齋藤茂吉全集 第十七卷
(1)柿本人麿 三
(3〜29)目次〔省略〕
(1)評釋篇 卷之下
 
(3) 自序
 
 本卷は、「柿本人麿評釋篇」の下半をなし、萬葉集中、柿本朝臣人麿歌集に出づ等と左注せられた歌、柿本朝臣人麿之集歌、柿本朝臣人麿歌集歌曰等といふ題の附けられた歌、その全部を評釋したものである。
 さうして、一般の學説に據る歌數は、長歌二首、短歌三百三十三首、旋頭歌三十五首であるが、それに、石井・武田氏等の考説に據つて増補すると、總計、長歌二首、短歌三百五十三首、旋頭歌三十五首となる。
 本卷評釋のはじめの意圖は、契沖・眞淵以來の説に從つて、人麿歌集には、人麿作以外の歌を多分に含有してゐると看做し、先づその中から人麿作だらうと想像し得るものを引拔いて評釋しようとしたのであつた。そして約二百首あまりの短歌及び旋頭歌を選出して、それを評釋し終つたのは、昭和九年四月であつた。然るにその後、土屋文明氏の奨励により、人麿歌集の歌全部を評釋することとなつたので、閑暇を得つつ増補して行き、その全部の評釋を終へたのは昭和十一(4)年八月であつた。さうしてその評釋した一首一首を萬葉集の卷によつて配列したのが即ち本卷であるから、形式の不同、繁簡の錯落はおのづから免れ得ないところであつた。また、或る歌の評釋が簡單であるから、その歌を輕く評價したといふわけでもなく、却つて最初選んだ歌の方に簡單な評釋が多いといふ傾向もあつたほどである。それは一首一首讀まれる時は明かになるとおもふが、念のために一言を添へた。
 本卷の歌の評釋は、一見容易なるがごとくにして、實際はなかなかそんなものではなかつた。私の學力を以てしては奈何とも爲しがたいものは幾首もあつた。けれども終身未定の慨を保ちつつ到頭評釋の稿を終はつた。而して分からぬものは分からぬとして、先進の諸説を掲げ、不明をば強ひて糊塗せなかつたつもりである。
 人麿歌集の歌は、明かに他人の名の署せられてゐるものはそれを取除けるとして、概ね人麿の作だらうと考へるのは、近時學界の傾向のやうに見える。つまり、契沖・眞淵等が考へたよりも、まだまだ多く、人麿の作が含有せられてゐると考へるのであり、或は殆ど總て(取のけたもの以外)が人麿の作だらうと者へる、と謂つた方が寧ろいいかも知れない。さういふ説のやうに見える。けれども、實際に人麿歌集の歌の一つ一つに當つて、考へ且つ味へるに及んで、自分は必ずしも最近の學界の傾向に直ちに賛同することを躊躇するものである。契沖・眞淵等よりも、なほ(5)積極的に人麿作を認容する過程を歩んで來たのであるが、それでも本卷に於ては、自分はどちらかといへば契沖・眞淵の考の方嚮にむかつて還元しつつある結論を得たのではなからうか。
 本卷は、昭和十一年九月、原稿を印刷所に交附してから、昭和十三年十月校正を終へたまで滿二ケ年の歳月を費した。そのあひだ、原稿校閲及び印刷校正には、柴生田稔・佐藤佐太郎・山口茂吉・鈴木三郎の諸氏の力をわづらはしたことは上卷のごとくであるし、資料について、渡部信・尾形鶴吉・藤森朋夫諸氏の助力をあふぎ、また、現下の事變時に際して、かく立派に發行の出來たのは、岩波書店主岩波茂雄氏の厚意に本づくのであつて、ともに私の甚だ深く感謝するところである。
 なほ、解釋について諸先生の教をあふぎ、また、私の原稿の出來たのち、印刷中、種々の有益な研究論文が公にせられたが、それ等のことは終卷の「雜纂篇」に於て明かにしたいとおもつてゐる。
 なほ、本卷に、宮内省圖書寮御藏の、「柿本人麿集」を全部附載し得ることの御許可にあづかつたことは、私の謹み感謝するところであつて、柿本人麿の歌が或る時代に、かくの如き體裁に取扱はれ、和歌の世界にいかなる位置を占めつつあつたかを知るうへの貴重なる資料である。昭和十三年十一月。齋藤茂吉識。
 
(7) 人麿歌集評釋
 
(9) 柿本朝臣人麿歌集
 
     一
 
 萬葉集の歌の中で、右柿本朝臣人麿歌集出等とある左注と、なほ、題詞として、柿本朝臣人麿歌集歌曰等とある、その書き方の有樣は次の如きものである。
  右×首柿本朝臣人麿(麻呂)之歌(謌)集出
  右×首柿本朝臣人麿之歌集中出
  右×首柿本朝臣人麿歌集出
  以前一百四十九首柿本朝臣人麿之歌集出
  右柿本朝臣人麿(麻呂)之歌集出
  右柿本朝臣人麻呂歌集所出
  右柿本朝臣人麿歌集出
(10)  右柿本朝臣人麿之歌集出也但件一首或本云三方沙彌作
  柿本朝臣人麻呂歌集中出也
  柿本朝臣人麿(麻呂)歌集所出也
  柿本朝臣人麻呂歌集中出見上已記也
  右一首上見柿本朝臣人麿之歌中也但以句句相換故載於茲
  右上見柿本朝臣人麿之歌中但以問答故累載於茲也
  柿本朝臣人麿歌集云(曰)、云々
  又見柿本朝臣人麿歌集然落句少異耳
  柿本朝臣人麿之集歌(題)
  柿本朝臣人麿歌集歌曰(題)
 この中の左注は萬葉集の編纂當時に、同時になされたものか、或は時を置いてなされたものか、いづれかである。そして、左注は連續的に一人のみでなされたのでなく、その左注のあるところは家持の筆と想像せられるところもある(眞淵)から、人麿歌集は萬葉集よりも先に出來てゐたこと、古歌集・笠金村集・高橋蟲麻呂集・類聚歌林などと同樣だと考へられてゐる(顯昭・契沖・眞淵等)。それから、人麿歌集には、人麿の作でない歌も雜つて居り、宴席の歌などを、恐らく人麿(11)が備忘のために記入したやうなものもあるし、或は人麿より後の人が増補したものも雜つて居て、同一人の筆録ではないやうだとも考へられてゐる(長流・契沖・眞淵等)。そして人麿歌集はもとは一本であつたのだらうが、萬葉集の左注をした頃に參考とした人麿歌集は單に一本のみでなく、數種の人麿歌集があつたものの如く、奈良朝の人によつて増補され、書きざまなどもその時樣の唐風になつたものもあるだらうとも考察された(契沖・眞淵・折口)。併し、必ずしもさうでなく、さう數本を假定しなくもいいと考へ、また奈良朝の補訂を否定しようとする論者もある(武田・石井)。そして、人麿歌集は、人麿の歌を多くその内容とし、特に人麿初期の作を含んでゐると考へてゐる(【契沖・眞淵・關谷・岡田・樋口・島木・久松・武田等】)。また人麿歌集の假字の具合が萬葉葉のその他の歌の場合と違つてゐることを夙に注意した。そして、助辭を省いて文字を少くしたのは、寧ろ唐《から》樣で人麿の本心でないとした(契沖・眞淵)。併し共にあまり重きを置かない、否定論者もある(澤瀉・武田・石井)。それから、人麿歌集は人麿或は其近親の者が編纂して、ある機會に其擁護者なる皇族貴族に上つたものらしいとも考へてゐる學説もあり(折口)、また人麿歌集の歌の中には人麿作が變形しても傳はり、或は人麿でない作者の歌が人麿作として言ひ傳へられ、又は人麿作でない民謠的な多くの歌をも含んでゐるやうにおもはれる(土屋、折口等)。萬葉集年表(土屋)の頭注には一々その部分的變化を來した歌を掲げてゐる。
(12) 要するに、人麿歌集中には、從來眞淵等が寧ろ否定的に考へて居つたよりも、もつと多く人麿自身の作を含んで居るらしいと考へる傾向になつた。そして、人麿歌集にある人麿の作は寧ろ人麿青年期の作が多いのではあるまいかと想像されてゐる。それから人麿以外の歌で人麿歌集中にあるものは、人麿に關係のあつた人々、親しんだ女、宴席の歌等を含んでゐるだらうと考へられた。また、民謠風な歌と雖も、人麿がさういふ作歌態度で作つたものだと考へることもまた不可能ではない。
 人麿歌集の地理的分布は大和が一番多く山城近江等がこれに次ぎ(石井)、年代は飛鳥藤原朝のものの如くである(眞淵・石井)。卷十一(二四四〇)に、『近江海』とあるので、眞淵は、『人麻呂は和銅元年の頃藤原宮の時身まかりしかば、その後の人の筆なる事是にて明らけし』(考)と云つたのに對し、石井氏は單に此一例のみでは必ずしもさう斷定は出來ず、『和銅六年五月から公に近江といふ字面が用ひられたにしでも、それより以前にも私には近江といふ字面が用ひられてゐたのかも知れない』(人麻呂集考)と云つて居る。石井氏に據ると必ずしも後人の筆だとは謂へないといふことになるのであるが、武田祐吉博士の説に從つて、卷九(一六六七以下十三首)の歌も人麿歌集の歌とせば、その題詞、『大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首』といふのは、元明天皇の御代の時に記したものと考へられるから、人麿歌集の歌は皆人麿の記したも(13)のとは謂へないのであるが、大體から見て飛鳥藤原時代に出來たものと考へていいのである。
 さういふ具合に考へて來れば、人麿歌集と人麿との關係は、契沖・眞淵時代の考よりももつと密接となり、離るべからざる關係となつた。そこで人麿歌集の歌をば大體人麿自身の作とし、それに、或人々の説の如く、人麿が代作したのだらうといはれてゐる一群の歌をも考慮に入れて、人麿作歌の範圍をば一層擴大して見ることも亦人麿研討の一態度だといふことになるのである。
 人麿歌集に出づと注された萬葉の歌は、【卷二】短歌一首。【卷三】短歌一首。【卷七】短歌三十三首、旋頭歌二十三首。【卷九】短歌四十四首。【卷十】短歌六十八首。【卷十一】旋頭歌十二首、短歌百五十一首。【卷十二】短歌二十九首。【卷十三】長歌二首、短歌一首。【卷十四】短歌五首として、合計長歌二首、短歌三百三十三首、旋頭歌三十五首であるが、それに石井庄司氏考證の卷九の一七一五(【森本氏同説】)、一七一六、一七一七、一七一八、一七一九の短歌五首、武田祐吉氏考證の卷九の一六六七−一六八一の十五首を加へると次の總數となる。
 總計短歌三百五十三首、長歌二首、旋頭歌三十五首である。
 
      二
 
 次に念のため諸家の説を二たび録して參考とする。
(14) 【顯昭】 顯昭の人麿勘文、家集事の條に、『萬葉目録云。柿本朝臣人麿歌。入2八十三首1。此外家集中出之歌三百餘首云々。然者人丸家集者萬葉以前之書歟。萬葉所v入之歌。何皆不v付2作者1而限2八十餘首1乎』云々と書いてゐる。なほ、『諸家集者、或作者自書2集之1、或没後書2集之1、然者人丸集勝寶五年以後他人集v之歟、或又人丸自雖2書集1、於v序者後人追書加歟、是書籍常事也』とも云つてゐる。後の方は、天平勝寶五年春二月、左大臣橘卿之東家で諸卿大夫等が相會したとき、人麿歌集の歌の問答の事に關聯してゐるのだが、萬葉集にはこの事柄が無い。ただ前の方の、『人丸家集は萬葉以前の書か』といふ觀察は、有益な結論だとおもふのである。
 【下河邊長流】 『誰の家集に出たりとあるは、かならずしもその一人の哥にあらず。後の家集のやうにはあらで、當時見きく人の哥、或宴席にて其座につらなれる人の哥など、みな書つらねてもをけるなるべし。人丸家集に出たりとて七夕哥一所に百幾十首を載、東哥の下に人丸家集に出たりと注せる、これらに准して餘をも知るべし。たしかに其人のよめるをば誰が哥とて載たり』(萬葉集鈔)
 【僧契沖】 『先《まづ》、人麿家集に付て云はば、皆慥に人麿の歌ならば第一より第四までの如く名を顯はして載べし。何ぞ第七第十より下四卷の如く作者の名を擧ぬ卷に歌後に右若干首人麿集に出たりと言はむや。〔中略〕第十四に人麿集出と注せる歌五首あり。人麿何ぞ東歌をよまるべきや。(15)第六云、神龜五年戊辰幸2于難波宮1時作歌四首、後注云、右笠朝臣金村之歌中出也、或云車持朝臣千年作v之也、是金村集に他人の歌ある證なれば是に准らふるに、人麿歌集と云はみづからの集にはあらずして、廣く諸人の歌を集められたるなり。然るに此に依て然なりと言はむとすれば又然らざる事あり。其故は第四に、未通女等之袖振山乃《ヲトメラガソデフルヤマノ》と讀れたる人麿の歌を第十一人麿家集出と云中に載たり。又|里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミコヒワビニケリマソカガミオモカゲサラズユメニミニコソ》、此注云、右一首上見(タリ)2柿本朝臣人麿之歌中(ニ)1也、但以2句句相換(ルヲ)1故(ニ)載2於茲(ニ)1。又同卷問答歌云、眉根掻鼻火紐解待八方何時毛將見跡戀來吾乎《マユネカキハナヒヒモトキマタスヤモイツカモミムトコヒコシワレヲ》、此注云、右上見2柿本朝臣人麿之歌中(ニ)1、但以2問答1故、累(テ)載2於茲1也。此等に依れば人麿歌と見えたり。人麿の歌ならむに付ては一首を兩處に載たるも不審なり。再たび載る事あれば、皆其由を注せられたるを、さもなきは草案故に第十一には誤て載られたる歟。後の問答に載たるにも不審殘る事あり。人麿集にも問答あれば、問答の故と云はば彼處にも載すべきを、いかで後の問答には置かれけむ。若《もし》人麿集には答歌なければ答歌ある本に依て再たび載て注せられたる歟。人麿集かくの如く不審なれば他の集此に准らへて知べし』(代匠記精總釋)
 『十五卷に、新羅使の當所誦詠古歌とあるは、多く人丸の歌なり。此事天平八年にて古歌といへば、明らかに人丸はそれより先なるに、彼新羅使がよめる歌を三首まで人丸の歌と載られ、剰もろこしにてよまれたる由さへあるにて其餘をも准らへ知べし。是をも信ずべくば、何をか信ぜざ(16)らむ』(代匠記精總釋〕
 『淡海の海沈著く白玉知らずして戀せしよりは今ぞ益される』(卷十一。二四四五)の、解釋で、『第一第三ニ人丸ノ近江ニテノ歌、近江ヨリ歸リ上ラルル時ノ歌アレバ、近江守ノ屬官ナドニテ彼國ニ有テ見聞ニ任テシルサレタルニヤ』(代匠記精)と云つてゐるが、契沖は人麿歌集中出のこの歌を人麿作と想像し、なほ近江守の屬官であつた時に作つたのだらうとまで想像してゐるのである。
 【賀茂眞淵】 『【前略】然るに其人麻呂歌集に標せる、正述心緒・寄物陳思・問答などは此卷にも皆あり。是一つ卷ならば重ねて標すべからず。又其人麻呂歌集に既に出たる同歌の末に再出たるも少からず。これら別の集なる事しるし。其上、人麻呂歌集は歌の助辭を皆略きて、此集とは甚異なる書體なり。同時一筆にあらぬ事明かなり。然れば、人麻呂集は後に此卷へ加はれる事しるかれば、本卷は除きて末に附たり。○古歌集、人麻呂集は、この萬葉を撰集あられしより先の事にあれど、此集を撰まるる時はいまだ世に聞えざりし故に萬葉にはとられぬなるべし。【【頭注】たまたま此萬葉に、この集の歌を載しは、かつかつ世の人の唱へしが入しなり。此萬葉どもに人麻呂歌の出たるにても此集の時いまだ聞えざりし事しるし】此二集既あらば、取もらすべからぬ歌ども多きを、撰にもれたるにてしるし。人麻呂は和銅の初めに身まかりしこと、是一の別記にいへるが如し。此集の撰は天平のなかばの比ならんとおぼゆる事、此卷の歌によし有、かかれば其間三(17)十年ばかりまでほどなければなり。古歌集は又かたへの人集めしにて、いと後にこそ顯はれつらめ。かかればその物古しといへども、此集の上に出すべからねば、ことに先此集をたてていふからに、かのかたへなるをば末に付て世に遺せり』『正述心緒、寄物陳思、問答等は、かの人麻呂集を後に私に書し人、から歌めきて書、且其歌體を分て、右の標をも書しものなり。然れば此人麻呂葉には在が如く標題をも擧たり。今本此集にも此標有は後にかの人麻呂集にならひしわざなる事既にもいへる如くなれば除つ。其人麻呂集の本は、かくの如く助辭を略きて詩體にならふさまに書べきにあらず。人麻呂は大き力なる人と見ゆるに、其歌に一事もから言を用ゐざりしなり。かかる心にて歌は詩體をまねん事必有べからず。ただ奈良人の中にも、ひとへにかかる好みする人のわざとこそ見ゆれ。其よしは下の寄物陳思てふ中に近江國と書たり。是は和銅六年五月詔して、諸國郡郷の名、好字を用よと有し時より、淡海を近江に改めしなり。人麻呂は和銅元年の比、藤原宮の時身まかりしかば、その後の人の筆なる事是にて明らけし。【【頭注】人まろ集の書體、人麻呂の心にあらず。まして標題もしかり。本集をもて奈良人の私にかく樣に書しものなり】』(【柿本朝臣人麻呂歌集之歌考序】)
 處女等を袖振山のの歌(卷十一。二四一五)の條に、『此歌は人麻呂の歌の調まがふ事なし。然れば(卷十三)に、柿本朝臣人麻呂とて載たる如く、ここも人麻呂の自歌などを家集に古歌と書まじ(18)へて書しものなり。後の家持などは、各其名を注せしを、古はさもせざりけん。然らば此人麻呂集といふ中に自歌も多かりなん。心をつけて見るべき事なり。【【頭注】書體に依るに是は人麻呂集の一本なり〔四字右○〕』○垂乳根の母が手放れの歌(卷十一。二三六八)の前に、『是より下百五十一首は人麻呂歌集の歌なり。此歌集の歌、ここと次の卷七【今十】、八【今七】にも多し。其書體助辭を不書して、字數甚少く書なせしと、又常體に助辭をも書しと交りてあり。然れば同人麻呂歌集二本有しを、ここには其助辭不書を擧たるに、後人一本の常さまなる中に、ここと異なる歌あるを見出て、是へ書加へしもあるなり。仍てこの中に助辭かきし歌十八首交れり。卷七卷八には右二體を擧て、共に同歌集出と注せしにで知るべし』(【柿本朝臣人麻呂歌集之歌考】)
 眞淵は、なほ萬葉新採百首解・萬葉考等に於て折に觸れて人麿歌集に言及して居るからその一部を抄する。○卷之十春雜歌のところで、『歌の左にいはく、右柿本人麻呂歌集に出と書て、古の家の集てふは、古今の人の歌を書集めたるが中に、自分のをも書くはへけるなりけり。且みづからよめるには多くおもてに名をしるし、古歌はたよみ人のしられたるには、表にしるせしなるべし。よりて人麻呂のよめるとしるしたる歌ならぬは、他人《アダシヒト》の歌なり。されば此歌は人麻呂の歌ならぬをもおもふべし。且歌の左に書たる詞はたまたま家持卿の筆と見ゆるもあり。また憶良大夫などの家集も交りつれば作者の自注もありけり』云々。○久方の天の香具山此夕の歌(卷十。一八(19)一二)の條に、『さて人麻呂の書つめおかること、歌のすがた、此山をしも見たるなどを思ふに、飛鳥藤原のみやこの頃によめる歌なり』云々。○卷之九、獻2弓削皇子1歌三首(一七〇一・一七〇二・一七〇三)の中の條に、『此下にもこの皇子に奉るてふ歌あり。それが左に、人麻呂家集に出と注せり。然れば今は讀人しられずと書るも、猶歌のさまは人麻呂歌集めきたり。弓削皇子は天武天皇の皇子にて、舍人皇子の異母の御兄にておはせり。然ば其御時にある人の家集に、かく獻歌と書たるしるべし。是萬葉に撰《エラミ》しものならぬ書《カキ》ざまなり』○卷之十、詠2黄葉1。八田《やた》の野《ぬ》の淺茅《あさぢ》いろづくの歌(二三三一)の條に、『此歌を人麻呂のよめりと定たる人あり。此十の卷は皆讀人しらぬを類とせるを見ざるにや。されど所々に人丸家集に出と注せるも侍れど、上下の歌を參《アハセ》考るに、此歌も左《サ》ともみえず、家集にいでたりともそは人丸の自詠とも定めがたきこと前にいへるがごとし』○卷之十一、寄v物陳v思の、足曳の山鳥の尾のの歌(二八〇二)の前に、『かく題を擧て、數十首の後に此歌あり。さて此卷是より上に人丸家集中に出てふこと二所注して後にあれば、其家集の歌にはあらざる家集に出と有語々、其人のよめるにもあらぬを、まして人丸のとおもへるは萬葉を見ぬ人のわざなり』(以上新採百首解)
 萬葉卷四【卷十一】考の相見ては千歳やいぬるの歌(二五三九)の條に、『此歌(卷六【卷十四】)東歌の末に有て、其所の左の古注に、柿本朝臣人麻呂歌集に出也と云り。かくて歌の體東歌なり。人麻呂集に(20)も此上下の卷にも、東歌なるべきが侍りしも間々あり。然るをここをばいはで、人麻呂集に出と注せしは見落せしか。又本ここには無かりしを、人麻呂集よりまぎれ入しにや』○萬葉卷四【卷十一】考の序に、『二卷の初めに、今本には柿本人麻呂歌集の歌、古歌集中の歌あるは、いと後に加へし事しるければ、除て別卷として下の他《アダシ》歌集どもの初めに置けり。かく爲は三つの據あり。一つには人麻呂歌集の書體助辭を皆略き文字甚少くして、から歌ざまになしたれば、惣て萬葉の體と異にて、此卷の同筆にあらざるなり。二つには其人麻呂集に擧たる歌此四五の卷に再のれるあり。同卷ならばかからんや。三つには、集中に古歌の異を注せるに他書はもとより此前後の歌をも或云一云など書しを、人麻呂集をば皆柿本云々と注せしは此集の中ならぬゆゑなり。かかれば此卷七より下の歌集どもよりもいと後に得て此作者なき卷に添しものなり』『此上下の卷の今本に正述心緒寄物陳思問答※[覊の馬が奇]旅譬喩などの標あるは、人麻呂集の加はりて後の人彼集によりて注せし物なり。故今みな除つ。凡此卷の歌甚多故に其類を以てのせし樣は人麻呂集と相似たれば好事の此上下卷にも標を加へしなり。古今歌集もことに戀部は類をあつめしにその所々に標なきは公の御集にてやまとぶりなり。彼人麻呂集も本さる標はなかりけんを奈良人のから歌めきて書なせし歌ぞ書けん。人麻呂の歌はから天竺の事をもてせず、今の古事古言のみして世に及ぶ人なくとりなしし心高き才のたくましさにて、歌集をば他國ぶりをまねぶ如きひくく戯けなる事をせんや。い(21)よよさかしら人のわざと知るべし』(以上萬葉考)
 【岸本由豆流】 大寶元年辛丑幸2于紀伊國1時見2結松1歌一首(卷二。一四六)につき、『もとより作者不v知歌にてもあるべし。元暦本、ここに小字にて柿本朝臣人麿歌集中出也の十一字あり。集中の例、左注にあぐべきなれば、ここにはとらず』(攷證)といひ、三吉野之御船乃山爾(卷三。二四四)の左注、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』について、『この左注は非也。右の御歌のやうを考ふるに、吉野宮にあそび給ひしにて、春日王と贈答のさまなど思ふ、皇子の御歌ならで、人麿の歌なるべきいはれなし』(攷證)と云つて居る。
 
      三
 
 【武田祐吉氏】 『人麻呂集から出た歌に萬葉集の編者が假字を補つた形跡は認められるにしても、題詞ある部分は人麻呂の稿本で、題詞なき部分は後人の集成分類と見られるから、別の二本であるかも知れず、また正編と補遺との關係であるかも知れない』(上代國文學の研究)
 【石井庄司氏】 『現存萬葉集に現はれてゐる人麻呂集の種々なる状態を以て直ちに人麻呂集に種々なる異本のあつたことを推定するのは早計であらうと思ふ。人麻呂集のかやうな状態の相違は、むしろ萬葉集に採録される際に生じたものではなからうか。萬葉集を統一ある成書と考へな(22)い、一般の意見に從へばこの方が、一層無理のない考へ方ではなからうか』『尤も年代の知り得る僅かのものについてだけではあるが、人麻呂集の包含する歌の年代が、飛鳥藤原時代だけに限られてゐるといふことは注目すべきことである』人麻呂集に現はれた地理的分布は、『大和國が最も多く三十箇所に及び、山城、近江、紀伊が比較的多く、次は攝津、和泉等一ケ所のみである。【中略】さすれば地理的分布の上から見ても、人麻呂集は大體飛鳥藤原時代を中心とするものであることが分ると思ふ』人麻呂集の助辭を略した書法を、『唐好みと云はば云はるべき事どもは、あながち天平人を俟つまでもなく、遙か以前からあつたことを思ふ時、人麻呂集の漢語の字面、或は助辭を略して簡古に記されてゐることが、直ちに天平人のしわざと斷ずることは早計であらうと思ふ』『吾々は、人麻呂集の歌がほぼ人麻呂作歌と時代を同じくし、且つ多くの點に於いて密接な關係のあることを知り得たのである。しかし人麻呂集の中には、恐らく多くの他人の作をもまじへてゐることであらう。例へば人麻呂集中、「君」、「公」、「伎美」等を用ひ、一首の上から見ても、女性の作と思はれるものが、總數三十七首ある。尚、「背兒」等の言葉を用ひ又詠歌の材料等に女性の作と思はれるものが若干ある。之等は古歌か或は人麻呂關係の女性の作と見られる。まだこの外にも、人麻呂に直接間接影響を與へた先輩或は同時代の人々の作も入つてゐよう。また人麻呂が影響を與へた同時代の人の作も入つてゐよう。尚又、人麻呂自身の作の習作或は傳誦されたもの(23)も入つてゐよう。之は既に先人の言ひ盡したところである。さもあれ、吾々はこの人麻呂集に於いて、人麻呂の先輩、後輩の姿と人麻呂自身の自由なる歌の姿とを見ることが出來ると思ふ。これ、人麻呂の本質を究めんとする時、最も重要なる資料とすることの出來る所以である。しかしこの事は無批判に人麻呂集をとり入れて人麻呂作とすることとは全然異る立場であることを明言しておかねばならない』(【人麻呂集考、國語國文の研究二十二號、昭和三年六月】)
 【澤瀉久孝氏】 『要するにこの集二十卷をまとめた人は家持であると思ふが、その家持が既成未成の撰集家集などを二十卷によせ集めた時、すべては出來る丈原本の體裁を尊重したのではないかと考へられる。それは卷七、十、十一、十二などに散在してゐる人麻呂集の書式が、多少の相異はあるにしても、同じ卷の他の歌とは全然異つた書式である事や、また卷十六の竹取翁の歌が特に目に立つ用字法によつてゐる事などを以ても推し得られると思ふ』『作者の明な作には、筆録者のたはむれが加はつてゐないといふ例に卷一二を擧げよう。この卷は古い撰ではあるが、戯書はただ一種「神樂」とその略「樂」があるのみである。しかもそのうち、「樂」の使用者は人麻呂と黒人とであつて、この二人の作には假字書或は「樂」の字以外には、「神樂聲」も、「神樂」も用ゐられてゐない事は、やはり原作者の用字法をそのまま傳へたものではなからうか』(【戯書について、國語國文の研究二十二號、昭和三年六月】)
(24) 【土屋文明氏】 土屋氏は、人麿歌集の歌について考察し、人麿の作と人麿歌集の作との辭句の異同にも細心の用意を拂つてゐる。今その主要の文を抽出する。天平八年夏六月新羅國派遣の使等が歌つた歌があり、その中に當所誦詠の古歌といふのがあり、その中の五首は人麿の歌と若干の異同があるもののみである。『笥飯の海を武庫の海にかへた如きは誤といふよりは寧、遠い地名を詠みこんだ歌をば、地名をかへることによつて現前の景色に適合させようとする傳誦者の意圖が明に見えて居るといへよう。いはば誦詠者の心には極く微ではあるが創作者としての心意が動いて居るのである』『人麿作の歌の若干が變形を受けて人麿歌集と稱するもののうちに入つて居たことを推測することは出來るやうに思ふ。その變形は何によつて生じたか。これは恐らくは前述天平八年に遣新羅使人等が所に當つて人麿の歌を誦詠した場合に生じた詞句の異同に準じて考へてよいものではあるまいか。卷一卷二等に載せられた人麿作の歌に、一云又は或本歌等の形式で示された詞句の異同の甚だ多いことも、早くから有名になつた人麿の歌が傳誦される機會多く、從て詞句の異傳も多くなつたと解してよいやうに思ふ。尚推測を許されるならば、多くの人々の云ふ如くに、人麿歌集には人麿作の歌の若干が含まれて居るとしても、それ等の人麿作といふものは多少は前述の如き變形を受けて人麿歌集中に存するのではあるまいか』『人麿歌集の歌の大部分はやはり原作者といふものを認め難い民謠の類で、その點では他の古今相聞往來歌と餘(25)り變つて居ない。ただ人麿歌集所出の方は比較的佳作が多い位のものででもあらうか。この佳作の多いといふことも、人麿が有名であつたから、民謠中割合に感銘強いものが次第次第に人麿作に歸せしめられたと考へれば考へられると思ふ』『人麿歌集所出の歌のうちで人麿の作に由來するものは可なりの程度に人麿原作の風貌を保存して居るものもあると推測してよいのではあるまいか』云々。(【人麿歌集の歌、國文教育第六卷第二號、昭和三年二月】)
 【武田祐吉氏】 武田博士の「柿本人麻呂の作品の傳來」(【アララギ第二十四卷第一・三・六號、昭和六年一月−六月。國文學研究、萬葉集篇收】)に人麿歌集について言及せられてゐるから、その主要部分を次に抽出する。『題詞に人麻呂作歌とあるものが、いかなる資料によつて萬葉集に編入せられてゐるかは問題である。まづ第一に注意せられることは、これらの歌が或る本による詞句の相違を有するものの多いことである。すなはち數個の傳來を有してゐたと認められることである』『而して實に考ふべきことは、單に或る本の歌のみに止まらず、題詞に人麻呂作歌とあるもの自身も、或は人麻呂歌集を資料としてゐるものがありはしないかといふ問題である。人麻呂歌集を或る本として扱つてゐるのによれば、主文を成してゐる歌は、人麻呂歌集ならぬ資料より採取せられたかとも考へられる。しかし吾人はなほよく調査して見ねばならぬ』『これ【二八〇八、二四〇八】契沖の云へる如く、人麻呂歌集所出の歌を、人麻呂が歌と云へるもので、萬葉集の編者は、人麻呂歌集の歌を、人麻呂の作と解してゐたと見なすべき機會(26)である』『しかるに、題詞に人麻呂作歌とあるもののうちにも、女子の作附【四九八・四九九】と認むべきものがありとすれば、題詞に人麻呂作歌とあるものと、人麻呂歌集所出の歌とは、この點に於いて同じ性質のものと見なすべきではないか』『題詞に人麻呂作歌とあるものは、いづれ何らかの資料に依つたには違あるまいが、その資料としての素質は、人麻呂歌集の資料としての素質よりも確實であると見なしてもよい。しかしその一部分が人麻呂歌集を資料としてゐなかつたとは斷ぜられない』『人麻呂歌集所出の歌が、少い字數で書かれてゐることは、既に契沖眞淵等の古人の注意するところであつた。しかもその字數は卷によつて必しも一致しない』『以上二氏【石井庄司氏澤瀉久孝氏】の研究によつて確められたことは、題詞に人麻呂の作とあるものと、人麻呂集所出の歌とには共通したしかも他には見えない特殊の用字法があるといふことである』云々。
 【久松潜一氏】 『萬葉集の中から人麿に關する材料をさぐるに當つて、人麿の歌としてのつて居るものと、人麿歌集として載るものとがある。更に分ければ人麿の歌といふものにも種々の記載法があるが、大きくわければ以上の二である。さうして人麿歌集の歌を人麿の歌として認めるか如何かは、人麿歌集たるものの嚴密な考察を經なければならない。【中略】人麿歌集の歌が卷一、二の人麿の歌に比して、熱烈であり、同じ戀愛をうたつても、はばかつた追憶的な戀でなく、積極的な戀愛をうたつて居るのは、その若い時代の作であるためと思ふ。【中略】その強い若々しい熱情が(27)そのままに現れて居る所から見ても、人麿の初期の歌とするにふさはしいのである』(【柿本人麿、短歌講座第七卷、昭和六年十二月】)
 【澤瀉久孝氏】 『これらの作品をすべて人麻呂の作と斷ずる事は出來ないが、既に本講座人麻呂評傳中に久松氏が述べられてゐるやうに、その多くは人麻呂自身の作と見てよいかと思ふ』(【人麻呂歌集講話、短歌講座第六卷、昭和七年三月】)
 【森本治吉氏】 森本氏は、人麿歌集はもと人麿自撰の集で、自作以外に周圍の作並びに民謠の類までをも集めて置いたものらしく、これに武田説の如く後人の増補をも認め得る、さうすれば人麿歌集に二本の存在を考へる必要を見ないといひ、人麻呂作と明記したものに長歌が多いのに人麿歌集には長歌が三首しかないこと、人麿作と明記したものに旋頭歌がないのに人麿歌集には旋頭歌が三十五首もあること等を、人麿のみの作と思はれぬ理由の中に擧げてゐる。(【柿本朝臣人麿之歌集、日本文學大辭典一、昭和七年六月】)
 【折口信夫氏】 『大體において、定本と見るべき一種があつて其他に尚幾種類か異本があつたと考へる方が穩當らしく思はれる。つまり諸家採集する所の歌數は勿論、一部の詞句の出入りがあつたものと見る方がよい』『確かに言ふ事の出來るのは、人麻呂の作物以外のものをも含んでゐることである。誤解・錯亂を除けば、恐らく人麻呂と多少の交渉のあつた人々の作を含んだので(28)あらう。作者未詳の作物・民謠(東歌)・異體歌(旋頭歌など)・物題歌(寄物・詠物・七夕歌)・作者既知(卷九、羈旅歌)等の種類を含んだところから見れば、人麻呂集の外の、笠金村集・高橋蟲麻呂集・田邊福麻呂集などにも、共通の事實としてさうしたことが考へられる』(【柿本人麻呂、萬葉集講座第一卷、昭和八年二月】)
 
      四
 
 諸説の大體は右の如くである。人麿歌集に對する觀點に就いて、土屋文明氏は、『少くとも人麿歌集は人麿の作歌のみではないことだけは明かなる現在に於ては、人麿歌集をば、むしろ人麿の作品とは切離して考へるのが便利且安全であらうと思ふ。人麿歌集中から人麿の作らしき歌を引拔くといふことも可能であり、興味ある一つの仕事ではあらう。しかしながらこれよりは、確實に人麿と傳へられて居る作に對する十分なる研究と理解とが先決問題として必要であらう。また人麿歌集中に在つて、人麿の作歌がいかに轉訛されて居るかといふことも興味ある問題ではあるが、これは作者としての人麿そのものの研究には縁がうすい。また人麿歌集が他の民謠、作者未詳の歌にいかに關係するかといふことも人麿研究とは縁の遠いことであらう。それらの點を考へると、人麿研究と人麿歌集研究とは是非共別個なものとして考へざるを得なくなつて來る』(【萬葉集講座第一卷】)と云つて居る。
(29) 私は土屋氏のこの説に從ひ、先づ人麿作と明記されて居る歌を一纏めにしてその評釋を作り、人麿歌集出といふものと別にしたのであるが、私は引續き、人麿歌集中の注意すべき歌若干首を拔いて、その評釋を作つた。拔いた歌の中には人麿作と看做して疑の起らぬやうなものもあり、また人麿作としては疑はしいやうなものもある。人麿作らしくないものの中には、前賢が既に人麿の作でないと喝破したものも幾つかある筈である。さういふことは一首一首の中に簡單に述べて置いた。私の人麿に關する叙述は既に大分の想像を交へてゐるのだから、この人麿歌集の選鈔の如きも時に放肆な想像の混入することがあるかも知れない。これは嚴格な學者の態度では許すべからざることだけれども、資料根據の悉皆無な歌に對するこの恣な想像も、時に許されるべきものがあるかと思ふ。【次いで私は選鈔に漏れた人麿歌集出の歌全部を評釋し、萬葉所載の順序に配列整理したのであつた。】
 私等の人麿歌集に對する攝取した學説としては、眞淵等の、『いたく亂りたる』歌集だといふのが脱却し得ぬので、縱ひ、眞淵の文中に、『然らば人麻呂集といふ中に自歌も多かりなん』といふのがあつても、やはり夾雜物の多いもののやうな氣がして、學説としては人麿歌集の歌は人麿作が大部分だといふことは云ひ得ないのであつた。
 然るに、人麿歌集出といふ萬葉の歌を讀んで見ると、ほかの人麿作と明記されてゐるものに彷彿するものもあり、よつて内心では其等を人麿作として鑑賞しつつ來つたものであり、中には思(30)切つて、人麿作として公表したこともあつた。例へば、卷七(一〇八八)の、足引之山河之瀬之響苗爾弓月高雲立渡《アシヒキノヤマガハノセノナルナベニユツキガタケニクモタチワタル》の如きは、先師は人麿歌集出だが、作者不詳のものとして私等に傳へた秀歌なのであつたが、大正二年七月に、雜誌アララギ(【第六卷第六號】)に萬葉短歌鈔を作つたとき、私は此歌と、同卷(一一〇一)の、黒玉之夜去來者卷向之川音高之母荒足鴨疾《ヌバタマノヨルサリクレバマキムクノカハトタカシモアラシカモトキ》とを書いて、柿本人麿の歌として愚見を書いて居る。その頃の萬葉集に關する知識は極めて覺束ないものであつたが、人麿歌集の歌についてはそのころから人麿作として味ふ傾向を持つてゐた。それが跡を引いて現在に及んでゐるのであらう。ゆゑに評釋中にもこの傾向が暴露せられて居るに相違ないとおもふが、其が、武田・石井・澤瀉諸氏の學問的結論と合致するなら甚だ幸だとおもふのである。
 それから、總論篇で人麿の歌を論じたとき、人麿の歌には、年齡的に、變化と進歩の跡が瞭然としないのは、そのころには既に力量が圓熟してしまつたためであつただらうといふことを云つて置いた。そしてまた、人麿歌集中には人麿の初期の作が多くあるのではあるまいかといふことも云つた。そんなら、その人麿歌集中にあるやうな、人麿初期の作と考へられるものと、人麿作と明記されてある比較的後期の作との間にどういふ差別が認め得られるかといふことは興味ある問題でもあり、また大切な問題でもあるが、さて人麿歌集の歌に一首一首當つて見ると、なかなか巧妙なものが多く、決してたどたどしい初學の作のやうなものでないことが分かる。ただ、人(31)麿作と明記せられてゐる歌に較べて、全體として輕く、沈痛切實の度が尠いのである。これが人麿作なら、どうして人麿がかういふ輕く安易なものを作つただらうかと思はしめるものが多いのである。そこで、前に人麿の歌の實質といふものに就いて少しく體得した私等は、さういふ輕いものをば人麿作として認容することを好まないのである。如上の言はただ主觀に淫して放肆至極のやうだが、或は却つて客觀的に當つて居るかも知れないのである。
 それから、人麿の比較的初期の作と想像せられる人麿歌集出の歌でも、既にかく巧妙で達者の風格を示してゐるのだから、人麿作と明記されて居る一群の歌との間に、一見『變化・進歩』の過程が瞭然としてゐないやうに見えるにも拘はらず、私は、人麿歌集中の多くの歌と、人麿作と明記されたものとの間に一つの『變化』を認め、『進歩』を認めようとしてゐるものである。
 若い人麿は既に天分を發揮して、樂々と種々の歌を作つた。その中には戀愛を基調とした民謠風の歌もあらうし、牽牛織女を題材とした一群の歌もあらうし、なほ心の働きの細かいものには寄v物といふ一群の民謠的戀愛歌もあり、材料的に智慧の働を示した旋頭歌のやうなものもあるわけである。さういふ人麿歌集中のものを人麿の比較的早期の作だと極めれば、人麿作と明記されてゐる比較的後期の歌は、さういふ人麿歌集の歌に比して、重厚で切實で力強いものである。そしてこの差別は何處から來るかといふに、作歌の態度から來る、心構へから來ると私は解釋す(32)るのである。そしてこの差別は、實に非常な差別であるから、つまりは歌風の『變化』といふことになり、私はこれを一つの大きい『進歩』だと解釋するのである。よつて、人麿生涯の歌風を通觀して、人麿歌集をも勘定に入れれば、多くの偉大な藝術家に見ると同樣、正しき變化と、大きい進歩をして居たといふ結論に達するのである。
 また、右の結論と關聯して、人麿作と明記しある歌でも、日並皇子尊殯宮之時作歌の如きは、人麿二十七歳位の時の作と私が想像したほどで、決して晩期の作ではない。過2近江荒都1時の歌でも、天皇御2遊雷岳1之時の歌でも、幸2于吉野宮1之時の歌でもまたさうである。然るに此等の比較的初期の人麿作歌と、人麿歌集出の歌とを比較するに、やはり大觀して、人麿歌集の歌の方が輕易に響くのである。そして此はその作歌の態度、表現の態度によつて違ひ、即ち全力的態度と、安易的態度とによつて違ふものとすれば、必ずしも年齡的年次的でなく、その作歌時に於ける態度として同時的にも考察の出來る問題である。ゆゑに若し人麿歌集中のさういふ安易的な歌も等しく人麿作だとせば、作歌の態度について顧慮しようとしてゐる私等にとつて却つて有益なる資料だといふことにもなるのである。
 
     參考文献
  顯昭    人麿勘文(群書類從所收)
(33)  下河邊長流    萬葉集鈔(長流全集所收)
  僧契沖   萬葉集代匠記
  賀茂眞淵  柿本朝臣人麻呂歌集之歌考、萬葉考、萬葉新採百首解(眞淵全集所收)
  關谷眞可禰 人麿考
  樋口功   人麿と其歌
  島木赤彦  萬葉集の鑑賞及び其批評
  武田祐吉  上代國文學の研究
  土屋文明  人麿歌集の歌(國文教育、昭和三年二月)
  石井庄司  人麻呂集考(國語國文の研究二十二號、昭和三年六月)
  澤瀉久孝  戯書について(國語國文の研究二十二號、昭和三年六月)
  森本治吉  萬葉卷九考(國語と國文學、昭和三年十一月十二月)
  石井庄司  人麻呂集再考(國語國文の研究三十號、昭和四年二月)
  武田祐吉  柿本人麻呂作品の傳來(アララギ第二十四卷、昭和六年。國文學研究萬葉集篇、昭和九年)
  久松潜一  柿本人麿(短歌講座第七卷、昭和六年十二月)
  澤瀉久孝  人麻呂歌集講話(短歌講座第六卷、昭和七年三月)
  折口信夫  柿本人麻呂(萬葉集講座第一卷、昭和八年二月)
(34)  土屋文明  柿本人麿(萬葉集講座第一卷、昭和八年二月)
               ――以上昭和九年四月――
 
      五
 
 人麿歌集の書體に特色があつて、助詞を省略して、極めて簡單に書いたのが可なりある。そこで眞淵は、『人麻呂歌集は歌の助辭を皆略きて此集とは甚異なる書體なり、同時一筆にあらぬ事明かなり』『人まろ集の書體、人麻呂の心にあらず、まして標題もしかり。本集をもて奈良人の私にかく樣に書しものなり』(【柿本朝臣人麻呂歌集之考序】)といつて、かういふ書體は奈良人の後筆に成つたものとしたが、その以前に、契沖は、『又第十一ノ人麿家集ノ歌百四十九首ハ簡古ニカカレタリ。是ハ彼集ノママニ寫サレタリケルニヤ』(代匠記精)と云つて、原本の書體を認容する口吻を漏らしてゐるが、近時、澤瀉・石井・武田氏等諸學者の考察によつて、この書體も、原作者(人麿)の用字法を傳へたものではなからうかといふやうになつた。
 果してさうならば、なぜ斯う助詞等を省いて簡潔に書いたかといふに、これは作者(人麿)自身の覺えのための、手控の如きものであつたために、簡單に漢字だけ並べても役に立つたものと見える。そしてその中に、助詞を書いたのもあり、また卷九の他人の歌などには相當に助詞を加(35)へてあるのは、自分の歌よりも他人の歌の方は備忘のためには稍丁寧に取扱ふ傾があるのであらう。
 人麿作と明記あるもので、獻つた歌は相當に助詞を書いてあるのは、作者一人のためのみでなく、他の人々に示すのであるから、讀み易からしめむがための用意があつたものかも知れず、或は他人が幾らか直したところなどもあるのかも知れない。卷一(四八)にある、東野炎立所見而反見爲者月西渡《ヒムガシノヌニカギロヒノタツミエテカヘリミスレバツキカタブキヌ》の書體の簡潔なのは、前の傾向が殘留してゐることを認め得べく、寧ろ人麿歌集的な書體であることは、夙く關谷眞可禰氏の云つたごとくである(人麿考)。さすれば、人麿作と明記された歌と、人麿歌集にある歌とが、同一作者のものだといふ聯鎖がなほ密接することとなつたわけである。
   是量 戀物 知者 遠可見 有物 (卷十一。二三七二)
   見度 近渡乎 囘 今哉來座 戀居 (卷十一。二三七九)
   年切 及世定 恃 公依 事繁 (卷十一。二三九八)
   玉久世 清河原 身祓爲 齋命 妹爲 (卷十一。二四〇三)
   思依 見依物 有 一日間 忘念 (卷十一。二四〇四)
   遠山 霞被 益遐 妹目不見 吾戀 (卷十一。二四二六)
(36)  白玉 從手纏 不忘 念 何畢 (卷十一。二四四七)
  春楊 葛山 發雲 立座 妹念 (卷十一。二四五三)
  久方 天光月 隱去 何名副 妹偲 (卷十一。二四六三)
  玉桙 路往占 々相 妹逢 我謂 (卷十一。二五〇七)
  敷細布 枕人 事問哉 其枕 苔生負爲 (卷十山。二五一六)
  豐州 聞濱松 心哀 何妹 相云始 (卷十二。三一三〇)
 かういふ簡潔な書體のものでも、これはこれで大體訓めるものが多いから、作者自身ならばなほ更訓める訣である。そして訓むのに少し注意を要する箇處には矢張り、『哉』とか、『者』の如き助詞を加へて、比較的自由な態度なのに注意すれば、やはり原作者の書體を傳へたもので手控のためのものであつただらうといふ推測もまた成立つのである。
 そのほか、用字に就いて、霏※[雨/微]、灼然、三更、金風、白風、懇懃、惻隱などがあるから、後人が書きかへたのだらうといふ想像もあるのであるが、人麿の歌には、既に評釋したごとく、鬱悒、光儀、髣髴、侍侯、遣悶、猶豫、迷惑等の用字もあるのであり、人麿自身が既にさう用ゐただらうといふことは推するに難くはない。そこで人麿が斯く漢文が出來たから、歸化族と關係がなからうか等と聯想するのであるが、此は當時既に常識化せられつつある漢字使用の雰圍氣内に人麿(37)も居たと解釋すれば、聯想が其處まで奔逸しなくとも濟むことになるのである。
 
      六
 
 人麿歌集の歌は、皆、原作その儘であるか否かといふ問題、また人麿作と明記されたものと、人麿歌集の歌との相違はどう解釋すべきか等の問題もある。
   古爾有兼人毛如吾歟妹爾戀乍宿不勝家牟《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカイモニコヒツツイネガテズケム》 (卷四。四九七。人麿)
 
   古爾有險人母如吾等架彌和乃檜原爾插頭折兼《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカミワノヒハラニカザシヲリケム》 (卷七。一一一八。人麿歌集〕
   未通女等之袖振山乃水垣之久時從憶寸吾者《ヲトメラガゾデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒキワレハ》 (卷四。五〇一。人麿)
   處女等乎袖振山水垣久時由念來吾等者《ヲトメラヲゾデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒケリワレハ》 (卷十一。二四一五。人麿歌集)
 はじめの卷四の歌は、感情が自然だが平凡であり、卷七のは具體的に云つてゐて細かい。歌としては卷七の方が面白いけれども、どれが原作か不明であり、兩方とも人麿作であることもまた絶待に否定することが出來ない。『三輪の檜原』も人麿に關係ある處であり、從つて人麿作であることも可能であり、また卷四は後の歌が多いから、却つて卷四の歌の方が卷七の歌の變形でもあり得るのである。よつて人麿歌集の歌の方が原作であることもまた絶待には否定し得ない。その次の二首も、卷十一の方の結句は一音餘つてゐるが、卷四の方は一音餘らず、口調が好い。そこ(38)で歌として味ふ時には、自分は卷四の方を好むけれども、前にも云つた如く、卷四の歌は時代的には後だから、或は卷十一の方が原歌であるのかも知れない。そして人麿歌集の方は此處では二つとも吾に『等』の字があり、卷四の方は二つとも『等』の字が無いのを顧慮すれば、卷四の方は却つて手を加へたのではあるまいかなどといふ想像もまた成立つのである。
   青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類《アヲゴマノアガキヲハヤミクモヰニゾイモガアタリヲスギテキニケル》 (卷二。一三六。人麿)
   赤駒之足我枳速者雲居爾毛隱往序袖卷吾妹《アカゴマノアガキハヤケバクモヰニモカクリユカムゾソデマケワギモ》 (卷十一。二五一〇。人麿歌集)
 
   青駒之足掻乎速雲居曾妹之當者隱來計留《アヲゴマノアガキヲハヤミクモヰニゾイモガアタリハカクリキニケル》 (卷二。一三六。一云)
 卷二の歌は、人麿ので間違はなからう。そして卷十一のはそれに似てゐるが、これは同一歌の異傳ではなくて、別々に作つたものであらう。そして似てゐるのは、同一作者であるから、その手法の『傾向』の連續性があつて似るものと解釋すべく、それゆゑ、卷二の一云の、『妹があたりは隱り來にける』の句も、出鱈目の異傳ではなくて、卷十一の、『雲居にも隱りゆかむぞ』の句を參考すれば、一度は或は人麿もさういふ句として作つたのかも知れないなどとも想像し得るのである。
 さういふことを種々考へ合せれば、萬葉集で、『一云』と云つて一々書いて呉れてゐるのは、誠に精到な態度と云はねばならぬ。『隱り來にける』は、句の價値として甚だ劣るけれども、それが(39)鑑賞上却つていい參考となるのである。卷十四(三四四一)の場合でも、『麻等保久能《マドホクノ》』と、『等保久之※[氏/一]《トホクシテ》』との差、『安由賣安我古麻《アユメアガゴマ》』と、『安由賣久路古麻《アユメクロコマ》』との差といふことになつて、好參考となるのだが、それは佳句の方を探つて、他を從屬的參考句とし、その方が流傳の際の惡い意味の變化と考へればいいのである。もつともその善い意味、惡い意味といふことは、主觀的な判斷に屬し、眞淵の如き眼力を有してゐるものでも、『一云』の方を採用して鑑賞した場合が可なりあることは評釋中に明かであるから、一概には云へぬが、大體に於て鑑賞上の修練を積めば、それが可能だと謂ふことが出來る。
 以上の如くであるから、人麿の原作が盡く正當に傳へられたとは限らず、人麿作といふのにも、『一云』といふのがあつて變化して居り、また、人麿作といふのよりも人麿歌集の方が原作に近いだらうと想像せしめるものもあるのである。併し、一般から云つて、『一云』の方が劣つてゐる。此は撰者の眼力によつて、從屬的にしたので、これは尊敬していいだらうとおもふ。
 
      七
 
 人麿歌集は大體飛鳥藤原時代を中心としてゐることは既に云つたが、人麿歌集の歌は、大伴家持時代あたりの後進によつて模倣せられてゐるのを見ると、其等の後進は人麿歌集の歌を大體人(40)麿作と看做して尊敬してゐただらうと推測するに難くはない。その模倣の有樣は評釋中に述べて置いたが、此處にもその大體の有樣を示さうと思ふ。
   卷向之病足之川由往水之絶事無又反將見《マキムクノアナシノカハユユクミヅノタユルコトナクマタカヘリミム》 (【卷七。一一〇〇。人麿歌集】)
   雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》 (【卷一。三七。人麿】)
   可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由流許登奈久安里我欲比見牟《カタカヒノカハノセキヨクユクミヅノタユルコトナクアリガヨヒミム》 (【卷十七。四〇〇二。大伴家持】)
   松反四臂而有八羽三栗中上不來麻呂等言八子《マツガヘリシヒテアレヤハミツグリノナカニノボリコヌマロトイフヤツコ》 (【卷九。一七八三。人麿歌集】)
   麻追我敝里之比爾弖安禮可母佐夜麻太乃乎治我其日爾母等米安波受家牟《マツガヘリシヒテアレカモサヤマタノヲヂガソノヒニモトメアハズケム》(【卷十七。四〇一四。大伴家持】)
   沫雪千重零敷戀爲來食永我見偲《アワユキハチヘニフリシケコヒシクノケナガキワレハミツツシヌバム》(【卷十。二三三四。人麿歌集】)
   波都由伎波知敝爾布里之家故非之久能於保加流和禮波美都都之努波牟《ハツユキハチヘニフリシケコヒシクノオホカルワレハミツツシヌバム》 (【卷二十。四四七五。大原今城】)
   戀死戀死耶玉桙路行人事告兼《コヒシナバコヒモシネトヤタマボコノミチユキビトニコトモツゲナク》〔無〕 (【卷十一。二三七〇。人麿歌集】)
   古非之奈婆古非毛之禰等也保等登藝須毛能毛布等伎爾伎奈吉等余牟流《コヒシナバコヒモシネトヤホトトギスモノモフトキニキナキトヨムル》 (【卷十五。三七八〇。中臣宅守】)
   是量戀物知者遠可見有物《カクバカリコヒムモノトシシラマセバトホクミツベクアリケルモノヲ》(【卷十一。二三七二。人麿歌集】)
   可久婆可里古非牟等可禰弖之良末世婆伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留《カクバカリコヒムトカネテシラマセバイモヲバミズゾアルベクアリケル》 (【卷十五。三七三九〇。中臣宅守】)
   安比見※[氏/一]波千等世夜伊奴流伊奈乎加母安禮也思加毛布伎美末知我※[氏/一]爾《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモアレヤシカモフキミマチガテニ》 (【卷十四。三四七〇。人麿歌集】)
   比者千歳八往裳過與吾哉然念欲見鴨《コノゴロハチトセヤユキモスギヌルトワレヤシカモフミマクホレカモ》(【卷四。六八六。大伴坂上郎女】)
(41) また、都奇見禮婆於奈自久爾奈里夜麻許曾婆伎美我安多里乎敝太弖多里家禮《ツキミレバオナジクニナリヤマコソハキミガアタリヲヘダテタリケレ》(卷十八。四〇七三)といふ歌は、『古人云』といふ題詞あるものであるが、これは、月見國同山隔愛妹隔有鴨《ツキミレバクニハオナジヲヤマヘナリウツクシイモハヘナリタルカモ》(【卷十一。二四二〇。人麿歌集】)といふ歌と似て居り、恐らく同一歌が流傳の際に變形したものと思はれ、『國は同じを』が、『同じ國なり』といふ具合に通俗化されて變つてゐる點も興味があるが、それよりも興味のあるのは、有名な人麿歌集の歌も、この時には既に、『古人云』として傳はつてゐる點にある。
 卷十五の、遣新羅使人等の當所誦詠之古謌の中にある五首なども、人麿の歌であるのが、既に、『古歌』として誦詠せられ、個の作者が没してしまつてゐる點とこの場合も類似してゐるのである。
 卷十四の、五首の如きも、個の作者の名が没してしまつて、東國地方に傳はつてゐたものに相違ない。そして東歌の書體は、一字一音で書いてゐるのでさう書いたのであるが、やはり人麿歌集が本で、東歌の方が第二次的であり、契沖が人麿歌集を疑つて、『第十四ニ人麿集出ト注セル歌五首アリ。人丸何ゾ東歌ヲヨマルベキヤ』(代匠記精)と云つたのや、眞淵が、『人麻呂歌集も既言如く此撰より後に顯はれし物なれば、此卷に東歌に載しを本とす。かの人麻呂集にも東歌をも取し類有ことなり』(考)と云つてゐるのとは、反對だとおもふのである。
 要するに、人麿は個人作家として、なかなかに多い數の歌を作り、生前既に有名であり、歿後も人麿の作及び人麿歌集の歌は歌人のあひだに尊敬せられて、その作歌に影響を與へ、一部は有(42)名な人麿の作だからと云つて地方にまで流傳せられ、個の作者としての名が無くなつて民謠的な歌として殘つたものもあるといふことに落着くのである。
 
      八
 
 人麿作と明記せられたものには長歌が多く、特に長い力作で、それが二首も聯接してあり、廣義の連作とも看做すべきものがあるのに、人麿歌集の方には長歌は短いのが三首あるのみである。
 これも古來諸學者の目をつけたところであらうが、人麿と明記された歌は、應詔獻歌の公的なものが多く、また重大事件を取扱つたものが多い。縱ひ儀容的に發表せずとも濟む場合、即ち獨咏的な内容のものでも、妻の死を悼むとか、愛妻に別れて上來するとか、近江宮懷古とか、或は半ば公的とも考へ得るものでも、吉備津采女の死とか、狹岑島石中死人とかを取扱つたのが多い。從つて人麿は作歌に際してせい一ばいの力を傾けてゐる。この諸要素が人麿作といふのに長歌の多い原因をなしてゐるとおもふのである。
 これに反して、人麿歌集の方は、私的のものが多く、獨咏的のもの、縱ひ依頼によつて作つただらうと思はれるものでも、民謠的發想のものが多い。大部分は戀愛歌で、その中には男女の問答體があり、牽牛織女の支那傳來的新材料に興をおぼえて作つたもの、旅中の地名を機縁として(43)それを序詞にしたもの等であるから、大體に於いて樂《らく》に作つたものが多い。また稀に獻歌もあり、從駕の時に作つたものもあるらしいが、長歌にして儀容を作る必要を感じなかつたものともおもへるのである。
 右の如き私見であるが、人麿歌集に長歌の殆ど無いといふことは、右の如くおのづから作歌態度にも影響し、安易に作歌してしまふといふ結果を生じてゐるのである。吾等は或時には作歌の眞情流露を強調してゐるものであるが、自然流露と全力的全身的活動とをどう調和せしむべきであるか。これは計らずも人麿作と人麿歌集中出の作との間に提出せられた問題となつたのであつた。
 次に、人麿作と明記されてゐるものには旋頭歌は一首もないのに、人麿歌集には三十五首もある。そして卷七の二十三首の前には旋頭歌といふ小見出しがあり、卷十一の十二首も亦さうである。そこで森本治吉氏は、『人麿歌集にすでにこの樣式があつて、旋頭歌は短歌と別に一かためにしてあつたものと思ふ』(日本文學大辭典)と云つてゐる。なほ森本氏はこの旋頭歌について次の如くに云つてゐる。
  旋頭歌は、その歌形から見ても今日殘存してゐる實物から考へても、常時の民謠歌口誦歌であつたらしい。尠くとも旋頭歌の歌形や氣分は民謠歌的である。從つて當時の著名歌人中、旋頭歌を作つてゐるの(44)は、藤原八束・紀鹿人・高橋蟲麿・山上憶良・坂上郎女・大伴家持の大家が、各人一首づつである。ただ慰みにこんな歌體もあるから、と云ふ位ゐの氣特で作つてみたものと見える。然るに人麿だけが果して三十五首もの旋頭歌を作つたと云ふ事が信ぜられようか。殊にそのうちには、卷七の四首及び卷十一の四首の如く明かに女の作で、人麿作とは見られないものすら混じてゐる。(日本文學大辭典)
 さうして旋頭歌に限らず、人麿歌集中に民謠風の歌が多いのは『人麿がそんな民謠風の作を作つた、と見るより、人麿が人麿歌集のうちに、作者不明の民謠を書きとどめておいたのがここに採られたのだ、と見る方がより合理的である』と云ふのである。
 右の如く、人麿歌集中の旋頭歌は純粋に人麿のみの作でなく、問答などもあるらしいのであるが、短歌の方にも隨分樂《らく》に作つた民謠風のものも多いのであるから、人麿歌集の歌は大體人麿作だといふ結論に本づいて、逆にその作物に接する場合には、これ等の旋頭歌も大體は人麿自身の作だといふことになるのであらう。また實際一首一首に當つて見るに、縱ひ民謠風の内容のものでも技法の立派なものが多く、人麿作と考察しても敢て不自然でないものが多い。また旋頭歌の發生は奈何の徑路を取つたにしろ、一たび形式が定まれば、人麿ぐらゐの力量のあるものは、少しく興に乘じ、或は周圍の刺戟に應ずれば、このくらゐの數は作り得るとおもふから、諸氏の説を參攷して大體人麿作が多いだらうといふことにして置くのである。
(45) そんならなぜ 人麿歌集のみに旋頭歌があつて、人麿作と明記せられた歌の中に旋頭歌が無いかといふに、人麿作と明記せられた歌は、自發的獨咏的なものよりも、儀容的、公的、或は應詔・獻歌、或は依頼によつて作つたものが多いやうであるから、結果は長歌、短歌の形式のみで、旋頭歌は無いといふことになつたのであらう。そしてこの結果は、旋頭歌の形式は榮えずにしまふ原因をもなしてゐるのではなからうか。私等の單なる主觀からいへば、旋頭歌の形式は大に面白いものであるが、人麿當時にあつて既に、公的儀容的の場合に調和が取れ難かつたといふことになるのではなからうか。
 
(46) 萬葉集卷二・三所出歌
 
          ○
 
  〔卷二・一四六〕
  後《のち》見《み》むと君《きみ》が結《むす》べる磐代《いはしろ》の子松《こまつ》が末《うれ》を又《また》見《み》けむかも
  後將見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇禮乎 又將見香聞
 
 『大寶元年辛丑幸2于紀伊國1時見2結松1歌一首』といふ題がある。流布本に、『大實』、『若之』とあるのを他の古寫本に據つて『大寶』、『君之』と訂正した。なほ古寫本の大部分には、柿本朝臣人麻呂歌集中出也といふ注がある。○後將見跡 舊訓ノチミムト。童蒙抄スヱミント。○子松之宇禮乎 舊訓コマツガウレヲ。古寫本中、コマツノウレヲ(元・金・神)の訓もある。○又將見香聞 舊訓マタミケムカモ。古寫本の中、マタモミムカモ(元・古・神・類)。マタミツルカモ(金)(47)等の訓がある。
 紀伊國の行幸は、續日本紀に、大寶元年九月(庚午朔)丁亥天皇幸2紀伊國1冬十月(庚子朔)丁未車駕至2武漏温泉1とあるその時だといふことになつてゐる。一首の意は、有間《ありま》皇子が自ら傷みて松が枝を結べる歌二首の第一首に、『磐代の濱松が枝を引き結び眞幸《まさき》くあらば亦かへり見む』(卷二。一四一)と詠まれたのに關聯して作つてゐるので、命が全くあらば後日かへり見ようと仰せられたが、その小松の枝をば、皇子は二たび御覽になつたことであらうか、いやさうではなく、御命をおとされたのであつたといふのである。この歌の小松は必ずしも小さい松でないことが分かり、『卷向の檜原もいまだ雲居ねば子松がうれゆ沫雪ながる』(卷十。二三一四)。『夕されば小松がうれに里人の聞きこふる迄に山彦の答ふるまでに』(卷十。一九三七)などの例がある。
 これと類想の歌は、長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》結松を見て哀咽せる歌二首、『磐代の崖《きし》の松が枝結びけむ人はかへりて亦見けむかも』(卷一。一四三)。『磐代の野中に立てる結松《むすびまつ》情《こころ》も解けずいにしへ思ほゆ』(卷二。一四四)がある。このはじめの歌に似てゐるので、眞淵の考では人麿歌集の歌は長意吉麻呂の歌の異傳に過ぎぬと云つて、『後人みだりに書加へしもの也、仍てここに除て別記にいへり』と結論してゐる(【古義・註疏等其に從つた】)。併し攷證ではそれを否定して、『本より別の歌とこそきこゆれ』とし、美夫君志も、『私なり』と云ひ、新考には、『彼歌をかくは唱へ誤るべからず。おそらくは同時別(48)人の作ならむ』と云ひ、講義では、『而してこの歌は上の元暦本等に記せる如く古き人麻呂集中にありしなるべければ、それより摘出せしものならむも知られず。いづれにしても意寸麻呂の歌とは異なるものなるは明かなり』と云つて居るのである。意吉麻呂は殆ど人麿と同時代と看做されるから、眞淵の説も一應はうなづかれるが、同時代であるだけ、別な歌だといふ可能性があり得るのである。
 なほ、大寶元年辛丑秋九月太上天皇紀伊國に幸せる時に、坂門人足《さかとのひとたり》の歌、『巨勢《こせ》山のつらつら椿つらつらに見つつ思ふな巨勢《こせ》の春野を』(卷一。五四)と、調首淡海《つぎのおびとあふみ》の歌、『麻裳《あさも》よし紀人《きひと》羨《とも》しも亦打山《まつちやま》行き來《く》と見らむ紀人|羨《とも》しも』(卷一。五五)といふのがあるから、この人麿歌集の歌と同時に出來たものである。つまり供奉の人々がいろいろ作歌したものと見え、その一部が傳はつてゐるのである。この時人麿も供奉したといふ記録は無いが、人麿歌集にこの歌があり、なほその他にも人麿歌集に紀伊で作つた四首(【卷九。一七九六以下】)などもあつて紀伊と關係があるから、ひよつとしたら人麿も供奉したかも知れないのである。つまり太上天皇(特統)に供奉したのだから、その想像は全くの無稽といふわけではない。
 併し、この人麿歌集中出といふにつき、攷證では、『さてこの端辭、時の字の下、作者の姓名ありしを脱せしか。又はもとより作者不v知歌にてもあるべし。元暦本ここに小字にて柿本朝臣人(49)麿歌集中出也の十一字あり。集中の例、左注にあぐべきなればここにはとらず』と云つてゐる。これも一見識であつた。けれども現今の校本萬葉集の如く多く古寫本を集めて見れば、題詞の下に小字で、柿本朝臣人麻呂歌集中出也(【金・西・細・温・矢・京】)とあるほかに、元暦本では題詞の次行に小字で書いてあり、神田本では題詞の次行に大字で書いてあり、【題詞の肩に小字で『古本』とある。】殆ど盡くさうあるのだから、相當に重く見ていいものである。それから袖中抄には、『大寶元年ニ文武天皇紀伊國ニ幸之給御共ニ候テ結松ヲミテ、人丸カヨメル哥、ノチミムトキミカムスヘルイハシロノコマツカウレヲマタミケムカモ』とあつて、人麿作としてある。ただ一首の歌柄から見て、これを人麿作とせねばならぬ特徴は見つからない程度のものである。それにしてもこの時の行幸と人麿と何かの關係が無かつただらうかと思はしめるだけでも、この歌の價値はあると思ふのである。なほこの歌は、六帖に人麿作として載り、結句『又も見むかも』とあり、また和歌童蒙抄第七に、『ノチミムトキミカムスヘルイハシロノコマツノウレヲマタモミムカモ萬葉ニアリ』として載り、玉葉集に、人麿作『紀伊國にみゆき侍りける時むすび松を見てよみ侍りける』と題し結句『また見つるかな』となつて出て居る。
 
(50)  〔卷三・二四四〕
  み吉野《よしぬ》の三船《みふね》の山《やま》に立《た》つ雲《くも》の常《つね》にあらむと我《わ》が思《も》はなくに
  三吉野之 御船乃山爾 立雲之 當將在跡 我思莫苦二
 
 弓削《ゆげ》皇子が吉野に遊び給ひて、『瀧《たぎ》の上《うへ》の三船《みふね》の山に居《ゐ》る雲の常《つね》にあらむとわが思はなくに』といふ御歌を作られた。それに對して、春日王《かすがのおほきみ》が、『王《おほきみ》は千歳《ちとせ》にまさむ白雲《しらくも》も三船《みふね》の山に絶ゆる日あらめや』と和へ奉つた。そしてその次に或本歌一首として此の歌があり、そして、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注があるものである。それゆゑ弓削皇子の御歌といふことになるのだが、やはり人麿歌集にあるといふ左注があるから此處に抄したのである。
 弓削皇子の御歌と違ふところは、『瀧の上の』が、『三吉野の』になり、『ゐる雲の』が、『立つ雲の』になつてゐるだけで、一首の形が殆ど同じである。つまり一首の意は、三船の山に見えてゐる雲は常住といふわけには行かない。この佳景をして常住であらせたいのだが、といふ意がこもつてゐる。實朝の『世の中は常にもがもな』などと似た點もある。この歌の『立つ雲』といふのは特殊でおもしろいが、やはり『ゐる雲』の方が素直である。そして『瀧の上の』の方が實際的、且つ具象的で、『み吉野の』よりも好い。
(51) それから、この歌が人麿歌集中にあるのは、弓削皇子の御一行の中にひよつとせば人麿もゐて、そのときの歌を備忘のために書きつけ、その一二句を違へて記したのかも知れず、さうでなく供奉せずにゐてあとで聞いて記して置いたものともおもはれる。直接間接の差別はあるが、いづれにしても人麿に關係があるらしく想像することの出來る歌である。攷證では、左注を否定し、『この左注は非也。右の御歌のやうを考ふるに、吉野宮にあそび給ひしにて、春日王と贈答のさまなど思ふ《(マヽ)》、皇子の御歌ならで、人麿の歌なるべきいはれなし』と云つてゐる。
 
(52) 萬葉集卷七所出歌
 
          ○
 
  〔卷七・一〇六八〕
  天《あめ》の海《うみ》に雲《くも》の波《なみ》立《た》ち月《つき》の船《ふね》星《ほし》の林《はやし》に榜《こ》ぎ隱《かく》る見《み》ゆ
  天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隱所見
 
 雜歌の部にあつて、『詠天』といふ題があり、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注がある。古寫本には、初句、アマノカハ(神・類)。アマノハラ(類)。ソラノウミニ(細)(童蒙抄同訓)。結句、コギカクサレヌ(神)等の訓があつた。
 夜の天界のありさまを譬喩で表はしてゐる。夜の天空を海と見たて、雲の動いてゐるのを波と見たて、群星を星の林と云ひ、月をば船と見たてて、月が出たり入つたりするのを船が榜ぎ隱る(53)と云つて居るのである。天空を見てゐるとただその儘では物足りなく、何か譬喩として云ひあらはしたい氣持となるもので、現代の如く嚴格に短歌の表現を考へてゐない場合には、かういふ表現を取りたくなるのも一つの自然的な衝動と看做していい。
 それだから、萬葉にも、『天の海に月の船うけ桂梶かけて榜《こ》ぐ見ゆ月人壯子《つきひとをとこ》』(卷十。二二二三)。『秋風の清きゆふべに天漢《あまのがは》ふね榜ぎ渡る月人|壯子《をとこ》』(卷十。二〇四三)。『春日なる三笠《みかさ》の山に月の船出づ遊士《みやびを》の飲む酒杯《さかづき》に影に見えつつ』(卷七。一二九五)などがあり、懷風藻には文武天皇の御製に、『月舟移2霧渚1。楓※[楫+戈]泛2霞濱1。臺上澄流耀。酒中沈去輪。水下斜陰碎。樹落秋光新。獨以2星間鏡1。還浮2雲漢津1。』などともあり、懷風藻の序にも、これを引いて、『天皇泛2月舟於霧渚1』云々と云つてゐる詩句である。つまり支那文學の一種の表現法で、月舟が『還《ま》た雲漢の津に浮ぶ』といふあたりは、この人麿歌集の歌の表現に似て居るから、ひよつとせば人麿がこの御製のやうな趣を和歌に翻して作つたとも想像せられる。直接漢詩からの直譯ではない樣であるが、この頃には自然兩者の交流があつたと看做していい。
 考に、『歌の書體人麻呂集の如くなれば、集の時書るなるべしとおもはる』と云つてゐるのは、この歌を人麿作と認容した訣ではないが、人麿歌集の書きざまの特徴を云つてゐるのである。童蒙抄では、『如v此あるより、集に皆人麻呂の歌にして被v載し也。然れども慥に人麻呂の歌と作者(54)を不v記ば決し難きこと也。されど先此左注をより處にして人麿と云ひ傳る也』と云つてゐる。人麿作としては不慥だといふ意見である。『大船に眞※[楫+戈]《まかぢ》繁《しじ》貫《ぬ》き海原を榜ぎ出て渡る月人壯子』(卷十五。三六一一)の左注に『右柿本朝臣人麿歌』とあるから人麿作と認められてゐるが、この左注は、どういふ資料に本づいたものか、或は人麿歌集のやうなものに據つたものかも知れぬ。そして若しこの卷十五の歌を人麿作とせば、卷七の此の歌も人麿作としていいだらうか。併しそれは想像である。
 かういふ譬喩の歌は、現在の寫生の説からゆけば、聯憩が幼稚で感心出來ないものであるが、一首の調子が流石に立派なものである。いろいろな物を詰め込み、こせこせしてしまふところをこれまで爲上げた點はやはり萬葉歌人の力量だとおもふ。人麿は元來もつと大きい波動的な歌調を好むが、時にはかういふ歌調をも作つたのかも知れない。萬葉佳作選には現在の標準からゆけば漏れるかも知れぬが、問題を含む歌として、抽出して論議すべきものである。
 この歌は拾遺集及び柿本集に、『空の海に…こぎかへる見ゆ』。和歌童蒙抄に、『あまのがは…こぎかくされぬ』。六帖にも天の原の題で初句『あまのがは』として載り、共に人麿作としてゐる。
 
          ○
(55)
 
〔卷七・一〇八七〕
  痛足河《あなしがは》河波《かはなみ》立《た》ちぬ卷目《まきむく》の由槻《ゆつき》が嶽《たけ》に雲居《くもゐ》立《た》てるらし
  痛足河 河波立奴 卷目之 由槻我高仁 雲居立有良志
 
 〔題意〕 『詠雲』といふ題のある二首中の第一首である。第二首の次に、『右二首柿本朝臣人麿之歌集出』と注されてある。
 〔語釋〕 ○痛足河 アナシガハで、大和國磯城郡纏向村にあり、源を卷向山(纏向山)と三輪山とから發し、二山の間を西流して檜原の裾邊をながれて居り、今は卷向川と云つてゐる流で、一部は纏向村穴師の方に流れて穴師川といふが、古へは今の卷向川を痛足河とも云つたのであらう。そして、當時は密林の間を流れ水量も多かつたものに相違ない(【辰巳利文氏、大和萬葉地理參看】)。○河浪立奴 カハナミタチヌと訓む。作歌時現に痛足河《あなしがは》の川浪の立つのを見て居るところである。同時に、風の強いことを含めたのかも知れぬが、風のことはあからさまには云つてゐない。○卷目之 マキムクノと訓む。舊訓マキモクノであつたのを、考からマキムクノと訓じ、諸學者それに從つた。『卷目ハスナハチ痛足山ナリ。古今顯昭秘注、マキモクノアナシノ山ノ山人トトヨメル神樂歌ノ注ニ、卷向ノ山トモ云、穴師ノ山トモ云。サテカク卷向ノ穴師ト詠《ヨミ》ツヅクルナリ』(代匠記精)。『古事記、(56)麻岐牟久能比志呂乃美夜《マキムクノヒシロノミヤ》と書り。其外まきむくと訓べき證多し』(略解)。『卷向とも、纏向とも書り、(此に目(ノ)字を書るに依て、マキモク〔四字右○〕と訓は非なり、)神名帳に、大和(ノ)國城上(ノ)郡卷向(ニ)坐若御魂(ノ)神社とある其處なり』(古義)。『ここはマキモクとよみて可なり』(新考)等の諸説がある。それから卷向山と痛足山と同一のやうに契沖の文にあるが、卷向山の方は廣い總稱でその一部に痛足山があるとして好い。○由槻我高仁 ユツキガタケニと訓む。考・略解などではユヅキと濁り、他の注釋書の多くはユツキと清んで訓んだやうである。由槻嶽は古來卷向山の高峰といふ説があつたが、大體辰巳氏等によつてそれが確められたごとくである(辰巳氏、前掲喜)。『由槻ハ弓槻ナリ。槻ハ弓ノ良材ナレバ弓槻ト云、槻ノ木多キ山ニテ、此名ヲ負歟。……泊瀬ニモ弓槻ヲヨミタレド、弓槻ハ何處ニモ似ツカハシキ處ニハヨミヌベシ。弓槻カ高トイヘルハ卷向山ニ取テ最高頂ヲ云ナルベシ』(代匠記精)。『則(チ)卷向山の高嶺を云なるべし。……高《タケ》は、高嶺《タカネ》の縮言』(古義)。○雲居立有良志 クモヰタテルラシと訓む。『有』字は細井本・無訓本には無い。諸本及び注釋書の訓は、クモヰタツラシ(【元・類・拾穗抄・略解・古義・新考等】)。クモヰタテラシ(神)。クモタタルラシ(西・細)。クモタテルラシ(矢・京・附・寛永本)。クモヰタルラシ(代匠記初)。クモヰタテルラシ(代匠記精)。クモタテルラシ、クモヰタルラシ(童蒙抄)。クモゾタツラシ(考)等である。諸説を抄すると、『立の字は而の字をあやまれるにや。而の字ならば、雲ゐたるらしとよむべし』(代匠記初)。『雲居立有良志ハ、校本(57)ノ如ク、クモヰタテルラシト讀ベシ。字ニ叶ヘル上ニ、景行紀ニ思邦《クニシノビ》ノ御歌ニ、和藝弊能伽多由區毛位多知區暮《ワギヘノカタユクモヰタチクモ》トヨマセ給ヘルヲ證トスベシ。ツレニ取テ雲居トツヅクベキカ。雲ト云ヒテ居立ルトツヅクベキ歟。雲ハ居ル物ナレバ雲ヲ雲居ト云ヒ馴タルベケレバ、下ハ立有ラシト讀ベシ』(代匠記精)。『これを雲たてるら|ん《マヽ》とよませたれど心得難し。立の字は出の字、而の字などの誤りたるか。又有の字、都の字を誤れるか。下になみくら山に雲居者ともよめり。然れば出而の誤りならば雲ゐたるらし也』(童蒙抄)。『雲井たな引とよめるあれど、居の字なき方ぞよしとせん。一本に居の字なし。活本に有の字なし。雲ぞたつらしぞよき。一本活本によりて居有の二字をすてつ』(考)。『雲ヰは古事記、和岐弊能迦多由久毛韋多知久母《ワギヘノカタユクモヰタチクモ》と有りて、唯だ雲の事を言へり。今本、雲居立の下、有の字有り。活本有の字無きを善しとす』(略解)。以上の如くであるが、『有』字のある諸本が多いから、さうすると、クモヰ・タテルラシと訓む方が順當であらうと思はれる。そしてクモヰは先進の考證のごとくに雲のことと解するのである。
 〔大意〕 今、痛足河《あなしがは》を見ると河浪が立つて居る。河浪が強くなつた。恐らく卷向山の一峰である由槻《ゆつき》が嶽《たけ》に雲が起つてゐると見える。と云ふぐらゐの意味である。
 〔鑑賞〕 作者は痛足河のほとりを歩いてゐるやうな趣で、近く痛足河の河浪を見てゐるのだと思つていいだらう。そして由槻が嶽の雨雲の方は、『らし』といふ推量の語を使つてゐるから、こ(58)れは距離が遠くにある趣で、推量でも當《あて》のある推量だから、もう雲霧の去來が見えるところと解してもいいのである。
 それから、『河浪立ちぬ』と言ひ切つたのも目前のさまに觀入した句でおもしろく、この語の背後にはやはり風が吹きわたることを暗指してゐるのである。また、水量の増した氣持であるから、そのころ雨が降つたといふことも籠らせてゐると解していい。『纏向の痛足《あなし》の山に雲居つつ雨は零《ふ》れども濡れつつぞ來し』(卷十二。三一二六)などの歌もあるからである。ただ字面には、風のことも雨のことも無いから、味ふには字面を飽くまで主にし、風、雨のことは從屬としなければならない。さうでないと、作者の自然觀入の眞髓を見免がすおそれがある。『秋風に河浪立ちぬ暫《しまし》くは八十の舟津《ふなつ》に御舟《みふね》とどめよ』(卷十。二〇四六)。『風吹きて河浪立ちぬ引船に渡りも來ませ夜の更けぬ間に』(卷十。二〇五四)。『年に艤《よそ》ふ吾が舟榜がむ天の河風は吹くとも浪立つなゆめ』(卷十。二〇五八)などの用例を見ると風と河浪の立つ關係が分かるし、或はそのころ雨降り、今も雨降らむとする氣色《けはひ》をあらはす氣象の鬱勃たる鋭さに、作者が參加してゐるとも考へることが出來るのである。幸田露伴翁の文中、『やがて、風ざわざわと吹き下し、雨どつと落ちかかり來るならひにて、あらしめきたる空合に此雲の出でたる、また無く物すさまじく』云々(雲のいろ/\)とあるのは、夕立まへのさまであるが、やはり風一陣のことを云つてゐるのである。併し、人麿歌(59)集のこの歌は、盛夏の夕立ではなく、初夏或は初秋頃の雨ふるまへの趣のやうにもおもへる。歌の季のことは次の歌の條に再説するつもりである。
 この風のこと、雨のことに就き先進も説いてゐる。『河浪ノ立トハ二ツノ意侍ルベシ。一ツニハ雲ニ依テ風ノ吹故ナリ。古事記中神武天皇段ニ、伊須氣余理比賣ノ歌曰、佐韋賀波用久毛多知和多理字泥備夜麻許能波佐夜藝奴加是布加牟登須《サヰガハユクモタチワタリウネビヤマコノハサヤギヌカゼフカムトス》、又歌曰、字泥備夜麻比流波久毛登韋由布佐禮波加是布加牟登曾許能波佐夜牙流《ウネビヤマヒルハクモトヰユフサレバカゼフカムトゾコノハサヤゲル》。二ツニハ、雲ニヨリテ雨ノ降ナリ。此卷下ニ、ササ浪ノ連庫山《ナミクラヤマ》ニ雲居《クモヰ》テハ雨ゾ零《フル》チフカヘリコ吾背、トヨメルニ准ラヘテ思フベシ』(代匠記精)。『夕立時雨抔にて水まして浪の立と云意か。下の雲居たるらしとは、由槻がたけに雲のゐれば、雨など降ためし有をもてかくよめるならん。今もそこの峰に雲かかれば、必ず雨降風立事抔有に同じ理りならん』(童蒙抄)。『右二首共に雨降ると言はずして知らせたり』(略解)。『雨降むとする時、風|發《おこ》りて浪の立さわぐものなれば、河浪の鳴動くを聞て、雲の立を思ひやれるなり』(古義)等である。
 強い莊重な歌で、然かも寫生が行きとどいて誤魔化しがない。風も雨も背景に潜めて、河浪を眼前に彷彿せしめ、雨雲をそれに配してゐるその單純化の手腕は實に驚くべきである。さういふ觀入の順直に徹してゐながら、一首の中に地名の固有名詞三つも入れてゐる。これなども技法の方面から云へば非常な大膽なわざであるが、作者は平然としてそれを行つてゐる。そして一首の(60)聲調は渾然としていささかの破綻もなく、却つて一種のひびきとして受取ることが出來、後世の歌の如くこせこせした事物を詰め込んだのよりもずつといい效果を收めて居る。それから第二句で切つて結句で切り、『卷向の〔右○〕由槻が〔右○〕嶽に〔右○〕』のところののがに〔三字右○〕の關係などは實に及びがたい味ひである。結句はクモヰタテルラシと大きく字餘りにして大にいいが、クモヰタツラシとしても亦いい聲調で、訓詁考證の點を措いて歌を味ふ上からいへば、クモヰタツラシも實に棄て難い。私は二つとも愛惜して一つを棄てようとはしない。
 作者の分かつてゐる歌の方が、讀人不知の歌よりも安心して鑑賞出來ると思ふのが人情と見え、人麿歌集の歌は、人麿作と明記されてゐるものよりも、評價上からも不安なやうに思ふのであるが、いい歌になれば個人の作者の名などの問題を超越してかまはないのである。併し、人麿歌集中には人麿の作が多分に含まれて居ると考へ得べきだとせば、此處の二首などはやはり人麿の作なのではあるまいか。讀人不知としては物足らず、一定の作者が欲しいとせば、やはり人麿作と想像したいので、私は以前から秘かにさう思つて味つて來た。無論讀人不知の作で、このやうな聲調の大きさを持つた歌が幾つもあり、現に、『大海に島もあらなくに』の伊勢從駕の歌などは人麿作を彷彿せしめるけれども、大體この二首の聲調は人麿の聲調と相通ずることを感ずるのである。
(61) この歌は和歌童蒙抄に、『アナシカハカハナミタチヌマキモ|ウ《マヽ》ノユ月カタケニクモタテルラシ萬葉第七ニアリ』とあり、續古今雜下にも載つて居る。
 
          ○
 
  〔卷七・一〇八八〕
  あしひきの山河《やまがは》の瀬《せ》の響《な》るなべに弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に雲立《くもた》ちわたる
  足引之 山河之瀬之 響苗爾 弓月高 雲立渡
 
 〔題意〕 『詠雲』の第二首である。別々に作つて此處に類題したものか、或は、同時に作つたものか。二首は同じ趣の歌であるから同時に作つたものとし、二首連作と看做すことも出來る。
 〔語釋〕 ○足引之 アシヒキノと訓む。暫く宣長に從ひ清音に訓んで置く。山に冠らせた枕詞で、その語意には諸説があつて未解決であるが、本居宣長の足引城《アシヒキキ》説、即ち、『足《アシ》は山の脚《アシ》、引《ヒキ》は長く引延《ヒキハヘ》たるを云。城《キ》とは凡て一構《ヒトカマヘ》なる地《トコロ》を云て、此(レ)は即(チ)山の平《タヒラ》なる處を云』(古事記傳)とする説、それと同系統の、高橋殘夢・加茂季鷹等の説が一番無理が無いやうに思ふが、どういふものであらうか。アシを足《アシ》と做すにつき、新撰字鏡、爾雅注、伊呂波字類抄等に、アシタカグモがあ(62)り、萬葉卷五(九〇四)に足須里《アシスリ》があり、新撰字鏡に足須留《アシスル》がある。以て參考とすべきである。次に、宣長は、『比は清音なり。此言、書紀萬葉などにも多くある、皆|比《ヒ》には清音の假字を書り。濁るは非なり』(古事記傳)といひ、宣長門の石塚龍麿も、『こは萬葉には、猶いとおほくある、一處も比〔右○〕に濁音のかなを用ひたるはなし。必清音なり。濁りてよみならへるは誤也』(古言清濁考)と云つてゐるが、萬葉では、『比』は必ずしも清音のみではなく、『※[田+比]』に通はせてビと發音した形跡がある。即ち、阿蘇比《アソビ》。安佐比良伎《アサビラキ》。安米比度《アメビト》。伊敝比等《イヘビト》。宇知那比枳《ウチナビキ》。敲自努比《ウチシヌビ》。於保美也比等《オホミヤビト》。伎倍比等《キヘビト》。多比《タビ》。之奴比《シヌビ》。比丘《ビク》。牟須比《ムスビ》。牟世比《ムセビ》。毛呂比登《モロビト》。奈良比等《ナラビト》。波流比《ハルビ》等は、ビと濁つて訓んだやうであるから、宣長龍麿にも一概には從はれない。卷十五(三六八七)の、安思必寄能《アシヒキノ》は清音で訓むとして、『必』は清音のヒだと龍麿は分類してゐるが、卷十五(三七三四、一云)の左必之佐《サビシサ》の例がある。また、大槻氏の言海では、アシビキノと濁つて訓ませてゐる。そこで、古事記あたりで使つた時には清音であつたかも知れないが、それが萬葉では絶待といふわけには行くまいと思はれるし、この人麿歌集の場合には、アシビキノと濁音に訓む方が一首の調べのうへから私の好むところであるので、私は秘かにさういふ發音で吟誦し來つて居る。併し、今は一般的解釋であるから、暫く宣長訓に從ふのであるが、この清濁の問題は、萬葉集の範圍中にあつて既に時代的變化があつたのかも知れない。毛美知婆《モミチバ》なども、龍麿等はモミチバと清音に訓むや(63)うに主張するのだが、集中にあつて既にモミヂバと發音した部分が必ずあつたと看做して好いのではあるまいか。天人は、アメヒトであるべき筈なのに、アメビトと云つてゐる。以て一般を類推すべきである。次に、このアシヒキノといふ枕詞はただ枕詞として音調上使つたのであるが、代匠記に、『今按、此足引之山河ト云ヘルハ、若足引ト云詞ハ、アナシ山ヨリ起レル事ノ由ナド有テ、今アナシノ山川ト云べキ所ヲ其意ニ足引ノト云ヘル歟。カク云故ハ足引ヲ第四ニハ足疾ト書、此卷下ニハ足病トカケリ。又アナシハ穴師トモカキ痛背ナドモ云ヘリ。次上ニハ痛足トカキ下ニハ病足トカケルハ、足病ト云ニ同ジケレバ驚カシオクニ侍り』(代匠記精)と云つてゐるが、これは笑談であるらしい。○山河之瀬之 ヤマガハノセノで、これは耶麻鵝播《ヤマガハ》の例もある如くにガハと濁つて訓む。山河《やまがは》の急流が水嵩が増して幾つもの瀬を作つてゐる、即ち瀬々である。卷二(一一九)に、芳野河逝瀬之早見《ヨシヌガハユクセノハヤミ》とあるを始め、用語例が多い。○響苗爾 ナルナベニと訓む。これをナルナヘニと清んで訓んだが、古義で、『奈戸は奈倍《ナベ》と濁るべし』(【卷一、所念奈戸二の條】)と云つた。このナベニは、眞淵が、『この歌ども皆二つの事をむかへて奈倍《ナヘ》といへれば、並ぶ意なるよし明らけし、共と書しにていよよしらる』(考別記)とある如く、と並んで、と共に、に連れて、と同時に、などの意があり、原因結果のやうなところもあるが、語原はさうではない。眞淵の、『故はゆゑなり。なへは奈倍なり』(考別記)で決して同一ではない。なほこの語の用例は下に書記して置いた。この(64)歌の場合は、ニツレテぐらゐに解せばいい。○弓月高 ユツキガタケニと訓む。弓月嶽は前にも云つたごとく、卷向山のうちの高峰である。辰巳利文氏云、『まきむく山の最高峰があたかも半月形にながめられるのであります。私はこの半月形にながめられるまきむく山の最高峰を靜かにながめつつ無意識にそれが即ちまきむくの弓月ケ嶽ではないだらうかと考へたのであります』(大和萬葉地理研究)。○雲立渡 クモタチワタルと訓む。雲が立ち亂れて廣がる樣である。ワタルは、鶴《たづ》鳴き渡《わた》るなどとも用ゐ、視覺的(空間的)にも聽覺的(時間的)にも廣がる意味を以つて用ゐてゐる。
 〔大意〕 一首の意は、いま眼前の山河《やまがは》(【穴師川即ち今の卷向川であらう】)の急流が高く鳴つてゐる。つまり瀬の音が高く聞こえてゐる。或は、風吹き瀬の音が高まつたといふ意味を奥に含めてもいい。さうすると、向うの卷向山の弓月嶽あたりに雲が湧いて盛にひろがるのが見えるといふので、この二つをナベニ(ニ連レテ)といふ語で聯結してゐるのである。この歌の上の句は、ただ重く鋭い川瀬の音が聞こえる趣のやうにばかり受取ることも出來るが、ここは單に聽覺のみでなく、やはり川瀬(穴師川の瀬の浪)を見て居るところなのであらう。つまり視覺が實は主なのであるが、それを、響《な》るなべにと聽覺的にいつたところに單純化がある。そして距離からいへば、川浪の方が近くて弓月嶽の雲の方が遠い趣である。そしてこの二つの天然現象をナベニで續けたものである。
(65) 〔鑑賞〕 この一首は、聲調が鋭く大きく、響の勇猛な歌とも謂つてもいいくらゐ強い響を持つた歌である。そしてそれは天然現象がさういふ荒々しい強い相として現出してゐるのを、その儘さながらに表規したのが、寫生の極致ともいふべき優れた歌を成就してゐるのである。當時の歌人等は寫生論とか象徴論とか意識した歌論を云はなかつたが、かういふ天然現象を機縁として動いた心の儘を、そのまま言語にあらはしたのがこの歌で、そして結果からいへば、自然・自己一元の生《せい》がここに表現せられたと謂ふべきである。短歌に於ける象徴などいふことも、この歌の場合の如き意味内容と聲調との悟入以外には無いと思つていい。それ以外に出れば最早邪道に踏入るのである。
 この歌は、分析すると上の句で『の』の音を續けて、連續的・流動的・直線的にあらはして、下の句で屈折せしめて、結句では四三調(二二三調)で止めてゐる。これなども誠に自然であつて、一首はそのやうな關係で動的に鋭くなつてゐるのである。それから、若し私等のやうにアシビキノ。ナベニ。ユヅキといふ具合に濁音を入れて吟誦すれば、濁音の多い歌で、歌柄を大きく太くしてゐる。濁音の效果は實にかういふところに存じてゐるのである。それから、『の』のことは前言の如くだが、『足引の〔右○〕山河の〔右○〕瀬の〔右○〕』と直線的に一氣に押して來て、第三句で、『なべに〔右○〕』で第四句に續けたのはやはり自然で、そして第四句の、『弓月が嶽に』で、『の』といはずに、『が』(66)の入つてゐるのは一轉化した微妙な調和であり、また、『に』音が二つ其處にあるのも、潜勢をもつて押してゆく調子である。それから、阿列の開口音が多く、その間に伊列の鋭い音を混じて一首の響を大きくして、加行多行の音の強いのと、ワタルなどの運動をあらはす音で一首が構成されて居り、一首の響がすべすべしないで荒々しく原始的で揮沌の有樣を聽くことが出來る程の不思議な歌である。
 つまり此一首は萬葉集の短歌では若し選ぶとせば選ばぬばならぬ歌であり、萬葉傑作の一つだと謂はねばならぬものである。萬葉にはこの歌よりもいい歌が幾つかあるが、それは作歌機縁が違ふので、かういふ天然現象の歌としてはやはり傑作と稱すべきだとおもふのである。この『響《な》る』といふ語なども、注意すべき古代語で、鳴澤《なるさは》、鳴門《なると》、鳴神《なるかみ》などと共におもしろい言方である。『そよと鳴るまで歎きつるかも』、『この床のひしと鳴るまで歎きつるかも』などの用例もあつて參考とすることが出來る。
 この歌でナベニと用ゐたのは、川浪の激《たぎ》つのと雨雲の動いてゐるさまとを、原因結果の關係でなしに二つを接近せしめて觀入してゐる態度であつて、作歌稽古上からいへば餘程有益なるものである。どちらが原因どちらが結果といふわけではないが、二つとも分離の出來ざる、その不即不離のところがおもしろいのである。つまり現代語などは分化に分化を經來つて、詩語としても(67)餘程進歩したもののやうにもふが、却つてナベニをかういふ場合に使ふ古代人の方が言語感覺が鋭敏であつただらうと思へる程である。次にナベニの用例を拾つて見た。
   我背子を何時ぞ今かと待つなべに〔三字右○〕面《おも》やは見えむ秋の風吹く (卷八。一五三五〕
   もみぢ葉を散らす時雨の零るなべに〔三字右○〕夜さへぞ寒き一人し寐れば (卷十。二二三七)
   春霞流るるなべに〔三字右○〕青柳《あをやぎ》の枝|啄《く》ひ持ちて鶯鳴くも (卷十。一八二一)
   雁がねの聲聞くなべに〔三字右○〕明日よりは春日の山はもみぢ始めなむ (卷十。二一九五)
   草枕旅の悲しくあるなべに〔三字右○〕妹を相見て後戀ひむかも (卷十二。三一四一)
   橋立の倉椅山《くらはしやま》に立てる白雲見まく欲り我がするなべに〔三字右○〕立てる白雲 (卷七。一二八二)
   萩の花咲きたる野べにひぐらしの鳴くなるなべに〔三字右○〕秋の風吹く (卷十。二二三一)
   【上略】神ながら思ほすなべに〔三字右○〕天地も依りてあれこそ磐走る【下略】 (卷一。五〇)
   黄葉《もみぢば》の散りぬるなべに〔三字右○〕玉梓《たまづさ》の使を見れば逢ひし日|念《おも》ほゆ (卷二。二〇九)
   鶯の聲《おと》きくなべに〔三字右○〕梅の花|吾家《わぎへ》の苑《その》に咲きて散る見ゆ (卷五。八四一)
   葦邊《あしべ》なる荻の葉さやぎ秋風の吹き來るなべに〔三字右○〕雁鳴き渡る (卷十。二一三四)
   鶴《たづ》がねの今朝鳴くなべに〔三字右○〕雁がねは何處《いづく》さしてか雲|隱《がく》るらむ (卷十。二一三八)
   雁が音を聞きつるなべに〔三字右○〕高松の野の上《へ》の草ぞ色づきにける (卷十。二一九一)
(68)   見まく欲《ほ》り思ひしなべに〔三字右○〕※[草冠/縵]《かづら》掛《か》けかぐはし君を相見つるかも (卷十八。四一二〇)
   我が兄子《せこ》が琴取るなべに〔三字右○〕常人の云ふ歎《なげき》しもいや重《し》き益すも (卷十八。四一三五)
 つまり、時間的關係もあり、事象もあり、心の關係もあつて一樣でなくして、必ずしも原因結果のことを云つてゐないが、中にはさういふ傾向のものも交つてゐる。『思ひしなべに』とか、『琴とるなべに』などの用例がさうである。併しそれを、『からに』とか『ゆゑに』とか『にしかば』とせずに、『なべに』とつづけたところに、當時の人々の語感をうかがふことの出來る微妙の點が存じてゐるのである。次に參考のために、『なべ』の用例を拾ひ置く。
   耳無《みみなし》の青すが山は背面《そとも》の大御門に宜《よろ》しなべ〔二字右○〕神さび立てり (卷一。五二)
   宜《よろ》しなべ〔二字右○〕吾背の君が負ひ來にし此の勢《せ》の山を妹《いも》とは喚ばじ (卷三。二八六)
   夕されば蝦鳴くなべ〔二字右○〕紐解かぬ旅にしあれば吾《あ》のみして (卷六。九一三)
   神さびて見れば貴く宜しなべ〔二字右○〕見れば清けしこの山の盡きばのみこそ (卷六。一〇〇五)
   今朝の朝明《あさけ》雁が音寒く聞きしなべ〔二字右○〕野邊の淺茅ぞ色づきにける (卷八。一五四〇)
   雲の上に鳴きつる雁の寒きなべ〔二字右○〕萩の下葉は黄變《うつろ》はむかも (卷八。一五七五)
   秋風に山吹の瀬の響《とよ》むなべ〔二字右○〕天雲翔る雁に逢へるかも (卷九。一七〇〇)
   秋風の寒く吹くなべ〔二字右○〕吾が屋前《やど》の淺茅がもとに蟋蟀鳴くも (卷十。二一五八〕
(69)   柔田津に舟乘りせむと聞きしなべ〔二字右○〕何ぞも君が見え來ざるらむ (卷十二。三二〇二)
   卯の花の共にし鳴けばほととぎすいやめづらしも名告《なの》り鳴くなべ〔二字右○〕 (卷十八。四〇九一)
   櫻花今さかりなり難波の海|押照《おして》る宮に聞《きこ》しめすなべ〔二字右○〕 (撃一十。四三六一)
 次に、この一首は、河の瀬の鳴る音と、山に雲の起り動いてゐる現象を咏んでゐるから、その時は風が強かつたに相違ないと解し、または雨が降つてゐたのだと解してゐるのが普通である。それは、實際は風強く、雨も降つたかも知れぬが、一首の字面には、風のことも雨のことも云つてゐない。ゆゑに讀者は主として川浪の音のこと山の雲のことを寫象して味ふ方がよく、風のこと雨のことは意識の奧の方に置いて味ふべきだとおもふ。さうでなくて餘り詮議立てをすると一首の氣勢を害するのである。つまり一首の情景は雨降らむとする前の趣で無論風の吹き渡つたのであらうが(【前の歌の「河浪立ちぬ參考】)、風強しと云はずに山河の瀬の鳴るなべにと云つたところに妙味があるのである。次に參考のため先進の解釋を手抄する。『第九宇治河作歌云。秋風ノ山吹ノ瀬ノナルナヘニ天雲翔ル雁ニ相ルカモ(一七〇〇)。此歌ニヨレバ瀬ノナルハ風ニ依ナリ。又此卷下ニモ卷向ノ川音高シアラシカモトキ(一一〇一)トヨメリ』(代匠記精)。『此歌も、水上雨ふりて山河の瀬音のするは理りかな。うべも弓月がたけに雲こそ立渡ると也。たけに雲の立渡るは水上雨ふりたると云の意也』(童蒙抄)。『風の吹來て浪たち河瀬のなる並に弓月嶽に雲のたつと也』(考)。『雨(70)降といはずしてしらせたり』(略解)。『山河の瀬の鳴るは風の強き爲なり。前の歌とおなじく夕立の趣なり。略解に右二首ともに兩降といはずして知らせたりといへるは非なり。雨はいまだ降らぬなり』(井上新考)。
 次に、この歌は季は何時だらうかといふ問題である。井上氏は夕立前の光景としたから夏季と感じたのだが、この歌は雪解時にしても味へるし、秋の出水ごろの天氣定まらぬ頃としても味へるし、私の如きはもつと寒い頃の歌として味つた時もある。實際初冬に上高地に行き梓川の流の音を聞き穗高に雲のただならぬさまを見てゐると直ちにこの歌を聯想するのであつた。またこの一首に雷のことが無いから、その邊のことは想像もむづかしい。これは鑑賞者が銘々に季を想像して味ふほどの餘裕があるので、その點が歌の特徴であるのかも知れない。併しこの歌は盛夏でも嚴冬でもないこととし、初夏初秋あたり、初冬あたりのものとして味ふのが穩當の如くである。嘗て、俳人側の虚子・碧梧桐氏等と歌人側の節・左千夫等との間に、歌の李に就いて問答したことがある(雜誌馬醉木)。つまり和歌には俳句ほど細かい季の上の約束が成立してゐない、その得失の論であつた。
 この一首は古來萬葉集中の秀歌としては餘り論ぜられてゐなかつた。契沖も眞淵も宣長もこの歌に餘り注目してゐない。選出にもこの歌を拔いてゐないのを見ても分かる。明治になつて萬葉(71)集が流行し出してからでもまたさうである。試に佐佐木氏、窪田氏等の選抄を見れば極めて明かに分かるのであるが、近ごろでは萬葉から秀歌を拔く場合には殆どすべてが此歌を見落さぬやうになつてゐる。佐佐木博士も選釋改訂版でこの歌を増補するに至つた。そしてその源は、伊藤左千夫がこの歌の特色に就いて門人に口傳し、門人等が大正の初年ごろから雜誌アララギを中心として此歌を強調したのに本づくのである。私がこの事をいふたびに、或人は、あが佛尊しと感ずるといふが、これは敢て歌の方ばかりではない、自然科學などの場合でも同じであるが、學問の發展はこれに類似の原因に本づく場合が多いのであり、學問界に於てプリオリテエトを重んじて明記するのはそのためである。私が秘かに學界を見渡すに、學者と自稱するものが、左千夫の左の字も云ないのはどういふわけであるか。私の知るところでは、寡聞のせいもあらうが、萬葉抄(宗祇抄)に、『あなし川かは浪立ちぬ』、『足曳の山川の瀬の』の二首を抄し、前者には、『あなし川、ゆつきがたけ同所なれば、河波を見て雲もたつらしとよめる歟。又移る心にもいへるにや』と注し、後者には、『是はただ眼前にみる當代をよめり』と注してゐるのが目についただけで、これとても秀歌として抽いたのでないことが分かる。それから井上博士の新考で、『二首ともに雄渾にしてめでたし』と評してゐるのは、新考には批評の言葉の尠いのにこの二首に對して如是の評言を書いてゐるのも珍らしく、また卓見だと思ふけれども、新考卷七上の發行になつたのは大(72)正七年十二月であるから、左千夫門の諸家が此歌を云々してから、だいぶ年月が經ち、この歌も餘程大衆化してしまつた頃なのである。
 なほ、亡友島木赤彦は、「歌道小見」に於て、「萬葉集の鑑賞及び其批評」に於て、精細に剖析批評して居るから、一讀せられんことを希望する。
 
          ○
 
  〔卷七・一〇九二〕
  鳴《な》る神《かみ》の音《おと》のみ聞《き》きし卷向《まきむく》の檜原《ひはら》の山《やま》を今日《けふ》見《み》つるかも
  動神之 音耳聞 卷向之 檜原山乎 今日見鶴鴨
 
 以下三首『詠山』の歌の初にあり、第三首の後に『右三首柿本朝臣人麿之歌集出』と注されてある。○動神之 ナルカミノと訓む。ナルカミは萬葉では、雷神、鳴神、響神とも書いた。動神と書いたのも、『雷鳴すれば響き動くものなれば義をもて書けり』(童蒙抄)で大體が分かる。第三句舊訓オトニノミキクを考でオトノミキキシと訓んだ。『鳴る神の』は『音』にかけた枕詞の格である。これまで話にばかり聞いてゐた卷向の檜原の山を實に今日はじめて見たが、いい山である(73)といふぐらゐの歌である。檜原は、集中には、卷向の檜原、三輪の檜原、始瀬の檜原、丹生の檜山等と咏まれて、檜の森林のあつたことが分かる。『音に聞き目には未だ見ぬ吉野河六田の淀をけふ見つるかも』(卷七。一一〇五)。『音にきき目にはいまだ見ず佐用姫《さよひめ》が領巾《ひれ》ふりきとふ君まつ浦《ら》山』(卷五。八八三)。『鳴神の音のみ聞きしみ芳野の眞木立つ山ゆ見おろせば』(卷六。九一三)。『天雲の八重雲隱り鳴神の音のみにやも聞き渡りなむ』(卷十一。二六五八)などの歌があるから、當時かういふ云方が通用的であつたことが分かり、そして厭味が無く一般化し得る傾向を持つて居るものであらう。この一首の聲調は、重厚で亂れず、結句に感慨を籠めたあたりは棄て難いものである。この歌を人麿作とし、人麿を石見あたりの出身として、大和へ上つて來た時此歌を作つたのだらうと考へる學者も居るが、かういふ種類の歌は遙々石見から上つて來なくとも、同じ大和の人間でも、『鳴神の音のみ聞きし』と云ひ得るのであるから、必ずしも人麿を石見の人だと斷ずる材料にこの歌はなり得ない。ただ人麿歌集には、卷向山を中心とした歌が隨分多いから、人麿が或期間この邊に住んで居ただらうと想像することは決して無理ではない。そしてその住みはじめごろの作とこの歌を想像するのは、これも亦そんなに無稽の想像ではあるまい。
 この歌は、拾遺集卷八雜上に人麿作として、『なる神の音にのみきくまきもくの檜原の山をけふみつるかな』とあり、なほ同樣の形のものが柿本集にも載り、六帖第二山の部には、『詠人しらず』(74)として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一〇九三〕
  三諸《みもろ》のその山並《やまなみ》に子等《こら》が手《て》を卷向山《まきむくやま》は繼《つぎ》のよろしも
  三毛侶之 其山奈美爾 兒等手乎 卷向山者 繼之宜霜
 
 三諸《みもろ》は即ち三輪山《みわやま》である。『兒等が手を』は『まく』に續けた枕詞である。一首の意は、三諸山の山つづきに卷向山が連なつてゐるのはいかにも具合よく、佳景だといふので、『繼《つぎ》のよろしも』は此處は空間的關係に云つたが、すべて連續的の場合に『繼ぐ』といふのは、誠に好い用法である。『かりがねも繼ぎて來鳴けば』(卷十五。三六九一)。『秋風はつぎてな吹きそ』(卷七。一三二七)。『鹿《しし》まちに繼ぎて行かましを』(卷三。四〇五)などの例が澤山ある。この歌は山川の光景を云つてゐるのだが、何か生きてゐるものに云つてゐるやうな親しみを感ずることが出來る。それは、山嶽をいふに、兒等が手を纏くなどの聯想語を使つてゐるためもあるが、さうでなくとも一首の聲調にさういふ親しみを以て歌つてゐるところがあつておもしろいと思ふのである。この歌、舊訓(75)『みもろの其山なみに兒等が手を卷もく山は繼ぎてしよしも』であつたのを、ツギノヨロシモと考は訓んだ。童蒙抄では春滿の按として、ツギテシゲシモと訓んでゐる。繁しもの義であらうか。そして、『よろしき事は不v顯して詞にこめたり』といつたが、いかがであらうか。新考ではツグガヨロシモと訓み、ツヅケルガメデタシと解してゐるが、この訓は餘り感心しない。第一調を成さない。
 この歌は、六帖山の部に、『みむろのやその山中に子らが手をまきむく山はつぎてよろしも』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一〇九四〕
  我《わ》が衣《きぬ》も色服《いろぎぬ》に染《そ》めむ味酒《うまざけ》三室《みむろ》の山《やま》は黄葉《もみぢ》しにけり
  我衣 色服染 味酒 三室山 黄葉爲在
 
 この歌は、舊訓、『わが衣《きぬ》の色《いろ》服染《きそ》めたり味酒《うまさか》の三室《かみむろ》の山のもみぢしたるに』であつた。イロニソミタリ(代匠記初書入)。イロニソメタリ(代匠紀精)。ワガキヌモイロヅキソメヌ(童蒙抄)。ワガ(76)キヌノイロヅキソメツ(考)。ワガコロモイロニソメナム(略解)。アガコロモイロニシメナム(古義)。イロニシメテム(新考)。イロギヌニシメム(新訓)。アヂサケノ(拾穗抄)。ウマサケノ(童蒙抄)。ウマサケ(考)。ウマサケヲミムロノヤマハ(略解)。モミヂシニケリ(略解宣長訓)。一首の意味は、三室の山は今や黄葉《もみぢ》した。あの色を以て我が衣を染めよう。この山に入つて美しい黄葉の中に浸らうといふほどの歌である。これも滿山の美しい黄葉の色を見るときにはさういふ氣持にもなり得るのであらうし、當時の染色の方法などのことを聯結して味へばこれも極めて自然の表現のやうにおもへるのである。そして、この歌では矢張り結句の、『黄葉しにけり』といふ、沁々とした咏嘆に留意すべきである。
 
          ○
 
  〔卷七・一一〇〇〕
  卷向《まきむく》の痛足《あなし》の川《かは》ゆ往《ゆ》く水《みづ》の絶《た》ゆること無《な》くまた反《かへ》り《み》見む
  卷向之 病足之川由 往水之 絶事無 又反將見
 
 『詠河』と題した二首中の第一首で、第二首の左注に『右二首柿本朝臣人麿之歌集出』とある。(77)『病足』は古寫本中、『痛足』(類・古・新)となつてゐるのもある。『川音』の訓も、カハニ(元)。カハヨリ(類・古)などといふのがある。『卷向』は、舊訓マキモクであるが、今マキムクと訓むこと前の歌の處で既に云つた。この卷向《まきむく》の痛足川《あなしがは》も既に云つたが、なほ重複を厭はずいふならば、この川は、卷向山と三輪山との間を檜原の裾を西へ流れてゐるもので、即ち現在卷向川といつてゐる川である。現在は支流が纏向村穴師の方に流れてゐて其を穴師川といつてゐるらしいが、これは後世に水を分けたものである。この卷向川(即ち痛足川)は現在は水量は減つて居るが、決して平凡でなく、往昔は水量も多く激しつつ流れて居たものの如くで、『卷向の川音高しも嵐かも疾き』(一一〇一)といふこの歌の次の歌を理解するのに充分である。昭和十年十一月、藤森朋夫氏と二人で踏査した。
 この一首は、上句《かみのく》は下句《しものく》の序詞の形態になつてゐるが、ただ音調上の序詞でなく、實地の風景に即して居るので、作者は痛足川にのぞんで、その痛足川に就いて斯く云つてゐるのである。そこで一首の意は、卷向《まきむく》の痛足《あなし》川を流れ行く水が、斯く絶ゆること無きごとく、絶えず常にこの清き川をば忘れずに來て見よう。といふのに落著くのである。
 この、『絶ゆることなくまたかへり見む』といふやうな思想の歌は、『見れど飽かぬ吉野《よしぬ》の河の常滑《とこため》の絶ゆることなくまたかへり見む』(卷一。三七)。『み吉野の秋津《あきつ》の河の萬世《よろづよ》に斷《た》ゆることな(78)くまた還り見む』(卷六。九一一)などによつても知り得べく、またこの歌の近くにある『泊瀬《はつせ》川|白木綿花《しらゆふはな》に落ちたぎつ瀬を清《さや》けみと見に來し吾《われ》を』(一一〇七)。『吾が紐を妹が手もちて結八川《ゆふはがは・ゆふやがは》また還《かへ》り見む萬代までに』(一一一四)など、皆河の瀬の景色について歌つてゐるから、この歌の意味と作歌動機とを理解することが出來るとおもふ。この動機の中に、特別の人事的・行事的な意味があるかどうか私は知らない。
 『痛足の川ゆ』の『ゆ』も、『往く水の』といふ運動の語に續けて、通過する意をあらはして居るのに注意すべく、この『ゆ』をば、『より』などに置換へずに、直ちに『ゆ』として理會すべきである。この一首は、鑑賞上取立てていふ程のものではないが、その聲調には、その次の歌などと同樣に、緊張してゐて何處か人麿的なところがあると謂つてよく、若しこの歌が實際に人麿の作だとせば、『常滑の絶ゆることなくまたかへり見む』の歌も、この邊の素質の連續とも考へ得べく、かたがた興味ある一首である。
 
          ○
 
  〔卷七・一一〇一〕
  ぬばたまの夜《よる》さり來《く》れば卷向《まきむく》の川音《かはと》高《たか》しも嵐か《あらし》も疾《と》き
(79)  黒玉之 夜去來者 卷向之 川音高之母 荒足鴨疾
 
 〔題意〕 『詠河』第二首である。
 〔語釋〕 ○黒玉之 ヌバタマノで、射干玉といふ意から夜に係る枕詞であることは既に説いた。古訓ではウバタマ、ムバタマ等と訓んでゐる。○夜去來者 ヨルサリクレバと訓み、夜になつて來ればといふ意味で、ヨルサレバといはずヨルサリクレバと云つたのは、聲調の上のみならず、時間的經過を含ませてゐるものと見える。代匠記精に、『ヨルサリハ、ヨサリト云ニ同ジ。伊勢物語ニ、ヨサリ、此有ツル人給ヘト、アルジニ云ケレバ云々』と云つてゐる。○卷向之 マキムクノと訓む。諸古寫本の訓及び奮訓マキモクノであつたことは既に云つた。略解・古義等皆マキムクノで、これは眞淵の考が源であつたやうである。卷向《まきむく》の川《かは》といふのは、卷向山と三輪山から發して流れる川(現在の卷向川)のことであるべく、前の、『卷向《まきむく》の痛足《あなし》の川ゆ往く水の絶ゆることなくまたかへり見む』(一一〇〇)でわかる。○川音高之母 カハトタカシモと訓む。カハオトタカシモ(舊訓)。カハオトタカシ(古葉略類聚抄)等の訓があつたのを、童蒙抄から、カハトタカシモと訓み、考・略解・古義・新考等も同じ訓である。卷四(五七一)に、月夜吉河音清之《ツクヨヨシカハトサヤケシ》。卷十(二〇四七)に、天漢川聲清之《アマノガハカハトサヤケシ》の例がある。○荒足鴨疾 アラシカモトキと訓む。嵐が疾《はや》いかと推量したので、『川音の高きは嵐のはげしきかと也』(考)。『山の嵐のはやければにや、卷向川の川音(80)の高く聞ゆるならむ、さても高きよ。となり』(古義)等でその趣が分かる。
 〔大意〕 一首の意は大體右でわかるごとく、夜《よる》になつて來たところが、卷向《まきむく》の痛足河《あなしがは》の音が高く聞こえる。多分山風が強く吹いてゐるかも知れん。といふのである。
 〔鑑賞〕 それだからこの一首は、作者は痛足河の河浪を眼前に見て居るのではあるまい。その河音の聞こえるあたりの家にゐて作つてゐるやうである。それだから『嵐かも疾き』といつても、現に嵐の音を近くに聞いてゐるのではないらしいのである。一首では川の音の高まつたのを耳で聞いたのが主になつてゐる。
 現に川音の高くなつたのを注意して、それに力點を置いて歌つてゐるのも面白く、それに夜になつたことを云ひ、それも、『夜されば』と云はずに、『夜さりくれば』と云つてゐるのなども、單に聲調を延ばす意味ばかりでなく、時間的經過を暗指してゐるやうに思へる。それから、川の音が變化しつつ高まつて聞こえるのを、『嵐かも疾き』と疑つて一首を結んでゐる歌であるが、かういふ天然現象に鋭敏に參加し力を籠めて歌つたから、一首の聲調が非常に緊張して居る。これも作歌實行の點からいへば容易ならぬことで、特に、結句の、『嵐かも』といつて、『疾《と》き』と二音の語で止めたあたりの力量は實に驚くべきである。また、初句に、『ぬばたまの』といふ枕詞を置き、第三句に『卷向の』といふ固有名詞を置いてゐるのも、中味が單純になり、却つてそのた(81)め聲調のうへでは莊重高渾といふ具合になつてゐるのである。初句の『の』、第三句の『の』は弛むと先師が教へられたが、この一首の弛まぬは、『卷向の川音』と連續するためであらうか。何せよ、一首は夜の暗黒と山河の河浪の音と山風の襲來と相交錯し、流動的、立體的で、不思議に厚みのある歌である。
 この歌の季は、何時頃かと想像したことがあつたので、嵐の用例を拾へば次の如くである。
  み吉野《よしぬ》の山の下風《あらし》の寒けくにはたや今夜《こよひ》も我がひとり寢む (卷一。七四)
  大海に荒《あらし》な吹きそしなが鳥|猪名《ゐな》の湊に舟泊つるまで (卷七。一一八九)
  霞立つ春日《かすが》の里の梅のはな山の下風《あらし》に散りこすなゆめ (卷八。一四三七)
  梅の花散らす冬風《あらし》の音のみに聞きし吾妹《わぎも》を見らくしよしも (卷八。一六六〇)
  君が見むその日までには山下《やまおろし》の風な吹きそとうち越えて (卷九。一七五一)
  あしひきの山の下風《あらし》は吹かねども君なき夕《よひ》は豫《かね》て寒しも (卷十。二三五〇)
  佐保の内ゆ下風《あらしのかぜ》の吹きぬれば還りは知らに歎く夜ぞ多き (卷十一。二六七七)
  窓越しに月おし照りてあしひきの下風《あらし》吹く夜は君をしぞ念ふ (卷十一。二六七九)
  さ夜ふけて荒風《あらし》の吹けば立ちとまり待つわが袖にふる雪は凍りわたりぬ(卷十三。三二八〇)
  さ夜|深《ふ》くと阿下《あらし》の吹けば立ち待つにわが衣手に置く霜も水《ひ》に冴え渡り (卷十三。三二八一)
(82)  衣手に山下《あらし》の吹きて寒き夜を君來たらずは獨かも寢む (卷十三。三二八二)
 右のごとく、嵐の李は必ずしも冬季と限つてはゐないが、後世の用法のごとくにやさしい風でないことが分かる。そこでこの歌の場合も、何となし、『寒く荒い風』のやうな氣がして、さう解して來た。まへに評釋した『雲居たてるらし』、『雲たちわたる』は、鬱勃とした、清澄でない趣だが、この方はどうも寒く鋭い氣特がしてならない。
 
          ○
 
  〔卷七・一一一八〕
  いにしへにありけむ人《ひと》も吾《わ》が加《ごと》か三輪《みわ》の檜原《ひはら》に插頭《かざし》折りけむ
  古爾 有險人母 如吾等架 彌和乃檜原爾 插頭※[手偏+力]〔折〕兼
 
 『詠葉』二首の第一首である。二首の後に『右二首柿本朝臣人麿之歌集出』とある。『※[手偏+力]』は、諸本(【元・類・神・細・温・矢・京・無・附】)に、『折』に作つて居る。『檜原爾』は、舊訓ヒノクニ。古寫本等みなヒハラニ。代匠記も校本ヒハラニを記載し、童蒙抄ヒハラニ(古義同訓)。考ヒバラニ(略解同訓)。
 一首の意は、昔の人々も現在の吾のする如くにか、この三輪の檜原に來てその葉を折つて插頭《かざし》(83)にしたであらうといふのである。插頭《かざし》は、『春べは花折り插頭《かざ》し秋たてば黄葉《もみぢば》插頭《かざ》し』(卷二。一九六)などの如くに、男でも女でも插頭にしたと見える。この歌は、葉を咏んだ歌だから、小さい檜の枝の葉のつもりであらう。つまりさうして插頭にするといふことは、一種親愛の情で、相聞戀愛の心にかよふのであるから、親しんだ女などを心中に持つてかういふことを云つてゐるのだかも知れない。併し先づ表面の字どほりに解してそれから、奥にこもつてゐる情調を味ふべきである。
   近江《あふみ》の海湊は八十《やそ》ありいづくにか君が船|泊《は》て草結びけむ (卷七。一一六九)
   暮《よひ》に逢ひて朝《あした》面《おも》無み名張《なばり》にか日《け》ながき妹が廬《いほり》せりけむ (卷一。六〇)
   眞木《まき》の葉の撓《しな》ふ勢の山|忍《しぬ》ばずて吾が越えゆけば木《こ》の葉《は》知りけむ (卷三。二九一)
   春霞春日の里の殖子水葱《うゑこなぎ》苗なりといひし枝《え》はさしにけむ (卷三。四〇七)
 是等の歌は皆、結句に『けむ』のあるものであつて參考となる。それから、この一首には、『けむ』が二つ咏み込んである。これなども、留意して氣にすれば、氣になり邪魔になるのだが、さういふことを餘り氣にせずに味へば、そんなに氣にならないものである。併し、若しこの二つの『けむ』をば特に技巧が旨いなどといつて褒める批評家が居たら、その人は器械的な批評家であるだらう。
(84) 次に、この歌は既に評釋した、『古《いにしへ》にありけむ人も吾が知《ごと》か妹に戀ひつつ宿《い》ねがてずけむ』(卷四。四九七)といふ人麿の歌と、その形も大に似てゐるから、元は一つで少し違つて傳はつてゐるのかも知れない。そして、卷四の方は、意味も明快で、合理的に出來てゐるが、この方はもつと素樸で民謠的に出來てゐる。どちらが原作だか不明で、或は卷四の方が原歌で、この方が稍民謠化したものかも知れないが、歌として味ふときには、この歌の方が寧ろ感が深いやうである。
 此歌、六帖及び拾遺集雜上に、人麿作『古《いにし》へにありけむ人もわが如《ごと》や』とあり、柿本集にも載り、和歌童蒙抄に、『イニシヘノアリケムヒトモワカコトヤミワノヒハラニカサシヲリケム』とある。
 
          ○
 
  〔卷七・一一一九〕
  往《ゆ》く川《かは》の過《す》ぎゆく人《ひと》の手折《たを》らねばうらぶれ立《た》てり三輪《みわ》の檜原《ひはら》は
  徃川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之檜原者
 
 同じ題の歌である。○過去人之 舊訓スギユクヒトノ。古寫本中スキコシヒトノ(元)。スキニ(85)シヒトノ(類・古・神)。代匠記精スギニシヒトノ(【考・略解・古義・全釋同訓】)。童蒙抄スギユクヒトノ(新考・新訓同訓)。『往川ノトハ下ニミワノヒハラト云ニヨルニ、ミワ川ヲカクイヒテ、孔子ノ逝川ノ歎ヲ兼テ、過去人トイハム爲ナリ。今按スギニシ人トモ讀ベシ。第九ニ此モ人丸集ノ歌ニ、往水ノ過去妹ガトヨメルニ同ジ。過去人トハ上ノ歌ニ、古ニ有ケム人ト云ヘル人ナリ』(代匠記精)。『案ずるになほスギユクとよむべし。此處をすぎ行く人なり』(新考)。
 初句の『往く川の』は枕詞の格に使つてゐる。其處を過ぎゆく人が誰も檜原の葉を手折つて插頭にしないから、悲しげな樣子で檜原が見えるといふのである。これも自然を一つの戀愛情調にして見てゐるのである。第二句、代匠記で、『今按スギニシ人トモ讀ベシ』と云つたので諸抄それに從つてゐるのは、つまり、『古人』の意味にとつてゐる。『是ハ、昔ノ人ノ又モ來テタヲラヌヲ戀ルサマニ云ヘリ。此歌ヲ以テ上ノ歌ヲ見ルニ、古有ケム人モ今我カザシ折如クコソ折ケムヲ、又モタヲラヌヲ、檜原ノウラブレテ戀レバ、イツカ又我モタヲラズナリテ、檜原ニ戀ラレムトナリ。初ノ歌ハ、本意ヲ略シテ云ヒテ、後ノ歌ハ委シク云ヘリ。古歌ハカカル事オホシ』(代匠記精)といふので大體わかる。童豪抄では人が死に行いての意に解して居り、考では問答體とし、古義もその氣持でこの二首を解して居る。併し、この第二首目は寧ろ眼前の景として解釋する方がいいのではなからうか。『過ぎにし人の手折らねば』といふのに少し無理、感情上の無理があるので(86)はなからうかと思ふのである。新考も新訓も舊訓に從ひ、新考では、『此處をすぎ行く人なり』と云つたこと、前記のとほりであるが、武田博士の新解では、『前の歌に對して、みづから答へたやうな内容の歌である。この三輪の檜原は、昔人もやはり自分のやうに手折つてもてはやしたであらうかといひ、いやいや昔人は手折らないで、相手にされずに立つてゐると、これを説明して、三輪の檜原を憐んだやうな氣分がある』と論じてゐるが、どういふものであらうか。また、新考では、『當時はやく人心あだめきて花もなき常葉木ををりかざす事などはせざりしなり。作者は古風なる人にて三輪の檜原にかざしを折るとて古人を偲び又檜原の今は人に折られぬを憐めるなり』と云つてゐる。それからこの二首を問答歌の如く、連作のごとくに古來取扱つてゐるが、縱ひ同じ時に咏んだ歌だと假定しても、意味の上の連作ではないのである。前の歌で質問して後の歌で答へてゐるのでは無い。その關係をはつきりして置けば解釋はむづかしくない。
 前の歌には所謂抒情詩要素が多分にあり、從つて傳誦され、一般化され、民謠化される傾向をもつてゐるものである。此の歌もまた同樣である。
 ウラブルは心觸《ウラフル》で、憂鬱、怏々、悄然、などの意があり、心屈して萎え、しをしをとしてゐることである。『人皆のうらぶれ居るに』(卷五。八七七)。『秋山の黄葉《もみぢ》あはれとうらぶれて』(卷七。一四〇九)。『君に戀ひ萎えうらぶれ吾が居れば』(卷十。二二九八)等用例が多い。此處は、檜の森(87)林が悄然としてゐる趣の歌で、且つ意圖した譬喩も目立たずに渾然としてゐるところに注意を拂つていい。
 この歌は、和歌童蒙抄に、『ユクカタノスキニシヒトノタヲラネハウラフレタテリミワノヒハラハ』として載つて居る。
 
          ○
 
  〔卷七・二八七〕
  網引《あびき》する海子《あま》とや見《み》らむ飽浦《あくうら》の清《きよ》き荒磯《ありそ》を見《み》に來《こ》し吾《われ》を
  網引爲 梅子哉見 飽酒 精荒磯 見來吾
 
 覊旅作の中にあつて、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注がある。○海子哉見 アマトヤミエム(元・京)。アマトヤミツル(古・神)などと訓んだ古鈔本もある。また考でアマトカモミムと訓んだ。○荒議 舊訓アライソ。考でアリソと訓んだ。○飽浦 舊訓アキノウラ。童蒙抄アコノウラ。考アカノウラ。略解アクラ。古鈔本中古葉略類聚抄にアクウラとあり、新考・新訓・全釋等さう訓んでゐる。或はアクノウラと訓んでもいいかも知れない。
(88) 飽浦《あくうら》は卷十一(二七九五)に、『紀《き》の國の鞄等《あくら》の濱の忘貝《わすれがひ》我は忘れず年は經《ふ》れども』とある飽等《あくら》と同じ處だらうと云はれてゐる。さすれば和歌山縣|海草《かいさう》郡|加太《かだ》町の南方|田倉《たくら》埼といふ邊だらうと云ふ。略解に、『今、加太庄加太村の西にありとぞ』。玉勝間【卷九。紀の國の名所ども】に、『飽等濱は海士《アマノ》郡|賀田《カタノ》浦の南の方に田倉崎といふ所ある是なりと里人のいひ傳へたりとぞ』とある。然るに、備前兒島郡に飽浦《あくら》があり、『今|甲浦《かふうら》村の大字にして宮浦《みやうら》の西とす』(地名辭書)とあるが、鴻巣氏の全釋には、『或は其處かも知れない』。『左註のやうに人麿歌集に出てゐるから、卷三の藤江の浦の歌と同人の作とすれば、飽浦を備前と考へる方がよいかも知れない』と云つてゐる。
 一首の意は、この飽浦《あくら》の清い荒磯《ありそ》の景色に憧憬して見に來た私をば、漁業をする海人《あま》が網《あみ》引《ひ》いてゐるのだと見るであらうといふのである。
 この歌は、既に評釋した、『荒栲《あらたへ》の藤江の浦に鱸《すずき》釣る白水郎《あま》とか見らむ旅ゆく吾を』(卷三。二五二)といふ歌に似て居るので、この卷三の方が原歌で、卷七の方は流傳の際に變化し、一般化し、民謠化したものとも想像することも出來るし、或は卷七のと卷三のとは共に人麿の作で、時と處とを違へて作つた同一傾向、同一手法の歌だかも知れないが、卷三の方は實質的で優れて居り、卷七の方は稍輕く稀薄になつて居るので比較上有益だとおもふ。『潮早み磯囘《いそみ》に居ればあさりする海人《あま》とや見らむ旅行く我を』(卷七。一二三四)。『濱清み磯に吾(89)が居れば見む者《ひと》は白水郎《あま》とか見らむ釣もせなくに』(卷七。一二〇四)。『藤浪を假廬《かりほ》に造り灣廻《うらみ》する人とは知らに海人《あま》とか見らむ』(卷十九。四二〇二)などは同じやうな表現の傾向を有つた歌で、或は人麿の卷三の歌が原動力となつたとも想像せられるし、海人《あま》の職業なり部族なりが、特にかういふ表現を取らしめた原因となつたものとも想像せられる。いづれにしても一つの傾向と看做して味ふことの出來る歌である。
 
          ○
 
  〔卷七・一二四七〕
  大穴牟遲《おほなむち》少御神《すくなみかみ》の作《つく》らしし妹背《いもせ》の山《やま》を見《み》らくしよしも
  大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉
 
 覊旅作中にあり、以下四首の終に、『右四首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ注がある。
 ○作 流布本ツクリタル。古寫本中ツクリケル。ツクリケム等の訓もあつた。考で、ツクラシシと訓んで、『今本つくりたると訓しはひが事なり。さしもの御神なれば崇てこそよまめ』(考)と云つてゐる。併し此處はツクリタルでも調べをなしてゐるとおもふ。○見吉 流布本ミレバシ(90)ヨシモ。古寫本中ミレバウレシキ(神・古)。ミルハシヨシモ(西・細)の訓があり、代匠記精でミラクシヨシモと訓んだ。『落句ハ拾遺ニハ、ミルゾウレシキ、人丸集ニハ、ミルガウレシサ、袖中抄ニハ、ミレバシルシモ。此等ノヨミヤウ字ニ叶ハネバ改タル歟。六帖ニハ、ミルハシモヨシ。幽齋本ニハ、ミルハシヨシモナリ。或本ニハ毛ヲ加ヘタリ。今按第六坂上郎女詠2元興寺里(ヲ)1歌、并ニ第八尾張連歌ノ落句ニ准ジテ、ミラクシヨシモト讀ベシ』(代匠記精)。次に、『山』をば、從來ヤマヲと訓んでゐたのを古義でヤマハと訓み新訓等もそれに從つたが、新考では舊訓に復せしめて、『卷六にナラノ明日香|乎〔右△〕ミラクシヨシモ、また卷八にオトノミニキキシ吾妹|乎〔右△〕ミラクシヨシモとあれば、契沖千蔭の如く山ヲとよむべし』と云つた。用例の方から行けばヤマヲであらうか。『大穴道《オホナムチ》少御神《スクナミカミ》』は大己貴命《おほなむちのみこと》(大國主命《おほくにぬしのみこと》)と少彦名命《すくなひこなのみこと》の二神をいふ。日本紀神代卷に『大己貴命與2少彦名命1戮v力一v心經2營天下1』云々とあり、古事記上卷に、『大穴牟遲與2少名毘古那1二柱神、相並《アヒナラバシテ》、作(リ)2堅《カタメタマヒキ》此國1』云々とあり、出雲風土記に、『飯石郡多禰郷、所2造天下1大神、大穴持命、與2須久奈比古命1巡2行天下1時、稻種墮2此處1故云v種《タネ》』云々とあるによつて、ツクラシシの語意も明かである。卷三(三五五)に、『大汝《おほなむち》少彦名《すくなひこな》の座《いま》しけむ志都《しづ》の石屋《いはや》は幾代《いくよ》經ぬらむ』。卷六(九六三)に、『大汝《おほなむち》少彦名《すくなひこな》の神こそは名づけ始《そ》めけめ名のみを名兒《なご》山と負ひて吾が戀の千重の一重も慰めなくに』といふのがある。
(91) 『妹勢能山』は妹山《いもやま》・背山《せやま》で、從來諸説があるが大體、背山は紀伊國伊都郡笠田村字背山にあり、妹山はそれと相對して紀の川の北岸にあると云はれてゐる。大和にもあるといはれ、また玉勝間のやうに普通名詞の如くに取扱ふ説もあつて、それがまた不合理ではないのであるが、この歌の場合は大和との交通もあつて人麿なども旅してゐる紀伊の實在の山と見立てて鑑賞してかまはないと思ふ。『後れ居て戀ひつつあらずは紀の國の妹背の山にあらましものを』(卷四。五四四)。『紀道《きぢ》にこそ妹山《いもやま》ありと云へ櫛上《くしげ》の二上山も妹《いも》こそありけれ』(卷七。一〇九八)。『背の山に直《ただ》に向へる妹《いも》の山|言《こと》許せやも打橋わたす』(卷七。一一九三)。『人ならば母の最愛子《まなご》ぞあさもよし紀の川のべの妹と背の山』(卷七。一二〇九)。『吾妹子に吾が戀ひゆけば羨《とも》しくも並び居るかも妹と背の山』(卷七。一二一〇)。『麻衣《あさごろも》著《け》ればなつかし紀の國の妹背《いもせ》の山に麻蒔く吾妹』(卷七。一一九五)。『紀の國の濱に寄るとふ鰒珠《あはびたま》拾はむといひて妹の山背の山越えて行きし君』(卷十三。三三一八)などの例が參考になる。
 一首の意は、大己貴《おほなむち》神と少彦名《すくなひこな》神とが協力して天下を經營なされたときにお作りになつた、この妹背《いもせ》の二つの山は、幾ら見ても飽くことを知らぬよい山である。
 この歌は紀伊に旅して妹山と背山とを前にして作つた趣のもので、それに神代の事柄を以てこの山の形容としてゐる。この神代説話に對する信仰は現代の吾等の心持と大に違ふから、かうい(92)ふ無理のない自然の調子が出て來るのだとおもへる。何等の奇のない樂々と咏んだ歌で、この材料ならば人麿が咏んでも誰が咏んでも先づこのくらゐなものだといふ氣がしてゐる。つまりたいした歌ではないのである。
 次に、『妹背の山を』とするか、『妹背の山は』とするかといふ問題であるが、『山は』とすると、そこに感動を籠めて瞬間の休止がある。その用法と類似のものは、多少づつの變化を以て、『わが欲りし野島は〔右○〕見せつ』(卷二。一二)。『瀧の都は〔右○〕見れど飽かぬかも』(同卷。三六)。『いる圓方《まとかた》は〔右○〕見るに清けし』(同卷。六一)。『我妹子に猪名野は〔右○〕見せつ』「卷三。二七九)。『不盡の高峯は〔右○〕見れど飽かぬかも』(同卷。三一九)。『味原《あぢふ》の宮は〔右○〕見れど飽かぬかも』(卷六。一〇六二)。『奈良の都は〔右○〕忘れかねつも』(卷十五。三六一八)。『久方の天照る月は〔右○〕見つれども』(同卷。三六五〇)。『妹が心は〔右○〕忘れせぬかも』(卷二十。四三五四)。『おもかげに見えつつ妹は〔右○〕忘れかねつも』(卷八。一六三〇)。『嬬待《つままつ》の木は〔右○〕古人《ふるひと》見けむ』(卷九。一七九五)。大體さういふやうな用例で、『は』と用ゐて、『を』と云つてゐない。
 次に、『見らくしよしも』 の例は殆ど皆、『を』から續けて居り、また、『山の端のささらえ壯子《をとこ》天の原|門《と》渡る光見らくしよしも』(卷六。九八三)。『春山のさきのををりに春菜つむ妹が白紐《しらひも》見らくしよしも』(卷八。一四二一)の如くに助詞を略したのでは、『を』を補充すればよいのが多い。(93)また、『清き川原を見らくし惜しも』(卷六。九一三)の如き例もあるのだから、ミラクシヨシモとの連續は、『を』の方が自然であるのかも知れない。併し、この歌の場合は、『妹背の山は見らくしよしも』として味へないことはない。現に古義ではさう訓んで居るのである。
 この歌、拾遺集、古今六帖、柿本集、和歌童蒙抄抄、袖中抄等に載つて居る。訓の違ふところは、ツクレリシ、ミルゾウレシキ(拾遺集)。スクナヒコナノツクリタル、ミルハシモヨシ(六帖)。ツクレリシ、ミルガウレシサ(柿本集)。ツクリタル、ミレバシルシモ(袖中抄)等で、和歌童蒙抄には、『オホナムチヽヒサミカミノツクリタルイモセノヤマヲミルカナツクモ』となつて居る。
 
          ○
 
  〔卷七・二一四八〕
  吾妹子《わぎもこ》と見《み》つつ偲《しぬ》はむ沖《おき》つ藻《も》の花《はな》咲《さ》きたらば我《われ》に告《つ》げこそ
  吾妹子 見偲 奧藻 花開在 我告與
 
 自分の愛する女と思つてそれを偲ぶ縁として沖つ藻の花を見たいから若し花が咲いたら云つて呉れよといふ意の歌で、これは略解の説である。この方が古歌らしくていい。それから、愛する(94)女と一しよに玩賞するから若し沖つ藻の花が咲いたら云つてくれよといふやうにも解してゐる。これは古義などの説である。この解は普通で誰にでも分かる解釋だが、この場合は、『其花をだに妹と思ひて偲ばんの意なり。【中略】故郷に妹を殘し置きて詠めるなるべし。告コソは、海人などに言ひ懸けたるさまなり』(略解)に從ふ方がいいと思ふ。新考も略解に從つたが、今次に少しく理由を記さう。
『 直《ただ》の逢《あひ》は逢ひかつましじ石川に雲立ちわたれ見つつ偲ばむ』(卷二。二二五)。『面形《おもがた》の忘れむ時《しだ》は大野《おほぬ》ろにたなびく雲を見つつ偲ばむ』(卷十四。三五二〇)のやうな場合に、雲を見つつ偲ぶのであるが、雲を見つつ何を偲ぶかといふに、相愛の男なり女なりを偲ぶのである。そこでこの歌の如き場合に、沖つ藻の花を見つつ偲ぶのなら何を偲ぶかといふことになると、相愛の者即ちここでは吾妹子《わぎもこ》を偲ぶといふことになる。それには略解のやうに解せねば意味がとれない。『雲だにも著《しる》くしたたば意《こころ》遣《や》り見つつしをらむ直《ただ》に逢ふまでに』(卷十一。二四五二)は稍趣が違ふが、これも何を當にして居るかといふに妹を當にしてゐるので、その點は同樣である。『ひさかたの天《あま》光《て》る月の隱りなば何になぞへて妹を偲ばむ』(卷十一。二四六三)は、明らかに『妹を』と云つて居る。ほかの歌ではその『妹を』或は『背を』といふのを略して居るのである。この意味に於て古義の、『妹と共に見つつ愛《シヌバ》むの意なり』といふ解釋に不滿の點があるのである。それなら、『と』の用法(95)に『として』、『と見立てて』といふやうに使つた用例があるかといふに次の如きがある。
   志賀の山いたくな伐りそ荒雄《あらを》らが所縁《よすが》の山と見つつ〔五字右○〕偲ばむ (卷十六。三八六二)
   足柄の八重山越えていましなば誰をか君と見つつ〔五字右○〕偲ばむ (卷二十。四四四〇)
 この場合には、『山として』。『山と思つて』。『君として』。『君と思つて』の義で、『と共に』の義では無い。そんならば、『と』に『と共に』といふ用例が無いかといふに、これは又あるのである。
   吾背子と二人見ませぼ幾許かこの零る雪のうれしからまし (卷八。一六五八)
   吾妹子《わぎめこ》と二人我が見しうち寄《え》する駿河の嶺らは戀《くふ》しくめあるか (卷二十。四三四五)
   吾背子と二人し居れば山高み里には月は照らずともよし (卷六。一〇三九〕
   人もなき國もあらぬか吾妹子と携《たづさ》ひゆきて副《たぐ》ひて居らむ (卷四。七二八)
 その他、『吾妹子と二人わがねし』とか、『吾妹子とさねし妻屋に』などの例があり、皆『と共に』の意味である。併し、『偲ばむ』の場合には應用出來ない。もつとも、古義の如く、『偲ばむ』をば、『愛《しぬ》ばむ』と書直せば解釋のつかないことがないが、さういふ面倒をする必要を見ないのである。
 この歌は、舊訓は、『我妹子《わぎもこ》が見つつ偲《しぬ》ばむ奧《おき》つ藻の花咲きたらば我に告げ來《こ》よ』といふので、(96)大體それで解釋してゐた。初句ワギモコトと訓んだのは童蒙抄で、同書には三通《みとほり》の訓をあげ、その一つに、『我妹子と見つつしのばむ【中略】われにのらまく』といふのがあつた。それから結句は眞淵が與は乞の誤だとして、『告げこそ』と訓んだが、これは與のままでさう訓めるのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二四九〕
  君《きみ》がため浮沼《うきぬ》の池《いけ》の菱《ひし》採《つ》むと我《わ》が染《し》めし袖《そで》ぬれにたるかも
  君爲 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉
 
 舊訓、『君《きみ》がため浮沼《うきぬ》の池《いけ》の菱《ひし》採《と》るとわが染《そ》めし袖ぬれにけるかな』であつたのを、アガシメコロモ(古義)。ワガシメシソデ(新訓)。ヒシツムト(代匠記初)。ヌレニタルカモ(考)等の經過を經て居る。古寫本中イケニ(古)。ワカソメソデノ(元・類・古・細)。ワカソメルソテ(温)等の訓がある。古義の訓は、『袖』は、『衣』の誤寫だとしたものであつた。
 一首の意は、君のために浮沼《うきぬ》の池《いけ》に入つて菱の實を採《つ》んだところが、わが染《そ》めた衣《ころも》の袖《そで》が濡れたといふ意味の歌である。染衣《しめごろも》は古事記上に、『染《そ》め木《き》が汁に斯米許呂母《しめごろも》をまつぶさに取りよそ(97)ひ』とあるので、『染《し》む』の用例は明らかである。浮沼の池は古義に、『未(ダ)考得ず、八雲御抄に、石見と載させたまへるは、いかがあらむ』と云つたが、石見國名跡考に佐比賣《さひめ》山の中の池としてゐる。即ち現在の三瓶《さんべ》山麓の池で、大日本地名辭書にもさう記載してゐるが、萬葉の浮沼池が此處だかどうか不明としてある。併し、石見國名跡考の著者はこの前の歌の中の妹背山をも紀伊ではなくて、石見だとし、やはり佐比賣山の一部と考へてゐる。
 この歌は、東歌などに流れてゐる情調に似、素朴單純で、民謠的のいい味ひを持つてゐるものである。假に浮沼池を石見だとし、人麿と關係があるとしても、人麿と佐比賣山との關係は不明であるから、或は人麿作とせずに古歌をば人麿歌集に書きとめたものと想像することも亦可能である。いづれにしても、菱の實云々がおもしろいのである。『君がため山田の澤に惠具《ゑぐ》採《つ》むと雪消《ゆきげ》の水に裳の裾ぬれぬ』(卷十。一八三九)。『あしひきの山澤囘具《やまさはゑぐ》を採みにゆかむ日だにも逢はせ母は責むとも』(卷十一。二七六〇)。『豐國の企玖《きく》の池なる菱《ひし》の末《うれ》を採《つ》むとや妹が御袖《みそで》ぬれけむ』(卷十六。三八七六)等の例がある。
 この歌、六帖に、『君がため浮沼《うきぬ》の池に菱とるとわがそめし袖のぬれにけるかも』とある。
 
          ○
 
(98)  〔卷七・一二五〇〕
  妹《いも》がため菅《すが》の實《み》採《みと》りに行《ゆ》きし吾《われ》山路《やまぢ》にまどひこの日《ひ》暮《く》らしつ
  妹爲 菅實採 行吾 山路惑 此日暮
 
 舊訓、『妹がため菅の實|採《と》りて行く吾を山路まどひてこの日暮らしつ』であつた。スガノミトルト、スガノミトリニ(代匠記精)。スガノミトリニユクワレハ(意蒙抄)。スガノミヲトリユクワレヲ(考)。ユキシアレヤマヂニマドヒ(古義)。スガノミトリニ又スガノミツミニ(新考)等の訓がある。
 スガノミは、菅《すが》は、説文に菅、茅也とあり、古事記(卷中)に、須賀多多美《スガタタミ》。萬葉(卷十四。三三六九)に、須賀麻久良《スガマクラ》等とあり、和名鈔に、菅、和名|須計《スゲ》。新撰字鏡に、※[草がんむり/多]、須介《スゲ》とある。菅には種類があつて、白茅、菅茅、黄茅、香茅等、禾本科と莎草科の中に出入した類似のものの總稱であらう。そして、『菅の實』をば、『菅茅の實』と解せば、穗に結ぶ細實であるから、食用と解することも困難であり、鑑賞用と解しても亦無理である。然るに、一方には、『菅の實』は、『山菅《ヤマスゲ》の實』だとする解釋は代匠記あたりからずつとある。ヤマスゲは、和名鈔に、本草云、麥門冬《バクモントウ》。和名|夜末須介《ヤマスゲ》とあるもので、ジヤノヒゲ、ジヨウガヒゲ、リユウノヒゲ、Ophiopogon japonicus(99)と稱へる百合科の常緑草である。これを小葉麥門冬とも稱へる。なほ、大葉麥門冬《タイエフバクモントウ》、オホバジヤノヒゲ、Ophiopogon planicapus があり、紫藍色の實が生る。なほ、ヤブラン、Liriope gramininiforia があり、【これを狹義の麥門冬とも稱し或はこれを大葉麥門冬と稱する本草書もある】なほ、ヒメヤブラン、Liriope minor があり、共に黒紫色の果實を結ぶから、古代に此等を總べて一名で稱へてゐたとせば、スガノミ。ヤマスゲノミは此等數種の實を含めたとも解し得るであらう。また、ジヤノヒゲ、ヤブラン等の根は、滋補、※[衣+去]痰、止嗽、瀉熱、明目等の藥用にするが、この歌の場合はその目的ではあるまい。そこで、實驗するに、麥門冬の實(特にヤブランの實)の黒紫の皮質も、彈力のある白質の部も噛めば甘い味がある。即ち甘味の調理に用ゐたものとも考へることが出來る。なほ黒紫の皮質の部はこれを白布に摺れば紫の色に染まり容易に褪めない。即ち衣を摺染乃至浸染にする料に用ゐたことが分かる。歌の『妹がため』といふのは、主としてこの爲めではなからうか。そしてこの場合の『菅の實』は、『ヤブランの實』であらう。萬葉(卷四。五六四)に、『山菅の實ならぬことを吾に依せ言はれし君は誰とか宿《ぬ》らむ』があり、そのヤマスゲの實をも、ジヤノヒゲの實、ヤブランの實即ち麥門冬の實と普通解して居るやうである。
 そこで一首の意味は、吾妹子のために(【衣を摺染にするための】)山菅の實を採りに行つたところが道を迷つて一日すごしたといふのである。
(100) これも一種の相聞情調で、古代の人々は、かういふことを云ひながら勞働などにつれて歌つたやうにもおもはれる。それほど素朴でもあり、民謠的でもある。而して何等の思はせぶりがなくて、何ともいへぬいい氣特である。ここの三首などは人麿の歌かも知れないが、或はさうでなくて人麿以前の作かも知れない。つまりその頃既に古歌といふ部類であつたかも知れない。『妹がため玉を拾ふと紀の國の由良の岬《みさき》にこの日暮らしつ』(卷七。一二二〇)。『春の雨にありけるものを立ち隱り妹が家道《いへぢ》にこの日暮らしつ』(卷十。一八七七)。『明日香河行く瀬を早みはやけむと待つらむ妹を此の日暮らしつ』(卷十一。二七一三)等の例がある。
 この歌六帖に、『妹がためすがの實とるとゆくわれは山路まよひて此日くらしつ』とある。
 
          ○
 
  〔卷七・一二六八〕
  兒等《こら》が手《て》を卷向山《まきむくやま》は常《つね》なれど過《す》ぎにし人《ひと》に行《ゆ》き纏《ま》かめやも
  兒等手乎 卷向山者 常在常 過往人爾 往卷目八方
 
 以下二首『就所發思』の題で、『右二首柿本朝臣人麿歌集出』と左注がある。○兒等手乎 コラ(101)ガテヲと訓む。女の手を枕にするので、同音のマクに續けた。○常在常 ツネナレドと訓む。古寫本中ツネニアレド(元)。ツネアレド(類)の訓もある。○過往人爾 スギニシヒトニと訓む。舊訓スギユクヒトニであつたのを、童蒙抄でスギニシヒトニと訓んだ。○往卷目八方 ユキマカメヤモと訓み、往き逢うて共に寢ることがあらうか、ない。と反語になるのである。
 一首の意は、愛人の手をまくといふのに似た名の卷向山は、このやうに變《かはり》なくあるけれども、死んだ愛人に二たび往き逢うて、手を枕にして共に寢ることはもはや出來ない。
 この歌を人麿の作だとせば、ただの空想的な作でなく、實際に戀人の死んだ時の歌のやうに受取れる。そして一首の哀韻に人麿的なところがあつて棄てがたい。『發句ハ此卷上ニモ有シ如ク、卷向トツヅケム爲ナガラ、是ハ人丸集ノ歌ナレバ、妻ノ死去ノ後ヨマルル歟。サレバコラガ手ヲ卷向ト云山ハ動ナクテ常ナレド、ソレハ唯名ノミニテ、過テイニシ人ノモトニ我ユキテ又手枕スル事アラムヤハト、山ヲ見テ名ニ感ジテヨマレタルベシ』(代匠記精)とあるのは、やはり、妻の死んだ時の歌だらうと想像してゐるのであるが、さて、妻の死といふのは、輕の里にゐた妻のことであらうか否か、その邊のことになると皆想像を以て補充しなければならない。
 この歌の次に、『卷向の山邊響みて往く水の水沫のごとし世の人われは』(一二六九)があるので、その歌について、契沖は、『人麿の哥に、惣じて無常を觀じたる哥おほし。大權の聖者にて和光同(102)塵せるなるべし』(代匠記初)。『サキノ歌(一二六八)ハ他ノ上ヲ云ヒテ、此歌(一二六九)ハ自ノ上ヲ省ルナリ。人丸ハヨク無常ヲ觀ジタル人ナリ』(代匠記精)と云つてゐる。實際此處にある二首も、宇治川の網代木の白浪の歌も無常觀には相違ないが、それを以て直ぐに佛教の無常觀の影響だと決めてしまふのはどうかと私はおもふもので、そのことは既に、宇治川の歌のところで説明して置いた筈である。愚見では、沙彌滿誓の、『世間《よのなか》を何に譬へむ朝びらき榜《こ》ぎ去《い》にし船の跡なきごとし』(卷三。三五一)といふ歌と、人麿の宇治川の歌、乃至此處の人麿歌集の二首とはその内容も作歌動機も大に違ふものと爲してゐるのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二六九〕
  卷向《まきむく》の山邊《やまべ》とよみて行《ゆ》く水《みづ》の水泡《みなわ》のごとし世《よ》の人《ひと》吾《われ》は
  卷向之 山邊響而 往水之 三名沫如 世人吾等者
 
 〔語釋〕 ○卷向之 マキムクノで、卷向山である。○山邊響而 ヤマベトヨミテと訓む。卷向山の近くを流れる河、多分痛足河ででもあらうか、水の音が高く響きつつ行く趣である。舊訓ヤ(103)マベヒビキテと訓み、代匠記・考これに從ふ。元暦校本ヤマヘトヨミテと訓み、ヒヽキテとも注してゐる。類聚古集はヤマヘヒヽキテと訓み、右にヤマノヘヒヽキト記しある。神田本ヤマヘトヨミテ、童蒙抄・略解・古義等多くさう訓んでゐる。古義ではヤマヘと清んで發音せしめてゐるのはモミチ流だが、この清濁に餘りくどくど云ふのはこちたい。ヤマベと濁つて訓んでいい。トヨムは、登余牟、等豫牟、等餘毛之だからトヨムと清んで訓むのが普通だらうか。○往水之 ユクミヅノと訓む。痛足川(卷向川)の流れゆく水のといふ義である。○三名沫如 ミナワノゴトシで、水泡の如しの義である。消え易い無常を歎ずる心で斯う云つたのである。古來ミナアハノコトシ(古葉略類聚抄)。ミナ|ワ《(ハ)》ノコトク(細井本・神田本)等の訓もあつた。『水のあはのごとしなり』(代匠記初)と注されてゐる。○世人吾等者 ヨノヒトワレハと訓む。世に生きゐる吾は、現身の吾はといふ意味である。舊訓ヨノヒトワレハ。古寫本ヨヒトワレラハ(類・元・神)。ヨノヒトコトハ(吉、細・温)。童蒙抄ヨヒトワレトハ。『吾ハ世ノ人ナレバトニヤ。世ノ人ト我トハト云ヘルカ。初ノ義ナルべシ。サキノ歌(【一二六八】)ハ他ノ上ヲ云ヒテ、此歌ハ自ノ上ヲ省ルナリ』〔代匠記精)。『世の人も吾もといふにはあらで、吾はとことわりて、吾は世に在人ゆゑといふ也』(考)。
 〔大意〕 一首の意は、人間は無常で、恰も卷向の山に響きつつ流れゆく川の、水泡のやうに消え易く、吾とても亦その通りである。といふほどの意味の歌である。
(104) 〔鑑賞〕 作者は卷向山、痛足川を中心としていろいろ歌を作つて居り、その風景に親しみつつ、人世觀をも自然の中に溶かし込んでゐるのである。調子も延び、眞面目に詠んでゐて相當の強さを保持しつつ進んでゐる聲調にはやはり、人麿を思はしめるところがある。
 人麿の作には近江から上來時の、『いさよふ浪のゆくへ知らずも』といふのがあり、人によつては佛教思想を聯想して居るのであるが、當時の佛教興隆のありさまを考へれば、佛教思想を聯想したとて何の不思議は無い。けれども縱しんば佛教觀念が沁みてゐるにしても人麿は印度支那あたりの地名などを詠みこまずに、『宇治川の網代木にいさよふ波の』といつてゐるのである。それに留目せねばならない。この歌にしても亦同じである。『卷向の山べ響みてゆく水の水泡』と云つてゐるのであつて、決して佛典語の露骨なる翻譯などでは無いのである。よつて、この歌を人麿作と想像して、二つとも直ぐ佛教思想云々と云つてしまはれないところを有つてゐるのである。佛教の無常思想などを超えたもつと人間本來の無常思想を有つてゐることを看破せねばならぬのである。沙彌滿誓の、『世間《よのなか》を何に譬へむ朝びらき漕ぎ去にし舟のあとなきごとし』(卷三。三五一)も類似の思想の歌だが、滿誓の、『あとなきごとし』には既に概念化された、大づかみのところがある。つまり佛典翻譯傾向の表現であるが、この歌の、『水泡の如し』は、もつと自然現象に即して居り、もつと寫生的である。そこを看破せねばならぬ。
(105) 『本は序也。世の人なる吾なれば水の泡の如しと也』(略解)。『卷向の山邊にとどろきて流行(ク)穴師川の水の泡沫《ミナワ》の如く、有にかひなくはかなき世(ノ)間なれば、いかでか吾(ガ)身の行末を、たのみに思ふべき、といへるなり。無常の歌なり』(古義)と解して居り、なほ、『人麿の哥に、惣じて無常を觀じたる哥おほし。大權の聖者にて和光同塵せるなるべし』(代匠記初)。『人丸ハヨク無常ヲ觀ジタル人ナリ』(代匠記精)等の契沖の解を讀めば、契沖はこの歌を人麿作と感じてゐたことが分かる。また契沖は僧侶でその方の經典に親しんでゐるので、かういふ歌の奥の方を流れてゐるいまだ概念化されない新鮮な、萬有的無常觀とも謂つていい筈のものを感じ得たのである。また、童蒙抄には、『左注に人麿歌集出とあれど、此左注を證據に人麿の歌とも決し難き也』と云つて居る。
 この歌の直ぐ前には、『兒等が手を卷向山は常なれど過ぎにし人に行き纏《ま》かめやも』といふのがある。これも悲しい歌だから、人麿の亡くなつた妻の事を詠じたものだらうと想像する向もある。いづれ想像だが、全然の架空でない、可能性を保留しつつあり得るところが、人麿歌集に出づと左注があるためで、從つて興味も亦多いのである。
 この歌、拾遺集哀傷部に、『めのしに侍て後かなしびてよめる。人麿。まきもくの山べひびきて行く水のみなわの如く世をばわが見る』とある。柿本集にも同樣に載つて居る。
 
(106)          ○
 
  〔卷七・一二七一〕
  遠《とほ》くありて雲居《くもゐ》に見《み》ゆる妹《いも》が家《いへ》に早《はや》くいたらむ歩《あゆ》め黒駒《くろこま》
  遠有而 雲居爾所見 妹家爾 早將至 歩黒駒
 
 『行路』といふ題がある。童蒙抄では第一句をヘダタリテと訓み、考・略解・古義では第三句をイモガヘニと訓んだ。雲居は單に雲のことにも用ゐるが、雲のゐる天のあたりといふ意にもなり、此處はさういふ遠いところといふ風に使つてゐる。この歌には、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注がある。然るに、卷十四の、『間遠くの雲井に見ゆる妹《いも》が家《へ》にいつか至《いた》らむ歩めあが駒』(三四四一)には、この歌との異同を注してゐるから、當時既にこの歌の注意されてゐたことが分かる。感情の表現が順當で印象も明瞭であり、稍民謠的な抒情歌であるから、いつか廣がつて東歌の中に編まれたものとも思ふし、その反對とも考へられるが、歌詞は分かり易くて他の東歌とちがふところがある。なほ古義では一二九五の次にこの歌を移して居る。この歌は六帖第二馬部及び拾遺集戀部に人麿作として載り、拾遺集では第一句『よそにありて』になつてゐる。また柿本集にも入り第一句『よそにして』である。
 
(107)          ○
 
  〔卷七・一二七二〕
  釼《たち》の後《しり》鞘《さや》に納野《いりぬ》に葛《くず》引《ひ》く吾妹《わぎも》眞袖《まそで》もち著《き》せてむとかも夏草《なつくさ》苅《か》るも
  釼後 鞘納野邇 葛引吾妹 眞袖以 著點等鴨 夏草苅母
 
 〔題意〕 『旋頭歌』といふ題があり、『右二十三首柿本朝臣人麿之歌集出』と左注せられてゐるその第一首である。
 〔語釋〕 ○釼後・鞘納野邇 タチノシリ・サヤニイリヌニと訓む。『釼後』は、流布本タチシリ、古寫本中タチノシリ(【元・古・神・西・細・温・矢・京】)と訓んだのがあり、拾穗抄でそれを採つた。『鞘納野邇』は流布本サヤニイルノニ、古寫本中サヤイルノヘニ(元・古)。サヤイルヽノニ(神)と訓んだのもある。考でサヤニイリヌニと訓んだ。太刀《たち》の後《しり》、即ち刀の尖《さき》をば鞘に納《い》れるといふので、イリヌに續けた序詞である。納野《イリヌ》は、代匠記初に、『和名集云。丹後國|竹野《タカノ》郡|納野《イルノ》。この納野にや』とあり、考に、『納野は式に山城國|乙訓《おとくに》郡入野神社と有に同く委は冠辭考に見ゆ』とある。若し後者だとせば、山城國|乙訓《おとくに》郡|大原野《おほはらの》村大字|上羽《うへは》だといふことになる。○葛引吾妹 クズヒクワギモと訓(108)む。葛を刈つて居る戀人よ、わが妻よといふ意である。この葛の繊維で衣を織つたので、この卷に、『をみなへし生《お》ふる澤邊の眞田葛原《まくずはら》何時《いつ》かも絡《く》りて我が衣《きぬ》に著《き》む』(一三四六)といふので分かる。○眞袖以 マソデモチと訓む。兩の袖を持つての意で、『著せる』に續けるのであらう。即ち織つて出來た、或は出來る筈の衣の兩袖を以て、私に著せようとしての意であらう。從來、『眞手もて夏葛引くと言ふなり。左右の手を眞手と言ひ、眞手を眞袖《まそで》と言へり』(略解)の如く、この句を、結句の、『夏草苅母《ナツクサカルモ》』に續くものと解してゐたが、さう面倒にせずに、直ぐその次の句に續くものと解していいだらう。全體に、『兩手で葛蔓を引くのを、長い袖を著てゐるから、袖で引くやうに言つたのである』と解してゐるのは從來の解釋に同じく、新考に、『眞袖以は衣ニ縫ヒなどいふ意ならざるべからず。以は作などの誤にてマソデヌヒとよむにあらざるか』と云つたのは、從來の解釋に滿足せぬ點に就いて云つて居るのである。○著點等鴨 キセテムトカモと訓む。流布本キテムトテカモであつたのを、代匠記初稿本で右の如く訓んだ。『まそでもてきせてむとかも夏草かるも。きてんとてかもとよめるはわろし』(代匠記初)。私に著せようとしてかの意。『眞鳥《まとり》住む卯名手《うなて》の神社《もり》の菅の根を衣にかき著《つ》け著《き》せむ子もがも』(卷七。一三四四)などがある。○夏草苅母 ナツクサカルモと訓む。流布本の訓ナツクズカルモであるのを代匠記精撰本でナツクサカルモとした。これは古寫本中、ナツクサカルモ(元・古・神・細)と訓んだのがある。わが女が夏(109)草を刈つてゐる。即ちこの夏草は葛のことで、旋頭歌であるから、」前の語と幾らか變化せしめて繰返してゐるのである。略解で、『草は葛の字の誤なり。古訓クズとせり。宣長云、苅は引の誤なり』と云ひ、古義なども共に從つてゐるが、此處はさう無理せずともよく、『草』はカヤにもクズにも用ゐた字とすればいいので、また實際當時はさう細かく分化してゐないのである。美草をヲバナとも訓んだ例があるので、目立つ草をば草を以てあらはしたと看做していい。そこで前に葛の文字があるのだから、此處の草はつまり葛に該當する草をも含むのである。この點全釋も愚見と同一である。
 〔大意〕 あの納野《いりぬ》に葛《くず》づるを引き取つてゐる愛すべき妻よ。織つた衣の兩方の袖を持つて私に著せようとてか、ああして夏草の葛を刈つてゐるよ。
 〔鑑賞〕 『眞袖もち』は、『眞袖もち床うち拂ひ君待つと居りし間《あひだ》に月かたぶきぬ』(卷十一。二六六七)。『み袖もち床うち拂ひ』(卷十三。三二八〇)。『眞袖持ち涙を拭《のご》ひ咽びつつ言語《ことどひ》すれば』(卷二十。四三九八)などの例の如く、兩手を以ての意であるが、直ぐ次の句に續いてゐるのであるから、この歌の場合も、『眞袖もち著せむ』即ち、兩手をもつて衣を著せて呉れようとと續くやうに解するのである。さうすれば、『織る』といふことは省略されてゐるのだが、それは、『葛引く』或は、『草刈る』に含まつてゐるので、『直《ひた》さ麻《を》を裳には織《お》り著《き》て』(卷九。一八〇七)の例の如く織(110)服而《オリキテ》と一語としたのもあるから、それをなほ省略すれば、この歌のやうになるのである。特に作歌動機は、眼前の葛を刈つてゐる女を見て起つたのだから、衣を織るといふ動作は自然に省略せられるのである。
 この一首全體は民謠風の色調を持つてゐるから、輕く明朗にそのリズムが流れてゐる。個人獨詠といはむよりは、社會發生的と考へられるし、作者不明の歌で、かういふ種類の歌が多いから、假に此等の歌を人麿の作つたものだとせば、人麿はやはりさういふ民謠作者風な心の据ゑ方で此等の歌を作つたに相違ない。古義では、『納野に葛引|婦女《ヲトヌ》は、己が夫に令v著てむとてか、而袖《マゾデ》もて引らむ。さてもあはれの婦女や、となり。此は婦女の葛引をみて、かれが夫に織て令v著てむとてか引らむと、よそよりみてよめるなるべし。【略解に、我に織てきせむとてか、眞手もて夏葛引と云なり、といへるは、吾妹とあるに泥めるなるべし。古へは人の妻をも女をも親みて吾妹といへること常おほかるをや】』と云つてゐるのは、解釋としては無理であるけれども、なぜかういふ解釋が出來るかといふに、此歌が民謠風で、その儘に一般化すべき傾向を有つてゐるからである。さういふ點で、古義の如き解釋もまた看免してはならぬのである。
 この歌六帖第四旋頭歌の部に載り、四五句『眞袖もてきてむとてかも』である。
 ここより以下廿三首は即ち旋頭歌で六句から成つて居り、句を繰返して居るのが多いが、必ずしもさうでなく句を繰返さずに順當に咏み下してゐるのもある。この旋頭歌は形式上時によつて(111)は短歌よりも内容の簡單なことがある。ただ短歌よりも形式が少し長いので、一氣に咏み得るやうな感情の場合に成功し、人麿の如く呼吸・息吹の大きい者の得意とする場合が多いやうである。後世の繊巧な歌風になるに從つて長歌が衰へ旋頭歌が衰へたのはそのためである。それだから旋頭歌もさういふ覺悟を以て咏めば相當にいいものが出來るべき可能性を有つてゐるが、我等はいまだそこまでの餘裕を得ずに居る。人麿と明らかに名の記されたものには旋頭歌は無かつたが、人麿は必ずこの旋頭歌を作つてゐるものと愚考して居り、人麿歌集中の旋頭歌の中には人麿自身のもあり友人等の作も或は手控にした古い旋頭歌も含んで居るわけである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二七三〕
  住吉《すみのえ》の波豆麻《はづま》の君《きみ》が馬乘衣《うまのりごろも》さひづらふ漢女《あやめ》を坐《す》ゑて縫《ぬ》へる衣《ころも》ぞ
  住吉 波豆麻君之 馬乘衣 雜豆臈 漢女乎座而 縫衣叙
 
