北邊隨筆、富士谷御杖、日本隨筆大成1-15、吉川弘文館、555頁、1976.1.20(1927.11.28)
 
(3)朝志保乃。本里江由與世來流木積波毛。月尓日耳異迩。安里曽浪。以夜志九斯久宇呉奈比都良九。横山乃如菟豆母利※[氏/一]。取曽郁牟尓。※[楫+戈]貫阿倍受。燒宇※[氏/一]牟耳。火鑽多倍儒那毛安留。乏志伎毳。左夫斯貴鴨。綿津見乃宇豆能美手尓所纏珠。以蘇我九里。可賀與比欲里世婆。未通女等賀。伊奈陀支耳毛伎勢。宇末臂苫能。宇麻良迩奴玖羅牟行相裳將見乎。伊勢海。阿胡祢乃浦。可毛度九澳津島廻尚。洲尓居類舟能。沙文良敝杼。以々豆々許々毛々。千江乃浦尓斯安禮婆。白珠乃。五百箇廼都度比。青玉能。瑞枝乃※[王+總の旁]箆珠守等我。家止古路告禮。以豆九麻藝※[氏/一]可。以加奈留利目黥婆。手能末賀比。足乃躓那九。水底比可屡。美豆乃真珠波將拾毛乃叙登。真許登止不賀泥。安伎羅牟流我年。
  文化十三年丙子三月                御杖
 
北邊隨筆卷之一
 目録
 
志貴島の道   一オ  神書     四オ
訓讀      五オ  仁徳帝御製  五ウ
御國言     六オ  淺黄櫻    七オ
良馬      七オ  脚結のをもし 七ウ
くたかけはし鷹 八ウ  經緯     九オ
子持聖    十一オ  ねはといふ脚結 十一ウ
梧桐     十二ウ  若なすひ若瓜 十二ウ
風のはふり  十三オ  ひさこ花   十四オ
世をしりそめの神 十九オ 歇後    十九ウ
有注の歌    廿オ  蚊子侍従   廿一オ
常夏     廿一ウ  一絃琴     廿一ウ
伊勢物語   廿二ウ  阿々志夜胡志夜 廿五オ
しゝま    廿五ウ  おほろけ   廿六オ
几帳尺    廿七オ  御の字の訓  廿七オ
猿樂     廿八オ  古物語    二十九オ
粟飯     廿九ウ  さいはらひ   三十オ
木津川    卅一オ  崇徳帝讃州遷坐 卅一ウ
小侍従    卅二オ  しのふすり   卅二ウ
あとう語しりう言 卅三ウ  讀書の心得  卅四オ
 
    卷之二 〔以下丁づけ略〕
 
哥の巧拙        草の汁    
疊の縁         めつらしき事 
鷄の雄         嗜酒     
好奇          狐人の子をうむ 
夜光之璧        雁の子    
箏の音         探題     
大祓祝詞        蘆手     
雨衣          養禽獣    
冠辞          加賀智    
よみつめの一格     詞の時代  
道風書朝綱才      山田之曾富騰 
古言簡約        文の詞    
贔屓          放免附揚名介 
訓と字の先後      物語ふみの詞 
ものゝ上手       おほつかな  
子持烏         真理     
泊瀬寺         稱誉     
夜もすから       猿滑     
葉守神         心葉    
雲のかへし       一升瓶   
君の淵         鶴脛    
詞の緩急        助字のたくひ 
詞の延約        散禁    
纏頭     
 
    卷之三
 
手もすま        夢現    
重点          學問    
散木          あしきぬ  
紫式部見解       哥の得失  
美許登         七夕    
ゆつ          柚の漬様  
連哥          詞の斟酌  
松虫鈴虫蛬       うま    
おろしの風       野もせの類 
蛩々距※[足+虚]   雲形    
千字文         福原都   
讀合古物渡       反切
手習          鷸蚌    
假名遣         毒水    
からけ緒        字の五品  
音の存亡        哥の四知  
哥の次第        題詠    
催馬樂         奧の國   五
 
    卷之四
 
軽重先後        堕胎    
耳はさみ        なそ/\
雪墜指         詞の死活  
哥の教導        大巧    
あやむる        柳の花   
老らく         灸     
本のまゝ        うしろめたなき 
にとへの別       賀理    
をとにの別       かはつるみ 
冠※[巾+責]之痕   中河    
せめて         等之乃波  
釆女          七子鞘   
金刀銀人        さをとゝし 
盃中蛇         乎佐乎佐  
宇治橋         詞の遠近  
伯勞鳥之草具吉     八花前鏡
貧窮問答        讀書燈   
雲宇途         帯襷    
手つゝ    
 
 北邊隨筆 卷之一
                     平安 富士谷御杖 著
 
   〇志貴島の道
志貴島の道といふ事、いにしへよりたしかにことわられたるものをみす、もと礒城《シキ》は、崇神天皇の大宮處の名にて、其御紀に、「三年秋九月、遷2都(ヲ)於|礒城《シキニ》1是(ヲ)謂2瑞籬《ミツカキノ》宮(ト)1とみえたるこれ也、かれ思ふに、同紀に「六年、百姓流離或(ハ)有2背叛1、其(ノ)勢難(シ)2以v徳(ヲ)治(メ)1v之、是(ヲ)以晨(ニ)興夕(ニ)タ、請2罪(ヲ)神祇(ニ)1先(ニ)v是(ヨリ)、天照大神和(ノ)大國魂二神(ヲ)並祭2於天皇(ノ)大殿(ノ)之内(ニ)1、然(ルニ)畏2其神(ノ)勢(ヲ)1共(ニ)住不v安、故以2天照大神(ヲ)1託2豊鍬入姫《トヨスキイリヒメノ》命(ニ)1、祭2於倭ノ笠縫(ノ)邑(ニ)1、仍(テ)立2礒堅城神籬《シキノヒモロキヲ》1、【神籬此云2比莽呂岐(ト)1】亦以2日本本(ノ)大國魂(ノ)神(ヲ)1託2渟名城入姫《ヌナキイリヒメノ》命(ニ)1祭、然(ルニ)渟名城入姫、髪落體痩而不v能v祭、かく天照大神を、宮外にまつらせ給ひしより、垂仁天皇二十六年に、今の伊勢國五十鈴川上にまつらせたまひしまて、國々處々にうつしまつられ、あるひは一年にもおよはす、或は二年四年におよへる所もありて、遷座十九度におよへる事、くはしく倭姫(ノ)命(ノ)世記にみえたり、その御像鏡《ミカタカヾミ》は、すなはち、八尺勾※[王+總の旁]、鏡、草那藝劔、と神書に見えたるそのひとつにて、この三くさは、わか御教の表物なり、されは、神武天皇より開化天皇まて、九御代の間は、同殿共牀なりしといふは、わか御教を、宮中にひめさせたまひし程をいふなり、崇神天皇の御時、倭の笠縫邑にはしめてまつらせたまひしは、わか御をしへを、宮外にひろくせさせ給ひしをいふ也、難(キ)2以v徳(ヲ)治1v之かゆゑに、この御教をは天下にしらせて、百姓流離を治めたまはむかために、宮外にまつらせ給ひしなれは、此御代にしも、はしめて此御をしへある事をは人みなしりぬるか故に、志貴嶋の道とはいふ也けり、されはもとこれ、神道をさしていふ名なれと、【神道といふ名は、孝徳紀にはしめてみえたり】後世にては、たゝ哥道の名のことくなれるもことわり、わか御教の要とするは、言語なれは也、もと哥道は、神道にそなはれるものなる事、神武帝の御紀に、「以2諷哥倒語(ヲ)1掃2蕩妖氣(ヲ)1倒語之用始(テ)起2乎茲1、とあるをおもふへし、その別をいはゝ、倒語は、人に近きあはひの用なり、諷哥は、人に遠きあはひの用なり、【近けれと遠きになし、遠けれと近になして、用ふるもつねなり、これは時に隨ふことなり】この故に、諷哥倒語ともに、おしこめて志貴島の道とはいふへき事なり、欽明帝、礒城島金刺宮に、あめのしたしろしめしつとあれは、磯城もと、磯城嶋ともいふなるへし、やまと嶋と、萬葉集中におほくよめり、此帝の大宮はいと後なれは、その御世をさしたるにはあらしとそおほゆる
  因(ニ)云、倭姫(ノ)命世記は、世に信せぬもの也、その信せぬゆゑは、「天皇即位、廿三年己未二月、倭姫(ノ)命、召2集於宮人及物(ノ)部八十氏等(ヲ)1宣久、神主部物忌等、諸聞吾久代、大神託宣【摩志萬志支、】心神(ハ)則天地之本基、身體(ハ)則五行之化生【奈利、】肆《本ノマヽ》元々入元初本本任2本心(ニ)1与、神垂以2祈祷(ヲ)1為v先(ト)、冥加(ハ)以2正直(ヲ)1為v本(ト)利、夫(レ)尊v天(ヲ)事v地(ニ)、崇v神(ヲ)敬v宗(ヲ)、則不v絶2宗廟(ヲ)1、經2綸天業(ヲ)1、又屏(ケ)2仏法(ノ)息(ヲ)1奉3再2拜神祇(ヲ)1礼、云々、これらの詞あるか故也、予おもふに、この「天皇即位廿三年以下、卷尾まては、後人の加へたる物なる事しるきは、こゝより上の文氣は、かみつよのすかたにて、此以下のことくあさましき事なし、ことに鎮坐の神名ともをつらねたるも心ゆかす、まして其奥に、「神代下云、なとある、後人の所為疑なき證なり、又はしめの程も、後人のそへたるにこそとおほしきは、卷首の「天地開闢之初といふより「治2天下(ヲ)1八十三萬六千卅二年といふまて也その故は「神寶日出之時「為v月為v日永懸不v落、或(ハ)為v神為v皇常(ニ)以無v窮なとまた「此時天地清浄止、諸法如2影像1【奈利】清浄無2假穢1取v説不v可v得須皆従因生業【世利止、】諄解【世利】なと心ゆかねはなり、かの「天皇即位云々よりまへにも後人の註したるか本文になりたりとおほしき所々あり、いはゆる「御間城入彦云々の條の終に「是今踐祚之日所v献神璽鏡劔是也謂2名(ヲ)内侍所(ト)1也なとこれ也かゝる所々はみゆれとも此中間の文氣は後人の所為の及ひかたき所あるかうへに雄畧帝の御時、豊宇介大神を、丹波國よりむかへまつられし事、第二回に、吉佐宮にまつられ、第三回に、伊豆加志本宮に祭られける時、豊宇介大神は、この宮にのこしまつられたりしか故なる事、此世記なかりせは、なにゝよりてか、丹波國よりむかへましゝ故をしらん、此故に予は、「神日本磐余彦天皇云々より以下、「造伊勢兩宮焉といふまてをは、信すへしとはおほゆる也、此ことを人にかたりしに、からふみにも、さるたくひはいと多かりとそいはれ  し【この書の事は、なにはの雅嘉ぬしか、群書一覧に、くはしくのせられたるを見るへし】
   〇神書
神書一卷は、【神代卷、古事記、上卷】もと後にいてきたる物にて、はしめに冠らせて、上卷としたまへる物とおほしき也、かくおはゆる故は、神書中の哥のすかた、神武の御卷なる哥にくらふれは、かへりてふるくもみえねはなり、いつれの御世にとも、たしかにはいふへからねと、もし雄畧帝の御世の頃にやいてきつらん、神書、八千矛神の御哥のをはりに、「許登能加多理碁登母許遠婆《コトノカタリコトモコヲハ》、とありて、そのつゝきの御哥、をはりことに此詞あり、中卷より末には、雄畧の御卷にしも、此詞、をはりにある哥あれは也、されと、その雄畧の御卷なるも、神書の歌をまねひたりともいふへけれと、哥はかへりて、その御世のすら、ふるくみゆるそかし、この帝に、天照大御神の御をしへありしかは、驚き悟り給ひて、豊宇介大神を、丹波國吉佐宮より、今の伊勢の山田原にまつらせたまひし事、世記にみゆ、もと内外宮は、具足せされは、わか御教のことわりは尽きさるを、この帝の御代にしもそなはりたれは、いとゝおもひよせらるゝ也けり、おほかた、物のはしめにある物は、後より冠らせたる事おほし、こと/\くいふにいとまあらす
   〇訓讀
好古小録と云ふものに、【藤貞幹著】「日本紀、古來は、全篇訓讀の書にあらす、故に、建久年中の本、及、桃華の御本、皆ヲコト点をつくるのみ、されは日本紀の假名と稱するは、私記等の訓なり、今の印本のことく、悉訓讀せしにはあらす、悉訓讀をなすは、日本紀を讀む為につくりし假名本を、【釋日本紀(ニ)云、假名日本紀(ハ)、元慶(カ)説云、為v讀(ン)2此(ノ)書(ヲ)1、私(ニ)所2注出1也、作者未v詳】真名の日本紀にならへて、書入てよましめしか傳はる物ならんとみゆ、もとからふみかきにかきたまひし物なる事、これらの説にもあきらか也、これによりておもふに、萬葉集の端作なとも、しひて訓讀せむはなか/\なるへし、しかれとも、日本紀も、御國言をからもしもてあて給へる所もあるへき事、古事記に、御國言のまゝにかゝれたる所々多きに思ふへし、一概にも心うましきなり、
   〇仁徳帝御製
新古今集に、「たかきやにのほりてみれはけふりたつ云々といふ哥をは、仁徳天皇の御製とせられしより、世みなそのあやまりをつたへたり、これはまさしく、日本紀竟宴歌に、「得2仁徳天皇(ヲ)1とて、時平公の哥也、契沖阿闍梨か代匠記に、御製とかきおかれし後、これをみいてゝうちなけかれしと、似閑ぬしか書入にみえたり、さる博覧すらかゝる事ありけるをや、近江天皇の、「あきの田のかりほの庵の云々の哥も、たしかに所見はなけれと、同日の論なるへし、おほかた此二首ともに、その御世/\の哥のすかたにはあらすかし
   〇御國言
古事記、垂仁の御卷に、品牟都和氣《ホムツワケノ》命の御事をは、「是(ノ)御子、八拳鬚《ヤツカヒケ》至(ルマテ)2心前《ムナサキニ》1真事登波受《マコトトハス》、中畧|物言《モノイフコト》如(ク)v思(フカ)爾而《シカシテ》勿(レ)2言事《モノイフコト》1、この詞、うちみには心えかたき詞也、勿v言といはゝ、物言如v思とはいふへからす、物言如v思といはゝ、勿v言とはいふへからぬことわり也、されは思ふに、思ふか如く物いふは、真言にあらねは、さる物いひは、物いふにあらすとの心なり、これをは唖のことく心うるは、いとをさなきわさならすや、萬葉集中、「言佐敝久《コトサヘグ》と韓言をよめるは、日本紀に「韓語言《カラサヘツリ》といふにおなしく、きく人の情をさふるいひさまをいふにて、この真言の反なりとしるへし、此けちめをよくわきまへすは、かみつ世の言ともはときうましく、ましておのかいはむ言をや、ゆめ/\、わか大御國言を韓語言に混すましき事なり
   〇淺黄櫻
長明、四季物語といふものに、「御社のあたり、みあれ山の櫻は、あさ黄なるもありて云々とあり、今の世、淺黄櫻といふ物、これなるへし、これよりふるきものには、いまたみおよはす、されとこの四季物語うけかたきものなれは、かへりて後にや
   〇良馬
欽明紀、七年秋七月、川原(ノ)民(ノ)直宮(ト云モノ)、紀伊(ノ)國(ノ)漁者、贄を負せたる草馬の子を、良馬と相して、買て養ひけるに、果してよき馬なりしといふ事あり、和名抄云、「牝馬一名※[馬+草]馬【上音草和名米萬】とあれは、草は※[馬+草]にて、牝馬の事なり、されは良馬は、牝牡によらぬ事なるへし、おほかた、人のおもひよらさる方に、思ひの外にめてたき事もあるへけれは、ひたみちにはおもひひかむましき事なり
   〇脚結のをもし
を〔傍線〕といふ脚結の事、【脚結とは、よにいふてにをはの事也、亡父かくいはせたる也】亡父成章いへらく、酒はのむためにかみ、ふみはみむためにつくれる物なるか故に、さけをのみ、書をみるとはいふへからす、もし、目しひたる人のふみよみ、やまひある人のさけをのまは、必をもしはおくへしといへり、古今集雑下「かせふけはおきつしら浪たつた山といふ哥の左注に、【上下畧】「よふくるまて琴をかきならしつゝうちなけきて云々このを〔傍線〕もしは、琴ひくへき機嫌ならぬに、心ならすひくさまを、おもはせられたる也、もと琴は、ひくへき為につくれる物なれは、かゝらむ時こそ、を〔傍線〕とはいふへけれ、又いと後の世の哥なれとも、【新古今公衡】「かりくらしかた野のま柴をりしきてよとの川瀬の月をみるかなとよめるを〔傍線〕もし、家にかへりてのちみるへき月を、おもほえす、かた野にて見つるかなとの心を、おもはせてなり、脚結はすへて、を〔傍線〕もしにかきらす、いつれもかゝる心えある物也、おろかにすましき事、このひとつにてもしるへし
   〇くたかけはし鷹
伊勢物語、「よもあけはきつにはめなむくたかけのまたきになきてせなをやりつる、このくたかけは、百済鷄の畧にて、もと百済よりわたり來たりける故にやあらん、かゝるたくひ、「高麗錦「新羅斧なと、萬葉集中いと多し、はし鷹といふ名ももし其はしめ、波斯國よりわたり來ける鳥なりけんか、鷹のおほ名のことくなれるにやあらん、鷹のわか大御國にはしめて捕けるは、仁徳紀に「百済(ノ)俗號(テ)2此鳥(ヲ)1曰2倶知(ト)1【是(レ)今時(ノ)鷹也】とあるこれ也、百済にては、倶知といふめれと、其名はこゝには傳はらす、もとこの鳥、種類多き物なれは、はし鷹もその一種の名にや、それはしらす、宇都保物語に、俊蔭か、波斯國にいたれるよしをもかゝれたれは、たよりなきにしもあらぬかゆゑに、さかしらにおもひよせられし也、江談抄(ニ)云、「波斯國(ノ)語、一【サヽア】 二【止ア】 三【マ加】 四【ナムハ】 五【利摩】 六【ナム】 七【免九】 八【玄美罪】 九【左伊美罪】 十【沙羅盧】 廿【止ア盧】 卅【肥汲不盧】 百【七々夢止】 千【七々※[人偏+(八/工)]兩】 以上誤字もありとみゆれと、おのれもたる本、享禄中の寫本をみしにも、なほかくのことし、汲斯は、かくそこの語まてもつたはれゝは、踈からさりし國なりけんとおほし【夫木集、如覚、「われといへはさもあらぬ戀ををしへおきて野守もみえすくちのやかた尾、といふ哥かの百済の名なからによめり】
   〇經緯
經緯【五十韻をいふ、亡父つねにかくいはせたるなり】の本は、悉曇家には阿字也、おのれおもふに、五十のこゑ、みな口をひらきて後きこゆ、口を閉ちなからこゑあるは、ン〔傍線〕なり、此ン〔傍線〕のこゑ、さなから口をひらけははしめてなり出るこゑは、宇〔傍線〕なり、こゝをもてみれは、他域の言はしらす、わか大御國にしては、五十のこゑの本は宇なる事疑なし、【すへて、風土にしたかひて、同しからさる物なる事、いふも更なれは、音とても、猶他域にたかふ事かならすあるへし、うたかふへからす】かくいふ所謂は、わか大御國言、すへて下に宇緯の音を踏みたるは、詞の正しき也、たとへは、おもふ〔三字傍線〕といふ詞、布〔傍線〕をふみたるか本にて、この布〔傍線〕の、おもはぬ〔四字傍線〕、おもひ〔三字傍線〕、おもへ〔三字傍線〕、おもほゆ〔四字傍線〕なとかよふは、変通なり、また、みる〔二字傍線〕といふ詞、見らく〔三字傍線〕、みれは〔三字傍線〕なとかよふか如く、すへて詞といふ詞、このさためならぬはなし、これをあはせておもへは、いよ/\宇の音は、諸音の本源たるへしとはおほしきなり、此ン〔傍線〕といふこゑ、音はありて文字なきか故に、牟〔傍線〕、邇〔傍線〕、美〔傍線〕なと、音便にしたかひてかり用ひられたり、いはゆる蝉〔傍線〕、丹波〔二字傍線〕、難波〔二字傍線〕なと、脚結の良牟〔二字傍線〕、計牟〔二字傍線〕なとのことし、萬葉集卷一「三輪山乎然毛隱賀雲谷裳情有南畝可苦佐布倍思哉《ミワヤマヲシカモカクスカクモタニモコヽロアラナンカクサフヘシヤ》といふ哥の、畝は、一本に武につくれり、字形の似たるか故に誤れるなるへし、あやしむへからす、宇治拾遺卷三「今はむかし、小式部内侍に、定頼中納言ものいひわたりけり、それに又、ときの關白かよひたまひけり、つほねに入りてふし給ひたりけるを、しらさりけるにや、中納言より來てたゝきけるを、つほねの人、かくとやいひたりけむ、沓をはきて行きけるか、すこしあゆみのきて、經をはたとうちあけてよみたりけり、二こゑはかりまては、小式部内侍、きと耳をたつるやうにしけれは、この入てふしたまへる人、あやしとおほしける程に、すこしこゑ遠うなるやうにて、四こゑ五こゑはかり、ゆきもやらてよみたりける時、う〔傍線〕といひて、うしろさまにこそふしかへりたれ、このいりふし給へる人、さはかりたへかたう、はつかしかりし事こそなかりしかと、のちにのたまひけるとかや、とある、此う〔傍線〕といひてといふ宇〔傍線〕は、ン〔傍線〕たるへけれと、文字なきか故に、う〔傍線〕とはかゝれけん、小式部か心のうちに、定頼黄門のこゑを聞きしりめてゝ、おもはすン〔傍線〕といひたりしは、音はありなから、關白殿下にはゝかりたる也、されはン〔傍線〕〕は、未發既發の間のこゑにて、口をひらけは、やかて宇〔傍線〕となる事、この書さまにておもふへきなり、この考を、わか伯父なりし※[さんすい+其]園にかたりたりけるに、ン〔傍線〕は、漢土にも文字は、なきにや、爾雅に、臍輪とて、※[渦の図]かゝる字あるは、ン〔傍線〕の字なりといはれき
   〇子もちひしり
狹衣卷二に「から國の中將、子もちひしり、といふ事あり、これらは、かの「もろこしのよし野とよめるたくひにて、世にあるましき事を、わさといふ也、わか大御國言は、すへてこなたよりことわるやうにはいはて、聞く人のおもひとるへくいふを、むねとするかゆゑに、むかし人は、かくみやひたる詞ともは多かりけり、のちの世心もてみれは、むかしの詞ともは、あやしき事おほかるはもはら此けちめあれは也、【袋草紙に「遍昭云、法師の子は、法師なるそよきとて、推(テ)令v剃v頭(ヲ)云々とあるは、遍昭僧正、在俗の時の子なり、この子もちひしりにおもひまかふましきなり】
   〇ねはといふ脚結
かみつよに、ねは〔二字傍線〕といふ脚結おほし、すへて、ぬに〔二字傍線〕といふ心に用ひられたり、代匠記に、萬葉集卷四「奉見而未時太爾不更者如年月所念君《ミマツリテイマタトキタニカハラネハトソツキノコトオモホユルキミ》、といふ哥の注に、「秋たちていくかもあらねはこのねぬる朝けの風は袂すゝしも【此哥を、後撰集には、すてに「あらぬにとなほしてのせられたり】「秋田かるかりほもいまたこほたねは雁かね寒し霜もおきぬかに「さねそめていまたもあらねは白たへの帯こふへしや戀もつきねは「秋山のこのはもいまたもみちねはけさふく風は霜もおきぬへく「卷向のひはらもいまたくもらねは小松か原に淡雪そふる「うの花もいまたさかねは郭公さほの山へを來なきとよもす、これらを引て、末のよのあさましきは、この詞なとのかなへらんことを、いかに案すれとも、えわきまへはへらぬなりと、契冲あさりはかきおかれたり、この阿闍梨より後の注者も、たゝぬに〔二字傍線〕の心なりといへるはかりにて、弁しおかれたることも見えす、先達のおほめかれたる事を、わきまへかほならんは、なか/\なるわさなれと、此詞、「いまた時たにかはらぬにとよむ時は、われよりことわるわさとなるか故に、そこをのかれむか為に、ねは〔二字傍線〕とはよむ也、されとよしなくていふにはあらす、相見ていまた時たにも、かはらねは、ひさしとは思ふましき理なるにといふ心をおもはせて、ねは〔二字傍線〕とはよむ也けり、これこの阿闍梨の、此詞をしもわきまへられさりけるにはあらす、御國言をは、からことのなみにおもはれけるかゆゑなりかし、萬葉集卷八に「霜雪毛未過者不思爾春日里爾梅花見都《シモユキモイマタスキネハオモハヌニカスカノサトニウメノハナミツ》とあるは、ねは〔二字傍線〕といひ、ぬに〔二字傍線〕とさへよめり、めつらしき例なり
   〇梧桐
齊民要術(ニ)曰「梧桐山石(ノ)間(ニ)生(スル)者為2樂器(ニ)1則鳴(ル)、これかならすさることわりなるへしとおほゆるは、今のよにも、弓につくる竹は、嵯峨におふるをのみもちふるたくひ多し、そこなるこそよにすくれたれと、もとよりしらむやは、しかしりたらん人の心もちひこそ、いとおもひやらるれ
   〇若なすひ若瓜
藤義孝(ノ)家集に「修理のかみこれたゝ、わかなすひわかうりおこせたり云々、かゝるたくひの物、わかきほとをめてしをおもふに、人のこゝろは、むかしも今もかはらさりけり、されと麦の藁して舩つくるかこときふくつけき心は、いにしへにはあらさりけり
   〇風のはふり
散木集に【俊頼朝臣の家集なり】「しなのなる岐蘇路のさくらさきにけり風のはふりにすきまあらすなとある、この風のはふりといふ事、信濃に、風(ノ)祝《ハフ》といふ物ありといへり、【袋草子にみゆ、この下に引たり】おもふに、萬葉集卷二、人麻呂か長歌に【上下畧】「朝羽振風社依米夕羽振浪社來縁《アサハフルカセコソヨセメユフハフルナミコソキヨル》云々とある羽振は、鳥の羽振より出てたる詞にて、溢るゝ義なり、古今集中にも「身はすてつ心をたにもはふらさしとよめるこれなり、かの風のはふりは、朝羽振風とよまれたるに同しく、風祝にはあらて、風の羽振の心なりと、おほしき也、かく心うれは、この哥も子細なかるへし、袋草子に、能登大夫資基、諏訪の社に風祝ありて、春の始より、百日の間尊重すれは、風しつかにて、農業さはりなしといふ事を、俊頼朝臣にかたりて、歌によまむとおもふよしをいひしに、無下の俗説なり、よむへからすといひて、のち此哥をよまれけれは、尤腹黒(キ)事歟とあり、しかれは此朝臣も、なほ風祝の心にてよまれけるにや、信濃なる云々としもよまれしは、かの資基かいさをゝ奪はれたるかことし、しかれとも、俗説なりといはれしは、風の羽振に附會せるならんとおもはれける故にもあるへし、その時、風祝にはあらす、羽振といふことのあるより、附會せる也とさとされさりしは、すこしおとなしからねと、それも、そのかみは、羽振の義ともおもひよらて、後に思ひえられけるより、ふとよまれしにもあるへし、かうやうの事は、その人からにもよるへき事也かし
   〇ひさこ花
崇峻紀(ニ)云「是(ノ)時厩戸(ノ)皇子|束髪於額《ヒサコハナニシテ》云々、注云、「古俗、年少兒、十五六(ノ)間、束2髪(ヲ)於額(ニ)1、十七八(ノ)間、分(テ)為2角子《アケマキト》1、今亦|然《シカリ》之、このひさこ花あけまきのふたつかうち、あけまきは、其名、のちにも多くみゆれと、ひさこ花の事、たしかなる例をみす、あけまきは、催馬樂に、總角《アケマキ》「安介萬支也止宇々々比呂波可利也止《アケマキヤトウトウヒロハカリヤトウトウサカリテネタレトモ》云々、神樂哥に、總角《アケマキ》「總角乎和佐田爾也里天也《アケマキヲワサタニヤリテヤ》云々、なとみゆるは、いはゆる角子にて、みつらゆひたる童形の事なるへし、雅亮装束抄に、わらは殿上のくたりに次て、みつらのゆひやうあり「まつ、とき櫛にてちこのかみをときまはして、ひらかうかいにて、わけめのすちより、うなしをわけくたして、まつ、右のかみを、かみねにしてゆひて、左のかみをよくけつりて、あふらわたつけ、なてなとして、もとゝりをとるやうに、けつりよせて云々、この詞、かの「分(テ)為2角子(ト)1とあるによくかなへるをおもふへし、台記、天永四年正月朔日、主上御元服(ノ)篇(ニ)云「先取2左方婆沙形并總角等(ヲ)1入2第三(ノ)懸子(ニ)1云々山槐記(ニ)、治承四年四月廿二日甲辰、今上皇帝、於紫宸殿即v位(ニ)、御禮服悉着御、或時奉v取2之(ヲ)御髪上所(ニ)1也、有2付髪1夾形|總角《アケマキ也》云々、下に出たせる圖ともをみあはすへし、源氏物語、總角(ノ)卷に「あけまきになかき契をむすひこめ同し心によりもあはなむとあるは、八宮の小祥忌に、名香のいとをむすへるをいふなり【名香の裹様の事、予かもたる装束の事かきたる古本にくはしくみえたり「たゝしこのくみは、やかてつゝみものゝかさなりたるかすに、いくすちもあるへきなり、なかくは、さかりたる所、にな、かうなをむすふなり、とみゆ、あけまきは、今いふ華縵結の事なり、同し心とよみたるは、古今集に「おなし心にいさむすひてんとよめるによられたるなるへし、から國にて、同心結といふ、すなはちこれなるへし】雅亮装束抄にも「からくみなるして、あけまきになをむすひさけて云々、ともみえたり、これらみな、緒のむすひやうの事にのみあけまきといへり、また實方朝臣(ノ)家集に、「ある女にふみやりたるかへりことに、あけまきをむすひておこせたれは「ひろはかりさかりてまろとまろねせむそのあけまきのしるしありやと、とあるも緒の事なり、緒のむすひやうに似たるより、みつらゆへるさまを、あけまきといふにや、また髪か本にて、緒のむすひさまをはしかいふにや、先後はしらす、髪のゆひさまより、つひにはさる童をは、やかてあけまきといひなりにたり、此角子をは、童形の髪のゆひさまなりとは人みなしりて、その角子よりまへに、ひさこ花にしたりし事は、はやくうせぬるにや、されと舎人皇子自注し給ひて、「今亦然之とかゝせたまへれは、その比は猶しかありしにこそ、此下に出たせる圖の中に、聖徳太子の御像、みつらゆひたるは、後の童形に同しけれは、疑なけれと、それより猶わかくおはしましゝ御像の傳はらねは、ひさこ花のゆひさましりかたし、よにも童とたにいへはあけまきなるはいかてひさこ花の傳はらさりけんことにかの崇峻紀なるは即此太子の御事なるをや分〔傍線〕の字をもてみるにひさこ花はひとつにゆひたりし事、あきらかなるを世に傳はらぬはかへす/\おほつかなき事なりおのれかゝるすちにくらけれはまつこのうたかひを残しおくなりなほいうそくの人にとひあきらむへし今童形に唐輪といふはいにしへのあけまきの頭上にひきあかりたるなり
〔「法隆寺聖徳太子御像縮圖」なとの画あり〕
右舎人皇子の自注なる、分〔傍線〕の字にあはせておもへは、この太子の御像、御成長まし/\ける御髪は、かへりてひとつにあけたるは、先後たかへるこゝちす、萬葉集卷十一に、「肥人額髪結染木綿染心我忘哉《コマヒトノヒタヒカミユヘルソメユフノソメシコヽロハワレワスレメヤ》とあるそ、すこし心にくゝおほゆる、【肥人、古点には、こまひとゝあり、しからは、狛〔傍線〕の誤にや、千蔭ぬしか畧解には、うまひとゝよまれたり、予おもふよしもあれと、萬葉集燈にゆつりてこゝに畧す」うつほ物語に「今ふたつには、おほんくしのてうとすゑ、ひたひよりはしめ、さいしもとゆひおほんくしともなと云々、此ひたひとは、和名抄に「蔽髪、釋名(ニ)云蔽髪【和名比太飛】蔽2髪(ノ)前(ヲ)1為v飾(ト)也とあるは、額につくるかさりにて、髪のゆひ様にはあらすしかるに、宇都保物語【内侍のかみ】に「みなすまひのしやうそくし、ひさこ花かさしなと、いとめつらかなることともしつゝ云々、とあるのみ、ひさこ花の名はあれと、これは相撲の節のかさしにて、これとはこと也、江次第卷八【相撲召仰】「次一番、自注云、左先出、着2葵(ノ)華(ヲ)1取(テ)2劔衣(ヲ)1置2北(ノ)圓坐(ニ)1、進2立櫻樹(ノ)下(ニ)1、次(ニ)、右出、着2瓠(ノ)華(ヲ)1、次々(ノ)番、負方先進之、云々、「勝方、葵瓠等(ノ)華並(ニ)劔衣等、稱(テ)2肖物(ト)1令v具2於次(ノ)番(ニ)1葵瓠(ノ)華等落(ル)時、雖2勝方(ト)1風吹(テ)入2於階下(ニ)1者不v取v之(ヲ)、不2吹入1時、相撲(ノ)長一人、進(テ)取v之、最手(ハ)不v依2前番(ノ)勝負(ニ)1付v華(ヲ)並(ニ)執2劔衣(ヲ)1云々、裏書(ニ)云「葵瓠(ノ)華(ハ)造(リ)花也とあるこれなり、これ、何のゆゑありて葵瓠のはなをかさすらん、葵はしらす、ひさこ花は、この束髪於額にもとつきてにやあらん、古事記上卷に「即解(テ)2御髪(ヲ)1纏2御美豆羅(ニ)1而乃|於《ニモ》2左右(ノ)御美豆羅1於《ニモ》2御鬘1亦|於《ニモ》2左右(ノ)御手1各纏2持八尺勾※[王+總の旁]之五百津之美須麻流之珠1云々みつらの事は、上にいへり鬘とはいかなるをいふにや和名抄(ニ)云「釋名(ニ)云※[髪の友か皮]【音被和名加都良】髪少(キ)者所3以被2助(ル)其(ノ)髪(ヲ)1也、俗用(ルハ)2鬘(ノ)字(ヲ)1非也鬘者花鬘見2伽羅(ノ)具(ニ)1なと考ふへし
   〇世をしりそめの神
世をしりそめの神といふ事、躬恒集にみゆ「かくわふる人はむかしもありきやと世をしりそめの神にとはゝやとよめるこれなりこれは古事記神書にていはゝ天之御中主神をさせるにやまたは豊葦原國をはしめてしらせたまへる邇々藝命を申すにや神代卷にていはゝ國常立尊を申すへしいつれともさためかたけれといつれの神にまれいとおかしきいひさまなりかし
   〇歇後
わか大御國言にも、いひさしたるやうの調多し、から國にて、これを歇後の詞といふ、晩唐の比、ことにさかりなりき、晩唐の鄭五といひし人、すくれて歇後をこのめり、この人宰相になりし時、「時之事可v知、歇後(ノ)鄭五為2宰相(ト)1、とみつからいへりとそ、唐は、わか大御國、いとしたしくせられし時なれは、その風俗をさへつたへけるにや、かみつよとても、歇後はなほありといへとも、その比よりのちは、ことにいと多くなれりけり【古今集に「つのくにのなにはおもはす山城のとはにあひみむことをのみこそ、実方中將集に「天の戸をわかためとてはさゝねともあやしくあか《ハイ》ぬこゝちのみして、なとの類、あけてかそふへからす】
   〇有注の哥
有注の哥といふ事あり、題はえなから、その題意より外に、必よまてかなはぬ事ある時、それをよめは、題意うすく聞ゆへきか故に、さやうの歌は、人のふとみむに心えかたかるへけれは、これをは有注の哥といひて、短冊なとにかくに、歌の終の所に、有注の二字をかくなり、右傍にかき、左傍にかくは、兩家の別也と、ある宗匠のかたり給ひし、いとおかしきわさ也、されと、哥道の本いをうしなひて、詩の詠物のことくなりぬるか故に、かく有注の哥といふ事もいてきしなり、萬葉集中に、詠花〔二字傍線〕詠鳥〔二字傍線〕なと題をおかれたる哥とも、おほくは相聞なり、そのひとつをいはゝ、萬葉集卷七「古爾有険人母如吾等架弥和乃檜原爾挿頭折兼《イニシヘニアリケンヒトモワカコトカミワノヒハラニカサシヲリケン》「徃川之過去人之手不折者裏觸立三和之檜原者《ユクカハノスキニシヒトノタヲラネハウラフレタテリミワノヒハラハ》、この二首、詠v葉とあり、はしめなるは、詠物ともいはゝいふへし、されとなほ、いにしへ人の、かさし、かさゝぬけちめ、何のゆゑにかたつねられけん、あやしむへし、次なるは、もとより檜原かうらふれん事あるへくもあらぬ事ならすや、こゝをもておしはからは、これ男女の贈答なる事あきらかなるへし、これにかきらす、かの集中には、題ありなから、題にそむける哥ともいと多し、卷三、讃(ル)v酒(ヲ)歌十三首か中に、かへりて酒をおとしめたる哥もあるをおもふへし、されは有注の事、かみつよのてふりをしれらん限には蛇足にして、さる哥も、猶うたかはしくはみゆましきをや
   〇蚊子侍従
續世継物語卷五に、【花の山】「をとうとの中納言《忠宗》の、かむたちめになり給ひて後、おやのおほいとの、大將を奉りて、少將にはしめてなし申し給ひけるとかや、その少將の子に、光家とか聞え給ひけるを、大臣殿の御子にし給ひて、殿上し給へりける、侍従におはしけるをは、かのこ侍従とそ人は申しける、親はかくれて、子のあらはれたるにとりしなるへし、云々、しかれは、夏月人をさすは皆子なるへし【此少將とは、中宮権大夫忠宗の兄、播磨介忠兼なり、おやのおほいとのとは、京極師實公なり】
   〇常夏
家經(ノ)朝臣(ノ)、和哥(ノ)序(ニ)云「鍾愛抽2衆草(ニ)1、故(ニ)曰2撫子(ト)1、艶状共2千年(ヲ)1、故(ニ)曰2常夏(ト)1、なてしこ、とこなつのけちめ、この説つまひらかなるかな、後世にては、常夏とたにいへは、瞿麦の一名なりと心うれと、春さく花のひさしくさくを、とこなつにさくとといふ事めつらしからすかし、萬葉集卷十七に「多知夜麻尓布里於家流由伎乎登己奈都尓見礼等母安受可加武賀良奈良之《タチヤマニフリオケルユキヲトコナツニミレトモアカスカムカラナラシ》、とあるは、雪のひさしく消えぬをいへり、これをもてもおもふへし
   〇一絃琴
ちかき世に、須磨琴といひて、一絃の琴、よにちりほへり、好事の人のさる名をつけて、つくり出てたる物なるへし、行平卿の云々をもて、出據とするなと、わらひに堪たる事なり、日本後紀卷八に、【延暦十八年七月】「是(ノ)月有d一人乗(テ)2小舩(ニ)1漂c着(セル)参河(ノ)國(ニ)u、以v布(ヲ)覆v背(ヲ)、有(テ)2特鼻1不v着v袴(ヲ)、左(ノ)肩(ニ)着2紺布(ヲ)1、形似2袈裟(ニ)1、年可v廿、身(ノ)長五尺五分、耳(ノ)長(サ)三寸餘、言語不v通、不v知2何(レノ)國(ノ)人(ナルコトヲ)1、大唐(ノ)人等見(テ)v之(ヲ)、僉日2崑崙(ノ)人(ナリト)1、後頗習(テ)2中國(ノ)語(ヲ)1、自謂2天竺(ノ)人(ナリト)1、常(ニ)弾2一絃(ノ)琴(ヲ)1、歌(フ)声哀楚閲2其(ノ)資物(ヲ)1有v如(キモノ)2草實(ノ)1、謂2之綿種(ト)1、依2其(ノ)願(ニ)1令v住2川原寺(ニ)1、即売(テ)2隨身(ノ)物(ヲ)1、立2屋(ヲ)西※[土+郭]外(ノ)路邊(ニ)1、令2窮人(ヲシテ)休息(セ)1焉、後遷(テ)住2近江(ノ)國(ニ)1、これ一絃琴の出所にて、これに擬してつくれる物にこそ、神僧傳(ニ)【隱峯傳】「獨絃(ノ)琴子為v君(カ)弾、松柏長青不v怯v寒(ヲ)、金礦相2知(ラハ)性自(ラ)別(ナルコトヲ)1、任《・サモアラハアレ》向(テ)2君前(ニ)1試(ニ)取看、とある獨絃琴、即これなるへし、天竺人といへる事、より所ありておほゆ、されは一絃琴は、もと天竺の製なりとはおしはかられぬ
   〇伊勢物語
伊勢物語は、くさ/\説もあれと、うひかうふりをはしめとし、終焉の哥ををはりとしたる、そのあはひにはくはゝりたる事ともゝあれと、在五中將の一生涯を記せる物とはしるし、秋成ぬしか、よしやあしやといふ物に、源氏物語、總角卷に「在五か物かたりとみえ、狹衣に「在五か日記とあるをもて、この物語の事なるへしといはれたり、その事迹、春日のさとなるはらからをはしめ、中將のすき事をのみしるされたれは、たゝ中將のすきかたりとみるのみならす、すくよかなる人は、つまはちきをさへすめり、しかれとも、ひとわたりみれはこそあれ、ふかき心ありてかける物とおほしき也、その故は、三代實録に「體貌閑麗(ニ)、放縦(ニシテ)不v拘(ハラ)、畧《ホヽ》無2才學1、善(ク)作2和歌(ヲ)1とみえたる、此無〔傍線〕は、有〔傍線〕の誤ならんといふ説ありと、真淵ぬし、古意中にかゝれたり、けに畧無〔二字傍線〕といふ事もことわりなく、なほ「貞觀十四年五月十七日、勅(シテ)遣2正五位下右馬(ノ)頭在原(ノ)朝臣業平(ヲ)1、向(テ)2鴻臚舘(ニ)1勞2問(セシム)渤海(ノ)客(ヲ)1ともみえたれは、かならす有の字なるへし【予又案するに、有無の二字、其字形似たるにもあらねは、有の字の誤とも一定しかたくや、されは仏經に、「有學無學といふ事つねにありて、有學とは、なほ學に遺漏あるをいひ、無學とは、學すてに遺漏なきをいへは、この心にて無才學とはかゝれたるにや、しからは畧の字も穩なるへし、されと才の字あるは心よからねは、たゝ戯にしるしおくなり】かくはか/\しき人からなるを、この物語にてみれは、ならひなき淫夫とのみ見ゆ、されは三代實録を、この物語に照らしておもふに、もと此中將、もしおほやけの事にをらしめ給はゝ、いとめてたくもおはすへきを、志成らさるへき世のさまをうとみて、身をはふらされけむかいといとをしさに、この物語はかきけるなるへしとおほし、此物語の中に「むかし男ありけり、身はいやしなから、母なんみこなりけると、みえたるは、伊豆内親王【桓武帝皇女】の御子にて、阿保親王は御父なり、【くはしく三代實録に見ゆ】されはいかなるつかさ位をもえたまふへきに、さもあらさりしさへ、さま/\おもひやらるゝ事おほかり、もと在中將の志をおもふに、惟喬親王、文徳帝の第一の皇子にまし/\なから、大御位にもつかせ給はす、貞觀十四年七月、四品弾正(ノ)尹惟喬(ノ)親王、寝(テ)v疾(ニ)頓(ニ)出家(シテ)為2沙門(ト)1【三代實録】とみゆ、【惟仁太子と、御位をあらそひましゝといふは、後世の附言なり】これ御みつからも、ふかく憤りおはしましきとみえて、封戸をさへ三たひ辭し給ひし事、三代實録にみゆるにしるし、小野にすみたまひし時、まゐられたりしくたり、「やゝひさしくさふらひて、いにしへのことなと聞えけり「なく/\來にける、なとあるを思ふに、此皇子をは、御位につけ奉らまほしくおほしたりし事明らか也、しかるに、執政家のはからひにや、惟仁親王、太子にたゝせ給ひしかは、ふかくそのはからひのおほやけならさるをいきとほりて、終に身をはふらかしたまへるなるへし、しかれとも、此事、おほやけにもはゝかりあれは、二條后の御事によりて、世をうとみたまひしやうに、かきまきらしたるもの也、この后の御事、さはかり深くおもひしみたまひつるを、御兄達のいたく制し給ひし、それみそか事をにくみたまへるゆゑにしもあらて、后にたてまつりたまひし始末、御兄たちの御心かまへのほとも
 
