齋藤茂吉全集 第十七卷
(1)柿本人麿 三
(3〜29)目次〔省略〕
(1)評釋篇 卷之下
 
(3) 自序
 
 本卷は、「柿本人麿評釋篇」の下半をなし、萬葉集中、柿本朝臣人麿歌集に出づ等と左注せられた歌、柿本朝臣人麿之集歌、柿本朝臣人麿歌集歌曰等といふ題の附けられた歌、その全部を評釋したものである。
 さうして、一般の學説に據る歌數は、長歌二首、短歌三百三十三首、旋頭歌三十五首であるが、それに、石井・武田氏等の考説に據つて増補すると、總計、長歌二首、短歌三百五十三首、旋頭歌三十五首となる。
 本卷評釋のはじめの意圖は、契沖・眞淵以來の説に從つて、人麿歌集には、人麿作以外の歌を多分に含有してゐると看做し、先づその中から人麿作だらうと想像し得るものを引拔いて評釋しようとしたのであつた。そして約二百首あまりの短歌及び旋頭歌を選出して、それを評釋し終つたのは、昭和九年四月であつた。然るにその後、土屋文明氏の奨励により、人麿歌集の歌全部を評釋することとなつたので、閑暇を得つつ増補して行き、その全部の評釋を終へたのは昭和十一(4)年八月であつた。さうしてその評釋した一首一首を萬葉集の卷によつて配列したのが即ち本卷であるから、形式の不同、繁簡の錯落はおのづから免れ得ないところであつた。また、或る歌の評釋が簡單であるから、その歌を輕く評價したといふわけでもなく、却つて最初選んだ歌の方に簡單な評釋が多いといふ傾向もあつたほどである。それは一首一首讀まれる時は明かになるとおもふが、念のために一言を添へた。
 本卷の歌の評釋は、一見容易なるがごとくにして、實際はなかなかそんなものではなかつた。私の學力を以てしては奈何とも爲しがたいものは幾首もあつた。けれども終身未定の慨を保ちつつ到頭評釋の稿を終はつた。而して分からぬものは分からぬとして、先進の諸説を掲げ、不明をば強ひて糊塗せなかつたつもりである。
 人麿歌集の歌は、明かに他人の名の署せられてゐるものはそれを取除けるとして、概ね人麿の作だらうと考へるのは、近時學界の傾向のやうに見える。つまり、契沖・眞淵等が考へたよりも、まだまだ多く、人麿の作が含有せられてゐると考へるのであり、或は殆ど總て(取のけたもの以外)が人麿の作だらうと者へる、と謂つた方が寧ろいいかも知れない。さういふ説のやうに見える。けれども、實際に人麿歌集の歌の一つ一つに當つて、考へ且つ味へるに及んで、自分は必ずしも最近の學界の傾向に直ちに賛同することを躊躇するものである。契沖・眞淵等よりも、なほ(5)積極的に人麿作を認容する過程を歩んで來たのであるが、それでも本卷に於ては、自分はどちらかといへば契沖・眞淵の考の方嚮にむかつて還元しつつある結論を得たのではなからうか。
 本卷は、昭和十一年九月、原稿を印刷所に交附してから、昭和十三年十月校正を終へたまで滿二ケ年の歳月を費した。そのあひだ、原稿校閲及び印刷校正には、柴生田稔・佐藤佐太郎・山口茂吉・鈴木三郎の諸氏の力をわづらはしたことは上卷のごとくであるし、資料について、渡部信・尾形鶴吉・藤森朋夫諸氏の助力をあふぎ、また、現下の事變時に際して、かく立派に發行の出來たのは、岩波書店主岩波茂雄氏の厚意に本づくのであつて、ともに私の甚だ深く感謝するところである。
 なほ、解釋について諸先生の教をあふぎ、また、私の原稿の出來たのち、印刷中、種々の有益な研究論文が公にせられたが、それ等のことは終卷の「雜纂篇」に於て明かにしたいとおもつてゐる。
 なほ、本卷に、宮内省圖書寮御藏の、「柿本人麿集」を全部附載し得ることの御許可にあづかつたことは、私の謹み感謝するところであつて、柿本人麿の歌が或る時代に、かくの如き體裁に取扱はれ、和歌の世界にいかなる位置を占めつつあつたかを知るうへの貴重なる資料である。昭和十三年十一月。齋藤茂吉識。
 
(7) 人麿歌集評釋
 
(9) 柿本朝臣人麿歌集
 
     一
 
 萬葉集の歌の中で、右柿本朝臣人麿歌集出等とある左注と、なほ、題詞として、柿本朝臣人麿歌集歌曰等とある、その書き方の有樣は次の如きものである。
  右×首柿本朝臣人麿(麻呂)之歌(謌)集出
  右×首柿本朝臣人麿之歌集中出
  右×首柿本朝臣人麿歌集出
  以前一百四十九首柿本朝臣人麿之歌集出
  右柿本朝臣人麿(麻呂)之歌集出
  右柿本朝臣人麻呂歌集所出
  右柿本朝臣人麿歌集出
(10)  右柿本朝臣人麿之歌集出也但件一首或本云三方沙彌作
  柿本朝臣人麻呂歌集中出也
  柿本朝臣人麿(麻呂)歌集所出也
  柿本朝臣人麻呂歌集中出見上已記也
  右一首上見柿本朝臣人麿之歌中也但以句句相換故載於茲
  右上見柿本朝臣人麿之歌中但以問答故累載於茲也
  柿本朝臣人麿歌集云(曰)、云々
  又見柿本朝臣人麿歌集然落句少異耳
  柿本朝臣人麿之集歌(題)
  柿本朝臣人麿歌集歌曰(題)
 この中の左注は萬葉集の編纂當時に、同時になされたものか、或は時を置いてなされたものか、いづれかである。そして、左注は連續的に一人のみでなされたのでなく、その左注のあるところは家持の筆と想像せられるところもある(眞淵)から、人麿歌集は萬葉集よりも先に出來てゐたこと、古歌集・笠金村集・高橋蟲麻呂集・類聚歌林などと同樣だと考へられてゐる(顯昭・契沖・眞淵等)。それから、人麿歌集には、人麿の作でない歌も雜つて居り、宴席の歌などを、恐らく人麿(11)が備忘のために記入したやうなものもあるし、或は人麿より後の人が増補したものも雜つて居て、同一人の筆録ではないやうだとも考へられてゐる(長流・契沖・眞淵等)。そして人麿歌集はもとは一本であつたのだらうが、萬葉集の左注をした頃に參考とした人麿歌集は單に一本のみでなく、數種の人麿歌集があつたものの如く、奈良朝の人によつて増補され、書きざまなどもその時樣の唐風になつたものもあるだらうとも考察された(契沖・眞淵・折口)。併し、必ずしもさうでなく、さう數本を假定しなくもいいと考へ、また奈良朝の補訂を否定しようとする論者もある(武田・石井)。そして、人麿歌集は、人麿の歌を多くその内容とし、特に人麿初期の作を含んでゐると考へてゐる(【契沖・眞淵・關谷・岡田・樋口・島木・久松・武田等】)。また人麿歌集の假字の具合が萬葉葉のその他の歌の場合と違つてゐることを夙に注意した。そして、助辭を省いて文字を少くしたのは、寧ろ唐《から》樣で人麿の本心でないとした(契沖・眞淵)。併し共にあまり重きを置かない、否定論者もある(澤瀉・武田・石井)。それから、人麿歌集は人麿或は其近親の者が編纂して、ある機會に其擁護者なる皇族貴族に上つたものらしいとも考へてゐる學説もあり(折口)、また人麿歌集の歌の中には人麿作が變形しても傳はり、或は人麿でない作者の歌が人麿作として言ひ傳へられ、又は人麿作でない民謠的な多くの歌をも含んでゐるやうにおもはれる(土屋、折口等)。萬葉集年表(土屋)の頭注には一々その部分的變化を來した歌を掲げてゐる。
(12) 要するに、人麿歌集中には、從來眞淵等が寧ろ否定的に考へて居つたよりも、もつと多く人麿自身の作を含んで居るらしいと考へる傾向になつた。そして、人麿歌集にある人麿の作は寧ろ人麿青年期の作が多いのではあるまいかと想像されてゐる。それから人麿以外の歌で人麿歌集中にあるものは、人麿に關係のあつた人々、親しんだ女、宴席の歌等を含んでゐるだらうと考へられた。また、民謠風な歌と雖も、人麿がさういふ作歌態度で作つたものだと考へることもまた不可能ではない。
 人麿歌集の地理的分布は大和が一番多く山城近江等がこれに次ぎ(石井)、年代は飛鳥藤原朝のものの如くである(眞淵・石井)。卷十一(二四四〇)に、『近江海』とあるので、眞淵は、『人麻呂は和銅元年の頃藤原宮の時身まかりしかば、その後の人の筆なる事是にて明らけし』(考)と云つたのに對し、石井氏は單に此一例のみでは必ずしもさう斷定は出來ず、『和銅六年五月から公に近江といふ字面が用ひられたにしでも、それより以前にも私には近江といふ字面が用ひられてゐたのかも知れない』(人麻呂集考)と云つて居る。石井氏に據ると必ずしも後人の筆だとは謂へないといふことになるのであるが、武田祐吉博士の説に從つて、卷九(一六六七以下十三首)の歌も人麿歌集の歌とせば、その題詞、『大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首』といふのは、元明天皇の御代の時に記したものと考へられるから、人麿歌集の歌は皆人麿の記したも(13)のとは謂へないのであるが、大體から見て飛鳥藤原時代に出來たものと考へていいのである。
 さういふ具合に考へて來れば、人麿歌集と人麿との關係は、契沖・眞淵時代の考よりももつと密接となり、離るべからざる關係となつた。そこで人麿歌集の歌をば大體人麿自身の作とし、それに、或人々の説の如く、人麿が代作したのだらうといはれてゐる一群の歌をも考慮に入れて、人麿作歌の範圍をば一層擴大して見ることも亦人麿研討の一態度だといふことになるのである。
 人麿歌集に出づと注された萬葉の歌は、【卷二】短歌一首。【卷三】短歌一首。【卷七】短歌三十三首、旋頭歌二十三首。【卷九】短歌四十四首。【卷十】短歌六十八首。【卷十一】旋頭歌十二首、短歌百五十一首。【卷十二】短歌二十九首。【卷十三】長歌二首、短歌一首。【卷十四】短歌五首として、合計長歌二首、短歌三百三十三首、旋頭歌三十五首であるが、それに石井庄司氏考證の卷九の一七一五(【森本氏同説】)、一七一六、一七一七、一七一八、一七一九の短歌五首、武田祐吉氏考證の卷九の一六六七−一六八一の十五首を加へると次の總數となる。
 總計短歌三百五十三首、長歌二首、旋頭歌三十五首である。
 
      二
 
 次に念のため諸家の説を二たび録して參考とする。
(14) 【顯昭】 顯昭の人麿勘文、家集事の條に、『萬葉目録云。柿本朝臣人麿歌。入2八十三首1。此外家集中出之歌三百餘首云々。然者人丸家集者萬葉以前之書歟。萬葉所v入之歌。何皆不v付2作者1而限2八十餘首1乎』云々と書いてゐる。なほ、『諸家集者、或作者自書2集之1、或没後書2集之1、然者人丸集勝寶五年以後他人集v之歟、或又人丸自雖2書集1、於v序者後人追書加歟、是書籍常事也』とも云つてゐる。後の方は、天平勝寶五年春二月、左大臣橘卿之東家で諸卿大夫等が相會したとき、人麿歌集の歌の問答の事に關聯してゐるのだが、萬葉集にはこの事柄が無い。ただ前の方の、『人丸家集は萬葉以前の書か』といふ觀察は、有益な結論だとおもふのである。
 【下河邊長流】 『誰の家集に出たりとあるは、かならずしもその一人の哥にあらず。後の家集のやうにはあらで、當時見きく人の哥、或宴席にて其座につらなれる人の哥など、みな書つらねてもをけるなるべし。人丸家集に出たりとて七夕哥一所に百幾十首を載、東哥の下に人丸家集に出たりと注せる、これらに准して餘をも知るべし。たしかに其人のよめるをば誰が哥とて載たり』(萬葉集鈔)
 【僧契沖】 『先《まづ》、人麿家集に付て云はば、皆慥に人麿の歌ならば第一より第四までの如く名を顯はして載べし。何ぞ第七第十より下四卷の如く作者の名を擧ぬ卷に歌後に右若干首人麿集に出たりと言はむや。〔中略〕第十四に人麿集出と注せる歌五首あり。人麿何ぞ東歌をよまるべきや。(15)第六云、神龜五年戊辰幸2于難波宮1時作歌四首、後注云、右笠朝臣金村之歌中出也、或云車持朝臣千年作v之也、是金村集に他人の歌ある證なれば是に准らふるに、人麿歌集と云はみづからの集にはあらずして、廣く諸人の歌を集められたるなり。然るに此に依て然なりと言はむとすれば又然らざる事あり。其故は第四に、未通女等之袖振山乃《ヲトメラガソデフルヤマノ》と讀れたる人麿の歌を第十一人麿家集出と云中に載たり。又|里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミコヒワビニケリマソカガミオモカゲサラズユメニミニコソ》、此注云、右一首上見(タリ)2柿本朝臣人麿之歌中(ニ)1也、但以2句句相換(ルヲ)1故(ニ)載2於茲(ニ)1。又同卷問答歌云、眉根掻鼻火紐解待八方何時毛將見跡戀來吾乎《マユネカキハナヒヒモトキマタスヤモイツカモミムトコヒコシワレヲ》、此注云、右上見2柿本朝臣人麿之歌中(ニ)1、但以2問答1故、累(テ)載2於茲1也。此等に依れば人麿歌と見えたり。人麿の歌ならむに付ては一首を兩處に載たるも不審なり。再たび載る事あれば、皆其由を注せられたるを、さもなきは草案故に第十一には誤て載られたる歟。後の問答に載たるにも不審殘る事あり。人麿集にも問答あれば、問答の故と云はば彼處にも載すべきを、いかで後の問答には置かれけむ。若《もし》人麿集には答歌なければ答歌ある本に依て再たび載て注せられたる歟。人麿集かくの如く不審なれば他の集此に准らへて知べし』(代匠記精總釋)
 『十五卷に、新羅使の當所誦詠古歌とあるは、多く人丸の歌なり。此事天平八年にて古歌といへば、明らかに人丸はそれより先なるに、彼新羅使がよめる歌を三首まで人丸の歌と載られ、剰もろこしにてよまれたる由さへあるにて其餘をも准らへ知べし。是をも信ずべくば、何をか信ぜざ(16)らむ』(代匠記精總釋〕
 『淡海の海沈著く白玉知らずして戀せしよりは今ぞ益される』(卷十一。二四四五)の、解釋で、『第一第三ニ人丸ノ近江ニテノ歌、近江ヨリ歸リ上ラルル時ノ歌アレバ、近江守ノ屬官ナドニテ彼國ニ有テ見聞ニ任テシルサレタルニヤ』(代匠記精)と云つてゐるが、契沖は人麿歌集中出のこの歌を人麿作と想像し、なほ近江守の屬官であつた時に作つたのだらうとまで想像してゐるのである。
 【賀茂眞淵】 『【前略】然るに其人麻呂歌集に標せる、正述心緒・寄物陳思・問答などは此卷にも皆あり。是一つ卷ならば重ねて標すべからず。又其人麻呂歌集に既に出たる同歌の末に再出たるも少からず。これら別の集なる事しるし。其上、人麻呂歌集は歌の助辭を皆略きて、此集とは甚異なる書體なり。同時一筆にあらぬ事明かなり。然れば、人麻呂集は後に此卷へ加はれる事しるかれば、本卷は除きて末に附たり。○古歌集、人麻呂集は、この萬葉を撰集あられしより先の事にあれど、此集を撰まるる時はいまだ世に聞えざりし故に萬葉にはとられぬなるべし。【【頭注】たまたま此萬葉に、この集の歌を載しは、かつかつ世の人の唱へしが入しなり。此萬葉どもに人麻呂歌の出たるにても此集の時いまだ聞えざりし事しるし】此二集既あらば、取もらすべからぬ歌ども多きを、撰にもれたるにてしるし。人麻呂は和銅の初めに身まかりしこと、是一の別記にいへるが如し。此集の撰は天平のなかばの比ならんとおぼゆる事、此卷の歌によし有、かかれば其間三(17)十年ばかりまでほどなければなり。古歌集は又かたへの人集めしにて、いと後にこそ顯はれつらめ。かかればその物古しといへども、此集の上に出すべからねば、ことに先此集をたてていふからに、かのかたへなるをば末に付て世に遺せり』『正述心緒、寄物陳思、問答等は、かの人麻呂集を後に私に書し人、から歌めきて書、且其歌體を分て、右の標をも書しものなり。然れば此人麻呂葉には在が如く標題をも擧たり。今本此集にも此標有は後にかの人麻呂集にならひしわざなる事既にもいへる如くなれば除つ。其人麻呂集の本は、かくの如く助辭を略きて詩體にならふさまに書べきにあらず。人麻呂は大き力なる人と見ゆるに、其歌に一事もから言を用ゐざりしなり。かかる心にて歌は詩體をまねん事必有べからず。ただ奈良人の中にも、ひとへにかかる好みする人のわざとこそ見ゆれ。其よしは下の寄物陳思てふ中に近江國と書たり。是は和銅六年五月詔して、諸國郡郷の名、好字を用よと有し時より、淡海を近江に改めしなり。人麻呂は和銅元年の比、藤原宮の時身まかりしかば、その後の人の筆なる事是にて明らけし。【【頭注】人まろ集の書體、人麻呂の心にあらず。まして標題もしかり。本集をもて奈良人の私にかく樣に書しものなり】』(【柿本朝臣人麻呂歌集之歌考序】)
 處女等を袖振山のの歌(卷十一。二四一五)の條に、『此歌は人麻呂の歌の調まがふ事なし。然れば(卷十三)に、柿本朝臣人麻呂とて載たる如く、ここも人麻呂の自歌などを家集に古歌と書まじ(18)へて書しものなり。後の家持などは、各其名を注せしを、古はさもせざりけん。然らば此人麻呂集といふ中に自歌も多かりなん。心をつけて見るべき事なり。【【頭注】書體に依るに是は人麻呂集の一本なり〔四字右○〕』○垂乳根の母が手放れの歌(卷十一。二三六八)の前に、『是より下百五十一首は人麻呂歌集の歌なり。此歌集の歌、ここと次の卷七【今十】、八【今七】にも多し。其書體助辭を不書して、字數甚少く書なせしと、又常體に助辭をも書しと交りてあり。然れば同人麻呂歌集二本有しを、ここには其助辭不書を擧たるに、後人一本の常さまなる中に、ここと異なる歌あるを見出て、是へ書加へしもあるなり。仍てこの中に助辭かきし歌十八首交れり。卷七卷八には右二體を擧て、共に同歌集出と注せしにで知るべし』(【柿本朝臣人麻呂歌集之歌考】)
 眞淵は、なほ萬葉新採百首解・萬葉考等に於て折に觸れて人麿歌集に言及して居るからその一部を抄する。○卷之十春雜歌のところで、『歌の左にいはく、右柿本人麻呂歌集に出と書て、古の家の集てふは、古今の人の歌を書集めたるが中に、自分のをも書くはへけるなりけり。且みづからよめるには多くおもてに名をしるし、古歌はたよみ人のしられたるには、表にしるせしなるべし。よりて人麻呂のよめるとしるしたる歌ならぬは、他人《アダシヒト》の歌なり。されば此歌は人麻呂の歌ならぬをもおもふべし。且歌の左に書たる詞はたまたま家持卿の筆と見ゆるもあり。また憶良大夫などの家集も交りつれば作者の自注もありけり』云々。○久方の天の香具山此夕の歌(卷十。一八(19)一二)の條に、『さて人麻呂の書つめおかること、歌のすがた、此山をしも見たるなどを思ふに、飛鳥藤原のみやこの頃によめる歌なり』云々。○卷之九、獻2弓削皇子1歌三首(一七〇一・一七〇二・一七〇三)の中の條に、『此下にもこの皇子に奉るてふ歌あり。それが左に、人麻呂家集に出と注せり。然れば今は讀人しられずと書るも、猶歌のさまは人麻呂歌集めきたり。弓削皇子は天武天皇の皇子にて、舍人皇子の異母の御兄にておはせり。然ば其御時にある人の家集に、かく獻歌と書たるしるべし。是萬葉に撰《エラミ》しものならぬ書《カキ》ざまなり』○卷之十、詠2黄葉1。八田《やた》の野《ぬ》の淺茅《あさぢ》いろづくの歌(二三三一)の條に、『此歌を人麻呂のよめりと定たる人あり。此十の卷は皆讀人しらぬを類とせるを見ざるにや。されど所々に人丸家集に出と注せるも侍れど、上下の歌を參《アハセ》考るに、此歌も左《サ》ともみえず、家集にいでたりともそは人丸の自詠とも定めがたきこと前にいへるがごとし』○卷之十一、寄v物陳v思の、足曳の山鳥の尾のの歌(二八〇二)の前に、『かく題を擧て、數十首の後に此歌あり。さて此卷是より上に人丸家集中に出てふこと二所注して後にあれば、其家集の歌にはあらざる家集に出と有語々、其人のよめるにもあらぬを、まして人丸のとおもへるは萬葉を見ぬ人のわざなり』(以上新採百首解)
 萬葉卷四【卷十一】考の相見ては千歳やいぬるの歌(二五三九)の條に、『此歌(卷六【卷十四】)東歌の末に有て、其所の左の古注に、柿本朝臣人麻呂歌集に出也と云り。かくて歌の體東歌なり。人麻呂集に(20)も此上下の卷にも、東歌なるべきが侍りしも間々あり。然るをここをばいはで、人麻呂集に出と注せしは見落せしか。又本ここには無かりしを、人麻呂集よりまぎれ入しにや』○萬葉卷四【卷十一】考の序に、『二卷の初めに、今本には柿本人麻呂歌集の歌、古歌集中の歌あるは、いと後に加へし事しるければ、除て別卷として下の他《アダシ》歌集どもの初めに置けり。かく爲は三つの據あり。一つには人麻呂歌集の書體助辭を皆略き文字甚少くして、から歌ざまになしたれば、惣て萬葉の體と異にて、此卷の同筆にあらざるなり。二つには其人麻呂集に擧たる歌此四五の卷に再のれるあり。同卷ならばかからんや。三つには、集中に古歌の異を注せるに他書はもとより此前後の歌をも或云一云など書しを、人麻呂集をば皆柿本云々と注せしは此集の中ならぬゆゑなり。かかれば此卷七より下の歌集どもよりもいと後に得て此作者なき卷に添しものなり』『此上下の卷の今本に正述心緒寄物陳思問答※[覊の馬が奇]旅譬喩などの標あるは、人麻呂集の加はりて後の人彼集によりて注せし物なり。故今みな除つ。凡此卷の歌甚多故に其類を以てのせし樣は人麻呂集と相似たれば好事の此上下卷にも標を加へしなり。古今歌集もことに戀部は類をあつめしにその所々に標なきは公の御集にてやまとぶりなり。彼人麻呂集も本さる標はなかりけんを奈良人のから歌めきて書なせし歌ぞ書けん。人麻呂の歌はから天竺の事をもてせず、今の古事古言のみして世に及ぶ人なくとりなしし心高き才のたくましさにて、歌集をば他國ぶりをまねぶ如きひくく戯けなる事をせんや。い(21)よよさかしら人のわざと知るべし』(以上萬葉考)
 【岸本由豆流】 大寶元年辛丑幸2于紀伊國1時見2結松1歌一首(卷二。一四六)につき、『もとより作者不v知歌にてもあるべし。元暦本、ここに小字にて柿本朝臣人麿歌集中出也の十一字あり。集中の例、左注にあぐべきなれば、ここにはとらず』(攷證)といひ、三吉野之御船乃山爾(卷三。二四四)の左注、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』について、『この左注は非也。右の御歌のやうを考ふるに、吉野宮にあそび給ひしにて、春日王と贈答のさまなど思ふ、皇子の御歌ならで、人麿の歌なるべきいはれなし』(攷證)と云つて居る。
 
      三
 
 【武田祐吉氏】 『人麻呂集から出た歌に萬葉集の編者が假字を補つた形跡は認められるにしても、題詞ある部分は人麻呂の稿本で、題詞なき部分は後人の集成分類と見られるから、別の二本であるかも知れず、また正編と補遺との關係であるかも知れない』(上代國文學の研究)
 【石井庄司氏】 『現存萬葉集に現はれてゐる人麻呂集の種々なる状態を以て直ちに人麻呂集に種々なる異本のあつたことを推定するのは早計であらうと思ふ。人麻呂集のかやうな状態の相違は、むしろ萬葉集に採録される際に生じたものではなからうか。萬葉集を統一ある成書と考へな(22)い、一般の意見に從へばこの方が、一層無理のない考へ方ではなからうか』『尤も年代の知り得る僅かのものについてだけではあるが、人麻呂集の包含する歌の年代が、飛鳥藤原時代だけに限られてゐるといふことは注目すべきことである』人麻呂集に現はれた地理的分布は、『大和國が最も多く三十箇所に及び、山城、近江、紀伊が比較的多く、次は攝津、和泉等一ケ所のみである。【中略】さすれば地理的分布の上から見ても、人麻呂集は大體飛鳥藤原時代を中心とするものであることが分ると思ふ』人麻呂集の助辭を略した書法を、『唐好みと云はば云はるべき事どもは、あながち天平人を俟つまでもなく、遙か以前からあつたことを思ふ時、人麻呂集の漢語の字面、或は助辭を略して簡古に記されてゐることが、直ちに天平人のしわざと斷ずることは早計であらうと思ふ』『吾々は、人麻呂集の歌がほぼ人麻呂作歌と時代を同じくし、且つ多くの點に於いて密接な關係のあることを知り得たのである。しかし人麻呂集の中には、恐らく多くの他人の作をもまじへてゐることであらう。例へば人麻呂集中、「君」、「公」、「伎美」等を用ひ、一首の上から見ても、女性の作と思はれるものが、總數三十七首ある。尚、「背兒」等の言葉を用ひ又詠歌の材料等に女性の作と思はれるものが若干ある。之等は古歌か或は人麻呂關係の女性の作と見られる。まだこの外にも、人麻呂に直接間接影響を與へた先輩或は同時代の人々の作も入つてゐよう。また人麻呂が影響を與へた同時代の人の作も入つてゐよう。尚又、人麻呂自身の作の習作或は傳誦されたもの(23)も入つてゐよう。之は既に先人の言ひ盡したところである。さもあれ、吾々はこの人麻呂集に於いて、人麻呂の先輩、後輩の姿と人麻呂自身の自由なる歌の姿とを見ることが出來ると思ふ。これ、人麻呂の本質を究めんとする時、最も重要なる資料とすることの出來る所以である。しかしこの事は無批判に人麻呂集をとり入れて人麻呂作とすることとは全然異る立場であることを明言しておかねばならない』(【人麻呂集考、國語國文の研究二十二號、昭和三年六月】)
 【澤瀉久孝氏】 『要するにこの集二十卷をまとめた人は家持であると思ふが、その家持が既成未成の撰集家集などを二十卷によせ集めた時、すべては出來る丈原本の體裁を尊重したのではないかと考へられる。それは卷七、十、十一、十二などに散在してゐる人麻呂集の書式が、多少の相異はあるにしても、同じ卷の他の歌とは全然異つた書式である事や、また卷十六の竹取翁の歌が特に目に立つ用字法によつてゐる事などを以ても推し得られると思ふ』『作者の明な作には、筆録者のたはむれが加はつてゐないといふ例に卷一二を擧げよう。この卷は古い撰ではあるが、戯書はただ一種「神樂」とその略「樂」があるのみである。しかもそのうち、「樂」の使用者は人麻呂と黒人とであつて、この二人の作には假字書或は「樂」の字以外には、「神樂聲」も、「神樂」も用ゐられてゐない事は、やはり原作者の用字法をそのまま傳へたものではなからうか』(【戯書について、國語國文の研究二十二號、昭和三年六月】)
(24) 【土屋文明氏】 土屋氏は、人麿歌集の歌について考察し、人麿の作と人麿歌集の作との辭句の異同にも細心の用意を拂つてゐる。今その主要の文を抽出する。天平八年夏六月新羅國派遣の使等が歌つた歌があり、その中に當所誦詠の古歌といふのがあり、その中の五首は人麿の歌と若干の異同があるもののみである。『笥飯の海を武庫の海にかへた如きは誤といふよりは寧、遠い地名を詠みこんだ歌をば、地名をかへることによつて現前の景色に適合させようとする傳誦者の意圖が明に見えて居るといへよう。いはば誦詠者の心には極く微ではあるが創作者としての心意が動いて居るのである』『人麿作の歌の若干が變形を受けて人麿歌集と稱するもののうちに入つて居たことを推測することは出來るやうに思ふ。その變形は何によつて生じたか。これは恐らくは前述天平八年に遣新羅使人等が所に當つて人麿の歌を誦詠した場合に生じた詞句の異同に準じて考へてよいものではあるまいか。卷一卷二等に載せられた人麿作の歌に、一云又は或本歌等の形式で示された詞句の異同の甚だ多いことも、早くから有名になつた人麿の歌が傳誦される機會多く、從て詞句の異傳も多くなつたと解してよいやうに思ふ。尚推測を許されるならば、多くの人々の云ふ如くに、人麿歌集には人麿作の歌の若干が含まれて居るとしても、それ等の人麿作といふものは多少は前述の如き變形を受けて人麿歌集中に存するのではあるまいか』『人麿歌集の歌の大部分はやはり原作者といふものを認め難い民謠の類で、その點では他の古今相聞往來歌と餘(25)り變つて居ない。ただ人麿歌集所出の方は比較的佳作が多い位のものででもあらうか。この佳作の多いといふことも、人麿が有名であつたから、民謠中割合に感銘強いものが次第次第に人麿作に歸せしめられたと考へれば考へられると思ふ』『人麿歌集所出の歌のうちで人麿の作に由來するものは可なりの程度に人麿原作の風貌を保存して居るものもあると推測してよいのではあるまいか』云々。(【人麿歌集の歌、國文教育第六卷第二號、昭和三年二月】)
 【武田祐吉氏】 武田博士の「柿本人麻呂の作品の傳來」(【アララギ第二十四卷第一・三・六號、昭和六年一月−六月。國文學研究、萬葉集篇收】)に人麿歌集について言及せられてゐるから、その主要部分を次に抽出する。『題詞に人麻呂作歌とあるものが、いかなる資料によつて萬葉集に編入せられてゐるかは問題である。まづ第一に注意せられることは、これらの歌が或る本による詞句の相違を有するものの多いことである。すなはち數個の傳來を有してゐたと認められることである』『而して實に考ふべきことは、單に或る本の歌のみに止まらず、題詞に人麻呂作歌とあるもの自身も、或は人麻呂歌集を資料としてゐるものがありはしないかといふ問題である。人麻呂歌集を或る本として扱つてゐるのによれば、主文を成してゐる歌は、人麻呂歌集ならぬ資料より採取せられたかとも考へられる。しかし吾人はなほよく調査して見ねばならぬ』『これ【二八〇八、二四〇八】契沖の云へる如く、人麻呂歌集所出の歌を、人麻呂が歌と云へるもので、萬葉集の編者は、人麻呂歌集の歌を、人麻呂の作と解してゐたと見なすべき機會(26)である』『しかるに、題詞に人麻呂作歌とあるもののうちにも、女子の作附【四九八・四九九】と認むべきものがありとすれば、題詞に人麻呂作歌とあるものと、人麻呂歌集所出の歌とは、この點に於いて同じ性質のものと見なすべきではないか』『題詞に人麻呂作歌とあるものは、いづれ何らかの資料に依つたには違あるまいが、その資料としての素質は、人麻呂歌集の資料としての素質よりも確實であると見なしてもよい。しかしその一部分が人麻呂歌集を資料としてゐなかつたとは斷ぜられない』『人麻呂歌集所出の歌が、少い字數で書かれてゐることは、既に契沖眞淵等の古人の注意するところであつた。しかもその字數は卷によつて必しも一致しない』『以上二氏【石井庄司氏澤瀉久孝氏】の研究によつて確められたことは、題詞に人麻呂の作とあるものと、人麻呂集所出の歌とには共通したしかも他には見えない特殊の用字法があるといふことである』云々。
 【久松潜一氏】 『萬葉集の中から人麿に關する材料をさぐるに當つて、人麿の歌としてのつて居るものと、人麿歌集として載るものとがある。更に分ければ人麿の歌といふものにも種々の記載法があるが、大きくわければ以上の二である。さうして人麿歌集の歌を人麿の歌として認めるか如何かは、人麿歌集たるものの嚴密な考察を經なければならない。【中略】人麿歌集の歌が卷一、二の人麿の歌に比して、熱烈であり、同じ戀愛をうたつても、はばかつた追憶的な戀でなく、積極的な戀愛をうたつて居るのは、その若い時代の作であるためと思ふ。【中略】その強い若々しい熱情が(27)そのままに現れて居る所から見ても、人麿の初期の歌とするにふさはしいのである』(【柿本人麿、短歌講座第七卷、昭和六年十二月】)
 【澤瀉久孝氏】 『これらの作品をすべて人麻呂の作と斷ずる事は出來ないが、既に本講座人麻呂評傳中に久松氏が述べられてゐるやうに、その多くは人麻呂自身の作と見てよいかと思ふ』(【人麻呂歌集講話、短歌講座第六卷、昭和七年三月】)
 【森本治吉氏】 森本氏は、人麿歌集はもと人麿自撰の集で、自作以外に周圍の作並びに民謠の類までをも集めて置いたものらしく、これに武田説の如く後人の増補をも認め得る、さうすれば人麿歌集に二本の存在を考へる必要を見ないといひ、人麻呂作と明記したものに長歌が多いのに人麿歌集には長歌が三首しかないこと、人麿作と明記したものに旋頭歌がないのに人麿歌集には旋頭歌が三十五首もあること等を、人麿のみの作と思はれぬ理由の中に擧げてゐる。(【柿本朝臣人麿之歌集、日本文學大辭典一、昭和七年六月】)
 【折口信夫氏】 『大體において、定本と見るべき一種があつて其他に尚幾種類か異本があつたと考へる方が穩當らしく思はれる。つまり諸家採集する所の歌數は勿論、一部の詞句の出入りがあつたものと見る方がよい』『確かに言ふ事の出來るのは、人麻呂の作物以外のものをも含んでゐることである。誤解・錯亂を除けば、恐らく人麻呂と多少の交渉のあつた人々の作を含んだので(28)あらう。作者未詳の作物・民謠(東歌)・異體歌(旋頭歌など)・物題歌(寄物・詠物・七夕歌)・作者既知(卷九、羈旅歌)等の種類を含んだところから見れば、人麻呂集の外の、笠金村集・高橋蟲麻呂集・田邊福麻呂集などにも、共通の事實としてさうしたことが考へられる』(【柿本人麻呂、萬葉集講座第一卷、昭和八年二月】)
 
      四
 
 諸説の大體は右の如くである。人麿歌集に對する觀點に就いて、土屋文明氏は、『少くとも人麿歌集は人麿の作歌のみではないことだけは明かなる現在に於ては、人麿歌集をば、むしろ人麿の作品とは切離して考へるのが便利且安全であらうと思ふ。人麿歌集中から人麿の作らしき歌を引拔くといふことも可能であり、興味ある一つの仕事ではあらう。しかしながらこれよりは、確實に人麿と傳へられて居る作に對する十分なる研究と理解とが先決問題として必要であらう。また人麿歌集中に在つて、人麿の作歌がいかに轉訛されて居るかといふことも興味ある問題ではあるが、これは作者としての人麿そのものの研究には縁がうすい。また人麿歌集が他の民謠、作者未詳の歌にいかに關係するかといふことも人麿研究とは縁の遠いことであらう。それらの點を考へると、人麿研究と人麿歌集研究とは是非共別個なものとして考へざるを得なくなつて來る』(【萬葉集講座第一卷】)と云つて居る。
(29) 私は土屋氏のこの説に從ひ、先づ人麿作と明記されて居る歌を一纏めにしてその評釋を作り、人麿歌集出といふものと別にしたのであるが、私は引續き、人麿歌集中の注意すべき歌若干首を拔いて、その評釋を作つた。拔いた歌の中には人麿作と看做して疑の起らぬやうなものもあり、また人麿作としては疑はしいやうなものもある。人麿作らしくないものの中には、前賢が既に人麿の作でないと喝破したものも幾つかある筈である。さういふことは一首一首の中に簡單に述べて置いた。私の人麿に關する叙述は既に大分の想像を交へてゐるのだから、この人麿歌集の選鈔の如きも時に放肆な想像の混入することがあるかも知れない。これは嚴格な學者の態度では許すべからざることだけれども、資料根據の悉皆無な歌に對するこの恣な想像も、時に許されるべきものがあるかと思ふ。【次いで私は選鈔に漏れた人麿歌集出の歌全部を評釋し、萬葉所載の順序に配列整理したのであつた。】
 私等の人麿歌集に對する攝取した學説としては、眞淵等の、『いたく亂りたる』歌集だといふのが脱却し得ぬので、縱ひ、眞淵の文中に、『然らば人麻呂集といふ中に自歌も多かりなん』といふのがあつても、やはり夾雜物の多いもののやうな氣がして、學説としては人麿歌集の歌は人麿作が大部分だといふことは云ひ得ないのであつた。
 然るに、人麿歌集出といふ萬葉の歌を讀んで見ると、ほかの人麿作と明記されてゐるものに彷彿するものもあり、よつて内心では其等を人麿作として鑑賞しつつ來つたものであり、中には思(30)切つて、人麿作として公表したこともあつた。例へば、卷七(一〇八八)の、足引之山河之瀬之響苗爾弓月高雲立渡《アシヒキノヤマガハノセノナルナベニユツキガタケニクモタチワタル》の如きは、先師は人麿歌集出だが、作者不詳のものとして私等に傳へた秀歌なのであつたが、大正二年七月に、雜誌アララギ(【第六卷第六號】)に萬葉短歌鈔を作つたとき、私は此歌と、同卷(一一〇一)の、黒玉之夜去來者卷向之川音高之母荒足鴨疾《ヌバタマノヨルサリクレバマキムクノカハトタカシモアラシカモトキ》とを書いて、柿本人麿の歌として愚見を書いて居る。その頃の萬葉集に關する知識は極めて覺束ないものであつたが、人麿歌集の歌についてはそのころから人麿作として味ふ傾向を持つてゐた。それが跡を引いて現在に及んでゐるのであらう。ゆゑに評釋中にもこの傾向が暴露せられて居るに相違ないとおもふが、其が、武田・石井・澤瀉諸氏の學問的結論と合致するなら甚だ幸だとおもふのである。
 それから、總論篇で人麿の歌を論じたとき、人麿の歌には、年齡的に、變化と進歩の跡が瞭然としないのは、そのころには既に力量が圓熟してしまつたためであつただらうといふことを云つて置いた。そしてまた、人麿歌集中には人麿の初期の作が多くあるのではあるまいかといふことも云つた。そんなら、その人麿歌集中にあるやうな、人麿初期の作と考へられるものと、人麿作と明記されてある比較的後期の作との間にどういふ差別が認め得られるかといふことは興味ある問題でもあり、また大切な問題でもあるが、さて人麿歌集の歌に一首一首當つて見ると、なかなか巧妙なものが多く、決してたどたどしい初學の作のやうなものでないことが分かる。ただ、人(31)麿作と明記せられてゐる歌に較べて、全體として輕く、沈痛切實の度が尠いのである。これが人麿作なら、どうして人麿がかういふ輕く安易なものを作つただらうかと思はしめるものが多いのである。そこで、前に人麿の歌の實質といふものに就いて少しく體得した私等は、さういふ輕いものをば人麿作として認容することを好まないのである。如上の言はただ主觀に淫して放肆至極のやうだが、或は却つて客觀的に當つて居るかも知れないのである。
 それから、人麿の比較的初期の作と想像せられる人麿歌集出の歌でも、既にかく巧妙で達者の風格を示してゐるのだから、人麿作と明記されて居る一群の歌との間に、一見『變化・進歩』の過程が瞭然としてゐないやうに見えるにも拘はらず、私は、人麿歌集中の多くの歌と、人麿作と明記されたものとの間に一つの『變化』を認め、『進歩』を認めようとしてゐるものである。
 若い人麿は既に天分を發揮して、樂々と種々の歌を作つた。その中には戀愛を基調とした民謠風の歌もあらうし、牽牛織女を題材とした一群の歌もあらうし、なほ心の働きの細かいものには寄v物といふ一群の民謠的戀愛歌もあり、材料的に智慧の働を示した旋頭歌のやうなものもあるわけである。さういふ人麿歌集中のものを人麿の比較的早期の作だと極めれば、人麿作と明記されてゐる比較的後期の歌は、さういふ人麿歌集の歌に比して、重厚で切實で力強いものである。そしてこの差別は何處から來るかといふに、作歌の態度から來る、心構へから來ると私は解釋す(32)るのである。そしてこの差別は、實に非常な差別であるから、つまりは歌風の『變化』といふことになり、私はこれを一つの大きい『進歩』だと解釋するのである。よつて、人麿生涯の歌風を通觀して、人麿歌集をも勘定に入れれば、多くの偉大な藝術家に見ると同樣、正しき變化と、大きい進歩をして居たといふ結論に達するのである。
 また、右の結論と關聯して、人麿作と明記しある歌でも、日並皇子尊殯宮之時作歌の如きは、人麿二十七歳位の時の作と私が想像したほどで、決して晩期の作ではない。過2近江荒都1時の歌でも、天皇御2遊雷岳1之時の歌でも、幸2于吉野宮1之時の歌でもまたさうである。然るに此等の比較的初期の人麿作歌と、人麿歌集出の歌とを比較するに、やはり大觀して、人麿歌集の歌の方が輕易に響くのである。そして此はその作歌の態度、表現の態度によつて違ひ、即ち全力的態度と、安易的態度とによつて違ふものとすれば、必ずしも年齡的年次的でなく、その作歌時に於ける態度として同時的にも考察の出來る問題である。ゆゑに若し人麿歌集中のさういふ安易的な歌も等しく人麿作だとせば、作歌の態度について顧慮しようとしてゐる私等にとつて却つて有益なる資料だといふことにもなるのである。
 
     參考文献
  顯昭    人麿勘文(群書類從所收)
(33)  下河邊長流    萬葉集鈔(長流全集所收)
  僧契沖   萬葉集代匠記
  賀茂眞淵  柿本朝臣人麻呂歌集之歌考、萬葉考、萬葉新採百首解(眞淵全集所收)
  關谷眞可禰 人麿考
  樋口功   人麿と其歌
  島木赤彦  萬葉集の鑑賞及び其批評
  武田祐吉  上代國文學の研究
  土屋文明  人麿歌集の歌(國文教育、昭和三年二月)
  石井庄司  人麻呂集考(國語國文の研究二十二號、昭和三年六月)
  澤瀉久孝  戯書について(國語國文の研究二十二號、昭和三年六月)
  森本治吉  萬葉卷九考(國語と國文學、昭和三年十一月十二月)
  石井庄司  人麻呂集再考(國語國文の研究三十號、昭和四年二月)
  武田祐吉  柿本人麻呂作品の傳來(アララギ第二十四卷、昭和六年。國文學研究萬葉集篇、昭和九年)
  久松潜一  柿本人麿(短歌講座第七卷、昭和六年十二月)
  澤瀉久孝  人麻呂歌集講話(短歌講座第六卷、昭和七年三月)
  折口信夫  柿本人麻呂(萬葉集講座第一卷、昭和八年二月)
(34)  土屋文明  柿本人麿(萬葉集講座第一卷、昭和八年二月)
               ――以上昭和九年四月――
 
      五
 
 人麿歌集の書體に特色があつて、助詞を省略して、極めて簡單に書いたのが可なりある。そこで眞淵は、『人麻呂歌集は歌の助辭を皆略きて此集とは甚異なる書體なり、同時一筆にあらぬ事明かなり』『人まろ集の書體、人麻呂の心にあらず、まして標題もしかり。本集をもて奈良人の私にかく樣に書しものなり』(【柿本朝臣人麻呂歌集之考序】)といつて、かういふ書體は奈良人の後筆に成つたものとしたが、その以前に、契沖は、『又第十一ノ人麿家集ノ歌百四十九首ハ簡古ニカカレタリ。是ハ彼集ノママニ寫サレタリケルニヤ』(代匠記精)と云つて、原本の書體を認容する口吻を漏らしてゐるが、近時、澤瀉・石井・武田氏等諸學者の考察によつて、この書體も、原作者(人麿)の用字法を傳へたものではなからうかといふやうになつた。
 果してさうならば、なぜ斯う助詞等を省いて簡潔に書いたかといふに、これは作者(人麿)自身の覺えのための、手控の如きものであつたために、簡單に漢字だけ並べても役に立つたものと見える。そしてその中に、助詞を書いたのもあり、また卷九の他人の歌などには相當に助詞を加(35)へてあるのは、自分の歌よりも他人の歌の方は備忘のためには稍丁寧に取扱ふ傾があるのであらう。
 人麿作と明記あるもので、獻つた歌は相當に助詞を書いてあるのは、作者一人のためのみでなく、他の人々に示すのであるから、讀み易からしめむがための用意があつたものかも知れず、或は他人が幾らか直したところなどもあるのかも知れない。卷一(四八)にある、東野炎立所見而反見爲者月西渡《ヒムガシノヌニカギロヒノタツミエテカヘリミスレバツキカタブキヌ》の書體の簡潔なのは、前の傾向が殘留してゐることを認め得べく、寧ろ人麿歌集的な書體であることは、夙く關谷眞可禰氏の云つたごとくである(人麿考)。さすれば、人麿作と明記された歌と、人麿歌集にある歌とが、同一作者のものだといふ聯鎖がなほ密接することとなつたわけである。
   是量 戀物 知者 遠可見 有物 (卷十一。二三七二)
   見度 近渡乎 囘 今哉來座 戀居 (卷十一。二三七九)
   年切 及世定 恃 公依 事繁 (卷十一。二三九八)
   玉久世 清河原 身祓爲 齋命 妹爲 (卷十一。二四〇三)
   思依 見依物 有 一日間 忘念 (卷十一。二四〇四)
   遠山 霞被 益遐 妹目不見 吾戀 (卷十一。二四二六)
(36)  白玉 從手纏 不忘 念 何畢 (卷十一。二四四七)
  春楊 葛山 發雲 立座 妹念 (卷十一。二四五三)
  久方 天光月 隱去 何名副 妹偲 (卷十一。二四六三)
  玉桙 路往占 々相 妹逢 我謂 (卷十一。二五〇七)
  敷細布 枕人 事問哉 其枕 苔生負爲 (卷十山。二五一六)
  豐州 聞濱松 心哀 何妹 相云始 (卷十二。三一三〇)
 かういふ簡潔な書體のものでも、これはこれで大體訓めるものが多いから、作者自身ならばなほ更訓める訣である。そして訓むのに少し注意を要する箇處には矢張り、『哉』とか、『者』の如き助詞を加へて、比較的自由な態度なのに注意すれば、やはり原作者の書體を傳へたもので手控のためのものであつただらうといふ推測もまた成立つのである。
 そのほか、用字に就いて、霏※[雨/微]、灼然、三更、金風、白風、懇懃、惻隱などがあるから、後人が書きかへたのだらうといふ想像もあるのであるが、人麿の歌には、既に評釋したごとく、鬱悒、光儀、髣髴、侍侯、遣悶、猶豫、迷惑等の用字もあるのであり、人麿自身が既にさう用ゐただらうといふことは推するに難くはない。そこで人麿が斯く漢文が出來たから、歸化族と關係がなからうか等と聯想するのであるが、此は當時既に常識化せられつつある漢字使用の雰圍氣内に人麿(37)も居たと解釋すれば、聯想が其處まで奔逸しなくとも濟むことになるのである。
 
      六
 
 人麿歌集の歌は、皆、原作その儘であるか否かといふ問題、また人麿作と明記されたものと、人麿歌集の歌との相違はどう解釋すべきか等の問題もある。
   古爾有兼人毛如吾歟妹爾戀乍宿不勝家牟《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカイモニコヒツツイネガテズケム》 (卷四。四九七。人麿)
 
   古爾有險人母如吾等架彌和乃檜原爾插頭折兼《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカミワノヒハラニカザシヲリケム》 (卷七。一一一八。人麿歌集〕
   未通女等之袖振山乃水垣之久時從憶寸吾者《ヲトメラガゾデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒキワレハ》 (卷四。五〇一。人麿)
   處女等乎袖振山水垣久時由念來吾等者《ヲトメラヲゾデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒケリワレハ》 (卷十一。二四一五。人麿歌集)
 はじめの卷四の歌は、感情が自然だが平凡であり、卷七のは具體的に云つてゐて細かい。歌としては卷七の方が面白いけれども、どれが原作か不明であり、兩方とも人麿作であることもまた絶待に否定することが出來ない。『三輪の檜原』も人麿に關係ある處であり、從つて人麿作であることも可能であり、また卷四は後の歌が多いから、却つて卷四の歌の方が卷七の歌の變形でもあり得るのである。よつて人麿歌集の歌の方が原作であることもまた絶待には否定し得ない。その次の二首も、卷十一の方の結句は一音餘つてゐるが、卷四の方は一音餘らず、口調が好い。そこ(38)で歌として味ふ時には、自分は卷四の方を好むけれども、前にも云つた如く、卷四の歌は時代的には後だから、或は卷十一の方が原歌であるのかも知れない。そして人麿歌集の方は此處では二つとも吾に『等』の字があり、卷四の方は二つとも『等』の字が無いのを顧慮すれば、卷四の方は却つて手を加へたのではあるまいかなどといふ想像もまた成立つのである。
   青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類《アヲゴマノアガキヲハヤミクモヰニゾイモガアタリヲスギテキニケル》 (卷二。一三六。人麿)
   赤駒之足我枳速者雲居爾毛隱往序袖卷吾妹《アカゴマノアガキハヤケバクモヰニモカクリユカムゾソデマケワギモ》 (卷十一。二五一〇。人麿歌集)
 
   青駒之足掻乎速雲居曾妹之當者隱來計留《アヲゴマノアガキヲハヤミクモヰニゾイモガアタリハカクリキニケル》 (卷二。一三六。一云)
 卷二の歌は、人麿ので間違はなからう。そして卷十一のはそれに似てゐるが、これは同一歌の異傳ではなくて、別々に作つたものであらう。そして似てゐるのは、同一作者であるから、その手法の『傾向』の連續性があつて似るものと解釋すべく、それゆゑ、卷二の一云の、『妹があたりは隱り來にける』の句も、出鱈目の異傳ではなくて、卷十一の、『雲居にも隱りゆかむぞ』の句を參考すれば、一度は或は人麿もさういふ句として作つたのかも知れないなどとも想像し得るのである。
 さういふことを種々考へ合せれば、萬葉集で、『一云』と云つて一々書いて呉れてゐるのは、誠に精到な態度と云はねばならぬ。『隱り來にける』は、句の價値として甚だ劣るけれども、それが(39)鑑賞上却つていい參考となるのである。卷十四(三四四一)の場合でも、『麻等保久能《マドホクノ》』と、『等保久之※[氏/一]《トホクシテ》』との差、『安由賣安我古麻《アユメアガゴマ》』と、『安由賣久路古麻《アユメクロコマ》』との差といふことになつて、好參考となるのだが、それは佳句の方を探つて、他を從屬的參考句とし、その方が流傳の際の惡い意味の變化と考へればいいのである。もつともその善い意味、惡い意味といふことは、主觀的な判斷に屬し、眞淵の如き眼力を有してゐるものでも、『一云』の方を採用して鑑賞した場合が可なりあることは評釋中に明かであるから、一概には云へぬが、大體に於て鑑賞上の修練を積めば、それが可能だと謂ふことが出來る。
 以上の如くであるから、人麿の原作が盡く正當に傳へられたとは限らず、人麿作といふのにも、『一云』といふのがあつて變化して居り、また、人麿作といふのよりも人麿歌集の方が原作に近いだらうと想像せしめるものもあるのである。併し、一般から云つて、『一云』の方が劣つてゐる。此は撰者の眼力によつて、從屬的にしたので、これは尊敬していいだらうとおもふ。
 
      七
 
 人麿歌集は大體飛鳥藤原時代を中心としてゐることは既に云つたが、人麿歌集の歌は、大伴家持時代あたりの後進によつて模倣せられてゐるのを見ると、其等の後進は人麿歌集の歌を大體人(40)麿作と看做して尊敬してゐただらうと推測するに難くはない。その模倣の有樣は評釋中に述べて置いたが、此處にもその大體の有樣を示さうと思ふ。
   卷向之病足之川由往水之絶事無又反將見《マキムクノアナシノカハユユクミヅノタユルコトナクマタカヘリミム》 (【卷七。一一〇〇。人麿歌集】)
   雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》 (【卷一。三七。人麿】)
   可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由流許登奈久安里我欲比見牟《カタカヒノカハノセキヨクユクミヅノタユルコトナクアリガヨヒミム》 (【卷十七。四〇〇二。大伴家持】)
   松反四臂而有八羽三栗中上不來麻呂等言八子《マツガヘリシヒテアレヤハミツグリノナカニノボリコヌマロトイフヤツコ》 (【卷九。一七八三。人麿歌集】)
   麻追我敝里之比爾弖安禮可母佐夜麻太乃乎治我其日爾母等米安波受家牟《マツガヘリシヒテアレカモサヤマタノヲヂガソノヒニモトメアハズケム》(【卷十七。四〇一四。大伴家持】)
   沫雪千重零敷戀爲來食永我見偲《アワユキハチヘニフリシケコヒシクノケナガキワレハミツツシヌバム》(【卷十。二三三四。人麿歌集】)
   波都由伎波知敝爾布里之家故非之久能於保加流和禮波美都都之努波牟《ハツユキハチヘニフリシケコヒシクノオホカルワレハミツツシヌバム》 (【卷二十。四四七五。大原今城】)
   戀死戀死耶玉桙路行人事告兼《コヒシナバコヒモシネトヤタマボコノミチユキビトニコトモツゲナク》〔無〕 (【卷十一。二三七〇。人麿歌集】)
   古非之奈婆古非毛之禰等也保等登藝須毛能毛布等伎爾伎奈吉等余牟流《コヒシナバコヒモシネトヤホトトギスモノモフトキニキナキトヨムル》 (【卷十五。三七八〇。中臣宅守】)
   是量戀物知者遠可見有物《カクバカリコヒムモノトシシラマセバトホクミツベクアリケルモノヲ》(【卷十一。二三七二。人麿歌集】)
   可久婆可里古非牟等可禰弖之良末世婆伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留《カクバカリコヒムトカネテシラマセバイモヲバミズゾアルベクアリケル》 (【卷十五。三七三九〇。中臣宅守】)
   安比見※[氏/一]波千等世夜伊奴流伊奈乎加母安禮也思加毛布伎美末知我※[氏/一]爾《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモアレヤシカモフキミマチガテニ》 (【卷十四。三四七〇。人麿歌集】)
   比者千歳八往裳過與吾哉然念欲見鴨《コノゴロハチトセヤユキモスギヌルトワレヤシカモフミマクホレカモ》(【卷四。六八六。大伴坂上郎女】)
(41) また、都奇見禮婆於奈自久爾奈里夜麻許曾婆伎美我安多里乎敝太弖多里家禮《ツキミレバオナジクニナリヤマコソハキミガアタリヲヘダテタリケレ》(卷十八。四〇七三)といふ歌は、『古人云』といふ題詞あるものであるが、これは、月見國同山隔愛妹隔有鴨《ツキミレバクニハオナジヲヤマヘナリウツクシイモハヘナリタルカモ》(【卷十一。二四二〇。人麿歌集】)といふ歌と似て居り、恐らく同一歌が流傳の際に變形したものと思はれ、『國は同じを』が、『同じ國なり』といふ具合に通俗化されて變つてゐる點も興味があるが、それよりも興味のあるのは、有名な人麿歌集の歌も、この時には既に、『古人云』として傳はつてゐる點にある。
 卷十五の、遣新羅使人等の當所誦詠之古謌の中にある五首なども、人麿の歌であるのが、既に、『古歌』として誦詠せられ、個の作者が没してしまつてゐる點とこの場合も類似してゐるのである。
 卷十四の、五首の如きも、個の作者の名が没してしまつて、東國地方に傳はつてゐたものに相違ない。そして東歌の書體は、一字一音で書いてゐるのでさう書いたのであるが、やはり人麿歌集が本で、東歌の方が第二次的であり、契沖が人麿歌集を疑つて、『第十四ニ人麿集出ト注セル歌五首アリ。人丸何ゾ東歌ヲヨマルベキヤ』(代匠記精)と云つたのや、眞淵が、『人麻呂歌集も既言如く此撰より後に顯はれし物なれば、此卷に東歌に載しを本とす。かの人麻呂集にも東歌をも取し類有ことなり』(考)と云つてゐるのとは、反對だとおもふのである。
 要するに、人麿は個人作家として、なかなかに多い數の歌を作り、生前既に有名であり、歿後も人麿の作及び人麿歌集の歌は歌人のあひだに尊敬せられて、その作歌に影響を與へ、一部は有(42)名な人麿の作だからと云つて地方にまで流傳せられ、個の作者としての名が無くなつて民謠的な歌として殘つたものもあるといふことに落着くのである。
 
      八
 
 人麿作と明記せられたものには長歌が多く、特に長い力作で、それが二首も聯接してあり、廣義の連作とも看做すべきものがあるのに、人麿歌集の方には長歌は短いのが三首あるのみである。
 これも古來諸學者の目をつけたところであらうが、人麿と明記された歌は、應詔獻歌の公的なものが多く、また重大事件を取扱つたものが多い。縱ひ儀容的に發表せずとも濟む場合、即ち獨咏的な内容のものでも、妻の死を悼むとか、愛妻に別れて上來するとか、近江宮懷古とか、或は半ば公的とも考へ得るものでも、吉備津采女の死とか、狹岑島石中死人とかを取扱つたのが多い。從つて人麿は作歌に際してせい一ばいの力を傾けてゐる。この諸要素が人麿作といふのに長歌の多い原因をなしてゐるとおもふのである。
 これに反して、人麿歌集の方は、私的のものが多く、獨咏的のもの、縱ひ依頼によつて作つただらうと思はれるものでも、民謠的發想のものが多い。大部分は戀愛歌で、その中には男女の問答體があり、牽牛織女の支那傳來的新材料に興をおぼえて作つたもの、旅中の地名を機縁として(43)それを序詞にしたもの等であるから、大體に於いて樂《らく》に作つたものが多い。また稀に獻歌もあり、從駕の時に作つたものもあるらしいが、長歌にして儀容を作る必要を感じなかつたものともおもへるのである。
 右の如き私見であるが、人麿歌集に長歌の殆ど無いといふことは、右の如くおのづから作歌態度にも影響し、安易に作歌してしまふといふ結果を生じてゐるのである。吾等は或時には作歌の眞情流露を強調してゐるものであるが、自然流露と全力的全身的活動とをどう調和せしむべきであるか。これは計らずも人麿作と人麿歌集中出の作との間に提出せられた問題となつたのであつた。
 次に、人麿作と明記されてゐるものには旋頭歌は一首もないのに、人麿歌集には三十五首もある。そして卷七の二十三首の前には旋頭歌といふ小見出しがあり、卷十一の十二首も亦さうである。そこで森本治吉氏は、『人麿歌集にすでにこの樣式があつて、旋頭歌は短歌と別に一かためにしてあつたものと思ふ』(日本文學大辭典)と云つてゐる。なほ森本氏はこの旋頭歌について次の如くに云つてゐる。
  旋頭歌は、その歌形から見ても今日殘存してゐる實物から考へても、常時の民謠歌口誦歌であつたらしい。尠くとも旋頭歌の歌形や氣分は民謠歌的である。從つて當時の著名歌人中、旋頭歌を作つてゐるの(44)は、藤原八束・紀鹿人・高橋蟲麿・山上憶良・坂上郎女・大伴家持の大家が、各人一首づつである。ただ慰みにこんな歌體もあるから、と云ふ位ゐの氣特で作つてみたものと見える。然るに人麿だけが果して三十五首もの旋頭歌を作つたと云ふ事が信ぜられようか。殊にそのうちには、卷七の四首及び卷十一の四首の如く明かに女の作で、人麿作とは見られないものすら混じてゐる。(日本文學大辭典)
 さうして旋頭歌に限らず、人麿歌集中に民謠風の歌が多いのは『人麿がそんな民謠風の作を作つた、と見るより、人麿が人麿歌集のうちに、作者不明の民謠を書きとどめておいたのがここに採られたのだ、と見る方がより合理的である』と云ふのである。
 右の如く、人麿歌集中の旋頭歌は純粋に人麿のみの作でなく、問答などもあるらしいのであるが、短歌の方にも隨分樂《らく》に作つた民謠風のものも多いのであるから、人麿歌集の歌は大體人麿作だといふ結論に本づいて、逆にその作物に接する場合には、これ等の旋頭歌も大體は人麿自身の作だといふことになるのであらう。また實際一首一首に當つて見るに、縱ひ民謠風の内容のものでも技法の立派なものが多く、人麿作と考察しても敢て不自然でないものが多い。また旋頭歌の發生は奈何の徑路を取つたにしろ、一たび形式が定まれば、人麿ぐらゐの力量のあるものは、少しく興に乘じ、或は周圍の刺戟に應ずれば、このくらゐの數は作り得るとおもふから、諸氏の説を參攷して大體人麿作が多いだらうといふことにして置くのである。
(45) そんならなぜ 人麿歌集のみに旋頭歌があつて、人麿作と明記せられた歌の中に旋頭歌が無いかといふに、人麿作と明記せられた歌は、自發的獨咏的なものよりも、儀容的、公的、或は應詔・獻歌、或は依頼によつて作つたものが多いやうであるから、結果は長歌、短歌の形式のみで、旋頭歌は無いといふことになつたのであらう。そしてこの結果は、旋頭歌の形式は榮えずにしまふ原因をもなしてゐるのではなからうか。私等の單なる主觀からいへば、旋頭歌の形式は大に面白いものであるが、人麿當時にあつて既に、公的儀容的の場合に調和が取れ難かつたといふことになるのではなからうか。
 
(46) 萬葉集卷二・三所出歌
 
          ○
 
  〔卷二・一四六〕
  後《のち》見《み》むと君《きみ》が結《むす》べる磐代《いはしろ》の子松《こまつ》が末《うれ》を又《また》見《み》けむかも
  後將見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇禮乎 又將見香聞
 
 『大寶元年辛丑幸2于紀伊國1時見2結松1歌一首』といふ題がある。流布本に、『大實』、『若之』とあるのを他の古寫本に據つて『大寶』、『君之』と訂正した。なほ古寫本の大部分には、柿本朝臣人麻呂歌集中出也といふ注がある。○後將見跡 舊訓ノチミムト。童蒙抄スヱミント。○子松之宇禮乎 舊訓コマツガウレヲ。古寫本中、コマツノウレヲ(元・金・神)の訓もある。○又將見香聞 舊訓マタミケムカモ。古寫本の中、マタモミムカモ(元・古・神・類)。マタミツルカモ(金)(47)等の訓がある。
 紀伊國の行幸は、續日本紀に、大寶元年九月(庚午朔)丁亥天皇幸2紀伊國1冬十月(庚子朔)丁未車駕至2武漏温泉1とあるその時だといふことになつてゐる。一首の意は、有間《ありま》皇子が自ら傷みて松が枝を結べる歌二首の第一首に、『磐代の濱松が枝を引き結び眞幸《まさき》くあらば亦かへり見む』(卷二。一四一)と詠まれたのに關聯して作つてゐるので、命が全くあらば後日かへり見ようと仰せられたが、その小松の枝をば、皇子は二たび御覽になつたことであらうか、いやさうではなく、御命をおとされたのであつたといふのである。この歌の小松は必ずしも小さい松でないことが分かり、『卷向の檜原もいまだ雲居ねば子松がうれゆ沫雪ながる』(卷十。二三一四)。『夕されば小松がうれに里人の聞きこふる迄に山彦の答ふるまでに』(卷十。一九三七)などの例がある。
 これと類想の歌は、長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》結松を見て哀咽せる歌二首、『磐代の崖《きし》の松が枝結びけむ人はかへりて亦見けむかも』(卷一。一四三)。『磐代の野中に立てる結松《むすびまつ》情《こころ》も解けずいにしへ思ほゆ』(卷二。一四四)がある。このはじめの歌に似てゐるので、眞淵の考では人麿歌集の歌は長意吉麻呂の歌の異傳に過ぎぬと云つて、『後人みだりに書加へしもの也、仍てここに除て別記にいへり』と結論してゐる(【古義・註疏等其に從つた】)。併し攷證ではそれを否定して、『本より別の歌とこそきこゆれ』とし、美夫君志も、『私なり』と云ひ、新考には、『彼歌をかくは唱へ誤るべからず。おそらくは同時別(48)人の作ならむ』と云ひ、講義では、『而してこの歌は上の元暦本等に記せる如く古き人麻呂集中にありしなるべければ、それより摘出せしものならむも知られず。いづれにしても意寸麻呂の歌とは異なるものなるは明かなり』と云つて居るのである。意吉麻呂は殆ど人麿と同時代と看做されるから、眞淵の説も一應はうなづかれるが、同時代であるだけ、別な歌だといふ可能性があり得るのである。
 なほ、大寶元年辛丑秋九月太上天皇紀伊國に幸せる時に、坂門人足《さかとのひとたり》の歌、『巨勢《こせ》山のつらつら椿つらつらに見つつ思ふな巨勢《こせ》の春野を』(卷一。五四)と、調首淡海《つぎのおびとあふみ》の歌、『麻裳《あさも》よし紀人《きひと》羨《とも》しも亦打山《まつちやま》行き來《く》と見らむ紀人|羨《とも》しも』(卷一。五五)といふのがあるから、この人麿歌集の歌と同時に出來たものである。つまり供奉の人々がいろいろ作歌したものと見え、その一部が傳はつてゐるのである。この時人麿も供奉したといふ記録は無いが、人麿歌集にこの歌があり、なほその他にも人麿歌集に紀伊で作つた四首(【卷九。一七九六以下】)などもあつて紀伊と關係があるから、ひよつとしたら人麿も供奉したかも知れないのである。つまり太上天皇(特統)に供奉したのだから、その想像は全くの無稽といふわけではない。
 併し、この人麿歌集中出といふにつき、攷證では、『さてこの端辭、時の字の下、作者の姓名ありしを脱せしか。又はもとより作者不v知歌にてもあるべし。元暦本ここに小字にて柿本朝臣人(49)麿歌集中出也の十一字あり。集中の例、左注にあぐべきなればここにはとらず』と云つてゐる。これも一見識であつた。けれども現今の校本萬葉集の如く多く古寫本を集めて見れば、題詞の下に小字で、柿本朝臣人麻呂歌集中出也(【金・西・細・温・矢・京】)とあるほかに、元暦本では題詞の次行に小字で書いてあり、神田本では題詞の次行に大字で書いてあり、【題詞の肩に小字で『古本』とある。】殆ど盡くさうあるのだから、相當に重く見ていいものである。それから袖中抄には、『大寶元年ニ文武天皇紀伊國ニ幸之給御共ニ候テ結松ヲミテ、人丸カヨメル哥、ノチミムトキミカムスヘルイハシロノコマツカウレヲマタミケムカモ』とあつて、人麿作としてある。ただ一首の歌柄から見て、これを人麿作とせねばならぬ特徴は見つからない程度のものである。それにしてもこの時の行幸と人麿と何かの關係が無かつただらうかと思はしめるだけでも、この歌の價値はあると思ふのである。なほこの歌は、六帖に人麿作として載り、結句『又も見むかも』とあり、また和歌童蒙抄第七に、『ノチミムトキミカムスヘルイハシロノコマツノウレヲマタモミムカモ萬葉ニアリ』として載り、玉葉集に、人麿作『紀伊國にみゆき侍りける時むすび松を見てよみ侍りける』と題し結句『また見つるかな』となつて出て居る。
 
(50)  〔卷三・二四四〕
  み吉野《よしぬ》の三船《みふね》の山《やま》に立《た》つ雲《くも》の常《つね》にあらむと我《わ》が思《も》はなくに
  三吉野之 御船乃山爾 立雲之 當將在跡 我思莫苦二
 
 弓削《ゆげ》皇子が吉野に遊び給ひて、『瀧《たぎ》の上《うへ》の三船《みふね》の山に居《ゐ》る雲の常《つね》にあらむとわが思はなくに』といふ御歌を作られた。それに對して、春日王《かすがのおほきみ》が、『王《おほきみ》は千歳《ちとせ》にまさむ白雲《しらくも》も三船《みふね》の山に絶ゆる日あらめや』と和へ奉つた。そしてその次に或本歌一首として此の歌があり、そして、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注があるものである。それゆゑ弓削皇子の御歌といふことになるのだが、やはり人麿歌集にあるといふ左注があるから此處に抄したのである。
 弓削皇子の御歌と違ふところは、『瀧の上の』が、『三吉野の』になり、『ゐる雲の』が、『立つ雲の』になつてゐるだけで、一首の形が殆ど同じである。つまり一首の意は、三船の山に見えてゐる雲は常住といふわけには行かない。この佳景をして常住であらせたいのだが、といふ意がこもつてゐる。實朝の『世の中は常にもがもな』などと似た點もある。この歌の『立つ雲』といふのは特殊でおもしろいが、やはり『ゐる雲』の方が素直である。そして『瀧の上の』の方が實際的、且つ具象的で、『み吉野の』よりも好い。
(51) それから、この歌が人麿歌集中にあるのは、弓削皇子の御一行の中にひよつとせば人麿もゐて、そのときの歌を備忘のために書きつけ、その一二句を違へて記したのかも知れず、さうでなく供奉せずにゐてあとで聞いて記して置いたものともおもはれる。直接間接の差別はあるが、いづれにしても人麿に關係があるらしく想像することの出來る歌である。攷證では、左注を否定し、『この左注は非也。右の御歌のやうを考ふるに、吉野宮にあそび給ひしにて、春日王と贈答のさまなど思ふ《(マヽ)》、皇子の御歌ならで、人麿の歌なるべきいはれなし』と云つてゐる。
 
(52) 萬葉集卷七所出歌
 
          ○
 
  〔卷七・一〇六八〕
  天《あめ》の海《うみ》に雲《くも》の波《なみ》立《た》ち月《つき》の船《ふね》星《ほし》の林《はやし》に榜《こ》ぎ隱《かく》る見《み》ゆ
  天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隱所見
 
 雜歌の部にあつて、『詠天』といふ題があり、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注がある。古寫本には、初句、アマノカハ(神・類)。アマノハラ(類)。ソラノウミニ(細)(童蒙抄同訓)。結句、コギカクサレヌ(神)等の訓があつた。
 夜の天界のありさまを譬喩で表はしてゐる。夜の天空を海と見たて、雲の動いてゐるのを波と見たて、群星を星の林と云ひ、月をば船と見たてて、月が出たり入つたりするのを船が榜ぎ隱る(53)と云つて居るのである。天空を見てゐるとただその儘では物足りなく、何か譬喩として云ひあらはしたい氣持となるもので、現代の如く嚴格に短歌の表現を考へてゐない場合には、かういふ表現を取りたくなるのも一つの自然的な衝動と看做していい。
 それだから、萬葉にも、『天の海に月の船うけ桂梶かけて榜《こ》ぐ見ゆ月人壯子《つきひとをとこ》』(卷十。二二二三)。『秋風の清きゆふべに天漢《あまのがは》ふね榜ぎ渡る月人|壯子《をとこ》』(卷十。二〇四三)。『春日なる三笠《みかさ》の山に月の船出づ遊士《みやびを》の飲む酒杯《さかづき》に影に見えつつ』(卷七。一二九五)などがあり、懷風藻には文武天皇の御製に、『月舟移2霧渚1。楓※[楫+戈]泛2霞濱1。臺上澄流耀。酒中沈去輪。水下斜陰碎。樹落秋光新。獨以2星間鏡1。還浮2雲漢津1。』などともあり、懷風藻の序にも、これを引いて、『天皇泛2月舟於霧渚1』云々と云つてゐる詩句である。つまり支那文學の一種の表現法で、月舟が『還《ま》た雲漢の津に浮ぶ』といふあたりは、この人麿歌集の歌の表現に似て居るから、ひよつとせば人麿がこの御製のやうな趣を和歌に翻して作つたとも想像せられる。直接漢詩からの直譯ではない樣であるが、この頃には自然兩者の交流があつたと看做していい。
 考に、『歌の書體人麻呂集の如くなれば、集の時書るなるべしとおもはる』と云つてゐるのは、この歌を人麿作と認容した訣ではないが、人麿歌集の書きざまの特徴を云つてゐるのである。童蒙抄では、『如v此あるより、集に皆人麻呂の歌にして被v載し也。然れども慥に人麻呂の歌と作者(54)を不v記ば決し難きこと也。されど先此左注をより處にして人麿と云ひ傳る也』と云つてゐる。人麿作としては不慥だといふ意見である。『大船に眞※[楫+戈]《まかぢ》繁《しじ》貫《ぬ》き海原を榜ぎ出て渡る月人壯子』(卷十五。三六一一)の左注に『右柿本朝臣人麿歌』とあるから人麿作と認められてゐるが、この左注は、どういふ資料に本づいたものか、或は人麿歌集のやうなものに據つたものかも知れぬ。そして若しこの卷十五の歌を人麿作とせば、卷七の此の歌も人麿作としていいだらうか。併しそれは想像である。
 かういふ譬喩の歌は、現在の寫生の説からゆけば、聯憩が幼稚で感心出來ないものであるが、一首の調子が流石に立派なものである。いろいろな物を詰め込み、こせこせしてしまふところをこれまで爲上げた點はやはり萬葉歌人の力量だとおもふ。人麿は元來もつと大きい波動的な歌調を好むが、時にはかういふ歌調をも作つたのかも知れない。萬葉佳作選には現在の標準からゆけば漏れるかも知れぬが、問題を含む歌として、抽出して論議すべきものである。
 この歌は拾遺集及び柿本集に、『空の海に…こぎかへる見ゆ』。和歌童蒙抄に、『あまのがは…こぎかくされぬ』。六帖にも天の原の題で初句『あまのがは』として載り、共に人麿作としてゐる。
 
          ○
(55)
 
〔卷七・一〇八七〕
  痛足河《あなしがは》河波《かはなみ》立《た》ちぬ卷目《まきむく》の由槻《ゆつき》が嶽《たけ》に雲居《くもゐ》立《た》てるらし
  痛足河 河波立奴 卷目之 由槻我高仁 雲居立有良志
 
 〔題意〕 『詠雲』といふ題のある二首中の第一首である。第二首の次に、『右二首柿本朝臣人麿之歌集出』と注されてある。
 〔語釋〕 ○痛足河 アナシガハで、大和國磯城郡纏向村にあり、源を卷向山(纏向山)と三輪山とから發し、二山の間を西流して檜原の裾邊をながれて居り、今は卷向川と云つてゐる流で、一部は纏向村穴師の方に流れて穴師川といふが、古へは今の卷向川を痛足河とも云つたのであらう。そして、當時は密林の間を流れ水量も多かつたものに相違ない(【辰巳利文氏、大和萬葉地理參看】)。○河浪立奴 カハナミタチヌと訓む。作歌時現に痛足河《あなしがは》の川浪の立つのを見て居るところである。同時に、風の強いことを含めたのかも知れぬが、風のことはあからさまには云つてゐない。○卷目之 マキムクノと訓む。舊訓マキモクノであつたのを、考からマキムクノと訓じ、諸學者それに從つた。『卷目ハスナハチ痛足山ナリ。古今顯昭秘注、マキモクノアナシノ山ノ山人トトヨメル神樂歌ノ注ニ、卷向ノ山トモ云、穴師ノ山トモ云。サテカク卷向ノ穴師ト詠《ヨミ》ツヅクルナリ』(代匠記精)。『古事記、(56)麻岐牟久能比志呂乃美夜《マキムクノヒシロノミヤ》と書り。其外まきむくと訓べき證多し』(略解)。『卷向とも、纏向とも書り、(此に目(ノ)字を書るに依て、マキモク〔四字右○〕と訓は非なり、)神名帳に、大和(ノ)國城上(ノ)郡卷向(ニ)坐若御魂(ノ)神社とある其處なり』(古義)。『ここはマキモクとよみて可なり』(新考)等の諸説がある。それから卷向山と痛足山と同一のやうに契沖の文にあるが、卷向山の方は廣い總稱でその一部に痛足山があるとして好い。○由槻我高仁 ユツキガタケニと訓む。考・略解などではユヅキと濁り、他の注釋書の多くはユツキと清んで訓んだやうである。由槻嶽は古來卷向山の高峰といふ説があつたが、大體辰巳氏等によつてそれが確められたごとくである(辰巳氏、前掲喜)。『由槻ハ弓槻ナリ。槻ハ弓ノ良材ナレバ弓槻ト云、槻ノ木多キ山ニテ、此名ヲ負歟。……泊瀬ニモ弓槻ヲヨミタレド、弓槻ハ何處ニモ似ツカハシキ處ニハヨミヌベシ。弓槻カ高トイヘルハ卷向山ニ取テ最高頂ヲ云ナルベシ』(代匠記精)。『則(チ)卷向山の高嶺を云なるべし。……高《タケ》は、高嶺《タカネ》の縮言』(古義)。○雲居立有良志 クモヰタテルラシと訓む。『有』字は細井本・無訓本には無い。諸本及び注釋書の訓は、クモヰタツラシ(【元・類・拾穗抄・略解・古義・新考等】)。クモヰタテラシ(神)。クモタタルラシ(西・細)。クモタテルラシ(矢・京・附・寛永本)。クモヰタルラシ(代匠記初)。クモヰタテルラシ(代匠記精)。クモタテルラシ、クモヰタルラシ(童蒙抄)。クモゾタツラシ(考)等である。諸説を抄すると、『立の字は而の字をあやまれるにや。而の字ならば、雲ゐたるらしとよむべし』(代匠記初)。『雲居立有良志ハ、校本(57)ノ如ク、クモヰタテルラシト讀ベシ。字ニ叶ヘル上ニ、景行紀ニ思邦《クニシノビ》ノ御歌ニ、和藝弊能伽多由區毛位多知區暮《ワギヘノカタユクモヰタチクモ》トヨマセ給ヘルヲ證トスベシ。ツレニ取テ雲居トツヅクベキカ。雲ト云ヒテ居立ルトツヅクベキ歟。雲ハ居ル物ナレバ雲ヲ雲居ト云ヒ馴タルベケレバ、下ハ立有ラシト讀ベシ』(代匠記精)。『これを雲たてるら|ん《マヽ》とよませたれど心得難し。立の字は出の字、而の字などの誤りたるか。又有の字、都の字を誤れるか。下になみくら山に雲居者ともよめり。然れば出而の誤りならば雲ゐたるらし也』(童蒙抄)。『雲井たな引とよめるあれど、居の字なき方ぞよしとせん。一本に居の字なし。活本に有の字なし。雲ぞたつらしぞよき。一本活本によりて居有の二字をすてつ』(考)。『雲ヰは古事記、和岐弊能迦多由久毛韋多知久母《ワギヘノカタユクモヰタチクモ》と有りて、唯だ雲の事を言へり。今本、雲居立の下、有の字有り。活本有の字無きを善しとす』(略解)。以上の如くであるが、『有』字のある諸本が多いから、さうすると、クモヰ・タテルラシと訓む方が順當であらうと思はれる。そしてクモヰは先進の考證のごとくに雲のことと解するのである。
 〔大意〕 今、痛足河《あなしがは》を見ると河浪が立つて居る。河浪が強くなつた。恐らく卷向山の一峰である由槻《ゆつき》が嶽《たけ》に雲が起つてゐると見える。と云ふぐらゐの意味である。
 〔鑑賞〕 作者は痛足河のほとりを歩いてゐるやうな趣で、近く痛足河の河浪を見てゐるのだと思つていいだらう。そして由槻が嶽の雨雲の方は、『らし』といふ推量の語を使つてゐるから、こ(58)れは距離が遠くにある趣で、推量でも當《あて》のある推量だから、もう雲霧の去來が見えるところと解してもいいのである。
 それから、『河浪立ちぬ』と言ひ切つたのも目前のさまに觀入した句でおもしろく、この語の背後にはやはり風が吹きわたることを暗指してゐるのである。また、水量の増した氣持であるから、そのころ雨が降つたといふことも籠らせてゐると解していい。『纏向の痛足《あなし》の山に雲居つつ雨は零《ふ》れども濡れつつぞ來し』(卷十二。三一二六)などの歌もあるからである。ただ字面には、風のことも雨のことも無いから、味ふには字面を飽くまで主にし、風、雨のことは從屬としなければならない。さうでないと、作者の自然觀入の眞髓を見免がすおそれがある。『秋風に河浪立ちぬ暫《しまし》くは八十の舟津《ふなつ》に御舟《みふね》とどめよ』(卷十。二〇四六)。『風吹きて河浪立ちぬ引船に渡りも來ませ夜の更けぬ間に』(卷十。二〇五四)。『年に艤《よそ》ふ吾が舟榜がむ天の河風は吹くとも浪立つなゆめ』(卷十。二〇五八)などの用例を見ると風と河浪の立つ關係が分かるし、或はそのころ雨降り、今も雨降らむとする氣色《けはひ》をあらはす氣象の鬱勃たる鋭さに、作者が參加してゐるとも考へることが出來るのである。幸田露伴翁の文中、『やがて、風ざわざわと吹き下し、雨どつと落ちかかり來るならひにて、あらしめきたる空合に此雲の出でたる、また無く物すさまじく』云々(雲のいろ/\)とあるのは、夕立まへのさまであるが、やはり風一陣のことを云つてゐるのである。併し、人麿歌(59)集のこの歌は、盛夏の夕立ではなく、初夏或は初秋頃の雨ふるまへの趣のやうにもおもへる。歌の季のことは次の歌の條に再説するつもりである。
 この風のこと、雨のことに就き先進も説いてゐる。『河浪ノ立トハ二ツノ意侍ルベシ。一ツニハ雲ニ依テ風ノ吹故ナリ。古事記中神武天皇段ニ、伊須氣余理比賣ノ歌曰、佐韋賀波用久毛多知和多理字泥備夜麻許能波佐夜藝奴加是布加牟登須《サヰガハユクモタチワタリウネビヤマコノハサヤギヌカゼフカムトス》、又歌曰、字泥備夜麻比流波久毛登韋由布佐禮波加是布加牟登曾許能波佐夜牙流《ウネビヤマヒルハクモトヰユフサレバカゼフカムトゾコノハサヤゲル》。二ツニハ、雲ニヨリテ雨ノ降ナリ。此卷下ニ、ササ浪ノ連庫山《ナミクラヤマ》ニ雲居《クモヰ》テハ雨ゾ零《フル》チフカヘリコ吾背、トヨメルニ准ラヘテ思フベシ』(代匠記精)。『夕立時雨抔にて水まして浪の立と云意か。下の雲居たるらしとは、由槻がたけに雲のゐれば、雨など降ためし有をもてかくよめるならん。今もそこの峰に雲かかれば、必ず雨降風立事抔有に同じ理りならん』(童蒙抄)。『右二首共に雨降ると言はずして知らせたり』(略解)。『雨降むとする時、風|發《おこ》りて浪の立さわぐものなれば、河浪の鳴動くを聞て、雲の立を思ひやれるなり』(古義)等である。
 強い莊重な歌で、然かも寫生が行きとどいて誤魔化しがない。風も雨も背景に潜めて、河浪を眼前に彷彿せしめ、雨雲をそれに配してゐるその單純化の手腕は實に驚くべきである。さういふ觀入の順直に徹してゐながら、一首の中に地名の固有名詞三つも入れてゐる。これなども技法の方面から云へば非常な大膽なわざであるが、作者は平然としてそれを行つてゐる。そして一首の(60)聲調は渾然としていささかの破綻もなく、却つて一種のひびきとして受取ることが出來、後世の歌の如くこせこせした事物を詰め込んだのよりもずつといい效果を收めて居る。それから第二句で切つて結句で切り、『卷向の〔右○〕由槻が〔右○〕嶽に〔右○〕』のところののがに〔三字右○〕の關係などは實に及びがたい味ひである。結句はクモヰタテルラシと大きく字餘りにして大にいいが、クモヰタツラシとしても亦いい聲調で、訓詁考證の點を措いて歌を味ふ上からいへば、クモヰタツラシも實に棄て難い。私は二つとも愛惜して一つを棄てようとはしない。
 作者の分かつてゐる歌の方が、讀人不知の歌よりも安心して鑑賞出來ると思ふのが人情と見え、人麿歌集の歌は、人麿作と明記されてゐるものよりも、評價上からも不安なやうに思ふのであるが、いい歌になれば個人の作者の名などの問題を超越してかまはないのである。併し、人麿歌集中には人麿の作が多分に含まれて居ると考へ得べきだとせば、此處の二首などはやはり人麿の作なのではあるまいか。讀人不知としては物足らず、一定の作者が欲しいとせば、やはり人麿作と想像したいので、私は以前から秘かにさう思つて味つて來た。無論讀人不知の作で、このやうな聲調の大きさを持つた歌が幾つもあり、現に、『大海に島もあらなくに』の伊勢從駕の歌などは人麿作を彷彿せしめるけれども、大體この二首の聲調は人麿の聲調と相通ずることを感ずるのである。
(61) この歌は和歌童蒙抄に、『アナシカハカハナミタチヌマキモ|ウ《マヽ》ノユ月カタケニクモタテルラシ萬葉第七ニアリ』とあり、續古今雜下にも載つて居る。
 
          ○
 
  〔卷七・一〇八八〕
  あしひきの山河《やまがは》の瀬《せ》の響《な》るなべに弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に雲立《くもた》ちわたる
  足引之 山河之瀬之 響苗爾 弓月高 雲立渡
 
 〔題意〕 『詠雲』の第二首である。別々に作つて此處に類題したものか、或は、同時に作つたものか。二首は同じ趣の歌であるから同時に作つたものとし、二首連作と看做すことも出來る。
 〔語釋〕 ○足引之 アシヒキノと訓む。暫く宣長に從ひ清音に訓んで置く。山に冠らせた枕詞で、その語意には諸説があつて未解決であるが、本居宣長の足引城《アシヒキキ》説、即ち、『足《アシ》は山の脚《アシ》、引《ヒキ》は長く引延《ヒキハヘ》たるを云。城《キ》とは凡て一構《ヒトカマヘ》なる地《トコロ》を云て、此(レ)は即(チ)山の平《タヒラ》なる處を云』(古事記傳)とする説、それと同系統の、高橋殘夢・加茂季鷹等の説が一番無理が無いやうに思ふが、どういふものであらうか。アシを足《アシ》と做すにつき、新撰字鏡、爾雅注、伊呂波字類抄等に、アシタカグモがあ(62)り、萬葉卷五(九〇四)に足須里《アシスリ》があり、新撰字鏡に足須留《アシスル》がある。以て參考とすべきである。次に、宣長は、『比は清音なり。此言、書紀萬葉などにも多くある、皆|比《ヒ》には清音の假字を書り。濁るは非なり』(古事記傳)といひ、宣長門の石塚龍麿も、『こは萬葉には、猶いとおほくある、一處も比〔右○〕に濁音のかなを用ひたるはなし。必清音なり。濁りてよみならへるは誤也』(古言清濁考)と云つてゐるが、萬葉では、『比』は必ずしも清音のみではなく、『※[田+比]』に通はせてビと發音した形跡がある。即ち、阿蘇比《アソビ》。安佐比良伎《アサビラキ》。安米比度《アメビト》。伊敝比等《イヘビト》。宇知那比枳《ウチナビキ》。敲自努比《ウチシヌビ》。於保美也比等《オホミヤビト》。伎倍比等《キヘビト》。多比《タビ》。之奴比《シヌビ》。比丘《ビク》。牟須比《ムスビ》。牟世比《ムセビ》。毛呂比登《モロビト》。奈良比等《ナラビト》。波流比《ハルビ》等は、ビと濁つて訓んだやうであるから、宣長龍麿にも一概には從はれない。卷十五(三六八七)の、安思必寄能《アシヒキノ》は清音で訓むとして、『必』は清音のヒだと龍麿は分類してゐるが、卷十五(三七三四、一云)の左必之佐《サビシサ》の例がある。また、大槻氏の言海では、アシビキノと濁つて訓ませてゐる。そこで、古事記あたりで使つた時には清音であつたかも知れないが、それが萬葉では絶待といふわけには行くまいと思はれるし、この人麿歌集の場合には、アシビキノと濁音に訓む方が一首の調べのうへから私の好むところであるので、私は秘かにさういふ發音で吟誦し來つて居る。併し、今は一般的解釋であるから、暫く宣長訓に從ふのであるが、この清濁の問題は、萬葉集の範圍中にあつて既に時代的變化があつたのかも知れない。毛美知婆《モミチバ》なども、龍麿等はモミチバと清音に訓むや(63)うに主張するのだが、集中にあつて既にモミヂバと發音した部分が必ずあつたと看做して好いのではあるまいか。天人は、アメヒトであるべき筈なのに、アメビトと云つてゐる。以て一般を類推すべきである。次に、このアシヒキノといふ枕詞はただ枕詞として音調上使つたのであるが、代匠記に、『今按、此足引之山河ト云ヘルハ、若足引ト云詞ハ、アナシ山ヨリ起レル事ノ由ナド有テ、今アナシノ山川ト云べキ所ヲ其意ニ足引ノト云ヘル歟。カク云故ハ足引ヲ第四ニハ足疾ト書、此卷下ニハ足病トカケリ。又アナシハ穴師トモカキ痛背ナドモ云ヘリ。次上ニハ痛足トカキ下ニハ病足トカケルハ、足病ト云ニ同ジケレバ驚カシオクニ侍り』(代匠記精)と云つてゐるが、これは笑談であるらしい。○山河之瀬之 ヤマガハノセノで、これは耶麻鵝播《ヤマガハ》の例もある如くにガハと濁つて訓む。山河《やまがは》の急流が水嵩が増して幾つもの瀬を作つてゐる、即ち瀬々である。卷二(一一九)に、芳野河逝瀬之早見《ヨシヌガハユクセノハヤミ》とあるを始め、用語例が多い。○響苗爾 ナルナベニと訓む。これをナルナヘニと清んで訓んだが、古義で、『奈戸は奈倍《ナベ》と濁るべし』(【卷一、所念奈戸二の條】)と云つた。このナベニは、眞淵が、『この歌ども皆二つの事をむかへて奈倍《ナヘ》といへれば、並ぶ意なるよし明らけし、共と書しにていよよしらる』(考別記)とある如く、と並んで、と共に、に連れて、と同時に、などの意があり、原因結果のやうなところもあるが、語原はさうではない。眞淵の、『故はゆゑなり。なへは奈倍なり』(考別記)で決して同一ではない。なほこの語の用例は下に書記して置いた。この(64)歌の場合は、ニツレテぐらゐに解せばいい。○弓月高 ユツキガタケニと訓む。弓月嶽は前にも云つたごとく、卷向山のうちの高峰である。辰巳利文氏云、『まきむく山の最高峰があたかも半月形にながめられるのであります。私はこの半月形にながめられるまきむく山の最高峰を靜かにながめつつ無意識にそれが即ちまきむくの弓月ケ嶽ではないだらうかと考へたのであります』(大和萬葉地理研究)。○雲立渡 クモタチワタルと訓む。雲が立ち亂れて廣がる樣である。ワタルは、鶴《たづ》鳴き渡《わた》るなどとも用ゐ、視覺的(空間的)にも聽覺的(時間的)にも廣がる意味を以つて用ゐてゐる。
 〔大意〕 一首の意は、いま眼前の山河《やまがは》(【穴師川即ち今の卷向川であらう】)の急流が高く鳴つてゐる。つまり瀬の音が高く聞こえてゐる。或は、風吹き瀬の音が高まつたといふ意味を奥に含めてもいい。さうすると、向うの卷向山の弓月嶽あたりに雲が湧いて盛にひろがるのが見えるといふので、この二つをナベニ(ニ連レテ)といふ語で聯結してゐるのである。この歌の上の句は、ただ重く鋭い川瀬の音が聞こえる趣のやうにばかり受取ることも出來るが、ここは單に聽覺のみでなく、やはり川瀬(穴師川の瀬の浪)を見て居るところなのであらう。つまり視覺が實は主なのであるが、それを、響《な》るなべにと聽覺的にいつたところに單純化がある。そして距離からいへば、川浪の方が近くて弓月嶽の雲の方が遠い趣である。そしてこの二つの天然現象をナベニで續けたものである。
(65) 〔鑑賞〕 この一首は、聲調が鋭く大きく、響の勇猛な歌とも謂つてもいいくらゐ強い響を持つた歌である。そしてそれは天然現象がさういふ荒々しい強い相として現出してゐるのを、その儘さながらに表規したのが、寫生の極致ともいふべき優れた歌を成就してゐるのである。當時の歌人等は寫生論とか象徴論とか意識した歌論を云はなかつたが、かういふ天然現象を機縁として動いた心の儘を、そのまま言語にあらはしたのがこの歌で、そして結果からいへば、自然・自己一元の生《せい》がここに表現せられたと謂ふべきである。短歌に於ける象徴などいふことも、この歌の場合の如き意味内容と聲調との悟入以外には無いと思つていい。それ以外に出れば最早邪道に踏入るのである。
 この歌は、分析すると上の句で『の』の音を續けて、連續的・流動的・直線的にあらはして、下の句で屈折せしめて、結句では四三調(二二三調)で止めてゐる。これなども誠に自然であつて、一首はそのやうな關係で動的に鋭くなつてゐるのである。それから、若し私等のやうにアシビキノ。ナベニ。ユヅキといふ具合に濁音を入れて吟誦すれば、濁音の多い歌で、歌柄を大きく太くしてゐる。濁音の效果は實にかういふところに存じてゐるのである。それから、『の』のことは前言の如くだが、『足引の〔右○〕山河の〔右○〕瀬の〔右○〕』と直線的に一氣に押して來て、第三句で、『なべに〔右○〕』で第四句に續けたのはやはり自然で、そして第四句の、『弓月が嶽に』で、『の』といはずに、『が』(66)の入つてゐるのは一轉化した微妙な調和であり、また、『に』音が二つ其處にあるのも、潜勢をもつて押してゆく調子である。それから、阿列の開口音が多く、その間に伊列の鋭い音を混じて一首の響を大きくして、加行多行の音の強いのと、ワタルなどの運動をあらはす音で一首が構成されて居り、一首の響がすべすべしないで荒々しく原始的で揮沌の有樣を聽くことが出來る程の不思議な歌である。
 つまり此一首は萬葉集の短歌では若し選ぶとせば選ばぬばならぬ歌であり、萬葉傑作の一つだと謂はねばならぬものである。萬葉にはこの歌よりもいい歌が幾つかあるが、それは作歌機縁が違ふので、かういふ天然現象の歌としてはやはり傑作と稱すべきだとおもふのである。この『響《な》る』といふ語なども、注意すべき古代語で、鳴澤《なるさは》、鳴門《なると》、鳴神《なるかみ》などと共におもしろい言方である。『そよと鳴るまで歎きつるかも』、『この床のひしと鳴るまで歎きつるかも』などの用例もあつて參考とすることが出來る。
 この歌でナベニと用ゐたのは、川浪の激《たぎ》つのと雨雲の動いてゐるさまとを、原因結果の關係でなしに二つを接近せしめて觀入してゐる態度であつて、作歌稽古上からいへば餘程有益なるものである。どちらが原因どちらが結果といふわけではないが、二つとも分離の出來ざる、その不即不離のところがおもしろいのである。つまり現代語などは分化に分化を經來つて、詩語としても(67)餘程進歩したもののやうにもふが、却つてナベニをかういふ場合に使ふ古代人の方が言語感覺が鋭敏であつただらうと思へる程である。次にナベニの用例を拾つて見た。
   我背子を何時ぞ今かと待つなべに〔三字右○〕面《おも》やは見えむ秋の風吹く (卷八。一五三五〕
   もみぢ葉を散らす時雨の零るなべに〔三字右○〕夜さへぞ寒き一人し寐れば (卷十。二二三七)
   春霞流るるなべに〔三字右○〕青柳《あをやぎ》の枝|啄《く》ひ持ちて鶯鳴くも (卷十。一八二一)
   雁がねの聲聞くなべに〔三字右○〕明日よりは春日の山はもみぢ始めなむ (卷十。二一九五)
   草枕旅の悲しくあるなべに〔三字右○〕妹を相見て後戀ひむかも (卷十二。三一四一)
   橋立の倉椅山《くらはしやま》に立てる白雲見まく欲り我がするなべに〔三字右○〕立てる白雲 (卷七。一二八二)
   萩の花咲きたる野べにひぐらしの鳴くなるなべに〔三字右○〕秋の風吹く (卷十。二二三一)
   【上略】神ながら思ほすなべに〔三字右○〕天地も依りてあれこそ磐走る【下略】 (卷一。五〇)
   黄葉《もみぢば》の散りぬるなべに〔三字右○〕玉梓《たまづさ》の使を見れば逢ひし日|念《おも》ほゆ (卷二。二〇九)
   鶯の聲《おと》きくなべに〔三字右○〕梅の花|吾家《わぎへ》の苑《その》に咲きて散る見ゆ (卷五。八四一)
   葦邊《あしべ》なる荻の葉さやぎ秋風の吹き來るなべに〔三字右○〕雁鳴き渡る (卷十。二一三四)
   鶴《たづ》がねの今朝鳴くなべに〔三字右○〕雁がねは何處《いづく》さしてか雲|隱《がく》るらむ (卷十。二一三八)
   雁が音を聞きつるなべに〔三字右○〕高松の野の上《へ》の草ぞ色づきにける (卷十。二一九一)
(68)   見まく欲《ほ》り思ひしなべに〔三字右○〕※[草冠/縵]《かづら》掛《か》けかぐはし君を相見つるかも (卷十八。四一二〇)
   我が兄子《せこ》が琴取るなべに〔三字右○〕常人の云ふ歎《なげき》しもいや重《し》き益すも (卷十八。四一三五)
 つまり、時間的關係もあり、事象もあり、心の關係もあつて一樣でなくして、必ずしも原因結果のことを云つてゐないが、中にはさういふ傾向のものも交つてゐる。『思ひしなべに』とか、『琴とるなべに』などの用例がさうである。併しそれを、『からに』とか『ゆゑに』とか『にしかば』とせずに、『なべに』とつづけたところに、當時の人々の語感をうかがふことの出來る微妙の點が存じてゐるのである。次に參考のために、『なべ』の用例を拾ひ置く。
   耳無《みみなし》の青すが山は背面《そとも》の大御門に宜《よろ》しなべ〔二字右○〕神さび立てり (卷一。五二)
   宜《よろ》しなべ〔二字右○〕吾背の君が負ひ來にし此の勢《せ》の山を妹《いも》とは喚ばじ (卷三。二八六)
   夕されば蝦鳴くなべ〔二字右○〕紐解かぬ旅にしあれば吾《あ》のみして (卷六。九一三)
   神さびて見れば貴く宜しなべ〔二字右○〕見れば清けしこの山の盡きばのみこそ (卷六。一〇〇五)
   今朝の朝明《あさけ》雁が音寒く聞きしなべ〔二字右○〕野邊の淺茅ぞ色づきにける (卷八。一五四〇)
   雲の上に鳴きつる雁の寒きなべ〔二字右○〕萩の下葉は黄變《うつろ》はむかも (卷八。一五七五)
   秋風に山吹の瀬の響《とよ》むなべ〔二字右○〕天雲翔る雁に逢へるかも (卷九。一七〇〇)
   秋風の寒く吹くなべ〔二字右○〕吾が屋前《やど》の淺茅がもとに蟋蟀鳴くも (卷十。二一五八〕
(69)   柔田津に舟乘りせむと聞きしなべ〔二字右○〕何ぞも君が見え來ざるらむ (卷十二。三二〇二)
   卯の花の共にし鳴けばほととぎすいやめづらしも名告《なの》り鳴くなべ〔二字右○〕 (卷十八。四〇九一)
   櫻花今さかりなり難波の海|押照《おして》る宮に聞《きこ》しめすなべ〔二字右○〕 (撃一十。四三六一)
 次に、この一首は、河の瀬の鳴る音と、山に雲の起り動いてゐる現象を咏んでゐるから、その時は風が強かつたに相違ないと解し、または雨が降つてゐたのだと解してゐるのが普通である。それは、實際は風強く、雨も降つたかも知れぬが、一首の字面には、風のことも雨のことも云つてゐない。ゆゑに讀者は主として川浪の音のこと山の雲のことを寫象して味ふ方がよく、風のこと雨のことは意識の奧の方に置いて味ふべきだとおもふ。さうでなくて餘り詮議立てをすると一首の氣勢を害するのである。つまり一首の情景は雨降らむとする前の趣で無論風の吹き渡つたのであらうが(【前の歌の「河浪立ちぬ參考】)、風強しと云はずに山河の瀬の鳴るなべにと云つたところに妙味があるのである。次に參考のため先進の解釋を手抄する。『第九宇治河作歌云。秋風ノ山吹ノ瀬ノナルナヘニ天雲翔ル雁ニ相ルカモ(一七〇〇)。此歌ニヨレバ瀬ノナルハ風ニ依ナリ。又此卷下ニモ卷向ノ川音高シアラシカモトキ(一一〇一)トヨメリ』(代匠記精)。『此歌も、水上雨ふりて山河の瀬音のするは理りかな。うべも弓月がたけに雲こそ立渡ると也。たけに雲の立渡るは水上雨ふりたると云の意也』(童蒙抄)。『風の吹來て浪たち河瀬のなる並に弓月嶽に雲のたつと也』(考)。『雨(70)降といはずしてしらせたり』(略解)。『山河の瀬の鳴るは風の強き爲なり。前の歌とおなじく夕立の趣なり。略解に右二首ともに兩降といはずして知らせたりといへるは非なり。雨はいまだ降らぬなり』(井上新考)。
 次に、この歌は季は何時だらうかといふ問題である。井上氏は夕立前の光景としたから夏季と感じたのだが、この歌は雪解時にしても味へるし、秋の出水ごろの天氣定まらぬ頃としても味へるし、私の如きはもつと寒い頃の歌として味つた時もある。實際初冬に上高地に行き梓川の流の音を聞き穗高に雲のただならぬさまを見てゐると直ちにこの歌を聯想するのであつた。またこの一首に雷のことが無いから、その邊のことは想像もむづかしい。これは鑑賞者が銘々に季を想像して味ふほどの餘裕があるので、その點が歌の特徴であるのかも知れない。併しこの歌は盛夏でも嚴冬でもないこととし、初夏初秋あたり、初冬あたりのものとして味ふのが穩當の如くである。嘗て、俳人側の虚子・碧梧桐氏等と歌人側の節・左千夫等との間に、歌の李に就いて問答したことがある(雜誌馬醉木)。つまり和歌には俳句ほど細かい季の上の約束が成立してゐない、その得失の論であつた。
 この一首は古來萬葉集中の秀歌としては餘り論ぜられてゐなかつた。契沖も眞淵も宣長もこの歌に餘り注目してゐない。選出にもこの歌を拔いてゐないのを見ても分かる。明治になつて萬葉(71)集が流行し出してからでもまたさうである。試に佐佐木氏、窪田氏等の選抄を見れば極めて明かに分かるのであるが、近ごろでは萬葉から秀歌を拔く場合には殆どすべてが此歌を見落さぬやうになつてゐる。佐佐木博士も選釋改訂版でこの歌を増補するに至つた。そしてその源は、伊藤左千夫がこの歌の特色に就いて門人に口傳し、門人等が大正の初年ごろから雜誌アララギを中心として此歌を強調したのに本づくのである。私がこの事をいふたびに、或人は、あが佛尊しと感ずるといふが、これは敢て歌の方ばかりではない、自然科學などの場合でも同じであるが、學問の發展はこれに類似の原因に本づく場合が多いのであり、學問界に於てプリオリテエトを重んじて明記するのはそのためである。私が秘かに學界を見渡すに、學者と自稱するものが、左千夫の左の字も云ないのはどういふわけであるか。私の知るところでは、寡聞のせいもあらうが、萬葉抄(宗祇抄)に、『あなし川かは浪立ちぬ』、『足曳の山川の瀬の』の二首を抄し、前者には、『あなし川、ゆつきがたけ同所なれば、河波を見て雲もたつらしとよめる歟。又移る心にもいへるにや』と注し、後者には、『是はただ眼前にみる當代をよめり』と注してゐるのが目についただけで、これとても秀歌として抽いたのでないことが分かる。それから井上博士の新考で、『二首ともに雄渾にしてめでたし』と評してゐるのは、新考には批評の言葉の尠いのにこの二首に對して如是の評言を書いてゐるのも珍らしく、また卓見だと思ふけれども、新考卷七上の發行になつたのは大(72)正七年十二月であるから、左千夫門の諸家が此歌を云々してから、だいぶ年月が經ち、この歌も餘程大衆化してしまつた頃なのである。
 なほ、亡友島木赤彦は、「歌道小見」に於て、「萬葉集の鑑賞及び其批評」に於て、精細に剖析批評して居るから、一讀せられんことを希望する。
 
          ○
 
  〔卷七・一〇九二〕
  鳴《な》る神《かみ》の音《おと》のみ聞《き》きし卷向《まきむく》の檜原《ひはら》の山《やま》を今日《けふ》見《み》つるかも
  動神之 音耳聞 卷向之 檜原山乎 今日見鶴鴨
 
 以下三首『詠山』の歌の初にあり、第三首の後に『右三首柿本朝臣人麿之歌集出』と注されてある。○動神之 ナルカミノと訓む。ナルカミは萬葉では、雷神、鳴神、響神とも書いた。動神と書いたのも、『雷鳴すれば響き動くものなれば義をもて書けり』(童蒙抄)で大體が分かる。第三句舊訓オトニノミキクを考でオトノミキキシと訓んだ。『鳴る神の』は『音』にかけた枕詞の格である。これまで話にばかり聞いてゐた卷向の檜原の山を實に今日はじめて見たが、いい山である(73)といふぐらゐの歌である。檜原は、集中には、卷向の檜原、三輪の檜原、始瀬の檜原、丹生の檜山等と咏まれて、檜の森林のあつたことが分かる。『音に聞き目には未だ見ぬ吉野河六田の淀をけふ見つるかも』(卷七。一一〇五)。『音にきき目にはいまだ見ず佐用姫《さよひめ》が領巾《ひれ》ふりきとふ君まつ浦《ら》山』(卷五。八八三)。『鳴神の音のみ聞きしみ芳野の眞木立つ山ゆ見おろせば』(卷六。九一三)。『天雲の八重雲隱り鳴神の音のみにやも聞き渡りなむ』(卷十一。二六五八)などの歌があるから、當時かういふ云方が通用的であつたことが分かり、そして厭味が無く一般化し得る傾向を持つて居るものであらう。この一首の聲調は、重厚で亂れず、結句に感慨を籠めたあたりは棄て難いものである。この歌を人麿作とし、人麿を石見あたりの出身として、大和へ上つて來た時此歌を作つたのだらうと考へる學者も居るが、かういふ種類の歌は遙々石見から上つて來なくとも、同じ大和の人間でも、『鳴神の音のみ聞きし』と云ひ得るのであるから、必ずしも人麿を石見の人だと斷ずる材料にこの歌はなり得ない。ただ人麿歌集には、卷向山を中心とした歌が隨分多いから、人麿が或期間この邊に住んで居ただらうと想像することは決して無理ではない。そしてその住みはじめごろの作とこの歌を想像するのは、これも亦そんなに無稽の想像ではあるまい。
 この歌は、拾遺集卷八雜上に人麿作として、『なる神の音にのみきくまきもくの檜原の山をけふみつるかな』とあり、なほ同樣の形のものが柿本集にも載り、六帖第二山の部には、『詠人しらず』(74)として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一〇九三〕
  三諸《みもろ》のその山並《やまなみ》に子等《こら》が手《て》を卷向山《まきむくやま》は繼《つぎ》のよろしも
  三毛侶之 其山奈美爾 兒等手乎 卷向山者 繼之宜霜
 
 三諸《みもろ》は即ち三輪山《みわやま》である。『兒等が手を』は『まく』に續けた枕詞である。一首の意は、三諸山の山つづきに卷向山が連なつてゐるのはいかにも具合よく、佳景だといふので、『繼《つぎ》のよろしも』は此處は空間的關係に云つたが、すべて連續的の場合に『繼ぐ』といふのは、誠に好い用法である。『かりがねも繼ぎて來鳴けば』(卷十五。三六九一)。『秋風はつぎてな吹きそ』(卷七。一三二七)。『鹿《しし》まちに繼ぎて行かましを』(卷三。四〇五)などの例が澤山ある。この歌は山川の光景を云つてゐるのだが、何か生きてゐるものに云つてゐるやうな親しみを感ずることが出來る。それは、山嶽をいふに、兒等が手を纏くなどの聯想語を使つてゐるためもあるが、さうでなくとも一首の聲調にさういふ親しみを以て歌つてゐるところがあつておもしろいと思ふのである。この歌、舊訓(75)『みもろの其山なみに兒等が手を卷もく山は繼ぎてしよしも』であつたのを、ツギノヨロシモと考は訓んだ。童蒙抄では春滿の按として、ツギテシゲシモと訓んでゐる。繁しもの義であらうか。そして、『よろしき事は不v顯して詞にこめたり』といつたが、いかがであらうか。新考ではツグガヨロシモと訓み、ツヅケルガメデタシと解してゐるが、この訓は餘り感心しない。第一調を成さない。
 この歌は、六帖山の部に、『みむろのやその山中に子らが手をまきむく山はつぎてよろしも』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一〇九四〕
  我《わ》が衣《きぬ》も色服《いろぎぬ》に染《そ》めむ味酒《うまざけ》三室《みむろ》の山《やま》は黄葉《もみぢ》しにけり
  我衣 色服染 味酒 三室山 黄葉爲在
 
 この歌は、舊訓、『わが衣《きぬ》の色《いろ》服染《きそ》めたり味酒《うまさか》の三室《かみむろ》の山のもみぢしたるに』であつた。イロニソミタリ(代匠記初書入)。イロニソメタリ(代匠紀精)。ワガキヌモイロヅキソメヌ(童蒙抄)。ワガ(76)キヌノイロヅキソメツ(考)。ワガコロモイロニソメナム(略解)。アガコロモイロニシメナム(古義)。イロニシメテム(新考)。イロギヌニシメム(新訓)。アヂサケノ(拾穗抄)。ウマサケノ(童蒙抄)。ウマサケ(考)。ウマサケヲミムロノヤマハ(略解)。モミヂシニケリ(略解宣長訓)。一首の意味は、三室の山は今や黄葉《もみぢ》した。あの色を以て我が衣を染めよう。この山に入つて美しい黄葉の中に浸らうといふほどの歌である。これも滿山の美しい黄葉の色を見るときにはさういふ氣持にもなり得るのであらうし、當時の染色の方法などのことを聯結して味へばこれも極めて自然の表現のやうにおもへるのである。そして、この歌では矢張り結句の、『黄葉しにけり』といふ、沁々とした咏嘆に留意すべきである。
 
          ○
 
  〔卷七・一一〇〇〕
  卷向《まきむく》の痛足《あなし》の川《かは》ゆ往《ゆ》く水《みづ》の絶《た》ゆること無《な》くまた反《かへ》り《み》見む
  卷向之 病足之川由 往水之 絶事無 又反將見
 
 『詠河』と題した二首中の第一首で、第二首の左注に『右二首柿本朝臣人麿之歌集出』とある。(77)『病足』は古寫本中、『痛足』(類・古・新)となつてゐるのもある。『川音』の訓も、カハニ(元)。カハヨリ(類・古)などといふのがある。『卷向』は、舊訓マキモクであるが、今マキムクと訓むこと前の歌の處で既に云つた。この卷向《まきむく》の痛足川《あなしがは》も既に云つたが、なほ重複を厭はずいふならば、この川は、卷向山と三輪山との間を檜原の裾を西へ流れてゐるもので、即ち現在卷向川といつてゐる川である。現在は支流が纏向村穴師の方に流れてゐて其を穴師川といつてゐるらしいが、これは後世に水を分けたものである。この卷向川(即ち痛足川)は現在は水量は減つて居るが、決して平凡でなく、往昔は水量も多く激しつつ流れて居たものの如くで、『卷向の川音高しも嵐かも疾き』(一一〇一)といふこの歌の次の歌を理解するのに充分である。昭和十年十一月、藤森朋夫氏と二人で踏査した。
 この一首は、上句《かみのく》は下句《しものく》の序詞の形態になつてゐるが、ただ音調上の序詞でなく、實地の風景に即して居るので、作者は痛足川にのぞんで、その痛足川に就いて斯く云つてゐるのである。そこで一首の意は、卷向《まきむく》の痛足《あなし》川を流れ行く水が、斯く絶ゆること無きごとく、絶えず常にこの清き川をば忘れずに來て見よう。といふのに落著くのである。
 この、『絶ゆることなくまたかへり見む』といふやうな思想の歌は、『見れど飽かぬ吉野《よしぬ》の河の常滑《とこため》の絶ゆることなくまたかへり見む』(卷一。三七)。『み吉野の秋津《あきつ》の河の萬世《よろづよ》に斷《た》ゆることな(78)くまた還り見む』(卷六。九一一)などによつても知り得べく、またこの歌の近くにある『泊瀬《はつせ》川|白木綿花《しらゆふはな》に落ちたぎつ瀬を清《さや》けみと見に來し吾《われ》を』(一一〇七)。『吾が紐を妹が手もちて結八川《ゆふはがは・ゆふやがは》また還《かへ》り見む萬代までに』(一一一四)など、皆河の瀬の景色について歌つてゐるから、この歌の意味と作歌動機とを理解することが出來るとおもふ。この動機の中に、特別の人事的・行事的な意味があるかどうか私は知らない。
 『痛足の川ゆ』の『ゆ』も、『往く水の』といふ運動の語に續けて、通過する意をあらはして居るのに注意すべく、この『ゆ』をば、『より』などに置換へずに、直ちに『ゆ』として理會すべきである。この一首は、鑑賞上取立てていふ程のものではないが、その聲調には、その次の歌などと同樣に、緊張してゐて何處か人麿的なところがあると謂つてよく、若しこの歌が實際に人麿の作だとせば、『常滑の絶ゆることなくまたかへり見む』の歌も、この邊の素質の連續とも考へ得べく、かたがた興味ある一首である。
 
          ○
 
  〔卷七・一一〇一〕
  ぬばたまの夜《よる》さり來《く》れば卷向《まきむく》の川音《かはと》高《たか》しも嵐か《あらし》も疾《と》き
(79)  黒玉之 夜去來者 卷向之 川音高之母 荒足鴨疾
 
 〔題意〕 『詠河』第二首である。
 〔語釋〕 ○黒玉之 ヌバタマノで、射干玉といふ意から夜に係る枕詞であることは既に説いた。古訓ではウバタマ、ムバタマ等と訓んでゐる。○夜去來者 ヨルサリクレバと訓み、夜になつて來ればといふ意味で、ヨルサレバといはずヨルサリクレバと云つたのは、聲調の上のみならず、時間的經過を含ませてゐるものと見える。代匠記精に、『ヨルサリハ、ヨサリト云ニ同ジ。伊勢物語ニ、ヨサリ、此有ツル人給ヘト、アルジニ云ケレバ云々』と云つてゐる。○卷向之 マキムクノと訓む。諸古寫本の訓及び奮訓マキモクノであつたことは既に云つた。略解・古義等皆マキムクノで、これは眞淵の考が源であつたやうである。卷向《まきむく》の川《かは》といふのは、卷向山と三輪山から發して流れる川(現在の卷向川)のことであるべく、前の、『卷向《まきむく》の痛足《あなし》の川ゆ往く水の絶ゆることなくまたかへり見む』(一一〇〇)でわかる。○川音高之母 カハトタカシモと訓む。カハオトタカシモ(舊訓)。カハオトタカシ(古葉略類聚抄)等の訓があつたのを、童蒙抄から、カハトタカシモと訓み、考・略解・古義・新考等も同じ訓である。卷四(五七一)に、月夜吉河音清之《ツクヨヨシカハトサヤケシ》。卷十(二〇四七)に、天漢川聲清之《アマノガハカハトサヤケシ》の例がある。○荒足鴨疾 アラシカモトキと訓む。嵐が疾《はや》いかと推量したので、『川音の高きは嵐のはげしきかと也』(考)。『山の嵐のはやければにや、卷向川の川音(80)の高く聞ゆるならむ、さても高きよ。となり』(古義)等でその趣が分かる。
 〔大意〕 一首の意は大體右でわかるごとく、夜《よる》になつて來たところが、卷向《まきむく》の痛足河《あなしがは》の音が高く聞こえる。多分山風が強く吹いてゐるかも知れん。といふのである。
 〔鑑賞〕 それだからこの一首は、作者は痛足河の河浪を眼前に見て居るのではあるまい。その河音の聞こえるあたりの家にゐて作つてゐるやうである。それだから『嵐かも疾き』といつても、現に嵐の音を近くに聞いてゐるのではないらしいのである。一首では川の音の高まつたのを耳で聞いたのが主になつてゐる。
 現に川音の高くなつたのを注意して、それに力點を置いて歌つてゐるのも面白く、それに夜になつたことを云ひ、それも、『夜されば』と云はずに、『夜さりくれば』と云つてゐるのなども、單に聲調を延ばす意味ばかりでなく、時間的經過を暗指してゐるやうに思へる。それから、川の音が變化しつつ高まつて聞こえるのを、『嵐かも疾き』と疑つて一首を結んでゐる歌であるが、かういふ天然現象に鋭敏に參加し力を籠めて歌つたから、一首の聲調が非常に緊張して居る。これも作歌實行の點からいへば容易ならぬことで、特に、結句の、『嵐かも』といつて、『疾《と》き』と二音の語で止めたあたりの力量は實に驚くべきである。また、初句に、『ぬばたまの』といふ枕詞を置き、第三句に『卷向の』といふ固有名詞を置いてゐるのも、中味が單純になり、却つてそのた(81)め聲調のうへでは莊重高渾といふ具合になつてゐるのである。初句の『の』、第三句の『の』は弛むと先師が教へられたが、この一首の弛まぬは、『卷向の川音』と連續するためであらうか。何せよ、一首は夜の暗黒と山河の河浪の音と山風の襲來と相交錯し、流動的、立體的で、不思議に厚みのある歌である。
 この歌の季は、何時頃かと想像したことがあつたので、嵐の用例を拾へば次の如くである。
  み吉野《よしぬ》の山の下風《あらし》の寒けくにはたや今夜《こよひ》も我がひとり寢む (卷一。七四)
  大海に荒《あらし》な吹きそしなが鳥|猪名《ゐな》の湊に舟泊つるまで (卷七。一一八九)
  霞立つ春日《かすが》の里の梅のはな山の下風《あらし》に散りこすなゆめ (卷八。一四三七)
  梅の花散らす冬風《あらし》の音のみに聞きし吾妹《わぎも》を見らくしよしも (卷八。一六六〇)
  君が見むその日までには山下《やまおろし》の風な吹きそとうち越えて (卷九。一七五一)
  あしひきの山の下風《あらし》は吹かねども君なき夕《よひ》は豫《かね》て寒しも (卷十。二三五〇)
  佐保の内ゆ下風《あらしのかぜ》の吹きぬれば還りは知らに歎く夜ぞ多き (卷十一。二六七七)
  窓越しに月おし照りてあしひきの下風《あらし》吹く夜は君をしぞ念ふ (卷十一。二六七九)
  さ夜ふけて荒風《あらし》の吹けば立ちとまり待つわが袖にふる雪は凍りわたりぬ(卷十三。三二八〇)
  さ夜|深《ふ》くと阿下《あらし》の吹けば立ち待つにわが衣手に置く霜も水《ひ》に冴え渡り (卷十三。三二八一)
(82)  衣手に山下《あらし》の吹きて寒き夜を君來たらずは獨かも寢む (卷十三。三二八二)
 右のごとく、嵐の李は必ずしも冬季と限つてはゐないが、後世の用法のごとくにやさしい風でないことが分かる。そこでこの歌の場合も、何となし、『寒く荒い風』のやうな氣がして、さう解して來た。まへに評釋した『雲居たてるらし』、『雲たちわたる』は、鬱勃とした、清澄でない趣だが、この方はどうも寒く鋭い氣特がしてならない。
 
          ○
 
  〔卷七・一一一八〕
  いにしへにありけむ人《ひと》も吾《わ》が加《ごと》か三輪《みわ》の檜原《ひはら》に插頭《かざし》折りけむ
  古爾 有險人母 如吾等架 彌和乃檜原爾 插頭※[手偏+力]〔折〕兼
 
 『詠葉』二首の第一首である。二首の後に『右二首柿本朝臣人麿之歌集出』とある。『※[手偏+力]』は、諸本(【元・類・神・細・温・矢・京・無・附】)に、『折』に作つて居る。『檜原爾』は、舊訓ヒノクニ。古寫本等みなヒハラニ。代匠記も校本ヒハラニを記載し、童蒙抄ヒハラニ(古義同訓)。考ヒバラニ(略解同訓)。
 一首の意は、昔の人々も現在の吾のする如くにか、この三輪の檜原に來てその葉を折つて插頭《かざし》(83)にしたであらうといふのである。插頭《かざし》は、『春べは花折り插頭《かざ》し秋たてば黄葉《もみぢば》插頭《かざ》し』(卷二。一九六)などの如くに、男でも女でも插頭にしたと見える。この歌は、葉を咏んだ歌だから、小さい檜の枝の葉のつもりであらう。つまりさうして插頭にするといふことは、一種親愛の情で、相聞戀愛の心にかよふのであるから、親しんだ女などを心中に持つてかういふことを云つてゐるのだかも知れない。併し先づ表面の字どほりに解してそれから、奥にこもつてゐる情調を味ふべきである。
   近江《あふみ》の海湊は八十《やそ》ありいづくにか君が船|泊《は》て草結びけむ (卷七。一一六九)
   暮《よひ》に逢ひて朝《あした》面《おも》無み名張《なばり》にか日《け》ながき妹が廬《いほり》せりけむ (卷一。六〇)
   眞木《まき》の葉の撓《しな》ふ勢の山|忍《しぬ》ばずて吾が越えゆけば木《こ》の葉《は》知りけむ (卷三。二九一)
   春霞春日の里の殖子水葱《うゑこなぎ》苗なりといひし枝《え》はさしにけむ (卷三。四〇七)
 是等の歌は皆、結句に『けむ』のあるものであつて參考となる。それから、この一首には、『けむ』が二つ咏み込んである。これなども、留意して氣にすれば、氣になり邪魔になるのだが、さういふことを餘り氣にせずに味へば、そんなに氣にならないものである。併し、若しこの二つの『けむ』をば特に技巧が旨いなどといつて褒める批評家が居たら、その人は器械的な批評家であるだらう。
(84) 次に、この歌は既に評釋した、『古《いにしへ》にありけむ人も吾が知《ごと》か妹に戀ひつつ宿《い》ねがてずけむ』(卷四。四九七)といふ人麿の歌と、その形も大に似てゐるから、元は一つで少し違つて傳はつてゐるのかも知れない。そして、卷四の方は、意味も明快で、合理的に出來てゐるが、この方はもつと素樸で民謠的に出來てゐる。どちらが原作だか不明で、或は卷四の方が原歌で、この方が稍民謠化したものかも知れないが、歌として味ふときには、この歌の方が寧ろ感が深いやうである。
 此歌、六帖及び拾遺集雜上に、人麿作『古《いにし》へにありけむ人もわが如《ごと》や』とあり、柿本集にも載り、和歌童蒙抄に、『イニシヘノアリケムヒトモワカコトヤミワノヒハラニカサシヲリケム』とある。
 
          ○
 
  〔卷七・一一一九〕
  往《ゆ》く川《かは》の過《す》ぎゆく人《ひと》の手折《たを》らねばうらぶれ立《た》てり三輪《みわ》の檜原《ひはら》は
  徃川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之檜原者
 
 同じ題の歌である。○過去人之 舊訓スギユクヒトノ。古寫本中スキコシヒトノ(元)。スキニ(85)シヒトノ(類・古・神)。代匠記精スギニシヒトノ(【考・略解・古義・全釋同訓】)。童蒙抄スギユクヒトノ(新考・新訓同訓)。『往川ノトハ下ニミワノヒハラト云ニヨルニ、ミワ川ヲカクイヒテ、孔子ノ逝川ノ歎ヲ兼テ、過去人トイハム爲ナリ。今按スギニシ人トモ讀ベシ。第九ニ此モ人丸集ノ歌ニ、往水ノ過去妹ガトヨメルニ同ジ。過去人トハ上ノ歌ニ、古ニ有ケム人ト云ヘル人ナリ』(代匠記精)。『案ずるになほスギユクとよむべし。此處をすぎ行く人なり』(新考)。
 初句の『往く川の』は枕詞の格に使つてゐる。其處を過ぎゆく人が誰も檜原の葉を手折つて插頭にしないから、悲しげな樣子で檜原が見えるといふのである。これも自然を一つの戀愛情調にして見てゐるのである。第二句、代匠記で、『今按スギニシ人トモ讀ベシ』と云つたので諸抄それに從つてゐるのは、つまり、『古人』の意味にとつてゐる。『是ハ、昔ノ人ノ又モ來テタヲラヌヲ戀ルサマニ云ヘリ。此歌ヲ以テ上ノ歌ヲ見ルニ、古有ケム人モ今我カザシ折如クコソ折ケムヲ、又モタヲラヌヲ、檜原ノウラブレテ戀レバ、イツカ又我モタヲラズナリテ、檜原ニ戀ラレムトナリ。初ノ歌ハ、本意ヲ略シテ云ヒテ、後ノ歌ハ委シク云ヘリ。古歌ハカカル事オホシ』(代匠記精)といふので大體わかる。童豪抄では人が死に行いての意に解して居り、考では問答體とし、古義もその氣持でこの二首を解して居る。併し、この第二首目は寧ろ眼前の景として解釋する方がいいのではなからうか。『過ぎにし人の手折らねば』といふのに少し無理、感情上の無理があるので(86)はなからうかと思ふのである。新考も新訓も舊訓に從ひ、新考では、『此處をすぎ行く人なり』と云つたこと、前記のとほりであるが、武田博士の新解では、『前の歌に對して、みづから答へたやうな内容の歌である。この三輪の檜原は、昔人もやはり自分のやうに手折つてもてはやしたであらうかといひ、いやいや昔人は手折らないで、相手にされずに立つてゐると、これを説明して、三輪の檜原を憐んだやうな氣分がある』と論じてゐるが、どういふものであらうか。また、新考では、『當時はやく人心あだめきて花もなき常葉木ををりかざす事などはせざりしなり。作者は古風なる人にて三輪の檜原にかざしを折るとて古人を偲び又檜原の今は人に折られぬを憐めるなり』と云つてゐる。それからこの二首を問答歌の如く、連作のごとくに古來取扱つてゐるが、縱ひ同じ時に咏んだ歌だと假定しても、意味の上の連作ではないのである。前の歌で質問して後の歌で答へてゐるのでは無い。その關係をはつきりして置けば解釋はむづかしくない。
 前の歌には所謂抒情詩要素が多分にあり、從つて傳誦され、一般化され、民謠化される傾向をもつてゐるものである。此の歌もまた同樣である。
 ウラブルは心觸《ウラフル》で、憂鬱、怏々、悄然、などの意があり、心屈して萎え、しをしをとしてゐることである。『人皆のうらぶれ居るに』(卷五。八七七)。『秋山の黄葉《もみぢ》あはれとうらぶれて』(卷七。一四〇九)。『君に戀ひ萎えうらぶれ吾が居れば』(卷十。二二九八)等用例が多い。此處は、檜の森(87)林が悄然としてゐる趣の歌で、且つ意圖した譬喩も目立たずに渾然としてゐるところに注意を拂つていい。
 この歌は、和歌童蒙抄に、『ユクカタノスキニシヒトノタヲラネハウラフレタテリミワノヒハラハ』として載つて居る。
 
          ○
 
  〔卷七・二八七〕
  網引《あびき》する海子《あま》とや見《み》らむ飽浦《あくうら》の清《きよ》き荒磯《ありそ》を見《み》に來《こ》し吾《われ》を
  網引爲 梅子哉見 飽酒 精荒磯 見來吾
 
 覊旅作の中にあつて、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注がある。○海子哉見 アマトヤミエム(元・京)。アマトヤミツル(古・神)などと訓んだ古鈔本もある。また考でアマトカモミムと訓んだ。○荒議 舊訓アライソ。考でアリソと訓んだ。○飽浦 舊訓アキノウラ。童蒙抄アコノウラ。考アカノウラ。略解アクラ。古鈔本中古葉略類聚抄にアクウラとあり、新考・新訓・全釋等さう訓んでゐる。或はアクノウラと訓んでもいいかも知れない。
(88) 飽浦《あくうら》は卷十一(二七九五)に、『紀《き》の國の鞄等《あくら》の濱の忘貝《わすれがひ》我は忘れず年は經《ふ》れども』とある飽等《あくら》と同じ處だらうと云はれてゐる。さすれば和歌山縣|海草《かいさう》郡|加太《かだ》町の南方|田倉《たくら》埼といふ邊だらうと云ふ。略解に、『今、加太庄加太村の西にありとぞ』。玉勝間【卷九。紀の國の名所ども】に、『飽等濱は海士《アマノ》郡|賀田《カタノ》浦の南の方に田倉崎といふ所ある是なりと里人のいひ傳へたりとぞ』とある。然るに、備前兒島郡に飽浦《あくら》があり、『今|甲浦《かふうら》村の大字にして宮浦《みやうら》の西とす』(地名辭書)とあるが、鴻巣氏の全釋には、『或は其處かも知れない』。『左註のやうに人麿歌集に出てゐるから、卷三の藤江の浦の歌と同人の作とすれば、飽浦を備前と考へる方がよいかも知れない』と云つてゐる。
 一首の意は、この飽浦《あくら》の清い荒磯《ありそ》の景色に憧憬して見に來た私をば、漁業をする海人《あま》が網《あみ》引《ひ》いてゐるのだと見るであらうといふのである。
 この歌は、既に評釋した、『荒栲《あらたへ》の藤江の浦に鱸《すずき》釣る白水郎《あま》とか見らむ旅ゆく吾を』(卷三。二五二)といふ歌に似て居るので、この卷三の方が原歌で、卷七の方は流傳の際に變化し、一般化し、民謠化したものとも想像することも出來るし、或は卷七のと卷三のとは共に人麿の作で、時と處とを違へて作つた同一傾向、同一手法の歌だかも知れないが、卷三の方は實質的で優れて居り、卷七の方は稍輕く稀薄になつて居るので比較上有益だとおもふ。『潮早み磯囘《いそみ》に居ればあさりする海人《あま》とや見らむ旅行く我を』(卷七。一二三四)。『濱清み磯に吾(89)が居れば見む者《ひと》は白水郎《あま》とか見らむ釣もせなくに』(卷七。一二〇四)。『藤浪を假廬《かりほ》に造り灣廻《うらみ》する人とは知らに海人《あま》とか見らむ』(卷十九。四二〇二)などは同じやうな表現の傾向を有つた歌で、或は人麿の卷三の歌が原動力となつたとも想像せられるし、海人《あま》の職業なり部族なりが、特にかういふ表現を取らしめた原因となつたものとも想像せられる。いづれにしても一つの傾向と看做して味ふことの出來る歌である。
 
          ○
 
  〔卷七・一二四七〕
  大穴牟遲《おほなむち》少御神《すくなみかみ》の作《つく》らしし妹背《いもせ》の山《やま》を見《み》らくしよしも
  大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉
 
 覊旅作中にあり、以下四首の終に、『右四首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ注がある。
 ○作 流布本ツクリタル。古寫本中ツクリケル。ツクリケム等の訓もあつた。考で、ツクラシシと訓んで、『今本つくりたると訓しはひが事なり。さしもの御神なれば崇てこそよまめ』(考)と云つてゐる。併し此處はツクリタルでも調べをなしてゐるとおもふ。○見吉 流布本ミレバシ(90)ヨシモ。古寫本中ミレバウレシキ(神・古)。ミルハシヨシモ(西・細)の訓があり、代匠記精でミラクシヨシモと訓んだ。『落句ハ拾遺ニハ、ミルゾウレシキ、人丸集ニハ、ミルガウレシサ、袖中抄ニハ、ミレバシルシモ。此等ノヨミヤウ字ニ叶ハネバ改タル歟。六帖ニハ、ミルハシモヨシ。幽齋本ニハ、ミルハシヨシモナリ。或本ニハ毛ヲ加ヘタリ。今按第六坂上郎女詠2元興寺里(ヲ)1歌、并ニ第八尾張連歌ノ落句ニ准ジテ、ミラクシヨシモト讀ベシ』(代匠記精)。次に、『山』をば、從來ヤマヲと訓んでゐたのを古義でヤマハと訓み新訓等もそれに從つたが、新考では舊訓に復せしめて、『卷六にナラノ明日香|乎〔右△〕ミラクシヨシモ、また卷八にオトノミニキキシ吾妹|乎〔右△〕ミラクシヨシモとあれば、契沖千蔭の如く山ヲとよむべし』と云つた。用例の方から行けばヤマヲであらうか。『大穴道《オホナムチ》少御神《スクナミカミ》』は大己貴命《おほなむちのみこと》(大國主命《おほくにぬしのみこと》)と少彦名命《すくなひこなのみこと》の二神をいふ。日本紀神代卷に『大己貴命與2少彦名命1戮v力一v心經2營天下1』云々とあり、古事記上卷に、『大穴牟遲與2少名毘古那1二柱神、相並《アヒナラバシテ》、作(リ)2堅《カタメタマヒキ》此國1』云々とあり、出雲風土記に、『飯石郡多禰郷、所2造天下1大神、大穴持命、與2須久奈比古命1巡2行天下1時、稻種墮2此處1故云v種《タネ》』云々とあるによつて、ツクラシシの語意も明かである。卷三(三五五)に、『大汝《おほなむち》少彦名《すくなひこな》の座《いま》しけむ志都《しづ》の石屋《いはや》は幾代《いくよ》經ぬらむ』。卷六(九六三)に、『大汝《おほなむち》少彦名《すくなひこな》の神こそは名づけ始《そ》めけめ名のみを名兒《なご》山と負ひて吾が戀の千重の一重も慰めなくに』といふのがある。
(91) 『妹勢能山』は妹山《いもやま》・背山《せやま》で、從來諸説があるが大體、背山は紀伊國伊都郡笠田村字背山にあり、妹山はそれと相對して紀の川の北岸にあると云はれてゐる。大和にもあるといはれ、また玉勝間のやうに普通名詞の如くに取扱ふ説もあつて、それがまた不合理ではないのであるが、この歌の場合は大和との交通もあつて人麿なども旅してゐる紀伊の實在の山と見立てて鑑賞してかまはないと思ふ。『後れ居て戀ひつつあらずは紀の國の妹背の山にあらましものを』(卷四。五四四)。『紀道《きぢ》にこそ妹山《いもやま》ありと云へ櫛上《くしげ》の二上山も妹《いも》こそありけれ』(卷七。一〇九八)。『背の山に直《ただ》に向へる妹《いも》の山|言《こと》許せやも打橋わたす』(卷七。一一九三)。『人ならば母の最愛子《まなご》ぞあさもよし紀の川のべの妹と背の山』(卷七。一二〇九)。『吾妹子に吾が戀ひゆけば羨《とも》しくも並び居るかも妹と背の山』(卷七。一二一〇)。『麻衣《あさごろも》著《け》ればなつかし紀の國の妹背《いもせ》の山に麻蒔く吾妹』(卷七。一一九五)。『紀の國の濱に寄るとふ鰒珠《あはびたま》拾はむといひて妹の山背の山越えて行きし君』(卷十三。三三一八)などの例が參考になる。
 一首の意は、大己貴《おほなむち》神と少彦名《すくなひこな》神とが協力して天下を經營なされたときにお作りになつた、この妹背《いもせ》の二つの山は、幾ら見ても飽くことを知らぬよい山である。
 この歌は紀伊に旅して妹山と背山とを前にして作つた趣のもので、それに神代の事柄を以てこの山の形容としてゐる。この神代説話に對する信仰は現代の吾等の心持と大に違ふから、かうい(92)ふ無理のない自然の調子が出て來るのだとおもへる。何等の奇のない樂々と咏んだ歌で、この材料ならば人麿が咏んでも誰が咏んでも先づこのくらゐなものだといふ氣がしてゐる。つまりたいした歌ではないのである。
 次に、『妹背の山を』とするか、『妹背の山は』とするかといふ問題であるが、『山は』とすると、そこに感動を籠めて瞬間の休止がある。その用法と類似のものは、多少づつの變化を以て、『わが欲りし野島は〔右○〕見せつ』(卷二。一二)。『瀧の都は〔右○〕見れど飽かぬかも』(同卷。三六)。『いる圓方《まとかた》は〔右○〕見るに清けし』(同卷。六一)。『我妹子に猪名野は〔右○〕見せつ』「卷三。二七九)。『不盡の高峯は〔右○〕見れど飽かぬかも』(同卷。三一九)。『味原《あぢふ》の宮は〔右○〕見れど飽かぬかも』(卷六。一〇六二)。『奈良の都は〔右○〕忘れかねつも』(卷十五。三六一八)。『久方の天照る月は〔右○〕見つれども』(同卷。三六五〇)。『妹が心は〔右○〕忘れせぬかも』(卷二十。四三五四)。『おもかげに見えつつ妹は〔右○〕忘れかねつも』(卷八。一六三〇)。『嬬待《つままつ》の木は〔右○〕古人《ふるひと》見けむ』(卷九。一七九五)。大體さういふやうな用例で、『は』と用ゐて、『を』と云つてゐない。
 次に、『見らくしよしも』 の例は殆ど皆、『を』から續けて居り、また、『山の端のささらえ壯子《をとこ》天の原|門《と》渡る光見らくしよしも』(卷六。九八三)。『春山のさきのををりに春菜つむ妹が白紐《しらひも》見らくしよしも』(卷八。一四二一)の如くに助詞を略したのでは、『を』を補充すればよいのが多い。(93)また、『清き川原を見らくし惜しも』(卷六。九一三)の如き例もあるのだから、ミラクシヨシモとの連續は、『を』の方が自然であるのかも知れない。併し、この歌の場合は、『妹背の山は見らくしよしも』として味へないことはない。現に古義ではさう訓んで居るのである。
 この歌、拾遺集、古今六帖、柿本集、和歌童蒙抄抄、袖中抄等に載つて居る。訓の違ふところは、ツクレリシ、ミルゾウレシキ(拾遺集)。スクナヒコナノツクリタル、ミルハシモヨシ(六帖)。ツクレリシ、ミルガウレシサ(柿本集)。ツクリタル、ミレバシルシモ(袖中抄)等で、和歌童蒙抄には、『オホナムチヽヒサミカミノツクリタルイモセノヤマヲミルカナツクモ』となつて居る。
 
