風土の万葉

赤人946947番歌の淡路の島、敏馬の浦、須磨

米田進(こめだすすむ)

946    過敏馬浦時山部宿禰赤人作歌一首 并短歌

御食向ふ淡路の島に直向ふ敏馬の浦の沖辺には深海松採り浦廻にはなのりそ刈る深海松の見まく欲しけどなのりそのおのが名惜しみ間使も遣らずて我れは生けりともなし

947    反歌一首

須磨の海女の塩燒き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ

右作歌年月未詳也但以類故載於此次

 この長反歟歌には地名が三つ詠み込まれている。そう長くもない歌で三つは十分歌の内容に影響すると思うが、その使われ方は、簡単すぎて、歌に対してどういう機能をもつのか、理解しにくく、戸惑いを覚える。

 最初の「淡路の島」は、それに正面に向かい、この長歌の舞台である敏馬を修飾するものだが、敏馬の浦というのが今の灘区岩屋あたりだとすると、淡路島の真正面だというのはいくら1000年以上前だとしても考えがたい。せいぜい神戸から須磨明石に伸びる海岸線の向こうといったところだが(明石海峡で切れているので)、窪田評釈が「○ま向ふ敏馬の浦の 「真向ふ」は真向かいに向かっているで、以上、敏馬の位置をいったもの。航路としての関係からである。」というのが一番わかりやすい解である。

 地形的に360度どの方面でも正面にはなりうるが、普通は、ある文脈で面的に表と見なされる所から左右45度ぐらいの視野に入るべきだろう。敏馬なら、淡路島南部から紀淡海峡ぐらいのものである。それほど遠く離れ、印象の薄いところを長歌の歌い出しに持ってくるのは理解しがたいのである。しかし「直向かふ」には、窪田評釈の言うような意味もあったので、岩波古語辞典にも、

  むか・ひ 相手を目指して正面から進んでいく意。

とある。面的に向かい合うのではなくても、進む方向の正面にあたればいいわけである。ということはここの淡路島は瀬戸内海航路の敏馬の一つ手前の泊地である淡路の野島あたりを指したことになり、そこから敏馬は一応航路の正面にあたるということになる。

 よく似たものに、遣新羅使人の歌(3627)がある。

  朝されば妹が手にまく鏡なす御津の浜びに大船に眞楫しじ貫き韓国に渡り行かむと直向ふ敏馬をさして潮待ちて水脈引き行けば沖辺には白波高み浦廻より漕ぎて渡れば我妹子に淡路の島は夕されば雲居隱りぬ…

これは難波の御津の次の停泊地が敏馬で、御津からは進行方向に「直向ふ」ということが明瞭である。地理的にも海の向こうで肉眼でよく見えるから問題ない。赤人の場合、表現からは航路上の次の停泊地ということが明瞭でなく、また野島は明石海峡を南西に回り込んだ所で、敏馬は見えないから、次の停泊地に「直向ふ」とは言いにくい。しかし窪田評釈のような解釈が最適だから、赤人の歌そのものが表現不足だというしかない。野島を出て明石海峡を過ぎ、淡路の岩屋沖あたりから敏馬をみた体験を詠んだものだろうか。敏馬を通過するときの歌だから、「淡路の島に直向ふ敏馬の浦の」と、わざわざ淡路を出すまでもないと思うのだが、船旅の雰囲気を詠みたかったのだろう。その旅気分の中で敏馬の名物の海藻にことよせて技巧を凝らした相聞歌を仕立てたというところだろう。

 その敏馬だが、海藻採取で有名な所だぐらいで、よく知られた港の、景観の描写もなく旅の歌にしてはもの足りないし、「みぬめ」を「見ぬ女(逢わない女)」にかけ、海藻の名にも類型的な言語遊技の技巧を用い、生きた気もしないという相聞に仕立てるきっかけになっているだけで、地理的風土的な興味は薄い。あるいはもともと今の神戸あたりの海岸は風趣に乏しく赤人も詠む材料に困ったのかも知れない(今でも神戸と言えば六甲、摩耶などの山の景観がいい)。旅の歌だからと言って美景(たとえば、富士山や和歌の浦)でもないところは叙景に拘らず、よく知られた地名とその地の産物を契機にして技巧を凝らし、象徴的な興味の深い相聞を詠むという能力にも長けていたのであろう。それが反歌にも及んでいる。