 
おもひやられて、かたはらいたき事ともなれは、かの皇子の御うへもおしはからるゝなり、その餘のすき事とも、かつあらぬ事ともをかきましへたるは、もはら此主意をあらはにせしとの為也としらは、全篇うたかひなかるへしかし、此物語を見て、中將の心のうちをおもへは、なみたもさしくまるゝ也、この外、源氏物語は、もはらその世の人の褒貶にて、その得失を論らひたる物なるを、すきかたりにかきまきらしたるなり、【紫式部日記のうちに、當時の女房たちの名をつらねて評したる所あり、それを照らして思ふへし】落凹物語は、もはら継母のさかをいましめたるなと、故なくしてかける物はあるましきを、御國言の真理をわきまへされは、たゝうはへの詞華にめを奪はれて、つひに作者の主意をむなしくすへし、心をもちふへき事なり、土佐日記は、「男もすなる、と女の所為にかきなし、をはりに、「とくやりてんとかゝれたる、日記は大かた、のちの思ひ出のためなるを、とくやりてんとはかくましき事也と、わか同僚晁木のいへる、此説紀氏か肺肝なるへし、そのかみ、罪をかしある人を、流しつかはされける國にしも任せられたるを、ふかくはちいきとほられしよりの所為なる事、くはしくは、予か此日記燈にいへり、かへす/\古書はおろかにみましき也
   〇阿々志夜胡志夜
おなし晁木かいへらく、古事記、神武の御卷に、兄宇迦斯《エウカシ》を討たまひし時の哥「宇陀能多加紀爾志藝那波留《ウタノタカキニシキワナハル》中畧|亜々志夜胡志夜《エヽシヤコシヤ》、此者《コハ》伊基能布曾《イキノフソ》、阿々志夜胡志夜《アヽシヤコシヤ》、此者|嘲咲者《アサワラフソ》也とある、このをはりの詞、先達も弁しかねられたり、しかるに、おのれらか本藩にて、【筑後國柳河】あつしよ《・入声》、こつしよ《・入声》〔八字傍線〕とつねいふ詞あり、これなるへし、此詞は、あら笑止やなといふへからん時にいふよしなれは、いとよくこゝにかなひて聞ゆといへり、神武天皇、もと竺紫よりおこらせたまひしかは、竺紫の方言は、かならすふる言の傳はりたるへけれは、うたかひなく、これなるへしとそおほゆる【亜〔傍線〕は要〔傍線〕の誤にやあらん】
   〇しゝま
源氏物語、末摘花(ノ)卷に「いくそたひ君かしゝまにまけぬらむものないひそといはぬたのみに、といふ哥のしゝまとは、無言の行の事なりとそ、定頼中納言家集をみしに、「母うへのほかにわたりたまひて、人にものいはぬおこなひにて、ひさしく對面したまはて、かへり給ひて、けふなんいとまあきたるときこえたまひけるに、いそきまゐり給ひけるに云々、とある、これやかて、このしゝまのことならんとおほえき
   〇おほろけ
おほろけといふ詞のもとは、萬葉集卷六に、「丈夫之去跡云道曾凡可尓念而行勿丈夫之伴《マスラヲノユクトフミチソオホロカニオモヒテユクナマスヲヲノトモ》とよめる、この凡可〔二字傍線〕なるへし、かみつよには、おはろけ〔四字傍線〕とよめるはみえす、後世には、おほろか〔四字傍線〕とはたえてよますなりぬ、たゝ可〔傍線〕の計〔傍線〕にかよひたるにて、いかてかく新古の別とはなりぬらん、後世にては、保〔傍線〕もし計〔傍線〕もし必濁りてよむ也、もと凡〔傍線〕は、大凡の心なれは、保もしも清《スミ》てよむへく、可〔傍線〕もしも亦清音たるへきことゝおほゆれと、古事記神書に「此|鉤者《チハ》、淤煩鉤《オホチ》、須々鉤《スヽチ》、貧鉤《マチチ》、宇流鉤云而《ウルチトイヒテ》、於後手賜《シリヘテニタマヘ》、とある、この淤煩〔二字傍線〕は、すなはち凡《オホ》のこゝろなれは、凡可〔二字傍線〕も、後世の如く、保もしはなほ濁音にてそよめりけむ、【煩〔傍線〕の字は、濁音の字なり】可〔傍線〕はかならす清《ス》むへきなり、朧〔傍線〕の字をおほろ〔三字傍線〕とよむより、おほろけ〔四字傍線〕は、朧なる義なりと心うるは、本末たかへり、かみつよに「おほに「おほゝし「おほかた「おほよそなと、さま/\によめるも、皆この几可〔二字傍線〕の義にて、とりとむへき方なきほとの心なり、詞には、かく本末のたかひて心えらるゝ事おほきそかし
   〇几帳尺
几帳尺といふをは、東大寺にもちふるは、今の曲尺なりと、ある人のかたりし、それはいにしへ、几帳にのみもちひたれは、しかいふにや
   〇御の字の訓
催馬樂老鼠「尓之天良乃《ニシテラノ》、尓之天良乃《ニシテラノ》、於伊祢須美《オイネスミ》、和加祢須美《ワカネスミ》、於无毛川牟川《オムモツムツ》、介左川牟川《ケサツムツ》、介左川牟川《ケサツムツ》、保宇之仁万宇左尤《ホウニマウサム》、之尓万宇世《シニマウセ》、保宇之尓万宇左牟《ホウシニマウサム》、之尓万宇世《シニマウセ》、この於旡毛〔三字傍線〕とは、大御裳なるへし、裳は、法師のつくる物なれは、あかめて於旡〔二字傍線〕とはいへるなり、於旡〔二字傍線〕は、もと大御《オホミ》のつゝまれるにて、御〔傍線〕の字はかりを、於旡〔二字傍線〕とはよむましき事なるを、美〔傍線〕とはいはすして、於旡〔二字傍線〕とのみ、今の俗はいふなり、されは此哥は、於保美毛〔四字傍線〕の心なりとしるへし、川牟〔二字傍線〕とは、鼠のくふ事を云、介左〔二字傍線〕は、袈裟なり、保宇之〔三字傍線〕は、法師なり、之〔傍線〕は、師なり、くはしくは、神樂催馬樂燈にいへり、延喜式玄蕃云【天皇即位則講説仁王般若經条下】「講師(ノ)法服上下畧裳一腰三丈四尺讀師(ノ)法服上下畧裳一腰なとみゆ、雅亮装束抄にらいふくのやう云々の下に圖ありて、そこにいふ、「これは裳なり、たゝみやう、からのものていなり、こしつきをして、しもはみとり色のけんもんさ也、かみに白きけんもんさきるをりは、こし|た《本ノマヽ》ひきまはして、まへにひきちかへてゆひて、うしろにつけたるをゝ、かたより引こして、さへなかをにゆふへしとあり
〔雅亮装束抄のうちに図したる裳として画あり、画略〕
   〇猿樂
東鑑、建久五年「参2猿樂1小法師、中太、参(テ)施v藝、上下解v頤(ヲ)云々、江次第、標注に「散更(ハ)猿樂也とあり、いかなるわさをしつるにかあらん、上下解頤とあれは、今のよの狂言といふ物のこときわさにや、されと今は、能といふ方をは、かへりて猿樂とはとなふる也、物語ふみともに、「さるかう「さるかうことなといふは、これなるへし、宇治拾遺には、伶人の中より舞たるよしみゆ、もと能狂言といふ名も、田樂よりおこれる事とおほしく、文安田樂能記といふものに、「次(ニ)刀玉、玉阿今阿兩人勤v之(ヲ)、次(ニ)能藝一番、熱田のしゆんかう門の能二番、如沙汰の能、なとみえ【人数をあけたる名の下に、たれは能、たれ狂言なとみえたり】庭の能以後、於會所舞音曲御見聞、福若丸は、御庭の砌に候す、自餘は在2廣庇(ニ)1、装束をは着して、居なから詞をいひかはして、表(スル)v能(ヲ)之形、此風情亦有v興、狂言相交之兩三番、松阿勤v之(ヲ)云々、なと見えたり
   〇古物語
源氏物語、蓬生の卷に「からもり、はこやのとし、かくやひめの物かたりの、ゑにかきたるをそ、とき/\のまさくりものにし給ふ云々、なほ、同し物語に「かた野の少將なともみえたり、かくや姫は、竹取物語なるへし、かゝる物語のよに傳はらぬか多き、いとくちをしきことなり、からもりは、伊勢集に「からもりか道たつねわひてふせるをとこ「八重とつる道は草にもまとふらし、ぬるたまにたにあふとみえねは、と見え、また、宇都保物語、楼(ノ)上に「からもりか宿をみむとて玉鉾にめをつけむこそかたは人なれ、ともみゆれは、その比よりも、ふるくもてはやせる物とおほし、苔衣、さよ衣、とりかへはや、松浦宮物語なといふものとも、亡父あつめおきたるを傳へもたり、それか中に、松浦宮物語は、奥書に「貞觀三年四月十八日、そめとのゝ西のたいにてかき終りぬ、花(ハ)非v花霧(ハ)非v霧夜半(ニ)來(リ)天明(ニ)去(ル)、來(ルコトハ)如2春夢1《此間ニ脱字アルナルヘシ》幾時、去(ルコトハ)似(テ)2朝雲(ニ)1無(シ)2覓(ムル)處1、これもまことの事なり、さはかり傾城の色にあはしとて、あたなる心なき人は、何事に、かゝる事はいひおきたまひけるそと心えかたく、唐には、さる霧のさふらふか、とあれは、いとふるきものなり、これら、まさかに世にはありて、人もてはやさす、名ありて實なき物、實ありて名なきもの、いつれをか心にくしとせむ
   〇栗飯
栗飯は、はやくよりしつる物とおほし、うつほ物語に「ちかう見れは、火を山のことくおこして、おほいなるかなへたてゝ、くりを手ことにやきて、かゆに※[者/火]させ云々
   〇さいはらひ
今俗、さいはらひといひて、絹紙なとをさきて、小竹にゆひつけ、塵をはらふ具とす、この名、神樂哥にみゆ「奈加止美乃古須氣乎佐紀波良比伊能利志古登波《ナカトミノコスケヲサキハラヒイノリシコトハ》云々、これよりいふ名なり、中臣のまをす、大祓の祝詞の中に「天津菅曽乎《アマツスカソヲ》、本苅断末苅切※[氏/一]《モトカリタチスヱカリキリテ》、八針尓《ヤツハリニ》、取辟※[氏/一]《トリサキテ》云々、とありて、菅をさきて、祓の具とせられしものなるをまねひて、塵をはらふ具とはなしけるなるへし、祓の事、いまはたゝその儀のみのこりて、實をうしなひつれは、なか/\、塵をはらふは、實あるそ心くるしき、菅をしもとりもちひられつるは、菅のゆゑあるにはあらす、古事記(ノ)神書に「故是(ヲ)以、其速須佐之男命、宮可2造作1之地(ヲ)求2出雲國(ニ)1、尓到2座須賀(ノ)地(ニ)1而詔之、吾(レ)來(テ)2此地《コヽニ》1我(カ)御心須賀須賀斯《ミコヽロスカスカシ》とは、宣長ぬし、古事記傳に、すか/\しの義といはれたる心にて、その心をさとしのために、菅をしもとりもちひられしものなり
〔古き繪卷物にみえたる塵はらひの具也 この上にまとへる布のやうなる物にて塵をはらふなり、図略〕
   〇木津川
今は木津《キヅ》川といふを、いにしへは、巨《コ》津川とそとなへけん、刑部卿頼輔朝臣の集に「こつかはより、舟にてならへまかるに、路中になりぬらんやと申すを、舟さすものゝ、すきぬと申せは、なにをしるしにていふととはれて、このひむかしのかたにみゆる杉の木は、丈六堂のまへなる社の杉にてはへれは、それをしるしにて申す也といふを聞て「やまとなるみわの山そとおもひしに、いつこも杉そしるしなりける、とあり、此朝臣は、清輔朝臣の、尚歯會おこなはれし時の人数にて、すなはち、おなし集中に、そのよし端作ありて「花にあかて老ぬる身こそあはれなれ今いくとせか春にあふへき「花見るもくるしかりけり青柳のいとよりよわき老のちからは、といふ二首あり、家集奥に自跋ありて、「壽永元年六月廿八日とあれは、壽永の比まては存生の人とみゆ、「三位したるのちのあした、左大將のもとより申し遣しける「つひにかくみつのくらゐにのほりけりふたつのしなもうたかひそなき、返し、「なゝそちにみつのしなにそのほりぬるふたつの位おもひかけ|てん《本ノマヽ》、とみえ、自跋に従三位とあるを思ふに、尚歯會のひとりなりしもうへなり、これをもて時代を思ふへし
   〇崇徳帝讃州遷坐
おなし頼輔朝臣集に「崇徳院、さぬきへくたらせたまひての秋、ひむかし山にこもりゐたる比、山おろしの風身にしみて物あはれなるに、鹿のこゑをきゝて「いとゝしくうき身にしみてかなしきは鹿のねおくる秋の山かせ、とみゆ、院も、めさましきふしもおはしましつらめと、かく主上をたしなめたてまつれるものゝ、末ひさしきは、いにしへ今、なきならひかなとそ
   〇小侍従
大宮の小侍従は、のちかしらおろして、内山にこもりけるよしおなし朝臣の集に見えたり、「大宮小侍従、内にまゐりてさふらふほとに、道心おこして、あまになりて、やはたの内山にまゐりてこもりぬと聞て、かくともつけぬよしなと申て、おくに書つけてつかはせる「君はさはあまよの月か雲井よりひとにしられて山へいりぬる、返し小侍従、「すむかひもなくて雲井に有明の月はなにとかいひもしられむ、とみえたり、をのこも女も、かゝるたくひ、おほくはおもふ事とけかたくて、よをうらめるよりおこせる道心なるへしかし、續世継物語、卷十「やはたなる所に、宮てらのつかさなる、僧都《光清》ときこえし、小侍従とかいふおやにやあらん、とあれは、内山にてしも、尼になりけるにこそ
   〇しのふすり
しのふもちすりとは、忍草もてすりたるをいふ名也【新千載集離別又敦忠集に】「打つけにおもひやいつこふるさとのしのふ草してすれるなりけり、とよめるかことく、しのふ草もてすりたるは、いつくとなく、しのふ摺とはいひけんを、「みちのくのしのふもちすり、とよめるより、しのふすりは、陸奥よりいつと、先達もいはれしより、人皆これを信せり【今陸奥より、しのふすりとていつる物あるは、後のさかなわさなり】これもとしかにはあらし、續日本紀卷八【養老二年五月】「割2常陸(ノ)國(ノ)之石城標葉行方宇太白理菊多六郡(ヲ)1置2石城(ノ)國(ニ)1白河石背會津安積信夫五郡(ヲ)置2石背(ノ)國(ニ)1云々拾芥抄(ニ)云「陸奥卅六郡、白河磐瀬會津耶麻安積安達信夫、下畧されはみちのくとは、しのふの冠におかれたるにて、もちすりといふまてにかゝれることにはあらすとしるへし、地名をかうふりに用ひたる類は、「高砂の尾上、これなり、播磨國に、高砂といふ所ありて、そこにをのへといふ所あるかゆゑに、高砂のとはおきたるにて、おほかたの山のをのへをは、なへて「高砂のをのへとよみつけたる、同し例也、高砂は、山のおほ名なりなといふは、しのふすりを、陸奥よりいつといへるに同日の論なるへし
   〇あとうかたり しりうこと
後撰集に「あとうかたりといふ事あり、實方中將集に「ためたふの弁なかよりか、いつにたえそめし年、ことしはかりとて、宮のへのうへのは《本ノマヽ》しらひたりけるけしきをみてしりうことにとみえ、枕草紙にも「しりうことゝあり、此ふたつの詞、ともに、俗に陰口《カケクチ》といふ心なり、あともしりも同し心なれはなり、いたくへたゝりたる世にはあらねと、「あとうかたりは、ふるく、「しりうことは、後にや、源氏物語【若菜上】にも、「しりうこちとみえたり、此う〔傍線〕もしは、皆音便のまゝをかくにて、もとは「あとかたり「しりことゝいふへき事なり、されと、かくいひなりたる事は、かくいはては、あらぬ事のことくきこゆるならひ、此詞にかきらす、いと多きもの也かし
   〇讀書の心得
千五百番哥合、顕昭法橋か判(ノ)詞に云「哥合の哥には、物語の哥は、本哥にも出し、證哥にも用ふましと申けれと、源氏、世継、伊勢、大和とて、哥よみのみるへきふみとうけ給はる云々、けに、見たるふみともの詞、さなからはもちひすとも、おのつから底力とはなりぬへし、後世ふりをよむ人は、ちかき世の哥集なとをのみみて、ふるき物は、手たにふれぬは、用ひられぬものをみむは、無益のわさ也と心えたるか故なるへし、さるは、そのみたらん物を、さなからもちひはこそあらめ、ひかみたりといふへし、わか御國の物はさら也、からふみとても、みてあしからむやは、おほかたふみ見むには、物にまれ、詞にまれ、さなからもちひむはくちをしきわさなり、たとひさなからもちふとも、おのか物としてもちひたると、その詞に役せられたるとは、おのつから其けちめそあるへき、されは、今もちひむとする時よりも、ふみ見る時、まつわか物としおかむ事肝要にて、書みむ心得、これにしく事あるましきなり
 