          ○
 
  〔卷七・二一四八〕
  吾妹子《わぎもこ》と見《み》つつ偲《しぬ》はむ沖《おき》つ藻《も》の花《はな》咲《さ》きたらば我《われ》に告《つ》げこそ
  吾妹子 見偲 奧藻 花開在 我告與
 
 自分の愛する女と思つてそれを偲ぶ縁として沖つ藻の花を見たいから若し花が咲いたら云つて呉れよといふ意の歌で、これは略解の説である。この方が古歌らしくていい。それから、愛する(94)女と一しよに玩賞するから若し沖つ藻の花が咲いたら云つてくれよといふやうにも解してゐる。これは古義などの説である。この解は普通で誰にでも分かる解釋だが、この場合は、『其花をだに妹と思ひて偲ばんの意なり。【中略】故郷に妹を殘し置きて詠めるなるべし。告コソは、海人などに言ひ懸けたるさまなり』(略解)に從ふ方がいいと思ふ。新考も略解に從つたが、今次に少しく理由を記さう。
『 直《ただ》の逢《あひ》は逢ひかつましじ石川に雲立ちわたれ見つつ偲ばむ』(卷二。二二五)。『面形《おもがた》の忘れむ時《しだ》は大野《おほぬ》ろにたなびく雲を見つつ偲ばむ』(卷十四。三五二〇)のやうな場合に、雲を見つつ偲ぶのであるが、雲を見つつ何を偲ぶかといふに、相愛の男なり女なりを偲ぶのである。そこでこの歌の如き場合に、沖つ藻の花を見つつ偲ぶのなら何を偲ぶかといふことになると、相愛の者即ちここでは吾妹子《わぎもこ》を偲ぶといふことになる。それには略解のやうに解せねば意味がとれない。『雲だにも著《しる》くしたたば意《こころ》遣《や》り見つつしをらむ直《ただ》に逢ふまでに』(卷十一。二四五二)は稍趣が違ふが、これも何を當にして居るかといふに妹を當にしてゐるので、その點は同樣である。『ひさかたの天《あま》光《て》る月の隱りなば何になぞへて妹を偲ばむ』(卷十一。二四六三)は、明らかに『妹を』と云つて居る。ほかの歌ではその『妹を』或は『背を』といふのを略して居るのである。この意味に於て古義の、『妹と共に見つつ愛《シヌバ》むの意なり』といふ解釋に不滿の點があるのである。それなら、『と』の用法(95)に『として』、『と見立てて』といふやうに使つた用例があるかといふに次の如きがある。
   志賀の山いたくな伐りそ荒雄《あらを》らが所縁《よすが》の山と見つつ〔五字右○〕偲ばむ (卷十六。三八六二)
   足柄の八重山越えていましなば誰をか君と見つつ〔五字右○〕偲ばむ (卷二十。四四四〇)
 この場合には、『山として』。『山と思つて』。『君として』。『君と思つて』の義で、『と共に』の義では無い。そんならば、『と』に『と共に』といふ用例が無いかといふに、これは又あるのである。
   吾背子と二人見ませぼ幾許かこの零る雪のうれしからまし (卷八。一六五八)
   吾妹子《わぎめこ》と二人我が見しうち寄《え》する駿河の嶺らは戀《くふ》しくめあるか (卷二十。四三四五)
   吾背子と二人し居れば山高み里には月は照らずともよし (卷六。一〇三九〕
   人もなき國もあらぬか吾妹子と携《たづさ》ひゆきて副《たぐ》ひて居らむ (卷四。七二八)
 その他、『吾妹子と二人わがねし』とか、『吾妹子とさねし妻屋に』などの例があり、皆『と共に』の意味である。併し、『偲ばむ』の場合には應用出來ない。もつとも、古義の如く、『偲ばむ』をば、『愛《しぬ》ばむ』と書直せば解釋のつかないことがないが、さういふ面倒をする必要を見ないのである。
 この歌は、舊訓は、『我妹子《わぎもこ》が見つつ偲《しぬ》ばむ奧《おき》つ藻の花咲きたらば我に告げ來《こ》よ』といふので、(96)大體それで解釋してゐた。初句ワギモコトと訓んだのは童蒙抄で、同書には三通《みとほり》の訓をあげ、その一つに、『我妹子と見つつしのばむ【中略】われにのらまく』といふのがあつた。それから結句は眞淵が與は乞の誤だとして、『告げこそ』と訓んだが、これは與のままでさう訓めるのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二四九〕
  君《きみ》がため浮沼《うきぬ》の池《いけ》の菱《ひし》採《つ》むと我《わ》が染《し》めし袖《そで》ぬれにたるかも
  君爲 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉
 
 舊訓、『君《きみ》がため浮沼《うきぬ》の池《いけ》の菱《ひし》採《と》るとわが染《そ》めし袖ぬれにけるかな』であつたのを、アガシメコロモ(古義)。ワガシメシソデ(新訓)。ヒシツムト(代匠記初)。ヌレニタルカモ(考)等の經過を經て居る。古寫本中イケニ(古)。ワカソメソデノ(元・類・古・細)。ワカソメルソテ(温)等の訓がある。古義の訓は、『袖』は、『衣』の誤寫だとしたものであつた。
 一首の意は、君のために浮沼《うきぬ》の池《いけ》に入つて菱の實を採《つ》んだところが、わが染《そ》めた衣《ころも》の袖《そで》が濡れたといふ意味の歌である。染衣《しめごろも》は古事記上に、『染《そ》め木《き》が汁に斯米許呂母《しめごろも》をまつぶさに取りよそ(97)ひ』とあるので、『染《し》む』の用例は明らかである。浮沼の池は古義に、『未(ダ)考得ず、八雲御抄に、石見と載させたまへるは、いかがあらむ』と云つたが、石見國名跡考に佐比賣《さひめ》山の中の池としてゐる。即ち現在の三瓶《さんべ》山麓の池で、大日本地名辭書にもさう記載してゐるが、萬葉の浮沼池が此處だかどうか不明としてある。併し、石見國名跡考の著者はこの前の歌の中の妹背山をも紀伊ではなくて、石見だとし、やはり佐比賣山の一部と考へてゐる。
 この歌は、東歌などに流れてゐる情調に似、素朴單純で、民謠的のいい味ひを持つてゐるものである。假に浮沼池を石見だとし、人麿と關係があるとしても、人麿と佐比賣山との關係は不明であるから、或は人麿作とせずに古歌をば人麿歌集に書きとめたものと想像することも亦可能である。いづれにしても、菱の實云々がおもしろいのである。『君がため山田の澤に惠具《ゑぐ》採《つ》むと雪消《ゆきげ》の水に裳の裾ぬれぬ』(卷十。一八三九)。『あしひきの山澤囘具《やまさはゑぐ》を採みにゆかむ日だにも逢はせ母は責むとも』(卷十一。二七六〇)。『豐國の企玖《きく》の池なる菱《ひし》の末《うれ》を採《つ》むとや妹が御袖《みそで》ぬれけむ』(卷十六。三八七六)等の例がある。
 この歌、六帖に、『君がため浮沼《うきぬ》の池に菱とるとわがそめし袖のぬれにけるかも』とある。
 
          ○
 
(98)  〔卷七・一二五〇〕
  妹《いも》がため菅《すが》の實《み》採《みと》りに行《ゆ》きし吾《われ》山路《やまぢ》にまどひこの日《ひ》暮《く》らしつ
  妹爲 菅實採 行吾 山路惑 此日暮
 
 舊訓、『妹がため菅の實|採《と》りて行く吾を山路まどひてこの日暮らしつ』であつた。スガノミトルト、スガノミトリニ(代匠記精)。スガノミトリニユクワレハ(意蒙抄)。スガノミヲトリユクワレヲ(考)。ユキシアレヤマヂニマドヒ(古義)。スガノミトリニ又スガノミツミニ(新考)等の訓がある。
 スガノミは、菅《すが》は、説文に菅、茅也とあり、古事記(卷中)に、須賀多多美《スガタタミ》。萬葉(卷十四。三三六九)に、須賀麻久良《スガマクラ》等とあり、和名鈔に、菅、和名|須計《スゲ》。新撰字鏡に、※[草がんむり/多]、須介《スゲ》とある。菅には種類があつて、白茅、菅茅、黄茅、香茅等、禾本科と莎草科の中に出入した類似のものの總稱であらう。そして、『菅の實』をば、『菅茅の實』と解せば、穗に結ぶ細實であるから、食用と解することも困難であり、鑑賞用と解しても亦無理である。然るに、一方には、『菅の實』は、『山菅《ヤマスゲ》の實』だとする解釋は代匠記あたりからずつとある。ヤマスゲは、和名鈔に、本草云、麥門冬《バクモントウ》。和名|夜末須介《ヤマスゲ》とあるもので、ジヤノヒゲ、ジヨウガヒゲ、リユウノヒゲ、Ophiopogon japonicus(99)と稱へる百合科の常緑草である。これを小葉麥門冬とも稱へる。なほ、大葉麥門冬《タイエフバクモントウ》、オホバジヤノヒゲ、Ophiopogon planicapus があり、紫藍色の實が生る。なほ、ヤブラン、Liriope gramininiforia があり、【これを狹義の麥門冬とも稱し或はこれを大葉麥門冬と稱する本草書もある】なほ、ヒメヤブラン、Liriope minor があり、共に黒紫色の果實を結ぶから、古代に此等を總べて一名で稱へてゐたとせば、スガノミ。ヤマスゲノミは此等數種の實を含めたとも解し得るであらう。また、ジヤノヒゲ、ヤブラン等の根は、滋補、※[衣+去]痰、止嗽、瀉熱、明目等の藥用にするが、この歌の場合はその目的ではあるまい。そこで、實驗するに、麥門冬の實(特にヤブランの實)の黒紫の皮質も、彈力のある白質の部も噛めば甘い味がある。即ち甘味の調理に用ゐたものとも考へることが出來る。なほ黒紫の皮質の部はこれを白布に摺れば紫の色に染まり容易に褪めない。即ち衣を摺染乃至浸染にする料に用ゐたことが分かる。歌の『妹がため』といふのは、主としてこの爲めではなからうか。そしてこの場合の『菅の實』は、『ヤブランの實』であらう。萬葉(卷四。五六四)に、『山菅の實ならぬことを吾に依せ言はれし君は誰とか宿《ぬ》らむ』があり、そのヤマスゲの實をも、ジヤノヒゲの實、ヤブランの實即ち麥門冬の實と普通解して居るやうである。
 そこで一首の意味は、吾妹子のために(【衣を摺染にするための】)山菅の實を採りに行つたところが道を迷つて一日すごしたといふのである。
(100) これも一種の相聞情調で、古代の人々は、かういふことを云ひながら勞働などにつれて歌つたやうにもおもはれる。それほど素朴でもあり、民謠的でもある。而して何等の思はせぶりがなくて、何ともいへぬいい氣特である。ここの三首などは人麿の歌かも知れないが、或はさうでなくて人麿以前の作かも知れない。つまりその頃既に古歌といふ部類であつたかも知れない。『妹がため玉を拾ふと紀の國の由良の岬《みさき》にこの日暮らしつ』(卷七。一二二〇)。『春の雨にありけるものを立ち隱り妹が家道《いへぢ》にこの日暮らしつ』(卷十。一八七七)。『明日香河行く瀬を早みはやけむと待つらむ妹を此の日暮らしつ』(卷十一。二七一三)等の例がある。
 この歌六帖に、『妹がためすがの實とるとゆくわれは山路まよひて此日くらしつ』とある。
 
          ○
 
  〔卷七・一二六八〕
  兒等《こら》が手《て》を卷向山《まきむくやま》は常《つね》なれど過《す》ぎにし人《ひと》に行《ゆ》き纏《ま》かめやも
  兒等手乎 卷向山者 常在常 過往人爾 往卷目八方
 
 以下二首『就所發思』の題で、『右二首柿本朝臣人麿歌集出』と左注がある。○兒等手乎 コラ(101)ガテヲと訓む。女の手を枕にするので、同音のマクに續けた。○常在常 ツネナレドと訓む。古寫本中ツネニアレド(元)。ツネアレド(類)の訓もある。○過往人爾 スギニシヒトニと訓む。舊訓スギユクヒトニであつたのを、童蒙抄でスギニシヒトニと訓んだ。○往卷目八方 ユキマカメヤモと訓み、往き逢うて共に寢ることがあらうか、ない。と反語になるのである。
 一首の意は、愛人の手をまくといふのに似た名の卷向山は、このやうに變《かはり》なくあるけれども、死んだ愛人に二たび往き逢うて、手を枕にして共に寢ることはもはや出來ない。
 この歌を人麿の作だとせば、ただの空想的な作でなく、實際に戀人の死んだ時の歌のやうに受取れる。そして一首の哀韻に人麿的なところがあつて棄てがたい。『發句ハ此卷上ニモ有シ如ク、卷向トツヅケム爲ナガラ、是ハ人丸集ノ歌ナレバ、妻ノ死去ノ後ヨマルル歟。サレバコラガ手ヲ卷向ト云山ハ動ナクテ常ナレド、ソレハ唯名ノミニテ、過テイニシ人ノモトニ我ユキテ又手枕スル事アラムヤハト、山ヲ見テ名ニ感ジテヨマレタルベシ』(代匠記精)とあるのは、やはり、妻の死んだ時の歌だらうと想像してゐるのであるが、さて、妻の死といふのは、輕の里にゐた妻のことであらうか否か、その邊のことになると皆想像を以て補充しなければならない。
 この歌の次に、『卷向の山邊響みて往く水の水沫のごとし世の人われは』(一二六九)があるので、その歌について、契沖は、『人麿の哥に、惣じて無常を觀じたる哥おほし。大權の聖者にて和光同(102)塵せるなるべし』(代匠記初)。『サキノ歌(一二六八)ハ他ノ上ヲ云ヒテ、此歌(一二六九)ハ自ノ上ヲ省ルナリ。人丸ハヨク無常ヲ觀ジタル人ナリ』(代匠記精)と云つてゐる。實際此處にある二首も、宇治川の網代木の白浪の歌も無常觀には相違ないが、それを以て直ぐに佛教の無常觀の影響だと決めてしまふのはどうかと私はおもふもので、そのことは既に、宇治川の歌のところで説明して置いた筈である。愚見では、沙彌滿誓の、『世間《よのなか》を何に譬へむ朝びらき榜《こ》ぎ去《い》にし船の跡なきごとし』(卷三。三五一)といふ歌と、人麿の宇治川の歌、乃至此處の人麿歌集の二首とはその内容も作歌動機も大に違ふものと爲してゐるのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二六九〕
  卷向《まきむく》の山邊《やまべ》とよみて行《ゆ》く水《みづ》の水泡《みなわ》のごとし世《よ》の人《ひと》吾《われ》は
  卷向之 山邊響而 往水之 三名沫如 世人吾等者
 
 〔語釋〕 ○卷向之 マキムクノで、卷向山である。○山邊響而 ヤマベトヨミテと訓む。卷向山の近くを流れる河、多分痛足河ででもあらうか、水の音が高く響きつつ行く趣である。舊訓ヤ(103)マベヒビキテと訓み、代匠記・考これに從ふ。元暦校本ヤマヘトヨミテと訓み、ヒヽキテとも注してゐる。類聚古集はヤマヘヒヽキテと訓み、右にヤマノヘヒヽキト記しある。神田本ヤマヘトヨミテ、童蒙抄・略解・古義等多くさう訓んでゐる。古義ではヤマヘと清んで發音せしめてゐるのはモミチ流だが、この清濁に餘りくどくど云ふのはこちたい。ヤマベと濁つて訓んでいい。トヨムは、登余牟、等豫牟、等餘毛之だからトヨムと清んで訓むのが普通だらうか。○往水之 ユクミヅノと訓む。痛足川(卷向川)の流れゆく水のといふ義である。○三名沫如 ミナワノゴトシで、水泡の如しの義である。消え易い無常を歎ずる心で斯う云つたのである。古來ミナアハノコトシ(古葉略類聚抄)。ミナ|ワ《(ハ)》ノコトク(細井本・神田本)等の訓もあつた。『水のあはのごとしなり』(代匠記初)と注されてゐる。○世人吾等者 ヨノヒトワレハと訓む。世に生きゐる吾は、現身の吾はといふ意味である。舊訓ヨノヒトワレハ。古寫本ヨヒトワレラハ(類・元・神)。ヨノヒトコトハ(吉、細・温)。童蒙抄ヨヒトワレトハ。『吾ハ世ノ人ナレバトニヤ。世ノ人ト我トハト云ヘルカ。初ノ義ナルべシ。サキノ歌(【一二六八】)ハ他ノ上ヲ云ヒテ、此歌ハ自ノ上ヲ省ルナリ』〔代匠記精)。『世の人も吾もといふにはあらで、吾はとことわりて、吾は世に在人ゆゑといふ也』(考)。
 〔大意〕 一首の意は、人間は無常で、恰も卷向の山に響きつつ流れゆく川の、水泡のやうに消え易く、吾とても亦その通りである。といふほどの意味の歌である。
(104) 〔鑑賞〕 作者は卷向山、痛足川を中心としていろいろ歌を作つて居り、その風景に親しみつつ、人世觀をも自然の中に溶かし込んでゐるのである。調子も延び、眞面目に詠んでゐて相當の強さを保持しつつ進んでゐる聲調にはやはり、人麿を思はしめるところがある。
 人麿の作には近江から上來時の、『いさよふ浪のゆくへ知らずも』といふのがあり、人によつては佛教思想を聯想して居るのであるが、當時の佛教興隆のありさまを考へれば、佛教思想を聯想したとて何の不思議は無い。けれども縱しんば佛教觀念が沁みてゐるにしても人麿は印度支那あたりの地名などを詠みこまずに、『宇治川の網代木にいさよふ波の』といつてゐるのである。それに留目せねばならない。この歌にしても亦同じである。『卷向の山べ響みてゆく水の水泡』と云つてゐるのであつて、決して佛典語の露骨なる翻譯などでは無いのである。よつて、この歌を人麿作と想像して、二つとも直ぐ佛教思想云々と云つてしまはれないところを有つてゐるのである。佛教の無常思想などを超えたもつと人間本來の無常思想を有つてゐることを看破せねばならぬのである。沙彌滿誓の、『世間《よのなか》を何に譬へむ朝びらき漕ぎ去にし舟のあとなきごとし』(卷三。三五一)も類似の思想の歌だが、滿誓の、『あとなきごとし』には既に概念化された、大づかみのところがある。つまり佛典翻譯傾向の表現であるが、この歌の、『水泡の如し』は、もつと自然現象に即して居り、もつと寫生的である。そこを看破せねばならぬ。
(105) 『本は序也。世の人なる吾なれば水の泡の如しと也』(略解)。『卷向の山邊にとどろきて流行(ク)穴師川の水の泡沫《ミナワ》の如く、有にかひなくはかなき世(ノ)間なれば、いかでか吾(ガ)身の行末を、たのみに思ふべき、といへるなり。無常の歌なり』(古義)と解して居り、なほ、『人麿の哥に、惣じて無常を觀じたる哥おほし。大權の聖者にて和光同塵せるなるべし』(代匠記初)。『人丸ハヨク無常ヲ觀ジタル人ナリ』(代匠記精)等の契沖の解を讀めば、契沖はこの歌を人麿作と感じてゐたことが分かる。また契沖は僧侶でその方の經典に親しんでゐるので、かういふ歌の奥の方を流れてゐるいまだ概念化されない新鮮な、萬有的無常觀とも謂つていい筈のものを感じ得たのである。また、童蒙抄には、『左注に人麿歌集出とあれど、此左注を證據に人麿の歌とも決し難き也』と云つて居る。
 この歌の直ぐ前には、『兒等が手を卷向山は常なれど過ぎにし人に行き纏《ま》かめやも』といふのがある。これも悲しい歌だから、人麿の亡くなつた妻の事を詠じたものだらうと想像する向もある。いづれ想像だが、全然の架空でない、可能性を保留しつつあり得るところが、人麿歌集に出づと左注があるためで、從つて興味も亦多いのである。
 この歌、拾遺集哀傷部に、『めのしに侍て後かなしびてよめる。人麿。まきもくの山べひびきて行く水のみなわの如く世をばわが見る』とある。柿本集にも同樣に載つて居る。
 
(106)          ○
 
  〔卷七・一二七一〕
  遠《とほ》くありて雲居《くもゐ》に見《み》ゆる妹《いも》が家《いへ》に早《はや》くいたらむ歩《あゆ》め黒駒《くろこま》
  遠有而 雲居爾所見 妹家爾 早將至 歩黒駒
 
 『行路』といふ題がある。童蒙抄では第一句をヘダタリテと訓み、考・略解・古義では第三句をイモガヘニと訓んだ。雲居は單に雲のことにも用ゐるが、雲のゐる天のあたりといふ意にもなり、此處はさういふ遠いところといふ風に使つてゐる。この歌には、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注がある。然るに、卷十四の、『間遠くの雲井に見ゆる妹《いも》が家《へ》にいつか至《いた》らむ歩めあが駒』(三四四一)には、この歌との異同を注してゐるから、當時既にこの歌の注意されてゐたことが分かる。感情の表現が順當で印象も明瞭であり、稍民謠的な抒情歌であるから、いつか廣がつて東歌の中に編まれたものとも思ふし、その反對とも考へられるが、歌詞は分かり易くて他の東歌とちがふところがある。なほ古義では一二九五の次にこの歌を移して居る。この歌は六帖第二馬部及び拾遺集戀部に人麿作として載り、拾遺集では第一句『よそにありて』になつてゐる。また柿本集にも入り第一句『よそにして』である。
 
(107)          ○
 
  〔卷七・一二七二〕
  釼《たち》の後《しり》鞘《さや》に納野《いりぬ》に葛《くず》引《ひ》く吾妹《わぎも》眞袖《まそで》もち著《き》せてむとかも夏草《なつくさ》苅《か》るも
  釼後 鞘納野邇 葛引吾妹 眞袖以 著點等鴨 夏草苅母
 
 〔題意〕 『旋頭歌』といふ題があり、『右二十三首柿本朝臣人麿之歌集出』と左注せられてゐるその第一首である。
 〔語釋〕 ○釼後・鞘納野邇 タチノシリ・サヤニイリヌニと訓む。『釼後』は、流布本タチシリ、古寫本中タチノシリ(【元・古・神・西・細・温・矢・京】)と訓んだのがあり、拾穗抄でそれを採つた。『鞘納野邇』は流布本サヤニイルノニ、古寫本中サヤイルノヘニ(元・古)。サヤイルヽノニ(神)と訓んだのもある。考でサヤニイリヌニと訓んだ。太刀《たち》の後《しり》、即ち刀の尖《さき》をば鞘に納《い》れるといふので、イリヌに續けた序詞である。納野《イリヌ》は、代匠記初に、『和名集云。丹後國|竹野《タカノ》郡|納野《イルノ》。この納野にや』とあり、考に、『納野は式に山城國|乙訓《おとくに》郡入野神社と有に同く委は冠辭考に見ゆ』とある。若し後者だとせば、山城國|乙訓《おとくに》郡|大原野《おほはらの》村大字|上羽《うへは》だといふことになる。○葛引吾妹 クズヒクワギモと訓(108)む。葛を刈つて居る戀人よ、わが妻よといふ意である。この葛の繊維で衣を織つたので、この卷に、『をみなへし生《お》ふる澤邊の眞田葛原《まくずはら》何時《いつ》かも絡《く》りて我が衣《きぬ》に著《き》む』(一三四六)といふので分かる。○眞袖以 マソデモチと訓む。兩の袖を持つての意で、『著せる』に續けるのであらう。即ち織つて出來た、或は出來る筈の衣の兩袖を以て、私に著せようとしての意であらう。從來、『眞手もて夏葛引くと言ふなり。左右の手を眞手と言ひ、眞手を眞袖《まそで》と言へり』(略解)の如く、この句を、結句の、『夏草苅母《ナツクサカルモ》』に續くものと解してゐたが、さう面倒にせずに、直ぐその次の句に續くものと解していいだらう。全體に、『兩手で葛蔓を引くのを、長い袖を著てゐるから、袖で引くやうに言つたのである』と解してゐるのは從來の解釋に同じく、新考に、『眞袖以は衣ニ縫ヒなどいふ意ならざるべからず。以は作などの誤にてマソデヌヒとよむにあらざるか』と云つたのは、從來の解釋に滿足せぬ點に就いて云つて居るのである。○著點等鴨 キセテムトカモと訓む。流布本キテムトテカモであつたのを、代匠記初稿本で右の如く訓んだ。『まそでもてきせてむとかも夏草かるも。きてんとてかもとよめるはわろし』(代匠記初)。私に著せようとしてかの意。『眞鳥《まとり》住む卯名手《うなて》の神社《もり》の菅の根を衣にかき著《つ》け著《き》せむ子もがも』(卷七。一三四四)などがある。○夏草苅母 ナツクサカルモと訓む。流布本の訓ナツクズカルモであるのを代匠記精撰本でナツクサカルモとした。これは古寫本中、ナツクサカルモ(元・古・神・細)と訓んだのがある。わが女が夏(109)草を刈つてゐる。即ちこの夏草は葛のことで、旋頭歌であるから、」前の語と幾らか變化せしめて繰返してゐるのである。略解で、『草は葛の字の誤なり。古訓クズとせり。宣長云、苅は引の誤なり』と云ひ、古義なども共に從つてゐるが、此處はさう無理せずともよく、『草』はカヤにもクズにも用ゐた字とすればいいので、また實際當時はさう細かく分化してゐないのである。美草をヲバナとも訓んだ例があるので、目立つ草をば草を以てあらはしたと看做していい。そこで前に葛の文字があるのだから、此處の草はつまり葛に該當する草をも含むのである。この點全釋も愚見と同一である。
 〔大意〕 あの納野《いりぬ》に葛《くず》づるを引き取つてゐる愛すべき妻よ。織つた衣の兩方の袖を持つて私に著せようとてか、ああして夏草の葛を刈つてゐるよ。
 〔鑑賞〕 『眞袖もち』は、『眞袖もち床うち拂ひ君待つと居りし間《あひだ》に月かたぶきぬ』(卷十一。二六六七)。『み袖もち床うち拂ひ』(卷十三。三二八〇)。『眞袖持ち涙を拭《のご》ひ咽びつつ言語《ことどひ》すれば』(卷二十。四三九八)などの例の如く、兩手を以ての意であるが、直ぐ次の句に續いてゐるのであるから、この歌の場合も、『眞袖もち著せむ』即ち、兩手をもつて衣を著せて呉れようとと續くやうに解するのである。さうすれば、『織る』といふことは省略されてゐるのだが、それは、『葛引く』或は、『草刈る』に含まつてゐるので、『直《ひた》さ麻《を》を裳には織《お》り著《き》て』(卷九。一八〇七)の例の如く織(110)服而《オリキテ》と一語としたのもあるから、それをなほ省略すれば、この歌のやうになるのである。特に作歌動機は、眼前の葛を刈つてゐる女を見て起つたのだから、衣を織るといふ動作は自然に省略せられるのである。
 この一首全體は民謠風の色調を持つてゐるから、輕く明朗にそのリズムが流れてゐる。個人獨詠といはむよりは、社會發生的と考へられるし、作者不明の歌で、かういふ種類の歌が多いから、假に此等の歌を人麿の作つたものだとせば、人麿はやはりさういふ民謠作者風な心の据ゑ方で此等の歌を作つたに相違ない。古義では、『納野に葛引|婦女《ヲトヌ》は、己が夫に令v著てむとてか、而袖《マゾデ》もて引らむ。さてもあはれの婦女や、となり。此は婦女の葛引をみて、かれが夫に織て令v著てむとてか引らむと、よそよりみてよめるなるべし。【略解に、我に織てきせむとてか、眞手もて夏葛引と云なり、といへるは、吾妹とあるに泥めるなるべし。古へは人の妻をも女をも親みて吾妹といへること常おほかるをや】』と云つてゐるのは、解釋としては無理であるけれども、なぜかういふ解釋が出來るかといふに、此歌が民謠風で、その儘に一般化すべき傾向を有つてゐるからである。さういふ點で、古義の如き解釋もまた看免してはならぬのである。
 この歌六帖第四旋頭歌の部に載り、四五句『眞袖もてきてむとてかも』である。
 ここより以下廿三首は即ち旋頭歌で六句から成つて居り、句を繰返して居るのが多いが、必ずしもさうでなく句を繰返さずに順當に咏み下してゐるのもある。この旋頭歌は形式上時によつて(111)は短歌よりも内容の簡單なことがある。ただ短歌よりも形式が少し長いので、一氣に咏み得るやうな感情の場合に成功し、人麿の如く呼吸・息吹の大きい者の得意とする場合が多いやうである。後世の繊巧な歌風になるに從つて長歌が衰へ旋頭歌が衰へたのはそのためである。それだから旋頭歌もさういふ覺悟を以て咏めば相當にいいものが出來るべき可能性を有つてゐるが、我等はいまだそこまでの餘裕を得ずに居る。人麿と明らかに名の記されたものには旋頭歌は無かつたが、人麿は必ずこの旋頭歌を作つてゐるものと愚考して居り、人麿歌集中の旋頭歌の中には人麿自身のもあり友人等の作も或は手控にした古い旋頭歌も含んで居るわけである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二七三〕
  住吉《すみのえ》の波豆麻《はづま》の君《きみ》が馬乘衣《うまのりごろも》さひづらふ漢女《あやめ》を坐《す》ゑて縫《ぬ》へる衣《ころも》ぞ
  住吉 波豆麻君之 馬乘衣 雜豆臈 漢女乎座而 縫衣叙
 
 〔語釋〕 ○住吉・波豆麻君之 スミノエノ・ハヅマノキミガで、波豆麻《はづま》は住吉の地名であらう。其處に居る『君』で、古寫本中『公』と書いたのがある(【元・古・神・温・矢・京】)。代匠記ではナミヅマキミガ(112)と訓み、『波妻君トハ、波ハ花トモ見エテウツクシム物ナレバ、ウツクシ妻ノ意ナリ。第十三ニ、浪雲ノウツクシ妻ト云ヘルニテ知ベシ。住吉ハ住吉ノ岸ニヨスル浪ト云ノミニアラズ、以下ノ二首モ住吉ト讀タレバ、ヤガテ夫君モスメル處ナリ』(代匠記精)。『すむ地をさして云に疑ひなし』(考)。『宣長云、波豆麻君は、波里摩著の誤、乘は垂の誤にて、ハリスリツケシ、マダラノコロモと訓むべし』(略解)。○馬乘衣 舊訓マソコロモ。古寫本では、マノリキヌ(元・古・神)と訓んだのもある。マノリ衣(童蒙抄)。ウマノリキヌ(代匠記初)。ワキアケコロモ(考)。マダラノコロモ(略解宣長訓)。ウマノリゴロモ(略解)。『馬乘衣ハ、今ノ俗雨衣ノセヌヒノスソヲ縫合セヌヲ、馬乘ヲ開ト云ヒテ、馬ニ騎時便ヨカラム爲ニスレバ、昔モサル體ノ衣ナドヲ馬乘衣トテヤ侍ケム』(代匠記精)。『又こをうまのり衣と訓む説もあれど、馬のり衣てふ訓ものに見えず。こは義訓にわきあけごろもとよむべし。則|※[月+闕]腋《ケツエキ》袍は圓領の胡服武官の衣なればなり。縫腋《マツハシ》は馬に乘に便りあしければ※[月+闕]腋《ワキアケ》を造れり。馬乘衣といはん物必此ものの外なし』(考)。○雜豆臈 サヒヅラフで、囀らふ、即ち分からぬ音で喋舌することである。言左敝久《コトサヘク》などといふ枕詞の如く、喧擾の意味で、日本紀に韓婦《カラノメ》用2韓語言《カラサヘヅリ》1とあるのが參考になる。また、佐比豆留夜《サヒヅルヤ》、辛碓爾舂《カラウスニツキ》の例も、同樣の枕詞である。この句は舊訓サニヅラフで、ヲトメの冠辭としたのは、漢女をヲトメと訓んだからであつた。サヒヅラフは略解補正(正辭)の訓である。追記。右は校本萬葉に據つて正辭の訓とし(113)たが、後、井上博士の新考を見るに、關|政方《、あさみち》の傭字例の訓として居る。○漢女乎座而 アヤメヲスヱテと訓み、漢女《あやめ》をば座《すゑ》ての意、すわらせ使役する意。漢女は從來ヲトメと訓み、『漢女ハ』毛詩ニモ漢之有女ト云ヒテ、美女アル處ナレバ、彼處ニ准ジテ書ナリ』(代匠記精)。『ここのをとめに漢女の字をかりたるは、紀(應神)に三十七年戊午朔、遣阿知使主都加使主、於呉令求縫工女云々。四十一年二月云々。是月阿知使主|自呉《クレユ》至筑紫時胸形大神|乞工女等故以兄媛奉※[匈/月]形大神《モノヌヒメヲコハスカレエヒメヲムナカタノオホカミニマタス》云々。既而率其三婦女以至津國《スデニシテソノミタリノハタヤメヲイナナヒテツノクニニイタル》と有る呉女をさして漢女と書たるなり。さて紅花を韓藍とも呉藍とも書て、くれなゐとよめる如く、漢呉を通じ書たるたはむれなり』(考)。これをアヤメと訓んだのは童蒙抄で、『漢女、をとめと訓ずる事の義未v詳。女功女工のものをあやはとりなどいへるなれば、ここも女工の事を專と云たることなれば、あやめなどよむべき歟。追而可v考』と云つて居る。また、略解に、『漢女は、按ずるに雄略紀、身狹村主《ムサノスグリ》青等共2呉國使1將2呉所v獻|手末才伎《テビト》漢織《アヤハトリ》呉織《クレハトリ》及|衣經《キヌヌヒ》兄媛弟媛等1泊2於住吉津1云々と有るに據りて訓めるなれば、アヤメと訓めり』と云つてゐる中に漢織《アヤハトリ》、呉織《クレハトリ》の語がある。借りてかく訓んでいいとおもふ。古事記傳卷二十七に、この歌句をアヤメヲマセテと訓み、『此をヲトメヲスヱテと訓るは誤なり。漢女は漢《アヤノ》國の女を云』といひ、なほ卷三十三に、『漢を阿夜と云こといかなる由にか詳《サダカ》ならず。漢織《アヤハトリ》を書紀に穴織《アナハトリ》ともあるを以て思へば、阿那と云と同く此も阿夜と歎く聲より出たるか』と云つたが、新考には、『漢を(114)アヤといふは漢人が綾を織るに巧なりしより云ふならむ』とある。新考の説がいい。錦綾之中丹裹有《ニシキアヤノナカニツツメル》(卷九。一八〇七)の例がある。座の字は、舊訓スヘテ。略解宣長訓マセテ。『マセテは俗言に招待してと言ふ意なり』(【略解・古義從v之】)。併し此は招待する意でなく、呼んで來て使ふ意である。
 〔大意〕 住吉《すみのえ》の波豆麻《はづま》の君《きみ》のあの立派な馬乘衣《うまのりごろも》は、〔雜豆臈《さひづらふ》〕漢織《あやはとり》の女達を使つて、織り縫うた衣《ころも》でありますぞよ。
 〔鑑賞〕 全體が民謠風のもので、特に勞働に連れて歌つてもいいやうに出來て居る。それが必ずしも漢織の女等のために作つた歌ではなからうが、住吉の波豆麻あたりにも渡來の漢織女が住んで居り、それに豪家の若い男を配合し、その馬乘服をば技術の上手な多勢の漢織女が織つたのであるといふ、そのかげには男女戀愛歌にかよふ情調もあり、多勢の男女が何か爲事をしながら歌ふのにふさはしいものに出來てゐるやうに思はれる。さういふ關係からでも旋頭歌の形式になつてゐるのは面白く、男女合唱してもよく、上を女が歌ひ、下を男が歌つてもいい訣である。
 この一聯の旋頭歌を人麿が作つたと想像しても、別に不合理ではなく、あれだけの力量ある歌人であるから、人麿作と明記された歌以外にもなほ多くの作があるべき筈だとすると、かういふ歌、つまり勞働歌とも看做すべき歌をも或る機會に作つたと想像しても別に不合理ではないといふのである。
(115) この歌はさういふ興味もあり、また文化史的、風俗史的に觀察しても興味あるものである。馬乘衣をウマノリゴロモと訓むについて、さういふ名稱のものが當時無いと云つて眞淵はワキアケゴロモなどと訓んだり、またマソゴロモとか、マダラノコロモなどといふ訓もあるのだが、このウ()リゴロモは普通名詞的に取扱つてかまはぬものである。
 考に、『こはなみづまの君が衣をめでてかくよめるなり。前後の歌もみな見るものをよめる歌なり』と云ひ、古義に、『此は大方の衣ならず、愛しき漢女を招待してぬへる衣ぞと、衣をしたてて人に贈るとて戯によみてやれるなるべし』と云つてゐるのは、幾分足りないところがある。考に、『みな見るものをよめる』と云つてゐるのは確であるが、それが民謠的に一般化する傾向のものなのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二七四〕
  住吉《すみのえ》の出見《いでみ》の濱《はま》の柴《しば》な苅《か》りそね未通女等《をとめらが》が赤裳《あかも》の裾《すそ》の濡《ぬ》れてゆかむ見《み》む
  住吉 出見濱 柴莫苅曾尼 未通女等 赤裳下 閏將往見
 
(116) ○住吉 舊訓スミノエノ。古寫本の多くはスミヨシノと訓んだ。その他、第三句ナノリソカリニ(考)。ハマナカラサネ(古義)。結句ヌレテユカムミユ(舊訓)。ヌレテユカムミム(代匠記精)。ヌラシユクミム(考)。アカモスソヒヂユカマクモミム(古義)等の諸訓があつた。
 出見《いでみ》の濱《はま》は、大日本地名辭書に、『住吉森の西に松林あり、細江淺澤の水林際を過ぎ海に入る。此邊を出見濱と呼ぶ』 云々とある。
 一首は、此の出見の濱の柴を苅つてしまはずに呉れ。柴を苅りに來る未通女等の赤裳の裾の濡れながら群れるのを見たいから、といふのである。
 氣持もとほり、印象も鮮かな歌である。勞働に連れてうたふ一種の民謠風と考へることも出來る。若い女等の、『赤裳のすそ』が心を牽いたものであつたことは、その他の歌を見ても分かる。『吾妹子が赤裳の裾の染《し》め濕《ひ》ぢむ』(卷七。一〇九〇)。『赤裳の裾に潮滿つらむか』(卷十五。三六一〇)。『くれなゐの赤裳の裾の春雨ににほひひづちて』(卷十七。三九六九)等の用例がある。
 この歌は、六帖第四旋頭歌の部に、『すみよしの出見の濱に柴なかりそねをとめごが赤裳たれひき濡れてゆかむ見む』として載つてゐる。
 
          ○
 
(117)  〔卷七・一二七五〕
  住吉《すみのえ》の小田《をだ》を苅《か》らす子《こ》奴《やつこ》かも無《な》き奴《やつこ》あれど妹《いも》が御爲《みため》と私田《わたくしだ》苅《か》る
  住吉 小田苅爲子 賤鴨無 奴雖在 妹御爲 私田苅
 
 〔語釋〕 ○小田苅爲子 ヲダヲカラスコと訓む。舊訓ヲタカラスルコ。代匠記初ヲタカラスコハ。童豪抄ヲタヲカルスコ。考ヲタカラスコ。古義ヲダヲカラスコ。住吉の田の稻を苅つて居る人よといふ意で、苅ラスは敬語に使つてゐる。この『子《こ》』といふのは、客觀的に觀てゐるのだから、男の人にむかつてもコといふのである。○賤鴨無 ヤツコカモナキと訓む。舊訓イヤシカモナシ。代匠記初ヤツコカモナキ。考シヅカモナキ。ヤツコは即ち奴婢《ぬひ》で賤民であるから、賤を以てヤツコと義訓し得るのである。奴婢は官に使役せられるものと私人に使役せられるものとあるが、此處は私人に使役せられるものの場合である。大寶戸令には公私奴婢の語があり、賤民が良民になり得る條々等も記載せられてある。その奴(下男)が居ないのであらうか。と疑つてただ一人で稻を苅つてゐる男に對する氣持である。○妹御爲 イモガミタメトと訓む。舊訓イモガミタメニ。童蒙抄イモガミタメト。愛する妻のために、ためだとして、ためだといつてぐらゐの意で、丁寧に物言つてゐる趣は、苅ラスの敬語と同樣である。○私田苅 ワタクシダカルと訓む。(118)舊訓シノビタヲカル。代匠記精でワタクシタカルと訓んだ。なほ考ではオノレダカラスと訓み、略解アキノタカラス。『或説に私は秋の誤ならんと言へり。さも有べし』(略解)。古義アキノタカルモ。新考アキノタヲカル等の訓がある。しかし此處はワタクシダといふから面白いので、秋の田では平凡になつてしまふのである。私田《しでん》は公田《こうでん》に對した語であるが、大寶令ごろは、全國が官有であつて、個人の私有土地といふものがなかつたので、朝廷から給はることになつて、それは位田・職田・賜田《しでん》・口分田《くぶんでん》・墾田等で、即ち私田《しでん》である。その剰餘田が公田であるから、公田のことを一に乘田とも云つて、田令第十一條に諸國公田條がある。この歌の私田は、私田中の僅かばかりの墾田といふ意味であらう。
 〔大意〕 住吉《すみのえ》の秋田に稻を苅つて御いでになる方《かた》には一體|奴婢《ぬひ》が居ないのか知らん。いやさうではない、あの方は可哀《かあ》いい細君の御ためだといつて、自《みづか》ら僅かばかりの私有の田の稻を苅つて居られるのです。
 〔鑑賞〕 この一首も、眼前の光景を歌に作つてゐるのであるが、貫いてゐる氣持は民謠風であり、稻を苅りながらうたふ勞働歌としても役立つ種類のものである。さういふ關係から、敬語などを使つてゐると解釋することも出來る。
 一體かういふ種類の歌は、自由民の間には行はれてゐたとも考へられるから、何かの機會に人(119)麿が作つたものと想像しても好く、或は人麿が一般的民謠を書きとめて置いたと想像してもいいぐらゐの歌で、無論力一ぱいといふ種類の歌ではない。なほこの歌は下に見える一二八五の歌をも參考とするといい。
 古義に、『歌(ノ)意、本(ノ)句は問にて、末(ノ)句は答なり。住吉の小田を刈賜ふ君は、令v刈べき奴隷なくて手自刈(リ)賜ふらむかと問たるに、いなさにあらず、からすべき奴隷はあれども、奴隷に令せて刈しめば、麁忽《アシザマ》にもぞなる。親切《ネモコロ》におもふ妹が御爲の故にかる稻なれば、大切にとりまかなひて、手づから秋田をかるぞ、さてもからき業ぞ、とことわれるなり』と云つてある。
 
          ○
 
  〔卷七・一二七六〕
  池《いけ》の邊《べ》の小槻《をつき》が下《もと》の細竹《しぬ》な苅《か》りそね其《それ》をだに君《きみ》が形見《かたみ》に見《み》つつ偲《しぬ》はむ
  池邊 小槻下 細竹〔莫〕苅嫌 其谷 君形見爾 監乍將偲
 
 ○池邊 イケノベノと訓む。舊訓イケノベニであるが、校本萬葉古寫本の訓はすべてイケノヘノとなつて居る。代匠記ではイケノヘノを採つた。○小槻下 ヲツキガモトノと訓む。舊訓ヲツ(120)キガシタノであるが、古寫本中モトニ(古)。モトノ(神)の訓が既にある。考でヲツキガモトノと訓んだ。○細竹莫苅嫌 シヌナカリソネと訓む。原文、『莫』の無いのを代匠記で補つた。また結句の『監乍』を代匠記で 『覽乍』の誤だらうと云つたが、監にミルの訓があるやうである。○其谷 ソレヲダニと訓む。舊訓どほりであるが、新訓にソヲダニと訓んだ。
 一首の意は、池のほとりの槻《つき》(欅《けやき》)の樹のもとに生えて居る細竹《しぬ》(篠)をば苅らずにおいてください。其處はあの君《きみ》との縁《ゆかり》の深いところだから、せめてその細竹《しぬ》をでも、戀しいあの君の形見《かたみ》として見つつ偲ばうとおもふのです。大體そんな意味の歌のやうにおもへる。
 この旋頭歌も、實際を歌つてゐるやうでゐて、民謠風である。それゆゑ、若しこの歌が人麿作だとせば、人麿はかういふ種類の歌謠作者として此處に明かに現出してゐるので、またかういふことはあり得ると考へねばならぬのである。この一首は女の歌であるから、人麿の歌でないと最初から極めてしまへば至極簡單であるが、人麿歌集といふものと人麿との關係を從來の考よりももつと密接なものとして考へると、この歌も人麿が或る機縁に觸れて作つたものと想像してもかまはぬこととなるのである。若しそれをも全然否定することにすると、讀人不知の萬葉集の歌を一體誰が、どういふ人が作つたかといふ解釋が却つて面倒になつて來るのである。
 この『見つつ偲ばむ』といふやうな表現のことはもう既に用例を擧げたと思ふが、なほ少しく(121)引くならば、『吾が形見《かたみ》見つつ偲《しぬ》ばせあらたまの年の緒長く吾も思《しぬ》ばむ』(卷四。五八七)。『住吉の岸に家もが沖《おき》に邊《へ》に寄する白浪見つつ思《しぬ》ばむ』(卷七。一一五〇)。『沫雪《あはゆき》は千重に零《ふ》り敷《し》け戀しくの日長《けなが》き我は見つつ偲《しぬ》ばむ』(卷十。二三三四)。『面形《おもがた》の忘れむ時《しだ》は大野《おほぬ》ろにたなびく雲を見つつ偲《しぬ》ばむ』(卷十四。三五二〇)。『八千種《やちくさ》に草木を植ゑて時毎に咲かむ花をし見つつ思《しぬ》ばな』(卷二十。四三一四)などの例がある。これも始めて作つた人の歌は緊密であるが段々に概念化し、稀薄になつて來て申訣に響くやうになつて來るが、さういふ點では、此處の人麿歌集の歌は、小槻《をつき》といひ、小竹《しぬ》と云つてゐるあたりは眞實から脱却してゐないので、眞面目な鑑賞に堪へ得るのである。
 この歌は、續千載集卷七雜躰の部に、人麿作『池のべのをつきが下に笹なかりそそれをだに君が形見に見つつしのばむ』として載つてゐる。
 
          ○
  〔卷七・一二七七〕
  天《あめ》なる姫菅原《ひめすがはら》の草《くさ》な苅《か》りそね蜷《みな》の腸《わた》か黒《ぐろ》き髪《かみ》に芥《あくた》し著《つ》くも
  天在 日賣菅原 草莫苅嫌 彌那綿 香烏髪 飽田志付勿
 
(122) 〔語釋〕 ○天在 アメナルと訓む。日《ヒ》に係る枕詞だから同音のヒメのヒに續けたもので、天傳日笠浦《アマヅタフヒガサノウラ》(卷七。一一七八)などの用法と同じである。天爾有哉神樂良能小野爾茅草苅《アメナルヤササラノヲヌニチガヤカリ》(卷十六。三八八七)の如くにアメナルヤとも續けてゐる。○日賣菅原 ヒメスガハラノと訓む。即ち姫菅原で、前後の關係から地名らしくおもへるが明かでない。冠辭考に、『譬ば、天香山と天の河はあめにもここにも有が如く、かの野【左佐羅《ささら》の小野《をぬ》】もむかしは有つらんを、今は聞えぬならん。これによれば、上の日めすが原も、天にもある傳への古へはありてつづけしにやともおもへど、上には見えわたるつづけによりていへるのみ』と云つてゐる。略解に、『宣長は天ナルは天上に有るひめすが原なり。然らざれば、髪に芥の付くと言ふこと由無し。是れは天なるささらのを野の類ひにて、唯だ設けて言ふのみなりと言へり。此説に據るべし』と云つたが、これは天上の原では意味をなさない。やはり住吉あたりの地名と看做す方がいいやうである。新考に、『いづくにか知られず。上代より名高き美濃國可兒郡久々利の近傍に姫といふ處あり。是か』と云つてゐる。○草莫苅嫌 クサナカリソネと訓む。古義では、『草は菅の草書を誤れるなるべし。集中外にも例有(リ)。スゲナカリソネと訓べし』と云ひ、新考もそれに從つた。これは上に菅原《すがはら》とあるから、スゲと類音で續けたのであらうとする説らしいが、必ずしもさうせずにクサとした方が却つて調が辷らずにいい。○
 
彌那綿 ミナノワタと訓む。蜷《みな》の腸《わた》で、美奈乃和多迦具漏伎可美爾《ミナノワタカグロキカミニ》(卷五。八〇四)。蜷腸香黒髪ミナノワタカグロキカミ
(123)丹《ニ》(卷十三。三二九五)。三名之綿蚊黒爲髪尾《ミナノワタカグロシカミヲ》(卷十六。三七九一)の如くカグロキに續けてゐる。その理由については冠辭考で、年魚背腸《サケノセワタ》(美奈乃和多)の醢が赤黒い故にかと云ひ、或は、和名鈔の河貝子(美奈)、殻(ノ)上黒(ク)小狹《チヒサクサク》長(クテ)似2人身1者也を引いて、『腸もいと黒ければ髪にたとへたる歟、猶おぼつかなし』と云つてゐる。これは大體契沖の説を踏襲してゐるものである。蜷は海産ではあるまいと想像すればやはり蜷貝《みながひ》、川蜷《かはにな》で、大和の小川には今でも澤山住み、往時は賤民がそれを食つたのだから、自然カグロといふやうな觀察も出來たわけである。烏賊の墨かともはじめ想像したが、和名鈔にも字鏡にも伊加《イカ》とあつて、瞭然としてゐるから、烏賊の腸ではない。○香烏髪 カグロキカミニと訓む。か黒き髪にで、カは接頭語である。萬葉のカグロシの例は皆、髪につけて云つて居る。○飽田志付勿 アクタシツクモと訓む。舊訓も古寫本もアクタシツクナである。童蒙抄に、『芥の髪につく程に、草な刈りそと云意と聞ゆる也。此勿の字兩樣に聞ゆれば也。意は同じ樣なれど、あくたしつくなと下知の詞にも聞え、又草を刈らばあくたのつく程にと云意とも聞ゆる也。よりてつくもと云點もあるべし』と云つてツクモと訓み諸書それに從つた。『勿』は呉音モチで、そのためモと訓ませた。宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》(卷五。八〇七)。多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠爾與志奈良乃美夜古爾由吉帝己牟丹米《タツノマモイマモエテシガアヲニヨシナラノミヤコニユキテコムタメ》(卷五。八〇六)の例で明かである。髪に芥が附くよといふ意に落著くのである。
(124) 〔大意〕 一首の意は、〔天在《あめなる》〕この日賣菅原《ひめすがはら》の草は刈るなよ。〔彌那綿《みなのわた》〕折角の美しいお前の黒髪に塵芥《ちりあくた》が掛かつて、惜しいではないか、といふぐらゐの意で、先づ女が草を刈るのを男が見て言ふ趣に解するのである。
 〔鑑賞〕 この歌に就いて、考には、『こは妹があたりの草刈を見て男のかくよめるならん』とあり、童蒙抄には、『此歌の全體の意何を趣向によめりとも未2間得1也。何とぞよせの意あるべき也。字面一通はただ黒き髪にちりあくたのつかん程に、すがはらに入りて草な刈りそと云意の歌也』といひ、古義には、『歌の意は、菅原に立入て菅を刈女を見て、しか菅をかることなかれ、汝がうるはしき髪に、芥のつきて穢れむは、さてもをしき事ぞ、と云るなり』とあり、新考には、『此歌は若き男の菅を刈るを見て女のよめるなり』とある。
 先進の解釋も斯く違ふのであるが、草をば男が刈ると解釋するのは、男の方は多く勞働に堪へるといふ觀念から來て居る。併し女の勞働して居ることは萬葉集を見ても明かなことで、この前の、『納野に葛引く吾妹』の歌をはじめ、
   我妹子《わぎもこ》が業《なり》とつくれる秋の田の早穗《わさほ》のかづら見れど飽かぬかも (卷八。一六二五)
   筑波嶺の裾廻《すそみ》の田井に秋田苅る妹がり遣らむ黄葉《もみぢ》手折《たを》らな (卷九。一七五八)
   稻|舂《つ》けば皹《かが》る我《あ》が手を今宵《こよひ》もか殿《との》の稚子《わくご》が取りて嘆かむ (卷十四。三四五九)
(125)かういふ例があるから、草を刈るのは必ずしも男と限つたことはない。男が草を刈る例になると、前の、『小田を苅らす子』の歌をはじめ、後に出る、『この岡に草苅る小子《わらは》』(卷七。一二九一)。『湊のや葦がなかなる玉小菅《たまこすげ》苅り來《こ》わが背子《せこ》床の隔《へだし》に』(卷十四。三四四五)などがあつて別に不思議でないが、女が草を刈ることにしてもまたそんなに不思議ではない。次に、『蜷のわたか黒き髪』と使つた黒髪の例が、女の髪の場合か男の髪の場合かといふに、次の三首とも女の髪の場合である。『少女等が少女さびすと唐玉《からたま》を手本《たもと》に纏《ま》かし同輩兒《よちこら》と手《て》携《たづさ》はりて遊びけむ時の盛を止《とど》みかね過《すぐ》し遣《や》りつれ蜷《みな》の腸《わた》か黒き髪に何時《いつ》の間《ま》か霜の降りけむ』(卷五。八〇四)。『蜷の腸か黒き髪に眞木綿《まゆふ》もちあささ結ひ垂り大和の黄楊《つげ》の小櫛を抑《おさ》へ插《さ》す刺細《さすたへ》の子はそれぞ吾が妻』(卷十三。三二九五)。『蜷の腸か黒し髪を眞櫛《まぐし》もち肩に掻垂れ取り束《つが》ね』(卷十六。三七九一)で明かである。
 さうして見れば、この歌の場合の、『草な刈りそね』といふ草を刈つて居るのは女と看做して差支ないやうである。また、女が男に對つて、『か黒き髪に芥し附くも』といふやうな言方をするのは、餘程近代的であり、西洋的だと謂ふべきである。もつとも、『夕闇は路たづたづし月待ちて行かせ吾背子その間にも見む』(卷四。七〇九)などといふ能働的な西洋映畫風のもあるが、大體に於ては、女が男にむかつて、『か黒き髪に芥し附くも』などと云ふのは除外例と看做していい。さういふ點で、考・古義の看方の方が新考よりも確である。なほ、宣長が、ひめ菅原を天上の原とし(126)て空想歌のやうに取扱つたのは學者的に鑑賞眼が鈍い。
 
          ○
 
  〔卷七・一二七八〕
  夏影《なつかげ》の房《ねや》の下《もと》に衣《きぬ》裁《た》つ吾妹《わぎも》裏《うら》設《ま》けて吾《わ》がため裁《た》たばやや大《おほ》に裁《た》て
  夏影 房之下邇 衣裁吾味 裏儲 吾爲裁者 差大裁
 
 〔語釋〕 ○夏影 ナツカゲノと訓む。神田本にはナツカゲニとあるがカゲニでは調をなさない。これは閨にかけた枕詞の格で、夏の日蔭の涼しい處といふ意味から續けたものであらうか。『夏ハ木ニモアレ何ニモアレ、陰ノ涼シキ處ニ臥スヲ、女ハ北ノ方ニ深ク住モノナレバ、夏影ノネヤト云ナルベシ』(代匠記精)。○房之下邇 ネヤノモトニと訓む。舊本の『庭』を古寫本(元・古・神)によつて『邇』と改めた。舊訓ネヤノシタニテ。代匠記精ネヤノモトニテ。略解ネヤノシタニ。新考マドノモトニ【房は窓の誤りとす】。新訓ネヤノモトニ。寢部屋にすわつての意。○衣裁吾妹 キヌタツワギモと訓む。舊訓コロモタツワギモであつたのを考でさう訓んだ。衣を裁縫して居る妻といふ意である。眞淵は、これは秋の衣を裁つのだといつてゐる。○裏儲 ウラマケテと訓む。衣物の裏(127)を用意する意と、心を設《ま》けて熱心になつてといふ意を兩方含んで居る。心《ウラ》を裏と書くのは吾世子爾裏戀居者《ワガセコニウラコヒヲレバ》(卷十。二〇一五)の例があり、小舟儲《ヲブネヲマケテ》(卷九。一七八〇)の例のあるのが參考となるであらう。『裏儲ハ衣ノ裏ヲ儲置テト云ヘルカ。又裏ハ心ニテ用意シテト云ニヤ。二ツヲ兼テ見ルベシ』(代匠記精)。童蒙抄でこれをウラカケテと訓み、『この言葉も難v濟。まづはうらをまうけてと云意と諸抄に注せり。うらかけてと云意か。然ればうらともにと云義なるべし。宗師點にはうらかけてとよめり。まうけるは兩方かけての意なるから、かけてともよむべき也』(童蒙抄)。然るに新考ではアキマケテと訓み、『裏儲は金儲の誤にてアキマケテなるべし。集中に秋儲而、春儲而、春設而などあり、マケテはカタマケテと同意にて、秋マケテは秋近ヅキテといふこととおもはる』(新考)と云つたが、どうか知らん。○吾爲裁者・差大裁 ワガタメタタバ・ヤヤオホニタテと訓む。舊訓ヤオホキニタテ。代匠記精ヤヤオホニタテ。童蒙抄ヤヤヒロクタテ。古義イヤヒロニタテ。少しく大き目に裁て、ゆつたりと作れといふ意になる。『第四ニ紀女郎ガ歌こ、ヤヤオホハト有シハ、ヤヤオホクハト云意ナレド、摩※[言+可]ト云梵語ノ大、多、勝ニ互ル如ク、大ト多ト和語モ通ゼリ。我タメニ裁トナラバ、ヤヤオホキニユタカニタテトナリ。ヤヤト云ヘルハキハメテ大キニトハ云ハヌ意ナリ』(代匠記精)。
 〔大意〕 夏の日の木蔭の涼しい部屋にすわつて著物を裁《た》つて居る妻よ。衣|裏地《うらぢ》を用意し、心こ(128)めて裁つんなら、少し大き目に裁つて呉れ。
 〔鑑賞〕 可哀いい妻が自分のために著物を裁つて居るのを、ま近く見てゐて夫の男がこんなことを云つてゐる趣で、短篇小説の一斷片ともいふべき味ひのする歌である。特にその言ひ方の細《こま》かい點に注意すべきで、『裏設けて』といひ、『やや大《おほ》に裁て』と云つてゐるあたりが、ただの抒情戀愛の歌とちがふ點である。萬葉なら卷十四の東歌にかういふ言ひ方の歌が間々あるが、やはり民謠的に一般化する性質を有つて居る。つまりこの歌ならば農夫の若い夫婦間の情調であるから、織物或は染色などの作業に連れてうたふことの出來る性質になつて居る。
 次にこの歌は人事を歌つたもので、その言ひ方も小説會話の一片の如き觀を呈するが、實際はこの歌はこれで統一して居るので、小説會話の一片ではないのである。さういふ點は、正岡子規が、『微細なる處に妙味の存在なくば短歌や俳句やは長い詩の一句に過ぎざるべし』(墨汁一滴)と云つたのと合致するのである。なほ少しくいふならば、この歌は人事歌であるが、明治新派和歌の初期ごろに作られたやうな、大づかみな人事歌とも違ふので、中味に入つて居り個に入つて居るのである。その點につき、やはり子規が、『此種の歌所謂新派の作に多し。趣向の小説的なる者を捕へて之を歌に詠みこなす事は最も難きわざなるに、只々歴史を敍する如き筆法に敍し去りて中心も無く統一も無き無趣味の三十一文字となし自ら得たりとする事初心の弊なり』(隅汁一滴)(129)と云つたのが參考になるだらう。またさういふ點で、この歌の、『ややおほに裁て』といふ句は、個の語氣までをも傳へてゐて概念的に上辷りしてゐないのである。
 また、この歌は旋頭歌だから、上から讀下してもよく、下から云つても意味が通じ得るのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二七九〕
  梓弓《あづさゆみ》引津《ひきつ》の邊《べ》なる莫告藻《なのりそ》の花《はな》採《つ》むまでに逢《あ》はざらめやも莫告藻《なのりそ》の花《はな》
  梓弓 引津邊在 莫謂花 及採 不相有目八方 勿謂花
 
 第二句舊訓ヒキツノヘケル。ヒキツヘニアル(元・古・神)。ヒキツノノヘニナル(細)。ヒキツノヘナル(西・温・矢・京)などの訓があつた。代匠記にヒキツノヘナルと訓んだ。第四句舊訓ツムマテハ。ツムマテニ(元)。トルマテニ(古・神)等の訓もあり、諸注は、カルマデハ(童蒙抄)。ツムマデニ(略解・古義)。サクマデニ(新考)等と訓んだ。引津《ひきつ》は筑前國志摩郡(今の糸島郡)にある。大日本地名辭書には、船越《ふなこし》の古名だらうかといつてゐる。一首の意は、濱藻を採むまでには(130)また逢はうぞ。それだからさう心痛するなといふので、繰返しは調子のためである。戀愛抒情として非常に一般化する傾向の歌である。『梓弓|引津《ひきつ》の邊《べ》なる莫告藻《なのりそ》の花咲くまでに逢はぬ君かも』(卷十。一九三〇)は、この歌に似てゐる。結句は名を告らずに居よといふ奧意の有無はどうか知らん。
 この歌は六帖に載り、『あづさゆみひきつべにあるなのりその花とるまでにあはずあらめやなのりその花』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八〇〕
  内日《うちひ》さす宮路《みやぢ》を行《ゆ》くに吾《わが》裳《も》は破《や》れぬ玉《たま》の緒《を》の念《おもひ》亂《みだ》れて家《いへ》に在《あ》らましを
  撃日刺 宮路行丹 吾裳破 玉緒 念委 家在矣
 
 〔語釋〕 ○撃日刺 ウチヒサスと訓む。童蒙抄でウツヒサスとも訓んだ。この内日刺《ウチヒサス》といふ枕詞は、宮・京・都などに係るもので、内に日の差す。美《うま》し日の差す。現《うつ》し日の差す。うつくしき檜《ひ》を立つ等の諸説がある。『内ニ日ノサス宮トツヅケタルナリ』(代匠記精)。『麗《ウツクシ》き日のさす宮と(131)つづけしなりけり』(冠辭考)。『現(ツ)しく日光の指(シ)かがやく宮といふなるべし』(古義)等であるが、大體代匠記に從つて置いた。○宮路行丹 ミヤヂヲユクニと訓む。宮(御所)へ通ふ道、宮へ行く道、また都の道とも取れる。吾者皆悉宮道舒爲《ワレハコトゴトミヤヂニゾスル》(卷二。一九三)。内日左須宮道爾相之人妻※[女+后]《ウチヒサスミヤヂニアヒシヒトスマユヱニ》(卷十一。二三六五)。打日刺宮道人雖滿行《ウチヒサスミヤヂヲヒトハミチユケド》(卷十一。二三八二)等の用例がある。○玉緒 タマノヲノと訓む。此處はミダルに係つたもののやうである。玉緒といふ枕詞は、他に長、絶、間《あひだ》などに係けてをり、この歌と同じ用例としては、宝緒之念亂而宿夜四曾多寸《タマノヲノオモヒミダレテヌルヨシゾオホキ》(卷十一。二三六五)があるが、カタイトモチヌキタルタマノヲヲヨワミミダレヤシナムヒトノシルベク
 
(卷十一。二七九一)。玉緒乃絶天亂名知者知友《タマノヲノタエテミダレナシラバシルトモ》(卷十一。二七八八)。玉緒之絶而有戀之亂者《タマノヲノタエタルコヒノミダレナバ》(卷十一。二七八九)の例にミダルがあるごとく、此處もオモヒミダルに續けたものともおもふ。○念委 オモヒミダレテと訓む。念亂《おもひみだ》れてである。奮訓オモヒステテモ。古寫本中二種の訓があり、オモヒミダレテ(元・古・神及び細・京の一訓)。オモヒステテモ(細・西・失・京・温)である。そのほかに温古堂本には漢字の左にオモフニマカセとあるさうである。代匠記精オモヒツミテモ。童蒙抄オモヒモユタニ。考オモヒシナヘテ。略解・古義オモヒミダレテ【委は亂の誤】。新訓オモヒユダネテ。おもふに委の字にミダルの訓はおぼつかないから、若しこの儘に訓むとせば、オモヒマカセテであらうか。取委物之無者《トリマカスモノシナケレバ》(卷二。二一三)がやはり人麿の作だから、マカスと使つたのかも知れない。併し全體の調子から見て、オモヒミダレテの方が(132)好い。○家在矣 イヘニアラマシヲで、家にあらましを。家に居る方がよいといふ意である。イヘニアルの例は、家爾阿利弖波波何刀利美婆《イヘニアリテハハガトリミバ》(卷五。八八九)。伊敝爾安流伊毛之於母比我奈思母《イヘニアルイモシオモヒガナシモ》(卷十五。三六八六)などである。
 〔大意〕 〔撃日刺《うちひさす》〕御所に通ずる道をば、戀しい君に出逢ふかと幾たびも往反《ゆきき》したので、わが衣の裳裾《もすそ》は、かくのごとく破れてしまつた。斯く難儀をするくらゐならば、いつそ〔玉緒《たまのをの》〕おもひ亂れながら家のうちに居た方が好かつたものを。
 〔鑑賞〕 これは、宮に往反する男を戀した女の歌の趣で、『うち日さす宮道《みやぢ》を人は滿《み》ちゆけど吾が念《おも》ふ公《きみ》はただ一人のみ』(卷十一。二三八二)などと似通つて居る。また女の歌としては、『よしゑやし來まさぬ君を何せむに厭《いと》はず吾は戀ひつつ居らむ』(卷十一。二三七八)といふのもある。『念委』について、契沖は、『今按、オモヒツミテモト讀ベシ。第九ニ登筑波山歌ノ終ニ、長キ氣ニ念積來シ憂ハ息ヌトイヘリ。委ノ字ハ揚雄(ガ)甘泉(ノ)賦(ニ)云。瑞穣々兮|委《ツモルレコト》如(シ)v山(ノ)。何晏(ガ)景福殿賦(ニ)云。叢集委積。此集第十七云。和我世古我|都美《ツミ》之乎見都追云々。此モ委緒見乍《ツミシヲミツツ》ナリ。ツムトハ結ヘハ重ナルヲ云ヘリ。ソレヲ思ヒヲハラシヤラデ、心ニ積置ニヨソヘテ云ヘルナリ』(代匠記精)といひ、そのほかの訓も前に記したとほりであるが、皆少し難解の點があるのが無理なのではなからうか。契沖の、『思ひ積《つ》みても』も考證としては確かなやうでゐて、何處かしつくりせない。舊訓のオモ(133)ヒステテモもまたさうであり、新訓のオモヒユダネテも、字面の考證よりも心理的に何か無理があるやうに思へる。眞淵のオモヒシナヘテは委を萎に改めただけで、相當に好い訓とおもふが、これも力が少し弱くないであらうか。そして、古寫本の多くが、オモヒミダレテと訓んで居るところを見れば、この訓に何處か自然なところがあるのかも知れない。そして、『うち日さす宮道《みやぢ》に逢ひし人妻|故《ゆゑ》に玉の緒の念亂而寢《オモヒミダレテぬ》る夜しぞ多き』(卷十一。二三六五)といふ類似の歌を參考すれば、やはりオモヒミグレテであつたのかも知れないのである。
 新考に、『案ずるに、此歌は卷十一なる、うちひさす宮道にあひし人妻ゆゑに玉の緒の念亂れてぬる夜しぞおほき、といふ歌と、もと二首一聯の歌にて、ウチヒサス宮ヂニアヒシ、ウチヒサス宮路ヲユクことつづきたりしに相離れて一は人麿歌集中に入り一は古歌集中に傳はりて本集にも卷を異にして收められたるにあらざるか』とあるのは、用意周到である。二とも旋頭歌であるから、或は二首は問答體のものであつたかも知れない。若しさうなら、念亂而《オモヒミダレテ》を繰返さずに、女の方では、念委而《オモヒマカセテ》と云つたのかも知れない。そして問答體とせば、女の方が先きの趣かも知れない。
 さてこの歌は、女が咏んだ歌の趣で人麿歌集中にあるのは、人麿歌集を目して純粹に人麿作のみを輯録したものでないといふ結論に導く一つの證據ともなるのであるが、若し想像を逞うするなら、人麿は或る期間には、前出のやうな民謠風の歌も作り、或はかういふ問答體のごとき戀歌(134)をも作つたかも知れないのである。私自身では、人麿作としてはかういふ歌は否定したいのであるが、それも絶待に強く否定することもまた出來ないのである。
 後記。某日幸田露伴先生に、眞淵が『委』をば『萎』の誤としてシナヘと訓んだことを私が話したところが、先生は、昔は萎を委と書いたことがある。其がつまり假借の例で、委は委v地などともいつてミダルといふ意の無いこともないが、委には既に萎と同じ意味があると云はれた。それから家に歸つて調べると果してさうである。また、委v照などといふ熟字もあつて、ミダルと訓むよりもシナユと訓んだ方がよいやうに思はれたから、改めて眞淵訓に從つてよいと思ふ。夏草之念之奈要而志怒布良武《ナツクサノオモヒシナエテシヌブラム》(卷二。一三一)。於君戀之奈要浦觸吾居者《キミニコヒシナエウラブレワガヲレバ》(卷十。二二九八)。宇知歎之奈要宇良夫禮之努比都追《ウチナゲキシナエウラブレシヌビツツ》(卷十九。四一六六)などによつてこの訓を支持し得る。また書紀には『委』をユダヌと訓ませた例があり、そのほか委付、付、付囑などをユダヌと訓ませてゐるが、萬葉のオモヒ・ユダヌの例は他になく、またこの歌の場合はオモヒ・ユダヌよりもオモヒ・シナユの方が自然で無理が無いやうである。
 
          ○
 
(135)  〔卷七・一二八一〕
  君がため手力《たぢから》疲《つか》れ織《お》りる衣《きぬ》春《はる》さらばいかなる色《いろ》に摺《す》りてば好《よ》けむ
  君爲 手力勞 織在衣服斜〔叙〕 春去 何何〔色〕 摺者吉
 
 〔語釋〕 ○君爲 キミガタメと訓む。愛して居る男の爲めにである。古寫本中『君』を、『公』と菩いたのがある(【元・古・神・温・京・矢】)。童蒙抄ではセコガタメと訓んだ。○手力勞 タヂカラツカレと訓む。舊訓テヅカラであつたのを、代匠記精でタヂカラツカレと訓み、略解も其に據つた。考でテダユク(手力勞《テダユク》)と訓んだ。卷三(四一九)に、石戸破手力毛欲得《イハトワルタヂカラモガモ》。卷十七(三九六五)に、乎里底加射佐武多治可良毛我母《ヲリテカザサムタヂカラモガモ》の例がある。○織在衣服斜〔叙〕 オリタルキヌゾと訓む。舊訓ヲレルコロモキナナメ。代匠記初ヲレルコロモクダチヌ。代匠記精オレルキヌクダツ。童蒙抄オレルキヌナメニ。考オレルキヌキセナナメ。略解宣長訓オリタルキヌヲ(古義・新考等同訓)。これは斜は料の誤としたものである。新訓オリタルキヌゾ。この新訓の訓は斜《シヤ・ヤ》を叙《ゾ》の誤寫としたものであらうか。此處の訓は古來學者が種々いぢつたところで、『衣《ころも》のくだつとは、色もさめ、やややぶれなんとするほどなり』(代匠記初)。『なめはうべと云詞なり。なべと云詞の事前にくはしく注せり。苗はなめにて、なめはうべと云義、尤もと云字、諾の字の意也。おりたるきぬなればうべと云意(136)也』(童蒙抄)。『きぬきせななんといへるなり』(考)等の解釋を見れば、學者が皆相當に骨折つて居るが、何處かに無理が存じて居る。それを宣長訓のやうにオリタルキヌヲとせば平凡だが心理に無理が無い。それをキヌゾといへばなほよいのである。この種類のゾの例は、卷三(三一九)に、不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當烏《フジガハトヒトノワタルモソノヤマノミヅノダギチゾ》。卷四(七八二)に、爲妹袖左倍所沾而刈流玉藻烏《イモガタメソデサヘヌレテカレルタマモゾ》。卷五(八〇〇)に、企許斯遠周久爾能麻保良叙《キコシヲスクニノマホラゾ》。卷六(一〇二二)に、父公爾吾者眞名子叙妣刀自爾吾者愛兒叙《チチギミニワレハマナゴゾハハトジニワレハマナゴゾ》。卷十三(三三三一)に、走出之宜山之出立之妙山叙《ハシリデノヨロシキヤマノイデタチノクハシキヤマゾ》などがある。○何何〔色〕・摺者吉 イカナルイロニ・スリテバヨケムと訓む。どういふ色に摺つたならば好からうかといふのである。この何何は古來イカニヤイカニと訓んで來たが、童蒙抄で、『この春さらばといひて、下の何々の二字上につづく縁の詞ならでは不v叶也。いかにやいかにとよみては歌詞にあらず。春になりたらばといふて、いかにやいかにとは縁なき詞也。よりて宗師案には花と云詞を入て義にかなふ樣によむ也』といつて、『何處《イヅチ》の花《ハナ》に摺《す》りなばよけむ』としたが、花を持つて來るなどは後世ぶりである。それを略解で、『宣長云、斜は料の誤、何何は何色の誤なり。織りたる絹は、衣服の料なれば、斯く書きてキヌと訓ませたり。何色を、何何と誤れるは、何色と書けるを何々と見たるなりと言へり。此説然り。スリテバヨケムは、スリタラバヨカラムなり』と云つた。次に、此處の『摺《スル》』は、『鴨頭草《つきくさ》に衣《ころも》は摺《す》らむ朝露にぬれて後には變《うつろ》ひぬとも』(卷七。一三五一)などの如くに原始的には(137)色を衣に摺つけて染めたもので、これは鑛物質の土《に》の類でする土摺《どずり》も同樣であるが、後技術が進歩して、染汁を以てする浸染法になつても、歌言葉としてはやはりスルと云つた。これは藍摺でも、榛摺でもさうで、『思ふ子がころも摺らむににほひこせ島の榛原秋たたずとも』(卷十。一九六五)などは上村・辰巳二氏(萬葉染色考)に據ると木實の黒灰摺らしいが、これも秦人の歸化以來浸染法になつたものである。この歌の場合は、春の李を云つてゐるから、何か春の草を以て摺るものを聯想せしめる。春といつても今の晩春初夏でいいから、かきつばた、藍、山藍、紫草、鴨頭草、子水葱などの色がこの女の念中にあつたものであらうか。
 〔大意〕 あなたにお著せしようと思つて、手力《たぢから》も勞れるほど精を出して織つた著物でございます。春になつたら、どういふ色に摺つてあげたらよろしうございませう。
 〔鑑賞〕 この歌も女が歌つた趣だから、人麿自身の氣持で無いこと無論である。併し前にも云つたごとく、人麿が民謠作家として製作したのだとすると解釋の付かぬことはない。現在の自分はなるべくさう解釋したくない態度にあるが、人麿歌集中にあるかういふ歌を當時の人々はどう解釋してゐたものか、例へば家持が人麿歌集を見たときにどう思つてゐたか知りたいものである。『手力勞《たぢからつか》れ』の句は流石に自然で旨いし、『いかなる色に摺りてば好けむ』も情味がこまやかだし、女らしい言方である。『何何』の字が、古寫本中、『何々』と書いたのが可なりあるから、さうす(138)れば、『色』の誤寫とばかりは謂はれない。さればといつてイカニヤイカニでも、童蒙抄で云つたごとく、調をなさぬから致方がない。自分等の願望からいふと、かういふ場合に、『々』を『色』と改めることが冒險だと知つても、その方が歌として自然ならばさうしたいのである。特に、『いかなるや人の子ゆゑぞ通はすも吾子《あこ》』(卷十三。三二九五)。『福《さきはひ》のいかなる人か』(卷七。一四一一)。『いかなる人か物おもはざらむ』(卷十一。二四三六)。『面《おも》わすれいかなる人のするものぞ』(卷十一。二五三三)などにイカナルといふ例があるから、イカニといふ用例もまた多いに拘らず、その方を採用したのであつた。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八二〕
  橋立《はしだて》の倉椅山《くらはしやま》に立《た》てる白雲《しらくも》見《み》まく欲《は》り我《わ》がするなべに立《た》てる白雲《しらくも》
  橋立 倉椅山 立白雲 見欲 我爲苗 立白雲
 
 第三句タタルとも訓んだ。又第四句ミマホシミ。ミマホリヤ。ミテシカトとも訓み、ミテシカバと訓んだのもある。倉椅山《くらはしやま》は大和磯城郡にあり多武峰の東口に當る。『橋立の』は枕詞に使つ(139)て居り、『こは高き倉には梯《はし》を立てのぼる故にしかいひかけたり』(冠辭考)とあるごとく、庫梯《くらはし》は庫《くら》の梯立《はしだて》であるから、梯立《はしだて》の庫梯《くらはし》と續けたのである。ハシダテは天能梯建《あまのはしだて》などのハシダテとも同じ語原である。古事記に、『梯立の倉椅山をさかしみと巖かきかねて我手取らすも』。『梯立の倉椅山は險《さか》しけど妹《いも》とのぼれば險《さか》しくもあらず』といふ歌があり、用例上の好參考である。それから、第五句の、『わがするなべに』は前にも抄したが、に連れて、さう思つてゐると、ぐらゐの意でなかなか旨い。
 一首の意は、倉椅山に立つ白雲を見たいと思つてゐると白雲が立つてゐるといふので、單純素朴で大に愛すべき歌である。そして全體は山の白雲の歌だが、何となし抒情的で愛情がこもつてゐる。やはり一種の民謠として味つていい。新考では、動詞の關係から、『はしだての倉梯山に立つや〔三字右○〕白雲みまくほりわがするなべに立つや〔三字右○〕白雲』と訓んでゐる。これも一見識だが、タテルの強く大きなるを私は好む。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八三〕
  橋立《はしだて》の倉椅川《くらはしがは》の石《いはの》走《はし》はも壯子時《をざかり》に我《われ》は渡《わた》りし石《いはの》走《はし》はも
(140)  橋立 倉椅川 石走者裳 壯子時 我度爲 石走者裳
 
 〔語釋〕 ○橋立・倉椅川 ハシダテノ・クラハシガハノで、これは既に説明したが、倉梯山は大和磯城郡(元十市郡〕多武峰のつづきの山で、倉梯川は其處(熊ケ岳、鹿路山)を發して音羽・多武二山の谿を北流し、多武峰村大字倉橋を過ぎ、櫻井町の南端から西にまはり、忍坂川を加へて寺川となる川である(辰巳・奥野)。○石走者裳 イハノハシハモと訓む。川の中にある飛石即ち石橋のことである。舊訓イシノハシハモ。童蒙抄イシバシハモ。考イハツハシハモ。古義イハノハシハモ(新考同訓)。新訓イハバシリ。イハバシのことは既に人麿長歌(卷二。一九六)の時に説明したが、卷七(一一二六)に、明日香河湍瀬由渡之石走無《アスカガハセゼユワタシシイハバシモナシ》。卷十(二二八八)に、石走間間生有貌花乃《イハバシノママニオヒタルカホバナノ》などの例があり、走をハシと訓ませてゐるから此處もイハノハシと訓んで石橋《イハバシ》の意としていいとおもふ。○壯子時 ヲザカリニと訓み、男ざかり即ち壯年時代にの意である。舊訓ミサカリニ。童蒙抄ワカキトキ。考ヲサカリニ。諸書考の訓に從つた。『ミサカリハ眞盛《マサカリ》ニテ男盛ナリ』(代匠記精)。『老てむかしを思ひ出てよめるならん。今本の訓いささか誤れり。しか訓べからねば改』(考)。ヲザカリといふ語は面白い語だが、萬葉にはこの一例しかない。壯士《ヲトコ》も(【卷三。三六九・卷九。一七五九】)。丁子《ヲトコ》(卷九。一八〇二)。遠刀古佐備《ヲトコサビ》(卷五。八〇四)。雄自毛能《ヲトコジモノ》(卷三。四八一)などの例がある。そこで、ヲトコニシと訓んでもかまはぬだらう。登時《トシ》の例に據つて時をシと訓んだ。或はヲトコニテとは(141)訓めないだらうか。併しヲザカリの訓はよい。吾盛複復稱變八方《ワガサカリマタヲチメヤモ》(卷三。三三一)。和我佐可理伊多久久多知奴《ワガサカリイタククダチヌ》(卷五。八四七)。等伎能佐迦利乎等等尾迦禰《トキノサカリヲトドミカネ》(同卷。八〇四)。○我度爲 ワレハワタリシと訓んだ。わが渡りしの意。舊訓ワガワタシタリ。古寫本中ワガワタシタル(元・西・温・矢)。代匠記精ワガワタリテシ。童蒙抄ワガワタシタル。ワガワタリタル(新訓同訓)。考ワガワタシタリ。略解ワガワタリシ。古義アガワタセリシ。新考ワガワタリセシ。ここは、代匠記精の、『爲ヲ下ニ置テタルトヨメル例ナシ』と略解訓とを參照して、ワレノワタリシと訓んで見た。然るに他の用例を檢するに、『ワレハ』があるが、『ワレノ』としてさういふ動詞に續けたのはない。そこで、ワガワタリシと略解に從つてもいいが、一音不足するので、ワレハワタリシと訓んだのであつた。
 〔大意〕 〔橋立《はしだての》〕倉梯川《くらはしがは》にあるあの石橋《いはばし》(飛石《とびいし》)よ。自分の男ざかりのころに、嬬《つま》のところへ行くためにしばしば渡つたあの石橋《いはばし》(飛石)よ。
 〔鑑賞〕 倉椅川の川の中の飛石について回顧的になつかしむ歌であるが、どうして懷かしむかといふに、戀人をば機縁として居るからであつて、その點が後世の敍景歌、或は支那山水畫的な靜觀の趣とちがふ、人間的な素朴性を有つてゐるのである。既に引用したこの卷の、『年月もいまだ經なくに明日香河《あすかがは》湍瀬《せぜ》ゆ渡しし石走《いはばし》もなし』(卷七。一一二六)といふ歌は、明日香河の瀬の變遷(142)を歌つてゐるが、その背後にはやはりその石橋を渡つてかよつたといふことが暗指せられてゐるのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八四〕
  橋立《はしだて》の倉椅川《くらはしがは》の河《かは》のしづ菅《すげ》我《わ》が苅《か》りて笠《かさ》に編《あ》まなく川《かは》のしづ菅《すげ》
  橋立 倉椅川 河靜菅 余苅 笠裳不編 川靜菅
 
 〔語釋〕 靜菅《しづすげ》といふのは菅《すげ》の一種で、笠に編んだものだから、ヒロハノヤハラスゲ(數珠菅《じゆずすげ》)、或はコジユズスゲあたりではなからうか。川邊にあつて、シヅの形容の附くのだから、廣葉軟菅《ひろはのやはらすげ》はそれを示してゐるやうにおもふ。或は古義で石著菅《しづきすげ》と云つてゐるやうに、『石に生ふる』意で菅の種類の名でないのかも知れない。併し原文は靜の字を書いてあるからその氣特があるとおもへる。略解では下菅《しづすげ》の意で菅の小さいのをいふかといひ、新考では、倭文《しづ》菅の義で、縞《しま》のある菅だらうと云つてゐる。菅は莎草《かやつりぐさ》科の草で種類がなかなかある。併し古は小菅《こすげ》とか眞菅《ますげ》とか七相菅《ななふすげ》とか、或は地名を入れて三島菅とかいふ言ひあらはし方があつても、大體皆スゲと云つてゐたも(143)のと見える。音通でスゲともスガとも云つた。菅《すが》の根《ね》、菅薦《すがごも》、菅笠《すげがさ》、菅疊《すがだたみ》、菅枕《すがまくら》などの語も其處から出てゐる。和名鈔に、唐韻云、菅、音※[(女/女)+干]字亦作v※[草がんむり/間]、須計。爾雅に、臺、夫須、註、鄭箋詩云、臺(ハ)可3以爲2禦v雨笠1云々とある。古事記に、夜多能比登母登須宜波古母多受《ヤタノヒトモトスゲハコモタズ》。また、須賀多多美伊夜佐夜斯岐弖《スガタタミイヤサヤシキテ》などとあるをはじめ、萬葉にも用例が多い。古來實生活に用途の多かつたもので、それが後世は栽培までした。大和本草に、『スゲハ水草、葉ニカドアリテ香附子ノ葉ノ如ニシテ長シ。笠ニヌフ。近江伊勢多ク水田ニウヘテ利トス。他州ニモ多クウフ』とある。なほ、このシヅスゲについて、代匠記精に、『靜菅ハ下枝ヲシヅエト讀如ク、水隱ナルヲ下菅《シヅスゲ》ト云ニ、靜ノ字ハ借テカケルニヤトモ意得ツベキヲ、上ニ古事記ヲ引シ如ク、仁徳天皇ノ御歌ニモ矢田皇女ヲ矢田ノ一本管ト云ヒテ、アタラスガシ女トヨソヘサセ給ヒ、此集第十一ニハ、靜子ガ手玉ナラスモトヨメルモ沈靜《シメヤカ》ナル人ヲ云ナルベケレバ、今モ靜字ノママノ意ニテ、菅原ハコト草木ノヤウニ風ニモサハガデシナヒテタテルヲ靜子《シヅケコ》ニヨソヘタルカ。神樂ノ小前張ニ、シヅヤ小菅、鎌モテ刈ラバ、生ヒムヤ小菅ト云ヘルハ今ト同ジキカ、異ナルカ、イマダシラズ』と云つてゐる。
 〔大意〕 一首の意は、倉椅川の水邊に生えて居るしづ菅《すげ》よ。折角われは刈つたけれども、笠に編まずにしまつた、そのしづ菅よ。といふくらゐの意である。
 〔鑑賞〕 表面は水邊の菅ぐさについて咏歎してゐるのが、實は寄v菅の戀愛情調の歌である。(144)代匠記精に、『刈ハ刈テ笠ニハイマダアマズト云ヘル歟。又カラヌサキニ刈テモアマズト云ヘル歟。第十一ニ編《アマ》ナクニ刈ノミカリテ、第十三ニアマナクニ伊刈持來トヨミタレバ初ノ義ナリ。刈ヲバ契約ニ譬ヘ、アマヌヲバマダ逢見ヌニ譬フ。或ハ刈ヲ相見ルニタトヘ、笠ニアマヌヲ妻トエセヌニタトヘタルニモ有ベシ』と云つてゐるのは、考察が細かでよい。これは矢張り第一の方の意味で、『折角刈つたが』といふ意であり、『妻として思を遂げることが得ない』といふ意であらうとおもふ。契沖が既に云つたが、なほ念のために歌を書くならば次の如くである。
   三島菅《みしますげ》いまだ苗なり時待たば著《き》ずやなりなむ三島菅笠《みしますががさ》 (卷十一。二八三六)
   み吉野の水隈《みくま》が菅《すげ》を編まなくに苅りのみ苅りて亂りなむとや (卷十一。二八三七)
   階立《しなた》つ筑摩狹額田《つくまさぬかた》息長《おきなが》の遠智《をち》の小菅《こすげ》編《あ》まなくにい苅り持ち來《き》敷かなくにい苅り持ち來て置きて吾を偲《しぬ》ばす息長の遠智の小菅 (卷十三。三三二三)
   人皆の笠に縫ふとふ有間菅《ありますげ》在りて後にも逢はむとぞ思ふ (卷十二。三〇六四)
   託馬野《つくまぬ》に生ふる柴草《むらさき》衣《きぬ》に染《し》めいまだ著《き》ずして色に出でにけり (卷三。三九五)
 
(145)          ○
 
〔卷七・一二八五〕
  春日《はるび》すら田《た》に立《た》ち疲《つか》るう君《きみ》は哀《かな》しも若草《わかくさ》の※[女+麗]《つま》無《な》き君《きみ》が田《た》に立《た》ち疲《つか》る
  春日尚 田立羸 公哀 若草 ※[女+麗]無公 田立羸
 
 〔語釋〕 ○春日尚 舊訓ハルヒスラ。古寫本中ハルヒナヲ(元)の訓もあり、童蒙抄ではハルヒフルと訓んだ。スラは一事を示して他も同樣であらうと類推せしめるのであるから、『春日』が重く用ゐられてゐる。春の和かな日にすらといふこととなる。○田立羸 舊訓タニタチツカル。古寫本中タニタチヤスル(古・神・元)の訓もある。この※[瀛の旁]羸は通用せられたものか。類聚名義抄には、〓羸にツカル、ヤス二つとも訓がある。併し、この歌の場合はツカルの方が適切であるだらう。○公哀 舊訓キミハアハレ。古寫本中、キミヲアハレ(古・神)。キミヲアハレヤ(元)等の訓もある。代匠記精キミハカナシモ(諸注釋書從之)。○田立羸 結句の、『田立羸』も古寫本中、タニタチヤセム(古)。タニタチヤセヌ(神・元)等の訓がある。ツカルの用例は、卷七(一二八一)に、君爲手力勞織在衣服斜《キミガダメタチカラツカレオリタルキヌゾ》。卷十一(二六四三)に、玉曳之道行疲《タマボコノミチユキツカレ》がある。
 〔大意〕 一首の意は、この和《のど》かな春の日にすら、終日田に働き疲れる君は悲しい。妻も持たずただ獨りで田に働く君は疲れるといふ意である。
(146) 〔鑑賞〕 この歌も、田で男女相連れて働く時などに歌ふのに適する歌のやうである。特に、『田に立ち疲る』を二度繰返して調子を取つて居るのは、古代歌謠のいいところで誠に棄て難い味ひがある。そして誰もこの歌を人麿作とは想像もしないだらうと思ふが、また人麿作とするのを否定し得る反證もないやうである。それだから、人麿がある機會に、かういふ歌謠風なものを作る氣特で作つたとも想像し得るのである。それほど此の歌には好いところがある。第二句の、『疲る』のところの續きは、自動詞下二段の終止形だとおもふが、連體形として使つたのだとする説(新考)がある。併し、この第二句は小休止を置いて味ふことが出來るのだから、普通終止形として論じてかまはぬとおもふ。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八六〕
  山城《やましろ》の久世《くぜ》の社《やしろ》の草《くさ》な手折《たを》りそ己《わ》が時《とき》と立《た》ち榮《さか》ゆとも草《くさ》な手折《たを》りそ
  開木代 來背社 草勿手折 己時 立雖榮 草勿手折
 
 〔語釋〕 ○開木代 ヤマシロノと訓む。山城國のことである。開木をヤマと訓ませることに就(147)て代匠記精に、『開木ハ第六ニモ百木成山トヨメル如ク良材ヲ出ス故ナルベシ』といひ、代をシロと訓むにつき、代匠記には、「山背ヲ今ノ如クカケルハ代ハ背ニ假テカケリ』といひ、考には、『代と云は地をならすを云。異國に代を田地の事とす、しかれば代は地を平《ナラ》すなり。紀(聖武)天平七年遷新京代山開地以造室とある是なり。かく字を借て書るも紀の文の意にや』とあり、古義に、『按(フ)に代《シロ》は、網代《アジロ》、苗代《ナハシロ》などの代《シロ》にて、その設《マウケ》にする地をいふことなれば、木を伐り出す設にする地を、ヤマシロといひしより、開(ク)v木(ヲ)代と書るならむか。されば代(ノ)字に連ねて意をとるべきか』とあるのに據つて大體が分かるとおもふ。この『代』は『伐』(細・無)と書いたのもある。また此處の訓も、古寫本中、サキカハリ(元・神・古)とあるのもあれば、ヤマシロノ(西・細・温・京)とあるのもある。○來背社 クゼノヤシロノと訓む。久世《くぜ》の神社といふ意。久世社は山城國久世郡久津川村大字久世にある。久津川は和名鈔に久世郡久世とあるところで、久世・津屋・平川の三村の三字をとつて新に造つた村名である。代匠記精に、『今按クゼノヤシロノト讀ベシ。延喜式神名帳ニ山城國久世郡ニ大社十一座小社十三座ヲ載ス。大社十一座ハ石田神社一座、水《ミ》主神社十座ナリ。石田神社ハ此集ニ別ニ名ヲ出シタレバ、水主神社ヲ來背社《クセノヤシロ》トハ云ナルベシ』と云つてゐる。舊訓ヤシロニであつたのを代匠記精でヤシロノと訓んだ。○草勿手折 クサナタヲリソと訓む。草な手折《たを》りそである。卷五(八八六)に、道乃久麻尾爾久佐太袁利《ミチノクマミニクサタヲリ》。卷十(二一八八)に、(148)妻梨木乎手折可佐寒《ツマナシノキヲタヲリカザサム》。卷十八(四一一一)に、波都婆奈乎延太爾多乎理弖《ハツハナヲエダニタヲリテ》。卷十九(四一九七)に、吾標之野邊之山吹誰可手乎里之《ワガシメシヌベノヤマブキタレカタヲリシ》。○己時 ワガトキトと訓む。己《わ》が時と、即ち自分の時を得ての意。舊訓オノガトキであつたのを、古事記傳でワガトキトと訓んだ。新考に、『己時は眞淵、宣長(記傳卷三十六【二一五五頁】)の説に從ひてワガとよむべし。オノガといふべきをワガといへる例少からず。草ガオノガ時ト立榮ユトモといへるなり』と云つた。この古事記傳の説といふのは、斯賀《シガ》(萬葉卷五の愛久志我可多良倍婆《ウツクシクシガカタラヘバ》等)は曾賀《ソガ》(曾賀波能《ソガハノ》即ち其《そ》が葉の)といふ意味であるのを、契沖が己之《サガ》と同じ意味だとしたのは誤で、己之はオノガ、ワガといふ意だといふのである。『己之は皆師も云れたる如く、和賀《ワガ》と訓て宜きを、いかなる由にてサガとは訓けむ。いと心得ず。且《ソノウヘ》右の、己之は皆字の如く、おのがと云意、我之《ワガ》と云意なれば、斯賀《シガ》と云とはいささか意異なるをや』といふのである。然るに古義ではやはりシガと訓み、『舊訓にオノガトキとあるはわろし』。『シガは、それがと云意にも、又汝がと云意にもかよひて聞ゆる言なり』と云つた。○立雖榮 タチサカユトモと訓む。草が立ち榮ゆともで、その別に掛想した女が時を得て榮ゆともと云つたものであらう。卷六(九九〇)に、神佐備立而榮有千代松樹乃《カムサビタチテサカエタルチヨマツノキノ》。卷十八(四一一一)に、於非多知左加延波流左禮婆《オヒタチサカエハルサレバ》。卷十九(四一六九)に、松柏乃佐賀延伊麻佐禰《マツカヘノサカエイマサネ》。卷十九(四二四一)に、梅花榮而在待還來麻泥《ウメノハナサカエテアリマテカヘリクルマデ》。卷十九(四二一一)に、春花乃爾太要盛而秋葉之爾保比爾照有《ハルハナノニホエサカエテアキノハノニホヒニテレル》などの例がある如く、草が(149)立派に茂ることを示して居る。
 〔大意〕 山城《やましろ》の久世《くぜ》の社《やしろ》の草をば手折《たを》りなさいますな。縱ひ時を得がほに美しく生茂つて居らうとも、その草を手折つてはなりませぬ。この歌には上の如き表面の意味以外に寓意があつて、恐らく人妻に彼此觸れてはならぬといふのであらうか。略解に、『社をもて言ふを思へば、主有る女に係想《ケサウ》するとも、あながちなる行《ワザ》なせそと言ふなるべし』と解して居る。
 〔鑑賞〕 寓意は大體さうであらうが、一首の氣持は民謠的であり、或は祭などの時に共に歌ひ、大歌などの如く實用的であつたものかも知れない。次にこの歌で、『な手折りそ』といふのは、一般からさういふのか、或は、或る一人の女でもゐて嫉ましく思つてさういふのか。民謠的だとすると、一人の女がいふのではないこととなる。契沖はこの歌を次の如くに解してゐる。『此歌ノ意ハ久世郡ノ大領ナドノ時ヲ得タルガ、郡ノウチニ賤シキ者ノ顔ヨキ妻ヲモテルヲ犯サムト謀ル時、彼夫ノ、主アル女ヲ社ノ草ニタトヘテ罪ナ犯シソト云コトヲ草ナ手折ソトヨメルニヤ。木ヲ云ハズシテ草ヲ云ヘルハ賤シキヲ譬フルナリ。【中略】モシハ、此歌ハ彼賤シキ者ノ妻ノ節ヲ守テ、ミヅカラノ身ヲ社ノ草ニ喩ヘテ人ヲサトセル歟』と云つてゐる。つまり契沖の考では、この人妻の夫《をつと》が歌つたものか、或はその人妻自身が歌つたものかと考へて居り、己《わが》時《とき》を得て榮えたといふのは大領か何かで、草が榮えたのでは無いことになる。また古義では、『歌(ノ)意は、山城の來背(ノ)社の草(150)は、神の領《シリ》賜ふ地の草にて、その恐あれば、謾に手折ることなかれ、たとひ己(ガ)時と、時を待得て立榮(エ)のびて、折まほしく思ふとも、堪忍《シノ》びて手折ることなかれ、と反覆《カヘサ》ひいひて戒たるなるべし、此は社をもていへるを思ふに、主ある女に思ひをかくる人あるに、しかけさうはするとも、あながちなるわざなせそ、たとひしがときと女のみさかりの時を待得て榮ゆるを愛しくは思ふとも、主ある女なれば、あながちなるわざをすることなかれ、と深く戒めたるか』と云つて居るのが大體よいやうである。ただ古義では己時をシガトキと訓んでゐること前記のとほりである。
 己時《ワガトキ》といふ表現も特色がある。トキといふ語の入つた萬葉の用例は、卷二(一九九)に、木綿花乃条時爾《ユフハナノサカユルトキニ》。卷三(三九八)に、將成時爾事者將定《ナリナムトキニコトハサダメム》。同卷(四七五)に、彌日異榮時爾《イヤヒケニサカユルトキニ》。卷九(一七〇五)に、殖木實成時片待吾等叙《ウエシキノミニナルトキヲカタマツワレゾ》などである。但し、ワガトキ、オノガトキと續けたものはない。
 なほ、卷十一(三二六二)に、『山城《やましろ》の久世《くぜ》の若子《わくご》が欲しといふ余《わ》をあふさわに吾を欲しといふ山城の久世』といふのがあつて、似たところがあるので、契沖は、『此歌ヲ思フニ人丸ノ歌ニハアラデ、今ノ歌ト共ニ同ジ女ノヨメルニヤ』と云つてゐる。ひよつとせば對歌であるかも知れない。人麿が民謠風に作つたものか、或はある女の作つたものが人麿歌集に收録されたものか、斷定はむづかしい。
   神樹《かむき》にも手は觸るとふをうつたへに人妻といへば觸れぬものかも (卷四。五一七〕
(151)   君に似る草と見しより我が標《し》めし野山の淺茅《あさぢ》ひとな苅りそね (卷七。一三四七)
葛城の高間《たかま》の草野《かやぬ》はや領《し》りて標《しめ》指《さ》さましを今ぞ悔《くや》しき (卷七。一三三七)
   眞珠《またま》つく越《をち》の菅原《すがはら》吾が取らず人の苅らまく惜しき菅原 (卷七。一三四一)
 かういふ歌は、皆、草に寄せておもひを抒べた歌で、女と婚することを、草を苅ることにしてゐる。これは當時は草を苅ることが常に行はれてゐた證據であり、歌の趣は宮廷的でなく、平民的野趣的である。民謠的效果は其處に本づくのである。
 追記 井上通泰博士云。『萬葉集卷七なる來背社は、今の久世郡久津川村大字久世の郷社久世神社では無くて、山城志及日本地理志料に云へる如く、今の久世郡寺田村大字寺田の府社|水産《ミト》神社であらう。又ヤマシロノ來背社草ナタヲリソの第二句は、六言にクセノモリノと訓むべきであらう』云々。(アララギ二十九の七。昭和十一年七月)
 
          ○
  〔卷七・一二八七〕
  青角髪《あをみづら》依網《よさみ》の原《はら》に人《ひと》も逢《あ》はぬかも石走《いはばし》る淡海縣《あふみあがた》の物《もの》がたりせむ
(152)  青角髪 依網原 人相鴨 石走 淡海縣 物語爲
 
 初句アヲカヅラ(代匠記初)。第二句ヨサミノハラノ(舊訓)。ヨサミガハラノ(管見)。ヨサミノハラニ(代匠記精)。第三句ヒトニアヘルカモ(舊訓)。ヒトモアヘカモ(代匠記精)。ヒトニアハンカモ(考)。ヒトモアハヌカモ(略解宣長訓)。第四句イシハシル(舊訓)。イハハシル(代匠記精)。イハバシ(考)。イハバシノ(略解)。第五句アフミノカタノ(奮訓)。アフミアガタノ(代匠記初)等の訓があつた。青角髪《あをみづら》は枕詞であるが、元は地名から來てゐること『ササナミノ』などと同じである。童蒙抄に、『青角髪。青海面といふ義にて參河の地名也。碧海郡の依網の地名をよみたる也』といひ、古義に、『さてここに角髪と書るは借(リ)字にて、依網《ヨサミ》は碧海郡なれば、碧海面《アヲミヅラ》依網《ヨサミ》といへるなるべし、と門人南部(ノ)嚴男いへり。さもあるべし』と云つてゐるのでその大體がわかる。依網原は前言のごとく參河國碧海郡にあり和名鈔に見えてゐる。考では河内國丹比郡の依羅《ヨサミ》としてゐるが、さうではない。『人に逢はぬかも』は人に逢はぬことかな、逢ひたいものであるといふ使ひざまである。
 一首の意は、參河國の依網《よさみ》の原を歩きつつある、恐らく親しんで居た近江を去つて東國へ向ひ、下りつつあるのであつただらう。然るに知つた人に誰一人逢はないことである。誰かに逢ひたいものだ。さうすると任國であつた親しい近江縣の事でもいろいろ物語つて心を遣りたいものだと(153)いふのである。略解では、『アガタは官人の任所を言へり。此歌は、近江國の司、下る道、參河のよさみの郷にて詠めるなりと言へり』云々といつてゐるのに大體從ふべきか。淡海縣はやはり近江縣と看てよく、それから、以上は任にあつた縣《あがた》(郡)の役人の歌として解したが、必ずしも國司などの役人の歌とせずに旅人の歌としても解釋がつくのではなからうか。借りにこの歌を人麿に關係あるものとせば、人麿は近江に關係があるから、近江を去り東國の方へ行きつつあつて、近江を戀しく思つてゐた時の歌と看做してもいいのである。古義ではこの淡海縣を遠江縣と解し、任はてて京へ上る道中自分の任國であつた遠江のことを物語らうといふのだと解してゐる。併しこれは近江としても解釋が出來るからやはりその方がよからう。ただ古義で、『實は思ふ人に逢まほしきを、さとはいはで、ただおほよそにいへるなり』と云つてゐるのは、この歌には何處かにさういふ抒情詩的な東歌《あづまうた》などに通ずるやうな調べがあるためである。さうして見れば、任國云々とむづかしくいはずに、旅人などの共通の心理から咏まれたものと解していいのである。ただ地名が二つも明らかに記されてゐるから必ず其處を通りつつ咏んだものと解していいだらう。代匠記精撰本に、『歌ノ意ハ、ヨサミノ原ヲ行ニ、アハレ逢人モガナ、我戀シキ人ノ住碧海郡ノ物語ヲダニセムトナルベシ。前後ノ歌皆戀ナルヲ以テミルベシ。定家卿ノ歌ニ、思ヒ餘リ其里人ニ事問ム同ジ岡部ノ松ハ見ユヤト。此意ト同ジカルベキニヤ』と云つてゐるのは、契沖は淡海縣《あふみあがた》を碧海(154)郡《あをみのこほり》と解してゐるので其點は具合が惡いが、この歌を戀歌として抒情詩的の動機から咏んだと解したのは流石にいい。
 この歌を、近江を去つて東國へ行きつつ、その近江を忘れがたく、人に逢つて近江の事を物語らうといふやうに解した。そして少し不自然な感じのやうにも思つたが、『物語せむ』といふ句は能働的な云ひ方だからどうしても右のやうに解せねばならず、また萬葉には、『忘るやと物語して意《こころ》遣《や》り過ぐせど過ぎず猶戀ひにけり』(卷十二。二八四五)といふのがあり、これはやはり自分から物語しようといふ能働的な云ひかたである。若し近江縣のことをいろいろ聽きたいといふことになると所働的になり、例へば、『この頃は來てのみぞまつ郭公しばし都のものがたりせよ』(後拾遺)。『昔見しあるじ顔にも梅がえの花だにわれに物語せよ』(金葉)などの氣特になるのである。若しこの所働的な云ひ方だとせば、しばらく東國の方に行つてゐて京の方へ上りつつあり、今依網が原を寂しく通つて戀しい近江の樣子をいろいろと聽きたいといふことにもなるが、この歌はやはり能働的ないひ方で、物語つて、『心を遣る』方に解釋しても説明がつくから以上のごとくに解釋したのである。新考もさう解釋してゐることを知つたが、やはり任國云々として居るから、愚按ではもつと素朴に解したいのである。
 
(155)          ○
 
  〔卷七。一二八八〕
  水門《みなと》なる葦《あし》の末葉《うらは》を誰《たれ》か手折《たを》りし吾背子《わがせこ》が振《ふ》る手《て》を見《み》むと我《われ》ぞ手折《たを》りし
  水門 葦末葉 誰手折 吾背子 折手見 我手折
 
 〔語釋〕 ○水門 ミナトナルと訓む。舊訓ミナトナル。代匠記精に、『初ノ句ハ、今按ミナトノアシノウラハヲトモ讀ベシ』といひ、略解以下古義等の諸書殆ど其に從つた。私も一たび其に從つて訓んだが、二たび考へて、舊訓の儘にして置くこととした。いづれでもいいやうなものの、このあたりの歌はなるべく定型にして訓む方がいいやうである。河口《かはぐち》のことをミナトと云つた。○葦末葉 アシノウラハヲと訓む。舊訓アシノスヱハヲであつたのを、代匠記精でアシノウラハヲと訓んだ。○振手見 フルテヲミムトと訓む。これは舊訓である。略解では、『按ずるに、振の下衣の字を脱せしか。ソデフルミムトと有るべし』といひ、古義・新考等もそれに從つた。實際ソデフルミムトと訓む方が歌が好くなるが、この儘でも理會の出來ないことがないからその儘にして置いた。或は當時の言語では、振手でソデフルと訓ませようとしたのかも知れない。併し、フルテでも素朴で却つて民謠的だと謂ふことも出來る。○我手折 ワレゾタヲリシと訓む。古義(156)で、『手折《たを》りのけしなり』と云つたごとく、見えるのを妨礙するので葦を手折る意味である。
 〔大意〕 一首の意は、河口に生えてゐた葦をぼ誰が折つたのですか。實はあれは私《わたくし》の夫《をつと》が別れのときに振る手が、葦が邪魔をして見えないものですから、夫の振る手を見ようとおもつて、わたくしが折つたのです。といふぐらゐの意で、上が問、下が答といふ具合になつて、旋頭歌の特色を出して居るのである。
 〔鑑賞〕 この歌もまた民謠的で、動作が細《こま》かく、情味をやどして居る點が一般化する傾を持つて居るのである。この歌もまた下の句が女が答へた趣の歌だから、表面は人麿の歌でないこととなるのであるが、民謠風な歌を作る歌人として人麿を認容するなら、人麿がこの歌を作つたとてあへて不思議ではない。ただ是等の歌は、人麿と署名されてゐる歌から見れば、作歌衝動が樂《らく》なだけにその歌の價値も下るのである。
 『袖ふる』といふ例は萬葉に多くあるが、『振る手』、『手振る』といふ例は見つからぬやうである。『てぶり』の例があり、美夜故能提夫利和周良延爾家利《ミヤコノテブリワスラエニケリ》(卷五。八八〇)などがあるが、これは戀愛、別離のときに手を振るのとはちがふ。そこで、略解のソデフル説も相當に活きて來るのであるが、今はフルテヲミムトを活かして、一つぐらゐかういふ使用法があつてもいいことを示すのである。
 この場合の、『葦の末葉《うらは》を手折る』といふのは、邪魔になる部分を折つた趣だから適切なのであ(157)る。ウラハの用語例には、集中になほ、波流敝佐久布治能宇良葉乃宇良夜須爾《ハルヘサクフヂノウラハノウラヤスニ》(卷十四。三五〇四)。池邊乃松乃末葉爾零雪者《イケノベノマツノウラハニフルユキハ》(卷八。一六五〇)。吾門乃淺茅何浦葉色付爾家里《ワガカドノアサヂガウラハイロヅキニケリ》(卷十。二一八六)の三例がある。この歌は、六帖に、『湊なる蘆の若葉をたれ折りし我が背子が振る袖を見むと我ぞた折りし』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一二八九〕
  垣《かき》越《こ》ゆる犬《いぬ》呼《よ》び越《こ》して鳥獵《とがり》する君《きみ》青山《あをやま》としげき山邊《やまべ》に馬《うま》息《やす》め君《きみ》
  垣越 犬召越 鳥獵爲公 青山等 茂山邊 馬安君
 
 〔語釋〕 ○垣越 舊訓カキコシニであつたのを、略解でカキコユルと訓んだ。『宣長云、垣コユルは、唯だ犬と言はん枕詞なり。歌の意には關はらず』(略解)。○犬召越 イヌヨビコシテと訓む。略解で、『(宣長云)ヨビコシテは、呼令(メ)v來(ラ)てなりと言へり』と云つて居る。また古義ではイヌヨビコセテと訓み、『犬をよび令《セ》v來《コ》而《テ》なり』といひ、新考ではイヌヨビタテテと訓み、『案ずるに越(158)は垣越の越の字のうつれるにてもとはヨビタテテとありしならむ。ヨビタテテは喚ビ催シテといふ事にて、上にも妻ヨビタテテ邊ニチカヅクモとあり』と云つてゐる。或はこのコスは佐行下二段の動詞で、都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》(卷十四。三四五四)。阿利己世奴加毛《アリコセスカモ》(卷五。八一六)。續巨勢奴鴨《ツギコセヌカモ》(卷十。二〇五七)などのコスと同義であらうか。さすれば、オコスの原意となる(【山田氏、奈良朝文法史】)。鳥獵爲公 トガリスルキミと訓む。鳥獵《トリカリ》をする君である。卷十一(二六三八)に、梓弓末之腹野爾鷹田爲君之弓食之《アヅサユミスエノハラヌニトガリスルキミガユヅラノ》。卷十四(三四三八)に、可牟思太能等能乃奈可知師登我里須良思母《カムシダノトノノナカチシトガリスラシモ》。卷十七(四〇一一)に、等乃具母利安米能布流日乎等我理須等《トノグモリアメノフルヒヲトガリスト》などの例がある。鳥獵には弓で獵り、鳥奈美波里《トナミハリ》、鳥網張《トナミハル》の語があるやうに網で獵り、その他|和奈《ワナ》をも使つたかも知れない。犬はこの歌にあるやうに使つたことが明かである。○青山等・茂山邊 アヲヤマト・シゲキヤマベニと訓む。『等』は流布本『葉』だが、古本(西・細・無)に『等』とある。舊訓アヲヤマノ・ハシゲキヤマベニであつたのを、略解補正に、葉は等の誤とし、アヲヤマト・シゲルヤマベニと訓んだ。童蒙抄アヲヤマノ・ハシキヤマベニ。考アヲヤマノ・シゲルヤマベニ。新考は邊は邇の誤とし、アヲヤマノ・ハシゲキヤマニと訓んだ。新訓アヲヤマト・シゲキヤマベニ。この『ト』は、春山跡之美佐備立有《ハルヤマトシミサビタテリ》(卷一。五二)などの『ト』であらう。古寫本中、ハコキヤマヘニ〔元)。ハモキヤマヘニ(古)などの訓もあつた。○馬安君 ウマヤスメキミと訓む。舊訓ウマヤスメヨキミ。童蒙抄ウマイコヘセ(159)コ。略解ウマヤスメキミ。古寫本(元)でムマヤスメキミと訓んだのがある。
 〔大意〕 一首の意は、〔垣越《かきこゆる》〕犬を呼びよこして、鳥の獵をなさる君よ、青々と木の茂つて居る山べに馬を休めなさいまし。
 〔鑑賞〕 この歌も民謠的のもので、妻が勇ましく立派な夫の獵に出づるさまを見て居る趣で、また、少し御休息なさいましといふやうに勞はる心持もあり、そのほかにも見えるやうに、勞作(農業・狩獵等)の動作をあらはしつつ、戀愛情調を漂はせゐるもので、それがやがて一人の獨占でなく民謠情調にひろがる特徴を有つに至るのである。自分の愛してゐる男を見て居る女の心持の出てゐる歌で、これに類する歌が萬葉にも間々あることは既に手抄した如くである。『つぎて見まくの欲しき君かも』(卷十一。二五五四)などもその一例で、女子懷春の情を純眞に露骨に出したものから、いろいろの色調を以て作歌せられてゐるわけである。
 この歌は、六帖に、『垣ごしに犬よびこしてとがりする君青山の葉繁き山べに馬やすめよ君』として載つてゐる。
 
          ○
 
(160)  〔卷七・一二九〇〕
  海《わた》の底《そこ》沖《おき》つ玉藻《たまも》の莫告藻《なのりそ》の花《はな》妹《いも》と吾《われ》と此處《ここ》にありと莫告藻《なのりそ》の花《はな》
  海底 奧玉藻之 名乘曾花 妹與吾 此何有跡 莫語之花
 
 〔語釋〕 ○海底・奧玉藻之 ワタノソコ・オキツタマモノと訓んだが、舊訓ワタツミノ・オキツタマモノ。古寫本中にはワタノソコ・オキノと訓んだのが既にある(元・古・神)。○妹與吾 イモトワレトと訓む。舊訓イモトアレト。代匠記・考・略解等舊訓に從つたが、古義でイモトアレと訓み、新考でイモトワレと訓んだ。然るに校本萬葉では代匠記初稿本にイモトアレと訓んだやうに記してあるのは誤で、校本萬葉の「諸説」といふ部には間々この誤謬のあることはこれまで一々記入しなかつたが、今一言記して置く。今は舊訓に從つてイモトワレトとトを入れて訓んで置く。○此何有跡 ココニアリトと訓む。舊訓ココニアリトナ。代匠記で何は荷の誤でココニアリト。『何ハ荷ト通ズレド唯荷ノ字ナルベシ』と云つた。新訓では、ココニイカニアリトと九音に訓んだ。古寫本中にはココニカアルト(元・古)。ココニゾアルト(神)等の訓がある。ここは何は荷に通ずるか、或は荷の誤としてココニアリトと素直に訓んで置く。○莫語之花 ナノリソノハナで、既に出たとおもふが、和名鈔海菜類に、神馬藻、奈乃利曾、神馬、莫騎《ナノリ》之義也とある。(161)ほだはらともいふ。
 〔大意〕 一首の意は、〔海底《わたのそこ》〕沖の玉藻である莫告藻《なのりそ》の花よ。戀人と己とが、此處に一しよに居るといふことを云つてはならぬぞ、莫告藻《なのりそ》の花よ。
 〔鑑賞〕 つづめて云へば、『妹と吾と此處に有りと名のりそ』といふことになるのであるが、莫告藻に寄する歌であるから、かういふ表現となるので、外面は莫告藻が主になつて、『妹と吾と此處にありと』などといふことは、莫告藻と云はむための誘導敍法であるやうに見えるが、内心では、其處が主で莫告藻が從屬なのである。かういふ戀歌の表現は脈をひいて近世にまで及んだ。單純で無駄のない旨いものだが、人麿が作つたとせば、やはり民謠的な氣分で作つてゐるもので、それだけ輕いわけである。
 次に、『妹と吾と』と『と』を入れて訓ませたのも、相當にいい訓で、古今集卷二十の大歌所御歌に、『水莖の岡の館に妹とあれとねての朝けの|ゆき《イしも》のふりはも』とあるのはこの調べを傳へたものである。そこで、妹與吾手携拂而旦者《イモトワレタヅサハラヒテアシタニハ》(卷八。一六二九)。妹與吾《イモトワレト》(師《シ》)携宿者《タヅサハリネバ》(卷十。一九八三)。妹與吾何事泰曾紐不解在牟《イモトワレナニゴトアレゾヒモトカザラム》(卷十。二〇三六)。妹與吾寐夜者無而《イモトワレ(ト)ヌルヨハナクテ》(卷十一。二六一五)等は同じ書き方であるが、普通イモトワレと訓んだのが多い。併しこの邊のところは聲調に應じて稍自由性があるのではなからうか。高山與耳梨山與《カグヤマトミミナシヤマト》〔卷一。一四)。波流能也奈宜等和家夜度能烏梅能波奈(162)等速《ハルノヤナギトワガヤドノウメノハナトヲ》(卷五。八二六)。乎久佐乎等乎具佐受家乎等《ヲクサヲトヲグサスケヲト》(卷十四。三四五〇)などは、『ト』を二つもつて續けたが、大伴等佐伯氏者《オホトモトサヘキノウヂハ》(卷十八。四〇九四)などは下の『ト』を略して居る。また、吾背子與二人之居者《ワガセコトフタリシヲレバ》(卷六。一〇三九)。古家丹妹等吾見《フルイヘニイモトワガミシ》(卷九。一七九八〕などは、『ト』の必要の無い場合であり、また、孫星與織女今夕相霜《ヒコボシトタナバタツメトコヨヒアフラシモ》(卷十。二〇二九)。牽牛與織女今夜相《ヒコボシトタナバタツメトコヨヒアハム》(卷十。二〇四〇)。天地與日月共萬代爾母我《アメツチトヒツキトトモニヨロヅヨニモガ》(卷十三。三二三四)などは、『與』を一つ書いて、調子のうへで、『ト』を二つ訓んでゐるのである。
 次に、『妹と吾と此處にありと』と、『妹と吾と此處に何《いか》にありと』といづれかといふに、第一の方が素直で自然のやうにおもへる。また萬葉の例でも、多く疑問の場合にイカニと續け、四惠也吾背子奧裳何如荒海藻《シヱヤワガセコオグモイカニアラメ》(卷四。六五九)などが幾らかこの第二の訓の參考になるくらゐに過ぎない。また、妹と二人居て、それが『いかにありと』といふと少しくくどい感を起さしめる。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九一〕
  この岡《をか》に草《くさ》苅《か》る小子《わらは》然《しか》な苅《か》りそね在《あ》りつつも君《きみ》が來《き》まさむ御馬草《みまくさ》にせむ
  此崗 草苅小子 勿然苅 有乍 君來座 御馬草爲
 
(163) 〔語釋〕 ○小子 古寫本中、子が童(古)になつてゐるのもある。古寫本の多くがワラハと訓み、流布本の訓も亦さうである。代匠記では、拾遺集でヲノコとしてゐるのを否としたが、考ではそのヲノコの訓に從つた。略解では、ワラハ、ヲノコ兩方を書き、古義ではコドモと訓んでゐる。小兒等《ワラハドモ・ワクゴドモ》草者勿苅《クサハナカリソ》(卷十六。三八四二)。頸著之童子蚊見庭《クビツキノワラハガミニハ》(卷十六。三七九二。老人毛女童兒毛之我願心太良比爾《オイビトモヲミナワラハモシガネガフココロダラヒニ》(卷十八。四〇九四)などの例がある。○勿然苅 シカナカリソネと訓む。元暦本神田本に勿然苅とあるによつて、『勿』を増補した。○有乍 アリツツモと訓む。その儘での意。在管裳君乎者將待《アリツツモキミヲバマタム》(卷二。八七)。在管裳不止將通《アリツツモヤマズカヨハム》(卷三。三二四)などの例でわかる。
 〔大意〕一首の意は、この岡で草を刈つてゐる童子よ。さうみだりに草を刈つてはなりませぬ。あの方《カタ》が通つておいでになる時、その馬に食べさせるのですから。といふぐらゐの意である。
 〔鑑賞〕 この歌も民謠風のもので、誰が作つてもよく、誰が吟誦してもいいものだが、場面が宮廷を中心とせずに、農民の若い男女間の戀愛を意圖してゐる。そして女の歌の趣であるから、人麿が縱ひ作つても、自分の作と署名しない性質のものである。そしてこの程度の歌ならば、人麿歌集以外のものにも幾つも拾ふことが出來る。小子《ワラハ》は單數に云つてゐるが、複數の童子等として味つてかまはぬ。なほ參考歌としては次の如きものがある。
   佐保河の岸のつかさの柴な苅りそね在《あ》りつつも春し來らば立ち隱るがね (卷四。五二九)
(164)   崗ざきのたみたる道を人な通ひそ在りつつも君が來まさむ避道《よきみち》にせむ (卷十一。二三六三)
この歌は、拾遺集雜下に人丸作とし、『かのをかに草かるをのこしかな刈りそ』云々とある。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九二〕
  江林《えばやし》に宿《やど》る猪鹿《しし》やも求《もと》むるによき白妙《しろたへ》の袖《そで》纏《ま》き上《あ》げて猪鹿《しし》待《ま》つ我背《わがせ》
  江林 次完也物 求吉 白栲 袖纏上 完待我背
 
 〔語釋〕 ○江林 エバヤシと訓む。『江林、名所なるべし。未v勘レ國』(代匠記初)。『江林ハ八雲ニモ載サセ給ヒナガラ、何ノ國ノ注シタマハズ』(代匠記精)。童蒙抄・考・略解等同樣の考であるが、古義では、『淺い林』の義とし、『中山(ノ)嚴水、我(ガ)土佐(ノ)國にて、麓は海にほとり、上は平にして畠など有(ル)、其涯けはしくて林となれる所を、俗にえみと云り。若(シ)古言ならば、江林の江は、このえみと同言にや、此(ノ)えみにやどるししは、取やすければ、求るによきと云か、と云り。按《オモ》ふに、江は、いへばえに、或はえならぬなどいふえは、淺き意なり。されば江林と云も、奥深からぬ林の義なるべし』と云ひ、新考は、『おそらくは江は誤字なるべし』と云つた。併し、これは、『江』(165)は入江《いりえ》などの江で、和名鈔に、古雙反、和名衣で、箋注に、説文を引いて則知江本所v出v自2※[山+(民/日)]1之水名、轉爲2江海字1とある。その河海の水の入り込んだところ、湖水でも同樣で、それを江《え》といふから、その水邊にある林を江林《えばやし》といふのであらう。支那には、河林・谷林・谿林・田林などのほかに湖林といふ熟語があり、江林といふ熟語もある。張九齡の詩句に、江林皆秀發、雲日復相鮮の句がある。さういふ具合に一方は水に面した林であるから、捕へ易いといふので、その説明は古義のとほりでいい。○次完也物 ヤドルシシヤモで宿る猪鹿やもの意。舊訓ヤドルシシヤモ。代匠記初では、『宍を完に作は誤なり。さきにも注せしごとく、日本紀には、獣の字をししとよめり。宍の字はかりてかきたれど、獣も、猪鹿《シシ》とかきたるも、宍によりての名なり』と云つた。併し、古義に、『完は古書に宍と通(ハシ)用(ヒ)たり』といひ、新考もさう證明したのをおもへば、必ずしも完を宍に改める必要がないわけである。略解で、『宣長云、次は伏の誤』と云つてフセルシシヤモの訓をあげた。『次』は、支那でヤドルの義であり、王|次《ヤドル》2于河朔1などとあり、旅次は宿舍の義であるからそれを我國でも使つて、景行紀に、『天皇初め賊を討たむとして柏峽《かしはを》の大野に次《やど》りたまふ』とあり、そのほかにも數例ある。○求吉 舊訓モトメヨキ。代匠記精モトムルニヨキ。童蒙抄ネラヒヨキ。略解宣長訓(求吉は來告の誤)キヌトツゲケム。そのうちで代匠記の訓は一番好い。卷二(二〇八)に、殊乎將求山道不知母《イモヲモトメムヤマヂシラズモ》。卷三(二六七)に、牟佐佐婢波木末求跡《ムササビハコヌレモトムト》。卷十(一八二六)(166)に、春之在者妻乎求等《ハルサレバツマヲモトムト》。卷十四(三四一五)に、多禰物得米家武《タネモトメケム》などの例がある。○袖纏上 ソデマキアゲテと訓む。代匠記精に、『袖マキ上テトハ、マクリ手シテ待意ナリ。第十三云、峯ノタヲリニ射目タテテシシ待カコト云々。孟子曰。晋人有2馮婦者1、善搏v虎、有v衆逐v虎(ヲ)、望2見馮婦(ヲ)1※[走+多]而迎之、馮婦攘v臂下(ル)v車(ヨリ)』とあるによつて大體わかる。
 〔大意〕 あの江《え》にのぞむ林の中に宿《やど》つてゐる猪鹿《しし》は捕へるに都合よいのか。〔白妙《しろたへの》〕袖をまくりあげて、猪鹿の出るのを待つ私の夫よ。勇ましくてよい。
 〔鑑賞〕 この歌もまた民謠的で、民衆と云つても大宮のあるやうな都會の情調でなく、山林で働き、狩獵などをする民衆の男女間の一種の戀愛歌である。そして、『白栲の袖まきあげて』などと、男の行動を敍して寫實的であるが、或はかういふ種類のものが却つて都會人の宴會の座などに歌はれるやうになつたものかも知れない。そしてこの歌は女の作つた趣の歌だが、この歌を假りに人麿が作つたものとせば、やはり民謠的歌として旋頭歌の一聯を作つたものであらうか。或は實用的な求めに應じてこの一聯を作つたものであらうか。そのへんの事になると全く想像の範圍になつてしまふ。
 童蒙抄に、『下の心は白妙の袖をまきあげて、妹を待わがせことよめる歌なるべし』といひ、古義に、『裏の意は、女のなびきより來むほどをうかがひて、いまだ言出をもせずして、下待居る男(167)を、かたはらより見ていへるにや』と云つてゐるが、前言のごとく此歌は一つの民謠的歌だから、必ずしも寓意は要らずに、ひろがり得る特徴を有つてゐるのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九三〕
  霞《あられ》降《ふ》り遠江《とほつあふみ》の阿渡川楊《あどかはやなぎ》苅《か》れれどもまたも生《お》ふとふ阿渡川楊《あどかはやなぎ》
  丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊
 
 〔語釋〕 ○丸雪降 アラレフリと訓み、遠つに係る枕詞である。舊訓アラレフル。考アラレフリ。丸雪をアラレと訓むのは、白氣《キリ》、火氣《ケブリ》、重石《イカリ》、戀水《ナミダ》などの書き方と同じく義訓の一つである。次にアラレフリをトホに續けたのは、代匠記では、初稿本に、『音《ヲト》をととのみよむ其例、浪のおとを浪のとといひ、梓弓つまひく夜音《ヨト》などいへり』と云ひ、精撰本には、『今按發句ヲアラレノト讀テ、次ヲフルトホツエノト讀ベシ』と云つた。つまり代匠記初稿本の説ではオトのトに續けたものと解して居る。冠辭考には、『こは古事記に、(允恭の大御歌)佐々婆爾《ササバニ》、宇都夜阿良禮能《ウツヤアラレノ》、多志陀志爾《タシダシニ》、葦泥弖牟能知波《ヰネテムノチハ》てふは、霞の〓《ササ》葉うつ音は、たしたしとも、てしてしとも、はしはし(168)とも聞ゆるを、女ぎみとたしかに相寢する事に、いひよせ給へり。是に依に、今は霰ふりたしといふ意にて、遠つとはいひかけしと見ゆ。とほしとたしと、おのづから音の通ふなり』と云つた。なほ古義では、『強て考(フ)るに、霰零飛打《アラレフリトビウツ》といふ意につづけたるなるべし』と云つてゐる。諸説があるが、霞降る音響を以て説明しようとする意嚮は共通して居る。そして、この枕詞は、トホツ。キシミ。カシマなどに冠らせてゐるから、やはり音響で説明するのが一番よく、トホの場合はトといふのに續けたものと見ていいであらう。○遠江 舊訓トホツエニアル。拾穗抄トヲツアフミノ。代匠記初書入トホツアフミノ。童豪抄トホツアフミノ(考・略解・古義等同訓)。さて此處は何處かといふに、童蒙抄では、遠江の國だとしてゐる。然るに冠辭考に、『遠津淡海の國の事にはあらで、近津《チカツ》淡海國(ノ)高島郡の阿度《アト》河なり。卷九に(高島(ノ)作)高島之《タカシマノ》、阿度河波者《アトカハナミハ》とよみ、三代實録その外にも、ただ近江の國にあと川は見えたり。さてこの遠江は、或説に同じ湖ながら、京より遠き方を、とほつあふみともいふといへるによるべし』と云ひ、久老の信濃漫録に、『遠江にあど河をよみ合せたるいかにぞやおぼゆるに、門人御園常言がいはく、日本靈異記に近江坂田郡遠江の里とあるを見れば坂田郡と高島郡とはもと隣れる郡にてあど川は兩郡に跨る川にてやありけむ。故に遠江《トホツアフミ》のあと川とも竹島のあと川ともよめるなるべしといへり』と云ひ、古義も、『遠江《トホツアフミ》は、中山嚴水が、近江(ノ)國にも遠江《トホツアフミ》と云地あり、そこなりと云るが如し』といつたが、高島郡と坂田郡(169)の點で解決がつかず、『彼(ノ)國の地理知たらむ人に尋ねて、重《さら》に正すべし』と云つた。なほ新考では、縱ひ坂田郡に遠江の里といふのがあるとしても、『吾跡川とは風馬牛なり』とし、『近江國のうち、奈良より速き地方をそのかみトホツアフミといひならひしならむ』と云つてゐる。そこで、高島郡の遠江の方が、靈異記の坂田郡遠江よりも確實性が稍大きいといふことになるだらうか。○吾跡川楊 アドカハヤナギで、吾跡《アド》川は卷九(一六九〇)に、高島之阿渡河波驟鞆吾者家思宿加奈之彌《タカシマノアドカハナミハサワゲドモワレハイヘオモフヤドリカナシミ》といふのがあるから、琵琶湖の西、高島郡の南部にあり、安曇川《アドカハ》とも書く。その川邊に生えてゐる川柳をいふのである。和名鈔に、水楊、本草云、水楊、加波夜那岐とあるものである。○雖苅 カレレドモと訓む。舊訓カリツトモ。考カレリトモ。略解カレレドモ(吉義同訓)。新考カレド、カレドモ(新訓同訓)、カリツレド。○亦生云 マタモオフトフと訓む。舊訓マタモオフテフ。考マタモオフチフ(略解・古義・新考同訓)。新訓マタモオフトフ。代匠記に、『戰國策云。今夫楊横樹v之則生、倒樹v之則生、折而樹v之又生(ス)云々』を引用した。『を山田の池の堤にさす楊成りも成らずも汝《な》と二人《ふたり》はも』(卷十四。三四九二)がある。
 〔大意〕 〔丸雪《あられ》降《ふり》〕都から遠い近江の國の高島郡の吾跡《あど》川べりに生えてゐる川楊《かはやなぎ》。苅れどもまたあとからあとから生えてくるといふ吾跡《あど》川の川楊《かはやなぎ》。戀しい心が繼からつぎと湧いてくるのに譬へて愬へた趣の歌である。
(170) 〔鑑賞〕 此の歌の水楊は、かつらにするといふ渡來植物の楊柳樹を指すのではなく、本邦原産のものである。『楊《やなぎ》こそ伐《き》れば生《は》えすれ世の人の戀に死なむを如何《いか》に爲《せ》よとぞ』(卷十四。三四九一)などといふ歌もある如く、寓意を持たしめるのに使つてゐる。この歌もさういふ寓意があるので、代匠記初稿本に、『柳のかれどもまたおふるをいふは、下の心、おもひすててもまたおもはるるにたとへたる歟。しばしいひたゆれど、又おもひかねて、いひかはすにたとふるなるべし』といふので大體分かるとおもふ。やはり民謠的である。なほ、『このごろの戀の繁けく夏草の苅り掃《はら》へども生ひしく如し』(卷十。一九八四)。『吾背子に吾が戀ふらくは夏草の苅り除《そ》くれども生ひ及《し》く如し』(卷十一。二七六九)などの參考歌がある。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九四〕
  朝《あさ》づく日《ひ》向《むか》ひの山《やま》に月《つき》立《た》てり見《み》ゆ遠妻《とほづま》を待《も》ちたる人《ひと》し見《み》つつ偲《しぬ》ばむ
  朝月日 向山 月立所見 遠妻 持在人 看乍偲
 