 須磨は敏馬を詠歌地点とすると、相当西南西に離れており、諸注釈も敏馬との関係の理解に手こずっている。こういうものについて、犬養氏をはじめ研究者達は長歌反歌の緊密な構成という観点から解釈しようとするから、どういう構成なのかわからないわけである。たとえば犬養氏は、赤人の地名表現をイ~カの14に分類した中の13番目のワとして、「目前現実の土地でなく…現実ならざる想念としての土地までにも至らず、作者と密接なる体験的な関係には置かれていないで、恋情表出のための修飾的役割をなす…」という(1)。そして、「「淡路の島」「敏馬の浦」などの近接地としての多少の地理的効果と、その清澄明媚の自然が恋情への多少の心理的効果を持つ(要旨)」という。「修飾的役割(技巧とか言語遊技程度のものと言うこと)」と言ったり、「多少の」を繰り返したりしたのでわかるように、地名の果たす地理的な効果については、相当消極的な評価をしている。つまり長歌反歌は一作品としての緊密な構成をもつものと見なすから消極的な評価になってしまうのであろう。

 しかしそういいう評価でいいだろうか。「作者と密接なる体験的な関係には置かれていない」と犬養氏は言うが、佐佐木評釈に「須磨の海人の生活を採つて序に用ゐたのは、たまたまその地方を通過した實感からであらう。」とあるのを採れば、密接な体験とは言えなくとも「その地方を通過したときに見た実感」程度のものはあろう。しかも通過というのは、西から東に向かう船上からの觀察と思われる。要するに旅気分で、長歌の敏馬を場とした所では出せなかったが、反歌で、旅中に見てきた忘れがたい風景(須磨での塩焼きの眺め)を、長歌の相聞の変奏曲に仕立てて詠んだということであろう。プレイバックという面もある。こういうのは長反歟の構成と言うものではなく、窪田評釈の「「須磨の海人の」と、土地としても地続きの海浜としているので、その点でも展開がある。」にあるような「展開」(2)というものであろう。長歌の内容を要約して繰り返したり、それに関することを追加したりするのでなく、関連は持ちながらかなり独立した短歌として詠まれていると思える。

 万葉では須磨の歌は少なく(3)、だいたいこの赤人の歌の影響下に詠まれたようである。赤人による旅の名所の発見でもあった。

注、

1)犬養孝『万葉の風土』塙書房、1956年、所収「赤人の地名表現」。そこで氏は地名が歌の中でどのように表現されどのように生かされているかという点からイ~カに分類した。このうち現実の土地そのものを指示するものを、イ~リとし、それをさらに細かく分類していく。ヌ~カを非現実(観念)の土地を指示するものとする。そこにワの須磨があるが、それが、赤人作品にはほとんど無い「附加物的役割」の表現になっているという。つまり長反歌の緊密な構成をほとんど持たないところで使われた地名だということである。

2)山田講義四番歌の「反歌」の解説に、「代匠記に「長歌に副たる短歌を反歌と云は反覆の義なり。…。長歌の意を約めて再び云意なり」といへるは其の意を得たりといふべきなれど、本集に反歌といへるものには、長歌の意を反覆約説せるにあらぬも往々見ゆれば、その説には十分吻合せず。按ずるに反歌といふことの本義はげに代匠記の如くにてありけむが、後に形式的になりて其の意の如何にかかはらず、長歌に添へたる短歌を名づくることとなりしならむ。」とある。

伊藤釋注四番歌の「反歌」の解説に、「長歌の内容を反復する場合と長歌の内容を新たに展開する場合とがあり、古い時期には前者が多い。」とある。

 この伊藤氏がいう「展開」というのは、窪田評釈のいう「展開」と同じものだろう。窪田は「敏馬に接した地で、関係のあるところ。」と言い、犬養氏は「近接地としての多少の地理的効果」といったが、犬養氏の説明では構成という点で低評価にならざるを得ないだろう。窪田氏の場合、近接地で関係があるというだけで、どのような展開なのかはっきりしない。ここは、旅の進行上での、過去への展開(後戻り、プレイバック、回想)ということだろうと思う。展開といっても前方への展開ばかりではない。

3)須磨は以下の二首と赤人の当該歌のみ。須磨の塩焼きを最初に詠んだのは赤人か

413    大網公人主宴吟歌一首

須磨の海女の塩燒き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず

3932須磨人の海辺常去らず燒く塩の辛き恋をも我れはするかも 平群女郎

  (2024816日(金)午後740分、成稿)

追記、

梶川信行氏『万葉史の論 山部赤人』桜楓社、1997年の、第五章、《芸》の世界、第一節、「赤人の《芸》――「過敏馬浦時の歌の場合」」で、敏馬と淡路島との地理的な関係を詳しく述べており、一部私の考えと同じ部分がある。はるか以前に読んだもので失念していた。  2024年9月1日(日)午後7時30分、記入