北邊隨筆 卷之一 終
 
〔目録、初めにまとめた〕
北邊隨筆 卷之二 初編
                  平安 富士谷御杖 著
   〇哥の巧拙
後世の哥よみは、もはら哥の巧拙をあらそふ事をむねとす、かみつよには、哥の巧拙をいふ事、たえて物にもみえぬことなり、されは所詮は、のちの世の歌は、哥合のなこりなりとそおほゆる、しかれとも、哥合も、寛平后宮の歌合なとは、菊合、根合、繪合なとの類にて、人々の哥々っとへたるまてにして、左右をわけて、勝劣をあけつらひ、くさ/\判せし事なとはなかりし也、天徳の哥合、はしめて判詞ありて、それより巧拙の判さかりになりもてゆきて、つひに獨鈷鎌首にさへをよへり、おほかた判者は、その世に秀たる人たちなれは、おのつからそのあけつらひをは、人々信受し、いひ傳へて、法則とすめれは、概するに後世の歌は、天徳哥合をおやともいふへしかし、おほかた、よき哥のあしきにはあらす、あしき哥のよきにはあらねと、哥はもと巧拙にとゝまるへき物にはあらす、たゝ彼我の情をかよはすを要とす、そか中に、よく直言をのかれたると、直言をのかれえさるとの、けちめはあるへし、さるは詞をつくる浅深なり、後世いふ所の巧拙に混しおもふましき也【西行上人、御裳濯川哥合、俊成卿の判詞に「亭子のみかとの御時よりそ、しるしおかれたれと、ある時は勝負をつけられす、ある時は勝負をつけられなから、判の詞はしるされす、云々、予かもたる寛平哥合、勝負の事なし、さる本もありしにや、しからは寛平をはしめといふへきにや、萬葉集に防人等か歌を載せたるに、拙劣なるは不載とみゆるは、巧拙をいふ本なから、勝負には同しからす、されとさすかに奈良の末なるしるしそかし
   〇草の汁
堤中納言物語に「たゝう紙に、草のしるして、とて歌あり、いま繪の具に、草の汁とてあるも、もとはまことの草の汁なりしか、色によりて、古名を傳へたるなるへし
   〇疊の縁
おなし物語に「錦はし、かうらいはし、うけん、紫はしの疊、それはへらすは、布へりさしたらんやれ疊にてまれかし給へ、たまえにかるまこもにまれ、あふ事かた野の原にある、すかこもにまれ、たゝあらんをかしたまへ云々、この書さまをみれは、布なるをのみ、へり〔二字傍線〕といへるは、いやしき疊をは、へり〔二字傍線〕とはいひけんとおほゆれと、枕草紙に、「うけんへりの疊、ともみえたり、しかれはそれにも、かきるへからねと、延喜式等、みな端〔傍線〕の字を用ひられたれは、へり〔二字傍線〕といへるは後にて、ふるくは、はし〔二字傍線〕といへるにこそ、式、其外江次第、また、雲圖抄、類聚雑要なと、いつれも端〔傍線〕の字をもちひられたり、そか中に、式の勘解由に、「紺布端(ノ)茵六枚云々、とあるは、いま民間にも用ふるに同し、又、園大暦廿三上、「便宜(ノ)所(ニ)懸2伊豫簾(ヲ)1、敷2鈍色《ニヒイロノ》縁(ノ)疊等(ヲ)1云々、とみゆれと、この上文には「疊端ともかゝせたまへり
   〇めつらしき事
おほよそめつらしきをこのむ事、人情の常なから、残夜抄に、「清暑堂(ノ)御神樂の御遊は、みかくらをはりて後にあり、これも樂《本ノマヽ》催馬樂呂律、これらにかはらす、但近來、清暑堂御神樂に、或人めつらしき事せむとて、葛城といふ秘蔵の哥をうたひたりけるに、其哥はゝかるへき事あるを、あしくうたひたりけるとて、ときの人そしりけるやう、のかるゝ所なかりけり、めつらしき事は、かきりある事には、せてあるへきにこそ、とみえたり
   〇※[奚+隹]の雄
雄畧紀(ニ)云「於v是(ニ)新羅王乃知(テ)2高麗(ノ)偽守(ヲ)1、遣(シテ)v使(ヲ)馳2告(テ)國人(ニ)1曰、人殺(セト)2家内(ニ)所(ノ)v養(フ)鷄(ノ)之雄者(ヲ)1、國人知(テ)v意(ヲ)盡(ク)殺2國内(ニ)所(ノ)v有高麗人(ヲ)1、かくいへるも、きけるも、ともに新羅人なれと、わか言霊のたすくる國、言霊のさきはふ國に、つねにまゐりかよひけむしるしにて、さすかに、言さへく國つ人には、いとめてたき事也かし
   〇嗜酒
大伴(ノ)旅人卿、讃(ル)v酒(ヲ)歌数首、萬葉集卷三にみゆ、白樂天は、「不v忘v酒曰2故郷(ト)、といへり、さけをこのむ事、和漢その人おほし、おのれわかきより酒をえのまねは、いまたその佳趣をしらす、李白は、おのれと月と酒とを三友とせり、李白われをみは、何をか友とはすらんと笑ふへしかし、しかれとも、是を好まさる者は彼を好み、かれを好まさる者は是を好む、かれ萬物ゆつらひて用あらすといふ事なし、続世継物語に、【卷六】宗輔公、蜂を好みて飼給ひし事みえ、【十訓抄にもありて、其功ありし事みえたり】堤中納言物語には、かは虫このむ姫君をさへかけり、【かはむしは、毛虫とつねいふ虫の事なり、和名抄(ニ)云「烏毛虫、兼名苑(ニ)云、髯虫、一名烏毛虫、和名、加波無之と見えたるこれなり】おのれこのまされは、必人のこのむをあさけるはいかにそや
  因(ニ)云、芭蕉翁か、「朝かほにわれはめしくふ男かなといふ俳諧の發句あり、此こゝろは、おのれ酒えのまぬ不興さを歎きかほにて、まことは、必過酒の人をいさめたる句なるへしとおもふよしを、わか友有國にかたりけるに、かの翁か消息をあつめたる物の中に、門人其角に贈られける消息、飲酒の一枚起請といふ物をかきて、その奥に、「因て一句、とて此句ありとて、其の消息をもち來て、予か説を信せられし、其角は、いといたきさけこのみなりしとそ、萬葉集卷八、坂上(ノ)郎女か歌に「官爾毛縦賜有今夜耳將飲酒可毛散許須奈由米《ツカサニモユルシタマハルコヨヒノミノマンサケカモチリコスナユメ》、とある左注に、「右、酒者、官禁制(シテ)※[人偏+稱の旁](ク)、京中閭里不(レ)v得2集宴(スルコトヲ)1、但親々一二(ノ)飲樂(ハ)聴許(ス)、者(レハ)縁(テ)v此(ニ)和(ル)人作2此發句(ヲ)1焉、とみえたるは、集飲に事ありける故なるへし、されと、その制禁も、永くは行はれさりしとおほし、人のこのむ所は、やむ事なき物にこそ
   〇好奇
萬葉集、卷(ノ)四、「不相思人乎思者大寺之餓鬼之後爾額衝如《アヒオモハヌヒトヲオモフハオホテラノカキノシリヘニヌカツクカコト》、契沖法帥のいへらく、この歌は、心をえて詞をみるへからすとて、孟子に「説v詩(ヲ)者、不2以(テ)v文(ヲ)害1v辭(ヲ)、不2以(テ)v辭(ヲ)害1v志(ヲ)、以v意(ヲ)逆v志(ニ)是為v得v之云々、とある語を引て、大かた哥を見るにも肝要なりといへり、けにかゝることをのみこのまむは、よしなきわさなれと、情のために辭をもとめむには、何者をかとり出さらむ、何事をかよみ出さらむ、詞をいたはりいたはらぬけちめをいふは、哥の本いをうしなひて後の事なり、此阿闍梨の説、さる事なれと、さすかに後世のいひさまなりや、上古の哥とも、奇をこのめるにはあらす、唯霊をかしこむよりのわさなりとしるへし、霊をかしこむとは、倒語には、必神の霊まし/\て、人の志をさきはひたすけたまふか故也、これ即、言代主神の霊《ミタマ》なり、真言には、神御たまをしつめ給はす、おほかた言霊は、直言のうへにはあつからぬ事也としるへし、くはしくは、予か真言弁にいへり
   〇狐人の子をうむ
狐の、人の子うみたる事は、時々きく事なり、水鏡、欽明天皇の條に「野干をきつねと申し侍りしことのおこりは、みのゝ國にはへりし人、かほよきめをもとむとて、物へまかりしに、野なかに女あひはへりにき、此男かたらひよりて、わかめになりなむやといひき、此女、いかにものたまはむに、したかふへしといひしかは、あひくして、家にかへりてすむ程に、をのこ子一人うみてき、かくて年月をすくすに、家にある犬、十二月十五日に子をうみてき、その犬の子、すこしおとなひて、此めの女を見るたひことにほえしかは、かのめの女、いみしくおちて、男にこれうちころしてよといひしかとも、をうとの男きかさりき、このめの女、よねしらくる女ともに物くはせむとて、からうすの屋に入りにき、その時、この犬はしり來て、めの女をくはむとす、此めの女、おとろきおそれて、えたへすして、野干になりて、まかきのうへにのほりてをり、をとこ、これを見て、あさましとおもひなから、いはく、なむちとわれとか中に、子すてにいてきたり、われなむちをわするへからす、つねに來てねよといひしかは、そのゝちきたりてねはへりき、さてきつねとは申そめしなり、そのめは、もゝの花そめの裳をなんきてはへりし、そのうみたりし子をは、きつとそ申しゝ、力つよくて、はしる事とふ鳥の如くはへりき、とみえたり、これらをはしめとやいふへからん、きつねといふ名義は、いとおほつかなき事なり、されとものゝ名義を、かうやうに牽強していふ事、竹取物語なとに多し、いにしへ人の手段なるへし
   〇夜光之璧
よるひかる玉といふ事、萬葉集卷三、旅人卿(ノ)讃(ル)v酒(ヲ)歌のなかに、「夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣爾豈若目八目《ヨルヒカルタマトイフトモサケノミテコヽロヲヤルニアニシカメヤモ》【一云八方】とみゆ、史記、八十三、魯仲進、鄒陽傳云、「臣聞、明月之珠、夜光之璧、以v闇(ヲ)投(スルニ)2人(ニ)於道路(ニ)1、人無d不2按(シテ)v劔(ヲ)相眄1者u、何則、無v因而至(レハナリ)v前(ニ)也、又同書、田敬仲完世家、齊(ノ)威王二十四年、與2魏王1會(ス)2田(ニ)於郊(ニ)1、魏王問(テ)曰、王、亦有(リヤ)v寶乎、威王(ノ)曰、無(シ)v有(ルコト)、梁王(ノ)曰、若(キモ)2寡人(カ)國(ノ)小(ナルカ)1也、尚有d徑寸之珠(ノ)照(ス)2車(ノ)前後各十二乗(ヲ)1者十枚u、奈何(ンソ)以(テ)2萬乗之國(ヲ)1而無v寶乎云々、これらよりいふなるへし、源氏物語【松風卷】にも、「わか君は、いとも/\うつくしけに、よるひかりけむ玉のこゝちして、とみゆ
   〇雁の子
仁徳紀五十年春三月壬辰朔丙申、河内(ノ)人奏言、於2茨田(ノ)堤1雁|産《コウメリト》之、即日遣(シテ)v使(ヲ)令v視、曰2既(ニ)實(ナリト)1也、天皇於v是歌(ヲ)以問(テ)2武内(ノ)宿祢(ニ)1曰、多莽耆破屡《タマキハル》、宇知能阿曾《ウチノアソ》、儺虚曾破《ナコソハ》、予能等保臂等《ヨノトホビト》、儺虚曾波《ナコソハ》、区珥能那餓臂等《クニノナカヒト》、阿耆豆辭莽《アキツシマ》、椰莽等能區珥珥《ヤマトノクニニ》、箇利古武等《カリコムト》、儺波企箇輸椰《ナハキカスヤ》、武内(ノ)宿祢答歌(ニ)曰、夜輸瀰始之《ヤスミシヽ》、和我於朋枳瀰波《ワカオホキミハ》、于陪儺于陪儺《ウヘナウヘナ》、和例烏斗波輪儺《ワレヲトハスナ》、阿企菟辞摩《アキツシマ》、椰莽等能倶珥珥《ヤマトノクニニ》、箇利古武等《カリコムト》、和例破枳箇儒《ワレハキカス》、とあり、わか大御國に、鴈の子うめるは、この御時をはしめとす、閑院(ノ)大將(ノ)家(ノ)集に「かりの子を、とをたてまつりたまへれは、北の方、【重明親王女】「かりの子にうらみをさへそかさねつるいとゝつらさの数をみすれは、とみえたり、此大將は、藤朝光也、天暦五年にうまれ、長徳元年三月廿日にうせたまへりとそ、關白大政大臣兼通公(ノ)四男、御母は、三品兵部卿有明親王御女、従二位能子なり、又和泉式部か家集にも、「かりのこを人のおこせたるに、「いくつつゝいくつかさねてたのまゝしかりの此世のひとの心よ、後にかうやうにみえたるなとは、まことの鴈の子なり、仁徳紀なるは、必故ありて記せられたる倒語なるへし、これ古書のつねなり、鴈の子うめる事、もと君も臣も、歌をもて問答し給ふはかりの事からにあらさるをおもふへし
   〇箏の音
箏は、ひさしくひかされは、音の入りてよく鳴らぬもの也、宇都保物語に「音もしらます、といへるは、久しくひかねと、音のいらぬをいふなり、しかれは、ひさしくひかて音のいるは、つねの事とおもひつるに、しからす、その器のすくれさる故也とはしりぬ
   〇探題
題をさくりて哥よむ事も、いとふるくせしこと也、後撰集雑に「左大臣の家にて、かれこれ題をさくりて、歌よみはへりけるに、露といふもしをえはへりて、とみえたり、宇都保物語に「たいたまはせて、たんゐたまはる、とあるは、探韵にて、詩をつくるに、韵字を探るを云なり、檜垣(ノ)女(ノ)集なとに、題とあるは、みな物名なり、数多かれは、ひくにいとまあらす、その集をみるへし
   〇大祓祝詞
大祓(ノ)祝詞《ノリト》のをはり「さをしかの、やつの御耳をふりたてゝ云々といふを、真淵ぬし、祝詞考に、くはしくことわられたるかことく、延喜式にあるを正しとすへし、しかあらためたるは誰にかあらむ、古言を心えぬものゝしわさとおほし、そのゆゑをおもふに、もとかの祝詞は、六月大祓にのみよむへきものなるを、つねに神前にてよまむには、「今年六月晦日云々、とあるかわりなさに、あらためたるにこそ、紫式部日記に、「けんさといふかきりは、のこりなくまゐりつとひ、三世の佛も、いかに聞給ふらんとおもひやらる、陰陽師とて、よにあるかきりめしあつめて、八百萬の神も、耳ふりたてぬはあらしとみえ聞ゆ、とあるは、本文に、「高天原尓《タカマノハラニ》、耳振立聞物止《ミヽフリタテキクモノト》、馬牽立※[氏/一]《ウマヒキタテテ》、とあるを心えて、かくかゝれたるなるへし、出雲(ノ)國造、神賀(ノ)詞(ニ)云【上下畧】「白御馬能《シロキミウマノ》、前足爪《マヘアシノツメ》、後足爪《ウシロアシノツメ》、踏立事波《フミタツルコトハ》、大宮能《オホミヤノ》、内外御柱乎《ウチトノミハシラヲ》、上津石根尓蹈堅米《ウハツイハネニフミカタメ》、下津石根尓《シタツイハネニ》、踏凝之《フミコラシ》、振立流事波《フリタツルコトハ》、耳能弥高尓《ミヽノイヤタカニ》、天下乎所知食左牟事志乃多米《アメノシタヲシロシメサムコトノシルシノタメ》云々、なとも見えて、耳ふりたつといふ事は、馬にのみいへるを、「さをしかにかへたるは、いかなるさかなわさそや、かのから國にて、鹿をは馬といひけんうらうへにこそとをかし、しかるに、かくあらためたるは、いつの比とはしらねと、いとひさしき事とおほえて、實方中將(ノ)集に、「六月はらへに、ある|や《本ノマヽ》かきのまへをわたれは、「さをしかのみゝふりたてゝきこしめせ、といふ人あれは、いとゝく、「おもとををかすつみはあらしな、とあれは、いよ/\そのあらためたりし人おほつかなくこそ
    〇蘆手
あして哥繪なと、ふるくみゆる、此蘆手の事、堀川(ノ)院(ノ)御時の百首に、「あしてくむしつか垣ねのほとゝきすなけともなれる聲はやつれす、とあるは、蘆もて垣にくみたるをいふにて、あしてとしもいふは、萬葉集に、麻をは、「麻手とよめるたくひなるへし、さてこのあしてといふものゝ、かきさまたしかならす、よに繪をましへてかくを、芦手といふ人もあれと、それは歌繪にて、芦手にはあらさるへし、塵添※[土+蓋]嚢抄、卷五に「和泉式部、無双の好色なりけるに、ゐのこの夜、御哥ありけるに、態(ト)心をあはせられけれは、瘡開といふ名を、式部とりあてゝ、「筆も|つひ《本ノマヽ》ゆかみて物のかゝるゝはこれやなにはの|あして《・悪筆》なるらん、とよめり、あしてとは、字にて繪をなすと注せるものあり、又葦手とも、かくなり、或は木の節、或は雲のはつれなとを、ゆかめるまゝに、字の似合たるを以てかくを、芦なとの枯臥したるにそへていふ也、とあれと、たのもしくもおほえすこそ、續世継物語、卷八に、「天王寺へまをて給ひけるに、なにはを過給ふとて、「夕くれになにはわたりをみわたせはたゝ薄墨のあしてなりけり、となん聞えし、ことゝころのゆうへののそみよりも、なにはのあしてとみえむ、けにと聞えはへり、かへる鴈のうす墨、夕くれのあしてになりたるも、やさしく聞えはへり云々、園大暦に、「平緒【文葦手】とあるは、いかなるあやをくみたりしにかあらん、拾玉集に、【慈鎮和尚】「ゆふまくれなにはわたりをゆくかりやあしてのうへにかけるたまつさ、とある歌を思ふに、芦手のうへにかけるとあるは、鴈字をこと物とせられたる事しるし、もし世にいふあしての如くならは、やかて芦手とこそよまるへけれ、この哥なとは、いとこゝろにくきよみさま也、その比には、なほ芦手のかきさま傳はりけるにや、壬二集に、「あはち嶋なにはをかけてみわたせは波のいろはのあしてなりけり、とあるは、かの繪をましへたる物のやうなれと、芦手哥繪はことわさなれはこそ、源氏物語、梅かえの卷に、「あして歌繪を、おもひ/\にかけとのたまへは、みなこゝろ/\にいとむへかめり、とはみゆれ、又、同卷に、「あしてのさうしともそ、こゝろ/\にはかなうおかしき、宰相中將のは、水のいきほひゆたかにかきなし、そゝけたる芦のおひさまなと、なにはの浦にかよひて、こなたかなたゆきましりて、いたうすみたる所あり、またいといかめしう引かへて、もしやう、いしなとのたゝすまひ、このみかきたまへるひらもあめり、めもおよはすこれはいとまいりぬへきものかなと、けうしめて給ふ、とみゆ、尺素往來に【一條禅閤の御作とそ】假山水、海(ノ)様、河(ノ)様、泉(ノ)様、遣水(ノ)様、巌井(ノ)様、細谷川(ノ)様、枯山水(ノ)様、山(ノ)形、野(ノ)形、洲浜(ノ)形、蘆手(ノ)形等、云々とあるをみるに、今の哥繪のことき物にはあらしとそおほゆる、又中務集に、「れいけいてんの女御、中宮にたてまつれ給ふひいなの裳に、あしてにて、「しら波にそひてそ秋は立ぬらしみきはのあしもそよといはなん、とあるは、いかなる書さまなりしにか、これらはいと後なれと、なほそのかきさまの傳はりたりける世にて、かくかゝれしにこそあらめ、藤貞幹ぬしか所蔵なりし、永暦元年、四月二日、司農少卿伊行のかゝれたる芦手をみしに、ひたふるなる歌繪ともおほえす、これらや芦手といふ物ならん、されと猶哥繪といふものゝことくもおもはるれは、たしかにはいひかたし、哥のもしをは、蘆の葉のやうにかきなせるをは、芦手とはいひけむとおしはからるれは、この圖はこゝろにくゝこそ  〔藤貞幹所蔵蘆手圖とある画像有り、省略〕
   〇雨衣
敏達紀(ニ)云「是(ノ)日無(シテ)v雲風雨、大連|被2雨衣1《アマツヨソヒセリ》云々、この雨衣といふは、油衣にやあらん、和名抄(ニ)云「雨衣唐式(ニ)云々、三品以上、若遇(ハハ)v雨(ニ)聴(セ)d著(テ)2雨衣氈帽(ヲ)1至(ルコトヲ)c殿門(ノ)前(ニ)u【雨衣、和名、阿萬岐沼、今案、一(ニ)云、油衣、隋書云、煬帝遇v雨(ニ)、左右進(ム)2油衣(ヲ)1是(ナリ)】とみえたり、左傳(ニ)云「成子衣v製(ヲ)杖v矛(ヲ)云々、注(ニ)云、製(ハ)雨衣也とあり、製といふもの、いかなる制にかあらん、後撰集に、「ふる雪のみのしろ衣うちきつゝ春きにけりとおとろかれぬる、とよめるは、蓑代衣の心なるへし、これも又、その制つたはれるにや、しらす、文永加茂祭、また年中行事等の繪卷物に、手に持たるもの、雨衣なりといへは、その圖をこゝに載す〔図略〕
   〇養禽獣
枕草紙に、命婦のおもとゝ名つけし寵愛の猫をは、おきなまろといふ犬のとらむとせしかは、「このおきなまろ、うちてうして、いぬ嶋につかはせ云々、とあり、犬嶋は備前にあり、此島に流しつかはせとの心なり、すへて犬猫猿のたくひをこのみて、その寵、人にすら超る事よに多し、中にも犬は、ぬす人なとの入らむを吠ゆるいさをあるか故に飼ひ、また猟の用にも養ふ、さる事也、雄畧紀(ニ)云「身狹村主青《ムサノスクリアヲ》、將(テ)2呉(ノ)所(ノ)v獻二(ノ)鷲(ヲ)1到2於筑紫(ニ)1是(ノ)鷲為(ニ)2水間(ノ)君(カ)犬(ノ)1所2噛死(サ)1【別本(ニ)云、是(ノ)鵝為2筑紫(ノ)嶺県主泥麻呂(カ)犬(ノ)1所2噛死1」由(テ)v是(ニ)水間(ノ)君恐怖憂愁(シテ)、不v能2自黙(スルコト)1、獻(テ)3鴻十侯(ト)與《トヲ》2養(フ)v鳥(ヲ)人1請2以(テ)贖(ハンコトヲ)1v罪(ヲ)天皇許(シ玉フ)焉、とあるは、猟のためにやかひけん、門もる為にや養ひけむ、けにさるいさをはめてたけれと、みしらぬまらうとなとをさへほゆるを、そのまらうとの、いとひいとはぬをもおもはて、あるしのこゝちよけなる、いとあさまし、ましてなにの用なき獣なとを愛して、人のいむをはかへりて興したりし人、いにしへも聞ゆかし、あるひは、その寵より人とあらかひのいてくるなと、いと多き事なり、左傳、閔公二年冬十二月、狄人伐v衛(ヲ)、衛(ノ)懿公好v鶴(ヲ)、有2乗(ル)v軒(ニ)者1、【軒(ハ)大夫車(也)】將(ルニ)v戦(ハント)國人受(ル)v甲(ヲ)者、皆曰、使《ツカヘ》v鶴(ヲ)、鶴實(ニ)有2禄位1余(レ)焉(ソ)能(ク)戦(ハン)、これらをもおもひあはすへし、それもたゝこのむはかりにて、事に害たになくは、何をか養はさらんとおほゆる
   〇冠辭
冠は、【よにいふ枕詞也】たゝ哥に優艶をあらせむとて、用ひたる物と、皆人おもへり、つら/\おもふに、冠は、所詮よせのみしかき也、【よせとは、よにいふ序哥なり、亡父つねによせ歌といひつけたり】よせ哥に二種あり、よせ、うちよせ、これなり、たとはは、萬葉集、卷十二「舊衣著楢乃山尓鳴鳥之間無時無吾恋良苦者《フルコロモキナラノヤマニナクトリノマナクトキナシワカコフラクハ》、【今の本、恋衣とあるは誤なり、真淵ぬし、冠辞考に、くはしく弁せられたり】かうやうなるを、よせ哥といふ、同集卷十八「道邊乃五柴原能何時毛何時毛人之將縦言乎思將待《ミチノヘノイツシハハラノイツモイツモヒトノユルサンコトヲシマタン》、これらをはうちよせといふ、その心をよせたると、たゝ詞のうへをよせたるとのけちめなり、この二種、冠にもあり、たとはゝ、「くれなゐのにほへる、なとはよせのすち也、「時津風ふけひ、なとはうちよせのすちなるもておもふへし、この二種いつれも、所詮はその哥に用なき詞を、わさともとめ出てゝおく也、そのゆゑは、おほかた人におもはするやうにのみいふ事、わか大御國言の肝要なることわり、前にもいへるか如し、されは、いひてよからすおもふ事あらんに、いさゝかにても用あらむ詞をおかは、猶いへるにひとしくなりぬへく、しかりとてうつたへにいはされは、句の数たらねは、わさと無用の詞をおくなり、此ゆゑに上古に冠をおかれたる所は、かならすいひてよからすと、思はれたる心のこもりてあるへけれは、その無用なるか、かへりて有用の詞にもいたくまさるわさ也、かみつよの人は、御國言のすちをは、よく弁へられたるか故に、よせ哥も冠もいと多かり、後世にては、かゝる心得もつたはらさりけらし、やう/\冠すくなくなりもてゆきて、たま/\冠をおく時は、「から衣、きる、たつ、なと、その縁語を多くおかては、冠はもちふましき事にさへなれり、これひとへに、その歌に無用なる詞なるか故に、うしろめたくおほゆれは也、まして冠は縁語多きをよしといふ教さへいてきにたるをや、もとかく無用の詞をおくは、必用の詞のいふへからぬ時、その必用の詞にかへたる物也としらは、あやふみなかるへし、後世人は、すへて理をいひふするかゆゑに、もとより冠はかはかりの妙用あるものともおもはぬ、ことわりなる事なり、おほよそ、詞の、いふへくいふへからぬ時あるをしれらん人そ、冠辞の必用なる佳境はおほえむかし
   〇加賀智
酸漿は、神書に「赤加賀智《アカカガチ》といへり、これ古名なり、和名抄(ニ)云、「兼名苑(ニ)云、酸漿一名洛神珠【和名保々豆木】とあり、保々豆木とは、いつの頃よりかいひなりけむ、源氏物語、野分(ノ)卷に「ほゝつきとかいふめるやうにふくらかにて、かみのかゝれるひま/\、うつくしうおほゆとみえたり、枕草紙にも、「おほきにてよき物、ほゝつき云々、又、栄花物語、八に「御色しろくうるはしう、ほゝつきなとを、ふきふくらめてすゑたらんやうにそみえさせ給ふ、なとみゆ
   〇よみつめの一格
古今集に「あふみよりあさたちくれはうねの埜にたつそ鳴なる明けぬこの夜は、といふ哥、よみつめをかうやうによめる格、萬葉集にも例多し、和泉式部(ノ)集に「われならぬ人もさそみん長月の有明の月にしるしあはれは、とあるも同し格也、これは畢竟かへりつめの一格なり、かへりつめは、後撰集に「みぬ人のかたみかてらはをらさりき身になすらへる花にしあらねは、なとの類也、たゝ終の一句よりかへるもあり、初一句へかへるもありて、一定ならぬか中に、かへりつめのことくにしてかへらす、上を補ひて、終一句を添へたるかあるは別格なり、たとはゝ、萬葉集卷六「我家戸之梅咲有跡告遣者來云似有散去十方吉《ワカヤトノウメサキタリトツケヤラハコチフニニタリチリヌトモヨシ》、なとこれ也、おもひまかふましき也、後世にては、すへて歌の格いとせはくなりにたり、廣からては、不自在なる事ならすや、されとねかひてするわさにはあらす、皆哥からによりて、やむことをえぬ事なりとしるへし【かへりつめも、もとかへすにはあらす、事の急なるをは、さきにいひ、緩きをは、後にいふか、おのつからかへるすかたとはなる也、事の緩急、先後すへからぬ事、哥にも文にも、その例おほきにおもふへし】
   〇詞の時代
おほよそ哥のすかた、よゝにうつりたるを、亡父これを六運にわかてり、挿頭抄のはしかきにくはしくみえたり、【亡父か著述の書也】此六運に、自創の体をくはへて、七体七百首をよめるを、さきに刊行しおけり、【亡父か詠なり】これらをみて、よゝのすかたを思ふへし、よに哥よむ人々、おの/\見識もあり、このむ所もありて、あるはかみつ世、あるは中昔、あるは中ころ、あるは近昔、あるはをとつ世、あるは今の世とひかめる、やことなき事にはあれとも、【これ六運の名なり】大かた哥は、体を定め置てよむ時は、必心を枉くる所いてくへし、おもひのすちにしたかひて、歌となりいつるは、おのつからなるものなれは、すかたも自然なるへき也、されは六運とさためられたるは、大かたのすかたにて、かみつ世の人にも、中昔中季の体なるもあり、中昔の人にも、かみつ世近昔の体なるもかたみにあるへし、疑ふへからす、しかれとも、詞はよゝにけちめある物なれは、詞の時代をわきまふる事肝要たるへし、もしかみつよの体なるに、中ころの詞ましり、をとつよの体なるに、上つよの詞ましりなとしたらむは、髪白き女のあこめを着、はふ子に冠きせたらんか如くなるへし、詞の時代とは、たとはゝ「もとな「よしゑやしなとは、かみつよにかきれり、「へらなり「かな、なとは、中昔よりおこれるか如く、此類いひつくすへからす、そか中に、六運にわたる詞もあり、そのわたりわたらぬ詞をは、よく明らめて用ふへきなり、されとも、言はもと情をうつす事を主とする物なる事、おほかた詞の緊要なるを、後世はもちひさまいたくかはれり、萬葉集、卷(ノ)五、山上憶良ぬしか長哥に「神代欲理《カミヨヨリ》、云傳介良久《イヒツテケラク》、虚見津《ソラミツ》、倭國者《ヤマトノクニハ》、皇神能《スメカミノ》、伊都久志吉國《イツクシキクニ》、言霊能《コトタマノ》、佐吉播布國等《サキハフクニト》、加多利継《カタリツキ》、伊比都賀比計理《イヒツカヒケリ》、今世能《イマノヨノ》、人母許等期等《》ヒトモコトコト、目前尓《メノマヘニ》、見在知在《ミタリシリタリ》、【下畧】とよまれたるをみれは、天平年間なとは、よに言霊の事、そのしるしをも見、その必しかあるへき理をもしりたりとみゆれは、詞もおのつからそのかまへそなはれり、中昔よりのちは、詠物のためとなれるなれは、詞もおのつからそのかまへなる也、されは詠物によまむ歌はさら也、此道の本いにかなへむとすれは、おのつから詞のふるきか便よきなり、これによりて、おのれよむ歌の、おのつからかみつ世ふりなるかおほきは、なほかみつよにひかめる名は、のかれかたけれと、その意味一端にあらねは、おほろけにはことわりつくしかたし、たゝしるへき人こそしらめとそ
   〇道風書朝綱才
江談抄(ニ)云「天暦(ノ)御時、野(ノ)道凰(ト)與2江(ノ)朝綱1、常(ニ)成2手書(ノ)相論(ヲ)1之時、兩人議(シテ)曰、給(テ)2主上(ノ)御判(ヲ)1、互(ニ)可v決2勝劣(ヲ)1云々、仍(テ)申2請御判(ヲ)1之處、「主上被v仰云、朝綱之書(ノ)劣(レル)2於道風(ニ)1事、譬(ヘハ)如(シ)3道風(ノ)劣(レルカ)2朝綱之才(ニ)1云々、道風朝綱か勝劣の事、古今集序に、「人まろは、赤人かかみにたゝむ事かたく、赤人は、人まろかしもにたゝむ事かたくなん有ける、とあるに似たる事なり、おほかた人は、瑕なき珠ならんはいとめてたかるへけれと、このふたりのあらそひ、たかひに劣れる所ある事を、みつからわきまへされは也、わか大御國ふりのとほしろき、人おほかた勝れる所あれは、必劣れる所あり、おとれる所あれは、必まされる所ある事、心は浄く、身は穢しくて、その浄穢を具したる事、やむことなきことなるか故に、あるひはまされは、或はおとり、あるひは劣れは、或は勝るを、あひゆつらひて、かたみにあらそふ事なきを要とする、これ神典の大規範なる也、聖賢のうへといへとも、なほいはゝいふ所あるへし、まして庸人をや、おのれまされりとして、劣れる所ある事をしらねは、必人とあらそひやむましき也、道風朝綱、たゝ書のうへの諍論なれは、いはゝはかなき事からなりとはいへとも、たとひはかなき伎藝のうへたりとも、あらそふを風俗とするは、即干戈の源たるへし、なにことも、すくれたらんを、あしとにはあらねと、すくれたるはかり、おとりたる所あらむは、すくれたる事なからん人と、なほ同等なるへきなり、天暦のみかとの勅判、まことにかしこしとも、かしこくそおほゆるや
   〇山田之曾富騰
古今集に「足引の山田のそほつおのれさへわれをほしといふうれはしきこと、壬二集に「秋のたにたてしそほつのすかたまて霜にまよへる冬の山さと、此山田のそほつ、もと神の御名にて、山田のそほとなるを、杼《ド》を豆《ヅ》にかよはせたる也、古事記神書に「故《カレ》顕(ハシ)2白(セル)其(ノ)少名毘古那(ノ)神(ヲ)1所謂《イハユル》久延比古(ハ)者、於v今《イマハ》者、山田之曾富騰者也《ヤマタノソホトト云カミナリ》、此(ノ)神(ハ)者、足雖v不v行、盡《コト/\》知(レル)2天(ノ)下(ノ)之事(ヲ)1神也、とある、これなり、後世にては、案山子の事のことくいふは附會にて、もとは、此曾富騰の神の御像をつくりてまつりたりけるか、おのつから案山子のことくなるより、心えあやまれるなるへし、田にしも祭るへき御たまあらん事、神書のうへにはみえさる事なり、あなかちに田の為にまつりたるにはあらて、盡知2天下之事1といふ御たまのかしこさに、農家村落なとに祭りたるか、案山子に混したるにやあらん、添水《ソフツ》なといふ説は、もとよりよしなき事なり、なほ、後撰集、戀四に「足曳の山田のそほつうちわひてひとりかへるのねをそなきつる、夫木集に、信實「かり小田にたてるそほつはかひもなしいたつらならは門まもりせよ、なともみゆ