 ○向山 ムカヒノヤマニと訓む。舊訓ムカヒノヤマノ。古寫本中ムカヒノヤマニ(元・神・西・(171)音)。童蒙抄ムカヒノヤマニ(考・略解以下同訓)。○月立所見 舊訓ツキタチテミユ。古寫本中ツキタテルミユ(元)。ツキタテハミユ(神)。ツキタチテミユ(細・温・矢・京・西)。考(立は出の誤)ツキノイヅルミユ。略解ツキタテルミユ。古義ツキタテリミユ。○持在人 舊訓モタラムヒトヤ。童蒙抄モチタルヒトヤ。考モタラムヒトゾ。略解モチタルヒトシ。『朝づく日』は、朝の日、朝日のことで、『向』に係る枕詞で、實景實感に本づくものであらう。『月立てり見ゆ』は、月が向ひの山の際の空にのぼつて見えてゐる趣である。白雲などの場合にも、『立てる白雲』といひ、霞に『立てる春霞』といひ、樹木などに『立てる室の木』、『立てる桃の木』といひ、現在にさう見えて居るのにタテルと使つてゐる。なほ、『見渡せば向つ峯《を》の上《へ》の花にほひ照りて立てるは愛《は》しき誰が妻』(卷二十。四三九七)は人に使つて居り、現に立つて見えてゐる趣だから、この場合も月がのぼつて居る趣である。『立トハ出ルナリ』(代匠記精)。『月立は月の山の端を立ち上《のぼ》るを言ひて』(略解)。『古(ヘ)は月の出るを立と云り。十一に、味酒之三毛侶乃山爾立月之《ウマサケノミモロノヤマニタツツキノ》云々、十四に、乎豆久波乃禰呂爾都久多思《ヲツクバノネロニツクタシ》、などよめり』(古義)等の解があるが、ツキタツ、タツツキでなくて、ツキタテルだから其處を注意せねばならぬ。寧ろ、『向山に月の出て見ゆれば』(童蒙抄)の穩當なるを取るべきである。
 一首の意は、向の山際の空に月がのぼつた。清い月だ。遠く妻に離れてゐる男等は、あの月を(172)見ながら妻のことを偲ぶであらう。あの月を妻として偲ぶであらうといふ、萬葉に多い聯想をあらはす手段である。背後に、吾に妻なくして寂しいといふ意があるのかも知れないが、そこはあつさりと背後に潜めてしまつて解釋の上には云はぬ方がいいやうである。この歌の場合も、前にも觸れた如く、『見つつ偲ばむ』といふ句がある時に、『何を』偲ぶかといふに、月光を機縁として、『遠妻を』偲ぶといふのである。
 これも誠に快い歌で、民謠的な一種の戀歌と看做していい。このあたりにある雜歌にせよ譬喩歌にせよ一般化し得る傾向の戀愛歌つまり民謠風のものが多いのである。そして皆相當に旨く、實際の事物を取入れ、枕詞乃至序歌の形式を用ゐるにしても、實際的なものを取入れる能力を持つてゐるものが多いことを注意すべきである。そしてこの旋頭歌あたりの歌風はやはり人麿時代か或は人麿以前の風のやうにおもへるもので、その單純なところなどはどうしても萬葉の末期とはちがふのである。
 以上で、『右の二十三首は柿本朝臣人麿の歌集に出づ』といふのを全部評釋した訣である。そして同じ旋頭歌でも、少しづつ變化があつて興味があり、第三句と結句(第六句)で繰返したのもあり、必ずしも繰返さないのもあり、少し變へて繰返したのもあり、順當に續けて行つたのもある。そのへんのことは自然にして且つ自由で、さう規則づくめのやうに窮屈ではない。
(173) それから、此處の二十三首の旋頭歌は殆ど全部一般歌謠的色調を持つたものである。これも亦興味あることであり、卷一、二、三の人麿と明かに署名された歌には、旋頭歌は一首もないのに、人麿歌集中にはかくの如く旋頭歌があるのみならず、卷十一の方にも多いのである。人麿は斯る歌謠として意圖して作つたか、或は一聯として頼まれたか、或は同時代の誰々と共同製作をしたのか。或は人麿とは無關係であるのか。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九六〕
  今《いま》つくる斑《まだら》の衣《ころも》目《め》につきて吾《われ》に念《おも》ほゆいまだ著《き》ねども
  今造 斑衣服 面就 吾爾所念 未服友
 
 譬喩歌。『寄v衣』といふ題のある歌である。以下十五首の歌に就き、『右十五首柿本朝臣人麿之歌集出』と(一三一〇)の歌の後に左注がある。○今造 イマツクルと訓んだが、舊訓イマヌヘル。六帖イマツクル。仙覺の一訓アタラシクスレル。童蒙抄アタラシキ。代匠記初イマツクル。古寫本中イマハヌヘル(元)。○班衣服 舊訓マダラコロモハ。童蒙抄ハダレゴロモノ。略解マダラノ(174)コロモ。○面就 舊訓メニツクト。仙覺一訓メニツキテ。代匠記初メニツキテ。略解宣長訓オモヅキテ。古寫本中メニツケド(類・古)もある。六帖マダラノキヌノオモツキニ。○吾爾所念 舊訓ワレニオモホユ。考ワレハオモホユ。古義アレハオモホユ、ツネニオモホユ。
 一首の意は、今|造《つく》る斑《まだら》の摺衣《すりごろも》は、まだ著ないけれども、いつも目にちらついて忘れることが出來ない。その内の意味は、あの美しい處女は、まだ一しよには寢ないが、目について爲方がない、戀しくて溜まらないといふのである。
 面就をメニツクと訓んだのは、卷一(一九)に、綜麻形乃林始乃狹野榛能衣爾著成目爾都久和我勢《ヘソガタノハヤシノサキノサヌハリノキヌニツクナスメニツクワガセ》があるのを參考としたものともおもふが、古寫本に既にメニツクと訓んで居り、また、佐用嬪面《サヨヒメ》、美奴面《ミヌメ》の如き訓例があるのだから、それがもはや確定的な訓方かも知れない。またオモヅクといふ訓例は萬葉にほかに無いので困るが、六帖にオモヅキと訓んだとせば、オモヅクといふ訓もあつていいやうにもおもへる。面羞《オモナミ》といふあらはし方もあるから、面就《オモヅク》といふ語もあつて、面前にちらついて致方のない趣の表現になると都合がいいとも思ふのである。併しこれはわたくし事である。
 この事物に寄する抒情歌は、民謠的でもあるが、或は問答、贈答として發達して行つたものかも知れない。平安朝に入つてからの好色《いろごのみ》の媒介云々といふのは、多くは贈答の戀歌で、二人の間(175)柄であるから、民謠ほどに一般化する傾向がない。この歌の心持はそれほど狹くはなく、やはり民謠の特質を備へてゐる點が單なる男女間の贈答謌とちがふ點である。
 『しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖|けく《かに》見ゆ』(卷三。三三六)といふ歌も似たところがあるが、この歌ほど譬喩的でなく、もつと實際に即して、ほのかに意を寓してゐる程度であるから、其處が鑑賞のうへからいふと根本の相違になるのかも知れない。
 なほ、『鴨頭草《つきくさ》に衣《ころも》ぞ染《し》むる君がため綵色《いろどり》ごろも摺《す》らむと念ひて』(卷七。一二五五)。『時ならぬ斑《まだら》のころも著欲《きほ》しきか島の榛原《はりはら》時にあらねども』(同卷。一二六〇)。『摺衣《すりごろも》著《け》りと夢《いめ》見つうつつには誰《たれ》しの人の言か繁けむ』(卷十一。二六二一)などの歌は參考となるだらう。
 この歌は、六帖第五「ころも」の部に入り、訓み方の異同は先に示したごとくである。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九七〕
ころもし
  くれなゐに衣《ころも》染《し》めまく欲《ほ》しけども著《しる》くにほはばか人《ひと》の知《し》るべき
  紅 衣染 雖欲 著丹穗哉 人可知
 
(176) 譬喩歌。寄v衣歌である。○衣染雖欲 舊訓コロモヲソメテ・ホシケレド。代匠記精コロモソメマクホシケドモ(略解同訓)。童蒙抄キヌハソメマクホシケレド。コロモソメマクホシケレド。考コロモハソメマホシケレド。コロモハソメテホシカレド。古寫本中キホシキヲ(元・類・古)。キホシキニ(神)。ホシケムト(細)等の訓がある。古義コロモシメマクホシケドモ(新考・新訓同訓)。○著丹穗哉 舊訓キテニホハバヤ。仙覺一訓ニホヒヤイデン。童蒙抄キバアカホニヤ。考キナバニノホヤ。古義キテニホハバヤ或はキテニホセバヤ。『按(フ)に、羽者の二字などを脱せるか。さらばキテニホハバヤなり。又は瀬者の二字を脱せるにもあるべし。さらばキテニホセバヤと訓べし。ニホセはニホハセと云が如し』(古義)。新訓シルクニホハバカ。全釋一訓ツキニホハバヤ。今、新訓に從つたが、シルクニホヘヤではならぬにや。○人可知 舊訓ヒトノシルベキ。古寫本ヒトノシルベク(元・古・神)。仙覺一訓ヒトノシルベク。
 紅《くれなゐ》に衣を染《し》むとは、紅《くれなゐ》の花即ち紅花から採つた染料で染めたもので、紅花はベニバナ、クレナヰ、スヱツムハナ、紅藍花、末摘花等といふ菊科植物で和名鈔に、釋名云、※[赤+經の旁]粉、閇邇とあるものである。なほ、辰巳・上村氏(萬葉染色考)に據るに、『口紅《くちべに》とか頬紅とかはこの染料の部分を酢を加へて沈澱させて採つたものである。近世の緋と云ふ色はこの紅花とうこん〔三字傍点〕と云ふ黄染の染料とで染めたものであつて所謂|紅緋《べにひ》である』。『實驗に依れば赤※[草がんむり/見]も鵜冠花《けいとう》も葉鶏頭《はけいとう》もみな同じ種類(177)の色料である。そして此等が衣服の染料としては飛鳥時代あたりに實用されなかつたことは明かである』等とある。
 なほこの染衣の參考歌には、『紅《くれなゐ》の花にしあらば衣手に染めつけ持ちて行くべくおもほゆ』(卷十一。二八二七)。『くれなゐの濃染《こぞめ》の衣《きぬ》を下に著《き》ば人の見らくににほひ出でむかも』(同。二八二八)。『くれなゐの八入《やしほ》の衣《ころも》朝《あさ》な旦《さ》な穢《な》るとはすれどいやめづらしも』(同。二六二三)。『くれなゐの濃染《こぞめ》の衣《ころも》色深く染《し》めにしかばか忘れかねつる』(同。二六二四)。『くれなゐの薄染衣《うすぞめごろも》淺らかに相見し人に戀ふる頃かも』(卷十二。二九六六)。『くれなゐはうつろふものぞ橡《つるばみ》のなれにし衣《きぬ》になほ若《し》かめやも』(卷十八。四一〇九)などがある。
 一首の意は、紅《くれなゐ》の染料をもつて衣を染めたいのだけれども、餘り著《いちじる》しく染めたならば、人に知れて具合が惡いであらうといふ意。あの兒に親しみたいのだが、目だつと困ると寓意があること無論である。
 このニホフといふのは、染めることとなるのだが、種々の色調に使つてゐる。『紅《くれなゐ》の八入《やしほ》に染めておこせたる衣の裾も徹りて濕れぬ』(卷十九。四一五六)の反歌、『くれなゐの衣にほはし辟田河《さきたがは》絶ゆることなく吾《われ》かへりみむ』(同。四一五七)も染める、しみ込ますの意である。『引馬野ににほふ榛原《はりはら・はぎはら》入り亂《みだ》りころもにほはせ旅のしるしに』(卷一。五七)。『住吉《すみのえ》の岸野の榛《はり》に染《にほ》ふれどにほ(178)はぬ我やにほひて居らむ』(卷十六。三八〇一)などの例がある。 この歌は女に親しむことを紅花を以て染めるに譬へたもので、民謠的の歌である。それが人に知れて困るといふやうな心持の歌は相當に多く萬葉にあつて、取りたてていふべき歌ではないが、無理なく順直に歌はれて居る。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九八〕
  かにかくに人《ひと》はいふとも織《お》り次《つ》がむ我《わ》が織物《はたもの》の白麻衣《しろあさごろも》
  干各 人雖云 織次 我二十物 白麻衣
 
 誓喩歌。寄v衣。○干各 カニカクニと訓む。原字『千名』で、舊訓チナニハモ。童蒙抄チヂニナニ。(千各として)トモカクモ。者チヂノナニ。古義、(干各として)カニカクニ。新考、(左右の誤とせば)カニカクニ。古寫本中、名が各になつてゐるものがあるから(古・神)、干各と考へることが出來る。干にカニの訓があり(湯鞍干《ユクラカニ》)、各にカクの訓がある(各鑿社《カクノミコソ》)。意味は、『いろいろに兎に角』といふことになるが、古來訓が一定して居ないので解釋も種々であつた。『ちなにはも。(179)第四卷には、千名《チナ》の五百《イホ》名とよみ、第十二には、百《モモ》に千《チ》に人はいふともとよめり。さまさまに名の立ことなり』(代匠記初)。『一本千各とあり。然らば兎も角もとも讀まんか。十を百は千也。よりてともとよむ。各はかくの音借也』(童蒙抄)。古寫本の訓は、トニカクニ(元・類・古)。チヂノナニ(元、訓ノ右)等である。○織次 オリツガムと訓む。舊訓ヲリツガム。童豪抄オリヤスキ又はオリナメヤ。代匠記精オリツガム。『人はイカニ云トモ織ソメシ布ヲ、ハシタニテヤマズシテ、オリツヅケテ、機ヨリオロス如ク、見ソメシ人ニ志ヲ遂ムトナリ』(代匠記精)。○我二十物 ワガハタモノノと訓む。舊訓ワガハタモノノ。古寫本ワガハタモノハ(類・古・神)。わが織物《はたもの》のの意である。○白麻衣 シロアサゴロモと訓む。舊訓シロアサゴロモ。拾穗抄シロキアサギヌ。古寫本中シロキアサキヌ(類・古・神)、シロアサゴロモの兩訓がある。
 一首の意。人はいろいろと云はうとも、この私の織物の白い麻衣をば織り續けようとおもふ。人等が彼此噂立てていひふらすとも、この方との戀はつづけねばならぬ。
 戀人をば白麻衣《しろあさごろも》に譬へ、戀をつづけることを織り續けることとしたのは、何か作者の女の特質と關聯があるやうな氣がして心を牽く歌である。同じく民謠的であつても、なかなか細かく心が働き、且つ田園に生活するものの間の戀を歌つてゐる點がおもしろい。
 契沖は、これを男の歌として『何クレノ絹ナド、名ノ數ヲ盡シテ云如ク、コナタカナタニクハ(180)シメアリト人ハ云ヒマドハサムトストモ、白キ布ノ如ク事モナキ人ノ見ソメテ久シキニ逢《アヒ》ハテムトヤ』(代匠記精)といふ具合に解釋してゐるが、併しこの歌は、白い麻衣を織次ぐことを歌つてゐるのだから、田園處女の心持であるやうである。鴻巣氏の全釋にも、『譬へ方からいふと女の歌らしい』と云つてゐる。
 參考歌として、『かにかくに人はいふとも若狹道《わかさぢ》の後瀬の山の後も會《あ》はむ君』(卷四。七三七)。『かにかくに物は念《おも》はず飛騨人《ひだびと》の打つ墨縄《すみなは》のただ一道に』(卷十一。二六四八)。『かにかくに物は念はじ朝露の吾が身一つは君がまにまに』(卷十一。二六九一)などがある。
 次にこの歌は、代匠記精に、『發句ヲ拾遺竝ニ人丸集ニハ、チチワクニ改タリ。腰ノ句拾遺ニハオリテキムト改ラル。家集ハ改メズ』と注意した如く、拾遺集に『ちちわくに人はいふとも織りてきむわがはたものに白き麻衣』になつて居る。源實朝の、『おほ君の勅《ちよく》をかしこみちちわくに心はわくともひとにいはめやも』といふ歌は、状況本・定家所傳本によつて、『ちちわくに』が定まつたのであるが、この句は、拾遺集のこの歌を模倣したものである。そして、萬葉古寫本の訓が一つも、『ちちわくに』と訓んでゐないところを見れば、實朝の萬葉調の歌は、萬葉集以外の歌集よりの影響で、定家が實朝に萬葉を贈つた建保元年以前には、萬葉の完本を實朝が所持してゐなかつただらうといふ、私の想像を支持する一つの實例にこの歌がなつて居るのである。なほ、前(181)出のやうに契沖は柿本集にも初句『ちちわくに』とある如くに記してゐるが、類從本柿本集には、『ちちはくに人はいへども』。流布本(歌仙本)柿本集には、『ちちに人はいふとも人はおりつがむわがはたものに白きあさぎぬ』とあり、一本第一二句『ちちにはも人は言ふとも』とある。
 この歌はまた六帖に、『あさごろも』の題で入り、初句『ちなにはも』、結句『白きあさぎぬ』である。それから夫木和歌抄雜十五衣の部には上の句『とにかくに人はいふともおりわかん』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一二九九〕
  あぢ群《むら》のとを寄《よ》る海《うみ》に船《ふね》浮《う》けて白玉《しらたま》採《と》ると人《ひと》に知《し》らゆな
  安治村 十依海 船浮 白玉採 人所知勿
 
 〔題意〕 譬喩歌。寄v玉。以下五首同樣である。
 〔語釋〕 ○安治村 アヂムラ即ち味鴨《あぢがも》の群で、味鴨は雁鴨科に屬し巴鴨《ともゑがも》ともいふ。その群れてゐるさまをいふ。○十依海 トヲヨルウミで、味鴨等が海の一方に靡き群がり浮ぶさまをいつた(182)ので、しなへ撓み寄る原意から來て居る。卷二(二一七)に、奈用竹乃騰遠依子等者《ナヨタケノトヲヨルコラハ》。卷三(四二〇)に、名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》の例がある。舊訓ナヲヨル。仙覺トヲヨル。代匠記トヲヨル。童蒙抄トヲヨル。考ムレタル。略解トヲヨル。古義ムレヨル。古寫本トヲヨル(【類・神・西・温・細・矢・京】)。トホヨル(元)。『十ヲナヲト點ゼルハ書生ノ誤ナリ。十ハ遠ニ借テ遠奧ノ方ヘサカリ行ヲ云ヘルカ。上ニ朝コグ舟モ奧ニヨル見ユトヨメルハト思フニ、此集ノ假名ノ例、遠ハ登保、十ハ登|乎《ヲ》ナレバ右ノ意ニアラズ。アヂ村ノアマタヨル海ト云ナリ』(代匠記精)。『遠よるの義不v被v用。よりて地名にやあらんと見る也』(童蒙抄)。『十は千の誤にて、ちよるならん、さらばむれたると訓べし』(考)。『トヲヨルは、卷二、なゆ竹の騰遠依《トヲヨル》子ら、卷三、なゆたけの十縁みこなど言ひて、トヲヲ、タワワなど言ふに同じく、撓みしなふさまなり。水鳥の群れ飛ぶもたわみよる如く見ゆるものなれば、あぢむらの群れ飛ぶ列《ツラ》を斯く言へり』(略解)。『或人の考に、十は群(ノ)字の畫の滅失《キエ》たるにて、ムレヨルウミニなるべしといへり』(古義)。『海上に浮べるあぢの村鳥の浪風にすまはずして一方に靡き寄る事とすればトヲヨルにて通ぜざるにあらず。略解に「あぢむらの群飛ぶ列をかくいへり」といへるは從はれず』(新考)等の諸説があつた。新考の説が一番いい。○船浮 フネウケテと訓む。舊訓フネウケテ。古寫本中フネヲウケテ(元)。卷二(二二〇)に、中乃水門從船浮而《ナカノミナトユフネウケテ》。卷十(二〇〇〇)に、天漢安渡丹船浮而《アマノガハヤスノワタリニフネウケテ》。同(二〇七〇)に、天河津爾船泛而《アマノカハツニフネウケテ》等がある。○白玉採・人所(183)知勿 シラタマトルト・ヒトニシラユナと訓む。舊訓シラタマトラム・ヒトニシラスナ。代匠記精シラタマトルト・ヒトニシラルナ。略解ヒトニシラユナ。
 〔大意〕 一首の意は、味鴨《アヂガモ》の群が一方に靡き寄る海に船を浮べて白玉《しらたま》を取らうとすることは人に知られるな。難儀して親しまうとするこの佳い女のことは誰にも分からずに獨占したいといふ心持があり、そこで、寄v玉戀になるのである。
 〔鑑賞〕 この歌に、アヂムラと出したのは、『山の端《は》に味鳧群《あぢむら》騷ぎ行くなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば』(卷四。四八六)といふ岳本天皇の御製があり、その長歌の方にも、『味鳧群《あちむら》の去來《ゆきき》は行けど吾が戀ふる君にしあらねば晝は日の暮るるまで夜は夜の明くる極《きはみ》おもひつつ』(同。四八五)
とあるのについて、契沖も、『アヂ村ノアマタヨル海ト云ナリ。此ヲ以前モアヂ村サワギト有シ如クニ他言《ヒトゴト》ノ云ヒサワグ世ニ喩フ。白玉採ヲバ潜ニ逢ニ喩フ。海ノ底ニカヅキ入テ取レバナリ』(代匠記精)とある如くに、單純な景物でなく、意味をも含めた、象徴詩的にほひのある歌である。さう思つて味ふと、『あぢ群のとを寄る海』といふあらはし方はなかなか旨く且つ確かであるし感味も深い。
 なほ『あぢむら』は、『沖邊漕ぎ邊《へ》に漕《こ》ぎ見れば渚にはあぢむら騷ぎ島廻《しまみ》には木末《こぬれ》花咲き』(卷十七。三九九一)。『あぢ群の騷ぎ競《きほ》ひて濱に出でて海原見れば』(卷二十。四三六〇)などの例の如く、(184)何か騷々しく群がりさわぐ心持で使つて居るのである。
 白玉《しらたま》といふ語も誠に感じのよい語で、普通は、『奈呉《なご》の海部《あま》の潜《かづ》きとるちふ眞珠《しらたま》の見がほしみおもわ』(卷十九。四一六九)のごとく眞珠のことであるが、そのほか美しい小石もいふし、白い珠石のことにも用ゐる。そのことは追々次の歌の時に記すつもりである。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇〇〕
  遠近《をちこら》の磯《いそ》の中《なか》なる白玉《しらたま》を人《ひと》に知《し》らえず見《み》むよしもがも
  遠近 礒中在 白玉 人不知 見依鴨
 
 〔語釋〕 ○遠近 ヲチコテノと訓む。舊訓ヲチコチノ。古寫本中ワタツウミノ(元)。トヲタウミ(神)等の訓もあつた。○礒中在 イソノナカナルと訓む。舊訓イソノナカナル。イソナカニアル(元・類)。○人不知 ヒトニシラエズと訓む。奮訓ヒトニシラセデ。童蒙抄ヒトニシラレデ。略解ヒトニシラエズ。○見依鴨 ミムヨシモガモと訓む。舊訓ミルヨシモガモ。略解ミンヨシモガモ。
(185) 〔大意〕 一首の意は、あちらこちらの海磯にある白玉をば人に知られないで見たいものである。多くの人なかの、この戀しい女に人に知られないやうにして逢ひたいものである。
 〔鑑賞〕 『遠近ハ此方彼方ナリ。遠近トカケルニヨリテ、ツヨクミルベカラズ。玉ノ緒ノヲチコチカネテ結ツルト第四ニ有シニ意得ベシ。誰妻トモマダ定マラヌ意知ベシ』(代匠記精)。『あちこちの磯の見る目多きを人めの繁きにたとへ、かかる中は逢事かたきをなげけるなり』(考)。『イソは石なり。此處彼處《ココカシコ》の石に交りて有る玉と言ひて、是れも女を玉に譬へて、多かる人の中にて、人に知られず、相見ん由も有れかしと言ふなり』(略解)。『集中にヲチコテといへるには遠及近(即今の世にいふ所)と遠或近との二種あり、ここは俗語にソコラといふ意にて、遠近數處の謂にあらず』(新考)等の諸先進の説がある。
 ヲチコチは、所詮諸説が同一に歸著するので、一つの定まつた場處でなく、稍ひろい範圍を示すためにソノアタリニといふ意味でヲチコチといふのだから、契沖説も井上博士説も同じこととなる。ただ井上博士の疑問を起されたのは、白玉が幾つもあるやうに意味を取ると具合が惡いからであらうが、これはヲチコチを、あちこちと解しても白玉が一つであつてかまはぬのである。井上博士の引用せられた、『宇治河は淀瀬無からし網代人舟呼ばふ聲をちこち聞ゆ』(卷七。一三五)も、音響の發源地は必ずしも一點としては聞こえず、ぼんやりすることがあるものだからヲ(186)チコチと云つたものである。そして複數になるか單數になるかは、その主體に依るので、前後の關係で極まるのであらう。
 このヲチコチは、既に人麿の狹岑島の長歌(卷二。二二〇)の時にも解釋したが、なほ二たび引用するならば、卷四(六七四)に、眞玉付彼此兼而言齒五十戸《マタマツクヲチコチカネテイヒハイヘド》。卷六(九二〇)に、大宮人毛越乞爾思自仁思有者《オホミヤビトモヲチコチニシジニシアレバ》。卷十二(二九七三)に、眞玉就越乞兼而結鶴言下紐之所解日有米也《マタマツクヲチコチカネテムスビツルワガシタヒモノトクルヒアラメヤ》。卷十七(三九六二)に、和可伎兒等毛波乎知許知爾佐和吉奈久良牟《ワカキコドモハヲチコチニサワギナクラム》。卷十九(四一五四)に、石瀬野爾馬太伎由吉※[氏/一]乎知許知爾鳥布美立《イハセヌニウマダキユキテヲチコチニトリフミタテ》。卷二十(四四〇八)に、若草之都麻母古騰母毛乎知己知爾左波爾可久美爲《ワカクサノツマモコドモモヲチコチニサハニカクミヰ》などがある。それだから、ヲチコチは空間的の語原から出發して、必ずしもさうでないまでに至つてゐる。
 次に、新考に、『イソは大石なり。古書に石と書きてイソとよませたり。ナカナルは其大石ノ間ナルとなり。【中略】此歌のシラタマは美しき小石なり。鰒珠にあらず』とあるが、卷六(九五一)に、見渡者近物可良石隱加我欲布珠乎不取不已《ミワタセバチカキモノカライソガクリカガヨフタマヲトラズハヤマジ》といふ歌などが參考となるとおもふが、このイソの語も時には必ずしも一つの大石の意でなく、磯の意に解すべき場合もあり、この歌の場合も、磯の中に交つてゐる白玉と解したならどうであらうか。卷四(六〇〇)に、伊勢海之礒毛動爾因流浪《イセノウミノイソモトドロニヨスルナミ》などは磯の意味で間違はなく、卷三(三五九)に、阿倍乃島字乃住石爾依浪間無比來日本師所念《アベノシマウノスムイソニヨルナミノマナクコノゴロヤマトシオモホユ》とあ(187)るのは石《イソ》であるが、これも必ずしも一つの石でなくともいい。卷九(一七二九)に、曉之夢所見梶嶋乃石越浪乃敷弖志所念《アカツキノイメニミエツツカヂシマノイソコスナミノシキテシオモホユ》も石《イソ》であるが、これも一つの石でなく數個あつてもかまはぬので、その邊の自由を保持しつつ鑑賞するのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇一〕
  海神《わたつみ》の手《て》に纏《ま》き持《も》たる玉《たま》ゆゑに磯《いそ》の浦廻《うらみ》に潜《かづき》するかも
  海神 手纏持衣 玉故 石浦廻 潜爲鴨
 
 同じく寄v玉歌で、海神は舊訓ワタツミノ、元暦校本ワタツウミノ。ワタツミは此處は海神《かいじん》のことで、特に海神の手に纏《ま》き持つてゐる玉といつたのは、海神の居る宮には珍寶珠玉が多いからである。卷三(三六六)に、綿津海乃手二卷四而有珠手次懸而之努櫃日本島根乎《ワタツミノテニマカシタルタマダスキカケテシヌビツヤマトシマネヲ》。卷十五(三六二七)に、和多都美能多麻伎能多麻乎伊敝都刀爾伊毛爾也良牟等《ワタツミノタマキノタマヲイヘツトニイモニヤラムト》。卷十九(四二二〇)に、和多都民能可味能美許等乃美久之宜爾多久波比於伎※[氏/一]伊都久等布多麻爾末佐里※[氏/一]《ワタツミノカミノミコトノミクシゲニタクハヒオキテイツクトフタマニマサリテ》などの例がある。
 一首の意は、奥深いところに居る海神が手に纏いて持つてゐる玉を得たいと思うて、かなはぬ(188)心ながらただ磯の浦あたりに水に潜つて居るのである。この海神の持つてゐる珠といふのは、仙覺・契沖等が、母に喩へたのだといふのが自然の解釋であらうか。つまりまだ母がかりの娘で、母に護られてゐる趣であらうか。
 或はこの歌は、人妻を戀ふる歌だとする説、『やんごとなき人に愛でらるる女などを、いたづかはしく戀ふるを譬ふ』(略解)。『ぬしある女なるを、それになほ思ひはなつことをえせずして、心をかけて、いかでとおもひをつくすよしなり』(古義)などもある。併し、さう穿鑿せずに、單に『思ふ人をたやすく手に入るることのなり難きと云ことに喩へたり』(童蒙抄)ぐらゐに解釋する方がいいのかも知れない。
 ここのユヱニはカヅクに續くので、ニヨツテ、ノタメニなどの意で、人嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》(卷一。二一)は戀に係るのである。この歌の場合のユヱも、その玉を得ようとしてそのために潜《かづき》すると續くのである。『玉故《タマユエ》には、玉なるものを、といはむがごとし』(古義)といふのは少し無理である。
 この歌は、六帖に人麿作として入り、四五句『いそのうらわをかつきつるかな』とある。
 
          ○
(189)  〔卷七。一三〇二〕
  海神《わたつみ》の持《も》たる白玉《しらたま》見《み》まく欲《ほ》り千遍《ちたび》ぞ告《の》りし潜《かづき》する海人《あま》
  海神 持在白玉 見欲 千遍告 潜爲海子
 
 これも寄v玉といふ題のある歌である。○見欲 ミマクホリと訓む。古寫本の訓にミマホシミ(元・神・京)といふのがある。舊訓ミマクホリ。○千遍告 チタビゾノリシと訓む。舊訓チガヘリツゲツ。代匠記精チタビゾツゲシ(古義同訓)。童蒙抄チタビノリツツ。考チタビゾノリシ(略解同訓)。
 一首の意は、海神《かいじん》の持つて居る白玉《しらたま》を見ようと欲して、千度《せんたび》も云つたことであつた。潜水《せんすゐ》する海人《あま》は。近づき難い女におもひこがれて、海に潜《くぐ》るやうな息をして幾たびも戀心を愬へる心持を寓したものである。海人《あま》と云つて客看的に云つてゐるが、作歌の動機は、自分を海人に喩へたものに相違ない。
 代匠記初に、『ちかへり告つは、おもふよしをたびたび人にいふなり。かづきするあまは我なり。なかたちをもいふべけれど、右の哥にかづきするかもといへる、すなはちわがことなれば、にはかになかだちとはいふべからず。下に、そこきよみしづめる玉をみまくほりちたびぞ告しかづき(190)するあま(卷七。一三一八)』とあるが、代匠記精に、『千遍告トハ媒スル人ニ我告ル歟。媒ノ彼方ニ告ル歟。次下ノ歌ヲ以テ見ルニ彼處ヘ媒ノ告ルナリ』といひ、考も、『かづきする海人は妹の意なり。此海人に見まくほる事をたびたびおふしつげしといふなり』といひ、略解も古義も大體その説に從うてゐるが、これはさう面倒に解釋すべきではなく、海人は自分のこと、『告《の》る』は心中を愬《うつた》ふることである。その愬ふる相手は媒人などでなくともよく、もつとひろく解すべきである。或は直接その女にむかつて愬ふる心持でもかまはない。『みさご居《ゐ》る荒磯《ありそ》に生ふる名告藻《なのりそ》の縱し名は告《の》らじ父母《おや》は知るとも』(卷十二。三〇七七)。『志珂《しか》の海人《あま》の磯に苅り干《ほ》す名告藻《なのりそ》の名は告《の》りてしをいかに逢ひ難き』(同卷。三一七七)等も參考になり、また代匠記で既に抄した、『底清みしづける玉を見まくほり千遍《ちたび》ぞ告《の》りし潜《かづき》する白水郎《あま》』(卷七。一三一八)は、人麿歌集の歌ではないが、大に似て居るところを見ると、人麿作の流轉民謠化か、或は人麿歌集のこの歌は人麿作で無いか、いづれかであらう。そして共にたいしたものでないこと勿論である。
 『難波津に御船下《みふね》《おろ》すゑ八十楫《やそか》貫《ぬ》き今は榜ぎぬと妹に都氣許曾《ツゲコソ》』(卷二十。四三六三)等について、ノルとツグとの語感を知ることを得ば幸である。この歌は、六帖に載り、第三四句『みまくほしちがへりつげつ』となつて居る。
 
(191)          ○
  〔卷七・一三〇三〕
  潜《かづき》する海人《あま》は告《の》るとも海神《わたつみ》の心《こころ》し得《え》ねば見《み》ゆといはなくに
  潜爲 海子雖告 海神 心不得 所見不云
 
 ○海子雖告 アマハノルトモと訓む。舊訓アマハツゲトモ。童蒙抄アマハノレドモ(略解同訓)。考アマニハノレド。古義アマハツゲレド。新訓アマハノルトモ。○心不得 ココロシエネバと訓む。舊訓ココロヲエズテ。童蒙抄タマヲシエネバ。考ココロシエネバ(略解・古義同訓)。○所見不云 ミユトイハナクニと訓む。舊訓ミルトイハナクニ。考ミユトイハナクニ(略解同訓)。古義ミエムトモイハズ。新考ミエムトイハナク。
 一首の意は、たとひ潜《かづき》する海人《あま》が幾たび告げ愬へても、海神の心を知り得ず、心を計りかねるからして、相見るとはいはれない。つまり、海神の御ゆるしがなければ、お逢ひするとは申されませぬといふ意になる。
 『見ゆ』といふやうな用法は、既に評釋した人麿の、『ほのかにだにも見えぬおもへば』(卷二。(192)二一〇)。『春日野の山邊の道を恐《おそり》なく通ひし君が見えぬ頃かも』(卷四。五一八)。『水莖の岡のくず葉を吹きかへし面《おも》知《し》る兒等が見えぬ頃かも』(卷十二。三〇六八)。『かきつばた佐紀澤《さきさは》に生ふる菅の根の絶ゆとや君が見えぬ此の頃』(卷十二。三〇五二)。『陸奧の眞野の草原《かやはら》遠けども面影にして見ゆとふものを』(卷三。三九六)。『袖振るが見ゆべきかぎり吾はあれど其の松が枝に隱りたりけり』(卷十一。二四八五)等が參考となるだらう。『見ゆ』といふ語が種々の語感の色調を以て用ゐられてゐるからである。
 代匠記初に、『わたつみの心を得ずてとは、領したる人の心をしらでは、あひみること有といはぬものをとなり』。代匠記精に、『海神ノ心ヲ取得ネバ白玉ヲ得ヌゴトク、母ノ心許サヌニ、娘ニ相見ル事ヲ得トハ世ニモ云ハズト佗ル意ナリ』。考に、『こは右の答歌にて、媒がよめるなり。ちぢにのらんとすれど、其おやなど守りつよく、しかも心をしもしり得ねば、媒のなしがてにて、其女に見えよともいはずと云を譬よみしならん』とあり、略解・古義等も大體考の説に同じい。
 この歌は諸説のごとく、前の歌と共に味ふべきもので、答歌の心持であるが、中に媒介者などを置かずに、おほまかに、白玉の答へたうた、つまり戀してゐる女の答へた歌として味へばいい。まだ逢ふことも出來ない、心さへ通ぜぬ女が答へる筈はないといふのは一應の理論であるために、考以下の媒介者があらはれて來たものであるが、ここは代匠記の解釋のやうに、大まかに素直に(193)解釋する方がよく、それが歌の解釋の常道である。ただ代匠記の説は、自分で侘び歎くやうな氣持であるが、これはやはり、娘が答へる氣持として解釋していいやうである。
 この歌も、その前の歌も、海神の持つた玉につき、母に守られてゐる娘か、主ある人妻かといふ説があつたが、母に守られてゐる娘といふ説は、仙覺抄に、『ワタツミヲバ、母ニタトフ。母ノ思ヲ蒼海ニタトフルユヘ也。母ノ手ヲハナタズシテ深窓ノ内ニカシヅキヲキテ、玉ノゴトクニウツクシムユヘ也』とあるのに本づくらしい。
 人麿歌集の寄v玉歌は以上の如くであるが、人麿歌集でない寄v玉歌が載つてゐるから、參考のため數首拔くこととする。訓は皆新訓に據つたのは前と同じである。
   海《わた》の底|石著《しづ》く白玉風吹きて海は荒るとも取らずは止《や》まじ (卷七。一三一七)
   伊勢の海の白水郎《あま》の島津が鰒玉《あはびたま》取りて後もか戀の繁けむ (卷七。一三二二)
   海《わた》の底おきつ白玉|縁《よし》を無《な》み常かくのみや戀ひわたりなむ (卷七。一三二三〕
   葦《あし》の根のねもころ念《も》ひて結びてし玉の緒といはば人解かめやも (卷七。一三二四)
   白玉を手には纏かなくに箱のみに置けりし人ぞ玉《たま》詠《なげ》かする (卷七。一三二五)
   照左豆《てりさつ》が手に纏き古《ふる》す玉もがもその緒は替《か》へて吾が玉にせむ (卷七。一三二六)
などで、皆相當に讀むに堪へるものである。民謠風のものであるから、調子はおのづから一般化(194)する傾向を持つてゐるけれども、其處の一聯の何々に寄すといふ歌は、なかなか凝つたものであるが、奈何なる個人により、奈何なる集團によつて作られたものか、興味あることであるが、私の考は其處までには及び得ない。また、人麿歌集の其等の歌を人麿作と假定すると、人麿歌集でない歌との差別は容易につき難いのみならず、私には不可能のものが多いのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇四〕
  天雲《あまぐも》の棚引《たなび》く山《やま》の隱《こも》りたる吾《わ》が下《した》ごころ木《こ》の葉《は》知《し》るらむ
  天雲 棚引山 隱在 吾忘〔下心〕 木葉知
 
 譬喩歌、寄v木といふ題がある。○隱在 舊訓カクレタル。代匠記精カクシタル。代匠記初書入【校本萬葉】コモリタル。童蒙抄カクラクモ。考コモリタル(略解・古義等同訓)。古寫本中カクルレド(元)。カクレルト(類)等の訓がある。○吾忘 舊訓ワレワスレメヤ。古寫本中ワガワスレメヤ(細)。代匠記初、忘は志の誤。代匠記精ワガココロザシ。童蒙抄、己心の誤でアガカルココロ。又はカリカルココロ。考、忘は志の誤でワガココロヲバ。略解宣長訓、忘は下心の誤で、ワガシタゴコロ(195)(【古義以下同訓但し古義アガ】)。この忘の字は古寫本中(元・類・矢)忌となつてゐるのみで、他は忘であるから、一つも下心と書いたのが無いが、これは確かに誤寫といふことが出來るとおもふから、誤寫説を絶待に否定し得ない一つの好資料である。○木葉知 舊訓コノハシルラム。童蒙抄、知の下に良武の脱漏としてコナバシルラムと訓む。考コノハシルラム(略解同訓)。古義コノハシリケム。
 一首の意は、天雲が棚引いてゐる奧山のやうに隱《こも》つてゐる、外にあらはさぬ苦しい戀心をば、木の葉が知つて呉れるであらう。寄v木歌であるから、木の葉と女とを關聯せしめてゐる趣である。『天雲の棚引く山の』までは、『隱る』にかかる序詞の形式になつてゐるが、それが隱微のあひだに關聯があつておもしろいのである。
 この『木の葉』をば、契沖は、『此モ紅葉ノ色ヨキヲ以テ喩』といつたが、これはさう瞭然と紅葉としない方がいいであらう。集中、『鳥翔《つばさ》なす在り通《がよ》ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ』(卷二。一四五)。『眞木の葉の撓《しな》ふ勢の山|忍《しぬ》ばずて吾が越えゆけば木の葉知りけむ』(卷三。二九一)の例がある。なほ、シタの例では、『隱沼《こもりぬ》の從裏《シタユ》戀ふればすべを無み妹が名告りつ忌むべきものを』(卷十一。二四四一)。『湖葦《みなとあし》に交《まじ》れる草の知草《しりくさ》の人みな知りぬ吾が裏念《シタオモヒ》』(卷十一。二四六八)などがある。
 童蒙抄の訓につき、『然れば吾己の字、皆かりともかるとも讀むなれば、かりかるとは、もとめ(196)えることを云。ここも妹をもとめえるの心なれば、あがかる心とか、かりかる心とかよむべし』(童蒙抄)と説明してゐる。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇五〕
  見《み》れど飽《あ》かぬ人國山《ひとくにやま》の木《こ》の葉《は》をし己《わ》が心《こころ》から懷《なつ》かしみ念《おも》ふ
  雖見不飽 人國山 木葉 己心 名著念
 
 同じく、寄v木といふ題がある。○木葉 コノハヲシと訓んだ。舊訓コノハヲゾ。童蒙抄コナバヲゾ。考コノハヲシ(略解・古義等同訓)。○己心 ワガココロカラと訓む。舊訓オノガココロニ。童蒙抄カルココロカラ。考ワガココロカラ。略解宣長訓、己は下の誤でシタノココロニ(古義同訓)。○名著念 ナツカシミオモフと訓む。舊訓ナツカシクオモフ。代匠記精ナツカシミオモフ(童蒙抄同訓)。考ナツカシミモフ(略解・古義同訓)。
 人國山《ひとくにやま》は、『常ならぬ人國山《ひとくにやま》の秋津野《あきつぬ》の杜若《かきつばた》をし夢《いめ》に見しかも』(卷七。一三四五)で秋津野を前の、人麿の長歌(卷一。三六)の秋津乃野邊と同處だとすると、大和にあることとなり(代匠記・考・(197)略解等)、吉野郡宮瀧附近、吉野川兩岸の平地といふことになるが、地名辭書には紀伊西牟婁郡田邊町北方の地だとし、全釋では、『吉野にその山がなく、却て紀伊の田邊附近にそれがあるやゆに、三十三所圖會に見えてゐる。しかし遽かに信じ難いやうに思はれる』と云つてゐる。意味はヒトクニヤマの音から、即ち人妻に譬へたもののやうである。『他妻をおのが心よりおもふなり』(考)。
 一首の意は、しみじみ見ても飽くことのない人國山《ひとくにやま》の木の葉をば自分の心からなつかしくおもふのである。ひとくに山の名に因《ちな》むひと妻のために獨り戀ひおもうて居るといふ意である。『石走《いはばし》る垂水《たるみ》の水の愛《は》しきやし君に戀ふらく吾が情《こころ》から』(卷十二。三〇二五)。『わが情《こころ》燒くも吾なり愛《は》しきやし君に戀ふるもわが心から』(卷十三。三二七一)等で、ココロカラの用法を類推することが出來る。
 この歌は、譬喩歌であるが、不即不離の融合の具合が旨いので、強ひて譬喩にしたやうなところが目だたず、人國山《ひとくにやま》を機縁にした點が常套手段と謂へば謂はれるけれども、現代の吾等には既に所在も知れぬ山となつてゐるほど朦朧となつて居るのだから、もはや厭味でなくなつてゐる。民謠的に輕いが可憐な歌である。
 ナツカシといふ語も、現代人も使ひ、その語感も生々として繼承して居る。『鳴く鳥のこゑ夏可思吉《ナツカシキ》愛しき妻の兒』(卷四。六六三)。『いや那都可子岐《ナツカシキ》うめの花かも』(卷五。八四六)。『いま見れば(198)山|夏香思母《ナツカシモ》かぜ吹くなゆめ』(卷七。一三三三)。『喚子どりこゑ奈都炊《ナツカシキ》時にはなりぬ』(卷八。一四四七)。『ほととぎす夜ごゑ奈都可思《ナツカシ》あみささば』(卷十七。三九一七)などによつて、その語感を知るべきである。ナツカシミオモフといふ結句は萬葉にただ一つしか無いやうである。『野を奈都可之美《ナツカシミ》ひと夜來にける』(卷八。一四二四)といふ赤人の歌などもあつて、共に味ふことが出來る。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇六〕
  この山《やま》の黄葉《もみぢ》の下《した》の花《はな》を我《わ》がはつはつに見《み》て更《さら》に戀《こひ》しも
  是山 黄葉下 花矣我 小端見 反戀
 
 寄v花といふ題がある。○黄葉下 モミヂノシタノと訓む。舊訓モミヂノシタノ。童蒙抄コノハガクレノ。略解宣長訓モミヂノシタニ。○花矣我 ハナヲワガと訓む。舊訓ハナヲワガ。略解宣長訓、矣は咲、咲花の誤でサクハナヲ、ワレ。古義、右に從ひサクハナヲ、アレ。○小端見・反戀 ハツハツニミテ・サラニコヒシモと訓む。舊訓ハツハツニミテ・カヘルコヒシモ。代匠記精ハツハツニミテ・カヘリテコヒシ。童蒙抄ホノカニミツツ・サラニコヒシキ。考ハツハツニミ(199)テ・カヘルワビシモ。略解宣長訓、反は乍の誤でハツハツニ・ミツツコヒシモ。古義ハツハツニ・ミツツコフルモ。古寫本中ハツハツニミテ・サラニコヒシキ(神)がある。代匠記精で、『今按官本ノ又ノ點ニ、サラニコヒシキトアレドモ、カヘリテコヒシト讀テ』云々といひ採用しなかつたものである。今新訓に從ふ。
 一首の意は、この山の黄葉《もみぢ》の下《した》に咲いてゐる花をかりそめに見たが却つて心戀しくなつてたまらぬ。この美しい女を僅かに見たために却つて戀しいおもひをするのだといふ寓意がある。
 この歌の、『黄葉《もみぢ》の下の花』といふのは、どういふ花か等と細かに詮議しなくともいいのかも知れず、美しい女を暗指するために、黄葉の美しさにまた何かの秋の花を配合して、その心持を強めた手法であらうか。その秋の花といふのを強ひて寫象として考へるならば、龍膽《りんだう》のやうなものであつてもかまはぬが、代匠記精に、『黄葉下花トハ、此ハ小春ノ比暖氣ニ催サレテ梨、櫻、躑躅、山吹ナドノメヅラシク一枝咲コトノアルニ寄タルナルベシ』と云つてある、その反咲きの花のことかも知れないし(新考同説)、其處まで氣を廻したのでなく、ただ漠然と紅葉と花とを配して艶麗を示す手段としたものともおもへる。略解を讀むに、『小春の頃歸り花とて、春咲きし花のともしく咲く事有るを言ふか。又はりうたんの花などを言へるか。何れにもあれ、はつかに見し女に譬ふるなり』と云つて、龍膽の如き秋花を考へたのはおもしろい。
(200) この歌も譬喩歌だかち民謠的であつさりして居る。また、かういふ思想を歌つたものは萬葉にも可なりあり、古今以後にも多い。
   はつはつに人を相見ていかならむ何《いづ》れの日にか又|外《よそ》に見む (卷四。七〇一)
   白細布《しろたへ》の袖をはつはつ見しからに斯かる戀をも吾はするかも (卷十一。二四一一)
   山の端にさし出づる月のはつはつに妹をぞ見つる戀しきまでに (卷十一。二四六一)
   垣越《くへご》しに麥|食《は》むこうまのはつはつに相見し子らしあやに愛《かな》しも (卷十四。三五三七)
   相見ては須臾《しましく》戀は和《な》ぎむかと思へどいよよ戀ひまさりけり (卷四。七五三)
   なかなかに見ざりしよりは相見ては戀しき心まして念はゆ (卷十一。二三九二)
   相見ては戀慰むと人は言へど見て後にぞも戀ひまさりける (卷十一。二五六七)
 次に、この歌調は、『黄葉の下の、花を我が』のところで句割になつてゐる。併し、人麿の歌には、『ひむがしの、野にかぎろひの』(卷一。四八)などの如くに句割の歌もあるのだから、此處にあつてもさう不思議ではなく、この歌をも人麿の作だと想像するなら、人麿は割合に自由にかういふ句割をも敢てしたのだつたかも知れないのである。次にこの歌の結句は、カヘリテコヒシ。サラニコヒシモでいづれが好いかといふに、歌調としてはサラニコヒシモの方が好い。『反』の文字は萬葉にカヘリテといふ訓が多く、人着反而復將見鴨《ヒトハカヘリテマタミケムカモ》(卷二。一四三)。礒之浦爾來依白浪反乍《イソノウラニキヨルシラナミカヘリツツ》(卷(201)七。一三八九)などの如くであるが、古寫本でサラニと訓んだのがあるから、サラニと訓み得ればその方が歌柄がよくなるから、更の草體が反に寫されたものとも想像することも出來、或は反の義訓でサラニと訓んだことともなるのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇七〕
  この川《かは》ゆ船《ふね》は行《ゆ》くべくありといへど渡《わた》り瀬《せ》ごとに守《も》る人《ひと》あるを
  從此川 船可行 雖在 渡瀬別 守人有
 
 寄v川といふ題がある。○從此川 コノカハユと訓む。舊訓コノカハニ。代匠記初書入【校本萬葉】コノカハエ。考コノカハユ。古義コノカハヨ。この從《ユ》はヨリの意だが、行くといふ運動の語に續いてゐるためで、ヲでもなくヨリでもないが、舟で渡つて向うへ行くのでユといふのである。現代語なら、ヲバと譯していいであらう。○船可行 フネハユクベクと訓む。舊訓フネモユクベク。童蒙抄フネノワタシハ。考フネユクベクハ。略解フネハユクベク(古義・新訓同訓)。○雖在 アリトイヘドと訓む。舊訓アリトイヘド。考アリトヘド(略解同訓)。○渡瀬別 ワタリセゴトニと訓(202)む。舊訓ワタルセゴトニ。略解ワタリセゴトニ(古義以下同訓)。○守人有 モルヒトアルヲと訓む。舊訓マモルヒトアリ(代匠記・考同訓)。童蒙抄モルヒトゾアル。略解モルヒトアルヲ(古義同訓)。新考モルヒトアリテ。
 一首の意。この川をば舟で渡つて行くことが出來るといふが、その渡舟場ごとに番人が居るといふではないか。あの女の許へ通うてももう好いのだが、親などが一しよに居るのでさうおもふやうにはいかないといふので、女がすでに心を許したことを、『船は行くべくありといへど』とあらはした。
   逢はむとは千遍《ちたび》おもへど在り通ふ人目を多み戀ひつつぞ居る (卷十二。三一〇四)
   人言の繁き間《ま》守《も》ると逢はずあらば終《つひ》に奴等《やつこら》面《おも》忘れなむ (卷十一。二五九一)
   大王《おほきみ》の界《さか》ひ賜ふと山守《やまもり》すゑ守《も》るとふ山に入らずは止《や》まじ (卷六。九五〇)
   ここだくもわが守《も》るものを慨《うれた》きや醜《しこ》ほととぎす曉の (卷八。一五〇七)
   あしひきの山田作る子|秀《ひ》でずとも繩だに延《は》へよ守《も》ると知るがね (卷十。二二一九)
   白砥掘《しらとほ》ふ小新田山《をにひたやま》の守《も》る山の末枯《うらが》れ爲《せ》無《な》な常葉《とこは》にもがも (卷十四。三四三六)
などある。この歌は、譬喩だから、稍理に陷ちたやうだが、何か諧調音の傳はつて來るものがあつて棄てがたい。また今の訓になるまでに種々の徑路があつてそれを討尋すると、この歌を鑑賞(203)するうへにもまた有益である。
 
          ○
 
  〔卷七・一三〇八〕
  大海《おほうみ》の候《まも》る水門《みなと》に事《こと》しあらば何方《いづへ》ゆ君《きみ》が吾《わ》を率《ゐ》凌《しぬ》がむ
  大海 候水門 事有 從何方君 吾率陵
 
 〔題意〕 寄v海といふ題がある。
 〔語釋〕 ○大海 オホウミノと訓む。舊訓オホウミノ(拾穗抄・代匠記・全釋同訓)。童蒙抄アラウミノ。考オホウミヲ(略解・新考同訓)。略解宣長訓オホウミハ(古義同訓)等の訓があるが、元暦校本に『海』が『船』となつて居るのに據り、新訓は『大船』に改めオホフネノと訓んだ。然るに古寫本中ただ一つ『船』になつてゐるに過ぎず、また、その『船』の右肩に赭で『海』と書いてあり、題も寄v海であるので、全釋で、『これをさう改めては寄海といふ題に添はぬことになるから、海がよい。元暦校本にも右に緒で海とあるのは、後で正したのであらう』と云つたのは道理であるから、暫くもとの儘にして舊訓に從ふこととした。○候水門 マモルミナトニと訓む。(204)舊訓マモルミナトノ。童蒙抄カミノミナトハ。考マモルミナトニ(略解・新考同訓)。略解宣長訓ミナトヲマモル(古義同訓)。新訓サモラフミナト。『候』をマモルと訓む例は、皇極天皇紀の、候2皮鞋隨v※[毛+菊]脱落1取2置掌中1の候をばてモリテと訓ませて居る。拾穗抄では護に改めてゐるが、古寫本にはその字は無い。新訓でサモラフと訓んだのは、萬葉の慣訓に據つたもので、外重爾立候《トノヘニタチサモラヒ》(卷三。四四三)。妹爾相時候跡《イモニアフトキサモラフト》(卷十。二〇九二)などであり、初句を、『大船の』といへば此處はサモラフとなるのであるが、初句を『大海の』といへば、やはりマモルであらうか。○事有 コトシアラバと訓む。若《もし》もの事があつたならばといふ意。舊訓コトアルニ。代匠記精コトアルヲ。考コトアラバ。略解コトシアラバ(古義・新考同訓)。略解宣長訓コトシアレバ。○從何方君 イヅヘユキミガと訓む。何《ど》の方《はう》からあなたがといふ意。舊訓イヅクニキミガ。代匠記精イカサマニキミ。童蒙抄イカサマニセバ。考イヅクユキミガ(略解同訓)。古義イヅヘヨキミガ。新考イヅクユキミヲ。新訓イヅヘユキミガ。○吾率陵 ワヲヰシヌガムと訓む。私を連れて難を免れませうかといふ意。『陵』の字は京都大學本『凌』に作る。舊訓ワレヰシノガム。拾穗抄ワレヰテシノガン。童蒙抄(陵は凌の誤)アレヰシノガン。考(陵は隱の誤)アヲヰカクサン。略解はワヲヰシノガム、ワヲヰカクサム。略解宣長訓ワヲヰテユカム。古義アヲヰカクレム。新考ワガヰカクレム。新訓ワヲヰシヌガム。『陵ハ凌ト通ズ』(代匠記精)。
(205) 〔大意〕 この港のぐるりには大海が取卷いて候《まも》ついて、番をすいてゐるのに、若しも事件でも起つたなら、何處の方から私を連れて避難させて下さるでせうか。かうして逢瀬を樂しんで居るけれど、若しも親達に知れた時には、どうして下さいますか、といふぐらゐな意で、恐らく女が男に向つて云つてゐるのであらう。
 〔鑑賞〕 この歌もまた民謠風で、女が男に向つて愬へる趣にして歌つて居る。そして港の勃發事件のことなどを云つて、『君が吾を率《ゐ》凌《しぬ》がむ』と云つてゐるのは、情感が強く濃くてなかなか旨いところがある。大海や港や事件のことなどは、この結句によつて統一せられてゐるやうに思へる。
 この歌は私見の樣に解釋すれば極めて平易でむづかしくないのだが、古來諸前賢が種々訓にも骨折り、その訓に應じて解釋をしたので、興味もあり有益であるから此處に抄記することにする。『舟おほく出入湊は守護有て其事のしげきを、思ふ人に守りめ有(リ)、事出來などせしによせいひて、かくあるにいづくに君をか我ゐてかくししのかんと也。ゐてはひきゐさそふ心地。又君がと濁《ニゴリ》ては我をいづくにかくししのがんと也』(拾穗抄)。『此ハ親ノ守レル娘ナドニ男ノ通ヒテ、事出來テ後、彼娘ノ讀テ男ニ贈レルニヤ。湊ハアマタノ舟ノ出入處ナレバ、官家ヨリ守ル人ヲ置ルルナリ。三四ノ句ハ、コトアルヲイカサマニキミトモ讀ベシ』(代匠記精)。『防人などの守湊に異國人など(206)の來りて事あらん如にたとへたるなり』。『こは官女《ミヤツカヘメ》などのしのび夫《ツマ》もたるが、あらはれなんずるをかしこみてかく譬よめるならん』(考)。『大海ヲマモル云々は、太宰の津は、西蕃を候《マモ》るなれば、斯く言へるならん。陵、恐らくは隱の誤なるべし。然らばヰカクサムと訓むべし。是れは父母などに見顯はさるるを、其みなとに事有るに譬へて、斯かる時は、何方《イヅカタ》に吾をひきゐ隱さんやと言ふなり』(略解)。『大海《オホウミ》は大海(ノ)》神をいふべし。即(チ)大綿津見《オホワタツミノ》神なり。【中略】大海(ノ)神は水門《ミナト》ごとに目を離したまはず守護《マモ》りましまして、人の船出をしらしたまへば、しのびてみだりに船を出すことのならぬがごとく、父母などの心をつけて、起居《タチヰ》おきふしにわれをきびしく守りたまふことなれば、事ありとてたやすくしのびて門出せらるべきやうなし。さればもし、吾(ガ)二人の中に事あらば、いづくぞへ吾を竊《ヌス》み出て率て行たまはむと、君はおぼしたまふなめれど、率て行(キ)たまふべきてだてなければ、其(ノ)時はいかなる方に、吾を率行てかくれたまはむとにやと云なるべし』(古義)。『結句はワ|ガ〔右△〕ヰカクレムとよむべし。君ヲ率テワガ隱レムといへるなり』(新考)。
 拾穩抄で既に勘づいてゐたごとく、この歌の結句は、ワヲ〔二字右○〕ヰシノガムか、ワガ〔二字右○〕ヰシノガムかで意味が違つて來るので、諸家の見のまちまちなのはそのためである。併し無理のない點は互に共通してゐる。古義の訓は稍ちがふが、海神説はのぞいて、大體が穩當で愚見と相通ずるものである。
 
(207)          ○
  〔卷七・一三〇九〕
  風《かぜ》吹《ふ》きて海《うみ》は荒《あ》るとも明日《あす》と言《い》はば久《ひさ》しかるべし君《きみ》がまにまに
  風吹 海荒 明日言 應久 君隨
 
 これも寄v海歌である。『君』の字を『公』に作つた古寫本(【元・類・神・温・矢・京】)がある。結句の訓、童蒙抄ヒサシカルベキ・イモガマニマニ。
 一首の意は、風が吹き海が荒れても、それの和《な》ぐ明日を待つのでは、待遠しく、久しい思をなさることでせう。ですからあなたの御隨意になさいまし。けふでも結構でございます。
 風浪の靜まるといふ語を略して、直ぐ、『明日』と續けてゐるのは簡潔でいい。また『久しかるべし』といふ言方も、簡潔で意味の深い表現である。『時ならず玉をぞ貫《ぬ》ける卯の花の五月《さつき》を待たぼ久しかるべみ』(卷十。一九七五)といふのがある。『君がまにまに』の用例は、
   頂《いなだき》に著統《きす》める玉は二つ無しこなたかなたも君がまにまに (卷三。四一二)
   春風の聲《おと》にし出《で》なば在《あ》りさりて今ならずとも君がまにまに (卷四。七九〇)
(208)   たまきはる吾が山の上に立つ霞立つとも坐《う》とも君がまにまに (卷十。一九一二)
等と、この語の上が、對句のやうなのが多いが、さういふ點で、『依り會ふ未通女《をとめ》は君がまにまに』(卷十一。二三五一)とか、『我が身一つは君がまにまに』(卷十一。二六九一)。『吾が持たる心はよしゑ君がまにまに』(卷十一。二五三七)。『惜しき我《あ》が身は君がまにまに』(卷二十。四五〇五)などの方がもつと自然である。そしてこの語調は、親しく媚を帶びた言方になり易いので、稍ともすれば輕佻甘滑になるところを、この歌では、『久しかるべし』と云つて、それから、『君がまにまに』と結んだので、媚態を失はずに落着を得てゐるやうにおもふのである。
 
          ○
 
  〔卷七・一三一〇〕
  雲隱《くもがく》る小島《こじま》の神《かみ》のかしこけば目《め》は隔《へだ》つれど心《こころ》隔《へだ》てめや
  雲隱 小島神之 恐者 目間 心間哉
 
 この歌も、寄v海歌である。○雲隱 クモガクルと訓む。舊訓クモガクレ。古寫本クモカクル(元)。クモカカル(神)。クモカクシ(細)等。童蒙抄クモガクル(【考・略解・新考・全釋同訓】)。古義クモガクリ。○(209)小島神之 コジマノカミノと訓む。舊訓ヲシマノカミノ。拾穗抄コシマノカミシ。代匠記精コシマノカミノ(略解同訓)。古義ヒカリナルカミノ(【小は光の誤。嶋は鳴の誤】)。○恐者 カシコケバと訓む。舊訓カシコクハ。代匠記初カシコケレバ(童蒙抄同訓)。又はカシコサニ。略解カシコケバ(【古義・新考・新訓・全釋同訓】)。○目間・心間哉 メハヘダツレド・ココロヘダテメヤと訓む。舊訓メハヘダツトモ・ココロヘダツナ。代匠記初メハヘダツレド・ココロヘダツヤ(童蒙抄・略解・古義同訓)。代匠記初書入【校本萬葉】メコソヘダツレ。考メハヘダツトモ・ココロヘダテメヤ。新考メハヘナルトモ・ココロヘナレヤ。新訓メハヘダツレド・ココロヘダテメヤ。
 一首の意は、雲がくれの彼の小島に祀つてある神の恐ろしさに、眼をばそむけてこそ居れ、心までそむけることはない。島の神のやうにお前を守つて居る親たちが恐ろしいので、逢はずに居るのだが、心まで疎遠になつたのではないといふ意である。『小島ハコジマト讀ベシ。小島ト書タレド、此ハ備前ノ兒島歟。第八ニ笠金村ノ遣唐使ニ贈ラルル歌ノ反歌ニ、波上從所見兒島之雲隱云々。此ハ兒島ト書タレバ、備前ノ兒島ナルベキニ、雲隱ト云詞モ同ジケレバ彼ヲ以テ此ヲ云ナリ。神ト云ヘルハ舊事紀云、兄吉備兒島謂2建日方別(ト)1。古事記ノ説同ジ。小島ヲバ女ニ譬ヘ、神ヲバ守ル親ニ譬フ』(代匠記精)。『コ島と言はんとて、雲隱ると言へり。さてここの小島、集中吉備ノコ島とも詠みたる所か、いづこにも有れ、其所の神に守(210)人を譬へたり』(略解)。
 『【中略】海原《うなばら》の邊《へ》にも奥《おき》にも神留《かむづま》り領《うしは》き坐《いま》す諸《もろもろ》の大御神《おほみかみ》たち船《ふな》の舳《へ》に導き申《まを》し』(卷五。八九四)。『在根《ありね》よし對馬《つしま》の渡《わたり》海《わた》なかに幣《ぬさ》取り向けて早還り來ね』(卷一。六二)。『荒津《あらつ》の海|吾《われ》幣《ぬさ》奉《まつ》り齋《いは》ひてむ早|還《かへ》りませ面變《おもかは》りせず』(卷十二。三二一七)などを見れば、海中の島の神に幣を奉つて航海の安全をいのつたことが分かる。
 
(211) 萬葉葉卷九所出歌
 
          ○
 
  〔卷九・一六八二〕
  とこしへに夏冬《なつふゆ》行《ゆ》けや裘《かはごろも》扇《あふぎ》放《はな》たぬ山《やま》に住《す》む人《ひと》
  常之陪爾 夏冬往哉 裘 扇不放 山住人
 
 〔題意〕 この歌以下卷九(一七〇九)の『獻弓削皇子歌一首』に至る二十八首を、(一七〇九)の歌の後に『右柿本朝臣人麻呂之歌集所出』と注せられたのに該當すもものと考へることが出來る(【補遺參看】)。この歌は『忍壁《おしかべ・おさかべ》皇子《のみこ》に獻れる歌一首』といふ題があり、『仙人の形《かた》を詠める』といふ注がある。忍壁皇子は天武天皇の皇子で、慶雲二年五月薨じた。書紀に、『天武天皇二年、云々、次宍人臣大麻呂女、〓媛娘、生2二男二女1、其一曰2忍壁皇子1云々、十年三月庚午朔丙戌、詔2云々忍壁(212)皇子云々1、令v記2先帝紀及上古諸事1、十四年正月丁未朔丁卯、云々忍壁皇子授2淨大參位1、朱鳥元年八月己巳朔辛巳、云々忍壁皇子各加2百戸1』。續紀に、『文武天皇四年六月甲午、勅2淨大參刑部親王云々1、撰2定律令1、大寶元年八月癸卯、遣3三品刑部親王云々撰2定律令1於v是始成、三年正月壬午、詔2三品刑部親王1知2太政官事1、慶雲元年正月丁酉、云々三品刑部親王益2封各二百戸1、二年四月庚申、賜2三品刑部親王越前國野一百町1、五月丙戌、三品忍壁親王薨、云々天武天皇之第九皇子也』とある。文武天皇の慶雲二年五月以前の作だとせば、大寶元年あたりの、人麿の作と想像してもいいが、その頃の人麿の歌詞に似ないところがある。契沖云、『此ハ忍壁親王家ノ屏風ノ繪ナドヲ見テ、ソレニヨセテ祝ヒ奉レルナルベシ。釋名云。老(テ)而不(ルヲ)v死曰v仙(ト)。仙(ハ)遷(ナリ)也。遷(テ)入(レハナリ)v山(ニ)也。故(ニ)其制(スルコト)v字(ヲ)人(ノ)傍《・ソフナリ》(ノ)山(ナリ・ニ)也』(代匠記精)。
 〔語釋〕 ○夏冬往哉 ナツフユユケヤと訓む。舊訓ナツフユユケヤ(諸書同訓)。童蒙抄ナツフユユクヤ。『夏冬ゆげや』の『や』は疑問で、『ばにや』の意である。『朝ゐでに來鳴く貌鳥《かほどり》汝《なれ》だにも君に戀ふれや〔四字右○〕時終へず鳴く』(卷十。一八二三)。『百礒城《ももしき》の大宮人は暇あれや〔三字右○〕梅を插頭《かざ》してここに集《つど》へる』(卷十。一八八三)。『打麻《うつそ》を麻續王《をみのおほきみ》白水郎《あま》なれや〔三字右○〕伊良虞《いらご》が島の珠藻《たまも》苅ります』(卷一。二三)。『古《いにしへ》の人にわれあれや〔三字右○〕ささなみの故《ふる》き京《みやこ》を見れば悲しき』(卷一。三二)。『足柄《あしがり》の箱根の嶺《ね》ろの和草《にこぐさ》のはなつつまなれや〔三字右○〕紐解かず寐む』(卷十四。三三七〇)。『暫《しまし》くも獨あり得《う》るものにあれや〔三字右○〕島(213)の室《むろ》の木《き》離れてあるらむ』(卷十五。三六〇一)等を參考すれば分かる。また、『往く』は、古事記の『常夜《とこよ》往《ゆ》く』。『來經《きへ》ゆく』などの『ゆく』で、經過することである。寒暑往來は順序を以てするのだが、、此處は一しよに經行く趣である。萬葉に、『往く影の月も經往《へゆ》けば玉かぎる日も累《かさな》り』(卷十三。三二五〇)云々とあり、なほ、『吾が君はわけをば死ねと念《おも》へかも逢ふ夜逢はぬ夜|二去《ふたゆき》ぬらむ【二走るらむ】』(卷四。五五二)。『あらたまの年|往《ゆ》き返り春花のうつろふまでに』(卷十七。三九七八)。『あらたまの年往き還り月かさね見ぬ日さ數多《まね》み』(卷十八。四一一六)。『玉の緒のしま心にや年月の行き易《かは》るまで妹に逢はざらむ』(卷十一。二七九二)。『冬過ぎて春し來れば年月は新たなれども人は舊りゆく』(卷十。一八八四)などの例がある。○裘 カハゴロモと訓む。皮衣《かはごろも》即ち毛皮で造つた衣である。『伊夜彦《いやひこ》の神の麓に今日らもか鹿《か》の伏《こや》すらむ皮服著而《カハゴロモキテ》角《つぬ》附きながら』(卷十六。三八八四)。『毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》春冬|片設《かたま》けて幸《いでま》しし宇陀《うだ》の大野は思ほえむかも』(卷二。一九一)の用例があり、和名鈔に、説文云、裘、音求、加波古路毛、俗云加波岐奴。新撰字鏡に、※[曷+毛]。加波己呂毛、加波古路毛とあり、萬葉卷十六(三八八五)に、虎云神乎《トラチフカミヲ》……其皮乎多多彌爾刺《ソノカハヲタタミニサシ》などとある。○扇不放 アフギハナタヌと訓む。舊訓ハナタズ(【代匠記・童蒙抄・考同訓】)。略解ハナタヌ(【古義・新考・新訓等同訓】)。『扇』は、和名鈔に、四聲字苑云、扇、式戰反、玉篇作v※[竹/扇]、在2竹部1、阿布蚊、所2以取1v風也云々とある。
 〔大意〕 一首の意は、いつも常久に貫と冬とが一しよに經過するのか、この仙人は冬の皮裘《かはごろも》と(214)夏の扇《あふぎ》とを兩方放たずに持つてゐる。なるほど仙境は人の世間とは違つたものだといふぐらゐの意である。
 〔鑑賞〕 仙人は即ち僊人で神僊・神人は性命の眞を保つて不饑不寒不老不死である。老而不v死曰v仙、仙(ハ)遷也、遷(テ)入v山也とあるのはそれで、和語にしてヤマビト。ヤマニスムヒト等と云つた。卷三(三八五)の題に、仙柘枝《やまびとつみのえ》の歌三首があり、神樂歌にも、『逢坂をけさ越えくれば山人の千歳つけとてきれる杖なり』とあり、仙人のことである。
 當時すでに神仙の思想が支那から渡來してゐて、吸2※[さんずい+亢]〓1※[歹+食]2朝霞1とか、或は畫圖にしても、風餐委2松宿1雲臥恣2天行1とか、圖2仙人之形1體生v毛、臂變爲v翼とか謂つてゐたものと見える。〓衣とか、紺瞳緑髪とかいふ例もある。それを一首の歌にしたのが珍らしいのである。また言葉も自在で、現代の吾等から見れば、これだけの事柄をかく簡潔にあらはし得た點に敬服するのであるが、人麿の力量を標準として論ずるならば、さう骨折つたものでないことが分かる。歌詞にも人麿的なものが少く、辛うじてその部分に微かにそれを感じ得るに過ぎないやうである。
 この神仙思想の歌としては、大伴旅人の、『我が盛いたく降《くだ》ちぬ雲に飛ぶ藥はむともまた變若《をち》めやも』(卷五。八四七)。『雲に飛ぶ藥はむよは都見ばいやしき吾が身また變若《をち》ぬべし』(同。八四八)がある。なほ、六踏に、『冬は裘を服せず夏は扇を操らず』の句がある。
(215) この歌は、六帖及び夫木和歌抄に、『扇はなたず』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八三〕
  妹《いも》が手《て》を取《と》りて引《ひ》き攀《よ》ぢうち手折《たを》り吾《わ》が插《かざ》すべき花《はな》咲《さ》けるかも
  妹手 取而引與治 ※[手偏+求]手折 吾刺可 花開鴨
 
 〔題意〕 『獻2舍人皇子《とねりのみこ》1歌二首』といふ題がある。舍人皇子は天武天皇の皇子、御母は新田部皇女(【天武紀、次(ノ)妃新田部皇女、生2舍人皇子1云々】)。養老四年に成つた日本書紀撰修の總裁で、持統九年春正月庚辰朔甲申、淨廣貳を授けられ、養老二年正月に、二品となり、養老四年八月には、官、知太政官事に至り、天平七年十一月壬子朔乙丑薨。太政大臣を贈られ、淳仁天皇の天平寶字三年六月に、崇路盡敬皇帝の追號を贈られた。なほ聖武紀には『親王(ハ)天渟中原瀛眞人天皇第三(ノ)皇子也』とあるが、別に持統紀には大津皇子を『天渟中原瀛(ノ)眞人天皇(ノ)第三子也』と記してあり、すべてこの書紀、續紀記載の天武天皇諸皇子の御順序に就いては疑問の點が多い。公卿補任によれば、舍人皇子は天平七年六十二歳、天武三年の御誕生で和銅二年に三十六歳になられてゐる。この舍人皇子に獻じたもので(216)あるが、この歌の作者は不明だと謂ふべきである。
 〔語釋〕 ○妹手 イモガテヲと訓む。枕詞で、『取る』に係つてゐる。○取而引與治 トリテヒキヨヂと訓む。取つて引くことで、『徒らに地《つち》に散らせば術《すべ》をなみ攀《よ》ぢて手折《たを》りつ見ませ吾妹子』(卷八。一五〇七)。『青柳の秀《ほ》つ枝《え》攀ぢ執《と》り※[草冠/縵]《かづら》くは君が屋戸《やど》にし千年|壽《ほ》ぐとぞ』(卷十九。四二八九)等の例によつて明かである。○※[手偏+求]手折 ウチタヲリと訓む。ウチは接頭語で手折《たを》る意になる。舊訓ウツタヲリ。代匠記初書入及び精ナガタヲリ。童蒙抄ウチタヲリ。古寫本の多くがウチタヲリと訓んで居る。※[手偏+求]は類聚古集に※[木+求]とある。※[手偏+求]《きう》は土を※[木+里]《もつこ》に盛る。かきあつむ(※[手偏+將の旁])。すくふ(救)。とどまる。まもる等の意でウツの意がないが、萬葉ではウツと訓ませて居るやうである。※[手偏+求]手折多武山霧茂鴨《ウチタヲリタムノヤマギリシゲミカモ》(卷九。一七〇四)。引攀而峯文十遠仁※[手偏+求]手折《ヒキヨヂテエダモトヲヲニウチタヲリ》(卷十三。三二二三)。この訓に就き代匠記で、『今按、字書ニ依ニ※[手偏+求]ニ打ノ義ナシ。韻會尤韻云。渠尤切、長貌。詩有2※[手偏+求]《ナガキ》棘匕1。又渠幽切、長也。又虞韻、恭于切。説文、盛2土(ヲ)※[木+里]中1也云々。此後ノ義ハ今ノ所用ニアラズ。長也ト注セルニ依テ、ナガタヲリト讀ベシ』と云つてゐる。この字についてはなほ先輩の説を聽くべきである(【後段追記參照】)。○吾刺可・花開鴨 ワガカザスベキ・ハナサケルカモと訓む。これは舊訓のままである。考に、『今本吾下刺の上に頭を脱せり、刺をかざすとは訓がたし。次の二首めの歌の例をもて頭を補へり』といひ、吾頭刺可《ワガカザスベキ》とした。略解、『宣長云、吾は君の誤にて、キミガサスベキと訓むむべ(217)し。サスは即ちかざす事なり。然か訓まざれば、皇子に獻ると言ふに當らずと言へり』とあり、古義も共に從つて居る。
 〔大意〕 一首の意。〔妹手《いもがてを》〕取つて引つぱり、うち手折《たを》つて自分の頭に插《かざ》すことの出來るやうに、もう花が開いた。
 〔鑑賞〕 右の如き歌であるから、舍人皇子に獻つたものでも、必ずしも頌歌でなく、皇子を讃へた寓意の歌ではあるまい。若し寓意があるなら、初句に、『妹が手を』とあるから、さういふ女に關したことがあるといへばあり得るわけである。代匠記精に、『下句ハ此皇子ノ御蔭ニ隱レ申スベキ程ニ成給ヘルヲ悦ブ意ナリ』と云つてゐるのは、頌歌としての寓意を考へたのである。童蒙抄では必ずしもさういふ寓意を者へず、『この歌は花の盛なるを告げ奉りて、皇子を請じ奉らんの意と聞ゆる也』と云ひ、古義では、略解の宣長訓を採用したから、『歌(ノ)意は、取て引攀(チ)折(リ)腸ひて、君が頭刺《かざし》に刺(シ)賜ふべき花のさける哉、さてもうつくしの花やとなり』となつたのである。
 この歌は、舍人皇子が幾歳ぐらゐにあらせられた時の歌であるか、人麿の持統三年の作があの如くに堂々たるものだとすると、この歌の如きを人麿作とするのは寧ろ不合理におもへる。或は皇子の從者の作に人麿が幾らか手を入れなどして斯く傳はつたものででもあらうか。
 〔追記〕 『※[手偏+求]』に就いて少しく追記するに、玉篇に、※[手偏+求]【居于切〓也】とあり、〓【ルヰラ】は土を運ぶ籠で、フ(218)ゴ、モツコのたぐひであるが、一面、〓は※[草がんむり/儡の旁]に通じ、※[草がんむり/儡の旁]は植物のカヅラ(藤)でもあり、唐書に、攀v※[草がんむり/儡の旁]而上があり、攀にヒクの訓もあるから、それ等からの關聯でタグル意にもなるだらうか。また一方、※[手偏+求]は※[手偏+將の旁]に通じ、※[手偏+將の旁]は取・采に通じ、指《ゆび》先を以てつまみ取る意があり、詩、周南に、采2采※[草がんむり/不]2〓薄言|※[手偏+將の旁]《トル》v之とある。また類聚名義抄には、アツムの訓もある。さうすれば、※[手偏+求]手折をば、ヒキ・タヲリ〔五字右○〕或はトリ・タヲリ〔五字右○〕と訓んではどうであらうか。または、卷八(一五〇七)の攀而手折都見末世吾妹兒《ヨヂテタヲリツミマセワギモコ》の攀にはトルの意もあるから、卷八の歌もトリテタヲリツと訓めないこともない。
 併し、※[手偏+求]手折は古寫本の殆ど盡くがウチタヲリと訓んでゐるし、妹手取而引與治《イモガテヲトリテヒキヨヂ》といつてトルもヒクも含まつてゐるので具合が惡い。さうすれば矢張りウツといふ訓でなければならぬのに、※[手偏+求]にウツの意がないとせば、縱ひ萬葉に用例が三つあつても、誤字ではなからうかと想像することも出來る。若し誤字だとすると、天治本新撰字鏡卷十に、〓、※[手偏+卒]、※[手偏+枠の旁]、といふ字があつて、三形同存没反手持頭髪也。撃也。扱同也と注し、玉篇にも、存兀切、撃也とある。そしてこの※[手偏+卒]は、モツ、トラヘル、テニモツ、ヌキトルといふやうな意があり、注の撃也はウツであるから、※[手偏+求]は※[手偏+卒]の誤で、古來ウチタヲリといふ訓をその儘傳へてゐたのではなからうか。なほ先輩に教を乞ふべきである。
 次いで、山田孝雄博士の教示をあふいだ。博士は、ウチタヲルが不適切なら、或はフサタヲル(219)と訓んではどうか。この場合のフサはニギル意である、と云はれた。その根據は大體次の如くである。※[手偏+求]の支那の用例は、詩の大雅、文王緜に、※[手偏+求]《・ツチモルコト》(ト)v之〓々(箋に※[手偏+求]※[手偏+孚]《ハウ》也)。小雅、大東に、有2※[手偏+求]《・マカレル》(ト)棘(ノ)七1(箋に傅※[手偏+求]長※[貌の旁])。周頌、良耜に、有2※[手偏+求]《・マカレル》(ト)其角1(箋に※[手偏+求]角※[貌の旁])などであるが、この場合マガレルの訓は適切でない。そのうち、※[手偏+求]は※[手偏+孚]也は奈何といふに、※[手偏+孚]《ハウ》は引聚也アツムルで、この場合直ぐ應用が出來ない。次に、※[手偏+求]の訓には、ツチモル、ミダル、ニギル、ナガシ、マガル等があるが、爾雅釋木の注に、椒茱萸皆有※[手偏+求]々實也とあつて、『※[手偏+求]々』は一に『※[草がんむり/求]々』に作つてある。※[草がんむり/求]は、蜀椒で、不佐波之加美《フサハシカミ》と云つてゐる。この不佐《フサ》はニギル意(※[手偏+求]々)であらう。そこで、『※[手偏+求]手折』をば、フサタヲルと訓み、ニギリタヲルの意としたならばどうであらうか、といふのである。博士のこの新訓を學界に捷供することとした。
 この歌は、六帖に人麿作として載り、第二句『取りて引き寄せ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八四〕
  春山《はるやま》は散《ち》り過《す》ぐれども三輪山《みわやま》はいまだ含《ふふ》めり君《きみ》待《ま》ちがてに
  春山者 散過去鞆 三和山者 未含 君待勝爾
 
(220) 〔題意〕 前のつづきで、舍人皇子に獻つた第二首である。
 〔語釋〕 ○春山者 ハルヤマハと訓む。大方の春山《はるやま》ではといふ意である。童蒙抄に、『春山。惣名にあらず。一山の地名と云証明此歌にても明也』とあり、考でも、『地名なるべし』と云つたが、略解・古義等は普通名詞に解釋した。『春山は地名に有らず、ここは大方の春の山を言へり』(略解)。井上博士は、『おそらくは春日山とありし日の字をおとせるならむ』(新考)といひ、春日山《かすがやま》としてゐるけれども、古寫本に一もさう書いたものが無いやうである。○散過去鞆 奮訓チリスグレドモ。代匠記精『今按去ノ字ノ點應ゼズ、チリスギヌレドモ、或チリスギユケドモト讀ベシ』。考チリスグレドモ。童蒙抄チリスギヌレド。略解チリスギユケドモ。古義チリスギヌレドモ。此處は舊訓の儘チリスグレドモと訓み、花が散過ぎたけれどもの意に取つていい。○三和山者 ミワヤマハと訓む。三輪山は現在大和磯城郡三輪町の東方にある山で、三輪山、三輪乃山、三和山などとも書き、三諸山、神南備山、神山ともいひ、神名帳に大神大物主神社、現在官幣大社|大神《おほみわ》神社である。『三輪山をしかも隱すか雲だにも情《こころ》あらなむ隱さふべしや』(卷一。一八)がある。○未含・君待勝爾 イマダフフメリ・キミマテガテニと訓む。舊訓イマダツボメリ・キミマツガテニであつたのを代匠記精でさう訓んだ。古寫本の大部分の訓もまたさうである。
 〔大意〕 一首の意は、大方《おほかた》の春山《はるやま》の花はもはや散過ぎたけれども、三輪山はまだ莟《つぼみ》である。あ(221)なたの御いでになるのを待ちかねて。といふ意である。
 〔鑑賞〕 この『君待ちがてに』といふのは、「含《ふふ》む』に係るのである。『吾背子が古家《ふるへ》の里の明日香《あすか》には千鳥鳴くなり君待ちかねて』(卷三。二六八)。『春されば我家《わぎへ》の里の河門《かはと》には年魚兒《あゆこ》さ走《ばし》る君待ちがてに』(卷五。八五九)。『己が夫《つま》乏しむ子等は泊《は》てむ津の荒磯《ありそ》枕《ま》きて寢む君待ちがてに』(卷十。二〇〇四)。『相見ては千歳《ちとせ》や去《い》ぬる否をかも我や然《しか》念《も》ふ君待ちがてに』(卷十一。二五三九)。『藤原の古《ふ》りにし郷《さと》の秋萩は咲きて散りにき君待ちかねて』(卷十。二二八九)などの似た用語例がある。そして、『君待ちがてに』は、君が來ないといふ打消による感慨があるのであつて、本來からいへば、大方の春山は既に花が散つてしまつたといへば、含《ふふ》むといふのは後《おく》れて殘る感じであるのに、用例のいづれもが、待ちがたいからして、といつて先へ進む感じにあらはして居る。此歌の場合は、そこが前後統一が惡く、つまりまづいので、決して人麿の力量でないといふことが分かる。
 さういふ不統一があるので、却つて寓意説も出るので、『此ハ大神《オホミワ》氏ノ人ノ、時ニアハズ沈居テ、皆人ハ榮華ノ盛ノ身ニ過ルマデナルニ、我ハ三和山ノ山陰ノ花ノ如クニ、君ガ恩光ニ因テ愁眉ヲ開カム事ヲ待カヌルトヨメルニヤ。皇子ニ愁ヘ申テ吹擧ヲ仰ゲ意アル歟』(代匠記精)といふのは即ちそれである。古義もこれを踏襲して居るが、童蒙抄では、『この歌も皇子を請じ奉り度と願ふ(222)意をよめる歌と聞ゆる也。春山は皇子御座所近所なるか。そなたの春山は花散り過ぬ共、こなたのみわ山は君を待ちがてに未だ咲だにもせぬとの義也』(童蒙抄)と云つて居り、この方が却つて眞意に近いやうにおもへる。つまり、以上の二首は、春山の花の歌を作つて皇子に獻つたので、その歌には一身上などの寓意は先づ無いと看る方が自然ではあるまいか。
 それにしても、前の歌の、『妹が手を』といふ枕詞の使ひざまも、この歌の上の句と下の句との關係も、決して巧だと謂ふことは出來ないだらう。また一首一首から放射して來る感動といふものも極めて稀薄で、人麿のほかの歌の、豐潤にして切實なものとは比較にならぬのである。
 この歌は、家持集に載り、第四句『いまだつぼめる』になつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八五〕
  河《かは》の瀬《せ》の激《たぎ》つを見《み》れば玉《たま》をかも散《ち》り亂《みだ》したる川《かは》の常《つね》かも
  河瀬 激乎見者 玉鴨 散亂而在 河常鴨
 
 〔題意〕 『泉河の邊《ほとり》にて問人宿禰《はしひとのすくね》の作歌二首』の第一で、もう一つは、次に評釋する『彦星の(223)插頭《かざし》の玉の嬬戀《つまごひ》に亂れにけらしこの河の瀬に』といふのである。この二首は、人麿歌集に出づといふ中に明かに作者の明記されてゐる例であり、その他にも女の作があつたりするので、人麿作と看做されない歌をも包含してゐる證據となり、人麿歌集の性質を考察するのにためになるのである。間人宿禰は名は不明であるが、代匠記に、『大浦歟』としてあるのは、卷三に、『間人宿禰大浦初月《ハシヒトノスクネオホウラノミカヅキ》歌二首』(二八九・二九〇)をいふのである。間人は天武天皇紀に、十三年十二月己卯、間人連(ニ)賜v姓(ヲ)曰2宿禰1云々。この作者は恐らく人麿よりも後であらうか。なほ間人を考ではハシウドと訓んだが、古義でハシヒトと訓んだ。泉河は一名山背河。今の木津川で、山城の相樂《さうらく》・綴喜《つつき》・久世《くせ》の諸郡を流れてつひに淀川に入る川である。これで見ても人麿歌集は地理的にも範圍ひろく、人麿も處々に於て相共に作歌したものと想像して大きい誤がないやうである。
 〔語釋〕 ○河瀬・激乎見者 カハノセノ・タギツヲミレバと訓む。舊訓カハノセノ・タギルヲミレバ。古寫本の訓は、カハノセヲ・ウヅマクミレバ(藍・壬・類・神)。カハノセニ・ウヅマクミレバ(古)。考カハノセノ・タギツヲミレバ(【古義・新考・新訓等從之】)。○玉鴨・散亂而在 タマヲカモ・チリミダシタルと訓む。此は新訓萬葉集に從つた。寛永本には『玉藻鴨』になつて居るが、藍紙本・傳壬生隆祐筆本・類聚古集・古葉略類聚鈔等には、この『藻』の字がない。舊訓タマモカモ・チリミダレテアル。古寫本には、タマモカモ・チリミダレタル(藍・壬・類・神)。タマヲカモ・チリ(224)ミダレタル(古)。『在』を第五句に送つて、タマモカモ・チリシミダレテ・アル(西・温・細)等の諸訓がある。考はチリミダレタルと訓み、『藻』を助詞と解し、略解・古義・新考等もそれに從つた。新訓萬葉集は藻字なき藍紙萬葉に從つた。○河常鴨 カハノツネカモと訓む。寛永本には『此河常鴨』になつてゐるが、古寫本の多くに 『此』の字がなく、カハノツネカモ(藍・壬・類・神・古)。上の『在』からつづけて、アルカハトカモ(西・温・細)の二とほりに訓んでゐる。新訓はそのカハノツネカモを採つた。舊訓コノカハトカモであるから、契沖もそれに從つて説を出してゐる。『かはとは、みなとせとなどいふごとく、川の瀬々の水のひとつになりて、せばき所を過るをいへり』(代匠記初)。『此歌、拾遺ニハ、藻ヲヨメルトテ、人丸ノ歌トシテ、川ノセノウヅマク見レバ玉藻カモ散亂タル川ノフネカモトアリ。人丸集同之。六帖ニハ、川ノ歌トシテ、河ノセニナビクヲ見レバ玉藻カモ散亂タルカハノツネカモトアリ。此ニ依テ拾遺ノ歌ヲ見ルニ、フネカモハツネカモヲ誤レル歟。六帖ト拾遺トニ依テ今ノ歌ヲ按ズレバ、此ノ字衍文歟。今ノ本ニ付テ注セバ、河常ハ河門ナリ。タギリテ落ル水ノ白絲ヲハヘタルヤウニ見ユルヲ綺《イロヘ》テホムルトテ、玉藻ノ散亂タル歟、若ハ此河門ノ水歟ト迷ヘルサマニヨメリ。若落句ヲカハノツネカモト云ニヨラバ、玉藻ノ散亂タルニハアラデ、カヤウニ見ユルハ此泉河ノヨノツネノ事カト云意ナリ』(代匠記精)。『此河常は水間瀬間の事也。歌の意は河の瀬のたぎり流るる、水の白玉などの散亂れたるを、(225)すぐに玉藻の如くなると見立てたる也』(童蒙抄)。『此二首(次の一六八六も)合見ればうつくしき小石などの色あるが、速き瀬に流ちりて多しと見えたり』(考)。『河(ノ)瀬の激《タギ》り落るは、玉の散亂れてあるか、もしは此(ノ)河門の水か、さてもいぶかしやと、兩方に疑ひてよめるなり』(古義)。『鴨は爾の誤にてコノカハドコニとぞよむべからむ』(新考)などの諸説がある。即ちカハトをば、『河門《かはと》』と解してゐるのは、代匠記・童蒙抄・考・略解・古義等皆さうである。そして代匠記で六帖のカハノツネカモといふ歌から暗指を得て、『河の常《つね》かも』の一訓を按じ、これは古寫本の字面と訓とに合致してゐて、新訓もそれに從つたのである。また新考では一按を立て、『この川床《かはどこ》に』と訓じて、『此』字を活かして居る。私もしばらく『河の常かも』説に從つた。
 〔大意〕 さうすれば、一首の意は、いま河の瀬が音を立て白浪が躍りつつ流れてゐる。恰も白玉を散り亂したごとき光景で、佳い眺めである。一體この泉河は普段からいつもかういふ佳いところか知らん。と褒め讃へたのである。從來の解釋では、前に記したやうにいろいろに云つてゐるが結局かう解釋するのが一番無理が無く、代匠記が既にさう云つてゐるのである。また從來の解釋は、『藻』の字と、『此』の字とで難澁してゐるのだが、これを無いものとせば、樂に解釋が出來るのである。考の小石云々。新考の『川床に』説も、さうまで云はずとも濟むやうである。
 〔鑑賞〕 それにしても、此歌もその次の歌も決して上手ではない。第三句に『かも』といつて、(226)結句に、『かも』と云つたのなども巧ではない。人麿の作にも一首中に二つ『かも』を使つたのがあるが、この歌よりも旨い。また新考の如く、『この川床に』と訓むにしても餘り旨くはない。ただこの歌で興味を引いたのは、『川の常かも』といふ結句の云ひ方にあつたのである。この云ひざまは、『春雨に萌えし楊《やなぎ》か梅の花ともに後《おく》れぬ常《つね》の物《もの》かも』(卷十七。三九〇三)。『かみなづき時雨《しぐれ》の常《つね》か吾が背子《せこ》が屋戸《やど》のもみぢ葉ちりぬべく見ゆ』(卷十九。四二五九)などの用例と似たところがある。併しいづれにしても、特に賞玩すべきほどの歌ではない。
 人麿歌集の歌には、かういふ程度の歌も交つてゐるのであり、作者の分かつて居るこの歌はその好い實例になるのであるが、純粹に人麿の作では無論なく、また人麿が作歌上の手本とした記録でもなく、或る意味では一種の備忘録のやうな點もあるやうである。さういふ不純粹なために、人麿歌集全體としては評價が下げられる傾向を持つのは詮方ないことであるけれども、さういふ雜物をば常に顧慮しつつ味へば、相當にいい歌を拾ふことも出來、人麿作とおもはれるものに逢著することも出來るのである。
 この歌は、先に引いた代匠記にあげた如く拾遺集雜上に人丸作として載り、『川の瀬のうづまく見れば玉もかるちりみだれたる川の舟かも』。又柿本葉に、『河の瀬に渦まく見れば玉藻かる散り亂れたるかはの舟かな』。六帖に、『川の瀬になびくを見れば玉もかも散りみだれたる川の常かも』(227)となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八六〕
  彦星《ひこぼし》の插頭《かざし》の玉《たま》の嬬戀《つまごひ》に亂《みだ》れにけらしこの河《かは》の瀬《せ》に
  彦星 頭刺玉之 嬬戀 亂祁良志 此河瀬爾
 
 〔題意〕 『泉河邊間人宿禰作歌二首』の第二である。
 〔語釋〕 ○彦星・頭刺玉之 ヒコボシノ・カザシノタマノと訓む。彦星が頭に插頭《かざ》した珠玉をいふのである。支那畫圖あたりからの想像で、鬘《かづら》、髻華《うず》、鈿《うず》などの玉を想像したものであらうか。この『かざしの玉』の語は、萬葉にはこの一例のみで、他は平安朝以後の勅撰集に見えてゐる。『たまのかざし』の語も亦さうである。○嬬戀・亂祁良志 ツマゴヒニ・ミダレニケラシと訓む。古寫本にイモコフトと訓んだのもある。彦星が相隔つての戀のために、懊悩して插頭の珠が亂れたものであらうと、河瀬の有樣を見つつさう聯想したものである。○此河瀬爾 天の河の河瀬に水玉が激ち流れてゐるのをば、彦星の插頭の玉と見たてたものである。
(228) 〔大意〕 この河の瀬の水珠《みづたま》は、彦星の插頭《かざし》の珠が亂れ落ちたものであるだらう。彦星が織女を戀うてゐるが、大河を隔ててなかなか逢ふことが叶はない。その懊悩のために插頭の珠の亂れた趣になつて居る。代匠記に、『河瀬ノ浪ノ玉ノ如ク見ユルヲ、彦星モ銀河ヲ隔テ妻戀スレバ、メヅラシク思ヒヨセタリ』と云つて居る。
 〔鑑賞〕 この歌は七夕に關聯し、從つて銀河とも寫象がつながるから、譬喩的に現在の光景をば斯くのごとく表現するに至つたのであるが、古今集以後の聯想的譬喩歌といふものはこの邊に既に見當るのである。ただこの邊の歌は聲調がいまだ古樸だから輕薄に響かないだけである。代匠記に、清輔の、『立田姫|插頭《かざし》の玉の緒を弱み亂れにけりと見ゆる白露』はこの歌を本歌としたのだらうと云つてゐるが、或はさうかも知れない。
 この歌は、新千載及び六帖に載り、六帖では第二三句『かざしの玉はつまこふと』と訓んでゐる。又夫木和歌抄には、秋の部七夕に六帖から、雜の部河に萬葉から、二箇所にこの歌を採り、前者では『かざしの花はつまこふと』となつてゐる。
 
          ○
 
(229)  〔卷九・一六八七〕
  白鳥《しらとり》の鷺坂山《さぎさかやま》の松蔭《まつかげ》に宿《やど》りて行《ゆ》かな夜《よ》も深《ふ》け行《ゆ》くを
  白鳥 鷺坂山 松影 宿而往奈 夜毛深往乎
 
 〔題意〕 『鷺坂作歌一首』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○白鳥 シラトリノと訓む。鷺にかかる枕詞で、鷺の羽毛の白いところに本づいてゐる。萬葉にはなほ、『白鳥《しらとり》の飛羽山《とばやま》松の待ちつつぞ吾が戀ひわたるこの月頃を』(卷四。五八八)といふ例があり、後世の勅撰集にも踏襲されてゐる。○鷺坂山 サギサカヤマで、山城久世郡|久世《くぜ》にある小山で、今久世神社を祭つてゐる。後に見える、『細領巾《たくひれ》の鷺坂山の白躑躅』(卷九。一六九四)。『山城の久世の鷺坂』(同卷。一七〇七)共に、人麿歌集中にあるものである。○松影・宿而往奈 マツカゲニ・ヤドリテユカナで、舊訓ヤドリテユクナ。代匠記精ヤドリテユカナ。古寫本中ヤドリテユカム(古・藍・壬)。ユケナ(類)。ユカナ(神・西)等の訓がある。○夜毛深往乎 ヨモフケユクヲと訓む。夜深去妹相鴨《ヨノフケユキテイモニアヘルカモ》(卷十。一八九四)。戀毛不過者夜深往久毛《コヒモスギネバヨハフケユクモ》(卷十。二〇三二)。牽牛之※[楫+戈]音所聞夜深往《ヒコボシノカヂノトキコユヨノフケユケバ》(卷十。二〇四四)等の用例がある。其他『夜は更《ふ》けにつつ』(卷三。二八二・卷七。一〇八四)。『夜は更けぬとも』(卷十。二二五二二・二二五七)等の結句もあるが、ヨモフケユク(230)ヲと用ゐた句は萬葉にこの歌のみである。
 〔大意〕 山城にある〔白鳥《しらとりの》〕鷺坂山の松の樹かげに、一夜宿つてゆかうか、夜も段々更けて行くから。
 〔鑑賞〕 大和から山城を經て近江あたりにゆく、奈良街道、久世の鷺坂山を越えるときの歌で、別に奇がない平易で素直な歌である。當時の旅の有樣もわかつてなつかしい感もするし、寂しい感をさせるものである。結句の、『夜もふけゆくを』には感慨がこもつてゐて、深夜の旅づかれを暗指してゐる點で、結句としての力量を持つてゐるのである。旅の即事であるから、取りたてていふべき程の歌ではないが、萬葉の歌はかかる即事の歌でも棄てがたいのである。
 この歌は、續古今に人麿作として載り、四五句『やどりてゆかむ夜も更けにけり』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八八〕
  炙《あぶ》り干《ほ》す人《ひと》もあれやも沾衣《ぬれぎぬ》を家《いへ》には遣《や》らな旅《たび》のしるしに
  ※[火三つ]干 人母在八方 沾衣乎 家者夜良奈 ※[覊の馬が奇]印
 
(231) 〔題意〕 『名木河作歌二首』といふ題がある。名木川は、和名鈔に、山城國久世郡那紀とあり、地名辭書には、今の小倉村伊勢田の邊らしいから、名木河は仁徳・推古の兩朝に開鑿せられた、栗隈溝であらうと云つてゐるが、この栗隈溝の所在地も現在明かでない。
 〔語釋〕 ○※[火三つ]干 アブリホスと訓む。舊訓アブリホス。古寫本ヒノヒノニ(古)がある。火にあてて濡れた衣を乾かす意である。天武紀に、『於是寒之雷雨已甚。從v駕者衣裳、濕以不v堪v寒。及v到2三重郡家1、焚2屋一間1而令v※[火+媼の旁]2寒者1云々』。また、拾遺集にも、『足引の山下水に沾にけり其火まづたけ衣あぶらむ』といふのがある。○人母在八方 ヒトモアレヤモと訓む。舊訓ヒトモアレヤモ。古寫本アラムヤハ(類・古)。アリヤト(神)。『在八方ハ願フ詞ニハ非ズ。旅ナレバアブリホシテ得サスル人アラムヤモナリ』(代匠記精)。『アレヤモのヤはヤハの意なり』(略解)。つまり反語になる句法である。この歌のことは既に評釋篇卷之上でも云つたが、『まされる寶子に斯迦米夜母《シカメヤモ》』(卷五。八〇三)の如くにメヤモといふ反語の例が多い。そのほか、『こと許せ屋毛《ヤモ》打橋わたす』(卷七。一一九三)のやうにバニヤの如く疑問の強いのもあり、また、『世のなかの人の歎は相思はぬ君に安禮也母《アレヤモ》』(卷十五。三六九一)の如くにやはり疑問の強いのもある。そして疑問・感歎・反語・願望といふ心的過程は相交錯するもので、その強度と色調とによつて極まるものだといふことは、これらの少數の例を見てもわかるのである。○沾衣乎・家者夜良奈・※[覊の馬が奇]印 ヌレギ(232)ヌヲ・イヘニハヤラナ・タビノシルシニと訓む。古寫本中イヘヽハヤラナ(類)。イヱニハヨラナ(神)の訓もある。濡れた旅の衣をば、家におくつてやらう、※[覊の馬が奇]旅《たび》の印《しるし》にといふ意である。
 〔大意〕 名木川の水で沾れた、この旅衣《たびごろも》を、火であぶつて乾かして呉れる者も居ない。この沾れた衣をば苦しい旅の記念にこのまま家に送つてやらう。といふ意である。
 〔鑑賞〕 山城の名木河邊を歩くのでも、種々難儀したことが分かつて有益な歌である。特に、イヘといふ語感は當時にあつては家族であるが、主に妻を主としたものであつたかも知れない。歌柄は素直に言葉を運んでゐて無理のない點がいい。無論たいした歌ではなく、人麿作かどうか決定しがたい。
 
          ○
 
  〔卷九・一六八九〕
  荒磯邊《ありそべ》に著《つ》きて榜《こ》がさね杏人《からひと》の濱《はま》を過《す》ぐれば戀《こほ》しくあるなり
  在衣邊 著而榜尼 杏人 濱過者 戀布在奈利
 
 〔題意〕 やはり『名木河作歌二首』とある第二首であるが、歌の内容を見ると恐らく名木河の(233)歌ではあるまい。『今按、次ノ歌ハ名木河ニシテヨメル歌ニアラズ。推量スルニ名木河作歌一首、杏人濱作歌一首ト別ニ題ノ有ケムヲ、後ノ題落テ歌ハ二首アル故ニ、後人歌ノカナヒカナハズヲモ考ヘズ、此處《ココ》ノ一首ヲ二首ト改ケルナルベシ。第十ニモカカル例アリ』(代匠記精)とある。
 〔語釋〕 ○在衣邊・著而榜尼 アリソベニ・ツキテコガサネと訓む。舊訓ツキテコグアマ。略解宣長訓ツキテコガサネ。荒磯べに接近しつつ榜ぎなさいといふ意。『尼』はアマと訓めば、『海人《あま》』の意になるが、略解に、『尼を海人に借りて書けるは心得難し』と云つてゐる。尼はニ・ネの音に用ゐたが、卷七(一二七四)に、住吉出見濱柴莫苅曾尾《スミノエノイデミノハマノシバナカリソネ》。卷二十(四三八九)に、志保不〓《シホブネ》(尼)乃弊古祖志良奈美《ノヘコソシラナミ》。同卷(四三六七)に、都久波〓《ツクハネ》(尼)乎布利佐氣美都都《ヲフリサケミツツ》。卷十三(三二三六)に、瀧屋之阿後〓《タキノヤノアゴネ》(尼)之原尾《ノハラヲ》等の例がある。また、岸に添うて舟を榜ぐ例は、『鯨魚《いさな》取り淡海の海を沖(キ)放けて榜ぎ來る船|邊附《へつ》きて榜ぎ來る船沖つ櫂《かい》甚《いた》くな撥ねそ邊つ櫂《かい》甚くな撥ねそ』(卷二。一五三)。『海の底沖漕ぐ舟を邊《へ》に寄せむ風も吹かぬか波立てずして』(卷七。一二二三)。『わが舟は明石のうみに榜ぎ泊てむ沖へな放《さか》りさ夜|深《ふ》けにけり』(同卷。一二二九)などである。○杏人・濱過者 カラヒトノ・ハマヲスグレバと訓む。考では杏は唐の誤かとする。略解では、『杏人、カラビトと訓むべくも無し。字の誤有らん。宣長云、杏は京の誤にて、ツキテコガサネ、ミヤコビトなるべしと言へり』とあり、古義も其に從つた。併し代匠記精に、『杏人濱ハ何レノ國ニ在ト云コトヲシ(234)ラズ。今按、杏ハカラモモナルヲ、カラトノミヨマム事モオボツカナシ。人ハ藥ニ杏仁桃仁ナドトテ用ル類、仁ト人トヲ通ハシテ用レバ、今ノ杏人モ杏仁ニテ杏仁ノ和名別ニアリテ、ソレヲ名ニ負ヘル濱ニモヤアラム』と云つてゐる。按ふにこの杏の字は借字で、杏子は加良毛々《カヲモモ》、また今の俗に、安无受《アムズ》とも言ひ、杏子は杏核とも書くので、杏一字をばカラに借りたのであらうか。○戀布在奈利 コホシクアルナリと訓む。舊訓コヒシクアルナリ。略解コホシクアルナリ(古義以下同訓)。名殘惜しく戀しいといふ意であらう。
 〔大意〕 荒磯に著《つ》いて接近して榜いでください。杏人《からひと》の濱を通り過ぎると、もうお舟が見えなくなつて、戀しく名殘惜しいのですから、といふ意で、沖を榜ぐと直ぐ通過してしまふので、磯に添うてゆるゆる榜ぐ趣と解せられる。
 〔鑑賞〕 この歌は大體さういふ意味だから、『榜がさね』といふのは、船に乘つてゐる知人と共に舟子にむかつて要求してゐるやうにおもへる。つまりこの歌は、誰かが舟で出發するのを見おくる時の歌のやうにおもへるので、さうおもふと、結句の、『戀《こほ》しくあるなり』といふのはなかなか佳句である。また、『なり』止めの結句でも珍らしいもので、自分は以前からこの結句に注意してゐた。
 この歌の解釋については古來必ずしも一定してゐない。『磯邊ニ附テ榜行海人《アマ》ノ小船ノ面白キ(235)ガ飽レヌニ、見ルママニ過行ケバ、名殘ノ惜キヲ、戀シクアルナリトハ云ヘリ』(代匠記精)は客看的光景に見たててゐるが、面白い光景としてゐる。『歌の意は、荒磯邊につきて漕まふあま船の、から人の濱を過來れば、そのあま船の戀しきと云意なるべし。あまの釣するを見つつ過來るに、杏人の濱を過來れば、隔たりて不v見故、そのあま船の戀しきとの歌と見るべし。全體の意しかとは聞え難し。先一通はから人の濱を過て、名木河へ渡る時の歌と見置也』(童蒙抄)もやはり客看的であまの釣する小舟が見えなくなるのを名殘惜しくおもふのである。『歌(ノ)意は、京人が濱を通り過れば戀しくて、その人に相見まほしく思はるるなり。沖の方へは漕出さずして荒磯の方に著て船を漕てよと※[楫+戈]取などに令《オホ》するなり』(古義)は、略解宣長訓に從つてかういふ解釋をしたものである。つまり※[楫+戈]取に云つてゐるやうだが、主體は京人《みやこびと》にあるのである。井上博士は、ハマヲスギナバ・コヒシクアリナムと訓み、『元來此歌は陸上の人が舟中の人にいひかけたるにはあらで、舟に乘れる人が舟子にいひかけたるならむ。而して結句の奈利は奈武の誤ならむ』(新考)と云つた。
 以上の通りであるが、大體私の解釋の方がよいやうである。そしてこの歌は前言のごとく、『こほしくあるなり』といふ結句によつて特色を與へられて居るものである。『行く船を振り留《とど》みかね如何ばかり戀《こほ》しくありけむ松浦佐用比賣《まつらさよひめ》』(卷五。八七五)。『あらたまの年の緒長くあひ見ずは(236)戀しくあるべし今日だにも言問《ことと》ひせむと惜しみつつ』(卷二十。四四〇八)などにも、類似があるが、結句としてではない。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九〇〕
  高島《たかしま》の阿渡河波《あどかはなみ》は騷《さわ》げども吾《われ》は家《いへ》思《おも》ふ宿《やどり》悲《かな》しみ
  高島之 阿渡河波者 驟鞆 吾者家思 宿加奈之彌
 
 〔題意〕 『高島作歌二首』といふ題がある。高島の阿渡川のことは卷七(一二九三)の歌の解のときに既に云つた。
 〔大意〕 近江高島郡の阿渡川《あどがは》の川浪が騷ぐが、吾はただひたすらに家を思うてゐる。この旅のやどりの物悲しさに。といふ意である。
 〔鑑賞〕 これは近江あたりの旅次の作のやうにおもへる。それから、『阿渡河浪は騷げども吾は家おもふ』と續けたところは、人麿が石見から上來の時の、『小竹《ささ》の葉はみ山もさやに亂れども吾は妹おもふ別れ來ぬれば』(卷二。二二三)の歌に似てゐる。そこで、若しこの歌を人麿初期の作で(237)でもありとせば、同じ心の傾向によつて出來たものと考察することが出來る。またさうすれば、卷二の、『亂友』もサワゲドモと訓ませるのかも知れない。併し、この歌を人麿作と斷定も出來ず、却つて後世的な點もあるから一概には云へないのであるが、ただ何處かに人麿的なものを感じ得るといふのである。
 この一首に、『家《いへ》』と、『宿《やどり》』と二つ入つて居り、區別してあるので有益である。家《いへ》のことは既に云つた。宿《やどり》についてなほ少しく例をいふならば、『東路《あづまぢ》の手兒《てこ》の呼坂《よびさか》越えかねて山にか宿《ね》むも宿《やどり》は無しに』(卷十四。三四四二)。『沖邊より船人《ふなびと》のぼる呼び寄せていざ告げやらむ旅の宿《やどり》を』(卷十五。三六四三)などがある。
 次にこの歌は、卷七(一二三八)の、竹島乃阿戸白波者《タカシマノアトシラナミハ》動友《トヨメドモ・サワゲドモ》吾者家思五百入※[金+施の旁]染《ワレハイヘオモフイホリカナシミ》といふ歌と殆ど
全く同一である。そしてこの歌は古歌集にあつたものであるところを見ると、傳來は單に一つでないことが分かる。そして、古歌集の『いほりかなしみ』の方が古體のやうにも思へるし、或は、『やどりかなしみ』の方が自然のやうにもおもへるから、どちらかが原歌で、他は異傳とするとどうなるか。古歌集の方を原歌とすると、人麿歌集は必ずしも人麿の作ではないこととなるし、この歌を原歌とせば、古歌集の方は異傳といふことになる。第三句の、『さわげども』を人麿的として、歌人生涯を通じての手法の傾向と看做せば、人麿歌集の方が原歌だらうと想像することにな(238)る。
 訓について、『驟鞆』は舊訓サワゲドモ。古寫本にはサハグトモ(壬・類・神)。サワグトモ(藍)。サワゲドモ(酉・細・温・矢・京)等の訓がある。『宿加奈之彌』は、舊訓タビネカナシミ。代匠記精ヤドリカナシミ。考、宿は別の誤、ワカレカナシミ。略解、宿は旅字脱にて、タビネカナシミ。古寫本中、ヤドリカナシミ(藍・類)もある。
 この歌は、夫木和歌抄に採られ、第四句『我は物思ふ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九一〕
  旅《たぴ》なれば三更《よなか》を指《さ》して照《て》る月《つき》の高島山《たかしまやま》に隱《かく》らく惜《を》しも
  客在者 三更刺而 照月 高島山 隱惜毛
 
 〔題意〕 前の歌の續で、第二首である。
 〔語釋〕 ○客在者 舊訓タビニアレバ。代匠記初書入タビナレバ。※[覊の馬が奇]旅にある身であるからの意で、『客有者《タビナレバ》君か思《しぬ》ばむ言はむ術《すべ》せむ術《すべ》知らに』(卷十三。三二九一)。『多婢奈禮婆《タビナレバ》思ひ絶えても(239)ありつれど家に在る妹し思ひがなしも』(卷十五。三六八六)がある。○三更刺而・照月 ヨナカヲサシテ・テルツキノと訓む。卷九(一七三九)に、夜中母身者田菜不知出曾相來《ヨナカニモミハタナシラズイデテゾアヒケル》。卷十四(三四一九)に、伊加保加世欲奈加爾吹爾《イカホカゼヨナカニフクニ》。卷七(一二二五)に、狹夜深而夜中乃方爾欝之菅呼之舟人《サヨフケテヨナカノカタニオホホシクヨビシフナビト》。卷三(六一八)に、狹夜中爾友喚千鳥《サヨナカニトモヨブチドリ》。卷九(一七〇一)の人麿歌集出に、佐宵中等夜者深去良斯《サヨナカトヨハフケヌラシ》。卷十九(四一八〇)に、左夜中爾鳴霍公鳥《サヨナカニナクホトトギス》等がある。ヨナカは紀に夜半・半夜等と書いてあるが、三更は丙夜、三鼓などともいひ夜の十二時に當る。風燈照v夜欲2三更1(杜甫)その他支那には用例が多い。○高島山・隱惜毛 タカシマヤマニ・カクラクヲシモと訓む。高島山は高島郡の西部につらなる山で、ただ一つの山でない。角《つぬ》の郷にある山を角山《つぬやま》といふのと同じである。
 〔大意〕 旅にある身だから、恰も夜半《よなか》にまで照つてゐた月が、とうとう高島山に落ちて行くのはいかにも惜しいことである。
 〔鑑賞〕 今私等の注意を牽くのは、『夜なかをさして照る月の』といふ云ひかたで、重厚の味ひを持つて居る。また一首全體は別に奇巧を弄してゐないが、感じ方も表はし方も自然であるのに、何處か深いところがあつて棄てがたい。前の歌にも人麿的な部分を感じ得たが、この歌にもまた人麿的な聲調を感ずることが出來る。『あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡《よわた》る月の隱《かく》らく惜しも』(卷二。一六九)といふ人麿の聲調に何處か類似の點があるやうである。なほ、『沖つ楫し(240)ばしば澁《し》ぶを見まく欲り吾がする里の隱らく惜しも』(卷七。一二〇五)といふ古歌集出の例もあるが、この歌ほどの哀調餘韻が無い。
 古義に、ヨナカ地名説を出して云。『三更刺而《ヨナカヲサシテ》は、夜半《ヨナカ》の刻《トキ》に向(ヒ)て、と云意とはきこゆれども、凡て指而《サシテ》と云ことは、下に證歌を載たるごとく、某(ノ)地をさしてと云事にいふことなれば、快からず思ひしに、近き頃江戸人の説に、夜中《ヨナカ》は近江(ノ)國高島(ノ)郡にある地(ノ)名にて、七(ノ)卷に、狹夜深而夜中乃方爾欝之苦呼之舟人泊兼鴨《サヨフケテヨナカノカタニオホホシクヨビシフナヒトハテニケムカモ》とあるも同じく、共に夜中潟《ヨナカガタ》と云處なりといへり』云々。
 此歌は、和歌童蒙抄に、『タヒニアレハヨ中ヲサシテヽルツキノタカシマヤマニカクラクヲシモ』とあり、夫木和歌抄も同樣である。六帖には、『旅なればよひに立ち出て照る月の高島山にかくるるをしも』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九二〕
  吾《わ》が戀《こ》ふる妹《いも》は逢《あ》はさず玉《たま》の浦《うら》に衣《ころも》片敷《かたし》き一人《ひとり》かも寐《ね》む
  吾戀 妹相佐受 玉浦丹 衣片敷 一鴨將寐
 
(241) 〔題意〕 『紀伊國作歌二首』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○吾戀・妹相佐受 ワガコフル・イモハアハサズと訓む。舊訓イモニアハサズ。略解イモハアハサズ。古寫本中、京・西・細・温・矢は舊訓と同じく、他にイモニアヒサス(神・藍・壬・類)と訓んだのもある。アハスはアフの敬語で、卷十六(三八七五)に、少寸四道爾相佐婆伊呂雅世流菅笠小笠《スクナキヨミチニアハサバイロケセルスガガサヲガサ》。卷十八(四=六)に、花咲爾爾布夫爾惠美天阿波之多流《ハナヱミニニフブニヱミテアハシタル》の例がある。この敬語は親愛の情からも用ゐるし、語調のうへに基づくやうである。この卷十六の歌などには同じ歌で、一つは普通に道爾相奴鴨《ミチニアハヌカモ》とも使つてゐる。○玉浦丹 タマノウラニで、紀伊東牟婁郡下里町大字粉白の海岸である。『荒磯《ありそ》よもまして思へや玉之浦《タマノウラ》離れ小島《をじま》の夢《いめ》にし見ゆる』(卷七。一二〇二)。『ぬばたまの夜は明けぬらし多麻能宇良爾《タマノウラニ》あさりする鶴《たづ》鳴きわたるなり』(卷十五。三五九八)。『多麻能宇良能《タマノウラノ》沖つ白珠《しらたま》拾《ひり》へれどまたぞ置きつる見る人を無み』(同卷。三六二八)の例がある。○衣片敷・一鴨將寐 コロモカタシキ・ヒトリカモネムと訓む。旅衣を片敷いてただひとり丸寐するであらうかといふのである。
 〔大意〕 自分の戀しくおもふあの女は逢つてくれない、爲方がないから今夜は旅衣を片敷いてただひとり丸寐をすることであらう。といふ意である。家に殘して來た妻のことでも、旅で知つた女でもいづれでも當嵌めることが出來る。
(242) 〔鑑賞〕 旅中の寂しい心持をあらはした歌で、無理なくあらはしてゐる點が好い。『わが戀ふる妹はあはさず』の句がこの歌をして、稍澁く重厚にしてゐる。『衣かたしきひとりかも寐む』といふ句は、佳句で一般化し得る傾向があるので、隨分模倣されてゐるかとおもふと必ずしもさうでなく、『泊瀬風《はつせかぜ》かく吹く三更《よひ》は何時までか衣《ころも》片敷《かたし》き吾がひとり宿《ね》む』(卷十。二二六一)。『妹が袖別れし日より白妙の衣片敷き戀ひつつぞ寐《ぬ》る』(卷十一。二六〇八)がある。併し、『ひとりかも寐む』といふ結句だけならば可なりあるといふことになる。
 この歌は六帖に入り、第二句『妹に逢はさず』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九三〕
  玉匣《たまくしげ》明《あ》けまく惜《を》しきあたら夜《よ》を袖《ころもで》離《か》れて一人《ひとり》かも寐《ね》む
  玉〓 開卷惜 〓夜矣 袖可禮而 一喝將寐
 
 『紀伊國作歌二首』の第二首。『玉〓』の『〓』は匣と同じである。『〓』は萬葉では、アタラ、ヲシ、ヲシケクと訓んで居る。〓《リン》は惜貪也、鄙也、慳也ともあり、イヤシ、ヲシム、ヤブサカ、(243)ムサボル等と訓んでゐる。卷十一(二六六一)に、四惠也壽之〓無《シヱヤイノチノヲシケクモナシ》。卷九(一七一二)に、宵度月乃入卷〓毛《ヨワタルツキノイラマクヲシモ》といふ例がある。そして、アタラには惜の字を當てるから、この字をもアタラと訓んでよいのである。
 一首の意は、〔玉匣《たまくしげ》〕妻と一しよならば、明けるのも惜しい樂しい夜であるのを、惜しいことに、空しく妻の袖《ころもで》を離れて、ただ一人寐ることであるのか。といふ意である。
 前の歌と似てゐるから、題詞の通りやはり紀伊で咏んだものであらうか。『鳥總《とぶさ》立て足柄山に船木《ふなき》伐《き》り樹に伐り行きつあたら船材《ふなき》を』(卷三。三九一)。『秋の野に露負へる萩を手折らずてあたら盛を過ぐしてむとか』(卷二十。四三一八)の例がある。また、コロモデカレテの例には、『敷妙《しきたへ》の衣手|離《か》れて玉藻なす靡きか寢らむ吾を待ちがてに』(卷十一。二四八三)。『敷妙の衣手|離《か》れて吾を待つと在るらむ子らは面影に見ゆ』(卷十一。二六〇七)がある。
 この歌は平易に分かりよく咏まれ、民謠までにはひろがらずに、やはり個人の咏歎の域を保つてゐる點がある。
 此歌、六帖に、『ひとりね』の部に入り、人麿の歌とし、第二句『明けまく惜しみ』となつてをり、又新古今戀五、よみ人不知となつて萬葉と同じ形で出てゐる。
 
(244)          ○
 
  〔卷九・一六九四〕
  細領巾《たくひれ》の鷺坂山《さぎさかやま》の白躑躅《しらつつじ》吾《われ》に染《にほ》はね妹《いも》に示《しめ》さむ
  細比禮乃 鷺坂山 白管自 吾爾尼保波尼 妹爾示
 
 『驚坂作歌一首』といふ題がある。『細比禮』はタクヒレともホソヒレ(六帖・代匠記)タヘヒレ(仙覺抄)とも訓む。舊訓タクヒレ。細は内隔之細有殿爾《ウチノヘノタヘナルトノニ》(卷九。一七四〇)などの如くタヘで、栲領巾《タクヒレ》の栲はやはりタヘであるから、借りて細領巾を以てタクヒレと訓ませたものであらうか。また、ホソヒレといふ假名書の例は萬葉には無い。
 一首の意は、山城久世の鷺坂山に咲いてゐる白躑躅《しろつつじ》よ、われに薫染せよ。それをしるしに愛する妻に示さうとおもふ。といふ程の意である。
 ニホフ、ニホハスは染色に關するのが大部分であるが、さういふ色彩感から、ただ薫染する意味にも用ゐるやうになつた。この歌の場合は白であるから、それを以て衣を染めるわけではなく、白い色感が移り染《し》む感である。卷一(五七)の『ころもにははせ旅のしるしに』も必ずしも染色、擦染《すりぞめ》の實行を意味するのではあるまい。
(245) 初句を代匠記でホソヒレと訓むにつき、『古語ニ白キヲ栲《タク》ト云ヒケレバ白領巾《シラヒレ》ヲ栲領巾《タクヒレ》ト云ヘドモ、細ノ字ヲタクト和スベキニ非ズ。但白タヘト云詞ニ白栲とも白細トモカケル事アリ。此ハタヘト云ハ白キニツケル詞ナル故ニ、義ヲ以テ栲ノ字ハカケリ。又タヘハタヘナリト云詞ナル故ニ、細妙ノ故ヲ以テ白細トカケリ。サリトテタクト云時ハ通ゼズ。仙覺ノタヘヒレノ點モ亦ヨカラズ。第三第十一ニモタクヒレトコソヨミタレ、タヘヒレトヨメル例ナシ。鷺ノ頭ニハ立アガリタル長キ毛ノアルガ細キ領巾ニ似タレバカクハオケリ』と云つてゐる。私はタクヒレを採つたのだが參考のために記し置くのである。
 此歌、六帖に人麿作として入り、第一句『ほそひれの』。又夫木和歌抄によみ人しらずとして採られ、四五句『我ににほはていもにしるさん』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九五〕
  妹《いも》が門《かど》入《い》り泉河《いづみがは》の常滑《とこなめ》にみ雪《ゆき》殘《のこ》れりいまだ冬《ふゆ》かも
  妹門 入出見河乃 床奈馬爾 三雪遺 未冬鴨
 
(246) 〔題意〕 『泉河作歌一首』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○妹門・入出見河乃 イモガカド・イリイヅミガハノと訓む。古寫本には、イリデミガハノと訓んだのもある。これは、妹が門を入《イ》り出《イ》ヅだから、それから同音のイヅミ河へ續けたものである。考・略解・古義等は妹門《いもがかど》を枕詞と解してゐるが、新考では、『妹ガ門イリまでが枕辭なり』といつてゐる。枕詞の長いもの、序の短いものと思へばよく、かういふ句割の如くに使つた例のあるのも面白いのである。『入出見河《イリイヅミガハ》は、泉川《イヅミガハ》なるを、上よりのつづきによりて、人《イリ》の詞をいへるは、處女等之袖振山《ヲトメラガソデフルヤマ》といへる類なり』(古義)とあるごとく、枕詞と序詞との移行型のやうなもので、この變化もさう時を置かずに行はれたものであつただらう。それから、句割の形式は、袖振山《ソデフルヤマ》の場合にもやはりさうなつて居る。○床奈馬爾 トコナメニと訓む。常滑《とこなめ》の義で、河又は河原にある石などがつるつるして見えるのを常滑《とこなめ》と直感したのである。苔が附いてゐるためとか、底滑《そこなめ》の義とか、岩並《とこなめ》の義とかいふ説もあること、既に論じたとほりである。『川中にある石なり。水のにごりのしみつきて常《つね》に滑かなりといふ心にて名付るなり』(代匠記初)は穩當である。『床奈馬《トコナメ》は、底滑《ツコナメ》なり』(古義)。『岩並《トコナメ》にて、河を渡る料に岩をならべおきたるにてイハバシ、イハノハシといへるも同物なり』(新考)等の説がある。『常滑の絶ゆることなく』(卷一。三七)と續けたのは、『常《つね》』であるから、『絶ゆることなく』なので、これは音で續けたのでなく義によつて續けた(247)ので、決して解釋は無理では無い。
 〔大意〕 一首の意味は、泉河に來て見ると、まだ雪が殘つてゐる。泉河の水に近き河原の石のうへにまだ雪が殘つてゐる。さうして見ればまだ冬であらうか。といふのである。
 〔鑑賞〕 この殘雪の歌は萬葉にはその他にもあつて、當時の人々は相當に興味をもつたものと見える。それは必ずしも風流のためでなく、ただ心を牽いたもので、歌を咏む氣になつたものであらう。特に、泉河は後、恭仁の宮のある處で、『山並の宜しき國と川次の立ち合ふ郷と』(卷六。一〇五〇)。『山高く川の瀬清し』(卷六。一〇五二)。『百樹成す山は木高し落ちたぎつ瀬の音も清し』(卷六。一〇五三)。などと形容してゐるごとく、佳景であつたことが分かる。結句の、『いまだ冬かも』も、稚い言ひ方で、なかなか素朴で簡潔である。そして旅中の寒さをもこの一句に籠めてゐるのである。併し一歩出れば理に墮ちる言ひ方で、古今集の歌の理窟は、かういふものがもう一歩邪道に入つたものである。一首の調べの張り切つてゐない樂《らく》な歌だが、序歌の手法を用ゐたのなどは人麿の好みでもあるから、人麿作と想像しても別に邪魔にはならぬが、恐らくはさうではあるまい。
 古來この歌の、『み雪殘れり』をば實際雪が殘つてゐるのでなく、川の白波を殘雪に見立てたのだと解釋したのが多い。『雪ト云ハ、實ニハアラジ。上ニ彦星ノカザシノ玉トヨメル如ク、白沫ノ(248)巖ノ許ニ積レルヲ綺《イロヘ》テ云ヘルナルベシ』(代匠記精)。『沫波などを見て、春まで雪の殘れるかと疑へる也』(略解)。『底滑《ソコナメ》の生(ヒ)著たる砂石に、白沫などの溜《タマ》れるを見て、春まで雪の殘たりと思へる意ならむ』(古義)。『まことに雪の殘れるを見てイマダ冬カモと疑はむは迂遠なり。されば波の床なめにかかるを雪の殘れるに見たてたるなるべし。【中略】但白沫といへる【代匠記説】はいかが。浪のうちかくるを遠くより見ばげに雪とも見えぬべし』(新考)等の諸説が即ちそれである。そして、この説を導いたのは、常滑を水中にある石と解すると殘雪がをかしく、そこで川水の沫波とか白沫とかの錯覺だらうといふ説にもなるのであるが、この常滑は、川原の石をも含めて考へて毫も差支が無いので、水中に濡れてゐなくともいいのである。『隱口の豐泊瀬道《とよはつせぢ》は常滑《とこなめ》の恐き《かしこ》道ぞ』(卷十一。二五一一)の用例を見れば、水中になくともいいのである。それから、新考説の如く、岩並《とこなめ》説だが、人の往來のために並べた石並の義とすると、さういふところは早く雪の消えるのが常で、殘雪はもつと自然な處にあるものだから、新考説もいかがと思はれる。また、結句の、『いまだ冬かも』も實際の殘雪を見てかくいふは迂遠だといふ新考の説も、平凡な常識で律してゐるらしく見える。ここは感情の自然で解釋すべきで、かういふ歌の技法をも、散文的寧ろ論文的な詮議で破壞するのはどうかとおもふ。寧ろ、『これにて思へばいまだ冬にてあるか。さても寒きことかな。旅宿の床の夜ごとに沍《サユ》るは、げにもことわりぞとなり』(古義)といふ解釋の方が、少しくどいが、増し(249)だとおもふのである。
 私はこれまでこの邊の歌の參考書を殆ど讀まずに自分だけの解釋をして來たのであつたが、先進の説にも種々あることを知つて少しく駕いたので、煩瑣ではあるが愚按をも附加したのであつた。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九六〕
  衣手《ころもで》の名木《なぎ》の河邊《かはべ》を春雨《はるさめ》に吾《われ》立《た》ち沾《ぬ》ると家《いへ》念《おも》ふらむか
  衣手乃 名木之河邊乎 春雨 吾立沾等 家念良武可
 
 『名木河作歌三首』といふ題がある。『河邊乎』を略解では乎は之の誤として、カハベノと訓ませたが、古義ではそれを否とした。『家念良武可』は、舊訓イヘオモフラムカであつたのを、考でイヘモフラムカとした。『衣手乃』は名木に續く枕詞であるが、諸説がある。『衣手ノナキノ河トツヅケルハ、泣時袖ヲ掩フ意ナリ』(代匠記)。『衣手のなるると云、なの一語にうけたる續き也』(童蒙抄)。『名木の川云々、これも長きといひかけたるか。がきの反ぎなれば、約めてなぎといふべ(250)し。又袖はことになれてなゆるものなれば和《ナギ》といへるか』(冠辭考)。大體冠辭考の説を參考して追考すべきである。略解では、『衣手が春雨に濡るるといふ續きなり』といひ、古義でもそれを踏襲して、『第四(ノ)句の上にうつして心得べし』と云つてゐるが、これは矢張り枕詞の格である。
 一首の意は、名木の河邊を旅來つつ、春の雨にこんなに濡れて難儀してゐることを、家人等はおもふであらうか、おぼつかないといふ意が含まつてゐる。『この患苦《クルシサ》は得知まじと云るなり』(古義)を含めてゐるのである。
 この結句のことは既に、上卷の人麿短歌評釋(卷三。四二六の條)のところでも一言して置いた。なほ少し參考書を抄記するならば、『我ハ此河邊ニ涙ヲ拭ヒテ立ツヲ、家人ノサハ知ラデ春雨ニノミコソ立沾ラメト思ヒオコサムカトナリ』(代匠記精)。『家に思ふらんを、にを略て家もふといへり』(考)。『家モフラムカとは、家人の思ふらんかと言ふ意にて、家爾の爾を略けるなり』(略解)等である。これは、旅にある自分をば家人が〔五字右○〕、家にゐる妻らが〔三字右○〕おもふといふので、主格は『家』なのである。
 このあたりにある一聯の歌は、實際の吟であるらしく、また、何か人麿歌集に收録されるやうな一定の因縁のある一團の作者の作のやうにおもはれる。即ち作者は實際は人麿でないかも知れず、或は人麿かも知れず、そこは不明でも、先づ人麿でないやうにおもへる。然かも作者が一人(251)でなくて、そのあひだに一定の關係を持つてゐるものであるやうな氣がするのであるが、この三首は同一作者で同時に作つたものであらう。
 
          ○
 
  〔卷九・一六九七〕
  家人《いへびと》の使《つかひ》なるらし春雨《はるさめ》の避《よ》くれど吾《われ》を沾《ぬ》らす念《おも》へば
  家人 使在之 春雨乃 與久列杼吾乎 沾念者
 
 前の續きである。○使在之 舊訓ツカヒナルラシ。代匠記精ツカヒニアラシ。○沾念者 舊訓ヌラストオモヘバ。代匠記精ヌラスオモヘバ、又はヌラスヲオモヘバ。ヨクといふ動詞は避くの意で加行上二段に活用する。卷十五(三六八三)に、伎美乎於毛比安我古非萬久波安良多麻乃多都追奇其等爾與久流日毛安良自《キミヲオモヒアガコヒマクハアラタマノタツツキゴトニヨクルヒモアラジ》の例がある。
 一首の意は、春雨に沾れまいとして避くるが、なほこのやうに沾らすのは、この春雨は家人《いへびと》からの使であるからであらう。はやく歸つて欲しいといふ心持ででもあらうといふ意が含まつて居る。この沾らすは涙でぬるる意味はない。それは後世ぶりである。
(252) 先進の解釋を抄すれば次の如くである。『家人は故郷人也。故郷はなつかしさに故郷の使あれば泪にぬるる也』(拾穗抄)。『使ハ能|此方彼方《コナタカナタ》ノ心ヲ通ズルヲヨシトスルニ、雨ヲヨキテ沾ジトスレド強テヌラスハ、故郷ノ人ノ使ニオコセタルナラムトナリ。風、雲ナドハ使ト云ヲ、雨ヲ使ト云ハ、時ニ取テ心ニ任チヨメルニヤ』(代匠記精)。『よくれ共かく濡るる春雨は、家人の使なるらん。よきてもかく迄慕ひぬるるはと云意也』(童蒙抄)。『歌意は、吾をはやもかへりねともふ家なる人のつかひならめ。かく雨をさけよくれども、ぬらしぬるよと思ふとなり』(考)。
 この心は兎に角春雨に沾れて難儀して居る場合に、その濡れた春雨をば、家にゐる妻などの使だと聯想したのがこの歌の特色でもあり、一寸腑に落ちないやうにする所以でもあるが、どうしてかういふことを云つたかといへば、拾穗抄の説は稍後代ぶりであり、童蒙抄の、『慕ひぬるる』も稍いひ過ぎであり、考の説が一番自然で無理がないやうにおもへる。『秋田苅る衣手《そで》搖《ゆる》ぐなり白露は置く穗田なしと告げに來ぬらし』(卷十。二一七六)といふ例もあり、かういふ聯想なり表現なりが、古今集以後に多くなつて行つた。それから、この歌について拾穗抄の説を稍後世的だと前言したが、萬葉にも、『ひさかたの雨には著ぬを恠《あや》しくも吾が衣手は干《ひ》る時なきか』(卷七。一三七一)といふのがあり、涙のことを云つてゐるが、この歌に直ぐ應用するのはどうかとおもふ。
 
(253)          ○
 
  〔卷九・一六九八〕
  炙《あぶ》り干《ほ》す人《ひと》もあれやも家人《いへびと》の春雨《はるさめ》すらを間使《まづかひ》にする
  ※[火三つ]干 人母在八方 家人 春雨須良乎 間使爾爲
 
