを粥《しゆく》という、とあり。孔子の先祖、正考父という人の鼎の銘に、「ここに?《せん》し、ここに鬻《しゆく》し、もって予の口を餬《こ》す」。餬は鬻なりと『左伝』注に見ゆれば、餬は希《うす》き粥なり。餬口とはうすき粥を食いて生活するということで、まずは貧者か病者の生活状体をいうことと存じ候。これを糊口とかく文あり。『説文』に、糊は黏なり、とありて、ノリのこと、後世できたる『篇海』に、「水および麪を煮て粥を為《つく》る」とあれば、小麦の粉を水で煮たるなり。この辺で新たに麦が収《と》れたとき、これを粉にひき熱き(297)湯にて煉りて泥のごとくし、砂糖を入れ小児に食わすことあり、ハッタイなど申す。まずは、糊とはこのハッタイを湯で調えたようなものと存じ候。
 さて胡餅を餬餅と書きたるは、麦の粉を湯で煉って作りし餅とも解し得るが、これはリンゴを初め支那で来禽とかきしが、のち檎の字を作りて特にその木に生ずる果なることを示せしごとく(文林郎なる人初めてこれを種《う》えしゆえ、林の字を加うるという)、胡餅の食物たるを示さんとて餬の字を用い、胡の字に代えしものらしく候。胡餅のことは前書申せしごとく、初め胡人がもっぱらこの餅を用いしゆえ、胡餅といいしならん。餅というは雑穀にて作りしモチなり。稲米にて作りしモチは餅といわず?といい候。米を炊いて擣いて作るなり。米を粉とし溲《こ》ねて作りしは餌と申し候。ダンゴなり。黍《もちきび》にて作るダンゴを?という。胡餅は稲の多からざりし胡地で用いしものゆえ、稲の餅にあらず。粟やきび(今日の高粱)で作りしことと察し候。故に、支那の禅書にある胡餅は、日本のごとき稲米のモチにあらず、麦とかあわとかきびとかで作りしことと存じ候。真言宗に高野料理あるごとく、禅林にはまた禅林の調食法あって、いろいろと定規ありしことと存じ候。
 前書申し上げしごとく、『新撰類聚往来』(『柳亭記』上によれば、戦国の永禄九年の作らしき由)に、胡餅、?《もち》、油?(モチの油あげ、今日歓喜天に供うるごときか)、次食《かいもち》、【巻温】餅索、【大湯乳】餅、索餅、……円鏡(今日いう鏡餅か)、団粉(だんご?)と、餅の種品いろいろ列ねあり。羮類に、雲【月氈】羮、氈羊羮、【筍砂糖】羊羮、【驢?】腸羮、海老羮、白魚羮、鼈羮、魚骨羮、寸金羮、寸銀羮等あり。小生幼時上方の料理に筍羮《じゆんかん》というものありし。どんなものか記臆せず。羊羮もここにいえるは、今日多き煉り羊羮とは別のものと存じ候。(『嬉遊笑覧』に具《つぶさ》にせり。ただし、著者は上方の実物を見ず、ただ文献上の穿鑿をせしのみ。)
 これらの食物は、高野料理に柿の皮をうまく使うて鰹節同様の味を出すと等しく、魚骨羮とか鼈羮とか海老羮とか、外観や風味がなまぐさ物にやや似たものを作る腐心しながら、少しも魚鼈を用いざりしところが精進料理の妙にて、(298)つまり後庭や素胯をうまく用いて女陰同様にアッといわせたことと存じ候。故に外色を精進料理といいしなり。これをもって見れば、胡餅を直ちに今日擣き列べる米のモチと解するは不穿鑿にて、いわんや『碧巌』等に見えたる胡餅は一層日本今日のモチと異なったものと存じ候。餅に物を包んだとか、手を餅で拭うてのち食うたなどのことあるを見れば、前状に申し上げたる牛の舌様のものと存じ候。
 大坂籠城の時、女中部屋へその日その日の食料に餅をついて配りしということ、『お菊物語』とかいう物に見え候。そのころは今のごとく米を白げず、陣中でカラウスを用いたりとも聞こえ候。しからば玄米の餅をいかにして食うたか。これは胡人が胡餅を旅中に用意せしごとく、麁末なる牛の舌様のモチを胡人同様、水にでも浸し和らげて食いしことと存じ候。一体室町時代や戦国時代のモチはどんな風のもので、どうして食うたか、砂糖は享保以後ようやく内地で少しく作り出ずるようになりたるにて、足利氏から織豊時代には、アマズラ(アマチャという木またツルの煮汁)で味を付けたること、そのころの饗膳次第に見えたれど、それも貴人の用に供せしのみ。普通は大根おろし、また塩でも付けて食いしことと察し候。
 明治十六年、小生初めて上京せしとき、東京で魚を調うる醤油に砂糖入りあるを、はなはだ不快にて吐き出すこと毎度なりし。和歌山また大坂にては、生《き》じょうゆのみ用い、砂糖を醤油に和して魚肉を食えば寄生虫を生ずるとて、誰もみなこれを嫌うなり。只今はこの田辺ごとき僻陬にても、生《き》醤油で魚を食うものはほとんど見聞せず。四十年ほど前、小生この地に来住せしときは、米餅もっぱら売られて、村部より町へ物売りに出る男女は、みな米餅を買って中食とせり。今はそんなものを売る店一軒もなし。世間はこんなにかわりゆくなり。されば禅録に見えたる胡餅なども、実物は今日のモチとは全く別の物ならん。いわんや『碧巌』に見えたる胡餅においてをや。それを同一視するは、平教経が鉄砲を放ちて嗣信を斃し、源義平の十六騎は銃剣を用いて待賢門を攻めしと心得るようなりと存じ候。
 金剛?のことは、『遵生八牋』巻一三、高子論房中薬物之害条に出でたり。文長くして小生写生かたがた写出する(299)能わず。その中に、「その陰戸に納《い》るるものに、掲被香、暖炉散、窄陰膏、夜夜春あり。その肛門を塞ぐものに金剛?あり。こはみな皮膚に用い、気をもって腎家を感ぜしめて相|火《ほ》てらしめ一時《たちまち》に堅く挙《た》たしめて、ために情を助けて逸楽せしむ。これを用いて已《や》まざれば、その毒あるいは流れては腰疽となり、聚まつては便癰となり、あるいはその亀首を腐らし、その肛門を爛《ただ》らす。害は横?なりといえども、なお解脱すべし。内に一、二の理を得るあれば、いまだ必ずしもことごとく虎狼にはあらざるなり」とある。
 『金瓶梅』は大部のもので、西門慶が女の後庭を犯すところ、小生の記臆するだけで、李瓶児、王六児(この女は後を犯さるるを好みしと作りある)、潘金蓮三人あり。どの巻にあるか、ちょっと見出だし得ず候。二円か三円で買い得るものゆえ、買い入れて調べられたく候。小生眼わるく、左の眼に蝙蝠ごとき黒き翳点を生じ、久しく書を見ることならず。やや久しく見ると、水銀を斜めに注下するごとき幻像を生じ、電光ごとく閃くなり。故にこれだけ申し上げおき候。
 
         150
 
 昭和十三年六月二十八日早朝〔葉書〕
 拝復。二十五日出御葉書、昨日午後四時十分拝受。雲門のことにつき小生いろいろ示教申し上げたる由御言葉なれど、左様の儀は少しもなく、小生は雲門とは 餬餅のことなる由を貴状によって知りたるのみ。その餬餅のことにつき御尋ねありたるに付き、これは胡餅のことならんとて、胡餅のことを申し上げたり。その後『仏教大辞彙』巻一、雲門、餬餅の条を見ると、餬餅も胡餅も同一で、胡麻をつけたる餅なり、とあり。支那で餅というは稲の外の雑穀で作りし餅なれば、今日日本で申す稲米の餅とは異なり。また胡麻を付けたる雑穀製の餅というべきもの只今日本になし。むかし禅寺にそんなものを作り用いしというは、『新撰類聚往来』に、稲米の餅や鏡餅とは別に、特に胡餅の名を出し(300)あるにより知らる。これ以上何とも申し上ぐるを得ず。小生の禅友はいずれもこんな文字のことに頓着なきもののみなり。こんなことを問いにやると、大いに笑われ候。
 初めの御状にカキモチならんとありしが、むかしカイモチイといいしものと今日のカキモチと同物か否分からず。また今日のカキモチごとき物が雲門の時代(唐と五代の間)に支那にありしや知れず。近い日本でのことを申さんに、『和漢三才図会』や『訓蒙図彙』に出でたるヌメ、日野絹、ごろう、フクリン、紗綾《さや》、絹紬《けんちゆう》など、小生等の幼時日常目に触れたものなれども、しっかりどんな物か覚えず。小生より十二年下なる拙妻などは名も知らず。若い学者どもは書物を楯としていろいろと説けど、その実物が目前にあっても一々名を言い当て得ず。今二、三十年立ったら、到底何のことやら分からなくなるに決せり。その時になってサヤとは絹の一種なり、ヌメも絹の一種なりといわば、口上では事がすむが真実何一つ分かったるにあらず。雲門とは唐代の胡餅、胡餅は餅の一種というは、ヌメもサヤも絹の一種というに同じ。分からぬことを分かったように片付くるまでなり。さて雲門はモチのことと言わば、分かったようでも分からぬようでもあるというの外なし。胡餅は決して米餅《もち》でなく、雑穀製のものなればなり。また一袋一折とありたればとてモチに限らず。禅寺には多種の果や干果子や膏や羹を翫賞したればなり。
 悪児毒死のことは外国の例多く知るが、目が悪いから抄出し得ず候。日に四回占薬しおり候。         以上
                                          151
 
 昭和十三年七月三日早朝出〔葉書〕
 拝復。御ハガキ、昨日午後四時前拝受。御下問の『釈名』は二十篇より成り、後漢の劉煕撰、周公作といわるる『爾雅』、前漢末の揚雄の『方言』に次いで、支那字書中のもっとも古きものに候。前日の拙状に申し上げしごとく、その『釈名』すでに胡餅に二説あって、当時すでに正説定まらざりしなり。しかれば、古き胡餅はどんな物か、今日(301)日本でかれこれ申しても水掛けと存じ候。『金曾木』に記せる趣きは、江戸本郷の笹屋の果子店に売る胡餅を胡麻胴乱と呼びて古きものなり(胴乱という服玩具のこと『喜遊笑覧』に出でありと存じ候。図なきゆえ、たしかなこと分からず。むろん只今いうカバン胴乱とは多少ちがうものと察す)、今も十ばかり店のはなに排《なら》べおくなり(註に、胡餅、『釈名』に見ゆ)とは、蜀山の『南畝莠莠言』などを見て知るるごとく、当時の穿鑿家の恒として、日本の物をなるべく古今支那の名称に押し当つるをえらいことと誇りし癖より、胡餅は胡麻をふりかけたる餅という説に従い、胡麻胴乱という果子(胡麻をふりかけたる餅または胡麻入りの煎餅など)を、強いて後漢の『釈名』に出でたる胡餅に充てて、博識に誇りしまでのことに候。馬琴が仏《ほとけ》を浮屠家、タヌキを田乃怪などとこじつけたるに似たことに候。胡麻胴乱が胡餅たる証拠にならず。
 さて拙妻の亡父は、当地方の神職の頭領たりしが、当町近郊|磯間《いそま》の浜の猴神《さるがみ》社の祭儀は、十一月の中の申の日(か)の夜二時に行ないし。その節神に供うる餅は、長さ一尺、幅二寸、厚さ二分ばかりの薄き長方形の米餅の上下二面に胡麻を傳《つ》けたるものなりし由。『新撰類聚往来』の胡餅は、こんな物かと存じ候。また昨夜四十四年めに明の方密の『通雅』巻三九を見るに、胡餅は蒸餅なり、とあり。蒸餅はパンのことに候。糊餅と胡餅の同異は小生にちょっと分からず候。
 『嬉遊笑覧』上に見えたる貞幹の『集古図』、本多侯の『塵泥』などに、あるいは胡餅また雲門の図あらんか。二書共に小生見たことなし。『和名抄』にも、「胡餅、胡麻をもってこれに着く」とのみあり、和名なし。
 
          152
 
 昭和十三年七月五日早朝〔葉書〕
 拝呈。蜀山人の『一語一言』巻一、天和三年癸亥十二月十九日、京御菓子司本町一丁目北頬、桔梗屋河内大椽菓子(302)銘の条に、御茶菓子丸むし物の類の目録中第三五に、「ごまもち」あり。その前に「あんこかし」(今いうあんころ餅か)、その次にきんとん餅あるをもって類推するに、胡麻あえにしたる餅かと推察し候。これは古えの胡餅の遺製とも思われず。いわんや雲門と何の関係もなけれど、とにかく胡麻餅というもの、天和ごろ本邦の一部にありたる証拠までに申し上げ候。「右御菓子物京都御所方へ上げ申し候」とあり、次に「私にいう、天明八年十二月、桔梗星の見世戸ざして、その職断絶すという」とあり。京都に本店あり、江戸本町一丁目にその支店ありしことと見え申し候。
 当地六月末より連日風雨、小生は足も眼もわるく大いに困りおり候。写生記載のため、諸所より集まりおりし菌類ことごとく流失また潰崩、まことに当惑、雲門のことは小生にはさらに手蔓なく候付き、これにて切り上げたく、貴下徹底的にこれを識らんと思わるれば、手広く禅家の書籍手録を調べられたきことに候。雲門は胡餅のこととだけ識れたりとて、雲門在日すなわち唐末より五代の初中ごろの、今日の広東辺の胡餅とはどんな物だったか、ちょっと知るに方便はなきように候。『新撰類聚往来』のみに胡餅出であるをもって考うるに(『尺素往来』とか『庭訓往来』とかになし)、あまり禅林に弘通されざりし物と存じ候。              以上
 
(303)   昭和十四年
 
          153
 
 昭和十四年六月十九日午後四時半
   岩田準一様
                南方熊楠再拝
 拝啓。その後拙妻永病、小生も昨年七月二十七日負傷、その余勢のため今に時々不快、それがため久しく御不沙汰に打ち過ぎ候段万々御海恕を願い上げ候。
 今月十二日出状をもって、東京横山重君より交渉|有之《これあり》、氏と巨橋頼三氏と二人の手で三、四年前より出しおる『近古小説集』の内、稚児物語草子類として出板すべく用意中のもの左のごとし。もしこの外に貴殿御気付きの物あらば、その名を書き、只今どこにてその蔵本を見得べきやを御書き加え下されたくとの願い出に候。
 
             在処     未は二氏が未見の分、済はすでに写したもの
  稚児観音縁起     蜂須賀侯    未
  稚児の草子      醍醐三宝院   未
  上野君消息      前田侯     済
(304)  秋夜長物語    古梓堂文庫   同
  同(元和活字本)           同
  鳥部山物語      内閣      同
  幻夢物語       同       同
  松帆浦物語      同       同
  嵯峨物語(二種あり) 同       同
  弁の草子       同       同
  あしびき       藤井博士    同
  犬たんか(古活字本) 所在不明    未
  若衆物語       小田文庫(寛永丹縁本) 済
  同          私(横山氏)(明暦三年本) 済
  そうぎのたんか    私       済
  心友記        所在不明    未
  監物草子       帝国図書館   未
  清滝物語(寛文刊本) 静嘉堂     未          以上
『岩つつじ』と『藻屑物語』を脱せるは如何。
 右御返事下され候わば、小生より横山氏へ貴答を転致、その上は横山氏より改めて同氏手書を貫殿へ差し上げ、いろいろ交渉開始致さるべく候。
 右の外に、『日本随筆大成』第一輯巻九『異説区々』(一〇五頁)に出でたる『悋気講《りんきこう》』改名『隠れ里物語』のこと(305)を、横山氏へ注意せしに、氏は一向気付かざりしとの返事ありし。むろん見たこともなきなり。貴殿はどこかでこの物語を見たることありや。またどこにその蔵本ありや。これまた御教示を願い上ぐるなり。
 
          154
 
 昭和十四年九月十四日午後四時〔葉書〕
 拝啓。小生近ごろ耄碌に近づき記臆正確ならず。ただし、著しく感じたことは全くは遺忘せぬようなり。その一つとして今も思い出で候は、前年の貴状に小田原透頂香を売るに?童を遣いしとはしばしば人の言うところなるが、たしかな古い文献なしということなりしが、その後これはやはり拠るところあつてのことと見ゆるぐらいの御修正の御申し越しありしとほぼ記臆致し候。しかるところ近日読書の際、左の一条見当たり候付き、すでに万々御承知のことと察しながら、念のためここに申し上げおく。
 「小田原の町に入る時は七つのころ、つくづくここの名物を見るに、情がましき男色、われ劣らじと出で立ち、面々が店《みせ》にひとり二人、海道一の名物小田原外郎召しませいと詞の端に気を付け、ここもさながら優《やさ》しき商売、たとえば重之丞、折之介、小源太、竜之介とて風流なる名を付け、花やかなる商い、われ人土産にめしますは理《ことわ》り、丹前之介も相模屋の小源太というにて、二朱が外郎求め、小人が面ざしつくづく詠め、云々」。元禄十五年板、西沢氏次郎冠者作(一風のことという)『女大名丹前能』巻六。     早々以上
 
          155
 
 昭和十四年九月二十二日早朝〔葉書〕
 拝復。本月十六日出御状、十八日朝七時四十分拝受。本邦に一身両性を兼ねたる神あることを小生は承らず候。仏(306)教中にはあることかも知れず。ただし、只今たしかなことは思い当たらず候。ただし、明の徐応秋の『玉芝堂談薈』巻一一に、「二十八宿真形図に載するところの心房二星はみな両形にして、丈夫《おつと》・婦女《つま》と更《たが》いに雌雄たり」と見え候。『仏像図彙』などの二十八宿の図に、心房二星をおのおの両形に画きおらずと記臆仕り候。
 ついでに申し上ぐるは、百も御承知ならんが、宝永四年に出でたる善教寺猿算作『色道懺悔男』巻三の一を見ると、清見寺の膏薬を万能紫金膏と唱え、他国へも売りに出たように候(むろん多くはにせ物)。この段に、その売人の口上を載せあり。「あることないこと取り付け引き付け口を叩けば、ちらりほらりとここかしこより買手が出で、云々」とあれば、出まかせに口上を述べて地方をだましありくにせ物師がありしと見え候。さて駿河の本店で美少年がこの薬を売る図と、にせ物師が他国で売る図を出しあり。本店の様子を記して、「忝なくも神通印伝と衡朱印を戴き、御参勤の大名小名御乗物の内より、御国許の土産に小判や一歩をもって召し上げられ、夜は夜中を限り黒い格子に銅の行灯ともし、稚児や若衆数多集まり櫛の歯をひくごとく商う」とあれば、春画を商う者同様、夜の十二時、一、二時まで商いしは、一つは稚児若衆の色を衒うて、その方の客をひくためにせしことと分かり候。     以上
 
          156
 
 昭和十四年十一月三日早朝出〔葉書〕
 拝呈。先日御教示の仙台侯(吉村)が贋孝行者褒賞の状は、他の遺聞どもと合して、前月十五日、『旅と伝説』編輯人へ送りしに、十九日に受書参り候。たぶん今月の同誌に出ずべきも、今回時局中別刷本は不要と申し遣りおき候付き、別刷本差し上ぐること能わず。掲載の上報知申し上ぐべき間、折にふれ御覧下されたく候。
  余白あるに付き珍条を抜書して差し上げ候。ただし、例のごとくもはや御存知のことかも知れず。清人随園編『新斉諧』巻二三に、「薙正の間、桂林の蔡秀才、年少にして美しき風姿あり。春日、戯場にて戯《しばい》を観る(307)に、旁らにその臀《しり》を摩《な》ずる者あるを覚ゆ。大いに怒り、まさに罵ってこれを殴らんとして回面《ふりむ》けば、すなわちその人もまた少年にして、貌《かお》さらに己《おのれ》よりも美し。意すなわち釈然とし、転《かわ》って手をもってその陰を模《さぐ》る。その人、喜び意外に出で、重ねて衣冠を整え、前に向かい揖《おじぎ》して姓名を道《い》う。また桂林の富家の子にして、読書していまだ?《はん》に入らざる者なり。両人ついに手を携えて、行いて杏花村の館に赴き、燕飲して誓いを盟《かわ》す。この後、出ずるには必ず同車し、坐るには必ず同席す。彼此《たがい》に香を薫《た》き面《かお》を剃り、小袖窄襟、鳥の雌雄を知らざるがごとし。城中の悪棍《ごろつき》王禿児、無人の処を伺い、まさに強姦せんとす。二人|可《き》かず。ついにこれを殺し、屍を城角の陰に横たう。両家の父母、官に報じて相|験《あらた》む。捕役、禿児の衣上に血あるを見、擒《とら》えてこれを訊《しら》ぶれば、情《まこと》を吐き法に伏す。両《ふたり》の少年は、平時|恂々《じゆんじゆん》として文理通順なりき。邑人これを憐れみ、ために廟を立つ。祀るごとに必ず杏花一枝を供え、双花廟と名づく。たまたま祈?するものあれば、立ちどころに応ぜざるなし。これに因《よ》って香火すこぶる盛んなり」。この次に、邑令これを淫祠として毀たしめしに、両少年夢に現じ、その邑令の平素の悪事を挙げ、汝死期近しという。邑令惧れて廟を再建せんと思いしが躊躇するうち、贓罪発覚して絞刑を受けた、と載す。この書にまだ一例あるが冊数多くて今見当たらず。本邦の児……神、児……尊などいううちには、たまたまこんなのがあるかも知れず。      敬具
 
          157
 
 昭和十四年十一月八日午後七時半〔葉書〕
(第一ハガキ)
 御ハガキ今日拝見。『新斉諧』巻一九に兎児神の一条あり。『夜譚随録』に、一書生、隣家の厠と自分宅の間の煉瓦を除きおき、隣宅主人の女が厠に登るごとにその私処を覗い、楽しみとした罰で眼がつぶれた記事あり。兎児神の一条には、美少に対して同様のことを行ないし記事あり。一九の『膝栗毛』(上野草津辺)に、美婦が上厠せるところ(308)を覗きて大いに詈《ののし》られるところあり。(ただし私処でなく、その顔貌を覗きしなり。)米国にありし日、私処を覗き罰せられた牧師ありしが、日本ではあまりその実記なきようなり。いわんや美少の記事においてをや。そんなことをする者を神とするなど、東方支那にはよほどこのことが流行すると見え候。
 「国初(清朝の)、御史某、年|少《わか》くして科第し、福建に巡按たり。胡天保なる者あり、その貌《かお》の美しきを愛し、輿に升《の》り堂に坐るごとに、必ず伺いてこれを睨《み》る。巡按、心にもって疑いとなすも、卒《にわ》かにはその故を解せず。胥吏《しより》もまたあえて言わず、居《お》ること何《いくば》くもなくして、巡按、他の邑を巡る。胡|竟《つい》に偕《とも》に往き、陰《ひそ》かに厠所に伏し、その臀を窺う。巡按いよいよ疑い、召してこれを問う。初めはなお言わず。加うるに三木《かせ》をもってするに、すなわちいう、実に大人の美貌なるを見て、心に忘るる能わず、明らかに天上の桂と知る、豈《あ》に凡鳥の集《とま》るところならんや、しかれども神魂飄蕩として、覚えず礼なきことここに至る、と。巡按、大いに怒り、その命を枯木の下に斃《たお》す。月を逾《こ》えて、胡、その里人に夢に託していう、われ非礼の心をもって貴人を干犯《おか》したれば、死は固《もと》より当然なり。畢竟これ一片の愛心、一時の癡想にして、尋常の人を害せる者と同じからず。冥間の官吏、倶《とも》にわれを笑い、われを揶揄し、われを怒る者なし。今、陰官われを封じて兎児神となし、もっぱら人間《ひとのよ》の男の男を悦《いつく》しむことを司らしむ、わがために廟を立て香火を招くべし、と。?の俗もと男子を聘して契弟となすの説あり」。
 
          158
 
 昭和十四年十一月八日午後七時半〔葉書〕
 (第二ハガキ)
 「里人の夢中の語を述ぶるを聞き、争って銭を醵して廟を立つ。果たして霊験響くがごとし。およそ偸期密約、求むるところあって得ざる者はみな往って?る。程魚門いわく、この巡按は、いまだ『晏子春秋』の羽人《うじん》を誅するなかれ(309)と勧むるのことを読まざるがごとし。故に手を下《くだ》すこと太《はなは》だ重《きび》し。もし狄偉人先生ならば、すこぶる然らざらん。相伝う、先生、編修たりし時、年|少《わか》く貌美し、車夫の某あり、また少年にして長身なり、府に入って先生のために車を推《お》し、はなはだ勤謹《つと》む。?直銭《やといちん》を与うるも受けず。先生もまたこれを愛す。いまだいくぱくならずして病危うく、諸医も効あらず。まさに気《いき》を断たんとして、主人の至るを請いていう、奴《われ》すでに死なんとすれば言わざるを得ず、奴の病んで死に至れる所以は、爺《だんな》の貌の美しきを愛したるがための故なり、と。先生、大いに笑い、その肩を拍《たた》いていう、痴奴子果たしてこの心あらば、何ぞ早く説《い》わざりしや、と。厚くこれを葬る」。
 ここに兎児神といえるは、西洋でハイナ獣、支那で類(香狸一名霊猫)という獣が「みずから牝牡となる」(牝にもなり牡にもなりて交接し得る)という。これは、これらの獣、牡は陽具と後門の間にまた一の穴あり、女陰の形に近し。香分(霊猫香という)を排泄する具なり。それを古えは一身に陰陽の雨具を備うと見たるなり。牡兎にもそんな穴あり。よって兎を外色守護の神とせしことと存じ候。(欧州で近古まで、兎身両具を兼ね備えたと信じたること、ブラウンの『俗説弁惑』等に見えたり。)         敬具
 
          159
 
 昭和十四年十一月十一日午後九時半〔葉書〕
 拝啓。九日出御葉書今朝拝受、御礼申し上げ候。贋孝行のことはすでに相済みたるゆえ、この上類話御示し下さるに及ばず候。さて、小生このほどなにかで読みたるは、曲直瀬道三、多くの弟子の内に、霍乱をハクランと訓む者あり。他の弟子これを笑いしに、その弟子は下流社会の人で、下流の者どもみな霍乱をハクランと唱える、霍乱を霍乱と心得た人々は霍乱の治療を専一と心得がけて出精すべく、ハクランと心得た者はハクランをことごとく療せんと心得て出精すべし(要は病名の正誤などは第二で、治療が第一なり)、と論したという。たぷん『翁草』にあったと思い、(310)くり返しくり返し尋ぬるも見当たらず、大いに弱りおる。貴下もし御心当たりあらば御知らせ下されたく候。ついでに申す。通和散を安入散《あんにゆうさん》ということは御存知にや。小生知るところ、作者不詳の『西鶴伝授車』(西鶴、閻魔大王の幇間ごときものとなり、山村長太夫という女方役者の坐頭が、冥府に入って大王の愛妾に通ずる次第を書いたもの)の外に、この薬名を見た覚えなく候。    早々敬具
 
          160
 
 昭和十四年十一月十四日早朝〔葉書〕
 拝啓。家康公は騎馬の名人なり。小田原征伐のとき、どこかの険阻な所を行軍するに、狭く深き谿に臨む。堀秀政等諸将、いざ家康が騎馬で谷を飛び越ゆる芸道を睹んと一同望みおると、家康|徐《しず》かに馬より下り谷底を馬を曳いて上下せしめ、決して飛び越えなんだ。これを視る者大いに感心したと何かで読みし。その書はこの書斎内にあるも、どう探しても見当たらず。この話何の書にあるか御存知ならば御教え下されたく候。『駿河土産』(『続史籍集覧』にあり)に、家康臣下に訓えて、道を急げばとて騎馬で澗《たにがわ》を飛び踰えなどすべからず、さようのことをすると馬大いに疲れて急な場合に役に立たぬ物なり、と言いしことを記するも、ただ言ったとばかりで、実地に馬を下り曳かせて谷底を迂廻したということは見えず。    早々敬具
 
          161
 
 昭和十四年十一月十五日早朝〔葉書〕
 拝啓。前書をもって伺い上げ候家康谷を踰ゆるに馬より下り道路を迂廻せしめし話は、昨日、蘇峰の『近世日本国民史』家康時代下巻に『徳川実紀』より引きあるを見出だし候間、貴所においてこの上御捜索下さるに及ばず候。
(311) この葉書余白多きゆえ、左の一件申し上げ候。清の乾隆中、四庫全書を校合して大博識家たりし紀ホの『槐西雑志』巻二にいわく、「某公、一の?児を眷《いつく》しむ。性柔婉にして市井《げひん》な態《ようす》もなく、また寵を恃《たの》んで驕縦《おご》る意《きもち》もなし。たちまち泣涕すること数日にして、目ことごとく腫る。怪しんでその故を詰《と》うに、慨然としていう、われ日々枕席を薦《すす》むるも、殊《こと》にみずから覚えず。昨《きのう》、寓中にて某と某童の狎《した》しむを、われ穴隙より窃《ひそ》かに窺うに醜きこと言いがたし。状《さま》は横陳《よこたわ》れる女とは?《はる》かに殊なり。よってみずから思うに、われ一男子として汚《けが》れを受くることかくのごとく、悔ゆるも追うべからず。故に愧《は》じ憤《いか》って死なんと欲するのみ、と。某公、譬解《さとしきか》すること百方つくせども、終《つい》に怏々として釈《と》けず。のち竟《つい》に逃れ去る。あるいはいう、すでに姓名を改易し、読書して?《はん》に遊ぶ、と。梅禹金に『青泥蓮花記』あり。この童のごとき者は、また青泥蓮花に近からんか」と。
 『青泥蓮花記』はどんなものか、いまだ見ざるを遺憾とす。惟うに、本邦にも野郎俳優が突然開悟して遁世せし者少なからず(西鶴『大鑑』にも二、三見ゆ)。遁世の理由中にはここに見えた通りのものもありしことと察す。必ずしも『大鑑』に見えたる藤村向太夫や玉村主膳の弟子浅之丞ごとく、恋情より遯世せしに限らず。中には男子として川竹の身流れの身と生まれしをはかなく感じて出家せしものも少なからざりしと考え候。
 
          162
 
 昭和十四年十一月十五日午後十一時半
   岩田準一様                                         南方熊楠再拝
 拝復。十四日出御状、本日午後四時拝受。道三のハクラン買いのことの出処知れざる由。これは十日午前この書斎の内にあるなにかの書で見たるを、すぐさま控え置かず、ついに忘れ了り、今となって後悔はなはだし。他日御見出(312)だしあらば御一報下されたく候。
 『野郎絹ふるひ』の一文、御抄示下され難有《ありがた》く御礼申し上げ候。露点というは何の訳か知らねど、多く例を見て察するに、亀頭のことをいいしと存じ候。「美しい顔をねじむけて……」等の記事とほとんど同文句が支那にもあり。『杏花天』という小説に、俊卿とかいう青年が花生とかいう女形役者をするところにありしと記臆致し候。「髪の髷目冷冷と大尽の鼻の尖へ当たりよい気味」という文句は、小生がただ一つの安入散なる語の出でたる物と心得おりし『西鶴伝授車』(正徳六年京都刊)にも出でおり候。その巻四「紫は江戸に極まった額付き、安入散から取り入れた奥方」という章に、聖僧どもが野郎を愛する記事あり、「夜の更くるを惜しう思うて〇〇〇(四十一字欠字)には髪の髷目の折々は、酒機嫌の鼻先へ冷々めく塩梅どうもならぬところが、年来貰い溜めし衡布施の封〆解いて、この金本釆無一物貰わぬ先じゃと思えば事がすむと、観音経の懸銭まで、根から打ち込む了簡、云々」とあり。よって思うに、春画本の文句などは大抵当時流行の小説を剽窃するものなれば、『野郎絹?』の文句は、『伝授車』あたりから取った物で、『野郎絹?』は正徳六年ごろの作と察し申し候。件の、紫は江戸に極まった云々の章に、小姓より野郎の趣きが優れることを述べあり。
 宝永七年筆『俗枕草紙』巻二に、叡山の稚児と密会するに、「盃そこそこに仕舞いて添寝の夢見るうちにも、いずれ歌舞伎様のしだらくなる類にはあらずながら、げには武士方などの少年とは違い、物柔らかにして諸事いうままにならせたまうこそ神ぞ命《いのち》なれ、云々」とあり。寺の稚児、武家の小姓、歌舞伎野郎、それぞれ趣きが異なり、人の好みもかわりおりしことと見え候。
 今夜眼が悪いが、余白あるゆえ、清の紀ホの『槐西雑志』より文一条抄出、御覧に入れ候。
 「先師|汪文端公《おうぶんたんこう》いわく、異覚を謀り害《ころ》さんとする者あり、善計のなきに苦しむ。黠《わるがしこ》き者あり、密偵してこれを知る。陰《ひそ》かに薬を裹《つつ》み、もって献じていう、この薬腹に入ればすなわち死す、しかれども死する時の情状は病にて卒すると(313)異なるなし。骨を蒸してこれを験するも、また病にて卒すると異なるなし、と。その人大いに喜び、これを留めて飲ます。帰ればすなわちこの夕をもって卒す。けだし。まずその薬をもってこれに餌《くら》わせ、口を滅ぼすの計をなせしなり、と。公よって太息していわく、薬を献ぜし者は、人を殺してもって人に婚びんとして、先にみずからを殺せしなり、その薬を用いし者は、先に人を殺してもって口を滅ぼさんとしたるも、口は終《つい》には滅ぼすべからず、紛々たる機械《たくらみ》、何をかなさん、と。張樊川《ちようはんせん》前輩、時に座にあり、よっていわく、?童を好む者あり、一の宦家の子を悦《みそ》む。度《はか》るに理《かかわり》を得べくもなし。陰《ひそ》かに愛するところの姫《そばめ》に属《たの》み、媒《なかだち》の嫗《おうな》に託してこれを招き、約して別墅《べつしよ》に会せしめ、まさに執《とら》えて脅《おびやか》し汚《けが》さんとす。期《とき》と届《な》り、すでに至れると聞き、疾《はし》り往つて掩《おそ》い捕えんとして、突《にわか》に足を失い荷塘《はすいけ》の板橋の下に堕つ。ほとんど頂《あたま》を滅《しず》めんとして、喧呼《さけ》んで掖《たす》け出だされしときは、すなわち宦家の子はすでに遁れ、姫はすでに鬢乱れ釵《かんざし》横ざまなり。けだし、この子の美秀はなはだしければ、姫もまたこれを悦《いつく》しめる故なり。のち故なくして閤《つぼね》を開き、この姫を放つ。婢嫗すなわち稍《しだい》にそのことを洩らす。陰《ひそ》かなる謀《はかり》は鬼神の忌むところなりとは、ほとんど虚《いつわり》ならず」。
  妻や妾を囮として美少年を誘い、これを姦せんとする咄、西洋に多し。日本には特に聞かぬようなり。(巻一に出ず。)
 「簧村より豊宜門(俗にこれを南西門と謂う)に至るおよそ四十里は、泉源水脈の絡帯《つなが》り鉤連《つづ》き、積雨《ながあめ》の後は汚潦沮洳《ぬかるみ》て、車馬すこぶる阻滞《とどこおり》をなす。李秀なる者あり、空車を御して固安より返るに、少年を見る。約十五、六にして、媚麗なること妓女のごとし。泥塗に??《あしとら》れて、状はなはだ困憊《こんぱい》す。時に日すでにまさに没せんとす。秀の行き過ぐるを見て、付載を欲するの色あれども、?《は》じ阻《はばか》つて言わず。秀は故《もと》より軽薄なれば、挑んで与《とも》に語り、これを邀《むか》えて同車せしむるに、忸怩《じくじ》として上る。沿途にて果餌を市《か》い、これを食わすに、またはなはだしくは辞《ことわ》らず、ようやく相《たがい》に顔を軟《やわら》ぐ。間《ま》ま調謔をもってするも、面《かお》を?《あから》めて微笑するのみ。行くこと数里ののち、その貌《かお》を視るにやや蒼きに(314)似たるも、なおもって意となさず。また行くこと十余里にして、暮色昏黄となり、眉目のまたしだいに改まるに似たるを覚ゆ。まさに南苑の西門に近づかんとするに、すなわち広き?《ひたい》、高き顴《ほおぼね》となり、?々《れんれん》として鬚あり。みずから訝《いぶ》かって目|眩《くるめ》くも、あえて語を致さず。逆旅に至って車を下りる比《ころお》い、すなわち鬚鬢《しゆびん》皓白にして、一の老翁となる。秀と手を握り別れを作《な》していう、君に愛せらるるを蒙り、感を懐《いだ》くこと良《まこと》に深し、ただ暮歯衰顔にして、今夕|榻《とこ》を同じうするに堪えず、相負《あいそむ》くを愧ずるのみ、と。一笑して去り、竟《つい》に何の怪たるかを知らず。秀の表弟は余が府の役《したやく》たり。かつて秀のみずからこれを言い、かつみずから少年|無状《ぶらい》にして狐鬼の侮りを招くことを致せるを悔いしを聞く」。
 因果居士という者、自分の親を自在に変えしこと、何かでよみたり(『義残後覚』と覚ゆ)。それに似たる怪術家にや。(これも巻一に出ず。次また同じ。)
 「文□(この一字磨滅す)王岳芳いわく、楊生《ようせい》なる者あり、貌?麗にして、みずからあるいは強暴に遇わんことを慮《おもんぱか》り、すなわち技撃を精《くわ》しく習う。十六、七の時、すでに数十人を敵《あいて》とすべし。会《たまた》ま通州に詣《いた》って応試し、しばらく京城に住す。たまたま独り陶然亭に游び、二《ふたり》の回人に遇う。強いて遨《むか》えられて酒肆に入り、心にその意を知る。姑《しばら》く与《とも》に飲み?《くら》い、かつ故《ことさ》らに珍味の食を索《もと》む。二の回人喜ぶことはなはだしく、よって誘いて空寺に至り、左右より挾《さしはさ》んで坐し、遽《にわ》かに懐に擁す。生《せい》は一手もて一人を按《おさ》え、並びに地に※[足+倍の旁]《たお》し、足をもって背を?《ふ》み、おのおの帯を解いて反接《うしろでにしば》り、刃を抽《ぬ》いて頸に擬していう、あえて動く者は死せん、と。その下衣を褫《は》いで、並びにこれを淫し、かつこれを数《せ》めていう、爾輩《なんじら》年三十に近し、豈《あ》に狎昵《こうじつ》に供するに足らん、しかれども、爾輩は人を汚せること多し、われは孱弱《かよわ》き童子のために復讐せるなり、と。徐《おもむ》ろにその縛を釈《と》き、臂を掉《ふ》って径《ただ》ちに出ず。のち岳芳と同行するに、たまたまその一《ひとり》に途《みち》に遇い、これを顧みて一笑す。その人、面《かお》を掩《おお》い鼠竄《そざん》して去る。すなわち、岳芳のために具《つぶ》さにこれを道《い》う。岳芳いわく、命を?《そこな》いし者には命を還さしめ、財を攘《うば》いし者には財を還さしむるは律なり。こはまさに相償うべきものなり。惟《た》だ人を淫せる者には、罪を治《こらし》むるの律あれども、かえって淫を受けしむるの律なし。こはまさに(315)償うべからざるものなり。子《なんじ》の所為《しよい》は、これを快心なりと謂わんにはすなわち可なるも、これを合理なりと謂わんには、すなわち未《いま》だしなり」。
 仏経には、地獄にて男色を犯せし者、後庭より銅湯を灌入さるる刑にあうことあり。恵心僧都の『往生要集』等に出でたりと記臆す。『観仏三昧海經』なりしか『正法念処経』かにも、男色を好みし者、地獄に堕ちて、絶好の美童に抱かれ、うれしと思う刹那、自分の体が焼失さるることあり。     早々以上
 
          163
 
 昭和十四年十一月二十日夜十時出〔葉書〕
 十九日出御葉書にて御下問の難読字は、左右挾〔傍点〕坐、……擬頸曰敢動〔二字傍点〕者死、……且数〔傍点〕之曰(数〔傍点〕は責〔傍点〕むること)……豈〔傍点〕足供狎昵、……岳芳曰?〔傍点〕命者使還命(人の命を取った者は命を還さしむ)。
 また『槐西雑志』巻二に、「およそ女子の淫佚は情欲の自然に発す。?童はすなわちもとこの心なし。みな幼にして紿《あざむ》きを受け、あるいは勢もつて劫《おびやか》され利もって餌《いざな》われしのみ。相伝う、某臣室、狡童に狎《した》しむを喜び、しかしてそのあるいは愧《は》じ拒むを患《うれ》う。すなわち端麗なる小児にして、いまだ十歳を過ぎざる者を多く買い、諸童と与《とも》に?戯《せつぎ》する時、燭を執って側に侍せしむ。種々の淫状、久しくして見慣れ、視て当然のごとし、三数年を過ぐればやや長じて御すべく、みな流れに順《したが》う舟となる。供養するところの僧あり、これを規《いまし》めていわく、このこと世に恒《つね》にあるところなれば檀越《だんおつ》を禁じて然るを為さざらしむる能わず、そのみずから願うところに因《したが》うのみ、これを妓を挾《いだ》くに譬《くら》ぶれば、その過《とが》なお軽きも、処心積慮《しよしんせきりよ》して赤子の天真を鑿《ほ》るがごときは、すなわち千神の怒らんことを恐る、と。某、従う能わず、のち禍いに罹《かか》って卒す。それ術もて取《うば》うは造物の忌むところなるに、いわんやこのこと、術をもって取《うば》うをや」。理論はこの通りなれども、諸国でこんなものを育て仕立つるには、みな「種々の淫状、久しくして見慣れ、(316)視て当然のごとし。三数年を過ぐれはやや長じて御すべく、みな流れに順《したが》う舟となる」という方法を用いしことにて、妓を仕立つると少しもかわりなしと存じ候。     早々敬具
 
          164
 
 昭和十四年十二月二日午後一時半〔葉書〕
 拝呈。『明良洪範』次第巻七に、「久留米城主有馬玄蕃頭頼利(『藩翰譜』系図に、豊氏の嫡子兵部大輔忠頼の子、寛文五年叙任、同八年六月二十四日卒す、十七歳、とあり)十七歳にて死せしゆえ、(その妻を)舎弟中務大輔頼元に録(この字小生忙ぎ写したので自分ながら読めず)せられけるようにとおのおの申す。『永らへてありつるほどの泛世ぞと思へばのこる言の葉もなし』と詠じて、一生貞烈を改めず。鎌倉英勝寺という尼寺に住む。仙洞へ聞こえければ、円浄法皇御製、『言の葉の長く短き身のほどを思へばぬるる袖の白露』。この婦人は水戸相公(頼房)御女なり。鎌倉へ越すとて駅路の傀儡女の人を招くを見たまい宣いけるは、女ほど賤しき者はなし、男の売者というはなきに女をばかくあさましく売者まで出ずることかな、みな宿運の拙きが致すところなり、われ今孀婦となりて恥を見ぬことこそ大いなる宿恩なりとて一入《ひとしお》堅固の御意になりたまうとなり」と出ず。寛文八年ごろに男子の売り者(野郎)は江戸鎌倉辺に絶無なりしか、このこと不審に存じ候。寛文中、江戸のはやり物を謡いしものに野郎ということありしよう、『一話一言』か何かで見及びたるが、寛文八年後に野郎がはやり出せしにや。このこと御一考を乞う。         敬具
 
          165
 
 昭和十四年十二月六日夜九時〔葉書〕
 拝呈。五日出御葉書、今朝八時五分忝なく拝受。『紫の一本』は座右に有之《これあり》候も、御示しのことは気付かずに有之(317)候いし。貴翰に随い『芝居町へ御触書』を見るに、寛文二年正月十九日の申し渡しに、野郎ども乗物にて方々歩き候由聞こし召され候間、云々、とあり。されば有馬侯世子夫人が落飾して尼寺に入りし歳には、江戸の野郎は多からんこと明らかに候。この夫人はそんなことを知らざりしなりと分かり候。
 余白あるゆえ、『新斉諧』巻二一より一条を左に抄す。
 「崇正の時、某相公みずから言う、蔡京の後身にして、仙官をもってして地獄に堕ち、世間にて『仁王経』を誦するごとに、耳目これがために一たび亮《あき》らかとなる。また罰せられて、揚州の寡婦と作《な》り空房を守ること四十年間なりき、と。故に癖好はもっとも奇にして、美婦の臀《しり》、美男の勢《へのこ》を観るを好む。以《おも》えらく、男子の美は前にあり、女子の美は後ろにあり、世人これを易《か》うるは色を好む者にあらざるなり、と。常に女をして袍褶《ほうしゆう》を衣《き》しめ、男をして裙釵《くんさい》を飾らしめ、しかしてその臀《しり》と勢《へのこ》を摸《な》で、もって昧外の味を得たりとなす。また常に戯れに姫妾と優童数十を取って、被《かずき》をもって首《あたま》に蒙《かぶ》らしめ、その下体を露わしめて、互いに某郎・某姫なるを猜《あ》てしめて、もって笑楽となす。内閣の供事に石俊なる者あり、微《いささ》か姿《みめ》あって、私処はなはだ佳《よ》し。公、甘んじて※[口+匝]《ねぶ》り弄ぶをなす。書を求むる者あるも、石郎の墨を磨《す》るにあらざれは得べからざるなり。臀を号《なづ》けて白玉綿団といい、勢を紅霞仙杆となす。」
 これは倒錯のはなはだしかりし人で、美男に自分の後庭を犯さしめ、自分また美婦の後庭を犯すを好みしなり。内閣の供事たりし石俊という微《すこ》しく姿ある男は、臀勢共に最良とあって、もっとも愛幸せしなり。西洋にはかかる倒錯者をしばしば記しあるが、支那にはこの外に見及ばず候。             以上
  当世何もかも悪く、筆が悪くてはなはだ書きにくく候。
 
          166
 
 昭和十四年十二月八日早朝出〔葉書〕
(318) 拝復。御下問の『明良洪範』は、当町図書館にある古写本を、小生往年抄写せしものに候。たしかに何巻ということ控えおらず。小生抄せしところは、本篇二十五巻、次篇十巻なり、第一〇巻に上下二巻あるゆえ、すべて三十六巻となる。小生抄せし条々、次篇第六巻に、蒲生源左衛門郷長は氏郷小姓達坂小伴という、云々、という長き一条あり。その直後に次篇第七巻の初めに、有馬未亡人の一条、次に関東役後大和郡山城明け渡しの一条、大坂落城後加藤忠広の臣成田弥兵衛、計略して橋杭を抜き去りし一条、本多政武の臣三浦忠右衛門、元禄中姫路の経済を改良せし一条、堀部弥兵衛無筆をかくして浅野家へ祐筆に住み込みし一条、その次に今大路道三ハクラン病の話とつづきて写しおり。次篇巻八よりは、熱田の社事毎に名古屋と宮の人民闘争する例なりし一条を初めに抄しおり候。大抵その順序にて御捜しあれば、有馬未亡人の一条は、図書刊行会本の何巻にあるということ分かるべく候。     以上
  小生の抄せし本には今大路道三とあって曲直瀬とはなし。曲直瀬はマガセにあらず、マナセと訓ませ候。
 
          167
 
 昭和十四年十二月十日午後九時〔葉書〕
 『新斉諧』(袁随園著)巻二一に、「回々は病んで薬を飲まず。老いたる回々の医を能くする者あり。薬一桶を熬《わか》し、病者をして覆身《はらばい》に臥せしめ、竹筒をもって穀道《こうもん》の中に挿入し、薬水を熱に乗じて灌《そそ》ぎ入れ、大いなる気力《いき》を用《も》つてこれを吹く。少頃《しばらく》して腹中に汨々《べきべき》として声《おと》あらば、竹筒を抜き出して一瀉して病|愈《い》ゆ」。古ギリシアに陽根に薬を傳《つ》け穀道中に挿入せしめて病を療するの方ありし。回々のはこれより転成せしならん。
 同巻に、「石婦の二字は『太元経』に見え、その来たれること久し。半男半女の身に至っては、仏書またしばしばこれを言う。近くまたいわゆる石男なる者あり。揚州の厳二官、貌はなはだ美しくして、人の与《とも》に狎《した》しむものなし。その穀道は細くして緑豆のごとく、下穢《へのこ》は線香のごとし。昼に粥|一盂《ひとはち》、酒数盃、蔬菜|些須《すこしく》を食らうのみ。多ければす(319)なわち腹中|暴《は》り脹《ふく》れ、大便の時痛苦異常なり。」これ足利氏の世以来、字書に見ゆるスバリのことと見ゆ。八文字屋本に美童を世話人方へつれゆき、スバリのため及第せずにつれ帰る話ありし。
 巻一七に、「五台山の僧、清涼老人と号するもの、禅理をもって鄂相国《がくしようこく》を受知《みしら》る。雍正四年、老人卒するや、西蔵《チベツト》にて一児産まる。八歳にして言《ものいわ》ず。一日、剃髪して呼《さけ》んでいわく、われは清涼老人なり、遠くわがために通知せよ、と」。鄂相国これを召し語るに、老人前世のこと通ぜざるなし、「道旁に観る者万人、みな生仏と呼んで羅《つらな》り拝す。小児、しだいに長大《せいじん》し、繊妍として美女のごとし。琉瑠廠を過《よぎ》り、画店にて男女交   婿の状を鬻げるものを見、大いに喜んで諦《みつ》め玩《もてあそ》んで已《や》めず。帰って柏郷を過ぐるや、妓を召して与《とも》に狎《した》しむ。五台山に到り、あまねく山下の淫嫗を召し、少年の貌美しく陰巨いなる者と与《とも》に、終日淫媒せしめ、親しく臨んでこれを観る。なおもって足らずとなし、さらに香火銭を取って蘇州に往き、伶人を聘して歌舞せしむ。人に劾奏せられ、疏章いまだ上《たてまつ》らざるうちに、老人すでに知り、嘆じていわく、曲躬《きよつきゆう》の樹なくして色界に生まる、天誤れり、と。すなわち端坐|趺跏《ふか》して逝く。年二十四なり。わが友李竹渓、その前世と旧《なじみ》あり、往きてこれを訪う。見るに、老人まさに女子の粧をなし、紅き肚?《はらおび》をつけ下体を裸にして、一の男子をして己《おのれ》を淫せしめ、しかして、己はまた一の女を淫す。その旁らには、魚貫《ぎよかん》連環して淫する者無数なり。李、大いに怒り罵っていわく、活仏まさにかくのごとくなるべけんや、と。老人、夷然として芦に応じ偈を作っていわく、男は懽《よろこ》び女は愛し、無遮無礙《むしやむげ》、一点の生機、この世界を成《じよう》ず、俗士は無知にして、大驚小怪す、と」。これが元の世に宮中に行なわれし大喜楽仏定にて、喇嘛《ラマ》教の本旨らしく候。早々以上
 
          168
 
 昭和十四年十二月十一日午後八時〔葉書〕
 拝啓。今回浜松市にて『金瓶梅』の善本らしきもの売り出し候に付き、先年『未刊随筆百種』頂戴せし御礼の幾分(320)にもと存じ、御送り申し上げんと存じ候。只今交渉中なるが、右書はすでに御入手ありたりや。すでに貴蔵中にあらば、また他のある人に呈上致すべく、とにかく貴蔵中に有無御一報願い上げ奉り候。この書は時々の文通に参照必要にて、毎度手抄にはくたびれ申すべく候。        敬具
 
          169
 
 昭和十四年十二月十五日午後三時出〔葉書〕
 拝啓。九日出御葉書は十二日朝八時拝受。貴書によって『明良洪範』に異本あることを初めて知り得申し候。しかる上は、むやみにこの書を引きひけらかす訳に参らず。有馬未亡人のこと、国書刊行会本を通じて全く見えぬことか、なお(ガ)穿鑿を乞い上げ候。果たして然らば、当地図書館にあるところで刊行会本になき箇条はまだまだあることと察せられ候。『片言』(『日本古典全集』四期七回の一冊中の)にも、その他にも、霍乱をハクランといいしこと、しばしば見えおり候。数日前の『日本及日本人』の一投書家(匿名の)が、霍乱を俗人に通じ易く書かんにはハクランならでカクランと書いたらよかりそうな物を、ハクランと書きしは太宰春台の何とかいう書に、今世俗人霍乱をハクランと通称す、とあるので、春台の存日霍乱をハクランと俗唱せしと知る、云々、とありし。しかし、霍乱をハクランと呼びしは春台よりははるか古くありしことにて、徳川氏の世に始まれるに無之《これなく》、すなわち道三の時すでに有之《これあり》しなり。この道三は弟子多く教授せし由なれば、翠竹道三にて文禄四年に八十九歳で死去され候。(道三は三代同じ道三で続けり。翠竹院は第二代なり)。春台は慶長十五年生れなれば、『片言』の出た時よりはずっと古く翠竹道三の時すでにハクランなる俗語が行なわれたはずに候。
 まずは右申し上げ候。   敬具
 
(321)          170
 
 昭和十四年十二月十六日朝九時〔葉書〕
 拝呈。昨夜浜松市より小生注文せし『全図増評金玉縁』全部到着。しかるに、これは近来民国にて大流行の通り『金瓶梅』を改題せしものと思いおりしに反し、全く『紅楼夢』を改題せしものと分かり候。これでは本意に背き候付き、貴方へ送るは見合わせ候間、悪しからず御了解下されたく候。しかし、東京へ申しやらば、『金瓶梅』は古本いかほどもあるべく候間、とくと尋ね出させ、差し上ぐべく候。いろいろと改題また種々と出板あって、中身を省略したり、文字を改更したり、はなはだしきは内容大いに削減されて、読んでも意味をなさぬもの多きゆえ、十分完全なる本を探させ申すべく候。いずれ多少時日がかかること御承知願い上げ奉り候。         早々敬具
 
(322)昭和十五年
                                          171
 
 昭和十五年二月十四日午下出〔葉書〕
 拝啓。『金瓶梅』、売本多くあるも上海等で露店に売るようなきわめて麁略な板本で(きわめて小さき本五、六冊に縮刷せる)、かの地ではおそらく五銭から二十銭くらいで買い得るもの、文字多く誤脱し名作を味うに由なし。十八冊また二十冊ぐらいの中本で精確なる活字本あり、評および注ごときもの多く入り、ずいぶん読むに堪えたるものを小生蔵す。この通りのものを横浜等にて捜させおり候も、ちょっと手に入らず。しかし、ずいぶん多く渡りあるものゆえ、徐かに捜させおり候間、今少し御まち下されたく候。
 近く『旅と伝説』本月号の広告を見るに、『江戸往来』という雑誌に、西鶴の『大鑑』の輪講出でおるらしく候。たぶん鳶魚氏等の催しと察し候が、これまでと違例にて小生へ送り越さず。貴下はこれを見しことありや。また、ずいぶんよく調べたものなりや。あるいはさっぱり月並み物に過ぎざるものなりや。御意見伺い上げ候。  以上
 
          172
 
 昭和十五年二月十七日十時出〔葉書〕
 拝啓。十四日出御葉書、今朝八時十二分拝受。『金瓶梅』は、それと紛らわしき『全図増評金玉縁』と題せるもの(323)二帙合冊にて十六冊到着。これは『紅楼夢』の改題にて、はなはだ好き本なれども、『金瓶梅』にあらず。『金瓶梅』は京浜、神戸、大阪に売本多く出るも、小生持てるごとき好本は出でず。東京の赤門前、大学堂主は特懇ゆえ、旧臘頼みおきたるも、この人あんまり支那本のことに詳しからず、今に小生のと同本を見出だし得ざる様子。よって只今小生持本の寸法から図様一切巨細に記載して、今一度見出だし出で次第さつそく貴方まで郵送するよう申し送りおき候。
 『大鑑』輪講は御教示の通りの物なら小生も見るに堪えぬ物と判じ候。
 小生昨年長々しく『源氏物語』の批判を『日本』に出し候内、学事多煩にて中止、今年そのつづきを出したく候。例の小君のことも出すべく、その節御送り申し上ぐべく候。従来出で候ものをことごとく送り上げんにも、初めの諸号は売り切れ、小生の手許にも一号ずつしか届きおらぬなり。
 御覧になりたる『大鑑』輪講には三田村鳶魚氏も臨席しおるように候や。臨席しおらば、小生へ送り来るはずなり。   早々敬具
 
          173
 
 昭和十五年三月二十一日夜十二時
   岩田準一様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。兼ねて申し上げ候通り『金瓶梅』の完本、去冬来いろいろ尋ねおり候ところ、今朝八時二十分、東京にて毎度小生のため書籍購入方引き受けくれおる仁より来書|有之《これあり》(葉書同封の通り)。しかるに、小生は、昨日慶応大学教授横山重教授来着相談すべき要請有之候ところ、昨朝に至り二十三、二十四両日の内に当地へ来らるることとなり候(324)旨来信有之。よってその両日まち合わせ相談済み候のち、小生に取っては重大の事件相済ませるため、和歌山に上り、事速やかに済まば宜しく、事長びかば当分同市に滞在となるかも知れず。よって本月十九日夕七時過ぎ、葉書をもって当分『金瓶梅』の捜索は中止するよう申し遣わし候。と同日午後付の葉書をもって同封通り申し越し候。この行き違いのため、右の本が当方へ着しても小生は当地になく、和歌山にはいろいろ取り込みたる事件有之候ため、その本を詳しく検閲する遑なかるべく、したがってうろんなものを受け取り検閲せずに貴方へ送ることもならず。代金支払い等に後日までの紛議を生ずるも如何なれば(小生は詳本、略本、種々とすでに家蔵せり)、只今この状とともに右葉書(同封の)の出し手(大学堂書店、横川精一氏)より貴君へ交渉しくるるよう申しやりおき候間、横川氏の正直なる点は小生受け合い申すべき間、貴君より直接御交渉、日数を限り右の本を横川氏より貴方へ送らせ、大抵一、二日御検閲の上御気に叶い候わば御留め置き、代金はわずかなものならば御支払い下されたく、最初小生より貴方へ進呈すべき目論見なりしものゆえ、やや案外と思し召さるるほどのものならば、小生和歌山より帰り次第払うことと致し、とにかく御交渉下さらば如何にや。このことちょっと申し上げ置き候。
 横川氏より申し越したる本は、小生の蔵中もつとも詳しき十六冊物を日本鶴草堂にて翻刻せしものと存じ候。最高値段としても五円までのものと察し候。小生只今事件に迫られ、旅行、滞在および不在中、病人の手宛準備金等のため全然からけつにて、横川氏またはなはだ富有なる商店主にあらず(言わば購書のさやとりで糊口するものなれば)、まことに不本意ながら右横願い上げ置き候。        早々敬具
  横山教授は、小生の在外中および帰朝以後の諸文を(『南方随筆』、『続南方随筆』、『南方閑話』三書以外の)悉皆全責任をもって『南方全集』として出板せんと申し出でられ、外に前年板権を譲りたる『太陽』連載「十二禽説」を、只今の板権所有者中村古峡(小生同郷の旧友杉村楚人冠の門客より出身して房州に精神病院を経営する人、先年大本教を暴霹して有名なり)より譲り受け、これをも出板せんとす。(これは小生五百円で板権を譲り(325)て十年以上になるが、中村氏、品川御殿山に精神病院を建てんとして近傍の町民どもより反対され、建築中止の大損害を受け、出板費に事かき今に出板ならず。十二支のうち子、丑(全欠)、未(未刊)の三獣を、小生より補足充?せば、千円また二千円に中村氏が板権を転売し得るも、然らざるうちはちょっと引き受け人なきなり。)それには小生の三獣補足?充を要する。その相談に来たり、また小生かつて見出だせし「山の神草紙」(柳田氏の出板あれど、その原本は詞書のみにて画を欠きたり)の画のある原本を一覧写真の上、教授の室町および徳川初期の物語草子集に入れんため来らるることに候。この集の男色部には、種々貴殿の指南を受けるよう申しやり置きたれば、たぶん貴方へそれに付きたびたび通信ありしことと察しおり候。在和歌山中は水原僧正と相見すべければ、いろいろと談し申すべく候。
 
          174
 
 昭和十五年四月五日午後三時
   岩田準一様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。三月二十三日出御葉書は同二十五日朝七時四十分拝受。『金瓶梅』二帙十六冊は、東京にて故薄益三(満州馬賊の天鬼将軍)の蔵本をせり市に出で候を買うよう頼みやりしに、ようやく今朝十時四十五分到着致し候。小生年来所蔵のものと同一ながら、拙蔵本は東京板(秘密板と見え出板所を曖昧に記しあり、只今送り上ぐるところの第二冊の巻頭の拙誌を見られよ。それを上海にて再校せしなり)にて、小生見たところ最良本に候。只今上ぐるところはやや劣れども、文字文句はやはり完全無欠に近し。ただ武松と播金蓮のところが一、二分正しきところに入りおらず。ただし、これは全冊を通覧すれば直ちに分かり候間、そのつもりにて御読み下されたく候。
(326) 過日東京の大書肆より、小生の全集を出すとて著作権を買い取りに来られしに、小生少しも気付かずありしが、昨年著作権の法令出でし由にて、従前とかわり著作権と申すもの、ことのほか大事なこととなりおる様子、貴下なども宜しく著作権の法令をよくよく御精研、今後は一文といえども忽《ゆるが》せにせず、それぞれ処理しおかるることを御すすめ申し上げ候。            早々敬具
  この状はなはだ量軽く、途中で吹き飛ばさるるをおそるるから、新聞の故紙につつみ候。その新聞は別に何の用もあるにあらず。
 
(327)   昭和十六年
 
          175
 
 昭和十六年九月十四日午後六時〔葉書〕
 拝復。本月七日出御状は九日〇時五十分忝なく拝受。小生は八月十五日早朝、颱風暴雨中に働き候ため、毎日発熱、今にしっかり致さず。ために御返事大いに後れ候。小生は七十五歳に相成り気力大いに衰え、かつ家に長病人あって毎事迅速に運ばず候も、小生に見せて見ようという御志あらば、貴稿御送来下されたく、多少何か書き加えて差し上ぐべく候。もっとも近ごろ眼力大いに衰えたるため、『伊呂波文庫』にこのことに関する条項は幾行ありや、『逸著聞集』に何件ありや等の御用は、御自分暇をもって御調査、または然るべき若者を傭い御下命なさるるが然るべしと存じ候。ついでながら、ここに腹蔵なく申し上げ置くは、従前小生より申し上げたる事項に対し、それはすでに知りおれり、これは久しき以前より気が付きおれりと御申し越しのことたびたびなりしが、かくのごときは博聞宏見を求めらるる御仁体にはなはだ不似合いのこと、人間誰しも神通力を持ち合わさず、多識を闘わすためかかる注意を申し上ぐる物に無之《これなく》候。小生などが幼時より見なれたる『論語』や『孝経』にさえ、人に注意されて始めて識り得る事句が少なからず。毎度感謝しおることに御座候。当地は満足な筆なく、いかに出精してもこの通りの渋字しか書き得ず。貴下が毎度貴状を書いて下さるると同様の筆を五、六本御恵送願い上げ候。また、まんぼうをえびすということ等の貴説、刊出されたなら御送来願い上げ候。
 
(328)          176
 
 昭和十六年九月二十六日午後五時前
   岩田準一様                                         南方熊楠再拝
 拝啓。十六日出尊書、十八日朝十時拝受。小生八月十三、十四、十五と連日の颱風大雨中に、女どもは二階の天井の雨漏りを禦ぐに尽瘁、小生は久しく大便閉にて腸より下血中なるにもかかわらず、夜間丸裸になり雨中にいろいろと育成中の菌品を取り片付けたるより、今に発熱、日々半ば臥し半ばぶらぶら致しおり、取りとめたる仕事に手を付け得ず。かつこの二月ごろ当地激震の際、書籍を入れ置きたる古風の戸棚が、外見何ごともなくて内部の棚架が全く崩れ堕ち、その下に積みたる書籍がさらに架下の薬液および油料に落ち累なりたるため、所々汚損しおりたるを知らず。ようやく七月に及び気付きたるも、一人にては片付かず。人を傭うも昨今例の新体制でおのおの忙しく、今に一人も来てくれず。『逸著聞集』などもこの内にありて、ちょっとどこにありと分からず。そのまま打ちやり置き有之候。この次第にて御要求の件は当分貴需に応ずる能わず。自分は今に便閉、また眼が悪きため医士にかかりおり、かつ当地本月中わずかに二日の外は雨のみふりつづき、壁頽れ板塀倒れ、かつ天井裏に家ダニと申す害虫を生じ、家内−統苦しめられおり。昨今もその駆除のため家内総がかりに有之。もし天気がよくならば標品の整理にかかり、久しく暇を潰さざるべからず。とても貴稿に眼を通すことは、当分その望みなきに付き、このことは御断わり申し上げ候間、惡しからず御承知願い上げ奉り候。
 大正十一年、小生上京滞在中に木村仙秀氏より承りしは、そのころ横浜に何とか申す富人の子弟にて軍人上りの者二人、一癖ある人々にていろいろの書画の展覧会を秘開し、またその目録を編成して同志に頒ちなどして已《や》まず。そ(329)のことのあまりに大袈裟なりしに付き、その筋より二人とも逮捕され、ことのほかの厳罰に処せられ、出獄後一人は痴呆ごとき失精人となりて程なく死亡、一人は全く社会に容れられず行衛不明となりし由。この軍国多事、危急の際に貴下の思し召し置かるるようなこと、いささかも世に洩れ聞こえては、貴下のために不測の禍を招かれんことを惧るるに付き、ちょっと申し添え候なり。
 願わくは、同じ精究さるるにしても、今少しく高上な冀望を懐かれ、哲学とか美学とか心理学上を一通り心得られた上のことに遊ばされたきことと存じ候。               早々敬具
 『逸著聞集』などは、さすがは古書を精究したる明阿の筆にて、文章から構造までー々所出典拠あり。小生は五十年来読むごとにますます感心罷り在り候。
 
 
(333)   寺石正路宛
          1
 
 大正四年十月一日午後四時
   寺石正路様                                         南方熊楠再拝
 芳翰拝読。その後は久しく細目に懸からず多罪このことに候。小生明治二十年ごろ米国に参りあり候節、当時元老院議官たりし澤田出氏次男安麿氏より何の故か知らず『人類学雑誌』一冊贈られしことあり。その内に貴下の「食人肉説」あるを拝見、小生は同級に土佐の寺石氏ありしを存知おり、また御顔も今に見識り罷り在り候えども、御名前を二十年ごろすでに存じ申さず、ただ土佐の人が出したるものと存じおり候(寺石氏が土佐に多きことは当時知りおり候)。その後大英博物館にありしうち、誰かが日本人会で日本には食人肉の例なしと申され、有名なる人種学者キーンKeaneもこれをその著書に引きて、日本に食人肉の趾は大森より出でたるに、食人肉の伝も記もなしと明記され候。小生このキーンの説に服せず一論を草し、かの邦の知人に示したるも、その輩いずれも日本学者として世に立つもので、日本に不利なることは少しも言うを好まず、したがって冷笑で過され申し候。
 しかし、その論文はその後も持ち帰り、明治三十四年ごろ那智山に籠りおるうち、またなにか西洋でこの論出でし(334)とき、国民の外聞(ほんの外聞)は別として、科学の開進上かかることを黙過するは本意にあらずと思い、貴下の論文すでに『東京人類学会雑誌』に出でおるに誰も一言これに説き及ばざるは学者の態度にあらず、寺石氏の説が非ならば大いにこれを打ち込み、もしいささかも採るべきところあらば採るべきなりという序文を副え、貴説の大要を訳し、また小生の論文にさらに増補を加えNature誌に送りたるに(同誌は伊藤篤太郎博士と小生と従来特別寄書の日本人たりし)、同誌規則として没書の原稿は一切還さざる風なるを破り、特に右原稿を何の挨拶もなく還し来たり候。これは当時日英同盟の議高く、その際かかるものを読んで一部の英人が日人を非議するを慮りてのことと存じ候。次いで日露合戦起こり国民の気大いに高まり、到底かかるものは日光を見るの日なきことと存じ、今に材料のひかえ一通、右英国より帰されし原稿一、外にたしか麁稿一本、合わせて三通、この田辺の家に有之《これあり》。(二通は座右に唯今あり。)(小生実家は和歌山にて、書籍標本の大部分はかの地にあり。)居常小生このことを遺憾に思いおり候。
 友人白井光太郎博士は小生よりずつと年上の人で、故福家梅太郎氏とともに石鏃石器の考察に大功ありし人なるが、小生先年神社合祀が当地方であまりに乱妨に行なわるるを慨し挺身抗議書を作り、只今貴族院翰長たる柳田国男氏これを私刊して朝野の名士に配りしことあり、その時もその以後も小生の味方しくれるはこの白井氏一人にて、今春はわざわざ来訪までされ候。それほどの人なるに、この人すら日本に食人肉の風なく、またそんなことなき由を常々申され候は、教のために吐く言としては十分なれど、学問のためには然るべからざることと存じ候。
 小生は菌学を幼時より好み、只今もこの僻地にありそのことにのみ従い、ことに今秋は雨多くて昨今はなはだ奇品多く、只今も妻子山よりおびただしく菌をとり帰り、これより終夜鏡検図記にかかるところに有之。また和歌山城を本多静六の設計で御大典記念として潰すことに決したるより、小生はなはだけしからぬことに思い、有志と共に抗争中に有之。ために多忙劇しく今朝御郵寄着の『食人風俗志』は到底ちょっと二、三日中に拝見はできざるも、前年の御論と大体は同じことと存じ候。小生貴説に多少違異する点なきにあらざるも(犠牲、復讐等はことごとく食人肉より(335)出でしということは小生これを首肯せず)、前年の御論には当国人に(大森介墟等の遺跡を除き)有史後も食人の実例あるを一つも挙げられざりし。ちょっと拝見するに、今朝御郵寄の書にも有史後の実例はなはだ少なきがごとし。しかるに、小生はこの有史以来の例を大分集め有之、よって手短く右の小生の原稿を送り上げんと存じ候も、出して見ると多年土まぶれの手で触れしものとて字が磨滅したりまた書き加え書き消したるところ多く、かつ小生は至極悪筆ゆえ到底他人には読めず。よってさらに一考の上「寺石君の『食人風俗志』を読む」と題し、今年十一月すぎ候わば菌も少なくなり少々閑はあるべきに付き、来年二、三月までに『東京人類学会雑誌』へ出し申すべく、その上は右の洋字原稿は小生には入らぬものゆえ貴下の御参考まで進上仕るべく候。
 次に穂積博士の「隠居論」のことは近日何かで始めて見及び候も、ただ名を聞くのみにて何雑誌に出たるものか、また別刊書なりやをも知り及ばず。隠居と食人肉の関係も小生在英中しらべたること有之、帰国後もゴム男の著書等で見及び候。これもついでに論じたく、しかし穂積氏の一著を見ずにかくと、蛇足また剽窃と思わるべきに付き、右「隠居論」貴方にあらば御貸与下されずや。しかるときは二十日中に必ず小生要点を抜抄してその本は貴下へ御返し申し上ぐべく候。当地には図書室あるも、かようのものはなく、わずかに通俗の小学的の書籍または陳腐なる漢文体のもののみにて、まことに不便に有之、毎々東京の友人より借り入れ写しおることに御座候。
 小生在外十五年、明治三十三年ごろ帰朝、御存知通り非常に酒を好み候も、至って寡言の立ちにて、熊野の山奥に退き魚蝦を友とし、一心に植物学のみ心がけおり候うち、右の神社合祀のため所在の神林伐り払われ、連続して研究を遂ぐること能わざる事件多く、止むを得ず合祀反対にかかり候ところ、他府県人はもとより当国の人も旧知は散乱して小生を識りたるもの無之、止むを得ず少しく名を売るたすけに雑誌等へ名を出し申し候段本懐にあらず、御愍笑下されたく候なり。            敬具
 
(336)          2
 
 大正五年八月十三日夜十時過ぎ
   寺石正路樣
                  南方熊楠再拜
 拜復。貴著『南國遺事』壱冊御惠贈千万恭なく厚謝し上げ奉り候。小生こと当春二月所用ありて和歌山へ上る船中、流行感冒伝染、それより肺炎に相成り四月まで臥蓐、ようやく快方に向かい候うち、また眼に翳を生じ、只今とてもあまり宜しからず、まことに困り入りおり、したがつて御高著一時読了と申す訳にはなかなか參り難く候も、諸節拔き読みに致し、はなはだ面白く存じ奉り候。小生も当國のこと貴著同樣のもの少分なりとも遺したくと存じ、只今知人の家の旧乗(ペルリ來航より明治三年ごろまでの見聞実記にて、主人身は紀州にありながら學友ども江都・大阪等にありし輩よりの通信また世間の雜説を集めたるに候)百五十卷有之しを借り、一切写し取りおり。眼宜しからぬに入らぬことと妻など申し候えども、右の記中には他の筋よりは到底知り得ぬ珍聞秘事も多く、しかるにその筆者の孫不幸にして男子多く死に失せ、今存し候者も重病にて右の書をあまり叮嚀に保存致さず、虫喰もはなはだしくして到底この上數年と保存のできざる分も多く候より、眼惡きを推して写し取りおり候段、御愍笑下されたく候。
 右貴著一通覧の上また何か申し上ぐべくも、差し当たり申し上ぐるは、小生ちょつと見渡し候ところ、かの堺にて高知藩士が仏國軍艦と事を生じ切腹の一件は一向見えぬように存じ候。果たして然らばこのことの  顛末なども御書き成され、後葉に伝えられたきことに有之、小生知人杉本清寿氏(高知人)の叔父もその時切腹の一人にて、いろいろ清寿氏より聞きたることもありしが過半忘れ了り、かの人また死なれたれば只今思い出すに由なし。まことに遺憾の至りに御座候。
(337) 一四七頁、足摺、浮湯蔓。これは貴下の御注一切見えず候が、これは拙考にはフトカズラに有之《これある》べく候。当国東牟婁郡勝浦港などにてもフトカズラと申し候。学名 Piper utokadzura《ピペルフトカズラ》 Sieb.et Zucc. と申し、薬用の胡椒また南洋やインド、シャム、南支那等にて広く檳榔を包み咬まるる蒟?《きんま・ピーテル》などと同屬のものに有之、近來の植物書に風藤葛《ふうとうかずら》と書き有之供えども、貴著をもつて熊野のごとくフトカズラと読むもまた古きを知り得申し候は愚者の一得なり。右は土佐にて元禄ごろ何の用に使いしを知らねど、当國にてはこれを湯にわかして入浴すれば何とかの病に神効ありと申し候。もつともこのごろはほとんど知つた者も稀に候。(『本草啓蒙』蔓草蒟?の条などに必ずその説あることと存じ候も、手許になき本ゆえちょつと相知れ申さず候。)とにかく名産として往來に載るほどなれば、元禄ごろまでは一廉《ひとかど》用いられ候ことと相分かり申し候。
 いずれ全篇通じて拝読の上、またまた何か申し上ぐべく候も、取り敢えず右申し上げ候。
 白米城のことは『郷土研究』の中川氏(これは柳田氏の変名と察し申し候)の説よりは、貴説すなわち軍術淺薄なりし代には自然かかる軍謀も諸処に行なわれたりというが正当と存じ申し候。中川氏が名和氏の邸蹟の焼米などに付会して白米城のことを全く無根のことのようにいうは、今の人心もて古人の心を推すものにて、古俗を研究するの方法にあらずと存ぜられ申し候。かの城に關し拙論にも申し述べたるごとく、伊勢の白米城は國司が特に軍力を分け守るほどの要点にあらずなどいわれし中川氏の見は、火器專用の今日始めて申すべきことにて、楠公の千破屋籠城、義經の大物浦出立などもかように論ぜられては小児の印地打ほどにもなきものとなり了るか、または一切虚談と見落とし去らるる外なからん。そこに申し述べ候ごとく、國司は件の城を必死となりて固守せしにて、決して軍力を分け守りしに無之、そのころは高く峻しく不便極まる山岳を守るを守戰の第(338)一法とせしに候。
 また柳田氏が、耳塚は獅子舞同士の喧嘩して耳を斬り埋めし蹟などいうも、今日日韓融和の急必要ある日に当たり、まことに時機に投じたる説かも知れず候えども、俚民俗衆が獅子舞の喧嘩くらいよりかかる大業のものを立つるはずもなく、いわんや秀吉の世に生まれたる林道春(あるいはその子春斎かと記臆仕り候)の『秀吉譜』すでに耳塚を築きしことを載せ、島津、藤堂、太田等当時の大名の家記に韓人を耳きり塩漬にして秀吉へおくりしことを載せたれば、どうしても耳塚はやはり韓人の耳塚たるべく候。小生このことに付き一論を草し『郷土研究』へ出さんと志しおり、材料は多く集まりおり候。貴下もし貴地方にも実際敵人の耳をきり埋めたる所または京の耳塚に関すること何か御存知も有之《これあ》らば、何とぞさつそく御教示下されたく、一事一件にても小生には大いに役に立ち申すべく候。 敬具
 