 〔語釋〕 ○住吉・波豆麻君之 スミノエノ・ハヅマノキミガで、波豆麻《はづま》は住吉の地名であらう。其處に居る『君』で、古寫本中『公』と書いたのがある(【元・古・神・温・矢・京】)。代匠記ではナミヅマキミガ(112)と訓み、『波妻君トハ、波ハ花トモ見エテウツクシム物ナレバ、ウツクシ妻ノ意ナリ。第十三ニ、浪雲ノウツクシ妻ト云ヘルニテ知ベシ。住吉ハ住吉ノ岸ニヨスル浪ト云ノミニアラズ、以下ノ二首モ住吉ト讀タレバ、ヤガテ夫君モスメル處ナリ』(代匠記精)。『すむ地をさして云に疑ひなし』(考)。『宣長云、波豆麻君は、波里摩著の誤、乘は垂の誤にて、ハリスリツケシ、マダラノコロモと訓むべし』(略解)。○馬乘衣 舊訓マソコロモ。古寫本では、マノリキヌ(元・古・神)と訓んだのもある。マノリ衣(童蒙抄)。ウマノリキヌ(代匠記初)。ワキアケコロモ(考)。マダラノコロモ(略解宣長訓)。ウマノリゴロモ(略解)。『馬乘衣ハ、今ノ俗雨衣ノセヌヒノスソヲ縫合セヌヲ、馬乘ヲ開ト云ヒテ、馬ニ騎時便ヨカラム爲ニスレバ、昔モサル體ノ衣ナドヲ馬乘衣トテヤ侍ケム』(代匠記精)。『又こをうまのり衣と訓む説もあれど、馬のり衣てふ訓ものに見えず。こは義訓にわきあけごろもとよむべし。則|※[月+闕]腋《ケツエキ》袍は圓領の胡服武官の衣なればなり。縫腋《マツハシ》は馬に乘に便りあしければ※[月+闕]腋《ワキアケ》を造れり。馬乘衣といはん物必此ものの外なし』(考)。○雜豆臈 サヒヅラフで、囀らふ、即ち分からぬ音で喋舌することである。言左敝久《コトサヘク》などといふ枕詞の如く、喧擾の意味で、日本紀に韓婦《カラノメ》用2韓語言《カラサヘヅリ》1とあるのが參考になる。また、佐比豆留夜《サヒヅルヤ》、辛碓爾舂《カラウスニツキ》の例も、同樣の枕詞である。この句は舊訓サニヅラフで、ヲトメの冠辭としたのは、漢女をヲトメと訓んだからであつた。サヒヅラフは略解補正(正辭)の訓である。追記。右は校本萬葉に據つて正辭の訓とし(113)たが、後、井上博士の新考を見るに、關|政方《、あさみち》の傭字例の訓として居る。○漢女乎座而 アヤメヲスヱテと訓み、漢女《あやめ》をば座《すゑ》ての意、すわらせ使役する意。漢女は從來ヲトメと訓み、『漢女ハ』毛詩ニモ漢之有女ト云ヒテ、美女アル處ナレバ、彼處ニ准ジテ書ナリ』(代匠記精)。『ここのをとめに漢女の字をかりたるは、紀(應神)に三十七年戊午朔、遣阿知使主都加使主、於呉令求縫工女云々。四十一年二月云々。是月阿知使主|自呉《クレユ》至筑紫時胸形大神|乞工女等故以兄媛奉※[匈/月]形大神《モノヌヒメヲコハスカレエヒメヲムナカタノオホカミニマタス》云々。既而率其三婦女以至津國《スデニシテソノミタリノハタヤメヲイナナヒテツノクニニイタル》と有る呉女をさして漢女と書たるなり。さて紅花を韓藍とも呉藍とも書て、くれなゐとよめる如く、漢呉を通じ書たるたはむれなり』(考)。これをアヤメと訓んだのは童蒙抄で、『漢女、をとめと訓ずる事の義未v詳。女功女工のものをあやはとりなどいへるなれば、ここも女工の事を專と云たることなれば、あやめなどよむべき歟。追而可v考』と云つて居る。また、略解に、『漢女は、按ずるに雄略紀、身狹村主《ムサノスグリ》青等共2呉國使1將2呉所v獻|手末才伎《テビト》漢織《アヤハトリ》呉織《クレハトリ》及|衣經《キヌヌヒ》兄媛弟媛等1泊2於住吉津1云々と有るに據りて訓めるなれば、アヤメと訓めり』と云つてゐる中に漢織《アヤハトリ》、呉織《クレハトリ》の語がある。借りてかく訓んでいいとおもふ。古事記傳卷二十七に、この歌句をアヤメヲマセテと訓み、『此をヲトメヲスヱテと訓るは誤なり。漢女は漢《アヤノ》國の女を云』といひ、なほ卷三十三に、『漢を阿夜と云こといかなる由にか詳《サダカ》ならず。漢織《アヤハトリ》を書紀に穴織《アナハトリ》ともあるを以て思へば、阿那と云と同く此も阿夜と歎く聲より出たるか』と云つたが、新考には、『漢を(114)アヤといふは漢人が綾を織るに巧なりしより云ふならむ』とある。新考の説がいい。錦綾之中丹裹有《ニシキアヤノナカニツツメル》(卷九。一八〇七)の例がある。座の字は、舊訓スヘテ。略解宣長訓マセテ。『マセテは俗言に招待してと言ふ意なり』(【略解・古義從v之】)。併し此は招待する意でなく、呼んで來て使ふ意である。
 〔大意〕 住吉《すみのえ》の波豆麻《はづま》の君《きみ》のあの立派な馬乘衣《うまのりごろも》は、〔雜豆臈《さひづらふ》〕漢織《あやはとり》の女達を使つて、織り縫うた衣《ころも》でありますぞよ。
 〔鑑賞〕 全體が民謠風のもので、特に勞働に連れて歌つてもいいやうに出來て居る。それが必ずしも漢織の女等のために作つた歌ではなからうが、住吉の波豆麻あたりにも渡來の漢織女が住んで居り、それに豪家の若い男を配合し、その馬乘服をば技術の上手な多勢の漢織女が織つたのであるといふ、そのかげには男女戀愛歌にかよふ情調もあり、多勢の男女が何か爲事をしながら歌ふのにふさはしいものに出來てゐるやうに思はれる。さういふ關係からでも旋頭歌の形式になつてゐるのは面白く、男女合唱してもよく、上を女が歌ひ、下を男が歌つてもいい訣である。
 この一聯の旋頭歌を人麿が作つたと想像しても、別に不合理ではなく、あれだけの力量ある歌人であるから、人麿作と明記された歌以外にもなほ多くの作があるべき筈だとすると、かういふ歌、つまり勞働歌とも看做すべき歌をも或る機會に作つたと想像しても別に不合理ではないといふのである。
(115) この歌はさういふ興味もあり、また文化史的、風俗史的に觀察しても興味あるものである。馬乘衣をウマノリゴロモと訓むについて、さういふ名稱のものが當時無いと云つて眞淵はワキアケゴロモなどと訓んだり、またマソゴロモとか、マダラノコロモなどといふ訓もあるのだが、このウ()リゴロモは普通名詞的に取扱つてかまはぬものである。
 考に、『こはなみづまの君が衣をめでてかくよめるなり。前後の歌もみな見るものをよめる歌なり』と云ひ、古義に、『此は大方の衣ならず、愛しき漢女を招待してぬへる衣ぞと、衣をしたてて人に贈るとて戯によみてやれるなるべし』と云つてゐるのは、幾分足りないところがある。考に、『みな見るものをよめる』と云つてゐるのは確であるが、それが民謠的に一般化する傾向のものなのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二七四〕
  住吉《すみのえ》の出見《いでみ》の濱《はま》の柴《しば》な苅《か》りそね未通女等《をとめらが》が赤裳《あかも》の裾《すそ》の濡《ぬ》れてゆかむ見《み》む
  住吉 出見濱 柴莫苅曾尼 未通女等 赤裳下 閏將往見
 
(116) ○住吉 舊訓スミノエノ。古寫本の多くはスミヨシノと訓んだ。その他、第三句ナノリソカリニ(考)。ハマナカラサネ(古義)。結句ヌレテユカムミユ(舊訓)。ヌレテユカムミム(代匠記精)。ヌラシユクミム(考)。アカモスソヒヂユカマクモミム(古義)等の諸訓があつた。
 出見《いでみ》の濱《はま》は、大日本地名辭書に、『住吉森の西に松林あり、細江淺澤の水林際を過ぎ海に入る。此邊を出見濱と呼ぶ』 云々とある。
 一首は、此の出見の濱の柴を苅つてしまはずに呉れ。柴を苅りに來る未通女等の赤裳の裾の濡れながら群れるのを見たいから、といふのである。
 氣持もとほり、印象も鮮かな歌である。勞働に連れてうたふ一種の民謠風と考へることも出來る。若い女等の、『赤裳のすそ』が心を牽いたものであつたことは、その他の歌を見ても分かる。『吾妹子が赤裳の裾の染《し》め濕《ひ》ぢむ』(卷七。一〇九〇)。『赤裳の裾に潮滿つらむか』(卷十五。三六一〇)。『くれなゐの赤裳の裾の春雨ににほひひづちて』(卷十七。三九六九)等の用例がある。
 この歌は、六帖第四旋頭歌の部に、『すみよしの出見の濱に柴なかりそねをとめごが赤裳たれひき濡れてゆかむ見む』として載つてゐる。
 
          ○
 
(117)  〔卷七・一二七五〕
  住吉《すみのえ》の小田《をだ》を苅《か》らす子《こ》奴《やつこ》かも無《な》き奴《やつこ》あれど妹《いも》が御爲《みため》と私田《わたくしだ》苅《か》る
  住吉 小田苅爲子 賤鴨無 奴雖在 妹御爲 私田苅
 
 〔語釋〕 ○小田苅爲子 ヲダヲカラスコと訓む。舊訓ヲタカラスルコ。代匠記初ヲタカラスコハ。童豪抄ヲタヲカルスコ。考ヲタカラスコ。古義ヲダヲカラスコ。住吉の田の稻を苅つて居る人よといふ意で、苅ラスは敬語に使つてゐる。この『子《こ》』といふのは、客觀的に觀てゐるのだから、男の人にむかつてもコといふのである。○賤鴨無 ヤツコカモナキと訓む。舊訓イヤシカモナシ。代匠記初ヤツコカモナキ。考シヅカモナキ。ヤツコは即ち奴婢《ぬひ》で賤民であるから、賤を以てヤツコと義訓し得るのである。奴婢は官に使役せられるものと私人に使役せられるものとあるが、此處は私人に使役せられるものの場合である。大寶戸令には公私奴婢の語があり、賤民が良民になり得る條々等も記載せられてある。その奴(下男)が居ないのであらうか。と疑つてただ一人で稻を苅つてゐる男に對する氣持である。○妹御爲 イモガミタメトと訓む。舊訓イモガミタメニ。童蒙抄イモガミタメト。愛する妻のために、ためだとして、ためだといつてぐらゐの意で、丁寧に物言つてゐる趣は、苅ラスの敬語と同樣である。○私田苅 ワタクシダカルと訓む。(118)舊訓シノビタヲカル。代匠記精でワタクシタカルと訓んだ。なほ考ではオノレダカラスと訓み、略解アキノタカラス。『或説に私は秋の誤ならんと言へり。さも有べし』(略解)。古義アキノタカルモ。新考アキノタヲカル等の訓がある。しかし此處はワタクシダといふから面白いので、秋の田では平凡になつてしまふのである。私田《しでん》は公田《こうでん》に對した語であるが、大寶令ごろは、全國が官有であつて、個人の私有土地といふものがなかつたので、朝廷から給はることになつて、それは位田・職田・賜田《しでん》・口分田《くぶんでん》・墾田等で、即ち私田《しでん》である。その剰餘田が公田であるから、公田のことを一に乘田とも云つて、田令第十一條に諸國公田條がある。この歌の私田は、私田中の僅かばかりの墾田といふ意味であらう。
 〔大意〕 住吉《すみのえ》の秋田に稻を苅つて御いでになる方《かた》には一體|奴婢《ぬひ》が居ないのか知らん。いやさうではない、あの方は可哀《かあ》いい細君の御ためだといつて、自《みづか》ら僅かばかりの私有の田の稻を苅つて居られるのです。
 〔鑑賞〕 この一首も、眼前の光景を歌に作つてゐるのであるが、貫いてゐる氣持は民謠風であり、稻を苅りながらうたふ勞働歌としても役立つ種類のものである。さういふ關係から、敬語などを使つてゐると解釋することも出來る。
 一體かういふ種類の歌は、自由民の間には行はれてゐたとも考へられるから、何かの機會に人(119)麿が作つたものと想像しても好く、或は人麿が一般的民謠を書きとめて置いたと想像してもいいぐらゐの歌で、無論力一ぱいといふ種類の歌ではない。なほこの歌は下に見える一二八五の歌をも參考とするといい。
 古義に、『歌(ノ)意、本(ノ)句は問にて、末(ノ)句は答なり。住吉の小田を刈賜ふ君は、令v刈べき奴隷なくて手自刈(リ)賜ふらむかと問たるに、いなさにあらず、からすべき奴隷はあれども、奴隷に令せて刈しめば、麁忽《アシザマ》にもぞなる。親切《ネモコロ》におもふ妹が御爲の故にかる稻なれば、大切にとりまかなひて、手づから秋田をかるぞ、さてもからき業ぞ、とことわれるなり』と云つてある。
 
          ○
 
  〔卷七・一二七六〕
  池《いけ》の邊《べ》の小槻《をつき》が下《もと》の細竹《しぬ》な苅《か》りそね其《それ》をだに君《きみ》が形見《かたみ》に見《み》つつ偲《しぬ》はむ
  池邊 小槻下 細竹〔莫〕苅嫌 其谷 君形見爾 監乍將偲
 
 ○池邊 イケノベノと訓む。舊訓イケノベニであるが、校本萬葉古寫本の訓はすべてイケノヘノとなつて居る。代匠記ではイケノヘノを採つた。○小槻下 ヲツキガモトノと訓む。舊訓ヲツ(120)キガシタノであるが、古寫本中モトニ(古)。モトノ(神)の訓が既にある。考でヲツキガモトノと訓んだ。○細竹莫苅嫌 シヌナカリソネと訓む。原文、『莫』の無いのを代匠記で補つた。また結句の『監乍』を代匠記で 『覽乍』の誤だらうと云つたが、監にミルの訓があるやうである。○其谷 ソレヲダニと訓む。舊訓どほりであるが、新訓にソヲダニと訓んだ。
 一首の意は、池のほとりの槻《つき》(欅《けやき》)の樹のもとに生えて居る細竹《しぬ》(篠)をば苅らずにおいてください。其處はあの君《きみ》との縁《ゆかり》の深いところだから、せめてその細竹《しぬ》をでも、戀しいあの君の形見《かたみ》として見つつ偲ばうとおもふのです。大體そんな意味の歌のやうにおもへる。
 この旋頭歌も、實際を歌つてゐるやうでゐて、民謠風である。それゆゑ、若しこの歌が人麿作だとせば、人麿はかういふ種類の歌謠作者として此處に明かに現出してゐるので、またかういふことはあり得ると考へねばならぬのである。この一首は女の歌であるから、人麿の歌でないと最初から極めてしまへば至極簡單であるが、人麿歌集といふものと人麿との關係を從來の考よりももつと密接なものとして考へると、この歌も人麿が或る機縁に觸れて作つたものと想像してもかまはぬこととなるのである。若しそれをも全然否定することにすると、讀人不知の萬葉集の歌を一體誰が、どういふ人が作つたかといふ解釋が却つて面倒になつて來るのである。
 この『見つつ偲ばむ』といふやうな表現のことはもう既に用例を擧げたと思ふが、なほ少しく(121)引くならば、『吾が形見《かたみ》見つつ偲《しぬ》ばせあらたまの年の緒長く吾も思《しぬ》ばむ』(卷四。五八七)。『住吉の岸に家もが沖《おき》に邊《へ》に寄する白浪見つつ思《しぬ》ばむ』(卷七。一一五〇)。『沫雪《あはゆき》は千重に零《ふ》り敷《し》け戀しくの日長《けなが》き我は見つつ偲《しぬ》ばむ』(卷十。二三三四)。『面形《おもがた》の忘れむ時《しだ》は大野《おほぬ》ろにたなびく雲を見つつ偲《しぬ》ばむ』(卷十四。三五二〇)。『八千種《やちくさ》に草木を植ゑて時毎に咲かむ花をし見つつ思《しぬ》ばな』(卷二十。四三一四)などの例がある。これも始めて作つた人の歌は緊密であるが段々に概念化し、稀薄になつて來て申訣に響くやうになつて來るが、さういふ點では、此處の人麿歌集の歌は、小槻《をつき》といひ、小竹《しぬ》と云つてゐるあたりは眞實から脱却してゐないので、眞面目な鑑賞に堪へ得るのである。
 この歌は、續千載集卷七雜躰の部に、人麿作『池のべのをつきが下に笹なかりそそれをだに君が形見に見つつしのばむ』として載つてゐる。
 
          ○
  〔卷七・一二七七〕
  天《あめ》なる姫菅原《ひめすがはら》の草《くさ》な苅《か》りそね蜷《みな》の腸《わた》か黒《ぐろ》き髪《かみ》に芥《あくた》し著《つ》くも
  天在 日賣菅原 草莫苅嫌 彌那綿 香烏髪 飽田志付勿
 
(122) 〔語釋〕 ○天在 アメナルと訓む。日《ヒ》に係る枕詞だから同音のヒメのヒに續けたもので、天傳日笠浦《アマヅタフヒガサノウラ》(卷七。一一七八)などの用法と同じである。天爾有哉神樂良能小野爾茅草苅《アメナルヤササラノヲヌニチガヤカリ》(卷十六。三八八七)の如くにアメナルヤとも續けてゐる。○日賣菅原 ヒメスガハラノと訓む。即ち姫菅原で、前後の關係から地名らしくおもへるが明かでない。冠辭考に、『譬ば、天香山と天の河はあめにもここにも有が如く、かの野【左佐羅《ささら》の小野《をぬ》】もむかしは有つらんを、今は聞えぬならん。これによれば、上の日めすが原も、天にもある傳への古へはありてつづけしにやともおもへど、上には見えわたるつづけによりていへるのみ』と云つてゐる。略解に、『宣長は天ナルは天上に有るひめすが原なり。然らざれば、髪に芥の付くと言ふこと由無し。是れは天なるささらのを野の類ひにて、唯だ設けて言ふのみなりと言へり。此説に據るべし』と云つたが、これは天上の原では意味をなさない。やはり住吉あたりの地名と看做す方がいいやうである。新考に、『いづくにか知られず。上代より名高き美濃國可兒郡久々利の近傍に姫といふ處あり。是か』と云つてゐる。○草莫苅嫌 クサナカリソネと訓む。古義では、『草は菅の草書を誤れるなるべし。集中外にも例有(リ)。スゲナカリソネと訓べし』と云ひ、新考もそれに從つた。これは上に菅原《すがはら》とあるから、スゲと類音で續けたのであらうとする説らしいが、必ずしもさうせずにクサとした方が却つて調が辷らずにいい。○
 
彌那綿 ミナノワタと訓む。蜷《みな》の腸《わた》で、美奈乃和多迦具漏伎可美爾《ミナノワタカグロキカミニ》(卷五。八〇四)。蜷腸香黒髪ミナノワタカグロキカミ
(123)丹《ニ》(卷十三。三二九五)。三名之綿蚊黒爲髪尾《ミナノワタカグロシカミヲ》(卷十六。三七九一)の如くカグロキに續けてゐる。その理由については冠辭考で、年魚背腸《サケノセワタ》(美奈乃和多)の醢が赤黒い故にかと云ひ、或は、和名鈔の河貝子(美奈)、殻(ノ)上黒(ク)小狹《チヒサクサク》長(クテ)似2人身1者也を引いて、『腸もいと黒ければ髪にたとへたる歟、猶おぼつかなし』と云つてゐる。これは大體契沖の説を踏襲してゐるものである。蜷は海産ではあるまいと想像すればやはり蜷貝《みながひ》、川蜷《かはにな》で、大和の小川には今でも澤山住み、往時は賤民がそれを食つたのだから、自然カグロといふやうな觀察も出來たわけである。烏賊の墨かともはじめ想像したが、和名鈔にも字鏡にも伊加《イカ》とあつて、瞭然としてゐるから、烏賊の腸ではない。○香烏髪 カグロキカミニと訓む。か黒き髪にで、カは接頭語である。萬葉のカグロシの例は皆、髪につけて云つて居る。○飽田志付勿 アクタシツクモと訓む。舊訓も古寫本もアクタシツクナである。童蒙抄に、『芥の髪につく程に、草な刈りそと云意と聞ゆる也。此勿の字兩樣に聞ゆれば也。意は同じ樣なれど、あくたしつくなと下知の詞にも聞え、又草を刈らばあくたのつく程にと云意とも聞ゆる也。よりてつくもと云點もあるべし』と云つてツクモと訓み諸書それに從つた。『勿』は呉音モチで、そのためモと訓ませた。宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》(卷五。八〇七)。多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠爾與志奈良乃美夜古爾由吉帝己牟丹米《タツノマモイマモエテシガアヲニヨシナラノミヤコニユキテコムタメ》(卷五。八〇六)の例で明かである。髪に芥が附くよといふ意に落著くのである。
(124) 〔大意〕 一首の意は、〔天在《あめなる》〕この日賣菅原《ひめすがはら》の草は刈るなよ。〔彌那綿《みなのわた》〕折角の美しいお前の黒髪に塵芥《ちりあくた》が掛かつて、惜しいではないか、といふぐらゐの意で、先づ女が草を刈るのを男が見て言ふ趣に解するのである。
 〔鑑賞〕 この歌に就いて、考には、『こは妹があたりの草刈を見て男のかくよめるならん』とあり、童蒙抄には、『此歌の全體の意何を趣向によめりとも未2間得1也。何とぞよせの意あるべき也。字面一通はただ黒き髪にちりあくたのつかん程に、すがはらに入りて草な刈りそと云意の歌也』といひ、古義には、『歌の意は、菅原に立入て菅を刈女を見て、しか菅をかることなかれ、汝がうるはしき髪に、芥のつきて穢れむは、さてもをしき事ぞ、と云るなり』とあり、新考には、『此歌は若き男の菅を刈るを見て女のよめるなり』とある。
 先進の解釋も斯く違ふのであるが、草をば男が刈ると解釋するのは、男の方は多く勞働に堪へるといふ觀念から來て居る。併し女の勞働して居ることは萬葉集を見ても明かなことで、この前の、『納野に葛引く吾妹』の歌をはじめ、
   我妹子《わぎもこ》が業《なり》とつくれる秋の田の早穗《わさほ》のかづら見れど飽かぬかも (卷八。一六二五)
   筑波嶺の裾廻《すそみ》の田井に秋田苅る妹がり遣らむ黄葉《もみぢ》手折《たを》らな (卷九。一七五八)
   稻|舂《つ》けば皹《かが》る我《あ》が手を今宵《こよひ》もか殿《との》の稚子《わくご》が取りて嘆かむ (卷十四。三四五九)
(125)かういふ例があるから、草を刈るのは必ずしも男と限つたことはない。男が草を刈る例になると、前の、『小田を苅らす子』の歌をはじめ、後に出る、『この岡に草苅る小子《わらは》』(卷七。一二九一)。『湊のや葦がなかなる玉小菅《たまこすげ》苅り來《こ》わが背子《せこ》床の隔《へだし》に』(卷十四。三四四五)などがあつて別に不思議でないが、女が草を刈ることにしてもまたそんなに不思議ではない。次に、『蜷のわたか黒き髪』と使つた黒髪の例が、女の髪の場合か男の髪の場合かといふに、次の三首とも女の髪の場合である。『少女等が少女さびすと唐玉《からたま》を手本《たもと》に纏《ま》かし同輩兒《よちこら》と手《て》携《たづさ》はりて遊びけむ時の盛を止《とど》みかね過《すぐ》し遣《や》りつれ蜷《みな》の腸《わた》か黒き髪に何時《いつ》の間《ま》か霜の降りけむ』(卷五。八〇四)。『蜷の腸か黒き髪に眞木綿《まゆふ》もちあささ結ひ垂り大和の黄楊《つげ》の小櫛を抑《おさ》へ插《さ》す刺細《さすたへ》の子はそれぞ吾が妻』(卷十三。三二九五)。『蜷の腸か黒し髪を眞櫛《まぐし》もち肩に掻垂れ取り束《つが》ね』(卷十六。三七九一)で明かである。
 さうして見れば、この歌の場合の、『草な刈りそね』といふ草を刈つて居るのは女と看做して差支ないやうである。また、女が男に對つて、『か黒き髪に芥し附くも』といふやうな言方をするのは、餘程近代的であり、西洋的だと謂ふべきである。もつとも、『夕闇は路たづたづし月待ちて行かせ吾背子その間にも見む』(卷四。七〇九)などといふ能働的な西洋映畫風のもあるが、大體に於ては、女が男にむかつて、『か黒き髪に芥し附くも』などと云ふのは除外例と看做していい。さういふ點で、考・古義の看方の方が新考よりも確である。なほ、宣長が、ひめ菅原を天上の原とし(126)て空想歌のやうに取扱つたのは學者的に鑑賞眼が鈍い。
 
          ○
 
  〔卷七・一二七八〕
  夏影《なつかげ》の房《ねや》の下《もと》に衣《きぬ》裁《た》つ吾妹《わぎも》裏《うら》設《ま》けて吾《わ》がため裁《た》たばやや大《おほ》に裁《た》て
  夏影 房之下邇 衣裁吾味 裏儲 吾爲裁者 差大裁
 
 〔語釋〕 ○夏影 ナツカゲノと訓む。神田本にはナツカゲニとあるがカゲニでは調をなさない。これは閨にかけた枕詞の格で、夏の日蔭の涼しい處といふ意味から續けたものであらうか。『夏ハ木ニモアレ何ニモアレ、陰ノ涼シキ處ニ臥スヲ、女ハ北ノ方ニ深ク住モノナレバ、夏影ノネヤト云ナルベシ』(代匠記精)。○房之下邇 ネヤノモトニと訓む。舊本の『庭』を古寫本(元・古・神)によつて『邇』と改めた。舊訓ネヤノシタニテ。代匠記精ネヤノモトニテ。略解ネヤノシタニ。新考マドノモトニ【房は窓の誤りとす】。新訓ネヤノモトニ。寢部屋にすわつての意。○衣裁吾妹 キヌタツワギモと訓む。舊訓コロモタツワギモであつたのを考でさう訓んだ。衣を裁縫して居る妻といふ意である。眞淵は、これは秋の衣を裁つのだといつてゐる。○裏儲 ウラマケテと訓む。衣物の裏(127)を用意する意と、心を設《ま》けて熱心になつてといふ意を兩方含んで居る。心《ウラ》を裏と書くのは吾世子爾裏戀居者《ワガセコニウラコヒヲレバ》(卷十。二〇一五)の例があり、小舟儲《ヲブネヲマケテ》(卷九。一七八〇)の例のあるのが參考となるであらう。『裏儲ハ衣ノ裏ヲ儲置テト云ヘルカ。又裏ハ心ニテ用意シテト云ニヤ。二ツヲ兼テ見ルベシ』(代匠記精)。童蒙抄でこれをウラカケテと訓み、『この言葉も難v濟。まづはうらをまうけてと云意と諸抄に注せり。うらかけてと云意か。然ればうらともにと云義なるべし。宗師點にはうらかけてとよめり。まうけるは兩方かけての意なるから、かけてともよむべき也』(童蒙抄)。然るに新考ではアキマケテと訓み、『裏儲は金儲の誤にてアキマケテなるべし。集中に秋儲而、春儲而、春設而などあり、マケテはカタマケテと同意にて、秋マケテは秋近ヅキテといふこととおもはる』(新考)と云つたが、どうか知らん。○吾爲裁者・差大裁 ワガタメタタバ・ヤヤオホニタテと訓む。舊訓ヤオホキニタテ。代匠記精ヤヤオホニタテ。童蒙抄ヤヤヒロクタテ。古義イヤヒロニタテ。少しく大き目に裁て、ゆつたりと作れといふ意になる。『第四ニ紀女郎ガ歌こ、ヤヤオホハト有シハ、ヤヤオホクハト云意ナレド、摩※[言+可]ト云梵語ノ大、多、勝ニ互ル如ク、大ト多ト和語モ通ゼリ。我タメニ裁トナラバ、ヤヤオホキニユタカニタテトナリ。ヤヤト云ヘルハキハメテ大キニトハ云ハヌ意ナリ』(代匠記精)。
 〔大意〕 夏の日の木蔭の涼しい部屋にすわつて著物を裁《た》つて居る妻よ。衣|裏地《うらぢ》を用意し、心こ(128)めて裁つんなら、少し大き目に裁つて呉れ。
 〔鑑賞〕 可哀いい妻が自分のために著物を裁つて居るのを、ま近く見てゐて夫の男がこんなことを云つてゐる趣で、短篇小説の一斷片ともいふべき味ひのする歌である。特にその言ひ方の細《こま》かい點に注意すべきで、『裏設けて』といひ、『やや大《おほ》に裁て』と云つてゐるあたりが、ただの抒情戀愛の歌とちがふ點である。萬葉なら卷十四の東歌にかういふ言ひ方の歌が間々あるが、やはり民謠的に一般化する性質を有つて居る。つまりこの歌ならば農夫の若い夫婦間の情調であるから、織物或は染色などの作業に連れてうたふことの出來る性質になつて居る。
 次にこの歌は人事を歌つたもので、その言ひ方も小説會話の一片の如き觀を呈するが、實際はこの歌はこれで統一して居るので、小説會話の一片ではないのである。さういふ點は、正岡子規が、『微細なる處に妙味の存在なくば短歌や俳句やは長い詩の一句に過ぎざるべし』(墨汁一滴)と云つたのと合致するのである。なほ少しくいふならば、この歌は人事歌であるが、明治新派和歌の初期ごろに作られたやうな、大づかみな人事歌とも違ふので、中味に入つて居り個に入つて居るのである。その點につき、やはり子規が、『此種の歌所謂新派の作に多し。趣向の小説的なる者を捕へて之を歌に詠みこなす事は最も難きわざなるに、只々歴史を敍する如き筆法に敍し去りて中心も無く統一も無き無趣味の三十一文字となし自ら得たりとする事初心の弊なり』(隅汁一滴)(129)と云つたのが參考になるだらう。またさういふ點で、この歌の、『ややおほに裁て』といふ句は、個の語氣までをも傳へてゐて概念的に上辷りしてゐないのである。
 また、この歌は旋頭歌だから、上から讀下してもよく、下から云つても意味が通じ得るのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二七九〕
  梓弓《あづさゆみ》引津《ひきつ》の邊《べ》なる莫告藻《なのりそ》の花《はな》採《つ》むまでに逢《あ》はざらめやも莫告藻《なのりそ》の花《はな》
  梓弓 引津邊在 莫謂花 及採 不相有目八方 勿謂花
 
 第二句舊訓ヒキツノヘケル。ヒキツヘニアル(元・古・神)。ヒキツノノヘニナル(細)。ヒキツノヘナル(西・温・矢・京)などの訓があつた。代匠記にヒキツノヘナルと訓んだ。第四句舊訓ツムマテハ。ツムマテニ(元)。トルマテニ(古・神)等の訓もあり、諸注は、カルマデハ(童蒙抄)。ツムマデニ(略解・古義)。サクマデニ(新考)等と訓んだ。引津《ひきつ》は筑前國志摩郡(今の糸島郡)にある。大日本地名辭書には、船越《ふなこし》の古名だらうかといつてゐる。一首の意は、濱藻を採むまでには(130)また逢はうぞ。それだからさう心痛するなといふので、繰返しは調子のためである。戀愛抒情として非常に一般化する傾向の歌である。『梓弓|引津《ひきつ》の邊《べ》なる莫告藻《なのりそ》の花咲くまでに逢はぬ君かも』(卷十。一九三〇)は、この歌に似てゐる。結句は名を告らずに居よといふ奧意の有無はどうか知らん。
 この歌は六帖に載り、『あづさゆみひきつべにあるなのりその花とるまでにあはずあらめやなのりその花』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八〇〕
  内日《うちひ》さす宮路《みやぢ》を行《ゆ》くに吾《わが》裳《も》は破《や》れぬ玉《たま》の緒《を》の念《おもひ》亂《みだ》れて家《いへ》に在《あ》らましを
  撃日刺 宮路行丹 吾裳破 玉緒 念委 家在矣
 
 〔語釋〕 ○撃日刺 ウチヒサスと訓む。童蒙抄でウツヒサスとも訓んだ。この内日刺《ウチヒサス》といふ枕詞は、宮・京・都などに係るもので、内に日の差す。美《うま》し日の差す。現《うつ》し日の差す。うつくしき檜《ひ》を立つ等の諸説がある。『内ニ日ノサス宮トツヅケタルナリ』(代匠記精)。『麗《ウツクシ》き日のさす宮と(131)つづけしなりけり』(冠辭考)。『現(ツ)しく日光の指(シ)かがやく宮といふなるべし』(古義)等であるが、大體代匠記に從つて置いた。○宮路行丹 ミヤヂヲユクニと訓む。宮(御所)へ通ふ道、宮へ行く道、また都の道とも取れる。吾者皆悉宮道舒爲《ワレハコトゴトミヤヂニゾスル》(卷二。一九三)。内日左須宮道爾相之人妻※[女+后]《ウチヒサスミヤヂニアヒシヒトスマユヱニ》(卷十一。二三六五)。打日刺宮道人雖滿行《ウチヒサスミヤヂヲヒトハミチユケド》(卷十一。二三八二)等の用例がある。○玉緒 タマノヲノと訓む。此處はミダルに係つたもののやうである。玉緒といふ枕詞は、他に長、絶、間《あひだ》などに係けてをり、この歌と同じ用例としては、宝緒之念亂而宿夜四曾多寸《タマノヲノオモヒミダレテヌルヨシゾオホキ》(卷十一。二三六五)があるが、カタイトモチヌキタルタマノヲヲヨワミミダレヤシナムヒトノシルベク
 
(卷十一。二七九一)。玉緒乃絶天亂名知者知友《タマノヲノタエテミダレナシラバシルトモ》(卷十一。二七八八)。玉緒之絶而有戀之亂者《タマノヲノタエタルコヒノミダレナバ》(卷十一。二七八九)の例にミダルがあるごとく、此處もオモヒミダルに續けたものともおもふ。○念委 オモヒミダレテと訓む。念亂《おもひみだ》れてである。奮訓オモヒステテモ。古寫本中二種の訓があり、オモヒミダレテ(元・古・神及び細・京の一訓)。オモヒステテモ(細・西・失・京・温)である。そのほかに温古堂本には漢字の左にオモフニマカセとあるさうである。代匠記精オモヒツミテモ。童蒙抄オモヒモユタニ。考オモヒシナヘテ。略解・古義オモヒミダレテ【委は亂の誤】。新訓オモヒユダネテ。おもふに委の字にミダルの訓はおぼつかないから、若しこの儘に訓むとせば、オモヒマカセテであらうか。取委物之無者《トリマカスモノシナケレバ》(卷二。二一三)がやはり人麿の作だから、マカスと使つたのかも知れない。併し全體の調子から見て、オモヒミダレテの方が(132)好い。○家在矣 イヘニアラマシヲで、家にあらましを。家に居る方がよいといふ意である。イヘニアルの例は、家爾阿利弖波波何刀利美婆《イヘニアリテハハガトリミバ》(卷五。八八九)。伊敝爾安流伊毛之於母比我奈思母《イヘニアルイモシオモヒガナシモ》(卷十五。三六八六)などである。
 〔大意〕 〔撃日刺《うちひさす》〕御所に通ずる道をば、戀しい君に出逢ふかと幾たびも往反《ゆきき》したので、わが衣の裳裾《もすそ》は、かくのごとく破れてしまつた。斯く難儀をするくらゐならば、いつそ〔玉緒《たまのをの》〕おもひ亂れながら家のうちに居た方が好かつたものを。
 〔鑑賞〕 これは、宮に往反する男を戀した女の歌の趣で、『うち日さす宮道《みやぢ》を人は滿《み》ちゆけど吾が念《おも》ふ公《きみ》はただ一人のみ』(卷十一。二三八二)などと似通つて居る。また女の歌としては、『よしゑやし來まさぬ君を何せむに厭《いと》はず吾は戀ひつつ居らむ』(卷十一。二三七八)といふのもある。『念委』について、契沖は、『今按、オモヒツミテモト讀ベシ。第九ニ登筑波山歌ノ終ニ、長キ氣ニ念積來シ憂ハ息ヌトイヘリ。委ノ字ハ揚雄(ガ)甘泉(ノ)賦(ニ)云。瑞穣々兮|委《ツモルレコト》如(シ)v山(ノ)。何晏(ガ)景福殿賦(ニ)云。叢集委積。此集第十七云。和我世古我|都美《ツミ》之乎見都追云々。此モ委緒見乍《ツミシヲミツツ》ナリ。ツムトハ結ヘハ重ナルヲ云ヘリ。ソレヲ思ヒヲハラシヤラデ、心ニ積置ニヨソヘテ云ヘルナリ』(代匠記精)といひ、そのほかの訓も前に記したとほりであるが、皆少し難解の點があるのが無理なのではなからうか。契沖の、『思ひ積《つ》みても』も考證としては確かなやうでゐて、何處かしつくりせない。舊訓のオモ(133)ヒステテモもまたさうであり、新訓のオモヒユダネテも、字面の考證よりも心理的に何か無理があるやうに思へる。眞淵のオモヒシナヘテは委を萎に改めただけで、相當に好い訓とおもふが、これも力が少し弱くないであらうか。そして、古寫本の多くが、オモヒミダレテと訓んで居るところを見れば、この訓に何處か自然なところがあるのかも知れない。そして、『うち日さす宮道《みやぢ》に逢ひし人妻|故《ゆゑ》に玉の緒の念亂而寢《オモヒミダレテぬ》る夜しぞ多き』(卷十一。二三六五)といふ類似の歌を參考すれば、やはりオモヒミグレテであつたのかも知れないのである。
 新考に、『案ずるに、此歌は卷十一なる、うちひさす宮道にあひし人妻ゆゑに玉の緒の念亂れてぬる夜しぞおほき、といふ歌と、もと二首一聯の歌にて、ウチヒサス宮ヂニアヒシ、ウチヒサス宮路ヲユクことつづきたりしに相離れて一は人麿歌集中に入り一は古歌集中に傳はりて本集にも卷を異にして收められたるにあらざるか』とあるのは、用意周到である。二とも旋頭歌であるから、或は二首は問答體のものであつたかも知れない。若しさうなら、念亂而《オモヒミダレテ》を繰返さずに、女の方では、念委而《オモヒマカセテ》と云つたのかも知れない。そして問答體とせば、女の方が先きの趣かも知れない。
 さてこの歌は、女が咏んだ歌の趣で人麿歌集中にあるのは、人麿歌集を目して純粹に人麿作のみを輯録したものでないといふ結論に導く一つの證據ともなるのであるが、若し想像を逞うするなら、人麿は或る期間には、前出のやうな民謠風の歌も作り、或はかういふ問答體のごとき戀歌(134)をも作つたかも知れないのである。私自身では、人麿作としてはかういふ歌は否定したいのであるが、それも絶待に強く否定することもまた出來ないのである。
 後記。某日幸田露伴先生に、眞淵が『委』をば『萎』の誤としてシナヘと訓んだことを私が話したところが、先生は、昔は萎を委と書いたことがある。其がつまり假借の例で、委は委v地などともいつてミダルといふ意の無いこともないが、委には既に萎と同じ意味があると云はれた。それから家に歸つて調べると果してさうである。また、委v照などといふ熟字もあつて、ミダルと訓むよりもシナユと訓んだ方がよいやうに思はれたから、改めて眞淵訓に從つてよいと思ふ。夏草之念之奈要而志怒布良武《ナツクサノオモヒシナエテシヌブラム》(卷二。一三一)。於君戀之奈要浦觸吾居者《キミニコヒシナエウラブレワガヲレバ》(卷十。二二九八)。宇知歎之奈要宇良夫禮之努比都追《ウチナゲキシナエウラブレシヌビツツ》(卷十九。四一六六)などによつてこの訓を支持し得る。また書紀には『委』をユダヌと訓ませた例があり、そのほか委付、付、付囑などをユダヌと訓ませてゐるが、萬葉のオモヒ・ユダヌの例は他になく、またこの歌の場合はオモヒ・ユダヌよりもオモヒ・シナユの方が自然で無理が無いやうである。
 
          ○
 
(135)  〔卷七・一二八一〕
  君がため手力《たぢから》疲《つか》れ織《お》りる衣《きぬ》春《はる》さらばいかなる色《いろ》に摺《す》りてば好《よ》けむ
  君爲 手力勞 織在衣服斜〔叙〕 春去 何何〔色〕 摺者吉
 
 〔語釋〕 ○君爲 キミガタメと訓む。愛して居る男の爲めにである。古寫本中『君』を、『公』と菩いたのがある(【元・古・神・温・京・矢】)。童蒙抄ではセコガタメと訓んだ。○手力勞 タヂカラツカレと訓む。舊訓テヅカラであつたのを、代匠記精でタヂカラツカレと訓み、略解も其に據つた。考でテダユク(手力勞《テダユク》)と訓んだ。卷三(四一九)に、石戸破手力毛欲得《イハトワルタヂカラモガモ》。卷十七(三九六五)に、乎里底加射佐武多治可良毛我母《ヲリテカザサムタヂカラモガモ》の例がある。○織在衣服斜〔叙〕 オリタルキヌゾと訓む。舊訓ヲレルコロモキナナメ。代匠記初ヲレルコロモクダチヌ。代匠記精オレルキヌクダツ。童蒙抄オレルキヌナメニ。考オレルキヌキセナナメ。略解宣長訓オリタルキヌヲ(古義・新考等同訓)。これは斜は料の誤としたものである。新訓オリタルキヌゾ。この新訓の訓は斜《シヤ・ヤ》を叙《ゾ》の誤寫としたものであらうか。此處の訓は古來學者が種々いぢつたところで、『衣《ころも》のくだつとは、色もさめ、やややぶれなんとするほどなり』(代匠記初)。『なめはうべと云詞なり。なべと云詞の事前にくはしく注せり。苗はなめにて、なめはうべと云義、尤もと云字、諾の字の意也。おりたるきぬなればうべと云意(136)也』(童蒙抄)。『きぬきせななんといへるなり』(考)等の解釋を見れば、學者が皆相當に骨折つて居るが、何處かに無理が存じて居る。それを宣長訓のやうにオリタルキヌヲとせば平凡だが心理に無理が無い。それをキヌゾといへばなほよいのである。この種類のゾの例は、卷三(三一九)に、不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當烏《フジガハトヒトノワタルモソノヤマノミヅノダギチゾ》。卷四(七八二)に、爲妹袖左倍所沾而刈流玉藻烏《イモガタメソデサヘヌレテカレルタマモゾ》。卷五(八〇〇)に、企許斯遠周久爾能麻保良叙《キコシヲスクニノマホラゾ》。卷六(一〇二二)に、父公爾吾者眞名子叙妣刀自爾吾者愛兒叙《チチギミニワレハマナゴゾハハトジニワレハマナゴゾ》。卷十三(三三三一)に、走出之宜山之出立之妙山叙《ハシリデノヨロシキヤマノイデタチノクハシキヤマゾ》などがある。○何何〔色〕・摺者吉 イカナルイロニ・スリテバヨケムと訓む。どういふ色に摺つたならば好からうかといふのである。この何何は古來イカニヤイカニと訓んで來たが、童蒙抄で、『この春さらばといひて、下の何々の二字上につづく縁の詞ならでは不v叶也。いかにやいかにとよみては歌詞にあらず。春になりたらばといふて、いかにやいかにとは縁なき詞也。よりて宗師案には花と云詞を入て義にかなふ樣によむ也』といつて、『何處《イヅチ》の花《ハナ》に摺《す》りなばよけむ』としたが、花を持つて來るなどは後世ぶりである。それを略解で、『宣長云、斜は料の誤、何何は何色の誤なり。織りたる絹は、衣服の料なれば、斯く書きてキヌと訓ませたり。何色を、何何と誤れるは、何色と書けるを何々と見たるなりと言へり。此説然り。スリテバヨケムは、スリタラバヨカラムなり』と云つた。次に、此處の『摺《スル》』は、『鴨頭草《つきくさ》に衣《ころも》は摺《す》らむ朝露にぬれて後には變《うつろ》ひぬとも』(卷七。一三五一)などの如くに原始的には(137)色を衣に摺つけて染めたもので、これは鑛物質の土《に》の類でする土摺《どずり》も同樣であるが、後技術が進歩して、染汁を以てする浸染法になつても、歌言葉としてはやはりスルと云つた。これは藍摺でも、榛摺でもさうで、『思ふ子がころも摺らむににほひこせ島の榛原秋たたずとも』(卷十。一九六五)などは上村・辰巳二氏(萬葉染色考)に據ると木實の黒灰摺らしいが、これも秦人の歸化以來浸染法になつたものである。この歌の場合は、春の李を云つてゐるから、何か春の草を以て摺るものを聯想せしめる。春といつても今の晩春初夏でいいから、かきつばた、藍、山藍、紫草、鴨頭草、子水葱などの色がこの女の念中にあつたものであらうか。
 〔大意〕 あなたにお著せしようと思つて、手力《たぢから》も勞れるほど精を出して織つた著物でございます。春になつたら、どういふ色に摺つてあげたらよろしうございませう。
 〔鑑賞〕 この歌も女が歌つた趣だから、人麿自身の氣持で無いこと無論である。併し前にも云つたごとく、人麿が民謠作家として製作したのだとすると解釋の付かぬことはない。現在の自分はなるべくさう解釋したくない態度にあるが、人麿歌集中にあるかういふ歌を當時の人々はどう解釋してゐたものか、例へば家持が人麿歌集を見たときにどう思つてゐたか知りたいものである。『手力勞《たぢからつか》れ』の句は流石に自然で旨いし、『いかなる色に摺りてば好けむ』も情味がこまやかだし、女らしい言方である。『何何』の字が、古寫本中、『何々』と書いたのが可なりあるから、さうす(138)れば、『色』の誤寫とばかりは謂はれない。さればといつてイカニヤイカニでも、童蒙抄で云つたごとく、調をなさぬから致方がない。自分等の願望からいふと、かういふ場合に、『々』を『色』と改めることが冒險だと知つても、その方が歌として自然ならばさうしたいのである。特に、『いかなるや人の子ゆゑぞ通はすも吾子《あこ》』(卷十三。三二九五)。『福《さきはひ》のいかなる人か』(卷七。一四一一)。『いかなる人か物おもはざらむ』(卷十一。二四三六)。『面《おも》わすれいかなる人のするものぞ』(卷十一。二五三三)などにイカナルといふ例があるから、イカニといふ用例もまた多いに拘らず、その方を採用したのであつた。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八二〕
  橋立《はしだて》の倉椅山《くらはしやま》に立《た》てる白雲《しらくも》見《み》まく欲《は》り我《わ》がするなべに立《た》てる白雲《しらくも》
  橋立 倉椅山 立白雲 見欲 我爲苗 立白雲
 
 第三句タタルとも訓んだ。又第四句ミマホシミ。ミマホリヤ。ミテシカトとも訓み、ミテシカバと訓んだのもある。倉椅山《くらはしやま》は大和磯城郡にあり多武峰の東口に當る。『橋立の』は枕詞に使つ(139)て居り、『こは高き倉には梯《はし》を立てのぼる故にしかいひかけたり』(冠辭考)とあるごとく、庫梯《くらはし》は庫《くら》の梯立《はしだて》であるから、梯立《はしだて》の庫梯《くらはし》と續けたのである。ハシダテは天能梯建《あまのはしだて》などのハシダテとも同じ語原である。古事記に、『梯立の倉椅山をさかしみと巖かきかねて我手取らすも』。『梯立の倉椅山は險《さか》しけど妹《いも》とのぼれば險《さか》しくもあらず』といふ歌があり、用例上の好參考である。それから、第五句の、『わがするなべに』は前にも抄したが、に連れて、さう思つてゐると、ぐらゐの意でなかなか旨い。
 一首の意は、倉椅山に立つ白雲を見たいと思つてゐると白雲が立つてゐるといふので、單純素朴で大に愛すべき歌である。そして全體は山の白雲の歌だが、何となし抒情的で愛情がこもつてゐる。やはり一種の民謠として味つていい。新考では、動詞の關係から、『はしだての倉梯山に立つや〔三字右○〕白雲みまくほりわがするなべに立つや〔三字右○〕白雲』と訓んでゐる。これも一見識だが、タテルの強く大きなるを私は好む。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八三〕
  橋立《はしだて》の倉椅川《くらはしがは》の石《いはの》走《はし》はも壯子時《をざかり》に我《われ》は渡《わた》りし石《いはの》走《はし》はも
(140)  橋立 倉椅川 石走者裳 壯子時 我度爲 石走者裳
 
 〔語釋〕 ○橋立・倉椅川 ハシダテノ・クラハシガハノで、これは既に説明したが、倉梯山は大和磯城郡(元十市郡〕多武峰のつづきの山で、倉梯川は其處(熊ケ岳、鹿路山)を發して音羽・多武二山の谿を北流し、多武峰村大字倉橋を過ぎ、櫻井町の南端から西にまはり、忍坂川を加へて寺川となる川である(辰巳・奥野)。○石走者裳 イハノハシハモと訓む。川の中にある飛石即ち石橋のことである。舊訓イシノハシハモ。童蒙抄イシバシハモ。考イハツハシハモ。古義イハノハシハモ(新考同訓)。新訓イハバシリ。イハバシのことは既に人麿長歌(卷二。一九六)の時に説明したが、卷七(一一二六)に、明日香河湍瀬由渡之石走無《アスカガハセゼユワタシシイハバシモナシ》。卷十(二二八八)に、石走間間生有貌花乃《イハバシノママニオヒタルカホバナノ》などの例があり、走をハシと訓ませてゐるから此處もイハノハシと訓んで石橋《イハバシ》の意としていいとおもふ。○壯子時 ヲザカリニと訓み、男ざかり即ち壯年時代にの意である。舊訓ミサカリニ。童蒙抄ワカキトキ。考ヲサカリニ。諸書考の訓に從つた。『ミサカリハ眞盛《マサカリ》ニテ男盛ナリ』(代匠記精)。『老てむかしを思ひ出てよめるならん。今本の訓いささか誤れり。しか訓べからねば改』(考)。ヲザカリといふ語は面白い語だが、萬葉にはこの一例しかない。壯士《ヲトコ》も(【卷三。三六九・卷九。一七五九】)。丁子《ヲトコ》(卷九。一八〇二)。遠刀古佐備《ヲトコサビ》(卷五。八〇四)。雄自毛能《ヲトコジモノ》(卷三。四八一)などの例がある。そこで、ヲトコニシと訓んでもかまはぬだらう。登時《トシ》の例に據つて時をシと訓んだ。或はヲトコニテとは(141)訓めないだらうか。併しヲザカリの訓はよい。吾盛複復稱變八方《ワガサカリマタヲチメヤモ》(卷三。三三一)。和我佐可理伊多久久多知奴《ワガサカリイタククダチヌ》(卷五。八四七)。等伎能佐迦利乎等等尾迦禰《トキノサカリヲトドミカネ》(同卷。八〇四)。○我度爲 ワレハワタリシと訓んだ。わが渡りしの意。舊訓ワガワタシタリ。古寫本中ワガワタシタル(元・西・温・矢)。代匠記精ワガワタリテシ。童蒙抄ワガワタシタル。ワガワタリタル(新訓同訓)。考ワガワタシタリ。略解ワガワタリシ。古義アガワタセリシ。新考ワガワタリセシ。ここは、代匠記精の、『爲ヲ下ニ置テタルトヨメル例ナシ』と略解訓とを參照して、ワレノワタリシと訓んで見た。然るに他の用例を檢するに、『ワレハ』があるが、『ワレノ』としてさういふ動詞に續けたのはない。そこで、ワガワタリシと略解に從つてもいいが、一音不足するので、ワレハワタリシと訓んだのであつた。
 〔大意〕 〔橋立《はしだての》〕倉梯川《くらはしがは》にあるあの石橋《いはばし》(飛石《とびいし》)よ。自分の男ざかりのころに、嬬《つま》のところへ行くためにしばしば渡つたあの石橋《いはばし》(飛石)よ。
 〔鑑賞〕 倉椅川の川の中の飛石について回顧的になつかしむ歌であるが、どうして懷かしむかといふに、戀人をば機縁として居るからであつて、その點が後世の敍景歌、或は支那山水畫的な靜觀の趣とちがふ、人間的な素朴性を有つてゐるのである。既に引用したこの卷の、『年月もいまだ經なくに明日香河《あすかがは》湍瀬《せぜ》ゆ渡しし石走《いはばし》もなし』(卷七。一一二六)といふ歌は、明日香河の瀬の變遷(142)を歌つてゐるが、その背後にはやはりその石橋を渡つてかよつたといふことが暗指せられてゐるのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八四〕
  橋立《はしだて》の倉椅川《くらはしがは》の河《かは》のしづ菅《すげ》我《わ》が苅《か》りて笠《かさ》に編《あ》まなく川《かは》のしづ菅《すげ》
  橋立 倉椅川 河靜菅 余苅 笠裳不編 川靜菅
 
 〔語釋〕 靜菅《しづすげ》といふのは菅《すげ》の一種で、笠に編んだものだから、ヒロハノヤハラスゲ(數珠菅《じゆずすげ》)、或はコジユズスゲあたりではなからうか。川邊にあつて、シヅの形容の附くのだから、廣葉軟菅《ひろはのやはらすげ》はそれを示してゐるやうにおもふ。或は古義で石著菅《しづきすげ》と云つてゐるやうに、『石に生ふる』意で菅の種類の名でないのかも知れない。併し原文は靜の字を書いてあるからその氣特があるとおもへる。略解では下菅《しづすげ》の意で菅の小さいのをいふかといひ、新考では、倭文《しづ》菅の義で、縞《しま》のある菅だらうと云つてゐる。菅は莎草《かやつりぐさ》科の草で種類がなかなかある。併し古は小菅《こすげ》とか眞菅《ますげ》とか七相菅《ななふすげ》とか、或は地名を入れて三島菅とかいふ言ひあらはし方があつても、大體皆スゲと云つてゐたも(143)のと見える。音通でスゲともスガとも云つた。菅《すが》の根《ね》、菅薦《すがごも》、菅笠《すげがさ》、菅疊《すがだたみ》、菅枕《すがまくら》などの語も其處から出てゐる。和名鈔に、唐韻云、菅、音※[(女/女)+干]字亦作v※[草がんむり/間]、須計。爾雅に、臺、夫須、註、鄭箋詩云、臺(ハ)可3以爲2禦v雨笠1云々とある。古事記に、夜多能比登母登須宜波古母多受《ヤタノヒトモトスゲハコモタズ》。また、須賀多多美伊夜佐夜斯岐弖《スガタタミイヤサヤシキテ》などとあるをはじめ、萬葉にも用例が多い。古來實生活に用途の多かつたもので、それが後世は栽培までした。大和本草に、『スゲハ水草、葉ニカドアリテ香附子ノ葉ノ如ニシテ長シ。笠ニヌフ。近江伊勢多ク水田ニウヘテ利トス。他州ニモ多クウフ』とある。なほ、このシヅスゲについて、代匠記精に、『靜菅ハ下枝ヲシヅエト讀如ク、水隱ナルヲ下菅《シヅスゲ》ト云ニ、靜ノ字ハ借テカケルニヤトモ意得ツベキヲ、上ニ古事記ヲ引シ如ク、仁徳天皇ノ御歌ニモ矢田皇女ヲ矢田ノ一本管ト云ヒテ、アタラスガシ女トヨソヘサセ給ヒ、此集第十一ニハ、靜子ガ手玉ナラスモトヨメルモ沈靜《シメヤカ》ナル人ヲ云ナルベケレバ、今モ靜字ノママノ意ニテ、菅原ハコト草木ノヤウニ風ニモサハガデシナヒテタテルヲ靜子《シヅケコ》ニヨソヘタルカ。神樂ノ小前張ニ、シヅヤ小菅、鎌モテ刈ラバ、生ヒムヤ小菅ト云ヘルハ今ト同ジキカ、異ナルカ、イマダシラズ』と云つてゐる。
 〔大意〕 一首の意は、倉椅川の水邊に生えて居るしづ菅《すげ》よ。折角われは刈つたけれども、笠に編まずにしまつた、そのしづ菅よ。といふくらゐの意である。
 〔鑑賞〕 表面は水邊の菅ぐさについて咏歎してゐるのが、實は寄v菅の戀愛情調の歌である。(144)代匠記精に、『刈ハ刈テ笠ニハイマダアマズト云ヘル歟。又カラヌサキニ刈テモアマズト云ヘル歟。第十一ニ編《アマ》ナクニ刈ノミカリテ、第十三ニアマナクニ伊刈持來トヨミタレバ初ノ義ナリ。刈ヲバ契約ニ譬ヘ、アマヌヲバマダ逢見ヌニ譬フ。或ハ刈ヲ相見ルニタトヘ、笠ニアマヌヲ妻トエセヌニタトヘタルニモ有ベシ』と云つてゐるのは、考察が細かでよい。これは矢張り第一の方の意味で、『折角刈つたが』といふ意であり、『妻として思を遂げることが得ない』といふ意であらうとおもふ。契沖が既に云つたが、なほ念のために歌を書くならば次の如くである。
   三島菅《みしますげ》いまだ苗なり時待たば著《き》ずやなりなむ三島菅笠《みしますががさ》 (卷十一。二八三六)
   み吉野の水隈《みくま》が菅《すげ》を編まなくに苅りのみ苅りて亂りなむとや (卷十一。二八三七)
   階立《しなた》つ筑摩狹額田《つくまさぬかた》息長《おきなが》の遠智《をち》の小菅《こすげ》編《あ》まなくにい苅り持ち來《き》敷かなくにい苅り持ち來て置きて吾を偲《しぬ》ばす息長の遠智の小菅 (卷十三。三三二三)
   人皆の笠に縫ふとふ有間菅《ありますげ》在りて後にも逢はむとぞ思ふ (卷十二。三〇六四)
   託馬野《つくまぬ》に生ふる柴草《むらさき》衣《きぬ》に染《し》めいまだ著《き》ずして色に出でにけり (卷三。三九五)
 
(145)          ○
 
〔卷七・一二八五〕
  春日《はるび》すら田《た》に立《た》ち疲《つか》るう君《きみ》は哀《かな》しも若草《わかくさ》の※[女+麗]《つま》無《な》き君《きみ》が田《た》に立《た》ち疲《つか》る
  春日尚 田立羸 公哀 若草 ※[女+麗]無公 田立羸
 
 〔語釋〕 ○春日尚 舊訓ハルヒスラ。古寫本中ハルヒナヲ(元)の訓もあり、童蒙抄ではハルヒフルと訓んだ。スラは一事を示して他も同樣であらうと類推せしめるのであるから、『春日』が重く用ゐられてゐる。春の和かな日にすらといふこととなる。○田立羸 舊訓タニタチツカル。古寫本中タニタチヤスル(古・神・元)の訓もある。この※[瀛の旁]羸は通用せられたものか。類聚名義抄には、〓羸にツカル、ヤス二つとも訓がある。併し、この歌の場合はツカルの方が適切であるだらう。○公哀 舊訓キミハアハレ。古寫本中、キミヲアハレ(古・神)。キミヲアハレヤ(元)等の訓もある。代匠記精キミハカナシモ(諸注釋書從之)。○田立羸 結句の、『田立羸』も古寫本中、タニタチヤセム(古)。タニタチヤセヌ(神・元)等の訓がある。ツカルの用例は、卷七(一二八一)に、君爲手力勞織在衣服斜《キミガダメタチカラツカレオリタルキヌゾ》。卷十一(二六四三)に、玉曳之道行疲《タマボコノミチユキツカレ》がある。
 〔大意〕 一首の意は、この和《のど》かな春の日にすら、終日田に働き疲れる君は悲しい。妻も持たずただ獨りで田に働く君は疲れるといふ意である。
(146) 〔鑑賞〕 この歌も、田で男女相連れて働く時などに歌ふのに適する歌のやうである。特に、『田に立ち疲る』を二度繰返して調子を取つて居るのは、古代歌謠のいいところで誠に棄て難い味ひがある。そして誰もこの歌を人麿作とは想像もしないだらうと思ふが、また人麿作とするのを否定し得る反證もないやうである。それだから、人麿がある機會に、かういふ歌謠風なものを作る氣特で作つたとも想像し得るのである。それほど此の歌には好いところがある。第二句の、『疲る』のところの續きは、自動詞下二段の終止形だとおもふが、連體形として使つたのだとする説(新考)がある。併し、この第二句は小休止を置いて味ふことが出來るのだから、普通終止形として論じてかまはぬとおもふ。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八六〕
  山城《やましろ》の久世《くぜ》の社《やしろ》の草《くさ》な手折《たを》りそ己《わ》が時《とき》と立《た》ち榮《さか》ゆとも草《くさ》な手折《たを》りそ
  開木代 來背社 草勿手折 己時 立雖榮 草勿手折
 
 〔語釋〕 ○開木代 ヤマシロノと訓む。山城國のことである。開木をヤマと訓ませることに就(147)て代匠記精に、『開木ハ第六ニモ百木成山トヨメル如ク良材ヲ出ス故ナルベシ』といひ、代をシロと訓むにつき、代匠記には、「山背ヲ今ノ如クカケルハ代ハ背ニ假テカケリ』といひ、考には、『代と云は地をならすを云。異國に代を田地の事とす、しかれば代は地を平《ナラ》すなり。紀(聖武)天平七年遷新京代山開地以造室とある是なり。かく字を借て書るも紀の文の意にや』とあり、古義に、『按(フ)に代《シロ》は、網代《アジロ》、苗代《ナハシロ》などの代《シロ》にて、その設《マウケ》にする地をいふことなれば、木を伐り出す設にする地を、ヤマシロといひしより、開(ク)v木(ヲ)代と書るならむか。されば代(ノ)字に連ねて意をとるべきか』とあるのに據つて大體が分かるとおもふ。この『代』は『伐』(細・無)と書いたのもある。また此處の訓も、古寫本中、サキカハリ(元・神・古)とあるのもあれば、ヤマシロノ(西・細・温・京)とあるのもある。○來背社 クゼノヤシロノと訓む。久世《くぜ》の神社といふ意。久世社は山城國久世郡久津川村大字久世にある。久津川は和名鈔に久世郡久世とあるところで、久世・津屋・平川の三村の三字をとつて新に造つた村名である。代匠記精に、『今按クゼノヤシロノト讀ベシ。延喜式神名帳ニ山城國久世郡ニ大社十一座小社十三座ヲ載ス。大社十一座ハ石田神社一座、水《ミ》主神社十座ナリ。石田神社ハ此集ニ別ニ名ヲ出シタレバ、水主神社ヲ來背社《クセノヤシロ》トハ云ナルベシ』と云つてゐる。舊訓ヤシロニであつたのを代匠記精でヤシロノと訓んだ。○草勿手折 クサナタヲリソと訓む。草な手折《たを》りそである。卷五(八八六)に、道乃久麻尾爾久佐太袁利《ミチノクマミニクサタヲリ》。卷十(二一八八)に、(148)妻梨木乎手折可佐寒《ツマナシノキヲタヲリカザサム》。卷十八(四一一一)に、波都婆奈乎延太爾多乎理弖《ハツハナヲエダニタヲリテ》。卷十九(四一九七)に、吾標之野邊之山吹誰可手乎里之《ワガシメシヌベノヤマブキタレカタヲリシ》。○己時 ワガトキトと訓む。己《わ》が時と、即ち自分の時を得ての意。舊訓オノガトキであつたのを、古事記傳でワガトキトと訓んだ。新考に、『己時は眞淵、宣長(記傳卷三十六【二一五五頁】)の説に從ひてワガとよむべし。オノガといふべきをワガといへる例少からず。草ガオノガ時ト立榮ユトモといへるなり』と云つた。この古事記傳の説といふのは、斯賀《シガ》(萬葉卷五の愛久志我可多良倍婆《ウツクシクシガカタラヘバ》等)は曾賀《ソガ》(曾賀波能《ソガハノ》即ち其《そ》が葉の)といふ意味であるのを、契沖が己之《サガ》と同じ意味だとしたのは誤で、己之はオノガ、ワガといふ意だといふのである。『己之は皆師も云れたる如く、和賀《ワガ》と訓て宜きを、いかなる由にてサガとは訓けむ。いと心得ず。且《ソノウヘ》右の、己之は皆字の如く、おのがと云意、我之《ワガ》と云意なれば、斯賀《シガ》と云とはいささか意異なるをや』といふのである。然るに古義ではやはりシガと訓み、『舊訓にオノガトキとあるはわろし』。『シガは、それがと云意にも、又汝がと云意にもかよひて聞ゆる言なり』と云つた。○立雖榮 タチサカユトモと訓む。草が立ち榮ゆともで、その別に掛想した女が時を得て榮ゆともと云つたものであらう。卷六(九九〇)に、神佐備立而榮有千代松樹乃《カムサビタチテサカエタルチヨマツノキノ》。卷十八(四一一一)に、於非多知左加延波流左禮婆《オヒタチサカエハルサレバ》。卷十九(四一六九)に、松柏乃佐賀延伊麻佐禰《マツカヘノサカエイマサネ》。卷十九(四二四一)に、梅花榮而在待還來麻泥《ウメノハナサカエテアリマテカヘリクルマデ》。卷十九(四二一一)に、春花乃爾太要盛而秋葉之爾保比爾照有《ハルハナノニホエサカエテアキノハノニホヒニテレル》などの例がある如く、草が(149)立派に茂ることを示して居る。
 〔大意〕 山城《やましろ》の久世《くぜ》の社《やしろ》の草をば手折《たを》りなさいますな。縱ひ時を得がほに美しく生茂つて居らうとも、その草を手折つてはなりませぬ。この歌には上の如き表面の意味以外に寓意があつて、恐らく人妻に彼此觸れてはならぬといふのであらうか。略解に、『社をもて言ふを思へば、主有る女に係想《ケサウ》するとも、あながちなる行《ワザ》なせそと言ふなるべし』と解して居る。
 〔鑑賞〕 寓意は大體さうであらうが、一首の氣持は民謠的であり、或は祭などの時に共に歌ひ、大歌などの如く實用的であつたものかも知れない。次にこの歌で、『な手折りそ』といふのは、一般からさういふのか、或は、或る一人の女でもゐて嫉ましく思つてさういふのか。民謠的だとすると、一人の女がいふのではないこととなる。契沖はこの歌を次の如くに解してゐる。『此歌ノ意ハ久世郡ノ大領ナドノ時ヲ得タルガ、郡ノウチニ賤シキ者ノ顔ヨキ妻ヲモテルヲ犯サムト謀ル時、彼夫ノ、主アル女ヲ社ノ草ニタトヘテ罪ナ犯シソト云コトヲ草ナ手折ソトヨメルニヤ。木ヲ云ハズシテ草ヲ云ヘルハ賤シキヲ譬フルナリ。【中略】モシハ、此歌ハ彼賤シキ者ノ妻ノ節ヲ守テ、ミヅカラノ身ヲ社ノ草ニ喩ヘテ人ヲサトセル歟』と云つてゐる。つまり契沖の考では、この人妻の夫《をつと》が歌つたものか、或はその人妻自身が歌つたものかと考へて居り、己《わが》時《とき》を得て榮えたといふのは大領か何かで、草が榮えたのでは無いことになる。また古義では、『歌(ノ)意は、山城の來背(ノ)社の草(150)は、神の領《シリ》賜ふ地の草にて、その恐あれば、謾に手折ることなかれ、たとひ己(ガ)時と、時を待得て立榮(エ)のびて、折まほしく思ふとも、堪忍《シノ》びて手折ることなかれ、と反覆《カヘサ》ひいひて戒たるなるべし、此は社をもていへるを思ふに、主ある女に思ひをかくる人あるに、しかけさうはするとも、あながちなるわざなせそ、たとひしがときと女のみさかりの時を待得て榮ゆるを愛しくは思ふとも、主ある女なれば、あながちなるわざをすることなかれ、と深く戒めたるか』と云つて居るのが大體よいやうである。ただ古義では己時をシガトキと訓んでゐること前記のとほりである。
 己時《ワガトキ》といふ表現も特色がある。トキといふ語の入つた萬葉の用例は、卷二(一九九)に、木綿花乃条時爾《ユフハナノサカユルトキニ》。卷三(三九八)に、將成時爾事者將定《ナリナムトキニコトハサダメム》。同卷(四七五)に、彌日異榮時爾《イヤヒケニサカユルトキニ》。卷九(一七〇五)に、殖木實成時片待吾等叙《ウエシキノミニナルトキヲカタマツワレゾ》などである。但し、ワガトキ、オノガトキと續けたものはない。
 なほ、卷十一(三二六二)に、『山城《やましろ》の久世《くぜ》の若子《わくご》が欲しといふ余《わ》をあふさわに吾を欲しといふ山城の久世』といふのがあつて、似たところがあるので、契沖は、『此歌ヲ思フニ人丸ノ歌ニハアラデ、今ノ歌ト共ニ同ジ女ノヨメルニヤ』と云つてゐる。ひよつとせば對歌であるかも知れない。人麿が民謠風に作つたものか、或はある女の作つたものが人麿歌集に收録されたものか、斷定はむづかしい。
   神樹《かむき》にも手は觸るとふをうつたへに人妻といへば觸れぬものかも (卷四。五一七〕
(151)   君に似る草と見しより我が標《し》めし野山の淺茅《あさぢ》ひとな苅りそね (卷七。一三四七)
葛城の高間《たかま》の草野《かやぬ》はや領《し》りて標《しめ》指《さ》さましを今ぞ悔《くや》しき (卷七。一三三七)
   眞珠《またま》つく越《をち》の菅原《すがはら》吾が取らず人の苅らまく惜しき菅原 (卷七。一三四一)
 かういふ歌は、皆、草に寄せておもひを抒べた歌で、女と婚することを、草を苅ることにしてゐる。これは當時は草を苅ることが常に行はれてゐた證據であり、歌の趣は宮廷的でなく、平民的野趣的である。民謠的效果は其處に本づくのである。
 追記 井上通泰博士云。『萬葉集卷七なる來背社は、今の久世郡久津川村大字久世の郷社久世神社では無くて、山城志及日本地理志料に云へる如く、今の久世郡寺田村大字寺田の府社|水産《ミト》神社であらう。又ヤマシロノ來背社草ナタヲリソの第二句は、六言にクセノモリノと訓むべきであらう』云々。(アララギ二十九の七。昭和十一年七月)
 
          ○
  〔卷七・一二八七〕
  青角髪《あをみづら》依網《よさみ》の原《はら》に人《ひと》も逢《あ》はぬかも石走《いはばし》る淡海縣《あふみあがた》の物《もの》がたりせむ
(152)  青角髪 依網原 人相鴨 石走 淡海縣 物語爲
 
 初句アヲカヅラ(代匠記初)。第二句ヨサミノハラノ(舊訓)。ヨサミガハラノ(管見)。ヨサミノハラニ(代匠記精)。第三句ヒトニアヘルカモ(舊訓)。ヒトモアヘカモ(代匠記精)。ヒトニアハンカモ(考)。ヒトモアハヌカモ(略解宣長訓)。第四句イシハシル(舊訓)。イハハシル(代匠記精)。イハバシ(考)。イハバシノ(略解)。第五句アフミノカタノ(奮訓)。アフミアガタノ(代匠記初)等の訓があつた。青角髪《あをみづら》は枕詞であるが、元は地名から來てゐること『ササナミノ』などと同じである。童蒙抄に、『青角髪。青海面といふ義にて參河の地名也。碧海郡の依網の地名をよみたる也』といひ、古義に、『さてここに角髪と書るは借(リ)字にて、依網《ヨサミ》は碧海郡なれば、碧海面《アヲミヅラ》依網《ヨサミ》といへるなるべし、と門人南部(ノ)嚴男いへり。さもあるべし』と云つてゐるのでその大體がわかる。依網原は前言のごとく參河國碧海郡にあり和名鈔に見えてゐる。考では河内國丹比郡の依羅《ヨサミ》としてゐるが、さうではない。『人に逢はぬかも』は人に逢はぬことかな、逢ひたいものであるといふ使ひざまである。
 一首の意は、參河國の依網《よさみ》の原を歩きつつある、恐らく親しんで居た近江を去つて東國へ向ひ、下りつつあるのであつただらう。然るに知つた人に誰一人逢はないことである。誰かに逢ひたいものだ。さうすると任國であつた親しい近江縣の事でもいろいろ物語つて心を遣りたいものだと(153)いふのである。略解では、『アガタは官人の任所を言へり。此歌は、近江國の司、下る道、參河のよさみの郷にて詠めるなりと言へり』云々といつてゐるのに大體從ふべきか。淡海縣はやはり近江縣と看てよく、それから、以上は任にあつた縣《あがた》(郡)の役人の歌として解したが、必ずしも國司などの役人の歌とせずに旅人の歌としても解釋がつくのではなからうか。借りにこの歌を人麿に關係あるものとせば、人麿は近江に關係があるから、近江を去り東國の方へ行きつつあつて、近江を戀しく思つてゐた時の歌と看做してもいいのである。古義ではこの淡海縣を遠江縣と解し、任はてて京へ上る道中自分の任國であつた遠江のことを物語らうといふのだと解してゐる。併しこれは近江としても解釋が出來るからやはりその方がよからう。ただ古義で、『實は思ふ人に逢まほしきを、さとはいはで、ただおほよそにいへるなり』と云つてゐるのは、この歌には何處かにさういふ抒情詩的な東歌《あづまうた》などに通ずるやうな調べがあるためである。さうして見れば、任國云々とむづかしくいはずに、旅人などの共通の心理から咏まれたものと解していいのである。ただ地名が二つも明らかに記されてゐるから必ず其處を通りつつ咏んだものと解していいだらう。代匠記精撰本に、『歌ノ意ハ、ヨサミノ原ヲ行ニ、アハレ逢人モガナ、我戀シキ人ノ住碧海郡ノ物語ヲダニセムトナルベシ。前後ノ歌皆戀ナルヲ以テミルベシ。定家卿ノ歌ニ、思ヒ餘リ其里人ニ事問ム同ジ岡部ノ松ハ見ユヤト。此意ト同ジカルベキニヤ』と云つてゐるのは、契沖は淡海縣《あふみあがた》を碧海(154)郡《あをみのこほり》と解してゐるので其點は具合が惡いが、この歌を戀歌として抒情詩的の動機から咏んだと解したのは流石にいい。
 この歌を、近江を去つて東國へ行きつつ、その近江を忘れがたく、人に逢つて近江の事を物語らうといふやうに解した。そして少し不自然な感じのやうにも思つたが、『物語せむ』といふ句は能働的な云ひ方だからどうしても右のやうに解せねばならず、また萬葉には、『忘るやと物語して意《こころ》遣《や》り過ぐせど過ぎず猶戀ひにけり』(卷十二。二八四五)といふのがあり、これはやはり自分から物語しようといふ能働的な云ひかたである。若し近江縣のことをいろいろ聽きたいといふことになると所働的になり、例へば、『この頃は來てのみぞまつ郭公しばし都のものがたりせよ』(後拾遺)。『昔見しあるじ顔にも梅がえの花だにわれに物語せよ』(金葉)などの氣特になるのである。若しこの所働的な云ひ方だとせば、しばらく東國の方に行つてゐて京の方へ上りつつあり、今依網が原を寂しく通つて戀しい近江の樣子をいろいろと聽きたいといふことにもなるが、この歌はやはり能働的ないひ方で、物語つて、『心を遣る』方に解釋しても説明がつくから以上のごとくに解釋したのである。新考もさう解釋してゐることを知つたが、やはり任國云々として居るから、愚按ではもつと素朴に解したいのである。
 
(155)          ○
 
  〔卷七。一二八八〕
  水門《みなと》なる葦《あし》の末葉《うらは》を誰《たれ》か手折《たを》りし吾背子《わがせこ》が振《ふ》る手《て》を見《み》むと我《われ》ぞ手折《たを》りし
  水門 葦末葉 誰手折 吾背子 折手見 我手折
 
 〔語釋〕 ○水門 ミナトナルと訓む。舊訓ミナトナル。代匠記精に、『初ノ句ハ、今按ミナトノアシノウラハヲトモ讀ベシ』といひ、略解以下古義等の諸書殆ど其に從つた。私も一たび其に從つて訓んだが、二たび考へて、舊訓の儘にして置くこととした。いづれでもいいやうなものの、このあたりの歌はなるべく定型にして訓む方がいいやうである。河口《かはぐち》のことをミナトと云つた。○葦末葉 アシノウラハヲと訓む。舊訓アシノスヱハヲであつたのを、代匠記精でアシノウラハヲと訓んだ。○振手見 フルテヲミムトと訓む。これは舊訓である。略解では、『按ずるに、振の下衣の字を脱せしか。ソデフルミムトと有るべし』といひ、古義・新考等もそれに從つた。實際ソデフルミムトと訓む方が歌が好くなるが、この儘でも理會の出來ないことがないからその儘にして置いた。或は當時の言語では、振手でソデフルと訓ませようとしたのかも知れない。併し、フルテでも素朴で却つて民謠的だと謂ふことも出來る。○我手折 ワレゾタヲリシと訓む。古義(156)で、『手折《たを》りのけしなり』と云つたごとく、見えるのを妨礙するので葦を手折る意味である。
 〔大意〕 一首の意は、河口に生えてゐた葦をぼ誰が折つたのですか。實はあれは私《わたくし》の夫《をつと》が別れのときに振る手が、葦が邪魔をして見えないものですから、夫の振る手を見ようとおもつて、わたくしが折つたのです。といふぐらゐの意で、上が問、下が答といふ具合になつて、旋頭歌の特色を出して居るのである。
 〔鑑賞〕 この歌もまた民謠的で、動作が細《こま》かく、情味をやどして居る點が一般化する傾を持つて居るのである。この歌もまた下の句が女が答へた趣の歌だから、表面は人麿の歌でないこととなるのであるが、民謠風な歌を作る歌人として人麿を認容するなら、人麿がこの歌を作つたとてあへて不思議ではない。ただ是等の歌は、人麿と署名されてゐる歌から見れば、作歌衝動が樂《らく》なだけにその歌の價値も下るのである。
 『袖ふる』といふ例は萬葉に多くあるが、『振る手』、『手振る』といふ例は見つからぬやうである。『てぶり』の例があり、美夜故能提夫利和周良延爾家利《ミヤコノテブリワスラエニケリ》(卷五。八八〇)などがあるが、これは戀愛、別離のときに手を振るのとはちがふ。そこで、略解のソデフル説も相當に活きて來るのであるが、今はフルテヲミムトを活かして、一つぐらゐかういふ使用法があつてもいいことを示すのである。
 この場合の、『葦の末葉《うらは》を手折る』といふのは、邪魔になる部分を折つた趣だから適切なのであ(157)る。ウラハの用語例には、集中になほ、波流敝佐久布治能宇良葉乃宇良夜須爾《ハルヘサクフヂノウラハノウラヤスニ》(卷十四。三五〇四)。池邊乃松乃末葉爾零雪者《イケノベノマツノウラハニフルユキハ》(卷八。一六五〇)。吾門乃淺茅何浦葉色付爾家里《ワガカドノアサヂガウラハイロヅキニケリ》(卷十。二一八六)の三例がある。この歌は、六帖に、『湊なる蘆の若葉をたれ折りし我が背子が振る袖を見むと我ぞた折りし』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八九〕
  垣《かき》越《こ》ゆる犬《いぬ》呼《よ》び越《こ》して鳥獵《とがり》する君《きみ》青山《あをやま》としげき山邊《やまべ》に馬《うま》息《やす》め君《きみ》
  垣越 犬召越 鳥獵爲公 青山等 茂山邊 馬安君
 
 〔語釋〕 ○垣越 舊訓カキコシニであつたのを、略解でカキコユルと訓んだ。『宣長云、垣コユルは、唯だ犬と言はん枕詞なり。歌の意には關はらず』(略解)。○犬召越 イヌヨビコシテと訓む。略解で、『(宣長云)ヨビコシテは、呼令(メ)v來(ラ)てなりと言へり』と云つて居る。また古義ではイヌヨビコセテと訓み、『犬をよび令《セ》v來《コ》而《テ》なり』といひ、新考ではイヌヨビタテテと訓み、『案ずるに越(158)は垣越の越の字のうつれるにてもとはヨビタテテとありしならむ。ヨビタテテは喚ビ催シテといふ事にて、上にも妻ヨビタテテ邊ニチカヅクモとあり』と云つてゐる。或はこのコスは佐行下二段の動詞で、都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》(卷十四。三四五四)。阿利己世奴加毛《アリコセスカモ》(卷五。八一六)。續巨勢奴鴨《ツギコセヌカモ》(卷十。二〇五七)などのコスと同義であらうか。さすれば、オコスの原意となる(【山田氏、奈良朝文法史】)。鳥獵爲公 トガリスルキミと訓む。鳥獵《トリカリ》をする君である。卷十一(二六三八)に、梓弓末之腹野爾鷹田爲君之弓食之《アヅサユミスエノハラヌニトガリスルキミガユヅラノ》。卷十四(三四三八)に、可牟思太能等能乃奈可知師登我里須良思母《カムシダノトノノナカチシトガリスラシモ》。卷十七(四〇一一)に、等乃具母利安米能布流日乎等我理須等《トノグモリアメノフルヒヲトガリスト》などの例がある。鳥獵には弓で獵り、鳥奈美波里《トナミハリ》、鳥網張《トナミハル》の語があるやうに網で獵り、その他|和奈《ワナ》をも使つたかも知れない。犬はこの歌にあるやうに使つたことが明かである。○青山等・茂山邊 アヲヤマト・シゲキヤマベニと訓む。『等』は流布本『葉』だが、古本(西・細・無)に『等』とある。舊訓アヲヤマノ・ハシゲキヤマベニであつたのを、略解補正に、葉は等の誤とし、アヲヤマト・シゲルヤマベニと訓んだ。童蒙抄アヲヤマノ・ハシキヤマベニ。考アヲヤマノ・シゲルヤマベニ。新考は邊は邇の誤とし、アヲヤマノ・ハシゲキヤマニと訓んだ。新訓アヲヤマト・シゲキヤマベニ。この『ト』は、春山跡之美佐備立有《ハルヤマトシミサビタテリ》(卷一。五二)などの『ト』であらう。古寫本中、ハコキヤマヘニ〔元)。ハモキヤマヘニ(古)などの訓もあつた。○馬安君 ウマヤスメキミと訓む。舊訓ウマヤスメヨキミ。童蒙抄ウマイコヘセ(159)コ。略解ウマヤスメキミ。古寫本(元)でムマヤスメキミと訓んだのがある。
 〔大意〕 一首の意は、〔垣越《かきこゆる》〕犬を呼びよこして、鳥の獵をなさる君よ、青々と木の茂つて居る山べに馬を休めなさいまし。
 〔鑑賞〕 この歌も民謠的のもので、妻が勇ましく立派な夫の獵に出づるさまを見て居る趣で、また、少し御休息なさいましといふやうに勞はる心持もあり、そのほかにも見えるやうに、勞作(農業・狩獵等)の動作をあらはしつつ、戀愛情調を漂はせゐるもので、それがやがて一人の獨占でなく民謠情調にひろがる特徴を有つに至るのである。自分の愛してゐる男を見て居る女の心持の出てゐる歌で、これに類する歌が萬葉にも間々あることは既に手抄した如くである。『つぎて見まくの欲しき君かも』(卷十一。二五五四)などもその一例で、女子懷春の情を純眞に露骨に出したものから、いろいろの色調を以て作歌せられてゐるわけである。
 この歌は、六帖に、『垣ごしに犬よびこしてとがりする君青山の葉繁き山べに馬やすめよ君』として載つてゐる。
 
          ○
 
(160)  〔卷七・一二九〇〕
  海《わた》の底《そこ》沖《おき》つ玉藻《たまも》の莫告藻《なのりそ》の花《はな》妹《いも》と吾《われ》と此處《ここ》にありと莫告藻《なのりそ》の花《はな》
  海底 奧玉藻之 名乘曾花 妹與吾 此何有跡 莫語之花
 
 〔語釋〕 ○海底・奧玉藻之 ワタノソコ・オキツタマモノと訓んだが、舊訓ワタツミノ・オキツタマモノ。古寫本中にはワタノソコ・オキノと訓んだのが既にある(元・古・神)。○妹與吾 イモトワレトと訓む。舊訓イモトアレト。代匠記・考・略解等舊訓に從つたが、古義でイモトアレと訓み、新考でイモトワレと訓んだ。然るに校本萬葉では代匠記初稿本にイモトアレと訓んだやうに記してあるのは誤で、校本萬葉の「諸説」といふ部には間々この誤謬のあることはこれまで一々記入しなかつたが、今一言記して置く。今は舊訓に從つてイモトワレトとトを入れて訓んで置く。○此何有跡 ココニアリトと訓む。舊訓ココニアリトナ。代匠記で何は荷の誤でココニアリト。『何ハ荷ト通ズレド唯荷ノ字ナルベシ』と云つた。新訓では、ココニイカニアリトと九音に訓んだ。古寫本中にはココニカアルト(元・古)。ココニゾアルト(神)等の訓がある。ここは何は荷に通ずるか、或は荷の誤としてココニアリトと素直に訓んで置く。○莫語之花 ナノリソノハナで、既に出たとおもふが、和名鈔海菜類に、神馬藻、奈乃利曾、神馬、莫騎《ナノリ》之義也とある。(161)ほだはらともいふ。
 〔大意〕 一首の意は、〔海底《わたのそこ》〕沖の玉藻である莫告藻《なのりそ》の花よ。戀人と己とが、此處に一しよに居るといふことを云つてはならぬぞ、莫告藻《なのりそ》の花よ。
 〔鑑賞〕 つづめて云へば、『妹と吾と此處に有りと名のりそ』といふことになるのであるが、莫告藻に寄する歌であるから、かういふ表現となるので、外面は莫告藻が主になつて、『妹と吾と此處にありと』などといふことは、莫告藻と云はむための誘導敍法であるやうに見えるが、内心では、其處が主で莫告藻が從屬なのである。かういふ戀歌の表現は脈をひいて近世にまで及んだ。單純で無駄のない旨いものだが、人麿が作つたとせば、やはり民謠的な氣分で作つてゐるもので、それだけ輕いわけである。
 次に、『妹と吾と』と『と』を入れて訓ませたのも、相當にいい訓で、古今集卷二十の大歌所御歌に、『水莖の岡の館に妹とあれとねての朝けの|ゆき《イしも》のふりはも』とあるのはこの調べを傳へたものである。そこで、妹與吾手携拂而旦者《イモトワレタヅサハラヒテアシタニハ》(卷八。一六二九)。妹與吾《イモトワレト》(師《シ》)携宿者《タヅサハリネバ》(卷十。一九八三)。妹與吾何事泰曾紐不解在牟《イモトワレナニゴトアレゾヒモトカザラム》(卷十。二〇三六)。妹與吾寐夜者無而《イモトワレ(ト)ヌルヨハナクテ》(卷十一。二六一五)等は同じ書き方であるが、普通イモトワレと訓んだのが多い。併しこの邊のところは聲調に應じて稍自由性があるのではなからうか。高山與耳梨山與《カグヤマトミミナシヤマト》〔卷一。一四)。波流能也奈宜等和家夜度能烏梅能波奈(162)等速《ハルノヤナギトワガヤドノウメノハナトヲ》(卷五。八二六)。乎久佐乎等乎具佐受家乎等《ヲクサヲトヲグサスケヲト》(卷十四。三四五〇)などは、『ト』を二つもつて續けたが、大伴等佐伯氏者《オホトモトサヘキノウヂハ》(卷十八。四〇九四)などは下の『ト』を略して居る。また、吾背子與二人之居者《ワガセコトフタリシヲレバ》(卷六。一〇三九)。古家丹妹等吾見《フルイヘニイモトワガミシ》(卷九。一七九八〕などは、『ト』の必要の無い場合であり、また、孫星與織女今夕相霜《ヒコボシトタナバタツメトコヨヒアフラシモ》(卷十。二〇二九)。牽牛與織女今夜相《ヒコボシトタナバタツメトコヨヒアハム》(卷十。二〇四〇)。天地與日月共萬代爾母我《アメツチトヒツキトトモニヨロヅヨニモガ》(卷十三。三二三四)などは、『與』を一つ書いて、調子のうへで、『ト』を二つ訓んでゐるのである。
 次に、『妹と吾と此處にありと』と、『妹と吾と此處に何《いか》にありと』といづれかといふに、第一の方が素直で自然のやうにおもへる。また萬葉の例でも、多く疑問の場合にイカニと續け、四惠也吾背子奧裳何如荒海藻《シヱヤワガセコオグモイカニアラメ》(卷四。六五九)などが幾らかこの第二の訓の參考になるくらゐに過ぎない。また、妹と二人居て、それが『いかにありと』といふと少しくくどい感を起さしめる。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九一〕
  この岡《をか》に草《くさ》苅《か》る小子《わらは》然《しか》な苅《か》りそね在《あ》りつつも君《きみ》が來《き》まさむ御馬草《みまくさ》にせむ
  此崗 草苅小子 勿然苅 有乍 君來座 御馬草爲
 
(163) 〔語釋〕 ○小子 古寫本中、子が童(古)になつてゐるのもある。古寫本の多くがワラハと訓み、流布本の訓も亦さうである。代匠記では、拾遺集でヲノコとしてゐるのを否としたが、考ではそのヲノコの訓に從つた。略解では、ワラハ、ヲノコ兩方を書き、古義ではコドモと訓んでゐる。小兒等《ワラハドモ・ワクゴドモ》草者勿苅《クサハナカリソ》(卷十六。三八四二)。頸著之童子蚊見庭《クビツキノワラハガミニハ》(卷十六。三七九二。老人毛女童兒毛之我願心太良比爾《オイビトモヲミナワラハモシガネガフココロダラヒニ》(卷十八。四〇九四)などの例がある。○勿然苅 シカナカリソネと訓む。元暦本神田本に勿然苅とあるによつて、『勿』を増補した。○有乍 アリツツモと訓む。その儘での意。在管裳君乎者將待《アリツツモキミヲバマタム》(卷二。八七)。在管裳不止將通《アリツツモヤマズカヨハム》(卷三。三二四)などの例でわかる。
 〔大意〕一首の意は、この岡で草を刈つてゐる童子よ。さうみだりに草を刈つてはなりませぬ。あの方《カタ》が通つておいでになる時、その馬に食べさせるのですから。といふぐらゐの意である。
 〔鑑賞〕 この歌も民謠風のもので、誰が作つてもよく、誰が吟誦してもいいものだが、場面が宮廷を中心とせずに、農民の若い男女間の戀愛を意圖してゐる。そして女の歌の趣であるから、人麿が縱ひ作つても、自分の作と署名しない性質のものである。そしてこの程度の歌ならば、人麿歌集以外のものにも幾つも拾ふことが出來る。小子《ワラハ》は單數に云つてゐるが、複數の童子等として味つてかまはぬ。なほ參考歌としては次の如きものがある。
   佐保河の岸のつかさの柴な苅りそね在《あ》りつつも春し來らば立ち隱るがね (卷四。五二九)
(164)   崗ざきのたみたる道を人な通ひそ在りつつも君が來まさむ避道《よきみち》にせむ (卷十一。二三六三)
この歌は、拾遺集雜下に人丸作とし、『かのをかに草かるをのこしかな刈りそ』云々とある。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九二〕
  江林《えばやし》に宿《やど》る猪鹿《しし》やも求《もと》むるによき白妙《しろたへ》の袖《そで》纏《ま》き上《あ》げて猪鹿《しし》待《ま》つ我背《わがせ》
  江林 次完也物 求吉 白栲 袖纏上 完待我背
 
 〔語釋〕 ○江林 エバヤシと訓む。『江林、名所なるべし。未v勘レ國』(代匠記初)。『江林ハ八雲ニモ載サセ給ヒナガラ、何ノ國ノ注シタマハズ』(代匠記精)。童蒙抄・考・略解等同樣の考であるが、古義では、『淺い林』の義とし、『中山(ノ)嚴水、我(ガ)土佐(ノ)國にて、麓は海にほとり、上は平にして畠など有(ル)、其涯けはしくて林となれる所を、俗にえみと云り。若(シ)古言ならば、江林の江は、このえみと同言にや、此(ノ)えみにやどるししは、取やすければ、求るによきと云か、と云り。按《オモ》ふに、江は、いへばえに、或はえならぬなどいふえは、淺き意なり。されば江林と云も、奥深からぬ林の義なるべし』と云ひ、新考は、『おそらくは江は誤字なるべし』と云つた。併し、これは、『江』(165)は入江《いりえ》などの江で、和名鈔に、古雙反、和名衣で、箋注に、説文を引いて則知江本所v出v自2※[山+(民/日)]1之水名、轉爲2江海字1とある。その河海の水の入り込んだところ、湖水でも同樣で、それを江《え》といふから、その水邊にある林を江林《えばやし》といふのであらう。支那には、河林・谷林・谿林・田林などのほかに湖林といふ熟語があり、江林といふ熟語もある。張九齡の詩句に、江林皆秀發、雲日復相鮮の句がある。さういふ具合に一方は水に面した林であるから、捕へ易いといふので、その説明は古義のとほりでいい。○次完也物 ヤドルシシヤモで宿る猪鹿やもの意。舊訓ヤドルシシヤモ。代匠記初では、『宍を完に作は誤なり。さきにも注せしごとく、日本紀には、獣の字をししとよめり。宍の字はかりてかきたれど、獣も、猪鹿《シシ》とかきたるも、宍によりての名なり』と云つた。併し、古義に、『完は古書に宍と通(ハシ)用(ヒ)たり』といひ、新考もさう證明したのをおもへば、必ずしも完を宍に改める必要がないわけである。略解で、『宣長云、次は伏の誤』と云つてフセルシシヤモの訓をあげた。『次』は、支那でヤドルの義であり、王|次《ヤドル》2于河朔1などとあり、旅次は宿舍の義であるからそれを我國でも使つて、景行紀に、『天皇初め賊を討たむとして柏峽《かしはを》の大野に次《やど》りたまふ』とあり、そのほかにも數例ある。○求吉 舊訓モトメヨキ。代匠記精モトムルニヨキ。童蒙抄ネラヒヨキ。略解宣長訓(求吉は來告の誤)キヌトツゲケム。そのうちで代匠記の訓は一番好い。卷二(二〇八)に、殊乎將求山道不知母《イモヲモトメムヤマヂシラズモ》。卷三(二六七)に、牟佐佐婢波木末求跡《ムササビハコヌレモトムト》。卷十(一八二六)(166)に、春之在者妻乎求等《ハルサレバツマヲモトムト》。卷十四(三四一五)に、多禰物得米家武《タネモトメケム》などの例がある。○袖纏上 ソデマキアゲテと訓む。代匠記精に、『袖マキ上テトハ、マクリ手シテ待意ナリ。第十三云、峯ノタヲリニ射目タテテシシ待カコト云々。孟子曰。晋人有2馮婦者1、善搏v虎、有v衆逐v虎(ヲ)、望2見馮婦(ヲ)1※[走+多]而迎之、馮婦攘v臂下(ル)v車(ヨリ)』とあるによつて大體わかる。
 〔大意〕 あの江《え》にのぞむ林の中に宿《やど》つてゐる猪鹿《しし》は捕へるに都合よいのか。〔白妙《しろたへの》〕袖をまくりあげて、猪鹿の出るのを待つ私の夫よ。勇ましくてよい。
 〔鑑賞〕 この歌もまた民謠的で、民衆と云つても大宮のあるやうな都會の情調でなく、山林で働き、狩獵などをする民衆の男女間の一種の戀愛歌である。そして、『白栲の袖まきあげて』などと、男の行動を敍して寫實的であるが、或はかういふ種類のものが却つて都會人の宴會の座などに歌はれるやうになつたものかも知れない。そしてこの歌は女の作つた趣の歌だが、この歌を假りに人麿が作つたものとせば、やはり民謠的歌として旋頭歌の一聯を作つたものであらうか。或は實用的な求めに應じてこの一聯を作つたものであらうか。そのへんの事になると全く想像の範圍になつてしまふ。
 童蒙抄に、『下の心は白妙の袖をまきあげて、妹を待わがせことよめる歌なるべし』といひ、古義に、『裏の意は、女のなびきより來むほどをうかがひて、いまだ言出をもせずして、下待居る男(167)を、かたはらより見ていへるにや』と云つてゐるが、前言のごとく此歌は一つの民謠的歌だから、必ずしも寓意は要らずに、ひろがり得る特徴を有つてゐるのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九三〕
  霞《あられ》降《ふ》り遠江《とほつあふみ》の阿渡川楊《あどかはやなぎ》苅《か》れれどもまたも生《お》ふとふ阿渡川楊《あどかはやなぎ》
  丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊
 
 〔語釋〕 ○丸雪降 アラレフリと訓み、遠つに係る枕詞である。舊訓アラレフル。考アラレフリ。丸雪をアラレと訓むのは、白氣《キリ》、火氣《ケブリ》、重石《イカリ》、戀水《ナミダ》などの書き方と同じく義訓の一つである。次にアラレフリをトホに續けたのは、代匠記では、初稿本に、『音《ヲト》をととのみよむ其例、浪のおとを浪のとといひ、梓弓つまひく夜音《ヨト》などいへり』と云ひ、精撰本には、『今按發句ヲアラレノト讀テ、次ヲフルトホツエノト讀ベシ』と云つた。つまり代匠記初稿本の説ではオトのトに續けたものと解して居る。冠辭考には、『こは古事記に、(允恭の大御歌)佐々婆爾《ササバニ》、宇都夜阿良禮能《ウツヤアラレノ》、多志陀志爾《タシダシニ》、葦泥弖牟能知波《ヰネテムノチハ》てふは、霞の〓《ササ》葉うつ音は、たしたしとも、てしてしとも、はしはし(168)とも聞ゆるを、女ぎみとたしかに相寢する事に、いひよせ給へり。是に依に、今は霰ふりたしといふ意にて、遠つとはいひかけしと見ゆ。とほしとたしと、おのづから音の通ふなり』と云つた。なほ古義では、『強て考(フ)るに、霰零飛打《アラレフリトビウツ》といふ意につづけたるなるべし』と云つてゐる。諸説があるが、霞降る音響を以て説明しようとする意嚮は共通して居る。そして、この枕詞は、トホツ。キシミ。カシマなどに冠らせてゐるから、やはり音響で説明するのが一番よく、トホの場合はトといふのに續けたものと見ていいであらう。○遠江 舊訓トホツエニアル。拾穗抄トヲツアフミノ。代匠記初書入トホツアフミノ。童豪抄トホツアフミノ(考・略解・古義等同訓)。さて此處は何處かといふに、童蒙抄では、遠江の國だとしてゐる。然るに冠辭考に、『遠津淡海の國の事にはあらで、近津《チカツ》淡海國(ノ)高島郡の阿度《アト》河なり。卷九に(高島(ノ)作)高島之《タカシマノ》、阿度河波者《アトカハナミハ》とよみ、三代實録その外にも、ただ近江の國にあと川は見えたり。さてこの遠江は、或説に同じ湖ながら、京より遠き方を、とほつあふみともいふといへるによるべし』と云ひ、久老の信濃漫録に、『遠江にあど河をよみ合せたるいかにぞやおぼゆるに、門人御園常言がいはく、日本靈異記に近江坂田郡遠江の里とあるを見れば坂田郡と高島郡とはもと隣れる郡にてあど川は兩郡に跨る川にてやありけむ。故に遠江《トホツアフミ》のあと川とも竹島のあと川ともよめるなるべしといへり』と云ひ、古義も、『遠江《トホツアフミ》は、中山嚴水が、近江(ノ)國にも遠江《トホツアフミ》と云地あり、そこなりと云るが如し』といつたが、高島郡と坂田郡(169)の點で解決がつかず、『彼(ノ)國の地理知たらむ人に尋ねて、重《さら》に正すべし』と云つた。なほ新考では、縱ひ坂田郡に遠江の里といふのがあるとしても、『吾跡川とは風馬牛なり』とし、『近江國のうち、奈良より速き地方をそのかみトホツアフミといひならひしならむ』と云つてゐる。そこで、高島郡の遠江の方が、靈異記の坂田郡遠江よりも確實性が稍大きいといふことになるだらうか。○吾跡川楊 アドカハヤナギで、吾跡《アド》川は卷九(一六九〇)に、高島之阿渡河波驟鞆吾者家思宿加奈之彌《タカシマノアドカハナミハサワゲドモワレハイヘオモフヤドリカナシミ》といふのがあるから、琵琶湖の西、高島郡の南部にあり、安曇川《アドカハ》とも書く。その川邊に生えてゐる川柳をいふのである。和名鈔に、水楊、本草云、水楊、加波夜那岐とあるものである。○雖苅 カレレドモと訓む。舊訓カリツトモ。考カレリトモ。略解カレレドモ(吉義同訓)。新考カレド、カレドモ(新訓同訓)、カリツレド。○亦生云 マタモオフトフと訓む。舊訓マタモオフテフ。考マタモオフチフ(略解・古義・新考同訓)。新訓マタモオフトフ。代匠記に、『戰國策云。今夫楊横樹v之則生、倒樹v之則生、折而樹v之又生(ス)云々』を引用した。『を山田の池の堤にさす楊成りも成らずも汝《な》と二人《ふたり》はも』(卷十四。三四九二)がある。
 〔大意〕 〔丸雪《あられ》降《ふり》〕都から遠い近江の國の高島郡の吾跡《あど》川べりに生えてゐる川楊《かはやなぎ》。苅れどもまたあとからあとから生えてくるといふ吾跡《あど》川の川楊《かはやなぎ》。戀しい心が繼からつぎと湧いてくるのに譬へて愬へた趣の歌である。
(170) 〔鑑賞〕 此の歌の水楊は、かつらにするといふ渡來植物の楊柳樹を指すのではなく、本邦原産のものである。『楊《やなぎ》こそ伐《き》れば生《は》えすれ世の人の戀に死なむを如何《いか》に爲《せ》よとぞ』(卷十四。三四九一)などといふ歌もある如く、寓意を持たしめるのに使つてゐる。この歌もさういふ寓意があるので、代匠記初稿本に、『柳のかれどもまたおふるをいふは、下の心、おもひすててもまたおもはるるにたとへたる歟。しばしいひたゆれど、又おもひかねて、いひかはすにたとふるなるべし』といふので大體分かるとおもふ。やはり民謠的である。なほ、『このごろの戀の繁けく夏草の苅り掃《はら》へども生ひしく如し』(卷十。一九八四)。『吾背子に吾が戀ふらくは夏草の苅り除《そ》くれども生ひ及《し》く如し』(卷十一。二七六九)などの參考歌がある。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九四〕
  朝《あさ》づく日《ひ》向《むか》ひの山《やま》に月《つき》立《た》てり見《み》ゆ遠妻《とほづま》を待《も》ちたる人《ひと》し見《み》つつ偲《しぬ》ばむ
  朝月日 向山 月立所見 遠妻 持在人 看乍偲
 
 ○向山 ムカヒノヤマニと訓む。舊訓ムカヒノヤマノ。古寫本中ムカヒノヤマニ(元・神・西・(171)音)。童蒙抄ムカヒノヤマニ(考・略解以下同訓)。○月立所見 舊訓ツキタチテミユ。古寫本中ツキタテルミユ(元)。ツキタテハミユ(神)。ツキタチテミユ(細・温・矢・京・西)。考(立は出の誤)ツキノイヅルミユ。略解ツキタテルミユ。古義ツキタテリミユ。○持在人 舊訓モタラムヒトヤ。童蒙抄モチタルヒトヤ。考モタラムヒトゾ。略解モチタルヒトシ。『朝づく日』は、朝の日、朝日のことで、『向』に係る枕詞で、實景實感に本づくものであらう。『月立てり見ゆ』は、月が向ひの山の際の空にのぼつて見えてゐる趣である。白雲などの場合にも、『立てる白雲』といひ、霞に『立てる春霞』といひ、樹木などに『立てる室の木』、『立てる桃の木』といひ、現在にさう見えて居るのにタテルと使つてゐる。なほ、『見渡せば向つ峯《を》の上《へ》の花にほひ照りて立てるは愛《は》しき誰が妻』(卷二十。四三九七)は人に使つて居り、現に立つて見えてゐる趣だから、この場合も月がのぼつて居る趣である。『立トハ出ルナリ』(代匠記精)。『月立は月の山の端を立ち上《のぼ》るを言ひて』(略解)。『古(ヘ)は月の出るを立と云り。十一に、味酒之三毛侶乃山爾立月之《ウマサケノミモロノヤマニタツツキノ》云々、十四に、乎豆久波乃禰呂爾都久多思《ヲツクバノネロニツクタシ》、などよめり』(古義)等の解があるが、ツキタツ、タツツキでなくて、ツキタテルだから其處を注意せねばならぬ。寧ろ、『向山に月の出て見ゆれば』(童蒙抄)の穩當なるを取るべきである。
 一首の意は、向の山際の空に月がのぼつた。清い月だ。遠く妻に離れてゐる男等は、あの月を(172)見ながら妻のことを偲ぶであらう。あの月を妻として偲ぶであらうといふ、萬葉に多い聯想をあらはす手段である。背後に、吾に妻なくして寂しいといふ意があるのかも知れないが、そこはあつさりと背後に潜めてしまつて解釋の上には云はぬ方がいいやうである。この歌の場合も、前にも觸れた如く、『見つつ偲ばむ』といふ句がある時に、『何を』偲ぶかといふに、月光を機縁として、『遠妻を』偲ぶといふのである。
 これも誠に快い歌で、民謠的な一種の戀歌と看做していい。このあたりにある雜歌にせよ譬喩歌にせよ一般化し得る傾向の戀愛歌つまり民謠風のものが多いのである。そして皆相當に旨く、實際の事物を取入れ、枕詞乃至序歌の形式を用ゐるにしても、實際的なものを取入れる能力を持つてゐるものが多いことを注意すべきである。そしてこの旋頭歌あたりの歌風はやはり人麿時代か或は人麿以前の風のやうにおもへるもので、その單純なところなどはどうしても萬葉の末期とはちがふのである。
 以上で、『右の二十三首は柿本朝臣人麿の歌集に出づ』といふのを全部評釋した訣である。そして同じ旋頭歌でも、少しづつ變化があつて興味があり、第三句と結句(第六句)で繰返したのもあり、必ずしも繰返さないのもあり、少し變へて繰返したのもあり、順當に續けて行つたのもある。そのへんのことは自然にして且つ自由で、さう規則づくめのやうに窮屈ではない。
(173) それから、此處の二十三首の旋頭歌は殆ど全部一般歌謠的色調を持つたものである。これも亦興味あることであり、卷一、二、三の人麿と明かに署名された歌には、旋頭歌は一首もないのに、人麿歌集中にはかくの如く旋頭歌があるのみならず、卷十一の方にも多いのである。人麿は斯る歌謠として意圖して作つたか、或は一聯として頼まれたか、或は同時代の誰々と共同製作をしたのか。或は人麿とは無關係であるのか。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九六〕
  今《いま》つくる斑《まだら》の衣《ころも》目《め》につきて吾《われ》に念《おも》ほゆいまだ著《き》ねども
  今造 斑衣服 面就 吾爾所念 未服友
 
 譬喩歌。『寄v衣』といふ題のある歌である。以下十五首の歌に就き、『右十五首柿本朝臣人麿之歌集出』と(一三一〇)の歌の後に左注がある。○今造 イマツクルと訓んだが、舊訓イマヌヘル。六帖イマツクル。仙覺の一訓アタラシクスレル。童蒙抄アタラシキ。代匠記初イマツクル。古寫本中イマハヌヘル(元)。○班衣服 舊訓マダラコロモハ。童蒙抄ハダレゴロモノ。略解マダラノ(174)コロモ。○面就 舊訓メニツクト。仙覺一訓メニツキテ。代匠記初メニツキテ。略解宣長訓オモヅキテ。古寫本中メニツケド(類・古)もある。六帖マダラノキヌノオモツキニ。○吾爾所念 舊訓ワレニオモホユ。考ワレハオモホユ。古義アレハオモホユ、ツネニオモホユ。
 一首の意は、今|造《つく》る斑《まだら》の摺衣《すりごろも》は、まだ著ないけれども、いつも目にちらついて忘れることが出來ない。その内の意味は、あの美しい處女は、まだ一しよには寢ないが、目について爲方がない、戀しくて溜まらないといふのである。
 面就をメニツクと訓んだのは、卷一(一九)に、綜麻形乃林始乃狹野榛能衣爾著成目爾都久和我勢《ヘソガタノハヤシノサキノサヌハリノキヌニツクナスメニツクワガセ》があるのを參考としたものともおもふが、古寫本に既にメニツクと訓んで居り、また、佐用嬪面《サヨヒメ》、美奴面《ミヌメ》の如き訓例があるのだから、それがもはや確定的な訓方かも知れない。またオモヅクといふ訓例は萬葉にほかに無いので困るが、六帖にオモヅキと訓んだとせば、オモヅクといふ訓もあつていいやうにもおもへる。面羞《オモナミ》といふあらはし方もあるから、面就《オモヅク》といふ語もあつて、面前にちらついて致方のない趣の表現になると都合がいいとも思ふのである。併しこれはわたくし事である。
 この事物に寄する抒情歌は、民謠的でもあるが、或は問答、贈答として發達して行つたものかも知れない。平安朝に入つてからの好色《いろごのみ》の媒介云々といふのは、多くは贈答の戀歌で、二人の間(175)柄であるから、民謠ほどに一般化する傾向がない。この歌の心持はそれほど狹くはなく、やはり民謠の特質を備へてゐる點が單なる男女間の贈答謌とちがふ點である。
 『しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖|けく《かに》見ゆ』(卷三。三三六)といふ歌も似たところがあるが、この歌ほど譬喩的でなく、もつと實際に即して、ほのかに意を寓してゐる程度であるから、其處が鑑賞のうへからいふと根本の相違になるのかも知れない。
 なほ、『鴨頭草《つきくさ》に衣《ころも》ぞ染《し》むる君がため綵色《いろどり》ごろも摺《す》らむと念ひて』(卷七。一二五五)。『時ならぬ斑《まだら》のころも著欲《きほ》しきか島の榛原《はりはら》時にあらねども』(同卷。一二六〇)。『摺衣《すりごろも》著《け》りと夢《いめ》見つうつつには誰《たれ》しの人の言か繁けむ』(卷十一。二六二一)などの歌は參考となるだらう。
 この歌は、六帖第五「ころも」の部に入り、訓み方の異同は先に示したごとくである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九七〕
ころもし
  くれなゐに衣《ころも》染《し》めまく欲《ほ》しけども著《しる》くにほはばか人《ひと》の知《し》るべき
  紅 衣染 雖欲 著丹穗哉 人可知
 
(176) 譬喩歌。寄v衣歌である。○衣染雖欲 舊訓コロモヲソメテ・ホシケレド。代匠記精コロモソメマクホシケドモ(略解同訓)。童蒙抄キヌハソメマクホシケレド。コロモソメマクホシケレド。考コロモハソメマホシケレド。コロモハソメテホシカレド。古寫本中キホシキヲ(元・類・古)。キホシキニ(神)。ホシケムト(細)等の訓がある。古義コロモシメマクホシケドモ(新考・新訓同訓)。○著丹穗哉 舊訓キテニホハバヤ。仙覺一訓ニホヒヤイデン。童蒙抄キバアカホニヤ。考キナバニノホヤ。古義キテニホハバヤ或はキテニホセバヤ。『按(フ)に、羽者の二字などを脱せるか。さらばキテニホハバヤなり。又は瀬者の二字を脱せるにもあるべし。さらばキテニホセバヤと訓べし。ニホセはニホハセと云が如し』(古義)。新訓シルクニホハバカ。全釋一訓ツキニホハバヤ。今、新訓に從つたが、シルクニホヘヤではならぬにや。○人可知 舊訓ヒトノシルベキ。古寫本ヒトノシルベク(元・古・神)。仙覺一訓ヒトノシルベク。
 紅《くれなゐ》に衣を染《し》むとは、紅《くれなゐ》の花即ち紅花から採つた染料で染めたもので、紅花はベニバナ、クレナヰ、スヱツムハナ、紅藍花、末摘花等といふ菊科植物で和名鈔に、釋名云、※[赤+經の旁]粉、閇邇とあるものである。なほ、辰巳・上村氏(萬葉染色考)に據るに、『口紅《くちべに》とか頬紅とかはこの染料の部分を酢を加へて沈澱させて採つたものである。近世の緋と云ふ色はこの紅花とうこん〔三字傍点〕と云ふ黄染の染料とで染めたものであつて所謂|紅緋《べにひ》である』。『實驗に依れば赤※[草がんむり/見]も鵜冠花《けいとう》も葉鶏頭《はけいとう》もみな同じ種類(177)の色料である。そして此等が衣服の染料としては飛鳥時代あたりに實用されなかつたことは明かである』等とある。
 なほこの染衣の參考歌には、『紅《くれなゐ》の花にしあらば衣手に染めつけ持ちて行くべくおもほゆ』(卷十一。二八二七)。『くれなゐの濃染《こぞめ》の衣《きぬ》を下に著《き》ば人の見らくににほひ出でむかも』(同。二八二八)。『くれなゐの八入《やしほ》の衣《ころも》朝《あさ》な旦《さ》な穢《な》るとはすれどいやめづらしも』(同。二六二三)。『くれなゐの濃染《こぞめ》の衣《ころも》色深く染《し》めにしかばか忘れかねつる』(同。二六二四)。『くれなゐの薄染衣《うすぞめごろも》淺らかに相見し人に戀ふる頃かも』(卷十二。二九六六)。『くれなゐはうつろふものぞ橡《つるばみ》のなれにし衣《きぬ》になほ若《し》かめやも』(卷十八。四一〇九)などがある。
 一首の意は、紅《くれなゐ》の染料をもつて衣を染めたいのだけれども、餘り著《いちじる》しく染めたならば、人に知れて具合が惡いであらうといふ意。あの兒に親しみたいのだが、目だつと困ると寓意があること無論である。
 このニホフといふのは、染めることとなるのだが、種々の色調に使つてゐる。『紅《くれなゐ》の八入《やしほ》に染めておこせたる衣の裾も徹りて濕れぬ』(卷十九。四一五六)の反歌、『くれなゐの衣にほはし辟田河《さきたがは》絶ゆることなく吾《われ》かへりみむ』(同。四一五七)も染める、しみ込ますの意である。『引馬野ににほふ榛原《はりはら・はぎはら》入り亂《みだ》りころもにほはせ旅のしるしに』(卷一。五七)。『住吉《すみのえ》の岸野の榛《はり》に染《にほ》ふれどにほ(178)はぬ我やにほひて居らむ』(卷十六。三八〇一)などの例がある。 この歌は女に親しむことを紅花を以て染めるに譬へたもので、民謠的の歌である。それが人に知れて困るといふやうな心持の歌は相當に多く萬葉にあつて、取りたてていふべき歌ではないが、無理なく順直に歌はれて居る。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九八〕
  かにかくに人《ひと》はいふとも織《お》り次《つ》がむ我《わ》が織物《はたもの》の白麻衣《しろあさごろも》
  干各 人雖云 織次 我二十物 白麻衣
 
 誓喩歌。寄v衣。○干各 カニカクニと訓む。原字『千名』で、舊訓チナニハモ。童蒙抄チヂニナニ。(千各として)トモカクモ。者チヂノナニ。古義、(干各として)カニカクニ。新考、(左右の誤とせば)カニカクニ。古寫本中、名が各になつてゐるものがあるから(古・神)、干各と考へることが出來る。干にカニの訓があり(湯鞍干《ユクラカニ》)、各にカクの訓がある(各鑿社《カクノミコソ》)。意味は、『いろいろに兎に角』といふことになるが、古來訓が一定して居ないので解釋も種々であつた。『ちなにはも。(179)第四卷には、千名《チナ》の五百《イホ》名とよみ、第十二には、百《モモ》に千《チ》に人はいふともとよめり。さまさまに名の立ことなり』(代匠記初)。『一本千各とあり。然らば兎も角もとも讀まんか。十を百は千也。よりてともとよむ。各はかくの音借也』(童蒙抄)。古寫本の訓は、トニカクニ(元・類・古)。チヂノナニ(元、訓ノ右)等である。○織次 オリツガムと訓む。舊訓ヲリツガム。童豪抄オリヤスキ又はオリナメヤ。代匠記精オリツガム。『人はイカニ云トモ織ソメシ布ヲ、ハシタニテヤマズシテ、オリツヅケテ、機ヨリオロス如ク、見ソメシ人ニ志ヲ遂ムトナリ』(代匠記精)。○我二十物 ワガハタモノノと訓む。舊訓ワガハタモノノ。古寫本ワガハタモノハ(類・古・神)。わが織物《はたもの》のの意である。○白麻衣 シロアサゴロモと訓む。舊訓シロアサゴロモ。拾穗抄シロキアサギヌ。古寫本中シロキアサキヌ(類・古・神)、シロアサゴロモの兩訓がある。
 一首の意。人はいろいろと云はうとも、この私の織物の白い麻衣をば織り續けようとおもふ。人等が彼此噂立てていひふらすとも、この方との戀はつづけねばならぬ。
 戀人をば白麻衣《しろあさごろも》に譬へ、戀をつづけることを織り續けることとしたのは、何か作者の女の特質と關聯があるやうな氣がして心を牽く歌である。同じく民謠的であつても、なかなか細かく心が働き、且つ田園に生活するものの間の戀を歌つてゐる點がおもしろい。
 契沖は、これを男の歌として『何クレノ絹ナド、名ノ數ヲ盡シテ云如ク、コナタカナタニクハ(180)シメアリト人ハ云ヒマドハサムトストモ、白キ布ノ如ク事モナキ人ノ見ソメテ久シキニ逢《アヒ》ハテムトヤ』(代匠記精)といふ具合に解釋してゐるが、併しこの歌は、白い麻衣を織次ぐことを歌つてゐるのだから、田園處女の心持であるやうである。鴻巣氏の全釋にも、『譬へ方からいふと女の歌らしい』と云つてゐる。
 參考歌として、『かにかくに人はいふとも若狹道《わかさぢ》の後瀬の山の後も會《あ》はむ君』(卷四。七三七)。『かにかくに物は念《おも》はず飛騨人《ひだびと》の打つ墨縄《すみなは》のただ一道に』(卷十一。二六四八)。『かにかくに物は念はじ朝露の吾が身一つは君がまにまに』(卷十一。二六九一)などがある。
 次にこの歌は、代匠記精に、『發句ヲ拾遺竝ニ人丸集ニハ、チチワクニ改タリ。腰ノ句拾遺ニハオリテキムト改ラル。家集ハ改メズ』と注意した如く、拾遺集に『ちちわくに人はいふとも織りてきむわがはたものに白き麻衣』になつて居る。源實朝の、『おほ君の勅《ちよく》をかしこみちちわくに心はわくともひとにいはめやも』といふ歌は、状況本・定家所傳本によつて、『ちちわくに』が定まつたのであるが、この句は、拾遺集のこの歌を模倣したものである。そして、萬葉古寫本の訓が一つも、『ちちわくに』と訓んでゐないところを見れば、實朝の萬葉調の歌は、萬葉集以外の歌集よりの影響で、定家が實朝に萬葉を贈つた建保元年以前には、萬葉の完本を實朝が所持してゐなかつただらうといふ、私の想像を支持する一つの實例にこの歌がなつて居るのである。なほ、前(181)出のやうに契沖は柿本集にも初句『ちちわくに』とある如くに記してゐるが、類從本柿本集には、『ちちはくに人はいへども』。流布本(歌仙本)柿本集には、『ちちに人はいふとも人はおりつがむわがはたものに白きあさぎぬ』とあり、一本第一二句『ちちにはも人は言ふとも』とある。
 この歌はまた六帖に、『あさごろも』の題で入り、初句『ちなにはも』、結句『白きあさぎぬ』である。それから夫木和歌抄雜十五衣の部には上の句『とにかくに人はいふともおりわかん』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九九〕
  あぢ群《むら》のとを寄《よ》る海《うみ》に船《ふね》浮《う》けて白玉《しらたま》採《と》ると人《ひと》に知《し》らゆな
  安治村 十依海 船浮 白玉採 人所知勿
 
 〔題意〕 譬喩歌。寄v玉。以下五首同樣である。
 〔語釋〕 ○安治村 アヂムラ即ち味鴨《あぢがも》の群で、味鴨は雁鴨科に屬し巴鴨《ともゑがも》ともいふ。その群れてゐるさまをいふ。○十依海 トヲヨルウミで、味鴨等が海の一方に靡き群がり浮ぶさまをいつた(182)ので、しなへ撓み寄る原意から來て居る。卷二(二一七)に、奈用竹乃騰遠依子等者《ナヨタケノトヲヨルコラハ》。卷三(四二〇)に、名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》の例がある。舊訓ナヲヨル。仙覺トヲヨル。代匠記トヲヨル。童蒙抄トヲヨル。考ムレタル。略解トヲヨル。古義ムレヨル。古寫本トヲヨル(【類・神・西・温・細・矢・京】)。トホヨル(元)。『十ヲナヲト點ゼルハ書生ノ誤ナリ。十ハ遠ニ借テ遠奧ノ方ヘサカリ行ヲ云ヘルカ。上ニ朝コグ舟モ奧ニヨル見ユトヨメルハト思フニ、此集ノ假名ノ例、遠ハ登保、十ハ登|乎《ヲ》ナレバ右ノ意ニアラズ。アヂ村ノアマタヨル海ト云ナリ』(代匠記精)。『遠よるの義不v被v用。よりて地名にやあらんと見る也』(童蒙抄)。『十は千の誤にて、ちよるならん、さらばむれたると訓べし』(考)。『トヲヨルは、卷二、なゆ竹の騰遠依《トヲヨル》子ら、卷三、なゆたけの十縁みこなど言ひて、トヲヲ、タワワなど言ふに同じく、撓みしなふさまなり。水鳥の群れ飛ぶもたわみよる如く見ゆるものなれば、あぢむらの群れ飛ぶ列《ツラ》を斯く言へり』(略解)。『或人の考に、十は群(ノ)字の畫の滅失《キエ》たるにて、ムレヨルウミニなるべしといへり』(古義)。『海上に浮べるあぢの村鳥の浪風にすまはずして一方に靡き寄る事とすればトヲヨルにて通ぜざるにあらず。略解に「あぢむらの群飛ぶ列をかくいへり」といへるは從はれず』(新考)等の諸説があつた。新考の説が一番いい。○船浮 フネウケテと訓む。舊訓フネウケテ。古寫本中フネヲウケテ(元)。卷二(二二〇)に、中乃水門從船浮而《ナカノミナトユフネウケテ》。卷十(二〇〇〇)に、天漢安渡丹船浮而《アマノガハヤスノワタリニフネウケテ》。同(二〇七〇)に、天河津爾船泛而《アマノカハツニフネウケテ》等がある。○白玉採・人所(183)知勿 シラタマトルト・ヒトニシラユナと訓む。舊訓シラタマトラム・ヒトニシラスナ。代匠記精シラタマトルト・ヒトニシラルナ。略解ヒトニシラユナ。
 〔大意〕 一首の意は、味鴨《アヂガモ》の群が一方に靡き寄る海に船を浮べて白玉《しらたま》を取らうとすることは人に知られるな。難儀して親しまうとするこの佳い女のことは誰にも分からずに獨占したいといふ心持があり、そこで、寄v玉戀になるのである。
 〔鑑賞〕 この歌に、アヂムラと出したのは、『山の端《は》に味鳧群《あぢむら》騷ぎ行くなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば』(卷四。四八六)といふ岳本天皇の御製があり、その長歌の方にも、『味鳧群《あちむら》の去來《ゆきき》は行けど吾が戀ふる君にしあらねば晝は日の暮るるまで夜は夜の明くる極《きはみ》おもひつつ』(同。四八五)
とあるのについて、契沖も、『アヂ村ノアマタヨル海ト云ナリ。此ヲ以前モアヂ村サワギト有シ如クニ他言《ヒトゴト》ノ云ヒサワグ世ニ喩フ。白玉採ヲバ潜ニ逢ニ喩フ。海ノ底ニカヅキ入テ取レバナリ』(代匠記精)とある如くに、單純な景物でなく、意味をも含めた、象徴詩的にほひのある歌である。さう思つて味ふと、『あぢ群のとを寄る海』といふあらはし方はなかなか旨く且つ確かであるし感味も深い。
 なほ『あぢむら』は、『沖邊漕ぎ邊《へ》に漕《こ》ぎ見れば渚にはあぢむら騷ぎ島廻《しまみ》には木末《こぬれ》花咲き』(卷十七。三九九一)。『あぢ群の騷ぎ競《きほ》ひて濱に出でて海原見れば』(卷二十。四三六〇)などの例の如く、(184)何か騷々しく群がりさわぐ心持で使つて居るのである。
 白玉《しらたま》といふ語も誠に感じのよい語で、普通は、『奈呉《なご》の海部《あま》の潜《かづ》きとるちふ眞珠《しらたま》の見がほしみおもわ』(卷十九。四一六九)のごとく眞珠のことであるが、そのほか美しい小石もいふし、白い珠石のことにも用ゐる。そのことは追々次の歌の時に記すつもりである。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇〇〕
  遠近《をちこら》の磯《いそ》の中《なか》なる白玉《しらたま》を人《ひと》に知《し》らえず見《み》むよしもがも
  遠近 礒中在 白玉 人不知 見依鴨
 
 〔語釋〕 ○遠近 ヲチコテノと訓む。舊訓ヲチコチノ。古寫本中ワタツウミノ(元)。トヲタウミ(神)等の訓もあつた。○礒中在 イソノナカナルと訓む。舊訓イソノナカナル。イソナカニアル(元・類)。○人不知 ヒトニシラエズと訓む。奮訓ヒトニシラセデ。童蒙抄ヒトニシラレデ。略解ヒトニシラエズ。○見依鴨 ミムヨシモガモと訓む。舊訓ミルヨシモガモ。略解ミンヨシモガモ。
(185) 〔大意〕 一首の意は、あちらこちらの海磯にある白玉をば人に知られないで見たいものである。多くの人なかの、この戀しい女に人に知られないやうにして逢ひたいものである。
 〔鑑賞〕 『遠近ハ此方彼方ナリ。遠近トカケルニヨリテ、ツヨクミルベカラズ。玉ノ緒ノヲチコチカネテ結ツルト第四ニ有シニ意得ベシ。誰妻トモマダ定マラヌ意知ベシ』(代匠記精)。『あちこちの磯の見る目多きを人めの繁きにたとへ、かかる中は逢事かたきをなげけるなり』(考)。『イソは石なり。此處彼處《ココカシコ》の石に交りて有る玉と言ひて、是れも女を玉に譬へて、多かる人の中にて、人に知られず、相見ん由も有れかしと言ふなり』(略解)。『集中にヲチコテといへるには遠及近(即今の世にいふ所)と遠或近との二種あり、ここは俗語にソコラといふ意にて、遠近數處の謂にあらず』(新考)等の諸先進の説がある。
 ヲチコチは、所詮諸説が同一に歸著するので、一つの定まつた場處でなく、稍ひろい範圍を示すためにソノアタリニといふ意味でヲチコチといふのだから、契沖説も井上博士説も同じこととなる。ただ井上博士の疑問を起されたのは、白玉が幾つもあるやうに意味を取ると具合が惡いからであらうが、これはヲチコチを、あちこちと解しても白玉が一つであつてかまはぬのである。井上博士の引用せられた、『宇治河は淀瀬無からし網代人舟呼ばふ聲をちこち聞ゆ』(卷七。一三五)も、音響の發源地は必ずしも一點としては聞こえず、ぼんやりすることがあるものだからヲ(186)チコチと云つたものである。そして複數になるか單數になるかは、その主體に依るので、前後の關係で極まるのであらう。
 このヲチコチは、既に人麿の狹岑島の長歌(卷二。二二〇)の時にも解釋したが、なほ二たび引用するならば、卷四(六七四)に、眞玉付彼此兼而言齒五十戸《マタマツクヲチコチカネテイヒハイヘド》。卷六(九二〇)に、大宮人毛越乞爾思自仁思有者《オホミヤビトモヲチコチニシジニシアレバ》。卷十二(二九七三)に、眞玉就越乞兼而結鶴言下紐之所解日有米也《マタマツクヲチコチカネテムスビツルワガシタヒモノトクルヒアラメヤ》。卷十七(三九六二)に、和可伎兒等毛波乎知許知爾佐和吉奈久良牟《ワカキコドモハヲチコチニサワギナクラム》。卷十九(四一五四)に、石瀬野爾馬太伎由吉※[氏/一]乎知許知爾鳥布美立《イハセヌニウマダキユキテヲチコチニトリフミタテ》。卷二十(四四〇八)に、若草之都麻母古騰母毛乎知己知爾左波爾可久美爲《ワカクサノツマモコドモモヲチコチニサハニカクミヰ》などがある。それだから、ヲチコチは空間的の語原から出發して、必ずしもさうでないまでに至つてゐる。
 次に、新考に、『イソは大石なり。古書に石と書きてイソとよませたり。ナカナルは其大石ノ間ナルとなり。【中略】此歌のシラタマは美しき小石なり。鰒珠にあらず』とあるが、卷六(九五一)に、見渡者近物可良石隱加我欲布珠乎不取不已《ミワタセバチカキモノカライソガクリカガヨフタマヲトラズハヤマジ》といふ歌などが參考となるとおもふが、このイソの語も時には必ずしも一つの大石の意でなく、磯の意に解すべき場合もあり、この歌の場合も、磯の中に交つてゐる白玉と解したならどうであらうか。卷四(六〇〇)に、伊勢海之礒毛動爾因流浪《イセノウミノイソモトドロニヨスルナミ》などは磯の意味で間違はなく、卷三(三五九)に、阿倍乃島字乃住石爾依浪間無比來日本師所念《アベノシマウノスムイソニヨルナミノマナクコノゴロヤマトシオモホユ》とあ(187)るのは石《イソ》であるが、これも必ずしも一つの石でなくともいい。卷九(一七二九)に、曉之夢所見梶嶋乃石越浪乃敷弖志所念《アカツキノイメニミエツツカヂシマノイソコスナミノシキテシオモホユ》も石《イソ》であるが、これも一つの石でなく數個あつてもかまはぬので、その邊の自由を保持しつつ鑑賞するのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇一〕
  海神《わたつみ》の手《て》に纏《ま》き持《も》たる玉《たま》ゆゑに磯《いそ》の浦廻《うらみ》に潜《かづき》するかも
  海神 手纏持衣 玉故 石浦廻 潜爲鴨
 
 同じく寄v玉歌で、海神は舊訓ワタツミノ、元暦校本ワタツウミノ。ワタツミは此處は海神《かいじん》のことで、特に海神の手に纏《ま》き持つてゐる玉といつたのは、海神の居る宮には珍寶珠玉が多いからである。卷三(三六六)に、綿津海乃手二卷四而有珠手次懸而之努櫃日本島根乎《ワタツミノテニマカシタルタマダスキカケテシヌビツヤマトシマネヲ》。卷十五(三六二七)に、和多都美能多麻伎能多麻乎伊敝都刀爾伊毛爾也良牟等《ワタツミノタマキノタマヲイヘツトニイモニヤラムト》。卷十九(四二二〇)に、和多都民能可味能美許等乃美久之宜爾多久波比於伎※[氏/一]伊都久等布多麻爾末佐里※[氏/一]《ワタツミノカミノミコトノミクシゲニタクハヒオキテイツクトフタマニマサリテ》などの例がある。
 一首の意は、奥深いところに居る海神が手に纏いて持つてゐる玉を得たいと思うて、かなはぬ(188)心ながらただ磯の浦あたりに水に潜つて居るのである。この海神の持つてゐる珠といふのは、仙覺・契沖等が、母に喩へたのだといふのが自然の解釋であらうか。つまりまだ母がかりの娘で、母に護られてゐる趣であらうか。
 或はこの歌は、人妻を戀ふる歌だとする説、『やんごとなき人に愛でらるる女などを、いたづかはしく戀ふるを譬ふ』(略解)。『ぬしある女なるを、それになほ思ひはなつことをえせずして、心をかけて、いかでとおもひをつくすよしなり』(古義)などもある。併し、さう穿鑿せずに、單に『思ふ人をたやすく手に入るることのなり難きと云ことに喩へたり』(童蒙抄)ぐらゐに解釋する方がいいのかも知れない。
 ここのユヱニはカヅクに續くので、ニヨツテ、ノタメニなどの意で、人嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》(卷一。二一)は戀に係るのである。この歌の場合のユヱも、その玉を得ようとしてそのために潜《かづき》すると續くのである。『玉故《タマユエ》には、玉なるものを、といはむがごとし』(古義)といふのは少し無理である。
 この歌は、六帖に人麿作として入り、四五句『いそのうらわをかつきつるかな』とある。
 
          ○
(189)  〔卷七。一三〇二〕
  海神《わたつみ》の持《も》たる白玉《しらたま》見《み》まく欲《ほ》り千遍《ちたび》ぞ告《の》りし潜《かづき》する海人《あま》
  海神 持在白玉 見欲 千遍告 潜爲海子
 
 これも寄v玉といふ題のある歌である。○見欲 ミマクホリと訓む。古寫本の訓にミマホシミ(元・神・京)といふのがある。舊訓ミマクホリ。○千遍告 チタビゾノリシと訓む。舊訓チガヘリツゲツ。代匠記精チタビゾツゲシ(古義同訓)。童蒙抄チタビノリツツ。考チタビゾノリシ(略解同訓)。
 一首の意は、海神《かいじん》の持つて居る白玉《しらたま》を見ようと欲して、千度《せんたび》も云つたことであつた。潜水《せんすゐ》する海人《あま》は。近づき難い女におもひこがれて、海に潜《くぐ》るやうな息をして幾たびも戀心を愬へる心持を寓したものである。海人《あま》と云つて客看的に云つてゐるが、作歌の動機は、自分を海人に喩へたものに相違ない。
 代匠記初に、『ちかへり告つは、おもふよしをたびたび人にいふなり。かづきするあまは我なり。なかたちをもいふべけれど、右の哥にかづきするかもといへる、すなはちわがことなれば、にはかになかだちとはいふべからず。下に、そこきよみしづめる玉をみまくほりちたびぞ告しかづき(190)するあま(卷七。一三一八)』とあるが、代匠記精に、『千遍告トハ媒スル人ニ我告ル歟。媒ノ彼方ニ告ル歟。次下ノ歌ヲ以テ見ルニ彼處ヘ媒ノ告ルナリ』といひ、考も、『かづきする海人は妹の意なり。此海人に見まくほる事をたびたびおふしつげしといふなり』といひ、略解も古義も大體その説に從うてゐるが、これはさう面倒に解釋すべきではなく、海人は自分のこと、『告《の》る』は心中を愬《うつた》ふることである。その愬ふる相手は媒人などでなくともよく、もつとひろく解すべきである。或は直接その女にむかつて愬ふる心持でもかまはない。『みさご居《ゐ》る荒磯《ありそ》に生ふる名告藻《なのりそ》の縱し名は告《の》らじ父母《おや》は知るとも』(卷十二。三〇七七)。『志珂《しか》の海人《あま》の磯に苅り干《ほ》す名告藻《なのりそ》の名は告《の》りてしをいかに逢ひ難き』(同卷。三一七七)等も參考になり、また代匠記で既に抄した、『底清みしづける玉を見まくほり千遍《ちたび》ぞ告《の》りし潜《かづき》する白水郎《あま》』(卷七。一三一八)は、人麿歌集の歌ではないが、大に似て居るところを見ると、人麿作の流轉民謠化か、或は人麿歌集のこの歌は人麿作で無いか、いづれかであらう。そして共にたいしたものでないこと勿論である。
 『難波津に御船下《みふね》《おろ》すゑ八十楫《やそか》貫《ぬ》き今は榜ぎぬと妹に都氣許曾《ツゲコソ》』(卷二十。四三六三)等について、ノルとツグとの語感を知ることを得ば幸である。この歌は、六帖に載り、第三四句『みまくほしちがへりつげつ』となつて居る。
 
(191)          ○
  〔卷七・一三〇三〕
  潜《かづき》する海人《あま》は告《の》るとも海神《わたつみ》の心《こころ》し得《え》ねば見《み》ゆといはなくに
  潜爲 海子雖告 海神 心不得 所見不云
 
 ○海子雖告 アマハノルトモと訓む。舊訓アマハツゲトモ。童蒙抄アマハノレドモ(略解同訓)。考アマニハノレド。古義アマハツゲレド。新訓アマハノルトモ。○心不得 ココロシエネバと訓む。舊訓ココロヲエズテ。童蒙抄タマヲシエネバ。考ココロシエネバ(略解・古義同訓)。○所見不云 ミユトイハナクニと訓む。舊訓ミルトイハナクニ。考ミユトイハナクニ(略解同訓)。古義ミエムトモイハズ。新考ミエムトイハナク。
 一首の意は、たとひ潜《かづき》する海人《あま》が幾たび告げ愬へても、海神の心を知り得ず、心を計りかねるからして、相見るとはいはれない。つまり、海神の御ゆるしがなければ、お逢ひするとは申されませぬといふ意になる。
 『見ゆ』といふやうな用法は、既に評釋した人麿の、『ほのかにだにも見えぬおもへば』(卷二。(192)二一〇)。『春日野の山邊の道を恐《おそり》なく通ひし君が見えぬ頃かも』(卷四。五一八)。『水莖の岡のくず葉を吹きかへし面《おも》知《し》る兒等が見えぬ頃かも』(卷十二。三〇六八)。『かきつばた佐紀澤《さきさは》に生ふる菅の根の絶ゆとや君が見えぬ此の頃』(卷十二。三〇五二)。『陸奧の眞野の草原《かやはら》遠けども面影にして見ゆとふものを』(卷三。三九六)。『袖振るが見ゆべきかぎり吾はあれど其の松が枝に隱りたりけり』(卷十一。二四八五)等が參考となるだらう。『見ゆ』といふ語が種々の語感の色調を以て用ゐられてゐるからである。
 代匠記初に、『わたつみの心を得ずてとは、領したる人の心をしらでは、あひみること有といはぬものをとなり』。代匠記精に、『海神ノ心ヲ取得ネバ白玉ヲ得ヌゴトク、母ノ心許サヌニ、娘ニ相見ル事ヲ得トハ世ニモ云ハズト佗ル意ナリ』。考に、『こは右の答歌にて、媒がよめるなり。ちぢにのらんとすれど、其おやなど守りつよく、しかも心をしもしり得ねば、媒のなしがてにて、其女に見えよともいはずと云を譬よみしならん』とあり、略解・古義等も大體考の説に同じい。
 この歌は諸説のごとく、前の歌と共に味ふべきもので、答歌の心持であるが、中に媒介者などを置かずに、おほまかに、白玉の答へたうた、つまり戀してゐる女の答へた歌として味へばいい。まだ逢ふことも出來ない、心さへ通ぜぬ女が答へる筈はないといふのは一應の理論であるために、考以下の媒介者があらはれて來たものであるが、ここは代匠記の解釋のやうに、大まかに素直に(193)解釋する方がよく、それが歌の解釋の常道である。ただ代匠記の説は、自分で侘び歎くやうな氣持であるが、これはやはり、娘が答へる氣持として解釋していいやうである。
 この歌も、その前の歌も、海神の持つた玉につき、母に守られてゐる娘か、主ある人妻かといふ説があつたが、母に守られてゐる娘といふ説は、仙覺抄に、『ワタツミヲバ、母ニタトフ。母ノ思ヲ蒼海ニタトフルユヘ也。母ノ手ヲハナタズシテ深窓ノ内ニカシヅキヲキテ、玉ノゴトクニウツクシムユヘ也』とあるのに本づくらしい。
 人麿歌集の寄v玉歌は以上の如くであるが、人麿歌集でない寄v玉歌が載つてゐるから、參考のため數首拔くこととする。訓は皆新訓に據つたのは前と同じである。
   海《わた》の底|石著《しづ》く白玉風吹きて海は荒るとも取らずは止《や》まじ (卷七。一三一七)
   伊勢の海の白水郎《あま》の島津が鰒玉《あはびたま》取りて後もか戀の繁けむ (卷七。一三二二)
   海《わた》の底おきつ白玉|縁《よし》を無《な》み常かくのみや戀ひわたりなむ (卷七。一三二三〕
   葦《あし》の根のねもころ念《も》ひて結びてし玉の緒といはば人解かめやも (卷七。一三二四)
   白玉を手には纏かなくに箱のみに置けりし人ぞ玉《たま》詠《なげ》かする (卷七。一三二五)
   照左豆《てりさつ》が手に纏き古《ふる》す玉もがもその緒は替《か》へて吾が玉にせむ (卷七。一三二六)
などで、皆相當に讀むに堪へるものである。民謠風のものであるから、調子はおのづから一般化(194)する傾向を持つてゐるけれども、其處の一聯の何々に寄すといふ歌は、なかなか凝つたものであるが、奈何なる個人により、奈何なる集團によつて作られたものか、興味あることであるが、私の考は其處までには及び得ない。また、人麿歌集の其等の歌を人麿作と假定すると、人麿歌集でない歌との差別は容易につき難いのみならず、私には不可能のものが多いのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇四〕
  天雲《あまぐも》の棚引《たなび》く山《やま》の隱《こも》りたる吾《わ》が下《した》ごころ木《こ》の葉《は》知《し》るらむ
  天雲 棚引山 隱在 吾忘〔下心〕 木葉知
 
 譬喩歌、寄v木といふ題がある。○隱在 舊訓カクレタル。代匠記精カクシタル。代匠記初書入【校本萬葉】コモリタル。童蒙抄カクラクモ。考コモリタル(略解・古義等同訓)。古寫本中カクルレド(元)。カクレルト(類)等の訓がある。○吾忘 舊訓ワレワスレメヤ。古寫本中ワガワスレメヤ(細)。代匠記初、忘は志の誤。代匠記精ワガココロザシ。童蒙抄、己心の誤でアガカルココロ。又はカリカルココロ。考、忘は志の誤でワガココロヲバ。略解宣長訓、忘は下心の誤で、ワガシタゴコロ(195)(【古義以下同訓但し古義アガ】)。この忘の字は古寫本中(元・類・矢)忌となつてゐるのみで、他は忘であるから、一つも下心と書いたのが無いが、これは確かに誤寫といふことが出來るとおもふから、誤寫説を絶待に否定し得ない一つの好資料である。○木葉知 舊訓コノハシルラム。童蒙抄、知の下に良武の脱漏としてコナバシルラムと訓む。考コノハシルラム(略解同訓)。古義コノハシリケム。
 一首の意は、天雲が棚引いてゐる奧山のやうに隱《こも》つてゐる、外にあらはさぬ苦しい戀心をば、木の葉が知つて呉れるであらう。寄v木歌であるから、木の葉と女とを關聯せしめてゐる趣である。『天雲の棚引く山の』までは、『隱る』にかかる序詞の形式になつてゐるが、それが隱微のあひだに關聯があつておもしろいのである。
 この『木の葉』をば、契沖は、『此モ紅葉ノ色ヨキヲ以テ喩』といつたが、これはさう瞭然と紅葉としない方がいいであらう。集中、『鳥翔《つばさ》なす在り通《がよ》ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ』(卷二。一四五)。『眞木の葉の撓《しな》ふ勢の山|忍《しぬ》ばずて吾が越えゆけば木の葉知りけむ』(卷三。二九一)の例がある。なほ、シタの例では、『隱沼《こもりぬ》の從裏《シタユ》戀ふればすべを無み妹が名告りつ忌むべきものを』(卷十一。二四四一)。『湖葦《みなとあし》に交《まじ》れる草の知草《しりくさ》の人みな知りぬ吾が裏念《シタオモヒ》』(卷十一。二四六八)などがある。
 童蒙抄の訓につき、『然れば吾己の字、皆かりともかるとも讀むなれば、かりかるとは、もとめ(196)えることを云。ここも妹をもとめえるの心なれば、あがかる心とか、かりかる心とかよむべし』(童蒙抄)と説明してゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇五〕
  見《み》れど飽《あ》かぬ人國山《ひとくにやま》の木《こ》の葉《は》をし己《わ》が心《こころ》から懷《なつ》かしみ念《おも》ふ
  雖見不飽 人國山 木葉 己心 名著念
 
 同じく、寄v木といふ題がある。○木葉 コノハヲシと訓んだ。舊訓コノハヲゾ。童蒙抄コナバヲゾ。考コノハヲシ(略解・古義等同訓)。○己心 ワガココロカラと訓む。舊訓オノガココロニ。童蒙抄カルココロカラ。考ワガココロカラ。略解宣長訓、己は下の誤でシタノココロニ(古義同訓)。○名著念 ナツカシミオモフと訓む。舊訓ナツカシクオモフ。代匠記精ナツカシミオモフ(童蒙抄同訓)。考ナツカシミモフ(略解・古義同訓)。
 人國山《ひとくにやま》は、『常ならぬ人國山《ひとくにやま》の秋津野《あきつぬ》の杜若《かきつばた》をし夢《いめ》に見しかも』(卷七。一三四五)で秋津野を前の、人麿の長歌(卷一。三六)の秋津乃野邊と同處だとすると、大和にあることとなり(代匠記・考・(197)略解等)、吉野郡宮瀧附近、吉野川兩岸の平地といふことになるが、地名辭書には紀伊西牟婁郡田邊町北方の地だとし、全釋では、『吉野にその山がなく、却て紀伊の田邊附近にそれがあるやゆに、三十三所圖會に見えてゐる。しかし遽かに信じ難いやうに思はれる』と云つてゐる。意味はヒトクニヤマの音から、即ち人妻に譬へたもののやうである。『他妻をおのが心よりおもふなり』(考)。
 一首の意は、しみじみ見ても飽くことのない人國山《ひとくにやま》の木の葉をば自分の心からなつかしくおもふのである。ひとくに山の名に因《ちな》むひと妻のために獨り戀ひおもうて居るといふ意である。『石走《いはばし》る垂水《たるみ》の水の愛《は》しきやし君に戀ふらく吾が情《こころ》から』(卷十二。三〇二五)。『わが情《こころ》燒くも吾なり愛《は》しきやし君に戀ふるもわが心から』(卷十三。三二七一)等で、ココロカラの用法を類推することが出來る。
 この歌は、譬喩歌であるが、不即不離の融合の具合が旨いので、強ひて譬喩にしたやうなところが目だたず、人國山《ひとくにやま》を機縁にした點が常套手段と謂へば謂はれるけれども、現代の吾等には既に所在も知れぬ山となつてゐるほど朦朧となつて居るのだから、もはや厭味でなくなつてゐる。民謠的に輕いが可憐な歌である。
 ナツカシといふ語も、現代人も使ひ、その語感も生々として繼承して居る。『鳴く鳥のこゑ夏可思吉《ナツカシキ》愛しき妻の兒』(卷四。六六三)。『いや那都可子岐《ナツカシキ》うめの花かも』(卷五。八四六)。『いま見れば(198)山|夏香思母《ナツカシモ》かぜ吹くなゆめ』(卷七。一三三三)。『喚子どりこゑ奈都炊《ナツカシキ》時にはなりぬ』(卷八。一四四七)。『ほととぎす夜ごゑ奈都可思《ナツカシ》あみささば』(卷十七。三九一七)などによつて、その語感を知るべきである。ナツカシミオモフといふ結句は萬葉にただ一つしか無いやうである。『野を奈都可之美《ナツカシミ》ひと夜來にける』(卷八。一四二四)といふ赤人の歌などもあつて、共に味ふことが出來る。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇六〕
  この山《やま》の黄葉《もみぢ》の下《した》の花《はな》を我《わ》がはつはつに見《み》て更《さら》に戀《こひ》しも
  是山 黄葉下 花矣我 小端見 反戀
 
 寄v花といふ題がある。○黄葉下 モミヂノシタノと訓む。舊訓モミヂノシタノ。童蒙抄コノハガクレノ。略解宣長訓モミヂノシタニ。○花矣我 ハナヲワガと訓む。舊訓ハナヲワガ。略解宣長訓、矣は咲、咲花の誤でサクハナヲ、ワレ。古義、右に從ひサクハナヲ、アレ。○小端見・反戀 ハツハツニミテ・サラニコヒシモと訓む。舊訓ハツハツニミテ・カヘルコヒシモ。代匠記精ハツハツニミテ・カヘリテコヒシ。童蒙抄ホノカニミツツ・サラニコヒシキ。考ハツハツニミ(199)テ・カヘルワビシモ。略解宣長訓、反は乍の誤でハツハツニ・ミツツコヒシモ。古義ハツハツニ・ミツツコフルモ。古寫本中ハツハツニミテ・サラニコヒシキ(神)がある。代匠記精で、『今按官本ノ又ノ點ニ、サラニコヒシキトアレドモ、カヘリテコヒシト讀テ』云々といひ採用しなかつたものである。今新訓に從ふ。
 一首の意は、この山の黄葉《もみぢ》の下《した》に咲いてゐる花をかりそめに見たが却つて心戀しくなつてたまらぬ。この美しい女を僅かに見たために却つて戀しいおもひをするのだといふ寓意がある。
 この歌の、『黄葉《もみぢ》の下の花』といふのは、どういふ花か等と細かに詮議しなくともいいのかも知れず、美しい女を暗指するために、黄葉の美しさにまた何かの秋の花を配合して、その心持を強めた手法であらうか。その秋の花といふのを強ひて寫象として考へるならば、龍膽《りんだう》のやうなものであつてもかまはぬが、代匠記精に、『黄葉下花トハ、此ハ小春ノ比暖氣ニ催サレテ梨、櫻、躑躅、山吹ナドノメヅラシク一枝咲コトノアルニ寄タルナルベシ』と云つてある、その反咲きの花のことかも知れないし(新考同説)、其處まで氣を廻したのでなく、ただ漠然と紅葉と花とを配して艶麗を示す手段としたものともおもへる。略解を讀むに、『小春の頃歸り花とて、春咲きし花のともしく咲く事有るを言ふか。又はりうたんの花などを言へるか。何れにもあれ、はつかに見し女に譬ふるなり』と云つて、龍膽の如き秋花を考へたのはおもしろい。
(200) この歌も譬喩歌だかち民謠的であつさりして居る。また、かういふ思想を歌つたものは萬葉にも可なりあり、古今以後にも多い。
   はつはつに人を相見ていかならむ何《いづ》れの日にか又|外《よそ》に見む (卷四。七〇一)
   白細布《しろたへ》の袖をはつはつ見しからに斯かる戀をも吾はするかも (卷十一。二四一一)
   山の端にさし出づる月のはつはつに妹をぞ見つる戀しきまでに (卷十一。二四六一)
   垣越《くへご》しに麥|食《は》むこうまのはつはつに相見し子らしあやに愛《かな》しも (卷十四。三五三七)
   相見ては須臾《しましく》戀は和《な》ぎむかと思へどいよよ戀ひまさりけり (卷四。七五三)
   なかなかに見ざりしよりは相見ては戀しき心まして念はゆ (卷十一。二三九二)
   相見ては戀慰むと人は言へど見て後にぞも戀ひまさりける (卷十一。二五六七)
 次に、この歌調は、『黄葉の下の、花を我が』のところで句割になつてゐる。併し、人麿の歌には、『ひむがしの、野にかぎろひの』(卷一。四八)などの如くに句割の歌もあるのだから、此處にあつてもさう不思議ではなく、この歌をも人麿の作だと想像するなら、人麿は割合に自由にかういふ句割をも敢てしたのだつたかも知れないのである。次にこの歌の結句は、カヘリテコヒシ。サラニコヒシモでいづれが好いかといふに、歌調としてはサラニコヒシモの方が好い。『反』の文字は萬葉にカヘリテといふ訓が多く、人着反而復將見鴨《ヒトハカヘリテマタミケムカモ》(卷二。一四三)。礒之浦爾來依白浪反乍《イソノウラニキヨルシラナミカヘリツツ》(卷(201)七。一三八九)などの如くであるが、古寫本でサラニと訓んだのがあるから、サラニと訓み得ればその方が歌柄がよくなるから、更の草體が反に寫されたものとも想像することも出來、或は反の義訓でサラニと訓んだことともなるのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇七〕
  この川《かは》ゆ船《ふね》は行《ゆ》くべくありといへど渡《わた》り瀬《せ》ごとに守《も》る人《ひと》あるを
  從此川 船可行 雖在 渡瀬別 守人有
 
 寄v川といふ題がある。○從此川 コノカハユと訓む。舊訓コノカハニ。代匠記初書入【校本萬葉】コノカハエ。考コノカハユ。古義コノカハヨ。この從《ユ》はヨリの意だが、行くといふ運動の語に續いてゐるためで、ヲでもなくヨリでもないが、舟で渡つて向うへ行くのでユといふのである。現代語なら、ヲバと譯していいであらう。○船可行 フネハユクベクと訓む。舊訓フネモユクベク。童蒙抄フネノワタシハ。考フネユクベクハ。略解フネハユクベク(古義・新訓同訓)。○雖在 アリトイヘドと訓む。舊訓アリトイヘド。考アリトヘド(略解同訓)。○渡瀬別 ワタリセゴトニと訓(202)む。舊訓ワタルセゴトニ。略解ワタリセゴトニ(古義以下同訓)。○守人有 モルヒトアルヲと訓む。舊訓マモルヒトアリ(代匠記・考同訓)。童蒙抄モルヒトゾアル。略解モルヒトアルヲ(古義同訓)。新考モルヒトアリテ。
 一首の意。この川をば舟で渡つて行くことが出來るといふが、その渡舟場ごとに番人が居るといふではないか。あの女の許へ通うてももう好いのだが、親などが一しよに居るのでさうおもふやうにはいかないといふので、女がすでに心を許したことを、『船は行くべくありといへど』とあらはした。
   逢はむとは千遍《ちたび》おもへど在り通ふ人目を多み戀ひつつぞ居る (卷十二。三一〇四)
   人言の繁き間《ま》守《も》ると逢はずあらば終《つひ》に奴等《やつこら》面《おも》忘れなむ (卷十一。二五九一)
   大王《おほきみ》の界《さか》ひ賜ふと山守《やまもり》すゑ守《も》るとふ山に入らずは止《や》まじ (卷六。九五〇)
   ここだくもわが守《も》るものを慨《うれた》きや醜《しこ》ほととぎす曉の (卷八。一五〇七)
   あしひきの山田作る子|秀《ひ》でずとも繩だに延《は》へよ守《も》ると知るがね (卷十。二二一九)
   白砥掘《しらとほ》ふ小新田山《をにひたやま》の守《も》る山の末枯《うらが》れ爲《せ》無《な》な常葉《とこは》にもがも (卷十四。三四三六)
などある。この歌は、譬喩だから、稍理に陷ちたやうだが、何か諧調音の傳はつて來るものがあつて棄てがたい。また今の訓になるまでに種々の徑路があつてそれを討尋すると、この歌を鑑賞(203)するうへにもまた有益である。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇八〕
  大海《おほうみ》の候《まも》る水門《みなと》に事《こと》しあらば何方《いづへ》ゆ君《きみ》が吾《わ》を率《ゐ》凌《しぬ》がむ
  大海 候水門 事有 從何方君 吾率陵
 
 〔題意〕 寄v海といふ題がある。
 〔語釋〕 ○大海 オホウミノと訓む。舊訓オホウミノ(拾穗抄・代匠記・全釋同訓)。童蒙抄アラウミノ。考オホウミヲ(略解・新考同訓)。略解宣長訓オホウミハ(古義同訓)等の訓があるが、元暦校本に『海』が『船』となつて居るのに據り、新訓は『大船』に改めオホフネノと訓んだ。然るに古寫本中ただ一つ『船』になつてゐるに過ぎず、また、その『船』の右肩に赭で『海』と書いてあり、題も寄v海であるので、全釋で、『これをさう改めては寄海といふ題に添はぬことになるから、海がよい。元暦校本にも右に緒で海とあるのは、後で正したのであらう』と云つたのは道理であるから、暫くもとの儘にして舊訓に從ふこととした。○候水門 マモルミナトニと訓む。(204)舊訓マモルミナトノ。童蒙抄カミノミナトハ。考マモルミナトニ(略解・新考同訓)。略解宣長訓ミナトヲマモル(古義同訓)。新訓サモラフミナト。『候』をマモルと訓む例は、皇極天皇紀の、候2皮鞋隨v※[毛+菊]脱落1取2置掌中1の候をばてモリテと訓ませて居る。拾穗抄では護に改めてゐるが、古寫本にはその字は無い。新訓でサモラフと訓んだのは、萬葉の慣訓に據つたもので、外重爾立候《トノヘニタチサモラヒ》(卷三。四四三)。妹爾相時候跡《イモニアフトキサモラフト》(卷十。二〇九二)などであり、初句を、『大船の』といへば此處はサモラフとなるのであるが、初句を『大海の』といへば、やはりマモルであらうか。○事有 コトシアラバと訓む。若《もし》もの事があつたならばといふ意。舊訓コトアルニ。代匠記精コトアルヲ。考コトアラバ。略解コトシアラバ(古義・新考同訓)。略解宣長訓コトシアレバ。○從何方君 イヅヘユキミガと訓む。何《ど》の方《はう》からあなたがといふ意。舊訓イヅクニキミガ。代匠記精イカサマニキミ。童蒙抄イカサマニセバ。考イヅクユキミガ(略解同訓)。古義イヅヘヨキミガ。新考イヅクユキミヲ。新訓イヅヘユキミガ。○吾率陵 ワヲヰシヌガムと訓む。私を連れて難を免れませうかといふ意。『陵』の字は京都大學本『凌』に作る。舊訓ワレヰシノガム。拾穗抄ワレヰテシノガン。童蒙抄(陵は凌の誤)アレヰシノガン。考(陵は隱の誤)アヲヰカクサン。略解はワヲヰシノガム、ワヲヰカクサム。略解宣長訓ワヲヰテユカム。古義アヲヰカクレム。新考ワガヰカクレム。新訓ワヲヰシヌガム。『陵ハ凌ト通ズ』(代匠記精)。
(205) 〔大意〕 この港のぐるりには大海が取卷いて候《まも》ついて、番をすいてゐるのに、若しも事件でも起つたなら、何處の方から私を連れて避難させて下さるでせうか。かうして逢瀬を樂しんで居るけれど、若しも親達に知れた時には、どうして下さいますか、といふぐらゐな意で、恐らく女が男に向つて云つてゐるのであらう。
 〔鑑賞〕 この歌もまた民謠風で、女が男に向つて愬へる趣にして歌つて居る。そして港の勃發事件のことなどを云つて、『君が吾を率《ゐ》凌《しぬ》がむ』と云つてゐるのは、情感が強く濃くてなかなか旨いところがある。大海や港や事件のことなどは、この結句によつて統一せられてゐるやうに思へる。
 この歌は私見の樣に解釋すれば極めて平易でむづかしくないのだが、古來諸前賢が種々訓にも骨折り、その訓に應じて解釋をしたので、興味もあり有益であるから此處に抄記することにする。『舟おほく出入湊は守護有て其事のしげきを、思ふ人に守りめ有(リ)、事出來などせしによせいひて、かくあるにいづくに君をか我ゐてかくししのかんと也。ゐてはひきゐさそふ心地。又君がと濁《ニゴリ》ては我をいづくにかくししのがんと也』(拾穗抄)。『此ハ親ノ守レル娘ナドニ男ノ通ヒテ、事出來テ後、彼娘ノ讀テ男ニ贈レルニヤ。湊ハアマタノ舟ノ出入處ナレバ、官家ヨリ守ル人ヲ置ルルナリ。三四ノ句ハ、コトアルヲイカサマニキミトモ讀ベシ』(代匠記精)。『防人などの守湊に異國人など(206)の來りて事あらん如にたとへたるなり』。『こは官女《ミヤツカヘメ》などのしのび夫《ツマ》もたるが、あらはれなんずるをかしこみてかく譬よめるならん』(考)。『大海ヲマモル云々は、太宰の津は、西蕃を候《マモ》るなれば、斯く言へるならん。陵、恐らくは隱の誤なるべし。然らばヰカクサムと訓むべし。是れは父母などに見顯はさるるを、其みなとに事有るに譬へて、斯かる時は、何方《イヅカタ》に吾をひきゐ隱さんやと言ふなり』(略解)。『大海《オホウミ》は大海(ノ)》神をいふべし。即(チ)大綿津見《オホワタツミノ》神なり。【中略】大海(ノ)神は水門《ミナト》ごとに目を離したまはず守護《マモ》りましまして、人の船出をしらしたまへば、しのびてみだりに船を出すことのならぬがごとく、父母などの心をつけて、起居《タチヰ》おきふしにわれをきびしく守りたまふことなれば、事ありとてたやすくしのびて門出せらるべきやうなし。さればもし、吾(ガ)二人の中に事あらば、いづくぞへ吾を竊《ヌス》み出て率て行たまはむと、君はおぼしたまふなめれど、率て行(キ)たまふべきてだてなければ、其(ノ)時はいかなる方に、吾を率行てかくれたまはむとにやと云なるべし』(古義)。『結句はワ|ガ〔右△〕ヰカクレムとよむべし。君ヲ率テワガ隱レムといへるなり』(新考)。
 拾穩抄で既に勘づいてゐたごとく、この歌の結句は、ワヲ〔二字右○〕ヰシノガムか、ワガ〔二字右○〕ヰシノガムかで意味が違つて來るので、諸家の見のまちまちなのはそのためである。併し無理のない點は互に共通してゐる。古義の訓は稍ちがふが、海神説はのぞいて、大體が穩當で愚見と相通ずるものである。
 
(207)          ○
  〔卷七・一三〇九〕
  風《かぜ》吹《ふ》きて海《うみ》は荒《あ》るとも明日《あす》と言《い》はば久《ひさ》しかるべし君《きみ》がまにまに
  風吹 海荒 明日言 應久 君隨
 
 これも寄v海歌である。『君』の字を『公』に作つた古寫本(【元・類・神・温・矢・京】)がある。結句の訓、童蒙抄ヒサシカルベキ・イモガマニマニ。
 一首の意は、風が吹き海が荒れても、それの和《な》ぐ明日を待つのでは、待遠しく、久しい思をなさることでせう。ですからあなたの御隨意になさいまし。けふでも結構でございます。
 風浪の靜まるといふ語を略して、直ぐ、『明日』と續けてゐるのは簡潔でいい。また『久しかるべし』といふ言方も、簡潔で意味の深い表現である。『時ならず玉をぞ貫《ぬ》ける卯の花の五月《さつき》を待たぼ久しかるべみ』(卷十。一九七五)といふのがある。『君がまにまに』の用例は、
   頂《いなだき》に著統《きす》める玉は二つ無しこなたかなたも君がまにまに (卷三。四一二)
   春風の聲《おと》にし出《で》なば在《あ》りさりて今ならずとも君がまにまに (卷四。七九〇)
(208)   たまきはる吾が山の上に立つ霞立つとも坐《う》とも君がまにまに (卷十。一九一二)
等と、この語の上が、對句のやうなのが多いが、さういふ點で、『依り會ふ未通女《をとめ》は君がまにまに』(卷十一。二三五一)とか、『我が身一つは君がまにまに』(卷十一。二六九一)。『吾が持たる心はよしゑ君がまにまに』(卷十一。二五三七)。『惜しき我《あ》が身は君がまにまに』(卷二十。四五〇五)などの方がもつと自然である。そしてこの語調は、親しく媚を帶びた言方になり易いので、稍ともすれば輕佻甘滑になるところを、この歌では、『久しかるべし』と云つて、それから、『君がまにまに』と結んだので、媚態を失はずに落着を得てゐるやうにおもふのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一三一〇〕
  雲隱《くもがく》る小島《こじま》の神《かみ》のかしこけば目《め》は隔《へだ》つれど心《こころ》隔《へだ》てめや
  雲隱 小島神之 恐者 目間 心間哉
 