 前の歌の續きである。○人母在八方 舊訓もヒトモアレヤモ。古寫本中ヒトモアリヤハ(神)がある。○間使爾爲 マヅカヒニスルと訓む。神田本にマツカヒニセムと訓んだ。間使《まづかひ》は兩方の間を行き通ふ使者で、『【前略】名告藻の己が名惜しみ間使《まづかひ》も遣らずて吾は生けりとも無し』(卷六。九四六)。『梅の花それとも見えず零る雪のいちじろけむな間使遣らば』(卷十。二三四四)。『立ちて坐《ゐ》てたどきも知らに思へども妹に告げねば間使も來ず』(卷十一。二三八八)などの例がある。
 スラといふ助詞は、一事をあげて例示し他を類推せしめるもので、『蒼天《あをぞら》ゆ通ふ吾等須良《ワレスラ》汝がゆゑに天漢路《あまのがはぢ》をなづみてぞ來し』(卷十。二〇〇一)。『越《こし》を治めに出でて來し丈夫和禮須良《ますらワレスラ》よの中の常し無ければ』(卷十七。三九六九)。『言問はぬ木尚紫陽花諸弟等《キスラあちさゐもろとら》が練《ねり》の村戸《むらと》に詐《あざむ》かえけり』(卷四。七七三)。『言問はぬ木尚妹《キスラいも》と兄《せ》ありとふをただ獨子《ひとりご》にあるが苦しさ』(卷六。一〇〇七)等の例によ(254)つてその用法を知り得る。
 一首の意は、旅衣の濡れたのを火にあぶつて乾かして呉れるものも居ないのに、家人らは春雨まで態々使によこしてまた私の衣を濡らすとはひどい。といふぐらゐの意である。
 このヤモは疑問で、反語的の意味に落著くことは、人麿短歌評釋の折に(卷四。四九九)も言及した。それからこの歌でなぜかういふことを云つたかといふに、※[覊の馬が奇]旅の苦しいなかにあつて、幾らかフモールの語調があるやうでもある。そしてこれは親愛に本づくとせば、この三首の相手は或は妻即ち家人であつたのかも知れない。
 いづれにしても、この一聯は空想の作でないらしく、※[覊の馬が奇]旅の實地を咏じてゐるとおもつて間違がないらしく、大體が獨咏歌の趣であるが、やはり對者の豫憩のあることは、家人《いへびと》を云々してゐるを以て見ても分かるのである。
 前の『炙《あぶ》り干す人もあれやも沾衣《ぬれぎぬ》を家には遣らな旅のしるしに』(一六八八)といふ歌に類似してゐるが、傳誦の間に變化したものででもあらうか。
 
          ○
 
(255)  〔卷九・一六九六〕
  巨椋《おほくら》の入江《いりえ》響《とよ》むなり射部人《いめびと》の伏見《ふしみ》が田井《たゐ》に鴈《かり》渡《わた》るらし
  巨椋乃 入江響奈理 射目人乃 伏見何田井爾 鴈渡良之
 
 〔題意〕 『宇治河作歌二首』といふのの第一首である。
 〔語釋〕 ○巨椋乃入江 オホクラノイリエで、延喜式神名には、山城國紀伊郡大椋神社、久世郡巨椋神社があつて、代匠記では、この巨椋入江は紀伊郡の方だらうと考へてゐるが、童蒙抄・考・略解等は久世郡の方と考へ、近ごろの調査では、矢張り久世郡の方にしてある。『山城國久世郡の北部に在り。南北四十町、東西五十町に及び、霖雨の頃は、宇治川の水を容れ、浩渺たる江灣をなす。通稱おぐらのいけ』(萬葉地理考)。古い訓には、オホクラノ。オモクラノ。オムクラノ等があつた。○響奈理 トヨムナリと訓ず。舊訓ヒビクナリで、これは袖中抄などにもさう訓んでゐる。和歌童蒙抄には、ナルナリと訓んで居り、眞淵の考がそれを踏襲したのかさう訓んでゐる。代匠記精に、『響ハトヨムトモ讀ベシ』といつたのが原で、略解・古義・新考・新訓等皆それに從つた。考のナルナリ訓は少し輕い。ヒビクナリといふ訓も棄てがたいが、やはりトヨムナリの方が順當かも知れない。さてこの、『響《とよ》むなり』といふのは、雁が群れて飛び立つ、その羽音と(256)啼聲をいふのである。『響トハ鴈ノ立羽音ヲ云ヘリ』(代匠記精)。『巨椋の入江の浪が響みわたるなり、今や伏見の田面に、鴈が渡るらし、その鴈の聲の響《ヒビキ》に、この入江が鳴ならむとなり』(古義)等が參考になる。○射目人乃 イメビトノと訓ず。夢人《いめびと》といふ説と、射部人《いめびと》といふ説と兩説がある。射部人は殆ど通説で、『いめ人は、獵《かり》する時に鹿猪《しし》の通ひ來、或は落行《おちゆく》かたを見せしめむために、節所にまぶしなどさして、ぬはれ伏して窺《うかが》はしむるものをいへり。……即ち、跡見《あとみ》ともいへり』(代匠紀初)。『目伏《まぶし》をさして、伏し隱れ居てねらひ射るゆゑに伏見にはつづけし也』(冠辭考〕等で、冠辭考では跡見《あとみ》と射部《いめ》人は違ふと云つてゐる。なほ古義では大神(ノ)景井が説を引いて目伏《まぶし》説を否定してゐるが大體が同じで、鳥獣を射る役割の人々を云ふのである。射部の用例は、『み山には射部《いめ》立て渡し朝獵に鹿猪《しし》ふみ起し』(卷六。九二六)。『射部《いめ》立てて跡見《とみ》の岳邊《をかべ》の瞿麥《なでしこ》の花|總手折《ふさたを》り吾は持ち去なむ寧樂人《ならびと》の爲』(卷八。一五四九)。『高山の峯のたをりに射部《いめ》立てて猪鹿《しし》待つ如』(卷十三。三二七八)等で、射部《いめ》といふ一種の役割がある以上、この説が有力である。ただ、『伏す』に續けた例が他に無いのが殘念なのである。次に、第二の夢人《いめびと》説は、愚庵和尚の歌に、『いめひとの伏水《ふしみ》の里を美《うつ》くしみ東山《ひむがしやま》を住み棄てて來つ』といふのを讀んだ時に、愚按を立てて、『いめひとは夢人』と注して置いた。其は大正三年十二月の事であつたが、拾穗抄に、『いめ人は夢人か。扨伏見とつづくるなるや。見安云、射目《イメ》人は夢に見る人也』とあり、代匠記はそれに對して『此集ニ夢ヲ伊(257)米トモ云ヘルニ依テ夢人ト云説アレド、伏見ト云ハムニハ人ト云ハズトモ唯夢ニテ足ヌベシ。何ノ夢カ伏テ見ザラム。其上射目トカケル文字ノヤウ、第六第八第十三皆一同ナリ』(精)といひ、荷田春滿の説に、『いめ人は、いめ立ててとみの岡邊などよめると、同じきと云説もあれど、これは夢の義なるべし。夢は伏して見るものから、伏見が田井を云はんとて、いめ人とは詠出たる也。これらが歌の續きがらの至極の義也。【中略】宗師説は夢を人の伏し見ると云うけに見る也』(童蒙抄)と云つてゐる。今となつては兩説中、『射部《いめ》人』説に從ふべきであらう。○伏見何田井爾 フシミガタヰニと訓む。伏見の田井にで、伏見は山城紀伊郡で今の伏見と同じである。タヰは田居《たゐ》、田井《たゐ》で田のことである。一面の水田があり、其處に雁が屯してゐたのであつただらう。
 〔大意〕 一首の意は、いま巨椋の入江を群をなして飛び立つ雁の羽音と啼聲が聞こえ、騷然として響いて居る。これは紀伊郡にある伏見の水田の方に渡つて行くらしい。現にさういふ方嚮を取りつつある。といふ歌である。
 それだから、この『田井に』の『に』は方嚮をあらはしてゐると解したいのである。嘗てアララギで萬葉集短歌輪講をしたとき、『※[就/火]田津に舟乘せむと月待てば潮も叶ひぬ今は漕ぎいでな』(卷一。八)の歌に至り、偶その時アララギで橘守部の檜嬬手を覆刻して讀んでゐた時だつたので、守部説に從つて、『※[就/火]田津へ向つて』と解したことがあつた。それも輪講の形式としてさういふ説(258)を提出して論議するのもいいとし、『に』を『へ向つて』とした他の用例をさがすやうに提出したのであつたが、赤彦も千樫もそれに應じなかつたらしい。元來は、『へ向つて』と解してゐたのでなく、守部の新説を提出したのであつたから、私は其後、『舟乘せむと』の用例を拾つて元の説に復歸したのであつたが、其後萬葉に遠ざかること十數年にわたり、さういふことなどは忘却がちであつた。さういふことを想起したのはある機縁を與へられたつひ近頃のことである。さて、『に』の用法に方嚮をあらはすものは、此歌の場合もさうだが、なほ、『粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石の門浪《となみ》いまだ騷げり』(卷七。一二〇七)。『石倉《いはくら》の小野《をぬ》ゆ秋津《あきつ》に立ち渡る雲にしもあれや時をし待たむ』(卷七。一三六八)。『山の邊にい行く獵夫《さつを》は多かれど山にも野にもさを鹿鳴くも』(卷十。二一四七)。『京方《みやこべ》に立つ日近づく飽くまでに相見て行かな戀ふる日多けむ』(卷十七。三九九九)等のなかにある、『に』は單に場處のみの意味でなく、方嚮をも示してゐるのである。それだから※[就/火]田津の歌の場合は、『船乘』といふ語と、『に』といふ語と相俟つて、『場處』を指すといふことになるのである。輪講の折にも其處を極めて貰ひたかつたのである。
 〔鑑賞〕 さて此一首は、今味はつて見るになかなかいいところがあり、調べも大きく、そしてすべすべと滑に失せずに、何處かに鋭い響を持つて居る。それだからひよつとせばこれは人麿の作なのかも知れないといふ氣持を起させる。第三句で、射部人《いめびと》のといふ枕詞を用ゐたのなども人(259)麿の好む技法の一つと考へることが出來る。この枕詞は此處で餘り意味を強く取ると鑑賞上の邪魔をするが、當時にあつてはやはり相當に意味を持たせ、そこが作歌上の樂しみでもあり、人も感心した點であつただらうと想像することも出來る。けれども現在に於て味ふに、一首全體としてこれだけのものが眼前に現存してゐるのだから、その作歌能力に感心していいのである。
 この歌は、袖中抄に、『巨椋《オホクラ》乃|入江《イリエ》ヒヽクナリ射目人《イメヒト》ノ伏見《フシミ》カ田ヰニカリワタルラシ』。和歌童蒙抄に、『ヲホクラノイリエナルナリイメヒトノフシミカタヰニカリワタルラシ』と載つてゐる。また夫木和歌抄にも載り、『入江ひひくなりいめ人のふしみのたゐに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇〇〕
  秋風《あきかぜ》に山吹《やまぶき》の瀬《せ》の響《とよ》むなべ天雲《あまぐも》翔《がけ》る鴈《かり》に逢《あ》へるかも
  金風 山吹瀬乃 饗苗 天雲翔 鴈相鴨
 
 〔題意〕 『宇治河作歌二首』の第二首である。
 〔語釋〕 ○金風 舊訓アキカゼノ(【代匠記・童蒙抄・考・古義同訓】)。六帖アキカゼニ。略解アキカゼニ(新考同訓)。(260)金風は染元帝纂要に、秋風曰2金風1とあり、歳華紀麗に、玉帝規v時金風屆v序とある。五方向を五行に配すると秋は金に當るからである。唐詩には單に金吹と使つたのもある。萬葉では數例あり、白風とも書いた。『天漢《あまのがは》水除草の金風靡見者《アキカゼニナビカフミレバ》時來るらし』(卷十。二〇一三)。『よしゑやし戀ひじとすれど金風之寒吹夜者《アキカゼノサムクフクヨハ》君をしぞ念ふ』(卷十。二三〇一)などがある。○響苗 舊訓ナルナヘニ。仙覺ヤマフクセセノナルナヘニ。或本ヤマフキノセノヒヒクナヘ。代匠記精トヨムナヘ。○鴈相鴨 舊訓カリニアヘルカモ。童蒙抄カリニアフカモ、又カリヲミルカモ(新訓同訓)。略解宣長訓、相は亘の誤で、カリワタルカモ(新考從v之)。相をミルと訓ませた例がほかに尠いので、カリニアヘルカモといふ舊訓に從ふ。もつとも支那では相をミル義に借り得るし、伊呂波字類抄では相をミルと訓ませてゐるが、相をアフと訓ませた例の方が多いからそれに從ふのである。なほ後に補充する。
 〔大意〕 一首の意は、秋風に宇治河の山吹《やまぶき》の瀬の水が鳴りひびいて居る。と見ると空の雲には雁群が飛び過ぎる。といふので、それをば、『雁に逢つた』といふやうにあらはした。
 〔鑑賞〕 此處の『なべ』も、につれて、と同時に、ふと見ると、ぐらゐの心持で、既に評釋した、『あしひきの山河の瀬の鳴るなべに弓月《ゆつき》が嶽に雲たちわたる』(卷七。一〇八八)のほかに、『雲の上に鳴きつる雁の寒きなべ萩の下葉は黄變《うつろ》はむかも』(卷八。一五七五)。『葦邊なる荻《をぎ》の葉さや(261)ぎ秋風の吹き來るなべに鴈鳴きわたる』(卷十。二一三四)などを參考とすべきである。
 次に、『雁に逢へるかも』と、『雁を見るかも』といづれかといふに、『雁を見るかも』は童蒙抄の一訓で、新訓が其に從つたのであらうが、童蒙抄でもカリニアフカモと訓んで居り、『あふかもは時節の來りたることを嘆息して、春過夏も去りて、今はた秋風起つて天をかけりて己が來る時ぞとて、はるばる越路の雁にあふ事かなと、時節の過行來れるを感嘆して宇治川の地名によせてよめる也。雁を見るかも共讀むべし。いづれにても意同じき也』と云つてゐるのである。併しこのカリヲミルカモの訓は人の注意をひかず、新訓によつてはじめて認められたのであつた。
 このカリヲミルカモといふ表現は後世的、寧ろ近代的表現であつて、古調でないのが不滿であるし、萬葉にも類例が無いやうである。之に反して、アヘルカモの方は、卷四(五一三)に、吾念
妹爾今夜相有香裳《ワガオモフイモニコヨヒアヘルカモ》。同卷(五五九)に、如此戀于毛吾者遇流香聞《カカルコヒニモワレハアヘルカモ》。卷六(九九三)に、氣長戀之君爾相有鴨《ケナガクコヒシキミニアヘルカモ》。卷十(一八九四)に、霞發春永日戀暮夜深去妹相鴨《カスミタツハルノナガヒヲコヒクラシヨノフケユキテイモニアヘルカモ》などがあるので、舊訓の方が自然であらうとおもふのである。
 次に、初句、舊訓アキカゼノと訓んだので、『折節ノ秋風ヲ、ヤガテ山ニ吹ト云意ニ、宇治ニアル山吹ノ瀬ノ諷詞トセリ。六帖ニアキカゼニトアル時ハ、ソヘテ云意ニアラズ、今ノ點ヤマサリ侍ナム』(代匠記精)。『宣長云、秋風ノと訓みて山吹(ク)の意の枕詞なり』(略解宣長説)。併し略解はア(262)キカゼニと訓ませてゐるのである。
 『秋風爾《アキカゼニ》河浪立ちぬ暫《しまし》くは八十の舟津《ふなつ》に御舟《みふね》とどめよ』(卷十。二〇四六)。『新治の鳥羽の淡海も秋風爾《アキカゼニ》白浪立ちぬ』(卷九。一七五七)。『秋風爾《アキカゼニ》山飛び越ゆる鴈がねの聲遠ざかる雲|隱《がく》るらし』(卷十。二一三六)。『秋風爾《アキカゼニ》大和へ越ゆる鴈がねはいや遠ざかる雲がくりつつ』(同卷。二一二八)等の例があるから、この場合も、アキカゼノといふ枕詞にせずともいいとおもふ。
 この歌の聲調は、伸びてきびしいところがあり、ひよつとせば人麿の作ではないかと想像せしめる。同一の作者は生涯を通じて、一種の傾きを持つてゐるものであるから、この歌があつて、また人麿作と認められる弓月嶽の歌のあることは、却つてこの歌を人麿作と想像せしめる一つの根據ともなり得るのである。
 この歌は六帖に入り、『秋風に山吹の瀬の響くなべ空なる雲のさわぎあへるかも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇一〕
  さ夜中《よなか》と夜《よ》は深《ふ》けぬらし鴈《かり》がねの聞《きこ》ゆる空《そら》に月《つき》渡《わた》る見《み》ゆ
  佐宵中等 夜者深去良斯 鴈音 所聞空 月渡見
 
(263) 〔題意〕 『獻弓削皇子歌三首』中の第一首である。弓削皇子は、天武天皇の皇子で、天武紀に、『次妃大江皇女生3長皇子與2弓削皇子1』。持統紀に、『七年春正月辛卯朔壬辰云々以2淨廣貳1授3皇子長與2皇子弓削1』。文武紀に、『三年秋七月癸丑朔癸酉淨廣貳弓削皇子薨。云々皇子天武天皇之第六皇子也』とある。御年齡の正確なことは不明であるが、人麿よりは可なり御年若であつたと推定される。文武三年七月薨去であるからこの歌がそれ以前の作であるべきことも考へられるのである。
 〔大意〕 一首の意は、もはや夜中《よなか》ぐらゐに夜が更けたと見える。そして雁の群が聲たてて啼きながら遠ざかる方に、月も低くなりかかつてゐる。といふぐらゐの歌であらうか。この歌で特殊なのは、『月渡る見ゆ』といふ言方《いひかた》であるが、これも急な運動をあらはすのでなく、天傳《あまづた》ふなどの語と同じく、動く氣特だが、それが主でなくて眼前には、月なり日なりが照つて見えてゐるのを、かういふ言方であらはしてゐるのである。そんなら、『月照り渡る』とか、『月かがやきぬ』などと云つたら奈何といふに、作者としてはそれでは滿足しないので、雁などの飛翔と共に移動する氣持を月に對しても持たせたいのであらう。そこでかういふ言方をしてゐるのである。『月の傾《かたぶ》ける方に、鴈の鳴わたる、げに物しづかに、あはれもことにて、且夜の更けたることも著《しる》き空のさまなるをもて、かくよめるなるべし』(考)によつて大體が分かる。古義の解釋は稍くどい。
(264) 〔鑑賞〕 この一首も、淀まず巧まずに云つてゐて、相當の重量を持たせてゐるのが好く、雁の群に月を配しただけだが、その聲調のゆらぎによつて、現實を再現せしめる效果を有つてゐる。ただこの歌は皇子に獻じた歌だから相當に骨を折つてゐるが、やはりおとなしい歌の部類に屬するものであらう。そして、『ひさかたの天《あめ》の香具山《かぐやま》このゆふべ霞棚引く春たつらしも』(卷十。一八一二)とか、『ぬばたまの夜はふけぬらし玉くしげ二上山《ふたかみやま》に月かたぶきぬ』(卷十七。三九五五)とかいふ歌を聯想しつつ味ふべき、上品の歌で、沈痛切實の歌といふ訣合の歌ではない。何か品の高い重厚の點を鑑賞すべきである。新考では、『何の巧もなくてしかもいとめでたき歌なり。天衣無縫とや評すべき』と褒めて居る。なほ卷十(二二二四)に、『この夜らはさ夜ふけぬらし鴈が音の聞ゆる空ゆ月立ち渡る』といふのがある。
 次に此歌は弓削皇子に獻ずるといふ題があるので、代匠記初に、『此三首、弓削皇子にたてまつる歌なれば、をのをのふくめる心あるべし』と云ひ、童蒙抄でも、『皇子を待戀て、夜の更行を惜みてよめるか。何とぞよせる處あるべけれ共、其意は知れ難し』といひ、古義では稍委しくなつて、『今按(フ)に、今は其(ノ)時節に至りたりと覺えて、皇子の御蔭をたのみにしたる世(ノ)人の、多くなり登れるが見ゆるに、吾(カ)身ばかりは、なほしづみ居て、いまだなにのさだもなきに、かくては空しく時節過なむを、いかで早く御恩澤を下したまへかし、と身のほどを下心に訴《ウタフ》るならむ。あはれ今(265)年の秋も去《イヌ》めりの意あるべし』と云つてゐるが、かういふ解釋はどうか知らん。寓意寓意といふが、これだけの實際の天然觀照をしてゐるのに、自身の官位の事などの混入が出來るのか、この歌は天然觀照の歌として、即ち一首の歌として獻じてゐるので、奧齒に物のはさまつたやうな一種の謎を拵へて皇子に訴へてなどゐるのでは無い。この時分にはこれぐらゐの風流、つまり天然觀照の素養が積まれてゐたことを知らねばならない。守部の説も大體さういふ傾があるが、寓意寓意と云々するのは少しく耳觸りである。
 それから、童蒙抄で、『誰人の奉れるか難v知。奥の袖書を證として注せば、此歌共も皆人丸の奉れるか』と云つてゐる。即ち人麿の作かも知れないと想像してゐるのである。この一首は或は人麿作かも知れない。ただ三首中の、『妹があたり茂《しげ》き雁がね夕霧に來鳴きて過ぎぬ羨《とも》しきまでに』『雲|隱《がく》り鴈鳴く時は秋山の黄葉《もみぢ》片待つ時は過ぎねど』の二つは此歌よりも劣る。おもしろい處もあるが、措辭がくどく、單純化が充分でない。人麿の同道のものか誰かの作らしくおもへる。
 此歌、古今集秋上、讀人不知に入つた。『此歌古今集ニ誤テ入タリ』(代匠記精)。
 
          ○
 
(266)  〔卷九・一七〇二〕
  妹《いも》があたり茂《しげ》き雁《かり》がね夕霧《ゆふぎり》に來鳴《きな》きて過《す》ぎぬ羨《とも》しきまでに
  妹當 茂苅音 夕霧 來鳴而過去 及乏
 
 『獻弓削皇子歌三首』の第二首である。
 一首の意は、妻の居る彼方《かなた》の空へ、澤山の雁どもが、夕霧のかかつてゐる中を鳴きながら來て、飛んで行つてしまつた。羨《うらやま》しいものである。自分と妻と離れてゐるのに、雁どもは妻のゐる方に行つたからかういふ言方をしたものである。
 この歌で、『茂《しげ》きかりがね』の語は注意すべく、『波音乃茂濱邊乎敷妙乃枕爾爲而《ナミノトノシゲキハマベヲシキタヘノマクラニナシテ》』(卷二。二二〇)はやはり人麿の作であり、『引放箭繁計久《ヒキハナツヤノシゲケク》』(同卷。一九九)も人麿の作である。トモシキマデニといふ結句も棄てがたく、『ひさかたの天漢原《あまのかはら》にぬえ鳥のうら歎《な》きましつ羨《とも》しきまでに』(卷十。一九九七)といふのがあり、なほ、『吉名張《よなばり》の猪養《ゐかひ》の山に伏す鹿の嬬呼ぶ聲を聞くがともしさ』(卷八。一五六一)。『武庫の浦を榜《こ》ぎ囘《た》む小舟粟島を背向に見つつともしき小舟』(卷三。三五八)等を參考とすべきである。
 此等の歌は弓別皇子に獻つたものでも、皇子を讃美する寓意などを含んでゐるのではなく、景(267)に即してその儘咏んだものを獻つたもののやうである。歌は取りたてていふ程のものでないが、手法も確かで、聲調もまた礙縮に陷つてゐない。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇三〕
  雲隱《くもがく》り鴈《かり》鳴《な》く時《とき》は秋山《あきやま》の黄葉《もみぢ》片待《かたま》つ時《とき》は過《す》ぎねど
  雲隱 鴈鳴時 秋山 黄葉片待 時者雖〔不〕過
 
 同第三首である。○雲隱 舊訓クモガクレ。童蒙抄クモガクル。略解クモガクリ。○雖過 舊訓缺。代匠記精スグレド(童蒙抄・考・古義同訓)。略解宣長訓、不を補つてスギネド。古寫本に、スグトモ(藍・壬・類・神)の訓がある。
 一首の意。雲にかくれて遠く雁の鳴くころになると、まだ季節ではないが、秋山の黄葉するのが待たれる。
 代匠記精に『鴈鳴時ノ長月ニ至テ、時ハ過レドモ、猶秋山ノ色付カネバ、黄葉ヲ片待テアルトナリ』と解し、考に、『黄葉をかたづにまつなり。片は借字正しくは方なり。さて今則秋の時なれ(268)ば、もみぢの遲きをいふなり』と云つたが、略解では、『宣長云、過の上、不の字を脱せり。スギネドと訓むべし。鴈の聲を聞けば、時は過ぎねども、紅葉を待つなりと言へり。過グレドとしては聞えぬ歌なり』と云つてゐるが、大體略解の説でいい。ただこの落字説はどうかといふのであるが、古寫本中にスギネド(西・細・温・矢・京)といふ訓を書いたのがあるから、無根據といふわけではない。
 『櫻ばな時は過ぎねど見る人の戀の盛と今し散るらむ』(卷十。一八五五)。『遲速《おそはや》も君をし待たむ向つ峯《を》の椎の小枝《さえだ》の時は過ぐとも』(卷十四。三四九三或本歌)の二例があり、いづれにも參考になるが、スグレドの訓では無理があるやうである。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇四〕
  うちたをり多武《たむ》の山霧《やまぎり》しげきかも細川《ほそかは》の瀬《せ》に波《なみ》の騷《さわ》げる
  ※[手偏+求]手折 多武山霧 茂鴨 細川瀬 波驟祁留
 
 〔題意〕 『獻|舍人皇子《とねりのみこ》歌二首』中の第一首である。
(269) 〔語釋〕 ○※[手偏+求]手折 ウチタヲリと訓む。ウチタヲル(舊訓)。ナカタヲル(代匠記)。ウチタヲリ(考)等の諸訓があり、現在の訓は考に從つてゐる。多武《たむ》に係る枕詞に使つてゐる。『打手折《うちたをり》撓《たわ》める』といふ意で續けてゐるのである。『タムハ廻ルト云詞ナレバ、此方彼方肱折テ山路ヲ廻ルト云意ニソヘタリ』(代匠記精)。『枝を折るには何にてもたわめて折るなれば、如v此續けたり。これらの續けがら上手の續けなり。たをる、たと受けたる詞の續きを甘心すべし』(童蒙抄)。『この※[手偏+求]は言《コト》おこすことば、手折はをれたわめるをいふ。卷十九に山の手乎里爾《タヲリニ》、垂仁紀に山多和《ヤマノタワ》などいへる即これにて、多武の山のたむを、たわむこころにとりてかくはつづけたるなり』(冠辭考)等に據つてその大體の意味が分かる。なほ、この『※[手偏+求]』の訓については、卷九(一六八三)を參照。○多武山霧 タムノヤマギリで、多武峯は大和國高市郡にある。そこに立つ霧といふことである。『たむの山は多武峯なり。大和國十市郡に有。齊明紀云。於2田身嶺《タムノタケニ》1冠(シムルニ)。以(ス)2周垣《メクレルカキヲ》1【田身(ハ)山(ノ)名此(ヲハ)云2太務(ト)1】』(代匠記初)。○茂鴨 シゲキカモと訓む。諸訓をあぐれば、シゲシカモ(類聚古集)。シゲキカモ(【其他寫本及寛永本】)。スゴキカモ(春滿)。フカキカモ(童蒙抄)。シゲミカモ(略解)等で、代匠記・考は舊訓に從ひ、古義・新考・新訓等は略解に從つたが、私は二たび舊訓に從つた。シゲミカモの方が疑問としては順當とおもふが、調子の上からシゲキカモに從つて見たのである。童蒙抄では、『印本諸抄物にはしげきと讀ませたれど、霧のしげきと云事有べきや。何とぞ別訓あるべし』と云つて如上(270)の訓をあげてゐるのである。○細川瀬 ホソカハノセニと訓む。細川は、『細川ハ多武峰ノ西ナリ』(代匠記精)とある如く、多武峰から出る谿流が西に向つて細川となつて、細川といふ村と南淵といふ村の間を過ぎて飛鳥川に注いでゐるのである(萬葉地理考)。細川村の前の冬野川が即ち細川に當るのである(萬葉大和志考)。かくの如く固有名詞だが、普通名詞にして、細い川と取つても味はれる歌である。○波驟祁留 ナミノサワゲルと訓む。舊訓ナミサワギケル。ナミサワギケリ(藍・類)。ナミサワギケル(【神・壬・古・細・矢・京】)。ナミノサワゲル(西・温・京の一訓)。ナミハサワゲル(考)等である。略解・古義・新考・新訓等皆ナミノサワゲルを採つてゐる。
 〔大意〕 一首は、多武峯に今や霧が繁《しげ》く立ちわたり、風も起つてゐるのか、多武峯から流れてくる細川の瀬に浪が立つて音が高いといふほどの歌で、前に抄した、『痛足河《あなしがは》河浪《かはなみ》たちぬ』云々の歌の如く、雲霧雨風と河浪との關係を歌つたものである。
 〔鑑賞〕 當時にあつては、かういふ種類の觀照乃至表現には餘程鋭敏でもあり興味もあつたと見えて、殆ど類型的となるまでに類似の歌があるのである。そして其等の歌は、類似してゐても皆相當にいい歌である。この歌なども何處か調子に緊張したところがあつて、黙つて萬葉を讀んで行けば、足をとどめて一顧すべき歌に屬してゐる。
 これも亦舍人皇子に獻じた歌なので、諸注釋書が背後に寓意を考へてゐる。『此歌上句ハ佞人(271)ナドノ、官ニ在テ君ノ明ヲクラマシテ恩光ヲ隔ルニ喩ヘ、下句ハソレニ依テ細民ノ所ヲ得ザルエオ喩フル歟』(代匠記精)といひ、古義も寓意説を踏襲して、『多武(ノ)山霧の潤のしただりあつまる如くに、皇子の御恩澤の普くしげき故に、細徴《ホソヤカナル》身の上にまで及びて、ほどほどになり出さわげるならむ、吾ひとりのこさるべき由なければ、いかで御心したまへかしとなるべし』と言つてゐる。前言のごとく寓意は實際はあるのかも知れぬが、現在の我等の鑑賞はそれを強調しない。
 考では、山霧をば霧雨ならむといひ、『高山には霧雨いといと強く里の大雨の如しと。さらば谷川などの細きは激《タギ》つべし』といひ、固有名詞の細川の因つて來る、細い川といふことを暗指してゐる。また略解も、『霧深く雨降をいふなるべし』として、寓意を云々してゐないのは穩當だとおもふ。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇五〕
  冬《ふゆ》ごもり春《はる》べを戀《こ》ひて殖《う》ゑし木《き》の實《み》になる時《とき》を片待《かたま》つ吾《われ》ぞ
  冬木成 春部戀而 殖木 實成時 片待吾等叙
 
(272)『獻舍人皇子歌二首』の第二首である。舍人皇子の傳は先に卷九(一六八三)の歌の條にのべた。
 一首の意は、〔冬木成〕春の來るのを待つて、その花をながめようと思つて植ゑた木が、今度は花が實になるのを待つて居りまする。といふので、この歌には寓意があるらしく、一身上の出世か何かのことらしい。
 結句の、『吾ぞ』といふやうな言方は、獻歌の場合でもいふのであらうか、よく分からない。『春べを戀ひて』といふ言方も特殊であるが、萬葉には、人麿の『夷の長道ゆ戀ひくれば』(卷三。二五五)をはじめ、『吾妹子が屋前《やど》の秋萩花よりは實になりてこそ戀ひまさりけれ』(卷七。一三六五)。『見まく欲り戀ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きて成らずかもあらむ』(同一。三六四)。『皆人の戀ふるみ吉野今日見れば諸《うべ》も戀ひけり山川清み』(同。一一三一)。『あしひきの山櫻花|日竝《けなら》べて斯く咲きたらばいと戀ひめやも』(卷八。一四二五)などの似た例のないことはない。
 カタマツといふ用法も、片寄り待つから、ひたすら、偏に待つといふ意になつたもので、『吾が舟は沖ゆな離《さか》り迎へ舟片待ちがてり浦ゆ榜ぎ會はむ』(卷七。一二〇〇)。『倉橋の山を高みか夜隱《よごもり》に出で來る月の片待ち難《がた》き』(卷九。一七六三)。『妹に逢ふ時片待つとひさかたの天漢原《あまのかはら》に月ぞ經にける』(卷十。二〇九三)。『うぐひすは今は鳴かむと片待てば霞たなびき月は經につつ』(卷十七。四〇三〇)。『梅の花咲き散る園にわれ行かむ君が使を片持ちがてら』(卷十八。四〇四一)等の例を(273)以て、その語感をも悟るべきであるが、現代にあつては旨く用ゐられるか奈何は既に疑問である。
 代匠記初稿本に、『これはさきにも此舍人皇子に獻ける哥に、わがかざすべき花さけるかもといひ、みわ山はいまだつぼめり君まちがてにとよめり、それとおなじ心の人の奉けるなるべし』。精撰本に、『皇子ノ御年モ壯ニ成給ハバ、繁キ木ノ如クナル御蔭ニ隱レムト待參ラス吾ナレバ、メグミニモラシ給フナトノ意ヲ喩フルナルベシ』と云つてゐる。
 この歌は六帖に入り、作者不明、第一句『冬なれば』、第四句『實になるまでに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇六〕
  ぬばたまの夜霧《よぎり》は立《た》ちぬ衣手《ころもで》を高屋《たかや》の上《うへ》に棚引《たなび》くまでに
  黒玉 夜霧立 衣手 高屋於 霏※[雨/微]麻天爾
 
 〔題意〕 『舍人皇子御歌一首』と題してゐる。即ち人麿歌集にあつて作者の明記されてゐる一つの作例である。舍人皇子《とねりのみこ》に就いては既に(一六八三)の評釋に於てのべた。
 〔語釋〕 ○夜霧立 ヨギリハタチヌと訓む。舊訓ヨキリハタチヌ。ヨルキリタチヌ(類・藍・壬)。(274)ヨルキリニタチヌ(神)。ヨキリハタチヌ(西・細・温・矢・京・代匠記・童蒙抄・新訓)。ヨギリゾタテル(略解・古義・新考)。即ち今の訓は舊訓に從つたのである。○衣手 コロモデヲと訓む。舊訓コロモデノとあつたのを、考でコロモデヲと訓み、爾來それに從ふものが多い。この『衣手を』は、『た』に係る枕詞として使つてゐる。『袖をたぐると續けしなるべし。具利《ぐり》の約|妓《ぎ》なれば、約めてたぎと云り。さてここは其|幾《き》を加《か》に通して、多加《たか》と續けたるは、例の冠辭のいひかけ也と見ゆ。偖是をころもでのと訓ては、次の語のことわりなければ、ころもでをと訓みつ』(考頭注)。『衣手ヲタクとかかれるなり。タクはかかぐる事なり』(新考)等の説がある。衣手ヲ、タク(カカグ)と續け得れば解は明快である。さすれば加行四段活用の將然形となるだらう。○高屋於 タカヤノウヘニと訓む。於をウヘと訓んだ例は、卷二(一六六)に、礒之於爾生流馬醉木乎《イソノウヘニオフルアシビヲ》。卷三(三九〇)に、鴨尚爾玉藻乃於丹獨宿名久二《カモスラニタマモノウヘニヒトリネナクニ》。その他用例が多い。古來高屋を地名とし、或は大和十市郡(代匠記精)とし、或は河内古市郡(考)とし、或は大和城上郡(略解・古義)としてゐるが、吉田氏の地名辭書は大和磯城郡櫻井村大字谷だらうと云つたのに對し、澤瀉氏は大和磯城郡阿部村高家だらうといふ説を出してゐる。以上は地名説であるが、井上氏の新考では、『地名にはあらで高殿の事ならむ。さて一首の趣は殿の内にてよみ給ひしにはあらで、外より殿を仰ぎてよみ給ひしなるべし』といふ説を出してゐる。私も高屋といふ處のある事を知らなかつた時には高殿として(275)解してゐたのであつたが、參考書を見ると、地名としてあるので、さすればさういふ高臺の地を聯想していいと思ふやうになつた。○霏※[雨/微]麻天爾 タナビクマデニと訓む。※[雨/微]は神田本には霧になつて居る。霧と靄が夜になつて棚引いた光景である。『今俗、もやといふものをよみ給へるなるべし』(略解)といつてゐる。
 〔大意〕 この御歌は外にゐて咏まれたものでも内にゐて咏まれたものでもいいが、光景が廣いと解するから、外にゐて咏まれたと解していい。高い土地に位置を占めてゐる向うの高屋の地に、夜が更くるに從つて霧靄が立つて、あの高屋のあたりに棚引いた。といふのである。
 〔鑑賞〕 御歌で見ると、靄が懸かつて來て、いつの間にか棚引いたのであるが、それを棚引くまでに夜霧は立ちぬと云つたのである。この御歌の場合は、第三句はやはりヨギリゾタテルでは強過ぎて具合が惡い。素直にヨギリハタチヌといふところで、これは佳い訓である。夜ふけて、高屋の土地一帶に靄の棚引いて居る光景を聯想した方が、高殿《たかどの》の上《うへ》に棚引くと限局せしめるよりも、歌柄がよくなるやうである。そしてこの一首も萬葉集を讀みつつ來ればやはり一瞥して過ぎねばならぬいいところのある御歌である。素直で伸び伸びとして品の高いところがある。
 この御歌は右の如く、敍景の歌として味ふべきだが、古來寓意説もあつた。『此御歌モ亦、讒佞ノ臣アリテ、君ノ明智ヲ掩フ番ヲ惡ミテヨマセタマヘル歟トオボシクヤ』(代匠記精)といふたぐ(276)ひである。また寓意でなくとも、『いかでこのいぶせき霧の、夜の間に清く晴ゆきて、あけむ朝は明らけき空になれかしとの御心なるべし』(古義)とまで詮議するのであるが、當時の人は、さ霧はさ霧としてその儘受納れられたのではなかつただらうか。つまりさ霧をも賞し給うたのではなかつただらうか。さう思へるのである。
 この御歌は六帖に入り、作者不明、第二三句『よるよる絶えぬころもでの』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇七〕
  山城《やましろ》の久世《くぜ》の鷺坂《さぎさか》神代《かみよ》より春《はる》は張《は》りつつ秋《あき》は散《ち》りけり
  山代 久世乃鷺坂 自神代 春者張乍 秋者散來
 
 『鷺坂作歌一首』といふ題がある。
 一首の意は、山城の久世《くぜ》の鷺坂山《さぎさかやま》は、神の御代から、春になれば木の芽が萌え張り、秋になればそれが黄葉して散つた、といふのである。
 前にもあつたやうに、鷺坂は往還に當るし、神社もあり、人の目につくので、かういふ讃美的(277)な歌も殘つてゐるのである。代匠記に、『神代ヨリト云ハ、山ヲホムル意アリ』と云つて居る。
 木の芽の萌えることをハルといふのは『うらもなく我が行く道に青柳《あをやぎ》の張りて〔三字右○〕立てればもの思《も》ひ出《づ・で》つも』(卷十四。三四四三)といふ例でも分かるが、後世になると多くなつた。『霞たち木の芽もはるの〔三字右○〕雪ふれば花なき里も花ぞ散りける』(古今。貫之)。『このめはる〔二字右○〕春の山田を打返し思ひやみにし人ぞこひしき』(後撰)。『おしなべて木の芽もはるの〔三字右○〕淺緑松にぞ千世の色はこもれる』(新古今)等の例がある。
 『春は張りつつ秋は散りけり』といふやうな分かり易い素朴なのは、萬葉にも割合に尠い。この歌が新勅撰集卷十九に、『山城のくぜの鷺坂神代より春はもえつつ秋はちりけり』(題不知、讀人不知しとして載せられたのは、分かり易いからであつただらう。また、かういふケリに似た例は、『咲く花はうつろふ時ありあしひきの山菅の根し長くはありけり〔四字右○〕』(卷二十。四四八四)。『不盡《ふじ》の嶺《ね》に零《ふ》り置ける雪は六月《みなづき》の十五日《もち》に消《け》ぬればその夜《よ》降りけり〔四字右○〕』(卷三。三二〇)。『あをによし奈良の大路は行きよけどこの山道は行き惡《あ》しかりけり〔四字右○〕』(卷十五。三七二八)。『待ちがてに吾がする月は妹が著る三笠の山に隱《こも》りてありけり〔四字右○〕』(卷六。九八七〕などである。
 
          ○
 
(278)  〔卷九・一七〇八〕
  春草《はるくさ》を馬咋山《うまくひやま》ゆ越《こ》え來《く》なる鴈《かり》の使《つかひ》は宿《やどり》過《す》ぐなり
  春草 馬咋山自 越來奈洗 鴈使者 宿過奈利
 
 〔題意〕 『泉河邊作歌一首』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○春草 ハルクサヲと訓む。枕詞で、『馬咋山』にかかつてゐる。冠辭考に、『こは咋《クヒ》山てふ山を、馬くひといひかけしなるべし。楢《ナラ》山を舊衣著《フルコロモキ》ならの山、振山を袖ふる山などいひ下せし類ひなり。【中略】咋山は、神名式に、山城國綴喜郡に咋岡《クヒヲカノ》神社と有に同じ處歟』とある如く、現在綴喜郡草内村飯岡で、木津川の西の方にある丘陵である。『奈良鐵道の玉水驛と奈良電車の三山木驛との中間、木津川の西方に見える丘、その麓にこの咋岡神社が祀られてゐる』(鴻巣、全釋)。○馬咋山自 ウマクヒヤマユと訓む。舊訓ウマクヒヤマヲ。代匠記初書入ウマハミヤマユ。代匠記精ウマクヒヤマユ。『自ハユト讀ベシ。從ノ字ヲヲトヨメル例ハアレド、此字ハイマダ例ヲ見ズ』(代匠記精)。童蒙抄マクヒヤマヨリ。考マクヒノヤマユ。古義ウマクヒヤマヨ(新訓同訓)。○鴈使者 カリノツカヒハと訓む。『鴈ノ使は、蘇武が故事より言ひ馴れて、唯だ鴈を言へり』(略解)。○宿過奈利 ヤドリスグナリと訓む。舊訓ヤドスギヌナリ(代匠記・考同訓)。童蒙抄ヤドリ(279)スグナリ(略解・古義・新訓同訓)。新考ヤドヲスグナリ。
 〔大意〕 〔春草馬《はるくさをうま》〕咋山《くひやま》の方から飛越えてくる鴈は、私の旅宿《たびのやどり》のうへを行き過ぎる。家郷からの音信をも傳へずに空しく飛び去つてしまふといふ意がある。
 〔鑑賞〕 この歌は、『鴈の使』を用ゐたのは、當時にあつては稍新趣味であつたのかも知れぬが、取りたてていふ程の歌ではない。ただ枕詞を使つたりして、單純に素朴に歌つてゐて、弛《たる》まないところを學ぶべきである。『あしひきの山飛び越ゆる雁がねは都に行かば妹に逢ひて來ね』(卷十五。三六八七)といふ歌があり、『天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都に言《こと》告《つ》げ遣《や》らむ』(卷十五。三六七六)といふ歌がある。この第二の歌は、拾遺集には、『もろこしにて、柿本人麿。あまとぶや雁の使にいつしかも奈良の都に言傳てやらむ』といふ歌になつて居る。
 ヤドリは旅宿のことで、やはり人麿作に、『草枕旅の宿《やどり》に誰が夫か國忘れたる家待たなくに』(卷三。四二六)といふのがあつた。そのほか、『見れど飽かぬまりふの浦に也杼里《ヤドリ》せましを』(卷十五。三六三〇)。『東路の手兒の呼坂《よびさか》越えかねて山にか宿《ね》むも夜杼里波奈之爾《ヤドリハナシニ》』(卷十四。三四四二)。『みかの原|客之屋取爾《タビノヤドリニ》たまほこの道のゆきあひに』(卷四。五四六)等の例を參考せよ。
 此歌は、六帖に人まろとして載り、第二三句『馬くひ山を越えてくる』となつてゐる。馬咋山(280)は八雲御抄に、マクヒノヤマとある。
 
          ○
 
  〔卷九・一七〇九〕
  御食向《みけむか》ふ南淵山《みなぶちやま》の巖《いはほ》には落《ふ》れる斑雪《はだれ》か消《き》え殘《のこ》りたる
  御食向 南淵山之 巖者 落波太列可 削遺有
 
 〔題意〕 『獻2弓削皇子歌1首』といふ題があり、『右柿本朝臣人麻呂之歌集所出』といふ左注がある。この左注を、『獻忍壁皇子歌一首』(一六八二)以下の二十八首を指すものとして、評釋して來たのである。弓削皇子に就いては既に(一七〇一)の歌に於て述べた如くであつて、文武天皇の三年七月に薨ぜられてゐるから、この歌はそれ以前の作だと考へられる。どういふ場合に獻じたものか、その想像等は鑑賞の部に見えてゐる。
 〔語釋〕 ○御食向 ミケムカフと訓む。この歌の場合はミナに係つた枕詞であるが、集中の例では、『御食《みけ》向ふ木〓《きのへ》の宮を常宮と定め給ひて』(卷二。一九六)。『御食向《みけむか》ふ淡路《あはぢ》の島に直向《ただむか》ふ』(卷六。九四六)。『御食向ふ味原《あぢふ》の宮は見れど飽かぬかも』〔卷六。一〇六二)。それにこの歌の、『御食(281)向ふ南淵山の』等であるが、その解釋に就いては冠辭考に委しい。今それを略記すれば次の如くになる。第一の説は、御食《みけ》の机に向ふが如く直ちに前に向かはるる地《ところ》を云ふ。代匠記の説は即ちそれで、食《しよく》に向ふ如く眞近《まぢか》に打向ひて見渡すところで、特定の枕詞では無いといふ意見である。第二の説は、御食に供《そなふ》る物の名に一般に冠らせた詞で、前の歌の例では、木〓《きのへ》は酒之〓《きのへ》、淡路《あはぢ》の淡《あは》は粟、味原《あぢふ》は惣じて美味《うましもの》の名で味鴨《あぢがも》、味魚《あぢうを》などの贄《にへ》の意、南淵は蜷貝《みながひ》か或は眞魚《まな》かである。そして眞淵は、『吾友だち多くは此かたによりぬ』と注して居る。そして此第二の説は春滿系統の學説である。即ち、『みな食物《をしもの》の冠辭と見ゆる也』『みな食物《をしもの》なれば廣くわたりて四首の歌につかゆる所なき也』『みなは御魚《みな》と受たる義なるべし。諸抄の説は眞向ふことに注せり。食物の膳に向ふ如く、相對し向ふ義に釋せり。當流には不2信用1也』(童蒙抄)といふのを見れば分かる。つまり御食向《みけむかふ》といふ枕詞は食物に冠するものだといふのが有力である。古義もその説を納れて居るが、南淵の場合はミの一音に係り、ミは肉《ミ》の意だとしてゐる。併し此處はやはり御魚《みな》か或は蜷貝《みな》と解釋していいとおもふ。南淵は蜷《みな》の多いところで、ミナブチの名もそれに本づくといふ説もあるぐらゐである。このミケムカフといふ語は音調がいいので、言語の音感に鋭敏な者に用ゐられたものと考へていい。そして當時にあつても、意味の方は背後に後退してゐて音感が主だつたと解して差支ない。即ち御食向ふ淡路といへば淡路が先きに意識に再現されて來る。御食向ふ味原宮と(282)いへばその宮殿が先づ意識に再現されて來る。同樣に御食向ふ南淵山といへば南淵山が視覺的に再現されて來て、御魚或は蜷貝などの味覺などは後方の方にかすかに殘留して居るに過ぎず、歌を味ふうちにその氣轉の利いた點を納得するぐらゐなものである。○南淵山之 ミナブチヤマノで、南淵山は大和高市郡で、今の高市村字冬野から字稻淵にかけた山で飛鳥川はその南淵山から出てゐるのである。皇極天皇紀に、『天皇幸南淵河上跪拜四方』。天武天皇紀に、『勅禁南淵山細川山並莫芻薪』とある山である。○落波太列可・削遺有 古寫本及寛永本の訓は、チルナミタレカ・ケヅリノコセル【散る波誰か削り殘せる】と訓んだ。代匠記もそれに從つたが、考に至つて『削』は『消』の誤寫だとなし、フレルハダレカ・キエノコリタル【降れる斑雪か消え殘りたる】と訓んだ。もつとも考には、『こは橘の千蔭が考也』とことわつてあり、宣長に答へた、萬葉葉卷丸疑條にも、『吾門に橘千蔭といふ人の末を、ふれるはだれか、消のこりたると、訓みしぞよくかなへり』とあるから、そこで略解も無論さう訓み、古義・新考・鑑賞及び其批評等皆それに從つたが、武田博士及新訓は、チリシハダレカと訓んだ。私も眞淵の訓に從ふもので、チリシでは歌が小さくなるし、また、『落』をフルと訓ずる例は萬葉にも幾つかあるからである。例へば、『庭も斑《はだ》らにみ雪落有《フリタリ》』(卷十。二三一八)。『天霧し落來《フリタル》雪の消ぬべく思ほゆ』(卷十。二三四二)。『とのぐもり雨は落來奴《フリキヌ》』(卷十三。三二六八)。『時じくぞ雪者落家留《ユキハフリケル》』(卷三。三一七)。『時なくぞ雪者落家留《ユキハフリケル》』(卷一。二五)。『零雪者安幡爾勿落《フルユキハアハニナフリソ》』(283)(卷二。二〇三)等の用例があるのだから、どちらでもいい場合には、フレルハダレカと訓む方がよく、眞淵は、『今本消を削に誤て末の句を、ちるなみたれかけづりのこせると訓しはわらふべし。よて字を改、訓を改む』と云つてゐるのはその語調によつて稍得意であつたことがわかる。なほ萬葉集訓義辨證には、『此歌舊訓はいたく誤れり、略解にかくよめるに從ふべし、但し注に削は消の字の誤なる事しるし云々、南淵山の花を見てよめるなるべしといへるはわろし、こは殘雪を見てよめるなり、但しはだれはいささか降たる雪をいへることにて、歌の意は降れるはだれか、又は消のこりたる雪かと、疑ひたるなり、さて削(ノ)字はいづれの本も同じくて、消とかける本はあることなし、故(レ)按ふに、古へ削消通じ用ゐしならん、其は易の剥(ノ)注に、剥(ハ)猶v削也とある、釋文に、削(ハ)相略反或(ハ)作v消、此從2荀本1也、下皆然、とみえ、釋名釋言語に、消(ハ)削也、言(ハ)減削也、ともあればなり』とある。
 〔大意〕 一首の意は、南淵山の巖を今見ると白くなつて雪が殘つてゐる。多分近く降つた春の斑雪が消え殘つてゐるのであらうか。靜嚴の景色ではないかといふ意を籠めて居り、南淵山に御食《みけ》向ふといふ枕詞を使ひたかつた氣持も無論あるわけである。かういふ靜かな風景の歌を、風景の歌として骨折つて咏んで皇子に獻じて居るのであらう。
 〔鑑賞〕 この歌は、しつとりと落着いて重厚で單純であるから、清嚴とも謂ふべき一首の姿で、(284)また象徴的とも謂ふべき一つの態を持つてゐる歌である。そして第一聲調のひびきがいい。巖《いはほ》にはの『には』と云つて、降れる斑雪かの『か』と息を休めて、結句、『のこりたる』で止めた具合のその諧調音を味ふべきである。これ凡手の決して能ふところではない。それから白き殘雪を見て、『降《ふ》れる斑雪《はだれ》か消え殘りたる』と素朴に云つたこの高古單純な感慨に至つては愈凡手の企て及ぶところではないから、これは人麿自身の作と想像していいものであらう。なほ、萬葉には殘雪の歌が幾つかあり、前に引いた、『妹が門《かど》入り泉河《いづみがは》の常滑《とこなめ》にみ雪のこれりいまだ冬かも』(卷九。一六九五) もさうだし、『あしひきの山に白きは我が屋戸《やど》に昨日の暮《ゆふべ》ふりし雪かも』(卷十。二三二四)なども殘雪ではないが、似通つてゐるし、そのほか譬喩の歌なども交つてゐるが、『瞿麥《なでしこ》は秋咲くものを君が家の雪の巖《いはほ》に咲けりけるかも』(卷十九。四二三一)。『高山の巖《いはほ》に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪』(卷二十。四四五四)などにも氣持の通《かよ》つたところがあり、この歌を殘雪に觀入して歌つたものと解釋しても毫も不思議で無いものである。
 然るにこの歌を從來變な具合に解してゐた。例へば代匠記初稿本では、『南淵山は、すでに飛騨の工《タクミ》がけづりなせるごとくなるに、いづくに足らぬ所ありて、巖にちりかかる波の、柿《コケラ》と見ゆるならんとの心にや。山海經曰。太華之山削(リ)成而四方其高(コト)五千仞。左太沖(カ)魏都(ノ)賦(ニ)日。擬(ス)2華山(ノ)之削(リ)成《ナセルニ》1。これをふみて、けづるとはいへるなるべし。そのうへ、皇子の御名の弓削は、弓をけづるな(285)ば、それによせて、ことばの泉のわきながるるごとくなるを、ちるなみにたとへて、ほめ奉るにこそ』と云つてゐる。それから、略解では、『さて、はだれかと云へるを思へば、南淵山の花を見てよめるなるべし』と云つてゐる。眞淵の改訓は千蔭の創見として眞淵が喜んで明記し、眞淵は殘雪の歌として解してゐるらしいのに、千蔭自身は南淵山の落花の歌としてゐるのはをかしい。そして井上氏の新考がやはり略解の説を踏襲してゐるのである。なほ古義では、『歌意は、南淵山の石秀《イハホ》には、去冬ふれる雪のはだれの、春まで消遺りたるならむかとなり。これは浪の白く散を、雪と見なしてよめる表の意なり。さてこれも、弓削(ノ)皇子に獻れる歌なれば、下心あるべし。普き春日の光にもれし地もなしと見ゆるに、なほ南淵山の巖にのみは、去冬の雪のそのまま遺れりと見ゆるは、いかなるゆゑならむと、皇子の御恩光にもれしを、訴るやうによみて獻れるにや。さてこの作者、南淵氏の人などにてありしにや』云々と云つてゐる。折角殘雪の歌として解したかと思ふと、白浪を雪と見なして咏んだと云つたり、下心あるべしと云つたりするのは、どういふつもりか知らん。それからこの一首の何處に落花のことなどがあるのか、覺束ない次第である。なるほど萬葉には、『吾が園の李《すもも》の花か庭に落《ち》るはだれのいまだ殘りたるかも』(卷十九。四一四〇)といふ歌があるが、この歌には李花の散つてゐるといふことを明かに云つてゐるので、同一の筆法で解釋することは出來ないのである。
(286) 島木赤彦が、この歌を評して、『作者が明日香より遠く南淵山を望み見て、そこに消え殘れる淡雪の光を寂しみつつ詠んだのであつて、特に、巖を捉へたる所、寫生の機微に入れる心地がし、古き南畫の秀品に接する如き感がある』(鍵賞及び其批評)と褒めてゐるが、大正十四年の比叡山アララギ安居會で赤彦がこの歌を講じ、長らく萬葉から遠ざかつてゐた私の如きも、ために醒覺した如き思がしたのである。越えて昭和五年八月高野山アララギ安居會の歸途に中村憲吉・森山汀川の二君と大和に來、飛鳥に一泊し翌日この南淵山を見に行つた。さうして見れば、この歌は赤彦の考へてゐるのよりももつと近くに見て咏んだものの如くであつた。いづれにしても此歌を注意するやうになつたのは赤彦の賜物である。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二〇〕
  馬《うま》竝《な》めてうち群《む》れ越《こ》え來《き》今《いま》見《み》つる芳野《よしぬ》の川《かは》をいつ反《かへ》り見《み》む
  馬屯而 打集越來 今見鶴 芳野之川乎 何時將顧
 
 『元仁歌三首』といふ題がある。作者は僧侶の如き名であるが、不明である。『こは名なるにや。(287)さらば法師か』(考)『作者考へ難し。元仁は名と聞ゆる也』(童蒙抄)。即ち、人麿でない他人の名の明記されて居る例が此處にもあるのである。そして芳野川のことが歌つてあり、その數首前にも、芳野離宮行幸時の歌などがあり、何か人麿と關係のある人物のやうにもおもへるが、全く想像以外證據が無い。後に、(一七二五)の『麻呂歌一首』の左注に、『右柿本朝臣人麻呂之歌集出』とあり、この『元仁歌三首』以下の六首を指したものとされてゐる。
 一首の意は、馬を並べて、多勢打群れ、山を越えて來て、いま見且つ遊んだこの芳野川の佳景を、何時二たび來て見ることであらうか。
 ○馬屯而 舊訓ウマナベテ。童蒙抄コマナベテ。考ウマナメテ(略解以下同訓)。○今見鶴 流布本は『今日見鶴』になつてゐるが、古寫本中(【壬・類・古・神・温・矢・京】)には日が無いのに據つて改めた。
 ウマナメテは、『馬なめて御獵たたしし時は來向ふ』(卷一。四九)といふ人麿の歌もあり、この歌は左程のものではないが、無理がなく確實な點を認めねばならぬ。そしてこの元仁といふものの歌一聯が人麿歌集の中に入り込んでゐるところを見ると、此等の歌も亦人麿の手が幾分入つて居るのではないかとも想像し得るのである。
 さういふ點で、『瀧の上の三船の山ゆ秋津邊《あきつべ》に來鳴きわたるは誰喚子鳥《たれよぶこどり》』(卷九。一七一三)。『落ち激《たぎ》ち流るる水の磐《いは》に觸り淀める淀に月の影見ゆ』(同。一七一四)の二首が、作者不詳になつてゐ(288)て、歌柄がよく、確實な點から推して、これなどもひよつとすると、人麿の息吹のかかつた、供奉の誰かの歌で、その名が消えてしまつたのではないかなどともおもはしめるのである。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二一〕
  苦《くる》しくも晩《く》れぬる日《ひ》かも吉野川《よしぬがは》清《きよ》き河原《かはら》を見《み》れど飽《あ》かなくに
  辛苦 晩去日鴨 吉野川 清河原乎 雖見不飽君
 
 『元仁歌三首』中の第二首である。○辛苦・晩去日鴨 クルシクモ・クレヌルヒカモと訓む。舊訓クルシクモ・クレユクヒカモ。童蒙抄アマナクモ。略解の一訓カラクモ。古義クルシクモ・クレヌルヒカモ。古寫本中ワビシクモ・クレヌルヒカモ(類)。ワビシクモ・クレユクヒカモ(壬・古)。
 一首の意は、芳野川の清い河原の佳境をいまだ見飽かず、去り難いのに、はやくも日が暮れるとは何とも心ぐるしい、殘念なことであるといふぐらゐの意であらう。
 このクルシも種々の語感に使つてゐるが、『鴨頭草《つきくさ》に衣《ころも》色どり摺らめどもうつろふ色といふが(289)苦沙《くるしさ》』(卷七。一三三九)。『夢の逢《あひ》は苦有家里《くるしかりけり》覺《おどろ》きてかき探れども手にも觸れねば』(卷四。七四一)などもやはり、殘念であるといふ意味があつて共通である。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二二〕
  吉野川《よしぬがは》河浪《かはなみ》高《たか》み瀧《たぎ》の浦《うら》を見《み》ずかなりなむ戀《こほ》しけまくに
  吉野川 河浪高見 多寸能浦乎 不視歟成甞 戀布眞國
 
 『元仁歌三首』中の第三首である。○多寸能浦乎 タギノウラヲと訓む。即ち、瀧(激)川の浦を、瀧川の岸をといふ意になる。『多寸能浦ハ瀧ノ浦ナリ。瀧ノ當リノ入江ノヤウナル處ナリ。字書ニ浦ノ字ヲ釋シテ大川(ノ)旁(ノ)曲渚ト云ヘルニテ意得ベシ』(代匠記精)とあるによつて大體推し得べく、卷九(一七三五)に、吾疊三重乃河原之礒裏爾《ワガダタミミヘノカハラノイソノウラニ》。卷五(八六三)に、麻都良河波多麻斯麻能有良爾和可由都流《マツラガハタマシマノウラニワカユツル》とあるによつて類推し得る。○戀布眞國 コホシケマクニと訓む。舊訓コヒシキマクニ。考コヒシケマクニ。古義コホシケマクニ。この眞國をば代匠記では名詞として、『眞國ハ眞ハ褒美ノ詞、國ハ吉野國トヨメル國ナリ』などと云つたが、考に、『眞久《マク》約|牟《ム》にて、戀しけんに(290)なり』といひ、古義に、『戀しからむことなるをの意なり』と云つた。卷三(三一一)に、鏡山不見久有者戀敷牟鴨《カガミヤマミズヒサナラバコヒシケムカモ》。卷四(七四五)に、吾妹之雖見如不見由戀四家武《ワギモコガミレドミヌゴトナホコヒシケム》。卷十七(三九九五)に、見奴日佐麻禰美孤悲思家武可母《ミヌヒサマネミコヒシケムカモ》。卷二十(四四一九)に、都久之爾伊多里※[氏/一]古布志氣毛波母《ツクシニイタリテコフシケモハモ》。卷五(八三四)に、毛毛等利能己惠能古保志枳波流岐多流良斯《モモトリノコエノコホシキハルキタルラシ》等の例がある。
 一首は、今日は吉野川の川浪高くして、舟を出すことが出來ず、景色の佳い彼の瀧の浦をも、もはや見ることが出來ないで此處を去つてしまふのであらう。物戀しく心が牽かれてならないのに。といふ意である。
 前にも云つたとほり、句々が割合に緊張してゐて確かなところがある。結句の、コホシケマクニなども堅く強い音だが、そのために却つて結句としての役目を果してゐるといふことにもなるのである。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二三〕
  河蝦《かはづ》鳴《な》く六田《むつだ》の河《かは》の川楊《かはやぎ》のねもころ見《み》れど飽《あ》かぬ河《かは》かも
  河蝦鳴 六田乃河之 川楊乃 根毛居侶雖見 不飽河鴨
 
(291) 『絹歌一首』といふ題がある。絹といふのは恐らく女の名であらう。そして、代匠記初稿本に、『親王大臣などの御供にてかくはよせてよめるなるべし』とあるのが參考になるやうである。
 六田《むつだ》の河《かは》は、吉野川の六田《むつだ》附近である。『音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野河|六田《むつだ》の淀を今日見つるかも』(卷七。一一〇五)といふ歌がある。『川楊《かはやぎ》の』までは、『根』と『ねもころ』と同音だから、序詞として續けたものである。然かもその序詞は同じ河で材料を取つてゐるのだから、意味のある序詞である。結句は、流布本、『不飽君鴨』であるが、古寫本(壬・類・古・神)には『君』が『河』になつて居り、(京)も赭く河イと書いてあるから、さう改めた。
 一首は、吉野川の六田《むつだ》のあたりには河蝦《かはづ》も鳴き川楊《かはやぎ》も萌えてゐる。その川楊の根にかよふねもごろに見ても、丁寧に、しみじみ見ても、飽くことを知らない住い河である、この吉野の六田の河は。といふぐらゐの意である。
 ネモコロは種々に使はれて居り、戀ふ、念ふなどに續けるほかに、この歌のやうに、見るに續けたのもあり、結ぶといふやうな行爲に續けたのもあり、天然現象の雪の降るなどに續けたのもある。卷十一(二四七三)に、菅根惻隱君結爲《スガノネノネモコロキミガムスビテシ》。同卷(二四七二)に、三室山石穗菅惻隱吾片念爲《ミムロノヤマノイハホスゲネモコロワレハカタモヒゾスル》。同卷(二七五八)に、菅根之懃妹爾戀西《スガノネノネモコロイモニコフルニシ》。卷七(一三二四)に、葦根之懃念而結義之《アシノネノネモコロモヒテムスビテシ》。卷四(五八〇)に、菅根乃懃見卷欲君可聞《スカノネノネモコロミマクホシキキミカモ》。卷二十(四四五四)に、須我乃根能禰母許呂其呂爾布里於久白雪《スガノネノネモコロゴロニフリオクシラユキ》。(292)卷十二(二八五七)に、菅根之惻隱惻隱照日乾哉吾袖於妹不相爲《スガノネノネモコロゴロニテルヒニモヒズヤワガソデイモニアハズシテ》等がある。
 この歌が、御伴をした女の歌で、それが人麿歌集に載つた由縁をおもふと、或はこれも人麿の手が幾分入つてゐるのではなからうかなどと想像するに至るのである。
 この歌は、作者不明で六帖に入り、第三句以下『河柳ねむごろ見れどあかぬ君かな』となつてゐる。また夫木和歌抄には、人丸作とし、『むつたの淀の河やなぎねもころ見れどあかぬ君かも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二四〕
  見《み》まく欲《ほ》り來《こ》しくもしるく吉野川《よしぬがは》音《おと》の清《さや》けさ見《み》るにともしき
  欲見 來之久毛知久 吉野川 音清左 見二友敷
 
 『島足歌一首』といふ題がある。これも不明だが御供につらなつた男の名であらう。○欲見 ミマクホリと訓む。舊訓ミマクホリ。古寫本中ミマホシク(古・壬・類)。ミマクホリ(西・温・矢・京)。ミマホシミ(細)。六帖ミマホシミ。代匠記精では、『發句ハ今ノ點ヨシ』と舊訓を認めてゐ(293)る。○來之久毛知久 コシクモシルクと訓む。舊訓コシクモシラク。代匠記精に六帖及幽齋本を肯定してコシクモシルク。古寫本中コシクモシルク(【壬・類・古・西・細・温】)。來《こ》しくも著《しる》く、來し甲斐ありて、案にたがはずなどの意がある。『秋の野の草花《をばな》が末《うれ》をおしなべて來《こ》しくもしるく逢へる君かも』(【卷八。一五七七。阿部蟲麻呂】)。『天漢《あまのがは》渡瀬ごとに思ひつつ來しくもしるし逢へらく念へば』(卷十。二〇七四)などの例がある。
 一首は、見たい見たいと思つて來たのだが、さて來て見ると、誠に來た甲斐があつて、音の清い佳い吉野川である。實に愛すべきところである。といふほどの意である。
 結句の『見二友敷《ミルニトモシキ》』は舊訓ミルニトモシキ。古寫本中ミルニトモシク(古)。代匠記精でミルニトモシクを肯定したが、考・略解・古義等はミルニトモシキに從つてゐる。聲調の常識から行くと、第四句で切つてあるから、結句で切らずに上にかへる句法にすべく、從つてトモシクと訓むことになるのであらうが、人麿などにも、第四句で切つて、結句で切る例があり、『をち野に過ぎぬ。またも逢はめやも』(卷二。一九五)の如くに却つて感慨をこもらせ得る效果の場合もあるのだから、この歌の場合は舊訓に從ふこととした。トモシキは連體形であるが、かくの如く係りがなくて連體形で止めた萬葉の例としては、天地與相左可延牟等大宮乎都可倍麻都禮婆貴久宇禮之伎《アメツチトアヒサカエムトオホミヤヲツカヘマツレバタフトクウレシキ》(卷十九。四二七三)の如きがある。ただトモシキと止めた例の無いのが稍具合が惡い。(294)『さざれ波磯巨勢道なる能登湍河《のとせがは》音のさやけさたぎつ瀬ごとに』(卷三。三一四)。『大王《おほきみ》の三笠《みかさ》の山の帶にせる細谷川《ほそたにがは》の音の清《さや》けさ』(卷七。一一〇二)。『葉根※[草冠/縵]《はねかづら》いま爲《す》る妹をうら若《わか》みいざ率川《いざかは》の音の清《さや》けさ』(卷七。一一一二)などがある。第一の例に從ふと、第四句で切つて、結句では切らぬ句法になつてゐる。
 此歌、六帖に作者不明、『見まほしみ來しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしく』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七二五〕
  古《いにしへ》の賢《さか》しき人《ひと》の遊《あそ》びけむ吉野《よしぬ》の川原《かはら》見《み》れど飽《あ》かぬかも
  古之 賢人之 遊兼 吉野川原 雖見不飽鴨
 
 『麻呂歌一首』といふ題がある。麻呂は男の名であらうが、誰であるか不明である。或は右の一聯は皆吉野川の歌であるから、一處にして考察すべきものだとすると、これも或は人麿と關係があるのかも知れない。現に、この『麻呂』は、『人麻呂』だらうと考へて居る學者も居る。併し代(295)匠記精では、左注の『右柿本朝臣人麻呂之歌集出』につき、『右柿本朝臣人麻呂之歌集出。此ハ人丸歌集ニ他人ノ歌ヲ載タル證ナリ』と云つて居る。この左注の『右』は(一七二〇)以下の六首を指すと考へることは既に述べた。
 ○賢人之 サカシキヒトノと訓む。舊訓サカシキヒトノ。古寫本中カシコキヒトノ(壬・古・西・細)と訓んだのもあり、管見でカシコキを採つたが(略解同訓)、代匠記・考・古義等は皆サカシキの訓に從つた。この賢人《さかしきひと》は、『いにしへの七《なな》の賢《さか》しき人等も欲りせしものは酒にしあるらし』(卷三。三四〇)といふ大伴旅人の酒を讃ずる歌があつて、これは支那の賢人の事であるが、此處の『賢人』は、前代の天皇・親王等を指し奉つたものと大體考へていいであらう。それだから、『み吉野の耳我《みみが》の嶺《みね》に時なくぞ雪は降りける』(卷一。二五)や、『淑人《よきひと》のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見つ』(二七)などいふ天武天皇の御製なども考の中に入るべく、縱ひ天武天皇の八年己卯五月庚辰朔甲申幸2于吉野宮1はただの御遊覽でなく、天神地祇に盟はれた行幸であつたにせよ、後からいへば遊びでかまはない。また持統天皇になれば多く三十餘度も遊ばれ離宮のあつたことは既に評釋したごとくである。それから、それ以前、應神・雄略・齊明の諸帝も吉野に行幸あつたのだから、さういふ御事柄を統べて、『いにしへの賢《さか》しき人』と云つたものと看做していい。童蒙抄に、『吉野は上代より明君賢臣の住みもし給ひ、遊びもし給ふ萬國に勝(296)て佳景勝地と云傳へたる如く、既に此時分の歌にもかく詠置たり』と云つてゐるのはその通りである。井上博士の新考に、『さてそのサカシキ人とは誰ぞ。おそらくは史上の人にはあらで當時外來思想に基づきて起りたりし傳説の中の半仙的人物ならむ』と云つてゐるのは、懐風藻あたりの詩句から暗指を得た説ともおもふが、今は從はない。
 一首は、古への明君賢臣等がたびたび遊ばれたといふこの吉野の川原に來て覽ればこの佳い景色は幾ら居つても飽きるといふことがない。といふ意味である。
 毫も澁滞せず、ずばずばと言ひあらはし、單純明快のうちに、相當の重量感を保持してゐる點に注意すべきである。『見れど飽かぬかも』といふ結句も、上卷に類歌を抄記(三七八頁)〔二七番三七二頁〕したごとく萬葉に用例が可なりあり、萬葉調として現代まで滅びずに居るものであるが、その愛すべき特色はこの歌の場合に於てもまた味ふことが出來る。
 此歌、六帖に作者不明、『いにしへのかしこきひとの遊びけむ吉野の川は見れど飽かぬかも』とある。又夫木和歌抄に採られ、よみ人しらず、『かしこきひとの渡りけむ吉野の川は』となつてゐる。
 
          ○
 
(297)  〔卷九・一七七三〕
  神南備《かむなび》の神依板《かみよりいた》に爲《す》る杉《すぎ》の念《おも》ひも過《す》ぎず戀《こひ》のしげきに
  神南備 神依板爾 爲杉乃 念母不過 戀之茂爾
 
 『獻弓削皇子歌一首』といふ題がある。次の『獻舎人皇子歌二首』の後に『右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出』と注せられてゐる。○神依板爾 舊訓カミヨリイタニ(代匠記・考・略解)。古義カミヨセイタニ。○爲杉乃 舊訓スルスギノ(代匠記・考・略解・古義)。童蒙抄ナルスギノ。
 神南備《かむなび》の杉は、此處は雷山でなく、三輪の神南備であらう。『味酒を三輪の祝《はふり》が忌《いは》ふ杉|手觸《たふ》りし罪か君に遇ひがたき』(卷四。七一二)といふのがある。『神依板《かみよりいた》』といふのは、往古、杉の板を打叩いて神を請招したものである。略解に、『宣長云、杉を神より板にすると言ふ事は、琴の板とて、杉の板を叩きて、神を請招する事あり。今も伊勢の祭禮には此事あり。琴|頭《ガミ》に神の御影の降り給ふなりと言へり。基俊集に、はふり子が神より板にひくまきのくれ行からにしげき戀哉とも詠めり。神功紀に、琴頭尾《コトガミコトノヲ》に千繪高繪を置きて請ひ給ふに、神降りませし事など思ふべし』とあるが、新考では、足代弘訓、伴信友の説を參考しつつ、『信友は、神依板と所謂琴の板とを別とせるなり。此説に從ふべし。ともかくも、いにしへ杉の板を用ひて神を招《ヲ》き奉るわざありて其板を神依板と(298)稱せしなり』と説明した。
 この一首は、『神南備の神依板にするすぎの』までは、『思ひも過ぎず』の『過ぎ』へつづく序詞であるから、一首の中味は『思ひも過ぎず戀のしげきに』だけである。即ち、思ひとどまる事は出來ない。餘り戀の強いためにといふのである。それをば、神依板のことなどを持つて來て勿體をつけて居ることが分かる。
 オモヒスグはオモヒの經過すること、オモヒの無くなること、つまり思ひ忘れる、思ひとどまる事となるのである。『あすか川かは淀さらず立つ霧のおもひ過ぐべき戀にあらなくに』(卷三。三二五)。『石上《いそのかみ》布留《ふる》の山なる杉群《すぎむら》の思ひ過ぐべき君にあらなくに』(同。四二二)。『朝に日《け》に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに』(卷四。六六八)。『萬世《よろづよ》に携《たづさ》はり居て相見とも思ひ過ぐべき戀にあらなくに』(卷十。二〇二四)。『小菅《こすげ》ろの浦吹く風の何《あ》ど爲々《すす》か愛《かな》しけ兒ろを思ひ過《すご》さむ』(卷十四。三五六四)などの例がある。
 この歌につき、童蒙抄に、『此歌は弓削の皇子を戀慕ひ奉る意を表して奉りたる歌也。男子か女子か不v知。袖書に人丸の歌集中出とあれば、先は人丸の歌とすべきや。然れ共歌集中出と云注不v合事多ければ、左注は証明に成難し』といひ、古義に、『歌(ノ)意は、皇子を戀したひ奉る心の茂きによりて、思をはるけなぐさむかたもなしとなり』といつてゐるが、これは必ずしもさういふ(299)意味で皇子に關係ある歌ではない。ただ、かういふ技巧の歌が出來たからして皇子に獻りお見せまうしたものと解すべきである。
 なほ、神依板について童蒙抄の説明があるから轉載し置く。『これは神を移し奉る板を神より板といふ也。依とは神を天降しまつる義也。今も祈祷者など佛家の法によりを立ると云事有。尤陰陽家立言家などに此專有。上古は本朝の法にも有て、神功皇后の卷に出たる儀、佛家に云、より人と同じく、神のかかり給と云義有も同じ事也。今湯神子などの神託を述べる義も此事也。然るに此神依板と云はいか樣のものぞと云時、その制は不v被v傳共、只板を立置てか、持てか叩たることと見ゆる也。發勤させて神を降すの道理にて、物の音を響かして騷々敷する事と見えたり。今も其遺風は神事に大太鼓を叩き立る事、又田舍にて神殿を叩く事有。是古實の遺れる也。ここの神依板も其板にて、即ちなる板と讀みて、鳴の字を兼たると聞ゆ。神依板は叩く板なるべし』云々。
 此歌、袖中抄に、『カミナヒノカミヨリイタニスルスキノオモヒモスキスコヒノシケキニ』とある。又六帖に人麿作として載つてをり、訓には相違がない。
 
          ○
 
(300)  〔卷九・一七七四〕
  垂乳根《たらちね》の母《はは》の命《みこと》の言《こと》にあれば年《とし》の緒《を》長《なが》く憑《たの》み過《す》ぎむや
  垂乳根乃 母之命乃 言爾有者 年緒長 憑過武也
 
 『獻舍人皇子歌二首』とある、その第一首である。○母之命乃 古寫本にオヤノイノチノ(元・神)と訓んだのもある。舊訓ハハノミコトノ。○言爾有者 舊訓コトニアラバ(代匠記・古義同訓)。考コトナラバ。童蒙抄コトナレバ(略解同訓)。新考コトニアラズバ。新訓コトニアレバ(全釋同訓)。『母の命《みこと》の言《こと》にあれば』は母のお言葉であるからといふ意である。
 一首は、わたくしども二人をお許し下さつたのは、お母さまの御言葉でございますから、長くこのお言葉に頼つて居りませう。ただ空しく過ぐるといふことはありますまい。といふぐらゐの意であらうか。略解に、『女の歌なるべし。言ナレバは、此女の母の終に末はと許せる詞を聞きしかば、末を頼み過ぎんかと言ふ意と聞こゆ』とあるのに大體從つていいであらう。ヤは反語である。
 この歌は右の如き戀歌であるから、皇子に關聯した寓意などは無いのであるが、諸抄には、『此歌ハ譬フル意有ベシ。フタオヤノ中ニ母ハ殊ニウツクシミノマメヤカナル物ナレバ、皇子ノ憑モ(301)シウノタマフ御言を母ノ言ニ喩ヘテ、御詞ノミヲ年ノ緒長ク憑テ過サムヤ。今其シルシヲ見セ給フベシトヨメル歟』(代匠記精)。『此歌諸抄の説は、皇子を恨み奉りて母のみことの云ける詞の樣ならば、わが願ことをも叶へさせ給へ。かく年月經る迄は、打捨置かれまじきにと云意と釋せり。當家の流とは裏表との違也。宗師見樣は、皇子を奉v頼歌也。次の歌も同意にて、みこを頼母敷思ふ歌と見る也。母の如くならばいかで年月長く過んや。皇子の仁徳ませば、我母親の如く人を憐み惠み給へば、年月長くは過ぎまじ。やがてのうちに頼み奉れる事も叶ふべきとの意と見る也』(童蒙抄)。古義も『歌(ノ)意は、吾を深く慈《ウツクシ》み親《シタシ》み賜ふ母君の言ならば、僞のあるべき理はなければ、數年長く頼(ミ)に思ひてのみ、そのかひもなく、むなしく月日を過さましやは、然はあるまじきを、まことの母親ならぬは頼みがたきものぞとなり』と言つて、契沖の寓意説(初稿本)を引用してゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七七五〕
  泊瀬川《はつせがは》夕渡《ゆふわた》り來《き》て我妹子《わぎもこ》が家《いへ》の金門《かなど》に近《ちか》づきにけり
  泊瀬河 夕渡來而 我妹兒何 家門 近舂二家里
 
(302) 舍人皇子に獻つた二首の中の第二首である。第四句舊訓イヘノミカドハ。童蒙抄イヘノカドニモ。略解イヘノカナドニ。一首の意は、泊瀬川(【大和磯上郡上郷村よりいづ、遂に佐保川に合す】)をぼ夕がた渡つて來て戀人の門に近づいたといふのである。カナドは金門《かなど》から來て單に門のことに用ゐる。『さを鹿の伏すやくさむら見えずとも兒ろがかなどゆ行かくし好《え》しも』(卷十四。三五三〇)。『金門《かなど》にし人の來立てば夜中にも身はたなしらず出でてぞあひける』(卷九。一七三九)などの例がある。門田《かなとだ》は門の近くの田の義に使つてゐる。夕がたに渡ることを、『夕渡る』と使つたのは自由で簡潔で旨い。調子が伸び、こせこせしない點が人麿の歌調に似て居り、相當にいい歌である。ただ民謠風に歌つたところがある。
 前に評釋した獻舍人皇子歌の第一首『垂乳根の母の命《みこと》の言《こと》にあれば年の緒長く憑《たの》み過ぎむや』といふのもやはり戀歌であるから、歌のお相手としてこの二首を示し奉つたのである。それを何か底意のあるやうに解しがちで、例へば、『此歌モ亦下意アル歟。君ガ思惑ヲ近ク蒙ルベキ事ハ、譬ヘバ人ノ夕去バ必ラズ逢ハムト契《チギ》リタラムニ、泊瀬河ノ早キ瀬ヲカラウジテ渡リ來テ其家近ク成タルガ如シトヨメル歟』(代匠記精)などといひ、古義なども踏襲してゐるが、略解ではその下意に餘り重きを置かない。『按ずるに右の弓削皇子に奉れる歌も、此舍人皇子に奉れるも、如何なる下心有りて奉れるにか知るべからず。強ひて言はば如何にとも言はるべきなり。是等は歌物語(303)せさせ給ふ時、聞傳へたるままに打出でたるも知られず。獻ると言ふにさのみ泥むまじくおぼゆ』と云つてゐるのは、萬葉の歌を解釋する態度としては正しい道の上に立つて居る。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、四五句『家のみかとに近くきにけり』となつてゐる。
 以上三首の歌につき、『右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出』と左注がある。
 
          ○
 
  〔卷九・一七八二〕
  雪《ゆき》こそは春日《はるび》消《き》ゆらめ心《こころ》さへ消《き》え失《う》せたれや言《こと》も通《かよ》はぬ
  雪己曾波 春日消良米 心佐閉 消失多列夜 言母不往來
 
 『與妻歌一首』といふ題があり、次の『妻和歌一首』と併せて『右二首柿本朝臣人麿之歌集中出』といふ左注がある。『言母不往來』はコトモカヨハヌであるが、古寫本中には、カヨハメ、カヨハム、カヨハズと讀んだのもある。
 一首の意は、雪は春の日にあたつて消えるであらうが、お前の私に對する心も消え失せたのか、このごろちつとも音沙汰が無いではないかといふのである。
(304) 『言《こと》通《かよ》ふ』といふやうな言方も注意していいが、『吾背子に直《ただ》に逢はばこそ名は立ため言《こと》の通《かよひ》に何か其《そこ》故《ゆゑ》』(卷十一。二五二四)。『夢かと情《こころ》惑ひぬ月|數多《まね》く離《か》れにし君が言《こと》の通へば』(卷十二。二九五五)。『思はしき言も通はずたまきはる命惜しけど』(卷十七。三九六九)。『遠江《とへたほみ》白羽《しるは》の磯と贄《にへ》の浦とあひてしあらば言も通《かゆ》はむ』(卷二十。四三二四)等の例がある。
 サヘといふ助詞は、『一事を擧げて、そが元來存するものの上に増加せることを示す』(山田孝雄氏)ので、更にそのうへ、あるが上にまたといふ意があるから、此處は雪が消えるといふことを云つたから、そのうへに、然のみならずといふ意があるものと見える。『我背子《わがせこ》にわが戀ひをればわが屋戸《やど》の草さへおもひうら枯れにけり』(卷十一。二四六五)。『情《こころ》さへ奉《まつ》れる君に何をかも言はず言《い》ひしと吾が食言《ぬすま》はむ』(卷十一。二五七三)。『手に取れば袖さへ匂ふ女郎花《をみなへし》この白露に散らまく惜しも』(卷十。二一一五)。『殖竹《うゑたけ》の本さへ響《とよ》み出でて去《い》なば何方《いづし》向きてか妹が嘆かむ』(卷十四。三四七四)等の例がある。
 
          ○
 
  〔卷九・一七八三〕
  松反《まつがへ》り癈《し》ひてあれやは三栗《みつぐり》の中《なか》に上《のぼ》り來《こ》ぬ麻呂《まろ》と云《い》ふ奴《やつこ》
(305)  松反 四臂而有八羽 三栗 中上不來 麻呂等言八子
 
 〔題意〕 『妻|和《コタフル》歌一首』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○松反 舊訓マツカヘリ。古寫本中マツカヘシ(元)。マツカヘ〔神)。マツモカヘ(温)等の訓もあつた。このマツガヘリといふ語は、卷十七(四〇一四)の家持の歌に、麻追我弊里之比爾底安禮可母佐夜麻太乃乎治我其日爾母等米安波受家牟《マツガヘリシヒニテアレカモサヤマタノヲヂガソノヒニモトメアハズケム》とあるから、これは、『しひ』にかかる枕詞として使つて居るやうで、このことは大體間違はないとおもふ。ただなぜ『しひ』に續けたかといふ段になると諸説があつて定まらない。『松反トハ、色モカハラヌ松ヲカハルト云ヒナスハ誣タル詞ナリ。依テ誣ト云ハム爲ニ松反トハ云歟。第十七ニ家持モ此ツヅキヲヨマレタリ。誣《シフ》トハ人ヲ欺《アザム》クナリ。ニハ助語ナリ。シヒテトモ讀ベシ。但家持ノ歌ニモ之比爾底トアレバ、今モニヲ加へタル歟。サテシヒニテアレヤハトハ、思ハヌヲ思フト欺ムキテ申ツルニアラムヤハナリ』(代匠記精)。『待に挽く來るをしひにてあれやはとよめり。急ぎ來んともせで、心緩かに有を、しひにてと云と也』(童蒙抄)。『またば、かへりこんといひたるは、強言にて、其時も過てきまさぬからは、まつといふ事はいはじものぞとうらめるなり』(考)。『月の半も過ぐるまで來ぬ人なれば、待つはかへりて強言《シヒゴト》にてこそ有れ、今更待つと言ひやらん物かはと言ふ意か。松は借字なり』(略解眞淵説)。『中山(ノ)嚴水云けらく、今(ノ)世の俗に、をさなき子等をおどしいさむるとて、人に物あたへお(306)きて、其を又此方へ取かへせば、その代《カハリ》に、背中に松の木生るぞといふことあり。思ふに、さる事は、上代よりありし諺にて、たとへば有ものを無(シ)といひ、なき物をありと云など、しひ付ることをすれば、その反報《カヘリ》に、身に松(ノ)木生ふものぞと云しことありしにて、やがてその松反《マツカヘリ》と云を、強言する名目に云しならむか。されば強《シヒ》の言をいひ起さむとて、枕詞のごとくに、おけるにもあらむか、といへり』(古義)。自分は、松反は、松事遠《マツコトトホシ》(卷十三。三二五八)の松は待であるし、また嬬待木者《ツママツノキハ》(卷九。一七九五)は松と待と言掛けてゐるごとく、松と待と何か關係があるらしく、また、かへりは加敝良末爾《カヘラマニ》(卷十一。二八二三〕などと通ずる語か、或は死反《シニカヘル》(卷十一。二三九〇)のカヘルと通ずる語かなどと思つたりしたのであつた。或は家持の例は、鷹の事を咏んだのであるから、『とやみれば我夏かひのかたかへり〔五字右○〕秋來にけりと尾《イな老い》羽ぞ萎《しな》へる』といふ曾根好忠の歌と、やはり家持の一聯中、二上能乎底母許能母爾安美佐之底安我麻都多可乎伊米爾都氣追母《フタガミノヲテモコノモニアミサシテアガマツタカヲイメニツゲツモ》(卷十七。四〇一三)の麻都(待)と何か關係がなからうか。さういふ事を思つてゐたところ偶武田博士の新解を見たところが、家持の歌の、『麻追我弊里・之比爾底安禮可母』の解釋のところで、『古來諸説のあるところである。鷹の、鳥屋《とや》に居て、夏の末から冬の初にかけて、羽毛の拔けかはるのを、鳥屋《とや》がへりといひ、山にゐてこれをするを山がへりといふから、松に居て羽毛の拔け代りをするのを、松がへりといふのであらう。シヒは、目しひ、耳しひのシヒに同じで、故障のあるの意で(307)あらう。(橋本進吉氏談)。シヒニテアレカモは、故障が起つてあればにやの意』と解して居る。これは新説であるのみならず、なかなかの善説と思ふので、試に夫木和歌抄を見るに、『足引の山かへりぬる〔六字右○〕はし鷹のさも見えがたき戀もするかな』(顯季)。『山かへる〔四字右○〕あかげの鷹のてなれても心おかるる君にもあるかな』(爲家)。『素鷹《すだか》わたるははこが崎をうたがひて猶木にかへる山かへり〔九字右○〕かな』(西行)。『ひきすゑよいらごの鷹の山がへり〔四字右○〕まだ日は高し心そらなり』(家隆)。『みみかたき白斑《しらふ》の鷹の山がへり心ゆるさずかり渡るかな』〔通經)。『をしきかな人もてがけぬはし鷹のとかへる〔四字右○〕山にころもへにけり』(良經)。『あはれ浮世を捨てやらで鳥屋かへりぬる〔七字右○〕』(待賢門院安藝)などの例があり、『とやかへる〔五字右○〕手なれの鷹を手にすゑて雉子鳴くなる片野べぞゆく』(權僧正永縁)などがある。此等を參考すれば、マツガヘリは待反《マツガヘリ》でなく、字どほりに、松反《マツガヘリ》だかも知れない。そして當時は、松樹を以て留る鳥屋《とや》を作つてゐたかも知れない。そこで、マツガヘリはトヤガヘリと同じ意味であるのかも知れず、定家の歌に、『降る雪にさてもとまらぬみかり野を花の衣のまつかへるらむ』といふのがあるが、この、『まつかへるらむ』はひよつとせば家持あたりの歌の句から來てゐるのではあるまいか。○四臂而有八羽 シヒテアレヤハと訓む。舊訓シヒニテアレヤハ。代匠記シヒテアレヤハ。略解、羽は母などの誤にて、シヒニテアレヤモか。古義、羽は物などの誤にて、シヒニテアレヤモ。シヒの事は既に前項に云つた如く、從來多く誣《しひ》、強《しひ》と解したが、さうでなく(308)目シヒ、耳シヒのシヒの意(橋本進吉氏)である。古くは『イソギカヘラントモセデ、心綬怠スルヲ、シヒタルトイフ也』(仙覺抄)といふ説もあつて、先に引いた童蒙抄はこれに從つたのである。なほ、新訓では、『澁《し》びてありやは』と訓み、『澁ぶ』の動詞と解した(【初版本による。後『しひて』と假名に改められた】)。然して從來このヤハをば反語として解せようとするから、『凡て、云々|夜毛《ヤモ》、云々|可毛《カモ》などいふべき所を夜波《ヤハ》、可波《カハ》と云は、今(ノ)京已降のにのみあることにて、此(ノ)集の頃の歌には一(ツ)もあることなし』(古義)などと云つて、ヤモとしたのであるが、これは疑問として、アレヤに咏歎のハの添はつたものとせば、癈物《すたれもの》になつたのですか。呆《ほ》けてでもゐるのですか。ぐらゐに解釋が出來るのである。普通は反語に解し、『強(ヒ)たることにてあれやも、嗚呼強(ヒ)たることにてはなし、と云意なり』(古義)等と云つてゐるのである。或は、『按ずるに、アレヤハと言ふ時は、ヤハは返語なれば、しひにては有らぬと言ふ意になりて、いよよ解き難し』(略解)等といひ、難澁してゐたものである。(【附言、橋本博士もこのアレヤハを疑問と解せられる趣を話された】)○三栗 ミツグリノで、ナカに係る枕詞である。古事記應神天皇の條に、美都具理能曾能那迦都邇袁《ミツグリノソノナカツニヲ》。また、美都具埋能那迦都延能本都毛理《ミツグリノナカツエノホツモリ》とある。三つ栗あるうちの中間のものといふ心持で係らしめた。萬葉卷九(一七四五)に、三栗乃中爾《ミツグリノナカニ》向有《ムカヘル・メグレル》曝井之不絶將通彼所爾妻毛我《サラシヰノタエズカヨハムソコニツマモガ》とあるによつて明かである。○中上不來 ナカニノボリコヌと訓んだ。舊訓ナカニヰコヌ。古寫本中ナカツカヘコス(元)。ナカヘツカコス(神)。ナカニヰテコヌ(西・矢・京・温)。ナカニヰ(309)テコズ(細)等がある。拾穗抄ナカニヰテコズ。代匠記初ナカウヘコヌヲ。童蒙抄ナカニモ出キデ。考ナカスギテコズ(略解・古義)。略解補正ナカタエテコズ。新考ナカダエテコヌ。新解ナカノボリコヌ。新訓ナカニノボリコズ。『中上は、たとへば一月をみつにわかちて、中の十日を中とすれば、上旬下旬みなうへなり。第五には、うへといふに、表の字をかけり。今もその心なり』(代匠記初)。『中上不來を眞淵はナカスギテコズとよみて、そのナカを月の半の意とし、古義は之を是認せり。案ずるに月の半をただナカとはいふべからず。さればナカは他の意とせざるべからず。試にいはば、中上を中止の誤としてナカダエテとよみて中絶の意とすべきか。【中略】中絶の意なるべく男女の中の絶ゆる意にはあらじ』(新考)。『ナカは、半途、中途の意で、男が地方に赴いて、それきり中に上つて來ないといふのであらう』(武田、新解)。○麻呂等言八子 マロトイフ・ヤツコと訓む。麻呂《まろ》と云ふ奴《やつこ》の意である。舊訓マロトイハハコ。代匠記初マロトイヘヤコ。童蒙抄マロトイフヤセ。考マツトイハムヤモ。【呂は追の誤。子は毛の誤。】(略解同訓)。古義マツトイヘヤコ(新考同訓)。略解補正マツトイハハコ。然るに武田祐吉博士はこれを、マロトイフヤツコと訓んだ(新解下卷八七二頁)。新訓それに據つた。男に對つて戯れ親しんで、奴《やつこ》(奴隷)と云つたもので、後段にも例を引いた。
 〔大意〕 〔松反《まつがへり》〕鷹が働けなくなつたやうに、あなたも癈物《すたれもの》になつたのではありませんか。或は呆《ほ》けてでも居るのですか。〔三栗《みつぐりの》〕それつきり、こちらへ上《のぼ》つて來ないではありませんか。麻(310)呂《まろ》といふ奴《やつこ》さん。
 〔鑑賞〕 この歌は、麻呂といふ男が妻に向つて、『雪こそは春日消ゆらめ心さへ消えうせたれや言も通はぬ』と言つてやつたのに對して答へた歌で、なかなか鋭く反撥してゐるが、戯れ親しんで居るのである。そこで古來の諸前賢の説を種々參考して見たが、面倒で何處かに無理があり、歌としての解釋・鑑賞には未だしい點が多かつたが、幸に武田博士の考説を得、それが一番自然のやうであるから大體それに從ふことにした。
 武田博士の口譯に、『鷹の松反りのやうに、通じないことがありませうや、途中に上つて來ない、麻呂といふ奴さん』とあるが、博士はアレヤハを反語としたから、かういふ解釋になるのだが、ここは戯語で強く云つてゐるのだから、疑問・咏歎とする方がいい。
 此處のシヒテは、解釋するとせば、どうしても家持の用例を是非參考にせねばならず、さすれば、橋本・武田説が一番肯當ではあるまいかとおもはれる。シフは大言海に癈の字を當ててあり、死を活用せしめたもので、機能《ハタラキ》を失ふ。感覺トマルと解し、字鏡集の、瞎、カタメシヒ、シヒタリ。新撰字鏡の、聾、耳志比を引き、なほ延慶本平家物語の、『頸コソ少シしひてオボユレト云フ』を引いてゐる。この平家物語の例などは特にこの歌の解釋の參考になるので、妻にむかつて、『心さへ消えうせたれや』と云つたから、妻の方で、『癈《し》ひてあれやは』と返したのである。それゆゑ、(311)此處は反語ではないのである。今の口語でいへば、もうあなたも癈物《すたれもの》ですかとか、やくざ者になつたのですかとか、呆《ほ》けなすつたのではありませんかとか、さういふ心持を示してゐる言方である。この點からいふと、從來の、強《し》ふ、誕《し》ふ、僞《いつは》る、と解釋するのには無理があり、また假名の研究から云つても、強《シヒ》の假名は乙類であるのに、四臂・之比・癈《シヒ》の假名は甲類であるのによつてもその區別を明かにすることが出來る。また、此處のアレヤハを反語とする説にもまた無理があつて、どうしても心理上のよい解釋は出來ない。武田博士は、ヤハを反語としたから、『妻に對して雪は春日に消えるだらうが、お前は心までも消えてしまつてか、手紙もよこさないと云つたに對し、妻から、盲や聾でもないのに、上京もしてこない。この奴はと云つて答へたのであらう』と解釋してゐるが、『盲や聾でもないのに』と云はうよりは、『盲か聾のやうな癈物にでもなつたのですか』と解釋する方が感情に直接のやうである。
 次に、ヤツコといふ使ひ方は、坂上郎女が家持に、『常人の戀ふと云ふよりは餘りにて我は死ぬべくなりにたらずや』(卷十八。四〇八〇)と云つてやつたのに、家持は、『天ざかる鄙《ひな》の奴《やつこ》に天人《あめびと》し斯く戀ひすらば生けるしるしあり』(同。四〇八二)と答へて居る。また、これに類似したものとしては、紀女郎が家持に贈つた歌に、『戯奴《わけ》がため吾手もすまに春の野に拔ける茅花《つばな》ぞ食《め》して肥えませ』(卷八。一四六〇)。『晝は咲き夜は戀ひ宿《ぬ》る合歡《ねぶ》の花君のみ見めや戯奴《わけ》さへに見よ』(同。(312)一四六一)といふのがあり、それに答へた家持の歌に、『吾が君に戯奴《わけ》は戀ふらし給《たば》りたる茅花《つばな》を喫《は》めどいや痩《や》せに痩《や》す』(同。一四六二)といふのがある。
 次にこの一首は、武田博士は、『今問題としてゐる歌は柿本人麻呂の歌集から出てゐるのであるから、ただ麻呂と言つても、直に柿本人麻呂の事になるであらう』といひ、この前の歌についても、『人麻呂集所出で、或は人麻呂の作ででもあらうか』(新解)と云つて居るが、童蒙抄では、『此注にて袖書の注に、何の歌集中に出と有ても、其人の歌と決し難き證明明か也。既に妻和歌と有からは、人麿にて無き歌も歌集中に入たると見えたり。然れば人麿妻との問答の歌と見て、前の雪こそはの歌、人麿の歌とすべきと云べけれど、口風違たる事を知るべし。凡て左注の義は後人の筆相混じたれば、難2信用1事有。又可v取事もありて取捨ある事也』と云つてゐる。古寫本中、元・藍・神には『集』がなく、拾穗抄では、歌の前に、柿本朝臣人麻呂。柿本朝臣人麻呂(カ)妻と明記してある。近時、人麿歌集を論ずる學者は、大部分を人麿作とする傾向になつてゐる(武田・佐低木・石井)やうであるが、この二首は、特に第一首は人麿の整調に似ない。また人麿の妻だとすると、どの妻に當るのか、疑問の點が幾つも殘つて居る。
 私は、人麿の歌ではあるまいと思ふ否定説に傾くものであるが、この二首は兎も角も問答歌であり、感情も活々として居り、諧謔裏に親愛の情を溢れさせてゐる點は同情すべく、民謠化して(313)しまはないところに注意すべきである。私の想像では、これも人麿に關係あつた一群の人の中の一對の男女の贈答歌だらうとおもふのである。それゆゑ、家持は人麿を尊敬すると同時に、人麿歌集をも常に注意してゐたから、自然この歌をも模倣して、卷十七(四〇一四)の歌を作つたものとおもへるのである。
 
          ○
 
  〔卷九・一七九五〕
  妹《いも》ら許《がり》今木《いまき》の嶺《みね》に茂《しげ》り立《た》つ嬬《つま》松《まつ》の木《き》は古人《ふるひと》見《み》けむ
  妹等許 今木乃嶺 茂立 嬬待木者 古人見祁牟
 
 〔題意〕 挽歌といふ見出があり、『宇治若郎子宮所《ウヂノワキイラツコノミヤドコロ》歌一首』といふ題が附いてゐる。又これに續く『紀伊國作歌四首』の後に 『右五首柿本朝臣人麻呂之歌集出』と注してある。宇治若郎子は即ち應神天皇の皇子で、應神紀に云。次妃和珥(ノ)臣(ノ)祖日觸使主之女宮主宅媛、生2菟道稚郎子皇子・矢田皇女・雌鳥皇女1云々。仁徳紀云。四十一年春二月、譽田天皇崩。時太子菟道稚郎子讓2位于大鷦鷯尊1。未v即2帝位1。仍諮2大鷦鷯尊1云々。既而興2宮室於菟道1而居之云々。この皇子の宮は(314)今木の邊にあつたので、これは現在、山城久世郡宇治町の離宮址だといふことになつてゐる。それが此歌を咏んだ時には既に廢れてゐたものであつた。延喜式第二十一、諸陵式云。宇治墓【兎道稚郎子皇子、在2山城國宇治郡1、兆域東西十二町、南北十二町、守戸三烟】
 〔語釋〕 ○妹等許 イモラガリと訓む。『妹《いも》が許《もと》へ今來るといふ心につづけたり』(代匠記初)とある如く、次の『今來《いまき》』に係る枕詞として用ゐたものである。新考では、イモラガリイマまでを枕詞とし、キに係るものとした。○今木乃嶺 イマキノミネで、代匠記に、『今木ノ嶺ハ大和國高市郡ナリ。齊明紀云、【中略】欽明紀云、七月秋七月倭國今來郡言云々。此外雄略紀・皇極紀・孝徳紀・天武紀等ニ見エタリ。新ノ一字ヲモイマキトヨメリ。昔三韓ノ人ノ徳化ヲ慕ヒテ渡リ來ケルヲオカセ給ヘル故ニ此名アリ。一説ニ紀伊國ト云説アル故ニ、今慥ニ和州ナル證ヲ出セリ』と云つたので、童蒙抄・考・略解・古義等も皆それに從ひ、宣長も古事記傳卷三十三にて、『今木(ノ)嶺疑はし。もしくは宇治宮の外に今木にも宮ありしにや【中略】然るに、山城志に、今來(ノ)嶺在2宇治(ノ)彼方町(ノ)東南1、今曰2離宮山1と云るは、此萬葉の歌に依てのおしあてごとなるべし。姓氏録に山城國に今木(ノ)連又今木など云姓はあれども宇治のあたりに此地名古書に見えたることなし』と、山城説を寧ろ否定してゐる。然るに井上博士の新考に、『案ずるに、山城風土記に謂宇治者……本名曰2許之國1矣とあり。許は杵の誤なるべし。杵《キ》の名は今も郡名に殘れり。和名抄山城國郡名に紀伊岐とある是な(315)り。宇治は後の世には久世郡に屬すれども、いにしへは紀伊《キノ》郡に屬せしなるべし。否宇治を中心とせる一區域をキノ國と稱し而して宇治山をキノ嶺と稱せしなるべし。さらば今の歌は妹等ガリイマまでをキノミネにかかれる枕辭とすべし』云々と云つてゐる。この新説は極めて明快であるが、イマキは必ずしも大和一處でなくともいいわけであり、この歌ではどうしても山城宇治の近くである筈であるから、暫くイマキノミネをば固有名詞として、味ふこととする。○茂立 シゲリタツと訓む。茂り立つである。舊訓ナミタテル。代匠記精シゲリタツ又はシゲクタツ。考シミタテル。○嬬待木者 ツママツノキハと訓む。妻を待つと、松の木と同音なので續けた。言掛の一種で、古今以下の言掛技法は萬葉に既にあつた。『大和なる吾《われ》松椿吹かざるなゆめ』(卷一。七三)も同じ技法である。『嬬待木トハ、松ノ木トノミ云ヒテハ字ノ足ラネバ、カクハ云ヘリ。石上袖振川ト云類ナリ』(代匠記精)。『ヲ』と云はずに、『ハ』と云つて居る。○古人見祁牟 フルヒトミケムと訓む。古義では、古は吉の誤で、ヨキヒトミケム。古寫本ではムカシノヒトミケムと訓んだのもフルヒトミケムと訓んだのもある。古《いにし》へ人《びと》が見たであらう。古人といふのは宇治若郎子を大體指すので、或はなほ複數の人々を考へてもかまはぬところである。『古人見祁牟トハ稚郎子皇子ノ宮所ハ、唯跡ヲノミ申傳フルニ、今木嶺ノ松ハ、昔ノ人モカクコソ見ケムヲ、今モ替ラズシテ茂リテ立ルヨト感慨ヲ起スナリ。又皇子ノ宮ノ中ヨリ御覽ゼラレケムト云意ニヤ』(代匠記(316)精)。『古人は誰を指すか知られず』(略解)。『布留人《フルヒト》とは、今(ノ)世に存《ア》る人をいふ稱《ナ》にて、過去《スギニ》し昔の人を云ことにあらず【中略】俗に云古參のことなり【中略】今按(フ)に、古は吉(ノ)字の誤にてヨキヒトミケムなり。叔人乃良跡吉見而好常吉師芳野吉見與良人四來三《ヨキヒトノヨシトヨクミテヨシトイヒシヨシヌヨクミヨヨキヒトヨクミ》、とあるをも思(ヒ)合(ス)べし。さて今の吉人《ヨキヒト》は、即(チ)稚郎子(ノ)皇子を指奉れるなり』(古義)。『案ずるに平安朝時代の物語などに見えたるフルビトはげにフリタル人といふことなれど言語の意義には變邊あれば奈良朝時代には昔の人をフルヒトといひけむも知るべからず。或は漢語の古人を直譯してフルヒトといひもしけむ。舒明天皇の御子|古人《フルヒトノ》皇子もふりたる人の意によれる御名にはあらで、いにしへの人の意によれる御名ならむ。ともかくも今は字のままに舊訓に從ひてフルヒトとよむべし。さてフルヒトとは無論|若郎子《ワキイラツコ》をさせるなり。略解に、古人は誰をさすか知られずといへるは迂遠なり』(新考)。このフルヒトの語は、井上博士のいはれた如く、支那の古人の直譯であらう。
 〔大意〕 山城宇治の近くの、〔妹等許《いもらがり》〕今木《いまき》の山の頂に繁り立つて居る、あの松の樹は、嘗て昔の宇治若郎子《うぢのわきいらつこ》の皇子も御覽になつたことであらうが、今はその宮址も荒れてしまつて居る。といふぐらゐの意であらう。
 〔鑑賞〕 この歌を挽歌に分類したのは、皇子の宮址に來て追懷したのであるから、同時に皇子をも追慕することとなるためであらう。初句に、『妹らがり』といひ、第四句に、また、『嬬《つま》まつ(317)の木』と云つたり、現在の私等の考から行けば、要らざる技巧であるが、當時の人は眞面目になつてかういふことをしてゐるのである。
 『古《いにし》へに在りけむ人の倭文幡《しづはた》の帶|解《と》き交《か》へて廬屋《ふせや》立て妻問しけむ』(卷三。四三一)。『酒の名を聖《ひじり》とおほせし古昔《いにしへ》の大き聖《ひじり》の言《こと》のよろしさ』〔卷三。三三九)。『古《いにし》への賢《さか》しき人も後の世のかたみにせむと老人《おいびと》を送りし車持ち還《かへ》り來し』(卷十六。三七九一)等の歌も參考となり得るし、佛足石歌に、『よき人のまさめに見けむ御跡《みあと》すらを吾は得見ずて石《いは》に彫《ゑ》りつく玉に彫《ゑ》り付く』とある、その『よき人』は諸佛菩薩の意だが、過去世のことを云つてゐる點は同樣である。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として採られ、第三句『なみたてる』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七九六〕
  黄葉《もみぢば》の過《す》ぎにし子等《こら》と携《たづさ》はり遊《あそ》びし磯《いそ》を見《み》れば悲《かな》しも
  黄葉之 過去子等 携 遊礒麻 見者悲裳
 
 『紀伊國作歌四首』中の第一首である。初句の『黄葉《もみぢば》の』は『過ぐ』に係る枕詞の格に使つてゐる。(318)舊訓スギユクコラトであつたのを代匠記精でスギニシコラトと訓み、舊訓タヅサヒテであつたのを考でタヅサハリと訓んだ。もつとも古寫本にはタヅサハリの訓があつた(【元・藍・類・古・神・西・温・細】)。舊訓アソビシイソマを童蒙抄・古義でアソビシイソヲと訓んだが、類聚古集ではさう訓んでゐる。
 一首の意は、嘗て愛する妹《いも》(子等は單數)と共に此處の海邊に來たことがあつたが、今はその妹が死んで一人來て見ればいかにも悲しいといふので、四首連作のごとく、歌詞が浮いてゐずしつとりと強いところを見れば、人麿の作と想像してもいい歌である。さうすればその妻といふのは、人麿の長歌にある妻と想像すれば、依羅娘子の前の妻で、この歌も大寶元年の作ではあるまいかと想像したのであつた。『遊びし』などいふ語も、いかにも自然で、現在讀んでも新鮮な感じのする歌である。伊列の音で續けた點が多いが、不思議に調和して哀韻がある。
 
          ○
 
  〔卷九・一七九七〕
  鹽氣《しほけ》たつ荒磯《ありそ》にはあれど行《ゆ》く水《みづ》の過《す》ぎにし妹《いも》が形見《かたみ》とぞ來し
  鹽氣立 荒磯丹者雖在 往水之 過去妹之 方見等曾來
 
(319) 第二首である。第二句舊訓アラソニハアトであつたのを代匠記初で、アリソニハアレドと訓み、四五句舊訓スギユクイモガ・カタミトゾクルであつたのを考でスギニシイモガ・カタミトゾコシと訓んだ。鹽氣《しほけ》は潮けむりで、『神風の伊勢の國は奧つ藻も靡みたる波に鹽氣《しほけ》のみ香《かを》れる國に』(卷二。一六二)などの例もある。『行く水の』は枕詞に使つてゐる。潮の飛沫をこめた潮煙の立つ荒磯に來たのは、この荒寥として鋭い風光を愛するといふのではなく、亡くなつた妻を偲ばんがためだといふので、句々緊張してゐて然かも哀情切々として傳はつてくる力量はやはり人麿の作だと想像せしめるに足る歌である。初句のシホケタツといふのでさへ、既に旨いところがあり、第三句の枕詞なども寧ろ人麿の常套手段と謂つてもいいくらゐである。卷一の人麿作、『眞草刈る荒野にはあれど黄葉《もみぢば》の過ぎにし君が形見《かたみ》とぞ來し』(卷一。四七)と大に似て居り、この人麿歌集の歌が署名が無いだけ割が惡いとおもふが、翻つて思ふに、これは同一の作者が別々に作つたものと解釋して差支ない。同一の作者だから、同じやうな感じ同じやうな手法になるのも極めて自然だからである。それのみでなく、此歌は安騎野で作つた歌に比して優るとも劣つてはゐないと思ふのである。また私の想像では、この卷九の歌の方が卷一の歌よりも後で作つたものと想像してゐるのである。
 此歌、六帖に、『潮けたち荒磯に有れど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ見る』となつてゐる。
 
(320)          ○
 
  〔卷九・一七九八〕
  古《いにしへ》に妹《いも》と吾《わ》が見《み》しぬばたまの黒牛潟《くろうしがた》を見《み》ればさぶしも
  古家丹 妹等吾見 黒玉之 久漏牛方乎 見佐府下
 
 一二句舊訓フルイヘニ・イモトワガアシ。拾穩抄イニシヘニ。代匠記精イモトワガミシ。古寫本中イニシヘニ(西・細・温)。イモトワガミシ(【元・藍・類・古・西・細・温】)。黒牛潟は紀伊名草郡(今海草郡)の黒江である。『黒牛の海くれなゐにほふ百敷《ももしき》の大宮人しあさりすらしも』(卷七。一二一八)。『黒牛がた潮干の浦をくれなゐの玉裳裾びき行くは誰が妻』(卷九。一六七二)などの歌もあり、大和からも來て遊んだ所であつた。サブシは不樂《さぶし》、不怜《さぶし》と書き、何となく憂はしく、心のなぐさまぬ、悲哀の蟠結してゐる氣特である。妻に死なれて嘗て二人で遊んだことのある黒牛潟に來ると何か心にわだかまる悲哀がある氣持で、後世幽玄體の、『淋しさはその色としもなかりけり』とは違ふのである。もつと現實的で且つ肉體的な氣持をあらはしてゐるのである。
 『ささなみの志賀津《しがつ》の子らが罷道《まかりぢ》の川瀬の道を見れば不怜《さぶ》しも』(卷二。二一八)。『風速《かざはや》の美保《みほ》の(321)浦廻《うらみ》の白躑躅《しらつつじ》見れども不怜《さぶ》し亡き人思へば』(卷三。四三四)。『今よりは城《き》の山道は不樂《さぶ》しけむ吾が通はむとおもひしものを』(卷四。五七六)。『家に行きて如何にか吾《あ》がせむ枕づく嬬屋《つまや》さぶしく思ほゆべしも』(卷五。七九五)。『秋萩を散り過ぎぬべみ手折《たを》り持ち見れども不怜《さぶ》し君にしあらねば』(卷十。二二九〇)などの用例が參考になる。
 この歌も順當にあらはされてゐて、少しも無理がないので、稍平凡過ぎるやうに評價する人々も居るだらうが、この無理のない境界がよく分からなかつたので、古今集の歌のやうに理に墮ち、新古今集の歌のやうに幽玄に墮ちてしまつたのである。抒情詩は無理のない當然の中に妙味のあるものでなければならない。
 
          ○
 
  〔卷九・一七九九〕
  玉津島《たまつしま》磯《いそ》の浦廻《うらみ》の眞砂《まなご》にも染《にほ》ひて行《ゆ》かな妹《いも》が觸《ふ》りけむ
  玉津島 礒之裏未之 眞名仁文 爾保比去名、妹觸險
 
 玉津島もやはり海草郡にあり、今の玉津嶋神社の東方奠供山の地だとせられてゐる。昔はその(322)邊は磯であつたのであらう。舊訓は、『玉津島磯の浦まの眞名《まなご》にもにほひて行かな妹も觸れけむ』であつた。イモニフレケム(代匠記精)。イモガフレケム(略解)。イモガフリケム(古義)。イモノフリケム(新考)等の訓がある。第四句ニホヒテユカナは特殊の用法で、『岸の埴生《はにふ》ににほひて行かな』(卷六。九三二)などの例と同じく、そこの眞砂で衣を色づけて行かう。この眞砂には亡き妻も嘗ては觸れて、衣の色づげをしたのであつただらうといふので、極めて覺官的、官能的、感覺的とも謂ふべき、氣特のいい歌である。この結句は、萬葉歌人の感覺だと謂つても、さう誰も彼もに出來る句ではない。餘程眞率で生々した神經を持つてゐる歌人でなければ出來ない句である。やはりこの四首は何となし人麿を想像せしめるものと看做していい。
 『引馬野《ひくまぬ》ににほふ榛原《はりはら》入り亂《みだ》り衣《ころも》にほはせ旅のしるしに』(卷一。五七)。『草枕旅行く君と知らませば岸の埴生《はにふ》ににほはさましを』(卷一。六九)。『白浪の千重に來寄する住吉《すみのえ》の岸の埴生《はにふ》ににほひて行かな』(卷六。九三二)。『馬《うま》の歩《あゆみ》おさへ駐《とど》めよ住吉《すみのえ》の岸の黄土《はにふ》ににほひて行かむ』(卷六。一〇〇二)。『吾が待ちし秋萩咲きぬ今だにも染《にほ》ひに行かな遠方人《をちかたびと》に』(卷十。二〇一四)。『殊更に衣は摺《す》らじをみなへし佐紀野《さきぬ》の萩ににほひて居らむ』(卷十。二一〇七)。『住吉の岸野《きしぬ》の榛《はり》に染《にほ》ふれど染《にほ》はぬ我やにほひて居《を》らむ』(卷十六。三八〇一)。『春の野の下草靡き我も依《よ》りにほひ依りなむ友のまにまに』(卷十六。三八〇二)等の用例が參考となる。いろいろ使ひざまのニユアンスがあるから、(323)それを千篇一律にしない方がいい。
 
(324) 萬葉集卷十所出歌
 
          ○
 
  〔卷十・一八一二〕
  ひさかたの天《あめ》の香具山《かぐやま》このゆふべ霞《かすみ》たなびく春《はる》立《た》つらしも
  久方之 天芳山 此夕 霞霏※[雨/微] 春立下
 
 〔題意〕 『春雜歌』といふ題のある歌である。、以下七首『右柿本朝臣人麿歌集出』と注せられてゐる。
 〔語釋〕 古寫本等では、アマノカグヤマと云つてゐたのを、考からアメノカグヤマと訓んだ。また第三句をコノクレニ(元・類〕と訓み、第五句をハルハキヌラシ(元)と訓んだのもある。タナビクは、集中輕引、棚曳、棚引、桁引、蒙、被などとも書いてある。
(325) 〔大意〕 一首の意は、この夕方《ゆふがた》むかうの天の香具山を眺めるに霞が棚引いてゐる。して見るともう春が來たらしいといふのである。
 〔鑑賞〕 これはただの實景で『立春』などの理論から來てゐない歌であらう。眞淵は評釋して、『香山《かぐやま》を望めば、此夕さり、のどかに霞の棚引つるは、春のたちたるならんてふ意の、みがくこともなくうるはしく姿高く調ふが、かたきなり』(考)と云つてゐる。明朗で溷濁なく眺めの儘に流露したもので、集中でも注意していい歌である。
 右に云つた如くこの歌は、明快、素直且つ自然である。それだからこれを古今集の歌などに較べるなら、その重厚な聲調を感得することが出來るけれども、それでも人麿の歌とすると少しく樂《らく》すぎて切實の響が足らない。又大きい波動をも感ずることが少い。そこで賀茂眞淵も、『されば此歌は人麻呂の歌ならぬをもおもふべし』(新採百首解)と云ひ、人麿が他人の歌を輯めたものの一つとして、『人麻呂の書つめおかること、歌のすがた、此山をしも見たるなどを思ふに、飛鳥《あすか》藤原のみやこの頃によめる歌なり』(新採百首解)と解してゐるのである。併し、想像するならば或はこれも人麿自身の作で、存外樂に作つた手控のやうなものであるのかも知れぬ。持統天皇の御製などをも聯想しつつ、假に此處に書きとどめ置くのである。
 立春は一年での記念すべき事柄であるから、萬葉にあつても、『正月《むつき》たつ春のはじめに斯くし(326)つつ相《あひ》し笑《ゑ》みてば時じけめやも』(卷十八。四一三七)。『冬過ぎて春し來れば年月は新たなれども人は舊りゆく』(卷十。一八八四)等があるけれども、特に立春の歌と看做すべき歌は尠い。この一首は朗々とした調子だから、一般化され易く且つ民謠的な特色をも持つて居るので、古今集以後今日に至るまで、立春の歌といふものが形式的に必ず附物として添へられるに至つてゐる。なほこの歌は新勅撰春上に讀人不知として載り、夫木抄に人丸作、第二句『あまのかこやま』、結句イ『春は來ぬらし』として採られ、また赤人集には、『ひさかたのあまのはやまにこのゆふべ霞|片靡《かたなび》く春たちくらし』(【西本願寺本】)、『霞たなびく春立ちにけり』(【流布本】)といふのがあり、更に家持集にも流布本赤人集と同じ形のものが載せられてゐるのは、この歌の異傳であらう。さういふ具合に吟誦的に傳へられる素質のある歌だが、味ふとやはりなかなか大きいところがあつて棄てがたい。
 
          ○
 
  〔卷十・一八一三〕
  卷向《まきむく》の檜原《ひはら》に立《た》てる春霞《はるがすみ》鬱《おほ》にし思《も》はばなづみ來《こ》めやも
卷向之 檜原丹立流 春霞 欝之思者 名積米八方
 
(327) 卷向の檜原は卷向山續きの檜原で、その頃は檜の木立が繁つてゐたものと見え、普通名詞から地名ともなつた。卷向の檜原、三輪の檜原は未だ眞に地名にならなかつた頃の云ひあらはしであつただらうか。
 一首の意は、君のことをば、ただ大凡《おほよそ》に簡單に思つてゐるのなら、こんなに難儀して來るのではない。深く思へばこそかうして難儀しながら山路をも來るのだといふので、上の句は序で、春霞が薄くかかつてゐるのを、『おほにし』に續けたのである。品のいい戀愛歌(相聞)で、これも吟誦に適するいい聲調を持つてゐるから、從つてまた形式化され易い素質のあるものである。然し作者は實際この邊に住んでゐたことが分かり、親しんでゐた女をも想像することが出來るから、ただ空漠とした歌謠的なものでないことが分かる。そしてこれも人麿の或時期の作として見立てると、記録にある人麿の妻の誰か、或はさういふものに關係ないものか等いろいろと聯想が向くけれども、事實を尊重する學者にとつてはさういふ悉な聯想はただの心の戯として映ずるであらう。
 この歌の訓には、第四句、ハレヌオモヒハ(元・類・神)。クヒシオモヒハ(西)。クレシオモヒハ(細、温、矢、京・附・寛永本)等の訓もあり、オホニシオモハバ(童蒙抄)。オホニシモハバ(考・略解・古義)等の經過を經てゐる。結句も、ナグサメツヤハ(元・類・神)。ナツミケメヤモ(爾餘(328)寫、寛永本)。ナヅミコメヤモ(童蒙抄・考・略解・古義)等の經過である。
 それから解釋も、契沖は『卷向ノ檜原ハ、サラヌダニ繁キニ、春ノ來ヌレバ、イトド霞ニクレテ面白ク見ユルヲ、春ヨリサキ此霞ムバカリ心ノクレツル思ヒニハ煩《ナツミ》ケメヤト、今ノ霞テ面白キニ對シテ忘タルヤウニヨメル歟』(代匠記精)などの如く面倒に解してゐるが、『檜原を霞みて覆ひたると云義にて、そのおほの詞を凡の字のことに借りて、大凡に思はば、はるばるの處をも、なづみつつ來めやも、不v疎思へばこそ、霞に立かくしたる處をも、なづみて來たりと云意と聞ゆる也』(童蒙抄)。また、『大方に思はばなづみいたづき來らめやといふ也。春霞より鬱とつづくは、霞みておぼろかなるより續けたり。此哥は雜歌のうちながら、相聞の意あるか、又したしき友を訪へる類ならんか』(考)といふ解釋があつて、いかにも穩當である。
 この歌は、赤人集に、『まきもくかひはらにたてるはるかすみ』(【西本願寺本】)、『卷向の檜原に立てる春霞晴れぬ思ひに若菜つまめや』(【流布本】)と載り、續古今雜上に、『霞をよめる、人丸』と題し、『卷向の檜原に立てる春がすみ晴れぬおもひはなぐさまるやは』として載つて居る。
 
          ○
(329)  〔卷十。一八一四〕
  古《いにしへ》の人《ひと》の植《う》ゑけむ杉《すぎ》が枝《え》に霞《かすみ》棚引《たなび》く春《はる》は來《き》ぬらし
  古 人之殖兼 杉枝 霞霏※[雨/微] 春者來良之
 
 この歌は、杉の大木《たいぼく》が立つてゐるのを稍遠いところから見てゐる趣の歌で、代匠記初稿本に云ふ如く、卷向山の杉林であらうか。その杉林は、歳月を經て高く繁つてゐるので、古の人の植ゑけむと云つたものである。その杉枝に霞が棚引くのは、もう春が來たらしいといふので、前の香具山の歌と趣が同じである。
 巧を弄しない、素直な歌であるが、『杉の枝』を見てゐるのは特殊で且つ具象的である。併しこれも有りの儘に杉の木立を見て作歌してゐるのが好いので、萬葉の歌の正道は實に其處にあるのである。それだから解釋に際しては、『古への人のうゑけむとは、只年經たるをいふのみ』(略解)だけでいいのである。『同じ春は來らめ共、人ふり行て過し代となれると、歎の意を含めて、過にしことを云はんとて杉を詠める也』(童蒙抄)といふのも穿ち過ぎて居り、『今按(フ)に、卷向山に、昔時人ありて、杉を殖生ししと云故事ありて、よめるなるべし』(古義)といふのも奈何とおもふ。これは故事に據つたといふよりも、かういふ懷古的の聯想は人間の自然の心理なのであるから、(330)故事に本づかなくともいいのである。次に新考では、『杉枝』は、『杉村』の誤寫だらうと考へて居る。そして、『もし天然林ならばたとひ年經たりともイニシヘノ人ノウヱケムとは云ふべからず。殖林のはやく神代より行はれし事は日本紀に見えたり』と注してゐる。杉は神代から植林したといふことが分かれば、杉は植林するものだといふことになるから、この歌の上の句も自然に理解の出來るわけである。なほ、杉に關係したものに次の如きがある。
   三諸《みもろ》の神の神杉《かむすぎ》巳具耳矣自得見監乍共いねぬ夜ぞ多き (卷二。一五六)
   何時《いつ》のまも神さびけるか香具山の鉾杉《ほこすぎ》が本に薛《こけ》むすまでに (卷三。二五九)
   味酒《うまざけ》を三輪《みわ》の祝《はふり》が忌《いは》ふ杉|手觸《たふ》りし罪か君に遇ひがたき (卷四。七一二)
   神南備《かむなび》の神依板《かみよりいた》に爲《す》る杉の念《おも》ひも過ぎず戀のしげきに (卷九。一七七三)
   いそのかみ布留《ふる》の神杉《かむすぎ》神《かむ》さびにし吾やさらさら戀に逢ひにける (卷十。一九二七)
   吾背子を大和へ遣りて松し立《た》す足柄山の杉の木の間か (卷十四。三三六三)
 かういふ種類だが、足柄山の歌をのぞいては杉の大森林ではなく、存外數の少い氣持である。今も神社などにある、あの程度のもののやうな氣がするから、この歌の杉の枝も、杉がさう廣々と廣がつてゐたのではない杉の森のやうに想像されるのである。
 この歌、赤人集【西本願寺本】に入り、『いにしへのひとのうへけむすきのはにかすみたなひくはるはき(331)にけり』(【流布本になし】)となつてゐる。又、家持集にも、『古の人の植えけむ杉の葉に霞たなびく春ぞ來ぬらし』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十。一八一五〕
  子等《こら》が手《て》を卷向山《まきむくやま》に春《はる》されば木《こ》の葉《は》凌《しぬ》ぎて霞《かすみ》たなびく
  子等我手乎 卷向山丹 春去者 木葉凌而 霞霏※[雨/微]
 
 この歌は、初句は枕詞で、『手を纏《ま》く・卷《まき》向山』と同音によつて續けたものである。今卷向山を見れば檜や杉などの木ずゑをも凌いで一面に霞が棚引いてゐる。もう春になつたからだといふのである。
 この歌で特徴は、『木の葉しぬぎて』といふ句にあるが、かういふ表はし方のものが萬葉に幾つかあるのである。『奧山の菅《すが》の葉|凌《しぬ》ぎ零《ふ》る雪の消なば惜しけむ雨な零《ふ》りそね』(卷三。二九九)。『奥山の眞木《まき》の葉|凌《しぬ》ぎ零《ふ》る雪の雫《ふ》りは益すとも地《つち》に落ちめやも』(卷六。一〇一〇)。『高山の菅の葉凌ぎ零《ふ》る雪の消《け》ぬとか言《い》はも戀の繁けく』(卷八。一六五五)などの例である。押し凌いで、壓《あつ》して、(332)押し分けてといふやうな意味がある。『いはせ野に秋萩凌ぎ馬竝めて始鷹獵《はつとかり》だに爲《せ》ずや別れむ』(卷十九。四二四九)。『をみなへし秋萩凌ぎさを鹿の露分け鳴かむ高圓の野ぞ』(卷二十。四二九七)の如きは、秋萩の間を分けつつなどといふぐらゐの意味をもつてゐる。これ等の用例のうち、『木の葉凌ぎて霞たなびく』の句はやはり何處か眞實のところがあつて好い。
 上の句の枕詞の使ひざまなどは人麿らしいところもあり、人麿が若し、卷向の穴師の里あたりにゐたとせば、かういふ樂《らく》な種類の歌を幾つか作つたと考へても差支は無いわけである。つまり全力を灑がない歌が幾つかあり得るだらうといふことになる。どんな優れた歌人でも一首一首盡く優秀といふわけには行かない。そこがまたおもしろいところなのである。併しこれも、人麿作といふ假定の上に云へることなので、或は人麿作で無いのかも知れないのである。この歌、袖中抄に載り、第二句、マキモクヤマ。第四句、コノハシノキテとあり、赤人集には、『としかみをまきもく山に春されはこのはるしきてかすみたなひく』(【西本願寺本】)、『子らが手を卷もく山に春くれば木の葉凌ぎて霞たなびく』(【流布本】)として載り、風雅集春上に人丸として(【第二句、まきもく山】)載つてゐる。
 
          ○
 
(333)  〔卷十。一八一六〕
  玉《たま》かざる夕《ゆふ》さり來《く》れば獵人《さつひと》の弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に霞《かすみ》たなびく
  玉蜻 夕去來者 佐豆人之 弓月我高荷 霞罪※[雨/微]
 
 ○玉蜻 タマカギルと訓む。舊訓カゲロフノと訓んでゐたのを、考でカギロヒノと訓んだ。そして古義は、この歌に於ては考に從つてゐるが、卷十一に至つてタマカギルといふ訓を出し、『可藝留《カギル》は、可藝呂比《カギロヒ》、可藝呂布《カギロフ》など云と同言にて、光耀《カガヤ》くことなり』(【枕詞解】)と言ひ、更に「玉蜻考」に於てこの説を完成した。それでこの雅澄の説に從つて、ここもタマカギルと訓むのである。この言葉に就いては、既に人麿の安騎野の長歌(卷一。四五)及び妻の死を悲しむ長歌(卷二。二〇七)の評釋(【評釋篇卷之上五〇九・七四六頁】)に於て述べて置いた。○佐豆人之・弓月我高荷 サツヒトノ・ユツキガタケニと訓む。獵人の弓月嶽にで、弓《ゆみ》と弓《ゆ》とで續けてゐるのである。『薩人は上にも注する獵人なり。よりて弓とはつづけたり』(代匠記初)。『さつ人は、もはら弓矢もて鳥獣を獵ゆゑ、さつ人の取(リ)持(ツ)弓束《ユツカ》といふ意に、弓槻《ユミツキ》といふ地に云かけたるなるべし。……ただに弓《ユ》といふにのみかかれるにはあらじ』(古義)等で大體分かる。そして此處の枕詞の係は、やはり、ユミ即ちユに續けたものである。このサツヒトノといふ使ひざまは萬葉集になほ多くあるかと思つたが、實際は一つしか無(334)いらしい。それから、獵人《さつひと》と讀ませるのも一つしか無いらしい。他の例は、『あしひきの山の獵夫《さつを》にあひにけるかも』(卷三。二六七)。『山のべにいゆく獵夫《さつを》は多かれど』(卷十。二一四七)等である。
 この歌は第一句で枕詞を用ゐ、また第三句で枕詞を用ゐて、ほかは單純に樂々と歌つてゐるものである。つまり中味内容の非常に少ない歌だが、これでも一首獨立してゐるのである。明治新派和歌の興つた當時、子規などもはじめは内容の複雜性を説いたのであつたが、漸次必ずしもさうは行かぬことを悟入したものである。
 この歌は袖中抄に、『カケロフノハルサリクレハ佐豆人《サツヒト》ノ弓月《ユツキ》カタケニカスミタナヒク』として載り、赤人集に、『かけろふのゆふさりくれはかりひとのゆめみえかたにかすみたなひく』(【西本願寺本】)、『ゆつきがたけに』(【流布本】)として載り、六帖に、『かげろふの夕さりくればさと人のつゆおきかたに霞たなびく』として載つてゐる。又夫木和歌抄には、『かげろふの』『さと人のゆつきのたけに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一八一七〕
  今朝《けさ》行《ゆ》きて明日《あす》は來《き》なむと云《い》ひ寢《ね》しに朝妻山《あさづまやま》に霞《かすみ》たなびく
(335)  今朝去而 明日者來牟等 云子鹿丹 旦妻山丹 霞霏※[雨/微]
 
 初句ケフユキテ。ケサユキテ。古來この二訓があつた。拾穗抄はケサユキテを採用した。第二句第三句は種々の訓があり、アスハコムトイフコカニ。アスハコムトイフシカスガニ。アスハキナムトイフコカニなどである。アスハキナムトイフ(代匠記精)。アスハコムチフ(古義)。『子鹿丹』の訓はまちまちで、シカスガニ(拾穗抄)。ハシキヤシ、サニヅラフ(古義)等の説もあるが、新考はアスハキナムト・イヒテユクと訓み、森本治吉氏はアスハキナムト・イヒネシニと訓んだ。即ち云子鹿丹《いひねしに》とその儘よんだのである。併しこれでは稍古調から遠いやうである。朝妻山は大和南葛城郡葛城村にある朝妻で、天武天皇紀に、幸2于朝嬬1云々とあるところである。そんなに高い山でないことが分かる。
 一首は、ただ朝妻山に霞たなびくといふだけの歌と看る方がいいとおもふ。つまりその上は序詞の形式となるのである。この上の句に意味が相當にあり、續きも相當にいいので古來單なる序詞とせずに解釋したが、ここは餘り意味を持たせずに解釋する方がよく、さすれば、『云ひ寢しに』と訓んだ、稍くだけたやうな調子も生き得るのである。併しそれでも若し第三句が、ハシキヤシとかサニヅラフとかに訓み得るなら、歌としてはその方がよくなるから、これまでの訓では、古義の訓に從つた歌が一番いい。ただ、今はなるべく文字を改めずに訓まうとしてしばらくこの(336)訓に從つたのである。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、上句『けさ行てあすはこしといふしかすかに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一八一八〕
  子等《こら》が名《な》に懸《か》けの宜《よろ》しき朝妻《あさづま》の片山《かたやま》ぎしに霞《かすみ》たなびく
  子等名丹 關之宜 朝妻之 片山木之爾 霞多奈引
 
 この歌も第三句以下が中味でその上は序詞的装飾である。愛する妻といふ語の入つてゐる、朝妻山といふので、關聯せしめるのに具合のいいといふ意味である。唱ふるさへ氣持よいといふ意味で、萬葉集にはその他にも用例が幾つかある。この一首を吟誦してゐると、いかにも朗らかに清潔な感じがするだらう。これが不思議なぐらゐなものだが、當時の作者は心もせいせいしながら、餘程氣乘して作つたものと見える。民謠的でもあるけれども、『久方のあめの香具山このゆふべ』などと共に、棄てがたい人麿歌集中の歌の一つである。そして其處に並んでゐる七首は大體(337)に於て皆同じ調子であり、ひよつとせば人麿の作かも知れない。眞淵はじめこれ等を人麿作としては認めないのは、餘り朗らかで樂《らく》だからであらう。それから、是等の歌に續く讀人不知の歌と著しい差別を見出し得ないといふ點もあるだらう。實際、その讀人不知の歌は民謠的だが大體に於てなかなか旨い。それだから、當時の人々はこれぐらゐの歌は作り得たと解してよく、いい時代であつたと考へねばならない。また人麿のみが力量あつて、皆代作をしてしまつたなどと結論してしまはれないところがあるとおもふのである。
 この歌は、赤人集【流布本】及び六帖に入り、第二句『つけのよろしき』となつてゐる。又夫木和歌抄に人丸作とし、やはり『つげの』と訓んでゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一八九〇〕
  春日野《かすがぬ》に友鶯《ともうぐひす》の鳴《な》き別《わか》れ歸《かへ》ります間《ま》も思《おも》はせ吾《われ》を
  春日野 友※[(貝+貝)/鳥] 鳴別 眷益間 思御吾
 
