古今書院1924年萬葉集叢書第一輯、久保田俊彦(島木赤彦)校訂の臨川書店1972年復刻本。
 
         萬葉集燈解説
 
 萬葉集燈の著者富士谷御杖は、徳川時代古學者中、特殊な立ち場を待つ學者であつて、系統を堂上歌學から引いた成章の遺子として、その特色ある古學を繼承し、更に精到な學殖によつて、一家の見を成した碩學である。眞淵宣長等古學大成の後にあつて、猶彼の存在の炳らかでゐる所以は、これらの學者と分たるべき獨創の領分を多く有してゐるからであつて、その萬葉研究は、寧ろ、彼の究め得た神道觀を實證敷衍するを主とするに似てゐるけれども、それ以外に拓き得てゐる所が甚だ多いのである。
 燈の自序文は、御杖死歿の前一年(文政五年、五十五歳)に書いたものであるから、御杖の萬葉研究は燈に極まつてゐると見てよからう。從つて燈を見ることによつて、御杖の萬葉觀の究極を窺ふことが出來るといってよいのである。御杖が萬葉研究者中の一異色である時、燈はその特色を明徴すべき唯一無二の記録といふべきである。
 燈の特徴とすべきものは、おのづから二つあるやうである。弟一の特徴は、前に言うたごとく、燈の解釋は他の多くの解釋と異つて、殆ど御杖自身の人生觀ともいふべき神道上の信仰を以つて、凡ての歌を解かうと企ててゐる所にある。第二の特徴は、萬葉集に現れてゐる助辭の研究が非常に微細に透徹してゐるといふ所にある。
(2) 御杖は、我が國に言靈《ことだま》の幸《さきは》ひゐることを信じてゐる。言靈の幸ひとは、神意の人を幸する道であつて、人の言が神意に通ずる時、はじめて幸が生ずるのである。御杖の説くところによれば、元來人の思ふ所爲す所は善にもあれ惡にもあれ、必その中を得て居らねば神意には適はない。夫れゆゑ、我が國には、古來善に善※[禾+拔の旁]あり、惡に惡※[禾+拔の旁]がある。※[禾+拔の旁]ふところなければ善惡とも妖氣にあたる。惡言に憚るところある如く、善言にも憚るところがなければならぬ。憚るところなければ同じく妖氣にあたる。この罪を※[禾+拔の旁]ふところ、憚るところに倒語の道が生れて來る。倒語《さかしまごと》は直語《ただごと》の反である。※[禾+拔の旁]ふところなく憚るところなき言は直語であり、罪を※[禾+拔の旁]ひ得たる言は倒語である。倒語とは所思を直叙せずして、隱約の間に思ふ所の現れるやうにあらしむる「告げざま」である。この直叙せずして隱約の間に籠つてゐる詞の心を知ろしめす神靈(八重言代主神をさす)を言靈といふのであつて、言靈の幸ひは、すべてこの倒語の道にのみあると信じてゐるのが御杖の幸福觀である。この言靈説を以つて萬葉集すべての歌に當て箝めようとしたのが燈の解釋の目的であつて「古來註書多けれども、ただ詞のうへをのみとけり。これもと歌は詞のうへに作者の意はありと心え、おのがよむにも意を詞につくし、實情を述ぶなどいふめるは、なにのより所ぞや」と言うてゐるのは、洛中にあつて蘆庵、景樹、畿外にあつて宣長、東國にあつて眞淵等の歌學に對抗するの慨があるのであつて、神道觀言靈觀人生觀に對して信條を待ってゐる御杖としては、當然の言といふべきである。御杖の所謂倒語の説は、これを萬葉集の各の歌に當て箝むるに至つて、理解必しも至れりといふべからざるも、當れるものは比譬心理以上に出(3)て、往々高き意味の象徴に合し、然らざるものは、上方風の偏りを帶びて、多く附會に墮ちる。これが燈の特徴の一であつて、かの高市連黒人の歌
  何所にか船はてすらむ安禮乃崎榜ぎたみ行きし棚無小舟
を以つて、旅情郷思堪へがたき心より生れ出でたりとなせる如きは、倒語説のト切に入つた一例とすべきであらう。
 燈の解釋は助辭に於て尤も精到である。これは父成章の脚結研究を繼承してゐるのであるから、自然に他の學者の追隨を容さざる所があるのであつて、予の燈より益を受けんとするは、この點を多しとするの感がある。例へば、「は」はすべて物の目立つを歎くの脚結なりといひ、この「は」の用ひざまだけでも後世人は知つて居らぬ。と歎いてゐるなどが夫れである。又例へば「かも」は、大かた、いかさまにおしあてても理のあてられぬ事ある時の歎也。されば上古は疑の加毛とひとつなりし也。と説いてゐる如き、若くは、又「けり」は、常に異る事ある時にいふ脚結なり。と説いてゐる如き、その一二片である。之れを父成章の、「は」は物を引わけてことわる心也。さる故に物を思ふ詞ともなれり。と説き、「かも」については、凡、かな、かもは全同心の詞なり。目にも心にもあまれることを、先、「か」と疑ひて、やがて「な」又は「も」とながむる詞なり云々。とやうに説き、「けり」は萬葉に來とかきたれど、まことは來有の心也。即ち「き」の立居なれど「き」とのみよめるに比ぶれば、例の「なり」もじ添ひて心ゆるべり。「き」は人に近く相向へるやうにいへり。「けり」は同じく(4)言ひ定めたる詞ながら、理にかかはれるかたが重くて、みづからいへる詞となれり云々。とやうに説いてゐるのに比べれば、到達する所におのづから差等のある一瑞を知るべきである。今人助辭の使用蕪雜麁大に流れてゐる時、燈五卷は斯様な點に於て、繊細微妙な注意を呼び起すに足るのである。これが予の見た燈の特徴の二であつて、單にこれのみでも、今日の萬葉研究者に推奬すべきものであると思ふのである。加之、助辭解説の精到は、おのづから歌の解説の精緻となるのであつて、この點に於ても他の未だ及ばざる所に至り得てゐるものが多いやうである。
 正岡子規が、明治歌壇に初めて萬葉集復活を唱へて、古今集以下の勅選集を斥けた聲は、初め響くところが狹くて、後漸く天下に流布するに至つた。今日萬葉集の純文學としての價値批判及びそれを中心とする研究の盛なるは、その因一に子規にある。研究の盛なるが必しも萬葉集の心を得ると言ひ得ざるも、多岐多端の研究が萬葉集信奉者に稗益する所は、樣々の意味に於て常にあるのである。萬葉集の研究者は矢張徳川時代に多いのであつて、夫れらのうち、殊に研究上の權威となるべきものにして、未だ活字に組まれないものが可なり多い。中には著者の自筆原稿のまゝ今日まで保存されてゐるに止まるものさへあるといふ現状である。萬葉研究の聲盛なるに似て、未だ道を盡してゐないのである。それゆゑ、それら木版本、筆寫本、自筆稿本の類は、今日まで、極めて少數範圍に限られた人々の參照に資せらるゝに過ぎない有樣であつて、これむしろ、盛代の奇恠事とすべきほどのことである。現にこの燈の如きも、文政五年京都書肆出雲寺文治郎等によりて起版せられたに過ぎぬのであつ(5)て、今日何人も容易に手にすることの出來ぬものである。古今書院主人が今囘これを公刊することを聞いて、喜んで予の燈に対する所見、及び、萬葉研究の現状に對する所感を書き記して解説に代へるのでゐる。
  大正十一年八月十日
                   柿蔭山房に於て
                      島木赤彦誌す
 
(7)     復刻萬葉集燈凡例
 
〇本書復刻は、文政五年十一月京都書林出雲寺文治郎、吉田屋新兵衛、河南儀兵衛出版木坂本五卷を底本とした。
〇本文對裁すべて底本の樣式を存せしめるやうに努めた。送り假名、振り假名、假名の清濁等もすべて嚴密に底本に從つた。只學者の便を思うて、適宜句讀點を施した。
〇原本中當然誤謬遺脱と思はれる個所は、補正し或は記號?を附した。「澳の方はごがし」を「澳の方はこがじ」と正し、「曰伊蘇志1」を「曰2伊蘇志1」と正し、「詞の條理古人の用ひざまやむ事法則ある事なり」とあるを「詞の條理古人の用ひざまやむ事(なき二字脱?)法則ある事なむ」とせる類である。〇校合は、三校まで必す底本と照合し、その後更に數校を經た。そのために五个月を費した。正確に近いと信する。
 
(1)珠手次。懸卷裳多布等伎。畝火橿原能宮從。久方廼。天乃遠斯※[氏/一]登。始賜日。定給此志。倒語那毛。顯見青人草乃。安禮都具麻耳萬爾。語津藝乍。言靈之所祐。意富御國夫利波霜。大良可耳。廣羅蟹。打太良日而。底都石根爾凝附。於高天原。加乎理徹里奴。阿羅玉乃年。安多良阿太良邇來徑※[氏/一]。青丹吉。寧樂之宮子。遠嬬孤不流世由。夜也屋耶耳。言智布言能伎八美。以夜左敝藝沙倍藝天。安豆奈比裳※[氏/一]遊九苗。以波久叡乃。可斯古人等。之保舟能。以那良毘伊傳天。以蘇備太祁※[田+比]喚鷄。莫囂圓隣乃。加曾計九。切木四哭能。多騰富紀。火之中水之底止以敝杼。澳津玉藻廼。名張奈伎乎。百傳。磐余池能。三許毛里耳裳古母利安弊奴八。朝日刺。天良沙不毛古路。麻藝羅波斯家杼。眞登里須牟。卯名手之神乃。御言與佐斯。阿也耳宇多陀奴志賀年。麻太多九萬多太君毛。和賀加可氣當類。等裳思備叙。許禮
    文政五年壬午正月            富士谷御杖識
 
(3)      萬葉集燈おほむね
 
この集、古來註書多けれども、たゞ詞のうへをのみとけり。これもと、歌は詞のうへに作者の意はありと心え、おのがよむにも、意を詞につくし、實情を述ぶなどいふめるは、なにのより所ぞや。古書に詞のもちひざまををしへられたる事多きが中に、古事記中卷垂仁天皇の條に、本牟智和氣《ホムチワケノ》命の御うへを記せられたる所に、【智また都につくれり】是御子八拳鬚《コノミコヤツカヒゲ》至(ルマデ)2于|心前《ムナサキニ》1眞事登波受《マコトトハズ》故《カレ》今聞(テ)2高往鵠之音《タカユククヽヒノコヱヲ》1始(テ)爲(シタマフ)2阿藝登比《アキトヒ》1【中略阿藝登比これを日本紀には、得言とかゝせ給へり】亦見2其鳥(ヲ)1者|物言《モノイフ》如(クニシテ)v思(フガ)爾而《シカシテ》勿《ナシ》2言事《モノイフコト》1【云々】とあり。眞事の事は假名にて、言也、この眞言といふもの、わが御國言のいたりをいふ名なり【眞人・眞心などみなこれに同じ。先學者これらをいふは、たゞおしはかりにて信ずべからず。人をも、心をも、うをも、眞とたゝふる事、我御國ぶりの他域にことなる所以なるをや。】眞とは、この集に麻傳《マテ》といふ脚結を【予が家にててにをはをよぶ名なり。】左右手、また左右ともかけりこれをおもふに、眞はふたつをそなふるたゝへ言なり、とはあきらかなり。神典に、天地初發之時とある、これ、わが御國ぶりの眼目にて、よにあらゆる事物、天地をあやかりて、ふたつあらざるはなし。さればすべて、ふたつをそなふるは、即天地をそなふるにて、もしこれに私すれば、生々の道をたつわざとなり、よろづの事とほしろきいさををうる事なかるべし。これこのふたつの間は、神の御ちからを施し給ふ所なれば也。神力人力は、そのいさを同日の論にあらず。此事深き致あり。くはしくは、古事記燈にいへるをみるべし。このふたつ、歌のうへにていはゞ、よきとあしきの情これ也。よきにかたよる言も、あしきにかたよる言、ともに、罪ゐるがゆゑに、善祓・惡祓はをしへ給へるにて(4)或はよく、或はあしき、これをたゞよふと云。神典、これをつくりかたむべき事をむねとしたまへりもと祓といふは、善祓・惡祓をこめていふなり。大祓祝詞に天津罪・國津罪をいふは、即このよしあしの罪をいふなり。あしきに罪ある事は、人みなしれり。よきに罪ある事は、神ならでわきまへがたき事なれば、神ぶみ(神典?)かへす/”\このよき方の罪をあげつらひ給へり。されば、よしといふもくはしからぬ所あるをおもふべし。善祓・惡祓は、神代卷に、以2足(ノ)爪(ヲ)1爲(シ)2凶爪棄物《アシキラヒモノト》1以2手(ノ)爪(ヲ)1爲(ス)2吉爪棄物《ヨシキラヒモノト》1とあるを本として、履中天皇の御紀に、車持君をかしありて、善解除惡解除をおほせたまひし事みえ、延暦太政官符に、善惡二祓ともみえたり。此二祓、心えずは、大かた、わが御國ぶりすべて心うべからず。善惡は人のむねとすべき事なるを、かねて、よにこゝろえたるにはたがへり。先學者の説くはしからねば、多年これにくるしみき。くはしくは、古事記燈にみるべし。さるは、人をしてよきわざすなといふが如くなれと、しからす。よに人よしとおもへる言わざを、今一きはみがきあげたるこれを高天原と名づく。これ、天津神のおまし所にて、人としては、いひ、おこなふ事かたき所なれば、この高天原、おのづから善祓なり。よにあしと思へる心を、今一きはきたなくなす、これを根之國といふ。これまた言わざにいづべからざる所なれば、これ、おのづから惡祓なり。よきも、あしきもかたよるをたゞよふと名づけられしは、よき・あしきの中を、言行とせよとの御をしへなり。これを葦原中國となづく。【この中を、言行とし給ふ。帝の王とおはしまう御國なれば、やがてこの御國の名とはせられたる也。たゞ、うちまかせたる國號とおもふは、後世のひがめなり。】神典に、中をたふとばれし所々多し。神典のはじめに「天地初發之時於高天原成神名天之御中ま神《アメツチノハジメノトキタカマノハラニナリマセルカミミナハアメノミナカヌシノカミ》云々」禊祓之件に、中(5)瀬あり。すべて神典に、中をしめされたる事、あげでかぞへがたし。又 舒明天皇の御紀に、大臣(ノ)所遣《ツカハス》群卿(ハ)者如(ク)2嚴矛取中事《イカシボコノナカトルコトノ》1奏請人等《モノマヲスヒトタチ》也。また延喜式に、齊内親王を入れたてまつらるゝ時の詞に「御杖代止晋給布御命乎大中臣茂桙中取持※[氏/一]《ミツヱシロトタテマツリタマフミコトヲオホナカトミイカシボコナカトリモチテ》云々。また臺記大嘗會中臣(ノ)壽詞に、本末不v傾茂桙乃中執持※[氏/一]奉v仕留中臣《モトスヱカタムケズイカシボコノナカトリモチテツカヘマツルナカトミ》云々よく中を執る人を、中臣とはたゝへ給ひしなり。もとこれ、姓にはあらざりしなり。こゝを言行とだにすれば、萬妖にあたる事なし。これ、大祓祝詞に、安國とビたゝへられたる所以ぞかし。この中、儒のいはゆる、中庸の中にもあらず。佛のいはゆる三諦の中にもあらず。天地のふたつを具足せむがための中なり。おもひまどふべからず。されども、言といふ言、いへばかならずよきにか、あしきにかかたよりて、ふたつを具する事あたはざる物也。さらば、いかにせば、一言にふたつを具すべきといふに、たとはゞ、人のもちたる物ほしと思ふに、ひそかに取らば、偸盗のにくみまぬかれざるべく、しひて乞はゞ多欲のそしりまぬかれざるべきに、もしその入われにその物を與へば、偸盗多欲の罪を犯さずして、しかもわが所欲を達するが如く、すべてふたつを具せむ事、わが言もてはあたはず。たゞわが思ふすぢを、人よりおこし來るに、そなはるべき也。いにしへのみかど/\、天のしたをしろしめしゝ、大要すなはち、神典の御をしへの眼にて、我大御國に、中といふはこれなり。この故に、よきにもあれ、あしきにもあれ、思ふがごとくやがて言にいづるは、物いふ道にあらざるよしをさとして、前に引おける 垂仁天皇の條に、物言如《モノイフコトク》 思(フガ)爾而(シテ)勿2言《モノイフ》事1とはかゝせ給へるにて、これ眞事登波受《マコトトハス》とある所以ぞかし。されば、たとひ至誠の實情を述ぶとも、なほ罪まぬかれざるべければ(6)かろ/”\しく言を用ふべからず。此ゆゑに、歌よむべき心得は、その情、よきにもあれ、あしきにもあれ、おのれよりいひ出ずして、その情をば、人より察し來るべく詞をつくるを、肝要なりと心うべし。
よくもあれ、あしくもあれ、わが思ふ情を、やがて言にいづるを、言擧といふ。この集卷十三「【柿本人麻呂長歌下略】蜻島倭之國者神柄跡言擧不爲國雖然吾者事上名《アキツシマヤマトノクニハカムガラトコトアゲセヌクニシカレドモワレハコトアゲス》云々」また同卷に「葦原水穗國者神在隨事擧不爲國雖然辭擧叙吾爲《アシハラノミヅホノクニハカムナガラコアゲセヌクニシカレドモコトアゲゾワガスル》云々」など、なほあり。直言せすしておもふ事成るは、これ神の御ちからによれり。神柄神在隨などよめるこれ也。これをば、言靈といふ。此集卷五「【山上憶良。長歌上下斫】皇神能伊都久志吉國言爲能佐吉播布國等《スメガミノイツクシキクニコトタマノサキハフクニト》云々」また卷十三「【柿本人麻呂が長歌の反歌】志貴島倭國者事靈之所佐國叙眞福在乞曾《シキシマノヤマトノクニハコトタマノタスクルクニゾマサキクアリコソ》【事は言の假名なり】」また續日本後記卷十九「【興福寺の僧がよめる長歌。上下略。】日本乃倭之國波言玉乃當國度曾《ヒノモトノヤマトノクニハコトダマノマサキクニトゾ》云々」この言靈とさし奉る神は、言代主神にます也。【神典青柴垣之件に、この神乃言外の情をつかさどりたまふよし、くはしくみえたり。】出雲(ノ)國造(ノ)神賀(ノ)詞「【上下略】事代主命能御魂乎宇奈提乃神奈備爾坐《コトシロヌシノミコトノミタマヲウナデノカミナビニマサセ》》云々」とあるによりて、この集卷十二に「不想乎想常云者眞鳥住卯名手刀杜之神思將知《オモハヌヲオモフトイハバマトリスムウナデノモリノカミシシラサム》」とよめり。この歌にても、此神の御魂はしるべし。すべて、所思のすぢを此神にまかせ奉りて、詞は人より端をおこすべからむやうにつくる時は、此神その言外をさきはひたすけたまひて、かならず人の心をして、察し知らしめ給ふ。これをさきはふ國・たすくる國・まさき國とはよめる也。【言靈不爲も、言う靈のささはひたすくるも、いづれも、國にかけてよめる事、この大御國の御てぶりなる事、あきらか也。】もとわが御國、行よりも言を先とする事、行は言にしたがへばなり。神典青柴垣之件力競の先後にみるべし。されば神のたすけさきはひ給ふも、たゞ言のつけざまによる事也。もし詞(7)のつけざまあしくは、神もたすけさきはひ給はじとしるべし。いはまほしき事を、深く言につゝしめる心のうちのくるしさを、神もあはれとおぼすぞかし。いかでか、いはまほしきまゝをいひたらむをあはれとはおぼさむ。倒語するは、所詮はいはまほしき事をつゝしむなり。【神典をはじめ、いみきよまはるなどいふは、いはまほしき事を、つゝしむをいふぞかし。此事ふかき旨あり。古事記燈にみるべし。題詠は論の外也。】さきはふともいへるは、この所以ぞかし。たすく・さきはふといふ詞の義、もと罪あるべき言をさきはひ給はむやうなきをさとるべき也。【神典はもと、人の教なれども、直にはあおしへずして、學者に端をおこさしむべきかきざまなる也。神武天皇よりの御卷々は、帝の御名・后の御名・御子たちの數また御名・みかどの御よはひ、大宮處・御陵など、よくもあしくもなき事がらどもは、直言なり。よしあしにあづかる事がらは、みなこの書法也。日本紀をおきて、續日本紀より末は、たゞいづれも直言なり。此けぢめみわかむ心得は、その文常の理にあたらざる事どもは、みな直言あらずと思ふべし。たとへば、八頭の烏尾ある人など、あるべくもあらぬたぐひの如し。】この詞づくりをば、倒語といふ。倒語とは、言のつけざまをいふ名也。言靈とは、詞の外に所思のいはずしてこもれる所をしろしめす神の靈を申す也としるべし。神武天皇の御紀に「能以(テ)2諷歌倒語(ヲ)1掃2蕩(ス)妖氣(ヲ)1倒語之用始(テ)起(ル)2乎茲(ニ)1とあるこれなり。この詞乃道 神武天皇の御世よりおこれりし事みつべし。諷の字、例の字切なりともおぼえぬは、よくあたるべきもじのなさに、かの御子のはかりてあてさせ給ひしなるべし。かくいふ故は、もと諷は諷喩・諷諫などいひて、あらぬ事もてわが情を人にさとす。その義いとよく似たることのやうなれど、から國に此字をもちふるは、直言せぬをいふばかりにて、猶わがわざ也。前にいふがごとく、わが國ぶりは、人をはじめとすべき詞づかひなれば、このけぢめくはしくわかちしるべし。【神典に、道速振・荒振といへる、もはらそのこゝろこれををしへ給へる也。我より端をなすを、速とはいふ也。】これに二種あり。ひとつは比喩也。これはその假れる事物死物なり。今一くさはその假りたる物活物なり。この假る事物の死活にて、わが所思をさとさまほしき(8)心みえなると、うつたへにさとさむ心なきやうなるとの別はある也。直言すれば、その功は速なれど必妖あるべき事なれば、たゞ神にまかせ奉りて、さとさむの心をおもひ絶たるをいたりと心うべし。されば、事物の活たるをば、倒語の本意とはすべき也。たとはゞ旅人卿憤ふかゝりけれど、言擧しがたさにその憤を酒にて散じたまへりけるが故に、洒を讃る歌あるが如き、かく假りたる事物、實物なるを活たりとはいふなり。その假る物實物ならざるを死せりとはいふ也としるべし。伊勢物語に、ひじき藻を贈りたるは「ひじきものには袖をしつゝも」とよめる、歌の假り物を死物にせじが爲也。これらをおもひて、この理をさとるべし。【初學のほどはその物の死活にかゝはらず、よみならふべし。このふたくさ、死活のけぢめよむにやすきと、かたき、これ、尊き、いやしきしるしぞかし。】倒の字の義は、うれしきをかなしといひ、みじかきを長しといふ、これなり。これにも、又二くさあり。しか倒にいひてよろしき時もあり。また、しか、倒ならずして、かたはらをいひてよろしき時もあり。概するに、思ふすぢをいはずして、おもはぬすぢを、詞とするを倒とはいふ也。と心うべし。妹がかほのみまほしきを、妹が家も繼てみましを、とよませ給ひ、人のうへをいはむとて、わがうへをいひなど、古人倒語千變萬化なりといへども、おのづから法則あり。今註せるをみて、思ひしるべし。ひとへに、わが所思ながら、その端を人におこさしむべき詞づくりをいふ名也。と心うべし。諷歌・倒語とわかちてかゝせ給へれど、諷歌もなほ倒語なり。この故に、下文にはひとつに、倒語之用始起乎茲とはかゝせ給ひし也けむ。おほかた、人の心の常として、われよりいふ事は、必こゝろよくはきかざるもの也。これさらに、人心のさがあしき故にあらず。【表には、諾したるが如きも、心内には信服ぜざる事、人心のつね也。神武天皇の御紀に、蜻蛉の臀※[口+占]をいへる、(9)これなり。理の正しき事は、人かならず感服すとおもふは、麁なり。それは、所詮屈服なるぞかし。なほみづから心よりおこしたるにくらぶれば、そのけぢめあり。よく思ひわくべし。神典、毛々那賀之件、人の服するに、三くさある事を、しめしたまへり。】我をはじめとすべからざる事、もと神道にそむくがゆゑ也。千里鏡といふもの、かなたの玉にうつるは倒影なり。その倒影、またこなたの玉に例影となりてうつる。これ即、直影なるをおもふべし。物のかげのものを隔つれば、倒影なる事常也。その外、めのまへ、自然の事に、倒なる事多し。これ、神道の現しき所以なり。そのしるしかぞへがたし。心をとゞめてしるべし。人より端をおこさしめむがために假る事物、すなはち後世の題なり。此集に、詠花・詠鳥など題をおける、みな後よりかけるにて、よみ人の、それを題としてよめるにはあらず。【題は、後よりつけたるものなる事は、上古、倒語の道によらで、よまざり歌どもなれば、明らかなる也。この事、予が隨筆にもくはしくいへり。】後世の題詠は、情といふばかりのものにあらず。たゞ花鳥風月を思ふ心なり。よきあしきのもどきもなきは、めでたきやうなれど、けづり花のごときものをや。そのはじめを思ふに、古今集の時、大かた、花鳥の使となりぬといきどほりて、四季の部をたてられたり。これ、後世題詠のおこれる源なり。歌と、言語は、その別ありといへども、大かた、詞は、わが情を人に傳ふべき具なれば、人に傳へでかなはぬばかりの情にあらでは、歌によむべき事にあらず。題詠のはかなき、歌となるべき情にはあらざる事也。【さしむかへる人には、言語をもちふ。遠きあはひの人には、歌を用ふ。されどさしむかひても、歌によむべき事がらもあるべし。そのけぢめ、みな情の輕重によるべき也。】當藝志美々《タギシミミノ》命あしき御心ありて、その御はらからを殺さむとし給ふに、その御母后、そのよしをみそかに告しらせむとおぼして、よませたまひし御歌、古事記神武天皇の條にあり。あらはには告べからず。告ざれば殺されたまふべし.かゝる時こそ、歌の必用なれ。又その御卷に、(10)軍令をも大御歌もてせさせ給へり。はかもなき事がら、もと、歌によむべき事にあらず。古今集の序には、いたくいやしまれたれども、相聞は、人と人の情のうちあひ、しかもあらはなるまじき事がらなれば、なかなか歌の必用にこそ。すでに、古今集春部よみ人不知「うめの花たちよるばかりありしより人のどがむる香にぞしみける」といふ歌、兼輔集にいとしのぴたるうつり香の、人しるばかりありければ、と端作あり。四季の部の中に、かゝるたぐひ多きをや。されば、まことに、四季の景物をよめる歌は論なし。戀・賀・哀傷・別・旅などの類、その詞づくりの直倒、みつべし。予、千とせあまりかくれたる倒語の道をいふが故に、よに、これを信ぜぬ人多し。これ年比のなげき也。まへに、紀の文の心得をいへるが如く、いへば妖氣にあたるばかりの事がらならでは、倒語も無用なりとしるべし。大かた、倒語の造、妖氣を掃蕩すべき御教なれば、かろ/”\しき事にあらず。詞をもて妖をまねき、くるしきせにおつる人、よにすくなからす。この道をおこして、いかでふたゝび、よの人のまねく妖をまぬかれしめむ。とおもふも、なほわがさかしらなるべし。
大かた、詞の表には、作者の情はなき事、上古人の常也。神典、淤能碁呂島之件は、詞はことの外なれど、交接の事也。先言之件、交接の事をいへるは、交接の事にあらす。これ古文・古歌をみるべき心得なり。されば、歌の表をときて、歌ときえたりとおもふは、いとをさなきわざなるべし。作者のその時代、またその身のありしかたち、又端書など恩ひはかりて、言外の情を察す。これ、予が年比ならひたる所也。しかるに、ある人とへらく、もし端書もなく、作者もしられざる歌は、いかにして(11)その情は察する。大かた、言靈をいふ事、附會牽強なるべしといふ。げに、千とせあまりかくれたりしことなれば、しか思ふもことわりなる事なり。もと、所思を神にまかせ奉るは、いはでかなはぬ事の、しかもいへば妖あるべき事、言靈とはなるなれば、さだかにはかり知がたき倒語の、倒語たる所以なり。【されど、その歌、えつべき當人は、必その言靈は、さだかにおもひいたるべきなり。】しかれども、端書・作者のありなしにかゝはらず、詞のつけざま・脚結の用ひざまに、その言靈は察せらるゝものなり。しかのみならず、大抵、古人倒語をもちふるに、すぢ/\あるものにて、附會にあらざる事、この集の註をみしり、又よくわが門に學びて後、附會ならざるしるしをうべし。すべて、詞もその用ひざま、後世直言にひがめる人の、もちふるには、いたくたがへり。くはしく學びしるべし。
古言は、すべて、倒語に用ひ、【脚結も、おなじ。】後世は、直言に用ふ。たとはゞ、齒の落たるを、舌いづといひ、ものいふを、ことゝふといふ類のごとし。脚結も、人に決せさせむと思ふ事は疑ひ、多きを思はせむとては、ひとつをいふ。すべて、歎息も、願も、まことに歎き、ねがふに用ふる事なし。されば、詞の表に、目を奪はれて、かなしとあるをかなしとみば、古文・古歌の本意は、終にみる事あたはざるべき也。されど、後世とても、伊勢物語・土佐日記のたぐひのごとく、いはでかなはず、しかもいふべからざる事にあへる時の所作は、なほ例語の法にかなへり。されば、倒語の法にだに熟せば、後世の詞たりとも、法にそむくべきにはあらねど、上古は詞といふ詞、倒語のそなへなり。後世は、直言のための詞どもなれば、倒語の法には、古言のかた切なる也。されば、おのれ、ともすれば、古言を(12)用ふるが故に、よには、古體とも、又古言を好むともいはる。さらに/\、古言をこのむにはあらず倒語の道のたふとさに、ひかるゝ也。ゆめ/\、此集になづみて、倒語の道のかしこさをもしらず、たゞうはべに、古言を用ひ、よに、萬葉體・古體などとなへらるな。と、わが門生にはつねにさとす也。この集をみむ心得、ひとへに、古人倒語にくはしかりし法則をみしり、すべての詞、倒語のうへにのみもちひたるやうを心えむ事を、むねとすべし。先學者、いづれも博識なれど、その目かぎれりといふべし。ある人とへらく、古言今の人に耳遠ければ譯《ヲサ》なくては通ぜず。しかるに、古言をしひて用ひむは、人の耳をおどぢおかさむとにや。時よにあはぬ詞を用ふるは、時をしらずとやいふべき。いかにおもひて、古言は用ふるぞといふ。答て曰、おのれ、古言を用ふるは、その耳速からむ人に、しひてきかせむとの心にあらず。みづからもちひしらざれば、古人の言を用ひたる味はひしらるべからず。此故に、常に古言を用ふ。これ、ひとへに、倒語の道のたふとさなれば、人の耳とほからむは、さもあらばあれ。神の御心には、いかでかあはれとおぼさゞらむとてこそ、おのれ歌はよめ。そこの歌よまるゝは、人にほめられむの心なるべし。人にほめられむ爲に、歌はよめ。と誰かはをしへし。いとも/\、いやしき歌のよみごゝちや、とこたへき。後世に、ひがめる人は、古言とだにいへば、あだし國の言にしもあるが如くいみきらふは、いかなる心ぞや。 天皇の大御傳へます三くさの大御寶も、今の時代にはたふとくやはなき。時代につれて、詞などもうつりたるは、やう/\いやしくなれるにこそあれ。それをたゝふべき事かは。もちひざる人の耳とほくなせるにこそあれ。さらに、古言のとがにはあら(13)ざるをや。それも、今の世の人のひがみににもあらず。この京のはじめの人たちの用ひざりしゆゑに、今の人耳とほくなれる也けり。その證は、上古の詞なれど、この京にもちひならへるは、耳とほしとも、神さびたりとも、しらず/\、人つねに用ふ。たとはゞ、うつたへに・うたて・あぢきな、などの類これ也。脚結も十にひとつも、後世のはなし。又もとな〔三字傍点〕といふ詞は。耳遠きに、こゝろもとな〔六字傍点〕は、ただ心といふ事を、上にくはへたる同詞なるに、今の世の人耳どほからず。こゝをもて推せば、詞の耳遠くなれるにはあらず。もちひずして久しく置ふるしたるがゆゑならずや。よく/\思ひかへすべししかのみならず、古言はすなほにして、不自由也と心えたり。これしらぬ也。よくみしり、その法則をふみて變化する時は、自在、後世の詞に百倍なり。わが門にいれる人ならで、その味はひをしらぬぞ、もどかしき。さすがに、世人、古言をいやしむかと思ふに、さにもあらず。いやしみはせねどもこれを用ひぬは、から人のいはゆる、敬而遠なるべしかし。されど、かく古言の味はひもしらずして、たふとぶは、これ又、たふとばざるに同日の論なるべし。今のよの人、倒語ともしらず/\用ひをる事あり。人の賀に、千とせ・萬よをよむは、その人まことに、千年・萬世を經むと思ふか。おそらくは、しか思ひてよむ人はあらじ。これ、千とせ・よろづよとよむは、百歳にだにあらせまほしき情を思はするわざならすや。よく/\かへりみて、そのひがみをとくべきなり。中昔にたぐひなしといはるゝ、躬恒・貫之、なにをたふとびたるぞ。みな、上つ世、人麻呂・赤人をこそ、ひじりとはあふぎけめ。さてよみ得たる所、躬恒・貫之が歌、これなり。されば、志は、いか(14)にも/\高からむこそ、めでたかるべけれ。躬恒・貫之を上なしと思はゞ、躬恒・貫之には必劣るべきぞかし。おのれ、歌よまむ人はかくのごとし。歌よまぬ人とても、此集は必つら/\みつべきは、古人倒語を用ひたるあと、古歌・古文ならでは何にかはみむ。まへにもいふがごどく、倒語の妙用は妖氣を掃蕩する御教なれば、歌よむ人よまぬ人によらずこの集、上古の人の倒語のもちひざまを、よく/\みしるべき也。歌よまむ人は、くはしくこの詞づくりをまねびて、おのがよまむ歌は、ひとへに倒語の試とすべし。これ、予が門生にをしふる常なり。歌のよみざま、詞のつけざまをしらむには、神典の教旨をわきまへざれば、いかに思ふとも、たゞ枝葉たるべし。されば、おのが門生、まづ神典をまねばしむるなり。されど、中には、志なき人、またきゝてもくはしからぬ人は、必そのわざ高からず。やごとなき事しるべし。今の世の心がまへにて、人麻呂・赤人によみ及ばむ事はかたし。予は、そのかみつよの御てぶりに人の心をなし、さて歌よまむに、人麻呂・赤人によみ劣らむやはとはおぼゆる也。これ、神典の御をしへをもとゝする所以なり。今は、千とせあまり、神道は巫祝の間におち、【神祇官は、太政官の上におかれたるに、さるはかなき事にはあらぬ事、思ふねし】國學は、ふることをさくるをわざとせり。神道の教旨、よにかくれたるは、もはら、倒語の道のうしなはれたるがゆゑなり【くはしくは、古事記燈にいへり。神典すべて、倒語なるがゆゑなり。】よに、いまだ倒語の道のこれりし證は、この集卷五【山上憶良長歌下略】神代欲理云傳介良久虚見倭國者皇神能伊都久志吉國言靈能佐吉播布國等加多利繼伊比都賀比計理今世能人母許等期等目前爾見在知在《カミヨヨリヒツテケラクソラミツヤマトノクニハスメガミノイツクシキクニコトダマノサキハフクニトカタリツギイヒツカヒケリイマノヨノヒトモコトゴトメノマヘニミタリシリタリ》云々。これなり。この道よにかくれたるは、續日本後紀卷十九に、興福寺の僧、(15)天皇の壽算を賀したてまつれる長歌をのせられて、その後文に、者夫倭歌|之《ノ》體比興(ヲ)爲v先(ト)感2動人情(ヲ)1最在v茲(ニ)矣季季世陵遲斯(ノ)道已墜今至2僧中(ニ)1頗存2古語(ヲ)1可謂d禮失則求c之(ヲ)於野(ニ)u故(ニ)採(テ)而載uv乏(ヲ)。とみえたる、これなり。かくよにありしも、かくれたりしも、古書に明らかなるを、おのれ、此道をいふ事數十年、人これを信ぜぬは、國史・萬葉をも信せずとにや。大かた、おのれが私のごどく聞なす事、わが年比の歎なり。かねて、此書を註しおける事、百巻あまり。ことし、わが門生、世のために梓にものするついで、年此おもへる事、のこさずしるしぬ。わが御國ぶりかしこまむ人は、古事記の燈、この集の燈にことわれるふし/”\、くはしくあぢはひて、千とせあまりかくれたる御國ぶりにしたがはねとぞ
   文政五年壬午正月        御杖識
 
(16)萬葉集卷之一
 
    雜歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代
 天皇御製歌
高市崗本宮御宇天皇代
 天皇登香具山望國之時御製歌〇天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌並短歌〇幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌並短歌
明日香川原宮御宇天皇代
 額田王歌 未詳
後崗本宮御宇天皇代
 額田王歌〇幸紀伊温泉之時額田王作歌〇中皇命往于紀伊温泉之時御歌三首〇中大兄三山御歌一首並短歌二首
近江國大津宮御宇天皇代
 天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌〇額田王下近江國時作歌井戸王和歌〇天皇遊猟蒲生野解き額田王作歌 皇太子答御歌
(17)明日香清御原宮御宇天皇代
 十市皇女參赴於伊勢大神宮時見波多横山巖吹黄刀自作歌〇麻續王流於伊勢國伊良虞島之時人哀痛作歌 麻續王聞之感傷和歌〇天皇御製歌 或本歌 天皇幸吉野宮時御製歌
藤原宮御宇天皇代
 天皇御製歌〇過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌一昔並短歌〇高市連古人感傷近江舊堵作歌或書高市黒人〇幸紀伊國時川鳥皇子御作歌 阿閇皇女越勢能山時御作歌〇幸吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌二首並短歌二首〇幸伊勢國之時留京柿本朝百人麻呂作歌三首 當麻眞人麻呂妻作歌 石上大臣從駕作歌〇輕皇子宿安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌一首並短歌四首〇藤原宮之役民作歌〇從明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御歌〇藤原宮御井歌一首並短歌〇大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸紀伊國時歌二首 或本歌〇二年壬寅太上天皇幸參河國時歌長忌寸奥麻呂一首 高市連黒人一首 譽謝女王作歌 長皇子御歌 舍人娘子從駕作歌〇三野連【名闕】入唐時春日藏首老作歌〇山上臣憶良在大唐憶本郷作歌〇慶雲三年丙午幸難波宮時歌二者 志貴皇子御歌 長皇子御歌〇大行天皇幸難波宮時歌四首 置始東人作歌 高安大島身人部王作歌 清江娘子進長皇子歌〇太上天皇幸難波宮時歌三首〇忍坂部乙麻呂作歌 式部卿藤原宇合 長皇子御歌〇大行天皇幸吉野宮時歌 或云天皇御製歌 長屋王歌 和銅元年戊申天皇御製歌 御名部皇女奉和御歌。三年庚戌春二月從藤原宮繊于寧樂宮時御輿停長屋原※[しんにょう+向]望故郷御作歌 一書歌〇五年壬子夏四月遣長田王伊勢齋宮時山邊御井作歌三首
(18)寧樂宮
 長皇子與志貴皇子宴於佐紀宮歌 長皇子御歌
 
(19)萬葉集燈 卷之一
                平安 富士谷御杖著
 本集一 其一
    雑歌
泊瀬朝倉《ハツセアサクラノ》宮(ニ)御宇《アメノシタシラス》天皇代 大泊瀬稚武《オホハツセワカタケノ》天皇
 天皇御製歌 雄略天皇也。先學者、この集の端作をしひて、御國よみによめど、もと、からぶみざまにかゝれたるなれば、それもなか/\なるべし。すべて、古註にてあるべき事どもは、ゆづりていはず。
1、籠毛與《カタマモヨ》。美籠母乳《ミカタマモチ》。布久思毛與《フグシモヨ》。美夫君志持《ミブグシモチ》。此岳爾《コノヲカニ》。菜採須兒《ナツマスコ》。家告閇《イヘノラヘ》。名告沙根《ナノラサネ》。虚見津《ソラミツ》。山跡乃國者《ヤマトノクニハ》。押奈戸手《オシナベテ》。吾許曾居《ワレコソヲレ》。師吉名倍手《シキナベテ》。吾己曾座《ワレコソヲレ》。我許背齒《ワレコソハ》。脊齒告目《セトシノラメ》。家呼毛名雄母《イヘヲモナヲモ》
言、籠は、菜を摘入れむ爲にもてる也。古點、許《コ》とよめるは非也。加多麻とよむべし。古事記上卷|无間勝間《マナシガツマ》。又古く、加多麻ともみゆ。後世、加多美といへり。許《コ》は、大きなるをいふ名なるべし(20)神代卷に、大目麁籠《オホマアラコ》あり。布久思は、菜をほりとる具なるべし。和名抄(ニ)云、〓唐韻(ニ)云、〓音讒。一音※[斬/足]。漢語抄(ニ)云、加奈布久之《カナフグシ》。犂〓。又土具也とあるは、かねにてつくれる也。されどこと更に、この名あるは、竹木などにてつくれるもある故なるべし。越の海人のかづきにもつを、今も布具世《フグセ》といふどぞ。このもてるは、竹木などしてつくれるにもやありけむ。〇毛與。古事記上卷長歌【上略】阿波母與賣邇斯阿禮婆《アハモヨメニシアレバ》顯宗の御歌に【上略】、奴底取羅倶慕與《ヌテユラグモヨ》。於岐毎倶羅之慕《オキメクラシモ》。又|於岐毎慕與《オキメモヨ》。阿甫彌能於岐毎《アフミノオキメ》【下略】などあるに同じ。毛《モ》は、ふたつともに、此女の容儀を主としておかせ給へるにて、この二物もて容儀のすぐれたるを思はしめ給へる也。かくはかなき物をあげ給ひしは、それだにめでたくは、容儀はいかばかりならむ、と思はせむ御詞づくりよく味はふべし。毛《モ》もじふたつあるは、此二物にかぎらぬを思はせ給ふなり。二物ばかりなるを、後世|毛《モ》ふたつおくは麁也。與《ヨ》は、「也經」の也の反なれば、【經とは、經緯の經なり。五十韻をば、亡父つねに、經緯といはせたり。】この集卷二に 我者毛也安見兒得有《ワレハモヤヤスミコエタリ》。とよめるは、詠のやなり。此反にて心つかざりし事をなげく詞也。かゝる物さへめでたからむとはおぼさゞりし御心をしめしたまへる也。ひとへに容儀をほめ給ふなれど、あらはにほめ給へば、却て反を來たすが故ぞかし。〇美はたゝへ言也。眞《マ》のかよへる也。わが御國、大かた、ふたつを具する事を貴ぶが故也。この集中、麻傳《マテ》といふ脚結を、【脚結とは、よにいふてにをはなり。亡父がいはせたる名也】左右手《マデ》・左右《マデ》などかけるに思ふべし。ふたつとは、天地の二性を云。くはしくは、古事記燈神典にいへれば略す。以上四句、毛與《モヨ》といふ脚結に、もはらこの女の容儀のたぐひなき事をし(21)めしたまへる也。直言せば、たとひいかばかりいふとも限あるべし。倒語の妙思ふべきなり。【古點、この與《ヨ》を下につけて與美《ヨミ》とよめるは非也。よきを與美《ヨミ》といふ例なし。】〇此岳爾 家と名のしられぬ事をしめしたまへるなり。〇菜採須兒 この須《ス》を下につけて、古點|須兒《スコ》とよみ、須《ス》は志津《シツ》の約にて、賤女なりといふは誤也。此集卷十七【「長歌上下略】乎登賣良我春菜都麻須等《ヲトメラカワカナツマスト》云々」かく仮名書もしたれば、「つますこ」とよむべし。この外此集卷七に「小田刈爲子《ヲダカラスコ》」卷十に「伊渡爲兒《イワタラスコ》」また同卷に「山田守酢兒《ヤマダモラスコ》」などの例なり。この須《ス》をば、佐《サ》とも、志《シ》とも、勢《セ》ともかよはせていへり。古事記上卷に、佐加志賣遠阿理登岐加志※[氏/一]久波志賣遠阿理登伎許志※[氏/一]佐用婆比爾阿理多多斯用婆比邇阿理加用婆勢《サカシメヲアリトキカシテクハシメヲアリトキコシテサヨバヒニアリタタシヨバヒニアリカヨハセ》云々【長歌上下略】。又同卷に阿夜邇那古斐岐許志《アヤニナコヒキコシ》云々同上。また同卷に、毛々那賀邇伊遠斯那世登世美岐多※[氏/一]麻都良世《モモナガニイヲシナセトヨミキタテマツラセ》【同上上略】。また即この長歌のうちに 名告沙根《ナノラサネ》。又この卷のうちに、小松下乃草乎刈核《コマツガシタノカヤヲカラサネ》。などの類いと多し。これは、里言にサセラルといふ詞の本にて、菜をつませらるゝ兒といふ心也。人のするわざを、あがめていふ詞也。後世里言に、サセラルといふは、高貴の人ならねばいはねど、さばかりあがむるにこそあらね、天子より賤女をさしておほせらるべき詞かは、と思ふ人もあるべけれど、上古の人は、貴賤にかゝはらず、人をあがむる事、わが御國ぶりにてふかき理ある事、くはしくは古事記燈神典にいふをみるべし。兒とは、多くは女をさす稱なり。男をもさしていふ事、集中に少からず。「去來子等《イザコドモ》」の類これ也。大かた、子は愛せらるゝ物の極なれば、子を思ふ情のごどく、おもふ心をさとしてさす稱なる也。をぢをばなど稱するも、父母のはらからの如く思ふ心よりい(22)ふなり。これに準じてしるべし。されば、男とても、愛してはいふべけれど、女はことに愛せらるゝ情ふかき物なれば、女をさしたるがいと多き也。縵兒櫻兒などやうに、やがて女の名ともせむ。後世、伊勢のこ・中將のこなどいふもこれ也。今もこの遺風あり。これを、御の義といふは非なり。〇家告閇 印本、吉閑とある、吉は告、閑は閇の誤にて、乃良敝《ノラヘ》なるべし。能良敝《ノラヘ》は能穎を延たる也といふ説、麁なり。のぶるも、つゞむるも、よしもなくてすべきにあらずかし。良布《ラフ》といふ詞をつけたる詞多し。いはゆる、加敝良布《カヘラフ》・安氣津良布《アゲツラフ》などいふ類これなり。その事の、ひとたびならぬさまを形容する也。されば、これはくはしくいひきかせよとの心なり此下、名には、のらさねとよみたまひ、家には、かくのらへとあそばしゝは、家は、處も家もまぎらはしければなるべし。「のる」とは、告る事を古くいふ詞也。〇名告沙根の沙《サ》は、上にいへるが如し。根《ネ》は、亡父が脚結抄にいはゆる「去倫」の禰にて、いねとふ詞のいをはぶける也。【これらは裝《ヨソヒ》の脚結となれる也。くはしく、抄に辨じおけり。】これは「名ををしむな」との心を、根《ネ》とはあそばしゝ也。この家と名を告よとおほせられたる、此大御歌の眼目なり。家と、名をきかせ給ひて、なにゝかせさせ給はむ。心をとゞむべし。後世のいやしき詞づくりにくらべてこの御詞づくりをおもひ奉るべき也。〇虚見津 古事記【仁徳天皇の御製】蘇良美津夜麻登能久邇爾《ソラミツヤマトノクニニ》云々。これによりて、四言によむべし。この卷に【人麻呂】天爾滿倭乎置而《ソラニミツヤマトヲオキテ》云々。眞淵は、四言にのみ上つ世はよめるを、人麻呂にいたりて邇《ニ》もじを加へたりといへり。 神武天皇の御紀に、至d饒速日(ノ)命乘2天(ノ)磐船(ニ)1而翔c行大虚(ヲ)u也睨(テ)2是(ノ)郷(ヲ)1而降之故(ニ)因(テ)目(ケテ)之曰2(23)虚見日本《ソラミツヤマトノ》國(ト)1とあるより冠辭とせる也。紀、また此集にも、やまとゝいふは、今の大和の國也。日本とかきたるも、猶やまとゝよみて、大和の國の事也。日本と書そめしは、いつの頃よりにか。此集にも、一二首ひのもとゝよみたる歌あり。藤原の都のころよりやいひけむ。と同人の説なりさらば、この 帝の御時、いまだ日本をやまとゝいはねば、これも大和の國の事也。大和をしろしめすといふにて、やがて、日本をしろしめす心になる也。と者説なり。げにしかなれど、しか釋するは、倒語をころすなり。たゞ、大和一國をしろしめすやうにあそばしゝ也。せばきをひろく、廣きをせばくいふは、倒語の法ぞかし。者《ハ》もじは、すべて目にたつ事あるにつけての歎なりたゞ、物の分別をたつる詞と心うるは、經緯の「阿緯」の義かくる也。この御歎は、我より、わが御名を告させ給はむはいかめしけれぢ、かくさむとおぼせどもかくされねばなり。此下すべて、この心をえてみるべし。これを御自負のやうにみるは、いとをさなし。たとひ賤女たりとも、勝佐備は【これは自負の事なり。】神典のいさめらるゝ所なるを、いかでかをかしたまはむ。後世のいやしきならひにみまじき也。〇押奈戸手 おしは、多かるものにおしわたす挿頭なり。【これは、上におく詞の名也。亡父挿頭・裝・脚結と詞をみつにわけて三具といへり。】奈戸は並へ也。これは大和國のうち、郡郷におしわたす心也。手《テ》もじは、くはしく、此下なる藤原宮役民が長歌にいふべし。〇吾許曾居 次句の師を、此句につけてをらしとよみ來れゝど、らしの義かなはず。師もじは、次の句の上につけて、しきなべてとよみ、居はをれとよむべし。許曾《コソ》は、多かる事物の中にて、ひとつをとりわけてみする詞にて、そのとりわ(24)くるは、かへりて、そのとり殘せる多物を思はせむがための脚結也。されば、わが御身ひとつをとりわけ給ふは、他の人の此の國にすまぬを羨みおぼす心也。これひとへに、御名のかくしあへ給はぬ故をしめしたまふなり。すべて、多物をしめさむには、その中の一くさをとりわくるにしかず。許曾《コソ》の妙用おもふべし。おほかた、脚結は詞をたすくる用のみならず、多言なるべきを、少言にすべきを專用とす。これ脚結の本然なる也。〇師吉名倍手 この吉の字、普告つくれるは誤なるべし。師吉《シキ》は、太敷坐などいふが如く、知といふ心なり。高知を高敷といふにてもしるべし。名倍手は、上に同じ。この座をば、宣長はませとよみき。これは、神典にさる例あればなるべし。須佐之男命御みづから、吾御心須賀須賀斯《ワガミココロスガスガシ》。とおほせられ、また八千戈(ノ)神の、御みづから
粁紆軒紆野財断肘卦許卦軒《ヤチボコノカミノミコトハ》云々。ととませ給ひしによれば、さる事ともおぼゆれど、もと、神典は神の御心をはかり奉りて、後よりかき、後よりよみたるものなるを、宣長は實録とみたるよりの説なり。御みづから、いかでさはのり給はむ。しかるべからざる事は、古事記燈をみてさとるべし。これは、 帝の御うへなるが故に、家持卿の、心えてしかゝれたるにて、なほ「をれ」とよむべき也。この下、軍王の歌に獨座吾衣手爾《ヒトリヲルワガコロモデニ》。とあるにも思ふべし。句意、畢竟上の二句に同じ。古人かくかさねていふ事多し。これたゞ、詞のみやびにあらず。からぶみの四六體などの如く心えて、先學者これらを詞のあやと思へり。わが御國倒語をこそたふとべ、詞のあやをねがふ事なし。あやのごとくみゆる、いづれもよしある事ぞかし。こゝもいかさまにおぼせど御名をか(25)くし給はむよしなき事を、かへす/\ねもごろに思はせむとの御詞づくりなり。○吾許曾者 今の本、曾《ソ》を脱せり。一本|曾《ソ》もじあり。これは、上のふたつの吾をうけて、さる吾こそは、との心也家をも、名をもつゝまれぬ吾こそはの心にみるべし。許曾《コソ》を三つおかせ給へる、上のふたつは、同じ心也。これは、又そのふたつをうけて、おかせたまへる也。〇脊齒告目 古點「せなにはつげめ」とあれど、後世にこそ「せな」とはいへ、古くは「なせ」とのみあり。又「には」の脚結も、上にかなはす。齒は齡と同じければ、「とし」といふ脚結の假名にて、「せとしのらめ」と六言によむべし。これは、眞淵がよめる也。諸説のうち、この説より外に、ことにおもひよれる事もなければ、今これにしたがへり。古の女、脊とすべき人にあらでは、家をも名をもあらはさぬよしは、集中多くみゆれば、我をこそ夫と思ひてのらめ。との心也といふ説あり。これ、この家と名は、猶女の家名としての説なり。しかも心うべけれど、しか心うれば、上の四句は、御自負となるべし。上に釋しおけるが如く、許曾《コソ》の義、御みづからひとりをとりわけ給へるは、他の人をうらやみ給ふ御心しるきによれば、此脊としのらめは、脊がましくていとをこがましけれど、我よりまづ、家をも名をものらめとおほせられたるにて、此終の「家をも名をも」は、御みづからのうへなるべくおぼし。 帝にして、家とおほせられむは、あるまじき事の如く心うる人もあるべけれど、御みづから、たゝへ名はいかゞおほせられむ。家とおほせられむ事、何かはふさはしからざらむ。しかのみならず、女の家名をきこしめさぬ程は、我も御名は告げじとおぼせど、此國におはします事、人(26)もしりてかくし給はむよしのなきが故に、夫めきていとをこがましけれど、やむ事をえず、吾よりこそは、家をも名をもさきに告めと思ふぞ。とあそばしし也。はじめに、女に家名をのれとよませ給ひ、さて我より家名をのらめとおほせられしは、ひとへに、女の家名を促し給ふ也。さきに御名を告げたまはむに、いかでか、女の名をつゝみあへまし。上古の詞づくり思ふべし。されば「やまとの國は」「われこそをれ云々」の四句も、所詮は、女の家名を促かさむがための御詞づくりとしるべし。
靈、この御製、野に出まして、菜つむ女をみそなはして、御志を告げさせ給ひし大御歌也。しかるをたゞ家と名をのれとのみよみふせ給ひ、御みづからの御名のかくしがたき故をもて、促したまひし御詞のつけざま、めでたしといはむもかしこし。もし、これを詞のうへばかりとみば、女の家名をきかせ給ひて、何にかはせさせ給はむ。これ、家所をきこしめさば、めしにつかはし給はむとの御詞づくりならずや。かばかりの賤女めさるべきにたはやすかるべき事なるを、猶かく、倒語の大御歌をたびまして、此 帝いとたけくおはしけむにも事たがひて、いよ/\かしこし。大かた人の心を先とする事、わが御國ぶりなれば、上古にはかゝる事さへ有りけり。上古の風のかしこさをも、後のよのいふかひなさをも、この大御歌にておもひしるべし。
 
高市崗本宮《タケチヲカモトノミャ》御宇天皇代 息長足日廣額天皇
 
(27) 天皇登(リマシテ)2香具山《カクヤマニ》1望國《クニミシタマフ》之時御製歌
 
これは舒明天皇なり。
 
2 山常庭《ヤマトニハ》。村山有等《ムラヤマアリト》。取與呂布《トリヨロフ》。天乃香具山《アメノカクヤマ》。騰立《ノボリタチ》。國見乎爲者《クニミヲスレバ》。國原波《クニバラハ》。煙立龍《ケフリタチコメ》。海原波《ウナバラハ》。加萬目立多都《カマメタチタツ》。可怜國曾《ウマシクニゾ》。蜻島《アキツシマ》。八間跡能國者《ヤマトノクニハ》。
 
言、山常庭とは、他の國にむかへたる也。山常は假名にて、大和一國の事也。〇村山有等 これを「あれど』とよみ來れゝど、等《ト》もじ清音なれば、「ありと」とよむべし。ありとは、ありとての心なり。濁音に清音を用ひたる例もあれど、清《スミ》ては心えがたき歌こそあれとて、かくはいふなり。村は群なり。群山あれば、望をさふる物なれば也。○取與呂布 とりは手に取持ちもしたらむやうなる形容の挿頭也。與呂布は、具足の義にて、何も具足したる香具山なればとの心なり。山の中にも、いと高き香來山といふべきを、高きばかりにいはずして、取與呂布とはおほせられたる也。この取よろふといふ中に、高き事を思はせたる也。高き事ここの專用なるに、かくいふ上古の詞づかひおもふべし。○國見乎爲者 神武天皇の御紀に、※[口+兼]間《ホヽマノ》丘にて國見したまひしを濫觴とす。これは高き處より見て、國のさまを察し給ひしなり。たゞ眺望のためにあらざる事、かの御紀の文にしるし。○國原波 はらとは、字彙に遇玄切。音元。本也。説文(ニ)高平(ヲ)曰v原(ト)。人(ノ)所v登也。李巡(ガ)曰、土地寛博(ニシテ)而平正(ナルヲ)名(ケテ)之曰v原(ト)。即今(ノ)所謂《イハユル》曠野也。とみゆ。たひらかにひろき所をいふ名(28)也。波《ハ》もじは、まへにもいひしごとく、おのづからさる分別あるを歎ずる義也。後世、脚結のもちひざま麁になれるは、これにかぎらぬ事ながら、つね多く用ふる脚結は、ことに思はず麁になれる事甚しければ、おどろかしおく也。〇煙立籠 これは人家のかまどにたつる煙なり。かの後世 仁徳天皇の御製とあやまれる「たかどのにのぼりてみれば云々」の歌、
 
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たまへる也。】「たみのかまど云々」は、これらをまねばれたるなるべし。〇海原波 こゝより海みえずなど古説あれど、なにはのかたなどはみゆるなるべし。〇加萬目立多都 和名抄(ニ)云、唐韻云。鴎。和名加毛米とあり。上つ世には、かまめとも、かもめともいひけらし。此集卷三「【長歌上下略】奧邊波鴨妻喚《オキベハカモメヨバヒ》」ともよめり。
 
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土佐日記に、今し、かもめむれゐてあそぶ所あり云々。契沖、海上舟の往來しげくて、にぎはふさま也といひし、隨ふべし。舟のゆきゝしげきに驚て、鴎のたつさま也。たちたつは、たちにたつの心にて、たえずたつをいふ。里のにぎはひを、煙に詞をつけ、海のにぎはひを、鴎に詞をつけさせ給へるめでたさ、よく/\思ふべし〇可怜國曾 今の本、怜※[立心偏+可]とあり。顛倒にや。この※[立心偏+可]の字は、字書にみえず。怜は、字彙に離星切。音陵。了慧也。俗作v憐。愛之憐非也とあり。神代卷に、可怜小汀とあるによれば、※[立心偏+可]は可の誤にて、うましとよむべし。古點おもしろきとよみたる、さる事なれど、おもしろしとは、古語拾遺に衆野面皆白と註したるはうけがたし。物を賞して目をはなたねば、わが面輪のかくれなく人にしるきをいふ義也。わが面のしるきにて、物にめをはなたぬを形容したる詞也。しろきは、しる(29)きの心なり。紀に、灼然をいちじろしとよみ、又此集に、川とほしろしとよめり。遠ながらしるくみゆる心也。【紀に、大の字をとほしろしと訓じたるも、大なるものは、遠ながらしるければ也。】又「うまし」は神代卷に可美葦牙彦舅神。なほ所々みゆ。古事記上卷味御路などもみえて、もと食味の旨きより形容する詞也。されば、そのあはれと思ふ所はひとしけれど、その義うましの方切なるをおもふべし。曾は、里言にジヤゾといふ心にて、大かた、此大和國をば、是までかばかりよき國ともおぼさゞりしを、今この國のうまきに御心を循へ給ふ心なり。この曾《ゾ》もじ、此大御歌の眼なり。靈にてらして、後世ぞもじを用ふるをさなさを用ひしるべし。深く、此國のよさをよろこび給ひし也。〇蜻島 この名かの 神武天皇の御紀國見したまひし時よりおこれり。因(テ)登2腋上※[口+兼]間丘《ワキガミノホホマノヲカニ》1而廻2望國(ノ)状(ヲ)1曰|妍哉乎《アナニエヤ》國(ヲ)之|獲《エキ》矣雖2内木綿之眞〓《ウツユフノマサキ》國(ト)1猶如2蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメセルガ》1焉由(テ)v是(ニ)始(テ)有2秋津洲之號《アキツシマノナ》1也。この語、後世國の形とみあやまれり。雖・猶などのもじは、いかにみてならん。をさなし。これ、深き理あり。此御歌に用なければはぶきぬ。此二句はもど、可怜國曾の上にあるべき句なれど、かく倒置し給へるは、標實をはかりて也。標たるべき哥は、まづいふならひ也。姓をさき、諱を後にいふが如し。【姓は數世にわたり、諱はその世の主一人なり。これ先後の所以すなはち標實の心也。てらして思ふべし。】詞の所置、此標實をはかりておかざれば、語をなさゞる也。者もじは、此國のうまき事 他国乃類にあらぬ事を、歎じ給へるなり。
靈、この御製はもと、國見は 神武天皇の御紀國見し給ひし所に巡幸とあれど、國見は御國ぶり也。巡狩はからぶり也。もはら、安民の事に御心を勞し給ふより國見し給ふに、里のみならず、海上(30)までもにぎはへるを御覽じて、ふかくよろこばせ給へる大御歌なれど、しか直におほせられては御徳をかゞやかし給ふになりぬべきがゆゑに、此國もとより人力をからずして、安く豐なる國也とはじめてしろしめして、これまで御うつくしみあまねからざらむか。といたづらに御思を費し給ひし事よ。と悔おぼしめす心にあそばしゝ也。御詞のつけざま、後世の人の思ひもよるまじき事、かしこしともよのつねなるかな。たゞ、國の本然にゆづりたまへども、實は、此 帝の御うつくしみ深きにかくにぎはふを、いさゝかも慢じたまふふしなきこの御詞ざま、ありがたきまでおぼゆる大御歌なりかし。
 
天皇遊2獵内野(ニ)1時|中《ナカノ》皇女(ノ)命|使《シテ》2間人連老《ハシウドノムラジオユヲ》1獻歌
 
内野は、大和國宇智(ノ)郡也。中皇女命は 舒明天皇の皇女なり。のちに、孝徳天皇の后となり給ひ、間人《ハシウドノ》皇后と申し奉れり。されば、今の本、皇の下、女の字を脱せる事なし。此老は、孝徳天皇の御紀に、中臣間人(ノ)連老とみゆ。此皇女の御乳母方とぞ。此御歌は、御獵に出たゝせ給ふ時老をして、後宮より奉られしなるべし。
 
3、八隅知之《ヤスミシシ》。我大王乃《ワガオホキミノ》。朝庭《アシタニハ》。取撫賜《トリナデタマヒ》。夕庭《ユフベニハ》。伊縁立之《イヨセタテシ》。御執乃《ミトラシノ》。梓弓之《アヅサノユミノ》。奈加弭乃《ナガハズノ》。音爲奈利《オトスナリ》。朝獵爾《アサガリニ》、今立須良之《イマタヽスラシ》。暮獵爾《ユフカリニ》。今他田渚良之《イマタタスラシ》。御執能《ミトラシノ》。梓能弓之《アヅサノユミノ》。(31)奈加弭乃《ナガハズノ》。音爲奈里《オトスナリ》。
 
言、八隅知之 此冠辭 仁徳天皇の御紀にはじめて見えて、紀中にも、此集中にも多し。眞淵は八隅といふ事からめきたりとて、此集卷一よりはじめて、かた/”\に安見知之《ヤスミシシ》とかきたるを正しとして、天下を安見し給ふ心かといへり。卷二に、内大臣藤原卿娶2釆女|安見兒《ヤスミコヲ》1時|我者毛也安見兒得有《ワレハモヤヤスミコエタリ》云々。とあるに例せられたり。此説いとみやびては聞ゆれど、天下とも國ともいはずして、安見しゝといはむ事、いかならむ。猶古説のごとく、八隅をしろしめす心にや。八卦をはじめ、から人八を貴ぶが故に、からめきたるやうなれば、すでに、八雲・八重などは、「いや」の義とすれど「いや」はいやふたならび、いやます/\になと用の詞にこそ冠れ。體にかぶるべき詞にあらぬをやされば、神典に八の字を用ひられたる、いづれも猶、八の數にて、頭胸腹陰左右の手足と一身を八處にかぞへられたるを本とし、一天下をも八島とす。くはしくは、古事記燈にみるべし。ひたぶるにからざまともいひがたし。こゝをもて思へば、猶八隅をしろしめす心にこそ。「しゝ」の上のしもじは、知の義也。下のしもじは、去倫のしにあらず。【よにいふ、過去のしの事也。】上にいへる須佐世《スサセ》などのかよひにて、知らせらるゝといふ心也。【以緯はすべて、用を體にする義也。されば、これもしろしめすになりて、おはしますといふほどの心也。】〇朝庭 ふたつの爾波は、わざと朝夕のうへばかりにいひて終日終夜のさまを思はせられたる也。朝にけになどよむ皆終日を思はする也。取撫は御弓をふかく愛し給ふさまを云也。伊縁立之 これ又、大切に直し置給ふさま也。古點は、「いよせたてゝし」とよめれど、てもじあるにも及ばぬ所なれば、六言によ(32)むべし。よせたつといふ詞、大切にする義はなけれど、御手をはなさせ給ふまゝに撫おかせ給ふにむかへて、此義を思ふべし。伊はいきづきならし・いはひもとほり・いかくるゝまで・いたゝせりけむなど、つねに多く冠らせたる詞也。【先學者、發語といふは、例の麁也。隨筆にくはしくいへり。】又人の名の下に、伊をつけていふ事、此集中に、志斐伊《シビイ》とよみ、續日本紀宣命に、道鏡|伊《イ》とあり。これは、道鏡伊は、人の陰へおしやる心也。志斐伊は、人の陰へみづからかくるゝ心にて、とがむる心と、謙遜の心とはなる也。詞の上につくるも此義にて、二事ある物を、一事を陰にしてみせむが爲也。伊をつけざれば二事ならびてみゆべければ也。よせたて給ひし御わざの、今御獵にもたせ給ふ陰になりてあるをしめし給へる也。〇御執乃 御手にもたせらるゝ御弓なるをいふ也。御劔を御はかしといひ御衣をみけしどいふに同じ。「し」はまへにいへる「せらるゝ」の心也。延喜式に、御弓は梓なるよしみえたり。〇奈加弭乃 加は利の誤にて、鳴弭の心かといふ説あれど、なり弭といふべくもおぼえず弦のあたりて鳴るはうら弭にて、うら弭は下弭より長ければ、もし長弭といふにやあらむ。音爲奈利とは、御かりに出給はむとて、御弦打し給ふが、後宮へきこゆる也。奈利《ナリ》は、すべて耳にたち、目にたつ事をいふ脚結にて、その耳目にたつは、それにつけてふかく心にあたる事あるをしめす也。この脚結に、言靈はむねとこめたまへり。おぼしめす情をばおほせられずして、たゞ弭音のいたく御耳にたつよしを、奈利《ナリ》をもて思はせ給ひし也。〇朝獵爾 たたすらしは、立出させ給ふらしきとの心也。四句ただいひかへられたる句のやうなれどしからず。朝がりに今たゝすとの心也。なにのゆゑもなきやうにみゆれど、朝がりばかりにてかへり給はむだに待どほなるにもし夕獵をさへおぼしてならば、いかに還御のまち遠にわびしからむ。とおぼす御心也。良之は集中に良之伎とよめる、此きもじのはぶかりたるにて、さだかにしかりとは知られねと、十に五六も、さならむとおぼゆるをいふ脚結也。〇御執 この三句は、かさねさせ給へる也。古人かくかさねていふは、必そこが一首の主意ある所也。一たびいひていひあかねば、今一たびいふ也。さらに姿にあづかる事にあらす。かくかさぬるは、その句意に、人のめをしてとゞめしめむがための句法也としるべし。されば一首の御心もはらこゝにあるなり。
靈、この御歌、表は、たゞ御弓の弭音にて、御かりに出たゝせ給ふ事をおぼす御心によみふせ給へれど、たゞ、さばかりよしもなき事を、わざと老して奉られむやうなし。されば、その所以をたづぬるに、朝暮寵せられ給ふは、われも御弓もひとしきに、御弓は、けふも御手をはなれずしてゆくがうらやましき心に御詞をつけられたるにて、父 帝にしばしもはなれ居たまはむ事わびしけれど、女の御身なれば、御かりの御供もせられ給はず、朝がりばかりだに、還御の待久しからむに、夕がりまでをかけておはしまさば、いかにけふをくらさむ。ともはら〔三字傍点〕父 帝をしたひたまふ御心より、いかではやくかへらせ給へ。と申し給ひし也。されど、はやくかへらせたまへとはおほせらるべき事にあらざるがゆゑに、たゞ御弭音の耳だつよしによみなし給へる、まことにめでた(34)しとも、あはれともいはゞなか/\なるべし。大かた、父母をしたふは子の常なれば、直言すともいかゞあらむと思ふは凡情也。子としてあはれなる事なれど、直にいへば、必御心に入るまじきが故に、かく思はぬ方に詞をつけて、あはれと察したまはむ事をまつ。これわが御國ぶり也。この御歌、御詞のつけざまごとに、及がたき境なり。學者よく/\此妙處をしるべし。
 