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 大正五年八月二十五日早朝
   寺石正路様
                  南方熊楠再拝
 拝呈。十七日御状まさに拝承。例の通り眼惡く候付き折を見合わせようやく今朝本書差し上げ申し候。
 『郷土研究』上に質問を出だし候一件、『常山紀談』にある由御教示により早速繙覧候ところ、果たして柴田勝家のことに紛れ無之《これなく》、右書は常々座右に置きながら一向気付かず、御教示により始めてその源と知り得、大幸に候。しかして『紀談』には、小姓が水を打ち去りし話はあるも、柴田が白米もて敵を紿《あざむ》きし由は見えず。故に白米洗馬の一条は柴田の伝にあらざることにて、小生の記臆|損《そこな》いと相分かり申し候。
 小生は海外に十五年流浪致し、いろいろ浮沈常ならざりしも、最後に英国でずいぶん面白くやりおりしに、まこと(339)に口筆に述べ難きこと(人より頼まれ、ある日本貴族のうけ人《にん》に立ち候様のこと)にて面白からぬことを生じ、ついに帰朝致し候。他人のためにかかる成り行き、これ小生の薄運の致すところ、また一つは牛は牛づれの金言を守らず、?《なまじ》いに貴族などと交わり候よりのことと深く児女を戒め、自分はあきらめ申し、この田舎に退き魚蝦を友とし、只今は閑居して菌類の図説を作り、何のあてもなく楽しみおり申し候。ずいぶん永く海外諸国にありしも何の得るところなく、幸いに父祖の御蔭により多少の書籍を購いたるを、身を離さず今に持ちおり、時々読み得るは身に取りての幸いに有之。しかしてただ一事深く感じ申し候は、英米その他の盛邦は、学問などで一《ひと》了見あるものが田舎地方に多く散在するに引きかえ、わが邦では東京のみに学者などいうもの多く、地方の人はただただ東京の人の唯《ただ》命《めいに》惟《これ》聞く様なるは、すこぶる欠陥事と存じ候。この点より小生は貴下などが『南国遺事』などを出さるるをはなはだ心強きことと存じ、追い追い海外同前の事体になり行くべき祥光と望みを嘱することに御座候。
 人のことはいわぬことながら、『郷土研究』などに、東京にある人が地方の事体をも察せず、書籍のみによりいろいろの(いわゆる)学説を立つるに、中にはずいぶん如何のもの多く候。かの耳塚の論ごときはその一にて、著者が高等官、しかも多勢力の人なるだけに、小生はかかる論ははなはだ後生を誤るものなるなきやを疑い案じ申し候。秀吉が惨酷ばかりでなかりしを証せんとならば、他にいくらも秀吉の性行について挙げはやすべきことは多々あるべく、そのころは戦国にて一銭を盗んでも指を斬りし風さえ普通なりしくらいゆえ(馬琴の説に、何に拠ったか知らねど、運だめしとて鉄砲を機をもって旋回し自在に発射せしめ、そのぐるりに人々が坐り、鉄砲に中《あた》り死すれば運弱しとし、中らずして毎度生存するものを強しとし羨みし等のことあり)、生命をば左までに思わず、いわんや耳や鼻くらいは爪を切るくらいに思いしことにて(斎藤義竜が父と戦いしとき、小牧という士、武道の意地から主人道三の鼻をきり持ち帰り義竜に示せしことあり)、その風は秀吉が新たに作り出したるにもあらねば、別に征韓将士が韓人の耳鼻きりたりとて秀吉を惨酷というべきはずなし。しかるにことごとしくわずかの土談俚語、獅子舞の喧嘩くらいのことを(340)引いて耳塚を抹殺せんとするなど、少々小生の邪推か知らねど、かかる説をもって世間をごまかし、韓人を懐柔せんなどの愚案かとも思われ、時風に媚ぶるのはなはだしきものとも思われぬにあらず。(今度梨本宮女王韓世子へ御降嫁の一件の評、今月十五日の『日本及日本人』の社説にあり。小生は同じく杞憂を抱くものなり。)
 しかしてその論者の論の軽薄なるは、伴蒿蹊が耳塚は支那人のいわゆる京観なりといえるを、京観とは何のことか知らぬが蒿蹊も実際耳鼻を埋めたものにあらずと思えるならんなど、実に疎漏なり。この京観とは『左伝』に見えたる通り、すなわち「大いに罪人を誅し、首級を積んで崇《たか》からしめ、もって四方に観示し、兇慝《きようとく》を懲らしむ。故にこれを京観と謂う」(顔師古注)。敵人を罪人と同視するは西洋でも古くは同じことなりし。かほどのことすら知らず、また知るを欲せず、また知るに足らずとして、むやみに我自を張る。さてかかる説にすら田舎のものは東京の人の書いた説なればとて盲従するは実に情なきことなり。よって小生、近日「『耳塚の由来』を読む」の一篇を草し、『郷土研究』に投じ、耳塚は耳塚にして決して獅子舞の喧嘩等に起こりたるにあらざる由を述べんと欲す。
  かの論者(小生知人なり)は、耳塚は塚を築かんため耳鼻を切り持ち来たりしようにいうも、実際は首のかわりにとりしこと貴説のごとく、首の代りにとりしは戦争の統計上はなはだ入用なりしゆえなり。その世に今日ごとく数十万の俘虜を養い置くことなど経済の許さざるところなれば、耳鼻をとりて統計を示すはもっとも適宜の処置なり。また耳鼻もとらずばよいじゃないかといわんも知れねど、そんなことならいっそ戦争をせぬがよきなり。
 さて耳鼻検視ずみの上これを麁末にし捨て去らず、塚に築きて多少の供養をもせしは、実に行き届いた仕方というべきなり。
 ついては貴下この回賜いし御状の要点を抄し、右の拙文中に入れんと存じ候が、これは貴下において構いなきか、一応伺い上げ奉り候。(貴下の名を出さずに某氏よりの状などかかは何のこともなきも、某氏などと書くことを小生は嫌いなり。一体『郷土研究』の編者が、授書家多きように見せんとのことなるべきも、毎度種々の真実らしき人名を多(341)く作り、さて自分一人でいろいろ書くを小生はかかる雑誌の性質上はなはだよからぬことと思う。故に小生毎々の説文には必ず出所は張数頁数、人から教えられたことはきっとその人の姓名を出しあり。)しかして誰も貴下の名を聞きて貴下の状中に虚言などあるべしと思うものもなかるべき間、貴状中の一々の件に付いての出処は小生今さらこれを尋ね上ぐるを要せず、すなわち貴下がその責に当たらるることに願うとして、一つ伺うは、小生は征韓役にたしかに耳をきりし証拠として、藤堂、島津、太田(豊後臼杵城主太田飛驛守一吉また宗隆とあり)三家の耳進上状を知るも、これらいずれも同一の書に出ずるをもって、あるいはその出処が怪しきものなり、その他に例がなかろうかといわるるも知れず。故に貴状に見ゆる長曽我部、加藤、黒田三家の文書、耳鼻きりに関するところを御写し、何の書何巻に出でたるということを記しそえ、御送り下さらずや。小生は決してこれを自分見出だしたりとせず、全く貴下の教示として、小生かつて見出だし置きたるものと別に、駢せ出したく候。
 寺川村の塚のことは、柳田氏も引きあり、あるはあるが自分の勝手のよきように引きあるなり。貴状に見ゆるうち幾処か削り去りて引きあり。
 『南国遺事』三〇六頁、斎藤内蔵助が母くわうげん院公方の長男石谷兵部大輔が妻となり、云々。くわうげん院公方は光源院公方すなわち足利義輝のことと存じ申し候。石谷は美濃の族にて(石谷清季と申し、名歌詠んで死にし人もあり)、そのころの風として公方の落胤とかお手がかかった女とかいうこと地方に多かりしことと存じ候。
 山の神と申す田螺様の介《かい》のこと、先便ハガキにて申し上げ奉り候。貴下もしその山の神という田螺手に入らば、何とぞ一つ御送り下されたく候。小生かつて柳田氏が『人類学雑誌』にこのことに付き出だせる文を読み、左思右考するも(また拙ハガキにて申し上げ候次第に考え合わすに)、山の神というは尋常の田螺にはあるまじく、山中に産する田螺様の一種の陸生介かと存ぜられ申し候。
 当町に按摩あり、七十歳ばかり。この人十六のとき当地を出で按摩を学び、四国を巡りたりとていろいろのことを(342)話す。無文の人だけに、その説、故意の虚構なく面白し。その話に、土佐にては鼠を愛重して殺さず。むかし山内侯その地に封ぜられしとき、検地して百二十余万石とかありしにその書き付けを鼠が食い百の字亡失す。それより二十余万石で幕府への公儀向きが通り、さて実際は百二十余万石ゆえ百万石だけ大儲けせり。故に鼠を恩として殺さずとのことなりし。かかることは只今も御地にて申し伝うることに候や。
 熊野で古くツバキの木で槌を作るを忌み申し候。これは那智山に一足の鬼あり、ツバキで作りし槌と一足の鶏を使い兇悪をなす。ツバキで作りし槌は化けるとのことなり。拙妻のちょっと縁戚なるもの、請川《うけがわ》と申す村にて豪族なり。何年のことにや大飢饉のとき、近傍の人民を救済するにただ物をやりてはつまらずという考えから、材木多く運ばせ八つ棟作りの家を立つ。その家は四十年ばかり前火事にて焼失す。(朝戸を開き始むると十時ごろに開き了り、さて午後二時ごろより閉じ始めて夕刻閉じ了りしというほど大きな邸なり。)この家の煙窓中に盗三人かくれ住みしとか。さてこの家建ちて後、その天井裏、毎度雷のごとく鳴る。怪有《けう》のことに思い、大胆なるもの一人天井をはずし上り見るに、棟上げの式に用いし大槌をおき忘れありし。その槌はツバキの木で作りしとのことなり。貴地方にもツバキの木の槌は化ける由申し伝え候や。また当地方に、槌熊、槌之助などいう槌を名とせる人少なからず。『室町殿日記』に、槌之介という盗賊の名あり。足利氏の末すでにかかる例ありしなり。『平仮名盛衰記』の浄瑠璃に、たしか槌松という小児ありて、殺された後その祖父が、槌のように強かれとて名をつけたに死んだとは情ないとなくところありしと記臆候えど、小説のこと故なにやら分からず。貴方にも槌を人名に付くることありや。あらば何の縁由で付くるか御聞かせ下されたく候。当地方にはその理由というものなし。
 小生眼悪きゆえ、『南国遺事』折々少しずつ拝読、益を得ること多し。また何か見出ださば申し上ぐべく候。
 小生至って懇意なりし、大学予備門で小生よりは一級上なりし、土佐人田岡正樹(弟は正枝と申せし。二人とも保安条例て東京を追われしと聞く。その後のこと一向存ぜず)、この人は如何なり候や。御存知ならば卸知らせ下され(343)たく候。
 右難筆御察読下されたく候。
 
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 大正五年九月二日早朝
   寺石正路様
                  南方熊楠
 八月三十日芳翰咋朝着、拝見。耳塚に付いての材料おびただしく抄し送り下され、大いに未聞を承り難有《ありがた》く千万御礼申し上げ候。御示しの内『征韓偉略』のみ小生在来の材料中に有之、「吉川文書」はたしか見たること有之候えども、耳塚に関する文は今度貴書に拠って初めて知り得申し候。その他はことごとく小生未見の書どもに有之、これにて大仏前の耳塚は決して獅子舞の啖い合い等にあらざること、十分証拠立て得ることと存じ申し候。なかんずく、承兌が耳塚卒都婆文は、当年そのことに干《あずか》りし人がそのことをその年内に記したるものゆえ、これほどたしかな証拠はなしと存じ申し候。
  件《くだん》の『日用集』のいう卒都婆文にある大相国(太政大臣のことと存じ候)とは誰のことに候や。秀吉を申すに候か。秀吉は当時大相国にあらずと存じ候。しかし、承兌がむやみなことを書くべきにあらず。
 この上あまり長々しく材料原文を臚列しては論説の要点が分からず、只々土用干しのごとくなるゆえ、主たるものの原文を四、五出し、あとは寺石氏いわく、またいわくで、それぞれの書名と本文の趣旨を出しおくべく候。
 山オコゼは、貴図を見るに、果たしてキセルガイに御座候。これは煙管に似たるゆえの俗称に御座候。また人名に袈裟を付くるは肥前にも多き由、彼方の人より聞き申し候。当紀州には一向聞かず。これに似たること、caul(英語、(344)コールと読む)またsely how(スコットランド語、聖帽の義)と申し、欧州にてこれを持たば水に溺れぬなど申し高価に買うものあり。これは嬰児が卵袋を破りて生まれ出ずるとき、なにかのはずみに頭に卵袋の一部分をちょうど僧帽をかぶりしごとくかぶりて生まれることあり。それをその子の非常な吉相と見做《みな》し、その帽を争うて求むるに候。
 小生壮時親交ありしもの、男子六人ありしが将基倒しに死に了り、第四男のみ一人のこる。それは常々兄弟同様いつ死ぬか知れぬと鬼胎を懐き、神経病人なり。これら兄弟の祖父、非常に筆の達者な人にて、嘉永中ペルリ来航より函館戦争終わるまでの間の諸国の聞書を、手の及ぶだけ集め筆記せるが、中には今日すでに世に知れ切ったこともあれば、また箇人の私信などに、この書の外に伝わりおらぬと思わるること多し。その中に、維新前土州藩の大坂か京都の扣《ひか》え屋敷へ神降れりとかいうて大騒ぎせしことを載せあり。その外にも高知に関すること多少あり。この書すべて百五十巻、右の次第にて家内病人絶えざりしため永く等閑に付せられ、蠹蝕おびただしく、中には読むべからざるほど食い去られたるところもあり、何とするともこの上十年も保存むつかしく、この田舎にて多くの他の書と校合して、重出の分を省き必要のところのみ抄するということは不可望にあり。止むを得ず小生奮発して、八月七日より全部百五十巻写し始め、すでに二十一巻を写し了り申し候。小生写し行くうち、土州に関することあらば題目と大意を記しおき、御通知申し上ぐべく候間、御入用の分は御申し越し下され候上、全文写し差し上ぐることと致すべき間、『南国遺事』二板出ずるとき、一事でも御書き加え下されたく候。ただし貴意に合うことあるか否は小生保証する限りにあらざるも、大部のものゆえ、珍しきこと二、三件は必ずあるべしと存じ申し候。
 貴著『遺事』二〇、歌吉という孤児のごときこと、今も辺鄙には少なからず。小生六年前当郡の最難所たる安堵が蜂(海抜三千五百フィートばかり)に上り、四十日ばかり雪中に植物を図記致し候。その辺の材木小屋に、十六歳ばかり至極の美少年あり。道もなき山嶽を走りて上下すること野獣のごとく、製材にはなはだ巧みにて、性質品行はなはだ宜しくおとなしきものなり。姓は山岡、名は忘れたり。この者、どこのものとも父母の名も知れず。ある年の夕(345)暮、件の深山へ上る道の針金橋の一端に、七、八歳の幼き者、巡礼の負う仏龕《ぶつがん》を背にし立って泣きおる。かの製材所の小頭たるもの通りかかり、子細を聞けどもとくと知れず。母に早く別れ、父と順礼しありくうち、その辺のどこかで父も死したるらしきも、道もなき深山幽谷ゆえ何もわからず。その小頭、愍れみて小屋へつれ帰り、自分の衣食を割き与え、小屋の番などさせ、かれこれするうちかく成長して大いに間に合う。しかるに戸籍のなきものゆえ、同輩に卑蔑さるるが気の毒なりと人々言いおりし。その人体かかる山家の人にあらず。都会の相応の家の子のごとく、まことに優美なるものなりし。かくて小生山を下り、一、二年経て、右の山も用事すみ製材人等それより他の地に赴きしに、その前に右の者はいずことも知らず落ち行き、行方知れずとのこと。かかるものは一生を山中に暮らし、死すれば山小屋の側に埋められ、さて仕事畢り山小屋廃し一同他に赴くの後は、誰訪うものもなくなる。小生深山を歩くに、かかる墓を多く見たが、何年前に誰が死んだのやら一向分からぬ。かの少年ごときもかくのごとくして死ぬべく、あるいはすでに死したることと存じ候。
 一三九頁に見えたる芝天は、一向当国では承らず。これはいかなる形状のものと申し候や。今少し詳細のことをおついでに示されたく候。貴地で誰も知ったことなるべくも、当地方には一向聞かぬものに候。
 八六頁、土佐へスペイン人漂着のこと。この時土佐の婦女みな海浜に出で、異人の苦難を見て泣きしという。その図を屏風に縫箔せしもの、小生英国にて毎度見たり。そのときのことを記せし文書に、土佐の国主の名を右衛門三郎とありし。このとき元親存命ながら盛親が国事を司りしにや。筆記し置きしもの、この室のとなりの庫に入れあり。家人いまだ睡りおるゆえ、只今出すこと成らず。そのうち、ついでに抄訳し差し上ぐべく候。
 呉道子、勅を奉じ宮女の像を画くに、眠りて筆を堕とし、像の秘処(胸なりしか腿なりしか覚えず)に当たりて黒子を成す。帝これを見て、この者かの宮女と通ぜずば何如《いかん》ぞかかる秘相を知らんやとて罰せられしということ、西鶴の『新可笑記』にあり。このこと小生『佩文韻府』、『淵鑑類函』を始め、種々探すも一向見当たらず。(インドに同(346)様の談あるはこれを知る。)貴下御存知ならば御示し下されたく候。小生ども幼時聞き、また今も他州に行なわるる由なるは、これより出た話らしく、いわく、菅丞相、国母の像を画き、手を失して筆をその像の腿に落とし黒子をなし、   者これを奇貨とし、その太后に私せるを言いしより、流されたとのことに候。
 
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 大正六年二月四日朝十時
    寺石正路様
                  南方熊楠
 拝啓。前日申し上げ候足摺の浮湯蔓は、只今の植物学者のいわゆるフウトウカズラ、熊野でフトカズラと申すものなるべき由申し上げ置き候て、古来本草家これを蒟?(すなわちマレーやインド南部、南支那、南洋諸島人がかむ betel《ビーテル》,古くわが国でキンマと申せしもの。キンマ手《で》の茶器、なつめなど申すことも、古茶器の目録にあり。フウトウカズラとは別種別物ながら、同属のものにて多少似おり候)に宛て、その蒟?の苗を浮留藤という由、『本草』に見え候ゆえ、フウトウカズラまたフトカズラは浮留藤より出でたる訛語ならんと存じおり候。その後『和漢三才図会』蔓草類を見るに、南藤一名風藤とあり。これは右の蒟?とは別物なれど記載がフウトウカズラに似ており、その薬功も似ており候。しかして『和三』には、これをすなわち本邦のフウトウカズラに宛て、俗にいう風藤蔓とあり。この南藤一名風藤の真物はいかなるものか分からねど、記載も似おれば、風邪を去るという薬功が本邦で浴湯にして風病を去るというに合うておるゆえ、本邦にある一種の蔓を風藤蔓と呼んだことと察せられ申し候。風邪とか風病とか諸風とかいうは、風ひきのみならず、痛風、リウマチ様の病気を概称したので、漢邦医《かんぽうい》が、地水火風等よりそれぞれ病を生ずると信じた、その風より生ずる諸風病をいうことなれば、今日から見れば漠然たることなり。
(347) 安並氏はすでに土佐へ帰られ候由、小生じき隣にすむ松岡秀一郎という詩人より承り候。土佐より書翰を受けたるよう承り申し候。
 前日御厚配を煩わしたる秀吉公の大仏耳塚一条は、柳田氏へ申しやりし返事に、いかにも『秀吉譜』および(ことに)承兌の啓白文ある上は、大仏の耳塚は実際征韓の将士が朝鮮人を耳鼻きりて埋めたるものに相違なかるべし、さて自分(柳田氏)が書いた文はほんの戯文にて、本邦に存する耳塚鼻塚がことごとく必ずしも戦場で耳や鼻を切ったものを埋めたるに限らず、中には獅子舞の喧嘩より獅子頭の耳や鼻をかき取りて埋めたるもあるべく、また書籍の間違いより生じたる名もあるべしと述べたるまでのことなるも、多々例あるべしということを戯れ半分書いたるまでのことなり、右の貴文(小生の駁論)は『郷土研究』すでに廃刊も迫りおれば載せることはならず、勝手に何へなり出しくれよ、というような文意にて、さて小生に向かい、
  貴公の文は散漫にして何が主意やら分からず。また好んで欧米のことを引き欧米の書を援く。ほんのこけ威しで無智の庸衆を駭かし、南方は物を多く識った人と伝唱するまでのことで、何の益もなきことなり。すべからく止めて然るべし。毎度人の書いたものを打ち込み打ち込み迫り来るは、予をして止むを得ずかく言うの余儀なき立場に至らしむるものと判断するから、この段言い置く。
という理屈を述べられ候。この柳田という人は、小生よりは年も十歳ばかり若き人にて、小生一向知らぬ人なり。しかるに、小生『人類学雑誌』へ山神を祭るにオコゼ魚を用うることにつき一文を出だせしを読み、書状を送り来たり、それより知人となり、『郷土研究』を出すに臨み、「御思し召し通りの雑誌にするから」また「毎度出す拙考の批評を乞う」というゆえ、批評とはむやみにほめるばかりでなく、補うべきは補い、足らぬと思うは言い添え、正しからぬと思うところは正すことと思い、それぞれ鄙見を送りしに御座候。しかして柳田氏も知る通り、小生は二十のときより三十四まで海外におり、三十四で帰朝してより十七年近くこの田舎におり、故に東京もその後見たことなければ、(348)日本の高名な人士と交わるという機会も少なく、それに比して海外では多く知名の士と交わりしゆえ、いろいろの書籍なども毎度それぞれの人より受けおり、自然西洋のことを引くは止むを得ぬことで、日本におりて海外のことを知るは海外の書を読むより外なければ、今も微力ながら、時々分不相応の金を投じて海外の書を購入しおり。すでにその書を読む以上はこれを間に合わせたきは人情でもあり、また一汎人も海外のちょっと知り易からぬことを知りたがるものと思い、自然海外のことを引くにて、柳田氏なども海外のことを今少し知りおったら、毎度毎度のこじつけを免るることと思う場合多し。
 例せば、蛙鳴かぬ池本邦諸処にあるは、神が来降するを見るも返るを見ぬから、返る不見《みず》の池と言いしを、蛙見ずの池、それから蛙鳴かずの池と転じたなどいう念の入った説明などは、小生が立証したごとく、古ローマにも古ギリシアにも仏国にもイタリアにも蛙鳴かぬ池の話ありて、その趣き全く本邦のと同じく、いわんやじき御隣の支那にも、『輟耕録』に元の其帝の母が蛙の鳴声を禁じた話あるなり。外国のことに少しも手を延べず、日本のことを日本ばかりで説かんとするゆえ、かかることが起こる。また本邦で十三仏ということあるは、支那の『周礼』に云々など迂廻なことを述べたが、実は只今のヒンズー教でも、人死して十三月立たずば成道せぬと信ずるほどゆえ、古仏教にも人死して十三月を中有《ちゆうう》としたるが、後人それに十三仏を配当したることと存ぜられ候。これらもインドのことを少し知っておったら、じき分かることに候。
 されば、外国のことを少しでも多く知り多く引くは、はなはだその益あることにて、実は何の学問も左様せねばならぬなり。それを始めは「東西のことを比較研究するはもつとも必要なれば」とて、小生に寄稿を頼み来たり、耳塚一件で打ち込まれたからというて、たちまち外国の書を引くが不埒とか、ただ物を博く知ったといわるるばかり何の益なき男など言い来たるは、故ハーバート・スペンサーが、玉つきに少年にまけた腹いせに、「汝ごとき年若くてかくまでかかる遊びに長ずるははなはだ平素の仕付けが不行届きなるを証す」といい、『古今著聞集』に、無学の奉行が橋(349)を警固するとて文見るに、清水詣でする女が「たじろぐか渡しもはてで文見るは」といいかけしに、しばらく案じても下の句が出ず、たちまち大音声で、いかに将軍の渡させ給う橋をたじろぐかとは、と咎めたという話に似たことなり。かつ小生の引く外国書どもは小生いずれも蔵しおるのみならず、その多くは今日東京の諸大学図書館でも見らるるものなり。しかるに柳田氏は、自分内閣文庫に奉職中、内閣文庫(もと千代田文庫の由、この文庫の書籍は一汎に公開せず)の諸秘籍をひまなゆえ多く写し抜き、種々の希覯の書を引きちらす。別段外国書籍ほど有用な書どもにあらざるゆえ、ちょっと出板も成らず、何ともえ知れぬ不文の者が書いたり、また偽作妄誕などを編み集めたようなもの多し。いわゆる不急の僻書どもなり。吾輩この不便の地にありて、いかにあせるともかかるへんな写本どもはなかなか手に入らず、また東京に行きても柳田氏ほどの便宜なくば到底見るを得ぬなり。故に公平にいわば、小生よりも柳田氏こそ種種の僻書を引き博覧にほこるの誤りを甘受すべき人なれ。しかして吾輩は今日諸侯を友とするを得ざる閑客浪人なれば、法律の免す限り何をしたりとてかまわぬが、柳田氏ごときは身人民の膏血を食み、毎度毎度口に公務劇甚などいうその人が、かかる比較的何の益なき僻書どもを探り、私にこれを用い書を著わし出板し賃金を受くるなどは、小生ども浪人隠士の所業とことかわり、はなはだ宜しからぬという人がすでに世間に多きなり。それを自分のことはいわずに、小生に外国書を読み外国智識を述ぶるを止めよなどは、高野長英を自刃させた時代なら知らず、今日言うべきことにあらずと思う。官吏などいうものはよほどつまらぬ根性のものと存じ候。
 右様の言い振りはなはだ気に入らぬゆえ、小生そのうち後藤粛堂に頼み、柳田には不意討ちに突然『歴史地理』へ「耳塚考」の駁文をしごく簡単に出さんと欲す。たぶん出ることと存じ候。もっとも小生只今大多忙なれど、三、四ヵ月中には必ず出で申すべければ、出た上ちょっと一報申し上ぐべき間、御一覧下されたく候。
 貴文に、柳田氏は自分に不利益ゆえ必ず雑誌へ掲載はすまじと予言ありし。このことは小生柳田氏に知らさず、ただ寺石氏は性来寛厚の人ゆえ、強いて貴君(柳田氏)を駁するを好まず、ただ小生旧知のゆえをもって小生の心得の(350)ために調べ送られしものなり、故に一応寺石氏に懸け合い承諾を経たる上、寺石君がおくられしこれらの材料を貴下(柳田氏)に示す、と申し置き候。寺石氏実は最初から柳田は自分に不利益ゆえこれを出し得ざるべしと予言せり、など言いやったならしごく面白いところなれど、小生も年老い、生来喧嘩大好きで、従前いわゆる scientific feud 学論仇讐を結び、自他ともに災難を蒙りしこと再三に止まらず。またまたかかる俗吏根性の奴と怨を深く帯びては如何と思い、そのことは見合わせ申したるに候。
 小生只今大多忙と申すは、御承知通り十二月の『郷土研究』に肥後の医学専門校の教諭川上漸という医学士(京大)が一書を投じ、柳田氏が養老の滝その他孝子が醴泉を感得した話を例によって例のごとく言語の間違いより生ぜる訛伝と断じたるを駁し、自分の姉聟宅付近の神社の古杉株より現に酒泉わき出で大騒動とのことを報ぜり。小生かねて山中にて杉等の切株に酒臭ある半流動体ふき出ずるを見しこと再三なるゆえ、川上氏に照会したるに、一昨朝同氏の姉聟(越後|小千谷《おじや》町)より右の霊水一びん到着し候。それを検するに白酒ごときものにて、今に?酵力烈しく、すなわち酒と沸騰散と兼ねたるような水なり。いよいよこれより鏡検に掛からんと顕微鏡準備最中なり。しかして拙宅にも、昨年七月二十三日倉庫の後の囲い地(風あまり通ぜず夏初すこぶる蒸せる)の苦竹《またけ》の切株より、白色および美麗なる紫水晶色の半流動体(鶏卵白のごとし)沸き出で、ぶつぶつ音がする。また芳香を放つこと劇甚にして人の鼻を襲い、あまり久しくかぎおると酔うてくる。その香は三鞭酒またサイダーごとく、梨や林檎が?酵する最中という香《におい》なり。よって後記のため標品を作り得らるるだけ作り今も手許にあり。今度の越後の霊泉水もどうやら同類のものらしく、香気はすこぶる相似ておるが、小生の鼻はあまり煙草すうゆえしっかりきかず。よって只今医師の心がけある人に頼み、その香の精査中なり。越後のはまだ見ぬゆえ知らず、拙宅のは顕微鏡で見ると最も微細なる菌胞子と菌糸を混じ、それに多少のバクテリアを混ぜり。とにかく?酵性烈しき菌ということはたしかなり。いよいよ両方比較精査の上、賤見を添えて知名の学者どもへ配布し、その説を乞わんとす。
(351) 『塵添?嚢抄』に、孝子が飯を竹間に蓄え、それに天然の露がたまりて酒始めてできしといい(故に酒を竹葉という、と)、この辺の俗伝も左様いい、そのとき蝶来たりて吸い始めたり、故に今も銚子に蝶を付け酒をササと呼ぶなど申す。迂論な説のようなれど、?といい酒母といい、いわゆる?酵菌なるものも、人間が無中より化成せしものにもあらざるべく、すなわち最初牛に生じた痘種を人が収めて培養改良せしごとく、?や酒母も必ず最初は天然に枯木や枯竹の一部分が化学変化して、ちょうどその繁殖に適せるところに来たり合わせ繁茂せるところを蝶が吸いなどし、それより人の眼につき追い追い培養繁殖保続改良して今のごとき物になりたることと存じ申し候。今日よりも樹林竹藪到る処多かりし世には、かかることは有《あ》り内《うち》平凡尋常のことと存じ申し候。それを何の察しやりもなく、蹄あるゆえ羊というとかなんとか、落語家が鰻を鵜が食うに長くてちょっと事《こと》行かぬから鵜難儀《うなんぎ》と言い初めたなど申すごとき軽口で説かんとするは、誤れるもまたはなはだしと一笑仕り候。むかしの人とても虚誕ばかり製造に日を送りしものにあらず。むかしの人に平凡日常なりしことも、今日その跡を絶ちたること多きゆえ、名詞伝説のみ伝わりて様子が分からず、これをむりに解せんとして種々の虚誕を作るものが今の学者なりと存ぜられ候。
 土佐は知らず、紀州には田辺にも和歌山にも、小生幼時まであてばなしと申すこと行なわれ、啓蒙の一助として母が幼児に教え候。藪の中に胡麻一升な−に、答、蟻。朝早う頸くくりて川にはまるもの、答、茶袋。金山《かなやま》越えて竹山越えて金山のあちらに火ちょろちょろ、答、煙管。これらがすでに今日の児童にちょっと分からず。藪を見ぬところも多くなり、胡麻を見ぬ児も多くなり、茶粥を用いぬ家も多く、金属と竹で作った煙管の他に種々の煙管もできたればなり。しかしてまた、四方白壁、中にちょろちょろ、答、行燈。これは行燈というもの見しことなき拙方の小児には一向分からず。四方白壁、中に大の字、答、豆腐、に至っては、いかに説明するも通ぜず。豆腐の上に大の字を印して売る風、全くこの地方に失せたればなり。
 わずか三、四十年の間にすらかくのごとし。いわんや数百千年以前のことをや。それをことごとく今日知れおる言(352)語のみをもって説かんとするは迂論もまた太《はなは》だ過ぎたり。しかしてかかる頑説を中山、川村、尾芝、芝口、大野等、林春斎ほど多般の隠れ名をもって種々述べ立つる。人にやりこめられても、烏有先生、亡是公で、やり込められた本人が誰やら分からず、恥辱と責任を免るるという仕組み。小説戯作とかわり、一国の constitutions(憲章と訳すべきか)を論ずるものにしては不相応な仕方にあらずや。しかして自分の及ばぬところを補い、足らぬことを教えくれたればとて、その人に向かい、外国の書を引き外国のことを述ぶるを止めよなどいうは、その人の狭量憐れむに任《た》えたり。かかる人物に対しては遠慮も事によるから、上述のごとく、『歴史地理』で一撃しやらんと欲するに候なり。
 
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 大正六年二月十五日午後十時より書き始め十二時前終わる
   寺石正路様
                 南方熊楠再拝
 御状(二月十二日付)およびハガキ各一通咋朝まさに着、拝見。千万厚謝し奉り候。前便申し上げ候「耳塚考」は、只今いろいろ用事|有之《これあり》候えども、二、三ヵ月中には書きまとめ出すべく候。材料はちゃんと纏まりおり候ことゆえ、この上骨は折れ申さず、ただし来三月『郷土研究』の最終号に、何とか少しなりとも言いわけが出そうなものと存じおり申し候。何の言いわけも出さぬようならまことに不埒なやり方、ずいぶん手ごわく書いてやろうと存じおり申し候。
 柳田氏はずいぶん狭量な人にて、自分独り合点のあまり、面白からざる文をもって毎号(川村、大野、久米、中川、中山等、種々の偽名をもって)自分の文ばかり多く出し、しかして地方の読者が実際地方の事実を報告すると、たちまち例の随筆などを引いてやりこめにかかる。故にそれを懼れまた面倒がりて地方の小学教員や好事家は手びかえる。よって投書家の数がおのずから制限され来たれば、没書になった連中はこの上買う必要なし、図書館ででも読むべし(353)という気になり、ついに休刊と相成り申し候。かかる雑誌は経営者自身は虚心にて、二、三小生ごときものに多く書かせたら、たとい他の投書家と劇論に及んだりとて編輯の方の知ったことにあらず、反って読者は大いに面白がりしはずなり。しかるに、一図《いちず》に自分の考説のみ多く示さんとせられしゆえ、人々が面白がらず、読者の数大いに減じ候よう存ぜられ申し候。編輯人はただ材料の到達一つでもあらば、それを直ちに来月分に入れて公けにし、読者またそれに付いて追加もすれば非難もするという風なら大いによかりしなり。しかるに、読者より一文来たるごとに、それに付いて編輯人の意見を付し注釈もしくは駁撃文を読者の文と共に出すこと頻《しき》りなりし。さて自分が何たる意見を作り得ぬうちは永々とせっかくの投書を延引して出板せぬなり。小生などかようにしてせっかく書きしものが柳田氏の意見と異なる点あるがためにとうとう出ずに仕舞ったもの多し。
 貴下の「石子詰の刑」の一篇なども、編輯人が何か言わんとするもちょっと言い得ざるがために一年も延引せるなり。この多忙の世界に一夜半夜のひまをつぶして書きたるものが、何たる誤報でもなく捏造でもなきに、かく長々と出板延引とあつては、誰も二度と投稿は望むまじくと存じ申し候。さて右「石子詰」の貴文に対する柳田氏の評(中山丙子とは同氏の偽名)なども、半分まで虚誕と思うたようなことだが、小生は石子詰の話はみな事実と存じ申し候。小生明治十九年高野山に上り、それよりまた下り橋本村(今は町)の知人を尋ねに行く途上、たしか三谷《みつや》とかいう所を通りしに、その東へ向いて行く左側すなわち北の側にちょっとした農家あり。その先祖は戸谷《とや》某とかいうて、むかし高野の僧徒が農民を虐ぐることを訴え裁判となり、僧徒まけとなりし返報に、僧徒がこの家の主人すなわち告訴人を石子詰にせしにて、碑を立つるとかの掲示札を出しありし。この一件は貴国人(?)小室信夫氏の養子(?)信介氏の著『東洋義人伝』とかいうものに大概出でおりし。
 また『慶長見聞集』四に、下総小弓の大巌寺の僧多人、所化《しよけ》清林と問答していつもまける。あるとき一老と清林と論議し、一老急性の人にて、この箍《たがし》入道めと詈《ののし》る。清林これに応じてあの妻倶《めぐし》入道めという。(熊楠謂う、末文に見ゆ、(354)清林はもと桶の輪すなわちタガを作る工人の出生なり。メグシは、たしか『南留別志』に、上総辺で男女交会するをメグスルというとあり。紀州にて今もオメコシー(交合を事とする奴)ということ小児間に行なわる。すなわちメグシ入道は女犯を事とする僧の意か。)五百人の所化この由を聞き、「あの箍師入道めを年月日ごろ悪《にく》し悪しと思いつるに、かかる悪言吐くこと、大巌寺末代未聞の悪僧たり。一老に恐れもなくかえって災難を申し懸くること、末代までも大巌寺を汚し、浄土一宗に疵を付くること、悪逆無道その罪逃るべからず。ただ石子積にするには如《し》かじ」と五百人の所化ども石を持ち寄りて庭に積み、すでに清林を呵責せんとす。上人何とか清林を助けんと思い、衆僧を静め、一老に何故たがし入道めと罵りたりやと問うに、清林は伊勢の箍師の子なるゆえという。さてめぐし入道の意を聞くに清林答えて、かの一老の父は妻を倶して一老を生みたれは妻倶しの子なるゆえ妻倶し入道にあらずやといい、一同大笑いで事済みたり、とあり。この書の著者は永禄八年生まれ、今年慶長十九年まで五十年のことを記すとありて、右清林、今は黒谷に住持し、当代浄土の名智識にして、家康ことに信仰す、とあり。故にまずは右の石子詰にせんと騒ぎしは天正ごろの話と存じ候。貴下が引きたる『上杉家文書』天文年中よりは新しきものなれども、徳川幕府前すでに石子詰ということありしを証すべく候。
 柳田氏の書きぶり例のごとく古書の記事すこぶる区々たるを免れぬように思うから、石子詰の実在せしを疑うようにも相聞こえ申し候。しかしながら、今日ごとく天下一統の世にすら、地方によりいろいろのかわつたことが行なわれおれば、電信も電話もなかりし世にはかかる私刑様のものに何たる定規も定法もなかったは知れ切ったことで、記事が区々たるはかえってその実在を証するものと存じ候。書物に書いたことがみなことごとく一致するならまことに世話のなきことながら、ことごとく一致せぬゆえ、なるべく広く物を見るの要もあれば、また実際日本は小国ながらも種々変わったことがありしを知り得るなり。北畠准后なりしか白石なりしか忘れたり、国史の編輯絶えてより日本一貫の史書あるに及べりとありしよう記臆致し候。国史というものは、今日の林野統一とか神社合併とかなるべく官吏(355)事務に簡略なるを第一要事とし、その他を顧みず、すなわち座しており帳面さえ調うれば事がすみ実地は問わずに可なりという書き様のものなり。故に、宮廷のことは些末なことも細《くは》しく記し、地方のことは一向記せず。しかるに国史の編輯絶えてより諸州諸地のものども思い思い勝手に実際見聞したることを記録するに及びしゆえ、国史に比して地方の事情をも後世に伝うること多ければ、皇室や執政人の外の諸家の事歴をも委《くわ》しく録すること多かりしなり。石子詰の記録区々として諸方の石子詰の成規処置一定せぬゆえ、その存在はいかがわしいなどいうはまことに迂論至極の話と一笑致し候。
  二月号六五七頁八行(片目魚のことに付き)、柳田なる本名をもって柳田氏自分の偽名なる尾芝の説を駁しおる。(外にもこんなこと多し。)精神病者のひどいやつになると、自分の一つの脳中に二三四五の別人が出来来たり、互いに相嫉視嫌悪する。(狐つき犬つきなども、一つの脳にその人の精神と犬の精神ともいうべきものと分立するなり。)あまりに出まかせに物をいうと、しまいには自分で自分の説を撃つようなことが起こる。
 かかる苦々しきこと当世大流行なるとき、貴下定めて御承知ならん、四年ばかり前の『考古学雑誌』に、小生古谷清という人の「瑠璃《るり》考」の誤りを指摘し、一々瑠璃、硝子《ガラス》、玻?等の語原また出処年代を示せり。しかして、同氏はこれを悦ばず、瑠璃等の語原等は小生の言うところまことにもっともなれど、それよりも大事件なりとて、小生が右の文中に謝承の『後漢書』を謝承の『続漢書』と書きたるははなはだしき誤りなりとて駁撃す。しかるに、謝承の『後漢書』をむかしは『続漢書』とも言いしことは『事言要元』に出でおり、この瑠璃等の名義の論の本元たる『本草綱目』の引用書目(『綱目』の編者李氏自書)にも、謝承の『続漢書』とあるなり。しかして、かかる小挙げ足をとりて大層らしく論じ立てたる古谷自身が、近時の清人の著書から引きたる漢時の史書の名を、その史書どもの名がもっとも古く出でたる『隋書』の経籍志と比較するに三つの名が三つながらまちがいおり(史〔傍点〕を記〔傍点〕に作るなど)、少々なことといわば少々なことにて論ずるに足らねど、すでに自分が三つまで間違いおるに(小生の所為には十分|拠《よりどこ》ろあり(356)てのことながら、拠ろなかりしとするも)、小生の一つの誤りを大層な大事件のごとく言い立つるは、まことにつまらぬ根性の人と存じ候。
 大方の教えを俟つとか諸家の高評を冀うとかいうから、瑠璃等の名義出所をしらべ誤りを正しやりたるなれば、吾輩ごとき学識を重んずるものなりせば大いに礼を述ぶべきはずなるに、礼どころか馬の糞でかたきで、書物の名が一字誤りありしとてこれを行々しく論告す。(実際は本草の論ゆえ、『本草』の引用書目のまま出したるにて、謝承の『後漢書』をまた『続漢書』と言いしは、『本草綱目』の外、『事言要元』にもいい、ロシア人ブレットシユナイデル早くこのことを注意しおるなり。)実につまらぬ人物と存じ申し候。またこのことを小生委しく論じ打ち返したる文を考古学会に寄せしに、三ヵ月ばかりするも出さず。例のごとく会の主部(古谷は評議員の一人)徒党し再駁せんとするにもできぬより、延引すると見切りを立て、小生の原稿返却を求めしも返し来たらず。よって評議員の一人柳田氏を介してようやく取り戻し今に座右にあり。近日またまた増補して提出しやらんと存じおり申し候。
 また一つ笑止なことは、大正三年八月十五日の『日本及日本人』九八−九九頁、小生「倭寇と武士道」という文を出し、
  なんとか博士が倭寇を武士道の典型とほめしを、六三三号一〇〇頁以下に後藤粛堂が駁撃して、倭寇は主として婬掠を事としたれば決して武士道の典型にあらず、といいし。それを小生が評せしなり。
 『古今図書集成』その外より引きていろいろの例を出し、倭寇のころはどの国もみな乱妨なることのみ行なわれ、只今のごとく万国公法の世界通規のということ思いも寄らず、外国をば畜生同様に見たるなれば、たとい倭寇が多少婬掠を恣まにしたりとて、特に日本人の恥辱にあらず、すなわち外国人もみなそんなことをせしなり、また倭寇が武士道の典型らしきことは少々ながらたしかにあり、また外国に比して倭寇や日本人の非難さるべきことは割合に希少なりし、ということを述べたるなり。
(357) これに対し、粛堂、一語をも吐かず。しかして小生の文中『異称日本伝』を引きたるが気に入らぬとて、『異称日本伝』は間違ったこと(熊楠謂う、間違ったことにあらず。刊行の誤字多きなり)はなはだ多しとて、そのもっとも著しき例として、「まず(『異称日本伝』の)開巻第一に、『山海経』巻第十二海内北経、南倭北倭属燕というのがある、云々。これはこの書の引き間違いで実は、蓋国在2鉅燕(ノ)南倭(ノ)北(ニ)1、倭属(ス)v燕(ニ)というのである、と内藤湖南翁が言い出したので、はなはだしく相場を狂わした。実のところそんな面倒な話でなく、『古今図書集成』日本部の最初にもちゃんとこの通り出ておるので、読書子には誰にも判っておらねばならぬはずなのに、翁の言に竢って始めて合点する日本の読書界も存外心細いものと謂わねはならん。下略」(以上、粛堂の文)。
 『日本及日本人』六四一号六七頁に、小生これに対し一文を出す。次のごとし。
  『山海経』の読み損《そこな》い。『異称曰本伝』に、『山海経』を引くとて、南倭北倭(ハ)属(ス)v燕(ニ)とあるは、実は、蓋国(ハ)在2鉅(ナル)燕(ノ)南、倭(ノ)北(ニ)1、倭(ハ)属(ス)v燕(ニ)とあるを間違うたのだ、と内藤湖南翁が言い出したので、はなはだしく相場を狂わせたとある。内藤翁の文を見ぬから委細を知らぬが、この読み損いは今より百十七年前(寛政九)屋代弘賢が桑山氏に宛てた状中に指摘しおる。それを見ると水戸の立原氏が創めて見出だしたらしい。いわく、「(白石の)南島志、今按(ズルニ)、流求(ハ)古(ノ)南倭也、南倭北倭并(ビニ)見(ユ)2山海經(ニ)1、と記され候は、句読の誤りにて候。蓋国在鉅燕南倭北倭属燕と申す文にて候を、鉅燕の南、倭の北と読み候えば、南倭北倭と申す名目は聞こえ申さず候。これは彰考館総裁立原伯時話にて御座候いき。(熊楠|謂《いわ》く、この立原氏の孫か曽孫に当たる人、自由党にて耶蘇教信者なり。ロンドンにありし。また謂く、山中鹿之助と共に尼子氏に尽せし立原なんとかという士あり、その子孫を水戸へかかえられたるにや。)推量致し候えば、この句読まさしく『異称日本伝』に誤られ候か。見林、白石ともに麁漏なることにて候いき。今本書を見候えば、第十二海内北経にて御座候。この次に、朝鮮在2列陽(ノ)東海、北山(ノ)南(ニ)1、列陽(ハ)属(ス)v燕と有之、この両条を併せ考え候て、句読の誤りはあるべからざることと存ぜられ候」(『甲子夜話』続篇九〇)。たぶん内(358)藤翁の文には立原、屋代二氏の先見を推しておることだろうが、念のため申し上げ置く。(以上、熊楠の文)
 しかるに、これに対して粛堂も湖南も一言もいわぬに、六四二号一〇二頁に稲葉君山より次のごとき弁解(?)出でたり。
  『山海経』の読み損い(南方熊楠君へ)。前号の誌上に南方熊楠氏の、『山海経』にある南倭北倭云々の誤読を内藤博士が言い出した、博士の文を見ぬから委細を知らぬ、云々、とあるが、博士はこのことに付いて論文なり考証なりを公けにされたことはない。京都の大学で喜田博士が日本上古史を講じた時に、例の南倭北倭云々を引いたので、内藤博士はそんなことは『山海経』にはない、それは誤読だと言われたままである。南方君は博士が立原・屋代二氏の先見を握り潰しでもしたかのように想像しておらるるが、それはとりこし苦労であるであろう。博士の創見のごとく言い出したのは喜田博士であって、わが内藤博士には全く知らぬことである。(稲葉君山)
 内藤くらいをわが内藤博士などというのは、貴下御示しの「管仲《かんちゆう》を知るは曇嬰《あんえい》のみ」だが、それは勝手として、小生は内藤氏とは一向親しからず、また京都大学での講義などのこと一向気にかけず、かくるに足らぬことと致しおり。後藤粛堂の文を見ると、内藤氏が右の句読の誤りを指摘したとあって、別に喜田氏がそのことを言い散らしたとは聞こえず。およそ今日学者の習い、私言や対語また書信等にあったことは、その人によくよくかく貴公が言ったと書き公けにしてかまわぬかとつきとめた上でなければ、これを伝え弘めることはせぬものなり。すでに日本の読書界が湖南の一言に俟って始めて句読の非を知ったとあるはどなれば、小生が何か湖南が一文を出したことと信ずるは至当のことにて、その文を自分が見ぬゆえ委細を知らずと断わるは、小生としては挨拶の体を得たるものなり。しかして、小生右の屋代氏の状を出すまで誰も気が付かなんだらしいところを見ると、湖南は自分より先に立原氏がこの正誤ありしを知らざりしか。
 小生等生物を発見して名を命ずるに、世界のどこにどんなものがあるか知れず、たとえば前年牧野富太郎氏が本邦(359)で見出だせるムジナモなどは、まことに奇怪な草だが、西欧のポルトガルと日本と濠州付近とに同一種を産す。また蟹などにもニュージーランドとそれより全く足の底に当たる英国に全く同一の種あり。やや高等な生物さえかくのごとし。いわんや小生などもっぱらしらべる下等の藻や菌に至っては、実に分布が繁雑にてどんなに非常なものを見出だしても世界中を聞き合わせた上でなければ、決して命名などすべきにあらず。故に小生はずいぶんいろいろ見出だしあるも、今日までたしかに命名せしは、粘菌という一群に限る。自分の名を挙げんとて穿鑿も重ねずにいろいろ命名すると、無用の名が多くなり、後進が植物の研究よりは植物の名(それもたちまち命じてたちまち抹せられたる死人の戒名ごときもの)の取調べに日を送らねはならぬこととなるゆえに候。われわれとかわり、すでに博士などいかめしき名号ある人は一事一言に付いて大いに注意を要し、右の誤読の指摘等に当たりても、せめては吾輩が植物の命名をなるべく差し扣えるごとき心もて、誰かがすでにこの誤読に気付きおらずやくらいのことは調べられたきことなり。吾輩ごときただのひやかし書《ほん》読みとかわり、博士などいう号を飾る上は、博士らしく右様の荘重丁寧なるところがありたきものなり。
 しからずんば稲葉氏の邪推は邪推ながらまさしく中《あた》れりで、湖南は前人の先見を知っておりながら、俗耳を驚かし欺かんとて握り潰したといわれても仕方なからん。これゆえに小生などは夢にも学位などを欲せず。『水滸伝』の宋江の語に、人となれば自在ならず、自在ならば人とならずとあり、博士などになった上は毎事謹慎を要し、先人の先見ありしを知らずに言うたなら、博士に似合わぬ浅学といわれても詮なし。(学問というものは田夫野人も多少なし得。また特別の人才にして特別の学術を自然に会得するもの多し。しかしながら、これらは決して博士などにすべきものにあらず。博士は事の名教に係わり、またその人の品位をも顧みるべきなり。すでに物を言う以上は些末な先人の先見くらいは知らぬも可なり、おればおれで気付いたから、これわれより古えとなるなどは、博士の言としては聞かれず。)
(360) さて、知って先人を挙げず、ただ自分の見のごとく言ったなら、その人の徳性まことにいかがわし。かかる場合には、柳田に吾輩が非難さるるごとく、たとい博学にほこる等のそしりを受くるまでも、先人の名は一つなりとも多く出し、先人の著は一つなりとも多く引きやりてこそ、古人の苦労に酬い後進にも先人の功を仰ぐべく教ゆるの道が立つに候わずや。小生はかかる古人に対する徳義を無視するに似たる言行の博士など多きを見て、まことに老婆同様の取り越し苦労をする。さてまた俗語に、「問うに落ちずて語るに落ちる」と言うが、稲葉氏の文(これは小生よりまた数層大なる取り越し苦労な文で、小生はただ粛堂を相手として湖南のことをいいしのみ、稲葉氏には何の関係なし。しかるに、委任状も持たずに、少年の時鶏姦でもされたかのごとく、わが湖南博士などいうは実に取り越し苦労の極たり)を読んで面白いことを知り得た。それは喜田博士とてずいぶん名の聞こえた男がこれほどのことを知らず、ただに知らぬのみならず、内藤氏がこの句読の正誤を初めてやつた人のごとくふれちらしたというに至っては、先年国会でまでさわぎし南北朝論も児戯のようなことと分かり、また湖南の冤(?)を雪がんとて、わが内藤博士さえ顔が立たばよいで、喜田博士の恥を暴露した君山という男の為人《ひととなり》も分かり、まじめにこんな長文を書くも、ちと狂人じみたことと気が付き来たり候。
 次に大正四年八月か七月ごろの『日本及日本人』に、小生和歌山城を本多静六博士がむちゃくちゃに改良改良というて西洋風に潰してしまわんとするを憤り、本多がいろいろ法螺吹いたことを指摘し打ちこみしことあり。これにより右の城を潰すことは止み申し候。その法螺の内一ヵ条植物学に関することを、白井光太郎博士を介し東京植物学会へ申し通じたるも握り潰しとなり、同会の雑誌へ出さず候。
 この類のことはなはだ多く、一々申し上ぐること能わず。しかし、これに反し欧米ども小生の評判受けは不断宜しく御座候。
 右はつまらぬことばかりに候えども、旧知の貴下には反ってかかるつまらぬ話の方面白かるべくと存じ、御笑覧に(361)供え申し候。また近来面白きは、小生近来自分の書くものへ自分のことを自分で「南方先生」と書く。これを傲慢無遜とか何とかまことに悪々《にくにく》しく思う人もある様子、この先生は決して自尊の語に無之、小生の綽号《あだな》ごときものに有之。小生五、六歳前まで酒を飲むこと無量にて、所作一向とりとめなかりし。しかして、公使館その外どこへゆくもむやみに頭を下げず、故に内田康哉子、林権助子その他みな小生へ宛てた状には、「先生といはれて灰吹き替えに行き」の敬遠またおだて半分、南方先生とかき有之、はなはだしきは、政府の局長などより小生へ宛てたものにも南方先生と書き来たる。すなわち人心の帰嚮が一致しあり、異議なき号と存じ候付き、みずから先生を号としおるので、決して自尊の号には無之候。貴下などもなにか書くとき南方先生と書き下されたく候。(末広一雄氏等の著書に南方先生と書きたるものもあり。)さて何か言うものあらば大いにやりこめ撃退しやらんと構えおり申し候。
 先日申し上げ候百五十冊本の維新ごろのことかきしもの追い追い写しおり、土佐に関することあまり多からざるも、見当たり次第書きあつめおり候。十枚ばかりの小冊にはきつと成り申すべく、然る上差しあぐべく候。まずは右追い追い遅刻と相成り候付き、これにて擱筆仕り候。小生眼十分宜しからず、御察読下されたく候。    敬具
 
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 大正九年八月一日夜十一時
   寺石正路様                                         南方熊楠再拝
 拝啓。客月十四日付御芳翰は十七日まさに拝受。しかるに当時小生例の植物研究のため土や水をさわりありき筆を執るひまなく、ようやく昨日よりひとまず中止、しかして昨夜より貴状を写し『民族と歴史』へ送り候内、県の勧業課長、学務課長が逢いに来たり、それこれにて今夜ようやく写し了り、明日出すことと致し候。かようの儀にて大い(362)に御受書相後れ候段、万々御海容を惟《これ》祈る。
 御来示の神母木(イゲ)は小生初耳にて一向分からず候えども、当地方にあまり少なからざるクスドイゲと申す木有之、これは故矢田部良吉博士の『日本植物編』には九州のみに産するよう記しあるも、和歌山市中の公園や和歌浦、それからこの田辺付近の海岸の小丘また町内の生け垣の内等に、自然生え多く有之候。五六七八尺の灌木が普通なれど、神島など申す斧鉞の入らざる旧き林中には二丈余に及ぶ喬木もあり、見たるところ一向つまらぬものに御座候。小生、小生宅より一町ばかり隔たる家の竹垣中に自然生ぜるものを七月二十三日朝見出だし、小枝を折り取り乾かし置きしもの同封仕り候間、御覧下されたく候。生きたときは葉に椿のごとく少しく光沢あるも、乾けば失せ申し候。花は至って小さく縁白色にて一向見ばえなく、実も※[図有り]こんな小さなものにてつまらぬものなり。何の用に立たぬものながら、刺あるゆえ盗人の禦ぎくらいにはなり申すべく候。この木何故か神社の森に多し。ことに海辺、海島の神林に多し。当地方にはこの木の名を知ったものなく候。いわんや何たる伝説はさらになく候。栗の刺をイガと申すごとく、イゲはこの木の刺による名にあらずやと察せられ候。クスドイゲは何の意と分からず候。刺多き木ゆえ、もと神社や陵墓を守るため植えたるにあらずやと存ぜられ候。当県にはイゲを名とする社一つもなし、貴下おついでの節、イゲを名とする社の境内にこの木あるかを御しらべ下されたく候。
  またハシドイと申す木あり。欧州人が賞翫して公園などに植えるリラック Lilac とて、わが国の木犀などと同類で黯紫色の花芳香あるを開くものに近し。これは刺なし。このハシドイも何となくクスドイゲに似たる名と考えられ申し候。
 右クスドイゲを只今普通に支那本草書の柞木に当て申し候。『本草綱目』に、「李時珍いわく、この木、処々の山中にこれあって、高きものは丈余なり。葉は小さくして細かき歯あり、光滑《つややか》にして靱《つよ》し。その木および葉の※[Yのような図]《つけね》にみな針刺《とげ》あり。冬を経るも凋《しば》まず、五月に砕《こまか》なる白き花を開くも、子《み》を結ばず(「子を結ばず」とは「実《みの》らざる」なり)。その(363)木の心理《しん》はみな白色なり」、その木皮は黄疸を治し、また催生安産せしむ、とあり、葉は腫毒、癰疽を治す、とある。普通の『本草綱目』の図の柞木はあまりクスドイゲに似ざれど、清人呉其濬の『植物名実図考』の図ははなはだよく似おり申し候。伊藤圭介氏説に、クスドイゲまたソノイゲまたクスドノキと申す由。ソノイゲは園のぐるりに植えれば園を守るの意にて、イゲは刺のことと存じ候。『周礼』に柞氏あり、「『周頌』の伝にいわく、草を除くを芟《さん》といい、木を除くを柞という」。これはこの木に刺多くもつとも人を困らすゆえ、なるべく早く気を付けて除かざるべからず、すなわち除かるべき(柞《のぞ》かるべき)木の親玉なれば、特にこの木を柞木と言いしものか。またはこの木のごとき難物はもっとも柞くべきものゆえ、木を除くことを、この木に中《あ》てて柞と書くに及びしか、決する能わず。
 この木はイイギリ科に属し、イイギリ科は両半球の熱帯地方に多く産す。二十属あり、六十種ばかりという。日本には(台湾等は知らず)在来イイギリ属と柞木属と二属あるのみ、各一種しかなし。(ただし柞木属はすべて二十五種あれど日本では一種のみ出る。)以前ハワイで癩病を治し大名を馳せた後藤昌文氏が用いた大風子と申すツバキの種子ごときもの(インド産)も、このイイギリ科のものに御座候。
 楠神の件は大いに難有《ありがた》く、小生ほとんど貴状の全分を写し、『民族と歴史』へおくり置き候。これは貴地方にも届きおる雑誌と存じ候。もし貴下平生御目にふれぬものなら、右貴文出た号を差し上げ申すべく候。ただし何月に出るか分からず候。
 小生前日(四月)沼田頼輔氏の後詰致し候。自分の家紋たる釘貫紋のことで黒川真道氏の説を駁し、沼田氏と黒川氏の間に大紛議を生じ候。そのことはすでに御聞き及びと存じ候。この余波にて多年小生にくれおりたる『考古学雑誌』を何の理由も申し来たらずにくれぬことになりしは前方の勝手として、小生の論文出でたる号をも一冊もくれず。実にわが邦の学者など申し、東京辺で肩を張りおる人々の根性は、至ってきたなきことと顰笑罷り在り候。
 小生昨夜より今に一睡せず。これより眠りたく候付き、これにて擱筆仕り候。    敬具
(364) 本状一度封じ了つて貫状を読むに、袈裟を人名に付くることに付き御下問あり。これは断じて当県にはなきことなれど肥前に有之由、在英中伊東祐侃氏(この人は鍋島侯世嗣の付きにてロンドンにあり、ミッドルテンプルに法学を学びおりたり。大乱暴な人にて望月小太郎氏の鼻を咬んだことあり。帰朝後、伊藤博文公世話にて朝鮮で新聞出しおりしが、今は一向聞こえず候)より聞きしことあり。氏の友人に水町袈裟六とかいう人あり、この人生まれしとき、胞衣を袈裟のごとくまきて生まれ出でたり。かかるものあるごとにその子を何袈裟また袈裟某と名づくると承り申し候。小生は一向見ぬことゆえ知らず。ただしかくのごとく胞衣を巻きて出ずること西洋にもあり。その袈裟を英語で caul また sely how と申し候。小生は伊東氏よりただ袈裟のごとく巻き生まるとききしのみ、児のどこに巻くということを聞かざりLが、欧米にては必ず頭を丸で裹《つつ》むと申し候。故に、袈裟というよりも帽子《もうす》(禅僧の)と申すべきに候。あるいは日本のは実際袈裟や大礼服のサッシュのごとく肩にまき、西洋には左様のものを何ともいわず、別に時々頭を包んで生まるるがあるのかとも察せられ候。しからば caul と袈裟は別物なり。なお産科医に聞き正して申し上ぐべく候。カウルのこと左に申し上げ候。
 カウルは時として児の頭を裹んで生まるる小膜にして、父母交会の際常軌に外れたることあるより生ずるらしし。かくて生まるる児は幸運あり。俗説にはこれを買い持つ人は危禍を免るという。ローマのラムプリチウス説に、ジケズメニアヌス、実にこれを被って生まれ、ついに帝者となれり。クリソストム尊者(耶蘇教初期)もっともかかることを信ずるものを攻め、プレツスなる僧が産婆に嘱してこれを買いしことを攻撃せり。サー・トマス・ブラウンの『俗説弁惑』に、およそ胞衣は三層より成り、最外層は動静脈と臍帯を具えおり、その次の層は水(小便なり)を受く。最内層は汗を受く。さて小児が胎を出ずるに臨み、最内層の一部を頭に冒って出ずることあるなり。
  熊楠いわく、豹蕈《ひようたけ》など申す菌がaより開裂してcになるとき、全く外被層を脱し出ずるは稀にて、幾分かdごと(365)く外皮層多少の断片をかぶり出ずるなり。ブラウンの説はこの通りの意味なり。
これ最内層被の靱性強過ぎるか、児の脱被力弱きかの致すところなり、と。レムニウス説に、この膜赤きはその児吉、黒きほその児凶を示す、と。ルジマン説に、スコットランドにては婦女これを holy or sely how(holy or fortunate cap or hood 帽子)という。これを冒って生まるる子ははなはだ幸福なり、と。グロース説に、これを買って持つもの、それを被って生まれたる人の安否を知り得。その人生きおる間は堅固に褶襞《ひだ》あれど、病みまた死するときはたちまち柔《やわ》く寛《ゆる》くなる、と。ギアネリウス説に、愚人あり、その児これを冒つて生まれたるを見、これ必ずかような帽子を冒つて来る法師が自分の妻を姦して孕ませたるなりと怒り、その憎を殺さんとせり、と。一説にカウルを持つもの、これを失えば幸運も失せ去り、これを拾い獲しものに移る、と。けだし、この物医薬の妙効あるのみならず、これを持たば水に溺るることなしというゆえに、時々新聞へ広告出で、船頭等争うてこれを求む、と。またこれを持たば弁舌よくなるとて、産婆がこれを取り弁護師に売ることあり、云々。以上、一九〇五年ロンドン出板、Hazlitt,‘Faiths and Folklore’巻一より、抄訳し申し候。
 よく『三世相』などに、小児が頭に蓮の菓様の胞衣を笠着けしように冒つて出た図を見る。caul はこのことと存じ候。それと袈裟を繞《まと》うて出るとは、あるいは別かと存じ候。しかして只今は詳しく申し上げ兼ぬるも、仏統相続者の内に袈裟を着て生まれし尊者ありし。たしか釈迦−大迦葉−阿難−末田底迦、この末田底迦なりしと記臆致し候。これは他日詳しく調べて申し上ぐべく候。この末田底迦等が袈裟を被って胎を出でしことを非常に尊ぶより、自然に仏徒は袈裟冒つて生まるるをよほどの吉祥事としたらしく候。(これにて眠くてならぬゆえ擱筆、明朝調べてまた書きつづくべし。)
(366)(以下は翌日すなわち八月二日記し候。)末田底迦と申せしは記臆の間違いにて、阿難の次が商那和修すなわち仏より第四祖なり。外に阿難の旁出に末田底迦あり。この尊者はもっぱらカシュミール国(?賓国)に仏教を弘めたので、支那伝来の仏教に無関係なり。故に支那よりはこれを旁出とす。(カシュミールにてはむろん開国の祖師なり。)この記臆を小生は間違えたるなり。
 『仏祖統記』巻五に、三祖商那和修尊者は王舎城の長者なり。過去世に商主たり。路に辟支仏が重病に嬰《かか》るを見て、すなわち為に薬を求めて治療す。その衣きわめて弊悪なるを見て妙?衣を奉る。辟支仏いわく、この商那衣(草衣と翻す。西域に九枝の秀草あり。もし羅漢生ずれば、すなわちこの草浄地の上に生ず)、これをもって出家成道す、故にまさにこれを著て入滅すべし、と。すなわち空を飛びて十八変を作《な》しすなわち涅槃を取れり。(御存知通り辟支仏は縁覚と申し、南方先生同様人より法を伝えずに自得自修し、人のために説法せず、食を乞い物を求むるにもこれを口外せず、黙して立っておる。それを奉れば神変を現ず。死するときも法を伝うる等のことなく、ただ神変を現ずるのみ、無仏世界に出ずるもので仏法にはこれを嫌うなり。)商主悲哀し諸《もろもろ》の香木を集め、舎利を闍維《じやい》にし、起塔供養す。願を立てていわく、われ来世に功徳、威儀および衣服、今のごとくして異《かわ》ることなからん、と。この願力によって五百世身の中陰において(中陰とは身死して神魂がいまだ胎に宿らぬうち)、恒《つね》にこの商那衣を服す。最後身に衣胎に従って倶に出で身に随つて増長し、出家して変じて法服となる。具戒して変じて九条となる。よって商那和修と名づく(サナカヴァサ、自然服と訳す)。これが九条袈裟の起因らしく、玄奘が梵衍那国に入りしとき、雪山を皮《わた》って東に伽藍あり、商那(草衣)九条を蔵す、衣?赤色なり、商那和修、入滅にこの袈裟を留めて、弟子に謂いていわく、法尽ののち方《まさ》にすなわち変壊すべし、と。今すでに少しく損ず、とあり。
 右のごとく、第四祖商那和修尊者が胎中より袈裟を纏うて出でしより、かようのいわゆる袈裟すなわち胎衣を袈裟様に纏うて生まるるを、自然に功徳を具えたる吉祥事としてはなはだ祝い、特に袈裟某、某袈裟と名づけたるにて、(367)『元亨釈書』などをことごとく見ば、、日本にも名僧などかかる袈裟を掛けて生まれたるもの、必ず一、二例はあることと存ぜられ申し候。ハズリットの書に(上に訳出せし)親も子も caul を被り生まれたる例を載せれば、あるいはそれと等例で有名なる衣河またその女《むすめ》袈裟御前など、母女ともにこの袈裟(または衣)を纏うて出でたるゆえの名にあらずやと、ここまで書いて、さて『源平盛衰記』を見ると、衣河は陸奥に下りて住みたる地名に因んで付けたる名、また衣河の名に因んで娘を袈裟と称したりとあれば、この推察は小生の間違いに御座候。とにかく、貴地方の袈裟某、何袈裟は、以前商那和修尊者、自然服を被て出生せし因に基づきたる仏法信者の風習で名づけしものと存ぜられ申し候。
 また申す。何か名は忘れたり(小生この室内にあるがちょっと捜し得ぬ本にて)、八文字屋本に、西竹林寺とかいう寺にケサ六という化物あることを記しありたり。小生幼時、母がいつもその話を聞かされしも、委細は忘れたり。右渋筆の走り書き、御判読を冀い上げ奉り候。                           敬具
 
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 大正十四年三月十六日早朝出(十六日午前一時より一時半までに認む、夜明けて出し申し候)
  高知市南新町四四
   寺石正路様
              和歌山県田辺町中屋敷町三六
                     南方熊楠再拝
 拝啓。その後大いに御無沙汰に打ち過ぎ、近ごろさらに御左右を承聞仕らず。毎度心掛けながら多忙のため失礼のみに打ち過ぎ申し候。
 小生こと相変わらず植物学専攻致しおり候ところ、近来不景気の世波につれ、拙生企図の植物研究所に寄贈を約し(368)ながら今に仕払いくれざる向き少なからず、ずいぶん当惑致しおり候も少しも屈せず、鉄眼が黄檗の一切経を板行せしときの鉄心に倣《なら》い、今に諸彦有志の同情に訴え寄付金を積み立てながら、尺蠖《せつかく》の気前になりて研究は打ち続けおり申し候。
 しかるに客獵末、この不払い分を請求のため和歌山に上り候ところ、気候寒きがため発熱、また東京市大植物園より来客あり、それがため当地へ帰り申し候てより身心勝れず、久しく臥蓐、さて二月初めより快方にてしばらく勉強中、不幸にも夫妻および一子(名は熊弥《くまや》十九歳)くりかえしくりかえし流行感冒に罹り、妻は今に臥しおり、小生も一昨日ごろよりようやく快方、夫妻とも中耳炎ごとき容体を存しこまりおり候ところに、なきつらに蜂と申すべきか、一子熊弥、当地中学校卒業、かねてより高知第一高等中学校へ入学の受験を致すべく届け出で有之、しかるに六、七日前ようやく快愈致し候付き、本月十二日小生打ちつれ、小生幼年より学友たる医士に特別に精細なる身体診査を乞い候ところ、もはや全快健康常態に復したれば旅行気遣いなしとのことにて、本月十三日、増田、白木という二青年(いずれも十九歳くらい)と同行、御地へ出立致させ候に、十四日は当地方十二日にやや髣髴たる大風に有之、たぶん土佐航路も同様の大風波なりしことにや、船中にて発病致せしことと相見え、咋十五日午後六時に高知局四時出の電報着、
  高知市キタホウコニンマチ(北奉公人町?)アリサハタケトシ(有沢武俊?)方、なる発信人名にて小生に宛て、クマヤビヨキスグコイ マスダ(増田、同行の紀州西牟婁郡|日置《ひき》町住の青年)
とあり、妻は気絶せんばかりに驚き申し候。夫妻とも病気上りにてとても高知まで趣くことはならず。よって知人二人(佐武友吉、六十三歳ばかり、金崎卯吉、四十一、二歳)を頼み、今朝五時出の汽船もしくは九時出の自動働車にて和歌山へ趣かしめ、それより電車にて神戸に趣き、なるべく今日中に乗船高知に向かうよう頼みおき申し候間、おそくとも十八日には御地へ着すべく、さつそく右有沢氏方に就き拙児を引き取り、当地へつれ帰ることと致し置き、咋(369)十五日夜九時ごろ有沢氏へ、「ヒトユクテアテタノム」、次にまた、「ニウイン(入院)サセヨ」と発電(急電)、また別に小生別懇の宇井|縫蔵《ぬいぞう》氏(当地高等女学校教諭にて『紀州魚譜』の著者)を招き、同氏より吉永虎馬氏へ、
  ミナカタクマクスコクマヤキチキタホウコニンマチアリサハタケトシカタニテヘウキセワタノムイサイフミ(南方熊楠子熊弥貴地北奉公人町有沢武俊方にて病気世話頼む委細文)
と電信を出しもらい置き申し候。(これは急電にて吉永君勤務の学校へ出し申し候。)
 右の次第に付き、拙児と同行の二青年は十八日より試験に出るため、拙児に付き添いおることはならずとも、有沢氏方にて世話し病院へ入れくるること、また今日中には吉永君も赴援下さるることと、それを頼みと致しおり、そのうちには当方より差遣の二名も御地へ着することと存じ候も、小生五十九歳にして始めて亡父が小生を海外へやりしときの心底を察し申し候て、ことに妻は病中気弱くいろいろ心配致しおり候付き、最初電報に接せしときより自分気付きながら、只今まで差し控えおり候も、妻があまりに望み候ゆえ、これまた人を救うの一方便と存じ、今更特に本状を呈上し御頼み申し上ぐるは、何とぞこの状御覧の上、右有沢氏方に就き拙児の様子御聞き合わせの上、拙生まで御一報願い上げ奉る。また当方より差遣の二名が御地に無事着致すまでの間、何とぞ吉永君と御協力、御応分の御庇護を加えやられたきことに御座候。
 吉永君の御名は小生若きときより承知、またその御一族にや、吉永という判事か検事が明治十八、九年の際和歌山に勤務中、その子息と交際致せしことあり。しかしながら、小生は吉永君に拝顔せしことなきをもって、只今はわざと自分より発信を差し控え、宇井氏を経由のつもりにて、宇井氏より電信をさし出しもらいしことに有之、小生数日中に全然本復の上、改めて吉永君へ一書進呈すべく、それまでは何とぞ貴殿同君に御面会、特に小生のことを御述べ下され候上、拙児のこと何分御庇護を仰ぐ旨御伝声を願い上げ奉り候。
 小生は今に耳と右眼が痛く、夜来右のことのため奔走焦慮して心身きわめて疲れおり候も、妻が何分一刻も後れず(370)本状を差し上ぐるよう懇請致すより、筆のさきも見分かたざるなりに、使い古せし筆にて右走り書き致し、さっそく郵便局へ出させ申し候段、悪しからず事情御洞察の上、何分宜しく御頼み申し上げ置き候。    恐々謹言
  小生は四十一歳のとき二十八歳の妻を娶り、右の男児十九歳と十五歳の女子とあるのみ。この女子、右の電信に接し涙も出ず、顔蒼ざめ無言にて通しおり申し候。
 
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 大正十四年三月二十二日夜八時
   寺石正路様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。十八日夕方付御状咋二十一日朝拝受。しかるに当方次に述ぶるごとき大取込みにて、只今ようやく本書差し上げ申し候。
 拙児は十三日当地出立、その前々十六日間ほど流感にて臥蓐、本月八日ようやく起き上がり、十二日に医師がもはや健全なりと申すに付き、断髪浴湯せしめ、同行の受験生等取り忙ぎ候様子につき、十三日に当地出立、大坂に至りしに、大坂川口にまち合わせし一人迎えくれ、その叔父方に泊りしに、その叔父あまり人物ならず、その妻ことのほか無愛想の様子ゆえ、三人辟易致し、十四日大風を冒し乗船、御地に十五日着、着後発作致せしものにて、全く病後程なく出立、ことに大風中に航海せしゆえおこりしことと察し申し候。当人はおいおい平癒に近づき候様子なるも、今に当時の妄想を臆い出して、その妄想たるを覚らざる様子、当分母(これまた病中)が付き添い看護致し、もっぱら安睡せしめおり申し候。
 しかして、「禍は単《ひと》り行かず、福は双《なら》び到らず」とか『水水滸伝』に見え候通り、泣き顔《つら》に蜂と申すは、迎えに行き(371)し二人の内、佐武友吉(拙児の幼少のとき飼養せしものの夫にて石切り屋の親分、?客体の人)は十九日夜十一時帰着、拙児を当方に送り付けたる後、二十日一日頭痛はなはだしく打ち臥したるままにて、二十一日には早朝より起き上がり何事もなきに、今一人金崎卯吉(拙宅長屋に住む洋服裁縫師)は、出立前より腹具合宜しからざりし由にて、それが大坂のなにか冷麺様のものを食い候とかにて、帰りし翌日より下痢、血を雑え候より医師二名に診しもらいしに、全く赤痢と決し候より、咋朝小生医師と相談、遺憾ながら午後二時担架にて避病院へ移し、妻つきそい行き看護、老母と一男子のみ家にのこり行通遮断中に御座候。これらのことにて拙方大混雑、今に夫妻とも少しも息《いこ》わず、小生は流感もはや全癒なれども、妻は今に多少その気残りおるに右の次第、ただ二、三日来気候|頓《とみ》に和らぎ暖かく相成り候だけがまだしもに御座候。
 佐武氏より貴地滞在中いろいろ御厚情に預かりし趣き承り、まことに感銘、今日拙児も貴殿にいろいろ御世話になり候ことを臆出致し、御礼申し上げくれと申し出だし候付き、取り敢えず本状差し上げ御厚礼申し述べ候。またその節結構なる御贈品種々恵贈相成り、ひとしお感佩奉り候。その御礼に何か差し上げんと存じ候も、素《もと》より産物に乏しき土地にて、名産の鰹節等は貴地にもそれ以上の物を出され候よう承り候付き、今夕倉庫に入り候を機会とし、フレール女史の『デッカン旧日譚』(The Old Deccan Days by Frere)第二板を見出でて封し郵便局まで持たせやり候ところ、三時過ぎては日曜日には小包を扱わずとかにて返り来たり申し候。よって明早朝書留に致し出させ申し候。これはヒソズ教の行なわるインド地方の風俗、俚譚を見るに必須の書にて、小生は初板と第二板と両様を蔵しおり、初板(一八六八年出板)には着色の図板四、五あり(ただし本文に何たる要用なきもの)、大字にて紙数多けれども語彙を欠き、第二板(二年後れて一八七〇年板)は、図板をかきやや細字にて紙数少なきだけのかわりにて、序文本文とも一字の増減なし。初板拙蔵の分は?紙が全くはなれおり郵送不便に付き、第二板の方を差し上げ申し候。今日は絶板にて毎度とは売りに出でざるものの由にて、小生も久しく申し込み置きし古書肆二軒より一昨春一度に二部着き候よ(372)り、故土宜法竜師記念品として平常書状入れに用いなれたる黒塗りの書状入箱を金剛峰寺より贈られたる返礼に、同師が遺言して真言宗高野大学林へ守付されたる文庫中へ(一部を)編入を頼まんと存じおり候ところ、他にも書籍二部あるもの有之候付き、この書は貴殿へ呈する方多く役に立つべしと存じ、他の書を高野大学林へ贈ることと致し、本書を貴方へ呈上致し申し候。多少インド方面の御観察に御用立て候わば幸甚。
 御地北奉公人町アリサワタケトシ氏方に拙児就宿の直後発作、同家の人々も大いに驚き手厚く御世話下され候由は、十六日午後四時認めて佐武氏着後渡されたる吉永虎馬氏より小生縁属(妻の姪聟の叔父)宇井縫蔵氏(『紀州魚譜』著者)宛の御状を、二十日夜ようやく宇井氏にあい交付開封の上相分かり申し候。佐武氏は十九日夜拙児とともに帰りしも、前述通り翌二十日は全く臥して二十一日早朝来たり、ようやくこのこと分かり申し候。有沢氏へも一書差し上げ御礼申し上げんと存じ候も、アリサワタケトシはどう書いて宜しきか、明朝あたり拙児と同行の二青年が帰省の途次(これは当地の人にあらず。当地よりなお東南の地方の人々なり)あるいは立ち寄らるべく、然る上たしかに知り得るところにて(迎えにゆきし一人金崎は避病院にあり、佐武氏は全く無筆の人なり)、発作当時のことも詳しく分からず、また当方右様の取込みにて当分小生筆をとる暇もなかるべきに付き、何分御迷惑ながら貴殿右有サワ氏およびその隣の国吉医院に趣き、拙生に代わり然るべく御挨拶願い上げ奉り候。
 これは近来この和歌山県は文化のすすむにつれ、もってのほか不埒無作法に相成り、小生ごとき堅きものは狂人また痴人ごとく見做《みな》され候に異《かわ》り、貴地方は今に士族邸のなまこ壁も多く、全く旧日本の礼義を備えおり候由、佐武が実見談を申し候付き、小生はこの者どもいかなる挨拶をして帰途に着きしやはなはだ心元なく存じ候付き、あまりに紀州人の不作法を笑われざらんようことのほか心配の上、特に願い上げ候ことに御座候。
 何の子細もなくただ文辞上詞を厚うしてそれですますような礼状は、出さぬ方が宜しと存じ候。いずれ明日またはその後にても拙児と同行の二人にあい、とくと当時の子細を承り候上、御礼状差し上ぐべく候。拙児は発作当時の様(373)子を全く覚えず、これを糾明すると反って病勢再発の惧れあり。金崎は避病院におり、佐武は老人にて話前後し、あまり詳しきを知るに由なく候。
 まずは多忙中差し忙ぎ右申し上げ候。吉永君へも数時前に一書差し上げ置き候が、御面会の節何とぞ御伝達宜しく御礼申し述べ下されたく候。                謹言
  小生みずから四十日ばかり臥しおり、ようやく七、八日前に起き上がり候始末、四十日も臥しおり候ては筆を執るも物書かると思わず、このところ大いに『徒然草』の文意と反対に御座候。したがって乱筆宜しく御海恕、御察読を惟《これ》祈る。
 