 『春相聞』の部の最初に出て居り、以下七首の後に『右柿本朝臣人麿歌集出』と注せられてゐる。(338)○友※[(貝+貝)/鳥] 流布本『犬※[(貝+貝)/鳥]』となつてゐるが、古寫本(類)に據つて訂した。舊訓イヌルウクヒス。そこで代匠記では、『犬ノ下ニ類留等ノ字落タルベシ』と云つた。また考ではナケルウグヒスと訓み、『今本哭を犬とするは畫の消しなり』とし、略解で犬は去の誤とし、宣長説の犬は友の誤といふのを記入した。古義は考に從つて略解の宣長説を否定したが、現在は類聚古集によつて、宣長説が確められるに至つた。○眷益間 舊訓カヘリマスホド。考カヘリマスマモ。『眷』をカヘルと訓む例は、卷三(二九四)に、海人釣船濱眷奴《アマノツリブネハマニカヘリヌ》があり、字類抄に眷【カヘリミル】があるから、眷顧の意からその音を借りたものである。○思御吾 舊訓オモヒマスワレ。代匠記初オモヒマセワレヲ。又はオホシメセワレヲ。代匠記精一訓(吾は君の誤で)オモヒマセキミ。考(御は樂の誤とし)オモヘラクワレ。略解オモホセワレヲ。古義オモホセアレヲ。
 一首の意は、春日野で友鶯が別れてゆくやうに、ただいまあなたがお歸りにならうとする、そのほんの僅かの時にもどうぞ私のことを思つてください。といふので、朝、男の歸りゆくとき女の歌つたやうな心持になつてゐる歌である。
 『歸ります間も思ほせ吾を』だけで上は序であるが、その序詞がなかなか意味を持たせてゐるのである。この邊の序詞を味ふと、皆相當に骨折り、技巧を凝らしてゐるのが多い。この傾向は後世の生氣なき技巧に移行するのであらうが、この邊のものは未だ清新で反感なしに攝取すること(339)が出來るもののみである。『友鶯の鳴き別れ』は稍繊巧の氣味があるが、この歌の近處にもこれくらゐのものは幾つもあるわけである。この『友鶯』の語は面白いとおもつたのであるが、懷風藻に釋智藏の、忽値2竹林風1、求v友※[(貝+貝)/鳥]※[女+焉]《ワラヒ》v樹、含v香花笑v叢といふのがあつた。 この歌は、赤人集【西本願寺本】に、『はるをあひきく。はる山にいるうくひすのあひわかれかへりますまのおもひするかも』(【流布本三句以下『あひぬれば歸る待つ間の思ひするかな』】として載つてゐる。又夫木和歌抄には人丸作とし、舊訓の通りで載せてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一八九一〕
  冬《ふゆ》ごもり春《はる》咲《さ》く花《はな》を手折《たを》り持《も》ち千遍《ちたび》の限《かぎり》戀《こ》ひわたるかも
  冬隱 春開花 手折以 千遍限 戀渡鴨
 
 おなじく、『春相聞』人麿歌集出の中に分類せられて載つてゐる。『手』が、古寫本中(矢・京)に『乎』になつて居るのがある。そこで、舊訓では、『手折以』を、『乎折以』の如くにして、ハナヲヲリモチテと訓んだが、古寫本中タヲリモテ(類・神)。タオリモテ(西・細)と訓んだのもあ(340)り、諸抄では、拾穩抄ハナヲタヲリモテ。代匠記、或はハナヲヲリモチテか。童蒙抄ハナヲタヲリモテ(考同訓)。略解ハナヲタヲリモチ(古義・新考等同訓)。『冬ごもり』は『春』にかかる枕詞で、時の經つ意味の分かるものである。卷一(一六)に、冬木成春去來者《フユゴモリハルサリクレバ》。卷七(一三三六)に、冬隱春乃大野乎燒人者《フユゴモリハルノオホヌヲヤクヒトハ》等の例がある。
 一首の意は、〔冬隱《ふゆごもり》〕春になつて斯く美しく咲いた花を手折り持つて、幾たびも幾たびも、戀しくおもうて居る。この美しい花に寄せてお前が戀しくてならない。といふ意で、恐らく相對歌で、女に示す心持があるものであらう。
 考に、『こは春の花を幾度も手折てはめづるものからに、そのごとく君をおもふといふなり』、といひ、略解に、『花の幾たびも飽かずめでらるる如く、君を戀ふると言ふなり』といふ、その花は普遍一般の春の花のやうに聞こえるが、この歌の場合は、眼前に咲いて居る花のことでなければならない。其處を、『冬ごもり春咲く花を』と一般的なやうにあらはしたから、解釋に動搖したのであるが、此處の花は定冠詞の附くべき特定の花のことで、萬葉にはかういふ表はし方もあつた。また、考や略解の解釋では序歌のやうにも聞こえるが、この歌はさうばかりでもない。次に、古義で、『咲花を折持て、或は女に見せたく思ひ、或は共に頭刺《カザ》したく思ひなどして、際(リ)しられず戀しく思ひて、月日を送る哉、となり。花に感て戀情を催すなり』とあるが、上半の解釋まで立入(341)らぬ方が好く、ただ、『花に感て戀情を催すなり』だけで好いとおもふ。次に、代匠記精に、『冬隱春開花トハ、待々テヨキ程ニナレル人ニ喩フ。手折以ハソレヲ云ヒ靡ケテ我手ニ入ルルニ喩フ。戀渡ルトハ、上ニモ注セシ如ク、飽ズ思フヲ戀渡ト云ナリ』とあるのも稍立入り過ぎておもしろくない。
 この歌は、分かり易く、何の不思議のない寧ろ平凡な歌であるが、『千遍《ちたび》の限り』といふいひ方に特色がある。卷四(五九五)に、吾命之將全幸限忘目八《ワガイノチノマタケムカギリワスレメヤ》。卷二十(四四四一)に、與能可藝里爾夜故非和多里奈無《ヨノカギリニヤコヒワタリナム》といふのがあり、なほ、卷十一(二三七一)に、心千遍雖念人不云吾戀※[女+麗]見依鴨《ココロニハチタビオモヘドヒトニイハズワガコヒヅマヲミムヨシモガモ》。卷十二(二九〇一)に、赤根指日之暮去者爲便乎無三千遁嘆而戀乍曾居《アカネサスヒノクレヌレバスベヲナミチタビナゲキテコヒツツゾヲル》がある。前者はやはり人麿歌集にあるものだが、『チタビノカギリ』といふ言方は、萬葉にもただ一例あるのみのやうである。
 この歌は、和歌童蒙抄第七に、『フユコモリハルヒサク花ヲタヲリモテイヘノカキリモコヒワタルカナ萬葉第十ニアリ』とある。イヘは誤寫であらうが、ハルヒサク花としたのは稍注意していい。夫木和歌抄には、人丸作とし、第四句『ちへのかぎりも』となつてゐる。
 
          ○
 
(342)  〔卷十・一八九二〕
  春山《はるやま》の霧《きり》に惑《まど》へるうぐひすも我《われ》にまさりて物《もの》思《おも》はめや
  春山 霧惑在 ※[(貝+貝)/鳥] 我益 物念哉
 
 やはり『春相聞』の歌である。○霧惑在 舊訓キリニマドヘル。代匠記精キリニワビタル。童蒙抄カスミヲワクル。考キリニマドヘル(略解・古義・新考同訓)。
 一首の意は、春山に立ちこめた霧に困迷してゐる鶯でさへ、我が戀に迷惑して苦しんでゐるよりは何程のことも無い。といふぐらゐの意であらうか。
 考に、『ここにいふ霧は即かすみなり。又きりと云にくもりあるなり』といひ、略解に、『古へ霧も霞も通はし言へり』と云つて大體解釋が附くのであるが、童蒙抄では其處に氣が附かず、『春の霧と云は、霞の棚引こめたる空は、霧の降たつによく似たるものから、義をもて書きたる共見ゆる也。霞と云もののあるに、霧をわざと詠むべき事にもあらねば、此義疑はしき也。霧にまどへると云詞より、霞をわくると云方聞よからんか』と云つた。代匠記には、朗詠の、『咽v霧山鶯啼尚少』を引き、童蒙抄も同じくそれを引いて、『霧霞深き山路をわけくる鶯も、戀路にまどふわれには及ばじと云意也』と云つてゐる。併し、キリはキルと同語で、既に評釋した人麿の、卷一(343)(二九)にある、春日之霧流《ハルヒノキレル》もさうであるし、卷五(八三九)に、波流能努爾紀利多知和多利布流由岐得《ハルノヌニキリタチワタリフルユキト》云々とあるのは、先づ春の霞と看做していいものである。また、卷二(八八)の、秋之田穗上爾霧相朝霞《アキノタノホノヘニキラフアサガスミ》は、キリであるがカスミと云つてゐる。
 この歌の、『春山の霧に惑へる鶯』といつた表現は非空非實のうちに、切實な響を傳へてゐて好く、一首が一の感情態で統一されてゐるところがある。樂につくつたやうに見えて、苦澁の痕をとどめないから、左程ともおもはずに看過しがちであるが、一たびは顧慮していい歌だとおもふ。似た情調の歌としては、『九月《ながつき》の時雨《しぐれ》の雨の山霧のいぶせき吾が胸誰を見ば息《や》まむ』(卷十。二二六三)。『秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆《なげき》しまさむ』(卷十五。三五八一)などがある。この歌を直ちに人麿作と斷定し得ず、他の萬葉歌人にもこれくらゐの聲調を出し得るものが幾らも居らうが、民謠風の境界まで行つてなほ個に即する點のあることを見免したくないのである。
 この歌は、六帖に霧の部に人丸作、『春山の霧にまがへる鶯も我にまさりてもの思ふらむや』として載り、又夫木和歌抄に人丸作として採られてゐる。
 
          ○
 
(344)  〔卷十・一八九三〕
  出《い》でて見《み》る向《むか》ひの岡《をか》に本《もと》繁《しげ》く咲《さ》きたる花《はな》の成《な》らずは止《や》まじ
  出見 向崗 本繁 開在花 不成不止
 
 ○向崗 ムカヒノヲカニと訓んだ。舊訓ムカヒノヲカノ。代匠記精(崗の下桃の字脱とし)ムカツヲノモモ。略解ムカヒノヲカニ。
 この歌は、ただ、『成らずはやまじ』といふのに主眼があるので、その上は序詞である。その序詞も比較的自然だし、本繁く咲きたる花のなども實物を看てゐて、心を暗指せしめてゐる點が特本繁く殊である。この結句は流石に強くて旨いとおもふ。人によつてはこれを序詞とせずに、ずうつと通つた意味の歌として解釋する向もあるかも知れない。
 先に引いたやうに、代匠記では第二句を、ムカツヲノモモと訓み、『今按、向崗ノ下ニ桃ノ字有テ、ムカツヲノモモニテ有ベキヲ、桃ヲ落セル歟。第七ニ向峯爾立有桃樹《ムカツヲニタテルモモノキ》云々。此レ傍證ナリ。向崗ヲムカツヲトヨム傍證ハ、同第七ニ向岡之若楓木《ムカツヲノワカカツラノキ》云々。腰句以下ハ第七ニ、ハシキヤシ吾家ノ毛桃本繁花ノミ開テ成ラザラメヤモ。第十一ニ、ヤマトノ室原《ムロフ》ノ毛桃本繁ワカキミ物ヲ成ラズハヤマジ。此等ヲ引合スルニ彌桃ノ字アルベキ事知ラレタリ。但古本ヨリ落タリケルニヤ』(代匠(345)記精)。また略解では、第四句をサキタルモモノと訓み、『さて花は桃の字の誤なり。卷七、はしきやし吾家《ワギヘ》の毛桃本繁み花のみさきてならざらめやも。卷十一。やまとの室原《ムロフ》の毛桃本繁みいひてしものをならずはやまじといへるに大かた同じと宣長云へり。濱臣云。在は毛の誤にて、サキタルケモモなるべしと言へり』(略解)。二つとも『桃』を聯想して居る點がおもしろい。
 此歌六帖に二三句『向ひの岡の本繁み』として載り、夫木和歌抄に人丸作、第二句『むかひの岡の』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一八九四〕
 
  霞《かすみ》立《た》つ春《はる》の永日《ながひ》を戀《こ》ひ暮《く》らし夜《よ》の深《ふ》け行《ゆ》きて妹《いも》に逢《あ》へるかも
  霞發 春永日 戀暮 夜深去 妹相鴨
 
 『春相聞』。○春永日 舊訓ハルノナガヒヲ(代匠記・新考同訓)。拾穗抄一訓ハルノナガキヒ(童蒙抄・考・略解同訓)。古義ナガキハルヒヲ。古寫本中、ハルノナガキヒ(類)。○夜深去 舊訓ヨノフケユケバ。童蒙抄ヨノフケユカバ。者ヨノフケユキテ(略解・古義・新考同訓)。考の訓は、代匠(346)記官本又云、ヨノフケユキテとあるのに據つたものであらう。○妹相鴨 舊訓イモニアヘルカモ(諸書從之)。童蒙抄イモニアハムカモ。
 一首の意は、〔霞發《かすみたつ》〕永い春の日をば、妹に戀ひて、やうやく暮れてもまだ逢ふことが出來ず、夜になつて、その夜も更けて、妹に逢ふことが出來た。ああ妹に逢つた。といふのである。
 『霞たつ』は枕詞でも、意味のある形容詞風の枕詞と考へていい。この歌の情調は、『此句今ノ點ノ意ハ、永キ日ヲ戀クラシテ猶夜ノ深行マデ戀テイネザリシカバ、其カヒ有テ妹ニアヘルカモトナリ』(代匠記精)といふのにあるに相違ないが、代匠記ではヨノフケユケバと訓んでかう解釋したので、若しヨノフケユキテと訓むとせば、『官本又點ノ意ハ、永日ヲ戀暮ラスダニアルヲ、夜サヘ深テト逢コトノハカナキヲ云ナリ』(代匠記精)となるのである。然るに考では、ヨノフケユキテと訓んで、『歌の意は、あふをうれしめるなり』(考)といふのであり、大體それで間違はないとおもふ。童蒙抄の訓は別な情調になつてしまふやうである。
 卷十一(二六一四或本)に、『眉根掻き誰をか見むと思ひつつ日長《けなが》く戀ひし妹に逢へるかも』とあるのも、やはり嬉しい滿足の氣特であり、卷七(一〇九二)に、『鳴る神の音のみ聞《き》きし卷向の檜原《ひはら》の山を今日見つるかも』といふのも同樣の心持であるから、この歌もそれに相違あるまい。ただこの歌には、さういふ伸々とした調べがあつて、結句の感動をば導くやうになつて居るところに(347)注意すべく、『を』、『し』、『て』あたりで、弛むやうにして弛まぬ微妙な點も作歌修練上必ず參考になるとおもふ。無論一首は樂《らく》な歌であるが、萬葉の歌は皆さういふ特色を持つて居て好い。
 この歌は、六帖には、『打來てあへる』の部に入り、第二句『ながき春日を』、第三句『夜の更け行けば』となつて居る。
 
          ○
 
  〔卷十・一八九五〕
 
  春《はる》されば先《ま》づ三枝《さきくさ》の幸《さき》くあらば後《のち》にも逢《あ》はむ莫《な》戀《こ》ひそ我妹《わぎも》
  春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹
 
 おなじく、『春相聞』の歌である。○三枝 サキクサノと訓む。舊訓サキクサノ。古寫本中サイクサノ(神)。童蒙抄サイグサノ。略解宣長説(先は花の誤)ハナサキクサノ。○幸命在 サキクアラバと訓む。舊訓サキクアラバ(【代匠記・略解・古義・新考・新訓等同訓】)。古寫本中サチアラバ(神)。イノチアラバ(細)。童蒙抄サキカラバ(考同訓)。○後相 ノチニモアハムと訓む。舊訓ノチモアヒミム。代匠記精ノチニモアハム(略解・古義・新考等)。童蒙抄ノチニゾアハム。考ノチモアヒナム。○莫戀吾味 舊(348)訓ナコヒソワギモコ。古寫本中ナコヒソワギモ(西・矢・京)。ナコヒソワガイモ(細)。コフナワガイモ(神)。代匠記初ナコヒソワギモ(童蒙抄以下同訓)。
 春になれば、『先づ咲く、さきくさの』で、これが序詞で、『さきく』以下に續けてゐるのである。サキクサは種々の説がある。山百合、三椏、蒼朮、靈芝、沈丁花、福壽草、三葉芹等である。或は、サキクサ(幸草)の感があればよいので、一種でないのかも知れず、また、特に 『幸草』と感じたとせば、外國渡來の草であつたかも知れない。さうすれば、沈丁花、三椏などであらうか。結句の、『な戀ひそ我妹』は、餘り歎くな、くよくよするなといふ意味に使つてゐるが、それに、『な戀ひそ』といふのが今から見れば珍らしいので、その點で注目に價するのである。一首は民謠的で、左程のものではない。『草枕旅に久しくなりぬれば汝《な》をこそ念《おも》へ莫《な》戀《こ》ひそ吾妹《わぎも》』(卷四。六二二)。『小墾田《をはりだ》の板田の橋の壞れなば桁《けた》より行かむな戀ひそ我妹』(卷十一。二六四四)などの例もあるから、普通さう云つたらしいが、はじめは誰かが用ゐて、具合がいいので普通の歌言葉になつたものとおもへる。
 この歌、六帖の『あつらふ』の處に人丸作として入り、『春來ればまづさき草の幸ありし後もあひ見む戀ふなわぎもこ』となつてゐる。
 
(349)          ○
 
  〔卷十・一八九六〕
  春《はる》さればしだり柳《やなぎ》のとををにも妹《いも》が心《こころ》に乘《の》りにけるかも
  春去 爲垂柳 十緒 妹心 乘在鴨
 
 ○爲垂柳 舊訓シダリヤナギノ。古義シダルヤナギノ。○十緒 舊訓トヲヲニモであるが、古寫本中トヲヲナル(類・元)と訓んだのがある。○乘在鴨 舊訓ノリニケルカモ。古寫本中、ノリニタルカモ(類・元)といふのもある。代匠記初ノリニタルカモ(童蒙抄同訓)。考・略解・古義ノリニケルカモ。古義でシダルヤナギと訓んで、『春になれば、しだるる柳のと云意なり』と云つたが、和名鈔に、兼名苑云、〓【力久反、】一名小楊、【之太利夜奈岐】とあつて、シダリヤナギといふ名詞が既に出來て居るのだから、さう訓んでいいとおもふ。
 一首は、春になれば茂つてし垂《だ》れる、しだり柳のやうに靡き撓《しな》ひて、私の心のうへに戀しい妹《いも》が乘つてしまつて居る。私の心に妹が乘つて離れない。妹のことで一ぱいであるといふのである。
 この、『乘る』といふ如き表現について、『吾心のなよなよと妹が心にのりしのぶにたとふなり』(考)といふのは不穩當で、『妹ガ心ニノルとは、妹ガ此方ノ心ニ乘ルとなり』(新考)といふのであ(350)る。新考のこの解は、『妹が事の常に我心の上に在るを言へり』(略解)と同じである。語を轉倒すれば、『ワガ心ノウヘニ、妹ガ乘ル』といふことになるのである。卷二(一〇〇)に、東人之荷向〓乃荷之緒爾毛妹情爾乘爾家留香問《アヅマヒトノノザキノハコノニノヲニモイモガココロニノリニケルカモ》。卷十一(二四二七)に、是川瀬瀬敷浪布布妹心乘在鴨《ウヂガハノセセノシキナミシクシクニイモガココロニノリニケルカモ》。同卷(二七四八)に、大舟爾葦荷刈積四美見似裳妹心爾乘來鴨《オホフネニアシニカリツミシミミニモイモガココロニノリニケルカモ》。同卷(二七四九)に、驛路爾引舟渡直乘爾妹情爾乘來鴨《ウマヤヂニヒキフネワタシタダノリニイモガココロニノリニケルカモ》。卷十二(三一七四)に、射去爲海部之※[楫+戈]音湯鞍干妹心乘來鴨《イザリスルアマノカヂノトユクラカニイモガココロニノリニケルカモ》などの例がある。
 元來、ココロニノルといふ表現は、卷十四(三五一七)に、思良久毛能多要爾之伊毛乎阿是西呂等許己呂爾能里氏許己婆可那之家《シラクモノタエニシイモヲアゼセロトココロニノリテココバカナシケ》。卷四(六九一)に、百磯城之大宮人者雖多有情爾乘而所念妹《モモシキノオホミヤビトハオホカレドココロニノリテオモホユルイモ》とある如く、『妹ガ吾ガ心ノウヘニ乘ル』やうに使つて居る。この、『ココロニノル』といふ語の表現は、最初は東歌あたりの實際から來て、馬に乘るの乘ると同じところから來たものであらうが、氣の利いた言方なので、かくの如くに數例があり、稍諧謔を交へた機智的分子をも交ふるに至つたのであるが、當時の人々はかういふ言方についても興味を持ち、共鳴し理會し得たことはおもしろいことである。此歌、六帖に入り、『春くればしだり柳のとををにも妹が心によりにけるかも』とある。
  參考。佐伯梅友氏の「萬葉集の助詞二種」(國語國文の研究第二十二號)に、『かも』で文の終る場合に(351)守護が『…が』の形となることは萬葉集中に例證がないから、『イモガココロニノリニケルカモ』は誤で『イモハ』と訓むべきであると論じてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・一九九六〕
  天漢《あまのがは》水底《みなそこ》さへに照《て》らす舟《ふね》竟《は》てし舟人《ふなびと》妹《いも》と見《み》えきや
  天漢 水〔底〕左閉而 照舟 竟舟人 妹等所見寸哉
 
 『秋雜歌』、『七夕』の部の始めを占める、『右柿本朝臣人麿歌集出』と左注せられた三十八首の第一首である。○水左閉而照舟竟舟人 舊訓ミヅサヘニテル・フナワタリ・フネコグヒトニ。代匠記精ミナソコサヘニ・テラスフネ・ハツルフナビト。童蒙抄ミヅサヘナガラ・テラセルニ・ワタルフナビト。又ミヅサヘニテル・フナヨソヒ・カヂトルヒトモ。又ミヅサヘシカモ・テルフネヲ・コグフナビトヲ。考ミヅサヘニテル・フナヨソヒ・フネコグヒトノ。略解ミナソコサヘニ・テルフネノ・ハテテフナビト。古義ミナソコサヘニ・ヒカルフネ・ハテシフナビト。新考ミナゾコサヘニ・テラスフネ・ハテシフナビト(全釋同訓)。新訓ミヅサヘテテル・フナギホヒ・フネコ(352)グヒトハ。○妹等所見寸哉 舊訓イモトミエズヤ。代匠記初イモトミエキヤ。代匠記精(【上を舊訓に從へば】)イモラミエキヤ。
 少しく文獻を引用するに、『但赤人集ニ天河水底マデニ照ス舟ツ|ヰ《イヒ》ニ舟人妹ト見エス|ソ《イヤ》トアレバ、今ノ本、水ノ下ニ底ノ字ヲ落セルカ。然ラバミナソコサヘニ・テラスフネ・ハツルフナビトト讀テ、落句ハ妹ト相見エキヤト意得ベキ歟』(代匠記精)。『今本章を竟としてふなわたりと訓たれど、意とほらず字を誤る。よりて考るに、船竟二字は艤の一字にて、ふなよそひかとおもへれど、字のちかければ暫章としてよそひと訓む。一本竟を競に作りてきそひとよめり、されど水左閉而照《ミヅサヘニテル》といへばよそひの方つづきてきこゆ』(考)。『古本、水の下底の字有り。然れば二三四の句、ミナソコサヘニ、テルフネノ、ハテテフナビトと訓むべし』(略解)。『照舟は、ヒカルフネと訓べし。艤《ヨソヒ》の美麗《ウルハシ》きをいへり』(古義)。『竟は温故堂本に競に作つてゐるので、新訓には上につづけて、フナギホヒと訓んでゐるが、他本は皆竟とあるのだから、竟としてよむ方がよいやうに思ふ。竟は竟而佐守布《ハテテサモラフ》(一一七一)。年者竟杼《トシハハツレド》(二四一〇)など、ハツとよむべき文字である。ハテシフナビトは對岸へ到着した舟人、即ち牽牛星のことである』(全釋)。右の諸説のうち、大體に於て全釋の綜合説に從ふことにした。
 一首の意は、『天の川の水の底までも照らす程の美しい舟に乘つて、對岸に著いた牽牛星といふ(353)舟人は、妻の織女星と今夜一年ぶりで逢つたであらうか。どうであらう』(全釋)。
 諸説があつても、大體右の解釋で無理がさう無いやうである。そしてこの解釋の根源は代匠記まで溯ることが出來る。一首は七夕傳説の牽牛・織女をば現身世界の戀愛のやうに見立てて歌つてゐるところに妙味があり、結句の、『妹と見《み》えきや』、即ち、『妹と相見《あひまみ》えきや』と云つてゐるところに妙味があるのである。ただ、この如き用例は萬葉に他にあるかどうか未だ知らない。相見ム、相見シ、相見ツル等はあるが、相見ユの例はどうであらうか。卷十一(二八〇一)に、見卷欲乎不所見公可聞《ミマクホシキヲミエヌキミカモ》。卷十二(二九五八)に、夢谷不止見與《イメニダニヤマズミエコソ》等があり、卷五(八九一)に、一世爾波二遍美延農知知波波袁《ヒトヨニハフタタビミエヌチチハハヲ》とあるのでも、二人が相見ることには使つてゐない。
 七夕の歌の中に、『さ丹塗の小船もがも玉纏の眞櫂《まかい》もがも』(卷八。一五二〇)。『上つ瀬に珠橋渡し下つ瀬に船浮けすゑ』(卷九。一七六四)。『そほ船の艫にも舳にも船艤《ふなよそ》ひ眞楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き』(卷十。二〇八九)などの句があり、懷風藻の山田史三方の七夕一首には、金漢星楡冷、銀河月桂秋、靈姿理2雲〓1、仙駕度2横流1、窃窕鳴2衣玉1、玲瓏映2彩舟1、所v悲明日夜、誰慰2別離憂1といふ五言詩がある。
 此歌赤人集【西本願寺本】に、『あきのさふのうた。あまのかはみなそこまてにてらすふねつひにふなひといもとみえすや』(【流布本結句『妹とみえつや』】)とある。
 
(354)          ○
 
  〔卷十・一九九七〕
  ひさかたの天漢原《あまのかはら》に鵺鳥《ぬえどり》のうら歎《な・なげ》きましつ羨《とも》しきまでに
  久方之 天漢原丹 奴延鳥之 裏歎座津 乏諸手丹
 
 同題。○奴延鳥 和名鈔に※[空+鳥]【音空、漢語抄云、沼江】。新撰字鏡に鵺、※[易+鳥]奴江で、即ち虎鶫《とらつぐみ》である。この鳥の夜聲は痛切で心の中で泣く如くに聞こえるので枕詞にした。『かれが聲のかなしくうらめしげなるを、人の哭泣《ヲラビナク》に譬ておけり』(冠辭考)。卷一(五)に、奴要子鳥卜《ヌエコドリ》歎《ナキ・ナゲキ》居者《ヲレバ》。卷十(二〇三一)に、奴延鳥浦《ヌエトリノウラ》嘆《ナキ・ナゲキ》居《ヲリト》。卷十七(三九七八)に、奴要鳥能宇良奈氣之都追《ヌエドリノウラナケシツツ》等の例がある。○裏歎座津 舊訓ウラナキマシツ。古寫本にはウラナゲキシツ(元・類・神)といふ訓もあり、神田本の書入にウラナケマシツ或本とある。代匠記でウラナゲマシツと訓んだ。童蒙抄ウラナキヲリツ。さて、若しナゲを動詞の連用言とせばどういふ活用であるか不明であり、ナゲクといふ加行四段の動詞とせば、ナゲは語幹であるか、さうすれば語幹から直ぐマスといふ動詞には續かない。ナゲは或は名詞か、卷十七の宇良奈氣《ウラナケ》は名詞として左行變格の爲《ス》といふ動詞に續けてゐる。併しナゲといふ名詞から(355)直ぐマスといふ動詞に續け得るか疑問である。そこで、差向き舊訓の如くウラナキマシツと訓むこととした。古事記の、阿袁夜麻邇奴延波那伎《アヲヤマニヌエハナキ》が好參考例となり、從つて他の用例も、ウラナゲでなく、ウラナキと訓むのである。ただ萬葉ではナクの場合には哭又は泣の文字を使つて居り、嗟・歎・嘆はナゲクと訓ませてゐるし、紀・新撰字鏡・伊呂波字類抄等でもさうであるから、さうすればウラナゲキマシツと字餘りに訓んでもよい。井上博士の新考ではさう訓んで居る(新考二〇二一頁)。卷一の卜歎を玉の小琴ウラナケ。略解ウラナケ。燈ウラナゲであるが、新考ではそれに賛成してゐない。○乏諸手丹 舊訓の如くトモシキマデニと訓む。トモシは、羨し、珍らし、稀なり、愛すべしなどの意のあること既に評釋したごとくであるが、此處も、羨《うらやま》しい程にといふ意から、身につまされる程といふのに落著くところである。即ち羨む心理は、切に心を投入して起るのであるから、互に相通ずる點があると見える。用例を參考すれば、『妹があたり茂き雁がね夕霧に來鳴きて過ぎぬ羨《とも》しきまでに』(卷九。一七〇二)があり、既に評釋した。
 先進の説を此處に書くと、『落句ハ、メヅラシキマデニナリ。織女ノ歎クヲメヅラシト云ハムハ本意ナラヌヤウナレド、佳人モ痛クヱミサカニテホコリカナルヨリハ、少シウラブレタル樣ナルニ艶ナル所ハ添ヒヌベシ。マデニト云詞ハ、乏シト云ヒハツルニアラヌ意ナリ』(代匠記精)。『此歌にては寂しき意也』(童蒙抄)。『外《ヨソ》に居て見やる人の、うらやましく思はるるまでに、天(ノ)河原に出(356)立て、彦星の來まさむを、心に喜《ウレ》しく下待て、棚機女の裏《シノビ》に歎美《ナゲキ》座つるよ、と云ならむか』(古義)。
 一首の意は、大體右で分かるが、なほ試にいふならば、天上の天の河原では、織女が、牽牛の來るのを待わびて、鵺鳥の聲のやうに切に、歎《なげ》かれた、よそ目にも身につまされるほどに。である。
 新考で、カナシキマデニと訓み、乏は哀などの誤寫としたのには從ひがたいが、心には私解と相通ずるものがある。また、トモシは、代匠記で織女の容子を客看したやうに解釋したが、さうすれば、『心なき雨にもあるか人目|守《も》り乏しき妹に今日だに逢はむを』(卷十二。三一二二)などの意になるが、此處はもつと身に即した主觀的な句であらう。即ち、『夕月夜《ゆふづくよ》影立ち寄りあひ天の河こぐ舟人を見るがともしさ』(卷十五。三六五八)といふのもあるのだから、やはり、ウラヤマシといふ意から導かれて、ミニツマサレル、ミニシムぐらゐの意味があるのではなからうか。
 此歌、袖中抄に、『ヒサカタノアマノカワラニヌエトリノウラナケキツヽトモシキマテニ』。赤人集【西本願寺本】に、『ひさかたのあまのかはらにぬるとりのうらひをりつくるしきまてに』(【流布本第四句『うらびれをりつ』】)として載つてゐる。
 
          ○
 
(357)  〔卷十・一九九八〕
  吾《わ》が戀《こひ》を夫《つま》は知《し》れるを行《ゆ》く船《ふね》の過《す》ぎて來《く》べしや言《こと》も告《つ》げなむ
  吾戀 嬬者知遠 往船乃 過而應來哉 事毛告火
 
 ○吾戀 舊訓ワガコヒヲであるが、古寫本にワガコフル(元・神)とあり、略解でもワガコフルと訓んだ。併し此は舊訓の儘が好い。○嬬者知遠 舊訓イモハシレルヲ。代匠記精ツマハシレルヲ。略解、知は弥の誤、ツマハイヤトホク。この略解の訓は、古寫本に『弥イ本』(京)とあり、ツマハイヤトホ(ヲ)などと訓んだのがある(元・神)のに據つたのであらう。○過而應來哉 スギテクベシヤと訓み、過ぎて行くべしやの意である。この行《ユク》・來《ク》は同じ場合に使つて居り、文字もまた今とは違つて行と歸を混合して使つてゐる。卷一(七〇)に、倭爾者鳴而歟來良武呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流《ヤマトニハナキテカクラムヨブコドリキサノナカヤマヨビゾコユナル》は啼いて行く意であり、卷四(五七一)に、率此間行毛不去毛遊而將歸《イザココニユクモユカヌモアソビテユカム》とある、歸は行の意味である。○事毛告火 舊訓コトモツゲラヒ(代匠記同訓)。童蒙抄、火は哭の誤、コトモツゲナク(略解・古義同訓)。考コトモノラナク。略解補正コトモツケナム。この補正の著者が訓義辨證にそれを論じ、『按に、火は南の意に借たるにて、ツゲナムと訓べきなり』と云つて居る。この訓は、卷十三(三二九八)に、縦惠八師二二火四吾妹《ヨシヱヤシシナムヨワギモ》とある、『火』を舊訓既にナムと訓み、(358)代匠記に、『火ハ五行ヲ以テ五方ニ配スル時、南方ハ火ナル故ニ、火ヲ南ノ字ノ音ニナシテカレル歟』と説明して居るのに據つたものである。
 一首の意は、織女の心持で咏んだ歌である。私の戀をば牽牛が知つておいでである筈なのに、彼方を漕いで行く船が、私に言傳もなく、行過ぎてしまふのでせうか。といふのである。
 それゆゑ、『嬬』は、『夫』の借字であるべく、ベシヤは強くなじるやうな語氣を持つてゐて、反語になつてゐる。卷一(一七)に、情無雲乃隱障倍之也《ココロナククモノカクサフベシヤ》と同じである。『ことも告げなむ』は、言《こと》だにも告げるであらうのにの意になるだらう。
 此歌は、赤人集【西本願寺本】に、『わかこふるいもはゝるかにゆくふねのすきてくへしやともつけなむ』(【流布本結句『言もつげなく』】)とある。
 
          ○
 
  〔卷十・一九九九〕
 朱《あか》らひく色妙《しきたへ》の子《こ》を屡《しば》見《み》れば人妻《ひとづま》ゆゑに吾《われ》戀《こ》ひぬべし
  朱羅引 色妙子 數見者 人妻故 吾可戀奴
 
(359) ○朱羅引 舊訓アカラヒク。普通|赤羅引《アカラヒク》日《ヒ》、朱引《アカラヒク》朝《アサ》等の如き枕詞として用ゐるが、此處は子《コ》に係らせた。また、膚《ハダ》に係らせた用法もあるのも同じやうな氣持である。アカラヒクはアカリヒクだといふ冠辭考の説に從ふと、日・朝に係るのは直ちに理會出來るが、その光の差す如くに美しいといふ意味で膚や子に冠らせたものであらう。○色妙子 シキタヘノコヲと訓む。古寫本中にはイロタヘノコノと訓んだのが多い。また、童蒙抄ウツクシキ又ウルハシキ又マグハシキ。敷妙《シキタヘ》は細布の意で、此處は、『女のうつくしく和《ナゴ》やかなるに譬へたる語なり』(冠辭考)とある如くである。○數見者 舊訓シバミレバ。古寫本中カズミレバ(元・類・神)の訓もある。屡《シバシバ》見ればといふ意で、數鳴《シバナク》のシバと同じ用ゐ樣である。○人妻故 ヒトヅマユヱニと訓む。人妻に因《よ》つての意。人妻が由縁になつて戀しくなる意のユヱニである。即ち、『人妻に縁《よ》つて』、『人妻に對して』、『人妻をば』といふのに落著くので、ここの『ゆゑに』は戀心の起る因縁を『人妻』といふ名詞に歸著せしめて居る用法である。『紫草《むらきき》のにほへる妹を憎くあらば人嬬ゆゑに吾戀ひめやも』(卷一。二一)。『うち日さす宮道《みやぢ》に逢ひし人妻|故《ゆゑ》に玉の緒の念ひ亂れて寢る夜しぞ多き』(卷十一。二三六五)。『小竹《しぬ》の上に來居《きゐ》て鳴く鳥目を安み人妻ゆゑに吾戀ひにけり』(卷十二。三〇九三)などの例がある。『なるにも係らず』の底意は、『人妻』といふのに關聯してはじめて可能なので、『ゆゑに』それ自身にその底意があるのではない。
(360) 一首の意は、この容麗しい女をば屡《しばしば》見て居れば人妻に對してでも私は戀しくおもふやうになるだらう。といふのである。
 この歌は七夕の歌としては尋常でないが、赤羅ひく色妙《しきたへ》の子《こ》をば織女と見たてて、作者が第三者の氣特になつて咏んだものとせば腑に落ちないこともない歌である。代匠記精に、『紅顔ノ匂《ニホ》フ色ノ妙ナル子ト織女ヲ云ナリ。【中略】杜牧ガ詩ニ、臥見牽牛織女星ト作ルガ如シ。織女ハ牽牛ノ妻ニテ我思ヒ懸ベキニアラヌ物故ニ、シバシバ見レバ戀ヌベシトナリ』とあるによつてその大概を知ることが出來る。右の如く七夕の歌であるが、現實の美しい女に對して居るやうな、身に即して居る點を注意すべきである。
 此歌、六帖に載り、第二三句『いろたへのこの數見れば』になつてゐる。また、赤人集【西本願寺本】には、『おほそらにたなひくあやめかすみれはひとのつまゆゑいもにあひぬへし』となつてゐる。同流布本は、本文の訓と同樣である。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇〇〕
  天漢《あまのがは》安《やす》の渡《わたり》に船《ふね》浮《う》けて秋《あき》立《た》つ待《ま》つと妹《いも》に告《つ》げこそ
(361)  天漢 安渡 船浮而 秋立待等 妹告與具〔其〕
 
 ○秋立待等 舊訓アキタチマツト。眞淵アキマツト(【新考・新訓同訓】)。略解宣長訓、『宣長云、秋は我の誤なり。ワガタチマツトなりと言へるぞ善き』。今、眞淵訓に從つた。秋の立つのを待つてゐるとといふ意である。○妹告與具 舊訓イモニツゲヨク。代匠記それに從つて、『好ク妹ニ告ヨトナルベシ』といつた。童蒙抄では、與は眞の誤でイモニノラマクとした。考では與具を乞《コソ》の誤とした。略解では、『與具は乞其の誤なるべし。告コソは告ゲヨカシと願ふ詞なり。卷十三、眞福在與具《マサキクアレコソ》と有るも、在乞其の誤なる事しるければ、共に誤れるなり』と云つた。併し、古義では、與具を必ずしも誤としがたいと注意した。新考では與其は與具の誤だとし、與だけでコソと訓めるが、それに其《ソ》を添へたことを注意した。卷六(九九五)に、如是爲乍遊飲與草木尚春者生管秋者落去《カクシツツアゾビノミコソクサキスラハルハサキッツアキハチリユク》。卷七(一二四八)に、奧藻花開在我告與《オキツモノハナサキタラバワレニツゲコソ》。卷十(一九六五)に、思子之衣將摺爾爾保比與《オモフコガコロモスラムニニホヒコソ》等がある。また、其をソと訓む例は、卷一(五〇)に、浮倍流禮其乎取登散和久御民毛《ウカベナガセレソヲトルトサワグミタミモ》。卷十三(三二五五)に、處女等之心乎胡粉其將知因之無者《ヲトメラガココロヲシラニソヲシラムヨシノナケレバ》等がある。この例は怪しむに足りないが、卷四(七〇六)に、何妹其幾許戀多類《イカナルイモゾココタコヒタル》。卷十一(二六一八)に、直道柄吾雖來夜其深去來《タダヂカラワレハキツレドヨゾフケニケル》とあるなどは、其をゾと訓ませてゐる。なほ、『與具』は、與v具であるから、願望の意に借りてコソと訓ませたのかとも思つて、支那の熟語を見たが見つからなかつた。
(362) 一首の意は、天の河の安《やす》の渡《わたり》に船を浮べて、秋の來るのを待つて居る、七夕には逢ふことが出來ると待ちこがれて居ると、妹に告げて呉れよ。といふ意で、牽牛のつもりになつて歌つて居るのである。
 歌は普通のもので、さう取りたてて云々すべき程のものではない。代匠記精に、『安渡モ天河ノ名ナリ。神代紀云。于v時八十萬(ノ)神《カムタチ》會合2於天(ノ)安(ノ)河邊《カハラニ》1、計2其可v祷之方1』云々。考に、『古事記に天安川原とあるは、都の地名なり。かく云は古事記の考にくはしく云。此歌にて安渡といふは、天漢銀河の事なり。それを彼地名の安川原にとりなしてよめるなり』ともある。神々の神集したところは天の安川原であるから、棚機のことにも天の河原だから移して安の河と云つたものであらうか。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『あまのかはやすのかはらにふねうけて秋|に《を(流布本)》まつとはいもにつけよとて』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇一〕
 
  蒼天《おほぞら》ゆ通《かよ》ふ吾《われ》すら汝《な》がゆゑに天漢路《あまのかはぢ》をなづみてぞ來《こ》し
(363)  從蒼天 往來吾等須良 汝故 天漢道 名積而叙來
 
 ○從蒼天 舊訓オホゾラニであつたのを、代匠記精でオホゾラユと訓んだ。○汝故 舊訓ナレユヱニ。略解ナガユヱニ。○天漢道 舊訓アマノカハヂヲ。卷十四(三四〇五)に、可美都氣乃《カミツケノヲ》乎度能多杼里我可波治爾毛兒良波安波奈毛《ドノタドリガカハヂニモコラハアハナモ》とあるから、カハヂと訓んでいい。古寫本にはアマノカハラヲと訓んだのがある(元・神)。○名積而叙來 舊訓ナヅミテゾクル。考ナヅミテゾコシ。
 一首の意は、天空を飛行自在に出來る吾であるが、お前を戀しくおもうて、天の河の河原路を難儀しながら來たのだ。といふぐらゐの意で、牽牛の心持になつて咏んで居る。
 『空天を通ふ通力自在の身なれ共、戀路には悩み嫌ふもの故、天の河路に今夜汝に逢はんとてなづみこしと也』(童蒙抄)。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『そらよりもかよふわれすらたれゆゑにあまのかはみちなけきてそくる』(【流布本第三句『汝ゆゑに』、四五句『川路をなづみてぞくる』】)として載り、六帖には、『おほそらをかよふ我すらなにゆゑに天の河原をなつみてぞ來る』になつてゐる。
 
          ○
 
(364)  〔卷十・二〇〇二〕
  八千曳《やちほこ》の神《かみ》の御世《みよ》より乏《とも》し※[女+麗]《づま》人《ひと》知《し》りにけり繼《つ》ぎてし思《おも》へば
  八千曳 神自御世 乏※[女+麗] 人知爾來 告思者
 
 ○八千曳神 ヤチホコノカミで、大穴牟遲神《オホナムチノカミ》(大己貴命)の御事で、三輪の大神である。古事記上卷に、天之冬衣神、此神娶2刺國大神之女、名刺國若比賣1、生子大國主神、亦名謂2大穴牟遲神1、亦名謂2葦原色許男神1、亦名謂2八千矛神1、亦名謂2于都志國玉神1、并有2五名1云々。この神と少彦名神で國を堅め給うたことがあるから、神世の遠い古へからといふためにかう云つたものである。卷六(一〇六五)に、八千鉾之神乃御世自百船之泊停跡《ヤチホコノカミノミヨヨリモモフネノハツルトマリト》云々とあるのも同樣の表現である。○乏※[女+麗] トモシヅマで、愛すべき、珍らしき妻即ち織女のことをいふのである。このトモシと同じ語感の例は、既に前出であるが、なほ云はば、卷二(一六二)に、鹽氣能味香乎禮流國爾味凝文爾乏寸高照日之御子《シホケノミカヲレルクニニウマゴリアヤニトモシキタカテラスヒノミコ》。卷九(一七二四)に、欲見來之久毛知久吉野川音清左見二友敷《ミマクホリコシクモシルクヨシヌガハオトノサヤケサミルニトモシク》。卷十四(三五二三)に、爲流多豆及等毛思吉伎美波安須左倍母我毛《ヰルタヅノトモシキキミハアスサヘモガモ》。卷二十(四三六〇)に、夜麻美禮婆見能等母之久可波美禮婆見乃佐夜氣久《ヤマミレバミノトモシクカハミレバミノサヤケク》とあるたぐひである。童蒙抄に、『珍しきつめ戀わびる妻と云ふ義也。乏しきものは少く珍しき意をもて、ともし妻共云へる也。※[女+麗]、一本に孃とあり。然るべし。(365)又一本〓に作る心得難し。孃は少女の通稱也』といひ、略解に、『トモシヅマはたまたま逢ひて珍しみ思ふ意。【中略】※[女+麗]は文選左太沖詩に、〓〓不安宅、張銑が誄に〓〓謂v妻と有り、〓、※[女+麗]同韻にて、古へ通じ用ひしならんと、濱臣は言へり』。○告思者 ツギテシオモヘバと訓み、繼《つ》ぎてし思へばの意である。代匠記で、『落句ハ、ツゲテシモヘバト讀ベシ。シハ助語ナリ。或ハツゲテオモヘバトモ讀ベシ』といひ、考は、ネモゴロモヘバと訓み、『告は苦の誤しるかれば字も訓も改む』と云つたが、略解で、『告ギは借れるにて、意は繼ぎなり。卷三、長歌、語告|言繼將往《イヒツギユカム》も、カタリツギと訓むべければ、ここもツギと訓めり』と云つた。
 一首の意は、八千戈神《やちほこのかみ》(大己貴神)の遠い昔の御世から、絶えず戀し續けてゐるものだから、いとしい私の妻との事は、もう皆人が知つてしまつた。といふのである。
 牽牛と織女の戀は既に周知のことだといふことを眼目にして、内證の秘めた妻も、あらはれたといふことと關聯せしめたものである。『色に出《で》て人知りぬべみ』とか、『人に知らゆな』などといふのは秘め妻に對する心理でもあるが、また、卷十四(三四一四)の、多都弩自能安良波路萬代母佐禰乎佐禰※[氏/一]婆《タツヌジノアラハロマデモサネヲサネチバ》といふアラハルといふのも自然的心理である。そこで、『人知りにけり』といふ句も腑に落つるのであつて、萬葉の類似の歌をいふならば、『路のべの壹師《いちし》の花の灼然《いちじろ》く人皆知りぬ我が戀妻は』(卷十二。二四八〇)はやはり人麿歌集のもので、下《しも》の句《く》につき、『或本の歌に云。(366)いちじろく人知りにけり繼ぎてし念へば』といふ注があるから、混入か或は同じ作者だとせば、同一手法の歸結であらう。なほ、『山河の瀧に益《まさ》れる戀すとぞ人知りにける間無《まな》く念《おも》へば』(卷十二。三〇一六)といふのがある。
 このあたりは、七夕に關聯したものを集めてゐるが、取りわけ優れてゐるといふわけではない。ただ、調べに緊嚴なところのあるのを見棄てがたいのである。また、支那傳來の話を日本流に混合せしめて歌つてゐるのがおもしろい點でもある。
 此歌、和歌童蒙抄第二に、『ヤチトセノカミノミヨヽリトモシツマヒトシリニケリツケテシヲモヘハ』同第六に、『ヤチホコノカミノミヨヽリトモシヘノヒトシリニケリツキテヲモヘハ』とあり、赤人集【西本願寺本】に、『やちをしのかみのみよゝりいもゝなきひとゝしらせしきたりつけゝむ』としてある。同流布本には、『八千矛の神の御代より乏し妻人知りにけり告げし思へば』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇三〕
  吾《わ》が戀《こ》ふる丹《に》のほの面《おもわ》今夕《こよひ》もか天漢原《あまのかはら》に石枕《いはまくら》纏《ま》く
  吾等戀 丹穗面 今夕母可 天漢原 石枕卷
 
(367) ○吾等戀 舊訓ワガコフル。童蒙抄ワレコフル。○丹穗面 古寫本にニホヘルイモハ(元・神)と訓んだのもある。仙覺抄に古點ニホヘルイモハ。新點ニノホノオモハとあるから、流布本舊訓ニノホノオモハは仙覺訓である。代匠記初ニノホノオモワ(【略解・古義同訓】)。考ニノホノオモト。○今夕母可 舊訓コヨヒモカモ。代匠記精コヨヒモカ。○石枕卷 舊訓イソマクラマク。代匠記精イハマクラマク。考イハマクラカム。古義イソマクラマカム。
 一首の意は、自分の戀しくおもふあの織女の美しくにほふ顔が、今夜こそ天の河原に石を枕にして、自分と寢るのである。といふので、これは牽牛のつもりになつて咏んで居る。『丹のほの面《おもわ》』は、面《おもわ》よといつて顔のことを云つてゐるが、これは織女を指すことは無論である。卷五(八〇四)に、爾能保奈酒意母提乃宇倍爾伊豆久由可斯和何伎多利斯《ニノホナスオモテノウヘニイヅクユカシワカキタリシ》。卷十三(三二六六)に、秋付者丹之穩爾黄色《アキヅケバニノホニモミヅ》といふ例がある。支那人の謂ふ紅顔にあたるので、覺官的な感じの好い語である。オモワで代表せしめたのは、『君が目《め》を欲り』(卷四。七六六)。『君が目見ねば』(卷十一。二四二三)などと同一表現である。
 オモワといふ語も、卷九(一八〇七)に、望月之滿有面輪二如花咲而立有者《モチヅキノタレルオモワニハナノゴトエミテタテレバ》。卷十九(四一九二)に、桃花紅色爾爾保比多流面輪能宇知爾青柳乃細眉根乎咲麻我理《モモノハナクレナヰイロニニホヒタルオモワノウチニアヲヤギノホソキマヨネヲエミマガリ》とあるなど、美人の面を骨折つて形容してゐる點がなかなかよい。この歌も、單に概念的に牽牛織女の年中行事的戀愛をいはず(368)に、現身的、肉體的に歌つてゐる點がいいのである。
 此歌、和歌童蒙抄に、『ワカコフルニホヘルイモヽコヨヒカモアマノカハラニイソマクラマク』とあり、赤人集【西本願寺本】に、『わかこひにほひあひてみむはこよひわかあまのつはしのいはかしまつと』。同流布本に、『わが戀にほにあけて見むこよひかも天の川原にいそまくらまく』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇四〕
  己《おの》が夫《つま》乏《とも》しむ子等《こら》は泊《は》てむ津《つ》の荒磯《ありそ》枕《ま》きて寢《ね》む君《きみ》待《ま》ちがてに
  己※[女+麗] 乏子等者 竟津 荒磯卷而寐 君得難
 
 ○己※[女+麗] 舊訓オノガツマ。代匠記精オノツマノ。童蒙抄ナガヲトメ。又はナガツマ。略解シガツマノ。新考オノヅマヲ。今舊訓に從つた。自分の夫《つま》をばの意で、織女が牽牛のことを指していふので、それを第三者が客看してゐるやうにあらはしてゐる。○乏子等者 舊訓トモシキコラハ。略解宣長訓トモシムコラハ。つまり織女を指すので、ラは添へた詞、單數である。○竟津 舊訓アラソヒツ。代匠記初、竟の上に舟を脱かとしフネハテツ。代匠記精ツニハテツ。童蒙抄アラソ(369)ツノ。考は、竟は立見の誤としてタチテミツ。略解宣長訓ハツルツノ。古義ハテムツノ。『竟津《ハテムツ》とは、彦星の舟の將《ム》v竟《ハテ》天(ノ)河の津と云なるべし』(古義)。○荒磯卷而寐君待難 舊訓アライソマキテ・ネマクマチカネ。代匠記初アリソマキテネム・キミマチカネシ。代匠記精アリソマキテネム・キミマチガテニ。童蒙抄アラソマキテヌ・セコヲマタナン、又はセコマチガタニ。略解宣長訓アリソマキテヌ(古義同訓)。今、代匠記訓に從つた。
 一首の意は、自分の夫《をつと》の牽牛をいとしいとおもふ織女が、夫の船の着く筈の船著場のところの荒磯を枕として寢ることであらう。まだ到著しない夫をば待ちかねて。といふぐらゐの歌であらう。この歌は第三者が織女のことを想像して作つた歌の趣である。
 此處には七夕の歌がいろいろ並んでゐるが、かういふ内容もまた珍らしく、その想像も何となく現實的であるし、心の働きも相當に細かにして且つ自然である。また、調べも、『己が※[女+麗]ともしむ子らは』あたりをはじめ、しつかりしたところがあり、ひよつとせば人麿の或時期の作ではなからうかとおもはしめる特色がある。
 此歌赤人集【西本願寺本】に、『おのかいもなしとはきゝつてにまきてまたきてねよきみさまにとかなし』同流布本に、『己が紐長しとは聞きつ手に卷きてまたきて寢よ君まさにとかなし』とある。
 
(370)          ○
 
  〔卷十・二〇〇五〕
  天地《あめつち》と別《わか》れし時《とき》ゆおのが※[女+麗]《つま》然《しか》ぞ手《て》に在《あ》る秋《あき》待《ま》つわれは
  天地等 別之時從 自※[女+麗] 然叙手而在 金待吾者
 
 ○別之時從 舊訓ワカレシトキユ。童蒙抄ワカレシヨヨリ。○自※[女+麗] 舊訓オノガツマ。童蒙抄ナガヲトメ又はナガツマ。○然叙手而在 舊訓シカゾテニアル。童蒙抄カクゾトシナル。考シカチギリタル。○金待吾者 舊訓アキマツワレハ。童蒙抄アキマツガリハ。代匠記・古義等は舊訓に從ひ、新考はオノヅマト・シカゾタノミテと訓んでゐる。
 一首の意は、天と地と別れた時からして、私の妻として織女は斯くの如く手中にあるのだから、樂しく逢へる秋の來るのを私は待つて居るのだ。といふぐらゐの歌で、牽牛の獨語のやうな趣である。
 代匠記初に、『しかぞ手にあるは、天地すでに剖判せしより、織女はおのがつまとさだまりて、かくぞ我手にあるなり。妻を手子といふは、我手に入たる女なればなり。今もその心なり。秋待われはとは、昔より定まれる事なれば、七日の夜はあはむと待なり』とあるによつて大體の解釋(371)は付くのである。
 『然ぞ手に在る』といふ訓につき、略解で、『四の句誤字有らん。解き難し』と云つたのは、この儘では古調に響かないといふ意味であらう。また實際同じやうな用例は萬葉に無い。併し、用例は他に無くともこの儘で解釋の出來ないことはない。なほ、『石竹《なでしこ》のその花にもが朝旦《あさなさな》手に取り持ちて戀ひぬ日無けむ』(卷三。四〇八)などは幾らか參考となるであらう。
 卷三(三一七)に、天地之分時從神左備手《アメツチノワカレシトキユカムサビテ》が鮮。卷八(一五二〇)に、
宇之呂河向立《ヒコホシハタナバタツメトアメツチノワカレシトキユイナムシウシロカハニムキタチ》とある。
 此歌は、赤人集【西本願寺本】に、『あめつちとわけしときよとわかいもとそひてあれはかねてまつわれ』とある。同流布本は、第二句『分れし時より』とある外は、此處で訓んだ萬葉の訓と同一である。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇六〕
  彦星《ひこほし》は嘆《なげ》かす※[女+麗]《つま》に言《こと》だにも告《の》りにぞ來つる見《み》れば苦《くる》しみ
  彦星 嘆須※[女+麗] 事谷毛 告爾叙來鶴 見着苦彌
 
(372) ○彦星 舊訓ヒコボシノ。代匠記初ヒコボシハ。○嘆須※[女+麗] 舊訓ナゲカスイモガ。代匠記初ナゲカスイモニ。童蒙抄ナゲキスイモニ。略解ナゲカスツマニ。○告爾叙來鶴 舊本『爾』が『余』となつてをり、訓はツゲニゾキツル。代匠記精、余は尓の誤とし、『尓ト爾ト同字ナレバ別校本ヨシ』と云つた。古寫本中、尓(元・類・神・温・矢・京)に作つたものが多いから、それに相違はなからう。童蒙抄ノレトゾキツル。新考ノラムトゾキツル。新訓ノリニゾキツル。
 一首の意は、彦星(牽牛)は、自分を慕ひ嘆く妻(織女)の、樣子を見るのが苦しく可哀相なので、言葉だけでも慰めようとして便りをよこしたのである。といふので、これも第三者の觀察忖度のやうに出來て居る。代匠記精に、『牛女ノ間ニ使スル者アリテ、ソレガ詞ノヤウニ聞ユルニヤ。但ヤガテ下ニ妹傳速告與トヨメルモ、上ニ秋立待等妹告與具トヨメルモ、使ノ意ナリ。二星ノ事ハ風情ノ寄來ルニ任セテ讀習ナレバサモ有ベキニヤ』とあるのは好い疑問でありまた好い解釋である。もつともこれは、舊訓どほりヒコボシノ・ナゲカスイモガと訓むとしての解釋であるが、訓をかへても當てはめることが出來る。ただの字面では、彦星が自分でやつて來たやうに取れるが、實は便《たよ》りを寄越したことと解釋していいのである。
 この歌は流布本赤人集に、『彦星が恨むる妹がことだにも告げにぞ來つる今日は苦しも』となつて出てゐる。
 
(373)          ○
 
  〔卷十・二〇〇七〕
  ひさかたの天《あま》つ印《しるし》と水無河《みなしがは》隔《へだ》てて置《お》きし神代《かみよ》し恨《うら》めし
  久方 天印等 水無河 隔而置之 神世之恨
 
 ○天印等 舊訓アマノシルシト。代匠記アマノシルシト。童蒙抄アメノシルシト。考アマツシルシト(略解・古義・新考從之)。本卷(二〇九二)の長歌に、天地跡別之時從久方乃天驗常定大王天之河原爾璞月累而《アメツチトワカレシトキユヒサカタノアマツシルシトサタメテシアマノカハラニアラタマノツキヲカサネテ》とある『天驗』と同じであらう。古寫本の訓は、アメノシルシ(元)。アメノヲシテ(累・神)等であるが、代匠記精に、『八雲御抄ニ天印ヲ、アマノオシテトヨマセ給ヒタルハ古點ナルベケレド、下ノ長歌ニ久方乃|天驗常※[氏/一]《アマシルシトテ》云々。此今ト同ジキヲ、印ハシルシトモオシテトモヨメド、驗ハオシテトヨマネバ、彼ヲ以テ此ヲ證スルニ今ノ點當レルニヤ』と云つてシルシ説に賛成してゐる。校本萬葉にオシテ説に賛成してゐるやうに云つてゐるのは、初稿本に、『あまのをしてともよむべけれど』とあるのだけを見たのであらうか。なほ新考を見るに、『アマツシルシのシルシは畫なり。莊子人間世に畫v地而趨とあり、孫子虚實に雖2畫v地而守1v之云々とあり、(374)文選の西京賦に畫v地成v川とあるシルシなり。ここに天印とかき下なる長歌に天驗とかけるは共に借字なり。後世の歌にアマノオシデとよめるはこの天印を誤讀せるなりと、契沖及濱臣(答問雜稿)おどろかせり』と云つて居る。書紀その他でシルシと訓ませて居るものは、驗、表、苻、印、徴表、徴、兆、節、相、禄、表物、標、證、稱等であるが、此處は印、徴、標、相などの文字に宛ててその大體を知ることが出來る。即ちこのシルシといふ語は、實際に下界から河の如くに見えるといふことから出來た語だといふことを知らねばならない。○水無河 舊訓ミナセガハ。管見ミナシガハ(諸抄從之)。古寫本中、ミナシカハ(元・神)と訓んだのがある。『水無河ハミナシカハトヨメル、然ルベキ歟。但津國ノ水無瀬河ヲモ、第十一ニハ水無河トカケリ。河内ノ天河ノ名モ空ニ通ヘバ、水無瀬河モ亦空ニ通ハシテ名付タルニヤアラム。知ベカラネバ左右ナウ定ガタシ。一年ヲヒトトセト云如キノ例アレバ讀ガタキニモアラズ。古事記云。且其(ノ)天(ノ)尾羽張(ノ)神者逆(ニ)塞《セキ》2上(テ)天(ノ)安河之水(ヲ)1而塞(テ)v道居(マス)、故《カレ》佗《アタシ》神不v得v行(コトヲ)云々。此ニ依レバ水無河トハ云ヒガタカルベキヲ、神變ハ測ガタケレバ下界ノ水ノ如クナル水ノナキ意ニ名付タルニヤ』(代匠記精)云々とある。語義からいへば水の無い河といふことで、下界から見ても水の流れてゐるのが分からないので斯く云つたものであらうか。そして、古事記神話等と結付き、天の河の異名ともなり、シタに係る枕詞ともなつたものであらう。卷四(五九八)に、戀爾毛曾人者死爲水無瀬河下從吾痩月日異《コヒニモゾヒトハシニスルミナセガハシタユワレヤスツキニヒニケニ》。卷(375)十一(二七一二)に、言急者中波余騰益水《コトトクバナカハヨドマセミ》無《ナシ・ナセ》河絶跡云事乎有超名湯目《ガハタユトフコトヲアリコスナユメ》がある。
 一首の意は、〔久方《ひさかたの》〕天《てん》の印《しるし》として存在してゐる水無河《みなしがは》即ち天の河は神代の昔から二人の間を隔てるために置かれてあるのだが、それゆゑその神代が恨《うら》めしい。といふのである。
 天の河をばこの地上から見ると幽遠に光つてゐるのみで水の流のやうではないから、この水無河の名は視覺上に本づいたものだとおもふが、それと誠に大きい天の河と、常には逢ひ難いといふ牽牛織女の傳説とを織り交ぜて、現實の人の嗟歎するがごとくに歌つてゐる點は、前の歌と軌を一にしてゐるのである。
 此歌、八雲御抄に、『ひさかたのあまのをしてとみなしかはへたてゝおきし神代のうらみ』とある。又六帖に入り、『ひさかたの天のしるしとみなし川隔てておきし神代のうらめし』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇八〕
  ぬばたまの夜霧隱《よぎりがく》りて遠《とほ》くとも妹《いも》が傳言《つてごと》早《はや》く告《つ》げこそ
  黒玉 宵霧隱 遠鞆 妹傳 速告與
 
(376) ○宵霧隱 舊訓ヨギリゴモリテ(【代匠記・考・略解・古義同訓】)。童蒙抄ヨキリコメツツ。新考にヨギリガクリテと訓み、『略解古義にヨギリゴモリテとよみたれど下なるヌバタマノ夜霧隱トホヅマノ手ヲはヨギリガクリテとよまざるべからねばここもヨギリガクリテとよむべし。道ガ夜霧ニ隱レテといふ意なり。道といふことを略せるなり。さて霧に隱れたりとも道の遠近はかはるべからねど、霧たてば道たどたどしくて恰道の遠きが如くに時費ゆればしばらく借りてトホクトモといへるなり』と云つた。古寫本中、ヨルキリガクレ(元・類・神等)と訓んだのがある。○妹傳 舊訓イモシツタヘバ。代匠記初イモガツカヒハ。童蒙抄イモガカシヅキ。考イモガツタヘハ(略解同訓)。古義イモガツテゴト。『妹傳言の言(ノ)字、舊本になきは、脱たるなるべし』(古義)と云つた。卷十三(三三三六)に、思布言傳八跡家問者《オモホシキコトヅテムヤトイヘトヘバ》。卷十七(三九六二)に、於母保之伎許登都底夜良受孤布流爾思《オモホシキコトツテヤラズコフルニシ》とあるのはコトヅテの例であり、卷十二(三〇六九)に、何傳言直將吉《ナニノツテゴトタダニシヱケム》。卷十九(四二一四)に、道來人之傳言爾吾爾語良久《ミチクルヒトノツテゴトニワレニカタラク》とあるのは、ツテゴトの例である。このいづれをも選んで好い。○速告與 舊訓ハヤクツゲコヨ。代匠記精ハヤクツゲコソ(古義・新考同訓)。考ハヤクツゲコセ。與は乞の誤とした(略解同訓)。新訓、與のままでツゲコセ。
 一首の意は、たとひ夜霧に蔽はれて遠く隔つて居ようとも妻の言傳《ことづて》は速く告げて欲しいものだ。といふので、待ちわびて居る牽牛のつもりになつて咏んだ歌である。
(377) 解は右の如くで、使者の便を待つてゐる氣持もあるのである。そこで童蒙抄で、『宗師案、傳の字にて、かしづきと讀むべしと也。夜霧こめて遠く共、かしづきのもの、妹に早く出ませと告げよとの意に見る也。速は疾と讀みて、早く出立よと、とく告げよと願ふ意と也。愚意未v決。妹がたより、つ手はと云方然るべからん。とくと告げよとは、とく出立よと告げよとの義と云ひては、言葉を入れて、とくと告げよと云ふ義と釋せねば成難し。便りつ手と見れば、妹の方よりの傳ふる事、便を早く滯らせず、こなたに告げよと見る也。尚後案を待つのみ』と云つてゐる。理窟で面倒にすると如是になるのだが、この歌は感情の自然を以て解けば直ちに腑に落ちるものである。歌は勿論さうたいしたものではない。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『むまたまのよるひるくもりくらくともいもかことはゝやくつけてよ』、同流布本に、『むはたまのよる雲くもり暗くとも妹がことをば早く告げてよ』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇〇九〕
  汝《な》が戀《こ》ふる妹《いも》の命《みこと》は飽《あ》き足《た》りに袖《そで》振《ふ》る見《み》えつ雲隱《くもがく》るまで
  汝戀 妹命者 飽足爾 袖振所見都 及雲隱
 
(378) ○妹命者 舊訓イモノミコトハ。古寫本イモガイノチハ(元・類・神・京)。このミコトは尊び親しむ感情が含まつてゐるので、此處は、牽牛に對《むか》つて、その妻の織女のことを云ふのだから、幾分敬語を使つてゐるのである。卷二(一九四)に、靡相之嬬乃命乃《ナビカヒシツマノミコトノ》は夫《をつと》の君の意だが、古事記上卷の八千矛神の御歌に、和加久佐能都麻能美許登《ワカクサノツマノミコト》とあり、これは嬬《つま》のことであり、卷十七(三九六二)に、波之吉與志都麻能美許登母《ハシキヨシツマノミコトモ》も亦さうである。なほ、卷三(四四三)に、帶乳根乃母命者齋忌戸乎前坐置而《タラチネノハハノミコトハイハヒベヲマヘニスエオキテ》。卷九(一七七四)に、垂乳根乃母之命乃言爾有者《タラチネノハハノミコトノコトニアレバ》等の例がある。○飽足爾 舊訓アクマデニ。童蒙抄アキタリニ。『宗師案、たりにと讀べし。あきたりなしと云義也。なしと云詞を約すればに也。なれば飽足らぬから雲隱るる迄見送る意と見るべしと也。諸抄の説も惡しきには不v可v有か。心に飽かぬから飽迄に見るの意也』(童蒙抄)。代匠記・考・古義・新考アクマデニ。略解・新訓アキタリニ。ここは、『足』の文字があるからどうしても、『アキタリニ』の訓が穩當であり、意は略解の如く、『アキタリはアクマデの意なり』といふのに落着くのである。
 一首の意は、あなた牽牛の妻の君が、あなたと別離を惜しんで飽くまでも袖を振るのが見える、あなたが雲に隱れてしまふまで袖を振るのが見える。といふ意で、作者が牽牛にむかつて言つてゐる趣であるが、一方、牽牛織女の戀を客看して居る趣でもある。
 七夕の歌は傳説に本づいて、いろいろと工夫して作つてゐるが、この歌も赤、趣向をこらして、(379)人間同士の戀の如くに取扱つて居る點が前の歌同樣である。
 一首のうちで、飽足爾《アキタリニ》の句は注意すべきであるが、萬葉には、卷四(五三三)に、鹽干之名凝飽左右二人之見兒乎《シホヒノナゴリアクマデニヒトノミルコヲ》。卷十七(三九九九)に、安久麻底爾安比見而由可奈故布流比於保家牟《アクマデニアヒミテユカナコフルヒオホケム》などとあるが、アキタリニといふ例が無いやうである。その點がこの訓の弱味でもあるが、併しアキタリニと訓んでも決して不道理ではない。
 此歌は、赤人集【西本願寺本】に、『なかこふるいもかすかたはあくまてにそてふ|り《る(流布本)》みえつくもかくるまて』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一〇〕
  夕星《ゆふづつ》も通《かよ》ふ天道《あまぢ》を何時《いつ》までか仰《あふ》ぎて待《ま》たむ月人壯子《つきひとをとこ》
  夕星毛 往來天道 及何時鹿 仰而將待 月人壯
 
 ○夕星毛 舊訓ユフヅツモ。古義ユフヅツノ。夕星は和名鈔に、兼名苑云、大白星一名長庚、此間云、由布都々とあるので、即ち金星、宵の明星のことである。
(380) 一首の意は、宵の金星も通ふ頃となつた天《てん》の道に、いつまで私は牽牛の來られるのを仰いで待つことでせう。月人壯子《つきひとをとこ》よ。といふので織女の氣持になつて咏んで居り、同じ天空の夕づつを配し、月にむかつて呼びかけて居る趣の歌である。
 この歌は、初句に、『夕づつも』とあり、結句に、『月人壯子』などとあるので、七夕の歌としては素直に解釋の出來ぬ點もあり、稍趣が變つて居るので、代匠記精に、『月人壯ハ、此下ニモ二首ヨミ、第十五ニモ七夕ノ歌ニヨメリ。牽牛ノ異名ト聞ユ。月ヲ讀ニハ替レル歟。未考得』といひ、考も、『月人壯は下にも彦星をかく譬し有。こはみかほしむといふほどのたとへなり』といひ、略解もその如くに解してゐるが、古義では、『中山(ノ)嚴水云、月人壯は彦星の異名にやと、契沖が説るは誤ならむ。集中、月のことを、月人壯子《ツキヒトヲトコ》とよみたれば、此(ノ)歌は月を待(ツ)歌なるが、まぎれて七夕の歌中に入たるならむ』と云つてゐるのである。
 考で、月を牽牛に譬へて、『歌の意は、夕星すらとゆきかくゆくにいつまでか遠くむかひたちて彦星をあふぎてまたんやと織女《タナバタツメ》のなげけるなり』と言つてゐるのは、大體よいが、ただ、彦星即ち月にしてゐる。若しさうだとすると、夕星《ゆふづつ》をば何かに譬へねば、調和がとれないことともなるのである。
 卷十五(三六一一)に、於保夫禰爾麻可治之自奴伎宇奈波良乎許藝弖天和多流月人乎登※[示+古]《オホフネニマカヂシジヌキウナバラヲコギデテワタルツキヒトヲトコ》とあつ(381)て、七夕歌一首とあるのを見れば、月人乎登※[示+古]は牽牛のこととして歌つてあるやうにもおもはれる。併し月の歌としても解釋が出來るやうに思ふ。そこで古義の説のやうに、月の歌が七夕の歌に紛れ入つたのだといふ想像も成り立たぬこともないが私はこの歌をやはり七夕の歌として解するから、右のやうな一首の意味になつたのである。
 此歌は、袖中抄に、『ユフツヽモユキカフソラノイツマテカアフキテマタムツキヒトオトコ』とあり、赤人集【西本願寺本】に、『ゆふつゝもかよふそらまていつと|き《て(統布本)》かあふきてまたむ月人をとこ』とある。又六帖に入り、『ゆふづつも通ふ天路のいつしかと仰ぎて待たむ月人をとこ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一一〕
  天漢《あまのがは》い向《むか》ひ立《た》ちて戀《こ》ふるとに言《こと》だに告《つ》げむ※[女+麗]問《つまど》ふまでは
  天漢 已向立而 戀等爾 事谷將告 ※[女+麗]言及者
 
 ○已向立而 舊本『已』が『巳』となつてをり、訓コムカヒタチテ。古寫本にワレムキタチテ(元・神)。ヰムカヒタチテ(京一訓)。代匠記初に『いむかひたちて。いは發語のことば』とあるが、(382)代匠記精には『巳向立而ハ來向立而ナリ』となつてゐる。古義イムカヒタチテ。舊本の巳は已の通用であらう。もつとも、卷十八(四一二七)に、夜須能河波許牟可比太知弖《ヤスノカハコムカヒタチテ》とあるが、これも許は已の誤か。澤瀉久孝氏は、卷十八の『許牟可比太知弖《コムカヒタチテ》』は、人麿歌集の『已向立而《イムカヒタチテ》』を作者家持が誤讀して模倣したのであらうと言つてゐる。(【「誤寫誤讀の問題を中心とした萬葉作品の時代的考察」昭和七年一月號國語・國文】)○戀等爾 舊訓コフラクニ。代匠記精コフルトニ。童蒙抄一訓コフカラニ。考コフラクニ(等は樂の誤)。古義コヒムヨハ(等爾は從者の誤)。新考コフラムニ(戀|等六《ラム》爾)。○事谷將告 舊訓コトダニツゲム。童蒙抄コトダニツゲメ。新考コトダニツゲナム。○※[女+麗]言及者 舊訓ツマトフマデハ。略解ツマトイフマデハ。『誠の妻と言ふまでにの意か』。古義ツマヨスマデハ(言は寄の誤)。新考ツマトイフカラハ(及は柄の誤)。いま舊訓に從つた。
 一首の意は、天漢《あまのがは》に隔てられ互に向ひ立つて戀ふる時に、せめて言傳《ことづて》だけでも遣りたいものである。七夕の夜が來て親しく妻問《つまどひ》の出來るまでは。といふのであらう。
 このコフルトニのトニはトキニの意であることは、卷十(一八二二)に、君喚變瀬夜之不深刀爾《キミヨビカヘセヨノフケヌトニ》。卷十五(三七四七)に、波夜可反里麻世古非之奈奴刀爾《ハヤカヘリマセコヒシナヌトニ》。卷十九(四一六三)に、河湍爾霧多知和多禮左欲布氣奴刀爾《カハノセニキリタチワタレサヨフケヌトニ》とあるによつて分かる。
 第三句のコトダニツゲムといへば、牽牛が自ら告げようといふのだが、新考でツゲナムと訓ん(383)だのは、『牽牛に對して、便ダニシテヤレと勸むるなり』と解するのであるが、さう解してはまづいやうである。
 結句の※[女+麗]言をツマドフと訓むのに從つたが、卷九(一七九〇)に、秋芽子乎妻問鹿許曾一子二子持有跡五十戸《アキハギヲツマドフカコソヒトリコニコモタリトイヘ》。卷十(二〇九〇)に、狛錦紐解易之天人乃妻問夕叙吾裳將偲《コマニシキヒモトキカハシアメビトノツマドフヨヒゾワレモシヌバム》。同卷(二〇九八)に、奥山爾住云男鹿之初夜不去妻問芽子之散久惜裳《オクヤマニスムチフシカノヨヒサラズツマドフハギノチラマクヲシモ》等の例があるから、舊訓のままでよく、必ずしも略解や新考などの面倒な訓に從はずともいいとおもふのである。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『あまのかはむかひたちてこふるときことたにつけよいもゝとゝはし』、同流布本に、『天の河わがむき立ちて戀ふらくにことだに告げむ妻といふまでは』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一二〕
  白玉《しらたま》の五百《いほ》つ集《つどひ》を解《と》きも見《み》ず吾《あ》は干《ほ》しがたぬ逢《あ》はむ日《ひ》待《ま》つに
  水良玉 五百都集乎 解毛不見 吾者干可太奴 相日待爾
 
 ○水良王 舊訓シラタマノ。『發句ノカキヤウニ兩義アルベシ。一ツニハ水良ノ二字ハ音ヲ假(384)ル。水ハ第九ノ水長鳥安房トツヅキタルヲ、仙覺發句ヲシナガドリト讀ベキ由注セラレタルガ如シ。二ツニハ眞珠ハ水中ノ良玉ト云意ニテ義訓セルニヤ』(代匠記精)。○五百都集乎 舊訓イホツツドヒヲ。玉の五百箇集で、首飾にした御銃《みすまる》の玉のことである。神代紀上に、便(チ)以2八坂瓊之五百箇御統《ヤサカニノイホツノミスマルヲ》1、纏2其|髻鬘《ミイナタキ》及|腕《タフサ》1云々。萬葉卷十八(四一〇五)に、思良多麻能伊保都都度比乎手爾牟須妣《シラタマノイホツツドヒヲテニムスビ》とあるのも同じものである。○吾者干可太奴 舊訓ワレハカカタヌ。代匠記では、カは香青《カアヲ》、香黒《カグロ》などのカで添詞であり、カタヌは結ぶことであるとし、江次第の、被《ラル》v結《カタネ》を證とした。童蒙抄ワレハヲカタヌ。締結《ヲカタヌ》の意で、『玉の緒を結置と也。かたぬるとは結と云字を讀む也』。考ワガアリガタヌ。吾を哥太奴で、在《あ》り難《がた》ぬの意とした。略解ワレハホシガタヌ。『泪を干し難きなり』の意とした。或は干は在の誤で、アリガタヌかとした。古義は眞淵説として、干は在の脱畫、アハアリカタヌ。略解補正ワレハカコチヌ。新考ワレハアリガテヌ。干は在の誤、太はテと訓む。
 一首の意は、白玉を澤山に貫《ぬ》いた御統《みすまる》の頸飾をも解かずに夫《えおつと》の方《かた》(彦星)の來るのをお待ち申すに、泪で濡れた袖を干すことも出來ずに居ります。お逢ひ申す日までは。といふので、織女が牽牛を待ちこがれて居る趣の歌である。
 この『干す』といふ語は餘り突然だから、これを誤字とする考の説は無理がないやうに思ふのであるが、なるべく誤字説を以て強ひぬ方針とせばやはり干《ほす》とせねばならず、卷十五(三七一二)(385)に、奴波多麻能伊毛我保須倍久安良奈久爾和我許呂母弖乎奴禮弖伊可爾勢牟《ヌバタマノイモガホスベクアラナクニワガコロモデヲヌレテイカニセム》といふのがあり、卷四(六九〇)に、哭涙衣沾津干人無二《ナクナミダコロモヌラシツホスヒトナシニ》。卷十二(二八四九)に、烏玉彼夢見繼哉袖乾日無吾戀矣《ヌバタマノカノヨノイメニミエツゲヤソデホスヒナクワレハコフルヲ》等とあるから、解釋のつかぬことはない。併し何處かに餘り突然で無理があるやうである。
 
          ○
  〔卷十・二〇一三〕
  天漢《あまのがは》水陰草《みづかげぐさ》の秋風《あきかぜ》に靡《なび》かふ見《み》れば時《とき》來《きた》るらし〔【時は來にけり】〕
  天漢 水陰草 金風 靡見者 時來之〔來々〕
 
 同じく『七夕』の歌で、水陰草をば考ではミヅクマグサと訓み、『今本水陰草とよみたれど唐にても隈の意に陰を用ふ。此朝庭にもくまといふに隈の字を充たり。こをもて見れば水陰をみづくまと訓て、水ぎはの草なるを知る』と云つてゐるが、略解に引く眞淵説では、陰を隱の誤としてミコモリグサと訓ませてゐる。古義はこの略解眞淵説を引用しミコモリクサの訓に從ひ、新考もそれに倣つた。元來舊訓がミヅカゲグサであるが、古寫本もほとんど皆ミヅカゲグサと訓んでゐたし、それで眞淵説にも引いた山河水陰生山草不止妹所念鴨《ヤマガハノミヅカゲニオフルヤマスゲノヤマズモイモガオモホユルカモ》(卷十二。二八六二) の用例と共(386)に、此處は水陰草《みづかげぐさ》でいいと思ふ。ただ略解眞淵説は、京都大學本・大矢本に隱の字になつて居るのを見れば、絶待に否定は出來ないが、同時に陰字をも否定は出來ないのである。このミヅカゲグサは水の中に生えてゐる水草の一種をいふので山菅などにも通じさせていいと思ふ。それが靡くを見ればいよいよ秋が來、彦星のたづねて來るべき時が來るらしいと、織女の氣特になつて咏んだ歌である。結句は『來々』と元暦校本にあるにより、新訓はトキハキニケリと訓んだが、トキハキヌラシ(舊訓)。トキキタルラシ(略解)等とも訓んでゐる。古義・新考等は略解に從つてゐる。實はこの結句は舊訓でも略解の訓でもどちらでもたいした差別は無い。ただ、古寫本(元・類・神)に、『來々』となつて居るのに從へば、トキハキニケリであり、流布本の『來之』に從へばトキキタルラシとなるのであらう。『靡見者』は、舊訓ナビクヲミレバであるのを、古義でナビカフミレバと訓んだ。
 天漢《あまのがは》の草の靡くさまで、現實的で無い筈であるが、一首を通じては何か現實の水草の靡くのに相對してゐるやうに聞こえる歌である。調も萎縮せずに生々としてゐていい。また前言のごとく、水陰草《みづかげぐさ》などといふ語も清々しい感をおこさしめる大切なものを持つて居る。
 この歌は、袖中抄第十六に、『アマノカハ水陰草ノアキカセニナヒクヲミレハトキハキヌラシ』とあり、また、赤人集【西本願寺本】に、『あまのかはみつくもりくゝさふくかせになひくとみれは秋はきに(387)けり』(【流布本第二句『みづかげ草の』】)として載つてゐる。續古今集も、やはり赤人作として、『天の河水かげ草の秋風になびくを見れば時は來にけり』と訓んで居り、古今六帖は、人麿作とし、袖中抄と同じに訓んでゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一四〕
  吾《わ》が待《ま》ちし秋萩《あきはぎ》咲《さ》きぬ今《いま》だにも染《にほ》ひに行《ゆ》かな遠方人《をちかたびと》に
  吾等待之 白芽子開奴 今谷毛 爾寶比爾往奈 越方人邇
 
 ○白芽子 古寫本シラハギと訓んだが、袖中抄にアキハギと訓むべきよし云ひ、赤人集にもアキハギサキヌとある。五色を五方に配すと白色は西に當るから、アキに借りたものである。○爾寶比爾往奈 ニホヒニユカナと訓む。このニホヒを名詞とせば、卷十八(四一一四)の、奈泥之故我花見流其等爾乎登女良我惠末比能爾保比於母保由流可母《ナデシコガハナミルギトニヲトメラガヱマヒノニホヒオモホユルカモ》。卷十(二一八八)の、黄葉之丹穗日者繁《モミヂバノニホヒハシゲシ》。同卷(二三〇七)の、於黄葉置白露之色葉二毛《モミヂバニオクシラツユノニホヒニモ》などの如く、ニホヒといふものにの意になる。さうすれば、結句の、『遠方人《をちかたびと》』と同格になり、重複したことになる。つまり萩の花からの聯憩で、(388)萩のニホフ如き、その美しいニホヒに行かう。即ち遠方人の織女のところに行かうといふことになるのである。併し、この重複は何處かに不自然なところがあつて、未だしつくりせないところがある。次にこのニホヒを動詞とせばどうかといふに、此處のニホフは、妻隱矢野神山露霜爾爾寶比始散卷惜《ツマゴモルヤヌノカミヤマツユジモニニホヒソメタリチラマクヲシモ》(卷十。二一七八)などと、意味が少し違つて、客行人毛往觸者爾保比奴倍久毛開流芽子香聞《タビユクヒトモユキフレバニホヒヌベクモサケルハギカモ》(卷八。一五三二)。咲野之芽子爾丹穗日而將居《サキヌノハギニニホヒテヲラム》(卷十。二一〇七)。春之野乃下草靡我藻依丹穗氷因將友之隨意《ハルノヌノシタクサナビキワレモヨリニホヒヨリナムトモノマニマニ》(卷十六。三八〇二)。墨之江之岸野之榛丹丹穗所經迹丹穗寐我八丹穗氷而將居《スミノエノキシヌノハリニニホフレドニホハヌワレヤニホヒテヲラム》(卷十六。三八〇一)などのニホヒのごとくに、染む、沁む、薫染、同化といふやうな意味のものである。さうすれば、此處も、秋萩に浸《ひた》り染《し》むやうに、織女に染《し》みに行かうといふ意にする方が順當であるとおもふが、ニホヒニユクといふと、能働的になり、ニホフタメニユクの意になる。鹿|狩《か》りに行く。草苅りに行く。などの場合、それから、卷二(一七九)に、佐田乃岡邊爾侍宿爲爾往《サタノヲカベニトノヰシニユク》。卷四(六二六)に、明日香乃河爾潔身爲爾去《アスカノカハニミソギシニユク》。卷十四(三三六六)に、麻可奈思美佐禰爾和波由久《マガナシミサネニワハユク》とある、ニユクの場合と同じであらうか。ただニホヒニユクといふ如き能働的の意味があるかどうかが疑問であつたのだが、尼保波尼《ニホハネ》(卷九。一六九四)の如きがあるから、冰釋したわけである。
 さうすれば一首の意は、吾が待ちに待つてゐた秋が來て萩の花も咲くやうになつた、その萩の花に浸《ひた》り染《し》むやうに、戀しい遠妻の織女のところに行つて浸《ひた》り染《し》みたい。といふのであらうか。(389)『そのはぎに入(リ)交(リ)て、色に染る如くに、織女に往て相觸む』(古義)といふことになるのであらう。
 考に、『歌の意は、吾まちし萩の咲たれば、彼ころもにほはせとよみし如く、今萩はらに入たち、衣にほはし織女《タナバタツメ》のがりゆかんてふを、かくよめりとせんか、さはとりがたし。萩に衣にほはせ、なまめきゆかんとよめる相聞の歌のここにまぎれたるものなりと見ゆれば』云々とあつて、略解も古義もこれに影響され、『ニホヒニユカナとは、卷十三に、艶の字をニホヒと訓みし心にて、後の詞にて言はば、ナマメキニユカンと言ふ意ならん』(略解)。『織女に相觸て、媚《ナマメ》きに往むと云意を帶たるなるべし』(古義)と云つてゐるが、ナマメキニユカンといふのはどういふものであらうか。
 初句の、『吾等』と複數に書いたのは、織女をも含めて二人で待つた意味であらうか、或は一般の人々といふ意味であらうか、多分二人で待つた方に取る方がいいかも知れない。この一首には何處かに心を牽くものがあつて愛誦して來たが、其は、『にほひに行かな遠方人《をちかたびと》に』の句にいいところがある爲めであつた。而して、この句は、七夕などといふことを念頭に置かずに、現世人間の戀愛として味ふことが出來るためであつた。そしてかういふ眞實の寫生句といふものは古今集以後には漸く減じてしまつて居る。
 此歌は、袖中抄に、『ワカマチシ白芽子《シラハキ・アキハキ》サキヌイマタニモニホヒニユカナヲチカタヒトニ』とあ(390)り、赤人集【西本願寺本】に、『わかまちし秋はきさきぬいまたにもにほひにゆかむならしかたみに』、同流布本に、『わが待たぬ秋はぎ咲きぬ今だにもにほひかゆかむをちかたびとに』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一五〕
  吾背子《わがせこ》にうら戀《こ》ひ居《を》れば天《あま》の河《がは》夜船《よぶね》榜《こ》ぎ動《とよ》む楫《かぢ》の音《と》聞《きこ》ゆ
  吾世子爾 裏戀居者 天河 夜船榜動 梶音所聞
 
 ○夜船榜動 舊訓ヨブネコギトヨミ。略解ヨブネコギトヨム。古寫本にはコギウゴキ、コグナル(元)。コグナリ(類)。コギウゴキ(神)。コギトヨミ(西・細・温・矢・京)等の訓があつた。○梶音所聞 舊訓カヂオトキコユ。考カヂノトキコユ。
 一首の意は、私の夫《をつと》の牽牛をば心に戀しく思つて居ますと、天の河を漕いで來る夜船の音が活溌に聞こえます。いよいよ夫が來るのでせう。といふぐらゐの歌である。
 この歌は織女のつもりになつて咏んだ歌だが、これまでの歌のやうに面倒でなく、單純にあつさりと咏んでゐるだけ成功して居る。ウラコフといふ語も注意してよく、卷十七(三九七三)に、(391)伎美麻都等宇良呉悲須奈里《キミマツトウラゴヒスナリ》。同卷(四〇一〇)に、宇良故悲之和賀勢能伎美波《ウラゴヒシワガセノキミハ》等がある。ウラガナシ、ウラグハシなどなら吾々の耳に熟して居るが、ウラゴフは左程でもないやうだが、旨く使へば相當の感じの出るいい語である。
 此歌は、赤人集【西本願寺本】に、『わかせこにうらひれをれはあまのかはふねこきいたすかちこゑきこゆ』、同流布本に、『わが背子にうら戀ひをれば天の河舟こぎわたす音きこゆなり』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一六〕
  ま日長《けなが》く戀《こ》ふる心《こころ》よ秋風《あきかぜ》に妹《いも》が音《おと》聞《きこ》ゆ紐《ひも》解《と》きゆかな
  眞氣長 戀心自 白風 妹音所聽 紐解往名
 
 ○眞氣長 マケナガクと訓む。ま日長《けなが》くの意である。卷十(二〇七三)に、眞氣長河向立《マケナガクカハニムキタチ》。卷十一(二八一四)に、眞氣長夢不所見而年之經去禮者《マケナガクイメニモミエズテトシノヘヌレバ》といふのがあり、マは添詞(接頭語)で、卷二(八五)に、君之行氣長久成奴《キミガユキケナガクナリヌ》。卷六(九四〇)に、左宿夜之氣長在者《サヌルヨノケナガグアレバ》とあるケナガシである。○戀心自 舊訓コフルココロシ。代匠記初コフルココロユ(考・略解・新考同訓)。童蒙抄コフココ(392)ロカラ。古義コフルココロヨ(新訓同訓)。○紐解往名 舊訓ヒモトキユカナ(【代匠記・童蒙抄・考・略解・新訓等同訓】)。略解宣長訓、從は待の誤でヒモトキマタナ。古義、往は枉の誤でヒモトキマケナ(新考同訓)。いま舊訓に從ふ。卷八(一五一八)に、天漢相向立而吾戀之君來益奈利紐解設奈《アマノガハアヒムキタチテワガコヒシキミキマスナリヒモトキマケナ》。卷十(二〇四八)に、天漢川門立吾戀之君來奈里紐解待《アマノガハカハトニタチテワカコヒシキミキマスナリヒモトキマタム》などとあるので、略解宣長訓、古義訓の如きがあるのだが、文字を改めずに訓まば、やはり舊訓に落著くのではなからうか。
 一首の意は、隨分長い月日戀ひ思うて來た私の心からか、秋風につれて妻の聲が聞こえて來た。著物の紐を解いていざ逢ひに行かうか。といふのである。牽牛になつて咏んだ心持の歌である。『心ヨ』といふ表現は注意して好く、やはりヨリに通ずるやうにして味ふ方が好い。それから、『秋風ニ』のニなども既に評釋したが、後世の歌のニと幾分違ふともおもふから、それを調べる、また、『紐解き』から、直ぐ『往かな』に續けた點は奈何かともおもへるふしもあり、いろいろにして鑑賞していいわけである。
 此歌、袖中抄に、『マケナカクコフルコヽロハ白風《アキカセ》ニイモカオトキコユヒモトキユカナ』とある。
 
          ○
(393)  〔卷十・二〇一七〕
  戀《こひ》しくは日長《けなが》きものを今《いま》だにも乏《とも》しむべしや逢《あ》ふべき夜《よ》だに
  戀敷者 氣長物乎 今谷 乏牟可哉 可相夜谷
 
 一首の意は、戀しいことは隨分長い間であつたものを、今になつて不足な思ひをさせるといふことはないでせう。逢ふべき今夜こそ充分な思ひを遂げさせて欲しいものです。といふのでこの歌は牽牛の心の趣の歌である。
 ○戀敷者 舊訓コヒシケバであつたのを、代匠記精に、『發句ヲコヒシケバト點ゼルハ、戀シケレバナリ。今按コヒシクハトモ讀ベシ。コヒシキハノ意ナリ』と云つた。卷十(二一一九)に、戀之久者形見爾爲與登吾背子我殖之秋芽子花咲爾家里《コヒシクハカタミニセヨトワガセコガウヱシアキハギハナサキニケリ》。同卷(二三三四)に、沫雪千重零敷戀爲來食永我見偲《アワユキハチヘニフリシケコヒシクノケナガキワレハミツツシヌバム》。卷十六(三八一一)に、戀之久爾痛吾身曾伊知白苦身爾染登保里《コヒシクニイタキワガミゾイチジロクミニシミトホリ》。卷二十(四四七五)に、故非之久能於保加流和禮波美都都之努波牟《コヒシクノオホカルワレハミツツシヌバム》等の例がある。○乏牟可哉 トモシムベシヤで、ベシヤは反語で、『雲の隱さふべしや』などと同じ格である。『今あふべき夜とだになりぬれば、しばしばかりもともしむまじとなり』(考)。『逢はんと契りし今夜なりとも、せめて、語り盡さざらんやの意なり』(略解)。『歌(ノ)意は、戀しく思ひたることは、年月日長くてありしものを、逢(394)べき今夜なれば、乏しむべきに非ず。今なりとも、心|足《タラヒ》に速く相見む、となるべし。谷《ダニ》の言二(ツ)ありていかが。此下に、戀日者氣長物乎今夜谷令乏應哉可相物乎《コフルヒハケナガキモノヲコヨヒダニトモシムベシヤアフベキモノヲ》、とあるは今の歌の重《マタ》出《イデ》たるものときこゆ。彼(ノ)方理かなへるか』(古義)。『トモシムベシヤは飽クバカリモノセザラムヤとなり。第三句を從來イマダニモとよみたれど、こは今夜谷とありし夜をおとせるにて、コヨヒダニとよむべし。結句は第三句を反復せるなり』(新考)。
 このトモシムは、前にも云つた如く、羨む、珍らしく思ふ、愛しむ等から、現在の語感の如く、乏しくする、不足するといふ意にも用ゐたことはこれらの例を見ても分かるのである。古義に、ダニが二つあつてをかしいといふが、これは井上博士が云はれたやうに、第三句と結句で繰返したものである。それゆゑ、第三句はイマダニモでかまはぬのである。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『こひしきはけなかきものをいまたにもみしかくもかなあひみるよたに』、同流布本に、『戀ふる日はけ長きものを今だにも乏しむべしや逢ふべきものを』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇一八〕
  天漢《あまのがは》去歳《こぞ》の渡《わたり》で遷《うつ》ろへば河瀬《かはせ》を踏《ふ》むに夜《よ》ぞ深《ふ》けにける
(395)  天漢 去歳渡代 遷閉者 河瀬於踏 夜深去來
 
 ○去歳渡代 『代』は、舊本『伐』であるが、古寫本等で『代』(【類・神・西・温・矢・京・無】)になつてあるので其に從つた。舊訓コゾノワタリハ。代匠記初コゾノワタリバ。『渡伐ハ渡者ト云ニハアラズ。渡場ナリ。濁音ノ伐ノ字ヲカケル、此意ナリ』(代匠記精)。童蒙抄コゾノワタリハ。考・略解は代匠記に從つた。古義コゾノワタリデ。『伐は代(ノ)字の誤にて、ワタリデならむ。代をテとよむことは、既く云るが如し。ワタリデは、應仁天皇(ノ)紀(ノ)歌に、知波椰臂等于泥能和多利珥和多利涅珥《チハヤヒトウヂノワタリニワタリデニ》云々、とあるに同じく、渡出《ワタリデ》にて、即(チ)渡の水門を云詞なり』(古義)。新考コゾノワタリノ。『和多利涅珥《ワタリデニ》とあるを例に引きたれど此歌古事記には和多理|是《ゼ》邇とありて紀の涅は果して誤字ならざるか、即果してワタリデといふ語ありやいまだ確ならぬ事なれば之に據りて今を定めむは頗危し。案ずるに伐を代の誤とし代遷閉者をウツロヘバとよみ、渡にノをよみ添ふべし』(新考)。古寫本中既にワタリノと訓んだのがある(【元・類・神・京】)。今暫らく古義に從ふ。○遷閉者 舊訓ウツロヘバ。童蒙抄では伐は代の誤で、代遷閉者でウツロヘバと訓ませ、新考もそれに據つた如くであるが、これはどうかとおもふ。ウツルは位置の變化したことをいふのである。
 一首の意は、天の河の去年徒渉した場處の岸際(代《で》)が今年は變化してしまつて分からぬのであちこちとさがして河瀬を踏んでゐるうちにもう夜が更けてしまつた。牽牛のつもりになつて作(396)つて居り、織女に未だ逢ふことの出來ないのを歎じて居るところである。
 應神紀の歌の、渡涅につき古事記傳【三十三】に、『涅《デ》は、萬葉に、走出《ワシリデ》の堤、出立《イデタチ》の清きなぎさなどある出の意なるべし。契冲、渡出《ワタリデ》とは岸際を云べしと云り』といひ、古事記の和多理是邇《ワタリゼニ》をば、渡り瀬にと解し、稜威言別等もそれに從つて居る。
 この歌は、七夕の歌であるが、天の河をば人間世界の山河のやうにしてその人間の戀愛そのままの行動にして咏んでゐるものである。それゆゑ取りわけ奇拔ではないが、眞率な點があつていい。
 此歌、拾遺集秋部に人麿作として載り、『天の川こぞの渡のうつろへば淺瀬ふむまに夜ぞ更けにける』とあり、柿本集にはその『淺瀬』を『河瀬』として載つてゐる。又、赤人集【西本願寺本】に、『あまのかはそこのわたりのうつろへはかはらをゆくによそふけにける』、同流布本に、『天の川こぞの渡りのうつろへば川瀬をゆきて夜ぞ更けにける』とあり、和歌童蒙抄に、『アマノカハコソノワタリノウツロヘハカハセフムマニヨソタケニケル』とある。
 
          ○
 
(397)  〔卷十・二〇一九〕
  古《いにしへ》よ擧《あ》げてし機《はた》も顧《かへり》みず天《あま》の河津《かはつ》に年《とし》ぞ經《へ》にける
 自古 擧而之服 不顧 天河津爾 年序經去來
 
 ○自古 舊訓ムカシヨリ(童蒙抄同訓)。代匠記精イニシヘユ(考・略解・新考同訓)。古義イニシヘヨ(新訓・全釋同訓)。○擧而之服 舊訓アゲテシコロモ。童蒙抄アゲテシハタモ(新訓同訓)。考アゲテシキヌヲ。略解アゲテシハタヲ(古義・新考同訓)。『服。はたと讀むべし。【中略】服の字を書きたるは、衣を機にあげ置しと云ふ意を助けて書きたると見ゆる也』(童蒙抄)。この外に、『服』をハタと訓む例は、『織服白栲衣《オルハタノシロタヘゴロモ》』(卷十。二〇二八)の如きがあるが、ハタをアゲといふ具合に用ゐた例は見出せない。
 一首の意は、『織女が布おらむとて、往古《イニシヘ》より機にはあげおきたれども、彦星をこひしく思ふ心の切なる故に、天(ノ)河津にのみ立出て、其(ノ)機物をかへりみずして、年ぞ經にける、となり』(古義)によつて明かである。
 この歌は、織女のつもりで歌つてゐるから、『古へよ』等と云つたのであるが、併し全體が人間らしく歌つてゐるから、機《はた》のことをいひ、『擧げてし』などといつて、なかなか細かい感情を出し(398)てゐるのである。
 古詩に、『迢々牽牛星、皎々河漢女、繊々擢素手、札々弄機杼、終日不成章、泣涙零如雨』云々とある。
 此歌赤人集【西本願寺本】に、『むかしあけてころもをかさねはあまのかはあまのかはふねうかひあけぬとも』、同流布本に、『むかしわがあけて衣をかへさねば天の河原に年ぞへにける』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二〇〕
  天漢《あまのがは》夜船《よぶね》を榜《こ》ぎて明《あ》けぬとも逢《あ》はむと念《も》ふ夜《よ》袖《そで》交《か》へずあれや
  天漢 夜船榜而 雖明 將相等念夜 袖易受將有
 
 ○將相等念夜袖易受將有 舊訓は、アハムトオモフ・ヨソデカヘズアレヤであつたやうである。それを代匠記にオモフヨと訓み、『落句ノ終ニ哉ノ字有ベシ。落タルニヤ。袖カハサズアラムヤ、カハサズバアラジトナリ』といつた。考も哉脱とし、ソデカヘズアラメヤと訓み、略解ソデカヘズアラン。古義は者に從ひ、新考・新訓等は代匠記に從つた。また考以下モフヨとした。
(399) 一首の意は、妻のもとへ行かうと、天の河に夜船を榜いで、時が經つて縱ひ夜が明けるにしても逢はうと思ふ今夜はどうしても袖を交《かは》して一處に寢ずには置かない。といふのである。
 『袖易受』は、袖カヘズで、ソデカフは既に人麿の歌に、敷妙乃袖易之君《シキタヘノソデカヘシキミ》(卷二。一九五)があり、なほ、卷三(四八一)に、白細之袖指可倍弖靡寢《シロタヘノゾデサシカヘテナビキネシ》の例がある。結句のアレヤは後世のアラムヤハといふ等に相當するので、卷九(一八〇九)に、賤吾之故大夫之荒爭見者雖生應合有哉《イヤシキワガユヱマスラヲノアラソフミレバイケリトモアフベクアレヤ》とあるのと同じである。
 この歌も、人間同志らしく歌つて居り、特に、結句の、『袖かへずあれや』に力が籠つて居る。
 この歌は、流布本赤人集に、『天の川夜舟うかびて明けぬれども逢はむと思ふたもとかへさむ』とあるが、西本願寺本には無い。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二一〕
  遠妻《とほづま》と手枕《たまくら》交《か》へて寐《ね》たる夜《よ》は鷄《とり》が音《ね》な動《とよ》み明《か》けば明《あ》くとも
  遙※[女+莫]等 手枕易 寐夜 ※[奚+隹]音莫動 明者雖明
 
(400) ○遙※[女+莫]等 原文遙※[女+莫]等に作る。※[女+莫]は醜の意で此處にふさはしくないが、西本願寺本に※[女+〓]、温故堂本・大矢本に※[女+莫]に作つて居り、拾穗抄は※[女+〓]。代匠記精は※[女+英]、考は媛、略解は嬬の誤とした。代匠記精に、『※[女+莫]ハ説文云。※[女+莫]母鄙醜也。カカレバ今ノ義ニ非ズ。玉篇云。※[女+英]《エイ》【於京切、女之美稱】若此字ヲ書誤レルニヤ』とあり、なほ新考に、『※[女+莫]は異本に※[女+〓]とあり。※[女+莫]《ボ》は醜婦、※[女+〓]《カン》は老嫗の貌にて共に穩ならず、※[女+英]又は※[女+美]の誤か』と云つて居る。兎に角古來ツマと訓んでゐるからさうして置く。○※[奚+隹]音莫動 舊訓トリガネナクナ。代匠記初書入トリカネトヨムナ。考トリ|ガ《(ハ)》ネナキソ。略解トリガネナナキ(古義同訓)。新考トリガネナトヨミ(新訓・全釋同訓)。
 一首の意は、今まで遠く隔つてゐた妻の織女とやうやく逢つて手枕を交はして寐た夜は、夜が縱ひ明けても、※[奚+隹]は鳴かないで呉れ。曉になつたことを知らせずに呉れ。といふぐらゐの意である。
 此歌は、玉葉集戀部に入り、『題しらず。讀人しらず。とほつまと枕かはしてねたる夜は鳥の音鳴くなあけはあくとも』とある。また、和歌童蒙抄に、『トヲツマトタマクラアケテネタルヨハトリノネナクナアケハアクトモ』とあり、赤人集【西本願寺本】に、『とをきいもとたまくらやすらねぬるよはにはとりなくなあけはあくとも』(【流布本第二句『たまくらやすく』、結句『あけはすぐとも』】)とあり、六帖に、『遠妻とたまくらかへて寢たる夜は鳥の音なくに明けは明くとも』とあり、夫木和歌抄に人丸作として、『とほつまと手(401)枕かはしねたる夜は鳥のねなくなあけはあくとも』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二二〕
  相見《あひみ》らく飽《あ》き足《た》らねどもいなのめの明《あ》け行《ゆ》きにけり船出《ふなで》せむ※[女+麗]《つま》
  相見久 ※[厭のがんだれなし]雖不足 稻目 明去來理 舟出爲牟※[女+麗]
 
 ○相見久 舊訓アヒミマク。古寫本の多くは(神・西・細・元・累・温〕アヒミラク。○稻目 イナノメノで、明《あく》に係つた枕詞である。『稻目トハシノノメニ同ジ。神代紀上云、乃(チ)以2御手(ヲ)1細2開《ホソメニアケ》磐戸(ヲ)1窺之《ミソナハス》。此シノノメノ明ル事ノ本《モト》ナルベシ。眠タル人ノ目ヲ少シ開《アク》ニナズラヘテ細開ヲホソメニアケトハ點ゼル歟。【中略】俗ニ目ノ細キヲ薄ニテ切タラム程ト云モ、シノススキト云ヘバ、シノノメニ近シ。稻葉モ細キ物ナレバ、イナノメモ亦シノノメノ意ニ同ジ』(代匠記精)。『阿佐米余玖《アサメヨク》は、旦目吉《アシタノメヨク》なり。【中略】さて其阿志多の阿志を反せば伊となる。多《タ》と奈《ナ》は韻《コヱ》通へり。然れば伊奈《イナ》のめの明ゆくときは、あしたの目の明ゆくてふことなり。故に此語を夜の明ることに冠らせたり』(冠辭考)。『此は稻目《イネノメ》は、稻之群《イナノメ》と云なるべし。目とは、集中に小竹之目《シヌノメ》とよめる目《メ》に同じくて、群《ムレ》の(402)意なり。牟禮《ムレノ》切|米《メ》。【中略】さて明《アケ》とかかるは、熟《アカ》らむと云意にいひかけたるなるべし。稻の熟するをあからむと云は古言にて、皇極天皇(ノ)紀に、九穀|登熟《ナリアカラム》。天智天皇(ノ)紀に、一宿之間(ニ)稻生(テ)而|穗《ホイデ》、其(ノ)旦|重頴《カブシテ》而|熟《アカラメリ》などあり』(古義)。
 一首の意。かうして折角逢うて、相見ることに飽き足りないのだけれどももう夜も明けてしまうた。爲方がないから船出して歸途につかう、妻の織女よ。
 此歌は、六帖に人麿作とし、『あひ見まく秋たたずともしののめの明けはてにけり舟出せむかは』とあり、袖中抄に、『アヒミマクアキタラストモ稻目《イナノメ》ノアケユキニケリフナテセムイモ』とあり、赤人集【西本願寺本】に、『あひみまくあれともあかすしのゝめのあけにけらしなふならせんいも』、同流布本には、『あひ見らくあきたらねどもしののめの明けにけらしな舟出せむ妹』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二三〕
  さ宿《ね》そめて幾何《いくだ》もあらねば白妙《しろたへ》の帶《おび》乞《こ》ふべしや戀《こひ》もすぎねば
  左〓始而 何太毛不在者 白栲 帶可乞哉 戀毛不過者
 
(403) 第二句、考ではイクバクモアラネバ。『サは發語なり。イクダはイクバクの略なり。ココダクをココダと言ふに同じ』(略解)とあり、結句は舊本『戀毛不遏者《コヒモツキネバ》』とあつて此につき、代匠記精に、『落句ノ遏ヲ校本ニ過ニ作リ、紀州ノ本ノ點ニスギネバトアレド、下ニモ此句アル歌アルニ、五字共ニ今ト同ジケレバ異ヲ取ラズ』とある。古寫本等の多くに『過』とあり(元・類・神・細・無)、スギネバと訓んだのもあるから(元・神)、今はそれに從つた。
 一首の意。久しぶりでお逢ひして、未だいくらにもなりませぬのに、そして二人の戀おもふ心もまだまだでございますのに、もうあなたは白妙の帶をよこせと仰つしやるのですか、そんなに慌しくお歸りにならなくともいいではございませぬか。
 『帶を乞ふ』は、『彦星の帶を解て、織女の取おきたるを、それとりて給はれと、別(レ)に臨《ナリ》て、彦星の乞ふるままに、織女のよめるなり』(古義)とある如くであるが、卷三(四三一)に、倭文幡乃帶解替而廬屋立妻問爲家武《シヅハタノオビトキカヘテフセヤタテツマドヒシケム》。卷十二(二九七四)に、紫帶之結毛解毛不見本名也妹爾戀度南《ムラサキノオビノムスビモトキモミズモトナヤイモニコヒワタリナム》。卷二十(四四二二)に、宇都久之美於妣波等可奈奈阿也爾加母禰毛《ウツクシミオビハトカナナアヤニカモネモ》とある等、皆、帶を解くことに關係してゐるが、『帶を乞ふ』といふことは他に無い。それだけこの歌は行動は細かいものである。
 
          ○
 
(404)  〔卷十・二〇二四〕
  萬世《よろづよ》に携《たづさ》はり居《ゐ》て相見《あひみ》とも思《おも》ひ過《す》ぐべき戀《こひ》にあらなくに
  萬世 携手居而 相見鞆 念可過 戀爾有莫國
 
 ○携手居而 舊訓テタツサヰヰテ。代匠記初タヅサヘヰテ。童蒙抄タヅサヰヲリテ。考タヅサハリヰテ。○戀爾有莫國 舊本『戀奈有莫國』でコヒナラナクニと訓む。考、奈は尓の誤。古寫本、奈は尓(元・類)に作る。そこで考に從ひ、コヒニアラナクニと訓んだ。
 一首の意は、萬年までも一しよに相逢うてゐてもそれで澤山だといふ私等の戀ではない。だから、ただ一夜だけの歡會で別れるのはつらいといふ意を含ませてある。
 『思ひ過ぐ』はこの前の歌に、『戀の過ぎねば』とあるのと同樣である。『明曰香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき戀にあらなくに』(卷三。三二五)は山部赤人の作だが、形が似てゐるから、ひよつとせばこの歌の影響があるのででもあらうか。なほ、『石上布留《いそのかみふる》の山なる杉群《すぎむら》の思ひ過ぐべき君にあらなくに』(卷三。四二二)。『朝に日《け》に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに』(卷四。六六八)。『神南備《かむなび》の三諸《みもろ》の山に齋《いは》ふ杉おもひ過ぎめや蘿《こけ》生《む》すまでに』(卷十三。三二二八)等の用例がある。
 
(405) 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『よろつよをたつさはりゐてあひみむとおもふへしやはこひあらなくに』、同流布本に、『よろづよをたづさはりゐてあひ見とも思ひすぐべき戀ならなくに』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二五〕
 萬世《よろづよ》に照《て》るべき月《つき》も雪隱《くもがく》り苔《くる》しきものぞ逢《あ》はむと念《おも》へど
  萬世 可照月毛 雲隱 苦物叙 將相登雖念
 
 ○可照月毛 舊訓テルベキツキモ。童蒙抄テラセルツキモ。○雲隱 舊訓クモガクレ。童蒙抄クモガクル。略解クモガクリ。○苦物叙 舊訓クルシキモノゾ。古寫本中クルシキモノヲ(細一訓)。○將相登雖念 舊訓アハムトオモヘド。代匠記精アハムトモヘド。
 第三句までは序のやうに使つて居り、主な内容は、『苦しきものぞ逢はむと念へど』にある。いつも變りなく照るはずの月も雲に隱れることがある。そのやうにいつも逢はうとおもふのだが、逢へないことのあるのは苦しいといふのである。七夕の戀をば人間らしく同情して歌つてゐるのである。古義では、『吾等が中もその如く、萬世に永く久しく相見むとは思(ヘ)ども、年にただ一夜の(406)逢瀬なれば、別に臨《ナリ》てほ、かの月の雲がくれたるを見る如くに、せむ方なく心もくれて、苦しきものぞ、と云ならむ』と解しゐるが、この歌は別れの時の歌でなく、まだ逢はぬ時の氣持で、そこが人間らしくておもしろいのである。且つ『逢はむと念へど』が利くのである。『萬世に』は月の照るに係るので、常に逢ふといふことなどに係るのではない。これは、歌としては取りたてていふほどのものではないが、やはり、『苦しきものぞ』といふ切實な句に心を牽かれるのである。萬葉には、
   難波潟|潮干《しほひ》なありそね沈みにし妹が光儀《すがた》を見まく苦《くる》しも (卷二。二二九〕
   うち日さす宮に行く兒をまがなしみ留《と》むるは苦し遣るはすべなし (卷四。五三二)
   思ひ絶え佗《わ》びにしものをなかなかに何か苦しく相見|始《そ》めけむ (卷四。七五〇)
   外《よそ》に居て戀ふるは苦し吾妹子を繼ぎて相見む事計《ことはかり》せよ (卷四。七五六)
   霍公鳥《ほととぎす》無かる國にも行きてしかその鳴く聲を聞けば苦しも (卷八。一四六七)
   なかなかに死なば安けむ出づる日の入る別《わき》知らぬ吾し苦しも (卷十二。二九四〇)
   隱《こも》りのみ戀ふれば苦し山の端ゆ出で來る月の顯《あらは》さば如何《いか》に (卷十六。三八〇三)
等、その他クルシの用例が多い。そして場合によつて少しづつ意味も違つてゐるから、さういふ方面にも注意すれば、この語を現代的に活かすことも亦さう困難ではないだらう。
(407) 此歌は、赤人集【西本願寺本】に、『よろつよをへたつるつきかかもかくれくるしきものそあはむとおもふは』、同流布本に、『よろづよに照らすべき月くもがくれくるしきものぞ逢はむと思へば』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二六〕
  白雲《しらくも》の五百重隱《いはへがく》りて遠《とほ》けども夜去《よひさ》らず見《み》む妹《いも》が邊《あたり》は
  白雲 五百遍隱 雖遠 夜不去將見 妹當者
 
 ○五百遍隱・雖遠 舊訓イホヘカクシテ・トホケドモ。童蒙抄イホヘニカクレ・トホクトモ。考イホヘガクリテ・トホケドモ。古寫本イホヘガクレテ・ト|ホ《(ヲ)》クトモ(元・類・西・細・神・温)。イホヘガクレテ・ト|ホ《(ヲ)》ケドモ(矢・京)。○夜不去將見 舊訓ヨカレセズミム。代匠記精ヨヒサラズミム。ヨヒサラズ、とは毎夜といふことで下にも見えてゐる。
 一首の意は、妻の織女の居るあたりは白雲が幾重も重なつて、その奥に隱れて遠いのだけれども、それでも毎夜ながめて居よう。妻の居るあたりは。といふのである。(408)ヨヒサラズは、『奥山に住むとふ鹿《しか》の初夜《よひ》去《さ》らず妻問《つまど》ふ萩の散らまく惜しも』(卷十。二〇九八)。『三笠の山に朝さらず雲居たなびき容鳥《かほどり》の間《ま》なく數《しば》鳴く』(卷三。三七二)。『つぬさはふ磐余《いはれ》の道を朝《あさ》離《さ》らず行きけむ人の』(同。四二三)。『鹿背《かせ》の山|樹立《こだち》をしげみ朝去らず來鳴きとよもす※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》のこゑ』(卷六。一〇五七)。『今日もかも明日香の河の夕さらず蝦《かはづ》なく瀬の清《さや》けかるらむ』(卷三。三五六)。『み空ゆく月讀壯士《つくよみをとこ》夕去らず目には見れども寄る縁《よし》もなし』(卷七。一三七二)。『夕さらず河蝦《かはづ》鳴くなる三輪河の清き瀬の音《と》を聞かくし宜しも』(卷十。二二二二)等の例がある。なほ、『明日香河川淀さらず立つ霧の』(卷三。三二五)。『里遠み戀ひ佗びにけりまそ鏡面影去らず夢に見えこそ』(卷十一。二六三四)といふ例も參考となるであらう。
 この歌は、事件本位でなく、單純に歌つたために、聲調も豐かに莊重になつた。ただ稍|樂《らく》に作つて沈痛の餘響に乏しいが、これは題咏の如きものだから爲方がないのである。
 此歌、和歌童蒙抄に、『シラクモノイオヘヽタテヽトヲクトモヨカレスヲミムイモカアタリハ』、とあり、赤人集【西本願寺本】に、『しらくもをいろ/\たてしとほくともよふさゝろをみむいもかあたりを』、同流布本に、『白雲をいくへへだてて遠くともよひさらず見むきみがあたりを』とある。
 
          ○
 
(409)〔卷十・二〇二七〕
  我《わ》がためと織女《たなばたつめ》のその屋戸《やど》に織《お》る白妙《しろたへ》は織《お》りてけむかも
  爲我登 織女之 其屋戸爾 織白布 織弖兼鴨
 
 ○織女之 タナバタツメは棚機津女で機織る女であるのが牽牛織女の織女に使ふやうになつたこと既に云つた如くである。○織白布 舊訓ヲルシラヌノハ。略解オルシロタヘハ(新考同訓)。古義オレルシロタヘ。○織弖兼鴨 舊訓ヲリテケムカモ。古義ヌヒテケムカモ。
 一首の意。わが爲めに、妻の織女が彼女の家で織る白妙《しろたへ》(白い布)は、もう織れたであらうか、どうだらうか。
 この歌も牽牛のつもりになつて咏んで居るが、同じ空想でもやはり人間同志のやうな心持があらはれてゐる。特に、機を織る戀人に見たて、親愛の情を籠めてゐる點が珍しく、『織りてけむかも』といふ表はし方も簡潔、素朴で好いやうである。童蒙抄に、『彦星になりて詠める歌也。只織女我を慕ひ思ふから、なす業の事も如何にぞやと、思ひやれる處に、自ら戀慕の情こもれる歌也』とあるのは要を得て居る。
 『棚機《たたばた》の五百機《いほはた》立てて織る布の秋さり衣《ごろも》誰か取り見む』(卷十。二〇三四)。『いにしへに織りてし(410)機をこのゆふべ衣《ころも》に縫ひて君待つ吾を』(同。二〇六四)。『足玉《あしだま》も手珠《てだま》もゆらに織る機《はた》を君が御衣《みけし》に縫ひ堪《あ》へむかも』(同。二〇六五)等の歌を參考としていい。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『わかためとたなはたつめのそのやとにおるしらぬのはおひとかうかも』(【流布本初句『わがために』、結句『おりてけむかも』】)とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二八〕
  君《きみ》に逢《あ》はず久《ひさ》しき時《とき》ゆ織《お》る機《はた》の白《しろ》たへ衣《ころも》垢《あか》づくまでに
  君不和 久時 織服 白栲衣 垢附麻弖爾
 
 ○君不相 舊訓キミニアハデ(【代匠記・考同訓】)。神田本にキミニアハズ(【略解・古義・新考同訓】)。○久時 舊訓ヒサシキトキニ。童蒙抄フリニシヨヨリ。略解ヒサシキトキユ。古義ヒサシキトキヨ。新考ヒサシクナリヌ。いま、略解訓に從ふ。○織服 舊訓ヲリキタル(代匠記同訓)。童蒙抄オルハタノ(【略解・古義同訓】)。考オリテキシ。新考オリキセシ。
 一首の意。あなたにお逢(交會)ひすることも出來ず、遠い昔からあなたの爲めに織つて置い(411)た白布の衣服も、もう垢づくまでになりました。そんなに久しくお逢ひ出來ずに居るのです。
 この初句は、『逢はずして』と第二句へ續くのである。また、結句の、『垢づくまでに』は餘響を持たせたので、『なりぬ』などといふ語を補充して味へば好い。若し強ひて關聯せしめるとすると、『久しき』に關聯せしめてもかまはぬ。併し、結句は結句として獨立せしめて考察する方がいいのである。
 この歌は無論織女の心持になつて咏んだものだが、新考に、『略解に織女になりてよめりといひ、古義に織女のいへる意にやといへるも非なり。無論牽牛の語なり』と云つてゐるのは間違である。なぜ新考でかう間違つたかといふに、『君にあはず久しくなりぬ織服《オリキセシ》しろたへごろも垢づくまでに』と訓んだからである。西本願寺本赤人集に、『きみにあはで久しくなりぬおびにせし白妙ごろもあかづくまでに』とあるのも牽牛的になつてゐるが、これも原作からは遠い。この歌は、『織女に成りて詠めり。服を上にもハタと訓めり』(略解)で解釋がつくとおもふのであるが、『垢づくまでに』を、牽牛の衣服らしく感ずるので間違つてしまふのであらうか。童蒙抄で、『歌の意は、七夕の逢ふ事久敷月日を隔てて、著たる衣も垢づく迄になりしと云義也。印本諸抄の通りに、久しき時にと讀みては、歌の意少し濟み難き也。君に逢はで久しければと云ふ意にあらざれば聞え難き也』云々と云つてゐるのもそのためで、少しのところに引掛るのである。
(412) 此歌、前に引くごとく赤人集【西本願寺本】に、『きみにあはてひさしくなりぬおひにせしゝろたへころもあかつくまてに』とあるが、同流布本には、三四句『織るはたの白妙衣は』となつてゐる。又夫木和歌抄に人丸作として、『君にあはすひさしきときはおりきたるしろたへ衣あかつくまでに』と載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇二九〕
  天漢《あまのがは》楫《かぢ》の音《と》きこゆ彦星《ひこぼし》と織女《たなばたつめ》と今夕《こよひ》逢《あ》ふらしも
  天漢 梶音聞 孫星 與織女 今夕相霜
 
 ○梶音開 舊訓カヂノオトキコユ。古寫本中カヂ|オ《(チ)》トキコユ(元・類・神・京)。考カヂノトキコユ(略解・古義等同訓)。
 一首の意は、いま天の河に船こぐ櫂《かい》の音が聞こえる。今夜は彦星と織女とが交會するのだ。といふぐらゐの意で、ラシは現在に本づく推量だから、いよいよ二つの星が逢ふところらしいなといふことになる。
(413) これは第三者が、天の河をあふいで、想像してゐる趣の歌で、内容も單純であるから、一つの調和がとれて破綻を來さない。そのかはり一首は餘り安易で物足りないが、歡喜の感情を傳へてゐる點を取るべきである。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『あまのかはかちおときこゆひこほしのたなはたつめとけふやあふらし』(【流布本結句『こよひあふらし』】)とある。又夫木和歌抄に、人丸作として本文と同じ訓で載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇三〇〕
  秋《あき》されば河《かは》ぞ霧《き》らへる天《あま》の川《がは》河《かは》に向《む》き居《ゐ》て戀《こ》ふる夜《よ》ぞ多《おほ》き
  秋去者 河霧 天川 河向居而 戀夜多
 
 ○河霧 舊訓カハキリタチテ。代匠記、發・立等の脱としカハキリタチテ。渡の脱としてカハキリワタル。考カハギリタチツ。略解カハギリワタル。古義カハギリタテル。新考カハギリキラス。又はカハギリキラフ。新訓カハゾキラヘル。温故堂本に、霧の下に立の文字があるから、さすればカハギリタテルと古義の訓が好いことになる。○河向居而 舊訓カハニムカヒテ。代匠記(414)精カハニムカヒヰテ。童蒙抄カムカヒヲリテ。考カハニムキヰテ(古義・新考同訓)。略解カハニムキヰテ、又はカハニムカヒヰ。○戀夜多 舊訓コフルヨゾオホキ。新訓コフルヨオホシ。
 一首の意は、秋になると、もう天の河には霧が立ちそめる、その遠く霧《きら》ひ居る河に向かつて逢ふ夜も近づくので夫《をつと》を待ち思ふ夜が多くなつた。といふぐらゐの意で、考に、『織女に成てよめるなり』とあるのがよい。
 此歌、赤人集【西本願寺本】に、『秋立て河霧わたるあまのかは』、同流布本に、下句『川にむきゐて戀ふる夜ぞ多き』とある。又後撰集に、讀人しらずとして『秋くれば川霧渡る天の川かはかみ見つつこふる日の多き』と載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇三一〕
  よしゑやし直《ただ》ならずともぬえ鳥《とり》のうら嘆《なき・なげき》居《を》りと告《つ》げむ子《こ》もがも
  吉哉 雖不直 奴延鳥 浦嘆居 告子鴨
 
 ○浦嘆居 舊訓ウラナキヲルト。古寫本でもウラナキ|ヲ《(オ)》ルト(西・細・温・矢・京)。ウラナゲキ(415)ヲル(元・類・神)の訓で、ナゲの訓がない。併し、これは前の歌のところで言及したやうに、ナゲが認容されれば調べが一番よいが、さもなければ一字餘してウラナゲキヲリトと訓んでよい。新考では現に、ウラナゲキヲリトと訓んで居る。
 一首の意は、たとひ直接でなくとも、こんなにして〔奴延鳥《ぬえどりの》〕心に歎いて戀しく思うてゐるといふことを知らせて呉れる人でも居ればよい。といふのであらう。これは織女の心になつて咏んで居る。
 『告げむ子もがも』をば、略解で、『子にもがもといふ意なり。子は妹を指す』と云つたのに就いて、古義で反對し新考も採用して居ない。『子《コ》は使の童にて、かくと告ゆかむ使もがなあれかしの意なり』(古義)。『告ゲム人モアレカシといへるなり』(新考)とある。一首の聲調が順當で、意味もむづかしくない。ここの一聯の七夕の歌のうちでは相當な歌と謂つていいだらう。
 此歌は、袖中抄に、『吉哉《ヨシエヤシ》タヽナラネトモヌエトリノウラナケキヲルツケムコモカモ』とある。
 
          ○
 
(416)  〔卷十・二〇三二〕
  一年《ひととせ》に七夕《なぬかのよ》のみ逢《あ》ふ人《ひと》の戀《こひ》も過《す》ぎねば夜《よ》は更》ふ》けゆくも 【一云。盡《つ》きねばさ夜《よ》ぞあけにける】
  一年邇 七夕耳 相人之 戀毛不過者 夜深往久毛 【一云。不盡者佐宵曾明爾來】
 
 一首の意は、一年のうちでただ七日《なぬか》の夜《よ》だけ逢ふことの出來る牽牛・織女の戀はいつまでも盡きないのに、もはや夜も更けて行く。誠に惜しくてならないといふので、一に云ふの方は、夜はもう明けてしまったといふことになる。
 『過ぎねば』といふ語の使ひざまについては既に前に云つた。此處も舊本は『不遏者《ツキネバ》』となつてゐるが、古寫本中には『不過者』と書き(元・類・神)、スギネバと訓んだ(神)のがある。この歌は第三者が二星の戀に同情して咏んで居る趣である。
 代匠記精撰本に云。『不遏者ヲ赤人集ニアハネハトアルハ、推量スルニ遏ヲ遇ニ見マカヘタル歟。或ハ古本誤テ遇ニ作リケルナルベシ』。『一云不盡者佐宵曾明爾来。此ニ疑アリ。集中異本ヲ注スル例、句ニ異アルヲ注シ載テ、異ナキヲ注スル事ナシ。此事ハ仙覺モ申サレタリ。今不盡者トハ不遏者ノ異歟。共ニツキネバトヨメバ異ナシ。仮令不遏者ハヤマネバト讀トモ、一云戀毛不盡者等ト云べシ。何ゾ一句ノ半ヲ出サム。此ハ撰者ノ注ニハアラズシテ後人ノ所爲歟。若撰者ノ(417)注ナラバ不遏者ハヤマネバニテ、今ノ注ニ戀毛ノ二字落タルナルベシ』。
 此歌、赤人集【流布本】に、『一年に七日の夜のみ逢ふ人の戀も盡きねば夜更行くかも』とあり、又一本に、第四句『こよひもあはねば』ともなつてゐる。西本願寺本には無い。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇三三〕
  天漢《あまのがは》安《やす》の川原《かはら》に定《さだ》まりて神競《かむつつどひ》は時《とき》待《きま》たなくに
  天漢 安川原 定而 神競者 磨待無
 
 ○安川原・定而 舊訓ヤスノカハラノ・サダマリテ(【代匠記・考・略解同訓】)。童蒙抄宗師案ヤスノカハラニ・チギリツツ、愚案ヤスノカハラニ・チギリオキシ。略解宣長説、『或人説に、而は西の字の誤』で、ヤスノカハラニ・サダメニシ。古義ヤスノカハラニ・サダマリテ。新考ヤスノカハラハ・サダマリテ。○神競者・磨待無 舊訓ココロクラベハ・トキマツナクニ。代匠記カガミクラベハ・トグモマタナク。童蒙抄宗師案タマノアリソハ・ミガキテマタナ。愚案ココロクラベバ・トキモマタナク。考カンツツドヒハ・トキマタナクニ。略解カムツツドヒハ・トキマタナクニ。略解、宜長(418)或人説、競は鏡の誤で、カミノカガミハ・トグマタナクニ。古義、磨待は禁時の誤で、カミノツドヒハ・イムトキナキヲ。新考、磨待は度時の誤、カミノキホヘバ・ワタルトキナシ。全釋は略解訓に從つた。私もそれに從ふ。
 一首の意。天漢《あまのがは》の安《やす》の河原で神集《かむつどひ》したまふ諸神の時はこれと云つて定《き》まつて居ず、時さへあれば何時でも會合が出來ますのに、私達(牽牛・織女の二星神)二人の會ふことの出來るのは、一年にただの一夜に過ぎないのは、恨めしいことである。といふ意で、『天の安川の神集は、いつと定らずたびたびあなりしを、此星合の事は安川の定りてより、一年に一度としたるはいかにとうらみをふくめる意を、ここに其神集は時またなくにとのみいひ、二星の心になりてよめるなり』(考)。『諸神の天安河原に集ひ給ふは、時に臨みてあるを、二星の集ひは、一歳に唯だ一夜のみと定まれるを恨むなり』(略解)。
 この歌は、難解だつたと見えて、諸注釋書が種々に解釋してゐることは、既にその訓のまちまちなのによつても分かるが、今參考のために少しく抄出して置かうとおもふ。『今試ニ此ヲ釋セバ、先下句ヲ和シカヘテ、カガミクラベハトグモマタナクト讀ベキ歟。日本紀ニ明神ヲアラカガミト點ゼレバ神ヲ鏡ニナシテヨマム事無理ナラズ。神道家カミハカガミノ略語ト云ヘリ。後撰集ニ共鏡《トモカガミ》トヨメルハ互ニ見合スル意ナレバ鏡競《カガミクラベ》トモ云ベキニヤ。カクテノ意ハ、牛女ノ互ニ相思フ(419)心ノ明ラカニ淨キ事ハ鏡ニ鏡ヲ向ヘテクラブルニ、此方《コナタ》彼方《カナタ》替ル事ナキガ如シ。サレドモ其鏡ハ猶|磨《トグ》ヲ待テ然ルヲ、此二星ハ淵瀬《フチセ》變《カハ》ラヌ天河ノ神代ヨリ定マル如クシテ、心ヲ勵《ハゲマ》シテ淨《キヨ》カラムト思ハネド、オノヅカラ淨キヲ磨モマタナクトヨメルニヤ』(代匠記精)。『天河安川原と重ねて云ひて、天河に年に一度あはんと契り置きて、今夜逢ふ夜なれば、玉の荒磯を祓ひ清めて、みがきて待たなんと云ふ意に見る也』(童蒙抄宗師案)。『此已下七夕の歌に時を待つ待たぬと詠める類歌數多あれば、相思ふ戀しさの心は何時をもわかず、初秋の時をも待たぬと云意に詠める歟』(童蒙抄愚案)。『神代より天(ノ)安河に神の競《アラソ》ひ集《アツマ》り給ふことは、いつと定まりて禁《イミ》さくる時なきものを、かく七夕《ナヌカノヨ》とのみ定りて、他時にあふことのならぬが恨めし、と云ならむか、猶考(フ)べし』(古義)などで、種々面倒に解釋してゐる。併しこの歌も、さうむづかしくなく解釋して意味の通ずる歌だとおもふから、考・略解の解に大體從つたのであつた。
 歌は、七夕の歌で、取たてていふほどのものでない。ただ一首には七夕といふことを云はずに、暗にそれを示すといふ具合になつて居る。
 この歌の左注に、『此歌一首庚辰年作之』とあつて、別行にして、『右柿本朝臣人麿歌集出』とある。右云々といふのは右三十八首を指すのである。庚辰は天武天皇の白鳳九年か、聖武天皇の天平十二年かいづれかであるが、天平十二年の方は除去し得るとして、持統元年に人麿の年齡を(420)二十五歳とせば、天武天皇の白鳳九年(【即ち天武天皇八年。弘文天皇壬申の年を白鳳元年として計算した。】)には、人麿の年齡は十八歳となるわけである。そこでさう若い人麿が斯る歌を作り得るか否かといふことになつて、疑ふ學者もあり、私も疑ふ側にゐたのであつたが、今ではこのくらゐの歌を十八歳の人麿が作つても毫も差支はないと思ふやうになつた。二十七歳ごろの人麿が近江の荒都を過ぎて、あれだけの長歌を作つてゐるのから推して、その發育史中に、十八歳の人麿がこれぐらゐの短歌は作り得ると做すのである。『此一首は石見にてよまれたる歟』(代匠記初)といふのは、契沖は人麿をば石見人と考へてゐるからである。『庚辰年ハ次ニ人丸歌集出トアレバ、人丸ノ歌ニモアレ、別人ノ歌ニモアレ、天武天皇白鳳九年ノ作ナルベシ』(代匠記精)といふのになると、必ずしも石見での作だらうとは云つて居ない。
 人麿歌集の歌の書き方は簡單で助詞等を省略したのが多いが、此歌もその特徴が存じてゐる。そして、人麿歌集を全部或は一部、人麿自身の手控になつたものだとすれば、『此歌一首庚辰年作之』といふことわり書のやうなものが、自記の語氣である點をも理會し得るのではなからうか。
 この歌は、和歌童蒙抄に、『アマノカハヤスノカハラノサタマリテコヽロクラヘハトキマタナクニ』とあり、赤人集に、『あまのかはやすのかはらにさたまりてかゝるわかれはとくとまたなむ』(【西本願寺本・流布本】)となつて載って居る。また夫木和歌抄に、『よみびとしらず』として載り、和歌童蒙抄(421)と同じ訓である。
 
          ○
 
  〔卷十・二〇九四〕
  さを鹿《しか》のこころ相念《あひおも》ふ秋萩《あきはぎ》の時雨《しぐれ》の零《ふ》るに散《ち》らくし惜《を》しも
  竿志鹿之 心相念 秋芽子之 鐘禮零丹 落僧惜毛
 
 『詠v花』といふ題で、『右二首柿本朝臣人麿之謌集出』と左注せられたその第一首である。○落僧惜毛 舊訓チリソフヲシモ(代匠記同訓)。童蒙抄チラマクヲシモ。チルラシヲシモ。チカヒシヲシモ。考チラマクヲシモ(一本ヲチマクヲシモ)。略解チラマクヲシモ(僧は倶の誤)。古義チラクシヲしも(僧は信の誤)。宣長チラマクヲシモ(僧は漠の誤)。字音辨證に僧にシの音ありとし、知僧裳無跡《シルシモナシト》(卷四。六五八)を證とし、新考もそれに從ひ、『但師と書くべきを僧と書けるにて一種の義訓なるべし』と云つた。
 一首の意は、小男鹿《さをしか》の戀ひおもふ秋萩の花が、この時雨《しぐれ》に散るのは奈何にも殘念なことである。鹿の臥處としても滿足せしめたい心持を含めて居る。
(422) この萩と鹿との關係は、『奧山に住むとふ鹿の初夜《よひ》去らず妻問ふ萩の散らまく惜しも』(卷十。二〇九八)。『わが岳《をか》にさを鹿來鳴く先芽《ききはぎ》の花嬬《はなづま》問《とひ》に來鳴くさ牡鹿』(卷八。一五四一)。『三垣の山に秋萩の妻をまかむと』(卷九。一七六一)。『秋萩を妻問ふ鹿こそ一子《ひとりご》に子持たりといへ鹿兒《かこ》じもの吾が獨子の』(卷九。一七九〇)などの例によつて知ることが出來る。『萩ヲバ鹿ノ妻トモ云ヘバ相念ト云ヘリ』(代匠記精)と注してある。
 シグレは、後には、晩秋初冬にかけて降る雨であるが、元來は小雨の義であつた。『和名云、〓雨《シグレハ》、孫※[立心偏+面](カ)曰、〓雨(ハ)小雨(ナリ)也。音與終同。漢語抄云、【之久禮。】カカレバシグレハ小雨ナルヲ、イツトナク※[手偏+總の旁]名ヲ別名トナシテ秋冬ノアハヒニ降見降ラズ見定メナキ雨ニ名付タレド、昔ハ猶廣クヨメルニヤ』(代匠記精)。
 常套手段で咏んでゐる歌だが、何か可憐な聲調があつて好い。それは、かういふ内容は當時にあつては新鮮な感じを持つてゐたためだつたかも知れない。そこで、『散らくし惜しも』の如き常套手段でも、相當の力を有つてゐるといふことになる。『さ夜ふけて時雨な零りそ秋萩の本葉《もとは》の黄葉《もみぢ》散らまく惜しも』(卷十。二二一五)等その他がある。
 この歌、人麿作として六帖に入り、結句『散るは惜しくも』となつてゐる。又夫木和歌抄にも人丸作とし、結句『ちらまくおし|も《きイ》』である。
 