     反歌
かへし歌は、長歌にあかねば、さらにかへしてよむ也。されば、長歌の心をふたゝびもよみ、又長歌にのこれる事をもよむさま/\なり。
 
4、玉刻春《タマキハル》。内乃大野爾《ウチノオホヌニ》。馬數而《ウマナベテ》。朝布麻須等六《アサフマスラム》。其学深野《ソノクサフカヌ》
 
言、玉刻春は、玉は魂なり。きはるは、きはまるにて、人うまるゝよりながらふる涯《カギリ》をかけて、内の冠とす。後人命の今終る極《キハミ》をいふと心うるは非なり。此集卷五に、靈尅内限者平氣久《タマキハルウチノカギリハタヒラケク》云々。といふ歌の憶良朝臣が自序に、瞻浮洲人壽百二十歳。謹案此數非必不v得v過(ルコトヲ)v此(ニ)云々。とはるかに百二十歳を生涯とするを思ふべし。こといみせぬかみつ世ながら、さるいまはしき事ならば、人名のうへにも冠らせたまはじ。と眞淵はいへり。【玉きはるうちのあそこれ也。その外いのち・いく世・世などつゞけたり。】〇内乃大野爾 この爾《ニ》もじを思ふに、岡本宮よりは程ある所なるべし。近き所ならばとおぼす御心しるし。〇馬數而 從者と御馬ならべたまひて也。數は心えてかゝれたる也。鳥しゝをふみおこすに、馬多けれ(35)ば、鳥しゝも多かるべきをおぼす也。〇朝布麻須等六 此集卷六に、朝獵爾十六履起之夕狩爾十里※[足+榻の旁]立馬並而御獵曾立爲《アサガリニシシフミオコシユフガリニトリフミタテウマナベテミカリゾタタス》【長歌上下略】。鳥しゝなどの、草にかくれふせるをふみおこし、ふみたつるを云。夕かりまでもおはすらむ事は、今はかりがたければ、朝ふますらむとはおほせられし也。鳥しゝなど多からば、必夕※[獣偏+葛]までもおはさむかとおぼす御心こもれり。長歌にてらしてみるべし。須《ス》はせらるゝの心なり。等六《ラム》は、これを中の「らむ」と云。うちあひなくて、詞の中におくなり。その事たしかならぬ時にいふ也。〇其草深野 其とは、人のしれるものを、そのまゝにさす詞也。されば、上なる内野即その野をさす也とのさとし也。草深野は、古點くさふけ野とよめれど、「衣緯」へかよはす義こゝにかなはねば、草ふかぬとよむべし。草深く生たる野といふ也。集中に、草深ゆりあり。これも同じ。此四の御句にてありぬべきに、この一句を添られたるは、草深き野は鳥しゝなどもいと多くかくれたるべければ、けふの御かり御獲物おほくて、御興盡ざるべしとおぼす御心より添たまへる也。さらでもけふ御かたはらをはなれゐたまふがわびしきに。御興盡ざらば、いかに還御も遲からむ。夕かりまでも必おはすべし。とその待どほさを佗たまへるなり。
靈、長歌には、御供もせられ給はで、けふ一日御かたはらにも侍りたまはぬわびしさをよませ給ひ此反歌には、還御遲からむ事を申したまへる也。されど、とくかへらせ給はむ事をそゝのかしたまへるは同じ心也。しかるに、御みづからこそさやうにはおぼせ、帝は御かりの興もふかくおはしまさむに、とくかへらせたまへなど、あらはにはいふべからねば 草ふかくて鳥しゝなど多く(36)御興いかにますらむ。とたゞ御かりばのさまをおぼしやりたるばかりのやうにも、又草ふかくて御興盡ざるべきをうらみたまへるやうにも、よみふせ給へる御心のうち、おしはかられてあはれ限なし。これはひとへに、御詞のつけざまの妙なりかし。すべて上古の人の詞の、こどにめでたきは、かくいづれともいひかためられずして、さま/”\にみゆる、これ詞を用ふるいたりなる也。
 
 幸《イデマシ》2讃岐《サヌキノ》國|安益《アヤノ》郡(ニ)1之時軍王見(テ)v山(ヲ)作歌
 
舒明天皇の御紀に、十一年十二月、伊豫の湯宮に幸して、明年四月還ましゝ事あり。その春、ついでに讃岐におはしゝなるべし。軍王とは、供奉の軍をつかさどる人なるべし。姓名しられず。
 
5、霞立《カスミタツ》。長春日乃《ナガキハルビノ》。晩家流《クレニケル》。和豆肝之良受《ワツキモシラズ》。村肝乃《ムラギモノ》。心乎痛《コヽロヲイタミ》。奴要子鳥《ヌエコドリ》。卜歎居者《ウラナゲヲレバ》。球手次《タマダスキ》。懸乃宜久《カケノヨロシク》。遠神《トホツカミ》。吾大王乃《ワガオホキミノ》。行幸能《イデマシノ》。山越風乃《ヤマコスカゼノ》。獨座《ヒトリヲル》。吾衣手爾《ワガコロモデニ》。朝夕爾《アサヨヒニ》。還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》。丈夫登《マスラヲト》。念有我母《オモヘルワレモ》。草枕《クサマクラ》。客爾之有者《タビニシアレバ》。思遣《オモヒヤル》。鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》。綱能浦之《ツヌヽウラノ》。海處女等之《アマヲトメラガ》。燒鹽乃《ヤクシホノ》。念曾所燒《オモヒゾヤクル》。吾下情《ワガシヅゴヽロ》。
 
言、霞立は、春日のさまを云。これは、冠詞にはあらねど、かゝるたぐひ多し。かはづなく井手、千どりなく佐保などこの類也。されど、心得は冠詞に同じく、必いふべき事あるにかへたる物也。と心うべき也。かふるは、人の心にさはれば也。こゝは、行幸をうらむ樣になれば也。之、冠詞の心得なり。(37)これは、かくかすめる春の長日は、心もうきたつならひなるに、との心にかへたる也。〇長春日乃 日のうちだに長きに、夜へさへかけて物思ふを云。これ、晩家流和豆肝之良受といへる心也。和豆支はわきづきなり。たづきは、つきといふにたをそへたるなり。此詞も似たれど、これは分別の事なるべし。〇村肝乃 心のむら肝、古説区々なれど、心よからず。今按、群がりの「がり」をつゞむればぎとなれば、群がり物といふにや。心とつゞけたるは、こゝだといふ心につゞきたるにて、群がり物多きとの心なるべし。肝むかふ心とつゞけるもあれば、猶その類にやともおぼゆれど、それはことにや心うべき。乎《ヲ》は美《ミ》のうちあひにて、美《ミ》は牟《ム》のかよひたる也。牟は「がる」といふ心なる事、かなしむ、あはれむなどに思ふべし。されば、美《ミ》は「以緯」の音なれば、がりの心にて、心を痛がりの心なり。この故に、美《ミ》は乎《ヲ》をうちあはせたるが多き也。亡父成章、乎《ヲ》を賀《ガ》とし、美《ミ》をサニに譯したるは、この義を心えてあてたる也。「わがせしがごとうるはしみせよ」と伊勢物語によめる美《ミ》をも思ふべし。痛しとは、里言にヒドイ・キツイなどいふ義にて、心の堪がたき也。これ即郷思ゆゑの事なれど、何の故ともいはぬ古言のさま思ふべし。〇奴要子鳥 和名抄(ニ)云、唐韻(ニ)云、※[空+鳥]音空。漢語抄云、沼江、恠鳥也とみゆ。※[空+鳥]がなくねは、恨みなくが如くなればつゞけたりと眞淵はいへり。この集卷十七に「宇良奈氣都追《ウラナゲシツツ》」とよめれば、こゝの卜歎も「うらなげをれば」とよむべし。しのびになげくをたとへていふ也。これ、供奉なれば也。はゞかりたるさまをいふ也。うらは、すべてうらがなし、うらごひしなど、いづれもそのわざを表にいでぬ事をいへり。(38)〇珠手次 懸の冠なり。懸のよろしくとは、双方をかけていふによろしきなり。宜しとは、里言にチヨウドヨイビいふ心にて、後世よき事をいふはたがへり。源氏物語に「よろしきことにだに、かゝるわかれのかなしからぬはなきを、ましてあはれにいふかひなし」とあるは、常人のうへにだにといふを、倒語にかける也。あまり種姓たかきは、なか/\まじらひもせばき物なれば也。宜久の久《ク》は、支《キ》とあるべきやうにおぼゆれど、よろしくましますわが大君といふ心に、久《ク》とはいふ也。宇緯の義をあきらめなば、久《ク》といふべき理は思ひしらるべし。さて、村肝乃・奴要子鳥・珠手次のみつを置たる心は、村肝乃・奴要子鳥のふたつは、供奉といひ、軍王なれば、めゝしからじと郷思をあらはにも歎かれぬよしを思はせむとて、かへたる也。珠手次は、 天皇の御徳をつばらにたたへまほしけれど、諂がましければ、かへたる也。〇遠神 この遠は、人倫に遠きをあがめいふといふ説はうけがたし。遠つおやなどいふ心にて、みかどの遠つ御祖神たちをいふ也。その神たちの妙用と、今の 帝の妙用をかくるによろしくますをいふ也。されば、この行幸の供奉も勞をわすれてつかふまつるよしを思はせむがため也。これ、此郷思はいさゝかもおこるまじき所以をしめす也。かゝる心なくては、無益の語なるを思ふべし。〇吾大王乃 これまた、山越風乃云々といひて、事たりぬべきを、かくこと/”\しくいへるは、私の旅ならば、郷思にたへずは、やがても歸るべきに、さはせられぬ所以をおもはせたる也。山越風は、古訓やまごしの風とよめれど、もじの數もあまり、かつ、山こす風ともいふべければ、しかよむべし。山越としもいふは、ことに(39)に身に寒きをさとす也。供奉數月に及びて、郷思しきりなるを、此山越風のこれまでのつゝしみをやぶらすべきが恨めしきやうによめる也。されど、郷思のすぢをもうらめしともいはで、たゞ山かぜの衣手にかへらふとばかりよめる、妙也。古人の詞のつけざま、これにてもおもふべし。これを思へば、春もいまだ初春なりけるにや、二月も猶寒き年多ければ、二月にや。この乃もじ心をつくべし。此山風しも、わがつゝしみを破らするやうに置たる脚結也。しかれども、情はこの山風のわざにはあらで、月比旅にあるよう、郷思しのぴがたきを、山風のわざのやうになしたる「の」もじにて、これ、此一首の手段の本也。〇獨座 妹とふたり寢ば、かゝる餘寒の風も寒からじと思ふよりいへるなれど、たゞひとりをるとのみいひて、妹などもいはぬ、いとめでたし。〇朝夕爾 これをあさよひに、とのみ眞淵一派はよめど、それは假名書の例もあるによりたるながらあさよひは、日の始・夜の始をもて終日終夜の事をいふべき時こそあれ。一日の始終をいはゞあさゆふともいふべき也。あさゆふといふは、一日の始終をつくして、夜をおもはする也としるべし。〇還比奴禮婆 らふは、るの約といふ説は詞に麁也。「る」は「る」也。「らふ」は「らふ」也。上の乃良倍の良倍に同じ詞なれど、これは、花散相《ハナチラフ》・天霧相《アマギラフ》などいふにおなじく、かへりあふをつゞめたる也。頻に吹かへるさま也。ひとたぴ吹かへるだに堪がたきに、との心をもちていふ也。今は家にかへらまほしくおもひをるに、風の吹かへらへば、かけのよろしくとはいへる也、といふ説理なし。これを歸るによせたりとみるは、後世心なり。ことにかけのよろしくといふを、こゝにかけ(40)てみたるは、いかなる誤ぞや。すべて、古歌・古文を、後世のいやしき詞づくりのならひにみまじき也。先學者の註、をり/\此弊みゆ。奴《ヌ》もじは、一たび二たびふく程は堪てもゐし事を思はせむがため也。〇丈夫登 めゝしき事を思はせたる也。われとわがうへを引揚て、さてつよくおとす爲也。これにかぎらず、集中多き詞也。古人詞のつけやうの精しき事おもふべし。これを、抑揚の法といふ。この人軍王なれば、いよ/\めでたし。おもへるとは、後をかけて丈夫と思ひしを云也。今そのたがふが故也。おもひしとよむには、いたくたがへり。よく思ふべし。これ、「衣緯」へかよはす義也。母《モ》は丈夫と思はぬ人に我をもてよせていふ也。されば、丈夫とおもはぬ人ならば、さもあるべきにといふべきを、母《モ》にてはぶけるなり。〇草枕 たびには枕なければ、草をむすびて枕とすれば旅の冠とする也。これは、旅は物わびしく、不自由の事ども多かるよしを、此冠にかへたるなり。之《シ》もじは、この一すぢをたてゝおもく思はせむがため也。よにこれを助字といふ、例の麁なり。この之《シ》もじあるすぢは、一首のむねとなるすぢなるをや。〇思遣 後世は想象の事にいへど、古はたゞ遣悶の心にのみいへり。此郷思をはるけやる心也。これまた思ひやるとのみいひて、郷思をあらはにいはぬ、哀なり。〇鶴寸乎白土 たづきの「た」は、添へたるにて、つきもしらぬといふ也。「た」はたより・たやすくなどの「た」なり。いづれのすぢにつかば、思ひやられむともしられぬを云。鶴《タヅ》は、たづの假名也。寸は一寸・二寸をひとき・ふたきといへば也。今馬のたけをいふにのみ此名のこれり。白土は里言にシラヌノデといふ心也。中昔よりはいはぬ詞となれり。上古の詞はすなほ(41)にて後世は詞もひらけたりと思ふは、くはしくしらぬ也。かゝる詞の、後世絶たるは、いと不自由の事也。かくいはでかなはぬ所多きものなるをや。爾《ニ》は奴《ヌ》のかよへる也。されど、やがて奴《ヌ》の義とする説は麁なり。「伊緯」にかよはせたるは、ヌノデといふ心にせむがため也。土《ニ》はつちの古名也。乎《ヲ》もじの義は思ひはるけむたづきはしらるべきに、そのたづきだにしられぬをいふ。すべて、乎《ヲ》は、必しかあるべき事をしかするをいふ脚結也。〇綱能浦之 音訓「あみのうら」とよめるは誤なり。つのゝ浦なむ。綱はつなゝるを「の」にかよはせたる也。神祇式に讃岐國|綱丁《ツノヽヨホロ》。和名抄(ニ)云、同國鵜足(ノ)郡津野(ノ)郷あり。これ也。古訓は網の字にあやまれるなるべし。こゝは、よせなれど、即その國の所の名を用ひたる也。燒鹽乃の乃《ノ》もじは、ノ如クといふ心なり。よせも猶冠詞の長きにて心得は同じ。かくよめるは郷思しきりなれど歸る事もかなはず、供奉といひ、軍王なれば、ほにいでゝだに歎かれぬくるしさをいふべきに、はゞかりてかへたる也。〇念曾所燒おもひのやくるといふにはあらず。恩ひやくるといふ間に、曾《ゾ》もじのくはゝりたる也。下に、吾下情とあるに思ふべし。わが下惰のおもひやくる也。思ひやくるとは、おもひいられて、こがるゝが如きを云。古今集に「むねはしり火に心やけをり」などよめるに同じ。曾《ゾ》もじ、此一首の眼なり。供奉といひ、丈夫といひ、かく思ひやくる事、いとも/\すぢなき事よとの心をいふ也。そふまじきすぢにそふ歎也。よに治定の詞などいふは麁也。〇吾下情 しづえ・しづ鞍などの例にて、しづ心とよむべし。したの心ともいへば、古點の如く、した心ともいふべくはあれど、後世(42)も「おもひわづらふしづ心かな」ともよめるをや。しづ心を、後世、鎭心の義として、しづ心なきなどよむは中昔よりの事也。こゝは、うはべはしひてますらをづくりてをるをおもはするなり。
靈、この歌もはら、客中敷月に及びて郷思たへがたきをよめるなり。しかるに、行幸の供奉をいとふにおちむ事をおそりて、ただ山風のさむさにそゝのかされたるやうに詞をつけ、もとわが心から思ひやくるを、おもひかけぬ郷思のせらるゝやうによみふせたる、哀也。家の戀しさをあくまでいはまほしけれど、直にいへば、供奉の身にそむくが故に、山風さむきより、わがつゝしみをやぶれるを歎きたる歌としたる、その心のうちのくるしさおしはからるかし。されば、いふべからずとしりて、いはでやまるゝばかりの情は歌になるべき物にあらずとしるべき也。犬かた歌はすべて人にむかはずしてよむものにあらざる事、もと言語にひとしければ也。【この事、大むねにくはしくいへり。】この故に、此歌もひとり言にはあらで、家人に贈れるなるべし。
 
     反歌
6、山越乃《ヤマゴシノ》。風乎時自見《カゼヲトキシミ》。寢夜不落《ヌルヨオチズ》。家在妹乎《イヘナルイモヲ》。懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》
 
言、山越の風、長歌に同じ。かく乎《ヲ》・見《ミ》とよめるは、長歌にいへるが如く、山かぜの所爲になさむがため也。〇寢夜不落とは、連夜なり。一夜だに間もあるべきにとの心なり。〇家在妹乎 この乎《ヲ》(43)文字の心は、たま/\はしのぶとも、連夜しのぶべき事ならざる妹との心なり。懸而とは、すべてかくまじき理なる物を、かくるをいふ也。上のかけのよろしくもこの義也。供奉を大切に思ふ心、一途たるべきわが心に、妹をかくるが故にいふ也。こゝろにかけ、詞にかくるをいふ也。こゝは心にかくる也。しぬぶとごは慕ふ也。堪忍をもしぬぶと云。しぬぶといふ詞の本は、堪忍の事にて、こひしきをも堪忍べばなり。堪忍ぶをもて、したふをおもはする詞也。わが御國言にはかうやうなるが多し。津《ツ》もじは、つくまじき所へつくをいふ脚結なり。されば、供奉をこそ片時もわするまじけれ。家なる妹を連夜しぬぶべき事かは。とみづから歎きたる心也。乎《ヲ》といひ懸而といふに應ずるをおもふべし。
靈、この反歌は、長歌には、朝夕とありて夜の事なければ也。されども、歌は猶長歌に同じく、月頃の郷思を山風におほせ、妹をしぬぶをさるまじき事に、みづからもどきたるによみふせたる事、津《ツ》もじにしるべし。古註みなたゞ、ぬる夜おちず妹をしぬぶといふ心とのみ思ひしは脚結にくらきがゆゑなり。長歌・この反歌、言々句々、行幸の供奉を一途に大切におもへる詞づくり也。めをどゞめてみるべし。されば、供奉の心のうすくなるがなげかしき事をひたぶるによみふせたる物也。しか、はゞかる事つよきが故に、心ぐるしさます/\つよき也けり。これ、歌の本然、言靈のさきはひ給ふ所以ぞかし。家人この歌をみば、いかばりうれしとも、あはれともおもひけむかし。
 
右檢2日本書紀(ヲ)1無v幸2於讃岐(ノ)國(ニ)1亦軍王(モ)未v詳也但山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ニ)曰天皇十一年巳亥(ノ)冬十二(44)月巳巳(ノ)朔壬午幸2伊豫(ノ)温湯(ノ)宮(ニ)1云々一書(ニ)云、【伊與(ノ)風土記也】是(ノ)時宮(ノ)前(ニ)在2二樹木1此(ノ)之二樹(ニ)斑鳩《イカルガ》此米《シメ》二鳥大(ニ)集時(ニ)勅(シテ)多(ク)掛(テ)2稻穗(ヲ)1養(シム)v之(ヲ)乃歌云々。若疑(ラクハ)此(ノ)便(ニ)幸(セルカ)之歟
 
これ家持卿の考とも思へど、仙覺が考なるべし。
 
明日香(ノ)川原(ノ)宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇
 
齋明天皇也。この 天皇、ふたゝぴ即位まして、飛鳥|板蓋《イタブキノ》宮にましき。その年其宮燒しかば、飛鳥の川原宮へ俄にうつり給ひ、明年冬、また岡本に宮造りてうつりましぬ。されば、川原宮にはしばらくまし/\ける也。
 
 額田(ノ)王(ノ)歌 未v詳
 
未詳二字は後人の所為なるべし。これは、傳を詳にせずといふにや。天智天皇も幸し給ひ、天武天皇の夫人と成給ひし人也。
 
7、金野乃《アキノヌノ》。美草苅葺《ミクサカリフキ》。屋杼禮里之《ヤドレリシ》。兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》、借五百礒所念《カリイホシオモホユ》
 
言、美草は何とは定がたし。秋野におふるめでたき草也。貞觀儀式に、以2美草1餝v之とあるによりて、一種の草の名ならむとて、宣長、「をばな」とよみしは一概なり。これも、美草の字の心もてかける事明らかなり。されど、元暦本には、をばなとよめるよしいへり。さもあれ、これもたのむべきにあらず。刈葺は草をかりて屋にふく也。〇屋杼禮里之 兎道に旅やどりしたまひし事(45)を云。禮里之の禮は、「衣緯」の義必要なれば也。諸註やどりしといふ心にみたるは例の麁なり。これは、そのやどりての未に心ある事をしめす爲なり。くはしくは靈をとけるにしるべし。中昔に、心しれらむ人にみせばやとよめるも、心しりてのうへの人といふ也。しるらむといふ時は、今心をしらむ人といふ義となる。その別おもふべし。古人、詞の精微なる事かくのごとし。〇兎道乃宮子能 これは、山城國の兎道なり。大和國より近江に行幸し給ひし時の路次なれば、こゝに一夜とまらせ給ひしなるべし。たゞ一夜にても、天皇の大まし/\し處は、都といふべし。此時の行宮、必ずしも秋の野乃美草をふかれしにもゐらざるべけれど、その事そぎたりし風情の、わすられぬを表としてよませ給ひしなるべし。〇借五百磯所念 五百は廬の仮名也。磯《シ》は、脚結也。この磯《シ》もじの義まへにいへり。先註者かうやうの脚結をくはしくたづねざるが故に、古人の、かく心しておかれたるも、徒に見すぐす事となりぬるはあさましき事也。ことに、此歌などは、此句九言なれば、もとより無益のやすめ字ならば、いかでかあながちにおかるべき。これは、此かり廬をば一首のむねとするすぢなる事をさとさむがため也。古今集春下「春雨のふるは涙かさくら花ちるををしまぬ人しなければ」といふ歌、世中に花のちるををしまぬ人とてはなき事を、一首のむねとするよしをば、志《シ》もじに思はせたる也。もと春雨を涙かといふ事、理もなき事なれど、ちるををしまぬ人、よになきすぢたしかなる時は、理なきも理ありてみゆれば也。かく、此かり廬をしもむねとし給ふは、情こゝにあるがゆゑなり。【この情は、下にみるべし。】所念は、おもはる(46)といふ也。古言には、留《ル》を由《ユ》といひ、禮《レ》を衣《エ》といへり。これ忘れがたき心なり。
靈、この御歌、うはべは、たゞ、その行宮の美草かりふき事そぎたりしさまの、所がらなか/\やうかはりておかしかりしかば、忘られがたきよしによみふせ給へる也。やごとなき御方には、かく事そぎたる事は御心につくならひとはいへども、大旨にいへるが如く、たゞ此行宮のわすられがたきまでの事ならば、御歌によみ出させ給ふべきばかりの御歎ともおぼえぬ事也。此女王、もと 天智天皇 天武天皇の御思ひ人なれば、もし此行里の時、この 二帝のうち、御從駕せさせ給ひ、どもに御やどりまして、此夜あひそめましゝ事をおもひ給へるにや。そのをりの忘られぬよしをよみて、人はわするゝやを試みたまひしか。又は、つれなかりしをうらみ給へるなるべし。行幸の御供にて、さるたわれ事あるまじき事なれば、はゞかりて倒語したまひしにこそ。又は、餘人にや。さだかにしられぬは倒語の所以ぞかし。禮里之《レリシ》の禮《レ》もじ、かり庵しの志《シ》もじ、この情にてらして思ふべし。御詞のつげざま、めでたしともよのつねなりや。
 
右檢2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ガ)類衆歌林(ヲ)1曰一書(ニ)戊申(ノ)年幸2比良《ヒラノ》宮(ニ)1大御歌但紀(ニ)曰五年春正月巳卯(ノ)朔辛巳天皇至2紀(ノ)温湯(ヨリ)1三月戊寅朔天皇幸(テ)2吉野(ノ)宮(ニ)1而|肆宴《トヨノアカリキコシメス》焉庚辰天皇幸近江(ノ)之平(ノ)浦(ニ)1
 
天皇御製とあるは、まことにや。秋の野の云々とよませ給ふをおもへば、紀に三月とあるは誤りて、かの川原(ノ)宮の二年の秋に幸しつらむとおぼゆ。紀は誤すくなからねば、此集信すべきよし、萬葉考別記【眞淵】にみゆ。
 
(47)後(ノ)崗本(ノ)宮御宇天皇(ノ)代
 
 額田(ノ)王(ノ)歌
 
8、熟田津爾《ニギタヅニ》。船乗世武登《フナノリセムト》。月待者《ツキマテバ》。潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》。今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》
 
言、熟田津は、伊與國なり。日本紀に、七年正月、外蕃の亂をしつめたまはむために、筑紫に幸して、此湯(ノ)宮にとまり給ひし事あり。筑紫におはします時の事也。この左註の類聚歌林にも、庚戌御船泊2于伊與熟田津(ノ)行宮(ニ)1云々とあり。〇船乘世武登 御舟にのり給はむとての心也。登は、亡父、脚結抄に「いつゝのと」といへり。【と思ふ、といふ、ときく、とみる、とするの心を、登とばかりよむなり。】このと思ひての義也。〇月待者 海路くらくては、たづきなければ、月いでゝとて、御舟とゞめさせ給ふ間を云。これまことは、潮まちし給ひしなるべきを、月を主として、潮はかへりてかたはらのやうにいふ。これ、古人倒語のつねなり。實は潮待し給ひしならむ。と思はせむの詞づくりぞかし。〇潮毛可奈比沼 月いづる時は、潮みつる物なれば也。この毛《モ》もじ、わざと潮をかたはらとし給へる也。上にいへる心思ふべし。かなふとは、御舟漕むにかなふを云。しかもいはで、たゞかなふとばかりあるは上の句々のうちに、明らかなれば也。古人詞に力ある事をみつべし。【詞の力なきといふは、いはでもしるき事までをいふを云。よく/\おもふべし。】沼《ヌ》もじは、潮のいまださしこぬ間より、かけておかせ給へる也。里言にトク/\カウナツ〔右○〕タといふ心也。此下に、惰をとけるをてらして思ひあはすべし。これ、次の今者といふ詞の出(48)る所以なり。〇今者 この詞 まち/\てその時をまち得たるにもいひ、或はねがはしからぬ時いたりて、やむ事をえぬにもいふ。こゝはふたしへに見ゆ。かくふたしへにみゆるが、詞のいたり也。こゝの意は下に情をとくを見てしるべし。〇許藝乞菜 古訓、これをこぎこなとよめれど、こゝろえがたし。或説に、乞は弖の誤にて、※[氏/一]奈《テナ》ならむ。※[氏/一]奈《テナ》は、※[氏/一]《テム》なりといへり。おのれも、この次下の歌に、手名とかゝれたれば、乞は手の誤かと思へり。又思ふに、乞は、以傳《イデ》といふ挿頭につねに用ひられたる字なれば、出《イデ》の假名にやとおぼゆ。此|菜《ナ》は、古言|牟《ム》を菜《ナ》といふといふ説例の麁也。上古に牟なくはこそあらめ、牟《ム》・菜《ナ》ともにあれば、必異なる事明らかなるをや、牟菜《ムナ》の牟《ム》をはぶきたるにて、こゝは漕出牟菜《コギイデムナ》の心なり。菜《ナ》は詠の「な」にて、わが所思を人によく聞とゞめさせむとすれど難き歎也。そのかたきをなげくは、即人によくきゝとゞめさせむがため也。後世、忘じな、又、かはらじなとよむ奈《ナ》に同じ。されば、牟《ム》とよむ心を、人によく聞とゞめさせむの心也。みづから用ひこゝろめば、牟《ム》とばかりよむべき歌、奈《ナ》とよむべき歌おのづからある事しらるべき也。後世、奈《ナ》はよめど、此用ひかたは絶たり。
靈、うはべは、海路くらければ、月まちてとおぼしけるに、月のみならず潮もみちて、御舟漕出むによろしき時となりぬれば、今は漕出む。と月いで潮かなへるをよろこぴ給へる心をよみふせたまへり。しかるに、さやうのはかなき事を、古人は歌によむものにはあらず。つら/\思ふに、もと外蕃の亂のために筑紫におはす路なれば、つねの行幸のやうに、一所に時をうつしたまはむ(49)事あるまじき事也。されば、片時もはやくかの亂をしづめてその國人を安からしめまほしけれど、潮干たればやむことをえず、時をまち給ひし、その程いたく御心いられ給ひし事を思はせてよみ給ひしなるべし。ふかくかの亂をなげきおぼしめすかたじけなき御心なれど、あらはなれば天皇に對し奉りてもなめげに、中々さかしらに聞ゆべければ、かく詞をつけ給へる也。外蕃のために、わが御國の兵を役せむ事を、國のため歎かしくおぼすかたじけなさを、人より思はせむの倒語なり。後に夫人とならせ給ひしも、うべなるかな。【この左註の如く、御製ならば子細なし。されど、たとひ、 天皇とてもあらはなれば、猶さかしら也。左註ぼ文によれば、御製も信じがたし。この故にかくはいふなり。】されど、たゞ、なに事もなき御詞づくり、まことに妙處を得たまへり。今者といふ詞の義、こゝはまちえ給へる也。その外、爾《ニ》・登《ト》・者《ハ》・毛《モ》・沼《ヌ》・者《ハ》・菜《ナ》のなゝつの脚結、うはべはたゞ、待よろこびたまへるさま、何の故ともみえずして、情はもはら亂をなげき給ふ言靈にてりたる妙よく/\思ふべし。左註によらば、又言靈かはるべし。その事下にいふべし。
 
右檢2山(ノ)上憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰飛鳥岡本(ノ)宮御宇天皇元年已丑九年丁酉十二月已已(ノ)朔壬午天皇大后幸2于伊豫(ノ)湯(ノ)宮(ニ)1後(ノ)岡本馭宇天皇七年辛酉(ノ)春正月丁酉朔壬寅御船西征始(テ)就2于海路(ニ)庚戌御船泊于伊豫(ノ)熟田津(ノ)石湯(ノ)行宮(ニ)1天皇御2覽(テ)昔日猶存之物(ヲ)1當時忽起2感愛(ノ)之情(ヲ)1所以(ニ)因(テ)製2歌詠(ヲ)1爲之哀傷(シタマフ)也即此(ノ)歌(ハ)者天皇(ノ)御製(ナリ)焉額田(ノ)王(ノ)歌(ハ)者別(ニ)有2四首1
 
此左註の事、眞淵が萬葉考別記に、 舒明天皇の御紀に、九年此幸なしとてさま/”\論らへり。岡本天皇とあるも時代たがひ、かつ天皇御覧以下の文は、歌の意を心得ぬものゝかけるにて、誤(50)れり。別有四首といふも、何の書ともいぶかしなどいひて、大方類聚歌林は憶良の名をかりたる僞書とおぼえて、うけがたき事多しなどいへり。【以上、眞淵が説なり。】今、倒語の法ならびに、脚結の古例をもて推すに、もと此行幸は、 舒明天皇の御紀を考ふるに、百濟の福信が援兵を乞ひ奉りければ百濟の爲に、新羅を伐むとおぼしめしての幸なり。予は此心を得て、釋したる也。されば、天皇御覽以下の文心えがたくはあれど、ひたぶるに誤也とも定めがたきは、その時、かゝる事ありけむもはかりがたし。もし、此説によらば、言靈又かはるべし。これに從ひていはゞ、昔日猶存之物とは、紀にもなければ、誤の如くなれと、即位以前こゝにおはしましゝ事なしとも定がたければ、その時御覽じける物の存せるをみそなはして、存せざる物をかなしみてよませ給ひし歟。しからば、こゝを漕出たまはむ事ををしくおぼしめすに、御詞をつけさせ給へる也。かくみれば、今者の詞は、かの援兵のためにおはすなれば、潮もかなへるに、御舟もとゞめがたければ、やむ事なき方となる也。これを御製とし、此王の歌別有四首といふ事いぶかしくはあれど、うつたへにもいひ難くこそ。
            ′  ′
    幸2于紀(ノ)温泉(ニ)1之時額田(ノ)王(ノ)作歌
 
この行幸は、 齊明天皇の御紀四年十月なり。
 
9、莫囂圓隣之。大相七兄爪謁氣。吾瀬子之《ワカセコガ》。射立爲兼《イタヽセリケム》。五可新何本《イツガシガモト》
 
(51)此上の二句は、此集中の難義なり。古點「ゆふづきのあふぎてとひし」とあり。此もじどもを、いかで、かくよみけむともしられず。大かた、一首の上もときがたし。束麻呂は「きのくにの山こえてゆけわがせこがいたゝせりけむいつがしがもど」とよみき。三四五の句はしかるべし。一二の訓はなほ心よからざるがうへに、下にも應ぜず。又あづまなる春海は「山みつゝゆけ」とよめり。これも下にうちあはず。いづれも/\、心よからねば、しばらく後考をまつべし。此集もと、戯れてかゝれたるもじも多く、しかのみならず、誤もすくなからねば、かうやうの歌これにかぎらず多し。しひたる考をして、人をあやまらむよりは、のぞきおくにしかざるべし。たとひかうやうの歌、此集中二十首・三十首のぞきおきたりとも、倒語をまねぶには、事たりたる事なるべし。世に、萬葉集をみる事、たゞこのうはべをのみ見しるに過ず。大旨にいへるが如く、もと萬葉集をみむは、上古の人の詞のつけ所、ならびに、詞の用ひざまをしるを要とすべければ、たゞ四五卷を會得すとも、伶俐の人は、歌道の本意はさとらるべし。まして、二三十首をのぞくをや。猶さるべき考もいでこば、今かきくはへてむ。
 
    中(ノ)皇女(ノ)命往2于紀伊(ノ)温泉(ニ)1之時(ノ)御歌
 
10、君之齒母《キミガヨモ》。吾代毛所知武《ワガヨモシラム》、磐代乃《イハシロノ》。岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》。去來結手名《イザムスビテナ》
 
言、君之齒母 齒・代ふたつながら よはひ也。君とは、供奉の人をさし給へる也。後世は、臣を(52)さして君といふ事いふまじき事のやうにいへど、古はかくの如し。もと此稱、君公などの字をあてたれど、わが御國にていふは、神典に、【古事記上卷】伊邪那岐《イザナギ》(ノ)神・伊邪那美《イザナミ》(ノ)神をはじめ奉り、沫那藝《アハナギ》・沫那美《アハナミ》、朴那藝《ツラナギ》・頬那美《ツラナミ》(ノ)神あり。祝詞に、神漏岐《カムロギ》・神漏美《カムロミ》とあるなど、皆父母の如き徳をたゝへていふ也。【から國にて、豈弟君子民之父母といふにはことなり。くはしくは、古事記燈にみるべし。】母《モ》ふたつおくは、主たる物を思はする例なる事、上にいへるが如し。さればこれも、磐は無窮をしれるを主とたてて、此二物をよせたる也。〇所知武 印本この武・哉とありて、しれやとよめれど、下のうちあひしかるべからねば、哉は武のあやまりとみて、しらむとよめる、これに從ふべし。されば、君がよもわがよもしらむ磐とつゞけて心うべし。しらむは、此後君が齡をも、わが齡をもしりて、磐のおのれとともにときはにあらせむとの心なる。〇磐代乃 いはしろの岡は、紀伊國日高(ノ)郡なる。之もじは、異處にことなる所以をさとす也。此磐代といふ名によりて、いとめでたき處なるをえらび給へる也。〇草根乎 草租とは、たゞ草の事也。月夜とよめるは、たゞ月の事なるに同じ。後世心にては、あやしく聞なさるべけれど、倒語はわが御國言の大事にして、こゝをいはむには、かしこをいふが常なればぞかし。後世にても、たゞ草を草葉ともいふが如し。乎《ヲ》は、皆人はこゝにむすばむともおもひをらぬ草をとの心なり。もと此御歌、こゝにやどり給はむ事を、皆人にすゝめ給ふ御歌なれば、かく乎《ヲ》もじをおかせたまへる也。くはしくは、下に情をとけるにてらしてしるべし。〇去來はさそふ詞なり。結とは、草をむすびて枕とするを云。むすぶとばかりいひて、草枕の事とする、これ古(53)言のみやび也。これをいはしろの名によりて、その岡の草をむすびて、齡を契る也といふ説あり。これは、有馬皇子の此磐代にて松をむすばせ給ひしに思ひよせたりとおぼゆ。後世人は、たゞ詞のうへばかりをたのみて、倒語をしらぬ麁暴ぞかし。松を結ぶにことなる事は、この次の御歌、これと連續の歌にて、借廬作良須云々とあれば、これも旅やどりの事をよよせ給へるなる事必せり。されば、これ草枕の事に疑なし。手名《テナ》は、※[氏/一]牟奈《テムナ》の義なる事、まへにいへるがごとし。大かた、※[氏/一]《テ》もじに繼たる脚結は、※[氏/一]《テ》もじの下におくべき詞をはぶく例也。歌によりて、そのはぶく詞はさま/”\なるべし。これは、むすぴて寢むなのはぶかりたる也。いかで皆人を同意させむとて名《ナ》はおかれたるなり。かく必はぶくは、もと、※[氏/一]《テ》もじの義に、そのはぶくべき用はもたる物なれば也。※[氏/一]《テ》もじの義くはしくは、下の藤原宮※[人偏+殳]民の長歌のうちにいふべし。
靈、この御歌、表は、君がよはひもわが齡もしらむ磐代の岡なれば、此岡の草をいざむすびて寢むと御供の人々とともに、もはら長壽を欲し給ふ心に、御詞をつけられたる也。しかれども、かゝるはかなき心歌となるべきにあらねば、今思ふに、けふの路程に、御供の人々いたく勞れたるらむといとをしみ給ひて、こよひはこゝにやどりて、人々の勞をやすめしめむとの御心なるべくおぼゆ。しかれども、それをあらはにおほせらるればさかしらなれば、その天津罪をおそり給ひて、長壽を欲するによみふせたまへる也。こゝにしもやどらむとおほせられたるに、いまだやどり給ふべき時刻にあらざりけるもしるし。かく、御供の人々をあはれみたまふ言靈なるべくおぼゆる(54)は此次の御歌「かり廬つくらすかやなくは」とあるは、つかれたるうへに、かやをもとむるに勞せむ事をいたはりたまひて、よませ給ひしなるべけれは、それにてらしてかくはいふ也としるべし。まへに、 父帝をしたはせ給ひし御歌のめでたきも、此御歌どもの人々をあはれみおぼしめすも國母となり給ふべきしるしにこそ。といとかしこくもかたじけなくもあるかな。御供の人々いかばかりなみだもさしぐまれけむとおしはからる。
 
11、吾勢子波《ワガセコハ》。借廬作良須《カリホツクラス》。草無者《カヤナクハ》。小松下乃《コマツガシタノ》。草乎刈核《カヤヲカラサネ》
 
言、吾勢子波 わがせこは男をしたしみてさす稱なる事、まへの 雄略天皇の御製にいへるがごとし。これは、御供の男がたをさし給へるなり。波《ハ》は、すべてものゝ目だつをなげく脚結也。後世ならば、こゝはよとよむべき所なり。かうやうの所に、波《ハ》を用ひられたる歌多し。目だつ物にするにて、即その物を的とする心となる也。この例、中昔にもみゆ。目だつとは、御供の男方の、ことに其勞目だつなり。前にいふがごとく、此御歌は、上と連續の歌なり。〇借廬作良須草無者 借廬は、旅やどり也。まへに、兎道乃宮子能借五百《ウヂノミヤコノカリイホ》とありしに同じ。作良須《ツクラス》、須《ス》は、前にいふが如く、作らせらるゝといふほどの心なり。草は可也《カヤ》とよむべし。屋にふく名也。神典に【古事記上卷】「以2鵜《ウノ》羽(ヲ)1爲(テ)2葺草《カヤト》1造2産殿(ヲ)1」とあるに思ふべし。今かやと名したる草あり。屋にふくによろしければ、いひなりつるなるべし。上古は、いづれともなくふける事、集中にみゆ。無者とは、草もとむと(55)て、こゝかしこたづねありきて、もしもとめかねたらばとの心也。されどこれは倒語にて、たづねぬさきに勞せぬやうにとて、おほせられしなり。しかれとも、我より始をおこす事は、神典ふかくいさめられたる事なれば、まづたづねてありかねたらばとは、おほせられたる也。上古人の詞づくり、かくのごとし。ことにこの皇女、御詞づくりにいたく長じ給へりとおぼし。〇小松下乃 この下の草をとゝもおほせられしは、上の磐代の名によせて、長壽を欲し給ひしに同じく、小松はおひさきこもれる物なれば、此下なるかやをふかば、あやかりもせむとて、これををしへ給へる也。されど、上に草無者とあれば、さる心にはあらぬやうなれど、上に釋せるが如く、始より此小松が下のかやをかれとをしへまほしきを、我より端を起さじとて、草無者とはよませ給ひし也。かへす/”\、御詞づくりの至妙思ふべし。乎《ヲ》は、をのこどもの心もつかざるべきにあたりておかせ給へる也。苅核は、さ〔傍点〕は、上に名告沙根とありし沙《サ》に同じく、からせられねの心なり。根もそれに同じく、事をへよとの心也。これもはら、これにてもとめやめよとの御心なるなり。
靈、此御歌表は、借廬にふくぶき草を、もしもとめかねなば、小松が下にみゆる草をかれ。しからば、小松にあやかりて、ともにおひさきも久しからむと、これ又長壽をねがふうへにのみして、詞をつけさせ給へるなり。かく表をばわざとはかなき事のやうにつくらせ給ひしは、情はまへの御歌に連續して、けふの行程のつかれのうへに、又借廬にふくべきかやもとむるに勞をまして、とくもえやすむまじきをあはれみ給ひて、しばしもとくやすませむとの御心をかくはよませたま(56)ひし也。かばかりのかたじけなさを、いさゝかもさかしだち給はぬ御詞づくりのたぐひなき事をよく/\みしりて、後世のいやしき詞づくりをかへりみるべし。
 
12、吾欲之《ワガホリシ》。野島波見世追《ヌジマハミセツ》。底深伎《ソコフカキ》。阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》。珠曾不拾《タマゾヒロハヌ》
 或頭(ニ)云|吾欲之子島羽見遠《ワガホリシコジマハミシヲ》
 
言、この御歌は、上二首と連續せるにはあらずみゆ。此ついでに此わたりにもおはしてよませ給へるなれば、ひとつにつらねられけるにこそ。吾欲之とは、かねてみまくほりし給ひしといふ也。ほる〔二字傍点〕とは、里言にホツスルといふ詞なり。之《シ》もじは、その思ふすぢの、かねてたちてあるかたちをさとす脚結也。〇野島波 これは、淡路なり。波《ハ》は、こゝの他處にすぐれたるを云。見世追 これ、しひごとはいかにもいはるべけれど、此詞こゝろよからず。或頭云とある方穏なるべし。しひていはゞ、わが見たまふを、人のみするに御詞をつけたまひしは、例のわが御國ぶりにや。人に行あふを、中昔にも、伊勢物語に「すぎやうざあひたり」、古今集に「女のおほくあへりければ」などあるをおもふべし。されど、追《ツ》もじの義かなへりともおぼえねば、もし、世《セ》は思志《シシ》などの誤にて、追《ツ》は遠《ヲ》の誤にや。しからば、猶或頭のごとくなるべし。かねてほりし給ひし野島はみたまひしをといふにて、こゝをだに見たまはゞ、おぼしのこす事はゐるまじきにとの心也。或頭云云々の子島は備前なり。〇底深伎 深をきよきとよむ説あり。清の字の誤とみてにや。又深の(57)字の心をえてよみたるにや、心えがたし。これは、しかはよむべからず。珠のひろひがたきは、もと底深きゆゑなるをや。〇阿胡根能浦 いづこともしられねど、この野島又は子島のわたりにこそ。〇珠曾不拾 珠は眞珠をも、又石にまじれる玉をもいへり。曾《ゾ》は珠ひろはざる一すぢのみ不足なるよしを、思はせむがため也。かねてほりし給ひし野島はみたまひしかば、滿足なるべき事なるに、猶この浦の底深くて、珠のひろはれぬが心ゆかぬよ。とあく事しらぬ御心を、みづからなげき給ひし也。曾《ゾ》もじの心もはらこゝにあり。されど、さるふくつけさをなげきたまふ事、いさゝかもあらはにはよみ給はずして、たゞ曾《ゾ》に思はせられたる御詞づくりよく味ふべし。
靈、表は、かねてほりし野島をみたれば滿足たるべきに、阿胡根の浦の珠ひろはれぬ事、更に不足なる御心のつきたるを歎きましゝ心也。かく表には,貪《フクツケ》きさまを歎く一すぢによみなし給へれども、さる心歌となるべき物にあらねば、思ふに、此情は、われこそかねての望を達しぬれ。都にとまりて、こゝをもみぬ人たちに、【これは、 父帝をおぼしけるにや。したしき人たちをおぼしけるにや。はかりがたし。】この浦の珠をだにとおもふに、底深くてひろはれねばなにの※[果/衣のなべぶたなし]もなくてあへなかるべき事をおぼすにて、おのれのみ心をやりて、人のうへをおもはぬになりぬべきを歎き給へる也。これ、人になさけなからむ事を歎きたまふなれば、いとめでたき事がらなるを、言つゝしみは無益の事のやうなれど、あらはにおほせらるれば、なか/\巧言ときこゆべきが故に、わが貪《フクツケ》さをなげくに詞をつけたまへる也。しかれども、そのふくつけきをなげき給ふをもあらはにはあらで、たゞ、波《ハ》もじと、曾《ゾ》もじに思はせら(58)れたる、いどめでたし。詞はすべてかく、公私にかたよらざるを、いたりとする事、かへす/”\まへにあげつらひおけるを、この御歌づくりどもに信ずべし。
 
右※[手偏+僉]2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰天皇御製歌云々
 
この左註にしたがはゞ、磐代の歌・吾勢子波の兩首ともに、御供の人々の勞をあはれみたまひし大御歌なりとみるべし。御製とすればいよ/\かたじけなき事なり。
 
萬葉集燈卷之一
 
(59)萬葉集燈卷之二
                  平安富士谷御杖著
 
本集一 其二
 
中大兄命 近江宮御宇天皇 三山歌一首
 
今の本、近江宮云々を本行とせるは非なり。後人の註せる也。三山は、香山畝火耳梨なり。或説云、これは此三山をみましての御歌にあらず。仙覺註に、播磨(ノ)風土記(ニ)云出雲(ノ)國(ノ)阿菩(ノ)大神聞(テ)2大和(ノ)國|畝火《ウネビ》香山《カグヤマ》耳梨《ミヽナシノ》三(ノ)山相争(フコトヲ)1以2此謌(ヲ)1諫(テ)v山(ヲ)上(リ)來之時(ニ)到(テ)2此處(ニ)1乃聞(テ)2闘止(ト)l覆(テ)2其(ノ)所v乘之船(ヲ)1而坐之故號2神集《カムヅメノ》之覆形。とあるによりて、この故事を聞まして播磨にてよみ給へるならむ。今も神詰《カムヅメ》といふ所ありといへり。反歌の終の御歌を思ふに、これしかなるべし。されど此説たゞ詞のうはべにめをかぎりたる説也。三山は假物也。くはしくは下をみるべし。
 
13、高山波《カグヤマハ》。雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》。耳梨與《ミヽナシト》。相諍伎《アヒアラソヒキ》。神代從《カミヨヨリ》。如此爾有良之《カクナルラシ》。古昔母《イニシヘモ》。然爾有許曾《シカニアレコソ》。虚蝉毛《ウツセミモ》。嬬乎相格良思吉《ツマヲアラソフラシキ》
 
(60)言、高山波 これをかぐ山とよむ事、高は香の誤りとも思へど、高も音は加具《カク》とよむべければ暫今本によるべしといふ説あり。さまでの穿鑿にも及ぶべからず。上の 舒明天皇の御製に、取よろふ天のかぐ山とよませたまへるが如く、加具山は大和國にての高山なれば、その心をえてかけるにこそ。これは雌山にて、畝火耳梨は雄山なり。かぐ山を女男といふは、山神の女男をいふなり。末につくば山をやがて神とよみたるを思ふべし。されど雄山ふたつが雌山ひとつをあらそふ事、實事にあるべき事ともおぼえぬ事也。必これ倒語にて、その山々のあたりに、住ける男女なるべし。あらはにいはれぬよしありて、山とせるなるべし。波もじ、をばの心にみよと代匠記にいへり。しかれども、をばのをを略したるにはあらず。をといふべきを、波《ハ》とはよませ給へる也。前々もいへるが如く、この波《ハ》の用ひ方を後世人はしらず成ぬるが故に、契冲だにかくいへり。此例、上世・中昔までは多し。これは歎ずる心に用ふるにて、者也《ハヤ》とよむ心也。者也《ハヤ》の也《ヤ》もじのなきなりと心えなば明らかなるべし。多かる物の中にて目だつを歎ずる詞なる也。さればこゝもかく山はやとまづはじめに歎き出たるにて、かの二雄をあらそはしむる香山を歎じたる也。歎ずる中に、おのづから此香山をばの心は、こもる也。これ上古、波《ハ》もじの用ひざまなり。允恭天皇の御紀に、多十月新羅(ノ)弔使等喪禮既(ニ)※[門/癸]《ヤムテ》而還(ル)之爰(ニ)新羅(ノ)人恒(ニ)愛(シテ)2京城(ノ)傍(ナル)耳成《ミヽナシ》山1畝傍《ウネビ》山則到2琴引(ノ)坂(ニ)1顧(テ)之曰|宇泥※[口+羊]巴椰《ウネメハヤ》彌彌巴椰《ミミハヤ》是(レ)未v習2風俗《クニノ》之言語(ヲ)1故|訛《ヨコナマリテ》畝傍山(ヲ)謂2宇泥※[口+羊]《ウネメト》1耳成山(ヲ)謂2瀰瀰《ミミト》1耳、これにてらして思ふべし。〇雲根火 うねぴのを、しき山と、といふをかくよみ給へる也、後世心(61)にては、をゝしうねびと、といふべき事に思ふべし。しかるを上古人、かくいふは、上にもいひし倒句の法によりて也。まづ畝火の名をいふべき法なる也。志《シ》とのみ志伎《シキ》といふ心によむ例、上古には多し。古事記上卷の歌に、登富登富斯《トホドホシ》。故志能久邇邇《コシノクニニ》云々、また、佐加志賣久波志賣《サカシメクハシメ》、この集中にも多し。雄男志《ヲヲシ》とは男らしき心也。されど、こゝは、すくよかに無骨なるやうの心に、よみ給へるなるべし。此畝火のみ、をゝしとおほせられし事、この反歌につひに、耳梨にあひしとあれば、もと耳梨は、いうにやさしかりし事しるし。此故に、畝火をのみをゝしとよみ給へるなるべし。〇耳梨與 このふたつの與《ト》もじ、香山にむかふる也。もし畝火と耳梨がふたつあらそふにて、香山にあづからずは、與《ト》ふたつは必おくまじき也。〇相諍伎 あらそふは倒語なり。香山にあはむあはじとする事を思はするなり。伎《キ》とはさきにありしことのさまをかたる脚結也。されどたゞ語るにはあらず。そのありつる事の、今とあたることをかたる詞なり。そこをたしかにいひて、今のあやぶみを定むるなり。さればこゝも今のよに人の嬬をあらそふ事、今の人のあさましきにもあらずと決し知らせむが爲なり。これ言靈をてらす所以なり。〇神代從 神代といふは、大かた上古をひろくさし給へる也。即かの播磨風土記にある時をさす也。もと神代といふ名予にあげつらひあり。まことの神の代といふにはあらず。此事古事記燈にみるべし。如此爾有良之、古點「かゝるにあらし」とよめれど、又「かくなるらし」とよめるもしかるべし。いづれにてもありぬべし。かゝるとさし給へるは今の人の嬬あらそふ事をさし給へる也。今を神代へかへしてよませ(62)給へるにて、從とあるは、今の濫觴たるよしを述たまへる也。爾《ニ》もじよく思ふべし。ひとへに今人の嬬あらそふ本をたしかにしたまへる也。良之《ラシ》は、大かたたしかにはしられねど、大抵その事の察ししらるゝよしをいふ脚結也。〇古昔母 古昔とは、いにし方といふにて今より以往をひろくさすなり。母《モ》もじは、今世によせむがため也。然爾有許曾を、しかなれこそとよめるは、奈禮《ナレ》の奈は、爾安《ニア》をつゞめたるまでにて、古點に同じ。しひてひきあはせて、六言によまむも事こめるやう也かし。【ひきあひとは、反切の事也】然《シカ》とはそのやうにの心也。上の如此《カヽル》このやうにあるといふ也。上には「かく」といひ、こゝには「しか」といふは、上は今世の事をさすが故也。こゝは古昔の事をさすが故也としるべし。安禮許曾《アレコソ》は、安禮婆許曾婆《アレハコソハ》のをはぶけるにて、かくざまにいふ事、古言に多し。許曾《コソ》はまへに釋せるが如し。いにしへさる例もなくは、今人いかに辯なくとも、嬬もあらそはし。と今人つまあらそふをあさましき事におもふ人もあるべきをさとし給へる也。此|許曾《コソ》この一首の眼なり。〇虚蝉毛 これは現身《ウツシミ》の義也。音便にて志《シ》を勢《セ》にかよはせていひなりたる名なり。さればかく蝉の字をかりてかける也。冠詞に用ふるもこれに同じかく虚蝉とかゝれたるより後世はうつせみとだにいへば蝉退の事なりと心えなれるは誤也。これ現存の身といふ心なり。毛《モ》はいにしへによせむため也。上の古昔母の母《モ》もじと、來往なり。〇嬬乎相格良思吉 乎《ヲ》もじはあらそふべからぬ嬬を、といふ也。許曾《コソ》を釋したるにあはせて思ふべし。嬬を人とあらそふ事、もとをとなしからぬわざなれば也。嬬とは夫よりも婦よりもいふ稱也。その例代匠記にくはし。相格は、古點あひうつ、(63)とよめれど、うつといふべき事にあらず。あらそふとよめるに從ふべし。此集卷二に相競《アラソフ》卷十に相爭《アラソフ》なと、相の字にかゝはらすあらそふとよめり。又格の字をあらそふとよめるは、此集卷十六に有2二壯士1共(ニ)挑(テ)2此娘(ヲ)1而損(テ)v生(ヲ)格競《アラソフ》とある、これ也。良思吉《ラシキ》は、もと、良思《ラシ》はこの良思伎《ラシキ》の伎《キ》のはぶかりたる也。今里言にラシイといふこれ也。推古天皇の御紀の歌に、於朋枳彌能《オホキミノ》。兎伽破須羅志枳《ツカハスラシキ》、此集卷六に、語嗣《カタリツギ》。偲家良思吉《シヌビケラシキ》などみゆ。義はまへにいふが如し。つまあらそふ今人の心のうちを大抵察してよみ給へる也。
靈、倒語の道をうしなひたる後世人のさがにて、たゞめにみゆるうへをのみたのむ世となりぬれば、此御歌端作に、めを奪はれ【上古は、表をたてむがために、わざと、端作はかける也。】何のよしにてあそばしつる御歌とも思ひ入るる人たえてなし。すべて、かくれたる所をもとむるはから人のするわざ也といふ説世にひろごりたるは、なにのふみにさる徴ありてか信ずらむ。いと心くるしき事なり。此和歌、表は、播磨におはしまして、かの阿菩大神のとまり給ひし處にて、三山のあらそひの事をおぼし出られ、神代以來さる例ある故に、今人も嬬をあらそふならし。しかれば、今人のさがなきにしもあらず。いにしへよりのならひにこそ。と今まで今入つまあらそふをさがなき事におぼしめせるに、その濫觴に御心つきて、かねでの御疑をとかせ給ひし心に、あそばしゝ也。しかれども、さるはかなき事を、上古人は歌とよむならひにあらねば、今思ふに、此集中に額田(ノ)王思2近江(ノ)天皇(ヲ)1といふ歌あり。【中大兄命は、即近江天皇なり。また此卷に、額田王の「茜指《アカネサス》。武良前野逝《ムラサキノユキ》云々」といふ歌、皇太子答御歌とて、(64)【天武天皇なり。】「紫能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルモヲ》云々」と贈答あり。これによるに、額田王は、天智天皇の御思ひ人にて、つひに天武天皇の夫人となり給ひし也。 天智天皇 天武天皇は、御はらからにて、この額田王をともによはひたまひし也。それをば、かの三山のあらそひにおぼしよせられしとぞおぼゆる。されば、かねて 天武天皇と、額田王をいとませ給ひて、御兄にさへましませば、いたく心くるしくおぼしめして、いかでおぼしたえむとおぼせども、あやにくに忘れがたくおぼしなやませ給ひける頃、播磨にてかの三山のあらそひをおぼし出られけるより、これをもて御詞づくりし給ひ、たゞ大かた世人のつまあらそふうへによみふせたまひし也。この御歌もと、額田王におくら給へるにて、 天武天皇との御あはひを、ふかくなげきつかはされしなるべし。されど、さすがに、 天武天皇をおもひたえよともおほせられがたくて、たゞ大よそにつけられたる御詞、いかに心くるしくおぼしけむ。と御心のうちおしはかられたてまつるかし。
 
 反歌
14、高山與《カグヤマト》。耳梨山與《ミヽナシヤマト》。相之時《アヒシトキ》。立見爾來之《タチテミニコシ》。伊奈美國波良《イナミクニバラ》
 
言、本句は女山なる香山、つひに耳梨山にあひし時といふ也。をゝしき畝火山の言はきかざりし也。言靈にひゞく所思ふべし。與《ト》もじふたつ、こゝは畝火山をかたはらにもちていふが故に、與《ト》ふ(65)たつおかせ給へる也。〇立見爾來之 阿菩大神の出雲國をたちてといふ也。見爾來之とは、この印南より三山のあらそひのみゆるにはあらず。大和國にいたりてみむとて來たまひし也。それも猶觀むといふ心にはあらず。風土記の語のごとく、諫むとての心なるなり。諫めに來しといふべきをかくみにこしとよむ事、わが御國ぶり也。この印南までおはしましゝに、かの山の諍やみぬときこしめして、こゝにとまりたまひしといふべきをば、かくたゞ見爾來之とばかりよみ給へる、これ風土記にそのとまりたまひし事明らかなれば、ことにことわり給はずして、人の心にゆづり給ひし御詞づくり也。古語の簡古思ふべし。立《タチ》といふ事、もと無用の詞のごとくなれど、こゝにとまり給ひし事のひゞき也。わざ/\、出雲國をたち給ひしもたゞ諍をやめむ爲なるが故に、こゝにて安心したまひし心、此詞にしるし。〇伊奈美國波良 播磨の印南は郡の名也。いにしへ、郡をも、郷をも、國といへる事つねなり。此集に、吉野國・泊瀬小國などよめり。國ばらは、まへの 舒明天皇の御製にあるに同じく、ひろく平らなるを云。大かた國はひろくたひらなるがよき國なれば、ほめて國原とはいふ也。この伊奈美の國、いかにありともことわり給はず。かくよみすてたまひしにて、御心のほど森々とその深きかぎりなき也。情の公私ふたつ存し、言靈のさきはひ、もはらこゝにある事也。是を歌の最上、詞づくりのいたりと心うべし。上古にはかゝる歌いと多し。その所々にいふべし。中昔よりは、たえてかくよむ事なくなりにき。いと後の世となりては、情をあらはすまじきが爲に、かくよむ事とは辨へず、たゞうはべばかり(66)にて、やすらに物事のうへをよむをよしとするは、此上古のかゝる歌のうはべをみての誤也。似たるが如くにして非也。たとはゞ、いける人と木偶のごとし。神典【古事記上卷】大量之件に、死活の論つまびらか也。まねぴしるべし。
靈、此御歌、表は、阿菩大神の三山を諫めむとて、わざ/\出雲國を立ておはしゝが、爰にてその諍やみて香山つひに耳梨山にあひし事をきこしめしてとまらせ給ひし印南國はこゝぞ。とたゞそのむかしをおぼし出たるばかりのやうに御詞をつけられたる也。しかれども、もと此事は風土記に審らかなれば、こと更にかくよみ給ふべしや。かゝるよ事歌によむならひにあらねば、今思ふに
かの三山の諍も、つひに耳梨山にあひしかば、阿菩大神もこゝにとまり給ひし、今其國におはしましゝにつけて、つひに香山を得たりし耳梨山の、その時の心いかにうれしく快かりけむ。とうらやましくおぼす御心なるべし。その耳梨山をうらやましくおぼす御心を、額田王にはかり給へ。との御詞づくり也かし。長歌には、おぼし捨られぬ事を歎き、此反歌には、終に一方にあひぬるをうらやみ給ひしにて、ともに、額田王にひとしへならむ事を思はせむの御心也と心うべし。
 
15、渡津海乃《ワタツミノ》。豐旗雲爾《トヨハヤグモニ》。伊理比佐之《イリヒサシ》。今夜之月夜《コヨヒノツクヨ》。清明己曾《アキラケクコソ》
 
言、前にいへるが如く、此一首は印南にて同時の御歌なるべけれど、反歌とはみえず。されど、くはし情をたづぬれば、猶額田王を忍びたまふにて、上とこと筋の御歌にあらず。下に釋せるをみ(67)てしるべし。〇渡津海は、古事記上卷に、綿津見神とかゝれたる海神の御名なり。此神、海をしらせ給へば、やがて海の名としていふ也。こゝに海とかゝれたるは、見《ミ》の假名也。されば後世わたつうみとかくは非なり。〇豐旗雲爾 文徳實録に、天安二年六月、有1白雲1竟(テ)v天(ヲ)自v艮至v坤(ニ)時人謂2之(ヲ)籏(ト)1とあれど、これにかぎらず、旗に似てなびく雲をつねにいふ也。豐は、ゆたかなるかたちをいふ也。豐秋津洲・豐御酒などの類也。ゆたかなりとはその物の盡ぬべきうれひなき内のさまの、外貌にあらはれたるさまを云なり。〇伊里比沙之 これ、今入日のさすをみておほせられたるにはあらず。豐旗雲に入日さして、そよひの月あきらけくあらむことを、未然よりおほせられたる也。沙之《サシ》の之《シ》もじの義を思ひて、今いふ心をしるべし。入日よければ、明日必天氣よしと今もいふ也。その夜の事、いふも更也。〇今夜乃月夜 たゞ月といふを月夜とよめるが、集中多く、すべてその物にさしつけぬ事わが御國言の常なり。一人のをとめをいふに、をとめらとよめるを思ふべし。〇清明己曾 古鮎「すみあかくこそ」とあれど、すみあかくといふ詞をさなくて、古人のいふべき詞ともおぼえず。あきらけくこそとよめるあり。紀に、清白心をあきらけきこゝろとよめるによれる也。これに從ふべし。己曾《コソ》は、願の詞なり。上古にのみ用ひて、中昔よりはたえたる脚結也。社の字を、己曾に假るも、神社には思ふ事をいのりねがふ物なるが故にかりたるにも思ふべし。こよひの月明かにあれ。とねがひ給ふ也。入日の空のさまに、その夜の月の明かならん事を知る也。といふ説あり。諸説もしかり。前にいひし如く、もし入日のさす事(68)現在の事ならば、沙之《サシ》とはおほせらるまじき也。しからば、必伊理此沙須とぞあらまし。かの説は、己曾《コソ》は「あきらけくこそあらめ」といはむをはぶける也とみたるなるべし。これは、さもみるべけれど、上の沙之《サシ》といふ詞とのうちあひ、さる例にみるべからざる事、よく/\思ふべし。されば、はじめより終まで、すべて未然をおほせられたるにて、いり日さして、こよひの月あきらけき事、あらかじめしらまほしとの御心なる事明らか也。上下の詞、一氣律にみるべし。詞は大かたいさゝかも麁なるべからざる事かくのごとし。詞に麁にして私意をもてとく時は懸隔必あるべし。ことに、古言は詞の條理にくらくしてはとくべからざるもの也。思ふに、その日はくもりて、入日などもみえざりしかば、かくはよませ給へるなる事明らか也。
靈、この御歌、表は、空くもりてこよひ月もくらげなれば、いかでこよひの月あきらけくあれ。との御心にて、何故にこよひの月あかゝらむをねがひ給ふともしられぬは、今夜月あかくば海上のけしきもみむとの御心にや。又こよひこゝより御舟にのらせ給ふべければ、こよひ月あかゝらむをねがひ給へるにや。此二説さだめがたきは、上古の詞づくりのかたよらざる妙ぞかし。されどこれ歌によみたまふべきばかりの情にもあらねば、思ふに、此御心は初の説の如くならば「額田王の戀しさ、客中ことになぐさめがたきに、かく曇りて雨などふらば、いとゞしのびかたからむ」の御歌にや。後の説の如くならば「京にかへらせ給はむ事遲くなりて、いよ/\戀しさ堪へかたからむ」の御心にや。いづれにもあれ。旅中のくるしさを、額田王に歎きつかはされしな(69)るべし。しかるを、たゞ今夜の月あかゝらむ事をのみ御詞とし給ひし、、いかに御心たへがたくおはしけむ、とかしこしともかしこしかし。
 