          10
 
 大正十四年七月九日夜九時
   寺石正路様
                  南方熊楠再拝
 拝復。七月三日出芳翰六日朝九時ごろ拝受。しかるに拙児今に病気全快せず、そのとき御地へまかりし二人今に世話しくれおり候も、はや八十日近き長病にて、何とも閉口致しおり申し候。そんなことにて多事多忙を極めおり御返事延引、いつと申す見極めも付かざるにより、今夜少暇に乗じ自分存じたるだけ左に御返事申し上げ候。
 御写し下されたる『二十二史剳記』は当地にもあれど、右述の次第にて小生ちょっとちょっと外出できず。したがって閲覧の便なければちょっと伺い上げ候は、
  「山陰公主(面首云々のことは小生も存知おり候)、みずから以《おも》えらく、東宮にありし時、孝武の愛するところとならず、と、云々」。これはこの公主がかつて東宮におりしことあるにや。または孝武が東宮におりしときその姉山(374)陰公主を愛せざりしことに候や。また「まさにその景寧陵を掘らんとす」は孝武の陵にて、姉たるこの公主が弟たる孝武の崩後までも生存して、相変らず無法|淫悖《いんぱい》な暮しをせしことに候や。一体この公主はいかなる終りをとられ候や。
 御申し越しの故今井鳳山の陰陽相儀文の謂れは、明治二十五、六年以前の(たぶん二十三、四年ごろの)『風俗画報』付録、誰かが筆記せし今井氏の「銭貨譚」に出でおり、図まで出しありしと存じ候。「……横から見れば巡査咎めん」という歌まで出しありし。それは銭貨に狐が玉をねらう図を鋳あり。その玉が※[図有り]こんなものにて、よこから見れば陰茎、陰嚢そっくりとの意なりしと記臆申し候。
 和銅銭は和聞同珎とよむが正法とのことも誰かの説にて読み申し候。只今忘失致し候。
 陰茎を珍宝と申すことは、『古今著聞集』にあり、それにはチウホウとありしよう記臆致し候(重宝?)。陽相を珍また宝ということは、只今一向材料思い浮かまず。しかし、道書などを探さば多少あることかと存じ候。
 陰相を閑《かい》ということは、思うに支那のある時代の俗語にて、それが日本に伝わり、後世枕本までも妙開《みようかい》、新開《しんかい》等の字を用うることと存じ申し候。僧昌住の『新撰字鏡』(昌泰中成り、本邦最古の字書と申す)尸部三〇に、「※[尸/朱]、朱の音、開なり、久保」とあり。※[尸/朱]の字、『康煕字典』等に見えず。尸と朱と合わせたる字にて、久保は「クボの名をば何とかいう、云々」と、神楽歌に陰門の諸所の名を挙げたるなどを見れば、女陰なること明らかなり(『松屋筆記』に説あり)。その女陰が内部赤きゆえ※[尸/朱]としたるにて、「開なり」とあれば、開が当時通じて女陰に用いられたる字と存じ候。これはそのころの唐の俗語と存じ候。(只今も広東人は女陰を開《ハイ》と呼び、かの女は大開など申し候。)『新撰字鏡』草部五九に、「※[草がんむり/開]、開の音、山女なり、阿介比」。これは(『松屋筆記』に)あけびは熟して実が開く、その状女陰に髣髴たれば山姫という、とあり、支那にもその形が開《ぼぼ》に似たるゆえ、俗に※[草がんむり/開]とかきたることと存ぜられ申し候。※[図有り](375) ついでに申す。宝暦ごろの京坂出板の淫書に、女陰のことをへき〔二字傍点〕とかなふりたる書多し。これは闢と存じ候。丹波康頬の『房内記』に、『素女経』を引きて、「玄女いわく、天地の間、動ずるは陰陽に須《ま》つ、陽は陰を得て化し、陰は陽を得て通ず、一陰一陽、相|須《ま》つて行く、故に、男は感じて堅強となり、女は動じて闢張し、二気、精を交《まじ》え、流液相通ず、と」とあり、開、闢と連ねる字ゆえ、開とともに自然と闢も女陰の称となりしことと存じ申し候。
 人柱の一件は、その筋にこれをかくさんとするよりむちゃむちゃと相成り了り候由。小生の「人柱の話」も、例にたがい『東日』には掲載されざりし由。こんなことでは其の学問は出来申さず候。まずは十時近く相成り、家人を休ませねばならず。その前に局へ走らせ投函させたきに付き、今夜はこれにて擱筆致し候。       敬具
 
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 大正十五年十一月八日朝九時過
   寺石正路様
                   南方熊楠再拝
 拝復。本月四日出芳翰および蒲鉾一箱昨日午後拝受。粗末なる著書差し上げ候ためかかる重き御心遣いを忝なうし、真に麦飯で鯛を釣りしことと悦びおり申し候。小生は久しく以前より禁酒、ことに昨年三月来拙児今に精神病を煩いつづけ、さりとて乱暴をなすにも至らざる者を禁錮も致しかね、すでに一年と八ヵ月、小生夫婦とその節迎えにやりし二人(一人は拙児幼少のおり育てし老女の夫、一人は拙宅長屋にすむ裁縫師)にていろいろ世話介抱致しおり候えども、なおりかけてはまた発作致し、今回ごときも十月下旬発作して今に平治せず、いろいろと事を生ずるには困り入りおり申し候。山中幸盛は七難八苦にあわせたべと神に祈りしと申すが、小生も大抵な難儀は忍び来たりしものなれども、理非の観念少しもなき精神病者には弱り入りおり申し候。それゆえ、なかなか酒どころでは無之、一人の娘(376)高等女学へ通学の弁当の?《さい》に日々恩賜の蒲鉾を用い侯わば、十五、六日もつづくを得べくと大いに相|怡《よろこ》びおり申し候段、厚く御礼申し述べ候。
 「続々随筆」も稿本はすでに岡書院へ渡し有之、来年初めには出板を得ることと存じおり候。その節はまた一冊を御座右に呈し雅致を仰ぐべく候なり。
 前年御尋ねのイゲと申す語のこと、前日??の和名をしらべしところ、土佐ではカラタチ、伊予ではイヌバラと申す由、しかして筑前にてはガメイゲと申し、防州にてはサルトリイギ、薩州にてはクハクハライゲ、肥後ではサルカケイゲと申す由、記し有之。(当地にてイビツと申し候。エビスカズラ、サルトリイバラ、ミミツクなどなど称え、熊野には?《かしわ》少なきゆえ、もっぱらこの葉にて端午のかしわ餅をつつみ申し候。)一々何という意味とは分からねど、筑前の人は?《すつぽん》をガメと申し候。この植物の葉が?の甲に似たるよりガメイゲすなわち?イバラということと存じ候。その他イゲはみな茨《のいばら》ということと見え申し候。故に刺ある植物をイゲといいしこと土佐に限らず、九州にも弘く行なわれたることと察し申し候。
 摂政宮殿下、ことのほか生物学を好まさせられ、小生門人ごとき小畔四郎氏より献上申し出でたる日本粘菌標本九十点を明日御嘉納のはずにて、前日来小生精進して進献表を撰し、別に総目録をこしらえ申し候。粘菌は御存知の草野俊助博士(この人は物故されし由)二十年前に十八種ばかり集め候ところ、小生諸友の所集を検して只今までに本邦産百九十三種確かに有之候。今七種を獲たなら英国と同数になることに御座候。
 まずは右御礼まで。   早々敬具
 
(377)   宮武省三宛
 
          1
 
 大正十三年三月十一日朝十一時〔葉書〕
 拝啓。別封ロンドンにて一九〇〇年九月一日、二十二日、十月二十七日に発行せる Notes & Queries 三冊差し上げ候。小生の「神足考」出でおり候。これは本邦には一向聞こえぬものながら、海外にては人類学者および民俗学者間にちょっと有名なるものに相成りおり候。しかるところ、今度この雑誌の旧本どもあまりに多く(たしか一八四七年に創刊ゆえ、およそ四千号以上つづきおり)、倉敷料高くつくゆえ、旧本をすこぶる遺憾ながらことごとく破毀する旨通知|有之《これあり》。小生は一八九八年ごろより特別寄書家として、およそ三百篇ばかり出し来たり候。それを一々只今買いとり置く料金|無之《これなく》、遺憾ながら破毀にまかせ申し候。手前にも少々旧本貯え置き候も、それぞれ配布し了り、この「神足考」は小生方への扣《ひか》え分の外に二本(六冊)のこり有之候て、一本は徳川頼倫侯へ、一本は貴下へ今度配布申し上げ候間、珍物として御保存置き下されたく候。今後買わんとならば、全輯を買うを要するゆえ、安くとも全輯一つに付き四百円ほどはかかり申し候。もし御入用なくば御返し下されたく候。    早々敬具
 
(378)  大正十三年三月十二日午前十一時
   宮武省三様
                  南方熊楠再拜
 拜復。九目付御状只今拜見、三浦健一氏より御寄付金忝なく、特に郵便料まで御志に預かり侯段感謝奉り候。すなわち領収証封入候間、然るべく御礼御伝言御手渡し願い上げ奉り候。一昨日および昨日も、米国の未知人より寄付金有之《これあり》、かの一文銭と髪一筋の貴諭に従い、不屈撓勧化致し候わば、必ず素志を貫くことと存じ候。昨夜もある男爵より千円ばかり寄付受け合われ申し候状到来致し候。わけの分からぬは当世のいわゆる金満家にて、和歌山は小生の生まれた処なるに、同所の小生の骨肉どもが、最初小生が進まざるに慫慂して、このことを思い立たしめながら、今に一文も違背して出金せざることに有之、近日その催促に上るつもりに有之候。事長くならば、その間に、かの地方の藻を研究せんと、只今顕微鏡の修復を東京へ誂えおり、また事長くならば、奔走の片手間に民俗学入門を編し、政教社または下出書店より出板するか、いつか自分より出板せんと存じおり申し候。
 わが国には、民俗學をかれこれいうもの多きも、その学の梗概大要を示すもの一も出でず、遺憾千万に存じ申し候。小生は海外に久しくおりしゆえ欧米や他国のことにずいぶん目が届きおるも、帰朝来こんな汽車もなき所に籠りおりしため、日本のことはわずかにその方の雑誌等で少々知るに過ぎず。雑誌などの内には、たしかならぬこと、また虚飾の文多く一向あてにならず候。小生右入門の稿本出来侯わば、(主として外国のことのみ書くゆえ)貴下へ送り申し上ぐべく、貴下御存知の件々を、その条々に応じ一々御書き加え下されたく候。小生はこれを自分の労より出ずるものとせず、序文にまた本文中に一々貴下より承りし旨を明記致すべく候。貝原先生の『大和本草』序にも見え候通り、(379)この acknowledegment の一事、本邦人はむかしよりだが、近来一層無茶苦茶に有之。御承知ならんが、小生多年一切経中より調べ上げたることどもを『郷土研究』に出せしを、何の断わりもなく、芳賀矢一氏(小生旧同学)の『攷証今昔物語』の末に数十頁に印刷しあり。それが小生の脳より出でしことを、序文にも文中にも一切書きなく候。かかる人が忠孝の教育のと言いはつたところが何の功もなきは、分かり切つたことに候。実に不徳極まることに御座候。
 貴下は、本邦の民俗の活字書なるべし。何にても御了知のこと多し。書物(ことに本邦の)に書きたることは、いやに気取りて本邦の良風を誇らんとし、または民俗を教訓に用いんとするなど見当違いのこと多きゆえ、一向学問の足しになり申さず候。
 ウンキウのこと、大いに難有《ありがた》く存じ申し候。卵の所在等も、貴書により大いに分かり申し候。これは蜘蛛の類にて、蟹《かに》や蝦《えび》の類にあらざるゆえ、卵の所在もかわることと存じ申し候。『古語拾遺』(?)に白蛤をウムキと訓じあり。何のことか分からぬが、とにかく海産物に古代よりウムキというものありしとだけは分かり申し候。(『和名抄』に、海蛤、ウムキノカヒ。) ウンキウもこれに縁ある名なるにや。
 海月《くらげ》はおくり下さるに及ばず。小生および一族は左様のものをきらいに候。淡水クラゲは熱地には多きものにて、かつて南米よりとり来たりし水草を、英国のキューの皇立植物園の大暖室に植えしに、その池の中より見出だされたるを見しこと有之候。支那で海母といわず、水母というより考うるに、淡水クラゲなどは、支那人が古くより知りおりしことと存じ候。河豚なども、海産のものなるに、淡水のもののごとく河豚と名付けしは不都合など、日本の本草書に見え候も、これまた広い世間を知らざるの論で、支那には淡水に河豚が産するに候。(インドやアルゼンチンには江豚《いるか》が川にすみ、また西アジアにはオットセイが湖にすみ、呂宋《ルソン》にも湖に海蛇がすみ申し候。南米では川に?《えい》がすみなど致し、濠州には淡水にフカがすみ申し候。)
 貴書のごとくならば、ドテは大陰唇に御座候。
(380) キタゴロのこと、また面白し。何の意味か分からざるも、九州にもキタゴという魚あることは知りおり申し候。いわばやはり糞の形に御座候。当地方にてはウツボと申し候。海にあるを見るに褐黄にてちょうど糞のごとし。
 膳椀の一件、貴書の趣き、大いに小生の参考に相成り申し候。
 『祇園縁起』は、小生いつも座右に持ちおるが、牛王のことは貴書により初めて気付き申し候。このことはとくと考え申すべく候。
 『集古』は、東京府渋谷町青山南町七丁目二番地三村清三郎氏へ小生よりの紹介なりとて見本を求めらるれば、必ず一、二冊くれ申し候。あまり面白きものにあらざるも、隔月に催す「集古会」出品目録中に、心得になること多し。小生は林若樹、三村清三郎二氏知人なるに付き、いつも投書致しおり候。
 井の中より金精云々のことに似たること、当地方にもあり。只今この書斎と竹垣一重隔て、大なる邸あり。それは多屋《たや》と申し当町第二の大富者なり。その家の第三女が嫁しある家は通称を亡者嘉《もうじやか》と申す。先祖は貧人なりしに、移り行きし家の井戸より毎度ヘンなもの出る。その人これを尋ねしに、「われはこの地にむかしすみしが、大金をこの井に埋めあり。その執着にて今に得脱せず」とのこと、よって井を浚《さら》えしに、大金を獲。その金で亡者を弔い、追福の末、周いて地所を買い、大富となりしとのことに候。
 和歌山市にも、むかしは貴殿の話に似たる笑謡あり。松に月、下り藤は、貴話と同じく、第三のみ違う。海鼠でなくて、カレイが釣り下がりたるムシロに身を付けて、「煙草屋《たばこや》の看板とは、どうであろう」と言いし由。これはタバコの葉を一枚、かんばんに貼り、また画きしをいいしことと存じ候。
 小生は、前年四年ほどかかりて一切経を通覧し、書き抜き、索引・見出しを作りしが、只今顕微鏡修繕にやり、致し方なきゆえ、『アラビヤソ・ナイツ』を通覧して、索引を作りおり候。なかなかの大事業に御座候。『アラビヤン・ナイツ』は浩瀚のものにて、民俗等に関せること多し。日本には完本を持った人はなかるべく存じ申し候。
(381) ウンキウは、当地にははなはだ少なし。四、五年に一疋上がるくらいのことなり。貴下もし至って小さきもの見当たらば、一疋でも御送り下されたく候。米国では、これほどのものをよく売りおり、小生も一疋持ちおりしが、失い了り申し候。大きな品は置き所なきゆえ、不入用に候。
 九州にメクヮジャというものあり。太古の動物の遺りしものにて、至って死ににくきものの由、メクヮジャ目の毒と申し、目に悪き由、このものには何か伝説有之候や。山椒と生姜は、当地方には、上《のぼ》せるゆえ眼に大毒の由申し候。           早々敬具
  故福本日南|話《はなし》に、幼時福岡城野辺へトキ多く来たり、紅色の羽を落とす。それを破魔弓の矢にへげ用いし由。今もこの鳥、貴地方にありや。当地方には一向なきものなり。
 
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 昭和二年六月三日午後四時〔葉書〕
 拝啓。只今白井光太郎博士より来書あり。いわく、「渤海和訓の義、御尋ね申し上げしところ、多方御取り調べ下され、まことに難有《ありがた》く、その説の出所、曲亭翁の『八犬伝』と相分かり、まことに難有く存じ奉り候。前方の方へも宜しく御厚礼申し入れ候。実は先日、御成り道、文行堂に立ち寄り候ところ、黒川真道という人おりしゆえ、渤海のこと相尋ね候ところ、『紀州の南方氏にでも問わざれば分からざるべし』とのことにて、御質問申し上げ候次第、御蔭にて大概見当相付き悦び申し候。近ごろ園芸講座というものの企てあり、小生に日本園芸史をかけとのことにて、植物来歴を書くことに相成り、百枚ばかり頼まれ、ほぼ脱稿致し候。その中、牡丹のこと取調べの結果、右の疑問相生じ候ことに御座候、云々」と。この白井博士は、現在日本諸学者中、もっとも本草のことに詳しく、小生などは不(382)審のことを毎々教示されおる人に有之《これあり》、その人の知らざるところを、貴甥君により知り通じ得たるは非凡の幸福に有之候。後記に留めおきたく候付き、何とぞハガキにて貴甥君の御姓名を御一報願い上げ奉り候。小生夜来眠らず、眼かすみ候。難字御察託下されたく候。   恐々
 
          4
 
 昭和六年十二月十七日午後一時
   宮武省三様
     大坂商船会社神戸支店
              和歌山県田辺町   南方熊楠再拝
 拝啓。今朝四時二十五分みずから郵便局へゆき、六甲の御宅に拙状一通差し上げおけり。その中に具したる通り、この状添付の木箱一個(安藤ミカンが果たして小畔氏等若干人のいう通り、米国の近時入り来たりおれる何とかいうミカンを駆逐するに足る物なりや否を、柑橘専門の人士に判断せしむるため、その果実七十一個を石蒜《ひがんばな》の葉で厳重に詰め入れたるなり)を、なるべく速く、かつ、もっとも安全に台湾(台北)総督府研究所中沢亮治博士へ送られたきなり。右の今朝差し出せる状には、小畔氏へ貴下より転致され、小畔氏より差し出すよう願い上げたれども、最近の船便が貴社より台湾へ出ることならんには、小畔氏の手を借らずとも、貴殿の御世話だけで十分できることと中山氏(当地通運会社支配副)が申すに付き、何としてなりとも速く、かっもっとも安全に右中沢博士へ届くよう御取り斗《はか》らいを願い上げ奉り候。この安藤ミカンは、学術上何のことも少しも分かりおらぬ当地限りのものにて、小生がかよう致さざるうちは、国家に対して何の存在理由を具せざるものに付き、何とぞ御厄介ながら左様願い上げ奉り候なり。     敬具
 
(383)          5
 
 昭和六年十二月三十日午後六時出〔葉書〕
 拝復。二十七日出御状今朝八時二十分拝受。御状には御来臨あるべき旨拝見仕り候えども、何日ということ見えず。とにかく小生は外出せざるゆえ、三日のうちに御来臨あることと心待ち致すべく候。道中は別段平生外出せざる小生より特に申し上げるほどのこと無之《これなく》、ただ田辺町の自働車会社にて御下車、それより拙宅までの御案内を申し上げおき候。すなわち南部町発、乗合自働車が田辺の自働車会社店の前でとまると下車して、矢で示すごとく南へ歩み左(東)へ曲がる第一の小路をさしおき、第二のやや広き道を東へ進むと北(左)側に大きな郵便局西洋建物あり。それを左(北)に見て、なお東へすすみて、最初に右(南)へ曲がった町の右(西)側の第三軒目の宅が小生の住所なり。
 右とか左とかは、貴下の歩行中の位置により申すなり。
 
          6
 
 昭和七年一月七日夜十一時
   宮武省三様
(384)         南方熊楠再拝
 拝呈。元日に御来訪下され候節格別の御接待も致し得ず、せめて当夜だけ御一泊ゆるゆる御話を承るべく、例年の格を破り、風呂を沸かせおき候えども、御出立と相成り大いに残念に存じ候。しかし、せっかく御来臨、小生は脚宜しからず、衝案内も申し上げ兼ね候ところ、一度その前日雑賀氏へ発状致しおき候が間に合い、元日午後来たりくれ、大福院と闘鶏社と磯間浦(『万葉集』に見えたる名所。ここの人はみないわゆる宿《しゆく》にて四、五十年前までは、女は必ず京都へ奉公に出るを規模と致し候。奉公とは例のエロ奉公のことと察し候。もって漁村のわりに婦女みなおとなしく、ことに言辞応対至って温和に優雅なところあり。今に時々美妓などが出でおり候。むかしは町内で、この輩が通るに一定の道筋あり、宿道《しゆくみち》と申し候。この男女みな常人と異り、肋骨一本足らぬ由旧く申し伝え候。前年来泊せる今井三子|話《はなし》に、北国では、越後人はみな肋骨一枚不足と申す由)だけでも御案内を申し得たるは、すこぶる悦ばしく存じおり申し候。
 しかして元日の早朝は無類の快晴なりしに、八時ごろより曇り来たり、午下より雨ふり出し、四時ごろ少時晴れしも、また雨となり、その夜は風雨となり、しかるに書斎の電燈を小生誤って打ちわり、闇黒となり、本宅へ帰らんとするも、ガラスの砕粉だらけにて歩くこと成らず。ようやく妻を呼び起こし、来たらしめて、懐中電燈でガラス粉なき所を明らしめ、本宅へ立ち退き臥せしほどにて、貴殿御泊りありても、夜中の急劇に睡られざりしことなるべく、二日も大部分曇天、朝|霰《あられ》ふり、午後より夜は寒さ増し、はなはだ不快の日にて、結局御滞在ありては、風でも引いて御帰宅のはずと、元日の夜に御帰宅ありてかえって結構と祝し申し候。三日より咋六日まで、快晴と暖気と打ちつづき候も、本日また雨にて道路悪く一同こまりおり候。
 御滞在時間短く、例の安藤ミカンの大木拙宅に三本まであるのと、小生十四年かかりて、こしらえ上げたる緑毛亀(ミノガメ)六疋、今年はことに毛長きを御覧に入れざりしは遺憾に候。ただし安藤ミカンは、二本まで書斎の前に(385)あり、当日も果が黄熟して、多く生《な》りありしゆえ、多分は御目にとまりたることと察し申し候。
 三日出御状は一昨五日午後一時五十五分に拝受、御封入の五円寄付金は難有《ありがた》く拝受、今年は必ず粘菌発表の出刊を致すに付き、その費用に加え置き難有く御礼申し上げ候。雑賀氏宛所は田辺町郵便局私書函十四号に御座候。これは同氏住宅が、今年開かるべき町駅停車場の直前の道路に当たるゆえ、都合によりいつ立ち退かねばならぬゆえ、当分右の私書函に便りおる由に御座候。
 その節、打手印に書き付けたる拙句は、其角の句に「元日のすみたり十の指黒し」。これはそのころ、江戸等にて正月飾りに炭を用いしことあり。たしかに覚えねども、ある諸侯はその邸の門前に炭を括り付けしと書きたるを見しことあり。和歌山でも、炭に水引きにて紙をくくりつけ、サンボウの上に、鏡餅、海老、橙等に添えて飾る家ありしと存じ候。『??《ほき》内伝』に、牛頭天王が巨旦を誅したる故事を述べて、「肇年の門松は巨且が墓|験《じるし》の木にして、上の結炭は葬送の火爐なり」とあれば、門松の上に炭を結び付けしが古儀らしく候。『本草綱目』に、白炭(白色の炭)、「除夜には、これを戸の内に立つ。また邪悪《まがつみ》を辟《さ》くるなり」とあり。例の鬼神は満足なるを羨み悪むの義により、美々しき正月飾りを幾分炭で汚して邪視を辟くるの備えかとも察せられ候。その炭を元日のすみ〔二字傍点〕たりといいまわし、さて十の指黒しと吟じたるものと存ぜられ候。小生のはただ咄嗟にこの句を臆い出して、ただただこの打ち印が普通の墨付きものとかわり墨付かずの白いものゆえ思い付いて、右の句に因み、「元日のすまねば十の指白し」とせしまでにて、何の深い意味もなきものに候。ほんの坐興に古い其角の句を臆い出せしだけのことに候。しかし、句ごとになにか秘奥の意義あるごとく解するを好む人は、せめて当夜は一泊さるべきに、この打手印がすみてすなわち出立帰神されたるは、主人に取りまことに残念にて、それでは元日が面白くすまず、元日が(面白く)すまぬから(墨にあらざるから)十の指が白く印されたなどという意にとることも起こるべく候。支那には、詩に六義ありと申す。風、賦、比、興、雅、頌、これなり。右の拙吟などは、興の詩に隷すべきものなり。其角の句を記憶した人でなければ分から(386)ず。むかしは、和歌でも、俳諧でも、せめて三千句ばかり覚えておらねば宗匠といわれざりし。今は古人の句などは五十も知らずに、みずから推して宗匠気取りの者多し。
 一昨年六月、十九年めに碧梧桐宗匠来られしことあり。その十九年前来られしとき、拙宅(今の宅にあらず)の椽《えん》に腰かけ、小生と長話せし。その時小生の日記に書き付けられし句、
  木蘭《もくれん》が蘇鉄のそばにさく所
春ようやく暖かならんとせし時に、眼前に木蘭がソテツの側に咲きおりLを見ての句にて、まずは賦に御座候。ただし氏は温雅な人、小生は麁暴極まる男なれば、それを木蘭と蘇鉄に比したりと見るときは比ともいい得べし。
 ちようど十九年後に来臨されたる前夜、小生ある欧人の問に応じ、俳句の種別を述べやるとて、右の碧梧桐氏の句と外に梧井《ごせい》なる人(碧梧桐氏も、この人の名を始めて小生に聞きしほど、あまり知れおらぬ故人なり)の
  この色と尼の好みや木蘭花
なる句を撰出して、賦と比との例としたり。拙宅へ来られし節、このことを話し出せしに、氏ことに感ぜられ、その話をききしがために、この町外れの動鳴渓《どうめき》という勝景地へ行くを止め、さて闘鶏社にて講演の節、南方は居常いかなる句を見ても見るに随つて一考あり、この心のさえ(澄徹)ということが作句の上に最も緊要のことということだけを説き、出立され候由。小生は心のさえも何も持ち合わせぬが、故人の句をば軽々に看過せず、いろいろと考え合わすべきことにて、それにはどうも博聞博識が必要と存じ候。
 右梧井の句は、仏経を見た者にあらざれば分からぬべし。最初仏が結制せしとき、僧尼に常人通りの服装を禁じ候。しかしていかなる卑賤の服でも卑賤と見ぬという心がけを表わすために、糞掃衣を作らせ候。小生十六歳のとき、自分の祖先が寛政ごろ奈良巡りをして、法隆寺の宝物目録(板行を売りおりし)を申し受け帰りたるを家蔵せるを見しに、聖徳太子所用糞掃衣とありし。それを何のことか分からず、太子幼少のとき糞をふきししめし〔三字傍点〕のことと久しく思(387)いおりたり。のち仏教をうよみ、またインド人と交わるに及び、その何物たるかが分かり申し候。これはインドの人は古く紙で尻をふかず、今もタウルごとき布片を用意しおき、右手で瓶より水を漉《そそ》ぎ、左手でその布片をもって尻を拭うなり。インド人と握手するに、左の手を用うれば、はなはだ怒る。しかして、久しく他邦他教の徒に圧せられ、いろいろの不平を忍ぶの余り、いわゆるままこ根性ばかりのものゆえ、心底から性根がねじけており、日本人などにわざと左手で握手を求める。日本人は何も知らぬゆえ、自分の右手でインド人の左手と握りて、何とも思わぬ者多かりし。実は欧人に対する怨恨を日本人に洩らすもので、はなはだ不届きのやり方なり。かく左手は、いつも糞を拭うに用いらるる手ゆえ、これをきたないものとして、一切尋常事に便わざるなり。さて左手で尻を拭いたる布片は、取り替えるごとに屏所におき、多くたまれば町外のはきだめ場へ棄てにゆく。かくて棄てられたる布片を仏の教を奉ずる僧尼が撰みとり来たりて、それを洗いつづりて僧衣とせしなり。故にこれを糞掃衣と申す。手短くいえば、袈裟を糞掃衣と申すなり。その色は木蘭色《もくらんじき》という黄土色なり。これはもと人糞の色が、木蘭の樹皮で染めたと同じ色ゆえ、糞の色を木蘭色と申せしなり。さて仏制に、僧衣はすべからく木蘭色たるべしとあるを、未熟の比丘尼が、野郎帽子同様、木蘭の花の色すなわち艶なる紫色のことと心得たるが、道行くついでに垣の外より、紫の木蘭花が咲き聳《そび》えたるが眼につき、さてはわれら比丘尼の着衣にせよと仏律に見えたる木蘭色とは、「この色と尼の好みや木蘭花」と、面白くその誤解をのべたるなり。かく解くと、梧井の句は、まことに尼にありそうなことと、初めて領かれ申し候。
 詩歌等は、主として感動をのべたるものゆえ、深い知識も考えも入らずという者多し。これは、売買は物に匹敵せる銭を仕払い、払われ受くれば、それで事がすむというごとし。されど取引きが多額の物貨を扱うこととならば、一文、二文の銭ではやりきれず。紙幣も、手形も流通せざるべからず。世間に事繁くなり、いろいろと来歴も由緒もおびただしくなった上は、それらの知識が人の感動を差配することも多くなる。知識多き人の感動して発した句を解し味わわんとならば、その人また知識を積むべきは当然のことなり。加減乗除の算法さえ心得れば、日常の計算に事か(388)かずというものの、事業繁くなりて、十年二十年の利息を算えたり、幾十万坪の地所や、生産額の見積りをしたりするには、加減乗除以上の算法を運用せねば、事|渉《はかど》らず。要するに、つっこんだ、気をやった、ぬいた、拭ったばかりでは、どの春本も辞書《ことばがき》がことごとく一途で、何の面白きことなければ、何とか故事を引いたり、艶詞を加えたり、歌やドド一までも入れねばならず。春本の詞書《ことばがき》さえ容易なことにあらず。読む者またそれ相応の素養なければ分からぬことだらけで、せっかく面白い場も面白く感じ得ざるべし。しかるに只今俳句の宗匠のえらそうなことをいう輩、随所多けれども、右に申し上げた句だけのことも解し得る輩は、まことに聊々《りようりよう》たることで、みなみな本統の俳句でも、宗匠でも何でもなきことと存じ候。まずは右申し上げ候。           敬具
 人をドウにあぐるということ、古く(例せば西鶴の書いたもの、また其磧の戯曲等)物に見えたることありや。小生は一向知らず候。英語では lifting《リフチング》また heaving《ヒーヴイング》と申し、イースター月曜日に、男が女をかついで胴揚げし、次日すなわちイースター・チューズデイには、女が組を組んで、出あい次第の男を胴上げし、これに逆らうものを道側の溝になげ落とせしこと、十八世紀の末まで、リヴァープール等に行なわれし由。またシベリアの露人は、送別会の節、送らるる人に、最高の敬意を表するため胴揚げし、時としては天井までうち揚げられ候由(明治十五年ごろも)。日本でも祝い事の節、胴揚げすることは、小生も幼時しばしば見しが、たしかな式としては、何の場合にせしということを知らず候。ただ一つ徳川柳宮で、すそはきすみたるあとで、男を宮婢どもが歌を唱いながら胴揚げせしということを、『風俗画報』で見しことあり。近く出板の三田村(鳶魚)氏の『御殿女中』にも、年越の夜(正月六日)お年男を、お使い番の女が緞子《どんす》のぐるぐる蒲団(へりのなき表も裏もなき蒲団)でつつみて胴上げし、「めでためでたの若松様よ。枝も栄えて葉も茂る」と唄いしことあり。(『風俗画報』、すそはきのときの胴上げには、「雲にかけはし、霞に千鳥、なぜに届かぬわが思ひ」と唄いしとありしと覚え候。)この二つの外に、式らしき胴上げのことあるを、見及びしことなし。
(389) また小生幼時(明治十年ごろまで。小生は慶応三年生れ)和歌山で、子供が糸のもつれを解くに「むつぼれ(縺《もつ》れのこと)なおれ、仏さんの絹いと」とくりかえし唱えし。これは高松辺にも然《しか》いいしことに候や。また今もいう者ありや。
 
(390)   杉田定一宛
 
 大正十三年八月二十四日早朝出
  奈良県吉野郡野迫川村北股
   杉田定一様
              和歌山県田辺町中屋敷町三六
                南方熊楠再拝
 拝復。二十一日付御状昨日午後三時ごろ拝受、同時に『吉野茶話』も安着、昨夜通覧拝誦仕り候。全冊小生に取って特に有益未聞を承ること多く、幾度も拝見仕り候。かかるものはなるべく永存して、後日永らく参考に致したく候付き、今後も御出しの節は御送り下され候よう願い上げ奉り置き候。
 御下問の槇野城のことは、小生には分からず。これは只今どこかの小字くらいに残りたる名があるべくやとも察し申し候。小生亡父は南方家へ養子に入りたる者にて、本姓は向畑と申し、日高郡の入野という寒村の荘屋の子なりし。この向畑の祖先は川上采女と申し、大和より落ち来たり、小さな城塞を構えいたりと申し、その跡もありと伝え候。しかし、大和に川上という所は、いかほどもあるベければ、今となってはどこの川上より来たりしやら、さっぱり尋ぬるに由なし。件の槇野などもどこの国とさえ分からざれど、どうも吉野につづきたる大和の内のどこかにありしことにて、決して井村君(小生知人)が引かれたる九度山などにてはなく、それよりはまだ宇智郡の牧野の方が近かる(391)べしと存じ申し候。
 次に野長瀬は、只今西牟婁郡近野村の大字近露(徳川氏のころ熊野詣りの輩が往復せし中辺路と申す街道の宿に御座候。田辺より行くと近露、野中とつづきあり、それを合併して今は近野村と申す)の著姓にて、『太平記』などに申す熊野八庄司のその一つなりと承り候。(ただし、『皇都午睡』には、玉置、湯浅、秋澤、芋瀬、真砂、山本、日出、湯川を八庄司とせり。野長瀬なし。また南牟婁郡にはたしか崎坂とかいう庄司ありし由、故老に聞く。この庄司というもの必ずしも八に限るべからず、思い思いにいいしことと存じ候。)野長瀬と横矢と兄弟なりしにや。野長瀬と横矢を通じて称えしようにかきし書もあり(和田義盛を三浦の和田の小太郎といいしごとく)。今も小生の知れる野長瀬氏、近露に二家あり。横矢氏は別にあり。『紀南郷導記』(元禄ごろのもの)、近露、安宅川(今は日置川という)の水上、徒渡《かちわた》しなり、この村に横矢六郎という地下人あり、先祖は天正十三年湯川没落のとき、直春に頼まれ、おのが在所へ引き入れし者の末流なりと、とあり。湯川庄司の幕下たりしと見ゆ。『太田水責記』に紀州の三十六国士を列したる中に、横矢、近露とあり。天正ごろは野長瀬氏が近露氏と唱えたるものか、または近露氏の人々が維新前後に至り、『太平記』の野長瀬兄弟勤王のことあるをもってその美自に誇らんとて野長瀬氏を唱え出したものか、小生には分からず候。とにかく、野長瀬六郎兄弟は野中・近露(今の近野村)辺の地侍たりしことはたしかなるように候。
 『茶話』三号に見えたる「天王さんの盆」、『南朝紹運図』に、小倉皇子の第一子を永享中南朝の輩が奉じて主となし、天基天皇と称えた、とあり。これは諡号ではなく生存中に天皇と称えたらしく候。また『続神皇正統記』等に、小倉皇子吉野に入りて自天大王と号した、とあり。今も十津川の人は南朝の皇胤その辺に潜んだ方々を天王と称うることを聞き及び候。故に「天王さんの盆」というは、この方々の御一方が用いさせたまえる盆ということかと存じ申し候。護良親王にはあるべからず。
 「北今西《きたいまにし》のおんざの行事」のこと、はなはだ古雅にて奥ゆかしく存じ申し候。小生幼時狂言の謡を習いしことあり、(392)シクシャムスビにシャシャムスビということありし。後に読書してシクシャムスビは宿世結びと知り候。シャシャムスビは今に分からざりしが、今夜右の「おんざの行事」の条を読んで、ササムスビと分かり申し候。カゼフキトガネバ君ニトカショウヨは、風吹き解かねば君に解かしょうよの誤写と存じ候。オムネノ児は御峰の児のことにや。それに付けて伺うは、誰かの書きしものに近古まで「山若衆」というものあり、いわば山中に徘徊して山伏相手の売淫する少年なり。高野山にありし小姓などとちがい、麁末なる装いをして山中で男色を山伏に売りしものありしと読み申し候。その書目を忘れ候。かかるもの、むかし大峰行者などの通る山路にありし伝え多少残りおり候ことにや、伺い上げ候。(その書は山若衆の画を出しありし。まるで狩人または木樵《きこり》のような風した青年なりし。)
 この号に見ゆる荒神嶽とは、立入荒神のことに候や。小生高野の前法主土宜法竜師懇意にて、近年二度登山せしついでに、立入荒神にゆかんとせしに、今は以前ほどの密林なしと承りて止め申し候。貴地方は、植物、ことに小生専門とする下等植物などあんまり知れおらず。もし貴下が集め下さるるなら、小生多年かかりて調査中の粘菌の標本を三、四十点送り申し上ぐべく、それで大抵粘菌とはどんなものということを御分かりの上、見当たり次第集め置き送り下されたく、小生は調査の上これを内外に発表し、新種ならば貴下の名を付して世に公けに致すべし。内国通運会社の専務取締役小畔四郎氏(日露役に宇品より軍馬を運輸せし人にて陸軍中尉なり。父は有名なる河井継之助の門下にて剣客たりしが西南役に戦死せり)は多忙の身をもって、内地、朝鮮、台湾、北海道、樺太に旅行し、集むるところ多く、今月に入りてより小生方へ二百二十余点送り来たり、小生十三昼夜かかりて鏡検せしところ、日本に従来知れざりしもの二十二種ありし。実に多忙中の寸暇をよく使いしものにて、小生ロンドンにて発表せんと起稿中に御座候。
 小生植物研究所設立にかかり、すでに三年、苦辛して集金致しおり、水兵などにて一日五十銭の給料を節して十円送られたるもあり、北海道の会社の小使にして三十円送られたるもあり、知らぬ人々の方が多年の同郷知人よりも深切に助成され申し候。しかして新聞に時々いろいろのことを伝うるより、ひやかし半分の手紙を下さるる人多く、小(393)生は西洋に久しくおりしものゆえ、何の見わけもつかず、一々返書を出すに手間とること多し。よって世話人等厳戒して研究所に寄付金をくれぬ人に返書を出し得ぬこととなりおれり。よってその定めに随い、別紙趣意書御覧に入れ候間、いかほどにても宜しく、また一人にても御知人ありて賛成下さるれば何とぞ御寄付を願い上げ候。小生たといこのことを成し遂げずとも、後継者もあることゆえ必ず物にして遂げ申すべく候。かかることは一人にても賛成寄付者の数の多きが大いに面目になることにて、決して寄付高の多少を申すべきにあらず。何分よろしく御頼み申し上げ置き候。
 右の小畔氏、また小生も貴地近く参ることも有之べく、その節はよろしく御案内願い上げ候。
 小生は菌類を写生することを好み、おびただしく集めおり候。まずは右申し上げ候。   敬具
 
(394)   藤江義応宛
 
 大正十五年六月三十日早朝四時認
   藤江義応様 御坐下
            中屋敷町三六
              南方熊楠再拝
 
 拝啓仕り候。咋六月二十九日『大阪毎日』紙に、
  伊都郡九度山町の牧野実夫氏は二十五日田辺町曹洞宗法輪寺に祖先牧野兵庫頭の墓を展したが、長らくその墓の所在を調べおつたのが知れたのだそうで、非常に喜び、近く家族打ち連れて墓参することとなった。
  牧野兵庫頭長虎は越前の人、紀伊藩祖南竜公に仕えて、侍童から累進して執政となり、六千石を食《は》んだが、慶安三年、故あって藩を亡命して京都に走り、捕えられて新宮、田辺に幽せられ、承応元年田辺で死んだ者で、藩亡命したのは由井正雪の変に幕府が南竜公の加担を疑ったので、一身に引き受けその犠牲となったものであるとの伝説がある。
  法輪寺の墳墓は最近五十幾年間絶えて子孫の弔う者なく無縁仏となりおり、大正元年その二百六十年忌に田辺の南方熊楠先生が住持と相談して追善法要を営んだことがある、と。
 右の記事はたぶん今年五月二十五日東京麹町区上六番町五番地岡書院発行の拙著『南方随筆』三六二頁よ(395)り大部分を採り書きたるものと存ぜられ候。その拙文は、
 この法輪寺の墓地の楝樹《せんだんのき》の下に牧野兵庫頭の墓あり。銘字磨滅してほとんど読み得ぬ。頼宣卿の時、この人一万五千石を領す。かの卿の母方三浦が米で一万石を稟《う》け、今川家以来の旧家|久能《くの》が伊勢田丸城主として一万石領せしにくらべては、なかなかの大分限だった。帝国書院刊行『塩尻』巻四三に、紀公に寵用され、男となりても権勢ありし者が、牧野兵庫男色より出頭してその右に出るを不快で、公に最期の盃を乞い、高野に隠れた話を載せおる。
  (『塩尻』巻四三の本文)紀公にある少年寵せられ、男となりてもきれものなりしが、牧野兵庫男色より出頭して大身となり、かの先輩も今は下になりし。ある朝御銚子御盃をもち、直《じき》に公の御前に参り、臣故ありて御暇を請う、日ごろの御なさけ厚き身、人づてに申し上げじと存じ切り、罷り出でぬ、最期の御いとまに御盃を下し賜われと申し上げし。その気色止むまじきを知ろし召して、御心よげに衛盃を下されしかば、ありがたしと押し戴き、今生の別れなる由|啓《もう》して退出しける。公もしや自害をもせんかと有司に仰せありしとかや。かの者渡辺若狭(尾州の御家人なりしが、美少年ゆえ紀公御所望ありて召し仕わる。直ちに三千石下されし)が宅に往きて、公室に事あらば足下と共に命を致さんと思いし、計らざるうきことありて、直に御暇申し受け候、生前のいとまに盃さしたまえとてのみかわし、さて兵庫が宅に行き、今御家を退く、われ先輩なれば盃さして暇乞いせんとて、思うままに振舞い、書き置きしていわく、公|軍《いくさ》のことあらば一番に御馬前にて命を奉るべし、また御早世(即世か)のこともあらば御供仕るべし、この二条の外下山すまじきとて、高野山へ登り薙髪して行いすましてありしが、南竜公薨去以前に身まかりけるとなん。当時はかかる潔き振舞い多かりし。(以上『塩尻』の文)
 よって攷えると、兵庫は男寵より出頭して、破格の大身となったらしい。しかるに、大科につき慶安四年新宮へ預けられ、承応元年四月田辺へ移され、十一月十日病死、月霜院殿円空寂心大居士と號す(田辺町役場古記録と法輪寺精霊過去帳を参取す)。いわゆる大科とは、頼宣卿由井正雪の乱の謀主たりし嫌疑を一身に引き受けたのだという。その時頼(396)宣卿謀主たりと評判ありしことは、『常山紀談』等にもしばしば見え、執政が頼宣卿を詰《なじ》る面前で、罪を身に受けて自害し果てた侍臣のことも世に伝えおれり。
  松崎堯臣の『窓のすさみ』に出ず。
 一六六五年(寛文五年)ローマ出版、フィリッポ・デ・マリニの『東京《トンキン》および日本史譚篇』巻一の一五葉にも、明暦の大火は、家光公薨後二年固く喪を秘しありしに、家綱の叔父乱をなさんとて作《おこ》したとも、天主教徒が付火したとも、西国で風評盛んだった、とある。この叔父とはたぶん頼宣卿で、
  家綱将軍の叔父は駿河大納言忠長と会津中将正之の二人しかなし。忠長は家綱の父家光在世中殺され、正之は家光の遺命で家綱将軍の後見たりしゆえ、家綱将軍の叔父が乱をなすはずなし。
家光在世の時より毎々疑われおつたから、正雪乱のみぎりも重き疑いを受け、牧野氏がその咎を身に蒙りて幽死したと見える。
 予の知れる絲川恒太夫とて七十余歳の老人、先祖が兵庫頭に出入りだった縁によりて、代々|件《くだん》の墓の掃除をする。他人が掃除すると、たちまち祟ったという。昔より今に至って、土の餅を二つ、あたかも       櫓《おうこ》でになうた体に串の両端につらぬき、種々雑多の病気を祈願して、平癒の礼に、餅一荷と称えて捧ぐるのが墓辺に転がりおる。察するところ、兵庫頭は生存中至って餅を好んだので、このようなことが起こったのだろう。去年二百六十年忌に、子孫とてもなき人のこと、ことに才色をもって英主に遭遇し大禄を食《ま》んだ人の、忠義のために知らぬ地に幽死し、家断絶して土の餅しか供うる者なきを傷み、寺の住持と相談して、形ばかりの追善を営ましめた。(以上『南方随筆』の文、これは大正二年五月の『郷土研究』に載せたるもの。)
 徳川氏譜代の武臣に牧野氏多し。むかし三川に牧野氏二家あり、阿波の田口氏の末という。右馬允成定に至り、初め吉良氏に属し、のち今川家につき、のち家康公に付き軍功あり。その一族清成は徳川氏に服せざりしゆえ、追われ(397)了りぬ。成定の子新二郎康成また家康に仕えて功あり、上野の大胡の城を賜わり、二万石で封ぜらる。その子駿河守忠成、元和中、越後長岡に移り、七万四千石を賜う。戊辰の役、牧野家の軍師河井継之助、城守して徳川氏のためにし、官軍と戦い、流弾に中《あ》って死せしより、軍敗れて、藩士多く会津に走り、家中の男女つぶさに難苦を嘗めたり。維新の際、藩主しばらく禁錮されしが、のち華族に列し、子爵に叙せらる。その家臣乱離に遭いしゆえ、人物も多く、鴻池の重鎮たりし故外山修造、その他事業家多く、また旧領長岡の地に石油を出すことおびただしくなりしゆえ、旧藩主を始め富有なり。
 牧野兵庫頭は男寵をもって出身せしとはいえ、全く素性のなき者を重職に挙げて一万六千石も賜わるはずなければ、この人必ず三河の牧野家の別れなるべし。永禄のころ、右に申す成定の外に、牧野清成、定成、成行等あり、おのおの塁を築き割拠せしといえば、今の牧野子爵家の別れならずとも、必ずもと子爵家と対立したる定成、成行等の子孫で、阿波の豪族田口民部重能の後なるべし。それを越前の人と言うは如何にや。
 また正雪のこと露顕して、京都に亡命せしということ、心得られず。一万六千石とりし重臣が当時亡命など軽々しくできるものにあらず。
 また兵庫頭の子孫が九度山にあって、今まで田辺に兵庫頭の墓あるを知らざりしというも不審なり。兵庫頭が新宮、田辺に移されて死にたるは周知の事実なれば、田辺で死せしを知りおらば、これまでに田辺に就いて聞き合わしたはずで、聞き合わさば法輪寺に墓所あるくらいのことは直ちに分かるはずなり。
 近時、自家の苗字に因み無縁の墓所を尋ねて、自家の系図を作り立てる人多し。はなはだしきは、あらかじめ謀るところあって、その子孫と称し、追善を営み、住僧に取り入り、その先祖と称うる死人の遺物を貰い受け、売って利を営む輩なども少なからず。小生、先年高野山に遊び、かかる例をしばしば見聞せり。
 大正三年夏、故徳川頼倫侯当地へ来遊の節、小生毛利清雅氏と議し、牧野兵庫頭は南竜公の存日、三浦、久能をも(398)踰えたる大禄の重臣たりし廉をもって、何とぞ侯親しく法輪寺に立ち寄られ、その墓を一覧されんことを勧め申さんとせしも、滞在の日数少なく、期定の時間塞がりありしをもって果たさず。後に承りしに、女学校へ臨まる途中法輪寺の側を通られしが、闘鶏社へまず参拝されたるゆえ、墓所へ立ち寄らるるよう勧めまいらすることは遠慮せしとのことなりし。次に大正十年五月二十七日この拙宅へ来訪されたる時、小生またこのことを直ちに侯に勧め申さんと存ぜしも、いろいろの物語におびただしく時間かかり、五時に拙宅を立ち出でらるるはずの定めなりしに、七時半まで小生の話を聞かれ、それより直ちに五明楼の懇談会に莅《のぞ》まれたるをもって、その時も兵庫頭の墓所を訪わるるに及ばざりし。その後、大正十一年五月十三日小生に一万円下賜の御礼を申し上げんと、相模国大磯の山荘に伺いし時、午後一時より五時までいろいろ御話し申し上げし内に、この兵庫のことも申し上げおきたり。しかるに、昨年当地へ来られ久しく白良浜《しららはま》に駐まられし時、小生参りて誘い奉らんと思ううち、家内ことごとく流行感冒に罹り、久しく臥し、尋《つ》いで重病のもの家内に出でたるをもって遠慮中、侯は薨去され候。侯家の家政部長たる三浦男は、当旧藩主安藤家の縁者で、小生も知遇を辱うしおれば、次回に和歌山で面会の節、何とぞ兵庫頭のことを申し出だし、頼貞侯次回に田辺へ来臨の節は、一度法輪寺にその墓を一覧されんことを願い置かんと存じ候。
 侯爵家には今も古文書多ければ、小生何とぞ許可を得て、この兵庫頭の出所、経歴より一切の始末を取り調べたく、また永年の知友にして小生の研究に出資されおる小畔四郎(内国通運会社専務取締役)、上松蓊(もと衆議院議長故安倍井磐根先生の猶子にて、この人の父は旧会津藩の大参事たりし)二氏は、長岡の牧野家の旧臣の子なれば、この二氏を通じて牧野子爵家につき兵庫頭の系図を調べんと存じおり候。
 それに付きあらかじめ願いおくは、今度兵庫頭の後胤と名のり出でたる人の真偽は別と致し、法輪寺現存の兵庫頭の墓碑およびその敷地一切は、故佐藤草也翁、森川恒太夫翁、橋本旗郎大人等より承りしところは、決していわゆる兵庫頭の子孫なるものの家よりいささかも手伝うたるにあらず。思うに和歌山の君侯より安藤家に内達あって建碑さ(399)れたるものなるべく、むかし大須賀氏の輩下たりし輩が、大須賀の家柳原家に合併して詮方なきあまり、紀州家に属せられたるその家々(当地へ派遣されしが安藤家の支配を受けず、のち支配を強制さるるに及び、その多くは伊勢田丸城下へ立ち退きし)が、等しく徳川氏発祥の参遠地方より出でたる縁故により、相応に世話し来たりしなるべければ、件の墓碑およびその周囲の諸件は、行く行く日本国の史蹟として永遠に保存さるべく、例の近日大流行の卑俗な西洋式のものに建て替えて、旧蹟を滅却する等のなからんように御厚配ありたきことに候なり。
  大磯山荘にて先君小生に何とぞ今一度奮発して、侯が主宰せる史蹟名勝天然紀念品保存会のために尽力せよとの御言葉なりしも、小生は往年神社仏寺併合に反対して、おびただしく時間と金銭を費やし、全く手ごり致したれば、この上とても力及ばずと辞退申せし。しかしながら、この兵庫頭の墓所の儀は常に心頭を去らず、何とか現在の墓所碑石を永遠に保存したしと存じ、只今取り掛かりおる植物研究所のこと方付かば、一度上京のついでに、東京帝国大学紀州家の古文書および牧野子爵家に就いて、兵庫頭の?末をことごとく調べたる上、史蹟として指定保存の件を内務大臣に請わんと、不断心掛けおり申し候。
 高野山御廟の側に骨堂あり。今度大阪の小西氏資を投じてこれを立て替える由。小生の知人水原堯栄師調査の末、今の骨堂は石田三成が母の菩提のために建てたるを、寛永中松原久綱が修覆せしものと分かり、むやみに新しく立て替えるよりはあのまま保存したしというようの論を吐きし由、新紙にて見及び候。水原師は骨堂は石田三成が立て初めしものと思いおる様子。しかるに小生の知るところは、『室町殿日記』に、足利義教将軍が高野に詣でたるおり(永享三年四月)、骨堂に歯を納めて、「高野山峰の嵐は烈しとも、一葉はのこれ後の世までも」と詠ぜし、とあり。その他にも、石田三成以前に骨堂ありし証少なからず。崇徳帝の妃が骨堂を建てしということも見及び申し候。故に、石田が建てたりというも、古きものが荒れすさみたるを見るに忍びずして、旧様に拠って再建せしものにて、決して只今の人するごとくむやみに改革新制したるにあらずと存じ候。これは木造のものゆえ年をふれば腐り失せるゆえ、再(400)建は止むを得ずとして、石碑ごときはむやみに鎔《とろ》け去るものにあらず。文字の読み難きはまた読むべき法あり。一朝これを棄毀しては、いかに考うるも研究の材料が全く失われ了ることなれば、なるべく旧を捨て新を取る等のことなからんことを祈り申し候。
 小生家内に重患の者あり、一年余の煩いにて介抱に途法に暮れおり、加うるに学事多端にして、一昼夜つづけて研究を事とすることしばしばなり。今朝も昨日よりつづけて少しも眠らず、この状認め了りてまた研究にかかるはず。かくのごとく多事なるゆえ、眼くらみ、筆にぶり、自分で自分の手書が読め申さず、ただ新聞紙で右の一件を読みたるをもって、まわらぬ筆につとめて本書状相認め、御座下へ差し上げ候なり。          早々再拜
  なおなお前年恩借の一切経の中、『仏祖統記』二套今に写し了らず、返済延引罷り在り。これは今秋までに御返し申し上ぐべく候。拙方病人有之候ため、ことのほか延引の段、不悪《あしからず》御海宥願い上げ奉り候。
 
(401)   水原堯栄宛
 
          1
 
 昭和八年十月三十一日早朝二時認
   水原東栄樣
                南方熊楠再拜
 拜啓。その後久しく御無沙汰に打ち過ぎ申し候。まずもつて仁者《にんじや》御清適拝賀し奉り候。小生事相変わらず碌々罷り在り、ことに近年家内に病人多きには閉口致しおり候。さて、本月二十三日夜毛利氏を訪い候時、九日出貴状を示され、?のこと問い合わされ候も、即答はできず、昨夜調べ候上、不十分ながら左に申し上げ候。
 本文に入るに先だち、ちょっと申し上げ候は、鼻高草鞋のこと、『嬉遊笑覧』巻二中に、「『嘉多言』四、草鞋とは木にて作り、上を金襴などにて張りたるようの物なり。寺院の内陣または縁《えん》などではき侍る物か。鼻高は公家方また出家にも用い侍る。草鞋は天子これを着け給いて、臣下は用いず、ただし法中には用ゆとかや。(中略)『新野問答』に、草鞋は草をもつて張り申し候、「『西宮記』にいわく、挿鞋は主上および僧家、貴女の用うるところなり」、挿鞋に草の字を用い候は、例の音を仮りたるに候、とあり。思うに糸鞋は糸を編みて作る、舞人の用うる物なり。挿鞋ももとは草を用うるならん、云々」とあり。これによれば大師御影の草鞋は、すでに草製の旧に拠らずして、木製の挿(402)鞋を画くものと存ぜられ候。
 貴書に引かれたる「草履を著け城中を歴《へ》て、云々」と「津《わたしば》を問《たず》ねて?を躡《は》き筏を尋ぬ」とある草履も?も、異名同一物と小生は察し候。一書の内に必ずしも始終一定の物名を用いねばならぬ条規もなく、いわんや大師の一つの書啓に草履、また一つの書状に?とありたればとて、この二物おのおの別なるべき理由なしと存じ候。例せば、小生一友に与うる書状に、「明朝下女に持たせ進《まい》らすべし」とあり、また、次の状に、「昨日御約束の物を家婢に持たせ進らすべきところ、その婢にわかに気分不良になり」と書いたればとて、下女と家婢が必ずしも別人でなければならぬはずなきがごとし。ただし強いて理屈を付け申さば、『釈名』に、「?は?なり。出で行《ある》くときこれを著くれば、?々として軽便なり。よってもって名となすなり。(?は、『説文』に、?は足を挙げて行《ある》くこと高きなり、と。)鞋は解なり。著くる時、その上を縮《し》めて履のごとくす。しかれども、その上を解《と》けばすなわち舒解《ほどく》るなり」とあって、?は出で行く時これを著くればしっかと足につくから軽く足を高く挙げて速歩し得。『和名抄』四、履襪類五〇に、「?耳。唐令(狩谷?斎の箋注に、唐令の衣服令のこと、と)にいわく、青き耳の?なり、と。今按ずるに、?耳とは俗人のいう?の乳ならんか」とあり。
 のぼりの内縁《うちへり》に布片を縫い付け環のごとくにし、竿にさすを乳《ち》と今も申す。そのごとくワラジの紐通しの環を乳といいしと察し候。(『和名抄』は醍醐帝のころの書なれば、そのころの俗称なり。)『嬉遊笑覧』前条のつづきに、「古画を見るに耳《ち》一つある草鞋見ゆ。今も陸奥・福島辺にては鞋に耳一なり、古様なるべし。建長寺別源円旨が『東帰集』(元享二年ごろの序あり、その中に)「聞《ぷん》侍者の帰るを喜ぶ」詩に、「同人、咋《きのう》遠方より来たり、脚に江南の三耳の鞋を著く、記得《おぼえ》たり、当年客となりし処、※[?のおおざとが卩]《つえ》を携えて?渓《ちようけい》の涯《ほとり》を閑歩せしを」という句あり。(?渓は水名、呉興にあり。この詩は唐土にて作れるなり。彼処《かしこ》も江南にはこの草鞋あり。)」と見え候。一耳とは草鞋の一側にただ一耳あるにて、三耳は一側に三耳あるなり。いずれも耳に繩を通せしなり。
(403)『古今図書集成』礼儀典三四七、履部記事四葉に、「謝承の『御漢書』」(今存せず)に、江夏の劉勤は、家貧しく?を作って食を供す。かつて一両(?二つ、すなわち一足なり)を作るに、縷《ひも》断《き》れたれば置きて売らずして、出て行く。妻売って、もって米を糴《か》う。勤帰るに、炊《かし》ぎ熟《に》たれば、怪しんで、いずくより得しところの米なるかを問う。妻、実をもって告ぐ。勤、妻を責めていわく、穀物を売るは欺いてその直《あたい》を取るなり、と。よって棄てて食らわず。仕えて司徒に至る」とあり。縷とは件の耳を通し?を足に結び付けるヒモと存じ候。このごとく耳も紐も具えたるからには?はワラヂに相違なし。『和名抄』に、?、和良久豆ワラグツとあり、それがワラウヅ、ワランヅ、ワラヂと転訛せるなり。上に引いた通り「鞋は解なり。著くる時、その上を縮《し》むれば履のごとし。しかれども、その上を解《ほど》けばすなわち舒解《とく》るなり」。これはいろいろと製法もあるべきが、まず、小生ども幼時、和歌山市の万町や西の店の市場へ往来する菜魚商等のはき候クツごときものを皮で製し、前にハカマのヒダごとき擢《たたみ》あり、それを通せる紐をしむれば足に緊《きび》しくはまり、紐をほどけば足が脱し出で得侯。古く繩貫《なわぬき》とか称え、俳諧の書などにも出でありしと覚え候。この体のものを鞋と称えたることと存じ候。大師御影にはどんな物を画きあるか小生只今覚え出ださざれども、大師の御影は外出行旅の体を画きたるにあらざるべければ、威儀に用うる何体かのはき物を画き添えたことと察し候。只今申すところには、もし強いて?と草鞋との別をいい立てるなら、右に申し上げたるほどのことと存じ候。
 貴書にクサグツという詞、『言海』に出ずる由見ゆるも、小生近刊の『大言海』を見るに、この名見えず。また『和名抄』等にもそんな詞は見えず。これは支那に古く芒?などありて、芒《すすき》にてこれを作る由ききかじり、むやみに拵えた手製の語と存じ候。
 余事ながら申し上げ候。『酉陽雑俎』三に、「国初、僧|玄奘《げんじよう》五印に往きて経を取《もと》め、西域これを敬す。成式、倭国の僧|金剛三昧《こんごうざんまい》に見《あ》うに、いわく、かつて中天に至りしに、寺中に画多く、玄奘の麻《あさ》の  履《くつ》および匙と?《はし》、綵雲をもってこれを乗す。けだし西域にはなきところにして、斎日に至るごとに、すなわちこれを膜拝《ぼはい》す、と」。麻?をはいて支(404)那から来たれるを珍しとしたるなり。されば大師の御影にはきものを画くも、かつて渡唐求法して帰られしことを象徴するものにても候わんか。
 まずは右不十分ながら御問に答え申し上げ候。      敬具
 
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 昭和八年十二月十四日早朝〔葉書〕
 拝呈。過日御下問の?、鞋等のことは、宮本勢助氏が目下この類のことを精究致されおり、同氏へ御尋ねあらば必ず明快なる答文を受けらるることと察し奉り候。小生は近ごろ久しく無沙汰致しおり、住所は下谷池の瑞辺とまでは記臆候も、町番地までは存ぜず。しかし小生より御聞き及びの旨を記し、神田区駿河台町一丁目八ノ四、同書院主岡茂雄氏へ専問状を封して転送を頼まるれば、さつそく宮本氏まで相届き申すべく候。        敬具
 
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 昭和十四年三月十日午前十時より認め、翌日午前三時半了る、夜明けて出す
   水原堯栄様
                 南方熊楠再拝
 拝呈。昨年六月二十二日朝御認めの御状を二十三日朝七時四十分拝受して、さっそく取り調べ御一報申し上ぐべく、二十五日朝一書(葉書)を差し上げ候ところ、当時いろいろ専門学上のことあり、写生などに寸暇なく、一日一日と延引致すうち、七月二十八日夜電燈を手にして宅地中の竹林下に研究観察をなすうち、過《あやま》って足を指み外し、後股部に二寸ばかり負傷、さつそく手当して癒えたるも、その節腹内肝臓と膀胱の間に内傷を生ぜしと見え、時々蜂に螫さ(405)るるごとく疼むこと起こり、冬に至るも已まず。それがため多く臥して読み書きせず、半年ばかりを空しく過ごし候うち、十二月より荊妻心臓を煩い、臥してばかりおり、娘はその介抱にのみかかり、小生は学事の外諸雑務にも参加するを要し、種々過労のため、取り留めたることに掛かり得ず。ようやく七、八日前より妻は起き上がりたるも、今に家務を執る能わず。一日に数回娘が治療上の手宛をなすこと今に已まず、ために娘は小生の研究を助くること成らず。小生はもはや七十三歳の頽齢にて、生物写生などテキハキと成らず。日晩れ途遠しと嘆息これを久しうするのみにて、御無沙汰のみ致して今夜に及び候こと、まことに多罪恐縮の至りに御座候も、何とぞ右事情御洞察万々御海宥を惟《これ》祈るところに御座候。
 さて、その節御下問の件、自分多年|扣《ひか》え置き候物どもを今日まで折々眼を通し候に、七度半の使いと申すこと、日本には中世以降少なからず文献に相見え候も、漢土にはほとんどなきようにて、インドには仏典に多少似たことがあるようなるも、それらはもっぱら七の数を尚ぷ例たるに止まり、たしかに七度半の使いということにあらざるようなり。西洋にも、ペルシアにはしばしばくりかえすことを七度と言い表わせる例はあるも、これまた日本のごとく七度半の使いということはなきように候。七度半の使いと申す日本の例ははなはだ多きも、ただ七度半の使いというのみにて、何たる正確なる解説とては見及ばず。多くの例を一々数え立てたところで何か益なきに似たりと存じ候。せめて一、二時間この身に余暇あらば、かつて扣え置いた限り多くの例を写して差し上ぐべきも、右申すごとく、ちょっとこのことにかかるとかのことが生じ来るという多事多忙の身にては、そんなことも成らず。
 かくのごとく案じながら消光するうち、往年拙著を引き受け出板しくれたる岡書院主、岡茂雄氏が出す『ドルメン』の四月号の予告を見るに、宮武省三君の「七度半の使」と題する一項あり。この人は讃岐高松の生れ、久しく大阪商船会社の門司、馬関、神戸、鹿児島等の支店長たりしが、昨年退職して現に神戸郊外に住居し、多年小生と文通また来訪されしこともあり、すこぶる博識また世俗に通じたる居士なり。数年前七度半の使のことに付き小生に問い合わ(406)され、小生抑え置きたる内若干項を書き抜いて送りしことあり。何ごとを書き抜きしかは小生近ごろ耄碌して全く記臆せざるも、その内多少四月号の『ドルメン』に出さるることと存じ候。それが尊師の御用に立つかは分からざるも、必ずしも少補なしとせざるべきに付き、四月弓なり五月弓なり宮武氏の「七度半の使」が掲載されたる『ドルメン』の当號一冊を必ず貴方まで贈呈しくるるよう、同君まで頼み遣りおき候間、到着の上、御一読なにか御不審あらば宮武氏なり小生へなり御交渉願い上げ奉り候。
 また御尋ねの半跏座のことは、小生従前少しも気付かざりしことにて御返事の致し方も無之候。
 四月なり五月なり、宮武氏の一文が御手元へ届き候節は、ちょっとハガキにて当方へ御報を願い上げ奉り候。当方よりその旨岡君へ申告して一言を述ぶる必用有之なり。
 さて、今度は小生より御伺い申し上げ候一条、去年十二月一日発行『大日』一八八号、四二頁已下、中村不折氏の「石経の話」に、「今(去年昭和十三)から約十年前北京大学の考古学者※[行人偏+君]鴻《〔ママ〕》宝、馬衡等が古都洛陽の大学と覚しき所に鍬を入れたところが、果たして石経の発掘に成功したのである。この時発掘された石の数は九十四個で、それに刻まれた字数は七百四箇であった。しかして、この石の内十三石を陽光から白堅に贈られ、前述のごとくその拓本を白堅が日本に齎したのであって、これが石経拓本のわが国に伝来した嚆矢である」とあって、この拓本十五枚を三十円で不折氏が買い入れ現蔵する由で、その二部分の写真を掲げあり。またその以前に高松の大西行礼氏(かつて貴族院議員たり)、羅振玉より漢の石経の拓本と称するもの一枚(わずか五寸四方くらいの小さき石刷り)を一万円で買い取り、中村氏に売らんと言い出せしを、中村氏が故内藤湖南に話したところ、内藤氏よりこれは天下の逸品ゆえ決して手離してはならぬと忠告したので、大西氏は售《う》らず。今も大西氏方にあるならん。(その後大西、内藤二氏共に他界し了りし。)しかしよく調べて見ると、これは石経の原石の拓本ではなく、宋の石煕明等の模刻に拠りしものとされおる由を中村氏は述べあり。すなわち羅振玉より大西氏が買い取りしものは石経の原石の拓本にあらず、原石の拓本は白竪(407)から中村氏に売ったのが、本邦に真の石経拓本の渡りし嚆矢という中村氏説なり。
 小生はこの白堅が中村氏に売ったのが正物石経拓本が本邦に渡りし嚆矢という中村氏の説を疑う。明治十五年春、弘法大師の一千年忌とかいうことで(実はこの歳は高野山開基より千六十七年、大師入定後千四十七年のちなり)、諸府県より参詣おびただしく、青巖寺(金剛峰寺)に宝物の展覧会あり。当寺、寺勢大いに衰えたりといえども宝物は儼存するものすこぶる多く、九十日ばかり催す間、七回まで宝物を排列し替えたるも、なお余すところ多かりしと承り候。小生孤独の性質にて戸外へ父母と共に同行せしこと一度もなかりしが、ただこの時のみその霊宝を拝みたさに父母および弟(只今和歌山に住す。小生兄弟十人ばかりのもの、小生とこの弟のみ生き残る)と共に登山、千歳院とか申す(俗号刈萱寺)に三日ばかり宿れり。さて多く心を留めて拝みし霊宝の内に、説明書に漢の蔡?筆の石経の拓本と札付きたる大幅《たいふく》一枚ありたり。青巖寺廻廊の壁に掛けたるに、天井より降りて床板に余るゆえ余る分を捲き上げありし。一間ほどの幅の大幅に二寸五分また三寸ほどの幅の字を数百字ならべありしと記臆す。字体は小生(十六歳)がはっきり読み得たるゆえ篆書なりしと覚え候。(とにかく中村氏が『大日』に掲げたる写真の字(幅七分五厘)よりはるかに大きな字なりし。)その傍に立ちて説明せし若者(十五より二十歳までの寺小姓)は、弘法大師が洛陽とか長安とかより将来したまえる物と言いおりし。
 中村氏は少しも述べおらぬが、当年諸府県より参詣せし人、今もこの拓本を拝せる者高野付近にも少なからずこれを記臆しおることと存じ候。その時展覧諸宝物の目録が長たらしきものゆえ、父母は提帯に便ならずとて購わず、ただ扇面(両面)に極細字に銅版で印刷せるものを一柄買いくれしが(五銭ばかりの値《あたい》)、久しく海外にありて帰り調べしに跡方もなし。ロンドンにありし日毎度渡来せし骨董商等より聞きしに、そのころ(明治二十五年より三十三年まで)高野山の宝物多く山外へ売り払わるとのこと、したがって毎度注意しおると、高野山の霊宝大師将来の蔡?の石経の大幅を近ごろ(明治二十七、八、九年)数字ずつに切り放ちことごとく売り払えり、神戸の川崎庄蔵氏は若干の(408)高価にてその十七字を手に入れたりと、『時事新報』か『大阪朝日』紙に見えたので大いに惆恨せしが、三十三年の秋帰朝の船中で岩崎|虔《けん》氏(神戸『又新日報』の主筆かと覚え候)にこのことを語り、虔氏同船中の上等客川崎氏に語りしに、いかにも十七字買い入れ所蔵すと語られし由、虔氏より承れり。(小生は下等客ゆえ上等客と話すことはむつかしかりし。)
 仁者はこの石経拓本のことに付き多少御見聞のことあらば何とぞ御一報を仰ぐ。あまりほとぼりのさめぬうちに『大日』へ一書を投じ、真偽は知らず、大師将来の石経の拓本という物を小生確かに見たり、大西氏蔵のごとき趙宋の朝に成りし模刻が真言宗にも弘法大師にも縁なければ高野山に納まりしとは覚束なく、大師将来は如何とするも、唐朝真言徒が彼《か》の方に往復せる時将来せしものと思わるるから、大西氏の蔵本は論に及ばず、中村氏が白堅より得たる拓本よりも前に一度石経の拓本が将来されて高野山に久しく蔵されおりし、それを中村氏のよりも古く石経拓本が日本に入りしものなりということを中村氏等に知らせ、併せて今も川崎家にその拓本を蔵しおるか、その旧拓本と中村氏の拓本との比較研究の結果は如何と問いやらんと存じ候。なるべくあまり遅れぬうちに投書したきに付き、仁者御存知の限りをなるべくさつそく御知らせ願い上げ奉り候。
 毛利氏は卒逝の終焉とて跡が今に片付かぬらしく、生前妻と離れて常時同居せし妾が、泥水育ちの者の常として何とか申す男と謀り、毛利氏が故千田氏より譲り受けおりたる印刷機械等三、四千円とかの値あるものを、千円とか千円に少し余るほどの値にしか売れざりしと称し、実はそれ以上の値に售《う》り、右の男とその金額を拆《わか》ち領しおりたること露われ、毛利妻女の親戚の人々が交渉して方が付いたとか付かぬとかいうことを、毛利妻女が拙妻の縁者に語りしとか。そんなことにて何様《たにさま》誰か心柱となるべき者がなくては毛利氏の妻女立ち往かぬ懸念より、前年ブラジルに渡りし長男を只今召し返し中とのことに御座候。小生も多年の交誼上一度毛利妻女を訪わんと思うも、當時写生のため座し続け、また寒室に火を入るるとなまけ出すゆえ厳冬にも戸障子を閉じず火を入れざるゆえ、荒木村重のため久しく(409)囚われおりたる黒田如水のごとく、両脚瘠せて杖をつきても独り外出する能わず。生来女人を独訪せしことなく、さりとて他人を同伴し往っては毛利妻女も語るを憚ることも多かるべく、これまた老?不自由のためそのまま無沙汰仕りおり候。
 前年毛利氏を経由して申し上げたる小生亡父と亡父の前妻との間に生まれたる長女、なにか継母すなわち小生の実母(父の前妻死亡後小生の実母が亡父に嫁し、前妻の一女二男を育てしが、二男共に蚤《そう》生)に不快のこともありしや、亡命して泉州の博徒の親分に寄食し、小生六歳の時亡父新宅に徙居せるに、その親分が右の女すなわち小生の同種異母の長姉を伴い脅迫に来たり乱妨を働き捕亡吏(今の警官)に捕われ罰せらるるところを、小生の外伯母の舅が事よく勧解して事平らげり。小生六歳の時のことゆえ只今も右の男が乱暴し、右の長姉が泣いて説く状、さて右の男捕われてのち小生の実母が父に打たれし状を活動写真のごとく今も眼前に見る。しかるに、小生明治三十三年に帰朝せしころは、そのことの始末をよく知りたる当時の番頭手代や親戚が三、四輩もなお存し、そのことの次第を略聞せしも、今日となりてはその三、四輩前後みな死に亡せ、多少このことを知るものとては当時六歳なりし小生一人なり。その長姉は只今あらば少なくとも八十四、五歳なるべきも、とても世にある人と思われず。
 小生の父は小農の子にて、旧幕時代は小農の子などが独立して商賈となることを得ず。父は久しく奉公せし家(清水氏、両平と申し、今に和歌山に儼存、市内第一の借家持ちなり)に功ありしゆえ、暖簾《のれん》を分かち屋号を与え、別家に取り立てんといわれしが、自分は主人に大恩を負えど、子々孫々長く他家の下人として拝趨するも不便なりとて、南方という古き家(紋羽織《もんばおり》を工夫し出せし人の子孫)が母と娘一人のこり、その娘に兄ありしが学問のみに身を入れて生産をかまわぬうちに死亡、娘に養子聟をとりしがそれも死に、ほんの母と娘(若き後家)二人広大なる家に残りし。その娘後家に小生亡父が養子に入り、さて一女に二男を設けしが、右の始末になり行きしなり。毛利氏同様、人間は明日死ぬる身にも明日死ぬるということに気付かず、亡父も拙実母も右の長姉のことを何とか片付けやらんと毎度思(410)いながら一日一日と延引するうちに、長姉は行方不明とか、博徒に弄ばれて身を川竹に沈めしくらいのことで落ちになりしことに察し候。
 さて、小乗徒が信ずる輪廻と申すべきか。小生ただ一度見たきりのその長姉が小生の眼に留まりしよりすでに六十七年を経る。六十年めになりしころより、夜間この書斎に静座する折々その長姉が泣きおりし面影をありありと見る。こんな話を仕出だしたところが誰一人実事とせず。その人々その長姉を見しことも当時の事態を聞き及びしこともなければ、いわゆる知らぬが仏なり。小生は平生法身如来観をなし、何ごとがあるとも格別何とも思わず、これも成り行きなりと芝居を見る心構えの男なるも、世間のことはイデオロギーとか一貫の理屈とかそうそう主張し通すべきにあらず。相手が変わるに随つてこちらの心持ちもかわる。これもまた成り行きなり。知らねばそれですむべきところを、六歳の時たまたま目睹せしは、小生が貧乏鬮にとり当てしなり。因果とかいうことが世にありとせば、十人もありし兄弟姉妹の内ただ二人残りし小生と和歌山の弟は同種同母でいながら、小生帰朝以来すでに四十年近くきわめて麁闊に、しかも彼は多額納税者、小生は松平定信同様七十余った今に宿なし、日夜孜々として生を営み学を修むるも、世はみな小生は弟より仕送りを受けおるものと思いおる。
 亡父死する時残せし和歌山郊外の小生持ちの地処は、むかしは村落田畑なりしが今は人家立ち並び、一廉《ひとかど》の地処なり。大正の初年、弟謀計をもってその地券を弟の物に切り替え了る。これは造酒家などいうものは造酒期に多額の税を納めざるべからず、沿襲の常法として、その期に臨み骨肉の地処などを造酒家主人の物にみな切り替えて融通し納税するなり。小生は実印などは一向不用の物ゆえ小生弟方に預け置き、造酒期に及び弟の勝手に切り替えしめし。それをその歳に及び、毎度切り替えるの還原するのというは面倒なればいっそ切り替えてしまうべし、その代りに小生毎月入用の費金は絶えず送るべしとのことにて、切り替えしまうことを小生許可せり。その時毛利氏税務署より聞き込みたることありて、貴下は無頓着なれど、このことは重大なれば、自分好まずば熊弥(小生の男児)の名に切り替(411)えては如何と勧められしも、小生わずかに八百円ばかりのことに兄弟間に不和を生ずるも如何なればとて切り替えしめし。後にその時の切り替え手数料は五百円かかれりと聞き候。小生が父より譲られたる八百円の地所は明治八年の時価なれば、切り替え料が(大正初年に)五百円かかりしなり。後年このことを小生山本達雄男(内務大臣)に語りて、大いにその迂闊を笑われぬ。
 さて、三、四年へて小生みずから東上し、旧恩師高橋首相、中橋内相、内田外相等より学資を集め、数万金を得て帰るに及び、弟は何のかのと口実を設け、左右違依してみずから出すと口約せし学資分を出さず、兼ねて月送りの生活費をも送らず。かかる俗事に紛議するよりも当面の学事が急を要するゆえ、荏苒して今日に到り、今日これをかれこれと論じたところで、時効とか何とか、只今の法律というものは人情、道義に何の基礎をも関係をも置かぬ物ゆえ、つまるところは弁護士に儲けらるるようなものなり。
 こんなことにてただ一人の男児は過ぐる大正十五年十九歳の時発狂して今に癒えず。初め三年は出入りする老人に月々五十円与え、小生宅にて介抱せしめしも治せず。終《つい》に洛北に入院せしめ、月々百五十円ばかりかかりしも一向変わらず。何とも費用に堪えざるゆえ、その病院にて久しく付き添いし特別看護人が、年老いて解傭さるるを幸いと聞き込み、月九十円にて当国藤白嶺腹(小生は藤白王子の老樟木の神の申し子なり)に、その看護人夫婦と一幼児を置き、病人を移してもはや三年看護せしむるも今に治せず。すでに十四年になりおり、妻はこれを気に病みて毎々病臥し、現に昨年十二月より久しく臥し、ようやく七、八目前に起き上がりおるも全治せず。一人の娘はその介抱や小生の学事を助け写生を絵《えが》くため二十九歳に及ぶも家を成し得ず。同種同母の弟の仕方のごときは、本朝は家族制度とて外国に誇るも、その実なきに似たり。
 多年心配しくれし毛利氏も即世し、いろいろ面倒を見てくれし徳川頼倫侯、その他も将棊倒しに死に果てし今となって何と申すも即急に埒明かず。いかに法身如来観を運らすもさらに埒明かず。ところが、論語読まずの論語知らず(412)よりは、論語読みの論語知らずが優れりで、五十年ほど前ちょっと覗きし『瑜伽論』の柔和忍辱の解意が大いに役立ち申し候。というは、人に悪しく仕向けられて、こちらよりその返報をするというは量《よ》からずという悟りは、小生七十に余りてよく解しおるも、人が惡をなすを見て浅猿しい奴じゃ、俺は返報をする暇がないからゆるすが、今に見ておれ、おのれの罪おのれを責めてむっしり油を取らるるぞという感想が折々起こり出す。それだけ小生はまだ悟り切りおらず、いわゆる「至人に夢なし」の域にはいまだ達しおらず候。慚愧の至りに候。
 それから推して、六歳の時初めて逢うてたちまち別れたきりの異母の姉の当年の恨みを今に及んで心底に想い起こすから、毎度面前にその姉を見る。何とかその恨みを絶やせ進ぜたしと申したところが、その方便を知らず。前年今一人の弟和歌山で死せし。その前に小生に封書を送り来たりしを今に開かずにあり。開かずとも何事を述べ来たりしかは小生十分察知しおる。すなわちこの末弟も現存の弟に謀られて、初めはそのために小生を和歌山より立ち退かせ、さて小生立ち退いて後、亡父が末弟に残せしものを現存の弟に取られ了り、何という芸道もなき末弟ゆえ失意の極窮死せしなり。その末弟にも小生は恨みなきにあらざれども、人のまさに死せんとするやその言や善し、前年現存の弟に謀られ語らわれて小生を立ち退かしめしはまことに相済まぬといい来たりしこと数回なれば、箸折り鏡の同父同母の末弟を、今となりて小生はなに恨むべき。当時法竜座主に申告して金剛峰寺で回向し戴き、末弟も地下に解脱したことと悦びおり候。それと同例で、近年脚が快方にならば一度和歌山へ上るから、何とぞ同市まで御下向、右に申す異母姉のためにせめては戒名を付けやり下されたきなり。入用の諸料金は小生多年一家内たたみの上で食事せず、台所の板の間で飲食しつづけて拵えあれば、必ず貴方を煩わすことなからん。
 昨今人心みな鬼魅同様にて、当地出身、姉が洋妾として捨身して拵えし金で二百五十万円まで身上を仕上げたる男が、先年土宜僧正を欺き当地高山寺まで迎えて灌頂式か何か奉行させ、すっぽかしてしまいしことあり。その時も瑜伽論読みの瑜伽論知らずの小生は、今に見ておれひどい目に逢うぞと思いおりしが、果たしてその男はただ一人の男(413)兒が肺患になり、それを入れおくため大きな煉瓦家屋をこの宅に近き町に建てしが、やがてその男兒は死亡、むかし洋妾たりし姉も死亡、その後久しからずしてその男自分も死亡、多くの金銀は素縁もなき養嗣夫婦(貰い娘に聟取れるなり)の物となり候。
 毛利氏生前このことを頼み上げくれし由はその節承りしも、かかる子細を詳しく申し上げくれしか否かを知らず、ずいぶん入りくんだことゆえ今夜この状を差し上ぐるついでに自筆にて申し上げおくことに御座候。夜も更けおり、これよりまた研究写生にかかることゆえ、この上妄りに老眼を煩わすに堪えず、まずはこれだけ申し上げ、併せて御下問の件の御応答延引の御詫びを申し上げ候。
 すべて仏家のこと、式作法より伝説に至るまで昔のインド、支那等より伝え入りしこと多々なるに相違なきも、肝心のインド、支那(のみならず中央アジアの今は全く亡びたるいわゆる西域諸国、南方諸国等)に何たる文献を伝えざるもの多く、また日本に入りてのち跡方も分からぬまでに変形せるものが多きことと存じ候。小生明治二十四年西インド諸島を巡廻致し候間、キーウェスト島(米合衆国の最南端の小島)にて支那人の洗濯業のもの方へ米飯を喫しに往きしに、その者らいかにも知った振りにて、日本人の宗教は簡単なもので、何たる理論も道義論もなく、ただ小瓶(オミキスズ)に少しの酒を注入しサンバイサンという小神に捧げたら、諸願成就するというだけなり、という。何地でそのことを睹《み》たかと問いしに、長崎の土娼?の女はみな毎夜左様するとのことなりし。小生はかつて聞きも及ばず、意味も通ぜぬことにて、彼らは小児のごとき痴言を吐くものと思いおりし。しかるに、二十年ばかりのちに中山太郎氏の書いたものを見るに、中国辺では小農が米を刈ったのち、多く田の小神に酒を捧げ、来年の収穫を祈る、その小神をサンバイ様と通称し、何という神やら何物を神とせしやら知った者は一人もなき由。惟うに、かの支那人が出逢いしは中国より長崎に流れ来たりし土娼にて、その輩相伝えて三盃さんを祀れば毎夜好客来たるなど申し伝え、田穫の小神を自分勝手に好客万来の神にしてしまい、神主も女巫も何の儀式もなしに彼輩限りの私窩中に祭りはやら(414)せしことと存じ候。故にその当座切りのことで今は長崎になきことと察し候。むかし日本より漢土に渡りし伴僧役僧の下輩のものどもが、長安等の大都を見ず、地方の小市街に留まりてかかる一時一隅的の小尊小儀式を間違いながら伝承輸入せしことも多かるべく、そんなものは日本に久しく根をすえることあっても、彼方にはその当座きりの流行に止まり、今となつては何の痕跡も留めざることと存じ候。故に彼方より伝入せしなるべしとまでは言い得るも、その上それはそれより出でたり、これはこれに基づくといわば、けだし鑿せるに過ぎたものたるべく候。
 石経拓本の儀、何分にもさし当たり御存知のほどだけ御知らせ願い上げ奉り候。小生老眼にて手不自由、渋字御察読願い上げ奉り候。           敬具
 