(423)          ○
 
  〔卷十・二〇九五〕
  夕《ゆふ》されば野邊《ぬべ》の秋萩《あきはぎ》うら若《わか》み露《つゆ》に枯《か》れつつ秋《あき》待《ま》ち難《がた》し
  夕去 野邊秋芽子 未若 露枯 金待難
 
 『詠花』第二首である。○末若 古寫本も舊訓もズヱワカミであつたのを、代匠記初稿本でウラワカミと訓んだ。下の句の訓はいろいろで、ツユニシカレテ・アキマチガタシ(舊訓)。ツユニカレツツ・アキマチガタシ。六帖をとればツユニカルカネ・キミマチカネツか(代匠記精)。ツユニヤカレン・アキマテガテニ(童蒙抄)。ツユニシヲレテ(考)。ツユニヌレツツ(略解宣長訓)。ツユニシヲレテ・アキマチガテヌ(略解)。ツユニカレツツ・アキマチガタシ(古義)。ツユニゾヲルル・
アキマチガテニ(新考)等であるが、暫く代匠記に從つた。ウラワカミは、『末《うら》わかみ花咲きがたき梅を植ゑて人の言《こと》繋《しげ》み思ひぞ吾が爲《す》る』(卷四。七八八)。『葉根※[草冠/縵]《はねかづら》いま爲《す》る妹をうら若みいざ率》川《いざかは》の音の清《きや》けさ』(卷七。一一一二)。『高圓の秋野の上の瞿麥《なでしこ》の花うら若み人のかざしし瞿麥の花』(卷八。一六一〇)。『はね※[草冠/縵]《かづら》今する妹がうら若み咲《ゑ》みみ慍《いか》りみ著《つ》けし紐解く』(卷十一。二六二七)な(424)どの例がある。また、伊勢物語には、『うら若みねよげに見ゆる若草を人の結ばむ事をしぞおもふ』といふのがある。
 一首の意は、夕がたになると露が重くおくので、萩がまだ若くその露に堪へかねてしをれ、來るべき秋に咲くのも咲かずにしまふ。といふほどの歌であらうか。秋待ちがたしは秋を待ちかねるといふことで即ち秋までは保たないといふ意があるのである。この歌の『枯』の字が腑に落ちない云方なので種々の異訓が出來たのであらうが、これは、花咲きかねるほどに萎《しを》れる心持だとおもふ。つまり感じで咏んでゐるのだから、是非『折れる』と理論的に云ふ必要も無いやうに思へる。
 此歌、六帖『またず』の部に入り、下句『露にかれかねきみまちかねつ』とある。
 
          ○
 
  〔卷十・二一七八〕
  妻《つま》ごもる矢野《やぬ》の神山《かみやま》露霜《つゆじも》ににほひそめたり散《ち》らまく惜《を》しも
  妻隱 矢野神山 露霜爾 爾寶比始 散卷惜
 
(425) 『詠2黄葉1』といふ題で、『右二首柿本朝臣人麿之謌集出』と左注された第一首である。○妻隱 舊訓ツマコモル。古寫本中ツマコモル(西・矢・京・細・温)。ツマカクス(元・類・神)の二訓があつた。ヤに係る枕詞で、ツマが居る『屋《や》』といふ意味からヤヌに係つた。卷二(一三五)に、嬬隱有屋上乃山乃《ツマゴモルヤカミノヤマノ》といふ人麿の用例のあるのも同樣な用法である。
 矢野《やぬ》の神山《かみやま》は何處の山か不明であるが、和名鈔には、備後甲奴郡に矢野があり、伊豫喜多郡に矢野【也乃】があり、播磨赤穗郡に八野《ヤノ》があり、出雲|神門《かむと》郡に八野がある。また、大日本地名辭書には伊勢度會郡矢野に當てて居る。新考に、『人麿謌集に出でたる歌なれば出雲國神門郡のならむ』といひ、全釋には、『左註に、柿本朝臣人麿之謌集出とあるから、人麿の旅行範圍と見るべきであらうが、それにしても出雲・備後・播磨など彼の足跡を印したところらしいので、いづれとも判じがたい』とある。若しこの歌を人麿の歌とし、實地の歌とせば、備後甲奴郡の矢野と考へることも出來る。此は既に總論篇(五五頁)〔一五卷六二頁〕にも論じた如く、當時の國府は今の府中にあつた筈だから、其處に寄るやうなことがありとせば矢野近くを通つてもかまはないのである。これはなほ後攷を待つが、若しこの歌が、人麿初期のもので、大和にゐたころに作つたとせば、大日本地名辭書の説の如くに伊勢とする方が無理がないやうである。私は現在は伊勢説に傾いてゐる。この歌は、石見から上來の時の歌のやうな氣特はしないからである。
(426) 一首の意は、〔妻隱《つまごもる》〕矢野《やぬ》の神山《かみやま》は、露霜《つゆじも》(寒露)が降つて、色づきそめた。この美しく神々しい黄葉《もみぢ》の散つてしまふのは惜しいものである。といふのである。
 この歌は、神山《かみやま》といふのだから、地名辭書の、『今矢野の南に大字|山神《ヤマカミ》の名あり』といふのは當つてゐるかも知れない。また、『爾寶比始《ニホヒソメタリ》』といふ語もなかなか好い語であるから、次の歌の處で少しく用例を拾つて置いた。
 此歌は、六帖に、『妻かくすやのの神山露霜ににほひそむらし散らまく惜しみ』、玉葉集秋の部に、人丸作『妻かくすやのの神山露霜ににほひそめたり散らまく|もをし《をしもイ》』として入つて居る。
 
          ○
 
  〔卷十・二一七九〕
  朝露《あさつゆ》ににほひそめたる秋山《あきやま》に時雨《しぐ九》な零《ふ》りそ在《あ》り渡《わた》るがね
  朝露爾 染始 秋山爾 鐘禮莫零 在渡金
 
 『詠黄葉』人麿歌集出第二首である。○染始 舊訓ソメハジメタル(【代匠記・略解同訓】)。童蒙抄ソメソメニケリ。考ニホヒソメタル(【古義・新考等同訓】)。○在渡金 舊訓アリワタルガネ(【代匠記・考・略解・古義・新考等同訓】)。童蒙抄アレワ(427)タルカニ。この意味は、『散ラズシテ有ハツル歟ニナリ』(代匠記精)といふことである。
 一首の意は、朝々降る露にやうやく色づき始めたこの秋山に時雨は降るな。いつまでも散らずに居るやうに。といふのである。
 この歌も明快で毫もむづかしくないので、その點では却つて成功して居り、歌詞も民謠風に平凡化してゐない好いところがなほ存じてゐるし、前の歌と共に、或は人膚作の歌ではないかとおもはしめるものである。特に結句に好い響を持つて居り、注意すべき響のやうである。
 このアリワタルといふ語も顧慮すべきもので、卷十八(四〇九〇)に、由具敝奈久安里和多流登毛保等登藝須奈枳之和多良婆可久夜思努波牟《ユクヘナクアリワタルトモホトトギスナキシワタラバカクヤシヌバム》といふのがあり、なほ、參考になるのは、卷二十(四三三一)の長歌に、麻須良男乃許己呂乎母知弖安里米具里事之乎波良波《マスラヲノココロヲモチテアリメグリコトノヲハラバ》といふのがある。
 なほ、ニホフといふ語の入つて居る歌で參考となるものには、卷十七(三九〇七)に、春佐禮播花咲乎乎理秋佐禮婆黄葉爾保比《ハルサレバハナサキヲヲリアキサレバモミヂバニホヒ》。卷十九(四一六〇)に、安之比奇能山之木末毛春去婆花開爾保比《アシヒキノヤマノコヌレモハルサレバハナサキニホヒ》とある。
 この歌、六帖に入り、『しらつゆに染始めたる秋山に時雨な降りそありわたるがね』となつてゐる。
 
(428)          ○
 
  〔卷十・二二三四〕
  一日《ひとひ》には千重《ちへ》しくしくに我《わ》が戀《こ》ふる妹《いも》があたりに時雨《しぐれ》ふれ見《み》む
  一日 千重敷布 我戀 妹當 爲暮零禮見
 
 『詠雨』といふ題があり、『右一首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注がある。○一日 舊訓ヒトヒニハ。古義ヒトヒニモ。○千重敷布 舊訓チヘニシキシキ。童蒙抄チヘシクシクニ。○爲暮零禮見 舊訓シグレフレミム。童蒙抄シグレフルミム。略解シグレフルミユ(禮は所の誤)。字音辨證には禮にルの音ありとし、新撰字鏡の※[魚+委]【奴磊反、※[食+委]字、魚乃曾己禰太々禮留】も、下二段活用だからタヾルルだらうとして、この歌に當嵌め、略解の如くに、シグレフルミユと訓んでゐる。
 一首の意は、一日に千|度《たぴ》も重ね重ねて戀しくおもふ妹《いも》の家のあたりに時雨《しぐれ》が降れよ。その雨を見つつ戀しい妹《いも》を偲ばう。といふのである。これは詠v雨で、雨を主として歌つてゐるので、それを妹にたぐへて居る心持である。この結句の『ミム』は句割で、つまつて居るが、集中に例の無いことはない。卷二(一三七)に、秋山爾落黄葉須臾者勿散亂曾妹之當將見《アキヤマニチラフモミヂバシマシクハナチリミダレソイモガアタリミム》は、やはり人麿の歌で(429)あり、その他、卷二(一六五)に、宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見《ウツソミノヒトナルワレヤアスヨリハフタカミヤマヲイロセトワガミム》。卷三(四二三)の長歌に、將通君乎婆明日從外爾可聞見牟《カヨヒケムキミヲバアスユヨソニカモミム》。卷四(七〇一)に、波都波都爾人乎相見而何將有何日二箇又外二將見《ハツハツニヒトヲアヒミテイカナラムイヅレノヒニカマタヨソニミム》。同卷(七〇九)に、夕闇者路多豆多頭四待月而行吾背子其間爾母將見《ユフヤミハミチタヅタヅシツキマチテユカセワガセコソノマニモミム》等である。
 次に、ヒトヒニハといふ用例も、卷二(一八六)に、一日者千遍參入之東乃大寸御門乎入不勝鴨《ヒトヒニハチタビマヰリシヒムガシノオホキミカドヲイリガテヌカモ》。卷三(四〇九)に、一日爾波千重浪敷爾雖念奈何其玉之手二卷難寸《ヒトヒニハチヘナミシキニオモヘドモナゾソノタマノテニマキガタキ》等がある。卷三の家持の歌は、この人麿歌集の歌を眞似てゐるのかも知れない。
 この一首は、雨を咏じた歌として、特徴があり、結句のシゲレフレ・ミムといふ調べも保存して置きたいとおもふのである。シグレフルミユでもかまはず、却つて平凡素朴で好いといふ人もあるのだが、たまにはさうでないものをも保存して鑑賞して好いのである。特に人麿が或る機に作つたものと想像せば、人麿は種々工夫する歌人だから、これくらゐの變化を試みたとしてもいいのである。
 この歌、六帖に入り、第二句『千重にしきしき』とある。
 
          ○
 
(430)  〔卷十・二二三九〕
  秋山《あきやま》のしたびが下《した》に鳴《な》く鳥《とり》の聲《こゑ》だに聞《き》かば何《なに》か嘆《なげ》かむ
  金山 舌日下 鳴鳥 音谷聞 何嘆
 
 『秋相聞』といふ中に分類せられて居る。『右柿本朝臣人麿之歌集出』と左注のある五首中の第一首である。○舌日下 シタビガシタニで、シタビは評釋篇卷之上に於て、卷二(二一七)の、秋山下部留妹《アキヤマノシタブルイモ》の條で既に説明した如くであるが、『黄葉ノヒカル意歟』(代匠記精)。『諸木《キギ》の變紅《モミヂ》したる秋山の色を云』(古事記傳)ぐらゐのところに解していいであらう。兎に角、美しい形容に使つて居る。○音谷聞 寛永本『音聞』であるが、古寫本(元・類・神)によつて『谷』を補つた。
 一首の意は、秋山に美しくかがやいて居る黄葉に入り交つて囀るる鳥のその聲にかよふ(以上序詞)、戀人の聲だけでも聞くことが出來るなら、こんなに嘆くことがないのであるが、それも出來ずに嘆いて居る。といふのである。
 この卷(二二六五)に、朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦聲谷聞者吾將戀八方《アサガスミカビヤガシタニナクカハヅコヱダニキカバワレコヒメヤモ》とあるのと類似してゐるが、鹿火屋の解釋がいまだ一定してゐない。
 『何か歎かむ』といふ結句についても既に類例を抄出した筈であるが、此處に一首引かば、卷四(431)(四八九)に、風乎太爾戀流波乏之風小谷將來登時待者何香將嘆《カゼヲダニコフルハトモシカゼヲダニコムトシマタバナニカナゲカム》といふ鏡王女の作の如きがある。
 この歌は、秋相聞として、民謠的に傾いた、概念的な咏みぶりのやうであるが、一首としてなかなか優れた聲調をもつて居る。序詞を使つて、中味はただ、『聲だに聞かば何か嘆かむ』だけであるが、この序詞も或る融合性を有つてゐて、單純な技巧のための技巧といふことが出來ない。また浮かずに、沁むものがあつて吟誦に堪ふるのである。かういふのはやはり人麿がある折に作つたものと想像して味つてもかまはぬであらう。
 この歌は、袖中抄に、『アキ山の舌日下ニナクトリノコヱタニキケハナトナケカルヽ』として載つてゐる。又六帖には、人まろとして、上句『かね山のしたびがしたに鳴く蛙』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二二四〇〕
  誰《た》そ彼《かれ》と我《われ》をな問《と》ひそ九月《ながつき》の露《つゆ》にぬれつつ君《きみ》待《ま》つ吾《われ》を
  誰彼 我莫問 九月 露沾乍 君待吾
 
 『秋相聞』人麿歌集出第二首である。○誰彼 舊訓タレカレト。拾穗抄タソカレト(略解・古義・(432)新考同訓)。童蒙抄タソカレニ。『祇曰、たそかれ時といふにはかはれり。誰そかれはと我をなとひそといふ心也』(拾穗抄)。『すべてタソカレと言ふは、彼は誰れぞと云ふ意なり。ここも人の見とがめて、彼は誰れぞと問ふなと言ふなり』(略解)。○君待吾 舊訓キミマツワレヲ。古義キミマツアレヲ。
 一首の意は、あれは誰だなどと私をお問ひなさいますな。九月の夜露にぬれながら戀しい人を待つて居る私です。といふのであらう。女の心持の歌である。
 代匠記では舊訓に從ひ、『發句ヲ幽齋本ニハ、タソカレトトアレド、人丸集モ六帖モ今ノ點ト同ジケレバ、彼ヲ取ラズ。是ハ他人ニ對ヒテ云ニアラズ。下ノ君ト指人ニ云ナリ。男ノ問來テ闇キ夜ナレバ、女ニタゾヤト問時、タレカレトオボツカナゲニナ問ヒ給ヒソ。長月ノ露ニ立沾テ夜深ルマデ誰カアラム。君待吾ニテアルゾトヨメル意ナリ』といつてゐるが、その『オボツカナゲニ』云々といふのは好い。この歌は既に民謠化して居る戀歌だから、ただ一人の男にむかつて云つてゐるよりも、もつと範圍がひろいやうに自然になつて居る。それがかういふ戀歌をして甘いけれども氣樂にしてしまふ所以でもあるのである。
 卷十(二〇六四)に、古織義之八多乎此暮衣縫而君待吾乎《イニシヘニオリテシハタヲコノユフベコロモニヌヒテキミマツワレヲ》。卷十三(三二七六)に、君名曰者色出人可知足日木能山從出月待跡人者云而君待吾乎《キミガナイハバヒトシリヌベミアシヒキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテキミマツワレヲ》がある。これに似たので、卷十二(三〇〇(433)二)に、足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシヒキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》といふのもある。民謠風の特色があるので、『君』を『妹』と置換へても役にたつのである。
 此歌、六帖に『誰彼と我をな問ひそ長月の時雨にぬれて君待つ人を』、柿本集に『誰彼と我をな問ひそ長月の時雨にぬれて君待つ我を』、玉葉集に、題しらず、人麿、『誰かれと我をなとひそ長月の露にぬれつつ君待つわれぞ』として入つた。
 
          ○
 
  〔卷十・二二四一〕
  秋《あき》の夜《よ》は霧《きり》立《た》ちわたりおぼほしく夢《いめ》にぞ見《み》つる妹《いも》がすがたを
  秋夜 霧發渡 夙夙〔凡凡〕 夢見 妹形矣
 
 『秋相聞』人麿歌集出第三首である。○秋夜 舊訓アキノヨノ。新考アキノヨニ。新訓アキノヨハ。○霧發渡 舊訓キリタチワタル。神田本キリタチワタリ。代匠記初キリタチワタリ。○夙夙夢見 舊訓アサナサナ・ユメノゴトミル。代匠記初シクシクニ・ユメニモミバヤ。又はホノホノニ、ユメニモミバヤ。代匠記精ホノボノニ・ユメカトゾミル。童蒙抄ホノカニモ又はオボツカナ(434)又はホノボノト・ユメニゾミツル。考オホホシク・イメニゾミツル、夙夙は凡凡の誤。『おほほのほはをの如く唱』。『今本三の句を夙夙としてあさなさなと訓り。さて四の句をゆめの如見るとあれどいとかけ合ず。初句を秋の夜といひ腰句をあさなさなといふもあまりなり。朝な/\ゆめの如く見るとはいといとかけあはず。よりて考るに、凡凡の字を好事の夙夙となして訓をみだりにせしなり』。略解・古義・新考は考に從つた。○妹形矣 舊訓イモガスガタヲ。
 一首の意。秋の夜には夜霧がたちわたつて模糊としてゐる(序詞)。そのやうにほのぼのと夢に視た、戀しい妻のすがたをば。といふぐらゐの意味であらう。
 この歌も民謠化してゐるが、如何にも感じの好い、可憐なところがあり、抒情民謠としても佳作の部に位するものと謂つていいであらう。また、前にも屡云つた如く、人麿はかういふ民謠的作者でもあつただらうと想像することも出來る。
 オボホシは、卷十(一九〇九)に、春霞山棚引欝妹乎相見後戀毳《ハルガスミヤマニタナビキオボホシクイモヲアヒミテノチコヒムカモ》。同卷(一九二一)に、不明公乎相見而菅根乃長春日乎孤戀渡鴨《オボホシクキミヲアヒミテスガノネノナガキハルビヲコヒワタルカモ》。卷十二 (三〇〇三)に、夕月夜五更闇之不明見之人故戀渡鴨《ユフヅクヨアカトキヤミノオボホシクミシヒトユヱニコヒワタルカモ》等の例がある。
 イモガスガタヲといふ句も集中になほあり、卷八(一六二二)に、吾屋戸乃秋之芽子開夕影爾今
毛見師香妹之光儀乎《ワガヤドノアキノハギサクユフカゲニイマモミテシカイモガスガタヲ》。卷十(二二八四)に、率爾今毛欲見秋芽之四搓二將有妹之光儀乎《イササメニイマモミガホシアキハギノシナヒニアラムイモガスガタヲ》とある如く(435)である。
 新考で、初句をアキノヨニと訓んだのは一見識で、その方が調べとしては却つて好い。ただ萬葉に假名書の例がないやうである。
 
          ○
 
  〔卷十・二二四二〕
  秋《あき》の野《ぬ》の尾花《をばな》が未《うれ》の生《お》ひ靡《なび》き心《こころ》は妹《いも》に依《よ》りにけるかも
  秋野 尾花末 生靡 心妹 依鴨
 
 同じく『秋相聞』人麿歌集出の第四首である。○秋野 舊訓アキノノノ。○尾花末 舊訓ヲバナガスヱノ。童蒙抄ヲバナガウレノ。○生靡 舊訓オトナビク。代匠記初オヒナビキ。考ウチナビキ。生は打の誤(略解・古義・新考同訓)。
 一首の意。秋の野の尾花の枝が生ひ繁つてなびいてゐる(序詞)。私の心は靡いて妻の方に寄つてしまつた。妻のことで心は一ぱいである。
 この歌は上半を序詞にした、民謠風の常套手段で纏めたものであり、氣樂に作つた歌である。(436)併し、調子に幾らか棄てがたいところがあり、かういふ結句の歌は、『天雲の外《よそ》に見しより吾妹子《わぎもこ》に心も身さへ縁《よ》りにしものを』(卷四。五四七)。『あづさ弓末はし知らず然れどもまさかは君に繰《よ》りにしものを』(卷十二。二九八五)。『明日香河瀬瀬の珠藻のうち靡き情《こころ》は妹に依りにけるかも』(卷十三。三二六七)。『吾《あ》が身こそ關山越えて此處にあらめ心は妹に依りにしものを』(卷十五。三七五七)などの例がある。卷十三の歌とこの歌とは類似してゐるから、この結句はひろがり得る特色があるものと見える。
 この歌、家持集に入り、『秋の野の尾花が末の打なびき心は妹によりにしものを』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二二四三〕
  秋山《あきやま》に霜《しも》ふり覆《おほ》ひ木葉《このは》散《ち》り歳《とし》は行《ゆ》くとも我《わす》忘《わす》れめや
  秋山 霜零覆 木葉落 歳雖行 我忘八
 
 『秋相聞』人麿歌集出の第五首である。○霜零覆・木葉落 舊訓シモフリヲヲヒ・コノハチル。代匠記シモフリオホヒ・コノハチリ。○歳雖行・我忘八 舊訓トシハユクトモ・ワレワスレメヤ。(437)略解トシハユケドモ・ワレワスルレヤ。古義トシハユクトモ・アレワスレメヤ。
 一首の意は、黄葉してぬる秋山に霜がきびしく降つて、木の葉も皆散り、年もつひに暮れてゆく、さう時の推移があらうとも、戀しい人をば決して忘れはせぬ。といふのである。
 この歌は上《かみ》の句《く》までは意味の聯關があるが、序詞の如くになつてゐるのである。それゆゑ、時の推移があつてもといふのに力點があるので、木の葉散り云々といふのに力點があるのではない。代匠記精に、『秋山ハ紅葉ノ意ニテ女ノ盛リニ譬ヘタレバ、霜ノ零如ク髪シラケ、木葉ノ落ル如ク髪落齒落テ、歳ノ行如ク老果タリトモ我忘レメヤ。忘レジト云意ナレバナリ』とあるのは稍考過ぎた解釋のやうである。
 この歌も上半に序詞の如き技法を以てつづけ、民謠的傾向のある、やや樂な歌であるが、調子のいいところは、細味があつて、伸びてゐる點にある。『ひ』、『り』、『とも』のところは稍たるみかかつて居る。『秋山に霜ふりおほひ』といふ表現は、新古今調などにない、おほどかで且つ確實なものである。
 此歌、六帖に、『秋山の霜ふりおほひ木葉散る年はへ行けど我わすれめや』、家持集に、『秋山に霜ふりおほひ木葉散る共に行くとも我忘れめや』として載つてゐる。又、夫木和歌抄に、人丸作として、『あき山にしもふりおほひ木葉散としはふれともわれわすれめや』となつてゐる。
 
(438)          ○
 
  〔卷十・二三一二〕
  我《わ》が袖《そで》に霧《あられ》たばしる卷《ま》き隱《かく》し消《け》たずてあらむ妹《いも》が見《み》むため
  我袖爾 雹手走 卷隱 不消有 妹爲見
 
 以下四首、『冬雜歌』の中に分類せられ、『右柿本朝臣人麿之歌集出也』と左注せられてゐる。○雹手走 舊訓アラレタバシリ。代匠記初アラレタバシル。○不消有 舊訓ケズトモアレヤ。代匠記初ケタズヤアラマシ。代匠記精ケタズテアラム。考ケサズテアラモ。略解ケタズモアラン。古寫本中ケズカモアレヤ(元・神・西・細・温)。
 一首の意は、私の袖に霰がたばしり降つて來た。これをば袖で卷き隱して、消えない(解けない)やうにして置かう。愛する妹に見せむために。といふので、冬雜歌で、霰を主にして咏んだ歌だから、霰を美化し、それに力點を置いて居るのである。
 『我が袖に霰たばしる』と現在の事實を初句からいふのは、極めて順直な表現である。それからずうつと結句まで、心の動く儘に表現してゐるのも、橘守部等が既に注意したごとく(短歌撰格)(439)自然で無理が無い。それから、『消たずてあらむ』といふ句も、簡潔で中味多き、古調の特質を示してゐる。全體は戀愛の粘著甘美を示してゐてよいが、やはり民謠的で取立てていふほどのものではない。
 此歌、六帖に、『わが袖に霰たばしる卷きかへしけたずてあらむ妹が見むため』として入つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二三一三〕
  あしひきの山《やま》かも高《たか》き卷向《まきむく》の岸《きし》の小松《こまつ》にみ雪《ゆき》降《ふ》り來《く》る
  足曳之 山鴨高 卷向之 木志乃子松二 三雪落來
 
 第四句コズヱノマツニと訓んだ古寫本がある(元・類・京の一訓)。結句舊訓ミユキフリケリ。元暦校本ミユキフリクル。新考では第二句、ヤマカモサムキと訓んでゐる。理から行けばサムキの方が順當である。即ち高字が寒字でさへあらば無論さうなるのだが、高字であるから暫く高字で味はねばならぬ。そして此處は、古義の如く、『山の高きが故に、甚寒くて』と解せば解釋が(440)出來るのである。小松は必ずしも小さい松でなくともよく、卷向の岸は卷向の山岸か卷向川の岸か、考では卷向の穴師乃川の岸をいふ歟といひ、新考も卷向川の岸と解してゐるが、前出『朝妻の片山ぎしに霞たなびく』(卷十。一八一八)の歌に見る如く、ここは山岸であらう。童蒙抄に『高山は常に雪降るものなれば、卷向山のきしの小松に雪降りたるを見て、山高きかもとは詠める迄の歌也』と解してゐるのはよく、山の腹又は山麓のきしであらう。そこで『高き』が利くのである。
 一首の意は、卷向山は高く寒いだらう。今卷向山の山岸にある松の木に盛に雪が降つてゐるといふのである。
 人麿歌集には卷向山を中心として咏んだ歌がなかなか多く、その中には緊張した大きい歌詞の歌が交つてゐるから、人麿はその邊にゐただらうと想像してもそんなに妄想ではないところがある。そして此土地に來はじめのころ咏んだ歌とせば、『山かも高き』の句が毫も不思議ではない。前に抄した、『卷向の檜原の山を今日見つるかも』(卷七。一〇九二)の歌なども、土地に來はじめのころの歌とおもへば説明がつくのであり、人麿の作だといふ假定が成立てば、其處にいろいろの興味ある想像が展開し來るので、私は秘かにこの歌を人麿作として想像してゐるのである。この前の歌もさうだが、『あしひきの山かも高き』と第二句で切つてゐる。これは文法的に切つてゐ(441)るのだが、聲調の上では、休止が小さくて連續せしめて味ふことが出來る。そこに人麿的な流動聲調があるのではないだらうか。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとして採られ、第三句以下『まきもくの木すゑのまつにみゆきふりけり』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二三一四〕
  卷向《まきむく》の檜原《ひはら》もいまだ雲《くも》居《ゐ》ねば子松《こまつ》が未《うれ》ゆ沫雪《あわゆき》流《なが》る
  卷向之 檜原毛未 雲居者 子松之未由 沫雪流
 
 ○未雲居者 舊訓イマダクモヰネバ。古寫本中クモラネバと訓んだのもある(元一訓・京)。童蒙抄はクモラヌニと訓んだ。○子松之末由 舊訓コマツガスヱニであり、童蒙抄コマツノウレユと訓み、考コマツガウレユと訓み、略解・古義以下それに從つた。○沫雪流 舊訓アハユキゾフル。代匠記アハユキナガル。童蒙抄アワユキノフル。古義アワユキナガル。これで現在に及んでゐる。代匠記精に、『落句ノ點誤レリ。アハユキナガルト讀ベシ。雪ノ降ヲ流ルトヨメル事集中(442)多シ』といひ、者に、『五の句あわゆきぞふるはいまだし』と云つてゐる。校本萬葉にはアハユキナガルを代匠記精の初訓としてあるが、代匠記の訓は初稿本に既にさうであつた。檜原は檜林のことで、卷七(一〇九五)に、始瀬之檜原《ハツセノヒハラ》。同卷(一一一八)に、彌和乃檜原《ミワノヒハラ》がある。子松は必ずしも小さい松でなくて相當の大きさのものでもいい。
 一首の意は、卷向山の檜原《ひはら》に未だ雲もかからぬのに此處に近い松の梢からそのあたりにかけて沫雪が盛に降つて來た。といふ意味である。
 雪の降る光景で運動をあらはし、松の木ばかりでなく、そのあたり一帶に降る雪の趣だから、『ゆ』の助辭を使つて居る。この歌も自然の現象さながらの聲調を持つて居り、然かも、『ゐねば』といひ、『うれゆ』と云つてゐるあたり、重厚で緊張して居り、謂はば澁い手堅いところがあつてなかなかの力量を示して居る。先づ人麿歌集中にあつては人麿作と想像せられる部類に屬するものであらうか。人麿の聲調は重厚緊張のうちに清爽なるものを持つてゐる。これも既に云つたが、此歌によつても其を知ることが出來る。それから、なぜ『雲ゐねば』と強調したかについても注意して味はねばならぬのである。
 この『雲居ねば』の如くにバを用ゐた例としては、卷四(五七九)に、奉見而未時太爾不更者如年月所念君《ミマツリテイマダトキダニカハラネバトシツキノゴトオモホユルキミ》。卷八(一四七七)に、字能花毛未開者霍公鳥佐保乃山邊來鳴令響《ウノハナモイマダサカネバホトトギスサホノヤマベヲキナキトヨモス》などがある。
(443) この歌、新古今集に家持作として入り、『まきもくの檜原もいまだくもら|ねば《ぬにイ》小松がはらにあわゆきぞふる』となつてゐる。又、家持集に同樣に訓んで載り、夫木和歌抄にも家持作として、第三句以下『くもらぬに小松か末にあは雪そふる』と訓んでゐる。なほ六帖には作者を記さずに載せ、『曇らねば小松が末に泡雪ぞふる』である。
 
          ○
 
  〔卷十・二三一五〕
  あしひきの山道《やまぢ》も知《し》らず白橿《しらかし》の枝《えだ》もとををに雪《ゆき》の降《ふ》れれば 【或云。枝《えだ》もたわたわ】
  足引 山道不知 白杜※[木+戈] 枝母等乎乎爾 雪落者 【或云枝毛多和多和】
 
 ○白社※[木+戈] シラカシと訓んだ。代匠記精に、『不知白杜※[木+戈]トツヅキタルハ、白カシノシラズトツヅケタラムニ同キ歟。又古歌ナレバサル意ハナクテオノヅカラ然ル歟。白カシハ又ハクマカシトモ云ヒ、又ハアマカシトモ云歟』と云ひ、初稿本に、『白かしはかしの木の中の一種なり』といひ、考に、『※[牛+戈]※[牛+可]は樫木なり舟の器にてかしと訓りよて借しなり。今本社※[木+戈]とあるは誤なり』と云つてゐる。即ち常緑樹の白橿(白杜※[木+戈])である。漢名では〓※[木+諸]《しらかし》とも書く。喬木だから、雪の盛に降つ(444)て、枝も撓むばかりに降る形容にふさはしいのである。白橿の大木の枝も撓むばかりに雪が降つて、山道も分からぬまでになつたといふのである。或本に結句が『枝モタワタワ』とある方は歌は劣る。
 この歌も自然で且つ強く相當にいい歌である。聲調が流動的で毫も窒滯を見ない。この歌でも、第二句で『山道も知らず』と文法的には切れてゐるが、聲調的にはやはり連續してゐる。このことは既に前言したが、ここでも繰返して置く。なほ、『山道《やまぢ》も知らず』といふ言ひ方は簡にして充足して居り、必ず作歌上の手本となり得るものである。○雪落者 ユキノフレレバと訓んだ。この歌の左注に、以上の四首に就き『右柿本朝臣人麿之歌集出也』とあるのに續けて、『但件(ノ)一首(ハ)或本(ニ)云(フ)三方沙彌作』とある。(【寛永本それから西・細・温・矢・京等には『件』の字がない。】)それは編輯者は主觀の放恣を避けて忠實に注したので、歌柄からいへばここ三首は大體一しよにして味つていいから、必ずしも三方沙彌の作とせずともいいとおもふのである。卷十七(三九二四)に、天平十八年正月、紀朝臣男梶の應詔歌『山の峽そことも見えず一昨日も昨日も今日も雪の降れれば』といふのがあるのは、この人麿歌集の歌から來てゐるのであらう。
 この歌、柿本集に、『枝もたわわに』とある。又、拾遺集及び六帖に、『枝にも葉にも』として載り、拾遺集では人麿作としてゐる。なほ、柿本集には、『山の峽そことも見えず白樫の枝にも葉(445)にも雪の降れれば』といふのもある。
 
          ○
 
  〔卷十・二三三三〕
  零《ふ》る雪《ゆき》の空《そら》に消《け》ぬべく戀《こ》ふれども逢《あ》ふよしなくて月《つき》ぞ經《へ》にたる
  零雪 虚空可消 雖戀 相依無 月經在
 
 『冬相聞』の最初に出てをり、次の歌の後に『右柿本朝臣人麿之歌集出』と注してある。○相依無 舊訓アフヨシヲナミ(【代匠記・童蒙抄・略解從之】)。類聚古集アフヨシモナク(古義同訓)。考アフヨシナクテ。新考、新訓等は考に從つてゐる。○月經在 舊訓ツキゾヘニケル。類聚古集ツキゾヘヌラシ。代匠記ツキゾヘニタル。考ツキヲシヘヌル。
 一首の意は、降る雪が半空に消ゆるごとく(序詞)、心も消えんばかりに戀うたけれども、逢ふ術もなく、徒らに歳月を經たといふ歌である。
 序歌も意味のある序歌だが、『消ぬべく』までの音調がいいので、さう耳觸りにならず、快い清い感じのする歌である。然かも、寫象として浮んで來る雪の光景は比較的鮮明であつて、それを(446)も鑑賞者は注意すべきである。
 第四句考に從つて置いたが、舊訓も棄てがたいものである。ナクテと續けた例は、卷三(二五七)に、梶棹毛無而不樂毛己具人奈四二《カヂサヲモナクテサブシモコグヒトナシニ》。卷三(二六〇)に、竿梶母無而佐夫之毛榜與雖思《サヲカヂモナクテサブシモコガムトモヘド》。卷十(二一二二)に、大夫之心者無而秋芽子之《マスラヲノココロハナクテアキハギノ》。卷十一(二六一五)に、敷拷乃枕卷而妹與吾寐夜者無而年曾經來《シキタヘノマクラヲマキテイモトワレトヌルヨハナクテトシゾヘニケル》等がある。ただ、舊訓のアフヨシヲナミの類例は、卷四(七一四)に、情爾者思渡跡縁乎無三《ココロニハオモヒワタレドヨシヲナミ》。卷四(七六一)に、早河之湍爾居鳥之縁乎奈彌《ハヤカハノセニヰルトリノヨシヲナミ》等があるのに、ヨシナクテの類例が無い。
 この歌は、柿本集に、『ふる雪の空に消ぬべく思へどもあふよしもなく年ぞへにける』及び『あわ《(ふる)》雪の|降るに消えぬべく《(そらに消ぬべく)》思へどもあふよし|も《(を)》なみ程《(月)》ぞ經にける』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十・二三三四〕
  沫雪《あわゆき》は千重《ちへ》に零《ふ》り敷《し》け戀《こひ》しくの日《け》長《なが》き我《われ》は見《み》つつ偲《しぬ》ばむ
  沫雪 千重零數 戀爲來 食永我 見偲
 
 『冬相聞』として、(二三三三)があり、その次にこの歌があるから、左注の『右柿本朝臣人麿之(447)歌集出』といふのは、この二首のことだと代匠記で注意してゐる如くであらう。○沫雪 千重零敷 舊本『千里』とあり、アハユキノ・チサトフリシキ。代匠記初アハユキハ・チサトフリシケ。考アハユキノ・チヘニフリシク、里は重の誤。これは既に童蒙抄も呈案してゐる。略解アワユキハ・チヘニフリシケ(古義・新考同訓)。古寫本中元暦校本には『千重』とあり、チヘニフリシキと訓んでゐる。○戀爲來・食永我 舊訓コヒシクハ・ケナガクワレヤ。代匠記初コヒシク|テ《精ニ》・ケナガキワレモ。童蒙抄コヒシキニ・ケナガクワレヤ。考コヒシケク・ケナガクワレハ。略解コヒシクノ・ケナガキワレハ(【古義・新考・新訓同訓、但古義アレハ】)。
 一首の意は、沫雪は千重にもさかんに降り積れよ。もう人を戀して長い月日を經て居る私は、それを見つつせめて戀人を偲ばう。といふのである。卷二十(四四七五)に、波都由伎波知敝爾布里之家故非之久能於保加流和禮波美都都之努波牟《ハツユキハチヘニフリシケコヒシクノオホカルワレハミツツシヌバム》といふのがある。恐らく人麿歌集の此歌の影響であらう。そして、この歌の方が卷二十の歌よりも、調が伸びて清爽の氣があり、立優つてゐるが、それでもやはり何處か安易に作つてゐる點がある。ただ、降雪を見て、その聯想から戀人をおもふといふ單純な解釋でなしに、表現が斯く直接に云つてゐるのだから、鑑賞者が、過程のくだくだしい事は拔きにして、象徴的として理會することが必要である。なほ、參考として、卷十七(三九六〇)に、庭爾敷流雪波知敝之久《ニハニフルユキハチヘシク》。卷十九(四二(448)三四)に、落雪之千重爾積許曾吾等立可※[氏/一]禰《フルユキノチヘニツメコソワガタチガテネ》等のあるのをあげて置く。
 コヒシクノといふあらはし方も現代の吾等には珍らしいが萬葉にもこの二例のみであり、類似のものには、卷十(二一一九)に、戀之久者形見爾爲與登吾背子我殖之秋芽子花咲爾家里《コヒシクハカタミニセヨトワガセコガウヱシアキハギハナサキニケリ》。卷十六(三八一一)に、戀之久爾痛吾身曾伊知白苦身爾染〔等〕保利《コヒシクニイタキワガミゾイチジロクミニシミトホリ》などがある。
 
(449) 萬葉集卷十一所出歌
 
          ○
 
  〔卷十一・二三五一〕
  新室《にひむろ》の壁草《かべくさ》苅《か》りに坐《いま》し給《たま》はね草《くさ》の如《ごと》依《よ》り合《あ》ふ未通女《をとめ》は君《きみ》がまにまに
  新室 壁草苅邇 御座給根 草如 依逢未通女者 公隨
 
 〔題意〕 旋頭歌といふ題のもとに整理された一群十七首の歌の始のもので、以下十二首に、『右十二首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ左注がある。萬葉集の目次には、『古今相聞往來歌類之上』。『旋頭歌十七首』とあり、その目次を代匠記精撰本には、『柿本朝臣人麿歌集出旋頭歌十二首、古歌集中出旋頭歌五首』に改めて居る。
 〔語釋〕 ○新室 ニヒムロノと訓む。新しく造つた家のといふ意。この次の歌にも新室踏靜子(450)之《ニヒムロヲフミシヅムコシ》があり、卷十四(三五〇六)にも、爾比牟路能許騰伎爾伊多禮婆《ニヒムロノコドキニイタレバ》といふ例がある。なほ、古事記景行天皇の條に、於是言3動爲2御|〔新〕室樂《ニヒムロノウタゲ》1設2備食物1故遊2行其傍1待2其樂日1云々。清寧天皇の條に、到2其國之人民名|志自牟之新室《シジムガニヒムロ》1樂云々とあり、日本紀清寧天皇の卷に、忍海部造|細目新室《ホソメガニヒムロ》云々。顯完天皇の卷に、適會2縮見屯倉首|縱賞新室《ニヒムロアソビシテ》以v夜繼1v晝云々とある。○壁草苅邇 カベクサカリニと訓む。壁草《カベクサ》は、『カベ草ハ、新ラシク造レル屋ハ、先壁ヲモ草ヲ刈テカコフナリ。今モ田舍ニハ柴ナドニテカコヒテ壁ノカハリニスル故ニヤ』(代匠記精)とあるによつて大體を推察することが出來る。延喜式の、壁蔀以v草はこの壁草と同じだらうといふのは黒川盛隆の説である(略解追加)。そして、この草《くさ》は薄《すすき》であらう。○御座給根 イマシタマハネと訓む。舊訓ミマシタマハネ。代匠記初オハシタマハネ。古義イマシタマハネ。御いで下さい、といふ敬語に使つてゐる。○草如・依逢 クサノゴト・ヨリアフと訓む。草の寄りあふやうに依り逢ふで、やはり靡き體を依せて從ふ意にもなる。古義には『多く女の依相をいふにはあらで、これは一人の女のうへにて、草のより合(ヒ)靡くごとく、容儀《カタチ》しなやかにしてうるはしきをいふなるべし』とあるが、字面では、なびき寄り從ふ意が主であらう。
 〔大意〕 どうぞ新しい家の壁草苅りにお出かけください。草《くさ》(薄《すすき》)のやうに靡き從ふ美しい未通女《をとめ》は、あなたの御自由です。
(451) 〔鑑賞〕 旋頭歌で二段から成立ち、第一は、新しい家を作つたその家の壁草を苅りにおいでなさい。第二は、その苅る草の靡くやうに靡き從ふ未通女《をとめ》たちも思ひの儘でせう。君に任せませうといふのである。短歌ならば第一段が序詞のやうな形式になるところだが、旋頭歌だから、第三句で休止となつて序詞らしくなくなる特色を有つてゐる。勞働に伴うて歌ふやうな、謂ゆる民謠的な勞働歌の一種のやうな味ひがあり、素朴な感情愛すべきで、新築の樂《うたげ》などに歌つたものともおもへる。調べもまた確實の中に甘美を保持し、學ばねばならぬ點が多い。
 この歌に就き、『此ハ人ノ娘ノ許ヘヨキ男ノ忍ビテ通ヒ來ルヲ、親ノ許《ユル》サムト思ヒテヨメルナルベシ』(代匠記精)。『此(ノ)歌と次なると二首は、女持たる人のもとへ、心ありて通ふ男のあるを、おやのゆるして、聟にせむと思ふ意を告てよめるなるべし。さてその折から、此(ノ)人新室つくりたる故に、託《コトヨセ》て云るなるべし』(古義)等と解釋してゐるのは、此歌を民謠的に解釋しなかつたからである。つまり、此歌はさういふ個人的の事柄よりも、誰にでも當嵌まるやうになつてゐるところにその特色が存じて居るのである。
 
          ○
 
(452)  〔卷十一・二三五二〕
  新室《にひむろ》を踏《ふ》み鎭《しづ》む子《こ》し手玉《ただま》鳴《な》らすも玉《たま》の如《ごと》照《て》りたる君《きみ》を内《うち》へと白《まを》せ
  新室 踏靜子之 手玉鳴裳 玉如 所照公乎 内等白世
 
 〔語釋〕 ○踏靜子之 フミシヅムコシと訓む。新築の時、地鎭祭を行ひ地を踏むのをいふので、『子』といふのは古義に、『何(レ)にまれ、その業をする伴《トモ》をいふ』とあるが、此處では、未通女《をとめ》或は巫女のたぐひをいふのであらうか。舊訓フムシヅノコシ(仙覺新點)。古點フムシヅケコガ。古寫本中、フミシヅガコガ(細)。フムシヅケコガ(嘉・古)。フムシヅガコシ(西)。代匠記は古點を採り、童蒙抄ホムシヅノコノ。考フミシヅノコガ。古義フミシヅムコガ。今、フミシヅムコと古義の訓に從つたが、フミシヅムルコといふ意味である。連體言の意味で終止言を用ゐたものである。書紀顯宗の卷室壽の御詞に、築立稚室葛根築立柱楹者此家長御心之鎭也《ツキタツルワカムロツナネツキタツルハシラハコノイヘノキミノミココロノシヅメナリ》とあり、出雲國造神賀詞に、大宮内外御門柱上津石根踏堅下津石根踏凝《オホミヤノウチトノミカドノハシラヲウハツイハネニフミカタメシタツイハネニフミコラシ》云々とあり、貞觀儀式踐祚大嘗祭儀に、鎭2稻實殿1云々とあり、止由氣宮儀式帳に、新造正殿|地鎭《ツチシヅメノ》料云々とあるによつて、地を踏んだことを知り得るのである。○手玉鳴裳 タダマナラスモと訓む。手の飾にした玉が、體を動かすにつれて鳴るのをいふ。奮訓タダマナラシモ。代匠記初タダマナラスモ。古寫本中、テタマ(453)ナルモ(嘉・古・細)。タタマナラシモ(西・文・温・古・矢・京)。等の訓がある。卷十(二〇六五)に、足玉母手珠毛由良爾《アシタマモタダモユラニ》。卷二(一五〇)に、玉有者手爾卷持而《タマナラバテニマキモチテ》等とある。○玉如・所照公乎 タマノゴト・テリタルキミヲと訓む。玉のやうに立派な御方といふ意で、前の『玉』からの聯想で、『玉』とつづけてゐる。舊訓テリタルキミヲ。代匠記初テラセルキミヲ。略解補正テレルキミヲ。○内等白世 ウチヘトマヲセと訓む。どうぞおはひりくださいと申せといふ意。舊訓ウチニトマヲセ。童蒙抄ウツヒトシラセ又はウチニトアカセ。考ウチヘトマヲセ(【略解・古義・新考・新訓同訓】)。
 〔大意〕 新しく家を造るために、地堅めをしつつゐる大勢の少女《をとめ》等が、運動につれて手飾の玉を鳴らして居るのが聞こえる。あの玉のやうに美しく立派なお方をば、家の中へおはひりになるやうに御案内申せ。といふのである。
 〔鑑賞〕 この歌も、二段から成り、『新室を踏み鎭む子し手玉鳴らすも』までが一段、『玉のごと照りたる君を内へと申せ』が二段である。そして、この二つが、『玉』といふ語で連接してゐるのだが、それが誠に巧で、即いてゐるが即過ぎてゐずに旨い具合に調和を取つてゐるのである。第二段は、第一段を受けて、その玉の如くに照るやうな好い男の公《きみ》をば家の中へお入りくださいといへといふ、女の氣持になつて云つて居る。すべてが民謠風だから、何處の誰とか、どういふ男女とかの詮議を要しない、氣分で歌ひあげてゐるのである。此歌と前の歌とは恐らく連作的の(454)ものであるだらう。そして共に家の新築のときに歌ひ且つ踊つたものであるだらう。續日本紀所載、寶龜元年の歌垣の歌に、乎止賣良爾乎止古多智蘇比布美奈良須爾詩乃美夜古波與呂豆與乃美夜《ヲトメラニヲトコタチソヒフミナラスニシノミヤコハヨロヅヨノミヤ》とあるのも、男女が共に相群れて踊る趣の歌である。
 全體が豐かで潤ひがあり、男女間の情味を歌ひあげて居て毫も輕浮に墮ちてゐないのを味ふべきである。この歌は、大勢の若い女の心持が全體を領してゐるのであるが、そこに一人の美しい男を點出して、それが中心となつて大勢の女の體も心も循環してゐるところである。全體が具象的で、寧ろ肉體的と謂ひ得る程であるにも拘はらず、下等な厭なところがない。『玉の如照る』などと男を形容してゐるが、萬葉には、卷二十(四三九七)に、見和多世婆牟加都乎能倍乃波奈爾保比弖里※[氏/一]多弖流婆波之伎多我都麻《ミワタセバムカツヲノヘノハナニホヒテリテタテルハハシキタガツマ》といふのもあつて參考になる。男からいへば美しい女は、玉の如照るともいふが、女からいへば好い男はやはり、玉の如照るといふことになるのであらう。
 代匠記では、靜子《シツケコ》と訓み、『靜子トハ沈靜《シメヤカ》ナル男ナリ。新室ヲ作テヨク治ムル沈靜ナル人トホムル意ナリ。或ハ新室ノ主人ハ此男ノ親ニテ親ノ道ヲ踏ト云ヘル歟』といひ、考にも、『地には踏平し、家には踏靜むてふ哥うたひてをどりなどする事あるべし。かくてその男の名を靜の子といひしに踏靜といひかけたる也』などとあつて、個人的に且つ固有名詞的に取扱つてゐるが、さう(455)解釋しては無理になるのである。
 かういふ民謠風な歌が人麿以前からあつて、人麿歌集中に收録されたものか、或は人麿もある機會にかういふ民謠風のものをも作つたか、兎に角皆相當におもしろいものばかりである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三五三〕
ひとみ
  長谷《はつせ》の五百槻《ゆつき》が下《もと》に吾《わ》が隱《かく》せる妻《つま》茜《あかね》さし照《て》れる月夜《つくよ》に人《ひと》見《み》てむかも【一云、人《ひと》見《み》つらむか】
  長谷 弓槻下 吾隱在妻 赤根刺 所光月夜邇 人見點鴨【一云、人見豆良牟可】
 
 〔語釋〕 ○長谷 ハツセノと訓む。現今の大和磯城郡初瀬町を中心とする土地である。古寫本中、ハツセノヤ(嘉・細)と訓んだのもある。○弓槻下 ユツキガモトニと訓む。ユツキは、五百機《ゆつき》の意味で、大木で五百枝《いほえ》も澤山の枝のある槻《けやき》の木といふ意味であらう(【考・略解・古義等】)。『五百を約轉して由といふは神代紀の湯津桂、湯津爪櫛の類なり。初瀬に五百枝繁き大槻の有てそこをかくいへるなるべし』(考)。古事記雄略天皇條に、又天皇坐2長谷之百枝槻下1爲2豐樂《トヨノアカリ》1之時云々。爾其百枝槻葉落浮2於大御盞1云々。三重※[女+釆]の歌に、毛毛※[こざと+施の旁]流都紀賀延波《モモタルツキガエハ》云々とあるのも參考となるべ(456)く、また考で言つた如く、五百箇桂《いほつかつら》のことを湯津桂《ゆつかつら》といひ、また、五百小竹《いほざさ》のことを湯小竹《ゆざさ》といふのに據つても、この解釋の根據を知ることが出來る。併し以上の解釋のほかに、弓槻は、齋槻の意(新訓)とし、弓を作る槻の意(代匠記)とし、或は弓槻が嶽のことだらう(考の頭注)とする説もある。若し弓槻が嶽だとすると、その山の麓の村あたりといふ意味になるだらうと思ふが、それでは歌は面白くなくなるから、此處はやはり大槻の木の下といふ意味であらう。○吾隱在妻 ワガカクセルツマと訓む。考ワガカクセシツマ。古寫本中、カクシタルツマ(嘉)。ワガカクシタルツマ(細)等の訓がある。この次の歌にも、隱在其妻《カクセルソノツマ》の句がある。○所光月夜邇 テレルツクヨニと訓む。舊訓テレルツキヨニ。代匠記初書入【校本萬葉】テレルツクヨニ。卷四(五六五)に、赤根指照有月夜爾直相在登聞《アカネサシテレルツクヨニタダニアヘリトモ》の例がある。○人見點鴨【一云、人見豆良牟可】 ヒトミテムカモ【一云、ヒトミツラムカ】と訓む。テムは助動詞『つ』の將然形に助動詞『む』が接續した形で、『つ』は下二段活用の如くテ、テ、ツ、ツル、ツレと活用し、『主觀的には陳述を確むる意をあらはし、客觀的にはその事の完く了れるを示す』(山田氏)ものである。卷二(一二九)に、忍金手武多和郎波乃如《シヌビカネテムタワラハノゴト》。卷四(六一九)に、君之使乎待八兼手六《キミガツカヒヲマチヤカネテム》。卷六(九五七)に、袖左倍所沾而朝菜採手六《ソデサヘヌレテアサナツミテム》。卷十八(四〇四三)に、知良之底牟可母《チラシテムカモ》等の例がある。
 
 〔大意〕 長谷《はつせ》(泊瀬)にある枝の澤山繁つた槻の木の下に隱して置いた妻。〔赤根利《あかねさし》〕明るい月(457)夜には、ひよつとせば他の男がその隱し妻を見つけるのではあるまいか。不安でならない。といふぐらゐの歌である。
 〔鑑賞〕 この歌も古風素朴で誠に具合のいいものである。一人の男の氣特で歌つてゐるけれども、獨咏的な戀歌といふよりも寧ろ民謠的といふことが出來る。そして、『あかねさし照れる月夜に』といふあたりは自然にその當時の民俗を暗指してゐるので、都市風でないところもおもしろく、『槻がもとに』妻を隱すといふことも、一般論の特色を發揮するのに充分である。そして、さういふ田園的でありながら、一首の聲調は古雅で後世ぶりと大に違ふところがある。私等が古調の歌を云々するのほ、かういふ好いところがあるためであつて、ただ徒らに古色に淫してゐるのではない。
 此歌は、續千載葉に、題しらず讀人しらずとして、『泊瀬のや弓槻が下に我が隱したる妻茜さし照れる月夜|に《はイ》ひと見けむかも』とあり、又夫木和歌抄に、人丸作として、『初瀬のやゆ槻が下に隱れたる妻あかねさし照る月夜に人みてむかも』とある。
 
          ○
 
(458)  〔卷十一・二三五四〕
  健男《ますらを》の念《おも》ひ亂《みだ》れて隱《かく》せるその妻《つま》天地《あめつち》に徹《とほ》り照《て》るとも顯《あらは》れめやも 【一云、ますらをのおもひたけびて】
  健男之 念亂而 隱在其妻 天地 通雖光 所顯目八方 【一云、大夫乃思多鷄備※[氏/一]】
 
 〔語釋〕 ○健男之・念亂而 マスラヲノ・オモヒミダレテと訓む。丈夫《ますらを》の心も、戀に亂れての意。そして此は前の歌に和した趣であるから、女が斯う云つてゐるので、この丈夫《ますらを》といふのは、『丈夫であるあなたが』と二人稱の意味になる。○隱在其妻 カクセルソノツマと訓む。舊訓カクセルソノツマ。古寫本中、カクレタルソノツマ(古)。カクシタルツマ(細)等の訓もある。隱したる妻と客觀的に云つてゐるが、『あなたのお隱しになつた妻のわたくしが』といふ意味が籠つてゐるのである。○天地・通雖光 アメツチニ・トホリテルトモと訓む。此は月光が照つて天地に通るともといふので、前の歌を受けてゐるのである。舊訓カヨヒテルトモであつたのを、代匠記でトホリテルトモと訓んだ。『通雖光ハ今按トホリテルトモト讀ベシ。神代紀上云、於是《ココニ》共(ニ)《ウミマツリヌ》2日(ノ)神(ヲ)1號2大日〓賣貴《オホヒルメノムチト》1。此|子《ミコ》光華明彩《ヒカリウルハシウシテ》照2徹《テリトホル》於|六合之《クニノ》内(ニ)1。此照徹ノ字ノ意ナリ。但今ハ上ニ所光月夜ト云ヲ踏テ、大カタノ月明キ夜ヲバ猶深ク此マスラヲガ樣々ニ思ヒ廻ラシテ隱セル妻ナレバ、假令此月ノ光ノ天地ヲトホシテ照ラストモ顯ハレメヤ、顯ハレジトナリ』(代匠紀精)といふのに(459)從つていい。然るに、眞淵が、『日の光は隱るといふより譬るのみにていかなる大事にありともてふ意なり』(考)といひ、略解もそれに從つて、『日の光の天地を照して、隱れなき如く有とも』と解釋したのは誤である。それを古義で、『よの常の月光はさるものにて、たとひ天地のかぎり、てりとほることありとも』としたのは、契沖の説に復歸したので正解である。○所顯目八方 アラハレメヤモと訓む。『たはやすくあらはれむやは、あらはれはせじとなり』(古義)といふので大體がわかる。卷七(一三八五)に、埋木之不可顯事等不有君《ウモレギノアラハルマジキコトトアラナクニ》。卷十四(三四一四)に、多都弩自能安良波路萬代母佐禰乎佐禰※[氏/一]婆《タツヌジノアラハロマデモサネヲサネチバ》の例がある。○一云、大夫乃思多鷄備※[氏/一] マスラヲノオモヒタケビテと訓む。この句があるものだから、眞淵は、『亂』は『武』の誤だとし、オモヒタケビテを正傳とし、『健男の武き心を以てよろづの事をきとかまへて隱せしといふ也』(考)といひ、古義でも、『大夫乃思多鷄備※[氏/一]とあるぞ理協へりとおぼゆる』と云つたが、『おもひ亂《みだ》れて』の方が寧ろ自然であらう。
 〔大意〕 丈夫《ますらを》のあなたが、そんなに御心が戀に亂れて、お隱しになつた妻、その妻の私ですもの、縱ひ天地に照りとほるほどの、明るい月夜でも、決して他の男に見つかるやうなことはありませぬ。
 〔鑑賞〕 この歌は、前の、『長谷《はつせ》の五百月《ゆつき》が下《もと》に吾が隱《かく》せる妻|酉《あかね》さし照れる月夜《つくよ》に人見てむか(460)も』といふ歌に答へたやうな趣のものだから、女の歌と看做していい。それだから、個人の作者を聯想していい訣であるが、やはり、誰といふことなく、一般の女心《をみなごころ》を代表したものとして味ふことも出來る、つまり民謠的な歌と看做すことも出來る。それは、この歌には、何か客觀的なところがあつて、二人だけの對咏歌としては、稍一般的過ぎるからである。
 一首の調べは、確かで且つ強く、特に、『天地に徹り照るとも顯れめやも』は、強くて自然である。女性の語調だと謂つても後世ほど細かく分化せずに、根本の調べをなして居る點に注意すべきである。
 『思ひみだれて』といふやうな云ひ方も誠に旨いものだが、萬葉には、卷四(七二四)に、朝髪之念亂而如是許名姉之戀曾夢爾所見家留《アサガミノオモヒミダレテカクバカリナネガコフレゾイメニミエケル》。卷十(二〇九二)に、解衣思亂而《トキギヌノオモヒミダレテ》。卷十七(三九七三)に、乎登賣良波於毛比美太禮底伎美麻都等宇良呉悲須奈理《ヲトメラハオモヒミダレテキミマツトウラゴヒスナリ》等があるが、この歌の場合は簡潔でなかなか好い例である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三五五〕
  うつくしと吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》は早《はや》も死《し》ねやも生《い》けりとも吾《わ》に依《よ》るべしと人《ひと》の(461)言はなくに
  惠得《ウツクシト》 吾念妹者《ワガモフイモハ》 早裳死耶《ハヤモシネヤモ》 雖生《イケリトモ》 吾邇應依《ワレニヨルベシト》 人云名國《ヒトノイハナクニ》
 
 〔語釋〕 ○惠得 ウツクシトと訓む。舊訓メグマムト。代匠記初ウツクシト(考・略解同訓)。略解宣長訓(惠得は息緒の課)イキノヲニ(古義同訓)。新考メグシト(全釋同訓)。『案ずるにもとのままにてメグシトと四言によむべし。メグシを體言にしてメゲミといふはなほカナシを體言にしてカナシミといふが如し。而して悲の字をカナシミともカナシともよむべきが如く惠の字はメグミともメグシともよむべし。メグシはカハユシといふことなり』(新考)。メグシの例は、卷五〔八〇〇)に、妻子美禮婆米具斯宇都久志《メコミレバメグシウツクシ》。卷十八(四一〇六)に、妻子見波可奈之久米具之《メコミレバカナシクメグシ》がある。古寫本中、オシヱヤシ、ヱシエヤシ、メクマムト等の訓があつた。○早裳死耶 ハヤモシネヤモと訓む。舊訓ハヤクモシネヤ。考ハヤモスギネヤ(略解同訓)。『須伎を約して志ともいへり。仍て集中には死の事須伎といへる多し』(考)。古義ハヤモシネヤモ。『耶(ノ)字ヤモとよませたる例は、下に雷神少動刺雲雨零耶君將留《ナルカミノヒカリトヲミテサシクモリアメモフレヤモキミヲトドメム》と見えたり』(古義)。新考ハヤモシネヤ(全稗同訓)。併し、此處は旋頭歌の調だから、古義の訓に從つた。さうすれば『死ね』といふ命令形に、ヤモといふ咏歎の助詞の添はつたものと解するのである。○雖生・吾邇應依・人云名國 イケリトモ・ワレニ(462)ヨルベシト・ヒトノイハナクニと訓む。イケルトモと訓むかイケリトモと訓むかは、既に人麿の歌の評釋のところで云つた。
 〔大意〕 愛《うつく》しく(【可哀《かあい》く、戀しく】)自分の思ふあの女は、いつそのこと死んでしまはないか。早く死ねば好い。縱ひ生きて居ようとも、自分に靡き依るとは誰も云はず、到底見込が無いのだから。
 〔鑑賞〕 この歌も、これだけ複雜した氣持を好くも表はし得たと思ふ程であつて、強く愛して居る女を獨占したい氣持の極、かういふ表現になるので、失戀などといふ熟語は無くとも自然にそれがあらはれてゐておもしろいのである。自分が死ぬ程戀するといふ歌は集中にもある。例へば、『おのがじし人死《ひとしに》すらし妹に戀ひ日《ひ》に日《け》に痩せぬ人に知らえず』〔卷十二。二九二八)。『今は吾は死なむよ吾妹《わぎも》逢はずして念《おも》ひわたれば安けくもなし』(卷十二。二八六九)等であるが、相手が死ぬ方が好いといふのは強い云ひ方である。
 結句の、『人の云はなくに』といふのは、『吾が戀ふる妹は坐《いま》すと人の言へば』(卷二。二一〇)。『枉言《まがごと》や人の言ひつる玉の緒の長くと君は言ひてしものを』(卷十三。三三三四)などの云ひ方と似て居る。この表はし方も現代の表はし方などと違ふところで、周圍の人々の心といふものが何かの形で支配して居る氣持である。
 それから此歌は、個人の作者が獨咏的に歌つたもののやうであるが、やはり一般化し得る傾向(463)を持つて居り、讀人不知的、民謠的傾向の歌として味つて却つていいのではなからうか。
 それから、私は、自分の好みから、初句を、ウツクシト、第三句をシネヤモと訓む説に從ひ、この場合の字不足を餘り好まないのであるがどうであらうか。第三句の、『早も死ねやも』の句は、直接で強い句でありながら、情味の潤ひがあつて注意せねばならぬ句である。ウツクシの例は、既出の卷五のほかに、卷十四(三四九六)に、己許呂宇都久志伊※[氏/一]安禮波伊可奈《ココロウツクシイデアレハイカナ》。卷二十(四三九二)に、有都久之波波爾麻多己等刀波牟《ウツクシハハニマタコトトハム》があり、書紀孝徳天皇卷に、于都倶之伊母我磨陀左枳涅渠農《ウツクシイモガマタサキデコヌ》。齊明天皇卷に、于都倶之枳阿餓倭柯枳古弘《ウツクシキアガワカキコヲ》がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三五六〕
 高麗錦《こまにしき》紐《ひも》の片方《かたへ》ぞ床《とこ》に落《お》ちにける明日《あす》の夜《よ》し來《き》なむと言《い》はば取《と》り置《お》き待《ま》たむ
  狛錦 紐片叙 床落邇郁留 明夜志 將來得云者 取置待
 
 〔語釋〕 ○狛錦 コマニシキ即ち高麗《こま》から渡來した錦。和名鈔、錦の注に、本朝式有2暈※[糸+間]《ウンケン》錦、(464)高麗錦、軟錦、兩面錦等(ノ)之名1云々。此處はその意味が薄らいで紐《ひも》にかかる枕詞化して居る。卷十(二〇九〇)の、狛錦紐解易之天人乃妻問夕叙吾裳將偲《コマニシキヒモトキカハシアメビトノツマドフヨヒゾワレモシヌバム》の處を參考すべきである。『紐と云冠辭に詠みたる也』(童蒙抄)。○紐片叙 ヒモノカタヘゾと訓む。紐の一方《いつぱう》(片方の紐)がといふ意。紐には雄紐《をひも》雌紐《めひも》がある、その片方のことである。『さきにひける仲(ツ)皇子の、黒媛がもとに手の鈴をわすれて歸りたまへるたぐひなり。古今集にいはく、五せちのあしたにかんざしの玉のおちたりけるを、たがならんととぶらひてよめる』(代匠記初)。書紀允恭天皇卷の御製に、佐瑳羅餓多邇之枳能臂毛弘等枳舍氣帝阿麻多絆泥受邇多※[人偏+嚢]比等用能未《ササラガタニシキノヒモヲトキサケテアマタハネズニタダヒトヨノミ》といふのがある。○床落邇祁留 トコニオチニケル。紐が床に落ちて居たの意。○將來得云者 キナムトイハバと訓む。若し來るといふならばの意。舊訓キナムトイハバ。古寫本中、コムトイヒセバ(嘉・古・細)の訓がある。○取置待 トリオキマタムと訓む。取つて置いて待たうの意。奮訓トリオキテマタム。代匠記・考・略解・古義等舊訓に從ひ、童蒙抄トリオキマタム。新考・新訓等それに從つた。古寫本中、トリオキテマシ(嘉)。トリヲキテマシ(細)の訓がある。
 〔大意〕 一首の意は、〔狛錦《こまにしき》〕あなたの紐の片々がゆうべの床の上に落ちて居りました。明晩またおいでになるとお仰るなら、それを取つて置いてお待いたしませう。といふのである。
 〔鑑賞〕 女の心持になつて咏んだ、民謠化したものである。莊重に單純化するといふのでなく、(465)細かいところに目をつけて、謂はば人情の機微を穿つといふのが一面民謠の特徴でもあるから、自然細かい觀察となるのである。この歌は、古調であるだけ、厭味がなく、特に旋頭歌の形式と相俟つて相當に味ふことの出來るものである。この歌が若し人麿作だとせば、人麿はさういふ心持になつて咏んだものであらう。これは既に卷九あたりの短歌のところでも言及んで置いた通りである。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として載り、下句『明日の夜來むと言ひせば取りおきてまし』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三五七〕
  朝戸出《あさとで》の君《きみ》が足結《あゆひ》を潤《ぬ》らす露原《つゆはら》早《はや》く起《お》き出《い》でつつ吾《われ》も裳裾《もすそ》潤《ぬ》らさな
  朝戸出 公足結乎 閏露原 早起 出乍吾毛 裳下閏奈
 
 〔語釋〕 ○朝戸出 アサトデノと訓む。舊訓アサトイデノであつたのを代匠記精で斯く訓んだ。卷二十(四四〇八)に、安佐刀※[泥/土]乃可奈吾子《アサトデノカナシキワガコ》があり、卷十(一九二五)に、朝戸出之君之儀乎曲(466)不見而《アサトデノキミガスガタヲヨクミズテ》。卷十一(二六九二)に、朝戸出爾甚踐而人爾所知名《アサトデニイトアトツケテヒトニシラユナ》等の例がある。朝の戸を開いて出でること、朝の門出のことで、此處は、男が朝になつて女の家から歸る趣である。○公足結乎 キミガアユヒヲと訓む。足結《あゆひ》は袴を上にまくりあげて膝の邊で結ぶ紐をいふのである。卷七(一一一〇)に、足結出《アユヒハ》〔者〕所沾此水之湍爾《ヌレヌコノカハノセニ》。卷十七(四〇〇八)に、和可久佐能安由比多豆久利《ワカクサノアユヒタヅクリ》の例があり、なほ、書紀雄略天皇卷に、※[人偏+爾]播※[人偏+爾]陀陀始諦阿遙比那陀須暮《ニハニタタシテアヨヒナダスモ》。皇極天皇卷に、阿庸比陀豆矩梨擧始豆矩羅符母《アヨヒタヅクリコシヅクラフモ》がある。○裳下閏奈 舊訓モノスソヌレナであつたのを、考でモスソヌラサナと訓んだ。
 〔大意〕 この朝いよいよお歸りになるあなたの足結を潤《ぬ》らす露の澤山にある原よ。私も早く起きてあなたとご一しよに裳の裾を潤《ぬ》らしませう。といふのである。
 〔鑑賞〕 これは愛情の歌であり、別れを惜しむ氣特でもあり、男女の心持の相交錯し相即し相依らうとするものが、この一首を通じて感じられればよいのである。『君ひとりにさる艱難はかけじよとなり』(古義)などと理を以て解釋してゐる注釋書が多いが、ここはあつさりといふべきで、そこが民謠的和歌の特色なのである。卷七(一〇九〇)に、『吾妹子《わぎもこ》が赤裳の裾の染《し》め濕《ひ》ぢむ今日の※[雨/脉]※[雨/沐]《ひさめ》に吾さへ沾《ぬ》れな』とあるのも同じやうな心持で歌つた男の歌である。
 
(467)          ○
 
  〔卷十−・二三五八〕
  何《なに》せむに命《いのち》をもとな永《なが》く欲《ほ》りせむ生《い》けりとも吾《わ》が念《おも》ふ妹《いも》に安《やす》く逢《あ》はなくに
  何爲 命本名 永欲爲 雖生 吾念妹 安不相
 
 〔語釋〕 ○何爲 ナニセムニと訓む。どうしようといふ意で、卷五(九〇四)に、七種之寶毛我波何爲《ナナクサノタカラモワレハナニセムニ》。卷五(八〇三)に、銀母金母玉母奈爾世武爾麻佐禮留多可良古爾斯迦米夜母《シロガネモクガネモタマモナニセムニマサレルタカラコニシカメヤモ》。卷四(七四八)に、奈何爲二人目他言辭痛吾將爲《ナニセムニヒトメヒトゴトコチタミワガセム》等の例がある。どうして、何のためにといふ具合に副詞的に口譯も出來、甲斐ない等と口譯することも出來る。その邊は自由でかまはない。○命本名 イノチヲモトナと訓む。我が命を徒《いたづ》らにといふ意。『此歌のもとなは、よしなくもと云に能叶へり』(童蒙抄)。卷二(二三〇)に、何鴨本名言聞者泣耳師所哭《ナニシカモモトナイヘルキケバネノミシナカユ》。卷三(三〇五)に、樂浪乃舊都乎令見乍本名《ササナミノフルキミヤコヲミセツツモトナ》。卷四(五八六)に、妹乎見而本名如此耳戀者奈何將爲《イモヲミテモトナカクノミコヒバイカニセム》等がある。このモトナは結句で結ぶこともあり、用言の前に置くこともある。モトナは、語原的には、『本無』であるから、『理由なし』、『根據なし』の意(山田氏)であるが、此歌の場合、口語に移すときには、ただ、いたづらに、無益《むやく》に、甲斐なく、猥《みだ》りに、殘念に、おぼつかなく、などともいひ得る。ココロモトナクといふのは(468)これから來てゐるのであらう。○永欲爲 ナガクホリセムと訓む。長生《ながいき》しようとおもはうといふ意。舊訓ナガクホリセム。古寫本中、ナガクホシケム(嘉・古)。ナガクホリケム(細)。ナガクホリセバ(神)。代匠記・考・略解・古義ナガクホリセム。童蒙抄ナガクホリスル。新考ナガクホリセシ。併し、ここは旋頭歌だから、ホリセムと訓んで毫も差支はない。○雖生 イケリトモと訓む。生きて居るともの意。古寫本中、イケルトモ(古)。イケレドモ(神)と訓んだのもある。代匠記精イケレドモ(新考同訓)。
 〔大意〕 一首の意は、何のために己《おれ》は徒《いたづ》らに命《いのち》を長く欲しようか。たとひ生きて居ても、戀しくおもふ妹《いも》に容易に逢ふことが出來ないのだから。といふほどの意であらう。
 〔鑑賞〕 この歌もまた民謠風に出來て居ること、前の歌と同樣である。現在の私などには、かういふいひ方は稍誇張に聞こえるが、當時の人々はかう感じ、かく云ひ、それを順當として受納れてゐたものかも知れない。この歌の中で、ヤスクアフといふ語に特徴があり注意していい。ヤスクから直ぐアフに續けた例は萬葉にもほかに見當らねやうである。卷二十(四三四八)の、麻許等和例多非力加里保爾夜須久禰牟加母《マコトワレタビノカリホニヤスクネムカモ》が稍參考になるとおもふ。
 
          ○
 
(469)  〔卷十一・二三五九〕
  息《いき》の緒《を》に 吾《われ》は念《おも》へど 人目《ひとめ》多《おほ》みこそ 吹《ふ》く風《かぜ》に あらば屡《しばしば》 逢《あ》ふべきものを
  息緒 吾雖念 人目多社 吹風 有數數 應相物
 
 〔語釋〕 ○息緒 イキノヲニと訓む。命《いのち》をかけての意。卷四(六四四)に、氣乃緒爾念師君乎縱左思者《イキノヲニオモヒシキミヲユルサクオモヘバ》。卷十九(四二八一)に、君乎曾母等奈伊吉能乎爾念《キミヲゾモトナイキノヲニオモフ》等がある。○吾雖念 ワレハオモヘドと訓む。舊訓ワレニオモヘド。古寫本の多くはワレハオモヘド。代匠記ワレハオモヘド。○人目多社 ヒトメオホミコソと訓む。人目が多いからしての意。コソは強めたので、係のコソであるが、結詞が無い。卷七(一三七七)に、齋爾波不在人目多見許増《イムニハアラズヒトメオホミコソ》。卷十四(三五七四)に、比伎余知※[氏/一]乎良無登須禮杼宇良和可美己曾《ヒキヨヂテヲラムトスレドウラワカミコソ》。卷十一(二六九七)に、妹之名毛吾名毛立者惜社布仕能高嶺之燒乍渡《イモガナモワガナモタタバヲシミコソフジノタカネノモエツツワタレ》。卷十九(四一六一)に、毛美知遲良久波常乎奈美許曾《モミヂチラクハツネヲナミコツ》等の例がある。○吹風・有數數・應相物 フクカゼニ・アラバシバシバ・アフベキモノヲと訓む。舊訓フクカゼノ。新考シマシマ。
 〔大意〕 一首の意は、いのちを懸けて、即ち命がけで戀をして居るのだが、餘り人目が多いために思ふやうに逢ふことが出來ない。若しこの己《おれ》が吹く風ででもあるなら、人目に觸れずに幾度でも逢ふことが出來るのに。といふのである。
(470) 〔鑑賞〕 これもまた民謠風のもので、感情が細かくなつて來てゐると共に、戀愛の情も、餘裕ある方嚮に移りつつある。『息の緒に念ふ』などと切實なことを云つても何となく呑氣に聞こえるやうになつて、後世風になつて行つたものである。卷十一(二三六四)に、玉垂小簾之寸鶏吉仁入通來根足乳根之母我問者風跡將申《タマダレノヲスノスゲキニイリカヨヒコネタラチネノハハガトハサバカゼトマヲサム》といふのがある。なほ、同卷(二五五六)に、玉垂之小簀之垂簾乎往褐寐者不眠友君者通速爲《タマダレノヲスノタレスヲユキガチニイハナサズトモキミハカヨハセ》ともあり、同じやうな心理に本づいた歌である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三六〇〕
  人《ひと》の親《おや》の未通女兒《をとめご》居《す》ゑて守《もる》山邊《やまべ》から朝朝《あさなあさな》通《かよ》ひし君《きみ》が來《こ》ねば哀《かな》しも
  人祖 未通女兒居 守山邊柄 朝朝 通公 不來哀
 
 〔語釋〕 ○人祖 ヒトノオヤノと訓む。人間の親だちがといふ意で、下まで續く。卷十二(三
 
〇一七)に、人之子※[女+后]戀渡青頭※[奚+隹]《ヒトノコユヱニコヒワタルカモ》。卷十八(四〇九四)に、伊麻乃乎追通爾奈我佐敝流於夜能子等毛曾《イマノヲツツニナガサヘルオヤノコドモゾ》。同じ長歌のなかに、人祖乃立流辭立人子者祖名不絶《ヒトノオヤノタテルコトダテヒトノコハオヤノナタタズ》などとあるのは造語上少しく參考になるてあらう。
(471)○未通女兒居・守山邊柄 ヲトメゴスヱテ・モルヤマベカラ。少女をば持つてゐてそれを守つてゐるといふ意から、下のモルヤマにつづけた序である。その守山《もるやま》のほとりからの意。守山は飛鳥の三諸山(神南備山)だらうと云はれてゐる。卷六(九五〇)に、山守居守云山爾不入者不止《ヤマモリスヱモルチフヤマニイラズバヤマジ》。卷十三(三二二二)に、三諸者人之守山本邊者馬醉木花開末邊方椿花開浦妙山曾泣兒守山《ミモロハヒトノモルヤマモトベハアシビハナサキスエベハツバキハナサクウラグハシヤマゾナクコモルヤマ》等の例がある。ヨリといふ意味のカラの例は、卷十一(二六一八)に、月夜好三妹二相跡直道柄吾者雖來《ツクヨヨミイモニアハムトタダヂカラワレハキツレド》。卷十(一九四五)に、霍公鳥宇能花邊柄鳴越來《ホトトギスウノハナベカラナキテコエキヌ》。卷十三(三三二〇)に、直不往此從巨勢道柄石瀬踏求曾吾來《タダニユカズコユコセヂカライハセフミモトメゾワガコシ》。卷十七(三九四六)に、保登等藝須奈伎底須疑爾之乎加備可良秋風吹奴《ホトトギスナキテスギニシヲカビカラアキカゼフキヌ》等がある。○朝朝・通公・不來哀 舊訓アサナアサナ・カヨヒシキミガ・コヌハカナシモ。代匠記精アサナサナ。童蒙抄コネバカナシモ(略解以下同訓)。
〔大意〕 一首の意は、〔人祖未通女兒居《ひとのおやのをとめごすゑて》〕飛鳥《あすか》の守山《もるやま》の邊から、毎朝お通ひ下すつたあなたがこのごろ少しもお見えにならぬので悲しうございます。
 〔鑑賞〕 この歌も民謠的で、第一二句あたりの序詞も女の可憐な手法でなく、何となく男くさいところがある。全體が朴質のいい點もあるが、前からの旋頭歌氣分で、一氣に作つたものででもあらうか。
 
(472)          ○
 
  〔卷十一・二三六一〕
  天《あめ》なる一《ひと》つ棚橋《たなはし》いかでか行《ゆ》かむ若草《わかくさ》の妻《つま》がりと云《い》へば足莊嚴《あしよそひ》せむ
  天在 一棚橋 何將行 穉草 妻所云 足莊嚴
 
 〔語釋〕 ○天在・一棚橋 アメナル・ヒトツタナハシと訓んだ。天にあるといふ意でヒに係る枕詞。卷七(一二七七)に、天在日賣菅原草莫苅嫌《アメナルヒメスガハラノクサナカリソネ》とあるのもヒに係けて居る例である。棚橋は板一枚わたした橋である。『あやうきひとつばしをわたりてゆくらんことよ、いたはしやといはむがごとし。唐(ノ)周賀(ガ)送(ル)2僧(ノ)還(ルヲ)1v嶽(ニ)詩(ニ)曰。辭僧下(ル)2水棚ゐ(ヲ)1。橋は河の上にかけたるが、棚に似たれば、漢には水棚といひ、和にはたなはしといふなるべし』(代匠記初)。水棚と棚橋と同じか、もつと調べるつもりである。○何將行 舊訓イカデユクラム。童蒙抄イカデユカム。イカニユカム。考イカデカモユカム。略解イカデカユカム。古義ナニカサヤラム(行は障の誤)。新訓イカニカユカム。○穉草 ワカクサノでツマに係る枕詞である。○妻所云 ツマガリトイヘバと訓む。舊訓ツマガリトイフ。童蒙抄ツマガリトイヘバ。考ツマガリトヘバ(略解同訓)。略解宣長訓ツマガリトイヒテ(【校本萬葉童蒙抄訓としたのは誤記である。】)。古義ツマガリトイハバ。新訓ツマガイヘラク。○足莊嚴 舊訓アシヲウツク(473)シ(代匠記同訓)。童蒙抄ソコニモウルハシ。アシヨソヒセン。考アユヒスラクヲ。略解は考に從つたが、宣長説は莊嚴は結發の誤で、アユヒシタタス。
 〔大意〕 一首の意は、〔天在《あめなる》〕一つかかつてゐる危い板橋をば、どうして渡つて行くことが出來よう。併し戀しい妻のところへ行くのである。一つ足に仕度をして出掛けよう。といふのであらう。
 
 〔鑑賞〕 この歌は、天在《あめなる》とあるけれども、必ずしも天上の牽牛織女に關係せしめなくともいいやうである。やはり民謠風で、氣が利いて相當に面白い歌である。新訓では、『天なる一つ棚橋いかにか行かむ。若草の妻が云へらく足莊嚴《あしよそひ》せよ』と訓んで居る。旋頭歌であるから、下の句を新たに起すのも一つの手法で、かう訓んで味つてもやはり相當に面白いと思ふのであるが、自分は大體の感じから、童蒙抄に大分從つて右のやうに解したのであつた。古來この歌の解釋はまちまちであつたから、念のため次にその諸説を記し置かうとおもふ。
 代匠記では、舊訓どほりアシヲウツクシと訓んだので、『初三句ハ獨木橋《ヒトツハシ》ノ危ヲイカデ渡ルラムト勞ヲ思ヒヤリテ、天河ニ彦星ノ渡ル橋ヲ引懸テ云ナリ。【中略】淮南子云。若(シ)v行(カ)2獨梁(ヲ)1不d爲(ニ)v無(カ)v人不(ハアラ)uv兢《・オソレ》2其容(ヲ)1。足莊嚴トハ妻ノ許ヘ行道トテ獨梁ヲ渡ル足ヲイタハシト云ナリ。此ハヨキ男ノ妻ノ許ヘ往來《カヨフ》ヲ見ル人ノアハレビテヨメルナルベシ』(代匠記精)。『天に在る一ツ橋は、中々いかに(474)共行かるべきにあらねど、妻の居る處と云へば、いで行かんと足のよそほひをもすると云意共聞ゆる也』(童蒙抄)。考はイカデカモユカム・ワカクサノ・ツマガリトヘバ・アユヒスラクヲと訓むのであるが、『足纏《アユヒ》は下を飾なれば、歩行にままならぬ故に、一棚橋はえ渡りかねきなんといへり。莊嚴の下に助字乎の字無は、此人万呂集の體にて、助辭は幾言も添て云事也』(考)。略解は大體考に據つて解いたが、『宣長説、莊嚴は結發の誤にて、ツマガリト言ヒテ、アユヒシタタスと訓むべし。是は人のうへを見て詠めるなり。道に一つ棚橋の有るを、如何にして行かんとするに、人が妻許行くと言ひて、あゆひし出立つよとなりと言へり。斯くては穩かなり』と云つてゐる。また井上博士の新考では、『あめなる弟棚磯《おとたなばた》を迎へにや行く若くさの妻がりといひて舟《ふね》よそはくも』と直し、『一首の趣は若き男の妻がり行くといひて船よそひするを見て牽牛の妻迎船の故事を思浮べてサラバ織女ヲ迎ヘニ行クナラムといへるなるべし』と解した。
 右の如く種々あるが、新考の説は除外するとして、これを天上の牽牛織女に關聯せしめたり、或は第三者がひとの戀を客看する趣などに解するから面倒になるので、これは童蒙抄で解したやうに、平凡に素直に解し、自分の事を咏んでゐる趣に解くのが一番確かな解釋である。
 
 
(475)  〔卷十一・二三六二〕
  山城《やましろ》の久世《くぜ》の若子《わくご》が欲《ほ》しいといふ余《わ》をあふさわに吾《わ》を欲《ほ》しといふ山城《やましろ》の久世《くぜ》
  開木代 來背若子 欲云余 相狹丸 吾欲云 開木代來背
 
 〔語釋〕 ○開木代・來背若子 ヤマシロノ・クゼノワクゴガ。山背の久世の若子《わくご》(青年)がで、山城久世郡久津川村あたりである。類似の表現は既に前にもあつた。舊訓クゼノワカコガ。古寫本コゼノワカコヲ(古・細)。童蒙抄アキキコル・コセノワカコカ。略解クゼノワクコガ(古義同訓)。○欲云余 舊訓ホシトイフワレ。代匠記ホシトイフワレヲ。童蒙抄ホシトイフカリ。考ホシトイフワレ。略解ホシトイフワヲ。古義ホシトイフアヲ。今略解訓に從つた。○相狹丸 アフサワニと訓む。丸をワと訓むのは、輪・廻をワと訓むのと同じ理で、日本紀の和珥《ワニ》をば、古事記には丸邇《ワニ》と書いてあるので分かる。卷八(一五四七)に、棹四香能芽二貫置有露之白珠相佐和仁誰人可毛手爾將卷知布《サヲシカノハギニヌキオケルツユノシラタマアフサワニタレノヒトカモテニマカムチフ》とあるのと同じく、おほけなく、柄になく、身分不相應に、淺果敢に、などと口譯して好い場合がある。『こはあはさわと訓て淡騷てふ事とす。此若子が、あはつけくさわぎて欲といふよとわらふさま也』(考)。
 〔大意〕 一首の意は、山背《やましろ》の久世《くぜ》郷の一人の青年が、私を妻に欲しいなどといふ。身の程も知(476)らずに、私を妻に欲しいなどといふ、あの山背の久世の青年が。といふのである。
 〔鑑賞〕 これも民謠的な歌で、一人の娘がある青年の求婚について調戯つて居る趣の歌であるから、その輕い調子のために民謠として成立つて行つて居るのである。またそこに生々《いきいき》とした氣分が流れて居て、民謠としての價値をも保つて居る。代匠記精撰本に、『今ノ來背若子ハ賤シキヲ嫌ニハアラズ。主アル身ヲ威勢アルニ依テ※[(女/女)+干]サムトスルヲ嫌フナリ』とあるのは、少し考へ過ぎた解釋である。
 催馬樂に、『やましろの狛のわたりの瓜つくりわれを欲しといふいかにせむ』とあり、古今集誹諧歌に、『足引の山田のそほづおのれさへわれをほしといふうれはしきこと』とあるのも同じ趣の歌で、代匠記と新考で注意して居る。私は、古今以後の歌までは用例を引かない方針であるが、先進の説で好い場合にはそれを明かにするために引くことにして居る。
 此處まで來て、『右十二首柿本朝臣人麿之歌集出』とあるが、代匠記初稿本で、『人丸の集に出といへるは、彼朝臣の哥とのみ定がたき事、右より注するがごとし』といつて居る。
 
 
(477)  〔卷十一・二三六八〕
  垂乳根《たらちね》の母《はは》が手《て》放《はな》れ斯《か》くばかり術《すべ》なき事《こと》はいまだ爲《せ》なくに
  垂乳根乃 母之手放 如是許 無爲便事者 未爲國
 
 以下は『以前一百四十九首柿本朝臣人麿之歌集出』と注せられた一群の歌の中、『正述心緒』の部である。類聚古集・古葉略類聚鈔には、この歌の下に人丸集と注してある。
 一首の意は、物心がつき、年ごろになつて、母の手から放れて以來、こんなに切ない事をしたことは無いといふので、戀の切ないさまを云つてゐるのである。『術なき事』を、代匠記初稿本に、『かかるせんかたなきことをばいまだせぬなり。事とは戀なり』。代匠記精撰本に、『カカル進退キハマリタル思ヒヲバイマダセザリシトナリ』と翻してゐるのはなかなか旨い。この一首も民謠的ではあるが、聲調は内に潜む求心的になつて來てゐることに注意せねばならぬ。
 母之手放《ハハガテハナレ》は、舊訓ハハノテソキテであつた。この語につき、代匠記初稿本に、『放の字なれば、はなれともよむべし。そきてもさかりてはなるるなり。常に親の手をはなれてといへる心なり。人となりて、母の手をはなれてよりこのかたに、かかるせんかたなきことをばいまだせぬなり。事とは戀なり。允恭紀(ニ)皇后(ノ)曰。妾《ヤツコガ》初(テ)自2結髪《カミオイシ》1陪《ハムベルコト》2於|後宮《キサキノミヤニ》1既(ニ)經2多年(ヲ)1。母が手そきては、此髪(478)おきしよりとのたまへるがごとし。第五に山上憶良の、大伴熊凝がためによまれたる哥にも、うちひさす宮へのぼるとたらちしや母がてはなれといへり』と云つてゐる。略解ではハハガテカレテと訓んで居る。なほ新考には、結句をイマダアハナクニと訓み、『案ずるに爲は相の誤ならむ。さらばイマダアハナクニとよむべし。アハナクニは逢ハヌ事ヨとなり。卷四に、黒髪に白髪まじりおゆるまでかかる戀には未相爾《イマダアハナクニ》とあり』と説明してゐる。卷四の『黒髪に』云々の歌もよいが、この歌の『爲《せ》なくに』といふ結句は、肉體に即したやうな感じがあつてなかなかいい。これはこの儘にして味ふべきであるだらう。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三六九〕
  人《ひと》の寢《ぬ》る安宿《うまい》は寢《ね》ずて愛《は》しきやし君《きみ》が目《め》すらを欲《ほ》りて嘆《なげ》くも 【或本歌云、きみをおもふに明《あ》けにけるかも】
  人所寐 味宿不寐 早敷八四 公目尚 欲嘆 【或本歌云、公矣思爾曉來鴨】
 
 ○人所寐 略解宣長訓ヒトノナス。古義では所を衍としヒトノヌルを活した。○味宿不寐 舊訓ウマイモネズテ。童蒙抄ウマイハイネデ。考ウマイハネズテ。○公目尚 嘉暦傳承本・細川本(479)等キミガメヲナホ。舊訓キミガメヲスラ。代匠記精キミガメスラヲ 。童蒙抄キミガメヲナホ。○欲嘆 舊訓ホシミナゲクカ。童蒙抄ホリトナゲキヌ。考ホリテナゲカム。略解ホリテナゲクモ等の諸訓がある。『目尚《メスラヲ》』は、『戀しい人の目ヲバナホ』といふ意で、目といふことを主として強調しその他のことを同時に暗指するのである。古今集以後にはダニと似たやうに使つてゐる。私は、このスラを、『ヲバ、ナホ』、『デモ、ナホ』と譯して居る。一首の意は、このごろはいろいろと思ひ亂れて人のするやうに安眠も出來ずに其戀しい人の目ヲバナホ見たいと思つて歎いて居る。と言ふので、目スラはセメテ目ダケデモといふよりもその戀しい目をと目をば強める意がある。代匠記精に、『セメテ見ル事ダニホシキナリ』と云つてダニと同じに解し、大言海には、『指スモノハ重ク、夫レニ對シタル物ハ輕キヲ云フ語』と云ひ、廣日本文典にはヤハリナホの意で、口語ではデサヘモと譯していいと云つて居り、中古からはダニと同じ意に使つたと注してゐる。スラの用例を少しく次に抄出する。
  言問はぬ木すら紫陽花《あぢさゐ》諸弟《もろと》等が練《ねり》の村戸《むらと》に詐《あざむ》かえけり (卷四。七七三)
  斯くしつつ遊び飲《の》みこそ草木すら春は生ひつつ秋は散りゆく (卷六。九九五)
  言《こと》問《と》はぬ木すら妹《いも》と兄《せ》ありとふをただ獨子《ひとりご》にあるが苦しさ (卷六。一〇〇七)
  春日すら田に立ち疲る君は哀しも若草の※[女+麗]《つま》無き君が田に立ち疲る (卷七。一二八五)
(480)  蒼天《おほぞら》ゆ通ふ吾すら汝がゆゑに天漢路《あまのかはぢ》をなづみてぞ來し (卷十。二〇〇一)
  旅にすら紐解くものを事しげみ丸寢《まろね》吾《われ》はす長きこの夜を (卷十。二三〇五)
  石《いはほ》すら行き通《とほ》るべき健男《ますらを》も戀とふ事は後悔いにけり (卷十一。二三八六)
  夢のみに見るすら幾許《ここだ》戀ふる吾は寤《うつつ》に見てはまして如何《いか》ならむ (卷十一。二五五三)
  伊夜彦《いやひこ》おのれ神さび青雲の棚引く日すら※[雨/沐]《こさめ》そぼ零《ふ》る (卷十六。三八八三)
  出でて來し丈夫《ますら》吾すら世の中の常し無ければうち靡き (卷十七。三九六九)
  あたらしき身の壯《さかり》すら丈夫《ますらを》の語《こと》いたはしみ父母に啓《まを》し別れて (卷十九。四二一一)
 などで、ヲバナホ、デモナホ、ニモナホと翻していい。それから、ダニは、デモ(せめて、やうやくに)と譯し、サヘは、マデ、マデモ、マデニと譯して當るやうである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七〇〕
  戀《こ》ひ死《し》なば戀《こ》ひも死《し》ねとや玉桙《たまぼこ》の路行人《みちゆきびと》に言《こと》も告《つ》げなく
  戀死 戀死耶 玉桙 路行人 事告無
 
(481) 結句『事告無《コトモツゲナク》』は原文『事告兼』であつたから、コトモツゲカネ、コトモツゲケム、コトツゲムカネ等と訓んでゐたのを略解で、『兼は無の誤にて、結句こともつげなくならんと宣長言へり』といひ、古義もコトモツゲナキとも訓んで居る。校本萬葉に據るに、嘉暦傳承本に『無』とあつてコトツケモナシと訓み、また京都大學本に兼の右下に赭で『无イ本』とあつて合點を附し、訓の右に赭でコトツケモナシとある。
 一首の意は、このやうに苦しい戀に悩んでゐれば死ぬだらう。それをぼ戀死《こひじに》に死んでもかまはぬといふのでもあらうか、路を往來する人に言傳《ことづて》さへして呉れない。といふ歌で、これは男が女にうらみ言を云つて遣つた趣の歌である(或は女の歌としても解釋の出來ないことがない)。一般民謠風でもあるが、對咏的で、問答風に移行し、所謂色好み問答歌に移行して行くやうに見える。ただ、それが平安朝のものなどと違ひ、まだまだ、切實であり、心に直接であり、遊びに浮動するやうなことが無い。その差別をせずに、萬葉の歌だけに不滿を云ふのは、同情の足りない看方である。
 此歌は、拾遺集に、人麿作として下句『道行く人に言傳もな|し《きイ》』。柿本集に、『戀ひも死ねとか』『道行き人に言傳もなし』。六帖に、人麿【ある本】として『道行き人に言傳もせぬ』となつて載つてゐる。
 
(482)          ○
 
  〔卷十一・二三七一〕
  心《こころ》に千遍《ちたび》おもへど人《ひと》に云《い》はず吾《わ》が戀妻《こひづま》を見《み》むよしもがも
  心 千遍雖念 人不云 吾戀※[女+麗] 見依鴨
 
 ○千遍雖念 舊訓チヘニオモヘア。代匠記初書入【校本萬葉】チタビオモヘド。考チタビオモヘド。『ちたびもいはんと思へども也。ちへにと訓しは此哥にはかなはず』(考)。略解・古義以下考に從ふ。○人不云・吾戀※[女+麗] 舊訓ヒトニイハヌ・ワガコヒツマヲ。童蒙抄ヒトニイハヂ・ワガコフツマヲ。略解ヒトニイハズ・ワガコフツマヲ。古義ヒトニイハズ・アガコフイモヲ。○見依鴨 舊訓ミルヨシモガモ。略解ミムヨシモガモ。
 一首の意は、心には戀しくて戀妻のことも千たびも思うて居るが、それを誰にも云はずに、まのあたり見たいものだといふのである。前の歌の如くに、稍特殊な戀歌で稍個性化して來て居るのである。第三句の、『人に云はず』も強い句だが、それから第四句への續け方は自然で、なかなか旨い。卷十一(二五六五)に、直一目相視之兒故千遍嘆津《タダヒトメアヒミシコユヱチタビナゲキツ》。卷十二(三一〇四)に、將相者千遍(483)雖念《アハムトハチタビオモヘド》の例がある。
 この歌は、玉葉集に、題しらず、人麿とし『心にはちへに思へど人にいはぬわが戀妻はみる由もなし』、六帖に、『心には千重に思へど人に言はぬわが戀妻を見む由もがな』となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七二〕
  斯《か》くばかり戀《こ》ひむものとし知《し》らませば遠《とほ》く見《み》つべくありけるものを
  是量 戀物 知者 遠可見 有物
 
 ○戀物 舊訓コヒシキモノト。略解コヒムモノトシ。古義コヒムモノゾト。○遠可見 舊訓ヨソニミルベク。童蒙抄ヨソニノミミテ。略解トホクミルベク。古義トホクミツベク(新訓同訓)。新考トホクノミミテ。卷三(二四八)に、雲居奈須遠毛吾者今日見鶴鴨《クモヰナストホクモワレハケフミツルカモ》があり、遠はトホクと訓むのが近道だが、ヨソニミルの例はなかなか多いので舊訓でさう訓んだものであらう。卷三(四二三)に、君乎婆明日從外爾可聞見牟《キミヲバアスユヨソニカモミム》。同卷(四七四)に、昔許曾外爾毛見之加吾妹子之奧槨常念者(484)波之吉佐寶山《ムカシコソヨソニモミシカワギモコノオクツキトモヘバハシキサホヤマ》などがある。○有物 奮訓アリケルモノヲ。童蒙抄アラマシモノヲ(新考同訓)。
 一首の意。このやうに戀に心の悩むことと知つてゐたならば、最初から逢はずに、遠く外《よそ》に見てゐた方が好かつたのに、逢つたためにこんなに苦しんで居る。
 戀にはこの心理がありがちなので、萬葉にも、古今以後にも類歌が多い。卷十五(三七三九)に、可久婆可里古非牟等可禰弖之良末世婆伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留《カクバカリコヒムトカネテシラマセバイモヲバミズゾアルベクアリケル》の如き例がある。なほ『かくばかり』といふ句を用ゐた例に、卷二(八六)の、加此許戀乍不有者《カクバカリコヒツツアラズハ》をはじめ、卷四(七二二)に、如是許戀乍不有者石木二毛成益物乎物不思四手《カクバカリコヒツツアラズハイハキニモナラマシモノヲモノモハズシテ》。同(六八一)に、中々爾絶年云者如此許氣緒爾四而吾將戀八方《ナカナカニタユトシイハバカクバカリイキノヲニシテワガコヒメヤモ》等がある。
 この歌は、拾遺集に、人麿作として、第二句『戀ひしきものと』、第四句『よそにみるべく』。柿本集に、第二句『戀ひしきものと』、下句『よそに見るべくあらましものを』となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七三〕
  何時《いつ》はしも戀《こ》ひぬ時《とき》とはあらねども夕片設《ゆふかたま》けて戀《こひ》は術《すべ》なし
(485)  何時 不戀時 雖不有 夕方枉 戀無乏
 
 ○何時 舊訓イツトテモ。考イツハトハ。略解イツハシモ。卷十三(三三二九)に,何時橋物《イツハシモ》の例がある。いつはの意で『しも』は強めたのである。○不戀時・雖不有 舊訓コヒヌトキトハ・アラネドモ。童蒙抄コヒザルトキハ・アラネドモ。○夕方枉・戀無乏 舊訓ユフカタマケテ・コヒハスベナシ。童蒙抄コフルスベナサ、又はコフハスベナキ。考は舊訓のまま、乏は爲の誤とす。併し他にも卷十一(二四四一)の、無乏妹名告忌物矣《スベヲナミイモガナノリツイムベキモノヲ》の如きがある。嘉暦傳承本にはユフサルマヽニ・コヒシキハナシとある。
 一首の意は、何時といつて戀しない時はないけれども、夕がたになると奈何とも爲樣のないほどに戀しくなつて來る。といふ意である。
 この歌も民謠的であるが、稍獨咏的分子も交つてゐる。民謠的であるから、相手に云つてやつた趣であらう。上の句は少し容易であるが、『夕かたまけて』と云つて、直ちに、『戀はすべなし』と結んだ手法は流石におもしろい。これをば、夕方になると共に寐るのが習慣だからといふ意味を餘り強く持たせずに鑑賞する方が好いやうである。ただ夕方になるとおのづと戀が切なくなるといふ具合に取ればいいのである。『戀はすべなし』といふ表現は注意すべきもので、萬葉集にもう一つの例、卷十一(二七八一)に、海底奧乎深目手生藻之最今社戀者爲便無寸《ワタノソコオキヲフカメテオフルモノモトモイマコソコヒハスベナキ》がある。もつと(486)多く用例がありさうに見えて、この二例しか無い。
 既に代匠記で注意したやうに、卷十二(二八七七)に、何時奈毛不戀有登者雖不有得田直比來戀之繁母《イツハナモコヒズアリトハアラネドモウタテコノゴロコヒノシゲシモ》。卷十三(三三二九)に、何時橋物不戀時等者不有友是九月乎吾背子之偲丹爲與得《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモコノナガツキヲワガセコガシヌビニセヨト》があり、古今に、『いつはとは時はわかねど秋の夜ぞもの思ふことのかぎりなりける』、『いつとても戀しからずはあらねども秋の夕はあやしかりけり』等がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七四〕
  斯《か》くのみし戀《こ》ひや渡《わた》らむたまきはる命《いのちし》も知《し》らず歳《とし》を經《へ》につつ
  是耳 戀度 玉切 不知命 歳經管
 
 ○是耳 舊訓カクシノミ。代匠記精カクノミシ。古寫本カクテノミ(嘉・細)、又はカクシノミ。○不知命 舊訓イノチモシラズ。古寫本中イノチシラズモ(嘉)。シラヌイノチシ(細一訓)。イノチモシラヌ(神)。○歳經管 舊訓トシハヘニツツ。考トシヲヘニツツ(略解・新考)。
 一首の意は、このやうにして果敢なく私は人を戀しつつ居ることであらうか。命《いのち》も何も要らぬ(487)ほどにして、歳月を過ごしながら。といふほどの意であらう。
 『命も知らず』の如くに痛切に云つてゐるのであるが、稍一般化したごとくに、物足りなく感ずるのは、此種の表現の特色であつて、實作者としては常に念頭に置かねばならぬ事柄である。ただ萬葉調は古調で重厚であるから、そのために何時も輕薄化することを救つてゐるのである。
 前にもあつたやうに、命《いのち》がけで戀をしてゐると感じてゐる歌は可なりある。一二句の如き言ひ方をしたものとして、卷四(六九三)に、如此耳戀哉將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《カクノミニコヒヤワタラムアキツヌニタナビククモノスグトハナシニ》。卷十一(二五九六)に、名草漏心莫二如是耳戀也度月日殊《ナグサモルココロハナシニカクノミシコヒヤワタラムツキニヒニケニ》。卷七(一三二三)に、海之底奧津白玉縁乎無三常如此耳也戀度味試《ワタノソコオキツシラタマヨシヲナミツネカクノミヤコヒワタリナム》。卷九(一七六九)に、如是耳志戀思渡者靈刻命毛吾波惜雲奈師《カクノミシコヒシワタレバタマキハルイノチモワレハヲシケクモナシ》等の例がある。
 この歌は、續後撰集に、『題しらず、柿本人丸』として載り、初句『かくてのみ』、結句『年は經にけり』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七五〕
  吾《われ》ゆ後《のち》生《うま》れむ人《ひと》は吾《わ》が如《ごと》く戀《こひ》する道《みち》にあひこすな勤《ゆめ》
(488)  吾以後 所生人 如我 戀爲道 相與勿湯目
 
 ○吾以後 奮訓ワガノチニ。考ワレユノチ。○所生人 舊訓ウマレムヒトモ。考ウマレムヒトハ。○相與勿湯目 舊訓アヒアフナユメ。代匠記初アヒコスナユメ。童蒙抄アヒマクナユメ。老アヒコスナユメ、與は乞の誤。古義原字の儘でアヒコスナユメ。
 一首の意は、己《おれ》より後に生れる人々は、己のやうに戀をする道に決して逢つてはならぬぞ。嗚呼戀は苦しい。といふのである。
 これも民謠的一般性を有つて居るが、稍獨語的咏歎をも交へてゐるものである。倫理的に響くところもあるが、これは獨咏的嗟歎の餘響であつて、作者の意圖が其處にあるのではない。斯く、獨咏的反省的な言ひ方が、やがて觀念的、概念的な歌に移行する傾向を有するものであるが、このあたりのものは、まだまだ肉體的であり、そこに強味を持つてゐる。代匠記初稿本に、『小杜が阿房宮賦云。秦人不v暇2自哀1而後人哀v之。後人哀v之而不v鑑v之、亦使d後人而復哀c後人u也。王右軍蘭亭記云。後之視v今、亦猶2今(ノ)之觀1v昔』を引いてゐるが、この支那の文はもつと倫理的教訓的である。
 このコスといふ動詞は左行下二段の動詞で、卷十一(二七一二)に、言急者中波余騰益水無河絶跡云事乎有超名湯目《コトトクバナカハヨドマセミナシガハタユトフコトヲアリコスナユメ》。卷四(六六〇)に、汝乎與吾乎人曾離奈流乞吾君人之中言聞起〔越〕名湯目《ナヲトワヲヒトゾサクナルイデワガキミヒノトナカゴトキキコスナユメ》等(489)があり、なほ、卷二(一一九)に、須臾毛不通事無有巨勢濃香毛《シマシクモヨドムコトナクアリコセヌカモ》。卷五(八一六)に、烏梅能波奈伊麻佐家留期等知利須義受和我覇能曾能爾阿利己世奴加毛《ウメノハナイマサケルゴトチリスギズワガヘノソノニアリコセヌカモ》等がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七六〕
  健男《ますらを》の現《うつ》し心《ごころ》も吾《われ》は無《な》し夜《よる》晝《ひる》といはず戀《こ》ひしわたれば
  健男 現心 吾無 夜晝不云 戀度
 
 ○夜晝不云 舊訓ヨルヒルイハズ。古寫本中、ヨルヒルイハヌ(嘉・神)の訓もある。童蒙抄ヨルヒルトイハズ。○戀度 舊訓コヒシワタレバ。童蒙抄コヒワタリツツ。
 一首の意は、男兒としての正氣《しやうき》ももはや己には無い。晝夜の差別もなく戀のしつづけであるから。といふのである。
 この歌は、獨り戀に懊悩してゐる趣であるから、獨咏的色調を有つてゐるが、一面には民謠的に輕いところも交つてゐるので、やはり對他的に愬へる分子もあると看做していいとおもふ。一首には人麿本來の面目である一種の暈が尠いが、併し何處かに重みが保たれてゐて相當に味へる(490)點もあるやうにおもへる。マスラヲといふ語の語感も現在吾等の持つものよりも、もつと生々したものであつたらしく、其等をも念頭に置いて味ふ必要があるだらう。ウツシゴコロといふ語も、丁寧に反覆して味つていい語である。
 ウツシゴコロについて、代匠記に、『現心ハウツツノ心ニテ、サダカナル心ナリ』とある如く、現心が無いといふのは、茫然として居ることともなるのである。卷十二(二九六〇)に、虚蝉之宇都志情毛吾者無妹乎不相見而年之經去者《ウツセミノウツシゴコロモワレハナシイモヲアヒミズテトシノヘヌレバ》といふ似た歌がある。
 この歌は風雅集に、題しらず、讀人しらずとして、第四句『よる晝いはず』とあり、また柿本集及び六帖戀の歌の部に、第四句『夜晝わかず』として載つてゐる。また六帖の鹽の歌に、『あらしほのうつし心も我はなしよるひる人を戀しわたれば』とあるのは、健男《あらしを》と荒鹽《あらしほ》と混同したものであらうと代匠記精撰本に言つてゐる。夫木和歌抄には、人丸作として、初句『ますらをや』、第四句『よる晝わかす』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七七〕
  何《なに》せむに命《いのち》繼《つ》ぎけむ吾妹子《わぎもこ》に戀《こ》ひざる前《さき》に死《し》なましものを
(491)  何爲 命繼 吾妹 不戀前 死物
 
 ○何爲 舊訓ナニセムニ。考ナニストカ。○不戀前 舊訓コヒセヌサキニ。略解コヒザルサキニ(古義・新考同訓)。○死物 舊訓シナマクモノヲ。代匠記初シナマシモノヲ。
 一首の意は、なぜ己は命をながらへて居たのであらう。こんなに苦しむのなら、戀人に逢はぬさきに死んでしまつた方が好かつたのに。といふのであらう。
 これも獨咏的でもあるが、やはり對者にいつてゐるやうな點もあり、強く命がけのやうに云つて居りながら、民謠として常にうたはれる程度になつてゐるのである。これも人麿作だとせば、人麿の發育史の道程にかういふやうな状態で歌を作つたことがあると考察すべきものであらう。
 ツグといふ動詞は、萬葉では、言ひつぐ、語りつぐ、聞きつぐ等の例が多く、イノチツグの例はほかにないやうである。卷十(二二〇九)に、秋芽子之下葉乃黄葉於花繼時過去者後將戀鴨《アキハギノシタバノモミヂハナニツグトキスギユカバノチコヒムカモ》。卷十一(二六二五)に、不相爾夕卜乎問常幣爾置爾吾衣手者又曾可續《アハナクニユフケヲトフトヌサニオクニワガコロモデハマタゾツグベキ》がある。ナニセムといふ用法も、卷四(五六〇)に、孤悲死牟後者何爲牟生日之爲社妹乎欲見爲禮《コヒシナムノチハナニセムイケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》。同卷(七四八)に、奈何爲二人目他言辭痛吾將爲《ナニセムニヒトメヒトコトコチタミワガセム》。卷五(八〇三)に、銀母金母玉母奈爾世武爾《シロガネモクガネモタマモナニセムニ》等がある。一首一首についてその色調を玩味すべきである。
 
(492)          ○
 
  〔卷十一・二三七八〕
  よしゑやし來《き》まさぬ君《きみ》を何《なに》せむに厭《いと》はず吾《われ》は戀《こ》ひつつ居《を》らむ
  吉惠哉 不來座公 何爲 不厭吾 戀乍居
 
 ○何爲 舊訓ナニストカ。略解ナニセムニ。○不厭吾 舊訓ウトマズワレハ。代匠記精イトハズワレハ。新考アカズモワレハ。
 一首の意は、もうどうでもおよろしいのです。どうせ御いでにならぬあなたのことですもの、それも厭《いと》はずに私が戀をつづけて居ることが出來ませうか。そんなことは出來ませぬから。といふのである。
 これは、女が其女の處に來ることの遠退いた男に向つて怨をいつて居る趣の歌で、やはり民謠風のものである。語調が急迫してゐるので、割合に味へる歌であり、『厭はず』といふ語もこまかくておもしろい處である。新考訓のアカズモは高調だが、代匠記訓でもかまはぬだらう。『厭はず』は、いやではない、嫌にはならぬといふ意で、卷四(七六四)に、百年爾老舌出而與余牟友吾者不厭戀者益友《モモトセニオイジタイデテヨヨムトモワレハイトハジコヒハマストモ》。卷十五(三七五六)に、牟可比爲弖一日毛於知受見之可杼母伊等波奴伊毛乎都奇(493)和多流麻※[氏/一]《ムカヒヰテヒトヒモオチズミシカドモイトハヌイモヲツキワタルマデ》等の例がある。
 このヨシヱヤシの下にコヒジを省いたのだと新考で云つて居る。卷十(二三〇一)に、忍〔吉〕咲八師不戀登爲跡金風之寒吹夜者君乎之曾念《ヨシヱヤシコヒジトスレドアキカゼノサムクフクヨハキミヲシゾオモフ》があり、なほ、卷十一(二六五九)に、爭者神毛惡爲縱咲八師世副流君之惡有莫君爾《アラソヘバカミモニクマスヨシヱヤシヨソフルキミガニクカラナクニ》。卷十二(二八七三)に、里人毛謂告我禰縱咲也思戀而毛將死誰名將有哉《サトビトモカタリツグガネヨシヱヤシコヒテモシナムタガナナラメヤ》等がある。なほ、卷十一(二五三七)の、吾持留心者吉惠公之隨意《ワガモタルココロハヨシエキミガマニマニ》などは、ママヨといふ意がよくあらはれて居る。此處のヨシヱヤシも、ドウデモヨイ。ママヨといふ意に翻していい場合である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三七九〕
  見《み》わたせば近《ちか》きわたりを徘徊《たもと》り今《いま》や來《き》ますと戀《こ》ひつつぞ居《を》る
  見度 近渡乎 回 今哉來座 戀居
 
 ○見度 舊訓ミワタセバ。古義ミワタシノ。『打向ひ見渡さるる處をミワタシといふなり。ここはミワタセバと訓はわろし』(古義)。卷十三(三二九九)に、見渡爾妹等者立志是方爾吾者立而《ミワタシニイモラハタタシコノカタニワレハタチテ》。(494)卷十一(二四七二)に、見渡三室山石穗菅《ミワタシノミムロノヤマノイハホスゲ》等の例がある。併し、卷十七(三八九〇)に、和我勢古乎安我松原欲見度婆《ワガセコヲアガマツバラヨミワタセバ》といふ例もあり、ミワタセバと訓んで解釋が出來るから、舊訓に從つて置く。
 一首の意は、見わたせば、直ぐ近くに見えますのに、人目を避けて態々まはり道をして來られるあの方が、もうおいでになる頃だと待ちこがれて居ります。『近きあたりながら人目をよくとて、廻り道をして來るを、今や今やと待つなり』(略解)。
 この歌もまた民謠風で、女が男を待つ氣持になつて歌つてゐる。然かも細かいところに注意して、男の行動を敍してゐるあたりは、この歌をして民謠風に活かした點でもあり、民謠の好い點でもある。ことに斯ういふいひあらはし方は實際の寫生に本づかなければ到底出來ないと思はしめる程に旨いところがある。タモトホリの語にしろ、當時の人にとつては何でもないことだとしても、散策のやうにしてまはりくねつた道を歩いて來る趣を、ただタモトホリの一語であらはすのは簡潔で旨いとおもふのである。タモトホリは集中、手回、他回、徘徊等とも書いた。
 新考に、『案ずるに卷七に、視渡者ちかき里廻をたもとほり今ぞわがこしひれふりし野に、といふ歌あり。今の歌の渡ももと里廻とありしが上なる見度の度よりまぎれて渡となれるにあらざるか。渡津のあなたに男のすめるをチカキ渡とはいふべからざる故なり。されば初二はミワタセバチカキサトミヲとよむべし』と云つた。これは參考説として記し置く。卷七の歌は、代匠記も既(495)に引用したが、この歌に似てゐるのは、やはり民謠化要素があり相通じたものであらう。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八〇〕
  愛《は》しきやし誰《た》が障《さ》ふれかも玉桙《たまぼこ》の路《みち》見忘《みわす》れて君《をみ》が來《き》まさぬ
  早敷哉 誰障鴨 玉桙 路見遺 公不來座
 
 ○早敷哉 奮訓ハシキヤシで誰も疑はなかつたが、新考でウレタキヤ(慨哉等の誤)を提出した。○誰障鴨 舊訓タガサヘテカモ。古寫本中タガサフルカモ(細)もあり、童蒙抄タレサハルカモ。略解タガサフレカモ(諸抄從之)。○路見遺 舊訓ミチワスラレテ。童蒙抄ミチヲワスレテ。考ミチワスレテカ。略解ミチミワスレテ(諸抄從之)。新考ミチハチカキヲ(不遠の誤)。
 一首の意。〔早敷哉《はしきやし》〕誰が邪魔をするのでせう、〔玉桙《たまぼこの》〕路をもお忘れになつたと見えて、あの方がちつともおいでになりませぬ。
 この歌も、女の心持になつて咏んだ民謠風のもので、氣が利いてゐてなかなかおもしろい。その想像も今から見れば幼稚だが、若い女性にいはれると、甘美の聲と共に力強くなつてくるので(496)あり、また、『路見忘れて』などの小味のところも腑に落ちてくるのである。新考の訓は、この小味の點は古調にふさはしくないと思つたからの改訓であらうが、女性らしくいふには却つてこれが自然だとも謂ふことが出來るのである。
 ハシ、ハシキヤシといふ語は、愛《ハシ》といふ意味が明かなので、結句の公《キミ》に係るものと解してゐた。『ハシキヤシは下の公を言ふなり』(略解)。然るに、新考では、『三句十九言を隔ててキミにいひかくべきにあらず。おそらくは慨哉などを誤れるにてウレタキヤとよむべきならむ』と云つた。この初句から、結句に續かせる句法は、幾ら自由に解しても、どうかと思ふから、愚案は、直ちに、『誰が』に續かせた。戀敵の女を指してゐるから、ハシキヤシはをかしいと思ふのであるが、このごろ來なくなつた男の身にとつてみればハシキヤシとなるのだから、さういふ表現をとつたのかも知れない。一首が民謠風で、『路見忘れて』などと云つてゐるのだから、これくらゐの自由性があつたのかも知れない。また、直ぐ人麿作と斷定が出來ないところがあるからである。卷四(六四〇)に、波之家也思不遠里乎雲居爾也戀管將居月毛不經國《ハシケヤシマヂカキサトヲクモヰニヤコヒツツヲラムツキモヘナクニ》。卷五(七九六)に、伴之伎與之加久乃未可良爾之多比己之伊毛我己許呂乃須別毛須別那左《ハシキヨシカクノミカラニシタヒコシイモガココロノスベモスベナサ》。卷十一(二六七八)に、級子八師不吹風故玉※[しんにょう+更]開而左宿之吾其悔寸《ハシキヤシフカヌカゼユヱタマクシゲアケテサネニシワレゾクヤシキ》等とあるのは、直ぐ公《キミ》、妹《イモ》などに續かぬ例でもあり、卷五の例は、初句から第四句のイモに續けた例である。して見れば、此處の歌のハシキヤシも結句の公《キミ》に關聯(497)せしめてもよからうといふことにもなるのである。愚案に都合のよい例は萬葉には無いやうである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八一〕
  君《きみ》が目《め》を見《み》まく欲《ほ》りしてこの二夜《フタヨ》千歳《チトセ》の如《ごと》も吾《わ》が戀《こ》ふるかも
  公目 見欲 是二夜 千歳如 吾戀哉
 
 ○公目 舊訓キミガメヲ。古義キミガメノ。○見欲 舊訓ミマクホリシテ。古義ミマクホシケミ。○吾戀哉 舊訓ワガコフルカナ。代匠記初書入【校本萬葉】ワガコフルカモ。考ワガコフルカモ。
 一首の意は、あなたにお目にかかりたく、この二夜はもう千年も經つたやうに長く待ちどほしくお慕ひ申して居ります。といふのである。
 女のつつましく且つ濃厚な情緒を見せて居る。『この二夜《ふたよ》千歳《ちとせ》のごとも』といふあたりの誇張に、甘えた語調があつていい氣特を起させるので、民謠としても成立ち得る可能性があるのである。
(498) メヲミマクホルといふやうな表現は、このほかにも可なりあつて、この下にも見えて居る。卷十二(三〇二四)の、妹目乎見卷欲江之小浪敷而戀乍有跡告乞《イモガメヲミマクホリエノサザレナミシキテコヒツツアリトツゲコソ》。同卷(三一三六)の、客在而戀者辛苦何時毛京行而君之目乎將見《タビニアリテコフレバクルシイツシカモミヤコニユキテキミガメヲミム》。卷十三(三二三七)の、奧浪來因濱邊乎久禮久禮登獨曾我來妹之目乎欲《オキツナミキヨルハマベヲクレクレトヒトリゾワガクルイモガメヲホリ》等があり、なほ、是等は『妹が目を欲る』例であるが、卷十五(三五八七)に、多久夫須麻新羅邊伊麻須伎美我目乎家布可安須可登伊波比弖麻多牟《タクブスマシラギヘイマスキミカメヲケフカアスカトイハヒテマタム》。卷十七(三九三四)に、奈加奈可爾之奈婆夜須家牟伎美我目乎美受比佐奈良婆須敝奈可流倍思《ナカナカニシナバヤスケムキミガメヲミズヒサナラバスベナカルベシ》があり、是等は、『君が目を欲る』、即ち女が男の目を欲る例である。
 この歌は、六帖に人麿作として載り、『君をめに見まくほしさにこの二夜千年のごとく我こふるかな』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八二〕
  うち日《ひ》さす宮道《みやぢ》を人《ひと》は滿《み》ち行《ゆ》けど吾《わ》が念《おも》ふ公《きみ》はただ一人《ひとり》のみ
  打日刺 宮道人 雖滿行 吾念公 正一人
 
(499) ○宮道人 舊訓ミヤヂノヒトハ。嘉暦伝承本ミヤヂニヒトハ。略解ミヤヂヲヒトハ(【古義・新考同訓】)。校本萬葉に古義初訓としたのは誤。○吾念公・正一人 舊訓ワガオモフキミハ・タダヒトリノミ。古寫本中、ワレガオモフハ・キミタダヒトリ(嘉・細)。細井本には漢字の左にワガオモフキミハ・タダヒトリノミとある。
 一首の意は、〔打日刺《うちひさす》〕宮へ通ふ大路《おほぢ》をば、澤山の殿《との》がたが通つて居られるが、わたくしのお慕ひ申す方《かた》は、ただあなただけでございます。といふのである。
 これも女から男にむかつて云つた趣の歌で、そしてやがて民謠風になつてゐるのである。都の少女や青年などが揃つて歌ひ且つ相當に感應した歌のやうにおもへる。それだけ無理がなく順當に歌はれた歌である。大きい往還を群集の歩いてゐる樣も想像出來る珍らしい歌で、特に、『滿ち行けど』といふ表現は注意すべきである。集中には、卷五(八九四)に、目前爾見在知在人佐播爾滿弖播阿禮等母《メノマヘニミタリシリタリヒトサハニミチテハアレドモ》。卷十三(三三二四)に、藤原王都志彌美爾人下滿雖有《フヂハラノミヤコシミミニヒトハシモミチテアレドモ》の例がある。共に參考していい。
 この如き内容の歌が多くあるらしく思へるが必ずしもさうでなく、卷四(四八五)に、人多國爾波滿而味村乃去來者行跡吾戀流君爾之不有者《ヒトサハニクニニハミチテアヂムラノユキキハユケドワガコフルキミニシアラネバ》。卷十三(三二四九)に、式島乃山跡乃土丹人二有年念者難可將嗟《シキシマノヤマトノクニニヒトフタリアリトシモハバナニカナゲカム》がある。また一二句に就いては、卷十二(三〇五八)に、内日刺宮庭有跡鴨頭草乃移(500)情吾思名國《ウチヒサスミヤニハアレドツキクサノウツロフココロワガモハナクニ》。卷十四(三四五七)に、字知日佐須美夜能和我世波夜麻登女乃比射麻久其登爾安乎和須良須奈《ウチヒサスミヤノワガセハヤマトメノヒザマクゴトニアヲワスラスナ》等がある。
 毛詩鄭風云。出(レバ)2其東門(ヲ)1、有v女如v雲、雖2則如1v雲、匪(ズ)2我思(ヒノ)存(スルニ)1。六帖には、『うちひさす大宮人は多かれどわきて戀るはただひとりぞも』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八三〕
  世《よ》の中《なか》は常《つね》斯《か》くのみと念《おも》へども本名《もとな》忘《わす》れず猶《なほ》戀《こ》ひにけり
  世中 常如 雖念 半手〔本名〕不忘 猶戀在
 
 ○世中 舊訓ヨノナカニ。古寫本中ヨノナカノ(嘉・神・西・細・温)。代匠記初ヨノナカノ。童蒙抄ヨノナカハ(考以下同訓)。○常如 舊訓ツネカクゾトハ。代匠記初ツネノモコロニ、或はツネノゴトクニ。代匠記精云、『如ヲカクゾトハト點ゼル不審ナリ。若如此ナリケムヲ此ノ字ノ落タルカ。有ノママナラバ、ツネノモコロニト讀テ、常ノ人ト同ジサマニ思ヒナセドト意得ベキカ。今按如ハ女ヲ誤テ作レル歟。然ラバヨノナカノツネノヲミナ、或ハヲトメト讀ベシ』。童蒙抄、ツ(501)ネカクノゴトと訓み、なほ、『常のもころにと讀める説も有。又常かくのみに共讀める説有。然共意は同じき事なれば、いか樣共好む所に從ふべし』。考ツネカクノミト(【略解・古義・新考・新訓等同訓】)。○半手不忘 舊訓ハテハワスレズ。童蒙抄ハタワスラレズ。考、同訓、手は多の誤。古義アレハワスレズ、半手は吾者の誤か。新考ウタテワスレズ、半手は哥手の誤か。新訓カタテワスレズ。茂吉案モトナワスレズ、半手は本名の誤か。モトナ・ミエツツなどと同じ用法か。○猶戀在 舊訓ナヲコヒニケリ。代匠記初ナヲコヒニタリ。童蒙抄ナホコヒニタリ。考ナホゾコヒシキ、在は布の誤。略解ナホコヒニケリ(古義以下同訓)。
 一首の意は、世の中は、いつもこのやうなものだとは觀念してはゐたが、それを不甲斐なくも(もとな)忘れてしまふことが出來ずに、またこんなに苦しい、戀をして居る。といふのである。
 この歌は、概念的なやうであるが、感慨が比較的滲みとほつてゐて、一般化し得る要約をも備へて居るところに民謠的效果を保持したものとおもへる。外見は獨語的だが、よく味へば相手に愬へてゐるのである。
 略解は大體考に據つたが、『ハタは又と言ふに同じ。世の中は斯くとは思ひ明らめて居るとすれど、猶戀ふる方に引かれて、又終に忘られずと言へり。半手の手は多の草書より誤れるか。手は言の下に置きて、タと訓む例なし。按ずるに、人麻呂集に假字書無き例なれば、半手など書く(502)べきいはれ無し。全誤字ならん』云々。鴻巣氏の全釋を見るに、新訓に從ひ、『新訓にカタテとよんだのは、一方ではの意と見たものか、二手をマデとよんだのに對して、半手は別に慣用の訓法があるのではないかと思はれるが、しばらくこの訓によつて解いておいた』と注してある。それから、私は、『半手』を『本名』の誤寫として、モトナと訓ませたが、『半手』は『兩手』或は『二手』の反對で、半手では、便りない、覺來ないことになるので、義訓の一種として、モトナと訓ませると解してもいい。さうすれば強ひて、誤寫とせずとも濟むのである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八四〕
  我背子《わがせこ》は幸《さき》く坐《いま》すと遍《かへ》り來《き》て我《われ》に告《つ》げ來《こ》む人《ひと》も來《こ》ぬかも
  我勢古波 幸座 遍來 我告來 人來鴨
 
 ○遍來 舊訓カヘリキテ。童蒙抄ユキカヨヒ。考タマタマモ、適喪の誤。古義タビマネク、來は多の誤。新考カヘリキテ。遍は還。集中|遍多數《タビマネク》、過多《タビマネク》、兩遍《フタタビ》、千遍《チタビ》等と用ゐて居るから、遍歴して還つて來る意にして、カヘリキテと訓んでも好いであらう。なほ、字鏡集にはユク、ヲハルの(503)訓もある。○我告來・人來鴨 舊訓ワレニツゲコム・ヒトノクルカモ。童蒙抄ワレニツゲクル・ヒトノコンカモ。考ワレニツゲクル・ヒトノコムカモ。略解ワレニツゲコム・ヒトノコヌカモ。『不來鴨と有べきを、不を略き書ける例集中に多きことは、宣長既に言へり』(略解)。新考ワレニツゲナム・ヒトノナキカモ、來は無の誤。
 一首の意は、私の夫《をつと》が旅にあつて無事で居られるといふことを、歸り路に立寄つて、私に告げてくれる人が來ないか。來て呉れれば好いが。といふので、留守をもる女の心持の歌である。『是れは夫の旅なるを思ふ歌なるべし』(略解)といふのに間違はあるまい。
 この歌で、『遍來』が、學者に苦心をさせたが、此は、旅先で夫に逢つた者が歸路に家に立寄る趣である。また、『來鴨』を、コヌカモと訓んだのは手腕であつた。かう訓んだために、一首が無理なく解釋が出來るやうになり、留守もる女のつつましい心情をも自然に理會し得るやうになつたのである。この歌は、人麿歌集にあるが、人麿の作でなく、誰か女の作が載つたものではあるまいか。若し、人麿歌集の歌を、殆んど皆人麿作だと論ずる説に從ふと、この歌も亦人麿の作となり、なほ想像を恣にすれば、人麿代作説、人麿巡遊詩人説等に發展して行くのであらうか。私はさういふ説には賛成しないのである。
 
(504)          ○
  〔卷十一・二三八五〕
  あらたまの五年《いつとせ》經《ふ》れど吾《わ》が戀《こひ》の跡無《あとな》き戀《こひ》は止《や》まず恠《あや》しも
  麁玉 五年雖經 吾戀 跡無戀 不止恠
 
 ○吾戀 舊訓ワガコフル。代匠記初書入【校本萬葉】ワガコヒノ。○跡無戀 舊訓アトナキコヒノ(代匠記同訓)。『跡無戀ハ驗ノナキナリ。五年經テ戀ルニ驗ナクバ思ヒヤマルベキ事ナルニ、猶ヤマネバ、ミヅカラ恠シブナリ』(代匠記精)。考シルシナキコヒゾ。『形跡の無きこころにて跡と書しかば、しるしなきと訓むべし』(考)。○不止恠 舊訓ヤマヌアヤシモ(古義同訓)。童蒙抄ヤマヌアヤシサ(新考同訓)。考ヤマズアヤシモ(略解同訓)。
 一首の意は、〔麁玉《あらたまの》〕もう五年も經つて居るが、甲斐ない私の戀がまだ止まない。不思議なことですといふのである。
 獨語的な歌だが、これもやはり愬へてゐるのであらう。『恠しも』は自嘲のやうでもあり、それをそのまま、相手に持つて行つて愬へて居るといふところもある。『あらたまの五年』は特殊の用法だが、卷十八(四一一三)の長歌に、安良多末能等之能五年之吉多倍乃手枕末可受《アラタマノトシノイツトセシキタヘノタマクラマカズ》があり、家持(505)の作さから、或は人麿歌集の此句を參考したのかもしれない。アヤシといふ語も注意してよく、集中に用例がある。卷十二(三〇七六)は、住吉之敷津之浦乃名告藻之名者告而之乎不相毛恠《スミノエノシキツノウラノナノリソノナハノリテシヲアハナクモアヤシ》。卷十八(四〇七五)に、安必意毛波受安流良牟伎美乎安夜思苦毛奈氣伎和多流香比登能等布麻泥《アヒオモハズアルラムキミヲアヤシクモナゲキワタルカヒトノトフマデ》がある。其他略。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八六〕
  石《いはほ》すら行《ゆ》き通《とほ》るべき健男《ますらを》も戀《こひ》とふ事《こと》は後《のち》悔《く》いにけり
  石尚 行應通 建男 戀云事 後悔在
 
 ○石尚 舊訓イハホスラ。代匠記精イハヲスラ。『尚』をスラと訓むこと、夢耳見尚幾許戀吾者《イメノミニミテスラココダコフルワハ》の他、用例がある。○建男 舊訓マスラヲモ(諸注從之)。考タケヲスラ。○戀云事 舊訓コヒテフコトハ。童蒙抄コヒチフコトハ。考コヒトフコトハ。○後悔在 舊訓ノチノクヰアリ。略解ノチクイニケリ。
 一首の意は、巌石をも踏み破つて通り得るやうな健男《ますらを》でも、戀といふことに當つてはつくづく(506)後悔するものだ。といふのである。
 自分の戀の苦しみをいふのに、自分を健男に見たてて、心情を強めて表現して居る。その誇張は稍ともすれば概念的になりがちであるが、この場合は、咏歎が強いので左程にそれが目立たない。『戀とふ事は』といふ一般化したやうな言方でもさうである。これも概念的に陷り易く、取りすましたやうに受取られがちのものだが、この場合は聲調によつてそれを救つて居る。結句の訓はさうして見ればやはり、『悔いにけり』であらうか。この『けり』は輕いやうで相當の重みと落著とを得て居るものである。
 代匠記初稿本に、『神武紀云。更《マタ》少|進《ユクトキニ》亦有(テ)v尾而|披《オシワケテ》2磐石《イハヲ》1而出(ル)者(アリ)。天皇問(テ)之曰。汝(ハ)何人(ゾ)。對(テ)曰《マウサク》。臣《ヤツカレハ》是(レ)磐|排別《オシワク》之子(ナリ)。いはをも踏さきてとほるべきほどのつはものも、戀といふことには後のくやみあるとなり。大敵にむかひてもおそれぬをのこの、戀といへばかへりみしてくゆるはこれがおもしろきことなり』と云つて居る如く、此歌では、『行き通るべき』といふ表現が注意せら
るべきである。なほ集中、卷三(四一九)に、石戸破手力毛欲得手弱寸女有者爲便乃不知苦《イハトワルタヂカラモガモタヨワキヲミナニシアレバスベノシラナク》。卷九(一七七八)に、名欲山石踏平之君我越去者《ナホリヤマイハフミナラシキミガコエイナバ》等がある。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として載り、下句『戀てふことは後のくいあり』となつてゐる。
 
(507)          ○
 
  〔卷十一・二三八七〕
  日暮《ひく》れなば人《ひと》知《し》りぬべみ今日《けふ》の日《ひ》の千歳《ちとせ》の如《ごと》く在《あ》りこせぬかも
  日促 人可知 今日 如千歳 有與鴨
 