右一首(ノ)歌今案(ズルニ)不v似2反歌(ニ)1也但舊本以(テ)2此(ノ)歌(ヲ)1載(ルガ)2於反歌1故(ニ)今猶載v此(ニ)歟亦紀(ニ)曰天豊財重日足姫(ノ)天皇先(ノ)四年乙己立(テ)爲2皇太子(ト)1
 
この不似反歌といふは、此御詞の表に、めをうばはれし也。くはしくまへに論らひおけり。元暦本には、立の字下爲の字なしとぞ。今の本立爲天皇爲皇太子とあるは、爲の字のみならず、爲天皇の三字衍なるべし。これは 天智天皇の御事をいふ也。
 
近江大津(ノ)宮御宇天皇(ノ)代 天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇
 
 天鼻詔2内大臣藤原(ノ)朝臣(ニ)1競2憐(シメタマフ)春山萬花之艶秋山千葉(ノ)之彩(ヲ)1時(ニ)額田(ノ)王以v歌(ヲ)判(ル)v之(ヲ)歌
 
この藤原朝臣は鎌足公なり。下の例にては、藤原卿とあるべき也。又次に、近江へうつり給ふ時の歌あれば、こゝは後岡本宮にての事なれば、内臣中臣連鎌足とあるべきをかくかけるは、後より崇てなるべし。萬葉考別記【眞淵】にくはしく論らはれたり。此判の字後世歌合の判のごとく、諸人のきそひを判斷せしめ給ひしにはあらざるべし。たゞ人々をして、春秋に心ひくかたをことわらしめ給ひしなるべし。是必故ある事なるべし。
 
(70)16、冬木盛《フユゴモリ》。春去來者《ハルサリクレバ》。不喧有之《ナカザリシ》。鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》。不開有之《サカザリシ》。花毛佐家禮杼《ハナモサケレト》。山乎茂《ヤマヲシミ》。入而毛不取《イリテモキカズ》。草深《クサフカミ》。執手母不見《トリテモミズ》。秋山乃《アキヤマノ》。木葉乎見而者《コノハヲミテハ》。黄葉乎婆《モミツヲハ》。取而曾思努布《トリテゾシヌフ》。青乎婆《アヲキヲバ》。置而曾歎久《オキテゾナゲク》。曾許之恨之《ソコシタヌメシ》。秋山吾者《アキヤマワレハ》。
 
言、冬木盛 今本盛を成に誤れり。集中|冬隱春去來者《フユゴモリハルサリクレバ》とかけるに例して、この誤をしるべし。冬は萬物蟄して春出れば、冠とする也〇春去來者 古説みな、去といふにわぴたる説ども也。これ、わが御國言の法にくらければ也。春となればその春時々刻々わが眼前を去りゆくが故なり。來るを去るといふは、事たがひたるやうにおぼゆるは後世心なり。人の思慮をまつ事、我國言のかしこき所也。神典をまねびてさとるべし。〇不喧有之 多はなかず、さかざりし、鳥なき、花さくに、冬よりまちし心ゆきて、春のふかく燐むべきよしを言也。佐家禮杼《サケレト》は、例の「衣緯」にうつせるにて、花のさきての末をさす也。さけどといふにはたがへり。奴《ヌ》もじは冬よりの事をかけていふ也。前に釋したる心おもふべし。〇山乎茂 古點しげみとよめれど、六言也。四言・六言にはよめど、六言・八言によむ事、ひきあひには法ある事、わが亡父成章はじめていへり。委しくは、予が随筆にそのさだめを載たるをみるべし。しげきをしとのみいふ事、古くは多し。これは木の繁きを云。山に入て、花を折とらむとすれば、木繁くてとり得がたきを云。或説には、下の句の例にて、取は見の誤にて、これも不見かといへれど、入てもとらず、とりても見ずと次序し(71)たる詞なるべし。〇草深 この草にむかへて、上は、木のうへなる事しるべし。執手母不見《トリテモミズ》を、たをりてもみずとよめる點あり。古點とりてもみえずとよめり。上の句の取といふより次第したるなれば、なほ古點しかるべし。ことに、かれは古言ともおぼえぬぞかし。みえずは、みずと六言によむべし。もしみえずならば、不所見ともかゝるべきに、所の字なきは、みずとよめとの事なるべし。みえずの心をみずとよむ事、古言のみやび也かし。からくして折とりたる花も、草深くてさだかに見ぬといふ也。以上まづ、春山の秋にもまさりて、さま/”\にあはれなるをいひ、さて山乎茂以下の四句は、春はさばかりあはれなれど、その春のあかぬ所をよよせたまへる也。此以下は、秋山の事にうつる也。〇秋山乃 而者といふ脚結、心をつくべし。これより外に、猶さま/”\の興ある事を、此|而者《テハ》にて思はせたる也。脚結の用ひざまの、力ある事おもふべし。春山の方には、此|而者《テハ》にむかへて、毛《モ》もじを置て他のくさはひを思はせられたり。〇黄葉乎婆 もみぢをばとある古點用ふべからず。もみづとよむべし。下の青きといふにむかふればこゝも用の詞たるべき也。もみづは、もみいづにて、用の詞也。もみぢといふは、體の詞也。紅は、袋にいれてもみ出で、染れば也。取而曾思奴布《トリテゾシヌブ》とは、をりとりても猶あかずして、枝なるを忍ぶを云。そのあかぬがうらめしき也。曾《ゾ》もじ、めをとゞむべし。上の春山の四聯は、而毛《テモ》・手母《テモ》と、ふたつながら毛《モ》といひ、こゝはふたつながら曾《ゾ》とよみ給へる、心をこめさせ給へる脚結なる證なり。〇育乎者 いまだもみぢぬを云。置而曾歎久《オキテゾナゲク》とは、枝におきで、をりもとらぬを云也。なげくとは、もと長息《ナガイキ》(72)をつゞむればなげき也。これを「宇緯」になして、現當にいふ詞なり。里言にトイキツクといふこれ也。これはもみぢする事の遲きをなげく也。以上、うらめしきふしをかぞへられたる也。〇曾許之恨之 そことは、上の四句をさす也。恨之《ウラメシ》とは、遺恨・遺憾などでの心にて、滿足になき也。宣長は恨は怜の誤にて、「そこしおもしろし」ならむといへるに、千蔭もしたがひて、うら枯るゝ秋は山に入やすければ、秋のもみぢに心をよすると也。と註せし、見すぐしかたき説なれば、今論らふ也。此説のおこれる所を思ふに、此御歌もと、秋山の方をあはれとさだめたまへる事しるきに、恨之などはおほせらるまじき事也。と心えられけるよりの説なる事疑なし。さばかり古を温《タヅネ》られける人々なれど、いまだ古言のもちひさまにおもひいたらざりけるゆゑの説ぞかし。大かた、古言の用ひざまは、後世の詞のつくりざまには、いたくたがへる物也。おもしろき事の多かる時その數をつくしてはいはれず。いへば中々なるべきが故に、その多かる中にてうらめしき分を擧れば、その餘は悉くおもしろき事明らかなれば、かくはよませ給へる也。すべていふよりはいはぬ方おもひやり無量なれば、おもしろき方のいはれぬのみならず、その方を言外とし給へる也。おもしろき方を言外とし、却てうらめしき方を詞とし給へるは、倒語の妙處、古人詞のつけざまにすぐれたる所以ぞかし。かゝる詞のつけざまは、詞を用ふる鑑にてこそあれ。こゝに心とまらずは、古歌・古文ともに解すべからず。もとより、よろづ御國ぶりにたかふべき事、よく/\おもふべし。古今集にも「みちのくはいづくはあれど鹽がまの浦こぐ舟のなでかなしも」とよめるは(73)【これは、その世の歌にはあらじ。ふるき歌のすがたなり。】鹽がまの浦のけしき、いづこも/\おかしきに、その一二をいへば、かへりてその餘はおかしからざるが如く聞ゆべきが故に、中におかしくもあらぬ舟の綱手をしもかなしといへるにて、【かなしは、愛のいたりをいふ詞なる事例ひくに及ばず。】それだにかなしくは、其餘の物いかにかなしき所なるらむ。と思はれむがための詞づくりにて、即こゝの同法也。詞を簡にして、いふにもいたくまさる法これならず、上古は多し。かへす/”\、古人詞づくりにおろかならざる事思ふべし。後世人は、詞の用ひざまをわきまへざれば、倒語をみてはめおどろかるゝぞかし。〇秋山吾者 古點は、あきやまぞわれはとよめれど、八言なれば、あき山われはとよむべし。これは倒置の法にて、吾者秋也といふ心なるを、標實をはかりて倒置したまへる也。秋山をば、春山よりも吾々はあはれと思ふぞとの心なり。
靈、この御歌、表にては、春山のかたもおかしくはあれど、秋山にはうらめしきふしこそあれ。よろづのあはれ秋山に深ければ、吾は秋山に心ひくぞとよませたまへる也。されど、春山・秋山いづれあはれなりといふばかりの事は、こと/”\しく歌もてことわるべき事がらならねば、これ必故あるべし。されば思ふに、もと 天皇人々をして、春山・秋山を競憐ましめ給ひしは、實は、額田王の 御みづからと、 天武天皇いづれにか心ひくぞと試みたまはまほしけれど、額田王一人におほせ給はゞ、御心みえなるべく、もとよりあらはにもこたへ給ふまじき事なるが故に、人々に競憐ましめたまひしなるべし。額田王もその御心は得たまひながら、表をたてゝ、歌をもてことわ(74)り給ひしなるべし。されば額田王も、御心のひく方あるべけれど、二帝いづれを春、いづれを秋と比してかくはよみ給へりけむ。 天皇も、此御歌をみそなはしゝ御こゝち、いかにおはしけむ。いとみやびやかにめでたき事也。かくさだかにしられぬぞ、倒語の妙用なる。上古人の詞ざま、心用ひ、おもひはかるべし。
 
井戸(ノ)王下2近江(ノ)國(ニ)1時作歌額田(ノ)王即和(スル)歌
 
今の本には、額田王下近江國井戸王即和歌とあり。先學者、此端作をあやしまざるものなし。今思ふに、奥の「綜麻形乃」の歌、わがせとあれば、それ額田王の和歌にて、この長歌・反歌は井戸王の歌にや。されば、御名を置かへたるにや。とてかくかけるなり。なほ考ふべし。井戸王は、額田実のうからなどにや有けむ。ある説に、井戸王といふ名も、氏もみえねば、大海人皇子云々とあるべしどいへれど、大海人皇子を井戸王と誤るべくもおぼえす。諸王のうちの御子にて、物にもれたるもはかりおがたし。大海人皇子は、 天智天皇の皇太子即、 天武天皇の御名なり。左註の類聚歌林に御覽御歌とあるに、天皇・皇太子の御歌なる事しるしとての説也。されど、類聚歌林もひたぶるにはたのみがたし。「下近江國」とは、天智天皇の遷都まし/\けるたぴの事か。又遷都の後にもあるべし。和歌と此集にあるは、こたへ歌、又和せる歌をも云、これを大和歌と心えたるは、から歌にむかへてこそあれ。さもなきは、此集に和歌とあるを、麁にみてあやまり傳へたるなるべし。
 
(75)17、味酒《ウマサケ》。三輪乃山《ミワノヤマ》。青丹吉《アヲニヨシ》。奈良能山乃《ナラノヤマノ》。山際《ヤマノマユ》。伊隱萬代《イカクルヽマデ》。道隈《ミチノクマ》。伊積流萬代爾《イツモルマデニ》。委曲毛《ツバラニモ》。見管行武雄《ミツヽユカムヲ》。數々毛《シバシバモ》。見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》。情無《コヽロナク》。雲乃隱障倍之也《クモノカクサフベシヤ》
 
言、味酒三翰とつゞくるは、みわは酒甕の事也。此集にも所々よめり、旨き酒をみわにたゝふる心につゞけたる也。されば「うまさけを」ともある也。古訓あぢさけとあれど、うまさけとよむべき事、冠辭考【眞淵】にくはしくみゆ。うまさけはよき酒を云。三輪の山をといふ心にみるべし〇青丹吉 眞淵は八百土《ヤホニ》をならすとかけたるにで、與之《ヨシ》は脚結也といへり。久老は、乎《ヲ》はいにしへ歎ずる詞に多く用ふれば、阿乎《アヲ》は阿那《アナ》といふに同じく、邇《ニ》は、古事記の阿那邇夜志《アナニヤシ》の邇《ニ》に同じく、與之《ヨシ》を夜志《ヤシ》と同じといひき。飛鳥岡本宮より三輪へ二里ばかり、三輪より奈良へ四里餘ありて、その間たひらなれば、奈良坂こゆる程までは、三輪山はみゆるとぞ。〇山際 古點はやまのはにとあり。しかるを、近頃山際とある所みな「やまのまに」とよめり。されど、際は字彙に邊也・畔也・極也とありて、間の義にはあらず。此義を思へば、猶やまのはにとよむべくや。山際の下、從の字脱せるか。山のまゆとよむべしといふ説あれど、從《ユ》かなへりともおぼえずかし。〇伊隱萬代 伊《イ》は、上の中皇女命の御長歌にいへり。奈良山にかくれたりしも、今は陰となりたるさまをいふ也。萬代《マデ》は、何事にもあれ、限あるその限よりさきの限にいたれるをいふ脚結也。大かたの限にては、萬代《マデ》といふ詮はなき也としるべし。三輪山のかくるゝを限とたてゝその限を超て今程とほくなれるにいたれ(76)るをいふ也。代《デ》は、ダイの音をもで假れる也。〇道隈 隈とは、すべて物のかくれになれるを云。ここは道のまがりて、こなたよりはみえぬ所をいふ也。伊《イ》は前に同じ。道のまがりいくつもつもりてさきの隈は今の隈の陰になれるを云。萬代《マデ》、上におなじ。隈ひとつ、ふたつが程を限とたてゝ、いたくつもれるを萬代《マデ》とはいふ也。或説に積はさかの假名にて、いさかるまでに也といへる、此説みやぴてはあれと、道の隈のさかるといふ事、理なし。隈といふ事をば、よくも心えずしての説なりかし。爾《ミ》もじ、上の伊隱萬代《イカクルヽマデ》をも、此|爾《ニ》もじにうけたる也。かばかりの處に來たる歎也。もはら、舊都を心にもちていふ也〇委曲毛 つばらには、つまびらかにといふほどの心也。三輪山をつばらにといふ也。毛《モ》もじ「つばらにだにも」の心にて、言靈にひゞかせたる也。くはしくは、下に情をとくにてらしてしるべし。本意の事はかなはずとも、せめてといふ心に、毛もじはおかれたる也。上古には、かくさまに毛《モ》を用ひたる例多し。〇數々毛 數々《シバシバ》は、たび/\の心也。毛《モ》の義上に同じ。つばらにみる事かなはずとも、せめての心也。これは上の二句を、今ひときは切にいふ也。上の見管行武雄《ミツヽユカムヲ》は、みる/\ゆかむと思ふにとの心也。見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》は、見さくとはさくは放にて、みる事の遠ぞくを云。みつゝゆくとは、またひときはとほくなれるかたちをいへるにて、是又おのづから次序せる詞づくり也。雄《ヲ》はふたつながら、里言にノニ・ジヤノニなどいふ心也。しか思ふに、それに應ぜぬ歎也。〇情無 此句は、上の三輪乃山といふにつゞけるにてその間十句は中にはさみたる物也。されば、十句は未然をいふにで、實事にあらず。この雲の(77)かくすが現當也。雲ゆゑに、みつゝゆかむ事も、みさけむ事もかなふまじきをなげく心也。情無は雲が心せぬ也。これも例置の法にて、雲の惰無云々といふべきを、情無はこゝの標なれば也。隱障《カクサフ》は字のごとく、「さふ」はさへぎる心也。倍之也《ベシヤ》とは、しかかくし遮るべき事かやとの心にて、元來かくすべき事ならずといふべきをかくいひて、げに雲は情なし。かくすべき事ならずと、人の思はむをまつ詞也。也は也波《ヤハ》の也《ヤ》なり。後世反語といふは、わが御國言の道をわきまへざるひが心得なり。もはら人の心より決定をおこさせむがために、人に問ふさまに詞をつけたる物也。宣長は情憮をこゝろなとよみたれど、さるは心なやといふ詞となるが故に、下の倍之也《ベシヤ》にうちあはぬを、いかでさはよまむ。此句、八言なるが故なるべし。これは五言、三言、七言とよめるなり。
靈、此歌は明くれみなれつる三輪山を、奈良山にかくれ、道のくまつもるまでは、遠ながらも見つゝなぐさめにせむとおもふに、いまだ程なきより雲のかくしてみせねば、行末いよ/\みらるまじきをふかく歎きたる歌なり。されど、三輪山いかばかりの山にて、かばかり三輪山のみえぬをもなげかるべき。たとひさばかりの山にもあれ、さる情、歌によむばかりの事がらにあらず。されば、此三輪山をかくまでをしまれたるは、本情にはあらずして、本情をば、此山にそらし(らし?)たる詞づくり明らかならずやと思ふに、年頃みなれむつぴし人を、たちわかるゝかなしさに、もはら舊都のはなれうき心をなげかれたる也。されど、此情をあらはにいふ時は、 天皇の都をうつし給ふを、私の心をもてうらみ奉るにあたるべきがかしこさに、たゞ三翰山のみえずな(78)るをなげく歌とよみなされたる也。かく、公をも傷らず、私をもすてぬこそ歌のかしこさなれ。たゞ、花をまち、月ををしむなどやうのはかなき事をよむ物とおもひなりぬる事、今の世人のひがみにしもあらず、千歳以來の人の、やう/\此道をもてあそぴものとせる也。これをばなげかで、何をか歎くべからむ。井戸王 はじめにいへるがごとく、額田王のちかきやからなどにや。下の和歌綜麻形乃の歌に、「めにつくわがせ」とよみ給ひしは思ひ人歟。いづれにもあれ、この井戸王、三輪山に比せられしは、額田王なるべし。詞のつけざま、かへす/”\心をとゞむべし。
 
     反歌
18、三輪山乎《ミワヤマヲ》。然毛隱賀《シカモカクスカ》。雲谷裳《クモダニモ》。情有南武《コヽロアラナム》。可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》
 
言、三輪山乎、此乎もじ、この山にかぎりては、かくすまじき山なるをとの心なり。ふかく此山のみえぬをうらめる也。〇然毛隱賀 然の義まへにいへり。毛《モ》といひ、加《カ》といへる心は、かくさむにも輕重あるべきに、たぐひなくつらきかくしやうかなと思ふ心也。かくすとも、をり/\は雲間もみゆべきに、さもなきが故也。賀《カ》は加毛《カモ》の加《カ》也。奈良以往は、加奈《ガナ》とはよまず、此京になりて、加奈《カナ》は詠、加毛《カモ》は疑となりける也。加毛《カモ》は、大かた、いかさまにおしあてゝも、理のあてられぬ事ある時の歎也。されば、上古は疑の加毛《カモ》とひとつなりし也。上古の歌は、すべて倒語なれば、倒語のうへの歎に加毛《カモ》を用ひて本情の歎に用ふる事なし。これ加毛《カモ》にかぎらず、大かたの脚結みなかくの(79)如し。後世の心ならひにて、古言の推しがたきは、かゝる用ひざまなれば也。こゝも、雲のかくしざまいかさまに思へども、その心なさのおもひえられぬを、加とはよみたる也。賀は濁音の字なれば、もし、これ加の誤にや。〇雲谷裳 此|陀爾《ダニ》、里言にナリトモといふ心也。又|陀爾《ダニ》は、里言にデサヘと云ふ心にももちふる也。これは、願ふ事ある時に用ふる法なり。奈良山のさはり道のくまつもりなば、さやかにもみゆまじきを、雲なりともせめて心あれとの心也。此|陀爾《ダニ》、一首の眼なり。久しくにぎびし家をはなれて、近江にうつる、舊都のをしさのかぎりをつくされたりといふべし。もし雲心ありて、三輪山をかくさずとて、滿足にはあらざるべきを、かくねがはれたる言のほどをおもひて、此|陀爾《ダニ》の用ひざまの妙をしるべし。裳はもはら、此ねがひ本意にはあらねども。との心を思はせられたる也。長歌には、雲の心なきをうらみたるばかりなれば、その雲だに心あらむ事をねがふ心を、此反歌にはよまれたる也。雲のうへをかくかへす/”\切によまれたる事、ひとへに倒語の方をおもくする也。倒語の方をおもくする事、神のさきはひ、もはらこゝにある事ぞかし。〇情有南武 南武《ナム》は誂の詞也【よに誂をも願とす亡父之をわかてり願は他にあづからず誂は他にむかひての別あれば也】今の本、武を畝とせり。一本武とあるに從ふべし。されどもし畝にしたがはゞ、宇年《ウネ》の宇《ウ》を、牟《ム》にかりたるなるべし。ん〔右●〕はもと、五十韻の外なれば、字なし、五十の音は宇《ウ》よりおこり、その宇《ウ》はん〔右●〕よりおこる事予が考、隨筆にいへり。此故に、牟《ム》、爾《ニ》、美《ミ》などをつねにん〔右●〕にかれり。しかるに、又|宇《ウ》を假りたるあり。宇治拾遺に、定頼中納言の聲を聞しりて、小式部|宇《ウ》といひてふしかへりたる事あり。(80)【これ又、隨筆に引おけり、】此|宇《ウ》は即ん〔右●〕にかりたる也。音といふ音、みな口をひらきての音也。ん〔右●〕はいまだ口をひらかぬほどにある音なれば、五十の音の本源にてん〔右●〕の音、口をひらけば、はじめて宇《ウ》の音生ず。ここをもて、宇《ウ》をかれる也。牟《ム》は「宇緯」なれど、爾《ニ》・美《ミ》は「伊緯」なれば、つぬに此三つをかれゝどいはゞ、ん〔右●〕には、宇をかるが中にも近きに、かへりて稀なるは、いかなる故にか。されば、こゝも畝ならむもはかりがたし。有南武《アラナム》は、わが心のほどを雲のおしはかり、あはれまざるを、人にあはれまれむがため也。〇可苦佐布倍思哉は、長歌のと同じ。
靈、此歌、表は、雲のたぐひなきつらさを、長歌にうらみたるを、その雲だにも心ありて、かばかりをしむ三輪山をみせよとの心なり。かく詞づくりはかはりたれども、長歌にいへるが如く、もと三輪山をしも、かばかりをしまるゝは、本意にはあらざる事しるし。されば、此言外の情も、長歌にくはしく釋せるに同じとしるべし。されど、これは今ひときは切にして、たへがたかりし心のうち、あはれかぎりなし。
 
右二首(ノ)歌山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ガ)類聚歌林(ニ)曰遷2都(ヲ)近江(ノ)國(ニ)1時御2覽三輪山(ヲ)1御歌(ナリ)焉日本書紀(ニ)曰六年丙寅春三年辛酉朔已卯遷2都(ヲ)于近江(ニ)1
 
山上の上に、檢の字脱たるなるべし。みなその例なり。此歌林によらば、天皇、皇太子のうちの御歌なるべし。
 
(81)19、綜麻形乃《ミワヤマノ》。林始乃《シゲキガモトノ》。狹野榛能《サヌバリノ》。衣爾着成《キヌニツクナス》。目爾都久和我勢《メニツクワカセ》
 
言、この歌は前にいへるが如く、額田王の和歌なるべし。綜麻形乃は、古點は上の二句「そまがたのはやしはじめの」とあり。心えがたき訓也。古事記に、三翰の大神、活《イク》(活玉?)依比賣《ヨリヒメ》にかよひ給ひし時、卷子《ヘソ》の綜紵《ウミヲ》を男の裔《スソ》につけたるを、引かへり給ひしあどに、紵《ヲ》の三勾《ミワゲ》殘りたりし事によりて、束麻呂「みわやまの」とよまれたる、しかるべし。その三勾のこれりし形を思ひて、綜麻形とかゝれたるにこそ。形の字はいさゝか心ゆかぬやうなれど、此ぬしの考いとめでたし。仙覺抄に、土佐國風土記に「神河(ヲ)訓2三輪川1中略皇女思v奇(ト)以2綜麻(ニ)1貫v針(ニ)及(デ)2壮士(ノ)之曉去(ルニ)1也以v針(ヲ)貫(キ)v襴(ニ)及v旦(ニ)也云々」とあり。〇林始乃 しげきがもとのとよめり。繁樹がもとの心也。げに古點はやしはじめのとよめる、心ゆかず。おのれ思ひよれる事もなければ、これにしたがへり。爰に榛多かりければなるべし。おもふに、此句は、誤脱などもあるべくおぼし。〇狹野榛能 狹は、つねに添へていふ詞にて、そふ所あるやごとなさをしめすなり。これは、勢《セ》にそふをしめす也。野榛《ヌバリ》は、野なる榛なり。榛は、里言にハンノ木といふ木也。眞淵、榛は假字にて、野萩也といひしは衣につくといふよりの説なるべし。されど、榛も、その皮もて衣にすれれば、猶|波里《ハリ》なるべし。此末の「引馬野爾《ヒクマノニ》。仁保布榛原《ニホフハリハラ》」などおもふべし。野にもかく榛はよめり。〇衣爾着成 榛の色の衣につくを云。そのつく如くといふを、成とはいふ也。古事記上卷「久羅下那洲《クラゲナス》」をはじめとして、此集中にも、鏡成《カガミナス》・鶉成《ウヅラナス》など多くよめり。神代卷に「如五月蠅《サバヘナス》」どかゝせ給へり。げに、如(82)の義に同じ詞なれど、別あり。如《ゴト》は、やがてその物ともいふべきばかりのさまなるをいふ詞也。成《ナス》は、さもあらぬ物を、同等の物にいひなす心なり。古事記上卷に於《ニ》2湯津爪櫛《ユツツマグシ》1取2成《トリナシ》其|童女《ヲトメヲ》1云々。また同卷に故令v取2其御手(ヲ)1者即取2成《トリナシ》立氷《タチビニ》1亦|取成《トリナス》劔刃《ツルギバニ》1云々。また欲v取(ント)2建御名方《タケミナカタノ》神之|手《ミテヲ》1。乞歸《コヒカヘシ》而取者|如《ゴト》2若葦《ワカアシノ》1※[手偏+益]批《ツカミヒシギテ》而|投離《ナゲハナチキ》云々。など、その義その別をしるべし。神代卷はたゞ、その心をえてかゝせ給へるなるべし。古點は、都計奈之《ツケナシ》とあれど、下の詞に應ぜず。非なり。〇目爾都久和我勢 榛の色のきぬにつくとひとしく、めにつくといふ也。わがせとは井戸王をさし給ふか。歌林によらは、皇太子などにや。太かたわがせとさすは、わが兄《セ》の如く思ふ情をもていふなれば、すべて男をさす稱なり。此句たゞ目につくとばかりいひて、その目につくを、いかにともいはぬ、これ上古人の詞づくりの常なり。
靈、此御歌、上四句は、畢竟終の一句のためのよせ也。表は、三輪山のしげ木がもとに多かる野榛の色の、きぬにつくにひとしく、めにつくわがせや。とたゞせのめにつくを榛の色の衣につくにひとしかりけり。とその等類なるにはじめて心のつきたるさまによみふせ給へり。されど、しかばかりの心ならば、いかでか歌によむばかりの事がらならむ。されば、思ふに、額田王は舊都にとまりゐたまひて、今よりは井戸王にあひみ給はむ事も御心にまかせかたかるべければ、別のかなしさをふかく歎き給ひし也。めにつくは、別のかなしさのあまりなる事しるし、これ、上の歌どもをうけて、我も今の別たへがたし。との心をしめし給へる也。されど、これ又あらはにおほせられぬは(83)遷都をうらむになりぬべきをはゞかり給ひし也。その御心づかひ、御詞づくりの、あは/\しきやうなるに、中々限なきあはれなりかし。
 
右一首(ノ)歌今案(ズルニ)不v似2和(セル)歌(ニ)1但舊本載2于此(ノ)次1故(ニ)以(テ)猶載(ス)焉
 
此左註、倒語の道のうしなはれたる世の論也。上古の贈答には、かやうなるが多し。言のうへは、皆本意ならぬが、常ぞかし。
 
天皇遊2獵|蒲生《ガマフ》野1時額田(ノ)王(ノ)作歌
 
天皇は天智天皇也。蒲生野は近江國蒲生郡なり。日本紀に、五月五日とあり。夏の獵は獣を獵るなり。卷十六に、藥獵《クスリガリ》とよめるこれ也。額田王は、御思ひ人なりければ、新都にめして此日も具したまひしなるべし。上の御歌を思へば、めしゝは遷都の後にこそ。
 
20、茜草指《アカネサス》。武良前野逝《ムラサキヌユキ》。標野行《シメヌユキ》。野守者不見哉《ヌモリハミズヤ》。君之袖布流《キミガソデフル》
 
言、茜草指は、あかきものゝ冠なり。されば日にも冠らする也。紫は、今の紫にあらず。いはゆる朱を奪ふ紫の事なり。此集中に紅顔の事を、紫によせたる歌多きに思ふべし。菫は、今里言にいふゲンゲ花の事なるべしと景樹がいふ、さなるべし。今すまひ草をすみれといへども、紫色いにしへつねいふ紫にあらず。なほすまひ草は、野にも多からぬ物なれば、かた/”\此説心ひかるる也。紫色を心えむがために囚にいふ也。〇武良前野は紫草生たる野なり。標野は遊獵のために(84)しめおかれたる野也。ともに地名にあらず。と古説なり。げに、蒲生野に獵し給ふなれば、しかなるべし。御答歌に、紫草能《ムラサキノ》。爾保敝流妹《ニホヘルイモ》とあそばしゝに照しても、地名ならざる事はしるし。このふたつの逝・行といふ字は、野守はみすやにつゞきたるにはあらず。君が袖ふるにつゞける也。下の二句は、倒置したまへる也。〇野守者不見哉 これは、皇太子【天武天皇】の御思ひ人に比したる也。かくいふは、君之袖布流《キミガソデフル》とあれば也。たしかに別に御思ひ人ありとにはあるべからねど,額田王に此比御心淺き琴ありけるが故に、別に必、御思ひ人あるが故なるべきになしていふ也。御答歌に、人嬬《ヒトヅマ》とあるもこれに同じ心得なり。古人の詞づくりかくのごとし。猶下に、靈をとくをてらして思ふべし。者は、額田王、その餘の人は、みれども詮なき心を思はせたる也。不見哉《ミズヤ》の哉は疑にて、かゆきかくゆき袖ふり給ふを、御思ひ人のみたらむには必なぐさめまゐらすべきに,さもなきはみぬゆゑにや。又はみながらなぐさめまゐらせぬにや。と思ふ心をいふ也。見といふも、たゞ見るばかりの事をいふにあらす。見たらむには必みすぐすまじければ、そこをばいはで、見るとのみおほせられし也。古言のみやびおもふべし。〇君之袖布流 君とは、皇太子をさす也。之《ガ》は、その物のはたらきの、ことなるをいふ脚結也。乃《ノ》はその處をさすにて、乃《ノ》の下の詞おもくなる也。されば、これを、もし乃といはゞ、袖ふる事のみおもくなるべし。こゝはもはら、皇太子をいとをしく思ふ心なれば、乃《ノ》とはいふまじき事、思ふべし。乃之《ノガ》の別くはしくはここにいひつくしがたし。袖ふるは、古説なにの辨もなく、たゞ袖をふる事とおもへり。されど、(85)何のよしもなくて袖ふるべきやうなし。されば思ふに、これは、身を悶ゆるかたちを形容する也。領巾《ヒレ》ふるといふも同じ。悶ゆるを袖ふる、領巾ふるといふ。これ、古言のみやびぞかし。これは、皇太子御思ひ人ありて、それが御心にまかせねば、欝悶したまひて、野をさまよひ給ふその御心のうちを、いとをしみたる心也。此二句、上にいへるが如く、倒置也。君が袖ふるは實なれば、必かく倒置すべき事也かし。
靈、此御歌 表は、御思ひありて御袖ふりありかせ給ふさまなるを、野守はみずや。みたらばなぐさめ奉らむものを、とその御心のうちのくるしさを、いとをしみたてまつれるによみふせ給へる也。しかれども、御答歌の心を照らすに、これ本情にあらざる事明らか也。おもふに、此比皇太子つらくまし/\ければ、必別に御思ひ人あるが故なるべし。とふかくうらみたまへる也。大かた人をうらむは、直言すまじき事なるが故に、いとをしみたるに詞をつけさせ給へる、めでたしともよのつね也。しかも、あらはにいとをしなどもいはず、たゞ野守はみずやとばかりよませ給へる、かへす/”\いへるが如く、上古人の詞はかたよらず。かたよらぬは、詞のいたり也かし。
 
皇太子答|御《タマフ》歌
 
これは、天武天皇也。額田王は、のち、此 帝の夫人たりし事紀にみゆ.
 
21、紫草能《ムラサキノ》。爾保敞類妹乎《ニホヘルイモヲ》。爾苦久有者《ニククアラメ》。人嬬故爾吾戀目八方《ヒトヅマユヱニワレコヒメヤモ》
 
(86)言、紫草能は、紅顔のにほへるにたとへておかせ給へる也。能《ノ》はよせの能《ノ》にて、ノゴトクニといふ心也。〇爾保敝類とは、紅顔の光澤あるをいふ。いと後世には香の事とするは非なり。思ふに、香ににほふといふ詞あるより誤れるなるべし。それは、香にて、にほふといふ詞なるをや。此集には、多く艶の字をあてられたり、いづれも色のにほふ事也。後世ながら、月露などにほふとよめるに思ふべし。妹とは即額田王をそれとなくさし給へる也。乎《ヲ》は次の爾苦久有者《ニククアラバ》につゞくにはあらず。下の吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》につゞけてみるべし。されば、三四の句は、中にはさみたる物也としるべし。人嬬なれば、戀ふまじき妹なるをの心也。〇爾苦久有者とは、後世里言に、にくしといふにはすこしたがへり。里言に、小ヅラニクイなどいふほどの心也。源氏物語に、【箒木卷】中將にくむ又にくゝなりて云々、これらの類多し。〇人嬬故爾 もと人嬬とは、人のつまを云。されど、まことの人のつまをいふにはあらず。女のわれにつらきをうらみむ爲に、必外に男あるべしとしていふ名なり。古註みな、これをまことの人のつまと思へり。しからばあるまじき邪淫なるをや。此額田王は、前にいへるが如く、天智天皇の御思ひ人なれば、さる御心にておほせられたるにもあるべけれど、しかみる時は、天皇にやがてさしあたりて、上古の詞つきにあらねば、猶大かたにつらきをうらみたる詞とみるべし。まことに、さにもあらぬを人づまといひて女のつらきをうらむ詞とする、上古の詞のみやぴ思ふべし。故爾《ユヱニ》とは、亡父脚結抄に、ノクセニと譯せり。もと、故といふ詞は、事の故をとく詞なるを、古人かくさまに用ひたるは、人づまなるが故に戀ふ(87)べき理はなき事なるを、猶こふる心に用ふるにて故爾《ユヱニ》の下に、詞をはぶきたる物也。かばかりの多言を、故《ユヱ》といふ詞にて思はせむがための脚結也。これを心えて、ノクセニとは譯したる也。かうやうの詞づかひ古は多し。禰婆《ネバ》といふ脚結を、奴爾《ヌニ》といふ心に用ひたるも、禰婆《ネバ》は、奴爾《ヌニ》の心にあらず。これと同じ法なり。【此事予が隨筆にくはしくいへり】〇吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》 吾は、われとよむべし。古點みなわがとよめれど、もと、われ、わがの別は、たれ・た、これ・こ、それ・そ、かれ・か、ひる・ひ、よる・よなどの別と同じく、たれ・これ・それなどいふ時は、むかふる物にわくる也。た・こ・そなどいふ時は、その物ひとつの上にいふなり。されば、これは衆人にむかへて、吾とおほせられたるなれば、われとよむべし。わが宿・わが身などいふ時、われ宿われ身などはいたはぬに辨ふべし。戀目八方は、こひむ事かや。といふ心にて、その落着をば額田王の御心にゆづり給へる也。也毛《ヤモ》・加毛《カモ》【後世は、也波・加波とのみよむなり】ともに、此例也。前にいへるがごとく、後世半(反)語といふは、わが御國言のやうを辨へぬ説也。落着を人の心にゆづりて、我よりことわらぬは、わが御國言の道ぞかし。されば、額田王の御心に、げに人づまとしりながら、こひ給ふべき事にあらずよ。とおぼししらむやうに、御詞をつけさせ給へる也。目《メ》は牟《ム》のかよへるにて、「江緯」にかよはす義、上にいへるにおなじ。
靈、此御歌、表は皇太子他に思ひ人あるが故に、御心うすきやうに、額田王のうらみ給ふをうけ給ひて、さらに/\さる薄き心はもたず。もとそこは、人づまなるを知ながら、かくわりなくこふるを、わが心の薄からぬ證とし給へ、とわが御心の淺からぬをことわり給へる御心なれど、われは(88)薄き心なし。と直におほせらるれば、人うくまじき常なるが故に、表にはさることわりもし給はず。たゞその證となるべき種ばかりをよみふせ給ひし、上古の詞のつけざま、よく/\味はひしるべし。
 
紀(ニ)曰天皇七年丁卯夏五月五日縱2獵於|蒲生《ガマフ》野(ニ)1于v時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉(ク)從(フ)焉
 
明日香清御原《アスカミヨミバラノ》宮御宇天皇(ノ)代 天渟中原瀛眞人《アメヌナハラオキマヒトノ》天皇
 
これは 天武天皇なり。
 
十市《トヲチノ》皇女參2赴(タマフ)於伊勢(ノ)神宮(ニ)1時(ニ)見(テ)2波多横山巌《ハタノヨコヤマノイハホヲ》1吹黄刀自《フキノトジガ》作歌
 
此皇女は 天武天皇の皇女にて、額田王のうませ給ひし也。此左註に、紀をひかれしが如く、十市《トヲチノ》皇女と、阿閇《アベノ》皇女伊勢に詣たまひし時の事也。吹黄刀自《フキノトジ》、此集卷四にもみゆ。續日本紀天平七年に、富《フ》紀朝臣といふ姓みゆ。その族にこそ。此時御供にまゐれる人なるべし。波多横山《ハタノヨコヤマ》は、神名帳に、伊勢(ノ)國|壹志《イチシノ》郡|波多《ハタノ》神社あり。和名妙に、同郡|八太《ハタノ》郷あり。こゝ也。刀自《トジ》は、源氏物語に、人の室を家刀自《イヘトジ》といへり。さるたぐひの女をいふ稱か。
 
22、河上乃《カハノヘノ》。湯津磐村二《ユツイハムラニ》。草武左受《クサムサズ》。常丹毛冀名《ツネニモガモナ》。常處女※[者/火]手《トコヲトメニテ》
 
言、河上 古點はかはかみとよめれど、かみといふ、詮なし。かはのへとよむべし。うへとよめる此集に多し。いづれもそのあたりといふ也。〇湯津磐村《ユツイハムラ》は、神代卷に五百箇磐村《イホツイハムラ》とみえ、祝詞に(89)は、湯津磐村《ユツイハムラ》とかゝれたれば、それによりて、伊保《イホ》をつゞめかよはして、由《ユ》とはいふ也。と眞淵・宣長などもいひ、その一派の學者こと/”\くこれに從へり。伊保をつゞむれば與《ヨ》なるを、由《ユ》にかよはしたりとの心なるべし。音便には、さま/”\かよふ事も少からねど、あまりに自在なるは牽強におつべし。されど予おもふに、神典に湯津爪櫛《ユツツマグシ》・由津香木《ユツカツラ》などあるをも、皆櫛の歯の多く、妓多かる故也。と釋せられたれば、同典に五百津之美須麻流《イホツノミスマル》・五百津眞賢木《イホツマサカキ》などもあり。湯津《ユツ》・五百津《イホツ》も同し詞ならば、所々かく書かへらるべくもおぼえず。必異なる詞なるべし。由《ユ》は、伊牟《イム》をつゞめたるにて、由麻波流《ユマハル》【齋する事也。】といふ是也。物の上に、伊美何《イミナに》と名づけたるは、いはゆる忌服屋《イミハタヤ》・齋※[金+且]《イミスキ》・齋斧《イミヲノ》などいと多かり。これがたぐひに、物の上に由《ユ》といふ事をそへていへるなるべし。此|伊牟《イム》も由《ユ》も、ともに齋《イミ》きよまはるにて、いみ清まはるは、何事もつゝしみて言に出ぬをいふ也。委しくは古事記燈神典にいふをみるべし。神典もと皆表物にて實物にあらねど、そのことわりをもいはぬ磐村《イハムラ》・爪櫛《ツマグシ》・香木《カツラ》なりとのさとし也。無形をさとして、天沼矛《アメノヌホコ》・天浮橋《アメノウキハシ》・天香具山《アメノカグヤマ》・天安河《アメノヤスノカハ》などいふをてらして思ふべし。こゝはたゞ、いひならへるをもてよめるなるべし。津《ツ》は時津風・澳津白浪などの津《ツ》の例にて、その方につきたる事をさとす也。年ふれば物みなおとろへ古ぶるならひなるに、此石むらの草むさぬを、みとがめられしなるべし。磐村《イオハムラ》の、磐のむらがれるを云。〇草武左愛 草生せずといふ也。後世は、苔のみむすとよめり。すべて物の自生するをいふ也。むすこ・むすめなどいふこれに同じ。神典【古事記上卷】に高御座巣日神神産巣日神あり。此産巣即(90)自生の義也。もとは蒸すより出たる詞なるべし。地氣蒸す時は、草・苔など自生するぞかし。自生する物の外はいはぬに思ふべし。此石村のふるびざるさまをいふ也。以上、今此|波多《ハタ》の横山にてまのあたりみたるさまをいふ也。〇常丹毛冀名 かのいはほの如く、つねにあれかしといふ也。毛冀《モガモ》は、後世は毛賀奈《モガナ》なり。冀といふ字は 此脚結こひねがふ義なれば、かくれたる也。下に奈《ナ》もじを添たるは、すべて奈《ナ》は、わが情をば人に諾《ウベ》なはせむとする義也。物語ぶみにそこをしも重く人におもはせむとする所には、奈牟《ナム》といふ詞を、必おけるをもて思ふべし。里言に、人に物がたりする中に、何ナといふも是なり、これは此、常ならむ事をねがふに、靈はこもれば也。そのよしは、下にいふべし。賀毛《ガモ》と、裳賀《モガ》毛 別ある事をしるべし。賀毛《ガモ》は、ねがふ心いづれも同じ。裳《モ》もじそひたるがたがふ也。何事にもあれ、むねとねがふ事ありて、それはねがふとも及ばじ。せめて此事なりともとねがふ。これ裳賀毛《モガモ》の心得也。これば、こゝも、むねと願ふ所は言外にありて、そこをおもはせむがために、裳賀毛《モガモ》とはよむ也。實は、そのむねと思ふ事をねがふをかくいふ。これ古言のみやびなむ。此故に、かく常ならむ事をねがふは、本情にはあらざる事をおもふべし。〇常處女煮手 をとめは、此集に未通女ともかき、紀には少女とかけり。年若き女を云。上の常丹毛賀名《ツネニモガモナ》の上に、此句あるべき心ながら、例の標實をはかりて、かくは倒置せられたる也。常《トコ》はとこ宮處などいふが如く、少女ながらにとこしなへなるを云。もと常なるといふにも、老ながらも死なずば常なりともいふべし。此故に、常處女煮手《トコオトメニテ》としもよまれたる也。かくよめるに(91)よりて思ふに、刀自《トジ》といふは、やゝ年たけたる女をいふなるべし。
靈、此歌 表は、この川のべなる波多(ノ)横山のいはむらの、草もむさで常なるをみて、いかで、我もとこ處女にて、此いは村の如く常にあらまほし。とわが身の年たけかたちおとろへゆくがなげかしさに、此石村をうらやみたる也。されどうらやましとも直にいはぬは、例の古人のみやび也。しかるに、此事たゞうらやみ思へるにてもやみぬべきを、かく歌とよまれしを思ふに、この刀自男ありて、その男、刀自をふるしてつらきをうらみつかはせる歌なるべし。上に、裳賀毛《モガモ》は常ならむをねがへるは、本情にあらずといへるは、此故也、かく表をおもくつゝしまれしは、皇女たちの供奉のたびなれば也。そのこゝちのくるしさ、此詞づくりいかなる神かあはれみたまはざらむ。此歌ぬしを、端作に吹黄(ノ)刀自としも擧られたるは、此歌の情にてらせよとてのわざなるべし。或説に、これは十市皇女の御上を、とこをとめにてとねがひたる心也といへり。これ端作と、處女とに目をうばゝれたる也。十市皇女云々をかけるは、私の旅ならぬをさとしたる也。又此皇女、今をとめにますをば、をとめといはぬは、古人のならひ也。とこをとめといふには、理なきにしもあらねど、さる事を、古人歌によむ物にあらず。後世倒語の道をうしなひてのちの人の、古言をみる常なり。此説うけがたし。此歌、必旅中よりその男に贈れるなるべし。
 
吹黄(ノ)刀自未詳也但紀(ニ)曰天皇四年乙亥(ノ)春二月乙亥朔(ノ)丁亥十市島女阿閇(ノ)皇女參2赴於伊勢(ノ)神宮(ニ)1
 
(92)麻續《ヲミノ》王(ヲ)流2於伊勢國|伊良虞《イラゴノ》島(ニ)1之時人哀傷(シテ)作歌
 
左注の如く、此王は因幡に配せられたり。伊勢とせるはいかなる事にか。うつたへに誤ともいひがたきは、歌に射等籠《イラゴ》をよめり。三河國より志摩の答芯の崎へむかひてさし出たるを、いらごが崎といふよし、土人いへり。又古今著聞集に、伊豫國にいらごといふ所あり。いづれも、紀にたがへるは心えがたし。もし、後に因幡よりうつされけるにや。
 
23、打麻乎《ウチソヲ》。麻續王《ヲミノオホキミ》。白水郎有哉《アマナレヤ》。射等籠荷四間乃《イラゴガシマノ》。珠藻苅《タマモカリ》麻《マ・ヲ》須《ス》
 
言、打麻乎は、麻うむといふ事の冠也、古鮎うつあさをとあれど、うつといふつもじ、「宇緯」なる事快からず。うちそをとよめるに從ふべし。冠詞にかうやうの乎もじ多きもの也。これは、を以て〔三字傍点〕といふ心也。人名の上に冠をおく事「鳥かよふ羽田《ハダ》のなにも」「天ざかる向津媛《ムカツヒメ》」など、古くあり。その人の事をたゝふるにかへたる物也。〇麻續王 左注にあるがごとく、罪ありて流され給ひし人なり。〇白水郎 奈禮也《ナレヤ》は爾愛禮也《ニアレヤ》をつゞめたるにて、禮也《レヤ》は禮婆也《レバヤ》の婆《バ》をはぶける也。也《ヤ》は疑也。下の苅麻須《カリマス》の下に良牟《ラム》をはぶけるなり。もとよりあまなるべきやうはなき事なるを、かくいふは倒語なり。下に情をとくをみるべし。あまにはあらずとかねて思ひしが、まことはあまにやとの心也。〇伊良虞荷四間乃 この乃《ノ》は都《ミヤコ》にむかへていふ也。乃《ノ》もじ、たゞ、そこのとさす心なれそ、麁暴におくべき脚結にあらず。むかふる所必ありておくべき也。この乃《ノ》もじ、いとあはれ也。〇玉藻苅麻須 玉藻は、その實しろくまろくて、玉の如くなればなりとぞ。苅麻須《カリマス》はかりい(93)ますの心也。和歌の結句にてみれば、こゝも麻は乎の假名にて、乎須とよむべくや。
靈、此歌、表は、麻績王は、かねては、さるやことな人とこそ思ひつれ。今このいらごが島の玉藻をかりますをみれば、やごとなき人にてはなくて海人にや。と今までの聞えといたくたがへるをおぼつかなくおもふ心によみふせたる也。されど、さるはかなき事をば、古人歌によむならひにあらねば、これひとへに、麻續王をあはれびたる歌也、都にては、いとみやびてのみおはしけむをいかにくるしくおぼすらむ、と深くいとをしめる心言外にゐまりてみゆ。端作に哀傷作歌とありて、歌にはいさゝかさる詞づくりもなきを、後世いかで直言をたのむらむ。もし直にいたくいたはらば、罪ある人をいたはらむ事、公への憚あるが故に、かく詞をつけたる也。直言を主とする心よりいはゞ、此|白水郎哉《アマナレヤ》はなめしき詞也。答の命乎惜美《イノチヲヲシミ》は、めゝしき詞ならずや。互に詞のうちに情あれば、倒語の上はつねにかくの如し。直言をたふとぶ後世の眠をさますべきなり。
 
麻續(ノ)王聞v之感傷(シテ)和(スル)歌
 
24、空蝉之《ウツセミノ》。命乎惜美《イノチヲヲシミ》。浪爾所濕《ナミニヌレ》。伊良虞能島之《イラゴノシマノ》。玉藻苅食《タマモカリヲス》
 
言、空蝉之は、命の冠なり。義は上にいへり。情ははゞかりて、此冠にかへたる也。下を照らして心うべし。〇命乎惜美は、命のをしさにの心也。惜の字、今情に誤れり。美も亦今の本誤れり。一(94)本によりて改む。これは、此島にて、心にもあらず玉藻をかり、食もならはぬを食をる所謂をいふなり。されど命をしといふは倒語なり。この情は下にとくをみるべし。〇浪爾所濕は、玉藻かるに袖すそなどのぬるゝを云。袖などのぬるゝは、いとわびしけれど、ひたすら命のをしさにかゝるわびしきめをもしのびをるぞとの心也。一本には、所濕をひちとよめり。されど、所の字ぬれのれ〔傍点〕もじにあてゝかゝれたるなれば、ぬれとよよむ方まさるべし。もと、ぬれ〔二字傍点〕とひち〔二字傍点〕は、義たがひたる詞なれど、歌にはたゞ、佗しきわざするよしのさとしなれば、いづれにもあるべしその別は、奥にくはしくいふべし。〇伊良虞能島之 藻はもと食料とすべき物にはあらざるべけれど、配所のわびしきさまを、苅食とはおほせられしなるべし。をすは食するこ亡の古言なり。命乎惜《イノチヲヲシミ》、これに應ず。
靈、此一首、表は、上のあはれめる人の心をうけて、かく浪にぬれつゝ、玉藻をかりて、ならはぬ食をする事、いとわびしくかなしければ、かゝるくるしきめみむより、死たらむこと中々まさらめとは思へど、さすがに命の捨がたさに也。とその海人にやとおぼめけるをことわりたるによみふせられし也。されば、古注皆、この表に縛せられて、しかのみ釋したれど、いふべき事こそあらめ、命ををしみなど、あまりにいやしく、かつかのあはれみたる人に答へられたる心ともおぼえず、後世は詞の表より、外を思ふ事なき事となれるより、和歌なりとも思はず、ひたすら表をのみたのめるは、いかなるをさなさぞや。これは、人のあはれむをうけて、命ををしみとは、も(95)はら歸洛の期もあらむかと、それをのみまつ也との心にて、かのあはれみをたよりに、此のちは日をおくらむ。と深くよろこびを述られし也。されど、もど罪ありて流されし身なれば、歸洛をまつなどいはむは、公におそりあるが故に、命のをしさにそらして、いとめゝしく詞をつけられし心のうちいかにくるしかりけむ。といとも/\あはれ也。かく歸洛をまつ情をさとして、あはれみをあつく謝せられたるを思ふに、上乃歌ぬしは都人にて、都よりみそかに贈りたるに答へたるなるべし。
 
右案(スルニ)2日本紀(ヲ)1曰天皇四年乙亥夏四月戊述(ノ)朔乙卯。三品|麻續《ヲミノ》王有(テ)v罪流(ス)2于因幡(ニ)1一子(ヲ)流(ス)2伊豆島(ニ)1一子(ヲ)流2血鹿《チカノ》島(ニ)1也是(ヲ)云(フハ)v配(スト)2于伊勢(ノ)國|伊良虞《イラゴノ》島(ニ)1者若疑(ラクハ)後(ノ)人縁2歌(ノ)辭(ニ)1而誤(リ)記(セル)乎《カ》。
 
この日本紀差異あり。四月甲戌朔辛卯三位云々とあり。
 
 天皇御製(ノ)歌
 
25、三芳野之《ミヨシヌノ》。耳我嶺爾《ミヽガネニ》。時無曾《トキナクゾ》。雪者落家留《ユキハフリケル》。間無曾《ヒマナクゾ》。雨者零計類《アメハフリケル》。其雪乃《ソノユキノ》。時無如《トキナキガゴト》。其雨乃《ソノアメノ》。間無如《マナキガゴト》。隈毛不落《クマモオチズ》。念乍叙來《オモヒツヽゾク》。 其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
 
  或本(ノ)歌
26、三芳野之《ミヨシヌノ》。耳我山爾《ミヽガノヤマニ》。時自久曾《トキジクゾ》。雪者落等言《ユキハフルトイフ》。無間曾《ヒマナクゾ》。雨者落等言《アメハフルトイフ》。其雪《ソノユキノ》。不時(95)如《トキジキガゴト》。其雨《ソノアメノ》。無間如《ヒマナキガゴト》。隈毛不墮《クマモオチズ》。念乍叙來《オモヒツツゾク》。 其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
右句々相換(ル)因(テ)此(ニ)重(テ)載(ス)焉
 
言、三芳野の三《ミ》乃義、まへに釋せり〇耳我嶺 眞淵云、卷十三に此歌と同じ詞なる歌あるに、御金高とあれど、金は缶の誤也。こゝに耳我とかけるにあはせてしらる。後世金のみ嶽といふは、吉野山中にも勝れたる嶺にて、即此御歌の詞どもによくかなへり。しかればいにしへもうるはしく御美我禰《ミミガネ》といひ、常には美我嶺《ミガネ》とのみいひけむ。そのみがねをみ金と心えたる後世心より、金嶽とはよこなまれる也。と萬葉考にみゆ。〇時無曾 或本の時自久曾《トキジクゾ》同じ。間無曾《ヒマナクゾ》もいひかへたまへるまでにて、ともに同じ。時自久《トキジク》は紀に非時とかけり。雪雨の時なくふるは高山のつね也。曾《ゾ》もじは、ふたつながら、よそには雨雪もかばかりひまなく、時なくふる事はなきをむかへて、曾《ゾ》とはおかせ給へる也。されば、ける〔二字傍点〕ともおかせ給へる也。計留《ケル》は、常に異なる事ある時にいふ脚結也。これらの義、くはしくは奥にいふべし。或本の等言《トイフ》は、人のしかいふよし也。此大御歌、其山道乎《ソノヤマミチヲ》とありて、芳野にての御歌とみゆれば、等言《トイフ》はかなひがたし。以上六句はよせにて、かく長々しきよせを置たまひしは、長々とおほせらるべき事あるに、かへ給へる也。上古人いと長きよせ多きは、皆長々しくいふべき事のはゞかりあるにかへたる也。されば、こゝも下に靈をとけるをみて、此よせの心を得べし。〇其雪乃 この四句は、上のよせを御思にかけ給へる也。或本の不時如は、「ときじきがごと」とよむべし。古點「ときじくがごと」とよめれど、上の時自久曾《トキジクゾ》は(97)久《ク》たるべきなり。こヽは「以緯」へかよはせずては語を成さず。これ「宇緯」「以緯」の常なり。經緯をまねびて此心をうべし。紀に「非時香菓」を、ときじくのかぐのみとよめる、乃《ノ》もじに繼がば、これも、ときじきのとよむべき理也。此紀に泥みて、古來此分別をしらぬ也けり。
〇隈毛不落 隈は道の隈なり。上にくはしくいへり。歌の句に、其山道乎《ソノヤマミチヲ》とあるが故に、おのづから道の隈とはしるければ也。大かた道の隈をいふは、道程の長きさとしなり。これはおはします道、多く隈ありて長けれど、ゆく/\しばしも忘れ給はぬさま也。〇思乍叙來 古點、來をくる
とよめれど、二言あまり、かつ、乎《ヲ》もじに照る所、る〔傍点〕もじなかるべき語勢なれば、久《ク》とよむべし此思ひ何事ともおほせられねば、はかりしるべからず。道の隈もおちず忘れがたくおぼしゝは何ならむ。なににもあれ、あらはなるまじき事がらなるべし。古人はかく、そのよしもいはぬ詞のつけざま多し。よく/\思ふべし。此おしはかりは此下にいふべし。乍《ツヽ》はすべて、思はぬすぢにのみつくかたち也。しばしなどは、忘れもすべきにとの御心よりおかせ給ひし脚結なり。叙《ゾ》は、そのしばしも忘れ給はぬを歎かせたまへる也。來《ク》とは、今世人の心にては、行《ユク》といふべき所のごとし。しかれども、此御歌あそばしゝは、いづかたかしらねど、その所までかく思ひつゝおはしゝよしなれば、來《ク》とはよませ給ひし也。かなたよりいふと、こなたよりいふのけぢめにて、古人は行《ユク》とも、來《ク》ともいへる事、その例ひくにいとまあらず。來《ク》と來留《クル》の別は、すべて留《ル》もじそひたる詞は、その事を下におくる義也。されば、現當の事は來《ク》といふべき也。此故に久《ク》とよむべしとはおぼゆる(98)也。〇其山道乎 其《ソノ》とは、前に三芳野之耳我峯爾《ミヨシヌノミヽカノミネニ》とよみませるをさしたまへる也。乎《ヲ》もじは、もはら、山路のさかしければ、そのくるしさに他念はあるまじき心をさとし給へる也。此句もと隈毛不落《クマモオチズ》の上にあるべきを、下に置給へる也。例の標實の法也。しかるに、上古に乎《ヲ》もじを用ひたるに、をはりに置はなちたる例あり。いはゆる神典なる「曾能夜弊賀岐袁《ソノヤヘガキヲ》」の類也。倒置の法とみても、さてありぬべし。これかみつ世の御歌なれば、かの例にもみるべし。もとしかはすべからぬものを、しかする心なる事、乎《ヲ》もじの本義なれば、用ひはなちもする也かし。此御歌、この乎《ヲ》もじ眼目なり。かゝる山路をくるにだに、くまも落ず、物思ひます御心のわりなさをさとしたまひしなり。
靈、この御歌、表は、このさかしき山路のくまもおちすおぼしつゞけらるゝ事のわりなきを、御みづから歎ますによみふせ給ひし也。しかれども、さる御款ばかりならば、ことさらに御歌とよませ給ふばかりの事ともおぼえねば、必定言外に御心あるべし。前にいひしが如く、たゞ思乍とのみあそばしゝは、うちみには戀の御歌なるべくみゆ。大友皇子の事によりて、わざと芳野に入らせたまひしなれば、その御歎の中なるにはゞかり給ひて、かくよませ給ひしにや。さらば、清御原にます額田王におくりたまへる御歌にやあらむ。又思ふに、もとこれ芳野にての御歌なれば、即御思は大友皇子の事にて、深く世中の事御心にかゝるをよませたまひしにやあらむ。もと此芳野に入らせたまひしには、深き御たばかりありての事なりければ、はゞかり給ひて、戀の御歌かと(99)もみゆるやうに、かくあそばしゝにや。しからば誰にかあらむ。その御たばかりの御心しりにつかはされし大御歌なるべし。此御思ひ、何のすぢともおほせられずて、たゞ思乍《オモヒツヽ》とのみあそばしゝが故に、たしかにははかり奉りがたければ、かく二案をしるしおく也。かへす/”\いへるが如く、かくはかりがたきは詞づくりの至妙ぞかし。
 〇此或本の歌もおなじ心なり。
 
 天皇幸2于吉野宮(ニ)1時御製(ノ)歌
 
同じ 天皇の、同じ吉野の幸の時の大御歌なるを、かく端作をかゝれむやうなし。されば、前の御歌とは、必別ある故なるべし。思ふに、前のは吉野にのがれ入ましゝ時の御歌なるべし。
 
27、淑人乃《ヨキヒトノ》。良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》。好常言師《ヨシトイヒシ》。芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》。良人四來三《ヨキヒトヨクミツ》
 
言、淑人とは、誰とはなけれど、いにしへありしうま人をさし給へる也。應神天皇の御記に、吉野宮をはじめて造らせ給ふ事みゆ。いと勝地なるが故に、よゝにこゝをめで給ひし所なれば、先帝たちのうちをさし給へるにもあるべし。〇良跡吉見而 跡《ト》は、こゝをよき所とての心也。【亡父、脚結抄に、いつゝのとといへるこれ也】吉見而は、まのあたり熟みて也。〇好常言師は、よく見て後、まことによき所ぞとさだめいひしを云。〇芳野吉見與 この芳野即、上の三句を冠りたるにて、よき人のよき所ぞとて(100)よくみて、げに/\よき所也と定めいひし吉野を。とつゞける也。吉見與《ヨクミヨ》とは、昔のよき人の如く、つら/\みよといふ也。〇良人四來三 古点は、よき人よきみとよめりお。しからば、從駕の人のうちに、さし給ふ人ありて、君とはおほせられしなるべし。されど、僻案抄に、此結句をよくみ〔三字傍点〕とよめるを、みを快からずとてか、御風といふ人、よくみつとよめる。しからば、上の叔人乃良跡吉見而《ヨキヒトノヨシトヨクミテ》を、今一たぴかへしたる也。これいとめでたし。「良人よ君」といふ事、上古の人、かく人にさしつけていふべしともおぼえぬがうへに、上よりの詞にて、その人をよき人とおぼすが故に、吉見與《ヨクミヨ》とおほせられし事はしるきをや。よき人は君なればとの心は、おのづからこもるべき也。大かたひとたぴいひてあかねば、二たびかへしていふ事、古人の常にて、まことは、その事を人にむねと思はせむの詞づくりなり。されば、昔もよき人のよくみたりし所ぞ。とくりかへしおほせられし、その人をよき人とおぼしめす御心を、むねと思はせむがため也。御詞づくり、めでたしともめでたし。今世、かくかへしていふを古體也と思へる人あり。更にすがたの事にあらず。古人詞づくりの一手段ぞかし。
靈、此大御歌、表は、この吉野は、よき人のよしとてよくみて、げによしといひし所なれば、よくみよ。かへす/”\も、よき人のよくみたりし所ぞ、と從駕の人のうちに、よき人とおぼす人ありて、おほせられしにて、御みづからはよき人にあらねば、此吉野をよくみて、げにもよしといはむは人がましければ、よくみてよしともえいはず、と御謙退に人にゆづり給へえう也。謙遜をあら(101)はにいふは、めでたきわざとこそ今人は思へ。所詮は、さかしらにおつれば、わが御國ぶりかくつゝしむとほしろさを思ふべし。されど、大かたの人だにあるを、帝にもましますを.吉野を勝地なりとめでたまはむは、何ばかりの事にもあらぬを、よき人めかむを、はゞかり給ひし御心ばせ、まことにかしこしなどもよのつね也。此かしこさを思ひて、世の淺ましき心がまへ詞づくりをはづべし。
 
紀(ニ)曰八年已卯五月庚辰(ノ)朔甲申幸2于吉野(ノ)宮1
 
藤原(ノ)宮(ニ)御宇天皇代 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 
 天皇御製(ノ)歌 持統天皇なり
 
28、春過而《ハルスギテ》。夏來良之《ナツキタルラシ》。白妙能《シロタヘノ》。衣乾有《コロモホシタリ》。天之香具山《アメノカクヤマ》
 
言、春過而 この集に、卷の十 寒過暖來良思《フユスギテハルキタルラシ》とよめるに同じ。しかるに、此詞後世直言をたのむめには、なでうことゝも思はず見すぐす詞なれど、春過ば夏は來べき事なれば、上世の人のかかる稚語いふべきにあらず。いはではえあるまじき事をすらいはぬが、上古のつねなるをや。されば思ふに春は過ても夏の來べき物ともおぼさゞりしおろかさをしめし給ひし詞なり。古人詞づくりの手段の至妙おもひしるべし。されば此詞は、いつまでも春なるやうにおぼしめしける心也。來《キタル》のたる〔二字傍点〕は、脚結也。漢籍をよむに、來の字をきたるとよむは誤也。たるはてゐる〔三字傍点〕、とある〔三字傍点〕をつ(102)づめたる詞也。このふたつにかなはざるは非也と心うべし。この來《キ》たるは、てある〔三字傍点〕のつづまれる也。良之《ラシ》は、上にくはしくいへり。夏來てある事の、十に七八しるき心也。〇白妙能衣の冠なり。たへは、布の古名なり。布の名とするはもと栲《タヘ》をもておれる故也。いにしへは布をのみ衣としたれば、衣の冠としたる也。くはしくは眞淵が冠辭考にみゆ。〇衣乾有 たり〔二字傍点〕はてあり〔三字傍点〕のつゞまれる也。夏來れば、去年より櫃などにいれ置て、かび臭きをほす也。くはしくは代匠記にみえたり。夏來てある事の、十に七八しるき證を擧たまへる也。上の春來良之《ハルキタルラシ》を、春きにけらしとよみ、此句を衣ほすてふ、と京極黄門はなほしたまへり。御心もありての事なるべし。されど思ふに、二の句|爾針《ニケ》をつけてよまむはいかゞあらむ。たる〔二字傍点〕も、つけてよむにはあれども、それにはこと也。又の四の句ほすてふにしたがはゞ、【てふは、もと、後世の誤也。そのゆゑは、止以布《トイフ》をつゞめたるなれば、止以《トイ》の反は、知《チ》也。されば、此集にはみなたゞ知布《チフ》とのみかけり。又|以《イ》をはぶきて、止有《トフ》ともあり。ち〔傍点〕をて〔傍点〕に誤傳へたるにや。】人のしかいふを、きこしめしたる心となる也。黄門の御心には、帝の御みづからみそなはしたるにては、かろ/”\しとおぼしての事にもあるべけれど、たとひ人のいふをきこしめしたるにもあれ、御みづからみそなはしたるによませ給はでは、夏來たるらしの證たしかならずみゆべければ、てふ〔二字傍点〕はしかるべからず。かみつ世には、後世の如く物深くのみはおはしまさで、人近くおはしまし、かつ、この藤原宮より香具山の麓の人家はみゆる所なれば、なか/\なるべしかし。〇天之香具山 かぐ山わたりの人家をおほせられたる也。古言の簡約思ふべし。是ひとへに言外を貴ぶが故也。
(103)靈、此大御歌、表は、猶春なりとおぼしめし、この香具山わたり衣ほしたるを御覽じて、夏來てあり。と時のうつれるを驚き歎じ給ひしなり。されば、上二句にのみ御心はあるにて、下はたゞ、夏來たるしるしとなる物を擧給へる也。かゝる類の歌、古くは多くあれば、たゞこれ、時のうつる感なりなど後世はいへり。されど、時のうつる感などは、心にこめてもやみぬべき事なれば古人時のうつるをおどろきし歌は、必その時のうつるにつけて、情あるが故なる事疑なし。さればこれ、何のゆゑとはさだかならねど、「春は」と人のたのめ奉れる事ありしか。又春のうちにと人に御ことよさし給ひし事のありけるが、それが期を過たりければ、その人をそゝのかし、その期おくれたるをうらませ給ふ御心なるべし。されど、直におほせらるれば、私におつべきが故に時のうつれるにのみ御詞をつけさせ給へる也。さだかに御心の知がたきは、倒語の所以。詞の至妙なる事かへす/”\いへるが如し。上古人の詞のつけざま、たふとしともたふとし。後世ながら、基俊ぬしの「あはれことしの秋もいぬめり」とよまれし、かみつよのなごりにこそ。
 