   〇古言簡約
古今集、春下に「仁和の中將のみやす所の家に、哥合せむとしける時によみける、とあるを、たゝおほよそに見は、歌合しける時によみけると、かける心なりとおほゆへし、これは、哥合の催ありて、その哥合はやみけれと、そのれうによみたりし哥也との心也、後のよひとの書きさまとは、簡約なるけちめ思ふへし
   〇文の詞
文をかくに、心うへき事あり、「まかる「たうへ「はへるなとの詞也これら、撰集の詞書に、つねかゝれたるは、撰集はもと奏覧の為にかける詞なれはなり、されは物語ふみなとにも、人にものいひこたふる時、または消息なとにこそ、「はへる「まかるなとはかゝれたれ、よくおもひわくへき事なり、いふかひなきゝはこそあらめ、よにその名しられたる人すら、このあやまりはみゆめり
   〇贔負
道三國手のたはれ哥とて、人のかたりつる「醫者はたゝ下手《ヘタ》も上手もなかりけり、ひいき/\に時のしあはせ、となん、けに志あらむ人は、かならすいきとほるへき世のさま也かし、ひいき〔三字傍線〕といふに、屓負〔二字傍線〕の字を俗にもちふ、此字、文選西京(ノ)賦に「巨靈贔負、とみえて、注に「作力(ノ)※[貌の旁]とも、また「有力(ノ)貌ともいへり、よくかなひたる文字にこそ、尺素徃來に「奉行若(シ)耽(リ)2賄賂属託(ニ)1令3贔2負一方(ヲ)1者、太《ハナハタ》以不當也、ともみゆ
   〇放免 附揚名介
野荒問答(ニ)云【荒井勘解由問 野宮前黄門定基卿答】「つれ/\草の、三箇の大事とやらん、世間に申ふらし候、かの草紙に、放免のつけものと候を、こと/\しく秘説ありと申なし候、これは俳諧師の貞徳と申もの申出したる由聞及候、天台の空假中を以て、其説をなすよしに候、一笑に候、貞徳は、官家の故事にならはす候ゆゑ、放免と申ものを不v知候て、申出たる事と存候、此事、平家物語にも見え申候、文覺なかされの卷に、伊豆の国へゐてまかるに、放免兩三人をそつけられける、これらか申けるは、廳の下部のならひ、か様の事につきてこそ、おのつからえこも候へと有之候、此文段、よき放免の注に候、※[手偏+僉]非違使廳の下部を放免と申候也、とみえたり、何事にも、事ありけにいひなして、口傳なといふ事に、おもひの外にたやすき事、これにかきらすいと多きもの也、その口授口傳なといふ事をたつぬるに、おほくはあらぬ理ともをもてつけて、ゆゑありけにのみいふなるへし、放免の事、三代實録、卷十六に【貞觀十一年七月】「五日辛酉、讃岐(ノ)國(ニ)捕獲(タル)海賊、男二人女二人、勅(シテ)男(ハ)依(テ)v法(ニ)行v之(ヲ)、女(ハ)特(ニ)従2放免(ニ)1と見え、續日本紀なとにも、罪人をゆるさるゝを、放免〔二字傍線〕原免〔二字傍線〕なと、あまた所みえたり、されはもと罪ある者を放ち免さるゝ事にて、その放免せられしものともを、※[手偏+僉]非違使廳の下部となしてつかはるゝをもて、やかて放免といふにこそ、廳にしもこれを属せらるゝは、向後をつゝしましむへきか為なるへし、つけ物とは、その時々、おもひよれるまゝにつけたりし物なり、古き繪卷物ともを見るに、おもひもよらぬ物ともをつけたるあり、さたまれる事はなき物なりとそ、これをつけものゝ風流とも、又たゝ風流ともいふなり、いかなる故にてつくといふ事はなく、たゝ風流にしそめしことの、ならひのやうになりぬるなるへし、かく何の故ともしられぬことなるかゆゑに、のちよりはさま/\の理をつけて、事ありかほにいひなす也けり、續世継物語、卷(ノ)四に、「宇治行幸ありて、皇后宮、ひきつゝきていらせたまひし、うるはしき行啓のやうには侍らて、皆かりきぬに|ふりう《風流》なとして云々、これは高陽院の御事也、これを見れは、かうやうの供奉にはせさりし事なるへし〔図有り略、文永加茂祭放免かつけものしたる圖、角倉家、古寫本の平家物語には、法便〔二字傍線〕とかけり、放免〔二字傍線〕の音をとりてかける假字なるへし〕〕かうやうの事、こと/\しけにいふ事、源氏物語の揚名介のたくひなりとそおほゆる、後成恩寺殿、源語秘訣に、清慎公(ノ)記(ニ)云、康保四年七月廿二日、宰相中將來(テ)言2雑事(ヲ)1云々、入v夜(ニ)之後、右少將為光朝臣來(テ)曰、明日除目、一昨、右大將与2藤大納言1議定し候由傳承云々、揚名(ノ)關白、早可v被2停止1着也、今案、冷泉天皇は、民部卿元方か怨霊によりて、狂亂におはしましける時、外戚の人々、【九條殿一族】官位昇進等(ノ)事を議定せしかは、小野宮殿、此時關白にありなから、見所し給ひし故に、述懐し侍て、揚名關白はやくやめらるへしと記せられ侍り、揚名二字は、諸國介にかきるへからす、故に、揚名の關白と清慎公はのたまへり、又揚名掾、揚名目ともいへり、揚名は、たゝ名はかりといふ心なり、たとへは、其官になりたれとも、職掌もなく、得分もなきをいへり、或抄に、揚名介は、不給以載以符、とみえたり、官符を給はる程にては、國へ下りて吏務をしるへきゆゑなり、寛弘二年除目、藤原維光望2揚名(ノ)介(ヲ)1申文にて、常陸権介に任せらる、近比、貞和二年二月除目執筆、【後普光園摂政、】自給(ノ)申文に、藤原良清望2揚名(ノ)介(ヲ)1とありて、山城(ノ)権(ノ)介に任せらる、愚老も先年執筆の自給に、この申文を献して、常陸権介に任し侍りき、後に思ひはへれは、常陸國は、掾を守にいたり、他國の介に任すへかりけり、但難にてはなかるへしとあり、園大暦、卷六下【貞和二年】「廿四日天晴、右相重(テ)被v談2除目(ノ)事(ヲ)1、揚名(ノ)介名字聊存旨候者也、比興候、黄門二合云々、昨日委細貴報散蒙候畢、除書一本進覧候、抑平納言二合事、頗一失候歟、但参議二合猶邂(ノ)例勘出了、如何、揚名(ノ)事、成文無2御存1候けり、無念候、任府返上申文相副任府候き、与2申文1性相違、已難書候歟、然而邂逅申文折留候條無念候間、乍存許任了、他事猶可v承2紕謬(ヲ)1候也、とも又「揚名(ノ)介(ノ)事、尤珍重存候、さては御申文候哉、為2後勘1一本被2注下1候者恐悦候云々、又「揚名(ノ)申文、無念之由、雖申入候、依2勅許1書出了、於2名字1者頗存(ル)旨候、比興候、なとみゆ、同卷六上に「山城権介藤原良清【良基臨時申】とあるは此事なり、【良基公は、右府にてこの除目執筆なり、まへに右相とあるこれなり】即源語秘訣にみえたるも、此良清か事也、これらをも考あはすへし
   〇訓と字の先後
論語に「繪(ノ)事(ハ)後v素とあるをは、「しろきをのちにすとよみ來れゝと、語意ときかたし、わか伯父※[さんすい+其]園、「しろきよりのちなりとよませられし、けにさる事也、すへて漢土の書を訓讀せむに、よく心してよますは、かうやうの事多かるへし、わつらはしと思はゝ、直讀せむ方、なか/\まさるへし、されと直讀のみしては、文義心得かたきによりて、人皆訓讀はする也けり、おほかたの訓は、もとわか御國言にて、それをかりて漢字をよむ事なるをいふかひなき人は、漢字の訓の如く心えたる多し、いはゆる、「けたし「あたかも「もはら「またく「すなはち「はなはたなとは、ことにわか御国言とはおもはすかし、かつて漢字の訓にはあらす、萬葉集中、いつれもおほくよめれは、訓は先にして、字は後なり、ゆめ/\この先後をわするましき也、されは漢藉をよまむには、まつわか御國言をわきまへされは、かの後素のたくひおほかるへし
  因(ニ)云、この「けたし「あたかもの類は、引くにをよはす、「すなはちといふ詞、古今六帖に、「春たゝむすなはちことに君か為千とせつむへきわか菜也けり、又宇治拾遺、卷十三に「かふりせさすとて、よりて馬そひのいはく、おちたまふすなはち、かふりをたてまつらて、なとかくよしなしことは、おほせらるゝそととひけれは云々、なとみゆ、これらの例を思ふに、「すなはちといふ詞は、漢字のもちひさまとは、置やうかはれるを思ふへし
   〇物語ふみの詞
宇都保物語は時代作者ともに詳ならねと、源氏物語繪合の卷に、「竹とりのおきなに、うつほのとしかけの卷をあはせて、と古物語に列せられたり、けにおほかたの事からも、詞つかひなとも、ふるめきたり、かの四町なと、宇都保物語をまねはれたる所もみゆ、されとも、うつほ物語も源氏物語も、詞はふるきもあり、また俗語のまゝをかゝれたるもましり、なほ字音をさなから用ひられたる詞なとも多きそかし、狹衣は、紫式部かむすめ、大弐三位の作なれは、源氏物語とは、いさゝかのおくれなるを、「法師たてら、なといふ詞さへみえたり、宣長ぬし、すてに源氏物語のことはあけつらはれき、けに御國の文章純粹なるものは、祝詞宣命なり、しかれとも、これのうち宣命は、字音なから用ひられたる所々うちましれり、用捨あるへし、されは文章は、たゝ祝詞宣食のことく、かくへき事なりとはいへとも、かく新古雅俗を心えわきてのちは、いかにも/\かくへきそかし、たとはゝ「かなといふ脚結は、中昔よりいて來てかみつよにては「かもとのみよめり【疑のかもをも、ひとつに「かもとよむ事、かみつよの例なり】かく心得てのちは、「かもゝよむへく、「かなもよむへきかことし、大かた後世の文章は、中頃のすかたを學ふやうなれと、所詮は真名ふみを、假名にうつしたる物のことし、いにしへに照して、こゝろをもちふへきなり
   〇ものゝ上手
大雅堂といひし人、近頃書画をもて鳴れり、わかゝりし時三絃をこのめるあまり、その頃の妙手なりし、安永※[手偏+僉]※[手偏+交]といふ瞽者のちか隣に、わさと卜居して、日々に人々にをしふるを聞て、心をやられき、ある時安永か家にいたりて、かく殊更に近隣に卜居したるよしを告て、一曲をのそむ、安永その志のねもころなるを感して、やかてかたはらにありし三絃をさくりとりて、ひきてきかせき、しかるにその三絃、裏皮やふれたりけれは、いとふくつけゝれと、おのれ一期のおもひ出に、皮全きにて、いま一曲をと乞けるに、安永心よからぬおもゝちして、そこはなにを業とし給ふそと問ふ、大雅答へて、繪をかき侍るといふ安永のいへらく、さはそこは、絵はいと拙かるへしといふに、大雅おもへらく、一道に達しぬれは、よろつのいたりも深きならひなれと、これは瞽者なるを、いかてか繪事はしるへきと、なまかたはらいたけれといかなれは、おのれ絵の拙きをしり給ふそといふに、安永わらひて、いま裏皮やふれたる三絃にてひきたるを、あかすおほす、そのきゝさまにて、繪の拙さはしるき也、すへて三絃は、右に撥をもてれは、右手にてひく事いふも更なれと、左手に精神なくては、妙處にはいたるへからす、いまわか左手の精神、そこの耳に入らぬをもて推すに、絵事もまた、筆は右手にもちてかくいふもさらなれとおそらくは左手に精神あらしとおもふか故なりといひき大雅いといたく感服懺悔してふかく恩を謝してかへりて後絵にふかく心やいりたりけんつひに世に鳴るはかり一家をおこされたりきこれひとへに安永※[手偏+僉]※[手偏+交]か恩にて、やかてわか繪の師なりと常にみつからいはれきと大雅にうるはしかりし本間なにかしこれをかたられきはかなきわさといへともいたりをきはめたるきはゝ人の耳目のおよはぬ所にすら精神はみちたり此物かたりもはらわか御國ふりの要を得たりものいはむにもうちふるまはむにもふみかゝむにも哥よまむにもたゝ耳目のをよひをのみかきりと心えなは、かの安永※[手偏+僉]※[手偏+交]にわらはれんかし
   〇おほつかな
掘川院御時百首に、霞、公實「春かすみしかまの海をこめつれはおほつかなしやあまのつり舟、このおほつかなしといふ詞、今の俗言にいふこゝちす、いにしへは「おほろか「おほゝしなといふ詞とおなしく、何事にもあれ、とりとめなきほとの心にて、おほくは不審なるよしをいひつけたる詞なり、この公實朝臣か哥は、芭蕉翁かはいかいの發句に、「蛍より舩頭醉ふておほつかな、といへるに似たり、これはもとより俗語のまゝを用ひたるなれは、子細なし、哥には心すへき事なり
   〇子持烏
古今六帖に「夏のよの子もちからすのさかそかしよふかくなきて君をやりつる、とよめるをみれは、よるなく鶴のみならす、鳥とても夜はねふたかりけるを、なきて飛ふは、子を思ふ道のやむことなさしるし、萬葉集卷五、山上(ノ)憶良(ノ)朝臣の長哥に世人之《ヨノヒトノ》、貴慕《タフトヒネカフ》、七種之《ナヽクサノ》、寶毛我波《タカラモワレハ》、何為《ナニセンニ》、我中能《ワカナカノ》、産禮出有《ウマレイテタル》、白玉之《シラタマノ》、吾子古日者《ワカコフルヒハ》、下畧、これは男子古日をうしなはれける時の哥なり、又土佐日記に、愛女を土佐にてうしなはれし歎を、かへす/\かゝれたり、この大人たちの心のうち、からすすらとおもへは、いとゝおもひやらるかし
   〇真理
   ある人のかたりき、筥なとつくるに、おほよそ堅き木は、やはらかなる糊ならてはよくつかす、やはらかなる木は、かたき糊してつけされは、よくつかすとそ、世のことわりは、凡庸のおもふには、かならすたかふ所ある事、いと多かるへし、おのれらかはかなきうへは、とてもかくてもありぬへし、天の下をまつりこち、國ををさめ給ふきはゝ、おほかたの理は理にて、かゝる真理をさとりて、ことはかりし給はゝ、事はすくなくて、功は大なるへし、おのれ年比、これらにつけておもひよれる事ともゝあれと、ことわりつよき世なれは、たゝ口つくみてそやみなんかし、菅家万葉集の哥に「かきりなくふかきおもひをしのふれは身をころすにもおとらさりけり
   〇泊瀬寺
信明集に「はせを葉、【物名なり】長谷寺やけたりける比「世中のたのみところにせしものをはせをはかくややかむと思ひし、とあるをみれは、その頃やけしなるへし、元亨釋書、卷廿八(ニ)云「長谷寺(ハ)者、比丘道明、沙弥徳道、【乃法道仙人也】戮(テ)v力(ヲ)建、中畧有2沙弥徳蓮1、養老四年移(シテ)置2峯頭(ニ)1、蓮欲(スレトモ)2彫造(セント)1而(モ)無v由、朝暮向(テ)v木(ニ)悲泣禮拜、時(ニ)藤房前、奉v勅与(ヘテ)2官租(ヲ)1辨v之(ヲ)、神亀四年成、屈(シテ)2行基僧正(ヲ)1落慶(ス)云々、とあり、信明朝臣は、おなし集に「亭子院うせさせ給ひつる御ふくにて、「こその春枝にてをりし藤のはな衣にきむとおもひけむやは、とあれは、宇多帝より、延喜帝の御時にかゝれる人なり、その時代おもふへし
  因(ニ)云、芭蕉を物名にてよめる哥は、古今集にも、「いさゝめにときまつまにそひはへぬる心はせをは人にみえつゝとあり、これは芭蕉一種ならす、さゝ〔二字傍線〕まつ〔二字傍線〕ひは〔二字傍線〕はせを〔三字傍線〕葉、四くさを物名とせるなり
   〇稱譽
水鏡、平城天皇の條に、「同二年十月廿二日に、弘法大師、もろこしよりかへり給へりき、【同書、桓武天皇の條に、「廿三年五月十二日、弘法大師、生年卅一と申しに、唐へわたりたまひき、七月に、傳教大師、おなしくわたりたまへりき、とみゆ、そのまへに、傳教大師には、入唐の宣旨をくたされたりし事あり、因によりてこゝに記しつ】東寺の佛法、これよりつたはれりしなり、この大師、あらはに権者とふるまひたりき、御手、ならひなくかゝせたまひしかは、もろこしにても、御殿のかへふたま侍るなるに、羲之といひし手かきの、ものをかきたりけるか、年ひさしくなりて、くつれにけれは、又あらためられて後、大師に、かき給へと、もろこしのみかと申たまひけれは、いつゝの筆を、御くち、ひたりみきの御あし手にとりて、かへにとひつきて、一度にいつくたりになんかき給ひける、とあり、これ必虚談にはあるましけれと、あまりにほめ過せは、なか/\なることもある物なり、蓮如上人の御筆草とて、草の根の細きをよせて、筆のことくしなして、ものかゝせたまへりしとか、それは、筆のともしき國なりしかは、おほしつきて、さる事もしたまひつらめ、この上人の御とくにて、その地にかきりて、此草はおふる也といふに、近き頃、角鹿、氣比(ノ)神社の神職石束ぬし、そのあたりに見得たりとて贈られつる、よく筆に代れり、かの御筆草は、これなるへし、称譽も、程をすくれは、かへりて其徳をそこなふ事もあるへし、いはゆる蛇足ならんかし
〔画像畧、その説明文、石束ぬしに得たるを、今こゝに圖す、本草綱目穀之部に「※[草がんむり/師]草とあり、西土にもあるなるへし、こゝにては筆草、また弘法むぎともいふとそ、越前越中にいと多くあり、又長門出雲なとにもあり〕
   〇夜もすから
よもすからといふ詞、後世には、いたく心得あやまれり、それは、此詞を誤れるにはあらて、も〔傍線〕もしに麁なる也、事からによりて、終日こそあらめ、夜さへ終夜さあるへしやと思ふ時、「よもすからとはいふへき也、土佐日記に、【前日、「日ひとひ、雨やます、とあり】「廿八日、よもすから、雨もやます、けさも、とあるは、その終日ふりくらしゝ雨なれは也、又「二日、雨風やます、よもすから神佛をいのる、とあるは、晝にはわたらねは也、この二例のけちめをおもふへし、後撰集に【讀人不知】「よもすからぬれてわひつるから衣あふ坂山に道まとひして、千載集に俊恵よもすから物思ふ比は明やらぬ閏のひまさへつれなかりけり、なとよめるは、晝には必けちめあるへき事の、しかあらぬをなけきて、も〔傍線〕とはいへる也、しかるを後世になりては、草根集に【正徹か家集也】神樂「よもすからをたまきならてくり返ししつやの小菅うたふ聲哉、一人三臣に、雅俊「よもすから嵐もよきてはらふなよ月にさはらぬ花のしら雪、なとあるは、神樂、月、ともに、ひるとのけちめあるへき物にもあらねは、も〔傍線〕もし詮なし、されは、物から事からによる詞也としるへし、萬葉集、卷十三【長哥上下畧】「赤根刺晝者終尓野干玉之夜者須柄尓【アカネサスヒルハシミラニヌハタマノヨルハスカラニ】云々【古今集にも、「よるはすからに夢にみえつゝともあり】かくは〔傍線〕とよめるにむかへてもおもひうへし
   〇猿滑
今よに猿すへりといふ木は、百日紅といふ、これをは、猿なめりとそいひけらし、夫木集に、猿滑「あし引の山のかけちの猿なめりすへらかにてもよをわたらはや、為家とみゆ、しかれとも、此末句、「すへらかにてもとあるは、「さるすへりすへらかとつゝくへき語勢とおほゆれは、滑〔傍線〕といふ字は、もと義をもてかきたりしを、萬葉集に「常滑《トコナメ》なとかけるたくひに見て、後人さかしらに、なめり〔三字傍線〕と書あやまれるにやとおほし
   〇葉守神
枕草紙に、「かしは木、いとおかし、葉守の神のますらんもいとかしこし、とある、これは拾遺集に、「かしは木に葉守の神のましけるをしらてそをりしたゝりなさるな、といふ歌よりいふなるへし、其後にも、新古今集に、雨中木繁、基俊、「玉かしはしけりにけりなさみたれに葉もりの神のしめはふるまて、ともみえたり、葉もりの神といふ神は、神書にみえす、これは、かしは木の葉のおちぬるゆゑに、葉を守りたまひておとし給はぬ神のおはしますらんとていふなるへし、されと、かしは木に、かきれるは心えかたし、たゝいひならへるにしたかふなるへし、おほかた、かうやうの類おほき事也、「このもかのもは、つくはねにかきり、「心つくしは、木間にかきれるやうに心うるも、皆古人のあとをふむなり、古人のあとをふまむは、やむことなき事なれと、古人とても、いひもらせる事あらむは、勿論なるを、しかのみ心えたるは、愚なるにちかゝるへしかし
   〇心葉
心葉とは、風情のために、つくり花の、えたなとを、ものにつくるをいふ、類聚雑要抄に、心葉の圖ありて、「心葉二枚、甲乙料、象限青村濃二倍方九寸、銀銅薄、梅花之上(ニ)、上卷付v之、上卷(ノ)手長二寸、末(ノ)垂五寸、壷共之上(ニ)置v之、梅花二倍、とあり、これは壷のふたなり、されと壷にもかきらす、同抄、筥にも心葉はみゆ、この圖は板にてつくりて、上に大なるは五所、小なるは一所、くみ緒のむすへるをつけたり、今案するに、もと此板をは心葉といふにはあらし、その板のうへに、をり枝なとをつくるをいふ名なりしか、つひにその板をも、心葉とはいひなりぬるにこそとおほしきなり、源氏物語に「えんにすきたるちんのはこに、おなしき心葉のさまなと、いと今めかし云々、とあるは、此板を心葉といへるなるへし、栄花物語に、「はこひとよろひに、たきものいれて、つかはす、心葉、うめのえたなり、とあり、又雅亮装束抄といふ物に、「かふりに、ひかけといふものを、左右のみゝのうへにさけたり、かふりの|こし《巾子》のもとに、ひかけのかつらといふ物をゆひて、しろきいとのはしなとほとからくみなるして、あけまき《總角》にな《蜷》をむすひさけて、かた/\に四すちつゝ、かふりのつのをはさめて、まへにふたすち、うしろにふたすち、左右にさけたる也、この糸かさる所に、こゝろは《心葉》とて、うめの枝のちひさくつくりたるを、このかつらにまとひてたてたり、かつらなけれはあをきいとよし、この|こゝろは《心葉》、かふりのまへのすちのもとゝ、うしろのかつらむすひたる所にたつといふ人あり、ひかけ、かた/\に八すちもあり、こゝろ/\也、とみゆ、これらはまさしく、心葉とは、そのをり枝の名なるをや、おほかた人に物贈る時、風情をあらせてする事常なれと、此装束抄をみれは、おくり物にかきらす、風情にしつる事とおほし、今民間に、上巳、端午、重陽等のおくり物に、桃、菖蒲、菊なとをりそふるは、この心葉のなこりなるへし
〔類聚雑要抄心葉圖として図有り〕
【源氏物語、總角の卷に「中の君、くみなとしはて給ひて、心葉なとは、えこそおもひよりはへらねと、せめて聞えたまへは云々、又、相如集に「かう二位の大將とのゝさふらひの人々、さみしかりて、すけゆき、かけあきらかもとにいひやりたれは、すけゆき、からものゝくたものゝなかに、せに、ふたついれて、「ともしきをたか心葉と人とはゝいさしら菊の露となたつや、又、源太府集に「内大臣とのに、折櫃にとりをいれて、梅のはなさしてまゐらせたりしかは、「うくひすやぬきすてゝけんきゝすさへいつよりきるそうめのはな笠、なとあるをもおもひあはすへし】
   〇雲のかへし
雲のかへしとは、雨のはるゝ時にふく風をいふ、かへすとは、西北の方より、東南のかたに雲を吹きやるを云、雲西北にゆけは、かならす雨ふる、その反をおもふへし、袋草紙(ニ)云「後拾遺にもれたる究竟の歌とて、掘川右府、「春雨にぬれてたつねむ山さくら雲のかへしのあらしもそふく、つねにはかく雲のかへしとのみいふを、更科日記に、「雨ふりくらいたる夜、雲かへる風、はけしう打吹て、ともかけり、宇治拾遺卷三に「こちのかへしの風とよめるは西風の事をいへり
   ○一升瓶
世継物語に、「ひとりして、ふたりか物をはもつへきそ、ひとますかめに、ふたますいるやといふ云々、今俗に一升いる袋には一升といふは、これかもとなるへし、かめといふは、酒なといるゝうへにていふにこそ、後世袋といふは、米なとのうへにいふかたかへり
   〇君の淵
韓非子(ノ)曰、「勢(ヒ)重(キ)者(ハ)人君(ノ)淵(ナリ)也、簡公(ハ)失2之(ヲ)於田成(ニ)1、晋公(ハ)失2之(ヲ)六卿(ニ)1、おのれしたしき家、いまた創業より八十年はかり、そのさかえたくひなし、そのさためおかれし家の掟とも、こと/\くいたり深きか中に、こと更におほゆるは、すなほにして才畧なともなきものは、世禄とし、才ありて事にさときものは、ほと/\に業をあたへて、世禄の者とせすとそ、このぬし、からふみをひろくみたりし人なりしかは、もしこの韓非子か語を思はれつるにや、東坡(カ)詩に「人皆養(フニ)v子(ヲ)望(ム)2聰明(ヲ)1、我(ハ)被3聰明(ニ)誤(マ)2一生(ヲ)1、惟願(ハクハ)孩子愚(ニシテ)且(ツ)魯(ナレ)、無實無難(ニシテ)列(セン)2公卿(ニ)1とつくれり、實事を經たる人は、此さかひをはよくしれりき、けにわか大御國にも、この淵にしつめりしは、かそへもあへすかし、しかれとも、才畧あるとなきとは、まのあたり事の遅速あるか故に、世みなこの韓非子か心をしらぬそ、いと心くるしきや
   〇鶴脛
うつほ物語に、「むかしうちの院に、つるはきはたかにて、家にゐつゝ、ふみのみゆるかきりは|まいらて《ま|も《ほイ》、らへてイ》、よるは蛍をあつめて、かくもんをし侍りし時に、こゝちつねにおもしろくたのもしく、おもふ事なくはへりし云々、これは書生の、學問に心もはらにて、容体なとに心なきさまをは、鶴脛裸とはかゝれたる也、又同し物語に、「かいねりのこうちき、すきはりうちき給て、つるはきにて、いとちひさくおかしけなる琵琶をかきいたきて云々、とあるは、童女のさまなり、いつれも、衣のすそみしかくて、脛の出たるを云、又拾遺集に、「かも河を鶴はきにてもわたるかな、とあるは、衣みしかきにはあらて、裾をまくりあけたるを云、詞はもちふるにしたかひて、かく自在なるものなる事、これひとつにてもおもふへし、これ皆詞のうへの自在にはあらす、うへはたゝひとつにて、うちの自在なるそかし
   〇詞の緩急
おほよそ、「これを、こ〔傍線〕といひ、「それを、そ〔傍線〕といひ、「たれを、た〔傍線〕といひ、「かれを、か〔傍線〕といふたくひ猶多し、「これといふは、事からの緩きなり、こ〔傍線〕といふは、急なる也、みな緩急のたかひめ也、たとはゝ、萬葉集卷三に「如聞《キヽシコト》、真貴久《マコトタフトク》、寄母《アヤシクモ》、神左備居賀《カムサヒヲルカ》、許禮能水島《コレノミツシマ》とよめる歌「許禮能は、「許能に同しとのみ心えては全からす、真淵ぬしか注書ともに、「これはといふへき所をも、すへて、「こはとのみかゝれたり、そか中には、かなへりとみゆる所もあれと、緩くてあるへき所も多し、大家の詞には、よに酔ふ人おほきそかし、おほよそ、急なるとは思慮計較を用ふへきいとまなき事をいふ、緩はこれか反なり、すへて、緩をいふは、急の別なり、急をいふは、緩の別にて、たかひにてらして、緩急を示すなりとしるへし、よくおもひわくへき事なり
   〇助字のたくひ
すへて、助字、やすめ字、發語、なといふ事、先達の注書ともにみゆる、常のこと也、しかれとも、たすくるも、助くへきゆゑありてこそたすけめ、やすむるも、やすむへき故ありてこそやすめゝ、發すも、おこすへきゆゑありてこそおこさめ、或はたすけ、あるはたすけす、あるはやすめ、あるはやすめす、あるはおこし、或はおこさすやはあるへき、さるへき故をもとかすして、たゝ助字、やすめ字、發語なといひてやみなんは、くちをしきわさならすや、後學いうそくの人も、猶これをことわるなく、たゝ先蹤をふみて、さてのみやみたるは、所詮は遯辭とやいふへからん、しかたすけ、たすけす、やすめ、やすめす、おこし、おこさぬは、かならすその別をは、よくわきまへすは、おそらくは、たすくへきをたすけす、たすくましきをたすけ、やすむへきをやすめす、やすむましきをやすめ、おこすへきをおこさす、おこすましきをおこすあやまり、かならすましるへきをや
   〇詞の延約
先達の注書に、詞の延約ふたつをいはれたり、たとはゝ、「かへらふは、かへる〔三字傍線〕を延たるなり、「けらくは、けるを延へたる也なといふ、これなり、【此反、「かへるは、「かへらふ〔四字傍線〕」の約、「けるは、けらく〔三字傍線〕の約なりとの心なるへけれと、らふ〔二字傍線〕らく〔二字傍線〕なとは、別に義ある詞なれは、延約をもていふましき事なり、くはしくはこゝにいはす】歌はおほかた、もしの数もさたまれる物なるか故に、やことなくのへつゝめたるなとも、たま/\はあるへけれと、延約も、なほ皆義ある事なるを、おもふまゝに延約をもてとかは、詞の大旨をうしなふへし、反切なとも、やことなき法あるを、しひてもとめは、必しひこといてくへきそかし、しひことも、かれこそしひことしつれと、人にあさけられむは、たゝおのれひとりかうへなれはさてありぬへし、後學をまとはする罪、さりかたかるへきをや
   〇散禁
萬葉集、卷六「四年【神亀なり】丁卯春正月勅2諸王諸臣等(ニ)1、散2禁於授刀寮(ニ)1時(ノ)歌一首并短歌、「真葛延《マクスハフ》、春日之山者《カスカノヤマハ》云々、この左注に、「右、神亀四年正月、数王子及諸臣子等、集(テ)2於春日野(ニ)1而作(ス)2打毬之樂(ヲ)1、其(ノ)日忽天陰雨雷電(ス)、此(ノ)時宮中無2侍従及侍衛1、勅(シテ)行2刑罰(ヲ)1、散2禁於授刀寮(ニ)1而妄(リニ)不(ラシム)v得v出2道路(ニ)1、于v時悒憤(シテ)即作2斯(ノ)歌(ヲ)1、とある、この散禁とは、令(ノ)義解(ニ)云「凡(ソ)禁囚死罪枷※[木+丑]、婦女及流罪以下(ハ)去v※[木+丑](ヲ)、其(ノ)罪散禁とみえたり、これ他行を禁せらるゝを、散禁といふなり、さきつとしわか伯父※[さんすい+其]園、禮記講しゝを聞きしに「散齋七日、致齋三日、といふ事ある、此散の字の義は、耳目口鼻に各心をおき、嗜欲を糺してゆくを云、されは心を散にしてものいみする義也、アソココヽと譯する字なりといへり、致齋は別のわさするにあらす、散齋してのうへにみかきをかくる事なりとそ、これは祭統の語にて、祭のうへのものいみをいふなれと、散の字の心は同しかるへし、續日本紀、卷八、養老五年正月甲戌の詔に、上畧「自今以去、若(シ)有(ラハ)2風雨雷震之異1、各存(セヨ)2極言忠正之志(ヲ)1とあり、神亀四年まては纔に六年なるに、此詔をそむかれたりける故に、かく散禁はかうふられたりけるにこそ
   〇纒頭
「こせんにはかつけものし、御うまそひ、さうしきには、腰さしせさせ云々、と宇都保物語にみゆ、この腰さしとは、腰にさして帰るへく、※[糸+施の旁]布《アシキヌヌノ》なと、卷たるなからとらするをいふにや、必それにもかきるましけれと、下さまなるものにとらする物をいふにて、かつけものといふには、一等かろきなるへし、かつけものとは、頭にかつきてまかり出ぬへき心なるへし、いつの頃よりか、をのこにはをのこの衣をかつくる事とは成りにけん、むかしはかつけ物とたにいへは、必女のさうそくなりき、をのこに女のさうそくをかつけられし事、わか御國ふりみつへき所なり、あらはにいはむは、なか/\なれは、今その意味はこゝにもらしつ、かの小松内府の、源仲綱に、傾城のもとへ乗りてかよへとて、馬をたまひし、その意味、女のさうそくを男にかつくると等類にて、いつれも/\、いと心ふかきわさなり、なほ法師にすら、女のさうそくをかつけられし也、佛名には、綿をかつけらるゝ例也
〔承久の頃の画巻物にみえたるかつけ物の図、として図有り。同し卷物にみえたる図也、この手にもてるはふみなり、狹衣にかつけものたひたる人のうちかつきてかへりたるさまを所々かゝれたり、としてそれぞれ図有り。〕
 