 この歌も、寄v海歌である。○雲隱 クモガクルと訓む。舊訓クモガクレ。古寫本クモカクル(元)。クモカカル(神)。クモカクシ(細)等。童蒙抄クモガクル(【考・略解・新考・全釋同訓】)。古義クモガクリ。○(209)小島神之 コジマノカミノと訓む。舊訓ヲシマノカミノ。拾穗抄コシマノカミシ。代匠記精コシマノカミノ(略解同訓)。古義ヒカリナルカミノ(【小は光の誤。嶋は鳴の誤】)。○恐者 カシコケバと訓む。舊訓カシコクハ。代匠記初カシコケレバ(童蒙抄同訓)。又はカシコサニ。略解カシコケバ(【古義・新考・新訓・全釋同訓】)。○目間・心間哉 メハヘダツレド・ココロヘダテメヤと訓む。舊訓メハヘダツトモ・ココロヘダツナ。代匠記初メハヘダツレド・ココロヘダツヤ(童蒙抄・略解・古義同訓)。代匠記初書入【校本萬葉】メコソヘダツレ。考メハヘダツトモ・ココロヘダテメヤ。新考メハヘナルトモ・ココロヘナレヤ。新訓メハヘダツレド・ココロヘダテメヤ。
 一首の意は、雲がくれの彼の小島に祀つてある神の恐ろしさに、眼をばそむけてこそ居れ、心までそむけることはない。島の神のやうにお前を守つて居る親たちが恐ろしいので、逢はずに居るのだが、心まで疎遠になつたのではないといふ意である。『小島ハコジマト讀ベシ。小島ト書タレド、此ハ備前ノ兒島歟。第八ニ笠金村ノ遣唐使ニ贈ラルル歌ノ反歌ニ、波上從所見兒島之雲隱云々。此ハ兒島ト書タレバ、備前ノ兒島ナルベキニ、雲隱ト云詞モ同ジケレバ彼ヲ以テ此ヲ云ナリ。神ト云ヘルハ舊事紀云、兄吉備兒島謂2建日方別(ト)1。古事記ノ説同ジ。小島ヲバ女ニ譬ヘ、神ヲバ守ル親ニ譬フ』(代匠記精)。『コ島と言はんとて、雲隱ると言へり。さてここの小島、集中吉備ノコ島とも詠みたる所か、いづこにも有れ、其所の神に守(210)人を譬へたり』(略解)。
 『【中略】海原《うなばら》の邊《へ》にも奥《おき》にも神留《かむづま》り領《うしは》き坐《いま》す諸《もろもろ》の大御神《おほみかみ》たち船《ふな》の舳《へ》に導き申《まを》し』(卷五。八九四)。『在根《ありね》よし對馬《つしま》の渡《わたり》海《わた》なかに幣《ぬさ》取り向けて早還り來ね』(卷一。六二)。『荒津《あらつ》の海|吾《われ》幣《ぬさ》奉《まつ》り齋《いは》ひてむ早|還《かへ》りませ面變《おもかは》りせず』(卷十二。三二一七)などを見れば、海中の島の神に幣を奉つて航海の安全をいのつたことが分かる。
 
(211) 萬葉葉卷九所出歌
 
          ○
 
  〔卷九・一六八二〕
  とこしへに夏冬《なつふゆ》行《ゆ》けや裘《かはごろも》扇《あふぎ》放《はな》たぬ山《やま》に住《す》む人《ひと》
  常之陪爾 夏冬往哉 裘 扇不放 山住人
 
 〔題意〕 この歌以下卷九(一七〇九)の『獻弓削皇子歌一首』に至る二十八首を、(一七〇九)の歌の後に『右柿本朝臣人麻呂之歌集所出』と注せられたのに該當すもものと考へることが出來る(【補遺參看】)。この歌は『忍壁《おしかべ・おさかべ》皇子《のみこ》に獻れる歌一首』といふ題があり、『仙人の形《かた》を詠める』といふ注がある。忍壁皇子は天武天皇の皇子で、慶雲二年五月薨じた。書紀に、『天武天皇二年、云々、次宍人臣大麻呂女、〓媛娘、生2二男二女1、其一曰2忍壁皇子1云々、十年三月庚午朔丙戌、詔2云々忍壁(212)皇子云々1、令v記2先帝紀及上古諸事1、十四年正月丁未朔丁卯、云々忍壁皇子授2淨大參位1、朱鳥元年八月己巳朔辛巳、云々忍壁皇子各加2百戸1』。續紀に、『文武天皇四年六月甲午、勅2淨大參刑部親王云々1、撰2定律令1、大寶元年八月癸卯、遣3三品刑部親王云々撰2定律令1於v是始成、三年正月壬午、詔2三品刑部親王1知2太政官事1、慶雲元年正月丁酉、云々三品刑部親王益2封各二百戸1、二年四月庚申、賜2三品刑部親王越前國野一百町1、五月丙戌、三品忍壁親王薨、云々天武天皇之第九皇子也』とある。文武天皇の慶雲二年五月以前の作だとせば、大寶元年あたりの、人麿の作と想像してもいいが、その頃の人麿の歌詞に似ないところがある。契沖云、『此ハ忍壁親王家ノ屏風ノ繪ナドヲ見テ、ソレニヨセテ祝ヒ奉レルナルベシ。釋名云。老(テ)而不(ルヲ)v死曰v仙(ト)。仙(ハ)遷(ナリ)也。遷(テ)入(レハナリ)v山(ニ)也。故(ニ)其制(スルコト)v字(ヲ)人(ノ)傍《・ソフナリ》(ノ)山(ナリ・ニ)也』(代匠記精)。
 〔語釋〕 ○夏冬往哉 ナツフユユケヤと訓む。舊訓ナツフユユケヤ(諸書同訓)。童蒙抄ナツフユユクヤ。『夏冬ゆげや』の『や』は疑問で、『ばにや』の意である。『朝ゐでに來鳴く貌鳥《かほどり》汝《なれ》だにも君に戀ふれや〔四字右○〕時終へず鳴く』(卷十。一八二三)。『百礒城《ももしき》の大宮人は暇あれや〔三字右○〕梅を插頭《かざ》してここに集《つど》へる』(卷十。一八八三)。『打麻《うつそ》を麻續王《をみのおほきみ》白水郎《あま》なれや〔三字右○〕伊良虞《いらご》が島の珠藻《たまも》苅ります』(卷一。二三)。『古《いにしへ》の人にわれあれや〔三字右○〕ささなみの故《ふる》き京《みやこ》を見れば悲しき』(卷一。三二)。『足柄《あしがり》の箱根の嶺《ね》ろの和草《にこぐさ》のはなつつまなれや〔三字右○〕紐解かず寐む』(卷十四。三三七〇)。『暫《しまし》くも獨あり得《う》るものにあれや〔三字右○〕島(213)の室《むろ》の木《き》離れてあるらむ』(卷十五。三六〇一)等を參考すれば分かる。また、『往く』は、古事記の『常夜《とこよ》往《ゆ》く』。『來經《きへ》ゆく』などの『ゆく』で、經過することである。寒暑往來は順序を以てするのだが、、此處は一しよに經行く趣である。萬葉に、『往く影の月も經往《へゆ》けば玉かぎる日も累《かさな》り』(卷十三。三二五〇)云々とあり、なほ、『吾が君はわけをば死ねと念《おも》へかも逢ふ夜逢はぬ夜|二去《ふたゆき》ぬらむ【二走るらむ】』(卷四。五五二)。『あらたまの年|往《ゆ》き返り春花のうつろふまでに』(卷十七。三九七八)。『あらたまの年往き還り月かさね見ぬ日さ數多《まね》み』(卷十八。四一一六)。『玉の緒のしま心にや年月の行き易《かは》るまで妹に逢はざらむ』(卷十一。二七九二)。『冬過ぎて春し來れば年月は新たなれども人は舊りゆく』(卷十。一八八四)などの例がある。○裘 カハゴロモと訓む。皮衣《かはごろも》即ち毛皮で造つた衣である。『伊夜彦《いやひこ》の神の麓に今日らもか鹿《か》の伏《こや》すらむ皮服著而《カハゴロモキテ》角《つぬ》附きながら』(卷十六。三八八四)。『毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》春冬|片設《かたま》けて幸《いでま》しし宇陀《うだ》の大野は思ほえむかも』(卷二。一九一)の用例があり、和名鈔に、説文云、裘、音求、加波古路毛、俗云加波岐奴。新撰字鏡に、※[曷+毛]。加波己呂毛、加波古路毛とあり、萬葉卷十六(三八八五)に、虎云神乎《トラチフカミヲ》……其皮乎多多彌爾刺《ソノカハヲタタミニサシ》などとある。○扇不放 アフギハナタヌと訓む。舊訓ハナタズ(【代匠記・童蒙抄・考同訓】)。略解ハナタヌ(【古義・新考・新訓等同訓】)。『扇』は、和名鈔に、四聲字苑云、扇、式戰反、玉篇作v※[竹/扇]、在2竹部1、阿布蚊、所2以取1v風也云々とある。
 〔大意〕 一首の意は、いつも常久に貫と冬とが一しよに經過するのか、この仙人は冬の皮裘《かはごろも》と(214)夏の扇《あふぎ》とを兩方放たずに持つてゐる。なるほど仙境は人の世間とは違つたものだといふぐらゐの意である。
 〔鑑賞〕 仙人は即ち僊人で神僊・神人は性命の眞を保つて不饑不寒不老不死である。老而不v死曰v仙、仙(ハ)遷也、遷(テ)入v山也とあるのはそれで、和語にしてヤマビト。ヤマニスムヒト等と云つた。卷三(三八五)の題に、仙柘枝《やまびとつみのえ》の歌三首があり、神樂歌にも、『逢坂をけさ越えくれば山人の千歳つけとてきれる杖なり』とあり、仙人のことである。
 當時すでに神仙の思想が支那から渡來してゐて、吸2※[さんずい+亢]〓1※[歹+食]2朝霞1とか、或は畫圖にしても、風餐委2松宿1雲臥恣2天行1とか、圖2仙人之形1體生v毛、臂變爲v翼とか謂つてゐたものと見える。〓衣とか、紺瞳緑髪とかいふ例もある。それを一首の歌にしたのが珍らしいのである。また言葉も自在で、現代の吾等から見れば、これだけの事柄をかく簡潔にあらはし得た點に敬服するのであるが、人麿の力量を標準として論ずるならば、さう骨折つたものでないことが分かる。歌詞にも人麿的なものが少く、辛うじてその部分に微かにそれを感じ得るに過ぎないやうである。
 この神仙思想の歌としては、大伴旅人の、『我が盛いたく降《くだ》ちぬ雲に飛ぶ藥はむともまた變若《をち》めやも』(卷五。八四七)。『雲に飛ぶ藥はむよは都見ばいやしき吾が身また變若《をち》ぬべし』(同。八四八)がある。なほ、六踏に、『冬は裘を服せず夏は扇を操らず』の句がある。
(215) この歌は、六帖及び夫木和歌抄に、『扇はなたず』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八三〕
  妹《いも》が手《て》を取《と》りて引《ひ》き攀《よ》ぢうち手折《たを》り吾《わ》が插《かざ》すべき花《はな》咲《さ》けるかも
  妹手 取而引與治 ※[手偏+求]手折 吾刺可 花開鴨
 
 〔題意〕 『獻2舍人皇子《とねりのみこ》1歌二首』といふ題がある。舍人皇子は天武天皇の皇子、御母は新田部皇女(【天武紀、次(ノ)妃新田部皇女、生2舍人皇子1云々】)。養老四年に成つた日本書紀撰修の總裁で、持統九年春正月庚辰朔甲申、淨廣貳を授けられ、養老二年正月に、二品となり、養老四年八月には、官、知太政官事に至り、天平七年十一月壬子朔乙丑薨。太政大臣を贈られ、淳仁天皇の天平寶字三年六月に、崇路盡敬皇帝の追號を贈られた。なほ聖武紀には『親王(ハ)天渟中原瀛眞人天皇第三(ノ)皇子也』とあるが、別に持統紀には大津皇子を『天渟中原瀛(ノ)眞人天皇(ノ)第三子也』と記してあり、すべてこの書紀、續紀記載の天武天皇諸皇子の御順序に就いては疑問の點が多い。公卿補任によれば、舍人皇子は天平七年六十二歳、天武三年の御誕生で和銅二年に三十六歳になられてゐる。この舍人皇子に獻じたもので(216)あるが、この歌の作者は不明だと謂ふべきである。
 〔語釋〕 ○妹手 イモガテヲと訓む。枕詞で、『取る』に係つてゐる。○取而引與治 トリテヒキヨヂと訓む。取つて引くことで、『徒らに地《つち》に散らせば術《すべ》をなみ攀《よ》ぢて手折《たを》りつ見ませ吾妹子』(卷八。一五〇七)。『青柳の秀《ほ》つ枝《え》攀ぢ執《と》り※[草冠/縵]《かづら》くは君が屋戸《やど》にし千年|壽《ほ》ぐとぞ』(卷十九。四二八九)等の例によつて明かである。○※[手偏+求]手折 ウチタヲリと訓む。ウチは接頭語で手折《たを》る意になる。舊訓ウツタヲリ。代匠記初書入及び精ナガタヲリ。童蒙抄ウチタヲリ。古寫本の多くがウチタヲリと訓んで居る。※[手偏+求]は類聚古集に※[木+求]とある。※[手偏+求]《きう》は土を※[木+里]《もつこ》に盛る。かきあつむ(※[手偏+將の旁])。すくふ(救)。とどまる。まもる等の意でウツの意がないが、萬葉ではウツと訓ませて居るやうである。※[手偏+求]手折多武山霧茂鴨《ウチタヲリタムノヤマギリシゲミカモ》(卷九。一七〇四)。引攀而峯文十遠仁※[手偏+求]手折《ヒキヨヂテエダモトヲヲニウチタヲリ》(卷十三。三二二三)。この訓に就き代匠記で、『今按、字書ニ依ニ※[手偏+求]ニ打ノ義ナシ。韻會尤韻云。渠尤切、長貌。詩有2※[手偏+求]《ナガキ》棘匕1。又渠幽切、長也。又虞韻、恭于切。説文、盛2土(ヲ)※[木+里]中1也云々。此後ノ義ハ今ノ所用ニアラズ。長也ト注セルニ依テ、ナガタヲリト讀ベシ』と云つてゐる。この字についてはなほ先輩の説を聽くべきである(【後段追記參照】)。○吾刺可・花開鴨 ワガカザスベキ・ハナサケルカモと訓む。これは舊訓のままである。考に、『今本吾下刺の上に頭を脱せり、刺をかざすとは訓がたし。次の二首めの歌の例をもて頭を補へり』といひ、吾頭刺可《ワガカザスベキ》とした。略解、『宣長云、吾は君の誤にて、キミガサスベキと訓むむべ(217)し。サスは即ちかざす事なり。然か訓まざれば、皇子に獻ると言ふに當らずと言へり』とあり、古義も共に從つて居る。
 〔大意〕 一首の意。〔妹手《いもがてを》〕取つて引つぱり、うち手折《たを》つて自分の頭に插《かざ》すことの出來るやうに、もう花が開いた。
 〔鑑賞〕 右の如き歌であるから、舍人皇子に獻つたものでも、必ずしも頌歌でなく、皇子を讃へた寓意の歌ではあるまい。若し寓意があるなら、初句に、『妹が手を』とあるから、さういふ女に關したことがあるといへばあり得るわけである。代匠記精に、『下句ハ此皇子ノ御蔭ニ隱レ申スベキ程ニ成給ヘルヲ悦ブ意ナリ』と云つてゐるのは、頌歌としての寓意を考へたのである。童蒙抄では必ずしもさういふ寓意を者へず、『この歌は花の盛なるを告げ奉りて、皇子を請じ奉らんの意と聞ゆる也』と云ひ、古義では、略解の宣長訓を採用したから、『歌(ノ)意は、取て引攀(チ)折(リ)腸ひて、君が頭刺《かざし》に刺(シ)賜ふべき花のさける哉、さてもうつくしの花やとなり』となつたのである。
 この歌は、舍人皇子が幾歳ぐらゐにあらせられた時の歌であるか、人麿の持統三年の作があの如くに堂々たるものだとすると、この歌の如きを人麿作とするのは寧ろ不合理におもへる。或は皇子の從者の作に人麿が幾らか手を入れなどして斯く傳はつたものででもあらうか。
 〔追記〕 『※[手偏+求]』に就いて少しく追記するに、玉篇に、※[手偏+求]【居于切〓也】とあり、〓【ルヰラ】は土を運ぶ籠で、フ(218)ゴ、モツコのたぐひであるが、一面、〓は※[草がんむり/儡の旁]に通じ、※[草がんむり/儡の旁]は植物のカヅラ(藤)でもあり、唐書に、攀v※[草がんむり/儡の旁]而上があり、攀にヒクの訓もあるから、それ等からの關聯でタグル意にもなるだらうか。また一方、※[手偏+求]は※[手偏+將の旁]に通じ、※[手偏+將の旁]は取・采に通じ、指《ゆび》先を以てつまみ取る意があり、詩、周南に、采2采※[草がんむり/不]2〓薄言|※[手偏+將の旁]《トル》v之とある。また類聚名義抄には、アツムの訓もある。さうすれば、※[手偏+求]手折をば、ヒキ・タヲリ〔五字右○〕或はトリ・タヲリ〔五字右○〕と訓んではどうであらうか。または、卷八(一五〇七)の攀而手折都見末世吾妹兒《ヨヂテタヲリツミマセワギモコ》の攀にはトルの意もあるから、卷八の歌もトリテタヲリツと訓めないこともない。
 併し、※[手偏+求]手折は古寫本の殆ど盡くがウチタヲリと訓んでゐるし、妹手取而引與治《イモガテヲトリテヒキヨヂ》といつてトルもヒクも含まつてゐるので具合が惡い。さうすれば矢張りウツといふ訓でなければならぬのに、※[手偏+求]にウツの意がないとせば、縱ひ萬葉に用例が三つあつても、誤字ではなからうかと想像することも出來る。若し誤字だとすると、天治本新撰字鏡卷十に、〓、※[手偏+卒]、※[手偏+枠の旁]、といふ字があつて、三形同存没反手持頭髪也。撃也。扱同也と注し、玉篇にも、存兀切、撃也とある。そしてこの※[手偏+卒]は、モツ、トラヘル、テニモツ、ヌキトルといふやうな意があり、注の撃也はウツであるから、※[手偏+求]は※[手偏+卒]の誤で、古來ウチタヲリといふ訓をその儘傳へてゐたのではなからうか。なほ先輩に教を乞ふべきである。
 次いで、山田孝雄博士の教示をあふいだ。博士は、ウチタヲルが不適切なら、或はフサタヲル(219)と訓んではどうか。この場合のフサはニギル意である、と云はれた。その根據は大體次の如くである。※[手偏+求]の支那の用例は、詩の大雅、文王緜に、※[手偏+求]《・ツチモルコト》(ト)v之〓々(箋に※[手偏+求]※[手偏+孚]《ハウ》也)。小雅、大東に、有2※[手偏+求]《・マカレル》(ト)棘(ノ)七1(箋に傅※[手偏+求]長※[貌の旁])。周頌、良耜に、有2※[手偏+求]《・マカレル》(ト)其角1(箋に※[手偏+求]角※[貌の旁])などであるが、この場合マガレルの訓は適切でない。そのうち、※[手偏+求]は※[手偏+孚]也は奈何といふに、※[手偏+孚]《ハウ》は引聚也アツムルで、この場合直ぐ應用が出來ない。次に、※[手偏+求]の訓には、ツチモル、ミダル、ニギル、ナガシ、マガル等があるが、爾雅釋木の注に、椒茱萸皆有※[手偏+求]々實也とあつて、『※[手偏+求]々』は一に『※[草がんむり/求]々』に作つてある。※[草がんむり/求]は、蜀椒で、不佐波之加美《フサハシカミ》と云つてゐる。この不佐《フサ》はニギル意(※[手偏+求]々)であらう。そこで、『※[手偏+求]手折』をば、フサタヲルと訓み、ニギリタヲルの意としたならばどうであらうか、といふのである。博士のこの新訓を學界に捷供することとした。
 この歌は、六帖に人麿作として載り、第二句『取りて引き寄せ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八四〕
  春山《はるやま》は散《ち》り過《す》ぐれども三輪山《みわやま》はいまだ含《ふふ》めり君《きみ》待《ま》ちがてに
  春山者 散過去鞆 三和山者 未含 君待勝爾
 
(220) 〔題意〕 前のつづきで、舍人皇子に獻つた第二首である。
 〔語釋〕 ○春山者 ハルヤマハと訓む。大方の春山《はるやま》ではといふ意である。童蒙抄に、『春山。惣名にあらず。一山の地名と云証明此歌にても明也』とあり、考でも、『地名なるべし』と云つたが、略解・古義等は普通名詞に解釋した。『春山は地名に有らず、ここは大方の春の山を言へり』(略解)。井上博士は、『おそらくは春日山とありし日の字をおとせるならむ』(新考)といひ、春日山《かすがやま》としてゐるけれども、古寫本に一もさう書いたものが無いやうである。○散過去鞆 奮訓チリスグレドモ。代匠記精『今按去ノ字ノ點應ゼズ、チリスギヌレドモ、或チリスギユケドモト讀ベシ』。考チリスグレドモ。童蒙抄チリスギヌレド。略解チリスギユケドモ。古義チリスギヌレドモ。此處は舊訓の儘チリスグレドモと訓み、花が散過ぎたけれどもの意に取つていい。○三和山者 ミワヤマハと訓む。三輪山は現在大和磯城郡三輪町の東方にある山で、三輪山、三輪乃山、三和山などとも書き、三諸山、神南備山、神山ともいひ、神名帳に大神大物主神社、現在官幣大社|大神《おほみわ》神社である。『三輪山をしかも隱すか雲だにも情《こころ》あらなむ隱さふべしや』(卷一。一八)がある。○未含・君待勝爾 イマダフフメリ・キミマテガテニと訓む。舊訓イマダツボメリ・キミマツガテニであつたのを代匠記精でさう訓んだ。古寫本の大部分の訓もまたさうである。
 〔大意〕 一首の意は、大方《おほかた》の春山《はるやま》の花はもはや散過ぎたけれども、三輪山はまだ莟《つぼみ》である。あ(221)なたの御いでになるのを待ちかねて。といふ意である。
 〔鑑賞〕 この『君待ちがてに』といふのは、「含《ふふ》む』に係るのである。『吾背子が古家《ふるへ》の里の明日香《あすか》には千鳥鳴くなり君待ちかねて』(卷三。二六八)。『春されば我家《わぎへ》の里の河門《かはと》には年魚兒《あゆこ》さ走《ばし》る君待ちがてに』(卷五。八五九)。『己が夫《つま》乏しむ子等は泊《は》てむ津の荒磯《ありそ》枕《ま》きて寢む君待ちがてに』(卷十。二〇〇四)。『相見ては千歳《ちとせ》や去《い》ぬる否をかも我や然《しか》念《も》ふ君待ちがてに』(卷十一。二五三九)。『藤原の古《ふ》りにし郷《さと》の秋萩は咲きて散りにき君待ちかねて』(卷十。二二八九)などの似た用語例がある。そして、『君待ちがてに』は、君が來ないといふ打消による感慨があるのであつて、本來からいへば、大方の春山は既に花が散つてしまつたといへば、含《ふふ》むといふのは後《おく》れて殘る感じであるのに、用例のいづれもが、待ちがたいからして、といつて先へ進む感じにあらはして居る。此歌の場合は、そこが前後統一が惡く、つまりまづいので、決して人麿の力量でないといふことが分かる。
 さういふ不統一があるので、却つて寓意説も出るので、『此ハ大神《オホミワ》氏ノ人ノ、時ニアハズ沈居テ、皆人ハ榮華ノ盛ノ身ニ過ルマデナルニ、我ハ三和山ノ山陰ノ花ノ如クニ、君ガ恩光ニ因テ愁眉ヲ開カム事ヲ待カヌルトヨメルニヤ。皇子ニ愁ヘ申テ吹擧ヲ仰ゲ意アル歟』(代匠記精)といふのは即ちそれである。古義もこれを踏襲して居るが、童蒙抄では、『この歌も皇子を請じ奉り度と願ふ(222)意をよめる歌と聞ゆる也。春山は皇子御座所近所なるか。そなたの春山は花散り過ぬ共、こなたのみわ山は君を待ちがてに未だ咲だにもせぬとの義也』(童蒙抄)と云つて居り、この方が却つて眞意に近いやうにおもへる。つまり、以上の二首は、春山の花の歌を作つて皇子に獻つたので、その歌には一身上などの寓意は先づ無いと看る方が自然ではあるまいか。
 それにしても、前の歌の、『妹が手を』といふ枕詞の使ひざまも、この歌の上の句と下の句との關係も、決して巧だと謂ふことは出來ないだらう。また一首一首から放射して來る感動といふものも極めて稀薄で、人麿のほかの歌の、豐潤にして切實なものとは比較にならぬのである。
 この歌は、家持集に載り、第四句『いまだつぼめる』になつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八五〕
  河《かは》の瀬《せ》の激《たぎ》つを見《み》れば玉《たま》をかも散《ち》り亂《みだ》したる川《かは》の常《つね》かも
  河瀬 激乎見者 玉鴨 散亂而在 河常鴨
 
 〔題意〕 『泉河の邊《ほとり》にて問人宿禰《はしひとのすくね》の作歌二首』の第一で、もう一つは、次に評釋する『彦星の(223)插頭《かざし》の玉の嬬戀《つまごひ》に亂れにけらしこの河の瀬に』といふのである。この二首は、人麿歌集に出づといふ中に明かに作者の明記されてゐる例であり、その他にも女の作があつたりするので、人麿作と看做されない歌をも包含してゐる證據となり、人麿歌集の性質を考察するのにためになるのである。間人宿禰は名は不明であるが、代匠記に、『大浦歟』としてあるのは、卷三に、『間人宿禰大浦初月《ハシヒトノスクネオホウラノミカヅキ》歌二首』(二八九・二九〇)をいふのである。間人は天武天皇紀に、十三年十二月己卯、間人連(ニ)賜v姓(ヲ)曰2宿禰1云々。この作者は恐らく人麿よりも後であらうか。なほ間人を考ではハシウドと訓んだが、古義でハシヒトと訓んだ。泉河は一名山背河。今の木津川で、山城の相樂《さうらく》・綴喜《つつき》・久世《くせ》の諸郡を流れてつひに淀川に入る川である。これで見ても人麿歌集は地理的にも範圍ひろく、人麿も處々に於て相共に作歌したものと想像して大きい誤がないやうである。
 〔語釋〕 ○河瀬・激乎見者 カハノセノ・タギツヲミレバと訓む。舊訓カハノセノ・タギルヲミレバ。古寫本の訓は、カハノセヲ・ウヅマクミレバ(藍・壬・類・神)。カハノセニ・ウヅマクミレバ(古)。考カハノセノ・タギツヲミレバ(【古義・新考・新訓等從之】)。○玉鴨・散亂而在 タマヲカモ・チリミダシタルと訓む。此は新訓萬葉集に從つた。寛永本には『玉藻鴨』になつて居るが、藍紙本・傳壬生隆祐筆本・類聚古集・古葉略類聚鈔等には、この『藻』の字がない。舊訓タマモカモ・チリミダレテアル。古寫本には、タマモカモ・チリミダレタル(藍・壬・類・神)。タマヲカモ・チリ(224)ミダレタル(古)。『在』を第五句に送つて、タマモカモ・チリシミダレテ・アル(西・温・細)等の諸訓がある。考はチリミダレタルと訓み、『藻』を助詞と解し、略解・古義・新考等もそれに從つた。新訓萬葉集は藻字なき藍紙萬葉に從つた。○河常鴨 カハノツネカモと訓む。寛永本には『此河常鴨』になつてゐるが、古寫本の多くに 『此』の字がなく、カハノツネカモ(藍・壬・類・神・古)。上の『在』からつづけて、アルカハトカモ(西・温・細)の二とほりに訓んでゐる。新訓はそのカハノツネカモを採つた。舊訓コノカハトカモであるから、契沖もそれに從つて説を出してゐる。『かはとは、みなとせとなどいふごとく、川の瀬々の水のひとつになりて、せばき所を過るをいへり』(代匠記初)。『此歌、拾遺ニハ、藻ヲヨメルトテ、人丸ノ歌トシテ、川ノセノウヅマク見レバ玉藻カモ散亂タル川ノフネカモトアリ。人丸集同之。六帖ニハ、川ノ歌トシテ、河ノセニナビクヲ見レバ玉藻カモ散亂タルカハノツネカモトアリ。此ニ依テ拾遺ノ歌ヲ見ルニ、フネカモハツネカモヲ誤レル歟。六帖ト拾遺トニ依テ今ノ歌ヲ按ズレバ、此ノ字衍文歟。今ノ本ニ付テ注セバ、河常ハ河門ナリ。タギリテ落ル水ノ白絲ヲハヘタルヤウニ見ユルヲ綺《イロヘ》テホムルトテ、玉藻ノ散亂タル歟、若ハ此河門ノ水歟ト迷ヘルサマニヨメリ。若落句ヲカハノツネカモト云ニヨラバ、玉藻ノ散亂タルニハアラデ、カヤウニ見ユルハ此泉河ノヨノツネノ事カト云意ナリ』(代匠記精)。『此河常は水間瀬間の事也。歌の意は河の瀬のたぎり流るる、水の白玉などの散亂れたるを、(225)すぐに玉藻の如くなると見立てたる也』(童蒙抄)。『此二首(次の一六八六も)合見ればうつくしき小石などの色あるが、速き瀬に流ちりて多しと見えたり』(考)。『河(ノ)瀬の激《タギ》り落るは、玉の散亂れてあるか、もしは此(ノ)河門の水か、さてもいぶかしやと、兩方に疑ひてよめるなり』(古義)。『鴨は爾の誤にてコノカハドコニとぞよむべからむ』(新考)などの諸説がある。即ちカハトをば、『河門《かはと》』と解してゐるのは、代匠記・童蒙抄・考・略解・古義等皆さうである。そして代匠記で六帖のカハノツネカモといふ歌から暗指を得て、『河の常《つね》かも』の一訓を按じ、これは古寫本の字面と訓とに合致してゐて、新訓もそれに從つたのである。また新考では一按を立て、『この川床《かはどこ》に』と訓じて、『此』字を活かして居る。私もしばらく『河の常かも』説に從つた。
 〔大意〕 さうすれば、一首の意は、いま河の瀬が音を立て白浪が躍りつつ流れてゐる。恰も白玉を散り亂したごとき光景で、佳い眺めである。一體この泉河は普段からいつもかういふ佳いところか知らん。と褒め讃へたのである。從來の解釋では、前に記したやうにいろいろに云つてゐるが結局かう解釋するのが一番無理が無く、代匠記が既にさう云つてゐるのである。また從來の解釋は、『藻』の字と、『此』の字とで難澁してゐるのだが、これを無いものとせば、樂に解釋が出來るのである。考の小石云々。新考の『川床に』説も、さうまで云はずとも濟むやうである。
 〔鑑賞〕 それにしても、此歌もその次の歌も決して上手ではない。第三句に『かも』といつて、(226)結句に、『かも』と云つたのなども巧ではない。人麿の作にも一首中に二つ『かも』を使つたのがあるが、この歌よりも旨い。また新考の如く、『この川床に』と訓むにしても餘り旨くはない。ただこの歌で興味を引いたのは、『川の常かも』といふ結句の云ひ方にあつたのである。この云ひざまは、『春雨に萌えし楊《やなぎ》か梅の花ともに後《おく》れぬ常《つね》の物《もの》かも』(卷十七。三九〇三)。『かみなづき時雨《しぐれ》の常《つね》か吾が背子《せこ》が屋戸《やど》のもみぢ葉ちりぬべく見ゆ』(卷十九。四二五九)などの用例と似たところがある。併しいづれにしても、特に賞玩すべきほどの歌ではない。
 人麿歌集の歌には、かういふ程度の歌も交つてゐるのであり、作者の分かつて居るこの歌はその好い實例になるのであるが、純粹に人麿の作では無論なく、また人麿が作歌上の手本とした記録でもなく、或る意味では一種の備忘録のやうな點もあるやうである。さういふ不純粹なために、人麿歌集全體としては評價が下げられる傾向を持つのは詮方ないことであるけれども、さういふ雜物をば常に顧慮しつつ味へば、相當にいい歌を拾ふことも出來、人麿作とおもはれるものに逢著することも出來るのである。
 この歌は、先に引いた代匠記にあげた如く拾遺集雜上に人丸作として載り、『川の瀬のうづまく見れば玉もかるちりみだれたる川の舟かも』。又柿本葉に、『河の瀬に渦まく見れば玉藻かる散り亂れたるかはの舟かな』。六帖に、『川の瀬になびくを見れば玉もかも散りみだれたる川の常かも』(227)となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八六〕
  彦星《ひこぼし》の插頭《かざし》の玉《たま》の嬬戀《つまごひ》に亂《みだ》れにけらしこの河《かは》の瀬《せ》に
  彦星 頭刺玉之 嬬戀 亂祁良志 此河瀬爾
 
 〔題意〕 『泉河邊間人宿禰作歌二首』の第二である。
 〔語釋〕 ○彦星・頭刺玉之 ヒコボシノ・カザシノタマノと訓む。彦星が頭に插頭《かざ》した珠玉をいふのである。支那畫圖あたりからの想像で、鬘《かづら》、髻華《うず》、鈿《うず》などの玉を想像したものであらうか。この『かざしの玉』の語は、萬葉にはこの一例のみで、他は平安朝以後の勅撰集に見えてゐる。『たまのかざし』の語も亦さうである。○嬬戀・亂祁良志 ツマゴヒニ・ミダレニケラシと訓む。古寫本にイモコフトと訓んだのもある。彦星が相隔つての戀のために、懊悩して插頭の珠が亂れたものであらうと、河瀬の有樣を見つつさう聯想したものである。○此河瀬爾 天の河の河瀬に水玉が激ち流れてゐるのをば、彦星の插頭の玉と見たてたものである。
(228) 〔大意〕 この河の瀬の水珠《みづたま》は、彦星の插頭《かざし》の珠が亂れ落ちたものであるだらう。彦星が織女を戀うてゐるが、大河を隔ててなかなか逢ふことが叶はない。その懊悩のために插頭の珠の亂れた趣になつて居る。代匠記に、『河瀬ノ浪ノ玉ノ如ク見ユルヲ、彦星モ銀河ヲ隔テ妻戀スレバ、メヅラシク思ヒヨセタリ』と云つて居る。
 〔鑑賞〕 この歌は七夕に關聯し、從つて銀河とも寫象がつながるから、譬喩的に現在の光景をば斯くのごとく表現するに至つたのであるが、古今集以後の聯想的譬喩歌といふものはこの邊に既に見當るのである。ただこの邊の歌は聲調がいまだ古樸だから輕薄に響かないだけである。代匠記に、清輔の、『立田姫|插頭《かざし》の玉の緒を弱み亂れにけりと見ゆる白露』はこの歌を本歌としたのだらうと云つてゐるが、或はさうかも知れない。
 この歌は、新千載及び六帖に載り、六帖では第二三句『かざしの玉はつまこふと』と訓んでゐる。又夫木和歌抄には、秋の部七夕に六帖から、雜の部河に萬葉から、二箇所にこの歌を採り、前者では『かざしの花はつまこふと』となつてゐる。
 
          ○
 
(229)  〔卷九・一六八七〕
  白鳥《しらとり》の鷺坂山《さぎさかやま》の松蔭《まつかげ》に宿《やど》りて行《ゆ》かな夜《よ》も深《ふ》け行《ゆ》くを
  白鳥 鷺坂山 松影 宿而往奈 夜毛深往乎
 
 〔題意〕 『鷺坂作歌一首』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○白鳥 シラトリノと訓む。鷺にかかる枕詞で、鷺の羽毛の白いところに本づいてゐる。萬葉にはなほ、『白鳥《しらとり》の飛羽山《とばやま》松の待ちつつぞ吾が戀ひわたるこの月頃を』(卷四。五八八)といふ例があり、後世の勅撰集にも踏襲されてゐる。○鷺坂山 サギサカヤマで、山城久世郡|久世《くぜ》にある小山で、今久世神社を祭つてゐる。後に見える、『細領巾《たくひれ》の鷺坂山の白躑躅』(卷九。一六九四)。『山城の久世の鷺坂』(同卷。一七〇七)共に、人麿歌集中にあるものである。○松影・宿而往奈 マツカゲニ・ヤドリテユカナで、舊訓ヤドリテユクナ。代匠記精ヤドリテユカナ。古寫本中ヤドリテユカム(古・藍・壬)。ユケナ(類)。ユカナ(神・西)等の訓がある。○夜毛深往乎 ヨモフケユクヲと訓む。夜深去妹相鴨《ヨノフケユキテイモニアヘルカモ》(卷十。一八九四)。戀毛不過者夜深往久毛《コヒモスギネバヨハフケユクモ》(卷十。二〇三二)。牽牛之※[楫+戈]音所聞夜深往《ヒコボシノカヂノトキコユヨノフケユケバ》(卷十。二〇四四)等の用例がある。其他『夜は更《ふ》けにつつ』(卷三。二八二・卷七。一〇八四)。『夜は更けぬとも』(卷十。二二五二二・二二五七)等の結句もあるが、ヨモフケユク(230)ヲと用ゐた句は萬葉にこの歌のみである。
 〔大意〕 山城にある〔白鳥《しらとりの》〕鷺坂山の松の樹かげに、一夜宿つてゆかうか、夜も段々更けて行くから。
 〔鑑賞〕 大和から山城を經て近江あたりにゆく、奈良街道、久世の鷺坂山を越えるときの歌で、別に奇がない平易で素直な歌である。當時の旅の有樣もわかつてなつかしい感もするし、寂しい感をさせるものである。結句の、『夜もふけゆくを』には感慨がこもつてゐて、深夜の旅づかれを暗指してゐる點で、結句としての力量を持つてゐるのである。旅の即事であるから、取りたてていふべき程の歌ではないが、萬葉の歌はかかる即事の歌でも棄てがたいのである。
 この歌は、續古今に人麿作として載り、四五句『やどりてゆかむ夜も更けにけり』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八八〕
  炙《あぶ》り干《ほ》す人《ひと》もあれやも沾衣《ぬれぎぬ》を家《いへ》には遣《や》らな旅《たび》のしるしに
  ※[火三つ]干 人母在八方 沾衣乎 家者夜良奈 ※[覊の馬が奇]印
 
(231) 〔題意〕 『名木河作歌二首』といふ題がある。名木川は、和名鈔に、山城國久世郡那紀とあり、地名辭書には、今の小倉村伊勢田の邊らしいから、名木河は仁徳・推古の兩朝に開鑿せられた、栗隈溝であらうと云つてゐるが、この栗隈溝の所在地も現在明かでない。
 〔語釋〕 ○※[火三つ]干 アブリホスと訓む。舊訓アブリホス。古寫本ヒノヒノニ(古)がある。火にあてて濡れた衣を乾かす意である。天武紀に、『於是寒之雷雨已甚。從v駕者衣裳、濕以不v堪v寒。及v到2三重郡家1、焚2屋一間1而令v※[火+媼の旁]2寒者1云々』。また、拾遺集にも、『足引の山下水に沾にけり其火まづたけ衣あぶらむ』といふのがある。○人母在八方 ヒトモアレヤモと訓む。舊訓ヒトモアレヤモ。古寫本アラムヤハ(類・古)。アリヤト(神)。『在八方ハ願フ詞ニハ非ズ。旅ナレバアブリホシテ得サスル人アラムヤモナリ』(代匠記精)。『アレヤモのヤはヤハの意なり』(略解)。つまり反語になる句法である。この歌のことは既に評釋篇卷之上でも云つたが、『まされる寶子に斯迦米夜母《シカメヤモ》』(卷五。八〇三)の如くにメヤモといふ反語の例が多い。そのほか、『こと許せ屋毛《ヤモ》打橋わたす』(卷七。一一九三)のやうにバニヤの如く疑問の強いのもあり、また、『世のなかの人の歎は相思はぬ君に安禮也母《アレヤモ》』(卷十五。三六九一)の如くにやはり疑問の強いのもある。そして疑問・感歎・反語・願望といふ心的過程は相交錯するもので、その強度と色調とによつて極まるものだといふことは、これらの少數の例を見てもわかるのである。○沾衣乎・家者夜良奈・※[覊の馬が奇]印 ヌレギ(232)ヌヲ・イヘニハヤラナ・タビノシルシニと訓む。古寫本中イヘヽハヤラナ(類)。イヱニハヨラナ(神)の訓もある。濡れた旅の衣をば、家におくつてやらう、※[覊の馬が奇]旅《たび》の印《しるし》にといふ意である。
 〔大意〕 名木川の水で沾れた、この旅衣《たびごろも》を、火であぶつて乾かして呉れる者も居ない。この沾れた衣をば苦しい旅の記念にこのまま家に送つてやらう。といふ意である。
 〔鑑賞〕 山城の名木河邊を歩くのでも、種々難儀したことが分かつて有益な歌である。特に、イヘといふ語感は當時にあつては家族であるが、主に妻を主としたものであつたかも知れない。歌柄は素直に言葉を運んでゐて無理のない點がいい。無論たいした歌ではなく、人麿作かどうか決定しがたい。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八九〕
  荒磯邊《ありそべ》に著《つ》きて榜《こ》がさね杏人《からひと》の濱《はま》を過《す》ぐれば戀《こほ》しくあるなり
  在衣邊 著而榜尼 杏人 濱過者 戀布在奈利
 
 〔題意〕 やはり『名木河作歌二首』とある第二首であるが、歌の内容を見ると恐らく名木河の(233)歌ではあるまい。『今按、次ノ歌ハ名木河ニシテヨメル歌ニアラズ。推量スルニ名木河作歌一首、杏人濱作歌一首ト別ニ題ノ有ケムヲ、後ノ題落テ歌ハ二首アル故ニ、後人歌ノカナヒカナハズヲモ考ヘズ、此處《ココ》ノ一首ヲ二首ト改ケルナルベシ。第十ニモカカル例アリ』(代匠記精)とある。
 〔語釋〕 ○在衣邊・著而榜尼 アリソベニ・ツキテコガサネと訓む。舊訓ツキテコグアマ。略解宣長訓ツキテコガサネ。荒磯べに接近しつつ榜ぎなさいといふ意。『尼』はアマと訓めば、『海人《あま》』の意になるが、略解に、『尼を海人に借りて書けるは心得難し』と云つてゐる。尼はニ・ネの音に用ゐたが、卷七(一二七四)に、住吉出見濱柴莫苅曾尾《スミノエノイデミノハマノシバナカリソネ》。卷二十(四三八九)に、志保不〓《シホブネ》(尼)乃弊古祖志良奈美《ノヘコソシラナミ》。同卷(四三六七)に、都久波〓《ツクハネ》(尼)乎布利佐氣美都都《ヲフリサケミツツ》。卷十三(三二三六)に、瀧屋之阿後〓《タキノヤノアゴネ》(尼)之原尾《ノハラヲ》等の例がある。また、岸に添うて舟を榜ぐ例は、『鯨魚《いさな》取り淡海の海を沖(キ)放けて榜ぎ來る船|邊附《へつ》きて榜ぎ來る船沖つ櫂《かい》甚《いた》くな撥ねそ邊つ櫂《かい》甚くな撥ねそ』(卷二。一五三)。『海の底沖漕ぐ舟を邊《へ》に寄せむ風も吹かぬか波立てずして』(卷七。一二二三)。『わが舟は明石のうみに榜ぎ泊てむ沖へな放《さか》りさ夜|深《ふ》けにけり』(同卷。一二二九)などである。○杏人・濱過者 カラヒトノ・ハマヲスグレバと訓む。考では杏は唐の誤かとする。略解では、『杏人、カラビトと訓むべくも無し。字の誤有らん。宣長云、杏は京の誤にて、ツキテコガサネ、ミヤコビトなるべしと言へり』とあり、古義も其に從つた。併し代匠記精に、『杏人濱ハ何レノ國ニ在ト云コトヲシ(234)ラズ。今按、杏ハカラモモナルヲ、カラトノミヨマム事モオボツカナシ。人ハ藥ニ杏仁桃仁ナドトテ用ル類、仁ト人トヲ通ハシテ用レバ、今ノ杏人モ杏仁ニテ杏仁ノ和名別ニアリテ、ソレヲ名ニ負ヘル濱ニモヤアラム』と云つてゐる。按ふにこの杏の字は借字で、杏子は加良毛々《カヲモモ》、また今の俗に、安无受《アムズ》とも言ひ、杏子は杏核とも書くので、杏一字をばカラに借りたのであらうか。○戀布在奈利 コホシクアルナリと訓む。舊訓コヒシクアルナリ。略解コホシクアルナリ(古義以下同訓)。名殘惜しく戀しいといふ意であらう。
 〔大意〕 荒磯に著《つ》いて接近して榜いでください。杏人《からひと》の濱を通り過ぎると、もうお舟が見えなくなつて、戀しく名殘惜しいのですから、といふ意で、沖を榜ぐと直ぐ通過してしまふので、磯に添うてゆるゆる榜ぐ趣と解せられる。
 〔鑑賞〕 この歌は大體さういふ意味だから、『榜がさね』といふのは、船に乘つてゐる知人と共に舟子にむかつて要求してゐるやうにおもへる。つまりこの歌は、誰かが舟で出發するのを見おくる時の歌のやうにおもへるので、さうおもふと、結句の、『戀《こほ》しくあるなり』といふのはなかなか佳句である。また、『なり』止めの結句でも珍らしいもので、自分は以前からこの結句に注意してゐた。
 この歌の解釋については古來必ずしも一定してゐない。『磯邊ニ附テ榜行海人《アマ》ノ小船ノ面白キ(235)ガ飽レヌニ、見ルママニ過行ケバ、名殘ノ惜キヲ、戀シクアルナリトハ云ヘリ』(代匠記精)は客看的光景に見たててゐるが、面白い光景としてゐる。『歌の意は、荒磯邊につきて漕まふあま船の、から人の濱を過來れば、そのあま船の戀しきと云意なるべし。あまの釣するを見つつ過來るに、杏人の濱を過來れば、隔たりて不v見故、そのあま船の戀しきとの歌と見るべし。全體の意しかとは聞え難し。先一通はから人の濱を過て、名木河へ渡る時の歌と見置也』(童蒙抄)もやはり客看的であまの釣する小舟が見えなくなるのを名殘惜しくおもふのである。『歌(ノ)意は、京人が濱を通り過れば戀しくて、その人に相見まほしく思はるるなり。沖の方へは漕出さずして荒磯の方に著て船を漕てよと※[楫+戈]取などに令《オホ》するなり』(古義)は、略解宣長訓に從つてかういふ解釋をしたものである。つまり※[楫+戈]取に云つてゐるやうだが、主體は京人《みやこびと》にあるのである。井上博士は、ハマヲスギナバ・コヒシクアリナムと訓み、『元來此歌は陸上の人が舟中の人にいひかけたるにはあらで、舟に乘れる人が舟子にいひかけたるならむ。而して結句の奈利は奈武の誤ならむ』(新考)と云つた。
 以上の通りであるが、大體私の解釋の方がよいやうである。そしてこの歌は前言のごとく、『こほしくあるなり』といふ結句によつて特色を與へられて居るものである。『行く船を振り留《とど》みかね如何ばかり戀《こほ》しくありけむ松浦佐用比賣《まつらさよひめ》』(卷五。八七五)。『あらたまの年の緒長くあひ見ずは(236)戀しくあるべし今日だにも言問《ことと》ひせむと惜しみつつ』(卷二十。四四〇八)などにも、類似があるが、結句としてではない。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九〇〕
  高島《たかしま》の阿渡河波《あどかはなみ》は騷《さわ》げども吾《われ》は家《いへ》思《おも》ふ宿《やどり》悲《かな》しみ
  高島之 阿渡河波者 驟鞆 吾者家思 宿加奈之彌
 
 〔題意〕 『高島作歌二首』といふ題がある。高島の阿渡川のことは卷七(一二九三)の歌の解のときに既に云つた。
 〔大意〕 近江高島郡の阿渡川《あどがは》の川浪が騷ぐが、吾はただひたすらに家を思うてゐる。この旅のやどりの物悲しさに。といふ意である。
 〔鑑賞〕 これは近江あたりの旅次の作のやうにおもへる。それから、『阿渡河浪は騷げども吾は家おもふ』と續けたところは、人麿が石見から上來の時の、『小竹《ささ》の葉はみ山もさやに亂れども吾は妹おもふ別れ來ぬれば』(卷二。二二三)の歌に似てゐる。そこで、若しこの歌を人麿初期の作で(237)でもありとせば、同じ心の傾向によつて出來たものと考察することが出來る。またさうすれば、卷二の、『亂友』もサワゲドモと訓ませるのかも知れない。併し、この歌を人麿作と斷定も出來ず、却つて後世的な點もあるから一概には云へないのであるが、ただ何處かに人麿的なものを感じ得るといふのである。
 この一首に、『家《いへ》』と、『宿《やどり》』と二つ入つて居り、區別してあるので有益である。家《いへ》のことは既に云つた。宿《やどり》についてなほ少しく例をいふならば、『東路《あづまぢ》の手兒《てこ》の呼坂《よびさか》越えかねて山にか宿《ね》むも宿《やどり》は無しに』(卷十四。三四四二)。『沖邊より船人《ふなびと》のぼる呼び寄せていざ告げやらむ旅の宿《やどり》を』(卷十五。三六四三)などがある。
 次にこの歌は、卷七(一二三八)の、竹島乃阿戸白波者《タカシマノアトシラナミハ》動友《トヨメドモ・サワゲドモ》吾者家思五百入※[金+施の旁]染《ワレハイヘオモフイホリカナシミ》といふ歌と殆ど
全く同一である。そしてこの歌は古歌集にあつたものであるところを見ると、傳來は單に一つでないことが分かる。そして、古歌集の『いほりかなしみ』の方が古體のやうにも思へるし、或は、『やどりかなしみ』の方が自然のやうにもおもへるから、どちらかが原歌で、他は異傳とするとどうなるか。古歌集の方を原歌とすると、人麿歌集は必ずしも人麿の作ではないこととなるし、この歌を原歌とせば、古歌集の方は異傳といふことになる。第三句の、『さわげども』を人麿的として、歌人生涯を通じての手法の傾向と看做せば、人麿歌集の方が原歌だらうと想像することにな(238)る。
 訓について、『驟鞆』は舊訓サワゲドモ。古寫本にはサハグトモ(壬・類・神)。サワグトモ(藍)。サワゲドモ(酉・細・温・矢・京)等の訓がある。『宿加奈之彌』は、舊訓タビネカナシミ。代匠記精ヤドリカナシミ。考、宿は別の誤、ワカレカナシミ。略解、宿は旅字脱にて、タビネカナシミ。古寫本中、ヤドリカナシミ(藍・類)もある。
 この歌は、夫木和歌抄に採られ、第四句『我は物思ふ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九一〕
  旅《たぴ》なれば三更《よなか》を指《さ》して照《て》る月《つき》の高島山《たかしまやま》に隱《かく》らく惜《を》しも
  客在者 三更刺而 照月 高島山 隱惜毛
 
 〔題意〕 前の歌の續で、第二首である。
 〔語釋〕 ○客在者 舊訓タビニアレバ。代匠記初書入タビナレバ。※[覊の馬が奇]旅にある身であるからの意で、『客有者《タビナレバ》君か思《しぬ》ばむ言はむ術《すべ》せむ術《すべ》知らに』(卷十三。三二九一)。『多婢奈禮婆《タビナレバ》思ひ絶えても(239)ありつれど家に在る妹し思ひがなしも』(卷十五。三六八六)がある。○三更刺而・照月 ヨナカヲサシテ・テルツキノと訓む。卷九(一七三九)に、夜中母身者田菜不知出曾相來《ヨナカニモミハタナシラズイデテゾアヒケル》。卷十四(三四一九)に、伊加保加世欲奈加爾吹爾《イカホカゼヨナカニフクニ》。卷七(一二二五)に、狹夜深而夜中乃方爾欝之菅呼之舟人《サヨフケテヨナカノカタニオホホシクヨビシフナビト》。卷三(六一八)に、狹夜中爾友喚千鳥《サヨナカニトモヨブチドリ》。卷九(一七〇一)の人麿歌集出に、佐宵中等夜者深去良斯《サヨナカトヨハフケヌラシ》。卷十九(四一八〇)に、左夜中爾鳴霍公鳥《サヨナカニナクホトトギス》等がある。ヨナカは紀に夜半・半夜等と書いてあるが、三更は丙夜、三鼓などともいひ夜の十二時に當る。風燈照v夜欲2三更1(杜甫)その他支那には用例が多い。○高島山・隱惜毛 タカシマヤマニ・カクラクヲシモと訓む。高島山は高島郡の西部につらなる山で、ただ一つの山でない。角《つぬ》の郷にある山を角山《つぬやま》といふのと同じである。
 〔大意〕 旅にある身だから、恰も夜半《よなか》にまで照つてゐた月が、とうとう高島山に落ちて行くのはいかにも惜しいことである。
 〔鑑賞〕 今私等の注意を牽くのは、『夜なかをさして照る月の』といふ云ひかたで、重厚の味ひを持つて居る。また一首全體は別に奇巧を弄してゐないが、感じ方も表はし方も自然であるのに、何處か深いところがあつて棄てがたい。前の歌にも人麿的な部分を感じ得たが、この歌にもまた人麿的な聲調を感ずることが出來る。『あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡《よわた》る月の隱《かく》らく惜しも』(卷二。一六九)といふ人麿の聲調に何處か類似の點があるやうである。なほ、『沖つ楫し(240)ばしば澁《し》ぶを見まく欲り吾がする里の隱らく惜しも』(卷七。一二〇五)といふ古歌集出の例もあるが、この歌ほどの哀調餘韻が無い。
 古義に、ヨナカ地名説を出して云。『三更刺而《ヨナカヲサシテ》は、夜半《ヨナカ》の刻《トキ》に向(ヒ)て、と云意とはきこゆれども、凡て指而《サシテ》と云ことは、下に證歌を載たるごとく、某(ノ)地をさしてと云事にいふことなれば、快からず思ひしに、近き頃江戸人の説に、夜中《ヨナカ》は近江(ノ)國高島(ノ)郡にある地(ノ)名にて、七(ノ)卷に、狹夜深而夜中乃方爾欝之苦呼之舟人泊兼鴨《サヨフケテヨナカノカタニオホホシクヨビシフナヒトハテニケムカモ》とあるも同じく、共に夜中潟《ヨナカガタ》と云處なりといへり』云々。
 此歌は、和歌童蒙抄に、『タヒニアレハヨ中ヲサシテヽルツキノタカシマヤマニカクラクヲシモ』とあり、夫木和歌抄も同樣である。六帖には、『旅なればよひに立ち出て照る月の高島山にかくるるをしも』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九二〕
  吾《わ》が戀《こ》ふる妹《いも》は逢《あ》はさず玉《たま》の浦《うら》に衣《ころも》片敷《かたし》き一人《ひとり》かも寐《ね》む
  吾戀 妹相佐受 玉浦丹 衣片敷 一鴨將寐
 
(241) 〔題意〕 『紀伊國作歌二首』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○吾戀・妹相佐受 ワガコフル・イモハアハサズと訓む。舊訓イモニアハサズ。略解イモハアハサズ。古寫本中、京・西・細・温・矢は舊訓と同じく、他にイモニアヒサス(神・藍・壬・類)と訓んだのもある。アハスはアフの敬語で、卷十六(三八七五)に、少寸四道爾相佐婆伊呂雅世流菅笠小笠《スクナキヨミチニアハサバイロケセルスガガサヲガサ》。卷十八(四=六)に、花咲爾爾布夫爾惠美天阿波之多流《ハナヱミニニフブニヱミテアハシタル》の例がある。この敬語は親愛の情からも用ゐるし、語調のうへに基づくやうである。この卷十六の歌などには同じ歌で、一つは普通に道爾相奴鴨《ミチニアハヌカモ》とも使つてゐる。○玉浦丹 タマノウラニで、紀伊東牟婁郡下里町大字粉白の海岸である。『荒磯《ありそ》よもまして思へや玉之浦《タマノウラ》離れ小島《をじま》の夢《いめ》にし見ゆる』(卷七。一二〇二)。『ぬばたまの夜は明けぬらし多麻能宇良爾《タマノウラニ》あさりする鶴《たづ》鳴きわたるなり』(卷十五。三五九八)。『多麻能宇良能《タマノウラノ》沖つ白珠《しらたま》拾《ひり》へれどまたぞ置きつる見る人を無み』(同卷。三六二八)の例がある。○衣片敷・一鴨將寐 コロモカタシキ・ヒトリカモネムと訓む。旅衣を片敷いてただひとり丸寐するであらうかといふのである。
 〔大意〕 自分の戀しくおもふあの女は逢つてくれない、爲方がないから今夜は旅衣を片敷いてただひとり丸寐をすることであらう。といふ意である。家に殘して來た妻のことでも、旅で知つた女でもいづれでも當嵌めることが出來る。
(242) 〔鑑賞〕 旅中の寂しい心持をあらはした歌で、無理なくあらはしてゐる點が好い。『わが戀ふる妹はあはさず』の句がこの歌をして、稍澁く重厚にしてゐる。『衣かたしきひとりかも寐む』といふ句は、佳句で一般化し得る傾向があるので、隨分模倣されてゐるかとおもふと必ずしもさうでなく、『泊瀬風《はつせかぜ》かく吹く三更《よひ》は何時までか衣《ころも》片敷《かたし》き吾がひとり宿《ね》む』(卷十。二二六一)。『妹が袖別れし日より白妙の衣片敷き戀ひつつぞ寐《ぬ》る』(卷十一。二六〇八)がある。併し、『ひとりかも寐む』といふ結句だけならば可なりあるといふことになる。
 この歌は六帖に入り、第二句『妹に逢はさず』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九三〕
  玉匣《たまくしげ》明《あ》けまく惜《を》しきあたら夜《よ》を袖《ころもで》離《か》れて一人《ひとり》かも寐《ね》む
  玉〓 開卷惜 〓夜矣 袖可禮而 一喝將寐
 
 『紀伊國作歌二首』の第二首。『玉〓』の『〓』は匣と同じである。『〓』は萬葉では、アタラ、ヲシ、ヲシケクと訓んで居る。〓《リン》は惜貪也、鄙也、慳也ともあり、イヤシ、ヲシム、ヤブサカ、(243)ムサボル等と訓んでゐる。卷十一(二六六一)に、四惠也壽之〓無《シヱヤイノチノヲシケクモナシ》。卷九(一七一二)に、宵度月乃入卷〓毛《ヨワタルツキノイラマクヲシモ》といふ例がある。そして、アタラには惜の字を當てるから、この字をもアタラと訓んでよいのである。
 一首の意は、〔玉匣《たまくしげ》〕妻と一しよならば、明けるのも惜しい樂しい夜であるのを、惜しいことに、空しく妻の袖《ころもで》を離れて、ただ一人寐ることであるのか。といふ意である。
 前の歌と似てゐるから、題詞の通りやはり紀伊で咏んだものであらうか。『鳥總《とぶさ》立て足柄山に船木《ふなき》伐《き》り樹に伐り行きつあたら船材《ふなき》を』(卷三。三九一)。『秋の野に露負へる萩を手折らずてあたら盛を過ぐしてむとか』(卷二十。四三一八)の例がある。また、コロモデカレテの例には、『敷妙《しきたへ》の衣手|離《か》れて玉藻なす靡きか寢らむ吾を待ちがてに』(卷十一。二四八三)。『敷妙の衣手|離《か》れて吾を待つと在るらむ子らは面影に見ゆ』(卷十一。二六〇七)がある。
 この歌は平易に分かりよく咏まれ、民謠までにはひろがらずに、やはり個人の咏歎の域を保つてゐる點がある。
 此歌、六帖に、『ひとりね』の部に入り、人麿の歌とし、第二句『明けまく惜しみ』となつてをり、又新古今戀五、よみ人不知となつて萬葉と同じ形で出てゐる。
 
(244)          ○
 
  〔卷九・一六九四〕
  細領巾《たくひれ》の鷺坂山《さぎさかやま》の白躑躅《しらつつじ》吾《われ》に染《にほ》はね妹《いも》に示《しめ》さむ
  細比禮乃 鷺坂山 白管自 吾爾尼保波尼 妹爾示
 
 『驚坂作歌一首』といふ題がある。『細比禮』はタクヒレともホソヒレ(六帖・代匠記)タヘヒレ(仙覺抄)とも訓む。舊訓タクヒレ。細は内隔之細有殿爾《ウチノヘノタヘナルトノニ》(卷九。一七四〇)などの如くタヘで、栲領巾《タクヒレ》の栲はやはりタヘであるから、借りて細領巾を以てタクヒレと訓ませたものであらうか。また、ホソヒレといふ假名書の例は萬葉には無い。
 一首の意は、山城久世の鷺坂山に咲いてゐる白躑躅《しろつつじ》よ、われに薫染せよ。それをしるしに愛する妻に示さうとおもふ。といふ程の意である。
 ニホフ、ニホハスは染色に關するのが大部分であるが、さういふ色彩感から、ただ薫染する意味にも用ゐるやうになつた。この歌の場合は白であるから、それを以て衣を染めるわけではなく、白い色感が移り染《し》む感である。卷一(五七)の『ころもにははせ旅のしるしに』も必ずしも染色、擦染《すりぞめ》の實行を意味するのではあるまい。
(245) 初句を代匠記でホソヒレと訓むにつき、『古語ニ白キヲ栲《タク》ト云ヒケレバ白領巾《シラヒレ》ヲ栲領巾《タクヒレ》ト云ヘドモ、細ノ字ヲタクト和スベキニ非ズ。但白タヘト云詞ニ白栲とも白細トモカケル事アリ。此ハタヘト云ハ白キニツケル詞ナル故ニ、義ヲ以テ栲ノ字ハカケリ。又タヘハタヘナリト云詞ナル故ニ、細妙ノ故ヲ以テ白細トカケリ。サリトテタクト云時ハ通ゼズ。仙覺ノタヘヒレノ點モ亦ヨカラズ。第三第十一ニモタクヒレトコソヨミタレ、タヘヒレトヨメル例ナシ。鷺ノ頭ニハ立アガリタル長キ毛ノアルガ細キ領巾ニ似タレバカクハオケリ』と云つてゐる。私はタクヒレを採つたのだが參考のために記し置くのである。
 此歌、六帖に人麿作として入り、第一句『ほそひれの』。又夫木和歌抄によみ人しらずとして採られ、四五句『我ににほはていもにしるさん』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九五〕
  妹《いも》が門《かど》入《い》り泉河《いづみがは》の常滑《とこなめ》にみ雪《ゆき》殘《のこ》れりいまだ冬《ふゆ》かも
  妹門 入出見河乃 床奈馬爾 三雪遺 未冬鴨
 
(246) 〔題意〕 『泉河作歌一首』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○妹門・入出見河乃 イモガカド・イリイヅミガハノと訓む。古寫本には、イリデミガハノと訓んだのもある。これは、妹が門を入《イ》り出《イ》ヅだから、それから同音のイヅミ河へ續けたものである。考・略解・古義等は妹門《いもがかど》を枕詞と解してゐるが、新考では、『妹ガ門イリまでが枕辭なり』といつてゐる。枕詞の長いもの、序の短いものと思へばよく、かういふ句割の如くに使つた例のあるのも面白いのである。『入出見河《イリイヅミガハ》は、泉川《イヅミガハ》なるを、上よりのつづきによりて、人《イリ》の詞をいへるは、處女等之袖振山《ヲトメラガソデフルヤマ》といへる類なり』(古義)とあるごとく、枕詞と序詞との移行型のやうなもので、この變化もさう時を置かずに行はれたものであつただらう。それから、句割の形式は、袖振山《ソデフルヤマ》の場合にもやはりさうなつて居る。○床奈馬爾 トコナメニと訓む。常滑《とこなめ》の義で、河又は河原にある石などがつるつるして見えるのを常滑《とこなめ》と直感したのである。苔が附いてゐるためとか、底滑《そこなめ》の義とか、岩並《とこなめ》の義とかいふ説もあること、既に論じたとほりである。『川中にある石なり。水のにごりのしみつきて常《つね》に滑かなりといふ心にて名付るなり』(代匠記初)は穩當である。『床奈馬《トコナメ》は、底滑《ツコナメ》なり』(古義)。『岩並《トコナメ》にて、河を渡る料に岩をならべおきたるにてイハバシ、イハノハシといへるも同物なり』(新考)等の説がある。『常滑の絶ゆることなく』(卷一。三七)と續けたのは、『常《つね》』であるから、『絶ゆることなく』なので、これは音で續けたのでなく義によつて續けた(247)ので、決して解釋は無理では無い。
 〔大意〕 一首の意味は、泉河に來て見ると、まだ雪が殘つてゐる。泉河の水に近き河原の石のうへにまだ雪が殘つてゐる。さうして見ればまだ冬であらうか。といふのである。
 〔鑑賞〕 この殘雪の歌は萬葉にはその他にもあつて、當時の人々は相當に興味をもつたものと見える。それは必ずしも風流のためでなく、ただ心を牽いたもので、歌を咏む氣になつたものであらう。特に、泉河は後、恭仁の宮のある處で、『山並の宜しき國と川次の立ち合ふ郷と』(卷六。一〇五〇)。『山高く川の瀬清し』(卷六。一〇五二)。『百樹成す山は木高し落ちたぎつ瀬の音も清し』(卷六。一〇五三)。などと形容してゐるごとく、佳景であつたことが分かる。結句の、『いまだ冬かも』も、稚い言ひ方で、なかなか素朴で簡潔である。そして旅中の寒さをもこの一句に籠めてゐるのである。併し一歩出れば理に墮ちる言ひ方で、古今集の歌の理窟は、かういふものがもう一歩邪道に入つたものである。一首の調べの張り切つてゐない樂《らく》な歌だが、序歌の手法を用ゐたのなどは人麿の好みでもあるから、人麿作と想像しても別に邪魔にはならぬが、恐らくはさうではあるまい。
 古來この歌の、『み雪殘れり』をば實際雪が殘つてゐるのでなく、川の白波を殘雪に見立てたのだと解釋したのが多い。『雪ト云ハ、實ニハアラジ。上ニ彦星ノカザシノ玉トヨメル如ク、白沫ノ(248)巖ノ許ニ積レルヲ綺《イロヘ》テ云ヘルナルベシ』(代匠記精)。『沫波などを見て、春まで雪の殘れるかと疑へる也』(略解)。『底滑《ソコナメ》の生(ヒ)著たる砂石に、白沫などの溜《タマ》れるを見て、春まで雪の殘たりと思へる意ならむ』(古義)。『まことに雪の殘れるを見てイマダ冬カモと疑はむは迂遠なり。されば波の床なめにかかるを雪の殘れるに見たてたるなるべし。【中略】但白沫といへる【代匠記説】はいかが。浪のうちかくるを遠くより見ばげに雪とも見えぬべし』(新考)等の諸説が即ちそれである。そして、この説を導いたのは、常滑を水中にある石と解すると殘雪がをかしく、そこで川水の沫波とか白沫とかの錯覺だらうといふ説にもなるのであるが、この常滑は、川原の石をも含めて考へて毫も差支が無いので、水中に濡れてゐなくともいいのである。『隱口の豐泊瀬道《とよはつせぢ》は常滑《とこなめ》の恐き《かしこ》道ぞ』(卷十一。二五一一)の用例を見れば、水中になくともいいのである。それから、新考説の如く、岩並《とこなめ》説だが、人の往來のために並べた石並の義とすると、さういふところは早く雪の消えるのが常で、殘雪はもつと自然な處にあるものだから、新考説もいかがと思はれる。また、結句の、『いまだ冬かも』も實際の殘雪を見てかくいふは迂遠だといふ新考の説も、平凡な常識で律してゐるらしく見える。ここは感情の自然で解釋すべきで、かういふ歌の技法をも、散文的寧ろ論文的な詮議で破壞するのはどうかとおもふ。寧ろ、『これにて思へばいまだ冬にてあるか。さても寒きことかな。旅宿の床の夜ごとに沍《サユ》るは、げにもことわりぞとなり』(古義)といふ解釋の方が、少しくどいが、増し(249)だとおもふのである。
 私はこれまでこの邊の歌の參考書を殆ど讀まずに自分だけの解釋をして來たのであつたが、先進の説にも種々あることを知つて少しく駕いたので、煩瑣ではあるが愚按をも附加したのであつた。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九六〕
  衣手《ころもで》の名木《なぎ》の河邊《かはべ》を春雨《はるさめ》に吾《われ》立《た》ち沾《ぬ》ると家《いへ》念《おも》ふらむか
  衣手乃 名木之河邊乎 春雨 吾立沾等 家念良武可
 
 『名木河作歌三首』といふ題がある。『河邊乎』を略解では乎は之の誤として、カハベノと訓ませたが、古義ではそれを否とした。『家念良武可』は、舊訓イヘオモフラムカであつたのを、考でイヘモフラムカとした。『衣手乃』は名木に續く枕詞であるが、諸説がある。『衣手ノナキノ河トツヅケルハ、泣時袖ヲ掩フ意ナリ』(代匠記)。『衣手のなるると云、なの一語にうけたる續き也』(童蒙抄)。『名木の川云々、これも長きといひかけたるか。がきの反ぎなれば、約めてなぎといふべ(250)し。又袖はことになれてなゆるものなれば和《ナギ》といへるか』(冠辭考)。大體冠辭考の説を參考して追考すべきである。略解では、『衣手が春雨に濡るるといふ續きなり』といひ、古義でもそれを踏襲して、『第四(ノ)句の上にうつして心得べし』と云つてゐるが、これは矢張り枕詞の格である。
 一首の意は、名木の河邊を旅來つつ、春の雨にこんなに濡れて難儀してゐることを、家人等はおもふであらうか、おぼつかないといふ意が含まつてゐる。『この患苦《クルシサ》は得知まじと云るなり』(古義)を含めてゐるのである。
 この結句のことは既に、上卷の人麿短歌評釋(卷三。四二六の條)のところでも一言して置いた。なほ少し參考書を抄記するならば、『我ハ此河邊ニ涙ヲ拭ヒテ立ツヲ、家人ノサハ知ラデ春雨ニノミコソ立沾ラメト思ヒオコサムカトナリ』(代匠記精)。『家に思ふらんを、にを略て家もふといへり』(考)。『家モフラムカとは、家人の思ふらんかと言ふ意にて、家爾の爾を略けるなり』(略解)等である。これは、旅にある自分をば家人が〔五字右○〕、家にゐる妻らが〔三字右○〕おもふといふので、主格は『家』なのである。
 このあたりにある一聯の歌は、實際の吟であるらしく、また、何か人麿歌集に收録されるやうな一定の因縁のある一團の作者の作のやうにおもはれる。即ち作者は實際は人麿でないかも知れず、或は人麿かも知れず、そこは不明でも、先づ人麿でないやうにおもへる。然かも作者が一人(251)でなくて、そのあひだに一定の關係を持つてゐるものであるやうな氣がするのであるが、この三首は同一作者で同時に作つたものであらう。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九七〕
  家人《いへびと》の使《つかひ》なるらし春雨《はるさめ》の避《よ》くれど吾《われ》を沾《ぬ》らす念《おも》へば
  家人 使在之 春雨乃 與久列杼吾乎 沾念者
 
 前の續きである。○使在之 舊訓ツカヒナルラシ。代匠記精ツカヒニアラシ。○沾念者 舊訓ヌラストオモヘバ。代匠記精ヌラスオモヘバ、又はヌラスヲオモヘバ。ヨクといふ動詞は避くの意で加行上二段に活用する。卷十五(三六八三)に、伎美乎於毛比安我古非萬久波安良多麻乃多都追奇其等爾與久流日毛安良自《キミヲオモヒアガコヒマクハアラタマノタツツキゴトニヨクルヒモアラジ》の例がある。
 一首の意は、春雨に沾れまいとして避くるが、なほこのやうに沾らすのは、この春雨は家人《いへびと》からの使であるからであらう。はやく歸つて欲しいといふ心持ででもあらうといふ意が含まつて居る。この沾らすは涙でぬるる意味はない。それは後世ぶりである。
(252) 先進の解釋を抄すれば次の如くである。『家人は故郷人也。故郷はなつかしさに故郷の使あれば泪にぬるる也』(拾穗抄)。『使ハ能|此方彼方《コナタカナタ》ノ心ヲ通ズルヲヨシトスルニ、雨ヲヨキテ沾ジトスレド強テヌラスハ、故郷ノ人ノ使ニオコセタルナラムトナリ。風、雲ナドハ使ト云ヲ、雨ヲ使ト云ハ、時ニ取テ心ニ任チヨメルニヤ』(代匠記精)。『よくれ共かく濡るる春雨は、家人の使なるらん。よきてもかく迄慕ひぬるるはと云意也』(童蒙抄)。『歌意は、吾をはやもかへりねともふ家なる人のつかひならめ。かく雨をさけよくれども、ぬらしぬるよと思ふとなり』(考)。
 この心は兎に角春雨に沾れて難儀して居る場合に、その濡れた春雨をば、家にゐる妻などの使だと聯想したのがこの歌の特色でもあり、一寸腑に落ちないやうにする所以でもあるが、どうしてかういふことを云つたかといへば、拾穗抄の説は稍後代ぶりであり、童蒙抄の、『慕ひぬるる』も稍いひ過ぎであり、考の説が一番自然で無理がないやうにおもへる。『秋田苅る衣手《そで》搖《ゆる》ぐなり白露は置く穗田なしと告げに來ぬらし』(卷十。二一七六)といふ例もあり、かういふ聯想なり表現なりが、古今集以後に多くなつて行つた。それから、この歌について拾穗抄の説を稍後世的だと前言したが、萬葉にも、『ひさかたの雨には著ぬを恠《あや》しくも吾が衣手は干《ひ》る時なきか』(卷七。一三七一)といふのがあり、涙のことを云つてゐるが、この歌に直ぐ應用するのはどうかとおもふ。
 
(253)          ○
 
  〔卷九・一六九八〕
  炙《あぶ》り干《ほ》す人《ひと》もあれやも家人《いへびと》の春雨《はるさめ》すらを間使《まづかひ》にする
  ※[火三つ]干 人母在八方 家人 春雨須良乎 間使爾爲
 
 前の歌の續きである。○人母在八方 舊訓もヒトモアレヤモ。古寫本中ヒトモアリヤハ(神)がある。○間使爾爲 マヅカヒニスルと訓む。神田本にマツカヒニセムと訓んだ。間使《まづかひ》は兩方の間を行き通ふ使者で、『【前略】名告藻の己が名惜しみ間使《まづかひ》も遣らずて吾は生けりとも無し』(卷六。九四六)。『梅の花それとも見えず零る雪のいちじろけむな間使遣らば』(卷十。二三四四)。『立ちて坐《ゐ》てたどきも知らに思へども妹に告げねば間使も來ず』(卷十一。二三八八)などの例がある。
 スラといふ助詞は、一事をあげて例示し他を類推せしめるもので、『蒼天《あをぞら》ゆ通ふ吾等須良《ワレスラ》汝がゆゑに天漢路《あまのがはぢ》をなづみてぞ來し』(卷十。二〇〇一)。『越《こし》を治めに出でて來し丈夫和禮須良《ますらワレスラ》よの中の常し無ければ』(卷十七。三九六九)。『言問はぬ木尚紫陽花諸弟等《キスラあちさゐもろとら》が練《ねり》の村戸《むらと》に詐《あざむ》かえけり』(卷四。七七三)。『言問はぬ木尚妹《キスラいも》と兄《せ》ありとふをただ獨子《ひとりご》にあるが苦しさ』(卷六。一〇〇七)等の例によ(254)つてその用法を知り得る。
 一首の意は、旅衣の濡れたのを火にあぶつて乾かして呉れるものも居ないのに、家人らは春雨まで態々使によこしてまた私の衣を濡らすとはひどい。といふぐらゐの意である。
 このヤモは疑問で、反語的の意味に落著くことは、人麿短歌評釋の折に(卷四。四九九)も言及した。それからこの歌でなぜかういふことを云つたかといふに、※[覊の馬が奇]旅の苦しいなかにあつて、幾らかフモールの語調があるやうでもある。そしてこれは親愛に本づくとせば、この三首の相手は或は妻即ち家人であつたのかも知れない。
 いづれにしても、この一聯は空想の作でないらしく、※[覊の馬が奇]旅の實地を咏じてゐるとおもつて間違がないらしく、大體が獨咏歌の趣であるが、やはり對者の豫憩のあることは、家人《いへびと》を云々してゐるを以て見ても分かるのである。
 前の『炙《あぶ》り干す人もあれやも沾衣《ぬれぎぬ》を家には遣らな旅のしるしに』(一六八八)といふ歌に類似してゐるが、傳誦の間に變化したものででもあらうか。
 
          ○
 
(255)  〔卷九・一六九六〕
  巨椋《おほくら》の入江《いりえ》響《とよ》むなり射部人《いめびと》の伏見《ふしみ》が田井《たゐ》に鴈《かり》渡《わた》るらし
  巨椋乃 入江響奈理 射目人乃 伏見何田井爾 鴈渡良之
 
 〔題意〕 『宇治河作歌二首』といふのの第一首である。
 〔語釋〕 ○巨椋乃入江 オホクラノイリエで、延喜式神名には、山城國紀伊郡大椋神社、久世郡巨椋神社があつて、代匠記では、この巨椋入江は紀伊郡の方だらうと考へてゐるが、童蒙抄・考・略解等は久世郡の方と考へ、近ごろの調査では、矢張り久世郡の方にしてある。『山城國久世郡の北部に在り。南北四十町、東西五十町に及び、霖雨の頃は、宇治川の水を容れ、浩渺たる江灣をなす。通稱おぐらのいけ』(萬葉地理考)。古い訓には、オホクラノ。オモクラノ。オムクラノ等があつた。○響奈理 トヨムナリと訓ず。舊訓ヒビクナリで、これは袖中抄などにもさう訓んでゐる。和歌童蒙抄には、ナルナリと訓んで居り、眞淵の考がそれを踏襲したのかさう訓んでゐる。代匠記精に、『響ハトヨムトモ讀ベシ』といつたのが原で、略解・古義・新考・新訓等皆それに從つた。考のナルナリ訓は少し輕い。ヒビクナリといふ訓も棄てがたいが、やはりトヨムナリの方が順當かも知れない。さてこの、『響《とよ》むなり』といふのは、雁が群れて飛び立つ、その羽音と(256)啼聲をいふのである。『響トハ鴈ノ立羽音ヲ云ヘリ』(代匠記精)。『巨椋の入江の浪が響みわたるなり、今や伏見の田面に、鴈が渡るらし、その鴈の聲の響《ヒビキ》に、この入江が鳴ならむとなり』(古義)等が參考になる。○射目人乃 イメビトノと訓ず。夢人《いめびと》といふ説と、射部人《いめびと》といふ説と兩説がある。射部人は殆ど通説で、『いめ人は、獵《かり》する時に鹿猪《しし》の通ひ來、或は落行《おちゆく》かたを見せしめむために、節所にまぶしなどさして、ぬはれ伏して窺《うかが》はしむるものをいへり。……即ち、跡見《あとみ》ともいへり』(代匠紀初)。『目伏《まぶし》をさして、伏し隱れ居てねらひ射るゆゑに伏見にはつづけし也』(冠辭考〕等で、冠辭考では跡見《あとみ》と射部《いめ》人は違ふと云つてゐる。なほ古義では大神(ノ)景井が説を引いて目伏《まぶし》説を否定してゐるが大體が同じで、鳥獣を射る役割の人々を云ふのである。射部の用例は、『み山には射部《いめ》立て渡し朝獵に鹿猪《しし》ふみ起し』(卷六。九二六)。『射部《いめ》立てて跡見《とみ》の岳邊《をかべ》の瞿麥《なでしこ》の花|總手折《ふさたを》り吾は持ち去なむ寧樂人《ならびと》の爲』(卷八。一五四九)。『高山の峯のたをりに射部《いめ》立てて猪鹿《しし》待つ如』(卷十三。三二七八)等で、射部《いめ》といふ一種の役割がある以上、この説が有力である。ただ、『伏す』に續けた例が他に無いのが殘念なのである。次に、第二の夢人《いめびと》説は、愚庵和尚の歌に、『いめひとの伏水《ふしみ》の里を美《うつ》くしみ東山《ひむがしやま》を住み棄てて來つ』といふのを讀んだ時に、愚按を立てて、『いめひとは夢人』と注して置いた。其は大正三年十二月の事であつたが、拾穗抄に、『いめ人は夢人か。扨伏見とつづくるなるや。見安云、射目《イメ》人は夢に見る人也』とあり、代匠記はそれに對して『此集ニ夢ヲ伊(257)米トモ云ヘルニ依テ夢人ト云説アレド、伏見ト云ハムニハ人ト云ハズトモ唯夢ニテ足ヌベシ。何ノ夢カ伏テ見ザラム。其上射目トカケル文字ノヤウ、第六第八第十三皆一同ナリ』(精)といひ、荷田春滿の説に、『いめ人は、いめ立ててとみの岡邊などよめると、同じきと云説もあれど、これは夢の義なるべし。夢は伏して見るものから、伏見が田井を云はんとて、いめ人とは詠出たる也。これらが歌の續きがらの至極の義也。【中略】宗師説は夢を人の伏し見ると云うけに見る也』(童蒙抄)と云つてゐる。今となつては兩説中、『射部《いめ》人』説に從ふべきであらう。○伏見何田井爾 フシミガタヰニと訓む。伏見の田井にで、伏見は山城紀伊郡で今の伏見と同じである。タヰは田居《たゐ》、田井《たゐ》で田のことである。一面の水田があり、其處に雁が屯してゐたのであつただらう。
 〔大意〕 一首の意は、いま巨椋の入江を群をなして飛び立つ雁の羽音と啼聲が聞こえ、騷然として響いて居る。これは紀伊郡にある伏見の水田の方に渡つて行くらしい。現にさういふ方嚮を取りつつある。といふ歌である。
 それだから、この『田井に』の『に』は方嚮をあらはしてゐると解したいのである。嘗てアララギで萬葉集短歌輪講をしたとき、『※[就/火]田津に舟乘せむと月待てば潮も叶ひぬ今は漕ぎいでな』(卷一。八)の歌に至り、偶その時アララギで橘守部の檜嬬手を覆刻して讀んでゐた時だつたので、守部説に從つて、『※[就/火]田津へ向つて』と解したことがあつた。それも輪講の形式としてさういふ説(258)を提出して論議するのもいいとし、『に』を『へ向つて』とした他の用例をさがすやうに提出したのであつたが、赤彦も千樫もそれに應じなかつたらしい。元來は、『へ向つて』と解してゐたのでなく、守部の新説を提出したのであつたから、私は其後、『舟乘せむと』の用例を拾つて元の説に復歸したのであつたが、其後萬葉に遠ざかること十數年にわたり、さういふことなどは忘却がちであつた。さういふことを想起したのはある機縁を與へられたつひ近頃のことである。さて、『に』の用法に方嚮をあらはすものは、此歌の場合もさうだが、なほ、『粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石の門浪《となみ》いまだ騷げり』(卷七。一二〇七)。『石倉《いはくら》の小野《をぬ》ゆ秋津《あきつ》に立ち渡る雲にしもあれや時をし待たむ』(卷七。一三六八)。『山の邊にい行く獵夫《さつを》は多かれど山にも野にもさを鹿鳴くも』(卷十。二一四七)。『京方《みやこべ》に立つ日近づく飽くまでに相見て行かな戀ふる日多けむ』(卷十七。三九九九)等のなかにある、『に』は單に場處のみの意味でなく、方嚮をも示してゐるのである。それだから※[就/火]田津の歌の場合は、『船乘』といふ語と、『に』といふ語と相俟つて、『場處』を指すといふことになるのである。輪講の折にも其處を極めて貰ひたかつたのである。
 〔鑑賞〕 さて此一首は、今味はつて見るになかなかいいところがあり、調べも大きく、そしてすべすべと滑に失せずに、何處かに鋭い響を持つて居る。それだからひよつとせばこれは人麿の作なのかも知れないといふ氣持を起させる。第三句で、射部人《いめびと》のといふ枕詞を用ゐたのなども人(259)麿の好む技法の一つと考へることが出來る。この枕詞は此處で餘り意味を強く取ると鑑賞上の邪魔をするが、當時にあつてはやはり相當に意味を持たせ、そこが作歌上の樂しみでもあり、人も感心した點であつただらうと想像することも出來る。けれども現在に於て味ふに、一首全體としてこれだけのものが眼前に現存してゐるのだから、その作歌能力に感心していいのである。
 この歌は、袖中抄に、『巨椋《オホクラ》乃|入江《イリエ》ヒヽクナリ射目人《イメヒト》ノ伏見《フシミ》カ田ヰニカリワタルラシ』。和歌童蒙抄に、『ヲホクラノイリエナルナリイメヒトノフシミカタヰニカリワタルラシ』と載つてゐる。また夫木和歌抄にも載り、『入江ひひくなりいめ人のふしみのたゐに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇〇〕
  秋風《あきかぜ》に山吹《やまぶき》の瀬《せ》の響《とよ》むなべ天雲《あまぐも》翔《がけ》る鴈《かり》に逢《あ》へるかも
  金風 山吹瀬乃 饗苗 天雲翔 鴈相鴨
 
 〔題意〕 『宇治河作歌二首』の第二首である。
 〔語釋〕 ○金風 舊訓アキカゼノ(【代匠記・童蒙抄・考・古義同訓】)。六帖アキカゼニ。略解アキカゼニ(新考同訓)。(260)金風は染元帝纂要に、秋風曰2金風1とあり、歳華紀麗に、玉帝規v時金風屆v序とある。五方向を五行に配すると秋は金に當るからである。唐詩には單に金吹と使つたのもある。萬葉では數例あり、白風とも書いた。『天漢《あまのがは》水除草の金風靡見者《アキカゼニナビカフミレバ》時來るらし』(卷十。二〇一三)。『よしゑやし戀ひじとすれど金風之寒吹夜者《アキカゼノサムクフクヨハ》君をしぞ念ふ』(卷十。二三〇一)などがある。○響苗 舊訓ナルナヘニ。仙覺ヤマフクセセノナルナヘニ。或本ヤマフキノセノヒヒクナヘ。代匠記精トヨムナヘ。○鴈相鴨 舊訓カリニアヘルカモ。童蒙抄カリニアフカモ、又カリヲミルカモ(新訓同訓)。略解宣長訓、相は亘の誤で、カリワタルカモ(新考從v之)。相をミルと訓ませた例がほかに尠いので、カリニアヘルカモといふ舊訓に從ふ。もつとも支那では相をミル義に借り得るし、伊呂波字類抄では相をミルと訓ませてゐるが、相をアフと訓ませた例の方が多いからそれに從ふのである。なほ後に補充する。
 〔大意〕 一首の意は、秋風に宇治河の山吹《やまぶき》の瀬の水が鳴りひびいて居る。と見ると空の雲には雁群が飛び過ぎる。といふので、それをば、『雁に逢つた』といふやうにあらはした。
 〔鑑賞〕 此處の『なべ』も、につれて、と同時に、ふと見ると、ぐらゐの心持で、既に評釋した、『あしひきの山河の瀬の鳴るなべに弓月《ゆつき》が嶽に雲たちわたる』(卷七。一〇八八)のほかに、『雲の上に鳴きつる雁の寒きなべ萩の下葉は黄變《うつろ》はむかも』(卷八。一五七五)。『葦邊なる荻《をぎ》の葉さや(261)ぎ秋風の吹き來るなべに鴈鳴きわたる』(卷十。二一三四)などを參考とすべきである。
 次に、『雁に逢へるかも』と、『雁を見るかも』といづれかといふに、『雁を見るかも』は童蒙抄の一訓で、新訓が其に從つたのであらうが、童蒙抄でもカリニアフカモと訓んで居り、『あふかもは時節の來りたることを嘆息して、春過夏も去りて、今はた秋風起つて天をかけりて己が來る時ぞとて、はるばる越路の雁にあふ事かなと、時節の過行來れるを感嘆して宇治川の地名によせてよめる也。雁を見るかも共讀むべし。いづれにても意同じき也』と云つてゐるのである。併しこのカリヲミルカモの訓は人の注意をひかず、新訓によつてはじめて認められたのであつた。
 このカリヲミルカモといふ表現は後世的、寧ろ近代的表現であつて、古調でないのが不滿であるし、萬葉にも類例が無いやうである。之に反して、アヘルカモの方は、卷四(五一三)に、吾念
妹爾今夜相有香裳《ワガオモフイモニコヨヒアヘルカモ》。同卷(五五九)に、如此戀于毛吾者遇流香聞《カカルコヒニモワレハアヘルカモ》。卷六(九九三)に、氣長戀之君爾相有鴨《ケナガクコヒシキミニアヘルカモ》。卷十(一八九四)に、霞發春永日戀暮夜深去妹相鴨《カスミタツハルノナガヒヲコヒクラシヨノフケユキテイモニアヘルカモ》などがあるので、舊訓の方が自然であらうとおもふのである。
 次に、初句、舊訓アキカゼノと訓んだので、『折節ノ秋風ヲ、ヤガテ山ニ吹ト云意ニ、宇治ニアル山吹ノ瀬ノ諷詞トセリ。六帖ニアキカゼニトアル時ハ、ソヘテ云意ニアラズ、今ノ點ヤマサリ侍ナム』(代匠記精)。『宣長云、秋風ノと訓みて山吹(ク)の意の枕詞なり』(略解宣長説)。併し略解はア(262)キカゼニと訓ませてゐるのである。
 『秋風爾《アキカゼニ》河浪立ちぬ暫《しまし》くは八十の舟津《ふなつ》に御舟《みふね》とどめよ』(卷十。二〇四六)。『新治の鳥羽の淡海も秋風爾《アキカゼニ》白浪立ちぬ』(卷九。一七五七)。『秋風爾《アキカゼニ》山飛び越ゆる鴈がねの聲遠ざかる雲|隱《がく》るらし』(卷十。二一三六)。『秋風爾《アキカゼニ》大和へ越ゆる鴈がねはいや遠ざかる雲がくりつつ』(同卷。二一二八)等の例があるから、この場合も、アキカゼノといふ枕詞にせずともいいとおもふ。
 この歌の聲調は、伸びてきびしいところがあり、ひよつとせば人麿の作ではないかと想像せしめる。同一の作者は生涯を通じて、一種の傾きを持つてゐるものであるから、この歌があつて、また人麿作と認められる弓月嶽の歌のあることは、却つてこの歌を人麿作と想像せしめる一つの根據ともなり得るのである。
 この歌は六帖に入り、『秋風に山吹の瀬の響くなべ空なる雲のさわぎあへるかも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇一〕
  さ夜中《よなか》と夜《よ》は深《ふ》けぬらし鴈《かり》がねの聞《きこ》ゆる空《そら》に月《つき》渡《わた》る見《み》ゆ
  佐宵中等 夜者深去良斯 鴈音 所聞空 月渡見
 
(263) 〔題意〕 『獻弓削皇子歌三首』中の第一首である。弓削皇子は、天武天皇の皇子で、天武紀に、『次妃大江皇女生3長皇子與2弓削皇子1』。持統紀に、『七年春正月辛卯朔壬辰云々以2淨廣貳1授3皇子長與2皇子弓削1』。文武紀に、『三年秋七月癸丑朔癸酉淨廣貳弓削皇子薨。云々皇子天武天皇之第六皇子也』とある。御年齡の正確なことは不明であるが、人麿よりは可なり御年若であつたと推定される。文武三年七月薨去であるからこの歌がそれ以前の作であるべきことも考へられるのである。
 〔大意〕 一首の意は、もはや夜中《よなか》ぐらゐに夜が更けたと見える。そして雁の群が聲たてて啼きながら遠ざかる方に、月も低くなりかかつてゐる。といふぐらゐの歌であらうか。この歌で特殊なのは、『月渡る見ゆ』といふ言方《いひかた》であるが、これも急な運動をあらはすのでなく、天傳《あまづた》ふなどの語と同じく、動く氣特だが、それが主でなくて眼前には、月なり日なりが照つて見えてゐるのを、かういふ言方であらはしてゐるのである。そんなら、『月照り渡る』とか、『月かがやきぬ』などと云つたら奈何といふに、作者としてはそれでは滿足しないので、雁などの飛翔と共に移動する氣持を月に對しても持たせたいのであらう。そこでかういふ言方をしてゐるのである。『月の傾《かたぶ》ける方に、鴈の鳴わたる、げに物しづかに、あはれもことにて、且夜の更けたることも著《しる》き空のさまなるをもて、かくよめるなるべし』(考)によつて大體が分かる。古義の解釋は稍くどい。
(264) 〔鑑賞〕 この一首も、淀まず巧まずに云つてゐて、相當の重量を持たせてゐるのが好く、雁の群に月を配しただけだが、その聲調のゆらぎによつて、現實を再現せしめる效果を有つてゐる。ただこの歌は皇子に獻じた歌だから相當に骨を折つてゐるが、やはりおとなしい歌の部類に屬するものであらう。そして、『ひさかたの天《あめ》の香具山《かぐやま》このゆふべ霞棚引く春たつらしも』(卷十。一八一二)とか、『ぬばたまの夜はふけぬらし玉くしげ二上山《ふたかみやま》に月かたぶきぬ』(卷十七。三九五五)とかいふ歌を聯想しつつ味ふべき、上品の歌で、沈痛切實の歌といふ訣合の歌ではない。何か品の高い重厚の點を鑑賞すべきである。新考では、『何の巧もなくてしかもいとめでたき歌なり。天衣無縫とや評すべき』と褒めて居る。なほ卷十(二二二四)に、『この夜らはさ夜ふけぬらし鴈が音の聞ゆる空ゆ月立ち渡る』といふのがある。
 次に此歌は弓削皇子に獻ずるといふ題があるので、代匠記初に、『此三首、弓削皇子にたてまつる歌なれば、をのをのふくめる心あるべし』と云ひ、童蒙抄でも、『皇子を待戀て、夜の更行を惜みてよめるか。何とぞよせる處あるべけれ共、其意は知れ難し』といひ、古義では稍委しくなつて、『今按(フ)に、今は其(ノ)時節に至りたりと覺えて、皇子の御蔭をたのみにしたる世(ノ)人の、多くなり登れるが見ゆるに、吾(カ)身ばかりは、なほしづみ居て、いまだなにのさだもなきに、かくては空しく時節過なむを、いかで早く御恩澤を下したまへかし、と身のほどを下心に訴《ウタフ》るならむ。あはれ今(265)年の秋も去《イヌ》めりの意あるべし』と云つてゐるが、かういふ解釋はどうか知らん。寓意寓意といふが、これだけの實際の天然觀照をしてゐるのに、自身の官位の事などの混入が出來るのか、この歌は天然觀照の歌として、即ち一首の歌として獻じてゐるので、奧齒に物のはさまつたやうな一種の謎を拵へて皇子に訴へてなどゐるのでは無い。この時分にはこれぐらゐの風流、つまり天然觀照の素養が積まれてゐたことを知らねばならない。守部の説も大體さういふ傾があるが、寓意寓意と云々するのは少しく耳觸りである。
 それから、童蒙抄で、『誰人の奉れるか難v知。奥の袖書を證として注せば、此歌共も皆人丸の奉れるか』と云つてゐる。即ち人麿の作かも知れないと想像してゐるのである。この一首は或は人麿作かも知れない。ただ三首中の、『妹があたり茂《しげ》き雁がね夕霧に來鳴きて過ぎぬ羨《とも》しきまでに』『雲|隱《がく》り鴈鳴く時は秋山の黄葉《もみぢ》片待つ時は過ぎねど』の二つは此歌よりも劣る。おもしろい處もあるが、措辭がくどく、單純化が充分でない。人麿の同道のものか誰かの作らしくおもへる。
 此歌、古今集秋上、讀人不知に入つた。『此歌古今集ニ誤テ入タリ』(代匠記精)。
 
          ○
 
(266)  〔卷九・一七〇二〕
  妹《いも》があたり茂《しげ》き雁《かり》がね夕霧《ゆふぎり》に來鳴《きな》きて過《す》ぎぬ羨《とも》しきまでに
  妹當 茂苅音 夕霧 來鳴而過去 及乏
 
 『獻弓削皇子歌三首』の第二首である。
 一首の意は、妻の居る彼方《かなた》の空へ、澤山の雁どもが、夕霧のかかつてゐる中を鳴きながら來て、飛んで行つてしまつた。羨《うらやま》しいものである。自分と妻と離れてゐるのに、雁どもは妻のゐる方に行つたからかういふ言方をしたものである。
 この歌で、『茂《しげ》きかりがね』の語は注意すべく、『波音乃茂濱邊乎敷妙乃枕爾爲而《ナミノトノシゲキハマベヲシキタヘノマクラニナシテ》』(卷二。二二〇)はやはり人麿の作であり、『引放箭繁計久《ヒキハナツヤノシゲケク》』(同卷。一九九)も人麿の作である。トモシキマデニといふ結句も棄てがたく、『ひさかたの天漢原《あまのかはら》にぬえ鳥のうら歎《な》きましつ羨《とも》しきまでに』(卷十。一九九七)といふのがあり、なほ、『吉名張《よなばり》の猪養《ゐかひ》の山に伏す鹿の嬬呼ぶ聲を聞くがともしさ』(卷八。一五六一)。『武庫の浦を榜《こ》ぎ囘《た》む小舟粟島を背向に見つつともしき小舟』(卷三。三五八)等を參考とすべきである。
 此等の歌は弓別皇子に獻つたものでも、皇子を讃美する寓意などを含んでゐるのではなく、景(267)に即してその儘咏んだものを獻つたもののやうである。歌は取りたてていふ程のものでないが、手法も確かで、聲調もまた礙縮に陷つてゐない。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇三〕
  雲隱《くもがく》り鴈《かり》鳴《な》く時《とき》は秋山《あきやま》の黄葉《もみぢ》片待《かたま》つ時《とき》は過《す》ぎねど
  雲隱 鴈鳴時 秋山 黄葉片待 時者雖〔不〕過
 
 同第三首である。○雲隱 舊訓クモガクレ。童蒙抄クモガクル。略解クモガクリ。○雖過 舊訓缺。代匠記精スグレド(童蒙抄・考・古義同訓)。略解宣長訓、不を補つてスギネド。古寫本に、スグトモ(藍・壬・類・神)の訓がある。
 一首の意。雲にかくれて遠く雁の鳴くころになると、まだ季節ではないが、秋山の黄葉するのが待たれる。
 代匠記精に『鴈鳴時ノ長月ニ至テ、時ハ過レドモ、猶秋山ノ色付カネバ、黄葉ヲ片待テアルトナリ』と解し、考に、『黄葉をかたづにまつなり。片は借字正しくは方なり。さて今則秋の時なれ(268)ば、もみぢの遲きをいふなり』と云つたが、略解では、『宣長云、過の上、不の字を脱せり。スギネドと訓むべし。鴈の聲を聞けば、時は過ぎねども、紅葉を待つなりと言へり。過グレドとしては聞えぬ歌なり』と云つてゐるが、大體略解の説でいい。ただこの落字説はどうかといふのであるが、古寫本中にスギネド(西・細・温・矢・京)といふ訓を書いたのがあるから、無根據といふわけではない。
 『櫻ばな時は過ぎねど見る人の戀の盛と今し散るらむ』(卷十。一八五五)。『遲速《おそはや》も君をし待たむ向つ峯《を》の椎の小枝《さえだ》の時は過ぐとも』(卷十四。三四九三或本歌)の二例があり、いづれにも參考になるが、スグレドの訓では無理があるやうである。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇四〕
  うちたをり多武《たむ》の山霧《やまぎり》しげきかも細川《ほそかは》の瀬《せ》に波《なみ》の騷《さわ》げる
  ※[手偏+求]手折 多武山霧 茂鴨 細川瀬 波驟祁留
 
 〔題意〕 『獻|舍人皇子《とねりのみこ》歌二首』中の第一首である。
(269) 〔語釋〕 ○※[手偏+求]手折 ウチタヲリと訓む。ウチタヲル(舊訓)。ナカタヲル(代匠記)。ウチタヲリ(考)等の諸訓があり、現在の訓は考に從つてゐる。多武《たむ》に係る枕詞に使つてゐる。『打手折《うちたをり》撓《たわ》める』といふ意で續けてゐるのである。『タムハ廻ルト云詞ナレバ、此方彼方肱折テ山路ヲ廻ルト云意ニソヘタリ』(代匠記精)。『枝を折るには何にてもたわめて折るなれば、如v此續けたり。これらの續けがら上手の續けなり。たをる、たと受けたる詞の續きを甘心すべし』(童蒙抄)。『この※[手偏+求]は言《コト》おこすことば、手折はをれたわめるをいふ。卷十九に山の手乎里爾《タヲリニ》、垂仁紀に山多和《ヤマノタワ》などいへる即これにて、多武の山のたむを、たわむこころにとりてかくはつづけたるなり』(冠辭考)等に據つてその大體の意味が分かる。なほ、この『※[手偏+求]』の訓については、卷九(一六八三)を參照。○多武山霧 タムノヤマギリで、多武峯は大和國高市郡にある。そこに立つ霧といふことである。『たむの山は多武峯なり。大和國十市郡に有。齊明紀云。於2田身嶺《タムノタケニ》1冠(シムルニ)。以(ス)2周垣《メクレルカキヲ》1【田身(ハ)山(ノ)名此(ヲハ)云2太務(ト)1】』(代匠記初)。○茂鴨 シゲキカモと訓む。諸訓をあぐれば、シゲシカモ(類聚古集)。シゲキカモ(【其他寫本及寛永本】)。スゴキカモ(春滿)。フカキカモ(童蒙抄)。シゲミカモ(略解)等で、代匠記・考は舊訓に從ひ、古義・新考・新訓等は略解に從つたが、私は二たび舊訓に從つた。シゲミカモの方が疑問としては順當とおもふが、調子の上からシゲキカモに從つて見たのである。童蒙抄では、『印本諸抄物にはしげきと讀ませたれど、霧のしげきと云事有べきや。何とぞ別訓あるべし』と云つて如上(270)の訓をあげてゐるのである。○細川瀬 ホソカハノセニと訓む。細川は、『細川ハ多武峰ノ西ナリ』(代匠記精)とある如く、多武峰から出る谿流が西に向つて細川となつて、細川といふ村と南淵といふ村の間を過ぎて飛鳥川に注いでゐるのである(萬葉地理考)。細川村の前の冬野川が即ち細川に當るのである(萬葉大和志考)。かくの如く固有名詞だが、普通名詞にして、細い川と取つても味はれる歌である。○波驟祁留 ナミノサワゲルと訓む。舊訓ナミサワギケル。ナミサワギケリ(藍・類)。ナミサワギケル(【神・壬・古・細・矢・京】)。ナミノサワゲル(西・温・京の一訓)。ナミハサワゲル(考)等である。略解・古義・新考・新訓等皆ナミノサワゲルを採つてゐる。
 〔大意〕 一首は、多武峯に今や霧が繁《しげ》く立ちわたり、風も起つてゐるのか、多武峯から流れてくる細川の瀬に浪が立つて音が高いといふほどの歌で、前に抄した、『痛足河《あなしがは》河浪《かはなみ》たちぬ』云々の歌の如く、雲霧雨風と河浪との關係を歌つたものである。
 〔鑑賞〕 當時にあつては、かういふ種類の觀照乃至表現には餘程鋭敏でもあり興味もあつたと見えて、殆ど類型的となるまでに類似の歌があるのである。そして其等の歌は、類似してゐても皆相當にいい歌である。この歌なども何處か調子に緊張したところがあつて、黙つて萬葉を讀んで行けば、足をとどめて一顧すべき歌に屬してゐる。
 これも亦舍人皇子に獻じた歌なので、諸注釋書が背後に寓意を考へてゐる。『此歌上句ハ佞人(271)ナドノ、官ニ在テ君ノ明ヲクラマシテ恩光ヲ隔ルニ喩ヘ、下句ハソレニ依テ細民ノ所ヲ得ザルエオ喩フル歟』(代匠記精)といひ、古義も寓意説を踏襲して、『多武(ノ)山霧の潤のしただりあつまる如くに、皇子の御恩澤の普くしげき故に、細徴《ホソヤカナル》身の上にまで及びて、ほどほどになり出さわげるならむ、吾ひとりのこさるべき由なければ、いかで御心したまへかしとなるべし』と言つてゐる。前言のごとく寓意は實際はあるのかも知れぬが、現在の我等の鑑賞はそれを強調しない。
 考では、山霧をば霧雨ならむといひ、『高山には霧雨いといと強く里の大雨の如しと。さらば谷川などの細きは激《タギ》つべし』といひ、固有名詞の細川の因つて來る、細い川といふことを暗指してゐる。また略解も、『霧深く雨降をいふなるべし』として、寓意を云々してゐないのは穩當だとおもふ。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇五〕
  冬《ふゆ》ごもり春《はる》べを戀《こ》ひて殖《う》ゑし木《き》の實《み》になる時《とき》を片待《かたま》つ吾《われ》ぞ
  冬木成 春部戀而 殖木 實成時 片待吾等叙
 
(272)『獻舍人皇子歌二首』の第二首である。舍人皇子の傳は先に卷九(一六八三)の歌の條にのべた。
 一首の意は、〔冬木成〕春の來るのを待つて、その花をながめようと思つて植ゑた木が、今度は花が實になるのを待つて居りまする。といふので、この歌には寓意があるらしく、一身上の出世か何かのことらしい。
 結句の、『吾ぞ』といふやうな言方は、獻歌の場合でもいふのであらうか、よく分からない。『春べを戀ひて』といふ言方も特殊であるが、萬葉には、人麿の『夷の長道ゆ戀ひくれば』(卷三。二五五)をはじめ、『吾妹子が屋前《やど》の秋萩花よりは實になりてこそ戀ひまさりけれ』(卷七。一三六五)。『見まく欲り戀ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きて成らずかもあらむ』(同一。三六四)。『皆人の戀ふるみ吉野今日見れば諸《うべ》も戀ひけり山川清み』(同。一一三一)。『あしひきの山櫻花|日竝《けなら》べて斯く咲きたらばいと戀ひめやも』(卷八。一四二五)などの似た例のないことはない。
 カタマツといふ用法も、片寄り待つから、ひたすら、偏に待つといふ意になつたもので、『吾が舟は沖ゆな離《さか》り迎へ舟片待ちがてり浦ゆ榜ぎ會はむ』(卷七。一二〇〇)。『倉橋の山を高みか夜隱《よごもり》に出で來る月の片待ち難《がた》き』(卷九。一七六三)。『妹に逢ふ時片待つとひさかたの天漢原《あまのかはら》に月ぞ經にける』(卷十。二〇九三)。『うぐひすは今は鳴かむと片待てば霞たなびき月は經につつ』(卷十七。四〇三〇)。『梅の花咲き散る園にわれ行かむ君が使を片持ちがてら』(卷十八。四〇四一)等の例を(273)以て、その語感をも悟るべきであるが、現代にあつては旨く用ゐられるか奈何は既に疑問である。
 代匠記初稿本に、『これはさきにも此舍人皇子に獻ける哥に、わがかざすべき花さけるかもといひ、みわ山はいまだつぼめり君まちがてにとよめり、それとおなじ心の人の奉けるなるべし』。精撰本に、『皇子ノ御年モ壯ニ成給ハバ、繁キ木ノ如クナル御蔭ニ隱レムト待參ラス吾ナレバ、メグミニモラシ給フナトノ意ヲ喩フルナルベシ』と云つてゐる。
 この歌は六帖に入り、作者不明、第一句『冬なれば』、第四句『實になるまでに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇六〕
  ぬばたまの夜霧《よぎり》は立《た》ちぬ衣手《ころもで》を高屋《たかや》の上《うへ》に棚引《たなび》くまでに
  黒玉 夜霧立 衣手 高屋於 霏※[雨/微]麻天爾
 
 〔題意〕 『舍人皇子御歌一首』と題してゐる。即ち人麿歌集にあつて作者の明記されてゐる一つの作例である。舍人皇子《とねりのみこ》に就いては既に(一六八三)の評釋に於てのべた。
 〔語釋〕 ○夜霧立 ヨギリハタチヌと訓む。舊訓ヨキリハタチヌ。ヨルキリタチヌ(類・藍・壬)。(274)ヨルキリニタチヌ(神)。ヨキリハタチヌ(西・細・温・矢・京・代匠記・童蒙抄・新訓)。ヨギリゾタテル(略解・古義・新考)。即ち今の訓は舊訓に從つたのである。○衣手 コロモデヲと訓む。舊訓コロモデノとあつたのを、考でコロモデヲと訓み、爾來それに從ふものが多い。この『衣手を』は、『た』に係る枕詞として使つてゐる。『袖をたぐると續けしなるべし。具利《ぐり》の約|妓《ぎ》なれば、約めてたぎと云り。さてここは其|幾《き》を加《か》に通して、多加《たか》と續けたるは、例の冠辭のいひかけ也と見ゆ。偖是をころもでのと訓ては、次の語のことわりなければ、ころもでをと訓みつ』(考頭注)。『衣手ヲタクとかかれるなり。タクはかかぐる事なり』(新考)等の説がある。衣手ヲ、タク(カカグ)と續け得れば解は明快である。さすれば加行四段活用の將然形となるだらう。○高屋於 タカヤノウヘニと訓む。於をウヘと訓んだ例は、卷二(一六六)に、礒之於爾生流馬醉木乎《イソノウヘニオフルアシビヲ》。卷三(三九〇)に、鴨尚爾玉藻乃於丹獨宿名久二《カモスラニタマモノウヘニヒトリネナクニ》。その他用例が多い。古來高屋を地名とし、或は大和十市郡(代匠記精)とし、或は河内古市郡(考)とし、或は大和城上郡(略解・古義)としてゐるが、吉田氏の地名辭書は大和磯城郡櫻井村大字谷だらうと云つたのに對し、澤瀉氏は大和磯城郡阿部村高家だらうといふ説を出してゐる。以上は地名説であるが、井上氏の新考では、『地名にはあらで高殿の事ならむ。さて一首の趣は殿の内にてよみ給ひしにはあらで、外より殿を仰ぎてよみ給ひしなるべし』といふ説を出してゐる。私も高屋といふ處のある事を知らなかつた時には高殿として(275)解してゐたのであつたが、參考書を見ると、地名としてあるので、さすればさういふ高臺の地を聯想していいと思ふやうになつた。○霏※[雨/微]麻天爾 タナビクマデニと訓む。※[雨/微]は神田本には霧になつて居る。霧と靄が夜になつて棚引いた光景である。『今俗、もやといふものをよみ給へるなるべし』(略解)といつてゐる。
 〔大意〕 この御歌は外にゐて咏まれたものでも内にゐて咏まれたものでもいいが、光景が廣いと解するから、外にゐて咏まれたと解していい。高い土地に位置を占めてゐる向うの高屋の地に、夜が更くるに從つて霧靄が立つて、あの高屋のあたりに棚引いた。といふのである。
 〔鑑賞〕 御歌で見ると、靄が懸かつて來て、いつの間にか棚引いたのであるが、それを棚引くまでに夜霧は立ちぬと云つたのである。この御歌の場合は、第三句はやはりヨギリゾタテルでは強過ぎて具合が惡い。素直にヨギリハタチヌといふところで、これは佳い訓である。夜ふけて、高屋の土地一帶に靄の棚引いて居る光景を聯想した方が、高殿《たかどの》の上《うへ》に棚引くと限局せしめるよりも、歌柄がよくなるやうである。そしてこの一首も萬葉集を讀みつつ來ればやはり一瞥して過ぎねばならぬいいところのある御歌である。素直で伸び伸びとして品の高いところがある。
 この御歌は右の如く、敍景の歌として味ふべきだが、古來寓意説もあつた。『此御歌モ亦、讒佞ノ臣アリテ、君ノ明智ヲ掩フ番ヲ惡ミテヨマセタマヘル歟トオボシクヤ』(代匠記精)といふたぐ(276)ひである。また寓意でなくとも、『いかでこのいぶせき霧の、夜の間に清く晴ゆきて、あけむ朝は明らけき空になれかしとの御心なるべし』(古義)とまで詮議するのであるが、當時の人は、さ霧はさ霧としてその儘受納れられたのではなかつただらうか。つまりさ霧をも賞し給うたのではなかつただらうか。さう思へるのである。
 この御歌は六帖に入り、作者不明、第二三句『よるよる絶えぬころもでの』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇七〕
  山城《やましろ》の久世《くぜ》の鷺坂《さぎさか》神代《かみよ》より春《はる》は張《は》りつつ秋《あき》は散《ち》りけり
  山代 久世乃鷺坂 自神代 春者張乍 秋者散來
 
 『鷺坂作歌一首』といふ題がある。
 一首の意は、山城の久世《くぜ》の鷺坂山《さぎさかやま》は、神の御代から、春になれば木の芽が萌え張り、秋になればそれが黄葉して散つた、といふのである。
 前にもあつたやうに、鷺坂は往還に當るし、神社もあり、人の目につくので、かういふ讃美的(277)な歌も殘つてゐるのである。代匠記に、『神代ヨリト云ハ、山ヲホムル意アリ』と云つて居る。
 木の芽の萌えることをハルといふのは『うらもなく我が行く道に青柳《あをやぎ》の張りて〔三字右○〕立てればもの思《も》ひ出《づ・で》つも』(卷十四。三四四三)といふ例でも分かるが、後世になると多くなつた。『霞たち木の芽もはるの〔三字右○〕雪ふれば花なき里も花ぞ散りける』(古今。貫之)。『このめはる〔二字右○〕春の山田を打返し思ひやみにし人ぞこひしき』(後撰)。『おしなべて木の芽もはるの〔三字右○〕淺緑松にぞ千世の色はこもれる』(新古今)等の例がある。
 『春は張りつつ秋は散りけり』といふやうな分かり易い素朴なのは、萬葉にも割合に尠い。この歌が新勅撰集卷十九に、『山城のくぜの鷺坂神代より春はもえつつ秋はちりけり』(題不知、讀人不知しとして載せられたのは、分かり易いからであつただらう。また、かういふケリに似た例は、『咲く花はうつろふ時ありあしひきの山菅の根し長くはありけり〔四字右○〕』(卷二十。四四八四)。『不盡《ふじ》の嶺《ね》に零《ふ》り置ける雪は六月《みなづき》の十五日《もち》に消《け》ぬればその夜《よ》降りけり〔四字右○〕』(卷三。三二〇)。『あをによし奈良の大路は行きよけどこの山道は行き惡《あ》しかりけり〔四字右○〕』(卷十五。三七二八)。『待ちがてに吾がする月は妹が著る三笠の山に隱《こも》りてありけり〔四字右○〕』(卷六。九八七〕などである。
 
          ○
 
(278)  〔卷九・一七〇八〕
  春草《はるくさ》を馬咋山《うまくひやま》ゆ越《こ》え來《く》なる鴈《かり》の使《つかひ》は宿《やどり》過《す》ぐなり
  春草 馬咋山自 越來奈洗 鴈使者 宿過奈利
 
 〔題意〕 『泉河邊作歌一首』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○春草 ハルクサヲと訓む。枕詞で、『馬咋山』にかかつてゐる。冠辭考に、『こは咋《クヒ》山てふ山を、馬くひといひかけしなるべし。楢《ナラ》山を舊衣著《フルコロモキ》ならの山、振山を袖ふる山などいひ下せし類ひなり。【中略】咋山は、神名式に、山城國綴喜郡に咋岡《クヒヲカノ》神社と有に同じ處歟』とある如く、現在綴喜郡草内村飯岡で、木津川の西の方にある丘陵である。『奈良鐵道の玉水驛と奈良電車の三山木驛との中間、木津川の西方に見える丘、その麓にこの咋岡神社が祀られてゐる』(鴻巣、全釋)。○馬咋山自 ウマクヒヤマユと訓む。舊訓ウマクヒヤマヲ。代匠記初書入ウマハミヤマユ。代匠記精ウマクヒヤマユ。『自ハユト讀ベシ。從ノ字ヲヲトヨメル例ハアレド、此字ハイマダ例ヲ見ズ』(代匠記精)。童蒙抄マクヒヤマヨリ。考マクヒノヤマユ。古義ウマクヒヤマヨ(新訓同訓)。○鴈使者 カリノツカヒハと訓む。『鴈ノ使は、蘇武が故事より言ひ馴れて、唯だ鴈を言へり』(略解)。○宿過奈利 ヤドリスグナリと訓む。舊訓ヤドスギヌナリ(代匠記・考同訓)。童蒙抄ヤドリ(279)スグナリ(略解・古義・新訓同訓)。新考ヤドヲスグナリ。
 〔大意〕 〔春草馬《はるくさをうま》〕咋山《くひやま》の方から飛越えてくる鴈は、私の旅宿《たびのやどり》のうへを行き過ぎる。家郷からの音信をも傳へずに空しく飛び去つてしまふといふ意がある。
 〔鑑賞〕 この歌は、『鴈の使』を用ゐたのは、當時にあつては稍新趣味であつたのかも知れぬが、取りたてていふ程の歌ではない。ただ枕詞を使つたりして、單純に素朴に歌つてゐて、弛《たる》まないところを學ぶべきである。『あしひきの山飛び越ゆる雁がねは都に行かば妹に逢ひて來ね』(卷十五。三六八七)といふ歌があり、『天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都に言《こと》告《つ》げ遣《や》らむ』(卷十五。三六七六)といふ歌がある。この第二の歌は、拾遺集には、『もろこしにて、柿本人麿。あまとぶや雁の使にいつしかも奈良の都に言傳てやらむ』といふ歌になつて居る。
 ヤドリは旅宿のことで、やはり人麿作に、『草枕旅の宿《やどり》に誰が夫か國忘れたる家待たなくに』(卷三。四二六)といふのがあつた。そのほか、『見れど飽かぬまりふの浦に也杼里《ヤドリ》せましを』(卷十五。三六三〇)。『東路の手兒の呼坂《よびさか》越えかねて山にか宿《ね》むも夜杼里波奈之爾《ヤドリハナシニ》』(卷十四。三四四二)。『みかの原|客之屋取爾《タビノヤドリニ》たまほこの道のゆきあひに』(卷四。五四六)等の例を參考せよ。
 此歌は、六帖に人まろとして載り、第二三句『馬くひ山を越えてくる』となつてゐる。馬咋山(280)は八雲御抄に、マクヒノヤマとある。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇九〕
  御食向《みけむか》ふ南淵山《みなぶちやま》の巖《いはほ》には落《ふ》れる斑雪《はだれ》か消《き》え殘《のこ》りたる
  御食向 南淵山之 巖者 落波太列可 削遺有
 
 〔題意〕 『獻2弓削皇子歌1首』といふ題があり、『右柿本朝臣人麻呂之歌集所出』といふ左注がある。この左注を、『獻忍壁皇子歌一首』(一六八二)以下の二十八首を指すものとして、評釋して來たのである。弓削皇子に就いては既に(一七〇一)の歌に於て述べた如くであつて、文武天皇の三年七月に薨ぜられてゐるから、この歌はそれ以前の作だと考へられる。どういふ場合に獻じたものか、その想像等は鑑賞の部に見えてゐる。
 〔語釋〕 ○御食向 ミケムカフと訓む。この歌の場合はミナに係つた枕詞であるが、集中の例では、『御食《みけ》向ふ木〓《きのへ》の宮を常宮と定め給ひて』(卷二。一九六)。『御食向《みけむか》ふ淡路《あはぢ》の島に直向《ただむか》ふ』(卷六。九四六)。『御食向ふ味原《あぢふ》の宮は見れど飽かぬかも』〔卷六。一〇六二)。それにこの歌の、『御食(281)向ふ南淵山の』等であるが、その解釋に就いては冠辭考に委しい。今それを略記すれば次の如くになる。第一の説は、御食《みけ》の机に向ふが如く直ちに前に向かはるる地《ところ》を云ふ。代匠記の説は即ちそれで、食《しよく》に向ふ如く眞近《まぢか》に打向ひて見渡すところで、特定の枕詞では無いといふ意見である。第二の説は、御食に供《そなふ》る物の名に一般に冠らせた詞で、前の歌の例では、木〓《きのへ》は酒之〓《きのへ》、淡路《あはぢ》の淡《あは》は粟、味原《あぢふ》は惣じて美味《うましもの》の名で味鴨《あぢがも》、味魚《あぢうを》などの贄《にへ》の意、南淵は蜷貝《みながひ》か或は眞魚《まな》かである。そして眞淵は、『吾友だち多くは此かたによりぬ』と注して居る。そして此第二の説は春滿系統の學説である。即ち、『みな食物《をしもの》の冠辭と見ゆる也』『みな食物《をしもの》なれば廣くわたりて四首の歌につかゆる所なき也』『みなは御魚《みな》と受たる義なるべし。諸抄の説は眞向ふことに注せり。食物の膳に向ふ如く、相對し向ふ義に釋せり。當流には不2信用1也』(童蒙抄)といふのを見れば分かる。つまり御食向《みけむかふ》といふ枕詞は食物に冠するものだといふのが有力である。古義もその説を納れて居るが、南淵の場合はミの一音に係り、ミは肉《ミ》の意だとしてゐる。併し此處はやはり御魚《みな》か或は蜷貝《みな》と解釋していいとおもふ。南淵は蜷《みな》の多いところで、ミナブチの名もそれに本づくといふ説もあるぐらゐである。このミケムカフといふ語は音調がいいので、言語の音感に鋭敏な者に用ゐられたものと考へていい。そして當時にあつても、意味の方は背後に後退してゐて音感が主だつたと解して差支ない。即ち御食向ふ淡路といへば淡路が先きに意識に再現されて來る。御食向ふ味原宮と(282)いへばその宮殿が先づ意識に再現されて來る。同樣に御食向ふ南淵山といへば南淵山が視覺的に再現されて來て、御魚或は蜷貝などの味覺などは後方の方にかすかに殘留して居るに過ぎず、歌を味ふうちにその氣轉の利いた點を納得するぐらゐなものである。○南淵山之 ミナブチヤマノで、南淵山は大和高市郡で、今の高市村字冬野から字稻淵にかけた山で飛鳥川はその南淵山から出てゐるのである。皇極天皇紀に、『天皇幸南淵河上跪拜四方』。天武天皇紀に、『勅禁南淵山細川山並莫芻薪』とある山である。○落波太列可・削遺有 古寫本及寛永本の訓は、チルナミタレカ・ケヅリノコセル【散る波誰か削り殘せる】と訓んだ。代匠記もそれに從つたが、考に至つて『削』は『消』の誤寫だとなし、フレルハダレカ・キエノコリタル【降れる斑雪か消え殘りたる】と訓んだ。もつとも考には、『こは橘の千蔭が考也』とことわつてあり、宣長に答へた、萬葉葉卷丸疑條にも、『吾門に橘千蔭といふ人の末を、ふれるはだれか、消のこりたると、訓みしぞよくかなへり』とあるから、そこで略解も無論さう訓み、古義・新考・鑑賞及び其批評等皆それに從つたが、武田博士及新訓は、チリシハダレカと訓んだ。私も眞淵の訓に從ふもので、チリシでは歌が小さくなるし、また、『落』をフルと訓ずる例は萬葉にも幾つかあるからである。例へば、『庭も斑《はだ》らにみ雪落有《フリタリ》』(卷十。二三一八)。『天霧し落來《フリタル》雪の消ぬべく思ほゆ』(卷十。二三四二)。『とのぐもり雨は落來奴《フリキヌ》』(卷十三。三二六八)。『時じくぞ雪者落家留《ユキハフリケル》』(卷三。三一七)。『時なくぞ雪者落家留《ユキハフリケル》』(卷一。二五)。『零雪者安幡爾勿落《フルユキハアハニナフリソ》』(283)(卷二。二〇三)等の用例があるのだから、どちらでもいい場合には、フレルハダレカと訓む方がよく、眞淵は、『今本消を削に誤て末の句を、ちるなみたれかけづりのこせると訓しはわらふべし。よて字を改、訓を改む』と云つてゐるのはその語調によつて稍得意であつたことがわかる。なほ萬葉集訓義辨證には、『此歌舊訓はいたく誤れり、略解にかくよめるに從ふべし、但し注に削は消の字の誤なる事しるし云々、南淵山の花を見てよめるなるべしといへるはわろし、こは殘雪を見てよめるなり、但しはだれはいささか降たる雪をいへることにて、歌の意は降れるはだれか、又は消のこりたる雪かと、疑ひたるなり、さて削(ノ)字はいづれの本も同じくて、消とかける本はあることなし、故(レ)按ふに、古へ削消通じ用ゐしならん、其は易の剥(ノ)注に、剥(ハ)猶v削也とある、釋文に、削(ハ)相略反或(ハ)作v消、此從2荀本1也、下皆然、とみえ、釋名釋言語に、消(ハ)削也、言(ハ)減削也、ともあればなり』とある。
 〔大意〕 一首の意は、南淵山の巖を今見ると白くなつて雪が殘つてゐる。多分近く降つた春の斑雪が消え殘つてゐるのであらうか。靜嚴の景色ではないかといふ意を籠めて居り、南淵山に御食《みけ》向ふといふ枕詞を使ひたかつた氣持も無論あるわけである。かういふ靜かな風景の歌を、風景の歌として骨折つて咏んで皇子に獻じて居るのであらう。
 〔鑑賞〕 この歌は、しつとりと落着いて重厚で單純であるから、清嚴とも謂ふべき一首の姿で、(284)また象徴的とも謂ふべき一つの態を持つてゐる歌である。そして第一聲調のひびきがいい。巖《いはほ》にはの『には』と云つて、降れる斑雪かの『か』と息を休めて、結句、『のこりたる』で止めた具合のその諧調音を味ふべきである。これ凡手の決して能ふところではない。それから白き殘雪を見て、『降《ふ》れる斑雪《はだれ》か消え殘りたる』と素朴に云つたこの高古單純な感慨に至つては愈凡手の企て及ぶところではないから、これは人麿自身の作と想像していいものであらう。なほ、萬葉には殘雪の歌が幾つかあり、前に引いた、『妹が門《かど》入り泉河《いづみがは》の常滑《とこなめ》にみ雪のこれりいまだ冬かも』(卷九。一六九五) もさうだし、『あしひきの山に白きは我が屋戸《やど》に昨日の暮《ゆふべ》ふりし雪かも』(卷十。二三二四)なども殘雪ではないが、似通つてゐるし、そのほか譬喩の歌なども交つてゐるが、『瞿麥《なでしこ》は秋咲くものを君が家の雪の巖《いはほ》に咲けりけるかも』(卷十九。四二三一)。『高山の巖《いはほ》に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪』(卷二十。四四五四)などにも氣持の通《かよ》つたところがあり、この歌を殘雪に觀入して歌つたものと解釋しても毫も不思議で無いものである。
 然るにこの歌を從來變な具合に解してゐた。例へば代匠記初稿本では、『南淵山は、すでに飛騨の工《タクミ》がけづりなせるごとくなるに、いづくに足らぬ所ありて、巖にちりかかる波の、柿《コケラ》と見ゆるならんとの心にや。山海經曰。太華之山削(リ)成而四方其高(コト)五千仞。左太沖(カ)魏都(ノ)賦(ニ)日。擬(ス)2華山(ノ)之削(リ)成《ナセルニ》1。これをふみて、けづるとはいへるなるべし。そのうへ、皇子の御名の弓削は、弓をけづるな(285)ば、それによせて、ことばの泉のわきながるるごとくなるを、ちるなみにたとへて、ほめ奉るにこそ』と云つてゐる。それから、略解では、『さて、はだれかと云へるを思へば、南淵山の花を見てよめるなるべし』と云つてゐる。眞淵の改訓は千蔭の創見として眞淵が喜んで明記し、眞淵は殘雪の歌として解してゐるらしいのに、千蔭自身は南淵山の落花の歌としてゐるのはをかしい。そして井上氏の新考がやはり略解の説を踏襲してゐるのである。なほ古義では、『歌意は、南淵山の石秀《イハホ》には、去冬ふれる雪のはだれの、春まで消遺りたるならむかとなり。これは浪の白く散を、雪と見なしてよめる表の意なり。さてこれも、弓削(ノ)皇子に獻れる歌なれば、下心あるべし。普き春日の光にもれし地もなしと見ゆるに、なほ南淵山の巖にのみは、去冬の雪のそのまま遺れりと見ゆるは、いかなるゆゑならむと、皇子の御恩光にもれしを、訴るやうによみて獻れるにや。さてこの作者、南淵氏の人などにてありしにや』云々と云つてゐる。折角殘雪の歌として解したかと思ふと、白浪を雪と見なして咏んだと云つたり、下心あるべしと云つたりするのは、どういふつもりか知らん。それからこの一首の何處に落花のことなどがあるのか、覺束ない次第である。なるほど萬葉には、『吾が園の李《すもも》の花か庭に落《ち》るはだれのいまだ殘りたるかも』(卷十九。四一四〇)といふ歌があるが、この歌には李花の散つてゐるといふことを明かに云つてゐるので、同一の筆法で解釋することは出來ないのである。
(286) 島木赤彦が、この歌を評して、『作者が明日香より遠く南淵山を望み見て、そこに消え殘れる淡雪の光を寂しみつつ詠んだのであつて、特に、巖を捉へたる所、寫生の機微に入れる心地がし、古き南畫の秀品に接する如き感がある』(鍵賞及び其批評)と褒めてゐるが、大正十四年の比叡山アララギ安居會で赤彦がこの歌を講じ、長らく萬葉から遠ざかつてゐた私の如きも、ために醒覺した如き思がしたのである。越えて昭和五年八月高野山アララギ安居會の歸途に中村憲吉・森山汀川の二君と大和に來、飛鳥に一泊し翌日この南淵山を見に行つた。さうして見れば、この歌は赤彦の考へてゐるのよりももつと近くに見て咏んだものの如くであつた。いづれにしても此歌を注意するやうになつたのは赤彦の賜物である。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二〇〕
  馬《うま》竝《な》めてうち群《む》れ越《こ》え來《き》今《いま》見《み》つる芳野《よしぬ》の川《かは》をいつ反《かへ》り見《み》む
  馬屯而 打集越來 今見鶴 芳野之川乎 何時將顧
 
 『元仁歌三首』といふ題がある。作者は僧侶の如き名であるが、不明である。『こは名なるにや。(287)さらば法師か』(考)『作者考へ難し。元仁は名と聞ゆる也』(童蒙抄)。即ち、人麿でない他人の名の明記されて居る例が此處にもあるのである。そして芳野川のことが歌つてあり、その數首前にも、芳野離宮行幸時の歌などがあり、何か人麿と關係のある人物のやうにもおもへるが、全く想像以外證據が無い。後に、(一七二五)の『麻呂歌一首』の左注に、『右柿本朝臣人麻呂之歌集出』とあり、この『元仁歌三首』以下の六首を指したものとされてゐる。
 一首の意は、馬を並べて、多勢打群れ、山を越えて來て、いま見且つ遊んだこの芳野川の佳景を、何時二たび來て見ることであらうか。
 ○馬屯而 舊訓ウマナベテ。童蒙抄コマナベテ。考ウマナメテ(略解以下同訓)。○今見鶴 流布本は『今日見鶴』になつてゐるが、古寫本中(【壬・類・古・神・温・矢・京】)には日が無いのに據つて改めた。
 ウマナメテは、『馬なめて御獵たたしし時は來向ふ』(卷一。四九)といふ人麿の歌もあり、この歌は左程のものではないが、無理がなく確實な點を認めねばならぬ。そしてこの元仁といふものの歌一聯が人麿歌集の中に入り込んでゐるところを見ると、此等の歌も亦人麿の手が幾分入つて居るのではないかとも想像し得るのである。
 さういふ點で、『瀧の上の三船の山ゆ秋津邊《あきつべ》に來鳴きわたるは誰喚子鳥《たれよぶこどり》』(卷九。一七一三)。『落ち激《たぎ》ち流るる水の磐《いは》に觸り淀める淀に月の影見ゆ』(同。一七一四)の二首が、作者不詳になつてゐ(288)て、歌柄がよく、確實な點から推して、これなどもひよつとすると、人麿の息吹のかかつた、供奉の誰かの歌で、その名が消えてしまつたのではないかなどともおもはしめるのである。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二一〕
  苦《くる》しくも晩《く》れぬる日《ひ》かも吉野川《よしぬがは》清《きよ》き河原《かはら》を見《み》れど飽《あ》かなくに
  辛苦 晩去日鴨 吉野川 清河原乎 雖見不飽君
 
 『元仁歌三首』中の第二首である。○辛苦・晩去日鴨 クルシクモ・クレヌルヒカモと訓む。舊訓クルシクモ・クレユクヒカモ。童蒙抄アマナクモ。略解の一訓カラクモ。古義クルシクモ・クレヌルヒカモ。古寫本中ワビシクモ・クレヌルヒカモ(類)。ワビシクモ・クレユクヒカモ(壬・古)。
 一首の意は、芳野川の清い河原の佳境をいまだ見飽かず、去り難いのに、はやくも日が暮れるとは何とも心ぐるしい、殘念なことであるといふぐらゐの意であらう。
 このクルシも種々の語感に使つてゐるが、『鴨頭草《つきくさ》に衣《ころも》色どり摺らめどもうつろふ色といふが(289)苦沙《くるしさ》』(卷七。一三三九)。『夢の逢《あひ》は苦有家里《くるしかりけり》覺《おどろ》きてかき探れども手にも觸れねば』(卷四。七四一)などもやはり、殘念であるといふ意味があつて共通である。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二二〕
  吉野川《よしぬがは》河浪《かはなみ》高《たか》み瀧《たぎ》の浦《うら》を見《み》ずかなりなむ戀《こほ》しけまくに
  吉野川 河浪高見 多寸能浦乎 不視歟成甞 戀布眞國
 
 『元仁歌三首』中の第三首である。○多寸能浦乎 タギノウラヲと訓む。即ち、瀧(激)川の浦を、瀧川の岸をといふ意になる。『多寸能浦ハ瀧ノ浦ナリ。瀧ノ當リノ入江ノヤウナル處ナリ。字書ニ浦ノ字ヲ釋シテ大川(ノ)旁(ノ)曲渚ト云ヘルニテ意得ベシ』(代匠記精)とあるによつて大體推し得べく、卷九(一七三五)に、吾疊三重乃河原之礒裏爾《ワガダタミミヘノカハラノイソノウラニ》。卷五(八六三)に、麻都良河波多麻斯麻能有良爾和可由都流《マツラガハタマシマノウラニワカユツル》とあるによつて類推し得る。○戀布眞國 コホシケマクニと訓む。舊訓コヒシキマクニ。考コヒシケマクニ。古義コホシケマクニ。この眞國をば代匠記では名詞として、『眞國ハ眞ハ褒美ノ詞、國ハ吉野國トヨメル國ナリ』などと云つたが、考に、『眞久《マク》約|牟《ム》にて、戀しけんに(290)なり』といひ、古義に、『戀しからむことなるをの意なり』と云つた。卷三(三一一)に、鏡山不見久有者戀敷牟鴨《カガミヤマミズヒサナラバコヒシケムカモ》。卷四(七四五)に、吾妹之雖見如不見由戀四家武《ワギモコガミレドミヌゴトナホコヒシケム》。卷十七(三九九五)に、見奴日佐麻禰美孤悲思家武可母《ミヌヒサマネミコヒシケムカモ》。卷二十(四四一九)に、都久之爾伊多里※[氏/一]古布志氣毛波母《ツクシニイタリテコフシケモハモ》。卷五(八三四)に、毛毛等利能己惠能古保志枳波流岐多流良斯《モモトリノコエノコホシキハルキタルラシ》等の例がある。
 一首は、今日は吉野川の川浪高くして、舟を出すことが出來ず、景色の佳い彼の瀧の浦をも、もはや見ることが出來ないで此處を去つてしまふのであらう。物戀しく心が牽かれてならないのに。といふ意である。
 前にも云つたとほり、句々が割合に緊張してゐて確かなところがある。結句の、コホシケマクニなども堅く強い音だが、そのために却つて結句としての役目を果してゐるといふことにもなるのである。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二三〕
  河蝦《かはづ》鳴《な》く六田《むつだ》の河《かは》の川楊《かはやぎ》のねもころ見《み》れど飽《あ》かぬ河《かは》かも
  河蝦鳴 六田乃河之 川楊乃 根毛居侶雖見 不飽河鴨
 
(291) 『絹歌一首』といふ題がある。絹といふのは恐らく女の名であらう。そして、代匠記初稿本に、『親王大臣などの御供にてかくはよせてよめるなるべし』とあるのが參考になるやうである。
 六田《むつだ》の河《かは》は、吉野川の六田《むつだ》附近である。『音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野河|六田《むつだ》の淀を今日見つるかも』(卷七。一一〇五)といふ歌がある。『川楊《かはやぎ》の』までは、『根』と『ねもころ』と同音だから、序詞として續けたものである。然かもその序詞は同じ河で材料を取つてゐるのだから、意味のある序詞である。結句は、流布本、『不飽君鴨』であるが、古寫本(壬・類・古・神)には『君』が『河』になつて居り、(京)も赭く河イと書いてあるから、さう改めた。
 一首は、吉野川の六田《むつだ》のあたりには河蝦《かはづ》も鳴き川楊《かはやぎ》も萌えてゐる。その川楊の根にかよふねもごろに見ても、丁寧に、しみじみ見ても、飽くことを知らない住い河である、この吉野の六田の河は。といふぐらゐの意である。
 ネモコロは種々に使はれて居り、戀ふ、念ふなどに續けるほかに、この歌のやうに、見るに續けたのもあり、結ぶといふやうな行爲に續けたのもあり、天然現象の雪の降るなどに續けたのもある。卷十一(二四七三)に、菅根惻隱君結爲《スガノネノネモコロキミガムスビテシ》。同卷(二四七二)に、三室山石穗菅惻隱吾片念爲《ミムロノヤマノイハホスゲネモコロワレハカタモヒゾスル》。同卷(二七五八)に、菅根之懃妹爾戀西《スガノネノネモコロイモニコフルニシ》。卷七(一三二四)に、葦根之懃念而結義之《アシノネノネモコロモヒテムスビテシ》。卷四(五八〇)に、菅根乃懃見卷欲君可聞《スカノネノネモコロミマクホシキキミカモ》。卷二十(四四五四)に、須我乃根能禰母許呂其呂爾布里於久白雪《スガノネノネモコロゴロニフリオクシラユキ》。(292)卷十二(二八五七)に、菅根之惻隱惻隱照日乾哉吾袖於妹不相爲《スガノネノネモコロゴロニテルヒニモヒズヤワガソデイモニアハズシテ》等がある。
 この歌が、御伴をした女の歌で、それが人麿歌集に載つた由縁をおもふと、或はこれも人麿の手が幾分入つてゐるのではなからうかなどと想像するに至るのである。
 この歌は、作者不明で六帖に入り、第三句以下『河柳ねむごろ見れどあかぬ君かな』となつてゐる。また夫木和歌抄には、人丸作とし、『むつたの淀の河やなぎねもころ見れどあかぬ君かも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二四〕
  見《み》まく欲《ほ》り來《こ》しくもしるく吉野川《よしぬがは》音《おと》の清《さや》けさ見《み》るにともしき
  欲見 來之久毛知久 吉野川 音清左 見二友敷
 
 『島足歌一首』といふ題がある。これも不明だが御供につらなつた男の名であらう。○欲見 ミマクホリと訓む。舊訓ミマクホリ。古寫本中ミマホシク(古・壬・類)。ミマクホリ(西・温・矢・京)。ミマホシミ(細)。六帖ミマホシミ。代匠記精では、『發句ハ今ノ點ヨシ』と舊訓を認めてゐ(293)る。○來之久毛知久 コシクモシルクと訓む。舊訓コシクモシラク。代匠記精に六帖及幽齋本を肯定してコシクモシルク。古寫本中コシクモシルク(【壬・類・古・西・細・温】)。來《こ》しくも著《しる》く、來し甲斐ありて、案にたがはずなどの意がある。『秋の野の草花《をばな》が末《うれ》をおしなべて來《こ》しくもしるく逢へる君かも』(【卷八。一五七七。阿部蟲麻呂】)。『天漢《あまのがは》渡瀬ごとに思ひつつ來しくもしるし逢へらく念へば』(卷十。二〇七四)などの例がある。
 一首は、見たい見たいと思つて來たのだが、さて來て見ると、誠に來た甲斐があつて、音の清い佳い吉野川である。實に愛すべきところである。といふほどの意である。
 結句の『見二友敷《ミルニトモシキ》』は舊訓ミルニトモシキ。古寫本中ミルニトモシク(古)。代匠記精でミルニトモシクを肯定したが、考・略解・古義等はミルニトモシキに從つてゐる。聲調の常識から行くと、第四句で切つてあるから、結句で切らずに上にかへる句法にすべく、從つてトモシクと訓むことになるのであらうが、人麿などにも、第四句で切つて、結句で切る例があり、『をち野に過ぎぬ。またも逢はめやも』(卷二。一九五)の如くに却つて感慨をこもらせ得る效果の場合もあるのだから、この歌の場合は舊訓に從ふこととした。トモシキは連體形であるが、かくの如く係りがなくて連體形で止めた萬葉の例としては、天地與相左可延牟等大宮乎都可倍麻都禮婆貴久宇禮之伎《アメツチトアヒサカエムトオホミヤヲツカヘマツレバタフトクウレシキ》(卷十九。四二七三)の如きがある。ただトモシキと止めた例の無いのが稍具合が惡い。(294)『さざれ波磯巨勢道なる能登湍河《のとせがは》音のさやけさたぎつ瀬ごとに』(卷三。三一四)。『大王《おほきみ》の三笠《みかさ》の山の帶にせる細谷川《ほそたにがは》の音の清《さや》けさ』(卷七。一一〇二)。『葉根※[草冠/縵]《はねかづら》いま爲《す》る妹をうら若《わか》みいざ率川《いざかは》の音の清《さや》けさ』(卷七。一一一二)などがある。第一の例に從ふと、第四句で切つて、結句では切らぬ句法になつてゐる。
 此歌、六帖に作者不明、『見まほしみ來しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしく』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二五〕
  古《いにしへ》の賢《さか》しき人《ひと》の遊《あそ》びけむ吉野《よしぬ》の川原《かはら》見《み》れど飽《あ》かぬかも
  古之 賢人之 遊兼 吉野川原 雖見不飽鴨
 
 『麻呂歌一首』といふ題がある。麻呂は男の名であらうが、誰であるか不明である。或は右の一聯は皆吉野川の歌であるから、一處にして考察すべきものだとすると、これも或は人麿と關係があるのかも知れない。現に、この『麻呂』は、『人麻呂』だらうと考へて居る學者も居る。併し代(295)匠記精では、左注の『右柿本朝臣人麻呂之歌集出』につき、『右柿本朝臣人麻呂之歌集出。此ハ人丸歌集ニ他人ノ歌ヲ載タル證ナリ』と云つて居る。この左注の『右』は(一七二〇)以下の六首を指すと考へることは既に述べた。
 ○賢人之 サカシキヒトノと訓む。舊訓サカシキヒトノ。古寫本中カシコキヒトノ(壬・古・西・細)と訓んだのもあり、管見でカシコキを採つたが(略解同訓)、代匠記・考・古義等は皆サカシキの訓に從つた。この賢人《さかしきひと》は、『いにしへの七《なな》の賢《さか》しき人等も欲りせしものは酒にしあるらし』(卷三。三四〇)といふ大伴旅人の酒を讃ずる歌があつて、これは支那の賢人の事であるが、此處の『賢人』は、前代の天皇・親王等を指し奉つたものと大體考へていいであらう。それだから、『み吉野の耳我《みみが》の嶺《みね》に時なくぞ雪は降りける』(卷一。二五)や、『淑人《よきひと》のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見つ』(二七)などいふ天武天皇の御製なども考の中に入るべく、縱ひ天武天皇の八年己卯五月庚辰朔甲申幸2于吉野宮1はただの御遊覽でなく、天神地祇に盟はれた行幸であつたにせよ、後からいへば遊びでかまはない。また持統天皇になれば多く三十餘度も遊ばれ離宮のあつたことは既に評釋したごとくである。それから、それ以前、應神・雄略・齊明の諸帝も吉野に行幸あつたのだから、さういふ御事柄を統べて、『いにしへの賢《さか》しき人』と云つたものと看做していい。童蒙抄に、『吉野は上代より明君賢臣の住みもし給ひ、遊びもし給ふ萬國に勝(296)て佳景勝地と云傳へたる如く、既に此時分の歌にもかく詠置たり』と云つてゐるのはその通りである。井上博士の新考に、『さてそのサカシキ人とは誰ぞ。おそらくは史上の人にはあらで當時外來思想に基づきて起りたりし傳説の中の半仙的人物ならむ』と云つてゐるのは、懐風藻あたりの詩句から暗指を得た説ともおもふが、今は從はない。
 一首は、古への明君賢臣等がたびたび遊ばれたといふこの吉野の川原に來て覽ればこの佳い景色は幾ら居つても飽きるといふことがない。といふ意味である。
 毫も澁滞せず、ずばずばと言ひあらはし、單純明快のうちに、相當の重量感を保持してゐる點に注意すべきである。『見れど飽かぬかも』といふ結句も、上卷に類歌を抄記(三七八頁)〔二七番三七二頁〕したごとく萬葉に用例が可なりあり、萬葉調として現代まで滅びずに居るものであるが、その愛すべき特色はこの歌の場合に於てもまた味ふことが出來る。
 此歌、六帖に作者不明、『いにしへのかしこきひとの遊びけむ吉野の川は見れど飽かぬかも』とある。又夫木和歌抄に採られ、よみ人しらず、『かしこきひとの渡りけむ吉野の川は』となつてゐる。
 
          ○
 
(297)  〔卷九・一七七三〕
  神南備《かむなび》の神依板《かみよりいた》に爲《す》る杉《すぎ》の念《おも》ひも過《す》ぎず戀《こひ》のしげきに
  神南備 神依板爾 爲杉乃 念母不過 戀之茂爾
 
 『獻弓削皇子歌一首』といふ題がある。次の『獻舎人皇子歌二首』の後に『右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出』と注せられてゐる。○神依板爾 舊訓カミヨリイタニ(代匠記・考・略解)。古義カミヨセイタニ。○爲杉乃 舊訓スルスギノ(代匠記・考・略解・古義)。童蒙抄ナルスギノ。
 神南備《かむなび》の杉は、此處は雷山でなく、三輪の神南備であらう。『味酒を三輪の祝《はふり》が忌《いは》ふ杉|手觸《たふ》りし罪か君に遇ひがたき』(卷四。七一二)といふのがある。『神依板《かみよりいた》』といふのは、往古、杉の板を打叩いて神を請招したものである。略解に、『宣長云、杉を神より板にすると言ふ事は、琴の板とて、杉の板を叩きて、神を請招する事あり。今も伊勢の祭禮には此事あり。琴|頭《ガミ》に神の御影の降り給ふなりと言へり。基俊集に、はふり子が神より板にひくまきのくれ行からにしげき戀哉とも詠めり。神功紀に、琴頭尾《コトガミコトノヲ》に千繪高繪を置きて請ひ給ふに、神降りませし事など思ふべし』とあるが、新考では、足代弘訓、伴信友の説を參考しつつ、『信友は、神依板と所謂琴の板とを別とせるなり。此説に從ふべし。ともかくも、いにしへ杉の板を用ひて神を招《ヲ》き奉るわざありて其板を神依板と(298)稱せしなり』と説明した。
 この一首は、『神南備の神依板にするすぎの』までは、『思ひも過ぎず』の『過ぎ』へつづく序詞であるから、一首の中味は『思ひも過ぎず戀のしげきに』だけである。即ち、思ひとどまる事は出來ない。餘り戀の強いためにといふのである。それをば、神依板のことなどを持つて來て勿體をつけて居ることが分かる。
 オモヒスグはオモヒの經過すること、オモヒの無くなること、つまり思ひ忘れる、思ひとどまる事となるのである。『あすか川かは淀さらず立つ霧のおもひ過ぐべき戀にあらなくに』(卷三。三二五)。『石上《いそのかみ》布留《ふる》の山なる杉群《すぎむら》の思ひ過ぐべき君にあらなくに』(同。四二二)。『朝に日《け》に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに』(卷四。六六八)。『萬世《よろづよ》に携《たづさ》はり居て相見とも思ひ過ぐべき戀にあらなくに』(卷十。二〇二四)。『小菅《こすげ》ろの浦吹く風の何《あ》ど爲々《すす》か愛《かな》しけ兒ろを思ひ過《すご》さむ』(卷十四。三五六四)などの例がある。
 この歌につき、童蒙抄に、『此歌は弓削の皇子を戀慕ひ奉る意を表して奉りたる歌也。男子か女子か不v知。袖書に人丸の歌集中出とあれば、先は人丸の歌とすべきや。然れ共歌集中出と云注不v合事多ければ、左注は証明に成難し』といひ、古義に、『歌(ノ)意は、皇子を戀したひ奉る心の茂きによりて、思をはるけなぐさむかたもなしとなり』といつてゐるが、これは必ずしもさういふ(299)意味で皇子に關係ある歌ではない。ただ、かういふ技巧の歌が出來たからして皇子に獻りお見せまうしたものと解すべきである。
 なほ、神依板について童蒙抄の説明があるから轉載し置く。『これは神を移し奉る板を神より板といふ也。依とは神を天降しまつる義也。今も祈祷者など佛家の法によりを立ると云事有。尤陰陽家立言家などに此專有。上古は本朝の法にも有て、神功皇后の卷に出たる儀、佛家に云、より人と同じく、神のかかり給と云義有も同じ事也。今湯神子などの神託を述べる義も此事也。然るに此神依板と云はいか樣のものぞと云時、その制は不v被v傳共、只板を立置てか、持てか叩たることと見ゆる也。發勤させて神を降すの道理にて、物の音を響かして騷々敷する事と見えたり。今も其遺風は神事に大太鼓を叩き立る事、又田舍にて神殿を叩く事有。是古實の遺れる也。ここの神依板も其板にて、即ちなる板と讀みて、鳴の字を兼たると聞ゆ。神依板は叩く板なるべし』云々。
 此歌、袖中抄に、『カミナヒノカミヨリイタニスルスキノオモヒモスキスコヒノシケキニ』とある。又六帖に人麿作として載つてをり、訓には相違がない。
 
          ○
 
(300)  〔卷九・一七七四〕
  垂乳根《たらちね》の母《はは》の命《みこと》の言《こと》にあれば年《とし》の緒《を》長《なが》く憑《たの》み過《す》ぎむや
  垂乳根乃 母之命乃 言爾有者 年緒長 憑過武也
 
 『獻舍人皇子歌二首』とある、その第一首である。○母之命乃 古寫本にオヤノイノチノ(元・神)と訓んだのもある。舊訓ハハノミコトノ。○言爾有者 舊訓コトニアラバ(代匠記・古義同訓)。考コトナラバ。童蒙抄コトナレバ(略解同訓)。新考コトニアラズバ。新訓コトニアレバ(全釋同訓)。『母の命《みこと》の言《こと》にあれば』は母のお言葉であるからといふ意である。
 一首は、わたくしども二人をお許し下さつたのは、お母さまの御言葉でございますから、長くこのお言葉に頼つて居りませう。ただ空しく過ぐるといふことはありますまい。といふぐらゐの意であらうか。略解に、『女の歌なるべし。言ナレバは、此女の母の終に末はと許せる詞を聞きしかば、末を頼み過ぎんかと言ふ意と聞こゆ』とあるのに大體從つていいであらう。ヤは反語である。
 この歌は右の如き戀歌であるから、皇子に關聯した寓意などは無いのであるが、諸抄には、『此歌ハ譬フル意有ベシ。フタオヤノ中ニ母ハ殊ニウツクシミノマメヤカナル物ナレバ、皇子ノ憑モ(301)シウノタマフ御言を母ノ言ニ喩ヘテ、御詞ノミヲ年ノ緒長ク憑テ過サムヤ。今其シルシヲ見セ給フベシトヨメル歟』(代匠記精)。『此歌諸抄の説は、皇子を恨み奉りて母のみことの云ける詞の樣ならば、わが願ことをも叶へさせ給へ。かく年月經る迄は、打捨置かれまじきにと云意と釋せり。當家の流とは裏表との違也。宗師見樣は、皇子を奉v頼歌也。次の歌も同意にて、みこを頼母敷思ふ歌と見る也。母の如くならばいかで年月長く過んや。皇子の仁徳ませば、我母親の如く人を憐み惠み給へば、年月長くは過ぎまじ。やがてのうちに頼み奉れる事も叶ふべきとの意と見る也』(童蒙抄)。古義も『歌(ノ)意は、吾を深く慈《ウツクシ》み親《シタシ》み賜ふ母君の言ならば、僞のあるべき理はなければ、數年長く頼(ミ)に思ひてのみ、そのかひもなく、むなしく月日を過さましやは、然はあるまじきを、まことの母親ならぬは頼みがたきものぞとなり』と言つて、契沖の寓意説(初稿本)を引用してゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七七五〕
  泊瀬川《はつせがは》夕渡《ゆふわた》り來《き》て我妹子《わぎもこ》が家《いへ》の金門《かなど》に近《ちか》づきにけり
  泊瀬河 夕渡來而 我妹兒何 家門 近舂二家里
 
(302) 舍人皇子に獻つた二首の中の第二首である。第四句舊訓イヘノミカドハ。童蒙抄イヘノカドニモ。略解イヘノカナドニ。一首の意は、泊瀬川(【大和磯上郡上郷村よりいづ、遂に佐保川に合す】)をぼ夕がた渡つて來て戀人の門に近づいたといふのである。カナドは金門《かなど》から來て單に門のことに用ゐる。『さを鹿の伏すやくさむら見えずとも兒ろがかなどゆ行かくし好《え》しも』(卷十四。三五三〇)。『金門《かなど》にし人の來立てば夜中にも身はたなしらず出でてぞあひける』(卷九。一七三九)などの例がある。門田《かなとだ》は門の近くの田の義に使つてゐる。夕がたに渡ることを、『夕渡る』と使つたのは自由で簡潔で旨い。調子が伸び、こせこせしない點が人麿の歌調に似て居り、相當にいい歌である。ただ民謠風に歌つたところがある。
 前に評釋した獻舍人皇子歌の第一首『垂乳根の母の命《みこと》の言《こと》にあれば年の緒長く憑《たの》み過ぎむや』といふのもやはり戀歌であるから、歌のお相手としてこの二首を示し奉つたのである。それを何か底意のあるやうに解しがちで、例へば、『此歌モ亦下意アル歟。君ガ思惑ヲ近ク蒙ルベキ事ハ、譬ヘバ人ノ夕去バ必ラズ逢ハムト契《チギ》リタラムニ、泊瀬河ノ早キ瀬ヲカラウジテ渡リ來テ其家近ク成タルガ如シトヨメル歟』(代匠記精)などといひ、古義なども踏襲してゐるが、略解ではその下意に餘り重きを置かない。『按ずるに右の弓削皇子に奉れる歌も、此舍人皇子に奉れるも、如何なる下心有りて奉れるにか知るべからず。強ひて言はば如何にとも言はるべきなり。是等は歌物語(303)せさせ給ふ時、聞傳へたるままに打出でたるも知られず。獻ると言ふにさのみ泥むまじくおぼゆ』と云つてゐるのは、萬葉の歌を解釋する態度としては正しい道の上に立つて居る。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、四五句『家のみかとに近くきにけり』となつてゐる。
 以上三首の歌につき、『右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出』と左注がある。
 
          ○
 
  〔卷九・一七八二〕
  雪《ゆき》こそは春日《はるび》消《き》ゆらめ心《こころ》さへ消《き》え失《う》せたれや言《こと》も通《かよ》はぬ
  雪己曾波 春日消良米 心佐閉 消失多列夜 言母不往來
 
 『與妻歌一首』といふ題があり、次の『妻和歌一首』と併せて『右二首柿本朝臣人麿之歌集中出』といふ左注がある。『言母不往來』はコトモカヨハヌであるが、古寫本中には、カヨハメ、カヨハム、カヨハズと讀んだのもある。
 一首の意は、雪は春の日にあたつて消えるであらうが、お前の私に對する心も消え失せたのか、このごろちつとも音沙汰が無いではないかといふのである。
(304) 『言《こと》通《かよ》ふ』といふやうな言方も注意していいが、『吾背子に直《ただ》に逢はばこそ名は立ため言《こと》の通《かよひ》に何か其《そこ》故《ゆゑ》』(卷十一。二五二四)。『夢かと情《こころ》惑ひぬ月|數多《まね》く離《か》れにし君が言《こと》の通へば』(卷十二。二九五五)。『思はしき言も通はずたまきはる命惜しけど』(卷十七。三九六九)。『遠江《とへたほみ》白羽《しるは》の磯と贄《にへ》の浦とあひてしあらば言も通《かゆ》はむ』(卷二十。四三二四)等の例がある。
 サヘといふ助詞は、『一事を擧げて、そが元來存するものの上に増加せることを示す』(山田孝雄氏)ので、更にそのうへ、あるが上にまたといふ意があるから、此處は雪が消えるといふことを云つたから、そのうへに、然のみならずといふ意があるものと見える。『我背子《わがせこ》にわが戀ひをればわが屋戸《やど》の草さへおもひうら枯れにけり』(卷十一。二四六五)。『情《こころ》さへ奉《まつ》れる君に何をかも言はず言《い》ひしと吾が食言《ぬすま》はむ』(卷十一。二五七三)。『手に取れば袖さへ匂ふ女郎花《をみなへし》この白露に散らまく惜しも』(卷十。二一一五)。『殖竹《うゑたけ》の本さへ響《とよ》み出でて去《い》なば何方《いづし》向きてか妹が嘆かむ』(卷十四。三四七四)等の例がある。
 
          ○
 
  〔卷九・一七八三〕
  松反《まつがへ》り癈《し》ひてあれやは三栗《みつぐり》の中《なか》に上《のぼ》り來《こ》ぬ麻呂《まろ》と云《い》ふ奴《やつこ》
(305)  松反 四臂而有八羽 三栗 中上不來 麻呂等言八子
 
 〔題意〕 『妻|和《コタフル》歌一首』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○松反 舊訓マツカヘリ。古寫本中マツカヘシ(元)。マツカヘ〔神)。マツモカヘ(温)等の訓もあつた。このマツガヘリといふ語は、卷十七(四〇一四)の家持の歌に、麻追我弊里之比爾底安禮可母佐夜麻太乃乎治我其日爾母等米安波受家牟《マツガヘリシヒニテアレカモサヤマタノヲヂガソノヒニモトメアハズケム》とあるから、これは、『しひ』にかかる枕詞として使つて居るやうで、このことは大體間違はないとおもふ。ただなぜ『しひ』に續けたかといふ段になると諸説があつて定まらない。『松反トハ、色モカハラヌ松ヲカハルト云ヒナスハ誣タル詞ナリ。依テ誣ト云ハム爲ニ松反トハ云歟。第十七ニ家持モ此ツヅキヲヨマレタリ。誣《シフ》トハ人ヲ欺《アザム》クナリ。ニハ助語ナリ。シヒテトモ讀ベシ。但家持ノ歌ニモ之比爾底トアレバ、今モニヲ加へタル歟。サテシヒニテアレヤハトハ、思ハヌヲ思フト欺ムキテ申ツルニアラムヤハナリ』(代匠記精)。『待に挽く來るをしひにてあれやはとよめり。急ぎ來んともせで、心緩かに有を、しひにてと云と也』(童蒙抄)。『またば、かへりこんといひたるは、強言にて、其時も過てきまさぬからは、まつといふ事はいはじものぞとうらめるなり』(考)。『月の半も過ぐるまで來ぬ人なれば、待つはかへりて強言《シヒゴト》にてこそ有れ、今更待つと言ひやらん物かはと言ふ意か。松は借字なり』(略解眞淵説)。『中山(ノ)嚴水云けらく、今(ノ)世の俗に、をさなき子等をおどしいさむるとて、人に物あたへお(306)きて、其を又此方へ取かへせば、その代《カハリ》に、背中に松の木生るぞといふことあり。思ふに、さる事は、上代よりありし諺にて、たとへば有ものを無(シ)といひ、なき物をありと云など、しひ付ることをすれば、その反報《カヘリ》に、身に松(ノ)木生ふものぞと云しことありしにて、やがてその松反《マツカヘリ》と云を、強言する名目に云しならむか。されば強《シヒ》の言をいひ起さむとて、枕詞のごとくに、おけるにもあらむか、といへり』(古義)。自分は、松反は、松事遠《マツコトトホシ》(卷十三。三二五八)の松は待であるし、また嬬待木者《ツママツノキハ》(卷九。一七九五)は松と待と言掛けてゐるごとく、松と待と何か關係があるらしく、また、かへりは加敝良末爾《カヘラマニ》(卷十一。二八二三〕などと通ずる語か、或は死反《シニカヘル》(卷十一。二三九〇)のカヘルと通ずる語かなどと思つたりしたのであつた。或は家持の例は、鷹の事を咏んだのであるから、『とやみれば我夏かひのかたかへり〔五字右○〕秋來にけりと尾《イな老い》羽ぞ萎《しな》へる』といふ曾根好忠の歌と、やはり家持の一聯中、二上能乎底母許能母爾安美佐之底安我麻都多可乎伊米爾都氣追母《フタガミノヲテモコノモニアミサシテアガマツタカヲイメニツゲツモ》(卷十七。四〇一三)の麻都(待)と何か關係がなからうか。さういふ事を思つてゐたところ偶武田博士の新解を見たところが、家持の歌の、『麻追我弊里・之比爾底安禮可母』の解釋のところで、『古來諸説のあるところである。鷹の、鳥屋《とや》に居て、夏の末から冬の初にかけて、羽毛の拔けかはるのを、鳥屋《とや》がへりといひ、山にゐてこれをするを山がへりといふから、松に居て羽毛の拔け代りをするのを、松がへりといふのであらう。シヒは、目しひ、耳しひのシヒに同じで、故障のあるの意で(307)あらう。(橋本進吉氏談)。シヒニテアレカモは、故障が起つてあればにやの意』と解して居る。これは新説であるのみならず、なかなかの善説と思ふので、試に夫木和歌抄を見るに、『足引の山かへりぬる〔六字右○〕はし鷹のさも見えがたき戀もするかな』(顯季)。『山かへる〔四字右○〕あかげの鷹のてなれても心おかるる君にもあるかな』(爲家)。『素鷹《すだか》わたるははこが崎をうたがひて猶木にかへる山かへり〔九字右○〕かな』(西行)。『ひきすゑよいらごの鷹の山がへり〔四字右○〕まだ日は高し心そらなり』(家隆)。『みみかたき白斑《しらふ》の鷹の山がへり心ゆるさずかり渡るかな』〔通經)。『をしきかな人もてがけぬはし鷹のとかへる〔四字右○〕山にころもへにけり』(良經)。『あはれ浮世を捨てやらで鳥屋かへりぬる〔七字右○〕』(待賢門院安藝)などの例があり、『とやかへる〔五字右○〕手なれの鷹を手にすゑて雉子鳴くなる片野べぞゆく』(權僧正永縁)などがある。此等を參考すれば、マツガヘリは待反《マツガヘリ》でなく、字どほりに、松反《マツガヘリ》だかも知れない。そして當時は、松樹を以て留る鳥屋《とや》を作つてゐたかも知れない。そこで、マツガヘリはトヤガヘリと同じ意味であるのかも知れず、定家の歌に、『降る雪にさてもとまらぬみかり野を花の衣のまつかへるらむ』といふのがあるが、この、『まつかへるらむ』はひよつとせば家持あたりの歌の句から來てゐるのではあるまいか。○四臂而有八羽 シヒテアレヤハと訓む。舊訓シヒニテアレヤハ。代匠記シヒテアレヤハ。略解、羽は母などの誤にて、シヒニテアレヤモか。古義、羽は物などの誤にて、シヒニテアレヤモ。シヒの事は既に前項に云つた如く、從來多く誣《しひ》、強《しひ》と解したが、さうでなく(308)目シヒ、耳シヒのシヒの意(橋本進吉氏)である。古くは『イソギカヘラントモセデ、心綬怠スルヲ、シヒタルトイフ也』(仙覺抄)といふ説もあつて、先に引いた童蒙抄はこれに從つたのである。なほ、新訓では、『澁《し》びてありやは』と訓み、『澁ぶ』の動詞と解した(【初版本による。後『しひて』と假名に改められた】)。然して從來このヤハをば反語として解せようとするから、『凡て、云々|夜毛《ヤモ》、云々|可毛《カモ》などいふべき所を夜波《ヤハ》、可波《カハ》と云は、今(ノ)京已降のにのみあることにて、此(ノ)集の頃の歌には一(ツ)もあることなし』(古義)などと云つて、ヤモとしたのであるが、これは疑問として、アレヤに咏歎のハの添はつたものとせば、癈物《すたれもの》になつたのですか。呆《ほ》けてでもゐるのですか。ぐらゐに解釋が出來るのである。普通は反語に解し、『強(ヒ)たることにてあれやも、嗚呼強(ヒ)たることにてはなし、と云意なり』(古義)等と云つてゐるのである。或は、『按ずるに、アレヤハと言ふ時は、ヤハは返語なれば、しひにては有らぬと言ふ意になりて、いよよ解き難し』(略解)等といひ、難澁してゐたものである。(【附言、橋本博士もこのアレヤハを疑問と解せられる趣を話された】)○三栗 ミツグリノで、ナカに係る枕詞である。古事記應神天皇の條に、美都具理能曾能那迦都邇袁《ミツグリノソノナカツニヲ》。また、美都具埋能那迦都延能本都毛理《ミツグリノナカツエノホツモリ》とある。三つ栗あるうちの中間のものといふ心持で係らしめた。萬葉卷九(一七四五)に、三栗乃中爾《ミツグリノナカニ》向有《ムカヘル・メグレル》曝井之不絶將通彼所爾妻毛我《サラシヰノタエズカヨハムソコニツマモガ》とあるによつて明かである。○中上不來 ナカニノボリコヌと訓んだ。舊訓ナカニヰコヌ。古寫本中ナカツカヘコス(元)。ナカヘツカコス(神)。ナカニヰテコヌ(西・矢・京・温)。ナカニヰ(309)テコズ(細)等がある。拾穗抄ナカニヰテコズ。代匠記初ナカウヘコヌヲ。童蒙抄ナカニモ出キデ。考ナカスギテコズ(略解・古義)。略解補正ナカタエテコズ。新考ナカダエテコヌ。新解ナカノボリコヌ。新訓ナカニノボリコズ。『中上は、たとへば一月をみつにわかちて、中の十日を中とすれば、上旬下旬みなうへなり。第五には、うへといふに、表の字をかけり。今もその心なり』(代匠記初)。『中上不來を眞淵はナカスギテコズとよみて、そのナカを月の半の意とし、古義は之を是認せり。案ずるに月の半をただナカとはいふべからず。さればナカは他の意とせざるべからず。試にいはば、中上を中止の誤としてナカダエテとよみて中絶の意とすべきか。【中略】中絶の意なるべく男女の中の絶ゆる意にはあらじ』(新考)。『ナカは、半途、中途の意で、男が地方に赴いて、それきり中に上つて來ないといふのであらう』(武田、新解)。○麻呂等言八子 マロトイフ・ヤツコと訓む。麻呂《まろ》と云ふ奴《やつこ》の意である。舊訓マロトイハハコ。代匠記初マロトイヘヤコ。童蒙抄マロトイフヤセ。考マツトイハムヤモ。【呂は追の誤。子は毛の誤。】(略解同訓)。古義マツトイヘヤコ(新考同訓)。略解補正マツトイハハコ。然るに武田祐吉博士はこれを、マロトイフヤツコと訓んだ(新解下卷八七二頁)。新訓それに據つた。男に對つて戯れ親しんで、奴《やつこ》(奴隷)と云つたもので、後段にも例を引いた。
 〔大意〕 〔松反《まつがへり》〕鷹が働けなくなつたやうに、あなたも癈物《すたれもの》になつたのではありませんか。或は呆《ほ》けてでも居るのですか。〔三栗《みつぐりの》〕それつきり、こちらへ上《のぼ》つて來ないではありませんか。麻(310)呂《まろ》といふ奴《やつこ》さん。
 〔鑑賞〕 この歌は、麻呂といふ男が妻に向つて、『雪こそは春日消ゆらめ心さへ消えうせたれや言も通はぬ』と言つてやつたのに對して答へた歌で、なかなか鋭く反撥してゐるが、戯れ親しんで居るのである。そこで古來の諸前賢の説を種々參考して見たが、面倒で何處かに無理があり、歌としての解釋・鑑賞には未だしい點が多かつたが、幸に武田博士の考説を得、それが一番自然のやうであるから大體それに從ふことにした。
 武田博士の口譯に、『鷹の松反りのやうに、通じないことがありませうや、途中に上つて來ない、麻呂といふ奴さん』とあるが、博士はアレヤハを反語としたから、かういふ解釋になるのだが、ここは戯語で強く云つてゐるのだから、疑問・咏歎とする方がいい。
 此處のシヒテは、解釋するとせば、どうしても家持の用例を是非參考にせねばならず、さすれば、橋本・武田説が一番肯當ではあるまいかとおもはれる。シフは大言海に癈の字を當ててあり、死を活用せしめたもので、機能《ハタラキ》を失ふ。感覺トマルと解し、字鏡集の、瞎、カタメシヒ、シヒタリ。新撰字鏡の、聾、耳志比を引き、なほ延慶本平家物語の、『頸コソ少シしひてオボユレト云フ』を引いてゐる。この平家物語の例などは特にこの歌の解釋の參考になるので、妻にむかつて、『心さへ消えうせたれや』と云つたから、妻の方で、『癈《し》ひてあれやは』と返したのである。それゆゑ、(311)此處は反語ではないのである。今の口語でいへば、もうあなたも癈物《すたれもの》ですかとか、やくざ者になつたのですかとか、呆《ほ》けなすつたのではありませんかとか、さういふ心持を示してゐる言方である。この點からいふと、從來の、強《し》ふ、誕《し》ふ、僞《いつは》る、と解釋するのには無理があり、また假名の研究から云つても、強《シヒ》の假名は乙類であるのに、四臂・之比・癈《シヒ》の假名は甲類であるのによつてもその區別を明かにすることが出來る。また、此處のアレヤハを反語とする説にもまた無理があつて、どうしても心理上のよい解釋は出來ない。武田博士は、ヤハを反語としたから、『妻に對して雪は春日に消えるだらうが、お前は心までも消えてしまつてか、手紙もよこさないと云つたに對し、妻から、盲や聾でもないのに、上京もしてこない。この奴はと云つて答へたのであらう』と解釋してゐるが、『盲や聾でもないのに』と云はうよりは、『盲か聾のやうな癈物にでもなつたのですか』と解釋する方が感情に直接のやうである。
 次に、ヤツコといふ使ひ方は、坂上郎女が家持に、『常人の戀ふと云ふよりは餘りにて我は死ぬべくなりにたらずや』(卷十八。四〇八〇)と云つてやつたのに、家持は、『天ざかる鄙《ひな》の奴《やつこ》に天人《あめびと》し斯く戀ひすらば生けるしるしあり』(同。四〇八二)と答へて居る。また、これに類似したものとしては、紀女郎が家持に贈つた歌に、『戯奴《わけ》がため吾手もすまに春の野に拔ける茅花《つばな》ぞ食《め》して肥えませ』(卷八。一四六〇)。『晝は咲き夜は戀ひ宿《ぬ》る合歡《ねぶ》の花君のみ見めや戯奴《わけ》さへに見よ』(同。(312)一四六一)といふのがあり、それに答へた家持の歌に、『吾が君に戯奴《わけ》は戀ふらし給《たば》りたる茅花《つばな》を喫《は》めどいや痩《や》せに痩《や》す』(同。一四六二)といふのがある。
 次にこの一首は、武田博士は、『今問題としてゐる歌は柿本人麻呂の歌集から出てゐるのであるから、ただ麻呂と言つても、直に柿本人麻呂の事になるであらう』といひ、この前の歌についても、『人麻呂集所出で、或は人麻呂の作ででもあらうか』(新解)と云つて居るが、童蒙抄では、『此注にて袖書の注に、何の歌集中に出と有ても、其人の歌と決し難き證明明か也。既に妻和歌と有からは、人麿にて無き歌も歌集中に入たると見えたり。然れば人麿妻との問答の歌と見て、前の雪こそはの歌、人麿の歌とすべきと云べけれど、口風違たる事を知るべし。凡て左注の義は後人の筆相混じたれば、難2信用1事有。又可v取事もありて取捨ある事也』と云つてゐる。古寫本中、元・藍・神には『集』がなく、拾穗抄では、歌の前に、柿本朝臣人麻呂。柿本朝臣人麻呂(カ)妻と明記してある。近時、人麿歌集を論ずる學者は、大部分を人麿作とする傾向になつてゐる(武田・佐低木・石井)やうであるが、この二首は、特に第一首は人麿の整調に似ない。また人麿の妻だとすると、どの妻に當るのか、疑問の點が幾つも殘つて居る。
 私は、人麿の歌ではあるまいと思ふ否定説に傾くものであるが、この二首は兎も角も問答歌であり、感情も活々として居り、諧謔裏に親愛の情を溢れさせてゐる點は同情すべく、民謠化して(313)しまはないところに注意すべきである。私の想像では、これも人麿に關係あつた一群の人の中の一對の男女の贈答歌だらうとおもふのである。それゆゑ、家持は人麿を尊敬すると同時に、人麿歌集をも常に注意してゐたから、自然この歌をも模倣して、卷十七(四〇一四)の歌を作つたものとおもへるのである。
 