過2近江(ノ)荒都(ヲ)1時(ニ)柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作歌
 
古本、柿本朝臣人麻呂の七字過の字の上にありとぞ。いづれにもめるべれど、上にあらむもしかるべし。天智天皇六年、飛鳥岡本宮より近江大津宮にうつりまし、十年十二月崩御。明年五月大海人、大友二皇子の御いどみつひにたひらぎて、大海人皇子、飛鳥清御原宮に天下しろしめし(104)ければ、大津宮は、荒都と成けるなり。人麻呂は岡本宮の頃うまれ、和銅のはじめ、奈良へ遷都のまへにうせたりし人なり。
 
29、玉手次《タマダスキ》。畝火之山乃《ウネビノヤマノ》。橿原乃《カシハラノ》。日知之御世從《ヒジリノミヨユ》。【或云|自宮《ミヤユ》】阿禮座師《アレマシシ》。神之盡《カミノコト/”\》。樛木乃《ツガノキノ》。彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》。天下《アメノシタ》。所知食之乎《シロシメシシヲ》。【或云|食來《メシケリ》】天爾滿《ソラニミツ》。倭乎置而《ヤマトヲオキテ》。青丹吉《アヲニヨシ》。平山越而《ナラヤマヲコエ》。【或云|虚見倭乎置《ソラミツヤマトヲキ》。青丹吉平山越而《アヲニヨシナラヤマコエテ》】何方《イカサマニ》。所念計米可《オモホシケメカ》。【或云|所念計米可《オモホシケメカ》】。天離《アマザカル》。夷者雖有《ヒナニハアレド》。石走《イハバシノ》。淡海國乃《アフミノクニノ》。樂浪乃《サヽナミノ》。大津宮尓《オホツノミヤニ》。天下《アメノシタ》。所知食兼《シロシメシケム》。天皇之《スメロギノ》。神之御言能《カミノミコトノ》。大宮者《オホミヤハ》。此間等雖聞《コヽトキケドモ》。大殿者《オホトノハ》。此間等雖云《コヽトイヘドモ》。春草之《ワカクサノ》。茂生有《シゲクオヒタル》。霞立《カスミタツ》。春日霧流《ハルヒノキレル》。【或云|霞立《カスミタツ》。春日香霧流《ハルビカキレル》。夏草香《ナツクサカ》。繁成奴留《シゲクナリヌル》】百磯城之《モヽシキノ》。大宮處《オホミヤドコロ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》【或云|見者左夫思母《ミレバサブシモ》】。
 
言、玉手次、まへにいへり〇畝火之山乃 この橿原宮は神武天皇の大宮也。〇日知とは、からもじの聖といふ字をあてられたれば、聖の字の義也。とよに心えたれど、しからず。聖は人の極なり。これは、神にます神人の別雲泥なるをや。日とは、 天照大御神の御事也。此神の御心をしろしめして、その御心に隨ひ給ふを、日知とはたゝへ奉れる也。奥に、日之御子と多くよめるをおもふべし。此神の御たま、くはしく古事記燈にみるべし。これ 神武天皇をさし奉れるなり。從《ユ》はよりといふに同じ。 神武天皇以來といふ心也。もと、從《ユ》は余里《ヨリ》の余《ヨ》のかよへる也。されば(105)余《ヨ》ともよめり。されども餘里《ヨリ》と從《ユ》は別あり。その別とは「宇緯」「以緯」の別なり。くはしくは經緯をまねびてしるべし。御代/\の倭の皇居、この 帝よりおこれるよしをしめしたる也。或云の自宮 いづれにもあるべし。阿禮座師 阿禮《アレ》は生るゝ心なり。されどうまるゝは、母に所《ルゝ》v生《ウマ》義也。阿禮《アレ》は現《アラハ》るゝ義にて、母を主とし、子を主とするの別あり。〇神之盡 今本書とあれば、心えがたし。一本に盡とあるにしたがひて、こと/”\とよむべし。こと/”\は、こと/”\く也。神とは、御世々々の 帝を申す。紀に惟神《カムナガラ》、此集にも神在隨《カムナガラ》などいへるが如く、神の御心のまにまにおはしますが故に、やがて神とは申す也。御世々々悉く倭にのみ天のしたしろしめしゝをの心なり。この之もじにて、句とする心にみば、下につづく語意明らかなるべし。〇樛木乃 つぎつぎの冠に置たる也。樛は止賀《トガ》といふ木なるを、止《ト》を津《ツ》にかよはせて、いにしへは津賀《ツガ》ともいひしなるべし。彌《イヤ》は、里言にイヤがウヘニといふ心也。繼嗣《ツギツギ》には。御世々々御位をつがせ給ひしを云。こゝに倭爾而といふ事あるべき事なるに、上の從《ユ》、下の倭乎置而《ヤマトヲオキテ》にしるければ、はぶかれたる也。詞の有力おもふべし。天下《アメノシタ》を、後世|安米賀多《アメガシタ》とよめど、賀《ガ》の義かなはず。乃《ノ》とよむべし。乃《ノ》・賀《ガ》の別上にいへり。或云の食來《メシケリ》もさる事なれど、下の何方《イカサマニ》云々へうつる語勢|之乎《シヲ》の方、しかるべし。乎《ヲ》は、里言にノニといふ心なり。〇天爾滿 やまとの冠なる事上にくはしくいへり。倭乎置而《ヤマトヲオキテ》とは、おきては、此卷の末に「飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆《トブトリノアスカノサトヲオキテイナバ》」とあるに同じく、とゞめおく心也。ともにゆかぬ形容也。古言のみやぴ思ふべし。後世古今集に「秋を置て時こそ有けれ」(106)などよめる類は、除てといふほどの心也。この用ひざまとはたがへり。されど、もとはひとつの義也。〇青丹吉 是も前にいへり。平《ナラ》はならす義よりかける也。近江への路なれば也。乎《ヲ》もじ、以上三つともに、おもひもよらぬわざあそばしヽ心をさとすなり。或云には、而《テ》もじ、乎《ヲ》もじの置所上下せり。いづれにてもあるべき事のやうなれど、くはしく思へば、倭乎置《ヤマトヲオキ》の方には、而《テ》もじあるべく、乎《ヲ》もじは此句にもあるべき事、乎《ヲ》もじ、而《テ》もじの義におきて切なり。かくいふ故は平山《ナラヤマ》を越たまふまでには、くさ/”\の御わざあるべき事なれば也。而《テ》もじの心得、後世はしかありてかくあるなどいふ繋辭《ツナギ》とおもへれど、その間に、くさ/”\のわざ含蓄する事、而《テ》もじの專用なれば也。而《テ》もじの事、くはしくは、此末の藤原(ノ)宮(ノ)役民の歌にいふべし。〇何方 凡慮のはかりがたきよし也。里首にドノヤウエといふ也。御念食可《オモホシメセカ》は、おぼしめせばかの婆《ハ》をはぶける也。可《カ》は疑にて、下の所知食兼《シロシメシケム》のうちあひ也。〇天離 遠き所は、天もこゝとひとつの天にあらざるやうなれば也。から國にも各天といふがごとし、ひなの冠なり。ひなとは、都にむかへていふにて近江國をさす也。離《サカル》は、はなるゝを云。されどはなるゝとは別あり。そこをはなるゝと、双方へ引わかるゝとのたがひ也。裂の義をもおもふべし。〇石走 古訓は、石はしるとよめど、しかるべからず。石橋の假名なるべし。里言に飛越とて、石を川中に置ならべて、その上をわたるを云。その石必|間《アハヒ》あれば、あは海とはいひかけたる也。淡海の冠なり。あふみは、あはうみをつゞめたる名也。〇樂浪乃 さゝ浪は、志賀わたりの地名なる事くはしく代匠記にみえたり。後世(107)漣※[さんずい+猗]のことゝするは誤也。この集に、さゝら浪とよめる、それ也。樂をさゝとよめるは、神楽の採物に、篠あるが故也。と古説なれど、神樂の採物くさ/”\なるに、篠をしもとり出てうちまかせていはむ事おぼつかなし。此末に、神樂浪《サヽナミ》・神樂聲浪《ササナミ》などかゝれたる、聲といふ字篠にあらざるしるし也。されば思ふに、神功皇后の御紀の御歌に摩菟利虚辭彌企層《マツリコシミキゾ》。佐孺塢齋佐《アサズヲセササ》【長歌上略】また許能彌企能《コノミキノ》。阿椰珥《アヤニ》。于多娜濃芝沙作《ウタダヌシササ》【同上】とある、この佐佐《ササ》にて、里言にサア/\といふ是なり。促《ウナガ》す詞にて、かの御紀の御歌、皇太子に御酒《ミキ》をすゝめ給ふ御歌【次のは皇太子の御答歌を武内宿禰が代りてよめるなり】なるをおもふべし。もと神樂は、神典石屋戸の件濫觸なり。その石屋戸の前のわざをぎは、もはら天照大御神石屋声を出まさむ事を促がし奉るわざにて、天宇受賣命《アメノウズメノミコト》御手草《ミタグサ》に小竹葉《ササバ》をとり給ひしも【これ採物に篠ある本也。】佐々《ササ》の表事なり。されば佐々《ササ》といふ詞、神樂の本意なるが故にかくかられたるなるべし。かの古説、採物の篠によりたる、うつたへに非也ともいひがたけれど、本末のけぢめあれば今辯じおく也。大津は今の大津なり。爾《ニ》もじよくおもふべし。此宮にて天下しろしめすべき事とは、思ひもかけぬ事なるをいふ也。大かたその場處にはあるべからぬ處の場處となる事をさとす用也としるべし。〇天下 兼《ケム》は、上の可《カ》もじのうちあひ也。兼《ケム》はすべて、きしかたの事をはかる詞也。上の或云に所念計米可《オモホシケメカ》とあるも、猶その可《カ》、この兼《ケム》にうちあふ也。此句にて一段落とみるべし。兼《ケム》は上の可《カ》にうちあへるなれば、下につゞける句にあらぬ事しるく、又この句、次の句意もつゞかざるを思ふべし。下はあまり御心のあやしさに、その大宮み(108)むと大津に來し心を思はせたる也。これ上下の詞のうちあはぬ間にて、おのづからしるければそこは詞とせぬ事、上古の人の詞づくりのつねなり。〇天皇 天智天皇をさし奉れり。 天皇をやがて神と申す事、孝徳天皇の御紀に、惟神《カムナガラ》を自注し給ひて、謂d隨(テ)2神道(ニ)1亦自(ラモ)有(ルヲ)c神道u也とある心なり。御言《ミコト》は命《ミコト》と同。命は即御言の義なり。大かた、神は御身おはしまさねば、その妙用は人の言をかり給ふ也。【これ、私にいふにあらず。神典の心なり。くはしくは古事記燈にみるべし。】されど、からるべき人の言ならではかり給はず。御世々々の 天皇の御言は即神の御言なればかくは申す也。これを本義として、あがめていふ稱となれり。神代卷に、至尊(ヲ)曰v尊(ト)、自(ラ)餘曰v命(ト)と注せられしはうけがたし。古事記には、皆命の字を用ひられたるを正しとすべし。〇大宮者 此《コ》間とは、大津をさせる也 大殿者の上にも、天皇神之御言能《スメロギノカミノミコトノ》といふべきを、上にゆづりてはぶける也。宮殿は畢竟いひかへたる也。かく同じさまなる事を、二句いひかへてよめる事古人多し。後世人は、これをたゞ詞のあやなりと思ひ、から人のかく四六文などの如く心えたれど、さらに/\しからず。事を懇にいはむとする時のわざ也。同じ詞をかへすも同じ心得也。こゝも此宮なき事はあらじ。とねもごろにもとむる心を思はせたるにて、これ皆古人詞づくりの一手段ぞかし。雖聞《キケドモ》・雖云《イヘドモ》、いひかへたるのみにあらず。別あり。雖聞は、大和にて、はるかに大津也ときゝたれどもといふ也。雖云《イヘドモ》は、大津に來て、その人のこゝなりといひをしふれどもといふなり。これは、聞たがへ、いひたがへはあるまじき、聞たがへ、いひたがへかとおぼめける心也。〇春草之 この之《ノ》もじ、ふた(109)つ下の大宮處をむねとたてゝおかれたる也。これ之《ノ》もじの心得なる事前にいへるが如し。春草之茂生有大宮處《ハルクサノシゲクオヒタルオホミヤドコロ》・春日之霧流大宮處《ハルヒノキレルオホミヤドコロ》とつゞく心也。【春草は、はるくさともわかくさともよむべし。】下ひとつに、上ふたつをかくよする例多し。【上ひとつにて、下ふたつなるも、亦多し。】或説に、生有をおひたりおとよむべしとあれど、之《ノ》もじにうちあはず。又二句とも、之《ノ》もじある句法にあらず。うけがたし。春草之《ハルクサノ》云云は、大宮の草のたかきにかくれてみえぬさまになしていへる也。霞立《カスミタツ》云々は、春日のかすみて、大宮のみえぬさまになしていへる也。大宮のみえぬ事はいさゝかもいはず、たゞかくのどかにいふ。古人の詞づくりの至妙よくく味はふべし。之《ノ》もじふたつわざとかろ/”\とみゆるやうの手段、いふばかりなし。大かたまことは、大宮のあるがみえぬよしになして、詞をつけられたる、げに此ぬしのしるしはみゆかし。或云に、二句ともに香《カ》もじあるは、理はさるべき事のやうなれど、此本行の方まさる事雲泥|也。香《カ》とよまむは、心を用ひばまねぴもせらるべし。これは誰かはまねばむ。この易難をもて雲泥をしるべし。霧流《キレル》とは、さへぎる也。これ即かすむ事也。古くは秋に霞ともよめり。霞の義もと物を掠めてみせぬ故にて、きるも同じ心也。春を霞、款を霧といふは後世也。〇百磯城之、大宮の冠也。大宮は、百《モヽ》の石木をもてつくれば也と冠辭考にいへり。以上おかれたる冠辭あまた也。まへに冠辭を用ふる心得くはしくいへるが如く、これもひとつ/\いふべき事あるにかへられたる也。下に靈をとくを、以上の冠辭どもに照らしてみるべし。冠辭をかくあまたおかでかなはぬ所以あれば也。後世人古くかくあまた冠辭を用ふるをみて、よき事と心えて、なにのゆゑ(110)もなくて、歌文どもに冠辭多くおく。いとをさなきわざ也かし。〇見者悲毛 後世、かなしはただ、悲の養にのみ心うれど、此集に「かなし妹」、源氏物語に、「かなしくしたまふ御むすめ」古今集に「つなでかなしも」などの類皆ふかくそれを哀憐する心也。悲の字の義に用ひざるにもあらず。哀憐の極は悲しければ也。さればこゝもふかく心にかゝるよしをば、かなしとよまれたる也。毛《モ》はすべて、ナレドモ、ケレドモなどいふ心にみれば明らか也。亡父はサテモと譯せり。よく、此義心うれば、サテモの心となるが故なり。されば、こゝもみればかなしけれども、いかにともせむすべなき心也。ふかく心こもる脚結なれば、上古にはよみつめに、いと多かり。或云に左夫思母《サブシモ》とある、左夫思《サブシ》は後世さびしといふ詞の本にて、義は大にことなり。此集に、不樂とかけり。氣の落いり、氣のうかぬ心なり。
靈、此歌、表は 神武天皇以來、御世/\大和國にのみ天下しろしめしたれば、たゞその古きあとにしたがはせ給ふべきを、いかやうにおぼしめしたればか、ひななる近江國に遷都したまひけむ凡慮のはかり知がたさに、その大宮みむとおもへど、聞あやまりか。いひあやまりか。此大宮のみえぬは、春草しげく霞きりわたる故ならむ。いとも/\くちをしき事や。と此大宮のみえぬをかなしみたるによみふせられし也。されど、さるくちをしさばかりの事、歌によむべき理なく、太かた、神武天皇以來の事をいひ、その大宮のみえぬ事をなげかれたるさまを思ふに、初國このかた皇居し給ひし地をかへさせ給ひ、しかも、その大宮の今あともなくなれるは、ひとへに此(111)帝の御心がろくおはしゝゆゑなるべし。もし、御世/\の御あとに隨ひ給ひて、倭におはしまさば、かく荒廢する事もあらじか。どくちをしく思ふ心あきらか也。されど、此 帝をあはめたてまつるにおつべきが故に、かく遷都し給ひし御心、凡慮のはかりがたきに、その大宮のみえぬくちをしさを詞とせられたる、めでたしともよの常なり。終に毛もじをおかれたるは、この情を思ひ入らせむがため也。古人の脚結の用ひざま、これにてもよく/\味はひしるべし。
 
30、樂浪之《サヽナミノ》。思賀乃辛崎《シガノカラサキ》。雖幸有《サキクアレド》。大宮人之《オホミヤビトノ》。船麻知兼津《フネマチカネツ》
 
言、樂浪之 長歌にくはしくいへり〇思賀乃辛崎 此から崎はさきくあれどもといふ也。さきくビは、無v恙・無v事・平安などの事をすべていふなり。すべて幸ある事を云。せばき事をもひろく詞をつくる事、わが國の御てぶり也。その御世に、宮人の舟遊つねにせし所なればいふなるべし。畢竟こゝはから崎はその御代のまゝにてあるをいふ也と心うべし。○大宮人之 これは大津の宮の宮人を云。船は宮人の舟あそぴする舟を云。麻知兼津《マチカネツ》とは、まてども/\待久しきを云。里言にマチカネルといふは、人をまてどこねば、待かねて他出するなどいふ時にいへども、これは待久しくてまちあへぬにいたるべき勢なるをいふなり。津《ツ》は、上の軍王の反歌にくはしくいへり。宮人の舟つねによする所なれば、今もまつによむこずして、心の外にまちかぬる方につくをなげきたる脚結也。これまた、大倉の今も存してあるかたちになしてよまれたる、(112)長歌にいへるに同じ。さなくては、まちかぬるといふ詞活ざる也。なき物をあるにしてよむ事、古人詞づくりの一手段なり。たとへば、死者を活たる人としてよめる類の如し。かくいふにてこそあはれは深けれ。この妙理をわきまへずして、古註ども、倒語を殺せる事多きを思ふべし。しかのみならず、此歌、太かた、この麻知兼津《マチカネツ》を人麻呂ぬしのみづから待かねられたるやうにおもへり。しからず。思賀乃辛崎《シガノカラサキ》をたてゝよめる歌なれば、末まで辛崎を主とたてゝみるべき法なり。されば、これは人麻呂ぬしのまちかねられたるにはあらで、思賀《シガ》のから崎、かく、ありし世のまゝにさきくはあれども、大宮人の舟をまつらむに、心の外にまちかねたるさま、いかにから崎の心さぶ/\しからむ。とから崎をあはれみたる心をよまれたる也。非情を有情になしてよむ事古人倒語の一手段なり。奥にその所々にいふをみるべし。雖といふ字、から崎はさきくあれども、大宮人の舟をわれまちかねつといふ心にみる時は、雖の落居、語を成さず。前にいふがごとく、末までから崎がうへになす時は、雖のおちゐいとめでたきをもておもふべし。かゝるよみざま、後世倒語の道かくれてのちは、歌のやうにも思はぬ事となりにたり。くちをしき事どもなり。
靈、此歌、表は、おのれはさきくはあれど、大宮人の舟まちかねたる、いかにさぶ/\しかるらむと辛崎が心をあはれみたるに詞をつけられたる也。されど、から崎もと有情の物にあらぬがうへに、それが心をあはれむなど、歌としもよむべき情にあらず。必別に情あるべき事ならずや。(113)されば思ふに、これ非情の物をもて、有情のうへをおもはする法にて、もはら人麻呂ぬしの、此大宮の荒廢をかなしまれたる也。しかるに、あらはにかなしむ時は、猶、この 天皇をあはめ奉るにもあたり、又おのがさかしらにも落て、かなしむ情かへりてさかしらぐさのやうになるべきが故に、かくから崎のうへに詞をつけられたる也。此大宮の荒廢をかなしむ情をだに、かく詞にあらはさぬ上古の人のつゝしみの深さ、詞づくりの至妙おもふべし。
 
31、左散難彌乃《ササナミノ》。志賀能《シガノ》【一云|比良乃《ヒラノ》】大和太《オホワタ》。與杼六友《ヨトムトモ》。昔人二《ムカシノヒトニ》。亦母相目八方《マタモアハメヤモ》【一云々|將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》】
 
言、志我能大和太とは神代紀に、曲浦をわたのうらとよめるによりて、和太は入江の水の淀をいふと古註にみえたり。此説非なり。もと淀まぬ水にむかひてこそ、よどむといふ詮もあれ、もとより淀なるをよどむとはいふべき事にあらぬをや。かの曲は、七わたにまがれる玉などいふに同じからべし。一云、比良乃《ヒラノ》 無子細。しかるに、今思ふに、和太《ワタ》は、海を和太といふに同じく、渡の義なるべし。されば、大和太《オホワタ》は、大渡なるべし。大和田といふ所、三代格にむみえ、又淀に【山城】大渡などもいふぞかし。曲浦も、もどおのづからわたるに宜しきよりの名にもやあるらむ。いづれにもあれ。この大和太《オホワタ》の水はよどむ世なく、勢多のかたへ流るゝが故に、たとひ此水のよどむ世はありともと、もとよりあるまじき事を設ていふなり。古人この轍多し。「すゑのまつ山浪も越なむ」などよめる類也。〇昔人二 まことは、大津の宮の時の人をさしたるなれど、かく昔の人と(114)せまらずいふ事、古人詞のみやび也。〇亦母相目八方 母は、前にいひし如く本意別にあるにそふる義也。こゝもあはれぬに決したる事を本とたてゝ、亦もし逢はむ事あるまじきにもあらず、と思ふ心なり。八《ヤ》は亦もしあはれむかとうたがひて、さて向後たとひ大和太《オホワタ》はよどみてもあふ事はえあるまじき事なり。と人に決せしめむの心也。後世の也波《ヤハ》なり。心得まへにいへり。一云の將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》この八《ヤ》も、猶|八波《ヤハ》の也《ヤ》にて、母戸《モヘ》は於毛戸《オモヘ》の反切のまゝをかけるにて、これは「忘れて思へや」などよむたぐひにて、戸《ヘ》は、不《フ》を「衣緯」にかよはせたる也。これもまた、あはむとは思ふまじき事也。と人に決せしめむがため也。一首の意に妨なければ、いづれにもあるべし。この下句すべて、上句を蒙らせて解すべし。かくいふ故は、昔の人にまたあふべき事もと理なき事なれば、上句を蒙らせずしてときては、稚語なるをおもふべし。上古の人稚語を用ふる事なき事、前にかへす/\いへり。大和太《オホワタ》もしよどむ世あらば、昔の人にもあはるまじきにもあらじや、とさるまじき事をふたつむかへて、もしよどまばあはれむか。とその反を設出たる也。表の手段ながら上手の詞づくり、妙處を得たる事よく味はひしるべし。靈、此一首、表は、むかしの人にあはるまじき事いふも更なれども、此|大和太《オホワタ》のよどむ世もあらばあはれむやと人の決定を待たる也。されど、もとあるまじき事どもを設出たる事を、ことさらに歌とよむべき事ともおぼえず。さればおもふに、此|大和太《オホワタ》のよどむ世とてはあるまじければ、昔の人にあはむ事もまたあるべくもなき事をば、かくこと/”\しくよまれたるは、ひとへに、此大宮(115)の荒廢をかなしめる情なる事、方《モ》もじにもしるし。されども、直言すまじきは、上の歌にいへるに同じきが故に、つゝしみて、かく詞をつけられたる也。この荒都をかなしめる心いさゝかも詞にいでず。たゞおほらかに、昔の人にあはむ、あはじのあげつらひのうへにのみ、ひとへなる詞づくり、まことは、上のから崎の歌を、今一たびなげかれたる心なる事、言外にあふれてみゆ。すべて、詞のつけざま、凡を出たる事よく/\おもひしるべし。
 
萬葉集燈卷之二
 
(117)萬葉集燈卷之三
             平安 富士谷御杖著
本集卷之一 其三
 
高市古人《タケチノフルビト》感2傷(シテ)近江(ノ)舊堵(ヲ)1作歌 或書(ニ)云高市(ノ)黒人《クロビと》.
 
32、古《イニシヘノ》。人爾和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》。樂浪乃《サヽナミノ》。故京乎《フルキミャコヲ》。見者悲寸《ミレバカナシキ》
 
言、古訓は、ふる人にわれあるらめや。とあれど、らめ〔二字傍点〕をつけてよむも理なく、義もかなはず。古今六帖に、上を、いにしへの〔五字傍点〕とよめるが正しかるべし。されば、「いにしへの人にわれあれや」とよむべし。此よみ人の名、古人といふより、古訓はしかよめるなるべけれどうけがたし。古の人とは、大津宮の世の人をいふ也。その世の人にてわれあらば、此故京をみても悲しかるべき事なれど、さにもあらぬにかなしきは、心えがたき事やといふ也。安禮也《アレヤ》は、安禮婆也《アレバヤ》をはぶける也。哉《ヤ》は疑なり。〇樂浪乃 まへにいへり。〇故京乎の乎もじ.心をとどむべし。われ、今の世の人なれば、この大津宮のあれたるをみたりとて、かなしくはあるまじき事なるを、との心もはら此乎もじにあり。悲寸とゝぢめたるは、上の疑の也《ヤ》のうちあひの法なり。
(118)靈、此一首、表は、大津の宮の世の人ならば、此都の荒れたるが悲しかるべき理なり。しかるに、その世の人にもあらぬに、この故京のいたくかなしき、その理のあたらぬをばあやしみたるによみふせたる也。されど、このあやしみを解得たりとて、何の益もあるまじき事がらなるは、これ本情にあらざる所以なり。されば、本情は深く此荒都をかなしめる事を述たるなれど、いさゝかも詞にあらはなれば、上の人麻呂ぬしの歌に釋せるが如く、さばかりの みかどをあはめ奉るにもおち、おのがさかしらにもなりぬべきをおそりて、かなしきが不審なる一すぢにのみ詞をつけられたる也。此詞のつけざま容易の構思とはおもはれず。古人、詞に公私をそなふる手段の絶妙よく/\鰺はふべし。
 
33、樂浪乃《ササナミの》。國都美神乃《クニツミカミノ》。浦佐備而《ウラサビテ》。荒有京《アレタルミヤコ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》
 
言、樂浪 まへにくはしくいへり。これはやがて、さゝ浪の國とよめるをもおもふべし。いはゆる吉野の國・泊瀬小國などよめるに同じ。都《ツ》は、時っ風・天津風などいふ津《ツ》もじに同じく、そこにのみつくをさとす脚結なり。されば、此神は此樂浪の國をしもうしはき給ふ神を申す也。美はたたへ奉りていふ也。〇浦佐備而は、浦《ウラ》は假名にて、前の卜歎《ウラナゲ》の下にいへるが如し。表にむかへて人の目に見えざる所を云。さればこゝろに思ふ所をいふ也。佐備《サヒ》は、神典【古事記上卷】に「勝佐備《カチサヒ》」その外、をとめさび・をとこさび・神さび・翁さびなどに同じきを、これらには同じからずとて、不樂《サブシ》・(119)不怜など此集にかけるい心にて、なぐさめがたき心也といふ説あるは、くはしきが如くにして麁なり。もと、佐失《サフ》といふは銅鐵などのさびといふが如く、内なる物のおのづから外にうかびいづるを云。さればこゝは、國津御神の御心のうちにおぼす事の、おのづから外にうかび出たるよしを云也。國津御神の御心のあらび、つひに世の亂もおこりて都の荒たるをいふ。國津神、もと神典に於此國道速振荒振國神等之多在是使何神而將言趣《コノクニゝチハヤブルアラブルクニツカミダチノサハナルコレイヅレノカミヲツカハシテカコトムケム》。とみゆるをはじめ、すべてはじめをはりたゞことむけやわ(は?)しかたきは國津神なるよし、神典中にむねととき給へり。されば、ここに國津御神とよまれしも、もとやはしがたき神としていふにて、さる故に、浦佐備而《ウラサビテ》とはよめる也。たゞうら〔二字傍点〕とばかりよめれど、さるやはしがたき神の御心のあらびの、外にうかびたるをいふ也としるべし。この國津御神あきらかならざるが故に、古註ども、皆|浦佐備《ウラサビ》の義もくはしからぬなり。而《テ》もじ、上にいへる如く、直に下につゞく義ならぬをしるべし。荒有京《アレタルミヤコ》といふが中にも神のあらび給ひての事なるをもちてみるべし。多流《タル》は、※[氏/一]安流《テアル》をつゞめたる脚結なり。〇見者悲毛 こゝまでも、國津御神の御あらびをかけてみるべし。毛《モ》は、上にいへるがごとく、かなしけれどいかにともすべきよしなき歎なり。
靈、此歌、表は、この大津に都し給ひしが、國津神の御心にかなはずして、あらびます御心つひにことむけがたくて、此都のあれたるせむすべなさを、ふかく歎たるによみふせられし也。されどしからば、たゞ歎きてもやみぬべきを、歌としもよまれしは、必別に本情あるが故なる事しるし。(120)されば思ふに、これまた、此宮の荒廢を、ふかくをしみなげかれたる歌也。されどこれも、上と同じはゞかりに、かく國津神の御心になしはてゝ詞をつけられたる、まことに常人の企及ぶべからざる手段なり。後學よく/\この倒語の至妙をおもふべし.
 
幸2于紀伊(ノ)國1時|川島《カハシマノ》皇子御作歌 或(ハ)云山上(ノ)憶良(ノ)作
 
この幸は、 持統天皇也。川島皇子は、 天智天皇の御子也。
 
34、白浪乃《シラナミノ》。濱松之枝乃《ハママツガエノ》。手向草《タムケグサ》。幾代左右二賀《イクヨマデニカ》。年乃經去良武《トシノヘヌラム》 一云|年者經爾計武《トシハヘニケム》
 
言、白浪乃云々 仙覺抄すでに、白浪の濱松がえといふつゞき、おぼつかなきよしいへり。眞淵は浪は良の誤にて、紀國なる白良《シララ》の濱にや。催馬樂に紀の國の之良々《シララ》の濱とあるによりていへり。しからば、四言によむべし。しかるに、此集卷九に、この歌、白奈彌之《シラナミノ》とていでたり。されば猶、白浪乃《シラナミノ》なるべくはおぼゆれど、おなじ卷九に、同國に白神《シラカミ》の磯とよめれば、それも那《ナ》は加《カ》の誤にて白加彌之《シラカミの》にやあらむといへり。これによらば、もし浪は紙などの誤にもやあるべき。千蔭は猶、白浪のよする濱といふべきをはぶけるが、かへりて古意ならむといへれど、なほ眞淵がいへる如く、古き詞つきとも覺えぬ事也。また宣長は、古事記なる「幣都那美曾爾奴伎宇※[氏/一]《ヘツナミソニヌギウテ》」とあるによりて、浪といふにしたがはれたれど、これは衣をぬぎ棄るさまをたとへたるにて、據とはしがたくや。土佐日記の「浪の礒には」とあるをもひかれたれと、それは、此京になりての詞つきぞかし。(121)新古の別よくおもひわくべし。眞淵が説、なほみどころありといふべし。濱松之枝《ハママツガエ》は、濱に生たる松の枝なり。此集卷九には、此歌|松之木《マツノキ》とあるを、古本には松之本《マツガネ》とあり。松がねとよむべし。さればこゝの枝も、根の誤にて、松が根なるべしといふ説みどころあり。されど、そこにこの濱松のもとにて、手向せさせ給ひし事を傳へいふを聞きたまひて云々。と註したるは非なり。乃《ノ》もじ、此松がねにてたむけせしを、乃《ノ》とはいふまじきをや。予、根をしかるべくおもふ心は、下にいふべし〇手向草 草は假字にて、種《クサ》なり。たむけに用ふる具を云。たむけとは、旅だつ時山上にてする祭の名なり。又首途ならでも、大かた、旅路の無恙をいのるにもいへり。後世、神などに物たてまつるを、たむくといふは誤也。此集卷十三に「相坂山丹《アフサカヤマニ》。手向草《タムケグサ》。※[糸+系]取置而《ヌサトリオキテ》云々」とよめるをみれば、ぬさも手向ぐさのうちなるべし。代匠記には、くさ〔二字傍点〕はそへたる詞にて、松を云。松をむすびてたむくる也。此集卷二に、有馬皇子「磐白乃濱松間之枝乎引結」とよめりといへり。此説うけがたし。乃《ノ》もじ、手向草乃松とあらばこそあらめ。又かの有馬皇子の結び給ひけむは、又かへりみむのしるしにとこそはむすぴ給ひけめとぞおぼゆる。これは、松がねにおひたる手何に用ふる物をいふなるべし。されば松之根のかた、心ひかるゝなり。〇幾代左右二賀云々 この濱松のあたりにてたむけせしは、今は幾代までになりぬらむと云也。此卷の上に、齊明天皇紀(ノ)温泉の幸あり。又中皇女命紀(ノ)温泉におはしての御歌あり。 齊明天皇はこの川島皇子の御祖母にまし/\、中皇女命は御伯母なり。されば、 齊明天皇・中皇女命などの紀(ノ)國におはし(122)しついで、此濱松のあたりにてたむけせさせたまひし事をよませ給へるにこそ。左右《マテ》は、眞手の心にてかゝれたる字なること、前にくはしくいへり。集中、左右手《マデ》ともかけり。此脚結は、大かた限あることの、その限を超てのかなたの限をさす詞也。年ふるといへど、大抵かぎりあるべき事なる、その限を超たる限をさして、幾代左右《イクヨマテ》とはおほせられたる也。さまではおほせられずともありぬべき所のやうなれど、これは、この御歌の情、たゞいく代へぬらむとのみにては切ならぬが故なり。猶下に、情をとけるにてらして心うべし。賀《カ》は疑のか也。この字濁音なれば、加を誤れるなるべし。その經たりし年のほどをしらむとおもふには、也《ヤ》も同じけれど、幾・何・誰などの類の疑の詞の下には、必|加《カ》をおくべき法なるがうへに、いく代といふばかりの年の數は、大抵もはかりしらるゝ心にいはでは、情に切ならねば也。奴《ヌ》は上にくはしくいへるがごとく、年の經ぬるまでの間に御心はあるなり。これもはら情にあづかる所也。一云の者《ハ》もじにては、年の方むねとなり、乃《ノ》といへば、經ぬる方むねとなるがたがふ也、乃《ノ》とある方あはれなるべし。良牟《ラム》・計牟《ケム》、情においていづれにもあるべし。
靈、此御歌、表は、この濱松がねなる手向草のたむけに用ひたりしより、今はいくよといふばかりまでにか年のへぬらむ、とその手向草のひさしさをおぼすによみふせ給へるなり。されどこれ、歌とよむばかりの事がらにあらねば、必別に情あること明らかなり。されば思ふに、上にいへるが如く、 齊明天皇・中皇女命などの、こゝにて手向せさせ給ひしも、今はかくれたまひて、年(123)いたくふりにしかば、その御うへをしのび給ふ御心を述たまひし御歌なるべし。もし、この御うへどもにはあらずとも、必ふりにし人をしのぴ給ふ御心にはうたがひなき也。しかるにいかでか、かゝる御詞はつけたまへるぞといふに、今 持統天皇の幸の御供にて、かの御うへどもをしのばせ給ふは憚あれば、この手向草のいくよといふばかりまで年經たるらむ、となか/\はかなき物のひさしきをもて詞とはし給へるなり。されば、これ畢竟懷古の御歌なるに、うはべはいはひ歌のやうなる詞づくり、此集卷二、比賣島にて、女の屍をみてよめる歌のたぐひ也。上古はかゝる歌多し。古人の倒語をみむは、たやすからぬ事なり。後世人こそ、かゝはりもなき物どもを、題にひかれては、よしもなき歌をもよめど、古人は、さるはかなきわざかつてせざりしかば、もしかゝる御歎をはばかり給へるにあらずば、何のゆゑありてか此手向草の經たる年をばはかり給ふべき。この故に、幾代左右二賀《イクヨマデニカ》とは、こと/”\しくよませ給へるけり。かの御うへどもの御歎なるをば、かく手向草の久しきうへにのみ御詞をつけられて、今此幸のはゞかりをそこなひ給はず。此詞づくりのさま、よく/\めをも心をもとゞめて思ふべし。
 
日本紀(ニ)曰朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸2紀伊(ノ)國(ニ)1也
 
越(ル)2勢能《セノ》山(ヲ)1時|阿閇《アベノ》皇女御作歌
 
この皇女は、川島(ノ)皇子と御兄弟也。此幸の時ともに御供なりけるなるべし。日並知(ノ)命の御妃(124)文武天皇の御母なり。
 
35、此也是能《コレヤコノ》。倭爾四手者《ヤマトニシテハ》。我戀流《ワガコフル》。木路爾有云《キヂニアリトフ》。名爾負勢能山《ナニオフセノヤマ》
 
言、此也是能とは、これがこの何か、と下の詞にかけていふ詞也。也《ヤ》は疑なり。これとさすは、なにゝもあれ物ひとつをさしていふ也。「この」とさすは、その「これ」とさしたる物の據をさす也。その據をいふはすべて新意也。後撰集に、蝉丸「これやこのゆくもかへるもわかれつゝ」とよめるも、「これ」とは遇坂の關をさし、「この」とは、その名のよしをさしたる也。この遇坂の名は、もと忍熊王の軍と、こゝにあひしよりの名なる事 神功皇后の御紀につまびらか也。しかるを行人のゆきかひにあふ故の名かといへる、これ新意也といふ所以也。こゝも、此勢の山を、夫君《セノキミ》と同等の名かとよませ給へるなり。その例正しき事おもふべし。〇倭爾四手者とは、爾四手者は、里言にデハといふ心也。御客中にむかへてよませ給へる也。御客中にては、夫君の御事もおぼしたえておはすさまを此脚結にさとし給へる也。これひとへに表をつゝしみ給ふ也。されどこれ、詞にあらはなれば、かへりて天津罪をうべし。此けぢめくはしくおもひしるべし。〇我戀流 この句は、下の勢《セ》につゞきて、わがこふる所のわが夫《セ》の關(?)といふ心なり。十一字は挾める也としるべし。〇木路爾云々 木は仮名にて紀路也。有也《アリトフ》は、ありといふの「い」をはぶける也。「ちふ」ともよむべし。紀路にさる山ありと、人のいふをかねて聞おかせ給ひしをおほせられし也。〇名爾負勢能山 上にいへるがごごく、倭にしてはわがこふる夫《セ》を、名におふ山かとの心也。(125)初五の也もじ、此山といふ字までにかゝりて、名におふ勢の山か。との心也。
靈、この御歌、表は、此山の名、やまとにては、わが戀ひます夫《セ》の名同等の名したる山、紀路にありとかねて聞おかせ給ひしが、此山即かねて聞及びたる山か。と山の名を問ひあきらむるうへによみふせたまへる也。されど、山の名をとひあきらめむばかりの事、こと/”\しく歌としよむべきにあらねば、必別に情ある事しるし。されば思ふに、御旅寢夜を經て、夫君のこひしさ堪がたき御心を述たまひし也。されどこれ、いさゝかも詞にあらはすべからぬは、幸の御供にはべり給ひて、夫君をこひ給ふは、御心供奉に薄くきこゆべければ、つゝしみて、かく山の名の事にのみ御詞をつけられたる、まことに古人倒語の用ひざまいとみやびたり。上にいへるがごとく、爾四手者といふ脚結、やままとにては戀ひたまひ、今この御客中にては思ひ絶ておはすさまをおもはせ給ひし、ひとへに山の名の事に、御心ひたふるなるさまにみえむの手段也。心ざしあらむ人は、よく此御詞づくりをおもひしるべき也。この言靈の事、後世人はうくまじき事なれど、紀路には、この山ならでも、名高き山は多かるを、此山をしもとはせたまひしは、必ゆゑなくてはあるべからざる事を思ふべし。たゞ山の上の御歌也。とみゆるやうにあるこそ此御歌のすぐれたる所なれ。しかみゆとて、しかなりと誣ふるは後世心なり。やまとにしては戀ふとおほせられし夫君《セノキミ》は、日並知命なるべし。さればおもふに、此御歌は、便につけて夫君におくらせ給ひし御歌なるべし。日並知命、この御歌をみそなはしたらむに、いかばかり、此皇女の御つゝしみをば、心くるしく(126)おぼしけむ。歌はおほかた、その情いさゝかも詞にあらはれぬは、その心のうちふかく思ひはからるゝぞかし。
 
幸2于吉野(ノ)宮(ニ)1之時柿本(ノ)朝臣人麻呂(ガ)作歌二首并短歌二首
 
36、八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王之《ワガオホキミノ》。所聞食《キコシヲス》。國者思毛《クニハシモ》。澤二雖有《サハニアレドモ》。山川之《ヤマカハノ》。清河内跡《キヨキカフチト》。御心乎《ミコヽロヲ》。吉野乃國之《ヨシノノクニノ》。花散相《ハナチラフ》。秋津乃野邊尓《アキヅノヌヘニ》。宮柱《ミヤバシラ》。太敷座波《フトシキマセバ》。百礒城乃《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤビトハ》。船竝※[氏/一]《フネナベテ》。旦川渡《アサカハワタリ》。舟競《フネキホヒ》。夕川渡《ユフカハワタル》。此川乃《コノカハノ》。絶事奈久《タユルコトナク》。此山乃《コノヤマノ》。彌高思良之《イヤタカカラシ》。珠水激《イハバシル》。瀧之宮子波《タギノミヤコハ》。見禮跡不飽可母《ミレドアカヌカモ》。
 
言、八隅知之 まへにいへり。〇所聞食 きこしをすとよむべし。食國とて、領じたまふ國をいふ也。吉事記上卷に夜之食國《ヨルノヲスグニ》あり。〇國者思毛 しもといふ脚結の事、脚結妙にくはし。多かる物の中に、ひとすぢに心のそふさまをさとす詞也。拾遺集に「あまたみしとよのあかりの諸人の君しも物を思はするかな」とよめるに思ふべし。土左日記に「春の海に秋のこの葉しもちるらむやうに云々」とかける、舟の多くこぎいづるさま、たとへむ物も多かれど、秋の木葉しも似たりとの心也。春なるに、秋のものもてたとへたる、この思毛《シモ》の脚結の義をつくされたりといふべし。されば、此脚結この用ひざまの如く、それにはかぎるまじき物なるを、とりたつるよしをいふ詞(127)也。としるべし。こゝに、國者思毛《クニハシモ》とよまれたる思毛《シモ》の義は、 帝と申せども、御不足におぼすに、物もあるべけれど、ひろき天下の事なれば、國にかぎりてはよき國も多くあるにといふにて、そのよき國多かる中に、吉野國をはすぐれてよき國也とおもはせむがため也。後世心ならば、秋津乃野邊爾思毛《アキツノヌベニシモ》とそこにこそおかめ。こゝに思毛《シモ》をおかれたる詞の力思ふべし。亡父これを譯してニカギツテといへり。吉野をしも、 帝の御心とゞめさせ給ふをむねといふ事、此歌の主意なりく。くはしくは、下に情をとくにしるべし。澤二《サハニ》とは、多くといふ心也。されど、多しといふ詞も、いにしへならび用ひたるを思へば、必別あるべし。多きの古語也と思ふはくはしからず。思ふに、多しは數の多き事也。澤《サハ》は乏しからぬ心にて、數にはあづからずとおぼし。又ふさ〔二字傍点〕といふ詞も此類也。それは、里にフツサリといふ心にて、その物のかさにていふ心とおぼしき也。山川云々 かはのかは濁りてよむべからず。山と川ふたつをいふ詞なればなり。濁る時は、山にある川といふ義と也。【濁音の義、すべてかくのごとし。山櫻もさもじ濁れば、山なる櫻といふ心也。さもじ清《ス》みてよめば、山と、さくら、ふたつの事となるがごとし。】清河内跡とは、山と川の清くてめぐれる地なれば、よき地なりとおぼしての心也。河内とは1河の内といふにて、即川のめぐれるを云也。神武天皇の御紀に、東(ニ)有2美地1蒼山四周。とあるも、山川のめぐれる地はよき地なる所以也。これたゞ地のおかしきを賞するにあらず。山川あたりに近ければ、山より材を生じ、川より魚を生じなど、よろづたよりよき地なればなり。跡《ト》はいつゝのと〔右・〕のうち也。まへにくはしくいへり。これは、 帝の此吉野をしも御心づきにおぼす所以をはかり(128)奉りていふ也。この脚結もはら靈にひゞきたり。〇御心乎云々 乎もじかうやうの冠に用ひたるは、つねにたがへるやうなるもある也。これは御心のよきといふを、かく乎《ヲ》もじをおかれたる也。しかるを、乃《ノ》もじをはたらかせて、乎《ヲ》とよまれたる也。又御心をよすといふ心につゞけたるにや。しからば、みし・きかしなどのしもじにて、よしはよせさせ給ふといふほどの心也。いづれにもあるべし。これは冠詞ながら、この一時の冠なり。冠なりと心得て、ひろく用ふまじき也。吉野國吉野は郡の名にて、國にはあらねど、郡郷などを國といふ事、いにしへは常也。前にもいへるが如し。堺をたてゝ人のすむ所はなべて國といひし也。〇花散相云々 これを花ちるといふをのべていふ也、と近世の學者みないひ、人も皆それを信じたれど、延約の事、義なくてはあるまじき事予が隨筆にもいへり。大かた、留《ル》は「宇緯」なり。良《ラ》は「安緯」。不《フ》は「宇緯」の音なるに、これ同義にあらむやうなし。よく/\かへりみるべし。この良《ラ》は、里阿《リア》をつゞめたるにて、花ちりあふをちらふといへる也。きりあふをきらふといふに同じ例也。やがて、その時のさまを冠らせていふ也。霞立春などの類也。下に、吉野の幸をあまたあげられたるをみるに、これは、三年八月の幸の時にやありけむ。秋津野は即吉野にあり。此野の名のもとは、雄略天皇の御紀にみえたり。野邊の邊《ベ》は、方の義也。方角をさしさだむる脚結也。他の方にわかちたる事、もと上の思毛《シモ》は、此秋津の野べにしもといふべき心なる事、上にくはしくいへるがごとくなれば、此|邊《ベ》もじ、即|思毛《シモ》の照應にて思毛《シモ》にかへたる心にみるべき也。〇宮柱云々 是は、(129)芳野の離宮の事也。太敷座波《フトシキマセバ》は、布斗斯里《フトシリ》といふに同じく。その宮をやすくしろしめすを云也。神典に【古事記上卷】 於底津石根宮柱布斗斯理於高天原氷椽多迦斯理而《ソコツイハネニミヤバシラフトシリタカマノハラニヒキタカシリテ》云々。とあるよちいふ詞なり。この詞の事古事記燈にくはしくいへり。その大要をいはゞ、地氣は天上に達し、天氣は地底に達するを形容したるにて、わが御教の要語也。されば後にもかく、 みかどの御うへにのみ申すも、この故なれど、かく後に歌によめるは、歌の上にはしひてこの本義にもよらずして、ただ みかどの宮處しろしめす事にいへり。ある註に、高知・高敷などに同じ語也とあれど、もと、高、建《タケ》のうつれるいつ/\しき義也。太《フト》は細きの反にて、心ぶとき義也。【笠紫人は、大小を、ふとしほそしといふ。これ、大小の義なるべし。】この説くはしからずかし。波《ハ》もじは、下に、大宮人のいそしくつかへまつる事をいはむ爲也。〇百礒城乃云々 まへにいへり。大宮人とはすべて百官を云。こゝは從駕の人たちをいふ也。 帝のここにませば、こゝにて宮人のいそしきさまを云。もはら みかどの御徳をいふ也。〇船並底云々 並・競は、並は舟の多かるをいひ、競はわれさきにつかへむとするさまを云。ともにいそしきさまをいふ也。旦川・夕川わたるは、此離宮へ川をわたり來て、朝夕いそしくつかへまつるをいふ。川のかなたにやどりしたる人々なるべし。又京よりも、代替してつかへにまゐるをいふにや。旦夕をいふは、今もする如く、諸官人、旦あるひは夕なと、時をさだめてかはりて勤仕するをいふか。又おはせごとありて、事わきまふるとて、旦まゐり、夕まゐるもあるにもあるべし。これらをひろくふくみてみるべし。渡の字、上のは和太利《ワタリ》とよみ、下のは和多流《ワタル》とよむ(130)べし。上は「伊緯」たるべき事語をなす常なれば也。さればこゝにて句とすべし。〇此川乃云々 乃《ノ》はふたつながら、よせの乃《ノ》也。ノ如クといふ心なり。この四句は、川の如く、山のごとくたゆる事なく、いや高くあるべきよしをいふ也。これは此離宮の事也。これ上の句をうけてそこよりうみ出たる四句なり。爰におはせば、こゝに、かくいそしくつかへまつるばかりの御徳にませば、此宮なほ此後も絶る事なく、いや高くあるらしとの心也。彌高とは、前にいへるが如くいつ/\しき義也。良之《ラシ》はらしきの心にて、未然をはかりていふ也。此|良之《ラシ》の義、下に情をとくにてらして思ふべし。〇珠水激云々 古點たまみづのとよめれど、いはばしると眞淵がよめるに從ふべし。石はしる水の、玉なすさまをもてかける字なるべし。瀧之宮子波《タギノミヤコハ》 今、夏箕川の下に、宮の瀧村といふ所あるはこの宮の跡ならむといふ説あり。猶よくたづぬべし。一夜にてもみかどのおはします所は、都をなす故にやがて都ととなふる事上にいへるがごとし。波《ハ》もじおもくみるべし。行宮も所々にありて、いづこも/\おかしからぬにはなけれど、との心なり。猶下に、情をとくに照しておもふべし。〇見禮跡不飽可母とは、いかばかりおかしき物もいくたびもみればあくならひなるに、との心をもちていふなり。可母《カモ》は、上にいへるがごとく、すべて事の常にたがひ、理のあたらざるを歎ずる詞也。こゝはいくたびみてもあかざる事大かたの地にたがへるを歎じたるなり。
靈、此歌、表は、帝のこゝにしも御心をよせさせ給ふもことわりや。とこの吉野の絶勝の地なる(131)事を感歎したるによみふせられたる也。されど、この地を賞歎するばかりの事がらを、古人こと/”\しく歌によむものにあらねば、必別に情ある事しるし。さればおもふに、大宮人者云々の句には、 帝の御徳化をたゝへ奉れるやうなれど、諸臣各家をさかりをり、その勞いふばかりなきを思はれたる情しるく、又此川乃云々の句には、此離宮のさかえむ事をほぎ奉れるやうなれど其後もたび/\幸まさむ事を心ぐるしくおもはれたる情みえ、又このよし野かばかりの勝地なるが故に、數度の幸ことわり也。と思へる心のやうなれど、かゝる勝地ならずは、數度の幸もしたまはじとの情みゆ。その外、脚結どもの義にも情はしるし。もと、幸はから國にて巡狩などいふが如く、國のさまをも御覽ぜむためにはしかるべけれど、しからば、國団々・所をかへつゝおはしますべきに、此吉野にしも數度幸したまふは、たゞ此勝地を賞したまひての事なれば、ひとへに御みづからの御心をやらせ給はむ爲ばかりなる事しるし。しかるに、そのたび/\費も多くかつ從駕の人々おほせ事なればやむごとなしとはいへど、各家をさかり勞もすくなからず。又幸のたびには、その國の守・國民までも加恩はありといへども、國守・國民にいたるまで、そのたび/\役せらるゝのみならず、心をも勞し費も多きに、 帝は、まのあたり臣民のいそしきをみそなはして、さる事あらむともおぼしめさず。いよ/\幸もたびかさなるべきをわぴしくおぼゆるより、大かた、此芳野の勝地なるさへ、うらめしきまでにおぼゆる心をば述られたる也。臣民うらめば、 帝の御徳もそこなはれたまはむがかしこさに、諫をも奉らまほしき心なるべし。(132)かくいふ所謂は、此下、石上麻呂卿の從駕作歌の左註に、紀の朱鳥六年伊勢國の幸を、三輪朝臣高市麻呂冠位を脱し、朝に※[敬/手]て「農作之前車駕未可以動」と申ししかど、帝したがひたまはず。つひに幸し給ひし事もみゆればなり。その直諫の行はれざりしと、此歌の言外なるとをくらべて、わが御國ぶりのかしこさ、よく/\思ひしるべし。この歌の言靈の妙用ありき、なかりきはしらねど、しるしはなくとも、妖氣にはあたるべからず。直と倒の別、かくの如し。くはしく辨ふべし。
から國にては、かゝるすぢの事、顔ををかし用ひられざる時は、死を以ても諫るをば臣の道なりと心えたれども、わが御國ぶり、直言は詮なくて、しかも弊あることを明らめて、倒語の用はじまれる御國ぶりなるが上に、人麻呂ぬしもと高官にもあらず。いよ/\諫奏したてまつるべきにあらざるが故に、かくのごとく詞をつけられたる也。大かた詞のうちあひ、脚結の置ざまなどにもとつ心はみゆる事、よく/\古人の詞づくりをみしりてさとるべき也。猶この奥にも、幸をわびたる歌あまたあるをもて、思ひあはすべきなり。
 
 反歌
37、雖見飽奴《ミレドアカヌ》。吉野乃河之《ヨシヌノカハノ》。常滑乃《トコナメノ》。絶事無久《タユルコトナク》。複還見牟《マタカヘリミム》
 
言、雖見飽奴 まへに同じ。こゝの勝地なるよしを云。下に應ぜむがため也。〇常滑乃とは、とこ(133)しへになめらかに流るゝを云也。此集卷十一に 隱口乃豐泊瀬通者常滑乃恐道曾《コモリクノトヨハツセヂハトコナメノカシコキミチゾ》。とよめるも川の事なり。と或説にいへり。乃《ノ》もじはよせの乃也。ノ如クと心うべし。〇絶事無久 この川の如くに絶ずといふ也。復《マタ》とは、もと再遍の事をいへど、上の絶事無久にひかれて、いくたびもといふ心となる也。これならでも、上にひかれ、下にひかれて、義のうつる事詞の常なり。拾遺集に「松もひきわかなもつまず」とあるは、下にひかれて、松もひかずといふ義なるがごとし。〇此歌、表は、かくの如き勝地なれば、此のちも、みかど絶ずおはすべければ、我もたえずこの勝地をみむ事、 帝の御蔭なりとふかくよろこびたる心によめり。されど、情は、長歌の下にいふが如く、もと幸のたび/\なるをなげかしくおもふ情より出たる歌なるを、つゝしみて、表はよろこびたるやうによみなされたる也。臣民の心なべて皆われにひとしかるべし。とあはれみたる心もこもりて、いとも/\めでたし。長歌には、帝の御うへをもはらよみ、此反歌はみづからのうへをよまれたるなり。
 
38、安見知之《ヤスミシシ》。吾大王《ワガオホキミ》。神長柄《カムナガラ》。神佐備世頃登《カムサビセスト》。芳野川《ヨシヌガハ》。多藝津河内爾《タギツカウチニ》。高殿乎《タカドノヲ》。高知座而《タカシリマシテ》。上立《ノボリタチ》。國見乎爲波《クニミヲスレバ》。疊有《タヽナハル》。青垣山《アヲガキヤマノ》。山神乃《ヤマツミノ》。奉御調等《マツルミツキト》。春部者《ハルベハ》。花挿頭持《ハナカザシモチ》。秋立者《アキタテバ》。黄葉頭刺理《モミチカザセリ》。一云。黄葉加射之《モミヂバカザシ》 遊副川之《ユフカハノ》。神母《カミモ》。大御食爾《オホミケニ》。仕奉等《ツカヘマツルト》。上瀬爾《カミツセニ》。鵜川乎立《ウカハヲタテ》。下瀬爾《シモツセニ》。小網刺渡《サデサシワタシ》。山川母《ヤマカハモ》。依※[氏/一]奉流《ヨリテツカフル》。神乃御代鴨《カミノミヨカモ》
 
(134)言、安見知之云々 まへに同じ。〇神長柄云々 孝徳天皇の御紀に、惟神我子應冶故寄《カムナガラワガミコシラスベシカレヨサシキ》。とあるを
舍人皇子自註し給ひて、惟神|者《トハ》謂d隨2神道1亦自有c神道u也。とみゆ。もと、奈賀良《ナガラ》といふ詞、後世にては心えあやまれり。里言に、ソレナリニ・ソレグチニなどいふほどの心也。されば、惟の字をあてられたる也。神道にしたがひ給へば、やがて神にましませば也。神佐備世須登《カムサビセスト》は、 帝はやがて神にましませば、人のはかりがたき御わざせさせ給ふとの心なり。登《ト》はとての心也。神佐備とは、上の宇良さぴの下にくはしくいへるがごごく、セサセラルヽといふほどの心なり。これ此吉野に幸まします事を云也。〇芳野川云々 かうち前にいへり。〇高殿乎云々 たかどのは、つねには棲をいへども、たゞ高くつくれる殿をいふ也。乎もじ、もはら神さびをいへり。たゞつねます大宮にのみいまして、こゝの高殿はしろしめすべくもおぼえぬにといふ也。高知座而。上にいへるが如く、高知は神典の詞を本とす。いつ/\しくしろしめす心也。而《テ》もじは、例の下の事に直につゞく義にあらずとしるべし。〇上立云々 國見はまへの 舒明天皇の御製にくはしくいへり。から人のすなる巡狩の類としるべし。〇疊有云々 これより下、小網刺渡までは、此高殿にましますにつけての妙用を擧たる也。たゝなはるは重疊したるかたちを云。奈波流《ナハル》はうべなふまかなふなどいふ奈布《ナフ》の布《フ》の、波《ハ》にかよひ、それに流《ル》もじを添たる也。すべて、かうやうの詞をそへたる詞は、うつたへにその一事をするとはなくて、おのづからそのわざなるかたちをいふ也。青垣山とは、青山の垣の如くたちたるを云。【或説に、そばだてるをいふとあれど、桓をば聳つ事にもちひたるをみず。】古事記上卷に吾者|伊(135)都岐奉《イツキマツレ》于倭(ノ)之|青垣東《アヲガキヒムガシノ》山上(ニ)1此(レ)者(ハ)坐1御諸《ミモロノ》山(ノ)上(ニ)1神|也《ナリ》。とみゆ。〇山神乃云々 山つみは、山神なり。宣長釋して山津|持《モチ》の義といへり。いかゞあらむ。予おもふに津見《ツミ》は神典に【古事記上卷】意富加牟豆美《オホカムヅミノ》命の御名あるを思ふに、大神集《オホカムヅマリ》の義にて、麻里《マリ》をつゝむれば美《ミ》なり。大祓祝詞に高天原爾神留座。をば、古訓「かみとゞまりまします」とよめるがことわりなさに、眞淵これを「かむづまりまします」とよまれたる、そのつまりこれなり。つめともかよはせたる例あり。されば、つまり・つみともに集る義にて、山|津見《ツミ》は山によれる神といふ神の集まります大神なれば、大山津見神とは申す也。大綿津見も、これに同じ。〇奉は、古訓たつるとあれど、いかゞあらむ。まつるとよむべし。たてまつる義也。御調は貢物を云。等《ト》といふは、これまことの貢物といふにはあらねど、國々の奉る貢物のごとくといふほどの心也。よせのと也。此下の大御食爾仕奉等も、これに同じ。山神・河伯ともに、神わざなれば、あらはにはみえねど、それにひとしき心にていふ也としるべし。〇春部者 部は前にいへるが如く、方をたつる詞にて、他の季にわかちたる也。花挿頭持とは、山上に花のさきたるをば、山つみの花をかざし持たるに見なしていふ也。持は、添たるのみ也といふ説あれど、しからず。これ、山神の貢と奉り給ふさまにいふなれど、添たるばかりにあらず。さゝげもちて奉るを云。挿頭、もと、頭に枝を折てさすをいへど、たゞ枝を頭にさゝげたるをも概してかざすといふ事つね也。かの説は、頭に小枝をさすに着したる説也。〇秋立者とは、上に春の事をいひたる故に、立者《タテバ》とは、こゝはよまれたる也。黄葉頭刺理 これも、花に同じく心(136)うべし。皆 帝をなくさめ奉らむとての神の御心なるになしていへる也。勢理《セリ》と「江緯」にうつしたるは、例の其未然をおもはせたる也。一云の黄葉加射之を思ふに、こゝは山神の御わざの終にて、下は河伯の御わざにうつる所なれば、かくいはむもしかるべけれど、「江緯」にうつせる詮ふかくもみえず。かつこゝに勢理《セリ》といはゞ、下の刺渡も、さしわたすとよむべけれど、これより下の語勢しかよむべしともおぼえねば、こゝも此一本の方にしたがふべくや。〇遊副川之云々 今、宮の瀧の末に、ゆ川といふ野あり。此集卷八に「結八河内《ユフハカウチ》」とよめる、これならむかといふ人あり。上の青垣山は名所にあらねば、こゝもその轍にて、止と聯句にみるべしといふ人もあれど、夕川の義ともおぼえず。されど、此下のわざ、鵜川も夜するわざ也。小網さすわざはひるなれば、夕川にはあらざる事しるし。母《モ》は、上の山神によせていふ也。〇大御食爾云々 けは、食物を云。大御とたゝふるは、大かた、 帝の御うへの事也。仕奉等 上にいへるが如く、これまた神わざなれば等《ト》とよめり。〇上瀬爾云々 四句上津瀬・下津瀬ことによしあるにはあらざるべけれど、神典【古事記上卷】禊祓之件の詞を用ひられて、川のうち悉く大御食のれうになし給ふさまをいはむ爲也。中津瀬はおのづから上下の間にこもるべし。鵜川乎立、鵜つかひどもをたゝするを云。小網は和名妙に、〓。佐天《サテ》。網如2箕(ノ)形(ノ)1狹(クシ)v後(ヲ)廣(クス)v前(ヲ)名也。とあるこれ也。たゞあみともよむべけれど、此集卷十九に平瀬爾波左泥刺渡《ヒラセニハサデサシワタシ》云々。ともよめれば左泥《サデ》とよむべし。鵜川も、小網もみな人のするわざなるを、かく神の御しわざのごとくいひなせるは、大かた神は御身おはしまさ(137)ねば、人の言わざをかり給ふ事神典につまびらか也。くはしくは、こゝにいひつくしがたし。古事記燈にみるべし。そも/\、人麻呂ぬしをば歌のひじりとたゝへ、今の世となりては神といつかせたまふ事、倒語の至妙なるはいふも更なり。此ぬしの歌ざもをみるに、神典にくはしかりしとみゆる事多し。かみつ世の人たちは、このぬしにあひおとらぬもすくなからぬを、ひとり此ぬしをしもたふとばるゝは、神道のいたり深くて、その人ざま、たぐひなかりければなるべしとぞおぼゆる。この小網刺渡、前に論らへるが如く黄葉頭刺理とよまばこゝも刺わたすとよむべき事なれど、此下、なほ山神河伯の事をうけて、やがて山川母依※[氏/一]奉流とよめるは、刺わたすとはよむべからぬ語勢也。これ語勢の常也。くはしくはこゝに書と」りがたし。志あらむ人には、口授すべし。〇山川母云々 山神・河伯もといふ也。川《カハ》のかもじ、清《スミ》てよむべし。山川ふたつなれば也。此母もじは、山神も、河伯もといふにはあらず。臣民のいそしくつかへまつるに、【此事は上の長歌によまれたる事也。】臣民のみならず、山神・河伯もといふ心也。母《モ》もじの用ひざま、これにてみしるべし。依※[氏/一]胞流とは、臣民とひとつによりてつかふるといふ也。〇神乃御代鴨 みかどを、やがで神として神の御代とはいふ也。上にもすでに神長柄とよめり。鴨はかへす/”\いへるが如く、常にも理にもあたらぬ事を歎ずるにて、臣民のみならず、山神・河伯までもつかへ給ふを歎じたる也。
靈、此歌、表は、 みかど此吉野におはしませば、臣民はいふもさら也。山神・河伯までもよりてつかへまつるさま、大かた神にます此 帝の御徳、凡慮のはかり知がたき事かなと歎じたる也。(138)上の長歌には、臣民の勞をわすれて、此離宮につかへまつる事をいひ、此長歌には神までもいそしくつかへまつり給ふ事をよまれたる也。されど、 みかどの御徳をほめまつるを本情ならば、かゝる詞はつけらるべきにあらず。大かた人をほむる事、詞にあらはなるは諂におつるがゆゑに古人かたく直言せぬ事也。しかるを後世のやうに、さしつけてこそよよれね。【神になして、よまれたれば也。】かくよまれたるは、必本情あるが故ならずや。されば、おもふに、これ又上の歌どもに同じく、たびたびの幸に臣民勞しさま/”\の弊あるを思ひて諫め奉らまほしさを、つゝしみてつけられたる詞ども也。かく興足り、食あくばかりなる勝地を、いとなか/\にうるさくおぼえて、かくはよまれし事言外にあふれたり。
 