北邊隨筆卷之二 終
 
北邊隨筆 初編 三
 
北篇隨筆卷之三
目録〔最初の所にまとめた〕
 
北邊隨筆卷之三 初編 
          平安  富士谷御杖 著
 
   〇手もすま
手もすまにといふ詞、萬葉集、卷八「戯奴《ワケ》【変(テ)云2和氣(ト)1】之為《カタメ》、吾手母須麻爾《ワカテモスマニ》、春野尓《ハルノヌニ》、抜流茅花曾《ヌケルツハナソ》、御食而肥座《メシテコエマセ》、また、同卷に「手母須麻尓《テモスマニ》、殖之芽子尓也《ウヱシハキニヤ》、還者《カヘリテハ》、雖見不飽《ミレトモアカス》、情將盡《コヽロツクサム》とあるをはしめにて、のちにも多くよむ詞なり、宣長ぬしは、須麻〔二字傍線〕は數《シハ》のうつれるにやといはれたり、なほ思ふに、古事記神書に「八尺勾※[王+總の旁]之五百津之美須麻流之珠《ヤサカマカタマノイホツノミスマルノタマ》とあるを、神代卷には、「御統《ミスマル》とかゝせたまへり、この須麻流〔三字傍線〕は、統《スフ》るといふにおなし語にて、星の昴といふを、須麻流星といふもまた同し、されは、手もすまに〔五字傍線〕とは、手してするわさのあつまれる貌なれは、即手のたえまおかす、其わさをなす心なり、數《シハ》といふも、もとはこの須麻〔二字傍線〕と同義の詞なるへけれは、宣長ぬしか説に事たりぬる事なれと、須麻流〔三字傍線〕はやかて同詞なれは、こゝに補ひおく也
   〇夢現
亡父成章(ノ)云、いねてみるは夢なり、さめてみる所はうつゝなり、今いふかひなきものゝ、夢にもあらす、さめてもあらぬを、うつゝといふは、夢かうつゝかなといふ詞を、大かたに心得たるなるへしといへり、けに、俗言にいふ所をもて古言をあやまる事すくなからすかし
   〇重線
亡父成章、又云、重線は、かんなには、「きぬ/\「あふな/\、如此かくへし、いにしへ、「きゝぬゝとかけるを、草書して「き々ぬ々とかけるか、後にかくなれる也、から人も、「死罪死罪を、「死々罪々とかき、これを草書して、「死々罪々なとかけるか多し、「はろ/\といふことを、日本紀に、波々魯々尓とかき、「もそろ/\にといふ事を、出雲風土記に、「毛々曾々呂々、「こをろ/\を、古事記に、「許々袁々呂々とかけるも、同し事なり、「浦々山々なと、真名にかゝむには、「浦/\山/\なとはかくましき也、又|行《クタリ》つまりて、下に、「浦とかき、上へあけて、「々なとかくへからす、もししか下につまりたらん時は、上にも「浦とかくへしとそ、傭書家なとのかけるものには、此あやまり多き事なり
   〇學問
荀子勧学(ノ)篇に、「小人之學也、入(テ)2乎耳(ニ)1出(ツ)2乎口(ニ)1、口耳之間則四寸耳、曷以美2七尺之躯(ヲ)1哉云々、目に見たるも亦しかり、すへて見聞たる事、さなからもちひたらんは、いまた我物とはいふへからす、美味の物とても、かますしてくらはむに、そのあちはひいかてか美ならん、たゝ一言も、よくかみくたきて、わか物としおきて、さてのちこそ、もちふへけれ
   〇散木
俊頼朝臣の家集を、散木奇歌集と名つけられたり、此散木とは、無用なる木の事なり、荘子にみえたり、これによりて、謙遜して名つけられしなり、いはゆる、散位、故人なと、みなこの心なり、散事といふことも紀中にみゆ
   〇あしきぬ
後撰集に、「あしきぬはさけかゝみてそ人はきるひろやたらぬと思ふなるへし、といふ哥あり、あしきぬは、よからぬきぬを云、さけかゝみてとは、手をさげ屈《カヽ》みての心なるへし、ひろとは、左右の手をのへては、尋《ヒロ》にたらすと思ふかゆゑに、手をさけかゝみて、人の着るといふ心なるへし、あしきぬは、幅もせはけれはなり、催馬樂、角總に「安介万支也《アケマキヤ》、止宇止宇《トウトウ》、比呂波可利也《ヒロハカリヤ》、止宇止宇《トウトウ》、左可利天祢太禮止毛《サカリテネタレトモ》、万呂比安比介利《マロヒアヒケリ》、止宇止宇《トウトウ》、加與利安比介利《カヨリアヒケリ》、止宇止宇《トウトウ》とあるも、一尋はかり引さかりて寝たるをいふ、其外、古事記に「八尋殿《ヤヒロトノ》「各|隨《マニ/\》2己(カ)身之|尋長《ヒロノナカサノ》1云々、「一尋和迩《ヒトヒロワニ》なといひ、六帖に、「ちひろの舟ともよみ、其外、海、また竹なとを、千尋とよむ事つねなり、左右の手を一文字にのへたる長さを、ひとひろとはいふ也、萬葉集卷五に「綿毛奈伎《ワタモナキ》、布可多衣乃《ヌノカタキヌノ》、美留乃其等《ミルノコト》、和々氣佐我礼流《ワヽケサカレル》、可可布能美《カカフノミ》、肩尓打懸《カタニウチカケ》云々とよみたる可々布〔三字傍線〕といふ事、袖中抄には、「かゝふは、つゝれの中にも、ます/\やれて、手にもとられぬをいふなるへし、又云、「世話に、きり/\すつゝりさせ、かゝはひろはむとなく、といへりともあり、宣長ぬしは、新撰字鏡に「※[巾+祭]、先列(ノ)反、残帛也、也不礼可々不《ヤフレカカフ》とあるこれなりといへり、これによりておもふに、此長哥、もと貧窮問答なれは、かた/\此哥により所もあれは、「さけは、裂〔傍線〕にて、「かゝみは、「かかひを、み〔傍線〕にかよはせて、いへるにやともおほし、されとも、末句の「ひろやたらぬといふにうちあはせては、なほこれにはあらしかとそおほゆる、續日本紀、延喜式等に、「※[糸+施の旁]の字を用ひられたり、その餘の諸書にも多くみえたり、字彙に「※[糸+施の旁]、申之(ノ)切、音詩、説文(ニ)云、粗緒也、一(ニ)曰、※[糸+曾](ノ)属、廣韻(ニ)云、※[糸+曾]似v布(ニ)なとみゆれは、あしききぬなり
   〇紫式部見解
源氏物語は、むねとは、女のうへをあけつらへる物なから、男のうへも、なほおもはぬにはあらさるへし、すへて、草子地ととなふる所々は、式部か見解をみつへき詞なり、されは此物語をみむには、草子地の詞をふかくあちはひ、心をとゝめて、式部か此物語かきたる主意をしるへし、いはゝ草子地をもて一部をくゝりたる物なれは、その中間なる詞花に、めをうははるましきなり
   〇哥の得失
袋草紙に、良暹法師、「宿ちかくしはしなかなけほとゝきすけふのあやめのねにもくらへよ、これ長鳴の心によみたれは、懐圓嘲哢して、ほとゝ鳴きはしめて、きすとなかむにやといひし、また良暹、江州より上洛の時、會坂にしくれにあひて、石門にたちいりて、かしこくぬれすと人にいひしを、懐圓咲ひて、それは石の廉にて侍る、不2知(リ)給1歟不便云々といひし、又近蔵人君意馬「鷄冠木《カヘテ》をは、紅葉と存て、於2或所(ニ)1、もみちのもみちとよみて被v咲、また能登(ノ)大夫資基、「彦ほしつめといふ事をよみて、被2皷動(セ)1なと、かうやうの失をさま/\あけられたり、むけにいふかひなききはゝしらす、今の世には、先達の發明とも、よゝにかさなりにたれは、かはかりの事は、人皆よくこゝろえわきたれと、歌は、良暹、資基はかりの哥よみは、よにありかたし、この失ありて哥よくよむと、失なくして哥よくもあらぬとは、いつれをかまされりといはん、袋草紙は、歌よみのつねにみる物なれは、これらの事を、いかにみ、いかに思ふらんとて、おとろかしおく也、これ哥のうへのみにあらす、おほかた人の得失亦かくの如し、失小にして得大ならは、失はとかむるにたらさるへし、失大にして得小ならんに混しなは、有用の人もつひに世にかくれなんかし
   〇美許登
おほよそ國學に弊ふたつあり、ひとつは、からまねひもはらにて、其をうしなふなり、ふたつは、からいみもほらにて、真をうしなふなり、からこのみに真をうしなふとは、たとはゝ、神代卷に「至尊(ヲ)曰v尊(ト)、自餘(ヲ)曰v命(ト)と自注したまへる類なり、「美許登《ミコト》とは、御言《ミコト》の義にて、尊〔傍線〕命〔傍線〕なとの別あることにはあらぬをや、神書に【古事記上卷】「天(ツ)神諸|命以《ミコトモチテ》、詔3伊邪那岐命伊邪那美命二柱(ノ)神(ニ)修2理固成《ツクリカタメナセト》是(ノ)多陀用幣流《タヽヨヘル》之|國《クニヲ》1云々とあるをはしめて、みな命の字を用ひられたる、これ即御言の義なれは也、されは美許登とは、天神の御言のまに/\、ものおほせらるゝよしをいふたゝへとおほし、此二神、まへには神とたゝへ、こゝより命《ミコト》と称へられたるにおもふへし、これをは本として、神功紀に、「宰の字を、「美許登母智《ミコトモチ》と訓せられたるなと、おもひあはすへし、上野(ノ)國多胡郡の碑は、和銅四年の物なり、それに、左大臣正二位石上朝臣麻呂をは、「石上(ノ)尊《ミコト》とかき、右大臣正二位藤原不比等を、「藤原(ノ)尊《ミコト》とかけり、これら、かの舎人皇子の自注うけかたき所以にして、もと訓を主とし、字にかゝはらさる事をさとるへき證そかし、又、からいみに真をうしなふとは、神書に、「八の字を多くもちひたまへるを、から國にて、八卦〔二字傍線〕をはしめ、八元〔二字傍線〕、八※[立心偏+豈]〔二字傍線〕なとの類おほく、八の数を貴ふか故に、それに類するをいみて、八《ヤ》は弥《イヤ》の伊〔傍線〕のはふかりたる也とする類これ也、たとひから国にて八をたふとふにもあれ、それに類するにもあれ、かゝはるはなか/\なるへし、神書の八〔傍線〕は、なほ伊夜〔二字傍線〕の義にはあらすして、八の数をいふに疑なき事、同書、大八島の数をはしめ、迦具土《カクツチノ》神の御身になりませる山津見《ヤマツミ》、伊邪那美命の御身なる雷神《イカツチカミ》、なと、「頭、胸、腹、陰《ホト》、左右(ノ)手足とかそへられ、なほ大宜都比賣の御身にかそへられしも、八の数なるそかし、この二弊は、ふかくかへりみるへき事なり
   ○七夕
亡父成章云、たなはたは星の名なり、七夕は、なぬかのゆふへなり、たなはたを七夕とかくへからす、萬葉集にも、「なぬかのよひとよめり、俗に、七夕を、たなはたとよむ事、そのいはれをしらすとそ
   〇ゆづ
狹衣に「雪やけに足もはれて、なやましうおほさるれは、ゆてつくろひなとして、あるきなともし給はす云々、今は霜やけとのみいふは、これよりうつれるにや、又この雪やけ、いまもいふ所あるにやあらん湯して足をあたゝむるを、「ゆでつくろひといへるも、今は菜なとをこそさはいふなれ、菜をゆつといふは、今のみにあらす、ふるくいひける事なり、催馬樂、大芹「おほせりは、くにのさたもの、小芹こそ、ゆてゝもうまし云々、とよめりされは此狹衣のは、もと菜をゆつといふより、轉用せるなるへし、新撰字鏡、火(ノ)部(ニ)云「※[火+緤の旁]、※[さんすい+楫+戈]、〓、同士洽徒牒二反、以(テ)v菜(ヲ)入(ルヲ)2涌湯(ニ)1曰v※[火+緤の旁](ト)、煮也、奈由豆《ナユツ》ともみえたり
   〇柚の漬様
御杖か八世の祖紹務、坐右剳記のうちに、片桐石見殿柚の漬やう、七月時分の青き柚を、木よりとりたてを、上々古酒一升に、塩三合いれ、からかね鍋にて、七分に煎し、一夜其まゝ置候へは、からかねの氣《ケ》出申候、此汁へ、柚二十はかり、葉をつけて、二十共小口きりにてつほへ入れ、口をはり包み、涼しき所に置申候、つかひ申候前日より、水につけ塩出し置申候也とあり、もとは世々、足利將軍につかへたりしか、此紹務は、大和大納言秀長卿に仕へたりし、秀長卿御没落のゝち、浪士となりて京にすみける程、ゆゑありて、その男紹味より、筑後柳川につかへぬ、されは此事、紹務やまとに仕官のうち、石見殿に親炙して聞たりし事なるへし
   〇連歌
連歌のことは、をのれえしらぬすちなれは、さかしらにいふへき事にはあらねと、連哥を嗜める人のかたりつるは、己達のうへは子細なけれと、初学のほとは、前句をうけてつくに、よしなからんことはつくましけれは、大抵つくへきやう、その教ありとそ、その濫觴をおもふに、袋草紙に、清輔朝臣、躑躅夾v路(ヲ)といふ題にこのもかのもといふ事をよみたるに、範兼、顕廣なと、筑波山にこそあれ、平地にこのもかのもとはよむへからすと難せられけるに、躬恒か假名序に、あまの河に、かさゝきのよりはの橋をわたして、このもかのもにかよふ、とかきたるやうに覚悟すと答へられしかは、勝になりぬ、そののち中院右府、入道九條大相国なと、この事御沙汰ありて、面目を得られきとかゝれたるをみるに、その頃は、歌合にかきらす、かゝる類おほかりき、これらの風俗のつたはりて、よしなからん事はいふましきことゝなり、終に連哥にもをよひけるなるへし、頓阿法師か集にみゆる連歌すら、さる事とは見えす、ましてそれよりいにしへをや、袋草紙に「連歌(ハ)本末只任(セテ)v意(ニ)詠v之(ヲ)とみえたるそ、真面目なるへき、撰集なとに、連哥といふは、みな本末はかりにて、数句連續なるはなき也、哥よみも、いにしへは堪能多かりしを、やう/\むかしに劣りゆくをは、むかし人はすくれ、今の世の人は及はすとこそ、誰も/\おもひたるらめ、おのれ思ふに、さらにさる昔今のけちめあるにはあらす、たゝ教導のなすわさにて、おほかた人の才を閉るかゆゑに、むかし人にはおとりゆくそかし、たとへは、枝をためおけは、雲をも凌くへき松も、さなから老るか如し、さきつ年、わか同僚、水練にかしこきあり、いはく、水練を教ふるには、首筋をとらへて、水の中にその首をさし入れ、その息の堪さるを限にて引あけ、いく度もかくすれは、やう/\息をつむる事なかくなりぬへし、息たになかくなり得れは、死せさる事必せるを、みつから決心するか故に、いかなる水中にいりても、身體の自在は、おのつからなりといへり、けに水練の要術なるへし、なにの道とても、かゝる要處をもてみちひかは、十年の効一年にもなりぬへし、今かくいふ事、規矩準縄をやふれとにはあらす、たゝ要處のみをおしへて、人の才を閉る事なく、今人をして古人におとらしめさる様にあらまほしさに也、されはかの連哥のさためも、もと連哥者流のとかにはあらすかし【このもかのもの詞、永久四年百首のうちに、蛙、俊頼「時しもあれみなふち川を朝ゆけはこのもかのもにかはつなくなり、又、蝉、兼昌「なつ山のならの廣葉にかくろへてこのもかのもになく蝉の聲、なとあり、此ころには、さる議論もなかりしにこそ、時代のさま、これにても思ふへきなり】
   〇詞の斟酌
後世のをしへに、これはよむへからす、それは用ふへからすといふ事おほし、そのおこれる所、みな哥合の弊なり、判者となる人は、みな其世の大家なれは、その論を信するはやことなきわさにはあれと、左右をたてゝ勝負をきそふうへにこそあれ、つねよむ哥に、なにかはさる事あるへき、つゝ〔二字傍線〕、かな〔二字傍線〕なとも、その濫觴は猶同しかるへし、しかれとも、たゝ「おもふとのみいふへきを、おもふかな〔五字傍線〕とよみ、「ほとゝきすとのみいふへきを、ほとゝきすかな〔七字傍線〕とよみ、「雪ふるとのみいふへきを、雪はふりつゝ〔六字傍線〕とよみ、「おとろかるとのみいふへきを、おとろかれつゝ〔七字傍線〕なとよむ類いふかひなききはには、なきにしもあらねは、さもあるへき事なから、かゝる事は、此ふたつにもかきらす、「こゝちすとのみいふへきを、こゝち社すれ〔六字傍線〕、「春きにけりとのみいふへきを、春そきにける〔六字傍線〕とよむ類、猶いと多きをや、こゝをもておもへは、斟酌すへき詞も、先達の制しおかれさりけるは、しかも思はす、先達の制とたにいへは、深くも思はてもちひぬは、ともに親切なる物まねひとは、いふへからすこそ
   〇松虫鈴虫蛬
亡父成章云、松むし鈴むしは、今の人は、鈴虫を松虫といひ、まつ虫を鈴むしといへり、たた此比、女わらはへなとの、いひたかへたるにこそあるらめと思ふに、元和の比、玄圃といふものゝ書きたるものに【雛屋玄圃とて、俳諧に名ある人なり、手なとも、いとめてたかりしなり】松虫鈴虫は、名をかへことにしたるか、百番のうたひつくりたる比まては、むかしのまゝにいひたるにや、たれまつむしのねはりん/\としてといへり、と書たり、これによりてみれは、かくいひたかへたる事も、年久しきことゝそおほゆる、猶りん/\となくは、松虫、ちり/\となくは、鈴虫とさたむへし、蛬は、今のいとゝといふものなり、【御杖云、浪速人は、このいとゞをは、いとぢといふ、「と」の「ち」にかよへるなるへし】床にいり、かへにのほる、霜夜に声よわるなと、いとゝなる事疑なし、つゝりさせとなくを、いとゝにいひつけたるにて思ふへし、滋野井殿御家蔵の虫尽の歌合の絵〇【此下は紙破れてうしなはれたり】
 御杖因(ニ)云、和名抄に、「兼名宛(ニ)云、蟋蟀、悉率二音、一名、蛬、和名、木里木里須《キリキリス》とあり、しかるに、蔡〓(カ)月令(ノ)章句に、「蟋蟀(ハ)虫(ノ)名、俗謂2之(ヲ)蜻※[虫+列]1とあれは、蜻※[虫+列]、蟋蟀は同物なるへし、和名抄に「文字集畧(ニ)云、蜻※[虫+列]、精列二音、和名、古保呂木《コホロキ》とあるを、後はたゝきりきりすといふ名のみありて、こほろきとは歌にもよまぬは、かみつよには、こほろきといひしか、きり/\すとのみいふ事と、なりぬるにやと、千蔭ぬしか萬葉集畧解、卷(ノ)十、詠2蟋蟀(ヲ)1といふ哥の下にくはしくいはれたり、これは春海ぬしか考とそ、雜藝、宇波良古支《ウハラコキ》に上畧「以名舌萬呂波《イナコマロハ》、拍子宇川《ヒヤウシウツ》、支利支利須波《キリキリスハ》、鉦皷宇川《シヤウコウツ》とあるをみれは、この哥は、はや、こほろきといふ名、うせたる世によめるにや、又神樂哥に、蛬〔傍線〕とかき、哥には、「蟋蟀とかけるは、猶こほろきとよむへくや
   〇うま
亡父著述せし挿頭抄に、「あつま路のうまや/\といふ哥を引て、「うまを、「いまにかよはせたる例をあけたり、基俊朝臣か家集をみしに、「みちのくの守のもとよりの朝臣、馬えさせんといひて、任やゝはてかたになりぬれと、おとせさりしかは、「あらたまの年のいつとせまちわひぬわかよもしらすうまはたのまし
   〇おろしの風
元良親王御集に、「うらみつゝなけきのかたき山ならはおろしのかせのはやくわすれね、といふ哥あり、此おろしの風といふ事、ものにもみぬ詞なり、山おろしといふへきを、山の字を上によみとりたまへれはなるへし、むかし人は、かくかゝはらぬ詞とも多し、畢竟自在の詞つかひそかし
   〇野もせの類
「野もせに「庭もせに「里もせに「濱もせに「道もせに「宿もせに「國もせになと、さま/\よめる、皆そこも狹きはかりにといふ心なり、しかるを、いふかひなき人は、たゝ「野に、「庭になといふ心斗によめる歌もみゆめり、されと、大江匡衡集をみしに、十月の月のあかきに、女と物かたりしてゐたるまたくもらすなから、しくれのあらゝかにしたれは「月影をかくなからにてしくるれはおつる紅葉の色にぬる袖、といひ侍る返事に、「月ももりしくれもそゝく宿もせになにしか袖をまつぬらしつる、といふ此返しは、女の哥なるへし、いかなる女にかあらん、この宿もせにとよめるは、後世もはちぬひかことなりかし猶はなはたしくしては、に〔傍線〕もしなくて、「野もせ「庭もせとはかりもよめり、に〔傍線〕もしは必あるへき詞なり、はたらかせては、の〔傍線〕といはむは子細なかるへし
   〇蛩々距※[足+虚]
わか大御國の御てふりは、貴賎賢愚、たかひに用ふへき所をもて持あはするを要とす、神書もはらこれをとけり、いまつまひらかにいふにいとまあらす、貴を貴とし、賎を賎とし、賢を賢とし、愚を愚とする時は、よに無用の物多くなりぬへき也、もとより無用の物ならは、天地これを生すへからす、よに無用なるか如くみゆる物は、畢竟そのもちあはすへき所を、しらさるか故なるへし、荘子に「蛩々負2距※[足+虚](ヲ)1といふ事あり、ふたつともに獣の名なり、蛩々は、よくあるく獣なり、距※[足+虚]は、足なくて甘き草ある所をよくしれる獣なり、この故に、蛩々は、距※[足+虚]を負ひあるきて、甘き草ある所を告けさせむとす、距※[足+虚]は、蛩々にあるかせ、甘草のある所にいたりて、おのれくらはむとするよしみえ、又唐の乱に、壮者は皆逃去りて、盲と蹇の、にくる事あたはさりしに、二人相はかりて、盲は蹇を負ひて、蹇は、道ををしへてにけたりし、よく似たる事なり、貴賎賢愚をもちあはする事、この蛩々距※[足+虚]、盲蹇のことくならは、よにすたる物はあるましきなり、わか大御國ふりのとほしろさ、これをあちはゝは、おもひ半にそ過ぬへき、おほよそ人心、一方によるを常とす、此故に、賢を賢とし、愚を愚とする事は易く、賢愚を持あはせむ事はかたし、しかれとも、此難きを得たりし人は、必大業をなせり、古人の事迹ともをもおもひあはすへし
   〇雲形
いにし文化六年己巳九月、伊勢に、遷宮をろかみにくたりけるに、その儀式とも、ふかく思ひあたらるゝ事とも多かりき、その時社頭にひきわたされし幕をみしに、おほきなる文字して、雲形〔二字傍線〕といふ二もしをかゝれたり、おもふに、これそのもとは、繪して雲の形をかきたりけんを、その式を記録しおくとて、雲形とかき置たりしか、あやまりて、其文字をは幕にかき傳へけるなるへし、いつの世よりか、しか文字にはかきけん、近きよのしわさにはあらさるへきを、おもひよる人もなかりけんそくちをしき、又はおもひよれりし人もありつれと、さる式になりて傳はりし事なれは、えあらためすてありけるにもあるへし、大かた神前の事はいとかしこけれと、これらは、絵たるへき事、必定ならんとおほゆれは、いとあらためまほしき事なりかし、勘仲記(ニ)云「正應元年七月廿四日丁未晴、参v院(ニ)奏2外宮御装束用途(ノ)事(ヲ)1、中畧 今日祭物奉v獻2神宮(ニ)1了、行2伊勢豊受大神宮假殿遷宮(ノ)事(ヲ)1所、奉v送2雲形布舩代(ヲ)1、山口木本鎮地(ノ)後、鎮祭物等(ノ)事、合、雲形(ノ)紺布、捌殿、中畧右件、雲形(ノ)祭物等、任(テ)v請(ニ)送奉如v件、正應元年七月廿四日、右官掌、中原(ノ)國有、左史生、紀(ノ)業弘、左少史、中原(ノ)景範云々、これらおもふへし
〔「外宮にもちひたる雲形の幕の図」として図有り、略〕
   〇千字文
古事記、中卷、應神帝(ノ)御卷に、「又科d賜百濟國(ニ)若(シ)有(ラハ)2賢人1者貢上(セヨト)u、故受v命(ヲ)以貢2上人(ノ)名|和迩《ワニノ》師(ヲ)1、即論語十卷、千字文一卷、并十一卷、付(テ)2是(ノ)人(ニ)1貢進云々とみゆ、しかるに、備前國なる湯淺氏か、【元禎号2常山(ト)1】常山樓筆餘に、「古事記に、王仁、論語千字文を献すとみえたり、これ異國の文字、日本に來れる其始なりと、世にいふ也、しかれとも、千字文は、梁の周興嗣撰せしなり、應神天皇十六年、王仁吾邦に來りし也、其年は、晋(ノ)武帝大康六年なり、晉南渡し、宋興り、宋亡ひて、齊の代となり、齊亡ひて、梁武帝立つ、百九十年以後に、千字文は撰し也、古事記の説謬れり、とみゆ、此説さる事のことくはみゆれと、注千字文の序を、梁大夫内司馬李暹かかけるに、「鍾※[徭の旁+系](カ)千字文(ノ)書、如d雲鵠(ノ)遊2飛天(ニ)1群鴻(ノ)戯uv海(ニ)人間茂蜜、實(ニ)亦難v遇、王羲之(カ)書(ハ)、字勢雄(ニシテ)、如d龍(ノ)躍2淵門(ニ)1虎(ノ)臥c風閣(ニ)u故歴代寶(トシ)v之傳(テ)以為v訓、藏2諸(ヲ)秘府(ニ)1、逮(テ)2于永嘉年(ニ)1、失v據(ヲ)遷2移丹陽(ニ)1、紫川途|阻《ヘタヽリ》、江山遐險、兼為2石勒1逼逐駈馳(セラル)、又逢2暑雨(ニ)1所(ノ)v載(ル)典籍、従v茲靡爛(ス)、千字文幾(ント)將2湮没(セント)1、晉末宋元皇帝、恐(テ)2其絶滅(センコトヲ)1、勅(シテ)遂(ニ)令d右將軍王羲之(ヲシテ)繕c寫其文(ヲ)u、用(テ)為2教授1、但文勢不v次、音韻不v属及2其|奨《スヽメ》導(クニ)1頗以為v難、至(テ)2梁(ノ)武帝受(ルニ)1v命(ヲ)、令d員外散騎侍郎周興嗣(ヲシテ)推(テ)2其(ノ)理(ヲ)1為c之次韻(ヲ)u、中畧然、王羲之(カ)本(ハ)、有(テ)2餘文1傳(フ)2通世(ニ)1、俗以為2法軌(ト)1、蕭王乃令2周興嗣(ヲシテ)次韻(シテ)正(サ)1v之(ヲ)焉、云々、又同書のをはりに云「昔梁(ノ)武帝、使2侍中周興嗣(ヲシテ)次韻1、少《カク》2兩句(ヲ)1、故(ニ)以(テ)2語助1足v之也、晋(ノ)武帝、承(テ)2魏之後(ヲ)1始在2路州(ノ)城(ニ)1、大夫鍾※[徭の旁+系]、造2得(テ)此(ノ)文(ヲ)1上(ル)2天子(ニ)1、帝愛(シテ)不v離2其(ノ)手(ヲ)1、晋被2宋(ノ)文帝(ニ)逐1、移(テ)向(テ)2丹陽(ニ)1避v難(ヲ)、其千字文在2車中(ニ)1、路逢v雨(ニ)、車漏(テ)湿2千字文(ヲ)1、行(テ)至(テ)2丹陽(ニ)1藏(ス)2書筐(ノ)中(ニ)1、晋治2天下(ヲ)1得2十五帝1、共(ニ)一百五十年、被3宋(ノ)文皇帝劉裕、承v位(ヲ)治2天下(ヲ)1、開(テ)2晋帝(ノ)書庫中(ヲ)1、見2此(ノ)千字文(ヲ)1、雨(ニ)乱(レテ)損2失其次第(ヲ)1、使(ムルニ)2右將軍王羲之(ヲシテ)1次韻(セ)1不v得、宋帝治(ルコト)2天下1凡六十年、齊承(テ)v位(ヲ)治2丹陽(ヲ)1、亦無2人(ノ)次(キ)得(ル)1、齊(ノ)七帝治三十年、梁(ノ)武帝承v位、乃命2周興嗣(ニ)1次v韻(ヲ)得2千字文(ヲ)1也ともみえ、また、明(ノ)仁和郎瑛仁寶(カ)著(ハス)、七修類稿卷(ノ)廿五、弁證類千字文(ノ)條(ニ)云「玉渓清話(ニ)云、梁(ノ)武帝、得2鍾※[徭の旁+系](カ)破碑(ヲ)1愛2其(ノ)書(ヲ)1、命2周興嗣(ニ)1次(キ)v韻(ヲ)成(サシム)v文(ヲ)、或(ハ)云、武帝欲v學(ハント)v書(ヲ)、命(シテ)2殷鉄石(ニ)1選(ハシメ)2二王(ノ)千文(ヲ)1召(テ)2周興嗣(ヲ)1次(シム)v韻(ヲ)、二説不v同、然(レトモ)皆武帝(ノ)時(ノ)事也、似v當(キニ)d以2前説(ヲ)1為uv是(ト)、舊聞、※[瞻の旁]仲和(カ)云、在2蘇常某(カ)家(ニ)1、見2唐刻(ノ)千字文一帙(ヲ)1、儼然(トシテ)鍾※[徭の旁+系](カ)筆法(ナリ)、但子昂後跋(シテ)以為2東坡(ノ)書(ト)1、不v知何(ン)也、余又以2淳化帖上(ノ)千文1、亦類2鍾※[徭の旁+系](ニ)1、其王著、因2海鹹河澹等(ノ)字(ニ)1以為2章草1、誤(テ)指2漢(ノ)章帝之書1、則米南宮黄長睿辨(スルコト)v之(ヲ)明(ラカナリ)矣、云々、また、千字文註、清人、江嘯尹先生か纂輯(ニ)云、「按(スルニ)2梁史(ヲ)1、興嗣字(ハ)思纂、陳郡項人、上以2王羲之(カ)書(ノ)千字(ヲ)1、使2興嗣(ヲシテ)次1v韻(ヲ)、為(テ)v文(ヲ)奏v之(ヲ)、稱v善加2賜金帛(ヲ)1、太平廣記(ニ)云、梁(ノ)武帝、教2諸王(ニ)書(ヲ)1、令d殷鉄石(ヲシテ)於2大王(ノ)書中(ニ)1榻c一干字(ノ)不v重(ラ)者(ヲ)u、毎字片紙、雜碎無v序、帝召2興嗣(ヲ)1謂(テ)曰、卿有2才思1、為(ニ)v我韻(セヨ)v之(ヲ)、興嗣一夕(ニシテ)編綴(シテ)進上、鬢髪皆白、賞賜甚厚、なと見えたり、常山子は、粱(ノ)武帝の時、周興嗣か、はしめてつくれる物の如くかゝれたれと、以上引く所の書、その説異同ありといへとも、鍾※[謠の旁+系]羲之なとかかける千文、魏晋の間に、はやくありける物なる事あきらか也、梁武帝の時、周興嗣に命せられしは、あらたにつくらせられたるにはあらて、かの鍾※[徭の旁+系]魏之等かかける千文の序なきか故に、次韻せしめられしにて、即魏晋より傳はりたる、千文をもて韻を次て、今世流布せる所の千字文とはなしたる也、京師に、近藤齋宮といひし人、【号2芙蓉山人(ト)1】羲之かかける千文の双鉤せるを、所藏せられしを見たりし人あり、韻なともなくて、たゝ千字を書たる物なりしとそ、予も芙蓉山人はしたしかりけれと、弱冠の頃なりしかは、みさりき、よに傳へもたる人もあるへし、たつねてみるへし、されは、應神帝の御時、王仁かたてまつれりしは、今世流布の千字文にはあらて、魏晋のよにありし千文なる事うたかひなし、こゝをもてみれは、かの常山子か説、くはしからぬ所あるにや、今さはかりの大家の説を論破せん事、いとなか/\なるわさなれと、古事記の説謬れり、とたしかにかゝれたるによりて、此筆餘を見たらん人は、かならす、わか國史を謬とせんかうしろめたさに、えもたしはてぬなり、もと千字文を、論語にならへてたてまつれる事、ひとつは經書なれは、ふみもこそあれ、いとふさはしからぬ事なるか故に、ようせすは、筆餘の説を信する人もあるへし、されと上にひける三書の語ともを考ふるに、こと/\く書のうへの事なれは、かの和迩師かもち來れるも、文學のためにたてまつれるにはあらて、鍾※[徭の旁+系]か羲之か、さならても、その頃は能書多かりし時なれは、手本にとて、くはへてたてまつれるなるへしとそおほしき、しかる時は、論語に加へてたてまつれるも、ゆくりなからすこそ、この清人汪氏か纂輯は、常山子か在世には、いまた舶來せすして、みられさりしにもあるへし、その餘の書は、いかてか見られさりけん、不審なる事なり、かへす/\、芙蓉山人か所藏せられし千文は、いとも/\こゝろにくしかし