          ○
 
  〔卷九・一七九五〕
  妹《いも》ら許《がり》今木《いまき》の嶺《みね》に茂《しげ》り立《た》つ嬬《つま》松《まつ》の木《き》は古人《ふるひと》見《み》けむ
  妹等許 今木乃嶺 茂立 嬬待木者 古人見祁牟
 
 〔題意〕 挽歌といふ見出があり、『宇治若郎子宮所《ウヂノワキイラツコノミヤドコロ》歌一首』といふ題が附いてゐる。又これに續く『紀伊國作歌四首』の後に 『右五首柿本朝臣人麻呂之歌集出』と注してある。宇治若郎子は即ち應神天皇の皇子で、應神紀に云。次妃和珥(ノ)臣(ノ)祖日觸使主之女宮主宅媛、生2菟道稚郎子皇子・矢田皇女・雌鳥皇女1云々。仁徳紀云。四十一年春二月、譽田天皇崩。時太子菟道稚郎子讓2位于大鷦鷯尊1。未v即2帝位1。仍諮2大鷦鷯尊1云々。既而興2宮室於菟道1而居之云々。この皇子の宮は(314)今木の邊にあつたので、これは現在、山城久世郡宇治町の離宮址だといふことになつてゐる。それが此歌を咏んだ時には既に廢れてゐたものであつた。延喜式第二十一、諸陵式云。宇治墓【兎道稚郎子皇子、在2山城國宇治郡1、兆域東西十二町、南北十二町、守戸三烟】
 〔語釋〕 ○妹等許 イモラガリと訓む。『妹《いも》が許《もと》へ今來るといふ心につづけたり』(代匠記初)とある如く、次の『今來《いまき》』に係る枕詞として用ゐたものである。新考では、イモラガリイマまでを枕詞とし、キに係るものとした。○今木乃嶺 イマキノミネで、代匠記に、『今木ノ嶺ハ大和國高市郡ナリ。齊明紀云、【中略】欽明紀云、七月秋七月倭國今來郡言云々。此外雄略紀・皇極紀・孝徳紀・天武紀等ニ見エタリ。新ノ一字ヲモイマキトヨメリ。昔三韓ノ人ノ徳化ヲ慕ヒテ渡リ來ケルヲオカセ給ヘル故ニ此名アリ。一説ニ紀伊國ト云説アル故ニ、今慥ニ和州ナル證ヲ出セリ』と云つたので、童蒙抄・考・略解・古義等も皆それに從ひ、宣長も古事記傳卷三十三にて、『今木(ノ)嶺疑はし。もしくは宇治宮の外に今木にも宮ありしにや【中略】然るに、山城志に、今來(ノ)嶺在2宇治(ノ)彼方町(ノ)東南1、今曰2離宮山1と云るは、此萬葉の歌に依てのおしあてごとなるべし。姓氏録に山城國に今木(ノ)連又今木など云姓はあれども宇治のあたりに此地名古書に見えたることなし』と、山城説を寧ろ否定してゐる。然るに井上博士の新考に、『案ずるに、山城風土記に謂宇治者……本名曰2許之國1矣とあり。許は杵の誤なるべし。杵《キ》の名は今も郡名に殘れり。和名抄山城國郡名に紀伊岐とある是な(315)り。宇治は後の世には久世郡に屬すれども、いにしへは紀伊《キノ》郡に屬せしなるべし。否宇治を中心とせる一區域をキノ國と稱し而して宇治山をキノ嶺と稱せしなるべし。さらば今の歌は妹等ガリイマまでをキノミネにかかれる枕辭とすべし』云々と云つてゐる。この新説は極めて明快であるが、イマキは必ずしも大和一處でなくともいいわけであり、この歌ではどうしても山城宇治の近くである筈であるから、暫くイマキノミネをば固有名詞として、味ふこととする。○茂立 シゲリタツと訓む。茂り立つである。舊訓ナミタテル。代匠記精シゲリタツ又はシゲクタツ。考シミタテル。○嬬待木者 ツママツノキハと訓む。妻を待つと、松の木と同音なので續けた。言掛の一種で、古今以下の言掛技法は萬葉に既にあつた。『大和なる吾《われ》松椿吹かざるなゆめ』(卷一。七三)も同じ技法である。『嬬待木トハ、松ノ木トノミ云ヒテハ字ノ足ラネバ、カクハ云ヘリ。石上袖振川ト云類ナリ』(代匠記精)。『ヲ』と云はずに、『ハ』と云つて居る。○古人見祁牟 フルヒトミケムと訓む。古義では、古は吉の誤で、ヨキヒトミケム。古寫本ではムカシノヒトミケムと訓んだのもフルヒトミケムと訓んだのもある。古《いにし》へ人《びと》が見たであらう。古人といふのは宇治若郎子を大體指すので、或はなほ複數の人々を考へてもかまはぬところである。『古人見祁牟トハ稚郎子皇子ノ宮所ハ、唯跡ヲノミ申傳フルニ、今木嶺ノ松ハ、昔ノ人モカクコソ見ケムヲ、今モ替ラズシテ茂リテ立ルヨト感慨ヲ起スナリ。又皇子ノ宮ノ中ヨリ御覽ゼラレケムト云意ニヤ』(代匠記(316)精)。『古人は誰を指すか知られず』(略解)。『布留人《フルヒト》とは、今(ノ)世に存《ア》る人をいふ稱《ナ》にて、過去《スギニ》し昔の人を云ことにあらず【中略】俗に云古參のことなり【中略】今按(フ)に、古は吉(ノ)字の誤にてヨキヒトミケムなり。叔人乃良跡吉見而好常吉師芳野吉見與良人四來三《ヨキヒトノヨシトヨクミテヨシトイヒシヨシヌヨクミヨヨキヒトヨクミ》、とあるをも思(ヒ)合(ス)べし。さて今の吉人《ヨキヒト》は、即(チ)稚郎子(ノ)皇子を指奉れるなり』(古義)。『案ずるに平安朝時代の物語などに見えたるフルビトはげにフリタル人といふことなれど言語の意義には變邊あれば奈良朝時代には昔の人をフルヒトといひけむも知るべからず。或は漢語の古人を直譯してフルヒトといひもしけむ。舒明天皇の御子|古人《フルヒトノ》皇子もふりたる人の意によれる御名にはあらで、いにしへの人の意によれる御名ならむ。ともかくも今は字のままに舊訓に從ひてフルヒトとよむべし。さてフルヒトとは無論|若郎子《ワキイラツコ》をさせるなり。略解に、古人は誰をさすか知られずといへるは迂遠なり』(新考)。このフルヒトの語は、井上博士のいはれた如く、支那の古人の直譯であらう。
 〔大意〕 山城宇治の近くの、〔妹等許《いもらがり》〕今木《いまき》の山の頂に繁り立つて居る、あの松の樹は、嘗て昔の宇治若郎子《うぢのわきいらつこ》の皇子も御覽になつたことであらうが、今はその宮址も荒れてしまつて居る。といふぐらゐの意であらう。
 〔鑑賞〕 この歌を挽歌に分類したのは、皇子の宮址に來て追懷したのであるから、同時に皇子をも追慕することとなるためであらう。初句に、『妹らがり』といひ、第四句に、また、『嬬《つま》まつ(317)の木』と云つたり、現在の私等の考から行けば、要らざる技巧であるが、當時の人は眞面目になつてかういふことをしてゐるのである。
 『古《いにし》へに在りけむ人の倭文幡《しづはた》の帶|解《と》き交《か》へて廬屋《ふせや》立て妻問しけむ』(卷三。四三一)。『酒の名を聖《ひじり》とおほせし古昔《いにしへ》の大き聖《ひじり》の言《こと》のよろしさ』〔卷三。三三九)。『古《いにし》への賢《さか》しき人も後の世のかたみにせむと老人《おいびと》を送りし車持ち還《かへ》り來し』(卷十六。三七九一)等の歌も參考となり得るし、佛足石歌に、『よき人のまさめに見けむ御跡《みあと》すらを吾は得見ずて石《いは》に彫《ゑ》りつく玉に彫《ゑ》り付く』とある、その『よき人』は諸佛菩薩の意だが、過去世のことを云つてゐる點は同樣である。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として採られ、第三句『なみたてる』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七九六〕
  黄葉《もみぢば》の過《す》ぎにし子等《こら》と携《たづさ》はり遊《あそ》びし磯《いそ》を見《み》れば悲《かな》しも
  黄葉之 過去子等 携 遊礒麻 見者悲裳
 
 『紀伊國作歌四首』中の第一首である。初句の『黄葉《もみぢば》の』は『過ぐ』に係る枕詞の格に使つてゐる。(318)舊訓スギユクコラトであつたのを代匠記精でスギニシコラトと訓み、舊訓タヅサヒテであつたのを考でタヅサハリと訓んだ。もつとも古寫本にはタヅサハリの訓があつた(【元・藍・類・古・神・西・温・細】)。舊訓アソビシイソマを童蒙抄・古義でアソビシイソヲと訓んだが、類聚古集ではさう訓んでゐる。
 一首の意は、嘗て愛する妹《いも》(子等は單數)と共に此處の海邊に來たことがあつたが、今はその妹が死んで一人來て見ればいかにも悲しいといふので、四首連作のごとく、歌詞が浮いてゐずしつとりと強いところを見れば、人麿の作と想像してもいい歌である。さうすればその妻といふのは、人麿の長歌にある妻と想像すれば、依羅娘子の前の妻で、この歌も大寶元年の作ではあるまいかと想像したのであつた。『遊びし』などいふ語も、いかにも自然で、現在讀んでも新鮮な感じのする歌である。伊列の音で續けた點が多いが、不思議に調和して哀韻がある。
 
          ○
 
  〔卷九・一七九七〕
  鹽氣《しほけ》たつ荒磯《ありそ》にはあれど行《ゆ》く水《みづ》の過《す》ぎにし妹《いも》が形見《かたみ》とぞ來し
  鹽氣立 荒磯丹者雖在 往水之 過去妹之 方見等曾來
 
(319) 第二首である。第二句舊訓アラソニハアトであつたのを代匠記初で、アリソニハアレドと訓み、四五句舊訓スギユクイモガ・カタミトゾクルであつたのを考でスギニシイモガ・カタミトゾコシと訓んだ。鹽氣《しほけ》は潮けむりで、『神風の伊勢の國は奧つ藻も靡みたる波に鹽氣《しほけ》のみ香《かを》れる國に』(卷二。一六二)などの例もある。『行く水の』は枕詞に使つてゐる。潮の飛沫をこめた潮煙の立つ荒磯に來たのは、この荒寥として鋭い風光を愛するといふのではなく、亡くなつた妻を偲ばんがためだといふので、句々緊張してゐて然かも哀情切々として傳はつてくる力量はやはり人麿の作だと想像せしめるに足る歌である。初句のシホケタツといふのでさへ、既に旨いところがあり、第三句の枕詞なども寧ろ人麿の常套手段と謂つてもいいくらゐである。卷一の人麿作、『眞草刈る荒野にはあれど黄葉《もみぢば》の過ぎにし君が形見《かたみ》とぞ來し』(卷一。四七)と大に似て居り、この人麿歌集の歌が署名が無いだけ割が惡いとおもふが、翻つて思ふに、これは同一の作者が別々に作つたものと解釋して差支ない。同一の作者だから、同じやうな感じ同じやうな手法になるのも極めて自然だからである。それのみでなく、此歌は安騎野で作つた歌に比して優るとも劣つてはゐないと思ふのである。また私の想像では、この卷九の歌の方が卷一の歌よりも後で作つたものと想像してゐるのである。
 此歌、六帖に、『潮けたち荒磯に有れど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ見る』となつてゐる。
 
(320)          ○
 
  〔卷九・一七九八〕
  古《いにしへ》に妹《いも》と吾《わ》が見《み》しぬばたまの黒牛潟《くろうしがた》を見《み》ればさぶしも
  古家丹 妹等吾見 黒玉之 久漏牛方乎 見佐府下
 
 一二句舊訓フルイヘニ・イモトワガアシ。拾穩抄イニシヘニ。代匠記精イモトワガミシ。古寫本中イニシヘニ(西・細・温)。イモトワガミシ(【元・藍・類・古・西・細・温】)。黒牛潟は紀伊名草郡(今海草郡)の黒江である。『黒牛の海くれなゐにほふ百敷《ももしき》の大宮人しあさりすらしも』(卷七。一二一八)。『黒牛がた潮干の浦をくれなゐの玉裳裾びき行くは誰が妻』(卷九。一六七二)などの歌もあり、大和からも來て遊んだ所であつた。サブシは不樂《さぶし》、不怜《さぶし》と書き、何となく憂はしく、心のなぐさまぬ、悲哀の蟠結してゐる氣特である。妻に死なれて嘗て二人で遊んだことのある黒牛潟に來ると何か心にわだかまる悲哀がある氣持で、後世幽玄體の、『淋しさはその色としもなかりけり』とは違ふのである。もつと現實的で且つ肉體的な氣持をあらはしてゐるのである。
 『ささなみの志賀津《しがつ》の子らが罷道《まかりぢ》の川瀬の道を見れば不怜《さぶ》しも』(卷二。二一八)。『風速《かざはや》の美保《みほ》の(321)浦廻《うらみ》の白躑躅《しらつつじ》見れども不怜《さぶ》し亡き人思へば』(卷三。四三四)。『今よりは城《き》の山道は不樂《さぶ》しけむ吾が通はむとおもひしものを』(卷四。五七六)。『家に行きて如何にか吾《あ》がせむ枕づく嬬屋《つまや》さぶしく思ほゆべしも』(卷五。七九五)。『秋萩を散り過ぎぬべみ手折《たを》り持ち見れども不怜《さぶ》し君にしあらねば』(卷十。二二九〇)などの用例が參考になる。
 この歌も順當にあらはされてゐて、少しも無理がないので、稍平凡過ぎるやうに評價する人々も居るだらうが、この無理のない境界がよく分からなかつたので、古今集の歌のやうに理に墮ち、新古今集の歌のやうに幽玄に墮ちてしまつたのである。抒情詩は無理のない當然の中に妙味のあるものでなければならない。
 
          ○
 
  〔卷九・一七九九〕
  玉津島《たまつしま》磯《いそ》の浦廻《うらみ》の眞砂《まなご》にも染《にほ》ひて行《ゆ》かな妹《いも》が觸《ふ》りけむ
  玉津島 礒之裏未之 眞名仁文 爾保比去名、妹觸險
 
 玉津島もやはり海草郡にあり、今の玉津嶋神社の東方奠供山の地だとせられてゐる。昔はその(322)邊は磯であつたのであらう。舊訓は、『玉津島磯の浦まの眞名《まなご》にもにほひて行かな妹も觸れけむ』であつた。イモニフレケム(代匠記精)。イモガフレケム(略解)。イモガフリケム(古義)。イモノフリケム(新考)等の訓がある。第四句ニホヒテユカナは特殊の用法で、『岸の埴生《はにふ》ににほひて行かな』(卷六。九三二)などの例と同じく、そこの眞砂で衣を色づけて行かう。この眞砂には亡き妻も嘗ては觸れて、衣の色づげをしたのであつただらうといふので、極めて覺官的、官能的、感覺的とも謂ふべき、氣特のいい歌である。この結句は、萬葉歌人の感覺だと謂つても、さう誰も彼もに出來る句ではない。餘程眞率で生々した神經を持つてゐる歌人でなければ出來ない句である。やはりこの四首は何となし人麿を想像せしめるものと看做していい。
 『引馬野《ひくまぬ》ににほふ榛原《はりはら》入り亂《みだ》り衣《ころも》にほはせ旅のしるしに』(卷一。五七)。『草枕旅行く君と知らませば岸の埴生《はにふ》ににほはさましを』(卷一。六九)。『白浪の千重に來寄する住吉《すみのえ》の岸の埴生《はにふ》ににほひて行かな』(卷六。九三二)。『馬《うま》の歩《あゆみ》おさへ駐《とど》めよ住吉《すみのえ》の岸の黄土《はにふ》ににほひて行かむ』(卷六。一〇〇二)。『吾が待ちし秋萩咲きぬ今だにも染《にほ》ひに行かな遠方人《をちかたびと》に』(卷十。二〇一四)。『殊更に衣は摺《す》らじをみなへし佐紀野《さきぬ》の萩ににほひて居らむ』(卷十。二一〇七)。『住吉の岸野《きしぬ》の榛《はり》に染《にほ》ふれど染《にほ》はぬ我やにほひて居《を》らむ』(卷十六。三八〇一)。『春の野の下草靡き我も依《よ》りにほひ依りなむ友のまにまに』(卷十六。三八〇二)等の用例が參考となる。いろいろ使ひざまのニユアンスがあるから、(323)それを千篇一律にしない方がいい。
 
(324) 萬葉集卷十所出歌
 
          ○
 
  〔卷十・一八一二〕
  ひさかたの天《あめ》の香具山《かぐやま》このゆふべ霞《かすみ》たなびく春《はる》立《た》つらしも
  久方之 天芳山 此夕 霞霏※[雨/微] 春立下
 
 〔題意〕 『春雜歌』といふ題のある歌である。、以下七首『右柿本朝臣人麿歌集出』と注せられてゐる。
 〔語釋〕 古寫本等では、アマノカグヤマと云つてゐたのを、考からアメノカグヤマと訓んだ。また第三句をコノクレニ(元・類〕と訓み、第五句をハルハキヌラシ(元)と訓んだのもある。タナビクは、集中輕引、棚曳、棚引、桁引、蒙、被などとも書いてある。
(325) 〔大意〕 一首の意は、この夕方《ゆふがた》むかうの天の香具山を眺めるに霞が棚引いてゐる。して見るともう春が來たらしいといふのである。
 〔鑑賞〕 これはただの實景で『立春』などの理論から來てゐない歌であらう。眞淵は評釋して、『香山《かぐやま》を望めば、此夕さり、のどかに霞の棚引つるは、春のたちたるならんてふ意の、みがくこともなくうるはしく姿高く調ふが、かたきなり』(考)と云つてゐる。明朗で溷濁なく眺めの儘に流露したもので、集中でも注意していい歌である。
 右に云つた如くこの歌は、明快、素直且つ自然である。それだからこれを古今集の歌などに較べるなら、その重厚な聲調を感得することが出來るけれども、それでも人麿の歌とすると少しく樂《らく》すぎて切實の響が足らない。又大きい波動をも感ずることが少い。そこで賀茂眞淵も、『されば此歌は人麻呂の歌ならぬをもおもふべし』(新採百首解)と云ひ、人麿が他人の歌を輯めたものの一つとして、『人麻呂の書つめおかること、歌のすがた、此山をしも見たるなどを思ふに、飛鳥《あすか》藤原のみやこの頃によめる歌なり』(新採百首解)と解してゐるのである。併し、想像するならば或はこれも人麿自身の作で、存外樂に作つた手控のやうなものであるのかも知れぬ。持統天皇の御製などをも聯想しつつ、假に此處に書きとどめ置くのである。
 立春は一年での記念すべき事柄であるから、萬葉にあつても、『正月《むつき》たつ春のはじめに斯くし(326)つつ相《あひ》し笑《ゑ》みてば時じけめやも』(卷十八。四一三七)。『冬過ぎて春し來れば年月は新たなれども人は舊りゆく』(卷十。一八八四)等があるけれども、特に立春の歌と看做すべき歌は尠い。この一首は朗々とした調子だから、一般化され易く且つ民謠的な特色をも持つて居るので、古今集以後今日に至るまで、立春の歌といふものが形式的に必ず附物として添へられるに至つてゐる。なほこの歌は新勅撰春上に讀人不知として載り、夫木抄に人丸作、第二句『あまのかこやま』、結句イ『春は來ぬらし』として採られ、また赤人集には、『ひさかたのあまのはやまにこのゆふべ霞|片靡《かたなび》く春たちくらし』(【西本願寺本】)、『霞たなびく春立ちにけり』(【流布本】)といふのがあり、更に家持集にも流布本赤人集と同じ形のものが載せられてゐるのは、この歌の異傳であらう。さういふ具合に吟誦的に傳へられる素質のある歌だが、味ふとやはりなかなか大きいところがあつて棄てがたい。
 
          ○
 
  〔卷十・一八一三〕
  卷向《まきむく》の檜原《ひはら》に立《た》てる春霞《はるがすみ》鬱《おほ》にし思《も》はばなづみ來《こ》めやも
卷向之 檜原丹立流 春霞 欝之思者 名積米八方
 
(327) 卷向の檜原は卷向山續きの檜原で、その頃は檜の木立が繁つてゐたものと見え、普通名詞から地名ともなつた。卷向の檜原、三輪の檜原は未だ眞に地名にならなかつた頃の云ひあらはしであつただらうか。
 一首の意は、君のことをば、ただ大凡《おほよそ》に簡單に思つてゐるのなら、こんなに難儀して來るのではない。深く思へばこそかうして難儀しながら山路をも來るのだといふので、上の句は序で、春霞が薄くかかつてゐるのを、『おほにし』に續けたのである。品のいい戀愛歌(相聞)で、これも吟誦に適するいい聲調を持つてゐるから、從つてまた形式化され易い素質のあるものである。然し作者は實際この邊に住んでゐたことが分かり、親しんでゐた女をも想像することが出來るから、ただ空漠とした歌謠的なものでないことが分かる。そしてこれも人麿の或時期の作として見立てると、記録にある人麿の妻の誰か、或はさういふものに關係ないものか等いろいろと聯想が向くけれども、事實を尊重する學者にとつてはさういふ悉な聯想はただの心の戯として映ずるであらう。
 この歌の訓には、第四句、ハレヌオモヒハ(元・類・神)。クヒシオモヒハ(西)。クレシオモヒハ(細、温、矢、京・附・寛永本)等の訓もあり、オホニシオモハバ(童蒙抄)。オホニシモハバ(考・略解・古義)等の經過を經てゐる。結句も、ナグサメツヤハ(元・類・神)。ナツミケメヤモ(爾餘(328)寫、寛永本)。ナヅミコメヤモ(童蒙抄・考・略解・古義)等の經過である。
 それから解釋も、契沖は『卷向ノ檜原ハ、サラヌダニ繁キニ、春ノ來ヌレバ、イトド霞ニクレテ面白ク見ユルヲ、春ヨリサキ此霞ムバカリ心ノクレツル思ヒニハ煩《ナツミ》ケメヤト、今ノ霞テ面白キニ對シテ忘タルヤウニヨメル歟』(代匠記精)などの如く面倒に解してゐるが、『檜原を霞みて覆ひたると云義にて、そのおほの詞を凡の字のことに借りて、大凡に思はば、はるばるの處をも、なづみつつ來めやも、不v疎思へばこそ、霞に立かくしたる處をも、なづみて來たりと云意と聞ゆる也』(童蒙抄)。また、『大方に思はばなづみいたづき來らめやといふ也。春霞より鬱とつづくは、霞みておぼろかなるより續けたり。此哥は雜歌のうちながら、相聞の意あるか、又したしき友を訪へる類ならんか』(考)といふ解釋があつて、いかにも穩當である。
 この歌は、赤人集に、『まきもくかひはらにたてるはるかすみ』(【西本願寺本】)、『卷向の檜原に立てる春霞晴れぬ思ひに若菜つまめや』(【流布本】)と載り、續古今雜上に、『霞をよめる、人丸』と題し、『卷向の檜原に立てる春がすみ晴れぬおもひはなぐさまるやは』として載つて居る。
 
          ○
(329)  〔卷十。一八一四〕
  古《いにしへ》の人《ひと》の植《う》ゑけむ杉《すぎ》が枝《え》に霞《かすみ》棚引《たなび》く春《はる》は來《き》ぬらし
  古 人之殖兼 杉枝 霞霏※[雨/微] 春者來良之
 
 この歌は、杉の大木《たいぼく》が立つてゐるのを稍遠いところから見てゐる趣の歌で、代匠記初稿本に云ふ如く、卷向山の杉林であらうか。その杉林は、歳月を經て高く繁つてゐるので、古の人の植ゑけむと云つたものである。その杉枝に霞が棚引くのは、もう春が來たらしいといふので、前の香具山の歌と趣が同じである。
 巧を弄しない、素直な歌であるが、『杉の枝』を見てゐるのは特殊で且つ具象的である。併しこれも有りの儘に杉の木立を見て作歌してゐるのが好いので、萬葉の歌の正道は實に其處にあるのである。それだから解釋に際しては、『古への人のうゑけむとは、只年經たるをいふのみ』(略解)だけでいいのである。『同じ春は來らめ共、人ふり行て過し代となれると、歎の意を含めて、過にしことを云はんとて杉を詠める也』(童蒙抄)といふのも穿ち過ぎて居り、『今按(フ)に、卷向山に、昔時人ありて、杉を殖生ししと云故事ありて、よめるなるべし』(古義)といふのも奈何とおもふ。これは故事に據つたといふよりも、かういふ懷古的の聯想は人間の自然の心理なのであるから、(330)故事に本づかなくともいいのである。次に新考では、『杉枝』は、『杉村』の誤寫だらうと考へて居る。そして、『もし天然林ならばたとひ年經たりともイニシヘノ人ノウヱケムとは云ふべからず。殖林のはやく神代より行はれし事は日本紀に見えたり』と注してゐる。杉は神代から植林したといふことが分かれば、杉は植林するものだといふことになるから、この歌の上の句も自然に理解の出來るわけである。なほ、杉に關係したものに次の如きがある。
   三諸《みもろ》の神の神杉《かむすぎ》巳具耳矣自得見監乍共いねぬ夜ぞ多き (卷二。一五六)
   何時《いつ》のまも神さびけるか香具山の鉾杉《ほこすぎ》が本に薛《こけ》むすまでに (卷三。二五九)
   味酒《うまざけ》を三輪《みわ》の祝《はふり》が忌《いは》ふ杉|手觸《たふ》りし罪か君に遇ひがたき (卷四。七一二)
   神南備《かむなび》の神依板《かみよりいた》に爲《す》る杉の念《おも》ひも過ぎず戀のしげきに (卷九。一七七三)
   いそのかみ布留《ふる》の神杉《かむすぎ》神《かむ》さびにし吾やさらさら戀に逢ひにける (卷十。一九二七)
   吾背子を大和へ遣りて松し立《た》す足柄山の杉の木の間か (卷十四。三三六三)
 かういふ種類だが、足柄山の歌をのぞいては杉の大森林ではなく、存外數の少い氣持である。今も神社などにある、あの程度のもののやうな氣がするから、この歌の杉の枝も、杉がさう廣々と廣がつてゐたのではない杉の森のやうに想像されるのである。
 この歌、赤人集【西本願寺本】に入り、『いにしへのひとのうへけむすきのはにかすみたなひくはるはき(331)にけり』(【流布本になし】)となつてゐる。又、家持集にも、『古の人の植えけむ杉の葉に霞たなびく春ぞ來ぬらし』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十。一八一五〕
  子等《こら》が手《て》を卷向山《まきむくやま》に春《はる》されば木《こ》の葉《は》凌《しぬ》ぎて霞《かすみ》たなびく
  子等我手乎 卷向山丹 春去者 木葉凌而 霞霏※[雨/微]
 
 この歌は、初句は枕詞で、『手を纏《ま》く・卷《まき》向山』と同音によつて續けたものである。今卷向山を見れば檜や杉などの木ずゑをも凌いで一面に霞が棚引いてゐる。もう春になつたからだといふのである。
 この歌で特徴は、『木の葉しぬぎて』といふ句にあるが、かういふ表はし方のものが萬葉に幾つかあるのである。『奧山の菅《すが》の葉|凌《しぬ》ぎ零《ふ》る雪の消なば惜しけむ雨な零《ふ》りそね』(卷三。二九九)。『奥山の眞木《まき》の葉|凌《しぬ》ぎ零《ふ》る雪の雫《ふ》りは益すとも地《つち》に落ちめやも』(卷六。一〇一〇)。『高山の菅の葉凌ぎ零《ふ》る雪の消《け》ぬとか言《い》はも戀の繁けく』(卷八。一六五五)などの例である。押し凌いで、壓《あつ》して、(332)押し分けてといふやうな意味がある。『いはせ野に秋萩凌ぎ馬竝めて始鷹獵《はつとかり》だに爲《せ》ずや別れむ』(卷十九。四二四九)。『をみなへし秋萩凌ぎさを鹿の露分け鳴かむ高圓の野ぞ』(卷二十。四二九七)の如きは、秋萩の間を分けつつなどといふぐらゐの意味をもつてゐる。これ等の用例のうち、『木の葉凌ぎて霞たなびく』の句はやはり何處か眞實のところがあつて好い。
 上の句の枕詞の使ひざまなどは人麿らしいところもあり、人麿が若し、卷向の穴師の里あたりにゐたとせば、かういふ樂《らく》な種類の歌を幾つか作つたと考へても差支は無いわけである。つまり全力を灑がない歌が幾つかあり得るだらうといふことになる。どんな優れた歌人でも一首一首盡く優秀といふわけには行かない。そこがまたおもしろいところなのである。併しこれも、人麿作といふ假定の上に云へることなので、或は人麿作で無いのかも知れないのである。この歌、袖中抄に載り、第二句、マキモクヤマ。第四句、コノハシノキテとあり、赤人集には、『としかみをまきもく山に春されはこのはるしきてかすみたなひく』(【西本願寺本】)、『子らが手を卷もく山に春くれば木の葉凌ぎて霞たなびく』(【流布本】)として載り、風雅集春上に人丸として(【第二句、まきもく山】)載つてゐる。
 
          ○
 
(333)  〔卷十。一八一六〕
  玉《たま》かざる夕《ゆふ》さり來《く》れば獵人《さつひと》の弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に霞《かすみ》たなびく
  玉蜻 夕去來者 佐豆人之 弓月我高荷 霞罪※[雨/微]
 
 ○玉蜻 タマカギルと訓む。舊訓カゲロフノと訓んでゐたのを、考でカギロヒノと訓んだ。そして古義は、この歌に於ては考に從つてゐるが、卷十一に至つてタマカギルといふ訓を出し、『可藝留《カギル》は、可藝呂比《カギロヒ》、可藝呂布《カギロフ》など云と同言にて、光耀《カガヤ》くことなり』(【枕詞解】)と言ひ、更に「玉蜻考」に於てこの説を完成した。それでこの雅澄の説に從つて、ここもタマカギルと訓むのである。この言葉に就いては、既に人麿の安騎野の長歌(卷一。四五)及び妻の死を悲しむ長歌(卷二。二〇七)の評釋(【評釋篇卷之上五〇九・七四六頁】)に於て述べて置いた。○佐豆人之・弓月我高荷 サツヒトノ・ユツキガタケニと訓む。獵人の弓月嶽にで、弓《ゆみ》と弓《ゆ》とで續けてゐるのである。『薩人は上にも注する獵人なり。よりて弓とはつづけたり』(代匠記初)。『さつ人は、もはら弓矢もて鳥獣を獵ゆゑ、さつ人の取(リ)持(ツ)弓束《ユツカ》といふ意に、弓槻《ユミツキ》といふ地に云かけたるなるべし。……ただに弓《ユ》といふにのみかかれるにはあらじ』(古義)等で大體分かる。そして此處の枕詞の係は、やはり、ユミ即ちユに續けたものである。このサツヒトノといふ使ひざまは萬葉集になほ多くあるかと思つたが、實際は一つしか無(334)いらしい。それから、獵人《さつひと》と讀ませるのも一つしか無いらしい。他の例は、『あしひきの山の獵夫《さつを》にあひにけるかも』(卷三。二六七)。『山のべにいゆく獵夫《さつを》は多かれど』(卷十。二一四七)等である。
 この歌は第一句で枕詞を用ゐ、また第三句で枕詞を用ゐて、ほかは單純に樂々と歌つてゐるものである。つまり中味内容の非常に少ない歌だが、これでも一首獨立してゐるのである。明治新派和歌の興つた當時、子規などもはじめは内容の複雜性を説いたのであつたが、漸次必ずしもさうは行かぬことを悟入したものである。
 この歌は袖中抄に、『カケロフノハルサリクレハ佐豆人《サツヒト》ノ弓月《ユツキ》カタケニカスミタナヒク』として載り、赤人集に、『かけろふのゆふさりくれはかりひとのゆめみえかたにかすみたなひく』(【西本願寺本】)、『ゆつきがたけに』(【流布本】)として載り、六帖に、『かげろふの夕さりくればさと人のつゆおきかたに霞たなびく』として載つてゐる。又夫木和歌抄には、『かげろふの』『さと人のゆつきのたけに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一八一七〕
  今朝《けさ》行《ゆ》きて明日《あす》は來《き》なむと云《い》ひ寢《ね》しに朝妻山《あさづまやま》に霞《かすみ》たなびく
(335)  今朝去而 明日者來牟等 云子鹿丹 旦妻山丹 霞霏※[雨/微]
 
 初句ケフユキテ。ケサユキテ。古來この二訓があつた。拾穗抄はケサユキテを採用した。第二句第三句は種々の訓があり、アスハコムトイフコカニ。アスハコムトイフシカスガニ。アスハキナムトイフコカニなどである。アスハキナムトイフ(代匠記精)。アスハコムチフ(古義)。『子鹿丹』の訓はまちまちで、シカスガニ(拾穗抄)。ハシキヤシ、サニヅラフ(古義)等の説もあるが、新考はアスハキナムト・イヒテユクと訓み、森本治吉氏はアスハキナムト・イヒネシニと訓んだ。即ち云子鹿丹《いひねしに》とその儘よんだのである。併しこれでは稍古調から遠いやうである。朝妻山は大和南葛城郡葛城村にある朝妻で、天武天皇紀に、幸2于朝嬬1云々とあるところである。そんなに高い山でないことが分かる。
 一首は、ただ朝妻山に霞たなびくといふだけの歌と看る方がいいとおもふ。つまりその上は序詞の形式となるのである。この上の句に意味が相當にあり、續きも相當にいいので古來單なる序詞とせずに解釋したが、ここは餘り意味を持たせずに解釋する方がよく、さすれば、『云ひ寢しに』と訓んだ、稍くだけたやうな調子も生き得るのである。併しそれでも若し第三句が、ハシキヤシとかサニヅラフとかに訓み得るなら、歌としてはその方がよくなるから、これまでの訓では、古義の訓に從つた歌が一番いい。ただ、今はなるべく文字を改めずに訓まうとしてしばらくこの(336)訓に從つたのである。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、上句『けさ行てあすはこしといふしかすかに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一八一八〕
  子等《こら》が名《な》に懸《か》けの宜《よろ》しき朝妻《あさづま》の片山《かたやま》ぎしに霞《かすみ》たなびく
  子等名丹 關之宜 朝妻之 片山木之爾 霞多奈引
 
 この歌も第三句以下が中味でその上は序詞的装飾である。愛する妻といふ語の入つてゐる、朝妻山といふので、關聯せしめるのに具合のいいといふ意味である。唱ふるさへ氣持よいといふ意味で、萬葉集にはその他にも用例が幾つかある。この一首を吟誦してゐると、いかにも朗らかに清潔な感じがするだらう。これが不思議なぐらゐなものだが、當時の作者は心もせいせいしながら、餘程氣乘して作つたものと見える。民謠的でもあるけれども、『久方のあめの香具山このゆふべ』などと共に、棄てがたい人麿歌集中の歌の一つである。そして其處に並んでゐる七首は大體(337)に於て皆同じ調子であり、ひよつとせば人麿の作かも知れない。眞淵はじめこれ等を人麿作としては認めないのは、餘り朗らかで樂《らく》だからであらう。それから、是等の歌に續く讀人不知の歌と著しい差別を見出し得ないといふ點もあるだらう。實際、その讀人不知の歌は民謠的だが大體に於てなかなか旨い。それだから、當時の人々はこれぐらゐの歌は作り得たと解してよく、いい時代であつたと考へねばならない。また人麿のみが力量あつて、皆代作をしてしまつたなどと結論してしまはれないところがあるとおもふのである。
 この歌は、赤人集【流布本】及び六帖に入り、第二句『つけのよろしき』となつてゐる。又夫木和歌抄に人丸作とし、やはり『つげの』と訓んでゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一八九〇〕
  春日野《かすがぬ》に友鶯《ともうぐひす》の鳴《な》き別《わか》れ歸《かへ》ります間《ま》も思《おも》はせ吾《われ》を
  春日野 友※[(貝+貝)/鳥] 鳴別 眷益間 思御吾
 
 『春相聞』の部の最初に出て居り、以下七首の後に『右柿本朝臣人麿歌集出』と注せられてゐる。(338)○友※[(貝+貝)/鳥] 流布本『犬※[(貝+貝)/鳥]』となつてゐるが、古寫本(類)に據つて訂した。舊訓イヌルウクヒス。そこで代匠記では、『犬ノ下ニ類留等ノ字落タルベシ』と云つた。また考ではナケルウグヒスと訓み、『今本哭を犬とするは畫の消しなり』とし、略解で犬は去の誤とし、宣長説の犬は友の誤といふのを記入した。古義は考に從つて略解の宣長説を否定したが、現在は類聚古集によつて、宣長説が確められるに至つた。○眷益間 舊訓カヘリマスホド。考カヘリマスマモ。『眷』をカヘルと訓む例は、卷三(二九四)に、海人釣船濱眷奴《アマノツリブネハマニカヘリヌ》があり、字類抄に眷【カヘリミル】があるから、眷顧の意からその音を借りたものである。○思御吾 舊訓オモヒマスワレ。代匠記初オモヒマセワレヲ。又はオホシメセワレヲ。代匠記精一訓(吾は君の誤で)オモヒマセキミ。考(御は樂の誤とし)オモヘラクワレ。略解オモホセワレヲ。古義オモホセアレヲ。
 一首の意は、春日野で友鶯が別れてゆくやうに、ただいまあなたがお歸りにならうとする、そのほんの僅かの時にもどうぞ私のことを思つてください。といふので、朝、男の歸りゆくとき女の歌つたやうな心持になつてゐる歌である。
 『歸ります間も思ほせ吾を』だけで上は序であるが、その序詞がなかなか意味を持たせてゐるのである。この邊の序詞を味ふと、皆相當に骨折り、技巧を凝らしてゐるのが多い。この傾向は後世の生氣なき技巧に移行するのであらうが、この邊のものは未だ清新で反感なしに攝取すること(339)が出來るもののみである。『友鶯の鳴き別れ』は稍繊巧の氣味があるが、この歌の近處にもこれくらゐのものは幾つもあるわけである。この『友鶯』の語は面白いとおもつたのであるが、懷風藻に釋智藏の、忽値2竹林風1、求v友※[(貝+貝)/鳥]※[女+焉]《ワラヒ》v樹、含v香花笑v叢といふのがあつた。 この歌は、赤人集【西本願寺本】に、『はるをあひきく。はる山にいるうくひすのあひわかれかへりますまのおもひするかも』(【流布本三句以下『あひぬれば歸る待つ間の思ひするかな』】として載つてゐる。又夫木和歌抄には人丸作とし、舊訓の通りで載せてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一八九一〕
  冬《ふゆ》ごもり春《はる》咲《さ》く花《はな》を手折《たを》り持《も》ち千遍《ちたび》の限《かぎり》戀《こ》ひわたるかも
  冬隱 春開花 手折以 千遍限 戀渡鴨
 
 おなじく、『春相聞』人麿歌集出の中に分類せられて載つてゐる。『手』が、古寫本中(矢・京)に『乎』になつて居るのがある。そこで、舊訓では、『手折以』を、『乎折以』の如くにして、ハナヲヲリモチテと訓んだが、古寫本中タヲリモテ(類・神)。タオリモテ(西・細)と訓んだのもあ(340)り、諸抄では、拾穩抄ハナヲタヲリモテ。代匠記、或はハナヲヲリモチテか。童蒙抄ハナヲタヲリモテ(考同訓)。略解ハナヲタヲリモチ(古義・新考等同訓)。『冬ごもり』は『春』にかかる枕詞で、時の經つ意味の分かるものである。卷一(一六)に、冬木成春去來者《フユゴモリハルサリクレバ》。卷七(一三三六)に、冬隱春乃大野乎燒人者《フユゴモリハルノオホヌヲヤクヒトハ》等の例がある。
 一首の意は、〔冬隱《ふゆごもり》〕春になつて斯く美しく咲いた花を手折り持つて、幾たびも幾たびも、戀しくおもうて居る。この美しい花に寄せてお前が戀しくてならない。といふ意で、恐らく相對歌で、女に示す心持があるものであらう。
 考に、『こは春の花を幾度も手折てはめづるものからに、そのごとく君をおもふといふなり』、といひ、略解に、『花の幾たびも飽かずめでらるる如く、君を戀ふると言ふなり』といふ、その花は普遍一般の春の花のやうに聞こえるが、この歌の場合は、眼前に咲いて居る花のことでなければならない。其處を、『冬ごもり春咲く花を』と一般的なやうにあらはしたから、解釋に動搖したのであるが、此處の花は定冠詞の附くべき特定の花のことで、萬葉にはかういふ表はし方もあつた。また、考や略解の解釋では序歌のやうにも聞こえるが、この歌はさうばかりでもない。次に、古義で、『咲花を折持て、或は女に見せたく思ひ、或は共に頭刺《カザ》したく思ひなどして、際(リ)しられず戀しく思ひて、月日を送る哉、となり。花に感て戀情を催すなり』とあるが、上半の解釋まで立入(341)らぬ方が好く、ただ、『花に感て戀情を催すなり』だけで好いとおもふ。次に、代匠記精に、『冬隱春開花トハ、待々テヨキ程ニナレル人ニ喩フ。手折以ハソレヲ云ヒ靡ケテ我手ニ入ルルニ喩フ。戀渡ルトハ、上ニモ注セシ如ク、飽ズ思フヲ戀渡ト云ナリ』とあるのも稍立入り過ぎておもしろくない。
 この歌は、分かり易く、何の不思議のない寧ろ平凡な歌であるが、『千遍《ちたび》の限り』といふいひ方に特色がある。卷四(五九五)に、吾命之將全幸限忘目八《ワガイノチノマタケムカギリワスレメヤ》。卷二十(四四四一)に、與能可藝里爾夜故非和多里奈無《ヨノカギリニヤコヒワタリナム》といふのがあり、なほ、卷十一(二三七一)に、心千遍雖念人不云吾戀※[女+麗]見依鴨《ココロニハチタビオモヘドヒトニイハズワガコヒヅマヲミムヨシモガモ》。卷十二(二九〇一)に、赤根指日之暮去者爲便乎無三千遁嘆而戀乍曾居《アカネサスヒノクレヌレバスベヲナミチタビナゲキテコヒツツゾヲル》がある。前者はやはり人麿歌集にあるものだが、『チタビノカギリ』といふ言方は、萬葉にもただ一例あるのみのやうである。
 この歌は、和歌童蒙抄第七に、『フユコモリハルヒサク花ヲタヲリモテイヘノカキリモコヒワタルカナ萬葉第十ニアリ』とある。イヘは誤寫であらうが、ハルヒサク花としたのは稍注意していい。夫木和歌抄には、人丸作とし、第四句『ちへのかぎりも』となつてゐる。
 
          ○
 
(342)  〔卷十・一八九二〕
  春山《はるやま》の霧《きり》に惑《まど》へるうぐひすも我《われ》にまさりて物《もの》思《おも》はめや
  春山 霧惑在 ※[(貝+貝)/鳥] 我益 物念哉
 
 やはり『春相聞』の歌である。○霧惑在 舊訓キリニマドヘル。代匠記精キリニワビタル。童蒙抄カスミヲワクル。考キリニマドヘル(略解・古義・新考同訓)。
 一首の意は、春山に立ちこめた霧に困迷してゐる鶯でさへ、我が戀に迷惑して苦しんでゐるよりは何程のことも無い。といふぐらゐの意であらうか。
 考に、『ここにいふ霧は即かすみなり。又きりと云にくもりあるなり』といひ、略解に、『古へ霧も霞も通はし言へり』と云つて大體解釋が附くのであるが、童蒙抄では其處に氣が附かず、『春の霧と云は、霞の棚引こめたる空は、霧の降たつによく似たるものから、義をもて書きたる共見ゆる也。霞と云もののあるに、霧をわざと詠むべき事にもあらねば、此義疑はしき也。霧にまどへると云詞より、霞をわくると云方聞よからんか』と云つた。代匠記には、朗詠の、『咽v霧山鶯啼尚少』を引き、童蒙抄も同じくそれを引いて、『霧霞深き山路をわけくる鶯も、戀路にまどふわれには及ばじと云意也』と云つてゐる。併し、キリはキルと同語で、既に評釋した人麿の、卷一(343)(二九)にある、春日之霧流《ハルヒノキレル》もさうであるし、卷五(八三九)に、波流能努爾紀利多知和多利布流由岐得《ハルノヌニキリタチワタリフルユキト》云々とあるのは、先づ春の霞と看做していいものである。また、卷二(八八)の、秋之田穗上爾霧相朝霞《アキノタノホノヘニキラフアサガスミ》は、キリであるがカスミと云つてゐる。
 この歌の、『春山の霧に惑へる鶯』といつた表現は非空非實のうちに、切實な響を傳へてゐて好く、一首が一の感情態で統一されてゐるところがある。樂につくつたやうに見えて、苦澁の痕をとどめないから、左程ともおもはずに看過しがちであるが、一たびは顧慮していい歌だとおもふ。似た情調の歌としては、『九月《ながつき》の時雨《しぐれ》の雨の山霧のいぶせき吾が胸誰を見ば息《や》まむ』(卷十。二二六三)。『秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆《なげき》しまさむ』(卷十五。三五八一)などがある。この歌を直ちに人麿作と斷定し得ず、他の萬葉歌人にもこれくらゐの聲調を出し得るものが幾らも居らうが、民謠風の境界まで行つてなほ個に即する點のあることを見免したくないのである。
 この歌は、六帖に霧の部に人丸作、『春山の霧にまがへる鶯も我にまさりてもの思ふらむや』として載り、又夫木和歌抄に人丸作として採られてゐる。
 
          ○
 
(344)  〔卷十・一八九三〕
  出《い》でて見《み》る向《むか》ひの岡《をか》に本《もと》繁《しげ》く咲《さ》きたる花《はな》の成《な》らずは止《や》まじ
  出見 向崗 本繁 開在花 不成不止
 
 ○向崗 ムカヒノヲカニと訓んだ。舊訓ムカヒノヲカノ。代匠記精(崗の下桃の字脱とし)ムカツヲノモモ。略解ムカヒノヲカニ。
 この歌は、ただ、『成らずはやまじ』といふのに主眼があるので、その上は序詞である。その序詞も比較的自然だし、本繁く咲きたる花のなども實物を看てゐて、心を暗指せしめてゐる點が特本繁く殊である。この結句は流石に強くて旨いとおもふ。人によつてはこれを序詞とせずに、ずうつと通つた意味の歌として解釋する向もあるかも知れない。
 先に引いたやうに、代匠記では第二句を、ムカツヲノモモと訓み、『今按、向崗ノ下ニ桃ノ字有テ、ムカツヲノモモニテ有ベキヲ、桃ヲ落セル歟。第七ニ向峯爾立有桃樹《ムカツヲニタテルモモノキ》云々。此レ傍證ナリ。向崗ヲムカツヲトヨム傍證ハ、同第七ニ向岡之若楓木《ムカツヲノワカカツラノキ》云々。腰句以下ハ第七ニ、ハシキヤシ吾家ノ毛桃本繁花ノミ開テ成ラザラメヤモ。第十一ニ、ヤマトノ室原《ムロフ》ノ毛桃本繁ワカキミ物ヲ成ラズハヤマジ。此等ヲ引合スルニ彌桃ノ字アルベキ事知ラレタリ。但古本ヨリ落タリケルニヤ』(代匠(345)記精)。また略解では、第四句をサキタルモモノと訓み、『さて花は桃の字の誤なり。卷七、はしきやし吾家《ワギヘ》の毛桃本繁み花のみさきてならざらめやも。卷十一。やまとの室原《ムロフ》の毛桃本繁みいひてしものをならずはやまじといへるに大かた同じと宣長云へり。濱臣云。在は毛の誤にて、サキタルケモモなるべしと言へり』(略解)。二つとも『桃』を聯想して居る點がおもしろい。
 此歌六帖に二三句『向ひの岡の本繁み』として載り、夫木和歌抄に人丸作、第二句『むかひの岡の』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一八九四〕
 
  霞《かすみ》立《た》つ春《はる》の永日《ながひ》を戀《こ》ひ暮《く》らし夜《よ》の深《ふ》け行《ゆ》きて妹《いも》に逢《あ》へるかも
  霞發 春永日 戀暮 夜深去 妹相鴨
 
 『春相聞』。○春永日 舊訓ハルノナガヒヲ(代匠記・新考同訓)。拾穗抄一訓ハルノナガキヒ(童蒙抄・考・略解同訓)。古義ナガキハルヒヲ。古寫本中、ハルノナガキヒ(類)。○夜深去 舊訓ヨノフケユケバ。童蒙抄ヨノフケユカバ。者ヨノフケユキテ(略解・古義・新考同訓)。考の訓は、代匠(346)記官本又云、ヨノフケユキテとあるのに據つたものであらう。○妹相鴨 舊訓イモニアヘルカモ(諸書從之)。童蒙抄イモニアハムカモ。
 一首の意は、〔霞發《かすみたつ》〕永い春の日をば、妹に戀ひて、やうやく暮れてもまだ逢ふことが出來ず、夜になつて、その夜も更けて、妹に逢ふことが出來た。ああ妹に逢つた。といふのである。
 『霞たつ』は枕詞でも、意味のある形容詞風の枕詞と考へていい。この歌の情調は、『此句今ノ點ノ意ハ、永キ日ヲ戀クラシテ猶夜ノ深行マデ戀テイネザリシカバ、其カヒ有テ妹ニアヘルカモトナリ』(代匠記精)といふのにあるに相違ないが、代匠記ではヨノフケユケバと訓んでかう解釋したので、若しヨノフケユキテと訓むとせば、『官本又點ノ意ハ、永日ヲ戀暮ラスダニアルヲ、夜サヘ深テト逢コトノハカナキヲ云ナリ』(代匠記精)となるのである。然るに考では、ヨノフケユキテと訓んで、『歌の意は、あふをうれしめるなり』(考)といふのであり、大體それで間違はないとおもふ。童蒙抄の訓は別な情調になつてしまふやうである。
 卷十一(二六一四或本)に、『眉根掻き誰をか見むと思ひつつ日長《けなが》く戀ひし妹に逢へるかも』とあるのも、やはり嬉しい滿足の氣特であり、卷七(一〇九二)に、『鳴る神の音のみ聞《き》きし卷向の檜原《ひはら》の山を今日見つるかも』といふのも同樣の心持であるから、この歌もそれに相違あるまい。ただこの歌には、さういふ伸々とした調べがあつて、結句の感動をば導くやうになつて居るところに(347)注意すべく、『を』、『し』、『て』あたりで、弛むやうにして弛まぬ微妙な點も作歌修練上必ず參考になるとおもふ。無論一首は樂《らく》な歌であるが、萬葉の歌は皆さういふ特色を持つて居て好い。
 この歌は、六帖には、『打來てあへる』の部に入り、第二句『ながき春日を』、第三句『夜の更け行けば』となつて居る。
 
          ○
 
  〔卷十・一八九五〕
 
  春《はる》されば先《ま》づ三枝《さきくさ》の幸《さき》くあらば後《のち》にも逢《あ》はむ莫《な》戀《こ》ひそ我妹《わぎも》
  春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹
 
 おなじく、『春相聞』の歌である。○三枝 サキクサノと訓む。舊訓サキクサノ。古寫本中サイクサノ(神)。童蒙抄サイグサノ。略解宣長説(先は花の誤)ハナサキクサノ。○幸命在 サキクアラバと訓む。舊訓サキクアラバ(【代匠記・略解・古義・新考・新訓等同訓】)。古寫本中サチアラバ(神)。イノチアラバ(細)。童蒙抄サキカラバ(考同訓)。○後相 ノチニモアハムと訓む。舊訓ノチモアヒミム。代匠記精ノチニモアハム(略解・古義・新考等)。童蒙抄ノチニゾアハム。考ノチモアヒナム。○莫戀吾味 舊(348)訓ナコヒソワギモコ。古寫本中ナコヒソワギモ(西・矢・京)。ナコヒソワガイモ(細)。コフナワガイモ(神)。代匠記初ナコヒソワギモ(童蒙抄以下同訓)。
 春になれば、『先づ咲く、さきくさの』で、これが序詞で、『さきく』以下に續けてゐるのである。サキクサは種々の説がある。山百合、三椏、蒼朮、靈芝、沈丁花、福壽草、三葉芹等である。或は、サキクサ(幸草)の感があればよいので、一種でないのかも知れず、また、特に 『幸草』と感じたとせば、外國渡來の草であつたかも知れない。さうすれば、沈丁花、三椏などであらうか。結句の、『な戀ひそ我妹』は、餘り歎くな、くよくよするなといふ意味に使つてゐるが、それに、『な戀ひそ』といふのが今から見れば珍らしいので、その點で注目に價するのである。一首は民謠的で、左程のものではない。『草枕旅に久しくなりぬれば汝《な》をこそ念《おも》へ莫《な》戀《こ》ひそ吾妹《わぎも》』(卷四。六二二)。『小墾田《をはりだ》の板田の橋の壞れなば桁《けた》より行かむな戀ひそ我妹』(卷十一。二六四四)などの例もあるから、普通さう云つたらしいが、はじめは誰かが用ゐて、具合がいいので普通の歌言葉になつたものとおもへる。
 この歌、六帖の『あつらふ』の處に人丸作として入り、『春來ればまづさき草の幸ありし後もあひ見む戀ふなわぎもこ』となつてゐる。
 
(349)          ○
 
  〔卷十・一八九六〕
  春《はる》さればしだり柳《やなぎ》のとををにも妹《いも》が心《こころ》に乘《の》りにけるかも
  春去 爲垂柳 十緒 妹心 乘在鴨
 
 ○爲垂柳 舊訓シダリヤナギノ。古義シダルヤナギノ。○十緒 舊訓トヲヲニモであるが、古寫本中トヲヲナル(類・元)と訓んだのがある。○乘在鴨 舊訓ノリニケルカモ。古寫本中、ノリニタルカモ(類・元)といふのもある。代匠記初ノリニタルカモ(童蒙抄同訓)。考・略解・古義ノリニケルカモ。古義でシダルヤナギと訓んで、『春になれば、しだるる柳のと云意なり』と云つたが、和名鈔に、兼名苑云、〓【力久反、】一名小楊、【之太利夜奈岐】とあつて、シダリヤナギといふ名詞が既に出來て居るのだから、さう訓んでいいとおもふ。
 一首は、春になれば茂つてし垂《だ》れる、しだり柳のやうに靡き撓《しな》ひて、私の心のうへに戀しい妹《いも》が乘つてしまつて居る。私の心に妹が乘つて離れない。妹のことで一ぱいであるといふのである。
 この、『乘る』といふ如き表現について、『吾心のなよなよと妹が心にのりしのぶにたとふなり』(考)といふのは不穩當で、『妹ガ心ニノルとは、妹ガ此方ノ心ニ乘ルとなり』(新考)といふのであ(350)る。新考のこの解は、『妹が事の常に我心の上に在るを言へり』(略解)と同じである。語を轉倒すれば、『ワガ心ノウヘニ、妹ガ乘ル』といふことになるのである。卷二(一〇〇)に、東人之荷向〓乃荷之緒爾毛妹情爾乘爾家留香問《アヅマヒトノノザキノハコノニノヲニモイモガココロニノリニケルカモ》。卷十一(二四二七)に、是川瀬瀬敷浪布布妹心乘在鴨《ウヂガハノセセノシキナミシクシクニイモガココロニノリニケルカモ》。同卷(二七四八)に、大舟爾葦荷刈積四美見似裳妹心爾乘來鴨《オホフネニアシニカリツミシミミニモイモガココロニノリニケルカモ》。同卷(二七四九)に、驛路爾引舟渡直乘爾妹情爾乘來鴨《ウマヤヂニヒキフネワタシタダノリニイモガココロニノリニケルカモ》。卷十二(三一七四)に、射去爲海部之※[楫+戈]音湯鞍干妹心乘來鴨《イザリスルアマノカヂノトユクラカニイモガココロニノリニケルカモ》などの例がある。
 元來、ココロニノルといふ表現は、卷十四(三五一七)に、思良久毛能多要爾之伊毛乎阿是西呂等許己呂爾能里氏許己婆可那之家《シラクモノタエニシイモヲアゼセロトココロニノリテココバカナシケ》。卷四(六九一)に、百磯城之大宮人者雖多有情爾乘而所念妹《モモシキノオホミヤビトハオホカレドココロニノリテオモホユルイモ》とある如く、『妹ガ吾ガ心ノウヘニ乘ル』やうに使つて居る。この、『ココロニノル』といふ語の表現は、最初は東歌あたりの實際から來て、馬に乘るの乘ると同じところから來たものであらうが、氣の利いた言方なので、かくの如くに數例があり、稍諧謔を交へた機智的分子をも交ふるに至つたのであるが、當時の人々はかういふ言方についても興味を持ち、共鳴し理會し得たことはおもしろいことである。此歌、六帖に入り、『春くればしだり柳のとををにも妹が心によりにけるかも』とある。
  參考。佐伯梅友氏の「萬葉集の助詞二種」(國語國文の研究第二十二號)に、『かも』で文の終る場合に(351)守護が『…が』の形となることは萬葉集中に例證がないから、『イモガココロニノリニケルカモ』は誤で『イモハ』と訓むべきであると論じてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一九九六〕
  天漢《あまのがは》水底《みなそこ》さへに照《て》らす舟《ふね》竟《は》てし舟人《ふなびと》妹《いも》と見《み》えきや
  天漢 水〔底〕左閉而 照舟 竟舟人 妹等所見寸哉
 
 『秋雜歌』、『七夕』の部の始めを占める、『右柿本朝臣人麿歌集出』と左注せられた三十八首の第一首である。○水左閉而照舟竟舟人 舊訓ミヅサヘニテル・フナワタリ・フネコグヒトニ。代匠記精ミナソコサヘニ・テラスフネ・ハツルフナビト。童蒙抄ミヅサヘナガラ・テラセルニ・ワタルフナビト。又ミヅサヘニテル・フナヨソヒ・カヂトルヒトモ。又ミヅサヘシカモ・テルフネヲ・コグフナビトヲ。考ミヅサヘニテル・フナヨソヒ・フネコグヒトノ。略解ミナソコサヘニ・テルフネノ・ハテテフナビト。古義ミナソコサヘニ・ヒカルフネ・ハテシフナビト。新考ミナゾコサヘニ・テラスフネ・ハテシフナビト(全釋同訓)。新訓ミヅサヘテテル・フナギホヒ・フネコ(352)グヒトハ。○妹等所見寸哉 舊訓イモトミエズヤ。代匠記初イモトミエキヤ。代匠記精(【上を舊訓に從へば】)イモラミエキヤ。
 少しく文獻を引用するに、『但赤人集ニ天河水底マデニ照ス舟ツ|ヰ《イヒ》ニ舟人妹ト見エス|ソ《イヤ》トアレバ、今ノ本、水ノ下ニ底ノ字ヲ落セルカ。然ラバミナソコサヘニ・テラスフネ・ハツルフナビトト讀テ、落句ハ妹ト相見エキヤト意得ベキ歟』(代匠記精)。『今本章を竟としてふなわたりと訓たれど、意とほらず字を誤る。よりて考るに、船竟二字は艤の一字にて、ふなよそひかとおもへれど、字のちかければ暫章としてよそひと訓む。一本竟を競に作りてきそひとよめり、されど水左閉而照《ミヅサヘニテル》といへばよそひの方つづきてきこゆ』(考)。『古本、水の下底の字有り。然れば二三四の句、ミナソコサヘニ、テルフネノ、ハテテフナビトと訓むべし』(略解)。『照舟は、ヒカルフネと訓べし。艤《ヨソヒ》の美麗《ウルハシ》きをいへり』(古義)。『竟は温故堂本に競に作つてゐるので、新訓には上につづけて、フナギホヒと訓んでゐるが、他本は皆竟とあるのだから、竟としてよむ方がよいやうに思ふ。竟は竟而佐守布《ハテテサモラフ》(一一七一)。年者竟杼《トシハハツレド》(二四一〇)など、ハツとよむべき文字である。ハテシフナビトは對岸へ到着した舟人、即ち牽牛星のことである』(全釋)。右の諸説のうち、大體に於て全釋の綜合説に從ふことにした。
 一首の意は、『天の川の水の底までも照らす程の美しい舟に乘つて、對岸に著いた牽牛星といふ(353)舟人は、妻の織女星と今夜一年ぶりで逢つたであらうか。どうであらう』(全釋)。
 諸説があつても、大體右の解釋で無理がさう無いやうである。そしてこの解釋の根源は代匠記まで溯ることが出來る。一首は七夕傳説の牽牛・織女をば現身世界の戀愛のやうに見立てて歌つてゐるところに妙味があり、結句の、『妹と見《み》えきや』、即ち、『妹と相見《あひまみ》えきや』と云つてゐるところに妙味があるのである。ただ、この如き用例は萬葉に他にあるかどうか未だ知らない。相見ム、相見シ、相見ツル等はあるが、相見ユの例はどうであらうか。卷十一(二八〇一)に、見卷欲乎不所見公可聞《ミマクホシキヲミエヌキミカモ》。卷十二(二九五八)に、夢谷不止見與《イメニダニヤマズミエコソ》等があり、卷五(八九一)に、一世爾波二遍美延農知知波波袁《ヒトヨニハフタタビミエヌチチハハヲ》とあるのでも、二人が相見ることには使つてゐない。
 七夕の歌の中に、『さ丹塗の小船もがも玉纏の眞櫂《まかい》もがも』(卷八。一五二〇)。『上つ瀬に珠橋渡し下つ瀬に船浮けすゑ』(卷九。一七六四)。『そほ船の艫にも舳にも船艤《ふなよそ》ひ眞楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き』(卷十。二〇八九)などの句があり、懷風藻の山田史三方の七夕一首には、金漢星楡冷、銀河月桂秋、靈姿理2雲〓1、仙駕度2横流1、窃窕鳴2衣玉1、玲瓏映2彩舟1、所v悲明日夜、誰慰2別離憂1といふ五言詩がある。
 此歌赤人集【西本願寺本】に、『あきのさふのうた。あまのかはみなそこまてにてらすふねつひにふなひといもとみえすや』(【流布本結句『妹とみえつや』】)とある。
 
(354)          ○
 
  〔卷十・一九九七〕
  ひさかたの天漢原《あまのかはら》に鵺鳥《ぬえどり》のうら歎《な・なげ》きましつ羨《とも》しきまでに
  久方之 天漢原丹 奴延鳥之 裏歎座津 乏諸手丹
 
 同題。○奴延鳥 和名鈔に※[空+鳥]【音空、漢語抄云、沼江】。新撰字鏡に鵺、※[易+鳥]奴江で、即ち虎鶫《とらつぐみ》である。この鳥の夜聲は痛切で心の中で泣く如くに聞こえるので枕詞にした。『かれが聲のかなしくうらめしげなるを、人の哭泣《ヲラビナク》に譬ておけり』(冠辭考)。卷一(五)に、奴要子鳥卜《ヌエコドリ》歎《ナキ・ナゲキ》居者《ヲレバ》。卷十(二〇三一)に、奴延鳥浦《ヌエトリノウラ》嘆《ナキ・ナゲキ》居《ヲリト》。卷十七(三九七八)に、奴要鳥能宇良奈氣之都追《ヌエドリノウラナケシツツ》等の例がある。○裏歎座津 舊訓ウラナキマシツ。古寫本にはウラナゲキシツ(元・類・神)といふ訓もあり、神田本の書入にウラナケマシツ或本とある。代匠記でウラナゲマシツと訓んだ。童蒙抄ウラナキヲリツ。さて、若しナゲを動詞の連用言とせばどういふ活用であるか不明であり、ナゲクといふ加行四段の動詞とせば、ナゲは語幹であるか、さうすれば語幹から直ぐマスといふ動詞には續かない。ナゲは或は名詞か、卷十七の宇良奈氣《ウラナケ》は名詞として左行變格の爲《ス》といふ動詞に續けてゐる。併しナゲといふ名詞から(355)直ぐマスといふ動詞に續け得るか疑問である。そこで、差向き舊訓の如くウラナキマシツと訓むこととした。古事記の、阿袁夜麻邇奴延波那伎《アヲヤマニヌエハナキ》が好參考例となり、從つて他の用例も、ウラナゲでなく、ウラナキと訓むのである。ただ萬葉ではナクの場合には哭又は泣の文字を使つて居り、嗟・歎・嘆はナゲクと訓ませてゐるし、紀・新撰字鏡・伊呂波字類抄等でもさうであるから、さうすればウラナゲキマシツと字餘りに訓んでもよい。井上博士の新考ではさう訓んで居る(新考二〇二一頁)。卷一の卜歎を玉の小琴ウラナケ。略解ウラナケ。燈ウラナゲであるが、新考ではそれに賛成してゐない。○乏諸手丹 舊訓の如くトモシキマデニと訓む。トモシは、羨し、珍らし、稀なり、愛すべしなどの意のあること既に評釋したごとくであるが、此處も、羨《うらやま》しい程にといふ意から、身につまされる程といふのに落著くところである。即ち羨む心理は、切に心を投入して起るのであるから、互に相通ずる點があると見える。用例を參考すれば、『妹があたり茂き雁がね夕霧に來鳴きて過ぎぬ羨《とも》しきまでに』(卷九。一七〇二)があり、既に評釋した。
 先進の説を此處に書くと、『落句ハ、メヅラシキマデニナリ。織女ノ歎クヲメヅラシト云ハムハ本意ナラヌヤウナレド、佳人モ痛クヱミサカニテホコリカナルヨリハ、少シウラブレタル樣ナルニ艶ナル所ハ添ヒヌベシ。マデニト云詞ハ、乏シト云ヒハツルニアラヌ意ナリ』(代匠記精)。『此歌にては寂しき意也』(童蒙抄)。『外《ヨソ》に居て見やる人の、うらやましく思はるるまでに、天(ノ)河原に出(356)立て、彦星の來まさむを、心に喜《ウレ》しく下待て、棚機女の裏《シノビ》に歎美《ナゲキ》座つるよ、と云ならむか』(古義)。
 一首の意は、大體右で分かるが、なほ試にいふならば、天上の天の河原では、織女が、牽牛の來るのを待わびて、鵺鳥の聲のやうに切に、歎《なげ》かれた、よそ目にも身につまされるほどに。である。
 新考で、カナシキマデニと訓み、乏は哀などの誤寫としたのには從ひがたいが、心には私解と相通ずるものがある。また、トモシは、代匠記で織女の容子を客看したやうに解釋したが、さうすれば、『心なき雨にもあるか人目|守《も》り乏しき妹に今日だに逢はむを』(卷十二。三一二二)などの意になるが、此處はもつと身に即した主觀的な句であらう。即ち、『夕月夜《ゆふづくよ》影立ち寄りあひ天の河こぐ舟人を見るがともしさ』(卷十五。三六五八)といふのもあるのだから、やはり、ウラヤマシといふ意から導かれて、ミニツマサレル、ミニシムぐらゐの意味があるのではなからうか。
 此歌、袖中抄に、『ヒサカタノアマノカワラニヌエトリノウラナケキツヽトモシキマテニ』。赤人集【西本願寺本】に、『ひさかたのあまのかはらにぬるとりのうらひをりつくるしきまてに』(【流布本第四句『うらびれをりつ』】)として載つてゐる。
 
          ○
 
(357)  〔卷十・一九九八〕
  吾《わ》が戀《こひ》を夫《つま》は知《し》れるを行《ゆ》く船《ふね》の過《す》ぎて來《く》べしや言《こと》も告《つ》げなむ
  吾戀 嬬者知遠 往船乃 過而應來哉 事毛告火
 
 ○吾戀 舊訓ワガコヒヲであるが、古寫本にワガコフル(元・神)とあり、略解でもワガコフルと訓んだ。併し此は舊訓の儘が好い。○嬬者知遠 舊訓イモハシレルヲ。代匠記精ツマハシレルヲ。略解、知は弥の誤、ツマハイヤトホク。この略解の訓は、古寫本に『弥イ本』(京)とあり、ツマハイヤトホ(ヲ)などと訓んだのがある(元・神)のに據つたのであらう。○過而應來哉 スギテクベシヤと訓み、過ぎて行くべしやの意である。この行《ユク》・來《ク》は同じ場合に使つて居り、文字もまた今とは違つて行と歸を混合して使つてゐる。卷一(七〇)に、倭爾者鳴而歟來良武呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流《ヤマトニハナキテカクラムヨブコドリキサノナカヤマヨビゾコユナル》は啼いて行く意であり、卷四(五七一)に、率此間行毛不去毛遊而將歸《イザココニユクモユカヌモアソビテユカム》とある、歸は行の意味である。○事毛告火 舊訓コトモツゲラヒ(代匠記同訓)。童蒙抄、火は哭の誤、コトモツゲナク(略解・古義同訓)。考コトモノラナク。略解補正コトモツケナム。この補正の著者が訓義辨證にそれを論じ、『按に、火は南の意に借たるにて、ツゲナムと訓べきなり』と云つて居る。この訓は、卷十三(三二九八)に、縦惠八師二二火四吾妹《ヨシヱヤシシナムヨワギモ》とある、『火』を舊訓既にナムと訓み、(358)代匠記に、『火ハ五行ヲ以テ五方ニ配スル時、南方ハ火ナル故ニ、火ヲ南ノ字ノ音ニナシテカレル歟』と説明して居るのに據つたものである。
 一首の意は、織女の心持で咏んだ歌である。私の戀をば牽牛が知つておいでである筈なのに、彼方を漕いで行く船が、私に言傳もなく、行過ぎてしまふのでせうか。といふのである。
 それゆゑ、『嬬』は、『夫』の借字であるべく、ベシヤは強くなじるやうな語氣を持つてゐて、反語になつてゐる。卷一(一七)に、情無雲乃隱障倍之也《ココロナククモノカクサフベシヤ》と同じである。『ことも告げなむ』は、言《こと》だにも告げるであらうのにの意になるだらう。
 此歌は、赤人集【西本願寺本】に、『わかこふるいもはゝるかにゆくふねのすきてくへしやともつけなむ』(【流布本結句『言もつげなく』】)とある。
 
          ○
 
  〔卷十・一九九九〕
 朱《あか》らひく色妙《しきたへ》の子《こ》を屡《しば》見《み》れば人妻《ひとづま》ゆゑに吾《われ》戀《こ》ひぬべし
  朱羅引 色妙子 數見者 人妻故 吾可戀奴
 
(359) ○朱羅引 舊訓アカラヒク。普通|赤羅引《アカラヒク》日《ヒ》、朱引《アカラヒク》朝《アサ》等の如き枕詞として用ゐるが、此處は子《コ》に係らせた。また、膚《ハダ》に係らせた用法もあるのも同じやうな氣持である。アカラヒクはアカリヒクだといふ冠辭考の説に從ふと、日・朝に係るのは直ちに理會出來るが、その光の差す如くに美しいといふ意味で膚や子に冠らせたものであらう。○色妙子 シキタヘノコヲと訓む。古寫本中にはイロタヘノコノと訓んだのが多い。また、童蒙抄ウツクシキ又ウルハシキ又マグハシキ。敷妙《シキタヘ》は細布の意で、此處は、『女のうつくしく和《ナゴ》やかなるに譬へたる語なり』(冠辭考)とある如くである。○數見者 舊訓シバミレバ。古寫本中カズミレバ(元・類・神)の訓もある。屡《シバシバ》見ればといふ意で、數鳴《シバナク》のシバと同じ用ゐ樣である。○人妻故 ヒトヅマユヱニと訓む。人妻に因《よ》つての意。人妻が由縁になつて戀しくなる意のユヱニである。即ち、『人妻に縁《よ》つて』、『人妻に對して』、『人妻をば』といふのに落著くので、ここの『ゆゑに』は戀心の起る因縁を『人妻』といふ名詞に歸著せしめて居る用法である。『紫草《むらきき》のにほへる妹を憎くあらば人嬬ゆゑに吾戀ひめやも』(卷一。二一)。『うち日さす宮道《みやぢ》に逢ひし人妻|故《ゆゑ》に玉の緒の念ひ亂れて寢る夜しぞ多き』(卷十一。二三六五)。『小竹《しぬ》の上に來居《きゐ》て鳴く鳥目を安み人妻ゆゑに吾戀ひにけり』(卷十二。三〇九三)などの例がある。『なるにも係らず』の底意は、『人妻』といふのに關聯してはじめて可能なので、『ゆゑに』それ自身にその底意があるのではない。
(360) 一首の意は、この容麗しい女をば屡《しばしば》見て居れば人妻に對してでも私は戀しくおもふやうになるだらう。といふのである。
 この歌は七夕の歌としては尋常でないが、赤羅ひく色妙《しきたへ》の子《こ》をば織女と見たてて、作者が第三者の氣特になつて咏んだものとせば腑に落ちないこともない歌である。代匠記精に、『紅顔ノ匂《ニホ》フ色ノ妙ナル子ト織女ヲ云ナリ。【中略】杜牧ガ詩ニ、臥見牽牛織女星ト作ルガ如シ。織女ハ牽牛ノ妻ニテ我思ヒ懸ベキニアラヌ物故ニ、シバシバ見レバ戀ヌベシトナリ』とあるによつてその大概を知ることが出來る。右の如く七夕の歌であるが、現實の美しい女に對して居るやうな、身に即して居る點を注意すべきである。
 此歌、六帖に載り、第二三句『いろたへのこの數見れば』になつてゐる。また、赤人集【西本願寺本】には、『おほそらにたなひくあやめかすみれはひとのつまゆゑいもにあひぬへし』となつてゐる。同流布本は、本文の訓と同樣である。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇〇〕
  天漢《あまのがは》安《やす》の渡《わたり》に船《ふね》浮《う》けて秋《あき》立《た》つ待《ま》つと妹《いも》に告《つ》げこそ
(361)  天漢 安渡 船浮而 秋立待等 妹告與具〔其〕
 
 ○秋立待等 舊訓アキタチマツト。眞淵アキマツト(【新考・新訓同訓】)。略解宣長訓、『宣長云、秋は我の誤なり。ワガタチマツトなりと言へるぞ善き』。今、眞淵訓に從つた。秋の立つのを待つてゐるとといふ意である。○妹告與具 舊訓イモニツゲヨク。代匠記それに從つて、『好ク妹ニ告ヨトナルベシ』といつた。童蒙抄では、與は眞の誤でイモニノラマクとした。考では與具を乞《コソ》の誤とした。略解では、『與具は乞其の誤なるべし。告コソは告ゲヨカシと願ふ詞なり。卷十三、眞福在與具《マサキクアレコソ》と有るも、在乞其の誤なる事しるければ、共に誤れるなり』と云つた。併し、古義では、與具を必ずしも誤としがたいと注意した。新考では與其は與具の誤だとし、與だけでコソと訓めるが、それに其《ソ》を添へたことを注意した。卷六(九九五)に、如是爲乍遊飲與草木尚春者生管秋者落去《カクシツツアゾビノミコソクサキスラハルハサキッツアキハチリユク》。卷七(一二四八)に、奧藻花開在我告與《オキツモノハナサキタラバワレニツゲコソ》。卷十(一九六五)に、思子之衣將摺爾爾保比與《オモフコガコロモスラムニニホヒコソ》等がある。また、其をソと訓む例は、卷一(五〇)に、浮倍流禮其乎取登散和久御民毛《ウカベナガセレソヲトルトサワグミタミモ》。卷十三(三二五五)に、處女等之心乎胡粉其將知因之無者《ヲトメラガココロヲシラニソヲシラムヨシノナケレバ》等がある。この例は怪しむに足りないが、卷四(七〇六)に、何妹其幾許戀多類《イカナルイモゾココタコヒタル》。卷十一(二六一八)に、直道柄吾雖來夜其深去來《タダヂカラワレハキツレドヨゾフケニケル》とあるなどは、其をゾと訓ませてゐる。なほ、『與具』は、與v具であるから、願望の意に借りてコソと訓ませたのかとも思つて、支那の熟語を見たが見つからなかつた。
(362) 一首の意は、天の河の安《やす》の渡《わたり》に船を浮べて、秋の來るのを待つて居る、七夕には逢ふことが出來ると待ちこがれて居ると、妹に告げて呉れよ。といふ意で、牽牛のつもりになつて歌つて居るのである。
 歌は普通のもので、さう取りたてて云々すべき程のものではない。代匠記精に、『安渡モ天河ノ名ナリ。神代紀云。于v時八十萬(ノ)神《カムタチ》會合2於天(ノ)安(ノ)河邊《カハラニ》1、計2其可v祷之方1』云々。考に、『古事記に天安川原とあるは、都の地名なり。かく云は古事記の考にくはしく云。此歌にて安渡といふは、天漢銀河の事なり。それを彼地名の安川原にとりなしてよめるなり』ともある。神々の神集したところは天の安川原であるから、棚機のことにも天の河原だから移して安の河と云つたものであらうか。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『あまのかはやすのかはらにふねうけて秋|に《を(流布本)》まつとはいもにつけよとて』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇一〕
 
  蒼天《おほぞら》ゆ通《かよ》ふ吾《われ》すら汝《な》がゆゑに天漢路《あまのかはぢ》をなづみてぞ來《こ》し
(363)  從蒼天 往來吾等須良 汝故 天漢道 名積而叙來
 
 ○從蒼天 舊訓オホゾラニであつたのを、代匠記精でオホゾラユと訓んだ。○汝故 舊訓ナレユヱニ。略解ナガユヱニ。○天漢道 舊訓アマノカハヂヲ。卷十四(三四〇五)に、可美都氣乃《カミツケノヲ》乎度能多杼里我可波治爾毛兒良波安波奈毛《ドノタドリガカハヂニモコラハアハナモ》とあるから、カハヂと訓んでいい。古寫本にはアマノカハラヲと訓んだのがある(元・神)。○名積而叙來 舊訓ナヅミテゾクル。考ナヅミテゾコシ。
 一首の意は、天空を飛行自在に出來る吾であるが、お前を戀しくおもうて、天の河の河原路を難儀しながら來たのだ。といふぐらゐの意で、牽牛の心持になつて咏んで居る。
 『空天を通ふ通力自在の身なれ共、戀路には悩み嫌ふもの故、天の河路に今夜汝に逢はんとてなづみこしと也』(童蒙抄)。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『そらよりもかよふわれすらたれゆゑにあまのかはみちなけきてそくる』(【流布本第三句『汝ゆゑに』、四五句『川路をなづみてぞくる』】)として載り、六帖には、『おほそらをかよふ我すらなにゆゑに天の河原をなつみてぞ來る』になつてゐる。
 
          ○
 
(364)  〔卷十・二〇〇二〕
  八千曳《やちほこ》の神《かみ》の御世《みよ》より乏《とも》し※[女+麗]《づま》人《ひと》知《し》りにけり繼《つ》ぎてし思《おも》へば
  八千曳 神自御世 乏※[女+麗] 人知爾來 告思者
 
 ○八千曳神 ヤチホコノカミで、大穴牟遲神《オホナムチノカミ》(大己貴命)の御事で、三輪の大神である。古事記上卷に、天之冬衣神、此神娶2刺國大神之女、名刺國若比賣1、生子大國主神、亦名謂2大穴牟遲神1、亦名謂2葦原色許男神1、亦名謂2八千矛神1、亦名謂2于都志國玉神1、并有2五名1云々。この神と少彦名神で國を堅め給うたことがあるから、神世の遠い古へからといふためにかう云つたものである。卷六(一〇六五)に、八千鉾之神乃御世自百船之泊停跡《ヤチホコノカミノミヨヨリモモフネノハツルトマリト》云々とあるのも同樣の表現である。○乏※[女+麗] トモシヅマで、愛すべき、珍らしき妻即ち織女のことをいふのである。このトモシと同じ語感の例は、既に前出であるが、なほ云はば、卷二(一六二)に、鹽氣能味香乎禮流國爾味凝文爾乏寸高照日之御子《シホケノミカヲレルクニニウマゴリアヤニトモシキタカテラスヒノミコ》。卷九(一七二四)に、欲見來之久毛知久吉野川音清左見二友敷《ミマクホリコシクモシルクヨシヌガハオトノサヤケサミルニトモシク》。卷十四(三五二三)に、爲流多豆及等毛思吉伎美波安須左倍母我毛《ヰルタヅノトモシキキミハアスサヘモガモ》。卷二十(四三六〇)に、夜麻美禮婆見能等母之久可波美禮婆見乃佐夜氣久《ヤマミレバミノトモシクカハミレバミノサヤケク》とあるたぐひである。童蒙抄に、『珍しきつめ戀わびる妻と云ふ義也。乏しきものは少く珍しき意をもて、ともし妻共云へる也。※[女+麗]、一本に孃とあり。然るべし。(365)又一本〓に作る心得難し。孃は少女の通稱也』といひ、略解に、『トモシヅマはたまたま逢ひて珍しみ思ふ意。【中略】※[女+麗]は文選左太沖詩に、〓〓不安宅、張銑が誄に〓〓謂v妻と有り、〓、※[女+麗]同韻にて、古へ通じ用ひしならんと、濱臣は言へり』。○告思者 ツギテシオモヘバと訓み、繼《つ》ぎてし思へばの意である。代匠記で、『落句ハ、ツゲテシモヘバト讀ベシ。シハ助語ナリ。或ハツゲテオモヘバトモ讀ベシ』といひ、考は、ネモゴロモヘバと訓み、『告は苦の誤しるかれば字も訓も改む』と云つたが、略解で、『告ギは借れるにて、意は繼ぎなり。卷三、長歌、語告|言繼將往《イヒツギユカム》も、カタリツギと訓むべければ、ここもツギと訓めり』と云つた。
 一首の意は、八千戈神《やちほこのかみ》(大己貴神)の遠い昔の御世から、絶えず戀し續けてゐるものだから、いとしい私の妻との事は、もう皆人が知つてしまつた。といふのである。
 牽牛と織女の戀は既に周知のことだといふことを眼目にして、内證の秘めた妻も、あらはれたといふことと關聯せしめたものである。『色に出《で》て人知りぬべみ』とか、『人に知らゆな』などといふのは秘め妻に對する心理でもあるが、また、卷十四(三四一四)の、多都弩自能安良波路萬代母佐禰乎佐禰※[氏/一]婆《タツヌジノアラハロマデモサネヲサネチバ》といふアラハルといふのも自然的心理である。そこで、『人知りにけり』といふ句も腑に落つるのであつて、萬葉の類似の歌をいふならば、『路のべの壹師《いちし》の花の灼然《いちじろ》く人皆知りぬ我が戀妻は』(卷十二。二四八〇)はやはり人麿歌集のもので、下《しも》の句《く》につき、『或本の歌に云。(366)いちじろく人知りにけり繼ぎてし念へば』といふ注があるから、混入か或は同じ作者だとせば、同一手法の歸結であらう。なほ、『山河の瀧に益《まさ》れる戀すとぞ人知りにける間無《まな》く念《おも》へば』(卷十二。三〇一六)といふのがある。
 このあたりは、七夕に關聯したものを集めてゐるが、取りわけ優れてゐるといふわけではない。ただ、調べに緊嚴なところのあるのを見棄てがたいのである。また、支那傳來の話を日本流に混合せしめて歌つてゐるのがおもしろい點でもある。
 此歌、和歌童蒙抄第二に、『ヤチトセノカミノミヨヽリトモシツマヒトシリニケリツケテシヲモヘハ』同第六に、『ヤチホコノカミノミヨヽリトモシヘノヒトシリニケリツキテヲモヘハ』とあり、赤人集【西本願寺本】に、『やちをしのかみのみよゝりいもゝなきひとゝしらせしきたりつけゝむ』としてある。同流布本には、『八千矛の神の御代より乏し妻人知りにけり告げし思へば』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇三〕
  吾《わ》が戀《こ》ふる丹《に》のほの面《おもわ》今夕《こよひ》もか天漢原《あまのかはら》に石枕《いはまくら》纏《ま》く
  吾等戀 丹穗面 今夕母可 天漢原 石枕卷
 
(367) ○吾等戀 舊訓ワガコフル。童蒙抄ワレコフル。○丹穗面 古寫本にニホヘルイモハ(元・神)と訓んだのもある。仙覺抄に古點ニホヘルイモハ。新點ニノホノオモハとあるから、流布本舊訓ニノホノオモハは仙覺訓である。代匠記初ニノホノオモワ(【略解・古義同訓】)。考ニノホノオモト。○今夕母可 舊訓コヨヒモカモ。代匠記精コヨヒモカ。○石枕卷 舊訓イソマクラマク。代匠記精イハマクラマク。考イハマクラカム。古義イソマクラマカム。
 一首の意は、自分の戀しくおもふあの織女の美しくにほふ顔が、今夜こそ天の河原に石を枕にして、自分と寢るのである。といふので、これは牽牛のつもりになつて咏んで居る。『丹のほの面《おもわ》』は、面《おもわ》よといつて顔のことを云つてゐるが、これは織女を指すことは無論である。卷五(八〇四)に、爾能保奈酒意母提乃宇倍爾伊豆久由可斯和何伎多利斯《ニノホナスオモテノウヘニイヅクユカシワカキタリシ》。卷十三(三二六六)に、秋付者丹之穩爾黄色《アキヅケバニノホニモミヅ》といふ例がある。支那人の謂ふ紅顔にあたるので、覺官的な感じの好い語である。オモワで代表せしめたのは、『君が目《め》を欲り』(卷四。七六六)。『君が目見ねば』(卷十一。二四二三)などと同一表現である。
 オモワといふ語も、卷九(一八〇七)に、望月之滿有面輪二如花咲而立有者《モチヅキノタレルオモワニハナノゴトエミテタテレバ》。卷十九(四一九二)に、桃花紅色爾爾保比多流面輪能宇知爾青柳乃細眉根乎咲麻我理《モモノハナクレナヰイロニニホヒタルオモワノウチニアヲヤギノホソキマヨネヲエミマガリ》とあるなど、美人の面を骨折つて形容してゐる點がなかなかよい。この歌も、單に概念的に牽牛織女の年中行事的戀愛をいはず(368)に、現身的、肉體的に歌つてゐる點がいいのである。
 此歌、和歌童蒙抄に、『ワカコフルニホヘルイモヽコヨヒカモアマノカハラニイソマクラマク』とあり、赤人集【西本願寺本】に、『わかこひにほひあひてみむはこよひわかあまのつはしのいはかしまつと』。同流布本に、『わが戀にほにあけて見むこよひかも天の川原にいそまくらまく』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇四〕
  己《おの》が夫《つま》乏《とも》しむ子等《こら》は泊《は》てむ津《つ》の荒磯《ありそ》枕《ま》きて寢《ね》む君《きみ》待《ま》ちがてに
  己※[女+麗] 乏子等者 竟津 荒磯卷而寐 君得難
 
 ○己※[女+麗] 舊訓オノガツマ。代匠記精オノツマノ。童蒙抄ナガヲトメ。又はナガツマ。略解シガツマノ。新考オノヅマヲ。今舊訓に從つた。自分の夫《つま》をばの意で、織女が牽牛のことを指していふので、それを第三者が客看してゐるやうにあらはしてゐる。○乏子等者 舊訓トモシキコラハ。略解宣長訓トモシムコラハ。つまり織女を指すので、ラは添へた詞、單數である。○竟津 舊訓アラソヒツ。代匠記初、竟の上に舟を脱かとしフネハテツ。代匠記精ツニハテツ。童蒙抄アラソ(369)ツノ。考は、竟は立見の誤としてタチテミツ。略解宣長訓ハツルツノ。古義ハテムツノ。『竟津《ハテムツ》とは、彦星の舟の將《ム》v竟《ハテ》天(ノ)河の津と云なるべし』(古義)。○荒磯卷而寐君待難 舊訓アライソマキテ・ネマクマチカネ。代匠記初アリソマキテネム・キミマチカネシ。代匠記精アリソマキテネム・キミマチガテニ。童蒙抄アラソマキテヌ・セコヲマタナン、又はセコマチガタニ。略解宣長訓アリソマキテヌ(古義同訓)。今、代匠記訓に從つた。
 一首の意は、自分の夫《をつと》の牽牛をいとしいとおもふ織女が、夫の船の着く筈の船著場のところの荒磯を枕として寢ることであらう。まだ到著しない夫をば待ちかねて。といふぐらゐの歌であらう。この歌は第三者が織女のことを想像して作つた歌の趣である。
 此處には七夕の歌がいろいろ並んでゐるが、かういふ内容もまた珍らしく、その想像も何となく現實的であるし、心の働きも相當に細かにして且つ自然である。また、調べも、『己が※[女+麗]ともしむ子らは』あたりをはじめ、しつかりしたところがあり、ひよつとせば人麿の或時期の作ではなからうかとおもはしめる特色がある。
 此歌赤人集【西本願寺本】に、『おのかいもなしとはきゝつてにまきてまたきてねよきみさまにとかなし』同流布本に、『己が紐長しとは聞きつ手に卷きてまたきて寢よ君まさにとかなし』とある。
 
(370)          ○
 
  〔卷十・二〇〇五〕
  天地《あめつち》と別《わか》れし時《とき》ゆおのが※[女+麗]《つま》然《しか》ぞ手《て》に在《あ》る秋《あき》待《ま》つわれは
  天地等 別之時從 自※[女+麗] 然叙手而在 金待吾者
 
 ○別之時從 舊訓ワカレシトキユ。童蒙抄ワカレシヨヨリ。○自※[女+麗] 舊訓オノガツマ。童蒙抄ナガヲトメ又はナガツマ。○然叙手而在 舊訓シカゾテニアル。童蒙抄カクゾトシナル。考シカチギリタル。○金待吾者 舊訓アキマツワレハ。童蒙抄アキマツガリハ。代匠記・古義等は舊訓に從ひ、新考はオノヅマト・シカゾタノミテと訓んでゐる。
 一首の意は、天と地と別れた時からして、私の妻として織女は斯くの如く手中にあるのだから、樂しく逢へる秋の來るのを私は待つて居るのだ。といふぐらゐの歌で、牽牛の獨語のやうな趣である。
 代匠記初に、『しかぞ手にあるは、天地すでに剖判せしより、織女はおのがつまとさだまりて、かくぞ我手にあるなり。妻を手子といふは、我手に入たる女なればなり。今もその心なり。秋待われはとは、昔より定まれる事なれば、七日の夜はあはむと待なり』とあるによつて大體の解釋(371)は付くのである。
 『然ぞ手に在る』といふ訓につき、略解で、『四の句誤字有らん。解き難し』と云つたのは、この儘では古調に響かないといふ意味であらう。また實際同じやうな用例は萬葉に無い。併し、用例は他に無くともこの儘で解釋の出來ないことはない。なほ、『石竹《なでしこ》のその花にもが朝旦《あさなさな》手に取り持ちて戀ひぬ日無けむ』(卷三。四〇八)などは幾らか參考となるであらう。
 卷三(三一七)に、天地之分時從神左備手《アメツチノワカレシトキユカムサビテ》が鮮。卷八(一五二〇)に、
宇之呂河向立《ヒコホシハタナバタツメトアメツチノワカレシトキユイナムシウシロカハニムキタチ》とある。
 此歌は、赤人集【西本願寺本】に、『あめつちとわけしときよとわかいもとそひてあれはかねてまつわれ』とある。同流布本は、第二句『分れし時より』とある外は、此處で訓んだ萬葉の訓と同一である。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇六〕
  彦星《ひこほし》は嘆《なげ》かす※[女+麗]《つま》に言《こと》だにも告《の》りにぞ來つる見《み》れば苦《くる》しみ
  彦星 嘆須※[女+麗] 事谷毛 告爾叙來鶴 見着苦彌
 
(372) ○彦星 舊訓ヒコボシノ。代匠記初ヒコボシハ。○嘆須※[女+麗] 舊訓ナゲカスイモガ。代匠記初ナゲカスイモニ。童蒙抄ナゲキスイモニ。略解ナゲカスツマニ。○告爾叙來鶴 舊本『爾』が『余』となつてをり、訓はツゲニゾキツル。代匠記精、余は尓の誤とし、『尓ト爾ト同字ナレバ別校本ヨシ』と云つた。古寫本中、尓(元・類・神・温・矢・京)に作つたものが多いから、それに相違はなからう。童蒙抄ノレトゾキツル。新考ノラムトゾキツル。新訓ノリニゾキツル。
 一首の意は、彦星(牽牛)は、自分を慕ひ嘆く妻(織女)の、樣子を見るのが苦しく可哀相なので、言葉だけでも慰めようとして便りをよこしたのである。といふので、これも第三者の觀察忖度のやうに出來て居る。代匠記精に、『牛女ノ間ニ使スル者アリテ、ソレガ詞ノヤウニ聞ユルニヤ。但ヤガテ下ニ妹傳速告與トヨメルモ、上ニ秋立待等妹告與具トヨメルモ、使ノ意ナリ。二星ノ事ハ風情ノ寄來ルニ任セテ讀習ナレバサモ有ベキニヤ』とあるのは好い疑問でありまた好い解釋である。もつともこれは、舊訓どほりヒコボシノ・ナゲカスイモガと訓むとしての解釋であるが、訓をかへても當てはめることが出來る。ただの字面では、彦星が自分でやつて來たやうに取れるが、實は便《たよ》りを寄越したことと解釋していいのである。
 この歌は流布本赤人集に、『彦星が恨むる妹がことだにも告げにぞ來つる今日は苦しも』となつて出てゐる。
 
(373)          ○
 
  〔卷十・二〇〇七〕
  ひさかたの天《あま》つ印《しるし》と水無河《みなしがは》隔《へだ》てて置《お》きし神代《かみよ》し恨《うら》めし
  久方 天印等 水無河 隔而置之 神世之恨
 
 ○天印等 舊訓アマノシルシト。代匠記アマノシルシト。童蒙抄アメノシルシト。考アマツシルシト(略解・古義・新考從之)。本卷(二〇九二)の長歌に、天地跡別之時從久方乃天驗常定大王天之河原爾璞月累而《アメツチトワカレシトキユヒサカタノアマツシルシトサタメテシアマノカハラニアラタマノツキヲカサネテ》とある『天驗』と同じであらう。古寫本の訓は、アメノシルシ(元)。アメノヲシテ(累・神)等であるが、代匠記精に、『八雲御抄ニ天印ヲ、アマノオシテトヨマセ給ヒタルハ古點ナルベケレド、下ノ長歌ニ久方乃|天驗常※[氏/一]《アマシルシトテ》云々。此今ト同ジキヲ、印ハシルシトモオシテトモヨメド、驗ハオシテトヨマネバ、彼ヲ以テ此ヲ證スルニ今ノ點當レルニヤ』と云つてシルシ説に賛成してゐる。校本萬葉にオシテ説に賛成してゐるやうに云つてゐるのは、初稿本に、『あまのをしてともよむべけれど』とあるのだけを見たのであらうか。なほ新考を見るに、『アマツシルシのシルシは畫なり。莊子人間世に畫v地而趨とあり、孫子虚實に雖2畫v地而守1v之云々とあり、(374)文選の西京賦に畫v地成v川とあるシルシなり。ここに天印とかき下なる長歌に天驗とかけるは共に借字なり。後世の歌にアマノオシデとよめるはこの天印を誤讀せるなりと、契沖及濱臣(答問雜稿)おどろかせり』と云つて居る。書紀その他でシルシと訓ませて居るものは、驗、表、苻、印、徴表、徴、兆、節、相、禄、表物、標、證、稱等であるが、此處は印、徴、標、相などの文字に宛ててその大體を知ることが出來る。即ちこのシルシといふ語は、實際に下界から河の如くに見えるといふことから出來た語だといふことを知らねばならない。○水無河 舊訓ミナセガハ。管見ミナシガハ(諸抄從之)。古寫本中、ミナシカハ(元・神)と訓んだのがある。『水無河ハミナシカハトヨメル、然ルベキ歟。但津國ノ水無瀬河ヲモ、第十一ニハ水無河トカケリ。河内ノ天河ノ名モ空ニ通ヘバ、水無瀬河モ亦空ニ通ハシテ名付タルニヤアラム。知ベカラネバ左右ナウ定ガタシ。一年ヲヒトトセト云如キノ例アレバ讀ガタキニモアラズ。古事記云。且其(ノ)天(ノ)尾羽張(ノ)神者逆(ニ)塞《セキ》2上(テ)天(ノ)安河之水(ヲ)1而塞(テ)v道居(マス)、故《カレ》佗《アタシ》神不v得v行(コトヲ)云々。此ニ依レバ水無河トハ云ヒガタカルベキヲ、神變ハ測ガタケレバ下界ノ水ノ如クナル水ノナキ意ニ名付タルニヤ』(代匠記精)云々とある。語義からいへば水の無い河といふことで、下界から見ても水の流れてゐるのが分からないので斯く云つたものであらうか。そして、古事記神話等と結付き、天の河の異名ともなり、シタに係る枕詞ともなつたものであらう。卷四(五九八)に、戀爾毛曾人者死爲水無瀬河下從吾痩月日異《コヒニモゾヒトハシニスルミナセガハシタユワレヤスツキニヒニケニ》。卷(375)十一(二七一二)に、言急者中波余騰益水《コトトクバナカハヨドマセミ》無《ナシ・ナセ》河絶跡云事乎有超名湯目《ガハタユトフコトヲアリコスナユメ》がある。
 一首の意は、〔久方《ひさかたの》〕天《てん》の印《しるし》として存在してゐる水無河《みなしがは》即ち天の河は神代の昔から二人の間を隔てるために置かれてあるのだが、それゆゑその神代が恨《うら》めしい。といふのである。
 天の河をばこの地上から見ると幽遠に光つてゐるのみで水の流のやうではないから、この水無河の名は視覺上に本づいたものだとおもふが、それと誠に大きい天の河と、常には逢ひ難いといふ牽牛織女の傳説とを織り交ぜて、現實の人の嗟歎するがごとくに歌つてゐる點は、前の歌と軌を一にしてゐるのである。
 此歌、八雲御抄に、『ひさかたのあまのをしてとみなしかはへたてゝおきし神代のうらみ』とある。又六帖に入り、『ひさかたの天のしるしとみなし川隔てておきし神代のうらめし』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇八〕
  ぬばたまの夜霧隱《よぎりがく》りて遠《とほ》くとも妹《いも》が傳言《つてごと》早《はや》く告《つ》げこそ
  黒玉 宵霧隱 遠鞆 妹傳 速告與
 
(376) ○宵霧隱 舊訓ヨギリゴモリテ(【代匠記・考・略解・古義同訓】)。童蒙抄ヨキリコメツツ。新考にヨギリガクリテと訓み、『略解古義にヨギリゴモリテとよみたれど下なるヌバタマノ夜霧隱トホヅマノ手ヲはヨギリガクリテとよまざるべからねばここもヨギリガクリテとよむべし。道ガ夜霧ニ隱レテといふ意なり。道といふことを略せるなり。さて霧に隱れたりとも道の遠近はかはるべからねど、霧たてば道たどたどしくて恰道の遠きが如くに時費ゆればしばらく借りてトホクトモといへるなり』と云つた。古寫本中、ヨルキリガクレ(元・類・神等)と訓んだのがある。○妹傳 舊訓イモシツタヘバ。代匠記初イモガツカヒハ。童蒙抄イモガカシヅキ。考イモガツタヘハ(略解同訓)。古義イモガツテゴト。『妹傳言の言(ノ)字、舊本になきは、脱たるなるべし』(古義)と云つた。卷十三(三三三六)に、思布言傳八跡家問者《オモホシキコトヅテムヤトイヘトヘバ》。卷十七(三九六二)に、於母保之伎許登都底夜良受孤布流爾思《オモホシキコトツテヤラズコフルニシ》とあるのはコトヅテの例であり、卷十二(三〇六九)に、何傳言直將吉《ナニノツテゴトタダニシヱケム》。卷十九(四二一四)に、道來人之傳言爾吾爾語良久《ミチクルヒトノツテゴトニワレニカタラク》とあるのは、ツテゴトの例である。このいづれをも選んで好い。○速告與 舊訓ハヤクツゲコヨ。代匠記精ハヤクツゲコソ(古義・新考同訓)。考ハヤクツゲコセ。與は乞の誤とした(略解同訓)。新訓、與のままでツゲコセ。
 一首の意は、たとひ夜霧に蔽はれて遠く隔つて居ようとも妻の言傳《ことづて》は速く告げて欲しいものだ。といふので、待ちわびて居る牽牛のつもりになつて咏んだ歌である。
(377) 解は右の如くで、使者の便を待つてゐる氣持もあるのである。そこで童蒙抄で、『宗師案、傳の字にて、かしづきと讀むべしと也。夜霧こめて遠く共、かしづきのもの、妹に早く出ませと告げよとの意に見る也。速は疾と讀みて、早く出立よと、とく告げよと願ふ意と也。愚意未v決。妹がたより、つ手はと云方然るべからん。とくと告げよとは、とく出立よと告げよとの義と云ひては、言葉を入れて、とくと告げよと云ふ義と釋せねば成難し。便りつ手と見れば、妹の方よりの傳ふる事、便を早く滯らせず、こなたに告げよと見る也。尚後案を待つのみ』と云つてゐる。理窟で面倒にすると如是になるのだが、この歌は感情の自然を以て解けば直ちに腑に落ちるものである。歌は勿論さうたいしたものではない。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『むまたまのよるひるくもりくらくともいもかことはゝやくつけてよ』、同流布本に、『むはたまのよる雲くもり暗くとも妹がことをば早く告げてよ』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇九〕
  汝《な》が戀《こ》ふる妹《いも》の命《みこと》は飽《あ》き足《た》りに袖《そで》振《ふ》る見《み》えつ雲隱《くもがく》るまで
  汝戀 妹命者 飽足爾 袖振所見都 及雲隱
 
(378) ○妹命者 舊訓イモノミコトハ。古寫本イモガイノチハ(元・類・神・京)。このミコトは尊び親しむ感情が含まつてゐるので、此處は、牽牛に對《むか》つて、その妻の織女のことを云ふのだから、幾分敬語を使つてゐるのである。卷二(一九四)に、靡相之嬬乃命乃《ナビカヒシツマノミコトノ》は夫《をつと》の君の意だが、古事記上卷の八千矛神の御歌に、和加久佐能都麻能美許登《ワカクサノツマノミコト》とあり、これは嬬《つま》のことであり、卷十七(三九六二)に、波之吉與志都麻能美許登母《ハシキヨシツマノミコトモ》も亦さうである。なほ、卷三(四四三)に、帶乳根乃母命者齋忌戸乎前坐置而《タラチネノハハノミコトハイハヒベヲマヘニスエオキテ》。卷九(一七七四)に、垂乳根乃母之命乃言爾有者《タラチネノハハノミコトノコトニアレバ》等の例がある。○飽足爾 舊訓アクマデニ。童蒙抄アキタリニ。『宗師案、たりにと讀べし。あきたりなしと云義也。なしと云詞を約すればに也。なれば飽足らぬから雲隱るる迄見送る意と見るべしと也。諸抄の説も惡しきには不v可v有か。心に飽かぬから飽迄に見るの意也』(童蒙抄)。代匠記・考・古義・新考アクマデニ。略解・新訓アキタリニ。ここは、『足』の文字があるからどうしても、『アキタリニ』の訓が穩當であり、意は略解の如く、『アキタリはアクマデの意なり』といふのに落着くのである。
 一首の意は、あなた牽牛の妻の君が、あなたと別離を惜しんで飽くまでも袖を振るのが見える、あなたが雲に隱れてしまふまで袖を振るのが見える。といふ意で、作者が牽牛にむかつて言つてゐる趣であるが、一方、牽牛織女の戀を客看して居る趣でもある。
 七夕の歌は傳説に本づいて、いろいろと工夫して作つてゐるが、この歌も赤、趣向をこらして、(379)人間同士の戀の如くに取扱つて居る點が前の歌同樣である。
 一首のうちで、飽足爾《アキタリニ》の句は注意すべきであるが、萬葉には、卷四(五三三)に、鹽干之名凝飽左右二人之見兒乎《シホヒノナゴリアクマデニヒトノミルコヲ》。卷十七(三九九九)に、安久麻底爾安比見而由可奈故布流比於保家牟《アクマデニアヒミテユカナコフルヒオホケム》などとあるが、アキタリニといふ例が無いやうである。その點がこの訓の弱味でもあるが、併しアキタリニと訓んでも決して不道理ではない。
 此歌は、赤人集【西本願寺本】に、『なかこふるいもかすかたはあくまてにそてふ|り《る(流布本)》みえつくもかくるまて』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一〇〕
  夕星《ゆふづつ》も通《かよ》ふ天道《あまぢ》を何時《いつ》までか仰《あふ》ぎて待《ま》たむ月人壯子《つきひとをとこ》
  夕星毛 往來天道 及何時鹿 仰而將待 月人壯
 
 ○夕星毛 舊訓ユフヅツモ。古義ユフヅツノ。夕星は和名鈔に、兼名苑云、大白星一名長庚、此間云、由布都々とあるので、即ち金星、宵の明星のことである。
(380) 一首の意は、宵の金星も通ふ頃となつた天《てん》の道に、いつまで私は牽牛の來られるのを仰いで待つことでせう。月人壯子《つきひとをとこ》よ。といふので織女の氣持になつて咏んで居り、同じ天空の夕づつを配し、月にむかつて呼びかけて居る趣の歌である。
 この歌は、初句に、『夕づつも』とあり、結句に、『月人壯子』などとあるので、七夕の歌としては素直に解釋の出來ぬ點もあり、稍趣が變つて居るので、代匠記精に、『月人壯ハ、此下ニモ二首ヨミ、第十五ニモ七夕ノ歌ニヨメリ。牽牛ノ異名ト聞ユ。月ヲ讀ニハ替レル歟。未考得』といひ、考も、『月人壯は下にも彦星をかく譬し有。こはみかほしむといふほどのたとへなり』といひ、略解もその如くに解してゐるが、古義では、『中山(ノ)嚴水云、月人壯は彦星の異名にやと、契沖が説るは誤ならむ。集中、月のことを、月人壯子《ツキヒトヲトコ》とよみたれば、此(ノ)歌は月を待(ツ)歌なるが、まぎれて七夕の歌中に入たるならむ』と云つてゐるのである。
 考で、月を牽牛に譬へて、『歌の意は、夕星すらとゆきかくゆくにいつまでか遠くむかひたちて彦星をあふぎてまたんやと織女《タナバタツメ》のなげけるなり』と言つてゐるのは、大體よいが、ただ、彦星即ち月にしてゐる。若しさうだとすると、夕星《ゆふづつ》をば何かに譬へねば、調和がとれないことともなるのである。
 卷十五(三六一一)に、於保夫禰爾麻可治之自奴伎宇奈波良乎許藝弖天和多流月人乎登※[示+古]《オホフネニマカヂシジヌキウナバラヲコギデテワタルツキヒトヲトコ》とあつ(381)て、七夕歌一首とあるのを見れば、月人乎登※[示+古]は牽牛のこととして歌つてあるやうにもおもはれる。併し月の歌としても解釋が出來るやうに思ふ。そこで古義の説のやうに、月の歌が七夕の歌に紛れ入つたのだといふ想像も成り立たぬこともないが私はこの歌をやはり七夕の歌として解するから、右のやうな一首の意味になつたのである。
 此歌は、袖中抄に、『ユフツヽモユキカフソラノイツマテカアフキテマタムツキヒトオトコ』とあり、赤人集【西本願寺本】に、『ゆふつゝもかよふそらまていつと|き《て(統布本)》かあふきてまたむ月人をとこ』とある。又六帖に入り、『ゆふづつも通ふ天路のいつしかと仰ぎて待たむ月人をとこ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一一〕
  天漢《あまのがは》い向《むか》ひ立《た》ちて戀《こ》ふるとに言《こと》だに告《つ》げむ※[女+麗]問《つまど》ふまでは
  天漢 已向立而 戀等爾 事谷將告 ※[女+麗]言及者
 
 ○已向立而 舊本『已』が『巳』となつてをり、訓コムカヒタチテ。古寫本にワレムキタチテ(元・神)。ヰムカヒタチテ(京一訓)。代匠記初に『いむかひたちて。いは發語のことば』とあるが、(382)代匠記精には『巳向立而ハ來向立而ナリ』となつてゐる。古義イムカヒタチテ。舊本の巳は已の通用であらう。もつとも、卷十八(四一二七)に、夜須能河波許牟可比太知弖《ヤスノカハコムカヒタチテ》とあるが、これも許は已の誤か。澤瀉久孝氏は、卷十八の『許牟可比太知弖《コムカヒタチテ》』は、人麿歌集の『已向立而《イムカヒタチテ》』を作者家持が誤讀して模倣したのであらうと言つてゐる。(【「誤寫誤讀の問題を中心とした萬葉作品の時代的考察」昭和七年一月號國語・國文】)○戀等爾 舊訓コフラクニ。代匠記精コフルトニ。童蒙抄一訓コフカラニ。考コフラクニ(等は樂の誤)。古義コヒムヨハ(等爾は從者の誤)。新考コフラムニ(戀|等六《ラム》爾)。○事谷將告 舊訓コトダニツゲム。童蒙抄コトダニツゲメ。新考コトダニツゲナム。○※[女+麗]言及者 舊訓ツマトフマデハ。略解ツマトイフマデハ。『誠の妻と言ふまでにの意か』。古義ツマヨスマデハ(言は寄の誤)。新考ツマトイフカラハ(及は柄の誤)。いま舊訓に從つた。
 一首の意は、天漢《あまのがは》に隔てられ互に向ひ立つて戀ふる時に、せめて言傳《ことづて》だけでも遣りたいものである。七夕の夜が來て親しく妻問《つまどひ》の出來るまでは。といふのであらう。
 このコフルトニのトニはトキニの意であることは、卷十(一八二二)に、君喚變瀬夜之不深刀爾《キミヨビカヘセヨノフケヌトニ》。卷十五(三七四七)に、波夜可反里麻世古非之奈奴刀爾《ハヤカヘリマセコヒシナヌトニ》。卷十九(四一六三)に、河湍爾霧多知和多禮左欲布氣奴刀爾《カハノセニキリタチワタレサヨフケヌトニ》とあるによつて分かる。
 第三句のコトダニツゲムといへば、牽牛が自ら告げようといふのだが、新考でツゲナムと訓ん(383)だのは、『牽牛に對して、便ダニシテヤレと勸むるなり』と解するのであるが、さう解してはまづいやうである。
 結句の※[女+麗]言をツマドフと訓むのに從つたが、卷九(一七九〇)に、秋芽子乎妻問鹿許曾一子二子持有跡五十戸《アキハギヲツマドフカコソヒトリコニコモタリトイヘ》。卷十(二〇九〇)に、狛錦紐解易之天人乃妻問夕叙吾裳將偲《コマニシキヒモトキカハシアメビトノツマドフヨヒゾワレモシヌバム》。同卷(二〇九八)に、奥山爾住云男鹿之初夜不去妻問芽子之散久惜裳《オクヤマニスムチフシカノヨヒサラズツマドフハギノチラマクヲシモ》等の例があるから、舊訓のままでよく、必ずしも略解や新考などの面倒な訓に從はずともいいとおもふのである。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『あまのかはむかひたちてこふるときことたにつけよいもゝとゝはし』、同流布本に、『天の河わがむき立ちて戀ふらくにことだに告げむ妻といふまでは』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一二〕
  白玉《しらたま》の五百《いほ》つ集《つどひ》を解《と》きも見《み》ず吾《あ》は干《ほ》しがたぬ逢《あ》はむ日《ひ》待《ま》つに
  水良玉 五百都集乎 解毛不見 吾者干可太奴 相日待爾
 
 ○水良王 舊訓シラタマノ。『發句ノカキヤウニ兩義アルベシ。一ツニハ水良ノ二字ハ音ヲ假(384)ル。水ハ第九ノ水長鳥安房トツヅキタルヲ、仙覺發句ヲシナガドリト讀ベキ由注セラレタルガ如シ。二ツニハ眞珠ハ水中ノ良玉ト云意ニテ義訓セルニヤ』(代匠記精)。○五百都集乎 舊訓イホツツドヒヲ。玉の五百箇集で、首飾にした御銃《みすまる》の玉のことである。神代紀上に、便(チ)以2八坂瓊之五百箇御統《ヤサカニノイホツノミスマルヲ》1、纏2其|髻鬘《ミイナタキ》及|腕《タフサ》1云々。萬葉卷十八(四一〇五)に、思良多麻能伊保都都度比乎手爾牟須妣《シラタマノイホツツドヒヲテニムスビ》とあるのも同じものである。○吾者干可太奴 舊訓ワレハカカタヌ。代匠記では、カは香青《カアヲ》、香黒《カグロ》などのカで添詞であり、カタヌは結ぶことであるとし、江次第の、被《ラル》v結《カタネ》を證とした。童蒙抄ワレハヲカタヌ。締結《ヲカタヌ》の意で、『玉の緒を結置と也。かたぬるとは結と云字を讀む也』。考ワガアリガタヌ。吾を哥太奴で、在《あ》り難《がた》ぬの意とした。略解ワレハホシガタヌ。『泪を干し難きなり』の意とした。或は干は在の誤で、アリガタヌかとした。古義は眞淵説として、干は在の脱畫、アハアリカタヌ。略解補正ワレハカコチヌ。新考ワレハアリガテヌ。干は在の誤、太はテと訓む。
 一首の意は、白玉を澤山に貫《ぬ》いた御統《みすまる》の頸飾をも解かずに夫《えおつと》の方《かた》(彦星)の來るのをお待ち申すに、泪で濡れた袖を干すことも出來ずに居ります。お逢ひ申す日までは。といふので、織女が牽牛を待ちこがれて居る趣の歌である。
 この『干す』といふ語は餘り突然だから、これを誤字とする考の説は無理がないやうに思ふのであるが、なるべく誤字説を以て強ひぬ方針とせばやはり干《ほす》とせねばならず、卷十五(三七一二)(385)に、奴波多麻能伊毛我保須倍久安良奈久爾和我許呂母弖乎奴禮弖伊可爾勢牟《ヌバタマノイモガホスベクアラナクニワガコロモデヲヌレテイカニセム》といふのがあり、卷四(六九〇)に、哭涙衣沾津干人無二《ナクナミダコロモヌラシツホスヒトナシニ》。卷十二(二八四九)に、烏玉彼夢見繼哉袖乾日無吾戀矣《ヌバタマノカノヨノイメニミエツゲヤソデホスヒナクワレハコフルヲ》等とあるから、解釋のつかぬことはない。併し何處かに餘り突然で無理があるやうである。
 
          ○
  〔卷十・二〇一三〕
  天漢《あまのがは》水陰草《みづかげぐさ》の秋風《あきかぜ》に靡《なび》かふ見《み》れば時《とき》來《きた》るらし〔【時は來にけり】〕
  天漢 水陰草 金風 靡見者 時來之〔來々〕
 
 同じく『七夕』の歌で、水陰草をば考ではミヅクマグサと訓み、『今本水陰草とよみたれど唐にても隈の意に陰を用ふ。此朝庭にもくまといふに隈の字を充たり。こをもて見れば水陰をみづくまと訓て、水ぎはの草なるを知る』と云つてゐるが、略解に引く眞淵説では、陰を隱の誤としてミコモリグサと訓ませてゐる。古義はこの略解眞淵説を引用しミコモリクサの訓に從ひ、新考もそれに倣つた。元來舊訓がミヅカゲグサであるが、古寫本もほとんど皆ミヅカゲグサと訓んでゐたし、それで眞淵説にも引いた山河水陰生山草不止妹所念鴨《ヤマガハノミヅカゲニオフルヤマスゲノヤマズモイモガオモホユルカモ》(卷十二。二八六二) の用例と共(386)に、此處は水陰草《みづかげぐさ》でいいと思ふ。ただ略解眞淵説は、京都大學本・大矢本に隱の字になつて居るのを見れば、絶待に否定は出來ないが、同時に陰字をも否定は出來ないのである。このミヅカゲグサは水の中に生えてゐる水草の一種をいふので山菅などにも通じさせていいと思ふ。それが靡くを見ればいよいよ秋が來、彦星のたづねて來るべき時が來るらしいと、織女の氣特になつて咏んだ歌である。結句は『來々』と元暦校本にあるにより、新訓はトキハキニケリと訓んだが、トキハキヌラシ(舊訓)。トキキタルラシ(略解)等とも訓んでゐる。古義・新考等は略解に從つてゐる。實はこの結句は舊訓でも略解の訓でもどちらでもたいした差別は無い。ただ、古寫本(元・類・神)に、『來々』となつて居るのに從へば、トキハキニケリであり、流布本の『來之』に從へばトキキタルラシとなるのであらう。『靡見者』は、舊訓ナビクヲミレバであるのを、古義でナビカフミレバと訓んだ。
 天漢《あまのがは》の草の靡くさまで、現實的で無い筈であるが、一首を通じては何か現實の水草の靡くのに相對してゐるやうに聞こえる歌である。調も萎縮せずに生々としてゐていい。また前言のごとく、水陰草《みづかげぐさ》などといふ語も清々しい感をおこさしめる大切なものを持つて居る。
 この歌は、袖中抄第十六に、『アマノカハ水陰草ノアキカセニナヒクヲミレハトキハキヌラシ』とあり、また、赤人集【西本願寺本】に、『あまのかはみつくもりくゝさふくかせになひくとみれは秋はきに(387)けり』(【流布本第二句『みづかげ草の』】)として載つてゐる。續古今集も、やはり赤人作として、『天の河水かげ草の秋風になびくを見れば時は來にけり』と訓んで居り、古今六帖は、人麿作とし、袖中抄と同じに訓んでゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一四〕
  吾《わ》が待《ま》ちし秋萩《あきはぎ》咲《さ》きぬ今《いま》だにも染《にほ》ひに行《ゆ》かな遠方人《をちかたびと》に
  吾等待之 白芽子開奴 今谷毛 爾寶比爾往奈 越方人邇
 
 ○白芽子 古寫本シラハギと訓んだが、袖中抄にアキハギと訓むべきよし云ひ、赤人集にもアキハギサキヌとある。五色を五方に配すと白色は西に當るから、アキに借りたものである。○爾寶比爾往奈 ニホヒニユカナと訓む。このニホヒを名詞とせば、卷十八(四一一四)の、奈泥之故我花見流其等爾乎登女良我惠末比能爾保比於母保由流可母《ナデシコガハナミルギトニヲトメラガヱマヒノニホヒオモホユルカモ》。卷十(二一八八)の、黄葉之丹穗日者繁《モミヂバノニホヒハシゲシ》。同卷(二三〇七)の、於黄葉置白露之色葉二毛《モミヂバニオクシラツユノニホヒニモ》などの如く、ニホヒといふものにの意になる。さうすれば、結句の、『遠方人《をちかたびと》』と同格になり、重複したことになる。つまり萩の花からの聯憩で、(388)萩のニホフ如き、その美しいニホヒに行かう。即ち遠方人の織女のところに行かうといふことになるのである。併し、この重複は何處かに不自然なところがあつて、未だしつくりせないところがある。次にこのニホヒを動詞とせばどうかといふに、此處のニホフは、妻隱矢野神山露霜爾爾寶比始散卷惜《ツマゴモルヤヌノカミヤマツユジモニニホヒソメタリチラマクヲシモ》(卷十。二一七八)などと、意味が少し違つて、客行人毛往觸者爾保比奴倍久毛開流芽子香聞《タビユクヒトモユキフレバニホヒヌベクモサケルハギカモ》(卷八。一五三二)。咲野之芽子爾丹穗日而將居《サキヌノハギニニホヒテヲラム》(卷十。二一〇七)。春之野乃下草靡我藻依丹穗氷因將友之隨意《ハルノヌノシタクサナビキワレモヨリニホヒヨリナムトモノマニマニ》(卷十六。三八〇二)。墨之江之岸野之榛丹丹穗所經迹丹穗寐我八丹穗氷而將居《スミノエノキシヌノハリニニホフレドニホハヌワレヤニホヒテヲラム》(卷十六。三八〇一)などのニホヒのごとくに、染む、沁む、薫染、同化といふやうな意味のものである。さうすれば、此處も、秋萩に浸《ひた》り染《し》むやうに、織女に染《し》みに行かうといふ意にする方が順當であるとおもふが、ニホヒニユクといふと、能働的になり、ニホフタメニユクの意になる。鹿|狩《か》りに行く。草苅りに行く。などの場合、それから、卷二(一七九)に、佐田乃岡邊爾侍宿爲爾往《サタノヲカベニトノヰシニユク》。卷四(六二六)に、明日香乃河爾潔身爲爾去《アスカノカハニミソギシニユク》。卷十四(三三六六)に、麻可奈思美佐禰爾和波由久《マガナシミサネニワハユク》とある、ニユクの場合と同じであらうか。ただニホヒニユクといふ如き能働的の意味があるかどうかが疑問であつたのだが、尼保波尼《ニホハネ》(卷九。一六九四)の如きがあるから、冰釋したわけである。
 さうすれば一首の意は、吾が待ちに待つてゐた秋が來て萩の花も咲くやうになつた、その萩の花に浸《ひた》り染《し》むやうに、戀しい遠妻の織女のところに行つて浸《ひた》り染《し》みたい。といふのであらうか。(389)『そのはぎに入(リ)交(リ)て、色に染る如くに、織女に往て相觸む』(古義)といふことになるのであらう。
 考に、『歌の意は、吾まちし萩の咲たれば、彼ころもにほはせとよみし如く、今萩はらに入たち、衣にほはし織女《タナバタツメ》のがりゆかんてふを、かくよめりとせんか、さはとりがたし。萩に衣にほはせ、なまめきゆかんとよめる相聞の歌のここにまぎれたるものなりと見ゆれば』云々とあつて、略解も古義もこれに影響され、『ニホヒニユカナとは、卷十三に、艶の字をニホヒと訓みし心にて、後の詞にて言はば、ナマメキニユカンと言ふ意ならん』(略解)。『織女に相觸て、媚《ナマメ》きに往むと云意を帶たるなるべし』(古義)と云つてゐるが、ナマメキニユカンといふのはどういふものであらうか。
 初句の、『吾等』と複數に書いたのは、織女をも含めて二人で待つた意味であらうか、或は一般の人々といふ意味であらうか、多分二人で待つた方に取る方がいいかも知れない。この一首には何處かに心を牽くものがあつて愛誦して來たが、其は、『にほひに行かな遠方人《をちかたびと》に』の句にいいところがある爲めであつた。而して、この句は、七夕などといふことを念頭に置かずに、現世人間の戀愛として味ふことが出來るためであつた。そしてかういふ眞實の寫生句といふものは古今集以後には漸く減じてしまつて居る。
 此歌は、袖中抄に、『ワカマチシ白芽子《シラハキ・アキハキ》サキヌイマタニモニホヒニユカナヲチカタヒトニ』とあ(390)り、赤人集【西本願寺本】に、『わかまちし秋はきさきぬいまたにもにほひにゆかむならしかたみに』、同流布本に、『わが待たぬ秋はぎ咲きぬ今だにもにほひかゆかむをちかたびとに』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一五〕
  吾背子《わがせこ》にうら戀《こ》ひ居《を》れば天《あま》の河《がは》夜船《よぶね》榜《こ》ぎ動《とよ》む楫《かぢ》の音《と》聞《きこ》ゆ
  吾世子爾 裏戀居者 天河 夜船榜動 梶音所聞
 
 ○夜船榜動 舊訓ヨブネコギトヨミ。略解ヨブネコギトヨム。古寫本にはコギウゴキ、コグナル(元)。コグナリ(類)。コギウゴキ(神)。コギトヨミ(西・細・温・矢・京)等の訓があつた。○梶音所聞 舊訓カヂオトキコユ。考カヂノトキコユ。
 一首の意は、私の夫《をつと》の牽牛をば心に戀しく思つて居ますと、天の河を漕いで來る夜船の音が活溌に聞こえます。いよいよ夫が來るのでせう。といふぐらゐの歌である。
 この歌は織女のつもりになつて咏んだ歌だが、これまでの歌のやうに面倒でなく、單純にあつさりと咏んでゐるだけ成功して居る。ウラコフといふ語も注意してよく、卷十七(三九七三)に、(391)伎美麻都等宇良呉悲須奈里《キミマツトウラゴヒスナリ》。同卷(四〇一〇)に、宇良故悲之和賀勢能伎美波《ウラゴヒシワガセノキミハ》等がある。ウラガナシ、ウラグハシなどなら吾々の耳に熟して居るが、ウラゴフは左程でもないやうだが、旨く使へば相當の感じの出るいい語である。
 此歌は、赤人集【西本願寺本】に、『わかせこにうらひれをれはあまのかはふねこきいたすかちこゑきこゆ』、同流布本に、『わが背子にうら戀ひをれば天の河舟こぎわたす音きこゆなり』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一六〕
  ま日長《けなが》く戀《こ》ふる心《こころ》よ秋風《あきかぜ》に妹《いも》が音《おと》聞《きこ》ゆ紐《ひも》解《と》きゆかな
  眞氣長 戀心自 白風 妹音所聽 紐解往名
 
 ○眞氣長 マケナガクと訓む。ま日長《けなが》くの意である。卷十(二〇七三)に、眞氣長河向立《マケナガクカハニムキタチ》。卷十一(二八一四)に、眞氣長夢不所見而年之經去禮者《マケナガクイメニモミエズテトシノヘヌレバ》といふのがあり、マは添詞(接頭語)で、卷二(八五)に、君之行氣長久成奴《キミガユキケナガクナリヌ》。卷六(九四〇)に、左宿夜之氣長在者《サヌルヨノケナガグアレバ》とあるケナガシである。○戀心自 舊訓コフルココロシ。代匠記初コフルココロユ(考・略解・新考同訓)。童蒙抄コフココ(392)ロカラ。古義コフルココロヨ(新訓同訓)。○紐解往名 舊訓ヒモトキユカナ(【代匠記・童蒙抄・考・略解・新訓等同訓】)。略解宣長訓、從は待の誤でヒモトキマタナ。古義、往は枉の誤でヒモトキマケナ(新考同訓)。いま舊訓に從ふ。卷八(一五一八)に、天漢相向立而吾戀之君來益奈利紐解設奈《アマノガハアヒムキタチテワガコヒシキミキマスナリヒモトキマケナ》。卷十(二〇四八)に、天漢川門立吾戀之君來奈里紐解待《アマノガハカハトニタチテワカコヒシキミキマスナリヒモトキマタム》などとあるので、略解宣長訓、古義訓の如きがあるのだが、文字を改めずに訓まば、やはり舊訓に落著くのではなからうか。
 一首の意は、隨分長い月日戀ひ思うて來た私の心からか、秋風につれて妻の聲が聞こえて來た。著物の紐を解いていざ逢ひに行かうか。といふのである。牽牛になつて咏んだ心持の歌である。『心ヨ』といふ表現は注意して好く、やはりヨリに通ずるやうにして味ふ方が好い。それから、『秋風ニ』のニなども既に評釋したが、後世の歌のニと幾分違ふともおもふから、それを調べる、また、『紐解き』から、直ぐ『往かな』に續けた點は奈何かともおもへるふしもあり、いろいろにして鑑賞していいわけである。
 此歌、袖中抄に、『マケナカクコフルコヽロハ白風《アキカセ》ニイモカオトキコユヒモトキユカナ』とある。
 
          ○
(393)  〔卷十・二〇一七〕
  戀《こひ》しくは日長《けなが》きものを今《いま》だにも乏《とも》しむべしや逢《あ》ふべき夜《よ》だに
  戀敷者 氣長物乎 今谷 乏牟可哉 可相夜谷
 
 一首の意は、戀しいことは隨分長い間であつたものを、今になつて不足な思ひをさせるといふことはないでせう。逢ふべき今夜こそ充分な思ひを遂げさせて欲しいものです。といふのでこの歌は牽牛の心の趣の歌である。
 ○戀敷者 舊訓コヒシケバであつたのを、代匠記精に、『發句ヲコヒシケバト點ゼルハ、戀シケレバナリ。今按コヒシクハトモ讀ベシ。コヒシキハノ意ナリ』と云つた。卷十(二一一九)に、戀之久者形見爾爲與登吾背子我殖之秋芽子花咲爾家里《コヒシクハカタミニセヨトワガセコガウヱシアキハギハナサキニケリ》。同卷(二三三四)に、沫雪千重零敷戀爲來食永我見偲《アワユキハチヘニフリシケコヒシクノケナガキワレハミツツシヌバム》。卷十六(三八一一)に、戀之久爾痛吾身曾伊知白苦身爾染登保里《コヒシクニイタキワガミゾイチジロクミニシミトホリ》。卷二十(四四七五)に、故非之久能於保加流和禮波美都都之努波牟《コヒシクノオホカルワレハミツツシヌバム》等の例がある。○乏牟可哉 トモシムベシヤで、ベシヤは反語で、『雲の隱さふべしや』などと同じ格である。『今あふべき夜とだになりぬれば、しばしばかりもともしむまじとなり』(考)。『逢はんと契りし今夜なりとも、せめて、語り盡さざらんやの意なり』(略解)。『歌(ノ)意は、戀しく思ひたることは、年月日長くてありしものを、逢(394)べき今夜なれば、乏しむべきに非ず。今なりとも、心|足《タラヒ》に速く相見む、となるべし。谷《ダニ》の言二(ツ)ありていかが。此下に、戀日者氣長物乎今夜谷令乏應哉可相物乎《コフルヒハケナガキモノヲコヨヒダニトモシムベシヤアフベキモノヲ》、とあるは今の歌の重《マタ》出《イデ》たるものときこゆ。彼(ノ)方理かなへるか』(古義)。『トモシムベシヤは飽クバカリモノセザラムヤとなり。第三句を從來イマダニモとよみたれど、こは今夜谷とありし夜をおとせるにて、コヨヒダニとよむべし。結句は第三句を反復せるなり』(新考)。
 このトモシムは、前にも云つた如く、羨む、珍らしく思ふ、愛しむ等から、現在の語感の如く、乏しくする、不足するといふ意にも用ゐたことはこれらの例を見ても分かるのである。古義に、ダニが二つあつてをかしいといふが、これは井上博士が云はれたやうに、第三句と結句で繰返したものである。それゆゑ、第三句はイマダニモでかまはぬのである。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『こひしきはけなかきものをいまたにもみしかくもかなあひみるよたに』、同流布本に、『戀ふる日はけ長きものを今だにも乏しむべしや逢ふべきものを』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一八〕
  天漢《あまのがは》去歳《こぞ》の渡《わたり》で遷《うつ》ろへば河瀬《かはせ》を踏《ふ》むに夜《よ》ぞ深《ふ》けにける
(395)  天漢 去歳渡代 遷閉者 河瀬於踏 夜深去來
 
 ○去歳渡代 『代』は、舊本『伐』であるが、古寫本等で『代』(【類・神・西・温・矢・京・無】)になつてあるので其に從つた。舊訓コゾノワタリハ。代匠記初コゾノワタリバ。『渡伐ハ渡者ト云ニハアラズ。渡場ナリ。濁音ノ伐ノ字ヲカケル、此意ナリ』(代匠記精)。童蒙抄コゾノワタリハ。考・略解は代匠記に從つた。古義コゾノワタリデ。『伐は代(ノ)字の誤にて、ワタリデならむ。代をテとよむことは、既く云るが如し。ワタリデは、應仁天皇(ノ)紀(ノ)歌に、知波椰臂等于泥能和多利珥和多利涅珥《チハヤヒトウヂノワタリニワタリデニ》云々、とあるに同じく、渡出《ワタリデ》にて、即(チ)渡の水門を云詞なり』(古義)。新考コゾノワタリノ。『和多利涅珥《ワタリデニ》とあるを例に引きたれど此歌古事記には和多理|是《ゼ》邇とありて紀の涅は果して誤字ならざるか、即果してワタリデといふ語ありやいまだ確ならぬ事なれば之に據りて今を定めむは頗危し。案ずるに伐を代の誤とし代遷閉者をウツロヘバとよみ、渡にノをよみ添ふべし』(新考)。古寫本中既にワタリノと訓んだのがある(【元・類・神・京】)。今暫らく古義に從ふ。○遷閉者 舊訓ウツロヘバ。童蒙抄では伐は代の誤で、代遷閉者でウツロヘバと訓ませ、新考もそれに據つた如くであるが、これはどうかとおもふ。ウツルは位置の變化したことをいふのである。
 一首の意は、天の河の去年徒渉した場處の岸際(代《で》)が今年は變化してしまつて分からぬのであちこちとさがして河瀬を踏んでゐるうちにもう夜が更けてしまつた。牽牛のつもりになつて作(396)つて居り、織女に未だ逢ふことの出來ないのを歎じて居るところである。
 應神紀の歌の、渡涅につき古事記傳【三十三】に、『涅《デ》は、萬葉に、走出《ワシリデ》の堤、出立《イデタチ》の清きなぎさなどある出の意なるべし。契冲、渡出《ワタリデ》とは岸際を云べしと云り』といひ、古事記の和多理是邇《ワタリゼニ》をば、渡り瀬にと解し、稜威言別等もそれに從つて居る。
 この歌は、七夕の歌であるが、天の河をば人間世界の山河のやうにしてその人間の戀愛そのままの行動にして咏んでゐるものである。それゆゑ取りわけ奇拔ではないが、眞率な點があつていい。
 此歌、拾遺集秋部に人麿作として載り、『天の川こぞの渡のうつろへば淺瀬ふむまに夜ぞ更けにける』とあり、柿本集にはその『淺瀬』を『河瀬』として載つてゐる。又、赤人集【西本願寺本】に、『あまのかはそこのわたりのうつろへはかはらをゆくによそふけにける』、同流布本に、『天の川こぞの渡りのうつろへば川瀬をゆきて夜ぞ更けにける』とあり、和歌童蒙抄に、『アマノカハコソノワタリノウツロヘハカハセフムマニヨソタケニケル』とある。
 
          ○
 
(397)  〔卷十・二〇一九〕
  古《いにしへ》よ擧《あ》げてし機《はた》も顧《かへり》みず天《あま》の河津《かはつ》に年《とし》ぞ經《へ》にける
 自古 擧而之服 不顧 天河津爾 年序經去來
 
 ○自古 舊訓ムカシヨリ(童蒙抄同訓)。代匠記精イニシヘユ(考・略解・新考同訓)。古義イニシヘヨ(新訓・全釋同訓)。○擧而之服 舊訓アゲテシコロモ。童蒙抄アゲテシハタモ(新訓同訓)。考アゲテシキヌヲ。略解アゲテシハタヲ(古義・新考同訓)。『服。はたと讀むべし。【中略】服の字を書きたるは、衣を機にあげ置しと云ふ意を助けて書きたると見ゆる也』(童蒙抄)。この外に、『服』をハタと訓む例は、『織服白栲衣《オルハタノシロタヘゴロモ》』(卷十。二〇二八)の如きがあるが、ハタをアゲといふ具合に用ゐた例は見出せない。
 一首の意は、『織女が布おらむとて、往古《イニシヘ》より機にはあげおきたれども、彦星をこひしく思ふ心の切なる故に、天(ノ)河津にのみ立出て、其(ノ)機物をかへりみずして、年ぞ經にける、となり』(古義)によつて明かである。
 この歌は、織女のつもりで歌つてゐるから、『古へよ』等と云つたのであるが、併し全體が人間らしく歌つてゐるから、機《はた》のことをいひ、『擧げてし』などといつて、なかなか細かい感情を出し(398)てゐるのである。
 古詩に、『迢々牽牛星、皎々河漢女、繊々擢素手、札々弄機杼、終日不成章、泣涙零如雨』云々とある。
 此歌赤人集【西本願寺本】に、『むかしあけてころもをかさねはあまのかはあまのかはふねうかひあけぬとも』、同流布本に、『むかしわがあけて衣をかへさねば天の河原に年ぞへにける』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二〇〕
  天漢《あまのがは》夜船《よぶね》を榜《こ》ぎて明《あ》けぬとも逢《あ》はむと念《も》ふ夜《よ》袖《そで》交《か》へずあれや
  天漢 夜船榜而 雖明 將相等念夜 袖易受將有
 
 ○將相等念夜袖易受將有 舊訓は、アハムトオモフ・ヨソデカヘズアレヤであつたやうである。それを代匠記にオモフヨと訓み、『落句ノ終ニ哉ノ字有ベシ。落タルニヤ。袖カハサズアラムヤ、カハサズバアラジトナリ』といつた。考も哉脱とし、ソデカヘズアラメヤと訓み、略解ソデカヘズアラン。古義は者に從ひ、新考・新訓等は代匠記に從つた。また考以下モフヨとした。
(399) 一首の意は、妻のもとへ行かうと、天の河に夜船を榜いで、時が經つて縱ひ夜が明けるにしても逢はうと思ふ今夜はどうしても袖を交《かは》して一處に寢ずには置かない。といふのである。
 『袖易受』は、袖カヘズで、ソデカフは既に人麿の歌に、敷妙乃袖易之君《シキタヘノソデカヘシキミ》(卷二。一九五)があり、なほ、卷三(四八一)に、白細之袖指可倍弖靡寢《シロタヘノゾデサシカヘテナビキネシ》の例がある。結句のアレヤは後世のアラムヤハといふ等に相當するので、卷九(一八〇九)に、賤吾之故大夫之荒爭見者雖生應合有哉《イヤシキワガユヱマスラヲノアラソフミレバイケリトモアフベクアレヤ》とあるのと同じである。
 この歌も、人間同志らしく歌つて居り、特に、結句の、『袖かへずあれや』に力が籠つて居る。
 この歌は、流布本赤人集に、『天の川夜舟うかびて明けぬれども逢はむと思ふたもとかへさむ』とあるが、西本願寺本には無い。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二一〕
  遠妻《とほづま》と手枕《たまくら》交《か》へて寐《ね》たる夜《よ》は鷄《とり》が音《ね》な動《とよ》み明《か》けば明《あ》くとも
  遙※[女+莫]等 手枕易 寐夜 ※[奚+隹]音莫動 明者雖明
 
(400) ○遙※[女+莫]等 原文遙※[女+莫]等に作る。※[女+莫]は醜の意で此處にふさはしくないが、西本願寺本に※[女+〓]、温故堂本・大矢本に※[女+莫]に作つて居り、拾穗抄は※[女+〓]。代匠記精は※[女+英]、考は媛、略解は嬬の誤とした。代匠記精に、『※[女+莫]ハ説文云。※[女+莫]母鄙醜也。カカレバ今ノ義ニ非ズ。玉篇云。※[女+英]《エイ》【於京切、女之美稱】若此字ヲ書誤レルニヤ』とあり、なほ新考に、『※[女+莫]は異本に※[女+〓]とあり。※[女+莫]《ボ》は醜婦、※[女+〓]《カン》は老嫗の貌にて共に穩ならず、※[女+英]又は※[女+美]の誤か』と云つて居る。兎に角古來ツマと訓んでゐるからさうして置く。○※[奚+隹]音莫動 舊訓トリガネナクナ。代匠記初書入トリカネトヨムナ。考トリ|ガ《(ハ)》ネナキソ。略解トリガネナナキ(古義同訓)。新考トリガネナトヨミ(新訓・全釋同訓)。
 一首の意は、今まで遠く隔つてゐた妻の織女とやうやく逢つて手枕を交はして寐た夜は、夜が縱ひ明けても、※[奚+隹]は鳴かないで呉れ。曉になつたことを知らせずに呉れ。といふぐらゐの意である。
 此歌は、玉葉集戀部に入り、『題しらず。讀人しらず。とほつまと枕かはしてねたる夜は鳥の音鳴くなあけはあくとも』とある。また、和歌童蒙抄に、『トヲツマトタマクラアケテネタルヨハトリノネナクナアケハアクトモ』とあり、赤人集【西本願寺本】に、『とをきいもとたまくらやすらねぬるよはにはとりなくなあけはあくとも』(【流布本第二句『たまくらやすく』、結句『あけはすぐとも』】)とあり、六帖に、『遠妻とたまくらかへて寢たる夜は鳥の音なくに明けは明くとも』とあり、夫木和歌抄に人丸作として、『とほつまと手(401)枕かはしねたる夜は鳥のねなくなあけはあくとも』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二二〕
  相見《あひみ》らく飽《あ》き足《た》らねどもいなのめの明《あ》け行《ゆ》きにけり船出《ふなで》せむ※[女+麗]《つま》
  相見久 ※[厭のがんだれなし]雖不足 稻目 明去來理 舟出爲牟※[女+麗]
 
 ○相見久 舊訓アヒミマク。古寫本の多くは(神・西・細・元・累・温〕アヒミラク。○稻目 イナノメノで、明《あく》に係つた枕詞である。『稻目トハシノノメニ同ジ。神代紀上云、乃(チ)以2御手(ヲ)1細2開《ホソメニアケ》磐戸(ヲ)1窺之《ミソナハス》。此シノノメノ明ル事ノ本《モト》ナルベシ。眠タル人ノ目ヲ少シ開《アク》ニナズラヘテ細開ヲホソメニアケトハ點ゼル歟。【中略】俗ニ目ノ細キヲ薄ニテ切タラム程ト云モ、シノススキト云ヘバ、シノノメニ近シ。稻葉モ細キ物ナレバ、イナノメモ亦シノノメノ意ニ同ジ』(代匠記精)。『阿佐米余玖《アサメヨク》は、旦目吉《アシタノメヨク》なり。【中略】さて其阿志多の阿志を反せば伊となる。多《タ》と奈《ナ》は韻《コヱ》通へり。然れば伊奈《イナ》のめの明ゆくときは、あしたの目の明ゆくてふことなり。故に此語を夜の明ることに冠らせたり』(冠辭考)。『此は稻目《イネノメ》は、稻之群《イナノメ》と云なるべし。目とは、集中に小竹之目《シヌノメ》とよめる目《メ》に同じくて、群《ムレ》の(402)意なり。牟禮《ムレノ》切|米《メ》。【中略】さて明《アケ》とかかるは、熟《アカ》らむと云意にいひかけたるなるべし。稻の熟するをあからむと云は古言にて、皇極天皇(ノ)紀に、九穀|登熟《ナリアカラム》。天智天皇(ノ)紀に、一宿之間(ニ)稻生(テ)而|穗《ホイデ》、其(ノ)旦|重頴《カブシテ》而|熟《アカラメリ》などあり』(古義)。
 一首の意。かうして折角逢うて、相見ることに飽き足りないのだけれどももう夜も明けてしまうた。爲方がないから船出して歸途につかう、妻の織女よ。
 此歌は、六帖に人麿作とし、『あひ見まく秋たたずともしののめの明けはてにけり舟出せむかは』とあり、袖中抄に、『アヒミマクアキタラストモ稻目《イナノメ》ノアケユキニケリフナテセムイモ』とあり、赤人集【西本願寺本】に、『あひみまくあれともあかすしのゝめのあけにけらしなふならせんいも』、同流布本には、『あひ見らくあきたらねどもしののめの明けにけらしな舟出せむ妹』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二三〕
  さ宿《ね》そめて幾何《いくだ》もあらねば白妙《しろたへ》の帶《おび》乞《こ》ふべしや戀《こひ》もすぎねば
  左〓始而 何太毛不在者 白栲 帶可乞哉 戀毛不過者
 
(403) 第二句、考ではイクバクモアラネバ。『サは發語なり。イクダはイクバクの略なり。ココダクをココダと言ふに同じ』(略解)とあり、結句は舊本『戀毛不遏者《コヒモツキネバ》』とあつて此につき、代匠記精に、『落句ノ遏ヲ校本ニ過ニ作リ、紀州ノ本ノ點ニスギネバトアレド、下ニモ此句アル歌アルニ、五字共ニ今ト同ジケレバ異ヲ取ラズ』とある。古寫本等の多くに『過』とあり(元・類・神・細・無)、スギネバと訓んだのもあるから(元・神)、今はそれに從つた。
 一首の意。久しぶりでお逢ひして、未だいくらにもなりませぬのに、そして二人の戀おもふ心もまだまだでございますのに、もうあなたは白妙の帶をよこせと仰つしやるのですか、そんなに慌しくお歸りにならなくともいいではございませぬか。
 『帶を乞ふ』は、『彦星の帶を解て、織女の取おきたるを、それとりて給はれと、別(レ)に臨《ナリ》て、彦星の乞ふるままに、織女のよめるなり』(古義)とある如くであるが、卷三(四三一)に、倭文幡乃帶解替而廬屋立妻問爲家武《シヅハタノオビトキカヘテフセヤタテツマドヒシケム》。卷十二(二九七四)に、紫帶之結毛解毛不見本名也妹爾戀度南《ムラサキノオビノムスビモトキモミズモトナヤイモニコヒワタリナム》。卷二十(四四二二)に、宇都久之美於妣波等可奈奈阿也爾加母禰毛《ウツクシミオビハトカナナアヤニカモネモ》とある等、皆、帶を解くことに關係してゐるが、『帶を乞ふ』といふことは他に無い。それだけこの歌は行動は細かいものである。
 
          ○
 
(404)  〔卷十・二〇二四〕
  萬世《よろづよ》に携《たづさ》はり居《ゐ》て相見《あひみ》とも思《おも》ひ過《す》ぐべき戀《こひ》にあらなくに
  萬世 携手居而 相見鞆 念可過 戀爾有莫國
 
 ○携手居而 舊訓テタツサヰヰテ。代匠記初タヅサヘヰテ。童蒙抄タヅサヰヲリテ。考タヅサハリヰテ。○戀爾有莫國 舊本『戀奈有莫國』でコヒナラナクニと訓む。考、奈は尓の誤。古寫本、奈は尓(元・類)に作る。そこで考に從ひ、コヒニアラナクニと訓んだ。
 一首の意は、萬年までも一しよに相逢うてゐてもそれで澤山だといふ私等の戀ではない。だから、ただ一夜だけの歡會で別れるのはつらいといふ意を含ませてある。
 『思ひ過ぐ』はこの前の歌に、『戀の過ぎねば』とあるのと同樣である。『明曰香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき戀にあらなくに』(卷三。三二五)は山部赤人の作だが、形が似てゐるから、ひよつとせばこの歌の影響があるのででもあらうか。なほ、『石上布留《いそのかみふる》の山なる杉群《すぎむら》の思ひ過ぐべき君にあらなくに』(卷三。四二二)。『朝に日《け》に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに』(卷四。六六八)。『神南備《かむなび》の三諸《みもろ》の山に齋《いは》ふ杉おもひ過ぎめや蘿《こけ》生《む》すまでに』(卷十三。三二二八)等の用例がある。
 
(405) 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『よろつよをたつさはりゐてあひみむとおもふへしやはこひあらなくに』、同流布本に、『よろづよをたづさはりゐてあひ見とも思ひすぐべき戀ならなくに』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二五〕
 萬世《よろづよ》に照《て》るべき月《つき》も雪隱《くもがく》り苔《くる》しきものぞ逢《あ》はむと念《おも》へど
  萬世 可照月毛 雲隱 苦物叙 將相登雖念
 
 ○可照月毛 舊訓テルベキツキモ。童蒙抄テラセルツキモ。○雲隱 舊訓クモガクレ。童蒙抄クモガクル。略解クモガクリ。○苦物叙 舊訓クルシキモノゾ。古寫本中クルシキモノヲ(細一訓)。○將相登雖念 舊訓アハムトオモヘド。代匠記精アハムトモヘド。
 第三句までは序のやうに使つて居り、主な内容は、『苦しきものぞ逢はむと念へど』にある。いつも變りなく照るはずの月も雲に隱れることがある。そのやうにいつも逢はうとおもふのだが、逢へないことのあるのは苦しいといふのである。七夕の戀をば人間らしく同情して歌つてゐるのである。古義では、『吾等が中もその如く、萬世に永く久しく相見むとは思(ヘ)ども、年にただ一夜の(406)逢瀬なれば、別に臨《ナリ》てほ、かの月の雲がくれたるを見る如くに、せむ方なく心もくれて、苦しきものぞ、と云ならむ』と解しゐるが、この歌は別れの時の歌でなく、まだ逢はぬ時の氣持で、そこが人間らしくておもしろいのである。且つ『逢はむと念へど』が利くのである。『萬世に』は月の照るに係るので、常に逢ふといふことなどに係るのではない。これは、歌としては取りたてていふほどのものではないが、やはり、『苦しきものぞ』といふ切實な句に心を牽かれるのである。萬葉には、
   難波潟|潮干《しほひ》なありそね沈みにし妹が光儀《すがた》を見まく苦《くる》しも (卷二。二二九〕
   うち日さす宮に行く兒をまがなしみ留《と》むるは苦し遣るはすべなし (卷四。五三二)
   思ひ絶え佗《わ》びにしものをなかなかに何か苦しく相見|始《そ》めけむ (卷四。七五〇)
   外《よそ》に居て戀ふるは苦し吾妹子を繼ぎて相見む事計《ことはかり》せよ (卷四。七五六)
   霍公鳥《ほととぎす》無かる國にも行きてしかその鳴く聲を聞けば苦しも (卷八。一四六七)
   なかなかに死なば安けむ出づる日の入る別《わき》知らぬ吾し苦しも (卷十二。二九四〇)
   隱《こも》りのみ戀ふれば苦し山の端ゆ出で來る月の顯《あらは》さば如何《いか》に (卷十六。三八〇三)
等、その他クルシの用例が多い。そして場合によつて少しづつ意味も違つてゐるから、さういふ方面にも注意すれば、この語を現代的に活かすことも亦さう困難ではないだらう。
(407) 此歌は、赤人集【西本願寺本】に、『よろつよをへたつるつきかかもかくれくるしきものそあはむとおもふは』、同流布本に、『よろづよに照らすべき月くもがくれくるしきものぞ逢はむと思へば』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二六〕
  白雲《しらくも》の五百重隱《いはへがく》りて遠《とほ》けども夜去《よひさ》らず見《み》む妹《いも》が邊《あたり》は
  白雲 五百遍隱 雖遠 夜不去將見 妹當者
 
 ○五百遍隱・雖遠 舊訓イホヘカクシテ・トホケドモ。童蒙抄イホヘニカクレ・トホクトモ。考イホヘガクリテ・トホケドモ。古寫本イホヘガクレテ・ト|ホ《(ヲ)》クトモ(元・類・西・細・神・温)。イホヘガクレテ・ト|ホ《(ヲ)》ケドモ(矢・京)。○夜不去將見 舊訓ヨカレセズミム。代匠記精ヨヒサラズミム。ヨヒサラズ、とは毎夜といふことで下にも見えてゐる。
 一首の意は、妻の織女の居るあたりは白雲が幾重も重なつて、その奥に隱れて遠いのだけれども、それでも毎夜ながめて居よう。妻の居るあたりは。といふのである。(408)ヨヒサラズは、『奥山に住むとふ鹿《しか》の初夜《よひ》去《さ》らず妻問《つまど》ふ萩の散らまく惜しも』(卷十。二〇九八)。『三笠の山に朝さらず雲居たなびき容鳥《かほどり》の間《ま》なく數《しば》鳴く』(卷三。三七二)。『つぬさはふ磐余《いはれ》の道を朝《あさ》離《さ》らず行きけむ人の』(同。四二三)。『鹿背《かせ》の山|樹立《こだち》をしげみ朝去らず來鳴きとよもす※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》のこゑ』(卷六。一〇五七)。『今日もかも明日香の河の夕さらず蝦《かはづ》なく瀬の清《さや》けかるらむ』(卷三。三五六)。『み空ゆく月讀壯士《つくよみをとこ》夕去らず目には見れども寄る縁《よし》もなし』(卷七。一三七二)。『夕さらず河蝦《かはづ》鳴くなる三輪河の清き瀬の音《と》を聞かくし宜しも』(卷十。二二二二)等の例がある。なほ、『明日香河川淀さらず立つ霧の』(卷三。三二五)。『里遠み戀ひ佗びにけりまそ鏡面影去らず夢に見えこそ』(卷十一。二六三四)といふ例も參考となるであらう。
 この歌は、事件本位でなく、單純に歌つたために、聲調も豐かに莊重になつた。ただ稍|樂《らく》に作つて沈痛の餘響に乏しいが、これは題咏の如きものだから爲方がないのである。
 此歌、和歌童蒙抄に、『シラクモノイオヘヽタテヽトヲクトモヨカレスヲミムイモカアタリハ』、とあり、赤人集【西本願寺本】に、『しらくもをいろ/\たてしとほくともよふさゝろをみむいもかあたりを』、同流布本に、『白雲をいくへへだてて遠くともよひさらず見むきみがあたりを』とある。
 
          ○
 
(409)〔卷十・二〇二七〕
  我《わ》がためと織女《たなばたつめ》のその屋戸《やど》に織《お》る白妙《しろたへ》は織《お》りてけむかも
  爲我登 織女之 其屋戸爾 織白布 織弖兼鴨
 
 ○織女之 タナバタツメは棚機津女で機織る女であるのが牽牛織女の織女に使ふやうになつたこと既に云つた如くである。○織白布 舊訓ヲルシラヌノハ。略解オルシロタヘハ(新考同訓)。古義オレルシロタヘ。○織弖兼鴨 舊訓ヲリテケムカモ。古義ヌヒテケムカモ。
 一首の意。わが爲めに、妻の織女が彼女の家で織る白妙《しろたへ》(白い布)は、もう織れたであらうか、どうだらうか。
 この歌も牽牛のつもりになつて咏んで居るが、同じ空想でもやはり人間同志のやうな心持があらはれてゐる。特に、機を織る戀人に見たて、親愛の情を籠めてゐる點が珍しく、『織りてけむかも』といふ表はし方も簡潔、素朴で好いやうである。童蒙抄に、『彦星になりて詠める歌也。只織女我を慕ひ思ふから、なす業の事も如何にぞやと、思ひやれる處に、自ら戀慕の情こもれる歌也』とあるのは要を得て居る。
 『棚機《たたばた》の五百機《いほはた》立てて織る布の秋さり衣《ごろも》誰か取り見む』(卷十。二〇三四)。『いにしへに織りてし(410)機をこのゆふべ衣《ころも》に縫ひて君待つ吾を』(同。二〇六四)。『足玉《あしだま》も手珠《てだま》もゆらに織る機《はた》を君が御衣《みけし》に縫ひ堪《あ》へむかも』(同。二〇六五)等の歌を參考としていい。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『わかためとたなはたつめのそのやとにおるしらぬのはおひとかうかも』(【流布本初句『わがために』、結句『おりてけむかも』】)とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二八〕
  君《きみ》に逢《あ》はず久《ひさ》しき時《とき》ゆ織《お》る機《はた》の白《しろ》たへ衣《ころも》垢《あか》づくまでに
  君不和 久時 織服 白栲衣 垢附麻弖爾
 
 ○君不相 舊訓キミニアハデ(【代匠記・考同訓】)。神田本にキミニアハズ(【略解・古義・新考同訓】)。○久時 舊訓ヒサシキトキニ。童蒙抄フリニシヨヨリ。略解ヒサシキトキユ。古義ヒサシキトキヨ。新考ヒサシクナリヌ。いま、略解訓に從ふ。○織服 舊訓ヲリキタル(代匠記同訓)。童蒙抄オルハタノ(【略解・古義同訓】)。考オリテキシ。新考オリキセシ。
 一首の意。あなたにお逢(交會)ひすることも出來ず、遠い昔からあなたの爲めに織つて置い(411)た白布の衣服も、もう垢づくまでになりました。そんなに久しくお逢ひ出來ずに居るのです。
 この初句は、『逢はずして』と第二句へ續くのである。また、結句の、『垢づくまでに』は餘響を持たせたので、『なりぬ』などといふ語を補充して味へば好い。若し強ひて關聯せしめるとすると、『久しき』に關聯せしめてもかまはぬ。併し、結句は結句として獨立せしめて考察する方がいいのである。
 この歌は無論織女の心持になつて咏んだものだが、新考に、『略解に織女になりてよめりといひ、古義に織女のいへる意にやといへるも非なり。無論牽牛の語なり』と云つてゐるのは間違である。なぜ新考でかう間違つたかといふに、『君にあはず久しくなりぬ織服《オリキセシ》しろたへごろも垢づくまでに』と訓んだからである。西本願寺本赤人集に、『きみにあはで久しくなりぬおびにせし白妙ごろもあかづくまでに』とあるのも牽牛的になつてゐるが、これも原作からは遠い。この歌は、『織女に成りて詠めり。服を上にもハタと訓めり』(略解)で解釋がつくとおもふのであるが、『垢づくまでに』を、牽牛の衣服らしく感ずるので間違つてしまふのであらうか。童蒙抄で、『歌の意は、七夕の逢ふ事久敷月日を隔てて、著たる衣も垢づく迄になりしと云義也。印本諸抄の通りに、久しき時にと讀みては、歌の意少し濟み難き也。君に逢はで久しければと云ふ意にあらざれば聞え難き也』云々と云つてゐるのもそのためで、少しのところに引掛るのである。
(412) 此歌、前に引くごとく赤人集【西本願寺本】に、『きみにあはてひさしくなりぬおひにせしゝろたへころもあかつくまてに』とあるが、同流布本には、三四句『織るはたの白妙衣は』となつてゐる。又夫木和歌抄に人丸作として、『君にあはすひさしきときはおりきたるしろたへ衣あかつくまでに』と載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二九〕
  天漢《あまのがは》楫《かぢ》の音《と》きこゆ彦星《ひこぼし》と織女《たなばたつめ》と今夕《こよひ》逢《あ》ふらしも
  天漢 梶音聞 孫星 與織女 今夕相霜
 
 ○梶音開 舊訓カヂノオトキコユ。古寫本中カヂ|オ《(チ)》トキコユ(元・類・神・京)。考カヂノトキコユ(略解・古義等同訓)。
 一首の意は、いま天の河に船こぐ櫂《かい》の音が聞こえる。今夜は彦星と織女とが交會するのだ。といふぐらゐの意で、ラシは現在に本づく推量だから、いよいよ二つの星が逢ふところらしいなといふことになる。
(413) これは第三者が、天の河をあふいで、想像してゐる趣の歌で、内容も單純であるから、一つの調和がとれて破綻を來さない。そのかはり一首は餘り安易で物足りないが、歡喜の感情を傳へてゐる點を取るべきである。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『あまのかはかちおときこゆひこほしのたなはたつめとけふやあふらし』(【流布本結句『こよひあふらし』】)とある。又夫木和歌抄に、人丸作として本文と同じ訓で載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇三〇〕
  秋《あき》されば河《かは》ぞ霧《き》らへる天《あま》の川《がは》河《かは》に向《む》き居《ゐ》て戀《こ》ふる夜《よ》ぞ多《おほ》き
  秋去者 河霧 天川 河向居而 戀夜多
 
 ○河霧 舊訓カハキリタチテ。代匠記、發・立等の脱としカハキリタチテ。渡の脱としてカハキリワタル。考カハギリタチツ。略解カハギリワタル。古義カハギリタテル。新考カハギリキラス。又はカハギリキラフ。新訓カハゾキラヘル。温故堂本に、霧の下に立の文字があるから、さすればカハギリタテルと古義の訓が好いことになる。○河向居而 舊訓カハニムカヒテ。代匠記(414)精カハニムカヒヰテ。童蒙抄カムカヒヲリテ。考カハニムキヰテ(古義・新考同訓)。略解カハニムキヰテ、又はカハニムカヒヰ。○戀夜多 舊訓コフルヨゾオホキ。新訓コフルヨオホシ。
 一首の意は、秋になると、もう天の河には霧が立ちそめる、その遠く霧《きら》ひ居る河に向かつて逢ふ夜も近づくので夫《をつと》を待ち思ふ夜が多くなつた。といふぐらゐの意で、考に、『織女に成てよめるなり』とあるのがよい。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『秋立て河霧わたるあまのかは』、同流布本に、下句『川にむきゐて戀ふる夜ぞ多き』とある。又後撰集に、讀人しらずとして『秋くれば川霧渡る天の川かはかみ見つつこふる日の多き』と載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇三一〕
  よしゑやし直《ただ》ならずともぬえ鳥《とり》のうら嘆《なき・なげき》居《を》りと告《つ》げむ子《こ》もがも
  吉哉 雖不直 奴延鳥 浦嘆居 告子鴨
 