 反歌
39、山川毛《ヤマカハモ》。因而奉流《ヨリテツカフル》。神長柄《カミナガラ》。多藝津河内爾《タギツカフチニ》。船出爲加母《フナデセスカモ》
 
言、山川毛 長歌なると同じ。因而奉流も、亦同じ。此二句は、神長柄の句へつゞけたる也。臣民はさら也。山神・河伯までもよりてつかへたまふばかりの神にませばといふなり。〇神長柄は、猶長歌なるに同じ。こゝは、かの里言の「ながら」にまぎらはしき所也。混ずべからず。〇多藝津河内爾云々 これ又上に同じ。離宮ある地を云也。〇船出爲加母 爲をせすとよめる、然るべし。此御船出、即長歌にいはゆる御神さぴにて、そこにも世|須《ス》とあれば、するとはよむべからず。た(139)とひ長歌にさはなくとも、みかどの御うへなれば世須とよむべし。船出とは、芳野河を御舟にて渡らせたまへば也。鴨は、神ながら舟出し給ふ御心の、はかりがたさをなげきたるなり。
靈、此歌、表は、臣民のみならず、山神河伯までもつかへまつるばかりの神にますを、人のするわざのやうに、此吉野に舟出したまふ御心、凡情にてははかりがたきを歎きたるによみふせられし也。しかれども、たゞ、この帝の御心のくすしくあやしくますをたゝへ奉るを本情ならば、なほ長歌に論らへるが如き弊あれば、これ又、心はたび/\の幸をなげきたる也。以上長・短四首、今とけるがごとく、その靈ひと筋也。詞のうへ、みなおのづから矩あるを、よく/\みしりて、かへす/\表に目を奪はれずしてみるべし。いと遠く深く、倒語をもとめたる歌は、いよ/\表にめをうばゝれやすし。上手の歌はことに心を用ふべき也。
 
右日本紀(ニ)曰三年已丑(ノ)正月天皇幸2吉野(ノ)宮(ニ)1八月幸2吉野(ノ)宮(ニ)1四年庚寅(ノ)二月幸(シ)2吉野(ノ)宮(ニ)1五月幸2吉野(ノ)宮(ニ)1五年辛卯(ノ)正月幸2吉野(ノ)宮(ニ)1四月幸2吉野(ノ)宮(ニ)1者未v詳(ニ)2知(ラ)何(レノ)月從(テ)v駕(ニ)作歌(ナルコトヲ)1
 
幸2于伊勢(ノ)國(ニ)1時留(レル)v京(ニ)柿本(ノ)朝臣人麻呂(ガ)作歌
 
持統天皇の御紀六年三月、伊勢の幸ありて、志摩をも過給ひし事みゆ。このをり阿胡行宮にもおはししなるべし。左註あやまれり。
 
40、嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》。船乗爲良武《フナノリスラム》。※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。珠裳乃須十二《タマモノスソニ》。四寶三都良武香《シホミツラムカ》
 
(140)言、嗚呼兒乃浦といふ所伊勢になし。志摩國|英虞《アコノ》郡に行宮あればそこなるべし。此集卷十五に安胡乃宇良爾布奈能里須良牟《アゴノウラニフナノリスラム》。乎等女良我《ヲトメラガ》。安可毛能須素爾《アカモノスソニ》。之保美都良武賀《シホミツラムカ》。といふ歌あるは、この重複なるべし。その左に、安美能宇良《アミノウラ》ともあるによりて、こゝをもあみのうらとよむは誤也。良武《ラム》は、京よりおもひやられし也。此|良武《ラム》は、中の良武《ラム》とて、詞の中におく也。下のをとめらにつづけて心うべし。〇※[女+感]嬬等之とは、從駕の女房をさせる也。をとめは、少女・末通女などもかきてわかき女の稱にて、をとこに對せる名也。くはしくは、予が土佐日記燈のはじめにいへり。大かたをとめ等《ラ》とよめども、一人のをとめをさす畢古人倒語のつね也。これ一人にせまらざるやうに、わざと等《ラ》とはいふ也。これは、數人とも聞ゆれど、猶心にさすをとめありけるなるべし。數人とはみがたき歌もあるはこの故なり。〇珠裳乃須十二 殊のごとくめでたき裳といふ也。かの卷十五には、安可母《アカモ》とあるによりて、これをもあかもとよむは非なり。裳をしもいふはしほみつらむかといはむがため也。珠裳としもいふは、潮にぬるらむくちをしさを思はせられたるなり。。四寶三都良武香 かは疑なり。潮にぬるらむかといふべきをかくいふ事古語のみやび也。これ潮かみつらむの心なれど、こゝに香《カ》をおけば、潮か、又は何かみつらむとの心となり、下におけば潮みつらむか、又はさもなきかとの心となる也。後世は、良武香《ラムカ》とはよまず。後世人は、古風なる脚結也など心えたれど、義かくたがふを以て、香良牟《カラム》・良牟香《ラムカ》、歌によりて、ともによむべき事なるをしるべし。
(141)靈、この歌、表は、從駕し奉りて阿胡の浦に舟乗りすらむ女房たちの珠裳のすそに潮みち來てぬらすらむか。とその女房たちの宮中にてならはぬ事なれば、めづらしとやおもふらむ。又はわびしとやおもふらむ。と思ひやりたる也。されど、思ひやるばかりの情は、たゞ心に思ひやるにてやみぬべく、こと更に歌によむべき事にあらぬをおもふに、從駕のをとめのわびしき目みるをいたはりたる歌にて、その本を推せば、これ又、幸をすべなく思はるゝ心よりおこれる也。この情いさゝかもあらはならば、必 みかどの御心にそむくべきをはゞかりて、めづらしからむともわびしからむともいはず。たゞ潮みつらんかとのみいへる、うちみは、その興をわれも羨みたるやうに詞をつけられたる、上手の詞づくりよく思ふべし。これは、從駕のをとめのうちにさす人ありて、贈られたるにこそ。この三首がうち、第一・第三は、女房のうへなり。第二はをのこたちのうへ也。從駕の男女のうち、親屬か、または親友なる三人に贈られたる歌なるべし。かくいづかたにも片つかず詞をつくる、倒語のいたり也かし。これ等を詞づくりのかゝみとはすべきなり。
 
41、釧着《クシロツク》。手節乃崎二《タフシノサキニ》。今毛可母《イマモカモ》。大宮人之《オホミヤビトノ》。玉藻苅良武《タマモカルラム》
 
言、釧者は、手節の冠なり。釧とは、神典【古事記上卷】に佐久久斯侶伊須受能《サククジロイススノ》宮。とみえて、五十鈴の冠とせられたるをおもふに、釧は手につくる物にて、鈴にひとしければなるべし。玉もてもつくる物なればにや、玉釧とちよみたり。今本、釧を劍に誤れり。劍は手節につくるものにはあらざ(142)るをや。手節乃崎は、志摩國|答志《タフシ》郡なるべし。〇今毛可母 ある註に、ふたつの毛《モ》は助字にて、今やといふ心也といふは例の麁鹿也。古今集に、今もかもさきにほふらむたちばなの小島のさきの山ぶきの花。とよめるに同じ。上の毛《モ》は、今とさしつけずして、今頃などゆるゝ?かにいはむため也。下の可母《カモ》は、例の疑也。これ、今やの心にはあらぬがうへに、や〔傍点〕とか〔傍点〕の用ひやうたがひめある事脚結妙にくはし。可《カ》は今にあらすば、少しさきか、少し後かをしらむとていふ心也。やは、いつしかあらむともしられぬにいふ脚結にて、こゝにかなはず。此手節乃崎は、今にあらずは、さきか後かには、必過給ふべき所なれば、もとより也《ヤ》とはよむまじき事がらなるを思ふべし。下の母《モ》も、たゞ助字とはいひあはむべからず。【助字。やすめ字、發語などいふは、國學者の遯辭なる事、予が隨筆にくはしくいへり。】常用ふる疑の可母《カモ》なるをや。〇大宮人之云々 從駕のをのこたちをさす也。これも、をとめらに同じく、ひろくはいへど、このうちに必さす人ありてよめるなるべし。之もじ心をとゞむべし。玉藻かるべき身がらの者の刈らば、之《ノ》といふ詮はあるべからず。かるまじき人々のかるを、思はせむがための脚結なる也。之《ノ》もじは、つねに、人の心もとめす、瓦石の如く用ふる脚結なれど、古人はかく心をとゞめて用ひたり。玉藻かるらむは、前の麻續王の贈答によれば、玉藻は食料に刈る也。されどこゝは從駕なれば、さるわぴしきわざすべきやうはなけれど、これはたゞ海人どもがするわざを戯にまねびてすらむとおもひやれる心とみるべし。をのことてもならはぬわざなれば、おかしとや思ふらむ。又はわびしとやおもふらむ。との心也。
(143)靈、此歌、表は、從駕のをのこたちの、手節の崎にて、玉藻をかかるらむ。海人こそつねにからめ。大宮人のかるらむは思ひかけぬわざなれば、中々おかしくや思ふらむ。わびしくやあるらむとおもひやりたるに、よみふせられし也。されど、さばかりの事、こと/”\しく歌とよむべきにあらねば、本情は、前の歌にひとしき事明らか也。詞のつけざまよりはじめて、前の歌にてらして同じ情なることをしるべし。これ又、いづれへもよらぬ詞づくりのみやび、よく/\めをとゞ むべし。
 
42、潮左爲二《シホサヰニ》。五十良兒乃島邊《イラコノシマベ》。※[手偏+旁]船荷《コグフネニ》。妹乘良六鹿《イモノルラムカ》。荒島囘乎《アラキシマワヲ》
 
言、潮左爲は、潮さきの義かといふ説あれど、きのうつれるならば、爲《ヰ》もじ、以《イ》たるべし。此説非なり。爲《ヰ》は和藝《ワギ》の合音にて、潮さわぎ也。潮のみちくる時、波のさわぐを云といふ説したがふべくや。此集卷三に鹽左爲能浪乎恐美《シホサヰノナミヲカシコミ》云々。卷十一に牛窓之《ウシマドノ》。浪乃鹽左猪《ナミノシホサヰ》云々。卷十五に於伎都志保佐爲多可久多知伎奴《オキツシホサヰタカクタチキヌ》。などよめる、いづれも潮さわぎの義あたれり。まへにいふ潮さきは仙覺が説也。伎《キ》を為《ヰ》にかよはせりとの心なるべけれどうけがたし。契冲は、鹽のさしあふ所をいふといへり。是は、大祓詞に、鹽の八百會といへるなとをばおもはれけるなるべし。左《サ》・阿《ア》・爲《井》・比《ヒ》ともに同韻なるが故なれど、しかにもあれ、此例どもにかなへりともおぼえず。今思ふに、此集卷十四に、安利伎奴乃《アリギヌノ》。佐惠佐惠之豆美《サヱサヱシヅミ》。伊敝能伊母父《イヘノイモニ》。毛乃伊波受伎爾※[氏/一]《モノイハスキニテ》、於毛比具(144)流之母《オモヒクルシモ》。神典【古事記上卷】に、口大之尾翼鱸佐和佐和邇控依騰而《クチビロノヲハタスヾキサワサワニヒキヨセアゲテ》云々。ともあり。此集卷二に小竹之葉者《サヽノハヽ》。三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》、亂友《サワケドモ》。吾者妹思《ワレハイモオモフ》。別來禮婆《ワカレキヌレバ》。ともある、この佐惠《サヱ》・佐和《サワ》・佐夜《サヤ》ともに、佐為《サ井》に同じく、さや/\と鳴る音をいふ詞也。いづれも、さや/\と鳴る音をもてさわぐ事を思はする事古言の常なり。神典に【古事記上卷】豐葦原之千秋長五百秋之水穗固者|伊多久佐夜藝※[氏/一]有祁理《イタクサヤギテアリケリ》。とみえ神武天皇の御紀に、夫葦原(ノ)中(ツ)國(ハ)猶|聞喧擾之響《サヤゲリナリ》焉。【聞喧擾之響此云2左揶霓利奈離《サヤゲリナリ》1】など、皆あしき神のさわぐを音もてさとされたる證なり。されば「佐和藝《サワギ》の」の説もさる事なれど、もと、潮のみちくる時、さわ/\と鳴る音を潮佐爲《シホサ井》とはいふなるべし。。五十良兒乃島邊 これは、三河なるいらこのあたりなる島をいふなるべし。邊はその島の方をといふ也。〇妹乗良六鹿 此妹は、從駕の女房たちのうちをさす也。鹿《カ》は疑のか〔傍点〕なり、此|鹿《カ》もじは、上の潮佐爲爾《シホサ井ニ》をもちていふにて、潮佐爲《シホサ井》の時しも、妹のるらむかといふ心也。良六鹿《ラムカ》の心得まへに論らへるに同じ。〇荒島囘乎 この島囘、即いらこの島わをさす也。囘《ワ》はそのめぐりをいふ也。浦囘《ウラワ》・里囘《サトワ》などに同じ。この一句は添たるものなり。一二三四の句意は、もし潮左爲《シホサ井》の時にしも乘るらむかとの心にて、もはら潮左爲《シホサ井》のうへにかゝれり。そこもとあらき島囘なるをとの心にて、もとよりあらき島囘なるを、潮左爲の時にしもわたるらむかとの心なり。乎は里言にジヤニ・ジヤノニといふほどの心也。土左日記に、まして女は舟ぞこにひたひをつきあてゝねをのみぞなく。とかゝれたる、おもひあはさる。女の乘らるべき島囘ならぬを。との心にて乎とはいふなり。
(145)靈、この歌、表は、五十良兒の島はかしこき島囘なるに、潮左爲《シホサ井》の時にしもか、妹のるらむ。をのこすらかしこかるべきを、まして女のいかにかしこかるらむ。とふかく女のかしこかるべきをいたはりたる也。されど、これ又、情はひとへに幸をなげく心よりよまれたるなる事、詞づくり、又脚結に明らか也。詞の表には、たゞ妹のるらむかとのみいひて、くるしからむとも、わびしからむともいはれざりしは、幸にはゞかりて也。詞のつけざま、公私をそなへたる妙處、よくよく味はふべし。以上三首、同じ情なる事、上にいへるがごとし。
 
當麻眞人麻呂妻《タギマノマヒトマロガメノ》作歌
 
この當麻眞人麻呂は、同じ行幸の從駕にて、京にとまれる妻のよめる也。此|隱《ナバリ》の山は伊賀にて、大和より伊勢にくだるには、必伊賀を經れば也。猶この次下の歌も、從駕のたびの歌なるをも思ふべし。
 
43、吾勢枯波《ワガセコハ》。何所行良武《イヅコユクラム》。已津物《オキツモノ》。隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》。今日香越等六《ケフカコユラム》
 
言、吾勢枯波は、おのが夫をさせる也。波《ハ》もじ前にもいへるが如く、後世人はかくざまの所にはえおかずなれり。夫在京のほどは、同居するが常なりしか。今旅にありて、あふべきよしもなき歎よりいふ也。大かたには、たゞ、これはかゝり、かれはしかりなど物事の分別のためにおけるも、つ(146)ねは、大かたにおもへる物の、ぬけ出たるさまをなげく詞なるが故に、おのづから他に異なる事をいふ義はある也。今釋するは、その義のくはしき也。古人、かく用ひたる波《ハ》もじ多し〇何所行良武とは、夫が旅中をおもひやりて、いかなる處をかゆくらむ。と夫がゆくらむ處のしらまほしさにいふなり。〇已津物は假字にて、澳津藻乃也 隱の冠なり。澳なる藻はつねに隱れてみえざればいふなり。澳は、鹽干にだに深ければ也。頼政卿の女が、潮干にみえぬ澳の石の。とよめるはこれらより思ひよれるなるべし。已は起の略字なるべし。〇隱乃山乎 隱はなばりとよむべし。いにしへ、隱るゝを、なばるといふなり。伊賀國に名張郡あり。そこの山なるべし。乎もじは、今日隱の山を越たらむにもあれ、京まではなほ行程も近からねば、かつてねがはしからざる名張の山をといふ心也。乎もじの義まへにときおけるが如し。〇今日香越等六 この今日といふ事、麁にみまじき也。かくいふ故は、今日だにいまだなばりの山をも越ずは、失が歸期いと待遠ならむ。とその程をまちくらさむ事、いかにくるしからむとの心をもたせてよめるなれば也。されば、此一首の眼なりとしるべし。香《カ》は疑なり。大かた想像のうへなれど、大抵おもひはかりありて、香とはよめる也。上に何所行良武といひて、又下に隱乃山乎今日香越等六とよめる事、いづれにもあれ、ひとつにてありぬべき事のやうなれど、しからず。上はひろくいづこをかゆくらむとよめるにて、さて日をかぞへなどしてみれば、大抵今日などは名張の山をこえもすらむか。とさまざまに思ひわづらふ情、かくをさなげなる詞づくりにて、かへりて、おもひやりはふかき也。其さ(147)ま/”\に思ふ心を、已津物の冠にかへたる也。下に靈をとくにてらして、此詞づくりの妙をさとるべし。此妻いかなりし女ぞや。此歌の詞のつけざま至れりといふべし。これは、夫の客中へおくれる歌なるべし。
靈、此歌、表は、たゞいづこあたりをかゆくらむ。もし今日などは、名張の山をこゆらむか。と夫の在處をおもひやりたるばかりによみふせたる也。これは、行さまの路の事にはあらざるべし。しかみらるまじきにはあらねど、かへさの路の事とみむ方、待かねたる情いとゝ切なるべし。しかるに夫の在處をおもひやるばかりの事を、古人はこと/”\しく歌によむべき事にあらねば、思ふに、夫の從駕日を經て歸期のまち遠さに、いかで一日もはやくかへらむ事を促したる情をよめる也。しかれども、たゞあは/\しく、夫の客中を思ひやりたるばかりのやうに、詞をつけたるは、私の旅にあらねば、帝の幸に日をかさね給ふをうらみ奉るに落べければ、憚りてかくはよめる也。前にも論らへるが如く、何所行良武《イヅコユクラム》・今日香越等六《ケフカコユラム》と等六をふたつかさねて、をさげなるにも、今日といへる餘情にも、心のうちにさま/”\思ふ事どもはあふれて、かへす/\この詞のつけざま、凡ならざるをよく/\思ふべし。
 
石上《イソノカミ》大臣從(テ)v駕(ニ)作歌
 
これは麻呂卿也。この時、いまだ大臣にはあらねど、後よりかくはかける也。前の鎌足公の書ざ(148)まにもおもふべし。かゝる集例中に多し。
 
44、吾妹子乎《ワギモコヲ》。去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》。高三香裳《タカミカモ》。日本能不所見《ヤマトノミエヌ》。國遠見可聞《クニトホミカモ》
 
言、吾妹子乎云々 いざみむといふ心にいひかけたる也。もと此歌、妹があたりだにみまほしき心より、いできたるなれば、妹をいざみむと思ふ心即本意なれど、冠辭になして公をそこなはぬ古人の手段、これにかぎらず多し。去來見乃山 いづかたにかしられず。伊勢・伊賀・志摩なとのうちにある山なるべし。乎《ヲ》・三《ミ》とうちあはせてよむ事、上にくはしくいへり。去來見乃山が高さにかも。といふ心也。くはしくいはゞ、倭國が、此山を高がり思ふ故かもといふ心なり。香裳は疑なり。次の句の、日本能不所見《ヤマトノミエヌ》にうちあひたる也。いざみの山を高み、倭のみえぬかも。といふ心なるを、こゝに香裳《カモ》をおくべからぬ義なるが故に、上に香裳《カモ》を置たる也。私に引あげておけるにはあらず、香裳《カモ》は、もししからずは、いかなる故ぞと云心なり。〇日本能不所見【日本とかけるは、倭國の事也。此事くはしく前にいへり。】みゆべき大和國のみえぬが不審なる心によめる、妙なり。先註書に、これを大和なる妹があたりをみむとすれどゝいふ心也。と註したる、もと此歌妹の戀しさよりの詞づくりなれど、直に妹ともいはずして、やまとのみえぬとのみ詞をつけられたる、此歌の妙處なるを、やがてやまとの妹など註するは、此詞づくりの活處を殺すわざなりかし。古註には、かゝる釋多きは内外の混ずる也。内外幽顯はかたく混ずべからざる事、わが神典の要訣、わが御國ぶりのかしこさ也。ただ表を釋すとならば表のみたるべし。此詞づくりふかく心を用ひられ、ひろくおもひをわ(149)たされて、意もなく、味もなき所に詞をつけられたるを、たゞ一言に殺さむは、いとも/\くちをしく、言代主神の御にくみもいとかしこき事にあらずや。内外を混ずれば、すべて歌のよみやうも方たゝず。古歌もつひに、そのたましひを得る事あるべからず。〇國遠見可母 いざみの山の高さにみえぬか。もししからずば、國の遠さにみえぬか。とその所謂を決せむとする心也。此可聞《カモ》の義、くはしくいはゞ、もし國の遠さにてあらずは何故ぞ。いづれにもあれ。ゆゑなくてはみえざらむやうなしとの心也。上に、去來見乃山を高みかもといひ、又國遠みかもとよませ給へるは、ひとつにてはあたらざらむ事を思ひて也。これさらに曲節にあらず。情にひかれてのわざなり。山高さにかといへるも、國の遠さにかといへるも、もとよりそこよりみゆべき大和にあらぬを知ながら、所以を設出たる事、前にいへるが如く、もとみゆべき物のみえぬやうなる、まことに上手の手段なり。よく/\、古人の倒語の用ひやう、めをどゞむべし。かく、をさなきは倒語の妙所、かつ餘情も、こゝより尋ねしらるかし。
靈、此歌、表は、こゝよりみゆべき倭のみえぬは、山高さにか。國遠さにか。このみえぬ所以のしらまほしきを、もはらとよみふせ給へる也。されど、かばかりの心をば、古人歌によむ事なく、かつこのみえざる所以を擧られたる二事ともに、いとをさなきは、必別に情あるしるし也。さればおもふに、從駕に日を經て、都におきたる妹の戀しさ堪がたきを、家の妹に告やられたる歌なる事明らか也。されど、此情いさゝかもあらはなれば、供奉に心專一なるべきにそむき、從駕に(150)日をふるをうらむるになりぬべきをはゞかりて、こゝよりやまとのみえぬをいぶかりたるに、詞をつけられたる也。詞のつけざま、かへす/”\いとあやしきまでめでたくこそ。
 
右日本紀(ニ)曰朱鳥六年壬辰(ノ)春三月丙寅(ノ)朔戊辰以2淨廣肆廣瀬(ノ)王等(ヲ)1爲2留守官(ト)1於(テ)v是中納言三輪朝臣高市麻呂脱2其(ノ)冠位(ヲ)1※[敬/手]上2於朝(ニ)1重諫(テ)曰農作之前車駕未v可2以動(カス)1辛未天皇不v従v諫(ニ)遂(ニ)幸2伊勢(ニ)1五月乙丑(ノ)朔庚午御2阿胡行宮《アゴノカリミヤニ》1
 
これは、 持統天皇六年也。朱鳥六年とあるは誤也。此五月云々より以下は、紀をみあやまりたるにて、これは以前の事也。古註書にくはし。
 
輕皇子《カルノミコ》宿(リタマフ)2于安騎野《アキヌニ》1時(ニ)柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂(ガ)作歌
 
これは、 天武天皇の皇太子|草壁皇子尊《クサカベノミコノミコトノ》之御子也。【日並知《ヒナメシノ》命の御事也。】この輕皇子は、文武天皇わかくまし/\ける時の御名なり。安騎野《アキヌ》は、式に、宇陀《ウタス》郡|阿紀《アキノ》神社あり。この野なるべし。此野に、父尊日並知尊の御獵したまひし事、此前にも、又卷二にもみゆ。その頃は、いまだ王にてまし/\ければ、こゝに皇子とかけるは、後よりたふとみてかけるなるべし。
 
45、八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王《ワガオホキミ》。高照日之皇子《タカテラスヒノミコ》。神長柄《カムナガラ》。神佐備世須登《カムサヒセスト》。太敷爲《フトシカス》。京乎置而《ミヤコヲオキテ》。隱口乃《コモリクノ》。泊瀬山者《ハツセノヤマハ》。眞木立《マキタツ》。荒山道乎《アラヤマミチヲ》。石根《イハガネノ》。楚樹押靡《シモトオシナベ》。坂鳥乃《サカトリノ》。朝越座而《アサコエマシテ》。玉(151)蜻《カキロヒノ》。夕去來者《ユフサリクレハ》。三雪落《ミユキフル》。阿騎乃大野爾《アキノオホヌニ》。旗須爲寸《ハタススキ》。四能乎押靡《シノヲオシナベ》。草枕《クサマクラ》。多日夜取世須《タビヤドリセス》。古昔《イニシヘ》念而《オモヒテ・オボシテ》
 
言、八隅知之云々 まへにいへり。これは、此輕皇子をさし奉れるなり。皇子をもかく申す事、つねなり。八隅知之よりはじめて、もと神典の御教のうへにいふ詞にて、天下をしろしめすうへばかりの事にあらず。此故に、皇子にも申す也。此義くはしくは、こゝにいひつくしがたし。古事記燈にみるべし。〇高照云々 古事記に多加比加流比能美古。とあれば、こゝも、たかひかるとよむべしといふ説あれど、此集中高光とかかれたる所はさもあるべし。すでに、日神の御名を天照《アマテラス》大御神とも申せば、たかてらすともよむべきなり。〇神長柄云々 上にくはしくいへるに同じ。此阿騎野にいでますを、神さびせすとはいふ也。世須登もまへに同じ。〇太敷爲云々 ふとしくも、前にくはしくいへり。爲《ス》は例のセラルヽの義也。御心ふとくしろしめさるゝ都といふ也。置而とは、都をたち出させ給ふ事をば、御あとにおかせ給ひてとはいふなり。都を出させ給ふとはいはで、京乎置而といふは、古言のみやび也。前に近江の遷都の事をば、倭乎置而といはれたるは、今とは事重けれど、いづれも立出たまふをいふは同じきなり。〇隱口乃云々 泊瀬の冠詞也。こもり國の心にて、冠らせたる也。と眞淵のいへる、可從。隱口の義也。といふ説もあれど、口も山口などこそいへ。こもり口といはむ事あるべくもおぼえず。こもり國、かへす/\(152)しかるべし。冠辭考にくはしく論らへるをみるべし。者《ハ》もじは、こと山とひとしからぬよしを歎じたる也。荒山道なれば也。〇眞木立云々 眞木とは、よき木也。よき木は、深山ならではなきものなれば、眞木立荒山とはいふ也。荒は、荒・和といふ和の反にて、人にうとき山をばあら山とはいふ也。【荒・和の事古事記燈神典にみるべし】眞木のたつとつゞけずして、此集卷九に芦檜木笶《アシビキノ》。荒山中爾《アラヤマナカニ》。送置而《オクリオキテ》。帰良布見者《カヘラフミレバ》。情苦裳《コヽログルシモ》。とよめるも、なほ深山をいふ也。乎《ヲ》は、里言にジヤエ・ジヤノニなどいふ心にて、深山なれば、人もつねかよはずして路いとわろく、皇子なざおはしますべき路にはあらぬを、との心をさとさむがため也。されば、此乎もじは、下の朝越座而にうちあはせたるにて、石根楚樹押靡二句は、はさめる也。としるべし。〇石根云々 今の本に禁とあるは、楚の誤なるべし。楚は字書に創祖(ノ)切|粗《ソ》。上聲。叢木。一名剏※[并+立刀]。又翹楚翹(ハ)高(ク)起(ル)也。言《イフ心ハ》楚木中之獨(リ)高(ク)起(ル)者也。以(テ)況(フ)2人(ノ)之出v類(ヲ)拔1v萃(ヲ)也とみえて、小さく細き木をいふ也。古點、禁樹をふせきとよめれど、心えがたし。楚樹、しもとゝよむべし。冠辭にしもとゆふかづらき山といふしもとこれ也。押靡は、おしなびかしの心なり。石がねにおひたるわかく細き木ともを押なびかせて、越給ふさま也。ある註に、從駕の人のおしなびかせて越るさまなりといへる、げに皇子の御みづからおしなびかせ給ふにはあるべからず、御さきにたてる人どものするさまなるべけれど、此歌大かたこの皇子の御神さびに、此行がたき山道を越ます皇子の御うへをしも歎じたる歌なれば、これ猶、皇子の御みづからおしなべさせ給ふになしてみむ事、この歌の本意なるべし。たとひ、從駕の人の押し(153)なびかすにもあれ、皇子の御爲にするわざにて、從駕の人の私にするにあらねばしかは註すまじき事なり。大かた、歌の本意にそむき、そむかぬけぢめは、よく心を用ひて註せずば、その歌を殺すべき也かし。このニ句、ひとへに皇子の御神さびをたゝへまつれる也。〇坂鳥乃云々 朝越の冠辭なり。くはしく冠辭考にみゆ。谷の木ぐれにやどれる鳥どもの、朝には群て坂を飛越るを、供奉の人の坂賂をむれこゆるにたとへたりといへり。しかるに、谷などにやどれる鳥の、朝に坂こゆるを、坂鳥といふべくもおぼえず。さればおもふに、坂のわたりの樹どもにやどりたる鳥をいふ名なるべし。朝には、嶺をむれ越てあさりにいづるさまをいふなるべし。而《テ》もじの義は、朝と夕をつながむため也。されど、直につなぐは、而《テ》の義にあらぬ事、まへに論らへるが如し。朝といふは、終日の艱苦をおもはせむがために、一日のはじめをいひ、夕といふは、終夜の辛苦をおもはせむが爲に、一夜のはじめを云也。かく間をへだてゝつなぐ事、而《テ》もじの專用也としるべし。〇玉蜻云々 古點玉きはるとよめれど、夕とつゞかねば非なり。此集卷十五に玉蜻夕去來者《カギロヒノユフサリクレバ》。とあり。されば、限(蜻?)は蜻(限?)の誤にて、かぎろひのなるべし。かぎろひは、かげのきらめく火をいふ事、古事記 履中天皇の御卷に、難波の宮のやくるを 加藝漏肥能《カギロヒノ》。毛由流伊弊牟良《モユルイヘムラ》云々。此集卷二に香切火之燎流荒野爾《カギロヒノモユルアラヌニ》云々。などよめり。春とつゞくるも、かぎろひの如く春日の空にきらめくをたとへたる也。その餘日・ひとめ・ほのかなどつゞくる、皆これに同じ。石とつづくるは、石火に冠らする也。夕とつゞくるは、夕日のかげはことにきらめけば也。蜻※[虫+延]をかげ(154)ろふといふは、かれがとぶさまを、かぎろ火にたとへたる名なり。玉蜻とかけるは、かれが目の玉のごとくなれば也とぞ。又、博物志に、土に理みおけば、珠となるよしありと、冠辭考にいへり。陽炎をかげろふといふも、皆かぎろ火のたとへよりいふ名也。夕立來者は、夕かたになればといふ也、去といふ事まへに論らへり。これは下の多日夜取世須につゞけるにて、三雪落以下四句は、はさみたる也。三雪落につゞけてみるべからず。〇三雪落 三はほめていふ也。これ此野にやとりたまふ寒さ佗しさをおもはせたる也。阿騎野、まへにいへり。大野としもよまれたるも、ひろき野は、ことに風などもさむきさまを思はせられたる也。上には山路の艱難をいひ、こゝには此野のわびしき事をいはれたる、皆玉しきの都のうちにくらべておもはせむがためにて、荒山道、楚樹押靡、三雪落、四能乎押靡などは、よまれたるもの也。この爾《ニ》もじ、上の京乎置而にむかへて、意味をよく妹はふべし。からしなどはいはで、その辛かるべき事どもをいひならべられたる事、後世人の詞づくりにたがへる所を、よく/\みしるべき也。〇旗須爲寸云々 はたとは、秋の野中にて、その穗のことにめにたつ物なればいふなり。皮《ハタ》とかけるは、膚の義にて、穗のはだにこもりてやう/\出る故にや、と眞淵はいへり。神功皇后の御紀に幡荻穗出吾也《ハタズヽキホニイヅルワレナリ》。とあるをみれば、穗に出ての名なる事しるし。皮はたゞ假字なるなり。いにしへは、はたずすきととのみいへるを、此集卷八にたゞ一首|波奈須爲寸《ハナズヽキ》とあるは、此京になりては、花ずすきとのみいふ事、もと奈良人のいひそめたるよりの事かとも思へど、たゞ此一首の外にはなければ、奈は、必(155)太の誤なるべし。【後世は、波奈とならではいはぬになづみて、後世人さかしらに、奈につくれるなるべし。】四能乎押靡は、すゝきのしなひをおしなびかせの心也、と古説なり。げに、奈比《ナヒ》は能《ノ》とつゞまれば、それはさる事ながら、しなひをおしなびかするどいふ事、すゝきのしなひたらむをのみおしなびかせたらむやうにて、めざましきがうへに、乎もじかやうの所に用ふる例ならねば、この説うけがたし。されば思ふに、この能《ノ》もじ、筆のてにて、ぬもじを誤りたるにて、小竹《シヌ》なるべし。しからば旗薄、小竹などをおしなびけて、と二種なるべし。かくみれば、乎《ヲ》もじの義相當する也。これひとへに、一夜だにもやどり給ふべき所にあらぬを思はせむがための乎もじ也。京にては、金樓玉殿に錦※[糸+肅]を褥として、おほとのごもるべきにむかへておもふべし。上の押靡は、道なきをしひておはすよしをいひ、こゝの押靡はおほとのごもるべからざるに、しひてみねますよしをさとされたる也。〇草枕云々 草枕は、たびの冠なり。旅には、枕もなけれど、草を枕にむすびてぬるが故也。必しかもすまじけれど、よろづ客中の不自由なるをいふ也。多日夜取は旅宿也。〇世須は、これもセサセラルルといふ也。〇古昔念而 古點は、おもひてとあり。しかにてもありぬべけれど、おぼしてと眞淵がよめる上の世須のうちあひにしかるべし。これは、父尊の此野に御獵したまひし事を、おぼしてといふ也。父尊をしたひ給ふ御心より、かゝる野に旅やどりし給ふよ。といふ心なり。
靈、この歌、表は、輕皇子都にませば、めでたき宮中に起臥給ふ御身にましますを、道もなき泊瀬山をこえ、さむき阿騎野にやどりし給ふは、ひとへに父尊のむかしをしたひ給ふあまりなるべし。(156)凡庸ならば、さるめでたき身にて、心からかゝるわびしきめはすまじきを、此皇子もと神にましてせさせ給ふ御神さびは、さても/\凡慮の外なる事や、とあやしめる心によみふせられし也。されど、さばかりの事は、たゞ心中におもひてもやみぬべきを、かく歌とよまれしは、必別に情あるが故なる事明らか也。されば思ふに、此皇子の、父尊をしたひ給ふ御心、あまりなぐさめがたさに、むかし父尊の御かりし給ひし此阿騎野に、山路の艱難をも、この野のさむきをもいとひ給はずして、かくおはしましゝ御孝心を感じ奉りたる歌也。されどこれ、いさゝかもあらはなれば、諂諛におつべきをはゞかりて、神慮ははかりがたきうへになしはてたる詞づくり、めでたしなどもよのつね也かし。大かた、此歌をみむ人、たゞ此皇子のたふとさをたゝへ奉れる歌也とみすぐしたる事、古註どもにことなる沙汰なきにしるし。古人もと、言擧せぬ國の御てぶりを明らめたりしかば、いはでありぬべき事はいふも更也。いはでかなはぬ事すら、妖氣あるべき事は、倒語するを、いかでかよしなくて、たゞへごとをもいはむ。もしこれ、直言ならば、かへりて毛を吹べき也。後世人はさるけぢめも辨へず、そしらむこそあらめ。ほめむは弊なしと心えたるいとも/\心くるしき事也。されば、此歌ひとヘに、表は、神の御うへ凡慮はかりがたきによみふせられたるは、倒語にて、此皇子、父尊のいにしへをしのび給ふ餘りに、宮中の榮華を忘れたまひ、この野に旅やどりし給ふその御心を深く感じたてまつられたる歌なる事、すべて詞の用ひざまにしるきをや。このけぢめをしらむとならば、かりに此情のまゝをあらはによみて、此歌にと(157)りならべて、倒語のやむことなき事をばあきらむべし。
 
 短歌
こゝも、反歌とあるべき例也。しかれども、目録には、反歌をも短歌とかゝれたるがおほし。されば、これは.反歌なり
 
46、阿騎乃野爾《アキノヌニ》。宿旅人《ヤドルタビビト》。打靡《ウチナビキ》。寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》。古部念爾《イニシヘオモフニ》
 
言、この野の字、普通の本になし。必脱せる也。こゝにはたゞ、阿騎の野爾とのみあれど、長歌によめるに同じく、雪ふりてさむき阿騎野にとみるべし。宿旅人とは、皇子をもこめ奉りて、從駕の人々をひろくさしていふ也。大かたに、旅人といへる、これ古言のみやび也。皇子を靈としたる詞づくり也。〇打靡云々 うちなびきは、草などのかたへになびきふしたるさまを、人のふしたるにたとへていふ也。これおのづから、うちとけて寢たるさまを、形容する詞となれり。こゝも、うちとけたる、いはねられめやとの心なり。良目八方の目の字、今の本には自とありて、いもねらじやもとよめれど、ねらじとはいふべからず。一本目とあるに從ふべし。いとはねむとてふすをいふ詞にや。朝い、いさとし、いぎたなしなどいひ、又、いの安き、安からぬ。などいふも、皆寢入たる事とはみえず。うまいは熟睡の義なれば、寢入りたる事のやうなれど、なほいといふは、寢心地の事とおぼしき也。ぬるとは寢入る事をいふ。ぬるがうちに、おくとはなげき、ぬ(158)とはしのはむ。などいひ、又このぬをかよはして、ねての朝け。このねぬる。などもよめり。されば、寢毛宿良目八方とは、ふし心地もよくはねるらめやの義也。上の毛《モ》はぬるを主とたてゝ、ふしごゝちもよくといふ心也。良目《ラメ》は良牟《ラム》のかよへるにて、八《ヤ》とうくるには、必江緯にかよはす事常なり。八方《ヤモ》は、後世の也波《ヤハ》に同じ。前にいへるが如く、後世これを半反語といふは、わが御國言の眞理を辨へざる説也。この八《ヤ》なほ疑の也《ヤ》にて、人に決定をゆづる詞也。〇古部念爾 この爾《ニ》もじは、里言にノデといふ心なり。いにしへを思ふにて、うまくはねられむやとの心也。さればこれ、五四とつゞくべきを、例の標實をはかりて倒置せるなり。
靈、此歌、表は、此阿騎野にやどる人の、いにしへを思ふに堪ずして、いもやすくはねられむや、とそのねられ、ねられじのけぢめをおもひやりがほに、詞をつけられたる也。されど、だゞねられ・ねられじの別ばかりの事は、古人歌によむものにあらねば、これ又、情はこの皇子の御心をいとをしみ奉れる歌なり。もと、父尊をしのびかねて、こゝにおはしけるなれど、こゝにてはなか/\懷古の情も立まさり給はむ。と思はれけるなるべし。されど、此詞にあらはなれば、諂に落むをはゞかりたる事、長歌に同じ。この旅人、大かたにいへれど、まことは輕皇子をさし奉れる也。古註みな、此旅人を從駕の人也といへれと、皇子をおきたてまつりて、從駕の人のうへをいとをしまむ事あるべくもなし。かへす/”\詞のうへにめをうばゝるまじき也。此皇子さばかりの辛苦をも忘れて、父尊のむかしをしのばせ給ふ至孝のほどを感じたてまつれる事を長歌によ(159)み、此歌にはこよひこゝにやどらせ給ふ御心のうち、いかにおはしますらむ。とおもひやれる心をよまれたる也。詞のつけざま返々思ふべし
 
47、眞草苅《マクサカル》。荒野二者雖有黄葉《アラヌニハアレドモミヂバノ》。過去君之《スギニシキミガ》。形見跡曾來師《カタミトゾコシ》
 
言、眞草、まへにいへり。なにとはなくよき草をいふ也。眞木立荒山とよめるに同じく、人ぢかき野は草もつねにかれば、荒野ならではよき草もおひねば也。かゝる荒野は、たゞ草かるをのこなどこそは來れ。なべてのものゝくべき野にはあらねど、との心也。荒野とは、即阿騎野を云也。〇黄葉云々 今の本、黄の字なし。葉の上に必、黄の字脱せりと、代匠記にいへる、從ふべし。黄葉の過にしとよめる歌、集中に多ければ也。古訓ことわりなし。過去君とは、日並知(ノ)皇子尊をさし奉れるなり。〇形見跡曾來師。跡は、いはゆるいつゝの跡《ト》也。跡思比而《トオモヒテ》の心也。曾もじの心は此荒野もと、故尊の御形見とみつべきものにあらぬを、ひとすぢに御かたみと思ふはかなさを思はせて、曾《ゾ》とはいふ也。古人|曾《ゾ》もじを用ふるに、必かくしたがふまじき筋にしたがはるゝ歎なり。さらでは、曾《ゾ》といふ詮なきをおもふべし。世に曾《ゾ》を治定の詞といふ事の、麁なるをさとるべし。師《シ》は去倫の師なり。この師は、そのすぢにしたがひたる事、すでに今とは筋たがへる歎也。たゞ過去の詞とばかり心うるは、くはしからぬ也。されば、これは、此阿騎野かゝるあら野なれども故尊の御かたみとのみ、一すぢにおもひて來しか。今この野にやどりては、御形見とみるべくも(160)あらぬ歎也。
靈、此歌、表は、この阿騎野、故尊の御獵ましゝ所なれば、御かたみとて來しに、此荒野の御形見ともなきあぢきなさをなげきたるによみふせられし也。されど、思ひしかひもなしとおもふばかりの事は.歌によまずともありぬべければ、本これ、別に情ある事明らか也。されば思ふに、なか/\こゝに來て、いとゞ昔の戀しければ、皇子の御心、いかにとおもひやり奉れろ也。されどこれ、又上と同じはゞかりに、かくは詞をつけられたる也。わが歎をのみいふがほにて、皇子の御うへはよそにしたるやうに詞をつけられたるに、なか/\皇子をいとをしみ奉れる、言外に情あふれたるをや。
 
48、東《ヒンガシノ》。野炎《ヌニカギロヒノ》。立所見而《タツミエテ》。反見爲者《カヘリミスレバ》。月西渡《ツキカタブキヌ》
 
言、東野云々 今本の訓ことわりなし。これは、此阿騎野の東方をいふなり。かく東をしもいはれたるは、下の、月西渡にむかへて思ふに、東方の雲しらみたるを思はせむがため也。〇炎 まへにいへり。これは、東野の民家などに、はやく起てたく火のほのかにみゆるを云。ある註に、此炎こゝは明そむる光をいふといへるは、後世心なり。明る光をかぎろひといはむ事、古人の詞づくりにあらず。予つねにいふが如く、後世心をもて、古言はとくべからずといふ所以を思ふべし。東といふにこそ、しらめるをおもはせたれ。これはたゞたく火なるをや。〇所見而 後世はたゞ(161)みゆるにいへど、すべてみゆまじき物のみゆるをいふにあらでは、詮なき詞也。これ、そのみゆるにつけて、情ある事にいふ也。たゞみゆるといふ義のみにあらず。いまだ夜はあけじとおもへるに、明るに近きさまのみゆるを云也。このみゆるにつけての情は、下にいふべし。而《テ》もじの義此下に多事を含蓄する事、例のごとし。〇反見爲者 夜いまだ明じと思ふに、東方しらみて、民家火をたくがみゆるより、月はいかにと西方をかへりみたる心也。なにのよしもなきやうなる詞づくりなれど、上古詞をつくるには、ふかく力を入れたる事これらの詞にみるべし。後人の及ばざる境これらにしるしかし。〇月西渡 この西渡のもじは、心えてかゝれたる也。東方しらみて民家火をたくのみならず、月かたぶきたれば、疑なく、夜ははや明ぬべしとしられたる心なり。
靈、この歌、表は、いまだ夜明むには程あるべくおもへりしに、東方を見れば、空しらみ、野ちかき家にとく起てたく火のみゆるに、西方をかへりみすれば、月さへかたぶきたるは、うたがひなく、夜は明むとするよ、とおもひの外によのはやくあくるを驚きたる心に、詞をつけられたるなり。東方ばかりにては信じがたきを、西方をかへりみて、夜の明むとするを信じたる心なるべし。されど、おもはずに、よのはやく明るを驚くばかりの事を、古人歌とよむ物にあらねば、必別に情ある事明らか也。されば思ふに、もとなぐさめむとて、此野に來ましたるなれど、かへりて懷古の御心しのびがたさに、こよひ寢やし給ふらむ。ねられたまはずして夜をやあかし給ふらむとて、皇子の御うへをふかくいとをしみたてまつられける歌なり。これ又上と同じはゞかり(162)に、かくは詞をつけられたる也。この長歌・短歌ともに、すべて詞づくり凡ならぬが中に、此歌ことに詞のいたりをきはめられたり。歌はかやうによまゝほしき事なり。たゞ夜のあくるさまをのみいひて、皇子はみねましつらむか、又今までもねられ給はぬか、とさま/\御心のうちをおもひやり奉られたる情、句々・言々の置ざまにてあらはにいひたるよりも、深く思はるゝぞかし。かく、事もなげによみふせられたる詞づくりに、かばかりの情こもりて、今みるにだに涙もさしぐまるゝは、ひとへに倒語の妙用なり。倒語のくしびなる事、おもひしるべし。上古の人の詞づくり、いづれとはなきが中に、此ぬしをばひじりとさへいふだに、よまれたる歌ともなほ優劣あり。そのすぐれたるが中にも、此歌などは、此集中の王ともいふべしかし。
 
49、日雙斯《ヒナメシノ》。皇子命乃《ミコノミコトノ》。馬副而《ウマナベテ》。御獵立師斯《ミカリタヽシシ》。時者來《トキハキ》向《ムカフ・ムケリ》
 
言、日双斯は、日並知とかけるに同じ。輕《カルノ》皇子の父尊なり。まへにいへるがごとく、此皇子、この野に御獵ましゝ事ありけるを云也、命《ミコト》とは、もと御言《ミコト》の義にて、天神、御言もちて皇孫の命に葦原中國をよさし給ひしより、神の御心のまに/\御言用ひさせ給へば、その御言やがて神の御言なれば、命《ミコト》とは申す也。大かた、神は御身おはしまさねば御言もなし。されば人の口をかり給ひて、妙用をふるまひたまふ也。しかれども、からるべき人の言ならでは、かりたまはぬものなる事、古事記燈にくはしくいへり。紀に、宰の字をみこともちといふにあてられたるも、此(163)義によりてなるべし。神代卷には、尊・命とかきわけたまひて、舍人皇子、至尊(テ)日v尊(ト)自餘(ヲ)曰v命(ト)と自註したまひしは、文字にかゝづらひ給へるにて、美古登《ミコト》といふ訓にはあづからぬ事也。古事記には、悉く命の字を用ひられたるに思ふべし。伊那那岐《イザナギ》・伊邪那美《イザナミ》のニばしら、神世七代には、神と唱へ、游能碁呂島之件《オノコロジマノクダリ》より、命《ミコト》と申し、三貴子黄泉之件《ミバシラノタフトキキミコヨミノ》より、又大神とたゝへたるにても、この心はうべき也。【古事記燈にくはしくいへり】〇馬副而 從者と馬を並べさせたまひてなり。副の字は物にものゝそひたるかたちなれば、この心をえてかゝれたる也。もはら御在世の時のありさまを思はせむがため也。〇御獵立師斯云々 みかりに立出ましゝ時とは、上の東野云々の歌より連續しておもふに、この時とは、朝獵にたち出ましゝ時の來むかふといふなるべし。ほと/\夜あけむとする事を、前の歌にはよみ、此歌はやゝ朝となりてよめるなるべし。古註にはみかりましし時節の來向ふ也といへり。いづれにもあるべけれど、なほ思ふに大かた獵は四時ともにするわざなりとはいへども、冬を主とす。かの故尊は、いつ御獵し給ひしをしらねど、もし冬ならば、此時こと/”\しく、時者來向といはむははえなかるべく、又さなくとも京を出ます時より、故尊の御かりましゝ時節はあきらかなるべければ、こゝには思ひかけぬやうによまれたるも詮なければ、朝獵の時とせむ方あはれふかゝるべし。とおぼゆる也。立師斯は、たゝせられし也。者《ハ》もじ、此歌の眼なり。朝がりに立出ましゝ時は今來むかへども、外に來向はざる物ある歎なり。この言外は、すなはち靈なり。下に見るべし。多かる物の中に、目にたつ歎前にいふが如し。その(164)言外の情をいはむ爲めに、かへりて、そこをいはで、來向ふ時の方を詞とせられたる也。前にもいひしが如く、すべて、事、兩端をいはでは、その理盡ざる物なれども、兩端をいへば、詞いと稚し。大かた、詞はきかむ人の思慮・分別をまつをむねとつくるべきに、われより理を詞につくす、これを稚しとも、又いやしともいふ也。されば、片方を言外とし、その片方を詞として、言外でる方をおもはする事、脚結の專用なるなり。これにかぎらぬ事ながら、此|者《ハ》もじなどことに此理のしるき用ひざまなれば、くりかへしこれをいふ也。よく/\心うべし。
靈、この歌、表はさきに日並知命、この野に朝がりに出たちましゝその時は今來むかふよ。とその時の來むかふを驚きたるに、よみふせられし也。されど時の來むかふをおどろくばかりの事を、古人は歌によむものにあらず。されば思ふに、情は、時は來むかへども、故尊はかへり來たまはぬをなげきたる也。これみづからのうへもあれど、むねとは皇子のふたゝび父尊にあひ奉り給はむ期もなきをいかにかいかにおぼすらむ。と深く御心のほどをいとをしみ奉れる也。しかるを、皇子の御うへをもいはず、たゞ時の來むかふをおどろけるばかりに詞をつけられたる、これ又、上と同じはゞかりによりて也。たゞ、者《ハ》もじひとつにて、うはべは時のうへばかりに、詞をつけられたる至妙、いはゞなか/\なるべし。倒語の御教に、志あらむ人は、よく/\これらの歌に心をとゞめて、詞づくりの妙處をおもひしるべきなり。
 
萬葉集燈卷之三 終
 
(165)萬葉集燈卷之四
                 平安 富士谷御杖著
 
本集卷之一 其四
 
藤原(ノ)官之※[人偏+殳]民(ガ)作歌
 
持統天皇八年、清御原宮より此宮にうつり給ふ。その宮つくる時の※[人偏+殳]民がよめる也となり。されど、古言はたゞ、表のみをたのみがたきもの也。この歌のよみざま、いふかひなき※[人偏+殳]民のよめりともおぼえぬ詞づくりなれば、誰かは知らねど、※[人偏+殳]民が歌になしたるにもあるべし。かくいふは、はゞかる所あればなり。下にいふをみて思ふべし。されどなほ、※[人偏+殳]民がうちにも心あらむは、かかる歌よむまじきにもあらねば、ひとへにはいひがたし。
 
50、八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王《ワガオホキミ》。高照《タカテラス》。日之皇子《ヒノミコ》。荒妙乃《アラタヘノ》。藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》。食國乎《ヲスクニヲ》。賣之賜牟登《メシタマハトム》。都宮《オホミヤ・ミアラカ》者《ハ》。高所知武等《タカシラサムト》。神長柄《カムナガラ》。所念奈戸二《オモホスナヘニ》。天地毛《アメウチモ》。縁而有許曾《ヨリテアレコソ》。磐走《イハバシノ》。淡海乃國之《アフミノクニノ》。衣手能《コロモデノ》。田上山之《タナカミヤマノ》。眞木佐苦《マキサク》。檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》。物乃布能《モノノフノ》。八十氏河爾《ヤソウヂガハニ》。(166)玉藻成《タマモナス》。浮倍流禮《ウカベナカセレ》。其乎取登《ソヲトルト》。散和久御民毛《サワグミタミモ》。家忘《イヘワスレ》。身毛多奈不知《ミモタナシラズ》。鴨自物《カモジモノ》。水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》。吾作《ワガツクル》。日之御門爾《ヒノミカドニ》。不知國依シラヌクニヨリ》。巨勢道從《コセヂヨリ》。我國者《ワガクニハ》。常世爾成牟《トコヨニナラム》。圖負留《フミオヘル》。神龜毛《アヤシキカメモ》。新代登《アラタヨト》。泉乃河爾《イヅミノカハニ》。持越流《モチコセル》。眞木乃都麻手乎《マキノツマテヲ》。百不足《モヽタラズ》。五十日太爾作《イカダニツクリ》。泝須良牟《ノボスラム》。伊蘇波久見者《イソハクミレバ》。神隨爾有之《カムカラナラシ》。
 
言、八隅知之よ,日之皇子 まへに註せるに同じ。これは、 持統天皇をさし奉れり。荒妙云々 たへは、布の古名也。いにしへは、栲《タヘ》といふ物もて織れりければ也。妙の字は、かりたる也。やがて、卷三に、荒栲藤江之浦爾《アラタヘノフヂエノウラニ》とかゝれたり。その布の中にも、いと麁なるを、あらたへといふ也、鎭魂祭祝詞に明妙《アカルタヘ》・照妙《テルタヘ》・和妙《ニゴタヘ》・荒妙《アラタヘ》云々 祈年祭にも、かくの如くみゆる、これなり。藤もておれるは即、あらたへなれば冠らする也。かく冠詞を置たるは、この藤原の地のよきことを、ほむるにかへたる也。あらはにほむるよりも、思はせたるは、おもひやりいと深きが故也。我《ガ》とは、乃《ノ》といふにはたがひて、それにはたらきをあらせていふ詞なる事、くはしく上にいへり。君が代とつねによむを、君のよとは絶ていはぬに思ふべし。梅が香とつねによむを、古今集に、梅の香のふりおける雪にまがひせばといふ歌あり。源氏物語をとめの卷に、梅の香とかけり。その餘にはみず。これらは、香の方を主にいはむがため也。これひとへに、藤原の美地なるをさとせる也。荒妙乃と冠辭をおけるをも、おもひあはすべし。宇倍とは、此の卷の終にも、高野原(167)之宇倍《タカノハラノウヘ》とよめるも同じ。宇倍は、方《ヘ》といふに同じ。方《ヘ》は、その方をさしていふ詞なり。この藤原に都し給ふなれば、方《ヘ》とはいふまじき事のやうなれど、なに事も、さしつけていはぬが、わが御國ぶりなれば、うちゆるべて、藤原がうへとはよめる也。かやうの詞づかひは、みづからさかしらならじとての事なり。上古の風俗、これひとつにも思ふべし。後世人のおもひもかけぬ詞づかひなり。〇食國乎 まへにくはしくいへり。 帝のしろしめす國をひろくいふ名なり。〇賣之賜牟登 賣之《メシ》は、見之《ミシ》と同じと眞淵が説也。げに、賣《メ》・見《ミ》通音なれば、同詞なりといはむに、理なきにはあらねど、通音の事、通ふとだにいへば、さてやみぬる事、世のならひとなれゝど、通ふは通ふにて、そのかよふにつけて義のわかるればこそかよへ。かよふをもて、同じとはいふべからざる事なり。もとより。見《ミ》は以緯なり。賣《メ》は江緯なり。されば、見之《ミシ》は、見たまふ事也。賣之《メシ》は、めさるゝにて、事はことなり。かく、異事ながら、見之《ミシ》とも、賣之《メシ》ともいふは、ともに、食國をしろしめす也としるべし。これにかぎらず聞之《キコシ》も亦しろしめす事をいふにておもふべし。されど、くはしくいはゞ、見之《ミシ》は、御目のうへにて、天下の事を見あきらめさせ給ふなり。聞之《キコシ》は、御耳のうへにて、天下の事を聞あきらめさせ給ふなり。賣之《メシ》は、天下の事をめしつどへさせ給ふなりとしるべし。登《ト》は、次の句の等とともに、所念奈戸二《オモホスナベニ》にうちあふ也。〇都宮者 古點みやこにはとあれど、にもじ用なし四言にはいふべし。眞淵、おほみやは、又みあらかはともよめり。みあらかのかもじは、處の義にて御在處《ミアラカ》なり。いづれにもあるべきが中に、おほみやは(168)の方穩しかるべし。者《ハ》もじ、大かたにいはゞ、乎《ヲ》といふべき所也。食國は乎《ヲ》といひ、都宮は者《ハ》といへる、めをとゞむべし。食國をめし給はむ爲に、都宮をば高しらせたまはむとおもほす心なり。此都宮にて、食國をめし給はむとおもほす心をおもはせむがために、乎《ヲ》とよみ、者《ハ》とよめる也としるべし。高所知武等 高は前にいへるが如く、たけき心にて、御稜威《ミイツ》を云也。されど、この稜威もと、大かたの威にはあらず。くはしくは古事記燈にいへり。〇神長柄 まへに同じ。此神ながらと、おもほすなべにの二句の間に、上の荒妙乃以下六句は、はさまりたる心にみるべし。されば畢竟、荒妙乃の上に、神長柄の一句はあるべきを、こゝにおきたる也。かく上にあるべきをこゝに置たる所以は、例の標實の法を以てなり。此神長柄は、持統天皇の御くしびをたゝへ申せる也。奈声戸二とは、二事のならぶをしめす詞なり。されど、もとよりならぶべき事を、奈戸二とよむは詮なし。ならぶまじき事の並ぶをさとす事、此の詞の詮也と心うべし。さればこゝも大かたの人事は、心にもおもふばかりにて、いまだ發言もせぬに、その事と、他の事、ならぶべきにあらず。しかるに此 帝遷都の事を御心におぼしめすとならびて、良材おのづからあつまり來るを、奈戸二とはいふなり。おもほすといふ詞、かろくみまじき也。いまだ御心のうちになしていへる妙也。まことは、 勅命もありつればこそ、さわぐ御民ともよめれ。それをばかく、御心のうちなるほどになして、詞をつけたるは、ひとへにこの みかどの神にますを思はせむがため也。古人の詞のつけざまおもふべし。〇天地毛云々 天地もよりてとは、天神地祇も、(169)帝に御心をよせ給ふを云。これ、わが御教の大本にて、よろづの所思、天神・地祇の御力にて成就したまふを、いたりとする也。この毛《モ》もじは、天も・地もといふ心におけるにはあらず。その故は御民はすべて、 天皇の御心によりてつかへまつるは、いふもさら也。その御民のみならずとの心を、毛《モ》とはよめる也としるべし。下に御民|毛《モ》とあるは、又この天地を主としておけるなり。詞の條理みなしかり。心えがたからむ人は、わが門にまねぶべし。安禮《アレ》は、安禮婆許曾《アレバコソ》の婆《ハ》をはぶけるなり。許曾は、下の浮倍流儷《ウカベナガセレ》の句にてうけたる也。許曾《コソ》の義は、前にくはしくいへり。こゝも、天地のよるにあらずは、なにの妙用ありて、かくおのづから良材こゝにあつまりくべき。との心なり。〇磐走云々 走は、端の仮名なり。くはしくは前にいへり。これは、藤原まで行程いとはるかなるを、おもはせむがための冠なり。〇衣手能云々 くはしくは、眞淵冠辭考に論らへり、その説、手長能大御世《タナガノオホミヨ》・手長乃御壽《タナガノミイノチ》など祝詞にある心にて、いにしへは袖せばく長かりければ、手長とつゞけしにや。又袖は、即衣の手なればにや。又たたなはるといふ心につゞけたる歟《カ》。と三説をあげたり。されど、たゝなはるは迂遠なるべし。手《タ》とかゝれる歟。又は手長とつゞけたるかなるべし。田上山は、淡海國栗本郡なり。〇眞木佐苦云々 これも、くはしく冠辭考にあげつらへるをみるべし。されど、眞木は檜なり。とさだめていふまじき也。檜は眞木ともいふべし。檜は眞木なるが故に、かく冠とはしたるものなり。佐苦《サク》は、かのぬしが説のごとくいにしへは、ひきわる事はせで、斧などにて析たろが故なり。嬬手の嬬は假字にて、拆たる木は(170)必|※[木+爪]《ツマ》あればいふなるべし。手《テ》は麻手《アサテ》などいふが如し。たゞ添たる辭也。と古釋にはみゆれど、しかありては、たゞその木の※[木+爪]をいふ詞となりて、※[木+爪]ある拆木の事にはならざるべし。されば思ふに、手《テ》といふ事、いかなる故とは明らめざれども、※[木+爪]ある拆木の、宮材の用に便よく、木造りなしたる名とおぼしき也。麻も物に用ひむに、便よくしなしたるを、いふなるべくおぼしければ也。乎《ヲ》は、さばかり藤原よりは遠き田上山なれば、その檜のつまでは、宇治川にながすべき事にあらぬを、との心を思はせたる也。〇物乃布能云々 物とは、兵具《ツハモノ》の事をいふ歟。そのつわものを執る人のともがらを、物乃布といふにや。冠辭考に【眞淵】ちはや人うぢとつゞけたる心にて、うぢは稜威《イツ》にかよはせたるなりといへり。此集卷六に物部乃八十友能壯者《モノノフノヤソトモノヲハ》。また物負之八十伴緒乃《モノノフノヤソトモノヲノ》などよめるは、そのともがらの多きにかゝれる也。又神典に、宇受賣命《ウスメノミコト》あり。この御名のたぐひに、宇知とつゞけたるにや。この御名の義は、古事記燈にくはしくいへり。爾《ニ》もじは、此宮造るに便よきをおもへる也。〇玉藻成云々 かのつまでどものうかぴながるゝさまを、玉藻にたとへたるなり。成《ナス》の事まへにいへり。如といふ類也。されど、如にはたがひて、成《ナス》はまことはさならぬものを、しか見なしいひなすを別とす。成《ナス》に、如の字をかられたるは、たゞ義のかよへるをもて也。これによりて、混じいふまじき也。如しを成《ナス》といふは古言などおもふも非なり。如《ゴト》・成《ナス》ふたつながら、いにしへ用ひたる詞なるをもて、同詞ならぬをしるべし。かくたとへたるは、うかびながるゝ良材どもの、ひまなきさまを思はせむとて也。流禮《ナガセレ》は、前にいへるごとく、天地・神祇(171)の御わざにて、ながしたまふをいふ也。上の天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》をはづさすして、みるべし。これをとるより、人力とせり。禮《レ》は、上の許曾のうちあひ也。〇其乎取登云々 其《ソ》は、それなり。されど、曾《ソ》といひ、曾禮《ソレ》といふ、同じからず。許禮を許、和禮を和、可禮を可、多禮を多といふ類、皆義あるを、世には混じたり。許禮を許、曾禮を曾といふを、古言也などおもふ人あるは麁なり。此集に、許禮能《コレノ》ともいへるをおもふべし。すべて、禮《レ》もじをそふる時は、外に對する物ある義なり。禮《レ》もじなきは、對する物なく、やがてその物をさす時の用なり。この法いづれも同じ。さればこゝも、此良材ども、外に對する物なければなり。取とは取あぐる也。登《ト》は、とての心なり。〇散和久御民毛 さわぐは、その人夫のいと多くて、いそしきさまを云也。毛《モ》は、天地・神祇のみならざるをさとしたるなる事、上にいへるが如し。委しくいはゞ、天地・神祇の御心をよせ給ふにつれて、おのづから御民も、といふ義也。天地・神義を主とたてゝ、自然のかたちにみるへし。畢竟命じもし給はぬにとの心なり。〇家忘 家には父母妻子もありて、しばしも家をはなるれば、忘れがたき通情をたてゝいふ也。ひとへに、天皇の御徳によれるよしを云也。〇毛身多奈不知とは、身はもと、安逸をこひねがふが常なる事をたてゝいふにて、毛《モ》は、さる身なれどもといふ也。多奈は、契冲は、たなびくを輕引とかける心にて、身を輕むずる事かといへり。いかゞあらむ。東麻呂は、直の義といへり。長流も同説なり。又、勞をいふともいへり。しかるに、此集卷九に、金門爾之《カナドニシ》。入乃來立者《ヒトノキタテバ》。夜中母《ヨナカニモ》。身者田菜不知《ミハタナシラズ》。出曾相來《イデゾアヒケル》。また卷十三に、葦(172)垣之《アシガキノ》。末掻別而《ウレカキワケテ》。君越跡《キミコユト》。人丹勿告《ヒトニナツゲソ》。事者棚知《コトハタナシリ》。などよめり。これらの歌につけて思ふに、知る知らずといふ詞のかゝる物なる事明らかなれば、これらの諸説かなへりともおぼえず。さればおもふに、多奈とは、から人の恕といふ心にて、その物の、欲せざる所を思ひて、いたはる事をいふとおぼしき也。いづれも/\、此義にてかなへり。身毛とも、身者とも、また事者ともかけるを思ふべし。されどいかなる故にて、これをば多奈とはいふらむ。おもひよるよしもあれど、くはしくも考へぬ事は、なか/\なればいはず、これ又、 天皇の御いつをたゝへたる也。〇鴨自物云々 水に浮居といふ事に冠らせたる也。自物《シモノ》といふは、常にその物のごとくいふ心に用ひたり。犬自物《イヌシモノ》・馬自物《ウマシモノ》などの類、いと多し。この例にたがへるやうなるは、男自物とよめる也。これはなほ、そこにていふべし。自《シ》は、もし、時自久《トキシク》の自にや。しからば、時自久《トキシク》は時頻《トキシク》の義なれば鴨じき物といはむを、つゞめていふにやあらむ。しくは、重・及などの字をあてられて、間なきかたちをいふ詞なれば、鴨と間の透《ス》かぬ物、といふ心にもやあるべき。これは、かの材をとりあげむために、御民どもの舟にのりて、川中にうかびをるさまを云。而《テ》もじ、古來、論區々なり。上にも、而《テ》もじの事をいへれど、而《テ》もじの義を心うべきには、此歌最上なり。學者よく/\めをとどむべし。或説に、この而《テ》もじ、下の泉乃河爾持越流といふにつゞけてみるべしといへれど、しかしては、不知國依巨勢道從といふ句に、その終なくて、心えがたし。又は、この而《テ》もじの下に脱語あるべしなどもいへるは、而《テ》もじの義をよくも探らぬ故にて、此、水に浮ゐて吾作る。と直(173)につゞけるが、理なさにいへる説どもなれどしからず。此|而《テ》もじに、水にうきゐてその良材どもをとりて、藤原にはこびて、切もしこなしもして、などいふほどの事をもたせたる也。さて、不知國依以下は、又別事としてみざれば、事交はりて義をなさゞる也。おのれ今かくいふを私なりとみる人もよには多かるべけれど、大かた、而《テ》もじの義、水にうき居ての下、直につゞく詞ならば、もとよむ而《テ》0もじの詮はなき也。數事をひとつの、而《テ》もじにもたするに、而《テ》もじの詮はある事なり。これにかぎらず、すべての脚結みなその法かくのごとし。わが門に學ばぬ人は、信じがたかるべし。上古の用ひざま、此歌のやうにはなくみゆるも、この法を出る事なし。後世直言のひがみに、この而《テ》もじの心えがたき也。かへす/”\、後世の弊をさとるべき也。〇吾作云々 吾とは、われ一人の事にいふにあらず。※[人偏+殳]民のともがらをひろくさしていふ也。我道・我國などいふがごとし。【我國吾我などすべて文字にはかゝはらぬなり。】日之御門は、日之《ヒノ》は、日神の御子のおはします宮の御門なれば也。大かた、宮をいはむとて、御門をもて詞とする事、わが御國言のてぶりなり。さればこゝも、猶宮をさしていふ也と心うべし。爾《ニ》は、われらがつくる宮處にといふ心なり。下の泝須良牟にうちあへるにて、此宮にとてのぼすらむの心なり。〇不知國依云々 しらぬ國とは、いと遠き國をいふ也。大かた、ゆきて國こそあらめ。わが御國内にしらぬ國とてはあるべくもあらぬを、かく不知國といふは、いと/\遙なる國々をおもはせむがための詞づくり也。依《ヨリ》は、此下の從もふたつながら泉乃河爾持越流におちゐるなり。巨勢道は、この都にたよりよき道なれば也。(174)遙なる國々より良材をきり出て、巨勢の道より泉川に持こすをいふ也。〇我國者云々 これより以下五句は、泉【出、とかけたるなり。】といはむがためのよせにて、よせながら此 帝をほぎ奉れる也。されば、此五句は、こゝにはさめる也とみるべし。常世爾成牟、これ、みかどの御徳にて、神龜さへ出たるを云也。常世とは、こゝは常《トコ》しき世といふ也。この名もと、神典に【古事記上卷】常夜往《トコヨユク》とあるこれなり。大かた天地二性をそなふるを、わが御國ぶりの大本とす、しかるを何事をもひどつにたつるを、常夜と名づく。晝なくて、常に夜なる義也。これ、深き理ある事、古事記燈にいへるをみるべし。他域の俗は、みな何事をもひとつにたつれば、すべて他域をさして、常世といふ也。 垂仁天皇の御紀に神風伊勢國則常世之浪重浪歸國也傍國可怜國也《カムカゼイセノクニハトコヨノナミノシキナミヨスルクニナリカタグニノウマシクニナリ》とある、即これ外蕃を、常世《トコヨ》國といへる也。されば、雁・燕などの常世より來るといふも、他域をさせるなり。いつの頃よりか、それを蓬莱の事とす。先達、常夜と常世はことなりといふ説もあれど、上古にはことならぬ事、神典すでに、常夜とも常世ともかきかへられたれば、これにしるきをや。その説、もとは此歌などよりいへるなるべし。これはたゞ、世の常《トコ》しへなるを常世といへるにて。後世のも、上にいへる本義より、うつりたるなるべし。これは、常世國の事にはあらずかし。〇圖負留神龜とは、日本紀廿七云 天智天皇九年六月邑中(ニ)獲v龜(ヲ)背書2申(ノ)字(ヲ)1上黄下玄とあるをおもへるにや。禹の時、龜負v圖(ヲ)出2洛水(ニ)1とあるを思へるにや。毛《モ》は圖おへる神龜はよにありがたき物なるに、それもとの心也。この外、祥瑞多きを思はせたる也。〇新代登とは、あたらは、(175)新の字の義となれるも、もとは、新らしき物は、なれ、古びむ事のをしき心よりいふ也。此集卷廿|年月波安多良々々々爾《トシツキハアタラアタラニ》などよめり。里言にアツタラといふ、是なり。後世も、あたら夜の月と花とをなどよめり。この新京に、宮しろしめす御はじめなれば也。登《ト》はとての心なり。神龜が心に、あたら代と思ひていづるよしをいふ也。泉は、出といふによせたる也。前にいへるがごとく、こゝまで五句は挿める也とみるべし。〇泉乃河爾持越流云々 泉河は、山城國相樂郡なり。 崇神天皇の御紀に、もとの名、挑河《イドミガワ》なるよしみゆ。今この河を木津といふは、かくやまとに、宮材なとをうかべてのぼすにたよりよかりければ、名づけたるにや。持越流は、かの遠國より巨勢路をもち來て、此泉河にうくるを云。越としもいふは、その國にてきり出けむ山にも、又路のほどにも、河・海など必ありて、そこにうけたりし材なるを、一旦陸路にあげて、さて又泉河にうかぶる故にいふ也。〇眞木乃都麻手乎 上なる眞木佐苦檜乃嬬手にいへるに同じ義なり。されど前のは田上山の材《キ》なり。こゝは、かの不知國よりのぼす材《キ》なり。ひとつにみまじき也。古註には、これをも、やがてまへの嬬手とひとつにみて、田上山のなりと心えためれど、前にもいへるが如く、大かたかみしもの語意もとゝのはず。しかのみならず、まへに檜乃嬬手とよみ又同じ嬬手をばふたゝびいはむは、いと稚く、古人の詞づくりにあらねば、かへす/\、これは、前のとはことなるぞかし。乎《ヲ》は、此宮に來べきにあらぬ遠國の材なるに、それをとの心也。〇百不足云々 百の數にたらぬものゝ冠也。百傳ふとよむも同じ。これは、五十に冠らせたる也。さ(176)れど、五十日太は筏の假字なり。五十日をいかといふ事、例多し。土左日記に|よそか《四十日》・いか《五十日》まで我はへにけり。ともよみ、宇都保物語・源氏物語等に、子うまれての五十日をほぐいかのもちひ多し。くはしく、土左日記燈に引おけり。かの良材をば筏につくりて、泉河をのぼすを云。良牟《ラム》は、ある註に、田上の宮材につかへまつるものゝ、おしはかりていへるなれば、良牟《ラム》とはいへりと註したれど、これは、中の良牟《ラム》の例にて、次のいそはくに、上の義をつゞけて心うべき法なり。かの註、語勢にも、詞の法にもそむけり。中の良牟《ラム》は、たとはゞ、いかだにつくりのぼすなるいそはくふればといふべきを、そのわざをまのあたりにみぬが故に、良牟とはよむ也としるべし。此卷の末に行來跡見良武樹人友師母《ユキクトミラムキビトトモシモ》とよめるなど、此例なり。この京になりても、多く用ふる例にて、けむにも、此例ある也。大かた、事がらにより、時・所により、妖氣にさはるべき事には、さだかなる事をも、わざと、良牟《ラム》・計牟《ケム》など、ゆるべてよむも常也。これもたゞ、そのわざをまのあたりみぬゆゑのみにもあらず。さだかにいふ時は、あまりに、 帝の御徳をたゝへ奉る事、めざましければにもあるべし。この良牟《ラム》、この句ばかりにかけてみるべからず。上の不知國依以下、この良牟の中なりとみるべし。何十句にても、下におく詞、上を自在する事、鳥・魚などの、尾もて身を自在するがごとし。舟の舵《タギシ》をも思ふべし。【舵は、今のかぢなり。和名抄に、舟尾也とあり】〇伊蘇波久見者とは、孝徳天皇の御紀に、天平勝寶二年三月戊戌駿河國(ノ)守(ノ)從五位下|楢原造東人《ナラハラノミヤツコアヅマヒトヲ》等於2部内廬上郡多胡(ノ)浦(ノ)濱(ニ)1獲(テ)2黄金(ヲ)1献v之【練金一分沙金一分】於v是東人等(ニ)賜2勤臣《イソノヲミノ》姓(ヲ)1云々。文徳實録(ニ)云仁壽(177)二年二月乙巳參議正四位(ノ)下兼行宮内卿相模權守|滋野《シゲノ》朝臣|貞主《サダヌシ》卒(ス)貞生者(ハ)右京(ノ)人也曾祖父大學(ノ)頭兼博士正五位(ノ)下楢原(ノ)東人該通2九經(ニ)1號(シテ)爲2名儒(ト)1天平勝寶元年爲2駿河(ノ)守(ト)1于v時出2黄金(ヲ)1東人採(テ)而獻v之(ヲ)帝|美《ホメタマヒテ》2其功(ヲ)1曰2勤哉《イソシキカモ》臣(ト)1也逐(ニ)取2勤臣之義(ヲ)1賜2姓(ヲ)伊蘇志臣《イソシノヲミト》云々 又仲哀天皇の御紀に筑紫(ノ)伊覩《イトノ》縣主(ノ)祖|五十迹手《イトテ》【中略】 天皇即|美《ホメタマヒテ》2五十迹手1曰2蘇志臣《イソシト》1故時(ノ)人號2五十迹手之本(ノ)土《クニヲ》1曰2伊蘇《イソノ》國(ト)1今謂2伊覩《イト》1訛《ヨコナマレルナリ》也また 聖武天皇の御紀に加以祖父大臣乃殿門荒穢須事旡久守在《シカノミナラズオホヂオトドノトノドアラビケガスコトナクモリマ》【自之《シシ》】事伊蘇《コトイソ》【之美《シミ》】宇牟賀《ウムカ》【之美《シミ》】忘不給《ワスレタマハズ》【止自※[氏/一]奈母《トシテナモ》】孫等一二治賜天《ヲサメタマヒテ》云々又日本記(ノ)通證といふものに、かの仲哀天皇の御紀なる伊蘇《イソノ》國を、風土記(ニ)作2恪勤《イソノ》國(ニ)1とみゆ。【此風土記は筑前歟】又此集卷四に勤和気登將譽十方不在《イソシキワケトホメムトモアラズ》など、さま/\みえたり【これは、わが友隆※[王+連]が抄録をもて、わが管見を補へる也。みたる書の數も、抄録の數も、予は、隆※[王+連]が十が一なり。】又 敏達天皇の御紀にも、勤乎をいそしきとよめる、みな、そのなすわざの怠なきを云。いそぐ・いそがはしなどいふもこの詞也。波九《ハク》の波《ハ》は伊蘇布《イソフ》といふ布《フ》を、波《ハ》にかよはして、やがて九《ク》を添たるなり。良九《ラク》・計九《ケク》・麻九《マク》・左九《サク》など、いづれも、その詞の韻を同韻にかよはして、やがて、九《ク》をそふる格なり。すべて、この類の詞は、用の詞にかたちをあらせていふ時の用なり。予が隨筆に論らへる老らくの條をてらして心うべし。さればこゝも、そのいそはしき體をみればといふほとの心也としるべし。見者は、見ざりしほどの心とは、たがふをいふ也。すべて、何|婆《ハ》といふ詞の心得、みなかくのごとし。こゝは、此 帝の御徳、今までよりもひときはめざましくおはします心をさとしたる也。〇神隨爾有之 古點、かみのまゝならしとよめるはうけがたし、ある點、かむながらならしとよめり。まゝとよめるに(178)くらぶれば、ながらとよめるはめでたけれど、ながらの義一首に切なりともおぼえぬがうへに、此兩訓ともに八言なり。されば、かむがらならしとよむべし。 天皇やがて神にますよりの事ならしといふ心也。もし、神にまさずば、御民はさら也。天地・神祇御心はよせ給ふまじければ也。ならしは、爾有之《ニアラシ》のつゞまれるなり、良之《ラシ》は、さだかには定めがたき所あれど、十に八九は、しかならむとおぼゆる事にいふ脚結也。かく、神までも御心をよせ給ふばかりの帝にませば、神がらなる事さだかなれど、さだかにいはむはさかしらにて、さま/\弊もあるべければ、良之《ラシ》とはよめる也。
靈、此歌、表は、この みかど遷都したまふにつきて、天地・神祇も御心をよせ給ひ、諸民も身をもいとはずつとむるさまをみれば、 帝の御徳今ひときはめざましくますを、驚き歎じたるによみふせたる也。されど、これもし倒語にあらすば、必諂諛におつべし。古人、さるいたりなき事を直言する物にあらねば、これ疑なく、此遷都に※[人偏+殳]せらるゝ諸民外見こそ、家をも身をも忘れてつかふまつるやうにはみゆれ。實は、家をはなれ、身を勞して、よろこばしきわざにあらねば、その心中には、遷都の役をわぶる心必然なる事なり。しかれども、公をおそりて、いさゝかもさるけしきもみせぬ、いかに心くるしかりけむ。此歌よめる※[人偏+殳]民、みづから深くわびしく思ふ心をば諸民のうへに恕して、詞をつけたる歟。又は前にいへるが如く、※[人偏+殳]民の名をかりての歌ならば、ふかく民をあはれめる心なり。大かた、遷都に民を困しむる事、甚しきを歎きたる、げにその歎(179)ことわりなる事也。もし、此歌實に、※[人偏+殳]民ならば、※[人偏+殳]民いかなりしものぞ。此詞のつけざまに、その人ざまのめでたさもおしはからるゝ也。うはべは、ひたぶるに帝の御徳をたゝへ奉りて、ふかく遷都の弊をなげきたる詞のつけざま、よく/\めをどゞむべし。
 