   〇福原都
藤親盛(ノ)家集に「福原に都うつり侍りし時、月おもしろき夜、濱にいてゝよめる、「塩かせにうらさえわたる秋の月ふるき都の人にみせはや、とあるをみれは、その世のさま、人の心なと、おもひやられてあはれなり
   〇讀合古物渡
伊勢兩宮、遷宮の前、讀合とゝなへて、神寶ともを目録にあはせて、點検せらるゝ事あり、正遷宮行事記(ニ)云「讀合(ノ)行事、九月朔日、祭主、宮司、十員(ノ)神主、【各束帯】権柄宜、【各衣冠】大物忌父等、【各布衣】本宮神拜之後、参2集(ス)于斎王(ノ)侯殿(ニ)1、于v時作所代、権禰宜一人、行事官、【各束帯、】於(テ)2件(ノ)殿(ノ)内(ニ)1有2御韓櫃(ニ)1取2出(テ)御装束御神財(ヲ)1、任(テ)2記文(ニ)1令3讀2合(セ)其(ノ)品(ヲ)1、大物忌父等、改2計(ル)尺輻之長短(ヲ)1也、御上使、造宮(ノ)兩御奉行所、於(テ)2件(ノ)殿之東方(ニ)1御拜見之也、これは此たひあらたに奉られし神寶ともなり、さはかりいつかしきすめら大御神の御たからなるを、この斎王侯殿、戸もなき屋の、あらはなる所にてそおこなはれける、人みなたちかゝりて、たちなからみるを、制しなともせられさりき、これたにいとあやしくおほえつるに、遷宮の翌日、古物わたしとて、古殿より新殿へ、ふるき神寶ともを、うつし奉らるゝををろかみしに、昇殿の祢宜、古殿の内より、神寶一くさつゝを、さゝけて階をくたるを、権祢宜、階下にまちとりて【いつれも衣冠也】またさゝけて、新殿まての道をねりつゝ、新殿の階下にて、また昇殿の祢宜たまはりて、殿内にをさむる也けり、殿内には、から櫃にをさめたらんを、一くさつゝといいてゝ、たゝひとくさつゝはこふも心得かたく、かつその運ふほと、その上を覆ひなともせす、鳥なとのけかさむもはかりかたく、さらてもおのつから塵埃はかゝるへきを、さる防なきもあやしくそ有ける、もしさるかしこみあらは、辛櫃なからこそうつしたてまつるへけれとおほえしかは、神職の人にとひしに、この讀合古物渡、ともにその儀はまさしき古傳なるよしかたられき、こゝに、おのれかねておもひおけりしことに、かなへるをしりぬ、わか大御國、もと文字なく、物をもて御さとしとし給へる事、神書中の諸物みなこれ也、神武紀に「天表《アメノシルシ》、また同紀に、「表物《シルシノモノ》、また崇神紀に、「表《シルシ》なともかゝれたり、されは伊勢にかきらす、諸社に神寶とて必あるは、其神の御調度にはあらて、御教の義をふくめたる、御さとし物なるへしとおもひおけり、さるは、神樂哥に、採物、弓「四方山乃《ヨモヤマノ》、万保里尓多乃牟《マホリニタノム》、梓弓《アツサユミ》、加美乃多加良爾《カミノタカラニ》、今志川留加奈《イマシツルカナ》、同、鉾、「四方山乃《ヨモヤマノ》、人乃万保里尓《ヒトノマホリニ》、為流保古乎《スルホコヲ》、神乃美前尓《カミノミマヘニ》、以波比川留加奈《イハヒツルカナ》、なとあるにしるけれは也、大刀弓は、神書のうちに所々みえ、「生太刀《イクタチ》、生弓矢《イクユミヤ》とさへあり、されは、この讀合の、あらはなる所にしも點檢せられ、古物わたしの、一種つゝもちはこはるゝも、神寶おの/\教旨をふくめられたる物なるか故に、わさとこれをしめし給はむかため、前日後日、兩度まて、この神事は行はるゝなりとはしられき、これみよともいはて、おのつから人のみつへきやうに、かまへられたるさへ、かみつ世の遺れる儀なるへしと、身にしみて、かしこく、かたしけなくそおほえし、その神寶ともの中に、かならす後にくはへられしなるへしとおほゆるは、御硯のたくひなり、【神寶の数は、くはしく延喜式に見えたり】神書のうちにみえさる物は、後にくはへられたるしるしと心うへし、これ神寶は、御さとし物なりといふ傳うせて、たゝ大御神の御調度そと心えたる世に、事たらはぬはかしこしとて、くはへられけらし、今は事はたらひたりとも、大御神は、いかにみそなはすらんとそおほゆるや、なほ、諸社の神幸の時、神寶ともをあらはにもちわたるも、みなこの古物わたしに同しく、諸人にひろく、しめさむか為なるへしかし
   〇反切
亡父云、おほよそ歌に、もしあまりて、いつもしか六もしになり、七もしか八もし九もしにもなるは、つねの事也、それにはかならす、反切の字あるへきなり、反切とは、あ〔傍線〕い〔傍線〕う〔傍線〕え〔傍線〕お〔傍線〕の字ありて、こともしをうくるをいふなり、たとへは
           此二音、ツヾマリテぬトナル也、コレヲ反切ト云、下準v之、
    六もし  としのう〔二字右○〕ちに 反切  ぬ としぬ〔右○〕ちに
         あふなあ〔二字右○〕ふな 反切  な あふな〔右○〕ふな
         月やあ〔二字右○〕らぬ  反切  や 月や〔右○〕らぬ
    七もし  さもあ〔二字右○〕らはあ〔二字右○〕れ 反切  ま さま〔右○〕らば〔右○〕れ
これらはつゝまりて、五もしになる也、又「わぎも子か「戀すちふ【御杖云、「てふは、かみつよには「とふ「ちふとのみあり、「といふをつゝむれは、「ちふなり、「とふといふは、い〔傍線〕をはふける也、しかるに後世にては、「てふとのみかけるは、「とふのと〔傍線〕を、て〔傍線〕にかよはせたるにや、又假名に、「ちふとかけるか、ち〔傍線〕は、て〔傍線〕に似たれは、誤はしめたるにや】」なとは、いにしへより、反切のまゝに、たゝちにかきたれは、それらは、もしまりなる事を、人しらぬなり
    八もし  ことしとやい〔二字右○〕はむ 反切 い ことしとい〔右○〕はん
         舟をしそ思〔二字右○〕ふ 反切 そ 舟をしそも〔右○〕ふ
         またすしもあ〔二字右○〕らす 反切 ま またすしま〔右○〕らす
    九もし  と思〔二字右○〕ひかく思〔二字右○〕ひ 反切 【と・こ】 とも〔右○〕ひかこ〔右○〕もひ
これらは、つゝまりて七もしになる、「門させりてへ「なかしちふ夜はなとは、反切してかゝねは、もしあまり也とそ
  御杖因(ニ)云、萬葉集に、「於毛布《オモフ》を「毛布《モフ》とかゝれたる所おほし、又神樂、木綿志天《ユフシテ》に、「毛侶穂仁左禮波《モロホニサレハ》とあるも、「もろ穂にしあれはの反切のまゝをかゝれたるなり、又「あさなあさなを、「あさなさな、「ものにそありけるを、「ものにさりけるとかゝれたるは、後にもあり、この反切の事、他家にも此説ありとそ、その先後をいふ人もきこゆれと、すへて篤志の人は、そのおもひいたる所符合する事、めつらしからすかし
   〇手習
亡父また云、なには津あさか山の後は、あめつちほしそらといふことを、手ならふ人のはしめとしけるにや、もしの数四十八なり、順か集、また加茂保憲女集等に、あめつちの哥はみえたり、かのふた歌は、おなしもしかさなりてもあり、もれたるもしもあれは、天地の哥は、そのゝちにそ、いてきたるらんとおほし、えもしふたつあるは、あたてのえ〔傍線〕、やたてのえ〔傍線〕なり、其頃は、其音わかれてそ有けらし、今わらはへのまつならふ、いろはの歌は、空海のつくられたるよし、たくみにはよみたれと、天地よりはひともしすくなきは、其音ひとつ、うしなはれたる後なりとしるけれは、あめつちよりは、また後なる事あきらか也、詞の心も、無常をのへたれは、なには津あさか山をならはせたる心とはたかへり、今もあめつちを用ひまほしきこと也、天地も、すゑつかたには、よみときかたき事ありといへり
   〇鷸蚌
戦國策(ニ)云、「趙且伐(ツ)v燕(ヲ)、蘇代為2燕(ニ)將1、謂(テ)2趙惠王(ニ)1曰、川蚌方(ツテ)2出曝(スニ)1而鷸啄2其(ノ)肉(ヲ)1、蚌合而挿(ム)2其(ノ)啄(ヲ)1、鷸(ノ)曰、今日不v雨明日不(ンハ)v雨、即見(ン)2蚌(ノ)※[日+甫]《ホシヽヲ》1、蚌(モ)亦謂(テ)v鷸(ニ)曰、今日不v出明日不(ンハ)v出、必見(ン)2死鷸(ヲ)1、漁者來(テ)奪(テ)2貝(ト)与(ヲ)1v鳥去(ル)とあるか如く、すへてあらそふは、この鷸蚌のたくひなる事多きもの也、此故にわか大御國ふり、もはら人のきそひなからしめたまふをや、たとひ君子なりといふあらそひなりとも、なほ争ひはまぬかれさるへし
   〇假名遣
東野州常縁か、宗祇法師におくれる消息の中に、「拾遺、後撰、愚老書寫之本、先年御所望之様に候間、是は奇特の事にて候、證本を寫し留、校合度々の時に、をおすつのかなまて、本のことく直し秘藏仕候、箱の内を御覧候へ、哥一首書つけ、常縁か一世不《可ノ誤歟本ノマヽ》隨身由存置候へとも、貴老へ与奪候、古今集傳授候時、門弟隨一と定申之上、其以來弥御執心無比類事候、當道よにのこさるへきは、貴老ならてはと存候間、常縁か形見と御覺あるへく候云々、これは東野州拾唾のはしめにみえたり、このをお〔二字傍線〕の假名のたかひはさもあるへし、す〔傍線〕つ〔傍線〕のかなまてとあるは、濁音のす〔傍線〕つ〔傍線〕の事なるへし、たとひ濁りたるす〔傍線〕つ〔傍線〕なりとも、證本をまたすして、誤はあきらかなるへきを、かくかゝれたる事、あやまりとはしるきも、證本をえされは、みたりに私すへからすとおもはれけるにこそと思へは、いともいとも殊勝なるこゝろさし也、されと、契沖法師、和字正濫抄をつくりてのちこそあれ、假名の事、いまたひらけさりし世のさま、おもひやらるゝ事なり
   〇毒水
五雑組(ニ)云、「養生論(ニ)日、二月行(クニ)v路(ヲ)、勿(レ)v飲(ムコト)2陰池(ノ)流泉(ヲ)1、令(ム)2人(ヲシテ)發1v瘧(ヲ)、此(レ)不v可v不v知(ラ)也、とあり、かの高野山に毒水ありといふも、さる深山の流水なれは、もしこの養生論のことき事ありけるより、いひなりたるにや
   〇からけ緒
續古事談に、「神璽寶劔、神の代よりつたはりて、御門の御まもりにて、さらにあけぬる事なし、冷泉院、うつし心おはしましけれはにや、しるしのはこのからけ緒をときてあけんとし給ひけれは、はこより白雲たちのほりけり、おそれてすて給ひたりけれは、紀氏の内侍、もとのことくからけけり、とあり、さきつ年、遷宮をろかみける時、長官のさゝけられしを、かしこみ/\もをろかみたりしに、檜にそあるらし、かとおしまけたるやうなるかうへを、苧繩たちたる物して、十文字にからけられたり、そのことくからけてやあるらむ、いとかう/\しき事なり、江談抄に「故、小野宮(ノ)右大臣語(テ)云、冷泉院御在位之時、大入道殿、道兼 忽有(リ)2参内(ノ)意1、仍(テ)俄(ニ)単騎(ニシテ)馳参(リ)、尋2御在所(ヲ)於女房(ニ)1云々、御(シテ)2夜(ノ)御殿(ニ)1、只今令3解(キ)2開(カ)御璽(ノ)結緒(ヲ)1給(フ)者《テヘリ》、乍(ラ)v驚(キ)排(テ)v闥(ヲ)参入(ルニ)、如(ク)2女房(ノ)言(ノ)1解2筥(ノ)緒(ヲ)1給之間也、因(テ)奪取(テ)如v本結v之(ヲ)云々とあるをみれは、續古事談とは、大同小異なり、いつれか實ならむ、それはしらねと、江談抄は、まさしからむかとそおほゆる
   〇字の五品
亡父云、吾國のいにしへは、神ひしりももしをつくらせ給はさりけれは、今の世まて、もろこしのもしをかりて用ふる事となりて、松〔傍線〕を、まつ〔二字傍線〕、竹〔傍線〕を、たけ〔二字傍線〕とかく、みなかんな也、かんなとは、かりなといふにて、いにしへは、文字を、な〔傍線〕といへれはなり、天武紀に、「新字を、にひな〔三字傍線〕とよめるか如し、されと、かんなとのみいへはまきるゝ事あり、此故に今約束して、いつゝのしなをさたむ、ひとつには「まな、ふたつには「かんな、みつには「かたかんな、よつには「女もし、いつゝには「借字なり、「まなとは、松〔傍線〕竹〔傍線〕なとかくをいふ、「かんなとは、草書または真行にて、摩津〔二字傍線〕、多介〔二字傍線〕なとかけるをいふ、今の萬葉假名といふ物これなり、「かたかんなとは、マツ〔二字傍線〕、タケ〔二字傍線〕なとかくをいふ也、「女もしとは、今いふいろはかんななり、これも草書よりはしまりたれは、すなはち第二のかんななれとも、今おしなへてもちふる、いろは哥の文字のやうに、またく草書にもよらぬやうなるをいふなり、「借字とは、萬葉集に、「長雲鴨《ナカクモカモ》、「見貌石《ミカホシ》、「馬聲蜂音《イフ》なとかけるたくひをいふなり、おほよそ、予か著述のうちには、みな此約束をもちふ、といへり
   〇音の存亡
又云、あかりての世には、人のこゑ五十ありけらし、そのゝちふたつはやう/\うせて、あめつちの歌のころは、四十八になりぬ、それかまたひとつうせたる世に、いろはの哥はいてきたり、いろはの哥、四十七のうちに、今はよつうせて、四十四のみそある、かくのことく、音のうせゆくにしたかひて、かんなつかひといふ事いてきにたり、かんな、女もしなとは、いふかひなき女わらはへまても、心えやすくもちひやすからんか為に設たるを、今は、かんなかく事たに、ならひあることのやうになりたるは、口にいふ所みたりかはしくなりて、かんなもしさためたる世とたかひたれは也、世うつりゆかは、四十四のうち、又そうせなむ、かくうせゆく事、こともしにはあらす、あ經、や經、わ經、【五十韻をは、亡父、經緯といへり】このみつの十五音のうち也、今は、あ經はみな残り、や經には、い〔傍線〕え〔傍線〕うせて三音あり、わ經には、わ〔傍線〕のみのこりて、ゐ〔傍線〕う〔傍線〕ゑ〔傍線〕を〔傍線〕皆うせたり、いろはの哥の時、や經のい〔傍線〕うせて、ゐ〔傍線〕ふたつになり、わ經のう〔傍線〕うせて、あ經のう〔傍線〕ひとつになり、や經のえ〔傍線〕、うせて、あ經のえ〔傍線〕、わ經のゑ〔傍線〕ふたつになり、あはせて三もしうしなはれたるも、世すてにくたりたれは也、今はまた、いろは歌の、ゐ〔傍線〕ゑ〔傍線〕を〔傍線〕ともにうせたるかゆゑに、かんなつかひといふ事いてき、さてのちは、口舌にわかちたる物也といふ事をもしらぬやうになりて、かんなをつかふ時に、さたむるもしのやうにおもへるかゆゑに、明魏は、さる哥くちの人におはしけれとも、かんなつかひは、いるましきよしいはれたるは、なけくへき事なり、たとへは、今いくよろつよをへて、や〔傍線〕わ〔傍線〕あ〔傍線〕の三音、もしはかはれとも、こゑはうせて、あ〔傍線〕となり、を〔傍線〕よ〔傍線〕の二字も、こゑうせたらん時も、明魏にしたかはゝ、いにしへをしたひことをさためむ人、なにゝよりてか言のこゝろをも、わきまへまし、ことの源をきはめすして、流にしたかひて末におもむく人は、明魏かひかことをいひ出すへし、よくしらすはあるへからす、此みつをうしなへるのみならす、こゑの輕重をうしなへる事多きによりて、いよ/\假名つかひの事、しけくなれり、輕重とは、は〔傍線〕ひ〔傍線〕ふ〔傍線〕へ〔傍線〕ほ〔傍線〕の、わゐうゑをにまかふ事なり、【御杖云、は〔傍線〕ひ〔傍線〕ふ〔傍線〕へ〔傍線〕ほ〔傍線〕を、わ〔傍線〕ゐ〔傍線〕う〔傍線〕ゑ〔傍線〕を〔傍線〕の如くいふは、いはゆる清濁音也】これらさへ、いにしへはさたかに口舌にわかちたるを、となへうしなひて後は、かんなにてさたむることゝはなりにたり、いにしへ神樂催馬樂なとをうたふか如くに、「こひは、子火〔二字傍線〕と聞えて、こゐ〔二字傍線〕とはいはす、「あふも、安婦〔二字傍線〕ときこえて、おう〔二字傍線〕とはきこえさるへし、これらのまとひなかりけるゆゑに、いにしへは、いふかひなきわらはへ、もしかゝぬ女なとの、口にまかせてよみたる歌も、かんなのたかひたる事はなかりし、今ほいうそくの人たに、かんなつかひをまねひきはめされは、たかふ事のおほきは、口にならはすして、書にならふか故なり、枕草紙に、「えぬたきといふ人の名あり、かゝる名の、今のよにありて名のりたらは、え〔傍線〕は、いつれのえ〔傍線〕そと、とひ聞て後ならては、かんなにも、女もしにはかゝるましきを、その比は、やすらかに口にきこえたれは、疑なかりし也、今の世の人の名に、治右衛門あり、次右衛門あり、京人はたゝ同しやうによふ故に、したしからぬ人は、消息なとにもさためかねて、次郎の次〔傍線〕をつきたる人に、治部の治〔傍線〕をかき、治右衛門に次右衛門とかきたかへてやれとも、その人も、こと人かなともあやします、みつから次〔傍線〕治〔傍線〕なとさためてかきたるを、みしりたる人、はしめて疑なくなる事、わつらはしくも、荒凉にもおはゆるを、筑紫人は、よく口にわけて、治〔傍線〕はち〔傍線〕もしの濁れる、次〔傍線〕はし〔傍線〕もしの濁れる也と、よく聞ゆるは、けに筑紫は、みかとのもとつ御國なるしるしなるへし、和名抄に、諸國の郡名、郷名なとをかけるに、かんなつかひたかひたるあり、これはその國々の詞たみて、いひうしなへるをみせたるなり、今の人も、都の詞、ひなの詞かはれる故に、いふ所、みな和名抄の郷名のたくひになれり、かんなつかひは、京極黄門のさためさせたまひて後、其沙汰まち/\にして、おほつかなかりしを、ちかき世、契沖かよくいひわきまへたるにより、はしめてことさたまれゝと、いにしへより、理につきて、もしを定められし事とのみ心えられけるにや、口角にわかつへき事とはいへる人なし、千慮の一失といふへし、またあ經のお〔傍線〕、わ經のを〔傍線〕をおきたかへ來れるを、わきまへたる人なし、今、紀伊〔二字傍線〕基肆〔二字傍線〕のたくひをもて、※[口+贈]唹〔二字傍線〕をおもひ、又もしあまり反切のよしをおもひ、かつ催馬樂の譜なとにも、を〔傍線〕こ〔傍線〕そ〔傍線〕と〔傍線〕の〔傍線〕の列のもしを引聲するに、乎々〔二字傍線〕とはかゝすして、於々〔二字傍線〕とのみかきたるにて、はしめてこれをさたむ、後の人よくみさためよ【御杖云、此お〔傍線〕を〔傍線〕の置所たかへる事も、また他家に同説ありとそ、人の説をは、亡父かく書くへきやうなし、猶かのもしあまりの説なとも、たゝものゝはしにかきつけ置て、今まて世にしめさゝりしかは、亡父か説とは、しれる人のなきなりけり」木居〔二字傍線〕を戀〔傍線〕によせ、藍〔傍線〕を逢〔傍線〕によせたるは、もとより誤なれと、さすかに中古のひとの誤にて、いにしへのおもかけありて、よせたるこゐ〔二字傍線〕、あゐ〔二字傍線〕、みなゐ〔傍線〕なり、ゐは、かろく唇をうへの歯にあてゝいふ、ひ〔傍線〕の輕音も、いにしへは、今のやうにまたくい〔傍線〕とは聞えすして、唇を歯にあてゝ重くいひたるへけれは、ゐ〔傍線〕をひ〔傍線〕にかよはせたるは、今の人のみたりかはしきには、いたくたかひて、しかるへき事なり、されはよゝの先達ももちひられたり、これならすとも、ゐ〔傍線〕をひ〔傍線〕にはおしてもちふるも、心にくかるへし、といへり
  御杖因(ニ)云、これらの説によりて、けに假名つかひは、音をもてこそさたむへかりけれとさとりて、おのれわかゝりしより、經緯に心をいれて、おもひよれる事もあれと、こゝにはもらしつ
   〇歌の四知
又云、哥はよつをしるへし、ひとつには「程をしる、ふたつには「よしあしをしる、みつには「ことわりをしる、よつには「道をしる、これなり、かく見しりたる人は、歌を、とくよまむ、おそくよまむ、あしくよまむ、よくよまむ、心にしたかふなり、これは其人のさえたかく、ひきゝにもよらす、つとめて得る事なり、つとむるも、ふかく心をつくすまてもなし、いかにもして、萬葉三代集を、心にとゝめてふたかへりはかりよむ也、此うちにさえたかき人はひとゝせ、さらぬ人は、三とせをふへきなりとそ
〇歌の次第
又云、哥を案するに、次第ある物なり、人々巧拙ともに次第なきにはあらす、つたなきは、次第やかてあしき也、これはならひてなほすへし、古哥をみむに、まついかやうにおもふ心より哥よまむとして、なに事をさきにとりいれたるそとしるへきなり、かく次第をしりて後にも、歌のあしきは、程をしらぬ故也、次第はたかはねと、よみもてゆくまゝに、詞をしらす物をしらぬにおほはれて、あしくはなる也、といへり、御杖云、けに古哥とも多くみたらむ人は、さはかりの力はおのつからみゆめれと、かく次第をみしりたるにあらて、うはへをのみ記識せるなれは、口拍子の古哥に似るなり、まへにもいひしか如く、これわか物になると、ならぬとのけちめにこそ
   〇題詠
題詠の事、亭子院、大井川行幸の時、貫之ぬしかかゝれたる序の詞をとりて、人々哥よみたる、これを題のはしめといふへし、萬葉集中に「詠v霞「詠v花、詠v鳥なと題せられたるは、みな後より標したるにて、後世のことく、題をえてのちよめる歌にはあらさる事、まへにもあけつらへり、檜墻女(ノ)集に「虎の皮のしりさやを題にて、ひこの守のよませしに、「うみへとてゆくみなとらのかはのしりさやけからぬは浪のにこせは、この外にも、同集に題といへるは、みな物名の事なり、その頃は、物名を題とそいひけらし、されと、この女、肥後の國人なれは、そこにてのみしかいひしにやとおほゆれと、名たかき歌よみなれは、證ともすへし、おのれわかゝりしより、世々のすかた、人々の風采をまねひて、哥よみ試みたるに、第一に情〔傍線〕、第二に題〔傍線〕、第三に歌〔傍線〕となる、これかみつよの人の哥よめる次第なり、されは題を得て哥よまむは、第二か第一となるなれは、たとひそのえたる題は題にて、まつ情をさきにせむとすとも、第二第一と、次序みたれたる事、哥となりてのゝちも、おのつからまぬかれかたかるへし、此故に、志ありて、まことに歌よみえむとには、必無題にてよみしるへし、しかれとも、無題にては、稽古にも荒凉におほえ、かつ、世おしなへて題詠なれは、題によりてよみならはさらむはひむなしともおもはむ人は、題をえても、まつ題を得ぬこゝちとなりて、かの第一第二の次序をかまへてのみよむへし、されと、もとより次序をみたりたるわさなれは、一年に得へきいさをは、三とせよとせのゝちならてはえらるましきなり、近ころは、人々にこの次序の、やむことなきをときしめして、無題の哥をすゝめこゝろみしに、その上達いとすみやかなり、中にも、有題無題ふたやうによみてみする人あり、その有題なるは初學のことく、無題なるは已達のことし、こゝをもて、いよ/\次序のやむことなきを知りぬ、おほかた中昔の人すら、題をえてよめるはなく、贈答、その外、情よりおこらぬはなけれは、かへす/\哥よみならはむには、無題にしく事あるへからす、この事、今おのれめさましくはしめていひ出たらんやうに聞なされて、世の批判をもりきかぬにしもあらねと、かみつよはもと無題なるかつねなるをいかゝはせむ、志あらん人は、古哥に精神をうちいれて、さらに御杖かいひそめたる事にはあらさるをおもひゆるしてよ
   ○催馬樂
催馬樂といふ名の事、諸國よりたてまつる貢物おほする馬をもよほす心なりと、古説一定なれと、いとからめきて、心よくもおほえぬ名なり、されは思ふに、神樂に、大前張《オホサイハリ》とて八首、小前張《コサイハリ》とて十一首あり、此大前張のうち、宮人〔二字傍線〕、由布志天〔四字傍線〕、前張〔二字傍線〕の三首はかり、宸筆本にはありて、その餘五首なし、小前張も、九首にて、千歳〔二字傍線〕、早歌〔二字傍線〕の二首は、雑歌のうちにのせたまへりとそ、拾芥抄にみえたる、又、躰源抄に、朝倉〔二字傍線〕は、もと筑前(ノ)國の風俗なりしを、延喜の御時、神樂にくはへられたり、されはその時は、風俗拍子なりしとかや、同書に朝倉かへし〔五字傍線〕とは、催馬樂拍子にうたふをいふ、ともみえ、又其駒〔二字傍線〕ももと風俗なりしを、神樂の、無下に尾なきやうなりとて、一條院の御時くはへられし、とも見えたり、これらをあはせておもふに、左以婆良《サイハラ》は、左以婆里《サイハリ》の里《リ》の良《ラ》にかよひたるにて、もとは大小前張の哥は、みな催馬樂なりしを、後に神樂にくはへられけるにこそ、神樂は、大かた哥の新古も混雑し、かつ内侍所(ノ)御神樂、清暑堂(ノ)御神樂【大甞會の御神樂也】なと、うちましりたる物にて、催馬樂は、哥もめてたく純一なるなり、されは「さいはりに、の哥は、神樂にいれられたれと、其名は、催馬樂の方にのこりたるにそあるへき、猶朝倉〔二字傍線〕其駒〔二字傍線〕なとは、まのあたりくはゝりたる事しるく、朝倉〔二字傍線〕は神樂なから催馬樂拍子なるなと、すへてあるはわかれ、あるはくはゝりて、その数みたれたる物とみゆれは、かくはおもひよれりし也、しかれとも、もとより此道にくらき御杖なれは、なほいうそくの人にとふへし、おほかた催馬樂は、國風いと多くみゆれは、かの催馬といふ説も、おこれるなるへし、前張は、假名にて、幸榛《サキハリ》の義にこそ、左紀〔二字左傍線〕《サキ》を左以〔二字左傍線〕《サイ》といふは音便なり
   〇奥の國
桧垣女集に、「年なとおいおとろへて、こゝちのみつねならす、くるしうおほえて、なやましきに、あはれなとおもふへき子なといふものゆめになきに、なましそくなる人を、子といひつけて、たのむやうなれと、まことの心さしもなけれは、たゝなるよりは、猶いひふるゝ事もあるに、おくの國にそくたりにける、おくといふは、大隅薩摩の所なるへし、のほりてと聞て、かくいひやる、「消ぬへきいのちなれとも露の身のおくなるまつをまつとこそふれ、とあり、筑紫人は、大隅薩摩のかたを、おくとそいひけらし、けにさる事なり、おほかたは、陸奥をこそ、奥とはいひならひたれ、されと、陸奥もゝと驛路の奥なるかゆゑの名なれは、東方よりいはゝ、薩摩のあたりは、奥といはむに、よしなきにはあらさるへし、おほかた陸奥をしもかく奥といひなりけむは、神武のみかと、筑紫よりやう/\東方をまつろへさせ給ひしかゆゑなれは、今も奥とたにいへは、陸奥のことゝなる、やことなき事なり、道のしりといふは國々前後とわかれてのち、その後の國をはすへていふ名にて奥といふにはことなりとしるへし
 