(415)   谷井保宛
 
 昭和九年十二月七日早朝
   谷井保様
                南方熊楠再拝
 拝呈。本月五非出御葉書咋六日午後四時半忝なく拝承。繩巻鮨は酸味に過ぎ候由、それは開封がやや早きに失したる御事と察し奉り候。さて、前日御依頼の十二月の手鞠唄、今夜小閑を得て写し取り、ここに同封して差し上げ申し候間、御閲読願い上げ奉り候。不文の者が写し取り置きたるをまた写し取り候ものゆえ、今となりては分からぬことも多く候えども、むやみに訂正候てはいよいよ分からぬものとなり申すべくと存じ、大抵私意を加えず本《もと》のままに写し取りて差し上げ奉り候。
 
    十二月
とん/\くと先づ初春の、暦開けば、心地よいぞや皆姫始め 合 一つ正月、年を重ねて弱いお客はつい門口で 合 お礼申すや、新艘かむろは、例の土器とり/\ 合 なづな七草、囃し立れば、心いき/\、ついおゑびすよ 合 じっと手(416)に手をしめの内とて、奥も二階も、はねや手鞠で拍子揃へて、音もとん/\と、突て貰へば、ほね(注一)正月よ 合 こたへかねつゝいくきさらぎは、泄て流るゝ水もたきゞの、能《ノウ》恥かしや 合 摩郡(注二)も祭りか初午そふに 合 だいて涅槃の雲に隠るゝ屏風の内で 合 床の彼岸や、きく(注三)もしょうらい、あゝよいやよいと、指でわるじゃれ、にくとふっつり、桃の節句と汐千と言て 合 痴話の炬燵で、脚で貝ふむ衆道好き《(外色癖)》迚、高野御影供や(注四)、扨水上げの 合 卯月/\も後には広く、釈迦も御誕生、いきも当麻《タヘマ》の床の練供養(注五)、つくは夜明の鐘の響きに権現参り《(四月十七日)》、ぬれてしっぽり五月雨月とて、道鏡|優《マサ》りの幟竿立て 合 兜頭巾で、まくや粽《チマキ》の節句、御ン(注六)田の紋日、奇契紙、長命|薬《クスリ》 合 ゆくをやらじと留て堪《コタ》えりゃつい淋症に、愛染(注七)の 合 涼み祇園の鉾々饅頭、子供時分はよい夏神楽、すいたしるしかいかい提燈、地黄卵《(共に滋補剤)》で、精を付てのみなお祓ひよ、浮気央ばへ付る文月、折に触ての七夕客も 合 盆の間だは踊りかこつけ、よね《(女郎)》や中居|も《(をイ)》口説き取るのは、音頭所ろよ、白き大腿、通を失ふ萩月《ハーギ》 合 扨も頼もし血気盛りのおば(注八)名月|よ《(もイ)》 合 ぐ《(ふイ)》っと月みりやいざよい君と、また取かゝる二度目の彼岸 合 是も成仏得脱の、いとし可愛と声も菊月、茶字でするのも|豆の月《(九月十三夜)》とて、みなかたはしる 合 祭り仕舞ば、二折三折ののべをきらして神無し月よ 合 亥子餅迚おとなも子供も御命講のあたりを、五夜も十夜も突て貰へば、ほんに誓文、強い御方じゃ、もそと霜月 合 沫をふきやの、ふいご祭りか、せいをひた(注九)きよ 合たいしこう(注一〇)して、勧められつゝ又しわすれば 合 事も愚かや、よい事始め 合 陽気浮気の帚《ホホキ》客とて、中や南もはいて廻るやすゝとり 合 のちにゃくたびれ、ほんのあもつきはや節分の穢れ不浄のやくを払ふて、豆の数々ちょいと三百六十|余《ヨ》突た、ひいふうみいよう。 (以上)
 右拙妻の亡姉(現存せば六十三、四歳)四十四年ほどのむかし、三絃を習う時写したる本より書き取り進じ候。
   谷井保先生                南方熊楠
 
 南方注。(一)『鼻実年浪草』一下に、京大坂にて新年の嘉祝に究めてブリの脯《しおもの》を用ゆ。その魚骨に大豆酒の粕を入れ煮熟し、(417)節物となして、これを食う。故に骨正月という、と出ず。(二)摂州摩耶山二月初午、諸人馬を牽いて詣る。土産に昆布を買って帰る。(三)ききもしょうらいにて、聞こうじやないかということと察し候。しょうらい、和歌山|詞《ことば》でもいいし。Let us listen to なり。(四)肛門が後ろより見ゆるにいいかけたり。(五)大和禅林寺練供養、四月十四日。(六)住吉御田植、五月二十八日。(七)大坂|勝鬘《しようまん》の愛染参りの涼み、六月一日。(八)老女ですらもの義? (九)『日次記事』、「御火焼、十一月諸社これを修す」、社によりて日一ならず。(一〇)「十一月二十一日至二十四日、諸山(智者)大師講を修す」。天台宗にてするなり。
 
(418)   宇野脩平宛
 
          1
 
 昭和十一年八月十三日午後五時〔葉書〕
 拝啓。十二日出貴状今朝八時二十五分忝なく拝受、御礼申し上げ候。御来臨の節、小生多用にて十分御談しも申し上げ得ず、遺憾の至りに存じ候段、不悪《あしからず》惑御容赦を願い上げ奉り候。御状中に見えし一色周知氏は過ぐる大正十一年七月、小生日光湯本にて同宿し拝顔したることあり。そののち仙台の東北大学にありと聞きしが如何に候や。また、周知氏の従兄か何かに当たる一色富之進氏は小生旧知にて、明治十九年夏、小生、二、三年前物故されたる林学博士川瀬善太郎氏と高野山へ参り、帰途九度山辺で別れ、小生は(その歳大旱にて水はなはだ少なく)紀の川を徒歩して渡り、東家《とうけ》にゆき、富之進氏を尋ね一泊、翌朝早く起きて午後三時過ぎに和歌山自宅へ帰りしことあり。その歳の十二月に小生は渡米致し、それより諸国流浪、明治三十三年帰朝、それから熊野に引き籠りおり。富之進氏は今も健在なりや、一向聞知せず候。まずは右申し上げ候。         敬具
 
          2
 
 昭和十一年九月二十四日〔葉書〕
(419) 拝復、二十二日出御状今日午後三時半拝受、拝誦仕り候。甲虫の名御示し下され難有《ありがた》く御礼申し上げ候。さて、御申し越しの過日拙宅玄関でちょっと御話し申し上げたることども、御出板下さるる御思し召しの段、まことに身に余り難有く存じ奉り候。しかし、右等は大抵四十年ばかり前の愚存に有之、その後久しく僻地に罷り在り、もはや遠のむかしに多人が気の付きたることに有之《これある》べく、そんなことを今さら事新しく発表などはもってのほか時代に後れたることと察し候。かつ貴下に取っても御自身の御考え成されたることならともかく、人の立ちながらの話を暫々聞き取り書き下して原稿料をせしめる新聞探報者のような御やり方ははなはだ御人品にも関する次第に有之、これらは何とぞ今さら御発表なきよう、特に願い上げ奉り候。
 嗚と鳴の混同のことは、小生近日岡書院より出す「南方筆叢」という著に詳しく書きあり。(その一部分は既刊の『南方随筆』一一七−一二一頁に出しおり、むやみに発表されては板権侵害等の訴訟を起こすも知れず候。)
 
          3
 
 昭和十二年一月四日夜十時半〔葉書〕
 拝啓。新禧賀し上げ奉り候。御葉書は今朝八時五十五分忝なく拝受、御礼申し上げ候。別紙二冊、神戸発行『海運』別刷、御笑覧に供え候。小生昨冬来一月ばかり病臥、昨今快方にてぶらぶら加養致しおり、貴下当地方へおついであらば御立ち寄り下されたく、小生久しく不沙汰ゆえ、御帰途和歌山まで御同行を願うも宜しく候。   早々敬具
 
(420)   六鵜保宛
 
  本状はもと全長三間半の長文なり。日付は大正五年、月日は不明。伊予国新居浜|惣開《そうびらき》在任中受信。後、東京市本郷区西須賀町に転住中、下女が何も知らずに秘蔵の本状をいかにして引っ張り出したか、ゴミ溜に捨てありしを、粘菌発生の状態を検せんため裏庭に廻らんとして偶然にも発見せり。拾い上げしに前半分は破られて無し。残り半分が本状なり。
  本状の初めには、先生和歌山に上る途中、船中にてインフルエンザにかかり、帰宅後小葉肺炎を併発し、生命危篤なりしも幸い一命を取り止めたれど、いまだ医師より読み書きを厳禁せられおり、退屈に堪えず、よって禁を破りて貴下に一書を呈すとあり。全文の三分の一くらいまでの処には、「本状ここまで書くに三、四夜かかり申し候」とありたり。病後のこととて全文を書き終わるまでは大分の日子を要したりと思わる。
本状は、槌の怪異の伝説四国辺にありやとの先生の問に対し、第一回は細字にて巻紙に三間、第二回は原稿用紙に字数無制限に二十五枚書いて差し上げたるに対する先生よりの書信なり。(六鵜付記)
 
 ……と申す一足の鬼あり、……かりしを色川刑部左衛門なる浪人来たり、奇謀もて射殺しつ。恩賞に何を欲するかと問いしに、別に私に望むところなし、ただし、那智山後の色川という寒郷は田圃なく米穀乏しく、人民まことに貧し、故に寺山のカシの実を食料として随意に取らせやり下されたくとのこと、よって毎年一家の食料に十分なるだけ寺山のカシの実を色川郷の人民に拾わせたので、民その徳に感じ、右の浪人を神とし祀れりということなり。
 この一ツダタラという独脚鬼のことは、外国にも多少似たこと多し。小生別に考あり、これは近く『太陽』へ出し申すべく候。このヒトツダタラの事伝を種々ききまわるうち、西牟婁郡大内川と申す所に存する古語の残片に、右の(421)一ツダタラは、三足ある鶏とツバキ製の槌、いずれも怪をなすものを使いしゆえ、今も椿の木で槌を作らぬものと申し候。さて、拙妻の亡父(田辺権現の神官たりし)常に拙妻に話せしは、どこかに不具の鶏ありてみずから不幸をなげき、「片足高く、片足低く、竹の林に一人ぬ(寝)るぬる」と唄いしとばかり記臆し、前後全く拙妻は忘却せる由申し候。それにて覚え出で候は、小生も七、八歳のころ小学校の友より毎度聞きし話に、どこかの竹林に一足かなにかの鶏ありて、右ごとく鳴き唄うというだけ記臆致し候。小生も妻もその話をききしとき、右の鶏が唄うところに至ると、身の毛がよ立ちしを覚えおり候。他は全く記臆せず。
 しかし、小生外国のもろもろの似たる話どもより類推するに、なにか貴公子などが一ツダタラのために魅術をもって鶏に化せられ、悪事に役使せられ、さて用事がすまば竹林中に閉じこめられて、永く畜生身を脱する能わず、然るべき人来るにあうて、そのわけを話し、然るべき解方を行なわしめたら、悪鬼の術たちまち破れ、鶏身を脱してもとの人身を復し得べきゆえ、誰か人がこぬかこぬかとまつうち、不幸を歎ち右述の唄をとなうるに、鶏が唄うを聞く人みな大いに驚き、即死し、随つて魔所の聞え高く、いよいよ通る人なくなる、終《つい》に一の勇気ある人、子細かまわずに来たり、鶏と問答して子細を知り(西洋によくある例のごとく)、そこに埋められある財貨を取り出すと、即座に鶏が人身に復するというような筋書と、小生は察し、いろいろと新聞に投書し、また私人に状を出すこと三年なるも、然るべき答を得たることなし。
 しかるに昨年春、拙宅と隣家の間の竹墻を修めに来し職人、六十歳ばかりなると、墻を隔てていろいろと話《はなし》するに、この人なかなかの博聞なり。よって右の話を尋ぬるに、その話はよく知れり、ただし只今多忙ゆえ言い得ずとのこと。よって人を頼み、その宅に就いて聞かしめしに、四十八年前九十歳にて死せる老婆(江戸詞を使いし由なれば、江戸の生れか、または当地人で江戸におりしことある人か)より聞きしとて話すこと次のごとし。いわく、
 何でも江戸近く、ある所に寺あり、立派な普請をした和尚が五月ほど経てどこかへ行き、行末不明となった。それ(422)から後住を幾人も入れたがみな一夜中に無くなる。あるとき弊衣のきたない坊主来たり、一泊を乞うた。村の者これを忌み、相談してかの寺に宿せしむると、その僧悦んで寺に行き泊る。本尊の前に坐して坐禅し、御経を上げおると、丑みつごろに表の戸をトントン敲いて、「デンデンコロリサンはお内ですか」と問う。中からどなたで御座ると問い返すと、外のもの、私は「トウサン《(東山)》ノ|バコツ《(馬骨)》で御座る」と答う。「それはどうもよく御越し下された」、「いや今晩は大層よいものがあるそうで厶《ござ》る」と挨拶してスッとはいる。暫時するとまた表をたたき、問うこと前のごとし。中よりどなたで御座ると問い返すと、私は「ナンスイ《(南水)》ノ|キギョ《(奇魚)》」と答え、入ること前のごとし。次に来たる奴も問答前のごとし。この者は「サイチクリン《(西竹林)》ノ三ケイテウ《(脛鳥?)》で御座る」とてまた入り来る。その物どもみな化物なり。一斉に件《くだん》の坊主に飛び掛かろうとするが、この坊主お経をよんで、ぱつと引導を渡した。すると化物みな消え失せた。翌朝、村人、坊主は殺され了つたことと合点して来たり見るに、本尊の前に?燭を上げてちゃんと坐しおる。何ぞ不思議なかりしやと問うと、別に何ごともなかつたが、ちと思い当たることがあるから、庄屋さんに告げてすぐ人夫を八人拵えてくれというから、さっそく拵えて来ると、坊主二人の人夫に、ここから艮《うしとら》の方、山の尾を三つ廻ったら禿山がある、その禿山の奇麗な枝振りの松の下に馬の頭があるから掘ってこいといい、次の二人に、ここから南方|二《ふた》谷越えた処に大きな池あり、その中に大きな金魚の死んだのがあるから持って来い、次の二人に、ここから西の方へ三山越えたら竹林あり、その中に三足の鶏が死んであるから持ち来たれ、残った二人には、この寺の乾《いぬい》の隅の柱に槌の子がのってある、これをおろして来たれというと、果たしてみな持ち来た。これまでの諸僧はみなこの四化物に取られたので、その内にも槌の子が一番悪くて諸方の悪魔を呼んだのである、槌の子を乾の隅に置くと不思議がある、と言った。
 同人またいわく、トウホウ寺という寺の住職がこの寺を建て替えたい一念で、三千両という大金を拵えたが、村の娘と心安くなり、村人にやかましく言われて見合せとなった。このとき僧と娘と相対死せしことと見ゆ。それからあと入りの住職が幾人来ても一夜中に死す。化物寺となって、すむ人なくなる。佐野鹿蔵(以前よく大阪辺の軍談師が(423)話した勇者)この寺へ泊り込んだ夜の丑みつごろ、ぱっと光りて明るくなる、さては怪物と用意すると消えてなくなる。今のは違ったと思いおると火の玉が現じ、その中に坊主の主と娘が現じたから刀に手を掛けると、坊主、鹿蔵の前へ手をつかえ、まことにありがたき仕合せと礼をいう。何がありがたいかと詰ると、今まで何度も言いたいことがあって人の来合わすごとに出で来たると、わが姿を見て直《すぐ》に気絶し、わが語を聞かぬのみか野獣に食われ終わったが、貴公は気絶もせず話を聞いてくれるがありがたしという。その話とは何かと問うと、寺の普請をせずに三千両残して死んだが気にかかり、浮かまれぬから何とぞ本尊の下に埋めある三千金を取り出して普請をしてほしいと頼んだので、鹿蔵承諾してその金を取り出して普請をしてやつた。
 思うに小生幼少のときこの二談をききおりしが、永年へて全く忘却し了りしが、至ってかすかに記臆の痕跡を留めありしが、西洋に人を蠱魅して畜生となし、隠財を守らしむる悪巫女の話多きを知りしより、自然にみずから覚えず識らぬ心内に、寺の四怪物の話と隠財の語を混一して、不具の鶏が竹林中に隠財を守り、勇者を俟つて告げ、みずから悪魔の羈絆を脱せんとしたことと心得違いおりしが(自分覚えずとも夢の中にかかる風に二話、三話を混合して一となすこと多し。その夢が、平日自分の記臆外の識《しき》中に留まり存し、時に臨んで現出するなり)、一ツダタラが椿と槌と三足の鶏とを使いしと聞いて、たちまちこの心得違うた自分手製の混成譚を想出せるなり。
 さて、その後他のことを探す用ありて、『一休諸国物語』というあまり古からざる一書(『沙石集』等より採ったこと多し。虚偽多きものなり)を見しに、その巻四に、讃州三木の郡より二里ばかり奥の山里で(一休)修行するを村人こい留める。北の方に松林あるを見て、何所と問うに村人いう、かの林中の古寺、昔より変化ありて何とも知れぬもの三人、夜は出で踊り狂う、いかなる僧も三日と住することなし、という。一休、仏道修業も左様の寺を取り立ててこそ本意なれとて、村人に案内させ、その寺にゆき、村人は帰る。その夜五更、三つの変化出て踊りまわる。一つの化物の唄に、
(424)  東野《とうや》のばづ(馬頭)はいとしいことや、いつをらくとも思いもせいで、脊骨は損じ、足打ち折りて、終には野辺の土となるなる。
二番の化物の唄に、
  西竹林《さいちくりん》のけい三足は、あるかいもなきかたわに生まれ、人のなさけを得蒙らで、竹の林にひとりぬるぬる。
  (小生また妻が幼時聞きしはこの唄なり。亡母がケーサンロクといいしもこの謬りなり。)
三番めの化物唄うは、
  南池《なんち》の鯉魚《りぎよ》はつめたい身やな、水を家ともじきともすれば、いつもぬれぬれひやひやしとしと。
終夜おどり唄うを、一休一々合点し、明朝村人を呼び寄せ、変化の様を語り、第一番に東野の馬頭はこれより東の野原に馬のされこうべあるべし、第二に西の竹林中に三足の鶏あるべし、第三にこれより南の方に池ありて、その中に鯉棲むべし、これを取り集めよという。人々捜し求めしに果たしてその物みなみなあり。一休これを葬り、読経しければ、それより怪事絶え、すなわち然るべき僧を住持とし、それより他所へ一休は通った、と見えたり。
 また、この書(『一休諸国物語』)の拾遺天の巻に、一休若き時、南山城《みなみやましろ》の薪村の一古寺酬恩庵に詣る。荒れ果てて住む僧もなし。これまで六、七人もすえしに、あるいは夜の間に死し、または行衛知れず、したがって里人も昼だに行き通うものなしという。一休請うてこれに居る。その夜子の刻ごろ、寺内雷電震動して二八ばかりの美女現われ、一休に近づくを、叱すれば消え失す。しばしありて十六ばかりの美童来たり酒を勧む。最前の物よまた来たるかと叱すれば消え失す。丑の刻ばかりに一丈ばかりの高き法師、黄疸やみごとき面、朱の眼なるが飛びめぐり、仏檀の下を  有《しき》りに睨む。一休、三度来たるこそ愚かなれ、早く土底へ帰れといえば、早くも消え失せぬ。夜明けて村人来たるとき、一休、村人に命じて、この寺を崩し仏檀の下を深さ三尺、幅一間四方を掘らしむるに、村人、かかる由ある寺を崩すこと如何という。一休、左ほど惜しく思わばこの寺を崩したる跡にいかなる伽藍をもわれ建立せんという。よっ(425)て寺を崩し、仏檀下を掘り見れば、金を入れたる壺三つあり。一壺を地頭に献じ、一壺は村民に与え、残る金にて善美尽したる堂塔を建立せり、云々。
  これも隠財を亡者の霊が守りし話にて、前に述べたる田辺の職人が小生に語りしは、必ずしもこれに拠るにはあらざれど、かの人もこの書にも、たまたま三足鶏の怪談と、亡者隠財を守る話とを語るは奇なことなり。
 さて、いろいろとさがすうち、『一休諸国物語』よりは大分古い『曽呂利物語』を見るに、巻四に、伊予の国|出石《いずし》という所に山寺あり、郷里《さと》を隔つること三里なり。かの寺創造の初め、二位という某、本願として年月を送りけるが、いつのころよりかこの寺に化物ありて住僧を捕りて行方知れず、その後たびたび住持ありけれども、いずれも幾程もなく捕り終わりぬ。今は主なき寺になりしかば、云々。かかるところに関東より足利の僧とて上り、二位が許に来たり、かの寺の住持を望みける。(僧、名を二位と号し、足利より僧諸国に出でしなど、戦国ごろの話を寛永ごろに書きたるものか。)二位かの怪事を話し、止むれども聞かず、押してかの寺に行きて、夜に入り少時あるに門外より物申さんという。さては二位が許より使を遣わしけるかと思うに、内より何処《いずこ》ともなく、どれと答う。エンヨウ坊は御内に御座候か、コンカノコネン、ケンヤノバトウ、ソンケイガ三ゾク、ゴンザンノキウボクにて候、御見舞い申すとて参りたり。エンヨウ坊出合いさまざまにもてなして後、御存知のごとく久しく生魚絶えてなかりつるところに、不思議なる物一人出で来たる、おもてなしにおいては不足あらじという。客人も、まことに珍しきことなり、参り候こと、何よりもつてのお持てなしにてこそ候え、夜と共に酒宴を致し候わんと奥に入りぬ。かの僧は固《もと》より覚悟したることながら、彼らが餌食とならんこと口惜しき次第なり、さるにても化者の名字を確かに聞くに、まずエンヨウ坊(円容坊か、円瓢坊?)とは、丸瓢箪なるべし、コンカノコネンは、未申の方の河の鯰(坤河の古鯰)(熊楠いわく、瓢箪に鯰というによれるなり)、ケンヤノバトウは戌亥の方の馬の頭(乾野の馬頭)、ソンケイノ三ゾクとは辰巳の方の三足の蛙(巽蛙の三足)(熊楠いわく、蛙の音はアにて圭《ケイ》にあらず、ここは鶏が正しきか。しかし本文に蛙とあり。圭の音によって蛙をケイ(426)と読みしにや)、ゴンザンノキウボクとは丑寅の方の古き朽木(艮山の朽木)の臥したるにてぞあらん、彼らごとき者いかに功を経たればとて何程のことかあるべき、常に筋金を入れたる棒を突きて来たり、かの棒にていずれも一撃の勝負なるべしとて大音声をもって、おのおの変化の程を知ったり、前々の住持その根原を知らずしてついに空しくなりぬ、われはそれとは事かわるべし、手練の程を見せんとて、かの棒を取り直し、ここにて打ち倒し、彼処にては追い詰め、丸瓢箪を始めてみな一撃ずつに打ち割り、四つの物どもを散々に打ち砕き、そのほか眷族の化物ども、あるいはスフクベ(炭瓢、すなわち炭入るる器?)、摺《すり》小鉢のワレ、カケザ(欠け皿?)、鉢、摺子木、足駄、木履、ゴザノキレ、味噌コシ、イカキ竹、ズンキリ、数百年をへたる物ども、その形を変じて付きまといたるところなり。かの坊に一当《ひとあて》あてられて、何かは少しもたまるべき、一つも残らず打ち砕きてぞ捨てたりける。夜明けて二位が許より使いを立てて見れば、僧は恙もなかりけり。さて二位は寺に行きて問いければ、ありしことどもくわしく語る。まことに智者なりとて、すなわちかの僧を中興開山として今に絶えず、仏法繁昌の霊地とぞなりにける。
 また、同書に上に引きたる『一休諸国物語』の一休酬恩庵で隠財を守る怪にあう話の一部分の原話かと思わるるが巻二にあり。武蔵国を修行する僧、行きくれて野宿するに、二八ばかりなる少年、笛を吹きながら来たり、城につれ入り、奥坐敷に泊らしむ。夜明けて人|数多《あまた》来たり、怪しむ。よくよく尋ぬれば、その城主の若君、その年の春死せる亡霊がしわざなり。常に手慣れたる寒竹の笛を仏前に置くなり。これは隠財を守るにあらざれども、亡霊が生前所愛の楽器に執着せる様は、財貨に執念のこるに異ならず。
 まず三年ほどかかりて小生みずから歩を進め得たる研究は上のごとし。しかして諸方へ広告して問い合わせし返答とては、槌が霊怪をなすことはあつたが、この槌子が変化して他の怪物を集めしことに関するものは一つも得ず、大いに失望して外国の書を渉猟せしも緒口も見出でず。(ただし、小生壮時しばしば見たる、そのころ坊間に多かりし国芳(?)筆の春本、題は忘れたが三冊もので、アニリン彩色ゆえ、あまり古いものでなし、安政以後のものならん。(427)それに、ある国で毎年村社へ人身御供をそなうる。ある年、村正の一人娘、初花といえる十七ばかりの美女その撰に当たり、神前に置き去らる。深夜に同じ年ごろの美少年出で来たり、これと婚合すること何十度とか(忘る)で、死後に娘溶けて水となり了る。これより交合中婦女快絶のとき身が溶けるという言《こと》初まると大|啌咄《うそばなし》を出し、さて、その少年は実は馬の年老いたるが神にいわわれたるなり、東原《とうげん》の馬骨とはこれなり、とありしと記臆す。画一面ありて村人ども娘を置き去り、炬を点《とも》して逃げ去るところを遠く見せ、社前に若き美女白装して袖もて半ば顔をかくすところを、もっとも美なる少年前髪あるが、抱きてその陰を触摩する体なり。その少年の体上半分かきし紙は左右に動くこと自在にて、これをちょっとまくれば老馬が人衣して右の娘の陰を舐《ねぶ》る図となるしかけなり。さて、その次の一面には娘はや水に溶化し了り、影を留めず、暁月の下に右の老馬が、そのことの果てたる自分の陰を舐る図あり。)
 これは埒もなきことながら、この本のできしころまでも、江戸にてはかの槌が化けて諸怪を会する話や話本、大いに行なわれ、東野の(または東原の)馬骨といえば、誰人もその話を知っておったから、それを付会して件《くだん》の人身御供の話を作りしことと存じ候。(五通神など申し、支那に馬、羊、豕《ぶた》などが人装して人家に入り妻女を強婬するも、これを妨ぐれは大禍難をおこすゆえ、一向手のつけようもなき風ありしこと、『聊斎志異』などに見え申し候。西洋にも古来人が畜生の皮をかぶりて婦女を犯すことあり(ローマのネロ帝なども然り)。僧祝または一種の秘密結社あってかかることをなすを人知らず、畜生に妻女を犯され、はなはだしきはその子を生むことありと信じたと見え申し候。)
  上文、『曽呂利咄』伊予の出石山とは石槌山にあらざるか。ただし、今も出石山という名伊予にありや。この咄には化物の会主が円瓢にして、槌子のことは一向見えず。初めは瓢なりしが後においおい槌子と変化せるにや。
(428)  また、石槌山とは何より起これる名に候や。太古の槌形の石器を祭りたるに候や、御教示を乞う。槌形の石器を宝とし、また祀る所は海外にもあり。槌とは※[図有り]に限らず、紀州にて横槌と申し、胡麻などたたき殻と子《み》を分かつに用うる※[図有り]かかる棒をも申す。また、石器には※[図有り]かかる槌多し、手で握って物をたたくなり。杵というが相当らしきも、別に臼なきゆえ学者は槌と見るなり。当地方で玄猪《いのこ》の夜、男なくば槌の子でも抱いて臥せというなど、かかる原始の槌または上画の横槌が陽物に似たるよりのことならん。(春画などに後家が亡夫の位牌を抱き、スリコギをもって自褻するところ往々あり。スリコギと横槌はほとんど通用し得るほど形相近きものに候。)
右の次第にて、この上捜索するも、この上の材料は手に入るまじと思いながら、今年初、年頭状を初めて寄せられし陸中の人一人、信濃の人一人へ聞き合わせしも、一向恰好の例を示されず。(ただし、槌に霊怪なことある由は報知さる。女巫《みこ》が口寄せする縁の下へ槌を置けば口が寄らぬとか、子供つづいて死ぬる家は、槌を生存する子の身代りに葬送のまねすればその子息災長生すとか。)いよいよ絶望、これでまずしめ切りと断念せるところへ、貴下より短簡を賜わり候付き、とても物に成らぬと思いながら、物はためしと存じ、大分後れて一書を差し上げ、このこと伺い上げたるところ、図らざりき貴下より二回まできわめて詳細の御報告を得、伊予辺に槌子が化物を集会する話なども行なわるるを知り、『曽呂利咄』にこの話(槌子を瓢箪と作りあれど)を伊予のこととせるは、淵源根底あるを了《さと》り申し候。
 御報告中の槌が天井で鳴ると申す話も、熊野で今も存しおり、ちょうど第一回御状開披、精査中、小生招きに応じ治療に釆たりし歯医(東牟婁郡の生れ)は豪家の出で、その家むかし飢饉の年に村民救助のため、事業を与えんと、特に八つ棟作りの大厦を立て候(この大厦は後に焼亡、そのあとは小学校になって存す)節、大工、棟上げ式に用うる槌を忘れおき候ところ、爾後毎夜天井に雷ごとき声止まず。豪勇のもの、天井をはずし、上り見しに右の槌あり、(429)取り下げて見れば椿で作りありしと申し候。また、ツバキの花は美なれど、頸から落ちるゆえ忌むことも田辺にて申し伝え候。
 右、槌の子、怪をなす話はおよそ五、六年しらべ候も、上述の外に新材料もなく、これにて終結と致さんと存じおり候ところ、不斗《はからずも》貴下二回の報告にてことのほか材料を増し、未聞を聞き得たること既聞よりも多し。只今西洋の例を知らんため、必要なる一書(デンマークの教授が四年前出せしもの)取り寄せ中にて、近日着すべき報あり。それが着かば、さっそく東西を総括して一論を出し、たぶん『太陽』に載せ申すべく、その節貴下御知らせ下され候分は、括弧内に貴名を注し置くべく候間御覧下されたく候。
 世に人間は出精さえすれば、所望の事物を手に入れ、所願を果たし得と申せど、五、六年出精しても自分の力に限りあるゆえ、得るところは悉し得ず、また全きを得ず候。要は自分の心理作用を悉せるだけ悉し用いて類推を逞しくし、材料から材料を延《ひ》き求めるの外なし。それにしても機会とか、奇遇とか、偶合も多く、自分が目がけて捜すところには見出でず、他の一向これと関係なきことを探すうち、不図《ふと》見当たることも多し。しかるにこれらはいずれも自分が求めてなせることなれば、自分の注意さえ油断なくば出来《でか》し得ることなるが、この外に太陽系の諸惑星が運行するところへ不意に突進し来たる不可測遼遠の所にあった彗星が、忽然現出して大いに太陽系のバンを狂わせるごとく、今回貴下の御報告がわずか二回にたちまち小生方へ到着して、多年小生が出精して、また注意を怠らずに捉え得たる諸材料よりもずつと多く材料を与え、すでに finale 終結せんと定めおりたる諸種の拙見を全く偶然に補い、または確かめ、または否認せるなどは世にいわゆる神助にて、帰するところ、到底物にならぬと存じながら、小生より一書を差し上げ、このことに付き貴答を求めしに出ず。しかしてそのかくするに及びしは、年頭に貴状を不図得たるに由る。これらは全く小生の働き外のことにて人力の及ぶところにもあらず、ほんの偶然とか奇遇とかいう外なきことなるが、只今われわれがかれこれ不思議そうに感心する心理学上の諸作用の外に、箇人の心理学作用外に宇宙の心理作用とか、(430)また一層正しくいわば、宇宙間の一切のことのなりゆき、すなわち事理作用ともいうべきものあるべく、偶然とか奇遇とかいうてすますことどもにも、必ずそれ相応の原則も理法もあることにて、それを精究するが形而上學(メタフィジク)かと存ぜられ候も、われら今日何ともこの形而上学の端緒を捉うることさえならぬなり。
  貴状を見て、小生在來の終結説を否定するに及びし一例は、前に申すごとく、拙母はたしかに「テンテンコボシ」と申し候。しかるに西鶴か自・磧かの書に、化物のことを列せる中に、照々法師(テルテルホウシ)というもの、雨が止む前に出あるくということありし。故に小生は在英中、母のいわゆるテンテンは照る照るの謬りと存じ定めおり候。さて昨春かの竹垣をなおしに來たりし職人の話には「デロデロコロリ」とあり、また貴報告(一)、また上述歯医の宅にありしことなどを考うるに、これは主として槌が転がりまわる形容と存ぜられ候。しかして第二回の貴報、中学生のには、「テンテンコウ」とあり、これは点々紅にてツバキの花の白きに紅点を散らせる形容かと存ぜられ候。されど貴報(二)に 「テンテン小坊主」とあれば、多数制裁で、やはり拙母がいわれし「テンテンコボシ」はテンテン小法師の義で、原意は槌の音、物を打つときテンテンと聞こえるに基づき、寺中のことゆえ小法師と称号せしことと存じ候。すなわちテンテンをテルテルの謬りとせしは大なる間違いなるを知る。これひとえに貴下の賜物に候。
 小生病み上り、また眼かすみ渋筆にて、この状ここまでかくに三、四夜かかり候。ツバキの槌のことはなかなかここに尽きず、そは『太陽』紙上に出ずるの日御覧下されたく候も、雑誌の誌面は限りあり、故にこの状とは大いに書き様もかわり申すべく、また、この通りに詳しくこの件に付いての拙見開進の履歴・変革の道筋など記すことは成らず。この履歴・道筋の委細は心理学や形而上学の大別を研究にかかる人に取つて大いに面白きことと存じ候付き、他日もしそんな人の御参考にもなるべきかと、まわらぬ筆ながら詳記して貴下へ差し上げ置き申し候。
 わが国の学識は区々に専門の人多きも、学識がかたちんば不揃いに進むのみで、統一も整理もなしと在米の一友よ(431)り一昨日申し来たり候。定めて『日本及日本人』昨年七月十五日分にて御覧下され候やらん、本多静六が日光山の道側の老杉の並木を伐り尽して、日光より中禅寺へ自働車道を通ぜんとか、和歌山の城の升形《ますかた》をつぶし、石垣を崩して、仏国・伊国式の花園を設くるとかの案を立てしを、某博士および小生必死になつて防禦し、ようやく栃木と和歌山の知事より右の改良(実は改悪)案を不認可と致され申し候。これらはわが国の学者、専門専門というて他を顧みず、公園を作る学問せしものは公園を作ることのみ心がけて、歴史も国体も天然風景の必要も、わが国特有の景観設備にも一切眼耳を塞ぎてかまわざるの弊に候。学問まことに専門を尚ぶべきも、これを博《ひろ》く覧、普《ひろ》く聞き及んで諸専門の平均をはかるの心がけもなかるべからず。専門の学する人もまた、宜しくできるだけ自分の専門外の諸学・諸事務の大体くらいは不断気を付くべきことなり。手は手の特に健やかにして大ならんことを求め、腹は腹の常に満ちて張らんことを求め、しかして手をも腹をも、身体諸部を統一整理するの備えなくんば不具頑疾となること必せり。雑談、寄道、ハチハチその他の芸道を一人にして二、三十も兼ねて、しかもそれぞれ最上手の人多きを見れば、それらに費やす精力と時間を用いば、專門外の諸学の大体に渉り置くくらいは左まで難事にあらざるべし。ことに世間の事件繁雑なるに当たる身が、専門外なればとて、なきに勝るほどの機能を発揮する準備なくてあるべきにあらず。
 其磧か何かの小説にも、弓専門の士なりとて、剣道を知って置かば手近く切り込んだ敵を禦ぐの便りたしかに、槍の家に生まれたればとて、川一つ隔てたる敵を手近にある弓矢を執つて射ずに?《のが》すほ全くの芸なしに均しと申すようのことありし。江村北海の書きしものにも、吉益東洞は医業専門でずいぶん出精したる人だが、その他の諸学武術から香茶までも人にすぐれおつたが、別に医道を傷つくるどころか医道はますます進めり、これはその人平生の心がけ至ってよく、他人が入りもせぬ遊びなどに費やす時間を自分のたしなみになるべき諸道に用いしゆえなり、とあり。ライプニッツ、ゲスネル等は昔のこととしていわず、小生外国に遊び、いわゆる大家先生、専門をもって鳴る人にしばしばあいしに、多くはわが国の専門家とか某学博士などいうものにかわり、一道で名を成せるほどの人は、大抵何(432)の学でもその道の人と話がすらすらできるほどの心得はあるなり。されば貴下ごとく多忙繁劇の身をもって、無用のことに費やす精力と時間をもって多般諸種のことに注意を払い、多少ともその学の進行に貢献するところあるはまことに讃称の至りな。
 なお右述ヒトツダタラは主として熊野、吉野辺に行なわるる話と存じ候が、もし他邦にも一足の怪物の談あらば御知らせ下されたく候。これまた小生少しも貴報を私有せず、貴名を付してこれを公けにすべし。
 貴下御送り下されし植物は蘚、地衣、菌の三より成る。中には小生に分からぬ物(たぷん新種)も多きが、分かるだけは(蘚と菌)近いうち眼がよくならば鏡検して申し上ぐべく、地衣は小生二十四、五年前専門にして集めし標品のみに命名せし品彙和歌山におきあり。そのうち、それらと対照してたしかに申し上ぐべく候。(貴下送り下されし地衣は、Cladonia と Graphis 属、主たり。これは模範標品 types と比較せねば至って正確な種の名は申し上げ得ず。)間違い決してなしに分かり候分、左に申し上げ候。いずれも日本にはきわめて多き品なり。
(一) スエヒロタケ《(末広茸)》Schizophyllum commune これは英国にははなはだ少なし、米国その他に多し。
(十一) クモタケ《(雲茸)》Polystictus versicolor これは世界中寒帯の外、どこにもすこぶる多く候。
(二) かの山毛欅に生じ候奴は(図のごとし。貴下他品と殊別し、長《たけ》五寸幅一寸五分ばかりの紙箱に入れありし)、すこぶる珍しく標品またはなはだ完全なり。貴方に多少あらば、一、二を止め小生方へ今一つなり二つなり(多いほど宜しく)送り下されたく候。横截面を切り作り、また細孔の直径を量るなど記載上多く標品入り申し候。Fomes 《フオメス》(433)属のものに相違なく、小生この属のもの内外国およそ五十種も蔵する が、この種ごときものを見ず。数日前山林局出板の『日本菌類図譜』第五六二集以下を小生に編輯製図嘱托され候。これを承諾するには小生の要する条件もありて只今協議中なるが、局の望みはなるべく第一にこの Fomes 属を出してほしきとのことに有之、よって小生より種名を付けるため米国国立博物館および白井光太郎博士へ多少現品を贈る必要あるなり。
  また申す。小生従来知り得たる諸話には、デンデンコボシの槌は椿製ということなし。しかるに貴報中には椿製のこと多し。よって上述紀州大内川でのみ椿の槌と三足の鶏をヒトツダタラが使い化かしたという説も拠《よりどこ》ろありと知り候。(貴報得るまではこのことを報ぜしものヒトツダタラの話と椿の槌の話とを混同せしことと思いおりたり。その報ぜし人記臆定かならず。ヒトツダタラが那智より盗みし隠財の埋まれある処に、今も元日に鶏が鳴くという話あるより、これと三足鶏、それから椿木の槌と連想混同せしことと存じおりたるに候。)
 貴下はこの三年来小生ほとんど毎号書きおり候『郷土研究』雑誌御覧下され候や。もし御覧あらばそれに出したる諸説に関し、いささかたりとも御聞き及びのことあらば直ちに本社なり、また小生なりへ御知らせ下されたく候。この『郷土研究』は貴族院書記官長柳田国男氏(小生面識なき人なりしが、一昨々年末尋ね来たり対面せし)が編纂にてずいぶんよく編みおるが、氏は在官者なるゆえ、やや猥雑の嫌いある諸話はことごとく載せず。これドイツなどとかわり、わが邦上下虚偽外飾を尚ぶの弊に候。小学児童を相手にするとかわり、成年以上分別学識あるものの学問のために土俗里話のことを書くに、かようの慎みははなはだ学問の増進に害ありと存じ候。そのことのついでに伺うは、小生は壮年に日本を去り、十五年全く外国人の間にのみ起居し、帰朝後は田舎に退き妻子の外と交わらず。故に外国におるも当地にあるもさして異《かわ》りたることなし。故に明治十九年ごろより後の日本流通の詞に一向分からぬこと多し。近ごろトイチハイチということ新聞にてしばしば見る。これは女子相結んで姉妹となるとか、また女同士好愛するとか、はなはだしきは両頭のハリカタを用うるとかいうことと存じ申し候。(西洋その他外国にも例はなはだ多し。)こ(434)のトイチハイチとは何の義に候や、その語原御承知ならば御知らせ下されたく候。
 婦女の陰に毛なきもの当地方の農家にはなはだ忌み、大内川という処などには、近隣七軒の作物を不作にすと申し候。不毛は不作に通ずるゆえと存じ候。また大坂辺の商家にも忌むが、この辺の農家ほどには忌まず。ただしまるで毛なきよりも、毛至つて少なく、わずかに数条あるを忌む由。御存知通り回教諸国には右に反し、毛は必ず毎度黄土に蠣殻灰を和したるにて摩《す》りぬき、わずかも毛あるをはなはだしく忌み申し候。右樣の不毛の忌は貴方にも有之候や。岩手県より報せ越せしは、かの地方にはただズンバイ(油桃)と綽名して嘲称するのみ、これを忌む等のことなしとのことに候。
 右はあんまり長いから、これにて擱筆仕り候。以上。  恐悦謹言
 
(435)  進献進講関係書簡
 
(437)大正十五年
 
1
 
 大正十五年二月十三日夜十二時過認、十四日早朝出
   上松素様
                  南方熊楠再拝
 拝復。二月十一日午後二時出御状今日午後三時拝見。前状申し上げ候通り、渡辺邸の Diderma はいずれもみな D.deplanatum Fries に御座候。元来この種は(1)図のごとく胞嚢内に円柱体なく、その代りに胞壁(二重になりおる)の内側の壁が底の方に至って厚くなりおり、茶色がかりおり候。(底に遠き内壁は無色に近く虹光を放つ。)しかるに渡辺邸のは(2)図のごとく底の方の内壁がもちあがりて多少の円柱体をなしおり、その円柱体は(3)図のごとく饅頭をおしひらめたるごとくにしてすこぶる D.ffusum Morgan に似るが、その円柱体の表面平滑なるに似ず、ザラザラと、かの一件の三十四、五のやつのごとく、カズノコのごとき雑物多く、ちょっと猫の舌のごときゆえ、こんなやつにかかったら、下村宏氏が村井花子娘(例の高田屋の女将の末妹)にな(438)められたごとく田も畔もなげ出すことと存じ候。しかしてまた不思議と申すのは、この渡辺邸の物、ことに今年一月小畔氏もち下られしものの多くは(4)図のごとく、帝釈天が瞿曇仙人の苦行に乗じその妻を盗みしを怒り、仙人が呪すると帝釈たちまち女体に変じ、全身に千個の牝戸を生じ、始終それぞれの牝戸をやり通しに男子にやりつづけられ大いに苦しみ、とある、
  これはヒンズ教説なり。仏教は諸天の内ことに帝釈を尊ぶゆえこのことを忌み、翻訳して、帝釈常に千の陽物を具え、不断一千の玉女を犯すに、玉女おのおの他の九百九十九茎と九百九十九門を見ず、おのおの自分一人、ハアハア、スウスウ、フンフン、あれさそんなにまたやるのかえ、ウムウムウムと、帝釈ととこしなえに歓楽しやりつづけると思う、と説きおる。
そのごとく、一つの円柱体に多くの円柱体を現じ、円柱体一つごとにそれぞれ中央あり、またそれよりザラザラした突起粒を射出しおり申し候。「津の国のなにはのことやのりならぬ、うかれたはぶれまでとこそきけ」とか申すが、まことに左様で、一事が万事でこんな処にまで法相が現わるることとそぞろに感涙を催し申し候。
 小生去る大正十年十一月末、高野山一乗院の裏の小山に誰か折箱にへドをはき入れ棄てたる内より、きわめて小さきこの粘菌を始めて見出だせし。その多くはこんなに胞嚢の内壁が底の方やや厚くなり、茶色になりたるまでにて、あるいはイごとく小さき円柱体様のもの一つあるのみなりし。よって考うるに、この粘菌は前生に仏など少しも念ぜず、かの一件ばかり念じて死んだ人の生れかわりで、かようの微小なる胞嚢にすらかの件の形を多少現ずるが、それが大きくなると、例の勢力を徒労せずという節約法により、かの件の形を団体的に現出し、さて一件ごとに一胞嚢を作らず、多くの一件を群成してその外に一大胞嚢をとりまわせることと存じ候。似たる例は、Didymium crustacceum Fries と申すは左図甲のごとく、見たるところは一個の大胞嚢ごときも、それを開くと図乙通り、内に多くの胞嚢が茎を分岐して群集しおることに候。とにかく貴集の Diderma deplanatum は従前欧州産(米(439)国には今になし)とかわり非常に生態学上面白きものに御座候。なお諸国学者へ配りたく、また今後大王と協力して、七、八十種の日本粘菌集彙を発行し、野次さん連予防のためと称し眼の飛び出づべき高価で売り出す際入れたく候間、なるべく多く御とりおき下されたく候。かかるものは matrix(付着する本主物)が年をとるとたちまちまたはえなくなり申し候間、今のうちに多くとりおき下されたく候。しからずんば火の留まる齢の者がいろいろと菜食しても何の甲斐なきの嘆あらん。
 次に大王今日申し越せしは、服部とかいう博士毎週摂政宮殿下に生物学の御講釈を申し上ぐる由、その人大王の高名を欽し、所集の粘菌拝見ときたので(博士の甥が大王の幕下の由)、この機を逸せず粘菌四、五十種集め、殿下へ奉献の儀を申し出ずべしとのことなり。付いては貴下先年湯本にて成熟品、それから数日後小生鉢山麓にて未熟品を発見せる Cribraria の新種は一所に奉献しては如何とのようのことなり。よって小生これを nov.sp.(新種)として台覧に供し(図説共に)、台覧すみの上これを Cribraria grgratiosissima Minakata et Uematsu として発表印行せんと欲す。どうなるか知れぬが、大王より指図あり、台覧許下あり次第、さつそく図説を仕上げ、大王までおくり届けんと存じおり候。
 命名には、発見者の同意を諮問するが正式なり。故に貴意を問い上ぐるに候。ラテンの形容詞 gratiosa(enjoying favour すなわち恩を戴《いただ》く)の superlative(最多級)が gratiosissima(最も多く恩を戴く)という語になり申し候。松永貞徳の著に『戴恩記』というも有之候。西洋にては尊勝高貴の名を物に命じ得々たる風あり。睡蓮の一属にブラジルの victoria《属名》 regia《王の》 というがあるごとし。女皇ヴィクトリアの名をそのまま属名にせしなり。わが邦には八幡鳩、清正人参(セレリーのこと)、景勝団子、信玄袋などの名あれど、その人々在世中にその民子がかかる名称を口にせりと(440)覚えず、皇家の御諱を物に付く等は憚るべきの至極と存じ候。さて帝室の御紋章たる桐(紫桐すなわち紫の花さくキリ)は近ごろまで Paulownia《パウロウニア》 imperialis《帝家の》 Sieboid & zuccarini なる学名で通称されしが、その後 P.tomenntosa《茸毛ある》(Thunberg)H.Bn. と改められ、今はそれでもっぱら学者間にとおりおる。前名は帝室の植物と見立てたる名で、むろん日本帝室に因める名とわれも人も思いおりし。それを植物命名会議にて、シーボルドとツッカリニ両氏より前にチュンベルグがこの物をカミナリササゲと同属と見て Catalpa tomentosa(葦毛生えたるカミナリササゲ)と付けおきたることが分かり、規則に従い imperials の称を止めて、tomennosa となされ申し候。規則は止むを得ぬことながら、はなはだ遺憾に思い、何とぞ帝室の御紋章たる紫桐の紫花にちなめる名をこの粘菌の紫色にしてすこぶる艶なるになぞらえて付けたくと存じ、Cribraria imperialis とつけんかと思いしが、なお調べると、これはしたり、Paulownia という名はオランダ国に世襲内親王家で家名を Paulown というがあり、シーボルド当時の内親王は露国皇帝の孫女に当たれり。よってその家名をとりて桐の属名をパウロウニア、露帝の女孫の意義で imperialis と右の二蘭人が付けたることと知れ申し候。しからばこの名が廃されたりとて日本人に何の痛痒はなかるべきはずなり。
 伊藤篤太郎氏、台湾にて紫桐の第二種を発見して、Paulownia Mikadoa と名を付けたるも、やはり imperialis はもっぱら日本帝室に因める称えで、それが廃されたるを遺憾として命名したるらしく候。しかしそんな遺憾は無用のことにて、ミカドという称は今日の公文になきことなり。(土《トルコ》帝を Porte(門)というがごとし。)いわんや先年英国で噴飯に値いする日本まがいのやかましき芝居を作り、ミカドととなえ、チョン髷長襦袢で非常に日本人を笑いの的としたようなものを出し、ためにいろいろとおどけたる感じ、嘲謔的の念を生ぜしめたるより、おいおいはわが帝室の金枝玉葉が御成りになる節は、英国にてこの芝居に遠慮を命ずるほどのこととなりおる。なにかの半公式の文にミカドとかきしを増島六一郎氏政府より咎むべしと主張せしこともありたり。さればそんな小むつかしき斟酌多き称を付くるよりは、台覧ありて採集者命名者はもとより本人たるこの粘菌までも鴻恩に感泣すとの意味にて、最も重く恩を(441)戴くの意味で Cribraria gratiosissima が一番宜しく、そのわけは記載の始めに短く書きそうれば、外国人にもよく分かり、感心さるるはずと存じ候が如何。
 大王台覧に供する献上品五十点と見て、小生はその目録を作り、なろうことなら本邦にある粘菌三十八属(内一は標品残欠にして台覧に供うるに堪えず)の内、三十七属を五十点の標品(四十八種と二変種、この二変種は並びに大王発見の新変種)にて御覧に入るることとし、中に大王の標品乏しく、あるいは極《ごく》少量あるいは不整形あるいは小さ過ぎる等のものは、小生よりましなものを供給することを申し出でたり。しかしていずれも小箱に入れ、種名は印刷にし、採集所と人名は箱上、細字にてかき付くるが宜しからんと申しやりたり。大王これを承知するなら貴下馳せ参じ、誰か細字を書く名筆の人を薦められたく候。人のすることをかれこれ申すべきならねど、小生もなるべく大王の面目を全うするため、手許にいっちょうらいの奇品 Minakatella 等までおくることゆえ、なるべくは大王自集のもののみならず、平沼、貴下および小生、また朝比奈博士の所集をも多少編入されたきことなり。日本にある属で、Dianema には二種日本にあり、しかるに二種とも標品きわめて小さく、また二つずつしかなく、何ともなりがたし。よってこれのみはその一種をリスター自身の所集品より採用しておくるはずなり。
 小生『太陽』へ出せし十二獣の話を五百円に中村氏にうりしは、前年申し上げしごとし。しかるに中山太郎氏を経てこれを出板せんことを申し出でられたる向きありしも、小生において何ともならず、中山氏より中村氏にかけ合いしもなかなか五百円では手離さぬ由。よってその余の『郷土研究』、『民俗』、『山岳』、『人類学雑誌』、『変態心理』、『此花』、『日本及日本人』、『考古学雑誌』の八種へ出した雑編短文を岡書院(上六番町五番地)の岡茂雄氏より望み来たり、中村氏の際手ごりしたから雑誌はき集めその他一切小生無関係として五百五十円で手を打ち、本月十一日にその金送来、受け取り申し候。この他に、『人性』、『歴史と民族』、『集古』、『現代』、『不二』新聞、『大毎』、『週刊朝日』、『動物学雑誌』、『植物学雑誌』、『土俗資料』、『土の鈴』等に出せし分を合して売るから、今百円出さぬかといいやりし(442)も、頁数が分からぬから五百五十円の分の編纂すむまで保留してくれと申し来たり候付き、よくよく考えると、『人性』以下の分へ出したのが前者(五百五十円で売りし分)の三分の二ばかりもある。前方より断わられたが与三郎のこの創同様|勿怪《もつけ》の幸いと存じ候。むかしとかわり近時は車夫馬丁までも(この田辺でも)買い食いや討死の費を節して書を読む風盛んにて、その上、三角関係の、人妻のもちにげの、夜這いの、間違いのなど申すことは何度読んでも趣向が変わらねば、文章もきまりおりてうんざりする、よってこのごろはまたややまじめなものでおもしろみのあるのが大いに人気をとりおると見え申し候。しからば右の『人性』以下のやつも、『現代』に出した「淫学大全」などを書き足して完結せば、また五、六百円はとれることと存じ申し候。
 とにかく右の五百五十円はいったので、只今四万一千八百九十三円八十銭あり。拙児病気も来月十五日で一周年になり、その間の費用もずいぶん多かつたが(石友の看護費に出しただけでも飲食の外に六百円ばかりなれば、この病気がなかったら四万五千円近くあることと存じ候)、すなわち大正十一年八月東京より帰りて後一万円近くのばしたるにて、酒を売り付けたり、訴訟を起こして火災後の被難民をこまらせたりせずにかくまでのばしたるは節制と力行のおかげにて、力行とては十円二十円といろいろのものを書き投書したる小生の私得金に御座候。もっとも小畔氏より二、三千円、平沼氏より千円、外に二氏いろいろ書籍代を出しくれあり、また別所影善氏より百円、これだけは小生の私計につかえとのことなりしも、これも基本金の内に入れ有之候。故に和歌山へ行って、金を渡さば使い果たすなどいうものあらば、そのときこそ小生はその者と小生とどちらが金を貯うることが上手なるかを公衆に問わんと欲するなり。
 拙児は大略全快せしごとし。しかし記臆力、考察力などは今に十分ならず。徐《しず》かに保養させおり申し候。これがため小生は昼夜まことに暗き長屋におり、夜分拙児が寝た後ならでは自分の仕事ができず、こまりおり申し候。しかしこれは年来拙児をらちもなき中学教育に放棄しおきし年貢を納むるとあきらむべしに候。今日の中学と申すもの、運(443)よく試験に及第せる教員等他郷より流れ来たる輩が、一時間ずつ月俸引き替えにやらかす教育類似のことと申すまでにて、西洋のキリスト教、吾輩若きときの孔孟漢学ごとき、何たる操守鉄心的の素養を少しも与えおらず、実にこまったものにて、活弁の口上や埒もなき軍歌のほか今の青年は何も知らず、心得おらざるなり。   早々敬具
  平沼氏一月十九日にその邸内の生きたる柿の木の幹よりきわめて微細なる粘菌をとり送られ候を鏡検せしに、小生発見、その後英国にのみ見出でたる Hemitrichia minor G.Lister と申す希品に候。その変種 var.pardina《豹の紋のある》 Minakata も小生田辺および近村より見出だし、その後英国よりのみ出でしものなるが、これは昨年十一月小畔大王箱根塔の沢の旅宿の庭のやはり柿の木の皮に付きたるを多く見出だされ申し候。貴下も何とぞこの冬中を逸せず御採集下されたく候。冬中の粘菌は多くは微細ながら必ず希品多きものに候。
 一月に朝比奈博士台湾に趣き採集せる二十五点を数日前大王より受け取り候も、創見も新種も一つもなさそうなり。(あるいは一、二変種はあるかとも存じ候。)手許の東京や長者丸に奇物多く台湾まで往つてもこれなきは一つはその人々の運命とも申すべきか。
 
          2
 
 大正十五年三月二日午後四時より午後(この間いろいろ用事有之)九時過までかかり書し十時前出す
   平沼大三郎様
                南方熊楠再拝
 拝復。二月二十五日午下出御状は二十七日早朝拝受、また二十六日出書留状は、御封入の為替料金受領証と共に二十八日午後二時過ぎ慥《たし》かに拝受致し候。
 為替金は六十五円ばかりと存じおりたるに、案外三ポンド余(三十円余)で事すみ、実は何ともその意を得ず。(444)二、三日中にとくと調べ計算の上、あるいはまた今度は先方書肆が値下げなどせしならば、値下げを要せず、当方勘定、正当の分を加算して再送致すべく候。まだ外に一ポンドまたは一ポンド半ばかりの口が三口あり。(いずれも郵送料の滞納にて、先方から出したという送状付きながら未配達のもの多きゆえ、郵送料を悉皆《しっかい》払うことならず、そのまますえおきたるものなり。)これらみな先方は先方の主張のみ申し来たり、此方よりの要求を耳にかけず。英国なども近来よほど人が悪くなり(と申すよりは書記などが主人の利害を度外視して、ただ怠慢をのみ事とするなり)、しかして日本人の所行は、外国人より見たら一層これよりはなはだしきこと多きにきまりおる。
 ダヅフォジルを喇叭《らつぱ》水仙という由、今日の御状にて始めて知り申し候。小生これらの草花の伝説をかくに、この物をキバナズイセンとか何とか書きあるを見るも、それにてはジョンキル(キズイセン)と和名が似、紛らわしく、はなはだこまりおりしに、貴説により喇叭水仙と致し申すべく候。
 サンゴジュは香気なき由、しからば Viburnnm odoratissimnm にこのものを宛てたるも、例の杜撰にあらずやと存じ申し候。サンゴジュ、高麗寺山林下の徳川侯別荘の生け垣に多くありしを見しときも、その葉の虫害はなはだしく、全き葉とては一枚もなかりしよう存じ候。
 ヘミトリキア・ミノールまた五個手に入れられ候由、なおあり次第御集め置き下されたく候。しかして進献品は先ごろまでは五十点ということなりしが、今度小生より小畔氏に小生よりすすめ、いっそ百点ばかり差し上ぐることと致させ申し候。故にこの品も変種パールジナとは別箱に入るべきに付き、何とぞ御ついでの節今二、三個小畔氏に御譲与を乞いおき候。右進献品は一切(箱および小箱等工芸的の作品を除き)わが同人の手にて致したく存じ候ところ、小畔氏は、日本字は上松氏みずから進んでこれを書すべしというに、洋字(学名)をタイプライチングに致すと申し来たり候て、見本を上松氏より送り来たり候。しかるにこのタイプと申すもの(ことに例の紫色の印肉にては)はな(445)はだ不典不雅なるものにて、進献品の学名はタイプを要するまでに一時的に急を要するものにあらず(紫印肉は久しきうちに変色す)。かかるものは一部以上出すときは必ずその都度正式の活字で印刷するか、またはいっそ手筆に限ることに御座候。(ただし一品ごとに活字をくみ立てさすることは多大の標品にありては容易のことにあらず、欧米を通じて多大の植物品彙の植物毎点活版ずりで付箋をすりたるものは、スイスの L'Herbied Boissier とか申す所一ヵ所しかなき由)。よっては貴下は年も若く眼も悪からねば、小畔氏以下一同よりおそれ入るが貴下に学名の細字だけは御願い申したら如何と、小畔氏へ申し遣わしおき候間、同氏より願い出で候わば、何とぞ上松氏同様御承領下されたく候。
  それに付けて申し上げおくは、学名の字体は必ずリスター第三板『図譜』の各図の下の学名の体裁に願うなり。しかして万一種名の次にく var.… とつづく場合一行にかききれぬときは、その残分を次行にまわさざるべからず。この際日本人はその作法を知らず、大いに笑わるること多く、有名な雑誌などにもこのこと全くむちゃなり。よって申し上ぐるはよくよく字書でつづりの句切りを見分けおきて、そこにてきり、さらに次の行につづくるなり。『植物学雑誌』、『人類学雑誌』などにはずいぶん無理な切り方があるが、これは実に大笑いなことに候。eum《エウム》 see《セー》は一音ゆえ決してその内の字をきりはなすべきにあらず。この字のきり方は手近い所で英語、仏語の字書を見れば分かり申し候。(もっとも日本|出来《でき》の字書にはないかも知れず、またあってもたしかならず。)もっとも学名の字のきり方はむつかしくいわば至極むつかしきものにて、フッカーとベンタムが『ゲネラ・プランタルム』(植物属鑑)を著わせしとき、菌学の大家バークレイがことにこのことに委しきより、ことごとく植物の属名の字のきり方をバ氏に見せて校訂を頼みしと承り候。しかしそんなむつかしきことは入らず、大体字書にて分かり申し候。(英仏等の語の字彙はラテンやギリシア語を扱わぬこと勿論ながら、英仏語の多くはこの二語より来たるものなれば、似寄った語は多く出でおり候。PHYS’-ARTS’《ホオズキのこと》こんなにきり示しあり。それより推して PHYS’-ARUM’と切るべしと分(446)かる。故に決して phy-sarum とは切らぬなり。)ただしなるべく字を細かく書かば、また紙を長くせば、左様の難事は生ぜずと存じ候。また紙をむやみに長くすることはならぬゆえ変種名がつづくときは【Hemitrichia minor var.pardina Minakata】という風になるべく字をきることを避けて二行にかくとか、少しの注意の仕様でいかようともなり申すべく候。
『図譜』第三版に、Hemitrichia minor の原形体の色を watery cinnamon(薄き肉柱色、黄土と代赭石をまぜた色)としたるは小生の通信に拠ったものなり。しかるにその後小生数年つづけて観察せしにこの原形体は最初 watery white すなわち淡白色というとおかしいが、水洟《みずばな》のきわめてうすき色に候。(流行感冒などのときほとんど無色に近き水ばなが落ちることあり。わずかに白き気味あるなり。その色に候。)それがおいおい肉桂色になる。肉柱色になりしときは原形体が多少かたまりおると存じ候。しかしただ一、二度見たことゆえたしかにはいい得ず。また土地と気候の異なるにより原形体色も一定せぬものゆえ、貴下このものの発生を見るごとに御注意、即座に書きつけおき下されたく候。無色でも樹皮の色をすかして見るときは多少別様の色に見え候。故にその心得してなるべくは松葉のさきなどにその原形体を付けてすかして見るか、いっそ白紙に塗り付けて見られたく候。樹皮や草葉の上にあるまま見ては、真の色は分からぬことあり。
 これらのことはよくよく気を留めて御控えおき下されたく、教科書などに一定せるごとく何という草の花は何弁にしてどんな風にさくなど書きあるが、実によい加減なことに御座候。
 『紅楼夢』はもし小畔氏方よりなき旨申し来たらば御申し越し方にて御求め送り下されたく候。また『秋坪新語』という本も(支那の随筆なり)三円ばかりまでにてあらば、何とかして御求め御送り下されたく候。それより上は不用に御座候。
 なお進献品を小畔氏へ送るとき一所に貴殿への粘菌も送り申し上ぐべく候。 早々敬具
 
(447)          3
 
 大正十五年六月二十八日夜十二時
   上松蓊様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。その、後衛状なきゆえ如何やと煩いおり申し候。吉村勢子女史、数日前三越ストアーに誂え同店より懐中|汁子《じるこ》と江戸土産(これはソラ豆、小鰕、干果子等を軽く油|?《ゆ》でにせしもの)および浅草のり各一箱おくられ候。当地には珍しきものにて娘ら大いに悦びおり候。よってその礼になにか認め(例の画)、上松氏葉山辺へ用事あるついでにもちゆきもらうと通知し置き申し候。右は『南方随筆』一冊贈りし返礼なり。
 『南方随筆』は和歌山辺ではずいぶん売れおる様子、毛利氏なども中山氏の文に誤聞は多いがサラサラとよく書いてあればあれで宜しというような言なり。今となりぐずぐず申し立てたところが仕方もなく、またこの中山氏の文を抜くと、常人には読めぬ仏典や諸外国の書名などで充?されおり、書肆も大いにこまるべきゆえ、巻末の小畔氏の言らしく書きたる悴病気以下の文(ことに、小生毎日大酒をのみ平気、云々)を除き、そのまま出させ、第二枚また『続南方随筆』も中山氏に頼ましむることと致し候。柳田氏などに頼むもよきが、この人は従前匿名をもって人のことをかく癖あり、そんな人よりは自分の名を出して間違うたことまでもかき立てる中山氏の方を望み申し候。これは小生より岡書院へ直接申し遣るべく供えども、もし岡書院の近所へ御出かけの折は岡氏に御面会、小生只今病人のために夫婦ずいぶんこまりおる由を申し述べられたく候。
 小生は、今度イタリアの菌学耆宿プレサドラ師八十の賀に、記念頌徳表ごときものを寄贈することを申し来たり候付き、進んで名誉委員になり申し候。それにはやはり地獄の沙汰もという品が入用で、少なくとも二十五ドル米貨で(448)寄進せざるべからず。当方にはどこを叩いてもそんなものの出所《でどころ》がないので、平沼氏に頼み、出して貰い候。外に三ドル五十セントも出して貰いし。これはプレサドラの『菌譜』は二種すでに出でおるが今日はなはだ希覯の品に候。よってその再板を兼ねて氏が従前出さざりしものをも加え、一千種を二十回に五十種ずつ図譜にして一回三ドル五十セントずつ予約出板するなり。もっとも第二回よりは小生みずから予約価を払いおくるつもりなり。しかしてその他にも多く藻学、菌学の書を平沼氏に買ってもらい申し候。またクック Cooke の‘Handbook of British Fungi’は一八七〇年の出板にて、当時英国に産すと知られたる菌をことごとく略ながら要概を序述し、一属ごとに必ず一図(または二、三図)を出しあり、むろん英国になきものは出しあらざるもはなはだ要を得たる好書なり。しかるにこれも今は絶板して久しくなり、なかなかちょっと手に入らず。小生は四十年ばかり前に五ドルばかりで買い今に持ちおる。
  第二板ももちおるが、第二板出板の時は思うほど予約者なくてクックも大いに力を落とし、帽菌だけで中止致し候。
 しかしてかねて貴殿御望みの肉質菌の記載と調図は、まずこの書を見て一通りその重立った属の徴候くらいは覚えておらるる上、菌を記載する用語に眼をならしおき、さて会得しかぬる廉々を小生に聞き合わされ、小生よりは一々委しく申し上ぐるとはなはだ都合宜しく候。よってかねて米国のニューゼルシー州のレオニア町なる小都会の古本屋へ頼みおきしに、新装せる本二冊十ドルと申し越し候。よってこれも平沼氏に買うてもらうことと致し、今夕頼みの状を出しおき候。菌の記載はむつかしく、図もこみ入りたるものにて、へたにかくと少しも分からず。この書来着の上は平沼氏へおくり置くべければ、貴下借覧して、菌学の用語に親しまれんことを望み申し候。本邦には実際肉質菌はすこぶる多きに、これを図記した人はあまりなきようなり。これはちょっとちょっとできぬことにて、気長くかかり、時として一日も三日も一種の観察にかかるを要し、とても教室に多忙な人などにはできず、いくらあせっても、子孝ならんと欲すれども親俟たずで、見す見す一、二時間のうちに萎れまたは腐り果て申し候。それゆえ小生身辺の(449)産は何とぞ貴下ごとき気長き人に頼み、図説を一通り拵えおき貰わざるべからず。しからずんば紀州の外のものは一切検定を得ざることに御座候。
 拙児はまず平快せしが、白痴ごときものになりおり、一向言語せず、鴿《はと》や兎やナマズ、鶏、カナリアなどを見て静坐しおり、時々畑を歩み、自邸外へは一歩も出でずまかりあり、妻も久々の心労に大いに衰えおり申し候。小生はいろいろと事多く、新聞などへ寄書すれば、ちょっとした書籍代くらいは出来し得るはずなるも、研究癖の厚き男とてちょっと庭へ下りればたちまちなにか気付き、それをやりかけると一夜二夜は造作もなく費やしおわる。そこへ井戸が崩れたからポンプ井戸に改造の、屋根の瓦が落ちたから是非おきかえねばならぬのと申す用途止むを得ざるもの多く、収入というもの皆無にして、ただただ菜食してなるべく費途の少なからんことにのみかかりおり申し候。しかしまたいろいろのことが役に立つものにて、ある華族が『南方随筆』の末文を見て、今もそれほど飲めるか感心なり、一樽送りたいが何という銘がよいか分からぬから勝手に買われよということで、一昨々日十五円送り来たり候。また大和の野迫川《のせがわ》村北股という寒村(一週間に小包は二度しか往復せぬ由、十津川と吉野の中間の峻嶮なる祖母《おば》が岳の下なり)の小学教師杉田という人、先年|立入《たてり》荒神(高野の奧三里)まいりの人々がその辺へまわり来たりしに、一々小生の趣意書を示し講釈すると、大阪や尼ヶ崎辺の女郎屋の亭主ごとき人が感心して、たしか一円二口、五円一口くれしを、自分の分五円と一処に大枚十二円おくり来たり候。その志を感じ今度『随筆』一冊おくりしその受領書こそ見物《みもの》なれ。
  陳者《のぶれば》この度御尊著『南方随筆』御恵与を賜わり、去る十三日午後四時忝なく拝受。実にもって身に余った光栄の儀と存じ、さっそく神前および仏前に相供え、身神を浄め候て拝読仕り候。まことにもって有益かつはまた興味津々巻を掩うに暇あらず、ほとんど全篇の拝覧を畢り申し候。永く永く家宝に致し候て子孫に伝え、先生の御恩沢を仰ぎ奉るべく候、云々。
 進献品の名札は一枚平沼氏より贈来拝見、実に和洋二風とも見事さ限りなく拝見致し候。小生も進献表の文案と図(450)解を作らんと毎日あせりおれども、拙児の容体宜しからぬためその時間なく打ち過ぎおり、頃来大分安静せしもようゆえとりかからんと存じおり申し候。平沼氏は二十一、二日ごろ竣功の様子に申し越し候ゆえ、小包も二、三日中には必ず拵えおわるべく、それには平沼氏と貴下が細筆字をかきしことまでも書き入れおき申すべく候。せっかく大王巨大の時間と手間をついやせしものをただわけもなく献上ばかりではすまず、また事すまば直ちに世間へいささかながら発表の必要もあり、その拵えも十分にしおかざるべからず。むやみに急ぐことには無之と存じ候。このことは特に貴下より大王へ申し上げおき下されたく候。
 まずは右申し上げ候。           早々敬具
  中里介山の『大菩薩峠』は、『大毎』紙へ連載なりしが、この程来中止せり。これは完成せるものなるや、または未完に候や。
 