右日本紀(ニ)曰朱鳥七年癸巳(ノ)秋八月幸2藤原(ノ)宮地(ニ)1八年甲午(ノ)春正月幸2藤原(ノ)宮(ニ)1冬十二月庚戌(ノ)朔乙卯遷2居藤原(ノ)宮(ニ)
 
從2明日香《アスカノ》宮1遷2居藤原(ノ)宮(ニ)1之後|志貴皇子《シキノミコノ》御作歌
 
51、※[女+委]女乃《タワヤメノ》。袖吹反《ソデフキカヘス》。明日香風《アスカカゼ》。京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》。無用爾布久《イタヅラニフク》
 
言、古來、※[女+釆]とあれど、※[女+釆]は、字彙に※[女+釆](ハ)倉代(ノ)切音菜。女(ノ)字とみゆ。しかれば、※[女+釆]女とはいふべからず。ある説に、※[女+釆]は、※[女+委]の誤なるべし。字書に、※[女+委]は、弱好の貌とありといへり。これしかるべし。たわやめは、たわやぎめといふを、はぶきたる也。たわはとをともいひて、すべて物のちからなく、たわ/\としたるを云。これは、宮女をひろくさしたまへるなるべし。されど、かく廣くいふ中に、さす人はある事、古言のならひ、前にいふが如し。〇袖吹反 風の袖をふきてうらがへすを云。下のいたづらにふくに照らして思ふに、吹反といふにて、風のつねに、※[女+委]女の袖に馴て袖ふきかへすを、心やりにもしたらむやうによませ給へる也。〇明日香風とは、明日香にてふく風を云。佐保風・いかほ風などよめるに同じ。これは、藤原宮にうつらせ給ふまでの、もと(180)の宮地にて吹ける風をさしたまへる也。されば、上の二句も、もとの明日香の宮にはべりし程、宮女の袖に、風の馴たりしを云也。〇京都乎遠見 乎見の義、まへに釋せるが如し。京都とは、今の藤原宮をさし給へる也。明日香風の、今の都にゆきて、宮女の袖をふかむと思へど、此新京まで吹來む事の遠くて、吹かよひがたさにといふ也。これ皆、風の心にしてよみ給へる也。〇無用爾布久 今は、明日香の里には、宮女の袖もあらねば、いたづらにふくとはよませ給へる也。いたづらにといふ詞は、必なすべき事のあるに、その事をもせぬをいふ詞なり。されば、こゝも※[女+委]女の袖をふきかへし馴たも風の、かへすべき袖もなきをいふにて、風の心も、あへなくさぶしからむをおぼして、無用爾布久とは、よませ給へるなり。
靈、此御歌、表は、明日香にて、吹かへし馴し宮女たちの袖もなくて、今は、新京にふきかよはむ事も遠ければ、むなしく、もとの都にふきをるその風のこゝち、いかにあへなく、物さぶしくおぼゆらむ。と風の心をあはれみてよませ給へるなり。されど、もと、非情なる風を、心あるやうにいひなし、かつ、風は、明日香より藤原まで吹かよはむにかたきばかりの物にもあらぬを、都の遠さに行がたき事をいひ、大かた※[女+委]女の袖をふくを、ふく風の詮のやうによみなし給へる御詞づくり、直言たるべきやうなし。風の心をいたはり給ふも、もとより、古人の歌とよむべき情にあらず。さればおもふに、此皇子は、 天智天皇の御子 光仁天皇の御父にて、追號したてまつりて、春日宮御宇天皇と申せり。この皇子、明日香にとまり居たまひて新京につかふまつる御思(181)ひ人のあひがたさを佗て、その人につかはされし御歌なる事、明らか也。されど、これをいさゝかもあらはにおほせらるれば、遷都をうらみたてまつり給ふになりぬべきを、はゞかりたまへる御詞づくり也。公私を、詞のうちにそなへて、いづれにもよらぬ御詞づくり、めでたしともよの常なり。歌は、いかで、かくよまゝほしくぞおぼゆる。此集中の歌、いづれともいひがたきが中に、この御歌は、妙中の妙ともいふべき御詞づくり也かし。上古の人の倒語の道に心をもちひたりし事、このひとつにも思ふべし。
 
藤原(ノ)宮(ノ)御井《ミヰノ》歌
 
これ、新京なる御井なり。この歌、作者なきは、これも、志貴皇子の御歌にや。此瑞作、こゝろえある事、この下にいふべし。
 
52、八隅知之《ヤスミシシ》。和期大王《ワコオホキミ》。高照《タカテラス》。日之皇子《ヒノミコ》。麁妙乃《アラタヘノ》。藤井我原爾《フヂヰカハラニ》。大御門《オホミカド》。始賜而《ハジメタマヒテ》。埴安乃《ハニヤスノ》。堤上爾《ツヽミノウヘニ》。在立之《アリタヽシ》。見之賜者《ミシタマヘバ》。日本乃《ヤマトノ》。青香具山者《アヲカクヤマハ》。日經乃《ヒノタテノ》。大御門爾《オホミカトニ》。春山跡《ハルヤマト》。之美佐備立有《シミサヒタテリ》。畝火乃《ウネビノ》。此美豆山者《コノミツヤマハ》。日緯能《ヒノヌキノ》。大御門爾《オホミカドニ》。彌豆山跡《ミツヤマト》。山佐備伊座《ヤマサヒイマス》。耳爲之《ミヽナシノ》。青菅山者《アヲスガヤマハ》。背友乃大御門爾《ソトモノオホミカドニ》。宜名倍《ヨロシナベ》。神佐備立有《カミサヒタテリ》。名細《ナグハシ》。吉野乃山者《ヨシヌノヤマハ》。影友乃《カゲトモノ》。大御門從《オホミカドユ》。雲居爾曾《クモヰニゾ》。遠久有家留《トホクアリケル》。高知也《タカシルヤ》。天之御蔭《アメノミカゲ》。天知(123)也《アメシルヤ》。日御影乃《ヒノミカゲノ》。水許曾波常爾有米《ミヅコソハツネニアラメ》。御井之清水《ミヰノマシミヅ》。
 
言、八隅知之以下、日之皇子以上、まへにいへるに同じ。これも、持統天皇をさし奉れるなり。和期とかゝれたるは、賀於とつゞく音便のまゝにかゝれたる也。〇麁妙乃云々 上に、藤原とつづきたるに同じ。藤井が腹は即藤原なり。もとは、藤井が原といひけむをつゞめて、藤原といひなりしなるべし。爾もじは、こゝならでも、所も多かるにとの心をいふ也。さて下に、此御井をほめたるに應ぜり。〇大御門云々 御門をもて、大宮をさとす事、前にいへるが如し。門は大かた、その宮の咽喉なれば也。これらにさへ、わが御國言のならひはそなはれるをや。大御門始賜とは、こゝに遷都し給ふを云也。而《テ》もじの義、まへにくはしくいへり。こゝに、新京をはじめ給ふと、埴安の堤の上にたゝせ給ふは、事、次第につゞかぬ御わざなるを思ふべし。〇埴安乃堤上爾 これは、埴安池の堤なり。此集卷二にしかよめり。香具山のすそへつゞきて、いと高き堤なりけるなるべし。〇在立之云々 あり何といふ詞古言に多し。古事記上卷の歌に佐用婆此爾《サヨハヒニ》。阿理多々斯《アリタタシ》。用婆比邇《ヨハヒニ》。阿加用婆勢《アリカヨハセ》【長歌上下畧】此集中にも、この例多し。かく用ふる心得は、【これは、上つ世の挿頭なり】ありわたるかたちをいふ詞なり。此集中に、戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》などよめる例にて、いづれも同じ。或説に、ありは、昔今と絶せぬ事にいへば、 天皇はやくより、此堤に立たまひてみやりたまひしをいふ也とあるは、近きがごとくにして遠し。わが拍父皆川※[さんずい+其]園、すべて書をみるに、實もたれといふ事をいましめたるうべ也。これ、ありといふを、有・在などの字にもたれたる説(183)なり。これは、昔今と絶ぬさまをいふにはあらで、ありわたるかたちをさとす詞なり。このけぢめ精微にして、心くはしからぬ學者は、元おもひわくまじき也。よく心をとゞむべし。こゝの地相をよく察し給ひし事を思はせむがために、おかれたる也。立之は、たゝせられの心也。見之賜者は、みさせたまへば也。〇日本乃云々 日本は假字にて、大和國の事也。倭といひし處の事、眞淵が萬葉考にくはし。山邊郡大和郷のわたりを、いにしへはやまとゝいひけむといへり。これ、その考索のいたれる事、かのぬしのいさをなり。大和國にして、やまとのといはむはいと稚ければ、しか穿鑿せられけむも、ことわりなる事なり。しかはあれど古人は、心から稚言をいふ事多し。前にいへる、春過て夏きたるらしの類、これなり。しりていはむは稚しとはいふまじき也。古言は、さかしらには見がたきもの也。おもふに、これは、上の、藤井が原にの爾もじにいへるが如く、この大和の國内ならずとも、國所は多かるべきを、おもはせむがためなり。されば猶、大和一國の事なるべし。これ、古人上手の手段なり。青香具山の青は、樹の繁茂したるさまを云。山はしげきを貴べば也。者《ハ》は御井の爲としもたてるを感歎したる也。〇日經乃云々 成務天皇の御紀云、以2束西(ヲ)2爲2日(ノ)縱(ト)1南北(ヲ)爲2日(ノ)横(ト)1とあるが如く、日經は、東西を云。日のわたる道なればなり、これは、東面の御門をなるべし。南北の御門をふたゝびいひて、西面の御門なきは、南北は水脈の要たればにや。西面は、御門なかりし故にや、大御門は、大宮をいふ事、まへにいへるが如し。爾もじは、此御門のためにあつらへ置たるが如きをいふなり。〇春山跡云々 跡は、と(184)いふ如くにの心なり。されば、此歌よめる時は、春にてはあらざりし事、明らか也。春は木の芽もはりて、木草繁茂する時なればなり。されば、春ならぬに、春のごとくに、山のいたく繁茂したるをほめたるなり。宣長、春は青の誤かといへり。これ穩なるべし。之美佐備立有 しみは繁きを云。佐備は、まへに神さびにいへるが如し。繁茂すべき事を含めるが、おのづから外にみゆるを、しみさびとはいふなり。されど、青香具山といへるに、さらにかくしみさびといはむは、をさなきやうなれど、もとより青みたるがうへに、猶しげりゆかむさまの、みゆるをいふ也としるべし。この山々皆、何さびとよめるは、大かた山つみの御神さびになしていふ也。此下、畝火山には伊座とあるにもおもふべし。立有は、たちてありといふなり。そのたちてありをつゞむれば、たゝり也。このたを江緯にかよはしたる也。大かた江緯にかよはすは、未然を思はする義なる事、前にいへるが如し。〇畝火乃云々 此としもいへるは、藤原は畝火の山下にて、他の山々よりもことに近ければ、此とはいへるなり。美豆とは、 神武天皇の御紀、瀰都瀰都志《ミヅミヅシ》。倶梅能固邏餓《クメノコラカ》云々【長歌下略。又一首あり】大祓(ノ)祝詞に、美頭乃御舍仕奉※[氏/一]《ミツノミアラカツカヘマツリテ》云々【祈年祭祝詞にもあり】此集中にもいと多し。いづれも内に、潤澤を含みたるさまを云。これ又、山のよきをいふ事、まへの青香具山にいへるに同じ。わが御國すべて、潤澤ある事を貴ぶは神典に【古事記上卷】其泣|状者《ナキタマフサマハ》青山(ヲ)如《ゴト》2枯山《カラシノ》1泣枯《ナキカラシ》河海(ハ)悉悉泣乾是《コトゴシキトナキホシキ》以|惡《アシキ》神|之《ノ》音如狹蠅《オトナヒサバヘナス》皆|滿《ミチ》萬(ノ)物(ノ)之|妖悉發《ワザハヒコトゴトオコル》とあるにみるべし。潤澤なき事を嫌ふは、物と物和せざるが故也。これふかき理あり。くはしくは古事記燈にゆづれり。(185)者《ハ》もじ、前に同じ。〇日緯能云々 上に引たりし 成務天皇の御紀乃、日横これ也。南北をいふ。これは、南面の御門をいふなるべし。大御門爾 まへに同じ。爾もじも同上。〇彌豆山跡云々 彌豆、上に同じ。跡《ト》も前の春山跡の跡に同じ。よに、彌豆山とめづる山ある、その山の如くといふ心なり。上に、此美豆山者といひ、さらに彌豆山跡といへるをいぶかる人もあるべけれど、もと、みづ/\しき畝火の山の、なほその上に、みづ山さぶるよしをいふなり。上に、みづ山はといひ、さらにみづ山といふにて、おのづからかゝる心となる、古人の詞づくりおもふべし。されば、みづ山と山さびいますとは、みづ山さびいますといふほどの心也。としるべし。佐備、まへに同じ。伊座、まへにいへるが如く、おほかた此山々みな、山神の御神さびとしてよめるもの也。されど、香具山・耳梨山のふたつは、立有《タテリ》といひ、この畝火山のみ、伊座といへるは、かの二山は、神の御うへにはあらじと思ふ人もあるべけれど、佐備といへる事、神ならではあるべくもあらぬをもて、いづれも、山神の御うへをいへるなる事を辨ふべき也。しかれども此山にしも、伊座とよめるは、ことに此山のみをあがめたるにはあらで、前にもいへるが如く、此山は、藤原にことに近ければなるべし。加具山・耳梨山も、此都に遠き山にはあらねど、程あるが故に立有とはよめる也。〇耳爲之云々 今の本には、高の字なれど、或説に爲の誤ならむといへる、從ふべし.此都は、此三山の間の地といひ、香具山・畝火山・耳梨山は、まへの三山の御歌にもしるく、かつ耳高といふ山もなきをや。高・爲、字形よく似たれば誤れるにや。爲は(186)奈之《ナシ》といふ假名なるべし。青菅山者 青は、青香具山の青に同じ。菅は、すが/\しといふ心也。山菅の生ずる山といふ説ゆくりなし。古事記上卷に、我御心須賀々々志《ワガミコヽロスガスガシ》。また、須賀宮《スガノミヤ》・須賀之地《スガノトコロ》などみゆるを、神代卷には、清とかゝれたり。わが御教、心のすが/\しきを貴ぶ事ふかき理あり。神典をまねばむ人に、口授すべし。されば、祓に菅を用ふるも、この須賀の義をたふとぶが故也。大祓祝詞に、天津菅曾乎《アマツスガソヲ》云々 とみえ、此集卷三【長歌上下略】天有《アメナル》。佐佐羅能小野之《ササラノヲヌノ》。七相菅《ナヽフスゲ》。手取持而《テニトリモチテ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天川原爾《アマノカハラニ》。出立而《イデタチテ》。潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》云々 同卷六【長歌上下略】千鳥鳴《チドリナク》。其佐保川丹《ソノサホガハニ》。石二生《イソニオフル》。菅根取而《スガノネトリテ》。之努布草《シヌブグサ》。解除而益乎《ハラヒテマシヲ》云々 などなほあり。須賀《スガ》は、里言にスンガリといふに同じく、物むつかしき事なく、心がゝりなき貌也。後世の物がたむぶみどもにもすが/\しといふ詞多し。宣長これを、すすが/\しき義也といへる可也。されば、青菅山とは樹木繁茂して、こゝちよげなる山を云也。者《ハ》もじは、前のふたつに同じ。〇背友乃云々 成務天皇の御紀云、山陽(ヲ)曰2影面《カゲトモ》1山陰(ヲ)曰2背面《ソトモト》1とある是なり。影面は、日の影のあたる面といふ也。止《ト》は、津於《ツオ》のつゞまれるにて、影津面《カゲツオモ》なり。背面は、日の影の背なる面といふにて、これまた背津面《ソツオモ》をつゞめたる也。されば、此背友は、北面なるべし。後世、外面を曾止毛《ソトモ》といふは、これを誤り用ひたる訓なり。外は、止《ト》といふ。曾止《ソト》といふは里言也。大御門、また爾もじ、前におなじ。〇宜名倍 耳梨山を、この御門に宜しと思ふにあはせて、神さびたてりとの心なり。宜《ヨロシ》は、よしといふにはあらず。或説に、そなはり足りたる心なりといへるは、ゆくりなし。古(187)歌・古文どもに徴して、そのかなはざるを明らめおくべし。里言に、チヤウドヨイといふほどの心也。此集中、此詞あまた所みえたり。〇神さぴ、まへに同じ。此山の繁くこゝちよきさまの、人力にはあらぬさまをいふ也。〇名細吉野乃山者 くはしくはもと、古事記上卷に、美斗能麻具波此《ミトノマクハヒ》とある、くはひは、咋合《クヒアヒ》のつゞまりたるにて、此集卷十六に、美麗物《ウマシモノ》。何所不飽矣《イヅクアカヌ》。坂門等之《サカトラガ》。角乃布久禮爾《ツヌノフクレニ》。四具此相爾計六《シクヒアヒニケム》とよめるこれ也。この久比《クヒ》を【上よりのつゞきにて、具もじ濁音なり。詞の頭を濁る事。古なし、と宣長がいへる、げにしかり。】久波《クハ》にかよはせて、志支《シキ》といふ詞をそへたる詞なり。久布《クフ》といふ詞は、古事記上卷に飽咋之宇斯《アキグヒノウシ》・大山咋《オホヤマグヒ》など咋といふ神名多し。皆同じ。又此集卷十六に、池神乃《イケガミノ》。力士※[人偏+舞]可母《リキシマヒカモ》。白鷺乃《シラサギノ》。桙啄持而《ホコクヒモチテ》。飛渡良武《トビワタルラム》、などもよめり。されば、くはしとは、咋もしたきといふほどの心也。美物をみて里言に、咋ツキタイなどいふこれ也。されば、名ぐはしは、芳野といふ名をきくこゝち、美物をみるこゝちなるをいふ也としるべし。古事記上卷の歌に、美女を久波志賣《クハシメ》とよみし同じ 神武天皇の御卷の大御歌に、伊須久波斯久冶良佐夜流《イスグハシクチラサヤル》この外、この集中に、花ぐはしなどもよめり。後世は委精などの義に用ふ。古義にあらず。者《ハ》もじ、同上。〇影友乃云々 影友まへにいへるが如し。これも南面なるべし。もし西面をいふ歟。從は、此御門よりみゆるを云。吉野山は、遠ければ從といふ也。〇雲居爾曾云々 雲居とは、雲の居る所をいふにて、空の事なり。されど雲居とよめるは、多くは遙なる事をさとす事に用ひたり。こゝもしかり。雲のゐる所をあふぐばかりの、遠さなるをいふ也。曾《ゾ》もじは、吉野山のみひとり、此都にあは(188)ひ遠くて、前の三山の如く近からぬを歎きたる也。けるとは、三山と同じからむと思ふにたがへる事を云也けり。けるはすべておもへりし事とはことなる事あるを歎ずる脚結なり。かく四山の、四門にたてる事をいふは、此四山の神の、此御井をまもります事をいへる也。されどこれは詞の表にて、情は奥にとけるがことし。此四山の神たちを、四門に配したる所以は、この四山の神たちの、此御井に水をたやし給はぬ事をよめるなり。これ、水は、山よりいづる物なれば也。大かた都の四面に、山あるを貴ぶ事、水にかぎらず。すべて有用の物乏しかるまじきが故也。されば、神武天皇の御紀に東(ニ)有2美地1青山四周とあり。思ひあはすべし。つねにいふが如く、わが御國言は、有用の事をあらはにいへば、必弊ある物なるが故に、そこを、言代主神にまかせ奉りて倒語す。一首・一句・一言にも、此ならひ彌綸せり。よく心をとゞめざれば、古人の心はしるべからず。此倒語の法にあらずして、解したりと思ふは、必古人の心にはあらざるべき事をさとるべし。此故に、かく山神の御うへにのみ、詞をつけたる也。【これ、先學者をそしるにあらず。それは詞の表を檢糺したる事、わが管見の及びにあらぬ事、みづからよくわきまへて、先達の説ども、可否をえらびてしたがふなり。これは古人の詞づくりに、情を鎭めたる法の事をいふ也。學者おもひあやまるべからず。】〇高知也。天之御蔭云々。 高知、まへに釋せるに同じ。天の冠における也。天は地の方よりは、よりもつかれぬものなれば、高とはいふ也。知とは、高處を、天の知給ふと云也。天知也は、日の定なり。日神は、高天原をしろしめせば也。也《ヤ》は、ともに詠歎の詞なり。脚結妙にくはし。天の高しり、日の天しり給ふ事の、凡慮にはかりしられぬことを歎じたる也。大祓祝詞に【祈年祭にも】天之《アメノ》御|蔭《カゲ》日之御蔭(189)止隱坐※[氏/一]《ヒノミカゲトカクリマシテ》云々とあるに同じ。天の御蔭とは、天の上に覆ふその蔭をいひ、日の御蔭とは日の上にでらし給ふその蔭をいふ也。天とさしたるは、天津神もろ/\の御蔭をいひ、日とさしたるは天照大御神の御蔭をいふにて、前に、四方四山の神の此御井をまもりますよしをいひて、さてまたこの天日をこゝにいふは、中央よりまもります神たちをいふ也。御蔭とは、天日の御うつくしみの下にをるよしをいふ也としるべし。此藤原(ノ)御井といふは、宮中にありける井にや。上の句々みな此御井を、主とたてゝよめる也と心うべき也。許曾波《コソハ》といふより以下は、此よみ人の心をいふ也。許曾波《コソハ》は、まへにいへるに同じ。おほくの物の中をひとつとりわきて、その殘りのもののさまをさとす詞也。波《ハ》もじそひたるは、ことにそのけぢめをおもはせむがため也。このはかなき御井だにも、四山の神・天日の神たちさきはひ給へば、他の物はいかばかりさきはひたまはむとの心を、この許曾波《コソハ》におもはせたるなり。大かた、許曾《コソ》にてかくひとくさとりわくるは、必そのすぐれたる方の物は、とりわけぬならひ也。これ、上古人の脚結に精微なる所以也。いかでかすぐれたる方をとりわけぬぞといふに、その妙理こゝにいひつくしがたし。志あらむ人には、口授すべし。なほ下に靈をとくにてらしておもふべし。されど、勝れたる方をこそとりわけめと後世にひがめる人は、此妙理とくとも心えがたかるべしかし。大かた、詞の表は、ひとへに此御井の水を賞するがほに、許曾波《コソハ》とはよめる也。〇常爾有米 古點とこよにあらめとあり。又とこしへならめとも、つねにありなめなど訓じたるあり。しかるに、もととこよといはむは、(190)齢の事にあづかる詞也。とこしへといはむは、その方をたつる詮なし。なめのなは、去倫のぬの【よにいふ畢のぬなり。】かよひたるなれば、こゝの語意に用なし。いづれも/\うしろめきたき所あれば、四言に、つねにあらめとよむべくや。されど、いづれにもあれ、この水のかるる事なく、不易なるを云也。米《メ》はもと、牟《ム》のかよひたるにで、安良牟《アラム》といふべきを、許曾《コソ》にひかれて米《メ》とはいふなり、許曾《コソ》には、必江緯にうちあはすべき所以は多かる中を、ひとすぢとりわくるその未然に、そののこりをおもはせむがために、江緯にかよはす也。このことわり、くはしくは經緯【五十韻なり】をまねぴてしるべし。〇御井之清水 古點はきよみづとあり。されど、清の字詮なし。後にましみづとよめり。これは、眞もじをつけよみにし、しみづ猶清水なり。清の字詮なしといへども、もとこれ此御井をほむる歌なれば、清ともいふまじきにもあらず。熟字は、その詮のありなしにかゝはらず、よめる事多し。たとはゞ、白露・黒髪・雁がねなどの如くなれば、これもその類にや。此一句は、ふたゝびいへる也。上の水許曾波すなはち、御井の清水こそは、といふ心なれば也。大かた、何事もふたゝびいふは、一度いひてあかぬ故にて、その物事に心のあつき事をさとす爲也。この歌もはら、此御井をほめたる歌とよめるなれば、重ていへるなるべし。
靈、この歌、表は、此藤原の御井、四山の神たち、中央は天つ神・日神のさきはひ給ふ水なれば、萬世ふとも常ならむ。ともはら此御井をほめたヽへたる歌也。げに、四方・中央より、神たちの(191)さきはひ給はむは、かく稱嘆せむも、ことわりおなる水にはあれども、たゞ御井をほむるばかりの事を、古人、こと/”\しく歌によむものにあらず。おもふに、これは、天皇、この藤原の美地なる事を鑑察まし/\て、こゝにしも遷都したまへる大御心のかしこさを、ほぎたゝへ奉れる歌なり。埴安乃堤止爾在立之とよみたる、おもひあはすべし。されど 天皇を、この御井の水にたとへ奉れるにはあらず。四山・中央の諸神、たゞはかなきこの御井をだに、かくさきはひ給ふばかりの地なれば、なにも/\不變なるべきをおもへとの心なる事、許曾波《コソハ》を釋せる所におどろかし置たるたるが如く、許曾《コソ》にもはら此心はこめられたる也。大かた倒語のうちに、比喩はやすし。比喩ならずして、やがてその物をよみたるやうなる詞づくり、いとかたきわざ也。これらのよみざま、詞をつくる心得ともすべし。 天皇、此都をしもさだめ給ひし事をほめ奉らむとて、ゆくりもなき御井をたゝへたる、かいなでの歌よみのおもひもよるまじき事也。【されば、猶これも、志貴皇子の御歌かとはおぼゆるなり。】先達の註大かた、詞の表をとく事いたれりといへども、此長歌などは、表にさだかにはときかねられたり。げに、四山をよめるよりはじめて、ゆくりなく天日の御かげをさへいへる、ことわり也。いにしへ人は、ほむるもすべてかくのごとし。後世心のあさましき、これらの歌にはづべきなり。〇端作、上古は、うはべにてたのむまじき事、かくのごとし。集中の端作、すべてこの心得をもてみるべし。わざと、詞の表をば端作とする事、その情を鎭められたる所を活さむが爲なり。後世の題といへども、もとは此心なるべけれど、いつよりか、つひに情より題を(192)おこす事をうしなへり。さる心にて、いにしへの端作をみば、かへりて、かなたの罟獲におち入るわざにぞあるべき。かくいふ故は、この次の短歌に思ふべし。短歌の詞のうへ、御井の事いささかもなければ、すでに反歌にはあらじ。別に、端作ありけるが脱たるならむ。とある註書にもいへりとぞ。おのが思ひ、わが御國ぶりにかなはざらむほとは、みだりにはいひがたしかし。
 
     短歌
53、藤原之《フヂハラノ》。大宮都加倍《オホミヤツカヘ》。安禮衝武《アレツガム》。處女之友者《ヲトメガトモハ》。乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》。
 
言、藤原之大宮都加倍とは 持統天皇に、この大宮につかへたてまつるを云。都加倍はつかはれの心なり。大宮都加倍爾の心にみるべし。〇安禮衝武 今の本、衝哉《ツゲヤ》とあり。この哉《ヤ》もじ、下の賀聞にうちあはず。されば、哉《ヤ》は、武《ム》の誤にて、下の七言、乏吉呂賀聞の誤なるべし。と宣長がいへる、考得たりといふべし。下の一句、古點しきめさむかもとあり。さては、賀聞のあたるべき所ともおぼえねば、必、このぬしが訓にしたがふべし。この訓したがふべきは、たゞ上下のうちあはぬのみならず、この歌を、反歌とみむに、その意よくかなへば也。上の五七五七四句は、藤原の大宮づかへにあれつがむをとめがともは、と一つゞきに心うべし。安禮は、生るゝ事也。されどうまるゝは被v産義なり。安禮はあらはれの義にて、母に屬し、子に屬するけぢめある詞なり0。(193)後世は、安禮とはいはずなりぬ。後世は、詞のすくなくなれる事、これにもしるべし。衝は假字にて繼なり。をとめどもの、うまれ/\して絶ざらむをいふ也。武《ム》は、この行末をあらまして云也。〇處女之友者 をとめ前にいへり。ある註に、この みかど、女帝におはしませば、女童を多くめしたまひし事有けむとあるは、例の實もたれなり、女帝ならでも、後宮には宮女多くめさるゝ物なれど、女帝にましませば、男子よりも、女は多くめさるべければ也。かつ女童といへるもかなはず。處女とは、すべて年わかき女をいふ稱なる事、男する女をもをとめといへる事、古書に多かるを思ふべし。たゞめしつかはるゝわかき女をいふ也。友は輩《トモガラ》なり。 神武天皇の御紀に、うかひがともとよみ、此集中にも、しづをがとも、ますらをのともなどよめるにおなじ。者《ハ》もじ、乏しくもあるまじき處女を、者《は》といへる、構思のほど思ひやられてめでたし。〇乏吉呂賀聞 今の本、之吉召賀聞とあり。之は乏の誤。召は呂の誤うたがひなし。乏は、もと物の乏少なる心なれど、羨しき心に用ひたるが多し。いはゆる、此卷に、朝毛吉《アサモヨシ》・木人乏母《キビトトモシモ》。亦打山《マツチヤマ》。行來跡見良武《ユキクトミラム》。樹人友師母《キビトトモシモ》。また卷六に、【長歌上下略】毎見文丹乏《ミルゴトニアヤニトモシミ》などの類、これ也。うらやましさを、乏しといふ詞にて思はする、これわが御國言のならひ、かへす/\いへるが如し。宣長すでに、うらやましき義也。とは釋したれど、いかなる故にかゝる詞づかひなりとも、いかなる義にてともしろいふとも辯ぜられず。されば後學、たゞ上古はあやしき詞づかひしけり。とおもひてやみぬ。これうらやましきは、乏しきが故なるをもて、こゝを詞とする事、古言これに(194)かぎらず。その味はひおもふべし。此類みな、さかしらならじとての詞づくり也かし、呂《ロ》は、等《ラ》の類に心うべし。されど等《ラ》は安緯也。呂《ロ》は於韓なり。緯の義は、こと也。されば、乏しき事の内にこもりたるに、心つかざりしを歎く詞なりと心うべし。後世は、用ひぬ脚結也。集中例おほし。賀聞《カモ》は前にいひしが如く、計較にも思慮にもかゝらぬほどの事あるを、歎ずる詞なり。これはうまれつがむをとめが輩をうらやましくおぼゆるわが心を、みづから歎じたる也。乏しさを、賀聞《カモ》とよめるにはあらず。【因に云々。すべて加毛《カモ》は、かゝる心得なるを、後世は、おもふを、おもふかなとよみ、みゆるを、みゆるかなとよむ事となりぬ。いたくあやまれり。おもふを歎じ、みゆるを歎ずるにこそ、如毛《カモ》とはよめれ。よく/\かへりみるべし。】
靈、この歌、表は、此藤原の宮づかへに、この行末生れつがむ處女がともがらは、ときはにかきはにましますべき此 天皇につかへまつるべきが、うらやましき事。わが心ながら、わりなき事やとよめる也。よにうらやましかるべき物こそあれ。われ大丈夫にして、處女がとものうらやましきは、いかなるわが心ぞ。とみづから歎じたるやうに詞をつけたる也。【呂賀聞《ロカモ》に、もはら、この心をおもはせたるなり。】されど、かばかりの事は、心にこめてもやみぬべき事なるに、こと更に歌とよめるは、必別に情ある事しるし。されば思ふに、この新京遠ながくしろしめすべければ、いかで我も命ながくあり經て、つかへまつらまほしくおもへど、我命は限ありて、 天皇のしろしめさむ御世のきはみ、つかへまつる事も、かなふまじきなげかしさに、このゆくすゑ生れ繼て、宮づかへし奉るべき處女がともの、うらやましきにいひなし、大丈夫にして、處女がともをうらやむを、わりなき(195)ことゝおもひもどくを、むねとしたるやうによめる倒語の手段、神妙いふばかりなし。されば、その情ひとへに 天皇、この新京をとほながくしろしめすべきを、賀《ホギ》たてまつれる歌なる事、あきらか也。これいさゝかもあらはにいふまじきは、長歌に同じく諂らひにおつべきをはゞかれる也。安禮衝武に、 天皇の遠長くおはしますべき事を思はせ、處女がともを乏しむに、わが命の遠長くつかへ奉るに堪まじきを思はせ、その歎を賀聞《カモ》におもはせたる詞づくり、なべてのものゝ、おもひもよるまじき事なり。よく/\心をとゞめて、この詞のつけざまを味はひしるべし。〇此歌、反歌のやうにあらねば、前にいへりしが如く、古來註者、これをうたがひて、長歌とはことすぢの歌ならむといへるは、例の後世ひがみ也。予つねに、後世ひがみをもて、古をみるべからずといふは此所以也。もと端作に、御井歌とある故に、さるまどひも生ずるなれど、長歌を釋せるが如く、御井をもて、此藤原都のとほ長かるべき事をほぎ奉れる歌なれば、御井は表にてこの都をほぎ奉れるが本情なり。されば、此歌もなほ、同じことほぎなり。さらに、別時の歌にはあらず。此歌、表に、御井をよまずとて、端作にまどひて、眞をそこなふまじき也。これらにも古言はすべて、表にめを奪はるまじき事をさとるべし。
 
右(ノ)歌作者未v詳
 
大寶元年辛丑(ノ)秋九月太上天皇幸2于紀伊(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌
 
(196)この 太上天皇は 持統天皇なり、文武天皇の御紀に、この幸の事あれど天皇とあり。太上を脱せしにや。
 
54、巨勢山乃《コセヤマノ》。列列椿《ツラツラツバキ》。都良都良爾《ツラツラニ》。見乍思奈《ミツヽオモフナ》。許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》
 
言、巨勢山は、藤原より紀伊にゆく路なればなるべし。〇列々椿は、おひつらなれる椿をいふなるべし。これは、此山におひつらなれる椿あれば、下の都良都良爾のよせばかりにおける也。〇都良都良爾は、熟《ツラ/\》也。春野を思ふを主として、乍《ツヽ》とはいへるにて、春野を思ふもひたふるならで、つら/\みるをいふ也。見るとは、今の巨勢の秋野を也。思ふとは、巨勢の春野を也。此幸は九月なれば、巨勢野は木葉そめ、鹿のこゑしなど、(おも二字脱?)しろきを思はせて、つら/\にみるとはいふ也。しかるに猶あかずして、春野をおもふをいさめて、奈《ナ》とはいふなり。奈《ナ》は、莫といさめたるにて、同じ從駕の人の、つら/\みつゝ、春野を思ふ人にいひかけたるなるべし.或註に、奈《ナ》は言をいひおさふ詞なりと釋したるは、詠の奈《ナ》の事なるべし。この例と思ひての釋なるべけれど、上下の語勢その例ともおぼえず。又おもはなと訓《ヨミ》て、常に古歌に用ふる奈《ナ》の例とみむも、上下の語勢その例にあらず。莫《ナ》とみれば、語勢もなにも應じて、一首の心もめでたき也。かの説おもふに、これを禁《イサ》る詞とみては、一首の意おぼつかなきが故なるべけれど、大かた歌は、詞の表にてとかむとすとも、上古の歌は、恐らくは心えがたき事多かるべし。くはしく、大旨に論らへるをみるべし。註者よく心うべき事也。もと、詞の表は、言外の情より出たる物な(197)る事、草木の根より幹・枝・花・葉の生ずるに同じ。一もとの木草、その精神はたゞ、禰にあるをや。されば、根をしらむ事、枝葉にあり。枝葉をしらむ事、根にあり。竹の根に、松は生ぜず。木の根に、草は生ぜず。このうちあひ、やむ事なき條理そなはれり。此眞面目をもて、歌をとかば、説おのづから私をまぬかるべしかし。〇許湍乃春野乎 この乎もじ、ふかくめをとゞむべし。今秋色のおかしきに、春を思ふをいふ也。この秋のけしきに猶あかぬ心をとゞめたる也。されば、上の奈《ナ》もじ、禁《イサム》る詞なるべき事、此|乎《ヲ》のうちあひにて、思ふべし。
靈、この歌、表は、今この巨勢野、秋色えもいはぬをつら/\みつゝ、猶あかずして、春はいとゞいかならむ。と貪《フクツケ》くおもふな。といさめたる心なり。同じ從駕の人のうちに、この野のけしき春はいとゞいかならむなど、いひし人ありしに、よみかけたる歌なるべし。後世ならば、しかしか人のいひしかばよめるなど、端作にかゝでは解がたしと思ふべし。古人は、この乎《ヲ》もじ、奈《ナ》もじにて、おのづからしか/\の事ありて、よめる歌なりとはしるければ、端作をもたのまざりける也。されば、予がかくとくを、附會のやうに思ふ人もよにきこゆる、ことわりなる事なれど、詞の條理、古人の用ひざまやむ事(なき二字脱?)法則ある事なり。くはしくは、こゝに辯じがたし。しかるに、春野を思ふなといさむるばかりの事は、古人歌とよむばかりの事がらにあらねば、必別に情ある事うたがひなし。されば思ふに、今この秋の氣しきいとおかしきに、春はいとゞいかならむなど、從駕の人のいはゞ、それを、 帝のきこしめして、又こむ春も幸をおぼし(198)たゝむかとて、制したるにて、ひとへに幸のしげからむをなげきたる歌なる事、うたがひなし。この 帝、幸あまたゝびなりし事、幸をいさめ奉りし事など、前にひけるをてらしてさとるべし。倒語したるは、ひとへにさかしらをはゞかれる也。今更いふも中々なれど、此詞のつけざまいとかろ/\と事もなげなる、めでたしともよの常なり。
 
右一首|坂門人足《サカトノヒトタリ》
 
55、朝乎吉《アサモヨシ》。木人乏母《キビトトモシモ》。亦打山《マツチヤマ》。行來跡見良武《ユキクトミラム》。樹人友師母《キビトトモシモ》
 
言、朝毛吉木とは、冠辭考に、浅葱《アサキ》をわりたる也とあれど、物名をわらむ事いかゞなり。又一説紀國よりよき麻を出せれば也、といふ考をあげて、國つ物を冠とせる例なく、かつ紀國にもかぎらずとて、此集卷二に、朝毛吉《アサモヨシ》。木上宮乎《キノヘノミヤヲ》卷十三に、朝裳吉《アサモヨシ》。城於道從《キノヘノミチユ》などつゞけたるは、大和(ノ)國|城戸《キノヘ》なりと破せられたり。されど淺葱の説、穩しくもおぼえず。かの麻の説、紀國に縛せられて釋したるが故に、さるもどきまぬかれず。今おもふに、毛吉《モヨシ》の三字は、眞淵が説のごとく脚結にて、麻《アサ》を着《キ》とかけたるなるべし。麻を衣に織て着るなり。【又この集中、眞間の娘子をよめる歌に、麻を裳に着る事をよみ、卷四には、麻裳吉ともかきたれば、毛は裳にて、麻裳を着、とかけたるにやとも思へど、事ひろからねば、猶毛吉は、脚結とみむ方まさるべし。】〇木人乏母 木人は、紀國人なり。乏は、此上の歌にいへりしが如く、うらやましき也。母《モ》は、終に多くおける母なり。即、この歌の終にも、ふたゝびおけり。この母《モ》の事まへにくはしくいへり。此まつち山の氣しきのおかしさに、紀(199)國人うらやましけれど、せむかたなき歎也。されば、心えていはゞ乏しくはあれども。といふほどの義也。紀人をうらやむは、もと本意にはあらずして、この亦打山を、つねにみざらむ事をなげくが本意なり。これ、母《モ》もじの本義なれど、置ざまに隨ひて、かゝる義となる事、これ母《モ》にかぎらず。すべての脚結、みなかくのごとし。〇亦打山 多宇《タウ》二音|津《ツ》となるがゆゑに、亦打《マタウチ》とはかけるなり。おのれいとまなくて、いまだみず。風景絶勝の地なるべし。〇行來跡見良武云々 紀國人はつねに、此まつち山をゆききにみるべければ也。かく行來跡としもいへるは、わざわざとみむともおもはずて、みる事をいはむが爲なり。これ例の言のみやび也。この句即、うらやましき所以をいへる也。跡《ト》は、ゆくとては見《ミ》、來とては見《ミ》、といふ心なり。古今集に、おくとはなけき、ぬとはしのばむとよめる跡《ト》に同じ。【いつゝのとなり】良武《ラム》は、中の良武《ラム》也。この二句つゞけてみるべし。中の良武《ラム》の事、前にいへるが如し。ゆきゝにみるべきは必定の事なるを、せまらずして、良武《ラム》とはよめる也。上の木人乏母も、猶このまつち山を、往來にみるを乏しとよめるなり。かく重ねてよむ事、まへに論らへるが如く、ひとたびいひてあかねば也。上にはたゞ、木人乏母とのみよみ、こゝには、行來跡見良武、とその乏しき所以をよめるは、標實の法によりてなむ。大かたこの乏しきが、此歌の眼なるをおもはせて、ふたゝびいへる也。下に、情をとけるにてらしておもふべし。古人かさねていへるは皆この法なり。いづれもそこを眼とみるべき也。予常に、おのづから言靈を察するに、法則ありといふは、これらの類なり。
(200)靈、この歌、表は、此まつち山の風景、えもいはぬを、紀人はこと更にみむともおもはでみるらむが、うらやましけれど、せむすべなき歎を、むねとよめる也、されど紀人の乏しきばかりの事はたゞ乏しみてやみぬべき事なるを、こと/”\しく歌とよめるは、必情別にあるしるし也。されば思ふに、紀人の常にまつち山をみるらむをうらやむ所以は、紀人はこの地につきたる人なればなり。此地につきて、この山をみば、いかにおもしろからむ。かく遠く來てはかくおもしろき所なれども、心もゆかずといふ心にて、その心ひとへに幸をなげきたる歌なる事明らか也。されどこれ、又上の歌と同じはゞかりに、此山のおもしろさにのみ、むねと詞をつけられたる也。上の歌は、巨勢野のおかしさを賞し、此歌はまつち山のおかしさを賞したる詞づくりなれば、後世人の心にては、この勝地どもを賞したる歌なりとのみ見すぐせど、上古の人はさるはかなき事を、歌とよむものにあらず。これらの詞のつけざま、大かた歌の本、倒語の至ともいふべき歌なり。この淡海ぬし、いかなる人なりければ、かく倒語は明らめられたりけむ。心にくし。
 
右一首|調首淡海《ツキノオビトアフミ》
 
或(ル)本(ノ)歌
 
56、河上乃《カハノヘノ》。列列椿《ツラツラツバキ》。都良都良爾《ツラツラニ》。雖見安可受《ミレドモアカス》。巨勢能春野者《コセノハルヌハ》
 
この歌は、或本歌とはあれども、これは春よめる歌にて、この幸のたびの歌とはおぼえず。此幸(201)は、九月也。されば思ふに、此歌は古歌にて、此時春日(ノ)藏(ノ首從駕して、所にかなへる歌なれば、誦せられたりしを、みづからよまれたるやうに、きゝ傳へられけるなるべし。古歌の時にあひたるを誦したるは、あらたによみたるよりも、あはれなる物なれば、此集にも、古歌を誦したるが多し。袋草紙に、よど河の舟中にで、よどのわたりのまだ夜深きに。どいふ古歌を誦したりしを、いたくめでたりし事あり。これ、上古の風ののこりたるなるべし。もし又上の、見乍思奈といさめたる歌は、この老《オユ》ぬしの、此巨勢の春野を賞したる古歌を誦せられしによりて、此人によみかけられし歌かともおぼし。しからば置處錯亂したるが上に、或本歌と誤りけるなるべし。
 
右一首、春日藏首老《カスガノクラノオビトオユ》
 
二年壬寅太上天皇幸2于參河(ノ)國1時歌
 
57、引馬野爾《ヒクマヌニ》。仁保布榛原《ニホフハリハラ》。入亂《イリミダリ》。衣爾保波勢《コロモニホハセ》。多鼻能知師爾《タビノシルシニ》
 
言、引馬野は、遠江(ノ)國敷智(ノ)郡にあり。〇爾保布榛原 榛は、まへにくはしくいへり。里言にハンノ木といふ木也。今|梅《ウメ》や澁《シブ》とて染むるものは、榛を煎じたる物なるよしきけり。いにしへは常に、この木もて衣をすれりしなり。あかき色也。にほふとは即、その木の皮の赤きを云。〇入亂 古訓は、いりみだれとあれど、禮《レ》は未然を思はする義なれば、こゝにかなはず。必いりみだ(202)りとよむべき所なり。亂は、この榛原に入りて、榛どもをみだるなるべし。もしこれ、從駕の人のうへならば、乱入とあるべき條理也。この句の意、その木にふるれば、やがて衣のにほふ物のやうにきこゆれど、しからず。これは例の詞づくりにて、まことは此はり原に入りみだりて、その皮をとりて、衣をにほはせといふ也。しかるに、かやうによめるによりて、木にふるれば、やがて色づく物とよには心得たりげなれど、古言の用ひざまにくはしからぬが故也。かの芽子《ハギ》なりといふ説もこの故なるべし。すべて古言は、かくざまに用ふる事、大かた、わが御國ぶり也。かへす/\いひおけるが如く、直言のひがみに泥《ナヅ》むまじき也。〇衣爾保波勢は、衣にすれといふ心なり。あかき色のさまをにほふとはいふなり。にほはせとは、從駕の人にいひかけたる也。人のうへにいふは、多くはわがうへなる事、盲言のつね也。〇多鼻能知師爾とは、旅には摺衣を着る事、いにしへのならひなればかくいへり。とある註にいへれど、もししからば、京をいづる時よりこそ着たらめ。ことに私の旅ならぬに、さるならひあるにそむかむやうなし。この説ひとへに例の實もたれ也。かへす/\古言は實にもたれては、解がたきもの也。これは旅に必着るべきが故に、かくいへるにはあらず。此幸に從駕して、三河・遠江のあたりまで、とほく來たるしるしにといふ也。後世心にては、しからば三河に來たるしるしにとこそはいふべけれど、かくせまらずして、ひろく多鼻といふ事古言のみやびなり。【ひろくいふは、何事も、そのうちにこもれば也。しかのみならず、せまりて詞をつかふは、さかしらなれば也。古人詞を用ひたる法、これのみならず、いたれり。いづれも據る所は神典也。】かやうの詞づかひ、我國言の法をよ(203)くみしれば、うたがひなき事也。大かたわが御國ぶりの本をきはめずては、たとひ博覧多識たりとも、恐らくはおもはぬあやまりも出くべし。學者心を用ふべき事なり。〇知師爾とは、京にかへりて後京の人にみせむに、遠く來ける事を證せむ為に、といふ心なり。【この二句も倒置也。例の標實の法なり。】
靈、此歌 表は、この引馬野の榛もて衣をにほはせて、京にかへりて、此三河・遠江のあたりまでとほく來たるしるしにせよ。と從駕の人にいへる也。されどかばかりの事を、古人歌とよむものにあらねば、思ふに、從駕程久しくなりて、郷思のたへがたきをよめる歌なり。さればこれ從駕の人に心をつけたるやうによめれど、猶みづから家人へ贈れる歌なるべし。かくいふ故は、もと榛もて衣を摺て、歸京ののち旅のしるしあろとて、何ばかりの益かあらむ。これ倒語なるしるし也。されど、從駕なれば、家人を思ふ心をあらはにいはむ事憚あれば、かく詞をつけられたるなり。この詞づくりの用意ふかき事、よく/\思ふべし。後世心には、今の釋すぢなき事におもふべけれど、例語をみつべき法やむごとなきもの也。わが御國ぶりにおもひをこらして、此歌もはら郷思よりなり出たる事をしるべし。
 
右一首|長忌寸奥麻呂《ナガノイミキオキマロ》
 
此集卷こに、意吉麻呂《オキマロ》とかける、同人なり。
 
58、何所爾可《イヅクニカ》。船泊爲良武《フナバテスラム》。安禮乃崎《アレノサキ》。※[手偏+旁]多味行之《コギタミユキシ》。棚無小舟《タナナシヲブネ》
 
(204)言、何所とは、此舟のとまるらむ所をしらむとする心なり。可《カ》とは、必いづくにぞ舟はつべければ也。〇船泊爲良武 舟はつとは、舟のとまるを云。布奈《フナ》の奈《ナ》は、乃《ノ》のうつれるなり。手の末・足の末を、たなうら、あなうらといひ、足の玉を、あな玉といふ例なり。〇安禮乃崎は、美濃(ノ)國不破郡|荒崎《アレノサキ》、と和名抄にみゆる、そこなるべし。〇※[手偏+旁]多味行之 たむとは、里言にいふタムルなり。矯《タム》るは、直ならぬかたちを云也。うちたをり多武と、つづくるにて思ふべし。舌たむといふもこれなり。すべて、まほにゆかぬかたちを云。之《シ》は去倫の之《シ》なり。この崎をこぎめぐりゆけりし、そのすぢにつきていふ脚結也。〇棚無小舟とは、舟棚《フナダナ》なき小さき舟也。されば、棚なしといはゞ、もとより小舟なるべければ、ことに小舟とはいふまじき事なれど、棚なくても、小・大はあるべければなるべし。されど大かたには、棚なきは小舟也。と心うべし。和名妙に、※[木+世]、和名|不奈太那《フナダナ》。大船(ノ)旁(ノ)板也とみゆ。
靈、此歌、表は、安禮の崎をこぎめぐりゆきし小舟の、今はいづくにかはてゝとまるらむ。と思ひやりたる也。かやうの歌をみて、たゞめのまへのさまをありのまゝによむ事を歌の本意なり。と後世心うるは、詞の表にのみめを奪ばるゝが故なり。大かた古人は、神ながら言擧せぬわが御國ぶりをしも、よくわいだめたりしかば、もとよりよしもなく、故もなき事の、いはでもあちりべき事をいふ事、たえてなかりし也。さればこれらも、詞のうへにては、たゞゆゑもなきいたづらごとをいへるが如くなれど、必別に情ある事明らか也。されば思ふに、このこぎめぐりゆき(205)し棚なし小舟には、その船中必旅人の乘りゐて、見もしらぬ礒山かげなどに舟はてゝ、舟中の心ぼそくわびしさに、いとゞ故郷をこひてなげきをるらむか。といとをしくおもひやりたる也。されどその旅人しれる人にもあらねば、情におきて何のかゝはりもなき事なるを、かばかりあはれまむやうなし。これわが故郷のいたく戀しく堪がたければ、わが郷思を直に述まほしけれど、從駕のはゞかりに、かの船中の旅人の郷思をおもひやりたるになしたる詞づくりなる事、あきらか也。公・私をそなへてうはべはたゞ、此舟のはてむ處をおもひやりたるより、外の事なき詞づくり、めでたしとも中々なり。胸中あまるばかりの郷思をば、かくはゞかりはてたる詞づくり、そのくるしさ深く思ひやられて、あはれいふばかりなし。これひとへに、倒語の妙用ぞかし。
 
右一首|高市連黒人《タケチノムラジクロビト》
 
與謝女王《ヨサノヒメミコノ》作歌
 
續日本紀に、慶雲三年六月卒とあり。これは、京に留りたまひて、夫君の、從駕にて旅ねし給ふをおぼしやられての御歌か。又、この女王從駕し給ひて、京に留り給ふ夫君をおぼせるにやとも思へど、此次の御歌、京よりおぼしやられたるなれば、定がたし。
 
59、流經《ナガラフル》。妻吹風之《ツマフクカゼノ》。寒夜爾《サムキヨニ》。吾勢能君者《ワガセノキミハ》。獨香宿良武《ヒトリカヌラム》
 
(206)言、流經妻とは、よるの衣の裾ながくはへたるをいふにて、寐たるさま也、と古説なり。妻とは、何にても端の方をいふ名也。衾は、裾の方ひまありとはなけれど、風の吹いりて寒きものなれば、かくいふなるべし。されど、衣といはずして、妻といふべきにあらず。誤字あるべしと千蔭はいへり。されば久老は、妻は雪の誤ならむといへり。げに此説穩なれど、雪吹風みやびかにもあらぬやう也。又衣といはずして、裾といへる事、あるまじきことのやうなれど、上古の人はながらふる妻とだにいへば、衣とはいはでも、ながらへたるよるの物の妻とは、おのづから聞ゆべきが故に、かゝるいひざま、古言にはこれならず多き物なれど、後世人は目をたふとび、思ひをたふとびざるが故に、かゝる詞づくりは穏しからずみれど、古言は一概にはいひがたし。後世心をもて古言をみば、おそらくは里言にいはゆる、持タル榛ニテタヽカルヽといふ類となりぬべし。されば雪吹風は穏なるやうにて、みやびかならず。妻吹風は、理なきやうにて詞に力あり。後世の學者おそらくは、十人が十たり、久老が説を可なりとすべし。寒夜とは、この幸は冬十月なりければなり。端作には、この時を脱せり。〇吾勢能君者 勢《セ》は、夫君をさし給へる也。者《ハ》もじは、衆人の中に、ことに心にかゝるをなげき給へる也。この者《ハ》もじのひびきにて、わがひとりねのさむきは、物の數ならずとおもひ捨たまへる心みえてあはれ也。〇獨香宿良武 香《カ》は、ひとりねずは、二人ねたまふべく、一人か、二人がうちは出まじければ、香《カ》とはいふ也。されば一人かねたまふらむ。又はふたりか寐たまふらむ。もし誰とにもあれ、二人(207)ねたまふならば、寒くもおはさじとよろこぶやうにもみえ、又もし二人ならばねたき事や。とうらめしくおぼすやうにもみえて、いづれともわかぬ御詞づくり、いとめでたし。
靈、この御歌、表は、たゞ夫君の旅ねのさむからむをいとをしみたまへる御歌なり。されど、かばかりの事は、たゞ思ひてもやみぬべき事なるに、古人、ことさらに歌とよむ物にあらず。されば夫君のひとりねいかにさむくますらむ、といとをしくおもひやりたまふは、ひとへに、わがさむさに夫君のはやくかへりまさむことを、【もし、從駕ならば、わがはやくかへらまほしき情なり。とみるべきなり。】まち給ふ情を告やらせ給ひし御歌なり。されどこれ、いさゝかもあらはにいふまじきは、從駕をうらむるにおちむをはゞかりたまへる也。人のうへをいふは、多くはわが上なる事、前にもいへるが如し。みなこれ古人倒語の手段なる也。大かた倒語も、かうやうに詞をつくるをば、いたりともいふべしかし。
 
長皇子《ナガノミコノ》御歌
 
天武天皇の御子なり。靈龜元年六月薨。と續日本紀にみゆ。これ京に留りたまひて、從駕の官女のうちをこひ給ひし御歌也。上の與謝女王の御歌も、この御歌も、たゞひとり言のやうによませ給へれど、まことは、その人に贈りたまひしなるべし。前にもいへるが如く、さす人なくて、歌はよむものにあらねど、せまる事をつゝしみて、古人はかく、皆ひとりごとのやうによみなすなり。この心法をわきまへずして、後世は、まことのひとり言をよむ。をさなしともをさなし(208)や。
 