 北邊隨筆 卷之三 終
 
 北邊隨筆 初編 四
 
 北邊隨筆 卷之四
 
〔目録は始めの方にまとめた〕
 
 北邊隨筆 卷之四 初編
             平安 富士谷御杖 著
 
   〇輕重先後
江府の画家北馬ぬし、なにはにゆゑありて、くたられけるついて、はしめて蝸廬をとふらはれける時、神職、儒生、法師、三人の、かたみにあひそむきて、ゐたるかたかゝれたるを、こゝろさゝれき、その心はへ、めもあやに心にくかりけれは、來る人ことにしめしけるに、みなかきりなくみめてられしあまり、これか哥よみねとそゝのかされて、いとま/\かたふきつれと、よみ得すて、日頃へたるに、ふと末をそひねりいてぬ、「こと國人のよりあへること、これなり、しかるに此本、いかにおもへとも、おきかねたりしに、「そはの實といふ事、ふとおもひよられて、とさまかうさましつれと、しゝこらかして、「そは/\しくもみゆる哉、なとは、さすかにくちをしけれは、ある時わか友隆lの來けるに、このわつらはしさをかたりいてゝ、「そはのみのあなそは/\しなといはまほしけれと、中の五言の、いかにともせむすへなきよしいひけるに、「あなそは/\しそは/\しとかさねたらんはいかにといひけれは、けにもとてやみぬ、しかるに、なそやらむ、やすからすおほゆるやうなりけれは、なほ思ふに、いかなれはかくかさぬるか心ゆかすはあるらん、いかて此ゆゑをしも、わいためてんとおもふ/\、さきつ年、おのれよみける哥「夏まけし軒の下くさみつ/\しあなみつ/\し軒の下草これを思ひくらふるに、哥こそいふかひなけれ、これはかさねたる心もやすけなり、」あなそは/\しの方は、とにかくに安からすおほゆるは、もと「そは/\しは輕く、「あなそは/\しは、あな〔二字傍線〕といふ詞そはりたるか重きに、そのおもき方をさきにいひ、輕き方、かへりて後となれるかゆゑなりと、はしめておもひしりき、かろき方をまついひて、さていひあかぬより、又かさねておもき方をいはむこそ順ならめ、すへて古人、詞をかさねてよめるは、紀、萬葉集をはしめ、かそへもあへすみゆれと、二たひいふは、ひとたひにてむねあかさるか故にて、おのつから輕重順なり、しかるに、輕重順をみたりたるかゆゑに、何となく安からすおほえしなりけりとはさとりぬ、詞の條理のわたくししかたき、今更うちおとろかれき、もとよりいたり深からん人は、かく輕重先後やことなき理はわきまへたるへし、ひとへにおのれか心おそさより、やゝ後にこそおとろきさとりたりしか、されはこれは、わかたくひならん人の為にしるしおく也、もとよりおのか哥をはみつからしるせる、いとをこなるわさなれと、歌のうへをいふにはあらす、たゝかく重ぬる詞に、輕重先後あることをあけつらはむとのをさなわさそかし、これとはたかへることの如くなれと、後拾遺集、哀傷に「小式部なくなりて、うまこともの侍りけるをみて、よみ侍りける、和泉式部、「とゝめ置てたれをあはれとおもふらんこはまさるらんこはまさりけり、とよめるは小式部かなきたまのおもふらんをおもひやりて「こはまさるらんといひさて次の「こはまさりけりは和泉式部かみつからおもへる心をいへるなり【親を思ふよりも子を思ふ心はふかしといふ心なりと古説あれとも非なりこ〔傍線〕はふたつなからこれ〔二字傍線〕を畧けるにてともにうまこのうちをさしわけたる也すてに端作にも「うまこともとあれは一人ならさる事しるし親子の事にみは端作の意にもたかふへくまたその情も淺薄なるへしかし】もと小式部は和泉式部かむすめなれは、まつおのか心をいひて次に小式部か心をいふとも、ことわりそむくへき事にはあらねと人よりわれをさきとすましき條理詞におのつからそなはれるかゆゑ也これまた輕重やことなきを思ふへしもしこれをも「こはまさりけりこはまさるらむとよまは何となく安からすおほゆへし輕重は先後をみたるましき詞の條理これをもておもひさたむへきなり
   〇墮胎
源順集に「男の、ひとの國にまかるほとに、子をおろしける女のもとに、「たらちをのかへるほとをもしらすしていかてすてゝしかりのかひ子そ、とあるをみれは、墮胎も、ふるくせし事なりけり、今も人しれす多くするなめり、いかなる心そや、子をころさてかなはぬ事あらは、おのれこそしなめとそおほゆるや、されと、撰集抄に【捨子に添たりし哥】「身にまさる物なかりけりみとり子はやらんかたなくかなしけれとも、とみえたり
  因(ニ)云、この順朝臣か哥の、たらちを〔四字傍線〕といふ事、いつの比よりか、かゝるあやまりはいてきにけむ、かみつ世には、「たらちね、または、「たらちし、【これも、たらちねの誤かと、いふ説有】とのみゝえたり、これは母にのみいふ詞也、たらち〔三字傍線〕は、令v足の義にて、養育して成長せしむる恩をいふなれは、【養育の恩は、父母ともにわたるへけれと、乳をあたへいたきはくゝむは、みな母のわさなれは、母にかきりていふなりとしるへし】「たらちを「たらちめ、ともにゆめ/\よむましき事也、この事、先達もくはしく弁しおかれたれと、なほこの因にいふなり、又兼澄集に、「めおやにおくれはへりて、ほとゝきすを聞侍て、すけちかゝ家にて、【哥二首ある其第二のうたに】「しての山みちしるへくはたらちめのおやのさきにそわれはたゝまし、輔親、「たらちめのおやにさきたつこゝろあらはさとの名さへはいますそあらまし、なとみゆれは、その頃よりいひはしめたる事なるへし、めおや〔三字傍線〕といふ事も、ふるくはみえぬ名なり、いにしへは、おや〔二字傍線〕とたにいへは、母にかきれるを、めおや〔三字傍線〕としもいふは、古義をうしなへるなり、すへてかゝる事とも、その頃よりいと多し、用捨してみるへき事なり蜻蛉日記にもめおや〔三字傍線〕とみゆ
   〇耳はさみ
源氏物語、はゝき木の卷に「耳はさみかちに、ひさうなき家とうしの云々、耳はさみかちとは、髪をは、耳のうしろにかきやりはさみて、かひ/\しきさま也と、古來とき來れり、しかるに、その作者なる式部か家集に、「やよひ一日、かはらに出たるに、かたはらなる車に、法師の、かみをかうふりにて、はかせたちをるをにくみて、「はらへとのかみのかさりのみてくらにうたてもまかふ耳はさみかな、とよめるあり、雅亮か装束抄に、【みつらをゆふことの条】「かみのすそをは、耳のうへよりこして、ひんふくのうちにはさむへし、なほ末いては、くひかみのうちにおしいるへし、兒をさなくてかみゝしかくは、へちにつけ髪といふもの、もとゆひたるうへに、ゆひつけてゆふなり、そのかみなとをよくゆひておとしなとすましき也、とあるは、かの法師のにおもひよそへらるゝ事也、家刀自のは、まことの髪をいふ也、もしこれ女の髪にかきりていふ詞ならは、法師のはかせたちをるをは、女の髪に比すへき理なし、しかれとも、いつれも髪のうへにていひたれは、なほ髪のゆひさまにやあらむ、心えかたし、今の俗、小耳にはさむといふは、きかてもよき事を聞しりて、さかしらなるをいふは、是を本にてさかしかるよしを、耳はさみとはいふにや、かの法師、つけ髪をそしけらし、その形容、のちの考の為にしるしおくなり【永久四年百首に、加茂祭俊頼「引つれてわたるけしきをきてみれはいつきそかみのかさりなりける、とあるは、この紫式部か集をならひてよまれたるなるへし】
   〇なそ/\
實方中將集に、「小一條殿の、なそ/\物かたりに、「かたすまけすの花のうへの露、といひけるに、「すまひ草あはする人のなけれはや、又枕草紙に、「なそ/\あはせしける所に云々、なとあり、又落書といふ事あり、江談抄(ニ)云「嵯峨天皇之時、無悪善といふ落書、世間尓多々也、篁讀(テ)云、无悪【サカナクハ】善(ト)【ヨカリナマシ】讀云々、天皇聞給天、篁(カ)所為也(ト)被v仰天、蒙(ラン)v罪(ヲ)【トスル】之處、篁申(テ)云、更(ニ)不v可v作事也、才學之道(ナリ)、然者自今以後不v可2絶(テ)申(ス)1云々、天皇尤以(テ)道理(トシ玉フ)也、然者此(ノ)文可(シト)v讀被(レテ)v仰(セ)令v書給(フ)とて、さま/\よみにくき事ともをあけられたり、此落書といふ物も、なほなそ/\に似たるわさなれと、なそ/\は、今俗にいふに同しかるへし【小野宮右衛門督家哥合に「をのゝ宮の右衛門のかみの、きむたちの物かたりより、いてきたりけるなそあはせ、左、あをきうすやうひとかさねに書て、松の枝につけたり、かくなむ「我ことは云々、右は、紫のうすやうひとかさねに書て、樗の花につけたりしは、かくそ「おくていねの云々、下畧】
   〇雪墮指
史記匈奴(ノ)傳(ニ)云「會2冬大寒雨雪(ニ)1、卒之墮(ス)v指(ヲ)者十(ニ)二三、於v是冒頓|佯《イツハツテ》敗走(シ)誘2漢(ノ)兵(ヲ)1云々、こゝにても、北越の雪中に日を經たりしものゝ、足くひ腐おちたるを、まのあたりみたりき、されと、さる寒地になれたる人は、さる事もなく、かつその防もたくみなるへし、よそよりおもはむかことくならは、ひと日もそこにはすむものあるましき也、松前の人、京にのほりゐたりしか、しはすの比、かの國にて、三四月はかりの肌もちなりといひし、されと、かく暑寒順なる地にすめるをも、よろこはぬ事、たゝわれひとりしかるにはあらしか
   〇詞の死活
洛東西光寺(ノ)慈雲律師、浄土門に見解ありて、著述せられし冊子を携來て、詞の當否をとはれける事ありき、おのれ浄土門のことはしらねは、その意趣をとひつゝ、詞をあけつらひけるに、ともすれはその詞律師の本意にそむきたりき、あまりにさる事たひかさなりゆくに、律師いたくあやしまれけれは、わか御國言は、から言にはたかひて、わかいはまほしとおもふ理を、人の察して思ひしるらんやうにのみ、いふならひなれは、そのてふり、おのつから詞ことにそなはりて、直言せむとすれは、必落ゐかたし、されはわかいはむと思ふすちより外に詞をもとむれは、悉く所を得る物なる事、神武帝の御時より、此心得は定まりしなり、これを倒語といふ、【第一卷に引きおける、神武紀の、諷哥倒語これなり、」しかれとも、此事よにかくれて千有餘年、いまはたゝわか御國言をは、直言にのみ用ふる事となりにたり、もとより詞は変化自在の物なるか故に、もちひなは、いかにも用ひらるへけれと、直言は其詞死せり、倒語は其詞活たり、活とは、言をつかさとり給ふ神の霊《ミタマ》をいかせは也、死とは、その言霊をころせはなり、かの神武紀の妖氣といふも、たすくへき神霊の道を塞くより、おのつから妖氣にあたるへきをいふなりとしるへし、たとはゝ、古今集に「あふ坂のゆふつけ鳥もわかことく人やこひしきねのみなくらむ、とよめるは、鳥のなくを主とし、わかねになくを却て客とせるなり、これを言霊のたすけは、きく人、これ必客は主ならむとおもひとるへしとの詞つくり也、拾遺集に「うらやまし朝日にあたる白露をわかみと今はなすよしもかな、とよめるは、人つらけれと、うらむへからねは、今はしなまほしと、おもはぬ方をいへるにて、これを言霊のたすけは、人あはれまむとの詞つくりなり、その代すらかくのことし、まして上つ世はいふも更なれは、今いひつくすへからす、わか御國言のそなはり、すへてかくのことくなれは、律師のいさめむとおほす所は、あらはにいさめ給ふな、すゝめむとおほす所は、たゝちにすゝめ給ふなと申しかは、おもひかけさりし事よとて、はしめはうしろめたけなりしも、のちには信せられて、脚結なともあけつらへるまゝにしたかはれき、死活の事は、古事記神書に「於v是|阿遅志貴高日子根《アチシキタカヒコネノ》神、大《イタク》怒(シテ)曰、我者|愛《ウルハシキ》友故弔來耳、何吾(ヲ)比2穢死人《ケカシキシニヒト》1云而云々、と見えたる、これなり、この文義、くはしくは神書にゆつりていはす、たゝ直言のつく所は、神霊のたすけたまはぬ所なりとしらは、おもひなかはに過きぬへきなり
   〇哥の教導
井蛙抄(ニ)云「故宗匠云、為世卿、俊成は、幽玄にて難v及、定家は、義理ふかくして難v學、たゝ民部卿入道(ノ)躰を可v學之由、深(ク)相存也云々、この詞けにさる事なるへし、しかれとも、おほかた志をすゑたる所まて至ることは、何の道にもまれなる物なり、しかれは、志は高からむかうへにも、高かるへき事なるを、難v及難v學とをしへられなは、宗匠たにしかあらは、まして我等かをよひにあらすとそおほゆへき、しからは、俊成卿は幽玄なりとしてねかはす、定家卿は義理ふかしとしてもとめすのみあらは、いつの世にか、兩卿のさかひにはいたらまし、されはこそ、よゝに其名聞えし人々も多かりけれと、かの兩卿の上にたゝむ事かたくなりにたれ、されとこの為世卿のをしへ、まつかくいひて、やう/\よみのほらしめむとの事なるへけれと、たとひ初學たりとも、その志を縮めしめは、終身長する時なかるへし、から人も、「先入為v主(ト)とはいはすや、初學の人は、もとよりかくとりちゝめすとも、そのわさの拙かるへき事いふもさらなれは、たゝかくけさやかにはいはすしてこそみちひくへけれ、されは今かくいふは、此卿の、三卿のちからをわかちたまへりしを論ふにはあらす、あらはにかくときしめしたまへるかくちをしけれは也、為家卿は、同し井蛙抄に、「民部卿入道申されしは、哥をは、一橋をわたるやうによむへし、左へも右へもおちぬやうに、斟酌すへきなり、心のまゝによむへからす、又彼申しは、塔をくむやうによむ、塔は上よりくむ事なし、地盤よりくみあくるやうに、下句よりよむなりと云々、かく心えてよみ給ひし、もはら歌をよみ損すましきかまへにて、これらひとへに、歌合の弊なる事しるきをや
   〇大功
老子云、「大巧(ハ)若(シ)v拙(ナルカ)、大弁(ハ)若(シ)v訥、とあるをおもふに、かみつよの哥ともは、末の世よりみれは、詞つくりもいと拙きかことし、しかれとも、その大巧なる事をしる人すくなし、これこそ古人もよみのこしつれ、かくこそ古人もよまさりつれなと思ふはひかことにて、これはよむへからす、かくはよむへからすとてこそ、古人はよまさりけめ、もし老子にわか上つよの哥をみせなは、これこそ大巧なれとはいはめとそおほゆる、壬二集に、「しくれゆく空こそあらめさをしかの上毛の星もかつくもりつゝ、なとやうの哥をは、後世巧なる哥といふは、この大巧にくらへてはいかゝあらん
   〇あやむる
西行上人御裳濯川哥合の中に、「あやめつゝ人しるとてもいかゝせんしのひはつへきたもとならねは、判(ニ)云、しのひはつへきなといへる末の句はいとおかし、はしめの五文字や、いかにそ聞ゆらん、とみえたり、古今著聞集に出せる今様に、「心のうちにはしのへとも、色にいてけり、わか戀は、ものやおもふと、みる人の、あやめていかにと、とふまてに、といふ歌あり、すへてかうやうの今様は、いとのちの世の物とおほえて、いといやしけなれは、論らふにたらす、あやめとは、あやしめといふ畧語なるへけれは、とりすつへくもあらぬ詞なれと、この今様におもひあはすれは、けにこの詞にもかきらぬ事なるへし、堀川院御時百首に、隆源「軒ちかきはなたちはなのうつり香につゝまぬ袖も人そあやむる、ともみえたり
   〇柳の花
催馬樂、大路「於保々知尓《オホヽチニ》、曾比天乃保礼留《ソヒテノボレル》、安乎也支加波名也《アヲヤキカハナヤ》、安乎也支加波名也《アヲヤキカハナヤ》、安乎也支加《アヲヤキカ》、之名比乎美禮波《シナヒヲミレハ》、伊末左加利名利《イマサカリナリ》、伊末左可利奈利なり《イマサカリナリヤ》、柳のはなをよめる事、この哥より外にもなほあり、おほかた古人は、情のためには、何物となくつねによみて、其物のいうなる、優ならぬにもよらす、けにおもひよせられなは、なにをかはよまさらん、後世は、古人のよみおきたらん物ならては、よまぬはいかにそや、古人とても、その情によらさる物は、よみ残されけん事いふもさら也、この宇宙の間の物をは、いかてか古人もよみつくすへき、名所なとも猶しかり、そのをさなさをさとるへし、小堀遠州の古器も、猶そのいにしへは、新らしとをしへられたる、格言なりや
   〇老らく
  承和二年三月十九日、於(テ)2白川(ノ)寶荘厳院(ニ)1清輔朝臣六十九尚歯會をおこなはれし、その人々は、敦頼八十三顕廣七十八成仲七十四永範七十一頼政六十九惟光六十三清輔朝臣をあはせて七叟なりき、おの/\歌あり、垣下九人、これまた各哥あり、そか中に、太宰(ノ)大貳、重家「おいらくのとしたか人のうちむれていとゝよはひをのふるけふかも、皇后宮(ノ)亮、季經「今さらにかけし車をひきつれてなゝのおいらく心をそやる、學生、藤原尹範「おいらくの人のなみゐるこのもとはかしらの雪に花そまかへる、なとよめる老らく〔三字傍線〕といふ詞、いかに心えられけるにか、こと/\くあやまれり、もと老らく〔三字傍線〕とは、らく〔二字傍線〕は、みらく〔三字傍線〕戀らく〔三字傍線〕いへらく〔四字傍線〕かたらく〔四字傍線〕なといふらく〔二字傍線〕なるを、いとおほつかなきよみさま也、其時の七叟は、こと/\く哥に名たゝる人々なりしに、いかてかこれらをみすくされけん、萬葉集に卷十三「天有哉《アメナルヤ》、月日如《ツキヒノコトク》、吾思有《ワカオモヘル》、公之日異《キミカヒニケニ》、老落惜毛《オユラクヲシモ》、かくよめるか此詞の正しきにて、古今集に「さくら花ちりかひくもれ老らくのこむといふなる道まかふかに、又、「おいらくのこむとしりせは門さしてなしとこたへてあはさらましを、なとよめるは、かみつ世のもちひさまにすこしはたかひたれと、猶さすかに法則はやふられさりき、後世は、たゝ老〔傍線〕といふ事を、老らく〔三字傍線〕といふとや心えたりけん、くはしくいはゝ、萬葉集によめるかことく、用の詞としてよむへきを、中昔より、おいらくの〔五字傍線〕なと、体になしてよめるは、はたらかせたるもの也、かくはたらかせて、体の詞としけるより、うつりて、後世には、かくあやまれるなるへし、すへてはたらかせて用ふる事は、その人のちからにまかすへき事なれと、もとのすちをふみたかへむは、轉用とはいふへからすかし、もと此詞、おいらく〔四字傍線〕といふよりして、詞の條理にたかひゆきたる也けり、これはおゆらく〔四字傍線〕といはては、らく〔二字傍線〕に受る所たゝしからぬなり、由〔傍線〕といふを、伊〔傍線〕にかよはせは、体の詞となる事、經緯の常なり、されはおもふに、かみつよの如く、おゆらく〔四字傍線〕とのみよみつけてあらは、後世にても、かくまてはあやまらし、おい〔二字傍線〕とよみけるより、つひにかく体の詞とはおもひはてぬるにこそと、いとくちをし、このあやまり、猶長能集にも、【予か蔵本二本あるかうちなり】「もろともにこそさふらひしおいらくも人には見えすなりもてそゆく、と見えたり
  因(ニ)云、まへに引たる哥のかけし車〔四字傍線〕とは、孝經(ノ)注に、「七十(ニシテ)致仕(シ)、懸(ク)2其所v仕之車(ヲ)1、とあるこれなり、續日本紀、卷三十一、光仁天皇寶亀元年九月、右大臣従二位兼中衛大將勲二等吉備(ノ)朝臣真備、上啓して骸骨を乞ふ、その詔報にいはく、「昨《サキニ》省(テ)2來表(ヲ)1、即知(ル)2告歸(ヲ)1、聖忌末v周、懸(ルコト)v車(ヲ)何(ソ)早(キ)云々、とあるもこれ也
   〇灸
隆信集に、「かやうにいひかはすほとに、例ならぬ事ありて、やいとを《本ノマヽ》なとしたるに、又この女も、ひるくふよしを聞ていひやりし、【此女とは、宜秋門院丹後なり、此まへに贈答のうた数首あり、こゝに畧す】「朝露のひるまはいつそあきかせによもきのあともおもひみたれぬ、返し、「みたるらむよもきのあとのくるしさに露のひるまもいつとしられす、ひるくふといふ事は、ものにも所々みえ、源氏物語に、「こくねちのさうやくをふくして、といひし博士のむすめをかける所にもあるは、人もよくしれる事なり、灸のことは、さしも草〔四字傍線〕なとよめるは多かれと、よもき〔三字傍線〕とよめるはめつらしく、かつやいと〔三字傍線〕ゝいふ名も、やゝふるくいへりし事、これにて思ふへし
   〇本のまゝ
誤字、衍文、あるひは錯乱、脱字なとあるに、かたはらに、本のまゝ〔四字傍線〕とかく事、ふるくありける事なり、堤中納言(ノ)物語に、「ほんにもほんのまゝとあり、と見えたり
   〇うしろめたなき
堀川院御時(ノ)百首に、國信「ふりかゝる雫に花やたくふらむうしろめたなきよはの雨かな、弁乳母集に、「石上ふるの社をわするれはうしろめたなき三わの山かな、なほ例あり、此詞、ふるくはうしろめたき〔六字傍線〕、又はうしろめた〔五字傍線〕なとやうにのみいへるを、中季よりかくよみなりぬ、これは後方痛《ウシロヘイタキ》といふ伊〔傍線〕をはふきたるなれは、な〔傍線〕もしくはゝるへき理なき事なり、すへて中ころよりは、かゝる事多けれは、心すへきなり、季吟ぬしか、枕草紙(ノ)春曙抄に、「うしろへたきとあり、め〔傍線〕とかくは、このへ〔傍線〕のうつりたる也、いはゆる、射目〔二字傍線〕、かんたちめ〔五字傍線〕なとこれなり、同書には、これにかきらす、かいまみ〔四字傍線〕を、「かいはみとあり、さる古本ありてかゝれたるなるへし、源兼澄(ノ)集に、「かさきよりもりし玉水手もたゆくいはひし袖のうしろめたなさ、といふ歌、異本には、「うしろめたさよとあり、これは、花山院の御代の頃の人なれは、中昔の末なり、されはこの異本のかた、正しきにてや有けむ、または、そのころよりあやまりそめしにや
   〇にとへの別
古今集に「僧正遍昭かもとに、奈良へまかりける時云々、とかける、このに〔傍線〕もしへ〔傍線〕もし、所によりては、いつれをかと置わつらはるゝ脚結也、此端作、このふたつをわきまへむに究竟なり、もとに〔傍線〕は、所をすゑてさす心あり、へ〔傍線〕もしは、方角をたてゝさす心あり、されは僧正遍昭かもとに〔八字傍線〕とは、その遍昭か在處をさしたる也、奈良へ〔三字傍線〕とは、遍昭か在處の方角をさせるなり、これ遍昭か在處にいたらむの志にて、奈良の方へゆくとの心也、よくおもひわくへし、に〔傍線〕もしは、その例ひくに及はすへ〔傍線〕は、萬葉集に「いさ子ともやまとへはやく、古今集に「北へゆく雁そ鳴なる、なとよめるを、いふかひなき人は、に〔傍線〕は雅言、へ〔傍線〕は俗言のやうにおもひためり、けに今は、に〔傍線〕といふへき所をも、へ〔傍線〕とのみいふなり、かへりてゐなかには、へ〔傍線〕ともに〔傍線〕ともつねいふは、古言の傳はれるなり、へ〔傍線〕もしに〔傍線〕もしの用、かはかりの別ある物なれは、さる事にまとはすして、用ひわくへし
   〇賀理
何がり〔三字傍線〕といふ詞、萬葉集にも多くよめり、そのゝちもまた多し、ふみにも哥にももちひたり、これは、それか許《モト》へといふ心なりとは、先達もみなとかれたれと、賀理〔二字傍線〕といふ所謂はとかれたるをみす、おのれふと思ふに、これは之在《ガアリ》〔二字傍線〕の阿〔傍線〕のはふかりたる詞なるへし、大かた經緯の伊緯は、用の詞を体にする義あり、いはゆるひかる〔三字傍線〕といふをひかり〔三字傍線〕といひ、おもふ〔三字傍線〕といふをおもひ〔三字傍線〕といふかことし、されは阿理〔二字傍線〕とは、阿留〔二字傍線〕を体にいへる詞にて、すなはち在處《アリカ》といふほとの義となるかゆゑに、「妹かりなといふは、妹か在處〔四字傍線〕といふ心となるなり、伊勢物語に、「いますかりける、「いまそかりけるなといふも、いますがありける〔八字傍線〕といふ心なれは、これらをも思ひあはすへし、【此す〔傍線〕もそ〔傍線〕も、濁るへからす、か〔傍線〕は、いつれもにこりてよむへし】しかるに、後には「何のがりと用ひたるあり、蜻蛉日記に、兼家公「いつくともわかぬ心はそへたれとこたみはさきにみぬ人のかり、枕草紙にも、「人のがりやりたるに云々、なとみゆるこれなり、もと賀理〔二字傍線〕の賀〔傍線〕は、すなはち之〔傍線〕の心なれは、乃我理〔三字傍線〕とは必いふましき理なり、ふるくは、何賀理〔三字傍線〕とのみいひて、何乃賀利〔四字傍線〕とはいはぬにてさとるへし、なほこれになすらふへき事あり、主《ヌシ》〔傍線〕といふ詞、もと乃宇斯〔三字傍線〕をつゝむれは、乃宇〔二字傍線〕は奴〔傍線〕となるかゆゑに、乃〔傍線〕といはゝ、必宇斯〔二字傍線〕といふへく、奴斯〔二字傍線〕といはゝ、必乃もしは置ましきよし、宣長ぬし、古事記傳、天之御中主神の下に、くはしくときおかれたり、けに神書をはしめ、乃〔傍線〕といはされは必奴斯〔二字傍線〕とあり、乃〔傍線〕といへは、かならす宇斯〔二字傍線〕とありて、其例正し、このうしの卓見といふへし、萬葉集、卷五に「阿我農斯能《アカヌシノ》、美多麻多麻比※[氏/一]《ミタマタマヒテ》、とよめる哥をもて、この宣長ぬしの説うけかたしと、畧解中に、千蔭ぬしはいはれたれと、これは憶良朝臣か、大伴卿にしめされたる歌にて、「あか旅人ぬしの、といふへき、その諱をはふきてよまれたるなれは、後世、何のぬし〔四字傍線〕と、諱をさしていふにはことなり、されはこれなほ例にたかはさるを、宣長ぬしか説を破せられしは、麁なりといふへし、かく後世、何乃奴斯〔四字傍線〕とも、また何宇斯〔三字傍線〕ともいふは誤なる事、宣長ぬしか發明にて決すへき也、されは此何乃賀利〔四字傍線〕といふ事、何乃宇斯〔四字傍線〕と同等のひかことなるへし、又萬葉集、卷十八「多々佐尓毛《タヽサニモ》、可尓母與己作母《カニモヨコサモ》、夜都故等曾《ヤツコトソ》、安禮波安利家流《アレハアリケル》、奴之能等能度尓《ヌシノトノドニ》、とあるも、ぬし〔二字傍線〕とは、諱をはふけるにて、卷五の歌に同しとしるへし
   〇をとにの別
古今集、別(ノ)部に「あふ坂にて人を〔右○〕わかれける時によめる「人を〔右○〕わかれける時によみける「をとは山のほとりにて、人を〔右○〕わかるとてよめる、なとありて、人に〔二字傍線〕とかけるはなし、これを思ふに、を〔傍線〕としもいふは、わかれまうき人なから、やむことなくわかるゝ情をおもはせて用ひたる脚結なり、同集(ノ)同(シ)部に「しかの山越にて、いし井のもとにてものいひける人の〔右○〕、わかれけるをりによめるとかけるは、その人の、をしけもみえすわかれいにし心を、の〔傍線〕とはいふなり、其哥には「あかても人に〔右○〕わかれぬる哉、とよめるも、ひとへにそのわかいにし人の情なさをおもふ心をみせて、に〔傍線〕とよめるなれは、つねはを〔傍線〕とのみかきて、に〔傍線〕とかゝぬはことわりなる事なり、されは、人の心もとめすわかるゝよしをいはゝ、に〔傍線〕といふへし、わかれまうきを別るゝよしをいはゝ、を〔傍線〕とかくへき事なりとそおほゆる、此外に、「こしへまかりける人に〔右○〕、よみてつかはしける「あつまのかたへまかりける人に〔右○〕、よみてつかはしける、なとかけるは、今別に臨みて手をわかつ時の哥にはあらて、別れんとするほと、その人の家につかはせるか、または、送りにはえゆかて、哥のみやりたるにもあるへし、古人脚結を用ひし精微おもふへし
   〇かはつるみ
宇治拾遺に「かはつるみといふ事あり、これは男色の事なるへし、かは〔二字傍線〕とは、厠《カハヤ》といふ名をおもふに、屎《クソ》まる事をいふめれは、それよりうつして、尻の事に形容せるなるへし、つるむとは、今は禽獣なとの交はるをいふに同し、この本文、法師の話なれは、男色の名らしくおほゆるなり、これを手銃のことゝいふ人もあれと、さにはあらし、ある所にひめらるゝ男色の繪卷物にも、悉く法師の男色をかけるをや、男色の事、から國にもふるくありしなり、後漢書佞幸傳(ニ)云「董賢字(ハ)聖卿、哀帝立(テ)拜2黄門郎(ニ)1、寵愛日(ニ)甚(シク)、常(ニ)与v上同(ウス)2臥起(ヲ)1、嘗(テ)昼寝、偏藉2上(ノ)〓(ヲ)1、上欲v起、賢未(タ)v覺、不2覺欲1v動v賢(ヲ)、乃断(テ)v〓(ヲ)而起、其恩愛至(ル)v此(ニ)云々、とも、また、史記韓非(ノ)傳にも、衛の珍子瑕を、靈帝愛せられしに、その寵にほこり、君の車に乗り、くらひ餘しゝ桃を、帝にたてまつれり、のち寵おとろへて、此二事を罪として、誅せられし事あり、わか御國にても、ふるくありける事にや、神樂歌に、「本|大宮乃《オホミヤノ》、知比左小舎人《チヒサコトネリ》、手々仁也《テヽニヤ》、手々仁也《テヽニヤ》、玉奈良婆《タマナラハ》、手々仁也《テヽニヤ》、本|玉奈羅婆《タマナラハ》、比留波手仁止里也《ヒルハテニトリヤ》、夜留波左祢天牟《ヨルハサネテム》、天仁也《テニヤ》、與留波左祢天牟《ヨルハサネテム》、天仁也《テニヤ》、また、拾遺集に、「山ふしも野ふしもかくてこゝろみつ今はとねりか閨そゆかしき、又同集に、「あまた見しとよのあかりのもろ人の君しも物を思はするかな、なとある、みな男色なるへし
   〇冠※[巾+責]之痕
三代實録(ニ)云「或(ハ)臨2戒日(ニ)1纔(ニ)下2官符(ヲ)1、新(ニ)剃(リ)2頭髪(ヲ)1初(テ)着(スレハ)2袈裟(ヲ)1、冠※[巾+責](ノ)之痕、頭額(ニ)猶存(ス)云々とみゆ、この冠※[巾+責]之痕といふ事、いにしへは、冠に緒もなく、かつ今のことくかたく製したるものにあらねは、頭額にくひ入るへきものにあらす、されは逆上なとする人は、冠下をは剃りなとしたりしか、法師になりて、頭髪を剃る時、そのはやく剃りたりし冠下のあとの、きはたちてみゆるをいふなるへしとおもひつるよしを、原在明ぬしにかたれりけるに、古き画に、冠をぬき置て寐たる人かきたるに、その冠下剃りたりしをみし事あれは、その冠※[巾+責]之痕は、かならすしかなるへしとかたられき、その圖は、いつの比のものとはしらねと、もしこの冠※[巾+責]之痕とあるも、剃りたる痕の事ならは、いとふるくせし事なるへし、鎌倉前後には、今のさまにひとしく剃れり、兜下の蒸さるかためなりといふ説も聞ゆれと、これによらは、冠下をそれりし遺風とこそおほゆれ
   〇中河
中河は、源氏物語、空蝉(ノ)卷に出たる、人みなしれり、しかるに、安法々師(ノ)集に、「なか川のたえたりけるあとをみて、「中川の水たえにけりすゑのよはあきをもまたてかれやしにける、とあり、この大徳は、俗名を邇《チカシ》といひて、河原院源大納言昇卿の孫也、兼澄集に「かはらの院に、あほうかもとにまかりしに云々、又、「河原のゐんに、あんほうはうにて云々、なとみえたり、されは天暦、天徳なとの頃には、はやたえたるなるへし、源氏物語かゝれける比は、中河はたえにたる後なる事しるし、かの中河の家のさま、目にみるかことく、まさ/\しくかゝれたれは、かくたえたりし後とは、誰も思はしとて、しるしおく也、中河は、京極にありしとそ、かつら川を、西川といふ、鴨川は東にありて、その中間なるか故の名なるへし、源氏物語、床夏(ノ)卷に「にし川よりたてまつれるあゆ、近き川の石ふしやうのもの、おまへにててうしてまゐらす、とある、この近き川とは、かも河の事なるへし
   〇せめて
せめてといふ詞、中昔まては、たゝ迫《セマ》りてといふ心にのみ用ひたり、古今集に「いとせめて戀しき時はぬはたまのよるの衣をかへしてそきる、その外、例ひくにいとまあらす、しかるにその後、いま俗言にいふに同しきせめて〔三字傍線〕をは、哥にもよむことゝ成ぬ、けに事からによりては、いはまほしくおほゆる時々もある詞なるを、いかてかいにしへ人は、此詞なくて事もかゝれさりしそと、心得かたくおほえしに、萬葉集、卷(ノ)二に「妹之家毛《イモカイヘモ》、継而見麻思乎《ツキテミマシヲ》、山跡有《ヤマトナル》、大島嶺尓《オホシマノネニ》、家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》といふ歌をみて、はしめておもひしりぬるは、この妹か家も〔四字傍線〕といふ毛〔傍線〕もし也、これ即後世のせめて〔三字傍線〕の心なる也、その故は、妹かかほのみまほしきか本意なれと、それかなはねは、せめてその家なりとも、つきて見ましをとの心なれはなり、これによりて思へは、ふるくはありて、後世はなく、後世はありて、ふるくはなき詞とも多かるも、よくたつねなは、おもひよらぬ詞もて、その用をなしたる事、たかひにあるへしとそおほゆる、なほ精しくたつぬへきなり
   〇等之乃波
としのはに〔五字傍線〕といふ詞、萬葉集、卷(ノ)十九「毎年尓《トシノハニ》、來喧毛能由恵《キナクモノユヱ》といふ哥に、自注せられて、「毎年謂2之(ヲ)等之乃波《トシノハ》1とあり、しかるに、わか友隆l、「としのはことにとよめりけるをみて、同しわか友なる友助、しかもよむかとゝひしに、心得すと答へたりしか、そのゝち萬葉集、卷(ノ)十八に「往更《ユキカハル》、年能波其登尓《トシノハコトニ》云々、とよめるをみいてたりとて、友助予に告けたりき、されはもと「としのはことにといふへきを、「年のはにとのみよみて、毎年の心にもちひたる物にや、または、「年のはことにとよめるはすくなく、「年のはにとよめるは多かるをもて思へは、かの卷十八なる哥は、家持の哥にて、その頃は、詞もやゝうつれる事、これにかきらすおほかれは、ふるくは「としのはにとのみいひつけたるをは、しかよまれけるにやともおほし【師輔公集に「はる/\ことにといふ詞ありこの年のはことにと同しいひさま也】
   〇采女
續日本紀、文武帝、大寶二年四月壬子、令d命(シテ)2筑紫七國及越後(ノ)國(ニ)1簡2点(シテ)采女兵衛(ヲ)1貢uv之(ヲ)、但陸奥(ノ)國勿v貢云々、此兵衛なとはさもありなん、女をは、遠き國々より貢かしめたまひし事、心えかたき事なり、かれおもふに、何事も年經てはそのはしめの意趣はうしなはれて、たゝその儀その式のみ残る事、おほきならひなれは、此采女も、たゝさる御さためとのみ、なりはてつらめと、其はしめを思へは、必故なくてはあるへからす、もし、その國々の歸順し奉れる信をたてしめむか為に、采女はたてまつらしめ給ひ、おほやけも、これをもて大御心を安くし給ひしにはあらしか、女は、大かた、遠き國にはいてたつへきこゝちもなき物にて、そのおやはらからうからも、とほくはなちては、やるへきそらもあるましき物なれは、その國人の信をみたまはむかためには、けにこれにしくものあらさるへし、萬葉集に、葛城(ノ)王の、陸奥にくたられける時、哥よみたりし前采女は、かきりはてゝ帰りたるか、又は、罪ありてかへりたるか、それはしらねと、これをもてみれは、もとつ國にかへしもし給ひ、又代りて他の女をたてまつらしめもしたまひしなるへし、かたちよき聞えありて、たてまつらしめたまひし事ともおほえす、たゝめしつかはれん為はかりならは、ゐなか人は、宮中にはふさはしからし、かつ采女兵衛とならへられたるも、たゝならす、又貢〔傍線〕の字も、よしありけにみゆれは、これらを思ひて、わか此杜撰をも察すへし、これとはいたくたかへる事なれとも、王昭君を胡にあたへられしも、その情は、これになすらふへき事なり、この事まことのおしはかりにて、いとさかしらなる事なから、もし今いふ所の故ならすは、かならす別に旨趣ありけなる事なり、よゝの采女のうち、たま/\は幸せられたるもみゆれと、それは、まゐりてのうへの事にて、采女の本意にはあらさるへし、今いふ所に混しおもふましき也、その外、位を授け、姓をたまひし事なと、續日本紀等に、いと多くみゆ
  因(ニ)云、同紀に、采女といふ姓あり、そのおこる所、かならす采女の事にあつかれる姓なるへし
   〇七子鞘
古今六帖に「なゝつこのさやのくち/\つとひつゝわれをかたなにさしてゆくなり、といふ歌あり、なゝつことは、神功紀に、「七枝刀《ナヽサヤノカタナ》といふものあり、七子は、刀のうへにいひ、七さやは、鞘のうへにいふにて同物なるへし、そのかたちを思ふに、おやとする所ひと所ありて、それにおほくの子のつきて、股なしたる刀なるか故に、「なゝつことはいふなるへし、なゝつ〔三字傍線〕とはいへとも、必七股なるにもかきらさるへし、「七車「七日「七はかりなとよめる、いつれもたゝ、数多かるを大かたにいへるたくひなるへしとそおほしき、此哥の心は、世人くち/\にわか名をさす事よと、ひろくいひさわかるゝをなけきし心なり、同し六帖に、「あふ事のかたなさしたるなゝつこのさやかに人の恋らるゝかな、ともよめり、萬葉集、卷(ノ)四に「人事《ヒトコトヲ》、繁哉君乎《シケミヤキミヲ》、二鞘之《フタサヤノ》、家乎隔而《イヘヲヘタテテ》、恋乍將坐《コヒツヽヲラム》、これは二股なる刀なるへし、と、契沖あさりはいへり、また、古事記の哥に、「もろさやとあるも、二鞘と同物なるへし、かみつよは、これにかきらす、さま/\なる刀ありけらし、神書に「頭椎之太刀《クブツチノタチ》あり、神武紀にも見えたり、かくいく股にもつくれる刀、その製みまほしきものなり、
   〇金刀銀人
延喜式(ニ)【四時祭式大祓】云「金銀装(ノ)横刀二口、金銀塗(ノ)人像、各二枚、【已上、東西(ノ)文部所v預】とありて、六月晦日の夕、文部、御階のもとにまゐりて、中臣の女に付す、天皇御息をかけ給ひて、これを賜ふよしみえたり、すなはち大祓の祝詞の奥につきたる、文部か詞のうちにも、「捧(テ)2銀人(ヲ)1請v除(ンコトヲ)2禍災(ヲ)1、捧(テ)2金刀(ヲ)1、請(フ)v延(ンコトヲ)2帝祚(ヲ)1とみえたり、【銀人に金人をふくめ、金刀に銀刀をかねたるなるへしと、真淵ぬし、祝詞考にいへり】これは神書に、速須佐之男命に千座置戸をおほせたまふといふ事ある遺式なり、しかるに契沖阿闍梨、代匠記の中に、密教に、その人の息災増益等の法を修するに、その人の代りに、衣服を置く事あり、それには甚深の習ありて、衣服すなはちその人なりとかけり、かの千座置戸は、この密教の意とはいたくたかひて、勝佐備をはらへむか為なれは、さる修法のためにはあらす、その旨趣はこゝにときつくしかたし、されと今の世には、神道の密教に混したる事、これにかきらすいと多くみゆ、それはそれ、これはこれにてあらまほしくそおほゆるや
   〇さをとゝし
萬葉集、卷(ノ)四に「前年之《ヲトヽシノ》、先年従《サキツトシヨリ》、至今年《コトシマテ》、恋跡奈何毛《コフレトナソモ》、妹尓相難《イモニアヒカタキ》、竹取物語には、「さをとゝしの、きさらきの、とをかころに、なにはより舟にのりて云々、とあり、さをとゝし〔五字傍線〕は、即さきのをとゝし〔七字傍線〕といふをはふける詞にて、「をとゝしの、さきつ年とよめるに同し詞なり、今も、をとゝし〔四字傍線〕、さをとゝし〔五字傍線〕といふ、みなふるくいひける詞ともなりけり
   〇盃中蛇
晋書(ニ)云「樂廣字(ハ)彦輔、〇常(ニ)有(リ)2親客1、久濶不2復來1、廣問(フ)2其(ノ)故(ヲ)1、答(テ)云、前(ニ)在(テ)v坐(ニ)蒙(レリ)v賜(フコトヲ)v酒(ヲ)、方(テ)v飲(ニ)忽見(テ)2盃中(ニ)有1v蛇、意甚悪(ム)v之(ヲ)、既(ニ)飲而|疾《ヤメリト》、于v時河南(ノ)聴事、壁上(ニ)有2角弓1、漆画作v蛇(ヲ)、廣意(フニ)盃中(ノ)蛇(フ)即角弓(ノ)影也、復置(テ)2洒(ヲ)於前處(ニ)1謂v客(ニ)曰、盃中復有(リヤ)v所v見(ル)不《イナヤ》、答(テ)曰、所v見(ル)如(シ)v初(ノ)、廣乃告2其(ノ)所以(ヲ)1、客豁然(トシテ)意解(ケ)、沈痾頓(ニ)愈(ユ)、とあるに、いとよく似たる事あり、有馬良及といひしは、近世の名醫なり、あるやことなき所に、物に汲みおきたりし水を、夜陰にのませたまひしか、そのあした、かの水を御覧しけるに、あかく小さき虫、おほくわきてありしかは、たちまち御はらいたみて、たへかたうし給ひしに、良友、丸劑をたてまつり、箱して、其虫のくたらんを試みさせ給へと申されしに、けに其言のことく、赤くちひさき虫、いと多く出たりしを、御覧せさせたりけれは、御はらすなはち愈ぬとそ、そのたてまつられし丸劑、まことは赤き糸をきさみて、薬にましへてたてまつられけりとなん、かの盃中の蛇とは事たかひたれと、そのやまひのおこれるも愈たるも、かよひてそおほゆる
   〇乎佐乎佐
古今集、長哥に「とのへもる身の、みかきもり、をさ/\しくも、おもほえす、源氏物語、帚木(ノ)卷に「よるひる、かくもんをも、あそひをも、もろともにして、をさ/\たちおくれす、又同卷に「つれ/\とふりくらして、しめやかなるよひの雨に、殿上にも、をさ/\人すくなにて云々、蜻蛉日記、卷一「例の人、いとかしこし、をさ/\しきやうにも聞えむこそよからめとて、さるへき人して、あるへきにかゝせてやりつ、なとみえたる、をさ/\しといふ詞、古説紛々たり、予按するに、仁徳紀に、八田皇女をめしいれたまはんことを、皇后におほせられける大御哥に、「于磨臂苫能《ウマヒトノ》、多菟屡虚等太※[氏/一]《タツルコトタテ》、于磋由豆流《ウサユツル》、多曳磨菟餓務珥《タエマツカムニ》、奈羅陪※[氏/一]毛餓望《ナラヘテモカモ》とよませたまへる、うさゆつる〔五字傍線〕は、神功紀に、「時(ニ)武内(ノ)宿祢、令(シテ)2三軍(ニ)1令2推結1、因(テ)以(テ)令(シテ)曰、各|儲弦《ヲサユツルヲ》藏(セ)2髪(ノ)中(ニ)1云々、古事記、同條に「尓自2髪(ノ)中1採2出設弦(ヲ)1【一名云2宇佐由豆留(ト)1】とあるこれなり、今かへ弦〔三字傍線〕といふ、かの仁徳帝の御製は、八田皇女を、儲弦〔二字傍線〕になすらへ給へるにて、「たゆまつかむにとは、もし弦の絶間あらは、継《ツカ》むにの心なり、此儲弦〔二字傍線〕よりおもふに、宇〔傍線〕と乎〔傍線〕は通音なれは、をさ/\し〔五字傍線〕のをさはこれなるへし、主とする物にはあらねと、やかてその主物にもかはらぬはかりなるさまを、をさ/\し〔五字傍線〕とはいふとおほしき也、萬葉集、卷(ノ)十四に、「等夜乃野尓《トヤノヌニ》、乎佐藝祢良波里《ヲサキネラハリ》、乎佐乎左毛《ヲサヲサモ》、祢奈敝古由恵尓《ネナヘコユヱニ》、波伴尓許呂波要《ハハニコロハエ》といふ歌あり、これ後世をさ/\〔四字傍線〕といふ詞のおやにて、今いふ所の義もてみれは、いつこも/\よくかなふこゝちす、前にいへるかことく、いつれも、別に主とする物あるになして心うれは、その意あきらかなるへき也
   〇宇治橋
奇遊談といふものに、明和七年五月の比、旱して、井なともかれたりしに、よと川も舟かよひかたくなり、宇治よりの運送もたえけれは、土人相議して、宇治川の、上嶋下嶋兩村のまへを掘りけるに、二三尺はかり底に、大石を敷ならへてありけれは、そこはさし置て、又一二丈はかりかたへを掘たりけるに、なほ同しこと、大石を敷ならへたりしかは、ちから及はすしてやみぬ、いかなる世に、かゝる敷石はせしにかと、あやしみあへりとみえたり、予按するに、今の豊後橋は、もはら大和にかよふ為なれと、近き世にかけたる橋にて、むかしは、宇治橋よりやまとへはかよひし也、しかるに、今の宇治橋は、東(ノ)方により過て、大和へのかよひには、いと不便なれは、いにしへは、必川下にこそありけめと、かねておもひ置つるに、此奇遊談をみて、かの敷石は、いにしへの宇治橋の下にしけりし石なる事をしりぬ、大和へのかよひも、こゝにありてこそ宜しくもおほゆれは、これうつなく、宇治橋の古跡なり、上嶋下嶋といふ名も、宇治橋の上下なりし故の名にやと、かた/\より所ありておほゆ
  因(ニ)云、橋本の西、葛葉の下に、上島下嶋といふ二村あり、うたかふらくは、いにしへ、山崎橋の上下にありけるか、山崎のわたりは、すへて豊太閤の時に、いたくかはりしかは、此二村も、所はうつりて、名のみ傳はりたるにや
   〇詞の遠近
萬葉集、卷(ノ)四、大伴(ノ)家持、紀(ノ)女郎におくられける哥五首あり、「吾妹子之《ワキモコカ》、屋戸乃籬乎《ヤトノマカキヲ》、見尓往者《ミニユカハ》、蓋従門《ケタシカトヨリ》、將返却可聞《カヘシテムカモ》「打妙尓《ウツタヘニ》、前垣乃酢堅《マカキノスカタ》、欲見《ミマクホリ》、將行常云哉《ユカムトイヘヤ》、君乎見尓許曾《キミヲミニコソ》「板蓋之《イタフキノ》、黒木之屋根者《クロキノヤネハ》、山近之《ヤマチカシ》明日取而《アスニモトリテ》、持將参來《モチテマヰコム》「黒樹取《クロキトリ》、草毛刈乍《カヤモカリツヽ》、仕目利《ツカヘメト》、勤和氣登《イソシキワケト》、將誉十方不在《ホメムトモアラス》【一(ニ)云、仕登母《ツカフトモ》】「野干玉能《ヌハタマノ》、昨夜者令還《キソハカヘシツ》、今夜左倍《コヨヒサヘ》、吾乎還莫《ワレヲカヘスナ》、路之長手呼《ミチノナカテヲ》、この五首、第一の哥は、まかきをみにゆくになしふせてよまれたる、いとめてたきを、第二の哥、それをことわりて、まかきを見にとはいへと、まことは君を見にゆくなりとよまれし、いかなるをさなさそや、籬を見にはあらし、われを見にならんと、紀(ノ)女郎の、おもひとりてこそめてたけれ、第一の哥はかりにては、もし此情の通すましくやとあやふまれける事、言をつかさとり給ふ神の霊《ミタマ》の妙用をうたかふにて、中昔以後のてふりともいふへし、この第一第二の哥、此道の本いのありなし、詞のつけさま、近きと遠きとのけちめを、おもひわくるに便ある哥なれは、よくめをとゝめてあちはふへし、第三第四は、屋根のうへにのかれはてられしかは、いとめてたし、第五はまた直言なり、大かた直言をえまぬかれさりし歌は、これよりふるき人にも、なほたま/\はありて、更に家持ぬしにかきれる事にはあらねと、此京にちかき人は、おのつからそのけちめもみゆる也けり、上古の人すら、十にひとつは直言をえまぬかれぬかましるも、もと倒語はたやすからぬ道なるかうへに、人にとくその情を、心えさせまほしかりし時の自然なるへし、今人は、たゝ詞の、情にちかくて、うちつけに心えらるゝをよしと思へれと、しからはいかてか、古人常に、詞を情にとほさけむ、人をしてとく心えさせんと思ふ心甚しき時は、おのつから詞は情に近つくへし、この第一第二の哥をもて、詞の遠近、いつれかめてたからんと、心を虚にしておもひうへき也
  因(ニ)云、こゝに引たる第二の哥に、まかき〔三字傍線〕を、前垣〔二字傍線〕とかゝれたるを思へは、まかき〔三字傍線〕は、前垣〔二字傍線〕の義にや、同集、卷十四に「久敝胡之尓《クヘコシニ》云々とよめるに、「或(ル)本(ノ)歌(ニ)曰、「宇麻勢胡之尓《ウマセコシニ》云々、ともあるを思ふに、宇麻勢〔三字傍線〕は、馬せきの義にて、馬屋に、馬のえ出ぬやうにゆひたる垣なり、ませ〔二字傍線〕といふ即是也、されは庭なとに、つねゆふ垣も、その馬塞《ウマセキ》に似たるか故に、それをもとゝして、まかき〔三字傍線〕といふ、宇麻勢《ウマセ》垣〔四字傍線〕を畧したるにやともおほし
   〇伯勞鳥之草具吉
萬葉集、卷(ノ)四「春日山《カスカヤマ》、霞多奈引《カスミタナヒキ》、情具久《コヽログヽ》、照月夜尓《テレルツクヨニ》、獨鴨念《ヒトリカモネム》、また同卷、「情八十一《コヽログヽ》、所念可聞《オモホユルカモ》、春霞《ハルカスミ》、軽引時二《タナヒクトキニ》、事之通者《コトノカヨヘハ》、この具久とは、ふくむ心なりと、契沖あさり尺せられ、後學みな一定なり、これによりておもふに、古事記(ノ)上卷に、「多迩具久《タニグヽ》あり、祝詞には、「谷蟆《タニグヽ》とかけり、萬葉集にも例あり、同集、卷(ノ)十に「春去者《ハルサレハ》、伯勞之草具吉《モスノクサクキ》、雖不所見《ミエネトモ・ミエストモ》、吾者見將遣《ワレハミヤラム》、君之當婆《キミカアタリハ》、この草具吉〔三字傍線〕、袖中抄に、草くゞりなりと釈せられたり、奥義抄には、草の茎をいふといへるはうけかたし、谷具久〔三字傍線〕も、これに同しく、谷くゞりの義なりと、宣長ぬしはいへり、しかるに、潜〔傍線〕《クヾル》は、下のく〔傍線〕を濁る語なるに、上を濁り下を濁らさる事、をだしからす、すへて上につゝく語は、必濁る例なれは、上の具〔傍線〕はさもあるへけれと、しからは下をも濁りて、具具〔二字傍線〕といふへきを、下は清音の字を用ひられたるをや、されはこれは、くぐる〔三字傍線〕の義にはあらて、かの情具久〔三字傍線〕《コヽログヽ》の具久〔二字傍線〕なる事あきらかなり、具吉〔二字傍線〕は、久〔傍線〕をかよはせて体になせる詞なり、この故に谷具久〔三字傍線〕は、蝦蟆の、谷にこもりをる物なるよりの名なるへし、草具吉〔三字傍線〕は、伯勞鳥の、草にこもりをるをいふなるへし、かく心うる時は、ともに心もかなひ詞の條理、清濁の字も正しきをや、萬葉集、卷十九に【長哥上下畧】「喧霍公鳥《ナクホトヽキス》、立久久等《タチクヽト》、羽觸尓知良須《ハフリニチラス》、藤浪乃《フヂナミノ》云々とあるは、上下ともに清音をもちひられたれとも、下も清音の字をもちひたれは、これまた潜〔傍線〕《クヾ》るにはあらさるへし、神代卷に、「溟※[さんすい+幸]を、くゝもる〔四字傍線〕と訓したる、即この具久〔二字傍線〕の心なり、【みな人、これをは久具毛流〔四字傍線〕とよみつけたれと、下をも濁るましき也、今俗に、くゝむ〔三字傍線〕なといふは、すなはちこれなり】萬葉集、卷(ノ)九に「羽※[果/衣]《ハクヽム》とよめるも同し詞にて、くはしくいはゝ、たゝ含といふはかりの心にあらす、そのありかの、そこともしられす、おほつかなきさまをいふ詞なりとしるへし
   ○八花前鏡
類聚雑要抄に、古鏡の圖ありて、八花前《ヤツハナサキ》とあり、かの日(ノ)神の御像鏡、八頭花埼《ヤタハナサキ》なるよし、【委しく宣長ぬしか、古事記傳にしるされたるを見るへし】ことさらに鑄られたる形にはあらて、いにしへは常ありけるかたちなりしにこそ、義經記をみしに、辨慶か、まことの修験者とあさむきおほせし時、女かたより引出物せし所に、此かたちなる鏡を出せし事みゆ、これらをもても、神鏡にかきれる形にあらさる事しるへし、もし神鏡をはしめ也とせは、つねにその形をもちひむ事、かしこきわさなるへきをや、雑要抄には「鏡(ノ)裏(ニ)緒(ノ)付(ケ)様、凡緒(ノ)長(サ)五尺五寸、【總三寸五分、料(ノ)糸一兩】弘(サ)二寸二分、【紐(ハ)平緒(ノ)定」徑一尺、裏(ノ)文鴛鴦唐草、とみゆ、いつれもかゝる制にそあるらし、古事記には「八尺鏡《ヤタノカヽミ》とあり、神代卷には、「八咫鏡《ヤタノカヽミ》とあり、此咫尺〔二字傍線〕は、御鏡のおほきさをいへるやうなれと、也多〔二字傍線〕といふ名にあたれる字にはあらさるへし、神武紀に、「八咫烏《ヤタカラス》あり、古事紀上卷に「八田間大室《ヤタマノオホムロ》なとあるにおなしく、也多〔二字傍線〕は、八阿多〔三字傍線〕にて、阿多は、その花前《ハナサキ》なるかたちをいふなるへし、此阿多〔二字傍線〕、もと咫か尺かふたつかうちの名にて、咫尺と熟する字なるか故に、咫とも尺ともかけるにこそ、されと、いまたしか訓したる例は見及はす、御鎮座傳記(ニ)云「一面者、八百萬(ノ)神等、以2石凝姥《イシコリトメノ》神(ヲ)1奉v鑄2寶鏡(ヲ)1、是(レ)則崇(ル)2伊勢(ニ)1大神宮也、一名、日(ノ)像《ミカタ》八咫《ヤタノ》鏡是(レ)也、八咫、古語(ニハ)八頭《ヤアタ》也、八頭花崎《ヤタハナサキ》八葉(ノ)形也、故名2八咫(ト)1也、中臺圓形(ニ)座(ス)也、圓外日天八座とみゆ、此日天八座なとは心ゆかねと、これをもて其形を思ふへし、予おもふに、この形をしも用ひ給へるは、八の数を表したるなるへし、わか大御國のいにしへは、言も物も、おほかた比喩にして、理よりとり出たるはすくなし、これ上古をみるに、肝要の心得也かし
 類聚雑要集に出たる古鏡の圖
〔図略〕鏡裏(ニ)緒付樣
〔図略〕鏡筥
鏡臺(ニ)用鏡形
〔図略〕
以上同抄に出たり
 