 ○浦嘆居 舊訓ウラナキヲルト。古寫本でもウラナキ|ヲ《(オ)》ルト(西・細・温・矢・京)。ウラナゲキ(415)ヲル(元・類・神)の訓で、ナゲの訓がない。併し、これは前の歌のところで言及したやうに、ナゲが認容されれば調べが一番よいが、さもなければ一字餘してウラナゲキヲリトと訓んでよい。新考では現に、ウラナゲキヲリトと訓んで居る。
 一首の意は、たとひ直接でなくとも、こんなにして〔奴延鳥《ぬえどりの》〕心に歎いて戀しく思うてゐるといふことを知らせて呉れる人でも居ればよい。といふのであらう。これは織女の心になつて咏んで居る。
 『告げむ子もがも』をば、略解で、『子にもがもといふ意なり。子は妹を指す』と云つたのに就いて、古義で反對し新考も採用して居ない。『子《コ》は使の童にて、かくと告ゆかむ使もがなあれかしの意なり』(古義)。『告ゲム人モアレカシといへるなり』(新考)とある。一首の聲調が順當で、意味もむづかしくない。ここの一聯の七夕の歌のうちでは相當な歌と謂つていいだらう。
 此歌は、袖中抄に、『吉哉《ヨシエヤシ》タヽナラネトモヌエトリノウラナケキヲルツケムコモカモ』とある。
 
          ○
 
(416)  〔卷十・二〇三二〕
  一年《ひととせ》に七夕《なぬかのよ》のみ逢《あ》ふ人《ひと》の戀《こひ》も過《す》ぎねば夜《よ》は更》ふ》けゆくも 【一云。盡《つ》きねばさ夜《よ》ぞあけにける】
  一年邇 七夕耳 相人之 戀毛不過者 夜深往久毛 【一云。不盡者佐宵曾明爾來】
 
 一首の意は、一年のうちでただ七日《なぬか》の夜《よ》だけ逢ふことの出來る牽牛・織女の戀はいつまでも盡きないのに、もはや夜も更けて行く。誠に惜しくてならないといふので、一に云ふの方は、夜はもう明けてしまったといふことになる。
 『過ぎねば』といふ語の使ひざまについては既に前に云つた。此處も舊本は『不遏者《ツキネバ》』となつてゐるが、古寫本中には『不過者』と書き(元・類・神)、スギネバと訓んだ(神)のがある。この歌は第三者が二星の戀に同情して咏んで居る趣である。
 代匠記精撰本に云。『不遏者ヲ赤人集ニアハネハトアルハ、推量スルニ遏ヲ遇ニ見マカヘタル歟。或ハ古本誤テ遇ニ作リケルナルベシ』。『一云不盡者佐宵曾明爾来。此ニ疑アリ。集中異本ヲ注スル例、句ニ異アルヲ注シ載テ、異ナキヲ注スル事ナシ。此事ハ仙覺モ申サレタリ。今不盡者トハ不遏者ノ異歟。共ニツキネバトヨメバ異ナシ。仮令不遏者ハヤマネバト讀トモ、一云戀毛不盡者等ト云べシ。何ゾ一句ノ半ヲ出サム。此ハ撰者ノ注ニハアラズシテ後人ノ所爲歟。若撰者ノ(417)注ナラバ不遏者ハヤマネバニテ、今ノ注ニ戀毛ノ二字落タルナルベシ』。
 此歌、赤人集【流布本】に、『一年に七日の夜のみ逢ふ人の戀も盡きねば夜更行くかも』とあり、又一本に、第四句『こよひもあはねば』ともなつてゐる。西本願寺本には無い。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇三三〕
  天漢《あまのがは》安《やす》の川原《かはら》に定《さだ》まりて神競《かむつつどひ》は時《とき》待《きま》たなくに
  天漢 安川原 定而 神競者 磨待無
 
 ○安川原・定而 舊訓ヤスノカハラノ・サダマリテ(【代匠記・考・略解同訓】)。童蒙抄宗師案ヤスノカハラニ・チギリツツ、愚案ヤスノカハラニ・チギリオキシ。略解宣長説、『或人説に、而は西の字の誤』で、ヤスノカハラニ・サダメニシ。古義ヤスノカハラニ・サダマリテ。新考ヤスノカハラハ・サダマリテ。○神競者・磨待無 舊訓ココロクラベハ・トキマツナクニ。代匠記カガミクラベハ・トグモマタナク。童蒙抄宗師案タマノアリソハ・ミガキテマタナ。愚案ココロクラベバ・トキモマタナク。考カンツツドヒハ・トキマタナクニ。略解カムツツドヒハ・トキマタナクニ。略解、宜長(418)或人説、競は鏡の誤で、カミノカガミハ・トグマタナクニ。古義、磨待は禁時の誤で、カミノツドヒハ・イムトキナキヲ。新考、磨待は度時の誤、カミノキホヘバ・ワタルトキナシ。全釋は略解訓に從つた。私もそれに從ふ。
 一首の意。天漢《あまのがは》の安《やす》の河原で神集《かむつどひ》したまふ諸神の時はこれと云つて定《き》まつて居ず、時さへあれば何時でも會合が出來ますのに、私達(牽牛・織女の二星神)二人の會ふことの出來るのは、一年にただの一夜に過ぎないのは、恨めしいことである。といふ意で、『天の安川の神集は、いつと定らずたびたびあなりしを、此星合の事は安川の定りてより、一年に一度としたるはいかにとうらみをふくめる意を、ここに其神集は時またなくにとのみいひ、二星の心になりてよめるなり』(考)。『諸神の天安河原に集ひ給ふは、時に臨みてあるを、二星の集ひは、一歳に唯だ一夜のみと定まれるを恨むなり』(略解)。
 この歌は、難解だつたと見えて、諸注釋書が種々に解釋してゐることは、既にその訓のまちまちなのによつても分かるが、今參考のために少しく抄出して置かうとおもふ。『今試ニ此ヲ釋セバ、先下句ヲ和シカヘテ、カガミクラベハトグモマタナクト讀ベキ歟。日本紀ニ明神ヲアラカガミト點ゼレバ神ヲ鏡ニナシテヨマム事無理ナラズ。神道家カミハカガミノ略語ト云ヘリ。後撰集ニ共鏡《トモカガミ》トヨメルハ互ニ見合スル意ナレバ鏡競《カガミクラベ》トモ云ベキニヤ。カクテノ意ハ、牛女ノ互ニ相思フ(419)心ノ明ラカニ淨キ事ハ鏡ニ鏡ヲ向ヘテクラブルニ、此方《コナタ》彼方《カナタ》替ル事ナキガ如シ。サレドモ其鏡ハ猶|磨《トグ》ヲ待テ然ルヲ、此二星ハ淵瀬《フチセ》變《カハ》ラヌ天河ノ神代ヨリ定マル如クシテ、心ヲ勵《ハゲマ》シテ淨《キヨ》カラムト思ハネド、オノヅカラ淨キヲ磨モマタナクトヨメルニヤ』(代匠記精)。『天河安川原と重ねて云ひて、天河に年に一度あはんと契り置きて、今夜逢ふ夜なれば、玉の荒磯を祓ひ清めて、みがきて待たなんと云ふ意に見る也』(童蒙抄宗師案)。『此已下七夕の歌に時を待つ待たぬと詠める類歌數多あれば、相思ふ戀しさの心は何時をもわかず、初秋の時をも待たぬと云意に詠める歟』(童蒙抄愚案)。『神代より天(ノ)安河に神の競《アラソ》ひ集《アツマ》り給ふことは、いつと定まりて禁《イミ》さくる時なきものを、かく七夕《ナヌカノヨ》とのみ定りて、他時にあふことのならぬが恨めし、と云ならむか、猶考(フ)べし』(古義)などで、種々面倒に解釋してゐる。併しこの歌も、さうむづかしくなく解釋して意味の通ずる歌だとおもふから、考・略解の解に大體從つたのであつた。
 歌は、七夕の歌で、取たてていふほどのものでない。ただ一首には七夕といふことを云はずに、暗にそれを示すといふ具合になつて居る。
 この歌の左注に、『此歌一首庚辰年作之』とあつて、別行にして、『右柿本朝臣人麿歌集出』とある。右云々といふのは右三十八首を指すのである。庚辰は天武天皇の白鳳九年か、聖武天皇の天平十二年かいづれかであるが、天平十二年の方は除去し得るとして、持統元年に人麿の年齡を(420)二十五歳とせば、天武天皇の白鳳九年(【即ち天武天皇八年。弘文天皇壬申の年を白鳳元年として計算した。】)には、人麿の年齡は十八歳となるわけである。そこでさう若い人麿が斯る歌を作り得るか否かといふことになつて、疑ふ學者もあり、私も疑ふ側にゐたのであつたが、今ではこのくらゐの歌を十八歳の人麿が作つても毫も差支はないと思ふやうになつた。二十七歳ごろの人麿が近江の荒都を過ぎて、あれだけの長歌を作つてゐるのから推して、その發育史中に、十八歳の人麿がこれぐらゐの短歌は作り得ると做すのである。『此一首は石見にてよまれたる歟』(代匠記初)といふのは、契沖は人麿をば石見人と考へてゐるからである。『庚辰年ハ次ニ人丸歌集出トアレバ、人丸ノ歌ニモアレ、別人ノ歌ニモアレ、天武天皇白鳳九年ノ作ナルベシ』(代匠記精)といふのになると、必ずしも石見での作だらうとは云つて居ない。
 人麿歌集の歌の書き方は簡單で助詞等を省略したのが多いが、此歌もその特徴が存じてゐる。そして、人麿歌集を全部或は一部、人麿自身の手控になつたものだとすれば、『此歌一首庚辰年作之』といふことわり書のやうなものが、自記の語氣である點をも理會し得るのではなからうか。
 この歌は、和歌童蒙抄に、『アマノカハヤスノカハラノサタマリテコヽロクラヘハトキマタナクニ』とあり、赤人集に、『あまのかはやすのかはらにさたまりてかゝるわかれはとくとまたなむ』(【西本願寺本・流布本】)となつて載って居る。また夫木和歌抄に、『よみびとしらず』として載り、和歌童蒙抄(421)と同じ訓である。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇九四〕
  さを鹿《しか》のこころ相念《あひおも》ふ秋萩《あきはぎ》の時雨《しぐれ》の零《ふ》るに散《ち》らくし惜《を》しも
  竿志鹿之 心相念 秋芽子之 鐘禮零丹 落僧惜毛
 
 『詠v花』といふ題で、『右二首柿本朝臣人麿之謌集出』と左注せられたその第一首である。○落僧惜毛 舊訓チリソフヲシモ(代匠記同訓)。童蒙抄チラマクヲシモ。チルラシヲシモ。チカヒシヲシモ。考チラマクヲシモ(一本ヲチマクヲシモ)。略解チラマクヲシモ(僧は倶の誤)。古義チラクシヲしも(僧は信の誤)。宣長チラマクヲシモ(僧は漠の誤)。字音辨證に僧にシの音ありとし、知僧裳無跡《シルシモナシト》(卷四。六五八)を證とし、新考もそれに從ひ、『但師と書くべきを僧と書けるにて一種の義訓なるべし』と云つた。
 一首の意は、小男鹿《さをしか》の戀ひおもふ秋萩の花が、この時雨《しぐれ》に散るのは奈何にも殘念なことである。鹿の臥處としても滿足せしめたい心持を含めて居る。
(422) この萩と鹿との關係は、『奧山に住むとふ鹿の初夜《よひ》去らず妻問ふ萩の散らまく惜しも』(卷十。二〇九八)。『わが岳《をか》にさを鹿來鳴く先芽《ききはぎ》の花嬬《はなづま》問《とひ》に來鳴くさ牡鹿』(卷八。一五四一)。『三垣の山に秋萩の妻をまかむと』(卷九。一七六一)。『秋萩を妻問ふ鹿こそ一子《ひとりご》に子持たりといへ鹿兒《かこ》じもの吾が獨子の』(卷九。一七九〇)などの例によつて知ることが出來る。『萩ヲバ鹿ノ妻トモ云ヘバ相念ト云ヘリ』(代匠記精)と注してある。
 シグレは、後には、晩秋初冬にかけて降る雨であるが、元來は小雨の義であつた。『和名云、〓雨《シグレハ》、孫※[立心偏+面](カ)曰、〓雨(ハ)小雨(ナリ)也。音與終同。漢語抄云、【之久禮。】カカレバシグレハ小雨ナルヲ、イツトナク※[手偏+總の旁]名ヲ別名トナシテ秋冬ノアハヒニ降見降ラズ見定メナキ雨ニ名付タレド、昔ハ猶廣クヨメルニヤ』(代匠記精)。
 常套手段で咏んでゐる歌だが、何か可憐な聲調があつて好い。それは、かういふ内容は當時にあつては新鮮な感じを持つてゐたためだつたかも知れない。そこで、『散らくし惜しも』の如き常套手段でも、相當の力を有つてゐるといふことになる。『さ夜ふけて時雨な零りそ秋萩の本葉《もとは》の黄葉《もみぢ》散らまく惜しも』(卷十。二二一五)等その他がある。
 この歌、人麿作として六帖に入り、結句『散るは惜しくも』となつてゐる。又夫木和歌抄にも人丸作とし、結句『ちらまくおし|も《きイ》』である。
 
(423)          ○
 
  〔卷十・二〇九五〕
  夕《ゆふ》されば野邊《ぬべ》の秋萩《あきはぎ》うら若《わか》み露《つゆ》に枯《か》れつつ秋《あき》待《ま》ち難《がた》し
  夕去 野邊秋芽子 未若 露枯 金待難
 
 『詠花』第二首である。○末若 古寫本も舊訓もズヱワカミであつたのを、代匠記初稿本でウラワカミと訓んだ。下の句の訓はいろいろで、ツユニシカレテ・アキマチガタシ(舊訓)。ツユニカレツツ・アキマチガタシ。六帖をとればツユニカルカネ・キミマチカネツか(代匠記精)。ツユニヤカレン・アキマテガテニ(童蒙抄)。ツユニシヲレテ(考)。ツユニヌレツツ(略解宣長訓)。ツユニシヲレテ・アキマチガテヌ(略解)。ツユニカレツツ・アキマチガタシ(古義)。ツユニゾヲルル・
アキマチガテニ(新考)等であるが、暫く代匠記に從つた。ウラワカミは、『末《うら》わかみ花咲きがたき梅を植ゑて人の言《こと》繋《しげ》み思ひぞ吾が爲《す》る』(卷四。七八八)。『葉根※[草冠/縵]《はねかづら》いま爲《す》る妹をうら若みいざ率》川《いざかは》の音の清《きや》けさ』(卷七。一一一二)。『高圓の秋野の上の瞿麥《なでしこ》の花うら若み人のかざしし瞿麥の花』(卷八。一六一〇)。『はね※[草冠/縵]《かづら》今する妹がうら若み咲《ゑ》みみ慍《いか》りみ著《つ》けし紐解く』(卷十一。二六二七)な(424)どの例がある。また、伊勢物語には、『うら若みねよげに見ゆる若草を人の結ばむ事をしぞおもふ』といふのがある。
 一首の意は、夕がたになると露が重くおくので、萩がまだ若くその露に堪へかねてしをれ、來るべき秋に咲くのも咲かずにしまふ。といふほどの歌であらうか。秋待ちがたしは秋を待ちかねるといふことで即ち秋までは保たないといふ意があるのである。この歌の『枯』の字が腑に落ちない云方なので種々の異訓が出來たのであらうが、これは、花咲きかねるほどに萎《しを》れる心持だとおもふ。つまり感じで咏んでゐるのだから、是非『折れる』と理論的に云ふ必要も無いやうに思へる。
 此歌、六帖『またず』の部に入り、下句『露にかれかねきみまちかねつ』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二一七八〕
  妻《つま》ごもる矢野《やぬ》の神山《かみやま》露霜《つゆじも》ににほひそめたり散《ち》らまく惜《を》しも
  妻隱 矢野神山 露霜爾 爾寶比始 散卷惜
 
(425) 『詠2黄葉1』といふ題で、『右二首柿本朝臣人麿之謌集出』と左注された第一首である。○妻隱 舊訓ツマコモル。古寫本中ツマコモル(西・矢・京・細・温)。ツマカクス(元・類・神)の二訓があつた。ヤに係る枕詞で、ツマが居る『屋《や》』といふ意味からヤヌに係つた。卷二(一三五)に、嬬隱有屋上乃山乃《ツマゴモルヤカミノヤマノ》といふ人麿の用例のあるのも同樣な用法である。
 矢野《やぬ》の神山《かみやま》は何處の山か不明であるが、和名鈔には、備後甲奴郡に矢野があり、伊豫喜多郡に矢野【也乃】があり、播磨赤穗郡に八野《ヤノ》があり、出雲|神門《かむと》郡に八野がある。また、大日本地名辭書には伊勢度會郡矢野に當てて居る。新考に、『人麿謌集に出でたる歌なれば出雲國神門郡のならむ』といひ、全釋には、『左註に、柿本朝臣人麿之謌集出とあるから、人麿の旅行範圍と見るべきであらうが、それにしても出雲・備後・播磨など彼の足跡を印したところらしいので、いづれとも判じがたい』とある。若しこの歌を人麿の歌とし、實地の歌とせば、備後甲奴郡の矢野と考へることも出來る。此は既に總論篇(五五頁)〔一五卷六二頁〕にも論じた如く、當時の國府は今の府中にあつた筈だから、其處に寄るやうなことがありとせば矢野近くを通つてもかまはないのである。これはなほ後攷を待つが、若しこの歌が、人麿初期のもので、大和にゐたころに作つたとせば、大日本地名辭書の説の如くに伊勢とする方が無理がないやうである。私は現在は伊勢説に傾いてゐる。この歌は、石見から上來の時の歌のやうな氣特はしないからである。
(426) 一首の意は、〔妻隱《つまごもる》〕矢野《やぬ》の神山《かみやま》は、露霜《つゆじも》(寒露)が降つて、色づきそめた。この美しく神々しい黄葉《もみぢ》の散つてしまふのは惜しいものである。といふのである。
 この歌は、神山《かみやま》といふのだから、地名辭書の、『今矢野の南に大字|山神《ヤマカミ》の名あり』といふのは當つてゐるかも知れない。また、『爾寶比始《ニホヒソメタリ》』といふ語もなかなか好い語であるから、次の歌の處で少しく用例を拾つて置いた。
 此歌は、六帖に、『妻かくすやのの神山露霜ににほひそむらし散らまく惜しみ』、玉葉集秋の部に、人丸作『妻かくすやのの神山露霜ににほひそめたり散らまく|もをし《をしもイ》』として入つて居る。
 
          ○
 
  〔卷十・二一七九〕
  朝露《あさつゆ》ににほひそめたる秋山《あきやま》に時雨《しぐ九》な零《ふ》りそ在《あ》り渡《わた》るがね
  朝露爾 染始 秋山爾 鐘禮莫零 在渡金
 
 『詠黄葉』人麿歌集出第二首である。○染始 舊訓ソメハジメタル(【代匠記・略解同訓】)。童蒙抄ソメソメニケリ。考ニホヒソメタル(【古義・新考等同訓】)。○在渡金 舊訓アリワタルガネ(【代匠記・考・略解・古義・新考等同訓】)。童蒙抄アレワ(427)タルカニ。この意味は、『散ラズシテ有ハツル歟ニナリ』(代匠記精)といふことである。
 一首の意は、朝々降る露にやうやく色づき始めたこの秋山に時雨は降るな。いつまでも散らずに居るやうに。といふのである。
 この歌も明快で毫もむづかしくないので、その點では却つて成功して居り、歌詞も民謠風に平凡化してゐない好いところがなほ存じてゐるし、前の歌と共に、或は人膚作の歌ではないかとおもはしめるものである。特に結句に好い響を持つて居り、注意すべき響のやうである。
 このアリワタルといふ語も顧慮すべきもので、卷十八(四〇九〇)に、由具敝奈久安里和多流登毛保等登藝須奈枳之和多良婆可久夜思努波牟《ユクヘナクアリワタルトモホトトギスナキシワタラバカクヤシヌバム》といふのがあり、なほ、參考になるのは、卷二十(四三三一)の長歌に、麻須良男乃許己呂乎母知弖安里米具里事之乎波良波《マスラヲノココロヲモチテアリメグリコトノヲハラバ》といふのがある。
 なほ、ニホフといふ語の入つて居る歌で參考となるものには、卷十七(三九〇七)に、春佐禮播花咲乎乎理秋佐禮婆黄葉爾保比《ハルサレバハナサキヲヲリアキサレバモミヂバニホヒ》。卷十九(四一六〇)に、安之比奇能山之木末毛春去婆花開爾保比《アシヒキノヤマノコヌレモハルサレバハナサキニホヒ》とある。
 この歌、六帖に入り、『しらつゆに染始めたる秋山に時雨な降りそありわたるがね』となつてゐる。
 
(428)          ○
 
  〔卷十・二二三四〕
  一日《ひとひ》には千重《ちへ》しくしくに我《わ》が戀《こ》ふる妹《いも》があたりに時雨《しぐれ》ふれ見《み》む
  一日 千重敷布 我戀 妹當 爲暮零禮見
 
 『詠雨』といふ題があり、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注がある。○一日 舊訓ヒトヒニハ。古義ヒトヒニモ。○千重敷布 舊訓チヘニシキシキ。童蒙抄チヘシクシクニ。○爲暮零禮見 舊訓シグレフレミム。童蒙抄シグレフルミム。略解シグレフルミユ(禮は所の誤)。字音辨證には禮にルの音ありとし、新撰字鏡の※[魚+委]【奴磊反、※[食+委]字、魚乃曾己禰太々禮留】も、下二段活用だからタヾルルだらうとして、この歌に當嵌め、略解の如くに、シグレフルミユと訓んでゐる。
 一首の意は、一日に千|度《たぴ》も重ね重ねて戀しくおもふ妹《いも》の家のあたりに時雨《しぐれ》が降れよ。その雨を見つつ戀しい妹《いも》を偲ばう。といふのである。これは詠v雨で、雨を主として歌つてゐるので、それを妹にたぐへて居る心持である。この結句の『ミム』は句割で、つまつて居るが、集中に例の無いことはない。卷二(一三七)に、秋山爾落黄葉須臾者勿散亂曾妹之當將見《アキヤマニチラフモミヂバシマシクハナチリミダレソイモガアタリミム》は、やはり人麿の歌で(429)あり、その他、卷二(一六五)に、宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見《ウツソミノヒトナルワレヤアスヨリハフタカミヤマヲイロセトワガミム》。卷三(四二三)の長歌に、將通君乎婆明日從外爾可聞見牟《カヨヒケムキミヲバアスユヨソニカモミム》。卷四(七〇一)に、波都波都爾人乎相見而何將有何日二箇又外二將見《ハツハツニヒトヲアヒミテイカナラムイヅレノヒニカマタヨソニミム》。同卷(七〇九)に、夕闇者路多豆多頭四待月而行吾背子其間爾母將見《ユフヤミハミチタヅタヅシツキマチテユカセワガセコソノマニモミム》等である。
 次に、ヒトヒニハといふ用例も、卷二(一八六)に、一日者千遍參入之東乃大寸御門乎入不勝鴨《ヒトヒニハチタビマヰリシヒムガシノオホキミカドヲイリガテヌカモ》。卷三(四〇九)に、一日爾波千重浪敷爾雖念奈何其玉之手二卷難寸《ヒトヒニハチヘナミシキニオモヘドモナゾソノタマノテニマキガタキ》等がある。卷三の家持の歌は、この人麿歌集の歌を眞似てゐるのかも知れない。
 この一首は、雨を咏じた歌として、特徴があり、結句のシゲレフレ・ミムといふ調べも保存して置きたいとおもふのである。シグレフルミユでもかまはず、却つて平凡素朴で好いといふ人もあるのだが、たまにはさうでないものをも保存して鑑賞して好いのである。特に人麿が或る機に作つたものと想像せば、人麿は種々工夫する歌人だから、これくらゐの變化を試みたとしてもいいのである。
 この歌、六帖に入り、第二句『千重にしきしき』とある。
 
          ○
 
(430)  〔卷十・二二三九〕
  秋山《あきやま》のしたびが下《した》に鳴《な》く鳥《とり》の聲《こゑ》だに聞《き》かば何《なに》か嘆《なげ》かむ
  金山 舌日下 鳴鳥 音谷聞 何嘆
 
 『秋相聞』といふ中に分類せられて居る。『右柿本朝臣人麿之歌集出』と左注のある五首中の第一首である。○舌日下 シタビガシタニで、シタビは評釋篇卷之上に於て、卷二(二一七)の、秋山下部留妹《アキヤマノシタブルイモ》の條で既に説明した如くであるが、『黄葉ノヒカル意歟』(代匠記精)。『諸木《キギ》の變紅《モミヂ》したる秋山の色を云』(古事記傳)ぐらゐのところに解していいであらう。兎に角、美しい形容に使つて居る。○音谷聞 寛永本『音聞』であるが、古寫本(元・類・神)によつて『谷』を補つた。
 一首の意は、秋山に美しくかがやいて居る黄葉に入り交つて囀るる鳥のその聲にかよふ(以上序詞)、戀人の聲だけでも聞くことが出來るなら、こんなに嘆くことがないのであるが、それも出來ずに嘆いて居る。といふのである。
 この卷(二二六五)に、朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦聲谷聞者吾將戀八方《アサガスミカビヤガシタニナクカハヅコヱダニキカバワレコヒメヤモ》とあるのと類似してゐるが、鹿火屋の解釋がいまだ一定してゐない。
 『何か歎かむ』といふ結句についても既に類例を抄出した筈であるが、此處に一首引かば、卷四(431)(四八九)に、風乎太爾戀流波乏之風小谷將來登時待者何香將嘆《カゼヲダニコフルハトモシカゼヲダニコムトシマタバナニカナゲカム》といふ鏡王女の作の如きがある。
 この歌は、秋相聞として、民謠的に傾いた、概念的な咏みぶりのやうであるが、一首としてなかなか優れた聲調をもつて居る。序詞を使つて、中味はただ、『聲だに聞かば何か嘆かむ』だけであるが、この序詞も或る融合性を有つてゐて、單純な技巧のための技巧といふことが出來ない。また浮かずに、沁むものがあつて吟誦に堪ふるのである。かういふのはやはり人麿がある折に作つたものと想像して味つてもかまはぬであらう。
 この歌は、袖中抄に、『アキ山の舌日下ニナクトリノコヱタニキケハナトナケカルヽ』として載つてゐる。又六帖には、人まろとして、上句『かね山のしたびがしたに鳴く蛙』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二二四〇〕
  誰《た》そ彼《かれ》と我《われ》をな問《と》ひそ九月《ながつき》の露《つゆ》にぬれつつ君《きみ》待《ま》つ吾《われ》を
  誰彼 我莫問 九月 露沾乍 君待吾
 
 『秋相聞』人麿歌集出第二首である。○誰彼 舊訓タレカレト。拾穗抄タソカレト(略解・古義・(432)新考同訓)。童蒙抄タソカレニ。『祇曰、たそかれ時といふにはかはれり。誰そかれはと我をなとひそといふ心也』(拾穗抄)。『すべてタソカレと言ふは、彼は誰れぞと云ふ意なり。ここも人の見とがめて、彼は誰れぞと問ふなと言ふなり』(略解)。○君待吾 舊訓キミマツワレヲ。古義キミマツアレヲ。
 一首の意は、あれは誰だなどと私をお問ひなさいますな。九月の夜露にぬれながら戀しい人を待つて居る私です。といふのであらう。女の心持の歌である。
 代匠記では舊訓に從ひ、『發句ヲ幽齋本ニハ、タソカレトトアレド、人丸集モ六帖モ今ノ點ト同ジケレバ、彼ヲ取ラズ。是ハ他人ニ對ヒテ云ニアラズ。下ノ君ト指人ニ云ナリ。男ノ問來テ闇キ夜ナレバ、女ニタゾヤト問時、タレカレトオボツカナゲニナ問ヒ給ヒソ。長月ノ露ニ立沾テ夜深ルマデ誰カアラム。君待吾ニテアルゾトヨメル意ナリ』といつてゐるが、その『オボツカナゲニ』云々といふのは好い。この歌は既に民謠化して居る戀歌だから、ただ一人の男にむかつて云つてゐるよりも、もつと範圍がひろいやうに自然になつて居る。それがかういふ戀歌をして甘いけれども氣樂にしてしまふ所以でもあるのである。
 卷十(二〇六四)に、古織義之八多乎此暮衣縫而君待吾乎《イニシヘニオリテシハタヲコノユフベコロモニヌヒテキミマツワレヲ》。卷十三(三二七六)に、君名曰者色出人可知足日木能山從出月待跡人者云而君待吾乎《キミガナイハバヒトシリヌベミアシヒキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテキミマツワレヲ》がある。これに似たので、卷十二(三〇〇(433)二)に、足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシヒキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》といふのもある。民謠風の特色があるので、『君』を『妹』と置換へても役にたつのである。
 此歌、六帖に『誰彼と我をな問ひそ長月の時雨にぬれて君待つ人を』、柿本集に『誰彼と我をな問ひそ長月の時雨にぬれて君待つ我を』、玉葉集に、題しらず、人麿、『誰かれと我をなとひそ長月の露にぬれつつ君待つわれぞ』として入つた。
 
          ○
 
  〔卷十・二二四一〕
  秋《あき》の夜《よ》は霧《きり》立《た》ちわたりおぼほしく夢《いめ》にぞ見《み》つる妹《いも》がすがたを
  秋夜 霧發渡 夙夙〔凡凡〕 夢見 妹形矣
 
 『秋相聞』人麿歌集出第三首である。○秋夜 舊訓アキノヨノ。新考アキノヨニ。新訓アキノヨハ。○霧發渡 舊訓キリタチワタル。神田本キリタチワタリ。代匠記初キリタチワタリ。○夙夙夢見 舊訓アサナサナ・ユメノゴトミル。代匠記初シクシクニ・ユメニモミバヤ。又はホノホノニ、ユメニモミバヤ。代匠記精ホノボノニ・ユメカトゾミル。童蒙抄ホノカニモ又はオボツカナ(434)又はホノボノト・ユメニゾミツル。考オホホシク・イメニゾミツル、夙夙は凡凡の誤。『おほほのほはをの如く唱』。『今本三の句を夙夙としてあさなさなと訓り。さて四の句をゆめの如見るとあれどいとかけ合ず。初句を秋の夜といひ腰句をあさなさなといふもあまりなり。朝な/\ゆめの如く見るとはいといとかけあはず。よりて考るに、凡凡の字を好事の夙夙となして訓をみだりにせしなり』。略解・古義・新考は考に從つた。○妹形矣 舊訓イモガスガタヲ。
 一首の意。秋の夜には夜霧がたちわたつて模糊としてゐる(序詞)。そのやうにほのぼのと夢に視た、戀しい妻のすがたをば。といふぐらゐの意味であらう。
 この歌も民謠化してゐるが、如何にも感じの好い、可憐なところがあり、抒情民謠としても佳作の部に位するものと謂つていいであらう。また、前にも屡云つた如く、人麿はかういふ民謠的作者でもあつただらうと想像することも出來る。
 オボホシは、卷十(一九〇九)に、春霞山棚引欝妹乎相見後戀毳《ハルガスミヤマニタナビキオボホシクイモヲアヒミテノチコヒムカモ》。同卷(一九二一)に、不明公乎相見而菅根乃長春日乎孤戀渡鴨《オボホシクキミヲアヒミテスガノネノナガキハルビヲコヒワタルカモ》。卷十二 (三〇〇三)に、夕月夜五更闇之不明見之人故戀渡鴨《ユフヅクヨアカトキヤミノオボホシクミシヒトユヱニコヒワタルカモ》等の例がある。
 イモガスガタヲといふ句も集中になほあり、卷八(一六二二)に、吾屋戸乃秋之芽子開夕影爾今
毛見師香妹之光儀乎《ワガヤドノアキノハギサクユフカゲニイマモミテシカイモガスガタヲ》。卷十(二二八四)に、率爾今毛欲見秋芽之四搓二將有妹之光儀乎《イササメニイマモミガホシアキハギノシナヒニアラムイモガスガタヲ》とある如く(435)である。
 新考で、初句をアキノヨニと訓んだのは一見識で、その方が調べとしては却つて好い。ただ萬葉に假名書の例がないやうである。
 
          ○
 
  〔卷十・二二四二〕
  秋《あき》の野《ぬ》の尾花《をばな》が未《うれ》の生《お》ひ靡《なび》き心《こころ》は妹《いも》に依《よ》りにけるかも
  秋野 尾花末 生靡 心妹 依鴨
 
 同じく『秋相聞』人麿歌集出の第四首である。○秋野 舊訓アキノノノ。○尾花末 舊訓ヲバナガスヱノ。童蒙抄ヲバナガウレノ。○生靡 舊訓オトナビク。代匠記初オヒナビキ。考ウチナビキ。生は打の誤(略解・古義・新考同訓)。
 一首の意。秋の野の尾花の枝が生ひ繁つてなびいてゐる(序詞)。私の心は靡いて妻の方に寄つてしまつた。妻のことで心は一ぱいである。
 この歌は上半を序詞にした、民謠風の常套手段で纏めたものであり、氣樂に作つた歌である。(436)併し、調子に幾らか棄てがたいところがあり、かういふ結句の歌は、『天雲の外《よそ》に見しより吾妹子《わぎもこ》に心も身さへ縁《よ》りにしものを』(卷四。五四七)。『あづさ弓末はし知らず然れどもまさかは君に繰《よ》りにしものを』(卷十二。二九八五)。『明日香河瀬瀬の珠藻のうち靡き情《こころ》は妹に依りにけるかも』(卷十三。三二六七)。『吾《あ》が身こそ關山越えて此處にあらめ心は妹に依りにしものを』(卷十五。三七五七)などの例がある。卷十三の歌とこの歌とは類似してゐるから、この結句はひろがり得る特色があるものと見える。
 この歌、家持集に入り、『秋の野の尾花が末の打なびき心は妹によりにしものを』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二二四三〕
  秋山《あきやま》に霜《しも》ふり覆《おほ》ひ木葉《このは》散《ち》り歳《とし》は行《ゆ》くとも我《わす》忘《わす》れめや
  秋山 霜零覆 木葉落 歳雖行 我忘八
 
 『秋相聞』人麿歌集出の第五首である。○霜零覆・木葉落 舊訓シモフリヲヲヒ・コノハチル。代匠記シモフリオホヒ・コノハチリ。○歳雖行・我忘八 舊訓トシハユクトモ・ワレワスレメヤ。(437)略解トシハユケドモ・ワレワスルレヤ。古義トシハユクトモ・アレワスレメヤ。
 一首の意は、黄葉してぬる秋山に霜がきびしく降つて、木の葉も皆散り、年もつひに暮れてゆく、さう時の推移があらうとも、戀しい人をば決して忘れはせぬ。といふのである。
 この歌は上《かみ》の句《く》までは意味の聯關があるが、序詞の如くになつてゐるのである。それゆゑ、時の推移があつてもといふのに力點があるので、木の葉散り云々といふのに力點があるのではない。代匠記精に、『秋山ハ紅葉ノ意ニテ女ノ盛リニ譬ヘタレバ、霜ノ零如ク髪シラケ、木葉ノ落ル如ク髪落齒落テ、歳ノ行如ク老果タリトモ我忘レメヤ。忘レジト云意ナレバナリ』とあるのは稍考過ぎた解釋のやうである。
 この歌も上半に序詞の如き技法を以てつづけ、民謠的傾向のある、やや樂な歌であるが、調子のいいところは、細味があつて、伸びてゐる點にある。『ひ』、『り』、『とも』のところは稍たるみかかつて居る。『秋山に霜ふりおほひ』といふ表現は、新古今調などにない、おほどかで且つ確實なものである。
 此歌、六帖に、『秋山の霜ふりおほひ木葉散る年はへ行けど我わすれめや』、家持集に、『秋山に霜ふりおほひ木葉散る共に行くとも我忘れめや』として載つてゐる。又、夫木和歌抄に、人丸作として、『あき山にしもふりおほひ木葉散としはふれともわれわすれめや』となつてゐる。
 
(438)          ○
 
  〔卷十・二三一二〕
  我《わ》が袖《そで》に霧《あられ》たばしる卷《ま》き隱《かく》し消《け》たずてあらむ妹《いも》が見《み》むため
  我袖爾 雹手走 卷隱 不消有 妹爲見
 
 以下四首、『冬雜歌』の中に分類せられ、『右柿本朝臣人麿之歌集出也』と左注せられてゐる。○雹手走 舊訓アラレタバシリ。代匠記初アラレタバシル。○不消有 舊訓ケズトモアレヤ。代匠記初ケタズヤアラマシ。代匠記精ケタズテアラム。考ケサズテアラモ。略解ケタズモアラン。古寫本中ケズカモアレヤ(元・神・西・細・温)。
 一首の意は、私の袖に霰がたばしり降つて來た。これをば袖で卷き隱して、消えない(解けない)やうにして置かう。愛する妹に見せむために。といふので、冬雜歌で、霰を主にして咏んだ歌だから、霰を美化し、それに力點を置いて居るのである。
 『我が袖に霰たばしる』と現在の事實を初句からいふのは、極めて順直な表現である。それからずうつと結句まで、心の動く儘に表現してゐるのも、橘守部等が既に注意したごとく(短歌撰格)(439)自然で無理が無い。それから、『消たずてあらむ』といふ句も、簡潔で中味多き、古調の特質を示してゐる。全體は戀愛の粘著甘美を示してゐてよいが、やはり民謠的で取立てていふほどのものではない。
 此歌、六帖に、『わが袖に霰たばしる卷きかへしけたずてあらむ妹が見むため』として入つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二三一三〕
  あしひきの山《やま》かも高《たか》き卷向《まきむく》の岸《きし》の小松《こまつ》にみ雪《ゆき》降《ふ》り來《く》る
  足曳之 山鴨高 卷向之 木志乃子松二 三雪落來
 
 第四句コズヱノマツニと訓んだ古寫本がある(元・類・京の一訓)。結句舊訓ミユキフリケリ。元暦校本ミユキフリクル。新考では第二句、ヤマカモサムキと訓んでゐる。理から行けばサムキの方が順當である。即ち高字が寒字でさへあらば無論さうなるのだが、高字であるから暫く高字で味はねばならぬ。そして此處は、古義の如く、『山の高きが故に、甚寒くて』と解せば解釋が(440)出來るのである。小松は必ずしも小さい松でなくともよく、卷向の岸は卷向の山岸か卷向川の岸か、考では卷向の穴師乃川の岸をいふ歟といひ、新考も卷向川の岸と解してゐるが、前出『朝妻の片山ぎしに霞たなびく』(卷十。一八一八)の歌に見る如く、ここは山岸であらう。童蒙抄に『高山は常に雪降るものなれば、卷向山のきしの小松に雪降りたるを見て、山高きかもとは詠める迄の歌也』と解してゐるのはよく、山の腹又は山麓のきしであらう。そこで『高き』が利くのである。
 一首の意は、卷向山は高く寒いだらう。今卷向山の山岸にある松の木に盛に雪が降つてゐるといふのである。
 人麿歌集には卷向山を中心として咏んだ歌がなかなか多く、その中には緊張した大きい歌詞の歌が交つてゐるから、人麿はその邊にゐただらうと想像してもそんなに妄想ではないところがある。そして此土地に來はじめのころ咏んだ歌とせば、『山かも高き』の句が毫も不思議ではない。前に抄した、『卷向の檜原の山を今日見つるかも』(卷七。一〇九二)の歌なども、土地に來はじめのころの歌とおもへば説明がつくのであり、人麿の作だといふ假定が成立てば、其處にいろいろの興味ある想像が展開し來るので、私は秘かにこの歌を人麿作として想像してゐるのである。この前の歌もさうだが、『あしひきの山かも高き』と第二句で切つてゐる。これは文法的に切つてゐ(441)るのだが、聲調の上では、休止が小さくて連續せしめて味ふことが出來る。そこに人麿的な流動聲調があるのではないだらうか。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとして採られ、第三句以下『まきもくの木すゑのまつにみゆきふりけり』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二三一四〕
  卷向《まきむく》の檜原《ひはら》もいまだ雲《くも》居《ゐ》ねば子松《こまつ》が未《うれ》ゆ沫雪《あわゆき》流《なが》る
  卷向之 檜原毛未 雲居者 子松之未由 沫雪流
 
 ○未雲居者 舊訓イマダクモヰネバ。古寫本中クモラネバと訓んだのもある(元一訓・京)。童蒙抄はクモラヌニと訓んだ。○子松之末由 舊訓コマツガスヱニであり、童蒙抄コマツノウレユと訓み、考コマツガウレユと訓み、略解・古義以下それに從つた。○沫雪流 舊訓アハユキゾフル。代匠記アハユキナガル。童蒙抄アワユキノフル。古義アワユキナガル。これで現在に及んでゐる。代匠記精に、『落句ノ點誤レリ。アハユキナガルト讀ベシ。雪ノ降ヲ流ルトヨメル事集中(442)多シ』といひ、者に、『五の句あわゆきぞふるはいまだし』と云つてゐる。校本萬葉にはアハユキナガルを代匠記精の初訓としてあるが、代匠記の訓は初稿本に既にさうであつた。檜原は檜林のことで、卷七(一〇九五)に、始瀬之檜原《ハツセノヒハラ》。同卷(一一一八)に、彌和乃檜原《ミワノヒハラ》がある。子松は必ずしも小さい松でなくて相當の大きさのものでもいい。
 一首の意は、卷向山の檜原《ひはら》に未だ雲もかからぬのに此處に近い松の梢からそのあたりにかけて沫雪が盛に降つて來た。といふ意味である。
 雪の降る光景で運動をあらはし、松の木ばかりでなく、そのあたり一帶に降る雪の趣だから、『ゆ』の助辭を使つて居る。この歌も自然の現象さながらの聲調を持つて居り、然かも、『ゐねば』といひ、『うれゆ』と云つてゐるあたり、重厚で緊張して居り、謂はば澁い手堅いところがあつてなかなかの力量を示して居る。先づ人麿歌集中にあつては人麿作と想像せられる部類に屬するものであらうか。人麿の聲調は重厚緊張のうちに清爽なるものを持つてゐる。これも既に云つたが、此歌によつても其を知ることが出來る。それから、なぜ『雲ゐねば』と強調したかについても注意して味はねばならぬのである。
 この『雲居ねば』の如くにバを用ゐた例としては、卷四(五七九)に、奉見而未時太爾不更者如年月所念君《ミマツリテイマダトキダニカハラネバトシツキノゴトオモホユルキミ》。卷八(一四七七)に、字能花毛未開者霍公鳥佐保乃山邊來鳴令響《ウノハナモイマダサカネバホトトギスサホノヤマベヲキナキトヨモス》などがある。
(443) この歌、新古今集に家持作として入り、『まきもくの檜原もいまだくもら|ねば《ぬにイ》小松がはらにあわゆきぞふる』となつてゐる。又、家持集に同樣に訓んで載り、夫木和歌抄にも家持作として、第三句以下『くもらぬに小松か末にあは雪そふる』と訓んでゐる。なほ六帖には作者を記さずに載せ、『曇らねば小松が末に泡雪ぞふる』である。
 
          ○
 
  〔卷十・二三一五〕
  あしひきの山道《やまぢ》も知《し》らず白橿《しらかし》の枝《えだ》もとををに雪《ゆき》の降《ふ》れれば 【或云。枝《えだ》もたわたわ】
  足引 山道不知 白杜※[木+戈] 枝母等乎乎爾 雪落者 【或云枝毛多和多和】
 
 ○白社※[木+戈] シラカシと訓んだ。代匠記精に、『不知白杜※[木+戈]トツヅキタルハ、白カシノシラズトツヅケタラムニ同キ歟。又古歌ナレバサル意ハナクテオノヅカラ然ル歟。白カシハ又ハクマカシトモ云ヒ、又ハアマカシトモ云歟』と云ひ、初稿本に、『白かしはかしの木の中の一種なり』といひ、考に、『※[牛+戈]※[牛+可]は樫木なり舟の器にてかしと訓りよて借しなり。今本社※[木+戈]とあるは誤なり』と云つてゐる。即ち常緑樹の白橿(白杜※[木+戈])である。漢名では〓※[木+諸]《しらかし》とも書く。喬木だから、雪の盛に降つ(444)て、枝も撓むばかりに降る形容にふさはしいのである。白橿の大木の枝も撓むばかりに雪が降つて、山道も分からぬまでになつたといふのである。或本に結句が『枝モタワタワ』とある方は歌は劣る。
 この歌も自然で且つ強く相當にいい歌である。聲調が流動的で毫も窒滯を見ない。この歌でも、第二句で『山道も知らず』と文法的には切れてゐるが、聲調的にはやはり連續してゐる。このことは既に前言したが、ここでも繰返して置く。なほ、『山道《やまぢ》も知らず』といふ言ひ方は簡にして充足して居り、必ず作歌上の手本となり得るものである。○雪落者 ユキノフレレバと訓んだ。この歌の左注に、以上の四首に就き『右柿本朝臣人麿之歌集出也』とあるのに續けて、『但件(ノ)一首(ハ)或本(ニ)云(フ)三方沙彌作』とある。(【寛永本それから西・細・温・矢・京等には『件』の字がない。】)それは編輯者は主觀の放恣を避けて忠實に注したので、歌柄からいへばここ三首は大體一しよにして味つていいから、必ずしも三方沙彌の作とせずともいいとおもふのである。卷十七(三九二四)に、天平十八年正月、紀朝臣男梶の應詔歌『山の峽そことも見えず一昨日も昨日も今日も雪の降れれば』といふのがあるのは、この人麿歌集の歌から來てゐるのであらう。
 この歌、柿本集に、『枝もたわわに』とある。又、拾遺集及び六帖に、『枝にも葉にも』として載り、拾遺集では人麿作としてゐる。なほ、柿本集には、『山の峽そことも見えず白樫の枝にも葉(445)にも雪の降れれば』といふのもある。
 
          ○
 
  〔卷十・二三三三〕
  零《ふ》る雪《ゆき》の空《そら》に消《け》ぬべく戀《こ》ふれども逢《あ》ふよしなくて月《つき》ぞ經《へ》にたる
  零雪 虚空可消 雖戀 相依無 月經在
 
 『冬相聞』の最初に出てをり、次の歌の後に『右柿本朝臣人麿之歌集出』と注してある。○相依無 舊訓アフヨシヲナミ(【代匠記・童蒙抄・略解從之】)。類聚古集アフヨシモナク(古義同訓)。考アフヨシナクテ。新考、新訓等は考に從つてゐる。○月經在 舊訓ツキゾヘニケル。類聚古集ツキゾヘヌラシ。代匠記ツキゾヘニタル。考ツキヲシヘヌル。
 一首の意は、降る雪が半空に消ゆるごとく(序詞)、心も消えんばかりに戀うたけれども、逢ふ術もなく、徒らに歳月を經たといふ歌である。
 序歌も意味のある序歌だが、『消ぬべく』までの音調がいいので、さう耳觸りにならず、快い清い感じのする歌である。然かも、寫象として浮んで來る雪の光景は比較的鮮明であつて、それを(446)も鑑賞者は注意すべきである。
 第四句考に從つて置いたが、舊訓も棄てがたいものである。ナクテと續けた例は、卷三(二五七)に、梶棹毛無而不樂毛己具人奈四二《カヂサヲモナクテサブシモコグヒトナシニ》。卷三(二六〇)に、竿梶母無而佐夫之毛榜與雖思《サヲカヂモナクテサブシモコガムトモヘド》。卷十(二一二二)に、大夫之心者無而秋芽子之《マスラヲノココロハナクテアキハギノ》。卷十一(二六一五)に、敷拷乃枕卷而妹與吾寐夜者無而年曾經來《シキタヘノマクラヲマキテイモトワレトヌルヨハナクテトシゾヘニケル》等がある。ただ、舊訓のアフヨシヲナミの類例は、卷四(七一四)に、情爾者思渡跡縁乎無三《ココロニハオモヒワタレドヨシヲナミ》。卷四(七六一)に、早河之湍爾居鳥之縁乎奈彌《ハヤカハノセニヰルトリノヨシヲナミ》等があるのに、ヨシナクテの類例が無い。
 この歌は、柿本集に、『ふる雪の空に消ぬべく思へどもあふよしもなく年ぞへにける』及び『あわ《(ふる)》雪の|降るに消えぬべく《(そらに消ぬべく)》思へどもあふよし|も《(を)》なみ程《(月)》ぞ經にける』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二三三四〕
  沫雪《あわゆき》は千重《ちへ》に零《ふ》り敷《し》け戀《こひ》しくの日《け》長《なが》き我《われ》は見《み》つつ偲《しぬ》ばむ
  沫雪 千重零數 戀爲來 食永我 見偲
 
 『冬相聞』として、(二三三三)があり、その次にこの歌があるから、左注の『右柿本朝臣人麿之(447)歌集出』といふのは、この二首のことだと代匠記で注意してゐる如くであらう。○沫雪 千重零敷 舊本『千里』とあり、アハユキノ・チサトフリシキ。代匠記初アハユキハ・チサトフリシケ。考アハユキノ・チヘニフリシク、里は重の誤。これは既に童蒙抄も呈案してゐる。略解アワユキハ・チヘニフリシケ(古義・新考同訓)。古寫本中元暦校本には『千重』とあり、チヘニフリシキと訓んでゐる。○戀爲來・食永我 舊訓コヒシクハ・ケナガクワレヤ。代匠記初コヒシク|テ《精ニ》・ケナガキワレモ。童蒙抄コヒシキニ・ケナガクワレヤ。考コヒシケク・ケナガクワレハ。略解コヒシクノ・ケナガキワレハ(【古義・新考・新訓同訓、但古義アレハ】)。
 一首の意は、沫雪は千重にもさかんに降り積れよ。もう人を戀して長い月日を經て居る私は、それを見つつせめて戀人を偲ばう。といふのである。卷二十(四四七五)に、波都由伎波知敝爾布里之家故非之久能於保加流和禮波美都都之努波牟《ハツユキハチヘニフリシケコヒシクノオホカルワレハミツツシヌバム》といふのがある。恐らく人麿歌集の此歌の影響であらう。そして、この歌の方が卷二十の歌よりも、調が伸びて清爽の氣があり、立優つてゐるが、それでもやはり何處か安易に作つてゐる點がある。ただ、降雪を見て、その聯想から戀人をおもふといふ單純な解釋でなしに、表現が斯く直接に云つてゐるのだから、鑑賞者が、過程のくだくだしい事は拔きにして、象徴的として理會することが必要である。なほ、參考として、卷十七(三九六〇)に、庭爾敷流雪波知敝之久《ニハニフルユキハチヘシク》。卷十九(四二(448)三四)に、落雪之千重爾積許曾吾等立可※[氏/一]禰《フルユキノチヘニツメコソワガタチガテネ》等のあるのをあげて置く。
 コヒシクノといふあらはし方も現代の吾等には珍らしいが萬葉にもこの二例のみであり、類似のものには、卷十(二一一九)に、戀之久者形見爾爲與登吾背子我殖之秋芽子花咲爾家里《コヒシクハカタミニセヨトワガセコガウヱシアキハギハナサキニケリ》。卷十六(三八一一)に、戀之久爾痛吾身曾伊知白苦身爾染〔等〕保利《コヒシクニイタキワガミゾイチジロクミニシミトホリ》などがある。
 
(449) 萬葉集卷十一所出歌
 
          ○
 
  〔卷十一・二三五一〕
  新室《にひむろ》の壁草《かべくさ》苅《か》りに坐《いま》し給《たま》はね草《くさ》の如《ごと》依《よ》り合《あ》ふ未通女《をとめ》は君《きみ》がまにまに
  新室 壁草苅邇 御座給根 草如 依逢未通女者 公隨
 
 〔題意〕 旋頭歌といふ題のもとに整理された一群十七首の歌の始のもので、以下十二首に、『右十二首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注がある。萬葉集の目次には、『古今相聞往來歌類之上』。『旋頭歌十七首』とあり、その目次を代匠記精撰本には、『柿本朝臣人麿歌集出旋頭歌十二首、古歌集中出旋頭歌五首』に改めて居る。
 〔語釋〕 ○新室 ニヒムロノと訓む。新しく造つた家のといふ意。この次の歌にも新室踏靜子(450)之《ニヒムロヲフミシヅムコシ》があり、卷十四(三五〇六)にも、爾比牟路能許騰伎爾伊多禮婆《ニヒムロノコドキニイタレバ》といふ例がある。なほ、古事記景行天皇の條に、於是言3動爲2御|〔新〕室樂《ニヒムロノウタゲ》1設2備食物1故遊2行其傍1待2其樂日1云々。清寧天皇の條に、到2其國之人民名|志自牟之新室《シジムガニヒムロ》1樂云々とあり、日本紀清寧天皇の卷に、忍海部造|細目新室《ホソメガニヒムロ》云々。顯完天皇の卷に、適會2縮見屯倉首|縱賞新室《ニヒムロアソビシテ》以v夜繼1v晝云々とある。○壁草苅邇 カベクサカリニと訓む。壁草《カベクサ》は、『カベ草ハ、新ラシク造レル屋ハ、先壁ヲモ草ヲ刈テカコフナリ。今モ田舍ニハ柴ナドニテカコヒテ壁ノカハリニスル故ニヤ』(代匠記精)とあるによつて大體を推察することが出來る。延喜式の、壁蔀以v草はこの壁草と同じだらうといふのは黒川盛隆の説である(略解追加)。そして、この草《くさ》は薄《すすき》であらう。○御座給根 イマシタマハネと訓む。舊訓ミマシタマハネ。代匠記初オハシタマハネ。古義イマシタマハネ。御いで下さい、といふ敬語に使つてゐる。○草如・依逢 クサノゴト・ヨリアフと訓む。草の寄りあふやうに依り逢ふで、やはり靡き體を依せて從ふ意にもなる。古義には『多く女の依相をいふにはあらで、これは一人の女のうへにて、草のより合(ヒ)靡くごとく、容儀《カタチ》しなやかにしてうるはしきをいふなるべし』とあるが、字面では、なびき寄り從ふ意が主であらう。
 〔大意〕 どうぞ新しい家の壁草苅りにお出かけください。草《くさ》(薄《すすき》)のやうに靡き從ふ美しい未通女《をとめ》は、あなたの御自由です。
(451) 〔鑑賞〕 旋頭歌で二段から成立ち、第一は、新しい家を作つたその家の壁草を苅りにおいでなさい。第二は、その苅る草の靡くやうに靡き從ふ未通女《をとめ》たちも思ひの儘でせう。君に任せませうといふのである。短歌ならば第一段が序詞のやうな形式になるところだが、旋頭歌だから、第三句で休止となつて序詞らしくなくなる特色を有つてゐる。勞働に伴うて歌ふやうな、謂ゆる民謠的な勞働歌の一種のやうな味ひがあり、素朴な感情愛すべきで、新築の樂《うたげ》などに歌つたものともおもへる。調べもまた確實の中に甘美を保持し、學ばねばならぬ點が多い。
 この歌に就き、『此ハ人ノ娘ノ許ヘヨキ男ノ忍ビテ通ヒ來ルヲ、親ノ許《ユル》サムト思ヒテヨメルナルベシ』(代匠記精)。『此(ノ)歌と次なると二首は、女持たる人のもとへ、心ありて通ふ男のあるを、おやのゆるして、聟にせむと思ふ意を告てよめるなるべし。さてその折から、此(ノ)人新室つくりたる故に、託《コトヨセ》て云るなるべし』(古義)等と解釋してゐるのは、此歌を民謠的に解釋しなかつたからである。つまり、此歌はさういふ個人的の事柄よりも、誰にでも當嵌まるやうになつてゐるところにその特色が存じて居るのである。
 
          ○
 
(452)  〔卷十一・二三五二〕
  新室《にひむろ》を踏《ふ》み鎭《しづ》む子《こ》し手玉《ただま》鳴《な》らすも玉《たま》の如《ごと》照《て》りたる君《きみ》を内《うち》へと白《まを》せ
  新室 踏靜子之 手玉鳴裳 玉如 所照公乎 内等白世
 
 〔語釋〕 ○踏靜子之 フミシヅムコシと訓む。新築の時、地鎭祭を行ひ地を踏むのをいふので、『子』といふのは古義に、『何(レ)にまれ、その業をする伴《トモ》をいふ』とあるが、此處では、未通女《をとめ》或は巫女のたぐひをいふのであらうか。舊訓フムシヅノコシ(仙覺新點)。古點フムシヅケコガ。古寫本中、フミシヅガコガ(細)。フムシヅケコガ(嘉・古)。フムシヅガコシ(西)。代匠記は古點を採り、童蒙抄ホムシヅノコノ。考フミシヅノコガ。古義フミシヅムコガ。今、フミシヅムコと古義の訓に從つたが、フミシヅムルコといふ意味である。連體言の意味で終止言を用ゐたものである。書紀顯宗の卷室壽の御詞に、築立稚室葛根築立柱楹者此家長御心之鎭也《ツキタツルワカムロツナネツキタツルハシラハコノイヘノキミノミココロノシヅメナリ》とあり、出雲國造神賀詞に、大宮内外御門柱上津石根踏堅下津石根踏凝《オホミヤノウチトノミカドノハシラヲウハツイハネニフミカタメシタツイハネニフミコラシ》云々とあり、貞觀儀式踐祚大嘗祭儀に、鎭2稻實殿1云々とあり、止由氣宮儀式帳に、新造正殿|地鎭《ツチシヅメノ》料云々とあるによつて、地を踏んだことを知り得るのである。○手玉鳴裳 タダマナラスモと訓む。手の飾にした玉が、體を動かすにつれて鳴るのをいふ。奮訓タダマナラシモ。代匠記初タダマナラスモ。古寫本中、テタマ(453)ナルモ(嘉・古・細)。タタマナラシモ(西・文・温・古・矢・京)。等の訓がある。卷十(二〇六五)に、足玉母手珠毛由良爾《アシタマモタダモユラニ》。卷二(一五〇)に、玉有者手爾卷持而《タマナラバテニマキモチテ》等とある。○玉如・所照公乎 タマノゴト・テリタルキミヲと訓む。玉のやうに立派な御方といふ意で、前の『玉』からの聯想で、『玉』とつづけてゐる。舊訓テリタルキミヲ。代匠記初テラセルキミヲ。略解補正テレルキミヲ。○内等白世 ウチヘトマヲセと訓む。どうぞおはひりくださいと申せといふ意。舊訓ウチニトマヲセ。童蒙抄ウツヒトシラセ又はウチニトアカセ。考ウチヘトマヲセ(【略解・古義・新考・新訓同訓】)。
 〔大意〕 新しく家を造るために、地堅めをしつつゐる大勢の少女《をとめ》等が、運動につれて手飾の玉を鳴らして居るのが聞こえる。あの玉のやうに美しく立派なお方をば、家の中へおはひりになるやうに御案内申せ。といふのである。
 〔鑑賞〕 この歌も、二段から成り、『新室を踏み鎭む子し手玉鳴らすも』までが一段、『玉のごと照りたる君を内へと申せ』が二段である。そして、この二つが、『玉』といふ語で連接してゐるのだが、それが誠に巧で、即いてゐるが即過ぎてゐずに旨い具合に調和を取つてゐるのである。第二段は、第一段を受けて、その玉の如くに照るやうな好い男の公《きみ》をば家の中へお入りくださいといへといふ、女の氣持になつて云つて居る。すべてが民謠風だから、何處の誰とか、どういふ男女とかの詮議を要しない、氣分で歌ひあげてゐるのである。此歌と前の歌とは恐らく連作的の(454)ものであるだらう。そして共に家の新築のときに歌ひ且つ踊つたものであるだらう。續日本紀所載、寶龜元年の歌垣の歌に、乎止賣良爾乎止古多智蘇比布美奈良須爾詩乃美夜古波與呂豆與乃美夜《ヲトメラニヲトコタチソヒフミナラスニシノミヤコハヨロヅヨノミヤ》とあるのも、男女が共に相群れて踊る趣の歌である。
 全體が豐かで潤ひがあり、男女間の情味を歌ひあげて居て毫も輕浮に墮ちてゐないのを味ふべきである。この歌は、大勢の若い女の心持が全體を領してゐるのであるが、そこに一人の美しい男を點出して、それが中心となつて大勢の女の體も心も循環してゐるところである。全體が具象的で、寧ろ肉體的と謂ひ得る程であるにも拘はらず、下等な厭なところがない。『玉の如照る』などと男を形容してゐるが、萬葉には、卷二十(四三九七)に、見和多世婆牟加都乎能倍乃波奈爾保比弖里※[氏/一]多弖流婆波之伎多我都麻《ミワタセバムカツヲノヘノハナニホヒテリテタテルハハシキタガツマ》といふのもあつて參考になる。男からいへば美しい女は、玉の如照るともいふが、女からいへば好い男はやはり、玉の如照るといふことになるのであらう。
 代匠記では、靜子《シツケコ》と訓み、『靜子トハ沈靜《シメヤカ》ナル男ナリ。新室ヲ作テヨク治ムル沈靜ナル人トホムル意ナリ。或ハ新室ノ主人ハ此男ノ親ニテ親ノ道ヲ踏ト云ヘル歟』といひ、考にも、『地には踏平し、家には踏靜むてふ哥うたひてをどりなどする事あるべし。かくてその男の名を靜の子といひしに踏靜といひかけたる也』などとあつて、個人的に且つ固有名詞的に取扱つてゐるが、さう(455)解釋しては無理になるのである。
 かういふ民謠風な歌が人麿以前からあつて、人麿歌集中に收録されたものか、或は人麿もある機會にかういふ民謠風のものをも作つたか、兎に角皆相當におもしろいものばかりである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三五三〕
ひとみ
  長谷《はつせ》の五百槻《ゆつき》が下《もと》に吾《わ》が隱《かく》せる妻《つま》茜《あかね》さし照《て》れる月夜《つくよ》に人《ひと》見《み》てむかも【一云、人《ひと》見《み》つらむか】
  長谷 弓槻下 吾隱在妻 赤根刺 所光月夜邇 人見點鴨【一云、人見豆良牟可】
 
 〔語釋〕 ○長谷 ハツセノと訓む。現今の大和磯城郡初瀬町を中心とする土地である。古寫本中、ハツセノヤ(嘉・細)と訓んだのもある。○弓槻下 ユツキガモトニと訓む。ユツキは、五百機《ゆつき》の意味で、大木で五百枝《いほえ》も澤山の枝のある槻《けやき》の木といふ意味であらう(【考・略解・古義等】)。『五百を約轉して由といふは神代紀の湯津桂、湯津爪櫛の類なり。初瀬に五百枝繁き大槻の有てそこをかくいへるなるべし』(考)。古事記雄略天皇條に、又天皇坐2長谷之百枝槻下1爲2豐樂《トヨノアカリ》1之時云々。爾其百枝槻葉落浮2於大御盞1云々。三重※[女+釆]の歌に、毛毛※[こざと+施の旁]流都紀賀延波《モモタルツキガエハ》云々とあるのも參考となるべ(456)く、また考で言つた如く、五百箇桂《いほつかつら》のことを湯津桂《ゆつかつら》といひ、また、五百小竹《いほざさ》のことを湯小竹《ゆざさ》といふのに據つても、この解釋の根據を知ることが出來る。併し以上の解釋のほかに、弓槻は、齋槻の意(新訓)とし、弓を作る槻の意(代匠記)とし、或は弓槻が嶽のことだらう(考の頭注)とする説もある。若し弓槻が嶽だとすると、その山の麓の村あたりといふ意味になるだらうと思ふが、それでは歌は面白くなくなるから、此處はやはり大槻の木の下といふ意味であらう。○吾隱在妻 ワガカクセルツマと訓む。考ワガカクセシツマ。古寫本中、カクシタルツマ(嘉)。ワガカクシタルツマ(細)等の訓がある。この次の歌にも、隱在其妻《カクセルソノツマ》の句がある。○所光月夜邇 テレルツクヨニと訓む。舊訓テレルツキヨニ。代匠記初書入【校本萬葉】テレルツクヨニ。卷四(五六五)に、赤根指照有月夜爾直相在登聞《アカネサシテレルツクヨニタダニアヘリトモ》の例がある。○人見點鴨【一云、人見豆良牟可】 ヒトミテムカモ【一云、ヒトミツラムカ】と訓む。テムは助動詞『つ』の將然形に助動詞『む』が接續した形で、『つ』は下二段活用の如くテ、テ、ツ、ツル、ツレと活用し、『主觀的には陳述を確むる意をあらはし、客觀的にはその事の完く了れるを示す』(山田氏)ものである。卷二(一二九)に、忍金手武多和郎波乃如《シヌビカネテムタワラハノゴト》。卷四(六一九)に、君之使乎待八兼手六《キミガツカヒヲマチヤカネテム》。卷六(九五七)に、袖左倍所沾而朝菜採手六《ソデサヘヌレテアサナツミテム》。卷十八(四〇四三)に、知良之底牟可母《チラシテムカモ》等の例がある。
 
 〔大意〕 長谷《はつせ》(泊瀬)にある枝の澤山繁つた槻の木の下に隱して置いた妻。〔赤根利《あかねさし》〕明るい月(457)夜には、ひよつとせば他の男がその隱し妻を見つけるのではあるまいか。不安でならない。といふぐらゐの歌である。
 〔鑑賞〕 この歌も古風素朴で誠に具合のいいものである。一人の男の氣特で歌つてゐるけれども、獨咏的な戀歌といふよりも寧ろ民謠的といふことが出來る。そして、『あかねさし照れる月夜に』といふあたりは自然にその當時の民俗を暗指してゐるので、都市風でないところもおもしろく、『槻がもとに』妻を隱すといふことも、一般論の特色を發揮するのに充分である。そして、さういふ田園的でありながら、一首の聲調は古雅で後世ぶりと大に違ふところがある。私等が古調の歌を云々するのほ、かういふ好いところがあるためであつて、ただ徒らに古色に淫してゐるのではない。
 此歌は、續千載葉に、題しらず讀人しらずとして、『泊瀬のや弓槻が下に我が隱したる妻茜さし照れる月夜|に《はイ》ひと見けむかも』とあり、又夫木和歌抄に、人丸作として、『初瀬のやゆ槻が下に隱れたる妻あかねさし照る月夜に人みてむかも』とある。
 
          ○
 
(458)  〔卷十一・二三五四〕
  健男《ますらを》の念《おも》ひ亂《みだ》れて隱《かく》せるその妻《つま》天地《あめつち》に徹《とほ》り照《て》るとも顯《あらは》れめやも 【一云、ますらをのおもひたけびて】
  健男之 念亂而 隱在其妻 天地 通雖光 所顯目八方 【一云、大夫乃思多鷄備※[氏/一]】
 
 〔語釋〕 ○健男之・念亂而 マスラヲノ・オモヒミダレテと訓む。丈夫《ますらを》の心も、戀に亂れての意。そして此は前の歌に和した趣であるから、女が斯う云つてゐるので、この丈夫《ますらを》といふのは、『丈夫であるあなたが』と二人稱の意味になる。○隱在其妻 カクセルソノツマと訓む。舊訓カクセルソノツマ。古寫本中、カクレタルソノツマ(古)。カクシタルツマ(細)等の訓もある。隱したる妻と客觀的に云つてゐるが、『あなたのお隱しになつた妻のわたくしが』といふ意味が籠つてゐるのである。○天地・通雖光 アメツチニ・トホリテルトモと訓む。此は月光が照つて天地に通るともといふので、前の歌を受けてゐるのである。舊訓カヨヒテルトモであつたのを、代匠記でトホリテルトモと訓んだ。『通雖光ハ今按トホリテルトモト讀ベシ。神代紀上云、於是《ココニ》共(ニ)《ウミマツリヌ》2日(ノ)神(ヲ)1號2大日〓賣貴《オホヒルメノムチト》1。此|子《ミコ》光華明彩《ヒカリウルハシウシテ》照2徹《テリトホル》於|六合之《クニノ》内(ニ)1。此照徹ノ字ノ意ナリ。但今ハ上ニ所光月夜ト云ヲ踏テ、大カタノ月明キ夜ヲバ猶深ク此マスラヲガ樣々ニ思ヒ廻ラシテ隱セル妻ナレバ、假令此月ノ光ノ天地ヲトホシテ照ラストモ顯ハレメヤ、顯ハレジトナリ』(代匠紀精)といふのに(459)從つていい。然るに、眞淵が、『日の光は隱るといふより譬るのみにていかなる大事にありともてふ意なり』(考)といひ、略解もそれに從つて、『日の光の天地を照して、隱れなき如く有とも』と解釋したのは誤である。それを古義で、『よの常の月光はさるものにて、たとひ天地のかぎり、てりとほることありとも』としたのは、契沖の説に復歸したので正解である。○所顯目八方 アラハレメヤモと訓む。『たはやすくあらはれむやは、あらはれはせじとなり』(古義)といふので大體がわかる。卷七(一三八五)に、埋木之不可顯事等不有君《ウモレギノアラハルマジキコトトアラナクニ》。卷十四(三四一四)に、多都弩自能安良波路萬代母佐禰乎佐禰※[氏/一]婆《タツヌジノアラハロマデモサネヲサネチバ》の例がある。○一云、大夫乃思多鷄備※[氏/一] マスラヲノオモヒタケビテと訓む。この句があるものだから、眞淵は、『亂』は『武』の誤だとし、オモヒタケビテを正傳とし、『健男の武き心を以てよろづの事をきとかまへて隱せしといふ也』(考)といひ、古義でも、『大夫乃思多鷄備※[氏/一]とあるぞ理協へりとおぼゆる』と云つたが、『おもひ亂《みだ》れて』の方が寧ろ自然であらう。
 〔大意〕 丈夫《ますらを》のあなたが、そんなに御心が戀に亂れて、お隱しになつた妻、その妻の私ですもの、縱ひ天地に照りとほるほどの、明るい月夜でも、決して他の男に見つかるやうなことはありませぬ。
 〔鑑賞〕 この歌は、前の、『長谷《はつせ》の五百月《ゆつき》が下《もと》に吾が隱《かく》せる妻|酉《あかね》さし照れる月夜《つくよ》に人見てむか(460)も』といふ歌に答へたやうな趣のものだから、女の歌と看做していい。それだから、個人の作者を聯想していい訣であるが、やはり、誰といふことなく、一般の女心《をみなごころ》を代表したものとして味ふことも出來る、つまり民謠的な歌と看做すことも出來る。それは、この歌には、何か客觀的なところがあつて、二人だけの對咏歌としては、稍一般的過ぎるからである。
 一首の調べは、確かで且つ強く、特に、『天地に徹り照るとも顯れめやも』は、強くて自然である。女性の語調だと謂つても後世ほど細かく分化せずに、根本の調べをなして居る點に注意すべきである。
 『思ひみだれて』といふやうな云ひ方も誠に旨いものだが、萬葉には、卷四(七二四)に、朝髪之念亂而如是許名姉之戀曾夢爾所見家留《アサガミノオモヒミダレテカクバカリナネガコフレゾイメニミエケル》。卷十(二〇九二)に、解衣思亂而《トキギヌノオモヒミダレテ》。卷十七(三九七三)に、乎登賣良波於毛比美太禮底伎美麻都等宇良呉悲須奈理《ヲトメラハオモヒミダレテキミマツトウラゴヒスナリ》等があるが、この歌の場合は簡潔でなかなか好い例である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三五五〕
  うつくしと吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》は早《はや》も死《し》ねやも生《い》けりとも吾《わ》に依《よ》るべしと人《ひと》の(461)言はなくに
  惠得《ウツクシト》 吾念妹者《ワガモフイモハ》 早裳死耶《ハヤモシネヤモ》 雖生《イケリトモ》 吾邇應依《ワレニヨルベシト》 人云名國《ヒトノイハナクニ》
 
 〔語釋〕 ○惠得 ウツクシトと訓む。舊訓メグマムト。代匠記初ウツクシト(考・略解同訓)。略解宣長訓(惠得は息緒の課)イキノヲニ(古義同訓)。新考メグシト(全釋同訓)。『案ずるにもとのままにてメグシトと四言によむべし。メグシを體言にしてメゲミといふはなほカナシを體言にしてカナシミといふが如し。而して悲の字をカナシミともカナシともよむべきが如く惠の字はメグミともメグシともよむべし。メグシはカハユシといふことなり』(新考)。メグシの例は、卷五〔八〇〇)に、妻子美禮婆米具斯宇都久志《メコミレバメグシウツクシ》。卷十八(四一〇六)に、妻子見波可奈之久米具之《メコミレバカナシクメグシ》がある。古寫本中、オシヱヤシ、ヱシエヤシ、メクマムト等の訓があつた。○早裳死耶 ハヤモシネヤモと訓む。舊訓ハヤクモシネヤ。考ハヤモスギネヤ(略解同訓)。『須伎を約して志ともいへり。仍て集中には死の事須伎といへる多し』(考)。古義ハヤモシネヤモ。『耶(ノ)字ヤモとよませたる例は、下に雷神少動刺雲雨零耶君將留《ナルカミノヒカリトヲミテサシクモリアメモフレヤモキミヲトドメム》と見えたり』(古義)。新考ハヤモシネヤ(全稗同訓)。併し、此處は旋頭歌の調だから、古義の訓に從つた。さうすれば『死ね』といふ命令形に、ヤモといふ咏歎の助詞の添はつたものと解するのである。○雖生・吾邇應依・人云名國 イケリトモ・ワレニ(462)ヨルベシト・ヒトノイハナクニと訓む。イケルトモと訓むかイケリトモと訓むかは、既に人麿の歌の評釋のところで云つた。
 〔大意〕 愛《うつく》しく(【可哀《かあい》く、戀しく】)自分の思ふあの女は、いつそのこと死んでしまはないか。早く死ねば好い。縱ひ生きて居ようとも、自分に靡き依るとは誰も云はず、到底見込が無いのだから。
 〔鑑賞〕 この歌も、これだけ複雜した氣持を好くも表はし得たと思ふ程であつて、強く愛して居る女を獨占したい氣持の極、かういふ表現になるので、失戀などといふ熟語は無くとも自然にそれがあらはれてゐておもしろいのである。自分が死ぬ程戀するといふ歌は集中にもある。例へば、『おのがじし人死《ひとしに》すらし妹に戀ひ日《ひ》に日《け》に痩せぬ人に知らえず』〔卷十二。二九二八)。『今は吾は死なむよ吾妹《わぎも》逢はずして念《おも》ひわたれば安けくもなし』(卷十二。二八六九)等であるが、相手が死ぬ方が好いといふのは強い云ひ方である。
 結句の、『人の云はなくに』といふのは、『吾が戀ふる妹は坐《いま》すと人の言へば』(卷二。二一〇)。『枉言《まがごと》や人の言ひつる玉の緒の長くと君は言ひてしものを』(卷十三。三三三四)などの云ひ方と似て居る。この表はし方も現代の表はし方などと違ふところで、周圍の人々の心といふものが何かの形で支配して居る氣持である。
 それから此歌は、個人の作者が獨咏的に歌つたもののやうであるが、やはり一般化し得る傾向(463)を持つて居り、讀人不知的、民謠的傾向の歌として味つて却つていいのではなからうか。
 それから、私は、自分の好みから、初句を、ウツクシト、第三句をシネヤモと訓む説に從ひ、この場合の字不足を餘り好まないのであるがどうであらうか。第三句の、『早も死ねやも』の句は、直接で強い句でありながら、情味の潤ひがあつて注意せねばならぬ句である。ウツクシの例は、既出の卷五のほかに、卷十四(三四九六)に、己許呂宇都久志伊※[氏/一]安禮波伊可奈《ココロウツクシイデアレハイカナ》。卷二十(四三九二)に、有都久之波波爾麻多己等刀波牟《ウツクシハハニマタコトトハム》があり、書紀孝徳天皇卷に、于都倶之伊母我磨陀左枳涅渠農《ウツクシイモガマタサキデコヌ》。齊明天皇卷に、于都倶之枳阿餓倭柯枳古弘《ウツクシキアガワカキコヲ》がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三五六〕
 高麗錦《こまにしき》紐《ひも》の片方《かたへ》ぞ床《とこ》に落《お》ちにける明日《あす》の夜《よ》し來《き》なむと言《い》はば取《と》り置《お》き待《ま》たむ
  狛錦 紐片叙 床落邇郁留 明夜志 將來得云者 取置待
 
 〔語釋〕 ○狛錦 コマニシキ即ち高麗《こま》から渡來した錦。和名鈔、錦の注に、本朝式有2暈※[糸+間]《ウンケン》錦、(464)高麗錦、軟錦、兩面錦等(ノ)之名1云々。此處はその意味が薄らいで紐《ひも》にかかる枕詞化して居る。卷十(二〇九〇)の、狛錦紐解易之天人乃妻問夕叙吾裳將偲《コマニシキヒモトキカハシアメビトノツマドフヨヒゾワレモシヌバム》の處を參考すべきである。『紐と云冠辭に詠みたる也』(童蒙抄)。○紐片叙 ヒモノカタヘゾと訓む。紐の一方《いつぱう》(片方の紐)がといふ意。紐には雄紐《をひも》雌紐《めひも》がある、その片方のことである。『さきにひける仲(ツ)皇子の、黒媛がもとに手の鈴をわすれて歸りたまへるたぐひなり。古今集にいはく、五せちのあしたにかんざしの玉のおちたりけるを、たがならんととぶらひてよめる』(代匠記初)。書紀允恭天皇卷の御製に、佐瑳羅餓多邇之枳能臂毛弘等枳舍氣帝阿麻多絆泥受邇多※[人偏+嚢]比等用能未《ササラガタニシキノヒモヲトキサケテアマタハネズニタダヒトヨノミ》といふのがある。○床落邇祁留 トコニオチニケル。紐が床に落ちて居たの意。○將來得云者 キナムトイハバと訓む。若し來るといふならばの意。舊訓キナムトイハバ。古寫本中、コムトイヒセバ(嘉・古・細)の訓がある。○取置待 トリオキマタムと訓む。取つて置いて待たうの意。奮訓トリオキテマタム。代匠記・考・略解・古義等舊訓に從ひ、童蒙抄トリオキマタム。新考・新訓等それに從つた。古寫本中、トリオキテマシ(嘉)。トリヲキテマシ(細)の訓がある。
 〔大意〕 一首の意は、〔狛錦《こまにしき》〕あなたの紐の片々がゆうべの床の上に落ちて居りました。明晩またおいでになるとお仰るなら、それを取つて置いてお待いたしませう。といふのである。
 〔鑑賞〕 女の心持になつて咏んだ、民謠化したものである。莊重に單純化するといふのでなく、(465)細かいところに目をつけて、謂はば人情の機微を穿つといふのが一面民謠の特徴でもあるから、自然細かい觀察となるのである。この歌は、古調であるだけ、厭味がなく、特に旋頭歌の形式と相俟つて相當に味ふことの出來るものである。この歌が若し人麿作だとせば、人麿はさういふ心持になつて咏んだものであらう。これは既に卷九あたりの短歌のところでも言及んで置いた通りである。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として載り、下句『明日の夜來むと言ひせば取りおきてまし』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三五七〕
  朝戸出《あさとで》の君《きみ》が足結《あゆひ》を潤《ぬ》らす露原《つゆはら》早《はや》く起《お》き出《い》でつつ吾《われ》も裳裾《もすそ》潤《ぬ》らさな
  朝戸出 公足結乎 閏露原 早起 出乍吾毛 裳下閏奈
 
 〔語釋〕 ○朝戸出 アサトデノと訓む。舊訓アサトイデノであつたのを代匠記精で斯く訓んだ。卷二十(四四〇八)に、安佐刀※[泥/土]乃可奈吾子《アサトデノカナシキワガコ》があり、卷十(一九二五)に、朝戸出之君之儀乎曲(466)不見而《アサトデノキミガスガタヲヨクミズテ》。卷十一(二六九二)に、朝戸出爾甚踐而人爾所知名《アサトデニイトアトツケテヒトニシラユナ》等の例がある。朝の戸を開いて出でること、朝の門出のことで、此處は、男が朝になつて女の家から歸る趣である。○公足結乎 キミガアユヒヲと訓む。足結《あゆひ》は袴を上にまくりあげて膝の邊で結ぶ紐をいふのである。卷七(一一一〇)に、足結出《アユヒハ》〔者〕所沾此水之湍爾《ヌレヌコノカハノセニ》。卷十七(四〇〇八)に、和可久佐能安由比多豆久利《ワカクサノアユヒタヅクリ》の例があり、なほ、書紀雄略天皇卷に、※[人偏+爾]播※[人偏+爾]陀陀始諦阿遙比那陀須暮《ニハニタタシテアヨヒナダスモ》。皇極天皇卷に、阿庸比陀豆矩梨擧始豆矩羅符母《アヨヒタヅクリコシヅクラフモ》がある。○裳下閏奈 舊訓モノスソヌレナであつたのを、考でモスソヌラサナと訓んだ。
 〔大意〕 この朝いよいよお歸りになるあなたの足結を潤《ぬ》らす露の澤山にある原よ。私も早く起きてあなたとご一しよに裳の裾を潤《ぬ》らしませう。といふのである。
 〔鑑賞〕 これは愛情の歌であり、別れを惜しむ氣特でもあり、男女の心持の相交錯し相即し相依らうとするものが、この一首を通じて感じられればよいのである。『君ひとりにさる艱難はかけじよとなり』(古義)などと理を以て解釋してゐる注釋書が多いが、ここはあつさりといふべきで、そこが民謠的和歌の特色なのである。卷七(一〇九〇)に、『吾妹子《わぎもこ》が赤裳の裾の染《し》め濕《ひ》ぢむ今日の※[雨/脉]※[雨/沐]《ひさめ》に吾さへ沾《ぬ》れな』とあるのも同じやうな心持で歌つた男の歌である。
 
(467)          ○
 
  〔卷十−・二三五八〕
  何《なに》せむに命《いのち》をもとな永《なが》く欲《ほ》りせむ生《い》けりとも吾《わ》が念《おも》ふ妹《いも》に安《やす》く逢《あ》はなくに
  何爲 命本名 永欲爲 雖生 吾念妹 安不相
 
 〔語釋〕 ○何爲 ナニセムニと訓む。どうしようといふ意で、卷五(九〇四)に、七種之寶毛我波何爲《ナナクサノタカラモワレハナニセムニ》。卷五(八〇三)に、銀母金母玉母奈爾世武爾麻佐禮留多可良古爾斯迦米夜母《シロガネモクガネモタマモナニセムニマサレルタカラコニシカメヤモ》。卷四(七四八)に、奈何爲二人目他言辭痛吾將爲《ナニセムニヒトメヒトゴトコチタミワガセム》等の例がある。どうして、何のためにといふ具合に副詞的に口譯も出來、甲斐ない等と口譯することも出來る。その邊は自由でかまはない。○命本名 イノチヲモトナと訓む。我が命を徒《いたづ》らにといふ意。『此歌のもとなは、よしなくもと云に能叶へり』(童蒙抄)。卷二(二三〇)に、何鴨本名言聞者泣耳師所哭《ナニシカモモトナイヘルキケバネノミシナカユ》。卷三(三〇五)に、樂浪乃舊都乎令見乍本名《ササナミノフルキミヤコヲミセツツモトナ》。卷四(五八六)に、妹乎見而本名如此耳戀者奈何將爲《イモヲミテモトナカクノミコヒバイカニセム》等がある。このモトナは結句で結ぶこともあり、用言の前に置くこともある。モトナは、語原的には、『本無』であるから、『理由なし』、『根據なし』の意(山田氏)であるが、此歌の場合、口語に移すときには、ただ、いたづらに、無益《むやく》に、甲斐なく、猥《みだ》りに、殘念に、おぼつかなく、などともいひ得る。ココロモトナクといふのは(468)これから來てゐるのであらう。○永欲爲 ナガクホリセムと訓む。長生《ながいき》しようとおもはうといふ意。舊訓ナガクホリセム。古寫本中、ナガクホシケム(嘉・古)。ナガクホリケム(細)。ナガクホリセバ(神)。代匠記・考・略解・古義ナガクホリセム。童蒙抄ナガクホリスル。新考ナガクホリセシ。併し、ここは旋頭歌だから、ホリセムと訓んで毫も差支はない。○雖生 イケリトモと訓む。生きて居るともの意。古寫本中、イケルトモ(古)。イケレドモ(神)と訓んだのもある。代匠記精イケレドモ(新考同訓)。
 〔大意〕 一首の意は、何のために己《おれ》は徒《いたづ》らに命《いのち》を長く欲しようか。たとひ生きて居ても、戀しくおもふ妹《いも》に容易に逢ふことが出來ないのだから。といふほどの意であらう。
 〔鑑賞〕 この歌もまた民謠風に出來て居ること、前の歌と同樣である。現在の私などには、かういふいひ方は稍誇張に聞こえるが、當時の人々はかう感じ、かく云ひ、それを順當として受納れてゐたものかも知れない。この歌の中で、ヤスクアフといふ語に特徴があり注意していい。ヤスクから直ぐアフに續けた例は萬葉にもほかに見當らねやうである。卷二十(四三四八)の、麻許等和例多非力加里保爾夜須久禰牟加母《マコトワレタビノカリホニヤスクネムカモ》が稍參考になるとおもふ。
 
          ○
 
(469)  〔卷十一・二三五九〕
  息《いき》の緒《を》に 吾《われ》は念《おも》へど 人目《ひとめ》多《おほ》みこそ 吹《ふ》く風《かぜ》に あらば屡《しばしば》 逢《あ》ふべきものを
  息緒 吾雖念 人目多社 吹風 有數數 應相物
 
 〔語釋〕 ○息緒 イキノヲニと訓む。命《いのち》をかけての意。卷四(六四四)に、氣乃緒爾念師君乎縱左思者《イキノヲニオモヒシキミヲユルサクオモヘバ》。卷十九(四二八一)に、君乎曾母等奈伊吉能乎爾念《キミヲゾモトナイキノヲニオモフ》等がある。○吾雖念 ワレハオモヘドと訓む。舊訓ワレニオモヘド。古寫本の多くはワレハオモヘド。代匠記ワレハオモヘド。○人目多社 ヒトメオホミコソと訓む。人目が多いからしての意。コソは強めたので、係のコソであるが、結詞が無い。卷七(一三七七)に、齋爾波不在人目多見許増《イムニハアラズヒトメオホミコソ》。卷十四(三五七四)に、比伎余知※[氏/一]乎良無登須禮杼宇良和可美己曾《ヒキヨヂテヲラムトスレドウラワカミコソ》。卷十一(二六九七)に、妹之名毛吾名毛立者惜社布仕能高嶺之燒乍渡《イモガナモワガナモタタバヲシミコソフジノタカネノモエツツワタレ》。卷十九(四一六一)に、毛美知遲良久波常乎奈美許曾《モミヂチラクハツネヲナミコツ》等の例がある。○吹風・有數數・應相物 フクカゼニ・アラバシバシバ・アフベキモノヲと訓む。舊訓フクカゼノ。新考シマシマ。
 〔大意〕 一首の意は、いのちを懸けて、即ち命がけで戀をして居るのだが、餘り人目が多いために思ふやうに逢ふことが出來ない。若しこの己《おれ》が吹く風ででもあるなら、人目に觸れずに幾度でも逢ふことが出來るのに。といふのである。
(470) 〔鑑賞〕 これもまた民謠風のもので、感情が細かくなつて來てゐると共に、戀愛の情も、餘裕ある方嚮に移りつつある。『息の緒に念ふ』などと切實なことを云つても何となく呑氣に聞こえるやうになつて、後世風になつて行つたものである。卷十一(二三六四)に、玉垂小簾之寸鶏吉仁入通來根足乳根之母我問者風跡將申《タマダレノヲスノスゲキニイリカヨヒコネタラチネノハハガトハサバカゼトマヲサム》といふのがある。なほ、同卷(二五五六)に、玉垂之小簀之垂簾乎往褐寐者不眠友君者通速爲《タマダレノヲスノタレスヲユキガチニイハナサズトモキミハカヨハセ》ともあり、同じやうな心理に本づいた歌である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三六〇〕
  人《ひと》の親《おや》の未通女兒《をとめご》居《す》ゑて守《もる》山邊《やまべ》から朝朝《あさなあさな》通《かよ》ひし君《きみ》が來《こ》ねば哀《かな》しも
  人祖 未通女兒居 守山邊柄 朝朝 通公 不來哀
 
 〔語釋〕 ○人祖 ヒトノオヤノと訓む。人間の親だちがといふ意で、下まで續く。卷十二(三
 
〇一七)に、人之子※[女+后]戀渡青頭※[奚+隹]《ヒトノコユヱニコヒワタルカモ》。卷十八(四〇九四)に、伊麻乃乎追通爾奈我佐敝流於夜能子等毛曾《イマノヲツツニナガサヘルオヤノコドモゾ》。同じ長歌のなかに、人祖乃立流辭立人子者祖名不絶《ヒトノオヤノタテルコトダテヒトノコハオヤノナタタズ》などとあるのは造語上少しく參考になるてあらう。
(471)○未通女兒居・守山邊柄 ヲトメゴスヱテ・モルヤマベカラ。少女をば持つてゐてそれを守つてゐるといふ意から、下のモルヤマにつづけた序である。その守山《もるやま》のほとりからの意。守山は飛鳥の三諸山(神南備山)だらうと云はれてゐる。卷六(九五〇)に、山守居守云山爾不入者不止《ヤマモリスヱモルチフヤマニイラズバヤマジ》。卷十三(三二二二)に、三諸者人之守山本邊者馬醉木花開末邊方椿花開浦妙山曾泣兒守山《ミモロハヒトノモルヤマモトベハアシビハナサキスエベハツバキハナサクウラグハシヤマゾナクコモルヤマ》等の例がある。ヨリといふ意味のカラの例は、卷十一(二六一八)に、月夜好三妹二相跡直道柄吾者雖來《ツクヨヨミイモニアハムトタダヂカラワレハキツレド》。卷十(一九四五)に、霍公鳥宇能花邊柄鳴越來《ホトトギスウノハナベカラナキテコエキヌ》。卷十三(三三二〇)に、直不往此從巨勢道柄石瀬踏求曾吾來《タダニユカズコユコセヂカライハセフミモトメゾワガコシ》。卷十七(三九四六)に、保登等藝須奈伎底須疑爾之乎加備可良秋風吹奴《ホトトギスナキテスギニシヲカビカラアキカゼフキヌ》等がある。○朝朝・通公・不來哀 舊訓アサナアサナ・カヨヒシキミガ・コヌハカナシモ。代匠記精アサナサナ。童蒙抄コネバカナシモ(略解以下同訓)。
〔大意〕 一首の意は、〔人祖未通女兒居《ひとのおやのをとめごすゑて》〕飛鳥《あすか》の守山《もるやま》の邊から、毎朝お通ひ下すつたあなたがこのごろ少しもお見えにならぬので悲しうございます。
 〔鑑賞〕 この歌も民謠的で、第一二句あたりの序詞も女の可憐な手法でなく、何となく男くさいところがある。全體が朴質のいい點もあるが、前からの旋頭歌氣分で、一氣に作つたものででもあらうか。
 
(472)          ○
 
  〔卷十一・二三六一〕
  天《あめ》なる一《ひと》つ棚橋《たなはし》いかでか行《ゆ》かむ若草《わかくさ》の妻《つま》がりと云《い》へば足莊嚴《あしよそひ》せむ
  天在 一棚橋 何將行 穉草 妻所云 足莊嚴
 
 〔語釋〕 ○天在・一棚橋 アメナル・ヒトツタナハシと訓んだ。天にあるといふ意でヒに係る枕詞。卷七(一二七七)に、天在日賣菅原草莫苅嫌《アメナルヒメスガハラノクサナカリソネ》とあるのもヒに係けて居る例である。棚橋は板一枚わたした橋である。『あやうきひとつばしをわたりてゆくらんことよ、いたはしやといはむがごとし。唐(ノ)周賀(ガ)送(ル)2僧(ノ)還(ルヲ)1v嶽(ニ)詩(ニ)曰。辭僧下(ル)2水棚ゐ(ヲ)1。橋は河の上にかけたるが、棚に似たれば、漢には水棚といひ、和にはたなはしといふなるべし』(代匠記初)。水棚と棚橋と同じか、もつと調べるつもりである。○何將行 舊訓イカデユクラム。童蒙抄イカデユカム。イカニユカム。考イカデカモユカム。略解イカデカユカム。古義ナニカサヤラム(行は障の誤)。新訓イカニカユカム。○穉草 ワカクサノでツマに係る枕詞である。○妻所云 ツマガリトイヘバと訓む。舊訓ツマガリトイフ。童蒙抄ツマガリトイヘバ。考ツマガリトヘバ(略解同訓)。略解宣長訓ツマガリトイヒテ(【校本萬葉童蒙抄訓としたのは誤記である。】)。古義ツマガリトイハバ。新訓ツマガイヘラク。○足莊嚴 舊訓アシヲウツク(473)シ(代匠記同訓)。童蒙抄ソコニモウルハシ。アシヨソヒセン。考アユヒスラクヲ。略解は考に從つたが、宣長説は莊嚴は結發の誤で、アユヒシタタス。
 〔大意〕 一首の意は、〔天在《あめなる》〕一つかかつてゐる危い板橋をば、どうして渡つて行くことが出來よう。併し戀しい妻のところへ行くのである。一つ足に仕度をして出掛けよう。といふのであらう。
 
 〔鑑賞〕 この歌は、天在《あめなる》とあるけれども、必ずしも天上の牽牛織女に關係せしめなくともいいやうである。やはり民謠風で、氣が利いて相當に面白い歌である。新訓では、『天なる一つ棚橋いかにか行かむ。若草の妻が云へらく足莊嚴《あしよそひ》せよ』と訓んで居る。旋頭歌であるから、下の句を新たに起すのも一つの手法で、かう訓んで味つてもやはり相當に面白いと思ふのであるが、自分は大體の感じから、童蒙抄に大分從つて右のやうに解したのであつた。古來この歌の解釋はまちまちであつたから、念のため次にその諸説を記し置かうとおもふ。
 代匠記では、舊訓どほりアシヲウツクシと訓んだので、『初三句ハ獨木橋《ヒトツハシ》ノ危ヲイカデ渡ルラムト勞ヲ思ヒヤリテ、天河ニ彦星ノ渡ル橋ヲ引懸テ云ナリ。【中略】淮南子云。若(シ)v行(カ)2獨梁(ヲ)1不d爲(ニ)v無(カ)v人不(ハアラ)uv兢《・オソレ》2其容(ヲ)1。足莊嚴トハ妻ノ許ヘ行道トテ獨梁ヲ渡ル足ヲイタハシト云ナリ。此ハヨキ男ノ妻ノ許ヘ往來《カヨフ》ヲ見ル人ノアハレビテヨメルナルベシ』(代匠記精)。『天に在る一ツ橋は、中々いかに(474)共行かるべきにあらねど、妻の居る處と云へば、いで行かんと足のよそほひをもすると云意共聞ゆる也』(童蒙抄)。考はイカデカモユカム・ワカクサノ・ツマガリトヘバ・アユヒスラクヲと訓むのであるが、『足纏《アユヒ》は下を飾なれば、歩行にままならぬ故に、一棚橋はえ渡りかねきなんといへり。莊嚴の下に助字乎の字無は、此人万呂集の體にて、助辭は幾言も添て云事也』(考)。略解は大體考に據つて解いたが、『宣長説、莊嚴は結發の誤にて、ツマガリト言ヒテ、アユヒシタタスと訓むべし。是は人のうへを見て詠めるなり。道に一つ棚橋の有るを、如何にして行かんとするに、人が妻許行くと言ひて、あゆひし出立つよとなりと言へり。斯くては穩かなり』と云つてゐる。また井上博士の新考では、『あめなる弟棚磯《おとたなばた》を迎へにや行く若くさの妻がりといひて舟《ふね》よそはくも』と直し、『一首の趣は若き男の妻がり行くといひて船よそひするを見て牽牛の妻迎船の故事を思浮べてサラバ織女ヲ迎ヘニ行クナラムといへるなるべし』と解した。
 右の如く種々あるが、新考の説は除外するとして、これを天上の牽牛織女に關聯せしめたり、或は第三者がひとの戀を客看する趣などに解するから面倒になるので、これは童蒙抄で解したやうに、平凡に素直に解し、自分の事を咏んでゐる趣に解くのが一番確かな解釋である。
 
 
(475)  〔卷十一・二三六二〕
  山城《やましろ》の久世《くぜ》の若子《わくご》が欲《ほ》しいといふ余《わ》をあふさわに吾《わ》を欲《ほ》しといふ山城《やましろ》の久世《くぜ》
  開木代 來背若子 欲云余 相狹丸 吾欲云 開木代來背
 
 〔語釋〕 ○開木代・來背若子 ヤマシロノ・クゼノワクゴガ。山背の久世の若子《わくご》(青年)がで、山城久世郡久津川村あたりである。類似の表現は既に前にもあつた。舊訓クゼノワカコガ。古寫本コゼノワカコヲ(古・細)。童蒙抄アキキコル・コセノワカコカ。略解クゼノワクコガ(古義同訓)。○欲云余 舊訓ホシトイフワレ。代匠記ホシトイフワレヲ。童蒙抄ホシトイフカリ。考ホシトイフワレ。略解ホシトイフワヲ。古義ホシトイフアヲ。今略解訓に從つた。○相狹丸 アフサワニと訓む。丸をワと訓むのは、輪・廻をワと訓むのと同じ理で、日本紀の和珥《ワニ》をば、古事記には丸邇《ワニ》と書いてあるので分かる。卷八(一五四七)に、棹四香能芽二貫置有露之白珠相佐和仁誰人可毛手爾將卷知布《サヲシカノハギニヌキオケルツユノシラタマアフサワニタレノヒトカモテニマカムチフ》とあるのと同じく、おほけなく、柄になく、身分不相應に、淺果敢に、などと口譯して好い場合がある。『こはあはさわと訓て淡騷てふ事とす。此若子が、あはつけくさわぎて欲といふよとわらふさま也』(考)。
 〔大意〕 一首の意は、山背《やましろ》の久世《くぜ》郷の一人の青年が、私を妻に欲しいなどといふ。身の程も知(476)らずに、私を妻に欲しいなどといふ、あの山背の久世の青年が。といふのである。
 〔鑑賞〕 これも民謠的な歌で、一人の娘がある青年の求婚について調戯つて居る趣の歌であるから、その輕い調子のために民謠として成立つて行つて居るのである。またそこに生々《いきいき》とした氣分が流れて居て、民謠としての價値をも保つて居る。代匠記精撰本に、『今ノ來背若子ハ賤シキヲ嫌ニハアラズ。主アル身ヲ威勢アルニ依テ※[(女/女)+干]サムトスルヲ嫌フナリ』とあるのは、少し考へ過ぎた解釋である。
 催馬樂に、『やましろの狛のわたりの瓜つくりわれを欲しといふいかにせむ』とあり、古今集誹諧歌に、『足引の山田のそほづおのれさへわれをほしといふうれはしきこと』とあるのも同じ趣の歌で、代匠記と新考で注意して居る。私は、古今以後の歌までは用例を引かない方針であるが、先進の説で好い場合にはそれを明かにするために引くことにして居る。
 此處まで來て、『右十二首柿本朝臣人麿之歌集出』とあるが、代匠記初稿本で、『人丸の集に出といへるは、彼朝臣の哥とのみ定がたき事、右より注するがごとし』といつて居る。
 
 
(477)  〔卷十一・二三六八〕
  垂乳根《たらちね》の母《はは》が手《て》放《はな》れ斯《か》くばかり術《すべ》なき事《こと》はいまだ爲《せ》なくに
  垂乳根乃 母之手放 如是許 無爲便事者 未爲國
 
 以下は『以前一百四十九首柿本朝臣人麿之歌集出』と注せられた一群の歌の中、『正述心緒』の部である。類聚古集・古葉略類聚鈔には、この歌の下に人丸集と注してある。
 一首の意は、物心がつき、年ごろになつて、母の手から放れて以來、こんなに切ない事をしたことは無いといふので、戀の切ないさまを云つてゐるのである。『術なき事』を、代匠記初稿本に、『かかるせんかたなきことをばいまだせぬなり。事とは戀なり』。代匠記精撰本に、『カカル進退キハマリタル思ヒヲバイマダセザリシトナリ』と翻してゐるのはなかなか旨い。この一首も民謠的ではあるが、聲調は内に潜む求心的になつて來てゐることに注意せねばならぬ。
 母之手放《ハハガテハナレ》は、舊訓ハハノテソキテであつた。この語につき、代匠記初稿本に、『放の字なれば、はなれともよむべし。そきてもさかりてはなるるなり。常に親の手をはなれてといへる心なり。人となりて、母の手をはなれてよりこのかたに、かかるせんかたなきことをばいまだせぬなり。事とは戀なり。允恭紀(ニ)皇后(ノ)曰。妾《ヤツコガ》初(テ)自2結髪《カミオイシ》1陪《ハムベルコト》2於|後宮《キサキノミヤニ》1既(ニ)經2多年(ヲ)1。母が手そきては、此髪(478)おきしよりとのたまへるがごとし。第五に山上憶良の、大伴熊凝がためによまれたる哥にも、うちひさす宮へのぼるとたらちしや母がてはなれといへり』と云つてゐる。略解ではハハガテカレテと訓んで居る。なほ新考には、結句をイマダアハナクニと訓み、『案ずるに爲は相の誤ならむ。さらばイマダアハナクニとよむべし。アハナクニは逢ハヌ事ヨとなり。卷四に、黒髪に白髪まじりおゆるまでかかる戀には未相爾《イマダアハナクニ》とあり』と説明してゐる。卷四の『黒髪に』云々の歌もよいが、この歌の『爲《せ》なくに』といふ結句は、肉體に即したやうな感じがあつてなかなかいい。これはこの儘にして味ふべきであるだらう。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三六九〕
  人《ひと》の寢《ぬ》る安宿《うまい》は寢《ね》ずて愛《は》しきやし君《きみ》が目《め》すらを欲《ほ》りて嘆《なげ》くも 【或本歌云、きみをおもふに明《あ》けにけるかも】
  人所寐 味宿不寐 早敷八四 公目尚 欲嘆 【或本歌云、公矣思爾曉來鴨】
 
 ○人所寐 略解宣長訓ヒトノナス。古義では所を衍としヒトノヌルを活した。○味宿不寐 舊訓ウマイモネズテ。童蒙抄ウマイハイネデ。考ウマイハネズテ。○公目尚 嘉暦傳承本・細川本(479)等キミガメヲナホ。舊訓キミガメヲスラ。代匠記精キミガメスラヲ 。童蒙抄キミガメヲナホ。○欲嘆 舊訓ホシミナゲクカ。童蒙抄ホリトナゲキヌ。考ホリテナゲカム。略解ホリテナゲクモ等の諸訓がある。『目尚《メスラヲ》』は、『戀しい人の目ヲバナホ』といふ意で、目といふことを主として強調しその他のことを同時に暗指するのである。古今集以後にはダニと似たやうに使つてゐる。私は、このスラを、『ヲバ、ナホ』、『デモ、ナホ』と譯して居る。一首の意は、このごろはいろいろと思ひ亂れて人のするやうに安眠も出來ずに其戀しい人の目ヲバナホ見たいと思つて歎いて居る。と言ふので、目スラはセメテ目ダケデモといふよりもその戀しい目をと目をば強める意がある。代匠記精に、『セメテ見ル事ダニホシキナリ』と云つてダニと同じに解し、大言海には、『指スモノハ重ク、夫レニ對シタル物ハ輕キヲ云フ語』と云ひ、廣日本文典にはヤハリナホの意で、口語ではデサヘモと譯していいと云つて居り、中古からはダニと同じ意に使つたと注してゐる。スラの用例を少しく次に抄出する。
  言問はぬ木すら紫陽花《あぢさゐ》諸弟《もろと》等が練《ねり》の村戸《むらと》に詐《あざむ》かえけり (卷四。七七三)
  斯くしつつ遊び飲《の》みこそ草木すら春は生ひつつ秋は散りゆく (卷六。九九五)
  言《こと》問《と》はぬ木すら妹《いも》と兄《せ》ありとふをただ獨子《ひとりご》にあるが苦しさ (卷六。一〇〇七)
  春日すら田に立ち疲る君は哀しも若草の※[女+麗]《つま》無き君が田に立ち疲る (卷七。一二八五)
(480)  蒼天《おほぞら》ゆ通ふ吾すら汝がゆゑに天漢路《あまのかはぢ》をなづみてぞ來し (卷十。二〇〇一)
  旅にすら紐解くものを事しげみ丸寢《まろね》吾《われ》はす長きこの夜を (卷十。二三〇五)
  石《いはほ》すら行き通《とほ》るべき健男《ますらを》も戀とふ事は後悔いにけり (卷十一。二三八六)
  夢のみに見るすら幾許《ここだ》戀ふる吾は寤《うつつ》に見てはまして如何《いか》ならむ (卷十一。二五五三)
  伊夜彦《いやひこ》おのれ神さび青雲の棚引く日すら※[雨/沐]《こさめ》そぼ零《ふ》る (卷十六。三八八三)
  出でて來し丈夫《ますら》吾すら世の中の常し無ければうち靡き (卷十七。三九六九)
  あたらしき身の壯《さかり》すら丈夫《ますらを》の語《こと》いたはしみ父母に啓《まを》し別れて (卷十九。四二一一)
 などで、ヲバナホ、デモナホ、ニモナホと翻していい。それから、ダニは、デモ(せめて、やうやくに)と譯し、サヘは、マデ、マデモ、マデニと譯して當るやうである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七〇〕
  戀《こ》ひ死《し》なば戀《こ》ひも死《し》ねとや玉桙《たまぼこ》の路行人《みちゆきびと》に言《こと》も告《つ》げなく
  戀死 戀死耶 玉桙 路行人 事告無
 
(481) 結句『事告無《コトモツゲナク》』は原文『事告兼』であつたから、コトモツゲカネ、コトモツゲケム、コトツゲムカネ等と訓んでゐたのを略解で、『兼は無の誤にて、結句こともつげなくならんと宣長言へり』といひ、古義もコトモツゲナキとも訓んで居る。校本萬葉に據るに、嘉暦傳承本に『無』とあつてコトツケモナシと訓み、また京都大學本に兼の右下に赭で『无イ本』とあつて合點を附し、訓の右に赭でコトツケモナシとある。
 一首の意は、このやうに苦しい戀に悩んでゐれば死ぬだらう。それをぼ戀死《こひじに》に死んでもかまはぬといふのでもあらうか、路を往來する人に言傳《ことづて》さへして呉れない。といふ歌で、これは男が女にうらみ言を云つて遣つた趣の歌である(或は女の歌としても解釋の出來ないことがない)。一般民謠風でもあるが、對咏的で、問答風に移行し、所謂色好み問答歌に移行して行くやうに見える。ただ、それが平安朝のものなどと違ひ、まだまだ、切實であり、心に直接であり、遊びに浮動するやうなことが無い。その差別をせずに、萬葉の歌だけに不滿を云ふのは、同情の足りない看方である。
 此歌は、拾遺集に、人麿作として下句『道行く人に言傳もな|し《きイ》』。柿本集に、『戀ひも死ねとか』『道行き人に言傳もなし』。六帖に、人麿【ある本】として『道行き人に言傳もせぬ』となつて載つてゐる。
 
(482)          ○
 
  〔卷十一・二三七一〕
  心《こころ》に千遍《ちたび》おもへど人《ひと》に云《い》はず吾《わ》が戀妻《こひづま》を見《み》むよしもがも
  心 千遍雖念 人不云 吾戀※[女+麗] 見依鴨
 
 ○千遍雖念 舊訓チヘニオモヘア。代匠記初書入【校本萬葉】チタビオモヘド。考チタビオモヘド。『ちたびもいはんと思へども也。ちへにと訓しは此哥にはかなはず』(考)。略解・古義以下考に從ふ。○人不云・吾戀※[女+麗] 舊訓ヒトニイハヌ・ワガコヒツマヲ。童蒙抄ヒトニイハヂ・ワガコフツマヲ。略解ヒトニイハズ・ワガコフツマヲ。古義ヒトニイハズ・アガコフイモヲ。○見依鴨 舊訓ミルヨシモガモ。略解ミムヨシモガモ。
 一首の意は、心には戀しくて戀妻のことも千たびも思うて居るが、それを誰にも云はずに、まのあたり見たいものだといふのである。前の歌の如くに、稍特殊な戀歌で稍個性化して來て居るのである。第三句の、『人に云はず』も強い句だが、それから第四句への續け方は自然で、なかなか旨い。卷十一(二五六五)に、直一目相視之兒故千遍嘆津《タダヒトメアヒミシコユヱチタビナゲキツ》。卷十二(三一〇四)に、將相者千遍(483)雖念《アハムトハチタビオモヘド》の例がある。
 この歌は、玉葉集に、題しらず、人麿とし『心にはちへに思へど人にいはぬわが戀妻はみる由もなし』、六帖に、『心には千重に思へど人に言はぬわが戀妻を見む由もがな』となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七二〕
  斯《か》くばかり戀《こ》ひむものとし知《し》らませば遠《とほ》く見《み》つべくありけるものを
  是量 戀物 知者 遠可見 有物
 
 ○戀物 舊訓コヒシキモノト。略解コヒムモノトシ。古義コヒムモノゾト。○遠可見 舊訓ヨソニミルベク。童蒙抄ヨソニノミミテ。略解トホクミルベク。古義トホクミツベク(新訓同訓)。新考トホクノミミテ。卷三(二四八)に、雲居奈須遠毛吾者今日見鶴鴨《クモヰナストホクモワレハケフミツルカモ》があり、遠はトホクと訓むのが近道だが、ヨソニミルの例はなかなか多いので舊訓でさう訓んだものであらう。卷三(四二三)に、君乎婆明日從外爾可聞見牟《キミヲバアスユヨソニカモミム》。同卷(四七四)に、昔許曾外爾毛見之加吾妹子之奧槨常念者(484)波之吉佐寶山《ムカシコソヨソニモミシカワギモコノオクツキトモヘバハシキサホヤマ》などがある。○有物 奮訓アリケルモノヲ。童蒙抄アラマシモノヲ(新考同訓)。
 一首の意。このやうに戀に心の悩むことと知つてゐたならば、最初から逢はずに、遠く外《よそ》に見てゐた方が好かつたのに、逢つたためにこんなに苦しんで居る。
 戀にはこの心理がありがちなので、萬葉にも、古今以後にも類歌が多い。卷十五(三七三九)に、可久婆可里古非牟等可禰弖之良末世婆伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留《カクバカリコヒムトカネテシラマセバイモヲバミズゾアルベクアリケル》の如き例がある。なほ『かくばかり』といふ句を用ゐた例に、卷二(八六)の、加此許戀乍不有者《カクバカリコヒツツアラズハ》をはじめ、卷四(七二二)に、如是許戀乍不有者石木二毛成益物乎物不思四手《カクバカリコヒツツアラズハイハキニモナラマシモノヲモノモハズシテ》。同(六八一)に、中々爾絶年云者如此許氣緒爾四而吾將戀八方《ナカナカニタユトシイハバカクバカリイキノヲニシテワガコヒメヤモ》等がある。
 この歌は、拾遺集に、人麿作として、第二句『戀ひしきものと』、第四句『よそにみるべく』。柿本集に、第二句『戀ひしきものと』、下句『よそに見るべくあらましものを』となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七三〕
  何時《いつ》はしも戀《こ》ひぬ時《とき》とはあらねども夕片設《ゆふかたま》けて戀《こひ》は術《すべ》なし
(485)  何時 不戀時 雖不有 夕方枉 戀無乏
 
 ○何時 舊訓イツトテモ。考イツハトハ。略解イツハシモ。卷十三(三三二九)に,何時橋物《イツハシモ》の例がある。いつはの意で『しも』は強めたのである。○不戀時・雖不有 舊訓コヒヌトキトハ・アラネドモ。童蒙抄コヒザルトキハ・アラネドモ。○夕方枉・戀無乏 舊訓ユフカタマケテ・コヒハスベナシ。童蒙抄コフルスベナサ、又はコフハスベナキ。考は舊訓のまま、乏は爲の誤とす。併し他にも卷十一(二四四一)の、無乏妹名告忌物矣《スベヲナミイモガナノリツイムベキモノヲ》の如きがある。嘉暦傳承本にはユフサルマヽニ・コヒシキハナシとある。
 一首の意は、何時といつて戀しない時はないけれども、夕がたになると奈何とも爲樣のないほどに戀しくなつて來る。といふ意である。
 この歌も民謠的であるが、稍獨咏的分子も交つてゐる。民謠的であるから、相手に云つてやつた趣であらう。上の句は少し容易であるが、『夕かたまけて』と云つて、直ちに、『戀はすべなし』と結んだ手法は流石におもしろい。これをば、夕方になると共に寐るのが習慣だからといふ意味を餘り強く持たせずに鑑賞する方が好いやうである。ただ夕方になるとおのづと戀が切なくなるといふ具合に取ればいいのである。『戀はすべなし』といふ表現は注意すべきもので、萬葉集にもう一つの例、卷十一(二七八一)に、海底奧乎深目手生藻之最今社戀者爲便無寸《ワタノソコオキヲフカメテオフルモノモトモイマコソコヒハスベナキ》がある。もつと(486)多く用例がありさうに見えて、この二例しか無い。
 既に代匠記で注意したやうに、卷十二(二八七七)に、何時奈毛不戀有登者雖不有得田直比來戀之繁母《イツハナモコヒズアリトハアラネドモウタテコノゴロコヒノシゲシモ》。卷十三(三三二九)に、何時橋物不戀時等者不有友是九月乎吾背子之偲丹爲與得《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモコノナガツキヲワガセコガシヌビニセヨト》があり、古今に、『いつはとは時はわかねど秋の夜ぞもの思ふことのかぎりなりける』、『いつとても戀しからずはあらねども秋の夕はあやしかりけり』等がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七四〕
  斯《か》くのみし戀《こ》ひや渡《わた》らむたまきはる命《いのちし》も知《し》らず歳《とし》を經《へ》につつ
  是耳 戀度 玉切 不知命 歳經管
 
 ○是耳 舊訓カクシノミ。代匠記精カクノミシ。古寫本カクテノミ(嘉・細)、又はカクシノミ。○不知命 舊訓イノチモシラズ。古寫本中イノチシラズモ(嘉)。シラヌイノチシ(細一訓)。イノチモシラヌ(神)。○歳經管 舊訓トシハヘニツツ。考トシヲヘニツツ(略解・新考)。
 一首の意は、このやうにして果敢なく私は人を戀しつつ居ることであらうか。命《いのち》も何も要らぬ(487)ほどにして、歳月を過ごしながら。といふほどの意であらう。
 『命も知らず』の如くに痛切に云つてゐるのであるが、稍一般化したごとくに、物足りなく感ずるのは、此種の表現の特色であつて、實作者としては常に念頭に置かねばならぬ事柄である。ただ萬葉調は古調で重厚であるから、そのために何時も輕薄化することを救つてゐるのである。
 前にもあつたやうに、命《いのち》がけで戀をしてゐると感じてゐる歌は可なりある。一二句の如き言ひ方をしたものとして、卷四(六九三)に、如此耳戀哉將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《カクノミニコヒヤワタラムアキツヌニタナビククモノスグトハナシニ》。卷十一(二五九六)に、名草漏心莫二如是耳戀也度月日殊《ナグサモルココロハナシニカクノミシコヒヤワタラムツキニヒニケニ》。卷七(一三二三)に、海之底奧津白玉縁乎無三常如此耳也戀度味試《ワタノソコオキツシラタマヨシヲナミツネカクノミヤコヒワタリナム》。卷九(一七六九)に、如是耳志戀思渡者靈刻命毛吾波惜雲奈師《カクノミシコヒシワタレバタマキハルイノチモワレハヲシケクモナシ》等の例がある。
 この歌は、續後撰集に、『題しらず、柿本人丸』として載り、初句『かくてのみ』、結句『年は經にけり』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七五〕
  吾《われ》ゆ後《のち》生《うま》れむ人《ひと》は吾《わ》が如《ごと》く戀《こひ》する道《みち》にあひこすな勤《ゆめ》
(488)  吾以後 所生人 如我 戀爲道 相與勿湯目
 
 ○吾以後 奮訓ワガノチニ。考ワレユノチ。○所生人 舊訓ウマレムヒトモ。考ウマレムヒトハ。○相與勿湯目 舊訓アヒアフナユメ。代匠記初アヒコスナユメ。童蒙抄アヒマクナユメ。老アヒコスナユメ、與は乞の誤。古義原字の儘でアヒコスナユメ。
 一首の意は、己《おれ》より後に生れる人々は、己のやうに戀をする道に決して逢つてはならぬぞ。嗚呼戀は苦しい。といふのである。
 これも民謠的一般性を有つて居るが、稍獨語的咏歎をも交へてゐるものである。倫理的に響くところもあるが、これは獨咏的嗟歎の餘響であつて、作者の意圖が其處にあるのではない。斯く、獨咏的反省的な言ひ方が、やがて觀念的、概念的な歌に移行する傾向を有するものであるが、このあたりのものは、まだまだ肉體的であり、そこに強味を持つてゐる。代匠記初稿本に、『小杜が阿房宮賦云。秦人不v暇2自哀1而後人哀v之。後人哀v之而不v鑑v之、亦使d後人而復哀c後人u也。王右軍蘭亭記云。後之視v今、亦猶2今(ノ)之觀1v昔』を引いてゐるが、この支那の文はもつと倫理的教訓的である。
 このコスといふ動詞は左行下二段の動詞で、卷十一(二七一二)に、言急者中波余騰益水無河絶跡云事乎有超名湯目《コトトクバナカハヨドマセミナシガハタユトフコトヲアリコスナユメ》。卷四(六六〇)に、汝乎與吾乎人曾離奈流乞吾君人之中言聞起〔越〕名湯目《ナヲトワヲヒトゾサクナルイデワガキミヒノトナカゴトキキコスナユメ》等(489)があり、なほ、卷二(一一九)に、須臾毛不通事無有巨勢濃香毛《シマシクモヨドムコトナクアリコセヌカモ》。卷五(八一六)に、烏梅能波奈伊麻佐家留期等知利須義受和我覇能曾能爾阿利己世奴加毛《ウメノハナイマサケルゴトチリスギズワガヘノソノニアリコセヌカモ》等がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七六〕
  健男《ますらを》の現《うつ》し心《ごころ》も吾《われ》は無《な》し夜《よる》晝《ひる》といはず戀《こ》ひしわたれば
  健男 現心 吾無 夜晝不云 戀度
 
 ○夜晝不云 舊訓ヨルヒルイハズ。古寫本中、ヨルヒルイハヌ(嘉・神)の訓もある。童蒙抄ヨルヒルトイハズ。○戀度 舊訓コヒシワタレバ。童蒙抄コヒワタリツツ。
 一首の意は、男兒としての正氣《しやうき》ももはや己には無い。晝夜の差別もなく戀のしつづけであるから。といふのである。
 この歌は、獨り戀に懊悩してゐる趣であるから、獨咏的色調を有つてゐるが、一面には民謠的に輕いところも交つてゐるので、やはり對他的に愬へる分子もあると看做していいとおもふ。一首には人麿本來の面目である一種の暈が尠いが、併し何處かに重みが保たれてゐて相當に味へる(490)點もあるやうにおもへる。マスラヲといふ語の語感も現在吾等の持つものよりも、もつと生々したものであつたらしく、其等をも念頭に置いて味ふ必要があるだらう。ウツシゴコロといふ語も、丁寧に反覆して味つていい語である。
 ウツシゴコロについて、代匠記に、『現心ハウツツノ心ニテ、サダカナル心ナリ』とある如く、現心が無いといふのは、茫然として居ることともなるのである。卷十二(二九六〇)に、虚蝉之宇都志情毛吾者無妹乎不相見而年之經去者《ウツセミノウツシゴコロモワレハナシイモヲアヒミズテトシノヘヌレバ》といふ似た歌がある。
 この歌は風雅集に、題しらず、讀人しらずとして、第四句『よる晝いはず』とあり、また柿本集及び六帖戀の歌の部に、第四句『夜晝わかず』として載つてゐる。また六帖の鹽の歌に、『あらしほのうつし心も我はなしよるひる人を戀しわたれば』とあるのは、健男《あらしを》と荒鹽《あらしほ》と混同したものであらうと代匠記精撰本に言つてゐる。夫木和歌抄には、人丸作として、初句『ますらをや』、第四句『よる晝わかす』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七七〕
  何《なに》せむに命《いのち》繼《つ》ぎけむ吾妹子《わぎもこ》に戀《こ》ひざる前《さき》に死《し》なましものを
(491)  何爲 命繼 吾妹 不戀前 死物
 
 ○何爲 舊訓ナニセムニ。考ナニストカ。○不戀前 舊訓コヒセヌサキニ。略解コヒザルサキニ(古義・新考同訓)。○死物 舊訓シナマクモノヲ。代匠記初シナマシモノヲ。
 一首の意は、なぜ己は命をながらへて居たのであらう。こんなに苦しむのなら、戀人に逢はぬさきに死んでしまつた方が好かつたのに。といふのであらう。
 これも獨咏的でもあるが、やはり對者にいつてゐるやうな點もあり、強く命がけのやうに云つて居りながら、民謠として常にうたはれる程度になつてゐるのである。これも人麿作だとせば、人麿の發育史の道程にかういふやうな状態で歌を作つたことがあると考察すべきものであらう。
 ツグといふ動詞は、萬葉では、言ひつぐ、語りつぐ、聞きつぐ等の例が多く、イノチツグの例はほかにないやうである。卷十(二二〇九)に、秋芽子之下葉乃黄葉於花繼時過去者後將戀鴨《アキハギノシタバノモミヂハナニツグトキスギユカバノチコヒムカモ》。卷十一(二六二五)に、不相爾夕卜乎問常幣爾置爾吾衣手者又曾可續《アハナクニユフケヲトフトヌサニオクニワガコロモデハマタゾツグベキ》がある。ナニセムといふ用法も、卷四(五六〇)に、孤悲死牟後者何爲牟生日之爲社妹乎欲見爲禮《コヒシナムノチハナニセムイケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》。同卷(七四八)に、奈何爲二人目他言辭痛吾將爲《ナニセムニヒトメヒトコトコチタミワガセム》。卷五(八〇三)に、銀母金母玉母奈爾世武爾《シロガネモクガネモタマモナニセムニ》等がある。一首一首についてその色調を玩味すべきである。
 
(492)          ○
 
  〔卷十一・二三七八〕
  よしゑやし來《き》まさぬ君《きみ》を何《なに》せむに厭《いと》はず吾《われ》は戀《こ》ひつつ居《を》らむ
  吉惠哉 不來座公 何爲 不厭吾 戀乍居
 
 ○何爲 舊訓ナニストカ。略解ナニセムニ。○不厭吾 舊訓ウトマズワレハ。代匠記精イトハズワレハ。新考アカズモワレハ。
 一首の意は、もうどうでもおよろしいのです。どうせ御いでにならぬあなたのことですもの、それも厭《いと》はずに私が戀をつづけて居ることが出來ませうか。そんなことは出來ませぬから。といふのである。
 これは、女が其女の處に來ることの遠退いた男に向つて怨をいつて居る趣の歌で、やはり民謠風のものである。語調が急迫してゐるので、割合に味へる歌であり、『厭はず』といふ語もこまかくておもしろい處である。新考訓のアカズモは高調だが、代匠記訓でもかまはぬだらう。『厭はず』は、いやではない、嫌にはならぬといふ意で、卷四(七六四)に、百年爾老舌出而與余牟友吾者不厭戀者益友《モモトセニオイジタイデテヨヨムトモワレハイトハジコヒハマストモ》。卷十五(三七五六)に、牟可比爲弖一日毛於知受見之可杼母伊等波奴伊毛乎都奇(493)和多流麻※[氏/一]《ムカヒヰテヒトヒモオチズミシカドモイトハヌイモヲツキワタルマデ》等の例がある。
 このヨシヱヤシの下にコヒジを省いたのだと新考で云つて居る。卷十(二三〇一)に、忍〔吉〕咲八師不戀登爲跡金風之寒吹夜者君乎之曾念《ヨシヱヤシコヒジトスレドアキカゼノサムクフクヨハキミヲシゾオモフ》があり、なほ、卷十一(二六五九)に、爭者神毛惡爲縱咲八師世副流君之惡有莫君爾《アラソヘバカミモニクマスヨシヱヤシヨソフルキミガニクカラナクニ》。卷十二(二八七三)に、里人毛謂告我禰縱咲也思戀而毛將死誰名將有哉《サトビトモカタリツグガネヨシヱヤシコヒテモシナムタガナナラメヤ》等がある。なほ、卷十一(二五三七)の、吾持留心者吉惠公之隨意《ワガモタルココロハヨシエキミガマニマニ》などは、ママヨといふ意がよくあらはれて居る。此處のヨシヱヤシも、ドウデモヨイ。ママヨといふ意に翻していい場合である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七九〕
  見《み》わたせば近《ちか》きわたりを徘徊《たもと》り今《いま》や來《き》ますと戀《こ》ひつつぞ居《を》る
  見度 近渡乎 回 今哉來座 戀居
 
 ○見度 舊訓ミワタセバ。古義ミワタシノ。『打向ひ見渡さるる處をミワタシといふなり。ここはミワタセバと訓はわろし』(古義)。卷十三(三二九九)に、見渡爾妹等者立志是方爾吾者立而《ミワタシニイモラハタタシコノカタニワレハタチテ》。(494)卷十一(二四七二)に、見渡三室山石穗菅《ミワタシノミムロノヤマノイハホスゲ》等の例がある。併し、卷十七(三八九〇)に、和我勢古乎安我松原欲見度婆《ワガセコヲアガマツバラヨミワタセバ》といふ例もあり、ミワタセバと訓んで解釋が出來るから、舊訓に從つて置く。
 一首の意は、見わたせば、直ぐ近くに見えますのに、人目を避けて態々まはり道をして來られるあの方が、もうおいでになる頃だと待ちこがれて居ります。『近きあたりながら人目をよくとて、廻り道をして來るを、今や今やと待つなり』(略解)。
 この歌もまた民謠風で、女が男を待つ氣持になつて歌つてゐる。然かも細かいところに注意して、男の行動を敍してゐるあたりは、この歌をして民謠風に活かした點でもあり、民謠の好い點でもある。ことに斯ういふいひあらはし方は實際の寫生に本づかなければ到底出來ないと思はしめる程に旨いところがある。タモトホリの語にしろ、當時の人にとつては何でもないことだとしても、散策のやうにしてまはりくねつた道を歩いて來る趣を、ただタモトホリの一語であらはすのは簡潔で旨いとおもふのである。タモトホリは集中、手回、他回、徘徊等とも書いた。
 新考に、『案ずるに卷七に、視渡者ちかき里廻をたもとほり今ぞわがこしひれふりし野に、といふ歌あり。今の歌の渡ももと里廻とありしが上なる見度の度よりまぎれて渡となれるにあらざるか。渡津のあなたに男のすめるをチカキ渡とはいふべからざる故なり。されば初二はミワタセバチカキサトミヲとよむべし』と云つた。これは參考説として記し置く。卷七の歌は、代匠記も既(495)に引用したが、この歌に似てゐるのは、やはり民謠化要素があり相通じたものであらう。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八〇〕
  愛《は》しきやし誰《た》が障《さ》ふれかも玉桙《たまぼこ》の路《みち》見忘《みわす》れて君《をみ》が來《き》まさぬ
  早敷哉 誰障鴨 玉桙 路見遺 公不來座
 
 ○早敷哉 奮訓ハシキヤシで誰も疑はなかつたが、新考でウレタキヤ(慨哉等の誤)を提出した。○誰障鴨 舊訓タガサヘテカモ。古寫本中タガサフルカモ(細)もあり、童蒙抄タレサハルカモ。略解タガサフレカモ(諸抄從之)。○路見遺 舊訓ミチワスラレテ。童蒙抄ミチヲワスレテ。考ミチワスレテカ。略解ミチミワスレテ(諸抄從之)。新考ミチハチカキヲ(不遠の誤)。
 一首の意。〔早敷哉《はしきやし》〕誰が邪魔をするのでせう、〔玉桙《たまぼこの》〕路をもお忘れになつたと見えて、あの方がちつともおいでになりませぬ。
 この歌も、女の心持になつて咏んだ民謠風のもので、氣が利いてゐてなかなかおもしろい。その想像も今から見れば幼稚だが、若い女性にいはれると、甘美の聲と共に力強くなつてくるので(496)あり、また、『路見忘れて』などの小味のところも腑に落ちてくるのである。新考の訓は、この小味の點は古調にふさはしくないと思つたからの改訓であらうが、女性らしくいふには却つてこれが自然だとも謂ふことが出來るのである。
 ハシ、ハシキヤシといふ語は、愛《ハシ》といふ意味が明かなので、結句の公《キミ》に係るものと解してゐた。『ハシキヤシは下の公を言ふなり』(略解)。然るに、新考では、『三句十九言を隔ててキミにいひかくべきにあらず。おそらくは慨哉などを誤れるにてウレタキヤとよむべきならむ』と云つた。この初句から、結句に續かせる句法は、幾ら自由に解しても、どうかと思ふから、愚案は、直ちに、『誰が』に續かせた。戀敵の女を指してゐるから、ハシキヤシはをかしいと思ふのであるが、このごろ來なくなつた男の身にとつてみればハシキヤシとなるのだから、さういふ表現をとつたのかも知れない。一首が民謠風で、『路見忘れて』などと云つてゐるのだから、これくらゐの自由性があつたのかも知れない。また、直ぐ人麿作と斷定が出來ないところがあるからである。卷四(六四〇)に、波之家也思不遠里乎雲居爾也戀管將居月毛不經國《ハシケヤシマヂカキサトヲクモヰニヤコヒツツヲラムツキモヘナクニ》。卷五(七九六)に、伴之伎與之加久乃未可良爾之多比己之伊毛我己許呂乃須別毛須別那左《ハシキヨシカクノミカラニシタヒコシイモガココロノスベモスベナサ》。卷十一(二六七八)に、級子八師不吹風故玉※[しんにょう+更]開而左宿之吾其悔寸《ハシキヤシフカヌカゼユヱタマクシゲアケテサネニシワレゾクヤシキ》等とあるのは、直ぐ公《キミ》、妹《イモ》などに續かぬ例でもあり、卷五の例は、初句から第四句のイモに續けた例である。して見れば、此處の歌のハシキヤシも結句の公《キミ》に關聯(497)せしめてもよからうといふことにもなるのである。愚案に都合のよい例は萬葉には無いやうである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八一〕
  君《きみ》が目《め》を見《み》まく欲《ほ》りしてこの二夜《フタヨ》千歳《チトセ》の如《ごと》も吾《わ》が戀《こ》ふるかも
  公目 見欲 是二夜 千歳如 吾戀哉
 
 ○公目 舊訓キミガメヲ。古義キミガメノ。○見欲 舊訓ミマクホリシテ。古義ミマクホシケミ。○吾戀哉 舊訓ワガコフルカナ。代匠記初書入【校本萬葉】ワガコフルカモ。考ワガコフルカモ。
 一首の意は、あなたにお目にかかりたく、この二夜はもう千年も經つたやうに長く待ちどほしくお慕ひ申して居ります。といふのである。
 女のつつましく且つ濃厚な情緒を見せて居る。『この二夜《ふたよ》千歳《ちとせ》のごとも』といふあたりの誇張に、甘えた語調があつていい氣特を起させるので、民謠としても成立ち得る可能性があるのである。
(498) メヲミマクホルといふやうな表現は、このほかにも可なりあつて、この下にも見えて居る。卷十二(三〇二四)の、妹目乎見卷欲江之小浪敷而戀乍有跡告乞《イモガメヲミマクホリエノサザレナミシキテコヒツツアリトツゲコソ》。同卷(三一三六)の、客在而戀者辛苦何時毛京行而君之目乎將見《タビニアリテコフレバクルシイツシカモミヤコニユキテキミガメヲミム》。卷十三(三二三七)の、奧浪來因濱邊乎久禮久禮登獨曾我來妹之目乎欲《オキツナミキヨルハマベヲクレクレトヒトリゾワガクルイモガメヲホリ》等があり、なほ、是等は『妹が目を欲る』例であるが、卷十五(三五八七)に、多久夫須麻新羅邊伊麻須伎美我目乎家布可安須可登伊波比弖麻多牟《タクブスマシラギヘイマスキミカメヲケフカアスカトイハヒテマタム》。卷十七(三九三四)に、奈加奈可爾之奈婆夜須家牟伎美我目乎美受比佐奈良婆須敝奈可流倍思《ナカナカニシナバヤスケムキミガメヲミズヒサナラバスベナカルベシ》があり、是等は、『君が目を欲る』、即ち女が男の目を欲る例である。
 この歌は、六帖に人麿作として載り、『君をめに見まくほしさにこの二夜千年のごとく我こふるかな』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八二〕
  うち日《ひ》さす宮道《みやぢ》を人《ひと》は滿《み》ち行《ゆ》けど吾《わ》が念《おも》ふ公《きみ》はただ一人《ひとり》のみ
  打日刺 宮道人 雖滿行 吾念公 正一人
 
(499) ○宮道人 舊訓ミヤヂノヒトハ。嘉暦伝承本ミヤヂニヒトハ。略解ミヤヂヲヒトハ(【古義・新考同訓】)。校本萬葉に古義初訓としたのは誤。○吾念公・正一人 舊訓ワガオモフキミハ・タダヒトリノミ。古寫本中、ワレガオモフハ・キミタダヒトリ(嘉・細)。細井本には漢字の左にワガオモフキミハ・タダヒトリノミとある。
 一首の意は、〔打日刺《うちひさす》〕宮へ通ふ大路《おほぢ》をば、澤山の殿《との》がたが通つて居られるが、わたくしのお慕ひ申す方《かた》は、ただあなただけでございます。といふのである。
 これも女から男にむかつて云つた趣の歌で、そしてやがて民謠風になつてゐるのである。都の少女や青年などが揃つて歌ひ且つ相當に感應した歌のやうにおもへる。それだけ無理がなく順當に歌はれた歌である。大きい往還を群集の歩いてゐる樣も想像出來る珍らしい歌で、特に、『滿ち行けど』といふ表現は注意すべきである。集中には、卷五(八九四)に、目前爾見在知在人佐播爾滿弖播阿禮等母《メノマヘニミタリシリタリヒトサハニミチテハアレドモ》。卷十三(三三二四)に、藤原王都志彌美爾人下滿雖有《フヂハラノミヤコシミミニヒトハシモミチテアレドモ》の例がある。共に參考していい。
 この如き内容の歌が多くあるらしく思へるが必ずしもさうでなく、卷四(四八五)に、人多國爾波滿而味村乃去來者行跡吾戀流君爾之不有者《ヒトサハニクニニハミチテアヂムラノユキキハユケドワガコフルキミニシアラネバ》。卷十三(三二四九)に、式島乃山跡乃土丹人二有年念者難可將嗟《シキシマノヤマトノクニニヒトフタリアリトシモハバナニカナゲカム》がある。また一二句に就いては、卷十二(三〇五八)に、内日刺宮庭有跡鴨頭草乃移(500)情吾思名國《ウチヒサスミヤニハアレドツキクサノウツロフココロワガモハナクニ》。卷十四(三四五七)に、字知日佐須美夜能和我世波夜麻登女乃比射麻久其登爾安乎和須良須奈《ウチヒサスミヤノワガセハヤマトメノヒザマクゴトニアヲワスラスナ》等がある。
 毛詩鄭風云。出(レバ)2其東門(ヲ)1、有v女如v雲、雖2則如1v雲、匪(ズ)2我思(ヒノ)存(スルニ)1。六帖には、『うちひさす大宮人は多かれどわきて戀るはただひとりぞも』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八三〕
  世《よ》の中《なか》は常《つね》斯《か》くのみと念《おも》へども本名《もとな》忘《わす》れず猶《なほ》戀《こ》ひにけり
  世中 常如 雖念 半手〔本名〕不忘 猶戀在
 
 ○世中 舊訓ヨノナカニ。古寫本中ヨノナカノ(嘉・神・西・細・温)。代匠記初ヨノナカノ。童蒙抄ヨノナカハ(考以下同訓)。○常如 舊訓ツネカクゾトハ。代匠記初ツネノモコロニ、或はツネノゴトクニ。代匠記精云、『如ヲカクゾトハト點ゼル不審ナリ。若如此ナリケムヲ此ノ字ノ落タルカ。有ノママナラバ、ツネノモコロニト讀テ、常ノ人ト同ジサマニ思ヒナセドト意得ベキカ。今按如ハ女ヲ誤テ作レル歟。然ラバヨノナカノツネノヲミナ、或ハヲトメト讀ベシ』。童蒙抄、ツ(501)ネカクノゴトと訓み、なほ、『常のもころにと讀める説も有。又常かくのみに共讀める説有。然共意は同じき事なれば、いか樣共好む所に從ふべし』。考ツネカクノミト(【略解・古義・新考・新訓等同訓】)。○半手不忘 舊訓ハテハワスレズ。童蒙抄ハタワスラレズ。考、同訓、手は多の誤。古義アレハワスレズ、半手は吾者の誤か。新考ウタテワスレズ、半手は哥手の誤か。新訓カタテワスレズ。茂吉案モトナワスレズ、半手は本名の誤か。モトナ・ミエツツなどと同じ用法か。○猶戀在 舊訓ナヲコヒニケリ。代匠記初ナヲコヒニタリ。童蒙抄ナホコヒニタリ。考ナホゾコヒシキ、在は布の誤。略解ナホコヒニケリ(古義以下同訓)。
 一首の意は、世の中は、いつもこのやうなものだとは觀念してはゐたが、それを不甲斐なくも(もとな)忘れてしまふことが出來ずに、またこんなに苦しい、戀をして居る。といふのである。
 この歌は、概念的なやうであるが、感慨が比較的滲みとほつてゐて、一般化し得る要約をも備へて居るところに民謠的效果を保持したものとおもへる。外見は獨語的だが、よく味へば相手に愬へてゐるのである。
 略解は大體考に據つたが、『ハタは又と言ふに同じ。世の中は斯くとは思ひ明らめて居るとすれど、猶戀ふる方に引かれて、又終に忘られずと言へり。半手の手は多の草書より誤れるか。手は言の下に置きて、タと訓む例なし。按ずるに、人麻呂集に假字書無き例なれば、半手など書く(502)べきいはれ無し。全誤字ならん』云々。鴻巣氏の全釋を見るに、新訓に從ひ、『新訓にカタテとよんだのは、一方ではの意と見たものか、二手をマデとよんだのに對して、半手は別に慣用の訓法があるのではないかと思はれるが、しばらくこの訓によつて解いておいた』と注してある。それから、私は、『半手』を『本名』の誤寫として、モトナと訓ませたが、『半手』は『兩手』或は『二手』の反對で、半手では、便りない、覺來ないことになるので、義訓の一種として、モトナと訓ませると解してもいい。さうすれば強ひて、誤寫とせずとも濟むのである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八四〕
  我背子《わがせこ》は幸《さき》く坐《いま》すと遍《かへ》り來《き》て我《われ》に告《つ》げ來《こ》む人《ひと》も來《こ》ぬかも
  我勢古波 幸座 遍來 我告來 人來鴨
 
 ○遍來 舊訓カヘリキテ。童蒙抄ユキカヨヒ。考タマタマモ、適喪の誤。古義タビマネク、來は多の誤。新考カヘリキテ。遍は還。集中|遍多數《タビマネク》、過多《タビマネク》、兩遍《フタタビ》、千遍《チタビ》等と用ゐて居るから、遍歴して還つて來る意にして、カヘリキテと訓んでも好いであらう。なほ、字鏡集にはユク、ヲハルの(503)訓もある。○我告來・人來鴨 舊訓ワレニツゲコム・ヒトノクルカモ。童蒙抄ワレニツゲクル・ヒトノコンカモ。考ワレニツゲクル・ヒトノコムカモ。略解ワレニツゲコム・ヒトノコヌカモ。『不來鴨と有べきを、不を略き書ける例集中に多きことは、宣長既に言へり』(略解)。新考ワレニツゲナム・ヒトノナキカモ、來は無の誤。
 一首の意は、私の夫《をつと》が旅にあつて無事で居られるといふことを、歸り路に立寄つて、私に告げてくれる人が來ないか。來て呉れれば好いが。といふので、留守をもる女の心持の歌である。『是れは夫の旅なるを思ふ歌なるべし』(略解)といふのに間違はあるまい。
 この歌で、『遍來』が、學者に苦心をさせたが、此は、旅先で夫に逢つた者が歸路に家に立寄る趣である。また、『來鴨』を、コヌカモと訓んだのは手腕であつた。かう訓んだために、一首が無理なく解釋が出來るやうになり、留守もる女のつつましい心情をも自然に理會し得るやうになつたのである。この歌は、人麿歌集にあるが、人麿の作でなく、誰か女の作が載つたものではあるまいか。若し、人麿歌集の歌を、殆んど皆人麿作だと論ずる説に從ふと、この歌も亦人麿の作となり、なほ想像を恣にすれば、人麿代作説、人麿巡遊詩人説等に發展して行くのであらうか。私はさういふ説には賛成しないのである。
 
(504)          ○
  〔卷十一・二三八五〕
  あらたまの五年《いつとせ》經《ふ》れど吾《わ》が戀《こひ》の跡無《あとな》き戀《こひ》は止《や》まず恠《あや》しも
  麁玉 五年雖經 吾戀 跡無戀 不止恠
 
 ○吾戀 舊訓ワガコフル。代匠記初書入【校本萬葉】ワガコヒノ。○跡無戀 舊訓アトナキコヒノ(代匠記同訓)。『跡無戀ハ驗ノナキナリ。五年經テ戀ルニ驗ナクバ思ヒヤマルベキ事ナルニ、猶ヤマネバ、ミヅカラ恠シブナリ』(代匠記精)。考シルシナキコヒゾ。『形跡の無きこころにて跡と書しかば、しるしなきと訓むべし』(考)。○不止恠 舊訓ヤマヌアヤシモ(古義同訓)。童蒙抄ヤマヌアヤシサ(新考同訓)。考ヤマズアヤシモ(略解同訓)。
 一首の意は、〔麁玉《あらたまの》〕もう五年も經つて居るが、甲斐ない私の戀がまだ止まない。不思議なことですといふのである。
 獨語的な歌だが、これもやはり愬へてゐるのであらう。『恠しも』は自嘲のやうでもあり、それをそのまま、相手に持つて行つて愬へて居るといふところもある。『あらたまの五年』は特殊の用法だが、卷十八(四一一三)の長歌に、安良多末能等之能五年之吉多倍乃手枕末可受《アラタマノトシノイツトセシキタヘノタマクラマカズ》があり、家持(505)の作さから、或は人麿歌集の此句を參考したのかもしれない。アヤシといふ語も注意してよく、集中に用例がある。卷十二(三〇七六)は、住吉之敷津之浦乃名告藻之名者告而之乎不相毛恠《スミノエノシキツノウラノナノリソノナハノリテシヲアハナクモアヤシ》。卷十八(四〇七五)に、安必意毛波受安流良牟伎美乎安夜思苦毛奈氣伎和多流香比登能等布麻泥《アヒオモハズアルラムキミヲアヤシクモナゲキワタルカヒトノトフマデ》がある。其他略。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八六〕
  石《いはほ》すら行《ゆ》き通《とほ》るべき健男《ますらを》も戀《こひ》とふ事《こと》は後《のち》悔《く》いにけり
  石尚 行應通 建男 戀云事 後悔在
 
 ○石尚 舊訓イハホスラ。代匠記精イハヲスラ。『尚』をスラと訓むこと、夢耳見尚幾許戀吾者《イメノミニミテスラココダコフルワハ》の他、用例がある。○建男 舊訓マスラヲモ(諸注從之)。考タケヲスラ。○戀云事 舊訓コヒテフコトハ。童蒙抄コヒチフコトハ。考コヒトフコトハ。○後悔在 舊訓ノチノクヰアリ。略解ノチクイニケリ。
 一首の意は、巌石をも踏み破つて通り得るやうな健男《ますらを》でも、戀といふことに當つてはつくづく(506)後悔するものだ。といふのである。
 自分の戀の苦しみをいふのに、自分を健男に見たてて、心情を強めて表現して居る。その誇張は稍ともすれば概念的になりがちであるが、この場合は、咏歎が強いので左程にそれが目立たない。『戀とふ事は』といふ一般化したやうな言方でもさうである。これも概念的に陷り易く、取りすましたやうに受取られがちのものだが、この場合は聲調によつてそれを救つて居る。結句の訓はさうして見ればやはり、『悔いにけり』であらうか。この『けり』は輕いやうで相當の重みと落著とを得て居るものである。
 代匠記初稿本に、『神武紀云。更《マタ》少|進《ユクトキニ》亦有(テ)v尾而|披《オシワケテ》2磐石《イハヲ》1而出(ル)者(アリ)。天皇問(テ)之曰。汝(ハ)何人(ゾ)。對(テ)曰《マウサク》。臣《ヤツカレハ》是(レ)磐|排別《オシワク》之子(ナリ)。いはをも踏さきてとほるべきほどのつはものも、戀といふことには後のくやみあるとなり。大敵にむかひてもおそれぬをのこの、戀といへばかへりみしてくゆるはこれがおもしろきことなり』と云つて居る如く、此歌では、『行き通るべき』といふ表現が注意せら
るべきである。なほ集中、卷三(四一九)に、石戸破手力毛欲得手弱寸女有者爲便乃不知苦《イハトワルタヂカラモガモタヨワキヲミナニシアレバスベノシラナク》。卷九(一七七八)に、名欲山石踏平之君我越去者《ナホリヤマイハフミナラシキミガコエイナバ》等がある。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として載り、下句『戀てふことは後のくいあり』となつてゐる。
 
(507)          ○
 
  〔卷十一・二三八七〕
  日暮《ひく》れなば人《ひと》知《し》りぬべみ今日《けふ》の日《ひ》の千歳《ちとせ》の如《ごと》く在《あ》りこせぬかも
  日促 人可知 今日 如千歳 有與鴨
 
 ○日促 舊本『日位』であるが、古寫本中『日促』に作つた(西・神・京)のがあるので改めた。舊訓ヒクレナバ。代匠記精、位は※[人偏+弖]の誤。童蒙抄ヒツギナバ。ヒナラベバ、位は竝の誤。『拾穗抄には低の字を書けり。然共、拾穗の本は理を不v顯』(童蒙抄)。考ヒナラベバ、位は竝の誤(新考從之)。略解ヒクレナバ、位は低の誤。『拾穗本に低に作るを善しとす』(略解)。『促』は、類聚名義抄、字鏡集にも、ツヅマル、セマル、ミジカシ、セメトル等の訓が附けてあるが、『日促』を夕暮になる義に取ることも全然不可能でなかるべく、從つて、ヒクレナバと訓ずることもまた出來るだらうと思ふのである。○有與鴨 舊訓アルヨシモガモ。代匠記初アリコセヌカモ。
 一首の意は、日暮れになると、人目が却つて多くなり、人の注意をひくやうになつて、この二人だけの媾會が見つかつてしまふだらう。それゆゑこの樂しい今日が、千年ほどの長さになつて呉れないものか。夕暮にならずにいつまでも日永であつて欲しいものだ。といふ意であらう。
(508) 夕暮になると、人に知られるといふのが腑に落ちないので、諸先進が種々苦心したが、これは男が女の許に通ふのは大概夕暮からであるからこの女の許にも或男が通つて來ないとも限らぬのである。また夕暮から大勢の男が通つて歩くのだから、却つて見つかり易いのをいふのであつて、この歌は晝間に媾會して居る趣に解すべきものである。代匠記精で、『日クレナバ人ノ知ラムト云コトハ上ニ夕カタマケテ戀ハスベナシトヨメル如ク、夕ハイトド心細ク涙モモロケレバナリ』と云つてゐる。これも一わたりの解釋であるが、かうなれば作歌の動機が不明になつて來て説明がつき難い。なほこの初句に就いて先進が如何に苦心したかといふも一つの例をいはば、童蒙抄に、『日くれなば人可v知とは如何に共理り不v通。是は日を繼たらば人知りぬべしと云義にて、日位と書たるは、天子を日嗣の命と奉2尊稱1、日の御位に比し奉れば、其訓義を借りて、日位の二字にて、ひつぎなばとは讀ませたるならんかし。されば、下に今日のと有て、あす又日をつぎては、人の知り咎めむと云へる義也。日の暮れなば、人の知らんと云義は、何共濟まざる義也。よくよく歌の意を考へ見るべし。日位の字を日つぎと讀まする事、當集の義訓の格全相叶ふ也。若し又さなくては、誤字ならば竝の字歟。然れば、日ならべばと讀べし。當集に日ならびと讀める詞、前に二首迄有。尤も假名書にもあれば、けふあすと日を並べて、思ふ人と寄り合ひ語らはば、人知りなんとの意歟。何れにもあれ、日くれと云義にては無き也』。もつとも、古寫本中(西・(509)温・西・京)の一訓に、『日位人《スヘラキ》』とあるといふことであるから、嘗てさういふ聯想を以て、この訓に想到した人がつたものと見える。ヒツギナバ、或はケナラベバ、ヒナラベバといへば、至つて分かりよくなるが、歌は平凡になるし、どうかとおもふので、舊訓に據つて解釋したのであつた。
 アリコセヌカモは、既にあつたが、アリコスの將然形からヌといふ打消につづき、カモに續いて、『さうあつて呉れないものであらうか。さうあつて欲しいものだ』といふ意に落著くのである。集中では、卷二(一一九)に、芳野河逝瀬之早見須臾毛不通事無有巨勢濃香毛《ヨシヌガハユクセノハヤミシマシクモヨドムコトナクアリコセヌカモ》をはじめ、八首ばかりの例がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八八〕
  立《た》ちて坐《ゐ》てたどきも知《し》らに思《おも》へども妹《いも》に告《つ》げねば間使《まづかひ》も來《こ》ず
  立座 態不知 雖念 妹不告 間使不來
 
 ○立座・態不知 舊訓タチヰスル・ワザモシラレズ。童蒙抄タチヰスル・ワザヲモシラズ。考(510)タチテヲル・タドキモシラズ。考別記タチテヰル・タドキモシラニ・古義タチテヰテ・タドキモシラズ。新考タチテヰム・タドキモシラニ。
 一首の意は、立つてゐても坐《すわ》つてゐても、どう爲樣《しやう》もなく戀しい妹《いも》のことばかり思つてゐるのだけれども、それを妹《いも》に知らせることが出來ぬので、向うからちつとも使も來ない。何とも彼とも爲樣が無い。といふのであらう。
 この歌は、民謠的と謂へば謂はれるが、何となくしんみりとして、浮いたところが無くて好いやうにおもふ。特に、『妹に告げねば間使も來ず』のところは、素朴愛すべきものである。
 卷十(二〇九二)に、立坐多士伎乎不知村肝心不欲解衣思亂而《タチテキルタドキヲシラニムラギモノココロタユタヒトキギヌノオモヒミダレテ》。卷十二(二八八七)に、立居田時毛不知吾意天津空有土者践鞆《タチテヰテタドキモシラズワガココロアマツソラナリツチハフメドモ》といふのがある。考の別記に、鶴寸《タヅキ》、跡状《タヅキ》、田時《タドキ》等の例歌を擧げて、『又卷四(今十一)に、立座《タチテヰル》、態不知《タドキモシラニ》、雖念《オモヘドモ》、妹不告《イモニツゲネバ》、間使不來《マヅカヒモコズ》、この態の字もたづきと訓べき事、右の哥どもに合せ見よ、立て居るべきわざをも忘れをれる意を得て、態とも書し也、さてたづきともたどきともいふは、言の通ひて同し事也』云々とある。略解では、舊訓に從ひ、タチヰスル・ワザモシラエズと訓み、『立居るべきわざをも忘れをる意を以て態を翁はタドキと訓みて、卷一の別記に委しく書かれたり。されど暫く古訓に據る』とことわつた。
 間使のことは既に注したが、なほ一二例を引けば、卷十七(三九六二)に、美知乎多騰保彌間使(511)毛夜流余之母奈之《ミチヲタドホミマヅカヒモヤルヨシモナシ》。卷六(九四六)に、己名惜三間使裳不遣而吾者生友奈重二《オノガナヲシミマヅカヒモヤラズテワレハイケリトモナシ》などの例がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八九〕
  ぬばたまのこの夜《よ》な明《あ》けそ朱《あか》らひく朝《あさ》行《ゆ》く君《きみ》を待《ま》たば苦《くる》しも
  烏玉 是夜莫明 朱引 朝行公 待苫
 
 ○待苦 舊訓マテバクルシモ。代匠記マタバクルシモ。童蒙抄・略解・古義マテバクルシモ。新考ミムガクルシサ、待は看の誤とし、『拾遺集に、うばたまのこよひなあけそあけゆかば朝ゆく君を待つくるしきに【一作まつがくるしき】とあるは當時はやく結句に誤字ありし證とすべきのみ』と云つた。
 一首の意は、〔鳥玉《ぬばたまの》〕御一處にかうして居られる夜が明けないでくれよ。〔朱引《あからひく》〕朝が明けてお歸りになるあなたが、またおいでになる夜まで、お待するのはつらうございます。といふぐらゐの意であらう。
 この歌には枕詞が二つ用ゐてあり、うるさいやうだが、決してさうでなく、よく調和がとれてゐるやうにおもへる。單に意味のうへからのみでなく、聲調上から味ふと、この歌などは注意し(512)ていいとおもふ。ア〔右○〕ケソ、ア〔右○〕カラヒク、ア〔右○〕サユクとアが三つあつて具合惡いやうに思ふが、これは吟誦してゐる間には殆ど氣付かずに、理窟上で吟味してはじめて勘定し得たほどであつたのだから、其處に不調和が無かつたと考へていいであらうか。『あからひく朝行く君』までは順當に行つてゐるが、『君を得たば苦しも』との間が、時間が餘り長いので、誤字説が出でて來るのであるが、此處はやはり時間を含ませてもかまはず、略解で云ふごとく、『朝に別れては又來るを待つ間の苦しきなり』でいいとおもふ。
 この歌は、先に引いた新考に言ふやうに、拾遺集に、『うばたまのこよひな明けそあけゆかば朝ゆく君を|待つくるしきに《イまつがくるしき》』と載り、人麿作とし、また柿本葉に、『むばたまの今宵な明けそ明け行けば朝ゆく君を待つもくるしも』と載り、六帖に、『あらたまのこの夜な明けそあか光るあしたゆく君待てば苦しも』と載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九〇〕
  戀《こひ》するに死《しに》するものにあらませば我《わ》が身《み》は千遍《ちたび》死反《しにかへ》らまし
  戀爲 死爲物 有者 我身千遍 死反
 
(513) ○戀爲 舊訓コヒヲシテ。考コヒスルニ。古寫本中コヒスルニ(嘉)。○我身千遍 舊訓ワガミハチタビ。古寫本中ワガミゾチタビ(嘉・細)の訓もある。
 一首の意は、若し人間が戀をすれば死ぬものだとせば、己などは千遍も死んでは死に死んでは死にして繰返すことだらう。といふのである。
 これも、戀の死ぬほど苦しいといふことから、自嘲のやうな氣分にもなり、諧謔のやうな氣分をも交へてかういふ歌になつた。戀をすれば一々死ぬとされては溜まつたものでないといふやうな氣分もあるのである。それだから一首の氣特はそんなに單純ではない。
 卷四(六〇三)に、笠女郎の、念西死爲物爾有麻世波千遍曾吾者死變益《オモフニシシニスルモノニアラマセバチタビゾワレハシニカヘラマシ》といふのがあつてこの歌に似て居る。これは代匠記も童蒙抄も略解も引き、略解では、『何れかもとならん』と云つてゐるが、これは笠女郎がこの歌を模倣したものであらう。さう見れば人麿歌集といふものの存在も古く、家持を中心とした歌人等は、人麿歌集の歌を尊敬し、或は人麿作の歌と考へて模倣し、學んだものであつたのかも知れない。
 この歌は、拾遺集に人麿作として載り、第四句『ちたびぞわれは』とあり、また柿本集に、第二句『死ぬるものにし』とある。なほ六帖に、『かさの郎女【ある本】』として、第二句『死ぬるものにし』第四句『ちたびそわれは』とあるのが載つてゐる。
 
(514)          ○
 
  〔卷十一・二三九一〕
  たまゆらに昨日《きのふ》の夕《ゆふべ》見《み》しものを今日《けふ》の朝《あした》に戀《こ》ふべきものか
  玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物
 
 ○玉響 舊訓タマユラニ。嘉暦傳承本タマヒビキ。代匠記一訓タマナラシ。古義は斯る古語無しとしてヌバタマノと訓じた。○今朝 舊訓ケフノアシタハであつたのを童蒙抄でケフノアシタニと訓んだ(【荷田全集本による。校本萬葉ではこの訓を考が最初としてゐる。】)。代匠記精に、『玉ユラハ暫ノ意ナリト云ヒ來レトモ此歌ノ意ヲ思フニ然ラズ。味ハヒテ知ベシ。玲瓏ヲユラトヨメバ、玉ノ光ノユラユラトミユルヲ人ノカホバセニ譬ヘテヨメル歟トゾオボシキ。又上ニ手玉鳴裳トヨメリ。今響ノ字ヲユラトヨメル意得ガタケレバ、タマナラシト讀ベキカ』云々と云ひ、考に、『聲を以て物の幽なる譬とす。仍てここも幽に見し事なり』と云ひ、略解も大體それを踏襲して、『物に付けたる玉の相觸れて鳴る音なり。さて其音の幽かなるを以て、少なく乏しき事に取りて斯く言ふなり』と云つてゐるが、古義では、『タマユラと訓來れども、さる詞のあるべくもあらず。玉の聲を由良良《ユララ》とも由良久《ユラグ》ともいふ詞は(515)あれども、そをやがて打まかせて、玉由良《タマユラ》といはむは、古語の格にたがへり。【中略】かれ孰々按(フ)に、こはもと烏玉とありて、ヌバタマノにて、夕《ユフベ》にかかれる枕詞なりけむを、例の下上に玉烏と誤り、さて烏の草書【中略】後(ノ)世人の、うるはしく玉響と改寫て、たまゆらといふ訓をさへになせしなるべし。然るを、今まで註者等の舊本の誤をうけて解來れるはいかにぞや。【中略】あはれ古書に眼をさらす人の絶て久しくなりにけるこそあさましけれ』と云つてゐる。學者の得意とか喜びとかいふものは、世の政治家豪傑などの得意自慢などと違ふところがあり、愛すべきであるからここに手抄した。タマユラの語は他に用例の無いところを見れば誤寫で古義の説が正しいのかも知れない。併し一方では古寫本が盡く一致して玉響と書いてゐるところを見ると必ずしも誤寫とは斷定出來ない。さすれば縱ひ用語例は無いにせよ、この一つの語を尊重したいとも思ふ。さて尊重して保存するとせば、舊訓のタマユラニといふ訓をも取つて置きたいとも思ふのである。また解釋も、『暫し』の意味も何かの傳はりであつたかも知れないから、童蒙抄の『理り不v通也』で片付けてしまふわけにも行かない。よつてこれの解釋をも暫し保存して置きたく、その語原的解釋は考の説が一番いいやうである。私の如きも極めて恣にこのタマユラニの語を自分の歌に使つてゐる。
 一首の意は、昨日の夕にかりそめに一寸見ただけであつたが、もう今日の朝にかくも切に戀すべきであらうか。そんな筈はないのだが、實際は戀しいのである。といふので、この結句の『か』(516)は疑問と咏歎と共にして強いところが好い。
 この歌は、六帖に人麿作とし、訓は此處に訓んだのと相違なく、柿本葉に、第二句『きのふのくれに』となり、風雅集に題しらず、讀人しらずとして、第四句『今日のあしたは』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九二〕
  なかなかに見《み》ざりしよりは相見《あひみ》ては戀《こひ》しき心《こころ》まして念《おも》ほゆ
  中中 不見有從 相見 戀心 益念
 
 ○不見有從 舊訓ミザリシヨリモ(【代匠記・童蒙抄・略解從之】)。考ミザリシヨリハ(【古義・新考・新訓同訓】)。○戀心 舊訓コヒシキココロ(【代匠記・略解・古義同訓】)。童蒙抄コフルココロノ。考コヒモフココロ。新考コヒシムココロ。○益念 マシテオモホユ。舊訓古義イヨヨオモホユ。
 一首の意は、まことに、女に逢はなかつた時よりも、逢つてからの方が戀しい心が益々ひどくなつて來た。といふので、これは男の歌だが、この口譯よりももつとしんみりと歌つてゐるのである。
(517) かういふ心境の歌は 既に前にもあつた。また古今集以後には多くなつて來て、拾遺集の、『逢ひ見ての後の心に較ぶれば昔はものをおもはざりけり』(敦忠)は既に皆人が知つて居るとほりであり、なほ同集には、『わが戀はなほ逢ひ見ても慰まず彌増りなる心地のみして』(讀人不知)といふのがある。萬葉の此歌などは集中にあつては取立てて云ふ程のものでは無いが、一たび古今集以下の集の歌などと比較すると、その優れた點が明瞭になつて來るのである。第一、拾遺の歌は結句が皆弱くて惡いのだが、此は拾遺集のみならず、そのあたりが一般に弱くなつてゐたものである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九三〕
  玉桙《たまぼこ》の道《みち》行《ゆ》かずしてあらませば惻隱《ねもころ》斯《か》かる戀《こひ》に逢《あ》はざらむ
  玉桙 道不行爲 有者 惻隱此有 戀不相
 
 ○道不行爲 舊訓ミチヲユカズシ。童蒙抄ミチユカズシテ。○惻隱此有・戀不相 舊訓シノビニカカル・コヒニアハマシヤ。代匠記シノビニカカル・コヒニハアハジヲ。童蒙抄イタクモカカ(518)ル・コヒニハアハジ。考ネモコロカカル・コヒニハアハジ(略解・古義同訓)。新考(惻隱を衍とす)カカルコヒニハ・アハザラマシヲ。新訓ネモコロカカル・コヒニアハザラム。
 一首の意は、〔玉桙《たまぼこの》〕道を行かずに家に籠つて居つたなら、あの方《かた》に逢ふ機《をり》もなく、こんなに切ない戀をしなくとも濟んだでせうに。ぐらゐの意であらう。
 代匠記初に、『道ゆきぶりに見そめて物おもひとなる心にてかくはよめり』とあるが、何がなし女の心持のやうに取れる。併し、男の心持としても受取れぬことはない。つまり此歌が前の歌の連續ででもあるならば、やはり男の歌として解してかまはない。ただ、『道行かずして』云々の處は、何となく女らしく聞こえたのでさう解したに過ぎない。
 卷六は(九四八)に、天皇之御命恐百礒城之大宮人之玉桙之道毛不出戀比日《オホキミノミコトカシコミモモシキノオホミヤビトノタマボコノミチニモイデズコフルコノゴロ》。卷十二(二八七一)に、人言之讒乎聞而玉桙之道毛不相常云吾妹《ヒトゴトノヨコスヲキキテタマボコノミチニモアハジトイヘリシワギモ》。同卷(二九四六)に、玉桙之道爾行相而外目耳毛見者吉子乎何時鹿將待《タマボコノミチニユキアヒテヨソメニモミレバヨキコヲイツトカマタム》とあるなどは、多くは男の歌であるから、この歌も自由に聯想してかまはぬであらう。
 
          ○
 
(519)  〔卷十一・二三九四〕
  朝影《あさかげ》に吾《わ》が身《み》はなりぬ玉耀《たまかぎ》るほのかに見《み》えて去《い》にし子《こ》故《ゆゑ》に
  朝影 吾身成 玉垣入 風所見 去子故
 
 〔語釋〕 ○朝影・吾身成 アサカゲニ・ワガミハナリヌと訓む。アサカゲといふのは、朝のうちの日の光にうつる身體の細長い影をいふので、日中にうつる影の短いのと比較してさう云つたものであらう。そのひよろひよろした影は、恰も戀に痩せ衰へた身體に似て居るから、『朝影になる』といふ云ひ方をしたものであらう。『朝ニハ鏡ヲ取テ見レバ朝影トハ云ヘリ。戀痩テ影ノ如クニ成ルナリ』(代匠記精)といふのは、いまだ本當でなく、『朝影は痩衰へて、朝日にうつりて見ゆる影の如くになれるを言ふ』(略解)も未だ徹底してゐないが、大體この解釋の方が好い。○玉垣入・風所見 タマカギル・ホノカニミエテと訓む。舊訓タマガ()・スキマニミエテ。古寫本中、タマカキニ(類・古)。カケロフノ(京)。ホノカニミエテ(細)。オホノカミエテ(類)。考ミヅカキノとも訓む(玉垣は瑞籬の意)。略解カギロヒノ・ホノカニミエテ(【垣は蜻の誤。入は乃の誤か衍】)。古義タマカギル・ホノカニミエテ。『垣はカギの借(リ)字、八はルの借(リ)字なり。玉限《タマカギル》、玉蜻《タマカギル》などあるに同じくて、風《ホノカ》といはむ料の枕詞なり』(古義)。このタマカギルの考證のことは既に評釋篇卷之上に云つた。
(520) 〔大意〕 ただほんの一寸見たばかりで行つてしまつた女だのに、その女ゆゑに(女のために)戀をして私は、朝の光のうつるひよろ長い影のやうに、こんなに痩せ衰へてしまつた。
 〔鑑賞〕 前の、『たまゆらにきのふの夕《ゆふべ》見しものを』の歌と心持が似て居り、ただ、ほのかに見た女のためにこんなに戀にやつれたといふことを強調してゐるところにこの歌の特徴がある。『玉かぎる仄かに見えて去にし子ゆゑに』と、女が仄かに見えてその儘行つてしまつたやうに云つて、毫も男の方で能働的に見ようとしなかつた云ひ方も亦この歌の特色である。さういふ云ひ方であるから、ホノカが利くのである。この云ひ方は此の歌ばかりでなく、卷二(二一〇)に、珠蜻髣髴谷裳不見思者《タマカギルホノカニダニモミエヌオモヘバ》。卷八(一五二六)に、玉蜻※[虫+廷]髣髴所見而別去者《タマカギルホノカニミエテワカレナバ》等の例がある。
 この歌は、意味の上では、前半は感情の直接的表現であらうが、感慨は却つて後半にあるやうにおもへる。そして具體的であるから、感慨を籠らせるのには却つていいのである。さういふ種々の點で、この歌は、すらすらと歌はれ、一般歌謠的であるけれども、選拔しなければならぬいいところのある歌だといふことを思はしめる。
 此歌は、卷十二(三〇八五)に、朝影爾吾身者成奴玉蜻髣髴所見而往之兒故爾《アサカゲニワガミハナリヌタマカギルホノカニミエテイニシコユヱニ》となつて重出して居る。そしてこの方は、讀人不知であるところを見ると、人麿歌集の以外にも人麿の作がひろがつてゐるか、或は人麿歌集には多くの人麿以外の作者が混入してゐるか、いづれかであり得るこ(521)とを示すものではないだらうか。
 此歌は六帖に載り、第三句『陽炎の』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九五〕
  行《ゆ》けど行《ゆ》けど逢《あ》はぬ妹《いも》ゆゑひさかたの天《あめ》の露霜《つゆじも》にぬれにけるかも
  行行 不相妹故 久方 天露霜 沾在哉
 