60、暮相而《ヨヒニアヒテ》。朝面無美《アシタオモナミ》。隱爾加《ナバリニカ》。氣長妹之《ケナガキイモガ》。廬利爲里計武《イホリセリケム》
 
言、暮相而云々 二句は、隱のよせにおき給へる也。古點は、暮をくれにとよみたれど、もとくるとは、日のくるゝ事をこそいへ。これは、朝にむかへ給へれば、よひにとよむべし。もとよひとは、夜のはじめをいふ名なれど、一夜の事をよひともいふは、夜のはじめをもて、一夜の事にわたす、これ古言のみやび也。朝といひて、一日の事とするに同じ。されば夜のはじめをも、一夜をも、古はよひといへり。これは女の夜男に逢て、くらきほどは、かほもあらはならねど、朝わかるゝに及びて、みぐるしからむを恥て、几帳の陰などにかくるゝさまを、隱《ナバリ》のよせとし給へる也。面無美は、美は例の賀里《カリ》といふ心也。おもながるとは、里言に面目《メンボク》ナイといふ心なり。或註に、面なみは、恥て面がくしするをいふといへるはかなはず。美《ミ》もじの心もうちあはず。又新枕せしあしたなど、面隱しをするを序としたり。と同書にいへれど、新枕におもかぎるべからず。それは、隱を面隱しの事と心えられつとみゆるは、面といふもじ、隱といふもじにかゝづらひての説なるべし。されど面無と、隱とはニ事なればこそ、美《ミ》もしはおかれたれ。かへす/\、實もたれにはかゝる弊ゐるを思ふべし。〇隱爾加 隱は、まへにもありし伊賀國名張郡なり。古點、かくれとよめるは非なり。加《カ》は、そこならずば、いづかたにぞいほりたるべければ也。かく名張をしもさしたまへるは、やゝ都より程遠からねば也。氣長妹とあれば、これは還御の(209)ほどなるべし。くはしくは、下に情をとけるをあひてらして、此義を心うヾし。〇氣長妹之 宣長は、氣《ケ》は伎倍《キヘ》の約にて、來經《キヘ》長き心なりといへり。されど、此説おもふ所あり。氣《ケ》は息《イキ》にて、氣長《ケナガキ》とは、長息なるべし。長息はなげき也。されば、氣長妹とは、逢がたさに長息せらるゝ妹といふ心なり。これは、さきにも人のいへちり事なり。逢がたきを、けながきもて思はする事、古言の常なり。〇廬利爲里計武 もと、廬は、旅中にかぎらぬ事ながら、此御歌にては、旅舍の事なり。或註に、行宮をいふとあり。げに從駕の事なれば、行宮にこの女房もやどるべければ、やがて行宮なりともいふべけれど、天皇の御うへにあらざれば、行宮とはいふべからず。もとより、行宮のうちに寐たるはいふも更なるを、かくこの女房の私にかり廬つくるらむやうによみ給へるは、例の古言のみやび也。理なき事をも古人はいふ事、皆倒語なれば也。これももと私の事なれば、幸に詞のさはらぬやうによみ給ひしにて、ひとへにこれはゞかりより出たる詞づくりなるぞかし。爲里計武《セリケム》といふ詞、志計武《シケム》といふ心ながら、義はたがへり。廬をつくりての未然をおもはする詞なる事、經緯の江緯の所以なり。されば廬してそこに旅寐せむことをおぼしやりたる心を思はせて、爲里《セリ》とはよませ給へる也。計武《ケム》はきしかたをはかる脚結なり。これは上の加《カ》もじのうちあひなり。これらの脚結、すべて情のためにおかせ給へる也。靈、この御歌、表は、こよひ妹の旅やとりせむ處を、おぼしやらせたまひし也。されどさばかりの思ひは古人、こと/”\しく歌とよむものにあらねば、情は言外にあるべき事必せり。さればお(210)もふに、從駕日を經て、久しくあひたまはぬ女房を、まちかね給ふ御心を告やらせ給へる御歌也。加《ヵ》・計武《ケム》など、ひとへにかへりこむ日を待たまふ御心をさとしたまへる也。されといささかも、詞にあらはなるまじきは、幸の日をふるをうらみ給ふにおつべければ、深くはゞかり給へる御詞づくり也。かく、公をふかく憚りたまひし御詞づくりなれば、私はけしきにだにみゆまじき事なるに、その待かね給ふ御心、言外に森々たり。かくこそ詞はあらまほしけれ。とぞおぼゆるや。
 
舍人娘《トネリノイラツメ》從(テ)v駕(ニ)作歌
 
此娘の事、卷二にいふべし。
 
61、丈夫之《マスラヲノ》。得物矢手挿《サツヤタバサミ》。立向《タチムカヒ》。射流圓方波《イルマトカタハ》。見爾清潔之《ミルニサヤケシ》
 
言、丈夫は、益荒男の義也とある説にいへる、いかゞあらむ。益の義、心ゆかず。さるは、ことにおもひよれる事もなし。しかれども、此集卷十六に、荒雄等。卷十七に、荒し雄などよめるには、別あるやうにおぼゆる也。之は古點がとよめれど、乃《ノ》とよむべし。乃《ノ》・賀《ガ》の別、まへにいへる が如し。こゝは丈夫を主とよめるにあらねば、必|乃《ノ》たるべき也。〇得物矢は、古點、とも矢とあれど、仙覺が抄にひける風土記の歌に、さつ矢とよめるに從ふべし。古事記上卷神典に火遠理命者爲《ホヲリノミコトハシテ》 山佐知毘古《ヤマサチビコト》1而|取《トリタマフ》2毛麁物《ケノアラモノ》・毛柔物《ケノニゴモノヲ》1云々とある、この毛麁物・毛柔物を得る心にて、得物とはかけるにこそ。こゝは的矢なれど、矢をいひなりて、かくいふなるべし。手と挿は、片(211)矢ほ弦にかけ、片矢を小指と食指の間に挿みながら、片矢を射る也。この手挿むは、設《カヘ》矢の方なれど、片矢は今射る時のわざなれば、手挿をもて射る事をさとせるなるべし。〇立向は、的にたちむかひ也。以上射流といふまでは、的といはむ爲のよせ也。かく上古には、上句よりも長きよせは置たり。これさらに、詞のあやにはあらず。いはまほしき事の、いへば弊ある事をしりて、それにかへたる也。くはしくは、下に情をとけるにてらしておもふべし。短きは冠詞なり。長きはかゝるも多し。いはまほしき情の長短によりて、よせの長短とはなる也としるべし。〇圓方波 圓方は、浦の名なり。仙覺が抄に伊勢(ノ)國(ノ)風土記(ニ)云。的形(ノ)浦者此浦地形似v的(ニ)故以(テ)爲v名(ト)也。今已(ニ)跡絶(テ)成2江湖(ト)1也。天皇行2幸(シタマヒテ)浦(ノ)邊(ヲ)1歌云。麻須良遼能《マスラヲノ》。佐都夜多波佐美《サツヤタバサミ》。牟加比多知《ムカヒタチ》。伊流夜麻度加多《イルヤマトカタ》。波麻乃佐夜氣《ハマノサヤケサ》とあるは、この歌をひが聞しけるか、又は此集のたがへるかしりがたし。波《ハ》もじ、此歌の眼なり。これ大かたは、他の浦々どもにぬけ出たるを、歎じて波《ハ》といふ也。しかれどもこれもはら、情のひゞきをむねとす。くはしくは、下に靈をとけるにみるべし。〇見爾清潔之とは、この的形の浦は、みるにいとこゝちよしといふ也。爾《ニ》もじ、上の波《ハ》もじに照らしたる脚結にて、目のうへにのみ、さやけしといふほどの心なり。目にむかへたるは心なり。されば此爾もじの裏には、心にさやけしと思ふばかりまではあらず、との義必ありて、別に目にも心にもさやけくおぼゆる物ぬる事を思はせたる也。下に情をとくをもてさとるべし。清潔之《サヤケシ》とは、里言にサツパリなどいふ心にて、遺憾なくこゝちよき心なり。
 
(212)靈、この歌、表は、此圓方浦、他處にすぐれて眺望するにいとさやけし。とふかく此浦のけしきをめでたろ歌なり。しかれども、かく勝地をめづるばかりのはかなき事を、こと/”\しく古人、歌とよむものにあらねば、必別に情ある事明らか也。されば波《ハ》もじ、爾《ニ》もじのてりあひをくはしく思ふに、この娘は、舍人皇子の御思ひ人なりける事、この卷二に贈答あるにしるければ、この圓方波とよめるは、舍人皇子にむかへ奉れるにて、その御かたちのめでたきのみならず、心にさへ忘られず。まことに目にも心にもさやけきは、この浦にいたくまさり給へりとの心にて、從駕日をへて戀しさ堪がたき心を、皇子に告たてまつれる歌なる事必せり。大かた勝れたる物をもて、それよりもいたく勝れたりと思ふ心を、たゞ波《ハ》もじと爾《ニ》もじにさとし、表はたゞ、此浦をめづるになしはてたる詞づくり、まことに絶妙といふべし、されどこれたゞ、たくみに詞をつけたるにあらず。いさゝかも情を詞にあらはすべからぬは、從駕にはゞかりて也。かの皇子の御かたちよりはじめて、御心ぎまもいたくすぐれておはす事は、たとひいかばかりいふとも盡ぬべきにあらねば、かく長々しきよせに代たる手段、かへす/\上古の人の倒語の至妙、いはむも中々なりかし。
 
三野連《ミヌノムラジ》名闕入v唐(ニ)時|春日藏首老《カスガノクラノオビトオユガ》作歌
 
名闕の二字は、後人のくはへしなるべし。三野連の事、古註にくはしくみえたり。春日藏首は、(213)もと弁記といへりし僧なりしを、大寶元年三月、この老に、春日藏首と姓を賜へる事、續日本紀にみゆ。
 
62、布根竟《フネハツル》。對馬乃渡《ツシマノワタリ》。渡中爾《ワタナカニ》。幣取向而《ヌサトリムケテ》。早還許年《ハヤカヘリコネ》
 
言、在根良は、布根盡《フネハツル》の誤か。百船能《モヽフネノ》の誤か。此集卷十五に、毛母布禰乃波都流対馬《モヽフネノハツルツシマ》とよめり。又は、百都舟《モヽツフネ》の誤か。と冠辭考にいへり。げに在根良《アリネヨシ》は、舟人の目當となるがゆゑに、此嶺の在るがよしといふ心也。と長流のいへるを、契冲すでにこれを破して、かの嶺には神ませば、あらねといふ心ならむといへり。宣長は、布根竟《フネハツル》の誤ならむといへり。眞淵が考に同じけれど、良竟字形ちかければ、今この字を用ひたり。いづれも津とかゝれる也。印本、在根良とあるは、かへす/\心えず。〇対馬乃渡云々 から國には、対馬よりわたれば也。渡中爾は、海中にといふ也。大かた海を和多《ワタ》といふ事、海神の御名を、綿津見《ワタツミノ》神とまをすにしるべし。これ和多里《ワタリ》の里《リ》をはぶける也。おほかた渡の大なるは海なれば、やがて名としたる也。渡中としもよめるは、いまだから國にゆきつかぬ所をいへるなり。爾《ニ》はひとへにわた中を處としていへる也。〇幣取向而、幣を、神にたてまつりてといふ也。取向とは、幣を取りて神に向ふる義也。海路の無恙をいのるためなり。而《テ》もじ、上の藤原(ノ)宮(ノ)※[人偏+殳]民が歌にいへるが如く、上古に用ひたる而《テ》もじは而《テ》もじに多事ををさめたるもの也。されば、こゝも幣とりむけて、船中の無事をいのりて、舟とく※[手偏+旁]《コギ》てなとやうの多事を、この而もじにをさめたるなり。後世のごとく、たとへば、煮てくふ。問 (214)ひて知る。などやうに、事のつゞきたる間におく詞也。とのみ心えては、古人の用ひたる而《テ》もじはいぶかしかるべし。されど古の用ひざまの如くならでは、而《テ》としもいふ詮はなきを思ふべきなり。ことに。この而《テ》もじは、上の爾《ニ》もじに照らしておかれたる、此歌の眼なり。くはしくは、この下に靈をとくに、眼なる事をさとるべし。〇早還許年 年《ネ》はもと去倫の奴のかよへる脚結なる事前にいへるが如し。この年《ネ》とよまれたるも、ふかく情をひゞかせたり。相照らしてこゝろうべし。
靈、此歌、表は、對馬のわた中にて、神に幣とりむけ、海路の無事をいのり、恙なく公事をしはてて、はやくかへりこね。と船中無事にはやく歸洛あれとよめる也。されどさばかりの事は、かりそめの別にも、なべての人もいふ事なるを、こと/\しく、古人歌とよむべきにあらず。さればおもふに、爾《ニ》もじ、而《テ》もじの義をふかく考ふるに、渡中にて幣たてまつり、船中恙なく公の事しはてゝはやかへれといへるやうなれど、渡中爾としもいへるは、いまだから國にいたらぬ半途をすゑて爾《ニ》といひ、而《テ》もじはおほやけの事しはてて、はやかへれといへるやうなれど、から國の公事もすておきて、半途よりかへれといふ心にて、年《ネ》もじも、この心にうちあはせたれば、いたく待久しからむをかなしめる情を述たる歌なる事しるし。公に對したてまつりては、いとあるまじき情なれど、情の切なる所より出たる也。されど遣唐使はいと重任なれば、ふかくはばかりて、いづれともかたづけず。爾《ニ》もじ、而《テ》もじ、年《ネ》もじに、情ををさめたる也。かへす/\(215)いへるが如く、いづれともかたづけず、公・私をそなふる詞づくりの至なる。學者よく/\此妙處を味はふべし。
 
山上臣憶良《ヤマノヘノオミオクラ》在2太唐(ニ)1時憶2本郷(ヲ)1歌
 
大寶元年春正月乙亥朔丁酉以2守民部尚書直大貳|粟田《アハタノ》朝臣|眞人《マヒトヲ》1爲2唐執節使(ト)1中略無位|山於憶良《ヤマノヘノオクラヲ》爲2少録(ト)1云々、と續日本紀にみゆ。まへの遣唐使と同時なり。
 
63、去来子等《イザコドモ》。早日本邊《ハヤクヤマトヘ》。大伴乃《オホトモノ》。御津乃濱松《ミツノハママツ》。待戀奴良武《マチコヒヌラム》
 
言、去來は、いざなふ詞なり。佐《サ》もじ、すむは不知の義也。濁れば、誘ふ義となる。おのづから清濁の義によれり。子等 古點、いざや子らとあれど、也《ヤ》もじ詮なければ、いざ子とも、とよむべし。船中の人を云ふ。と或註にみゆれど、端作に在大唐時とあれば、船中の諸人といへるは、遣唐使をはじめその屬官の、唐土にをるわが國人どもをさす也。といふ心にや。船中といふはまぎらはしければ、ことわる也。これは、ひろく在唐のわが國人どもをさせる也ともみるべけれど、去來《イザ》、又、邊などの詞を思へば、※[楫+戈]師《カチトリ》・舟子ともをさしたりとおぼしき也。〇早日本邊 古點、はやもと訓じたるは誤なり。此集卷三なる、去来兒等《イザコドモ》。倭部早《マトヘハヤク》。白菅乃《シラスゲノ》。眞野榛原《マヌノハリハラ》。手折兒將歸《タヲリテイナム》といふ歌も、はやもとはよむまじき也。はやくとよむべし。【子とさとす事、歌によりて、さま/\なるべし。なづみてみまじき也。よくわきまふべし。】卷十五に、和伎毛故波《ワギモコハ》。伴也母許奴可登《ハヤモコヌカト》。麻都良牟乎《マツラムヲ》云々また卷十五 奴波多麻能《ヌバタマノ》。欲和多流月者(216)波夜毛伊※[氏/一]奴香文《ヨワタルツキハハヤモイデヌカモ》などを據としての例なれど、これは兩首ともに、下に可もじありて、そのうちあひに母《モ》とはおけるにて、これとは例ことなり。母もじは、うちあひにも、脚結の義にもかなはぬ也。邊《ヘ》は、早くやまとへかへらむ、と人々にいへる也。邊《ヘ》もじに、此心をさめたる也。邊《ヘ》もじは、前にもいへるが如く、方角をさす詞にて、そのさす方角のかなたに意ある事をさとす義なる事、例の江緯の常なり。こゝをもて、舟人ならむかとはいふ也。卷十五に、奴婆多麻能《ヌバタマノ》。欲安可之母布禰波《ヨアカシモフネハ》。許藝由可奈《コキユカナ》。美都能波麻末都《ミツノハママツ》。麻知故非奴良武《マチコヒヌラム》といふ歌、下句同じ。これらを思ふべし。〇大伴乃云々 冠辭考に、大伴氏の遠祖|道臣《ミチノミノ》命、大久米部《オホクメヘ》をつかさどりたり。神武天皇の御紀に瀰都瀰都志《ミヅミヅシ》。倶梅能固邏餓《クメノコラカ》とあそばしゝは、久米部のみならず、道臣命をもかねたまへれば、みづ/\しといふ心に冠らせたるかといへり。又高師の濱とつゞけたるは、建《タケ》き心にや。又は姓氏録に、大伴大田宿禰の次に、佐伯日奉《サヘキヒマツリノ》造は、談士《タカシノ》連(ノ)之後也。とあるよりいふにやといへり。予もおもふ事もあれど、證をえて後いふべし。こゝに冠をおかれたるは、ひとへに情にひゞかせむがため也。下にとけるをてらしてしるべし。御津は、難波の御津なり。西の國には、こゝより舟出せし所なれば也。この故にそこの濱松をよまれたる也。〇待戀奴良武とよめるは、即この濱松が、われらが歸るを待こひぬらむとよまれたる也。家人のまつを、松によせたる也、と古註みないへり。これ予がかねて歎息する所なり。大旨に、表と情を混ずといへるはこれらの事なり。松がまちこひぬらむとよめるは、表なり。家人の事は情也。ゆめ/\(217)これを混ずまじき事也。かくいふ故は、わが神ぶみの御教、内外・幽顯を混ずる事をいたくいましめ給ふ事切なり。今の世までも、神前に淨・不淨を正し、血穢をいむは、もはら内外・幽顯を混ずるを神のいみ給ふが故也。この所謂くはしくは、古事記神典燈にいへり。されば、表は表にて註し、情は情にて註せずしては、神の御心にもをむくべき也。内外・幽顯を混ずる時はすべてなに事も全からぬがゆゑに、古人は、かたく内外を混ぜざりし也。後世心をもてみまじき事この故ぞかし。されど後世心には、松が待らむ事、いとあるまじき事なりと思ふべし。非情の物を有情のごとくいふは倒語の常なり。まへの思賀乃辛崎《シカノカラサキ》、おもひあはすべし。猶この例いと多し。此ぬし、濱松がまちこひぬらむとよまれたるは、ひとへに内外を混ぜじとのかまへなるを、しか註せば、此ぬしが心用ひをやぶり、人がらをもおとすわざなるべし。註者の心を用ふべきは此事也。わが御國言は、とくにも、用ふるにも、この心得肝要ぞかし。奴《ヌ》は、倭をいでしより、年月あまた經たる事をおもはせむとて也。戀しとても、さまで年月へぬほどは、しのびてもあるべけれど、今は年月あまた經て、まちこふるに至れるよしをいふ也。良武はもと、上にうちあひなくては、おかぬもの也。うちあひなきを片響といふ。されど片響は、その法あり。これは中の良武の例なり。まちこひぬらむは必定なれば。といふほどの事をはぶける也。上にひける卷十五の歌もこれに同じ。
靈、この歌、表は、いざやまとへはやくいなむ。今は年月もへたれば、みつの濱松の、われらをま(218)ちこひぬらむが、いとをしきに。と舟人にかたらひたるによみふせられたる也。されど、もとより松のまちこふべきよしもなく、その松をいとをしまむも理もなき事なり。かゝるはかなき事を、古人、こと/”\しく歌とよむものにあらず。されば思ふに、ひさしく唐土にありて、戀しさ堪がたくなりぬる心を述たる歌にて、松に詞をおほせたる也。これいかなれば、心もなき松に詞をおほせたるぞといふに、遣唐にえらばれたてまつれる身なれば、たとひ年月へたりとも、私情をいはむ事はゞかりあるが故に、かくは詞をつけられたる也。かく詞に、公をおもくせられし心中、いかにくるしかりけむ。とおもひやられて、詞づくりの至妙、いはむも中々なり。かへすがへすも論らへるが如く、いはまほしさの堪がたきを、かくつゝしみて詞をつけたる、そのくるしさいふにはいたくまさる事、よく/\おもふべし。
                                   慶雲三年丙午幸2難波宮(ニ)1時
 
文武天皇の御紀に、九月幸して十月に還ましゝよしみゆ。
 
志貴皇子《シキノミコノ》御作歌
 
64、葦邊行《アシベユク》。鴨之羽我此爾《カモノハカヒニ》。霜零而《シモフリテ》。寒暮夕《サムキユフベハ》。和之所念《ヤマトシオモホユ》
 
言、葦邊行 難波の宮のあたりのさまなるべし。邊とは、葦の生たる方にそひて、鴨のうかびゆく(219)を云。鴨の蘆邊にそひゆくは、おのれも寒き故に、陰をたのむなるべし。この上句は、御まのあたりのさまをよませ給へるなり。羽我比は、羽のうちあひたる所を云。山のかひ、又衣のうちあひたる所を、上がひ・下がひといふなどこれ也。かふは、ゆきかふ・ちりかふなどいふに同じく、もと、加此《カヒ》は、久波比《クハヒ》のつゞまれるなり。久波比《クハヒ》は、咋あひ也。くはしくは、前にいへり。〇霜零而 鴨の羽がひをしも、霜のふり所とし給へる妙也。水の上にすら、霜のふりたるをおほせられたるにて、その餘の所の霜をおもはせられたる也。もと衣をうちあはせたるは、風を防ぐ爲なれば、かれも猶、羽がひは霜をふせぐ爲ならむに、そこにしもふるは、寒さいかにたへがたからむ。とおぼしめすなり。而《テ》もじ、例の多事をゝさめ給へる也。鴨のはがひに霜ふりしのぎて、木・草・屋のうへなどにも深くて、閨のうちまでもさえとほりてなどやうの多事也。これは霜ふりて寒きとやがて下にうちつゞきたるやうにみゆれば、予がかくいふを、もとめすくしたりと思ふ人もあらめど、しからず。さむきは、御みづからの御うへなれは、鴨の羽がひに霜ふりたりとて直に御身に寒からむやうなし。後世、輕卒なる詞づかひになづみて、古人の詞づかひをかろしむまじき也。〇寒暮夕云々 この暮夕の二字安からず。夕和の二字、家といふ字の誤ならむか。と或説にいへり。おもふに、もし暮夕はよひ/\とよませむがためにかけるにや。また夕の字は、者《ハ》の誤にもやあるらむ。又は、波《ハ》もじはつけよみにして、夕和二字倭の誤にやあるらむ。いづれにもあれ、波《ハ》もじあるべき語勢なり。和の字をやまとに用ひられしは、奈良の朝よりの事(220)にて、藤原の朝までは、倭の字をのみ用ひられしかば、これ誤なり。と眞淵が萬葉考にあり。かうやうの事、管見の及ぶ所にあらず。しかれども此集は、家持ぬしのかゝれたるにて、志貴皇子の親書にもあらねば、この論無益なるべし。やまとゝおほせられしは、實はさし給ふ人あるなるべし。之れをひろく國になしたまへる、これ古人詞をつけし常なり。之《シ》もじは、倭の筋のみひとすぢに思はるゝよし也。もとこれ從駕なれば、他のすぢはいさゝかも心におこるまじき事なるに、との御心よりおかせ給へる也。されば思はずに、やまとのみ一筋におもはるゝよ。との御歎なりとしるべし。四の句に、波《ハ》もじ必あるべき語勢也。と前にいへるは、かばかりならぬ霜夜には、倭の事も思はれざりしに。との心となれば也。この之《シ》もじにむかへて思ふべし。者《ハ》もじ、之《シ》もじひとへに、從駕の表をたて給へるなり。所念とは、おもはるといふ心也。おもほゆとは、何事にもあれ、心とおもふにはあらで、おのづから思はるゝを云也。これにも今釋せる心はこもれるをや。
靈、この御歌、表は、蘆邊をうかびゆく鴨の羽がひに、ふりしのぐばかりならぬ霜夜には、倭の事いさゝかも心にかゝらざりしに、かゝる寒き夜は、思はずにやまとのみ一筋におもはるゝよ。と從駕の身にして他念あるは、いとあるまじき事や。どみづからわが御心を歎じ給へる也。されどさばかりの款息は、たゞなげきてもやみぬべきを、こと/”\しく、古人、歌とよむものにあらず。されば思ふに、かゝる寒夜のみならず。倭なる人のこひしき御心を、告やらせ給ひし御歌な(221)る事明らか也.されど、從駕にはゞかりて、かく詞をつけたまへる也。御詞こそあれ。蘆邊行鴨の羽がひをしも、霜の置所とし給ひし御詞づくり、いかに上古の人たりとも、不容易の境たるべし。詞を麁暴につかひ、無味の句調をたふとぶ人、眼をひらくべきなり。
 
萬葉集燈卷之四 終
 
(223) 萬葉集燈卷之五
                     平安 富士谷御杖著
 
本集卷之一 其五
 
長(ノ)皇子(ノ)御歌
 
65、霰打《アラレウツ》。安良禮松原《アラレマツバラ》。住吉之《スミノヱノ》。弟日娘與《オトビヲトメト》。見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
言、霰打は、あられ松原とかさねたまはむ爲ながら、此時九十月の頃なれぼ、御まのあたり霰展のふりければにもあるべし〇安良禮松原 神功皇后の御紀に、【長歌下略】烏智箇多能《ヲチカタノ》。阿羅々摩菟麼邏《アラヽマツバラ》。摩菟麼邏珥《マツバラニ》。和多利喩祗※[氏/一]《ワタリユキテ》云々とあるは、山城國|菟道《ウヂ》川のあなたなる松原なり。あら/\と、木たちのたちこみたらぬを云なるべし。この安良禮松原も、邏《ラ》の禮《レ》にかよへるにて、難波わたりにあらあらとたてる松原をいふにて、地名にはあらず。と古説なり。下に、みれどあかずとあるは、此松原のけしきの事なり。〇住吉之云々 此をとめは、住吉の人なるべし。住吉は攝津國住吉耶なり。すみのえとよむべし。すみよしとよむは、後世の誤なり。日吉《ヒエ》をひよしとよむたぐひ也。古今集に、住よしとあまはつぐともながゐすな。といふ歌あり。その頃よりあやまりそめしにや。弟日(224)とは、顯宗天皇の御紀に、播磨(ノ)國|赤石《アカシノ》郡|縮見屯倉首《シヾミノミヤケノオビト》が家に、御父|押磐《オシハノ》皇子を 大泊瀬(ノ)天皇の殺し給ひしを恐りて、億計《オケノ》王【仁賢天皇也】弘計《ヲケノ》王【顯宗天皇なり。】しのびてつかへましゝ時、屯倉首《ミヤケノオビト》が斬室賀《ニヒムロホギ》の夜、弘計王【御弟なり】殊舞《タツヽマヒ》【注に、乍起乍居而舞之とあり】したまひて、誥《タケビ》てのりたまはく、彼々茅原淺茅原弟日僕是也《ソヽノチハラアサヂハラオトビヤツコタマコレナリトノリ玉フ》小楯《ヲタテ》【これは、此新室賀の夜の賓なり】由(テ)v是(ニ)深(ク)奇異《アヤシム》焉。更(ニ)使v唱v之(ヲ)。天皇|誥《タケビテ》之曰|石上振神椙伐v本截v末於2市邊宮1治2天下1天萬國萬押磐尊御裔僕是也《イソノカミフルノカミスギモトキリスヱウチハラヒイチヘノミヤニアメシタシラスアメヨロヅクニヨロヅ|オシハノ《ヲダテ》ミコトノミナスヱヤツコラマコレナリトノリタマフ》。小楯|離v席悵然再拜承事供給率v屬欽伏《シキヰヲハナレイタミテヲガミマツリテツカマツリヲサメタテマツリテヤカラヲヰテツヽシミツカマツル》とみえたる弟日に同じ。これ、おとゝひといふにて、御兄弟のよしをおほせられたるなれば、こゝも姉妹のをとめにて、遊行女婦《サブルコ》のまゐりたるにや。と古註なり。されど、古書に何備《ナニヒ》といふ詞ばすべて何ぶりといふ布理《フリ》のつゞまりたるなる事、前にもくしはくいへり。神典に【古事記上卷】高御産巣日《タカミムスビノ》神・神産巣日《カミムスビノ》神をはじめ奉りて、神名にいと多く、祝詞の疎備《ウトヒ》・荒備《アラヒ》なふぉの類これ也。さればおもふに、これ兄弟の稱にはあらで、弟《オト》ぶりするをいふ詞にて、弟《オト》ぶりすとは、謙遜なるかたちをいふなるべし。御兄弟その時、ひそみておはします事をおほせられし也。弟《オト》は兄にむかへていふにて、大かた、弟《オト》びたるはその人ざまもいとめでたくあはれなるものなれば、この弟日娘はこの人ざまをめでゝかくおほせられけるなるべし。後世にらうたきといふ詞の心なりとしるべし。これは住吉より難波にまゐれる遊行女婦にや。又人のむすめを、なにはの御旅舍にめしおかれけるにや。又住吉にまをで給ひて、かの地にてめしてやがて住吉にてよませ給へるにや。又それより難波にかへりまして、住吉にてめしゝをおほし出て、贈らせたまへる和歌にや。いづれと(225)もしりがたけれど、いづれにあれ、和歌の心はたがはざるべし。此下に、清江《スミノエ》娘子進2長皇子(ニ)1といふ歌あり。照らしておもふべし。與《ト》はともにの心なるべし。娘とゝもにみたまへば、あかぬ事はあるまじきを、猶あかざるを、かもとはよませ給へるにて、さて娘とゝもにみるだにかゝり。ましてひとりみば、いかにあかざらむとの心なり。されと、かく心うれば、松原の方主となり、娘の方客となるが故に、後世倒語をわきまへざる目には、この主客にまどふべし。これ、内外をたてゝ混ぜざる時は、をとめを客とし給ふにて、かへりてをとめ主となるなり。この詞の妙理筆端にときつくしがたし。志あらむ人には口授すべし。或註に、此集卷七に佐保河之清河原爾鳴知鳥河津跡二忘金都毛《サホガハノキヨキカハラニナクチドリカハヅトフタツワスレカネツモ》といふ歌あるによりて、この與《ト》もじは、松原とをとめとふたつなるべくみたまへど、あかぬといふ心也といへり。似て非なり。この與《ト》の下、見禮常不飽香聞とある事卷七の歌の跡には、うちあひたがへるを思ふべし。〇見禮常不飽香聞とは、このあられ松原のけしきの、みれどあかぬを歎じたまへるながら、弟日娘とともにみれどあかぬばかりなるを、香聞とよよせ給へる也。たゞおしなへて、みれどあかずとよめるが如く、みすぐすまじき也。
靈、この御歌、表は、このあられ松原、住吉の弟日娘とゝもにみたまへど、あかぬばかりのけしき大かたの松ばらとひとしからぬを歎じたまへる也。されどさばかりの事を古人こと/”\しく歌とよむものにあらねば、別に情ある事しるし。されば思ふに、程なく還御に從ひたまひて、この娘にわかれ給はむ事の、御心くるしくおぼす事を、かの娘に告げさせたまへる也。されと此娘(226)の事によりて、還御をいとひ給はむ事はゞかりあるが故に、二人みたまへどあかれ給はぬあられ松原を、みすてたまはむ事のわびしきに、御詞をつけられたる也。主を客とし、客を主とする詞づくり、古人倒語に多き法なり。前にいへるが如く、客はかへりて主となる事、倒語の妙用なり。上古詞づくりの凡ならぬ事、この御歌にもよく/\思ふべし。
 
太上天皇幸2于難波(ノ)宮(ニ)1時(ノ)歌
 
66、大伴乃《オホトモノ》。高師能濱能《タカシノハマノ》。松之根乎《マツガネヲ》。枕宿杼《マキテサヌレト・マキテイヌレト・マクラニヌレト》。家之所偲由《イヘシシヌバユ》
 
言、大伴乃は、高師の冠なる事、まへの憶良ぬしが歌にいへゎ。高師の濱は、和泉國大島郡にあり。されど、これは難波なりと或人いへり。と或註にみゆ。もし難波より和泉へもおはしけるにや。〇松之根乎といふ乎もじは、枕にすべきものならぬを、枕にするを云。さればめづらしき心をさとされたる也。枕宿杼古點まくらねぬとか。とあるはうけがたし。まくらする事を集中まくとのみよめり。宣長は、此|杼《ト》もじを心ゆかずやおもはれけむ。杼は夜の誤にて、まきてぬる夜はならむといへり。これいと穩しけれど、上古の詞つきともおぼえず。大かた一首の意にも切ならず。なほ杼《ト》もじあるべし。又まきてしぬれどとよめるもあれど、之《シ》もじかさぬべき脚結にあらねば、これもうけがたし。さればまきてさぬれど、又まきていぬれど、又まくらにぬれどなどよむべきにや。これはかゝる勝地なるこの濱松がねを、枕にしてねば、外に思ふ事もなく、心ゆきぬ(227)べき事なれど。ゝいふ也。しのばるまじき家の、しのばるゝになさむがために、かくはいふ也。〇家之所偲由 家とは、やまとなるおのが家をいふ。されどかくよめるは表にて、必さす人ある也。之《シ》は前の志貴皇子の御歌の、和之所念の下にいへるが如く、家のひとすぢにしのばるゝを、もどかしく思ふ心をしめされたるなり。下に、情をとくに照らしておもふべし。しぬぶは、したふ也。由もじは、これなくとも所の字ゆとよむならひなれど、もししぬばえなどもよまむかとて、由もじは添られたるなるべし。しかれども由もじなき例多ければ、衍字にもやあるらむ。此ゆも前にいへるが如く、心にもあらずしのばるゝを云なり。
靈、この歌、表は、此高師の濱にやどりて、かゝるおかしき所に、めづらしくぬるなれば、他念はさらにあるまじきに、おもはずに、家のひたふるにしのばるゝよ。と我ながらもどかしき心によめる也。かくもどかしむは從駕のゆゑ也。されど供奉の心の專一ならぬを、みづからもどくが主意ならば、恥て言にはいづまじき事なり。しかるを、こと更に歌とよめるは、これ本情ならぬが故なる事あきらか也。さればこの高師の濱の旅ねものわびしくて、京なる妹のこひしさ堪がたきを、客中より妹に告たる歌なるべし。これまた、從駕の心の專一ならぬをはゞかりて、此高師の濱の旅ねを、おかしかるべき物にいひなし、家のしのばるゝをもどきたる詞づくり、めでたしともよの常也。大旨に論らへるが如く、詞をまねばむと思はず、よく/\、此倒語の用ひざまに心をとゞむべし。
 
(228)右一首|置始東人《オキソメノアヅマビト》
 
日本紀に置染とある、この姓なるべし。
 
67、旅爾之而《タビニシテ》。物戀之伎乃《モノコホシギノ》。鳴事毛《ナクコトモ》。不所聞有世者《キコエザリセバ》。孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》
 
言、旅爾之而は、旅にてといふ心なり。されど古言には、かく之《シ》もじをくはへてのみいふは、旅のすぢをつよくたてむがため也。里言には、これをデといふ。爾之而《ニシテ》といはでは、旅なるすぢはたたぬなり。このすぢをよくたてざれば、下のうちあひ切ならざれば也。古言と里言の疎密、このひとつにもしるべし。〇物戀之伎乃云々 物とは、すべてみる物きく物ごとに戀しきつまとなる心にて、戀しさの數多きを、ひとつにしていふ詞なり。ものがなし、ものうしなどの類多き、皆同じ。古今集の端作に、ものへまかりける云々とあるも、一所ならず行けるを、つかねていふなり。又ものらいひてともみゆ。又物語ぶみどもに、ものしてなどかけるも、多事をひとつにしていふ也。これらにておもふべし。戀之伎に、〓《シギ》をよせたる也。宣長は、物こひしきといふよせざま、集中に例なければひがことなりて、物こふしぎのとよませたり。古人詞の自在はかりがたければ、一概にもいひがたし。それも後世の如く、たゞうはべばかりをおもへる詞ならば、よくえらぶべし。この詞をかの翁のしかとがめたるを思ふに、古比《コヒ》の比もじ以緯なるが、おのづからにおちゐぬなるべし。以緯の義は、こゝにかなはねば也。されば此集中|戀《コホ》しともよめれば、(229)今物こほしぎのとよめり。於緯は、こゝにかなへれば也。宣長が説のごとくなれば、〓のものこふる事實となるべし。此翁にかぎらず後世人は、實もたれの辟あるが故に、かくよみたるなれど、此歌實に、〓の物こふるをよめるにあらず。倒語のためにとり出られたるなれば、もとしひて物こふしぎといひなされたる、これ古言のみやびぞかし。くはしく此けぢめをおもひわかでは、古人の魂は、つひにしるべからずとしるべし。鳴事毛といふ事の字うかひてみゆるは、もし事は聲の誤にやあらむ。毛《モ》は、里言にナリトモといふ心なり。いと後世せめてといふ詞あり。上つ世、中昔、中季までもいはず。此毛もじせめての心あれば、古は毛《モ》もじにてせめての用を達したればなり。この例、集中これならずいと多き也。さればこれをおきては、わが類とすべき物もなき心をおもはせたる也。この心言外なれば、この毛もじ解し得がたかるべし。よく心をくはしくしてみるべし。或註に、せめて此〓の聲をきけば、旅の心をなぐさむ心なりといへるは非なり。聲をきゝてなぐさむにあらず。ものこひしさに堪てをるわがたぐひと思ふに、なぐさまるゝ也。なに事も、類あればたへがたき事もなぐさまるゝ物なればなり。これ前に論らへるが如く、實に〓の物こふるにてはあらねど、これをわがたぐひといひなしたる也。かくいはではこひ死ぬべければなり。こひ死なざる所以をとり出たるなりとしるべし。これ倒語の手段なりかし。〇不所聞有世者 せばは、すべて事を設いづる脚結なり。もしこれがかくあらば、と虚に設くる也。〇孤悲而死萬思 こひては、何をともいはざる古人詞づくりの常なり。而《テ》もじ、例の多事(230)ををさめたる也。萬思《マシ》上の世者《セバ》のうちあひにて、虚に設出たる事の未をいふ詞なり。脚結抄、將倫のうちに萬思《マシ》を屬したる事、もと將《ム》といふに同じ類の詞なればなり。されば將《ム》はその事實なる事の末をいふ詞なり。萬思《マシ》は虚設したる事の末なるがたがへり。この事、後世わきまへたる人なくて、たま/\古人の口拍子ならぬには、用ひあやまりたるもみゆ。よく分別すべし。今〓の聲のきこゆるを、もしきこえぬならば、と設出たる末なれば、萬思《マシ》とはうちあはせたる也。
靈、この歌、表は、この客中にもし物戀之伎の聲きこえざらば、われは戀死に死なむ。わが等類もあるものをとおもへばこそ、おのづからなぐさまれて、こひもしなずてはあれ。とこの〓の聲をよろこびたる歌なり。されどもと〓のこゑは旅情もまさりてよろこぶべき物にあらざるを、こひしなぬたねなりと悦びたる事、これ本情ならぬしるし也。されば思ふに、客中、郷思たへがたき事を、家にいひやられたる歌なる事明らかなり。されど從駕をはゞかりて、〓の聲をよろこびたるに詞をつけられ、猶こふるも、何をともよまれざりし、ひとへにつゝしめる詞づくりなる事をしるべし。いとふべき物を、かへりてよろこばしき物になしたる手段、なま/\の歌よみの思ひもよるべき詞づくりにあらずかし。
 
右一首|高安大島《タカヤスノオホシマ》
 
(231)68、大件乃《オホトモノ》。美津能濱爾有《ミツノハマナル》。忘貝《ワスレガヒ》。家爾有妹乎《イヘナルイモヲ》。忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》
 
言、大伴乃美津 まへにいへり。爾有《ナル》は爾阿《ニア》をつゞむれば奈《ナ》なれば也。忘貝といふまでは、眼前なる物をもて、やがてよせとせる也。前にかへす/”\論らへるが如く、いはまほしき事あるにかへたる也。かへたるは、從駕にはゞかりてなり。なほ下に、情をとくに照して心うべし。〇家爾有妹乎云々 乎もじは、もと忘れがたき妹をとの心なり。忘而念哉は、たゞ忘れむやの心也。と古註なり。さては而《テ》もじ無用たるべし。古人は、後世のごとく、句の字數たらぬに、おもはぬ詞をおく事なし。この而《テ》もじ、前にも、かへす/”\いへるがごとく、忘而念とやがてつゞく心にあらず。而《テ》に多事ををさめたる也。哉《ヤ》は、かゝる例の哉《ヤ》は、必やはのやなり。里言に、思ハウカヤといふ心なり。上必、江緯の詞なれば.婆也《ハヤ》の婆《ハ》をはぶける例にまがひやすし。よくわかつべし。さて此二句をおもふに、この頃從駕にはべりて、たゞ供奉を專一にのみつかへまつるを、ある人とひて、家の事は心にもかゝらずやといひけるに、こたへたるなるべし。又はひさしく家に音づれもせざりしかば、忘れたるかとうらみおこせたるに答へたるにもあるべし。いな家を忘れたるが如くみゆべけれど、さらにわすれはせずとことわれるなり。哉《ヤ》は、わするべき事か。よく思へと、そのわする忘れぬのさだめを人にゆづれるなり。
靈龜、この歌、表は、家をわすれたるかといへる人に、さらにわすれてをるにあらず、とこたへたる也。されどしばしもわすれぬ家を、わすれたるかととはむ人に、たゞ忘れずとのみいへりと(232)て、人信ずべきにあらねば、必その故あるべき事也。しかれども、その故のいひがたき事あるが故に、かくよめるなるべければ、其ことわり、必言外にあるべき事あきらか也。されば思ふに家の妹は、一日片時もわするゝまはなけれど、從駕のつかへしばしも麁略すべからねば、深くつつしみて、わざとうちみには家をも忘れたるが如くみする心のうちのくるしさ、思ひやれとよめる也。從駕につゝしみて、家もわすれたりとみゆるばかりなることわりいさゝかもいへば、弊あるべきが故に、上をよせとはしたる物也。下とても、此情露ばかりも詞にあらはさぬは、ひとへに從駕のつゝしみによれり。そのつゝしみの深さ、心のうちのくるしさ、今みるだにおもひやられてあはれなり。これひとへに倒語の妙用なり。表をかくよみなしたる歌なれば、凡見には、凡物に混じてみすぐすべき事なげくべき事なり。されども今釋する所おそらくは信ずる人よに少かるべし。もしこれを了解する人もあらば、ともにわが御國ぶりをかたるべき友にこそ。
 
右一首|身人部《ムトベノ》王
 
これは、六人部とかけるに同じ。牟《ム》を美《ミ》にかよはせたる也。天平元年正月正四位下六人部(ノ)王卒、と續日本紀にみえたる、此人なるべし。
 
(233)69、草枕《クサマクラ》。客去君跡《タビユクキミト》。知麻世婆《シラマセハ》。岸之埴布爾《キシノハニフニ》。仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》
言、草枕は、客の冠なる事まへにいへり。客去君跡云々 還御にしたがひて、京にかへりのぼり給ふを、たびゆくとはよめる也。この客去《タビユク》といふ詞、もと旅なるにたびゆくといふがまぎらはしさに、さま/”\聞まどひもせらるれど、これはたゞわかれ奉るべき君としらませば、との心を別《ワカレ》にせまらざる詞づくりなりとしるべし。古言のみやび思ふべし。君とは、皇子をさせる也。麻世婆《マセハ》は、麻世之婆《マシセハ》をはぶける也。世婆の事、まへにくはしくいへり。麻之世婆《マシセハ》は、かねてさる御けしきたにあらば、程なくかへり給はむともしらまし。もしさやうにしらましせばとの心なり。上に今ひとつ、世婆《セハ》ある心にみるべし。〇岸之埴布爾 この岸は、なにはの岸か。此集卷六に 白浪之《シラナミノ》。千重來縁流《チヘニキヨスル》。住吉能《スミノエノ》。岸乃黄土粉《キシノハニフニ》。二寶此天由香奈《ニホヒテユカナ》ともよめれば、此の岸は、住のえの岸なるべし。これこの娘のすめる所なれば、よめるなるべし。埴とは、和名抄云、埴(ハ)土黄(ニシテ)細密(ナルヲ)曰v埴(ト)。和名|波爾《ハニ》とある、これ也。布《フ》は粟田《アハフ》・豆田《マメフ》、その外|蓬生《ヨモギフ》芝生《シバフ》などの生《フ》に同じく、埴の生ずる所をいふ名なれど、やがて埴土《ハニ》の事を、はにふとよむは、月を月夜とよむにひとしきみやぴ言にや。古言には、かゝるみやび多きもの也。爾《ニ》は、里言にデといふ心なり。にての義也。いにしへは、埴をもで衣をすりたるなるべし。仁寶播散麻思乎 にほはすとは、衣にその色をつくるを云。まへの引馬野の歌にくはしくいへり。麻思《カヘ》 まへにいへるが如し。はやかへりのぼり給はむにせまりたれば、今はせんすべなきを、かりにかねてしりたるになしたる、その末をいへ(234)る也 乎は、里言にジヤノニ・ノニ・ジヤニなどいふ詞なり。にほはすべき事なるを、それを、えにほはさで、わかれ奉るくちをしさをいへる也。
靈、この歌、表は、此|清江《スミノエノ》娘子、長《ナガノ》皇子にめされて、わかれたてまつらむとする時、のどにおもひて、皇子の御衣もにほはせぬくちをしさをよめる也。それをだに御餞にせましものを。それだにえせぬが、いたくくちをしき心なり。されどさばかりの事は、古人こと/”\しく歌とよむならひにあらねば、情は別にある事めきらか也。されば思ふに、かねても御わかれの期はしらぬにもあらざるべけれど、いつまでも此皇子につかへ奉るべきやうに、のどかにおもひしが、今別に臨みてわかれ奉るべきこゝちもせず、いとわびしくかなしきこゝちを告たてまつれる歌なり。されどわたくしの事をもて、還御をねたがり奉るやうにあらむをはゞかりて、かねて別期をしらざりしにいひなし、御衣をにほはさゞりし事ばかり、くちをしきやうに詞をつけたる、いともいともあはれふかき詞づくり也かし。これらの詞のつけざまをよくみしりて、倒語の妙用、やごとなき事をさとるべき也。
 
右一首|清江《スミノエノ》娘子進2長《ナガノ》皇子(ニ)1姓氏未v詳
 
これは、まへの皇子の御歌なる弟日娘なり。ある註に、別人なるべしといへるは何のゆゑぞ。たゞ住吉清江ともじのかはれるばかりにて、同じ皇子に奉れる歌なるをや。
 
(235)太上天皇幸2于吉野(ノ)宮(ニ)1時|高市連黒人《タケチノムラジクロビトノ》作歌
 
この幸は、大寶元年八月なるべし。日本紀にみゆ。
 
70、倭爾者《ヤマトニハ》。鳴而歟來良武《ナキテカクラム》。呼子鳥《ヨブコドリ》。象乃中山《キサノナカヤマ》。呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》
 
言、倭爾者 この倭も、同國にての歌なれば、藤原のあたりを倭といへるなり。と或註にいへれど前に論らへるが如く、たとひしかにもあれ。古人はさやうにせまりて詞をつくるものにあらず。わざと、他の國よりいふやうにいへるは。古人の手段なり。かくいふにて、故郷をいとはるかにおもふ心はみゆるぞかし。すべて、古言はかくいとあやしき事多きは、皆古人詞づくりの手段なり。これ不言を貴ふがゆゑなり。後世心もて、古人の心用ひをそこなふまじき也。爾者《ニハ》の爾《ニ》は、倭をさし、者《ハ》は他方にわかてるなり。〇鳴而歟來良武 ある註に、來良武《クラム》は、ゆくらむに同じとあれど、ゆくらむにひとしくするは、くはしからず。移世にては、ゆくらむといふべき所なるを、くらむとよめるは、必その別なくてはかなはぬ事ならずや。太かたゆき・くといふ事、こなたに心をおきてはゆくといひ、かなたに心をおけばくると云。これ古人ゆき・くを用ふる法也。此京になりても此法たがはず。土佐日記などいと正し。その燈をみるべし。こゝもやまとなる家人のかたに、心をおきていふが故に、來とはいへる也。歟《カ》は、今此吉野のきさの中山をこゆる呼子鳥の、ふるさとになきてかくらむ。又さはなきかをしらむとする心なり。おもひだる所をあてこゝろむる脚結なり。〇呼子鳥 さま/”\にいへど、一定しがたし。昔ありける鳥の今をらぬ事はあらじ。(236)その鳥はあれども、名をうしなへるなるべし。覺性法親王の御集に、奈良におはしける道にて、呼子鳥をきかせ給ひし端作あり。その代も、まだ遠からぬ世なるに、いかにしてか、その名の傳はらざりけむ。今人をよぶやうになく鳥、をり/\山べにはきけり。それにや。多くは人をよぶ心にのみよめり。〇象乃中山 よしのゝ内なり。この吉野の離宮に近きなるべし。〇呼曾越奈流とは、人を呼やうなる聲にて、この象の中山をこゆる也。曾は呼子鳥のたゞには越ずて呼つゝこゆるをいふ也。越とは、象の中山を故郷の方へこゆる也。奈流《ナル》は奈利《ナリ》の曾《ゾ》のうちあひにて宇緯にうつれる也。まへの中(ノ)皇女(ノ)命の御歌にいへるが如く、物事のさまの心とまる所あるを、心とまる所ありなどいはで、心とまる所あるよしを思はする脚結なり。利《リ》は伊緯の義なり。流《ル》は宇緯にて、現當の義なり。音義のしからしむる所やごとなくて、曾《ゾ》にしたがへば伊緯にはいふべからぬ理なるがゆゑに奈流《ナル》とはいふなり。これは此鳥のよぶは、我をさそひて、倭へいなむとの心かと思ふ心を、奈流《ナル》とはよめるなり。これ心とまる所以なり。此故に上に、やまとには鳴てかくらむとはよめる也。としるべし。古人、脚結を用ひたる事、後世のごとくならぬ事をしるべし。【後世、脚結を用ふるは、たゞ故人の口拍子をたのむにて、義なし。ある人脚結は穿鑿に及ばぬものなりといへり。なに事も、やすきにつく世なれば、これを信ずる人、よに多し。げに口拍子をだにしれば十に八九は理にあたれり。されど、新意をたつる時は、必あやまるべし。大かた、脚結は多言を少言とし、不言に情をおもはするを專用とする物なるを、いかでか、麁暴せらるべき。又例はしりて、用ひざまをしらぬ一族(?)あり。これ又、同日の論たるべし。】
靈、この歌、表は、倭には鳴てかくらん。又は、他方にゆきて倭にはゆかぬにかあるらむ。もし倭へゆくにてあらば、呼子鳥の、今この象の中山を越てゆくに、たゞにも越ずて、呼つゝこゆるは(237)やまとへわれをさそふ心にやあるらむ。と呼子鳥の心をはかりたるに、よみふせたる歌なり。されど、この呼子鳥の心さなりとも、さにもあらずとも、しりたらむになにの詮かある。さばかりはかなき事を、古人こと/”\しく歌とよむ物にあらず。必言外に情あるべき事あきらか也。されば思ふに從駕日をへて、はやく故郷にかへらまほしき心を、家人にいひつかはしたるなり。しかれとも、從駕なればふかく憚りて、呼子鳥のおもふ心をはかりたるに詞をつけられたる、あはれいふばかりなし。返々いへるが如く、公私にあつく心を用ひたる古人の詞づくり、よく味ひて古人の倒語の自在なりし事みつべし。
 
大行天皇幸2于難波(ノ)宮(ニ)1時(ノ)歌 文武天皇也
 
大行天皇と申すは、崩じましていまだ御謚たてまつり給はぬほどに申すから國のならひによりてかゝれたる也。これは御世におはしましゝ時の從駕の歌どもを、崩じましていまだ御謚奉りたまはざりし程に、聞て記されたるなるべし。
 
71、倭懸《ヤマトコヒ》。寢之不所宿爾《イノネラエヌニ》。情無《コヽロナク》。此渚崎爾《コノスノサキニ》。多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》
 
言、倭戀云々 故郷をこひてねられぬ也。これを直言のやうにおもふ人あるべけれど、しからず。たとひ情のすぢにても、詞に、正・側ありて、側にいへばなほ倒語なり。これ古人詞づくりの法なり。もと此歌たづのなくを詰る事を主によみふせたる歌なれば、鶴を詰るは正なり。倭(238)戀は側なれば、表に害なきなり。あしく心えて、表を傷へりとみまじき也。寢宿《イネ》のけぢめ前にいへるが如し。爾は、里言にノニといふ心なり。鶴の心なきを詰らむがために、その理をいふなり。〇情無とは、鶴のおもひやりなきを云。此句は、終の七言につゞく心なり。此渚崎爾とは、難波江の渚の、その崎を云。此といひ、爾といふは、この難波の宮に近き渚の崎をいふにて、せめて此宮よりまどほき所にてだになけかし。と思ふ心をさとしたる也。〇多津鳴倍思哉 べしやは上の三輪山の歌にいへるが如し。鶴のなくべき事かや。よく思惟せよ。と可否を鶴にゆづりたる也。哉《ヤ》は、後世のやはの心なり。鶴が心にげになくべき事にはあらずとおもはせむがために、哉《ヤ》といふ也。たづが音は、いたく物がなしげにて、客愁をいとゞ催されて、いとはしさにかくはいふなり。
靈、この歌、表は、此難波にやまとをこひて、いもえねずあるに、所もこそあれ。此近き渚の崎にしも、斟酌もなく鶴のなくべき事か。よく思惟せよ。と鶴を詰りたる歌なり。されと鶴に詰りたとて、禽獣のこの可否を分別すべくもあらず。もとより情あるべくもあらぬ事なるを、古人ことごとしく歌よよむものにあらず。必別に情あるべき事うたがひなし。されば思ふに、從駕日をへて、郷思たへがたき事を、家人に告つかはしゝ歌なり。されども、從駕にはゞかりて、鶴を詰るに詞をつけたるあはれなり。倒語のつけざま、よく/\思ひしるべし。
 
右一首|忍坂部乙麻呂《オサカベノオトマロ》
 
(239)72、玉藻苅《タマモカル》。奥敝波不※[手偏+旁]《オキベハコガジ》。敷妙之《シキタヘノ》。枕之邊《マクラノアタリ》。忘可禰津藻《ワスレカネツモ》
 
言、玉藻苅云々 玉藻は、邊《ヘ》のかたにてもかるべけれど、多く澳の方にてかればにや。それにもかぎるべからず。倒語のためには、實事にたがへる事をもいふ事つねなり。これひとへに重くする所は、公を傷らぬにある事、わが御國ぶりなれば也。心得あやまるまじき事也。奥敝《オキベ》は澳《オキ》べなり。波《ハ》は邊《ヘ》の方に、むかへわかちたるなり。されど、此|波《ハ》は、玉藻刈までをもちておける也。邊《ヘ》の方につきて、舟をこがむと也。かく澳の方はこがじといふは、枕のあたりのわすれかねらるるが故なり。そのよしは下にいふべし。標實の法をもて、上下における也。舟ともいはで、不※[手偏+旁]といふ事、古人のつねなり。これらをみて、後世のをさなさをかへりみるべし。不《ジ》とは、里言にマイといふ詞なり。これはもとより、邊《ヘ》にをりていへるにあらず。ある日、澳をこぎて玉藻をかるをみて懲《コ》りたるが故に、此のち澳の方はこがじとよめる也。一旦こぎて、こりぬともいはで、かくよめるは、下の津もじにしるければなり。古言の力おもふべし。もし澳べもいまだこがで、あらかじめいへる詞ならば、終の七言の津藻の詞かなはざるべし。わすれかぬべければなどいはでは、うちゐはぬをおもふべき也.。敷妙之云々 しきは繁き也。たへは布也。その布の密なるを、しきたへとはいふなり。【あらたへは、これが反なり。】令(ノ)義解に敷和者《シキタヘハ》、宇都波多也とみえたり。しきたへをもてつくるものには皆冠らする也。くはしくは眞淵が冠辭考にみゆ。枕之邊とは、家にて妹と寢た(240)りし枕のあたりの事なり。これはゞかりあるが故に冠にかへたる也。つねに玉藻を妹のなびきぬるにたとへたるが如く、玉藻のなびけるさまにて、妹のねたりしかたちのおもはるれば也。それを枕のあたりとよめる、例のみやびなり。〇忘可禰津藻 この津《ツ》もじは、わすれむとすれども忘られぬよしをさとしたるなり。藻《モ》はまへにくはしくいへるが如く、枕のあたりわすれかねつといへども、直に京にかへりのぼらむ事も、心にまかせぬ歎息なり。かゝる歎息のかゝる詞なるがゆゑに、亡父これをサテモと譯せり。この津藻《ツモ》の脚結、ひとへに妹を思ひては、從駕のつかへうすくなりなむ事を、はゞかりてなる事をおもふべし。或註に、たび寐する浦のさまのあかねば、澳へこぎいでむ事はおもはずと也。といへるは、この枕之邊といふを、邊《ヘ》の方にたぼねしたる枕のあたりとや心えられけむ。されど、それを枕のあたりといふべきもあらず。冠詞も、津藻《ツモ》といふ脚結も、無用の長物となれり。言靈の道世にかくれて後は、古人の歌をもかくみあさむる事となりぬ。もとさるはかなき事は、詠歌の専門にあらざる事をしる事、大かた古歌をみるべき大要なり。この大則をふまずしては、かしこくおもひたりと思ふとも、なほ私意たるべき也。しかのみならず、上に玉藻刈としもおかるべしやは。玉藻をかる故に、澳方《オキベ》はこがじとよめるにこそあれ。此集卷二に 玉藻成依宿之妹乎《タマモナスヨリネシイモヲ》とよめるにてもおもふべし。大かた古言は、詞の力のつよき事かくの如し。歌はたゞもてあそぴもの也と心えて、言擧せぬ御國ぶりを辨へぬ後世心もては古言はときがたき物なり。これらの詞づくりをみしりて、學者心を精しくして、古言の用ひざま(241)をまねび、【古言をまねべとにはあらず。もちひざまをまねべといふなり。】おのが歌をもよむべきなり。
靈、この歌、表は、玉藻かる澳の方には、そのなびきに、妹が寢たりし姿おもひ出らるれば、その思ひいづる心やがて從駕のつかへの妨となりぬべし。されば此後澳の方はこがじ。とつゝしみをむねとよめる也。されどさるつゝしみは、心のうちにこそ思はめ。かゝる事をこと/”\しく、さかしらに古人歌とよむものにあらず。必別に情あるべき事あきらか也。されば思ふに、郷思たへがたけれど、おもはずにふかくしのびたるよしを、家に告られたる歌なるべし。しかるを、ふかく詞につゝしみて、玉藻におほせられたる詞づくり、めでたしともよの常なり。玉藻におほせたるは、ひとへに從駕にはゞかれる也。しかつゝしみをむねとよみながら、いさゝかさかしらにも詞をつけられずたゞ澳べはこかじとのみよまれたるみやび、かへす/”\いへるが如く、かく公私にかたよらぬ詞づくり、大かた詞づくりのいたり也。この時の心のうちいかなりけむ。と今もおもひやらるかし。
 
右一首式部卿|宇合《ウマカヒ》
 
宇合は、うまかひといふ事を、音にうつされたる字なり。眞淵は、この比は、この卿いまだ童にておはしゝ時なれば從駕し給ふべからず。宇合卿の歌にはあらじといへり。たとひ童にて從駕したまひしにもあれ、この歌、妹をおもへる心なれば、童にはふさはしからず。傳へあやまりたるなるべし。
 
(242)長(ノ)皇子(ノ)御歌
 
73、吾妹子乎《ワギモコヲ》。早見濱風《ハヤミハマカゼ》。倭有《ヤマトナル》。吾松椿《ワレマツツバキ》。不吹有勿勤《フカザウナユメ》
 
言、吾妹子は、早く見まほしき心のよせにおかせ給へる也。たゞこれよせばかる也。これを一首の心にかけて註するは非なり。ゆめ/\一首の意にかけてみまじき也。いはまほしき事に弊あれば、わざと無用のよせ冠などをおく事、古人倒語の法則なり。しかるを、後世はこの法則を辨へず。いひだにすれば、やがて内外をもたゞさずして、それにかゝづらふ也。これら内外を混じやすし。よく思ふべし。これを分別せむには、一首の意の眼たる所をはかりて、その有用・無用をしるべし。無用なるは、必いはまほしき事にかへたるもの也。古人この格多し。前の石上大臣の吾妹子乎去來見乃山乎《ワギモコヲイザミノヤマヲ》云々 とよませ給へるに同じ。〇早見濱風 豐後國に速見《ハヤミ》郡あり。攝津國にもさる所あるにや。たづぬべし。契冲は、早見の見《ミ》は、見るとはよせたれど、見《ミ》は詞にて、早き濱風の心なり。濱風はさはる物なく吹過ればいふ也といへれど、美《ミ》もじを伎《キ》のごとく用ひたる例をしらねば、此説うけがたし。これはあらく吹きて寒きをいふ也。さはことわり給はねども、ふかざるなとよみ給へるにしるし。後世名のかはりたるにて、猶攝津國にありし濱の名にぞあるべき。又は此御歌、豊後國におはしける事ありて、その時よませ給ひしを傳へあやまりて、この幸の時の御歌としたるにもあるべし。〇倭有云々 やまとの皇子乃宮にある松椿を云。されば(243)わが松椿ともよむべけれど、京なる妹のわれを待つといふによせたまへるなれば、われとも、わをとも、よむべし。されど、これもまた、上と同じくよせばかり也。一首の意にかゝる事にあらず。みあやまるまじきなり。諸註多くは、みあやまれり。上の吾殊子乎《ワギモコヲ》も、この吾松《ワレマツ》も、一首の意にかくればくさ/”\の意混雜して、大かた御歌くだ/\しきをおもふべし。倭有といふ詞は、松椿といふにつゞけたるにて、吾は挿みてよませ給へる也。又われをわといふは古語也。とある註にいへれど非なり。われをわといふは、たれをた、かれをか、それをそ、これをこなといふにおなじく、此義まへにくはしくいへり。後世いはねば、古言なりと思へるもことわりながら、古言といふにあらずして、義によりて、われとも、わともいひし事なるは、いにしへわれとも、わともいへるにさとるべし。後世いはざるは、古めきたる故にはあらず。義をうしなひたれば也。これを古語也と心えられしは、その人にかぎらず。ある人これといふべき所をも、おしなべてことのみかきたるを、大家のかきたる事なれば、故あるべしと思へばにや、世にたれも/\しかいふは非を傳ふるなり。よく思ひしるべし。これは、わをよむ時のこゝろえ也。われ松椿とよみてもわれをの心なれば、われともよむべし。とはいふなり。畢竟は、わがやまとなる御園に、松や椿のありけるをよませ給へる也。〇不吹有勿勤とは、ふきかよへとの心にて、そのふかざらむことをいさめて、勤《ユメ》とはよませ給へる也。勤《ユメ》は、今も、ゆめ/\といふゆめにて、いめといふ詞は、これがかよひたるにて、何事にもあれ、事を禁ずる時に、かたくそれをつゝしめといふ詞なり。(244)勿《ナ》は、たゞ、しひてその事をやめさせむとする也。勤《ユメ》は、心からつゝしみてやめよ。といふ心なれば、一段つよしとしるべし。不吹有勿《フカザルナ》は、所詮はふけといふ心なれど、ふかざるなをふけ也。とは註すまじき事也。その故は、ふけといふは、ふかぬにむかへて促《ウナガ》す詞なり。ふかざるなとは、ふくべきをふかずにをる事なかれ。といふがたがへり。たとはゞ、あらずといふは、なきといふに同じ詞の如くなれど、なきはあるにむかへたる詞也。あらずは、あるべきがなき心なるに同じ。なきといへば、ひともじたらねばあらずとよめる類、今の世には、ともすればみゆかし。
靈、この御歌、表は、この早見の濱風にあつらへて、倭なるわが家の園にたてる松や、椿をふかずあるなとよませ給へる也。されど、なにゆゑにふかざるなといさめ給へりとも、その故をことわり給はぬは、必その故いふべからぬ事あるが故也。そのいふべからぬは、必はゞかりあるが故にて、それ即情なる事疑なし。されば思ふに、この濱風の、心して、倭なる松椿をふかざらむもはかりがたし。もししからば、ふかざる事なかれ。この寒さを家人にしらせて、此さむき濱風にいかに郷思たへがたくおはしますらむ。と家人におしはからせむの御心なり。されど、從駕をはゞかり給ひて、なにの故にともことわり給はずして、たゞ松・椿をふかざるなとのみよませたまへる、上古の人たりとも、なみ/\の企及ぶべき御詞づくりにあらず。まして後世の人、こゝろをだに得ぬもことわわりる事也。なにの故ともいはで、その片端をよめりし歌、上古には少からず。古人、倒語のすぢおもひもよりがたき手段多けれど、この詞づくりは、かたきが中のかたき也。(245)この皇子の御歌、いづれも/\凡を出てたり。學者ねもごろに、目をも心をもとゞむべし。されば、松椿は家人に比し給へる事しるし。これは、實に御園に松椿のありけるをとり出たまへるなるべし。前にかへす/”\いへるがごとく、吾妹子乎吾松《ワギモコヲワレマツ》などは、よせばよかりにて、一首の意にかけてみまじき事、この情と筋がたがへるをもて、前のあげつらひをよく/\わきまへしるべし。
 
大行天皇幸2于吉野(ノ)宮(ニ)1時歌
 
74、見吉野乃《ミヨシヌノ》。山下風之《ヤマシタカゼノ》.寒久爾《サムケクニ》。爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》。我獨宿牟《ワレヒトリネム》
 