   〇貧窮問答
萬葉集、卷(ノ)五に、山上憶良(ノ)朝臣、貧窮問答の歌あり、この歌、はしめの「風雑《カセマジリ》、雨布流欲乃《アメフルヨノ》、といふより、「汝代者和多流《ナカヨハワタル》といふまては、問なり、「天地者《アメツチハ》、比呂之等伊倍杼《ヒロシトイヘト》といふより、「世間乃道《ヨノナカノミチ》といふ終まてを、答也とは、古來とき來れゝと、いかなる故にて、問となり答となるとも、尺せられす、いとおほつかなき事なり、されは思ふに、その問の方は、「和禮欲利母《ワレヨリモ》、貧人乃《マツシキヒトノ》、父母波飢寒良牟《チヽハヽハウヱサムカラム》、妻子等波《メコトモハ》、乞※[氏/一]泣良牟《コヒテナクラム》とあるをみれは、これは父母妻子もなき、孤獨の貧人のうへなり、答のかたには、「父母波《チヽハヽハ》、枕乃可多尓《マクラノカタニ》、妻子等波《メコトモハ》、足乃方尓《アトノヘニ》、圍居而《カクミヰテ》、憂吟《ウレヒサマヨヒ》とあるをみれは、これは父母妻子ある貧人のうへ也、されは孤獨なる貧人と、父母妻子ある貧人との問答にて、このふたすちをむかへて、問答としもせられたるは、大かた貧窮は、いとくるしき物なるかうちに、父母妻子あると、なきとをむかへておもへは、孤獨なるは、くるしとはいひなから、たゝおのれのみ堪なはさてありぬへし、父母妻子かくるしむらんをみむは、おのれひとりかくるしさには、いといたうまさるへしとの心をいふにて、所詮は、父母妻子のくるしむらむは、くるしきか中のくるしさなれは、あらかしめこれをわきまへて、さるくるしさに及はさらむやうに、心を用ひよとの心をは、かくことならひて自問自答とせられたるなり、さるは、たゝおのか心やりによまれたるにはあらし、誰かはしらねと、かゝるあらましもなき人ありて、それをいさめむか為によまれつるなるへし、先達問答の意を尺せられさりけれは、さかしらに、今おもひよれるすちをいふ也かし
  因(ニ)云、先達問答の意を尺せられさりしは、かみつ世の言は、思ふか如くはいはぬならひなる事の、よにかくれたれは也、真淵ぬし以來、わか御國言は、その意をふかく尋ぬへき事にあらすといはれけるより、その言、神のこと世にひゝきわたりて、いよ/\いにしへに遠くなりにたり、おほよそ言霊の道、わさと理をふかめむとていふにはあらす、人情におきて、やむことなき事にて、神書もはらこれをとき給ひ、しかのみならす、古書に徴する所も多けれはなり、しかれとも、大和物語の哥に「たましひはおかしき事もなかりけりよろつのものはからにそ有ける、ともあれは、たゝうはへにのみ人のめとまる事、はやくよりの弊にこそ
   〇讀書燈
古今秘苑(ニ)云「讀(ムニ)v書(ヲ)須v以(テス)2麻油(ヲ)1、無v煙不v損v眼(ヲ)、但息2其易(キヲ)1v乾、毎2一解1入(テ)2桐油三兩(ヲ)1和v之則難(シ)v乾、又辟鼠耗以2塩少許(ヲ)1置(モ)2盞中(ニ)1亦可(ナリ)、省油以2生姜(ヲ)1擦2盞邊(ニ)1可v不v生2滓暈(ヲ)1、おほかた讀書せむ人の眼を損せんは、志をむなしくすへき基なるへけれは、はやく眼鏡をも用ふへく、かつこの燈法をもまねふへくこそ
   〇雲宇途
伊勢(ノ)國風土記、残冊之内、員弁(ノ)郡(ノ)餘卷(ニ)云、「雲宇途《クモウヅノ》郷、公穀三百九十束三字田、假粟百九十八丸三毛田、貢2竹梅桃櫻等及柴胡川※[草かんむり/弓]等(ヲ)1、雲宇途川、出(ス)2鮎鮒鯉鮠及菘苔等(ヲ)1、洪河及(フトキハ)2逆浪(ニ)1則郷民浴v水(ヲ)渉(テ)v瀬(ヲ)防(グニ)2急水(ヲ)1、千之一者及2溺死(ニ)1とあり、この雲宇途、いまは雲津といひつけたり、しかれとも、かならす宇〔傍線〕の字はもと音便にてそへていふにはあらさるへし、これらは必あるへき宇〔傍線〕もしを、今ははふきていふを、前にしるせる「あとうかたり「しりうことなとは、もとはあとかたり〔五字傍線〕、しりこと〔四字傍線〕なるへきを、音便にて、宇〔傍線〕の字あるやうにいひならへるか、終に文字にさへかく事とはなりにたり、物名にまれ詞にまれ、くはしくめとゝむれは、かならすあるへきもしのなくなり、必あるましきもしのある事、これにかきらす、いと多き事なり
   〇帯襷
伊勢(ノ)年中行事、櫻(ノ)宮十七日(ノ)神事、鳥名子(ノ)歌(ニ)云「阿古女乃曾天《アコメノソテ》、也不禮天波牟倍里《ヤフレテハムヘリ》、於比仁也世牟《オヒニヤセム》、多須支仁也世牟《タスキニヤセム》、伊左世牟《イサセム》、多加乃乎仁世牟《タカノヲニセム》、この鷹の緒とは、和名抄には「攣、あしを〔三字傍線〕とあり、日本紀には、「緡の字をもちひられたり、今の俗、いつれにもはしたなき物を、帯には短したすきには長しといふは、これらよりやいひならひけん、この歌は俗諺の義とはたかひて、無益のものにせむより、おなしくは有用のものにせむといへる心ときこゆ
    〇手つゝ
手つゝ〔三字傍線〕といふ事は、手してするわさのはか/\しからぬをこそ、今はいふを、宇治拾遺、十四に「入道の君こそ、かゝる人はおかしきものかたりなともするそかし、人々わらひぬへからむ物かたりし給へ、わらひてめをさまさむといひけれは、入道、おのれは口てつゝにて、人のわらひ給ふはかりの物かたりはえしはへらしとあり、「口てつゝといふ事、今よりはふるき世の詞なから、いかにそや聞ゆ、されとこれは手してする事の、手つゝなるか如く、口のはたらかぬを、形容していふ詞なるへし、俗に、口不調法といふこれなり、古言には、形容の詞おほくて、今よりみれは、ことわりそむけるやうの事もあれと、今人は、詞を理のまゝにいふを、古人は人に思はすることをむねとするか故に、かゝる詞もある也けり、これらの詞は、うちみには必人あはむへけれは、ことわりおくなり
 
北邊隨筆卷之四 終
 
文政二年己卯五月新刊
平安書林    錢屋※[手偏+總の旁]四郎
菱屋孫兵衛
木村吉右衛門
天王寺屋市郎兵衛
             〔2021年3月21日(日)午後7時42分、入力終了〕
             〔2021年8月12日(木)午後5時45分、修正終了〕