 〔語釋〕 ○行行 舊訓ユケドユケド(【考・略解・古義同訓】)。代匠記ユキユキテ。『發句ハユキユキテト讀ベキカ。古詩云。行々(テ)重(テ)行々。但此古詩并ニ伊勢物語ニユキユキテトカケルハ遠路ノ意ナリ。今ノ歌ハ夜ナ夜ナ行意ニテ詞ハ同ジケレド意替レリ。今ノ點ハ雖行雖行ト書タラムニハ叶フベシ』(代匠記精)。併し、此處は、『夜な夜な行く意』ではなく、やはり古詩或は伊勢物語の用例の如く、遠く歩いて行く氣持と解したいのである。童蒙抄ユケユケド。新考マテドマテド(待待の誤とす)。古寫本中、ユケユケド(嘉・細)の訓もある。○不相妹故 舊訓アハヌイモユヘ。古寫本中、アハヌイモユヱ(西・温)。アワヌイモユヘ(神)。遠いところからかうして歩いて行つても逢ふことの(522)出來ぬ女のためにの意。これは女が故意に隱れて逢はぬのではない。逢ふ機會の無い、逢ふ當の無いといふ意であらう。○天露霜・沾在哉 舊訓アマツユシモニ・ヌレニタルカナ(【代匠記同訓】)。童蒙抄アメツユシモニ・ヌレニタルカナ。考アマツユシモニ・ヌレニタルカモ。略解アメノツユジモニ・ヌレニケルカモ(【古義・新考同訓】)。露霜は宣長は、單に露のことと解した(玉勝間)が、やはり寒露と解していいであらう。
 〔大意〕 行きつつ幾ら行つても逢ふ當のない戀しい女のために、かうして天の露霜(みづ霜)に濡れた。寂しく苦しいことであるといふ意をこもらせてゐる。『行けど行けど』は、幾度|通《かよ》つて行つてもといふ意味でなく、今行きつつ、なほ遠く行つてもといふ意であるだらう。
 〔鑑賞〕 この一首も幾らか輕いが聲調に濁が無く、自然に流露して居て旨い。結句のケルカモなども澱みなく行つてゐて、かういふところが或は人麿的聲調といつていいかも知れない。一面には人麿のものはもつと澁く強く行つてゐるとおもふだらうが、名の明かに記されてある人麿の作に至るまでの道程にかういふ歌をも作つてゐると想像してもかまはぬであらう。それから、この歌には、何處かに哀韻を聽くことが出來、それもまた人麿の聲調を聯想することも出來るとおもふ。次に、『けるかも』で止めた歌數首を記して參考にする。
   武庫河の水脈《みを》を早けみ赤駒の足掻《あが》く激《たぎ》ちに沾れにけるかも (卷七。一一四一)
(523)  ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露《やましたつゆ》にぬれにけるかも (卷七。一二四一)
 妹がため上枝《ほつえ》の梅を手折《たを》るとは下枝《しづえ》の露にぬれにけるかも (卷十。二三三〇)
   吾妹子に觸るとはなしに荒磯囘《ありそみ》に吾が衣手は沾れにけるかも (卷十二。三一六三)
   秋さらば妹に見せむと植ゑし萩露霜負ひて散りにけるかも (卷十。二一二七)
 この歌は、六帖に人麿作として、初句『行きゆけど』、第四句『天の露霜』となつてゐる。又夫木和歌抄にも人丸作とし、初句『いけと/\』、四五句『あまつゆしもにぬれにたるかも』である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九六〕
  邂逅《たまさか》に吾《わ》が見《み》し人《ひと》を如何《いか》ならむ縁《よし》を以《も》ちてか亦《また》一目《ひとめ》見《み》む
  玉坂 吾見人 何有 依以 亦一目見
 
 ○吾見人 舊訓ワガミシヒトハ。代匠記初書入【校本萬葉】ワガミシヒトヲ。○依以 舊訓ヨシヲモチテヤ。代匠記初ヨシヲモチテカ。童蒙抄ヨスガヲモチテ。
 一首の意。このあひだは、たまたま(偶然に)あの女に逢つたのであつたが、どういふ機縁《をり》を設《まう》(524)けたら、また一目見ることが出來るか知らん。また逢ひたいものだ。
 ヨシは今なら機縁とでもいふべき字で、ユヱヨシとも續けて居る。卷六(九三五)に、見爾將去餘四能無者《ミニユカムヨシノナケレバ》。卷五(八〇七)に、宇豆都仁波安布余志勿奈子《ウツツニハアフヨシモナシ》。卷十四(三四三〇)に、阿佐許求布禰波與志奈之爾許求良米可母與余志許佐流良米《アサコグフネハヨシナシニコグラメカモヨヨシコサルラメ》。卷十八(四一三一)に、由可牟登於毛倍騰與之母佐禰奈之《ユカムトオモヘドヨシモサネナシ》。卷十七(三九七八)に、與思惠夜之餘志播安良武曾《ヨシヱヤシヨシハアラムゾ》。卷七(一三七二)に、目庭雖見因縁毛無《メニハミレドモヨルヨシモナシ》。卷十七(三九六九)に、間使毛遣縁毛奈美《マヅカヒモヤルヨシモナミ》等の例がある。因、縁等の文字を當ててあるが、理由とか機會とか口實とか種々に口譯していい場合がある。
 タマサカの例は、卷九(一七四〇)に、海若神之女爾邂爾伊許藝※[走+多]相誂良比言成之賀婆《ワタツミノカミノヲトメニタマサカニイコギムカヒアヒトブラヒコトナリシカバ》云々といふ浦島子の長歌の中にある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九七〕
  暫《しまし》くも見《み》ねは戀《こひ》しき吾妹子《わぎもこ》を日《ひ》に日《け》に來《く》れば言《こと》の繁《しげ》けく
  暫 不見戀 吾妹 日日來 事繁
 
(525)○暫 舊訓シバラクモ。童蒙抄シマラクモ(略解同訓)。古義シマシクモ。○吾妹 舊訓ワギモコニ。童蒙抄ワギモコガ。考ワギモコハ。略解ワギモコヲ(古義同訓)。○事繁 舊訓コトノシゲケム。考コトノシゲシモ。略解コトノシゲケク(古義同訓)。新考ヒニヒニキナバ・コトノシゲケム。
 一首の意は、ちよつとの間でも逢はないと戀しくて溜まらない吾妹子《わぎもこ》であるが、毎日私がやつて來るとまた人の口がうるさくて困る。といふのである。
 『吾妹子を』の『を』は、『なるが』。『なるものを』の意。『事繁』は、『言《こと》繁《しげし》』で、人の口がうるいといふ意になる。卷十(一九八三)に、人言者夏野乃草之繁友妹與吾携宿者《ヒトゴトハナツヌノクサノシゲクトモイモトワレトシタヅサハリネバ》とあるのがつまり、口うるさい意であり、また、卷十二(三一一〇)に、人言之繋思有者君毛吾毛將絶常云而相之物鴨《ヒトゴトノシゲクシアラバキミモワレモタエムトイヒテアヒシモノカモ》とあるのもさうであり、同卷(三一〇八)の、空蝉之人目繁者夜干玉之夜夢乎次而所見欲《ウツセミノヒトメシゲクバヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》は人目の方に使つてゐる。何しろ、このシゲシといふ用法はおもしろい。
 この歌も民謠風のものかも知れないが、實際の吟をおもはしめる、『個』の作者がいまだ保留されてゐるところにこの歌の強味があるだらう。また、言葉の使ひ方もなかなか自然だから、訓もこれで落著くものとおもへる。舊訓及び、新考の訓でも一首の解釋は勿論出來るけれども、この場合は、コトノシゲケクと現實的に打切つた方が歌に強みが出來るのである。その點で略解訓が(526)好いと自分はおもふ。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九八〕
  年《とし》きはる世《よ》まで定《さだ》めて恃《たの》めたる君《きみ》によりてし言《こと》の繁《しげ》けく
  年切 及世定 恃 公儀 事繁
 
 ○年切 舊訓トシキハル。古寫本中トシキワル(神)の訓もある。童蒙抄ネモゴロニ。考タマキハル(【略解・古義同訓】)。略解、年は玉の誤。集中の他の例は、玉切命向《タマキハルイノチニムカヒ》(卷八。一四五五)。王切不知命《タマキハルイノチモシラズ》(卷十一。二三七四)。玉切命者棄《タマキハルイノチハステツ》(卷十一。二五三一)等で、『年切』とあるのは此一例のみである。そこで誤字説も考へられたのである。代匠記初に、『此年きはるといふ詞は、玉きはるいのち、玉きはる内とつづけたるにおなじく心得べし。玉きはる世までとさだめてたのめぬるとは、偕老同穴の心なり』とある如く、命のあらむ限りといふ意に落著く。新考は略解に從つた。○及世定・恃 舊訓ヨマデサダメテ・タノメヌル。考ヨマデサダメテ・タノメタル(【略解・古義同訓】)。新考ヨノハテマデト・タノミタル。○公依・事繁 舊訓キミニヨリテモ・コトノシゲケム。代匠記キミニヨリ(527)テヤ・コトノシゲケムか。考キミニヨリテハ・コトノシゲシモ。略解キミニヨリテシ・コトノシゲケク(【古義・新訓同訓】)。新考キミニヨリテバ・コトシゲクトモ。
 一首の意は、命のある限り、終世とまで契つて頼もしいあなたにお寄り申したのに、なぜ世間の口はかううるさいのでせう。或は世間の口がうるさくて困ります。といふぐらゐの意で、サダメテは心を極めて、即ち契る意になる。タノメタルは頼りにしたの意。キミニヨリテシのシは助辭だと略解に云つてゐる如くであるが、ヨリテからのつづきは、『君に寄つて・而して・言の繁けく』となるのであらう。あなたに心も身も寄せたがためにといふぐらゐに解していい。
 この歌は前の歌の返歌のやうであるから、この前の歌で、事繁をコトノシゲケクと訓んだならば、この歌でもコトノシゲケクと訓む方がよく、其處は互に調和のとれるやうにしたいのである。私の口譯はコトノシゲケムの口譯のやうになつたが、これは前後のいきほひでさうなるので、直譯にするならば、稍獨立句的にシゲケクと落著かしめるところであらうか。
 新考では、『宜しくキミニヨリテバコトシゲクトモとよむべし。君ノ爲ナラバヨシヤ人ノ口ガウルサカラウトモとなり、卷四なる、今しはし名のをしけくも吾はなし妹によりてばちたびたつとも、の四五と同格なり』とある。その方は常識的にはすらすらと行つてゐて具合も惡くなからうが、必ずしもさう常識的でなくともいい場合があるのである。
(528) この歌は、袖中抄に、『年切《トシキハル》ヨマテサタメテタノメタルキミニヨリテモコトノシケヽム』として載つて居る。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九九〕
  朱《あか》らひく膚《はだ》も觸《ふ》れずて寢《ね》たれども異《け》しき心《こころ》を我《わ》が念《も》はなくに
  朱引 秦不經 雖寐 心異 我不念
 
 ○朱引・秦不經 舊訓アカラヒク・ハダモフレズテ(【代匠記・考・略解・古義同訓】)。童蒙抄アケユケド又はアケユクニ・ハダヲモフレズ。新訓ハダニフレズテ。○心異・我不念 舊訓ココロニコトニ・ワガオモハナクニ。代匠記精ココロヲケニハ・ワガオモハナクニ。童蒙抄ココロニコトニ・ワガオモハナク。『けしき心は抔詠める意と同じ』。考ココロニケシク・ワガモハナクニ。略解ココロヲケニハ・ワガモハナクニ。古義ケシキココロヲ・アガモハナクニ。新考ネヌレドモ・ケシキココロヲ・ワガモハナクニ。古寫本中、ココロコトニモ・ワレハオモハズ(細)。ココロヲコトニ【神・西・温・矢・京】)。
 一首の意は、今夜は美しいお前の膚にも觸れずに獨寐したが、それでも決して心がはりをする(529)やうなことはないのだ。今夜は故障があつてつひお前の處に行かれず獨りで寐てしまつたが、私の心に別にかはりは無い。といふぐらゐの歌であらうか。
 この歌は、『心にことにおもはぬとは、あはねどもあだし心はもたぬなり。はだをふれてねても、ふれずしてねても、それがことならぬといふにはあらず』〔代匠記初)といふのに落著くので、つまり、逢はなかつた趣の歌である。然るに、童蒙抄に、『明けゆく迄も肌をも觸れず、よそにのみして寐たり共、誠の思ひは解けぬとても外心はうつさぬとの義也。けしき心は抔詠める意と同じ。相見し儘にて誠の契りは遂げざれ共、仇し心は持たぬとの實義を云たる歌也』とあり、新考に、『女の許には行きしかど故ありて獨宿せしなり』とある。この二つの解は少し違ふが、兎に角二人が共に居て一夜を明かす趣に解してゐるのであるが、併し普通の人情ではそれはをかしいから、私は普通の人情に據つてこの歌を解したのである。ただこの歌は新考のやうに解しようとすればさうも取れるやうなところもある。一種の錯覺心理に導くやうなところがあるが、よく一首を吟味すれば、やはり私が解したやうに平凡に解すべきものだといふことが分かつて來る。なほ全釋を見るに、やはり私のやうに解し、新考の説を評して、『女の許に行つたのではあるまい。さう見ては歌柄がわるくなる』と云つてゐる。
 『あからひく膚』といふ語も、官能的で誠に生々とした好い語である。薄紅に透きとほるやうな(530)美しい膚を聯想せしめるが、『此あからひくは、第十六に、あかねさす君とよめるにおなじ。それは紅顔のにほひをいひ、今ははだへの雪のごとくなるに、すこし紅のにほひあるをいへり。第十、七夕の哥にも、あから引いろたへの子とよめり。肌も紅顔に相應してにほふべし』(代匠記初)といふ解釋もなかなか好い。
 秦を膚に借りたについて、代匠記精に、『古語拾遺云。秦公祖弓月率(テ)2百二十縣民(ヲ)1而歸化矣云々。至2於長谷朝倉朝1云々。秦酒公進仕蒙v寵(ヲ)云々。蚕織貢調云々。自注云。所v貢絹綿軟(ニス)2於肌膚(ヲ)1故訓(シテ)2秦字(ヲ)1謂2之(ヲ)波陀(ト)1。カカレバ、秦モ肌ノ義ヲ以テ和訓セルナリ』とあるによつて明かである。
 なほ、『不經』をフレズと訓むにつき、新考に、『經はフル、ヘズとはたらけばフレズを不經とは書くべからざるに似たれど大寶令に經本屬(本屬ニフレテ〕經本部(本部ニフレヨ)などあるを見れば、經はいにしへフルル、フレテともはたらきしなり』とある。
 戀しい女の美しい膚のことを云つて、その肌の持主の女にかういふことを云ふのも、自然に流露してゐて、なかなか佳作だとおもふ。從つて人麿と關聯せしめて考察したい歌である。なほ、卷二十(四三五一)に、多比己呂母夜豆伎可佐禰弖伊努禮等母奈保波太佐牟志伊母爾志阿良禰婆《タビゴロモヤツキカサネテイヌレドモナホハダサムシイモニシアラネバ》。同卷(四四三一)に、佐左翼波乃佐也久志毛用爾奈奈弁加流去呂毛爾麻世流古侶賀波太波毛《ササガハノサヤグシモヨニナナヘカルコロモニマセルコロガハダハモ》とあるなどは、やはり官能的ないひあらはし方である。
(531) ケシキココロの他の用例には、卷十四(三四八二)に、安波禰杼毛家思吉己許呂乎安我毛波奈久爾《アハネドモケシキココロヲアガモハナクニ》。卷十五(三五八八)に、之可禮杼毛異情乎安我毛波奈久爾《シカレドモケシキココロヲアガモハナクニ》。同卷(三七七五)に、安波射禮杼家之伎己許呂乎安我毛波奈久爾《アハザレドケシキココロアガモハナクニ》などがある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇〇〕
  いで如何《いか》に極太《ここだ》甚《はなはだ》し利心《とごころ》の失《う》するまで念《も》ふ戀《こ》ふらくの故《ゆゑ》
  伊田何 極太甚 利心 及失念 戀故
 
 ○極太甚 舊訓キハミハナハダ。童蒙抄宗師案ココタフヘキニ・(【校本萬葉集による。全集本ココタニヘサニ】)。愚案イデイツト・カギランイタク。考イトモハナハダ。略解宣長訓ネモコロゴロニ(古義同訓)。新考ココダクニワガ、極太吾の誤。新訓ココダハナハダシ。○及失念・戀故 舊訓ウスルマデオモフ・コフラクノユヱ。童蒙抄宗師案ウセヌルマデニ・コヒワブルカラ。童蒙抄愚案ウセヌルマデト・オモフコヒカラ。考ワスルマデモフ・コヒトフカラニ。略解ウスルマデモフ・コフラクノユヱ(古義同訓)。新考、戀故は不相子故などの誤。
(532) 一首の意。まあどうして、こんなにひどく、確かな心も失せてしまふまでになつたのか、これはみな戀のためである。といふぐらゐの歌で、イデイカニはウスルマデモフに係つて居り、甚シは甚シクの意である。
 この歌も獨語的、反省的に感慨をのべてゐるものである。言葉は自由に使つてゐるが、初句からして前の歌などとは違つてゐるから、古鈔本中には、コレバカリ・イツヲカギリニ・ハナハダモ・ト|キ《(コ)》シココロニツケオモフニ・コフラクエヱ等と訓んだり、極太甚でも學者に種々難儀させた歌であるが、大體この新訓の訓に據つて解釋が出來たやうである。
 イデは、卷十二(二八八九)に、乞如何吾幾許戀流吾妹子之不相跡言流事毛有莫國《イデイカニワガココダコフルワギモコガアハジトイヘルコトモアラナクニ》とあるのによつても類推し得、なほ、卷四(六六〇)に、乞吾君人之中言聞起〔越〕名湯目《イデワガキミヒトノナカゴトキキコスナユメ》。卷十四(三四九六)に、己許呂宇都久志伊※[氏/一]安禮波伊可奈《ココロウツクシイデアレハイカナ》などの例がある。『田』を『デ』と訓むのほ、天《テニ》をテ、文《モニ》をモ、難《ナニ》をナ、年《ネニ》をネと訓ませるのと同じ道理で、田《デニ・デン》をデと訓ませるのである。集中の用例は、卷二十(四三三一)に、之路多倍能蘇田(袖)遠利加敝之《シロタヘノソデヲリカヘシ》。卷十(一九三七)に、山彦乃答響萬田《ヤマビコノコタフルマデニ》(までに)霍公鳥《ホトトギス》。卷二十(四三三〇)に、氣布能日夜伊田弖《ケフノヒヤイデテ》(出でて)麻可良武《マカラム》等とある。
 ココダも、卷三(三二二)に、極此疑伊豫能高嶺乃《ゴゴシカモイヨノタカネノ》とあるから、さう訓み得るらしい。ココダ待ツ、ココダ戀フ、ココダ尊キ、ココダ照ル、ココダ悲シ、ココダ偲ブなどの用例もあり、卷四(六(533)五八)に、雖念知僧裳無跡知物乎奈何幾許吾戀渡《オモヘドモシルシモナシトシルモノヲイカニココダクワガコヒワタル》。卷七(一三二八)に、甚幾許吾將戀也毛《イトココダクニワガコヒメヤモ》といふのがある。
 
          ○
  〔卷十一・二四〇一〕
  戀《こ》ひ死《し》なば戀《こ》ひも死《し》ねとや我妹子《わぎもこ》が吾家《わぎへ》の門《かど》を過《す》ぎて行《ゆ》くらむ
  戀死 戀死哉 我妹 吾家門 過行
 
 ○門 卷六(一〇三)に、豫公來座武跡知麻世婆門爾屋戸爾毛珠敷益乎《アラカジメキミキマサムトシラマセバカドニヤドニモタマシカマシヲ》とある如く、カドとヤドと兩方表したのもあるが、『門に出で立ち』、『妹が門』、『その門を見に』、『その門ゆかむ』、『我門の淺茅がうらは』等、『門』を特に云つてゐる歌の多いのは注意すべきである。
 一首の意は、戀死《こひじに》をするなら勝手に戀死《こひじに》をせよといふつもりで、おれの戀しい女は知らん顔におれの家の門を素通して行くのだらうか。といふのだらう。
 『戀ひ死なば戀も死ねとや』の句は、既に、卷十一(二三七〇)に、戀死戀死耶玉桙路行人事告無《コヒシナバコヒモシネトヤタマボコノミチユキビトニコトモツゲナク》。また卷十五(三七八〇)に、古非之奈婆古非毛之禰等也保等登藝須毛能毛布等伎爾伎奈吉等(534)余牟流《コヒシナバコヒモシネトヤホトトギスモノモフトキニキナキトヨムル》とあり、調子も好く、感情の切な句なので、或範圍まで廣がつたものともおもふ。
 この歌は、男の歌だが、諧謔が交つてゐて、珍らしく歌はれてゐる。やはり民謠的にひろがるべきものであらう。つまり、此歌は眞に獨咏歌で、それほど痛切なものならば、先づかういふことを云ふまい。また、民謠としてひろがることも少いのであらう。かういふ種類の戀歌は、切實なことを云つてゐても、相手にむかつていふ、甘い要素を含んでゐるものである。この種類の歌の輕妙なものには、
  戀するに死《しに》するものにあらませば我が身は千遍《ちたび》死反らまし (卷十一。二三九〇)
  僞も似つきてぞ爲る何時よりか見ぬ人戀ふに人の死《しに》せし (卷十一。二五七二)
  面忘れだにも得《え》爲《す》やと手握《たにぎ》りて打てどもこりず戀の奴《やつこ》は (卷十一。二五七四)
  玉勝間逢はむといふは誰なるか逢へる時さへ面隱しする (卷十二。二九一六)
  緑兒の爲こそ乳母《おも》は求むといへ乳《ち》飲めや君が乳母求むらむ (卷十二。二九二五)
  我命し長く欲しけく僞を好《よ》くする人を執《とら》ふばかりを (卷十二。二九四三)
等をあげることが出來る。
 この歌は、拾遺集戀五に、人麿として、第一二句『こひてしねこひてしねとや』、第四句『わが 第一二句『こひこひてこひてしねとや』、下句『わがやのかど(535)をすぎてゆきぬる』としてある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇二〕
  妹《いも》があたり遠《とほ》く見《み》ゆれば恠《あや》しくも吾《われ》はぞ戀《こ》ふる逢《あ》ふ由《よし》を無《な》み
  妹當 遠見者 恠 吾戀 相依無
 
 ○遠見者 舊訓トホクミユレバ(【代匠記・童蒙抄・新考・新訓從之】)。考マドホクミテハ。略解トホクシミレバ(古義同訓)。○吾戀・相依無 舊訓ワレハコフルカ・アフヨシヲナミ。代匠記初書入【校本萬葉】ワレハゾコフル(【略解・古義・新訓同訓、但古義アレ】)。童蒙抄ワレハコフレド。考ワレハコフラク・アフヨシナキニ。新考ワガコヒヤミヌ・アフヨシナキニ。
 一首の意は、女の家のあたりが遠《とほ》くの方に見えるので、心あやしくも戀しくてならない。ただ女に逢ふことが出來ないのである。そこでなほ變に戀しくてたまらない。といふ程の意である。
 これは戀人の家が遙か向うに見えて居る趣の歌で、然し戀しいが逢ふ縁がない、手段・機會がないと嗟歎してゐるところらしい。そして、この『遠く見ゆれば』の訓が、下の『あやしくも』(536)に相當せぬからといつて眞淵は、マドホクミテハと訓んだのだが、此處は必ずしもさう理詰めに云はずともいいところである。なほ、アヤシといふ語も既に云つた。卷十八(四〇七五)に、安必意毛波受安流良牟伎美乎安夜思苦毛奈氣伎和多流香比登能等布麻泥《アヒオモハズアルラムキミヲアヤシクモナゲキワタルカヒトノトフマデ》。卷七(一三一四)に、橡解濯衣之恠殊欲服此暮可聞《ツルバミノトキアラヒギヌノアヤシクモコトニキホシキコノユフベカモ》といふのがある。
 この歌の眼目は、第三、四句の、『あやしくも吾はぞ戀ふる』といふ主觀句にある。『あやしくも』は、『不思議にも』といふ意があつて、反省する氣持であるが、このころの用法は、ただの抽象的でなく、もつと具象的、肉體的であつただらうと考へることが出來る。即ち、血の通つてゐる、『あやしくも』であることを忘れてはならぬのである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇三〕
  玉久世《たまくぜ》の清《きよ》き河原《かはら》に身祓《みそぎ》して齋《いは》ふいのちは妹《いも》が爲《ため》こそ
  玉久世 清河原 身※[禾+祓の旁]爲 齋命 妹爲
 
 ○玉久世 舊訓タマクゼノ。代匠記・考同訓だが、『玉久世河は何レノ國に有トシラズ。若玉(537)ハホムル詞ニテ山城ノ久世河ヲカク云ヘルニヤ』(代匠記精)。『久世は久志呂の事と楫取魚彦がいひたり。まことに然らでは玉の言をいふよしなし』(考)。『和名抄、山城久世郡久世郷見ゆれば、玉久世と言へる川の名有るか』『宜長云、玉は山の誤にて、代を脱し、清は能の字ならん。さらばヤマシロノ、クセノカハラニと訓むべしと言へり。されどここは能の字を添ふべき書きざまにあらず、考ふべし』(略解)。新考タマキヨキ・クゼノカハラニ、『清』は『久世』の上にあるべきのが誤つたものとした。なほ井上博士は、萬葉雜詰【八十三】『玉久世清河原』(【アララギ昭和十一年五月號】)に於て、實地踏査の結果を記して、再び自説を主張してゐる。○齋命・妹爲 舊訓イノルイノチモ・イモガタメナリ。代匠記精イハフイノチモ・イモガタメナリ。考イハフイノチハ・イモガタメコソ(古義同訓)。略解イハフイノチモ・イモガタメコソ。新考イノルイノチモ・イモガタメコソ。新訓イハフイノチハ・イモガタメナリ。
 一首の意は、玉久世《たまくぜ》の清い河原で御祓《みそぎ》をして身を潔め、己《おれ》の命の長からむことを祈るのも、戀しい女と一處に居たいためである。戀しい女が居るためばかりである。といふ意であらう。
 この初句の『玉久世』は、古來難解の句だが、どうも、山城の久世《くぜ》に玉といふ文字を附けたもので、タマクシ、タマクシゲ、タマクシロなどからの聯想でクに續けたものであらう。童蒙抄で『山城の久世と云處を賞めて云ひたる義抔無理押の説をなせり。如何に共心得難し』とあるけれ(538)ども、私はやはり久世《くぜ》の河原のやうな氣がしてならぬのである。新考に山田孝雄博士の私信として、『新撰字鏡に灘(加波良久世又和太利世又加太)とあるカハラとクセとは二語にてここのクセはその證とすべし。……久世は河原と同義にして水石相交る處をいふものと考へらる。その石の清きをたとへて玉クセといひやがて又キヨキ河原ニと繰返したるものならむ』とある。若し、河原といふ意味のクセが、偶山城の久世と同音なので續けたと解釋することが出來ればなほ妙であらう。
 結句の、『妹爲』の舊訓イモガタメナリであるが、それでもかまはぬが、萬葉ではナリ止めの結句は尠いのであり、それに、卷十二(三二〇一)に、時風吹飯乃濱爾出居乍贖命者妹之爲社《トキツカゼフケヒノハマニイデヰツツアガフイノチハイモガタメコソ》とある、その結句の方が、イモガタメナリよりも据りが好い。そこでどちらへでも訓めるとならば、イモガタメコソと訓んだ方が好いといふことになるだらう。この種類のコソは、係助詞で、結詞の省略せられたものと解釋して好いとおもふ。終助詞といふ分類のもとに、結詞を考へない解釋もあるが、暫らく前者として説明し置く。
 序に此處にナリ止めの數首を書くならば、卷九(一六八九)に、在衣邊著而榜尼杏人濱過者戀布衣奈利《アリソベニツキテコガサネカラヒトノハマヲスグレバコホシクアルナリ》。同卷(一七〇八)に、春草馬咋山自越來奈流鴈使者宿過奈利《ハルクサヲウマクヒヤマユコエクナルカリノツカヒハヤドリスグナリ》。卷十(一九四四)に、藤浪之散卷惜霍公鳥今城岳※[口+立刀]鳴而越奈利《フヂナミノチラマクヲシミホトトギスイマキノヲカヲナキテコユナリ》。卷十五(三五九八)に、奴波多麻能欲波安氣奴良之多麻能宇(539)良爾安佐里須流多豆奈伎和多流奈里《ヌバタマノヨハアケヌラシタマノウラニアサリスルタヅナキワタルナリ》等があるが、如斯少いのだから、イモガタメナリをも保存して置いて味つても別にかまはない。
 この歌は、自分の命を欲するのは、同時に妹のためでもあり、妹が居るためでもあり、妹と一しよに長らへたいためでもある。其處に人情の自然さがあつて、相當に讀ませる歌であり、同時に民謠として歌はれても效果のあるものである。卷十一(二七六四)に、爲妹壽遺在苅薦之念亂而應死物乎《イモガタメイノチノコセリカリゴモノオモヒミダレテシヌベキモノヲ》。卷四(五六〇)に、孤悲死牟後者何爲牟生日之爲社妹乎欲見爲禮《コヒシナムノチハナニセムイケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》といふのがある。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとして載り、下句『祈るいのちも妹かためなり』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇四〕
  思《おも》ひ依《よ》り見依《みよ》りにものはありなむを一日《ひとひ》の間《ほど》も忘《わす》れて念《おも》へや
  思依 見依物 有 一日間 忘念
 
 ○思依・見依物・有 舊訓オモフヨリ・ミルヨリモノハ・アルモノヲ。童蒙抄宗師案オモフマ(540)マ・ミンモママナル・ヒトナラバ。考オモフヨリ・ミルニハアケル・モノカラニ(見依は見飽の誤)。古義オモヒヨリ・ミヨリシモノヲ・ナニストカ。新考オモヘコソ・ヨリネシモノヲ・イカナレカ。新訓オモヒヨリ・ミヨリニモノハ・アリナムヲ。今新訓に從つた。○一日間・忘念 舊訓ヒトヒヘダツル・ワスルトオモフナ。代匠記精ヒトヒノホドモ・ワスレテオモヘヤ。童蒙抄宗師案ヒトヒノ暇モワスレテオモハン。考ヒトヒヘダツヲ・ワスルトオモハム(【古義・略解・新考同訓】)。新訓は代匠記に同じい。
 一首の意は、人間萬事が大凡、外からの推量により、觀察によつて、その樣子が分かるものであらうではないか。僕は縱ひ一日だつてお前のことを忘れたことがないのだ。大概の僕の樣子で分かるではないか。かういつて、女からの怨言か何かに對して答へた男の歌のやうである。或はその反對に取つて女の歌としても解釋の出來ないことはない。
 右の解は、新訓の訓を本として、現代語譯にくだいて見たのであるが、此歌は古來諸學者によつて、實に恣に解釋せられてゐるから、試に此處に轉載して置かうとおもふ。『歌ノ意ハ、人ノ方ヨリ我心ヲ量リ見、色ヲ伺カヒ見ルヨリハ、我思ヒハ深クテアレバ、一目ノホドモ忘レテ思ハムヤトナリ』(代匠記精)。『我思ふ儘に、見る事も逢ふ事も儘ならん人ならば、一日などは忘れてあらんづれど、思ふに儘ならぬから、一日の間も忘られぬと云の意と見る也』(童蒙抄宗師案)。(541)『今本見依と有は理なし。飽字なることしるければ改めつ。さてへだてて思ふ心よりも常相見るには飽くものなれば、一日をおきてゆかんとするを、妹はただ我心の忘るとか恨みんといふなり。今本の訓のごとくにては何のこころともなし』(考)。『歌(ノ)意は、心に思ひ目に見て、二(ツ)なく縁(リ)にし妹なるものを、いかなれば、ただ一日障ることありて隔てたりともわすれたりとは妹がおもはむやは、となり』(古義)。『案ずるに思|社〔右△〕依|宿〔右△〕物|何〔右△〕有の誤として、オモヘコソヨリネシモノヲイカナレカとよむべきか。こは武に言ふのみ』(新考)。
 この歌は、六帖に載り、舊訓と同じく『思ふより見るよりものはあるものを一日へだつる忘ると思ふな』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇五〕
  垣穗《かきほ》なす人《ひと》は言《い》へども高麗錦《こまにしき》紐《ひも》解《と》き開《あ》けし君《きみ》ならなくに
  垣廬鳴 人雖云 狛錦 紐解開 公無
 
 ○紐解開・公無 舊訓ヒモトキアクル・キミモナキカモ。童蒙抄ヒモトキアクル・キミハアラ(542)ヌニ又はセナハアラヌニか。考ヒモトキサケシ・キミナラナクニ。略解ヒモトキアケシ・キミナラナクニ(古義・新考同訓)。
 一首の意は、垣根のやうに繁《しげ》くうるさく人はいろいろと騷ぎますけれども、〔狛錦《こまにしき》〕まだ紐をも解き開けない貴方《あなた》ではありませぬか。私と一しよに未だ一夜もお休になつたことのない貴方でございますよ。と言ふので、『狛錦』は既に述べたやうに枕詞化した語である。
 これは女の歌で、一面は愛する男を世間に對して辯護して居るやうでもあるが、一面は一度も共に寐たことのない戀しい男にむかつて怨み愬へ、いどんでゐるやうな歌でもあり、戀歌としては特殊なものとして、保存すべく大切にすべきものとおもふし、また民謠としても相當に役立つ性質のものである。
 『かきほなす。とかく人をいひへだつるを、かきほなすといへり。第四第九に既に尺せり』(代匠記初)。『垣秀《カキホ》如といふ也。さて垣は隔つ譬也』『いまだ紐解て相逢し君にもあらなき物を、人はそねみてさまざまにいひへだてんとするよと云也』(考)。『垣|秀如《ホナス》は、シゲキと言ふ意なり。隔つる意とするは惡ろし。いまだ紐解き明けて相ねし君にも有らぬ物を、人はさまざまに言ひ騷ぐよとなり』(略解)。大體略解の解釋に從つてよい。
 卷九(一七九三)に、垣保成人之横辭繁香裳不遭日數多月乃經良武《カキホナスヒトノヨコゴトシゲキカモアハヌヒマネクツキノヘヌラム》。同卷(一八〇九)の長歌に、(543)垣廬成人之誂時智奴壯士宇奈比壯士乃《カキホナスヒトノトフトキチヌヲトコウナヒヲトコノ》云々。
 此歌は、六帖、紐の部に、下の句『紐ときあくる君もあらなくに』として載り、なほ同、錦の部に、人麿作として第三句以下『からにしき紐ときあくる人もなきかな』、かきほの部に、人麿作として『垣ほなる人といへどもこまにしき紐ときあくる君もなきかな』となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇六〕
  高麗錦《こまにしき》紐《ひも》解《と》き開《あ》けて夕《ゆふべ》とも知《し》らざる命《いのち》戀《こ》ひつつかあらむ
  狛錦 紐解開 夕戸 不知有命 戀有
 
 ○夕戸 舊訓ユフベトモ。童蒙抄ユフベダニ。考(戸は谷の誤)ユフベダニ(【略解・古義・新考從之】)。略解補正(戸は友の誤)ユフベトモ。○不知有命・戀有 舊訓シラザルイノチ・コヒツツカアラム(【代匠記・略解・古義・新考・新訓同訓】)。童蒙抄シラレザルミニ・コヒツツゾアル。考シラザルイノチ・コヒツツヤアラム【やはの意也】。
 一首の意は、〔高麗錦《こまにしき》〕紐を解き開《あ》けて、どうしてそんな苦しい戀などが出來るでせうか。私の命は旦夕をも知らぬ果敢ないのですから。或は、夕べをも待たないこの果敢ない命であるのに、(544)どうして〔高麗錦《こまにしき》〕紐解き開けて、儘ならぬ戀など出來るでせうか。と翻してもいいだらう。
 この歌は、恐らく前の歌に應へたもので、前の歌で『垣ほなす人は云へども高麗錦紐解き開けし君ならなくに』と女が云つた。それは自分(女)をも男をも辯護したやうな歌だが、實は一面は男に對して挑んで居るのである。つまり、私の處にちつともおいでにならず、一度も紐を解かれたことが無いではありませぬかといふのである。此歌はそれに對して答へた趣の歌だから、夕べも待てない命で、どうして貴女《あなた》の處へなど行かれますか、それに貴女はちつとも同情して呉れないではありませぬか、といつたのである。語調は丁寧で、しみじみと云つて居るが、中味には、應答歌特有の輕妙と諧謔とがあるのである。
 然るに、代匠記に、『紐解開ハ人ヲ待ニ祝ヒテスル事ナリ』といひ、童蒙抄に、『待人も可v來哉、不v可v來哉、不v知にと云意をこめて、夕部もはかられぬ人の身なるに、果敢なくも紐解きあけて待事哉と詠める意也』といひ、古義に、『紐解開《ヒモトキアケテ》は、思ふ人にあはむ前兆に、自《オ ラ》紐の解る事あるを、その前兆にならひて、自(ラ)設けてするならむ』といひ、全釋に、『私ノ命ハ夕方マデ保ツトモワカラナイ命ダノニ、高麗錦ノ紐ヲ解キ開ケテ、戀人ニ逢フヤウナツモリデ、戀ヲシテヰルトイフコトガアラウカ。實ニハカナイタヨリナイコトダ』と翻してゐる。以上は皆獨咏歌として鑑賞したからさうなるので、またこの歌の歌調がしんみりとしたところがあるからであらう。また、さうい(545)ふ類歌としては、卷十七(三九三八)に、可久能未也安我故非乎浪牟奴婆多麻能欲流乃比毛太爾登吉佐氣受之底《カクノミヤアガコヒヲラムヌバタマノヨルノヒモダニトキサケズシテ》といふのがあり、やはり獨咏的色調のものである。併しこの狛錦紐解開の歌もやはり民謠的なのだから、不意識のうちに對者を豫想することとなる。そこで私の鑑賞したやうな具合にもなり得るので、それがまた民謠的な歌の特徴でもあり得るのである。
 此處のトモは誤字でないとせば、卷三(三一九)の、山跡國乃鎭十方座神可聞《ヤマトノクニノシヅメトモイマスカミカモ》。卷十一(二七〇四)の、山下動逝水之時友無雲戀度鴨《ヤマシタトヨミユクミヅノトキトモナクモコヒワタルカモ》などのトモである。若しまた、谷《ダニ》の誤とせば、卷十二(三一一九)の、今夕彈速初夜從綏解我妹《コヨヒダニハヤクヨヒヨリヒモトケワギモ》。卷二(一九八)の、明日香川明日谷將見等念八方《アスカガハアスダニミムトオモヘヤモ》。卷十二(三一二二)の、人目守乏妹爾今日谷相乎《ヒトメモリトモシキイモニケフダニアハムヲ》等のダニで、此等の例は、同じく時を意味する言葉に續けてゐるので、いづれにしても好い參考となるのである。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとして載り、下句『しらぬいのちをこひつつやあらん』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇七〕
  百積《ももさか》の船《ふね》こぎ入《い》るる彌占指《やうらさ》し母《はは》は問《と》ふとも其《そ》の名《な》は謂《の》らじ
(546)  百積 船潜〔漕〕納 八占刺 母雖問 其名不謂
 
 ○百積・船潜納・八占刺 舊訓モモサカフネ・カヅキイルル・ヤウラサシテ。代匠記初モモサカノ・フネカツキイル・ヤウラサシ。代匠記精フネカツキイレ(考同訓)。童蒙抄宗師案ワツミブネ・カヅキイルレバ・ウラサシテ(【校本萬葉モツミフネ】)。童蒙抄愚案モモツフネ・カヅキモイレヤ・ウラサシテ。略解モモサカノ・フネカヅキイルル・ヤウラサシ。古義モモツミノ・フネコギイルル・ヤウラサシ。新考モモサカノ・フネコギイルル・ヤウラザシ。新訓も大體同訓である。○母難問・其名不謂 舊訓ハハハトフトモ・ソノナハイハジ(【代匠記・考從之】)。童蒙抄オモハトフトモ・ソノナハノラジ。略解ハハハトフトモ・ソノナハノラジ(【古義・新考・新訓同訓】)。
 百積《モモサカ》は百尺《モモサカ》の借字で、サカと訓むは陸奥|安積郡《アサカノコホリ》を以て證し得、また尺をサカと訓むは、天武紀に大分君惠尺《オホキタノキミヱサカ》といふ人名がある。尺は、漢音セキ、呉音シヤク、サクで通音でサカともなつた。集中、卷十三(三二七六)に、吾嗟八尺之嵯《ワガナゲクヤサカノナゲキ》。同卷(三三四四)に、八尺乃嘆嘆友《ヤサカノナゲキナゲケドモ》があり、卷十六に、尺度氏《サカドノウヂ》がある。さてこの百尺《モモサカ》の意味は從來解釋に數説あつた。第一。『此ハ舟ノ長サノ百尺アルナリ』(代匠記精)で、應神紀に、五年冬十月 科《フレオホセテ》2伊豆國1令v作v船、長十丈、船既成之、試浮2于海1、便輕泛疾行如v馳云々とあるその十丈《トツヱ》は即|百尺《モモサカ》に當るのである。この説を契沖も、『長百尺 ノ義叶フベキ歟』と云つて居る。この説が一番有力だから其に從つて好い。第二説は、サカは斛《サカ》(547)で、百積は百|斛《サカ》だから百石つむ船の義である。顯宗紀に、二年冬十月戊午朔癸亥、宴2群臣1、是時、天下安平、民無2※[人偏+徭の旁]※[人偏+役の旁]1、歳比登稔、百姓殷富、稻|斛《ヒトサカ》銀錢一文、牛馬被v野。欽明紀に、十二年春三月以2麥種一千|斛《サカ》1賜2百濟王1云々とあり、なほ宋玉賦に、海水深浩、波浪廣闊、非2萬斛舟1不v可v泛云々とある。それに據つた説である。第三説は、サカは尺《サカ》であるが、百尺は帆檣で、十丈の檣を立てる程の船といふのである。文選の海賦に、候2勁風1掲2百尺1とあり、李善の注に百尺帆檣也とあるのに據つた。併し是は餘り文學的だし、契沖も云つた如く、『もろこしの文なれば、猶これををくべし』といふに過ぎない。次に童蒙抄の説であるが、『愚案は、百津船と云ひ、只數多き船と云へる意と見る也』とある。併し此は少し無理であらうから棄ててかまはぬ。
 船カヅキイルにつき、『第十六云。大舟ニ小船引|副《ソヘ》カヅクトモ志賀ノ荒雄ニ潜アハムヤモ。此ハ荒雄ト云|海人《アマ》ノ海ニ溺死《オボレ》ケルコトヲ悼《イタミ》テヨメル歌ナレバ、潜トハ海ニ潜キ入テ荒雄ヲ求ムトモト云意ナリ。舟ハ其カヅク者ノ乘ル舟ナリ。今モ此ニ准ラヘナガラ潜納トハ乘沈ムルナリ。此ハ男ヲ深ク母ニモカクスニ喩フ』(代匠記精)といふ面倒な解釋をし、『紀に、腰なづみ鈴船とらせてふ如く、多くの船子どもが波に下立て船を潜きつつ浦へ入る也』(考)といひ、略解もそれに從つてゐるが、古義で、『ここはカヅクにては穩ならぬことなり。故(レ)按(フ)に、潜は漕(ノ)字の誤なるべし。又納も※[さんずい+内]の寫誤にてもあるべきか。もしさらばフネコグウラノと訓べし。但し納は舊のままにて、(548)イルルにても通《キコ》ゆれば、そはいづれにてもあるべし』(古義)と云つてゐる。
 『八占刺』は、『八は彌にて多くの占を云ふか。刺は其れと指し顯はす占の詞なるべし。心は多くの占かたに彼男ぞと、指し顯はしたるを以て、母は問ふとも、猶もだし居らんと言ふなり』(略解)。『八占刺《ヤウラサシ》は、彌度《ヤタビ》占《ウラナヒ》を爲《ス》るを云なるべし。刺《サシ》は、その卜占のわざするをいふ言なるべし。そのもと何某《ナニガシ》何某《タレガシ》の所爲などと、さしあらはす具なるゆゑに、指といふにやあらむ』(古義)で大體分かるが、新考に、『ヤウラザシは占なひて男の名を指すなり。サを濁りて唱ふべし。ヤは反覆の意にてウラザシにかかれるなり。占のみにかかれるにあらず』(新考)とある。併し、今はサシと清んで訓み、上の序詞はウラ(浦・占)に係つたものと解しておかう。
 一首の意は、百尺の船を漕ぎ入れる浦《うら》の〔百積船潜納《ももさかのふねこぎいるる》〕【以上序詞】占《うら》をば幾遍も繰返して、母が男の名を名指《なざ》して尋ねても、私は決してあなたの名を申しますまい。といふのである。
 占卜が實生活上に常に用ゐられた事は明かであるし、かういふ娘を問糺すやうな場合にも用ゐたものらしい。さういふことを種々聯想して味ふとこの歌はなかなか興味があり、占卜の如き大きい力に支配せられつつも戀人の名を云はないといふ娘の剛情な強みも理解し得ておもしろいのである。卷十一(二六九六)に、荒熊之住云山之師齒迫山責而雖問汝名者不告《アラクマノスムチフヤマノシハセヤマセメテトフトモナガナハノラジ》といふのがあるが、
  といふのは女であらうから、これは男の歌である。そしてこの方は責而問《セメテトフ》だから、折檻的(549)に糺問する趣であるが、これなどもなかなか面白い。なほ、卷十一(二七〇〇)に、玉蜻石垣淵之隱庭伏以〔雖〕死汝名羽不謂《タマカギルイハガキフチノコモリニハコヒテシヌトモナガナハノラジ》。卷十二(三〇七七)に、三佐呉集荒礒爾生流勿謂藻乃吉名者不告父母者知鞆《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノヨシナハノラジオヤハシルトモ》(【令告《ノラセ》の説あり】)。同(三〇八〇)に、海若之奧爾生有繩乘乃名者曾不告戀者雖死《ワタツミノオキニオヒタルナハノリノナハカツテノラジコヒハシヌトモ》等の例がある。名を告るには、此處の歌の場合のやうに白状するといふ意味もあるし、求婚のしるし、愛を受けるしるしとして名乘《なの》るといふ場合もある。それ等はおなじナノルでも前後の關係から區別して味ふこととなるのである。
 占《ウラ》を咏んだ歌には、卷二(一〇九)に、大船之津守之占爾將告登波益爲爾知而我二人宿之《オホフネノツモリノウラニノラムトハマサシニシリテワガフタリネシ》。卷十二(二六一三)に、夕卜爾毛占爾毛告有今夜谷不來君乎何時將待《ユフケニモウラニモノレルコヨヒダニキマサヌキミヲイツトカマタム》。卷十四(三三七四)に、武藏野爾宇良敝可多也伎麻左※[氏/一]爾毛乃良奴伎美我名宇良爾低爾家里《ムサシヌニウラヘカタヤキマサデニモノラヌキミガナウラニデニケリ》。卷十六(三八一一)に、神爾毛莫負卜部座龜毛莫燒曾《カミニモナオホセウラベマセカメモナヤキソ》。同じく反歌(三八一二)に、卜部乎毛八十乃衢毛占雖問君乎相見多時不知毛《ウラベヲモヤソノチマタモウラドヘドキミヲアヒミムタドキシラズモ》等がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇八〕
  眉根《まよね》掻《か》き嚔《はな》ひ紐《ひも》解《と》け待《ま》つらむや何時《いつ》かも見《み》むと念《おも》ふ我《わ》が君《きみ》
(550)  眉根削 鼻鳴紐解 待哉 何時見 念吾君
 
 ○紐解・待哉 舊訓ヒモトキ・マツラムヤ。代匠記初ヒモトケ・マチナンヤか。童蒙抄ヒモトケ・マタナムヤ。考ヒモトケ・マタンカモ。略解ヒモトケ・マテリヤモ(古義同訓)。新考は舊訓に從ひ、新訓はヒモトケ・マツランヤとした。○何時見・念吾君 舊訓イツシカミント・オモフワガキミ。童蒙抄イツシカミマク・オモフワガセヲ。考イツカモミント・オモヘルワギモ(君は妹の誤)。略解イツカモミムト・オモヘルワギミ。古義イツカモミムト・オモヒシワギミ。新考イツカモミムト・ワガオモフキミ(吾念君の誤)。新訓イツカモミムト・オモフワガキミ(全釋同訓)。『眉根削《マヨネカキ》』は、人から戀せられると眉の邊が癢くなるといふ諺で、卷四(五六二)に、無暇人之眉根乎徒令掻乍不相妹可聞《イトマナクヒトノマヨネヲイタヅラニカカシメツツモアハヌイモカモ》。卷六(九九三)に、月立而直三日月之眉根掻氣長戀之君爾相有鴨《ツキタチテタダミカヅキノマヨネカキケナガクコヒシキミニアヘルカモ》。卷十一(二五七五)に、希將見君乎見常衣左手之執弓方之眉根掻禮《メヅラシキキミヲミムトゾヒダリテノユミトルカタノマヨネカキツレ》。卷十一(二六一四)一書歌に、眉根掻下伊布可之美念有之妹之容儀乎今日見都流香裳《マヨネカキシタイブカシミオモヘリシイモガスガタヲケフミツルカモ》などとあるに據つて分かる。『鼻鳴紐解《ハナヒヒモトケ》』も、人から思はれるとひとりでに嚔が出るといふので、これは現今まで續いてゐる諺であり、紐の解けるといふのも當時にあつては盛に信ぜられた諺であつたのであらう。卷五(八九二)に、鼻※[田+比]之※[田+比]之爾志可登阿良農比宜可伎撫而《ハナヒシビシニシカトアラヌヒゲカキナデテ》とあるのも嚔《くさめ》をしながら居る趣である。代匠記に、『鼻鳴  人ノ我ヲ相思フ相ナリ。詩(ノ)※[北+おおざと]風云。寤《サメテ》言《ワレ》不v寐(ラレ)、願《オモフ》言《ワレ》則|嚔《ハナヒル》。注云。我(レ)甚憂悼(シテ)而不v能v寐(ルコト)。汝(551)思v我心如v是。我則嚔』と云つてゐるから支那でも同じ俗説があつて、それがはやくも渡來したのかもしれない。詩の『言』は代匠記ではワレと訓んで居るが、ココニとも訓む。『待哉』は、待つて居るであらうで、ラムに咏歎の添はつたもので、反語ではあるまい。略解ではマテリヤモと訓み、やはり反語でなく解してゐるやうに思はれる。
 一首の意は、人から戀ひ慕はれると眉が癢くなつたり嚔《くさめ》が出たり衣の紐が自然に解けたりすると申すことです。お慕ひ申すあなたに、私の思ひが通じて、何時かはどうしてもお逢ひ申したいとおもふあなたが、今ごろは、眉のところをお掻きになつたり、嚔をなすつたり、著物の紐がひとりでにほ解けたりして、私を待つておいででございませうか。といふのであらう。
 一人の女が獨りでかういふことを云つて居る趣の歌であるが、やはり對者を豫想してゐるので、戀慕つてゐる男にむかつてかういふことをいつて、挑み催してゐるものと解釋する方が一首が活躍して來るやうである。
 この歌は、六帖に、第二句『紐ときわたり』、下句『いつしか見むと思ふわぎもこ』として載つてゐる。
 
          ○
 
(552)  〔卷十一・二四〇九〕
  君《きみ》に戀《こ》ひうらぶれ居《を》れば悔《くや》しくも我《わ》が下紐《したひも》の結《ゆ》ふ手《て》も徒《ただ》に
  君戀 浦經居 悔 我裏紐 結手徒
 
 ○君戀 舊訓キミコフト。童蒙抄宗師案キミニコヒ(【考・略解以下同訓】)。○悔 舊訓クヤシクモ。童蒙抄宗師案クヤシカモ。童蒙抄愚案アヤシクモ(【悔は怪の誤】)か。考アヤシクモ(【悔は怪の誤。新考從之】。)。略解同訓(【悔は恠の誤。古義從之】。○我裏紐・結手徒 舊訓ワガヒタヒモヲ・ムスビテタダニ。代匠記初ワガシタヒモノ・ユフテモタダニ。童蒙抄宗師案ワガシタヒモノ・ムスベバトケヌ。考ワガシタヒモヲ・ユヒテタユシモ(【徒は倦の誤。略解從之但しユフテ】)。古義ワガシタヒモノ・ユフテタユシモ。新考シタヒモトケテ・ユフテタユシモ。新訓ワガシタヒモノ・ユフテイタヅラニ。
 一首の意は、あなたを戀して佗びしくしよげて居ると、悔しいことには、私の下紐は結んでも結んでも解けてしまつて駄目です。恐らくあなたも私の事を思つてゐて下さるのでせうが、それにしてはちつとも逢ふことが出來ないではありませぬか。といふのであらう。
 この歌は男の歌で、前の歌の返歌と看做せば右のやうな解釋となるのである。また、『下紐の結ふ手も徒《ただ》に』といふ語は、やはり前の歌の、『紐解《ヒモトケ》』のやうに解釋すべきだとせば、どうしてもさ(553)うなるのである。或は、必ずしも返歌でないとして獨立せしめ、女の歌としてもいいのである。童蒙抄に、『我下紐の解けぬるは確かに君が來まさんに、今迄戀侘びをるは悔しきかもとの意と也』とあるのは、宗師案の訓の、『くやしかも我した紐の結べば解けぬ』に本づいた解釋であるが、なほ、『若しくは怪の字の誤字ならんか。然らば宗師案の通にて、怪しくも我が下紐の結べば解けぬと讀みて、此歌聞えんか』とも云つて居る。是等は皆女の歌になつて居り、結句の『徒』がよく解釋が付いて居ないのが不滿である。然るに、代匠記精に、『今按下句ノ點叶ハズ。ワガシタヒモノ・ユフテモタダニト讀ベシ。古今集ニ、思フトモ戀トモアハム物ナレヤ結手モタユク解ル下紐。此下句ノ意ト同ジ。度々トクレドモ其|驗《シルシ》トテ人モ來ネバ結《ユフ》手ノ徒ナルヲ悔シト云ヘリ』とあり、『度々トクレドモ其|驗《シルシ》トテ人モ來ネバ』といふのは、『徒』の解釋が好く出來て居る。考・略解の訓でもさうなるのかも知れない。古義は、『君を戀しく思ひて、恍惚《ホレボレ》として愁ひ居れば、あやしや吾(ガ)下紐の、結ぶ手もつかるるまで解るよ、これはさは思ふ人にあはむと云、前兆《シルシ》にてこそあらめ、となり』と言つてゐるが、これは如何であらうか。卷十二(三一八三)に、京師邊君者去之乎孰解可言紐緒乃結手怠毛《ミヤコベニキミハイニシヲタレトケカワガヒモノヲノユフテタユキモ》といふのがあつて參考となる。この歌も、ただ徒らに紐のみ解けて、戀人は遠く京師に行つた趣の歌である。
 
(554)          ○
  〔卷十一・二四一〇〕
  あらたまの年《とし》は果《は》つれど敷妙《しきたへ》の袖《そで》交《か》へし子《こ》を忘《わす》れて念《おも》へや
  璞之 年者竟杼 敷白之 袖易子少 忘而念哉
 
 ○年者竟杼 舊訓トシハクルルト。代匠記初トシハハツレト(【略解・古義同訓】)。童蒙抄トシハハツレド。トシハクルレド。又はトシハヲハレド。考トシハヲハレド。新考トシハヘヌレド(竟は經の誤)。新訓・全釋は代匠記に從つた。○袖易子少・忘而念哉 舊訓ソデカハシシヲ・ワスレテオモヘヤ。代匠記初ソデカヘシコヲ(【童蒙抄・考・略解・古義・新考・新訓・全釋同訓】)。少をばヲと訓んだ例は、卷十三(三二五八)に、吾戀心中少人丹言物西不有者《ワガコフルココロノウチヲヒトニイフモノニシアラネバ》とあるのも少をヲと訓ませて居る。其他、泊瀬少國《ハツセヲクニ》(卷十三。三三一一)。赤土少屋爾《ハニフノヲヤニ》(卷十一。二六八三)があり、人名に、朝臣|少足《ヲタリ》、少野《ヲヌ》田守朝臣、尾張|少咋《ヲグヒ》がある。小《ヲ》と相通ぜしめた訓であらう。
 一首の意は、〔璞之《あらたまの》〕年はもう暮れて行くけれども〔敷白之《しきたへの》〕袖を交はして共に寐た可哀いい子を私はどうして忘れようか。忘れられない。といふのである。
 竟をハテと訓むは、卷七(一一七一)す、大御舟竟而佐守布高島之《オホミフネハテテサモラフタカシマノ》。卷十(一九九六)に、照舟竟(555)舟人妹等所見寸哉《テラスフネハテシフナビトイモトミエキヤ》とあるので明かである。また、トシハツといふ例は、卷十(一八四三)に、昨日社年者極之賀春霞春日山爾速立爾來《キノフコソトシハハテシカハルガスミカスガノヤマニハヤタチニケリ》とあるが、此は舊訓クレシカであつたのを契沖が改訓した。そして、後撰集の『物おもふと過る月日も知らぬまに今年も今日に果てぬとか聞く』を參考歌にした。この年ハツは今年も暮れることであるが、妹と情交を結んでから、一年經つても二年經つてもいいわけで、ただ今年も歳晩になつた時の感慨と看做していい。ワスレテオモヘヤの句は、卷一(六八)の、大伴乃美津能濱爾有忘貝家爾有妹乎忘而念哉《オホトモノミツノハマナルワスレガヒイヘナルイモヲワスレテオモヘヤ》をはじめ、卷四(五〇二)の人麿作、夏野去小牡鹿之角乃束間毛妹之心乎忘而念哉《ナツヌユクヲジカノツヌノツカノマモイモガココロヲワスレテオモヘヤ》等その他がある。
 この歌は、分かりよく平凡なやうにおもふが、内容が單純なだけ單純化が遂行せられて、しつとりと落付いたところがある。一首に枕詞が二つもあつて眼障にならないのも何處かいい點があるからであらうか。
 この歌は、六帖に、第二句『年はへぬれど』、第四句『袖かへししを』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四一一〕
  白細布《しろたへ》の袖《そで》をはつはつ見《み》し故《から》に斯《か》かる戀《こひ》をも吾《われ》はするかも
(556)  白細布 袖小端 見柄 如是有戀 吾爲鴨
 
 ○袖小端・見柄 舊訓ソデヲハツカニ・ミレカラニ。代匠記初ソデハツハツニ。代匠記精ソデヲハツハツニ。考ソデヲハツカニ・ミテシカラ。略解ソデヲハツハツ・ミテシカラ。古義ソデヲハツハツ・ミシカラニ(新考・新訓同訓)。卷七(一三〇六)に、是山黄葉下花矣我小端見反戀《コノヤマノモミヂノシタノハナヲワガハツハツニミテサラニコヒシモ》の例があり、なほ、卷十一(二四六一)に、山葉進出月端端妹見鶴及戀《ヤマノハニサシイヅルツキノハツハツニイモヲゾミツルコヒシキマデニ》があり、假名書の例では、卷四(七〇一)に、波都波都爾人乎相見而何將有何日二箇又外二將見《ハツハツニヒトヲアヒミテイカナラムイヅレノヒニカマタコヨソニミム》がある。
 一首の意は、あの女の〔白細布《しろたへの》〕袖をばただちよつと見たばかりで、こんなに深い戀をも己はするのか。といふのである。
 これは男の獨り嘆息する趣の歌で、相當感じの乘つてゐるものである。白細布《しろたへの》は枕詞に使つてゐるが、若くて美しい女の容子を暗指してゐるやうにおもへるし、『袖』を以て代表せしめた點は、『妹が目を欲り』などと同じ技巧に屬し、萬葉の歌に、『袖交はす』といふ語はなかなか多いから、實際的にも、また美學的にも、袖といふのが注目を牽いたものであつただらう。卷十九(四二七七)に、袖垂而伊射吾苑爾※[(貝+貝)/鳥]乃木傳令落梅花見爾《ソデタレテイザワガソノニウグヒスノコヅタヒチラスウメノハナミニ》とある、『袖垂れて』の句も印象深きものであつたのであらう。な性、袖振る。袖吹反す。袖携り。袖解かへて等の例のほかに、卷十五(三六〇四)に、イモガソデワカレテヒサニナリヌレドヒトヒモイモヲワスレテオモヘヤとあるのは稍違つ(557)た例である。
 此歌、六帖に、人まろ作として入り、第二三句『袖のかたはし見るからに』、結句『我はするかな』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四一二〕
  我妹子《わぎもこ》に戀《こ》ひ術《すべ》なかり夢《いめ》に見《み》むと吾《われ》は念《おも》へど寐《い》ねらえなくに
  我妹 戀無乏 夢見 吾雖念 不所寐
 
 ○我妹・戀無乏 舊本『乏』が『之』となつてをり、舊訓ワギモコニ・コヒテスベナミ。童蒙抄コフハスベナミ(無乏)。考コヒテスベナシ(之は爲の誤)。略解コヒスベナカリ(之は爲の誤)。卷十二(三〇三四)の、吾妹兒爾戀爲便名鴈《ワギモコニコヒスベナカリ》。卷十七(三九七五)の、和賀勢故爾古非須弊奈賀利《ワガセコニコヒスベナカリ》とあるを證とした。古義ではコヒスベナカリで、『爲』を非とし『乏』をよしとした。古寫本印本中、『之』が『乏』になつてゐるのが(【嘉・文・細・西・神・温・矢・京・無・附】)あるから、大體それでよい。卷十一(二三七三)に、夕方枉戀無乏《ユフカタマケテコヒハスベナシ》。同卷(二四四一)に、隱沼從裏戀者無乏《コモリヌノシタユコフレバスベヲナミ》。卷十二(二九四七)の或本歌に、(558)無乏出行家當見《スベヲナミイデテゾユキシイヘノアタリミニ》とあるので明かである。なほ、卷十三(三二五七)には、名積序吾來戀天窮見《ナヅミゾワガコシコヒテスベナミ》といふのがあるから、『乏』又は、『窮』の文字をも使つてゐる。○夢見・吾雖念 舊訓ユメミムト・ワレハオモヘド。童蒙抄ユメニミムト・ワレハネガヘド。考イメニミント・アレハオモヘド。○不所寐 舊訓イネラレナクニ。代匠記精イネラエナクニ。
 一首の意は、あの女が戀しくて何とも爲樣がないので、せめて夢にでも見ようとおもふが、はては眠ることも出來ずにゐるのは、苦しいことだ。といふのである。
 これも平凡だが、自然で感じのよい歌である。夢にでも視ようとおもふのだが、戀に悩んで居るのでよく眠れない状態を云つて居るので、かういふことも單に聯想からのみ來た表現でなく、實際の經驗が基本となつてゐるものとおもふ。
 卷五(八〇七)に、宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》。卷十二(二九五九)に、現者言絶有夢谷嗣而所見與直相左右二《ウツツニハコトタエニケリイメニダニツギテミエコソタダニアフマデニ》。卷十三(三二八〇)に、卵管庭君爾波不相夢谷相跡所見社天之足夜于《ウツツニハキミニハアハズイメニダニアフトミエコソアメノタリヨニ》等とあるなど、夢の歌はなかなか多い。支那の詩ならば、『獨寐多遠念、寤言撫空衿』などといふところだが、和歌はもつと素朴である。
 此歌、玉葉集に人麿作として載り、第二句『戀ひてすべなみ』、結句『いこそねられね』となつて居る。
 
(559)          ○
 
  〔卷十一・二四二二〕
  故《ゆゑ》も無《な》く吾《わ》が下紐《したひも》を解《と》かしめつ人《ひと》にな知《し》らせ直《ただ》に逢《あ》ふまで
  故無 吾裏紐 令解 人莫知 及正逢
 
 ○故無・吾裏紐・令解 舊訓ユヘナシニ・ワガシタヒモノ・トケタルヲ。代匠記精ユヘナシニ・ワガシタヒモヲ・トケシメテ。童蒙抄ユヱモナク・ワガシタヒモノ・トケヌルヲ。考ユヱナシニ・ワガシタヒモヲ・トカシメテ。略解ユヱモナク・ワガシタヒモゾ・トケシムル。古義ユヱモナク・ワガシタヒモゾ・イマトクル、令は今の誤(新考從之)。新訓ユヱモナク・ワガシタヒモヲ・トカシメツ。○人莫知・及正逢 舊訓ヒトニシラスナ・タダニアフマデ(【代匠記・童蒙抄・考同訓】)。略解ヒトニシラユナ(新考同訓)。古義ヒトニナシラセ(新訓同訓)。
 一首の意。このやうに何の訣《わけ》〔理由〕もなしに私の下紐を解かせてしまつた(自然に解けたではありませんか)。これはあなたが私を慕つてくれる證據だとおもひますが、まだ逢つても居ないのに彼此人の口がうるさいものですから、あなたと直接逢ふまでは、決して人に知らせて貰つ(560)ては困りますよ。といふので、女が男にむかつて云つて居る。
 當時の民間信仰を本として、なかなか細かいことを云つてゐるのを注意すべきであつて、この心理の細かいところは、一つの小文章にでもなるほどである。それをば、『わが下紐を解かしめつ』と云つて、直ちに、『人にな知らせ直に逢ふまで』と續けたのはなかなか簡潔で旨いところがある。尤もこの訓は新訓に從つて旨くなつたので、從來の訓のやうに連續句にしては具合が惡いやうである。
 
          ○
 
 
  〔卷十一・二四一四〕
  戀《こ》ふること慰《なぐさ》めかねて出《い》で行《ゆ》けば山《やま》も川《かは》をも知《し》らず來《き》にけり
  戀事 意追不得 出行者 山川 不知來
 
 ○戀事 舊訓コフルコト。童蒙抄コヒシサヲ。古寫本中、コヒシキヲとも訓んで居る(京・細)。戀しい心をといふのと同じであらうが、それを、戀ふることと云つたのが矢張り特殊である。○意追不得 舊訓に從つてナグサメカネテと訓んだ。代匠記は追は遣の誤とし、考は進の誤として(561)共にナグサメカネテと訓じてゐるが、古義は追は遣の誤とする説を踏襲し、ココロヤリカネと訓み、意遣雖過不過《ココロヤリスグセドスギス》(卷十二。二八四五)。酒飲而情乎遣爾《サケノミテココロヲヤルニ》(卷三。三四六)。於毛布度知許己呂也良武等《オモフドチココロヤラムト》(卷十七・三九九一)。見明米情也良牟等《ミアキラメココロヤラムト》(卷十九。四一八七)などの例を參考としてゐる。併し、萬葉にはナグサメの例も多いこと、既に評釋したとほりであるから、さう訓んで置いた。○山川 ヤマモカハヲモと訓む。舊訓ヤマカハ。童蒙抄ヤマカハヲシモ。考ヤマモカハラモ。略解ヤマモカハヲモ(古義同訓)。○不知來 シラズキニケリと訓む。舊訓シラズ・キニケルモノヲ。童蒙抄シラレザリケリ。考シラズキニケリ(略解・古義同訓)。
 一首の意は、この戀の切ない思を慰めかね遣りかねて出でて來たから、山をも川をも夢中で來てしまつた。といふのである。
 内容は極めて平凡だが、何處か眞率のところがあつて具合のいい歌である。特に、『山も川をも知らず來にけり』といふ句が實に自然で、現代の歌人の心と雖毫もこれと違つてゐない。また調がのびのびとしてゐるのは、これが本當の日本語の調だからであらうか。一首に、『行けば』。『來にけり』といふ如くに、矛盾、重複のやうな云ひ方もあつて、さう變《へん》でないのは、却つて餘りたくらみのないためであらうか。卷二(一三一)の、人麿作長歌の中に、山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》の句があり、卷三(二八七)に石上卿の、此間爲而家八方何處白雲乃棚引山乎超而來二家里《ココニシテイヘヤモイヅクシラクモノタナビクヤマヲコエテキニケリ》がある。石上卿の歌の(562)結句は伸々として、比較上有益な歌の一つである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四一五〕
  處女等《をとめら》を袖布留山《そでふるやま》の瑞垣《みづがき》の久《ひさ》しき時《とき》ゆ念《おも》ひけり吾《われ》は
  處女等乎 袖振山 水垣 久時由 念來吾等者
 
 以下は『寄物陳思』の部で、これは、その第一にある歌である。寄神戀といふ意味であらうか。○處女等乎 舊訓ヲトメラヲ。古寫本中ヲトメラガ(嘉・類)。考ヲトメラガ、乎は之の誤(略解同説)。古義ヲトメラヲ、乎を可とす。○久時由・念來吾等者 舊訓ヒサシキヨヨリ・オモヒキワレハ。童蒙抄フリニシヨヨリ又はフリニシトキユ・オモヒキワレハ。考ヒサシキトキユ・オモヒコシワレハ。略解ヒサシキトキユ・モヒコシワレハ。古義ヒサシキトキユ・オモヒコシアハ。新考ヒサシキトキユ・モヒキツワレハ。新訓ヒサシキトキユ・オモヒケリワレハ。『處女等乎《ヲトメラヲ》』とせば、その乎《ヲ》はヨに相似たものと看做していいであらう。大和山邊郡の振山を袖振に續けしめた。その神社の瑞垣の久しいといふのから、久しい戀といふのに續けた。
(563) 一首の意は、實に實に久しいまへからお前のことは戀ひおもうてゐたのであつたよ。といふだけだが、序の長いのを用ゐて、調べをゆるがせながら一首を纏めてゐる。
 この歌は既に評釋した卷四(五〇一)の、人麿作、未通女等之袖振山刀水垣之久時從憶寸吾者《ヲトメラガソデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒキワレハ》と殆ど全く同じであるから、傳はつてゐるうちに變化したものと思へる。
 どう變化したかといふに、初句の、『處女等乎〔右○〕』が卷四のには、『未通女等之〔右○〕』になつて居り、『念來〔二字右○〕吾等〔右○〕者』が、『憶寸〔二字右○〕吾者』になつて居る。これに誤字を否定して考へれば、『をとめらを〔右○〕』として味つても、無理とはいへず、御心乎吉野乃國之《ミココロヲヨシヌノクニノ》(卷一。三六)などといふ具合に乎を解すればよく、ただ價値からいへば、眞淵が、『未通女等之と有こそ常さまにてよけれ』(考)と云つたのに從つてよい。即ち卷四の歌の方が一段と好いのである。次に、『念來』をオモヒケリと新訓で訓んだが、この『來』をケリと訓む例は、卷十一(二四六五)に、吾屋戸之草佐倍思浦乾來《ワガヤドノクササヘオモヒウラガレニケリ》。同卷(二六九二)に、夕凝霜置來。《ユフコリノシモオキニケリ》卷十二(三一三四)に、旅登之思者尚戀來《タビトシオモヘバナホコヒニケリ》等の例で類推することが出來る。そして、この『おもひけり』といふのは、調べがゆつたりと感情を含ませ得るけれども、結句の『おもひけり・われは』といふ字餘りは、奈何かと私かにおもふ。これも、卷四の、『おもひき・われは』の緊張したのには及ばないやうな氣がしてならないのである。『來』をば、『寸』と同樣に助動詞『き』に用ゐた例が無いとせば、やはり新訓どほりのものとして傳はつて、この人(564)麿歌集に入つたものであらう。そして人麿歌集といふものに異本があつて、その一つは卷四に採録せられ、一つは讀人不知として此處に載つて、左注を附せられたものであらうか。
 眞淵は、人麿歌集を疑ふ側の人であるが、この歌につき、『此哥は人万呂の哥の調まがふ事なし。然れば卷十三【卷四】に、柿本朝臣人万呂とて載たる如く、ここも人万呂の自哥などを家集に古哥と書まじへて書しもの也。後の家持などは各其名を注せしを、古はさもせざりけん。然らば此人万呂集といふ中に、自哥も多かりなん。心をつけて見るべき事なり〔然ら〜右○〕』(考。人麻呂集)と言つてゐる。
 次に、寄物陳思といふ題につき、契沖は、『是ニ意得置ベキ事アリ。第七ニ譬喩ト表シテ、寄衣寄絲ナド云ヘルハ定テ譬ナリ。此卷下ニモアリ。今ハ譬ヘモセヨ、タトヘズモアレ、物ニスガリテヨメルヲ類聚スルナリ。下皆此ニ效フベシ』(代匠記精)と言つてゐる。
 この歌は、六帖・拾遺集及び夫木和歌抄に人麿作として載り、初句『をとめ子が』、下句『久しき世よりおもひそめてき』となつて居る。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四一六〕
  ちはやぶる神《かみ》の持《も》たせる命《いのち》えおば誰《た》が爲《ため》にかも長《なが》く欲《ほ》りせむ
(565)  千早振 神持在 命 誰爲 長欲爲
 
 ○神持在・命 舊訓カミノタモテルイノチヲモ。代匠記、童蒙抄同訓。『神ノ如ク幾久シキ命モガナトハ誰故ニカ思フ。君故ニコソトナリ』(代匠記精)。『人の命は限り有て、長きも短きも、神明の保ち給ひて、わが私の儘に、伸べ縮めはならぬ命をすら、長かれと乞願ふも、誰の爲にこそ、思ふ人と長くそひもし、又思ひの叶ふ迄との爲との意也』(童蒙抄)。考では、神祷在《カミニノミタル》とし、『命ながかれと常は神に所乞《ノミコヒ》し也。今本に、神持在、と有は、神のたもてる命てふ事有べきかは、例なき言なり、仍て改む』(考)と云つた。略解は、舊訓に從つたが、『神ノタモテルは、神のみ心のままなる命と言ふ意か。宣長云、持は祷の誤にて、神ニイノレルならんと言へり』と云ひ、古義も大體宣長説に從つたが、カミニイノレル・イノチヲバとし、『壽命の長からむ事を、神祇に乞祷れるをば、そも誰が爲の故にてあるぞ、思ふ人の爲のみの事にこそあれ、となり』と言ひ、新考ではカミノタモテル・イノチヲバと訓み、『案ずるにここにてはイノリシとはいふべくイノレルとはいふべからず。さればもとのままにて又は持在の上に手の字を補ひてタモテルとよむべく、命は古義の如くイノチヲバとよむべし』と云つた。新訓は、カミノモタセル・イノチヲバと訓んだ。○誰爲・長欲爲 舊訓タガタメニカハ・ナガクホリ|ス《(フ)》ル(【代匠記・童蒙抄同訓】)。考タレガタメニカ・ナガクホリセン(略解同訓)。古義タレガタメニカ・ナガクホリスル。新考タガタメニカモ・ナガクホ(566)リスル。新訓タガタメニカモ・ナガクホリセム。今、新訓に從つた。
 一首の意は、〔千早振《ちはやぷる》〕神樣の持つて居られるやうな長い御命、その長い命をも私は誰のために欲しいのか、みんなお前と逢つてゐたいばかりなのだ。といふのである。
 これは、恐らく男の歌で、誰のためといふのは女を對手としてゐるつもりなのであらうか。また、神ノタモテルイノチと訓んで、童蒙抄などの解の如く、生命を支配するといふやうに解釋しても意味の取れないことはないが、此處は新訓の如く、神ノモタセルイノチと訓んで、平凡に神樣の御命のやうに長い命といふやうに解する方が素朴で却つていいのではあるまいか。契沖は、タモテルに從つたが、解は、『神ノ如ク幾久シキ命』といふやうにして居るのはなかなか確かだとおもふ。
 モタセルと訓ませた用例は他に萬葉に見えないが、卷四(六七二)に、倭文手纏數二毛不有壽持奈何幾許吾戀渡《シヅタマキカズニモアラヌイノチモチイカニココダクワガコヒワタル》とあるのは參考になる。又『持在』と書いたのは、大夫乃手二卷持在鞆之浦囘乎《マスラヲノテニマキモタルトモノウラミヲ》(卷七。一一八三)。海神手纏持在玉故《ワタツミノテニマキモタルタマユエニ》(卷七。一三〇一)。海神持在白玉《ワタツミノモタルシラタマ》(卷七。一三〇二)等の例がある。一方タモテル・タモツといふ語は他に萬葉に見當らぬから、この點からもモタセルの方が無理がないと思ふ。
 此歌は、拾遺集に人麿作として入り、第二句以下『神のたもてる命をばたれがためにかながく(567)と思はむ』とあり、又柿本集に、『神のたもてる命をも誰がためとおもふ我ならなくに』、六帖に、『神のたもてる命あらばたがためとかは我は思はむ』となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四一七〕
  石上《いそのかみ》布留《みふる》の神杉《かむすぎ》神《かむ》さびて戀《こひ》をも我《われ》は更《さら》にするかも
  石上 振神杉 神成 戀我 更爲鴨
 
 ○神杉・神成 舊訓カミスギ・カミトナル。古寫本中カミナレヤ(【嘉・類・古・細】)。カミトナル(【文・西・京・神・温・矢】)。カミナルヤ(【西・温一訓】)等の訓がある。古點カミナレヤ。仙覺新點カミトナル。童蒙抄宗師案カミノナス。考カミサビテ。『神左備てふ言は、神ぶりしたる事なるを古き事にも轉じいへり。其神ふりしたるを、即神となるてふよしにて神成とは書たる』。略解は考に從ひ、古義カムスギ・カムサビテ(【新考・全釋同訓】)。『カムサブは神化する事なればカムサビテを神成と書けるか』(新考)。新訓カムスギ・カムサビシ。今、古義の訓に從つた。
 一首の意は、〔石上振神杉《いそのかみふるのかむすぎ》。振《ふる》の神社にある大杉の古く神さびたやうに〕神さびて、齡がこの(568)やうにいたく老いて、そしてまたまた若者のやうに戀に悩んで居る。といふのである。
 この歌は、寄神戀の氣分だから、自然かういふ具合に聯想が向くのかも知れないが、それにしても珍らしい歌である。紅顔の媚青年が花の如き少女と相交合するのは自然であらうが、醜老の身を以て戀に悩むのは苦難の道といふことも出來る。ゲエテが年老いてミンナ・ヘルツリイプに戀愛を感じ、エポツヘと言ふ詩にその情感を托し、なほ親和力製作の動機となつたと言はれて居るが、西洋には斯の如き例は多いけれども、日本文學にはその例が少いのではあるまいか。萬葉卷二(一二九)の、古之嫗爾爲而也如此許戀爾將沈如手童兒《フリニシオウナニシテヤカクバカリコヒニシヅマムタワラハノゴト》の如きは、少い中のその一例である。さういふ意味でこの歌は一つの特徴を持つてゐる。さうして、この歌の結句の『戀をもわれは更にするかも』が利いて居る。本來の抒情詩としては上半の序詞が邪魔をするのであるが、寧ろ題咏的だから致し方が無い。
 第三句を、カムサビシとしないで、カムサビテとしたのは、形容詞にせずに副詞句としたので、卷十(一九二七)に、石上振乃神杉神備而吾八更更戀爾相爾家流《イソノカミフルノカムスギカムサビテワレヤサラサラコヒニアヒニケル》をも參考にした。尤もこの神備而は神備西《カムサビニシ》といふ訓もある。
 
          ○
 
(569)  〔卷十一・二四一八〕
  如何《いか》ならむ名《な》に負《お》ふ神《かみ》に手向《たむけ》せば吾《わ》念《も》ふ妹《いも》を夢《いめ》にだに見《み》む
  何 名負神 幣嚮奉者 吾念妹 夢谷見
 
 ○何・名負神 舊訓イカナラム・カミニ。古寫本中、ナニナニノ(【文・細・西・神・温・矢・京】)。イカナラム(嘉・古)の兩方がある。古點イカナラム・カミニ。仙覺新點ナニナニノ・カミニ。代匠記初ナニノナオフ・カミニ。童蒙抄イカナラン・ナニオフカミニ。『如何ならん名におふ神と讀事も、少心得難けれど、名負の二字、ならんとは讀難き故かくは讀む也』(童蒙抄)。考イカバカリ・ナニオフカミニ(略解同訓)。古義イカナラム・ナオヘルカミニ。新考イカナラム・ナヲオフカミニ(新訓同訓)。全釋イカナラム・ナニオフカミニ。今、全釋の如く、童蒙抄に從つて、イカナラム・ナニオフカミニと訓んだ。○幣嚮奉者 舊訓ヌサヲモ・タムケバカ。代匠記精ヌサヲモ・タムケセバ。童蒙抄タムケセバ(【考・略解・古義・新考・新訓・全釋同訓】)。
 一首の意は、何といふ御名前を持つて居られる神樣に幣を捧げて祈つたら私の戀びとを夢にでも見ることが出來るだらうか。といふのである。
 これは寄神戀であるから、稍題咏的になつたが、實際當時の人々は、戀の成就をば神に盛に願(570)つたものであつただらう。そこでこの歌も、無理なく自然に流露して居り、僞ることの出來ない好いところがやはり出て居るのである。『夢にだに見む』といふやうな心理の歌は、既に前に引用したから其處を參照するといい。
 『名に〔右○〕負ふ神』とするか、『名を〔右○〕負ふ神』とするかについて、萬葉の用例を見るに兩方共ある。卷一(三五)に、木路爾有云名二負勢能山《キヂニアリトフナニオフセノヤマ》。卷十五(三六三八)に、巨禮也己能名爾於布奈流門能宇頭之保爾《コレヤコノナニオフナルトノウヅシホニ》。卷十七(四〇一一)に、美雪落越登名爾於弊流安麻射可流比奈爾之安禮婆《ミユキフルコシトナニオヘルアマザカルヒナニシアレバ》とあるなどは、ナニオフの例であり、卷十八(四〇九四)に、其名乎婆大來目主登於比母知弖《ソノナヲバオホクメヌシトオヒモチテ》とあるのは、ナヲオフの例であるが、今は多い方の例に從つた。
 また、『如何ならむ名に負ふ神』は字面どほりには、どういふ御名の神といふことだが、どういふ靈驗あらたかな神といふ意味もあるだらうから、眞淵がイカバカリと訓んで、『御しるし有、名高き神をいふ』(考)と云つたのは、機微を捉へて居る。ただその訓までに行かなくとも好いのである。
 此歌は、玉葉集及び夫木和歌抄に人麿作として載り、舊訓と同じく上句『いかならむ神にぬさをもたむけばか』となつて居る。
 
(571)          ○
 
  〔卷十一・二四一九〕
  天地《あめつち》といふ名《な》の絶《た》えてあらばこそ汝《いまし》と吾《われ》と逢《あ》ふこと止《や》まめ
  天地 言名絶 有 汝吾 相事止
 
 ○汝吾・相事止 舊訓ナレニワガアフ・コトモヤミナメ(【代匠記・童蒙抄・考同訓】)。略解イマシトワレト・アフコトヤマメ(【古義同訓但しアレト】)。新考アメツチニ・ワガナノタエテ・アラバコソ・ナレトワレトノ・アフコトヤマメ。
 此歌は寄2天地1もので、一首の意は、天地といふ名が此世から無くなつたらば、つまり天地が無くなつたらば、その時には汝と吾との逢ふ時は止むだらうが、さうでない限り、天地のつづくかぎりは汝と吾と離れることは無い。といふのである。
 今から見れば一種の思想で、虚無的とも謂ふべきものだが、作者はさういふ思想を本として歌つてゐるのでなく、その時の感じによつて歌つてゐるのである。それゆゑ大掴みのやうに歌つて居りながら感動を讀者に傳へることが出來る。また調べも強く且つ豐かで、後世の概念的戀愛歌とは大にその趣を異にして居るのである。ただ寄v物陳v思といふことが既に題咏の初期とも考へ(572)られるので同情も薄いのだけれども、この程度ならば先づ許せるのではなからうか。
 新考では、『天地トイフ名といふこと穩ならず。宜しくアメツチニワガ名ノタエテとよむべし。言をワガとよむべき事は卷十(二一〇五頁)にいへり。又古人が名の絶えむ事を悲しみしは卷二なる妹ガ名ハ千代ニナガレムの處(三二六頁)にいへる如し』といふ説を立ててゐる。此も一見識であるが、此歌は、天地に寄せた歌で、我名を主としたものでないといふことを顧慮するなら、折角の博士の新説にも從ふことが出來ない。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四二〇〕
  月《つき》見《み》れば國《くに》は同《おな》じを山《やま》隔《へな》り愛《うつく》し妹《いも》は隔《へな》りたるかも
  月見 國同 山隔 愛妹 隔有鴨
 
 ○月見・國同・山隔 舊訓ツキミレバ・クニハオナジク・ヤマヘダテ。古寫本中、ツキヲミバ(嘉)。ツキヲミル(類・細)等の訓がある。童蒙抄宗師案ツキミレバ・ヒトクニヤマヲ・クモヰナス。考ツキミレバ・オナジクニナリ・ヤマコソハ(隔は許の誤)。略解ツキミレバ・クニハオナジ(573)ゾ・ヤマヘナリ。古義ツキミレバ・クニハオヤジゾ・ヤマヘナリ。新考ツキミレバ・クニオナジキヲ・ヤマヘダテ。新訓ツキミレバ・クニハオナジヲ・ヤマヘナリ。○愛妹・隔有鴨 舊訓ウツクシイモハ・ヘダテタルカモ。童蒙抄ウツクシイモヲ・ヘダテタルカモ(考同訓)。略解ウルハシイモガ・ヘナリタルカモ。古義ウツクシイモガ・ヘナリタルカモ(新考同訓)。新訓ウツクシイモハ・ヘナリタルカモ。今、新訓に從ふ。
 一首の意は、月の照つて居る樣《さま》を見れば、己の處も妻の處も同じやうに照らされて、同じ國の内であるのに、其間には山が聳え隔ててゐるものだから、可哀い妻とも隔つてしまつて居る。といふのである。
 この歌は、月光を咏じて、然かも月に照らされた國を遠く望む趣の歌であり、その國原のうちに妻の家郷があつて、山が聳えて當方を隔離したやうな地勢になつてゐるところがよくわかり、寄山戀といふのでも、題咏くさくない眞實性がある。特に細かく寫生してゐる點はやはり萬葉歌人のいいところをあらはしてゐる證據ともなる歌である。
 卷十八(四〇七三)に、古人云、都奇見禮婆於奈自久爾奈里夜麻許曾波伎美我安多里乎敝太弖多里家禮《ツキミレバオナジクニナリヤマコソハキミガアタリヲヘダテタリケレ》とある、『古人云』といふのは、或は此歌の傳誦かも知れない。さうすれば、ヘナリでなくヘダテと訓むのかも知れない。それに家持が答へたのは(四〇七六)、安之比奇能夜麻波奈久毛我(574)都奇見禮婆於奈自伎佐刀乎許己呂敝太底都《アシヒキノヤマハナクモガツキミレバオナジキサトヲココロヘダテツ》といふのである。なほ卷十五(三六九八)に、安麻射可流比奈爾毛月波弖禮禮杼母伊毛曾等保久波和可禮伎爾家流《アマザカルヒナニモツキハテレレドモイモゾトホクハワカレキニケル》といふのがあり、また卷四(七六五)に、一隔山重成物乎月夜好見門爾出立妹可將待《ヒトヘヤマヘナレルモノヲツクヨヨミカドニイデタチイモカマツラム》。卷十(二三〇〇)に、九月之在明能月夜有乍毛君之來座者吾將戀八方《ナガツキノアリアケノツクヨアリツツモキミガキマサバワレコヒメヤモ》。卷十二(三〇〇六)に、月夜好門爾出立足占爲而往時禁八妹二不相有《ツクヨヨミカドニイデタチアウラシテユクトキサヘヤイモニアハザラム》。同(三〇〇八)に、足引之山乎木高三暮月乎何時君乎待之苦沙《アシヒキノヤマヲコダカミユフヅキヲイツトカキミヲマツガクルシサ》など、月を縁とした歌は可なりある。なほ代匠記で、文選謝希逸の月賦を引いて居る。隔(テテ)2千里(ヲ)1兮共(ニス)2明月(ヲ)1。また唐(ノ)李※[山+喬](ガ)百詠を引いて居る。三五二八(ノ)夜、千里與v君同(ジ)。また謝觀(ガ)白(ノ)賦を引いてゐる。夜登(レバ)2〓亮(ガ)之棲(ニ)1月明(ナリ)2千里(ニ)1。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、『月をみるくにはおなしき山邊にてうつくし妹はへたてたるかも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四二一〕
  來《く》る路《みち》は石《いし》踏《ふ》む山《やま》の無《な》くもがも吾《わ》が待《ま》つ君《きみ》が馬《うま》躓《つまづ》くに
  ※[糸+參]路者 石踏山 無鴨 吾待公 馬爪盡
 
(575) ○※[糸+參]路者 舊訓クルミチハ。代匠記精に、校本、※[糸+參]又作繰とし、『繰ヲ誤リテ※[糸+參]ニ作レリ。改タムベシ。來ルニ借レリ』と云ひ、略解では、『和名抄、※[糸+參]車【久流】絡v糸取也とあれば、來ると言ふに借りて書けるか』と云つたが、古義では、マヰリヂと訓み、『※[糸+參]《クル》を來《クル》に借りたるにて來《ク》る道はの意とする説は穩ならず。誤字なるべし。故(レ)考るに、※[糸+參]は絲扁の衍《アヤマリ》て加はれるにて、參にて參路者《マヰリヂハ》などありしにてもあるべきか。參路とは朝參《ミカドマヰリ》の路を云べし』と云ひ、新考ではそれを否定して舊訓に從つたが、『※[糸+參]は旗の附屬物なり。クルとはよむべからず』と云つた。併しこれは略解の説に從つて好く、類聚名義抄もクルの訓があり(【旗旒と云ふ注もある】)、伊呂波字類抄クル。−糸、亦作v繰とあるから、『來る』に借りたものであらう。なほ文字辨證上卷に、『廣韻【六豪】に、※[糸+巣]【繹v繭爲v絲】繰【上同、俗又作v※[糸+參]、※[糸+參]本音衫】とありて、本集も和名抄も俗に從ひたるなれば、卷六卷十に躁を※[足+參]と作《カケ》ると同法なるなり。【中略】かかれば躁繰を※[足+參]※[糸+參]とかけるも、古き字體なるを知るべし』とあるのを參考すべきである。○石踏山・無鴨 舊訓イシフムヤマモ・ナクモガモ。童蒙抄イハフムヤマノ・ナクモガモ(【略解・古義・新考・全釋同訓】)。考イシフムヤマノ・ナクモガモ。このイハといふか、イシといふか、萬葉には兩方の例があるから、今、考に從つた。○吾待公・馬爪盡 舊訓ワガマツキミガ・ウマツマヅクモ(代匠記・考同訓)。童蒙抄ワガマツキミガ・ウマツマヅクニ(【略解・古義・新考・新訓同訓】)。
 一首の意は、向うから來られる途中に巌石のある山道が無ければよい。私のお待して居るお方《かた》(576)の乘つた馬が躓くと困りますから。少しでも早くお逢ひ申したいのですから。といふ程の意であらう。
 この歌も、民謠的といへばいはれるが、なほ女のしをらしい情緒が出て愛すべき歌である。また當時男が女の許へ通ふのによく馬に乘つたことがこれでも分かる。卷三(三六五)に、鹽津山打越去者我乘有馬曾爪突家戀良霜《シホツヤマウチコエユケバワガノレルウマゾツマヅクイヘコフラシモ》。卷七(一一九一)に、妹門出入乃河之瀬速見吾馬爪衝家思良下《イモガカドイデイリノカハノセヲハヤミワガウマツマヅクイヘモフラシモ》とあり、既にこれ等の歌の、『家戀ふ』、『家思ふ』の解釋について、評釋篇卷之上三一九頁〔一六卷三一六頁〕以下に一たび引用した。
 追記。武田祐吉博士は、この『※[糸+參]路者』を、『コハタヂハ』と訓むべき試説を出した。そのコハタは、同卷(二四二五)に、山科強田山馬雖在歩吾來汝念不得《ヤマシナノコハタノヤマヲウマハアレドカチユワガコシナヲオモヒカネ》とある強田で、木幡の文字を宛てる山城の地名である。そして、『周禮春官巾車に建大常十有二〓とあり、註に大常九旗之畫日月者、正幅爲※[糸+參]、〓則屬焉とあるに依れば、※[糸+參]は、旗のひらひらと飜る織物の部分をいふものと思はれる。【中略】コハタを旗の正幅なりとする義が成立するならば、コハタの語義の解析は出來ないが、この歌(【卷二・一四八『青旗の木旗の上を』の歌】)に當てて極めて好適なるを覺える。さうして※[糸+參]をコハタと讀む傍證とすることが出來るならば、更に好都合であると思ふ』と云はれて居る。(【※[糸+參]考試説。アララギ二九ノ四。昭和十一年四月】》
 
(577)          ○
 
  〔卷十一・二四二二〕
  石根《いはね》踏《ふ》み隔《へな》れる山《やま》はあらねども逢《あ》はぬ日《ひ》數多《まね》み戀《こ》ひわたるかも
  石根踏 重成山 雖不有 不相日數 戀度鴨
 
 ○重成山 舊訓カサナルヤマハ・古寫本中カサナルヤマニ(嘉・類・古・細)。カサナルヤマハ(神・西・文・矢)。代匠記カサナルヤマハ(略解同訓)。童蒙抄カサナルヤマニ(考・新考同訓)。古義ヘナレルヤマハ(【新訓・全釋同訓】)。○不相日數 舊訓アハヌヒアマタ。古寫本中アハヌヒカズヲ(嘉・類・古)。アハズヒアマタ(温)等。代匠記舊訓に從ふ(【童蒙抄同訓】)。略解アハヌヒマネミ(【古義・新考・新訓・全釋同訓】)。
 一首の意は、戀しい女と私との間には巌石を踏むやうな險しい山があつて隔つて居るわけでもないのに、もうだいぶ逢はぬので、戀しくてならぬ。といふのである。
 この重成山をヘナレルヤマと訓むことは、既出の通りであるが、卷四(七六五)の、一隔山重成物乎《ヒトヘヤマヘナレルモノヲ》。卷十七(四〇〇六)の、伊波禰布美古要弊奈利奈婆《イハネフミコエヘナリナバ》等を參考したものであらう。カサナルヤマでも意味の取れないことはないが、歌言葉としてはヘナレルの方が好いやうである。ただ鑑賞者は二つの訓とも自由に取入れて味ふことも出來る。マネクは卷二(一六七)に、人麿作の、御言(578)不御問日月之數多成塗《ミコトトハサズヒツキノマネクナリヌレ》があり、その他、卷九(一七九二)に、不遇日之數多過者《アハヌヒノマネクスグレバ》。卷十七(四〇一二)に、美之麻野爾可良奴日麻禰久都奇曾倍爾家流《ミシマヌニカラヌヒマネクツキゾヘニケル》等がある。この語は、度《たび》重ることに用ゐ、月日といふ語に連續し、久《く》活用の形容詞である。
 この歌は、極めて奇のない平凡なものであるが、それだけ自然にこだはりなく咏まれてゐて反感を持つことはない。訓も種々の徑路を經てここに至つたが、大體このくらゐで鑑賞することが出來るとおもふ。
 古葉略類聚鈔には、この歌以下五首について、『人麿哥五首』と題してある。この歌は、和歌童蒙抄に載つて、『イハネフミカサナルヤマニアラネドモイハヌヒアマタコヒワタルカモ。万十一ニアリ石根蹈トカケリ』とある。なほ、拾遺集に、『いはねふみかさなる山はなけれども逢はぬ日かずをこひやわたらん』を載せ、坂上郎女の歌としてある。伊勢物語には、『いはねふみかさなる山にあらねどもあはぬ日おほくこひわたるかな』。柿本集には、『いはねふみかさなる山はなけれども逢はぬ日かずをこひわたるかな』となつてゐる。言語の使ひざまと一首の聲調の變化を觀察するのに好い例である。
 
          ○
 
(579)〔卷十一・二四二三〕
  路《みち》の後《しり》 深津島山《フカツシマヤマ》 暫《しまし》くも 君《きみ》が目《め》見《み》ねば 苦《くる》しかりけり
  路後 深津島山 暫 君目不見 苦有
 
 ○路後 舊訓ミチノシリ。諸書異訓が無い。路《みち》の後《しり》、國の奧の意で、路の口《くち》、路の中《なか》などに對してゐる。應神紀に、大鷦鷯《オホサザキ》等の御歌に彌知能之利古破〓塢等綿《ミチノシリコハダヲトメ》云々といふのがある。和名鈔に、
タニハノミキビノミツクシノミヒノミチトヨクニノ
越後【古之乃美知乃之利《コシノミチノシリ》】丹後【太邇波乃美知乃之利《タニハノミチノシリ》】備後【吉備乃美知乃之利《キビノミチノシリ》】筑後【筑紫乃美知乃之利《ツクシノミチノシリ》】肥後【比乃美知知乃之利《ヒノミチノシリ》】豐後【止與久邇乃知乃之利《トヨクニノミチノシリ》】とあるのを以て知るべく、越前【古之乃三知乃久知《コシノミチノクチ》】のミチノクチの例を以て相對照せしめてゐることが分かる。此處のミチノシリは、備後を指して居る。○深津島山 フカツシマヤマで、和名鈔に、備後に深津【布加津】郡があり、續日本紀に、養老五年夏四月丙申、分(テ)2備後國安那郡(ヲ)1置(ク)2深津郡(ヲ)1云々とある。それであるから、この歌の深津は郡の名でなくて、當時の安那郡の中の地名と考ふべきである。代匠記初稿本に、『此哥の出來ける時は、まだ安那郡に屬せるなり【人丸文武朝死去】』と注してゐるのは用意が細かい。深津島山は今の福山附近だと云はれて居るのは、あの邊は湊でもあつたから、歌に咏まれるのも自然であらう。○暫 舊訓シバラクモ。代匠記初シマシクモ(【略解・古義・新訓・全釋同訓】)。童蒙抄シマラクモ(【考・新考同訓】)。前の深津島山のシマからシマシクモのシマに連續せしめた序詞で、卷十五(三六三四)に、筑紫道(580)能可太能於保之麻思末志久母見禰婆古非思吉伊毛乎於伎弖伎奴《ツクシヂノカタノオホシマシマシクモミネバコヒシキイモヲオキテキヌ》とあるのに類似してゐる。卷十五の方は、オホシマ、シマシと續けて居る。
 一首の意は、〔路後深津島山《みちのしりふかつしまやま》【國の奧なる深津の嶋山の】〕しばらくも、暫しの間でも、あなたの御顔を拜見しなければ苦しうございます。といふのである。
 この歌も内容が單純で分かりよい。特に地方の地名を入れて、音の聯合で續けて行つて歌ひ易くしてゐるのはやはり民謠的である。『目』を以て代表的とした官能的表現のことは既に云つた。平凡だが可憐な歌で吟誦してゐて不愉快でない。卷十二(二九三四)に、味澤相目者非不飽携不問尊毛苦勞有來《アヂサハフメニハアケドモタヅサハリトハレヌコトモクルシカリケリ》といふのがある。この參考歌の初句、『味澤相』をアヂサハフと訓んで既に解釋し(許釋篇上、六四三頁)〔一六卷六二九頁〕、冠辭考の『味鳧《アヂカモ》の多《サハ》に群《ムレ》わたる意』と解したが、代匠記精には、『ヨキコトノオホクヨリアフ心ナリ』とあり、古義では、ウマサハフと訓み、『味粟田《ウマシアハフ》の義なるべし。味(ノ)字ウマ〔二字右○〕と訓るは、集中に、味酒《ウマサケ》、味飯《ウマイヒ》、味寢《ウマイ》などいと多かり、粟田《アハフ》は神代紀に見え、又神武天皇(ノ)大御歌にも、阿波布《アハフ》とありて、今(ノ)俗に粟畠《アハバタケ》と云に同じ』と云つた。新訓はこの古義の訓に從つて居る。
 
          ○
 
(581)  〔卷十一・二四二四〕
  紐鏡《ひもかがみ》 能登香《のとか》の山《やま》は誰《たれ》ゆゑぞ君《きみ》來《き》ませるに紐《ひも》あけず寐《ね》む
  ※[糸+刃]鏡 能登香山 誰故 君來座在 ※[糸+刃]不開寐
 
 ○※[糸+刃]鏡・能登香山 舊訓ヒモカガミ・ノトカノヤマモ。考ノトカノヤマハ。紐鏡は即ち鏡の裏に紐の著いてあるのをいふので、『上古の鏡には環有て紐を付たる也。【中略】よりて歌にも如v此紐鏡とは詠めり』(童蒙抄)。そして、勿解《ナトキ》と能登香《ノトカ》と音が通ふので枕詞となつたと契沖が解してゐる。或は、ノトカノのトカノは『解かぬ』の意味と取つたのかも知れない。能登香山は美作國、津山市近くの二子山のことだと地名辭書に云つてある。そして同書には美作名所栞の、『吉野粟井村、在國之東隅、連山四合、層巒疊※[山+章]、蜿蜒起伏、中有一山、清秀奇※[山+肖]、聳拔於衆山之表者、爲二子山、兩峰双峙、松樹蔽其嶺、葱欝相對、恰似※[巒の山が子]生者、山有二祠、其在西北者、曰|能登香《ノトカ》神、能降膏雨、其在東南者、曰早風神、能鎭暴風、村民尊崇』といふのを引用して居る。○誰故・君來座在・※[糸+刃]不開寐 舊訓タガユヱカ・キミキマセルニ・ヒモトカズネム。代匠記初ナニユヘカ。代匠記精タレユヱカ。童蒙抄タレユヱニ。略解タガユヱゾ。古義タレユヱゾ。代匠記精ヒモアケズネム。童蒙抄ヒモトカズヌル。
(582) 一首の意は、〔紐鏡《ひもかがみ》〕、紐を解くなといふ能登香《のとか》の山は誰ゆゑにさういふ名を得たものですか。縱ひ、紐解くなといふ名の山があつても、折角お慕はしい貴方《あなた》が通《かよ》つていらしたのに著物の下紐も解かずに寐《やす》むといふことが出來ませうか。といふのである。略解では、『思ふ人の來れる夜に衣の紐解き明けずして寐んやはと言ふなり』と翻した。
 これも民謠的の風で、前の歌には備後の海濱の地名が入つて居り、これには美作の地名が入つて居るから、その邊で歌はれた民謠ともおもはれるし、若しこれが人麿作とせば、その邊を旅しつつ、地名にちなんで民謠風の歌を殘したとも取れる。或は巡遊詩人として柿本族の制作といふことを(折口氏・高崎氏)認容するならば、複數人の作つたものが、人麿歌集の中に編入せられたといふことにもなる。いづれにしても女性の歌らしいことは認容していい。
 卷十七(三九四八)に、安麻射可流比奈爾月歴奴之可禮登毛由比底之紐乎登伎毛安氣奈久爾《アマザカルヒナニツキヘヌシカレドモユヒテシヒモヲトキモアケナクニ》。卷二十(四二九五)に、多可麻刀能乎婆奈布伎故酒秋風爾比毛等伎安氣奈多太奈良受等母《タカマトノヲバナフキコスアキカゼニヒモトキアケナタダナラズトモ》がある。
 この歌は、大木和歌抄に、『のとかの山(能登香、國未勘)題不v知』とし、讀人不知として、『ひもかかみのとかの山もたかゆへか君きませると紐とかすねん』と殆ど舊訓と同じになつてゐる。
 
          ○
 
(583)  〔卷十一・二四二六〕
  山科《やましな》の木幡《こはた》の山《やま》を馬《うま》はあれど歩《かち》ゆ吾《わ》が來《こ》し汝《な》を念《おも》ひかね
  山科 強田山 馬雖在 歩吾來 汝念不得
 
 ○山科・強田山 舊訓ヤマシナノ・コハタノヤマニ。考ヤマシナノ・コハタノヤマヲ。山科《ヤマシナ》は、和名鈔に、山城國宇治郡山科【也末之奈】とあるところで、強田山《コハタヤマ》は木幡山、神名帳に、山城國宇治郡|許波多《コハタ》神社三座云々とあり、現在宇治村木幡で桃山丘陵の東方になつてゐる。○歩吾來 舊訓カチヨリワレク。童蒙抄カチヨリワガク(考・略解同訓)。古義カチユアガコシ。カチユアガケル。新考カチエワガキツ。新訓カチユワガコシ。○汝念不得 舊訓ナレヲオモヒカネ。童蒙抄ナヲシノビカネ。考ナヲモヒカネテ(略解・新考同訓)。古義ナヲオモヒカネ(新訓同訓)。
 一首の意は、山科《やましな》の木幡の山道をば徒歩でやつて來た。己《おれ》は馬を持つてはゐるが、お前を思ふ思ひに堪へかねて徒歩で越えて來たのであるぞ。といふのである。『木幡の山を歩《かち》ゆ吾が來し』の間に、『馬はあれど』の句を挿入したものである。古義でこのことを注意して、『強田山に馬はあれどとつづけて聞べからず』と云つて居る。これは考がはじめて『山ヲ』と訓み改めて、『此山に馬の有べきよしなし、仍て、山を、と訓て句として、馬はわがもたれど、かちよりぞ來るとい(584)ふにこそあれ』と言つたので、略解、古義とこの解を襲つてゐるのである。
 なぜ、『馬はあれど』といふ句を插入したかといふに、『馬はありはすれども、草飼て、鞍置手綱著など用意する間得待ず、汝を思ふ思ひに堪かねて、取(ル)物もとりあへず』(古義)といふのであらう。代匠記初稿本に、舊訓のままで『馬をかるまもなくかちよりくるは、切におもふゆへなり』とあるのを、『強田山に馬はあれど』と解したとして、古義で批難してゐる。併し、代匠記の、『切におもふゆへなり』は、それに相違ないから、この解も保存していい。この歌は、素朴でどちらかといへば東歌《あづまうた》に類似して居る。それを直覺したためか、古義ではカチユアガケルなどと訓んだ。さうすれば新考のやうに、カチユワガキツ・ナヲモヒカネテと訓んでも味ふことが出來る。さういふ具合に古樸な民謠的な歌として受取り得る歌であるが、人麿だからと云つてかういふ歌を絶待に作らぬとは限らぬ。そのへんの考察は非常にむづかしいが、ただこの歌には人麿流の習癖は先づ先づ無い。
 この歌は、拾遺集雜戀に人麿として入り、『こはたの里に』、『かちよりぞくる君を思へば』となつてゐる。なほ夫木和歌抄には、よみ人しらずとして、第四句『かちよりそをくる』、その他は拾遺集と同樣である。
 
(585)          ○
 
  〔卷十一・二四二六〕
  遠山《とほやま》に霞《かすみ》被《たなび》きいや遠《とほ》に妹《いも》が目《め》見《み》ずて吾《あ》は戀《こ》ふるかも
  遠山 霞被 益遐 妹目不見 吾戀
 
 ○霞被 舊訓カスミタナビキ(【代匠記以下同訓】)。新訓カスミカガフリ。文字の上からいへばカカフリで、卷二十(四三二一)に、可之古伎夜美許等加我布理《カシコキヤミコトカガフリ》などともあるが、此處はやはりタナヒクの方が穩當ではなからうか。また、卷七(一二二四)の、大葉山霞蒙狹夜深而《オホハヤマカスミタナビキサヨフケテ》。卷十二(三〇三二)の、伊駒山雲莫蒙雨者雄零《イコマヤマクモナタナビキアメハフルトモ》等の如く、『蒙』をタナビクと訓ませてゐるのをも參照していい。この後の歌の『蒙』は、舊訓カクスであつたのを、考でタナビクと訓んだ。○益遐 舊訓イヤトホニ。代匠記初書入マストホニ。考マシトホミ。卷三(三二二)に、遐代爾神左備將往行幸處《トホキヨニカムサビユカムイヂマシドコロ》。卷九(一八〇九)に、永代爾※[手偏+栗]〔標〕將爲跡遐代爾語將繼常《ナガキヨニシルシニセムトトホキヨニカタリツガムト》とある如く、遐をトホシと訓ませて居る。○妹目不見・吾戀 舊訓イモガメミズテ・ワガコフルカモ(代匠記同訓)。童蒙抄ワレコフルカモ。考ワガコフラクモ(略解・新考同訓)。古義イモガメミネバ・アレコヒニケリ。校本萬葉では古義の訓は採つてゐない。
(586) 一首の意は、『遠山に霞たなびき』までは『いや遠に』に續ける序詞で、遠山に霞がかかってはっきりせず遠く遠く見える、その如くに、益々遠のいて妹にも逢はずに居れば、戀しくて爲方が無い。といふのである。
 これは寄v山歌であるから、かういふ序詞を用ゐた。併しその用ゐ方はなかなか旨い。また、『妹が目見ずて』といふやうな云ひ方も、他の例にも既にある如く、『目』に力點を置いたのが面白いのである。新訓で初句をトホヤマノと訓んだのは、被《かがふ》りといふ以上は、トホヤマが主格になるのであるから主格を示すノに改めたのであらうか。この歌のイヤトホニにつき、『これはあはぬほどの、いやとほきにたとふるなり』(代匠記初)。『あはぬ間の月日いやとほくて、戀しく思ふ心のさてもいよいよまさるよとなり』(古義)等の解釋がある。時間的に久しいといふことを、トホシといふ云ひ方に注意すべきである。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸として、初句『とは山田』、結句『わがこふるかも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四二七〕
  是川《うぢがは》の瀬瀬《せせ》のしき浪《なみ》しくしくに妹《いも》が心《こころ》に乘《の》りにけるかも
(587)  是川 瀬瀬敷浪 布布 妹心 乘在鴨
 
 ○是川 舊訓コノカハノ。古寫本コノカハニ(類)。童蒙抄ウヂカハノ。『是川うぢ川の事也。直にうぢ川と讀みて苦しからず。和漢共に古來是と氏通じたり。諸家の記にも氏の字を用ゆる處に、皆是の字を記せる事多し。橘氏是定と云事職原抄にも書かれたり。其本古記實録等に、橘氏公藤原氏公を是公と書たる事の毎度有。然れば確に氏と是と通じたる也。異國の書にもまま是有』(童蒙抄)。『後世哥を設てよむには、上などに其地名なくて此川此山などはいはれざると、次に宇治渡ともあれば、かの氏上を是上とも書に合て、是川は即氏川といふならん。と荷田うしの始の説も有しが、猶いにしへかかる所多くはその地に向ひてよめるからは後の題詠とは違へり。然れば宇治にも何にもせよ。指よし有てこの川といへりとせん』(考)。類聚名義抄にも、和訓栞にも是と氏と相通ずることをいひ、古義の頭注にもそれに及び、略解補正及び訓義辨證にもそれを論じて居る。『是と氏とはもとより通用の文字なれば、今も通じかけるものとして、ウヂガハとよむべき也。其通用の證は、儀禮士昏禮に、惟是〔右○〕三族之不虞とあるを、白虎通宗族に、惟氏〔右○〕三族之不虞と作《カキ》、韓非子難三に、※[がんだれ/龍]※[米+間]氏〔右○〕之子とあるを、論衡非韓に、※[がんだれ/龍]※[米+間]是〔右○〕と作《カキ》、儀禮覲禮に、大史是右とある注に、古文是爲v氏也といひ、またこれを周禮射人の注に、大史氏右と作《カケ》り。又漢書地理志下の注云、古字氏是〔二字右○〕同。後漢書李雲傳の注云、是與v氏古字通といへり。これらにて是氏〔二字右○〕通用(588)を曉るべし』(訓義辨證下卷)。このウヂガハの訓を略解補正に始まるとする校本萬葉は粗略である。
 一首の意は、宇治河の瀬瀬にしきりに立ち續く浪の如く【序詞】しきりに、妹の事が私の心に乘つてしまつた。そして心を離れず忘れることが出來ない。といふのである。『心に乘る』といふ例は、既に云つたが、卷二(一〇〇)に、東人之荷向〓乃荷之緒爾毛妹情爾乘爾家留香聞《アヅマビトノノザキノハコノニノヲニモイモガココロニノリニケルカモ》等がある。『ワガ心ニ妹ガ乘ル』とすれば分かり易い。兎に角一つの使用法である。そしてこの卷二の用例は、稍譬喩的で滑稽があるが、この歌の方は宇治河の浪を序詞として配してあるので却つて自然に聞こえる點もある。上の序はシキ浪からシクシクに連續せしめたのだけれども、單にその音の關係のみでなく、もつと實質的な表象として效果があるやうにおもはれるのである。シクシクは頻りに、絶えず、切にといふ意で、これも音調上でその意味の效果を補助して居るところがある。同じやうな例は、卷十一(二七三五)に、住吉之城師乃浦箕爾布浪之數妹乎見因欲得《スミノエノキシノウラミニシクナミノシバシバイモヲミムヨシモガモ》といふのがある。【追記。第四句、イモ|ハ〔右○〕ココロニと訓む佐伯氏の説は既に記した如くである。】
 
          ○
 
  〔卷十一・二四二八〕
  ちはや人《びと》宇治《うぢ》の渡《わたり》のはやき瀬《せ》に逢《あ》はずありとも後《のち》は我《わ》が妻《つま》
(589)  千早人 宇治度 速瀬 不相有云々 後我※[女+麗]
 
○千早人 チハヤビトで、宇治にかかる枕詞である。チハヤビトは激速《タギハヤ》ブル人といふことで、ウヂといふのも、『平穩ならず、烈しきこころある言』(古義)であるから、卷十三(三二三六)に、血速舊于遲乃渡《チハヤブルウヂノワタリ》。同卷(三二四〇)に、千速振氏渡乃多企都瀬乎《チハヤブルウヂノワタリノタギツセヲ》と續けたのと同じく、やはりウヂに續けた。卷七(一一三九)に、千早人氏川浪乎清可毛《チハヤビトウヂカハナミヲキヨミカモ》の例がある。○速瀬 舊訓ハヤキセニ。新考セヲハヤミ。○後我※[女+麗] 舊訓ノチモワガツマ。童蒙抄ノチハワガツマ(【古義・略解一訓・新考・新訓同訓】)。この訓を校本萬葉は代匠記初稿本だとしてゐるが、契沖全集本には全然その記載を見ない。果して校本萬葉の使用した本にはノチハとあるのであらうか。また新考では、『略解にはノチモとよめり』と言つてゐるが、略解の一訓にノチハがあるのである。私のこの評釋はさういふ考證方面の事は萬事專門家の書物に頼らうとしても、間々以上の如き不安を件ふことを知つてゐなければならぬのである。
 第三句までは序詞で、瀬が速いので容易に渡りかねるごとくに、今は妹に逢ひがたく困難してゐるが、結局後はわが妻だといふのである。
 代匠記精撰本に、『速瀬ノ如クナル人言ニ障ラレテ今コソハアハズトモ後ニモ我妻ニセムトナリ』といひ、古義もそれに從つてゐるが、略解には、『はやくとはさきにと言ふに同じ』とあつて、(590)時の早くに取つてゐる。つまり、一首では、『早く』と、『後は』と相對立せしめたやうに取つたのであらう。併し、此は寄v河歌だから、瀬が速くて渡りがたくといふ意にとる方が無理が無いのではあるまいか。なほ考ふべきであるが、『後我※[女+麗]』といふ句は流石に自然で且つ達して居る。新考では第三句をセヲハヤミと訓んだから、『障る事のあるに譬へたるなり』と解してゐる。此卷(二七一四)に、物部乃八十氏川之急瀬立不得戀毛吾爲鴨《モノノフノヤソウヂガハノハヤキセニタチエヌコヒモアレハスルカモ》。一云。立而毛君者忘金津藻《タチテモキミハワスレカネツモ》がある。
 この歌は、六帖に人麿として、第一二句『ちはやぶるうどの渡りの』、結句『のちもわがつま』とあり、夫木和歌抄によみ人しらずとして、結句『のちもわがつま』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四二九〕
  愛《は》しきやし逢《あ》はぬ子《こ》ゆゑに徒《いたづ》らに是川《うぢがは》の瀬《せ》に裳裾《もすそ》潤《ぬ》らしつ
  早敷哉 不相子故 徒 是川瀬 裳襴潤
 
 結句の『裳襴潤』は、舊訓モノスソヌラス。考ヌラシヌ。略解モノスソヌレヌ(古義同訓)。新考モスソヌラシツ(新訓・全釋同訓)。これは下にひく歌の玉裳沾津《タマモヌラシツ》に據つたものである。
(591) 一首の意は、可哀いくおもうて出掛けたが逢ふことが出來ず、その娘のためにただ徒らに著物を濡らしてしまつた。といふのである。
 この歌も民謠的に出來て居る。そして宇治河を背景として歌はれて居り、其處に宇治河を咏込んだ寄v河戀の歌が數首並んで居るが、同時に出來た歌ではなく、後に類聚したものであらう。一首は平易だが、此は民謠風の歌の特色で、誠に感じ好くすつきりと出來あがつて、常に吟誦に堪ふるものである。初句に、『はしきやし』と云つて、『子ゆゑに』との間に、『逢はぬ』を入れたのなども、壓搾して居るから、輕薄にならずにしまふ上古歌調の好い點を示して居る。
 既に評釋した、卷十一(二三九五)に、行行不相妹故久方天露霜沾在哉《ユケドユケドアハヌイモユヱヒサカタノアメノツユジモニヌレニケルカモ》があり、なほ、同卷(二七〇五)に、愛八師不相君故徒爾此川瀬爾玉裳沾津《ハシキヤシアハヌキミユヱイタヅラニコノカハノセニタマモヌラシツ》とあるのは殆ど此歌に似て居り、『子ゆゑに』が『君ゆゑ』に、『是川《うぢがは》の瀬』が『この川の瀬』になつて居り、『裳襴』が、『玉裳』になつてゐるに過ぎない。さうすれば、古くから、『是川』をばコノカハと謂つただらうといふ想像も付くし、六帖あたりにコノカハとして載つてゐるのをも理解することが出來るやうにおもふ。また、さうすれば結句は必ずしもこの歌の訓に從つて、モスソヌラシツと訓まずに、略解の訓に從つてモノスソヌレヌと訓んだ方が好いとも思つてゐる。また此歌は男の歌であるのに、(二七〇五)の歌は女の歌になつてゐる。約めていへば、この歌の方が一段優つて居るところを考へると、此歌(592)が元で(二七〇五)の方は傳誦の間の變化であらう。民謠風の歌にはこれがあり勝な現象だといふことは他の歌の場合でも立證することが出來る。かういふ特徴については、土屋文明氏の萬葉集年表は細心の用意を拂つて居る。
 同じやうな表現は、卷二(一九四)の、旅宿鴨爲留不相君故《タビネカモスルアハヌキミユエ》は人麿作であり、卷三(三七二)の、立而居而念曾吾爲流不相兒故荷《タチテヰテオモヒゾワガスルアハヌコユヱニ》は赤人の歌で恐らく人麿の影響があり、卷十一(二七三〇)の、木海之名高之浦爾依浪音高鳧不相子故爾《キノウミノナダカノウラニヨスルナミオトタカキカモアハヌコユヱニ》も古風な民遙化歌である。
 此歌は、袖中抄第二に、愛八師《ヲシエヤシ》アハヌ|ニ《コイ》ユヘニイタツラニコノカハノセニモスソヌラ|ヒ《シ歟》ツ。又、早敷哉《ハシキヤシ》アハヌコユヘニイタツラニコノカハノセニモノスソヌラシツとして載つて居る。又、六帖に人麻呂として、下句『この川の瀬に裳の裾濡らす』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三〇〕
  うぢ川《がは》の水泡《みなわ》逆卷《さかま》き行《ゆ》く水《みづ》のこと反《かへ》さずぞ思《おも》ひ始《そ》めてし
  是川 水阿和逆纏 行水 事不反 思始爲
 
(593) ○是川 ウヂガハと訓むことは既に前の歌で云つた。舊訓コノカハノ(【代匠記・考・略解同訓】)。童蒙抄ウヂガハノ。古義コノカハニ。○水阿和逆纏 舊訓ミナアワサカマキ。拾穗抄ミナワサカマキ(代匠記以下同訓】)。○事不反・思始爲 舊訓コトカヘサスッ・オモヒソメテシ(仙覺新點)。古寫本中、コトハカヘラシ・ヲモヒソメテキ(古)。コトカヘサフナ・オモヒソメタリ(細)。コトハカハラシ・オモヒソメテキ(嘉)。拾穗抄コトハカヘラジ・オモヒソメタリ。童蒙抄ゴトモカヘサジ・オモヒソメシハ。考コトハカヘサジ・モヒソメタレバ(略解同訓)。略解一訓(反は變の誤)コトハカハラジ。古義(舊訓に從ひ)コトカヘサズゾ・オモヒソメテシ。新考コトカヘラズゾ・オモヒソメテシ(新訓同訓)。今舊訓に從ふ。
 次に諸解釋を抄すると、『おもひの切なるを、行水のはやきにたとへて、ことかへさすそおもひそめしといへり。ことかへさぬは、思案をめぐらさぬなり』(代匠記初)。『思初めし戀路は、行水の歸らぬ如く何程思止らんとしても思ひ返されぬとの義也。事は如の字の意也。ごとと濁りて讀べき也』(童蒙抄)。『逆まく泡はあとへ返るをその如くはせじといふなり。事は言也』(考)。『一たび思ひ初めて言ひ出でたれば、如何なる事有りとも、言ひ返さじとなり。事は言の意なり。また反は變の誤にて、コトハカハラジならんか』(略解)。『事不反《コトカヘサズ》は、思案をめぐらさず、二念なくと云意なり』(古義)。『事は如なり。例は卷八に、あしひきの山下とよみなく鹿の事〔右△〕ともしかもわが(594)こころづま。卷十に、春さればまづなく鳥のうぐひすの事さきだちて君をしまたむ。とあり。ユク水ノ如ク返ラズゾ思始メテシといへるなり。カヘラズはオモヒカヘス事ナクとなり』(新考)等である。即ち事不反の事は事《こと》(代匠記・古義)。言《こと》(考・略解)。如《ごと》(童蒙抄・新考)と三とほりに解釋があるが、これは『事』説が正しい。言《こと》の説は弱くてこの歌に調和せず、如《ごと》の説の如く句割にして解するのは先づ萬葉の聲調を理解してゐない。それだから、解釋としては代匠記が一番よく、新考は如の説で惡いが、『オモヒカヘス事ナク』と解してゐるのは正しい。
 一首の意は、宇治川の流は急流で勢を以て流れてゆく、その如く(「の」の助詞)に、事は反《かへ》すことは無い。思ひかへすことは無い。中絶することは無い。斷念することは無い。初一念で二念は無いといふことで、第三句までは序詞である。
 この歌は、ミナワサカマキといふ語があるので、『逆』と『反』と照應してゐるやうに解してゐるが、さうではない。其處までは技巧を弄してゐないことを知らねばならぬ。此處は宇治川が直《ただ》に流れる氣勢を云つてゐるのである。この歌は第四句が使ひざまが少し變つてゐるので議論も出たが、右のごとくに解釋すると相當におもしろい歌であり、調子も張つて居り、どこか痛切な響があつて棄てがたい歌である。併し萬葉にはこの程度の歌は非常に多いことを思へば恐るべく敬ふべきではないかと思ふのである。但し、『みなわさかまきゆくみづの』といふ如き句は集中この(595)一例のみであることをも吾等は念頭に置く必要があるだらう。
 この歌は、和歌童蒙抄に、『コノカハノミナワサカマニユクミツノコトハカハラシヲモヒソメテキ』とある。六帖第五『年へていふ』に、『この河のみなわ渦まき行く水のことはかへさで思ひ初めてき』とあり、同じく『あつらふ』に、人麿作として、『三輪川のみなわ逆卷き行く水のこと返すなよ思ひ初めたり』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三一〕
  鴨川《かもがは》の後瀬《のちせ》靜《しづ》けく後《のち》も逢《あ》はむ妹《いも》には我《われ》は今《いま》ならずとも
  鴨川 後瀬靜 後相 妹者我 雖不今
 
 ○後瀬靜 舊訓ノチセシヅケミ。考ノチセシヅカニ。略解ノチセシヅケク。古義ノチセシヅケシ。○我・雖不今 舊訓ワレヨ・ケフナラズトモ。代匠記精ワレハ・イマナラズトモ。略解ワレヨ・イマナラズトモ。古義アレハ・イマナラズトモ。後瀬《のちせ》といふのは、『先浪高き早瀬の有て、さて後の瀬なれば、しづけみとよめり』(代匠記初)。『後瀬ハ下瀬ノ意ナリ。神代紀云。上瀬《カミツセハ》是(レ)太(ハタ)(596)疾《ハヤシ》。下(ツ)瀬(ハ)是(レ)太(ハタ)弱《ユルシトノタマヒテ》便(ハチ)濯《ソソギタマフ》2之中(ノ)瀬(ニ)1也』(代匠記精)といふので大體わかる。
 第二句までは後も逢はむに續けた序詞である。縱ひ今は逢はずとも後に靜かに逢ふことが出來るといふので、後瀬《のちせ》靜《しづ》けくといふいひ方は一種の寫生から來て且つ古樸愛すべく、古代歌謠の枕詞乃至序詞の特色を發揮してゐるのである。調べも、滑に失せずに、『妹には〔右○〕我は〔右○〕いまな〔二字右○〕らずとも』の如く、澁つてゐるやうで却つて味ひを得てゐる點をも顧慮すべきである。なほ、類似した歌には、卷十九(四二七九)に、能登河乃後者相牟之麻之久母別等伊倍婆可奈之久母在香《ノトガハノノチニハアハムシマシクモワカルトイヘバカナシクモアルカ》があり、新後撰集卷十二に、『戀死なむ後に逢ふ瀬のあるべくば猶惜からぬ命ならまし』がある。後世これに類似の句を持つ歌が増したけれども、萬葉の歌に及ばないとおもふが、いかがであらうか。
 この歌は、夫木和歌抄に、よみ人しらずとして、舊訓どほり『のちせしづけみ』、『いもにはわれよけふならずとも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三二〕
  言《こと》に出《い》でて云《い》はばゆゆしみ山川《やまがは》の激《たぎ》つ心《こころ》は塞《せ》きあへにたり
  言出 云忌忌 山川之 當都心 塞耐在
 
(597) タギツココロヲ・セキゾカネタル(舊訓)。タギツココロヲ・セキゾアヘタル。セカヘテゾアル(代匠記初)。セカヘタルカモ。セカヘテゾアル(代匠記精)。タギツココロハ・セキゾカネタル(童蒙抄)。タギツココロヲ・セキアヘテケリ(略解)。セカヘタリケリ(古義)。セキゾアヘタル(新考)。セキアヘニタリ(新訓)。卷十(二〇六五)に、織旗乎公之御衣爾縫將堪可聞《オルハタヲキミガミケシニヌヒアヘムカモ》。卷六(九六二)に、恐毛問賜鴨念不堪國《カシコクモトヒタマフカモオモヒアヘナクニ》。同卷(九九九)に、網手綱乾有沾將堪香聞《アミテツナホセリヌレアヘムカモ》等があり、『堪』をアフと訓んでゐるから、此處の『耐』をもアフと訓ませた。代匠記精撰本で、セカヘタルカモと訓んだのは、卷七(一三八三)に、名毛伎世婆人可知見山川之瀧情乎塞敢而有鴨《ナゲキセバヒトシリヌベミヤマガハノタギツココロヲセカヘタルカモ》といふのがあるから、其を參考したものであらう。それから、卷三(三〇二)に、夜渡月爾競敢六鴨《ヨワタルツキニキホヒアヘムカモ》。卷十九(四二二〇)に、意伊豆久安我未氣太志安倍牟可母《オイヅクアガミケダシアヘムカモ》等と、カモに續けた例が多いからであらう。併し、『塞耐在』だけで、セカヘタルカモと訓むのはどうかと思ふので、新訓のセキアヘニタリに從ふこととした。新考のセキゾアヘタルの訓も緊張してゐてよい訓であるが、アフは係辭無しに動詞に直ぐ續けた例が多いから、略解の訓から導かれた新訓の訓の方がやはり穩當のやうである。
 ユユシは憚《はばか》りある、觸りあるといふので、今でいへば云つてはいけない、大事になるといふ意がある。『歌(ノ)意は、言に打出していはば、忌憚しからむとて、やるせなき心を強ておしとどめて黙止《モダシ》てありけりとなり』(古義)で大體わかる。ただ、『心は塞《せ》きあへにたり』と訓んだから、さう(598)いふ山川の浪の激つやうな亂れ劇しい戀心も塞《せ》かれた、發動を阻まれたと受働的にいひあらはしてゐるのである。
 戀愛的心の動搖をば水の激流に象徴せしめたが、これもまた決して不自然ではない。類想の歌に、前記の卷七(一三八三)のほか、同卷(一三八四)に、水隱爾氣衝餘早川之瀬者立友人二將言八方《ミゴモリニイキヅキアマリハヤカハノセニハタツトモヒトニイハメヤモ》があつて、共に參考になるものである。
 この歌は、六帖に人麿作として、第二句『いはばいみじみ』、下句『たぎつ心をせきぞかねつる』とあり、柿本集に、第二句『いはばゆ|か《(ゆ)》しみ』、下句、舊訓及び六帖と同じである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三三〕
  水《みづ》の上《うへ》に數《かず》書《か》く如《ごと》き吾《わ》が命《いのち》を妹《いも》に逢《あ》はむと祈誓《うけ》ひつるかも
  水上 如數書 吾命 妹相 受日鶴鴨
 
 ○如數書 カズカクゴトキと訓む。數《かず》書《か》くとは、ただ數字を書くのでなく、物の勘定を記すことで、一つ二つでも、一人二人でも、一羽二羽でも、一束二束でも好いのである。カズの例は、(599)卷四(六七二)に、倭文手纒數二毛不有壽持《シヅタマキカズニモアラヌイノチモチ》。卷十二(二九九五)に、疊薦重編數夢西將見《タタミゴモカサネアムカズイメニシミテム》。卷十五(三七二七)に、知里比治能可受爾母安良奴和禮由惠爾於毛比和夫良牟《チリヒヂノカズニモアラヌワレユヱニオモヒワブラム》。卷二十(四四六八)に、宇都世美波加受奈吉身奈利《ウツセミハカズナキミナリ》などがある。○吾命 舊訓ワガイノチヲ。童蒙抄ワガイノチ(【考・略解・新考同訓】)。古義ワガイノチヲ(新訓・全釋同訓)。○受日鶴鴨 ウケヒツルカモで、ウケヒは心を籠めて神に誓を立てることで、神代紀上卷に、『夫誓約之中』とある自注に、『此云2宇氣譬能美難箇1』とあるし、また『祈狩』(于氣比餓利《ウケヒガリ》)といふ語も出來るに至つた。狩して獲た獣で吉凶を卜するのを祈狩といふのである。靈異記に祈祷(有介比《ウケヒ》)と見え、その他祈の字を當てて居るが、ただ祈るのみではない。萬葉の例は、卷四(七六七)に、都路乎遠哉妹之比來者得飼飯而雖宿夢爾不所見來《ミヤコヂヲトホミヤイモガコノゴロハウケヒテヌレドイメニミエコヌ》。卷十一(二四七九)に、夢耳受日度年經乍《イメノミヲウケヒワタリテトシハヘニツツ》(後段に評釋してある)。同卷(二五八九)に、不相思公者在良思黒玉夢不見受旱宿跡《アヒオモハズキミハアルラシヌバタマノイメニモミエズウケヒテヌレド》等がある。
 一首の意は、水の上に幾つ幾つと事物の勘定を書いても直ぐ消えて役に立たない、そのやうに果敢なく頼りない自分の命をも、戀しい妹《いも》に逢ひたいために、逢ふまでは命を保ちたいものだと、神樣に誓願を立てたのであつた。といふので、寄v河戀である。『歌(ノ)意は、水(ノ)上に、物の數を、一(ツ)二(ツ)幾箇《イクツ》と書付る如く、はかなくもろく、たのみになりがたき吾(ガ)命なれど、妹にあはむ爲にとて、長からむことを祈りて、神に誓を立つる哉となり』(古義)。(600)涅槃經に、是身無常、念念不v住、猶如2電光暴水幻炎1、亦如(シ)2畫(クニ)v水(ニ)隨(ツテ)畫(ケバ)隨(ツテ)合(フガ)1とあるのを代匠記が引いて、諸書が其に傚ひ、此歌はこの佛教の經典に本づいて出來たやうに解釋したもの(略解)もあるけれども、此は安易に斯る結論をなすことは避けたい。なぜかといふに、水上に書いたり畫いたりするといふ考は、如何なる時代の、如何なる種族の人の心にも湧き得る過程で、斯る簡單な過程が一々外國文化の文獻に頼らねばならぬ筈はない。阿弗利加あたりの土人の風習、歌謠等の中に我國の風習・歌謠等に非常に似たものがあり、其を吾々は發聲映畫によつて明さまに經驗することが出來るが、其を一々關聯せしめて學者ぶるのは大きい間違で、これは、人麿の、『いさよふ浪のゆくへ知らずも』をば支那模倣だなどと斷定するのと同じ徑路に屬するものである。伊勢物語及び古今集第十一に、『行く水に數かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり』とあるのは、この歌の模倣である。この歌につき眞淵も、『伊勢物語に此言をとりていへる所に、法華脛の文を擧ていへるはつけ添也、彼是思ひていひし言にあらず、數書といふからは一二の數を書てふ誰かいはざらん』(考)と言つてゐる。
 この歌は反省的な點に於て、また題咏的な傾向になりつつある點に於て、『個』の性質を脱却しつつあるが、それでもなかなか澁く力強いものが未だ殘留してゐるのが、古今集の歌と比較すればよく分かる。萬葉集にあつては左程でもない歌が、古今集の歌と比較するに及んでその光を増す(601)思がするのである。
 この歌は八雲御抄に、『万水の上にかすかことわかいのちいもにあはんと|うけひ《受日》つるかな』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三四〕
  荒磯《ありそ》越《こ》え外《ほか》ゆく波《なみ》の外《ほか》ごころ吾《われ》は思《おも》はじ戀《こ》ひて死《し》ぬとも
  荒磯越 外往波乃 外心 吾者不思 戀而死鞆
 
 ○荒礒越・外往波乃・外心 舊訓アライソコエ・ホカユクナミノ・ホカゴコロ。代匠記初書入【校本萬葉】アリソコシ・ホカユクナミノ・ホカゴコロ。略解アリソコエ・ホカユクナミノ・ホカゴコロ。(【古義・新考・新訓同訓】)。外心《ほかごころ》といふのは、異心、異情、他心で、ケシキココロに當る。卷十五(三五八八)に、異情乎安我毛波奈久爾《ケシキココロヲアガモハナクニ》とあるのを參考とすべく、またホカゴコロの例は集中にほかに無いやうだから珍重していい。
 一首の意は、荒磯に浪が打寄せ、磯を越えあふれて外《ほか》まで流れる光景があるが、その外心《ほかごころ》、つ(602)まり外《ほか》に心を移すやうなあだし心は持ちませぬ。縱ひ戀して死んでも。といふのであつて、一言にいふと、縱ひ死んでも他心《あだしごころ》はありませんといふのである。
 この初二句の序詞は、ほかにも隨分寫生から來たいい序詞があるが、この序詞も空想から來ずに寫生してゐるから、象徴詩的な複雜性を有つやうになつて居る。ホカ〔二字右○〕ユク−ホカ〔二字右○〕ゴコロといふ音の關聯のみでなく、もつと意味の内容を織交ぜて複雜にし且つ新鮮にして居るのである。
 萬葉集の歌は、一寸したかういふのでも棄てがたいといふのは、作歌態度は實質的、寫生的だからである。序の詞が皆實質的で空想で無いといふことは感歎すべきものである。なほ、類想の歌は、卷十一(二四五一)に、天雲依相遠雖不相異手枕吾纏哉《アマグモノヨリアヒトホミアハズトモコトタマクラフワレマカメヤモ》があり、後段で評釋する筈である。なほ、古今集東歌に、『君をおきてあだし心をわがもたば末の松山浪も越えなむ』があり、『あだし心』といふ語があるが、此語は萬葉には無いやうである。もつとも、二四五一の『異手枕』をアダタマクラとも訓んでゐるから、類似の語があつたのかも知れないが、アダゴコロの語は古今集以後用例が増したものと看做していいであらう。
 此歌は、拾遺集戀に人麿作として載り、初句『あらいその』、結句『戀ひはしぬとも』となつてゐる。又柿本集にも拾遺集と同樣に訓んで載つてゐる。
 
(603)          ○
 
  〔卷十一・二四三五〕
  淡海《あふみ》の海《み》おきつ白波《しらなみ》知《し》らねども妹《いも》がりと云《い》はば七日《なぬか》越《こ》え來《こ》む
  淡海海 奧白波 雖不知 妹所云 七日越來
 
 ○淡海海 舊訓アフミノウミ(【代匠記・童蒙抄同訓】)。考アフミノミ(【略解・古義同訓】)。○雖不知 舊訓シラズトモ(【童蒙抄・新考同訓】)。代匠記初シラネドモ(【略解・古義・新訓同訓】)。『知らぬ處なり共、妹があり處と聞けば、幾日をも續けて越え來んと也』(童蒙抄)。『今按シラネドモト讀ベキ歟。イカニアラカラムモ知ラネドモナリ』(代匠記精)。『上はシラネドモと言はん序なり。その所は知らねども』(略解)。此處は、シラ〔二字右○〕ナミシラ〔二字右○〕ネと音で續けたまでで、卷三(三一三)の、見吉野之瀧乃白浪雖不知《ミヨシヌノタギノシラナミシラネドモ》と同じ技巧である。代匠記の解はどうか知らん。○妹所云・七日越來 舊訓イモガリトイハバ・ナヌカコエコム(【代匠記・童蒙抄・略解同訓】)。略解宣長訓、七日は直の誤で、イモガリトイヘバ・タダニコエキヌ(古義同訓)。新訓イモガイヘラク・ナヌカコエコヨ。今、舊訓に從つた。
 一首の意は、〔淡海《あふみ》の海に奧つ白波が立つて居る【序詞】〕。妹《いも》の在處《ありか》は何處《いづこ》だと明瞭には分からぬが、戀しい妹の處へ行くのだといふのなら、七日のあひだも湖山《うみやま》を越えて來よう。といふのである。
(604) この歌は、上半に序詞を用ゐ、中味は極めて簡單であるが、その簡淨ないひまはしの中に眞情こもり、民謠的歌としては素朴蒼古でめでたいものの一つである。民謠といへば動ともすれば細かく氣の利いた風に浮動しがちのところを、しつとりと抑へて居る點は上代風の賜物で、可憐、愛すべき歌である。これは、題にすれば寄v海戀だが、これは恐らく題咏の歌ではないであらう。七日といつたのは、卷十(一九一七)に、七日四零者七夜不來哉《ナヌカシフラバナナヨコジトヤ》とある如く、幾日《いくか》でもといふ意である。
 古義では、略解の宣長訓に從つて、『歌(ノ)意は、未だ道をふみ知らねども妹が許といへば、心すすみて、とにかくたどる間もなく、山をも坂をも直越に越來りぬるよとなり』(古義)と解して居る。この解でも味はへないことはなく、卷十四(三三五六)に、不盡能禰乃伊夜等保奈我伎夜麻治乎毛伊母我理登倍婆氣爾餘婆受吉奴《フジノネノイヤトホナガキヤマヂヲモイモガリトヘバケニヨバズキヌ》といふのもあるくらゐであるが、舊訓の儘の方がもつと古風で味ひがある。新訓の、『妹が云へらく七日越え來よ』は、面白さうであるが、聲調が分裂してしまつて、歌の價値が一段と下ることとなる。前の旋頭歌の中に、『玉の如照りたる君を内へと白《まを》せ』(二三五二)といふのがあつたが、短歌の場合にはさう簡單には行かない。
 結句を『越え來む』と訓んだが、『越え行かむ』といふのと同じ氣特に解してよく、上代には、『來』と『行』と餘りにこまかく分化せしめずに使つた例もあるのである。例へば、卷一(七〇)に、(605)倭爾者鳴而歟來良武《ヤマトニハナキテカクラム》(來らむ)呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流《ヨブコドリキサノナカヤマヨビゾコユナル》がある。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として載り、『あふみの海に沖津白浪しらずとも妹かりとはゝなぬかこえなむ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三六〕
  大船《おほふね》の香取《かとり》の海《うみ》に碇《いかり》おろし如何《いか》なる人《ひと》か物《もの》念《おも》はざらむ
  大船 香取悔 慍下 何有人 物不念有
 
 『香取海《かとりのうみ》』は、代匠記精撰本に、『香取ハ近江ニモ下總ニモアレド、此前後淡海海トヨメル中ニ有レバ、第七ニ高島之香取乃浦《タカシマノカトリノウラ》トヨメルト同ジク近江ナリ。仙覺モ此義ナリ』といふので大體近江と考へてもいいが、これも序歌の形式に用ゐ、民謠的であるから、下總の香取の海としても毫も差支ないとも思ふけれども、やはり近江の一處とした方がよい。卷七(一一七二)に、何處可舟乘爲家牟高島之香取乃浦從己藝出來船《イヅクニカフナノリシケムタカシマノカトリノウラユコギデクルフネ》とある『香取の浦』と同處であらう。和名鈔に、高嶋郡高島郷、太加之末とある處で、卷三(二七五)の、何處吾將宿高島乃勝野原爾此日暮者《イヅクニカワレハヤドラムタカシマノカチヌノハラニコノヒクレナバ》。卷七(一一七(606)一)の、大御舟竟而佐守布高島之三尾勝野之奈伎佐思所念《オホミフネハテテサモラフタカシマノミヲノカチヌノナギサシオモホユ》等、皆同處と見てよい。
 一首の意は、こんなに自分は戀に苦しんで居るけれども世の中の人は誰でも苦しまないものはあるまい。といつて自ら慰める氣特の歌である。
 一首の聲調は大きく重厚で、上の句の序もこせこせせず耳觸りしないやうに音を運んでゐるところ、巧を見せずに巧な歌である。古義で結句をモノモハザラムと七音に訓んだが、これは字餘り八音の方がいいだらう。かういふ歌になると人麿作とも直ぐ斷定することが出來ず、普通の讀人不知とせば歌が上等であるから、當時の人々は總じて力量があつたとも解すべく、或は人麿がかういふ一般向の歌を作つたのだとも解し得るのである。人麿作だとせば、人麿はその邊を往反してゐたことになり、人麿生活史上の參考にすべき歌である。『慍』は『碇』の借字で、人麿歌集に借字のあることは、總論のところでも論じて置いた。この下(二四四〇)に、近江海奧滂船重下藏公之事待吾序《アフミノミオキコグフネニイカリオロシフサメテキミガコトマツワレゾ》。(二七三八)に、大船乃絶多經海爾重石下何如爲鴨吾戀將止《オホフネノタユタフウミニイカリオロシイカニセバカモワガコヒヤマム》があり、類似の歌と看做すことが出來る。さうすれば、人麿歌集以外にもかういふ歌が收録せられてゐたことが分かるのである。
 この歌は夫木和歌抄に採られてゐる。六帖では今引いた類似歌(二七三八)の方を採り、第四句
 
(607)          ○
 
  〔卷十一・二四三七〕
  沖《おき》つ藻《も》を隱《かく》さふ浪《なみ》の五百重浪《いほへなみ》千重《ちへ》しくしくに戀《こ》ひわたるかも
  奥藻 隱障浪 五百重浪 千重敷敷 戀度鴨
 
 ○千重敷敷 舊訓チヘシキシキニ。代匠記初書入【校本萬葉】チヘニシクシク。童蒙抄チヘシクシクニ(【考・略解・新考・新訓・全釋同訓】)。
 一首の意は、〔奧つ藻を隱さふ浪の五百重浪《いほへなみ》【序詞】〕千重《ちへ》にも繁く戀をし續けて居る。實に絶えまなく深く籠つて、といふ意もあるだらう。
 この歌のおもしろいのは、上の序詞で、これは單に、『千重《ちへ》しくしく』と言ふためであるけれども、よく吟味すると、『沖つ藻を隱さふ浪』といふ如きでも誠に手の入つたもので、寫生から來て、單純化も能く行はれ、その神經の細かいところは寧ろ近代的であつて近代人の容易に云ひ得ない表はし方である。浪が幾重にも幾重にも立ち寄せて來て、生えて居る海藻が見えなくなる趣だから、その寫象もそれに伴ふ情調もなかなか複雜なので現代の吾等でも到底及び難いところを遂行(608)して居るから、吾等はその點を學ぶべきである。卷四(五六八)に、三埼廻之荒礒爾縁五百重浪立毛居毛我念流吉美《ミサキミノアリソニヨスルイホヘナミタチテモヰテモワガモヘルキミ》は似た歌で、それは天平二年大伴旅人が京に還る時に、筑前掾門部連石足が餞した歌である。卷六(九三一)に、鯨魚取濱邊乎清三打靡生玉藻爾朝名寸二千重浪縁夕菜寸二五百重波因邊津浪之益敷布爾月二異二日日雖見今耳二秋足目八方四良名美乃五十開囘有住吉能濱《イサナトリハマベヲキヨミウチナビキオフルタマモニアサナギニチヘナミヨセユフナギニイホヘナミヨルヘツナミノイヤシクシクニツキニケニヒビニミルトモイマノミニアキタラメヤモシラナミノイサキメグレルスミノエノハマ》といふのは、藻と浪との關係を敍して居て參考となる。して見れば、『沖つ藻』と云つても、そんなに深い處の沖合ではなく、やはり觀察の對象となり得る、岸近いところからの寫生に本づいたに相違ない。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三八〕
 人言《ひとごと》は暫《しま》しぞ吾妹《わぎも》繩手《つなで》引《ひ》く海《うみ》ゆ益《まさ》りて深《ふか》くしぞ念《おも》ふ
  人事 暫吾妹 繩手引 從海益 深念
 
 ○人事・暫吾妹 舊訓ヒトゴトハ・シバラクワギモ(【代匠記・童蒙抄・考同訓】)。略解ヒトゴトハ・シマシゾワギモ。同宣長訓、暫は繁の誤で、ヒトゴトノ・シゲケキワギモ(古義從之)或はシゲキワギモコ。(609)新考ヒトゴトヲ・シゲミトワギモ或はシゲミトイモヲ。○從海益・深念 舊訓ウミヨリマシテ・フカクシゾオモフ。古義ウミユマサリテ。童蒙抄フカクゾオモフ。考フカクシオモホユ。古義フカクシゾモフ。新訓フカクシオモフヲ。全釋フカクシゾオモフ。
 一首の意は、二人の仲はいろいろと人の噂がうるさいが、それも暫らくのうちだ、戀人よ、それよりも私は綱手を引いて船漕ぐ海にも増して深くお前のことを思つて居るのだ、だからさう氣を揉まずに居て呉れ。といふのである。
 この歌は對咏歌として、對話風に咏んでゐるから、幾らか小きざみになつて居る。それにしても、第二句に、『暫しぞ〔右○〕』と云つたから、新訓の訓のやうに結句を『念ふを〔右○〕』と訓むとせば、『を』がうるさいやうでもある。そこで、舊訓どほりに、『深くしぞ念ふ』と据ゑてしまつた方が却つていいやうに思つたのである。
 綱手《ツナデ》の用例は、萬葉では、歌ではこの一首のみ。あとは卷十八(四〇六一・四〇六二)の左注に、『右件歌者御船以2綱手1泝v江遊宴之日作也。傳誦之人田邊史福麿是也』とある中にある。古今集以下には、『みちのくはいづくはあれど鹽竈の浦こぐ舟の綱手悲しも』をはじめ用例は多い。綱《ツナ》の用例ならば、萬葉にも稍多く、卷十四(三三八〇)に、佐吉多萬能津爾乎流布禰乃可是乎伊多美都奈波多由登毛《サキタマノツニヲルフネノカゼヲイタミツナハタユトモ》(【綱は絶ゆとも】)許登奈多延曾禰《コトナラエソネ》。卷十五(三六五六)に、安伎波疑爾爾保敝流和我母奴禮奴等(610)母伎美我美布禰能都奈之等理弖婆《アキハギニニホヘルワガモヌレヌトモキミガミフネノツナシトリテバ》(【綱し取りてば】)等がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三九〕
  淡海《あふみ》の海《み》おきつ島山《しまやま》奥《おく》まけて吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》に言《こと》の繁《しげ》けく
  淡海 奧島山 奥儲 吾念妹 事繁
 
 ○淡海 舊訓アフミノウミ。代匠記精。海の一字脱か又はアフミノか。童蒙抄。海の一字略か又はアハウミノ。考。海の一字脱ならばアフミノミ。○奧儲・吾念妹・事繁 舊訓オキマケテ・ワガオモフイモニ・コトノシゲケム。考オクマケテ(諸書從之)。代匠記初書入【校本萬葉】ワガモフイモニ(新訓同訓)。童蒙抄ワガモフイモガ(【略解・古義同訓、但し古義アガ】)。新考ワガモフイモヲ。童蒙抄コトゾシゲレル。考コトノシゲシモ。略解コトノシゲケク(古義以下同訓)。奧島《おきつしま》は湖の中の島で。延喜式。近江國蒲生郡奧津島神社【名神大】とある今の沖の島である。神社は。新抄格勅符に。大同元年神封一戸を充てられ。三代實録に。貞觀元年授位の事がある。オクマケテは。オクマヘテといふのに同じく。奥深く、心深く、大切に藏すといふこととなる。マケテは、卷四(七四四)に、暮去者屋戸開設而(611)吾將待夢爾相見二將來云比登乎《ユフサレバヤドアケマケテワレマタムイメニアヒミニコムトフヒトヲ》。卷七(一二七八)に、衣裁吾妹裏儲吾爲裁者《キヌタツワギモウラマケテワガタメタタバ》などのマケテであらうか。卷十一(二七二八)の、淡海之海奥津嶋山奥間經而我念妹之言繁苦《アフミノミオキツシマヤマオクマヘテワガモフイモガコトノシゲケク》は殆ど全くこの歌と同じであるが。此歌(二四三九)の方が原歌のやうに思へる。なほ、卷六(一〇二四)に。長門有奧津借島奧眞經而吾念君者千歳爾毛我毛《ナガトナルオキツカリシマオクマヘテワガモフキミハチトセニモガモ》。同(一〇二五)に。奧眞經而吾乎念流吾背子者千年五百歳有巨勢奴香閲《オクマヘテワレヲオモヘルワガセコハチトセイホトセアリコセヌカモ》等があつて。オクマヘテの用法を知ることが出來る。
 一首の意は。〔淡海《あふみみ》奧《おき》つ島山《しまやま》【序詞】〕奧ふかく心にしまふやうにして。心から愛して居る自分の女のことを彼此人が云つて喧しいことである。といふのである。
 寄v海戀で中味は平凡だが。奧まけてといふやうな語があつて。詮議すれば種々學ぶべき點がある。
 この歌は。夫木和歌抄に。山上憶良作。第三句以下『おきまけてわか思ふ妹かことのしけけん』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四〇〕
  近江《あふみ》の海《み》おきこぐ船《ふね》に碇《いかり》おろし藏《をさ》めて君《きみ》が言《こと》待《ま》つ吾《われ》ぞ
(612)  近江海 奧滂船 重下 藏公之 事待吾序
 
 ○藏公之 舊訓カクレテキミガ。古寫本中シノビテと訓んだのがあるので(文・西・温・京・矢)、略解補正でシノビテと訓んだ。童蒙抄カクシテ。考一訓シタニモ。新考マモリテ。新訓ヲサメテ。卷九(一七一〇)に、苅將藏倉無之濱《カリテヲサメムクラナシノハマ》。卷十六(三八一六)に、家爾有之櫃爾※[金+巣]刺藏而師《イヘニアリシヒツニザウサシヲサメテシ》といふ例がある。其上の處まで序詞だから、オ〔右○〕ロシ――ヲ〔右○〕サメテの似た音で續けたものかも知れない。
 一首の意は、〔近江の海の、沖を榜ぐ船に碇をおろし、【序詞】〕心を藏《をさ》めて、辛抱して、心靜かに、あなたの返事を待つて居ますぞ。といふのである。
 これも寄v海戀で、一首が民謠的色調を帶びて居る。それから、『碇おろし』までは音調上の序でもあらうが、單に音のみの連續でなく、意味合の上からも不即不離の裏に連續せしめて居る。その具合は、前の歌の、『碇おろしいかなる人か物念はざらむ』(二四三六)などの序は單に音のみで續けたやうだが、この方はもつと意味が入つて來て居る。
 ヲサメテといふ語もなかなか好い語であるから、之を現代的に生かす場合にはどうなるだらうかといふことに留意して學ぶべきである。また結句の、ワレゾといふゾで止めたのは強めたほかに何かを促してゐるのであらう。
 この歌の、『近江海』に就いて、眞淵は、『寄物陳思てふ中に、近江海と書たり。是は、和銅六(613)年五月詔して、諸國郡郷の名好字を用よと有し時より、淡海を近江に改めしなり。人万呂は和銅元年の比、藤原宮の時身まかりしかば、その後の人の筆なる事是にて明らけし』(【柿本朝臣人麻呂歌集之歌考序】)と云つた。この材料が根據となつて、人麿歌集は人麿役後、後人の手によつて恣に作られたやうな感じをも起させる趣の説も出たのであるが、近時石井庄司氏の研究によつて、同じ人麿歌集でも、『近江』と書いたのは唯この一つのみで、他は、『淡海縣』(卷七。一二八七)。『淡海海』(卷十一。二四三五)。『淡海』(同卷。二四三九)。『淡海海』(同卷。二四四五)とある如く、いづれも、『淡海』である。そこで石井氏は、『たとへ和銅六年五月から公に近江といふ字面が用ひられたにしても、それより以前にも私には近江といふ字面が用ひられてゐたかも知れない』。『まして人麻呂集中大部分淡海とあり、僅かに一つの例しかないのであるから、此の文字使用法の點から云つても、人麻呂集を以て和銅六年以後と斷定することが出來ないばかりでなく、それよりももつと古く飛鳥藤原時代にまで溯つても何等不合理なことではないと思ふ』(人麻呂集考)と結論したのに私も從ふのである。高市連黒人※[羈の馬が奇]旅歌八首中、礒前榜手回行者近江海八十之湊爾鵠佐波二鳴《イソノサキコギタミユケバアフミノミヤソノミナトニタヅサハニナク》(卷三。二七三)にも、『近江』と書してある。歌以外の詞書には、中大兄近江宮御宇天皇とか、柿本朝臣人麻呂從2近江國1上來等とあるのは和銅六年以後の書記だらうと推論することが出來るとも思ふが、黒人の歌は、年表では大寶二年の箇處に配列してゐるから、或は編輯時の資料に既に、『近江海』と記(614)してあつたものであらうか。なほ考ふべきである。
 此歌は、六帖に載り、『近江の海沖こぐ船の碇おろし忍びし君が言まつ我を』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四一〕
  隱沼《こもりぬ》の下《した》ゆ戀《こ》ふれはすべを無《な》み妹《いも》が名《な》告《の》りつ忌《い》むべきものを
  隱沼 從裏戀者 無乏 妹名告 忌物矣
 
 ○隱沼・從裏戀者 舊訓カクレヌノ・シタニコフレバ。代匠記精コモリヌノ・シタユコフレバ(諸書從之)。○無乏 舊訓スベヲナミ。考で乏は爲の誤としたが、此儘でいいことを既に云つた。 ○妹名告・忌物矣 舊訓イモガナツゲツ・ユユシキモノヲ。代匠記精イモガナノリツ・イムベキモノヲ(【略解・古義・新訓等從之】)。童蒙抄イモガナノラン・イミジキモノヲ。考イモガナノリツ・ユユシキモノヲ(新考同訓)。
 一首の意は、〔隱沼《こもりぬの》〕心の下に奥深く潜めて、ただ戀しく思つてゐるばかりでは、苦しくて何とも致方がないので、つひに妹《いも》の名をば云つてしまつた。妹の名を云つてはいけなかつたのだの(615)に、しまつたことをした。といふのである。
 これは寄沼戀であらう。この歌も分かりよく、結句の、『忌むべきものを』も、感情が籠つてゐていい。卷十一(二七一九)に、隱沼乃下爾戀者飽不足人爾語都可忌物乎《コモリヌノシタニコフレバアキタラズヒトニカタリツイムベキモノヲ》といふのがあつて、この歌に非常に好く似てゐるが、能く味ふと、この歌の方が餘程旨く、(二七一九)の方は、分かりよく通俗化してゐる點から推してこの歌(二四四一)の方が原歌だらうといふことが分かる。特に、『下《した》ゆ』といつたのは、『戀ふる』につづくので、心が動いて行くさまであるから、ユを用ゐたのである。それを下爾《シタニ》としたのではつまらぬのである。『すべを無み』といふから痛切だが、『飽き足らず』では極めて通俗である。この歌が原歌だとせば、人麿歌集の歌は、縱ひ全部人麿の作でなくとも、古く既に相當に重んぜられてゐたといふことが分かる。なほ、卷十二(二九四七)に、念西餘西鹿齒爲便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾《オモフニシアマリニシカバスベヲナミワレハイヒテキイムベキモノヲ》といふのがある。
 和歌童蒙抄には(二七一九)の、『カクレヌノシタニコフレハアキタラスヒトニカタリツイムヘキモノヲ』といふのを載せてゐる。(校本萬葉ではこれを(二七一九)の處に載せずにこの(二四四一)の處に出してゐる)。六帖もやはり『かくれぬの下に戀ふれば飽たらず人に語りついむてふものを』と(二七一九)の方を採つてゐる。
 
(616)          ○
 
  〔卷十一・二四四二〕
  大地《おほつち》も採《と》らば盡《つ》きめど世《よ》の中《なか》に盡《つ》きせぬものは戀《こひ》にしありけり
  大土 採雖盡 世中 盡不得物 戀在
 
 ○採雖盡 舊訓トレバツクレド(【代匠記・考・略解・新考同訓】)。古義トラバツキメド(新訓同訓)。○盡不得物・戀在 舊訓ツキセヌモノハ・コヒニザリケリ。代匠記精ツクシエヌモノハ・コヒニザリケル。童蒙抄ツキセヌモノハ・コヒニゾアリケル。考ツキセヌモノハ・コヒニシアリケリ(【略解・新考・新訓同訓】)。古義ツキエヌモノハ・コヒニシアリケリ。
 一首の意は、この大地《だいち》の土《つち》も、採らば盡きる期はあらうけれども、この世の中に盡きないものは、噫、戀といふものであつた。といふのである。
 この歌は、趣く概括的に歌はれてゐるが、單に思想歌といふやうなものでなく、個人の實感によつて咏まれた、『個』の饗があるために、この一首に強味を與へて居る。代匠記には、最勝王經(【金光明最勝王經】)如來壽量品偈を引いてゐる。『一切(ノ)大地(ノ)土(ハ)可v知2其(ノ)塵數(ヲ)1、無(キハ)v有(ルコト)2能(ク)算知(スルコト)1釋迦(ノ)之壽量(ナリ)。迷悟異ナレド此意ト同ジ。盡不得物、此ヲツキセヌモノハト點ゼルハ叶ハズ。ツクシエヌモノハ(617)ト讀ベシ』と云つてゐる。代匠記では、この佛典のことが眼中にあるものだから、ツクシエヌモノハと訓まうとした。併し、ここはツキセヌモノハと素直に悟りめかずに訓むべきところである。また、私見によれば、この歌は毫も佛典などの影響を必要として居ない。もはや當時の歌人の力量を以つてして、そんな補助は要らなかつたのみならず、これは戀歌である。戀歌は縱ひ寄v土戀で、やや題咏的だといつても、それでも作らうとする時には戀の實驗を基本として居る。それを見免してはならぬのである。
 なほ、『大地』の用例は、卷十三(三三四四)に、大地乎太《オホツチヲホノ》〔火〕穗跡立而居而去方毛不知《ホトフミタチテヰテユクヘモシラズ》がある。法華經見寶塔品第十一に、若(シ)以2大地〔二字右○〕1置2足(ノ)甲《ツメ》上1昇2於梵天1亦未爲誰云々。金光明最勝王經に、充滿於大地〔二字右○〕云々。大品般若經に、大地〔二字右○〕六種震動云々。見大地〔二字右○〕株※[木+兀]棘荊山陵溝坑穢惡之處云々。若動大地〔二字右○〕若放光明云々とあるし、支那文學では、商子に、乘2其衰1大地〔二字右○〕侵削云々。温子昇の韓陵山寺碑中に、高天銷2於猛炭1大地〔二字右○〕淪2於積水1云々。そこで、この歌の、『大地も』云々は大陸文學的發想と解せられる傾向があつたのだが、日本語でも、大王、大埼、大坂、大藏、大島、大海、大舟、大原、大野、大路、大橋、大沼、大鷹、大殿、大瀧等の用例があるし、卷十三の歌の、『大地を炎と踏み』は、佛典の影響らしくもあるが、よく味ふと、上に、『大舟のおもひ憑みて』があつて、それと照應してゐるのである。また、後に出て來る、『ぬば玉の間あけつつ貫ける緒も』云々(618)の歌などはなかなか細かい發想であるから、『大地も』云々の發想ぐらゐの程度を以て直ぐ大陸文學の影響だとは云ひ難いのである。
 此歌は、和歌童蒙抄に、『オホツチモトレハツクテフヨノナカニツキセヌモノハコヒニソアリケル』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四三〕
 
  隱處《こもりど》の澤泉《さはいづみ》なる石根《いはね》をも通《とほ》してぞ念《おも》ふ吾《わ》が戀《こ》ふらくは
  隱處 澤泉在 石根 通念 吾戀者
 
 初句舊訓コモリヅノと訓む。宣長は處は泉の誤ならむといひ、處ならばドと訓むのが普通だと云つて居る。第四句は舊訓トホシテオモフ。古寫本イハノネモカヨヒテオモフ(細)と訓んだのもあり、考ではカヨヒテゾモフと訓み、略解ではトホシテゾオモフと訓んだ。澤泉は澤に湧く泉で、『こもりづはかくれたる所なり。かくれたる澤に水のわき出るいはねなり』(代匠記初)で大體わかる。谿澤に湧き出る泉が巖を通して出てくるごとくにわが妹を念ふ一念もまた徹してゐすぐ(619)らゐの意である。
 上句の序詞は實際の自然寫生でなかなかいい。『澤泉』といふ語も、造語法の點からいへば、非常に爲めになる例である。かういふ造語が多いので萬葉の歌はいつも新鮮であり、古今集以後は、語彙が却つて貧弱になつて衰へて行つたと解釋していいだらう。ここに『澤』の入つた歌を參考のために書くならば、卷十四(三四六二)に、安志比奇乃夜末佐波妣登乃《アシヒキノヤマサハビトノ》(山澤人の)比登佐波爾《ヒトサハニ》。卷十(一八三九)に、爲君山田之澤惠具採跡雪消之水爾裳裾所沾《キミガタメヤマタノサハニヱグツムトユキゲノミヅニモノスソヌレヌ》。卷十一(二六八〇)に、河千鳥住澤上爾立霧之《カハチドリスムサハノヘニタツキリノ》等がある。
 此卷(二七九四)に、隱津之澤立見爾有石根從毛達而念君爾相卷者《コモリヅノサハタヅミナルイハネユモトホシテオモフキミニアハマクハ》があるが、この人麿歌集の歌と殆ど同一である。恐らく人麿歌集の歌の異傳であらうが、却つて惡くなつてゐるのに注意せねばならぬ。特に、『澤いづみ』が、『澤たづみ』になつてゐる如きは變化の著しいことを示してゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四四〕
  白檀弓《しらまゆみ》石邊《いそべ》の山《やま》の常磐《ときは》なる命《いのち》なれやも戀《こ》ひつつ居《を》らむ
(620)  白檀 石邊山 常石有 命哉 戀乍居
 
 ○白檀・石邊山 シラマユミ・イソベノヤマノと訓む。白檀《しらまゆみ》は此處では射《い》に懸け、同音の石《いそ》に續けた。この枕詞は檀木《まゆみのき》で作つた弓で白眞弓《しらまゆみ》の名を得た。そして、白檀弓今春山爾《シラマユミイマハルヤマニ》(卷十。一九二三)。白檀斐太乃細江之《シラマユミヒタノホソエノ》(卷十二。三〇九二)等で、ハル或はヒクのヒに懸けた。石邊山《いそべのやま》は、『石邊山ハ近江ノ神崎《カムサキ》郡ニアル由彼國ノ老申シキ。前後ニ近江ヲヨメル歌多ケレバ然ルベキニヤ。佐々木承禎ノ陪臣ニ磯部某ト聞エシモ彼國ノ住人ニテ此|石邊《イソヘ》ヲ以テ氏トセルニヤ。山ハ何レノ山モ動ナキ中ニ分テ石邊山ト云名ニヨリテ常石有トハツヅケタリ』(代匠記精)とある。○命哉・戀乍居 イノチナレヤモ・コヒツツヲラムと訓む。舊訓イノチナラバヤ。童蒙抄イノチヲモガナ。考イノチモガモト。略解イノチナレヤモ(古義同訓)。新考イノチニモガモ。『四五の間にサラバ心ナガクといふことを插みて聞くべし』(新考)。此處のヤモは反語で、イノチナラムヤハの意に解すべきであつて、卷十八(四一一八)に、年月經禮婆古非之家禮夜母《トシツキフレバコヒシケレヤモ》があり、その他、卷十九(四一六四)に、於保呂可爾情盡而念良牟其子奈禮夜母《オホロカニココロツクシテオモフラムソノコナレヤモ》があり、古爾斯迦米夜母《コニシカメヤモ》。和禮故飛米夜母《ワレコヒメヤモ》。安波射良米也母《アハザラメヤモ》の如き普通の反語のヤモは人の普く知るところである。
 一首の意。〔白檀石邊山《しらまゆみいそべのやまの》【序詞】〕いつまでも變らずにある私の命《いのち》であらうか、いや決してさうではない。それだのにかういふ果敢ない戀をして居らねばならぬのか、悲しく悩ましい限である。(621)『命哉《イノチナラバヤ》ハ願フ詞ニハアラズ。命ニテ有タラバヤナリ。トキハナル命ニテダニアラバ遂ニハ逢時アラムト心長ク憑テ戀ツツモ有ベキヲ、我モ人モハカナキ命ナレバイトド心イラレテ戀シキ意ナリ』(代匠記精)。『心は、いつまでもながらふべき命ならねば、命の限り戀ひつつのみ居らんと言ふなり』(略解)。『歌(ノ)意は、常石《トキハ》に、いつもかはらぬ身命にてあらむやは、常なき現身は、明日さへもたのみがたきならひなれば、心長くおもひのどめて、ただに思(ヒ)つつのみをるべきことかはと、心いられして、戀しく思ふよしなり』(古義)。
 この歌は、代匠記に寄v石戀とし、古義に寄v山戀としてあるが、前者の説に從ふべきであらう。上半に序詞を置く慣用手段に出たもので、やはり民謠風の歌である。第四句で、『命なれやも』と云つて直ぐ、『戀ひつつをらむ』と止めたから、現代の人にも直ぐ腑に落ちないのだが、反語といふことが分かれば理解がつくので、心いらだつといふ意は、この結句も反語になるからである。
 この歌は、六帖山の部に、『白眞弓いるさの山の常磐なる命かあやな戀ひてやあらむ』とあり、家持集に、『白眞弓いつもの山の常磐なる命かあやな戀ひつつあらむ』とあり、夫木和歌抄山の部に、人丸作として、『しらまゆみいそへの山の常磐なるいのちもかもや戀ひつつをらむ』、よみ人しらずとして、『しらま弓いつはのやまの常磐なるいふりあやなよ戀つつやへん』とある。
 