 ○日促 舊本『日位』であるが、古寫本中『日促』に作つた(西・神・京)のがあるので改めた。舊訓ヒクレナバ。代匠記精、位は※[人偏+弖]の誤。童蒙抄ヒツギナバ。ヒナラベバ、位は竝の誤。『拾穗抄には低の字を書けり。然共、拾穗の本は理を不v顯』(童蒙抄)。考ヒナラベバ、位は竝の誤(新考從之)。略解ヒクレナバ、位は低の誤。『拾穗本に低に作るを善しとす』(略解)。『促』は、類聚名義抄、字鏡集にも、ツヅマル、セマル、ミジカシ、セメトル等の訓が附けてあるが、『日促』を夕暮になる義に取ることも全然不可能でなかるべく、從つて、ヒクレナバと訓ずることもまた出來るだらうと思ふのである。○有與鴨 舊訓アルヨシモガモ。代匠記初アリコセヌカモ。
 一首の意は、日暮れになると、人目が却つて多くなり、人の注意をひくやうになつて、この二人だけの媾會が見つかつてしまふだらう。それゆゑこの樂しい今日が、千年ほどの長さになつて呉れないものか。夕暮にならずにいつまでも日永であつて欲しいものだ。といふ意であらう。
(508) 夕暮になると、人に知られるといふのが腑に落ちないので、諸先進が種々苦心したが、これは男が女の許に通ふのは大概夕暮からであるからこの女の許にも或男が通つて來ないとも限らぬのである。また夕暮から大勢の男が通つて歩くのだから、却つて見つかり易いのをいふのであつて、この歌は晝間に媾會して居る趣に解すべきものである。代匠記精で、『日クレナバ人ノ知ラムト云コトハ上ニ夕カタマケテ戀ハスベナシトヨメル如ク、夕ハイトド心細ク涙モモロケレバナリ』と云つてゐる。これも一わたりの解釋であるが、かうなれば作歌の動機が不明になつて來て説明がつき難い。なほこの初句に就いて先進が如何に苦心したかといふも一つの例をいはば、童蒙抄に、『日くれなば人可v知とは如何に共理り不v通。是は日を繼たらば人知りぬべしと云義にて、日位と書たるは、天子を日嗣の命と奉2尊稱1、日の御位に比し奉れば、其訓義を借りて、日位の二字にて、ひつぎなばとは讀ませたるならんかし。されば、下に今日のと有て、あす又日をつぎては、人の知り咎めむと云へる義也。日の暮れなば、人の知らんと云義は、何共濟まざる義也。よくよく歌の意を考へ見るべし。日位の字を日つぎと讀まする事、當集の義訓の格全相叶ふ也。若し又さなくては、誤字ならば竝の字歟。然れば、日ならべばと讀べし。當集に日ならびと讀める詞、前に二首迄有。尤も假名書にもあれば、けふあすと日を並べて、思ふ人と寄り合ひ語らはば、人知りなんとの意歟。何れにもあれ、日くれと云義にては無き也』。もつとも、古寫本中(西・(509)温・西・京)の一訓に、『日位人《スヘラキ》』とあるといふことであるから、嘗てさういふ聯想を以て、この訓に想到した人がつたものと見える。ヒツギナバ、或はケナラベバ、ヒナラベバといへば、至つて分かりよくなるが、歌は平凡になるし、どうかとおもふので、舊訓に據つて解釋したのであつた。
 アリコセヌカモは、既にあつたが、アリコスの將然形からヌといふ打消につづき、カモに續いて、『さうあつて呉れないものであらうか。さうあつて欲しいものだ』といふ意に落著くのである。集中では、卷二(一一九)に、芳野河逝瀬之早見須臾毛不通事無有巨勢濃香毛《ヨシヌガハユクセノハヤミシマシクモヨドムコトナクアリコセヌカモ》をはじめ、八首ばかりの例がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八八〕
  立《た》ちて坐《ゐ》てたどきも知《し》らに思《おも》へども妹《いも》に告《つ》げねば間使《まづかひ》も來《こ》ず
  立座 態不知 雖念 妹不告 間使不來
 
 ○立座・態不知 舊訓タチヰスル・ワザモシラレズ。童蒙抄タチヰスル・ワザヲモシラズ。考(510)タチテヲル・タドキモシラズ。考別記タチテヰル・タドキモシラニ・古義タチテヰテ・タドキモシラズ。新考タチテヰム・タドキモシラニ。
 一首の意は、立つてゐても坐《すわ》つてゐても、どう爲樣《しやう》もなく戀しい妹《いも》のことばかり思つてゐるのだけれども、それを妹《いも》に知らせることが出來ぬので、向うからちつとも使も來ない。何とも彼とも爲樣が無い。といふのであらう。
 この歌は、民謠的と謂へば謂はれるが、何となくしんみりとして、浮いたところが無くて好いやうにおもふ。特に、『妹に告げねば間使も來ず』のところは、素朴愛すべきものである。
 卷十(二〇九二)に、立坐多士伎乎不知村肝心不欲解衣思亂而《タチテキルタドキヲシラニムラギモノココロタユタヒトキギヌノオモヒミダレテ》。卷十二(二八八七)に、立居田時毛不知吾意天津空有土者践鞆《タチテヰテタドキモシラズワガココロアマツソラナリツチハフメドモ》といふのがある。考の別記に、鶴寸《タヅキ》、跡状《タヅキ》、田時《タドキ》等の例歌を擧げて、『又卷四(今十一)に、立座《タチテヰル》、態不知《タドキモシラニ》、雖念《オモヘドモ》、妹不告《イモニツゲネバ》、間使不來《マヅカヒモコズ》、この態の字もたづきと訓べき事、右の哥どもに合せ見よ、立て居るべきわざをも忘れをれる意を得て、態とも書し也、さてたづきともたどきともいふは、言の通ひて同し事也』云々とある。略解では、舊訓に從ひ、タチヰスル・ワザモシラエズと訓み、『立居るべきわざをも忘れをる意を以て態を翁はタドキと訓みて、卷一の別記に委しく書かれたり。されど暫く古訓に據る』とことわつた。
 間使のことは既に注したが、なほ一二例を引けば、卷十七(三九六二)に、美知乎多騰保彌間使(511)毛夜流余之母奈之《ミチヲタドホミマヅカヒモヤルヨシモナシ》。卷六(九四六)に、己名惜三間使裳不遣而吾者生友奈重二《オノガナヲシミマヅカヒモヤラズテワレハイケリトモナシ》などの例がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三八九〕
  ぬばたまのこの夜《よ》な明《あ》けそ朱《あか》らひく朝《あさ》行《ゆ》く君《きみ》を待《ま》たば苦《くる》しも
  烏玉 是夜莫明 朱引 朝行公 待苫
 
 ○待苦 舊訓マテバクルシモ。代匠記マタバクルシモ。童蒙抄・略解・古義マテバクルシモ。新考ミムガクルシサ、待は看の誤とし、『拾遺集に、うばたまのこよひなあけそあけゆかば朝ゆく君を待つくるしきに【一作まつがくるしき】とあるは當時はやく結句に誤字ありし證とすべきのみ』と云つた。
 一首の意は、〔鳥玉《ぬばたまの》〕御一處にかうして居られる夜が明けないでくれよ。〔朱引《あからひく》〕朝が明けてお歸りになるあなたが、またおいでになる夜まで、お待するのはつらうございます。といふぐらゐの意であらう。
 この歌には枕詞が二つ用ゐてあり、うるさいやうだが、決してさうでなく、よく調和がとれてゐるやうにおもへる。單に意味のうへからのみでなく、聲調上から味ふと、この歌などは注意し(512)ていいとおもふ。ア〔右○〕ケソ、ア〔右○〕カラヒク、ア〔右○〕サユクとアが三つあつて具合惡いやうに思ふが、これは吟誦してゐる間には殆ど氣付かずに、理窟上で吟味してはじめて勘定し得たほどであつたのだから、其處に不調和が無かつたと考へていいであらうか。『あからひく朝行く君』までは順當に行つてゐるが、『君を得たば苦しも』との間が、時間が餘り長いので、誤字説が出でて來るのであるが、此處はやはり時間を含ませてもかまはず、略解で云ふごとく、『朝に別れては又來るを待つ間の苦しきなり』でいいとおもふ。
 この歌は、先に引いた新考に言ふやうに、拾遺集に、『うばたまのこよひな明けそあけゆかば朝ゆく君を|待つくるしきに《イまつがくるしき》』と載り、人麿作とし、また柿本葉に、『むばたまの今宵な明けそ明け行けば朝ゆく君を待つもくるしも』と載り、六帖に、『あらたまのこの夜な明けそあか光るあしたゆく君待てば苦しも』と載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九〇〕
  戀《こひ》するに死《しに》するものにあらませば我《わ》が身《み》は千遍《ちたび》死反《しにかへ》らまし
  戀爲 死爲物 有者 我身千遍 死反
 
(513) ○戀爲 舊訓コヒヲシテ。考コヒスルニ。古寫本中コヒスルニ(嘉)。○我身千遍 舊訓ワガミハチタビ。古寫本中ワガミゾチタビ(嘉・細)の訓もある。
 一首の意は、若し人間が戀をすれば死ぬものだとせば、己などは千遍も死んでは死に死んでは死にして繰返すことだらう。といふのである。
 これも、戀の死ぬほど苦しいといふことから、自嘲のやうな氣分にもなり、諧謔のやうな氣分をも交へてかういふ歌になつた。戀をすれば一々死ぬとされては溜まつたものでないといふやうな氣分もあるのである。それだから一首の氣特はそんなに單純ではない。
 卷四(六〇三)に、笠女郎の、念西死爲物爾有麻世波千遍曾吾者死變益《オモフニシシニスルモノニアラマセバチタビゾワレハシニカヘラマシ》といふのがあつてこの歌に似て居る。これは代匠記も童蒙抄も略解も引き、略解では、『何れかもとならん』と云つてゐるが、これは笠女郎がこの歌を模倣したものであらう。さう見れば人麿歌集といふものの存在も古く、家持を中心とした歌人等は、人麿歌集の歌を尊敬し、或は人麿作の歌と考へて模倣し、學んだものであつたのかも知れない。
 この歌は、拾遺集に人麿作として載り、第四句『ちたびぞわれは』とあり、また柿本集に、第二句『死ぬるものにし』とある。なほ六帖に、『かさの郎女【ある本】』として、第二句『死ぬるものにし』第四句『ちたびそわれは』とあるのが載つてゐる。
 
(514)          ○
 
  〔卷十一・二三九一〕
  たまゆらに昨日《きのふ》の夕《ゆふべ》見《み》しものを今日《けふ》の朝《あした》に戀《こ》ふべきものか
  玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物
 
 ○玉響 舊訓タマユラニ。嘉暦傳承本タマヒビキ。代匠記一訓タマナラシ。古義は斯る古語無しとしてヌバタマノと訓じた。○今朝 舊訓ケフノアシタハであつたのを童蒙抄でケフノアシタニと訓んだ(【荷田全集本による。校本萬葉ではこの訓を考が最初としてゐる。】)。代匠記精に、『玉ユラハ暫ノ意ナリト云ヒ來レトモ此歌ノ意ヲ思フニ然ラズ。味ハヒテ知ベシ。玲瓏ヲユラトヨメバ、玉ノ光ノユラユラトミユルヲ人ノカホバセニ譬ヘテヨメル歟トゾオボシキ。又上ニ手玉鳴裳トヨメリ。今響ノ字ヲユラトヨメル意得ガタケレバ、タマナラシト讀ベキカ』云々と云ひ、考に、『聲を以て物の幽なる譬とす。仍てここも幽に見し事なり』と云ひ、略解も大體それを踏襲して、『物に付けたる玉の相觸れて鳴る音なり。さて其音の幽かなるを以て、少なく乏しき事に取りて斯く言ふなり』と云つてゐるが、古義では、『タマユラと訓來れども、さる詞のあるべくもあらず。玉の聲を由良良《ユララ》とも由良久《ユラグ》ともいふ詞は(515)あれども、そをやがて打まかせて、玉由良《タマユラ》といはむは、古語の格にたがへり。【中略】かれ孰々按(フ)に、こはもと烏玉とありて、ヌバタマノにて、夕《ユフベ》にかかれる枕詞なりけむを、例の下上に玉烏と誤り、さて烏の草書【中略】後(ノ)世人の、うるはしく玉響と改寫て、たまゆらといふ訓をさへになせしなるべし。然るを、今まで註者等の舊本の誤をうけて解來れるはいかにぞや。【中略】あはれ古書に眼をさらす人の絶て久しくなりにけるこそあさましけれ』と云つてゐる。學者の得意とか喜びとかいふものは、世の政治家豪傑などの得意自慢などと違ふところがあり、愛すべきであるからここに手抄した。タマユラの語は他に用例の無いところを見れば誤寫で古義の説が正しいのかも知れない。併し一方では古寫本が盡く一致して玉響と書いてゐるところを見ると必ずしも誤寫とは斷定出來ない。さすれば縱ひ用語例は無いにせよ、この一つの語を尊重したいとも思ふ。さて尊重して保存するとせば、舊訓のタマユラニといふ訓をも取つて置きたいとも思ふのである。また解釋も、『暫し』の意味も何かの傳はりであつたかも知れないから、童蒙抄の『理り不v通也』で片付けてしまふわけにも行かない。よつてこれの解釋をも暫し保存して置きたく、その語原的解釋は考の説が一番いいやうである。私の如きも極めて恣にこのタマユラニの語を自分の歌に使つてゐる。
 一首の意は、昨日の夕にかりそめに一寸見ただけであつたが、もう今日の朝にかくも切に戀すべきであらうか。そんな筈はないのだが、實際は戀しいのである。といふので、この結句の『か』(516)は疑問と咏歎と共にして強いところが好い。
 この歌は、六帖に人麿作とし、訓は此處に訓んだのと相違なく、柿本葉に、第二句『きのふのくれに』となり、風雅集に題しらず、讀人しらずとして、第四句『今日のあしたは』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九二〕
  なかなかに見《み》ざりしよりは相見《あひみ》ては戀《こひ》しき心《こころ》まして念《おも》ほゆ
  中中 不見有從 相見 戀心 益念
 
 ○不見有從 舊訓ミザリシヨリモ(【代匠記・童蒙抄・略解從之】)。考ミザリシヨリハ(【古義・新考・新訓同訓】)。○戀心 舊訓コヒシキココロ(【代匠記・略解・古義同訓】)。童蒙抄コフルココロノ。考コヒモフココロ。新考コヒシムココロ。○益念 マシテオモホユ。舊訓古義イヨヨオモホユ。
 一首の意は、まことに、女に逢はなかつた時よりも、逢つてからの方が戀しい心が益々ひどくなつて來た。といふので、これは男の歌だが、この口譯よりももつとしんみりと歌つてゐるのである。
(517) かういふ心境の歌は 既に前にもあつた。また古今集以後には多くなつて來て、拾遺集の、『逢ひ見ての後の心に較ぶれば昔はものをおもはざりけり』(敦忠)は既に皆人が知つて居るとほりであり、なほ同集には、『わが戀はなほ逢ひ見ても慰まず彌増りなる心地のみして』(讀人不知)といふのがある。萬葉の此歌などは集中にあつては取立てて云ふ程のものでは無いが、一たび古今集以下の集の歌などと比較すると、その優れた點が明瞭になつて來るのである。第一、拾遺の歌は結句が皆弱くて惡いのだが、此は拾遺集のみならず、そのあたりが一般に弱くなつてゐたものである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九三〕
  玉桙《たまぼこ》の道《みち》行《ゆ》かずしてあらませば惻隱《ねもころ》斯《か》かる戀《こひ》に逢《あ》はざらむ
  玉桙 道不行爲 有者 惻隱此有 戀不相
 
 ○道不行爲 舊訓ミチヲユカズシ。童蒙抄ミチユカズシテ。○惻隱此有・戀不相 舊訓シノビニカカル・コヒニアハマシヤ。代匠記シノビニカカル・コヒニハアハジヲ。童蒙抄イタクモカカ(518)ル・コヒニハアハジ。考ネモコロカカル・コヒニハアハジ(略解・古義同訓)。新考(惻隱を衍とす)カカルコヒニハ・アハザラマシヲ。新訓ネモコロカカル・コヒニアハザラム。
 一首の意は、〔玉桙《たまぼこの》〕道を行かずに家に籠つて居つたなら、あの方《かた》に逢ふ機《をり》もなく、こんなに切ない戀をしなくとも濟んだでせうに。ぐらゐの意であらう。
 代匠記初に、『道ゆきぶりに見そめて物おもひとなる心にてかくはよめり』とあるが、何がなし女の心持のやうに取れる。併し、男の心持としても受取れぬことはない。つまり此歌が前の歌の連續ででもあるならば、やはり男の歌として解してかまはない。ただ、『道行かずして』云々の處は、何となく女らしく聞こえたのでさう解したに過ぎない。
 卷六は(九四八)に、天皇之御命恐百礒城之大宮人之玉桙之道毛不出戀比日《オホキミノミコトカシコミモモシキノオホミヤビトノタマボコノミチニモイデズコフルコノゴロ》。卷十二(二八七一)に、人言之讒乎聞而玉桙之道毛不相常云吾妹《ヒトゴトノヨコスヲキキテタマボコノミチニモアハジトイヘリシワギモ》。同卷(二九四六)に、玉桙之道爾行相而外目耳毛見者吉子乎何時鹿將待《タマボコノミチニユキアヒテヨソメニモミレバヨキコヲイツトカマタム》とあるなどは、多くは男の歌であるから、この歌も自由に聯想してかまはぬであらう。
 
          ○
 
(519)  〔卷十一・二三九四〕
  朝影《あさかげ》に吾《わ》が身《み》はなりぬ玉耀《たまかぎ》るほのかに見《み》えて去《い》にし子《こ》故《ゆゑ》に
  朝影 吾身成 玉垣入 風所見 去子故
 
 〔語釋〕 ○朝影・吾身成 アサカゲニ・ワガミハナリヌと訓む。アサカゲといふのは、朝のうちの日の光にうつる身體の細長い影をいふので、日中にうつる影の短いのと比較してさう云つたものであらう。そのひよろひよろした影は、恰も戀に痩せ衰へた身體に似て居るから、『朝影になる』といふ云ひ方をしたものであらう。『朝ニハ鏡ヲ取テ見レバ朝影トハ云ヘリ。戀痩テ影ノ如クニ成ルナリ』(代匠記精)といふのは、いまだ本當でなく、『朝影は痩衰へて、朝日にうつりて見ゆる影の如くになれるを言ふ』(略解)も未だ徹底してゐないが、大體この解釋の方が好い。○玉垣入・風所見 タマカギル・ホノカニミエテと訓む。舊訓タマガ()・スキマニミエテ。古寫本中、タマカキニ(類・古)。カケロフノ(京)。ホノカニミエテ(細)。オホノカミエテ(類)。考ミヅカキノとも訓む(玉垣は瑞籬の意)。略解カギロヒノ・ホノカニミエテ(【垣は蜻の誤。入は乃の誤か衍】)。古義タマカギル・ホノカニミエテ。『垣はカギの借(リ)字、八はルの借(リ)字なり。玉限《タマカギル》、玉蜻《タマカギル》などあるに同じくて、風《ホノカ》といはむ料の枕詞なり』(古義)。このタマカギルの考證のことは既に評釋篇卷之上に云つた。
(520) 〔大意〕 ただほんの一寸見たばかりで行つてしまつた女だのに、その女ゆゑに(女のために)戀をして私は、朝の光のうつるひよろ長い影のやうに、こんなに痩せ衰へてしまつた。
 〔鑑賞〕 前の、『たまゆらにきのふの夕《ゆふべ》見しものを』の歌と心持が似て居り、ただ、ほのかに見た女のためにこんなに戀にやつれたといふことを強調してゐるところにこの歌の特徴がある。『玉かぎる仄かに見えて去にし子ゆゑに』と、女が仄かに見えてその儘行つてしまつたやうに云つて、毫も男の方で能働的に見ようとしなかつた云ひ方も亦この歌の特色である。さういふ云ひ方であるから、ホノカが利くのである。この云ひ方は此の歌ばかりでなく、卷二(二一〇)に、珠蜻髣髴谷裳不見思者《タマカギルホノカニダニモミエヌオモヘバ》。卷八(一五二六)に、玉蜻※[虫+廷]髣髴所見而別去者《タマカギルホノカニミエテワカレナバ》等の例がある。
 この歌は、意味の上では、前半は感情の直接的表現であらうが、感慨は却つて後半にあるやうにおもへる。そして具體的であるから、感慨を籠らせるのには却つていいのである。さういふ種々の點で、この歌は、すらすらと歌はれ、一般歌謠的であるけれども、選拔しなければならぬいいところのある歌だといふことを思はしめる。
 此歌は、卷十二(三〇八五)に、朝影爾吾身者成奴玉蜻髣髴所見而往之兒故爾《アサカゲニワガミハナリヌタマカギルホノカニミエテイニシコユヱニ》となつて重出して居る。そしてこの方は、讀人不知であるところを見ると、人麿歌集の以外にも人麿の作がひろがつてゐるか、或は人麿歌集には多くの人麿以外の作者が混入してゐるか、いづれかであり得るこ(521)とを示すものではないだらうか。
 此歌は六帖に載り、第三句『陽炎の』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九五〕
  行《ゆ》けど行《ゆ》けど逢《あ》はぬ妹《いも》ゆゑひさかたの天《あめ》の露霜《つゆじも》にぬれにけるかも
  行行 不相妹故 久方 天露霜 沾在哉
 
 〔語釋〕 ○行行 舊訓ユケドユケド(【考・略解・古義同訓】)。代匠記ユキユキテ。『發句ハユキユキテト讀ベキカ。古詩云。行々(テ)重(テ)行々。但此古詩并ニ伊勢物語ニユキユキテトカケルハ遠路ノ意ナリ。今ノ歌ハ夜ナ夜ナ行意ニテ詞ハ同ジケレド意替レリ。今ノ點ハ雖行雖行ト書タラムニハ叶フベシ』(代匠記精)。併し、此處は、『夜な夜な行く意』ではなく、やはり古詩或は伊勢物語の用例の如く、遠く歩いて行く氣持と解したいのである。童蒙抄ユケユケド。新考マテドマテド(待待の誤とす)。古寫本中、ユケユケド(嘉・細)の訓もある。○不相妹故 舊訓アハヌイモユヘ。古寫本中、アハヌイモユヱ(西・温)。アワヌイモユヘ(神)。遠いところからかうして歩いて行つても逢ふことの(522)出來ぬ女のためにの意。これは女が故意に隱れて逢はぬのではない。逢ふ機會の無い、逢ふ當の無いといふ意であらう。○天露霜・沾在哉 舊訓アマツユシモニ・ヌレニタルカナ(【代匠記同訓】)。童蒙抄アメツユシモニ・ヌレニタルカナ。考アマツユシモニ・ヌレニタルカモ。略解アメノツユジモニ・ヌレニケルカモ(【古義・新考同訓】)。露霜は宣長は、單に露のことと解した(玉勝間)が、やはり寒露と解していいであらう。
 〔大意〕 行きつつ幾ら行つても逢ふ當のない戀しい女のために、かうして天の露霜(みづ霜)に濡れた。寂しく苦しいことであるといふ意をこもらせてゐる。『行けど行けど』は、幾度|通《かよ》つて行つてもといふ意味でなく、今行きつつ、なほ遠く行つてもといふ意であるだらう。
 〔鑑賞〕 この一首も幾らか輕いが聲調に濁が無く、自然に流露して居て旨い。結句のケルカモなども澱みなく行つてゐて、かういふところが或は人麿的聲調といつていいかも知れない。一面には人麿のものはもつと澁く強く行つてゐるとおもふだらうが、名の明かに記されてある人麿の作に至るまでの道程にかういふ歌をも作つてゐると想像してもかまはぬであらう。それから、この歌には、何處かに哀韻を聽くことが出來、それもまた人麿の聲調を聯想することも出來るとおもふ。次に、『けるかも』で止めた歌數首を記して參考にする。
   武庫河の水脈《みを》を早けみ赤駒の足掻《あが》く激《たぎ》ちに沾れにけるかも (卷七。一一四一)
(523)  ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露《やましたつゆ》にぬれにけるかも (卷七。一二四一)
 妹がため上枝《ほつえ》の梅を手折《たを》るとは下枝《しづえ》の露にぬれにけるかも (卷十。二三三〇)
   吾妹子に觸るとはなしに荒磯囘《ありそみ》に吾が衣手は沾れにけるかも (卷十二。三一六三)
   秋さらば妹に見せむと植ゑし萩露霜負ひて散りにけるかも (卷十。二一二七)
 この歌は、六帖に人麿作として、初句『行きゆけど』、第四句『天の露霜』となつてゐる。又夫木和歌抄にも人丸作とし、初句『いけと/\』、四五句『あまつゆしもにぬれにたるかも』である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九六〕
  邂逅《たまさか》に吾《わ》が見《み》し人《ひと》を如何《いか》ならむ縁《よし》を以《も》ちてか亦《また》一目《ひとめ》見《み》む
  玉坂 吾見人 何有 依以 亦一目見
 
 ○吾見人 舊訓ワガミシヒトハ。代匠記初書入【校本萬葉】ワガミシヒトヲ。○依以 舊訓ヨシヲモチテヤ。代匠記初ヨシヲモチテカ。童蒙抄ヨスガヲモチテ。
 一首の意。このあひだは、たまたま(偶然に)あの女に逢つたのであつたが、どういふ機縁《をり》を設《まう》(524)けたら、また一目見ることが出來るか知らん。また逢ひたいものだ。
 ヨシは今なら機縁とでもいふべき字で、ユヱヨシとも續けて居る。卷六(九三五)に、見爾將去餘四能無者《ミニユカムヨシノナケレバ》。卷五(八〇七)に、宇豆都仁波安布余志勿奈子《ウツツニハアフヨシモナシ》。卷十四(三四三〇)に、阿佐許求布禰波與志奈之爾許求良米可母與余志許佐流良米《アサコグフネハヨシナシニコグラメカモヨヨシコサルラメ》。卷十八(四一三一)に、由可牟登於毛倍騰與之母佐禰奈之《ユカムトオモヘドヨシモサネナシ》。卷十七(三九七八)に、與思惠夜之餘志播安良武曾《ヨシヱヤシヨシハアラムゾ》。卷七(一三七二)に、目庭雖見因縁毛無《メニハミレドモヨルヨシモナシ》。卷十七(三九六九)に、間使毛遣縁毛奈美《マヅカヒモヤルヨシモナミ》等の例がある。因、縁等の文字を當ててあるが、理由とか機會とか口實とか種々に口譯していい場合がある。
 タマサカの例は、卷九(一七四〇)に、海若神之女爾邂爾伊許藝※[走+多]相誂良比言成之賀婆《ワタツミノカミノヲトメニタマサカニイコギムカヒアヒトブラヒコトナリシカバ》云々といふ浦島子の長歌の中にある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九七〕
  暫《しまし》くも見《み》ねは戀《こひ》しき吾妹子《わぎもこ》を日《ひ》に日《け》に來《く》れば言《こと》の繁《しげ》けく
  暫 不見戀 吾妹 日日來 事繁
 
(525)○暫 舊訓シバラクモ。童蒙抄シマラクモ(略解同訓)。古義シマシクモ。○吾妹 舊訓ワギモコニ。童蒙抄ワギモコガ。考ワギモコハ。略解ワギモコヲ(古義同訓)。○事繁 舊訓コトノシゲケム。考コトノシゲシモ。略解コトノシゲケク(古義同訓)。新考ヒニヒニキナバ・コトノシゲケム。
 一首の意は、ちよつとの間でも逢はないと戀しくて溜まらない吾妹子《わぎもこ》であるが、毎日私がやつて來るとまた人の口がうるさくて困る。といふのである。
 『吾妹子を』の『を』は、『なるが』。『なるものを』の意。『事繁』は、『言《こと》繁《しげし》』で、人の口がうるいといふ意になる。卷十(一九八三)に、人言者夏野乃草之繁友妹與吾携宿者《ヒトゴトハナツヌノクサノシゲクトモイモトワレトシタヅサハリネバ》とあるのがつまり、口うるさい意であり、また、卷十二(三一一〇)に、人言之繋思有者君毛吾毛將絶常云而相之物鴨《ヒトゴトノシゲクシアラバキミモワレモタエムトイヒテアヒシモノカモ》とあるのもさうであり、同卷(三一〇八)の、空蝉之人目繁者夜干玉之夜夢乎次而所見欲《ウツセミノヒトメシゲクバヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》は人目の方に使つてゐる。何しろ、このシゲシといふ用法はおもしろい。
 この歌も民謠風のものかも知れないが、實際の吟をおもはしめる、『個』の作者がいまだ保留されてゐるところにこの歌の強味があるだらう。また、言葉の使ひ方もなかなか自然だから、訓もこれで落著くものとおもへる。舊訓及び、新考の訓でも一首の解釋は勿論出來るけれども、この場合は、コトノシゲケクと現實的に打切つた方が歌に強みが出來るのである。その點で略解訓が(526)好いと自分はおもふ。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九八〕
  年《とし》きはる世《よ》まで定《さだ》めて恃《たの》めたる君《きみ》によりてし言《こと》の繁《しげ》けく
  年切 及世定 恃 公儀 事繁
 
 ○年切 舊訓トシキハル。古寫本中トシキワル(神)の訓もある。童蒙抄ネモゴロニ。考タマキハル(【略解・古義同訓】)。略解、年は玉の誤。集中の他の例は、玉切命向《タマキハルイノチニムカヒ》(卷八。一四五五)。王切不知命《タマキハルイノチモシラズ》(卷十一。二三七四)。玉切命者棄《タマキハルイノチハステツ》(卷十一。二五三一)等で、『年切』とあるのは此一例のみである。そこで誤字説も考へられたのである。代匠記初に、『此年きはるといふ詞は、玉きはるいのち、玉きはる内とつづけたるにおなじく心得べし。玉きはる世までとさだめてたのめぬるとは、偕老同穴の心なり』とある如く、命のあらむ限りといふ意に落著く。新考は略解に從つた。○及世定・恃 舊訓ヨマデサダメテ・タノメヌル。考ヨマデサダメテ・タノメタル(【略解・古義同訓】)。新考ヨノハテマデト・タノミタル。○公依・事繁 舊訓キミニヨリテモ・コトノシゲケム。代匠記キミニヨリ(527)テヤ・コトノシゲケムか。考キミニヨリテハ・コトノシゲシモ。略解キミニヨリテシ・コトノシゲケク(【古義・新訓同訓】)。新考キミニヨリテバ・コトシゲクトモ。
 一首の意は、命のある限り、終世とまで契つて頼もしいあなたにお寄り申したのに、なぜ世間の口はかううるさいのでせう。或は世間の口がうるさくて困ります。といふぐらゐの意で、サダメテは心を極めて、即ち契る意になる。タノメタルは頼りにしたの意。キミニヨリテシのシは助辭だと略解に云つてゐる如くであるが、ヨリテからのつづきは、『君に寄つて・而して・言の繁けく』となるのであらう。あなたに心も身も寄せたがためにといふぐらゐに解していい。
 この歌は前の歌の返歌のやうであるから、この前の歌で、事繁をコトノシゲケクと訓んだならば、この歌でもコトノシゲケクと訓む方がよく、其處は互に調和のとれるやうにしたいのである。私の口譯はコトノシゲケムの口譯のやうになつたが、これは前後のいきほひでさうなるので、直譯にするならば、稍獨立句的にシゲケクと落著かしめるところであらうか。
 新考では、『宜しくキミニヨリテバコトシゲクトモとよむべし。君ノ爲ナラバヨシヤ人ノ口ガウルサカラウトモとなり、卷四なる、今しはし名のをしけくも吾はなし妹によりてばちたびたつとも、の四五と同格なり』とある。その方は常識的にはすらすらと行つてゐて具合も惡くなからうが、必ずしもさう常識的でなくともいい場合があるのである。
(528) この歌は、袖中抄に、『年切《トシキハル》ヨマテサタメテタノメタルキミニヨリテモコトノシケヽム』として載つて居る。
 
          ○
 
  〔卷十一・二三九九〕
  朱《あか》らひく膚《はだ》も觸《ふ》れずて寢《ね》たれども異《け》しき心《こころ》を我《わ》が念《も》はなくに
  朱引 秦不經 雖寐 心異 我不念
 
 ○朱引・秦不經 舊訓アカラヒク・ハダモフレズテ(【代匠記・考・略解・古義同訓】)。童蒙抄アケユケド又はアケユクニ・ハダヲモフレズ。新訓ハダニフレズテ。○心異・我不念 舊訓ココロニコトニ・ワガオモハナクニ。代匠記精ココロヲケニハ・ワガオモハナクニ。童蒙抄ココロニコトニ・ワガオモハナク。『けしき心は抔詠める意と同じ』。考ココロニケシク・ワガモハナクニ。略解ココロヲケニハ・ワガモハナクニ。古義ケシキココロヲ・アガモハナクニ。新考ネヌレドモ・ケシキココロヲ・ワガモハナクニ。古寫本中、ココロコトニモ・ワレハオモハズ(細)。ココロヲコトニ【神・西・温・矢・京】)。
 一首の意は、今夜は美しいお前の膚にも觸れずに獨寐したが、それでも決して心がはりをする(529)やうなことはないのだ。今夜は故障があつてつひお前の處に行かれず獨りで寐てしまつたが、私の心に別にかはりは無い。といふぐらゐの歌であらうか。
 この歌は、『心にことにおもはぬとは、あはねどもあだし心はもたぬなり。はだをふれてねても、ふれずしてねても、それがことならぬといふにはあらず』〔代匠記初)といふのに落著くので、つまり、逢はなかつた趣の歌である。然るに、童蒙抄に、『明けゆく迄も肌をも觸れず、よそにのみして寐たり共、誠の思ひは解けぬとても外心はうつさぬとの義也。けしき心は抔詠める意と同じ。相見し儘にて誠の契りは遂げざれ共、仇し心は持たぬとの實義を云たる歌也』とあり、新考に、『女の許には行きしかど故ありて獨宿せしなり』とある。この二つの解は少し違ふが、兎に角二人が共に居て一夜を明かす趣に解してゐるのであるが、併し普通の人情ではそれはをかしいから、私は普通の人情に據つてこの歌を解したのである。ただこの歌は新考のやうに解しようとすればさうも取れるやうなところもある。一種の錯覺心理に導くやうなところがあるが、よく一首を吟味すれば、やはり私が解したやうに平凡に解すべきものだといふことが分かつて來る。なほ全釋を見るに、やはり私のやうに解し、新考の説を評して、『女の許に行つたのではあるまい。さう見ては歌柄がわるくなる』と云つてゐる。
 『あからひく膚』といふ語も、官能的で誠に生々とした好い語である。薄紅に透きとほるやうな(530)美しい膚を聯想せしめるが、『此あからひくは、第十六に、あかねさす君とよめるにおなじ。それは紅顔のにほひをいひ、今ははだへの雪のごとくなるに、すこし紅のにほひあるをいへり。第十、七夕の哥にも、あから引いろたへの子とよめり。肌も紅顔に相應してにほふべし』(代匠記初)といふ解釋もなかなか好い。
 秦を膚に借りたについて、代匠記精に、『古語拾遺云。秦公祖弓月率(テ)2百二十縣民(ヲ)1而歸化矣云々。至2於長谷朝倉朝1云々。秦酒公進仕蒙v寵(ヲ)云々。蚕織貢調云々。自注云。所v貢絹綿軟(ニス)2於肌膚(ヲ)1故訓(シテ)2秦字(ヲ)1謂2之(ヲ)波陀(ト)1。カカレバ、秦モ肌ノ義ヲ以テ和訓セルナリ』とあるによつて明かである。
 なほ、『不經』をフレズと訓むにつき、新考に、『經はフル、ヘズとはたらけばフレズを不經とは書くべからざるに似たれど大寶令に經本屬(本屬ニフレテ〕經本部(本部ニフレヨ)などあるを見れば、經はいにしへフルル、フレテともはたらきしなり』とある。
 戀しい女の美しい膚のことを云つて、その肌の持主の女にかういふことを云ふのも、自然に流露してゐて、なかなか佳作だとおもふ。從つて人麿と關聯せしめて考察したい歌である。なほ、卷二十(四三五一)に、多比己呂母夜豆伎可佐禰弖伊努禮等母奈保波太佐牟志伊母爾志阿良禰婆《タビゴロモヤツキカサネテイヌレドモナホハダサムシイモニシアラネバ》。同卷(四四三一)に、佐左翼波乃佐也久志毛用爾奈奈弁加流去呂毛爾麻世流古侶賀波太波毛《ササガハノサヤグシモヨニナナヘカルコロモニマセルコロガハダハモ》とあるなどは、やはり官能的ないひあらはし方である。
(531) ケシキココロの他の用例には、卷十四(三四八二)に、安波禰杼毛家思吉己許呂乎安我毛波奈久爾《アハネドモケシキココロヲアガモハナクニ》。卷十五(三五八八)に、之可禮杼毛異情乎安我毛波奈久爾《シカレドモケシキココロヲアガモハナクニ》。同卷(三七七五)に、安波射禮杼家之伎己許呂乎安我毛波奈久爾《アハザレドケシキココロアガモハナクニ》などがある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇〇〕
  いで如何《いか》に極太《ここだ》甚《はなはだ》し利心《とごころ》の失《う》するまで念《も》ふ戀《こ》ふらくの故《ゆゑ》
  伊田何 極太甚 利心 及失念 戀故
 
 ○極太甚 舊訓キハミハナハダ。童蒙抄宗師案ココタフヘキニ・(【校本萬葉集による。全集本ココタニヘサニ】)。愚案イデイツト・カギランイタク。考イトモハナハダ。略解宣長訓ネモコロゴロニ(古義同訓)。新考ココダクニワガ、極太吾の誤。新訓ココダハナハダシ。○及失念・戀故 舊訓ウスルマデオモフ・コフラクノユヱ。童蒙抄宗師案ウセヌルマデニ・コヒワブルカラ。童蒙抄愚案ウセヌルマデト・オモフコヒカラ。考ワスルマデモフ・コヒトフカラニ。略解ウスルマデモフ・コフラクノユヱ(古義同訓)。新考、戀故は不相子故などの誤。
(532) 一首の意。まあどうして、こんなにひどく、確かな心も失せてしまふまでになつたのか、これはみな戀のためである。といふぐらゐの歌で、イデイカニはウスルマデモフに係つて居り、甚シは甚シクの意である。
 この歌も獨語的、反省的に感慨をのべてゐるものである。言葉は自由に使つてゐるが、初句からして前の歌などとは違つてゐるから、古鈔本中には、コレバカリ・イツヲカギリニ・ハナハダモ・ト|キ《(コ)》シココロニツケオモフニ・コフラクエヱ等と訓んだり、極太甚でも學者に種々難儀させた歌であるが、大體この新訓の訓に據つて解釋が出來たやうである。
 イデは、卷十二(二八八九)に、乞如何吾幾許戀流吾妹子之不相跡言流事毛有莫國《イデイカニワガココダコフルワギモコガアハジトイヘルコトモアラナクニ》とあるのによつても類推し得、なほ、卷四(六六〇)に、乞吾君人之中言聞起〔越〕名湯目《イデワガキミヒトノナカゴトキキコスナユメ》。卷十四(三四九六)に、己許呂宇都久志伊※[氏/一]安禮波伊可奈《ココロウツクシイデアレハイカナ》などの例がある。『田』を『デ』と訓むのほ、天《テニ》をテ、文《モニ》をモ、難《ナニ》をナ、年《ネニ》をネと訓ませるのと同じ道理で、田《デニ・デン》をデと訓ませるのである。集中の用例は、卷二十(四三三一)に、之路多倍能蘇田(袖)遠利加敝之《シロタヘノソデヲリカヘシ》。卷十(一九三七)に、山彦乃答響萬田《ヤマビコノコタフルマデニ》(までに)霍公鳥《ホトトギス》。卷二十(四三三〇)に、氣布能日夜伊田弖《ケフノヒヤイデテ》(出でて)麻可良武《マカラム》等とある。
 ココダも、卷三(三二二)に、極此疑伊豫能高嶺乃《ゴゴシカモイヨノタカネノ》とあるから、さう訓み得るらしい。ココダ待ツ、ココダ戀フ、ココダ尊キ、ココダ照ル、ココダ悲シ、ココダ偲ブなどの用例もあり、卷四(六(533)五八)に、雖念知僧裳無跡知物乎奈何幾許吾戀渡《オモヘドモシルシモナシトシルモノヲイカニココダクワガコヒワタル》。卷七(一三二八)に、甚幾許吾將戀也毛《イトココダクニワガコヒメヤモ》といふのがある。
 
          ○
  〔卷十一・二四〇一〕
  戀《こ》ひ死《し》なば戀《こ》ひも死《し》ねとや我妹子《わぎもこ》が吾家《わぎへ》の門《かど》を過《す》ぎて行《ゆ》くらむ
  戀死 戀死哉 我妹 吾家門 過行
 
 ○門 卷六(一〇三)に、豫公來座武跡知麻世婆門爾屋戸爾毛珠敷益乎《アラカジメキミキマサムトシラマセバカドニヤドニモタマシカマシヲ》とある如く、カドとヤドと兩方表したのもあるが、『門に出で立ち』、『妹が門』、『その門を見に』、『その門ゆかむ』、『我門の淺茅がうらは』等、『門』を特に云つてゐる歌の多いのは注意すべきである。
 一首の意は、戀死《こひじに》をするなら勝手に戀死《こひじに》をせよといふつもりで、おれの戀しい女は知らん顔におれの家の門を素通して行くのだらうか。といふのだらう。
 『戀ひ死なば戀も死ねとや』の句は、既に、卷十一(二三七〇)に、戀死戀死耶玉桙路行人事告無《コヒシナバコヒモシネトヤタマボコノミチユキビトニコトモツゲナク》。また卷十五(三七八〇)に、古非之奈婆古非毛之禰等也保等登藝須毛能毛布等伎爾伎奈吉等(534)余牟流《コヒシナバコヒモシネトヤホトトギスモノモフトキニキナキトヨムル》とあり、調子も好く、感情の切な句なので、或範圍まで廣がつたものともおもふ。
 この歌は、男の歌だが、諧謔が交つてゐて、珍らしく歌はれてゐる。やはり民謠的にひろがるべきものであらう。つまり、此歌は眞に獨咏歌で、それほど痛切なものならば、先づかういふことを云ふまい。また、民謠としてひろがることも少いのであらう。かういふ種類の戀歌は、切實なことを云つてゐても、相手にむかつていふ、甘い要素を含んでゐるものである。この種類の歌の輕妙なものには、
  戀するに死《しに》するものにあらませば我が身は千遍《ちたび》死反らまし (卷十一。二三九〇)
  僞も似つきてぞ爲る何時よりか見ぬ人戀ふに人の死《しに》せし (卷十一。二五七二)
  面忘れだにも得《え》爲《す》やと手握《たにぎ》りて打てどもこりず戀の奴《やつこ》は (卷十一。二五七四)
  玉勝間逢はむといふは誰なるか逢へる時さへ面隱しする (卷十二。二九一六)
  緑兒の爲こそ乳母《おも》は求むといへ乳《ち》飲めや君が乳母求むらむ (卷十二。二九二五)
  我命し長く欲しけく僞を好《よ》くする人を執《とら》ふばかりを (卷十二。二九四三)
等をあげることが出來る。
 この歌は、拾遺集戀五に、人麿として、第一二句『こひてしねこひてしねとや』、第四句『わが 第一二句『こひこひてこひてしねとや』、下句『わがやのかど(535)をすぎてゆきぬる』としてある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇二〕
  妹《いも》があたり遠《とほ》く見《み》ゆれば恠《あや》しくも吾《われ》はぞ戀《こ》ふる逢《あ》ふ由《よし》を無《な》み
  妹當 遠見者 恠 吾戀 相依無
 
 ○遠見者 舊訓トホクミユレバ(【代匠記・童蒙抄・新考・新訓從之】)。考マドホクミテハ。略解トホクシミレバ(古義同訓)。○吾戀・相依無 舊訓ワレハコフルカ・アフヨシヲナミ。代匠記初書入【校本萬葉】ワレハゾコフル(【略解・古義・新訓同訓、但古義アレ】)。童蒙抄ワレハコフレド。考ワレハコフラク・アフヨシナキニ。新考ワガコヒヤミヌ・アフヨシナキニ。
 一首の意は、女の家のあたりが遠《とほ》くの方に見えるので、心あやしくも戀しくてならない。ただ女に逢ふことが出來ないのである。そこでなほ變に戀しくてたまらない。といふ程の意である。
 これは戀人の家が遙か向うに見えて居る趣の歌で、然し戀しいが逢ふ縁がない、手段・機會がないと嗟歎してゐるところらしい。そして、この『遠く見ゆれば』の訓が、下の『あやしくも』(536)に相當せぬからといつて眞淵は、マドホクミテハと訓んだのだが、此處は必ずしもさう理詰めに云はずともいいところである。なほ、アヤシといふ語も既に云つた。卷十八(四〇七五)に、安必意毛波受安流良牟伎美乎安夜思苦毛奈氣伎和多流香比登能等布麻泥《アヒオモハズアルラムキミヲアヤシクモナゲキワタルカヒトノトフマデ》。卷七(一三一四)に、橡解濯衣之恠殊欲服此暮可聞《ツルバミノトキアラヒギヌノアヤシクモコトニキホシキコノユフベカモ》といふのがある。
 この歌の眼目は、第三、四句の、『あやしくも吾はぞ戀ふる』といふ主觀句にある。『あやしくも』は、『不思議にも』といふ意があつて、反省する氣持であるが、このころの用法は、ただの抽象的でなく、もつと具象的、肉體的であつただらうと考へることが出來る。即ち、血の通つてゐる、『あやしくも』であることを忘れてはならぬのである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇三〕
  玉久世《たまくぜ》の清《きよ》き河原《かはら》に身祓《みそぎ》して齋《いは》ふいのちは妹《いも》が爲《ため》こそ
  玉久世 清河原 身※[禾+祓の旁]爲 齋命 妹爲
 
 ○玉久世 舊訓タマクゼノ。代匠記・考同訓だが、『玉久世河は何レノ國に有トシラズ。若玉(537)ハホムル詞ニテ山城ノ久世河ヲカク云ヘルニヤ』(代匠記精)。『久世は久志呂の事と楫取魚彦がいひたり。まことに然らでは玉の言をいふよしなし』(考)。『和名抄、山城久世郡久世郷見ゆれば、玉久世と言へる川の名有るか』『宜長云、玉は山の誤にて、代を脱し、清は能の字ならん。さらばヤマシロノ、クセノカハラニと訓むべしと言へり。されどここは能の字を添ふべき書きざまにあらず、考ふべし』(略解)。新考タマキヨキ・クゼノカハラニ、『清』は『久世』の上にあるべきのが誤つたものとした。なほ井上博士は、萬葉雜詰【八十三】『玉久世清河原』(【アララギ昭和十一年五月號】)に於て、實地踏査の結果を記して、再び自説を主張してゐる。○齋命・妹爲 舊訓イノルイノチモ・イモガタメナリ。代匠記精イハフイノチモ・イモガタメナリ。考イハフイノチハ・イモガタメコソ(古義同訓)。略解イハフイノチモ・イモガタメコソ。新考イノルイノチモ・イモガタメコソ。新訓イハフイノチハ・イモガタメナリ。
 一首の意は、玉久世《たまくぜ》の清い河原で御祓《みそぎ》をして身を潔め、己《おれ》の命の長からむことを祈るのも、戀しい女と一處に居たいためである。戀しい女が居るためばかりである。といふ意であらう。
 この初句の『玉久世』は、古來難解の句だが、どうも、山城の久世《くぜ》に玉といふ文字を附けたもので、タマクシ、タマクシゲ、タマクシロなどからの聯想でクに續けたものであらう。童蒙抄で『山城の久世と云處を賞めて云ひたる義抔無理押の説をなせり。如何に共心得難し』とあるけれ(538)ども、私はやはり久世《くぜ》の河原のやうな氣がしてならぬのである。新考に山田孝雄博士の私信として、『新撰字鏡に灘(加波良久世又和太利世又加太)とあるカハラとクセとは二語にてここのクセはその證とすべし。……久世は河原と同義にして水石相交る處をいふものと考へらる。その石の清きをたとへて玉クセといひやがて又キヨキ河原ニと繰返したるものならむ』とある。若し、河原といふ意味のクセが、偶山城の久世と同音なので續けたと解釋することが出來ればなほ妙であらう。
 結句の、『妹爲』の舊訓イモガタメナリであるが、それでもかまはぬが、萬葉ではナリ止めの結句は尠いのであり、それに、卷十二(三二〇一)に、時風吹飯乃濱爾出居乍贖命者妹之爲社《トキツカゼフケヒノハマニイデヰツツアガフイノチハイモガタメコソ》とある、その結句の方が、イモガタメナリよりも据りが好い。そこでどちらへでも訓めるとならば、イモガタメコソと訓んだ方が好いといふことになるだらう。この種類のコソは、係助詞で、結詞の省略せられたものと解釋して好いとおもふ。終助詞といふ分類のもとに、結詞を考へない解釋もあるが、暫らく前者として説明し置く。
 序に此處にナリ止めの數首を書くならば、卷九(一六八九)に、在衣邊著而榜尼杏人濱過者戀布衣奈利《アリソベニツキテコガサネカラヒトノハマヲスグレバコホシクアルナリ》。同卷(一七〇八)に、春草馬咋山自越來奈流鴈使者宿過奈利《ハルクサヲウマクヒヤマユコエクナルカリノツカヒハヤドリスグナリ》。卷十(一九四四)に、藤浪之散卷惜霍公鳥今城岳※[口+立刀]鳴而越奈利《フヂナミノチラマクヲシミホトトギスイマキノヲカヲナキテコユナリ》。卷十五(三五九八)に、奴波多麻能欲波安氣奴良之多麻能宇(539)良爾安佐里須流多豆奈伎和多流奈里《ヌバタマノヨハアケヌラシタマノウラニアサリスルタヅナキワタルナリ》等があるが、如斯少いのだから、イモガタメナリをも保存して置いて味つても別にかまはない。
 この歌は、自分の命を欲するのは、同時に妹のためでもあり、妹が居るためでもあり、妹と一しよに長らへたいためでもある。其處に人情の自然さがあつて、相當に讀ませる歌であり、同時に民謠として歌はれても效果のあるものである。卷十一(二七六四)に、爲妹壽遺在苅薦之念亂而應死物乎《イモガタメイノチノコセリカリゴモノオモヒミダレテシヌベキモノヲ》。卷四(五六〇)に、孤悲死牟後者何爲牟生日之爲社妹乎欲見爲禮《コヒシナムノチハナニセムイケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》といふのがある。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとして載り、下句『祈るいのちも妹かためなり』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇四〕
  思《おも》ひ依《よ》り見依《みよ》りにものはありなむを一日《ひとひ》の間《ほど》も忘《わす》れて念《おも》へや
  思依 見依物 有 一日間 忘念
 
 ○思依・見依物・有 舊訓オモフヨリ・ミルヨリモノハ・アルモノヲ。童蒙抄宗師案オモフマ(540)マ・ミンモママナル・ヒトナラバ。考オモフヨリ・ミルニハアケル・モノカラニ(見依は見飽の誤)。古義オモヒヨリ・ミヨリシモノヲ・ナニストカ。新考オモヘコソ・ヨリネシモノヲ・イカナレカ。新訓オモヒヨリ・ミヨリニモノハ・アリナムヲ。今新訓に從つた。○一日間・忘念 舊訓ヒトヒヘダツル・ワスルトオモフナ。代匠記精ヒトヒノホドモ・ワスレテオモヘヤ。童蒙抄宗師案ヒトヒノ暇モワスレテオモハン。考ヒトヒヘダツヲ・ワスルトオモハム(【古義・略解・新考同訓】)。新訓は代匠記に同じい。
 一首の意は、人間萬事が大凡、外からの推量により、觀察によつて、その樣子が分かるものであらうではないか。僕は縱ひ一日だつてお前のことを忘れたことがないのだ。大概の僕の樣子で分かるではないか。かういつて、女からの怨言か何かに對して答へた男の歌のやうである。或はその反對に取つて女の歌としても解釋の出來ないことはない。
 右の解は、新訓の訓を本として、現代語譯にくだいて見たのであるが、此歌は古來諸學者によつて、實に恣に解釋せられてゐるから、試に此處に轉載して置かうとおもふ。『歌ノ意ハ、人ノ方ヨリ我心ヲ量リ見、色ヲ伺カヒ見ルヨリハ、我思ヒハ深クテアレバ、一目ノホドモ忘レテ思ハムヤトナリ』(代匠記精)。『我思ふ儘に、見る事も逢ふ事も儘ならん人ならば、一日などは忘れてあらんづれど、思ふに儘ならぬから、一日の間も忘られぬと云の意と見る也』(童蒙抄宗師案)。(541)『今本見依と有は理なし。飽字なることしるければ改めつ。さてへだてて思ふ心よりも常相見るには飽くものなれば、一日をおきてゆかんとするを、妹はただ我心の忘るとか恨みんといふなり。今本の訓のごとくにては何のこころともなし』(考)。『歌(ノ)意は、心に思ひ目に見て、二(ツ)なく縁(リ)にし妹なるものを、いかなれば、ただ一日障ることありて隔てたりともわすれたりとは妹がおもはむやは、となり』(古義)。『案ずるに思|社〔右△〕依|宿〔右△〕物|何〔右△〕有の誤として、オモヘコソヨリネシモノヲイカナレカとよむべきか。こは武に言ふのみ』(新考)。
 この歌は、六帖に載り、舊訓と同じく『思ふより見るよりものはあるものを一日へだつる忘ると思ふな』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇五〕
  垣穗《かきほ》なす人《ひと》は言《い》へども高麗錦《こまにしき》紐《ひも》解《と》き開《あ》けし君《きみ》ならなくに
  垣廬鳴 人雖云 狛錦 紐解開 公無
 
 ○紐解開・公無 舊訓ヒモトキアクル・キミモナキカモ。童蒙抄ヒモトキアクル・キミハアラ(542)ヌニ又はセナハアラヌニか。考ヒモトキサケシ・キミナラナクニ。略解ヒモトキアケシ・キミナラナクニ(古義・新考同訓)。
 一首の意は、垣根のやうに繁《しげ》くうるさく人はいろいろと騷ぎますけれども、〔狛錦《こまにしき》〕まだ紐をも解き開けない貴方《あなた》ではありませぬか。私と一しよに未だ一夜もお休になつたことのない貴方でございますよ。と言ふので、『狛錦』は既に述べたやうに枕詞化した語である。
 これは女の歌で、一面は愛する男を世間に對して辯護して居るやうでもあるが、一面は一度も共に寐たことのない戀しい男にむかつて怨み愬へ、いどんでゐるやうな歌でもあり、戀歌としては特殊なものとして、保存すべく大切にすべきものとおもふし、また民謠としても相當に役立つ性質のものである。
 『かきほなす。とかく人をいひへだつるを、かきほなすといへり。第四第九に既に尺せり』(代匠記初)。『垣秀《カキホ》如といふ也。さて垣は隔つ譬也』『いまだ紐解て相逢し君にもあらなき物を、人はそねみてさまざまにいひへだてんとするよと云也』(考)。『垣|秀如《ホナス》は、シゲキと言ふ意なり。隔つる意とするは惡ろし。いまだ紐解き明けて相ねし君にも有らぬ物を、人はさまざまに言ひ騷ぐよとなり』(略解)。大體略解の解釋に從つてよい。
 卷九(一七九三)に、垣保成人之横辭繁香裳不遭日數多月乃經良武《カキホナスヒトノヨコゴトシゲキカモアハヌヒマネクツキノヘヌラム》。同卷(一八〇九)の長歌に、(543)垣廬成人之誂時智奴壯士宇奈比壯士乃《カキホナスヒトノトフトキチヌヲトコウナヒヲトコノ》云々。
 此歌は、六帖、紐の部に、下の句『紐ときあくる君もあらなくに』として載り、なほ同、錦の部に、人麿作として第三句以下『からにしき紐ときあくる人もなきかな』、かきほの部に、人麿作として『垣ほなる人といへどもこまにしき紐ときあくる君もなきかな』となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇六〕
  高麗錦《こまにしき》紐《ひも》解《と》き開《あ》けて夕《ゆふべ》とも知《し》らざる命《いのち》戀《こ》ひつつかあらむ
  狛錦 紐解開 夕戸 不知有命 戀有
 
 ○夕戸 舊訓ユフベトモ。童蒙抄ユフベダニ。考(戸は谷の誤)ユフベダニ(【略解・古義・新考從之】)。略解補正(戸は友の誤)ユフベトモ。○不知有命・戀有 舊訓シラザルイノチ・コヒツツカアラム(【代匠記・略解・古義・新考・新訓同訓】)。童蒙抄シラレザルミニ・コヒツツゾアル。考シラザルイノチ・コヒツツヤアラム【やはの意也】。
 一首の意は、〔高麗錦《こまにしき》〕紐を解き開《あ》けて、どうしてそんな苦しい戀などが出來るでせうか。私の命は旦夕をも知らぬ果敢ないのですから。或は、夕べをも待たないこの果敢ない命であるのに、(544)どうして〔高麗錦《こまにしき》〕紐解き開けて、儘ならぬ戀など出來るでせうか。と翻してもいいだらう。
 この歌は、恐らく前の歌に應へたもので、前の歌で『垣ほなす人は云へども高麗錦紐解き開けし君ならなくに』と女が云つた。それは自分(女)をも男をも辯護したやうな歌だが、實は一面は男に對して挑んで居るのである。つまり、私の處にちつともおいでにならず、一度も紐を解かれたことが無いではありませぬかといふのである。此歌はそれに對して答へた趣の歌だから、夕べも待てない命で、どうして貴女《あなた》の處へなど行かれますか、それに貴女はちつとも同情して呉れないではありませぬか、といつたのである。語調は丁寧で、しみじみと云つて居るが、中味には、應答歌特有の輕妙と諧謔とがあるのである。
 然るに、代匠記に、『紐解開ハ人ヲ待ニ祝ヒテスル事ナリ』といひ、童蒙抄に、『待人も可v來哉、不v可v來哉、不v知にと云意をこめて、夕部もはかられぬ人の身なるに、果敢なくも紐解きあけて待事哉と詠める意也』といひ、古義に、『紐解開《ヒモトキアケテ》は、思ふ人にあはむ前兆に、自《オ ラ》紐の解る事あるを、その前兆にならひて、自(ラ)設けてするならむ』といひ、全釋に、『私ノ命ハ夕方マデ保ツトモワカラナイ命ダノニ、高麗錦ノ紐ヲ解キ開ケテ、戀人ニ逢フヤウナツモリデ、戀ヲシテヰルトイフコトガアラウカ。實ニハカナイタヨリナイコトダ』と翻してゐる。以上は皆獨咏歌として鑑賞したからさうなるので、またこの歌の歌調がしんみりとしたところがあるからであらう。また、さうい(545)ふ類歌としては、卷十七(三九三八)に、可久能未也安我故非乎浪牟奴婆多麻能欲流乃比毛太爾登吉佐氣受之底《カクノミヤアガコヒヲラムヌバタマノヨルノヒモダニトキサケズシテ》といふのがあり、やはり獨咏的色調のものである。併しこの狛錦紐解開の歌もやはり民謠的なのだから、不意識のうちに對者を豫想することとなる。そこで私の鑑賞したやうな具合にもなり得るので、それがまた民謠的な歌の特徴でもあり得るのである。
 此處のトモは誤字でないとせば、卷三(三一九)の、山跡國乃鎭十方座神可聞《ヤマトノクニノシヅメトモイマスカミカモ》。卷十一(二七〇四)の、山下動逝水之時友無雲戀度鴨《ヤマシタトヨミユクミヅノトキトモナクモコヒワタルカモ》などのトモである。若しまた、谷《ダニ》の誤とせば、卷十二(三一一九)の、今夕彈速初夜從綏解我妹《コヨヒダニハヤクヨヒヨリヒモトケワギモ》。卷二(一九八)の、明日香川明日谷將見等念八方《アスカガハアスダニミムトオモヘヤモ》。卷十二(三一二二)の、人目守乏妹爾今日谷相乎《ヒトメモリトモシキイモニケフダニアハムヲ》等のダニで、此等の例は、同じく時を意味する言葉に續けてゐるので、いづれにしても好い參考となるのである。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとして載り、下句『しらぬいのちをこひつつやあらん』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇七〕
  百積《ももさか》の船《ふね》こぎ入《い》るる彌占指《やうらさ》し母《はは》は問《と》ふとも其《そ》の名《な》は謂《の》らじ
(546)  百積 船潜〔漕〕納 八占刺 母雖問 其名不謂
 
 ○百積・船潜納・八占刺 舊訓モモサカフネ・カヅキイルル・ヤウラサシテ。代匠記初モモサカノ・フネカツキイル・ヤウラサシ。代匠記精フネカツキイレ(考同訓)。童蒙抄宗師案ワツミブネ・カヅキイルレバ・ウラサシテ(【校本萬葉モツミフネ】)。童蒙抄愚案モモツフネ・カヅキモイレヤ・ウラサシテ。略解モモサカノ・フネカヅキイルル・ヤウラサシ。古義モモツミノ・フネコギイルル・ヤウラサシ。新考モモサカノ・フネコギイルル・ヤウラザシ。新訓も大體同訓である。○母難問・其名不謂 舊訓ハハハトフトモ・ソノナハイハジ(【代匠記・考從之】)。童蒙抄オモハトフトモ・ソノナハノラジ。略解ハハハトフトモ・ソノナハノラジ(【古義・新考・新訓同訓】)。
 百積《モモサカ》は百尺《モモサカ》の借字で、サカと訓むは陸奥|安積郡《アサカノコホリ》を以て證し得、また尺をサカと訓むは、天武紀に大分君惠尺《オホキタノキミヱサカ》といふ人名がある。尺は、漢音セキ、呉音シヤク、サクで通音でサカともなつた。集中、卷十三(三二七六)に、吾嗟八尺之嵯《ワガナゲクヤサカノナゲキ》。同卷(三三四四)に、八尺乃嘆嘆友《ヤサカノナゲキナゲケドモ》があり、卷十六に、尺度氏《サカドノウヂ》がある。さてこの百尺《モモサカ》の意味は從來解釋に數説あつた。第一。『此ハ舟ノ長サノ百尺アルナリ』(代匠記精)で、應神紀に、五年冬十月 科《フレオホセテ》2伊豆國1令v作v船、長十丈、船既成之、試浮2于海1、便輕泛疾行如v馳云々とあるその十丈《トツヱ》は即|百尺《モモサカ》に當るのである。この説を契沖も、『長百尺 ノ義叶フベキ歟』と云つて居る。この説が一番有力だから其に從つて好い。第二説は、サカは斛《サカ》(547)で、百積は百|斛《サカ》だから百石つむ船の義である。顯宗紀に、二年冬十月戊午朔癸亥、宴2群臣1、是時、天下安平、民無2※[人偏+徭の旁]※[人偏+役の旁]1、歳比登稔、百姓殷富、稻|斛《ヒトサカ》銀錢一文、牛馬被v野。欽明紀に、十二年春三月以2麥種一千|斛《サカ》1賜2百濟王1云々とあり、なほ宋玉賦に、海水深浩、波浪廣闊、非2萬斛舟1不v可v泛云々とある。それに據つた説である。第三説は、サカは尺《サカ》であるが、百尺は帆檣で、十丈の檣を立てる程の船といふのである。文選の海賦に、候2勁風1掲2百尺1とあり、李善の注に百尺帆檣也とあるのに據つた。併し是は餘り文學的だし、契沖も云つた如く、『もろこしの文なれば、猶これををくべし』といふに過ぎない。次に童蒙抄の説であるが、『愚案は、百津船と云ひ、只數多き船と云へる意と見る也』とある。併し此は少し無理であらうから棄ててかまはぬ。
 船カヅキイルにつき、『第十六云。大舟ニ小船引|副《ソヘ》カヅクトモ志賀ノ荒雄ニ潜アハムヤモ。此ハ荒雄ト云|海人《アマ》ノ海ニ溺死《オボレ》ケルコトヲ悼《イタミ》テヨメル歌ナレバ、潜トハ海ニ潜キ入テ荒雄ヲ求ムトモト云意ナリ。舟ハ其カヅク者ノ乘ル舟ナリ。今モ此ニ准ラヘナガラ潜納トハ乘沈ムルナリ。此ハ男ヲ深ク母ニモカクスニ喩フ』(代匠記精)といふ面倒な解釋をし、『紀に、腰なづみ鈴船とらせてふ如く、多くの船子どもが波に下立て船を潜きつつ浦へ入る也』(考)といひ、略解もそれに從つてゐるが、古義で、『ここはカヅクにては穩ならぬことなり。故(レ)按(フ)に、潜は漕(ノ)字の誤なるべし。又納も※[さんずい+内]の寫誤にてもあるべきか。もしさらばフネコグウラノと訓べし。但し納は舊のままにて、(548)イルルにても通《キコ》ゆれば、そはいづれにてもあるべし』(古義)と云つてゐる。
 『八占刺』は、『八は彌にて多くの占を云ふか。刺は其れと指し顯はす占の詞なるべし。心は多くの占かたに彼男ぞと、指し顯はしたるを以て、母は問ふとも、猶もだし居らんと言ふなり』(略解)。『八占刺《ヤウラサシ》は、彌度《ヤタビ》占《ウラナヒ》を爲《ス》るを云なるべし。刺《サシ》は、その卜占のわざするをいふ言なるべし。そのもと何某《ナニガシ》何某《タレガシ》の所爲などと、さしあらはす具なるゆゑに、指といふにやあらむ』(古義)で大體分かるが、新考に、『ヤウラザシは占なひて男の名を指すなり。サを濁りて唱ふべし。ヤは反覆の意にてウラザシにかかれるなり。占のみにかかれるにあらず』(新考)とある。併し、今はサシと清んで訓み、上の序詞はウラ(浦・占)に係つたものと解しておかう。
 一首の意は、百尺の船を漕ぎ入れる浦《うら》の〔百積船潜納《ももさかのふねこぎいるる》〕【以上序詞】占《うら》をば幾遍も繰返して、母が男の名を名指《なざ》して尋ねても、私は決してあなたの名を申しますまい。といふのである。
 占卜が實生活上に常に用ゐられた事は明かであるし、かういふ娘を問糺すやうな場合にも用ゐたものらしい。さういふことを種々聯想して味ふとこの歌はなかなか興味があり、占卜の如き大きい力に支配せられつつも戀人の名を云はないといふ娘の剛情な強みも理解し得ておもしろいのである。卷十一(二六九六)に、荒熊之住云山之師齒迫山責而雖問汝名者不告《アラクマノスムチフヤマノシハセヤマセメテトフトモナガナハノラジ》といふのがあるが、
  といふのは女であらうから、これは男の歌である。そしてこの方は責而問《セメテトフ》だから、折檻的(549)に糺問する趣であるが、これなどもなかなか面白い。なほ、卷十一(二七〇〇)に、玉蜻石垣淵之隱庭伏以〔雖〕死汝名羽不謂《タマカギルイハガキフチノコモリニハコヒテシヌトモナガナハノラジ》。卷十二(三〇七七)に、三佐呉集荒礒爾生流勿謂藻乃吉名者不告父母者知鞆《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノヨシナハノラジオヤハシルトモ》(【令告《ノラセ》の説あり】)。同(三〇八〇)に、海若之奧爾生有繩乘乃名者曾不告戀者雖死《ワタツミノオキニオヒタルナハノリノナハカツテノラジコヒハシヌトモ》等の例がある。名を告るには、此處の歌の場合のやうに白状するといふ意味もあるし、求婚のしるし、愛を受けるしるしとして名乘《なの》るといふ場合もある。それ等はおなじナノルでも前後の關係から區別して味ふこととなるのである。
 占《ウラ》を咏んだ歌には、卷二(一〇九)に、大船之津守之占爾將告登波益爲爾知而我二人宿之《オホフネノツモリノウラニノラムトハマサシニシリテワガフタリネシ》。卷十二(二六一三)に、夕卜爾毛占爾毛告有今夜谷不來君乎何時將待《ユフケニモウラニモノレルコヨヒダニキマサヌキミヲイツトカマタム》。卷十四(三三七四)に、武藏野爾宇良敝可多也伎麻左※[氏/一]爾毛乃良奴伎美我名宇良爾低爾家里《ムサシヌニウラヘカタヤキマサデニモノラヌキミガナウラニデニケリ》。卷十六(三八一一)に、神爾毛莫負卜部座龜毛莫燒曾《カミニモナオホセウラベマセカメモナヤキソ》。同じく反歌(三八一二)に、卜部乎毛八十乃衢毛占雖問君乎相見多時不知毛《ウラベヲモヤソノチマタモウラドヘドキミヲアヒミムタドキシラズモ》等がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四〇八〕
  眉根《まよね》掻《か》き嚔《はな》ひ紐《ひも》解《と》け待《ま》つらむや何時《いつ》かも見《み》むと念《おも》ふ我《わ》が君《きみ》
(550)  眉根削 鼻鳴紐解 待哉 何時見 念吾君
 
 ○紐解・待哉 舊訓ヒモトキ・マツラムヤ。代匠記初ヒモトケ・マチナンヤか。童蒙抄ヒモトケ・マタナムヤ。考ヒモトケ・マタンカモ。略解ヒモトケ・マテリヤモ(古義同訓)。新考は舊訓に從ひ、新訓はヒモトケ・マツランヤとした。○何時見・念吾君 舊訓イツシカミント・オモフワガキミ。童蒙抄イツシカミマク・オモフワガセヲ。考イツカモミント・オモヘルワギモ(君は妹の誤)。略解イツカモミムト・オモヘルワギミ。古義イツカモミムト・オモヒシワギミ。新考イツカモミムト・ワガオモフキミ(吾念君の誤)。新訓イツカモミムト・オモフワガキミ(全釋同訓)。『眉根削《マヨネカキ》』は、人から戀せられると眉の邊が癢くなるといふ諺で、卷四(五六二)に、無暇人之眉根乎徒令掻乍不相妹可聞《イトマナクヒトノマヨネヲイタヅラニカカシメツツモアハヌイモカモ》。卷六(九九三)に、月立而直三日月之眉根掻氣長戀之君爾相有鴨《ツキタチテタダミカヅキノマヨネカキケナガクコヒシキミニアヘルカモ》。卷十一(二五七五)に、希將見君乎見常衣左手之執弓方之眉根掻禮《メヅラシキキミヲミムトゾヒダリテノユミトルカタノマヨネカキツレ》。卷十一(二六一四)一書歌に、眉根掻下伊布可之美念有之妹之容儀乎今日見都流香裳《マヨネカキシタイブカシミオモヘリシイモガスガタヲケフミツルカモ》などとあるに據つて分かる。『鼻鳴紐解《ハナヒヒモトケ》』も、人から思はれるとひとりでに嚔が出るといふので、これは現今まで續いてゐる諺であり、紐の解けるといふのも當時にあつては盛に信ぜられた諺であつたのであらう。卷五(八九二)に、鼻※[田+比]之※[田+比]之爾志可登阿良農比宜可伎撫而《ハナヒシビシニシカトアラヌヒゲカキナデテ》とあるのも嚔《くさめ》をしながら居る趣である。代匠記に、『鼻鳴  人ノ我ヲ相思フ相ナリ。詩(ノ)※[北+おおざと]風云。寤《サメテ》言《ワレ》不v寐(ラレ)、願《オモフ》言《ワレ》則|嚔《ハナヒル》。注云。我(レ)甚憂悼(シテ)而不v能v寐(ルコト)。汝(551)思v我心如v是。我則嚔』と云つてゐるから支那でも同じ俗説があつて、それがはやくも渡來したのかもしれない。詩の『言』は代匠記ではワレと訓んで居るが、ココニとも訓む。『待哉』は、待つて居るであらうで、ラムに咏歎の添はつたもので、反語ではあるまい。略解ではマテリヤモと訓み、やはり反語でなく解してゐるやうに思はれる。
 一首の意は、人から戀ひ慕はれると眉が癢くなつたり嚔《くさめ》が出たり衣の紐が自然に解けたりすると申すことです。お慕ひ申すあなたに、私の思ひが通じて、何時かはどうしてもお逢ひ申したいとおもふあなたが、今ごろは、眉のところをお掻きになつたり、嚔をなすつたり、著物の紐がひとりでにほ解けたりして、私を待つておいででございませうか。といふのであらう。
 一人の女が獨りでかういふことを云つて居る趣の歌であるが、やはり對者を豫想してゐるので、戀慕つてゐる男にむかつてかういふことをいつて、挑み催してゐるものと解釋する方が一首が活躍して來るやうである。
 この歌は、六帖に、第二句『紐ときわたり』、下句『いつしか見むと思ふわぎもこ』として載つてゐる。
 
          ○
 
(552)  〔卷十一・二四〇九〕
  君《きみ》に戀《こ》ひうらぶれ居《を》れば悔《くや》しくも我《わ》が下紐《したひも》の結《ゆ》ふ手《て》も徒《ただ》に
  君戀 浦經居 悔 我裏紐 結手徒
 
 ○君戀 舊訓キミコフト。童蒙抄宗師案キミニコヒ(【考・略解以下同訓】)。○悔 舊訓クヤシクモ。童蒙抄宗師案クヤシカモ。童蒙抄愚案アヤシクモ(【悔は怪の誤】)か。考アヤシクモ(【悔は怪の誤。新考從之】。)。略解同訓(【悔は恠の誤。古義從之】。○我裏紐・結手徒 舊訓ワガヒタヒモヲ・ムスビテタダニ。代匠記初ワガシタヒモノ・ユフテモタダニ。童蒙抄宗師案ワガシタヒモノ・ムスベバトケヌ。考ワガシタヒモヲ・ユヒテタユシモ(【徒は倦の誤。略解從之但しユフテ】)。古義ワガシタヒモノ・ユフテタユシモ。新考シタヒモトケテ・ユフテタユシモ。新訓ワガシタヒモノ・ユフテイタヅラニ。
 一首の意は、あなたを戀して佗びしくしよげて居ると、悔しいことには、私の下紐は結んでも結んでも解けてしまつて駄目です。恐らくあなたも私の事を思つてゐて下さるのでせうが、それにしてはちつとも逢ふことが出來ないではありませぬか。といふのであらう。
 この歌は男の歌で、前の歌の返歌と看做せば右のやうな解釋となるのである。また、『下紐の結ふ手も徒《ただ》に』といふ語は、やはり前の歌の、『紐解《ヒモトケ》』のやうに解釋すべきだとせば、どうしてもさ(553)うなるのである。或は、必ずしも返歌でないとして獨立せしめ、女の歌としてもいいのである。童蒙抄に、『我下紐の解けぬるは確かに君が來まさんに、今迄戀侘びをるは悔しきかもとの意と也』とあるのは、宗師案の訓の、『くやしかも我した紐の結べば解けぬ』に本づいた解釋であるが、なほ、『若しくは怪の字の誤字ならんか。然らば宗師案の通にて、怪しくも我が下紐の結べば解けぬと讀みて、此歌聞えんか』とも云つて居る。是等は皆女の歌になつて居り、結句の『徒』がよく解釋が付いて居ないのが不滿である。然るに、代匠記精に、『今按下句ノ點叶ハズ。ワガシタヒモノ・ユフテモタダニト讀ベシ。古今集ニ、思フトモ戀トモアハム物ナレヤ結手モタユク解ル下紐。此下句ノ意ト同ジ。度々トクレドモ其|驗《シルシ》トテ人モ來ネバ結《ユフ》手ノ徒ナルヲ悔シト云ヘリ』とあり、『度々トクレドモ其|驗《シルシ》トテ人モ來ネバ』といふのは、『徒』の解釋が好く出來て居る。考・略解の訓でもさうなるのかも知れない。古義は、『君を戀しく思ひて、恍惚《ホレボレ》として愁ひ居れば、あやしや吾(ガ)下紐の、結ぶ手もつかるるまで解るよ、これはさは思ふ人にあはむと云、前兆《シルシ》にてこそあらめ、となり』と言つてゐるが、これは如何であらうか。卷十二(三一八三)に、京師邊君者去之乎孰解可言紐緒乃結手怠毛《ミヤコベニキミハイニシヲタレトケカワガヒモノヲノユフテタユキモ》といふのがあつて參考となる。この歌も、ただ徒らに紐のみ解けて、戀人は遠く京師に行つた趣の歌である。
 
(554)          ○
  〔卷十一・二四一〇〕
  あらたまの年《とし》は果《は》つれど敷妙《しきたへ》の袖《そで》交《か》へし子《こ》を忘《わす》れて念《おも》へや
  璞之 年者竟杼 敷白之 袖易子少 忘而念哉
 
 ○年者竟杼 舊訓トシハクルルト。代匠記初トシハハツレト(【略解・古義同訓】)。童蒙抄トシハハツレド。トシハクルレド。又はトシハヲハレド。考トシハヲハレド。新考トシハヘヌレド(竟は經の誤)。新訓・全釋は代匠記に從つた。○袖易子少・忘而念哉 舊訓ソデカハシシヲ・ワスレテオモヘヤ。代匠記初ソデカヘシコヲ(【童蒙抄・考・略解・古義・新考・新訓・全釋同訓】)。少をばヲと訓んだ例は、卷十三(三二五八)に、吾戀心中少人丹言物西不有者《ワガコフルココロノウチヲヒトニイフモノニシアラネバ》とあるのも少をヲと訓ませて居る。其他、泊瀬少國《ハツセヲクニ》(卷十三。三三一一)。赤土少屋爾《ハニフノヲヤニ》(卷十一。二六八三)があり、人名に、朝臣|少足《ヲタリ》、少野《ヲヌ》田守朝臣、尾張|少咋《ヲグヒ》がある。小《ヲ》と相通ぜしめた訓であらう。
 一首の意は、〔璞之《あらたまの》〕年はもう暮れて行くけれども〔敷白之《しきたへの》〕袖を交はして共に寐た可哀いい子を私はどうして忘れようか。忘れられない。といふのである。
 竟をハテと訓むは、卷七(一一七一)す、大御舟竟而佐守布高島之《オホミフネハテテサモラフタカシマノ》。卷十(一九九六)に、照舟竟(555)舟人妹等所見寸哉《テラスフネハテシフナビトイモトミエキヤ》とあるので明かである。また、トシハツといふ例は、卷十(一八四三)に、昨日社年者極之賀春霞春日山爾速立爾來《キノフコソトシハハテシカハルガスミカスガノヤマニハヤタチニケリ》とあるが、此は舊訓クレシカであつたのを契沖が改訓した。そして、後撰集の『物おもふと過る月日も知らぬまに今年も今日に果てぬとか聞く』を參考歌にした。この年ハツは今年も暮れることであるが、妹と情交を結んでから、一年經つても二年經つてもいいわけで、ただ今年も歳晩になつた時の感慨と看做していい。ワスレテオモヘヤの句は、卷一(六八)の、大伴乃美津能濱爾有忘貝家爾有妹乎忘而念哉《オホトモノミツノハマナルワスレガヒイヘナルイモヲワスレテオモヘヤ》をはじめ、卷四(五〇二)の人麿作、夏野去小牡鹿之角乃束間毛妹之心乎忘而念哉《ナツヌユクヲジカノツヌノツカノマモイモガココロヲワスレテオモヘヤ》等その他がある。
 この歌は、分かりよく平凡なやうにおもふが、内容が單純なだけ單純化が遂行せられて、しつとりと落付いたところがある。一首に枕詞が二つもあつて眼障にならないのも何處かいい點があるからであらうか。
 この歌は、六帖に、第二句『年はへぬれど』、第四句『袖かへししを』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四一一〕
  白細布《しろたへ》の袖《そで》をはつはつ見《み》し故《から》に斯《か》かる戀《こひ》をも吾《われ》はするかも
(556)  白細布 袖小端 見柄 如是有戀 吾爲鴨
 
 ○袖小端・見柄 舊訓ソデヲハツカニ・ミレカラニ。代匠記初ソデハツハツニ。代匠記精ソデヲハツハツニ。考ソデヲハツカニ・ミテシカラ。略解ソデヲハツハツ・ミテシカラ。古義ソデヲハツハツ・ミシカラニ(新考・新訓同訓)。卷七(一三〇六)に、是山黄葉下花矣我小端見反戀《コノヤマノモミヂノシタノハナヲワガハツハツニミテサラニコヒシモ》の例があり、なほ、卷十一(二四六一)に、山葉進出月端端妹見鶴及戀《ヤマノハニサシイヅルツキノハツハツニイモヲゾミツルコヒシキマデニ》があり、假名書の例では、卷四(七〇一)に、波都波都爾人乎相見而何將有何日二箇又外二將見《ハツハツニヒトヲアヒミテイカナラムイヅレノヒニカマタコヨソニミム》がある。
 一首の意は、あの女の〔白細布《しろたへの》〕袖をばただちよつと見たばかりで、こんなに深い戀をも己はするのか。といふのである。
 これは男の獨り嘆息する趣の歌で、相當感じの乘つてゐるものである。白細布《しろたへの》は枕詞に使つてゐるが、若くて美しい女の容子を暗指してゐるやうにおもへるし、『袖』を以て代表せしめた點は、『妹が目を欲り』などと同じ技巧に屬し、萬葉の歌に、『袖交はす』といふ語はなかなか多いから、實際的にも、また美學的にも、袖といふのが注目を牽いたものであつただらう。卷十九(四二七七)に、袖垂而伊射吾苑爾※[(貝+貝)/鳥]乃木傳令落梅花見爾《ソデタレテイザワガソノニウグヒスノコヅタヒチラスウメノハナミニ》とある、『袖垂れて』の句も印象深きものであつたのであらう。な性、袖振る。袖吹反す。袖携り。袖解かへて等の例のほかに、卷十五(三六〇四)に、イモガソデワカレテヒサニナリヌレドヒトヒモイモヲワスレテオモヘヤとあるのは稍違つ(557)た例である。
 此歌、六帖に、人まろ作として入り、第二三句『袖のかたはし見るからに』、結句『我はするかな』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四一二〕
  我妹子《わぎもこ》に戀《こ》ひ術《すべ》なかり夢《いめ》に見《み》むと吾《われ》は念《おも》へど寐《い》ねらえなくに
  我妹 戀無乏 夢見 吾雖念 不所寐
 
 ○我妹・戀無乏 舊本『乏』が『之』となつてをり、舊訓ワギモコニ・コヒテスベナミ。童蒙抄コフハスベナミ(無乏)。考コヒテスベナシ(之は爲の誤)。略解コヒスベナカリ(之は爲の誤)。卷十二(三〇三四)の、吾妹兒爾戀爲便名鴈《ワギモコニコヒスベナカリ》。卷十七(三九七五)の、和賀勢故爾古非須弊奈賀利《ワガセコニコヒスベナカリ》とあるを證とした。古義ではコヒスベナカリで、『爲』を非とし『乏』をよしとした。古寫本印本中、『之』が『乏』になつてゐるのが(【嘉・文・細・西・神・温・矢・京・無・附】)あるから、大體それでよい。卷十一(二三七三)に、夕方枉戀無乏《ユフカタマケテコヒハスベナシ》。同卷(二四四一)に、隱沼從裏戀者無乏《コモリヌノシタユコフレバスベヲナミ》。卷十二(二九四七)の或本歌に、(558)無乏出行家當見《スベヲナミイデテゾユキシイヘノアタリミニ》とあるので明かである。なほ、卷十三(三二五七)には、名積序吾來戀天窮見《ナヅミゾワガコシコヒテスベナミ》といふのがあるから、『乏』又は、『窮』の文字をも使つてゐる。○夢見・吾雖念 舊訓ユメミムト・ワレハオモヘド。童蒙抄ユメニミムト・ワレハネガヘド。考イメニミント・アレハオモヘド。○不所寐 舊訓イネラレナクニ。代匠記精イネラエナクニ。
 一首の意は、あの女が戀しくて何とも爲樣がないので、せめて夢にでも見ようとおもふが、はては眠ることも出來ずにゐるのは、苦しいことだ。といふのである。
 これも平凡だが、自然で感じのよい歌である。夢にでも視ようとおもふのだが、戀に悩んで居るのでよく眠れない状態を云つて居るので、かういふことも單に聯想からのみ來た表現でなく、實際の經驗が基本となつてゐるものとおもふ。
 卷五(八〇七)に、宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》。卷十二(二九五九)に、現者言絶有夢谷嗣而所見與直相左右二《ウツツニハコトタエニケリイメニダニツギテミエコソタダニアフマデニ》。卷十三(三二八〇)に、卵管庭君爾波不相夢谷相跡所見社天之足夜于《ウツツニハキミニハアハズイメニダニアフトミエコソアメノタリヨニ》等とあるなど、夢の歌はなかなか多い。支那の詩ならば、『獨寐多遠念、寤言撫空衿』などといふところだが、和歌はもつと素朴である。
 此歌、玉葉集に人麿作として載り、第二句『戀ひてすべなみ』、結句『いこそねられね』となつて居る。
 
(559)          ○
 
  〔卷十一・二四二二〕
  故《ゆゑ》も無《な》く吾《わ》が下紐《したひも》を解《と》かしめつ人《ひと》にな知《し》らせ直《ただ》に逢《あ》ふまで
  故無 吾裏紐 令解 人莫知 及正逢
 
 ○故無・吾裏紐・令解 舊訓ユヘナシニ・ワガシタヒモノ・トケタルヲ。代匠記精ユヘナシニ・ワガシタヒモヲ・トケシメテ。童蒙抄ユヱモナク・ワガシタヒモノ・トケヌルヲ。考ユヱナシニ・ワガシタヒモヲ・トカシメテ。略解ユヱモナク・ワガシタヒモゾ・トケシムル。古義ユヱモナク・ワガシタヒモゾ・イマトクル、令は今の誤(新考從之)。新訓ユヱモナク・ワガシタヒモヲ・トカシメツ。○人莫知・及正逢 舊訓ヒトニシラスナ・タダニアフマデ(【代匠記・童蒙抄・考同訓】)。略解ヒトニシラユナ(新考同訓)。古義ヒトニナシラセ(新訓同訓)。
 一首の意。このやうに何の訣《わけ》〔理由〕もなしに私の下紐を解かせてしまつた(自然に解けたではありませんか)。これはあなたが私を慕つてくれる證據だとおもひますが、まだ逢つても居ないのに彼此人の口がうるさいものですから、あなたと直接逢ふまでは、決して人に知らせて貰つ(560)ては困りますよ。といふので、女が男にむかつて云つて居る。
 當時の民間信仰を本として、なかなか細かいことを云つてゐるのを注意すべきであつて、この心理の細かいところは、一つの小文章にでもなるほどである。それをば、『わが下紐を解かしめつ』と云つて、直ちに、『人にな知らせ直に逢ふまで』と續けたのはなかなか簡潔で旨いところがある。尤もこの訓は新訓に從つて旨くなつたので、從來の訓のやうに連續句にしては具合が惡いやうである。
 
          ○
 
 
  〔卷十一・二四一四〕
  戀《こ》ふること慰《なぐさ》めかねて出《い》で行《ゆ》けば山《やま》も川《かは》をも知《し》らず來《き》にけり
  戀事 意追不得 出行者 山川 不知來
 
 ○戀事 舊訓コフルコト。童蒙抄コヒシサヲ。古寫本中、コヒシキヲとも訓んで居る(京・細)。戀しい心をといふのと同じであらうが、それを、戀ふることと云つたのが矢張り特殊である。○意追不得 舊訓に從つてナグサメカネテと訓んだ。代匠記は追は遣の誤とし、考は進の誤として(561)共にナグサメカネテと訓じてゐるが、古義は追は遣の誤とする説を踏襲し、ココロヤリカネと訓み、意遣雖過不過《ココロヤリスグセドスギス》(卷十二。二八四五)。酒飲而情乎遣爾《サケノミテココロヲヤルニ》(卷三。三四六)。於毛布度知許己呂也良武等《オモフドチココロヤラムト》(卷十七・三九九一)。見明米情也良牟等《ミアキラメココロヤラムト》(卷十九。四一八七)などの例を參考としてゐる。併し、萬葉にはナグサメの例も多いこと、既に評釋したとほりであるから、さう訓んで置いた。○山川 ヤマモカハヲモと訓む。舊訓ヤマカハ。童蒙抄ヤマカハヲシモ。考ヤマモカハラモ。略解ヤマモカハヲモ(古義同訓)。○不知來 シラズキニケリと訓む。舊訓シラズ・キニケルモノヲ。童蒙抄シラレザリケリ。考シラズキニケリ(略解・古義同訓)。
 一首の意は、この戀の切ない思を慰めかね遣りかねて出でて來たから、山をも川をも夢中で來てしまつた。といふのである。
 内容は極めて平凡だが、何處か眞率のところがあつて具合のいい歌である。特に、『山も川をも知らず來にけり』といふ句が實に自然で、現代の歌人の心と雖毫もこれと違つてゐない。また調がのびのびとしてゐるのは、これが本當の日本語の調だからであらうか。一首に、『行けば』。『來にけり』といふ如くに、矛盾、重複のやうな云ひ方もあつて、さう變《へん》でないのは、却つて餘りたくらみのないためであらうか。卷二(一三一)の、人麿作長歌の中に、山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》の句があり、卷三(二八七)に石上卿の、此間爲而家八方何處白雲乃棚引山乎超而來二家里《ココニシテイヘヤモイヅクシラクモノタナビクヤマヲコエテキニケリ》がある。石上卿の歌の(562)結句は伸々として、比較上有益な歌の一つである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四一五〕
  處女等《をとめら》を袖布留山《そでふるやま》の瑞垣《みづがき》の久《ひさ》しき時《とき》ゆ念《おも》ひけり吾《われ》は
  處女等乎 袖振山 水垣 久時由 念來吾等者
 
 以下は『寄物陳思』の部で、これは、その第一にある歌である。寄神戀といふ意味であらうか。○處女等乎 舊訓ヲトメラヲ。古寫本中ヲトメラガ(嘉・類)。考ヲトメラガ、乎は之の誤(略解同説)。古義ヲトメラヲ、乎を可とす。○久時由・念來吾等者 舊訓ヒサシキヨヨリ・オモヒキワレハ。童蒙抄フリニシヨヨリ又はフリニシトキユ・オモヒキワレハ。考ヒサシキトキユ・オモヒコシワレハ。略解ヒサシキトキユ・モヒコシワレハ。古義ヒサシキトキユ・オモヒコシアハ。新考ヒサシキトキユ・モヒキツワレハ。新訓ヒサシキトキユ・オモヒケリワレハ。『處女等乎《ヲトメラヲ》』とせば、その乎《ヲ》はヨに相似たものと看做していいであらう。大和山邊郡の振山を袖振に續けしめた。その神社の瑞垣の久しいといふのから、久しい戀といふのに續けた。
(563) 一首の意は、實に實に久しいまへからお前のことは戀ひおもうてゐたのであつたよ。といふだけだが、序の長いのを用ゐて、調べをゆるがせながら一首を纏めてゐる。
 この歌は既に評釋した卷四(五〇一)の、人麿作、未通女等之袖振山刀水垣之久時從憶寸吾者《ヲトメラガソデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒキワレハ》と殆ど全く同じであるから、傳はつてゐるうちに變化したものと思へる。
 どう變化したかといふに、初句の、『處女等乎〔右○〕』が卷四のには、『未通女等之〔右○〕』になつて居り、『念來〔二字右○〕吾等〔右○〕者』が、『憶寸〔二字右○〕吾者』になつて居る。これに誤字を否定して考へれば、『をとめらを〔右○〕』として味つても、無理とはいへず、御心乎吉野乃國之《ミココロヲヨシヌノクニノ》(卷一。三六)などといふ具合に乎を解すればよく、ただ價値からいへば、眞淵が、『未通女等之と有こそ常さまにてよけれ』(考)と云つたのに從つてよい。即ち卷四の歌の方が一段と好いのである。次に、『念來』をオモヒケリと新訓で訓んだが、この『來』をケリと訓む例は、卷十一(二四六五)に、吾屋戸之草佐倍思浦乾來《ワガヤドノクササヘオモヒウラガレニケリ》。同卷(二六九二)に、夕凝霜置來。《ユフコリノシモオキニケリ》卷十二(三一三四)に、旅登之思者尚戀來《タビトシオモヘバナホコヒニケリ》等の例で類推することが出來る。そして、この『おもひけり』といふのは、調べがゆつたりと感情を含ませ得るけれども、結句の『おもひけり・われは』といふ字餘りは、奈何かと私かにおもふ。これも、卷四の、『おもひき・われは』の緊張したのには及ばないやうな氣がしてならないのである。『來』をば、『寸』と同樣に助動詞『き』に用ゐた例が無いとせば、やはり新訓どほりのものとして傳はつて、この人(564)麿歌集に入つたものであらう。そして人麿歌集といふものに異本があつて、その一つは卷四に採録せられ、一つは讀人不知として此處に載つて、左注を附せられたものであらうか。
 眞淵は、人麿歌集を疑ふ側の人であるが、この歌につき、『此哥は人万呂の哥の調まがふ事なし。然れば卷十三【卷四】に、柿本朝臣人万呂とて載たる如く、ここも人万呂の自哥などを家集に古哥と書まじへて書しもの也。後の家持などは各其名を注せしを、古はさもせざりけん。然らば此人万呂集といふ中に、自哥も多かりなん。心をつけて見るべき事なり〔然ら〜右○〕』(考。人麻呂集)と言つてゐる。
 次に、寄物陳思といふ題につき、契沖は、『是ニ意得置ベキ事アリ。第七ニ譬喩ト表シテ、寄衣寄絲ナド云ヘルハ定テ譬ナリ。此卷下ニモアリ。今ハ譬ヘモセヨ、タトヘズモアレ、物ニスガリテヨメルヲ類聚スルナリ。下皆此ニ效フベシ』(代匠記精)と言つてゐる。
 この歌は、六帖・拾遺集及び夫木和歌抄に人麿作として載り、初句『をとめ子が』、下句『久しき世よりおもひそめてき』となつて居る。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四一六〕
  ちはやぶる神《かみ》の持《も》たせる命《いのち》えおば誰《た》が爲《ため》にかも長《なが》く欲《ほ》りせむ
(565)  千早振 神持在 命 誰爲 長欲爲
 
 ○神持在・命 舊訓カミノタモテルイノチヲモ。代匠記、童蒙抄同訓。『神ノ如ク幾久シキ命モガナトハ誰故ニカ思フ。君故ニコソトナリ』(代匠記精)。『人の命は限り有て、長きも短きも、神明の保ち給ひて、わが私の儘に、伸べ縮めはならぬ命をすら、長かれと乞願ふも、誰の爲にこそ、思ふ人と長くそひもし、又思ひの叶ふ迄との爲との意也』(童蒙抄)。考では、神祷在《カミニノミタル》とし、『命ながかれと常は神に所乞《ノミコヒ》し也。今本に、神持在、と有は、神のたもてる命てふ事有べきかは、例なき言なり、仍て改む』(考)と云つた。略解は、舊訓に從つたが、『神ノタモテルは、神のみ心のままなる命と言ふ意か。宣長云、持は祷の誤にて、神ニイノレルならんと言へり』と云ひ、古義も大體宣長説に從つたが、カミニイノレル・イノチヲバとし、『壽命の長からむ事を、神祇に乞祷れるをば、そも誰が爲の故にてあるぞ、思ふ人の爲のみの事にこそあれ、となり』と言ひ、新考ではカミノタモテル・イノチヲバと訓み、『案ずるにここにてはイノリシとはいふべくイノレルとはいふべからず。さればもとのままにて又は持在の上に手の字を補ひてタモテルとよむべく、命は古義の如くイノチヲバとよむべし』と云つた。新訓は、カミノモタセル・イノチヲバと訓んだ。○誰爲・長欲爲 舊訓タガタメニカハ・ナガクホリ|ス《(フ)》ル(【代匠記・童蒙抄同訓】)。考タレガタメニカ・ナガクホリセン(略解同訓)。古義タレガタメニカ・ナガクホリスル。新考タガタメニカモ・ナガクホ(566)リスル。新訓タガタメニカモ・ナガクホリセム。今、新訓に從つた。
 一首の意は、〔千早振《ちはやぷる》〕神樣の持つて居られるやうな長い御命、その長い命をも私は誰のために欲しいのか、みんなお前と逢つてゐたいばかりなのだ。といふのである。
 これは、恐らく男の歌で、誰のためといふのは女を對手としてゐるつもりなのであらうか。また、神ノタモテルイノチと訓んで、童蒙抄などの解の如く、生命を支配するといふやうに解釋しても意味の取れないことはないが、此處は新訓の如く、神ノモタセルイノチと訓んで、平凡に神樣の御命のやうに長い命といふやうに解する方が素朴で却つていいのではあるまいか。契沖は、タモテルに從つたが、解は、『神ノ如ク幾久シキ命』といふやうにして居るのはなかなか確かだとおもふ。
 モタセルと訓ませた用例は他に萬葉に見えないが、卷四(六七二)に、倭文手纏數二毛不有壽持奈何幾許吾戀渡《シヅタマキカズニモアラヌイノチモチイカニココダクワガコヒワタル》とあるのは參考になる。又『持在』と書いたのは、大夫乃手二卷持在鞆之浦囘乎《マスラヲノテニマキモタルトモノウラミヲ》(卷七。一一八三)。海神手纏持在玉故《ワタツミノテニマキモタルタマユエニ》(卷七。一三〇一)。海神持在白玉《ワタツミノモタルシラタマ》(卷七。一三〇二)等の例がある。一方タモテル・タモツといふ語は他に萬葉に見當らぬから、この點からもモタセルの方が無理がないと思ふ。
 此歌は、拾遺集に人麿作として入り、第二句以下『神のたもてる命をばたれがためにかながく(567)と思はむ』とあり、又柿本集に、『神のたもてる命をも誰がためとおもふ我ならなくに』、六帖に、『神のたもてる命あらばたがためとかは我は思はむ』となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四一七〕
  石上《いそのかみ》布留《みふる》の神杉《かむすぎ》神《かむ》さびて戀《こひ》をも我《われ》は更《さら》にするかも
  石上 振神杉 神成 戀我 更爲鴨
 
 ○神杉・神成 舊訓カミスギ・カミトナル。古寫本中カミナレヤ(【嘉・類・古・細】)。カミトナル(【文・西・京・神・温・矢】)。カミナルヤ(【西・温一訓】)等の訓がある。古點カミナレヤ。仙覺新點カミトナル。童蒙抄宗師案カミノナス。考カミサビテ。『神左備てふ言は、神ぶりしたる事なるを古き事にも轉じいへり。其神ふりしたるを、即神となるてふよしにて神成とは書たる』。略解は考に從ひ、古義カムスギ・カムサビテ(【新考・全釋同訓】)。『カムサブは神化する事なればカムサビテを神成と書けるか』(新考)。新訓カムスギ・カムサビシ。今、古義の訓に從つた。
 一首の意は、〔石上振神杉《いそのかみふるのかむすぎ》。振《ふる》の神社にある大杉の古く神さびたやうに〕神さびて、齡がこの(568)やうにいたく老いて、そしてまたまた若者のやうに戀に悩んで居る。といふのである。
 この歌は、寄神戀の氣分だから、自然かういふ具合に聯想が向くのかも知れないが、それにしても珍らしい歌である。紅顔の媚青年が花の如き少女と相交合するのは自然であらうが、醜老の身を以て戀に悩むのは苦難の道といふことも出來る。ゲエテが年老いてミンナ・ヘルツリイプに戀愛を感じ、エポツヘと言ふ詩にその情感を托し、なほ親和力製作の動機となつたと言はれて居るが、西洋には斯の如き例は多いけれども、日本文學にはその例が少いのではあるまいか。萬葉卷二(一二九)の、古之嫗爾爲而也如此許戀爾將沈如手童兒《フリニシオウナニシテヤカクバカリコヒニシヅマムタワラハノゴト》の如きは、少い中のその一例である。さういふ意味でこの歌は一つの特徴を持つてゐる。さうして、この歌の結句の『戀をもわれは更にするかも』が利いて居る。本來の抒情詩としては上半の序詞が邪魔をするのであるが、寧ろ題咏的だから致し方が無い。
 第三句を、カムサビシとしないで、カムサビテとしたのは、形容詞にせずに副詞句としたので、卷十(一九二七)に、石上振乃神杉神備而吾八更更戀爾相爾家流《イソノカミフルノカムスギカムサビテワレヤサラサラコヒニアヒニケル》をも參考にした。尤もこの神備而は神備西《カムサビニシ》といふ訓もある。
 
          ○
 
(569)  〔卷十一・二四一八〕
  如何《いか》ならむ名《な》に負《お》ふ神《かみ》に手向《たむけ》せば吾《わ》念《も》ふ妹《いも》を夢《いめ》にだに見《み》む
  何 名負神 幣嚮奉者 吾念妹 夢谷見
 
 ○何・名負神 舊訓イカナラム・カミニ。古寫本中、ナニナニノ(【文・細・西・神・温・矢・京】)。イカナラム(嘉・古)の兩方がある。古點イカナラム・カミニ。仙覺新點ナニナニノ・カミニ。代匠記初ナニノナオフ・カミニ。童蒙抄イカナラン・ナニオフカミニ。『如何ならん名におふ神と讀事も、少心得難けれど、名負の二字、ならんとは讀難き故かくは讀む也』(童蒙抄)。考イカバカリ・ナニオフカミニ(略解同訓)。古義イカナラム・ナオヘルカミニ。新考イカナラム・ナヲオフカミニ(新訓同訓)。全釋イカナラム・ナニオフカミニ。今、全釋の如く、童蒙抄に從つて、イカナラム・ナニオフカミニと訓んだ。○幣嚮奉者 舊訓ヌサヲモ・タムケバカ。代匠記精ヌサヲモ・タムケセバ。童蒙抄タムケセバ(【考・略解・古義・新考・新訓・全釋同訓】)。
 一首の意は、何といふ御名前を持つて居られる神樣に幣を捧げて祈つたら私の戀びとを夢にでも見ることが出來るだらうか。といふのである。
 これは寄神戀であるから、稍題咏的になつたが、實際當時の人々は、戀の成就をば神に盛に願(570)つたものであつただらう。そこでこの歌も、無理なく自然に流露して居り、僞ることの出來ない好いところがやはり出て居るのである。『夢にだに見む』といふやうな心理の歌は、既に前に引用したから其處を參照するといい。
 『名に〔右○〕負ふ神』とするか、『名を〔右○〕負ふ神』とするかについて、萬葉の用例を見るに兩方共ある。卷一(三五)に、木路爾有云名二負勢能山《キヂニアリトフナニオフセノヤマ》。卷十五(三六三八)に、巨禮也己能名爾於布奈流門能宇頭之保爾《コレヤコノナニオフナルトノウヅシホニ》。卷十七(四〇一一)に、美雪落越登名爾於弊流安麻射可流比奈爾之安禮婆《ミユキフルコシトナニオヘルアマザカルヒナニシアレバ》とあるなどは、ナニオフの例であり、卷十八(四〇九四)に、其名乎婆大來目主登於比母知弖《ソノナヲバオホクメヌシトオヒモチテ》とあるのは、ナヲオフの例であるが、今は多い方の例に從つた。
 また、『如何ならむ名に負ふ神』は字面どほりには、どういふ御名の神といふことだが、どういふ靈驗あらたかな神といふ意味もあるだらうから、眞淵がイカバカリと訓んで、『御しるし有、名高き神をいふ』(考)と云つたのは、機微を捉へて居る。ただその訓までに行かなくとも好いのである。
 此歌は、玉葉集及び夫木和歌抄に人麿作として載り、舊訓と同じく上句『いかならむ神にぬさをもたむけばか』となつて居る。
 
(571)          ○
 
  〔卷十一・二四一九〕
  天地《あめつち》といふ名《な》の絶《た》えてあらばこそ汝《いまし》と吾《われ》と逢《あ》ふこと止《や》まめ
  天地 言名絶 有 汝吾 相事止
 
 ○汝吾・相事止 舊訓ナレニワガアフ・コトモヤミナメ(【代匠記・童蒙抄・考同訓】)。略解イマシトワレト・アフコトヤマメ(【古義同訓但しアレト】)。新考アメツチニ・ワガナノタエテ・アラバコソ・ナレトワレトノ・アフコトヤマメ。
 此歌は寄2天地1もので、一首の意は、天地といふ名が此世から無くなつたらば、つまり天地が無くなつたらば、その時には汝と吾との逢ふ時は止むだらうが、さうでない限り、天地のつづくかぎりは汝と吾と離れることは無い。といふのである。
 今から見れば一種の思想で、虚無的とも謂ふべきものだが、作者はさういふ思想を本として歌つてゐるのでなく、その時の感じによつて歌つてゐるのである。それゆゑ大掴みのやうに歌つて居りながら感動を讀者に傳へることが出來る。また調べも強く且つ豐かで、後世の概念的戀愛歌とは大にその趣を異にして居るのである。ただ寄v物陳v思といふことが既に題咏の初期とも考へ(572)られるので同情も薄いのだけれども、この程度ならば先づ許せるのではなからうか。
 新考では、『天地トイフ名といふこと穩ならず。宜しくアメツチニワガ名ノタエテとよむべし。言をワガとよむべき事は卷十(二一〇五頁)にいへり。又古人が名の絶えむ事を悲しみしは卷二なる妹ガ名ハ千代ニナガレムの處(三二六頁)にいへる如し』といふ説を立ててゐる。此も一見識であるが、此歌は、天地に寄せた歌で、我名を主としたものでないといふことを顧慮するなら、折角の博士の新説にも從ふことが出來ない。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四二〇〕
  月《つき》見《み》れば國《くに》は同《おな》じを山《やま》隔《へな》り愛《うつく》し妹《いも》は隔《へな》りたるかも
  月見 國同 山隔 愛妹 隔有鴨
 
 ○月見・國同・山隔 舊訓ツキミレバ・クニハオナジク・ヤマヘダテ。古寫本中、ツキヲミバ(嘉)。ツキヲミル(類・細)等の訓がある。童蒙抄宗師案ツキミレバ・ヒトクニヤマヲ・クモヰナス。考ツキミレバ・オナジクニナリ・ヤマコソハ(隔は許の誤)。略解ツキミレバ・クニハオナジ(573)ゾ・ヤマヘナリ。古義ツキミレバ・クニハオヤジゾ・ヤマヘナリ。新考ツキミレバ・クニオナジキヲ・ヤマヘダテ。新訓ツキミレバ・クニハオナジヲ・ヤマヘナリ。○愛妹・隔有鴨 舊訓ウツクシイモハ・ヘダテタルカモ。童蒙抄ウツクシイモヲ・ヘダテタルカモ(考同訓)。略解ウルハシイモガ・ヘナリタルカモ。古義ウツクシイモガ・ヘナリタルカモ(新考同訓)。新訓ウツクシイモハ・ヘナリタルカモ。今、新訓に從ふ。
 一首の意は、月の照つて居る樣《さま》を見れば、己の處も妻の處も同じやうに照らされて、同じ國の内であるのに、其間には山が聳え隔ててゐるものだから、可哀い妻とも隔つてしまつて居る。といふのである。
 この歌は、月光を咏じて、然かも月に照らされた國を遠く望む趣の歌であり、その國原のうちに妻の家郷があつて、山が聳えて當方を隔離したやうな地勢になつてゐるところがよくわかり、寄山戀といふのでも、題咏くさくない眞實性がある。特に細かく寫生してゐる點はやはり萬葉歌人のいいところをあらはしてゐる證據ともなる歌である。
 卷十八(四〇七三)に、古人云、都奇見禮婆於奈自久爾奈里夜麻許曾波伎美我安多里乎敝太弖多里家禮《ツキミレバオナジクニナリヤマコソハキミガアタリヲヘダテタリケレ》とある、『古人云』といふのは、或は此歌の傳誦かも知れない。さうすれば、ヘナリでなくヘダテと訓むのかも知れない。それに家持が答へたのは(四〇七六)、安之比奇能夜麻波奈久毛我(574)都奇見禮婆於奈自伎佐刀乎許己呂敝太底都《アシヒキノヤマハナクモガツキミレバオナジキサトヲココロヘダテツ》といふのである。なほ卷十五(三六九八)に、安麻射可流比奈爾毛月波弖禮禮杼母伊毛曾等保久波和可禮伎爾家流《アマザカルヒナニモツキハテレレドモイモゾトホクハワカレキニケル》といふのがあり、また卷四(七六五)に、一隔山重成物乎月夜好見門爾出立妹可將待《ヒトヘヤマヘナレルモノヲツクヨヨミカドニイデタチイモカマツラム》。卷十(二三〇〇)に、九月之在明能月夜有乍毛君之來座者吾將戀八方《ナガツキノアリアケノツクヨアリツツモキミガキマサバワレコヒメヤモ》。卷十二(三〇〇六)に、月夜好門爾出立足占爲而往時禁八妹二不相有《ツクヨヨミカドニイデタチアウラシテユクトキサヘヤイモニアハザラム》。同(三〇〇八)に、足引之山乎木高三暮月乎何時君乎待之苦沙《アシヒキノヤマヲコダカミユフヅキヲイツトカキミヲマツガクルシサ》など、月を縁とした歌は可なりある。なほ代匠記で、文選謝希逸の月賦を引いて居る。隔(テテ)2千里(ヲ)1兮共(ニス)2明月(ヲ)1。また唐(ノ)李※[山+喬](ガ)百詠を引いて居る。三五二八(ノ)夜、千里與v君同(ジ)。また謝觀(ガ)白(ノ)賦を引いてゐる。夜登(レバ)2〓亮(ガ)之棲(ニ)1月明(ナリ)2千里(ニ)1。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、『月をみるくにはおなしき山邊にてうつくし妹はへたてたるかも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四二一〕
  來《く》る路《みち》は石《いし》踏《ふ》む山《やま》の無《な》くもがも吾《わ》が待《ま》つ君《きみ》が馬《うま》躓《つまづ》くに
  ※[糸+參]路者 石踏山 無鴨 吾待公 馬爪盡
 
(575) ○※[糸+參]路者 舊訓クルミチハ。代匠記精に、校本、※[糸+參]又作繰とし、『繰ヲ誤リテ※[糸+參]ニ作レリ。改タムベシ。來ルニ借レリ』と云ひ、略解では、『和名抄、※[糸+參]車【久流】絡v糸取也とあれば、來ると言ふに借りて書けるか』と云つたが、古義では、マヰリヂと訓み、『※[糸+參]《クル》を來《クル》に借りたるにて來《ク》る道はの意とする説は穩ならず。誤字なるべし。故(レ)考るに、※[糸+參]は絲扁の衍《アヤマリ》て加はれるにて、參にて參路者《マヰリヂハ》などありしにてもあるべきか。參路とは朝參《ミカドマヰリ》の路を云べし』と云ひ、新考ではそれを否定して舊訓に從つたが、『※[糸+參]は旗の附屬物なり。クルとはよむべからず』と云つた。併しこれは略解の説に從つて好く、類聚名義抄もクルの訓があり(【旗旒と云ふ注もある】)、伊呂波字類抄クル。−糸、亦作v繰とあるから、『來る』に借りたものであらう。なほ文字辨證上卷に、『廣韻【六豪】に、※[糸+巣]【繹v繭爲v絲】繰【上同、俗又作v※[糸+參]、※[糸+參]本音衫】とありて、本集も和名抄も俗に從ひたるなれば、卷六卷十に躁を※[足+參]と作《カケ》ると同法なるなり。【中略】かかれば躁繰を※[足+參]※[糸+參]とかけるも、古き字體なるを知るべし』とあるのを參考すべきである。○石踏山・無鴨 舊訓イシフムヤマモ・ナクモガモ。童蒙抄イハフムヤマノ・ナクモガモ(【略解・古義・新考・全釋同訓】)。考イシフムヤマノ・ナクモガモ。このイハといふか、イシといふか、萬葉には兩方の例があるから、今、考に從つた。○吾待公・馬爪盡 舊訓ワガマツキミガ・ウマツマヅクモ(代匠記・考同訓)。童蒙抄ワガマツキミガ・ウマツマヅクニ(【略解・古義・新考・新訓同訓】)。
 一首の意は、向うから來られる途中に巌石のある山道が無ければよい。私のお待して居るお方《かた》(576)の乘つた馬が躓くと困りますから。少しでも早くお逢ひ申したいのですから。といふ程の意であらう。
 この歌も、民謠的といへばいはれるが、なほ女のしをらしい情緒が出て愛すべき歌である。また當時男が女の許へ通ふのによく馬に乘つたことがこれでも分かる。卷三(三六五)に、鹽津山打越去者我乘有馬曾爪突家戀良霜《シホツヤマウチコエユケバワガノレルウマゾツマヅクイヘコフラシモ》。卷七(一一九一)に、妹門出入乃河之瀬速見吾馬爪衝家思良下《イモガカドイデイリノカハノセヲハヤミワガウマツマヅクイヘモフラシモ》とあり、既にこれ等の歌の、『家戀ふ』、『家思ふ』の解釋について、評釋篇卷之上三一九頁〔一六卷三一六頁〕以下に一たび引用した。
 追記。武田祐吉博士は、この『※[糸+參]路者』を、『コハタヂハ』と訓むべき試説を出した。そのコハタは、同卷(二四二五)に、山科強田山馬雖在歩吾來汝念不得《ヤマシナノコハタノヤマヲウマハアレドカチユワガコシナヲオモヒカネ》とある強田で、木幡の文字を宛てる山城の地名である。そして、『周禮春官巾車に建大常十有二〓とあり、註に大常九旗之畫日月者、正幅爲※[糸+參]、〓則屬焉とあるに依れば、※[糸+參]は、旗のひらひらと飜る織物の部分をいふものと思はれる。【中略】コハタを旗の正幅なりとする義が成立するならば、コハタの語義の解析は出來ないが、この歌(【卷二・一四八『青旗の木旗の上を』の歌】)に當てて極めて好適なるを覺える。さうして※[糸+參]をコハタと讀む傍證とすることが出來るならば、更に好都合であると思ふ』と云はれて居る。(【※[糸+參]考試説。アララギ二九ノ四。昭和十一年四月】》
 
(577)          ○
 
  〔卷十一・二四二二〕
  石根《いはね》踏《ふ》み隔《へな》れる山《やま》はあらねども逢《あ》はぬ日《ひ》數多《まね》み戀《こ》ひわたるかも
  石根踏 重成山 雖不有 不相日數 戀度鴨
 
 ○重成山 舊訓カサナルヤマハ・古寫本中カサナルヤマニ(嘉・類・古・細)。カサナルヤマハ(神・西・文・矢)。代匠記カサナルヤマハ(略解同訓)。童蒙抄カサナルヤマニ(考・新考同訓)。古義ヘナレルヤマハ(【新訓・全釋同訓】)。○不相日數 舊訓アハヌヒアマタ。古寫本中アハヌヒカズヲ(嘉・類・古)。アハズヒアマタ(温)等。代匠記舊訓に從ふ(【童蒙抄同訓】)。略解アハヌヒマネミ(【古義・新考・新訓・全釋同訓】)。
 一首の意は、戀しい女と私との間には巌石を踏むやうな險しい山があつて隔つて居るわけでもないのに、もうだいぶ逢はぬので、戀しくてならぬ。といふのである。
 この重成山をヘナレルヤマと訓むことは、既出の通りであるが、卷四(七六五)の、一隔山重成物乎《ヒトヘヤマヘナレルモノヲ》。卷十七(四〇〇六)の、伊波禰布美古要弊奈利奈婆《イハネフミコエヘナリナバ》等を參考したものであらう。カサナルヤマでも意味の取れないことはないが、歌言葉としてはヘナレルの方が好いやうである。ただ鑑賞者は二つの訓とも自由に取入れて味ふことも出來る。マネクは卷二(一六七)に、人麿作の、御言(578)不御問日月之數多成塗《ミコトトハサズヒツキノマネクナリヌレ》があり、その他、卷九(一七九二)に、不遇日之數多過者《アハヌヒノマネクスグレバ》。卷十七(四〇一二)に、美之麻野爾可良奴日麻禰久都奇曾倍爾家流《ミシマヌニカラヌヒマネクツキゾヘニケル》等がある。この語は、度《たび》重ることに用ゐ、月日といふ語に連續し、久《く》活用の形容詞である。
 この歌は、極めて奇のない平凡なものであるが、それだけ自然にこだはりなく咏まれてゐて反感を持つことはない。訓も種々の徑路を經てここに至つたが、大體このくらゐで鑑賞することが出來るとおもふ。
 古葉略類聚鈔には、この歌以下五首について、『人麿哥五首』と題してある。この歌は、和歌童蒙抄に載つて、『イハネフミカサナルヤマニアラネドモイハヌヒアマタコヒワタルカモ。万十一ニアリ石根蹈トカケリ』とある。なほ、拾遺集に、『いはねふみかさなる山はなけれども逢はぬ日かずをこひやわたらん』を載せ、坂上郎女の歌としてある。伊勢物語には、『いはねふみかさなる山にあらねどもあはぬ日おほくこひわたるかな』。柿本集には、『いはねふみかさなる山はなけれども逢はぬ日かずをこひわたるかな』となつてゐる。言語の使ひざまと一首の聲調の變化を觀察するのに好い例である。
 
          ○
 
(579)〔卷十一・二四二三〕
  路《みち》の後《しり》 深津島山《フカツシマヤマ》 暫《しまし》くも 君《きみ》が目《め》見《み》ねば 苦《くる》しかりけり
  路後 深津島山 暫 君目不見 苦有
 
 ○路後 舊訓ミチノシリ。諸書異訓が無い。路《みち》の後《しり》、國の奧の意で、路の口《くち》、路の中《なか》などに對してゐる。應神紀に、大鷦鷯《オホサザキ》等の御歌に彌知能之利古破〓塢等綿《ミチノシリコハダヲトメ》云々といふのがある。和名鈔に、
タニハノミキビノミツクシノミヒノミチトヨクニノ
越後【古之乃美知乃之利《コシノミチノシリ》】丹後【太邇波乃美知乃之利《タニハノミチノシリ》】備後【吉備乃美知乃之利《キビノミチノシリ》】筑後【筑紫乃美知乃之利《ツクシノミチノシリ》】肥後【比乃美知知乃之利《ヒノミチノシリ》】豐後【止與久邇乃知乃之利《トヨクニノミチノシリ》】とあるのを以て知るべく、越前【古之乃三知乃久知《コシノミチノクチ》】のミチノクチの例を以て相對照せしめてゐることが分かる。此處のミチノシリは、備後を指して居る。○深津島山 フカツシマヤマで、和名鈔に、備後に深津【布加津】郡があり、續日本紀に、養老五年夏四月丙申、分(テ)2備後國安那郡(ヲ)1置(ク)2深津郡(ヲ)1云々とある。それであるから、この歌の深津は郡の名でなくて、當時の安那郡の中の地名と考ふべきである。代匠記初稿本に、『此哥の出來ける時は、まだ安那郡に屬せるなり【人丸文武朝死去】』と注してゐるのは用意が細かい。深津島山は今の福山附近だと云はれて居るのは、あの邊は湊でもあつたから、歌に咏まれるのも自然であらう。○暫 舊訓シバラクモ。代匠記初シマシクモ(【略解・古義・新訓・全釋同訓】)。童蒙抄シマラクモ(【考・新考同訓】)。前の深津島山のシマからシマシクモのシマに連續せしめた序詞で、卷十五(三六三四)に、筑紫道(580)能可太能於保之麻思末志久母見禰婆古非思吉伊毛乎於伎弖伎奴《ツクシヂノカタノオホシマシマシクモミネバコヒシキイモヲオキテキヌ》とあるのに類似してゐる。卷十五の方は、オホシマ、シマシと續けて居る。
 一首の意は、〔路後深津島山《みちのしりふかつしまやま》【國の奧なる深津の嶋山の】〕しばらくも、暫しの間でも、あなたの御顔を拜見しなければ苦しうございます。といふのである。
 この歌も内容が單純で分かりよい。特に地方の地名を入れて、音の聯合で續けて行つて歌ひ易くしてゐるのはやはり民謠的である。『目』を以て代表的とした官能的表現のことは既に云つた。平凡だが可憐な歌で吟誦してゐて不愉快でない。卷十二(二九三四)に、味澤相目者非不飽携不問尊毛苦勞有來《アヂサハフメニハアケドモタヅサハリトハレヌコトモクルシカリケリ》といふのがある。この參考歌の初句、『味澤相』をアヂサハフと訓んで既に解釋し(許釋篇上、六四三頁)〔一六卷六二九頁〕、冠辭考の『味鳧《アヂカモ》の多《サハ》に群《ムレ》わたる意』と解したが、代匠記精には、『ヨキコトノオホクヨリアフ心ナリ』とあり、古義では、ウマサハフと訓み、『味粟田《ウマシアハフ》の義なるべし。味(ノ)字ウマ〔二字右○〕と訓るは、集中に、味酒《ウマサケ》、味飯《ウマイヒ》、味寢《ウマイ》などいと多かり、粟田《アハフ》は神代紀に見え、又神武天皇(ノ)大御歌にも、阿波布《アハフ》とありて、今(ノ)俗に粟畠《アハバタケ》と云に同じ』と云つた。新訓はこの古義の訓に從つて居る。
 
          ○
 
(581)  〔卷十一・二四二四〕
  紐鏡《ひもかがみ》 能登香《のとか》の山《やま》は誰《たれ》ゆゑぞ君《きみ》來《き》ませるに紐《ひも》あけず寐《ね》む
  ※[糸+刃]鏡 能登香山 誰故 君來座在 ※[糸+刃]不開寐
 
 ○※[糸+刃]鏡・能登香山 舊訓ヒモカガミ・ノトカノヤマモ。考ノトカノヤマハ。紐鏡は即ち鏡の裏に紐の著いてあるのをいふので、『上古の鏡には環有て紐を付たる也。【中略】よりて歌にも如v此紐鏡とは詠めり』(童蒙抄)。そして、勿解《ナトキ》と能登香《ノトカ》と音が通ふので枕詞となつたと契沖が解してゐる。或は、ノトカノのトカノは『解かぬ』の意味と取つたのかも知れない。能登香山は美作國、津山市近くの二子山のことだと地名辭書に云つてある。そして同書には美作名所栞の、『吉野粟井村、在國之東隅、連山四合、層巒疊※[山+章]、蜿蜒起伏、中有一山、清秀奇※[山+肖]、聳拔於衆山之表者、爲二子山、兩峰双峙、松樹蔽其嶺、葱欝相對、恰似※[巒の山が子]生者、山有二祠、其在西北者、曰|能登香《ノトカ》神、能降膏雨、其在東南者、曰早風神、能鎭暴風、村民尊崇』といふのを引用して居る。○誰故・君來座在・※[糸+刃]不開寐 舊訓タガユヱカ・キミキマセルニ・ヒモトカズネム。代匠記初ナニユヘカ。代匠記精タレユヱカ。童蒙抄タレユヱニ。略解タガユヱゾ。古義タレユヱゾ。代匠記精ヒモアケズネム。童蒙抄ヒモトカズヌル。
(582) 一首の意は、〔紐鏡《ひもかがみ》〕、紐を解くなといふ能登香《のとか》の山は誰ゆゑにさういふ名を得たものですか。縱ひ、紐解くなといふ名の山があつても、折角お慕はしい貴方《あなた》が通《かよ》つていらしたのに著物の下紐も解かずに寐《やす》むといふことが出來ませうか。といふのである。略解では、『思ふ人の來れる夜に衣の紐解き明けずして寐んやはと言ふなり』と翻した。
 これも民謠的の風で、前の歌には備後の海濱の地名が入つて居り、これには美作の地名が入つて居るから、その邊で歌はれた民謠ともおもはれるし、若しこれが人麿作とせば、その邊を旅しつつ、地名にちなんで民謠風の歌を殘したとも取れる。或は巡遊詩人として柿本族の制作といふことを(折口氏・高崎氏)認容するならば、複數人の作つたものが、人麿歌集の中に編入せられたといふことにもなる。いづれにしても女性の歌らしいことは認容していい。
 卷十七(三九四八)に、安麻射可流比奈爾月歴奴之可禮登毛由比底之紐乎登伎毛安氣奈久爾《アマザカルヒナニツキヘヌシカレドモユヒテシヒモヲトキモアケナクニ》。卷二十(四二九五)に、多可麻刀能乎婆奈布伎故酒秋風爾比毛等伎安氣奈多太奈良受等母《タカマトノヲバナフキコスアキカゼニヒモトキアケナタダナラズトモ》がある。
 この歌は、大木和歌抄に、『のとかの山(能登香、國未勘)題不v知』とし、讀人不知として、『ひもかかみのとかの山もたかゆへか君きませると紐とかすねん』と殆ど舊訓と同じになつてゐる。
 
          ○
 
(583)  〔卷十一・二四二六〕
  山科《やましな》の木幡《こはた》の山《やま》を馬《うま》はあれど歩《かち》ゆ吾《わ》が來《こ》し汝《な》を念《おも》ひかね
  山科 強田山 馬雖在 歩吾來 汝念不得
 
 ○山科・強田山 舊訓ヤマシナノ・コハタノヤマニ。考ヤマシナノ・コハタノヤマヲ。山科《ヤマシナ》は、和名鈔に、山城國宇治郡山科【也末之奈】とあるところで、強田山《コハタヤマ》は木幡山、神名帳に、山城國宇治郡|許波多《コハタ》神社三座云々とあり、現在宇治村木幡で桃山丘陵の東方になつてゐる。○歩吾來 舊訓カチヨリワレク。童蒙抄カチヨリワガク(考・略解同訓)。古義カチユアガコシ。カチユアガケル。新考カチエワガキツ。新訓カチユワガコシ。○汝念不得 舊訓ナレヲオモヒカネ。童蒙抄ナヲシノビカネ。考ナヲモヒカネテ(略解・新考同訓)。古義ナヲオモヒカネ(新訓同訓)。
 一首の意は、山科《やましな》の木幡の山道をば徒歩でやつて來た。己《おれ》は馬を持つてはゐるが、お前を思ふ思ひに堪へかねて徒歩で越えて來たのであるぞ。といふのである。『木幡の山を歩《かち》ゆ吾が來し』の間に、『馬はあれど』の句を挿入したものである。古義でこのことを注意して、『強田山に馬はあれどとつづけて聞べからず』と云つて居る。これは考がはじめて『山ヲ』と訓み改めて、『此山に馬の有べきよしなし、仍て、山を、と訓て句として、馬はわがもたれど、かちよりぞ來るとい(584)ふにこそあれ』と言つたので、略解、古義とこの解を襲つてゐるのである。
 なぜ、『馬はあれど』といふ句を插入したかといふに、『馬はありはすれども、草飼て、鞍置手綱著など用意する間得待ず、汝を思ふ思ひに堪かねて、取(ル)物もとりあへず』(古義)といふのであらう。代匠記初稿本に、舊訓のままで『馬をかるまもなくかちよりくるは、切におもふゆへなり』とあるのを、『強田山に馬はあれど』と解したとして、古義で批難してゐる。併し、代匠記の、『切におもふゆへなり』は、それに相違ないから、この解も保存していい。この歌は、素朴でどちらかといへば東歌《あづまうた》に類似して居る。それを直覺したためか、古義ではカチユアガケルなどと訓んだ。さうすれば新考のやうに、カチユワガキツ・ナヲモヒカネテと訓んでも味ふことが出來る。さういふ具合に古樸な民謠的な歌として受取り得る歌であるが、人麿だからと云つてかういふ歌を絶待に作らぬとは限らぬ。そのへんの考察は非常にむづかしいが、ただこの歌には人麿流の習癖は先づ先づ無い。
 この歌は、拾遺集雜戀に人麿として入り、『こはたの里に』、『かちよりぞくる君を思へば』となつてゐる。なほ夫木和歌抄には、よみ人しらずとして、第四句『かちよりそをくる』、その他は拾遺集と同樣である。
 
(585)          ○
 
  〔卷十一・二四二六〕
  遠山《とほやま》に霞《かすみ》被《たなび》きいや遠《とほ》に妹《いも》が目《め》見《み》ずて吾《あ》は戀《こ》ふるかも
  遠山 霞被 益遐 妹目不見 吾戀
 
 ○霞被 舊訓カスミタナビキ(【代匠記以下同訓】)。新訓カスミカガフリ。文字の上からいへばカカフリで、卷二十(四三二一)に、可之古伎夜美許等加我布理《カシコキヤミコトカガフリ》などともあるが、此處はやはりタナヒクの方が穩當ではなからうか。また、卷七(一二二四)の、大葉山霞蒙狹夜深而《オホハヤマカスミタナビキサヨフケテ》。卷十二(三〇三二)の、伊駒山雲莫蒙雨者雄零《イコマヤマクモナタナビキアメハフルトモ》等の如く、『蒙』をタナビクと訓ませてゐるのをも參照していい。この後の歌の『蒙』は、舊訓カクスであつたのを、考でタナビクと訓んだ。○益遐 舊訓イヤトホニ。代匠記初書入マストホニ。考マシトホミ。卷三(三二二)に、遐代爾神左備將往行幸處《トホキヨニカムサビユカムイヂマシドコロ》。卷九(一八〇九)に、永代爾※[手偏+栗]〔標〕將爲跡遐代爾語將繼常《ナガキヨニシルシニセムトトホキヨニカタリツガムト》とある如く、遐をトホシと訓ませて居る。○妹目不見・吾戀 舊訓イモガメミズテ・ワガコフルカモ(代匠記同訓)。童蒙抄ワレコフルカモ。考ワガコフラクモ(略解・新考同訓)。古義イモガメミネバ・アレコヒニケリ。校本萬葉では古義の訓は採つてゐない。
(586) 一首の意は、『遠山に霞たなびき』までは『いや遠に』に續ける序詞で、遠山に霞がかかってはっきりせず遠く遠く見える、その如くに、益々遠のいて妹にも逢はずに居れば、戀しくて爲方が無い。といふのである。
 これは寄v山歌であるから、かういふ序詞を用ゐた。併しその用ゐ方はなかなか旨い。また、『妹が目見ずて』といふやうな云ひ方も、他の例にも既にある如く、『目』に力點を置いたのが面白いのである。新訓で初句をトホヤマノと訓んだのは、被《かがふ》りといふ以上は、トホヤマが主格になるのであるから主格を示すノに改めたのであらうか。この歌のイヤトホニにつき、『これはあはぬほどの、いやとほきにたとふるなり』(代匠記初)。『あはぬ間の月日いやとほくて、戀しく思ふ心のさてもいよいよまさるよとなり』(古義)等の解釋がある。時間的に久しいといふことを、トホシといふ云ひ方に注意すべきである。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸として、初句『とは山田』、結句『わがこふるかも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四二七〕
  是川《うぢがは》の瀬瀬《せせ》のしき浪《なみ》しくしくに妹《いも》が心《こころ》に乘《の》りにけるかも
(587)  是川 瀬瀬敷浪 布布 妹心 乘在鴨
 
 ○是川 舊訓コノカハノ。古寫本コノカハニ(類)。童蒙抄ウヂカハノ。『是川うぢ川の事也。直にうぢ川と讀みて苦しからず。和漢共に古來是と氏通じたり。諸家の記にも氏の字を用ゆる處に、皆是の字を記せる事多し。橘氏是定と云事職原抄にも書かれたり。其本古記實録等に、橘氏公藤原氏公を是公と書たる事の毎度有。然れば確に氏と是と通じたる也。異國の書にもまま是有』(童蒙抄)。『後世哥を設てよむには、上などに其地名なくて此川此山などはいはれざると、次に宇治渡ともあれば、かの氏上を是上とも書に合て、是川は即氏川といふならん。と荷田うしの始の説も有しが、猶いにしへかかる所多くはその地に向ひてよめるからは後の題詠とは違へり。然れば宇治にも何にもせよ。指よし有てこの川といへりとせん』(考)。類聚名義抄にも、和訓栞にも是と氏と相通ずることをいひ、古義の頭注にもそれに及び、略解補正及び訓義辨證にもそれを論じて居る。『是と氏とはもとより通用の文字なれば、今も通じかけるものとして、ウヂガハとよむべき也。其通用の證は、儀禮士昏禮に、惟是〔右○〕三族之不虞とあるを、白虎通宗族に、惟氏〔右○〕三族之不虞と作《カキ》、韓非子難三に、※[がんだれ/龍]※[米+間]氏〔右○〕之子とあるを、論衡非韓に、※[がんだれ/龍]※[米+間]是〔右○〕と作《カキ》、儀禮覲禮に、大史是右とある注に、古文是爲v氏也といひ、またこれを周禮射人の注に、大史氏右と作《カケ》り。又漢書地理志下の注云、古字氏是〔二字右○〕同。後漢書李雲傳の注云、是與v氏古字通といへり。これらにて是氏〔二字右○〕通用(588)を曉るべし』(訓義辨證下卷)。このウヂガハの訓を略解補正に始まるとする校本萬葉は粗略である。
 一首の意は、宇治河の瀬瀬にしきりに立ち續く浪の如く【序詞】しきりに、妹の事が私の心に乘つてしまつた。そして心を離れず忘れることが出來ない。といふのである。『心に乘る』といふ例は、既に云つたが、卷二(一〇〇)に、東人之荷向〓乃荷之緒爾毛妹情爾乘爾家留香聞《アヅマビトノノザキノハコノニノヲニモイモガココロニノリニケルカモ》等がある。『ワガ心ニ妹ガ乘ル』とすれば分かり易い。兎に角一つの使用法である。そしてこの卷二の用例は、稍譬喩的で滑稽があるが、この歌の方は宇治河の浪を序詞として配してあるので却つて自然に聞こえる點もある。上の序はシキ浪からシクシクに連續せしめたのだけれども、單にその音の關係のみでなく、もつと實質的な表象として效果があるやうにおもはれるのである。シクシクは頻りに、絶えず、切にといふ意で、これも音調上でその意味の效果を補助して居るところがある。同じやうな例は、卷十一(二七三五)に、住吉之城師乃浦箕爾布浪之數妹乎見因欲得《スミノエノキシノウラミニシクナミノシバシバイモヲミムヨシモガモ》といふのがある。【追記。第四句、イモ|ハ〔右○〕ココロニと訓む佐伯氏の説は既に記した如くである。】
 
          ○
 
  〔卷十一・二四二八〕
  ちはや人《びと》宇治《うぢ》の渡《わたり》のはやき瀬《せ》に逢《あ》はずありとも後《のち》は我《わ》が妻《つま》
(589)  千早人 宇治度 速瀬 不相有云々 後我※[女+麗]
 
○千早人 チハヤビトで、宇治にかかる枕詞である。チハヤビトは激速《タギハヤ》ブル人といふことで、ウヂといふのも、『平穩ならず、烈しきこころある言』(古義)であるから、卷十三(三二三六)に、血速舊于遲乃渡《チハヤブルウヂノワタリ》。同卷(三二四〇)に、千速振氏渡乃多企都瀬乎《チハヤブルウヂノワタリノタギツセヲ》と續けたのと同じく、やはりウヂに續けた。卷七(一一三九)に、千早人氏川浪乎清可毛《チハヤビトウヂカハナミヲキヨミカモ》の例がある。○速瀬 舊訓ハヤキセニ。新考セヲハヤミ。○後我※[女+麗] 舊訓ノチモワガツマ。童蒙抄ノチハワガツマ(【古義・略解一訓・新考・新訓同訓】)。この訓を校本萬葉は代匠記初稿本だとしてゐるが、契沖全集本には全然その記載を見ない。果して校本萬葉の使用した本にはノチハとあるのであらうか。また新考では、『略解にはノチモとよめり』と言つてゐるが、略解の一訓にノチハがあるのである。私のこの評釋はさういふ考證方面の事は萬事專門家の書物に頼らうとしても、間々以上の如き不安を件ふことを知つてゐなければならぬのである。
 第三句までは序詞で、瀬が速いので容易に渡りかねるごとくに、今は妹に逢ひがたく困難してゐるが、結局後はわが妻だといふのである。
 代匠記精撰本に、『速瀬ノ如クナル人言ニ障ラレテ今コソハアハズトモ後ニモ我妻ニセムトナリ』といひ、古義もそれに從つてゐるが、略解には、『はやくとはさきにと言ふに同じ』とあつて、(590)時の早くに取つてゐる。つまり、一首では、『早く』と、『後は』と相對立せしめたやうに取つたのであらう。併し、此は寄v河歌だから、瀬が速くて渡りがたくといふ意にとる方が無理が無いのではあるまいか。なほ考ふべきであるが、『後我※[女+麗]』といふ句は流石に自然で且つ達して居る。新考では第三句をセヲハヤミと訓んだから、『障る事のあるに譬へたるなり』と解してゐる。此卷(二七一四)に、物部乃八十氏川之急瀬立不得戀毛吾爲鴨《モノノフノヤソウヂガハノハヤキセニタチエヌコヒモアレハスルカモ》。一云。立而毛君者忘金津藻《タチテモキミハワスレカネツモ》がある。
 この歌は、六帖に人麿として、第一二句『ちはやぶるうどの渡りの』、結句『のちもわがつま』とあり、夫木和歌抄によみ人しらずとして、結句『のちもわがつま』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四二九〕
  愛《は》しきやし逢《あ》はぬ子《こ》ゆゑに徒《いたづ》らに是川《うぢがは》の瀬《せ》に裳裾《もすそ》潤《ぬ》らしつ
  早敷哉 不相子故 徒 是川瀬 裳襴潤
 