言、山下風は、和名抄に、嵐。山下出風也。とみえ、この集中に山下・山阿下風なとかきて、あらしとよめれば、こゝもやまのあらしのとよむべしといふ説あれど、なほやましたかぜのとよみてもありぬべく、又やまおろす風のともよむべし。〇寒久爾は、さむきにといふ心なり。と人は心得たれど、しからず。寒くある事なるにといふほどの心にて、寒きことをめにたゝせていふ詞なり。かくいはでは、下の句の意あはれならざれば也。すべて計久《ケク》・末久《マク》・良久《ラク》・沙久《サク》・加久《カク》・之久《シク》などいふ類、みなこの格にて、その事をおもらせざれば、てりあふ物事はえなければ也。上の詞の下を同韻にかよせはせて、久《ク》を添ふるなり。これもさむきのきをけにかよはせて、久をそへたるなり。後世こそこれを用ひね。歌によりては、良久《ラク》・計久《ケク》などいはでは語をなさぬ事あるも(246)の也。すでにこの歌さむきにといひては、下のあはれうすきをもてさとるべきなり。〇爲當也今夜毛 はたはまたといふに同じと諸注いへり。うはべにみれば、しかおぼゆれども、多く例にわたりて思へばしからず。一種の詞なり。さらに又の心にあらず。または、一事のうへに更に一事のかさなるをいひ、はたはせむこゝちもなき事のやごとなくせらるゝ歎なり。されば亡父脚結抄に、はたは里言にセウコトモナイコトといふ義ありといへり。げにしかり。この故にこゝもこよひ獨寢せむこゝちさらに/\なけれど、從駕なれば、やごとなくひとり寢すべきをなげきて、爲當《ハタ》とはよめるなり。爲當の字をかられたるは、當は多《タ》の假名につね用ふる字なれば、爲は波《ハ》の誤にやともおもへと、日本紀【欽明天皇】日本後記宣明、なほ令(ノ)義解などにも、爲當をはたに用ひられたるは、からよみにまさにしかすべしとすといふ心にて、爲當とはかゝれたるにや。前にいへるが如く、セウコトモナイコトといふ義にもかなへれば、しかにやとはおぼゆるなり.この歌にとりていはゞ、まさに京にかへらむとすといふ心なり。この心をえて此詞の義をしるべし。也《ヤ》は疑なり。はたやはたなど、よむは詠の也《ヤ》なり。これは下の牟《ム》にうちあひたるなれば疑なり。混ずべからず。これはいまだ、寢ざるほどにおもへる心也。未然いかにあるべきと思へる心を也《ヤ》とよめる也。毛《モ》もじは、この連夜のひとり寢につけむとていふなり。されどこの前の連夜は、今夜ばから嵐も寒からざりしに、今夜のいたく寒き夜なるをまへの連夜につけて、毛《モ》とよめる也。これ毛といふ詮なり。たゞ一物に、又一物をつくる詞なりとのみ心得たるは、例の麁なり。も(247)し連夜には劣れる夜をもて毛《モ》といはゞ、毛《モ》もじの詮はあるまじきを思ふべし。上の爲當《ハタ》をまたといふ義とせば、この毛《モ》もじのかひなかるべきをもおもふべし。〇我獨宿牟 この我をわがと訓たるは非なり。がといふ時は必上の物主となり、乃といへば下の物主とな事、前にあげつらへるが如し。こゝも我といふよりは、ひとり寢の事、この歌の主なれば、必これ、さはよむまじき也。われ・わがといふけぢめ、古來審ならず。
靈、此歌、表は、この芳野の山もとに從駕して、連夜ひとり寢せしが、こよひことに山下風さむくして、ひとりねせらるべき夜ならねど、せむすべなければ、はたこよひもひとりねむか。となげきたるなり。されど、さばかり客中のひとり寢をくるしとおもはゞ、やがても京にかへりのぼるべきに、かへりものぼらで、歌とよめるは、必別に情あるしるし也。されば思ふに、私の旅ならば、やがてもかへりのぼらましを、やむごとなく、ひとり寢してあはまほしき妹にもえあはぬくるしさを家に告やられたる歌なり。されど此情いさゝかもあらはなれば、從駕をうらむになりぬべきをはゞかりて、たゞひとりねをなげくに詞をつけられたる、あはれ限なし。爲當《ハタ》といふ詞、この情に照らしてよく味はふべし。かへす/\古人の詞づくりは、いひざまこそかはりたれ公私をそなへたる詞の法則ひとしきに、千とせねふれるめをひらくべき也。
 
右一首或云天皇御製(ノ)歌
 
この歌、御製とする時は、幸はもと御心づからあそばしゝなれば、幸を悔させたまひし御詞づく(248)りとみるべし。さるは后妃をこひしくおぼしめす大御心を、后妃に告させ給へる大御歌にて、さばかり后妃を戀ひしくおぼさば、この幸はしたまふまじきを。と人思ふべければ、從駕の人のきくをはゞからせ給ひし御詞づくり也。これ予が牽強にあらず。詞は活物なれば、同じ詞も人にしたがひて變化すべし。うたがふべからず。
 
75、宇治間山《ウヂマヤマ》。朝風寒之《アサカゼサムシ》。旅爾師手《タビニシテ》。衣應借《コロモカスベキ》。妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》
 
言、宇冶間山は、吉野なり。〇朝風寒之 朝ふく風はことにさむきものなれば也。〇旅爾師手は、上にありしにおなじく、旅デと里言にいふ心也。こゝも朝風に心あらせむとて、旅を重くよませ給 へる也。〇衣應借云々 京にて妹に起わかれたまひしあしたなどは、寒からむとて、妹が衣をかしなどしたる事もありしが、けさはさやうの妹もあらぬにとの心なり。應《ベキ》とは、里言にソウナといふ心也。毛《モ》もじはさる妹にてもある事ならば、さむさもしのがるべきにとの心なり。有勿久爾は、朝かぜにむかひての詞なり。衣かすべき妹もあらぬに、かく寒くふくべき事かは。よくよくわがさむさを察して、さむくは吹まじき事を。と朝風を詰りたる心なり。勿久《ナク》は、あらぬの奴《ヌ》を、奈《ナ》にかよせはて、久《ク》をそへたるなる事前にいへるが如し。上の爾師手《ニシテ》に照らして、衣かすべき妹もあらぬ事をも、おもくよみたまへる也。これもはら風を詰らむが爲なり。
靈、この御歌、表は、此うぢま山の朝風、都にてこそあらめ。衣かすべき妹もなき旅中に、心して(249)もふくべき事を。と朝風を詰りうらみ給へるなり。されど非情の風こゝろせむやうもなく、詰りうらみたりとてきゝしらむやうもなし。これ表は、本情ならぬしるし也。されば思ふに、郷思たへがたくて、はやくかへらまほしき情を、家に告たまへる歌なる事明らか也。されど從駕をいとふになりぬべきをはゞかりて、風をうらむるに詞をつけたまへる、めでたしともなか/\なり。或註に、男女の衣をかりて着る事、いにしへの常也とあるは、いかなるひがことぞや。さむき時衣をかすは、寒からせじとおもふ情のいたす所なる事、今世とても同じ常也。といはゞ、さる情なくとも、衣をかすが常のやうなり。もししか見ば、この御歌もたゞ無味なるべし。かへす/”\後世の目はいたる所かぎりあり。志あらむ人は、後世の弊をあきらむべし。古人の詞のつけざまにめをひらくべき事を、くりかへしいへども、かゝるすぢになづめらむ人は、この王の御こゝろもちひをいたづら物にせむがくちをしさに論らひおく也。
 
右一首|長屋《ナガヤノ》王
 
高市(ノ)皇子の御子なり。大寶元年正月、無位より正四位上をさづけたまひし事、續日本紀にみゆ。
 
和銅元年戊申天皇御製(ノ)歌
 
これは 元明天患也。この年、陸奥越後の蝦夷ども叛きて、和銅二年討手の使をつかはされし事あり。こゝは元年とあれば、その前年軍の調練ありける時の御製にや。契冲は、大甞會の御製也(250)といへり。
 
76、丈夫之《マスラヲノ》。鞆乃音爲奈利《トモノトスナリ》。物部乃《モノノフノ》。大臣《オホマヘツキミ》。楯立良思母《タテタツラシモ》
 
言、丈夫は、契冲が説にしたがはゞ、その日の陣の武夫どもをさしたまへるなり。眞淵は、討手の使にしたがふ武夫どもをさし給へる也といへり。〇鞆乃音爲奈利 ある註に、神代卷に稜威《イツ》之|高鞆《タカトモ》とあるをもて、鞆は弓射る時、左臂につけて節をはなつに、弦のふれて鳴るその弦の音を高からしめむがため也。音をもて威《オド》す事、鳴鏑に同じといへり。これは高の字にめを奪はれたる説なり。たとひしかにもあれ、弦音を高からしめむがためなるを高鞆といはむやは。神典に、高の字あるはすべて建《タケ》のかよひにて、よりもつきがたきさまを云也。【わが御國にて、威といふは、これにこと也。くはしくは、古事記燈にいへり。】これは弦の音のおのづからたけきをもて、高鞆とはいふ也。弦音をもて威す事はさる事なれど、もと鞆はさる爲の物か。たしかなる事をしらず。こゝに音すとよませ給へれば、弦のふれて鳴る物なる事は明らか也。しかれども、おもふに、もと鞆は鳴る爲につくる物とはおぼえず。弓《ユ》がへりする時、弦の左臂にあたりて臂を傷ふが故に、その防につくるが本意なるべし。それに弦のふるゝ音、おのづからするをいふにこそ。表にめをうばはるれば、自然をうしなふべき事、これらにも思ふべし。奈利《ナリ》は、前の中皇女命の御長歌にくはしくいへるが如く、此音のふかく御心にあたる所あるを、さとし給へる也。〇物部乃大臣 この物部は、氏にあらず。たゞ武《タケ》きをのこをいふよし。古註にいへるげにしかなるべし。大臣とは、この討手の使の大將をおほせられたるなるべ(251)し。契冲が説によらば、大甞會の陣の大將なるべし。まへつぎみといふは、 天皇の大御前に侍る臣をひろくいふ也。後世、大臣といふにはたがへり。上の丈夫《マスラヲ》は、この大將にしたがふ武夫ともをさし給へる也。〇楯立良思母 楯はあたより射る箭をふせがむ爲にたつる物なり。立とは、大甞の方に從はゞ、陣の備の成るよしをおほせられたる也。討手の方に從はゞ、楯をたてならべて調錬するさま也。良思《ラシ》は、前にいへるが如く、里言にラシイ・コトソウナなどいふ心なり。楯たつらしきさまを、 天皇のつねのおましよりおしはかりたまへる也。もと、此|良思《ラシ》は、上の奈利《ナリ》より出たるにて、鞆の音するより楯たつらしきをはかり給へる也。鞆は、音する物なるが故に、おましより遠けれど、奈利《ナリ》とよませ給ひ、楯たつるは音もせねば、良思《ラシ》とはおほせられし也。されど鞆の音するより、察し給ひしなれば、良思《ラシ》とは、よませたまひしなる事をしるべし。諸註、たゞ二事をならべておほせられしやうに釋せるは、奈利《ナリ》・良思《ラシ》の義を審らかにせず。かつ、鞆と楯の音の有無におもひいたられざりければ也。母《モ》は、まへにいへが如く、鞆の音し、楯たつらしといへども。といふ義なり。この母もじ、一首の眼なり。もはら靈にひゞかせ給ひし也。下にいふをてらして思ふべし。
靈、この御製、上にいへるが如く、契冲は大甞會の時の御製とす。その故は、續日本紀に、慶雲四年秋七月壬子即2位(ニ)大極殿(ニ)1云々六月、文武天皇崩じ給ひ、翌年慶雲五年改元和銅元年なり。その十一月大甞會ありければ也。眞淵は、蝦夷の叛けるに討手の使つかはされしその調練の時の御製とす。この兩説いづれか是なるべき。此兩首をつら/\みれど、たしかにいづれともさためがたし。太か(252)た、歌の端作または詞づくりのさま、脚結のひゞきなどにて、その心しるきもあれど、又察し定めがたきもあるは常なり。いはゞ察しさだめがたきは、中にも詞づくりのめでたき也。もと私情をもて、公理を傷らじとての詞づくりなれば、その心のさだかならぬが本意なり。ゆめゆめあやしむまじき也。されどそのかみ、まのあたりその歌見たらむ人は、いかに詞はみやびたりとも、其靈にはおもひ入られしなるべき事明らかなり。今多くの年を經てみるが故に、はかり定めがたきなり。これ此御製にかぎらぬ事ながら、ついでに辯じおくなり。されば此兩説さだめがたければ、今兩説にしたがひて、表裏をとくなり。まづ大嘗に從ひていはゞ、表は、ますらをどもの弦の音の鞆にあたりてひゞくをきかせ給ひて、さは物部の大まへつぎみは、楯たてなめて、庭上のそなへも今はとゝのひたりげにおぼしやらせ給ひて、いと御心よきさまに御詞をつけさせたまへる也。されど物部の楯たてたるか。いまだたてざるかばかりの事は、たゞ御もとこ(の?)人にとはせたまひてもありぬべき事なるを、こと/”\しく大御歌あそばすべきにあらず。されば思ふに、これより天のしたをしろしめさむ事、女帝にさへましませば、この大嘗に、すめ神たちのおぼしめすらむ程もいとかしこく、はづかしくおぼしめす大御心をよませたまへるなり。しかれども、あらはに謙遜をいふは、かへりてさかしらなれば、御心よくおぼしめしての御言擧かとみゆらむやうに、御詞をつけさせたまへる也。から國のをしへいまだこぬほども、人は天地を渾沌する質なるが故に、謙遜などはあらはにいふをめでたき事にすめるを、かくみやびたる御(253)詞づくり、かたじけなしとも、かしこしともまをすべきやうなくこそ。又討手使のかたにしたがはゞ、鞆の音をきこしめして、楯たつるさまを遠くおましよりおしはかりまして、いさましくおぼしめすに、御詞をつけさせ給ひしなり。されどいさましく思ふばかりの事を、上古の人歌とよむものにあらねば、別に御情はあるべき事必せり。されば思ふに、御位につかせ給ひしはじめより、叛くものいできし事を、ふかくなげきおぼしめし、それにつけては、この武夫たち、天皇の御ことよさしのかしこさに、命のほどもはかられぬ此※[人偏+殳]に、家をすてゝ遠くゆくらむ心のうちをもおぼしやられ、いかでこのあた安く服して、討手の軍卒ども皆恙なくかへり、天(ノ)下しづかならむ事をおぼす大御心をよませ給ひし也。しかれども、これをいさゝかもあらはにおほせられむは、さかしらなるべきをはゞかりおぼしめしし御詞づくりなり。女帝にもおはしませば、安からすおぼしなやみたまひし大御心のほど、今もみるが如くいとかたじけなく、かしこき御詞づくり也かし。軍卒のこの御製をきゝたらむに、いかに身にしみてかたじけなくて、命もをしからずおぼえ、いかで宸襟をやすめたてまつらむとこそおもひけめとぞおぼゆる。この兩説、いづれとも定がたきが中に、此次下の御和歌に、須賣神乃嗣而賜流《スメガミノツギテタマヘル》とあるをおもふに、それも討手の方にもそむくにはあらねど、大嘗の方にはことに切なるべくや。
 
御名部《ミナベノ》皇女奉(リタマフ)v和御歌
 
(254)これは、 元明天皇の御姉みこ。 文武天皇の皇女なり。此御和歌も、上の御製にしたがひて、兩説を存してみるべし。
 
77、吾大王《ワガオホキミ》。物莫御念《モノナオモホシ》。須賣神乃《スメガミノ》。嗣而賜流《ツギテタマヘル》。吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》
 
言、吾大王は 元明天義をさし奉り給へる也。〇物莫御念 なにごとも御心にかけさせたまふな。と申させたまへるなり。古點は、ものなおぼしそとあれど、曾《ソ》もじなどもなければ、ものなおもほしとよむべし。奈曾《ナソ》とよむべくして、曾もじなき例、この集中かぞへもあへず。物おもほすなとよむとは異にして、奈曾《ナソ》の曾《ソ》もじをはぶきたる例なり。前にいへるが如く、奈《ナ》は大かたの事をひろく禁じ、奈曾《ナソ》といふ時は、その一節を禁じて、他の筋にはかゝはらぬ心なり。と脚結抄にいへり。されば、これもその心にみるべし。他のすぢには、大御心をなやませ給ふとも、この筋におきては、御心やすくませとの心なり。物とは多事をひとつにいふ詞なる事、前にいへるが如し。〇須賣神乃 須賣は、統《スベ》の義にて、統はなに事をもすべさせ給ひて、よろづの本なるを云也.さればひろく皇御祖神たちをさし奉りたまへるなり。〇嗣而賜流とは、皇《スメ》神よりつぎ/\に、あれ繼ますを云。而《テ》もじの事、返々いへるが如く、この而《テ》もじなど、下にやがてつゞくる脚結なりと心えば語をなさゞるべし。嗣而《ツギテ》なにを賜流《タマヘル》ともなきは、而《テ》もじ多事をゝさめたる所以なり。大かた人の生るゝ事、神の御たばかりによる事、神典【古事記上卷】淤能碁呂島之件に審らかなり。皇統たやさず、やごとなき御腹に心身をたまへる事、すめ神の御心なれば、これらの多事を、(255)而《テ》もじにをさめ給へるなり。〇莫吾勿久爾 古點は、われならなくにとあれど、下に引たる此集卷十五の歌にしたがひて、われなけなくにとよむべし。此集卷四に吾背子波《ワガセコハ》。物莫念《モノオモヒソ》。事之有者《コトシアラバ》。火爾毛水爾毛《ヒニモミヅニモ》。吾莫七國《ワレナケナクニ》また卷十五に多婢等伊倍婆《タヒトイヘハ》。許等爾曾夜須伎《コトニゾヤスキ》。須久奈久毛《スクナクモ》。伊母爾戀都都《イモニコヒツツ》。須敝奈家奈久爾《スベナケナクニ》など同じ例也。これらの歌の心は、その卷々にくはしくいへるをてらして恩ふべし。吾なけなくに、とはわれなからぬにはあらぬにとの心也。かく奈家《ナケ》と江緯にかよはする事、高けむ・深けむなどよむ例にて、それは高からむ・深からむの心なり。これも吾なからなくにの心なり。されど加良《カラ》の合音は加《カ》なるを、又|計《ケ》にかよはせたるにや。かゝる事はさかしらにつねいふ人あれど、大かた通音の事はおきて、音義にかなはぬ事は、古人いふべきにあらねば、通音にかゝはらず江緯の義、こゝにかなふが故に、奈伎《ナキ》の伎《キ》を江緯にかよはせて、計《ケ》といへるなるべし。かく江緯にかよはすに、おのづから加良《カラ》の義こもればなるべし。江緯の義こゝにかなふは、未然を思はする心なれば也。さて、この吾といふもじ、宣長は君の字の誤ならむといへるを、千蔭これに同意して、しかする時は、上よりのつゞき穩なりといへり。此説例のわが御國の古言を直言と心得たるひがみ也。上よりのつづき穩なりといへる事こゝろえず。上に吾大王とありて、又君とさし奉らむに、穩なりといはむやは。これは猶吾なるべし。すめ神の、嗣てうまれしめ給へる吾なからぬにはあらねば、あらむかぎりはたすけたてまつらむ。しかるをなにをかなげきおぼしめすぞ。となぐさめ奉りたまへる也。されど、御みづか(256)らかやうにおほせられむは、さかしらなれど、此さかしらは倒語なれば害なし。かくさかしらに御詞をつけ給ひしは、下に情をとくにてらしてさとるべし。大かた直言に妖あるべき事も、倒語なれば神さきはひたまふなり。かへす/”\直言と倒語の別をくはしく辨へて、混ずまじき也。さればこれはなほ、吾とさだむべき也.後世心もて、この御心もちひをむなしくせむ事、國學せむ人のかへりみるべき事なり。しかれども、君ともいふべきを、わざと吾とよまむ事のことわり大旨にあげつらへるが如く、天平以後の人は心得かぬべき事なり。まして今をや。よくよく倒語の妙用を味はひて、此吾の字、君の誤ならぬ事をしるべし。
靈、此御歌も、またかの兩説にしたがひでいふべし。大嘗の方にていはゞ、表は、わが大王大御心をくるしめさせ給ふな。凡庸のわれにあらねば、天下の事もわがあらむかぎりは、たすけたてまつらむを。何をかなげきおぼしめさむとなぐさめ奉りたまへるなりう。されど上古の人、さるさかしらにも、なめしくもある事を、言擧すべきにあらねば、言外に御情ある事あきらかなり。されば思ふに、女にましませども、天下臣民服したてまつりて、大御位につかせ奉れるばかりの御徳にませば、かならず天下も安寧ならむ事しるきを、なほ天下の爲に、大御身をかへりみます大御心のかたじけなさをふかく漢歎したてまつり給へる御歌なり。されど諂におつべきをはゞかりたまひて、わざとさかしらに、なめしく御詞をつけたまへる、めでたしともよのつねなり。ことに、すめ神のつぎてたまへる、おしなべたらぬ吾といひなしたまひて、もはら(257)御心づよくおもはせたてまつり給へる御詞づくりに、後世目及ばぬ事、くちをしともくちをしかし。又討手の使の方にていはゞ、なに事も大御心にかけさせ給ふな。凡庸ならぬ吾御かたはらに侍れば、御心づよくおぼしめせ。となぐさめたてまつりたまひしなり。されど、女の御身にして、をゝしげにおぼせられむ事、あるまじき事なれば、必言外に御こゝろあるべき事、明らか也。さればおもふに、天皇の御徳澤により、北地の※[人偏+殳]勝利うたがひなく、軍卒どもゝ恙なく凱陣して、天下静謐になり侍るべし。とほぎ奉りたまへる也。されど諂におつべきをはゞかり給ひて、御心の外に、をゝしく御詞をつけさせたまへるなり。その御心用ひのほど思ひやられ奉られて、めでたしなどもなか/\也。この兩説まへにいへるが如く、これ・かれを思ふに、大嘗の方心ひかるかし。
 
利銅三年庚戌(ノ)春三月従2藤原(ノ)宮1遷2寧樂《ナラノ》宮(ニ)1時|御輿《ミコシヲ》停(テ)2長屋原《ナガヤノハラニ》1※[しんにょう+向](ニ)望2古郷(ヲ)1l御作歌
ー書(ニ)云太上天皇(ノ)御製
 
普通の本には、二月とあれど、紀に三月とあるにしたがへり。一畫脱たるにこそ。長屋原は、大和(ノ)國山邊(ノ)郡なり。和名妙に、山邊(ノ)郡長屋とある所なるべし。この御歌の事、千蔭があめる略解に、宣長が説をしるせり。げにこの 太上天皇は、持統天皇にて、飛鳥より藤原にうつりましゝ時の御歌にて、和銅三年云々とかけるはあやまりつたへたるなるべし。もし倒語に、藤原を、明日香の里とよませたまひしにやと思へど、上古、倒語、大抵法則あるものなれば、さは見がたき所あ(258)り。なほこれは誤り傳へたるにこそ。されど又は御歌のかはりたるにもあるべければ、端作は、舊本にしたがひおきぬ。
 
78、飛鳥《トブトリノ》。明日香能里乎《アスカノサトヲ》。置而伊奈婆《オキテイナハ》。君之當者《キミガアタリハ》。不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》【一云、云、君之當乎不見而香毛安良牟《キミガアタリヲミズテカモアラム》】
 
言、飛鳥のは、あすかの冠なり。眞淵は、いすかといふ鳥の名に冠らせたる也とて。くはしく論らへり。おのれおもひよれる事もあれど、猶よく考へていふべし。あすかを飛鳥とかくは、かすがを春日とかくに同じ。〇明日香能里乎 このあすかの事、まへに宣長が説をあげしがごとく、明日香より藤原にうつりましゝ時の御製とせば、論なかるべし。乎《ヲ》は、おきていぬべきこゝちなき里なるを。との心におかせ給へる也。〇置而伊奈婆 さとはもとよりゐ(率)ておはすべきものならねば、いとをさなき御詞なれど、これ倒語の所以なる也。古言をまねびてはいはるべし。大かた倒語のかたきは、かゝるをさな言ぞかし。上にいへるが如く、この五言、また下の香聞《カモ》の脚結など、倒語たる所以やごとなければ、明日香の里ながら、倒語とは見がたき法則なり。なほ情は下にいふべし。古人はかゝる詞づくり多し。これ表を重くするが故なり。伊奈《イナ》は、いぬのかよへるにて、いきぬといふになりなば。といふほどの心なり。大かた伊久《イク》と由久《ユク》の別辨ふべし。伊久《イク》は、道のほどをかけずして、いたりつくをいふ詞なり。由久《ユク》は、道のほどをいふ詞なり。からもじの到と至の別のごとし。この奈婆《ナバ》に、いたくたちはなれがたくおぼす御心こもれり。〇君之當者 この君とさし給へるは、誰かはしらねど、その里なる人をさし給へるなれど、君が(259)みえずかもあらむとはよみ給はすして、君之當とよませ給へる、これまた例語の所以なり。者《ハ》は他の方はたとひみえずとも、そのあたりはみずてはえあるまじきを、との御心なり。〇不所見香聞安良武 かもは、疑なり。古人脚結を用ひたる、いづれとはなけれど、此|香聞《カモ》は、ことにめでたくおかせたまへり。その故は、明日香のさとを置ておはさば、その人のあたりのみえざらむ事はいふもさら也。されば香聞《カモ》などおぼつかなげにはおほせらるまじき事なるを、香聞《カモとよませたまへるがめでたきなり。そのめでたしといふ所以は、この御製をきかむ人の、さらばかならずみえじと思はむを、まち給ふためなれば也、必おぼめくべき事がらをば、わざと決定し、必定なる事がらをば、わざとうたがふ。これ皆倒語の手段なる也。すべて我よりさしさだめ、さしつけたる詞をいさめ給ふ、わが御國ぶりのかしこき事、人は必その反を思ふべきものなるがゆゑなり。其本源は、昇降二氣におこり、よろづの物みなこれにあやかり、こなたをゆけばかなたを來る事、やむごとなき眞理なり。此故に、神武天皇倒語をはじめさせ給ひて、よの妖氣をはらひたまへり。倒語の道のかしこさ、かへす/”\思ふべし。一云、君之當乎不見而香毛安良牟とあるは、藤原にうつりまして後、君があたりをみずして、常にこひしみてかもあらむとの心なり。而《テ》もじに例の多事をゝさめたまへり。この香聞《カモ》は、君があたりをみずしてをらむに堪むか。堪まじきか。といふ義となる也。靈、此御製、表は、この明日香のさとを置て、藤原にいたりなば、君がすむあたりは、みえずかあら(260)ん。又なほみえかすらむ。とこのさし給ひし人にかたらひ給ひし也。これ長屋原よりその人のもとにつかはされし御製なるべし。されど藤原にいたり給はゞ古郷のあたりのみえざらむを、かたらひ給ふに及ばざる事なるを、かくことさらに御歌とよませ給ふべきやうなし。これ言外に御情あるしるしなり。されば思ふにこの後は此明日香なる人にあひがたくましまさむ事を、ふかくなげきつかはされし御製なる事、うたがひなし。しかれどもこれをあらはになげき給はむは、遷都をうらみ給ふになりぬべきをはゞからせたまひて、明日香の里を置、またみえずかもなど、大かたをさなく御詞をつけさせたまへる也。かけけくもかしこき御うへなれば、御詞のみやびは申すもさらなれど、此御詞づくりのめでたさ、倒語に志あらむ人は、かしこくも、心をとゞめてまねぴたてまつるべし。
 
或本從2藤原(ノ)京1遷2于|寧樂《ナラノ》宮(ニ)1時(ノ)歌
 
この或本の二字、いとうたがはし。上の御製の或本とならば、上は短歌にて、或本は長歌なるべきやうなし。千蔭が略解に、一本にはなくて、或本にあれば、かくしるせるならむといへれど、一本・或本、いかなるたがひめぞや。心えず。たとひしかにもあれ、端作の上にかく冠らせむ事しかるべからず。かつ上の或本の歌とならば、從藤原京以下はあるべくもあらず。端作上と同じかるべき事なるに、上のは明日香よりの遷都の時なり。この長歌はうつなく、藤原よりの遷都の(261)時の歌なれば、このことわりにもそむければ、とにもかくにも、この或本の二字はうたがはし。此作者はたれなるらむ。名を脱せり。
 
79、天皇乃《スメロギノ》。命畏美《ミコトカシコミ》。柔備爾之《ニギビニシ》。家乎放《イヘヲサカリテ》。隱國乃《コモリクノ》。泊瀬乃《ハツセノ》。川爾《カハニ》。※[舟+共]浮而《フネウケテ》。吾行河乃《ワガユクカハノ》。川隈之《カハグマノ》。八十阿不落《ヤソクマオチズ》。萬段《ヨロヅタヒ》。顧爲乍《カヘリミシツヽ》。玉桙乃《タマボコノ》。道行晩《ミチユキクラシ》。青丹吉《アヲニヨシ》。楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》。佐保川爾《サホガハニ》。伊去至而《イユキイタリテ》。我宿有床乃上從《ワガネタルトコノウヘヨリ》。朝月夜《アサヅクヨ》。清爾見者《サヤカニミレバ》。栲乃穂爾《タヘノホニ》。夜之霜落《ヨルノシモフリ》。磐床等《イハドコト》。川之水凝《カハノミヅコリ》。冷夜乎《サムキヨヲ》。息言無久《ヤムコトモナク・ヤムコトナク》。通乍《カヨヒツヽ》。作家爾《ツクレルイヘニ》。千代二手《チヨマデニ》。來座牟公與《キマサムキミト》。吾毛通武《ワレモカヨハム》
 
言、天皇乃云々 遷都の事を命令し給ふを云。畏とは、 天皇の命はいかなる事ありてもそむくべからぬ心にて、命令の重き事をいふ也。美《ミ》は前にいへるが如く、牟《ム》のかよへるにて、ガリといふ心なり。〇柔備爾之云々 にぎぶとは、あらぶの反にて、里言にニツトリなどいふ心也。賑《ニギ》はふといふも、此詞よりいふ也。里には、この詞をニギヤカナといひて、人などの多きをいふは未也。源氏物語ににぎはゝしきによるなめりとあるは、富たる事なり。これ皆、ニットリとしたる所より、富もし、人多くもある事なれば也。すべて、詞に本末あるもの也。本末をよくたゞさでは義をまどふべきなり。こゝはひさしくすみつきて居心よき家をいふ也。これは藤原の家なり。乎《ヲ》もじはさる住心よき家なれば、はなるべきこゝちもなきをとの心を思はせたる也。擇はえらびてともよむべけれど、例によれば、択に放をあやまれるにて、放《サカリテ》なるべし。※[氏/一]もじは、(262)つけてよむべし。例の多事ををゝさむる心、こゝにかなへり。〇隱國乃云々 くはしく前にいへり。泊瀬川より舟にのりて、奈良にうつるさまなり。千蔭が略解に、この川の事くはしくいへり。〇※[舟+共]浮而云々 後世の詞にていはゞ、舟うかべたるばかりにて、棹さしなともせぬやうなり。これ而《テ》もじは多事をゝさむる所以なり。おのれ、而《テ》もじにかぎらず、古人脚結を用ひたる心得をいふ事、これらに信ずべし。すべて詞の檢糺無益の事にいふ人もあれど、これらいかにか心うべき。さる妄説になづむまじき也。川隈とは、前に道の隈といへるにおなじく、川のたをりて、こなたよりかなたの川すぢのみえずなる所を云也。八十隈とは、その川隈のいと多かるを云。八十は、たゞ大かたに、物の多かるをいふ事、そのもとは神典より出たる詞なり。これたゞ隈の多かるをいふにはあらで、川路のいと遠きことをいはむがため也。これすべて古言のいひざま也。不落とは、その川のくま毎にのこらずといふ心なり。やう/\藤原の思はるゝを云。〇萬段云々 段は、心をえてかけるもじ也。一萬度とかぎれるにあらず。これも大かたにいふなり。前の八十隈も、あまり數多くて、かぞへがたきばかりなる事をさとさむとて、わざといかめしき數をいへるもの也。きく人おもへらく、萬たびはあまり也。百分が一にして、百たびばかりにもやと思ふべき。それ即、よみ人の罟獲なる也。古人は、大かた、かくざまに詞はつけたる物なり。人の壽をほぐとて、千とせ黄世などいふこの轍なり。これは今世の人もつねにいひながら、まことに千とせ・よろづ代もとおもふ實情なりなど心えたれど、いかにしかおもふとも、千年・萬世あるべ(263)きかは。倒語なる事しるきにあらずや。しかるをいふかひなき人は、歌はすゞろなるそら言するもの也。と心うることゝなりぬ。なげくべき事なり。此京になりてだに、古今集に、なく涙雨とふらなむわたり川水まさりなばかへりくるがに。とよめるも、涙に水のまさらむやは。これ涙のいたく流るゝさまを思はせむがためなる事、上古の詞づくりなるをや。乍《ツヽ》は、下の道行晩にうちあはせておかれたるなり。かく道行晩にうちあはせて、乍《ツヽ》とよまれたるこゝろは、藤原のみゆるとはなけれど、萬たびもかへりみするに、日をくらしたるさまにいへる也。〇玉桙乃云々 道は桙のごとく直なる物なれば、冠とせる也。道は川路なり。略解に、人は陸にのぼりてもゆけば也といへり。これは道行などいふもじにめをうばゝれたるにて、例の古言を直言と心えたる説也。おほかた詞をかくなづみては、古言の妙處もしる事あたはず。みづからの詞づくりも、いつまでも同處に依然たるべき也。舟行なるをかくいふ事、古人の詞づかひの常なり。すべて舟行のうへなるに、この一句のみ陸の事をいはむやうなし。よく思ふべきなり。舟行なるを陸のやうにいふは、死人《シニビト》を活人《イキビト》のやうにいふ類にて、かぞふるにいとまあらずかし。かへりみに道のいとまいりて、日をくらしたる形容に、陸路のさまをもて詞とせる也。としるべし。〇青丹吉云々 あをによし、前にいへり。佐保川爾伊去至而とは、泊瀬川の末三輪川にて、三輪川をくだり、廣瀬川の落合よりさかのぼりて、佐保川までのぼるとぞ。伊の義、まへにいへり。發語なりとのみ古來註し、後學もしかなりとのみおもひてやみぬる事心えがたし。もし發語とならば、去至《ユキイタル》と(264)いふ詞、發語をおかでかへなはざるよしをこそとかめ。さる理もなくて、たゞ發語とのみいはむは所詮遯辭なる事明らかなるをや。これは佐保川にゆきいたるまでに、はじめ泊瀬川に舟うけたるより、此かたを陰にもちていふ詞なり。かく伊《イ》としもおける所以は、まへの多事にわたる心を、この佐保川ひとつにとゞめさせむが爲也。これ今は、藤原のかへりみだにせられぬまでに、遠くなりはてたる事を思はせむとてなり。去至《ユキイタル》とは、ゆきはゆく道をいふ詞なり。いたるはかしこにいたりつくをいふ詞なり。前にいへりしいく・ゆくの別これなり。而《テ》もじ、例の用ひざま思ふべし。ゆきいたりて寐るまでには、多事なくてはあらざるべきぞかし。〇我宿有云々 衣は床の誤にて、床のうへよりなるべし。と古説なり。しかるべし。衣と今本にあち。心えがたし。かり廬なれば、夜床にも月はさし入りたるなるべし。從《ヨリ》は、次の見者《ミレバ》の首尾なり。〇朝月夜云々 これは有明にて、朝まである月を云。朝月夜に、物のさやかにみゆるを云。清爾は、さやかにとも、又六言一句にさやにともよむべし。さやには、そのわたりのさまなごりなくみゆるを云。下に夜之霜落とあれば、この朝月夜は清爾のよせなり。〇栲乃穂爾云々 眞淵云、栲は楮の誤なるべしと。げに栲の字は字書にもみえぬ字なり。古語拾遺に 植(テ)v穀(ヲ)造(リ)2白和幣《シラニギテヲ》1植(テ)v麻《アサヲ》造(リ)2青和幣《アヲニギテヲ》1とあれば、白たへといふは、この穀の皮もておれる布なり。しかるに白たへに、白栲とかける所多くて、栲の字、諸書に、多倍《タヘ》とも、多久《タク》ともよめるは、もとふたやうにいひし木の名なればにや。今思ふに、古事記上卷の歌に多久夫須麻佐夜具賀斯多爾《タクブスマサヤクカシタニ》 仲哀天皇の御紀に栲衾(265)新羅國《タクブスマシラギノクニ》。この集卷十四・十五などにも、栲衾《タクブスマ》とあり。又古事記上客の歌に多久豆怒能斯路伎多佗牟伎《タクツヌノシロキタヾムキ》。この集卷三にも、栲角乃新羅國《タクヅヌノシラギノクニ》卷二十にも多久頭怒能之良比氣乃宇倍由《タクツヌノシラヒゲノウヘユ》なとよめり。又古事記上卷に、栲繩之千尋繩《タクナハノチヒロナハ》。この集卷二に、栲〓《タクナハ》とよみ、又卷三・卷九・卷十一等に、栲領巾《タクヒレ》ともよめり。かく多久《タク》といふ時は、多久《タク》何とやがて物につゞけて、多久乃《タクノ》何といへる例なし。多倍《タヘ》といふ時は、多倍乃《タヘノ》何とのみあるを思へば、同物ながら多倍《タヘ》といひ、多久《タク》といふには、必別ありとおぼし。されば、これかれを考ふるに、多倍は、布に織りての名にて、この栲のもとの名は、多久《タク》なれば、衾《衾》・領巾《ヒレ》・〓《ナハ》などの類につくれるは多久《タク》とのみいふなるべし。多倍《タヘ》はもと、此木の名にはあらで、布の名なるを、その布には、此木の皮もて織るによりて、やがてこの木をも、多倍《タヘ》といふなるべしとぞおぼゆる。穗《ホ》とは、國秀《クニノホ》・浪穗《ナミノホ》などもいひて、中にもめにたつ所をいふなり。この栲乃穗《タヘノホ》は、栲の白くにほへるがめにたつをいへり。爾《ニ》は、よせの爾《ニ》にて、ノ如クニといふ心なり。これは霜のさまを云。夜之霜落とは、朝霜・夕霜にむかへていふなり。そのわたりさやにみゆるが中に、白くて、霜のことにめにたてば也。さらぬだに住もつかぬかり廬に、ひとりぬる夜なれば、さむさことにたへがたきを、さとさむがために、夜之霜としもいへるなるべし。これは上の方より寒氣の襲ふをいふ。下によめる氷は、下の方より寒氣の襲ふをいふ也。〇磐床等云々 磐床は、磐を床にしたるを云。古事記上卷に、天之石位《アメノイハクラ》とあるくらは座なり。神代卷祝詞などには、やがて石座《イハクラ》ともかけり。太古は穴居しければ、石を座とも、床ともしたるなるべし。こゝに床としもといへる(266)は、氷のさまをいふ也。等《ト》はよせのとなり。磐床といふごとくにといふ也。栲乃穗・磐床ともに、霜氷のいたくさむきを思はせむが爲也。古人よせを用ひたるは、冠に同じくいふべき事の、いへば中々なるが故のわざなり。川之氷凝。古鮎はかはのひこりてとあるを、かはのひこゞりともよめるは、こゞりは凝々の義にていはがねのこゞしきなどいへるこゞしきに同じければ、さもありぬべけれと、氷は水の誤にて、かはのみづこりならむとおぼし。乎《ヲ》もじは、かく上には霜さえ、下には氷さえて、寒さたへがたければ、かよふべきこゝちもなき夜此なるを。との心なり。〇息言無久云々 いこふことなく。と眞淵はよめり。神武天皇の御紀に、息をいこふとよめれど、こゝの語意をおもふに、たゞ、たえずといふ心にて、いこふはここにかなへりともおぼえねば、なほ、やむこともなくとよめる古點しかるべし。されど、毛《モ》もじ詮ありともなければ、やむことなくと六言にもよむべし。通乍《カヨヒツヽ》は、藤原の舊都より、奈良の新京にかよひつゝ也。乍《ツヽ》の義まへにくはしくいへるがごとし。これは新京に家造らむ爲に、數箇度かよへる也。この歌によめるは、一度のやうなれど、たゞ此|乍《ツヽ》にて、上のしか/\を數个度なりけり。とおもはせたる詞づくり、有力おもふべし。作家爾とは、この次に來座牟公とさしたる人の家にて、わが家にはあらじ。爾《ニ》もじにて思ふべし。この公とさしたるは古註は 天皇の御事とおもひたりげなれど、さにはあるまじき證あり。下にいふべし。いかなる人にかありけむ。此歌ぬしの主人か。または父母か。伯叔父などか。又は兄か。などなるべし。〇千代二手云々 或註にこの歌の大意をとける(267)所に、末にいたりて、新室をことほぐ言もてむすべる也。とかゝれたる、古人さる稚き事をよむものにあらず。くはしくは此下にいふをみてさとるべし。二手は左右の手をいふ。即集中に左右手・左右などかけるに同じ。眞はすべて、ふたつを具したるをいふ事、まへにいへるが如し。此|麻傳《マデ》といふ脚結、まへに釋せるがごとく、程を超てのかなたの限をさす詞なり。こゝも大抵人生かぎりありて程あるを、千代とさす故に、麻傳《マデ》とはよめる也。これひとへに本情より生じたる詞なり。くはしくは下にいふをみるべし。來座牟公與 來《キ》は、爾(ニ)の誤ならむ。と或註にみゆるはいかゞあらむ。今思ふに上にいへるがごとく、公といへるを、 天皇の御事とおもへるより、天皇はこの新京にまし/\て、往來し給ふべきにあらざる事なれば、來座はあたらずと思ひての説なるべし。されど、與《ト》とよめるは、この人とゝもに。といへるなれば、 天皇にあらざる事しるし。この故に公とは主人・父・母などにや。とはいふ也。されば、これは、なほ來座牟《キマサム》とよむべきなり。今の本、座多とある多は、うつなく牟《ム》の誤なるべし。〇吾毛通武 こゝに、公とさしたる人を主とたてゝ、毛といへるは、吾を主とせざるいひざま神妙なり。
靈、この歌、表は天皇乃命畏美吾毛通武とむすびたるにて、中間ははさみたるものなり。 天皇の命令のいと重さに、ひさしく住なれし家をはなれ、泊瀬川よりとほく舟路を經て、佐保川にいたり、霜氷いたくさゆる夜のさむさ堪がたきもいとはず、だび/\かの舟路をかよひつゝ造れる家に、千世までに君は來まさむ。その君とゝもに、吾もかよはむ。とこの新京は千世までも不(268)變なるべければ。どいどたのしげによめるなり。されど、たのしともみえ、又古郷に心の殘るやうにもみえ、又舟路遠く寒夜のさまくるしげにもみえて、いづれを主意ともわきがたし。かくくだ/\しき事をしらずして、古人すゞろに歌とよむものにあらねば、必、情言外にあるべき事明らか也。さればつら/\思ふに、しかさま/”\に心あるやうにはみゆれど、 天皇の命のやむごとなさに、家をはなれ、寒夜のひとりねをしのぴて、この新京にかよはむ事、いつまでといふ限もなきわびしさ。言外に一律なり。こゝをもておもふに、此たびの遷都によりて、家人に踈くなるをなげき、ふかく家をしのびたる歌なりとはしるし。されど家人に踈からむ事をいはゞ、遷都を歎く心となりて、おほやけにおそりあるが故に、かよふべき限もしらぬなげきを、千代二手といひたのしくよろこばしく思ふらむやうに詞をつけたるなり。されば、此歌畢竟は家人を戀ひて、新京より家に贈れる歌なるべし。反歌の終に、忘跡念勿とよめるに明らかなるをや。古人の詞づくり、公私に心を用ふる事のたらひたる事、かへす/”\心をとゞむべきなり。
 
 反歌
 
80、青丹吉《アヲニヨシ》。寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。吾母將通《ワレモカヨハム》。忘跡念勿《ワスルトオモフナ》
 
言、青丹吉 まへにいへり。かく冠をおける心ありて也。下に情をとくにてらしておもふべし。〇寧樂乃家爾者とは、新京の家を云。爾者《ニハ》の爾《ニ》は、この寧樂の家にふかく執する心にすゑていふ也。(269)されど此家に執するは倒語也。下にてしるべし。者も、この家をめにたつものにしていへるなり。これまた倒語なり。〇萬代爾 長歌には千代といひ、これには萬代とよめるは、長歌に十倍この新京の不變をほぎよろこべる心によめる也。心はなほ、長歌に千代とよめるに同じけれど、ひときは久しくいへる、この歌の手段なり。〇吾母將通 これも、この來座牟公とともにかよはむといふなり。長歌にゆづりて、母《モ》もじにておもはせたる也。〇忘跡念勿 萬代に、この新京の家に、このあとわれもかよはゞ、家人は忘れたりともおもふべければ、そこをことわりていふ也。かくことわれる心は、 天皇の命の重ければなり。との心を思はせむがための詞づくり也。直言になづめる後世人は、この句を直言とみて、たゞおのがわすれざるをことわりたる也。とみるべけれどしからす。古人は戯にもさる詞をつかふ事なし。今釋せるが如く、 天皇の命のおもき事を思はせむが爲より出たる詞なりとしるべし。おほかた、詞はかくさまにつかふ物ぞかし。くはしくこのけじめをわきまへしるべし。此歌は、第四句にて、上よりの意をむすびて、此終の一句はそへたる物なり。これ標實の法によれり。されど、本情は必をはりの添たる句にあるものなりと心うべし。
靈、此歌、表は、この新京の家には、 天皇の、此新京に天下しろしめさむかぎり、萬代に、この公とゝもに吾もかよはむ。しからば家人をわすれたりと家におもふべけれど、さらにわすれたるにあらず。 天皇乃御言のおもさになりと思へ。と家人にいひやりたるなり。されど忘れたり(270)とおもへらむ人に、しひて忘跡念勿といふが如き強言《シヒゴト》を、古人すゞろに歌とよむものにあらねば必言外に情あるべき事あきらか也。さればおもふに、寧樂の家をわざとふかく執したるが如く、爾者《ニハ》とよみ冠をおきたるも、さらに好まぬ家なるよしをいふに代《カヘ》たるにて、萬代は、長歌におなじく、かよふに期なき事を十倍になげき、結句もはらおほやけのそむきがたく、やむごとなき歎をよめる事しるければ、概するに、藤原の家のこひしくはなれがたく思ふ心を、家人に推量せよといひやりたる歌なり。されどもかゝるわびしさをいさゝかも詞にいづる時は、遷都をうらむるにおつべきをはゞかりて、すべて新京をほぎ、この京の家を執したるやうにのみ、詞をつけたる也。公私いづれにもさはらず。しかも公私をそなへたる詞づくり、めでたしともなか/\也。この人の心のうち、かゝる詞をつけたるわぴしさ、いかなりけむとおもひやられて、あはれいふばかりなし。
 
右(ノ)歌、作ヌシ未v詳。
 
和銅五年壬子(ノ)夏四月。遣2長田《ナガタノ》王(ヲ)于伊勢(ノ)齋《イツキノ》宮(ニ)1時山(ノ)邊(ノ)御《ミ》井(ニ)作歌。
 
この山邊(ノ)御井とは、山邊村だいふ所に、この御井の跡あり。と宣長いへりとぞ。その國人にしてものゝ穿鑿あつき人なりしかば、しかなるべし。此集卷十三の長歌に山邊乃《ヤマノベノ》。五十師乃原爾《イシノハラニ》【上下略】とありて、反歌に、山邊乃《ヤマノベノ》。五十師乃御井者《イシノミヰハ》。自然《オノヅカラ》。成錦乎《ナレルニシキヲ》。張流山可母《ハレルヤマカモ》とよめるこれ(271)なり.長田(ノ)王は長(ノ)皇子の御子なるよし、三代實録にゆみ。續日本紀には、和銅五年正五位下とみえたり。これはなにゝよりてつかはされけるにか。しられず。
 
81、山邊乃《ヤマノベノ》。御井乎見我※[氏/一]利《イシヲミガテリ》。神風乃《カムカゼノ》。伊勢處女等《イセノヲトメラ・イセヲトメドモ》。相見鶴鴨《アヒミツルカモ》
 
言、山邊乃御井 端作の下にいへり。乎《ヲ》もじ、よく心をとゞめておもふべし。もとこの王齋宮に公用ありてくだり給へるなれば、みる事たやすからぬ御井をとの心なり。この乎《ヲ》もじにて、公務のいとまをもとめたまひし事こもれり。見我※[氏/一]利 がてりは、後世がてらといふに同じ。されど良《ラ》もじ・里《リ》もじ、おのづから安緯、以緯の義はたがふ也。大かた良《ラ》もじはかなふともおぼえず。されば古はがてりとのみよめるにや。がてりはもと、加《カツ》るといふ詞のなれるにて、一事にまた一事のくはるゝ心なり。かつといふ挿頭向じ詞なり。花みがてら人をとふなどは、もとよりその心がまへしたる心あり。これは御井みる序に、思ひかけずみたるにて、もとよりの心がまへにあらず。心がまへしたる心となるは、歌がら・事がらによるべし。心がまへもなきが、此詞の本義なりと心うべし。御井をみる事主なるよしをさとしたまへるなり。〇神風乃云々 神かぜは、伊《イ》の冠なり。伊《イ》は息《イキ》の事にて、神風は即息なれば、冠らせたる也。古事記燈に風神をとける所に、くはしくいへるをみるべし。伊勢處女等 古點は、いせのをとめらとあり。諸先達もそれにしたがはれたり。されば古點のまゝにもよむべけれど、乃《ノ》もじおもふ所あれば、いせをとめどもともよむべし。【因に云、大かた、詞の變化自在は、脚結のつかさどる所なれば、脚結に自在ならざれば、所思も自在に變化しがたき物なり。されば、歌には必要の物なれども、あまり理をもらさず、脚結をおく時はこと(272)わり過て、なか/\なる事いでくる物也。こゝをもて、上古には、おかれたる脚結、みなその歌の眼にして、大かた、脚結すくなし。脚結すくなければ事ひろくなるが故なり。上古の人は、心をこゝにあつく用ひたりとおぼえて、目とまる所ども多し。中昔より脚結多くおく事となれり。近世・今世はまたすくなくなれるは、上古に似てしからず。脚結にくらくなれるが故なり。されば、脚結はおかでかなはぬものゝ、おきて中々なる事あるものなりと心うべし。この故にこゝの乃もじなからむぞこの作者の心なるべき。とおぼゆる也。乃もじは常に瓦礫の如く用ふる脚結なれば、乃もじの有無のけぢめを思ふ人なし。脚結はこれにかぎらず、その義その用ひざまをくはしくたづねて、麁暴すべからざる事なり。大方の脚結無用なるは、本義にそむけば也。無用なりとてたのむべからず。】〇相見鶴鴨 つるは現當なりし事を、今よりおもひやらする詞也。これは、處女のあひみたるより後によみ給へれば也。鴨はまへにくはしくいへるが如く、太かたの理のあてられぬ事ある時の歎なり。こゝはもと、此御井をみむとて來たるに、思はず、伊勢處女どもをふたる事の歎なり。
靈、この歌、表は、此山(ノ)邊の御井をみむとて來つるに、おもはず、伊勢處女どもさへあひみつるかな。とこの山(ノ)邊の御井のあたりのおもしろき所なるに、うるはしき處女をさへみたるを、ふかくよろこぴたる也。されど、御井をみたるがうへに、處女をみたるばかりのよろこびを、古人のこと/”\しく歌とよむ物にあらず。又さばかりの事に、鴨《カモ》をおくべき事にあらねば、必、言外に情あるべき事明らかなり。されば思ふに、公命やむごとなくて、伊勢に日をへて家の妹の戀しさにいかではやくあはまほしく思ふに、心にもあらぬ處女をあひみつるよ。とひとへに妹のこひしさを家に告たまひし歌也。これ處女をみたる事意外なるよし、又|鴨《カモ》といふ脚結、もはら此歎息なる事しるきぞかし。されど公にはゞかりたまひて、一事ならぬよろこびの爲のやうに、詞をつけ給へる也。この次の二首、左註にうたがひ置たれど、そこに辨じたるがごとく、なほ同じ客中の(273)歌にて、二首とも郷思を家に告たまへる歌なる事しるければ、この歌の情、予がおしはかりならざる事をあきらむべし。或註に、この御井をみる時、よきをとめらに行逢て、興をましたる心のみにて、ふかき心なしと註したる、いとも/\くちをし。古人倒語の、おのがめに及ばずば、ただ及ばぬにてやみぬべき事なるを、深き心なしなど定められしは、中々その目の限もみゆるこゝちし、かつは初學をまどはすわざ也かし。これにかぎらず、古註にかゝる釋おほし。心してみるべし。此歌の詞づくり、ことにめでたければ、後世人の目及ばぬもことわりなる事也。よく/\心をとゞめて、この詞づくりのめでたさをおもひしるべし。
 
82、浦佐夫流《ウラサブル》。情佐麻禰之《コヽロサマネシ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天之四具禮能《アメノシクレノ》。流相見者《ナガラフミレバ》
 
言、浦佐夫流 まへにくはしくいへり。この詞、情中心にある事をさとせる也。されどなにの故とも、何の歎ともいはず、たゞ浦佐失流情とのみよみたまへる妙なり。〇情佐麻禰之 今の本、彌之《ミシ》とあれど、さまみしといふ詞、いまだきかねば、彌は禰の誤なりと眞淵がいへるに從ふべし。このぬしは、間無《マナシ》の義なりといへるを、宣長は數多き義なりといへり。此兩説を思ふに、いづれも得失あり。その故は、禰《ネ》はもと奈《ナ》のかよへるにて、開《マ》無といふ詞なれば、眞淵が説あたれり。しかれども、宣長が數多き義なりといへるも、ことすぢにはあらで、畢竟この詞の心をえて釋したるなり。この詞、本義は、間|無《ナシ》の義にして、その間なきは、即數多きかたちなれば、間無《マナシ》をもて數(274)多き事をさとす詞なり。この故に、得失ありとはいふ也。これ古言のいひざまなり。後世は古言をみるべき法を失ひたるが故に、此兩人さばかりの大家なりしかど、その説かくひとしへにして、ふたしへの如くきこゆる也。わが御國のふる言は、すべて直倒をもてはからざれば、その義盡ざる事、このひとつにてもしれとて、あげつらひおく也。千蔭も.宣長が説に同意して、間無の心とする時は、卷十七・十八・十九の歌どもにかなはずといはれし、これかなはぬにはあらず。間無をもて、數多きをさとしたる也。その歌どもは、此集卷十七に多麻保許乃《タマボコノ》。美知爾伊泥多知《ミチニイデタチ》。和可禮奈婆《ワカレナバ》。見奴日佐麻禰美《ミヌヒサマネミ》。孤悲思家武可母《コヒシケムカモ》また同卷に矢形尾能《ヤカタヲノ》。多加乎手爾須惠《タカヲテニスヱ》。美之麻野爾《ミシマヌニ》。可良奴日麻禰久《カラヌヒマネク》。都奇曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》また卷十八に【長歌上下略】安良多末乃《アラタマノ》。等之由吉我敝理《トシユキガヘリ》。月可佐禰《ツキカサネ》。美奴日佐末禰美《ミヌヒサマネミ》。故敷流曾良《コフルソラ》。夜須久之安良禰波《ヤスクシアラネバ》云々また卷十九に【長歌上下略】香吉《カグハシキ》。於夜能御言《オヤノミコトノ》。朝暮爾《アサヨヒニ》。不聞日麻禰久《キカヌヒマネク》云々また同卷に都禮母奈久《ツレモナク》。可禮爾之毛能登《カレニシモノト》。人者雖云《ヒトハイヘド》。不相日麻禰美《アハヌヒマネミ》。念曾吾爲《オモヒソアガスル》などよめる歌の事也。また續日本記【三十六】宣命に氏人《ウヂビト》【乎毛《ヲモ》】滅人等麻禰久在《ホロボスヒトドモマネクアリ》なとの類、たゞ間なきをもて、數多きをさとす詞なりとみば、かなひ、かなはぬの論には及ぶまじき事をや。佐《サ》はかく冠らせていふ事多し。したがふものゝとゞかぬかたちをしめす義也。いはゆる狹莚《サムシロ》。小男鹿《サヲジカ》・小夜《サヨ》・佐衣《サゴロモ》の類これに同じ。こゝも猶しかり。多くは言外にその循《シタガ》ふ所の物はあるなり。こゝの言外のさまは、下にいふをてらして心うべし。〇久堅乃云々 天をはじめ、すべて天象の物に冠らする詞なり。古來説々あれど、いづれもうけがたし。眞淵は、この(275)集中に瓠形《ヒサカタ》とかける所あるによりて、天は瓠《ヒサゴ》の形なればなるべしといへり。これもいかゞあらむ。おのれおもひょれるすぢもあれど、猶よくたゞしていふべし。天之四具禮能 しぐれは、暮秋より冬かけてふる雨の名なりとのみ後世はおもへり。もとしぐれは天のかきくらすより、雨の名となれるなれば、天のしぐれとはよむ也。としるべし。此王を、伊勢につかはされしは、四月と端作にあり。しぐれは、長月のしぐれの雨と此集中によめるが如く、九月より冬かけてふる雨をいへば、この歌は、四月より九月までも伊勢にありてよみたまへるにこそ。これは時たがひ、次の歌は、立田山伊勢よりの路にあらねば、もし此二首は、こと人のにて、端作の脱たるにや。それはしらず。されど、これは、九月までも伊勢におはしてよみ給ひ、立田山は、其歸路に伊勢よりこの山をこゆべき公務ありて、しかよみたまひしにや。實事をしらねば、さだめがたけれど上の歌のつゞきなれば、それにしたがはむが穩しかるべし。〇流相見者 ながらふ前にいへり。いにしへは、雨雪の長々しく降るを流るといへり。水のながるといふも、長々しく水のゆくを云也。良布《ラフ》は留《ル》を延云なりといふ説よにおこなはれたり。げに音の合ふ所は、ことわりかなひたれと、いにしへ、留《ル》とも、良布《ラフ》ともたがひによめるをや。もし良布《ラフ》は即|留《ル》ならば、さらに良布《ラフ》とはいふまじきをや。この延約の説うけがたし。句のもじの數のたらねば、留《ル》を良布《ラフ》といひ、また留《ル》も良布《ラフ》も同じ義なるを、心のまゝにすゞろにいふ後世人の如き事は、古人はさらにせざりしぞかし。又|良布《ラフ》は、留《ル》と約《ツヾ》まる也と思ふも亦麁なり。もししからば、上古に四言六言などは、よむ(276)まじき理をもて、その麁なるを思ふべし。良布《ラフ》の事、前にいへり。見者の者《バ》は、みてのち、みぬまと、ことの外なるよしをいふ也。
靈、この歌の表は、しぐれの長々しくふるをみれば、これまでにたがひて、中心の情數なくなりぬ。心なきしぐれや。としぐれをうらめる也。されどもとより心なきしぐれなれば、うらみたりとて、その詮もゐるべからぬをしりながら、古人すゞろに歌とよむべきにあらねば、必言外に情あるべき事明らかなり。されば思ふに、四月より九月にいたるまで、客中におはして、家人のこひしさしのびがたき事を、家にいひつかはし給へる歌也。されど公にはゞかりたまひて、かくしぐれの所爲をうらみたる詞をつけさせたまへる也。浦佐夫流情、また佐麻禰之の佐もじなど、詞づくつり、みやびめでたしとも、よの常ぞかし。
 
83、海底《ワタノソコ》。奥津白浪《オキツシラナミ》。立田山《タツタヤマ》。何時越奈武《イツカコエナム》。妹之當見武《イモガアタリミム》
 
言、海底 わたは、海をいふ事、まへにいへるがごとし。底はもと曾伎古《ソキコ》の伎《キ》のはぶかりたる也。曾伎《ソキ》は放《ソキ》なり。古《コ》處《コ》なり。こゝより遠き處を、曾古《ソコ》とはいふなり。されば澳の冠とせる也。奥《オキ》とは、とほくもあれ、深くもあれ、奥まりたる所をいふなり。この故に、海底奥とはつゞけたるなり。此集卷五に【長歌】和多能曾許意枳都布可延乃《ワタノソコオキツフカエノ》云々とよめると、此歌は冠詞なるなり。【冠辭考には、この卷五の歌一首のみ、この集中には冠なるやうにかかれたれど、此歌も冠也。序にいひおくなり。】都《ツ》もじは、すべてそこにつきて、他にふれぬかたちを云。天(277)津風・時津風・澳津藻・邊津藻などの津に同じ。以上二句、海底は奥の冠なり。奥津白浪は、立のよせなり。畢竟は、二句立のよせなれば冠ならず、と眞淵はいへるなるべし。しかれどもよせの中の冠例少からず。〇立田山 大和國平群郡河内の堺にある山なり。されば前にもいへるがごとく、伊勢よりの歸路にあらねば、こと人の歌にや。又左註にいへるがごとく、誦せられたる古歌にやともおもへども、これはなべてのめにもかゝる所なり。いかなる公用ありて、伊勢よりの歸賂、河内の方より大和にかへり給ふべき事ありて、かくよませたまひしか。またはゞかりてわざと歸路にあらざる山をよませ給へる倒語ならむもはかりがたし。古人の詞づくりは、變化不測なれば、この疑をのこしおくなり。〇何時越奈武 なむの奈《ナ》は、去倫の奴のかよへるにて、いつか越畢る時にならむといふ程の心なり。これもはらその時の待どほなるを思はせむが爲なり。〇妹之當見武 これは立田山を越はつる處よりは、妹が家のあたりみやらるればなるべし。この二句うちつけにはをさなげなる詞づくりのやうにみるべけれど、しからず。大かたわが所思は何時越奈武とばかりにて盡ぬべけれど、みむ人、さは妹にあはむの心をやみとほされむとて、さらに妹之當見武とは添たる也。さればいつか越なむと待遠なるは、妹にあはむとにはあらず。妹が家のあたりをみむとの心なり。との心に詞をつけ給へる也。古人公理をおもくおもふ心の厚き事、かつ詞をつくるに心を用ひたる事みつべし。
靈、此歌、表は、いつ立田山を越はつる時にかならむ。そのあたりよは、妹が家のあたりのみゆ(278)べければ、待どほなり。とたゞ妹が家のあたりのみまほしさの心を、むねとよみ給へるなり。されど、妹が家のあたりのみまほしきばかりの事に、古人こと/”\しく歌はよむものにあらぬがうへに、長々しきよせを置たまへる、ひとへに情言外にあるしるし也。されば思ふに、客中に月を經て、家のこひしく今はかた時もはやく妹にあはまほしき心を、家に告たまひし歌なる事明らか也。しかれども私ならぬ旅なれば、妹にあはまほしと人おもはむをさへはゞかりて、かくは詞をつけたまひしもの也。ことに長々しきよせをおかれたる事、客中に月ごろになりぬるしかじかをはゞかりて、かへ給へる事しるし。後世あさましき言ざまに照らして、この詞づくりのみやびよく/\こゝろをとゞむべし。
 
右二首今案(ズルニ)、不2似御井(ノ)所作(ニ)1若(シ)疑(ラクハ)當時誦(セル)之古歌|歟《カ》
 
この左註ことわりなり。されど、古人の倒語、凡眼の及びがたき所なれば、是非しがたし。前に予がおもふよしは、論らひおけり。
 
寧樂宮
 
こゝにかく標すべきにあらず。錯亂したるなるべし。
 
長(ノ)皇子與2志貴《シキノ》皇子1於《ニ》2佐紀《サキノ》宮1倶(ニ)宴(スル)歌
 
この佐紀(ノ)宮は、大和國添下郡佐貴郷なるべし。此皇子の宮にこそ。此集卷十に 春日在《カスガナル》。三笠乃(279)山爾《ミカサノヤマニ》。月母出奴可母《ツキモイデヌカモ》。佐紀山爾《サキヤマニ》。開有櫻之《サケルサクラノ》。花乃可見《ハナノミユベク》 とよめる、同處なるべし。春日も同じ郡也。
 
84、秋去者《アキサラバ》。今毛見如《イマモミルゴト》。妻戀爾《ツマゴヒニ》。鹿將鳴山曾《カナカムヤマゾ》。高野原之宇倍《タカヤハラノウヘ》
 
言、秋去者は、秋にならばと云也。去の事、まへに論らへり。此飲宴したまひしは、春夏のほどなりけるなるべし。〇今毛見如 ある註に、今みるごとくに行末もかはらじと云也といへるは、毛《モ》もじの心をいかにみての説にや。心ゆかず。この毛《モ》もじを思ふに、古今集にあなこひし今もみてしが山がつのかきねにさけるやまとなでしこ とよめる詞と同じく、今《今》とは眼前をさす也。毛《モ》は未然を主とたてゝ、そこに眼前をつけて毛《モ》とはいふ也。かくいふ故は、心にむねと思ふ事をさとさむがために、かへりて今を客としたるなり。古人脚結を用ふる自在思ふべし。大かた、毛《モ》と如《ゴト》に未然をねがふこゝろがまへををさめたる詞なり。此一句、下の三句につゞけてみるべからず。此集卷十八に等許余物《トコヨモノ》。己能多知婆奈能《コノタチバナノ》。伊夜※[氏/一]里爾《イヤテリニ》。和期大皇波《ワゴオホキミハ》。伊麻毛見流其登《イマモミルコト》また卷二十に波之伎余之《ハシキヨシ》。家布能安路自波《ケフノアロシハ》。伊蘇麻都能《イソマツノ》。都禰爾《ツネニ》。伊麻佐禰《イマサネ》。伊麻母美流其等《イマモミルコト》など、よめり。かゝるおきざま、この詞の常なれば、こゝも此句にて句とすべきなり。此詞、ひとりまた求むとおほせられたるにもあらず。又來ませと賓におほせられたるにもあらざる、これ古言のたふとぶべき所なり。〇妻戀爾云々 鹿を、古點|志加《シカ》とよめれど、さては八言となりて、ひきあひのさだめにかなはす。【ひきあひとは、よにいふもじあまりなり。】加《カ》とのみいふ例多ければこれも鹿《カ》とよむべし。秋は(280)妻ごひすと鹿のなかむ山ぞや。と賓志貴(ノ)皇子にまをしたまへる也。この妻戀をば、志貴(ノ)皇子をこふるにそへ給ふなるべしと或註にいへるは、後世の歌のめうつし也。これはたゞ、妻こふると鳴む鹿の聲をきかむとの心なり。曾《ゾ》は、里言にジヤゾといふ心にて、その筋の自然を示す詞なり。古事記の長歌に上畧|阿冶志貴多迦此古泥能迦微曾也《アチシキタカヒコネノカミゾヤ》とあるに同じ。〇高野原之宇倍 この集卷九に黒玉《ヌバタマノ》。夜霧立《ヨギリゾタテル》。衣手《コロモデヲ》。高屋於《タカヤノウヘニ》。霏※[雨/微]麻天爾《タナビクマデニ》といふ歌あれば、こゝも、たかやはらとよむべし。續日本紀に、添下郡佐貴郷高野山陵ともあれば、此宮近き所なるべし。これ、佐貴(ノ)宮を弛《ハヅ》してよませ給へるみやに言也。宇倍は、あたりといふ心なる事、まへにいへるがごとし。
靈、この御歌、表は、秋ふかくならば、此高野原のあたりは、妻ごひに鹿なくべき山なれば、その聲きゝにこむとの心なり。されどしかおぼしめさば、たゞ御心のうちにてやみぬべく、曾《ゾ》もじをおき給ふべき事ならぬを、古人ことさらに歌とよむものにあらず、必言外に御情あるべき事明らか也。されば思ふに、けふ賓の志貴皇子と遊びたまふが、あかずおもしろさに再會をちぎり給へる御歌なり。しかれども、大かた人を來《コ》よといはむはしひ言なれば、志貴皇子のその聲きゝにこむとおぼしたち給はむやうに、との倒語也。古人はかく興あるべき事に誘ふだに、深くつゝしみて詞をつけたり。返々、後世のいやしき心をかへりみて、此御歌のめでたさを思ひしるべし。よに、十人がひとりだにとて、我ながら狂へるがごと、わか御國ぶりをいふ。なほしひ言の罪ま(281)ぬかれがたくやあらむ。
 
萬葉集燈卷之五 本集卷之一終
 
           〔2021年3月26日(金)、午前9時7分、入力終了〕