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 大正十五年十一月三日早朝六時前
   上松蓊様
                南方熊楠再拝
 拝啓仕り候、十月十九日出御状は二十一日に、二十六日出御状は二十九日に、それぞれ拝受。しかるに拙児十月末にまたまた悪くなり、戸外に出でて知らぬ人家に入り、盆栽の草木を持ち出し、また人を打ち蹴る等のことあり。咋日ごときは十幾回という外出にて、石友一度一度つきそい出入する体、実に辛労に相見え申し候。妻もこれがためにはなはだ心配致し、小生も大いにくたびれおり申し候て、御受書も出さず、失礼仕り候。
 かかるところへ小畔氏より来状あり。十月二十七日に服部博士より伝えられしは、殿下ことのほか御待兼ねにて、(451)何分本月十二日大演習へ御発途の前に台覧ありたしとの御事と、三十日に小畔氏の状来着、小生もこの上拙児の様子など見合わすべきにあらずと決意致し、三十日の夜より三十一日の早朝までに碧血考と貴下発見新種の彩画を作り了り候。
  水彩の紫はいくらでも淡くはなるが濃くすることはならず。故にこの新種の画にはこまり入り申し候。
  碧血の方の画は、これまた胞?の色がはなはだむつかしきを、いろいろ考えた上筆を下せしに、考え思いになり申し候を、レンズで見れば其物そのままに見えるよう仕上げ申し候。これは小畔氏もレンズで見たるべければ後日御聞き取り下されたく候。
 さて進献表は一日の夜おくりしも、拙児騒ぎしため誤脱多くはなはだ遺憾に存じ、今朝までかかり修正してまた小畔氏へ送る。しかしこれはたぷん間に合うまじければ、新聞等へ出すの外の用に立たずと存じ候えども、一通写し、貴殿へ差し上げ申し候。すなわち同封す。平沼氏へも今朝一通送り申し候。
 小生は疲労はなはだしき上、眠り病ごとく眠くなり、また熟眠永くつづき申し候ゆえ、進献事すむまで静養し、日々郊外に出で、少しずつ採集致すべく、進献事済みてのち平沼氏の来下を願うつもりに御座候。
 まずは右申し上げ候。    早々敬具
 
  大正十五年十一月三日早朝上松君に贈る分
    本邦産粘菌諸属標本献上表啓(写し)           南方熊楠
  粘菌の類たる、原始動物の一部に過ぎずといえども、その大気中に結実するの故をもって、一見植物の一部たる菌類たるの観あり。これをもって動植物学者輩並びにこれを自家研究域内の物と思わず、相譲り避けて留意せざりしこと久し。西洋にありては承広三(千六百五十四)年ドイツ人パンコウがルコガラ属一種の発生する状を図して速成菌と名づけたるが粘菌最初の記載なるも、その後二百年間著しき科学的研究をなさず。安政六(千八百五十九)年ドイツ人デ・バリー粘菌説を著わしてその本性(452)を論じ、その門に出でたるポーランド人ロスタフィンスキーが明治八(千八百七十五)年粘菌譜を作ってその分類を講じてより、諸国ようやくその専攻の学者を出し研究随って盛んなるに及べり。支那にありては、唐の段成式の『酉陽雑俎』に「鬼矢は陰湿の地に生ず。浅黄白色にして、あるいは時にこれを見る。瘡に主《よろ》し」の短文あり。その詳を知るに由なしといえども、多分はフリゴ属の粘菌の原形体が突然発生して形色すこぶる不浄に似たるより、この名を負わせしなるべく、果たして然らば西洋人に先だつことおよそ八百年、支那人すでにこの一類を識りて記載したりしなり。しかるに爾来一千年間、東洋人が一言を粘菌類に及ぼしたるを聞かず。帝国産するところの粘菌に至りては、明治の初年外人が小笠原島に産する僅々数種を採り去り調査定名せしことあるも、明治三十五年故理学博士草野俊助集むるところの十八種をケムブリッジ大学に贈り、故英国学士会員アーサー・リスターがその名を査定して発表せしを、秩序整然たる本邦産粘菌調査報告の嚆矢とす。和歌山県人南方熊楠は、明治十九年海外に出で英米等諸国に遊ぶこと十四年、その間西インド諸島に粘菌等を採集して創見するところあり。故英国学士会員ジョージ・モレイの勧めにより、帰朝後粘菌の研究を続けて倦まず、新種新変種は固よりその発生、形態、畸病等についても創見するところ少なからず。大正二年「訂正本邦産粘菌類目録」を出だして一百八種の名を列し、大正十年かつて英国菌学会長たりしグリエルマ・リスター女は南方発見の一種に拠って新たにミナカテルラ属を立てたり。臣四郎熊楠の指導により毎度内外旅行のついでに採集すること歳あり。よって獲しところに右の目録出でてのち熊楠および同志諸人が集めしところを合わせ、現時帝国産粘菌を点検するに、実に三十八属一百九十三種を算し、うち外国に全くなきもの約七種あり。只今世界中より知られたる粘菌すべて五十三属約三百種の中に就いて英国は四十四属二百種ばかり、米国は四十一属二百二十三種を出だすに対し遜色ありといえども、帝国にこの類の学開けて日なお浅く人少なきを稽うれば反ってその発達の著しきを認めずんはあらず。今回 台覧の恩命を拝戴し、一種あるいは数種の標本をもって邦産粘菌の各属を表わし、すべて九十品を撰集して献じ奉る。ただし帝国産三十八属の内、ラクノボルス属の標本は解剖し尽したるをもってこれを闕き、オリゴネマ、ジアネマの二属は邦産の標本きわめて微少なれば英国生の品を代用せり。粘菌学の梗概と、大正十四年に発表されたるほとんど一切の粘菌の図記に至っては、標本に添えて献上するところの大英博物館出版、リスター父子の『粘菌譜』にこれを具せり。冀くは倶《とも》に嘉納あらんことを。臣四郎恐惶謹んで言す。          小畔四郎
 
(453)                標本献上者 小畔四郎
                  品種撰走者  南方熊楠
                  邦字筆者   上松 蓊
                  欧字筆者   平沼大三郎
 
          5
 
 
 大正十五年十一月六日夜八時過
   平沼大三郎様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。十一月二日午後十時出御ハガキは五日朝拝受仕り候。拙児今度の煩いは長く、それにつづきて妻も精神やや混乱せしと見え、いろいろ間違うたことを申し、困り入り候。昨日より拙児外出は止まり、ただ放歌して午飯後より夜の九時ごろまでほとんどたえ間なく邸内をかけまわる。妻がまたこれを気にして泣きなど致し、うるさきの極みなり。故に小生少しも外出すること成らず、止むを得ずかようのものを監視しながら写し物など致しおり候。小畔氏へ進献表を送りしところ、解し難き処ありていろいろと箇条を設け電信で返事また書状で解答を求めらる。小生には分かり切ったことも氏には分からず。かようのことを講釈し遣わす間に御出立が迫り、終《つい》には進献も中止となりはせぬかと案じ申し候。ちょうど銀行の預金箇条書きが小畔氏等には分かり切ったことながら小生によく分からぬごとし。
 小生は前日来進献表に書き入るべく本邦現在粘菌種属数を精査して只今百九十三種まであるをつきとめ申し候。今七種出たら英国と同数になるに候。付いては貴下御採集の分さつそく御おくり下されずや。しかるときは、たとえ新種なくとも一つでも珍種希品あらば総目録へかき入れ、さてそれを打留としてなるべく来年初めの東京の『植物学雑誌』へ出し申すべく候。
(454) 拙児小生が外出して御面会申してもさわらぬ程度まで平穏に帰するまでには、今五、七日はかかるも知れず。いろいろの鏡検準備を片付けぬ間に貴集はいかほどなるか知れねど、小畔氏ほどの(二百余点)多数には有之まじければ、二、三日で大抵分かり申すべく、しかるときは小生その目録に書き入れおき、貴下御来下の節御手渡し、また希品等あらば旅館で鏡検して説明申し上ぐべく候。
 右三訂粘菌目録出たら、その内の新種、新変種を一時にロンドンへ出し、刊行発表し、さて小生は淡水藻の発表にかかるべく候。
 エングレルおよびプラントルの『自然分科篇』はまことに難有《ありがた》く、毎夜精読罷り在り候。これほどの大著にもいろいろぬかりはあるものにて、小生書き入れにひまなく御座候。
 『本朝食鑑』は小生一円二十銭で買えたるも、東京にはいかにするも十円以上のものの由。白井博士より申し越し候。     早々敬具
 
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 大正十五年十一月十二日朝十時半
   平沼大三郎様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。十日正午出御状今朝九時拝見。折から小生大阪毎日社へ進献のこと認めおり、失敬。只今その文発送して直ちに御受書相認め申し候。
 信託預金の儀は、御来下相成り候までは、銀行小口預金に相成りおり候儀と心得おり候ところ、信託会社へ御預け入れ下されある由、今回の御状にて相分かり、大いに安堵仕り候。大枚の御寄付金、今に御受取証も差し上げず、右(455)の次第ひたすら重々由恐れ入り申し候。金銭に関する諸文献は一切倉庫に入れおり、それを取り出しにかかると、拙児万一倉庫に入り楯籠るようのことあらば(槍、薙刀等も倉に入れあるより)、大事に及ぶべしと慮り、一切倉を開かぬことに致しおり候ため、かくのごとく延引致しおり候。娘こと学校試験明後日済み候上は、拙妻とつれ、しばらくどこかへ寄寓致すべく、然る上は拙児もおいおいさびしくなり、あまり勝手なこともできず、自然拙妻の所へゆき、ついには村部の閑静なる処へ移るべきかと申すことに有之。明後日あたり、とにかく試むるはずに有之。またそれより乱暴など仕出だし候わば、小生警察権の施行を乞うてまで、みずから京都へつれ上り、入院せしめんと存じおり候。只今のところただただ口やかましく罵り、また邸内を走り廻るのみにて、一向外人を困らすことなきゆえ、むやみに監禁の拘束のと申すことは成らず、もっともこまり入りおり申し候。昨日ごときは邸内にて午下《ひるさがり》より夜の七時ごろまで走り通しにて、見ておりしものの詞に、五里ばかり走ったはずと申しおり候。右の次第にて小生は午下より夕まで熟眠し、それより明日の正午まで学事をするという、へんな境涯に有之候。
 進献品一件のため徹底的に取り調べ、邦産粘菌現在種数百九十三と分かり、進献表にかき入れ申し候。証拠なくては日本人の癖としていろいろの口をきかるるものゆえ、いっそこの際徹底的にしらべ、種名と創見者の名と所を書きたるが、前回差し上げたるものに御座候。小生は進献のこと全くすみ候わば、表啓文と共に現在粘菌の種と変種と異態の総目録を小畔氏に送り、印刷して諸方へ配布せんと存じおり候。然るときは Physarum nutans var.robustum Lister(赤石沢)、Stemonitis heribatica var. confluens Lister(長者丸)、S.ferruginea var.flaccida Minakata(日光白雲滝下)、Lycogala epid endrum var.tessellatum Lister(駿河田代)等、貴下の創見はまだ若干あることに御座候。
 黒部川へは画師ども前日上り候由、『大毎』紙にて一見、貴下もたぶんこれに加わられしことにや。二種の粘菌は少数ながらかかる時候にかかる所にありしものゆえ、必ず創見は一つくらいあることと察し上げ候。
 進献は十日朝十時ごろすみたるらしく、その旨電報来たり申し候。しかるに昨日着せし九日出小畔氏の状を見るに、(456)服部博士は進献表の発端に小生が「粘菌は原始動物の一部」とかきしに反対にて、原始生物と直したらよきようの指示ありしようにて、小畔氏は電信にて小生に問い合わされしも、依然原始動物で押し通すべしと小生返事せしよりやや不快らしく、これがため進献に故障を生じはせずやと心配のあまり発病し、進献の当日このことが出たら原始生物と書き替える旨申し来たり候。十日の朝果たしていかが処理せしか、いまだ承らねども、日本にはこの類のこと多きゆえ、止むを得ぬことと存じおり候。しかしながらこれは大いに不条理なことにて、皇太子が粘菌を学ぼるるは宜しくないとか、粘菌を研究する前に一通り他の原始動物をさるべしとか、乃至帝系とか宗旨とか宗廟とかのことに関しなにか申し上げたるならば、相応に警句も必要なれど、粘菌、これは古くて今日用いぬ語に候(Myxo《粘る》+mycetes《菌類》)。今日はもっぱらロスタフィンスキーの菌虫《きんちゆう》(Myceto《菌類》+zoa《動物》)なる語を用い候。現に進献品の印刷目録にも粘菌(ミクソミケテス)となくて、ミケトゾア(菌虫)と致しおり候。
  虫とはむかし周漢のころの支那人が、?虫(人)、毛虫(獣)、羽虫(鳥)、鱗虫(魚や蛇)、昆虫(いろいろのムシ)、介虫(亀や蟹や螺蛤等)などに動物を分類し、すなわち動物のことを虫と申し候。
 粘菌という名は廃止したきも、日本では故市川延次郎氏がこの語を用い出してより、今に粘菌で通り、新たに菌虫など訳出すると何のことか通ぜず、ややもすれば冬虫夏草などに誤解さるべくもやと差し控いおり候。
 粘菌が動物にして植物にあらざることは、第一にデ・バリーが論ぜし通り、粘菌の胞子(イ)が割けて(ロ)(ハ)なる浮游子を生じ、おいおい前端に一毛を生じて游ぎ進む(ニ)。次に毛がなくなり游ぐことは止めてはいありく(ホ)。そんなものが二つ(ヘ)寄り合い三つ寄り合いて融合してだんだん大きくなる(ト)。ついに(チ)なる原形体をなしてそれより胞嚢や茎を生ず。(ホ)(ヘ)(ト)(チ)みな体の諸部がアミーバ状に偽足となり出で食物をとりこむなり。
 原始植物やアサクサノリ等の藻またキトリジア類の菌には、胞子が(ロ)ごとく裂けて中より出たものが(ホ)ごとくアミーバ状に動くもの少なからず。しかしながら、このアミーバ状に動くものが二つ以上より合い融和してだん(457)だん大きくなり、原形体を作るということは、原始動物にはあれども植物界には全くなきことなり。故に粘菌は原始植物にあらず、全く植物外のものにて、原始動物たりとは、デ・バリーの断言に候。英国にも最初はクックなど一心不乱に粘菌は動物にあらずと抗論したるが、事実に勝ち得ずして声をひそむるに至り、今日は誰も粘菌を植物というものなくなり候。
 次に文久三年(一八六三年)露人シェンコウスキは初めて粘菌の原形体は国形体をとり食うを観察致し候。これは小生等|毎《つね》に見るところにて、主としてバクテリアを食い、食った滓は体外へひり出し候。動物の皮はわりあいに柔らかなるゆえ、口で物を食い、内腔に入れ消化し、また口なきものは自体の諸部がみな突出して固形休をとりこめて食い候(アミーバのごとし)。植物の皮は比較的に堅きゆえ破りては損となるゆえ固形体をとらず、固形体が溶解腐化等で流動体となりたるのち、皮よりこれを滲《しみこま》せて吸いとり申し候。
  ただしサナダ虫等は寄生する主の腸内の汁を身体の全部の皮よりすいとり候。しかしサナダ虫は身体が動物組織のものにて動きもするゆえ、これを植物というもの一人もなし。全く寄生生活を営み堕落退化したるなり。またイシモチソウ、ミヤマミミカキグサなど申し、いわゆる食肉植物なるものあり、葉や茎に触れた虫や肉を消化し食うなり。食うというも口はなし。葉や茎より特種の胃液ごとき汁を出し、それで肉や虫(固形体)を流動体に化してすいとるなり。故に実に流動体となりたる虫や肉をすいとるばかりで、虫や肉を口に入れ、もしくはアミーバ状に偽足をのばしてとりこむには無之候。
 今粘菌の原形体は固形体をとりこめて食い候。このこと原始動物にありて原始植物になきことなれば、この一事また粘菌が全くの動物たる証(458)に候。
 紀州の北・南牟婁郡は、古え人間のすむ所とせぬほど化外の地たりし。和歌山、田辺等と全く関係なく、人情風俗何から何まで伊勢に近し。故にこの辺に生えるハマユウという草を伊勢のハマユウと詠ぜし歌などあり(ハマユウは本当の伊勢にはなし)。それゆえ、維新後紀州の内ながら北・南牟婁郡を三重県につけ申し候。この方天理にもあい、地理にも叶い、人情にも合うゆえなり。しかるに中古来、北・南牟婁郡は紀州の首府たる和歌山辺より(名前上だけ)治めたるゆえ、北・南牟婁郡に関する文献や履歴をしらぶるにはやはり和歌山辺の文書によらざるべからず。この因縁によりすでに三重県に入って六十年近くなれる今日も北・南牟婁郡というと(紀伊の内なるゆえ)紀伊の首府たる和歌山を連想し、昨今の『大阪朝日』、『大阪毎日』ごとき大新紙にすら、三重県内たる北・南牟婁郡の出来事を、ややもすればその和歌山号に載せ申し候(実は和歌山辺とは何の関係痛痒なき所なるに)。これと等しく粘菌類は一八五九年にデ・バリーがその動物たるを言い出してより始めてその学大いに開けしものなるにより、それ以前の関係文書とてはみなこれを菌の一部と見立てたるときの菌学書に含まれおり候ゆえに、純正学上の研究は別として、第一各種の名前とか名前の沿革とか分類の履歴とか、古今産地の同異とかを調ぶるには、必ず多大の菌学書や菌学雑誌報告を見ざるべからず。一つの大学や研究所や博物館に、植物部に薗学書等をそろえある外に、いかに粘菌が動物と確定したればとて、動物部にまた粘菌のことをいささかも記したる古えの菌学書や、歯学雑誌を備えおくとあらば、費用はもとより置き場所にもこまり申し候。よって便宜上粘菌は動物と十分承知しながら、その文献しらべは植物学部に就いてすることに候。北・南牟婁郡は今日三重県で和歌山県にあらざるを十分知りながら、むかし和歌山よりこれを治めしときのことをしらぶるには、その文書の一々三重県へ買いこみ写しとりおくことはならぬから、和歌山県の文書について調ぶると同様に候。この理由によりて、デ・バリー、シェンコウスキーに後るること六十年以上なる今日までも、結菌は植物なりと教導する者あらば、それはちようど三重県の内に相違なき北・南牟婁郡のことを、漠然たる(459)旧慣薫習によりて和歌山号に載せて職責をはたしたと想いおるようなものに候。なにか朝憲に逆らうとか帝室の威を損するとか、殿下に漫辞を吐くとかならば、進献を遮らるるも致し方なきも、粘菌のことは小生一日の長あり、リスター父子のごとき事ごとに相談をかけられたる小生なるにおいてをや。第一こんなことが英国などへ聴こえたら往年宮中で漢法医を専任したときのごとく、バルフォール、バートッグ、ケント、シレック等粘菌の動物たることを主唱せし人々が輩出したオクスフォード、ケンブリッジ諸大学(秩父宮様御留学の)ではよき物笑いの種と存じ候。
  ドイツには専門専攻のためでなくて、書籍でもうけるために作る書籍多し。書籍が一廉の商品になりおるなり。故に事理は別とし、なるべく便宜を与えて買い手を多くするために、エングレールおよびプラントルの『自然分科篇』には粘菌のみか鞭毛虫《フラゲラタ》(これは動物たること疑いなきもの多し)までも収め入れあり。ただ多少植物に近しというのみにて、判然植物たりということは少しもいいおらず。粘菌が菌に似たりとはほんの肉眼で見た外貌だけのことで、内実少しも似たところなし。それを植物といわば、海綿類、珊瑚、ウミマツ等も、珊瑚樹といい、ウミ松というから、木や松の類というような全くの素人《しろうと》論となり申し候。
 博士などいうもの大抵こんな人と思うとあいそがつき申し候。しかし「ままならぬこそ浮き世なれ」で、世は心に任せぬものに御座候。小生はこの上あまり宮廷の御用などを承るよりは、何とぞ尊母よりの御寄付金を活用し、早く粘菌新種だけの図説にても出板発表致したく候。                        草々敬具
 
          7
 
 大正十五年十一月十七日夜八時前
  理学博士
   服部広太郎様
(460)              南方熊楠再拝
 拝呈仕り候。いまだ拝顔致さず候えども御尊名はしばしば新紙その他にて拝承罷り在り候。しかるところ友人小畔四郎氏、摂政宮殿下へ進献品の儀に付きいろいろ御厚庇に預かり、今月十日|終《つい》に進献品台覧の光栄に浴し候こと、ひとえに貴殿御引立てに惟《こ》れよる儀と、同人一同深く感謝し上げ奉り候。この段一同に代わり御厚礼申し納め上げ候。
 今夜測らずも尊翰を賜わり成し候。御念の入りたる御挨拶、これまた厚く御礼申し上げ奉り候。
 小畔氏の進献表啓文に記したる本邦産現在粘菌一百九十三種の
  実は一百九十六程|有之《これあり》供えども、その一つは Comatricha fimbriata G.Lister & Cran, 小畔氏相州二ヵ処日光一ヵ処よりやや多量に取りたるも、標品きわめて腐敗しおり確証となすに耐えず。その一つは小生は Physarum psittacinum Ditmar の変種と存じ候も、これを変種とせんにはまず本種の記載を改変せざるを得ず。その一つは Trichhamphora pezizoidea Junghun, これは小生明治三十四年那智山にて発見、リスターの『図譜』第三板にも載り有之候も、標本を全然失い了れるに付き、これまた確証なきゆえ、この三を当分さし控え申し候。
名目および産地、創見者の姓名は、変種の名目等と共に編纂すでに出来上がりおり、友人白井光太郎博士および岡田要之助氏に頼み、『植物学雑誌』に出し候間、その節御一覧願い上げ奉り候。
 台覧を恭なうせし図の Cribraria gratiosissma nov. Sp.が新属中他の諸種と異なる一事は、従前知れおり候諸種は、いずれも胞莢 plasmodia carp を形成せざるに、この新種のみ絶大の胞莢をなすことあり。これははなはだ珍しきことに御座候。また本種の原形体は乳白色に候。この属諸種の原形体は大抵白からず、ただ C.rufa Rost. のみこの新種と同じく原形体が白く候。この二事(時として胞莢をなすことと原形体が乳白色なること)は図説には書き落とし候間、遺漏を補なうため只今申し上げ置き候。
(461) 前日御所にて小畔氏が拝観せし内に※[図有り]かようのものあり候由。これは小畔氏がかつて武州三峰辺でとりし内にも有之、標品乏しきゆえ精査致し得ず。しかし多分は Physarum penetrale Rex かと存じ申し候。胞嚢が正円にて、リスターの図の楕円なると違い候ゆえ、手軽く気が付かず候。
 粘菌を御採集の際、もし生きたる木に着きたるもの(また生きたる木に着きたる蘚苔、地衣等に着きたるもの)御見当たりの節は、必ず何の木につき地面より何尺上につきたりと申すことを、御書き留め有之たく候。それにはイ線ごとく粘菌のつきたる点より垂直に地上に達する距離と、木の表面をつたって地に達する最短距離(ロ)を、両《ふた》つながら御注意ありたきことに御座候。
 ある種の粘菌は生きたる木のみに付き申し候。また、ある種は生きたる木にも枯木にも付き申し候。このことは明治三十五年小生初めて気付きリスターに申し通じ、おいおい経験してリスターもこれを信ずることになり、英国のクランと申す牧師がもっとも注意してしらべ候ところ、英国にも生木にのみ付く種あること相分かり申し候。これは粘菌の発生を論ずるにはなはだ重要なることに御座候。その調査が各国とも今にはなはだ十分ならず候。
 本月五日リスター女の来信に、スイスの Meylan が Wilezekia なる新属を立て候由。これは Diachea 属の次に列するものにて、ジューラ山脈にて発見され候由。故に現在粘菌属数は五十四と相成り申し候。また、ついでに申し来たり候は、今度一片の模範標品が見出だされしにより、取調べの結果、『図譜』第三板一一二頁の 4.Didymiumdupium Rost. は D.Listeri Massee(第一百五図の題号も同様)、一二〇頁の 13.D.Wilezekii Meylan はD.dupium Rost. と正誤を要すとのことに候。
 今度さし上げたる Minakatella longifila G.Lister は、ただ一度拙宅に生じたるものにて、標品は七小塊ありしが大英博物館、東京帝大農(462)科大学等に分配致し、ただ三小塊のみ残りしが、二小塊はかびを生じ標本として良好ならず、小さきながらかびなきものを進献致したるにて、今後何の年に何の地に再び見るを得べきか、全く見込みなきものに御座候。
 Brefeidia maxima Rost. は Fuligo septica Gmelin を除きておそらくは粘菌中最大のものに候。欧米には少なきものならず。しかるに本邦には同人輩いかに探すもいまだ見出でず。これは寒冬中しばしば生ずるものなるに、邦人は冬中林野を探る人少なきゆえと存じ候。宮城の御園林下などには冬中探らば必ず見出ださるる御事と□□《〔不明〕》申し上げ候。
 拙児二十歳に相成り候者、昨年三月十五日精神病に罹り今に平治致さず、これがため進献品の点検毎度相後れ、まことに恐惶至極に存じ奉り候。只今また発作中にて妻と娘は昨夜他へ立ち退き、小生と傭い男と下女と三人にて看護最中に有之。この状相認め候うちもさいさい入り来たり候付き、長く筆するを得ず。これにて筆をおさめ申し候。
                            謹言
 
(463)   昭和四年
 
          l
 
 昭和四年三月十八日午下
   服部広太郎様
                南方熊楠再拝
 拝啓仕り候。本月五日御光臨を忝なうし、御叮嚀なる御言葉を賜わり、頓《とみ》に光采の門戸に生ずるを覚え、夫妻|諸共《もろとも》難有《ありがた》く御厚礼申し述べ上げ奉り候。その後四、五日して当地方の有志等自筆連署して同封の一書を寄せ来たり、貴殿へ伝達を頼まれ候。これは東牟婁郡の団体どもより県知事へ同様のことを電信もて請願せしと承り、その筋より何の御発表もなきに、かかることを県知事を経て請願するよりも、小生を経て内々貴殿まで願い上げ置くが相応なるべしと思い付きし者の主唱に随い、この一書を作成せしと申すことに候。しかる折から当地方いろいろの風説新聞紙に現われ、御碇泊点を最初に和歌浦、次に田辺湾、次に串本町、次に潮の岬と御決定の由、前後所報一定せず、小生はその筋にてすでに御決定の上は右の連署状を貴殿に差し上げたところがもはや御力の及ばざるところと存じ、かの状呈上を延引するうち、昨十七日の『大阪毎日』紙には全くはいまだ何の地に御碇泊と御決定ならざるように記しあり。果たして然らば今のうちに封入の書状を御覧に供しおくも半ば彼輩の志を遂げしめたるに等しからんと存じ、ここに同封して貴殿の御眼にかけ置き申し候。
(464) また当日大阪より由良駅に到り御下車の節、白浜自働車会社御坊町支店より自働車を御迎いに差し上げありしに驚かれしこと承り候。これは白浜館主湯川富次郎と申す者そのころ大阪へ参られおり候うち、三月五日の朝両侍従と服部博士が旅館花屋とかに前夜一泊、次日瀬戸京大臨海研究所に向かうはずと出でおるを見て、みずから花屋に往き仲居女中に聞き正していよいよ事実と知り、万事を打ち捨て大急ぎに鉛山《かなやま》へ帰り候途中、和歌山市駅を始め諸処で吹聴したるより、和歌山市駅長はみずから改札口にありて見張りしも群集のため服部博士を見出だし能わず、しかるに由良駅はさすがに田舎で昇降の人数少なきゆえ容易に出迎い員が見出だし得たることの由。さて件の湯川と申す人は当地でも諸人に吹聴せし上白浜館へ帰りしゆえ、警察署長や当町長代理、県会議員二名等早く自助車会社支店に集まり俟ち申し上げたることの由。県庁にも御知らせなき御下りを、何の関係なき人々が馳せ来たりて俟ち上げしは奇怪千万のようなるも、実際これが地方の風《ふう》にて、少しく名の立ちたる人士の来往には必ずすばやく馳け付けて歓迎し、また見送らねば、上役人より叱らるるが今日地方の通弊事に有之、貴殿御来下の節も一廉《ひとかど》忠勤を励んだつもりにて馳せ集まりしことと御一笑下さるべく候。              早々敬具
  小生多忙にて昨日来眠らず。誤字定めて多かるべきも、閲読せずにこの状を差し上げ候。御察読を冀う。謹言。
 
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 昭和四年三月二十五日夜十時
   服部広太郎様
                  南方熊楠再拝
 拝復。本月二十三日付の御状今午後二時拝受、難有《ありがた》く拝誦仕り候。聖上御乗艦当湾へ御碇泊は未定の由拝承、御尤もの御儀に存じ上げ奉り候。しかるに一昨二十三日県庁より師範学校教諭一名拙宅へ差し越し、叡覧に供するため当地(465)中学校、高等女学校、水産試験場等に蔵する博物学標品をかり集め、また拙蔵の諸品をも差し出すよう勧められ候も、拙蔵の標品は多分顕微鏡的の物にて、運搬中振盪のためプレパラートに空気が侵入したり、乾燥品の胞子が飛散したりする物多く、到底宅外へ持ち出すことはならぬ旨答えおき申し候。今夜また警察署長来たり、一昨日某侍従や今村少将に陪して湾内一覧、その節のお話によるに、どうもこの辺の道路多くは不良なるにより、神島《かしま》(ワンジュの生ぜる島)の樹木をきり開き多少道路を作らしめんと思うと話され候。(これは聖上はこの島に御上陸展望遊ばさるるように承りしによる由。)この神島はちょうど明治天皇御崩御の当時、島に祀《まつ》れる小社が他へ合併されたるをもって立ち木一切を売り払い、すでに近日買い手が伐採にかからんとするところを、小生新庄村の当時の村長に説き、村長もわけの判った人にて、買い手に値《あたい》を弁※[貝+賞]して伐木を止めしめ、そののち魚付き林として今に斧鋸《ふきよ》を入れずに保存しあるものにて、当時絶滅に瀕したるワンジュもまた再生し出したるに候。その後二十日ばかりして大風波起こりしも、この島林の力により、鳥の巣と申すわずか二十七戸の小村が全滅を免れたりとて、拙宅へ総代が礼を述べに来たり候。
  長き紀州の海岸にこの島の外に古来斧伐せずに林木が茂りおる島は一つもなし。この島あるゆえにその樹の蔭には今も魚類寄り来たり候。木芙蓉、楝《おうち》、タチバナなど、本邦に野生ありや否の疑い多きものも自生しおり、タキキビ、キシュウスゲ、商陸など、この辺に他に見ぬものも多く生えおり候。蘚類の系統学上はなはだ面白き事実をも小生この島に見出だしおり候。
 しかるに聖上この島の低き山へ御登臨あるべしとて、道径を開き、樹木を伐りなど着手されては、たちまち事弊の端を開き、のちのちまでも、この際伐りたるなりと称して島の樹を斫《き》り枯らし、時々釣魚のためにこの島に立ち寄りてその木を焚き、温をとり、また後日のために木をきりおく等のことを生じ、それよりこの島に特に多きクスドイゲ、バクチノキなどもおいおい滅絶すべく、ワンジュも攀ずべき柱を失い枯れ了るべく候。むかし後花園院公、不破の関に月を賞せられんとする企てを伝聞して、その辺の者等、かく荒れたる体を御覧に入るるは見苦しとて全く修覆した(466)りと聞こし召して、関を見ずに車を返されしにより、その所を今も車返し坂と申す由。「ふきかへて月こそもれね板びさし、とく住み荒らせ不破の関守」とは当時公の詠歌という。このほど服部博士単独にて県庁へも交渉せずに来られしは、なるべく人民を煩わさじとの御恩召しに基づけることなれば、万事その心得あって然るべく、従来なき所に今さら無用の道を作りなどするに及ばぬことなり。またこの神島は誰もすむ者なく、林中に入れば蚋《ぶと》多くて眼に入り膚を刺し、それより熱病などを起こすことあり。しからば御登臨あるべき所にあらず。ただ樹下ならぬ海岸に御野立ちを願い奉るべきなり。従来神山としてこれを犯さば病気になると信じたる所へ道など開き、それより愚民どもがいよいよ樹を斫り火を焚き終《つい》には山を焼きなどするに及ばば由々しき大事なれば、道を開くことは止めてしかるべしと、小生署長に語りおき候。(ワンジュの生ずる所は海に近き低地にて蚋などなし。それより小山を上ると樹林鬱生して蚋多し。これに登ったところが何の眺望もなく無益のことなり。眺望は低き海岸に限り候。)
 これはほんの一例に過ぎざれども、種々とこの類のこと多く、凡俗人が自分の心をもって尊勝の御心を推測しさまざまに奔走しおり候様子に御座候。小生は自宅にのみ籠りおり候ゆえ委細を承らざるも、とにかく神島へ御野立ちあらせらるるようの御幸あらば、樹林鬱生せる所へは誰も御入りなきよう、随行員中の御知人に御注意置かれたく願い奉り候。またこの瀬戸村には諸処に飲料水の悪き所あり、これをのまば脚気や瀉痢を生じ候。この水の宜しからぬ一事が鉛山温泉不人気の一に候。はなはだしきは全部落飲水悪きために癩患絶えずとあって、ナリ(癩)明神と称うる小祠を立てこれを厭勝せる所さえあり、所の者はこれを秘して語らずと申す。とにかくこの辺の水を飲まぬよう随行員中の御知人へお話しおかれたく候。
 大正十年、故徳川頼倫侯、伊勢より紀州沿岸諸地を経過して当地へ来られ、拙宅へも光臨あり、四時間ばかり御話し申し上げ候。その節承りしは、東牟婁郡の古座川辺にて侯一行を歓待するとて祭儀のまねをして賑わいしが、土民等力瘤を入れて石油の罐をたたき行列など致し候。何の面白きこともなく、侯の夫人ははなはだしき頭痛を起こせし(467)とのことなりし。田舎人はよきつもりにて種々ときざ〔二字傍点〕極まることを仕出だし申し候。かかることの今さらあるべきにあらねど、小生は何分万事穏やかにあまり非凡なことのなきことを祈り申し上げ候。
 串本、潮岬辺の深海生物は、小生大英博物館にありし日までは(捕獲後二十数年)、よく保存されあり、海軍将校(只今大将たる加藤寛治氏は当時少尉たりし)渡英するごとに小生案内で地下室で見せ申せし。今度この辺で海底御探究あらば、これが第一の御研究材料と察し上げ奉り候。       謹言
 
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 昭和四年四月十五日夜九時
   山田栄太郎様
                    南方熊楠再拝
 拝啓。一昨日十三日古田幸吉より来状に、去る十日令息より幸吉の子善吉へ写真御交付相成り、慥《たし》かに拝受仕り候由申し越し候間、御厚礼申し述べ置き候。定めて幸吉よりも御受書差し上げ候儀と存じ候えども、念のため右小生よりも申し上げ置き候。また本月十二日東京平沼大三郎氏より来状有之、前日上松蓊氏へ御送り下され候写真は、同氏みずから平沼氏本宅へ持ち行き平沼母堂手ずから受け取られ候由申し越し候付き、これまた小生より御礼申し上げ置き候。平沼母堂は四月中に当地へ来訪さるるはずなりしも、長男が三月末病気のため今春は紀州下りやめに相成り申し候。
 聖上御行幸に付き、いろいろの報告が新紙を賑わわせおり、本月八日『大阪毎日新聞』より特に社員を拙宅へ派遣され、いろいろと報道を求められ候も、小生は断わり返し申し候。例の土地会社、自働車会社等はいろいろの設計をなし、村民をして土地を寄付せしめ、平常無通行の所に人数百五十人ただ働かせ、六間幅の車道を作らせ、また行幸の当日は遠近村部の小学生など五万人集め奉迎と称し、実は自働車や渡船で儲くる計画をなしおり、小生明治四十五(468)年ほどに苦辛して今に密林のまま(魚付き林また天然記念物保護林として)保存しある当湾内|神島《かしま》なども木をきりあらけ、道路を作るべしとのことなりしも、小生より宮城内御研究所へ伺い候ところ、陛下には民庶の手を煩わすを好まさせられず、天然のままを科学上より御観察遊ばされたしとの御事にて、先年いずれかへ御行幸のときに、吏員等が草をきり開き林木を除きしため、学問上の御興味をつぶし、大いに御不快なりし由にて、決して道路など切り開くに及ばずとの返牒に接し、その返牒を新聞に載せ候より、神島だけは道路を作るに及ばず、また無用の掃除などするに及ばずということになり、村民も大いに助かり申し候。
  近時田舎へおいおい交通の便が開けるに随い、都会人の遊覧の設備をなすべしということ諸方に盛んに行なわれ候。−応はもつともなことのようなれども、大いに在来の土着人士の注意を要することにて、鎌田栄吉氏の言うごとく、かかることにのみ熱心する結果、その土地の人々がただただこぼれ幸いを目的として浮き足になり、他郷人のチップとか祝儀とか花代とか申すことのみ心掛けて乞食根性を増長し、ついには遊手して今日は金づかいの荒い客がこぬか、明日は金を落とす人が来ぬかというような根性のものが多くなり、日夜出精して家業をはげむようなものが少なくなり申し候。六、七年前、小生高野山へ上りしに、明治十五−十九年と年々上りし時とかわり、不動坂の上り口ははなはだ便利になり、土地がすこぶる賑わいおり候。しかるに土着の人々の家にゆき旧事を語るに、みなみな活計むつかしくなり、十の七、八は他郷へゆき行方知れず、すなわち土地が賑わうばかりで、土地の人はみな滅亡四散したるなり。いわばハワイなどの国が盛えて土人が王室と共にまるで独立せ失い、空しく米国に服従してその余食を食うに止まるに等し。その内に就いて河根《かね》と申す一村は、むかしは大阪より高野へ上るものは必ずこの村を経て上りしゆえ、ずいぶん繁昌せしが、椎出《しいで》という処より上る道路大いに開けしため、河根は側道《わきみち》になり一向通行客なし。よって旅宿を全廃し、それぞれ楮《こうぞ》を植えて紙を作り出すことにのみ専心し、油断なく働きし結果、右の道路諸駅のごとく袁凋四散せず、楮の売り上げ高で村の基本財産を固め、只今はその(469)辺になき内実せし強固な村となりある由。小生はこれを例にして汽車鉄道が塩屋を通らぬことを貴村のためにも貴家のためにも慶賀申し上げ候。
 しかるに世の流行には理屈も勝ち得ぬことあり。県吏などはなにがな事さえあらば無用のことに忠勤らしく奔走して、県庁よりほめられんなど致したきもので、あるいはそのうち小生の眼をくぐり件《くだん》の神島へ多少の道路を開きなどするも知れず。ここへ道を開かれてはいろいろと無頼の遊客など来たり、樹木を伐り損じ博突を打ち、場所を不浄にし、ついには情死心中の名所となりなど致し、せっかく小生が潜心研究中の生物も全滅することとなるべし。
 むかし欧州中古の騎士が戦争に出で立つ時は、志すところの貴婦人を頼み、外征中の勝利と安康を祈りもらいしことあり。(日本にはこんなことを聞かず。むろん妻女が夫のために日夜祈りしことと察し候。たまたまは宮本無三四が島原出陣に臨み吉原の遊女某に祈念を頼み出で立ちしとかいうことあり。)小生は生来事に臨んで神仏を祈るということかつてなし。しかるに欧米の心霊学者などにして、小生と等しく一向神仏などを信ぜぬものにして、祈念ということは多少きくものと主張する人多し。
  ラジオが遠くへきくごとく、人の一念が(喜怒如何に拘らず)もっぱらなる時はきくという主張なり。小生はまた自分のために祈念しくるる人ある間は、自分がむやみなことをするとその人の好意に対してすまぬというところから、自然むやみな言行を慎むということだけはたしかにききめありと思う。
 すべて祈念などいうことは、女が男よりもよくきき候。仏経に男は慧《え》が定《じよう》に勝り、女は定が慧に勝るというごとく、男は智慧多きものゆえ意思定まらず、したがって東洋にも西洋にも神を祈るに多くは女が巫《みこ》の役をつとめ候。小生は近時ようやく健康旧に復したるところで、日夜「粘菌図譜」の完成と「随筆」の出版に骨折り、加うるに例の入院中の悴への送金を拵えざるべからず、すこぶる多忙なり。しかしてその上にこの神島の一条あるなり。よって何とぞ令閨に、何とぞ御行幸すむまで小生の無難なるように祈念さるるよう御願い申し上げ置き候。小生は親族今も少なから(470)ぬも、一身の遭際不幸にしてこれという縁厚き婦女一人もなし。姉一人ありしが五年ばかり前に頓死し了り、姉に娘二人あるも二十余年もあいしことなし。その他は顔も見知らぬもののみなり。よって令閨に願い上げおくなり。祈念とは、ただ無難であればよいと念《おも》わばそれで十分に御座候。どこへ詣《まい》るにも及ばず。また何神に願をかくるにもあらず。
  この神島保存のためにはずいぶん小生は苦辛奔走したるなり。しかして当時の新庄という村の村長も助役も十分わけの分かった人にて、一旦払い下げたる神林を四百六十円ばかり弁償してとりもどし保存して今日に至れるなり。ワンジュと申す希代の蔓生《かずら》植物ありて、全国に名高きものなり。それがちょうど明治四十五年前後に三年ほど実《み》がならず枯れ出し候。小生行き見るに、掃除と称し、むやみに林下の落葉をかき集め焼くゆえ、ワンジュの花を媒介する蛾虫が落葉下に潜みて蛹となり、さて蛾に化するその蛹となるべき潜在所を失い育たざるなり。よって神林を保護して人を立ち入らせず。三年してのちまたワンジュが盛え出し、今日に及べるなり。それを今度、行幸歓迎を名として道路を切り開かれては、またまた夏休み中に諸方よりの学生などが入りこみ荒らすから、ワンジュは再び全滅致すべきなり。
 小生在外中、羽山氏の家に娘一人ありしが如何なりつらん、健全にあれかしと三日に一度念わぬことはなかりし。ちと売り買いめきて現銀な話のようなれど、小生は只今六十四歳になり家内は病人多く、自分は多事にてずいぶんつかれおり、行幸には何の関係なき身ながら、行幸を売り物にして私利私慾のために小生多年経営潜思せることどもを全壊さるるをはなはだ気づかい申し候。(この島が今のままに保存さるるにあらざれば、多年研究中のことが中途で廃止となるもの多し。)祈念ということ一向その効なきものと致してからが、人が自分のために祈念し下されおるものを、たといそのこと破るるとも妄りに言動すべきにあらずという控《ひかえ》には相成り申し候。       早々敬具
  小生前年、聖上へ日本の外になき粘菌を差し上げ戴恩〔二字傍点〕と名を命じ候。しかるにその図記を出板発表することがも(471)はや三年後れおり候。これは拙児の病気烈しくて率の原稿をひき破りなどせしによる。よって今年中にぜひこれを出板発表せんと欲し、同時に従来自分発見せる粘菌をことごとく発表せんとかかりおり候。只今手許におよそ五百点ばかり内地諸州より集まりあり、それをことごとく鏡検してのち出板することにて、四月より今日まですでに二百ばかり検査すみ候も、この上なお五月末ごろまで、このことのみにかからざるべからず。外に悴の入院が長くなると入院料に差し閊えるから、その手当に「随筆」の続々稿を出板せざるべからず。近日出板主が稿本をとりに下り来る。これらのことにずいぶん疲労はなはだしく候。
 
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 昭和四年四月二十五日早朝三時
   小畔四郎様
                 南方熊楠再拝
 拝呈。咋二十四日朝十時前、七十歳ばかりの老人色白く気品高き人杖を曳き、神戸の谷井《やつい》なり、小畔氏紹介にて来訪せりとのこと、拙妻何の気も付かず応接する様子。小生は衣服を改めおるうち、ふと耳に入り玄関に立ち出でしに谷井とは谷井保君と知れ大いに悦び、老体を厭わずわざわざ訪問されしことゆえ、さつそく書斎に招じ入れんとせしも、ちょうど奉迎一条にて二十一日に県庁より役人来たり、神島に桟橋を架すべしとのことなりしより、村長、前村長と謀って、とにかく当分入山禁止の札を立つべく船に禁止札二十四、五本積み込み、小生の立合いを請い、扇が浜(御承知の当町中学校後ろ五明楼辺より川島氏宅に至る間の松原|先《さき》の海辺)まで船にて迎いに来たりおり、小生はその前夜貴下の粘菌レッテル付きの品(信州採集)を鏡検して三時半に臥し、八時半に起き、器械、レンズ、食料等を整え、まさに乗船せんとて衣服をきかえるところに有之、止むを得ざる事情を話し、宿所を問いしに滞戸村の白浜ホ(472)テルに滞在とのことなりし。
 これより先、本月七日午後白浜に別荘をもてる上山英一郎氏来訪(この人は栂尾の明恵上人を出せし旧家の後裔にて、あまり学問なき人なるが、明治十九年ごろより志を立て、わずか三百余円を人に借り、小生知人(県庁の小使に)和田辰五という者と除虫菊蕃殖にかかり、百敗不屈、今日は欧米諸市に出店し多大の身体《しんだい》を作れる人なり。同じく事にかかりながら和田は全く無文字なりしゆえ、目先きかず失敗して、どうなつたか知れず)、心霊のことに付きいろいろ訊問あり、小生の答はなはだ面白かりしとて、いつでも白浜別荘および在田《ありた》郡の本邸に来たり、幾日でも宿泊せよとのことにて別れ、翌々九日いろいろの珍菓を贈られ候。(この人の本邸および別荘へは、毎度高名の人たちが来泊するなり。前日も当湾行幸|下見《したみ》に来たりし侍従二人はここに泊れり。)その答礼に明日白浜へ行くはずゆえ同時に谷井君を訪問せんと申せしに、今明内にたぶん出立すべし、もし滞在せばいろいろと見せて貰いたき物もあるゆえ再度拙邸を来訪すべし、とのことにて別れ去られ候。それに引きつづき小生は拙妻に手荷物を持たせ、浜にゆき妻を宅へ返し乗船神島に趣き候。
 神島に趣き見しに、大正六年五月末六鵜氏来訪、川島氏と三人この島を見しときに比べては樹木大いに茂り、湿気を保ち、年内もつとも菌、粘菌少なき時節なるに関せず、おびただしく発生しおり(もっとも粘菌は、Perichaena depressa;Cribraria tenella;Hemitrichia serpula,外に Physarum viride の原形体のみ。五月に人らばいろいろと生ずることなるべし)、その他にも希有の草木多く、例のワンジユも、大正元年に小生右の前村長、今の村長(当時は助役)等と相談して、魚付き林とし、樹木伐採を禁止せしより大いに繁茂し、一部分そのころ禿山たりし所にまで生えおり候。よって万一の際の準備に行路に生えたる雑草(他の地方より侵入し来たれるハコベ、ヤエムグラ、チャヒキ等の害草)を除き、また道路を塞ぐまで倒れたる木幹を取り除き、島外に出さずに樹木の肥料として林中に臥さしめおくよう話して帰り候。
(473) 行くときは無類のなぎなりしも、帰るときは浪荒く拙宅近き浜へ船を寄すること成らず、文里《もり》乗船はとばまで渡り、それより徒歩して帰り申し候。
 村長の話には、二十一日に県庁の役人は神島に桟橋を架すべしとの指令を伝えられしも、同時に臨海実験所主任とか(たしかに主任と分からず)の話には、神島は説明者に事をかくゆえ、臨海実験所より畑島《はたけじま》まで御案内申し、
  この畑島は全くの沙《すな》ばかりの平扁なる島にて、水もなければ、浜エンドウ、浜大根等の平凡な草のみ生え、テリハイバラなど蔓延せる不毛の沙洲に過ぎず、何の見るべきものもなし。徳川頼倫侯ここになにか瀬戸臨海実験所にさしさわりなき研究所を設けんとて小生に相談あり。小生はこの辺の蟹蝦類の特別研究所を設くることにせば、参考書などあまり多く入らずに最初から発見発明多かるべしと答え、平沢哲雄氏などその用意して蟹蝦学を修めにかかりおるうち侯薨去ありしなり。
それきりにして行幸は止め、軍艦へ御返りになるはずなりと村長へ語りしと申す。
 県庁が神島へ桟橋を架すべしとは、神島へ渡御ある御予定ゆえと察するに、臨海研究所主任はかくいう。神島へ渡御なき定めならば、桟橋を架するは全く無用のことなり。また神島へ渡御あるならば桟橋のみならず御案内の順序設備もなさざるべからず。しかるに県吏の伝令と臨海実験所のいうところと反対なるは不審に堪えず。この臨海実験所は最初池田何とかいう博士が瀬戸村のものを説き、ここにこの研究所を建てなば土地大いに繁昌すべしとて土地を寄付せしめて立てしものなるが、最初に土地の者へのいいわけに途方もなき大建築を施し
  富強無限の米国ですら地方の臨海研究所は便宜上テント住居などして有望の時期にのみ実験を行ない、他は至って質素なる建物で行ないおり。写真などを見るに至って見すぼらしき物なり。(わが国今日の小学校にも及ばぬもの多し。ただし機械等の供給には遺憾なく金を入れる。)
たるに何の成績も挙がらず。ただ夏期に中学、小学教員などを集め講義をなし、ありふれたる生物学の実験(書籍に(474)あるものを実物に引き合わせ西人の説を講ずる)を少しなして見するに過ぎず。その余は六人の定員が宿泊し、年二千円すなわち一人前三十円ならしの薄給で主立つたるもの二人が浮游生物の鏡検をなし、博士位をとるべき論文を認むるに過ぎず。その人々は実に熱心なものにて、内職に麁末なるノリ(荒海に生ずるゆえ、ろくなものにあらず)を作り、大阪へ売りて費用を助けおりしなり。こんなことでは俗人には学問が何の実用あるやら分からず。したがって当初約束せし県庁よりの年々の補助費も県会で否決され、この七年間は全く窮迫を極めおりし(去年などは、夏期の講習すらなかりし様子)。しかるに今度臨幸のことあるに及び、駒井という所長(理学博士)が土地会社や自働車会社と結托し、綱|不知《しらず》という地より沿海の禿山に二十余町の道路(幅一丈三尺とか一丈八尺とかいう)を開き、綱不知より(いわば葬式を長くせんため無用の町々をまわりありくごとく)臨海研究所まで二十余町に大道を開き、その長途を聖上に徒歩せしめ奉り、道の両側に郡内の小学児童を始め老幼五万人ほど集め、拝見せしめ(これで自働車会社は大設《おおもう》けなり)、さて臨海実験所にて陳列品を御覧に入れ、これは当町中学校、高等女学校を初め諸村の教師などよりむやみに集めたる品を撰抜して陳列するもの、また泥繩的に県吏などの手をかり集めたるものを列するなり。つまり、にわか作りの標品なり。これに宇井縫蔵氏が集めたる(二十余年近くかかれり)魚族およそ七百余点を無条件で寄付せしめたるのを中堅として列するなり。無条件寄付主宇井の功績はさのみ挙がらず。言わば貴下の標品を Mina.& Koaze で発表せずに小生一人のものとして命名するごとし。
 この宇井は小生妻の姪の夫の叔父なり。わからぬなりに魚を集め、東大の田中茂穂氏に贈り命名しもらい、さて七(475)百余も分かりしのち自分一人の名で出板せしにて、当時田中氏よりは二人の名にて出板を求められしも用いずに自分一人の壽として出せしなり。宇井は養子にて前妻死し娘も死し、老父母を久しく養ううち実家が破産し、自分は負傷して退職し宝塚の私立学校の舎監たり。右の魚類七百余点のおき所にこまり(自宅も早晩売却するならんゆえに)小生へ相談あり。小生は平沼氏にでも千円くらいに買いもらいやらんと思いしが運搬と置き処にこまる。平沼氏今春来臨の節何とか実物を示し、買うて東大へでも寄付せんと思いしが、魚類の保存は七面倒なものにて、これを寄付するには永久保存料をも寄付せざるべからず。拙児の入院料に事かかねば千円くらいで自分が買いやるところなれど、只今看護人を特別に付する身にては左様のこともならず、かれこれ致したり。そのうち臨海研究所長駒井よりは七百余品の魚類標品を一疋五銭の割合で買わんといい、宇井も一疋に一円も出したもの多きに、五銭とはあんまりなりとて躊躇するうち、いろいろ内逼の事情もあり。ところへつけ込み、臨幸の節天覧という美目の下に無条件に寄付せしめ、宇井も止むを得ず置き所にこまる点よりこれに応じたるにて、小生ならば天覧の美目の下に一時貸与し、さて天覧すみてのち(娘を成金連に嫁したさに五節姫に出立《いでた》たせる貧華族のごとく)それを言い立てに誰かに相応の値で売るべきところなりし。
  この人『紀州植物図録』を著わせし内に、リュウビンタイを初め小生が貴下に那智で初めて逢いしころ発見せしものを小生の発見と記さぬもの多し。小生は何でもよきことながら、他の諸人の発見をことごとしく記入するほどならば小生の名をも書き入るべしと注意せり。また『紀州魚譜』の内に小生の説と注せずに出せしことあり。これも公平ならぬゆえ次回再板の節は書き入れられたしと注意し、貝原先生が『大和本草』の初めにいえるごとく、他人がいいしことを自説のごとく書き立つるはもっとも不徳義のことと申せし。人によりてはかかることがはなはだ気に入らぬものなり。
 この県の知事は従来就職巡回の節小生へ挨拶あり。前知事(小原新三氏)などは拙宅を訪われたり。しかるに今の(476)知事に限りこのことなし。この知事は(野手という姓)近ごろまで朝鮮の林務職にありし人なるが、在職中なにか詐偽とか横領とかして訴えられた人なり。今もそのこと解けず、ずいぶん非難のある人なり(馬越恭平氏の婿の由)。小生は言詞に寛仮なき男なるを聞きて、瘡もつ足よりのことかとも思う。とにかく新たに就任し来たり県下の履歴に通ぜざるゆえ何となく無難に一日も速く事すまば宜しとのことにて、万事を京大の臨海研究所に任せたること、かつは土地会社、自働車会社よりいろいろと頼まれたることと察し候。
  もっとも県庁よりは坂口総一郎(和歌山師範学校教諭)を拙邸に遣わし、瀬戸の臨海研究所で標本を天覧に入るるから然るべき標本を貸与出品しくれと言い来たりしが、従前の例をもってすれば知事とかその代理とかの自筆でも来るはずなり。しかるに他の中学校教師や小学校長なみに坂口などを遣わし来るも誰が責任者か分からず。よって貴重な標品を他のわけもなく持ち寄りたる鯨の歯や、蟹の甲と一所に扱われては後日の悔あらんから貸すことを断わり申し候。この坂口というはつまらぬ男にて、前年貴下と高野へ上りしとき、土宜よりくれたる揮毫の扇などをみな取ってしまい、さらに出立前にまた金剛峰寺におしかけ土宜の書を求め、もらい帰れるなど礼儀を知らぬ男にて、川島はその節打ちのめすなど怒りたり。また新聞へ出さぬ約束にて大門辺でとりし写真を新聞へ出せしなどあまり信頼のならぬ男であるなり。
 右の成り行きにて神島へ御成りにならぬならば、それきりで桟橋も密林下の道路掃除も一切設備をなすに及ばず。ただ今日中に届けをすませおき、新庄村より多少の献品を出してすむことなり。もし御成りになることならそれ相応の設備をもなし、小生その任に当たらずとならば、和歌山のことを京大に一切委任すべきにあらねば、県庁にて然るべき博物学の心得あるものを撰み、小生より神島辺のことをききとりおき、御説明申し上げて然るべきはずなり。小生は近く貴下と連名にて「日本粘菌譜」をせめては Torrend の著書ほどの程度に作り、棟品を日本産をことごとく変種から異態までもそろえて出板し(または写本でも宜し)、大山公また紀州侯(頼貞侯)を経て献上せんと存じおり、(477)五万人も雑踏する内にわずか二十分やそこら御説明などを少しも冀うものにあらず。しかるに説明者なしとの条件にて、せっかく紀州沿海百二十里の間に唯一の原始林たる島として、小生および村長どもが只今まで保留せる神島へ御立寄りなしとあっては、村民の失望もはなはだしく、以後この地方の者は小生が何を言うも一切採るに足らずとして、中には故《ことさ》らに小生を死地に置かんとていろいろと小生の面前に非行を遂ぐる者あるに及ぶべく、妻子などは面目を失してこの地におるを好まぬこととなるべし。
 夜明けなば一応電話で聞き合わして谷井君まだ白浜館にあるかを問い、あらば訪問し、また、ついでに上山英一郎氏をも訪い、話しも致すべく、何とか名案も出るべしと思う。しかしこの二氏とてもかかることにはあまり差し当たりたる助力も効なかるべければ、和歌山の旧友小笠原誉至夫、須藤丑次二氏より来状ありたるを幸い、和歌山へゆき相談の上知事に話して見んとも思う。
 それに付き、貴下に伺い上ぐるは、徳富蘇峰氏は近く『大阪毎日』に入社せんときく。この人は田辺の町民はすべからくこの人(小生)を厚遇すべしと『国民新聞』にかかれたことあり。小生知人にしてこの人と厚友なるものも多ければ、大阪にあらば往つて一訪せんと思うが、徳富氏は依然東京にあるかまた大阪にあるか御手蔓をもって聞き合わせ一報下さらずや。一週間ほど前に山田孝雄氏が二十三年前に出せる論文今度ききめを生じ博士号を授けられたるに付き、学閥圧迫を故《ことさ》ら社説として『大毎』紙に載せられしほどなれば、なんとか助力しくるることと思う。もっとも小生は手ぬかりなく、校正課長平野秋水氏へもこの状と共に聞き合わせ状を出しおき候。
 ただし田舎のことは朝令暮改さらに分からず。東京にて何の御発表もなきにこの不景気の時節に地方の土地会社や自働車会社が、わずかの運動費を散ぜしとてまさか宮内を動かすようなこともあるまじく、そは臨海研究所員のいうところと県吏の桟橋をかけよとの伝達が全く反馳しおるにても分かり候。かかる騒動中に谷井氏ごとき有勢の人が、拙宅ごときつまらぬ所をみずから訪問さるるも不測の幸いというかと思えば、また、ちょうど神島巡視に同行者が船(478)をもつて迎え来たれるところへ訪問されしも不測の不幸にて、世間のことは何が何やら分からず。昨日出航せしときは無比の好天気なりしも、わずか五、六時後に帰るときは海荒れて?覆せんと致したるなど世変は少しもやまず。いかな設備をなしても天気もようで当湾付近へ御立寄り全くなきこととなるも知れず。拙妻はあまりに早《はや》らずただただ今朝来たるべき入電ありたる岡茂雄氏に速く「随筆」稿を渡し、次に他を顧みず「日本粘菌譜」を出すべきことをすすめおり候。これも一理あり。天子にして国を捨てたるさえ仏経に多く見えたれば、神島の一つくらいどうなってもかまわぬくらいの素養は致し有之候。
 とにかく貴下の御意見を一つ承りおきたく、この状を差し上げ候。
  今回谷井氏の来訪はいかにも突然にて、貴下は御予知なかりしことと存じ候。しかし、もし今後かかる人に小生を紹介さるることあらば、あらかじめ御一報を願い上げおく。
  小林ライオン歯磨舗の歯に関する本は、その内に小生の『随筆』より二、三の条、引用されおる廉をもって、すでに(貴下よりの御報なき前)三冊まで寄贈されおり候。このこと御礼申し上げ候。
 不慮の凶事起こり、自分の目算がはずるるなど申すことは、小生一人に限ることにあらず。その代りにまた不慮の吉事も起こり目算以上に叶うこともあるものと存じ候。かようのことにあんまり心を動かしては大業は成らず。英国人のいわゆる wait and see(マアマアゆっくりやれ)が大事と存じ候。              早々敬具
  もし小生谷井君にあい得ずとすれば、貴下は何とぞ同君に面会し、小生はなはだ遺憾に存ずる旨を御話し下されたく候。とにかく一度電話にて尋ね見るべく候。
 
          5
 
 昭和四年四月二十五日午後八時
(479)   小畔四郎様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。咋日朝十時より新庄村長および前村長と神島に趣き、六時帰宅、その間の委細は今朝手紙にて申し上げ候。さて県庁よりの指令と京大臨海研究所の主任の言と反馳はなはだしきよりかれこれ心配中、岩本金兵衛という(七十六歳)チンバ老爺来たり、村長が県庁よりの伝命と京大の役人の言うところいずれが実なりや聞き正しおかざりしは不都合なりと怒り来たり候。この老人は神島伐採に第一に反対せし発頭人なり。よってとにかく村長より電話をもって県庁へ聞き合わしめしも知事は不在、次長にては何も分からず、全体、御行幸については今に何の御沙汰もなしとの返事なり。かれこれするうち十時前岡茂雄来たり話すうち、約束通り谷井君来たり、長話、二階で午飯後また話して三時に至るころ貴下よりハガキ一と服部氏より来状あり、しばらくして貴下よりの電信来たる。よって谷井氏に返電かきもらい出し候。ヨシと返事せよとのことゆえ、ヨシミナカタと出し候。
 服部博士の厚情、また貴下この程中の御尽力千謝万謝仕り候。事体を案ずるに、東京よりは県庁へ何の御発表指定もなく、京大および土地会社等の輩がむりに虚言を伝え、から景気を付けおることと分かり申し候。ところへ右の金兵衛老人またまた入り来たりしに付き、事由を示さずにただただ安心して帰るべしとすすめ返し候。
 まずは右御礼まで申し上げ候。委細は谷井氏明日貴地へ帰るゆえ御聞き取り願い上げ奉り候。    敬具
  粘菌信州よりの目録は明後二十七日までに送り上ぐべし。
 
          6
 
   山田栄太郎様
(480)              南方熊楠再拝
 拝啓。前日来令閨小生のために御黙念成し下され候効験灼然たりで、今日早朝より谷井《やつい》保氏来訪。この人は郵船会社の重役たりし。明治七年鎌田栄吉氏と二人十七歳にて県費(月に七円ずつ)にて東京へ留学、慶応義塾卒業、和歌山に自修舎を開き(右の県費賠償のため鎌田氏と交代に校長たり)、繁太郎氏は最初に貴虎《きとり》(楠本)武俊氏の手引きでこれに入学せるなり。只今七十三歳。咋朝来訪されしも、小生新庄村長および前村長と神島へ入山禁止の杙《くい》を打ちに行き候ゆえことわりしに、今朝また来訪され候。よって旧事を談ずるうち、午後三時服部博士汎太平洋会議にジャワに向かう発途前東京より状を出せしが着致し候。熊楠|事《こと》篤学の趣きかねがね天聴に達したるをもって、今回神島御上陸の際、御前にて説明を御依頼相成り候こと、との御事に候。このことは当湾御着の上供奉主任より小生へ命令さるるはずにて、それまでは誰も知らぬことなれども博士よりちょっと内意ありたるにて、御返事は小生より神戸の小畔四郎に発電し、小畔より下関通過中の服部博士乗船へ発電することに候。よって拝承敬諾の旨返電を出しおき候。めでたきことゆえ、旧老の谷井氏みずから返電を草し、出し下され候。繁太郎氏世に在らざるもその旧教師兼校長が執筆されたることにて、いささか令閨御厚志に酬ゆることとも相成り申し候。
 かようのことあるを知らず、一同からさわぎをなし、小生の鼻をたたき落としやりたるよう悦びおる者も有之。小生は一切口外せず、妻子下女までも口をつぐみおれば、その通り御承知にて、御夫婦以外へはさらに御口外なく、いよいよ御黙念を乞い奉り候。
 まずは右御礼まで申し述べ候。事すむまでは必ず一切御口外なきよう願い上げ候。かかることはいささかも漏れ候ては事が仕とげられぬものに御座候。         早々敬具
 
(481)          7
 
 昭和四年四月三十日夜十一時認、五月一日早朝出す
   上松蓊様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。その後大いに御無音に打ち過ぎ申し候。四月五日出御状杉山女状入りは七日拝受。御返事差し上げんとかかりしところへ上山英一郎氏(本県在田郡の人にて三百円ばかりを人に借り明治十九年除虫菊を栽え付け、それより三十三、四年ごろからおいおい発達し、今は欧米各国に支店をおき大財産を作りし人)来訪、いろいろと話に取りまぎれ、その翌日は大毎社の記者尋ね来たり、それよりいよいよ行幸一件に関し自分先年(大正元年)保留せし当湾神島へ御行幸のことに付きいろいろと事件生じ、今に一日も安きことなく、ずいぶん苦労致しおり候。その経緯は平沼氏まで申し上げあるに付き同氏に就き御聞き取り下されたく、また同氏へ今日夕方差し上げ置きたる拙書を御借覧願い上げ候。
 本日も新庄村長(新庄村内に神島あり)来たり打合せを致し候。京大臨海研究所は薄資にて寄付金集まらず。そは何たる研究成績が挙がらざるにより誰人も信頼を置かざるにより、当県よりも年々寄付すべき金円を次年に否決したるに候。それを今回御行幸あるに際し白浜土地会社や自働車会社が奇貨おくべしとなし、県吏に結托し(おそらくは知事までも。この野手という知事は近ごろ来たりしものにて、朝鮮に在官中何か不正のことあり、只今起訴中とか。県下にも物議多きゆえ、近日転任とか『大毎』紙に見え候。それゆえ行幸を前にひかえながら後日の地位を作らんため、水野錬太郎一私人として来遊せると同行し、那智山等に遊びおり、今夜和歌山へ帰る由)、二十四、五町の長き大道を禿山の上に開き海中に無用殺風景の石垣をつき出し、その地面を村より寄付せしめ、行く行くは会社の物と落(482)札のはず。さて臨海研究所は学生が沈思|考覈《こうかく》すべきに止まる所たるに、それを見世物のごとく自働車で馳せ参ぜしめ、実は白浜の旅舎などを繁栄せしむべき謀に御座候。御行幸の当日は郡村の小学生など五万人を招集し、二十五、六町の大道の両側に脆坐拝礼せしむるはずの由。この輩の坐るべきムシロ二千畳を和歌山より借り来たるが、置くべき倉庫なしとか。また大小便を如何するとの問に即答も成らず。万事不揃いのことどもにて、第一かかる二十五、六町の道を陛下が徒歩したまうはずなどと新聞へ今から書き立つるが、県庁へも知らさずに三使が検分に下られしほどのものが左様のことを洩らすはずもなく、もしかかることを洩らすものなら何とか記載を差し止めそうな物と存じ候。
 しかして本月二十五日服部博士ジャワへ向け東京出立の際出されし状は受け取り候。その朝ちょうど小畔氏を神戸支店に訪れ、小畔不在なりしゆえさらに船に就き面会、小生に神島で御案内御説明できるかを問い合わされしも返事をどこへ出してよいか分からず。幸いに二十分ばかりして小畔氏より電信来たりしゆえ承諾の旨小畔氏へ返電し、小畔氏より航行中の(門司に向かい)服部氏へ無線電信で通申し、さらに服部氏より在阪野口供奉長に通信とのことなるも、果たしてどうなるか分からず候。小生は御前講釈などは決して望むところにあらざるも、ずいぶん骨折って村民を説き勧め、一旦売却したる樹林を復買《ふくばい》し保存して、すでに枯れおりしワンジュをも再茂せしめ、禿山をも密林に化し、奇樹珍草多く波打ち際まで樹林が鬱生せること、紀州海辺百二十里の内にこの島の外に例なく候。それを京大側には説明者なしとの廉をもって、御行幸路次より除外するらしく、小生は田辺湾沿海諸地は京大の所有にもあらざれば、和歌山県としては神島に御奉迎申し上ぐるが当然で、ちょっとした仮御立ち場のごときは決して県費支出をまたず、南方研究所よりでも新庄村よりでも支出すべしと申しおるなり。しかるところ、このことにてかれこれ奔走、小生は神島視察に数回趣き入山禁止の杭を打たせなど致し、また、いろいろ珍物をとり来たり図記しおるが、県庁よりの指令が一定せざるゆえ不思議に思い、和歌山にある幼時よりの友人小笠原誉至夫(往年国会へ馬糞をなげ込みし人、今は白木屋顧問にて隔日に大阪へ通いおる)は岡崎邦輔氏親族にて勢力あるゆえ、この人を頼み、知事へ交渉中(483)なれども知事は何様身辺が危いから猶予して何たる決断なし。
 かくて不快千万でおるところへ二十四日朝七十余歳の大なる老人杖を曳いて来たり候。神戸の谷井というから知らぬ人と妻はことわる。小生はこの日も神島へ渡らんと衣を更えおるところでみずから出で面会せしに、もと郵船会社のロンドン支店長たりし谷井保氏なり。和歌山に鎌田栄吉氏と二人して英語学を入れた人にて久しく名を聞けどあうは初めなり。ことに『南方随筆』を読んで大いに感心したから来たといわるるから何とかくり合わせたく思いしも、新庄村長初め四人船を艤して海辺にまちおるから、止むを得ず明日白浜まで訪問せんと申し出だせしに、しからば、明朝また来訪すべしというて去られ候。さて神島の検分すみ、翌朝早く起き、よもや来るまじとまちおると、果たして谷井氏十時ごろに来られ候。その前九時までに岡茂雄氏も来らる。これは柳田国男氏風俗学の大御所などと囃さるるに大天狗を極め、少しく自説に違うものあるごとに異端と称えて没書とするを、折口信夫等憤り、一同連盟して一切投書せず、これがため『民族』は中止となり、勘定してみると欠損おびただしく、終に岡氏よりことわるような実蹟となり、名義人柳田は下村に勧められ、『東朝』の社会事相の記者となるということにて別れ候ようす。岡氏の弟も柳田方におりしが、柳田とはなれ今度洋行せしとのこと、これにて小生は民俗学の方ではまた復活となりたれども、すでに植物研究所の方にかかる上は、民俗学などは関係いよいよ薄くなるべし。これらのことに付きいろいろ協議に岡氏は来たりしなり。
 さて拙者の娘が料理の稽古かたがた午餐を調え、二階にて谷井、岡二氏に供しおるうち服部氏より状着、次に小畔氏より来電、またその夜は小笠原氏より来電。これにて大いに機嫌をとり直せしもつかのま、慶者室にあれば弔者門に到るで、右の馳走調え了りて拙女がバナナを食うてよりすぐ胸悪くなり、翌朝同氏出立せぬうちより打ち臥し今に頭上がらず、時として七?八倒し、また厠に行かんとしては仆れる。医学博士に見するに盲腸外に拳ほどの塊ができある由。まず短くて三週間全く動かずに臥さしむるを要すとのことにて、今朝ごときは妻が粥を二盃食わすとたちま(484)ち苦しみ出し、入院中の兄をよび逢わせよとか殺して救いくれなど望み、こまったものなれども小生は大事を前にひかえおり、また自分は天性音声高く、往ってかれこれいうと病者はいよいよ苦しむから行くこともならず、いろいろとあてにもならぬ神島のことに没頭致しおり候。要するに小生が六十四歳にして、今も二日に一眠して、研究も寄書も図説もなし得れば、妻子はその反比例に病弱なり。世間はそろわぬものに御座候。
 山田の妻信恵は幼少多難のとき小生が不断専念しやりし返礼この時なりと、一日かかさず行幸すむまでは、とにかく小生に事なかれと専念しおり候(これは写真にみえたる、小生四十二年前宿泊の夜明けに生まれた婦人)。小生は剛情なるものにて、かかる際にも宗教心はなきものか、仏神に祈請するという念は少しも起こらず候。ただし女など弱きものが自分のために無事を念じくるると知ったら、その女にあまり失望せしむるようなことは致さぬだけの斟酌は致し候。それがすなわち大いに益あることと存じ候。願わくは貴下も小生の無事ならんことを専念されよ。俗にいう「うまく行けばよいになあ」くらいのことで宜しく候。なお委細は平沼氏への状にて御覧下されたく候。
 何の面白くもなきことながら、まずは右申し述べ候。   謹言
 
          8
 
 昭和四年五月八日午前九時四十分書始め
   小笠原誉重夫様
                  南方熊楠再拝
 拝呈。只今小畔四郎氏(近海郵船神戸支店長にて、小生粘菌学第一の門人)より別書到達、よって服部博士より同氏宛ハガキと共に封入候。すでに用済み候上は御返却を乞う。(ことにハガキは保存の大必要あり。)
 前日釆のことどもは貴下もつともよく御分かりになりおるから、すでにこの上は力に及ばぬ由御断わりになりたる(485)に閑せず押して御頼み申し上げ候は、この状受け取り次第なるべく速やかに(大阪行きが後れても)知事公に御面会、このハガキを御示し下されたく候。しかして県庁へいまだ通牒なくとも、神島へ御上陸なく、ぐるりを御巡航の御事とならば、小生は神島にて御説明申し上ぐるはずに支度致せし同島のことどもを、どこかで委細御聴に達することに致すべく候。(すなわち服部氏のハガキに見えるごとく軍艦へ御召しになることとならば艦内にて申し上ぐることと致すべく候。)また県庁には小生が単に和歌山県諸学校より供覧の標本を小生が説明申し上ぐるよう心得おるように側聞するが、御内沙汰には先日写しを貴下へ差し上げおきし服部博士の指示にあるごとく、主として小生年来研究の成績(すなわち世界中に、小生が気付けることで誰も知らぬことども)数項と、陛下御特好の粘菌学上小生が発見せることども(これは、聖聴に達したる上、内外に発表出板するはず)数項と、(これは服部氏よりの指示にはなきも)さし当たり空々寂々たる学論でなく実際世間の広益なり利益を挙ぐべき本県産物の材料に付き、学者も俗人も気の付かぬことども数項を申し上ぐるが御沙汰の要旨にて、小生ももっとも望むところに有之。(貴下を始め県下の人々は、埒もなき外人の著書などの焼き直し、学説の受け売りよりも、小生独自の創見新論を申し上ぐるを望まるるは分かり切ったことなり。聖上また月並みな講義陳説を望まさせられぬ御事と察し奉り候。)
 付いては神島にて御聞き下さるるなら、当南方研究所よりいかほども標品と書籍(このことのために約四千円を諸友より給せられ、三月以来続々到着しおり、一昨朝もベルリンより二冊六百円の本が郵着せり。平生は貧乏なれど門人に義捐者多きゆえ参考書などは帝大になきもの多し)を神島へ運搬し、仮小屋に陳列するを得るも、軍艦へ御召しとなるとそうそう多くは運ぶことならず。故になるべくたけ携帯品を制限せざるべからず。されど必要な標本図書を携帯せずは、何一つ御進講はならず。ことに過ぐる昭和元年来たびたび御内沙汰を蒙りおれる(前年献上品以外の)粘菌小生および門弟の発見に係るもの等を御参考品に供するため、二百点ばかり郵便で東京へ送れば途中多少の破損は免れず。この際御じきに説明の上献上し軍艦で宮城へ御運び入れを願わんとす。(この内には米国などより※[図有り]これ(486)ほどのもの一つを千円二千円にて買いに来るもの多し。もっとも千円二千円は米国人にはハナクソ代なれども、小生に取りては大金なり。)故に御召艦へ召さるるとならば尋常の説明者と事かわり貴重なる携帯品をもちゆくことゆえ、県庁より特に注意してその旨を御召艦へ遺憾なく前もって通知し、携帯品の安全運搬に遺憾なく全力を致されんことを貴下より知事公および当該掛り官へ御請願、確諾を得おかれたく、小生はこの確諾あるにあらざれは当日御召しに応ずること能わず。(自身のみ罷り出たところが標品と図書なくては進講はできず。)(図書とは主として顕微鏡下の写生図に候。)
 服部博士のハガキの外に小畔氏よりの来状をも封入するは、東京その他には小生この御召しのことは従来例なきこととかにて多少の異議もあるようなり。しかし聖上御自身よりの御沙汰らしく、何とも動かすことならぬゆえ、服部氏は急に小生への交渉にとりかかりしごとし。小生はなにか頑固なる人々が聖旨には戻《もと》らずして一応小生に交渉し、さてこの僻地より服部博士へ返事の届かぬうちに服部博士は外国へ航し去るように取り斗《はか》らいしことのようにも推察せしなり。しかるに小畔よりの来書によればそんな隠謀なかりしことと知れ申し候。神島で進講ができれば、林中よりいろいろの物を生きたまま取り出し来たり、生きたまま御説明をすることができ、はなはだ好都合なれども、神島は海浜もあり、密林もあり、必ずしも林中に御立入りを要せず、小生は初めより浜辺にて御説明申し上げんと思いおりしなり。粘菌御親採は毎度なさるることにて毒虫をおそるるなら(この島毒虫なきゆえその symbol《標識》 として彎珠《わんじゆ》を尊び佩用せるなれども)、林中より粘菌の生えおる枯木を持ち来たらしめ、それより衛自採あるも可なり。
 それができずとならば御召艦へ参上の外なし。ただし御召艦にては神島よりも説明申し上ぐる時間がゆっくりするなり。また小生は船を何とも感ぜぬ男ゆえ、少々の風波にも参上を得。ただし携帯品なくては説明は全くつとめ得ず。故に上述ごとく御交渉を願うなり。交渉成ったらさっそく準備にかかるを要するゆえ、その旨御電報を乞う。また詳細の報知書を乞う。               早々敬具
 