(622)          ○
 
  〔卷十一・二四四五〕
  淡海《あふみ》の海《み》沈著《しづ》く白玉《しらたま》知《し》らずして戀《こひ》せしよりは今《いま》ぞ益《まさ》れる
  淡海海 沈白玉 不知 從戀者 今益
 
 シラタマ・シラズと續けんための序で、淡海の海に沈んで居る白玉の知れないやうに、ただ知らずにほのかに戀した頃に較べれば、現在は益々切實になつてゐる、益々戀しいといふので、この歌も戀歌としておもしろい。白玉は、石の白玉《はくぎよく》でも眞珠《しんじゆ》でも色白いのでさう名づけていふ。眞珠は和名鈔に、珠、白虎通云海出2明珠1【日本紀私記云眞珠之良太麻】とあり、箋注に、『古所云之良多麻、盖皆眞珠非2白玉《ハクギヨク》1也』とある如く、この場合も眞珠のことであらう。卷六(九三三)に、鰒珠《アハビタマ》。卷七(一三二二)に、鰒玉《アハビタマ》。卷十三(三三一八)に、木國之濱因云鰒玉《キノクニノハマニヨルトフアハビタマ》。卷十八(四一〇一)に、可都伎等流登伊布安波妣多麻《カヅキトルトイフアハビタマ》等の例がある。そして、鰒眞珠《あはびしらたま》は淡海の海に産したかどうかといふに、これは『海』といつたから、その縁で、『白玉』と云つたのだらうと思ふが、若し、實物考證が必要ならば、これはカラスガヒの眞珠であらう。眞珠は、カキガヒ(牡蠣)、アコヤガヒ等からもとれるが、
 カラスガヒは、タガヒ、タンガヒ、ドブガヒ、ヌマガヒ、ゴウツウガ(623)ヒ等ともいふ。新撰字鏡に、蚌【大田加比】本草和名に、蚌蛤、一名含漿、一名蜃、一名海月、一名含珠【出2兼名苑1和名多加比】本朝食鑑に、蚌【訓2奈加他加比1】集解【前略】其肉不v佳、但爲民間之食1也、凡本邦之人知v有2鰒蛤淺蜊之珠1、而采爲2眞珠1誤2于藥肆1、然未v知2蚌珠之貴1、是不2類多1之故乎。この蚌は琵琶湖産を以て著名としてゐるから、古から名のあつたものであらう。コヒニシヨリハ(考)。コヒツルヨリハ(略解)。シラザリシトキヨリコヒハ(新考)等の訓がある。『今益』は、舊本『令益』と誤つてゐたのを代匠記で指摘した。古寫本はほとんど『今』となつてゐる(【嘉・類・西・神・温・矢・京】)。童蒙抄で『それ共知らで名のみ聞きて戀ひせし人の、それと知りあひて愈思ひのまさると也』と解し、新考に、『三四を略解古義にシラズシテコヒツルヨリハとよめり。右の如くよまば今ゾマサレルは何が益るとかせむ。今ゾマサレルといはむにはその益るものを云はざるべからざるにあらずや。宜しく從の上に時の字を補ひてシラザリシ時ヨリコヒハとよむべし。さてシラザリシは噂ニ聞キテ未顔ヲ見ザリシといふ事にて此歌は未逢始めぬさきの歌なり』と云つてゐる。改訓はいかがと思ふが、未逢戀説は一説であらうか。なほこの歌の條で代匠記精撰本に、『第一第三ニ人丸ノ近江ニテノ歌、近江ヨリ歸リ上ラルル時ノ歌アレバ、近江守ノ屬官ナドニテ彼國ニ有テ見聞ニ任テシルサレタルニヤ』と云つてゐるのは、人麿と近江との關係までをも想像したことが分かつて興味あるのである。卷七(一三一七)に、海底沈白玉風吹而《ワタノソコシヅクシラタマカゼフキテ》。(一三一八)に、底清沈有玉乎欲見《ソコキヨミシヅケルタマヲミマクホリ》。(一三一九)に、大(624)海之水底照之石著玉《オホウミノミナソコテラシシヅクタマ》。(一三二〇)に、水底爾沈白玉誰故《ミナソコニシヅクシラタマタレユヱニ》。卷二十(四三四〇)に、豆久志奈流美豆久白玉等里弖久麻弖爾《ツクシナルミヅクシラタマトリテクマデニ》。卷六(一〇一八)に、白珠者人爾不所知不知友縱《シラタマハヒトニシラエズシラズトモヨシ》。これは既に評釋したが、卷七(一三〇〇)に、白玉人不知見依鴨《シラタマヲヒトニシラエズミムヨシモガモ》。(一二九九)に、船浮白玉採人所知勿《フネウケテシラタマトルトヒトニシラユナ》等がある。それだから、この歌も、單にシラタマからシラズと同音で續けたのみでなく、シヅク・シラタマといつて、表象的に戀人を聯想せしめるところがあつておもしろいのであらう。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四六〕
  白玉《しらたま》を纏《ま》きてぞ持《も》たる今《いま》よりは吾《わ》が玉《たま》にせむ知《し》れる時《とき》だに
  白玉 纏持 從今 吾玉爲 知時谷
 
 ○纏持・從今 舊訓マキテモタレバ・イマヨリハ。古寫本マキモチシヨリ・イマダニモ(嘉・類・細)。マキテモタレバ・イマヨリハ(温・西・矢・京)。童蒙抄マキテモタナン。略解マキテゾモタル(【古義・新訓同訓】)。新考テニマキモチテ。『縱v今』は、流布本『縱v令』に柞つてあつたが、古寫本(625)中『今』に作つてゐる(【嘉・類・西・神・温・矢・京】)のがあるので改めた。代匠記初で既に其を指摘した。○吾玉爲・知時谷 舊訓ワガタマニセム・シレルトキダニモ。童蒙抄シレルトキダニ(【考・略解・古義・新訓同訓】)。新考シレルノチダニ。
 一首の意は、今まで持つことが出來なかつた白玉をば今自分の手に纏《ま》いて持つて居る。ああ今からはこれを自分の玉にしよう。未來のことは分からぬが、せめて斯うして相知り相應じ得た時機の間だけでも。といふので、やうやく得た玉の如き女を喜んで、せめてこの現在だけでも、獨占して樂まうといふ感慨を漏らしたものである。
 『此知は妹を相知也。妹にはじめてあふ事は得て、その母などにまだしらねば末はしらねど、今相知時をだに吾ものと思ひ定めんと也』(考)。卷七(一三二六)に、照左豆我手爾纏古須玉毛欲得其緒者替而吾玉爾將爲《テリサツガテニマキフルスタマモガモソノヲハカヘテワガタマニセム》。卷十六(三八一四)に、眞珠者緒絶爲爾伎登聞之故爾其緒復貫吾玉爾將爲《シラタマハヲダエシニキトキキシユヱニソノヲマタヌキワガタマニセム》。同卷(三八七〇)に、紫乃粉滷乃海爾潜鳥珠潜出者吾玉爾將爲《ムラサキノコガタノウミニカヅクトリタマカヅキイデバワガタマニセム》といふのがある。
 寄v玉戀で、これは一首が『玉』で一貫して、下の句にも、妹《いも》といふやうな語が無い。これは白玉などといへば既に戀人を象徴し得るからであらう。ただ、『知れる時』といつて、人間と玉と不即不離のあひだにその表現を完うしてゐる。民謠風の歌だが、澁いところがあつて調子もまた張つて居る。
 
(626)          ○
 
  〔卷十一・二四四七〕
  白玉《しらたま》を手《て》に纏《ま》きしより忘《わす》れじと念《おも》ひしことは何時《いつ》か畢《をは》らむ
  白玉 從手纏 不忘 念 何畢
 
 ○不忘・念・何畢 舊訓ワスレジト・オモヒシコトハ・イツカヤムベキ。代匠記初書入【校本萬葉】ワスラエズ。考オモフココロハ。略解宣長訓(念の下に心の字脱)オモフココロハ(【古義・新考從之】)。代匠記初書入イツカヲハラム。代匠記精イツカヲヘナム。童蒙抄イツカハツベキ。略解宣長訓イツカカハラン、畢は異の誤(【古義・新考從之】)。
 一首の意は、白玉をば自分の手に握き持つて、それを忘れまいと思つたことは何時になつたらば終《をはり》になることか、何時になつたら忘れてしまふことか。決して忘れてしまふことは無いぞ。この美しい女を手に入れてからは、もはや永久に忘れないよ。といふのである。
 寄v玉戀で、前の歌と同工異曲である。下《しも》の句《く》は、廻りくどいことを云つてゐるが、その云ひ方、語氣がなかなかおもしろい。諸注釋書の異訓について、吟味すれば皆相當に有益だから、共に鑑(627)賞してかまはぬ。例へば、考の、『忘れじと思ふ心は何時か止むべき』でも、相當にい聲調である。また宣長の訓にしても、『これも女を我(ガ)手に入たるをたとへたり。思ふ女を我(ガ)手に入たる其(ノ)日より未遂に忘れじと堅く思ひ定めし心の、いつかは變るべき』(古義)として味ふことが出來るのである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四八〕
  ぬば玉《たま》の間《あひだ》開《あ》けつつ貫《ぬ》ける緒《を》も縛《くく》りよすれば後《のち》逢《あ》ふものを
  烏玉 間開乍 貫緒 縛依 後相物
 
 ○烏玉・間開乍 舊訓ヌバタマノ・ヒマシフミツツ。代匠記精ヌバタマノ・アヒダアケツツ。童蒙抄ヌバタマノ・ヨハアケナガラ。考(烏は白の誤)シラタマヲ・アヒダオキツツ。略解シラタマヲ・アヒダアケツツ(新考同訓)。古義シラタマノ・アヒダアケツツ。新訓ヌバタマノ・アヒダアケツツ。○貫緒・縛依・後相物 舊訓ヒモノヲノ・ムスビテシヨリ・ノチアフモノカ。代匠記精ヌケルヲモ・ムスベバヨリテ・ノチアフモノヲ。童蒙抄タマノヲノ・マツヒヨリナン・ノチモ(628)アフトモ。考ヌケルヲモ・ククリヨスレバ・ノチアフモノヲ(【略解・古義・新考・新訓同訓】)。
 この烏玉を眞淵は白玉の誤としたが、代匠記に既に、『烏玉ハ、第十五云、奴波多麻能《ヌバタマノ》、伊毛我保須倍久安良奈久爾《イモガホスベクアラナクニ》、和我許呂母弖乎奴禮弖伊可爾勢牟《ワガコロモテヲヌレテイカニセム》。此奴波多麻ハ妹ヲホメムトテオケリ。常ノ黒キトツヅクルニハ替レリ。今モ唯白玉ト云ハムヤウニ聞ユルハ黒キ玉ノウルハシキ方ヲ取テ云ナルベシ』と云つたのに從つて好い。つまり此處は射干の黒玉からの聯想で、本來の意味を應用したものと看做して好い。特に妹《いも》に續けた例があればその聯想も助けるであらう。玉と玉との間をあけつつ緒に貫く趣である。
 一首の意は、射干玉《ぬばたま》の玉と玉との間を明けひろげつつ、緒を通すときに玉と玉とが離れるけれども、またその緒を縛《くく》つて寄せると、離れた玉と玉とが二たび相逢ふのであるのに。私と汝とは今は離れさせられて居る。しかしまた逢瀬が無いといふこともないであらう。といふ意を含ませてゐる。
 寄v玉戀で、民謠風の細かい味の歌であり、若い青年男女の間には心地好く吟誦せられて好い歌であるし、射干玉《ぬばたま》は枕詞になつてしまつたが、實用にも用ゐられたと想像し得れば、この歌の野趣が却つてなつかしいものである。
 參考歌としては、卷十一(二七九〇)に、玉緒之久栗縁乍末終去者不別同緒將有《タマノヲノククリヨセツツスヱツヒニユキハワカレズオナジヲニアラム》とあるは類似の(629)歌であり、なほ、同(二七九三)の、玉緒之間毛不置欲見吾思妹者家遠在而《タマノヲノアヒダモオカズミマクホリワガモフイモハイヘトホクアリテ》や、同(二七九一)の、片絲用貫有玉之緒乎弱亂哉爲南人之可知《カタイトモテヌキタルタマノヲヲヨワミミダレヤシナムヒトノシルベク》などは參考になる歌である。
 此歌は袖中抄に、『烏珠《ウハタマ》ノヒマヲワケツヽヌキシヲノムスヒテシヨリノチアフ物カ』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四九〕
  香具山《かぐやま》に雲居《くもゐ》たなびき鬱《おほほ》しく相見《あひみ》し子《こ》らを後《のち》戀《こ》ひむかも
  香山爾 雲位桁曳 於保保思久 相見子等乎 後戀牟鴨
 
 香具山に雲が棚引いて朦朧となつてゐる。そのやうにおぼろにほのかに一寸見た女に後々までもこんなに戀をするのであらうかと歎息した歌で、戀の痛切なことを云つてゐるのである。雲居《くもゐ》は單に雲のことで、子《こ》らは單數で愛情を示すラである。童蒙抄に、『おほほしく、おぼろおぼろに、確かにあらね共、あひ見し女を戀ひんかと也。かもは歎きたる意。さだかにも見ぬ人を後々迄かく戀ひん事かもと云意也』と解してゐるのは要領を得て居る。また、『香具山に雲居たなびき』と(630)固有名詞を持つて來て序詞としたのなども、常に親しんでゐた香具山を持つて來たので、ただ漠然とした聯想でないのであらうし、萬葉の歌の序詞のいい點は其處にあるのである。若し問題にすれば、『しく〔右○〕』。『らを〔右○〕』。『かも〔二字右○〕』の處の調子のゆるみででもあらうか。
 卷十(一九〇九)に、春霞山棚引欝妹乎相見後戀毳《ハルガスミヤマニタナビキオホホシクイモヲアヒミテノチコヒムカモ》とあるのも類似してゐる歌で、或は人麿歌集からの變化したものででもあらうか。なほ同卷(一九二一)に、不明公乎相見而菅根乃長春日乎孤悲渡鴨《オホホシクキミヲアヒミテスガノネノナガキハルビヲコヒワタルカモ》がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五〇〕
  雲間《くもま》よりさ渡《わた》る月《つき》の鬱《おぼほ》しく相見《あひみ》し子《こ》らを見《み》むよしもがも
  雲間從 狹徑月乃 於保保思久 相見子等乎 見因鴨
 
 結句は、舊訓ミルヨシモガモであつたのを略解でミムヨシモガモと訓んだ。雲間をわたる月だから光が清明でなくぼんやりして居る。そのやうにほのかにかりそめに見た女をもつと親しく見たいものだといふので、童蒙抄に、『仄かに見し女を又さだかに見る由もがなと也』といつてゐる。(631)前に『相見し』といひ、又結句に、『見むよしもがも』といふのは、前の歌の結句に較べて拙劣のやうにもおもふが、ここらは極めて自由に樂に作つて居るのである。前の歌では、香具山の霞をいひ、この歌では朧な月を云つてゐる。序詞としては、前の歌の方が通常で、この歌の方が珍らしいのは、『さ渡る月の』と續けたところにあるので注意すべきだが、此も寫生だからいいので、ただ粉本に頼るやうになると生命が消失するのである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五一〕
  天雲《あまぐも》の依《よ》り合《あ》ひ遠《とほ》み逢《あ》はずとも異手枕《ことたまくら》を吾《われ》纏《ま》かめやも
  天雲 依相遠 雖不相 異手枕 吾纏哉
 
 ○異手枕・吾纏哉 舊訓アダシタマクラ・ワレハマカメヤ。古寫本中、コトタマクラヲ(嘉・類、細)。アタシタマクラ(西・矢・京・温)と兩方ある。童蒙抄ワレマカメヤモ(新考同訓)。考ワレハマカメヤ。又はアレマカムカモ(略解同訓)。古義アレマカメヤモ。新訓コトタマクラヲ・ワレマカメヤモ。
(632) 一首の意は、〔遙かに棚びいて見える天の雲が、互に遠く離れて居て、いつ合ふとも見えぬ。【序詞】〕かの雲のやうにお前と私とも遠く離れて逢はずに居るけれども、ほかの女の手枕を私は纏《ま》かうや、決してそんなことはしない。この世に愛するのはお身ばかりだといふ意に落著く。
 寄v雲戀で、序詞も、天空の雲の有樣を寫生してこの句を得て居る。天空に互に遠く離れつつ棚びいてゐる雲の趣で、動いて居る雲などの趣ではないやうである。先進の解の中では、『天雲の如く隔たりて寄合ひ難きを言ふ』(略解)。『ヨリアヒは雲と雲とゆき合ふ事ならむ』(新考)といふのは當つて居るやうである。然るに、『天の雲と國土と、はるかに離れ隔りて、依合(フ)事の遠きよしのつづけなるべし』。『天と地とのごとく、離れ隔りて遠くて、依相(フ)事は協はず』(古義)とあるのは奈何か疑はしい。若し天と地と合ふことならば、卷一(五〇)に、天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》。卷二(一六七)に、天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》。卷六(一〇四七)に、天地乃依會限《アメツチノヨリアヒノカギリ》。卷十一(二七八七)に、天地之依相極玉緒之不絶常念妹之當見津《アメツチノヨリアヒノキハミタマノヲノタエジトオモフイモガアタリミツ》とあるやうに、天と地と二つとも書いてある。然るに、この歌は、『天雲依相遠《アマグモノヨリアヒトホミ》』であるから、天雲《あまぐも》同志の合ふことと解すべきものとおもふ。卷三(四二〇)に、天雲乃曾久敝能極《アマグモノソクヘノキハミ》。卷四(五五三)に、天雲乃遠隔乃極《アマグモノソクヘノキハミ》。卷十九(四二四七)に、天雲能曾伎敝能伎波美吾念有伎美爾將別日近成奴《アマグモノソキヘノキハミワガモヘルキミニワカレムヒチカクナリヌ》の例があり、枕詞化して非常に遠い氣特に使つてゐるから、この歌の場合も幾らか枕詞化、象徴化して居ると看てもよく、特に序詞だから、さう解釋していいので(633)あるが、若し寫象として検討する場合には、天空に棚引いてゐる遠い雲同志と解していいのであらう。
 異手枕も、コトと訓むか、アダシと訓むか、鑑賞の場合には、兩方共味つていいが、コトタマクラといふ語は特殊でおもしろいからこれは是非尊重したいのである。民謠風の愛すべく、平易な歌の一種である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五二〕
  雲《くも》だにも著《しる》くし發《た》たは意《こころ》遣《や》り見《み》つつし居《を》らむ直《ただ》に逢《あ》ふまでに
  雲谷 灼發 意追 見乍爲〔居〕 及直相
 
 ○意追・見乍爲 舊訓ナグサメニ・ミツツモ|シ《(レ)》テム。古寫本ココロヤル・カタミニセマシ(類一)。ココロナル・カタミニセマシ(嘉)。ナグサメテ・ヰツルムシテス(類二)。童蒙抄オモヒヤリ・ミツツモシテン。考ナゲサメム・ミツツシヲラム、追は進の誤、爲は居の誤。略解ナグサメニ・ミツツシヲラム。古義ココロヤリ・ミツツシヲラム、拾穗本に從つて意遣とす。新考ナグサメニ・(634)ミツツヲラムヲ。新訓ココロヤリ・ミツツモヰテム。
 ココロヤルと訓むか、ナグサムルと訓むかについては、既に評釋したが、卷十七(三九九一)に、許己呂也良武等《ココロヤラムト》があり、なほ卷三(三四六)に、酒飲而情乎遣爾《サケノミテココロヲヤルニ》があるから、ココロヤリといふ語も確實である。そこで、前にナグサメカネテと訓んだ卷十一(二四一四)の、戀事《コフルコト》意追不得|出行者山川不知來《イデユケバヤマモカハヲモシラズキニケリ》をも、ココロヤリカネと訓んでもいいと思ふ。此も舊訓はナグサメカネテであつた。そこで此處も字を改めずに、ココロヤりと訓ませることとなつたのである。やも追も義は同じ處に落著くのである。併し、卷八(一四七九)に、隱耳居者欝悒奈具左武登出立聞者來鳴日晩《コモリノミヲレバイブセミナグサムトイデタチキケバキナクヒグラシ》といふ家持の歌もあるから、兩方の語があるのだが、此處はココロヤリと訓んでいいだらう。第四句は、新訓に從つてミツツモヰテムと記したのであつたが、考へ直して、考の訓に從ふことにした。その方が調べが好い。
 一首の意。雲でも空に著しく大きく立つて呉れるならば、せめて其をば戀人のつもりにして見つつ心を慰めて居ようか。直接逢ふことの出來るまでは。それをせめてもの悲しい心遣《こころやり》にしよう。
 寄v雲戀だが、この雲を戀人になぞらへる心理の歌は、既に前にも幾つかあつた。人麿の死んだ時、依羅娘子の歌もさうであるし、卷十四(三五一五)の、阿我於毛乃和須禮牟之太波久爾波布利禰爾多都久毛乎見都追之努波西《アガオモノワスレムシダハクニハフリネニタツクモヲミツツツヌバセ》などもさうであり、その近くの歌にも類似のものが數首載つて居(635)る。宋玉の、高唐賦の序に、妾(ハ)在2巫山之陽高丘之岨1、旦(ニハ)爲2朝雲1、暮(ニハ)爲2行雨1とある。
 シルクといふ語も注意して好く、卷二十(四四九五)に、打奈婢久波流等毛之流久宇具比須波《ウツナビクハルトモシルクウグヒスハ》があり、なほ、齊明紀に、建王《タケルノオホキミ》を悼みたまふ御歌に、伊磨紀那屡乎武例我禹杯爾倶謨娜尼母旨屡
倶之多多婆那爾何那皚柯武《イマキナルヲムレガウヘニクモダニモシルクシタタバナニカナゲカム》がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五三〕
  春楊《はるやなぎ》葛城山《かづらきやま》に發《た》つ雲《くも》の立《た》ちても坐《ゐ》ても妹《いも》をしぞ念《おも》ふ
  春楊 葛山 發雲 立座 妹念
 
 寄v雲戀であらう。春柳を鬘《かづら》くから、同音の葛城《かづらき》山に係けた枕詞とし、雲が立つといふことと、立ちてもゐてもと續けて序詞とした。一首の内容は、『立ちても坐《ゐ》ても妹《いも》をしぞ念《おも》ふ』だけである。それだから、一首の中に枕詞と序詞とがあるのでただ調子で運んでゐる點もあるが、何かいい調子で讀者を引いてゆくところに特色がある。カヅラキヤマニタツクモノあたりの聲調を味ふべきである。初句、舊訓ハルヤナギ。仙覺アヲヤギノ。代匠記精ハルヤナギ。結句、舊訓イモヲシゾ(636)オモフ。代匠記精イモヲシゾモフ。童蒙抄イモヲシオモフ。略解イモヲシオモホユ。
 この歌は、拾遺集に、よみ人しらずとして、『あしひきのかつらぎ山にゐる雲の立ちても居ても君をこそ思へ』とあり、柿本集に、『あをやぎの葛城山にゐる雲の立てもゐても君をこそ思へ』とある。なほ夫木和歌抄には、よみ人しらずとし、初句『あをやぎの』、他は本文の訓と同樣である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五四〕
  春日山《かすがやま》雲居《くもゐ》がくりて遠《とほ》けども家《いへ》は思《おも》はず君《きみ》をしぞ念《おも》ふ
  春日山 雲座隱 雖遠 家不念 公念
 
 やはり、寄v雲戀で、第二句舊訓クモヰカクレテ。代匠記初クモヰカクシテ。略解クモヰガクリテ。第三句舊訓トホケレド。代匠記精トホケドモ。結句は舊訓キミヲシゾオモフ。代匠記精キミヲシゾモフ。童蒙抄イヘハオモハデ・キミヲシオモフ。略解キミヲシオモホユ。第二句までは序である。春日山は雲に隱れて遠くに見える、その遠い如くに遠く家を離れて來て居るけれども、家のことを思はずに汝のことを念つてゐるといふので、公《きみ》は女をさして云つてゐる。略解に、『是(637)れは旅に在る人の、旅にて女に逢ひて詠めるなるべし。女を指して君と詠めるも少からず』云々。新考に、『家は家なる妻なり。キミといへるは他郷にて相知りし女なり。公とかけるは借字なり』云々。この女は近くにゐて、相逢つてゐる心持であるから、序詞も利くし、『遠けども』も利くのではなからうか。
 この歌は、拾遺集に、人麿作として載り、『春日山雲居がくれて遠けれど家は思はず君をこそおもへ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五五〕
  我《わ》が故《ゆゑ》に云《い》はれし妹《いも》は高山《たかやま》の岑《みね》の朝霧《あさぎり》過《す》ぎにけむかも
  我故 所云妹 高山之 岑朝霧 過兼鴨
 
 一首の意は、私との間柄について彼此云はれたあの女は、高山《たかやま》の嶺《みね》にかかる朝霧が動き消えゆくやうに、消えて音沙汰《おとさた》なくなつてしまつたのであらうか。あれきりで、深く媾會することもなく果敢なく過ぎてしまつた。私のことは忘れてしまつた。情ないことである。といふのであらう。
(638) 卷三(三二五)に、明日香河川余藤不去立霧乃念應過孤悲爾不有國《アスカガハカハヨドサラズタツキリノオモヒスグベキコヒニアラナクニ》。卷四(六九三)に、如此耳戀哉將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《カクノミニコヒヤワタラムアキツヌニタナビククモノスグトハナシニ》などの例がある。『我故人ニトカク云ハレシ妹ハ、ソレニウムジテ高山ノ朝霧ノ晴過ル如ク、我ヲ思フ心ヲ過シヤリテモ忘ケムカノ意ナリ』(代匠記精)。『霧の晴れ行く如くに事過ぎにけんかと、おぼつかなく思ふなり』(略解)といふ文獻がある。
 寄v霧戀で、やはり民謠風のもので、輕妙の味ひを待たせたものである。ただ何となく愛情が籠つて居り、その感情が充實してひと事でないやうに感ぜしめるところがある。また序詞としての譬喩、『高山の岑の朝霧』でも、實際の寫生であるから、誤魔化がなくして尋常人の感情を自然に其處に導いて行く手際を具へて居る。また、『我がゆゑに云はれし』といふ句も簡潔で實に旨いものであるが、卷四(五六四)に、山菅乃實不成事乎吾爾所依言禮師君者與執可宿良牟《ヤマスゲノミナラヌコトヲワレニヨセイハレシキミハタレトカヌラム》。卷十(一九〇五)に、姫部思咲野爾生白管自不知事以所言之吾背《ヲミナヘシサキヌニオフルシラツツジシラヌコトモテイハレシワガセ》。卷十一(二五三五)に、凡乃行者不念言故人爾事痛所云物乎《オホヨソノワザハオモハジワレユヱニヒトニコチタクイハレシモノヲ》といふ例がある。この云ひ方は當時の人々の口から自然に出たものと思ふが實に旨い。
 大體右の如くであるが、新考に、第二句を、イハルルイモハと訓み、結句をイブセケムカモと訓んで、『過を悒の誤としてイブセケムカモとよむべし』と云つたが、これは原文の儘で好い。また童蒙抄では、『歌の意は、我故に無き名をも云ひ立てられし人の有りしが、今は最早その無實(639)も晴れぬらんかと、人を勞りて詠める意と聞ゆる也』と解したのは、『朝霧の過ぐ』から來て居て、常識的には順當のやうだが、歌の鑑賞としてはどうか知らん。また、鴻巣氏の全釋には、『高山ノ峯ノ朝霧ノ消エルヤウニ死ンデシマツタダラウカナア。ドウデアラウ。心配ナコトダ』と解した。これはスグをば、卷二(二〇七)の、黄葉乃過伊去等《モミヂバノスギテイニキト》などに本づく解釋であり、若しこの解釋が認容出來ると、非常に哀れ深い歌になりさうであるが、この解にすると、歌柄が近代的になり、人麿の長歌ぐらゐの内容だと調和が取れるとおもふけれども、短歌だと、『わがゆゑにいはれし妹』と死去との調和がどうなるか。またこの歌は、寄v霧戀といふ一種の民謠歌であるから、此處は平凡に普通の戀愛情調の歌として解釋する方がいいと思ふのである。
 この歌は、夫木和歌抄に、よみ人知らずとして載つてゐる(【初句『われゆゑに』】)。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五六〕
  ぬばたまの黒髪山《くろかみやま》の山草《やますげ》に小雨《こさめ》零《ふ》りしきしくしく思《おも》ほゆ
  烏玉 黒髪山 山草 小雨零敷 益益所思
 
(640)『山草』を古くヤマスゲと訓んでゐるのを契沖も、『山草ハ點ノヤウ意得ガタキニ似タレド、ヲバナヲ草花トカケル類ニ例スベシ』といひ、眞淵も、『山草と書しも事の樣山菅也』といひ、雅澄は、『山草は山菅《ヤマスゲ》の誤なるべし』と云つた。結句舊訓マスマスゾオモフ。嘉暦傳承本マスマスオモホユ。代匠記精共に同じ。童蒙抄イヤマシゾオモフ。考シクシクオモホユ。『益をもかくいひ下しては、しくと訓べし』(考)と云つてゐる(【略解・古義・新訓等從之】)。新考フリシケバ・マスマスオモホユ。この歌は第四句までが序で、結句だけが一首の内容のやうな觀がある。併し從來からいふ寄v雨戀といふ種類のものだからフリシキ・シクシクといふ同音の連續ばかりでなく、やはり意味の上の融合もあり、一種の象徴とも看做すことが出來るのである。考で、『いと繁きものの上に、小雨のふりしきるにしほれなびけるは、いよよ繁りつづきて見ゆるを譬へて、及《シク》々思ふといへり』と解釋してゐるやうに、意味のうへの融合があるのである。この歌は、古風で東歌のやうなところもある。人麿歌集中の歌が東歌の中にも入つて居るのであるから、人麿歌集は人麿の歌だけでないといふ一つの證據になつてゐる程だが、かういふのになると限界がはつきりせず、いづれにも解釋が出來るのである。
 この歌は、夫木和歌抄山の題に、『うばたまのくろかみ山のやまくさのこさめふりしきますますか思ふ』、同菅の題に、『うばたまのくろかみ山の山菅にこさめふりしきますますぞ思ふ』とあり、(641)共によみ人知らずとしてある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五七〕
  大野《おほぬ》らに小雨《こさめ》降《ふ》りしく木《こ》の下《もと》に時時《ときどき》依《よ》り來《こ》わが念《おも》ふ人《ひと》
  大野 小雨被敷 木本 時依來 我念人
 
 やはり、寄v雨戀であらう。初句舊訓オホノラノ。代匠記精オホノラニ。童蒙抄オホ野ニ。又はヒロキ野ニ。古義オホヌラニ。第四句舊訓トキトヨリコヨ。童蒙抄ヨリヨリキマセ。又はヨルヨルキマセ。考トキトモヨリコ。略解トキトキヨリコ(古義同訓)。新訓トキトヨリコヨ。新考フリシケバ・コノモトヲ・タノミテヨリコ。
 一首の意。これも第三句までは序であるが、中味は『時々寄り來わが思ふ人』だけなのである。大野に雨が降ると旅人などが木下に雨を避ける。それを捉へて木下に寄りくるやうに、吾に寄りこといふので、寄物戀歌の一種だから前の歌同樣意味のうへの融合があるのである。それからこの歌の、『人』は女のことで、妹、吾味などと同じ意味に歸著するのだが、第三人稱らしくヒトと(642)いつてゐるので、なかなかいい結句である。一時新派歌人等が戀人のことをヒトと使つて流行したことがあつた。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五八〕
  朝霜《あさしも》の消《け》なば消《け》ぬべく念《おも》ひつついかに此《この》夜《よ》を明《あか》しなむかも
  朝霜 消消 念乍 何此夜 明鴨
 
 舊訓ケナバケナマク・オモヒツツ・イカデコノヨヲ。考ケナバケナマシ。略解ケナバケヌベク。童蒙抄イカニコノヨヲ。略解宜長訓マツニコノヨヲ。古義マツニコノヨヲ・アカシツルカモ。新考マツニコノヨノ・アケニケルカモ。
 一首の意。朝の霜の消えるやうに、〔朝霜《あさしもの》〕心も消え入るばかりに、命《いのち》も無くなるばかりに、戀ひ思ひつつ、どうして今夜を明かさうか。明かしかねることである。
 寄v霜戀で、分かりよい自然な歌である。萬人共通の心理で、萬人共通の言ひぶりであるから、心を安んじて吟誦し、民謠化せしめることが出來る。そしてこの歌のような分かり好いものでも、(643)古今以後の歌などに較べれば、重厚に響いて棄てがたいのである。 このケナバケヌベクは句調が好いので、慣用例として數首ある。卷二(一九九)の露霜之消者消倍久去鳥乃相競端爾《ツユジモノケナバケヌベクユクトリノアラソフハシニ》は人麿作の長歌にあるし、卷四(六二四)に、道相而咲之柄爾零雪乃消者消香二戀云吾妹《ミチニアヒテヱマシシカラニフルユキノケナバケヌカニコフトフワギモ》。卷八(一五九五)に、秋芽子乃枝毛十尾二降露乃消者雖消色出目八方《アキハギノエダモトヲヲニフルツユノケナバケヌトモイロニイデメヤモ》。卷十三(三二六六)に、朝露之消者可消戀久毛知久毛相隱都麻鴨《アサツユノケナバケヌベクコフラクモシルクモアヘルコモリヅマカモ》といふ例がある。
 イカニは、卷五(七九五)の、伊弊爾由伎而伊可爾可阿我世武摩久良豆久都摩夜佐夫斯久於母保由倍斯母《イヘニユキテイカニカアガセムマクラヅクツマヤサブシクオモホユベシモ》などと同じく、奈何にから、どうしようといふのに落著く言ひ方である。それだからイカデと訓むのと同一に歸するのだが、イカニの方が用例も多く、調べが好い。
 この歌は、柿本集に載り、『朝霜の消えみ消えずみ思へどもいかでか今宵明かしつるかも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五九〕
  吾背兒《わがせこ》が濱《はま》ゆく風《かぜ》のいや急《はや》に急事《はやこと》益《ま》して逢《あ》はずかもあらむ
  吾背兒我 濱行風 彌急 急事益 不相有
 
(644) ○濱行風 舊訓ハマユクカゼノ。古義、行は吹の誤でハマフクカゼノ(新考同訓)。○急事益・不相有 舊訓ハヤコトマシテ・アハズヤアラム(【代匠記・童蒙抄同訓】)。考ハヤコトナサバ・マシアハザラン。略解ハヤコトナサバ・イヤアハザラム。古義、事の下に成の脱とし、ハヤコトナサバ・イヤアハザラム。新考、急を衍とし、告を補ひ、コトツゲレバカ・イヤアハザラム。新訓ハヤゴトマシテ・アハズカモアラム。
 一首の意。わが背子《せこ》よ。濱を通り過ぐる風の如くに疾《はや》く、性急に餘り事をお急《いそ》ぎになつて、とうとうお逢ひすることが出來なくなるのではございませんか。
 寄v風戀で、女の歌の趣である。濱風を持つて來たのは、やはり實際の寫生でおもしろい。これはただの空想では決して出來ない業であることを知らねばならない。卷一(七三)長皇子の、吾妹子乎早見濱風倭有吾松椿不吹有勿勤《ワギモコヲハヤミハマカゼヤマトナルワレマツツバキフカザルナユメ》の濱風も早につづけてゐる。『いや急《はや》に急事《はやこと》益《ま》して』は、類音で續けて調子を取つて居るが、簡潔で誠に旨い。また、急事《はやこと》といふ語も集中この語一つだが、尊重すべく、奔潮《はやしほ》、奔波《はやなみ》、迅風《はやち》などの例と共に味つていい。
 代匠記では、『濱ハ物ノ障ナケレバ、風ノトク吹過ルヲ、頻ニ物ヲ云ヒオコスルニ譬ヘテ、サルカラ言ヲ食《ハミ》テアハズヤハアルベキ。來テ相ヌベシト女ノ歌ニ男ノ言ヲ憑ムナリ』(精)。『おもひの切なるよしをしきりにいひおこせつれば、あはずやは有べきといふなり』(初)。童蒙抄に、『さは(645)る事のいや増して夫婦となりし間も無きに、逢ふ事の障り出來たるを歎きたる歌と聞ゆる也』。略解に、『吾がせこは事を急ぎ給へど、急がば中中にいよよ事成るべからず。今しばし時を待ち給へと女の詠めるなり。卷十二、をふの下草早ならば妹が下紐解かざらましを』云々とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六〇〕
  遠妹《とほづま》の振仰《ふりさ》け見《み》つつ偲《しぬ》ぶらむこの月《つき》の面《おも》に雲《くも》な棚引《たなび》き
  遠妹 振仰見 偲 是月面 雲勿棚引
 
 ○遠妹・振仰見 舊訓トホヅマノ・フリサケミツツ。代匠記精トホキイモ。『今按、遠妹ヲ遠妻ト義訓セルハ然ルベケレド、妹ヲイモノ外ニ、何トモ義訓セル例、集中ニナケレバ、字ノママニトホキイモト讀ベキカ』(代匠記精)。併し集中には、卷十四(三四五三)の、可是乃等能登抱吉和伎母賀吉西斯伎奴多母登乃久太利麻欲比伎爾家利《カゼノトノトホキワギモガキセシキヌタモトノクダリマヨヒキニケリ》のほか、多くはトホヅマの例が多く、卷四(五三四)に、遠嬬此間不在者玉桙之道乎多遠見《トホヅマノココニアラネバタマボコノミチヲタドホミ》。卷七(一二九四)に、朝月日向山月立所見遠妻持在人看乍偲《アサヅクヒムカヒノヤマニツキタテリミユトホヅマヲモチタルヒトシミツツシヌバム》等とあるから、暫く舊訓に從ふこととした。
(646) 一首の意。遠くに居る妻が月をば仰ぎ見て、私のことを思ひ出して居るだらう、この今夜の月に雲が懸るな。
 寄v月戀であつて、極く平易で分かりよく、素直な歌である。今まではいろいろと戀愛を覺官的にあらはしたのがあつたが、この歌は、もつと縹渺としたところがあり、もつと詩的である。萬葉には實際かくの如き歌もあるので、かういふ歌は、萬葉末期から、平安朝和歌の前驅をなし得るものであつた。この卷(二六六九)の、吾背子之振放見乍將嘆清月夜爾雲莫田名引《ワガセコガフリサケミツツナゲクラムキヨキツクヨニクモナタナビキ》は、形態も中味も類似してゐて女の歌の趣になつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六一〕
  山《やま》の端《は》にさし出《い》づる月《つき》のはつはつに妹《いも》をぞ見《み》つる戀《こひ》しきまでに
  山葉 追〔進〕出月 端端 妹見鶴 及戀
 
 結句の、『及戀』の訓は、舊訓コヒシキマデニ。略解宣長訓は及は後の誤としてノチコヒムカモと訓み、千蔭も賛成し、古義も賛成して居る。第二句の、『追出月』は、舊訓サシイヅルツキノ。(647)考も同訓だが追は進の誤とした。略解宣長訓、追は照の誤でテリイヅル。新考では元のままで、ヤマノハヲ・オフミカヅキノと訓み、『ミカヅキの漢字は朏(音ヒ)なるを二字に割きて出月とかけるなり』と注して居る。金澤文庫本には追が進になつてゐて、考の説の證據とすることが出來る。
 一首の意は、山の端に月が出かかつた。そのはつはつの光の如くに、はじめて見てもう戀しくなつたといふ歌である。寄v月戀である。
 結句の、『戀しきまでに』をば諸先進が疑つて、ノチコヒムカモとも訓み、『香具山に雲ゐたなびきおぼほしく相見し子らを後戀牟鴨《ノチコヒムカモ》』(卷十一。二四四九)を例證とした程であるが、この、『戀しきまでに』の句はなかなか棄て難い訓だとおもふ。代匠記初稿本に、『山のはにまだ半輪ばかりさし出る月によそへて、見ずもあらず見もせぬほどなるは、中々の物おもひとなれば、こひしきまでにとはいへり』と解釋したのは要領を得て居る。かう解すれば、『戀しきまでに』の訓を活かして味ふことが出來る。然るに、古義では、略解宣長訓のノチコヒムカモを採用して居るから、『歌(ノ)意は、見ずもあらず見もせぬばかり、ほのかに妹が容貌をぞ見つる、嗚呼さても、今より後戀しく思はむかとなり』と解してゐる。ノチコヒムカモの訓は、古調で寧ろ自然で且つ當然であるが、作歌實驗の修練上からも、『戀しきまでに』の訓を保存して置きたいのである。(648)『及』をマデと訓ませた例は、卷三(二六一)に、往來乍益及常世《ユキカヨヒツツイヤトコヨマデ》。卷九(一七四〇)に、及七日《ナヌカマデ》。卷十(二〇〇九)に、及雲隱《クモガクルマデ》。同卷(一八六一)に、光及爾《テルマデニ》。卷二(一九六)に、及萬代《ヨロヅヨマデニ》などによつて明かである。
 この歌は、六帖に人麿作として、第四句『君をぞ見つる』とあり、又柿本集に載り、流布本第二句『さし入る月の』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六二〕
  我妹子《わぎもこ》し吾《われ》を念《おも》はばまそ鏡《かがみ》照《て》り出《い》づる月《つき》の影《かげ》に見《み》え來《こ》ね
  我妹 吾矣念者 眞鏡 照出月 影所見來
 
 初句舊訓ワギモコガ。古寫本中ワギモコシ(類)。ワガイモガ(嘉)。ワガモコガ(温)等である。略解ワギモコシ(【古義・新考・新訓從之】)。第二句童蒙抄ワレヲシタハバ。第四句新考テルミカヅキノ。
 一首の意。遠くに隔つてゐる戀びとよ。若し私を思ひ慕つてくれるのなら、この清く照りわたる月の中に、彷彿として見えて來い。といふのである。
(649) 寄v月戀で、『まそかがみ照り出づる月のかげ』といふ句は、なかなか優れた表現である。テリイヅルといふ表はし方も好いと思つて他に例を求めたが集中には無かつた。さすればこれも尊重すべきで、清い月が、空にのぼつて照りまさる趣、或は山などから出づる趣、何かさういふ、『あらはるる』趣として解していいであらう。
 このあたりに、月に關聯した戀歌が幾つかあるが、この歌も前の歌同樣、なかなか繊細な感情を歌つてゐる。支那の詩には既にかういふ情緒が歌はれて居り、平安朝以後にはもつと多くなるだらうとおもふが、もつと上代には無かつたものである。人麿作としては稍時代が新し過ぎるやうに思はれるけれども、人麿は縱横に變化を試み、餘り苦吟せずに自由に民謠風の歌を作つたとせば、この歌をも人麿に結付けても別にかまはぬとおもふ。そして、この歌の聲調の細み、哀調について一顧を拂つても好いのではあるまいか。卷六(九九四)の、振仰而若月見者一目見之人之眉引所念可聞《フリサケテミカヅキミレバヒトメミシヒトノマヨヒキオモホユルカモ》も同じやうな聯想の歌であるが、不思議にもこの(二四六二)の歌ほどの餘響を聽き得ざるはどういふためであらうか。
 
          ○
 
(650)  〔卷十一・二四六三〕
  ひさかたの天《あま》光《て》る月《つき》の隱《かく》りなば何《なに》になぞへて妹《いも》を偲《しぬ》ばむ
  久方 天光月 隱去 何名副 妹偲
 
 ○月・隱去 舊訓ツキノ・カクレナバ。略解ツキモ・カクレイヌ。古義ツキモ・カクロヒヌ。新考ツキノ・カクリナバ(新訓同訓)。○何名副 舊訓ナニノソヘテ。代匠記初ナニニナゾヘテ。○妹偲 舊訓イモヲシノバム。考イモヲシタハム。略解イモヲシヌバム。
 一首の意。折角見つつ妹を偲んでゐた、この清い月が沈んで行つたならば、何になぞらへて妹を偲ばうか。なぞらへ、たぐへむものはないではないか。
 これは、寄v月戀で、戀してゐる女を、『天《あま》光《て》る月』に見立て、それと融合してゐる氣持は、前の歌(二四六二)と同じく、單に抒情詩的だと謂ふのみでなく、その戀人の顔容から擧止に至るまで彷彿として見える如き感じのする歌である。この歌は女を月に關聯せしめたのであるが、集中には、男をば月に關聯せしめた歌も幾つかある。卷三(三九三)の、不所見十方孰不戀有米山之末爾射狹夜歴月乎外爾見而思香《ミエズトモタレコヒザラメヤマノハニイサヨフツキヲヨソニミテシカ》、卷十一(二六七三)の、鳥玉乃夜渡月之湯移去者更哉妹爾吾戀將居《ヌバタマノヨワタルツキノユツリナバサラニヤイモニワガコヒヲラム》等は女との關聯であり、卷十(二二九九)の、秋夜之月疑意君者雲隱須臾不見者幾許戀敷《アキノヨノツキカモキミハクモガクリシマシクミネバココダコホシキ》。卷十二(651)(三〇〇五)の、十五日出之月乃高高爾君乎座而何物乎加將念《モチノヒニイデニシツキノタカダカニキミヲイマセテナニヲカオモハム》等は男との關聯である。
 なほ、ナゾヘテシヌブ歌の一二を引くなら、卷八(一四四八)に、吾屋外爾蒔之瞿麥何時毛花爾咲奈武名蘇經乍見武《ワガヤドニマキシナデシコイツシカモハナニサキナムナゾヘツツミム》。卷二十(四四五一)に、宇流波之美安我毛布伎美波奈弖之故我波奈爾奈蘇倍弖美禮杼安可奴香母《ウルハシミアガモフキミハナデシコガハナニナゾヘテミレドアカヌカモ》などがある。
 此歌は、和歌童蒙抄に、『ヒサカタノアマテルツキノカクレナハナニヽヨソヘテイモヲシノハム』として載つてゐる。又、拾遺集に人麿作として、『ひさかたのあまてる月もかくれ行く何によそへて君を忍ばむ』とあり、夫木和歌抄に人丸として、『ひさかたのあまてる月のいりゆかはなにになそへていもをしのはん』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六四〕
  若月《みかづき》の清《さや》にも見《み》えず雲隱《くもがく》り見《み》まくぞ欲《ほ》しきうたて此《こ》の頃《ごろ》
  若月 清不見 雲隱 見欲 宇多手比日
 
 ○清不見・雲隱 奮訓サヤカニミエズ・クモガクレ。代匠記初書入【校本萬葉】サヤカニミエヌト。童(652)蒙抄サヤカニミエデ。考サヤニモミエヌ。略解サヤニモミエズ・クモガクリ(【古義・新考・新訓同訓】)。○見欲・宇多手比日 舊訓ミマクゾホシキ・ウタタコノゴロ。管見ウタテコノゴロ(【代匠記・考・略解・古義・新考・新訓同訓】)。『ウタテハ第十ニモ注セシ如ク、ウタタナリ』(代匠記精)。卷十(一八八九)に、吾屋前之毛桃之下爾月夜指下心苦菟楯頃者《ワガヤドノケモモノシタニツクヨサシシタナヤマシモウタテコノゴロ》。卷十二(二九四九)に、得田價異心欝悒事計吉爲吾兄子相有時谷《ウタテケニココロオホホシコトハカリヨクセワガセコアヘルトキダニ》等がある。
 一首の意。三日月が雲に隱れて行つてさやかにはつきりと見えなくなつた。見たいとおもふ。その心がこのごろ特に切實である。『妹に逢ひ難きにつけて、あやにくに見まく欲しきのしきるを、三日月のさやにも見えず、見え隱れするに譬ふ。ウタテは物の重り過ぎたる事を言ふ言にて、既に言へり。ここはうたて此頃見まくぞほしきと心得べし』(略解)。
 寄v月戀は以上五首つづいてゐる。當時の人は、三日月に心を牽かれ、それを見て、戀人を聯想し、美しい女の眉に譬へ、なかなか細かい感情を投入してゐるのは大に興あることである。
 この歌は、拾遺集に人麿作として載り、第二三句『さやかに見えず雲がくれ』とあり、柿本集に、第二三句『さやけくもあらず《(さやかにみえず)》雲がくれ』として載つてゐる。
 
          ○
(653)
  〔卷十一・二四六五〕
  我背子《わがせこ》に吾《わ》が戀《こ》ひ居《を》れば吾《わ》が屋戸《やど》の草《くさ》さへ思《おも》ひ 末枯《うらが》れにけり
  我背兒爾 吾戀居者 吾屋戸之 草佐倍思 浦乾來
 
 ○思・浦乾來 舊訓オモヒ・ウラカレニケリ(諸書從之)。童蒙抄モヒニ・ウラカレニケリ。新考オモヒグササヘ・ウラガレニケリ。一首の意は、私は夫《をつと》を戀しく待ち慕うて居ると、自分の家の庭草さへも思ひ悩んでうら枯れてしまつた。といふので、寄v草戀の歌である。代匠記初稿本に、『わがせこをわがこひつつをれば、草さへ我心を知て、ともになげくやうに、うらがるるとなり』といひ、略解に、『わがおもひ有時は、見る物聞物も、さるかたにおもはるる也。卷三、眞木のはのしなふせの山しぬばずてわが越えくれば木の葉知けむ』とあるのを共に參考していい。實際此處は、『さるかたにおもはるる也』ぐらゐに解釋して、『草さへ我心を知て』とまで瞭然と云はぬ方がいいやうである。この、『草』について後に記すやうに説があるが、ただ庭の草で、晩秋になつてうら枯れたところと大樣に解していい。額田王の歌に、『君待つと吾が戀ひ居ればわが屋戸《やど》の簾《すだれ》うごかし秋の風吹く』(【卷四。四八八・卷八。一六〇六】)といふのがあり、大に似て居る。そして此歌は、女が男を戀ふる歌だから、人麿自身の作ではあるまいといふことになり、縱ひ人麿が民謠風に作つたのだ(654)と想像しても、額田王の歌を眞似たやうな姿になつて居る。
 この歌で、『わが』といふのを繰返してゐるのは、餘り意識してやつたのではなからうと解釋したいのであるが、或は、『我ト云字ハワザトタタミテヨメルナリ』(代匠記精)といふ如く、故意に疊んで用ゐたのだとすると具合が惡い。日本語の味ひの能く分からぬ外國人などが日本の詩歌を云々するときに、先づかういふ頭韻などにばかり氣を取られて讃美するのは未だ不徹底だからである。ただこの歌は、全體がしつとりと沈潜して歌ひ了せてゐるのがいいのであつて、『わが』を繰返してゐるために特にいいのではないのである。それからこの歌は、『わが背子にわが戀ひ居れば』と、獨咏的に云つてゐるのも、つつましく聞こえる所以であるが、同時に民謠風に一般化する傾向があるともいふことが出來る。それから、『わが背子にわが戀ふ』と、『に』で續けてゐるのも、他の多くの同じ例と共に注意すべきで、特に、女の場合に興味が多いのである。これは萬葉では女と雖も必ずしも受身ばかりではないといふことを示してゐるのである。萬葉に於いては、『に戀ふ』と續けた場合が大部分で、『を戀ふ』の例は、高麗劔己之景迹故外耳見乍哉君乎戀
渡奈牟《コマツルギワガココロカラヨソノミニミツツヤキミヲコヒワタリナム》(卷十二。二九八三)。多知波奈乃之多布久可是乃可具波志伎都久波能夜麻乎古比須安良米可毛《タチバナノシタフクカゼノカグハシキツクバノヤマヲコヒズアラメカモ》(卷二十。四三七一)など少數に過ぎないが、この『に』、『を』の相違についてはなほ考察して見たいと思つてゐる。
(655) 代匠記精撰本に、『第十ニ思草トヨメルニ付テ注セシ如ク、陰草ヲ思草ト云意ニテ、草サヘ思草ニテ末枯《ウラカル》トナリ』といひ、新考では、『第四句を從來字のままにてクササヘオモヒとよみたれど、オモヒウラガルルといふ語あるべくもあらず。又さる語ありとも半より割きて二句に分屬せしむべきにあらず。おそらくは傳寫の際に思の字をおとし、後にそを補ふとて第三句の下に入るべきを誤りて第四句の次に入れたるにこそ。さればワガヤドノオモヒゲササヘウラガレニケリとよむべし。思草ははやく卷十(二一七八頁)に見えたり。我思ノミナラズ思トイフ名ヲ負ヘル草サヘとなり』と云つて居る。この句割のことは、他にも例の無いことは無い。また思ひ草説については、童蒙抄に、『草の秋過て梢うら枯れる折の氣色を見て、よそへて詠めるなるべし。尾花が本の思ひ草も此草の事なるべし抔云説は不v可v足v論。思ひうら枯れと云詞は續かぬ詞也』と論じて居る。もつとも童蒙抄では、モヒニウラガレニケリと訓んでゐるから、其をも顧慮しつつ此説を讀むべきであるが、そして、『思ひうら枯る』といふ詞は無いなどといふ説はどうかとおもふが、思ひ草を否定してゐることは注意していい。
 此歌は、拾遺集に人麿作として載り、初句『わが背子を』とあり、柿本集にも、『わが背子を』として出てゐる。又六帖には、本文と同じ訓で載つたが、笠女郎作の如くにしてある。
  追記。橋本進吉博士は、「上代に於ける波行上一段活用に就いて」(國語・國文第一卷第一號、昭和六年(656)十月)に於いて、平安朝時代の上一段活用『乾る』は、奈良朝時代には上二段に活用したものであらう。從つてこの『浦乾來』もウラブレニケリと訓むべきであらうと言つて居る。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六六〕
  淺茅原《あさぢはら》小野《をぬ》に標繩《しめ》結《ゆ》ふ空言《むなごと》をいかなりといひて君《きみ》をし待《ま》たむ
  朝茅原 小野印 空事 何在云 公待
 
 ○朝茅原・小野印 舊訓アサヂハラ・ヲノニシメユフ。代匠記精アサヂフノ。古義アサヂハラ・ヲヌニシメユヒ。新考アサヂハラ・ヲヌニシメユフ。○空事・何在云・公待 舊訓ソラゴトヲ・イカナリトイヒテ・キミヲバマタム。童蒙抄宗師案ムナゴトモ・イツナリトイハバ・キミヲシマタム。考ソラゴトヲ・イカアリトイヒテ・キミヲシマタム。略解ソラゴトヲ・イカナリトイヒテ・キミヲバマタム。古義ムナゴトヲ・イカナリトイヒテ・キミヲシマタム(新訓同訓)。新考ムナゴトヲ・イカニイヒテカ・キミヲバマタム。
 淺茅原の何も花なき野に標繩《しめ》結つても無駄であるから、空《むなし》に懸けて序としてゐる。本卷(二七(657)五五)に、淺茅原刈標刺而空事文所縁之君之辭鴛鴦將待《アサヂハラカリシメサシテムナゴトモヨセテシキミガコトヲシマタム》。卷十二(三〇五三)に、淺茅原小野爾標結空言毛將相跡令聞戀之名種爾《アサヂハラヲヌニシメユフムナゴトモハムトキコセコヒノナグサニ》などの類例がある。ムナゴトは此等の例にもあるが、なほ卷二十(四四六五)に、於煩呂加爾己許呂於母比弖牟奈許等母於夜乃名多都奈《オホロカニココロオモヒテムナゴトモオヤノナタツナ》といふのがあり、ウソ言《ごと》、虚言《きよげん》のことである。
 一首の意は、花の無い淺茅原に標《しめ》結ふやうな無益な空《むな》しいこと【序詞】の、空言《むなごと》、即|虚言《きよげん》をばどういふ具合に云つて、僞《いつはり》の内容をばどういふやうに拵へて、どんな嘘《うそ》を衝いて、人を欺きつつあなたをお待ち申しませう。といふのである。
 『空言《むなごと》をいかなりといひて』のところは、現代人には一寸理會に面倒なやうだが、『空言をいひて』の間に、『如何なりと』を附加すれば分かり易い。卷十五(三六八九)に、伊波多野爾夜杼里須流伎美伊倣妣等乃伊豆良等和禮乎等婆波伊可爾伊波牟《イハタヌニヤドリスルキミイヘビトノイヅラトワレヲトハバイカニイハム》とあるイカニで、種々の色調の差ある用例がある。一首全體からいへぼ、卷十二(三〇〇二)の、足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシヒキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》に似て居る。
 これは寄v草戀といふのであらうが、それは後に分類したので、作るときにはそんな意圖がなくて自由に作つたものであらう。
 この歌は、六帖に、『あさぢふのをののしるしの空言をいかなりといひて君をば待たむ』として(658)載り、夫木和歌抄に、『あさちはらをのにしめゆふ空ことにいかなりといひて君をまつらん』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六七〕
  路《みち》の邊《べ》の草深百合《くさふかゆり》の後《ゆり》にとふ妹《いも》がいのちを我《われ》知《し》らめやも
  路邊 草深百合之 後云 妹命 我知
 
 ○後云 舊訓ノチニテフ。童蒙抄ノチトイヘバ。考ノチモチフ。略解ノチニチフ。同宣長訓ユリニチフ(【古義・新考等同訓】)。『宣長説。古言に後《ノチ》の事をゆりと言へりと聞ゆ。ここの歌も即ゆりを後と言ふ事の序とせるは、後をゆりといふ故也と有り』(略解)。新訓ユリニトフ。○妹命 舊訓イモガミコトヲであつたのを、代匠記精でイモガイノチヲと訓んだ。○我知 舊訓ワレハシラメヤ。童蒙抄ワレハシリナン。古義アレシラメヤモ。新考ワレシラメヤモ。校本萬葉集には、第三句を童蒙抄に『ノチトユフ』又は『ノチニイフ』としてあるが、荷田全集所收の童蒙抄を檢するに、そのやうには訓んでゐない如くである。『後といふ共後にちふ共讀めるは、意同じかるべし』とは言つて(659)をり、萬葉集總索引の諸訓説篇もこれによつてノチトイフ。ノチニチフの訓をあげてゐるが、前からの文章の具合では、必ずしもさういふ訓として示したとは思へない處がある。此處にあげた『ノチトイヘバ』。『ワレハシリナン』などといふ訓も、『又道のべの草深ゆりののちと云へば妹のみことは我れは知りなんとも讀みて、草深ゆりは草の中に咲きて、顯れ知られぬ隱れたるものなれど、後に逢はんと云へば我が物と知られたりと云意にて、我は知らなんと讀める意にも聞ゆる也』と言ひ、『幾筋にも聞く人の心によりて難v決』。『簡略に書たる歌は如v此聞惑ひある也』とも云つて決定してゐないのであるが、兎に角童蒙抄以前には『ノチトイヘバ』。『ワレハシリナン』といふ訓は見當らないやうであるから、此處にあげたのである。
 一首の意は、〔路のべの草深いところに咲く百合《ゆり》の【序詞】〕後《ゆり》に、即ち後《のち》に、幾らも逢へると妹はいふけれども、その妹《いも》の命《いのち》だといつて、誠に計り難く、當にはならぬ。いつどうなるといふことは自分も知ることは出來ようか。それゆゑ益々逢ひたいのである。『一首の意は、後日逢ハムト妹ハ云ヘド人ノ壽ハ恃ミガタケレバ妹ガソレ迄生キテアラムヤ我ハ知ラジ、サテサテ心モトナキ事カナといへるなり』(新考)。
 この歌は、寄v草戀で、後《ゆり》といふことをいひたいので、『路のべの草深百合の』を序詞としたのであるが、今となつてもさう厭味に聞こえないところが好いので、其は古調だからである。一首(660)は一般向の民謠調である。略解で、『後にとは言〈ど、其妹が命のほどは、我は知らずと戯れて言へる也』と云つたが、此歌は戯れて居るのではない。併し、或る人にさう聞こえるのは、二人だけで問答してゐるやうであつて、さう聞こえず、一般向のところがあるための矛盾から來るのではなからうか。つまり切實なことを云つてゐて、さう響かない點があるのかも知れない。
 卷八(一五〇三)に、吾妹兒之家乃垣内之佐由理花由理登云者不欲云二似《ワギモコガイヘノカキツノサユリバナユリトイヘルハイナトフニニル》。卷十八(四〇八七)に、佐由理婆奈由利毛安波牟等於母比曾米弖伎《サユリバナユリモアハムトオモヒソメテキ》。同卷(四一一三)に、佐由利花由利母安波無等奈具佐無流《サユリバナユリモアハムトナグサムル》等の例がある。
 此歌は六帖に、『道のべの草深百合の後にてふ妹がみことを我は知らめや』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六八〕
  湖葦《みなとあし》に交《まじ》れる草《くさ》の知草《しりくさ》の人《ひと》みな知《し》りぬ吾《わ》が下思《したおもひ》
  潮〔湖〕葦 交在草 知草 人告知 吾裏念
 
 ○潮葦 舊訓ミナトアシニ。拾穗抄シホアシと訓み、六帖にもさうある。童蒙抄は『潮』は(661)『湖』の誤とした。古寫本中『湖』になつてゐるものもあり(類・古)、恐らく其が正しいであらう。代匠記精でも、卷十四(三四四五)の、美奈刀能也安之我那可那流多麻古須氣《ミナトノヤアシガナカナルタマコスゲ》を引いて、ミナトアシの訓を認めた。川口などに生えてゐる葦のことであらう。○人皆知 舊訓ヒトミナシリヌ。新考ヒトミナシリツ。○吾裏念 舊訓ワガシタオモヒ。童蒙抄ワガシタモヒモ。考ワガシタモヒハ。今舊訓に從つた。知草《しりくさ》は從來|藺《ゐ》のことだらうと云はれ、白井博士は三角藺だらうと考證して居る。和名鈔に、玉篇云、藺似v莞而細堅、宜v爲v席、和名|爲《ヰ》、辨色立成云、鷺尻刺《サギノシリサシ》云々とある。
 この『知草《しりくさ》の』までは序詞で、『知りぬ』へ續いて居る。人が皆、私のこの戀の心持を知つてしまつた。といふのである。
 寄v草戀だから、知草《しりくさ》に寄せて、聯想で序詞を作つたものであるが、實際の寫生から來て居り、その寫生も、『みなと葦に交《まじ》れる草の』云々と云つて、細かく且つ確かである。後世の吾等は、此等の句を單に聯想のみの序詞と取らずに、その寫生力について學ぶところがなければならぬ。なほ、ミナトに關した用例を擧げると、既出の卷七(一二八八)の、水門葦末葉誰手折《ミナトノアシノウラハヲタレカタヲリシ》。卷十四(三四四五)の、美奈刀能也安之我奈可那流多麻古須氣《ミナトノヤアシガナカナルタマコスゲ》等がある。この歌は前述のやうに初句『潮あしに』とし、人麿作として、六帖に載つた。
 
(662)          ○
 
  〔卷十一・二四六九〕
  山萵苣《やまちさ》の白露《しらつゆ》おもみうらぶるる心《こころ》を深《ふか》み吾《わ》が戀《こ》ひ止《や》まず
  山萵苣 白露重 浦經 心深 吾戀不止
 
 ○浦經・心深・吾戀不止 舊訓ウラブレテ・ココロニフカク・ワガコヒヤマズ。代匠記精ウラブルル・ココロヲフカミ・ワガコヒヤマズ(【略解・古義・新訓同訓】)。童蒙抄ウラブレテ・ココロニフカク・ワガコヒヤマヌ。考ウラブルル・ココロヲフカミ・ワガコヒヤマヌ。新考ウラブルル・ココロニニタリ・ワガコフラクハ。ウラブルは下二段活用で、卷五(八七七)に、比等母禰能宇良夫禮遠留爾《ヒトモネノウラブレヲルニ》。卷七(一四〇九)に、秋山黄葉※[立心偏+可]怜浦觸而《アキヤマノモミヂアハレトウラブレテ》がある。
 一首の意。山萵苣《やまちさ》の花に白露がしげく置いて、その重みで花がしなつてゐる、その心持に、私の心も萎《しな》えうらぶれ、そのしをれる心が深いので、私の恋は止むべくもない。『白露おもみ』までは序詞である。寄v草戀であらうから、ヤマチサは山に生えて居るチサのことであらう。エゴの木ではあるまい。
 『山しさの秋咲ける花の、露にしなへたるを、我がしなへうらぶるるに取れり。其うらぶるる心(663)の深ければ、吾が戀の止む由無しと言ふなるべし。されど下よくも調はず。心深は誤字なるべしと宣長言へり』(略解)。『吾(ガ)戀しく思ふ事の止時なし。なみなみの思ひならば、息(ム)間もあるべきに、との謂なり』(古義)。なるほど下の句の方に、幾らか流通を缺くやうなところもあるが、大體この儘で味つていいだらう。
 此歌は六帖に入り、第三四句『うらぶれてこころに深き』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七〇〕
  湖《みなと》にさね延《は》ふ小菅《こすげ》しぬびずて君《きみ》に戀《こ》ひつつ在《あ》りがてぬかも
  潮〔湖〕 核延子菅 不竊隱 公戀乍 有不勝鴨
 
 ○潮・核延子菅・不竊隱 舊訓ミナトニ・ネハフコスゲノ・シノビズテ。古寫本中シホノエニ。ミナトニの兩訓があり、潮は湖に作つたのがある(類・古)。代匠記初稿本サネハフコスゲと訓み、精撰本で核は根に通ずとしネハフコスゲノと舊訓にかへつた。考ミナトニ・サネハフコスゲ・シヌバズテ。略解宣長訓(【核は根の誤。不は之の誤】)ネハフコスゲノ・ネモコロニ(【古義・新考同訓】)。
(664) サは發語でサネハフはサ根延《ねは》ふといふ意である。『菅の葉のしなへ靡くを、シノブに言ひ懸けしのみ。上にききつが野べのしなひねむ君にしぬべはと續けたる如し。心は忍ばず顯れてだに君に戀ばや。かく忍び隱して戀ふれば堪へ難しと言ふならんと翁は言れき。されど穩かならず。宣長は核は根の誤。菅の下の不は之の誤にて、ネハフコスゲノ、ネモコロニならんと言へり』(略解)。新考もその宣長説に據つた。
 一首の意。湖《みなと》の岸に生えてさ根延《ねば》ふ子菅《こすげ》の根の顯はれる如く【序詞】忍び隱さうと存じても隱し了せずに、あなたを戀して居りますので、苦しくて怺へられませぬ。
 代匠記精に、『ミナトニ根バフ菅ハ浪ニ洗ハレテ根ノ顯ハルレバ、シノビズテトイヘリ。シノバザル故ニ、君ヲ戀フル心ノサテ有ニタヘヌトナリ』に大體從つて好い。考(略解)のも、略解宣長説も稍解釋に不滿がある。宣長解は常識的には改良したが、歌が却つて平板になつてしまつた。
 この歌は、六帖に入り、第一二句『しほの根に根ざす小菅の』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七一〕
  山城《やましろ》の泉《いづみ》の小菅《こすげ》おしなみに妹《いも》が心《こころ》を吾《わ》が念《も》はなくに
(665)  山代 泉小菅 凡浪 妹心 吾不念
 
 ○妹心 舊訓イモガココロヲ。略解イモガココロハ。古義イモヲココロニ。○吾不念 舊訓ワレハオモハズ。拾穗抄ワガオモハナクニ。代匠記・考等は舊訓に從ひ、童蒙抄・略解は拾穗抄に從ひ、古義アガモハナクニ。新考ワガモハナクニ。
 山城の泉《いづみ》は地名で、和名鈔の相樂郡水泉【以豆美】郷、即ち今の木津村・加茂村・瓶原村の地である。泉川に沿うた地だから、その名を得たもので、川の名から出來た邑の名の一例である。私の「鴨山考」では、『石河邑』といふ邑の名から、逆に『石河』といふ川の名を類推して行つたが、その場合と同じである。
 第二句までは、おしなみに續く序で、靡き寄るさまを云つて居る。代匠記初稿本に、『押靡《オシナミ》になり。すすきおしなみふれる白雪とよめるがごとし。それをなみにおもはぬになしていへり』といひ、同精撰本に、『押靡《オシナミ》ト云ニ並々ニハ思ハヌト云事ヲソヘタリ』といつてゐるので解釋は充分である。
 これも寄v草戀だから、小菅を持つて來、おしなみ、即ち『凡《なみ》』を持つて來たのである。これは前の歌などと同樣、その寫生から來て、續け具合が巧なのである。
 この歌は夫木和歌抄に人丸作とし、結句『我おもはなくに』とある。
 
(666)          ○
 
  〔卷十一・二四七二〕
  見渡《みわた》しの三室《みむろ》の山《やま》の石穗菅《いはほすげ》ねもころ吾《われ》は片思《かたもひ》ぞする 【一云、三諸《みもろ》の山《やま》の石小菅《いはこすげ》】
  見渡 三室山 石穗菅 惻隱吾 片念爲 【一云、三諸山之石小菅】
 
 ○見渡・三室山・石穗菅 舊訓ミワタセバ・ミムロノヤマノ・イハホスゲ。代匠記精ミワタシノ歟。略解ウマサケノ(古義從之)。略解は、ミワタシノと一應訓んでから、解釋のところで美酒の誤としてウマサケノの訓を出してゐる。校本萬葉でウマサケノを古義に始まるとしたのは誤である。○惻隱吾・片念爲 舊訓シノビテワレハ・カタオモヒヲスル。古寫本中シノビニワレハ(【嘉・類・古・細・神・京】)。シノビテワレハ(西・文・温・矢)。カタオモヒスル(古・細・京)。カタオモヒゾスル(神)。カタオモヒヲスル(西・文・温・類・矢)がある。代匠記精カタモヒヲスル。童蒙抄カタモヒゾスル。者ネモコロワレハ・カタモヒスルモ。略解ネモコロワレハ・カタモヒゾスル。古義ネモコロアレハ・カタモヒゾスル。
 『見渡しの三室の山』は、ずつと向うに見える三室山といふので、『此作者ノ家ヨリ近ク見渡サル(667)ル三室山ニヤ』(代匠記精)とある。三室山は三輪山であらうか。卷十三(三二三四)に、水門成海毛廣之見渡島名高之《ミナトナスウミモヒロシミワタシノシマモナタカシ》。同(三二九九)に、見渡爾妹等者立志《ミワタシニイモラハタタシ》。卷九(一七八八)に、振山從直見渡京二曾寐不宿戀流遠不有爾《フルヤマユタダニミワタスミヤコニゾイモネズコフルトホカラナクニ》などの例がある。イハホスゲとは、『石穗管トハ岩ニ生テ引ガタキ菅ナリ。第三譬喩歌ニ石根コゴシミ菅根ヲヒキハカタミトトヨメル意ナリ』(代匠記精)。卷三(三九七)の、奥山之磐本管乎《オクヤマノイハモトスゲヲ》といふなどと相通ふか。ここまでは下のネモコロに續く序詞で、『根《ね》』と、『ねもころ』と同音である。
 一首の意。〔見渡《みわたしの》・三室山《みむろのやまの》・石穗菅《いはほすげ》【序詞】〕。ねもごろに、心の底から、つくづくと、私はただ片戀をして居るので、誠に果敢ない境涯である。
 これも寄v草戀で、片戀の苦しい心のさまを愬へて居るのであるが、それをば序詞を以て續けて、心持を暗指し補充して居るのである。内容が甚だ乏しく、ただ言語の遊戯のやうにおもはれるやうな點もあるが、かうして天然界の實際を持つて來れば、必ずしも空でなくて實質が生じて來るといふことが分かる。
 第三句は考の訓に據つたものだが、舊訓に從つてシノビテと訓むとせば、『見渡シノ三室山ヲバ女ノ家ノ近キニ譬ヘ、石穗菅ヲバ我手ニ入ラヌ、ツラキ人ニ譬ヘテ、ヤガテ其菅根ヲ借テシノビニ吾ハ引得ヌ片思ヲスルトヨメルナリ』(代匠記精)といふことにもならうか。代匠記のは、序詞(668)の意味をも念中に入れての解釋であるから、稍混亂したが、ただの音のみの連續でないことに氣の付いた點は間違つてゐない。併し此處はやはりネモコロと訓んで解釋すべきところであらう。つまり石穗菅の根《ね》と惻隱《ねもころ》のネと同音にしたのである。然し、シノビテとする方では、『忍びも、しなひも同じ詞也。【中略】忍びては、隱れて現れぬの意と、しなひ弱りての意と也』(童蒙抄)といふやうに解釋することも出來るのである。併し今は前説のやうにして解いて置いた。
 此歌、六帖に入り、『見渡せば三室の山の岩ほ菅しのびにわれは片思ひぞする』となつてゐる。また、夫木和歌抄に人丸作とし、『見わたせばみむろの山のいはこすげしのびに我はかた思ひする』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七三〕
  菅《すが》の根《ね》の惻隱《ねもころ》君《きみ》が結《むす》びてし我《わ》が紐《ひも》の緒《を》は解《と》く人《ひと》あらじ
  菅根 惻隱君 結爲 我紐緒 解人不有
 
 ○惻隱君・結爲 舊訓シノビニキミガ・ムスビテシ。童蒙抄シノビテキミガ・ムスビタル。考(669)ネモコロキミガ・ムスビテシ(【古義・新訓同訓】)。略解ネモコロキミガ・ムスビタル。新考ネモコロキミガ・ムスバシシ。○我紐緒・解人不有 舊訓ワガヒモノヲヲ・トクヒトアラメヤ。代匠記初トクヒトハアラジ(【略解・古義同訓】)。考トクヒトアラジ。新考ワガヒモノヲハ・トクヒトアラジ(新訓同訓)。
 菅の根の根《ね》からネモコロのネに續けた枕詞であることは既に云つた。卷二十(四四五四)に、高山乃伊波保爾於布流須我乃根能禰母許呂其呂爾布里於久白雪《タカヤマノイハホニオフルスガノネノネモコロコゴロニフリオクシラユキ》。卷四(五八〇)に、足引乃山爾生有菅根乃懃見卷欲君可聞《アシヒキノヤマニオヒタルスガノネノネモコロミマクホシキキミカモ》といふので分かる。此處で結んで呉れた、『君』は、『妹』であらうから、女のことを『君』といつてゐることが分かる。普通ならば、卷二十(四三三四)の、兒良我牟須敝流比毛等久奈由米《コラガムスベルヒモトクナユメ》。人麿作、卷三(二五一)の、濱風爾妹之結紐吹返《ハマガゼニイモガムスビシヒモフキカヘス》の如く、妹《いも》又は兒等《こら》などと云つて居る。或は卷十五(三七一七)の、多婢爾弖毛母奈久波也許登和伎毛故我牟須比思比毛波奈禮爾家流香聞《タビニテモモナクハヤコトワギモコガムスビシヒモハナレニケルカモ》の如く、吾妹子《わぎもこ》と云つてゐる。
 一首の意。〔菅根《すがのねの》〕懇《ねんご》ろに、心を籠めてあなたが結んで呉れたこの衣の紐をば、解く人はあるまい。あだし女には決して解かしめない。『解人不有《トクヒトハアラジ》は、君をおきて他に解(ク)人はあらじとなり』(古義)。
 寄v草戀で、極めて普通の歌であるが、それでも何處かに旨いところがあつて棄てがたいのは萬葉の歌である。卷七(一三二四)に、葦根之懃念而結義之玉緒云者人將解八方《アシノネノネモコロモヒテムスビテシタマノヲトイハバヒトトカメヤモ》といふのも類想の歌(670)で、民謠風にしてひろがつたものであらう。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七四〕
  山菅《やますげ》の亂《みだ》れ戀《こひ》のみ爲《せ》しめつつ逢《あ》はぬ妹《いも》かも年《とし》は經《へ》につつ
  山菅 亂戀耳 令爲乍 不相妹鴨 年經乍
 
 第三句、『令爲乍』は、舊訓セサセツツ。代匠記初書入(校本萬葉)セシメツツ。略解セシメツツ。古義も同じ。山菅のは枕詞で、亂れにかけてゐる。『亂れ戀』といふ語はおもしろいあらはし方とおもふが、新考では、『亂と戀とをおきかへてコヒミダレノミとよむべし』と云つた。これは吾等にはどちらでもいいが、新考のは常識だからひよつとせば原作はさうであつたかも知れない。ただミダレコヒといふ語を尊重して取つて置きたいのである。かくばかり苦しませて、戀のために心を亂さしめつつ、それでも逢つてくれないといふ氣持であるから、やはり戀を下に置いた方がいいではあるまいか。
 ミダレコヒといふ熟語は集中これだけらしくおもしろいが、『葦垣《あしがき》の思ひ亂れて』(【卷九・一八〇四・卷十三。三二七二】)(671)とか、『苅薦《かりこも》の念ひ亂れて』(【卷十一。二七六四・二七六五】)とか、『山菅《やますげ》の念ひ亂れて』(卷十二。三二〇四)とか、『菅の根の念ひ亂れて』(卷四。六七九)とかいふ例は集中に多い。第三句は、ただ『せしめつつ』のみであるが、これも調べを伸ばした一つの例で、後世の歌の調べのやうにだらだらと弛ませずに、かく伸び伸びと調べるのもまた萬葉調の一つの特色だといふことを知るべきである。
 この歌は、六帖に入り、下句『せさせつついはぬ妹かも年はへつつも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七五〕
  我《わ》が屋戸《やど》の軒《のき》の子太草《しだくさ》生《お》ひたれど戀忘草《こひわすれぐさ》見《み》るに未《いま》だ生《お》ひず
  我屋戸 甍子太草 雖生 戀忘草 見未生
 
 ○雖生 舊訓オフレドモ。古寫本にはシゲレドモ。オフレドモの二訓がある。代匠記オフレドモ(考・略解同訓)。童蒙抄オヒタレド(【古義・新考・新訓同訓】)。○見未生 舊訓ミレドマダオヒズ。代匠記初書入(校本萬葉)ミルニマダオヒズ。代匠記精に『見ハミルニトヨムベシ』。童蒙抄ミレドモオヒズ。考ミレトイマダオヒズ(【略解・古義同訓】)。新考ミルニイマダオヒズ(新訓同訓)。
(672) 『甍子太草《のきのしだくさ》』は、屋根の上などに生える羊齒に形の似たもので、植物學上の嚴密な草でなくともかまはない。細かい葉の羊齒類の一種と看做していい。代匠記初に、『軒のした草はしのふ草なり。【中略】此哥は、人をこひしのふ心はいやまされども、わすれむとすれどわすれぬを、ふたつの草の名にもたせていへるなり』とあり、代匠記精に、『甍《ノキ》ノ下草ハ陰草ナリ。此ニ依テ六帖ニモ下草ノ歌トセリ。俗ニモアマシダリノ落ルヨリ内ヲ、軒ノ下トゾ申ス。第十ノ思草ノ下ニ注セシ如ク、陰草ヲ思草ト云ナルベケレバ、思ヒハマサレド忘ルル事ハナキヲ、二ツノ草ノ名ニヨセテヨメルナルベシ。和名集云。蘇敬本草注云、屋遊【和名夜乃倍乃古介。】屋(ノ)瓦(ノ)上(ノ)青苔衣(ナリ)也。又云。本草云,垣衣一名烏菲【和名之乃布久佐。】カクアレバ、垣衣ハ築墻《ツイヒヂ》ニ生ルヲ云ベケレド、本草ニ垣衣ノ下ニ生古垣墻或屋上ト云ヒ、軒ノシノブト讀ハ常ノ事ナレバ、甍子太草ハ、シノブニテ、人ヲシノブ心ハマサレド忘ルル事ハ出|來《コ》ズトヨメルニヤトモ思フ人アルベケレド、初ニ六帖ヲ引テ證スルガ如シ』とあるが、今しばらく羊齒草《しだくさ》の意にとつて置く。
 一首の意。私の家の軒のところに羊齒草《しだくさ》(しのぶ草)が生えたけれども、戀を忘れるといふ忘草《わすれぐさ》、即ち萱草《くわんざう》は何處を見ても未だ生えて居らん。
 これも、寄v草戀で、民謠的な歌の輕快を示してゐる。一方はシダといつても、シノブといふ名も既にあつたかも知れない。さうすれば代匠紀で解説したごとく、一方はシノブで、一方はワス(673)ルだから對立することとなり、忘れられない戀を象徴することとなるのである。民謠風の萬人向の歌の面白さはかういふ特徴を皆持つてゐるのであるから、直ちに棄ててしまはずに味ふ方が好い。
 萱草をワスレゲサといふのは、和名鈔に、※[言+爰]草、萱草、一名、忘憂、和須禮久佐とあり、萬葉卷十二(三〇六二)に、萱草垣毛繁森雖殖有鬼之志許草猶戀爾家利《ワスレグサカキモシミヽニウヱタレドシコノシコグサナホコヒニケリ》といふのがある。
 此歌は、袖中抄第十五に、『ワカヤトノヽキノ下草オフレトモコヒワスレ草ミレトオヒセス』として載り、六帖に、人麿作、『わがやどの軒の下草生ふれども戀忘草見れどまだ生ひず』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七六〕
  打《う》つ田《た》にも稗《ひえ》は數多《あまた》にありといへど擇《え》らえし我《わ九》ぞ夜《よる》ひとり宿《ぬ》る
  打田 稗數多 雖有 擇爲我 夜一人宿
 
 ○打田・稗數多・雖有 舊訓ウツタニモ・ヒエハカズアマタ・アリトイヘド。代匠記初ヒエハ(674)アマタニ。又はヒエハカズアマタ。童蒙抄ヒエハアマタニ・アリヌレド。考ヒエハアマタニ・アリトイヘド(【略解・古義・新訓同訓】)。新考ウツタニハ・ヒエハココダクアリトイヘド。打田は、打ちかへして稻を植ゑる田の意で、稗は食用植物であるが、稻と較べれば寧ろ救荒植物といへるから、この歌の場合には、邪魔物と看做され、自分を稗と看做して卑下して居るのである。○擇爲我・夜一人宿 舊訓エラレシワレヲ・ヨルヒトリヌル。代匠記初エラレシワレゾ。童蒙抄エラレシワレゾ・ヨヲヒトリヌル。考エラレニシワレゾ・ヨルヒトリヌル。略解エラエシワレゾ・ヨルヒトリヌル(【こぎ・新訓同訓但し古義アレゾ】)。新考エラシシワレゾ・ヨヲヒトリヌル。
 一首の意。打ち鋤返して稻を栽ゑる田にでも稗が雜つて津山あるといふから、さう稗だからと謂つて除《の》けものにしなくともいいとおもふのだが、擇《え》られて棄てられる。そのやうに私も擇《え》られて棄てられたから、夜も寂しくも獨りで寢て居る。除け者にされた私には女が誰一人來ない。
 これは寄v草戀でも、稗のことを主にして歌つてゐるから、青年農夫の心持で極めて野趣に滿ちてゐる。それのみでなく、稗を擇るといふ農業上の作業を寫生して來て、戀愛と結付けたもので、民謠、勞働歌としても特殊でおもしろいものである。卷十二(二九九九)に、水乎多上爾種蒔比要乎多擇擢之業曾吾獨宿《ミヅヲオホミアゲニタネマキヒエヲオホミエラエシワザゾワガヒトリヌル》といふのがあるが、内容が甚だ似て居るから、民謠風の歌はかうして姿を
 
(675)          ○
 
  〔卷十一・二四七七〕
  あしひきの名《な》におふ山背《やますげ》おしふせて君《きみ》し結《むす》ばば逢《あ》はざらめやも
  足引 名負山菅 押伏 公結 不相有哉
 
 ○名負山菅・押伏 舊訓ナニオフヤマスゲ・オシフセテ。略解宣長説、『宣長は名負は必ず誤字なるべし。押は根の誤にて、ネモコロニならんと言へり。猶考ふべし』。古義ヤマノヤマスゲ・ネモコロニ。○公結・不相有哉 奮訓キミシムスババ・アハズアラメヤ。童蒙抄キミガムスババ。考キミシムスババ・アハザラメカモ。略解キミシムスババ・アハザラメヤモ(【古義・新考・新訓同訓】)。草を結ぶのは、誓ふことのほかに、逢ふことの出來ること、事の成ること、無事なること等の民間信仰があつたものである。
 一首の意。山といふ名のついて居る山菅《やますげ》(藪蘭《やぶらん》の類)をば押し伏せて無理に結ぶといふならば、お逢ひもいたしませう。お逢ひしないこともないでせう。
 この歌は、寄v草戀即ち山菅を聯想としたものだが、『山菅押し伏せて』といふ言ひ方に特徴が(676)ある。無理に力を用ゐて、強ひてといふ氣特があるので、代匠記初稿本に、『おしふせて君しむすばばとは、かの山菅のなびくをも、なびかぬをもいはず、おしふせてむすぶごとく、まことにおもふ心のせちにて、理非をいはず我にあはむとおもふほどならば、我あはざらめやとなり』とある通りである。新考に、『案ずるにアシヒキノは名ニオフを隔てて山菅にかかり又名ニオフは實ナルチフ名ニオフといふべきを略せるなり。【中略】一首の意は、實ガナルトイフ名ニ負ヘルメデタキ山菅ナレバソレヲ押伏セ結ビテ祝ヒタマハバ再逢ハザラムヤハ、必逢フ事アルベシといへるならむ』とあるのは、少し穿ち過ぎたかも知れない。卷四〔五三九)に、吾背子師遂常云者人事者繁有登毛出而相麻志呼《ワガセコシトゲムトイハバヒトゴトハシゲクアリトモイデテアハマシヲ》とあるのも同じやうな心理の歌で、女性の靡いてゆく甘美の經路をあらはしてゐる。
 草木を結ぶ例は既に引用したとおもふが、なほ一二をいふなら、卷一(一〇)に、君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去來結手名《キミガヨモワガヨモシレヤイハシロノヲカノクサネヲイザムスビテナ》。卷二(一四一)に、磐白乃濱松之枝乎引結眞幸有者亦遠見武《イハシロノハママツガエヲヒキムスビマサキクアラバマタカヘリミム》。卷六(一〇四三)に、靈剋壽者不知松之枝結情者長等曾念《タマキハルイノチハシラズマツガエフムスブココロハナガクトゾオモフ》などがある。
 
          ○
 
(677)  〔卷十一・二四七八〕
  秋柏《アキガシハ》潤和川邊《いりわかはべ》の篠《しぬ》のめの人《ひと》に忍《しぬ》べば君《きみ》に堪《た》へなく
  秋柏 潤和川邊 細竹目 人不顔面 公無勝
 
 この歌舊訓、秋柏潤和《あきがしはぬるや》川べの細竹目《しののめ》に人も相見《あひみ》し君に勝《まさ》らじ。考の訓。秋柏|潤和《ウルヤ》川べのシヌノメノヒトニシヌベバキミニタヘナク。略解がそれに據り、又第二句をウルワカハベノと訓んだ。新考はヒトニシヌベドと訓んだ。なほ諸訓をあげれば、代匠記は、下句をヒトニハアハジキミニマサナク(初)。キミニマスナシ(精)などとも訓み、童蒙抄宗師案『うるやかはべのしののめにしのびてのみぞきみをまく也』。新訓『しぬのめに人には逢はじ君にたへなく』等である。初句は枕詞だが説があり、契沖は朝柏《あさがしは》の誤だらうとも云つてゐるが、説未定である。契沖が、朝柏云々と云つたのは、この卷(二七五四)に、朝柏閏八河邊之小竹之眼笶思而宿者夢所見來《アサガシハウルヤカハベノシヌノメノシヌビテヌレバイメニミエケリ》といふ歌のあるのを參考したのであつただらうか。それほどこの二つの歌が類似してゐる。代匠記には、『秋ノ柏ハ夜霧朝露ニヌルル意ニ潤和川トツヅク』といひ、新考では、『カシハは食物を盛る料なる木葉をいふ。さて秋の木葉又朝つみたる木葉は露にうるひたれば秋ガシハウルワ川邊ノまた朝ガシハウルハ河邊ノといへるなり』といつてゐる。潤和川は代匠記に、『何レノ國ニ有ト云事ヲ知ラ(678)ズ』と注し、略解では、『打まかせて言はば畿内にあるべし』といひ、新考では、播磨明石郡伊川谷村大字|潤和《ジユンナ》だらうかと云つてゐる。この歌は、シヌノメのシヌブと同音で續けた序歌である。内容は、『人にしぬべば君にたへなく』にあり、人目を忍び憚《はばか》り遠慮し隱れてゐるものだから、しじゆうお逢するわけにゆかずに、君に對する思ひに堪へがたいといふのである。
 この歌はさういふ簡單な歌だが、代匠記などで、『人不顔面トハ、君ナラヌ人ヲバ細目ニモ見ジトナリ』等と解釋し、童蒙抄なども面倒なことをいひ、新考で、『ヒトニシヌベド|下〔右△〕キミニタヘナクとよみて餘人ニ對シテハ堪忍ベドモ君ニ向ヘバ堪忍バレヌ事ヨといふ意とすべし』と解釋してゐるのは甚だまづい。ここは平凡に、『さて人目《ひとめ》をしのぶ故に、公《きみ》に逢がたくして思ひに堪ざる也』(考)。『人目をしのびかくるれば、あふことのならぬ故に、公を戀しく思ふ心のたへられず、さりとてほに出むも、さすがにおもはゆげなれば、いかにともせむかたなきものを、と云なるべし』(古義)などの解釋の方がいいやうである。なほ、この歌は男の歌か女の歌かといふにやはり女の歌であらう。公《きみ》と書いてあるのは男のことを指したのであらう。寄v草戀で、序詞は例の如くに寫生から來て居り、具體的でなかなか好い。下の句は、調が伸び抽々としてゐる點が好く、『君に』と云つて、直ぐ『堪へなく』と續けて止めたのは切實で好い。此處でもやはり、『君に』と『に』を用ゐて居る。
(679) この歌は袖中抄に、『アキカシハヌルワカハヘノ細竹目《シノヽメニ》人モアヒミスツマナキカチニ』として載つてゐる。また六帖には、第四の『雜の思』に、『あさ柏ぬるや川べのしののめに人もあひあはずきみなしかちに』と載り、第五の『くれどあはず』に人麿作として、『あき柏ぬるや川べのしののめに人もあひみずつまなしかちに』と載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七九〕
  さね葛《かづら》のちも逢《あ》はむと夢《いめ》のみに祈誓《うけ》ひわたりて年《とし》は經《へ》につつ
  核葛 後相 夢耳 受日度 年經乍
 
 ○夢耳 舊訓ユメニノミ。代匠記精ユメノミヲ。考イメヲノミ。古義イメノミニ。新考(夢は裏の誤)シタノミニ。○受日度 舊訓ウケヒゾワタル。考ウケヒワタリテ。
 一首の意。今は逢へないから後の機會に逢はう。そこで今は夢にだけなりと逢ひたいと神樣に祈りながら、實際は逢ふことが叶はずに歳月が經つてしまつた。この一首は、『さね葛のちも逢はむと。年は經につつ』が主で、その間に、『夢のみに祈誓ひわたりて』を插入したものとせば理會(680)し易い。私は以上のやうに解釋したが、古義の解釋は少し違ふから參考のため記し置く。『今こそあれ、後にはあはむと、神に誓ひて、ただ夢に見るばかりにて、其をたのみに思ひつつ、年月を經度れども、つひにあふ事もなし、となり』(古義)。
 卷十三(三二八〇)に、左奈葛後毛相得名草武類心乎持而三袖特床打拂卯管庭君爾波不相夢谷相跡所見社天之足夜于《サナカヅラノチモアハムトナグサムルココロヲモチテミソデモチトコウチハラヒウツツニハキミニハアハズイメニダニアフトミエコソアメノタリヨニ》。卷十二(二八八〇)に、得管二毛今見牡鹿夢耳手本纏宿登見者辛吉毛《ウツツニモイマモミテシカイメノミニタモトマキヌトミレバクルシモ》。卷十五(三四七一)に、思麻良久波禰都追母安艮牟乎伊米能未爾母登奈見要都追安乎禰思奈久流《シマラクハネツツモアラムヲイメノミニモトナミエツツアヲネシナクル》。卷四(七七二)に、夢爾谷將所見常吾者保杼毛友不相志思者諾不所見武《イメニダニミエムトワレハホドケドモアハズシオモヘバウベミエザラム》。卷十九(四二三七)に、寤爾等念※[氏/一]之可毛夢耳爾手本卷寢等見者須便奈之《ウツツニトオモヒテシカモイメノミニタモトマキヌトミルハスベナシ》などの例があり、卷四(七六七)に、都路乎遠哉妹之比來者得飼飯而雖宿夢爾不所見來《ミヤコヂヲトホミヤイモガコノゴロハウケヒテヌレドイメニミエコヌ》があつて、類似してゐる。家持の此歌は或は人麿歌集の影響であらうか。
 この歌も寄v草戀で、男の歌でもよく女の歌でもよいが、先づ男の歌として好いであらうか。人麿作、卷二(二〇七)の、狹根葛後毛將相等大船之思憑而《サネカヅラノチモアハムトオホフネノオモヒタノミテ》をはじめ、類例があるが、この例も、或は人麿の工夫になつたものではなからうかとおもはしめる點がある。併し、この歌は樂《らく》に作つてあるから、同じ人麿作と想像しても、民謠的に作つたもので、精神を引きしぼつたものではない。そこに差別があるのである。
(681) この歌は袖中抄第二十に、『サネカツラ後ニアハムトユメニノミ受日《ウケヒ》ソワタルトシハヘニツヽ』として載つて居る。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八〇〕
  路《みち》の邊《べ》の壹師《いちし》の花《はな》のいちじろく人《ひと》皆《みな》知《し》りぬ我《わ》が戀妻《こひづま》は 【或本歌云、著《いちじ》ろく人《ひと》知《し》りにけり繼《つ》ぎてし念《おも》へば】
  路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀嬬 【或本歌云、灼然人知爾家里繼而之念者】
 
 ○我戀嬬 奮訓ワガコヒヅマハ。童蒙抄ワガオモヒヅマ。古義アガコフルツマ。古寫本中、ワガコヒツマト(【嘉・類・古・細・神】)。古寫本の訓の『と』は、戀妻だといふことを。戀妻として。などの意味になるのだらうが、此處は、『は』の方が順當であるだらう。新考では、ヒトミナシリツ・ワガコモリヅマと名詞止としたが、多くの古寫本も、『戀※[女+麗]』であるから、コモリの訓は出て來ない。壹師《いちし》は白井光太郎博士はチシヤの木だらうと云つた。一名エゴ、ロクロ木、ヅサ、ヂナイ等ともいふ。エゴの木だとすると齊※[土+敦]果《えご》科の落葉小喬木で挽物細工などにもするものである。併し、この歌は寄v草戀らしいから、さうすれば、何かの草であらう。そこで、羊蹄菜《ぎしぎし》だらうといふ説があ(682)る。ギシギシはシブクサともいひ、蓼科羊蹄屬の草本で春五月頃花が開くものである。代匠記では、オホシ即ち、和名鈔の本草云、大黄一名黄良【和名於保之】だらうと云つてゐる。蓼科の藥用植物で大羊蹄とも云ふ。ギシギシと同科である。
 イチシとイチジロクとイチシが同音だから序詞としたもので、我が戀妻のことは人が皆知つてしまつた。折角隱して置いたのに、といふ意で、かういふ云ひ方をするのはやはり民謠的で誰の心にも通ずる流傳性を持つてゐる。『いちじろく』も萬葉に多い語だが、これも當時の人の語感が分かつて面白い。卷十二(三〇二一)に、市白久人之可知歎爲米也母《イチジロクヒトノシルベクナゲキセメヤモ》。卷十七(三九三五)に、志良奈美能伊知之路久伊泥奴比登乃師流倍久《シラナミノイチジロクイデヌヒトノシルベク》等の例がある。
 『或本歌云』は歌の次に、同じ大さで書いてあるのを、便利のために小文字に書いて置いた。古寫本中、小文字で書いたのもある(類・古・神)からである。これは以前に出たのも同樣である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八一〕
  大野《おほぬら》にたどきも知《し》らに標繩《しめ》結《ゆ》ひて在《あ》りぞかねつる吾《わ》がこふらくは
 大野 跡状不知 印結 有不得 吾眷
 
(683) ○大野・跡状不知 舊訓オホノラノ・アトカタシラズ。童蒙抄ヒロキノニ・ソコトモシレズ。考オホノラノ・タヅキモシラズ。略解オホノラニ・タヅキモシラズ。古義オホヌラニ・タヅキモシラズ(新考同訓)。新訓オホヌニ・タドキモシラニ。○有不得・吾眷 舊訓アリトモエメヤ・ワガカヘリミム。古寫本アリトモエズヤ(【文・西・細・神】)。代匠記初アリカネヌレバ・ワガカヘリミシ。代匠記精アリトモエメヤ・ワレカヘリミム。アリシカヌレバ・ワガカヘリミシ。童蒙抄アリハエズトモ・ワレカヘリミム。考アリガテマシヤ・ワガカヘリミバ。略解アリガテマシモ・ワガカヘリミバ。略解宣長訓(眷は戀の誤)アリゾカネツル・ワガコフラクハ。古義(眷は戀と通用)アリゾカネツル・アガコフラクハ。新考アリガテナクモ・ワガコフラクハ。新訓アリモカネツツ・ワガカヘリミシ。
 一首の意は、大野に當所《あてど》もなくとりとめなく標《しめ》を結つたごとくに、もうどうしたらいいか分からない、わが戀の有樣は。といふぐらゐの意か。『とりとめもなき大野の原に、標繩ゆひまはしたるごとく、無益なる戀を爲《シ》はじめて、わがこふることは、あるにもあられぬことになりぬるよ』(古義)。
 初句オホヌニと四音にするよりも、オホヌラニと訓めば調をなす。古寫本の訓を尊重して五音にした。卷十二(二九四一)の、跡状毛我者《タドキモワレハ》を參照して、考・新訓の訓に從つて、タドキモシラニ(684)とした。宣長がワガコフラクハと訓んだのに從つて、古義の解をも引用して解釋したのであるが、もとの儘で、眷をカヘリミルと訓み、アリトモエメヤ・ワガカヘリミムとせば、『大野ニ跡状知ラズ結シメノ如ク、我思ヒモハカナキ事トハ知ナガラ、サテモ有カヌレバ猶其野ヲ立歸リ見ル如ク戀シキ心ノ立カヘルナリ』(代匠記精)といふぐらゐになるのであらうか。或は『大野ノ原中ニトリトメモナク標繩ヲ張ツタヤウナ甲斐ナイ約束ヲシタノデ、不安心デジツトシテ居レナイノデ、私ハ又女ノトコロヘ行ツテ見タ』(全釋)となるのであらうか。代匠記や新訓のカヘリミシよりも、考のカヘリミバの方が調べが好いから、カヘリミルと訓まば、それにしたい。カヘリミシでは弱過ぎて据ゑることが出來ぬ。
 卷十一(二五〇一)に、里遠《サトトホミ》〓|浦經眞鏡床重不去夢所見與《ウラブレヌマソカガミトコノヘサラズイメニミニコソ》があり、此は後に評釋する筈であるが、〓は古寫本(文・細・温)には眷になつて居り、卷十一(二六三四)に、里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミコヒワビニケリマソカガミオモカゲサラズイメニミエコソ》とあるのに雅澄が目を附けて、それから類推して、眷をコフと訓んだのである。そして、『此(ノ)處と合せて、戀(ノ)字を書べき所に、通(ハシ)用たるを知べし。もしは眷《カヘリ》み慕ふ義もて書るにや』(古義)と云つたのは、大に注意すべき言説である。眷は顧と共に思ひ慕ふ意があり、『哀悲眷〔二字右○〕戀不2敢違距1』(晉書)、『眷戀〔二字右○〕想2平素1』(潘岳)とあるのが其證である。又、眷は※[目+卷]にも作る。※[目+卷]には戀ふる意があつて、詩經の、『※[目+卷]※[目+卷]懷顧』は、眷眷と同じである。さうして見れば、眷をコ(685)フラクハと訓んだのは、善訓で且つ正訓であつて、略解宣長説のやうに、必ずしも、『戀』の誤としなくともいい。ただこれを直覺に據つてワガコフラクハと訓まうとした宣長の神經を尊敬せねばならない。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八二〕
  水底《みなぞこ》に生《お》ふる玉藻《たまも》のうち靡《なび》き心《こころ》は依《よ》りて戀《こ》ふるこのごろ
  水底 生玉藻 打靡 心依 戀比日
 
 ○戀比日 寛永本は比が此になつてゐるのを、古寫本(【嘉・類・文・細・西・神・温・矢・京】)によつて改めた。舊訓ココロヲヨセテ・コフルコノゴロ(【代匠記・童蒙抄・考・略解・古義同訓】)。新考ココロユヨリテ。新訓ココロハヨリテ。卷十三(三二六六)に、打靡情者因而《ウチナビキココロハヨリテ》とあるから、調もそれで好いやうである。
 一首の意。水の底に生えてゐる玉藻が靡きよるやうに【序詞】うち靡き心が寄つて行つて戀に斷えず悩んで居るけふこのごろよ。
 寄v草戀で、人麿の長歌にも幾つか同じやうな表現があつたが、人麿の歌を讀んで來てこの歌に(686)至れば誠に平凡に聞こえる。併しこの歌も人麿の作とせば、同一人の力量でも、心の構へ方によつて、その聲調も變つてくる實例として、鑑賞上大切な材料の一つとなるのである。
 此歌は拾遺集に人麿作として入り、下句『心をよせて戀ふるころかな』となつてゐる。また六帖にも人麿作とし、柿本集にも入り、共に下句『心をよせて戀ふるこのごろ』である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八三〕
  敷妙《しきたへ》の衣手《ころもで》離《か》れて玉藻《たまも》なす靡《なび》きか寢《ぬ》らむ吾《わ》を待《ま》ちがてに
  敷栲之 衣手離而 玉藻成 靡可宿濫 和乎待難爾
 
 第三句、舊訓タマモナルであるが、古寫本中既にタマモナスと訓んだのがある(西・細・神・温)。略解に、『シキタヘノ枕詞。衣手カレテは、我が袖を離れてと言ふ意なり。妹が我を待ち兼ねて、玉藻の如く靡き伏せるらんとなり』で、一首の意味が分かる。
 これも寄v草戀であらう。この歌は、女が自分を待かねて、獨りで寐る時の容子をおもひやつて、それに一種の戀愛的快感を感じつつ咏んでゐるのである。これは人麿の長歌に挽歌の時の表現に(687)似たやうなものがあつた。その官能的な所で一種の戀歌になるのである。それから、ナビキヌルといつても共に寢るときにも使ふし、衣を敷いてなよなよと獨りで寐るときにも使ふ。また、『衣手かれて』といふ言ひ方も、自分の衣手離れで、男が離れて居る趣に使つて居り、やはり注意していいとおもふ表現である。本卷(二六〇七)に、敷細之衣手可禮天吾乎待登在濫子等者面影爾見《シキタヘノコロモデカレテワヲマツトアルラムコラハオモカゲニミユ》とあるのは、やはりコロモデカレテの語が入つてゐるのみならず、その姿が大に好く似てゐる。おもふに、人麿歌集の歌の異傳であらうか。それとも民謠風に吟誦せられつつ、改作模倣せられたものであらうか。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八四〕
  君《きみ》來《こ》ずは形見《かたみ》にせむと我二人《ワガフタリ》植《う》ゑし松《まつ》の木《き》君《きみ》を待《ま》ち出《い》でむ
  君不來者 形見爲等 我二人 植松木 君乎待出牟
 
 ○我二人 舊訓ワレフタリ。童豪抄ワガフタリ(【略解・新訓同訓】)。古義カタミニセヨト・アトフタリ。○君乎待出牟 舊訓キミヲマチイデム。考キミヲマチデナ。略解宣長訓キミヲマチデネ(【古義・新考同訓】)。
(688) 一首の意。あなたがお出でにならぬ時に、あなたの形見《かたみ》としてあなたと思つて眺めてゐませうと話合つて、二人で植ゑた松の樹です。この松の樹は、待《まつ》といふ名のついてゐる樹であるから、この寂しい私に同感して、いつまでもあなたを待つてくれるでございませう。
 マチ・イデムといふ表はし方が注意せられるが、つまり、卷十一(二六八八)に、待不得内者不入《マチカネテウチヘハイラジ》の如くに、待つて家から外へ出るやうな能働的な氣持をあらはすのである。同卷(二八〇四)に、高山爾高部左波高高爾余待公乎待將出可聞《タカヤマニタカベサワタリタカダカニワガマツキミヲマチイデムカモ》とある、マテイデムと同じ用法である。
 寄v木戀であるが、必ずしも題咏臭のないところがよく、自然にこだはりなく運ばれてゐる。松のマツといふ音は待に通ずるので、昔からこんなことが男女間に行はれてゐたのであつただらう。卷十三(三三二四)の、遠人待之下道湯登之而國見所遊《トホツヒトマツノシタヂユノボラシテクニミアソバシ》は、松のことであるが、待に共通せしめてゐるのを見てわかるのである。
 參考歌として、卷八(一四七一)の、戀之家婆形見爾將爲跡吾屋戸爾殖之藤浪今開爾家里《コヒシケバカタミニセムトワガヤドニウヱシフヂナミイマサキニケリ》。卷十六(三七九一)長歌の、後之世之竪監將爲迹老人矣送爲車持還來《ノチノヨノカタミニセムトオイビトヲオクリシクルマモチカヘリコシ》等をしるし置く。
 
          ○
(689)  〔卷十一・二四八五〕
  袖《そで》振《ふ》るが見《み》ゆべきかぎり吾《われ》はあれど其《そ》の松《まつ》が枝《え》に隱《かく》りたりけり
  袖振 可見限 吾雖有 其松枝 隱在
 
 舊訓ソデフルヲ・ミルベキカギリ。代匠記精ソデフラバ。略解ソデフルガ・ミユベキカギリ。舊訓カクレタリケリ。古義カクリタルラム。新考カクリタルラシ。新訓カクリタリケリ。
 一首の意。妹《いも》の袖振るのが見える限りは私は別を惜しむのだが、あの松の枝が邪魔をして見えなくなつた。嗚呼殘念なことだ。
 代匠記に、『その松かえは、上の哥によめる松をさせり』(初)、略解に、『男の歌なり。妹と別るる時、妹が袖ふるを言ふ。其松ガエは上の歌に言へる松を言ふ』とあるのを顧慮すれば、此歌は前の歌に應へた趣になつて居るのであるが、必ずしもさう即せしめずに味ふことも出來るものである。
 カギリの例は、卷四(五九五)に、吾命之將全幸限忘目八彌日異者念益十方《ワガイノチノマタケムカギリワスレメヤイヤヒニケニハオモヒマストモ》。卷二十(四四四一)に、多知之奈布伎美我須我多乎和須禮受波與能可藝里爾夜故非和多里奈無《タチシナフキミガスガタヲワスレズハヨノカギリニヤコヒワタリナム》。卷五(八八一)に、加久能未夜伊吉豆伎遠良牟阿良多麻能吉倍由久等志乃可伎利斯良受提《カクノミヤイキヅキヲラムアラタマノキヘユクトシノカギリシラズテ》等があり、既に評釋した、卷(690)十の人麿歌集の歌(一八九一)の例もある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八六〕
  血沼《ちぬ》の海《うみ》の濱邊《はまべ》の小松《こまつ》根《ね》深《ふか》めて吾《わ》が戀《こ》ひわたる人《ひと》の子《こ》ゆゑに
  珍梅 濱邊小松 根深 吾戀度 人子※[女+后]
 
 『人子※[女+后]』の※[女+后]を考では故に改めた。併し清水濱臣の考證があつて(【略解卷十一上追加】)、※[女+后]は妬の訛で、また遊仙窟の、『無情明月故臨v※[窗/心]』を、『あぢきなきありあけづきのみぞねたましげ〔五字右○〕にまどにいる』と訓んでゐたについて、『いにしへは故・妬〔二字右○〕通じ用ひしものと見ゆ。されば互に相通はして、ゆゑ〔二字右○〕といふにも妬の字を用ひしなるべし』と云つたが、木村博士の訓義辨證【下卷】には、濱臣のにも賛成せずして、龍龕手鑑の※[女+戸]、妬、※[女+后]。一切經音義の、嫉※[女+后]、嫉〓を引いて、※[女+后]は妬の俗體だとし、『詩小星序の箋に、以(テスルヲ)v色(ヲ)曰v※[女+戸](ト)、また玉篇に※[女+戸]【丹故切、爭色也】妬【同上】とあれば、人妻の我おもふままならぬを、ねたくおぼゆる意をもて、かける文字なるべし。さるによりて、人子※[女+后]、また人妻※[女+后]とある所にかぎりて、ただにゆゑ〔二字右○〕といふべき所に用ゐたるはなき也』と云つてゐる。卷十一(二三六五)に、(691)宮道爾相之人妻※[女+后]《ミヤヂニアヒシヒトヅマユヱニ》。卷十二(三〇一七)に、人之子※[女+后]戀渡青頭鷄《ヒトノコユヱニコヒワタルカモ》。同(三〇九三)に、人妻※[女+后]爾吾戀二來《ヒトヅマユヱニワレコヒニケリ》がある。
 一首の意は、茅渟《ちぬ》の海の濱べに生えて居る松の樹の根の深いごとく【序詞】心を深く、心の底から、私は斷えず戀をして來てゐる。あの人妻《ひとづま》に。といふのである。
 寄v木戀だが、茅渟の海即ち今の大阪の南から堺市に至る海の邊を咏んで居るから、あの邊の經驗を念中に置いて、民謠風に咏んだものである。人妻であつて、戀の未だ成就しない趣であるから、『※[女+后]』の文字を使つたことに理會が附くわけである。卷二(一二二)に、大船之泊流登麻里能絶多日二物念痩奴人能兒故爾《オホフネノハツルトマリノタユタヒニモノモヒヤセヌヒトノコユヱニ》。卷十一(二三六七)に、海原乃路爾乘哉吾戀居大舟之由多爾將有人兒由惠爾《ウナバラノミチニノレレヤワガコヒヲラムオホフネノユタニアルラムヒトノコユヱニ》。あとは、既出の卷十二(三〇一七)のがある。この固有名詞から推して、茅渟海をおもひ浮べ得る大和地方の民謠として役立つたものかも知れず、その頃の人々は人麿作と看做してゐたものであつただらうか。何の苦もなく自由に一首を爲上げてゐることこのあたりの全體の歌同樣である。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、下句『われ戀ひわたるひとのこゆへき』となつてゐる。
 
          ○
 
(692)  〔卷十一・二四八六、或本歌〕
  血沼《ちぬ》の海《うみ》の潮干《しほひ》の小松《こまつ》懃《ねもころ》に戀《こ》ひやわたらむ人《ひと》の兒《こ》ゆゑに
  血沼之海之 塩干能小松 根母己呂爾 戀屋度 人兒故爾
 
 この歌は前の歌と大同小異で、潮干になると根があらはれるから、根《ね》とネモコロと同音で續けたものである。コマツは、語感が、現在謂ふ稚い松といふのでなしに、もつと大きいのでもいふやうであつて、コは愛憐のための接頭語であらうか。卷一(一一)の、小松下乃草乎苅核《コマツガシタノクサフカラサネ》。卷二(一四六)の、磐代乃子松之宇禮乎又將見香聞《イハシロノコマツガウレヲマタミケムカモ》。卷四(五九三)の、楢山之子松下爾立嘆鴨《ナラヤマノコマツガモトニタチナゲクカモ》。卷十(二三一四)の、卷向之檜原毛未雲居者子松之末由沫雪流《マキムクノヒハラモイマダクモヰネバコマツガウレユアワユキナガル》などの例を見て悟るべきである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八七〕
  奈良山《ならやま》の小松《こまつ》が末《うれ》の何《うれむ》ぞは我《わ》が思《も》ふ妹《いも》に逢《あ》はず止《や》みなむ
  平山 子松未 有廉叙波 我思妹 不相止者
 
(693) ○平山・子松未・有廉叙波 流布本、『小松未』は、古寫本によつて『小松末』に改めた。舊訓ナラヤマノ・コマツガウレユ・アレコソハ。代匠記精コマツガウレノ、ウレムゾハ。○我思妹・不相止者 舊訓ワガオモフイモニ・アハズヤミナメ。代匠記精ワガモフイモニ・アハデヤミナム。又はワガモフイモガ・アハデヤメテフ。考アハデヤミナメ、者は嘗の誤。略解ワガオモフイモニ・アハズヤミナム。古義アガモフイモニ・アハズヤミナム。新考ワガモフイモニ・アハズヤミナム。
 第二句までは、ウレムゾに續く序で、奈良の山の松の木の末《うれ》(梢)から同音のウレムゾにつづけた。ウレムゾは、卷三(三二七)に、海若之奧爾持行而雖放宇禮牟曾此之將死還生《ワダツミノオキニモチユキテハナツトモウレムゾコレガヨミガヘリナム》とあるウレムゾと同じく、契沖に從つて、いかんぞ。何《なん》ぞ。どうして。といふ意味に解していいだらう。有廉《ウレム》と字音そのまま訓んだもので、『者』は、助語で添へた。咏歎の分子も含まつてゐるのであらう。『イヅレモゾと言ふ詞にて、イカムゾと言ふに同じ』(略解)とあるが語原はいまだ不明である。慨哉《ウレタシ》・字禮豆玖《ウレヅク》・※[立心偏+中]※[立心偏+中]《ウレフ》・吁矣《ウレハシ》などのウレか、若しくは卜合《ウラフ》などのウラとこの感動詞と何かの關聯はないであらうか。
 一首の意は、〔平山《ならやまの》。子松末《こまつがうれの》【序詞】〕どうして、この私の戀しくおもふ女に逢はずにしまはうか。何としても逢つてやるといふのである。
 寄v木戀で、ウレムゾは語原は縦ひ不明でも、感動詞、間投詞のやうな強いところがその語氣の(694)うちに感じ得るから、結句の語氣も、『あはで止みなめ』。『あはでやまめや』。『あはずはやまじ』のやうに強いもののやうである。『いかんぞ我が思ふ妹に逢はずして止みなんやと言ふのみにて、上二句は序なり』(略解)。
 
          ○
 
 
  〔卷十一・二四八八〕
  磯《いそ》の上《うへ》に立《た》てる囘香樹《むろのき》心《こころ》いたく何《なに》に深《ふか》めて思《おも》ひ始《そ》めけむ
  礒上 立回香瀧〔樹〕 心哀 何深目 念始
 
 ○礒上 舊訓イソノウヘニ。古寫本中イソノカミ(古)と訓んだのもある。○立回香瀧 舊訓タチマフタキノ。古寫本中タチマヒタキハ(嘉)。タチマフタキツ(古)。タヽ《(消)》チマヒタキツ(類)等の訓があつたが、代匠記で、タテルワカマツと訓み、『前後木ニ寄タル歌ノ中ニ、瀧ヲヨメル歌有ベカラザレバ、今按瀧ハ※[木+龍]ニテ、タテルワカマツト讀ベシ。其故ハ玉篇云、 【力同切、房室之疎、亦作〓】カカレバ※[窗/心]《マド》ト同ジク讀、常ノ事ナリ。集中ニ高圓ヲ高松ト書タレバ※[木+龍]ヲ松ニ借コト恠シブベカラズ』云々と云つたが、考では、『今本樹を瀧に誤たり。卷十四【今三】。礒上、根蔓室木、見之人乎、又吾もこか、(695)みし鞆浦之、天木香樹者、常世有跡、これを囘香ともいふべし』といつて、ムロノキと訓み、爾來諸書共に從ふやうになつた。この眞淵の引いた例歌は、卷三(四四九)の、吾妹子之見師鞆浦之天木香樹者《ワギモコガミシトモノウラノムロノキハ》云々をいふのである。それから、心哀《ココロイタク》になぜ續けたかといふに、考に、『荒磯の上に根もあらはに立たるを見るに、あや|う《(ふ)》く心痛をもて我戀に譬へし也』と云つてゐるので見當がつく。『何に』はドウシテ、何ゆゑにぐらゐの意である。どうしてこんなに戀心が深くなつたのであらうといふのである。室の木は松杉科の常緑喬木で杜松とも天木香樹とも書く。○心哀 舊訓ココロイタクであつたのを、古義でネモコロニと訓み、『心哀は、十二に、豐國聞濱松心喪《トヨクニノキクノハママツネモコロニ》云々(略解に、春海云、喪は衷の誤なるべし。字書に、衷(ハ)誠也とあれば、心衷を義もてネモコロニと訓べしといへりと見えたり)とあるを合(セ)考(フ)るに、共に心衷にてネモコロニなるべし』と云つた。○何深目 舊訓ナニノフカメテ。代匠記精ナニニフカメテ。校本萬葉所收の古寫本皆ナニニとある。
 一首は、なぜこんなに心を痛めて深くあの人を思ひそめたのであらう。といふだけの歌だが、寄v木戀で、いろいろ工夫したものだから、後世の學者に難儀をかけたが、諸學者の骨折で釋然とするやうになつた。そして、この歌は、『礒の上に立てる囘香樹《むろのき》』が、危くおぼつかないといふので、心哀《こころいたく》に續けたところに、稍抽象的な理論があつて、そのために解釋が面倒になつたのであつ(696)た。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八九〕
  橘《たちばな》の下《もと》に我《わ》が立《た》ち下枝《しづえ》取《と》り成《な》らむや君《きみ》と問《と》ひし子《こ》らはも
  橘 本我立 下枝取 成哉君 問子等
 
 ○我立 舊訓ワレタチ。新考ワガタチ。○成哉君 舊訓ナリヌヤキミト(諸書從之)。考ナランヤキミト(【新考・新訓・全釋同訓】)。
 この歌も寄v木戀だから、上半は序詞と看做すべきだが、例によつて寫生から來てゐるから、必ずしも序とせずに、意味を持たせて解釋することも出來る。即ち、橘の木の下に立つて、下枝を取り、愛する女がそのとき、この橘の實のなるやうに、私どもの願がかなへるでせうか、不安でなりませぬ、などと問うたこともあつたが、それも今はすべて過去のことになつてしまうた、と追懷の情を咏んで居るのである。『子ら』は單數である。代匠記初稿本に、『橘のもとにわれ立。是は橘の實のなりぬやといふを、戀の成就するによそへたるなり。我立は女の身の我なり。下枝(697)とりは、下枝を取てしめすなり。思ふこのかなひて相見し時に、今こそは成たれといひし女の、後はあひみぬを、いづらやと尋てよめる心なり。とひしはいひしなり』と解釋し、考に、『今、君が方、吾方ともに障多かれど、かくても末は成なんやと問たりし妹は、遂にならずなりて、はなれて後おもひ出て、ゆかしむさま也』と解釋してゐるので、大體が分かり、一首の中に、會話の口調まで入れて自在な歌である。また、『本にわが立ち』、『成らむや君と』のところは、謂ゆる句割であるが、此も間々あることで、却つて古樸であるやうに響くことがある。
 此歌は大體右の如くであるが、新考に、『從來相思の男女が對立せる趣に心得たるは誤なり。我といへるは男子即作者にて、君といへるは媒なり。即對立せるは若き男と老いたる女即媒となり。四五の意は成ラムヤイカニトワガ媒ニ問ウタ其本尊樣ハドウシタラウといへるなり。妹よりいまだ答の無きをおぼつかなみたるなり。卷七に、むかつをにたてる桃の樹成らむやと人ぞささめきしながこころゆめ。といふ歌あり。一首の意も初二の格も今と異なれどナラムヤの意は相同じ』と解釋して居るが、此は少しく面倒で、惡い解釋であらう。
 
          ○
 
(698)  〔卷十一・二四九〇〕
  天雲《あまぐも》に翼《はね》うちつけて飛《と》ぶ鶴《たづ》のたづたづしかも君《きみ》し坐《ま》さねば
  天雲爾 翼打附而 飛鶴乃 多頭多頭思鴨 君不座者
 
 結句舊訓キミシマサネバ(【考・略解・古義同訓】)。古寫本中キミガマサネバ(嘉)。キミシマサヌハ(矢)。代匠記精キミキマサネバ(新考同訓)。童蒙抄キミイマサネバ(新訓同訓)。代匠記精に云。『六帖ニハキミキマサネバトアリ。然レバ今ノ本若不ノ下ニ來ノ字ノ落タル歟』。『飛ぶ鶴《たづ》の』から、同音のタヅタヅシに續けた序詞で、天雲に翼を打ち附ける、即ち高く飛翔する形容であるから、ただ同音で續けて、そこに特別の意味は無い。タヅタヅシは、おぼつかない、たよりない、はかない意に落著く。
 一首の意は、〔天雲爾翼打附而飛鶴乃《あまぐもにはねうちつけてとぶたづの》【序詞】〕たづたづしく、たよりない、よりどころない心持で居ります。戀しいあなたと御一しよでないものですから。私ひとりだものですから。
 卷四(五七五)に、草香江之入江二求食蘆鶴乃痛多豆多頭思友無二指天《クサカエノイリエニアサルアシタヅノアナタヅタヅシトモナシニシテ》。卷十五(三六二六)に、多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類安奈多頭多頭志比等里佐奴禮婆《タヅガナキアシベヲサシテトビワタルアナタヅタヅシヒトリサヌレバ》とあるのも同じやうな發想で同じやうな表現である。
(699) 寄v鳥戀で、序詞を前驅せしめて一首を纏める手段は既に常套のやうであるが、この一首の歌調には、緊まつて大柄のところがある。樂に、苦澁せずに作つてゐるのであるが、それでも、古今集の、『白雲に羽うちかはし飛ぶ鴈の|かげ《(かず)》さへ見ゆる秋の夜の月』よりも重くて澁い。想像すればこれなども或は人麿の自由な生活時期に作つたものかも知れないし、そして其頃の人々も此歌を或は人麿作と思つてゐたものかも知れない。さうすれば、右に引いた卷四の旅人の歌も、卷十五の歌も、この人麿歌集の歌から影響を受けたものと想像することも亦可能である。
 この歌は六帖に載り、結句『君來まさねば』である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九一〕
  妹《いも》に戀《こ》ひ寐《い》ねぬ朝明《あさけ》に鴛鴦《をしどり》のここゆわたるは妹《いも》が使《つかひ》か
  妹戀 不寐朝明 男爲鳥 從是此度 妹使
 
 ○妹戀・不寐朝明 舊訓イモコフト・イネヌアサケニ。童蒙抄イモニコヒ(【考・略解・古義・新考・新訓同訓】)。○從是此度・妹使 舊訓ココニワタル・イモガツカヒカ。代匠記ココニワタルハ。又はココニシワタ(700)ル(童蒙抄同訓)。考、此は飛の誤でトビワタル。略解、考に從つてコユトビワタル(新考同訓)。古義コヨトビワタル。新訓ココユワタルハ。ココは此とも是とも書いてゐるから、是此二字でココと訓ませたものと看做して、新訓の如くココユワタルハと訓んでいい。結句、考イモガツカヒニ。他は盡く舊訓に從つた。
 一首の意は、妹《いも》を戀しく思うて一晩ぢゆう眠らなかつた曉に鴛鴦《をしどり》の飛んで居るのはあれは妹からの使であらうか。といふので、鴛鴦は雌雄の睦じい鳥であるから聯想が直ぐそこに向いたので、妹《いも》も亦自分のことを思うて一晩眠らなかつただらうといふ意を含めてゐるらしいのである。
 書紀孝徳天皇卷の野中川原|史滿《ふひとみつ》の歌に、耶麻鵝播爾烏志賦※[手偏+施の旁]都威底陀虞※[田+比]預倶陀虞陛屡伊慕乎多例柯威爾鷄武《ヤマガハニヲシフタツヰテタグヒヨクタグヘルイモヲタレカヰニケム》があり、萬葉卷二十(四五一一)に、乎之能須牟伎美我許乃之麻家布美禮婆安之婢乃波奈毛左伎爾家流可母《《ヲシノスムキミガコノシマケフミレバアシビノハナモサキニケルカモ》がある。なほ鳥を使とした歌は、古事記允恭天皇條、輕太子の御歌に、阿麻登夫登理母都加比曾多豆賀泥能岐許延牟登岐波和賀那斗波佐泥《アマトブトリモツカヒゾタヅガネノキコエムトキハワガナトハサネ》といふのがあり、萬葉卷八(一六一四)に、九月之其始鴈乃使爾毛念心者可聞來奴鴨《ナガツキノソノハツカリノツカヒニモオモフココロハキコエコヌカモ》。卷十五(三六七六)に、安麻等夫也可里乎都可比爾衣弖之可母奈良能彌夜古爾許登都礙夜良武《アマトブヤカリヲツカヒニエテシカモナラノミヤコニコトツゲヤラム》。卷十七(三九五三)に、鴈我禰波都可比爾許牟等佐和久良武秋風左無美曾乃可波能倍爾《カリガネハツカヒニコムトサワグラムアキカゼサムミソノカハノヘニ》といふのがある。
 この歌は、寄v鳥戀であらうが、一面には附會して作つたやうなところもあり、また鴛鴦といふ(701)鳥の性質からの聯想によつて空想によつて作つたやうなところもあるが、それにしても一首全體としては實際感が滲出でて居り、同時に何か象徴詩的なにほひのする、可憐な歌だといふことが出來る。そして、結句は、『妹が使か』と訓んだのに從ふべく、考の訓の、『妹が使に』では、結句のカが餘程減却するやうにおもふ。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、『いもこふといね|す《ぬイ》朝け|の《にイ》をし鳥のこれよりわたる妹かつかひか』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九二〕
  念《おも》ふにし餘《あま》りにしかば鳰鳥《にほどり》の足沾《あぬ》らし來《こ》しを人《ひと》見《み》けむかも
  念 餘者 丹穗鳥 足沾來 人見鴨
 
 ○足沾來 舊訓アシヌレクルヲ。古寫本中、アシヌレタルヲ(神)。アシヌルクルヲ(温)。アシヌレイルヲ(京)等の訓がある。考アヌラシコシヨ。略解アヌラシコシヲ。略解宣長訓(沾は脳の誤)アナヤミコシヲ(新考從之)。古義アシヌレコシヲ(新訓同訓)。
(702) 此歌は、寄v鳥戀だから、『鳰鳥の』といふ枕詞の格を使つたのだらうが、そのほかは、言葉どほりに解釋が出來るやうである。
 お前の戀しさに思ひ餘つて、足を濡らして難儀して通つて來たのを、人が見たであらうか、見つかつたか、どうも不安だといふのであらう。
 考で、『川をかち渡りしがわろきを愧ていふ』と云つたが、これは愧づるのではなく、『人モカカル氣色恠シトヤ見トガムラムトナリ』(代匠記精)といふ方が穩當である。また、この『足沾らし』は、『川ヲ渡リ野原ノ露ヲワケナドシテ』(代匠記精)足を濡らすことである。卷十(二〇七一)の、天河足沾渡は《アマノガハアシヌレワタリ》、川を渡つて足の濡れることであり、卷九(一七六四)の、裳不令濕不息來益常《モヌラサズヤマズキマセト》もさうであり、卷十一(二三五七)の、早起出乍吾毛裳下閏奈《ハヤクオキイデツツワレモモスソヌラサナ》は、朝の草露に濡れることである。
 なほ、卷十二(二九四七)の、念西餘西鹿齒爲便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾《オモフニシアマリニシカバスベヲナミワレハイヒテキイムベキモノヲ》の左注に、柿本朝臣人麿歌集云、爾保鳥之奈津柴比來乎人見鴨《ニホトリノナヅサヒコシヲヒトミケムカモ》とある。少しづつ變化して傳はつてゐることが分かる。
 
          ○
 
(703)  〔卷十一・二四九三〕
  高山《たかやま》の岑《みね》行《ゆ》く鹿猪《しし》の友《とも》を多《おほ》み袖《そで》振《ふ》らず來《き》つ忘《わす》ると念《おも》ふな
  高山 岑行完 友衆 袖不振來 忘念勿
 
 ○岑行完・友衆 舊訓ミネユクシシノ・トモオホミ。古寫本中ミネユクシカノ(嘉・類・細)。ミネユクシシノ(【神・温・文・西・矢・京】)。トモヲオホミ(嘉)。トモヲヽホミ(類)。考トモヲオホミ。代匠記初稿本で『岑行|完〔右○〕』とあるのを、『完は宍に作るべし』と言ひ、童蒙抄・考・以下『岑行|宍〔右○〕』と改めたが、文字辨證【上卷】に據るに、これは完〔右○〕の儘でよいやうである。文字辨證では、倭名鈔に、肉の字を完に作る之々《シシ》。新撰字鏡に、肉【如陸反肥也】完【上同】。類聚名義抄に、完シシ。宍【肉上俗下正】。天台六十卷音義に、完《ニク》シシ等とあるのを證據とし、なほ日本書紀卷二に、膂完之空國《ソジシノムナグニ》。卷二十五に、衣衿足2以朽1v完。卷二十九に、有人云得2麟《鹿イ》角於葛城山1、角本(ハ)二枝而未合、有v完々上有v毛。太神宮儀式帳に、完多氣云。靈異記卷下に、※[口+敢](テ)v完爲v效などとあるのを引いて、『按に、宍は肉の俗字なれば、これより轉じて完とはかけるなり。完全の完とは源委同じからず。混ずることなかれ』と云つた。萬葉集の例は、既に評釋した、卷七(一二九二)の、江林次完也物《エバヤシニヤドルシシヤモ》…完待我背《シシマツワガセ》。卷九(一八〇九)の、完串呂《シジクシロ》。卷十三(三三四四)の、所射完乃行文《イユシシノユキモ》。卷十六(三八八五)の、完待跡《シシマツト》…吾完者《ワガシシハ》などである。(704)○袖不振來 舊訓ソデフリコヌヲ。嘉暦傳承本ソデフラズキヌ。考ソデフラデ〔キヌ〕。略解ソデフラズキヌ。新考ソデフラズキツ。
 一首の意は、〔高山《たかやまの》・岑行完《みねゆくししの》【序詞】〕友《とも》(連《つれ》の人々)が多かつたために、振りたい袖をも振らずに、その儘別れて來てしまひました。どうぞあなたを忘れてゐるとは思ひ下さるな。といふのである。
 寄v獣戀で、序詞は、山間生活によく經驗する、鹿などの群れて歩く有樣から、自分の連れの人々の多いことに懸け、その人々に遠慮し、または二人の間の戀の氣附かれることを處れて、別離の徴の袖振ることをしない心持をあらはした歌で、山間住民の間などに歌はれ得る民謠のおもかげを備へたもののやうに思へる歌である。
 卷十四(三四二八)に、安太多良乃禰爾布須思之能安里都都毛安禮波伊多良牟禰度奈佐利曾禰《アダタラノネニフスシシノアリツツモアレハイタラムネドナサリソネ》。同(三五三一)に、伊母乎許曾安比美爾許思可麻欲婢吉能與許夜麻敝呂能思之奈須於母敝流《イモヲコソアヒミニコシカマヨビキノヨコヤマヘロノシシナスオモヘル》などとあるのも、鹿猪《しし》を聯想の中に置く歌で、戀愛の心を織りまぜた民謠風の歌である。
 此歌は、六帖に入り、『高山の嶺行く鹿の友を多み袖振りこぬを忘ると思ふな』となつてゐる。又、夫木和歌抄には人丸作とし、『鹿のともおほみ袖ふりこむをわすると思ふな』とある。
 
          ○
 
(705)  〔卷十一・二四九四〕
  大船《おほふね》に眞楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き榜《こ》ぐ間《ほど》も極太《ここだく》戀《こひ》し年《とし》にあらば如何《いか》に
  大船 眞※[楫+戈]繁拔 榜間 極太戀 年在如何
 
 ○榜間 舊訓コグホドヲ(童蒙抄・考同訓)。代匠記コグホドモ(【略解・新考・新訓同訓】)。古義コグマダニ。『間』をホドと訓ませた例は、卷三(四六〇)に、草枕客有間爾佐保河乎朝川渡《クサマクラタビナルホドニサホカハヲアサカハワタリ》。卷九(一七四〇)に、從家出而三歳之間爾墻毛無《イヘユイデテミトセノホドニカキモナク》等がある。○極太戀・年在如何 舊訓イタクナコヒソ・トシニアルイカニ(【童蒙抄從之】)。代匠記初イタクコヒナバ又はイタクコフルヲ・トシニアラバイカニ。代匠記精イタクコフルヲ・トシニアラバイカニ。イタクシコヒバ・トシニアラバイカニ。考イタクナコヒソ・トシフラバイカニ(【極勿戀とし、年古如何とした。】)。略解ネモコロコヒシ・トシニアラバイカニ(古義同訓)。新考ココダクコヒシ・トシニアラバイカニ(新訓同訓)。
 前の歌(二四〇〇)の時にも、伊田何極太甚《イデイカニココダハナハダシ》と訓む例があつたからそれに傚つた。幾許吾戀渡《ココダクワガコヒワタル》等の例は既にその時に引用して置いた。トシニアルとは、一年の長さを經過することで、卷十(二〇三五)に、年有而今香將卷烏玉之夜霧隱遠妻手乎《トシニアリテイマカマクラムヌバタマノヨギリゴモリニトホヅマノテヲ》。卷十五(三六五七)に、等之爾安里弖比等欲伊母爾安布比故保思母和禮爾麻佐里弖於毛布良米也母《トシニアリテヒトヨイモニアフヒコボシモワレニマサリテオモフラメヤモ》。卷四〔五二三)に、好渡人者年母有云乎何(706)時間曾毛吾戀爾來《ヨクワタルヒトハトシニモアリトフヲイツノマニゾモワガコヒニケル》。同卷(五二五)に、狹穗河乃小石踐渡夜干玉之黒馬之來夜者年爾母有糠《サホガハノコイシフミワタリヌバタマノクロマノクルヨハトシニモアラヌカ》などとあるのを參考とすべきである。大體、『一とせのあひだ』を意味すると考へていい。
 一首の意は、大船に※[楫+戈]《かぢ》(櫂《かい》)を澤山に爲立てて漕ぐ間《あひだ》でも、こんなにひどく妹が戀しいのだから、これが一ケ年も逢へないのであるのなら、どんなにか戀しいのであらうか。といふのである。
 寄v船戀だが、さういふ題によつて作つたのでなく、船を漕いで居る間と云つて、その時の僅かなのを示して居るのである。また、牽牛・織女のことと關聯せしめて、一ケ年を待たねばならぬ待遠しさを示したやうでもあるが、必ずしもそこまでは解釋しなくともいいやうである。『本は譬へにあらで、海路の旅より歸る程の事と見ゆ。妹がもとへ歸り來る程だに斯く戀しければ、障り有りて一年もあらば、いかに有らんと言ふなり』(略解)といふので大體分かるが、さほどに實際の旅の時の歌ともせず味ふ方が好い。童蒙抄に、『諸抄の説は、七夕の年に一度逢ふ事の如くならばいかにせん。大船に眞梶繁くぬきて漕ぐ如き捗取らぬ事を甚くな餘り歎き佗びそ。年に一夜の七夕の如くならば、いかにぞと諫めたる歌と釋したれど愚意未v落。何とぞ別意の聞樣見樣によりて讀樣有べし。尚追而可v加v案也』といひ、考に、『又二の星の年の渡をいふとするはゆくりなく此一句にいふべくもなし』と云つてゐる。なほ、舊訓の如く、イタクナコヒソといふならば、代匠記の如く、『大船ニ櫓ヲ多ク立テテ漕《コ》ゲドモ、浪風ノ障ニ進ミ難キ如ク、君ガ許ニトクユカバ(707)ヤト思フ事ハ切ナレドモ、人目ヲシノブ程アルヲ暫ノ程心ヲ取延テ待テ痛クナ戀ソ。暫ノ程ヲ待カネテ痛ク戀ハ、若事ノ障ニ依テアハヌ事一年モアラバ如何ニセムトカ思フトナリ』となるのであらう。併し、それにしても訓と解釋とにしつくりせぬ點があつたので、代匠記精撰本で、コグホドモ・イタクコフルヲ・トシニアラバイカニ。又はイタクシコヒバ・トシニアラバイカニ等と改訓したのであつた。そしてその心の向け方は正しかつたので、第四句をココダクコヒシとせば現今の訓になるので、契沖の鑑識の力量を示すものである。
 諸學者がいろいろ苦心した歌だが、現今のやうに訓み、右の如くに解釋すれば何でもない歌なのである。そして平易で自然で無理のない歌である。それゆゑ、萬葉の歌も、餘り面倒に訓み、面倒に解釋するときには、そこに何かの無理があつて、正訓正解でない場合が多いのではあるまいか。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九五〕
  垂乳根《たらちね》の母《はは》が養《か》ふ蠶《こ》の繭隱《まよごも》りこもれる妹《いも》を見《み》むよしもがも
  足常 母養子 眉隱 隱在妹 見依鴨
 
(708) ○足常 タラチネノと訓む。『常』をばチネに借りて居る。『足常ハ、ツトチト通ジテ常ノ字ハ借レリ』(代匠記精)。然るに井上博士は、『ここに足常とかけるについて從來常をチネに借れるなりといへれどおそらくは然らじ。タラチネを訛《ナマ》りてタラツネともいひしかばやがて足常とかけるならむ』(新考)といふ説を出した。參考すべき説とおもふ。特に關東から東北にかけてツに訛つたのを顧慮すれば、この説もなかなか興味が深い。○母養子 舊訓ハハノカフコノ(代匠記同訓)。童蒙抄ハハガカフコノ(【考・略解・古義・新考・新訓同訓】)。古寫本中オヤノカフコノ(嘉・類・細)がある。○眉隱 舊訓マユゴモリ(【代匠記・童蒙抄・略解同訓】)。古義マヨゴモリ(【新考・新訓同訓】)。○見依鴨 舊訓ミルヨシモガモ(【代匠記・童蒙抄同訓】)。略解ミムヨシモガモ(【古義・新考・新訓同訓】)。
 一首の意は、第三句まで、即ち、母の飼つてゐる蠶が繭の中に隱《こも》つてゐるやうに隱《こも》ること、それを序詞とした。こもり隱《かく》れてゐる女をば見る方法が無いものだらうか。見たいものである。といふのである。
 この序詞は誠に巧で、田舍の生業と、そこに働いてゐる男女等も彷彿とあらはれて來て氣持のいいものである。從つてその下の、『こもれる妹を見むよしもがも』といふ句も、直接で抒情詩としても古樸である。代匠記精撰本に、『母ハ我母ニハアラズ、妹ガ母ナリ。蠶ヲモ母ガカヒ、娘ヲモ母ノソダツレバ、蠶ノ繭《マユ》ニコモレル如ク深キ閏ニ養ナハレタル妹ヲモ見ル依モガナト、ユカシ(709)サヲヨメルナリ』と解釋してゐるが、かうまで接近せしめずに、序詞は序詞として、もつと一般的な技法だと思つてかまはない。いづれにしても、民謠風な歌の上乘なるもので、東歌などと共に愛誦すべきものである。
 和名鈔に、蠶【和名加比古。一訓古加比須】虫吐v絲也。説文云、※[爾/虫]【和名萬由】蠶(ノ)衣也。萬葉卷十二(二九九一)に、垂乳根之母我養蚕乃眉隱馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿異母二不相而《タラチネノハハガカフコノマヨゴモリイブセクモアルカイモニアハズテ》があり、非常によく似て居る。また、卷十三(三二五八)の長歌にも、帶乳根笶母之養蚕之眉隱氣衝渡吾戀心中少人丹言物西不有者《タラチネノハハガカフコノマヨゴモリイキヅキワタリワガコフルココロノウチヲヒトニイフモノニシアラネバ》といふのがある。
 右の卷十二(二九九一)の歌の方が、第二句『おやのかふこの』として、拾遺集、柿本集及び六帖第二と第五に載つてゐる。拾遺集では人麿作。柿本集一本、結句『君にあはずて』。六帖第二、作者いへのおとくろまろ、結句『妹にまかせて』。六帖第五作者不明。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九六〕
  肥人《くまびと》の額髪《ぬかがみ》結《ゆ》へる染木綿《しめゆふ》の染《し》めてしこころ我《われ》忘《わす》れめや,【一云、忘《わす》らえめやも】
  肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉【一云、所忘目八方】
 
(710) ○肥人 舊訓コマヒトノ。古寫本中コヱヒトノ(細)。コヒヒトノ(神)といふ訓もある。八雲御抄ハダヒトノ。拾穗抄ウマヒトノ。代匠記ウマヒトノ。童蒙抄コマビトノ、ウマビトノ、カラビトノ、ハダビトノ。考コマヒトノ、狛人の誤。略解ウマビトノ。古義ウマビトノ。古義では平田篤胤の肥人《ヒノヒト》といふ訓を否定して居る。吉田東伍氏大日本地名辭書ではクマビトと訓み、熊人で、求磨の國人の義とし、肥國を本據としたから熊人と同義としたといひ、喜田貞吉氏(【歴史地理二十三ノ三】)もやはり同訓で、玖磨郡を本據として住んだ族で、熊襲も熊人《クマビト》襲人《ソビト》の合稱だとし、井上氏の新考もその説に從つた。また春日政治氏は、肥濃をコマヤギといふ古訓があるので、肥はコマカニ又はコマヤカニと訓んだ證となり、從つて肥人をコマビトと訓じ得るといふ説をたてた(【奈良文化第六號】)。然るに武田氏の新解で、岩橋小彌太氏の説に據つてヒヒトと訓み、新訓も同樣である。播磨國風土記に、日向國肥人朝戸君の名が見え、大寶令集解に肥人を夷人雜類の一とし、本朝書籍目録に肥人書、薩人書といふのがあり、この歌の次にも、隼人《ハヤビト》の歌があるから、大和民族とは別で九州南部に住んでゐたものであつただらうか。私の評釋の訓は先づ新訓に據つて訓を立てる方針であるから、初めヒビトと訓んだのであつたが、再考の後クマビトと改めた。そして、『仙覺が古點にコエビトとありしを、コマビトと改めたるはクマビトの轉訛なるコマビトといふ語が其世にはなほ殘れりし爲ならむ』(新考)の言にうなづいたのであつた。○額髪結在・染木綿・染心 舊訓ヒタヒ(711)カミユヘル・ソメコノフ・ソメシココロヲ。代匠記初ソメユフ(?)。童蒙抄ソメユフノ・ソミシココロヲ。略解ソメユフノ・ソメシココロハ。古義ヌカガミユヘル・シメユフノ・シミニシココロ。新考ヌカガミユヘル・ソメユフノ・ソメテシココロ(又シメテシココロ)。新訓ヌカガミユヘル・シメユフノ・シメテシココロ。
 額髪《ヌカガミ》は、和名鈔に、唐韻云、〓(ハ)額前髪也。俗云、奴加加美《ヌカカミ》とある。和名砂に額を比太比《ヒタヒ》と訓じてゐるが、また、敝髪。釋名云、敝2髪前1爲v飾、和名|比多飛《ヒタヒ》とあるので、移つたのだらうと雅澄は云つてゐる。染木綿《シメユフ》は、『古今集に、濃紫わがもとゆひとよめるごとく、染たる木綿もて、額髪《ヌカカミ》をゆひしならむ。木綿もて髪を結しことは、十三に、蜷腸香黒髪丹眞木綿持阿邪尼結垂《ミナノワタカクロキカミニマユフモチアザネユヒタリ》云々とあり。さてこれまでは、染心《シミニシココロ》といはむための序なり』(古義)とあり、なほ、喜田氏の、『木綿にて頭を飾る風は、古く九州地方の住民に存ず。魏志に倭人の俗を記したる中に、木綿を以て招頭すといふもの是に當る。今も蔭隅地方にこの風あり』(歴史地理)といふ文に據つて理會することが出來る。
 一首の意は、肥人《くまびと・ひびと》の額の前髪に結つて居る染《そ》めた木綿《ゆふ》の【序詞】。その染《し》みた色の如くに、深く染《し》み込んだこの戀心は、どうして私は忘れることが出來ようか。到底忘れられない。『一云』の句も、忘れることが出來ようか。といふので殆ど意味が同じである。
(712) この歌は、寄2木綿1戀といふ意味で作つたのか、或は寄2肥人1戀といふ意味で作つたのかいづれかであらう。恐らく、九州地方、九州北部の大和民族などの間に言はれてゐたものを材料として作つたか、或は人麿とは無關係に九州地方の民謠が此處に流傳せられたものであらう。併し、民謠は種々工夫して珍らしい材料、序詞にしても心の働いた聯想を以て作つてゐるから、この場合も、珍趣向の序詞として大和地方に行はれた歌と解釋することも亦可能である。
 抒情詩としては材料本位のものだから取たてていふ程の歌ではないが、歴史上の資料となるところから珍らしがられる歌である。
 この肥人に就ては、學者が種々苦勞したから、參考のために少しく抄記しよう。『肥人ヲコマビトト點ゼルハ高麗人《コマヒト》ノ意歟。肥ヲコマトヨメル意イマダ知ラズ。今彼國ノ人ヲ見ルニ、イタクフツツカナルマデ肥タルガ多ケレバサル意ニヤ。古點ニコエヒトトヨメルハ一向義ナシ。今按ウマヒトノト義訓スベキ歟。鳥獣ノ肉《シシ》モ肥タルハウマキ理ナリ』(代匠記精)。『此うま人と云事説々有りて一決し難し。日本紀にてはよき人、高貴の人をうま人と讀ませたり。一本には、肌人とも有。是によらせ給ふてか、八雲御抄には、はだ人と讀ませられたり。諸抄の説は、から人と云義にて、唐人は三韓唐國共に肉食に飽きて、其形象身體太りて肥えたるもの故、古より鳥獣の肥えたるは喰に味能き故、見る處の體を義にとりて、肥人と書けると云説也。假名本には、こま人と讀ませ(713)たり。高麗の人は額に髪結る故、ひたひ髪ゆへると讀めるとの説も有りて、いかに共決し難し。古事記景行卷日本武尊の御事にも、當2此之時1其御髪結v額也。如v此あれば、日本紀にては高貴の人をうま人と讀ませたるに引合せて見れば、上古は高貴の人ならでは額髪は結ばざりしか』(童蒙抄)。
 この歌は、六帖に人麿作として、『きへ人のひたひ髪ゆふありそ海のゆふそみ心我忘れめや』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九七〕
  隼人《はやびと》の名《な》に負《お》ふ夜聲《よこゑ》いちじろく吾《わ》が名《な》は告《の》りつ妻《つま》と恃《たの》ませ
  早人 名負夜音 灼然 吾名謂 ※[女+麗]恃
 
 ○早人 即ち隼人《はやびと》で、九州南部(大隅薩摩等)に住んでゐた種族で、喜田氏の隼人考は、唐書倭國傳に、『有d邪古・波邪・多尼三小王u』とあるのは、日本紀の夜句人・隼人・多禰人に相當するから、波邪は九州南部の地名であるが、その名義は不明だと云つて居る。或はすぐれて敏捷《はや》く(714)猛勇《たけ》きゆゑだといふ説(書紀通釋等)もある。神代紀下、海宮の條に、『一云、狗人請哀之、弟還出2涸瓊1、則潮目息、於v是兄知3弟有2神徳《アヤシキイキホヒ》1、遂以伏2事其弟1、是以、火酢芹《ホスセリ》命苗裔諸隼人等、至v今不v離2天皇|宮墻之傍《ミガキノモト》1、代2吠狗《ハイクヘホユルイヌ》1而奉事者也』。欽明紀に、『元年三月、蝦夷隼人竝(ニ)率v衆《トモガラヲ》歸附』。天武紀に、『十一年秋七月壬辰朔甲午、隼人多來貢2方物1、是日、大隅隼人《オホスミノハヤヒト》與2阿多隼人《アタノハヤヒト》1、相2撲於朝廷1、大隅隼人勝之』云々とあり、大嘗會式に、『十一月卯日平明云々。隼人司率2隼人1分立2左右1、朝集堂前待v開v門乃發v聲』ともあり、隼人司(ノ)式に、今來隼人發2吠聲1三節とか、今來隼人爲v吠とか、隼人發v吠、但近幸不v吠とか、凡今來隼人、令2大衣(ヲ)習1v吠、左發2本聲1、右發2末聲1、惣(テ)大聲十遍、小聲一遍、訖(テ)一人更發2細聲1二遍とかいふ記録のあるを見れば、隼人は夜に宮門を護り、犬の吠聲の如き聲を立てたことが分かる。勇猛で且つ言語も違ふところから特別の音聲の習練即ち犬の眞似をせしめたものの如くである。古事記にも、爲2汝(ガ)命之晝夜(ノ)守護人《マモリヒト》1とある。その聲が特有で大きいから、イチジロクに續けて序詞となした。明瞭に、はつきりとといふ意味である。○吾名謂・恃※[女+麗] 舊訓ワガナヲイハジ・ツマトタノマム。拾穗抄ワガナヲイヒテ。代匠記ワガナヲイヒテ。童蒙抄ワガナヲノリテ。考ワガナハイハム・ツマトタノマバ。略解、宣長説により吾は君の誤でキミガナノラセ・ツマトタノマム。古義アガナハノリツ・ツマトタノマセ(新訓同訓)。新考キミガナノラバ・ツマトタノマム。今大體古義の訓に從つた。
(715) 一首の意は、隼人《はやびと》等が評判の、夜警の、犬の吠聲に似た大きい聲の如く【序詞】、はつきりと、明らかに私の名をお知らせ致しました。かう名告《なのり》まで申あげた以上は、どうぞお心のままに私をば妻になすつて下さいまし。といふのである。
 名を告ることは、求婚のしるしでもあり、婚を受付けるしるしでもあるからさういふ言方をしたのである。タノムとは、お心を安んじて、御意の儘にといふ意があるからさう口譯した。卷二(一六七)に、大船之思憑而《オホフネノオモヒタノミテ》。卷三(四七〇)に、妹毛吾毛如千歳憑有來《イモモワレモチトセノゴトクタノミタリケル》。卷四(五四六)に、敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜《シキタヘノコロモデカヘテオノヅマトタノメルコヨヒ》等の例がある。
 この歌は、寄v聲戀のつもりか、さもなくば寄2隼人1戀といふのであらうが、いづれにしても女の心の趣で歌つて居る。前の歌が男の趣で、寄2肥人1戀なら、この歌は女の趣で、答歌として、寄2隼人1戀といふことになるだらう。民謠的の歌だから、人麿が女のつもりになつて作つてもかまはず、また誰が作つたともなく行はれてゐたものが人麿歌集の中に入れられたと解釋してもいい。略解宣長説だと、キミガナノラセ・ツマトタノマムといふのだから、男の歌の趣になるのであり、上半の序詞は寧ろ男性的だからさうおもひついたのであらう。また童蒙抄に、『いちじるく我名をあらはし、名のりておもふ女に知らせ告げて、妻と頼まんとの義也』とあるのも男の歌の趣に解して居る。また新考では、『女の歌にて、※[女+麗]とかけるは夫の借字なり。ハツキリト何ノ某ト(716)名ノリタマハバ我夫ト頼ミ奉ラムといへるなり』とあるのは、また別樣の解釋となるのであるが、やはり女の歌として、古義の説に從ふのが一番自然のやうである。
 この歌は、六帖に人麿作として載り、『いちじるく我が中絶えば妻と頼まむ』となつてゐる。
  追記。柴生田稔君の説では、ワガナハノリツ・ツマトタノマセと訓んだ上で、※[女+麗]を夫の借字として、男の歌と見ることも出來るのではないだらうかと云ふのである。即ち、男が、さあこのやうに自分ははつきりと名を告げたのだから、自分を夫とたのみなさいと、女に向つて言ふ趣にするのである。また宣長が吾を君の誤とし、略解がキミガナノラセ・ツマトタノマムと改訓したのは、或は新考説のやうにツマを夫として、女の歌と見たのではなかつたらうか。といふことである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九八〕
 劔刀《つるぎたち》諸刃《もろは》の利《と》きに足《あし》踏《ふ》みて死《しに》にし死《し》なむ君《きみ》に依《よ》りては
  劔刀 諸刃利 足踏 死死 公依
 
 ○劔刀 ツルギタチと訓む。先に評釋した人麿の長歌に、劔刀於身副不寐者《ツルギタチミニソヘネネバ》(卷二。一九四)。劔刀身二副寐價牟《ツルギタチミニソヘネケム》(卷二。二一七)等とあつたのは、枕詞としての用例であるが、此處は實質的の(717)名詞に用ゐられてゐる。○諸刃利 モロハノトキニと訓む。兩刃の鋭利なのにといふ意で、萬葉に於いて、『諸刃《もろは》』は、他に卷十一(二六三六)に、劔刀諸刃於荷《ツルギタチモロハノウヘニ》といふ一例があるのみであり、『利《と》し』は他に用例がない詞である。○足踏 舊訓アシヲフミ。古寫本にはノボリタチといふ訓 もある。童蒙抄アシフミテ(諸注從之)。古事記允恭天皇の條に、那都久佐能阿比泥能波麻能加岐加比爾阿斯布麻須那《ナツクサノアヒネノハマノカキガヒニアシフマスナ》。萬葉卷十二(三〇五七)に、淺茅原茅生丹足踏《アサヂハラチフニアシフミ》。卷十四(三三九九)に、可里婆禰爾安思布麻之奈牟《カリバネニアシフマシナム》等の用例がある。○死死 舊訓シニニモシナム。古寫本中シニニヲシナム(嘉・類)。シニシモシナム(古)。諸注大方舊訓によつてゐる。童蒙抄シヌトモシナン。新考シナバシヌトモ。新訓シニニシシナム。右の諸訓は萬葉で他に同じ用例が見當らないやうであるが、先に諸刃の例にも引いた卷十一(二六三六)に、所殺鴨將死《シニカモシナム》とあるのは參考になると思ふ。○公依 舊訓キミニヨリナハ。古寫本では、細井本にキミニヨリテムとある外は、キミニヨリテハ(【嘉・類・古・文・西・神・温・矢・京】)が大部分で、諸注も之に從つてゐる。ヨリテハは依つてならばの意で、文法的には『依りて』に係助詞の『は』が附いた形と見るべきであらう。新訓でテハと澄んだがテバと濁つて訓んでゐるのが普通である。卷四(五五七)に、大船乎榜乃進爾磐爾觸覆者覆妹爾因而者《オホフネヲコギノススミニイハニフリカヘラバカヘレイモニヨリテハ》とあるのは、この歌と同じく結句に用ゐられた例であり、其他、妹丹因者千遍立十方《イモニヨリテハチタビタツトモ》(卷四。七三二)。妹依者忍金津毛《イモニヨリテハシヌビカネツモ》(卷十一。二五九〇)。吾念有妹爾縁而者《ワガモヘルイモニヨリテハ》(卷十三。三二八四)。吾念有君爾依者《ワガモヘルキミニヨリテハ》(卷十三。三(718)二八六)等の用例がある。
 一首の意は、劔刀《つるぎたち》の兩刃の鋭いのを足に踏んで死にも致しませう、貴方の爲ならば。といふので、女の歌の心持である。
 上句の言ひ方が變つてゐるのに注意されるが、それだけ表面的に誇張したところがあつて、心持は割合に一般向である。そして何か本當に女の作らしくない感じがある。參考になる歌としては、前にも引いた卷四(五五七)の、『大船を榜ぎの進みに磐に觸り覆らば覆れ妹に依りては』を擧げることが出來る。又卷十一(二六三六)に、劔刀諸刃之於荷行觸而所殺鴨將死戀管不有者《ツルギタチモロハノウヘニユキフリテシニカモシナムコヒツツアラズハ》とあるのは、恐らくこの人麿歌集の歌の異傳であらう。二首を比較すると、やはり他の場合と同樣に、この人麿歌集の歌の方が特殊的で原型的である。六帖には(二六三六)の歌の方を載せてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九九〕
  我妹子《わぎもこ》に戀《こ》ひし渡《わた》れば劔刀《つるぎたち》名《な》の惜《を》しけくも念《おも》ひかねつも
  我妹 戀度 劔刀 名惜 念不得
 
(719) ○名惜・念不得 舊訓ナノヲシケクモ・オモホエヌカモ。古寫本中ヲモホエヌカナ(古)の訓もある。代匠記初ナノヲシケサモ・オモヒカネツモ。代匠記精ナノヲシケクモ・オモヒカネツモ(【略解・古義・新考・新訓同訓】)。童蒙抄オモホエヌナリ。考オモホエヌカモ。舊本『劔刀』は古寫本中(【嘉・類・文・西・神・温・矢・京】)に『劔刀』に作る。童蒙抄でも、『刀』の誤とした。『劔刀』はナに懸かる枕詞で、ナは古來|刃《ハ》のある物を云ひしなるべく、語原は薙《ナグ》の意であらうか。片刃《カタハ》の劔をカタナといふのもその意で、※[金+斯]《カナ》・鉈《ナタ》などのナもさうであらうといふ説(雅澄、枕詞解)に從つて置く。或はナは『精好』の義だといふ説も、『名』の義だといふ説もあるが覺束ない。卷四(六一六)に、劔太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシキミニアハズテトシノヘヌレバ》。卷十二(二九八四)に、劔太刀名惜毛吾者無比來之間戀之繁爾《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシコノゴロノマノコヒノシゲキニ》といふのがある。
 一首の意は、私の女に戀して間斷なく思ひわたれば、もはや噂が立つて彼此いはれることなどはかまつて居られぬ。といふのである。
 寄v劔戀であらうが、さういふ題を設けて作つたのではなく、枕詞は自然にさうなつたものであらう。名を惜しむは今いふ名譽を重んずるなどといふ程の道徳的觀念までには行つてゐないが、さういふ意味も無論含まつてゐる。名が惜しいといふことを思はないといふのである。略解に、『オモヒカネツは、オモヒアヘヌなり』と云つてゐる。卷十二(三〇一九)に、河余杼能不通牟心思兼都母《カハヨドノヨドマムココロオモヒカネツモ》。卷二十(四四七九)に、安佐欲比爾禰能末之奈氣婆夜伎多知能刀其己呂毛安禮波於母比(720)加禰都毛《アサヨヒニネノミシナケバヤキタチノトゴコロモアレハオモヒカネツモ》といふのがある。
 取りたてていふほどの歌ではないが、表現も確かで自在である。卷十二、卷四の類似の歌は、この歌に本づくやうにおもはれ、そしてこの歌の方が一番よいやうである。さういふ點で或はこの歌は、そのころから人麿と關係があるやうにして尊重せられてゐたものであつたかも知れない。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇〇〕
  朝《あさ》づく日《ひ》向《むか》ふ黄楊櫛《つげぐし》舊《ふ》りぬれど何《なに》しか君《きみ》が見《み》るに飽《あ》かざらむ
  朝月日 向黄楊櫛 雖舊 何然公 見不飽
 
 ○見不飽 舊訓ミレドアカレヌ。代匠記初所入【校本萬葉】ミルニアカレヌ(【新考同訓】)。略解ミルニアカザラム(【古義同訓】)。童蒙抄イツシカキミハ・ミレドアカレズ。アサヅクヒは、朝の太陽、即朝日で、人々は朝起きて朝日に向ふので、ムカフの枕詞とした。卷七(一二九四)の、朝月日向山月立所見《アサヅクヒムカヒノヤマニツキタテリミユ》も同じ用法である。次に、ムカフ・ツゲグシは、黄楊《つげ》(柘植、本《ほん》つげ)から作つた櫛の匣《はこ》などに婦等が朝々相|對《むか》ふので、やはりムカフに續けたものらしく、御食向《ミケムカフ》などと同じ心理から來た語であら(721)うか。『朝に櫛匣に向ふ意にて斯く續けたり』(略解)といふのに大體從つてよい。『古り』といはむがための序詞にした。
 一首の意は、朝々に向ひ取り差す黄楊の櫛のいつしか古びてしまつたやうに【序詞】、お互の仲ももう古くなつて、あなたもだいぶお年を召したけれども、どうして心がはりが致しませう。はじめてお逢ひした時のやうな心持でいつまでもお慕はしいのでございます。といふのである。何しか〔二字右○〕で係つて、ざらむ〔三字右○〕で結んで居る。大體右のやうな意味だが、『歌(ノ)意は、朝な朝なとりて向へさす黄楊櫛の、もてならしてふるびたる如くに、年經てふるめきたる君なれば、いとはるる方もあるべきに、さらにさやうの心は露思はず、なにしかいつもめづらしく、あく世なく、かくばかりうるはしく思はるらむ、となり』(古義)といふ古義の解を此に轉載して置く。
 これは寄v櫛戀で、私は女の歌のつもりで解し、即ち『公』は男になるのである。序の詞の、黄楊の櫛云々といふのは、第一に女性的の觀察だから、さう解するのは自然のやうである。ただ、女が男に向つて、『見るに飽かざらむ』と云ふのはどうかと思ふ向もあるであらうが、本卷(二三八一)に既に、公目見欲《キミガメヲミマクホリシテ》云々とある等を參考すれば理會が出來るし、同卷(二五五四)に、對面者面隱流物柄爾繼而見卷能欲公毳《アヒミテハオモカクサルルモノカラニツギテミマクノホシキキミカモ》も女の歌で、『公』は男なのだから、これも亦參考になるのである。この一首は、古い戀の趣で、前にも老人の戀の歌があつたが、これも年とつた仲の戀でめづ(722)らしいのである。卷十六(三七九四)に、端寸八爲老夫之歌丹大欲寸九兒等哉蚊間毛而將居《ハシキヤシオキナノウタニオボホシキココノノコラヤカマケテヲラム》とあるのは、稍趣が違ふが、翁といふ點では似て居る。なほ卷十一(二七〇六)の、泊湍川速見早湍乎結上而不飽八妹登問師公羽裳《ハツセガハハヤミハヤセヲムスビアゲテアカズヤイモトトヒシキミハモ》といふのも參考となるであらう。また、本卷(二六〇一)に、現毛夢毛吾者不思寸振有公爾此間將會十羽《ウツツニモイメニモワレハモハザリキフリタルキミニココニアハムトハ》とある振有公《フリタルキミ》は『舊《ふ》りたる君』で、また、その次(二六〇二)の、黒髪白髪左右跡結大王心一乎今解目八方《クロカミノシロカミマデトムスビテシココロヒトツヲイマトカメヤモ》もまた顧慮していい歌である。
 この歌は、六帖に人麿作とし、下句『なるれども何ぞも君がいや珍らしき』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇一〕
  里《さと》遠《とほ》み戀《こ》ひうらぶれぬまそ鏡《かがみ》床《とこ》のへ去《さ》らず夢《いめ》に見《み》えこそ
  里遠 眷浦經 眞鏡 床重不去 夢所見與
 
 ○里遠・眷浦經 舊訓サトトホミ・ウラブレニケリ。童蒙抄サトトホミ・シタヒウラブレ。考、眷は我の誤。略解も同樣でサトトホミ・ワレウラブレヌ。古義コヒウラブレヌ(新考同訓)。これは古義の訓が正しいので、眷をコヒと訓ずることは既に上に説いた。また、下の(二六三四)に、(723)里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミコヒワビニケリマソカガミオモカゲサラズイメニミエコソ》とあるのを以てその傍證とすることも出來る。ウラブレニケリとするのも、稍調が間が伸びて具合も惡いであらうか。○床重不去・夢所見與 舊訓ユカノヘサラズ・ユメニハミエヨ。代匠記精トコノヘサラズ・ユメニミエコソ。
 一首の意は、妹《いも》と自分との間はこんなに隔つてゐて逢ふことも出來ず、日毎戀に苦悩してゐる。せめて夢にでも見えて床の邊去らず居て欲しいものだ。といふのである。
 ウラブルは、心歎《うらなげ》、心寂《うらさび》などの心《うら》で、心觸《うらぶれ》の義だから、悲しき事に心が觸れて、思ひ萎へる、思ひ詫ぶ、おもひなやむこととなる。古義に、『戀しく思ふ心の恍惚《ホレボレ》として愁《ウレ》ひ憐《カナシ》むに堪がたければ、いかで毎夜毎夜の吾夢に入來て相宿すと見えよかし』と解したのは、少し美文的になり過ぎたやうだが、散文にせば必ずこれくらゐの長さになる筈である。
 この歌は寄v鏡戀だが、それよりも、『床のへ去らず』の句におもしろ味がある。この句は卷五(九〇四)に、敷多倍乃登許能邊佐良受立禮杼毛《シキタヘノトコノヘサラズタテレドモ》とあり、この次の(二五〇三)の歌にあり、卷十二(二九五七)の、從今者雖戀妹爾將相哉母床邊不離夢所見乞《イマヨリハコフトモイモニアハメヤモトコノヘサラズイメニミエコソ》に見えてゐる。この卷十二の歌は、恐らく人麿歌集のこの歌が流傳の際に變化したものであらうか。
 六帖は、卷十一(二六三四)の『戀ひわびにけり』の歌の方を採り、結句『夢にこそ見め』となつてゐる。又、猿丸大夫集に、『ほどとほみ戀ひわびにけります鏡面影さらに今は見えこず』とい(724)ふのがある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇二〕
  まそ鏡《かがみ》手《て》に取《と》り持《も》ちて朝朝《あさなさな》見《み》れども君《きみ》は飽《あ》くこともなし
  眞鏡 手取以 朝朝 雖見君 飽事無
 
 結句、舊訓キミヲ・アクコトモナシ。古寫本にはキミガアクコトノナキと訓んだのがある(嘉・古)。略解キミハ・アクコトモナシ(【古義・新考・新訓同訓】)。『まそ鏡手にとり持ちて』までは朝朝に續く序詞である。
 一首の意。〔眞鏡手取以《まそかがみてにとりもちて》【序詞】〕毎朝毎朝お逢ひしてもあなたは見飽き申すといふことはございません。いつまでもお慕はしくお逢いたしたいのでございます。
 これは寄v鏡戀で、女性の語氣が直ぐに分かる。これも人麿と關係ありとせば、人麿の親しんだ女の作か、或は人麿が女のつもりになつて民謠風に作つたものであらう。寄v鏡であるから、おのづと題咏的な作歌態度になることとなる。この卷(二六三三)に、眞十鏡手取持手朝旦將見時禁屋(725)戀之將繁《マソカガミテニトリモチテアサナサナミムトキサヘヤコヒノシゲケム》は、度々言つたが、恐らくこの歌の異傳か模倣歌であらう。なほこの卷(二六五一)の、難波人 葦火燎屋之 酢<四>手雖有 己妻許増 常目頬次吉《ナニハビトアシビタクヤノスシテアレドオノガツマコソトコメヅラシキ》なども參考になるだらう。或は此は、この前の、『向黄楊櫛雖舊《ムカフツゲグシフリヌレド》』の處に置いて味つていい。
 此歌は、拾遺集戀に人麿作として載り、初句『ますかがみ』、結句『君にあくときぞなき』となつてゐる。柿本集にも同樣である。六帖には(二六三三)の方が人麿作として載つてゐる。
 