(487)          9
 
 昭和四年五月十一日午前六時過
   山田信恵様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。昨夜十一時過ぎ和歌山より毛利清雅氏来たり、船より上りて自宅に帰らず、この宅へ来たり二時まで話し候。御巡覧地図および時間割入手す。毛利申すには、無官無位の小生御召しは前例なきことに付き、異議も少なからぬらしく、当日までその筋はきわめて秘密になさるることの由。
 しかして事すむまでは小生の言動に一つ一つ探偵を入れ、少しでも庇《きず》あらばそれにつけこみ難《なん》をいい出し、このことをやめにする謀りごとの由。よって当方大いに謹慎しおり候間、貴女も何とぞこのことすむまでは一言も小生のことは誰に向かつても御咄し出でなきようくれぐれも願い上げ置き候。
 昨日県庁より坂口と申す師範学校教諭来たり、県庁にては小生を奉迎総裁とかにして諸官吏ことごとく小生の指揮通りに働くこととすべしと発議ある由、そんなことをして小生を増長せしめ、さて、なにか落度《おちど》を見出だす謀りごとと察し申し候。この状は御返事に及ばず。             早々敬具
 
          10
 
 昭和四年五月十三日夜九時
   上松蓊様
                 南方熊楠再拝
 
(488) 拝啓。十一日出芳翰今日午後二時ごろ拝受。小生は為替金受領書さえ示さばこの金額はたしかに送り出したという証明書をくれるか、または reissue 再送為替証をくれるかと存じおりたるなり(すなわち第一回の送金為替いまだに受け取れずばこの第二回証に対し金を仕払えという)。しかるにいずれもくれずにただ不完全なドイツ文でかけあいしらべるとあつては不安心極まる。よって御送返の為替金領収証を証拠として前方へ送り、かの方の郵便局を調べもらわんと思うが、ドイツの小さき書肆などは何をするやら分からぬから一番便法として、今ここに封入再送申し上ぐる送金受領証を、御地にてなるべくこの大きさの写真にとらせ御送来願い上げ奉り候。写真科は御申し越し下されたく候。この地にてとらせても宜しきも、例の田舎の写真師は事になれず、幾度も幾度も小言をいわざるべからず。小生多忙にて外出し難きゆえ、取り敢えず御願い申し上げ候。さて写真と共に送金受領証は御送還を乞う。まことに御面倒千万なことばかりにて恐縮の至りながら、小生方妻がまたまた神経痛を発し、娘と二人臥しおり(娘は昨日より歩み得るなり)、かつ毛利、小笠原等いろいろと行幸の件に付き策動、しかるに昨朝加藤海軍大将よりの来状に、加藤は今月供奉して田辺に来るからその節面会三十二年前のことを語るを楽しみおる由を述べ、またその状の初めに、「過日拝謁の際、聖上の御詞《おことば》に南方の経歴を詳細御知悉遊ばせらるるを拝聴し、感激仕り候」とあり、故に服部氏よりの内沙汰を終結とし、この上の御沙汰はなしに、行幸の当日突然御召しになることと推察、それまで黙し慎んでまち奉るの外なしと存じ候。よって小笠原、毛利が大毎社にゆき、策動との電報(今日夕入る)に対し、右の情況を報じ、この上の運動がましきことを止めしめざるべからず。いよいよ多忙となり、電信の往復戦争と化し来たり候間、右何分小生の肩休めの一助として宜しく御願い申し上げ候。
 写真はなるべく自然大に願い上げ候。        早々敬具
  受領証はもっとも大切に片時も御身をはなさず、写真屋へ預けず、貸さず、必ず用すみてのち写真ともども書留にて御返送を乞う。
 
(489)          11
 
 昭和四年五月十四日午後三時半
   山田信忠様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。只今当町警察署長来たり、県知事よりの電話を伝えられ候は、
  二十六日 御前へ 熊楠を召さる
 右、公けの御沙汰を伝達相成り申し候。よってこの段御通知、連日御黙念の御礼を申し上げ候。
 いずれ新聞等にも出ずべきが、小生拝謁説明|事《こと》全くすむまでは、一切小生に付いて何も御話しなきよう願い上げ置き候。ちょっとしたことも訛転を称《しよう》じ、はなはだしく事件を生ずる惧れあるに付き、特に御注意願い上げ奉り置き候。        敬具
 
          12
 
 昭和四年五月十五日早朝
   古田幸吉様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。その後久しく御無音に打ち過ぎ申し候。
 今年三月五日、宮城内生物学御研究所主任服部広太郎博士、今月当地方行幸諸地下検分として先発、県庁にも知らさず当郡に入り、まず拙宅を訪われ、次に瀬戸岬なる臨海京都大学研究所に臨まれ候。次に四月二十五日もと日本郵(490)船会社重役谷井保氏(明治七年和歌山県より月七円ずつの給費生として東京にゆき鎌田栄吉氏と共に慶応義塾に入り、帰国後、英語学校自修舎を開きし人、只今七十三歳)来訪され、また東京にて小生の著書を出板する岡書院主岡茂雄氏も先夜より来泊、当方二階にて昼食後雑談中、ジャワの汎太平洋会議へ派遣の途次、神戸に立ち寄れる服部博士より、同地近海郵船会社支店長小畔四郎氏(日露役に宇品より車馬を渡せる有名な人で小生の門人)に托し書信あり。
  多年篤学の趣き、かねてより聖聴に達しあるをもって、今年五月貴地方御寄りの節、じきじき御前にて生物学上の御説明の義を仰せ出ださる。
とのことなり。さて、二十分ほどへて電報あり。
  田辺湾内神島(小生二十年ほど前、尽力して伐林をさしとめ、魚付き林として保存せる周廻九町ほどの島)にて御説明申し上ぐべし、諾否を返電せよ。
とのことなり。谷井氏これは無上の慶事なりとて、みずから返電を認め出す。拝諾と認む。さて、五月八日に至り、四月二十九日服部博士が上海より小畔氏宛のハガキを受け取る。門司より上海へ航海中、在阪野口供奉長より、熊楠はたぷん御召艦へ召さるるはずとのことなり。
 このことをきき、本月十二日野手和歌山県知事みずから拙宅へ来たり、二時間ばかり話し、午後和歌山市へ帰る。本月十四日午後三時、当町警察署長小川周吉氏当宅へ走り来たり、知事よりの電話を伝えらる。
  五月二十六日御召艦へ召さる、南方熊楠 委細はあとより文《ふみ》
 無位無官の者を御召艦へ召さるるは先例なきことにて、県知事や衆議員すら供奉艦に陪乗するも、御召艦へは小生一人限り召さるるなり。
 わが一門の光栄これに過ぎず。ことにじきじきの御説明を申し上ぐるは、無上の面目たり。よって小生はひたすら謹慎罷り在り候。
(491) 御説明の衛内旨は
 (一)本県植物分布大略
 (二)粘菌学上の御説明数条
 (三)小生多年研究成績の内、数条
 陛下は生物学の造詣ことに深く、なかんずく粘菌学にて御相手たるべきは、紀州の南方くらいのものならんと、今年一月八日の『報知新聞』に徳川義親侯の御話を出したるほどなれば、当日はただ一《ひと》通りの御説明を奏上するに止まらず、事により種々の御諮問に答え奉ることと拝察し奉り候。
 また今回供奉の一人たる海軍軍令部長海軍大将加藤寛治氏(福井県生れにて山本権兵衛伯の聟たり。三十二年前ロンドンにて交友たり。その時は海軍少尉)より書信を受く。久しぶりにて田辺湾で面会を今より楽しみおるとのことなり。その状の発端に、「過日拝謁の際、聖上の御詞に、熊楠の経歴を詳細御知悉遊ばせらるるを拝聴し、感激仕り候」とありし。先例なきことゆえ申し止めんと謀りしものもありしならんも、なにさま聖旨に出でたることゆえ、ついに小生を御召しとなりたる御幸と感佩の至りなり。
 長生きはすべきものなり。小生ごとき薄運のものすら長生きすれば、また天日を仰ぐの日もあるなり。小生は少時ことに尊父善兵衛氏に愛せられ、帰朝後、見すぼらしく浴衣一枚でふらつきおりし際も、尊父だけは小生を侮蔑されざりし。何とぞこの状を仏前に供え、御黙念中に御報告下されたく候なり。二十六日に無事拝謁すみたる上、一報申し上ぐるまでは御家内中にも一言も御話しなきよう願い上げ候。いわんや他人が新聞などに、小生のこと多少出たるを見て、何を聞くとも、一向知らず知らずでおし通し下されたく候。ちょっとした一言を誤り伝えていかなる間違いを生ずるも知れ難ければなり。事すみ候のち一度どこかで御目にかかるべし。          早々敬具
  親類中には木村増三氏と、貴方と、拙妻の妹、その外には山田氏の妻信恵女にのみ申しやり候。いずれも事すむ(492)まで口外せぬよう頼みやり候。二十六日に事すむまでは御書信おくり来るなかれ。
 
          13
 
 昭和四年五月十九日早朝三時過認む
   上松蓊様
                 南方熊楠再拝
 拝復。十五日午後九時出御状と御封入の三十二銭返却の局より通知証まさに受け取り申し候(十八日午前八時)。平沼令妹御婚儀の由、これ大慶至極に存じ候。
 聖上に御目にかくる品々の内に、前日妹尾にて発見の新属一種 Hiranumallagratiosa《意に協う》 Minakata は内々ながらこの婚儀を祝せる種名と御了解ありたく、そのうち御話し出し下されたく願い置き候。
 当方過日来大騒ぎの末知事が詫び状を送り来たり、またみずからあやまりに来たりなど致し候。去る十三日毛利小生の書状と服部氏のハガキおよび小畔氏の添状をもちて上阪、本山氏に示し、十四日に本山氏はこれは大事件なりと大毎社内に幹部の会議を聞き、毛利を電話で招きしも(毛利は生平より外出の毎度、行先を家内に語らざる癖あり。はなはだ不埒のことと毎度小生よりいえども聞き入れず)、例の情婦が行先を明知せざるため、何とも致し方なく、それがため不得要領にその会議は流れとなる。止むを得ず十五日午後本山氏は庶務課長西村真琴氏(理学博士)を代人として和歌山に派遣し、毛利に面会し、毛利を社長代理として小生方に行幸の節派遣し、万事を扱わしむることと致し候。その前後に本山は大多忙中、二回まで小生に書状を出し陳謝され候上、小生の指揮通りに万事することを誓い来たれり。小生は一昨十七日朝中に神島に関する写真をとりそろえ、中山慎次郎をして文里《もり》港にもち行かしめ、急(493)航船の事務長と和歌浦水上警察−毛利と連絡便にて毛利に渡し、毛利は直ちに咋十八日朝九時これを提げて上阪、本山に渡し候。二十一日にまた同様の方便にて神島に関する小生の原稿をもち上阪して本山に渡す。かくて聖上田辺に渡らせらるる直前一、二日ごろに三回ほどにこれを連載せば、聖上いよいよ神島へ御上陸の御思召し立ちあることと存じ候。しかし咋十八日朝到達、十五日出加藤大将よりの書信によれば、聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらるる御目的は、主として神島および熊楠にある由にて、加藤氏また宮内の方へ勧説《かんぜい》したれば、十の八、九はこのことかなうべしとのことなり。もっともこのこと極秘にすべしとかさねがさね注進され候。
 よって小生はこの上神島御上陸を強請がましきことはやめと致し候。ただ御召艦へ召さるることをのみ仰いでまちおり申し候。当地方および大阪の新聞には小生御召しのことは一切見えず。故に貴方においても十分口を御つぐみおられたく候。          早々敬具
  ますます多事になるに付き自然音信しばらく絶えるかも知れず、平沼氏へも右御伝達願い上げ置き奉り候。
  十六日和歌山にて小笠原を訪いしに華族ごとき暮しなり。拙女引きとり家族同様に見てやろうとのことなり。次に常楠をとい、標本等とり帰れり。夫婦あきれおれり。
 
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 昭和四年五月二十四日夜九時前
   上松蓊様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。二十日朝十時出御状は二十二日朝八時前者、小包一は二十三日朝八時着き申し候。外国為替証の写真まさに拝受、まことにもつて御面倒の段感謝し奉り候。本日朝九時ごろ、本山彦一氏、事業部長西村真琴博士、および法文(494)学士片山義芳氏と拙宅へ来たり、鯛の削り屑《くず》ごときものと銘酒大瓶二つ(これは小生不飲に付き、即時傍にありし川島友吉画師と喜多幅医士に贈り了りぬ)とをくれ、それより標本(進献粘菌、この内に貴下の羽後所集 Lamprodermacribrioides;Arcyria stipata;Hemitricgia serpla var.inaequalis 等あり)を見、粘菌の外にも菌数点とウガ(『続南方随筆』に出たる海蛇の尾に蝦が付けるもの)等あり、了つて小生と並んで撮影、また一同撮影。写真は毛利、写真師方にゆき、即座にその種板を封印し了りぬ(『大朝』その他よりとりにくるゆえ)。それより委細の状況を伝書|鴿《ばと》にて本社へ通信、このあいだ小生は大忙ぎで東京御発輦前に(これは小畔氏の策なり)、聖上の御目に触るるよう『大毎』へ当湾内|神島《かしま》の委細を写真入りで草し、第一稿をもちて午後一時片山氏急航上阪せり。それより本山氏は鉛山《かなやま》温泉へゆかれ候。軍用鴿は八疋もち来たり自働車にて遠隔の要地へゆき、片山外一名が放ち候に、一時間余にして本社へ達せし由電報ありし。拙邸前人群集して大騒ぎ、宅の向いの『紀伊新報』という新聞社は(拙児病中また前年鉄条網一件のとき敵方に参謀たりしもの)大呆れの体、なき顔に蜂で社長は黴毒で死にかかりおり、父は熱病か何か母は癌とかにて臥しおる。禍福はあざなえる繩のごとしでまことに気の毒同情に堪えず候。『大朝』は先年社長が一文も寄付しくれざりしゆえに、下村、杉村より加藤大将を引合いにしてなにかいい来ることさいさいなるも、一切その社員を拙宅へ入れず、大いに弱りおり。県知事は二十九日ごろまで小生御召の一条を秘するつもりなりしも、本山手を入れ、宮内省で確かに聞き出して二十三日に公けにせしなり。『東日』にも出たることと察し申し候。
 拙宅は賀状などまいこみ戦争のごとし。こまることは小生一人で睡眠少しもならずに働きおる。多用ゆえ右のみ申し上げ、併せて為替証写真の安着の報知致し候。         早々敬具
 
          15
 
 昭和四年六月二日夜十二時前
(495)   上松蓊様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。咋一日進講事すみ候。神島へは畠島(頼倫侯所有地、京都大学のもの陪従御採集)より前に御臨幸遊ばされ候て、この島にて小生のために特に脱帽遊ばされ候ことまことに恐懼の至り、御召艦にてほ三十五分ばかり進講、粘菌百十点献上、貴下の集品は五点ありし(羽後と湯檜曽《ゆびそ》)。
 拝領の御|果子《かし》(煉果子は五個、干果子は七個)、煉果子一つを別封小包書留で進呈致し候。(他三つは小畔、平沼、木村(小生の姉の聟)、のこり一つは五人に分陪致し候。)
 前日の外国為替払い渡し証は、何とぞ小生御召し進献品調査に付き緊要のものに付き、その事情を申し述べ料金はいかほど出すも宜しく、独文また止むを得ざれば英文にて認め局印をおしたる上、貴下をへて当方へ交付さるるよう願い上げ奉り候。払い渡し通知料を払いあるに、その通知なかりしことは不審の至りに候。このこと平沼君と審議の上宜しく御願い申し上げ候。
 
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 昭和四年六月七日
   山田信忠様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。去る一日首尾よく御前進講相すみ候段、貴女御黙念厚かりしに由ることと、難有《ありがた》く御礼申し上げ候。その節戴き候七個の干果子《ひがし》の一つを過日貴家へ差し上げ置き候。
  この七個の干果子のうち、一つずつくばりしは(この七つは十六葉菊花御紋章付き)、(496)   貴家、古田幸吉、永岡貞蔵(小生母の出でし家)、田村密雄(小生の妻の生家)、高田徳二郎(小生妻の従弟)、の五家に候。
  煉《ねり》御果子五個(十二葉の菊花御紋章付き)一つずつくばりしは、
   木村増三(拙姉の女婿)、(東京長者丸)平沼義太郎母堂、上松蓊、小畔四郎、この四人に候。
  のこりの二つの干果子と、のこり一つの煉御果子を分かち、組み合わせにてくばりしは、左の五人に候。
   喜多幅武三郎、脇村|高《たか》女(小生始めこの地に住みし時世話になりし家の娘にて、当地高女校長の妻なり)、須川寛得(拙妻の縁家にて、当地第一の歯科医)、金崎宇吉(拙宅長屋に住む裁縫師)、北島脩一郎(当地高女教諭、当日小生の随員)
 当日進講了りて御用船にて上陸後、小生夫妻マグネシウムを焼かせとりし写真は、そのうち一枚差し上ぐべく候。
 当日御召後艦内にて加藤寛治大将の御話に、過日同大将に贈りし拙書状のうち小生貴宅に泊りし前後の記(歌、句等入り)は宮内次官関谷氏一覧あり、面白き文だがいと読みにくき文字なりと仰せられたり〔六字傍点〕とありし。仰せられたりの一句より考うるに、御慰みに叡覧に供せしやにも察せられ候。このことはごく秘密を要することながら念のため申し添え置き候。
  小生進講の時、陛下と小生の間、三尺ばかり。陛下の次に岡田海軍大臣、その次奈良武官長、小生の次に鈴木侍従長、その次加藤大将、その次々に望月内務大臣、勝田文部大臣、ほか今二方ほどありし。小生の傍に侍従(野口、岡田等)三人立ちおりたり。
 明後日朝、小生門人小畔四郎氏南方研究所員として神戸県庁または税関庁にて粘菌およそ二百点を御覧に供するはずに候。小生は当日百十点をじきじき献進したるも、なお百点ばかり献進のはずに付き、只今すこぶる多事なり。よって右のみ申し上げおき候。
 そのうち一度参上、ゆるゆる御話し申し上ぐべく候。  早々敬具
 
(499)          1
 
 昭和五年三月十二日午前十時半
   白井光太郎様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。先日御頼み申し上げ候拙詠御叱正の儀、拙女子去年十一月より今に和歌山にあり、ようやく快方らしく、明日荊妻とともに、拙宅長屋に住む警察署主任とともに、帰るよう申し来たり候。これが帰らばまた自宅にて養生せしむる等々、いろいろと多事なるべく、到底自分思うように『二十一代集』をことごとく眼を通して後に、みずから刪正し、さて御叱正を乞う等のことは手が及ばず。よって至極の御笑い草ながら御答え申し上げ候。
 神島は二つの島より成る。旧暦月末には、潮満ちて二島が波のために別立するなり。図中イと印せる所に陛下御上陸、小生拝謁せり。当日は雨にて何の採集品もなかりし。しかし同年神嘗祭の目、この神林にて粘菌の新種を発見、はなはだ優美なるもの(紫色)にて、Arcyria Kannameana《カンナメアナ》 Minakata と命名せり。今年秋までにロンドンにて出板発表のはず。
 紀州沿海百二十里となす(志摩をも入るるなり)。その内、只今波打ち際まですきまなく密林はえ茂れるはこの島の外になし。しかるにおいおい諸方のもの乱入し来たり、ワンジュ(もとは甲の島のみにありしが、乙の島は明治十五年ごろ濫伐して神林絶無たりしを、小生二十余年村民とともに保護せし甲斐あり、只今は乙の島にまでワンジュ生え実《みの》り候)等を盗みに来る。近所に京都大学の臨海研究所あれども、この京都大学のものどもこそけ(500)しからね、土地の繁昌土地の繁昌ということをもって俗人の気をとることをつとめ、道路開鑿等のことにのみ口を出し、去年もおびただしく天然風景を損せり。しかして神島に少しも道をきり開かざりし小生の挙動を不審がりしほどの俗物どもなり。
  臨幸の二日前に県知事小生に秘密に村民二、三人率いゆき、甲の山頂まで道を切り開けり。聖上、この山は斧斤入らずと聞きしに斧斤入りあるにあらずやとの御諚にて、まことに恐れ入れり。後にこのことを小生より申し出でしに、宮内の官吏等、なにさま?劇《そうげき》の際悪疫が大阪に発生せしときのことゆえ、少々の過ぎたことは黙止してほしいと申し越し候。この島に道路を切り開きて大阪の悪疫が止むべきか。このことはなおおいおい言いつのりやるつもりなり。
 さればこの神林も今に何とか建碑くらいはなし置かざれば、おいおい侵掠さるること受け合いなり。よって小生より村長にいい、二十四本まで入山禁止の棒杭を打たせあるも、なお図中イの陛下御上陸雨中に立たせたまえる処へ石碑を立て、小生悪筆ながらみずから拙詠をかき付け、早く立ておき、今後不埒なことをするものあらば告訴しやらんと思う。かかることは気のさめぬうちに挙行せずば、ジャンになってしまうものなり。
  一枝も心してふけ時津風 天つ日嗣の………せし森ぞ
 風に対して一枝も折らぬよう心して吹け、天つ日嗣が親《みずか》らこの山上に参りてめでうつくしまれし神林なるぞ、という意味なり。天つ日嗣とするのが一番勢いありて、末世剛強の衆生を圧伏するに足ることと存じ候。
  右の………せし森ぞ、の………は、感賞ましませしという意なるが、小生近ごろ多難にて歌書など見ざるゆえ、辞《ことば》を多種知らず。登臨廻望賞美という意味をわずか二、三音で表示するところがことだま〔四字傍点〕の邦語だが、小生には多種多様の辞の心得がないからどうしても思い付かず候。何とぞ御審査の上御教え下されたく願い上げ奉り候。ただし小生はその御状を件《くだん》の島を掌る新庄村の役場または小学校に永く保存せしめ、小生この碑面の歌はかよう(501)かようのところから白井光太郎博士の教えのままに字を?《うず》めしということを、永々後代にのこすつもりに御座候。また新紙(『大阪毎日』等)にても公告しおくつもりに候。
 かかる詠は芸術として巧拙を歌いほこるべきにあらず。誠心が当座にそのままにいいあらわさるれば十分に候。故に右の教えを求むるは貴殿限りにてその他の人にはいかな名人なりとも教えを求めざるなり。
 右宜しく願い上げ奉り候。
 付白。上方にクヮリンとて盆栽などにするものは多くはその実マルメロの由、小生これを検せしに然り。さてこのマルメロはむかし渤海国より始めて入れり。故に今も仙台にてボッカイと申す由、増田有信と申し仙台の家老の後《のち》衰えてこの辺に流寓せし人の話なりし。この人は偽りをいう人にあらず。ただし右様のことなにか書籍に出でおり候や。
 貴著『植物渡来考』一二八頁、ヒナゲシ。「『大和本草』にこの草を出だせり」。別に初めて〔三字傍点〕出だせりとはなけれども左様に聞こゆるなり。小生知るところは中村  暢斎の『訓蒙図彙』に出でたるが『大和本草』より早しと存じ候。また寛永十九年板『鷹筑波集』五に、「李夫人に花ばしおるな美人草」重春。
 一三二頁、ゼニアオイ。これも『大和本草』より前に『訓蒙図彙』に出ずと覚え候。
 小原桃洞の生役の年月は、前日畔田氏の伝記ごときものを差し上げし、和歌山市|下町《げのまち》四二、山口藤次郎という人へ御聞き合わせあらば、さつそく申し上ぐべし。この人はこんなことが至って精しく、過去帳、戸籍帳等の写しをおびただしく所持致しおり候。前日の畔田氏の伝記へ何か玉詠でもやり下されば大悦すべし。小生も
  この記《き》では散って笑納《みいり》の畔田かな
と致しやり候。これは『焦尾琴』に、其角が駒形で禁制殺生の碑をみて、杜氏の「哀江頭」の吟によせて、
  この碑では江をかなしまぬ螢かな
とあるをまねしたるに候。
 
(502)          2
 
 昭和五年三月十六日午前十一時より書き始めしが来客あり、またいろいろ俗務多く夜の二時に書き了る
 十七日夜明けて出す
   白井光太郎様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。十四日出御状今朝八時三十分拝誦、歌の儀に付き御心添え難有《ありがた》く千万謝し上げ奉り候。天つ日嗣という語はいかにも不穏当と存じ候。また枝を鳴らすということはあれど枝を吹くということも耳に遠きようなり。時津風もこの地勢よりいわば沖津風の方が至当かも知れず。すべてについてはなはだしく心惑い申し候。しかして大体この碑は歌を芸術として示すものにあらず。英語で申さば commanding 制令的に威厳堂々とわけの分からぬ者どもを圧倒し去るべきものなれば、歌は上手でも本心に何の気概なき軟弱千万な輩に加筆しもらうべきにあらず。まだまだ間のあることゆえ、小生は一通り諸歌書を見たる上自分で精磨し、今一度御覧に入れ御意見を承るべく候。
 小生は和歌などさらに心得なきもの、
  本居内遠に拙母が所縁ありて、今もその弟子など多少存じおり、てには〔三字傍点〕の添刪くらいなら当県でもできるが、和歌を、書いたものとして鑑賞するならそれも宜しからんが、小生はそれよりも「議論より実を行なへ世の中の御国の大事よそに見る馬鹿」など吐き出せし、下手極まるながら思うことを思うままに強く書き出せしものが、この辺の剛強無慚の衆生に対しては有勢強力にひびくと存じ候。
要するに貴殿の御意見さえ承らばそれで十分に御座候。なにか一つ前例を見出だし得ば何とかなるべきも、只今多事多難に紛れそんなものを記臆し出でず候。
(503) 畔田氏に関する玉詠は何とぞ前日申し上げし山口藤次郎氏へ御贈りやり下されたく願い上げ奉り候。山口氏今度調べしに小生の亡師鳥山啓先生が畔田の遺族より借り写したる千介図とか申すもの、二十年ばかり前鳥山家の令嗣岑雄氏拙宅を訪れ候節は立派に札幌の同氏宅に保存せしが、人のすすめにより南葵文庫へ献納、しかるに震災の翌年南葵文庫を東大へ寄付相成り候節、これも東大に入り候儀と一同心得おりしに、いかなることにや六百円で売りに出し、只今は東京第一の大きな豆腐商の蔵となりおり候由。世間がこんなことでは大学へ寄付ということさえはなはだ不安心に御座候。
 御笑い草にちょっと申し上げ候。
 小生は七年来全く酒を止めおり候。酒をのまぬと頭は鈍になり申し候。しかし世間に対する過失というものを少しも生ぜず、酒の代りに時々きわめて異常な境涯にみずから進み入ると、また若いときのように脳が暫時にても鋭くなり候。つまるところ脳力が鋭くなると、往年の記臆力が頓《とみ》に再起し来るものらしく候。
  かくまでもかはりはてたる世にわれを松風の音《ね》の絶へぬうれしさ
 これは小生一昨年十月中句より去年一月四日まで当国最寒の妹尾宮林に籠居し、十一月上旬より三月中旬まで日の当たらぬ谷にてようやく山嶺が少し白むを見て今日は晴天と知るほどのことなりし。道傍の滝などは飛び散りながら凝結して不動明王の火?を見るがごとく、小生足悪きゆえ一歩もあるき得ざりし。一月五日、特に快晴なりしゆえ山さえ下らば氷雪はなきことと思い、午後一時急に思い立って、橇車の上に半臥し台板の両端を両手でつかみ、九十六町を四十五分間にすべり下りし。あまり烈しきゆえ中止を欲せしが、止まったところで足の立ち場なし。ただただすべり落ちぬよう心がけてとうとう下りはて候。さて串本という所より有名な日高川に架せる高きはりがね橋を渡るに、中途で立ち止まり前へも後へも動き得ぬを、これを笑いやるべしとて村中の男女百余人川畔に立って見る。川流をながめてこそ臆病にもなれ、川の表面さえ見ずば何事かあらんと、真向うのみ見つめて足速に歩を留めず渉し果て候。(504)それより串井峠とかいう山を越ゆるに、夏のごとく日照り暑し。肩をぬぎて越ゆ。五味という所へ下りしに、思いの外に道路平坦なるが鏡のごとく凝り光りおる。辛うじて五十町ばかり歩み唐尾越《からおごえ》という立山にかかるに、氷はりつめて夜も白き布を敷きたるごとし。五時より九時前までかかり、小生提灯をもち傘をつきて前に立ち、林務員年二十ばかりなるもの自転車に小生の小荷物つけ後より歩む。こんな所をわざわざ越えずとも、今二里ばかり平地を歩まば福井という所にて竜神往復の自働車に駕し、二時間ばかりして田辺へ帰り得たるなり。
 しかるに二十四年前川又官林にて、ただ一本マサキの葉至って小さく幹直上して一丈五尺ばかりまたは二丈ばかり高く、径二尺もあるらんと覚ゆる大木ありし。それを一枝とり帰り牧野富太郎氏に贈りしに、マサキカズラが木になりしものと言われし。どうも腑に落ちず。こは貴殿訂出の『本草図譜』二八巻一四葉裏に「コマサキ、形状ツルマサキに似て蔓ならず、特生なり」とあるものの大木と成りたるにて、マサキカズラとは別物と思いし。(マサキカズラは当国に多いが葉脈が葉表に凸起すること多し。この特生品は葉脈が尋常のマサキ同様葉脈が葉裏に凸起し候。)しかるに小生そのときとり来たりしは、わずかに一枝にて果や果梗の様子を十分に知る能わざりしゆえ、何とかこのついでに川又官林にその大木を尋ねんと志し、また一つは次に述ぶる旧知の跡を見るべく、志してこの難路を夜中越えたるなり。
 さて川又官林へ下りて(この唐尾越は上り五十町下り一里なり)、官舎を訪いしに、一同流行感冒で臥しおり、ようやく下女が夜間は自宅に帰りあるをよび来たり、七十六日めに始めて海魚を味わい白米を食って熟眠、翌朝起きて尋ねしに、前年マサキの大木ありし森は全く伐り去られ、その大木の所在地さえ分からず。それでは官林の他の方面を尋ねたところで果たしてその木が一本もあるかないか分からず。またかく悪病流行するに自分もこの不便の地で臥すようなことあらば不利と思い、小使いに小生所要の木のどんなものたるを示し、後日の捜索を頼み置かんとて画をかき示し、村中にマサキあるべしそれを取り来たれと命ずるに、直ちに近隣の人家の藩籬《まがき》にあるマサキの枝を多少と(505)り来る。それを見るに小生所要の特生コマサキごとき前年大木を見たるものと同一にてツルマサキとマサキの中間のようなものなり。(マサキのようなれども果梗は葉より長し。この点においてツルマサキに似る。しかし葉は円くして、ツルマサキの葉の長きに似ず。その他種々の点においてマサキともツルマサキとも異なり。また『本草図譜』のコマサキは葉長けれども、この木はツゲの葉のごとく円きゆえコマサキにもあらず。)よってこれは果梗が葉より長き点よりツルマサキに近きもの、まずはツルマサキの変種と知るなり。これにて多年の疑いを解き得、大いに悦び、花果などを後日採集して送らるるよう頼みおき、朝九時自働車にのり合わせ午後一時前塩屋浦に出で候。
 ここに小生のもと会縁になる羽山という医家あり。羽山大岳とて明治十一年ごろ七十五、六で死せしは、ことのほか筆の達者な人で、「彗星夢雑誌」とて七十冊ばかり、その他書き集めたるもの多し。ペルリ来たりし前年彗星現われ世間騒ぎしをきっかけに、見聞せしことどもを何くれと書き付け、明治二年箱館一件平治して、新聞ごときものも多少東京で発行さるるに及び筆を措きたり。その「彗星夢雑誌」は小生ことごとくこれを写しあり、機会を得て出板せんと思えど、ことのほか大部なものゆえ、すでに世に知れ渡りたることなどを除き、未知のことの条のみを抄出して近年出板せんと思う。そのころ菊池渓琴とて有田郡栖原に大なる商家あり、北海道および東京に出店ありて毎月何回と定まりて飛脚来たり諸方の異事を告げ来たりしを、渓琴より瀬見善水と申す日高郡江川村の代官へまわし、それよりこの羽山方へ廻せしをことごとく控え置きたるなり。大岳に実子なく、嗣子は夫妻とも親族より養いとりしなり。この嗣子は只今あらば八十六歳なるべし。はなはだよき人にて、病家を見舞うに人力車にのり行けば貧家の者は車夫への心付けをするに苦しむこともあるべしとて、老後自転車を習い、それより堕ちて中風を起こし頓死せり。
 小生この人の子、男五人まで相識なりし。いずれも稀有の美男にて性質温雅また才気ありし。長男は小生より一歳若かりしを小生すすめて東上せしめしに、湯島三組町の独逸《ドイツ》学塾へ入りし。ことのほか崛強なる体質なりしが、その塾長へんな人にて寒中に足袋を用いしめず。気候不慣れのためや風を引き、それより肺部を煩い、大学病院に入り、(506)帰郷して快方となりしが、小生渡米して三年ばかりして二十二歳にて自宅で死す。次男は兄よりも  退《はる》かに俊秀にて、小生渡米の告別にゆきしとき一泊し翌朝同行して和歌山へ帰り、川瀬善太郎氏等東上するに偕《ともな》い東上せしめ、関直彦氏世話になり、小生渡米後一年ばかりして第一高等中学校に入り、のち大学医学部第二年まで諸課百点でおし通したるが、才色双美の男にて女どもにも大いにもて、それらのことよりか、また肺病になり帰郷して二十六歳で死亡。三男は小生の亡父の嫂の生家たる医師に養子たり。これも相応にできるが卒業間際に死亡。五男は岡山医専卒業また京都大学を卒業したるが医師たるを好まず、生理学専門にて翹名ありしが、四男なるものが長男次男三男まで将棊倒しに死し了れるを見ておそれて発狂したるゆえ、帰郷して妹と二人で介抱中また病み出して死亡。六男も俊才なりしが、これも若くて死亡。四男のみ久しく狂しおりしが、京都で治療してほとんど全快し家を嗣いで昨年十一月まで生きおりし(四十九歳)が、十一月十六日に死亡致し候。これは亡父と同様中風なり。右兄弟六人の外に女子二人あり。この村の神社は九十九王子の一にて、古え塩屋王子または美人王子と称えし。その申し子ゆえか兄弟姉妹いずれも傑出せる美人なり。家が豊かに父母性質よかりしゆえ、歌舞風流大抵なことは京都その他で学ばせしゆえ、都会の人にあうも恥ずることなし。
 小生明治十九年秋渡米の告別を兼ねて、件《くだん》の次男を長男の代りに東京大学に入らしむべく東上せしむるため、和歌山まで同行すべくこの家にゆき一泊せしに、主婦が臨月なりとてさわぐ様子なり。それゆえ安眠ならず、二階の障子を開きて望めば、銀波明月を漾《うか》べて浜辺の松籟颯々として琴の音かと疑われ、景色の美しさ言うばかりなし。自分遠からず知らぬ外国に行きて幾年月の後また還り来たりてこの風景を見るべきと嘆息してとうとう眠らず。もはや暁近しと覚ゆる四時ごろ女児生まれたりとてさわぎ出す。長居しては出で立つことむつかしと思い、件の次男を促して早々辞し出で、例の清姫が蛇となりて渡りしという天田《あまた》の渡しまでいそぐと長男がおくり来たりし。長男は繁《しげ》太郎、次男は蕃《はん》次郎といいし。これはこの家の苗字羽山に因みて「つくば山は山しげ山しげけれど思ひ入るには障らざりけり」(507)という歌より付けし名と存じ候。
 さて天田渡しにて別れ、繁太郎が自宅さして帰り行きし後影を見たるがこの世の別れなりし。いまだ明けやらぬうちにて秋のことにはあり、おびただしき朝霧なりし。件の女子は小生出立の一時間ばかり前に生まれて名も付かぬうちに小生は出立せしなり。後に帰朝して聞けば信恵《のぶえ》と名づけ十五歳になりしと聞きたり(明治三十三年)。この娘十一歳のとき次男蕃次郎は死す。十七歳にて京都本願寺の女学校にありし時その父急死せり。それより帰りて五男、六男と二兄弟の死を介抱し、ことに第四男の兄が久しく狂せしをも母が老いて耄せしをもこの女一人で世話せし苦辛の程を見てかなしむ者多く、家勢は父の在日より衰えたるも界隈に古来有名なりし家の娘なれば、この辺で最も有力なる山田という家より懇望されて妻となり、昨年四十五歳にて六子を挙げあり。生れはよし、育ちも悪からず、長々災変を経て苦労せし者ゆえ世間の酸廿になれあり、実に見上げた女なり。その次が第六男にてその次にまた女子一人生まれあり。これはことのほか丈夫な女にて、去年三十七歳なりしが二十三、四に見ゆ。姉にまさりし美人なり。御坊町の大なる材木屋の妻となりあり。この男女の母生存中、一度小生が来て訪いくれかし、積善の家には余慶ありというに何の因業あってこの家の男子は六人のうち五人まで僵れ、のこる一人は精神病になりおるか研めてほしきことと、毎々人づてに言い越せしも、小生いろいろ用多くて行き得ず、神社合祀の反対など致すうちにその老母も死し候。しかるに一昨年、妹尾官林にゆきしは得がたき機会なれば、その帰りに必ず羽山氏の旧宅を尋ねんと申しやりおきし。さてこそ一月五日に夜をこめて氷雪中に七里ばかり歩みて川又官林に出で、それより翌日自働車で塩屋浦を訪いしなり。
 塩屋浦に到り見れば、むかし(四十四年前)見たるとは全くかわり、平沙渺茫の地が全く町屋立ちつづきあり、神林蓊鬱たりし美人王子の社は禿山の上に立ちあり。かくて信恵女が嫁しある山田方に到るに(山田はこのあたりむかし山田荘といいし、その山田荘の荘司ごときものの子孫が徳川氏の代に郷士となり、近ごろまで漁夫数百人を支配せし大家なり。今も数百人の飯を炊くべき台所数棟あり、大きなものなり。主人ははなはだ文雅の人にて、むかしの旦那(508)衆風の人なり)、主人夫婦まち儲けあり。長男門に立ちて望みおりしが、小生下車するを見て入りて報ずると、その母(信恵女)走り出でて小生の草履を去り、これは祠りおくべしとて執り持ち去る。(小生おりし妹尾には草履なし。九十六町下の串本という所にてようやく二足を手に入れし。一足を腰にまとい、一足をはきて氷雪の上を七里ばかり夜行せしになお敗れざりし。後に見ればこの草履ははりがねを伏せて作りありし。)生まれて一時間ならぬうちに別れたものに四十五年めに面会することとて、いわゆる先立つものは涙で、その夫も小生告別に来たりしころ門辺に雨中に蟹のごとく遊びおりし五歳ばかりなりしものなり。夫妻とも小生を見て款待限りなし。
 やがて主人の従兄塩路清吉も来たる。これは前年天蚕のことで貴慮を煩わし、佐々木博士へ御紹介を願いしものなり。塩路いわく、妻木直良師(これは前年柳田国男氏宅にて故山中笑氏と出会いしに貴殿も来合わされしことある由話しあり)、前年来病気にて陸軍大学を辞職し、当国湯浅町に住職たり。和歌山高等商業学校へ一遇に二回とか出張し、また月々二 二回この塩屋の川向かい御坊町へ来たり説教す。今夜説教の夜に当たれるゆえ只今来たりあり。昼間も一席を講じ、前年田辺の南方氏を訪いしに、『涅槃経』の冥界に衆生生まれんとするとき娑婆界に衆生死せんとす、娑婆界に人一人死にかかりてまた蘇生すると冥界には衆生一人生まれかかりしがまた生まれずと見る、という義を粘菌の原形体と胞嚢体との生死交互相反するの義に比べて説かれたるは、はなはだ妙味ありしとて講演最中のところへ、当家(山田)より電話かかり南方氏来着といい来たりしゆえ、講演中の妻木氏に向かい、その南方氏は只今ちようど塩屋まで来着といいしに、しからば自分も訪問に行かんとて即座に講演を停め、今自働車で走りくるとのことなり。
  妻木氏はもと在田《ありた》郡栖原の善無畏《せむい》寺とて明恵上人の立てし寺の僧にて菊池渓琴と毎度唱和せし有名なる詩僧石田冷雲の孫なり。冷雲は大酒にて中風で死なれし。木下藤三郎など冷雲の遺弟今も多少残せり。
 かくいううちに妻木師他の二僧つれて来たり、夕七時まで話して去る。その夜山田夫妻と話す。妻は小生の側《かたわら》に(509)死したる二兄ならび坐したるごとく見ゆるとて泣く。小生は七十五日も氷中(零下五度)にありしこと、また芋と大根のみ食いおりしことゆえ疲労はなはだしく、その夜はわり合いに早く臥し、翌朝起きて美人王子の社に詣る。山田夫妻同行す。朝十時ごろなりしと覚ゆるが、当日曇天にて海辺に霧はれやらず、四十五年前に見た通りの老松はそのまま連なり立てり。
  かくまでもかはりはてたる世にわれを松風のねのたへぬうれしさ
 それより信恵女の生家羽山氏の邸に入るに、四十五年前と少しもかわらず。当時一尺ばかりなりし五葉松が八尺ばかりにのびあり。玉蘭、クマタケランなどそのときのままに今も生えおり。ただ椽さきにありし夜落金銭のみは尋ねしも誰もそんなものを記臆せずとのこと、この草は只今日本になきにや、前年薩摩にありとのことで松崎直枝氏が種子を求められしも今はなき由、小生今年英国よりとりよすべければ手に入ったら多少差し上ぐべし。
  忘るなよとばかり言ひて別れにしその暁のけさぞ身にしむ
と書いて繁太郎の霊前に供えしめ、山田夫妻、山田の姉妹および従兄(塩路清吉)、山田の妻の兄(羽山家の第四男)および妹(中川|季《すえ》という、この辺で女子連なり生まるるをきらうときは禁厭の意で桐(切り)、留、季などと名を付ける)および山田の子供六人、中川の子供二人、計十五人、小生ともに十六人ならびて写真をとる。小生は顔面ひげばかりにてアイヌのごときを、川又官林の吏員など、途中で怪しまるべし理髪師を役所へ招き剃り除いては如何といわれしが、あまり珍しいから山田の夫婦に見すべくそのまま来たりしなり。小生は除外として一家みな田舎の人としては立派にて、この写真は『大阪朝日』へも出せしことあり。諸方より望まれ候。
 写真し了りて山田家へ帰る。
  此《これ》程《ほど》の氷はここでとけにけり
 中川季女(山田妻の妹)、その日午後夫が大阪へゆくに付き、子供のみ留めて自分は御坊町へ還るに、
(510)  中川の末永かれと祈るなり
 翌日は一月七日で、この辺の風として正月の神棚にかざりし餅と芋を味噌汁で煮て一同くらう、福沸《ふくわか》しと申す。『華実年浪草』等を見るに、地方により七日にする所と四日に行なう所とあるように候。この朝山田家の子供六人と中川氏の子二人を小生の前にならべ、一々名を告げて小生に引き合わする。平忠盛糸我峠の故事を思い出でて、
  芋が子は押し合ひにけり福若し
 二夜と三日この家に泊り牛肉など食い身体やや元気を復し、一月八日の夜田辺行きの自働車にのり帰宅致し候。その少し前に塩路氏に托し御坊町より葉山に僑居する吉村勢子に餽《おく》る。(吉村勢子は亡友平沢哲雄が自由結婚せし妻なり。『時事新報』に小説など書きたる当世風の女なり。平沢氏の姉が三土前蔵相の妻と存じ候。平沢氏震災の翌年パレスチナ等に遊び帰国してすぐ熱病にて死亡、三十歳ほどなりしと記臆す。故に吉村女史はそのころ二十六、七ならん。平沢氏の子を孕みおり、夫死して数月して子を生み、只今七歳か、その子を守り葉山の別邸にすみ、裁縫、茶、三絃など教え自適しおると承る。)
   吉村勢子より便りして妹尾の山居は如何と問ひ越したりけるに
  わが庵は奥山つづき谷深く軒端に太きつららをぞ見る
 小生二十五年前川又官林に遊びしときも、今度妹尾官林に罷りしときも、『源氏物語』をもち行き時々読みしゆえ、かの物語中の大抵の和歌は暗記しおりたり。さて帰宅の後一向見ず、俗事多く家累|連《しき》りに到るゆえことごとく忘れ了り候。氷雪だらけの山路を夜行する折などは酒に酔いしと同じく脳力はなはだ非凡に働くもので、いろいろの記憶がキネマを見るごとく続出致し候。今となって思うに、右に申し述べ候歌句などは、氷路夜行中にしばしば滑りながら(一足誤れば深谷に陥るなり)、夢中になり、不知不識《しらずしらず》準備腹藁ができたるものと察し候。右の
  かくまでもかはり果てたる世にわれを松風のねのたへぬうれしさ
(511)は「松風」の巻に、明石の尼公が夫に生別して大井の旧荘へ帰りて、
  身をかへてひとり帰れる古里に聞きしに似たる松風ぞ吹く
と詠みしとあるより案出したものと今さら分かり申し候。他も大抵そんなことなり。
 当地付近八上王子へ西行が参りしとき、
  まちきつる八上の桜咲きにけりあらくおろすな三栖《みす》の山風
 これらただ現場目睹したるままを述べたるまでなり。小生はこのごとくさし当たり感じたこと思うことをそのままつらね出すが和歌の本旨にて、加茂真淵が謡曲の仮名遣いを直したり、誰かが頼政の歌はしひ〔二字傍点〕としい〔二字傍点〕を混じたりと難じたり、老ひらく〔四字傍点〕の来るというはさらさら心得がたしと譏ったりするような穿鑿をしてよんだ歌は、気ぬけしてしまうことと存じ候。蝦蟇を食ったらうまいからとて、天皇に向かい汝もこれを食えとすすめたる国※[木+巣]《くず》山民などの歌を、後世まで目出たき例《ためし》に伝えたるは、そんな穿鑿を重ねたればとのことにあらずと思い候。
 英国のある学者に聞きしに(誰なりしか近ごろ記臆悪くて忘失せり。ただし学者というものはよく人の言を自分の言のごとくいいなすものなれば、その学者の名を知りおりてもつまらず、要は名言と思わば誰の言なりとも服膺すべきなり)、書籍を引用するに第八板、第九板の追加増訂の重なりたるものよりも、初板を引くが式正とのことなりし。その書が他人の言をかき集めたものならばともかく、何板をへても大体の主張議論はかわらぬはずなれば、むしろどれほど早くその著者にはこれほどの見識が立ちおりしということを示すためなりとのことなりし。されば巧拙は芸道上のこととして、所思所感をのべた歌句なども、他人の添削をへたものよりは、まずいながらも自分が作り立てたるものを第一と立つべきことかと愚存に候。その者はそれだけしか作り得ぬということを明白にするわけになるなり。
 右の妹尾行きより帰り路の記事は、記臆のままこの通りの悪筆を走り書きし、旧友にて貴殿と同県出身の加藤寛治大将へおくりしに、その筋へ披露あり、面白き手紙だが無類に読みにくきものと御沙汰ありしようなことを、旧冬大(512)将より達せられ候。蟻のいきさえ天上するとはこのことと、件の信恵姉妹へ申しやりしに内々悦びおる様子。御臨幸の設備の件に付き県知事の仕方小生の気に入らず。それらのことより知事自分、拙宅へ二度来たり候。そんなことから当日小生何ごとを仕出だすやら自分でも分からず。大事のところゆえ、件の二女に申しやりしは、こんなとき人は神を祈る、われは労苦してこの辺の神社神林を多く保存しやりし者なり、みずから守ることすら能わざる神に何ごとをか祈らん、それよりも四十五年めに初めて会いし者がへんなことをし出だしては二女性の大きな面汚しともなり、死んだ兄どもも知ることあらば大いに煩うべければ、当日汝ら二女は絶食してまでも予が進講無事に済むことを念じ心配さるべし、しからば予も汝ら二人の面目を保たんがためにいかなることあるも辛抱して事をすまさんといいやりしに、当日二女自働車にのり当湾外の海岸に来たり、御召艦長門が出立するまで遠望して、もはや事すめりと思い定めて夜分に塩屋、御坊まで引き上げし由に候。
 そこで小生貴殿に折り入って願いあり。小生右の一家族と写せし写真を送らすから(この写真は御一覧後捨てられて宜しく候)、生まれて一時間経ぬうちに別れた者が、四十五年めに再会したのを題として一首御かき下さらずや。それは山田家の至宝として永存すべきに候。これは必ず夫妻も大いに喜ぶことと存じ候。
 羽山家の第四男は久しく精神病者たりしがおいおい平治し、家伝の売薬を売り弘め、一万円ほどの身代にてどうかこうか暮らしおりたるが、昨年七月ごろ中風を発し、また多少精神病も起こり、十一月に死亡致し候。十一月十六日の朝三時より五時の間に小生二階に独り臥しおりしに、この第四男(名は芳樹)畳の上に直立す。電灯を見るにこの男の影で電灯見えず、横顔のみ見えて黙しおる。眼を閉じ神を鎮めてまた開くに依然見ゆる。五、六回も左様にてそのうちに小生は眠り了る。夜明けて鏡検に多忙で打ち紛れ、このことを忘れおりしが、午下《ひるさがり》庭園の方やかましきより椽先に出でしに、下女ら、安藤ミカンとて当町に限り生ぜし、旧幕時代には当藩外へ出さざりし、始終酸味の少しもなき大なるミカンが、今は拙宅にのみ三本高さ一丈−二丈の大木あり、その実を下女らが集めおる。それに付けて今朝(513)枕頭に見えし人のことを思い出し、七月に中風起こりしと聞きしが如何なりぬらん、そのミカンは珍しきものなれば送りやるべしとて一箱につめさせ、ハガキとともに発送せり。さて三時五十分にその妹(山田氏妻)より電報著、「羽山今日死去、信恵」とあり。妙なことと思い死去の時間を問いにやりしも、羽山の家は妻が去年死し夫が今月死し、旧家絶滅せしことゆえ取り込みはなはだしく返事なし。月末になり山田氏の従兄塩路(前年御目にかかりし者)へ問い合わせしに、十一月三十日にやつと返事着く。芳樹は十一月十六日午後〇時三十分死去と言い越せり。すなわち小生下女らがミカンを拾うを見て羽山へおくるべく荷物の箱を買いにやりし時なり。されば人死するとき遠方へ像を現ずるということが実にあるにしてからが、息を引き取る時に現ずるにあらず、死する前およそ六時間に(この例に限り)現じたことと存じ候。それは死する前六時に、六つのときに別れたる小生にその年の一月に四十五年めにあいしことなどを思い出し、いろいろ思い運らしたる一念が届きしほどのことと察し候。
 小生は生来脳力がへんな男なるも、いろいろとみずから修練して発狂には至らざりし。また霊智の不思儀のということは一向信ぜず。ただ科学的にこんなことを何とか研究して些少なりとも物心関係の次第の端緒を知りたく思う。したがって少しも参考になりそうなことはむやみに嘲笑排斥せずに両端を叩きおきたく存ずるから、これだけのことを記しおき、後日これに似た目にあう人の参考に供せんと欲す。死前に像を現ずるということ学者の輩出するスコットランドの一部などには、わが青森県の一地方と等しく、ほとんど尋常事のごとく信ぜられ、英国学士会員にしてこれを確信するものも多少あり。小生は生来一向そんな目にあわず、六十三歳の去年初めてこの一例にあえり。みずから睹《み》たること、また蜜柑を送らしたるとき、家人と今朝かくかくの次第と話せしを聞きたるものも一人に限らず。日記にも記しあり。死去を報じ越したる電報も保存しあり。死去の時刻を報じ来たれる信書もあり。かたがた羽山の一家と小生は他に異なれる縁のあることと存じ候。
 紀州にて(那智)リユウビンタイは小生明治三十五年末創見せり。このことは『南方二書』にものりあり。しかるに(514)その後二十余年へて新宮のある学校教員が見出だせしよう吹聴せしゆえ、小生は『南方二書』を小島烏水氏が『山岳』という雑誌へ載せたるを証として注意せり。しかるに近ごろ牧野富太郎氏説というを聞き伝うるに、『本草図譜』にリュウビンタイの図あり、紀州に産するということ見えおる由。貴殿はこの書を出板されたる方なれば知らぬはずなし。『本草図譜』の第何巻第何枚めにその図出でありや、御教示を乞い奉る。
 本状あまり長くなりしゆえ、これにて擱筆。拙女子盲腸炎は平治せしも胃が悪く、かつ今月に入りてより連日風波烈しく病後のものは乗船叶わず、したがって今に帰り来たらず。小生は脚は大いに快方なれども妻も娘も不在ゆえ俗務多く、こまりおれり。悴はもはや精神病五年に渉り入院後ほとんど二年なれども少しも快報なし。月々二百円入り来たりしが、物価落ちしゆえか、このごろは百七、八十円ですむ。しかし、ずいぶん重き負担なり。その上娘がほとんど一ヵ年病みたるゆえ五月中小生は無一文で暮らさざるべからず。(六月にならば多少金ができる。)こまったといえばこまったながら、書籍や標品を見ておるといろいろと案じ付くこともあり、無間地獄に墜ちてさえ多少の快楽ありということを思い出してその日その日をおくりおり候。
 また一つは何とかして神島を名勝天然保護物としてほしきことに御座候。小生主として保存し来たり、当湾辺にてこれほど今まで完全に保存したるものはなきより、一種の?心よりいろいろと不埒なことを起こさんと巧むもの、行く行くは輩出すべし。これを天然保護物としてもらうにはいかなる手続きを要することにや。なにかその辺の規定書でもあらば御示し下されたく、願い上げ奉り候。     早々敬具
 三月十七日午前二時書き了る
 
 紀州本草家のことは小原、畔田両氏の外にあまり承り及ばず。小生の恩師鳥山啓先生も実に多能博学の人なりしが、何たる著書等はなかりしようなり。もっとも写生図などは多かりしが、南葵文庫へ大抵寄付したらしく候。今も多少(515)は残りある由。田辺には石田という人ありし。小原氏の門人なり。その子孫つまらずして一昨年遺書を売らんとせしを、親戚に保留しあり。多くははほん〔三字傍点〕となり、纏まったものなし。前刻来客あり、その話に、当町の商家脇村市太郎、去年ごろ東京へ上り、三、四間長さの麁なる彩色の一巻を買い帰れり。『紀州産物図』とか題し、伊勢の某所より始めて和歌浦に至る間の物産を記し、一地ごとに二品ほどずつの図を出せり。田辺よりはハマオモトとヤマアイとを図せり。太地浦は鯨類とのこと。『紀州産物図』と題せるを見て何心なくかい帰りしが、帰来その印章をしらべて木村巽斎の画またはこれを写せしものと分かりし由。このことを話せしものはまのあたりその絵巻を見たるなり。
 小生明治三十三年帰朝して和歌浦の愛宕山という山寺に二月ばかりおりしことあり。住僧は八十ばかりの至って堅壮な人なりし。小林歌城など知人にて和歌を好みし。この人津田正臣(津田出の弟)に随い、しばしばそのころは行通《こうつう》不便なりし鉛山《かなやま》の湯に遊びし。途次田辺の文人中田熊峯の子(名は忘る。拙妻の縁者にて小学教師たりし)の方に立ち寄り、蔵書などを見し内に、蒹葭堂の『熊野行記』二冊とか薄紙《うすよう》とか竹紙《ちくし》とかに至って細字にて蒹葭堂自筆せしものがあり候。富人のことゆえ、画手、その他多くの人数を従えあるきし様子にて、所々に画を入れ、行程より産物その他名所旧蹟何くれと委細に記しありしとのことなり。小生明治三十七年当地へ来たり、中田氏の子(熊峯の孫)にあい心安くなり、このことをいい出し家内を隈なく捜索せしめしもついに見出ださざりし。この人年若く、無学にて何の気も付かず、人に貸し失いしことと察し候。右の『紀州産物図』はその『熊野行記』に副えたりしものか、または『行記』の内、物産に関することどもを抄出したるものかと存じ候。かかるものもはや御聞き及びにや。もし御望みならば先刻このことを小生に語りし人は脇村氏へ便宜あるゆえ、ちょっと借り出して一部を写真にとらせ差し上げても宜しく候。また一、二枚見本として写させて差し上げても宜しく候。
 この外に当県に関する本草家とか、物産家とか、また著書とかいうものはなきように御座候。またあったところが既刊の世に知れ渡りたる書よりの抄略くらいのもので、見るに堪えたるものはなかるべしと存じ候。
(516) 筆末ながら、『植物渡来考』七八頁、トウキビ。「日本の書にては林羅山『多識篇』に見るを始めとす」。これは楢林長教の『室町殿物語』に出る方が早しと存じ候。三好、松永が京都で政権をとりしころの京都の様子を記したるに、トウキビを柱にしたる家多かりし由出でしと覚え候。前年柳田氏が出せし『民族』という雑誌へ小生出し候。只今見出だし得ぬが倉中にあり、御入用ならば写して差し上ぐべく候。ただしこの『室町殿物語』というものが元禄ごろに楢林の家蔵の三好、松永ごろの日記を取捨編成せしものといえば、正しく三好、松永当時に書きしものやら、後年編者がトウキビと書き入れしものか分からず。
 一二四頁、秋海棠。三好博士か松村博士これを那智山でとりしことは、当時『学芸志林』か『植物学雑誌』で読みたり。小生明治三十六年七年八年とつづけてこれを那智山の一の滝下の人跡絶えたる絶壁にてみずから採り、今も標品を保存す。家に栽えるものとかわり、フキほどの大なる葉にて高さ二尺または二尺五寸または三尺もありぬべし。衆草の間に生え、他の草に依ってわずかに立ちおり、根よりひきぬきに、三、四町もち走るうちにしおれしまう。花は白色がちにて、きわめて淡紅、はなはだ見事ならぬものなり。どうもこれは野生らしく候。ただし在来の野生か、また feral 家栽品より野に遁れしものかは判らず。とにかく家栽品とは大分かわったものにて、キリシマ、アヤメ、芭蕉、ハクチョウゲ、タマノカンザシ等家裁品が遁れてはえつづきおる品々(多くはもと小庵のありし跡および付近)と異なり。図中※[図有り]を以て示せるところどころに、『本草図譜』一二巻に出たるイワガネまたコアカソ、川楊等密生す、その間に散在してはえおりたり。花色白に近くはなはだ目につきがたきものなりし。今もそこを探らば少少はあるべし。人の行き得ぬ所にて、小生一の滝下よりその所にゆき(Hildenbrandia rivularis なる、地衣のご(517)とく岩に固着せる紅色藻をとりにゆき)、ィ、ロなる街道(当時新開の)に上るに手がかりなく、わずか二、三尺の所を上るに二時間ばかりかかり、まことに迷惑したり。落つれば頭を砕き死して、容易に?末は人に知れずに終わりしことと存じ候。また、なにかの書に下野に高さ八尺とかの秋海棠多く生える所ある由書きたるを見たることあり。これは何かの間違いならん。右の小生自採の秋海棠標品は見当たり次第東大にでも失わぬうちに寄付致すべく候。必ず和歌山の自宅にあるなり。
 二一七頁、キリンカク。『昆陽浸録』、「近年琉球より来たる、云々」。この書は元文中撰びしを再校して宝暦十三年出せり。それより早く『槐記』に、「享保十年五月十七日、このころ御尋ね申し上げし天竺物麒麟角という物御覧に入る。まずキリンの角さえ可笑しきに、天竺物とは何ごとぞと大笑いなさる」とあり。
  これはあながち笑うべからざるにや。仏経に犀を麒麟と訳せるもの多し。独覚に独居絶俗するものあり、麟誉独角と訳しありしと存じ候。しからば天竺物麒麟もおかしからず。
 一九四頁、椰子。『和名抄』に見えたる海觸子、夜之《やし》と訓せるがこれならん。椰子を支那で越王頭と申し、またマレイ人、パプア人、マンガイア人等みなこれを人頭顱の化せるところとす。眼と口のごとき穴三つならべるゆえなり。これは大正十五年七月刊行『民族』一巻五号に、「椰子に関する旧伝一則」と題して出せり。さて近日『続群書類従』七九五の『東大寺勅封蔵開検目録』を見るに、「木地厨子一脚、納、下鞘一具、云々、海?子口」とあり。もと海髑子一口とか二口とかありしを、口字の上の数字を脱し、髑字を?と誤写せしと存じ候。今も正倉院御物中に椰子の器ありや知らざれども、海髑子なる語が崔禹の『食経』にありしといえば、そのころ支那のある地方で椰子を海髑子とよび、南越や南蛮人の語を信じて椰子を髑髏が化せるものと信ぜしを、日本にその殻も話《はなし》も伝えながら、椰子を訓としてやしと呼びしことと存じ候。このこと誰も気の付かなんだことと存じ候。
 まずは右のみ申し上げ候。『妖異考』にもおびただしく書き入れ書き加え致しあり、これはまた後日申し上ぐべし。
(518)  すめらみことの めでましし森ぞ
  わが大君の   同上
 いずれが宜しかるべきか。また、めでまししをめでしし〔四字傍点〕と約《つづ》め得ることに候や。貴慮御示し下されたく願い上げ奉り候。小生もなお作例を多く見たる上、なんとか再構致すべく候。
 
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 昭和五年三月十七日午後三時
   白井光太郎様
                 南方熊楠再拝
 拝復。十四日出芳翰今朝八時十分拝受、いろいろ用事多く只今拝誦感佩奉り候。御示し下され候三首の内、
  沖つ風心してふけこの森は すめらみことのめでさせし森
が一番穏やかに聞こえ申し候。しかしながら、それでは小生の作でなく貴殿のものとなってしまうから、相成るべくは小生原作の結構のままに斧正を得たる第二首、
  一枝も吹きな荒らしそ沖つ風 すめらみことのめでさせし森ぞ
を彫らせ申すべく候。日本の詞法と西洋の詞法と一概に申すべきにあらねど、「めでさせし森ぞ」にては、かつて一度御観賞ありし森ぞとも、御観賞すみたる森(ある国語では、至尊が過去世にましませしこととなる)とも聞こえ、どちらとも分からぬ嫌いなきにあらずと存じ候。
  今上天皇が一日観賞したまいしとも、ある天皇がその御在世に御観賞ありしとも聞こえるよう存じ候。(過去の世に斉明天皇御在世中にこの辺へ臨幸ありしなり。)
(519) 故にこのことを分かつ必要上より、
  一枝も吹きな荒らしそ沖つ風 すめらみことのめでます森ぞ
で如何に候や。今上天皇は去年御臨幸の日より今もめでます(めでましたまう)という意なり。ただしめでます〔四字傍点〕などいう詞ありや。小生はこんなことに一向注意せざるゆえ、事々物々容易に分からず候。
 なお小生右の斧正を土台として、とくと作例を多く取り調べ見るべく候。このことは大いに感佩、御礼申し述べ上げ置き候。
 次に昨夜認め今朝さし上げたる状に申し上げし羽山一族と小生と四十五年めに再会の写真に、願わくは玉詠一つ賜わりたく候。前状申し上げしごとく、羽山の家は断絶致し候も、メンデル法則の実例で娘二人は至って健在しおり、その子女も八人まであれば、その内一人を撰み羽山の家を継がしむるなり。古ギリシア、古支那とかわり、本邦には友道ということあまり篤かりしように思われず。この家の兄弟みな小生を力にしおりしも、小生久しく海外にあるうち五人まで死にはて、娘のみ二人のこり、今にいろいろと小生に相談をかくるなり。これらの点より、なにとぞその家の系図だけでも持続するよう計らいやりたく、延喜《えんぎ》直しに玉詠を得て家宝とさせやりたきなり。御承諾あらば写真をおくらせ申すべく候。玉詠すまばその写真は捨てられたく候。
 小生羽山の旧宅をみるに、井戸を全く壁をもってとり囲みあり、塵が入らぬ防ぎと見え候。しかるにこれでは日光と風が少しもとどかず。さて兄弟六人のうち長兄がどこかから肺患をうけ来たり、その virus が井戸に入りて日光にふれぬゆえ増殖間断なく、おいおい四人に及び、父母は老齢にて脱患し、娘二人はなにか兄弟と素質が異なるより、少しも virus に侵されずに通せしことと判ずるの外なし。
 小生札幌農科大学の今井三子という人の頼みにより、Leotia属(嚢子菌)の標品、多年こしらえ置きし記図とともにおくりやり、二人合併にて発表せんとす。そのため今明日多忙なればこれにて擱筆致し候。
(520) まずは右御礼まで。        早々敬具
  当地名産かつ希品繩巻ずしというもの差し上げんと存じ候も、サゴシ魚とれず。本日一疋とれたる由ゆえ今製造主婦が海辺へ見にゆきたり。有無知れず、あてにせず〔五字傍点〕に御まち下されたく候。
 
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 昭和五年三月十九日午後一時
   白井光太郎様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。今朝八時二十分、十七日出御書留状拝受、御厚志千万謝し上げ奉り候。和歌はなおとくとみずから諸歴代の集を参考して再三考えみるべく候。ただし、
  沖つ風心してふけこの森は すめらみことのめでさせし森
くらいがもっとも清簡にて結構と存じ奉り候。しかしすでに小生ごとき無類の拙筆のものが拙筆のまま字を書いて雕り付けしむる上は、歌もなるべく
  一枝も心してふけ沖津風 天津日嗣のめでさしし森ぞ
と定め、これを今再三練ってみるべく候。
 申し上ぐるまでもなく本邦の詞には単数複数の過去半過去のと申すこと判然せず。しかし全くなきにもあらず。子良《こら》、みやつこ等は、英語の folks,folk ごとく複数でも単数でもあり、あをひとぐさ〔六字傍点〕ごときは、どうも英語の people のごとく一人には用いぬ複数に限る語と察し候。数のことはこれでまずよしと致し、過去半過去等の時のことに至っては、小生は何たる研究をなしおらず。したがって全く別らぬこと多し。例せば右の「一枝も」の一首のごとくにては、(521)過去の、ある天皇が賞美まししことありとのことか、今上天皇がかつて賞美まししことありしのことか、とわれても分からずと存じ候。故にこんな欠陥は他の方面の運用の次第で何ともなることかと存じ候。
  一枝も心してふけ沖津風 天津日嗣のめでます〔二字傍点〕森ぞ
 去年六月一日に御臨望賞美ましまししことあり、その臨賞はそのとききりのものにあらず、今もまた未来につづきおるものというならめでます〔四字傍点〕として現わし得と心得候が如何にや。
 この田辺湾は斉明天皇の御行幸ありし地にて、おぼろげながらその御故跡少なからず。現に瀬戸鉛山連合村の村社は実に見事な社殿とその後ろの神森の山あるなり。オガタマの木多し。(これをまた近日御臨幸記念のため改修し、神山に道路を開き浴室等を登臨せしめ、すなわち神殿を見下ろさしめんと計画中ときく。)この山には希珍の菌茸多く生ず。衛存知の Hydnum auriscalpium《(みみかき)》と申し、図のごとき刺菌にて松の落実に付くものは、従来褐色のもののみなりしが、小生この山で見出だせしは白色に灰色の横環あり(イ図)、はなはだ美なるものなり。この宮をいかなる故にや近古どくろの宮となす。髑髏が流れありしをいわいこめしとも、また安達藤九郎盛長が流謫せし跡とも申す。とにかく近海を航するもののはなはだつつしみ崇めし宮なり。山を御船山と申す。その山の風より考えるに斉明天皇が鉛山の湯に行幸のときの御蹟といささか信ぜらるるなり。(中古より近古無智のものがいろいろとま違うたことを伝えしは、この髑髏宮に限らず。『明良洪範』に、皇大神宮を何を斉きしとも知らず八大竜王などと心得たる戦国の世のさまを記載したるなど参照すべし。)
 しかるにその近所に臨海研究所の立ちたるが(実は四万円ほど出して大きな煉瓦作りを立てたるのみ。器械も図書も標品もなんにもなきなり。平日はいわゆる主任一人貧乏に暮らし、磯のりを作製して鉛山のりと私号し安値で大阪へうり、それでわずかに家内を養うようなことなり。さて七月になると京大連が夏休みに(522)遊びに来たり、近県の教師を集め月なみの通俗講義をするのみ)、金がなきゆえ何にもならず。また夏休みに来たり遊ぶのみなれば所のことを何も知らず。俗人と付和雷同して土地の繁昌などいうことに賛同し、いろいろと形勝を破壊しまたむやみに吹聴して天然物を濫採もち去らしむ。神島ごときも毎度この輩が侵入し来たり神林をきりはつり、ワンジュを盗み去りなどす。また化石などをぶちかきもち去る。凡衆またこれにならい、先日この辺で見出でたる大なる鯨の化石の要部を何の必要もなきに打ちかき失いたり。
 こんなことを禦ぎ、事により犯人を捕縛し、その筋へ告訴しやらんと、小生は神島の神林へ入山禁止の杭を二十四本打たせあり。しかして今度の碑をこの島に上陸するものの必ず目に立つ地点に立て(聖上御上陸御野立ち、小生拝謁せしときの玉位)、違背するものを予戒しおき、不埒なものは生擒にし、不穏のものは銃殺しやらんとかまえおれり。そんなことゆえ温緩なことではかようの輩に何の威圧を感ぜしむるに足らず。久々考案中なりしが、あまり永引いては勢いを失うから近く是非とも建碑せんと思う。それに付いて覗い上ぐるは、天津日嗣は宇佐八幡神が和気清麿への神託ともなりて天位系統の御事に相違なきが、それと同時に、日神の御筋を継がせらるる方々(近ごろの詞でいわば日神系の継続者)という意味をも有することにや。また全く天位系統を申すに限り、天位を嗣がせらるる方々(persons)を称することはなきにや。
  問「あれは誰だ」。答「南方の本家の世嗣ぎ〔三字傍点〕だ」。この世嗣ぎは、heritage《ヘリテイジ》世嗣の資格の意味を兼ねて、heir 世嗣ぎたる本人をも呼ぶ詞に候。畏き極まりなれど、天津日嗣も右の例に同じく、御代々の宝位をも、宝位に登り嗣がせらるる御代々をも、称えまつりて差し支えなきことにや。
 一体天津日嗣とはどんなことと凡衆一汎に思いなしおるかを知るため、手近き『萩の栞《しおり》』と申す二冊本をとり上げ見るに(これは中堀僖庵という連歌師か何かの作にて、小生幼時まで和歌山や大阪で和歌の口ほどきに用いられ大いに行なわれしものなり。至って浅近なるものと存ぜられ候。それももっともにて、そのころ元禄年中は、加茂、本居(523)などまだ生まれ出でず、歌集を満足に吟味する手がかりもなかりしなり)、天津日つ記とは天子の御位につきたまうことなり、とあり。こんなことでは無論、「天津日嗣のめでます森ぞ」ではさっぱり意味をなさぬべく候。
 小生漠然と覚えおるは、天子の御事を天津日嗣と書き奉りしは、近松あたりの浄瑠璃にありしと存じ候(とくと調べ見るべし)。浄瑠璃にでもあるなら、この歌は狂歌としてでもせめては通るならん。すなわち天津日嗣は天津日嗣たる御方(御一人)という意味で通るはずなり。
 小生はこの歌をうまくやりおかば、この辺は今上御一方でなく斉明天皇もかつてこの辺の風光を臨賞したまいしという意を衆人にふきこみ得ることと存じ候。(むろん熊野御幸ありし諸上皇、法皇もこの辺の風物をそれとなく御眺めありしことをも含む。)しかるに和歌がすでに三十一字を限り、詞が数〔傍点〕や時〔傍点〕に関し曖昧(というよりは無関係)で、只今の流行詞で申すと合理化がまことにむつかしく御座候。
  めでさせし森ぞ、めでさしし森ぞ、めでます森ぞ。
  その亀の子をとるな。この子が眺めたところだ、この子が眺めているところだ、この子がさつき見出だして今も時々眺めているところだ。
 これは欧文をかくに必ずまず関心すべき必要件なり。しかるに本邦の言語はそんな構造工案も入らず、第一そんなに物を精しく分けて考えぬようなり。
 井上博士は天津日嗣のめでませ〔傍点〕し森ぞについて、せ〔傍点〕の一字をし〔傍点〕に改めたるのみ。天津日継を何ともいろいおらず。
 添刪にはその心得もあり、一から十まで改竄しては本人の歌が添刪者(他人)の歌になってしまう。だから狂人の詞は狂人の詞としててには〔三字傍点〕だけ改め直せしようなことかとも思う。外国人の作った物を添刪するがごとし。
  わたし日本の大統領を〔傍点〕面会したい。
 米人によくあるやつなり。日本の天子を大統領と訳出せるなり。天子と大統領は、大いに異なれども、統御者(524)(monarch)という意味は合いおる。故に用語が正当せざるまでにて意味は達しおるなり。しかるに日本の天子に面会したいを、天子を〔傍点〕面会したいでは日本の言葉にならず。故にを〔傍点〕は是非に〔傍点〕に改めやらざるべからず。面会は拝謁とか何とか改めねば辞令にそむきおる。しかし意味は達し得る。故に強いて改竄に及ばぬこともあるべし。
 これと同様の見解で、さし当たりませし〔三字傍点〕をましし〔三字傍点〕とだけ改め直されたることと思うが、天津日嗣がめでましし〔五字傍点〕ということ、相続権が認可したというようで、相続人が認可したという意味がなきようなことなるにや。また相続権とも相続人とも解し得らるる語ありや。一応御考えの上御示し願い上げ奉り候。
 小生只今はっきり申し上げ得ぬが、『西域記』に漢日天子種という一国民あり。その王は、支那の公主をペルシア王の妻に迎えし途中で北インドの山中に宿りしとき、その公主へ日神が天より下り通いて子を孕ませしゆえ、ペルシアヘ往かず、その山中に止まるうち日神の子生まれ、明徳勇威ありて国を立てしということなり。この外にも漢訳はなけれど古ギリシアなどに Helio という語を冠せし王系部族など若干あり、日の子孫という義なり。天津日嗣は日神の正統継続者〔傍点〕という意味は少しもなきことにて、ただ正統継続権〔傍点〕とか格〔傍点〕とかいう意味に限ることに候や。果たして然らばすめらみこと〔六字傍点〕と致しおくがもつとも穏便と存じ候。小生は今日のごとき崇外排我の凡衆には笑わるるまでも、天皇は日神の正統ということを強く教えやるがはなはだ必要のことと存じ候。(ドイツにはルーデンドルフ将軍など、日をまつるほど正大なことなしとて拝日宗を建ておる由承聞致し候。)それも混沌たる日という物塊と笑うようなことならばそれまでなり。すめらみこと〔六字傍点〕は統御者というようなことにて、悪くとらば tyrant(専制者、ただしこの語の本義に唐政の呉制のというわけはなきようなり)くらいのことで、日神継系正統というような威光はなき語と存じ候。この点において小生はすめらみこと〔六字傍点〕よりも天津日嗣に執着厚きなり。
 前状申し上げたる羽山・山田と申す一族を小生深山より出で来て尋ね合わせ、とりし写真を御覧に入るるから一首御作り下さるべきや。同家の家宝として永存せしめたく候。実際その写真でも見おき、その実況を観ねば実に逼れる(525)詠はできぬものと承るから写真を差し上ぐべし(御承引の上は)。
 次に今朝十一時前書留小包にて、なわまき鮨《ずし》というもの一本差し上げたり。これはこの田辺というは小さきつまらぬ所で、藩主は和歌山藩の家老たり、毎代江戸に詰めおり城主というもの在住せず、城代というものが治めおりたり。故に百事不取締りのことのみなりし。古屋谷、瓜谷という所に、至って美事なる盆石ありしも維新以後まで世に聞こえず、『雲根志』にも見えず。またマンボウ魚時々とれる。これは常州土浦でもとれしが多からぬものなり。かつてこれを江戸へ出せしものありてはなはだ嘉賞されしより、和歌山より毎々田辺へ誅求さる。平日なきものゆえ面倒はなはだしく、よって田辺では漁民に令してこの魚ありとも捕えざらしめし由。次に安藤ミカンと申し、むかし烏が種子をもち来たりて竹薮の中へ落とせしより生えしという、ナツミカンに似て始終酸味全くなく、味はミカン類ながら甜瓜《まくわうり》に似たものあり。毎年九月緑色なるときより食い得。冬になりて他の柑橘熟するときは、このものはなはだ柔らかになり、ややもすれば崩潰するからあまり好まれず。取扱いにこまるからなり。しかし味は抜群のものたり。拙宅に高さ一丈余より二丈の大木三本あり。何とか保存したきも年々衰えゆき候。これより大きなもの一本他の家にあり、スウィングルも見たことあり。しかし家事都合で半分ばかり枝をきり払いしより今は大いに衰えたりと聞く。
 以上四品を藩主の専占とし、江戸および他藩との往復贈遣に用い、士民に禁制して田辺外へ持ち出ださしめざりしなり。なかんずく繩巻ずしは庄司某といえる剣客の家伝秘訣にて、藩主の命あるにあらざれば調製せず。しかし内々はつてを求めて頼めばこしらえくれたるなり。某々の仲言《なかごと》を聞くにまことに余儀なき願いゆえ、ひそかに一つ (また二つ)拵え遣わす、何月何日の夜受けに来たれといい渡し、こしらえくれる当夜おそるおそる行き向かい、その品を受け礼謝金をそっと置いてにげ帰りしなり。庄司の維新ごろの当主は恐ろしい剣客にて、そのころ京都詰めなりしが薩長土肥その他新撰組の浪士などもおそれ入りし由。しかるにまた無双の無学のものなりしゆえ維新後何の働きもならず窮死し、その子は父にもまさる不文のものかつ不良性のもので、壮士ごときものになり、虚喝乱暴などを事とせ(526)しが、反古かいと落ちぶれ、二、三十年来行方知れず。しかるに小生知人に栗本という料理人あり。料理のことを伊勢で修行し(伊勢は料理のこと至って精しき所となす)、帰って庄司氏の繩巻ずしを見るごとにいろいろと観察し、その製法秘訣を自得し、庄司氏絶えたのち、みずから拵えて売り出せしが、材料容易に手に入らず、産額の見込みの立たぬものにて、当地の名産ながら注文あるごとにすなわち製するということ成らず。当地の名産ながら利潤にはなりがたし。他の商品は注文多きを喜ぶことなれど、このものは注文多くても製品の数に限りあるゆえ儲けにならず。拵え上げただけをその都度買うものが競争してとり、もち去るというまでなり。
 山の芋にてこの鮨を作るに長芋とつくね〔三字傍点〕芋は粘り多しとかにて、さらに用うるに堪えず、自然薯《じねんじよ》のみ用うるに堪ゆ。しかるに野生の自然薯は多からぬものにて生長もおそく、近年は五里七里の遠方よりたまたまわずかに一本三本と手に入り次第持ち来るなり。またこの鮨用の魚はサゴシ(サワラの若きもの)に限る。(近年鯖等で作れどサゴシに及ばざること遠し。)サゴシの骨を去り上図のごとく自然薯のすりつぶした西洋料理の mash《マツシユ》をサゴシの皮肉でつつみバレンの葉でまき、その上を繩でまといおくときは、?酵してすしとなるなり。アップル(苹果)の熟せしような臭いなり。小生ははなはだきらいなり。しかるに東京またことに四国(阿波)の人は、一たびこれを食うと酒の肴としてやめられぬなど申し、遠く注文し来たれど上述のごとき理由で多くは手に入らず。またこれを四、五十日乃至百日もおきて、右の自然薯のすし〔二字傍点〕が乾き枯れ干果子のごとくなるを、少しきりて茶受けとする茶人多しと承る。去年六月一日御召艦で加藤寛治大将に三十二、三年めにあい候間、挨拶に一本作らせおくりしに、この人がはなはだうましとて望月前内相へ半分おくり分かちしと申し越され候。
 数日前、小生、入院してもはや二年近くなる拙児の記臆がどうなりおるかを検せんため、このすしを一本作らせ京都の病院へおくり受持医等に食いもらい候。その節二片ばかり受持医が拙児に与え食わせ、これは何物なりやと問いしに、答「知らず。間「思い出し得ずや。答「思い出し得ず。問「これは御郷里田辺の繩巻ずしなり、知らずや。答(527)「かつて知らず。問「この外に田辺に名産ありや。答「南蛮焼《なんばやき》というあり、蒲鉾なり。問「ミカンはなきか。答「三宝ミカンというミカンあり。問「御宅にありや。答「三本自宅にあり。問「桜ありや。答「桜もあり。問「景色よき地ありや。答「白良浜《しららはま》は景色よし。問「その他になきや。答「鉛山《かなやま》の温泉あり、浴客多く来たる。というようなことにて、繩巻ずしのことは全く忘失。これは当地でも万人等しく見得ぬものゆえ、あるいは本来見しことなきかも知れず。故に忘失というよりは知らざる方なり。ただし食物のことを言い出せしにつきて蒲鉾の名産を記臆してその名をいい、また安藤〔二字傍点〕ミカンを三宝ミカンと誤り覚えたれど、本宅に三本あるを知りおり、景色のよき所を白良浜と答え、地つづきの鉛山温泉を連想し出すを見れば、まだまだ全く失心にはあらずと存じ候。
 さてその節暖気やや起こり来たりしゆえ、一本だけ急ぎ注文して病院へおくりしが(一本しかできざりしなり)、外に二本右の病院長と貴方へおくるべく注文しおけり。しかるにその後数日サゴシとれず。ようやく四日ほど前に三疋とれし由にて製造にかからんとせしも、今度は自然薯なし。自然薯もはや発芽期にていささかも発芽せしものは鮨にならずという。いろいろと求めさせしにようやく鮨一本半の分だけ調い、二本分はなし。よって詮方なく一本作らせ今朝貴宅へ送り、次に半本できたりしを病院長へおくり申し候。餅を歌賃というたという故事付けのようだが、貴方へ着の上、三、四片きりとり、井上博士へ小生より托されたりとて御|餽《おく》り下されたし。(決して多く送るに及ばず。)
  そのついでに、天津日続ぎは全く形体のなき名か、また天津日続ぎをなさるる方(天子)をも天津日続ぎと称えまつりて苦しからぬことか、御聞きとり教え下されたく候。これは貴翰のごとくすめらみこととすれば何の苦もなきことながら、学問のため御ききとり御教え下されたく候。
 用筆悪く渋字御察読願い上げ奉り候。
 小生札幌農科大学の今井三子氏と連名にて Leotia 属の発表をする、そのため標品と図記をこれより捜し出し送らざるべからず。よって本状はこれ切りと致し候。             草々敬具
 
(528)          5
 
 昭和五年三月二十六日早朝
   白井光太郎様
                  南方熊楠再拝
 拝復。二十二日付御状二十四日午前八時半安着、拝読致し候。二十二日夜荊妻と娘とちょうど百二十日ぶりにて帰り来たり、娘は今も十の十まで全快とは事行かず、いろいろととりこみおり候て、只今ようやく御状御受け、御礼申し述ぶるを得申し候。天つ日嗣はその後小生いろいろと取り調べ候に、「天つ日嗣のすめらみこと」などと形容詞風に用いたる例は多きように候も、天子を天つ日嗣とのみ申すことは見当たらぬように御座候。天子を天つ日嗣と称えまつりし例は浄瑠璃にあり。しかし、浄瑠璃などいうものを和歌の作例にはとりがたし。そこで、
  一枝も心して吹け沖津風 わが天皇《すめらぎ》のめでます森ぞ
では如何にやと存じ候。ただし只今人を介して佐々木信綱先生へ聞き合わせ中にて、五、六日中には返事のあるべしとまちおり申し候。
 御親族中に不心得の御方あり、御迷惑の条々御聞かせ下され驚き入り申し候。しかるに拙方も御同然のこと有之《これあり》、これもお話にならぬことにて、それがため(他にも原因あるも)拙児が発狂致したることに御座候。このことはまた後日御聞に達し申すべく候。
 羽山と申す家の娘、今は六人の母となりおり候もののこと、御聞に達し玉詠を下され、難有《ありがた》くすなわち写して送りやり候。彼女も和歌はかじりかきおり、定めて大いに御厚志を悦び入り候ことと察し申し候。この段御礼申し述べ置き候。
(529) 『植物渡来考』にツルムラサキを脱せり。『新撰類聚往来』に、実紫《みむらさき》あり、『柳亭記』上に、これツルムラサキなり。この往来は永禄九年の作と思うことあり、と。
 四三頁、黄蜀葵。西武の『鷹筑波集』一、知元の句に、「よそめはいかにぬめる若僧《にやくそう》」「児達《ちごたち》へ参らせぬるはねり木にて」。この書は寛永十五年成る。慶長十一年来貞徳に師事したる人々の作を集めたる書なり。
 同頁、冬瓜。前述『新撰類聚往来』に出でたり。とにかく『大和本草』よりは前出なり。
 四九頁、ヌメゴマ。『大清一統志』巻三五五、厄勒祭亜《ギリシア》の条々、「南懐仁(イタリア天主憎 Verbiest)の『坤輿図説』にいわく(御存知のごとく『一統志』より孫引きするに及ばず。『坤輿図説』は本邦にもたびたび見及ぶ本なり)、欧邏巴《ヨーロノパ》州、云云、また利諾草あり、布を為《つく》れば細くして堅《つよ》く、軽くして滑らかなり、敝《やぶ》るれば擣《つ》きて紙を為《つく》るべく、きわめて靱なり、と」。利諾は lino(イタリア語)、ヌメゴマのことなり。『坤輿図説』は明の代に成りしものゆえ、『名実図考』より早見なり。
 まだ申し上ぐべきことあれども、紙がなくなり候付き、これだけに致し候。
 田中芳男氏が集めたる標品(主として果実、地衣、菌、藻等)の小箱入りを見し中に、緬茄ありし。これは一体何物に候や。小生記臆に緬茄の字の右側にアナカルジウムと書きありしと存じ候。貴著『渡来考』には、生品にあらざるものは入れざるゆえ載せられざりしと存じ候。
 
(533)   六鵜保宛
 
          1
 
 大正十一年九月三日夜九時
   六鵜保様
                  南方熊楠再拝
 拝復。『植物学雑誌』大正十年分十二冊は八月三十日拝受、これは何とぞ代価および郵便御申し越し下されたく候。なおまた今年分も今月まで出で候分集まらば、まとめて御送り下されたく候。これは売捌所裳華房へ注文すれば買い得ることと存じ申し候。
 また坪井伊助とかいう岐阜県人の『竹類図説』、これはいかほどするものにや、代価御知らせ下されたく候。ねだんと相談の上、購い申したく候。
 小生帰来、事多く、今に十の五も方付かず。あまり出精するゆえか一昨日発熱、チプスにもやと思い候も、速やかに医を招き候ゆえ、はや全癒仕り候。
 サッカルドの『菌類大全』はちょうど電信差し上げ候前日、イタリア国より郵着仕り候。なお三冊は未完に御座候えども、直接小生より掛け合い手に入れ申すべく候。小生より田中良三郎武に二千七百円出金致しあり、今に精算せ(534)ず。その押えとして、この書を小生の予約とせずして自分の名義で予約しあることと知れ申し候。実に面白からぬやり方に候。右イタリア
よりおくり来たりし代価は二十円の付けに候。しかるに丸善で六十二円とは驚き入ったることに御座候。丸善の暴利もいかがなること無論なれど、わが国を挙げてかかる暴利肆より買うがそもそもの間違いと存じ候。
 三井御辞職の由、これはいかがのことかと心配申し上げ候。委細は承らぬゆえ一辞を賛する能わず。小生は何様あまり転職を好まず候。平沢氏に御面会の節は、例の寄付金のこと三井家の分は大いに小生の信用に関するをもって、何分頼む旨御依頼置き下されたく候。
 貴下大尻川にて採られしアオノリは、昨日荷物を展選しらべ候ところ、全く十分に乾燥して出で来たり候。貴下の御記臆ちがいと見え、長さは三寸余に達し、叢生して図のごとくに候。この大きさにて、ずいぶん見事なるものに御座候。また、この類にて棘多きものおびただしく地獄川にてとりあり候。これは小生にはきわめて珍品なり。
 輪藻は、上松氏(湯の湖より湯滝に落つる急流)、貴下(大尻川)、二品全く別種なり。小生は輪藻を久しく専門にせず。しかし近日大英博物館の紹介をもって誰か有名の欧人に頼み、多年拙集の分をことごとくしらべもらわんと欲し候ゆえに、貴下多磨川の分を何とぞさっそく出かけ多く採集し、圧して御送り越し下されたく候。また秋分は東京辺の田や水沢池沼に輪藻多きゆえ、時々御注意、御集め下されたく候。まとめて英国へおくり、一挙して貴下等の名を挙げんとす。(斎田功太郎氏少々しらべしことあれど、例の邦人の手製の名にて不確かのこと多しと存ぜられ申し候。)
 リスター女史『粘菌図譜』第三板近々出板、小生の助けを乞い来たれり。よって近日大挙してこの三年間集むるところ三百点ばかりおくるはずなり。竣成の上は一冊呈上仕るべく候。英国も物価高きゆえ、とても第二板ごとく着色(535)板多く入れ得ず。拙妻発見の Minakatella は、ぜひ三色刷にする由。今度日光の分は、みな上松、平沼、六鵜、南方と採者の名を明記し送り申し候。それぞれ一種くらいは新種ある見込みなり。
 輪藻は臭気硫化水素のごときゆえ直ちに分かり申し候。またレンズで見れば小さき雌器(白多し。熟すれば黒)、雄器(赤色多し)多し。
 貴下の寒暖計は、上松氏より、そのうち返しにゆくと申し来たり候。小生方には、日光山の登晃道しるべ(伊藤旅館)一と、外になにか一、二品(今覚えず。些細なものなり)有之侯。これはしばらく御貸しおき下されたく候。一一植物標品に所の名をかき付くるに必用に候。
 右返事を要する書翰山積しあるゆえ当分の御返事のみ、かくのごとく申し上げ候。        早々敬具
  当地旱魃はなはだしく、小生の園中の植物、蓼《たで》、オシロイ花ごとき雑兵陣笠までことごとく枯死、実に荒涼たることに御座候。
  日光より送り来たり候品物中多少カビ入り、駆除に大骨折りに御座候。       早々以上
 
          2
 
 昭和三年二月二十八日朝三時認
   六鵜保様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。昨日小畔氏より来状|有之《これあり》、リスター『粘菌図譜』第三板は、東京に持ち合わせたる店なきに付き、丸善に托し英国より取り寄せることと致したる由申し越し候。よって、たぶん五月末までには到着致すべく、その上はさっそく小畔氏より貴殿へ直送致すべく候。
(536) 小生は大正十四年春大禍にあい、今に家内|諸共《もろとも》間断なく困却罷り在り候。そのことを述ぶると長くなるから、ほんの一口に申さば、ただ一人の男児が精神病に罹り(土佐にて高知市へ上陸するや否)、国元へ迎え取り、拙邸に加養中なれども、今に少しも平治せず。これがためにこの三年間全く門を杜《ふさ》ぎ、内外の交通これ絶ちおり、実に実に迷惑千万に暮らしおり候。しかしながら、一方研究の基本金はおいおい集まりたるをもって、研究はかかる多難中にもかかさずつづけおり候ところ、聖上ことのほか粘菌の研学を御好みと承るに付け、おいおい粘菌の学問を致す人も出で来たり、まことに結構の至りながら、例の日本人の癖として、いろいろひやかし連多く相成り、何とか今の内に標準的のものを出板し置かずば、真偽是非混雑して何とも方付かぬことになるべしと存じ候。よってなるべく早く日本粘菌図説を出し、例の西洋の物を盗み取り写し出すことをなさず、一々御同前が本邦にて採りたる現品を図して、実際(西洋人の記載とかわるとも)われわれが本邦で本邦の物を見たるままを図記致し、五十部ばかり寄付金主へ無代で配布し、百部ばかり内外の学会等へ同様配布し、残分二百部ばかりは眼玉の飛び出る高価にて急がずに売らんと存じ候。
 しらべておれば際限がないから、大抵今年の夏をもってしめきりと致し、それまでに手に入りたるものについて、いよいよ製図にかかることと致したく候。
 よって後日の分は後日と致し、今まで御手許に集まりたる分は、なるべく早く御送来願い上げ奉り候。一覧の上、近日牧野富太郎博士の『植物学雑誌』へ出すべき「日本粘菌総目録」(これは言わば右図説の目録なり)へ細大洩らさず、例えば、
(1) Ceratiomyxa fruticulosa Macbride
 創見(を一番に掲ぐ)紀伊和歌山市(南方)。田辺、那智(南方)。東京、京城(小畔)。土佐田ノ口村(福井)。
1のa var.flexuosa Lister
(537) 創見 紀伊有本村(南方)。田辺、稲成村、瀬戸村(南方)。信濃松本市(矢津)。土佐田ノ口村(福井)。東京、信濃有明村、武蔵御嶽、朝鮮京城(小畔)。
1のb var.arnuscula(Berk.& Br.)Minakata
 創見 土佐田ノ口村(福井)。紀伊田辺(南方)。東京(小畔)。
1のc var.crustosum Minakata
 創見 紀伊田辺(南方)。
1のd var.porioides Lister
 創見 紀伊天満(南方)。田辺、上秋津村(南方)。男体山(平沼)。東京、信州有明村、釜山、相模高麗寺山(小畔)。
という風にことごとく載するつもりに有之候。しかして図譜に採り入れ図を出すべきものの外はことごとく御返し申し上げても宜しく候。
 長々の看病に肝癪など起こしては宜しからぬゆえ、菜食を専らとし候により眼が大いに弱く相成り、色盲のようになりおり候ため、鏡検を幾度もくり返さざるべからず。今月に入りてより、小畔氏等の集めたる分三百点ばかり三度ずつ鏡検致し了りて、四、五日ほとんど何にも致さず休みおり候。いろいろと事多く、今夜も三時過ぐるまでおきおり、これより一眠致し、起きてまた原摂祐氏より送来の菌類を氷室に蔵しあるを検するに付き、この状はこれにて擱筆致し候。
  御状を下さるる節は、拙児のことは一切御書き入れなきよう願い上げ置き候。万一それを見ると発作劇しきこと有之《これある》なり。
『南方随筆』、『続南方随筆』、一昨年六月と十月に刊行、三万七千円余に売れたる由なるも、小生金銭契約に疏く、わずかに千余円受けたるに過ぎず。今春中にまた同様の『随筆』を出し申し候。出た上、一部進上致すべく候。
(538) 上松氏も震災に製紙の工場焼失、それより活計面白からず。かつ人の受判か何かに立ち、訴訟起こり、はなはだ困りおられ申し候。平沼氏も鎌倉別荘にて大打傷を背に受け、一時は危殆なりしが、幸いに命をとりとめ候て、只今は健全なり。平沢哲雄氏は欧州巡廻して帰るや否チブスにて死去、吉村勢子とて新しき執筆家(『時事新報』等へ)懐孕中死なれたるにて、その子只今四歳ばかりと存じ候。高田屋も全焼、只今は大阪梅田停車場付近梅ヶ枝町という所になにか致しおり候由。
 まずは眠くなり候付き右御頼み申し上げ候。リスターの『図譜』は到着次第間違いなく小畔氏より直送致すべく候。
 宮武氏住所は門司にあらず。小倉市上富野という所なり。番地は分からず。勤務先は大阪商船会社の門司支店に候。この人はなはだ好学また旅行ずきの人にて、大正十四年ちょうど拙方に禍い起こりし時より文通絶えず。この人には上松氏よりリスターの『図譜』第三板を贈り有之候。この人は、金持は金を出さぬものなれば貧乏人より募るべしとて、三十円ばかり集めて贈られ候。その生国讃岐に万貫寺とか申し文銭一文ずつ集めて終《つい》に寺を再興せし和尚ある由。平沼氏母堂は小生の遭際を気の毒がり、三万円寄付され申し候。拙弟は最初このことをすすめながら、いろいろ依違して一文も出さず、またこの宅をも違約して小生に売らず。談判の途中けしからぬことは去る大正三年小生|癰《よう》を煩いおるうち、小生が預けある実印をもって委任状を作り、小生亡父よりの遺産田地をことごとく舎弟自分の物にかきかえ有之候。このことに驚き、拙児心配のあまり発狂致したるに候。同父同母の兄弟にて、小生とは雲泥の多額納税者にして、かかることをなすは尋常ならぬ人物なり。ただし今日金持というものはどこもここもこんな者かと察し申し候。幸いにも小生は病気などにはならず、今に研究はつづけおり申し候。これも尋常ならぬ人物と人はいうかも知れず候。     敬具
  前年 Rokuu と命名せしものは、どうも粘菌にあらず、サルノコシカケのきわめて小さきものと見受け候。そのうちミクロトームにて截って鏡検致すべく候。(ミクロトーム当地になく、和歌山まで行かねばならぬ。)
 
(539)          3
 
 昭和六年一月六日夜十一時半
   六鵜保様
                     南方熊楠再拝
 拝啓。御葉書咋五日午前八時十分拝受、十一月二十八日に令閨御遠逝の趣き初めて承り、大いに驚き申し候。よって慎んで衡弔詞串し上げ候。
 小生も近年不幸打ちつづき、男児ただ一人の者が精神病に罹りてもはや六年近く相成り候。洛北の精神病院へ入れてよりすでに二年七ヵ月になるに一向快報に接せず。加うるに一昨年ちょうど御進講の恩命に接せし当夜より拙女盲腸炎を劇発し(四月二十四日)、一向平癒せぬより、十月に拙妻同道和歌山赤十字病院に入れ腹部切開、それより電気治療を受け、昨年三月帰宅、なお今年十月まで静養すべしとのことにて、患部の痕が時々痛み出し、すでに今度も昨年十二月二十日よりまたまた臥しおり。妻も二人の子供の長い看護に疲労はなはだしく、時々臥したり、ヒステリーを起こしたり致すには閉口致し候。小生は健全の方なるも、何をいうにも六十五歳に罷り成り、近来これまた疲労ゆえか耳が遠くなり候。しかし御蔭をもって学事は怠らず修めおり、四年ほど前成し上がりたる「日本粘菌図譜」の稿本(極彩色の図入り)を、小生不在中この室にて読書しおりたる拙児にことごとく砕き去られ、一時は失心せんばかりに困りしも、幸いに複本を諸友方に預けありしゆえ、それを参照し、また一昨々年秋平沼、上松二氏、一昨年秋と一昨々年秋と小畔氏来下、同道していろいろと見出だせしものあり、その他遠近諸友より送らるるところを合して只今三百二十種まで図録しおり、今年よりいよいよ多少とも発表出板にかからんと準備致しおり候。
 粘菌がすみたる上は、淡水藻譜を出しにかかるべく候。先年日光湯本へ参る道上、貴下湯の滝の懸流のじき上にふ(540)みこみ取られたる緑藻は、どこの渓流や瀑布にも多きクラドフォラ属のものと思いおりしに、実は枝の根元より蔓を懸下して、アクロシフォニア属のものに候。しかるに一九二七年板のエングレルおよびプラントルの『植物自然分科篇』緑藻部を見るに、アクロシフォニア属のものはことごとく海産にて、淡水に生するものは誰も知らぬらしく候。よって右の品は当分 Acrosiphonia Rokuva Minakata と致し置き候。最近のことはこの地におっては分からぬから、英国の友人にしらべてもらい、いよいよまだ誰も見付けてなくば、右の名にて発表致すべく候。
 先年日光中禅寺湖畔梵字石とかいう所で御発見の Didyminm internedium は貴集品を、貴名を活字に付し、一昨年御召艦へ持参し進献致したり。貴下下山ののち、湯本にて上松氏も見出だし、その後平沼氏駿州赤石沢にて見出だし、昨年秋上松氏上州上利根郡で見出だされ候。今一両人下野(日光外の)地で見出だされ候。上松氏はその節上州で粘菌学初まって以来という珍しき粘菌を見出だされ候。氏は震災以後大いに失意し、ぶらぶらして今に至れり。少しも屈托なく世を渡りゆくには感心致し候。
 中禅寺の米屋旅館も四年ほど前に小畔氏行き泊りしときは、松永と申し下野|烏山《からすやま》の人で台所に働きおりたるものなおあり、貴下や小生のことを話し候由。柴田梅女はその前年自宅(間藤《まとう》)へ帰りし由。その翌年平沼氏行きしときは、知った者は一人もなかりし由。そのころ泊り客が火を放ち自殺せしことあり、上松氏行きしときは再興せしが以前よりははなはだ狭くなりし由。火事の直後はどうして再興すべきかに途方にくれたる由、若主人が上松氏に談《かた》りし由に候。
(541) 小生は諸友の助力により、研究基金は少しも損ぜずにあり、今年より少しずつなりとも、発表にかからんと思う。病児へ月々百七、八十円の送金には困り入る。(特別看護人を一日二円にて傭い付き添わしめあるなり。これがなくては臥してのみおるゆえ快復の見込みなしとのこと。)これは研究基金より融通というようなことはならず(基金は東京にあり)。すなわち著述とか、寄書とかで、絶えずこれを拵えざるべからず。世が不況になると雑誌などだんだん減じ、廃刊となりゆくに付けて、小生ごとき無頓着な者にまで世間の不況が響き来るには毎度力を落とし候。
 まずは御無沙汰の御詫びかたがた、右申し上げ候。自分のつらさを按じて、令閨の御遠逝を他人よりは一層心をこめて御弔い申し上げ候。       早々敬具
  高田屋|事《こと》佐野歌は、東京を引き上げ、北区堂島上町二十番地といえばたしか大阪毎日新聞社の同じ通りなり、そこでまた旅館を営みおる由、お郁《いく》という娘(今は三十歳ばかりなるべし)より告げ来たり候。もし御上阪もあらば御尋ねやり下されたく候。主婦の妹は村井花と申し、『大朝』、『東朝』の支配人下村宏氏の囲い者たり。これは今も東京にあるらしく、杉山菊もそこにおりしが、昨年より房州の東条村(『八犬伝』に名高き処)に老母と二人おる由に候。
 
(542)   平沼大三郎宛
 
          1
 
 大正十五年一月四日夜十二時認
   平沼大三郎様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。十二月末日出御葉書咋三日朝八時拝受仕り候。小畔氏今日午後二時ごろ出発、大阪へ上られ候。小生は昨夜(今朝二時過ぎまで)小畔氏宿所にて話し、帰って同氏の標本鏡検、折から家人みな寝静まり室に火なく、室の椽先の水みな氷を結び候。寒さにて疲労はなはだしく朝十時より午後二時まで臥しおり、小畔氏来訪されしも妻と一時間ばかり話され候のみ、小生|終《つい》に面会を得ざりしは残念なり。ただし Arcyria glauca G.Liste rの標本は、五顆一団のものと八顆ばかり一団(こちらは数多けれど、二、三粒はすこぶる小さし。故に二団ほとんど同大なり)と二小箱を同氏に托し置きたれば、その一小箱は貴下御受け取り下されたく候。両団とも多少虫が   葉を付け卵を托しある様子。しかしそれを除き去らんとすれば、一、二の胞嚢が落ちるゆえ、これはこのままにして、防  盈法を施しおき候間、貴方にても間断なく箱に樟脳を入れ、その箱の内にこの小箱を入れおかれたく候。小箱内に樟脳を入るれば動揺の際標品を害し申すべく候。
(543) この種は世界中にただ一地点、当地より五、六丁距たりたる糸田と申す小村の猴神《さるがみ》を祭りし小祠の神木タブノキに付しあり、その祠が廃合され、右の神木を伐り去りしため、二年つづきて生ぜしのちこの粘菌は全滅致し、世界中の学者眼をみはりて捜せども、今に二十年少しも見当たらざる奇種に御座候。
 今回貴下と小畔、ロイド三氏へ贈与し、残分十顆ほどを手許に留め申し候。外には大英博物館に十二、三顆を留めおるのみ、今後の発見ちょっと見込みなきもの。たといありたりとて、今度贈与申し上げ候分が type に付き、何とぞ御重蔵の上、御不用にならば大学へでも御寄贈願い上げ奉り候。
 小畔氏は三十一日夕当地着、その後会見。一日は全く拙宅長屋へ来られ粘菌標品を見、二日は鉛山《かなやま》に渡らんと朝より船を求めしも、風波等にて船なく、自働車は船なきため和歌山の方に向かい悉皆出切り、これまた間に合わず、午後拙生方長屋に住む一人と奇絶峡に遊び、点燈後帰宅。三日は朝より自働車にて鉛山に趣き、夕早く帰来。四日は当地付近右の猴神祠趾等を探りしも、湿気少なき時候ゆえ粘菌きわめて少なかりし。拙児旧臘末よりまたまた悪く、いろいろ懸念致しおり候ところ、一月に入りてより三日間何のこともなく、幸いに小畔氏には出来るだけのことを致せしも、四日|午下《ひるさがり》より突然また発作致し候より、小生当日小畔氏と近郊に出ずべく準備中のところ、全く外出し得ざることとなり申し候。
  前日差し上げ候総目録中、Lamproderma aerosporum Meylan を消し L.violaseum Rost.var.carestiae Listerとなされたく候。その代りに Diderma 属の初めに Diderma montanum Meylan を新加さるべし。欧州と米国の外になかりしものなり。L2(小畔氏創見)、この L2 は小畔氏自用の土地符号にて小生にはちょっと分からず。小畔氏へ御聞き糺しの上、御書き入れおき下されたく候。
 小生は今夜もこれより(十二時)小畔氏の標本を鏡検のはずに御座候。当地目下寒気烈しく、鏡検に、しきりに水をもってガラスを洗うことすこぶる面到《めんどう》に御座候。
(544)  拙宅のニオイスミレは毎年十一月末より少々ずつ開花するに、今度は元日より始めて一花さき出で申し候。
  まずは右アーシリア・ゲラウカの御案内まで、かくのごとく申し上げ候。   敬具
 
          2
 
 
 大正十五年一月十三日早朝
   平沼大三郎様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。一月六日付御状八日に拝受、千万厚謝し奉り候。しかるに小畔氏十二月三十一日夕当地着、折よく友人沼田頼輔(紋章学の名人)氏の旧門人杉山康智氏が事務長として勤むる船にのり合わされしに付き、杉山氏案内にて拙宅長屋に来られ、近街に下宿、一日は終日拙蔵の粘菌および関係書籍を見、二日は奇絶峡と申す好景の地に遊ばれ、三日は鉛山《かなやま》、白良浜《しららはま》等に遊ばれ、毎夜小生と粘菌等のことを談《はな》し、四日に小生自分案内して近郊の神社寺院の森に採集せんと用意調い、すでに門を出でんとするに臨み、拙児また発作致し、小生小畔氏と同行を得ず、長屋住みの人を案内にて森林に往かれ申し候て、五日午後出発、八日の夜帰京され候由、十日に告げ越され申し候。爾来拙児とかくすぐれず、困却罷り在り(もっとも昨夜などはほとんど平復の様子)、それがため御状御受けも大いに後れ申し候。
 小畔氏今度来臨の節、年来調査の残屑としてのこしおかれたる粘菌の断片どもを持ち来られ候。五箱すべて百品ばかりあり。小生昼間は拙児と同居するをもって、夜間に拙児臥したるのち取り調べ、今朝終結仕り候ところ、
 日本にて創見
 Physarum carneum G.Lister&Sturgis(伊豆湯ケ島)
 Diderma montanum Meylan(石狩国藻岩山)
(545) Perichaena corticalis Rost.(朝鮮東莱温泉)
 新変種
 Physarum psittacinum Ditm.var.crustaceum Minakata&Koaze(伊豆湯ケ島)
 日本にて創見の変種
 Stemonitis fusca Roth.var.rufescens Lister(小畔氏自邸)
 Stemonitis hyperopta Meylan var.microspora Lister(朝鮮京城)
 Comatricha laxa Rost.var.rigida Brandza(朝鮮元山)
 外に創見もしくは新種らしきも、標本一、二しかなく、鏡険を得ぬもの二点ばかりあり。この品の内、双生のもの一茎あり、実に奇品に候。
 吾輩新たに命名のものを除き、リスター第二板『図譜』に載せたる名目にのみついて勘定致し候ところ、現在粘菌二九〇種(内、邦産一七三種)と一〇三変種(内、四九は邦産)と分かり申し候。よって御参考までに、この状の首にその表をさし上げおき候。この外に従来見のこしたるもの若干、また吾輩新たに命名したるもの若干あれば、邦産は実際百八十三種はたしかにあることと存じ候も、これを計上するときは、世界中に現在の種数もまた三百ばかりとなるはずゆえ、つまるところは、まだまだ本邦の粘菌は前途|?遠《ばくえん》と相見え申し候。何とか精励して二百種くらいまでさがしたきことに御座候。
 Arcyria glauca G.Lister は、本月十日御手渡し申し上ぐるよう小畔氏より申し越し候。定めてすでに御入手の御事と察し奉り候。外に、Minakatella longifiIa G.Lister;Craierium rubronodum G.Lister;Diachea cerLfera G.Lister;Hemitrichia minor G.Lister var.Pardina Minakata;Cribraria imperiaris Minakata;Lepidoderma Koazeanum Minakat等、きわめて希有の品も少許ずつながら差し上ぐるべく拵えおり、多くの品と共に、近日拙(546)児いよいよ平復に向かい候わば、小畔氏へ右の断屑どもを返却するついでに同装して小畔氏まで送り申すべく候間、その節同氏より御受け取り下されたく候。
  前日差し上げたる粘菌種数表が、この状の首に掲ぐるところと比して径庭あるは、この状の表には小生命名するところを除きたる外に、リスターの第三板には従来の種を変種に降ちゅつ《こうちゆつ》せしものあり、それが本邦に多きまわり合せとなりたるによる次第に御座候。
 小畔氏の品は大略点検|了《おわ》り候付き、今度は巨細に数年来貴殿御採集の分を再検にかかり、批評的目録に添えて大抵は御返し申し上ぐべく候。しかして、一通り粘菌種を御手許に備え置くべきため、手許よりなるべく模範的の標品を撰み送り申し上ぐべく、同時に手許に少なき品は、小畔氏の多大の標本の内にもっとも模範的なるものを目録について点定し、同氏へ申し通じ候わば同氏より貴下へ呈上すべく承諾致しおられ候。大抵百種ばかりは手前と小畔氏とにて調い申すべきつもりに御座候。
 リスター女史へはすでに積荷状を出しあるも、品数おびただしく、拙児の故障あるをもって即急には参らず。しかし Arcyria Hiranumae 等の極珍のものは、先に見てくるることで、すなわち発表は早かるべしと存じ候。何様小畔氏の所集千点内外に及び、中には思い掛けなき所に、小生かつて心得ざりしものを見出だすこと有之。決してあわてるを要せず、今一度目を通さんと存じおり候。(Physarum violaceum 等と申すは小生一向知るに及ばざりしものにて、今度第三板『図譜』を見て始めて気付き申し候。しかるに、かかるものに限り標本がただ一、二箇にて、へたなことをすれば取り返し付かず、鏡検すこぶる難渋なり。)
 まずは右申し上げ候。             早々敬具
  何と言ってももっとも種数多く採集行き届きおるは米国に御座候。本邦産が米国にもっとも劣るは Physarum(総数六十一種の内、三十種しか本邦に見当たりおらず。無茎の種はほとんど日本にはなきも同前なり)、Badhamia(547)(十七種の内、九種しかなし)、この二つにてすでに十分後れ足となりおり申し候。これは主として冬中の採集を怠りしによることなれば、何とぞ雨さえふらば御邸内も御注意下されたく候。十二月に上松氏が麻布本村町渡辺子爵邸で多くとりし Xylaria は、小生知り及ぶところは X.Gardneri と申す種に近きも、たぶん新種と存じ候。これはロイド氏に命名を乞い申し候。
  貴集の冬虫夏草は書籍に見ぬもの多きも、例により一種一品多きにはこまり申し候。何とぞ一つでも御見当たりの節はおとりおき下されたく候。一品のみではどうも解剖に?躇致し候。
 
(548)   岡田要之助宛
 
          1
 
 昭和二年二月八日夜九時
   岡田要之助様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。その後大いに御無沙汰に打ち過ぎ申し候。十二月十七日出御ハガキは同二十日午後三時拝受、また九重《ここのえ》一包は二十一日午後五時それぞれ拝受、御厚礼申し上げ候。ちょうどその前後より拙児またまた発作致し、一月中容体悪く、ようやく十三、四日前より少々静穏に有之《これあり》、しかし平癒というにあらざるをもって今に安心ならず、何様もはや二年近き煩いゆえこまったものに有之候。小生はこれがため何というとりまとまったことが成らず、思わず年がより申し候。
 近きうちに「続々南方随筆」出板成り候。これは出板後さつそく一冊差し上ぐべきあいだ、御購収なきよう願い上げ奉り候。
 その内に、小生十余年前『日本及日本人』にかきたる「石蒜の話」を出すに付き、貴下何とぞ貴大学の図書につき左の件をしらべ御報知願い上げ奉り候。
(549) 英国と仏国の間の海峡にガーンゼイ Guernsey なる英領の小島あり。この島に Guernsey Lily《ガーンゼーリリー》なる草あり、わが国のヒガンバナに似たれどヒガンバナにあらずと存じ候。むかしどこかからかの島に伝わり只今まで半野生にして保存しあり。開花すればロンドン市場に出し高価に売る。ユングラーおよびプラントルの『自然分科篇』のアマリリダレー(石蒜科)の処に図あり。これを古来の伝説に日本より帰航のオランダ船がここにて破船の際、その船につみありしこの草の根が右の島に打ち上がりて蕃殖せしと申す。十八世紀に学士会員たりし Brown という人この説をとなえ大本を出板し小生蔵中にあり。
 この物 Nerine Sarniensis という学名にて日本原産なる由1880年板 Loudon《ラウドン》の‘Encyclopaedia of Plants’の p.253にも記しあり。この書は小生三十にならぬうち欧米にありしとき大いに流行せし植物学者の宝典なりし。右の Brown は、ケムプル、チュンベルグ等の日本植物記載を引いて、この植物を日本のシビトバナ(すなわちヒガンバナ)と同一物としあり。
 しかるに小生在ロンドン中このガーンゼイ・リリーを見しことあるに、石蒜科のものに相違なきもヒガンバナとは別物と見受け申し候(ヒガンバナは Lycoris radiata)。
 Loudon の『植物百科全書』には Nerine radiata, 花色 pink,支那の原産とあり。思うにこれがヒガンバナらしく候。
 付いては、Bakerの‘Handbook of Amaryllidaceae’および Hooker(または Bentham)の‘British Flora’および‘Indev Kewensis’に就いて、それぞれ Nerine Sarniensis の記載全文(ことに何国の原産ということ)を御抄書の上、何とぞ御送り下されたく願い上げ奉り候。‘Index Kewensis’は措き他の二書は小生も蔵しおるも、和歌山にありて、小生みずから往かざれば捜し出し難く候付き、はなはだ恐縮ながら御願い申し上げ候。
 貴下御来遊の折夜分同行せし(小畔氏の蘭を育ておりし)石工(このもの二年来拙宅にすみ拙児介抱致しおり候)、(550)六十余鉢のオモトを持ちおり候が、この程来、上方にてオモト大流行、昨日六十五円に求めに来たりし金祥竜と申すを、小生方へ一鉢もち来たりあり。葉の中筋の両側に、婦人の陰唇のごとき鰭《ひれ》様の葉片が畸生する proliferous,平常はabごとく二枚(中筋の一側毎に一枚)なれど、cごとく二枚以上乱雑に生ずることもあり、d図のごとく葉柄に近き方においてd′ごとくこの畸葉片二つが癒合して少しの鞘をなすことあり、米国東北部の湿林の落葉松下に多き幹 Sarracenia purpurea の壺葉の発芽のごとし。
 小生は他日貴下がこの畸態のオモトをいろいろと育てて、なるべくこの鞘をして壺状に発達せしめ、その中に水を貯えしめ、さてその水中に小虫などをしばしば溺死せしめて、この壺の内側より多少ともその小虫よりオモトの栄養分をとるか、また一功とらぬかを、試験されんことを望む。小生はサラセニア Cephalotus や Nepenthes の瓶子葉はかようのものより発達せしことと存じ申し候。
 また、オモトの外に単子葉植物にてかく瓶子葉状のものを生ずる庶幾《プロバビリチー》のあるものは日本になきように存じ申し候。熱地に多き鳳梨科のものに、葉の基脚ふくれて水を貯うるもの多きは小生みずから見たり。しかしそれは右のオモトの例とはちがい葉の基脚がふくれて水を貯うるにて、葉の面に畸葉を生じ、それが多少癒合して嚢をなし始むるには無之候。
 いろいろ用事多きも病人あるため昼間思うにまかせず、寒夜それぞれ方を付けざるべからず。ためにはなはだ多忙に付き、右のみ申し上げ候。     早々敬具
 
(551)          2
 
 昭和二年三月十一日午後二時過
   岡田要之助様
                    南方熊楠再拝
 拝啓。二月十五日出書留御状は十七日午後二時半拝受、取り敢えず葉書をもって御礼申し上げ置き候。その後も拙児病気発作頻繁にて家内その方の注意にのみ取りかかりおり、ことに本月七日夕両丹地方震災の余響当地にも及び、その後今に強風大波等の変事止まず。したがって病者は日々狂奔致しおり何とも始末におえず、それがため今日までこの状差し上げ得ず延引致し候。只今少しく静かなるに付きこの状差し上げ申し候。
 右十五日出御状に写し取り下され候 Nerine(ガーンゼイ・リリー)の諸記載はまことに小生には有益にて、重ね重ね御礼申し上げ候。このことに付き小生直接一書を伊藤篤太郎博士に呈し伺いたきこと有之候が、同博士は一読下さるべきか、折をもって御伺い御一報願い上げ奉り候。
 過日の小畔氏粘菌標本進献の諸文献、伊藤博士より望まれたるに付き送り上げたる由、同氏より申し越し候。このうち小生が画記して、台覧に供したる粘菌の内一品の図記をロンドンにて出板するに付き、これまた伊藤博士に承りたきことあり。只今の世には書翰を差し出しても返事しくれぬ人多し。故にあらかじめ御伺い合わせの上御一報下されたく候。
 過日申し上げ候オモトの葉に鰭を生じ、鰭合して筒状となるべき見込みある由申し上げおき候ところ、そののち拙児の介抱人がおびただしく拙宅へ持ち込みたるオキトを検するに、果たして小生推察の通り筒状の葉をなせるものあり。
(552) かくのごとく全く長筒をなしおり、雨後はaの処まで雨水で充ちおり候。いわばサラセニアの瓶子状葉の細嚢のようなものに御座候。右のごとく葉内に貯えられたる水の中に動物を溺死せしめおかば、多少は葉面すなわち筒の中側の皮孔より吸収さるべきかと存じ候。然るときは取りも直さずオモトも時として食虫植物たるに至るものに候。
 二百鉢ばかりある内に右様のものただ二鉢あり。(筒をなさざれどもややかようの形の葉を生じかかりしものは多くあり。また葉面に鰭あるものははなはだ多くあり。かように葉面に鰭あるものを……甲竜《こうりよう》と称う。金甲竜、銀甲竜等あり。)この二鉢全く葉が長筒をなせるものでキホウセイと申し候。何と字にかくかは知らず。只今はなはだ少なきものの由で明治十四年ごろ出板せる『万年青譜』を見しも載せおらず、また似寄りしものもなし。鞍馬折熨斗《くらまおりのし》と名づくるものなどは葉面のヒレ著しく発達し、葉の本に近き処より多少ヒレとヒレと癒合して、このごとく鞘筒をなしたるものらしく候。
 貴下他日暇あらぽこの筒状のオモトの葉は果たして食虫の力ありや御試験下されたく、右二鉢は売らずに当方に置かしめ、保存養育播殖せしめおくべく候。
 まずは右申し上げ候。   早々敬具
 
(553)   渡辺篤宛
 
          1
 
 昭和二年四月二十六日午後二時半
   渡辺篤様
                     南方熊楠
 拝復。本月七日出御状は九日午後三時過ぎ拝受、小包一(二月分『植物学雑誌』十冊)は十日午後三時ごろ拝受、しかして十三日出御状は只今安着、それぞれ拝受仕り候。『植物学雑誌』別刊は今さら改刊下さるるに及ばず、いろいろと費用もかかり、事面倒に有之、心宛の人々へはそれぞれ訂字の上送り届け申すべく候間、この上御配慮なきよう願い上げ奉り候。まことに思いがけなきことにていろいろ御面倒相かけ恐縮このことに御座候。
 定めて小畔君より御聞き取りのことならんが、小生の一人の男子一昨年春十九歳のとき高知へ受験にゆき船中にて精神病を発し、今に快癒致さず。ことに昨年末より発作劇烈にて、今に間断なく家内を走り廻り戸障子を開闔《かいこう》すること止まず。すでに二年以上の長病にて介抱人もために大いに年をとり歯抜け髪白くなり、拙妻またヒステリーに罹り、困りおり候。只今もこの状を認める側に来たり間断なく種々の物に触れおり少しも油断ならず。これがため小生も過ぐる十六、七日脳悪く半臥の体に有之、何ごとも手に付かず、大いに御返事御受書手後れ申し候段、不悪《あしからず》御海宥を惟《これ》(554)祈る。
 あまり御受け遅延しては如何ゆえ、只今患者身傍にあるに関せず短筆を走らせ右申し述べ候。
 小生旧知平瀬作五郎氏は毎度拙宅へ来訪されしも、ただ松葉蘭の発生に関することのみ話し、その履歴などは一向承らざりし。しかし他の人々より承りしは、この人なにか熱病の研究に従事中その病を感染し、それより家内に弘まり、一夜の中に子息二人とか三人とか死亡、それがため妻君痴呆となり長く癒えず、ために氏の令妹が一切家事を掌り終《つい》に嫁せずに老いあらるる由。末子は父君の助手として当地へ来られいろいろ採集など致し、至っておとなしき青年なりしが、これも二十歳ばかりのとき精神病を発し死去され候。つまり作五郎氏はすこぶる不幸の一生を清貧中に終わられ申し候。小生は四十歳まで独身にて諸国をぶらつきありき、きわめて愉快なる男なりしも、妻子を儲けてより今日年老いて家内に長患者あるに付けて、太《いた》く平瀬氏当時の困厄に同情致し候。しかして近く『植物学雑誌』に平瀬氏のイチョウの精虫の発見は池野博士が教えてやったとか、学士院受賞も同博士の取り成しによるというようなことが載りあり。小生は十分精読致さぬが、読んだ人のいうには、この文は誰かが書いたものながら池野博士の校閲を経たのち『植物学雑誌』へ出した由明記しある由。さほど平瀬氏が名を馳せたるを心外に思うならば最初から教えやらぬがよかつたはずにて、他人を取り成して受賞せしめやつたことを後日言いちらすなどははなはだ面白からぬことにて、言わば私交上の親切より学士院をも世間をも誑詐せしことを自白するようなものと存じ候。
 小生は貴殿に面識はなきが、何とぞ後来かようなことのなきよう祈り申し上げ候。
 平瀬氏毎度柴田桂太博士の研究成績を小生に語られ申し候。この博士の父君は承桂という名の方と存じ候。小生若きとき柴田、下山二氏の著書より益を受けたることすこぶる多し。またこの田舎にさえ今もその教科書にて教を受け守りおる者少なからず(いずれも六、七十のもの)、学徳に富んだ人は人の悪口や陰事をあぱくなどのことをせずとも万人がその徳を仰ぐものに御座候。さて、このことを承り、桂太博士に折をもって伺い下されたく候。右の同博士(555)父君の著書に英語のいわゆる Morel《モレル》をカナメゾツネと訳しありし。そのころ(明治十六年)、小生上野博物館で見しに関沢明清氏(当時駒場農学校長)の献品たる駒場産モレルにもカナメゾツネと名札を付けありし。只今はこの菌をアミガサタケとか何とか通称するも、それには同名異物多ければ先出為拠 priority の義によりモレルはカナメゾツネと定訳すべきことと存じ候が、このカナメゾツネの名は何に初めて出でおり候や。白井光太郎博士はずいぶんこんなことに詳しきも、小生このことを問い上げしに知らずとの答えなりし。あるいはアイヌなどの語にあらずやと存じ候。家内混雑中ゆえ右だけ申し上げ置き候。           敬具
 
          2
 
 昭和四年六月二十六日早朝
   渡辺篤様
                    南方熊楠再拝
 拝啓。その後大いに御無音に打ち過ぎ申し候。十二日出御状は十四日朝八時前拝受、またその前日小包忝なく拝受、家内ども厚く御礼申し述べおり候。
 その節御封入の嚢子菌標本は鏡検の上申し上ぐべくと存じ、一日一日御受け延引、しかるに進講後諸方より種々の書状多く到着すること今にやまず、多忙限りなく、今に切断鏡検の機会を得ず。見たるところは、たぶん Pezizavesiculosa Bull.らしく候。しかし小生は近ごろこの属を久しく検せざるゆえ、間違いもあるべきかと存じ候。
 前日進講の節ちょっと奏上せしは、景天《べんけいそう》科の小草にタイトゴメと申すもの、見たるところ何ともなきものながら、小生明治三十五年東牟婁郡勝浦港外の弁天島と申す至って小さき島(というよりは岩)に、ひとつかみばかり生えあるを見出だせり。さて三十九年ごろこの田辺湾の神島《かしま》の波打ち際の岩壁に少々散在するを見出だし候。その他にはい(556)かに捜すもなかりし。しかるに十二、三年ばかり前より、田辺町の南郊の沙浜の畑地におびただしく数町に渉りて生え、鋤き去れば去るほど分生して、ついにサツマ芋畑を荒らし、一同まことに困り入り候。牧本《まきもと》なる地主の畑より生え出せしとて、牧本草《まきもとぐさ》と唱え、牧本氏を惡《にく》む声嘖々たりし。ところが今年その畑地跡にゆき検するに、もはや一本も生えおらず、いかに求むるもなし。
 むかしローマ人が桜桃《チエリー》を南欧にもちこみしより、ギリシア、バルカン諸地にはびこり野生して今に断絶せず。またマツヨイグサも小生小児たりしころまで人家に栽え、その花の開くを見て夕涼みの慰みとなせしが、小生十二、三のときすでに紀の川原に一面に野生し、只今はこの地の郊外沙浜に野生して絶えず。ヒュームはこんなことを目撃して、地球世界は割合に新しきものなりと断ぜり。しかし小生考うるに、件《くだん》のタイトゴメのごとく偶然タイトゴメに恰当の営養分多き地に移りてたちまち大全盛を極めたものの、その大全盛がすなわち凋落の基で、営養分多ければとて何の制限なくその営養分をとり尽すときは、たちまち全滅して跡を留めぬこととなる。世間にこんな例は注意して観察すれば多くあるべしと存じ候。人間も生物なる以上はこんな例を外れず。中世ノルマン人が地中海に伐ち入り大いに彊梁を逞しうせしも跡を留めず、足利・徳川の際日本人が後インドやインド洋諸島に大いにはびこりしも今日残りなく亡びたるも同例にて、チェリーやマツヨイ草ごとく一たびはびこりていつまでも減却せぬには、あまり一時に蕃殖せず、一ヵ所を吸い尽してまた他の所に移り、そこで盛える間に前に吸い尽したる所に、また営養分が出来るという風に、多少蕃殖をさしひかえて後日に営養分を残すという自制力のあるものに限ることかと存じ候。一昨夏拙宅玄関前の小さき金魚池に Bumilleria exilis おびただしく生じて魚が動くことならず、昨年また大なる睡蓮盆に Eremosphaera viridis おびただしく生じて睡蓮の発生に害あるに及ぶ。しかるに今年に及んではこの二藻少しも見えず。あまりに一時に全盛を極むるものはその所に永持ちは出来ぬものと見え候。されば一たびその所に生じて永久にその所に生じつづくるには、多少みずから繁殖を節制するの備えあることと存じ候。この研究はずいぶん面白きことと察し(557)奉り候。
 まずは右申し上げ候。         早々敬具
 
(558)   小畔四郎宛
 
          1
 
 昭和三年一月二十六日午後二時半
   小畔四郎様
                  南方熊楠
 拝呈。今朝早く別状認め臥したるところ、今朝来|車《こと》多く別状を忘れおき只今出す前にこの状書き添え候。書状をもって平沼氏へ同氏の創見数品(目録に命名の下に in litt と書きあるもの)をもらいに押しかけると申し来たりし人ありし由にて、その通知書を平沼氏より回送ありたり。
 in litt とかきたるものは未発表のものにて、未発表品は発表せぬうちは人に見せぬものなり。(もっとも学問上特に信用ある人に相談をかくるときは示すことあるも、決して公示はせぬなり。)これより事を生じ多年の親交が破れ一生不快で暮らし、またペテンコッフェル教授ごとく自殺せしもあり。
 最初故アーサー・リスターは粘菌の記載不十分にして書物に出たるもの過半は実は同物異名なるをもってその学混雑はなはだしく、何とも研究に便宜なきを憂え、みずから諸国を巡廻して基礎を作り帰国後目録帳(小生の破られたるもの同様)を作り、一々番号を付して自分採集、また手弘《てびろ》く諸国の集品を取り寄せ、一々比較して番号と対照し、(559)なるべく種や変種をふやすよりこれを減殺することにつとめたり。その辛苦の一斑は『図譜』第一枚の毎属の末に付したる「疑わしき品種」の目録と記載にて分かる。しかるに同氏は第二板を出す前に七十八で死亡し、グリエルマ嬢がその未成稿を校訂して第二板を出せり。何をいうにも女というものは委細のことは男よりも目が届くが、大きな所へ眼が届かず、また決断ということは大いに男に劣る。それに付けては父のときほど嬢を信用せぬもの多く、マクブライト、レッキス、スターギス、ビルグラム以下の米国人が主として反旗を翻し、米国派が独立し、次に葡国のトレント(これは革命のときその蔵品をことごとく暴徒にたたきこわされブラジルに亡命し今ブラジル人となりあり)、セイロンのペッチ等またそれぞれ独立す。第三板の序文に見るところ英のクラン、スイスのメイランと小生が、今日もっとも古く故アーサー・リスターの股肱たりしものにて、その内小生がもっとも古きものなり。
 故アーサー氏は事あるごとに、親筆で書き入れ校正せる出板物を小生に送り来たり、今のリスター嬢も毎々小生に贈品あり、いろいろの用をなしくれ、また地震のときも姉妹三人して多少の恤金を小生経由その筋へ出されたり。かかる旧縁あるをもって小生は今に及んで米国人のごとく全然手をきることはならず。しかるに英人というもの日本人とかわり、自国を推尊するの風盛んにして、毎事小生よりも英人の未熟の輩を前に押し立てる。このこと小生面白からず。(第二板に小生のみの発見と見えおるものが第三板になると、小生に次いで英人が発見せしものがみな英人が一番に出で小生がその次に出でおる。)また遠方にあり通信文をよみそこなうことあり。たとい正しく読むも抄出に此方の思う通りに抄出されぬことあり。よって徒労多ければ早晩小生も自立してみずから出板の外なきも、何様かの女史は大英博物館とキュー植物園での顔ききにて、英国菌学会の会長まで務めた人なれば、日本などで見られぬ標品と文献をもっとも広く見る便宜あり。この点においてはいかに次団太を踏んでも米人などは及びも付かぬなり。故に独量見《ひとりりようけん》でどんなものを発表しても古い文献と世界中の標品より論じて取り消さるること多し。これをふせぐの方便としては小生は故アーサー氏と約契あり、小生の立つる品には必ず一部を大英博物館の常備として寄付し、同時に自分の(560)詳細なる図記をも寄付し、その図記には従来知れおる図記と異なる点を特に示しおくなり。然るときはリスター女史がこれを取り消しても、大英博物館は学者に縦覧せしむべき義務あるものなれば隠しおくことはならず、諸国の学者が自在にこれを一見し精査して、たといリスター女史に取り消さるるとも他の人々において復活さるる望みがあるなり。故にただむやみに寄贈するとかわり、その前に詳細なる図記を三部(少なくとも)作成し、一は当方に留め、一はリスター方へ、一は大英博物館へ届けおくなり。これは非常の手数のかかることにて、当方で手の及ぶだけの文献はしらべ標品をしらべてようやく出来上がりしものを送るわけなり。先方はきわめて多大の標品を扱うことゆえ出来るだけの労は此方でとりおかざるべからず。語弊があるか知らぬが、此方のことも大層に書きて前方の注意を惹くを要し、したがって文章を煉るになかなか時間を要し申し候。
 しかして貴下や平沼氏の創見品には他の精査知れおる諸品との差点が言辞でも画でも及び難きもの多く、これをいいあらわすが文章の妙なれども、そんな妙文は一朝夕にて出来るものにあらず。(第三板の序にも、第二板の序にも、小生に限り、疲れざる労力と画のごとく委曲を悉《つく》したる書き上げ(グラフィク・アッカウント)を謝する旨特にかきあり。)しかるにその記文や図画を作るには標品を一個一個細検せざるべからず。胞子の観測などは同じ品でも時によりちがうものなれば、これを防ぐためには少なくとも一千個くらいは観測せざるべからず。また乾いた胞子や糸状体を復旧せしむるには、その加減が大切にて、おびただしき注意を要し、なかなか軽々しく出来ず。
 さて貴下や平沼氏の創見品はいずれも標品少なく、平沼氏の身延産 Cribraria retusa ごときもっとも多きものなれども、それすら四十個ばかりに過ぎず。他は推してしるべく、標品一個しかなきものも多し。平沼氏の Arcyria Hiranumae ごときは、最初七個ありしが只今は四個もなく(それを二分して二個を当方へ、二個を彼方へ送らんと思えどそれも叶わぬも知れず。然るときはせめてプレパラートを留めんと思えど、かかる少数のものより完成せるプレパラートを作ることはすこぶる手際を要するなり)、また一度プレパラートにすれば石灰分とか、不純粒とかいう(561)ことは消滅してしまうゆえ、また糸状体の表のみ見えて裏が見えぬというようなことになりきってしまうものゆえ、只今リスリンに浸しおき、機会を見ていろいろとうち返しうち返しして写生しおるが、毎々そんなことをするとこれまた消滅してしまう。 Arcyria Koaze ごときは永く標本をぬらしおくと消えてしまうもので、写生すこぶる困難なり。しかして標品はおいおい亡びゆくなり。
 かかる重要のものを、査定の相談人に示すにすら標品不足なるに、何の関係もなくどこの人やら分からず、また粘菌の学がどれほど出来あるやら吾等に取り何の益あるやら分からぬ人物が、熱心に望めばとて一部分も与うべきにあらず。(此方よりは何も望むことなし。)故に今後もし貴方へかようのことを申し来たらば、標品はいよいよ発表前に大英博物館で文献標品と比較しもらう必要上、当方(小畔)のものをことごとく南方氏に委托したれば当方に一個ものこらずと申されたく候。また Cienkowskia や Physarum Newtoni くらいのものはリスターその他へ申しやればいかほどでもくれるから、何とぞ御入用の品は小生へ通知し置かれたく(もっとも小生よりはすでに当方に少なき標品を、今少しずつくれるよういいやりあれば、世界中の大抵の粘菌日本に少なきものや、なきものは近着のはずなり)、何とぞかようの怪しき人と標品の交換などは御企てなきよう願い上げ候。標本という物はたしかな人がたしかに審定してこそ学術上の役に立つものにて、かかるあやふやな半可通の人物の採集品などは入らぬものに御座候。
 よって以後なるべく御取り合いなきよう、もしかれこれ標品を望み来たらば、みな小生方へ引き上げある由御答え下されたく、また交換など望み来たらば、交換すべき標品なしと答えられたく候。  早々以上
 
          2
 
 昭和三年十月一日夜九時半〔葉書〕
 拝復。三十日朝八時出御状只今拝受、宮武氏へ送品の儀御手数恐れ入り候。当方も本日同氏への発送品をしら(562)べ候ところ、大分カビ入りあるに驚き入り候。貴方のは知らず、当方のはカビはえたる分は多くはゴムにて粘菌標品を紙箱にはりつけ、そのゴムが乾かぬうちにふたを緊《きび》しく閉じたるものに係るように御座候。故にゴムが乾き了るまで、風あたりのよき処にて乾かしたるのち、ふたをして仕舞うことが一番肝心と分かり申し候。Diderma lucidum は最初柿のごとき色のもの多かりしが、乾きてことごとく黄色に変じおり候。これと朝来帰《あさらぎ》産の Fuligo の藍色のものは、近日平沼氏来遊帰途に着かるる節托して送り申し上ぐべく候。また前日妹尾にてとられし Hemitrichia selpula var.hyperopta は当方に留めざるようなるが、これは御持ち帰り品の内に有之や、伺い上げ奉り候。なくば当方をさがし申すべく候。本日渡辺氏に送るべく Licea を拙宅の柿の木でさがすうち、十一年めにミナカテルラただ一つ見出で申し候。この分ならばこのミナカテルラも人目に立たぬがどこかに多くあることと存じ候。
 
(563)服部広太郎宛
 
          l
 
 昭和四年九月八日朝七時より認む
   服部広太郎様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。その後久しく御無音に打ち過ぎ申し候。先日御帰朝の由、新聞にて拝承、一度御伺い申し上ぐべきのところ、拙男児もはや四年以上精神病にて今に少しも快方ならず。しかるに四月二十五日、ちようど神戸より御行幸の儀に付き小畔氏経由電報を賜わりまた御状到達のその夜より、拙女児盲腸炎にて危篤、御臨幸前後ことに悪く、六月中に快復候いしも、七月下旬より再発、止むを得ず颱風気候の去るに乗じ、九月末か十月上旬に腹部切開の手術を受くるはずに有之《これあり》。多年永々の介抱に疲れ、拙妻ヒステリーを起こし、下女一人のみ健全。小生は六月一日御前進講の節粘菌二百点を献進せんとあせりしも、いろいろ多事にて百十点しか献進を果たさず。よって今九十点を献上せんと、六月十日来今に四千点ばかりある標品を鏡検中に有之。あまり日夜坐してばかりおるゆえ、足の爪が大地の引力にて反《そ》り返《かえ》り、痛みおり候。こんなことは何の苦にもならねど、妻が不快なるゆえ家内の俗事はなはだ繁く起こり、手書など認むる暇なく大いに御無音に打ち過ぎ申し候。
(564) 御行幸の前に神島へ仮御野立ち所を立てんと天幕など用意候も、県庁よりその儀に及ばずと達せられ、また神島は天然林のままに御覧に供せんと用意候ところに、御臨幸の前々日、当時の県知事来たり村長に厳命して一部の樹林を伐り開かせ、小路を作らせ候。
 聖上、これは天然林にあらず、伐り開きおると仰せられたるを、小生同行の女学校教師が洩れ承りし由語りおり候。地方官など申すものはいろいろと入らぬところに力を入れ候こと、嘆息の至りに御座候。粘菌はずいぶん生じありしも、前夜より雨しばしば到りしため十の九は流れ去り、少許の外は御見出だしなかりしことと察し上《たてまつ》り候。小生は雨天となると往年クバ島にて発せし痛風を起こし候ゆえ、当日みずから速やかに御案内申し上げ得ざりしは至極遺憾に存じ奉り候。
 四月末および五月上旬に貴殿より小畔氏経由、臨幸の際御召しあるべき旨御通報ありしにかかわらず、五月中旬までは神島に御上陸はあるまじき由もっぱら流言致し候。県知事へ問い合わすも一切そのことは知れずとの返事。小生御召しのことも一向宮内省より達しなしと知事の返事に候。それゆえ家内に病人はあり、小生は確たる奉迎の準備も出来ず、神島を包有する新庄の村民も一同御臨幸の有無を疑い、小生をも疑い候。
  これは後日大阪のある新聞主筆(小生面識なき人)より小生友人を通して承りしは、知事は(野手耐とて、馬越恭平の甥または聟と申す)県部長中に東大にて自分より前輩の人々若干あり、その人々が熊楠を推して、生物学に関する奉迎準備を一切熊楠に任さんとせしを不快、また県庁より県下の諸学校に命じて集めたる植物(顕花および羊歯類)までも熊楠に説明申し上げしめては、知事自分は御召艦に上ること能わず、先駈として衆議院や県会の議員と同乗先発せざるべからず。(議員中には政争のことにて知事と不快の者多し。)これをことのほかの恥辱と心得ていろいろと事を起こしたる由承り候。
 されど五月も下旬に向かい、躊躇すべきにあらざれば、本山彦一氏に助力を頼みしところ、五月二十三日に同氏み(565)ずから宮内省に出頭し、小生御召しになることを確かに聞き知り、即日『東京日々』に出し(加藤海軍大将より直ちに小生へ報知さる。これはロンドンにありし日小生を大英博物館に訪いしことある人なり)、それより知事も止むを得ず二十五日に小生へ移牒して御召しの由を知らされ、その牒は五月二十七日夕に至り初めて拙宅へ届き候。よって病児のことを一切妻に任せ、自分大忙ぎで粘菌標品を箱に貼り付け始め、御臨幸当日(六月一日)朝十一時拙宅出発の少し前に百十品だけ調製し持ち参れり。その間きわめて希有の物を献進せんと、二十七年前自分が見出だし置きたる海生の蜘蛛(Desis)を、生死知らずのもの三人同伴し、大風浪中に船を湾外に乗り出し、その産地に至りしも、浪暴くて近付き得ず。いろいろ考えてその付近のやや浪穏やかなる所に上陸し、いろいろと捜索せしめて一時半ばかりの間にようやく八疋および巣を得て持ち帰り、また別に人を遣わし、本州に特有の陸生やどかり(水に入れおけば死す)を少し捕えしめ、進講の節献上致し候。海生蜘蛛をとりに行きし五月三十日の風浪は、漁人も舟を出すを躊躇せしほどのことにて、小生数回船中に?倒し耳と鼻に海水入り、はなはだ難儀致し候。されども少しも休まず、ようやく百十点だけ粘菌を調え進献致し候。およそ四昼夜の間に二時半ばかり眠りしことゆえ、進講の日は疲労はなはだしかりしことに候て、その夜は帰宅するとすぐさま臥牀、安眠致し候。右の次第にて二百点進献すべかりし内の九十点は今にのこりおり、これは一層精査したる上、要点を書き添えて重ねて進献を願い出ずべく候。
 手前にある「日本粘菌図譜」稿本は、昭和二年に英国にて連掲すべく(「英国菌学会報」等へ)、彩画入りにて出来上がりたるを、発送前に校字のため書斎に持ち出しありしを、五月二十三日午後、精神病者たる拙児が書斎に入りたるゆえ、小生はそれより程遠き室に移り、定めて拙児は心のままに熟眠したることと思いおりしに、夕刻に至り妻走り来たり、書斎にありし書翰を一切拙児が?《さ》き破りたるを只今気付きたりと告げ来たる。よって行きて見るに、書翰は残らず、右の図譜稿も十の八、九まで微細に引き裂きあり。早速取り納めて七日ばかりかかりいろいろつぎ合わせ試みたるも、紙の表裏共に認めたるゆえ、全譜の半分のみは快復し得るも、半分は恢復し得ず。またあまりに細かく(566)粉砕せるところは、今さら何とも致し方なし。よって友人どもに通信したる控え文の中より、それこれと写し集めなど致せしも、至細なる胞子、糸状体等の数量的観測の控えは、右の本稿にのみありしものゆえ、今さら再び知るに由なく、これを再検するに多大の時間を要し、只今ようやく十の三、四まで再び検出したり。この数量的観測を再了したる上、英国へおくり、かの地にて出板するはずなり。
 出板前に稿本の幾分たりとも他に示すは一汎に好まぬことながら、バークレイの標本などを見るに、フリース、カーミケール、グレヴィル等の人々より、厚誼上送り来たれる標本多く、名のみ記して記載全からぬもの、仮りに名を付けたるもの、二物を混じて一名を付けたるものすら少なからず。要は自分がすでに見出だしたものをむやみに秘し置き、ために友人をして無用のことに力を徒費せざらしむる用意と見え候。アルゼンチナ国のスペガッジン氏の記載せし菌類や粘菌中に、小説ごとく聞こゆるもの多し。この人いかなる訳にや記載文を多く出し時に図をも添えたれど、標品を人に与うること少なかりしゆえ、北半球には見るを得ざる樹木等に付く菌や粘菌は、北半球で検出すべき機会に乏しく、ついに虚構のみのように聞こえ了り候。(しかし虚構にあらざるは、氏が記せしまことに啌《うそ》らしき粘菌 Perichaena pseudoaecidium を、小畔氏台湾採集品中より見出だし候。胞子橙色にて全く Aecidium 属銹菌と見ゆれども、実は Perichaena 属の粘菌たること確かなり。)いわんや聖上この一群生物の研究をなさるるに、斯土におりて集めたるものを御参考のために進献しまいらするは、もとより臣等の分なれば、ちと早計のおそれはあるも、出来るだけ精査を尽したる上、出来るだけ多数の品を進献致すつもりなり。ただし小生も小畔もきわめて俗事多忙の男なれば、精査を尽したる品々も、多数の中には、あるいは番号を見過《みあやま》り、あるいは置き処をたがえなどせるよりの混雑誤謬の止むを得ざるものなきを保せず。とにかく早晩右述図譜の出板をまちて御引き合わせあらんことを望み上ぐるなり。
 進献ののち、多数の標品を片付くるに際し、気付きたる誤謬を左に申し上げおき侯。
  昭和元年十一月小畔より進献中の No.6 Physarum citrinum Schum.は P.sulphureum Alb.& Schwein.と(567)正誤す。
  昭和四年六月一日田辺にて進献せし中、LO:18 Arcyria carnea G.Lister と簽《ふだ》を付したるは A.denudata Wettstein と正誤す。其の A.carnea G.Lister の標品の側《かたわら》に置きたる A.denudata の標品を謬りて箱にはり付けたるなり。真の A.carnea は次回に進献致すべく候。
御下問の新種新変種の要点は別紙五枚に図記して差し上げ候間、御笑覧下されたく候。小生はもと新種の新変種のということを好まず。故フッカーが植物の数を多く見れば種の変種のということが一切ないように見ゆると言いしを信じ候。いわんや粘菌類は唯今も変化進退して一日も止まざるものなれば、実際判然たる新種などいうものはなきことと存じ候。リスターの『図譜』をみれば、Physarum viride Pers.と P.nutans Pers. は区別判然何の疑いを挿むべきにあらざるがごとし。しかるに大正十一年平沼大三郎が駿河国井河村よりとり帰れる本属粘菌に、右二種のいずれとも方付かざるものあり。それより小畔等が東北地方および高野山、また台湾より持ち帰れる内に、右二種の性質を併有していずれとも付かぬものはなはだ多し。(仮に P.viride var.Bethelii としあれども、時として胞嚢の半分が黄色に半分は白または灰色鼠色のものあり。すなわち半分が P.viride var.Bethelii にて、半分が P.nutans var.robustum なり。)この他この類のことはなはだ多し。小生は故アーサー・リスターが粘菌の種や変種がむやみに増加され行くを遺憾とし、日夜精査して積数、変種数を刪正するを当務としたるを賛し、もっぱらその刪正事業に参加したるも、かの人死してのちは、リスター女史またおいおい世間なみに新種、新変種を増加するを事とし、亡父が刪除せるものを再興すること多し。小生このことを快しとせず、この数年黙視しおりたるが、近く右述の日本粘菌稿を贈ると同時に、何とぞ小生の所論を参考して、新種、新変種を設くるよりは、本種従前の定義を増補廓強 emend せんことを切に勧め試みんと存ずるなり。
  リスター女史といえども、小生おくれる標品により、「Diachea 属中時として石灰分なきものあり」、「Perichaena(568) chrysosperma に、時として有茎のものあり」、「Physarum sinnosum の胞壁は、時として褐色のものあり」、「Diachea lencopoda《白茎》は必ずしも白茎ならず。時として赫き茎のものあり」等の諸字を、従前の解説中に加入したることはあるなり。
 只今行なわるる学名、原則としては初めて図記したる人の解説を始終一貫して定義とするなれども、六、七十年前の麁末な顕微鏡で見しことを金科玉条として今日に強行すべきにあらず。ただ当座|凌《しの》ぎの便法として、少しく従前の解説に異なる点を有するものにあえば、すなわちこれを新変種とし、異点が多ければこれを新種とする定めなれば、異点の多少は何を標準とすべきか少しも定まらず。故アーサー・リスターすら、Diachea lencopoda の胞嚢普通に円柱状なるが、たまたまチリ国とこの田辺で胞嚢円きを見出だしたれば、たちまちこれを新変種 var. globosa とせり。珍しき希品に相違なけれど、形が円きという外に何らかわりたることがなければ、実は forma 異態たるに過ぎず。三年ほど前の七月、東京の小畔宅地とこの田辺の拙宅地と、同月中にたちまち richia floriformis G.Lister の単生胞嚢にて無茎のもの密生せるを見出だし、zar.suttilis Mina. & Koa. とせり。しかるに、そののち小畔の報告にいわく、この物が木材に付けるを観察せしに、木材の上面に生ぜしはみな無茎なれど、側面に生えたるは長茎あり、と。故にこれもほんの forma に過ぎざるを知れり。また六年ほど前、拙宅の梅の枯幹に多く生ぜる Physarum vernum Sommelfeld は、半数胞壁に石灰多くて白く、半数は石灰なきゆえ暗褐なりし。故に半数は本種、半数は var.iridescens G.List. なり。しかるに a ごとく一つの胞嚢の半分、三分一、五分一、はなはだしきは十分一だけが石灰分あって白く、余分は石灰分なくて暗褐なるあり。これらは本種とすべきか、変種とすべきか、断案に迷う。図に示すごとく密接して叢生せるものが、別々の原形体より生ずるはずなし。しからば一つの原形体より本種と変種と本変半ばする三様のものを生ずといわんも牽強に似たり。要するにこんな例すこぶる多ければ、粘菌の新種、また、(569)ことに新変種などいうものは実は異態 forma に過ぎずと知らる。
 しかしながら世間何ごとにもその時々の流行は免るべからず。種数刪減を惟《これ》事としたる人の娘に、ややもすれば父と反対せる方向に種数、変種数を増加して怡《よろこ》ぶ人のあるも、また免れ得ざる流行の響きなるべし。小生も形態学上の議論を出さんに、第百一号とか x の第十一号とか符号を付くるばかりでは、自分のみ別《わか》りて他人にはさらに通ぜず。止むを得ず近来種名や変種名を付くることと致せしが、本志右のごとくなれば、この新種名や新変種名はfinale のものとは決して想わず候。
 スイス人 Meylan はいささか在来の記載と異なる点あるものをことごとく新植物変種と立てる。他人はこれを承諾せず。毎度立てて毎度取り消さる。増加しゆくものは synonyms のみで終《つい》には synonyms の辞彙を作らねばならず。ただし、この人の説とて十が十まですつべきにあらず。この人の立てたる Stemomitis fusca Roth.var.violacea Meylan というほ、リンネ学会の『ジャーナル』一九三二年六月号九四頁にリスター女史が承認しおきながら(小生へも通知ありし)、三年後に出板せる『図譜』に載せざりしはいかなる故にや。当時はニューカレドニアとスイスにのみ限り生ぜし由なるも、日本にはこの物しばしば見当たり候て、小生は立派確正なる変種と考う。一九二三年ごろ拙宅に生ぜしを初めとし、小畔氏は東京、台北、伊豆湯ガ島、猪苗代湖畔より見出でたり。これは次回の進献品中に入れてさし上ぐべければ、リスターの『図譜』になければとて、なにかの間違いと御看過なからんことを望む。
 Stemonitis ferruginea にも var.violacea Meylan あって、この S.fusca var.violacea Meylan と混じ易きゆえ、また『図譜』に一向見えぬゆえ、特に申し上げおく。
 小生昨日来眠らず、ずいぶんくたびれたればこれにて筆を擱《お》き申し候。    早々敬具
  当湾内神島の樹林は、多分が青酸を含める毒木バクチノキより成る。かかる毒木に粘菌の原形体が生ずることふしぎなり。(ただし Stemonitis fusca;Dictydium cancellatum;Hemitrichia serpula;Trichia affnis 等数(570)種に限りなり。)その木の朽木を御研究所で保存されたら、生物の原形体も必ずしもことごとく青酸に破壊されざる証拠も理由も分かることと申し上げおきしが、その朽木は多少御持ち帰りになりしことにや。海浜まで投出されたるは小生も見及びしが、果たしてもち去られたるや否は見及ばざりしに候。少しく涼しくならば小生みずから赴き《おもむ》観察致すべく候。
  希有に微細なる粘菌 Hymenobolina parasifica Zukel は、二十五年前小生当国日高郡川又官林にて発見せしも、ことごとく腐り了る。しかるに三年前より拙宅および隣町友人宅の柿の生幹に、九月ごとに多く生ずるも、柿の木の皮は地に落ちると見出だし難きものにて、この粘菌が生ずる柿の木は一本ずつしかなければ、皮に限りあり、むやみに採り能わず。只今注意して地に落ちぬよう採りおり、次回進献品中に入れおくべく候。リスター女史はこの品のみ原形体が網脈状をなさざるよういえど、小生今日まで知り得たるところは、Licea 族の諸種の原形体はみな同様と見え候。これは主として樹皮に付かず、藻 Trentepohla 等に生ずるものゆえ、原形体長く暢びては進退不便なり。よって短く生じて藻糸の間に潜在し得る仕掛けらしく候。所詮諸国より汎く乾燥せる標品を見たばかりでは、生きたるものの活きたる状態は分からず候。
 拙家病人多く費用増すばかりゆえ小生肉食せず、眼力弱くなり、この状を書くに文字が読めず。自分に読めぬほどゆえ定めて御難読と察し候。
 