          ○
 
 
  〔卷十一・二五〇三〕
  夕《ゆふ》されば床《とこ》のへ去《さ》らぬ黄楊枕《つげまくら》いつしか汝《なれ》が主《ぬし》待《ま》ちがたき
  夕去 床重不去 黄楊枕 射然汝 主待固
 
 ○床重不去 舊訓ユカノヘサラヌ。代匠記精トコノヘサラヌ。童蒙抄トコノヘサラズ。○射然汝・主待固 舊訓イツシカナレガ・ヌシマチガタシ。代匠記精イツシカ、射の下に津脱か。童蒙抄ヌシマチガタミ。考ナニシカナレガ・ヌシマチガタシ、射は何の誤。略解ナニシカナレガ・ヌシマチガタキ(【古義・新考同訓】)。新訓イツシカキミヲ・マテバクルシモ。この新訓の訓は、結句の『待固』(726)が、古寫本(嘉・類・古)に、『待困』に作り、なほイリテモキミヲ・マツソクルシキ(嘉)。サレトモキミヲ・マツソクルシキ(古)と訓んでゐるのにその根據を置いてゐる。『汝主』をキミと訓んだのは一工夫であらう。今、イツシカナレガ・ヌシマチガタキの訓に從つた。
 一首の意。夕がたになると床の邊去らぬ黄楊《つげ》の枕よ、汝の主《ぬし》である私の戀しい君を、何時《いつ》にか汝は待ち難くしたのか、待ち甲斐のないやうになつたのか。この枕との問答體のうちに、戀人の男にむかつて、どうして御いでにならぬのですかと愬へる意が含まれてゐる。ナレガヌシなどといふ小きざみの名詞はどうかともおもふが、卷五(八八二)の、阿我農斯能美多麻《アガヌシノミタマ》。卷十八(四一三二)の、奴之能等能度爾《ヌシノトノドニ》などを參考すれば、必ずしも無理過ぎるといふことはないやうである。
 次に、新訓に從ふとすると、『夕されば床のへ去らぬ黄楊枕』までは序で、寐《イ》のイからイツシカに續けたものとし、一首の意は、いつからか斯うしてあなたを待つやうになつて、苦しさに堪へませぬ。といふやうになる。この方は内容が單純だから、從つて無理も尠い。古寫本の、『困』字と、キミヲマツゾクルシキの訓とを參考尊重するとせば、この解釋をも保存して置きたいのである。
 卷五(八五九)に、ハルサレバワギヘノサトノカハドニハアユコサバシルキミマチガテニ。卷十(二〇〇四)に、己※[女+麗]乏子等者竟津荒礒卷而寐君待難《オノガツマトモシムコラハハテムツノアリソマキテネムキミマチガテニ》などがある。和名鈔で枕を説明して、承v頭(727)木也と云つてゐる如く、黄楊枕は黄楊で造つた木枕で、上品の部に屬したものであつただらう。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、『夕さればゆかのへさらぬつげ枕|いつしかなれるぬしまちかたし【いとゝもきみをまつそくるしきイ】』となつてゐる。
 
          ○
 
 
  〔卷十一・二五〇四〕
  解衣《ときぎぬ》の戀《こ》ひ亂《みだ》れつつ浮沙《うきまなご》浮《う》きても吾《われ》はありわたるかも
  解衣 戀亂乍 浮沙 生〔浮〕吾 有度鴨
 
 寛永流布本は、『浮沙・生吾・戀度鴨』で、ウキテノミ・マナゴナスワガ・コヒワタルカモと訓んでゐるが、『戀』の字は古寫本(嘉)に『有』になつてゐる。また、古葉略類聚妙にも『有』がある。また、『沙』は同鈔には『渉』となつてゐる。代匠記精撰本でも舊訓どほりに訓み、『繊沙成浮《マサゴナスウキ》テノミ吾戀度ト云ナリ』と云つた。童蒙抄ウキニノミ。考、浮沙生々萍浮、戀を在とし、ウキクサノ・ウキテモワレハ・アリワタルカモと訓み、『六帖に此哥を、とききぬの思ひ亂れてうきくさの浮ても吾はありわたるかもと有、是ぞ古へ字の正しき時に訓しものしるければ、今右の如(728)くあらためつ』と云つた。略解これに從つた。古義ウキクサノ・ウキテモ(浮草・浮)アレハ・コヒワタルカモ。新考ウキジマノ・ウキテモ(浮洲・浮)ワレハ・コヒワタルカモ。新訓ウキマナゴ・ウキテモ(浮沙・浮)ワレハ・アリワタルカモ。若し誤字説を否定するとせば、新訓の如くにウキマナゴとなるのであらうが、ウキマナゴといふ語の類例は、卷十一(二七三四)に、塩滿者水沫爾浮細砂裳吾者生鹿戀者不死而《シホミテバミナワニウカブマナゴニモワレハナリシカコヒハシナズテ》とあるから、さう不道理ではない。なほマナゴの例は、卷四(五九六)に、八百日往濱之沙毛吾戀二豈不益歟奧島守《ヤホカユクハマノマナゴモワガコヒニアニマサラジカオキツシマモリ》。卷九(一七九九)に、玉津島礒之裏未之眞名仁文爾保比去名妹觸險《タマツシマイソノウラミノマナゴニモニホヒテユカナイモガフリケム》。卷十四(三二七二)に、相模治乃余呂伎能波麻乃麻奈胡奈須兒良波可奈之久於毛波流留可毛《サガムヂノヨロギノハマノマナゴナスコラハカナシクオモハルルカモ》がある。解衣《トキギヌ》は亂れるものだから、下の『亂れつつ』に續けてゐる。
 一首の意は、解衣《ときぎぬ》の亂れてゐるやうに戀ひ亂れ、水沫《みなわ》に浮ぶ細砂《まなご》のやうに浮いて、心も空《そら》になつて、戀しつづけて居る。といふのであらう。
 身も心も浮いてゐるといふ言方は、卷十一〔二五四一)に、妹乎置而心空在土者蹈鞆《イモヲオキテココロソラナリツチハフメドモ》。卷十四(三四二五)に、伊之布麻受蘇良由登伎奴與奈我己許呂能禮《イシフマズソラユトキヌヨナガココロノレ》とあるのによつて知り得る。何となく、ふらふらして、茫乎となる状態である。それゆゑ、浮草《うきくさ》といふ言方でもいいやうであるが、それよりも浮沙《うきまなご》の方が特殊的でおもしろいからそれを主にして解釋した。また、『戀ひわたるかも』、『有りわたるかも』、いづれでも解釋し得るが、今は、嘉暦伝承本に據ることとした。この歌は、(729)寄v衣戀で、寄v沙戀ではない。
 卷四(七一一)に、鴨鳥之遊此池爾木葉落而浮心吾不念國《カモドリノアソブコノイケニコノハオチテウカベルココロワガモハナクニ》があり、『浮心《ウカベルココロ》』について、『まめまめしからぬあだし心也。浮虚の心也』(拾穗抄)。『ウカベルハ、浮虚ニテ實ナキナリ』(代匠記精)。『うきたる心』(略解)等と解して居るから、この(二五〇四)の歌の、『浮きても』云々の心持と違ふ用例である。寧ろ、卷十六(三八〇七〕に、安積香山影副所見山井之淺心乎吾念莫國《アサカヤマカゲサヘミユルヤマノヰノアサキココロヲワガモハナクニ》の『淺き心』に通ふごとき意味である。萬葉の歌人はかういふところは比較的自由に言葉を使つたものかも知れない。
 この歌は、六帖に、『浮くさ』の題で、人麿作とし、『とき衣の思ひ亂れて浮き草の浮きても我はありわたるかな』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇五〕
  梓弓《あづさゆみ》引《ひ》きて縱《ゆる》さずあらませは斯《か》かる戀《こひ》には遇《あ》はざらましを
  梓弓 引不許 有者 此有戀 不相
 
(730) 一首の意は、梓弓《あづさゆみ》を引く手をゆるめず【序詞】心を許《ゆる》さずに、身を許さずに居つたならば、今ごろ斯んなに苦しい戀に逢はずに濟んだものを。といふので、『許す』といふ語から見れば、女の歌であらうか。若しも、貴方に從はなかつたら今ごろこんなに苦しまずに濟んだのです。といふのであるが、表面は悔いてゐても、親しい男にかうして言寄つてゐるのである。そこに民謠的特質が存じて居る。先進の解には、『ひきてゆるさずとは、弓をたもちてはなたぬを云也。それを君が逢事をゆるしてなまじゐに逢初てのち戀のうきめにあふを歎く心成べし』(拾穗抄)。『はじめ戀せじとおもひしままの心ならば、かかる物おもひはせじものをと悔る心なり』(代匠記初)。『はじめうけ引しを悔て詠める女の歌也』(略解)。
 この歌は寄v弓戀で、なほ、卷十二(二九八七)に、梓弓引而不縱大夫哉戀云物乎忍不得牟《アヅサユミヒキテユルサヌマスラヲヤコヒトフモノヲシヌビカネテム》は類似の歌だが、男らしい歌である。もつとも民謠は、男だか女だか分からないやうなのもあつてかまはぬ場合もあるから、此處の歌(二五〇五)も、ユルスを、『手をゆるめず』、『油斷をせず』といふやうにして男の歌としても鑑賞し得るものである。
 なほ、ユルスは、『放つ』、『手離す』といふやうな意味にも用ゐられてゐる。卷四(六四四)
シロタヘノソデノワカレ
に、今者吾羽和備曾四二結類氣乃緒爾念師君乎縱左久思者《イマハワハワビゾシニケルイキノヲニオモヒシキミヲユルサクオモヘバ》。卷十二(三一八二)に、白妙之袖之別
ハヲシケドモオモヒミダレテユルシツルカモ  などはその例である。また、このユルスといふ語は、ユルブに通じ、卷十(731)七(四〇一五)に、情爾波由流布許等奈久《ココロニハユルブコトナク》。卷十二(二九八六)に、梓弓引見縱見《アヅサユミヒキミユルベキ》があり、(二九八七)の『縱』をもユルブと訓ませても居るのである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇六〕
  言靈《ことだま》の八十《やそ》の衢《ちまた》に夕占《ゆふけ》問《と》ふ占《うら》正《まさ》に告《の》る妹《いも》に逢《あ》はむよし
  事靈 八十衢 夕占問 占正謂 妹相依
 
 ○事靈 コトダマノと訓む。即ち言藍《コトダマ》で、卷五(八九四)に、言靈能佐吉播布國等《コトダマノサキハフクニト》。卷十三(三二五四)に、事靈之所佐國叙眞福在與其《コトダマノタスクルケニゾマサキクアリコソ》などともある。その言語の靈によりて占をするのである。○八十衢 ヤソノチマタニと訓む。道が諸方へ相通ずる辻、四辻のことである。○夕占問 ユフケトフと訓む。夕方、往來の人々の言葉で吉凶を判斷することである。卷三(四二〇)に、夕衢占問石卜以而《ユフケトヒイシウラモチテ》。卷四(七三六)に、月夜爾波門爾出立夕占問《ツクヨニカドニイデタチユフケトヒ》。卷十一(二六八六)に、夜卜問吾袖爾置白露乎《ユフケトフワガソデニオクシラツユヲ》。卷十三(三三三三)に、何時來座登大夕卜置而齋度爾《イツキマサムトユフケオキテイハヒワタルニ》。卷十六(三八一一)に、八十乃衢爾夕占爾毛卜爾毛曾問《ヤソノチマタニユフケニモウラニモゾトフ》などとあるに據つて知ることが出來る。吉凶を判斷する占には、種々の方法(732)があつたが、此處はユフケのところである。○占正謂・妹相依 舊訓ウラマサニイヘ・イモニアヒヨラム。童蒙抄ウラマサニノレ・イモニアヒヨルト。考ウラマサニイヘ・イモニアハムヨシ。略解ウラマサニノレ・イモニアハムヨシ(古義同訓)。新考マサウラニノレ・イモニアハムトキ。新訓ウラマサニノル・イモハアヒヨラム。『謂』をノルと訓んだ例は、卷十一(二四九七)に、灼然吾名謂※[女+麗]恃《イチジロクワガナハノリツツマトタノマセ》。卷十一(二七四七)に、名者謂手師乎《ナハノリテシヲ》があり、『相』をアフと訓む例は、卷二(二一〇)に、戀友相因乎無見《コフレドモアフヨシヲナミ》をはじめ多い。『依』をヨシと訓む例は、卷七(一三〇〇)に、人不知見依鴨《ヒトニシラエズミムヨシモガモ》等がある。
 一首の意は、夕方人の往來の繁き衢の四辻に來て、道ゆく人々の言葉の靈驗によつて、占の判斷をして貰つたところが、その占が正しく云つた。今夜はいよいよ妹に逢ふことが出來るぞと、さう云つたといふのである。ヨシは『逢ひ得る由』、『逢ひ得る機縁』といふのに落著く。卷十一(二三九六)に、何有依以亦一目見《イカナラムヨツヲモチチカマタヒトメミム》。卷十七(三九四五)に、妹之衣袖伎牟餘之母我毛《イモガコロモデキムヨシモガモ》といふのがある。
 此歌は、拾遺集戀三に人麿作として載り、『まさしてふやそのちまたに夕けとふうらまさにせよ妹に逢ふべく』となつてゐる。又、柿本集にも拾遺集のとほりに載つてゐる。
 
(733)          ○
 
  〔卷十一・二五〇七〕
  玉桙《たまぼこ》の路往古《みちゆきうら》にうらなへば妹《いも》に逢《あ》はむと我《われ》に告《の》りつる
  玉桙 路往占 々相 妹逢 我謂
 
 ○玉桙 タマボコノで道に懸る枕詞である。長流の燭明抄には、仙覺の説として、道にいでたつ時には、鉾を先立てて道しるべとする心から續けたといひ、或は玉桙は旗桙で、やはり道しるべのためだとした。契沖は、道の直ぐなるを鉾の直きに譬へたのだとした。眞淵は玉桙の身即ちミから續けたとしたが、宣長は玉桙には古へは知《チ》と稱へた柄があつたのであらう、それに美《ミ》といふ美稱を附けてミチとし、道に續けたものだらうとし、雅澄は舊事記の天〓槍《アメノタマホコ》とあるのを參考とし、玉桙といふのは一種の桙で、玉桙之圓《タマボコノミチ》といふ意から、道《ミチ》に懸けたとしたが、最も初期の、仙覺あたりの説が一番素直ではなからうか。○路往占 ミチユキウラニと訓む。道を往來する人の言葉によつて吉凶を判斷するので、即ち辻占の本《もと》である。占をやるのは多くは夕べから夜であらうから、前の歌にある夕占《ユフケ》と同じものと看做していい。○我謂 舊訓ワレニイヒツル。童蒙抄ワレニノリツル。
(734) 一首の意は、今、衢《ちまた》に來て、往來《ゆきき》の人の言靈《ことだま》によつて判斷をする占の、路往占《みちゆきうら》(辻占《つじうら》)をして見たところが、戀しい女に逢へると出たぞ。といふのである。
 これは寄v占戀といふのだが、さういふ譬よりももつと自然な動機によつて作られたものであらう。『妹に逢はむと、われに告《の》りつる』といふ、特に結句は率直でいい。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとして載り、結句『われにいひつる』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇八〕
  皇祖《すめろぎ》の神《かみ》の御門《みかど》を懼《かしこ》みと侍從《さもら》ふ時《とき》に逢《あ》へる君《きみ》かも
  皇祖乃 神御門乎 懼見等 侍從時爾 相流公鴨
 
 以上で、寄v物陳v思といふ部が終つて、『問答』といふ見出で九首載つてゐる、その始の歌である。次の歌の後に『右二首』と注してある。○皇祖乃 スメロギノと訓む。皇祖は、既に解釋した如く、皇祖神・皇神祖・皇御祖などとも書き、御祖の天皇を申奉るのであるが、轉じて皇祖から今上の天皇までを兼ねて申奉ることになつた。此處は現天皇を申奉るのである。○侍從時爾(735)舊訓サフラフトキニ。略解サモラフトキニ。紀には、侍、候の字を當て、萬葉集でも、卷三(三八八)に、何時鴨此夜乃將明跡侍從爾《イツシカモコノヨノアケムトサモラフニ》。卷二(一八四)に、東乃多藝能御門爾雖伺侍《ヒムガシノタギノミカドニサモラヘド》。同卷(一九九)に、鶉成伊波比廻雖侍候佐母良比不得者《ウヅラナスイハヒモトホリサモラヘドサモラヒエネバ》。卷七(一一七一)に、大御舟竟而佐守布高島乃《オホミフネハテテサモラフタカシマノ》。卷二十(四三九八)に、佐毛良布等和我乎流等伎爾《サモラフトワガヲルトキニ》等の例がある。
 一首の意は、天皇さまの御所の御門《ごもん》を謹み畏んで御仕へ申上げて居ります時に、おもひもよらずあなたさまに御目にかかつたのです。けれども場所がらでもございますから何とも申上げることさへ出來ませんでした。といふのであらう。
 これは一寸見ると、警衛の舍人などが、宮中に出入する女官などに向つていふやうに聞こえるが、能く吟味して、次の答歌をも參照すると、宮中に仕へてゐる女官などが計らずも戀しい男に逢つた趣とする方が好いやうである。『此ハ衛門府ノ屬官ナドノ番ニ當リテ祗候スル時、女ヲ見テヨメル歟。又別ノ官人ナルカ。御門ノ出入ノ制禁ヲ恐レテ、アル時ニ詮ナク只見タル由ニヤ』(代匠記精)。『男の御門を謹み守る時に、思ふ女のそこを通りて見し也』(考)。『戀ふる男の朝廷に侍ふ時に、故有りて女の見しなり。此アヘルは唯だ相見たるなり。たまたま見るも時こそあれ。斯かる時にして甲斐無きを女の歎くなり』(略解)。略解に至つて、女が歎くといふやうに明瞭に言つたが、それでも侍從《さもら》ふのは男だとしてゐる。然るに、井上博士は、『サモラフ時ニはいづくに(736)もあるべし。ただアヤニクニ役目デ詰メテ居ル時ニとなり。さてさもらへるは作者なり。從來男のさもらへるを女が見てよめるなりとせるは無理なり。女が役目にて詰め居る時に男の過ぐるを見かけてよめるなり。御門が御言の誤寫なることを悟れば無理なる解釋を要せざるなり』(新考)と云つたが、この解釋の方が好い。但し、御門《みかど》を御言《みこと》の誤だとするのは稍放恣であらうか。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとして載り、『すめらぎの』、『さふらふときに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇九〕
  まそ鏡《かがみ》見《み》とも言《い》はめや玉燿《たまかぎ》る石垣淵《いはがきぶち》の隱《こも》りたる妻《つま》
  眞祖鏡 雖見言哉 玉限 石垣淵乃 隱而在※[女+麗]
 
 ○玉限 舊訓タマキハル。考、玉蜻と改め、略解カギロヒノ。古義タマカギル。○隱而在※[女+麗] 舊訓カクレタルツマ。略解カクレタルイモ(考も同訓か)。古義コモリタルツマ(【新考・新訓同訓】)。語釋は既に皆濟んだもののみである。
(737) 一首の意は、〔眞祖鏡《まそかがみ》〕たとひ見て戀しくおもつても、決して二人の仲は口外しない。〔玉限《たまかぎる》・石垣淵《いはがきぶちの》【序詞】〕内證に秘めて大切にしてある妻である。それゆゑ心を安らかに持てよいふ意の含まれてゐる返答歌である。
 前の歌には序詞などがないが、この歌には枕詞が二ケ所にもある。それでも、『見とも言はめや』といひ、『隱《こも》りたる妻』といつて、實際的寫生をおろそかにしては居ない。また、枕詞の多いのはそれだけ骨折つて對手によく思はれようとする意圖があると、善意に解釋することも出來るけれども、二つ較べれば前の女の歌の方が滋味があるやうである。
 後世は、『見るとも』といふが、この頃は『見とも』と云ひしこと、後世の『見るらむ』を『見らむ』と云つたのと同じである。卷二十(四四八一)に、都良都良爾美等母安加米也《ツラツラニミトモアカメヤ》。同卷(四五〇三)に、之婆之婆美等母安加無伎彌加毛《シバシバミトモアカムキミカモ》があるのが其證である。本居宣長も古調にして、『見とも飽かめや天の香具山』といふ歌を作つたことがある。
 此歌は、袖中抄第十に、『マスカヽミミツトイハメヤタマキハル石垣淵《イハカキフチ》ノカクレタルツマ』として載つてゐる。又六帖の第三と第五とに載り、第五のは袖中抄と同じに訓み、第三のは初句『山高み』、他は袖中抄と同じである。
 
(738)          ○
 
  〔卷十一・二五一〇〕
  赤駒《あかごま》の足掻《あがき》速《はや》けば雲居《くもゐ》にも隱《かく》り往《ゆ》かむぞ袖《そで》卷《ま》け吾妹《わぎも》
  赤駒之 足我枳速者 雲居爾毛 隱往序 袖卷吾妹
 
 以下三首を一括して『右三首』と注してある。○足我枳速者 舊訓アガキハヤクバ。考アガキハヤケバ。○隱往序・袖卷吾妹 舊訓カクレユカムゾ・ソデマクワギモ。略解ソデマカムワギモ。同宣長訓、卷は擧の誤。ソデフレワギモ。古義カクリユカムゾ・ソデフレワギモ(新考同訓)。新訓カクリユカムゾ・ソデマケワギモ。
 袖卷《ソデマク》といふことは、袖纏《ソデマク》、袖枕《ソデマク》といふことで、或は袖交へ、袖さし交ふなどとも通じ、共に寢ることである。卷七(一二九二)に、白栲袖纏上完待我背《シロタヘノソデマキアゲテシシマツワガセ》。卷十(二三二一)に、白妙之袖纏將干人毛不有君《シロタヘノソデマキホサムヒトモアラナクニ》とあるのは、卷《ま》くことで少し意味が違ふが、卷十二(二九二七)の、浦觸而可例西袖※[口+立刀]又《ウラブレテカレニシソデヲマタ》卷者過西戀以亂今可聞《マカバスギニシコヒイミダレコムカモ》の卷《マク》は恰もこの歌の場合と同じなので、マクは纏交《まきかは》す意なのである。略解で、宣長説として、古事記に羽擧をハフリと訓んで居るから、此處も卷は擧の誤でソデフレたら  古義・新考等もそれに從つてゐる。ソデフレは即ち袖振れで、別離を惜しめといふこ(739)とになつて解釋の出來ないことはないが、折角、ソデマケとあつて、寧ろ、袖を纏交《まきか》へて寐るといふ方が直接だから、その方にして解釋すべきである。
 一首の意は、私の乘る赤駒《あかごま》の足掻《あがき》即ち足の運び、驅歩《くほ》は非常に速いから、忽ちに雲居《くもゐ》遙かにお前と隔つてしまふだらう、それゆゑ今の暫しの間でも袖を纏交《まきか》はせ。戀しい女よ。といふので、別離のまへ、旅立つまへの交情をあらはしてゐる歌である。
 前の人麿の歌、卷二(一三六)の、青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類《アヲゴマノアガキヲハヤミクモヰニゾイモガアタリヲスギテキニケル》とこの歌とに聲調上類似の點があるので、この歌も或は人麿の作だらうと想像し得るところがある。特に卷二の歌の結句は、一云、當者隱來計留《アタリハカクリキニケル》とあるから、なほ類似して居ることとなるのである。なほ、卷七(一一四一)に、武庫河水尾急嘉赤駒足何久激沾祁流鴨《ムコガハノミヲヲハヤミカアカゴマノアガクタギチニヌレニケルカモ》。卷十四(三五四〇)に、左和多里能手兒爾伊由伎安比安可故麻我安我伎乎波夜美許等登波受伎奴《サワタリノテコニイユキアヒアカゴマガアガキヲハヤミコトトハズキヌ》。卷十七(四〇二二)に、宇佐可河泊和多流瀬於保美許乃安我馬乃安我枳乃美豆爾伎奴奴禮爾家里《ウサカガハワタルセオホミコノアガマノアガキノミヅニキヌヌレニケリ》といふのがある。當時の實生活を背景として、その心の運び方、ものの言ひ方を味へばなかなか棄て難いところがある。
 この歌は、六帖に、『わがこまの|あしがき《(あがき)》早くは雲居にも隱れゆかむぞ袖まくわざも』として載つてゐる。
 
(740)          ○
 
  〔卷十一・二五一一〕
  隱口《こもりく》の豐泊瀬道《とよはつせぢ》は常滑《とこなめ》の恐《かしこ》き道《みち》ぞ戀《こ》ふらくはゆめ
  隱口乃 豐泊瀬道者 常滑乃 恐道曾 戀由眼
 
 舊本『常濟』とあり、代匠記では、『常滑』の誤としたが、古寫本の多くは『常滑』に作つてゐる。『戀由眼《コフラクハユメ》』は舊訓に從つたが、古寫本中、コヒヨルナユメ(嘉・細)の訓もある。考(【戀は曉の、眼は※[奚+隹]の誤とし】)アカシテヲユケ(略解同訓)。古義(【戀は爾心の誤とし】)ナガココロユメ。新考(【戀は勿怠の誤とし】)オコタルナユメ等の諸訓がある。常滑《とこなめ》は前にも抄したが、從來は水中の石で苔などのために滑らかになつてゐるのを云ふと解した。契沖が、『なめらかなる川中の石なり』と云つてゐるのは即ちそれである。然るに井上博士は、『トコナメは川瀬の飛石なり』といふ説を出し、人爲的に作り敷いた石とした。おもふに、平凡に道又は川原の滑らかなる石道と解していいことは前言したごとくである。滑《す》べるほど滑らかだから、さういふので、形容の詞から名詞になつたものである。さて結句の、『戀ふらくはゆめ』であるが、これは順直に來ない訓であるけれども、略解で代匠記の説を參照しながら、『此歌字の誤り有るべし。試みに言はば、初瀬道は川瀬滑らかにて、かしこければ、しひて渡りな(741)ば危ふからん。我を戀ふとならば、ゆめ渡る事なかれと云へるにや。されど穩かならず』といふのが稍穩當であらうか。つまり、あぶない道だから、私を思ひたまふならば、そのあぶない道はおいでになるな、といふのであらうか。女が男の身の上を案じて云つたやうな歌である。考では、これは前の歌と關係が無く問答歌でないとし、『こは右の答にはあらず、同じ夜の歌ともいはばいひてん』と云つた。古義はナガココロユメと訓み、卷七(一三五六)の人曾耳言爲汝情勤《ヒトゾササメキシナガココロユメ》を證としてゐる。またこれは女から男を汝《な》と呼ぶ例とし、『汝の心を慎みて、ゆめゆめあやまち爲《シ》賜ふことなかれと、男の發《タチ》ていぬるにいひやる女の歌にて、即(チ)右の歌に答へたるなり』と解釋して居る。新考では、『勿怠由眼の誤としてオコタルナユメとよむべし。油斷スナとなり』といつてゐる。
 この歌は、夫木和歌抄に、讀人不知として、ここに訓んだとほりに載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五一二〕
  味酒《うまざけ》の三諸《みもろ》の山《やま》に立《た》つ月《つき》の見《み》が欲《ほ》し君《きみ》が馬《うま》の音《おと》ぞする
  味酒之 三毛侶乃山爾 立月之 見我欲君我 馬之足音〔馬之音〕曾爲
 
(742) 『立月《たつつき》』は、前にもあつたが、出づる月で、出たばかりぐらゐの氣特であらうか。考で、『照月に用ひしならん』といひ、略解に、『光の字を立に誤れるにや。テルツキノと有るべし』と云つてゐるが立月《たつつき》といふ語を保存してそれを先づ吟味したいのである。この歌は、略解で、『是れは男の來たるを、馬の足音にて知りて悦ぶなり』といつてゐるので大體盡きて居る。つまり女が男に向つていふ問答歌なのであるから、かういふ女の歌も人麿歌集に入つてゐるのであるが、これも前言の如く見樣によつては、人麿自身が一人で問答歌の體にして作つたとも解釋することが出來る。併しこの想像は少し放恣であるだらう。考に、『右の三首も、定かなる贈答にもあらぬをかく出し、又右五首は、同じ人まろ歌集とても一本と見ゆ。然れば、此に書しには落しを、一本もて後に加へし哥なり。おもふにここは此一本に亂れたりけん』と云つてゐる。つまり既に前言したが、眞淵も人麿歌集は一本のみではなかつたと考へてゐるのである。この歌も棄てがたい味を持つてゐる。
 訓。初句舊訓ウマサカノ。考(【之は乎の誤とし】)ウマザケヲ(略解同訓)。古義ウマサケノ(【新考・新訓同訓代匠記も同訓か】)。下句舊訓ミガホキワガウマノ・アノオトゾスル。代匠記初(旋頭歌とし)ミガホシキ・キミガウマノ・アノオトゾスル。童蒙抄ミガホシキミガ・ウマノアシオトゾスル。考ミガホルキミガ・ウマノアトゾスル。略解ミガホシキミガ・ウマノアトゾスル(【古義・新考同訓】)等の諸訓がある。結句が、流布(743)本は、『馬之足音曾爲』であるが、今新訓にならひ、嘉暦伝承本に、『馬音曾爲』になつてゐるのに從つてウマノオトゾスルと訓んだ。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五一三〕
  雷神《なるかみ》の暫《しま》し動《とよ》みてさし曇《くも》り雨《あめ》の零《ふ》らばや君《きみ》が留《とま》らむ
  雷神 小動 刺雲 雨零耶 君將留
 
 ○雷神 舊訓ナルカミノ。類聚古集ナルカミヲ。○小動 シマシトヨミテと訓む。古寫本に既にシバシトヨミテ(【文・西・温・矢・京】)。トヨマスバカリ(類)。シバシウゴキテ(嘉・細)等の訓があつた。舊訓シバシトヨミテを、略解宣長説に小は光の誤にてヒカリトヨミテならんと云つた。○刺雲 舊訓サシクモリ。童蒙抄サスクモノ。○雨零耶 舊訓に從つてアメノフラバヤと訓む。古寫本にアメモフラナム(嘉・類・細)の訓がある。童蒙抄アメノフリテヤ。考アメフリナバヤ又はアメモフランヤ。略解アメモフレヤモ。古義・新考等略解に從つた。○君將留 舊訓キミヤトマラム。古寫本に、キミトマルベク(嘉)。キミヲトドメム(類・細)。キミガトマラム(温・京)等の訓があ(744)る。代匠記キミガトマラム。童蒙抄キミガトマラン。考キミガトマラム。キミヲトドメム。略解キミヲトドメム(【古義・新考同訓】)。以上の諸訓を時々參考して味つてかまはない。但し萬葉にはシバシといふ假字書の例がないから、シバシトヨミテはシマシトヨミテと改むべきであらう。卷十五(三七八五)に、保登等藝須安比太之麻思於家《ホトトギスアヒダシマシオケ》。卷十八(四〇三二)に、奈呉乃宇美爾布禰之麻之可勢《ナゴノウミニフネシマシカセ》があり、またシマシクの用例もある。私の如きも宣長訓のヒカリトヨミテに興味を感じさう訓んで味つたこともある。現に古義もそれに從つてゐるから、古義の訓に據つて書きくだした萬葉集のみを讀めば、自然さう訓むこととなるのである。併し、この『小』字は古寫本盡くさうであり、代匠記注に、『校本、小或作少』とあるのみであり、またシマシトヨミテと訓んだ方が自然でもあり、ヒカリトヨミテほ中々好いが、寧ろ近代的感覺だから、今囘は從來の訓に從つて置いた。
 一首の意は、暫《しば》しも雷が鳴つて天が曇り雨が降るなら君が行つてしまはずに此處に留まつて下さるだらう。さうしてもらひたいといふのである。降らばやのヤは係辭で留らむのラムに係るので、願望のバヤではないと解釋すべきである。この歌は女が男に向つて云つた趣にしてある。
 第四句アメモフレヤモと訓ずる説は、『フレヤモはフレカシの意なり』(略解)。『雨もがな降れかしの意なり』(古義)のごとくに解してゐるのであるから、これも一つの解釋方法として、取つて味つてかまはない。嚴密な意味の訓詁學と作歌實行の鑑賞との差別はここにも存じて居る。作(745)歌稽古のための鑑賞は時に極めて自由にいろいろの場合を採用し取捨してかまはぬし、訓詁學の方では其を許さない。此歌は、第二句を、シマシトヨミテと訓むにせよ、ヒカリトヨミテと訓むにせよ、雷雨を配して氣持を出してゐる點は、特殊でもあり、誠に得がたい好いところがある。そして都會的、殿上的情調でなく、田園的、民衆的情調である。
 ヒカリトヨミテと訓んで參考になる例は、卷七(一三六九)に、天雲近光而響神之見者恐不見者悲毛《アマグモニチカクヒカリテナルカミノミレバカシコシミネバカナシモ》。卷十三(三二二三)に、霹靂之日香〔流〕天之九月之《ナルカミノヒカルミソラノナガツキノ》。卷十九(四二三六)に、光神鳴波多※[女+感]嬬携手《ヒカルカミナリハタヲトメテタヅサヒ》等がある。
 この歌は、拾遺集戀三に、人麿作として、『なる神のしばしうごきて空くもり雨もふらなむ君とまるべく』。柿本集に、『鳴神のしばしは空にさしくもり雨もふらなむ君とまるべく』。六帖に、人まろ作として、『鳴神をとよますばかりさしくもり雨もふらなむ君をとどめむ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五一四〕
  雷神《なるかみ》の暫《しま》し動《とよ》みて零《ふ》らずとも吾《われ》は留《とま》らむ妹《いも》し留《とど》めば
  雷神 小動 雖不零 吾將留 妹留者
 
(746) これは男の氣持になつて右の歌に答へて居るのである。暫し雷が鳴つて雨が降るならと云ふけれども、そんなわけではない、お前さへゐよといつて留めて呉れるなら己《おれ》はいつまでも居ようといふのである。『右二首』と左注がある。
 戀愛的問答は相手を豫想するので孤獨なやうなことを云つても實際はさうではなく、問答の要素が籠つてゐるのである。さてあからさまに問答となると、聯想が奔放になり、甘《あま》く機智を弄しがちになつて、互にその機智に快感をおぼゆるのが常で、後世の戀愛問答歌が皆それである。業平あたりで既にさうであるが、萬葉のこのあたりの問答歌は流石に浮泛でなくてしつとりとしてゐる。これ等の歌は人麿調とは限らぬけれども、ひよつとせば人麿もかういふ男女のつもりになつて作歌して見たのかも知れない。一般的には民謠的歌を人麿或は編輯者が採録したと解釋していいが、時にはさういふ想像をしても別に邪魔にはならぬ。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五一五〕
  布細布《しきたへ》の枕《まくら》動《うご》きて夜《よ》も寐《い》ねず思《おも》ふ人《ひと》には後《のち》も逢《あ》はむもの
  布細布 枕動 夜不寐 思人 後相物
 
(747) ○夜不寐・思人・後相物 舊訓ヨルモネズ・オモフヒトニハ・ノチモアハムモ。代匠記精ノチモアフモノヲ。童蒙抄ヨモイネズ・オモフヒトニハ・ノチアフモノカ。考イヲモネズ・オモフヒトニハ・マタモアハムカモ。略解ヨヲモネズ・オモフヒトニハ・マタモアハムカモ。古義ヨイモネズ・オモフヒトニハ・ノチアフモノヲ。新考ヨルモネズ・オモフヒトニハ・ノチアハムモノヲ。新訓ヨモイネズ・オモフヒトニハ・ノチモアハムモノ。
 『枕動く』とは、幾度も寢返りを打つ、輾轉反側することで、そのために安眠出來ず、枕動くといふのであつて、おもしろい表はし方である。用例は二つばかりであるから、この人麿歌集の歌が始であるかも知れない。古今集十一に、『宵々に枕定めむかたもなしいかに寐し夜か夢に見えけむ』。後撰集十一に、『夕されば我身のみこそ悲しけれ何れのかたに枕さだめむ』とあるのも、同じやうな表はし方であるが稍繊細になつてゐる。
 一首の意は、私は毎夜毎夜寢がへりのみしてゐて、枕動いて眠れずに戀に悩んで居るのだが、かうして思ひつづけて居れば、屹度思ふ人に逢ふことが出來るものです。かう諦念のやうなことをいつて、斷定して置いて對者に愬へ、うながしてゐるのである。
 この歌では結句の、『後も逢はむもの』といふのが注意すべき句で、卷十一(二七五六)に、月草之借有命在人乎何知而鹿後毛將相云《ツキクサノカリナルイノチナルヒトヲイカニシリテカノチモアハムトフ》など參考になる。また、卷五(八七六)に、美夜故摩提意久(748)利摩遠志弖等比可弊流母能《ミヤコマデオクリマヲシテトビカヘルモノ》があり、その他は、モノヲ。モノカ。モノゾ。モノカモ。モノナリなどといつてゐる例が多い。なほ本卷(二五九三)に、敷細枕動而宿不所寢物念此夕急明鴨《シキタヘノマクラウゴキテイネラエズモノモフコヨヒハヤモアケヌカモ》とあるのは、この歌の異傳であらうか。
 六帖には、『しきたへの枕動きていねられず物思ふ今宵はや明けむかも』と(二五九三)の歌の方が載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五一六〕
  しきたへの枕《まくら》きし人《ひと》言《こと》問《と》へや其《そ》の枕《まくら》には苔《こけ》生《お》ひたらむ
  敷細布 枕人 事問哉 其枕 苔生負爲
 
 ○枕人・事問哉 舊訓マクラセシヒト・コトトヘヤ。考マクラセバヒト・コトトヘヤ。略解マクラニヒトハ・コトトヘヤ(古義同訓)。新考マクラキシヒト・カレヌレヤ。新訓マクラキシヒト・コトトヘヤ。○苔生負爲 舊訓コケムシニタリ。代匠記初コケオヒヲセリ。童蒙抄コケムシニケリ。者コケオヒニタリ(略解同訓)。古義コケムシニタリ。新考コケムシニタル。新訓コケオ(749)ヒタラム。今、新訓に從ふ。
 マクラキは、加行四段に活用したので、卷五(八一〇)の、比等能比射乃倍和我摩久良可武《ヒトノヒザノヘワガマクラカム》。卷十九(四一六三)の、妹之袖和禮枕可牟《イモガソデワレマクラカム》などが其例である。
 一首の意は、女が前の男の歌に答へたもので、あなたは、枕動きて眠れないなどとおつしやいますが、私と一度〔敷細布《しきたへの》〕枕を交はされたお方《かた》なら、つづいて御たづね下すつたらいかがですか。もうあの枕には、あなたが餘りおいでにならぬものですから、今ごろは苔でも蒸してゐるでせうよ。といふのである。前の歌とあはせて『右二首』と左注がある。
 『事問哉』は、言《こと》問《と》へや。訪ね給へよ。といふので、トヘといふ命令法にヤを添へたものである。この下(二六三〇)に、結紐解日遠敷細吾木枕蘿生來《ユヘルヒモトカムヒトホミシキタヘノワガコマクラニコケオヒニケリ》などとあるのも參考となるべく、この卷十一の、寄v物陳v思のうちには、人麿歌集の歌と甚だ似たのが多く、そして概ね人麿歌集の歌よりも劣つて居る。
 この歌は、風雅集戀五と、夫木和歌抄とに、人麿作として載り、第二句『枕せし人』、結句『苔生ひにけり』となつてゐる。
 『右二首』の注に次いで『以前一百四十九首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ注が此處に記されて居る。
 
(750)          ○
 
  〔卷十一・二六三四〕
  里《さと》遠《とほ》み戀《こ》ひ佗《わ》びにけりまそ鏡《かがみ》面影《おもかげ》去《さ》らず夢《いめ》に見《み》えこそ
  里遠 戀和備爾家里 眞十鏡 面影不去 夢所見社
 
 前の(二五〇一)に、里遠眷浦經眞鏡床重不去夢所見與《サトトホミコヒウラブレヌマソカガミトコノヘサラズイメニミエコソ》とあるのと殆ど同じで、恐らくこの歌はその異傳であらうか。左注に、『右一首、上見2柿本朝臣人麿之歌中1也。但以2句句相換(レルヲ)1故(ニ)載2於茲(ニ)1』とあるものである。六帖等に出てゐることは前の歌の處であげた。
 
          ○
 
  〔卷十一・二八〇八〕
  眉根《まよね》掻《か》き嚔《はな》ひ紐《ひも》解《と》け待《ま》てりやも何時《いつ》かも見《み》むと戀《こ》ひ來《こ》し吾《われ》を
  眉根掻 鼻火※[糸+刃]解 待八方 何時毛將見跡 戀來吾乎
 
(751) この歌は、前(二四〇八)の、眉根削鼻鳴紐解待哉何時見念吾君《マヨネカキハナヒヒモトケマツラムヤイツカモミムトオモフワガキミ》と甚だ類似して居り、左注に、『右上(ニ)見(ユ)2柿本朝臣人麿(ノ)之歌中(ニ)1、但(シ)以(テ)2問答故(ヲ)1累(テ)載2於茲1也』とあるもので、この歌に答へたものは、今日有者鼻之鼻之火眉可由見思之言者君西在來《ケフナレバハナヒハナヒシマヨカユミオモヒシコトハキミニシアリケリ》(二八〇九)といふのである。
 
(752)     萬葉集卷十二所出歌
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四一〕
  我《わが》背子《せこ》が朝《あさ》けの形《すがた》能《よ》く見《み》ずて今日《けふ》の間《あひだ》を戀《こ》ひ暮《く》らすかも
  我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨
 
 卷十二『古今相聞往來歌類之下』の初めに、『正述心緒』といふ題で十首、次いで『寄物陳思』の題で十三首の歌が、『右二十三首柿本朝臣人麻呂之歌集出』と左注されて載つてゐる。その『正述心緒』第一首である。卷十一、卷十二ともに、人麿歌集出の歌が初めに別にして載せてあるが、かくの如くに、先づ第一に人麿歌集出の歌を載せ、その次から古歌集のものなりその他の讀人不知の歌を載せる傾向があるやうに思はれる。左注は編輯の時よりも後に加へたものとも考へ得る(753)が、それにしても人麿歌集に對して編輯者の持してゐた態度(一種尊重の態度)の一端をうかがふことが出來るやうに思はれるのである。
 この歌の訓は舊訓の儘で、只アサアケノをアサケノとした。一首の意は、一夜交歡して、曉はやく男が立去るとき、よくも見ずに男を歸したが、それが殘念で一日ぢゆう戀ひくらすといふのである。
 『あさけのすがた』といつたのが誠に好く、男の貌、樣子等をも含めたスガタといふので含蓄があり、『能く』もなかなか效果がある。『今日のあひだを』といふ伸ばした云ひ方も、萬葉でなければ出來ないものであらうか。
  卷十(一九二五)に、朝戸出之君之儀乎曲不見而長春日乎戀八九良三《アサトデノキミガスガタヲヨクミズテナガキハルビヲコヒヤクラサム》。卷十二(三〇〇七)に、野干玉夜渡月之清者吉見而申尾君之光儀乎《ヌバタマノヨワタルツキノサヤケクバヨクミテマシヲキミガスガタヲ》といふ例があり、『よく見る』といふ表現は此處にもある。なほ、卷十二(三〇九五)には、朝烏早勿鳴吾背子之旦開之容儀見者悲毛《アサガラスハヤケナナキソワガセコガアサケノスガタミレバカナシモ》といふ歌もある。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四二〕
  我《わ》が心《こころ》と望《のぞ》みし念《も》へば新夜《あらたよ》の一夜《ひとよ》も闕《お》ちず夢《いめ》にし見《み》ゆる
(754)  我心等 望使念 新夜 一夜不落 夢見
 
  ○我心等・望使念 舊訓ワガココロト・ノゾミオモヘバ。代匠記初ノゾミシオモヘバ。同書入【校本萬葉】、使は衍か。代匠記精ノゾミシモヘバ。考、望使は無便の誤、スベナクモヘバ。略解は舊訓及考の説の他に或人の説として、使の下、美の字脱としてワガココロ・トモシミモヘバと訓んだ。古義、我心等は我等心、望使は氣附の誤とし、アガココロ・イキヅキモヘバ。新考ワガココロト・ノゾミシモヘカ。今、代匠記精の訓に從つて、ノゾミシモヘバと訓めば、自分の心から、戀人に逢ひたいと切りに望んで居れば、といふことになる。使をシといふ助語(助詞)に使つた例はないが、助動詞の場合の、卷二(一九九)に、神宮爾装束奉而遣使御門之人毛《カムミヤニヨソヒマツリテツカハシシミカトノヒトモ》とある、『便』は、古寫本(【金・類・温・神・西等】)に『使』とあるのに從つて、訂してシと訓んで置いたが、人麿歌集の歌だから、助詞として『使《シ》』と使つたと解釋出來ないであらうか。支那の熟語の、使人《シジン》、使君《シクン》などがあるので、或る拍子にそのシ音を借りたとも考へられる。尤も、この表現は餘り旨くないから、考或は古義に從へれば好く、『わが心からせんすべ無く思へば』(略解)となるのだが、さう簡單には行かない。○新夜 舊訓アタラヨノ。考、新玉の誤とし、アラタマノ。古義アラタヨノ。『抑々|新夜《アラタヨ》とは、世の事を新世《アラタヨ》といふと同例にて、經易(リ)》經易(リテ)新《アラタ》まる夜と云ことなり。此(ノ)下に、今更將寢哉吾背子荒田麻之全夜毛不落夢所見欲《イマサラニネメヤワガセコアラタマノヒトヨモオチズイメニミエコソ》とあるは、彼處に云如く、麻は夜(ノ)字の誤、荒田夜《アラタヨ》にて、今と全(ラ)同(755)じ』(古義)とあるのを參考にしていい。次ぎ次ぎに來る夜、即ち毎夜といふことになる。○夢見 舊訓ユメニミエケリ。古寫本中、ユメニミユトソ(神)。考、夢ニシミユル。略解イメニシミユル(【古義・新考同訓】)。新訓イメニミエコソ。夢見與と元暦校本によつて補充したのである。元暦校本には此歌と次の歌とを一所に書いて居る。無訓。今暫く元の儘にし、考(略解)の訓に從つた。
 一首の意は、私自身の心から、お逢ひしたいお逢ひしたいと念じて居れば、毎夜、一度も缺かさずに、戀しい貴方《あなた》が夢に見えてまゐります。といふぐらゐの意である。
 この歌は、恐らく女の心持を歌つたものであらうか。この、『等《ト》』の助詞は、稍難解だが、ココロトシテ。ココロカラぐらゐに解せば、一首は自然に解釋の出來る歌である。卷一(五〇)の、新代登泉乃河爾持越流眞木刀都麻手乎《アラタヨトイヅミノカハニモチコセルマキノツマデヲ》。卷二十(四三七三)の、之許乃美多弖等伊※[泥/土]多都和例波《シコノミタテトイデタツワレハ》。卷二(二二〇)の、神乃御面跡次來《カミノミオモトツギキタル》等を記して置く。なほ、卷十五(三七三八)に、於毛比都追奴禮婆可毛等奈奴婆多麻能比等欲毛意知受伊米爾之見由流《オモヒツツヌレバカモトナヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》。卷十一(二五六九)に、將念其人有哉烏王之毎夜君之夢西所見《オモフラムソノヒトナレヤヌバタマノヨゴトニキミガイメニシミユル》。卷四(七一〇)に、三空去月之光二直一目相三師人之夢西所見《ミソラユクツキノヒカリニタダヒトメアヒミシヒトノイメニシミユル》などがあるから、イメニシミユルといふ結句は相當の落著を有つてゐるものである。
 若し新訓に從つて、イメニミエコソと訓むとせば、これも同じ結句の歌が幾つかある。卷五(八〇七)に、宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》。卷十三(三(756)二二七)に、新夜乃好去通牟事計夢爾令見社《アラタヨノサキクカヨハムコトハカリイメニミセコソ》。併しこの歌の場合は、イメニシミユルの方が却つて好い。
 この萬葉卷十二の歌につき、略解は考の文を踏襲して、『目録に古今相聞往來歌類之下と有り。第十一の卷と同じ卷なるを、歌の數多ければ上下と分てるなり。上の卷に出でたる歌の、此卷に再び載れるもたまたまあり。はた上の卷に相聞に入れたるを、此卷には旅に入れ、又は贈答に載せたるも有り。是れらは其撰とられしもとの集どもに二樣に有りしか、又は傳への異なるなどに由りて、そのままに採り集めし物なるべし』と云つてゐる。萬葉の編輯に使つた材料は一本のみでなく、異本が幾つかあつたものと看るべく、それ等を皆尊重したから一句ぐらゐの差ある類歌をも收録したものと解釋して好い。ゆゑに卷十一と卷十二との編輯者が別人であつたといふ説もあるけれども、その説の證據もいまだ積極的といふわけには行かない。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四三〕
  愛《うつく》しと我《わ》が念《も》ふ妹《いも》を人《ひと》みなの行《ゆ》くごと見《み》めや手《て》に纏《ま》かずして
  與愛 我念妹 人皆 如去見耶 手不纏爲
 
(757) ○與愛 舊訓ウツクシト。代匠記初コソハシク。代匠記精、『發句ハ若愛與を倒ニ寫セルカ』。略解ウルハシト。○我念妹 舊訓ワガオモフイモヲ。代匠記精ワガモフイモヲ。○人皆 舊訓モトミナノ。童蒙抄ヒトミナノ。○如去見耶 舊訓イマユキミルヤ。代匠記初モシユキミルヤ。童蒙抄モシユキミンヤ。考ユクナスミルヤ。略解ユクゴトミメヤ(【古義・新考同訓】)。
 一首の意は、愛《うつく》し愛《めぐ》しとわが思ふ妹《いも》をば、一般他人のごとくに、ただよそよそしく客觀的に見過ぐし得ようか。手にも纏かないで。といふのである。略解には、『思ふ妹が道行くを見て、忍べる中故に、大よそ人の道ゆくを見る如くして在むと歎く也』と解して居る。
 かういふ場合のウツクシといふ語なども、ただの形容といふよりも、もつと肉體的の接近をおもはしめる程の力を持つて響いて來るやうである。また、『人皆の行くごと見めや』といふ如き發想は、戀愛心の複雜な動きの一つで、現代人の表現として考へても毫も古くは無い。のみならず、現代人には、『手に纏かずして』のごとくに能働的には云へない。若し云ひ得るとしても、現代人には、『手に纏かずして』では古いから、他の語を用ゐるとすると、卑しくなつたりして具合が惡い。即ち、萬葉歌人には及び難いといふことになるのである。
 代匠記で、第四句を、モシユキミルヤと訓み、『如ハ今按モシト讀ベキ歟。手玉ヲ手ニ卷如ク我妻トモ定メヌ程ナレバ、皆人ノモシ行テ見テ思ヒ懸云ヒ入ナドヤセムト心モトナク思フ意ナリ』(758)(精撰本)と云つてゐる。若しかう訓むとせば、整調が詰まつてしまふのである。それに較べると略解の訓の、ユクゴトミメヤは強くてゆつたりとして居る。初句の『愛』字、萬葉には、宇都久之《ウツクシ》、宇流波之《ウルハシ》兩方の例があるが、今舊訓に從つてウツクシとした。ウツクシミ。ウルハシミといふ訓もまた可能である。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四四〕
  此《こ》の頃《ころ》の寢《い》の寢《ね》らえぬは敷細布《しきたへ》の手枕《たまくら》まきて寢《ね》まく欲《ほ》れこそ
  比日 寢之不寢 敷細布 手枕纏 寢欲
 
 ○寢之不寢 奮訓イノネラレヌニ。代匠記精イノネラエヌニ。略解イノネラエヌハ。○寢欲 舊訓ネマクホシケム。童蒙抄ネマホシトオモフ。又ネマクホリスル。考ネマクシホシモ。略解ネマクホレコソ(新考同訓)。古義ネマクホリコソ。此處のコソは願望のコソ(連用言に續く)でなく、欲レバコソナレといふ場合であるから、ホレコソと訓むべきである。
 一首の意は、このごろ毎晩眠られないのは、〔敷細布《しきたへの》〕女の手枕《たまくら》を纏《ま》いて(枕にして)寢たいと(759)ばかり思つてゐるせいであらう。戀しい女と一しよならこんなに夜も眠れないことはあるまいといふ意味よりも、寧ろ直接に戀しい女の手枕纏きたいといふ意を含ませてゐるのだが、かういふ言ひ方をして居るのである。ホリコソと訓めば、寢たいものであるといふ直接願望の意になるのであらうか。しかしそれでは上からの續きがわるい。
 この歌は、無理がなく筋も通つてゐるけれども、取りたてていふほどのものではなく、必ずしも人麿の手を待つまでも無いとおもふ程度の歌である。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四五〕
  忘《わす》るやと物語《ものがた》りして意《こころ》遣《や》り過《す》ぐせど過《す》ぎず猶《なほ》戀《こ》ひにけり
  忘哉 語 意遣 雖過不過 猶戀
 
 ○忘哉 舊訓ワスレメヤ。代匠記初ワスルヤト。忘が古寫本(元・西・神)に忌に作つてゐるから拾穗抄ではユユシクヤと訓んだ。○語・意遣 舊訓モノガタリシテ・ココロヤリ。略解の一訓、遣は追の誤とし、モノガタリシテ・ナグサメテ(新考同訓)。○雖過不過・猶戀 舊訓スグレドス(760)ギズ・ナヲコヒシクテ。代匠記精スグセドスギズ・ナホコヒニケリ。童蒙抄スグセドスギズ・ナホゾコヒシキ(【考・略解・古義・新考同訓】)。
 一首の意。戀しい女のこともかうすれば忘れるだらうとおもつて、種々世間話などをして氣を紛はさうとするけれども、それも出來ずに、またまた苦しい戀をしたのであつた。童蒙抄・考の訓に從へば、まだまだ戀しくてならぬ。といふことになる。
 この『物語して』は、女と共に寢物語などをするのでなくて、知り人などと共に世間の物語をすることである。『ものがたりするは、友たちなどとかたりて、心をやりて見るなり』(代匠記初)。『思ふ人の事を忘るるやと、外人と物語りをもし心をやりすぐせ共、中々やり過ごされず、猶戀しさの彌ますとの歌と聞ゆる也』(童蒙抄)。『人々と種々のものがたりして、おもひをやり過すなり。…しかまぎれて思ひをやれど、えやり過すことはあらで、かにかくにまだ戀しきなり』(考)。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四六〕
  夜《よる》も寢《ね》ず安《やす》くもあらず白細布《しろたへ》の衣《ころも》は脱《ぬ》がじ直《ただ》に逢《あ》ふまで
  夜不寢 安不有 白細布 衣不脱 及直相
(761) ○夜不寢・安不有 舊訓ヨルモネズ。ヤスクモアラズ(【代匠記・古義・新訓同訓】)。童蒙抄ヨモイネズ。考ヨヲモネジ・ヤスクモアラジ。略解ヨルモネジ・ヤスクモアラジ。新考ヨヲネズテ・ヤスクモアラズ。○衣不脱・及直相 舊訓コロモモヌガジ・タダニアフマデ(【代匠記・考・略解同訓】)。童蒙抄タダニアフマデハ。古義タダニアフマデニ。新考コロモハヌガジ・タダニアフマデ(新訓同訓)。
 一首の意は、今は戀ゆゑ夜も碌々ねむらず、心も常に悩ましく不安で平靜でない。このうへは〔白細布《しろたへの》〕着物も脱がずに丸寢してゐよう。直接戀しき人に逢ふまでは。といふのである。
 これは、男の獨咏的な歌だとしても理會が出來るからさうしたが、女の獨咏としても解釋の出來ないことはない。童蒙抄ではそれゆゑ、『獨りぬればいねがてに心も安き事なく、相見し夜の衣も又逢ふ迄はぬがで、まろ寢をせんと貞節の意を兼て逢はぬ事を歎ける歌也』と解釋してゐるのである。實際かう解釋しても無理のないもので、鑑賞者は必ずしも一方に極めなくともいい。一首の聲調には小休止、例へば、ね|ず〔右○〕。あら|ず〔右○〕。ぬが|じ〔右○〕。あふ|まで〔二字右○〕、といふ具合であるから、稍脆い弱味が暴露せられてゐる。若し人麿作だとせば、骨折らず樂々と民謠風の歌作家のやうな態度で、人形師が澤山の人形を並べて置いて繪具を塗るやうな態度で出來たものの一つでもあらうか。
 
          ○
 
(762)  〔卷十二・二八四七〕
  後《のち》も逢《あ》はむ吾《わ》にな戀《こ》ひそと妹《いも》は言《い》へど戀《こ》ふる間《あひだ》に年《とし》は經《へ》につつ
  後相 吾莫戀 妹雖云 戀間 年經乍
 
 ○後相・吾莫戀 舊訓ノチニアハム・ワレヲコフナト。代匠記精ノチモアハム。考ワヲナコヒソト。古義ノチニアハム・アヲナコヒソト。新考ノチモアハム・ワニナコヒソト。新訓ノチモアハム・ワレニナコヒト。新考の訓に從はうと思ふ。
 一首の意。いづれ後日に逢ひませう、ですからそんなに責付きなさるな、いらいらなさるな、かう妹《いも》は慰めるやうなことを云ふけれども、實はその妹を今日か今日かと待ち焦れてゐるうちに歳月が經つてしまつたのです。
 この歌も、前の、『物語りして心遣り』などと同じく、小きざみで且つ聲調が稍脆弱になつてゐる。第二句は、それでもワニナコヒソトと訓めば幾分伸び得るからさうしたが、それでもいまだ緊密になり得ないところがある。極めて一般的な平凡なものであらう。
 『後もあはむ』といふ表現は、萬葉には可なり多く、卷二(二〇七)に、狹根葛後毛將相等大船之思憑而《サネカヅラノチモアハムトオホフネノオモヒタノミテ》。卷四(七三九)に、後湍山後毛將相常念社《ノチセヤマノチモアハムトオモヘコソ》。卷十二(三一一三)に、在有而後毛將相登言耳(763)乎《アリアリテノチモアハムトコトノミ》。卷十三(三二八〇)に、左奈葛後毛相得《サナカヅラノチモアハムト》とあるなど、皆『モ』といふ助詞を使つてゐる。これ聲調上の強味があつて感情の自然を移し得るためであらう。また、『ナ』といふ禁止の助詞にも、卷四(六二二)の、汝乎社念莫戀吾妹《ナヲコソオモヘナコヒソワギモ》。卷十(一八九五)の、幸命在後相莫戀吾妹《サキクアラバノチニモアハムナコヒソワギモ》などがあつていづれも參考となる。なほ、卷二(一四〇)に、勿念跡君者雖言相時何時跡知而加吾不戀有牟《ナオモヒトキミハイヘドモアハムトキイツトシリテカワガコヒザラム》といふ依羅娘子の歌があつた。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四八〕
  直《ただ》に逢《あ》はず在《あ》るは諾《うべ》なり夢《いか》にだに何《なに》しか人《ひと》の言《こと》の繁《しげ》けむ 【或本歌云、現《うつつ》にはうべも會《あ》はなく夢《いめ》にさへ】
  直不相 有諾 夢谷 何人 事繁 【或本歌曰、寢〔寤〕者諾毛不相夢左倍】
 
 ○有諾 舊訓アルハコトハリ。代匠記初アルハウベナリ。○何人 舊訓イカナルヒトノ。代匠記初ナニシカヒトニとも訓む。略解ナニシカヒトノ(古義同訓)。新考ナニカモヒトノ。或本歌曰、『諾毛不相』は、舊訓ウベモアハズテ。代匠記精ウベモアハナク。
 一首の意。直接に戀しい人に逢ふことの出來ないといふことは、致方がないとして諾《うべな》ひ諦めも(764)しよう。夢にでもせめて逢はうといふのに、なぜこんなに夢の中でも人の口がうるさいのであらう。或本の歌の方は、この覺《さ》めて居る現實で逢はれないといふのは爲方《しかた》ないとしての意。
 この歌も寧ろ民謠的だが、稍心をひねつて言ひ方が細かくなつて居る。夢裏にあつてもなほ蔭口がうるさいといふやうな表現は、一面からいへば進化でもあらうが、一首としての短歌からいふと、決して進歩ではない。特に、逢は|ず〔右○〕。在る|は〔右○〕諾なり〔二字右○〕。だに〔二字右○〕。人|の〔右○〕。繁けむ〔二字右○〕といふやうに、小休止の如き趣があつて、決して好き聲調とは謂へない。卷十一から卷十二に移ると、特にこの聲調の小きざみが目立つやうである。それでも、古今集の、『すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひ路人目よくらむ』。『うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るが佗《わび》しさ』とあるなどに較べれば、まだまだ素朴でいいところがある。比較參攷して悟るべきである。
 『直《ただ》に逢はむ』といふやうな表現は、卷二(二二五)の、直相者相不勝《タダノアヒハアヒカツマシジ》。卷十(二〇三一)の、吉哉雖不直《ヨシヱヤシタダナラズトモ》等のほか、なほ他にあり、既に抄出した筈である。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四九〕
  ぬばたまのその夢《いめ》にだに《み》見え繼《つ》げや袖《そで》乾《ほ》す日《ひ》無《な》く吾《われ》は戀《こ》ふるを
(765) 烏玉 彼夢 見繼哉 袖乾日無 吾戀矣
 
 ○彼夢・見繼哉 舊訓ソノヨノユメニ・ミツギキヤ。代匠記精ソノユメニダニ・ミエツゲヤ(【略解・新訓從之、但イメニ】)。童蒙抄ソナタノイメニ・ミエツグヤ。考ソノユメヲスラ・ミツガムヤ。略解宣長訓ヨルノイメニヲ。古義ヨルノイメニヲ・ミエツグヤ。新考ソノヨノイメノ・ミニツゲヤ。○吾戀矣 舊訓ワガコフラクヲ(【代匠記・童蒙抄・略解同訓】)。古義アレハコフルヲ(【新考・新訓從之、但ワレハ】)。夢ニダニと代匠記で訓んだのは、他の歌の訓に、夢谷《イメニダニ》といふのがあるからであらう。宣長がヨルノイメと訓んだのは、夜夢《ヨルノイメ》と直したのである。そこでいづれ直すのなら、夢谷とする方が無難である。特に古寫本の多くが、彼をソノと訓んでゐるからである。
 一首の意は、〔烏玉《ぬばたまの》〕その夢にでも、せめてあなたのお姿が見え續けてください。わたくしは涙で濡れた袖を乾かすひまもなく、毎日戀に泣いて居ります。吾戀矣《ワレハコフルヲ》のヲはヨに通ふ咏歎の助詞で、そこで据ゑてゐる。それで餘響を保たせて、支那の矣字を加へてあるのである。もつとも、矣は道之長手矣《ミチノナガテヲ》などの如くに、普通の乎《ヲ》と同じやうにも使つてゐるが、此處のは、卷九(一八〇四)の、心所燎管悲悽別焉《ココロモエツツナゲクワカレヲ》などの焉に同じいのか。
 この歌も、戀涙の歌で、戀涙のことは既に一言を費した筈である。かういふ表現は萬葉には寧ろ少い方であるが、幾つか拾ふことが出來る。卷二(一七八)の、庭多泉流涙止曾金鶴《ニハタヅミナガルルナミダトメゾカネツル》。同卷(二(766)三〇)の、泣涙霈霖爾落者《ナクナミダヒサメニフレバ》などは、誇張でも直接性があるが、卷三(四六〇)の、衣袖不干嘆乍吾泣涙有間山雲居輕引雨爾零寸八《コロモデホサズナゲキツツワガナクナミダアリマヤマクモヰタナビキアメニフリキヤ》から、卷十一(二五四九)の、妹戀吾哭涕敷妙木枕通而袖副所沾《イモニコヒワガナクナミダシキタヘノコマクラトホリテソデサヘヌレヌ》。卷十二(二九五三)の、戀君吾哭涕白妙袖兼所漬爲便母奈之《キミニコヒワガナクナミグシロタヘノソデサヘヌレテセムスベモナシ》等は漸々に繊巧になつて行く徑路が見え、卷四(五〇七)の、敷細乃枕從久久流涙二曾浮宿乎思家類戀乃繁爾《シキタヘノマクラユクグルナミダニゾウキネヲシケルコヒノシゲキニ》になると、萬葉でも技巧が細かくなつて、後世ぶりの序幕をなして居る觀がある。さう觀てくるとこの一首(二八四九)なども、その經過中に見出される一標本と謂ふことも出來るわけである。
 この歌は、家持集に、『むば玉の夜の夢には見ゆらむや袖干る間なく我し戀ふれば』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五〇〕
  現《うつつ》には直《ただ》に逢《あ》はなく夢《いめ》にだに逢《あ》ふと見《み》えこそ我《わ》が戀《こ》ふらくに
  現 直不相 夢谷 相見與 我戀國
 
 ○現・直不相 舊訓ウツツニハ・タダニモアハズ。代匠記精ウツツコソ・タダニアハザラメ。(767)古義ウツツニハ・タダニアハナク。○相見與 舊訓アフトハミエヨ。代匠記アフトハミエコソ。童蒙抄アフトミエコセ。略解では與は乞の誤としてアフトミエコソと訓んだが、與はコソの訓例あること既に云つた如くである。
 一首の意。この現實には直接逢ふことが出來ない。せめて夢の中にでも逢ふやうに見えてくれよ。私はかほどまでに戀に悩んでゐるに。といふのである。
 『現には直に逢はなく』といふやうな表はし方は、慣用されてゐるうちに自然と平凡化するので、かかる場合に緊密の聲調でその平凡化を救ふのだが、それが大衆向な民謠化によつて益々輕い方に導かれて行つてしまふのである。類似の句を有つてゐる歌が、古歌集、讀人不知のものにもあるのを見れば、特にこの歌を人麿作と考へずとも好いやうな氣持がして居る。
 卷五(八〇七)に、宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》。卷十一(二五四四)に、寤者相縁毛無夢谷間無見君戀爾可死《ウツツニハアフヨシモナシイメニダニマナクミエキミコヒニシヌベシ》などがある。又後に拾遺集と貫之集に、『現には逢ふことかたし玉の緒の夜は絶えせず夢に見えなむ』(【貫之集たえずも】)といふのがある。
 
          ○
 
(768)  〔卷十二・二八五一〕
  人《ひと》の見《み》る表《うへ》を結《むす》びて人《ひと》の見《み》ぬ裏紐《したひも》あけて戀《こ》ふる日《ひ》ぞ多《おほ》き
  人所見 表結 人不見 裏紐開 戀日太
 
 以下は『寄物陳思』といふ部類で、卷十一に既にあつたやうな歌が此處に收録せられて居る。これはその第一首である。
 ○人所見・表結 舊訓ヒトメニハ・ウヘモムスビテ。拾穗抄ウヘヲムスビテ。童蒙抄アラハニハ・ウヘハムスビテ。考ヒトミレバ・ウヘヲムスビテ(【略解・古義・同訓】)。新考ヒトノミル・ウヘハムスビテ。新訓ヒトニミユル・ウヘヲムスビテ。○人不見・裏紐開 舊訓シノビニハ・シタヒモトケテ。代匠記初シタヒモトキテ。代匠記精シタヒモアケテ。考ヒトミネバ・シタヒモトキテ。略解ヒトミネバ・シタヒモアケテ(古義同訓)。新考ヒトノミヌ・シタヒモアケテ(新訓同訓)。
 一首の意。人の見る(人から見える)衣服の表《おもて》の背の紐は堅く結んでも、人の見ない(人から見えない)褌《はかま》の紐(下紐《したひも》)をば解いて、逢ふことの出來る吉徴にして、日毎に戀しお待して居ります。
 下紐を解きあけると、逢ふことの出來る前徴でもあり、またその咒にもなつたもので、民間信(769)仰として盛に行はれたものであつたから、この歌のやうなのが殘つてゐるのである。卷十一の方にも、『眉根かき嚔ひ紐とけ』云々といふ、動作のこまかい歌があつたが、この歌も動作がなかなかこまかい。特に、『人の見る』、『人の見ぬ』と對立させたあたり、つまり舊訓の、『人目には』と、『しのびには』と對立せしめてゐるあたりは、寧ろ後世ぶりと謂つてもいい程で、このあたりの歌は、卷十一のものよりも稍劣り、通俗化せられてゐるのである。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五二〕
  人言《ひとごと》の繁《しげ》かる時《とき》に吾妹子《わぎもこ》し衣《きぬ》にありせば下《した》に著《き》ましを
  人言 繁時 吾妹 衣有 裏服矣
 
 ○繁時・吾妹・衣有 舊訓シゲレルトキニ・ワギモコガ・コロモナリセバ。代匠記初シゲカルトキニ。代匠記精シゲケキトキニ。童蒙抄シゲキトキニハ。新考シゲカルトキヲ。古義ワギモコシ。代匠記精キヌニアリセバ。
 一首の意は、かうした二人の仲について、彼此と人の噂のうるさい時に、戀しい妹《いも》が若し著物《きもの》(770)であつたら、人に知れねやうに下の方に著ようものを、下着《したぎ》にして隱さうものを。といふぐらゐの意味である。
 これも民謠的な歌だから、氣の利いたやうに聯想を活溌にしてかういふ表現を採つてゐる。また寄v衣戀だから、意識してかういふ手法を敢てした點もあるであらう。卷二(一五〇)に、衣有者脱時毛無吾戀君曾伎賊乃夜夢所見鶴《キヌナラバヌグトキモナクワガコヒムキミゾキゾノヨイメニミエツル》。卷十二(二九六四)に、如是耳在家流君乎衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《カクノミニアリケルキミヲキヌナラバシタニモキムトワガモヘリケル》といふのがあつて大に似て居り、なほ卷七(一三一二)に、凡爾吾之念者下服而穢爾師衣乎取而將著八方《オホヨヨソニワレシオモハバシタニキテナレニシキヌヲトリテキメヤモ》。卷十一(二八二八)に、紅之深染乃衣乎下著者人之見久爾仁寶比將出鴨《クレナヰノコゾメノキヌヲシタニキバヒトノミラクニニホヒイデムカモ》などの例がある。又、卷三(四三六)に、人言之繁比日玉有者手爾卷以而不戀有益雄《ヒトゴトノシゲキコノゴロタマナラバテニマキモチテコヒザラマシヲ》の如きものもある。
 『繁時』は、代匠記初稿本に、『しけかる時とよむべき歟』と言つたのを、精撰本で『シゲケキトキニト讀ヘキカ』と改め、以來シゲケキトキニと訓んだが、新考で『シゲケキといふ辭は無ければシゲカルトキヲとよむべし』と言ひ、遠藤嘉基氏もシゲカルトキニと訓む方が好いとした(【萬葉集講座第三卷】)。これは、形容詞の連用形のケク(ユタケク、サヤケク、ハルケク、ノドケク、等)の場合は、『氣《ケ》ク』(乙類)の假名を用ゐ、形容詞の語幹にケクの附いたもの(ヨケク、ホシケク、キヨケク、サムケク等)は、『家《ケ》ク』『祁《ケ》ク』(甲類)の假名を用ゐて區別してゐる。(【右は橋本進吉博士が昭和六年九月號の國語と國文學に始めて發表した處である。】)卷十(二三〇七)の、於黄葉置白露之色葉二毛不出跡念者事之繁家口《モミヂバニオクシラツユノニホヒニモイデジトオモヘバコトノシゲケク》は家口《ケク》と甲類の(771)假名を用ゐてゐるから、形容詞の連用段ではないことが分かる。從つて、シゲケシといふのも、シゲケキといふのも無いことが分かる。そこでこの場合も、シゲケキと云ふのではないと説明するのである。また、卷十二(三一三一)の、月易而君乎婆見登念鴨日毛不易爲而戀之重《ツキカヘテキミヲバミムトオモヘカモヒモカヘズシテコヒノシゲケム》の結句は、舊訓シゲケキ。新考シゲケクであるが、古義がシゲケムと訓んだ。聲調の上からもシゲケムが一番自然であるやうである。假名遣のうへからはシゲケク、シゲケムいづれでも好いこととなる。
 孤悲之家久《コヒシケク》(卷十七。四〇〇六)は甲類の家を使つてあるから、形容詞の連用段のケクでないことが分かり、我例乞能米登須臾毛余家久波奈之爾《ワレコヒノメドシマシクモヨケクハナシニ》(卷五。九〇四)。安志家口毛與家久母見牟登《アシケクモヨケクモミムト》(同)でも皆『家』といふ甲類の假名を使つてゐる。さういふ状態にあること、さういふ事といふ意であるが、佐夜氣吉《サヤケキ》、左夜氣久《サヤケク》、佐夜氣久《サヤケク》、由多氣伎《ユタケキ》、波流氣之《ハルケシ》等は皆乙類の『氣』の假名を用ゐて、形容詞連用段のケクである。そして、將依念有濱之淨奚久《ヨラムトモヘルハマノサヤケク》(卷七。一二三九)の『奚』は甲類であるから、同じ音に見えても、左夜氣久《サヤケク》とは區別すべきである。もともとこの淨奚久をサヤケクでは結句として不自然なので、考では久は左の誤でサヤケサと訓み、字音辨證では久にキの音ありとしてサヤケキと訓んだが、これは橋本博士の説によれば、キヨケクと改むべきである(【國語と國文學、昭和六年九月號】)。また、前に云つた孤悲之家久《コヒシケク》は甲類の假名であるが、同じ意味の、多能之氣久《タノシケク》(卷十八。四〇九四)も甲類の假名であるべきだのに、乙類の氣久《ケク》になつてゐるのは、元暦校本には、多之氣(772)久《タシケク》とあるから、これはタシケシといふ形容詞があるので(【正宗・安田・遠藤】)、タノシケクの場合ではあるまいといふ論があるのである。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五三〕
  眞珠《またま》つく遠《をち》をしかねておもふにぞ一重衣《ひとへごろも》を一人《ひとり》著《き》て寢《ぬ》る
  眞珠服 遠兼 念 一重衣 一人服寢
 
 ○眞珠服・遠兼 流布本、『眞珠眼』になつてゐたが、古寫本中(古)に『服』となつて居るのがあるからそれに改めた。舊訓シラタマモ・メニヤトホケム。童蒙抄シラタマノ・マドホサクカニ。考、眼(服)は附の誤でマタマツク・ヲチヲシカネテ。略解は考に從ひ、なほ『宣長云、遠の下近の字脱たり。ヲチコチカネテと有るべしといへり。卷四、ま玉つく彼此兼手《ヲチコチカネテ》と有れば、此説によるべし』。古義、眼は服の誤とし、マタマヅク・ヲチコチカネテ(新考同訓)。新訓マタマツク・ヲチヲシカネテ。○念・一重衣・一人服寢 舊訓オモヒツツ・ヒトヘゴロモヲ・ヒトリキテヌル。童蒙抄モフヒトト・カサネシキヌヲ。考オモホヘバ。略解オモヘレバ。ヒトリキテネヌ(773)(古義同訓)。新考オモフニゾ(新訓同訓)。
 眞珠服《マタマツク》は、眞玉を付ける緒《ヲ》といふので、遠《ヲチ》に續けたのだから、考では附の誤としたが、古義では附は字形が遠いから非である、類聚抄に從つて服がいいとし、『眞珠を服《ツク》緒《ヲ》とかかれる枕詞なり。服は貫《ヌ》き服《ツク》るよしなり』と云つた。卷七(一三四一)に、眞珠付越能菅原吾不苅人之苅卷惜菅原《マタマツクヲチノスガハラワレカラズヒトノカラマクヲシキスガハラ》とあるのは、ヲチと續けて居り、卷十二(二九七三)に、眞玉就越乞兼而結鶴言下紐之所解日有米也《マタマツクヲチコチカネテムスビツルワガシタヒモノトクルヒアラメヤ》。卷四(六七四)に、眞玉付彼此兼手言齒五十戸常相雨後社悔二破有跡五十戸《マタマツクヲチコチカネテイヒハイヘドアヒテノチコソクイニハアリトイヘ》とあるはヲチコチと使つて居る。そこで略解の宣長説では、遠近兼《ヲチコチカネテ》だらうと云つたのである。卷四の歌は恐らく、この歌を模倣したのであらうから、原歌は遠乞《ヲチコチ》か遠近《ヲチコチ》かであつたかも知れぬけれども、現在の古寫本に一つもその證がないから、しばらく考に從つてヲチヲシ(遠《ヲチ》をし)と訓んでおく。シは添へ強めた助詞に過ぎない。遠い先の事をばといふ意味であらう。ヲチコチといへば、遠い近い、あちらこちら、かなたこなたといふことになり、『こなたかなたを兼て、とりつおきつして思ふが故に』(古義)といふ具合になる。そこで、斯く訓んで鑑賞することも亦可能である。
 一首の意。あの方《かた》にお逢ひしたいのは山々ですけれど、〔眞珠服《またまつく》〕遠《をち》の方まで、つまり、遠《とほ》い先《さき》のことまで、後々のことまで考へますと、今急に無理をしてお逢ひしてもいけませんから、我慢して寂しく一重《ひとへ》の衣をただ獨り著て寢て居ります。
(774) 寄v衣戀の歌で、獨り寢することを、一重衣を一人著て寐る。といふ具合に調子をとつて表現して居る。この歌で特殊なのは、『遠《をち》をしかねて思ふにぞ』といふ句にあるので、散文であらはすやうな心理描寫をして居り、なかなか微細である。そして、卷十二(二九七三)に、越乞兼而《ヲチコチカネテ》といふやうなものがあり、卷四(六七四)に、彼此兼手《ヲチコチカネテ》もあり、ヲチコチといふのはほかにも用例が多いから、普通の用語であつたことが分かる。それを旨く適切に使つてゐるのを學ぶべきである。ヲチを後《のち》の意に使つた例をなほ一ついへば、卷十五(三七二六)に、己能許呂波古非都追母安良牟多麻久之氣安氣弖乎知欲利須辨奈可流倍思《コノゴロハコヒツツモアラムタマクシゲアケテヲチヨリスベナカルベシ》といふのがある。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五四〕
  白細布《しろたへ》の我《わ》が紐《ひも》の緒《を》の絶《た》えぬ間《ま》に戀結《こひむす》びせむ逢《あ》はむ日《ひ》までに
  白細布 我紐緒 不絶間 戀結爲 及相日
 
 『白細布《シロタヘノ》』は、此處は紐に懸る枕詞に使つて居る。卷九(一八〇〇)に、白細乃紐緒毛不解一重結帶矣三重結《シロタヘノヒモヲモトカズヒトヘユフオビヲミヘユヒ》。卷十二(三一八一)に、白細之君之下紐吾左倍爾今日結而名將相日之爲《シロタヘノキミガシタヒモワレサヘニケフムスビテナアハムヒノタメ》とあるのがそ(775)の例で、萬葉でも用例は少い方である。『戀結《ヒムスビ》』は、戀の成就と恋の變らぬやうに堅め結ぶので、神にも祈り禁呪ともなつたものであらう。草木を結ぶのに何かさういふ民間信仰があつた。卷二十(四三三四)に、兒良我牟須敝流比毛等久奈由米《コラガムスベルヒモトクナユメ》とあるのもさういふ意味がある。
 一首の意。紐の切れるのは縁が絶える兆だから、〔白細布《しろたへの》〕紐の緒の切れない先きに、よく結び堅めて、變らぬやうに戀精《こひむすび》をしよう。今度逢ふ曰までは。
 寄v紐戀だから、かう歌つたものだが、民間信仰の實際は、現代などよりもまだまだ強かつたであらうから、その實際をば直ぐ抒情詩として歌つてゐるところに強味があるのである。また、その一般民間信仰、禁呪を材料としてゐるから、民謠としてひろがり得る特徴もおのづから其處に具備せられてゐるといふことになる。併し、歌としての價値は、戀結といふ名詞が珍らしいのみで、取りたてていふほどの歌ではないとおもふ。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五五〕
  新墾《にひばり》の今《いま》作《つく》る路《みち》さやかにも聞《き》きてけるかも妹《いも》が上《うへ》のことを
  新治 今作賂 清 聞鴨 妹於事矣
 
(776) ○新治・今作路 舊訓ニヒハリノ・イマツクルミチ(【代匠記・童蒙抄・古義・新訓同訓】)。略解イマツクルミチノ。新考ニヒバリニ・イマハルミチノ。○清 舊訓サヤケクモ(【代匠記・考・新考同訓】)。管見サヤカニモ(【童蒙抄・略解・古義・新訓同訓】)。○聞鴨・妹於事矣 舊訓キコエケルカモ・イモガウヘノコト。童蒙抄イモガヘノコトヲ。考キキテケルカモ・イモカヘノコト、又はイモガマサカヲ。略解キキニケルカモ・イモガウヘノコトヲ(古義同訓)。新考キキテケルカモ・イモガウヘノコトヲ(新訓同訓)。今、新訓に傚つた。
 一首の意。目下開墾して新に道路を作つて居るがその道路が新らしく清《さや》けきごとくに【序詞】清《さや》かに、明らかに、はつきりと、妹《いも》が日常の身の上のことを聞いた。變りなく私を愛してゐてくれるといふ意が續くやうである。『女の身(ノ)上の平安《サキ》かるありさまを、たしかにききて歡べるにや』(古義)。
 此は、寄v路戀であるから、上半をば新開通の道路を以て序詞としたが、新しく開鑿した道路の新鮮流通の清《さやか》といふ語音を、『清《さや》かに聞く』と續けたところは、意圖しないで妙境に達してゐる。
 そしていろいろ複雜な戀人に關する氣分を簡單に統一して、ただ、『清かにも聞きてけるかも妹が上のことを』であらはしてゐるのは誠に旨い。無論民謠的な歌だが、素朴で新鮮で象徴的で愛誦に堪へたる歌である。これまでずつと平凡な歌を評釋し來てこの歌に逢著したのは大きい喜びであつた。
 卷十四(三三九九)に、信濃道者伊麻能波里美知《シナヌヂハイマノハリミチ》。卷九(一七五七)に、新治乃鳥羽淡海毛秋風(777)爾白浪立奴《ニヒバリノトバノアフミモアキカゼシラナミタチヌ》。卷十(二二四四)に、住吉之岸乎田爾墾蒔稻乃《スミノエノキシヲタニハリマキシイネノ》。卷十四(三四四七)に、安努奈由可武等波里之美知《アヌナユカムトハリシミチ》などがあり、卷九の例は枕詞で、日本紀景行卷に、珥比麼利菟玖波塢須擬※[氏/一]《ニヒバリツクバヲスギテ》の例と同じだが、これも新毬《ニヒマリ》ツクではなく、新墾作《ニヒバリツクル》から來たものであらう。イマツクルといふ例は、卷六(一〇三七)に、今造久邇乃王都者《イマツクルクニノミヤコハ》。卷八(一六三一)に、今造久邇能京爾《イマツクルクニノミヤコニ》。また卷七(一二九六)の、人麿歌集の歌に、今造斑衣服《イマツクルマダラノコロモ》とあるから、この歌でも、イマツクルミチと訓んで味つていいとおもふ。併し井上博士の、『新墾《にひばり》に今|墾《は》る道の』といふ訓も古調で棄てがたく、作歌上の稽古として萬葉を鑑賞する場合には、必ずしも一例に執せずとも好い。これは私の持論の一つである。
 ツクルの語の參考となる例は、卷十(二二一九)に、足曳之山田佃子不秀友繩谷延與《アシヒキノヤマダツクルコヒデズトモシメダニハヘヨ》。卷八(一六二五)に、吾妹兒之業跡造有秋田《ワギモコガナリトツクレルアキノタノ》。卷九(一八〇一)に、道邊近磐構作冢矣《ミチノヘチカクイハカマヘツクレルハカヲ》などがある。なほ、卷二十(四四七四)に、武良等里乃安佐太知伊爾之伎美我宇倍波左夜加爾伎吉都於毛比之其等久《ムラトリノアサタチイニシキミガウヘハサヤカニキキツオモヒシゴトク》とあるのは、此の歌の影響であらうか。さすれば興味もまた深い。
 この歌は釋日本紀卷第二十四。和歌童蒙抄第三に載つた。『新治今作路《ニヰハリイマツクルミチ》』(釋日本紀)。『ニヰハリノイマツクルミチサヤケクソキコエケルカモイモカウヘノコト』(和歌童蒙抄)。
 
          ○
 
(778)  〔卷十二・二八五六〕
  山城《やましろ》の石田《いはた》の社《もり》に心《こころ》鈍《おそ》く手向《たむけ》したれや妹《いも》に逢《あ》ひ難《がた》き
  山代 石田社 心鈍 手向爲在 妹相難
 
 ○手向爲在 舊訓タムケシタレバ。童蒙抄タムケシケレバ。略解タムケシタレヤ。山代石田社は今の宇治郡醍醐村に當るといはれてゐる。卷九(一七三〇)に、山品之石田乃小野之母蘇原見乍哉公之山道越良武《ヤマシナノイハタノヲヌノハハソハラミツツヤキミガヤマヂコユラム》。同(一七三一)に、山科乃石田社爾布靡越者蓋吾妹爾直相鴨《ヤマシナノイハタノモリニタムケセバケダシワギモニタダニアハムカモ》。卷十三(三二三六)に、山科之石田之森之須馬神爾奴左取向而吾者越往相坂山遠《ヤマシナノイハタノモリノスメガミニヌサトリムケテワレハコエユクアフサカヤマヲ》とあるのがそれで、延喜式の久世郡石田神社は別であるが、この久世も歌に出て來ること既に卷九の時に注解を加へて置いた。ココロオソクは、ココロニブク、心疎かに、不熱心にといふことで、卷二(一二六)の、吾乎還利於曾能風流士《ワレヲカヘセリオソノミヤビヲ》。卷九(一七四一)の、己之心柄於曾也是君《ナガココロカラオソヤコノキミ》など、鈍、遲、愚などと相通ふ語である。この場合はオソクと形容詞に活用せしめてゐる。
 一首の意。山代《やましろ》の石田《いはた》の神に幣物を供へて戀人に逢ふやうに祈つたが、まだ熱心が足らなかつたせゐで、逢へないのであらうか。タレヤは疑問の係で、ガタキで結んでゐる。さもなければ今ごろは逢へる筈であるのにといふ意を含ませてゐる。
(779) 寄v神戀で、これは前卷の歌にもあつたやうな内容だが、『心鈍く』といふやうに稍細かく言ひあらはしてゐる。そこは巧過ぎるといへば云はれるが、この歌は割合に素直に行つてゐて好い。
 この歌は、六帖に、第四句『手向をしてぞ』。夫木和歌抄に人丸作として、第四句『たむけしたれば』となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五七〕
  菅《すが》の根《ね》のねもころごろに照《て》る日《ひ》にも乾《ひ》めや吾《わ》が袖《そで》妹《いも》に逢《あ》はずして
  菅根之 惻隱惻隱 照日 乾哉吾袖 於妹不相爲
 
 ○惻隱惻隱・照日・乾哉吾袖 舊訓シノビシノビニ・テラスヒニ・ホスヤワガソデ。代匠記精テレルヒニ。考ネモコロゴロニ・テレルヒモ。略解ネモコロゴロニ・テルヒニモ・ヒメヤワガソデ(【古義・新考・新訓同訓】)。
 一首の意は、〔菅根之《すがのねの》〕ねもごろに、遍く、強く照る日光にも、涙で濡れた私の袖は乾くか、いや決して乾くことはない。戀しい妹《いも》に逢へないのだからして。といふほどの意である。
(780) 寄v日戀で、卷十(一九九五)に、六月之地副割而照日爾毛吾袖將乾哉於君不相四手《ミナヅキノツチサヘサケテテルヒニモワガゾデヒメヤキミニアハズシテ》。卷十二(三〇〇四)に、久竪之天水虚爾照日之將失日社吾戀止目《ヒサカタノアマツミソラニテレルヒノウセナムヒコソワガコヒヤマメ》とあるなども皆寄v日戀の歌である。
 この歌で注意すべきは、ネモゴロからテルに續けたのにあるので、ネモゴロといへば、普通オモフとかミルとかコフとかムスブとかタノムとかに續けてゐるが、此處はその心持を取つて用ゐたやうにおもふ。卷十四(三四一〇)に、伊香保呂能蘇比乃波里波良禰毛己呂爾於久乎奈加禰曾麻左可思余加婆《イカホロノソヒノハリハラネモコロニオクヲナカネソマサカシヨカバ》。卷二十(四四五四)に、高山乃伊波保爾於布流須我乃根能禰母許呂其呂爾布里於久白雪《タカヤマノイハホニオフルスガノネノネモコロゴロニフリオクシラユキ》とあるのも普通の用法と違つてゐる。『ねもころごろに照る日』とか、『ねもころごろに降りおく白雪』といふことは、自然も人間も一しよのやうに融け合つた表現で、古代詩歌のなつかしいところである。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五八〕
  妹《いも》に戀《こ》ひ寢《い》ねぬ朝《あした》に吹《ふ》く風《かぜ》の妹《いも》にし觸《ふ》らば吾《われ》さへに觸《ふ》れ
  妹戀 不寢朝 吹風 妹經者 吾共經
 
(781) ○不寢朝・吹風 舊訓イネヌアシタニ・フクカゼノ。古義イネヌアサケニ。略解フクカゼシ(古義同訓)。○妹經者・吾共經 舊訓イモニフレナバ・ワレトフレナム。古義イモニシフラバ。略解補正イモニフリナバ。童蒙抄ワレニモフレヨ。考アニモフレナモ。略解ワガムタニフレネ。古義アガムタニフレ。略解補正ワレサヘニフレ。新考ワレニサヘフレ。
 一首の意。妹を戀しく思うても、逢ふことも出來ず、獨寐した寂しい朝に、吹いて來る風が若しも妹の膚に觸れて來たのならば、この己《おれ》にも觸れて呉れ。
 寄v風戀で、實は心を働かせて輕妙に作つてゐるのであるが、官能的に言つてゐるだけ、素朴で厭味が無い。先づこの近處の歌の中では感心していいものである。この『觸れ』といふのが、直接で官能的だからいいとおもふのである。略解でワガムタニフレネと訓んだのは如何にもむづかしく詰屈で、いくら萬葉調でもそんなにむづかしいものではない。共をサヘと訓ませた例は、卷七(一〇九〇)に、吾妹子之赤裳裾之將染※[泥/土]今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾吾共所沾名《ワギモコガアカモノスソノヒヅチナムケフノコサメニワレサヘヌレナ》。卷十一(二六八三)に、赤土少屋爾※[雨/脉]※[雨/沐]零床共所沾《ハニフノヲヤニコサメフリトコサヘヌレヌ》とあるのが其證で、またさう訓む方が第一調子がいい。人麿なら、恐らくワガムタニフレネなどといはずに、かう作るであらう。
 卷九(一七九九)の、玉津島礒之裏未之眞名仁文爾保比去名妹觸險《タマツシマイソノウラミノマナゴニモニホヒテエカナイモガフリケム》。卷十一(二五七八)の、朝宿髪吾者不梳愛君之手枕觸義之鬼尾《アサネガミワレハケヅラジウツクシキキミガタマクラフリテシモノヲ》。卷十二(三一六三)の、吾妹兒爾觸者無二荒礒囘爾吾衣手者(782)所沾可母《ワギモコニフルトハナシニアリソミニワガコロモデハヌレニケルカモ》等は、フルの例である。
 卷十一(二三六四)に、玉垂小簾之寸鷄吉仁入通來根足乳根之母我問者風跡將申《タマダレノヲスノスゲキニイリカヨヒコネタラチネノハハガトハサバカゼトマヲサム》。卷二十(四三五三)に、伊倍加是波比爾比爾布氣等和伎母古賀伊倍其登母遲弖久流比等母奈之《イヘカゼハヒニヒニフケドワギモコガイヘゴトモチテクルヒトモナシ》。卷四(四八九)に、風乎太爾戀流波乏之風小谷將來登時待者何香將嘆《カゼヲダニコフルハトモシカゼヲダニコムトシマタバナニカナゲカム》といふのがある。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五九〕
  飛鳥河《あすかがは》高河《たかがは》避《よ》かし越《こ》え來《こ》しをまこと今夜《こよひ》は明《か》けず行《ゆ》かめや
  飛鳥河 高河避紫 越來 信今夜 不明行哉
 
 ○高河避紫・越來 舊訓タカガハトホシ・コエテクル。考タカガハヨカシ。代匠記精コエクレバ。童蒙抄コエテキヌ。考コエテコシ。略解コエテキツ。古義コエコシヲ。新考ナヅサヒコエテ・キタレルヲ。○信今夜・不明行哉 舊訓ツカヒハコヨヒ・アケズユカメヤ。代匠記精マコトコヨヒハ。童蒙抄サネモコヨヒノ。古義マコトコヨヒヲ。童蒙抄アケユカザレヤ。古義アケズヤラメヤ。新考ネズテユカメヤ。
(783) 一首の意、飛鳥川に雨が降つて増水したから、高河《たかがは》といふ。その水の出た飛鳥川を徒渉し得ないから、それを避けて難儀してやうやく戀しい妹《いも》のところに來たのだから、實に夜の明けないうちなどは歸られない。あぶない道だから。といふ意と、一處に居る時を惜しむといふ意と兩方とも含んでゐる。
 これは寄v川戀で、男の身になつて解した。これは、上の句の高河云々といふのと、結句をばアケズユカメヤと訓んだためである。然るに古義で、『男の歌とするは宜しからず。自《ミラ》避ることを、伸て避之《ヨカシ》といはむは、古格に非ず』と云つた。即ち古義では、結句をアケズヤラメヤと訓んだから、女の歌として、『彼(ノ)飛鳥川の高河を避て、廻り道を爲賜ひつつ、辛うじて越來座つるからは、まことに夜を明さずしては、その危き道を夜ごめにはかへし申さじ。今夜は寛に相語て行賜へ、といへる女の歌なり』と解釋してゐる。
 もつとも、この解釋の本は、『勞シテ來タル使ナレバ、明テ後歸レヨト留ムル意ナリ』(代匠記精)。『右の如く道をめぐりつつ遠ければ、かへさは明ぬべし。明ば人やしりなんなど、女のくさぐさ思ふ也』(考)と既にあるのだが、この古義のやうな解釋によつてもこの一首は自然に鑑賞することが出來る。上を新考の如く、南川柴避越・來として、ナヅサヒコエテ・キタレルヲなどと訓めれば全く男の歌になるが、女の歌としても、あはれ深くていい歌である。卷十一(二六八七)(784)に、櫻麻乃苧原之下草露有者令明而射去母者雖知《サクラヲノヲフノシタクサツユシアレバアカシテイユケハハハハシルトモ》といふのがあり、女の歌であるから、この歌を理會する參考となるし、そのほか女が男と別を惜しむ歌はその他にもあり、卷七(一二六三)の、曉跡夜烏雖鳴此山上之木末之於者未靜之《アカトキトヨガラスナケドコノヲカノコヌレノウヘハイマダシヅケシ》も、略解では、『男の別れむとする時女の詠める歌なるべし』と云つたが、或は男の歌としても解し得る歌である。卷九(一七二八)の石河卿の歌に、名草目而今夜者寐南從明日波戀鴨行武從此間別者《ナグサメテコヨヒハネナムアスヨリハコヒカモユカムコユワカレナバ》。卷四(五四八)の笠金村の歌に、今夜之早開者爲便乎無三秋百夜乎願鶴鴨《コヨヒノハヤクアケナバスベヲナミアキノモモヨヲネガヒツルカモ》などとあるのは、明かに男が女と別を惜しんでゐる例である。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八六〇〕
  八釣河《やつりがは》水底《みなそこ》絶《た》えず行《ゆ》く水《みづ》の續《つ》ぎてぞ戀《こ》ふるこの年來《としごろ》を 【或本歌曰、水尾《みを》も絶《た》えせず】
  八釣河 水底不絶 行水 續戀 是比歳 【或本歌曰、水尾母不絶】
 
 八釣河は飛鳥の八釣山の近くを流れて飛鳥河にそそぐ河であらう。結句舊訓コノトシゴロハ。略解コノトシゴロヲ。
 一首の意は、八釣河の水底を絶えず流れ行く水の【序詞】絶えずつづきて妹をば戀して來た。この年(785)來を。といふのである。一本の方は水尾《みを》であるから、水脈、水流の深いところで、つまり水底といふのと同意に落著くのである。卷十(一八六一)に、能登河之水底并爾光及爾《ノトガハノミナゾコサヘニテルマデニ》。卷七(一一〇八)に、泊瀬川流水尾之湍乎早《ハツセガハナガルルミヲノセヲハヤミ》。卷九(一七七〇)に、泊瀬河水尾之不斷者吾忘禮米也《ハツセガハミヲシタエズバワレワスレメヤ》といふのがある。
 寄v河戀で、八釣河といふ固有名詞が入つてゐる。この歌の制作動機は、自ら獨咏的にかう作つたものでもあり得るし、民謠的に、そのあたり(【八釣河あたり】)の經驗からかういふ固有名詞を入れたとも解釋することが出來る。一首は、ありふれたものと謂ふことも出來る歌であるが、『水底《みなそこ》絶えず行水』といつて、『水底』といふ語を入れたのなども、後世ぶりの歌よりも實質的でおもしろい。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八六一〕
  磯《いそ》の上《うへ》に生《お》ふる小松《こまつ》の名《な》を惜《を》しみ人《ひと》に知《し》らえず戀《こ》ひわたるかも
  磯上 生小松 名惜 人不知 戀渡鴨
 
 『磯の上に生ふる小松』とは、さういふ實景の寫生であるが、それから、『名《な》』に續けて序詞とし(786)てゐる。その解釋は古來まちまちで一定してゐない。『小松ハ子松トモカケル所アレバ、子等《コラ》ガタメニ名ヲ惜ムト云意ニカクハツヅケタリ。下ニ至テ巖爾生松根之君心《イハホニオフルマツガネノキミガココロ》者ナドモヨメリ』(代匠記精)。『大なる巖上に一つ生たる松は、顯はに目に立ものなるを、名に顯はるる譬とせり』(考)。『中山(ノ)嚴水、石《イソ》の上に生たる松は、根の多くからみてあれば、小松の根《ネ》といふべきを、禰《ネ》と奈《ナ》と音通へば、名《ナ》と云へりと説り』(古義)。『按ずるに、巖の上に松の生ひたるはめづらしければ、其松に附けたる名ありしによりて名の序とせるならむ』(新考)。古義の説無難か。
 一首の意は、『名の立つ事を厭ひ惜みて、人にも語り云はず、心にのみ戀渡るとの義也』(童蒙抄)で、噂され、評判されることを恐れ、二人のみで秘かに戀したい心持を云つてゐるのである。寄v松戀であらうか。
 古義の説は右の如くであるが、童蒙抄でも、その一考の中に、『小松の音と云處をとりてかく詠めるものか』ともある。音は即ちネで根《ネ》であらう。第四句舊訓ヒトニシラレズ。童蒙抄ヒトニシラセズ。略解ヒトニシラエズ。
 この歌は、續後撰集戀一に人麿作として、『磯の上に生たる芦のなを惜しみ人に知られで戀ひつつぞふる』となつてゐる。六帖に、『岩の上に立てる小松の名を惜しみ言には出でず戀ひつつぞ經る』とあるのは、次の或本の歌の方を採つたのであらう。
 
(787)          ○
 
  〔卷十二・二八六一或本歌〕
  巖《いは》の上《うへ》に立《た》てる小松《こまつ》の名《な》を惜《を》しみ人《ひと》には云《い》はず戀《こ》ひわたるかも
  巖上爾 立小松 名惜 人爾者不云 戀渡鴨
 
 これは、第一二句が、礒上生小松《イソノウヘニオフルコマツ》と巖上爾立小松《イハノウヘニタテルコマツ》と違ひ、第四句が、人不知《ヒトニシラエズ》と人爾者不云《ヒトニハイハズ》と違つてゐるのである。これに據ると、名《ナ》といふのは直接小松につづかなくともよく、立《タテル》から、『名の立つ』といふのにつづいてゐて、解釋上毫も困難を感ぜしめない。そこで、原歌は立小松《タテルコマツ》であつただらうと想像することも出來るのである。卷十一(二五二四)に、吾背子爾直相者社名者立米《ワガセコニタダニアハバコソナハタタメ》。卷四(七三一)に、吾名者毛千名之五百名爾雖立君之名立者惜社泣《ワガナハモチナノイホナニタチヌトモキミガナタタバヲシミコソナケ》などがあるからである。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八六二〕
  山河《やまがは》の水陰《みづかげ》に生《お》ふる山草《やますげ》の止《や》まずも妹《いも》がおもほゆるかも
(788)  山河 水陰生 山草 不止妹 所念鴨
 
 ○水陰生 舊訓ミカゲニオフル。考ミゴモリオフル。略解ミヅカゲニオフル。古義ミコモリニオフル。○山草 舊訓ヤマスゲノ。神田本ヤマクサノ。
 一首の意は、第三句までは序詞で、山河《やまがは》の水が隱《こも》り流れるそのところに生えて居る山菅《やますげ》の【序詞】、やまず、斷えず、常に戀しい妹《いも》を思うて居る。絶えず妹が戀しい。といふのである。寄v草戀で、『水陰生トハ、シノビニ思フ譬ナリ』(代匠記精)とある。
 この歌の、『山菅』は、山に生えて居る菅《すげ》のことで、麥門冬(リユウノヒゲ、ヤブラン)のことではない。私は、山菅の生えてゐるところを屡見たが、そのたび毎に、『山河の水陰《みづかげ》に生ふる山草《やますげ》の』の句の寫生力に驚歎したものである。この感じは今でも毫も變りはない。
 この歌は、袖中抄第十六に、此處の訓と同樣に訓んで載つてゐる。
 附 記。前にも注意した如く、佐伯梅友氏の研究に據れば、この歌の第四五句は『止まずも妹は〔右○〕思ほゆるかも』といふこととなる。
 
          ○
 
(789)  〔卷十二・二八六三〕
  淺葉野《あさばぬ》に立《た》つる神占《かむうら》の菅《すが》の根《ね》のねもころ誰《たれ》ゆゑ吾《われ》戀《こ》ひざらむ 【或本歌云、誰葉野《たがはぬ》に立《た》ちしなひたる】
  淺葉野 立神古〔占〕 菅根 惻隱誰故 吾不戀 【或本歌云、誰葉野爾立志奈比垂】
 
 ○立神古・菅根 舊訓タツミワコスゲネ。代匠記精、古は占の誤、タツカムウラノ・スガノネノ。考、神古は紳有の誤、タチシナヒタル・スガノネノ。古義、神の下に左の字脱、タチカムサブル・スガノネノ(新考同訓)。○惻隱誰故・吾不戀 舊訓カクレテタレユヘニカハ・ワガコヒザラム。代匠記精シノビテタレユヱ・ワガコヒザラム。考ネモコロタレユヱ・アガコハナクニ(略解同訓)。古義ネモコロタレユヱ・アガコヒナクニ。新訓ネモコロタレユヱ・ワレコヒザラム。或本歌云、○誰葉野爾・立志奈比垂 舊訓タカハノニ・タチシナヒタル。代匠記初カは清音。『竹葉野といふなるべし』。童蒙抄タレハノニ・タチシナヒタル。
 淺葉野は未詳であるが、卷十一(二七六三)に、紅之淺葉乃野良爾苅草乃束之間毛吾忘渚菜《クレナヰノアサハノヌラニカルクサノツカノアヒダモワヲワスラスナ》とある所と同所か。和名鈔に、武藏國入間郡|麻羽《アサハ》があり、また、遠江國佐野郡に麻葉《アサハ》庄があると云はれてゐる。續後撰集に、『紅のあさはの野らの露の上にわが敷袖ぞ人なとがめそ』とあるのは卷十一の歌の模倣である。
(790) 神古は神占の誤だといふ代匠記の説に從ふ。『神占トハ神代紀云、時(ニ)天(ノ)神以2太占《フトマニヲ》1而|卜合《ウラフ》之。カカレバ神モ占ナヒ給ヘバ云ベシ。又神ニ依テ占ナヘバ云ベシ。又占スナハチ測《ハカリ》ガタキ事ナレバ神占ト云ベシ』(代匠記精)とあるが、これは、神に幣を捧げつつ神の御靈によつて判斷をしてもらふ神占なのである。卷十九(四二四三)の、住吉爾伊都久祝之神言等《スミノエニイツクハフリガカムゴトト》といふのと同じであらう。どうして、菅根《スガノネ》につづけたかといふに、『菅は神のめで給ふ草なり。祓の具にも用、また山菅占とて、菅の葉にてうらなひするも、神のよりたまふ草なるゆへなり。杉を神杉などいふごとくに、神小菅とはよめるなり』(代匠記初)。これは神古菅《ミワコスゲ》と訓んでの解であるが、大に參考となるのである。山菅占は、既に注した、卷十一(二四七七)の、足引名負山菅押伏公結不相有哉《アシヒキノナニオフヤマスゲオシフセテキミシムスババアハザラメヤモ》などをいふのであらうか。兎に角、『神占の菅の根の』の續きは、さう解釋するより今のところ途は無いやうである。
 一首の意。淺葉野で神占《かむうら》を立つるに用ゐる菅《すげ》のその根《ね》の【序詞】ねもごろに、心《しん》から私は誰かに對して戀をせずに居られますか。それは居られない。そしてその唯一の戀人はあなたなのです。或本の方は、誰葉野《たがはぬ》は淺葉野《あさはぬ》の轉寫の際の變化であらう。『立《たち》しなひたる』は、菅《すげ》にかかるので、無論これでも解釋の出來ないことはなく、萎《しな》ひなびいてゐる菅《すげ》となるので、下の句は同じである。
 併し、神占といふから特殊でおもしろくなるが、立ちしなひたるでは平凡になつておもしろく(791)ない。傳誦されるあひだに、大衆向に通俗化されてゆく徑路はこのあたりにも看取することが出來るのである。
 この歌は寄v菅戀である。そして相當に重厚な點があつて、素通せしめないものを持つてゐる。この歌は、新千載集に人麿作とし、『淺羽野に立つみわ小菅根深めて誰故にかは吾が戀ひざ《つイ》らむ』として載り、和歌童蒙抄に、『淺葉野《アサハノ》ニタツ神古菅子カクレテタレユヘニカハワカコヒサラム』として選出せられてゐるし、また新拾遺集には、『春雨に降り變り行くあさは野にたつみわ小菅色も難面なし』とある如く、本歌取に用ゐられ、ミワコスゲと舊訓どほりの訓に據つて眞似せられてゐる。なほ夫木和歌抄雜十菅に、人丸作として、『あさはのにたつ三輪小菅根隱れてたれゆゑにかは我こひさらん』とあり、同書雜四野に、よみ人しらずとして、『たかはのにたちしなひたるみわこすけ誰故にかはわひ戀さらん』とある。後者は或本の方の傳で、上に(たがはの、誰葉、大和)と注してある。
 『右二十三首柿本朝臣人麻呂之歌集出』といふ注が此處に記されて居る。
 
          ○
 
(792)  〔卷十二・二九四七〕
  思《おも》ふにし餘《あま》りにしかば【柿本朝臣人麻呂歌集に云ふ】鳰鳥《にほとり》のなづさひ來《こ》しを人《ひと》見《み》けむかも
  念西 餘西鹿齒【柿本朝臣人麻呂歌集云】爾保鳥之 奈津柴比來乎 人見鴨
 
 此歌は、念西餘西鹿齒爲便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾《オモフニシアマリニシカバスベヲナミワレハイヒテキイムベキモノヲ》(二九四七)といふのの、左注に、『柿本朝臣人麿歌集云、爾保鳥之奈津柴比來乎人見鴨』とあるので、此處に出した。その人麿歌集の歌といふのは、既に卷十一(二四九二)で解釋した如く、念餘者丹穗鳥足沾來人見鴨《オモフニシアマリニシカバニホトリノアヌラシコシヲヒトミケムカモ》といふので、奈津柴比來乎《ナヅサヒコシヲ》といふのではない。併し斯く記載されてゐるのだから、さうなつてゐる人麿歌集の一本もあつたものと看るべく、人麿歌集は唯一つのものでなかつたことが分かるのである。
 また、卷十一の方は、『念餘者』と文字を尠く書いてゐるのに、卷十二の此處のは、『念西餘西鹿齒』と書いてゐる。また、卷十一の方は、『足沾來』と文字を少く書いて居るのに、卷十二の方は、『奈津柴比來乎』の如く、助詞までをも書記してある。この人麿歌集の歌の書き方は夙く契沖・眞淵等も顧慮したもので、公式的に除外例無しとは行かぬが、概して文字を尠く書いてゐるのだから、卷十二のものはその流傳の間に變化してしまつて、人麿歌集の歌でなくなつたものと(793)解釋すべきである。
 
          ○
 
  〔卷十二・三〇六三〕
  淺茅原《あさぢはら》小野《をぬ》に標《しめ》結《ゆ》ふ空言《むなごと》も逢《あ》はむと聞《き》こせ戀《こひ》の慰《なぐさ》に
  淺茅原 小野爾標結 空言毛 將相跡令聞 戀之名種爾
 
 この歌の左注に、『又見(ユ)2柿本朝臣人麿歌集(ニ)1。然(レトモ)落句少(ク)異(ル)耳』とあるが、これは、卷十一(二四六六)の、淺茅原小野印空事何在云公待《アサヂハラヲヌニシメユフムナゴトヲイカナリトイヒテキミヲシマタム》をいふのである。これにしても、卷十一の方は、『小野印』と書いてゐるのに、卷十二の方は、『小野爾標結』と書いてゐる。これは異傳本だといふことが分かる。なほ、卷十二(二七五五)に、淺茅原刈標刺而空事文所縁之君之辭鴛鴦將待《アサヂハラカリシメサシテムナゴトモヨセテシキミガコトヲシマタム》があり、大に似てゐるが、一方は、『公待』であるのに、一方は、『君之辭鴛鴦待』と書いて居る。
 今試に、キミヲシマタムといふ結句を檢するに、『吉美遠志麻多武』(卷五。八六〇)。『君乎之將待』(卷十。一九三五)。『君乎之將待』(卷十一。二五三八)。『君乎思將待』(卷十一。二六八九)。『君乎志將待』(卷十一。二七五九)。『君乎思將待』(卷十二。三〇四三)。『伎美乎思麻多武』(卷十四。三四九(794)三或本歌)。『伎美乎之麻多武』(卷十七。三九四一)などであり、そのほか、『君乎者將待《キミヲバマタム》』(卷二。八七・八九)。『公乎者將往《キミヲバマタム》〔待〕』(卷八。一四五三)などがあるが、これを、『公待』と比較すればその特色が分かるのである。
 もつとも人麿歌集の歌でも、『檜原丹立流《ヒハラニタテル》』(卷十。一八一三)。『明日者來牟等《アスハキナムト》』(卷十。一八一七)。『爾寶比爾往奈《ニホヒニユカナ》』〔卷十。二〇一四)。『相與勿湯目《アヒコスナユメ》』(卷十一。二三七五)。『多頭多頭思鴨《タヅタヅシカモ》』(卷十一。二四九〇)などと書いたのもあるが、一般から看て特色があるのである。
 
          ○
 
  〔卷十二・三一二七〕
  度會《わたらひ》の大河《おほかは》の邊《べ》の若歴木《わかくぬぎ》吾《わ》が久《ひさ》ならば妹《いも》戀《こ》ひむかも
  度會 大河邊 若歴木 吾久在者 妹戀鴨
 
 この歌以下四首は、『羈旅發思』といふ部類の初めにあり、『右四首柿本朝臣人麿歌集出』と左注してある。○若歴木 舊訓ワカクヌギ。考ワカヒサギとも訓ず。○吾久在者 舊訓ワレヒサニアラバ。代匠記精ワガヒサナラバ。
(795) 度會大河邊《ワタラヒノオホカハ》は、伊勢|度會《わたらひ》郡の五十鈴川《いすずがは》のことである。歴木はクヌギであるのが普通で、古事記に、香坂王騰2坐歴木1。景行天皇紀に、有2一老夫1曰是樹者歴木也。仁徳天皇紀に、忽生2兩歴木1狹v路而末合。新撰字鏡に※[木+歴]・櫟、久奴木。和名鈔に、本草云、擧樹、【久奴木】日本紀私記云、歴木。箋注和名類聚鈔に、歴木俗作v※[木+歴]とある。そしてヒサギは萬葉では久木《ヒサギ》と書いてゐるから、歴木は舊訓の如くにクヌギといふわけであるが、さうすれば、下のヒサといふ音に續きにくい。そこで眞淵はヒサギと訓んだのだが、歴木をクヌギとすることを知らなかつた者が、歴年、歴劫などの字からヒサシに借りて、歴木をヒサギとしたものではなからうか。併し、ヒサギ……ヒサと續けたのでなくて、ワカヒサギ…ワガと續けたとせば、歴木をクヌギと訓んで差支ない。眞淵はヒサギとも訓んでゐるが、それでも、『是は若を吾に重ねたる序なり』(考)と云つて居り、略解も其に從つて居るから、はじめ、考・新訓に據つてヒサギ訓を採用して見たが、再考のうへクヌギの訓に從ふこととした。
 然るに、宣長も之をヒサギと訓む方に賛成して居り、『此上(ノ)句は、吾久《ワガヒサ》と詞を疊《カサネ》む料の序なれば、歴木は必(ス)比佐岐《ヒサギ》なること著《シル》ければなり。(本には此《コレ》をも、クヌギ〔三字右○〕と訓(ミ)たれど、さては若《ワカ》と吾《ワガ》と、詞の疊《カサ》なるのみにて、久《ヒサ》に縁《ヨシ》なし。此哥は久《ヒサ》と云こと主《ムネ》たるを思ふべし)』(【古事記傳第三十一】)。雅澄もそれを踏襲し、『凡て草木鳥獣などの名の字は、古(ヘ)は人の心々に充て書たれば、泥むべきにあらず。又歴(796)木と書るは、岡部氏も云し如く、歴v年(ヲ)の義に取て、久木《ヒサキ》をかくかけるにて、いはゆる(久奴岐《クヌキ》を云)歴木には拘はらずともありぬべし。故(レ)今は右の説どもによりて、ワカヒサキ〔五字右○〕と訓つ。なほ此(ノ)木共の事品物解に委く釋たるを見て考(フ)べし。(或人は、若歴木《ワカクヌキ》は、我(カ)不《ヌ》v來《コ》と云に通はせて、下に久《ヒサ》しくとうけたり、久しく吾(カ)不v來者の意なり、といへれどおぼつかなし)』(古義)と云つて居る。久木《ヒサギ》(楸)は、萬葉に例はあるが、歴木《クヌギ》の例は無い。また、此處の歴木のほかに、小歴木(卷四。五二九)があつてシバと訓ませて居る。さういふ點で、若しヒサギと訓み得れば都合は好いのである。
 一首の意は、度會の大河のほとりに生えて居る若歴木《あかくぬぎ》【序詞】わが旅も久しくなつて、歸りがおそくなるなら、家に留守してゐる妻が嘸かし戀ひ嘆くことであらう。といふのである。『わが旅の日數の久しくなりなば、家なる妹がいかにか吾を戀しく思はむ、さてもいとほしや、となり』(古義)。卷十三(三二五三)に、荒礒浪有毛見登《アリソナミアリテモミムト》。卷十五(三七四一)に、安里伎奴能安里弖能知爾毛《アリギヌノアリテノチニモ》とあるのはアリとアリに續けた。
 この歌は、夫木和歌抄に、よみ人しらずとし、第三句以下『わかくぬき我久にあらばいもこひめやも』として載つてゐる。
 
(797)          ○
  〔卷十二・三一二八〕
  吾妹子《わぎもこ》を夢《いめ》に見《み》え來《こ》と大和路《やまとぢ》の度瀬《わたりせ》ごとに手向《たむけ》吾《わ》がする
  吾妹子 夢見來 倭路 度瀬別 手向吾爲
 
 ○度瀬別 舊訓ワタルセゴトニ。童蒙抄ワタリセゴトニ。○手向吾爲 舊訓タムケワレスル。童蒙抄タムケワガスル。古義タムケゾアガスル。ワギモコヲのヲは、ヨに通ふ助詞であるが、古寫本にはワギモコガ(元・西・細)。ワギモコハ(類)となつてゐる。
 一首の意。遠く旅をやつて來たが、わが家に殘つてゐる妻よ、夢に見えて來いと、大和へ行く道の川の渡瀬《わたりせ》毎に、道祖神に幣をささげて願つた。
 これも羈旅發思であるから、大和の人の趣でなく、他國の人の歌の趣で、大和へ向つて旅してゐる旅人の趣である。そして萬葉の用例に據ると、卷四(五五一)の、山跡道之島乃浦廻爾縁浪間無牟吾戀卷者《ヤマトヂノシマノウラミニヨスルナミアヒダモナケムワガコヒマクハ》。卷六(九六六)の、倭道者等隱有雖然余振袖乎無禮登母布奈《ヤマトヂハクモガクリタリシカレドモワガフルソデヲナメシトモフナ》。同(九六七)の、日本道乃吉備乃兒島乎過而行者筑紫乃子島所念香裳《ヤマトヂノキビノコジマヲスギテユカバツクシノコジマオモホエムカモ》などで、大和へ向ふ道筋になつてゐる。この歌も、大和へ旅して來る道筋の川の渡瀬の趣であらう。
(798) この歌も、稍一般的で、戀歌であるから、一面は民謠的でもあるが、何か聲調に好いところがあつて心を牽かれてゐた歌である。そして、若しこれが人麿の歌ででもあるなら、何か石見あたりから上來する時の途上の歌ででもあらうかなどと空想したこともあつたが、人麿晩年の歌とは、いかにしても違ふ點があり、石見から上來の時の短歌と、これを較べれば、この歌の方がやはり輕い。それを現在でも私は注意して居るが、人麿の上來の時の歌は、あれきりで、途中の歌が無いので、この歌などをその一つに擬したことなどもあつたのである。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作とし、第四句『渡るせことに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十二・三一二九〕
  櫻花《さくらばな》咲《さ》きかも散《ち》ると見《み》るまでに誰《たれ》かも此所《ここ》に見《み》えて散《ち》りゆく
  櫻花 開哉散 及見 誰此所 見散行
 
 舊訓サクラバナ咲キテヤ散ルト見ルマデニ誰カ此所《ココ》ニテ散リユクヲ見ム。略解サキカモチルト。略解タレカモココニ・ミエテチリユク。今略解に從つた。古寫本中タレカハココニ・ミエテチリ(799)ユク(細)。略解に、『櫻の咲きて散る如くに、うるはしみ相見し程も無く、離去を悲しみて詠めるなるべし。誰かもと言へるは、實は一人を指すなれど、よそ事のやうに言ふも歌の常なり』と解釋してゐる。
 この歌は、櫻花を咏みこんでゐるのがめづらしく、それも戀歌に關聯せしめて、直ぐ散る櫻の花の特徴を捉へたのも珍らしく、『見えて散りゆく』といつたあらはし方にも特色があつて、棄がたい歌の一つである。第一、調べが『かも』と、『散る』とを繰返して極めて節奏的にして居る。これと同じやうな歌調の歌は、卷十(一八四一)に、山高三零來雪乎梅花落鴨來跡念鶴鴨《ヤマタカミフリクルユキヲウメノハナチリカモクルトオモヒツルカモ》があり、第四句、一には、開香裳落跡《サキカモチルト》となつてゐるから、此歌の句と同じである。かういふ歌調類似の徑路等について種々調査するのも好い爲事の一つであるとおもふ。
 
          ○
 
  〔卷十二・三一三〇〕
  豐州《とよくに》の企玖《きく》の濱松《はままつ》こころ哀《いた》く何《なに》しか妹《いも》に相言《あひい》ひ始《そ》めし
  豐州 聞濱松 心哀 何妹 相云始
 
(800) 舊本の『心喪』。『相之始』を古寫本(元・類)により改めた。舊訓ココロニモ・ナニトテイモガ・アヒシソメケム。神田本ココロイタク。代匠記精ココロイタク・ナニシカイモニ・アヒイヒソメケム(古義從之)。童蒙抄ココロウク・イカナルイモガ・アヒシソメケン。略解に云、『元暦本、喪を哀に、之を云に作る。さらば松は待の借字にて、ココロイタク、ナニシカイモニ、アヒイヒソメケムと訓むべし。されど些か穩かならず。翁は心喪は不遠などの字の誤にて、之は見の誤なるべし。キクノ濱松、トホカラズ、ナニシカイモヲ、アヒミソメケムと訓むべし。心は濱松を遙かに見る由にて、不遠と續けたるかと言はれき。宣長は心喪の字は誤にて、ネモコロニと有るべき所なりと言へり。春海云、喪は衷の誤か。字書に衷は誠也と有れば、心衷を義もてネモコロと訓むべしと言へり』(略解)。新考アヒイヒソメシ。なほ新考では第三句を宣長訓のネモコロニに從ひ、卷十一の、『磯の上に立てるむろの木心哀などか深めておもひそめけむ』(【二四八八、新考訓のまま】)の『心哀』をネモコロニと訓んだのを例證としてゐる。これは古義が既に顧慮し、先に(二四八八)の解釋では、この(三一三〇)の歌と兩方を、春海説に從つてネモコロニと訓んだが、この歌の處では、ココロイタクの訓をも存して、二樣の解釋を試みてゐる。企玖《キク》は豐前の西北端にある。瀬戸内海の西口であるから此處の歌が他にもある。その濱の松が潮風になやむ如き氣配を見て取つて 『心哀』と云つたとせばココロイタクといつてもいいとおもふのである。卷十一(二四八八)の『心哀』は(801)やはりココロイタクと詠んで置いたし、卷三(四六七)の『情哀』をもココロイタクと訓むこと既に云つたとほりである。
 『いたき心』、『心いたき』といふ用語も、直接で實質的でよい。卷二十(四四八三)に、家持作、宇都里由久時見其登爾許己呂伊多久牟可之能比等之於毛保由流加毛《ウツリユクトキミルゴトニココロイタクムカシノヒトシオモホユルカモ》。同卷(四三〇七)に、家持作、秋等伊閇婆許己呂曾伊多伎宇多弖家爾花爾奈蘇倍弖見麻久保里香聞《アキトイヘバココロゾイタキウタテケニハナニナソヘテミマクホリカモ》等がある。卷二(二三〇)の語者心曾痛《カタレバココロゾイタキ》といふのなども、簡潔で強い句である。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとし、第三句以下『心にもなにとていもにあひしそめけん』とある。ナニトテイモニの訓は多くの萬葉古寫本にもあつた。
 
(802)萬葉集卷十三所出歌
 
          ○
 
  〔卷十三・三二五三〕
  葦原《あしはら》の 水穗《みづほ》の國《くに》は 神《かむ》ながら 言擧《ことあげ》せぬ國《くに》 然《しか》れども 言擧《ことあげ》ぞ吾《わ》がする 言《こと》幸《さき》く 眞福《まさき》く坐《ま》せと 恙《つつみ》なく 福《さき》く坐《いま》さば 荒磯浪《ありそなみ》 ありても見《み》むと 百重波《ももへなみ》 千重浪《ちへなみ》にしき 言擧《ことあげ》する吾《われ》
  葦原 水穗國者 神在隨 事擧不爲國 雖然 辭擧叙吾爲 言幸 眞福座跡 恙無 福座者 荒磯浪 有毛見登 百重波 千重浪爾敷 言上爲吾
 
 〔題意〕 『相聞』の部に載り、柿本朝臣人麿歌集歌曰とあり、類聚古集には本文の下に小さく人麿哥一首とある。
(803) 〔語釋〕○葦原・水穗國者 アシハラノ・ミヅホノクニハ。日本國の總稱で、高天の原から見れば一面に葦の茂つてゐるやうに見えたからアシハラノといひ、ミヅはミヅミヅしの意。稻穗がみのつて榮える貌である。卷二(一六七)に、葦原乃水穗之國乎天地之依相之極《アシハラノミヅホノクニヲアメツチノヨリアヒノキハミ》がある。この日本の國は、この國は元來といふ意がある。
 ○神在隨・事擧不爲國 カムナガラ・コトアゲセヌクニ。神である儘に、神さながらに、言擧《ことあげ》をせぬ、即ち彼此《かれこれ》と煩しいことを言はぬ國といふ意。舊訓カミノマニ。代匠記初書入【校本萬葉】カムナガラ。
 ○雖然・辭擧叙吾爲 シカレドモ・コトアゲゾワガスル。併し吾は言擧をする。今の言ひざまで云へば、吾は強調して云はう、言葉に出して大に祝はうといふぐらゐの意で、卷六(九七二)に、
 
千萬乃軍奈利友言擧不爲取而可來男常曾念《チヨロヅノイクサナリトモコトアゲセズトリテキヌベキヲトコトゾオモフ》。卷十八(四一二四)に、可久之安良波許登安氣世受杼母登思波佐可延牟《カクシアラバコトアゲセズトモトシハサカエム》といふ例がある。
 ○言幸・眞福座跡 コトサキク・マサキクマセトと訓む。言靈にも幸があり、ためにあなたも幸に御無事でおいでくださいといふ意で、言《こと》サキク眞《ま》サキクと類音で續けて居る。この句から前の言擧《ことあげ》ぞわがするに關聯してゐる。
 ○恙無・福座者 ツツミナク・サキクイマサバと訓む。舊訓ツツガナクであつたのを代匠記精(804)でさう訓んだ。障りなく、無事で御いでになるならばといふ意。卷五(八九四)に、都都美無久佐伎久伊麻志弖《ツツミナクサキクイマシテ》。卷二十(四四〇八)に、多比良氣久於夜波伊麻佐禰都都美奈久都麻波麻多世等《タヒラケクオヤハイマサネツツミナクツマハマタセト》がある。
 ○荒磯浪・有毛見登 アリソナミ・アリテモミムトと訓む。荒磯の浪のアリから、アリテと續けた枕詞である。『有《アリ》ながらへて、久しく相見むとて』(古義)といふ意で、卷十四(三四二八)に、安里都都毛安禮波伊多良牟《アリツツモアレハイタラム》といふ例がある。
 ○百重波・千重浪爾敷・言上爲吾 モモヘナミ・チヘナミニシキ・コトアゲスルワレ。百重《ももへ》の浪が立ち、千重の浪が立つごとく、頻《しき》りに(敷《しき》)、言葉に出して御祝をするといふ意。訓では、代匠記初の書入【校本萬葉】では、百の上に五脱とあり、略解でもそれを認め、『イホヘ浪チヘ浪と言ふが例なり』と云つてゐる。考では爾敷は敷爾だとし、チヘナミシキニ。古義、言上叙吾爲としコトアゲゾアガスル。卷三(四〇九)に、一日爾波千重浪敷爾雖念奈何其玉之手二卷難寸《ヒトヒニハチヘナミシキニオモヘドモナゾソノタマノテニマキガタキ》。卷十一(二四三七)に、奧藻隱障浪五百重浪千重敷敷戀慶鴨《オキツモヲカクサフナミノイホヘナミチヘシクシクニコヒワタルカモ》。同卷(二五五二)に、情者千遍敷及雖念《ココロニハチヘシクシクニオモヘドモ》があり、同卷(二五九六)の或本歌に、奧津浪敷而耳八方戀度奈牟《オキツナミシキテノミヤモコヒワタリナム》。卷四(四九六)の人麿作に、百重成心雖念直不相鴨《モモヘナスココロハモヘドタダニアハヌカモ》。卷十二(二九〇二)に、百重成情之念者甚爲便無《モモヘナスココロシモヘバイトモスベナシ》といふ例がある。
 〔大意〕 この葦原の水穗國、即ち日本の國は、神さながらに、神たる儘に、元々彼此|瑣《こち》たい事(805)は言はぬ國だ。併し私はこの際、あなたが言葉の神靈《みたま》で御無事であるやうにと、言葉に出して御祝申す。そしてあなたが御無事で御いでになるならば、〔荒磯浪《ありそなみ》〕あり永らへて久しく御逢しようと、〔百重波《ももへなみ》・千重浪爾敷《ちへたみにしき》〕しきりに、幾遍でも心から言葉で出して祝福する。
 〔鑑賞〕 この歌は、知人が旅立つ時に祝つて送る歌のやうに思へる。そして、句句緊密であるのみならず、枕詞を自在に驅使して、内容を細々しく云はないところが却つて象徴的にも感ぜしめて居る。『言擧《ことあげ》ぞ吾がする』。『言《こと》あげする吾《われ》』といふのが眼目だから、それをかくの如く二度も繰返すやうにして、その間にある句も、繰返しがあつて、流動的で且つ莊重である。これなどは恐らく人麿的と感じて差支ないものであらう。卷十三には、こまごましくて、長歌でも民謠風、或は後世風を感ぜしめるものが多いが、かういふのも雜つて居るのである。
 この前の歌(三二五〇)の、蜻島《アキツシマ》、倭之國者《ヤマトノクニハ》、神柄跡《カムカラト》、言擧不爲國《コトアゲセヌクニ》、雖然《シカレドモ》、吾者事上爲《ワレハコトアゲス》、天地之《アメツチノ》、神毛甚《カミモハナハダ》、吾念《ワガオモフ》、心不知哉《ココロシラズヤ》、往影乃《ユクカゲノ》、月文經往者《ツキモヘユケバ》、玉限《タマカギル》、日文累《ヒモカサナリ》、念戸鴨《オモヘカモ》云々といふ長歌も、重厚で相當に骨折つてゐるが、この歌よりも細かく言つてゐる。そこに差別がある訣である。なほ、これまで評釋して來た人麿歌集では、はじめて長歌に逢つたのだが、あれほど長歌に於て力量を示した人麿が、その他の場合で長歌を作らないとせば、不思議のやうであるが、人麿の長歌は、實際的の動機に本づいた場合が多く、獻歌とか頌歌とかいふ場合に作つたのが多かつたとも解釋(806)し得るが、それも當にはならない。そして、長歌を多く集めた卷十三に、『柿本朝臣人麿歌集歌曰』とあるのは興味のあることで、署名の明かな、人麿の長歌もかういふ歌と共に、人麿歌集といふものの中に集められてゐたものであつたのかも知れない。そして事實の明かなものだけを前に出し、かういふ歌はその儘になつてゐたのかも知れない。なほ考ふべきである。
 
          ○
 
  〔卷十三・三二五四〕
  敷島《しきしま》の日本《やまと》の國《くに》は言靈《ことだま》の佐《たす》くる國《くに》ぞま福《さき》くありこそ
  志貴島 倭國者 事靈之 所佐國叙 眞福在與具〔其〕
 
 これは前の長歌の反歌である。結句原文は、『在與具』で、アレヨクと訓んでゐたのを、考で與具は乞其の誤としてアリコソと訓み、略解補正で興其の誤としてアリコソと訓んだ。新考・新訓與其の誤とした。
 一首の意は、敷島の日本の國は、言葉の神靈が人々に幸を與へ助ける國であるから私が言擧するのにもさういふ靈妙の力がこもつてゐる、よつてどうぞ幸を得て無事であつて欲しい。といふ(807)のである。
 前の長歌の繰返しの觀を呈する歌だが、『言靈の佐《たす》くる國ぞ』と云つて變化せしめて居るから、その邊の技巧を吟味することはなかなか有益である。國ゾ〔右○〕。アリコソ〔二字右○〕のところの類音について奈何に批評すべきか。
 
          ○
 
  〔卷十三・三三〇九〕
  物《もの》念《も》はず 路《みち》行《ゆ》きなむも 青山《あをやま》を ふり《さ》放け《み》見れば 躑躅花《つつじばな》 香少女《にほえをとめ》 櫻花《さくらばな》 盛少女《さかえをとめ》 汝《な》をぞも 吾《あ》に依《よ》すとふ 吾《あ》をぞも 汝《な》に《よ》依すとふ 汝《な》はいかに念《も》ふや 念《おも》へこそ 歳《とし》の八年《やとせ》を 切《き》る髪《かみ》の よちこを過ぐり 橘《たちばな》の 末技《ほつえ》を過《す》ぐり この川《かは》の 下《した》にも長《なが》く 汝《な》が心《こころ》待《ま》て
  物不念 路行去裳 青山乎 振酒見者 都追慈花 爾太追越賣 作樂花 佐可遙越賣 汝乎叙母 吾爾依云 吾乎叙物 汝爾依云 汝者如何念也 念社 歳八年乎 斬髪 與知子乎過 橘之 末枝乎須具里 (808)此川之 下母長久 汝心待
 
 〔題意〕 『問答』の部に載り、『柿本朝臣人麿之集歌』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○物不念・路行去裳 モノモハズ・ミチユキナムモ。何も物思《ものおもひ》することなく路を行くであらうのに。此處のナムは連用段に續く推量のナムで、卷五(八八六)の、和何余須疑奈牟《ワガヨスギナム》。卷十五(三六九三)の、毛美知葉能知里奈牟山爾《モミヂバノチリナムヤマニ》。卷二十(四四四一)の、與能可藝里爾夜故非和多里奈無《ヨノカギリニヤコヒワタリナム》等の例と同じい。モは咏歎の助詞で、そこで意味も強まりヲに通ふところがある。ムから續けた例を聲調上の參考に書けば、卷十二(三一〇五)に、吾戀死者誰名將有裳《ワガコヒシナバタガナナラムモ》。卷十四(三四四二)に、夜麻爾加禰牟毛夜杼里波奈之爾《ヤマニカネムモヤドリハナシニ》がある。
 ○青山乎・振酒見者 アヲヤマヲ・フリサケミレバ。春山の青くなつたのを遠く眺むればの意。卷三(三七七)に、青山之嶺乃白雲《アヲヤマノミネノシラクモ》。卷四(六八八)に、青山乎横〓雲之《アヲヤマヲヨコギルクモノ》。卷七(一二八九)に、青山等茂山邊馬安君《アヲヤマトシゲキヤマベニウマヤスメキミ》等があり、なほ、卷一(五二)に、日本乃青香具山《ヤマトノアヲカグヤマ》の例がある。古義ではハルヤマと訓んだ。
 ○都追慈花・爾太追越賣 ツツジバナ・ニホエヲトメ。躑躅花のやうに美しい少女といふ意で、前の長歌(三三〇五)には『香未通女』となつてゐるから、ニホヘルヲトメ或はニホヒヲトメ(古義)と訓んだが、此處は也行のエになつて居る。考では遙は逕の誤だらうとしてニホヘルと訓ん(809)だのは一考であつたが、宣長が田中道麿に答へたのには、『ニホ|エ〔右○〕ハ、トニカクニイブカシ』と云つて居る。古義ではニホエでよいとした。卷十九(四二一一)に、春花乃爾太要盛而秋葉之爾保比爾照有《ハルハナノニホエサカエテアキノハノニホヒニテレル》とある如く、波行にも也行にも活用せしめてゐる。これは萎をシナヘともシナエとも活用せしめて居るのと同樣であらうか。遙は呉音にエの音があるから必ずしも誤字とせずともよく、可愛少女《エヲトメ》などとは直接關係はないが、言語學的にでなしに關聯せしめることが出來る。太をホと訓むのは、古事記下に、間人穴太部王《ハシビトノアナホベノミコ》(【書紀用明天皇紀穴穗部間人皇女】)。書紀繼體天皇卷に、男太迹《ヲホト》天皇。天武天皇卷に、迹太《トホ》川の例がある。この『太』をホと訓ませるのは、オホを略してホといふのである。『太』をオホと訓んだ例は、『太宰』をオホミコトモチ、『太宮處』をオホミヤドコロと訓んだ例で分かる。これは『大』のオホを略してホと訓むのと同じく、古事記上に、御大之御前《ミホノミサキ》(【出雲風土記に美保埼神名帳には美保神社】)。續記第三十九【桓武天皇】に、穴大村主《アナホノスクリ》の例がある。なほ、『凡』のオホをホと訓むのも同樣で、『凡津子』はオホの例、卷七(一三三三)の、佐保山乎|於凡爾見之鹿跡《オホニミシカド》はホの例である。ツツジは前の長歌には、茵花《ツツジバナ》と書き、卷三(四四三)にも、茵花香君之《ツツジバナニホヘルキミガ》の例があり、卷三(四三四)は、美保乃浦廻之白管仕見十方不怜《ミホノウラミノシラツツジミレドモサブシ》。卷十(一九〇五)に、姫部思咲野爾生白管自不知事以《ヲミナベシサキヌニオフルシラツツジシラヌコトモチ》。卷六(九七一)に、丹管士乃將薫時能櫻花將開時爾《ニツツジノニホハムトキノサクラバナサキナムトキニ》等の例がある。春の躑躅と櫻とを共にして歌つて居る。
 ○作樂花・佐可遙越賣 サクラバナ・サカエヲトメ。櫻花の如く盛《さか》えにほふ少女の意で、前に(810)引いた爾太要盛而《ニホエサカエテ》とある如く、咲いた花の美しいさまを斯う形容してゐるのである。卷二(一九九)に、木綿花乃榮時爾《ユフハナノサカユルトキニ》。卷十三(三二三四)に、春山之四名比盛而秋山之色名付思吉《ハルヤマノシナヒサカエテアキヤマノイロナツカシキ》などの例がある。次に櫻花の例は、卷八(一四四〇)に、春雨乃敷布零爾高圓山能櫻者何如有良武《ハルサメノシクシクフルニタカマドノヤマノサクラハイカニアルラム》。卷十六(三七八七)に、妹之名爾繋有櫻花開者常哉將戀彌年之羽爾《イモガナニカケタルサクラハナサカバツネニヤコヒムイヤトシノハニ》。卷十八(四〇七四)に、櫻花今曾盛等雖人云我佐夫之毛伎美止之不在者《サクラバナイマゾサカリトヒトハイヘドワレハサブシモキミトシアラネバ》。卷十(一八六四)に、足日木之山間照櫻花是春雨爾散去鴨《アシヒキノヤマカヒテラスサクラバナコノハルサメニチリユカムカモ》。同(一八七二)に、見渡者春日之野邊爾霞立開艶者櫻花鴨《ミワタセバカスガノヌベニカスミタチサキニホヘルハサクラバナカモ》とあるなど、櫻花の歌は三十七首ばかりある。そして櫻の歌は古いところには無いやうで、ただ『花』。『春花』といふうちに入つて居るのではないかとおもはれる。
 ○汝乎叔母・吾爾依云・吾乎叙物・汝爾依云 ナヲゾモ・アニヨストフ・アヲゾモ・ナニヨストフ。舊訓ナレヲゾモ・ワレニヨルトイフ・ワレヲゾモ・ナレニヨルトイフ。考ワレニヨストフ。ナレニヨストフ。古義ナヲゾモ・アニヨスチフ云々。モは咏歎の助詞で、汝をぞモ依すとふ、吾をぞモ依すとふとなる。ヨスは佐行四段に活用し、寄せる意で、汝と吾を相寄らせる。相近よらせるといふので、第三者が二人を近寄らせることである。お前を私に近づけてくれるといふ。また私もお前に近づけてくれるといふといふ意。卷九(一六七九)に、城國爾不止將往來妻社妻依來西尼妻常言長柄《キノクニニヤマズカヨハムツマノモリツマヨシコセネツマトイヒナガラ》。卷十四(三四五四)に、爾波爾多都安佐提古夫須麻許余比太爾都麻余之許西禰(811)安佐提古夫須麻《ニハニタツアサデコブスマコヨヒダニツマヨシコセネアサデコブスマ》。同(三三八四)に、可都思加能麻末能手兒奈乎麻許登可聞和禮爾余須等布麻末乃※[氏/一]胡奈乎《カツシカノママノテコナヲマコトカモワレニヨストフママノテコナヲ》。同(三五四八)に、奈流世呂爾木都能余須奈須《ナルセロニコツノヨスナス》(【依すなす】)伊等能伎提可奈思家世呂爾比等佐敝余須母《イトノキテカナシケセロニヒトサヘヨスモ》(【依すも】)。なほ、卷十一(二七三一)の、牛窓之浪乃鹽左猪島響所依之《ウシマドノナミノシホサヰシマトヨミヨサエシ》(【依さえし】)君不相鴨將有《キミニアハズカモアラム)。同(二七五五)の、空事文所縁之《ムナゴトモヨサエシ》(【依さえし】)君之辭鴛鴦將待《キミガコトヲシマタム》。卷十四(三四七八)の、等保斯等布故奈乃思良禰爾阿抱思太毛安波乃敝思大毛奈《爾己曾與佐禮トホシトフコナノシラネニアホシダモアハノヘシダモナニコソヨサレ》(【依され】)等などの場合も同じであらうか。新考では今の俗語のトリモツことだと云つてゐる。
 ○汝者如何念也・念社・歳八年乎 ナハイカニモフヤ・オモヘコソ・トシノヤトセヲ。お前はどう思ふか。以上は問で以下は答の趣である。つまり、問答體で連續してゐない。おつしやるとほり私もさう思つて居ります。さう思つて居ればこそ、八年の間(長い年月の間)をば、といふ意になる。この長歌は、問は男で答は女の趣であるから、二つを一處にしたやうな歌である。このことは後述する。
 ○斬髪・與知子乎過 キルカミノ・ヨチコヲスグリと訓む。まだ老幼だから、髪を切つて居る振分髪《ふりわけがみ》の、同年輩の兒ども等よりも、ずつと大きくなつて、つまり、もつと女らしくなつてといふ意になる。卷五(八〇四)に、余知古良等手多豆佐波利提阿蘇比家武《ヨチコラトテタヅサハリテアソビケム》といふ例がある。同齡兒即ち齡《ヨ》つ兒《コ》の意だといはれてゐる。流布本、與和子になつてゐるが、古寫本(【天・元・類・西・神・温・矢・京】)に、『與(812)知子』とあるのに從つた。
 ○橘之・末枝乎須具里 タチバナノ・ホツエヲスグリと訓む。橘の末枝を過ぎての意、末枝まではスグリといふためである。このスグリといふ活用は珍らしいので、スグルといふ四段の動詞があると都合が好いのだが、私はいまだそれを知らない。このあたり先輩の教を乞ふべきである。普通はスギを延言にしてスグリとしたと解して居る。ヨギ、ヨギリと同じであらうか。
 ○此川之・下母長久・汝心待 コノカハノ・シタニモナガク・ナガココロマテと訓む。コノカハノは枕詞でシタに續くが、それがまたナガクへ關聯してゐる。あなたの心をば待つて居ります。といふ意で、念ヘコソで懸つて、待テで結んで居る。卷四(五九八)に、水瀬河下從吾痩月日異《ミナセガハシタユワレヤスツキニヒニケニ》。卷十一(二七一九)に、隱沼乃下爾戀者《コモリヌノシタニコフレバ》等の例がある。シタは川の水底といふ意と心といふ意とに通じて居る。
 〔大意〕 何も物思《ものおも》ふことなく(【戀などせずに心平安に】)、路を行かうとおもつて居るに、向うの青い春山を遠く見れば、躑躅の花が咲きにほうてゐる、また櫻の花も咲きさかつて居る、恰もその花のにほふやうな美しい少女《をとめ》が居るではないか。そして、その美しい少女よ、お前をば私に近寄せてくれるといふし、また私をばお前に近づけて呉れるといふことであるが、一體お前はどうおもふ。(【以上は男の言葉下は少女の答】)私もさうおもひます。さう思へばこそ、この長い八年の間を、振分髪である穉い同輩の童(813)女等よりもずつと大きくなり、〔橘之末枝乎《たちばなのほつえを》〕時も經つて〔此川之下母《このかはのしたにも》〕川の水の長く流れる如く、心長くいつまでもあなたと御一しよになられることをお待して居ります。
 〔鑑賞〕 この歌は、これまでの人麿の長歌とは違つて、もつと素朴で且つ古風に響く歌である。そして一首の中に、内容が相交錯して、常識的には渾沌としたものがあるが、それが却つて素朴に響かせる點であるかも知れない。試に云はむに、『物念はず路行きなむも』は、道を來つつある趣だが、相聞の情調を既に漂はせて居る。そんなら、相聞の歌的に進行するかといふに、『青山をふりさけ見れば』と云つて稍敍景的になつてゐる。然らばそれで進行するかといふに、『躑躅花《つつじばな》、香少女《にほえをとめ》、櫻《さくら》ばな、盛少女《さかえをとめ》』といつて、春山の花から突如として、美麗な少女を現出せしめてゐる。そのあひだの聯結は、常識的な聯想に據らずに、朦朧として居り、不合理のやうであつて、詩的には極めて自然であり、極めて緊密なのである。語を換へていへば、單純化の極、象徴詩の域に到達してゐるのである。
 そして、其處から、直ちに、『汝《な》をぞも、吾《あ》に依《よ》すとふ、吾《あ》をぞも、汝《な》に依すとふ、汝はいかに念《も》ふや』と云つて、男が少女に問掛けて居る趣に歌つてゐる。これなども常識的に批評すれば餘り突如だといふことにもなるのだが、そこが韻文として、特に古調韻文の何ともいはれぬいい特色だといふことも言ひ得るのである。さて、さういつて、なほ突如として、『念へこそ』といつて(814)ゐる。此は女が男の問に答へる語である。この問答體の長歌は、貧窮問答などにも見え、浦島子などの長いものには少しづつ見えてゐるが、この歌の場合のやうに直接で且つ著しくない。『念へこそ、歳の八年を……汝が心待て』と云つて結んでゐる。誠に古樸にして簡淨極りなきものである。
 そして此長歌は、よく讀んでみると、民謠的のもので、いつのまにか傳誦せられつつ來つたやうでもあり、或は、都會的と謂はむよりは寧ろ地方的のにほひがある。よつて、人麿の集の歌とあるけれども、人麿の作ではあるまいといふ結論に今のところ愚見は傾いて居る。
 次にこの歌で問題になるのは、この歌の直ぐ前に、『問答』といふ見出しで(三三〇五)の、物不念《モノモハズ》、道行去毛《ミチユキナムモ》、青山乎《アヲヤマヲ》、振放見者《フリサケミレバ》、茵花《ツツジバナ》、香未通女《ニホヒヲトメ》、櫻花《サクラバナ》、盛未通女《サカエヲトメ》、汝乎曾母《ナヲゾモ》、吾丹依云《アニヨストフ》、吾※[口+立刀]毛曾《アヲモゾ》、汝丹依云《ナニヨストフ》、荒山毛《アラヤマモ》、人師依者《ヒトシヨスレバ》、余所留跡序云《ヨソルトゾイフ》、汝心勤《ナガココロユメ》といふ長歌があり、反歌(三三〇六)の、何爲而戀止物序天地乃神乎祷迹吾八思益《イカニシテコヒヤムモノゾアメツチノカミヲイノレドアハオモヒマス》があつて、次に(三三〇七)の、然有社《シカレコソ》、歳乃八歳※[口+立刀]《トシノヤトセヲ》、鑽髪乃《キルカミノ》、吾同子※[口+立刀]過《ヨチコヲスギ》、橘《タチバナノ》、末枝乎過而《ホツエヲスギテ》、此河能《コノカハノ》、下文長《シタニモナガク》、汝情待《ナガココロマテ》といふ長歌があり、その反歌(三三〇八)に、天地之神尾母吾者祷而寸戀云物者都不止來《アメツチノカミヲモワレハイノリテキコヒトフモノハカツテヤマズケリ》といふのがあつて、その次に、『柿本朝臣人麿之集歌』としてこの長歌が載つてゐるのである。
 そこでこれを比較して見れば、人麿歌集のこの長歌といふのは、大體に於て、(三三〇五)と(三(815)三〇七)の長歌とを合併した如くに出來て居る。そこで、眞淵などは、人麿歌集の方を否定して、種々誤字を訂し、『汝者如何念也。此六字は右を上の哥ぞとも知らぬ人のここをよまんとて加しものなり。念社《オモヘコソ》、是よりは上の女の答し哥也。かく二首の間の句落たるをよせて、一首としたる此卷に多し。皆哥てふものをもしらぬもののわざ也』といひ、頭注にも、『人万呂哥集の中にも、いかなる亂本有てここには注しけん。是を強て一首として解んとする人有はいふにもたらず』と云つて居る。また、眞淵は、前の(三三〇五)の長歌の條で、(三三〇六)の反歌につき、『今本ここに反哥とて擧し哥は、此長哥の意にあらず、且ここの問答の長哥は、古代のよき哥なり。かの短哥は、古哥にもあらずしてつたなし、又古哥に反哥なきことも既にいふが如し。ここはいと亂れたるを、古哥の意をもしらぬもの校合すとて、ここにつけしことしるければ除つ』といひ、(三三〇八)の歌についても、『こは右の哥(三三〇六)の轉ぜしにて別哥にあらざるなり』と評して居る。この反歌の後ぶりだといふ論は略解も踏襲したが、古義では、『推當なり。何處か後めきたる』と駁して居る。
 先輩の言は右の如くであるが、この(三三〇五)あたりの長歌を、『古代のよき哥なり』と眞淵が評したのは流石におもしろい。併し、人麿歌集の方が原で、それを二首に作り直して、反歌などを附加したものだらうとは眞淵も想到し得なかつた。反歌をば後ぶりだと論斷した眞淵が、一首(816)の長歌を常識的に二つに分離したのみならず、『荒山も人し依すればよそるとぞいふ』などといふ恣な増補をしたものだといふことに氣が附かなかつたのである。
 ここで結論をいへば、この人麿の集の歌といふ長歌は、人麿作ではあるまい。寧ろ人麿以前の傳誦歌で、地方的の色彩を有つてゐる。そしてこの歌が原作で、その前の二首とその反歌とは、誰かが氣を利かして分離し増補したものであらう。さうであるから、人麿歌集の歌は皆、人麿作だと論斷する説も妄説である一證となる歌である。
 
(817)萬葉集卷十四所出歌
 
          ○
 
  〔卷十四・三四一七〕
  上毛野《かみつけぬ》伊奈良《いなら》の沼《ぬま》の大藺草《おほゐぐさ》よそに見《み》しよは今《いま》こそ勝《まさ》れ
  可美都氣奴 伊奈良能奴麻能 於保爲具左 與曾爾見之欲波 伊麻許曾麻左禮 【柿本朝臣人麿歌集出也】
 
 伊奈良《いなら》の沼は所在不明である。上野邑樂郡、板倉沼があり、沼の西に板倉村があつて、今岩田、籾谷を合せて伊奈良村と改めたが、それは萬葉のこの伊奈良の沼は板倉の沼だらうといふ説に本づいたものである(【上野歌解・大日本地名辭書參照】)。『於保爲具左』は、即ち大藺草《おほゐぐさ》で、和名鈔に、廣韻云、莞【漢語抄云、於保井】可2以爲1v席者也とある。太藺《ふとゐ》ともいふ莎草科の多年生草本である。
(818) 一首の意は、上野《かみつけ》國の伊奈良《いなら》の沼に生えてゐる大藺草《おほゐぐさ》の有樣が【序詞】遠く離れて見るよりも近くで見た方がいい。お前もよそでばかり見て戀してゐたが、逢つて目のあたり見ると、今の方がまだまだよい。もつと美しくてもつと可哀いい。といふぐらゐの意味であらう。
 この歌は、人麿歌集にあつたといふから、恐らく卷十一あたりに交つてゐて、『凡見者』などとあつて、オホヰ草オホニと續けたのを、ヨソニと訓んで、卷十四で書直して、與曾爾としたものかも知れない。此は空想だが、さういふこともあり得て、決して不自然ではなく、卷七(一三三三)に、佐保山乎於凡爾見之鹿跡《サホヤマヲオホニミシカド》とあるほか、凡爾《オホロカニ》(卷七。一三一二)。凡吾之念者《オホロカニワレシオモハバ》(卷十一。二五六八)などとあるから、人麿歌集のであつたら、もつと簡潔に書いたかも知れない。
 この想像はかういふことを意味する。この歌は、東歌の聲調とちがふ點があつて、寧ろ寄v何戀歌に似て居る。そこで、『古への歌集は、歌を傳へ得るままに書集れば、東歌も何も交るべきなり』と眞淵の云つて居るのは、この歌を東歌と看て、それが人麿歌集の方に紛れ込んだとし、童蒙抄でも、後人傍注也としてゐるのは同論であるが、愚案はその反對で、寄v何戀を、上野の地名があるために東歌の中に集め、書き方も替へて統一したのではなからうか。これはなほ年代のことにも關聯してゐることとなる。つまり東歌の編輯は、卷十一あたりの資料となつた人麿歌集の編輯よりも後れただらうといふことにもなるのである。また、人麿歌集の中に東歌も混入して居(819)るといふのでなく、人麿歌集の歌が東歌の方まで流傳せられたといふことにもなるのである。
 この歌は六帖には、初句『かんつけの』とあり、大藺草の部に入れて、人まろとしてゐる。夫木和歌抄には、沼の部に入れよみ人しらずになつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十四・三四四一〕
  ま遠《どほ》くの雲居《くもゐ》に見《み》ゆる妹《いも》が家《へ》にいつか到《いた》らむ歩《あゆ》めあが駒《こま》
  麻等保久能 久毛爲爾見由流 伊毛我敝爾 伊都可伊多良武 安由賣安我古麻
 
 この歌の左注に、『柿本朝臣人麿歌集曰、等保久之※[氏/一]、又曰、安由賣久路古麻』とあるものである。これは、卷七(一二七一)に、遠有而雲居爾所見妹家爾早將至歩黒駒《トホクアリテクモヰニミユルイモガイヘニハヤクイタラムアユメクロコマ》とあるものである。
 これにしても、『いつかいたらむ』よりも、『早くいたらむ』の方が直接で且つ自然である。結句の、『あゆめ吾《あ》が駒』よりも、『歩め黒駒』の方が、寫生的實質的で直接に感じにうつたへて作つてゐる。特に初句の、『遠くありて』は寧ろ人麿的だともいへるが、『まどほくの』の方はそれ(820)よりも稍劣るのである。それを、左注の、『とほくして』としたのは、一本の人麿歌集に據つたものかも知れぬが、これも、『とほくありて』の句よりも劣る。斯くの如くであるから、人麿歌集の歌でさへ幾通りにも流傳せられ、且つ東歌の中にまで※[手偏+讒の旁]入せられてゐるといふことが分かるのである。
 
          ○
 
  〔卷十四・三四七〇〕
  相見《あひみ》ては千年《ちとせ》や去《い》ぬる否《いな》をかも我《あれ》や然《しか》思《も》ふ君《きみ》待《ま》ちがてに
  安比見※[氏/一]波 千等世夜伊奴流 伊奈乎加母 安禮也思加毛布 伎美未知我※[氏/一]爾
 
 この歌の左注に、『柿本朝臣人麻呂歌集出也』とあるが、この歌は、卷十一(二五三九)の、相見者千歳八去流否乎鴨《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモ》我《ワレ・アレ》哉然念待君難爾《ヤシカモフキミマチガテニ》と全く同じである。然かもこの卷十一の歌には、人麿歌集出といふ左注の無いものである。
 それにつき、代匠記精撰本に、『第十一ニ人麿歌集歌百四十九首ヲ載畢テ、正述2心緒(ヲ)1歌中ニア(821)ルヲ、今カク注セラレタルハ不審ナリ。ツラツラ按ズルニ、彼卷ニハ他本ニヨノツネノ歌ノ中ニ入レタルニ依テ載セ、今ハ人丸集ニ東歌ト注セラレタルニ依テ此處ニモ載ル故ニ、後人ニ兩卷ノ相違ヲ疑ガハシメジトテ注セラルルナリ』といひ、眞淵は、『今は其卷四(卷十一)に有は、後に人まろ集より亂れ入しならん。依てかしこは除て人万呂集へいるべき事なり。哥詞も東|風《フリ》にて卷四(卷十一)に入べからねば、かたがた疑ひなし、是を以て思ふに、卷四(卷十一)より六(卷十四)までの間に重り載し哥は、皆他より亂れ入しもの也。よく考へてかうがへ除べし』といふのは、眞淵はこの歌を、東歌が原歌で、それが人麿歌集の中に亂れ入つたのだと考へてゐる。併し、これは、卷十一の方が原歌であらう。そして人麿歌集の歌ではないであらう。この左注は間違か、或は人麿歌集の一本に據つたか。井上博士は、『卷十一によれば、人麻呂歌集所出にあらず、そはともあれ、此歌を東歌の中に入れたるによりて思へば、イナヲカモといふ辭は、東語ならむか』(新考)と云つてゐる。
 約めていへば、この歌は、人麿歌集の歌ではなからうが、人麿歌集の歌の流轉した有樣を傍看するのに好資料である。
 なほ六帖には、『あひ見ては千歳や經ぬるいなをかの我やしか思ふ君待ち兼ねて』とあり、作者をことわつてゐない。
 
(822)          ○
 
  〔卷十四・三四八一〕
  あり衣《ぎぬ》のさゑさゑ鎭《しづ》み家《いへ》の妹《いも》に物《もの》言《い》はず來《き》にて思《おも》ひ苦《ぐる》しも
  安利伎奴乃 佐惠佐惠之豆美 伊敝能伊母爾 毛乃伊波受伎爾※[氏/一] 於毛比具流之母
 
 この歌の左注に、『柿本朝臣人麻呂歌集(ノ)中(ニ)出(ヅ)見(ユルコト)v上(ニ)已(ニ)詮(セリ)也』とあるもので、卷四(五〇三)に人麿作として出てゐる、珠衣乃狹藍左謂法家妹爾物不語來而思金津裳《タマギヌノサヰサヰシヅミイヘノイモニモノイハズキテオモヒカネツモ》といふのが即ちそれである。
 眞淵は、『卷六(卷十四)なるは國風《クニブリ》なり。ここは此卿のきかれたるままにあげられたるなめり。さればいささか、言もてにをはもたがへるは宮風《ミヤブリ》と見すぐすべし』(考)と云つた。これは、眞淵の考では、東歌の此歌(三四八一)が原歌で、それが助詞等が少し變化して、稍都會風になつて、卷四の方になつたのだらうといふのであるが、これも、『物云はず來て』の方が、『物云はず來にて』よりも一首の調和上大切である。また、結句の、『思ひかねつも』の方が、『思ひぐるしも』よりも自然で且つ上等である。よつて愚見では、卷四の方が原歌で、卷十四の方がその異傳であ(823)らう。また、この左注を信ずるとせば、卷四の人麿作の歌の原本は、家持などを中心として見た人麿歌集で、卷十四の左注の人麿歌集と別であつてもいいわけである。人麿歌集出といふ左注の書き方も幾とほりにもなつてゐるのを顧慮すれば、同一人が連續的に記入したと見るよりも、同一人が時々、異時的に記入したか、別な人が數本の人麿歌集に據つて記入したか、種々の場合を考へることが出來る。また愚見では、卷四の歌を東歌の材料として揃へるときに、假名書きに直したものだとおもふのである。
 
          ○
 
  〔卷十四・三四九〇〕
  梓弓《あづさゆみ》未《すゑ》は依《よ》り寢《ね》むまさかこそ人目《ひとめ》を多《おほ》み汝《な》を間《はし》におけれ
  安都佐由美 須惠波余里禰牟 麻左可許曾 比等目乎於保美 奈乎波思爾於家禮
 
 この歌の左注に、『柿本朝臣人麻呂歌集出也』とあるものである。梓弓《あづさゆみ》は、スヱに懸けた枕詞で、弓末《ゆずゑ》といふによりて理會が出來る。卷三(三六四)に、大夫之弓上振起《マスラヲノユズヱフリオコシ》あり、卷九(一七三八)に、(824)梓弓末乃珠名者《アヅサユミスヱノタマナハ》。卷十二(三一四九)に、梓弓末者不知杼《アヅサユミスヱハシラネド》。卷十四(三四八七)に、安豆左由美須惠爾多麻末吉《アヅサユミスヱニタママキ》等がある。麻左可許曾《マサカコソ》は、今現在はといふ意。眞盛《マサカリ》又は、目前《マサキ》の轉だといはれてゐる。まのあたり、差當つて、などと翻し得る。卷十八(四〇八八)に、伊末能麻左可母宇流波之美須禮《イマノマサカモウルハシミスレ》。卷十四(三四一〇)に、禰毛己呂爾於久乎奈加禰曾麻左可思余加婆《ネモコロニオクヲナカネソマサカシヨカバ》といふのがある。
 一首の意は、〔梓弓《あづさゆみ》〕すゑは相寄つて一しよに寢ませう。けれど今さし當つては餘り人目が多いものですから、それまではお前さんをば家の端の方に寐かしますよ。
 これは女が訪ねて來た男にむかつていふ趣の歌で、田園生活を背景とした民謠的な歌である。この歌は、人麿作と想像するよりも、寧ろ東歌的だから、東歌の方を原歌と考へることも出來るが、卷十二(二九八五)に、梓弓末者師不知雖然眞坂者君爾縁西物乎《アヅサユミスヱハシシラズシカレドモマサカハキミニヨリニシモノヲ》といふのがあるが、それに類似して居る。さすれば、この歌も、必ずしも東歌が原歌だとは謂へないところがある。ゆゑに、『柿本朝臣人麻呂歌集出也』とあるのは、何か據りどころがあつたと看做すべく、その左注者の參考した人麿歌集にはこの歌が載つてゐたと看做していいであらう。かういふ點でも人麿歌集に數本あつただらうと想像することも出來る。
 ハシにつき、眞淵の考には、『汝を端の方におけれなり。つまどひに來し男に心はよれど、まだ奥へ入すべきはどならねば、端の簀子などにをらするをいふなり』とあるが、井上博士の新考に(825)は、『ドチラツカズ』と解し、同卷(三四〇八)の、爾比多夜麻禰爾波都可奈那和爾余曾利波之奈流兒良師安夜爾可奈思母《ニヒタヤマネニハツカナナワニヨソリハシナルコラシアヤニカナシモ》を例としてゐる。實際この歌は、さう解釋して意味が分かる。これはまた、卷二(一九九)の、去鳥乃相競端爾《ユクトリノアラソフハシニ》。卷十九(四一六六)の、之努比都追《シヌビツツ》有爭《アリクル・アラソフ》〔來〕波之爾《ハシニ》などと同語原で、アヒダから來たものとせば、家の内の端《はし》の間《ま》の意味とはちがふが、ハシニオクをば、誰にも知れぬやうに、ドチラツカズに、不關係のやうに、不得要領に、といふやうにも解釋の出來ないことはない。
 
(826) 補遺
 
 卷九は、雜歌と題し、泊瀬朝倉宮御宇天皇御製歌一首、崗本宮御宇天皇幸紀伊國時歌二首があつて、その次に、大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首があり、後人歌二首があり、獻忍壁皇子歌一首、その他が續いて、獻弓削皇子歌一首(一七〇九)の次に、『右柿本朝臣人麻呂之歌集所出』といふ左注があるが、この評釋には、獻忍壁皇子歌一首(一六八二)から、人麿歌集所出と解してさうしたのであるが、武田博士の説(【柿本人麻呂の作品の傳來】)では、大寶元年の歌からと解釋してゐる。博士云。『大寶元年の歌十三首、及び後れたる人の歌二首をも、人麻呂集所出の歌と爲すべきではあるまいか。さて進んで卷一の大寶元年の題詞ある歌をも、人麻呂集所出と考ふる傾向に進みたいと思ふのである。人麻呂歌集には、題詞の明記のあるものもあり、その中作者の知らるるを卷一に出し、結松を詠めるは縁につきて卷二に載せ、更に作者の署名無きを卷九に出して、その一二に他の資料による案文を附したのではなからうか』云々。今博士の説に從つて、以下の評釋を増補することとする。
 
(827)          ○
 
  〔卷九・一六六七〕
  妹《いも》がため我《われ》玉《たま》求《もと》む沖邊《おきべ》なる白玉《しらたま》寄《よ》せ來《こ》沖《おき》つ白波《しらなみ》
  爲妹 我王〔玉〕求 於伎邊有 白玉依來 於岐都白浪
 
 『大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首』といふ題詞のある十三首中のはじめの歌である。なほこの歌の左注に、『右一首上見既畢、但歌辭小換、年代相違、因以累載』とあるものである。
 
 萬葉卷一(【五四・五五・五六】)に、大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌とあるのと同時の歌と考へられてゐる。文武紀に、大寶元年九月丁亥天皇幸2紀伊國1、冬十月丁未車駕至2武漏温泉1、戊午車駕自2紀伊1至とある。この中の『天皇』は『太上天皇』だらうかと契沖が考へてゐる。又九月とあるは途中を意味し、十月とあるは既に紀伊に到達せられてからのことを意味するだらうと云つてゐる。また、太上天皇は持統、大行天皇は文武であるから、契沖は、『太上天皇大行天皇とあるは、元明天皇の御治世の時、これをしるすとて、持統天皇を太上天皇といひ、文武天皇をいま(828)だをくり名奉らぬ程なれば、大行天皇と申にや。しからば持統と文武と共にみゆきせさせたまへるを、紀には行幸をのみしるして御幸をもらし、此集には御幸をのみしるして、行幸をもらせりと意得べきにや』(代匠記初)とも云つてゐる。
 『我王』は、多くの古寫本『我玉』に作る。舊訓ワレタマモトム。類聚古集ワガタマヒロフ。
 一首の意。大和に殘して來た妻のために我は玉(美しい小石・貝の類)を捜し求めてゐる。沖に立つてゐる白浪よ、沖の方にある白玉をば濱べに寄せて呉れ。それをひろつて家づとにしよう。
 この歌の左注にある如く、この歌は、(一六六五)の、爲妹吾玉拾奧邊有玉縁持來奧津白波《イモガタメワレタマヒリフオキベナルタマヨセモチコオキツシラナミ》といふのと少異あるのみである。そしてこの(一六六五)の歌の題詞は、『崗本宮御宇天皇幸2紀伊國1時歌』とあり、舒明天皇か、齊明天皇であるが、さうすれば人麿よりも時代がもつと上るわけであるが、或は、大寶元年の行幸の時のは、この古歌をおぼえてゐてそれを記したのかも知れない。或はこの歌が人麿が作つたものだとすると、崗本宮御宇天皇云々といふ題詞は誤だといふことになるのだが、歌柄から云つて、(一六六五)の方が優れてゐるから、大寶元年の方が寧ろ第二次的だらうと推察せられ、從つて、人麿作ではないだらうといふことになるのである。
 六帖には、『われ玉拾ふ沖べなる白玉ゐてこ』と、(一六六五)とこの歌とどつちつかずのやうになつてをり