2
 
 昭和四年九月九日夜九時半
   服部広太郎様
                    南方熊楠再拝
(571) 拝呈仕り候。先便答書中 Comatricha laxa Rost.var.gracilis Minakata & Koaze と書きたる gracilis は graciliformis の誤りに付き、左御訂正置き下されたく候。
 前書申し上げ候通り、六月一日御召艦に参り進献仕りたる粘菌十一箱百十点の内、属種名のみ印刷、採集年月、場所および氏名は手書致し候もの三箱ばかり有之《これあり》。これは県庁より小生へ御召艦へ御召しの告知書が五月二十七、八日まで拙方へ届かざりしため、小生はたぶん故障ありて御召しなきことと心得、八十点八箱のみ県庁を経て進献すべく存じおり候ところ、二十七日夕刻初めて御召しの通知書に接したるにより、急いで今百二十点十二箱を調えにかかり候も、他にいろいろ事多く、六月一日朝十一時御用船にのり神島に向かうまでにわずかに三十点三箱だけ拵え上がり候。この分は事急速に出でたるゆえ、年月、地名、人名を印刷に付する能わず、自筆にて御役に立て申し候。この三十点ばかり(年月等を手筆せる分)は、その名目を控えおかず。御進講すみ帰宅後一両日して記臆のまま書き付けしに、すべて三十六点あり。しかし三十点もしくは三十一、二点だけ差し出せることは、自宅に残れる小箱の数を算えても明らかに知るれば、全く記臆が乱れたることと存じ候。
 次回に進献すべき物の中に一つたりとも重複することあらば面白からざるに付き、何とぞ御面倒ながら田辺湾にて小生より進献せる十一箱の内、年月、地名、人名を手書せるものの属種名を悉皆《しつかい》書きとり、御示し下され候よう願い上げ奉り置き候。
 小生および小畔氏進献品の中には、一見して誤謬らしく見ゆるも少なからず。しかしこれは小生特に鏡検に念を入れて、粘菌類は只今も盛んに変化し行くこと姑《しばら》くも息《や》まざるを御覧に入れんがため、特に撰入せるものに御座候。例せば、田辺湾にて小生より進献せる内、芝公園にて小畔が採りたる(03:150と番号を添えあり)Physarumconnatum Lister(昭和三年七月三日集)は、胞襲、茎とも一見したるところ、全く P.compressum Alb. & Schwein. なれども、内部の構造は P.connatum に外ならず候。(572)拙宅、大正三年 Physarum bitectum Lister を生ぜしことあり。胞嚢、胞壁等全く Physarum bitectum なりしも、胞子のみは純然 Physarum sinnosum Weinmann なりしゆえ、リスター女史の勧めにより、これを P.sinnosum と致し、 P.bitectum は今に日本になきことと致しおれり。実はかようの品は右等両種間の間《あい》の子的のものにて、断然いずれの種と明記せざるがよきなり。しかして実は右等両種が判然たる別種にあらずして同一種に過ぎざるを証するものに候。小生当地付近にて明治四十年ごろ、 Physarum bitectum connatum と P.compressum が同一の原形体より生ぜるを採りたることあり。その品今も大英博物館にあるなり。本邦産の粘菌にはかくのごとく外見と内部構造が別種に属するもの多く候。   早々敬具
 
(573)上松蓊宛
 
          1
 
 昭和五年十一月二十日朝九時
   上松蓊様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。十月二十八日および十一月一日拝受の粘菌はすこぶるむつかしき物多く、十一月八日の夜より日夜他事を廃しその鏡検にかかり、ようやく昨夜二時ごろ終結、すなわちかねて御送付の目録にそれぞれ書き列べ只今この状と同封して差し上げ候。従来誰にも知れざりし斬新なるものは、四点に有之、内三は異態《フオールマ》と変種 varieties で、ただ一つ新種なり。ただしこの新種は驚き入った新種で従来無先例のものに候。第1図のごときもので小生は一見して Didermasimplex List. と思いおりたり。(これは石館守三氏が安房の清澄山で創見、その後二度ばかりどこかより出たり。)しかるに鏡検すると simplex(単一)どころかその胞壁はことのほか厚く、金剛砂をヤスリ紙にはり付けたるごとくザラザラ致しおり、第2図のごとくに諸処にヒビが入りおり候。(透光で見れば橙赤色、ちょうど東京で料理に使う橙の皮を沙糖で煮詰めたるごとし。)その亀甲様の殻皮の上にはイロハに示すような鋭き大き毛がはえおる。一体粘菌に毛がはえるは滅多になきことで誰もこれを公表せしことなし。しかし前年平沼氏がどこかでとりし Trichia decipiens に(574)毛ありしことあり、その外になし。しかるに貴集の H-26 には胞裏の外面に毛が散在致し候。よって徐《おもむ》ろに右の金剛砂ごとき粒をはなして取り出し見るに Didyminum 属の特徴たる石灰粒(黄赤色)がおびただしくおしあいおり、その一粒はこんなもの(第3図a)なり。横よりその一粒を見ると、ロハ等の短く大き刺《はり》は地平と並行せるに反し、ニホ等の畏き刺は斜めに天を指す(第3図b)。それが第4図のごとく胞壁の表面に毛のごとく見えて現ぜるなり。実は弾力なき堅剛なる長き刺なり(石灰より成る)。ウニの刺に同じ。さて胞壁の表面の金剛石粒層の次の中層は我輩いまだ精査せざるが、横より見ればざっと第4図の中層のごとし。厚きものなり。件の金剛砂層を除きて見ると、第5図のごとく大和辺より出るヒラカと申す古器、申さばちょっと弁慶の家紋の輪宝《りんぼう》ごときものがみえる。その横側面が胞壁の中層になるらしく候。
 このヒラカは強くおすと分解してこんなに分離する(第6図)。この輪宝は鼈甲の色で何たる曇りなく実に美麗荘厳を極む。この輪宝がおびただしくおし合いおるその余勢で、川流のごとくに輸宝群と輸宝群との間にヒビが入るなり(第2図参照)。すなわちこの粘菌の胞壁の表面より金剛砂粒層を除きてレンズで一見すると、こんなに(第8図)文理がみえるが、そはヒビなり。
(575) さて右の輪宝層の下にはまた第4図下層と記せるごとく今度は胞壁の表面層よりは小さき金剛砂層がある。これはぐるりの刺が表面層のほど鋭からず短し。これはオリブ色なり(ウグイスの色)。第8図の(乾)と書いた所のごとく紫灰色の胞子と糸状体との団群の上に点在すること、餡餅にキナコをかけたるごとし。しかしてこの下層の金剛砂粒には毛のごとき長針はなし。
 この他形態学上いろいろとこみ入ったことあるも、まだ精しく分からぬからあと廻しと致し候。従来小生は粘菌にこんなこみ入った構造のものあるを知らず(リスター女史も誰も知らず)。Didyminum 属、胞壁外に砂粒ごとき石灰分を被るは知れ切ったことながら、胞壁の下にまでまたまた砂粒を付けるははなはだ用心深きことの限りなり。しかしてこの粘菌の内部はというと一向何でもなく、全く Didyminum 属の胞子と糸状体たるに過ぎず(第9図)。その二つを守護するにかくまで手のこんだことをたくめるは、どういうことか小生には分からず。御幣かつぎにいわせば造化の奇巧、また上帝の御慰み余興、唯物論者の徒に(570)言わせば勢力充溢して余りあるよりのことと申す外なし。十四、五年前リスター女史は粘菌ももはや研究はゆきつきたり、この上あんまり斬新なことも見当たる見込みなしと、大英博物館の「粘菌手引草」の序文に明言せしことあり。しかるに蒙昧でも人跡絶せる地でもなき群馬県の広河原の草茎にこんな驚き入った物が付くとは誰か予想せん。実に破天荒のことと存じ候。よって小生、今冬中潜思究考して一論を草し、図入りにして『ネーチュール』へ出し、外人をあっと言わせやるべく、さて、精図と記載文を「英国菌学会報告」へ出し、同時に標品と図記を進献せんと思う。
 ところがこの標品は脆きこと沙汰の限りで、当方へ着する途中でことごとく胞壁は砕け、全形を見るに足る標品一つもなく、ただ二つ第10図のごとくなりながら胞壁の多部分が胞嚢に原状のまま(in《イン》 situ《シツ》)に付きあるものあり。その外はみな胞壁がこんなに(第11図)破砕しあり。もっとも外へ逸出はせなんだから、その破片を拾い収めて保存しあるが、横断面を図したり、各層を引き離して観察したりするにはとても足らず。
 かようの物を燕石同様十襲して置いたところが何にもならぬから(余分は多少事済みてのち返上するから)、進献分と、大英博物館へ常備分と、それからもつとも必要な小生の研究分とのため、貴方に残りある分を、いくらか貴下手許へのこし、また平沼氏にも少許分与した上、大部分をなるべく早く御送り越し下されたく候。例の紙箱の底へしかとはりつけ(アラビヤゴムにリスリンを少し加え)、よく乾きたる上送り下されたく候。しかして胞壁の砕片は一小片をものこさず鳥の羽ででも掃きよせ薄き柔らかな紙につつみ、紙袋か小箱に入れ御送来下されたく候。紙箱へはるときは必ず指を用いず、ピンセットにてきわめて注意して御扱い下されたく候。
 小生はなるべく人名を学名に用いぬ決心ながら、この品に限り Didymium Uematsui Minakata と命じたり。Uematsuvianum とせんかと思いしが、何ごとも当世簡単要を得るが第一と、短き方に致し候。長い名は記臆に骨が(577)折れ、いろいろとまちがいなど生じ Uemanum などになってくると、何のことか分からなくなり申すべく候。
 小生はきわめて注意して一小片だもむだに使わぬゆえ、しかとしたことはまだ言い得ざるも、この新種の糸状体もへんな物にて、ただ二条を精査せしに(糸状体は胞嚢の大なる割合にはなはだ少なし、少ないものを大事にする心がけでかかる大仕掛けの構造をせしかも知れず)、第12図のごとく糸状体の一例に微少の疣を一行に列す。それが多少の糸状体をまわりて生ずるらしく候。(ちょうど先年発見のミナカテルラの糸状体に、鰻の背鰭様のものが糸状体をめぐりて生えたるに似たり。妙な偶合に候。)
 また Colloderma oculatum G.Lister は小生一九一〇年当国安堵峰にて創見、その後小畔氏が中禅寺外二ヵ処ばかりで見出だせり。貴下も一昨年秋川又にて採れり。第13図のごとく馬糞を押し扁めたような形色のものなり。これを水に漬すと第14図のごとき一眼のものとなる。鰯の限玉が深山に落ちあるは奇怪と思うようなことあり。さて今度の貴集 H-43は Cribraria macrocarpa 多くあるが、その間にただ一つこのコロデルマあり。長さ1 3/4mm,幅1 1/2mm, ●この黒点よりも小さきものなり。鏡検せしに本種に相違なきも、第15図右端のごとき細紋あり。弟16図ごとく八幡の藪くぐり的の細き脈つらなり、その間が凹《へこ》みおる。従前見し本種にはこんな紋はなかりしようなり(記載には一切見えず)。さてそれを破って見ると胞子は尋常なれど糸状体はことのほか良し。胞子と比してこれほどの長さの割合になる(第17図)。これは常態とはかわりおる。(『粘菌図譜』この種の図と比すべし。)さてその胞壁を鏡検せしに第18図の通り石灰粒を少な(578)からず点有す。最初オーストリアで Lippert がこの種を発見して胞壁に石灰粒ありと記せしが、その後諸国でこの種続々見出だされしも石灰粒を見ず。よって Lippert はなにかの間違いでかく言いしことときめ込んで、リスター女史は本属を Amaurochaetineae 類、すなわち石灰を含まぬ粘菌類の最初におけり。しかるに今度の貴集品には石灰分あるを見るゆえ、この物は時として石灰分を含み、時として含まぬということになる。しかして Stemonitis などと共にアマウロヒーテ類に入るるよりはもっとも性質一汎に近き Diderma の近類と見ねばならぬ。(またはこの属にはその実石灰分を含んで糸状体が長いのと石灰分を含まずに糸状体が短いのと二種ありとし、石灰分を含んだのは Diderma 属に入れ、含まぬものは依然 Colloderma 属に止めおくこととせねばならぬ。これもまた大事件なり。しかるにこのことを立証して外人に見せるほど当方に標品の余剰なし。よって願わくは H-43 貴方の分をレンズで精査してもし今一つでも本品あらば送り下されたく候。なければ H-43 に多き Cribraria macrocarpa は送り下さるに及ばず候。
 まだまだいうべきこと多きも、小生は一昨夜より少しも眠らず、疲労はなはだしきゆえ、ぜひ只今画記せねば腐るべき菌が座右にひかえあり、よってこの状はこれきりに致し候。目録に△印を付けた分はなるべくまとめて御送来を乞う。来年の発表および進献には最好の標品を撰びたく候付き、宜しく御願い申し上ぐるなり。
 一昨朝なりしか、一昨々朝なりしか、四時すぎに当地大雷雨、小生生まれて来、(579)かかる烈しき雷にあうたことなし。小生貴下の粘菌を一生懸命に見おりしゆえ左までのこととは思わざりしも、顕微鏡のデッキグラスを洗うべく小チョクに水を盛りありしが、その水を見ると波動を生じおりたり。さて後に聞くにそれは大雷最中に短く強き地震ありしにて、二、三町はなれた町などは人々大雷雨中ながら戸外へ出たる由に候。
 H-5 と H-7 は貴方に控えなき様子、H-5 はみな(第19図)胞壁の上部なし。しかるに H-7 にはただ七つほど完全な標品のこりありしゆえ、新変種と分かりしは幸いなり。第20図のごとく胞壁の上部にアバタ様の大きな穴があき、列なりおるなり。
 今度の貴集には、新種や創見品は少なきも、形態学上斬新なものはなはだ多かりしゆえ大いに益を得たり。それらは大抵目録の注記を見れば御分かりになることに御座候。
 
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 昭和六年二月六日午前九時半
   上松蓊様
                   南方熊楠再拝
 拝啓。本月四日出芳翰今朝八時十分拝受拝読、難有《ありがた》く御礼申し上げ候。
 貴状に見えたる吉野の人は小生存ぜず。しかし明治三十四年ごろ吉野の山持ちの人夫婦が常楠方へ来たりしことあり。あるいはその人かと存じ候。小生には兄一人ありしも八年ほど前に物故、仲兄というものはなし。常楠は弟ながら、小生洋行中に父死亡して、その跡を継ぎたるゆえ、常楠を小生の兄と心得たこと多く候。
 次に、H-26 は今におよそ四十日ほど休まず、精究致しおり、化学上の精査を要し、すこぶる苦悩致しおり、これは新属として発表すべき物と存じ候。只今もその精究致し居り、折から平沼君へ状を認めかかりおり、その内に具述(580)致し置き候間、同氏方に就きその状を御覧下されたく候。(状内のことどもは発表まで一切御口外を御さしひかえ下されたく候。この最奇品の様子があらかた〔四字傍点〕洩れ候ても他の輩がたちまち好奇心を起こし、必死になり、多数で捜索され、貴下発見の功を横取りされてははなはだ面白からず候。)しかして標品は化学試験に入用なるゆえ、当方にある分にて不足なるときは、さらに申し上ぐべければそれまでは御留置もしくは平沼氏方へ衛預け置き下されたく候。この上当方に必要なるは外殻のみゆえ、何とぞ当分なるべく動かさず、いささかの粉末までも御留めおき下されたく候。(この物の外殻はちょっと動揺すると落脱致し候。その落脱したる殻はたちまち粉末と化し候。その粉末を化学試験に、なるべく入用多きなり。もっとも脱落せぬにまさったことはなく候。)このことは特に申し上げおき候。とにかく今年中に必ず発表し驚かせ申すべき間、それまで深秘して少しも御口外なきよう願い上げ奉り侯。Discoderma Uematsui Minakata と致し申すべく候。あるいは Discoderma Uematsui Minakata なる属名はすでに他の動物または植物の属名に用いられおるかも知れず。これは文献不備の当方では分からず。もし左様の場合にはリスター女史またはその他より改称さるるも知れず。属名は改称されても種名は最初付けたものを永存する規則なれば、たとえば Coccoderma 属と改称されても、種名は依然 Uematsui たるべく候。
  梅女は今年二十一歳なり。
 ノリは、佃煮はややもすると郵送中溢れ出で、当地へ着しても、あまりよき気味で食われず。かれこれするうちカビを生じ候。故に御好意ほどにもてないから、下さるるなら焼きノリを戴きたく候。これは久しく用い得てはなはだ重宝に御座候。
 なおいろいろ申し上げたきこともあるが年来種子をまきおきし菌類おびただしく発生、乾かぬうち、腐らぬうちに生きたまま観察して図記しおくべきもの多数なるゆえ、はなはだ時間逼迫しおり、右のみ申し上げ候。 Discoderma のことは平沼氏への状中に詳記し置きたれば、それを借りて御覧願い上げ候。          早々謹言
(581)  小畔氏は十二月中旬妻君神戸へ来たりしが、腹痛にて連日悩みおる由通知ありし。その後久しく信書なし。如何のことかと存じおり候。六鵜氏は元旦のハガキに、十一月二十八日に妻君死亡の由、まことに御気の毒の次第なり。
 
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 昭和七年十一月十五曰午後二時出
   上松蓊様
                  南方熊楠再拝
拝呈。本日午亂○時○五分大王より着電(神戸局〇時三九分発、当町局着○時五五分)、
  コツコテンラン。ソノタワミナシンケン。ゴカノウゴマンゾクトウケタマワル」ヒミツコウ」コア
 右の電文なり。電文だけゆえ、詳を知るに由なきも、昨夕六時までに小畔、会社支店をしまい、大風雨を冒して行在所に参上、侍従文武官を相手に、粘菌、大小、異なる matrices に生えたもの、同じ原形体よりいわゆる異種のものが共生すること(故に実は皮相だけの異種)、採獲保存の方法等を、右の人々陛下に扈従して山野を跋渉する際粘菌とはどんな物か分からず、ただ御研究所員のなすがままにまかせて手持無沙汰に立っているのが面白からぬからとのことで、小畔より実際それぞれの標品を示して一般に分かり易く説明しくれと押小路侍従武官よりの望みにまかせ一席やらかし、そこへ非公式に出御あり。Coccoderma Uematsui Minakata だけ天覧あり、小畔も十二日に御風邪なりし由承りおるゆえ、上松品を天覧に供しただけで、他の物はそのまま説明書を付して一切さしあげ、すぐさま退出、または侍従連より御馳走、半時間ばかり粘菌の余談をして退出せしことと察し申し候。
 右天覧に入れたる Coccoderma は標品が何分乏しきゆえ、一つだもむやみに解剖する能わず。小生は右眼のみで鏡検するゆえ、写生も測定も十分ならず。(もっともカメラルシダを横におかずして前へ出せば右眼のみでも写生は    (582)できるが、測定は難し。故に娘にもっぱらやらせおるが、娘は未熟にして平面と線とはできるが立体のものはできず。)大王は近く三百余円を投じ、双筒顕微鏡を購入しあるゆえ、胞嚢や茎を分離せずにそのまま(顕微鏡筒を上下せずに遠近共一斉に)鏡検し得る。それ故第二回の御送品が去年着のとき、うまく分かち、小箱の底に紙のカケ子を作りはり付けたるやつを、本月八日大王来たりしとき手渡し、測定を頼みたり。事すめば測定表と共に還し来たり、当方にある第一回の御送品および第二回の品残分とを娘が測定を試みおるその表と比較して大抵平均をとるつもりで、写生測定するようあずけ頼みあり。大王は必死になって修煉するゆえ、この程は写生測定ともなかなか上手なり。小生より当方にある Cocco- を天覧に入れんといろいろ苦辛せしも標品を密に相|累《かさ〜なりてはり付けあるから、それを引きはなちて一部分天覧に入るるためはり付け替えることは、五つ六つ胞嚢を破傷せずには到底叶わぬから、遺憾ながら送ることを得ず。その代りに十四品の新粘菌(かつて天覧も進献もなきもの)を送るといいやりしを、はなはだ遺憾に思い、そこはさすがに大王にて、一支店を頭領するだけの分別を出し、「?外《こんぐわい》に出でたる将軍は上命も用いざるところあり」と考断して件《くだん》の小生より預けおける測定用の小片標品を麁末な小紙箱に小生がはり付けたままもちゆき、藺相如《りんしようじよ》流に、御覧に入れた上、それは全く持ち帰ったことと存じ候。(大王倉卒としてカバンに入れ持ち帰るゆえ途中を慮《おもんぱか》り、標本中尤も多く破損したるこれほど(十二、三個)を渡せしなり。)こんな不完全なものを天覧は、まことに不敬らしきが止むを得ず。
 胞壁満足なるは一個、多少破裂しながら胞壁のこりしは三個ばかり、これも今は飛散したかも知れず。今時こんな天覧等のことありと知ったなら、何とか工面して今少しましな物を小畔に渡したはずなるも、糸状体の測定にはこん(583)なわれた品の方が便利と思い、最も不完全なものを渡したは遺憾なり。いずれ丁重に荷作りして当地通いの船の事務長に托し、送還し来たるべければその上どうなりおるか分かるはず。
 とにかく小畔気をきかして小生よりの指図を仰がず、不十分ながらも天覧に供え奉りしは上出来なり。
 付いては貴下今年御採取のものが果たしてこの品なりや、また小生の杞憂通り Diderma ochraceum Hoffm. なりやを決するため、まず右の天覧に供せし通りの不完全品でも宜しく(胞壁全くなきものは役に立たぬが砕片でも付きあらば宜し)、なるべく早く一部分御廻送下されたく候。然る上は当方において発表のための娘の写生彩色等の見込みも立ち、大いに都合宜しく、またなるべく最良の品を少しでも進献するに便りを得ることに御座候。(というは今年御採収の方が去年のよりは良好なることもあるべければなり。)その進献は小むつかしきことなく、貴君本村町発見の Diderma effusum の(これは var.Mahendra《天帝釈》 Uematsu とせり。ただしまだよき名を見つからば変改する)帝釈天全身女陰化のやつ、および今度の var.disciforme Uematsu また前年御発見の Hemitrichia serpuka var. inequntis その他と共にまとめ、大王よりの紹介状をもって押小路侍従武官方へいき、採集者たる貴下自身御委托あつても宜しく、しかるときは東京町内だけの持ち運びゆえ、損害は少なくてすむことと存じ候。
 大王の電文に「ヒミツコウ」とは自分がいわるることを人に打ちこけたる機転いと面白し。まずは Uematsui 高名のこと御報まで。         早々敬具
  当地一昨夜より大風雨大騒ぎなり。大王も桶狭間以上の活劇にて、斉《ひと》しく大風雨中に行在所へ標品もちこみし苦労は多謝罷り在り候。
 
(584)今井三子宛
 
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 昭和六年十月十八日朝五時
   今井三子様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。昨日大阪より旧友来たり候付き、承り合わせしところ、大抵大阪より和歌山市まで四十分、または一時間、和歌山より当地まで四時間にて、優に到着を得ることに御座候。いずれも汽車と電車とにて大阪より南部《みなべ》町に到り、南部町より、この田辺町までは自働車(乗合)を用うることに御座候。しかし御都合にて大阪|天保山《てんぽうざん》より夜の九時に汽船に乗らば、明朝四時に、当田辺町近処|文里《もり》という小港に着、上陸して乗合自働車に乘らば、小生宅と同町内の終局点(右乗合目働車会社本店)に達することにて、それより小生宅まで小半町ばかりに御座候。これらのことは大阪の旅宿より電話にて、船会社またはその大阪市内切符売捌所へ聞き合わさば、直ちに知れることの由に御座候。御都合にて、夜分御存知なき初めての所に着し、汽車、自働車にのり後るる等のことありて、如何わしき旅宿に夜を過ごし、近所喧噪のため眠ることもならぬよりは、夜分御出発を余儀なくさるる節は、船便の方が楽なることと存じ候。大阪より当地までの航海は、以前はずいぶん難路なりしも、只今は船が大きくなりしゆえ、大風などのことなき限り(585)は安楽なものに御座候。
 小生は足惡きをもって、みずから諸方へ御案内申すことは、あるいは不可望と存じ候ゆえに、諸地の心安き友人を招集し、貴殿御着の上、それぞれ部署して諸方へ御案内申し上ぐるよう頼みおき候。その人々も毎度拙宅へ来たり、どこに菌が多く産するくらいのことは熟知しおるなり。
 拙方の標本図記は、きわめて多数、かつ混雑しおるをもって、悉皆《しつかい》御覧には数日を全くその方に費やさざるべからず。小生、時としていろいろ用事もあり、これまた不可望のことに付き、まず重立ったものを御覧に入るべく、用意致し置くべし。しかして先日もちょっと書面で申し上げおきしごとく、小生方に近来の雑誌報告等届かず、また、家累と老齢衰弱のため、精査を遂ぐるに由なく、久しく打ちやり置きたるもの多し。その内に必然、無類の新属と思う Phalloideae の一品あり。記憶のままに申し上ぐると、上図のごときものなり。生きた時は牛蒡の臭気あり、全体紫褐色、陰茎の前皮がむけたる形そっくりなる也。 むかしオランダ人がジャワ辺で(たぶんアンボイナ島)写生せし Lejophallus とか申す菌属の図がもっともこれに似おり候。(Nees ab Esenbeck の図を小生持ちおる。)しかるにこの属の記載、はなはだ怪しく簡に過ぐるをもって、サッカルドの『菌譜』には、ただその名を載せるのみ、記載すら移し入れおらず。その図は只今うろ覚えのまま写生すれば、こんな怪しきもので、紫というよりは紺青色に彩色しありしと記臆す。小生知るところ、拙蔵の標品の外に例類なきものなり。貴下は拙方に御滞在中に、この菌((酒精に蔵しあり、(586)故に変色はせるものの)全体の写生と記載は(外部に関する限り)十分に致して今ももちおれり)を小生立会いの上、解剖鏡検して大抵要点を控え去り、御帰札の上、精査して命名発表下さらずや。顕微鏡は、当方に三、四台あり。故に鏡検に差し支えなきも、なにか貴下得意の手軽な要品あらば(解剖刀等)御携帯を乞うなり。薬品等は当地で調うべし。しかして大抵、御心当たりの右の図に近き菌品の文献を、御しらべおき下されたく候。
 外にも一、二品、貴下の精査命名を乞いたき品あり。昨日、人を派して生品を採らせあり。今日、みずから写生しおく。また、御来臨の上、その菌生ぜる現場へ御案内申し上ぐべし。     早々敬具
 
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 昭和七年三月二日夜十二時出
   今井三子様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。過日伊藤君より書翰を賜わり、また貴状も拝受。まず、さし当たり百点ばかりミクロ・フンギを伊藤君へ送り上げんと撰択にとりかかりしに、およそ二夜ばかりで事すむべしと思い、いよいよ取り掛かりしに、なるべくよき標品を上げたしとか、それよりそれと事長くなり、いっそ五百点差し上ぐべしと撰抜し了りしが、今年はいろいろと他に用事もあるから、この際なるべくは七百点ほどこのついでに撰抜すべしと、日夜撰抜にかかり、只今五百二十点まで撰抜しあり、七百点数日内に出来上がるべければ、書留小包三個か四個にして貴下宛送り上ぐべく、到着の上伊藤君に御渡し下されたく候。また貴下御需求の嚢子菌類は、小生眼わるくて複写は事長くなるから、原標品を彩色図および記載文添えの原紙のまま、右小包と同送申し上ぐべく、その標品を御入用だけ切りとり御用いの上、用済みの上、余分を御還付下されたく候。
(587) 最初わずか二夜か三夜で撰抜事了るべしと思いしものが、かくのごとく長くなり候は、micro-fungi 等の寄主 hosts が、深山等で参考書もなく手当たり次第集めたもの多く、今となって何とも分かり兼ねるもの多し。しかしそのときの日記などを捜蹤穿鑿すれば、大体心当りがつく。そんな取調べに長く時間を要し、また一つは、hosts の何たるか分かりおりても、二、三十年むかし一種と心得られた顕花植物や羊歯類が、今となつては二種、三種に分かたれたり、学名がいろいろと変更されたりのものはなはだ多く、これを出来るだけ小生の手許で改変して引き渡さざれば、貴方において大きな錯誤を生ずることとなる。
 もっともこまるのは竹の類で、小生帰朝せしころは竹の学名が全く無茶苦茶なりし。さて今となっても、その竹この竹を一見して直ちにその種名が分かるような diagnostic な分別表は本邦になし。(否、学名を付けた人も今に十分の diagnosis は知らざることならん。)よって下女や妻を原地に遣わし、その竹の根を掘り来たらせなどして、やっとそれらしき学名を記し付くる。牧野とか中井とか、一つの植物の学名を何度となく書き改められたること多く、何が本当か、虚偽か誤謬か、訂正の見当がつかぬには大いにひまをつぶし申し候。あまり不確かな hosts には、学名の前後に?印を付けおくから、そは貴方で解剖でもして正されたく候。また標品あまり古くなりて、(誘《さび》菌など)葉はありながら肝心の菌が全く亡失せるもの多し。これらはなるべくは(拙宅地および近郊のものは)、原産地につき新しき標品を採り来たらせたり。
 こんなことにおびただしく時日をつぶし、二月中はほとんどこれにのみかかり、他のことは一切できず。上海より帰りし友人(御覧なりし『古今図書集成』、『二十一史』等を買いくれし人)には、帰りあり、一度来たらん、とのことなるも、今に来訪をことわりおり候。いずれ小包完成後発送の節、また委細申し上ぐべきも、とにかく御案内まで、かくのごとく申し上げ候。
 当方には控え品が多くある。故に精査上にはなるべく多く標品を用い下されたく、さて貴方へ残し後年の参考に供(588)するためには、番号さえ申し越されたら、またまた標品は送り申し上ぐべく候。故に精査のために標品を惜しむなからんことを望む。
 写真は難有《ありがた》く拝受。いずれも上出来なり。その内、当宅安藤ミカンの枝を徹《とお》して書斎の一隅を写せしものは、今一、二枚下されたく候。これは安藤ミカン今月御苑の御用品となり差し上ぐる、その参考に入用なり。
 小生は、ミクロ・フンギにして、小生の着色図と多少の解剖写生とを添えたるものをも、伊藤君に送らんと心がけたるも、何様右申すごとく寄托主の学名調べなどにおびただしく時がかかるので、着色図の複製などは思いもよらず。よってこの度は図記のなきものばかり(すなわち申さば小生何の学識もなく手当たり次第集めたもの)を送り上げ候。次回には記図の添えたものをも送り上ぐべく候が、それまでには小生も他のことにかかるから、まずは今回送り上ぐる七百点の調査がすんだ上のことと想われたく候。        敬具
  右の七百点の撰抜になかなか時間を要し、諸方よりの来状四十通ばかり返事が滞りおり。七百点の内たしかに撰抜すみしは五百二十点ばかりなれば、今夜ちょっと撰抜を中止し、急を要する返書を諸処へ出す。そのついでにこの状をも認め貴殿へ差し上ぐるなり。
 
(589)伊藤誠哉宛
 
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 昭和七年二月一日午前四時
   伊藤誠哉様
                 南方熊楠再拝
 拝復。一月二十七日出御状三十日午後二時十分拝受、御査定の学名それぞれ御知らせ下され千万恭なく謝し上げ奉り候。No.3 南天の葉に付きたるものは、枯れ乾き過ぎて査定に何の効もなかりし様子、したがって前回の分よりはやや生々しきものをここに同封、再送申し上げ候。その他に四品同封候間、然るべく御検査願い上げ奉り候。その内ナワシログミの葉裏に付きたる細黒点は、小生只今眼わるきゆえ、菌か虫の遺物かも見別ち得ず、またそのグミが生えたる辺は、石炭の煙毎度飛び来たれば、あるいは石炭末かとも存じ候が、その外に微細極まる Hyphomycetes 二、三種はえおる様子に付き、とにかく御送り申し上げ候。
 小生少しく暇を得候わば、次回には五十点か百点送り申し上ぐべく候。小生遺品目録を作り御送り申し上ぐべく候、それへ御査定の名をかき付けて御返送下されたく候。その内若干のものは、最初小生目つけたとき全形の写生をなしたるを、写し添えて差し上ぐべく候。(590)まずは右御案内まで、かくのごとく申し上げ候。     敬具
  追白。右の内 No.6 のスイゼソジナに付ける菌は、あるいは未熟なるか知れず。スイゼンジナは他所にありては秋花さく由。しかるにこの田辺においては毎年十二月より正月に入って初めてつぼみを見る。しかるにそのころは早晩霜が到るにより、開花せずに霜にあうと、一夜にして熱湯を澆《そそ》がれたるごとくに凋れ枯れ去り候。故に拙宅地には毎年この草のつぼみを見れども開花するを見しことなし。花のみならず葉も茎も霜にさえ逢えば一夜にして消失するなり。故に葉は昨夕までは living にして、今朝霜のために dead leaves となり、その間に fading leaves というものなし。件《くだん》の菌も昨夕まで living leaves に着きて生きおり、霜にあえばたちまち今朝は上図のごとく葉が凋れ了るゆえ、寄生菌は未熟のまま消滅することと存じ候。
  木立亜麻とかいうものあり。むかしは Linum 属とせしが、今は何とか別属とすと聞く。ヒマラヤ地方原産の由。灌木にて年末に黄花やや大なるを開く。ちょっと金糸梅などの花に似たるものなり。これも今年は温かなるゆえ一月中句まで咲きたるも、霜が降ると一夜の間に葉も花もことごとく爛れ枯れ去り候。
  Viola odorata などは英国の野山にありては毎年三月より五月を盛りとす。しかるに当地に半帰化せるに及んでは、十二月より冬の終りまでが花盛りに候。かくのごとく外国種がこの辺に移りて開花期をうまく調節し、くり合わせたるものと、くり合わせが十分に行き届かぬものと有之候。調節十分ならぬものに寄生せる菌は、生えることは生えるが、かつて終結に達せざることと存じ候。
  標本は多少複本を控えおきあれば、精査のためには御心置きなく、なるべく多くを使用ありても、標本保存上御要用の節は、控え品の内より再度送り上ぐるを得べし。
 
(591)          2
 
 昭和九年一月四日夜十一時
   伊藤誠哉様
                   南方熊楠再拝
 恭賀新年。御ハガキは咋三日午前八時過ぎ恭なく拝受、御礼申し上げ候。かねて御約束の標品およそ二千六百点ばかり拵え有之、しかるにその中やや厚き枯木、枯枝等に付きたるものは、輪廓、菌糸等を全備したるを差し上げねば(切片のみでは)無効と察するもの多少あり。損傷なしに切り取るに手間とるうち、小生昨年二月より五月末まで眼病となり、次に七月より十一月上旬まで例の勝景保存等のことに付き重大なる係争を生じ、ことに拙妻が一月十日より十一月のほとんど終りまで神経衰弱にて打ち臥し候ため、何ごとも成らず。かねて目録を差し上げ置きたる一千余点の内にも、夏中、蠹害のため部分また全部消滅せしもの少なからず(主として繊弱なる Denteromycetes)。只今補充致しおり、拙方に留めたところが何の要なきものなれば、大抵補充出来候上、補充の成らぬものは、目録より除き去ることと願い、書留小包として御送り申し上ぐべく候。残念なるは一昨年春送り上げたる白花タンポポの葉に寄生せる Oospora もしくは Oidium 属と思わるる菌にて、この辺に従前至って多きものなるに、一昨年限り白花タンポポは諸処に多く生ずれども、この寄生菌は何故か全滅せし様子に候。しかし控え品は多少残りおるべく、必死になり只今捜しおり候。今夜はこの状と同封してトキワガキとタヌキマメとツルドクダミの葉に付きたる菌(いずれも貴方へ差し上げ置ける目録外)を差し上げ候間、御査定願い上げ奉り候。十一月か十二月かに今井君へ状のついでに数品差し上げ置きしも、受け書来たらず。その内スズサイコの葉に寄生せるものは、至って少なく、ほとんどありっきり差し上げたるものなり。同君に御問い合わせ、御査定願い上げ奉り候。
(592) Pilobolus crystallinus Tode は、小生在外中、牧羊場の羊糞に毎度多く見受け、ことにロンドンのハイドパークおよびケンシントンパークには毎旦《まいあさ》おびただしく羊糞に付きあり、日に映じて露のごとく光るを見候。御地は開拓使の昔より今に羊を畜わるることと察し候付き、定めてこの菌が多く生えることと推し候。しかるに七年前出たる『訂正増補日本菌類目録』にこの属の名も出ざるは不審なり。二十四、五年前拙宅前の小溝の泥を上げおきしに、種名は分からず、P.crystallinus に比して、はなはだ茎短きものおびただしく生えおりたり。雲母薄板にはさみ今も保存しあり、近日捜し出し御査定を願い上げたく候。只今座辺に育ちおるものは、外貌はなはだ Pilobolus に近きも黒色の頂嚢はなく、上図の形にて、茎は透明無色、頭は乳白色、多日ののち、茎は短くまたは無茎となり、頭は横扁《よこひらた》き大なる嚢となる。いつも沾《ぬ》れおり、ゼラチン質にて Tremlla または Dacrhyomyces 類のようなるが、変なことには時として頭の表面より大分深く一黒睛ごときものを見る。
 熊野諸所に秋冬産する Colloderma oculatum G.Lister なる粘菌は、乾きたるときイの状なるも、水を加うればたちまち膨れ揚がりてロの状をなし、黒き胞嚢の外皮がゼラチンとなり白色、さて最も外のへり〔二字傍点〕が緑色なるゆえ、鰯《いわし》や蝦《えび》の眼が抜け出て落ちあるごとく、幽谷などにて見当たるとき、はなはだ気味わるき怪物のようなり。右に示す菌が大体この粘菌にはなはだよく似おり、小生は初めこれは右粘菌の変種で、本種の無茎なるとかわり、有茎なるものの未熟品かと存ぜしに、もはや四十日近く杉の切り株に群生して今に続きおるをみれば、粘菌にあらず。只今眼惡きゆえ鏡検し能わざるも、何とか眼が少しく快方とな(593)らば、鏡検して大抵何の類の菌なるかを見定めたく存じおり候。
 まずは右申し上げ候。     早々敬具
  封入の三菌品は、タヌキマメの葉に付ける物の外は、果たして菌なりや否を小生見分くること能わず。
 
(594)北島脩一郎宛
 
          1
 
 昭和十二年五月十五日早朝
   北島君
                  南方熊楠
 拝啓。過日三回まで御送り越し下されたる帽菌はいろいろと工夫して精査候ところ、Mycena《ムケナ》(姫蕈《ひめたけ》属)、これに八亜属あり、その内 ftagilipes《フラギリペス》(脆茎)亜属のものと判り候。
 この脆茎亜属の内、今回の貴集ごときいろいろと色のかわるものは、従前聞き及ばず、新種に相違なきゆえ、Mycena Kitajimae Minakata と命名仕り候。
 しかるに第二、第三回御送り越しの分はみな晴天つづきたるため、発生宜しからず。ただ一つ満足なもの(第1図a)ありしも、解剖に使うてしまい、何にも残らず、また、幸いに皿に水を入れ、一本丈夫なものを発(595)育せしめしも、晴天つづきたるため、この程度(b)以上に成長せず。胞子はむろん未熟にて証拠とならず。外に三本ほど生えたるも、小さくして(c)何の証拠にならず。麁末なる画を写しおきしのみにて、標品も胞子もとれず。すなわち命名しながら実物は少しも残らぬなり。
 この上採集を願い上ぐるも恐縮の至りなれば、一昨午後雑賀貞次郎氏来たりしに付き、同氏と同行して尋ぬる約束致し置きたるも、小生ややもすれば脚わるく、雑賀氏は午前中ならずば行き得ずとのこと。しかるに昨今の雨にて、右の菌は必ず大いに発生しあるべしと存じ候も、ぬれたる所を脚弱が登り捜すはなかなか困難ゆえ、この二、三日間はとても行くことならず、その間にまた菌は萎縮する恐れあり。よってはなはだ恐れ入り候えども、只今ぬれたる所があまり乾かぬうちに今一度往つて御捜索を願い上げ候。
 脆茎という名のごとく貴集品は十の七八まで茎が折れあり。この姫蕈属には glutinipes《グルチニペス》(粘茎)また lactipedes《ラクチペデス》(乳茎)と申す二亜属あり。甲は茎のぐるりに葛《くず》汁のごとき粘液をかぶり、乙は茎の中に赤、紫、黄、白等の汁あり。貴下御発見のものも完全なる茎を検査せば、あるいは粘茎亜属あるいは乳茎亜属のものかも知れず。茎が折れおるのは手おくれにて検査することならず。故に今度御出向きの節は、大きな紙箱を二つ三つもちゆき、第2図のごとく箱につめて、御持ち帰りあらんことを望み上ぐるなり。然る時は、最初採る時に折れたものは致し方なしとして、持ち運びのうちに折るること少なく、なるべく完全な茎のものを多く小(596)生の手に入れ得ることと存じ候。紙に包みてはどうも持ち運び中に多く茎が折れることと存じ候。
 こんな面倒なものはなるべく現場にて検査するが第一の良法なるも、小生脚わるきため、とても山を上下することならず候付き、何分宜しく御願い申し上げ候。
 四月二十九日に初めて御発見のものは第3図の大きさなりしが、これ三本とその後御採集のものと果たして同品か異品か分からず候。故に御見付け次第、大きなも小さなも洩らさず御採り下されたく候。
 次に三度まで多く御採集のこの風《ふう》(第4図)のものは、二十二年前五月二十九日に小生みずから高山寺の芋畑の池の岸に生えたる蘚の中より多くとりあり。しかるにその標品は半分乾いたもので完全ならず。横截図左(第5図a)のごとし。この方は属名が今にしっかり分からず。オムファリーア (臍蕈《へそたけ》)(b)属のものと存じ候。しかるに今度貴集のものは横截図左(c)のごとく、この方が正しく候。よって記載文を書き直したく候。この方は黄葉品只今もよく生きおるも、色がかわり来たり候。すなわち初め橙色なりしものが、ほとんど白くなりお(597)り候。故にこれも御見当たり次第多く御採集願い上げ候。
 この姫蕈属は、この鰓の下端に cystides《シスチズ》(嚢状体)と申し、毛のようなもの生えおり、それを顕微鏡で見るといろいろと形がかわり、また鰓の面にもいろいろと刺《はり》のようなもの生えあり(第6図)。それを一々しらべ、中には右の毛のようなものと刺のようなものの中の汁を検査する必要あることあり。これをことごとく記載せずは十分の種別ができず、はなはだこみ入ったる検査を要するものゆえ、標品をなるべく多く見ざるべからず。
 右宜しく願い上げ奉り候。その他女学校内のものも宜しく願い上げ奉り候。          敬具
 
          2
 
 昭和十二年八月十二日午前十一時前(書き始めしが中止し、十五日早朝またかきつづけ午後九時すぎ書き了る)
   北島脩一郎様        タチアオイ赤花および黒花の種子
                南方熊楠再拝
 拝啓。永々御恩借の植物採入罐はようやく内容研究済み候に付き、御返し申し上げ候。すなわちこの状と共に下女
が持ち参り候。
 西洋料理蕈一罐東京より手に入り候付き差し上げ候。この蕈は当地にも野生多きも栽培せる洋種ほどの物は見当たらず候。しかしこの罐詰のとほとんど同じ物は、新庄にて二、三度田上氏の持山より見出だし候。注意したら栽培に恰好なるものは必ず当地辺にあることと存じ候。これは罐を開いたら、あまり長くもたぬものゆえ、開くと同時にせと物に入れ冷たき処に置かれたく候。それにしても長くはもたぬものゆえ、なるべく速やかに鰹節を入れ、葱とか豆腐また魚類(そのままは宜しからず、アジの肉をたたきて団子のごとく丸めて)一所に醤油ですまし汁になされたく候。多く食うと人によりのぼせるかも知れぬから、なるべく多くの人に御配分下されたく候。
(598) 本月八日朝七時十五分令息御持参下され候菌は、そのまま数日置きて鰓《えら》が流れ溶くるか、溶けずに乾くかを見ねば属名が分からず。すなわちそのまま井戸辺に置き候ところ、少しも溶けず乾き了り候ゆえ、通常ならば Bolbitius《ボルビチウス》属とせず、Galera《ガレラ》属とするところなるが、例外にも本品は Bolbitius 属ながら鰓が溶け去らざるものと判り候。しかして本品は多分新種なるべきに付き、右の乾きたる品はこのまま永久に保存し、今一度内部の解剖をなし組織を見たる上、命名したく候付き、なるべく日の当たらぬうちに高女に赴き、高麗シバの中を探し、なるべく多く老若の品を共に採り、さっそく御送り越し下されたく願い上げ候。
 右のごとく書き了りて再応標品を検するに、鰓は多少溶けあり、しかし全く溶け去らずにあり。故に Bolbitius 属たることは明らかなるも、同属中の多くの種の全く溶け去ると異なり。ちょうどその朝拙宅で竹林下にただ一本生えありし同属のものは、見出だして一時間たたぬうちに溶け了り候。貴集品は乾燥して只今第1図aのごときものとなりおる。しかし、令息が持ち来られし時はこんな鐘形(b)で、鰓がこんなに(c)多少曲がりありしと覚え候。この一事は同属中に例なきことに候。今一度新しき品を見ずば、十分に記載をすること能わず。この属は大抵日にあたれば、一時間ともたぬものに候。一時間以内にこんなに曲がってしまう。故に、なるべく朝日のあたらぬうちに見に往き、採ってすぐ送られたく候。
(599) 次に、小生数日来背の肉が硬化し、亀の甲をかぶれるごとくになり、身体自由ならず。一昨夜整骨術の名人田野氏に来てもんで貰い、ようやく自由になれり。このために五、六日間貴集品を写生すること後れ候。しかし稲成村および岡の菌の中には水等をもって軟らかならしめ、今も写生し得べきもの少なからず。それらは追い追い申し上ぐべきも、もっとも残念なるは本月二日御持参下され候内に、稲成のシイの木(か)の幹の根本にただ一つありし第2図のごときものなり。この菌は全体肉質にて、傘の裏に蜂の?のごとき孔多し。傘を横に截る時は、この図(第3図上)ごとく孔と孔と付く力が傘の肉と孔が付く力よりも強し。故に肉と孔とを引き離すこと容易なり(第3図下)。
 Boletus 《ボレツス》(イクチ)属は傘の正中《まんなか》に茎あり、孔と肉と引き離すこと容易なり(第4図)。しかるにサルノコシカケ属 Polyporus《ポリポルス》属は傘の肉が肉質または革質、傘のまん中に茎あるもあり、傘の横に茎が付くもあり、いずれにしても傘の肉と孔とひっ付く力が強きゆえ、傘の肉と孔とを引き離すこと難し。然るところ、ドイツ人メーレル博士はブラジルで傘がイクチ属同様肉質で、傘の肉より孔を引き離し易きものながら、あるサルノコシカケ属のごとく傘の横に茎が付きたるものを見出だし、Henningsia《ヘンニングシア》と命名せり。(ヘンニングは、故白井光太郎博士の師匠で、高名な菌学者なり。その姓によって命名せるなり。)メーレルが見出だしたこの属の唯一種 Henningsia geminella《ゲミネラ》(双生児の義)というは、第5図のごとく傘が二つ重なり生ずるを常例とす。しかるにメーレル博士のこの属の定義を十分呑み込まなんだ人が、英人クックがブラジルおよびインドより得て Polystictus rigescens《ポリスチクツス・リゲセンス》というサルノコシカケが毎度こんなに傘が双《ふた》つ横に並んだように分岐せるを、内部の構造にかまわず、右の Henningsia 属の第二の種と見立て、属名を改変せり。しかるに、ま(600)たメーレル博士の原種を見ずに、この第二の種のみ検査した人が、これはサルノコシカケ属のものに相違なしと判定して、もとクックが定めたサルノコシカケ属に返したのはよいが、そのついでに十分メーレル博士の定義を察せず、その標本をも見ずに、Henningsia 属はサルノコシカケ属の一種に過ぎずと断定して、この属名を取り消してしまえり。
 さて、小生大正十一年夏日光に遊びし時、同行の六鵜保氏(三井物産会社員)が日光より上州沼田に下る無人の境にて、枯れたるモミの幹より、また傘が二つ重なり生ぜる菌を一個獲たり。ちょうど二ツ巴《どもえ》の紋のごとく、二つ傘の両端が交互|渦《うず》のごとくまいて重なりおるなり(第6図)。小生これを見ると、肉質らしきことは少なく、もっぱら革質のものなりしが、二つ重なれることが相似ておるから、二年前すでにプレサドラ師父(イタリア人)が Henningsia なる属名を解消せるを聞き知らざりしこととて、勇んでこれをこの属の第三種と見立て、Henningsia |tomoe Minakata et ROkuu《トモエ(巴ノ紋)南方および六鵜》と命名せり。しかるに、今月二日貴下みずから持ち来られし奇菌をみると、どうもこれこそ真正の第二の Henningsia にて、メーレル博士の定義に違わず、傘が肉質にて、その翌々日田上氏も触れて知れるごとく、サルノコシカケ属に比べてすこぶる柔らかく弾力ありながら、強く指でつくとへこむ。茎が横に付き様も丸でこの属の原種に異ならず。(いわゆる第二の種と小生の第三の種は茎が横につけりとはいい難し。)故に、この貴集品より推して Henningsia 属は決して取り消すべきほど不確実なものにあらずと分かり、目下たしかな Henningsia 属の菌は、メーレル博士の原種一種と、たぶん今回の貴集品一種と、合して二種の外になしと察し候。
 ただしメーレル博士の原種の図を見るに、傘のうらの孔はすこぶる細小なようなり。しかるに貴集品は孔がことのほか大きく、かつメーレル博士の品と異なることは、孔と孔との間の隔壁が多少かくのごとく孔のグルリに鋸歯を具え、また孔の内側に多少毛または刺《はり》を具えありしと覚え候。またメーレル博士の本種は胞子ほとんど球(601)形で平滑無色なる由。しかるに貴集品は褐色で球形ながら多少刺ありしと覚え候。なお実物を精査せば違うた点が若干あるべし。果たして違うた点が二、三に止まらず、多くある場合には、これをヘンニングシアと区別し、貢下の苗字により Kitajimana《キタジマナ》という新属を立て、この新種に Kitajimana |notabilis《ノタビリス》(著名なる)Minakata なる学名を付けんと存じおりたり。
 この品いろいろと珍しき点多きが、第一、イクチ類の傘のうらの孔にこの菌の孔ほど広大なるものはなく候。
 メーレル博士がヘンニングシア属を立てし時の定義に傘が二つ重なり生ずることを言いしは、入らぬことをいいしものと思う。猫に八つ乳あれども必ずしも出産ごとに子を八疋うまぬごとく、傘二つ重なり生ずるものも、時には傘一つですますこともあるなり。(現に博士は多くは〔三字傍点〕傘二つ重なり生ずといえり。)定義にはただ傘が肉質で胞子を付くる孔の管と傘の肉が離れ易き由を述ぶれば、それで十分なりしなり。しかるに傘二つ重なりて生ずることを第一番に述べしゆえ、傘二つ重なりて生えさえすれば、この属なるよう心得て、サルノコシカケ属で傘二つ重なり生ずるものをもこの属の一種として追加するもの出で来たり、さてその品をみると、孔と管と傘の肉と連なりて容易に離れぬゆえ、後に追加せしもののみならず、メーレル博士がこの属を立てし原種をも実物を見ずに取り消すに及びしなり。ちょうど今度の戦争に誰も何も問い来たらざるに此方より戦区の不廓張を宣言せしごとし。戦争など危うきものなれば、都合上敵の後ろを撃つこともあれば、時と場合によりどこへ兵を向けるかも知れず。それを誰も問い来たらざるうちに、此方より不廓張を宣言せるゆえ、都合次第でたちまち初めの宣言とちがう虚言を吐いたと批難さるるなり。
 さて右の新菌は貴下御持ち来たり下されてより八日まではいろいろと注意して保存せしが、第九日目に、小生今春よりあまり久しく座《すわ》り通して写生するゆえ、背の肉がかたまりて亀の甲を被《き》たように堅くなり、起居はなはだ不自由になる。よって田野氏を招き二回整骨術を施しもらい、施術後直ちに臥すこと二回に及べり。それがため弟九日目に右の新菌を検査せずに寝たり。さて第十日めに早く起きてかの菌をみしに、夜の間に蛆がわき、全体わき溶け、少し(602)も旧形を留めず。一夕注意を怠りしために、まるで半流動体、醤油のモロミという風になり了りありし。
 わずか一夕の怠りにてせっかく絶代の奇品をまるで失いしこと遺憾の極みなり。写生と略記載は留めあるも、いろいろと委細の点を書き留めぬうちに溶け去りしは遺憾の至りなり。今後何十年してまたこの品に逢うべきか。おそらくは小生一生にもはや再見の期なからんか。ただしかかる物はいわゆる廻《まわ》り年《どし》のあるものにて、今年稲成の林がその廻り年にあうた物かも知れず。貴下は小生とかわり自転車得意なれば、何とぞ今一度かの処に往き、この程かの品のありたる付近を御精査の上、一個でもあったら御持ち返り下されたく願い上げ奉り候。大抵二週間ごとに品種は多くかわつてしまうものゆえ、なるべく近日今一度御しらべに往き下されたく願い上げ奉り候。これと前文申し上げ候高等女学校庭のコウライ芝の物も願い上げ置き候。
 一昨日差し上げたるマッシュルームの罐詰は希有の物にて、今日日本では多く生品を西洋料理に使う。しかるに横浜へは外国船多く出入するゆえ、横浜で最良品を作り、罐詰にして遠洋を航する船へつみ込み、日本人にはあまり売らず。それをツテを求めて手に入れたるなり。これは開くとすぐ御食用下されたく候。少しでも罐より出して置くと宜しからず。これを調理するには牛乳や葡萄酒を用いるが、それでは日本人の口に合わず。一番手軽きは鰺かウルメイワシの肉をたたき、団子のごとく丸く集め、豆腐と葱を入れ、?油にてすまし汁となし、その内へマッシュルームを入れ煮て食うのが一番日本人の口に叶い候。なかなかうまきもの、かつ滋養分多く、大いに強壮の効あり。ただしあまり多く食うと、のぼせるものゆえ、大抵配るべき人数を計算して、右のすまし汁を作り、出来上がると早速人数だけに分かち、御家内と近処の御知人に分配されたく候。暑気はなはだしき折柄ゆえ、万一変質しおらば面白からぬゆえ、罐を開くとさつそく一、二個口に入れ試み、果たして腐り気《け》なくば、右樣に調製下されたく、もし異様の臭味が少しもあらば捨て去らるべし。しかして忘れてならぬことは、罐の中にある汁はこの菌の精分をもっとも多く煮出したるものなれば、必ずその汁を棄てずにことごとく鍋の中へ入れて、煮られたく候。申さば、菌は煮滓《にかす》にて汁が肝(603)心の主たる養分に候。
 小生昨日来眠らず写生をつづけ、疲労はなはだしきゆえ、これだけ申し上げ置き候。本文に長々申し上げたるわけゆえ、かの二種の菌は何とぞ宜しく御再採願い上げ奉り候。     早々敬具
 
(604)江本義数宛
 
 昭和十六年三月一日早朝三時認め、夜明けて後出す
   江本義数様
                 南方熊楠再拝
 拝復。二月十二日出御状は十四日午後一時十五分拝受。小生は久しく流感に打ち臥し、その間肺炎のごとき症ありとのことにて読み書きを差し控えおり、昨今ようやく快方に向かい候をもって、只今御返事相認め差し上ぐることに致し候。
 小生こと五年前の七月の一夜、自宅竹林中に電灯を持って粘菌の原形体の動作を視察中、誤って足を踏み外し、樹の株に強く腰を打ち付け、それより足叶わず、廃疾同前となり候。年来貯うるところの粘菌はことごとく倉の二階に上げあり、まだ寒威強き昨今、二階に上ること叶わず、また多くの長持に入れあるゆえ、うつむきて数千の標品を鏡検して取り出すことは当分出来べくもあらず。五年の間封じ置きたるものゆえ、この辺の夏日の暑さにナフタリンは著しく耗散したるべければ、粘菌の現状如何なりたるやを知らず。とにかくそのうち春暖に向かい候わば、一閲の上現状を見たく存じおり候が、御下命の品々の内、
 Physarum(Badhamia 正)papaveraacea Berk.& Rav.は、当地に標品なく、和歌山の舎弟方の倉におきあり。その近処にて毎度布を砧で打つ響き強きため胞子ことごとく飛散し了り、空しき胞嚢が蜻?の翼のごとく薄くなりて(605)わずかに四、五顆残りたるを、十二年前目撃致し候次第なれば、只今は全く跡を留めざることと察し候。この粘菌は生きたるヒノキの皮につくものゆえ、ヒノキのおびただしく生えたる村の人に頼みおき、手に入り次第差し上ぐべく候。
 Physarumlilacinum Sturgis & Bilgram var.coeruleum G.List.は、小畔氏が北陸道のどこかで取りたる他の粘菌が群生せる中に、ただ二個を小生見出だし、さっそく同氏に通牒して綿密に検査しもらいたるも、ついに一個も見出だし得ぬ由答え来たれり。当方にある二本はきわめて美艶なるもの、もっとも他種の粘菌群に蓋われ、かつその上におびただしく蘚が生いかかりあるゆえ、写真写生はなし得べくもあらず。
 Craterium rubronodum G.List.は、リスター女史もいえるごとく、C.concinnum Rex と雑生しあり。たびたび人の望むままに分与し了り、わずかに五個ばかり残りありし。外見この二種同一にて少しの差別を見ず。
 Amauochaete fuliginosa Macbr.亡アーサー・リスター氏が本種と認めたる品は今も当方にあり。ただし砕け易きもので、五年前にすでにことごとく黒き粉と化しありし。本種は当地にしばしば夏日松の僵幹に付くものゆえ、松林へ出るごとに多少出逢う。しかるに小生よくよく鏡検するに、A.cribrosa Sturgis と全く同一物にて、日熱の強弱に従い、あるいは前者となり、あるいは後者となる。その中には、半分前者にして半分後者なるもあり。また前日の雨水が松の木に浸潤して日熱にあい、さらに溢れ出る余勢により、Stemonitis fusaca Roth.またはその var.confluence List.となるもあり、この三者実は同一物と小生は確信致し候。しからば Amaurochaete ただ一種のみ(monotypic)の属かと問わんに、十三年ばかり前にツェッコスロヴァキア国(?)の Brandza 氏より贈り来たれる A.comata G.List.et Brandza というものは、全く A.fuliginosa とも A.cribrosa とも異なるものと相見え候。
 Tubofera Casparyi Macbr.は、小生大和の果無山と紀州の高野山にてはなはだ大なるものをおびただしく得たり。いずれもはなはだ大なるものなる上、Brefeldia maxima RoSt.同様少しく乾けば全くその母体 matrix たる樹皮と(608)carnea G.List.とは同一ならず。かかる曖昧に際して、すでに古くシューマツヒェルが用いたる種名を、G.List.命名に再用せしは、はなはだ穏当を欠くものと思い候。(父リスターが A.cinerea var.carnea と判じたるフロリダ産の品は、拙方の倉の二階でみな消え失せ一つも存せず。)
 Perichaena pulcherima Petch これはただ二個今もあるべきが、ことのほか危険な状態にありて、ちょっと振動すれば砕け去る。胞嚢がやや Tri champhora pezizoidea Junghuhn のごとく扁たく、一の胞嚢は糸状体と胞子を取り出だすとき破れ、茎は二本ともにちょっと振動すれば折るるなり。故に少しも動かすことならず。
 右のごとく御下命の品々は郵送不可能または標品少なきに過ぐるもの過半なり。しかし数多くあるものは春暖到り候上、取り出だして何とか道中安全なるよう取り斗らい御送り申し上ぐべく、決して御送還に及ばず、砕けたときは幾分プレパラートにして御保存下されたく候。
 また Minakatella longifila は当方に標品多きも、粘菌中無類にカビを生じ易きものにて、昭和四年(二年にも)進献せしときすでにカビの生えざるもの只一塊しかなかりしを進献せり。カビ生えたものは今も十塊またはそれ以上あるべし。カビ生えたりとて糸状体や胞子、胞皮を鏡検するに差閊《さしつか》えあるまじければ、見当たり次第送り上ぐべく候。三、四年前拙宅地にてただ一個小さきものを見出だしたり。それはカビ生えおらざるも、どこへ置きしか記臆せず。台北の中沢亮治博士同地にて見出だせし標品今も蔵さるるかも知れず。御聞き合わせありたし。
 小生今年七十五歳、生来頑健なりしも、近年いろいろ不幸なこと多く、五年前より老衰はなはだしく、行歩確かならぬゆえ外出も致し得ず。多年所集の標本、図書、また明治十三年以来続けおる日本菌譜、自分と娘とにて図録するところ、近々五千点に達すべし。保存費もずいぶんの箆棒なればなるべく早く切り上げ、自分は日本最古の孫逸仙の知友たる縁により、みずから携帯渡海し広東大学へ寄贈せんとかかりおり候。それがため粘菌の方はこの六、七年一(609)向関係せず。したがって今回の御下命に対し十分好き御返事を申し上げ得ざるは不本意の至りなり。
 また五十年前米国陸軍大佐カルキンスに地衣学の口ほどきをしてもらい、諸処種々地衣を集め、帰朝後も小生に取りては最難事たる岩生地衣を多く集めたるも、大英博物館を始めいずれへ交渉するも調べてくれず、空しく倉の重荷となり、今に放置しあり。また外国にありしときも本邦にありても淡水藻をおびただしく集めたるも、自分独得の技術をもって拵えたるプレパラートも十七年以上は保ち得ず、手が廻らぬより、多くはカビを生じ、無用の長物として眺むるのみ。御一笑下さるべく候。
 右申すごとく、小生久しく粘菌の方を麁闊に打ち過ぎおり候も、わずかに四百余坪の自宅地を?遊するうち、時々変わったものを見付け候。聖上御発見の Perichaena tessellata は、一年後れて拙宅の樟の樹の生皮に毎秋時に見出だし候。また Spegazzini が南米で見出だせし Perichaena occidioides とか申すものも、右の樟の生皮に毎年生じ候。去々年春は拙宅の梧桐の枯枝に只一本 Orcadella の一種、茎橙色、胞嚢孔雀石ごとき緑色ではなはだ美しく、おそらく単独生の有茎粘菌の最大なるものを手に入れ候。また Physarum vernum Somm.が多く梅の幹に付きたるに、驟雨かかりし部分がたちまち var.iridescens G.List.となるを見付け候。
 貴下は尾張が御生国なりや。果たして然らば少生旧友に松原鏡蔵、橋本綱麿と申す二氏ありし。二氏とも、もと東大予備門にありし日、小生よりは一級上なりし。大正十一年、小生三十六年めに一度上京せしとき、松原氏高田商会の重役にて来訪され候。その節橋本氏の成行を尋ねしに松原氏は知らぬ由答えられ候。この橋本氏は豪家の生れと見え申し、悠長な生活の様子なりし。小生在米中、そのころようやく世に出で始めし社会主義の書籍などを注文され、送り上げたることあり。その後一向聞き及ばざるも、もはやこの世に無くなられたるかと察し候。また名古屋辺に成田という人あり、その旧蔵の藻学の書籍、雑誌を名古屋の松本憲治郎とかいう書店より数回売り払われしとき、小生多く買い入れ候。その内に故 West 氏の『淡水藻論』初篇(初篇きりでこの人流感第一回大流行のとき子供五人残し(610)て死なれ候。これがため小生同氏と合著して出すべき『日本鼓藻譜』は中止致し候)、定価のまま十二円で小生手に入れたり。明治三十九年なりしか、小生当地付近でメダカ魚の腹に緑藻 Myxonema が寄生しあるを見出だし、『ネイチュール』に寄書せり。この藻は急流中に生ずるものなるに、径わずかに二尺ばかりの小溜水中にあるは不思議と見しに、小魚の腹に寄生して小魚不快を感じ不断水中を狂いまわるその動揺で、ちょうど急流中に生ずると同様の生活を仕遂げ得たるなり。あまり例多からぬことゆえ、West の著書には必ず出であるべしと察し、ロンドンの郵船会社員に頼み、右の一書を買い送りもらわんとせしにロンドン中になし。よって新聞紙に広告して求めしに、ようやくライプチヒの一古書店に九ポンドで一本出であり、さつそく電信で注文せしに、もはやドイツ人に買われたるのちと分かりし。左ほどの稀覯の書を名古屋の書店は売り出し、当日の定価で小生に売却されしなり。件の成田氏はよほど藻学を嗜みし人と見え候が、成田氏と聞いたばかりでその名を承らず。こんな辺地にありては知るに由なし。御存知ならば承り置きたく候。
 もはや夜も明け候付き、これにて擱筆仕り候。  恐々
 
(611)樫山嘉一宛
 
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 昭和十六年九月二十三日午前一時過ぎ認め、夜明けて出す
   樫山嘉一様
                  南方熊楠再拝
 拝啓。その後大いに御無音に打ち過ぎ申し候。八月三日小生朝寝中、合閨種々貴重の品々と菌三種御持参御恵贈下され、また八月二十七日には令嬢またまた諸品と菌二種御持参下され、まことに難有《ありがた》く感謝し奉り候。八月三日に御贈り下されたる菌の内、上図のごときホウキタケ(暗紫色、へろへろと動揺し、ふるえる。他のホウキタケは肉質で、物に突き当たれば折れるが、これは折れず。膠質すなわちニカワを火で焙ったごとく、柔らかくへろへろと蒟蒻《こんにやく》のように、ふるえ動くなり)はかつて見ざる品で、米国にこれに似ながら、ずっと小さきものあることを書籍で見及び候。また前年妻の妹が文里《もり》の松の枯株より、ややこれに似たる、大きさも似たる物を取り来たり候も、それは肉質で、物に当たれば折れたり。あるいは、外見はホウキタケのようなれど、別類のもので、実は系統上はキクラゲ類に近いものかと存じ候。またそれと同時に御|遺《おく》り下されたる不整形のショウロごとき物は、肉部の結構はショウロと別属のもので、小生にちょっと判断成らず。右二品を紙箱(612)に入れて保存し、いろいろと調査中、小生ちょうどそのころより大便秘結して、腸より血を出すことあり。いろいろと養生するうち、八月十三、十四、十五日と三日つづきし颱風が、はなはだしく老躯にこたえ、ことに十五日早朝二時に、二階の天井大いに雨洩れ出し、妻と娘と下女三人して、タタミをまくり、盥を持ち上がり、水を受くる等大騒ぎ、小生は暴風雨中に病体を押して丸裸となり、多くの菌の標品を取り入れ候。(三日に令閨御持参の品々もその内にあり。)それより身体ことのほか弱り、今に発熱止まず、身体ハシカのごとく腫れ出で、食事もすすまず、多くは打ち臥しおり。ようやく咋今やや快方にて起き上がりたるところへ、また台所の天井に家ダニという微細の害虫を生じ、毎夜安眠ならず、家内|諸共《もろとも》大弱りのところ、近処の人来たり助勢しくれ、四、五日前家ダニの巣を発見、クマキラとか申す薬剤をもって、大抵は殺し尽せしも、今に多少残りあると見え、日夜身体諸処痒く、何ごとも手に付かず。それがため右の二種の菌を今に査定し終わらず、そのまま保存罷り在り。あるいはあまり久しく日を経たるゆえ、十分の判断は付かぬかとも心配罷り在り候間、この上御見当たりあらば、再度御送来願い上げ奉り候。
 令嬢御持参の内一つは、今に保存しあり。これは水にさえ入るれば、大抵査定成るべく候。こんな亀虫《かめむし》の頭より生えた冬虫夏草《のんじたけ》は、学名 Cordyceps nutans Patouillard《コルジケプス・ヌタンス・パツイヤール》(仏人命名)と申し、普通ミミカキタケと名づけ候。明治十七年ごろ、九州柳川にありし仏国の宣教師が見出だし、本国へ贈り、右の学名を付けしものにて、二十三年ばかり前に、当町の佐武某なる人が日向国へ炭焼きか何かにゆき、採って二、三本贈られ候。よって日向にもありと判り候。その後今より六年ほど前、平田寿男君が貴地で見出だし、四、五本贈られしより、当地方にも産するを知り候。只今は支那にも産すと知れおり候。
 今年七月ごろ当方へ、もと故毛利氏の子分たりし人、偶然来たり、所用あって岩田川筋を上り、用事をすませ帰る途中、貴地神林近所にてこんな物を得たとて、二本示され候。小生はたぷん知母《はなすげ》をどこかに薬用のため植えおきしが、畠などに今に残りたるものかと答え、その人は去り候。その二本を拙宅地へ植え置き、日々観察せしに、ジャノヒゲ(613)(田辺にてフキダマと称う)の一種なれど、根に毬魁なく、長き根が地中を這うのみなり。ジャノヒゲよりは葉の尖《さき》が鈍く丸き気味あり。花もジャノヒゲに似たれど、ほとんど白きほどの淡紫なり。さて、かわったことは、その花梗が図のごとくねじれて、イの横径とロの横径が直角をなし、ハの横径とニの横径とまた直角をなす。はなはだへんな形態なり。ジャノヒゲと同属ながら別種で、オオバジャノヒゲと申し、以前は英人フッカーの命じた学名を用いしが、今は中井猛之進博士が改名された由。(その改名は書斎まで往けば分かるが、夜も深くなり、家人が眼をさますも気の毒なれば次便に調べて申し上ぐべく候。)
 中井博士は、花が浅紫色のものを本種とし、別に、白花の変種ありとて、それをシロバナオオバジャノヒゲと唱えられ候。小生見たるところは、必ずしも淡紫色の本種と白花の変種と判然分かれおらず。拙宅地に植えたる物は、きわめて淡き紫と白色との中間物に有之候。故に薄暮に見れば全く白く見える。この草の実が熱するとどんな色になるか書いた物なし。小生見定めて記し置かんと欲す。
 このオオバジャノヒゲは宇井氏の『紀州植物篇』には全く載せおらず。よって申し上げ置く。申し上ぐるまでもなく、世間へ聞こえるとたちまち濫採者が集まり、全滅の憂いもあるから、貴君御自分のみ心がけて時々標品を作り、以前岩田村のそこここにあったが、今はどこにも見受けずということにして、標品は篤志の人に分かち与えられよ。希品の保存はこのやり方が一番宜しと、故岡村金太郎博士が前年小生へ伝受されたることに候。物をかくすは悪いことのようなれど、これをふれちらして、その物が全滅せんよりは、標品は好事の人に与うるが、その所在を明かさぬは、これも陰徳を行ない天功を全くすることと存じ候。
 久しき以前にいただきし麦の粉は、貯えおくうちに虫わき、糸を綴り候付き、早く用いてテンプラを作り食し候。(614)八月三日令閨御持参下されたる分は、小生胃腸不調で外米は食えず、またパンなどは一切売品なきより、その麦粉を珍重して、毎度少許の砂糖を入れ、それでようやく命をつなぎ来たりしに、今夕ことごとく用い尽し、容器は全く空しくなり候。従来は横浜の知人よりメリケン粉を送りもらい用いしが、只今かの地は当地より一層物資乏しく、野菜など一日一人前一銭四厘を越えざる配給とのことゆえ、なかなか麦粉を送りくれどころにあらず。もし貴方に只今もいくらか麦粉あらば、御ついでに御送来願い上げ候。妻や娘は外米を平気で食えど、小生は外米を食うと腸胃を損じ、それよりおいおい肝臓を悪くし、また膀胱を損じ、おびただしく小便をたれ候。
 まずは右申し上げ候。     敬具
  今度東京にて『ヒメノガスター亜目篇』出板。まことに貧弱なもので、従来地下菌を貴下ほど発見せしもの一人もなし。
 
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 昭和十六年九月二十九日早朝四時認め、夜明けてのち出す
   樫山嘉一様
                 南方熊楠再拝
 拝啓。咋日朝十時ごろ令嬢御来臨、米三升四合と麦粉とパン粉と茄子御贈り下され、まことに感謝し奉り候。また菌の拝受、菌の内この図ごときケムリタケは、従来小生見ぬものに有之《これあり》、調査の上御答え申し上ぐべく候。 《茎白》こんなのは、去年も二本ありしを写生しあるが、数が少なく、かつしおれ易いので、今回また調査は困難に候。ベニタケ一本あり、普通の品に候。今一つカレハタケ属のもの二本は、乾かしても水を加うれば復活するから、調査して申し上ぐべし。
(615) 娘より令嬢に御手渡し申し上げたる種子は、学名只今ちょっと忘失、次便に申し上ぐべし。日本名チョウジナスビまたハリアサガオ、もと熱帯アメリカに産し、徳川氏の世に輸入せし物に候。田辺には三十年前一本ありしも、その後全滅、只今まで京浜地方にも全滅したるを、一友人がインド辺より再輸入、ムーン・フラワー(月花の義)と呼びおり候。その人より今年種子を八個送り来たり、拙方にまきしに、二本しかはえず。一本は七月より開花し、およそ四十個ばかり果を結び、もはや枯れ候。他の一本は冷害のため、生長進み遅く、昨今ようやくつぼみを三、四個着けあるも、いまだ開かず。これはアサガオによく似ながら、蔓に刺あり。花はアサガオに似て、その色紅と紫の間なり。花さきたるのち、こんな果を垂れ下し候。それをむかしは塩または蜜につけて珍果とし、茶人が翫賞せしなり。来年梅雨中に御まきなされたく候。
 ちょうど令嬢御来臨の半時ほど前に、横浜より、カラタネオガタマの苗一本来着。これは支那の原産にて、学名 Michelia《ミケリア》 fusucata《フスカタ》 Andrew《アンドリウ》(英人命名)、本邦在来のオガタマノキの花弁がこの形で白色で、紫を帯ぶるとかわり、この形で、色は褐黄色で香気ははなはだ強く、風下一、二町まで届く由。仏経に瞻婆迦《チヤムバカ》と称え、坊主は堕落しても庸人よりましなりという喩えに、瞻姿迦|萎《しぼ》むといえどもなお余花にまされりとあり。それほど凋んだ後までもにおいはきき候。東京大学の小石川植物園に一丈ばかりの大木ありしが、大正十四、五年の厳寒に枯れてしまい、今は代りに五尺ほどの小木を植えある由。しかるに、この横浜の友人の宅にあるは、小石川園のよりも古く、百余年前に移し来たりしものの由。その苗を二本そだて分かちて、小生のすすめにより一本は和歌山の三浦英太郎男へ送られ、ついでに小生へも一本贈られ候を、小生方は手が行き届かぬから、当町の高等女学校へ寄贈せんと思いしが、高等女学校の校長など、いずれでも他地方の人で、いつ転任してどこへ往くか知れず、前年竹田の宮様御手植えの月桂樹など、ほうしちられて半分枯れかかりおり候。それでは面白からず。北島脩一郎氏へ寄贈せんかと思いしが、この人も近ごろ多忙の様子で十分の挨拶なし。よって令嬢に托し貴方へ差し上げたれば、当分鉢植えにするか、または日(616)受けのよき地へ植え、寒気烈しき時は囲いやられたく候。もっとも二年前、これより小さき苗を駿州沼津へおくりしに、二年後の今年より開花し始めたる由で、沼津ではさらに囲いなどは入らずとのことなれど、三栖の山風も懸念なれば、やや大木となるまでは、厳寒には竹柱を立て、こもでまき、囲いやり下されたく候。
 昨日は久々にて令嬢の外に北島氏、田上氏よりも菌を持ち来られ、今日夜明けたら、また調査多忙なるべければ、その前に一眠を要するに付き、右のみ申し上げ候。
 シュウメイギク(一名キブネギク)は、鳥ノ巣や、内ノ海に多く、潮見峠には至って多きが、前日北島氏、岡で獲て、三、四本持ち来たり植え置きたるも、長雨のためみな腐り了れり。貴君そのある所御存知ならば、花さかぬうちに二、三本送来願い上げ奉り候。    敬具
 
〔2016年10月26日(水)午前8時25分、入力終了〕