 結句の『裳襴潤』は、舊訓モノスソヌラス。考ヌラシヌ。略解モノスソヌレヌ(古義同訓)。新考モスソヌラシツ(新訓・全釋同訓)。これは下にひく歌の玉裳沾津《タマモヌラシツ》に據つたものである。
(591) 一首の意は、可哀いくおもうて出掛けたが逢ふことが出來ず、その娘のためにただ徒らに著物を濡らしてしまつた。といふのである。
 この歌も民謠的に出來て居る。そして宇治河を背景として歌はれて居り、其處に宇治河を咏込んだ寄v河戀の歌が數首並んで居るが、同時に出來た歌ではなく、後に類聚したものであらう。一首は平易だが、此は民謠風の歌の特色で、誠に感じ好くすつきりと出來あがつて、常に吟誦に堪ふるものである。初句に、『はしきやし』と云つて、『子ゆゑに』との間に、『逢はぬ』を入れたのなども、壓搾して居るから、輕薄にならずにしまふ上古歌調の好い點を示して居る。
 既に評釋した、卷十一(二三九五)に、行行不相妹故久方天露霜沾在哉《ユケドユケドアハヌイモユヱヒサカタノアメノツユジモニヌレニケルカモ》があり、なほ、同卷(二七〇五)に、愛八師不相君故徒爾此川瀬爾玉裳沾津《ハシキヤシアハヌキミユヱイタヅラニコノカハノセニタマモヌラシツ》とあるのは殆ど此歌に似て居り、『子ゆゑに』が『君ゆゑ』に、『是川《うぢがは》の瀬』が『この川の瀬』になつて居り、『裳襴』が、『玉裳』になつてゐるに過ぎない。さうすれば、古くから、『是川』をばコノカハと謂つただらうといふ想像も付くし、六帖あたりにコノカハとして載つてゐるのをも理解することが出來るやうにおもふ。また、さうすれば結句は必ずしもこの歌の訓に從つて、モスソヌラシツと訓まずに、略解の訓に從つてモノスソヌレヌと訓んだ方が好いとも思つてゐる。また此歌は男の歌であるのに、(二七〇五)の歌は女の歌になつてゐる。約めていへば、この歌の方が一段優つて居るところを考へると、此歌(592)が元で(二七〇五)の方は傳誦の間の變化であらう。民謠風の歌にはこれがあり勝な現象だといふことは他の歌の場合でも立證することが出來る。かういふ特徴については、土屋文明氏の萬葉集年表は細心の用意を拂つて居る。
 同じやうな表現は、卷二(一九四)の、旅宿鴨爲留不相君故《タビネカモスルアハヌキミユエ》は人麿作であり、卷三(三七二)の、立而居而念曾吾爲流不相兒故荷《タチテヰテオモヒゾワガスルアハヌコユヱニ》は赤人の歌で恐らく人麿の影響があり、卷十一(二七三〇)の、木海之名高之浦爾依浪音高鳧不相子故爾《キノウミノナダカノウラニヨスルナミオトタカキカモアハヌコユヱニ》も古風な民遙化歌である。
 此歌は、袖中抄第二に、愛八師《ヲシエヤシ》アハヌ|ニ《コイ》ユヘニイタツラニコノカハノセニモスソヌラ|ヒ《シ歟》ツ。又、早敷哉《ハシキヤシ》アハヌコユヘニイタツラニコノカハノセニモノスソヌラシツとして載つて居る。又、六帖に人麻呂として、下句『この川の瀬に裳の裾濡らす』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三〇〕
  うぢ川《がは》の水泡《みなわ》逆卷《さかま》き行《ゆ》く水《みづ》のこと反《かへ》さずぞ思《おも》ひ始《そ》めてし
  是川 水阿和逆纏 行水 事不反 思始爲
 
(593) ○是川 ウヂガハと訓むことは既に前の歌で云つた。舊訓コノカハノ(【代匠記・考・略解同訓】)。童蒙抄ウヂガハノ。古義コノカハニ。○水阿和逆纏 舊訓ミナアワサカマキ。拾穗抄ミナワサカマキ(代匠記以下同訓】)。○事不反・思始爲 舊訓コトカヘサスッ・オモヒソメテシ(仙覺新點)。古寫本中、コトハカヘラシ・ヲモヒソメテキ(古)。コトカヘサフナ・オモヒソメタリ(細)。コトハカハラシ・オモヒソメテキ(嘉)。拾穗抄コトハカヘラジ・オモヒソメタリ。童蒙抄ゴトモカヘサジ・オモヒソメシハ。考コトハカヘサジ・モヒソメタレバ(略解同訓)。略解一訓(反は變の誤)コトハカハラジ。古義(舊訓に從ひ)コトカヘサズゾ・オモヒソメテシ。新考コトカヘラズゾ・オモヒソメテシ(新訓同訓)。今舊訓に從ふ。
 次に諸解釋を抄すると、『おもひの切なるを、行水のはやきにたとへて、ことかへさすそおもひそめしといへり。ことかへさぬは、思案をめぐらさぬなり』(代匠記初)。『思初めし戀路は、行水の歸らぬ如く何程思止らんとしても思ひ返されぬとの義也。事は如の字の意也。ごとと濁りて讀べき也』(童蒙抄)。『逆まく泡はあとへ返るをその如くはせじといふなり。事は言也』(考)。『一たび思ひ初めて言ひ出でたれば、如何なる事有りとも、言ひ返さじとなり。事は言の意なり。また反は變の誤にて、コトハカハラジならんか』(略解)。『事不反《コトカヘサズ》は、思案をめぐらさず、二念なくと云意なり』(古義)。『事は如なり。例は卷八に、あしひきの山下とよみなく鹿の事〔右△〕ともしかもわが(594)こころづま。卷十に、春さればまづなく鳥のうぐひすの事さきだちて君をしまたむ。とあり。ユク水ノ如ク返ラズゾ思始メテシといへるなり。カヘラズはオモヒカヘス事ナクとなり』(新考)等である。即ち事不反の事は事《こと》(代匠記・古義)。言《こと》(考・略解)。如《ごと》(童蒙抄・新考)と三とほりに解釋があるが、これは『事』説が正しい。言《こと》の説は弱くてこの歌に調和せず、如《ごと》の説の如く句割にして解するのは先づ萬葉の聲調を理解してゐない。それだから、解釋としては代匠記が一番よく、新考は如の説で惡いが、『オモヒカヘス事ナク』と解してゐるのは正しい。
 一首の意は、宇治川の流は急流で勢を以て流れてゆく、その如く(「の」の助詞)に、事は反《かへ》すことは無い。思ひかへすことは無い。中絶することは無い。斷念することは無い。初一念で二念は無いといふことで、第三句までは序詞である。
 この歌は、ミナワサカマキといふ語があるので、『逆』と『反』と照應してゐるやうに解してゐるが、さうではない。其處までは技巧を弄してゐないことを知らねばならぬ。此處は宇治川が直《ただ》に流れる氣勢を云つてゐるのである。この歌は第四句が使ひざまが少し變つてゐるので議論も出たが、右のごとくに解釋すると相當におもしろい歌であり、調子も張つて居り、どこか痛切な響があつて棄てがたい歌である。併し萬葉にはこの程度の歌は非常に多いことを思へば恐るべく敬ふべきではないかと思ふのである。但し、『みなわさかまきゆくみづの』といふ如き句は集中この(595)一例のみであることをも吾等は念頭に置く必要があるだらう。
 この歌は、和歌童蒙抄に、『コノカハノミナワサカマニユクミツノコトハカハラシヲモヒソメテキ』とある。六帖第五『年へていふ』に、『この河のみなわ渦まき行く水のことはかへさで思ひ初めてき』とあり、同じく『あつらふ』に、人麿作として、『三輪川のみなわ逆卷き行く水のこと返すなよ思ひ初めたり』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三一〕
  鴨川《かもがは》の後瀬《のちせ》靜《しづ》けく後《のち》も逢《あ》はむ妹《いも》には我《われ》は今《いま》ならずとも
  鴨川 後瀬靜 後相 妹者我 雖不今
 
 ○後瀬靜 舊訓ノチセシヅケミ。考ノチセシヅカニ。略解ノチセシヅケク。古義ノチセシヅケシ。○我・雖不今 舊訓ワレヨ・ケフナラズトモ。代匠記精ワレハ・イマナラズトモ。略解ワレヨ・イマナラズトモ。古義アレハ・イマナラズトモ。後瀬《のちせ》といふのは、『先浪高き早瀬の有て、さて後の瀬なれば、しづけみとよめり』(代匠記初)。『後瀬ハ下瀬ノ意ナリ。神代紀云。上瀬《カミツセハ》是(レ)太(ハタ)(596)疾《ハヤシ》。下(ツ)瀬(ハ)是(レ)太(ハタ)弱《ユルシトノタマヒテ》便(ハチ)濯《ソソギタマフ》2之中(ノ)瀬(ニ)1也』(代匠記精)といふので大體わかる。
 第二句までは後も逢はむに續けた序詞である。縱ひ今は逢はずとも後に靜かに逢ふことが出來るといふので、後瀬《のちせ》靜《しづ》けくといふいひ方は一種の寫生から來て且つ古樸愛すべく、古代歌謠の枕詞乃至序詞の特色を發揮してゐるのである。調べも、滑に失せずに、『妹には〔右○〕我は〔右○〕いまな〔二字右○〕らずとも』の如く、澁つてゐるやうで却つて味ひを得てゐる點をも顧慮すべきである。なほ、類似した歌には、卷十九(四二七九)に、能登河乃後者相牟之麻之久母別等伊倍婆可奈之久母在香《ノトガハノノチニハアハムシマシクモワカルトイヘバカナシクモアルカ》があり、新後撰集卷十二に、『戀死なむ後に逢ふ瀬のあるべくば猶惜からぬ命ならまし』がある。後世これに類似の句を持つ歌が増したけれども、萬葉の歌に及ばないとおもふが、いかがであらうか。
 この歌は、夫木和歌抄に、よみ人しらずとして、舊訓どほり『のちせしづけみ』、『いもにはわれよけふならずとも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三二〕
  言《こと》に出《い》でて云《い》はばゆゆしみ山川《やまがは》の激《たぎ》つ心《こころ》は塞《せ》きあへにたり
  言出 云忌忌 山川之 當都心 塞耐在
 
(597) タギツココロヲ・セキゾカネタル(舊訓)。タギツココロヲ・セキゾアヘタル。セカヘテゾアル(代匠記初)。セカヘタルカモ。セカヘテゾアル(代匠記精)。タギツココロハ・セキゾカネタル(童蒙抄)。タギツココロヲ・セキアヘテケリ(略解)。セカヘタリケリ(古義)。セキゾアヘタル(新考)。セキアヘニタリ(新訓)。卷十(二〇六五)に、織旗乎公之御衣爾縫將堪可聞《オルハタヲキミガミケシニヌヒアヘムカモ》。卷六(九六二)に、恐毛問賜鴨念不堪國《カシコクモトヒタマフカモオモヒアヘナクニ》。同卷(九九九)に、網手綱乾有沾將堪香聞《アミテツナホセリヌレアヘムカモ》等があり、『堪』をアフと訓んでゐるから、此處の『耐』をもアフと訓ませた。代匠記精撰本で、セカヘタルカモと訓んだのは、卷七(一三八三)に、名毛伎世婆人可知見山川之瀧情乎塞敢而有鴨《ナゲキセバヒトシリヌベミヤマガハノタギツココロヲセカヘタルカモ》といふのがあるから、其を參考したものであらう。それから、卷三(三〇二)に、夜渡月爾競敢六鴨《ヨワタルツキニキホヒアヘムカモ》。卷十九(四二二〇)に、意伊豆久安我未氣太志安倍牟可母《オイヅクアガミケダシアヘムカモ》等と、カモに續けた例が多いからであらう。併し、『塞耐在』だけで、セカヘタルカモと訓むのはどうかと思ふので、新訓のセキアヘニタリに從ふこととした。新考のセキゾアヘタルの訓も緊張してゐてよい訓であるが、アフは係辭無しに動詞に直ぐ續けた例が多いから、略解の訓から導かれた新訓の訓の方がやはり穩當のやうである。
 ユユシは憚《はばか》りある、觸りあるといふので、今でいへば云つてはいけない、大事になるといふ意がある。『歌(ノ)意は、言に打出していはば、忌憚しからむとて、やるせなき心を強ておしとどめて黙止《モダシ》てありけりとなり』(古義)で大體わかる。ただ、『心は塞《せ》きあへにたり』と訓んだから、さう(598)いふ山川の浪の激つやうな亂れ劇しい戀心も塞《せ》かれた、發動を阻まれたと受働的にいひあらはしてゐるのである。
 戀愛的心の動搖をば水の激流に象徴せしめたが、これもまた決して不自然ではない。類想の歌に、前記の卷七(一三八三)のほか、同卷(一三八四)に、水隱爾氣衝餘早川之瀬者立友人二將言八方《ミゴモリニイキヅキアマリハヤカハノセニハタツトモヒトニイハメヤモ》があつて、共に參考になるものである。
 この歌は、六帖に人麿作として、第二句『いはばいみじみ』、下句『たぎつ心をせきぞかねつる』とあり、柿本集に、第二句『いはばゆ|か《(ゆ)》しみ』、下句、舊訓及び六帖と同じである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三三〕
  水《みづ》の上《うへ》に數《かず》書《か》く如《ごと》き吾《わ》が命《いのち》を妹《いも》に逢《あ》はむと祈誓《うけ》ひつるかも
  水上 如數書 吾命 妹相 受日鶴鴨
 
 ○如數書 カズカクゴトキと訓む。數《かず》書《か》くとは、ただ數字を書くのでなく、物の勘定を記すことで、一つ二つでも、一人二人でも、一羽二羽でも、一束二束でも好いのである。カズの例は、(599)卷四(六七二)に、倭文手纒數二毛不有壽持《シヅタマキカズニモアラヌイノチモチ》。卷十二(二九九五)に、疊薦重編數夢西將見《タタミゴモカサネアムカズイメニシミテム》。卷十五(三七二七)に、知里比治能可受爾母安良奴和禮由惠爾於毛比和夫良牟《チリヒヂノカズニモアラヌワレユヱニオモヒワブラム》。卷二十(四四六八)に、宇都世美波加受奈吉身奈利《ウツセミハカズナキミナリ》などがある。○吾命 舊訓ワガイノチヲ。童蒙抄ワガイノチ(【考・略解・新考同訓】)。古義ワガイノチヲ(新訓・全釋同訓)。○受日鶴鴨 ウケヒツルカモで、ウケヒは心を籠めて神に誓を立てることで、神代紀上卷に、『夫誓約之中』とある自注に、『此云2宇氣譬能美難箇1』とあるし、また『祈狩』(于氣比餓利《ウケヒガリ》)といふ語も出來るに至つた。狩して獲た獣で吉凶を卜するのを祈狩といふのである。靈異記に祈祷(有介比《ウケヒ》)と見え、その他祈の字を當てて居るが、ただ祈るのみではない。萬葉の例は、卷四(七六七)に、都路乎遠哉妹之比來者得飼飯而雖宿夢爾不所見來《ミヤコヂヲトホミヤイモガコノゴロハウケヒテヌレドイメニミエコヌ》。卷十一(二四七九)に、夢耳受日度年經乍《イメノミヲウケヒワタリテトシハヘニツツ》(後段に評釋してある)。同卷(二五八九)に、不相思公者在良思黒玉夢不見受旱宿跡《アヒオモハズキミハアルラシヌバタマノイメニモミエズウケヒテヌレド》等がある。
 一首の意は、水の上に幾つ幾つと事物の勘定を書いても直ぐ消えて役に立たない、そのやうに果敢なく頼りない自分の命をも、戀しい妹《いも》に逢ひたいために、逢ふまでは命を保ちたいものだと、神樣に誓願を立てたのであつた。といふので、寄v河戀である。『歌(ノ)意は、水(ノ)上に、物の數を、一(ツ)二(ツ)幾箇《イクツ》と書付る如く、はかなくもろく、たのみになりがたき吾(ガ)命なれど、妹にあはむ爲にとて、長からむことを祈りて、神に誓を立つる哉となり』(古義)。(600)涅槃經に、是身無常、念念不v住、猶如2電光暴水幻炎1、亦如(シ)2畫(クニ)v水(ニ)隨(ツテ)畫(ケバ)隨(ツテ)合(フガ)1とあるのを代匠記が引いて、諸書が其に傚ひ、此歌はこの佛教の經典に本づいて出來たやうに解釋したもの(略解)もあるけれども、此は安易に斯る結論をなすことは避けたい。なぜかといふに、水上に書いたり畫いたりするといふ考は、如何なる時代の、如何なる種族の人の心にも湧き得る過程で、斯る簡單な過程が一々外國文化の文獻に頼らねばならぬ筈はない。阿弗利加あたりの土人の風習、歌謠等の中に我國の風習・歌謠等に非常に似たものがあり、其を吾々は發聲映畫によつて明さまに經驗することが出來るが、其を一々關聯せしめて學者ぶるのは大きい間違で、これは、人麿の、『いさよふ浪のゆくへ知らずも』をば支那模倣だなどと斷定するのと同じ徑路に屬するものである。伊勢物語及び古今集第十一に、『行く水に數かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり』とあるのは、この歌の模倣である。この歌につき眞淵も、『伊勢物語に此言をとりていへる所に、法華脛の文を擧ていへるはつけ添也、彼是思ひていひし言にあらず、數書といふからは一二の數を書てふ誰かいはざらん』(考)と言つてゐる。
 この歌は反省的な點に於て、また題咏的な傾向になりつつある點に於て、『個』の性質を脱却しつつあるが、それでもなかなか澁く力強いものが未だ殘留してゐるのが、古今集の歌と比較すればよく分かる。萬葉集にあつては左程でもない歌が、古今集の歌と比較するに及んでその光を増す(601)思がするのである。
 この歌は八雲御抄に、『万水の上にかすかことわかいのちいもにあはんと|うけひ《受日》つるかな』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三四〕
  荒磯《ありそ》越《こ》え外《ほか》ゆく波《なみ》の外《ほか》ごころ吾《われ》は思《おも》はじ戀《こ》ひて死《し》ぬとも
  荒磯越 外往波乃 外心 吾者不思 戀而死鞆
 
 ○荒礒越・外往波乃・外心 舊訓アライソコエ・ホカユクナミノ・ホカゴコロ。代匠記初書入【校本萬葉】アリソコシ・ホカユクナミノ・ホカゴコロ。略解アリソコエ・ホカユクナミノ・ホカゴコロ。(【古義・新考・新訓同訓】)。外心《ほかごころ》といふのは、異心、異情、他心で、ケシキココロに當る。卷十五(三五八八)に、異情乎安我毛波奈久爾《ケシキココロヲアガモハナクニ》とあるのを參考とすべく、またホカゴコロの例は集中にほかに無いやうだから珍重していい。
 一首の意は、荒磯に浪が打寄せ、磯を越えあふれて外《ほか》まで流れる光景があるが、その外心《ほかごころ》、つ(602)まり外《ほか》に心を移すやうなあだし心は持ちませぬ。縱ひ戀して死んでも。といふのであつて、一言にいふと、縱ひ死んでも他心《あだしごころ》はありませんといふのである。
 この初二句の序詞は、ほかにも隨分寫生から來たいい序詞があるが、この序詞も空想から來ずに寫生してゐるから、象徴詩的な複雜性を有つやうになつて居る。ホカ〔二字右○〕ユク−ホカ〔二字右○〕ゴコロといふ音の關聯のみでなく、もつと意味の内容を織交ぜて複雜にし且つ新鮮にして居るのである。
 萬葉集の歌は、一寸したかういふのでも棄てがたいといふのは、作歌態度は實質的、寫生的だからである。序の詞が皆實質的で空想で無いといふことは感歎すべきものである。なほ、類想の歌は、卷十一(二四五一)に、天雲依相遠雖不相異手枕吾纏哉《アマグモノヨリアヒトホミアハズトモコトタマクラフワレマカメヤモ》があり、後段で評釋する筈である。なほ、古今集東歌に、『君をおきてあだし心をわがもたば末の松山浪も越えなむ』があり、『あだし心』といふ語があるが、此語は萬葉には無いやうである。もつとも、二四五一の『異手枕』をアダタマクラとも訓んでゐるから、類似の語があつたのかも知れないが、アダゴコロの語は古今集以後用例が増したものと看做していいであらう。
 此歌は、拾遺集戀に人麿作として載り、初句『あらいその』、結句『戀ひはしぬとも』となつてゐる。又柿本集にも拾遺集と同樣に訓んで載つてゐる。
 
(603)          ○
 
  〔卷十一・二四三五〕
  淡海《あふみ》の海《み》おきつ白波《しらなみ》知《し》らねども妹《いも》がりと云《い》はば七日《なぬか》越《こ》え來《こ》む
  淡海海 奧白波 雖不知 妹所云 七日越來
 
 ○淡海海 舊訓アフミノウミ(【代匠記・童蒙抄同訓】)。考アフミノミ(【略解・古義同訓】)。○雖不知 舊訓シラズトモ(【童蒙抄・新考同訓】)。代匠記初シラネドモ(【略解・古義・新訓同訓】)。『知らぬ處なり共、妹があり處と聞けば、幾日をも續けて越え來んと也』(童蒙抄)。『今按シラネドモト讀ベキ歟。イカニアラカラムモ知ラネドモナリ』(代匠記精)。『上はシラネドモと言はん序なり。その所は知らねども』(略解)。此處は、シラ〔二字右○〕ナミシラ〔二字右○〕ネと音で續けたまでで、卷三(三一三)の、見吉野之瀧乃白浪雖不知《ミヨシヌノタギノシラナミシラネドモ》と同じ技巧である。代匠記の解はどうか知らん。○妹所云・七日越來 舊訓イモガリトイハバ・ナヌカコエコム(【代匠記・童蒙抄・略解同訓】)。略解宣長訓、七日は直の誤で、イモガリトイヘバ・タダニコエキヌ(古義同訓)。新訓イモガイヘラク・ナヌカコエコヨ。今、舊訓に從つた。
 一首の意は、〔淡海《あふみ》の海に奧つ白波が立つて居る【序詞】〕。妹《いも》の在處《ありか》は何處《いづこ》だと明瞭には分からぬが、戀しい妹の處へ行くのだといふのなら、七日のあひだも湖山《うみやま》を越えて來よう。といふのである。
(604) この歌は、上半に序詞を用ゐ、中味は極めて簡單であるが、その簡淨ないひまはしの中に眞情こもり、民謠的歌としては素朴蒼古でめでたいものの一つである。民謠といへば動ともすれば細かく氣の利いた風に浮動しがちのところを、しつとりと抑へて居る點は上代風の賜物で、可憐、愛すべき歌である。これは、題にすれば寄v海戀だが、これは恐らく題咏の歌ではないであらう。七日といつたのは、卷十(一九一七)に、七日四零者七夜不來哉《ナヌカシフラバナナヨコジトヤ》とある如く、幾日《いくか》でもといふ意である。
 古義では、略解の宣長訓に從つて、『歌(ノ)意は、未だ道をふみ知らねども妹が許といへば、心すすみて、とにかくたどる間もなく、山をも坂をも直越に越來りぬるよとなり』(古義)と解して居る。この解でも味はへないことはなく、卷十四(三三五六)に、不盡能禰乃伊夜等保奈我伎夜麻治乎毛伊母我理登倍婆氣爾餘婆受吉奴《フジノネノイヤトホナガキヤマヂヲモイモガリトヘバケニヨバズキヌ》といふのもあるくらゐであるが、舊訓の儘の方がもつと古風で味ひがある。新訓の、『妹が云へらく七日越え來よ』は、面白さうであるが、聲調が分裂してしまつて、歌の價値が一段と下ることとなる。前の旋頭歌の中に、『玉の如照りたる君を内へと白《まを》せ』(二三五二)といふのがあつたが、短歌の場合にはさう簡單には行かない。
 結句を『越え來む』と訓んだが、『越え行かむ』といふのと同じ氣特に解してよく、上代には、『來』と『行』と餘りにこまかく分化せしめずに使つた例もあるのである。例へば、卷一(七〇)に、(605)倭爾者鳴而歟來良武《ヤマトニハナキテカクラム》(來らむ)呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流《ヨブコドリキサノナカヤマヨビゾコユナル》がある。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として載り、『あふみの海に沖津白浪しらずとも妹かりとはゝなぬかこえなむ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三六〕
  大船《おほふね》の香取《かとり》の海《うみ》に碇《いかり》おろし如何《いか》なる人《ひと》か物《もの》念《おも》はざらむ
  大船 香取悔 慍下 何有人 物不念有
 
 『香取海《かとりのうみ》』は、代匠記精撰本に、『香取ハ近江ニモ下總ニモアレド、此前後淡海海トヨメル中ニ有レバ、第七ニ高島之香取乃浦《タカシマノカトリノウラ》トヨメルト同ジク近江ナリ。仙覺モ此義ナリ』といふので大體近江と考へてもいいが、これも序歌の形式に用ゐ、民謠的であるから、下總の香取の海としても毫も差支ないとも思ふけれども、やはり近江の一處とした方がよい。卷七(一一七二)に、何處可舟乘爲家牟高島之香取乃浦從己藝出來船《イヅクニカフナノリシケムタカシマノカトリノウラユコギデクルフネ》とある『香取の浦』と同處であらう。和名鈔に、高嶋郡高島郷、太加之末とある處で、卷三(二七五)の、何處吾將宿高島乃勝野原爾此日暮者《イヅクニカワレハヤドラムタカシマノカチヌノハラニコノヒクレナバ》。卷七(一一七(606)一)の、大御舟竟而佐守布高島之三尾勝野之奈伎佐思所念《オホミフネハテテサモラフタカシマノミヲノカチヌノナギサシオモホユ》等、皆同處と見てよい。
 一首の意は、こんなに自分は戀に苦しんで居るけれども世の中の人は誰でも苦しまないものはあるまい。といつて自ら慰める氣特の歌である。
 一首の聲調は大きく重厚で、上の句の序もこせこせせず耳觸りしないやうに音を運んでゐるところ、巧を見せずに巧な歌である。古義で結句をモノモハザラムと七音に訓んだが、これは字餘り八音の方がいいだらう。かういふ歌になると人麿作とも直ぐ斷定することが出來ず、普通の讀人不知とせば歌が上等であるから、當時の人々は總じて力量があつたとも解すべく、或は人麿がかういふ一般向の歌を作つたのだとも解し得るのである。人麿作だとせば、人麿はその邊を往反してゐたことになり、人麿生活史上の參考にすべき歌である。『慍』は『碇』の借字で、人麿歌集に借字のあることは、總論のところでも論じて置いた。この下(二四四〇)に、近江海奧滂船重下藏公之事待吾序《アフミノミオキコグフネニイカリオロシフサメテキミガコトマツワレゾ》。(二七三八)に、大船乃絶多經海爾重石下何如爲鴨吾戀將止《オホフネノタユタフウミニイカリオロシイカニセバカモワガコヒヤマム》があり、類似の歌と看做すことが出來る。さうすれば、人麿歌集以外にもかういふ歌が收録せられてゐたことが分かるのである。
 この歌は夫木和歌抄に採られてゐる。六帖では今引いた類似歌(二七三八)の方を採り、第四句
 
(607)          ○
 
  〔卷十一・二四三七〕
  沖《おき》つ藻《も》を隱《かく》さふ浪《なみ》の五百重浪《いほへなみ》千重《ちへ》しくしくに戀《こ》ひわたるかも
  奥藻 隱障浪 五百重浪 千重敷敷 戀度鴨
 
 ○千重敷敷 舊訓チヘシキシキニ。代匠記初書入【校本萬葉】チヘニシクシク。童蒙抄チヘシクシクニ(【考・略解・新考・新訓・全釋同訓】)。
 一首の意は、〔奧つ藻を隱さふ浪の五百重浪《いほへなみ》【序詞】〕千重《ちへ》にも繁く戀をし續けて居る。實に絶えまなく深く籠つて、といふ意もあるだらう。
 この歌のおもしろいのは、上の序詞で、これは單に、『千重《ちへ》しくしく』と言ふためであるけれども、よく吟味すると、『沖つ藻を隱さふ浪』といふ如きでも誠に手の入つたもので、寫生から來て、單純化も能く行はれ、その神經の細かいところは寧ろ近代的であつて近代人の容易に云ひ得ない表はし方である。浪が幾重にも幾重にも立ち寄せて來て、生えて居る海藻が見えなくなる趣だから、その寫象もそれに伴ふ情調もなかなか複雜なので現代の吾等でも到底及び難いところを遂行(608)して居るから、吾等はその點を學ぶべきである。卷四(五六八)に、三埼廻之荒礒爾縁五百重浪立毛居毛我念流吉美《ミサキミノアリソニヨスルイホヘナミタチテモヰテモワガモヘルキミ》は似た歌で、それは天平二年大伴旅人が京に還る時に、筑前掾門部連石足が餞した歌である。卷六(九三一)に、鯨魚取濱邊乎清三打靡生玉藻爾朝名寸二千重浪縁夕菜寸二五百重波因邊津浪之益敷布爾月二異二日日雖見今耳二秋足目八方四良名美乃五十開囘有住吉能濱《イサナトリハマベヲキヨミウチナビキオフルタマモニアサナギニチヘナミヨセユフナギニイホヘナミヨルヘツナミノイヤシクシクニツキニケニヒビニミルトモイマノミニアキタラメヤモシラナミノイサキメグレルスミノエノハマ》といふのは、藻と浪との關係を敍して居て參考となる。して見れば、『沖つ藻』と云つても、そんなに深い處の沖合ではなく、やはり觀察の對象となり得る、岸近いところからの寫生に本づいたに相違ない。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三八〕
 人言《ひとごと》は暫《しま》しぞ吾妹《わぎも》繩手《つなで》引《ひ》く海《うみ》ゆ益《まさ》りて深《ふか》くしぞ念《おも》ふ
  人事 暫吾妹 繩手引 從海益 深念
 
 ○人事・暫吾妹 舊訓ヒトゴトハ・シバラクワギモ(【代匠記・童蒙抄・考同訓】)。略解ヒトゴトハ・シマシゾワギモ。同宣長訓、暫は繁の誤で、ヒトゴトノ・シゲケキワギモ(古義從之)或はシゲキワギモコ。(609)新考ヒトゴトヲ・シゲミトワギモ或はシゲミトイモヲ。○從海益・深念 舊訓ウミヨリマシテ・フカクシゾオモフ。古義ウミユマサリテ。童蒙抄フカクゾオモフ。考フカクシオモホユ。古義フカクシゾモフ。新訓フカクシオモフヲ。全釋フカクシゾオモフ。
 一首の意は、二人の仲はいろいろと人の噂がうるさいが、それも暫らくのうちだ、戀人よ、それよりも私は綱手を引いて船漕ぐ海にも増して深くお前のことを思つて居るのだ、だからさう氣を揉まずに居て呉れ。といふのである。
 この歌は對咏歌として、對話風に咏んでゐるから、幾らか小きざみになつて居る。それにしても、第二句に、『暫しぞ〔右○〕』と云つたから、新訓の訓のやうに結句を『念ふを〔右○〕』と訓むとせば、『を』がうるさいやうでもある。そこで、舊訓どほりに、『深くしぞ念ふ』と据ゑてしまつた方が却つていいやうに思つたのである。
 綱手《ツナデ》の用例は、萬葉では、歌ではこの一首のみ。あとは卷十八(四〇六一・四〇六二)の左注に、『右件歌者御船以2綱手1泝v江遊宴之日作也。傳誦之人田邊史福麿是也』とある中にある。古今集以下には、『みちのくはいづくはあれど鹽竈の浦こぐ舟の綱手悲しも』をはじめ用例は多い。綱《ツナ》の用例ならば、萬葉にも稍多く、卷十四(三三八〇)に、佐吉多萬能津爾乎流布禰乃可是乎伊多美都奈波多由登毛《サキタマノツニヲルフネノカゼヲイタミツナハタユトモ》(【綱は絶ゆとも】)許登奈多延曾禰《コトナラエソネ》。卷十五(三六五六)に、安伎波疑爾爾保敝流和我母奴禮奴等(610)母伎美我美布禰能都奈之等理弖婆《アキハギニニホヘルワガモヌレヌトモキミガミフネノツナシトリテバ》(【綱し取りてば】)等がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四三九〕
  淡海《あふみ》の海《み》おきつ島山《しまやま》奥《おく》まけて吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》に言《こと》の繁《しげ》けく
  淡海 奧島山 奥儲 吾念妹 事繁
 
 ○淡海 舊訓アフミノウミ。代匠記精。海の一字脱か又はアフミノか。童蒙抄。海の一字略か又はアハウミノ。考。海の一字脱ならばアフミノミ。○奧儲・吾念妹・事繁 舊訓オキマケテ・ワガオモフイモニ・コトノシゲケム。考オクマケテ(諸書從之)。代匠記初書入【校本萬葉】ワガモフイモニ(新訓同訓)。童蒙抄ワガモフイモガ(【略解・古義同訓、但し古義アガ】)。新考ワガモフイモヲ。童蒙抄コトゾシゲレル。考コトノシゲシモ。略解コトノシゲケク(古義以下同訓)。奧島《おきつしま》は湖の中の島で。延喜式。近江國蒲生郡奧津島神社【名神大】とある今の沖の島である。神社は。新抄格勅符に。大同元年神封一戸を充てられ。三代實録に。貞觀元年授位の事がある。オクマケテは。オクマヘテといふのに同じく。奥深く、心深く、大切に藏すといふこととなる。マケテは、卷四(七四四)に、暮去者屋戸開設而(611)吾將待夢爾相見二將來云比登乎《ユフサレバヤドアケマケテワレマタムイメニアヒミニコムトフヒトヲ》。卷七(一二七八)に、衣裁吾妹裏儲吾爲裁者《キヌタツワギモウラマケテワガタメタタバ》などのマケテであらうか。卷十一(二七二八)の、淡海之海奥津嶋山奥間經而我念妹之言繁苦《アフミノミオキツシマヤマオクマヘテワガモフイモガコトノシゲケク》は殆ど全くこの歌と同じであるが。此歌(二四三九)の方が原歌のやうに思へる。なほ、卷六(一〇二四)に。長門有奧津借島奧眞經而吾念君者千歳爾毛我毛《ナガトナルオキツカリシマオクマヘテワガモフキミハチトセニモガモ》。同(一〇二五)に。奧眞經而吾乎念流吾背子者千年五百歳有巨勢奴香閲《オクマヘテワレヲオモヘルワガセコハチトセイホトセアリコセヌカモ》等があつて。オクマヘテの用法を知ることが出來る。
 一首の意は。〔淡海《あふみみ》奧《おき》つ島山《しまやま》【序詞】〕奧ふかく心にしまふやうにして。心から愛して居る自分の女のことを彼此人が云つて喧しいことである。といふのである。
 寄v海戀で中味は平凡だが。奧まけてといふやうな語があつて。詮議すれば種々學ぶべき點がある。
 この歌は。夫木和歌抄に。山上憶良作。第三句以下『おきまけてわか思ふ妹かことのしけけん』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四〇〕
  近江《あふみ》の海《み》おきこぐ船《ふね》に碇《いかり》おろし藏《をさ》めて君《きみ》が言《こと》待《ま》つ吾《われ》ぞ
(612)  近江海 奧滂船 重下 藏公之 事待吾序
 
 ○藏公之 舊訓カクレテキミガ。古寫本中シノビテと訓んだのがあるので(文・西・温・京・矢)、略解補正でシノビテと訓んだ。童蒙抄カクシテ。考一訓シタニモ。新考マモリテ。新訓ヲサメテ。卷九(一七一〇)に、苅將藏倉無之濱《カリテヲサメムクラナシノハマ》。卷十六(三八一六)に、家爾有之櫃爾※[金+巣]刺藏而師《イヘニアリシヒツニザウサシヲサメテシ》といふ例がある。其上の處まで序詞だから、オ〔右○〕ロシ――ヲ〔右○〕サメテの似た音で續けたものかも知れない。
 一首の意は、〔近江の海の、沖を榜ぐ船に碇をおろし、【序詞】〕心を藏《をさ》めて、辛抱して、心靜かに、あなたの返事を待つて居ますぞ。といふのである。
 これも寄v海戀で、一首が民謠的色調を帶びて居る。それから、『碇おろし』までは音調上の序でもあらうが、單に音のみの連續でなく、意味合の上からも不即不離の裏に連續せしめて居る。その具合は、前の歌の、『碇おろしいかなる人か物念はざらむ』(二四三六)などの序は單に音のみで續けたやうだが、この方はもつと意味が入つて來て居る。
 ヲサメテといふ語もなかなか好い語であるから、之を現代的に生かす場合にはどうなるだらうかといふことに留意して學ぶべきである。また結句の、ワレゾといふゾで止めたのは強めたほかに何かを促してゐるのであらう。
 この歌の、『近江海』に就いて、眞淵は、『寄物陳思てふ中に、近江海と書たり。是は、和銅六(613)年五月詔して、諸國郡郷の名好字を用よと有し時より、淡海を近江に改めしなり。人万呂は和銅元年の比、藤原宮の時身まかりしかば、その後の人の筆なる事是にて明らけし』(【柿本朝臣人麻呂歌集之歌考序】)と云つた。この材料が根據となつて、人麿歌集は人麿役後、後人の手によつて恣に作られたやうな感じをも起させる趣の説も出たのであるが、近時石井庄司氏の研究によつて、同じ人麿歌集でも、『近江』と書いたのは唯この一つのみで、他は、『淡海縣』(卷七。一二八七)。『淡海海』(卷十一。二四三五)。『淡海』(同卷。二四三九)。『淡海海』(同卷。二四四五)とある如く、いづれも、『淡海』である。そこで石井氏は、『たとへ和銅六年五月から公に近江といふ字面が用ひられたにしても、それより以前にも私には近江といふ字面が用ひられてゐたかも知れない』。『まして人麻呂集中大部分淡海とあり、僅かに一つの例しかないのであるから、此の文字使用法の點から云つても、人麻呂集を以て和銅六年以後と斷定することが出來ないばかりでなく、それよりももつと古く飛鳥藤原時代にまで溯つても何等不合理なことではないと思ふ』(人麻呂集考)と結論したのに私も從ふのである。高市連黒人※[羈の馬が奇]旅歌八首中、礒前榜手回行者近江海八十之湊爾鵠佐波二鳴《イソノサキコギタミユケバアフミノミヤソノミナトニタヅサハニナク》(卷三。二七三)にも、『近江』と書してある。歌以外の詞書には、中大兄近江宮御宇天皇とか、柿本朝臣人麻呂從2近江國1上來等とあるのは和銅六年以後の書記だらうと推論することが出來るとも思ふが、黒人の歌は、年表では大寶二年の箇處に配列してゐるから、或は編輯時の資料に既に、『近江海』と記(614)してあつたものであらうか。なほ考ふべきである。
 此歌は、六帖に載り、『近江の海沖こぐ船の碇おろし忍びし君が言まつ我を』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四一〕
  隱沼《こもりぬ》の下《した》ゆ戀《こ》ふれはすべを無《な》み妹《いも》が名《な》告《の》りつ忌《い》むべきものを
  隱沼 從裏戀者 無乏 妹名告 忌物矣
 
 ○隱沼・從裏戀者 舊訓カクレヌノ・シタニコフレバ。代匠記精コモリヌノ・シタユコフレバ(諸書從之)。○無乏 舊訓スベヲナミ。考で乏は爲の誤としたが、此儘でいいことを既に云つた。 ○妹名告・忌物矣 舊訓イモガナツゲツ・ユユシキモノヲ。代匠記精イモガナノリツ・イムベキモノヲ(【略解・古義・新訓等從之】)。童蒙抄イモガナノラン・イミジキモノヲ。考イモガナノリツ・ユユシキモノヲ(新考同訓)。
 一首の意は、〔隱沼《こもりぬの》〕心の下に奥深く潜めて、ただ戀しく思つてゐるばかりでは、苦しくて何とも致方がないので、つひに妹《いも》の名をば云つてしまつた。妹の名を云つてはいけなかつたのだの(615)に、しまつたことをした。といふのである。
 これは寄沼戀であらう。この歌も分かりよく、結句の、『忌むべきものを』も、感情が籠つてゐていい。卷十一(二七一九)に、隱沼乃下爾戀者飽不足人爾語都可忌物乎《コモリヌノシタニコフレバアキタラズヒトニカタリツイムベキモノヲ》といふのがあつて、この歌に非常に好く似てゐるが、能く味ふと、この歌の方が餘程旨く、(二七一九)の方は、分かりよく通俗化してゐる點から推してこの歌(二四四一)の方が原歌だらうといふことが分かる。特に、『下《した》ゆ』といつたのは、『戀ふる』につづくので、心が動いて行くさまであるから、ユを用ゐたのである。それを下爾《シタニ》としたのではつまらぬのである。『すべを無み』といふから痛切だが、『飽き足らず』では極めて通俗である。この歌が原歌だとせば、人麿歌集の歌は、縱ひ全部人麿の作でなくとも、古く既に相當に重んぜられてゐたといふことが分かる。なほ、卷十二(二九四七)に、念西餘西鹿齒爲便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾《オモフニシアマリニシカバスベヲナミワレハイヒテキイムベキモノヲ》といふのがある。
 和歌童蒙抄には(二七一九)の、『カクレヌノシタニコフレハアキタラスヒトニカタリツイムヘキモノヲ』といふのを載せてゐる。(校本萬葉ではこれを(二七一九)の處に載せずにこの(二四四一)の處に出してゐる)。六帖もやはり『かくれぬの下に戀ふれば飽たらず人に語りついむてふものを』と(二七一九)の方を採つてゐる。
 
(616)          ○
 
  〔卷十一・二四四二〕
  大地《おほつち》も採《と》らば盡《つ》きめど世《よ》の中《なか》に盡《つ》きせぬものは戀《こひ》にしありけり
  大土 採雖盡 世中 盡不得物 戀在
 
 ○採雖盡 舊訓トレバツクレド(【代匠記・考・略解・新考同訓】)。古義トラバツキメド(新訓同訓)。○盡不得物・戀在 舊訓ツキセヌモノハ・コヒニザリケリ。代匠記精ツクシエヌモノハ・コヒニザリケル。童蒙抄ツキセヌモノハ・コヒニゾアリケル。考ツキセヌモノハ・コヒニシアリケリ(【略解・新考・新訓同訓】)。古義ツキエヌモノハ・コヒニシアリケリ。
 一首の意は、この大地《だいち》の土《つち》も、採らば盡きる期はあらうけれども、この世の中に盡きないものは、噫、戀といふものであつた。といふのである。
 この歌は、趣く概括的に歌はれてゐるが、單に思想歌といふやうなものでなく、個人の實感によつて咏まれた、『個』の饗があるために、この一首に強味を與へて居る。代匠記には、最勝王經(【金光明最勝王經】)如來壽量品偈を引いてゐる。『一切(ノ)大地(ノ)土(ハ)可v知2其(ノ)塵數(ヲ)1、無(キハ)v有(ルコト)2能(ク)算知(スルコト)1釋迦(ノ)之壽量(ナリ)。迷悟異ナレド此意ト同ジ。盡不得物、此ヲツキセヌモノハト點ゼルハ叶ハズ。ツクシエヌモノハ(617)ト讀ベシ』と云つてゐる。代匠記では、この佛典のことが眼中にあるものだから、ツクシエヌモノハと訓まうとした。併し、ここはツキセヌモノハと素直に悟りめかずに訓むべきところである。また、私見によれば、この歌は毫も佛典などの影響を必要として居ない。もはや當時の歌人の力量を以つてして、そんな補助は要らなかつたのみならず、これは戀歌である。戀歌は縱ひ寄v土戀で、やや題咏的だといつても、それでも作らうとする時には戀の實驗を基本として居る。それを見免してはならぬのである。
 なほ、『大地』の用例は、卷十三(三三四四)に、大地乎太《オホツチヲホノ》〔火〕穗跡立而居而去方毛不知《ホトフミタチテヰテユクヘモシラズ》がある。法華經見寶塔品第十一に、若(シ)以2大地〔二字右○〕1置2足(ノ)甲《ツメ》上1昇2於梵天1亦未爲誰云々。金光明最勝王經に、充滿於大地〔二字右○〕云々。大品般若經に、大地〔二字右○〕六種震動云々。見大地〔二字右○〕株※[木+兀]棘荊山陵溝坑穢惡之處云々。若動大地〔二字右○〕若放光明云々とあるし、支那文學では、商子に、乘2其衰1大地〔二字右○〕侵削云々。温子昇の韓陵山寺碑中に、高天銷2於猛炭1大地〔二字右○〕淪2於積水1云々。そこで、この歌の、『大地も』云々は大陸文學的發想と解せられる傾向があつたのだが、日本語でも、大王、大埼、大坂、大藏、大島、大海、大舟、大原、大野、大路、大橋、大沼、大鷹、大殿、大瀧等の用例があるし、卷十三の歌の、『大地を炎と踏み』は、佛典の影響らしくもあるが、よく味ふと、上に、『大舟のおもひ憑みて』があつて、それと照應してゐるのである。また、後に出て來る、『ぬば玉の間あけつつ貫ける緒も』云々(618)の歌などはなかなか細かい發想であるから、『大地も』云々の發想ぐらゐの程度を以て直ぐ大陸文學の影響だとは云ひ難いのである。
 此歌は、和歌童蒙抄に、『オホツチモトレハツクテフヨノナカニツキセヌモノハコヒニソアリケル』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四三〕
 
  隱處《こもりど》の澤泉《さはいづみ》なる石根《いはね》をも通《とほ》してぞ念《おも》ふ吾《わ》が戀《こ》ふらくは
  隱處 澤泉在 石根 通念 吾戀者
 
 初句舊訓コモリヅノと訓む。宣長は處は泉の誤ならむといひ、處ならばドと訓むのが普通だと云つて居る。第四句は舊訓トホシテオモフ。古寫本イハノネモカヨヒテオモフ(細)と訓んだのもあり、考ではカヨヒテゾモフと訓み、略解ではトホシテゾオモフと訓んだ。澤泉は澤に湧く泉で、『こもりづはかくれたる所なり。かくれたる澤に水のわき出るいはねなり』(代匠記初)で大體わかる。谿澤に湧き出る泉が巖を通して出てくるごとくにわが妹を念ふ一念もまた徹してゐすぐ(619)らゐの意である。
 上句の序詞は實際の自然寫生でなかなかいい。『澤泉』といふ語も、造語法の點からいへば、非常に爲めになる例である。かういふ造語が多いので萬葉の歌はいつも新鮮であり、古今集以後は、語彙が却つて貧弱になつて衰へて行つたと解釋していいだらう。ここに『澤』の入つた歌を參考のために書くならば、卷十四(三四六二)に、安志比奇乃夜末佐波妣登乃《アシヒキノヤマサハビトノ》(山澤人の)比登佐波爾《ヒトサハニ》。卷十(一八三九)に、爲君山田之澤惠具採跡雪消之水爾裳裾所沾《キミガタメヤマタノサハニヱグツムトユキゲノミヅニモノスソヌレヌ》。卷十一(二六八〇)に、河千鳥住澤上爾立霧之《カハチドリスムサハノヘニタツキリノ》等がある。
 此卷(二七九四)に、隱津之澤立見爾有石根從毛達而念君爾相卷者《コモリヅノサハタヅミナルイハネユモトホシテオモフキミニアハマクハ》があるが、この人麿歌集の歌と殆ど同一である。恐らく人麿歌集の歌の異傳であらうが、却つて惡くなつてゐるのに注意せねばならぬ。特に、『澤いづみ』が、『澤たづみ』になつてゐる如きは變化の著しいことを示してゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四四〕
  白檀弓《しらまゆみ》石邊《いそべ》の山《やま》の常磐《ときは》なる命《いのち》なれやも戀《こ》ひつつ居《を》らむ
(620)  白檀 石邊山 常石有 命哉 戀乍居
 
 ○白檀・石邊山 シラマユミ・イソベノヤマノと訓む。白檀《しらまゆみ》は此處では射《い》に懸け、同音の石《いそ》に續けた。この枕詞は檀木《まゆみのき》で作つた弓で白眞弓《しらまゆみ》の名を得た。そして、白檀弓今春山爾《シラマユミイマハルヤマニ》(卷十。一九二三)。白檀斐太乃細江之《シラマユミヒタノホソエノ》(卷十二。三〇九二)等で、ハル或はヒクのヒに懸けた。石邊山《いそべのやま》は、『石邊山ハ近江ノ神崎《カムサキ》郡ニアル由彼國ノ老申シキ。前後ニ近江ヲヨメル歌多ケレバ然ルベキニヤ。佐々木承禎ノ陪臣ニ磯部某ト聞エシモ彼國ノ住人ニテ此|石邊《イソヘ》ヲ以テ氏トセルニヤ。山ハ何レノ山モ動ナキ中ニ分テ石邊山ト云名ニヨリテ常石有トハツヅケタリ』(代匠記精)とある。○命哉・戀乍居 イノチナレヤモ・コヒツツヲラムと訓む。舊訓イノチナラバヤ。童蒙抄イノチヲモガナ。考イノチモガモト。略解イノチナレヤモ(古義同訓)。新考イノチニモガモ。『四五の間にサラバ心ナガクといふことを插みて聞くべし』(新考)。此處のヤモは反語で、イノチナラムヤハの意に解すべきであつて、卷十八(四一一八)に、年月經禮婆古非之家禮夜母《トシツキフレバコヒシケレヤモ》があり、その他、卷十九(四一六四)に、於保呂可爾情盡而念良牟其子奈禮夜母《オホロカニココロツクシテオモフラムソノコナレヤモ》があり、古爾斯迦米夜母《コニシカメヤモ》。和禮故飛米夜母《ワレコヒメヤモ》。安波射良米也母《アハザラメヤモ》の如き普通の反語のヤモは人の普く知るところである。
 一首の意。〔白檀石邊山《しらまゆみいそべのやまの》【序詞】〕いつまでも變らずにある私の命《いのち》であらうか、いや決してさうではない。それだのにかういふ果敢ない戀をして居らねばならぬのか、悲しく悩ましい限である。(621)『命哉《イノチナラバヤ》ハ願フ詞ニハアラズ。命ニテ有タラバヤナリ。トキハナル命ニテダニアラバ遂ニハ逢時アラムト心長ク憑テ戀ツツモ有ベキヲ、我モ人モハカナキ命ナレバイトド心イラレテ戀シキ意ナリ』(代匠記精)。『心は、いつまでもながらふべき命ならねば、命の限り戀ひつつのみ居らんと言ふなり』(略解)。『歌(ノ)意は、常石《トキハ》に、いつもかはらぬ身命にてあらむやは、常なき現身は、明日さへもたのみがたきならひなれば、心長くおもひのどめて、ただに思(ヒ)つつのみをるべきことかはと、心いられして、戀しく思ふよしなり』(古義)。
 この歌は、代匠記に寄v石戀とし、古義に寄v山戀としてあるが、前者の説に從ふべきであらう。上半に序詞を置く慣用手段に出たもので、やはり民謠風の歌である。第四句で、『命なれやも』と云つて直ぐ、『戀ひつつをらむ』と止めたから、現代の人にも直ぐ腑に落ちないのだが、反語といふことが分かれば理解がつくので、心いらだつといふ意は、この結句も反語になるからである。
 この歌は、六帖山の部に、『白眞弓いるさの山の常磐なる命かあやな戀ひてやあらむ』とあり、家持集に、『白眞弓いつもの山の常磐なる命かあやな戀ひつつあらむ』とあり、夫木和歌抄山の部に、人丸作として、『しらまゆみいそへの山の常磐なるいのちもかもや戀ひつつをらむ』、よみ人しらずとして、『しらま弓いつはのやまの常磐なるいふりあやなよ戀つつやへん』とある。
 
(622)          ○
 
  〔卷十一・二四四五〕
  淡海《あふみ》の海《み》沈著《しづ》く白玉《しらたま》知《し》らずして戀《こひ》せしよりは今《いま》ぞ益《まさ》れる
  淡海海 沈白玉 不知 從戀者 今益
 
 シラタマ・シラズと續けんための序で、淡海の海に沈んで居る白玉の知れないやうに、ただ知らずにほのかに戀した頃に較べれば、現在は益々切實になつてゐる、益々戀しいといふので、この歌も戀歌としておもしろい。白玉は、石の白玉《はくぎよく》でも眞珠《しんじゆ》でも色白いのでさう名づけていふ。眞珠は和名鈔に、珠、白虎通云海出2明珠1【日本紀私記云眞珠之良太麻】とあり、箋注に、『古所云之良多麻、盖皆眞珠非2白玉《ハクギヨク》1也』とある如く、この場合も眞珠のことであらう。卷六(九三三)に、鰒珠《アハビタマ》。卷七(一三二二)に、鰒玉《アハビタマ》。卷十三(三三一八)に、木國之濱因云鰒玉《キノクニノハマニヨルトフアハビタマ》。卷十八(四一〇一)に、可都伎等流登伊布安波妣多麻《カヅキトルトイフアハビタマ》等の例がある。そして、鰒眞珠《あはびしらたま》は淡海の海に産したかどうかといふに、これは『海』といつたから、その縁で、『白玉』と云つたのだらうと思ふが、若し、實物考證が必要ならば、これはカラスガヒの眞珠であらう。眞珠は、カキガヒ(牡蠣)、アコヤガヒ等からもとれるが、
 カラスガヒは、タガヒ、タンガヒ、ドブガヒ、ヌマガヒ、ゴウツウガ(623)ヒ等ともいふ。新撰字鏡に、蚌【大田加比】本草和名に、蚌蛤、一名含漿、一名蜃、一名海月、一名含珠【出2兼名苑1和名多加比】本朝食鑑に、蚌【訓2奈加他加比1】集解【前略】其肉不v佳、但爲民間之食1也、凡本邦之人知v有2鰒蛤淺蜊之珠1、而采爲2眞珠1誤2于藥肆1、然未v知2蚌珠之貴1、是不2類多1之故乎。この蚌は琵琶湖産を以て著名としてゐるから、古から名のあつたものであらう。コヒニシヨリハ(考)。コヒツルヨリハ(略解)。シラザリシトキヨリコヒハ(新考)等の訓がある。『今益』は、舊本『令益』と誤つてゐたのを代匠記で指摘した。古寫本はほとんど『今』となつてゐる(【嘉・類・西・神・温・矢・京】)。童蒙抄で『それ共知らで名のみ聞きて戀ひせし人の、それと知りあひて愈思ひのまさると也』と解し、新考に、『三四を略解古義にシラズシテコヒツルヨリハとよめり。右の如くよまば今ゾマサレルは何が益るとかせむ。今ゾマサレルといはむにはその益るものを云はざるべからざるにあらずや。宜しく從の上に時の字を補ひてシラザリシ時ヨリコヒハとよむべし。さてシラザリシは噂ニ聞キテ未顔ヲ見ザリシといふ事にて此歌は未逢始めぬさきの歌なり』と云つてゐる。改訓はいかがと思ふが、未逢戀説は一説であらうか。なほこの歌の條で代匠記精撰本に、『第一第三ニ人丸ノ近江ニテノ歌、近江ヨリ歸リ上ラルル時ノ歌アレバ、近江守ノ屬官ナドニテ彼國ニ有テ見聞ニ任テシルサレタルニヤ』と云つてゐるのは、人麿と近江との關係までをも想像したことが分かつて興味あるのである。卷七(一三一七)に、海底沈白玉風吹而《ワタノソコシヅクシラタマカゼフキテ》。(一三一八)に、底清沈有玉乎欲見《ソコキヨミシヅケルタマヲミマクホリ》。(一三一九)に、大(624)海之水底照之石著玉《オホウミノミナソコテラシシヅクタマ》。(一三二〇)に、水底爾沈白玉誰故《ミナソコニシヅクシラタマタレユヱニ》。卷二十(四三四〇)に、豆久志奈流美豆久白玉等里弖久麻弖爾《ツクシナルミヅクシラタマトリテクマデニ》。卷六(一〇一八)に、白珠者人爾不所知不知友縱《シラタマハヒトニシラエズシラズトモヨシ》。これは既に評釋したが、卷七(一三〇〇)に、白玉人不知見依鴨《シラタマヲヒトニシラエズミムヨシモガモ》。(一二九九)に、船浮白玉採人所知勿《フネウケテシラタマトルトヒトニシラユナ》等がある。それだから、この歌も、單にシラタマからシラズと同音で續けたのみでなく、シヅク・シラタマといつて、表象的に戀人を聯想せしめるところがあつておもしろいのであらう。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四六〕
  白玉《しらたま》を纏《ま》きてぞ持《も》たる今《いま》よりは吾《わ》が玉《たま》にせむ知《し》れる時《とき》だに
  白玉 纏持 從今 吾玉爲 知時谷
 
 ○纏持・從今 舊訓マキテモタレバ・イマヨリハ。古寫本マキモチシヨリ・イマダニモ(嘉・類・細)。マキテモタレバ・イマヨリハ(温・西・矢・京)。童蒙抄マキテモタナン。略解マキテゾモタル(【古義・新訓同訓】)。新考テニマキモチテ。『縱v今』は、流布本『縱v令』に柞つてあつたが、古寫本(625)中『今』に作つてゐる(【嘉・類・西・神・温・矢・京】)のがあるので改めた。代匠記初で既に其を指摘した。○吾玉爲・知時谷 舊訓ワガタマニセム・シレルトキダニモ。童蒙抄シレルトキダニ(【考・略解・古義・新訓同訓】)。新考シレルノチダニ。
 一首の意は、今まで持つことが出來なかつた白玉をば今自分の手に纏《ま》いて持つて居る。ああ今からはこれを自分の玉にしよう。未來のことは分からぬが、せめて斯うして相知り相應じ得た時機の間だけでも。といふので、やうやく得た玉の如き女を喜んで、せめてこの現在だけでも、獨占して樂まうといふ感慨を漏らしたものである。
 『此知は妹を相知也。妹にはじめてあふ事は得て、その母などにまだしらねば末はしらねど、今相知時をだに吾ものと思ひ定めんと也』(考)。卷七(一三二六)に、照左豆我手爾纏古須玉毛欲得其緒者替而吾玉爾將爲《テリサツガテニマキフルスタマモガモソノヲハカヘテワガタマニセム》。卷十六(三八一四)に、眞珠者緒絶爲爾伎登聞之故爾其緒復貫吾玉爾將爲《シラタマハヲダエシニキトキキシユヱニソノヲマタヌキワガタマニセム》。同卷(三八七〇)に、紫乃粉滷乃海爾潜鳥珠潜出者吾玉爾將爲《ムラサキノコガタノウミニカヅクトリタマカヅキイデバワガタマニセム》といふのがある。
 寄v玉戀で、これは一首が『玉』で一貫して、下の句にも、妹《いも》といふやうな語が無い。これは白玉などといへば既に戀人を象徴し得るからであらう。ただ、『知れる時』といつて、人間と玉と不即不離のあひだにその表現を完うしてゐる。民謠風の歌だが、澁いところがあつて調子もまた張つて居る。
 
(626)          ○
 
  〔卷十一・二四四七〕
  白玉《しらたま》を手《て》に纏《ま》きしより忘《わす》れじと念《おも》ひしことは何時《いつ》か畢《をは》らむ
  白玉 從手纏 不忘 念 何畢
 
 ○不忘・念・何畢 舊訓ワスレジト・オモヒシコトハ・イツカヤムベキ。代匠記初書入【校本萬葉】ワスラエズ。考オモフココロハ。略解宣長訓(念の下に心の字脱)オモフココロハ(【古義・新考從之】)。代匠記初書入イツカヲハラム。代匠記精イツカヲヘナム。童蒙抄イツカハツベキ。略解宣長訓イツカカハラン、畢は異の誤(【古義・新考從之】)。
 一首の意は、白玉をば自分の手に握き持つて、それを忘れまいと思つたことは何時になつたらば終《をはり》になることか、何時になつたら忘れてしまふことか。決して忘れてしまふことは無いぞ。この美しい女を手に入れてからは、もはや永久に忘れないよ。といふのである。
 寄v玉戀で、前の歌と同工異曲である。下《しも》の句《く》は、廻りくどいことを云つてゐるが、その云ひ方、語氣がなかなかおもしろい。諸注釋書の異訓について、吟味すれば皆相當に有益だから、共に鑑(627)賞してかまはぬ。例へば、考の、『忘れじと思ふ心は何時か止むべき』でも、相當にい聲調である。また宣長の訓にしても、『これも女を我(ガ)手に入たるをたとへたり。思ふ女を我(ガ)手に入たる其(ノ)日より未遂に忘れじと堅く思ひ定めし心の、いつかは變るべき』(古義)として味ふことが出來るのである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四八〕
  ぬば玉《たま》の間《あひだ》開《あ》けつつ貫《ぬ》ける緒《を》も縛《くく》りよすれば後《のち》逢《あ》ふものを
  烏玉 間開乍 貫緒 縛依 後相物
 
 ○烏玉・間開乍 舊訓ヌバタマノ・ヒマシフミツツ。代匠記精ヌバタマノ・アヒダアケツツ。童蒙抄ヌバタマノ・ヨハアケナガラ。考(烏は白の誤)シラタマヲ・アヒダオキツツ。略解シラタマヲ・アヒダアケツツ(新考同訓)。古義シラタマノ・アヒダアケツツ。新訓ヌバタマノ・アヒダアケツツ。○貫緒・縛依・後相物 舊訓ヒモノヲノ・ムスビテシヨリ・ノチアフモノカ。代匠記精ヌケルヲモ・ムスベバヨリテ・ノチアフモノヲ。童蒙抄タマノヲノ・マツヒヨリナン・ノチモ(628)アフトモ。考ヌケルヲモ・ククリヨスレバ・ノチアフモノヲ(【略解・古義・新考・新訓同訓】)。
 この烏玉を眞淵は白玉の誤としたが、代匠記に既に、『烏玉ハ、第十五云、奴波多麻能《ヌバタマノ》、伊毛我保須倍久安良奈久爾《イモガホスベクアラナクニ》、和我許呂母弖乎奴禮弖伊可爾勢牟《ワガコロモテヲヌレテイカニセム》。此奴波多麻ハ妹ヲホメムトテオケリ。常ノ黒キトツヅクルニハ替レリ。今モ唯白玉ト云ハムヤウニ聞ユルハ黒キ玉ノウルハシキ方ヲ取テ云ナルベシ』と云つたのに從つて好い。つまり此處は射干の黒玉からの聯想で、本來の意味を應用したものと看做して好い。特に妹《いも》に續けた例があればその聯想も助けるであらう。玉と玉との間をあけつつ緒に貫く趣である。
 一首の意は、射干玉《ぬばたま》の玉と玉との間を明けひろげつつ、緒を通すときに玉と玉とが離れるけれども、またその緒を縛《くく》つて寄せると、離れた玉と玉とが二たび相逢ふのであるのに。私と汝とは今は離れさせられて居る。しかしまた逢瀬が無いといふこともないであらう。といふ意を含ませてゐる。
 寄v玉戀で、民謠風の細かい味の歌であり、若い青年男女の間には心地好く吟誦せられて好い歌であるし、射干玉《ぬばたま》は枕詞になつてしまつたが、實用にも用ゐられたと想像し得れば、この歌の野趣が却つてなつかしいものである。
 參考歌としては、卷十一(二七九〇)に、玉緒之久栗縁乍末終去者不別同緒將有《タマノヲノククリヨセツツスヱツヒニユキハワカレズオナジヲニアラム》とあるは類似の(629)歌であり、なほ、同(二七九三)の、玉緒之間毛不置欲見吾思妹者家遠在而《タマノヲノアヒダモオカズミマクホリワガモフイモハイヘトホクアリテ》や、同(二七九一)の、片絲用貫有玉之緒乎弱亂哉爲南人之可知《カタイトモテヌキタルタマノヲヲヨワミミダレヤシナムヒトノシルベク》などは參考になる歌である。
 此歌は袖中抄に、『烏珠《ウハタマ》ノヒマヲワケツヽヌキシヲノムスヒテシヨリノチアフ物カ』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四四九〕
  香具山《かぐやま》に雲居《くもゐ》たなびき鬱《おほほ》しく相見《あひみ》し子《こ》らを後《のち》戀《こ》ひむかも
  香山爾 雲位桁曳 於保保思久 相見子等乎 後戀牟鴨
 
 香具山に雲が棚引いて朦朧となつてゐる。そのやうにおぼろにほのかに一寸見た女に後々までもこんなに戀をするのであらうかと歎息した歌で、戀の痛切なことを云つてゐるのである。雲居《くもゐ》は單に雲のことで、子《こ》らは單數で愛情を示すラである。童蒙抄に、『おほほしく、おぼろおぼろに、確かにあらね共、あひ見し女を戀ひんかと也。かもは歎きたる意。さだかにも見ぬ人を後々迄かく戀ひん事かもと云意也』と解してゐるのは要領を得て居る。また、『香具山に雲居たなびき』と(630)固有名詞を持つて來て序詞としたのなども、常に親しんでゐた香具山を持つて來たので、ただ漠然とした聯想でないのであらうし、萬葉の歌の序詞のいい點は其處にあるのである。若し問題にすれば、『しく〔右○〕』。『らを〔右○〕』。『かも〔二字右○〕』の處の調子のゆるみででもあらうか。
 卷十(一九〇九)に、春霞山棚引欝妹乎相見後戀毳《ハルガスミヤマニタナビキオホホシクイモヲアヒミテノチコヒムカモ》とあるのも類似してゐる歌で、或は人麿歌集からの變化したものででもあらうか。なほ同卷(一九二一)に、不明公乎相見而菅根乃長春日乎孤悲渡鴨《オホホシクキミヲアヒミテスガノネノナガキハルビヲコヒワタルカモ》がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五〇〕
  雲間《くもま》よりさ渡《わた》る月《つき》の鬱《おぼほ》しく相見《あひみ》し子《こ》らを見《み》むよしもがも
  雲間從 狹徑月乃 於保保思久 相見子等乎 見因鴨
 
 結句は、舊訓ミルヨシモガモであつたのを略解でミムヨシモガモと訓んだ。雲間をわたる月だから光が清明でなくぼんやりして居る。そのやうにほのかにかりそめに見た女をもつと親しく見たいものだといふので、童蒙抄に、『仄かに見し女を又さだかに見る由もがなと也』といつてゐる。(631)前に『相見し』といひ、又結句に、『見むよしもがも』といふのは、前の歌の結句に較べて拙劣のやうにもおもふが、ここらは極めて自由に樂に作つて居るのである。前の歌では、香具山の霞をいひ、この歌では朧な月を云つてゐる。序詞としては、前の歌の方が通常で、この歌の方が珍らしいのは、『さ渡る月の』と續けたところにあるので注意すべきだが、此も寫生だからいいので、ただ粉本に頼るやうになると生命が消失するのである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五一〕
  天雲《あまぐも》の依《よ》り合《あ》ひ遠《とほ》み逢《あ》はずとも異手枕《ことたまくら》を吾《われ》纏《ま》かめやも
  天雲 依相遠 雖不相 異手枕 吾纏哉
 
 ○異手枕・吾纏哉 舊訓アダシタマクラ・ワレハマカメヤ。古寫本中、コトタマクラヲ(嘉・類、細)。アタシタマクラ(西・矢・京・温)と兩方ある。童蒙抄ワレマカメヤモ(新考同訓)。考ワレハマカメヤ。又はアレマカムカモ(略解同訓)。古義アレマカメヤモ。新訓コトタマクラヲ・ワレマカメヤモ。
(632) 一首の意は、〔遙かに棚びいて見える天の雲が、互に遠く離れて居て、いつ合ふとも見えぬ。【序詞】〕かの雲のやうにお前と私とも遠く離れて逢はずに居るけれども、ほかの女の手枕を私は纏《ま》かうや、決してそんなことはしない。この世に愛するのはお身ばかりだといふ意に落著く。
 寄v雲戀で、序詞も、天空の雲の有樣を寫生してこの句を得て居る。天空に互に遠く離れつつ棚びいてゐる雲の趣で、動いて居る雲などの趣ではないやうである。先進の解の中では、『天雲の如く隔たりて寄合ひ難きを言ふ』(略解)。『ヨリアヒは雲と雲とゆき合ふ事ならむ』(新考)といふのは當つて居るやうである。然るに、『天の雲と國土と、はるかに離れ隔りて、依合(フ)事の遠きよしのつづけなるべし』。『天と地とのごとく、離れ隔りて遠くて、依相(フ)事は協はず』(古義)とあるのは奈何か疑はしい。若し天と地と合ふことならば、卷一(五〇)に、天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》。卷二(一六七)に、天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》。卷六(一〇四七)に、天地乃依會限《アメツチノヨリアヒノカギリ》。卷十一(二七八七)に、天地之依相極玉緒之不絶常念妹之當見津《アメツチノヨリアヒノキハミタマノヲノタエジトオモフイモガアタリミツ》とあるやうに、天と地と二つとも書いてある。然るに、この歌は、『天雲依相遠《アマグモノヨリアヒトホミ》』であるから、天雲《あまぐも》同志の合ふことと解すべきものとおもふ。卷三(四二〇)に、天雲乃曾久敝能極《アマグモノソクヘノキハミ》。卷四(五五三)に、天雲乃遠隔乃極《アマグモノソクヘノキハミ》。卷十九(四二四七)に、天雲能曾伎敝能伎波美吾念有伎美爾將別日近成奴《アマグモノソキヘノキハミワガモヘルキミニワカレムヒチカクナリヌ》の例があり、枕詞化して非常に遠い氣特に使つてゐるから、この歌の場合も幾らか枕詞化、象徴化して居ると看てもよく、特に序詞だから、さう解釋していいので(633)あるが、若し寫象として検討する場合には、天空に棚引いてゐる遠い雲同志と解していいのであらう。
 異手枕も、コトと訓むか、アダシと訓むか、鑑賞の場合には、兩方共味つていいが、コトタマクラといふ語は特殊でおもしろいからこれは是非尊重したいのである。民謠風の愛すべく、平易な歌の一種である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五二〕
  雲《くも》だにも著《しる》くし發《た》たは意《こころ》遣《や》り見《み》つつし居《を》らむ直《ただ》に逢《あ》ふまでに
  雲谷 灼發 意追 見乍爲〔居〕 及直相
 
 ○意追・見乍爲 舊訓ナグサメニ・ミツツモ|シ《(レ)》テム。古寫本ココロヤル・カタミニセマシ(類一)。ココロナル・カタミニセマシ(嘉)。ナグサメテ・ヰツルムシテス(類二)。童蒙抄オモヒヤリ・ミツツモシテン。考ナゲサメム・ミツツシヲラム、追は進の誤、爲は居の誤。略解ナグサメニ・ミツツシヲラム。古義ココロヤリ・ミツツシヲラム、拾穗本に從つて意遣とす。新考ナグサメニ・(634)ミツツヲラムヲ。新訓ココロヤリ・ミツツモヰテム。
 ココロヤルと訓むか、ナグサムルと訓むかについては、既に評釋したが、卷十七(三九九一)に、許己呂也良武等《ココロヤラムト》があり、なほ卷三(三四六)に、酒飲而情乎遣爾《サケノミテココロヲヤルニ》があるから、ココロヤリといふ語も確實である。そこで、前にナグサメカネテと訓んだ卷十一(二四一四)の、戀事《コフルコト》意追不得|出行者山川不知來《イデユケバヤマモカハヲモシラズキニケリ》をも、ココロヤリカネと訓んでもいいと思ふ。此も舊訓はナグサメカネテであつた。そこで此處も字を改めずに、ココロヤりと訓ませることとなつたのである。やも追も義は同じ處に落著くのである。併し、卷八(一四七九)に、隱耳居者欝悒奈具左武登出立聞者來鳴日晩《コモリノミヲレバイブセミナグサムトイデタチキケバキナクヒグラシ》といふ家持の歌もあるから、兩方の語があるのだが、此處はココロヤリと訓んでいいだらう。第四句は、新訓に從つてミツツモヰテムと記したのであつたが、考へ直して、考の訓に從ふことにした。その方が調べが好い。
 一首の意。雲でも空に著しく大きく立つて呉れるならば、せめて其をば戀人のつもりにして見つつ心を慰めて居ようか。直接逢ふことの出來るまでは。それをせめてもの悲しい心遣《こころやり》にしよう。
 寄v雲戀だが、この雲を戀人になぞらへる心理の歌は、既に前にも幾つかあつた。人麿の死んだ時、依羅娘子の歌もさうであるし、卷十四(三五一五)の、阿我於毛乃和須禮牟之太波久爾波布利禰爾多都久毛乎見都追之努波西《アガオモノワスレムシダハクニハフリネニタツクモヲミツツツヌバセ》などもさうであり、その近くの歌にも類似のものが數首載つて居(635)る。宋玉の、高唐賦の序に、妾(ハ)在2巫山之陽高丘之岨1、旦(ニハ)爲2朝雲1、暮(ニハ)爲2行雨1とある。
 シルクといふ語も注意して好く、卷二十(四四九五)に、打奈婢久波流等毛之流久宇具比須波《ウツナビクハルトモシルクウグヒスハ》があり、なほ、齊明紀に、建王《タケルノオホキミ》を悼みたまふ御歌に、伊磨紀那屡乎武例我禹杯爾倶謨娜尼母旨屡
倶之多多婆那爾何那皚柯武《イマキナルヲムレガウヘニクモダニモシルクシタタバナニカナゲカム》がある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五三〕
  春楊《はるやなぎ》葛城山《かづらきやま》に發《た》つ雲《くも》の立《た》ちても坐《ゐ》ても妹《いも》をしぞ念《おも》ふ
  春楊 葛山 發雲 立座 妹念
 
 寄v雲戀であらう。春柳を鬘《かづら》くから、同音の葛城《かづらき》山に係けた枕詞とし、雲が立つといふことと、立ちてもゐてもと續けて序詞とした。一首の内容は、『立ちても坐《ゐ》ても妹《いも》をしぞ念《おも》ふ』だけである。それだから、一首の中に枕詞と序詞とがあるのでただ調子で運んでゐる點もあるが、何かいい調子で讀者を引いてゆくところに特色がある。カヅラキヤマニタツクモノあたりの聲調を味ふべきである。初句、舊訓ハルヤナギ。仙覺アヲヤギノ。代匠記精ハルヤナギ。結句、舊訓イモヲシゾ(636)オモフ。代匠記精イモヲシゾモフ。童蒙抄イモヲシオモフ。略解イモヲシオモホユ。
 この歌は、拾遺集に、よみ人しらずとして、『あしひきのかつらぎ山にゐる雲の立ちても居ても君をこそ思へ』とあり、柿本集に、『あをやぎの葛城山にゐる雲の立てもゐても君をこそ思へ』とある。なほ夫木和歌抄には、よみ人しらずとし、初句『あをやぎの』、他は本文の訓と同樣である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五四〕
  春日山《かすがやま》雲居《くもゐ》がくりて遠《とほ》けども家《いへ》は思《おも》はず君《きみ》をしぞ念《おも》ふ
  春日山 雲座隱 雖遠 家不念 公念
 
 やはり、寄v雲戀で、第二句舊訓クモヰカクレテ。代匠記初クモヰカクシテ。略解クモヰガクリテ。第三句舊訓トホケレド。代匠記精トホケドモ。結句は舊訓キミヲシゾオモフ。代匠記精キミヲシゾモフ。童蒙抄イヘハオモハデ・キミヲシオモフ。略解キミヲシオモホユ。第二句までは序である。春日山は雲に隱れて遠くに見える、その遠い如くに遠く家を離れて來て居るけれども、家のことを思はずに汝のことを念つてゐるといふので、公《きみ》は女をさして云つてゐる。略解に、『是(637)れは旅に在る人の、旅にて女に逢ひて詠めるなるべし。女を指して君と詠めるも少からず』云々。新考に、『家は家なる妻なり。キミといへるは他郷にて相知りし女なり。公とかけるは借字なり』云々。この女は近くにゐて、相逢つてゐる心持であるから、序詞も利くし、『遠けども』も利くのではなからうか。
 この歌は、拾遺集に、人麿作として載り、『春日山雲居がくれて遠けれど家は思はず君をこそおもへ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五五〕
  我《わ》が故《ゆゑ》に云《い》はれし妹《いも》は高山《たかやま》の岑《みね》の朝霧《あさぎり》過《す》ぎにけむかも
  我故 所云妹 高山之 岑朝霧 過兼鴨
 
 一首の意は、私との間柄について彼此云はれたあの女は、高山《たかやま》の嶺《みね》にかかる朝霧が動き消えゆくやうに、消えて音沙汰《おとさた》なくなつてしまつたのであらうか。あれきりで、深く媾會することもなく果敢なく過ぎてしまつた。私のことは忘れてしまつた。情ないことである。といふのであらう。
(638) 卷三(三二五)に、明日香河川余藤不去立霧乃念應過孤悲爾不有國《アスカガハカハヨドサラズタツキリノオモヒスグベキコヒニアラナクニ》。卷四(六九三)に、如此耳戀哉將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《カクノミニコヒヤワタラムアキツヌニタナビククモノスグトハナシニ》などの例がある。『我故人ニトカク云ハレシ妹ハ、ソレニウムジテ高山ノ朝霧ノ晴過ル如ク、我ヲ思フ心ヲ過シヤリテモ忘ケムカノ意ナリ』(代匠記精)。『霧の晴れ行く如くに事過ぎにけんかと、おぼつかなく思ふなり』(略解)といふ文獻がある。
 寄v霧戀で、やはり民謠風のもので、輕妙の味ひを待たせたものである。ただ何となく愛情が籠つて居り、その感情が充實してひと事でないやうに感ぜしめるところがある。また序詞としての譬喩、『高山の岑の朝霧』でも、實際の寫生であるから、誤魔化がなくして尋常人の感情を自然に其處に導いて行く手際を具へて居る。また、『我がゆゑに云はれし』といふ句も簡潔で實に旨いものであるが、卷四(五六四)に、山菅乃實不成事乎吾爾所依言禮師君者與執可宿良牟《ヤマスゲノミナラヌコトヲワレニヨセイハレシキミハタレトカヌラム》。卷十(一九〇五)に、姫部思咲野爾生白管自不知事以所言之吾背《ヲミナヘシサキヌニオフルシラツツジシラヌコトモテイハレシワガセ》。卷十一(二五三五)に、凡乃行者不念言故人爾事痛所云物乎《オホヨソノワザハオモハジワレユヱニヒトニコチタクイハレシモノヲ》といふ例がある。この云ひ方は當時の人々の口から自然に出たものと思ふが實に旨い。
 大體右の如くであるが、新考に、第二句を、イハルルイモハと訓み、結句をイブセケムカモと訓んで、『過を悒の誤としてイブセケムカモとよむべし』と云つたが、これは原文の儘で好い。また童蒙抄では、『歌の意は、我故に無き名をも云ひ立てられし人の有りしが、今は最早その無實(639)も晴れぬらんかと、人を勞りて詠める意と聞ゆる也』と解したのは、『朝霧の過ぐ』から來て居て、常識的には順當のやうだが、歌の鑑賞としてはどうか知らん。また、鴻巣氏の全釋には、『高山ノ峯ノ朝霧ノ消エルヤウニ死ンデシマツタダラウカナア。ドウデアラウ。心配ナコトダ』と解した。これはスグをば、卷二(二〇七)の、黄葉乃過伊去等《モミヂバノスギテイニキト》などに本づく解釋であり、若しこの解釋が認容出來ると、非常に哀れ深い歌になりさうであるが、この解にすると、歌柄が近代的になり、人麿の長歌ぐらゐの内容だと調和が取れるとおもふけれども、短歌だと、『わがゆゑにいはれし妹』と死去との調和がどうなるか。またこの歌は、寄v霧戀といふ一種の民謠歌であるから、此處は平凡に普通の戀愛情調の歌として解釋する方がいいと思ふのである。
 この歌は、夫木和歌抄に、よみ人知らずとして載つてゐる(【初句『われゆゑに』】)。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五六〕
  ぬばたまの黒髪山《くろかみやま》の山草《やますげ》に小雨《こさめ》零《ふ》りしきしくしく思《おも》ほゆ
  烏玉 黒髪山 山草 小雨零敷 益益所思
 
(640)『山草』を古くヤマスゲと訓んでゐるのを契沖も、『山草ハ點ノヤウ意得ガタキニ似タレド、ヲバナヲ草花トカケル類ニ例スベシ』といひ、眞淵も、『山草と書しも事の樣山菅也』といひ、雅澄は、『山草は山菅《ヤマスゲ》の誤なるべし』と云つた。結句舊訓マスマスゾオモフ。嘉暦傳承本マスマスオモホユ。代匠記精共に同じ。童蒙抄イヤマシゾオモフ。考シクシクオモホユ。『益をもかくいひ下しては、しくと訓べし』(考)と云つてゐる(【略解・古義・新訓等從之】)。新考フリシケバ・マスマスオモホユ。この歌は第四句までが序で、結句だけが一首の内容のやうな觀がある。併し從來からいふ寄v雨戀といふ種類のものだからフリシキ・シクシクといふ同音の連續ばかりでなく、やはり意味の上の融合もあり、一種の象徴とも看做すことが出來るのである。考で、『いと繁きものの上に、小雨のふりしきるにしほれなびけるは、いよよ繁りつづきて見ゆるを譬へて、及《シク》々思ふといへり』と解釋してゐるやうに、意味のうへの融合があるのである。この歌は、古風で東歌のやうなところもある。人麿歌集中の歌が東歌の中にも入つて居るのであるから、人麿歌集は人麿の歌だけでないといふ一つの證據になつてゐる程だが、かういふのになると限界がはつきりせず、いづれにも解釋が出來るのである。
 この歌は、夫木和歌抄山の題に、『うばたまのくろかみ山のやまくさのこさめふりしきますますか思ふ』、同菅の題に、『うばたまのくろかみ山の山菅にこさめふりしきますますぞ思ふ』とあり、(641)共によみ人知らずとしてある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五七〕
  大野《おほぬ》らに小雨《こさめ》降《ふ》りしく木《こ》の下《もと》に時時《ときどき》依《よ》り來《こ》わが念《おも》ふ人《ひと》
  大野 小雨被敷 木本 時依來 我念人
 
 やはり、寄v雨戀であらう。初句舊訓オホノラノ。代匠記精オホノラニ。童蒙抄オホ野ニ。又はヒロキ野ニ。古義オホヌラニ。第四句舊訓トキトヨリコヨ。童蒙抄ヨリヨリキマセ。又はヨルヨルキマセ。考トキトモヨリコ。略解トキトキヨリコ(古義同訓)。新訓トキトヨリコヨ。新考フリシケバ・コノモトヲ・タノミテヨリコ。
 一首の意。これも第三句までは序であるが、中味は『時々寄り來わが思ふ人』だけなのである。大野に雨が降ると旅人などが木下に雨を避ける。それを捉へて木下に寄りくるやうに、吾に寄りこといふので、寄物戀歌の一種だから前の歌同樣意味のうへの融合があるのである。それからこの歌の、『人』は女のことで、妹、吾味などと同じ意味に歸著するのだが、第三人稱らしくヒトと(642)いつてゐるので、なかなかいい結句である。一時新派歌人等が戀人のことをヒトと使つて流行したことがあつた。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五八〕
  朝霜《あさしも》の消《け》なば消《け》ぬべく念《おも》ひつついかに此《この》夜《よ》を明《あか》しなむかも
  朝霜 消消 念乍 何此夜 明鴨
 
 舊訓ケナバケナマク・オモヒツツ・イカデコノヨヲ。考ケナバケナマシ。略解ケナバケヌベク。童蒙抄イカニコノヨヲ。略解宜長訓マツニコノヨヲ。古義マツニコノヨヲ・アカシツルカモ。新考マツニコノヨノ・アケニケルカモ。
 一首の意。朝の霜の消えるやうに、〔朝霜《あさしもの》〕心も消え入るばかりに、命《いのち》も無くなるばかりに、戀ひ思ひつつ、どうして今夜を明かさうか。明かしかねることである。
 寄v霜戀で、分かりよい自然な歌である。萬人共通の心理で、萬人共通の言ひぶりであるから、心を安んじて吟誦し、民謠化せしめることが出來る。そしてこの歌のような分かり好いものでも、(643)古今以後の歌などに較べれば、重厚に響いて棄てがたいのである。 このケナバケヌベクは句調が好いので、慣用例として數首ある。卷二(一九九)の露霜之消者消倍久去鳥乃相競端爾《ツユジモノケナバケヌベクユクトリノアラソフハシニ》は人麿作の長歌にあるし、卷四(六二四)に、道相而咲之柄爾零雪乃消者消香二戀云吾妹《ミチニアヒテヱマシシカラニフルユキノケナバケヌカニコフトフワギモ》。卷八(一五九五)に、秋芽子乃枝毛十尾二降露乃消者雖消色出目八方《アキハギノエダモトヲヲニフルツユノケナバケヌトモイロニイデメヤモ》。卷十三(三二六六)に、朝露之消者可消戀久毛知久毛相隱都麻鴨《アサツユノケナバケヌベクコフラクモシルクモアヘルコモリヅマカモ》といふ例がある。
 イカニは、卷五(七九五)の、伊弊爾由伎而伊可爾可阿我世武摩久良豆久都摩夜佐夫斯久於母保由倍斯母《イヘニユキテイカニカアガセムマクラヅクツマヤサブシクオモホユベシモ》などと同じく、奈何にから、どうしようといふのに落著く言ひ方である。それだからイカデと訓むのと同一に歸するのだが、イカニの方が用例も多く、調べが好い。
 この歌は、柿本集に載り、『朝霜の消えみ消えずみ思へどもいかでか今宵明かしつるかも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四五九〕
  吾背兒《わがせこ》が濱《はま》ゆく風《かぜ》のいや急《はや》に急事《はやこと》益《ま》して逢《あ》はずかもあらむ
  吾背兒我 濱行風 彌急 急事益 不相有
 
(644) ○濱行風 舊訓ハマユクカゼノ。古義、行は吹の誤でハマフクカゼノ(新考同訓)。○急事益・不相有 舊訓ハヤコトマシテ・アハズヤアラム(【代匠記・童蒙抄同訓】)。考ハヤコトナサバ・マシアハザラン。略解ハヤコトナサバ・イヤアハザラム。古義、事の下に成の脱とし、ハヤコトナサバ・イヤアハザラム。新考、急を衍とし、告を補ひ、コトツゲレバカ・イヤアハザラム。新訓ハヤゴトマシテ・アハズカモアラム。
 一首の意。わが背子《せこ》よ。濱を通り過ぐる風の如くに疾《はや》く、性急に餘り事をお急《いそ》ぎになつて、とうとうお逢ひすることが出來なくなるのではございませんか。
 寄v風戀で、女の歌の趣である。濱風を持つて來たのは、やはり實際の寫生でおもしろい。これはただの空想では決して出來ない業であることを知らねばならない。卷一(七三)長皇子の、吾妹子乎早見濱風倭有吾松椿不吹有勿勤《ワギモコヲハヤミハマカゼヤマトナルワレマツツバキフカザルナユメ》の濱風も早につづけてゐる。『いや急《はや》に急事《はやこと》益《ま》して』は、類音で續けて調子を取つて居るが、簡潔で誠に旨い。また、急事《はやこと》といふ語も集中この語一つだが、尊重すべく、奔潮《はやしほ》、奔波《はやなみ》、迅風《はやち》などの例と共に味つていい。
 代匠記では、『濱ハ物ノ障ナケレバ、風ノトク吹過ルヲ、頻ニ物ヲ云ヒオコスルニ譬ヘテ、サルカラ言ヲ食《ハミ》テアハズヤハアルベキ。來テ相ヌベシト女ノ歌ニ男ノ言ヲ憑ムナリ』(精)。『おもひの切なるよしをしきりにいひおこせつれば、あはずやは有べきといふなり』(初)。童蒙抄に、『さは(645)る事のいや増して夫婦となりし間も無きに、逢ふ事の障り出來たるを歎きたる歌と聞ゆる也』。略解に、『吾がせこは事を急ぎ給へど、急がば中中にいよよ事成るべからず。今しばし時を待ち給へと女の詠めるなり。卷十二、をふの下草早ならば妹が下紐解かざらましを』云々とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六〇〕
  遠妹《とほづま》の振仰《ふりさ》け見《み》つつ偲《しぬ》ぶらむこの月《つき》の面《おも》に雲《くも》な棚引《たなび》き
  遠妹 振仰見 偲 是月面 雲勿棚引
 
 ○遠妹・振仰見 舊訓トホヅマノ・フリサケミツツ。代匠記精トホキイモ。『今按、遠妹ヲ遠妻ト義訓セルハ然ルベケレド、妹ヲイモノ外ニ、何トモ義訓セル例、集中ニナケレバ、字ノママニトホキイモト讀ベキカ』(代匠記精)。併し集中には、卷十四(三四五三)の、可是乃等能登抱吉和伎母賀吉西斯伎奴多母登乃久太利麻欲比伎爾家利《カゼノトノトホキワギモガキセシキヌタモトノクダリマヨヒキニケリ》のほか、多くはトホヅマの例が多く、卷四(五三四)に、遠嬬此間不在者玉桙之道乎多遠見《トホヅマノココニアラネバタマボコノミチヲタドホミ》。卷七(一二九四)に、朝月日向山月立所見遠妻持在人看乍偲《アサヅクヒムカヒノヤマニツキタテリミユトホヅマヲモチタルヒトシミツツシヌバム》等とあるから、暫く舊訓に從ふこととした。
(646) 一首の意。遠くに居る妻が月をば仰ぎ見て、私のことを思ひ出して居るだらう、この今夜の月に雲が懸るな。
 寄v月戀であつて、極く平易で分かりよく、素直な歌である。今まではいろいろと戀愛を覺官的にあらはしたのがあつたが、この歌は、もつと縹渺としたところがあり、もつと詩的である。萬葉には實際かくの如き歌もあるので、かういふ歌は、萬葉末期から、平安朝和歌の前驅をなし得るものであつた。この卷(二六六九)の、吾背子之振放見乍將嘆清月夜爾雲莫田名引《ワガセコガフリサケミツツナゲクラムキヨキツクヨニクモナタナビキ》は、形態も中味も類似してゐて女の歌の趣になつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六一〕
  山《やま》の端《は》にさし出《い》づる月《つき》のはつはつに妹《いも》をぞ見《み》つる戀《こひ》しきまでに
  山葉 追〔進〕出月 端端 妹見鶴 及戀
 
 結句の、『及戀』の訓は、舊訓コヒシキマデニ。略解宣長訓は及は後の誤としてノチコヒムカモと訓み、千蔭も賛成し、古義も賛成して居る。第二句の、『追出月』は、舊訓サシイヅルツキノ。(647)考も同訓だが追は進の誤とした。略解宣長訓、追は照の誤でテリイヅル。新考では元のままで、ヤマノハヲ・オフミカヅキノと訓み、『ミカヅキの漢字は朏(音ヒ)なるを二字に割きて出月とかけるなり』と注して居る。金澤文庫本には追が進になつてゐて、考の説の證據とすることが出來る。
 一首の意は、山の端に月が出かかつた。そのはつはつの光の如くに、はじめて見てもう戀しくなつたといふ歌である。寄v月戀である。
 結句の、『戀しきまでに』をば諸先進が疑つて、ノチコヒムカモとも訓み、『香具山に雲ゐたなびきおぼほしく相見し子らを後戀牟鴨《ノチコヒムカモ》』(卷十一。二四四九)を例證とした程であるが、この、『戀しきまでに』の句はなかなか棄て難い訓だとおもふ。代匠記初稿本に、『山のはにまだ半輪ばかりさし出る月によそへて、見ずもあらず見もせぬほどなるは、中々の物おもひとなれば、こひしきまでにとはいへり』と解釋したのは要領を得て居る。かう解すれば、『戀しきまでに』の訓を活かして味ふことが出來る。然るに、古義では、略解宣長訓のノチコヒムカモを採用して居るから、『歌(ノ)意は、見ずもあらず見もせぬばかり、ほのかに妹が容貌をぞ見つる、嗚呼さても、今より後戀しく思はむかとなり』と解してゐる。ノチコヒムカモの訓は、古調で寧ろ自然で且つ當然であるが、作歌實驗の修練上からも、『戀しきまでに』の訓を保存して置きたいのである。(648)『及』をマデと訓ませた例は、卷三(二六一)に、往來乍益及常世《ユキカヨヒツツイヤトコヨマデ》。卷九(一七四〇)に、及七日《ナヌカマデ》。卷十(二〇〇九)に、及雲隱《クモガクルマデ》。同卷(一八六一)に、光及爾《テルマデニ》。卷二(一九六)に、及萬代《ヨロヅヨマデニ》などによつて明かである。
 この歌は、六帖に人麿作として、第四句『君をぞ見つる』とあり、又柿本集に載り、流布本第二句『さし入る月の』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六二〕
  我妹子《わぎもこ》し吾《われ》を念《おも》はばまそ鏡《かがみ》照《て》り出《い》づる月《つき》の影《かげ》に見《み》え來《こ》ね
  我妹 吾矣念者 眞鏡 照出月 影所見來
 
 初句舊訓ワギモコガ。古寫本中ワギモコシ(類)。ワガイモガ(嘉)。ワガモコガ(温)等である。略解ワギモコシ(【古義・新考・新訓從之】)。第二句童蒙抄ワレヲシタハバ。第四句新考テルミカヅキノ。
 一首の意。遠くに隔つてゐる戀びとよ。若し私を思ひ慕つてくれるのなら、この清く照りわたる月の中に、彷彿として見えて來い。といふのである。
(649) 寄v月戀で、『まそかがみ照り出づる月のかげ』といふ句は、なかなか優れた表現である。テリイヅルといふ表はし方も好いと思つて他に例を求めたが集中には無かつた。さすればこれも尊重すべきで、清い月が、空にのぼつて照りまさる趣、或は山などから出づる趣、何かさういふ、『あらはるる』趣として解していいであらう。
 このあたりに、月に關聯した戀歌が幾つかあるが、この歌も前の歌同樣、なかなか繊細な感情を歌つてゐる。支那の詩には既にかういふ情緒が歌はれて居り、平安朝以後にはもつと多くなるだらうとおもふが、もつと上代には無かつたものである。人麿作としては稍時代が新し過ぎるやうに思はれるけれども、人麿は縱横に變化を試み、餘り苦吟せずに自由に民謠風の歌を作つたとせば、この歌をも人麿に結付けても別にかまはぬとおもふ。そして、この歌の聲調の細み、哀調について一顧を拂つても好いのではあるまいか。卷六(九九四)の、振仰而若月見者一目見之人之眉引所念可聞《フリサケテミカヅキミレバヒトメミシヒトノマヨヒキオモホユルカモ》も同じやうな聯想の歌であるが、不思議にもこの(二四六二)の歌ほどの餘響を聽き得ざるはどういふためであらうか。
 
          ○
 
(650)  〔卷十一・二四六三〕
  ひさかたの天《あま》光《て》る月《つき》の隱《かく》りなば何《なに》になぞへて妹《いも》を偲《しぬ》ばむ
  久方 天光月 隱去 何名副 妹偲
 
 ○月・隱去 舊訓ツキノ・カクレナバ。略解ツキモ・カクレイヌ。古義ツキモ・カクロヒヌ。新考ツキノ・カクリナバ(新訓同訓)。○何名副 舊訓ナニノソヘテ。代匠記初ナニニナゾヘテ。○妹偲 舊訓イモヲシノバム。考イモヲシタハム。略解イモヲシヌバム。
 一首の意。折角見つつ妹を偲んでゐた、この清い月が沈んで行つたならば、何になぞらへて妹を偲ばうか。なぞらへ、たぐへむものはないではないか。
 これは、寄v月戀で、戀してゐる女を、『天《あま》光《て》る月』に見立て、それと融合してゐる氣持は、前の歌(二四六二)と同じく、單に抒情詩的だと謂ふのみでなく、その戀人の顔容から擧止に至るまで彷彿として見える如き感じのする歌である。この歌は女を月に關聯せしめたのであるが、集中には、男をば月に關聯せしめた歌も幾つかある。卷三(三九三)の、不所見十方孰不戀有米山之末爾射狹夜歴月乎外爾見而思香《ミエズトモタレコヒザラメヤマノハニイサヨフツキヲヨソニミテシカ》、卷十一(二六七三)の、鳥玉乃夜渡月之湯移去者更哉妹爾吾戀將居《ヌバタマノヨワタルツキノユツリナバサラニヤイモニワガコヒヲラム》等は女との關聯であり、卷十(二二九九)の、秋夜之月疑意君者雲隱須臾不見者幾許戀敷《アキノヨノツキカモキミハクモガクリシマシクミネバココダコホシキ》。卷十二(651)(三〇〇五)の、十五日出之月乃高高爾君乎座而何物乎加將念《モチノヒニイデニシツキノタカダカニキミヲイマセテナニヲカオモハム》等は男との關聯である。
 なほ、ナゾヘテシヌブ歌の一二を引くなら、卷八(一四四八)に、吾屋外爾蒔之瞿麥何時毛花爾咲奈武名蘇經乍見武《ワガヤドニマキシナデシコイツシカモハナニサキナムナゾヘツツミム》。卷二十(四四五一)に、宇流波之美安我毛布伎美波奈弖之故我波奈爾奈蘇倍弖美禮杼安可奴香母《ウルハシミアガモフキミハナデシコガハナニナゾヘテミレドアカヌカモ》などがある。
 此歌は、和歌童蒙抄に、『ヒサカタノアマテルツキノカクレナハナニヽヨソヘテイモヲシノハム』として載つてゐる。又、拾遺集に人麿作として、『ひさかたのあまてる月もかくれ行く何によそへて君を忍ばむ』とあり、夫木和歌抄に人丸として、『ひさかたのあまてる月のいりゆかはなにになそへていもをしのはん』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六四〕
  若月《みかづき》の清《さや》にも見《み》えず雲隱《くもがく》り見《み》まくぞ欲《ほ》しきうたて此《こ》の頃《ごろ》
  若月 清不見 雲隱 見欲 宇多手比日
 
 ○清不見・雲隱 奮訓サヤカニミエズ・クモガクレ。代匠記初書入【校本萬葉】サヤカニミエヌト。童(652)蒙抄サヤカニミエデ。考サヤニモミエヌ。略解サヤニモミエズ・クモガクリ(【古義・新考・新訓同訓】)。○見欲・宇多手比日 舊訓ミマクゾホシキ・ウタタコノゴロ。管見ウタテコノゴロ(【代匠記・考・略解・古義・新考・新訓同訓】)。『ウタテハ第十ニモ注セシ如ク、ウタタナリ』(代匠記精)。卷十(一八八九)に、吾屋前之毛桃之下爾月夜指下心苦菟楯頃者《ワガヤドノケモモノシタニツクヨサシシタナヤマシモウタテコノゴロ》。卷十二(二九四九)に、得田價異心欝悒事計吉爲吾兄子相有時谷《ウタテケニココロオホホシコトハカリヨクセワガセコアヘルトキダニ》等がある。
 一首の意。三日月が雲に隱れて行つてさやかにはつきりと見えなくなつた。見たいとおもふ。その心がこのごろ特に切實である。『妹に逢ひ難きにつけて、あやにくに見まく欲しきのしきるを、三日月のさやにも見えず、見え隱れするに譬ふ。ウタテは物の重り過ぎたる事を言ふ言にて、既に言へり。ここはうたて此頃見まくぞほしきと心得べし』(略解)。
 寄v月戀は以上五首つづいてゐる。當時の人は、三日月に心を牽かれ、それを見て、戀人を聯想し、美しい女の眉に譬へ、なかなか細かい感情を投入してゐるのは大に興あることである。
 この歌は、拾遺集に人麿作として載り、第二三句『さやかに見えず雲がくれ』とあり、柿本集に、第二三句『さやけくもあらず《(さやかにみえず)》雲がくれ』として載つてゐる。
 
          ○
(653)
  〔卷十一・二四六五〕
  我背子《わがせこ》に吾《わ》が戀《こ》ひ居《を》れば吾《わ》が屋戸《やど》の草《くさ》さへ思《おも》ひ 末枯《うらが》れにけり
  我背兒爾 吾戀居者 吾屋戸之 草佐倍思 浦乾來
 
 ○思・浦乾來 舊訓オモヒ・ウラカレニケリ(諸書從之)。童蒙抄モヒニ・ウラカレニケリ。新考オモヒグササヘ・ウラガレニケリ。一首の意は、私は夫《をつと》を戀しく待ち慕うて居ると、自分の家の庭草さへも思ひ悩んでうら枯れてしまつた。といふので、寄v草戀の歌である。代匠記初稿本に、『わがせこをわがこひつつをれば、草さへ我心を知て、ともになげくやうに、うらがるるとなり』といひ、略解に、『わがおもひ有時は、見る物聞物も、さるかたにおもはるる也。卷三、眞木のはのしなふせの山しぬばずてわが越えくれば木の葉知けむ』とあるのを共に參考していい。實際此處は、『さるかたにおもはるる也』ぐらゐに解釋して、『草さへ我心を知て』とまで瞭然と云はぬ方がいいやうである。この、『草』について後に記すやうに説があるが、ただ庭の草で、晩秋になつてうら枯れたところと大樣に解していい。額田王の歌に、『君待つと吾が戀ひ居ればわが屋戸《やど》の簾《すだれ》うごかし秋の風吹く』(【卷四。四八八・卷八。一六〇六】)といふのがあり、大に似て居る。そして此歌は、女が男を戀ふる歌だから、人麿自身の作ではあるまいといふことになり、縱ひ人麿が民謠風に作つたのだ(654)と想像しても、額田王の歌を眞似たやうな姿になつて居る。
 この歌で、『わが』といふのを繰返してゐるのは、餘り意識してやつたのではなからうと解釋したいのであるが、或は、『我ト云字ハワザトタタミテヨメルナリ』(代匠記精)といふ如く、故意に疊んで用ゐたのだとすると具合が惡い。日本語の味ひの能く分からぬ外國人などが日本の詩歌を云々するときに、先づかういふ頭韻などにばかり氣を取られて讃美するのは未だ不徹底だからである。ただこの歌は、全體がしつとりと沈潜して歌ひ了せてゐるのがいいのであつて、『わが』を繰返してゐるために特にいいのではないのである。それからこの歌は、『わが背子にわが戀ひ居れば』と、獨咏的に云つてゐるのも、つつましく聞こえる所以であるが、同時に民謠風に一般化する傾向があるともいふことが出來る。それから、『わが背子にわが戀ふ』と、『に』で續けてゐるのも、他の多くの同じ例と共に注意すべきで、特に、女の場合に興味が多いのである。これは萬葉では女と雖も必ずしも受身ばかりではないといふことを示してゐるのである。萬葉に於いては、『に戀ふ』と續けた場合が大部分で、『を戀ふ』の例は、高麗劔己之景迹故外耳見乍哉君乎戀
渡奈牟《コマツルギワガココロカラヨソノミニミツツヤキミヲコヒワタリナム》(卷十二。二九八三)。多知波奈乃之多布久可是乃可具波志伎都久波能夜麻乎古比須安良米可毛《タチバナノシタフクカゼノカグハシキツクバノヤマヲコヒズアラメカモ》(卷二十。四三七一)など少數に過ぎないが、この『に』、『を』の相違についてはなほ考察して見たいと思つてゐる。
(655) 代匠記精撰本に、『第十ニ思草トヨメルニ付テ注セシ如ク、陰草ヲ思草ト云意ニテ、草サヘ思草ニテ末枯《ウラカル》トナリ』といひ、新考では、『第四句を從來字のままにてクササヘオモヒとよみたれど、オモヒウラガルルといふ語あるべくもあらず。又さる語ありとも半より割きて二句に分屬せしむべきにあらず。おそらくは傳寫の際に思の字をおとし、後にそを補ふとて第三句の下に入るべきを誤りて第四句の次に入れたるにこそ。さればワガヤドノオモヒゲササヘウラガレニケリとよむべし。思草ははやく卷十(二一七八頁)に見えたり。我思ノミナラズ思トイフ名ヲ負ヘル草サヘとなり』と云つて居る。この句割のことは、他にも例の無いことは無い。また思ひ草説については、童蒙抄に、『草の秋過て梢うら枯れる折の氣色を見て、よそへて詠めるなるべし。尾花が本の思ひ草も此草の事なるべし抔云説は不v可v足v論。思ひうら枯れと云詞は續かぬ詞也』と論じて居る。もつとも童蒙抄では、モヒニウラガレニケリと訓んでゐるから、其をも顧慮しつつ此説を讀むべきであるが、そして、『思ひうら枯る』といふ詞は無いなどといふ説はどうかとおもふが、思ひ草を否定してゐることは注意していい。
 此歌は、拾遺集に人麿作として載り、初句『わが背子を』とあり、柿本集にも、『わが背子を』として出てゐる。又六帖には、本文と同じ訓で載つたが、笠女郎作の如くにしてある。
  追記。橋本進吉博士は、「上代に於ける波行上一段活用に就いて」(國語・國文第一卷第一號、昭和六年(656)十月)に於いて、平安朝時代の上一段活用『乾る』は、奈良朝時代には上二段に活用したものであらう。從つてこの『浦乾來』もウラブレニケリと訓むべきであらうと言つて居る。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六六〕
  淺茅原《あさぢはら》小野《をぬ》に標繩《しめ》結《ゆ》ふ空言《むなごと》をいかなりといひて君《きみ》をし待《ま》たむ
  朝茅原 小野印 空事 何在云 公待
 
 ○朝茅原・小野印 舊訓アサヂハラ・ヲノニシメユフ。代匠記精アサヂフノ。古義アサヂハラ・ヲヌニシメユヒ。新考アサヂハラ・ヲヌニシメユフ。○空事・何在云・公待 舊訓ソラゴトヲ・イカナリトイヒテ・キミヲバマタム。童蒙抄宗師案ムナゴトモ・イツナリトイハバ・キミヲシマタム。考ソラゴトヲ・イカアリトイヒテ・キミヲシマタム。略解ソラゴトヲ・イカナリトイヒテ・キミヲバマタム。古義ムナゴトヲ・イカナリトイヒテ・キミヲシマタム(新訓同訓)。新考ムナゴトヲ・イカニイヒテカ・キミヲバマタム。
 淺茅原の何も花なき野に標繩《しめ》結つても無駄であるから、空《むなし》に懸けて序としてゐる。本卷(二七(657)五五)に、淺茅原刈標刺而空事文所縁之君之辭鴛鴦將待《アサヂハラカリシメサシテムナゴトモヨセテシキミガコトヲシマタム》。卷十二(三〇五三)に、淺茅原小野爾標結空言毛將相跡令聞戀之名種爾《アサヂハラヲヌニシメユフムナゴトモハムトキコセコヒノナグサニ》などの類例がある。ムナゴトは此等の例にもあるが、なほ卷二十(四四六五)に、於煩呂加爾己許呂於母比弖牟奈許等母於夜乃名多都奈《オホロカニココロオモヒテムナゴトモオヤノナタツナ》といふのがあり、ウソ言《ごと》、虚言《きよげん》のことである。
 一首の意は、花の無い淺茅原に標《しめ》結ふやうな無益な空《むな》しいこと【序詞】の、空言《むなごと》、即|虚言《きよげん》をばどういふ具合に云つて、僞《いつはり》の内容をばどういふやうに拵へて、どんな嘘《うそ》を衝いて、人を欺きつつあなたをお待ち申しませう。といふのである。
 『空言《むなごと》をいかなりといひて』のところは、現代人には一寸理會に面倒なやうだが、『空言をいひて』の間に、『如何なりと』を附加すれば分かり易い。卷十五(三六八九)に、伊波多野爾夜杼里須流伎美伊倣妣等乃伊豆良等和禮乎等婆波伊可爾伊波牟《イハタヌニヤドリスルキミイヘビトノイヅラトワレヲトハバイカニイハム》とあるイカニで、種々の色調の差ある用例がある。一首全體からいへぼ、卷十二(三〇〇二)の、足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシヒキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》に似て居る。
 これは寄v草戀といふのであらうが、それは後に分類したので、作るときにはそんな意圖がなくて自由に作つたものであらう。
 この歌は、六帖に、『あさぢふのをののしるしの空言をいかなりといひて君をば待たむ』として(658)載り、夫木和歌抄に、『あさちはらをのにしめゆふ空ことにいかなりといひて君をまつらん』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六七〕
  路《みち》の邊《べ》の草深百合《くさふかゆり》の後《ゆり》にとふ妹《いも》がいのちを我《われ》知《し》らめやも
  路邊 草深百合之 後云 妹命 我知
 
 ○後云 舊訓ノチニテフ。童蒙抄ノチトイヘバ。考ノチモチフ。略解ノチニチフ。同宣長訓ユリニチフ(【古義・新考等同訓】)。『宣長説。古言に後《ノチ》の事をゆりと言へりと聞ゆ。ここの歌も即ゆりを後と言ふ事の序とせるは、後をゆりといふ故也と有り』(略解)。新訓ユリニトフ。○妹命 舊訓イモガミコトヲであつたのを、代匠記精でイモガイノチヲと訓んだ。○我知 舊訓ワレハシラメヤ。童蒙抄ワレハシリナン。古義アレシラメヤモ。新考ワレシラメヤモ。校本萬葉集には、第三句を童蒙抄に『ノチトユフ』又は『ノチニイフ』としてあるが、荷田全集所收の童蒙抄を檢するに、そのやうには訓んでゐない如くである。『後といふ共後にちふ共讀めるは、意同じかるべし』とは言つて(659)をり、萬葉集總索引の諸訓説篇もこれによつてノチトイフ。ノチニチフの訓をあげてゐるが、前からの文章の具合では、必ずしもさういふ訓として示したとは思へない處がある。此處にあげた『ノチトイヘバ』。『ワレハシリナン』などといふ訓も、『又道のべの草深ゆりののちと云へば妹のみことは我れは知りなんとも讀みて、草深ゆりは草の中に咲きて、顯れ知られぬ隱れたるものなれど、後に逢はんと云へば我が物と知られたりと云意にて、我は知らなんと讀める意にも聞ゆる也』と言ひ、『幾筋にも聞く人の心によりて難v決』。『簡略に書たる歌は如v此聞惑ひある也』とも云つて決定してゐないのであるが、兎に角童蒙抄以前には『ノチトイヘバ』。『ワレハシリナン』といふ訓は見當らないやうであるから、此處にあげたのである。
 一首の意は、〔路のべの草深いところに咲く百合《ゆり》の【序詞】〕後《ゆり》に、即ち後《のち》に、幾らも逢へると妹はいふけれども、その妹《いも》の命《いのち》だといつて、誠に計り難く、當にはならぬ。いつどうなるといふことは自分も知ることは出來ようか。それゆゑ益々逢ひたいのである。『一首の意は、後日逢ハムト妹ハ云ヘド人ノ壽ハ恃ミガタケレバ妹ガソレ迄生キテアラムヤ我ハ知ラジ、サテサテ心モトナキ事カナといへるなり』(新考)。
 この歌は、寄v草戀で、後《ゆり》といふことをいひたいので、『路のべの草深百合の』を序詞としたのであるが、今となつてもさう厭味に聞こえないところが好いので、其は古調だからである。一首(660)は一般向の民謠調である。略解で、『後にとは言〈ど、其妹が命のほどは、我は知らずと戯れて言へる也』と云つたが、此歌は戯れて居るのではない。併し、或る人にさう聞こえるのは、二人だけで問答してゐるやうであつて、さう聞こえず、一般向のところがあるための矛盾から來るのではなからうか。つまり切實なことを云つてゐて、さう響かない點があるのかも知れない。
 卷八(一五〇三)に、吾妹兒之家乃垣内之佐由理花由理登云者不欲云二似《ワギモコガイヘノカキツノサユリバナユリトイヘルハイナトフニニル》。卷十八(四〇八七)に、佐由理婆奈由利毛安波牟等於母比曾米弖伎《サユリバナユリモアハムトオモヒソメテキ》。同卷(四一一三)に、佐由利花由利母安波無等奈具佐無流《サユリバナユリモアハムトナグサムル》等の例がある。
 此歌は六帖に、『道のべの草深百合の後にてふ妹がみことを我は知らめや』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四六八〕
  湖葦《みなとあし》に交《まじ》れる草《くさ》の知草《しりくさ》の人《ひと》みな知《し》りぬ吾《わ》が下思《したおもひ》
  潮〔湖〕葦 交在草 知草 人告知 吾裏念
 
 ○潮葦 舊訓ミナトアシニ。拾穗抄シホアシと訓み、六帖にもさうある。童蒙抄は『潮』は(661)『湖』の誤とした。古寫本中『湖』になつてゐるものもあり(類・古)、恐らく其が正しいであらう。代匠記精でも、卷十四(三四四五)の、美奈刀能也安之我那可那流多麻古須氣《ミナトノヤアシガナカナルタマコスゲ》を引いて、ミナトアシの訓を認めた。川口などに生えてゐる葦のことであらう。○人皆知 舊訓ヒトミナシリヌ。新考ヒトミナシリツ。○吾裏念 舊訓ワガシタオモヒ。童蒙抄ワガシタモヒモ。考ワガシタモヒハ。今舊訓に從つた。知草《しりくさ》は從來|藺《ゐ》のことだらうと云はれ、白井博士は三角藺だらうと考證して居る。和名鈔に、玉篇云、藺似v莞而細堅、宜v爲v席、和名|爲《ヰ》、辨色立成云、鷺尻刺《サギノシリサシ》云々とある。
 この『知草《しりくさ》の』までは序詞で、『知りぬ』へ續いて居る。人が皆、私のこの戀の心持を知つてしまつた。といふのである。
 寄v草戀だから、知草《しりくさ》に寄せて、聯想で序詞を作つたものであるが、實際の寫生から來て居り、その寫生も、『みなと葦に交《まじ》れる草の』云々と云つて、細かく且つ確かである。後世の吾等は、此等の句を單に聯想のみの序詞と取らずに、その寫生力について學ぶところがなければならぬ。なほ、ミナトに關した用例を擧げると、既出の卷七(一二八八)の、水門葦末葉誰手折《ミナトノアシノウラハヲタレカタヲリシ》。卷十四(三四四五)の、美奈刀能也安之我奈可那流多麻古須氣《ミナトノヤアシガナカナルタマコスゲ》等がある。この歌は前述のやうに初句『潮あしに』とし、人麿作として、六帖に載つた。
 
(662)          ○
 
  〔卷十一・二四六九〕
  山萵苣《やまちさ》の白露《しらつゆ》おもみうらぶるる心《こころ》を深《ふか》み吾《わ》が戀《こ》ひ止《や》まず
  山萵苣 白露重 浦經 心深 吾戀不止
 
 ○浦經・心深・吾戀不止 舊訓ウラブレテ・ココロニフカク・ワガコヒヤマズ。代匠記精ウラブルル・ココロヲフカミ・ワガコヒヤマズ(【略解・古義・新訓同訓】)。童蒙抄ウラブレテ・ココロニフカク・ワガコヒヤマヌ。考ウラブルル・ココロヲフカミ・ワガコヒヤマヌ。新考ウラブルル・ココロニニタリ・ワガコフラクハ。ウラブルは下二段活用で、卷五(八七七)に、比等母禰能宇良夫禮遠留爾《ヒトモネノウラブレヲルニ》。卷七(一四〇九)に、秋山黄葉※[立心偏+可]怜浦觸而《アキヤマノモミヂアハレトウラブレテ》がある。
 一首の意。山萵苣《やまちさ》の花に白露がしげく置いて、その重みで花がしなつてゐる、その心持に、私の心も萎《しな》えうらぶれ、そのしをれる心が深いので、私の恋は止むべくもない。『白露おもみ』までは序詞である。寄v草戀であらうから、ヤマチサは山に生えて居るチサのことであらう。エゴの木ではあるまい。
 『山しさの秋咲ける花の、露にしなへたるを、我がしなへうらぶるるに取れり。其うらぶるる心(663)の深ければ、吾が戀の止む由無しと言ふなるべし。されど下よくも調はず。心深は誤字なるべしと宣長言へり』(略解)。『吾(ガ)戀しく思ふ事の止時なし。なみなみの思ひならば、息(ム)間もあるべきに、との謂なり』(古義)。なるほど下の句の方に、幾らか流通を缺くやうなところもあるが、大體この儘で味つていいだらう。
 此歌は六帖に入り、第三四句『うらぶれてこころに深き』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七〇〕
  湖《みなと》にさね延《は》ふ小菅《こすげ》しぬびずて君《きみ》に戀《こ》ひつつ在《あ》りがてぬかも
  潮〔湖〕 核延子菅 不竊隱 公戀乍 有不勝鴨
 
 ○潮・核延子菅・不竊隱 舊訓ミナトニ・ネハフコスゲノ・シノビズテ。古寫本中シホノエニ。ミナトニの兩訓があり、潮は湖に作つたのがある(類・古)。代匠記初稿本サネハフコスゲと訓み、精撰本で核は根に通ずとしネハフコスゲノと舊訓にかへつた。考ミナトニ・サネハフコスゲ・シヌバズテ。略解宣長訓(【核は根の誤。不は之の誤】)ネハフコスゲノ・ネモコロニ(【古義・新考同訓】)。
(664) サは發語でサネハフはサ根延《ねは》ふといふ意である。『菅の葉のしなへ靡くを、シノブに言ひ懸けしのみ。上にききつが野べのしなひねむ君にしぬべはと續けたる如し。心は忍ばず顯れてだに君に戀ばや。かく忍び隱して戀ふれば堪へ難しと言ふならんと翁は言れき。されど穩かならず。宣長は核は根の誤。菅の下の不は之の誤にて、ネハフコスゲノ、ネモコロニならんと言へり』(略解)。新考もその宣長説に據つた。
 一首の意。湖《みなと》の岸に生えてさ根延《ねば》ふ子菅《こすげ》の根の顯はれる如く【序詞】忍び隱さうと存じても隱し了せずに、あなたを戀して居りますので、苦しくて怺へられませぬ。
 代匠記精に、『ミナトニ根バフ菅ハ浪ニ洗ハレテ根ノ顯ハルレバ、シノビズテトイヘリ。シノバザル故ニ、君ヲ戀フル心ノサテ有ニタヘヌトナリ』に大體從つて好い。考(略解)のも、略解宣長説も稍解釋に不滿がある。宣長解は常識的には改良したが、歌が却つて平板になつてしまつた。
 この歌は、六帖に入り、第一二句『しほの根に根ざす小菅の』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七一〕
  山城《やましろ》の泉《いづみ》の小菅《こすげ》おしなみに妹《いも》が心《こころ》を吾《わ》が念《も》はなくに
(665)  山代 泉小菅 凡浪 妹心 吾不念
 
 ○妹心 舊訓イモガココロヲ。略解イモガココロハ。古義イモヲココロニ。○吾不念 舊訓ワレハオモハズ。拾穗抄ワガオモハナクニ。代匠記・考等は舊訓に從ひ、童蒙抄・略解は拾穗抄に從ひ、古義アガモハナクニ。新考ワガモハナクニ。
 山城の泉《いづみ》は地名で、和名鈔の相樂郡水泉【以豆美】郷、即ち今の木津村・加茂村・瓶原村の地である。泉川に沿うた地だから、その名を得たもので、川の名から出來た邑の名の一例である。私の「鴨山考」では、『石河邑』といふ邑の名から、逆に『石河』といふ川の名を類推して行つたが、その場合と同じである。
 第二句までは、おしなみに續く序で、靡き寄るさまを云つて居る。代匠記初稿本に、『押靡《オシナミ》になり。すすきおしなみふれる白雪とよめるがごとし。それをなみにおもはぬになしていへり』といひ、同精撰本に、『押靡《オシナミ》ト云ニ並々ニハ思ハヌト云事ヲソヘタリ』といつてゐるので解釋は充分である。
 これも寄v草戀だから、小菅を持つて來、おしなみ、即ち『凡《なみ》』を持つて來たのである。これは前の歌などと同樣、その寫生から來て、續け具合が巧なのである。
 この歌は夫木和歌抄に人丸作とし、結句『我おもはなくに』とある。
 
(666)          ○
 
  〔卷十一・二四七二〕
  見渡《みわた》しの三室《みむろ》の山《やま》の石穗菅《いはほすげ》ねもころ吾《われ》は片思《かたもひ》ぞする 【一云、三諸《みもろ》の山《やま》の石小菅《いはこすげ》】
  見渡 三室山 石穗菅 惻隱吾 片念爲 【一云、三諸山之石小菅】
 
 ○見渡・三室山・石穗菅 舊訓ミワタセバ・ミムロノヤマノ・イハホスゲ。代匠記精ミワタシノ歟。略解ウマサケノ(古義從之)。略解は、ミワタシノと一應訓んでから、解釋のところで美酒の誤としてウマサケノの訓を出してゐる。校本萬葉でウマサケノを古義に始まるとしたのは誤である。○惻隱吾・片念爲 舊訓シノビテワレハ・カタオモヒヲスル。古寫本中シノビニワレハ(【嘉・類・古・細・神・京】)。シノビテワレハ(西・文・温・矢)。カタオモヒスル(古・細・京)。カタオモヒゾスル(神)。カタオモヒヲスル(西・文・温・類・矢)がある。代匠記精カタモヒヲスル。童蒙抄カタモヒゾスル。者ネモコロワレハ・カタモヒスルモ。略解ネモコロワレハ・カタモヒゾスル。古義ネモコロアレハ・カタモヒゾスル。
 『見渡しの三室の山』は、ずつと向うに見える三室山といふので、『此作者ノ家ヨリ近ク見渡サル(667)ル三室山ニヤ』(代匠記精)とある。三室山は三輪山であらうか。卷十三(三二三四)に、水門成海毛廣之見渡島名高之《ミナトナスウミモヒロシミワタシノシマモナタカシ》。同(三二九九)に、見渡爾妹等者立志《ミワタシニイモラハタタシ》。卷九(一七八八)に、振山從直見渡京二曾寐不宿戀流遠不有爾《フルヤマユタダニミワタスミヤコニゾイモネズコフルトホカラナクニ》などの例がある。イハホスゲとは、『石穗管トハ岩ニ生テ引ガタキ菅ナリ。第三譬喩歌ニ石根コゴシミ菅根ヲヒキハカタミトトヨメル意ナリ』(代匠記精)。卷三(三九七)の、奥山之磐本管乎《オクヤマノイハモトスゲヲ》といふなどと相通ふか。ここまでは下のネモコロに續く序詞で、『根《ね》』と、『ねもころ』と同音である。
 一首の意。〔見渡《みわたしの》・三室山《みむろのやまの》・石穗菅《いはほすげ》【序詞】〕。ねもごろに、心の底から、つくづくと、私はただ片戀をして居るので、誠に果敢ない境涯である。
 これも寄v草戀で、片戀の苦しい心のさまを愬へて居るのであるが、それをば序詞を以て續けて、心持を暗指し補充して居るのである。内容が甚だ乏しく、ただ言語の遊戯のやうにおもはれるやうな點もあるが、かうして天然界の實際を持つて來れば、必ずしも空でなくて實質が生じて來るといふことが分かる。
 第三句は考の訓に據つたものだが、舊訓に從つてシノビテと訓むとせば、『見渡シノ三室山ヲバ女ノ家ノ近キニ譬ヘ、石穗菅ヲバ我手ニ入ラヌ、ツラキ人ニ譬ヘテ、ヤガテ其菅根ヲ借テシノビニ吾ハ引得ヌ片思ヲスルトヨメルナリ』(代匠記精)といふことにもならうか。代匠記のは、序詞(668)の意味をも念中に入れての解釋であるから、稍混亂したが、ただの音のみの連續でないことに氣の付いた點は間違つてゐない。併し此處はやはりネモコロと訓んで解釋すべきところであらう。つまり石穗菅の根《ね》と惻隱《ねもころ》のネと同音にしたのである。然し、シノビテとする方では、『忍びも、しなひも同じ詞也。【中略】忍びては、隱れて現れぬの意と、しなひ弱りての意と也』(童蒙抄)といふやうに解釋することも出來るのである。併し今は前説のやうにして解いて置いた。
 此歌、六帖に入り、『見渡せば三室の山の岩ほ菅しのびにわれは片思ひぞする』となつてゐる。また、夫木和歌抄に人丸作とし、『見わたせばみむろの山のいはこすげしのびに我はかた思ひする』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七三〕
  菅《すが》の根《ね》の惻隱《ねもころ》君《きみ》が結《むす》びてし我《わ》が紐《ひも》の緒《を》は解《と》く人《ひと》あらじ
  菅根 惻隱君 結爲 我紐緒 解人不有
 
 ○惻隱君・結爲 舊訓シノビニキミガ・ムスビテシ。童蒙抄シノビテキミガ・ムスビタル。考(669)ネモコロキミガ・ムスビテシ(【古義・新訓同訓】)。略解ネモコロキミガ・ムスビタル。新考ネモコロキミガ・ムスバシシ。○我紐緒・解人不有 舊訓ワガヒモノヲヲ・トクヒトアラメヤ。代匠記初トクヒトハアラジ(【略解・古義同訓】)。考トクヒトアラジ。新考ワガヒモノヲハ・トクヒトアラジ(新訓同訓)。
 菅の根の根《ね》からネモコロのネに續けた枕詞であることは既に云つた。卷二十(四四五四)に、高山乃伊波保爾於布流須我乃根能禰母許呂其呂爾布里於久白雪《タカヤマノイハホニオフルスガノネノネモコロコゴロニフリオクシラユキ》。卷四(五八〇)に、足引乃山爾生有菅根乃懃見卷欲君可聞《アシヒキノヤマニオヒタルスガノネノネモコロミマクホシキキミカモ》といふので分かる。此處で結んで呉れた、『君』は、『妹』であらうから、女のことを『君』といつてゐることが分かる。普通ならば、卷二十(四三三四)の、兒良我牟須敝流比毛等久奈由米《コラガムスベルヒモトクナユメ》。人麿作、卷三(二五一)の、濱風爾妹之結紐吹返《ハマガゼニイモガムスビシヒモフキカヘス》の如く、妹《いも》又は兒等《こら》などと云つて居る。或は卷十五(三七一七)の、多婢爾弖毛母奈久波也許登和伎毛故我牟須比思比毛波奈禮爾家流香聞《タビニテモモナクハヤコトワギモコガムスビシヒモハナレニケルカモ》の如く、吾妹子《わぎもこ》と云つてゐる。
 一首の意。〔菅根《すがのねの》〕懇《ねんご》ろに、心を籠めてあなたが結んで呉れたこの衣の紐をば、解く人はあるまい。あだし女には決して解かしめない。『解人不有《トクヒトハアラジ》は、君をおきて他に解(ク)人はあらじとなり』(古義)。
 寄v草戀で、極めて普通の歌であるが、それでも何處かに旨いところがあつて棄てがたいのは萬葉の歌である。卷七(一三二四)に、葦根之懃念而結義之玉緒云者人將解八方《アシノネノネモコロモヒテムスビテシタマノヲトイハバヒトトカメヤモ》といふのも類想の歌(670)で、民謠風にしてひろがつたものであらう。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七四〕
  山菅《やますげ》の亂《みだ》れ戀《こひ》のみ爲《せ》しめつつ逢《あ》はぬ妹《いも》かも年《とし》は經《へ》につつ
  山菅 亂戀耳 令爲乍 不相妹鴨 年經乍
 
 第三句、『令爲乍』は、舊訓セサセツツ。代匠記初書入(校本萬葉)セシメツツ。略解セシメツツ。古義も同じ。山菅のは枕詞で、亂れにかけてゐる。『亂れ戀』といふ語はおもしろいあらはし方とおもふが、新考では、『亂と戀とをおきかへてコヒミダレノミとよむべし』と云つた。これは吾等にはどちらでもいいが、新考のは常識だからひよつとせば原作はさうであつたかも知れない。ただミダレコヒといふ語を尊重して取つて置きたいのである。かくばかり苦しませて、戀のために心を亂さしめつつ、それでも逢つてくれないといふ氣持であるから、やはり戀を下に置いた方がいいではあるまいか。
 ミダレコヒといふ熟語は集中これだけらしくおもしろいが、『葦垣《あしがき》の思ひ亂れて』(【卷九・一八〇四・卷十三。三二七二】)(671)とか、『苅薦《かりこも》の念ひ亂れて』(【卷十一。二七六四・二七六五】)とか、『山菅《やますげ》の念ひ亂れて』(卷十二。三二〇四)とか、『菅の根の念ひ亂れて』(卷四。六七九)とかいふ例は集中に多い。第三句は、ただ『せしめつつ』のみであるが、これも調べを伸ばした一つの例で、後世の歌の調べのやうにだらだらと弛ませずに、かく伸び伸びと調べるのもまた萬葉調の一つの特色だといふことを知るべきである。
 この歌は、六帖に入り、下句『せさせつついはぬ妹かも年はへつつも』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七五〕
  我《わ》が屋戸《やど》の軒《のき》の子太草《しだくさ》生《お》ひたれど戀忘草《こひわすれぐさ》見《み》るに未《いま》だ生《お》ひず
  我屋戸 甍子太草 雖生 戀忘草 見未生
 
 ○雖生 舊訓オフレドモ。古寫本にはシゲレドモ。オフレドモの二訓がある。代匠記オフレドモ(考・略解同訓)。童蒙抄オヒタレド(【古義・新考・新訓同訓】)。○見未生 舊訓ミレドマダオヒズ。代匠記初書入(校本萬葉)ミルニマダオヒズ。代匠記精に『見ハミルニトヨムベシ』。童蒙抄ミレドモオヒズ。考ミレトイマダオヒズ(【略解・古義同訓】)。新考ミルニイマダオヒズ(新訓同訓)。
(672) 『甍子太草《のきのしだくさ》』は、屋根の上などに生える羊齒に形の似たもので、植物學上の嚴密な草でなくともかまはない。細かい葉の羊齒類の一種と看做していい。代匠記初に、『軒のした草はしのふ草なり。【中略】此哥は、人をこひしのふ心はいやまされども、わすれむとすれどわすれぬを、ふたつの草の名にもたせていへるなり』とあり、代匠記精に、『甍《ノキ》ノ下草ハ陰草ナリ。此ニ依テ六帖ニモ下草ノ歌トセリ。俗ニモアマシダリノ落ルヨリ内ヲ、軒ノ下トゾ申ス。第十ノ思草ノ下ニ注セシ如ク、陰草ヲ思草ト云ナルベケレバ、思ヒハマサレド忘ルル事ハナキヲ、二ツノ草ノ名ニヨセテヨメルナルベシ。和名集云。蘇敬本草注云、屋遊【和名夜乃倍乃古介。】屋(ノ)瓦(ノ)上(ノ)青苔衣(ナリ)也。又云。本草云,垣衣一名烏菲【和名之乃布久佐。】カクアレバ、垣衣ハ築墻《ツイヒヂ》ニ生ルヲ云ベケレド、本草ニ垣衣ノ下ニ生古垣墻或屋上ト云ヒ、軒ノシノブト讀ハ常ノ事ナレバ、甍子太草ハ、シノブニテ、人ヲシノブ心ハマサレド忘ルル事ハ出|來《コ》ズトヨメルニヤトモ思フ人アルベケレド、初ニ六帖ヲ引テ證スルガ如シ』とあるが、今しばらく羊齒草《しだくさ》の意にとつて置く。
 一首の意。私の家の軒のところに羊齒草《しだくさ》(しのぶ草)が生えたけれども、戀を忘れるといふ忘草《わすれぐさ》、即ち萱草《くわんざう》は何處を見ても未だ生えて居らん。
 これも、寄v草戀で、民謠的な歌の輕快を示してゐる。一方はシダといつても、シノブといふ名も既にあつたかも知れない。さうすれば代匠紀で解説したごとく、一方はシノブで、一方はワス(673)ルだから對立することとなり、忘れられない戀を象徴することとなるのである。民謠風の萬人向の歌の面白さはかういふ特徴を皆持つてゐるのであるから、直ちに棄ててしまはずに味ふ方が好い。
 萱草をワスレゲサといふのは、和名鈔に、※[言+爰]草、萱草、一名、忘憂、和須禮久佐とあり、萬葉卷十二(三〇六二)に、萱草垣毛繁森雖殖有鬼之志許草猶戀爾家利《ワスレグサカキモシミヽニウヱタレドシコノシコグサナホコヒニケリ》といふのがある。
 此歌は、袖中抄第十五に、『ワカヤトノヽキノ下草オフレトモコヒワスレ草ミレトオヒセス』として載り、六帖に、人麿作、『わがやどの軒の下草生ふれども戀忘草見れどまだ生ひず』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七六〕
  打《う》つ田《た》にも稗《ひえ》は數多《あまた》にありといへど擇《え》らえし我《わ九》ぞ夜《よる》ひとり宿《ぬ》る
  打田 稗數多 雖有 擇爲我 夜一人宿
 
 ○打田・稗數多・雖有 舊訓ウツタニモ・ヒエハカズアマタ・アリトイヘド。代匠記初ヒエハ(674)アマタニ。又はヒエハカズアマタ。童蒙抄ヒエハアマタニ・アリヌレド。考ヒエハアマタニ・アリトイヘド(【略解・古義・新訓同訓】)。新考ウツタニハ・ヒエハココダクアリトイヘド。打田は、打ちかへして稻を植ゑる田の意で、稗は食用植物であるが、稻と較べれば寧ろ救荒植物といへるから、この歌の場合には、邪魔物と看做され、自分を稗と看做して卑下して居るのである。○擇爲我・夜一人宿 舊訓エラレシワレヲ・ヨルヒトリヌル。代匠記初エラレシワレゾ。童蒙抄エラレシワレゾ・ヨヲヒトリヌル。考エラレニシワレゾ・ヨルヒトリヌル。略解エラエシワレゾ・ヨルヒトリヌル(【こぎ・新訓同訓但し古義アレゾ】)。新考エラシシワレゾ・ヨヲヒトリヌル。
 一首の意。打ち鋤返して稻を栽ゑる田にでも稗が雜つて津山あるといふから、さう稗だからと謂つて除《の》けものにしなくともいいとおもふのだが、擇《え》られて棄てられる。そのやうに私も擇《え》られて棄てられたから、夜も寂しくも獨りで寢て居る。除け者にされた私には女が誰一人來ない。
 これは寄v草戀でも、稗のことを主にして歌つてゐるから、青年農夫の心持で極めて野趣に滿ちてゐる。それのみでなく、稗を擇るといふ農業上の作業を寫生して來て、戀愛と結付けたもので、民謠、勞働歌としても特殊でおもしろいものである。卷十二(二九九九)に、水乎多上爾種蒔比要乎多擇擢之業曾吾獨宿《ミヅヲオホミアゲニタネマキヒエヲオホミエラエシワザゾワガヒトリヌル》といふのがあるが、内容が甚だ似て居るから、民謠風の歌はかうして姿を
 
(675)          ○
 
  〔卷十一・二四七七〕
  あしひきの名《な》におふ山背《やますげ》おしふせて君《きみ》し結《むす》ばば逢《あ》はざらめやも
  足引 名負山菅 押伏 公結 不相有哉
 
 ○名負山菅・押伏 舊訓ナニオフヤマスゲ・オシフセテ。略解宣長説、『宣長は名負は必ず誤字なるべし。押は根の誤にて、ネモコロニならんと言へり。猶考ふべし』。古義ヤマノヤマスゲ・ネモコロニ。○公結・不相有哉 奮訓キミシムスババ・アハズアラメヤ。童蒙抄キミガムスババ。考キミシムスババ・アハザラメカモ。略解キミシムスババ・アハザラメヤモ(【古義・新考・新訓同訓】)。草を結ぶのは、誓ふことのほかに、逢ふことの出來ること、事の成ること、無事なること等の民間信仰があつたものである。
 一首の意。山といふ名のついて居る山菅《やますげ》(藪蘭《やぶらん》の類)をば押し伏せて無理に結ぶといふならば、お逢ひもいたしませう。お逢ひしないこともないでせう。
 この歌は、寄v草戀即ち山菅を聯想としたものだが、『山菅押し伏せて』といふ言ひ方に特徴が(676)ある。無理に力を用ゐて、強ひてといふ氣特があるので、代匠記初稿本に、『おしふせて君しむすばばとは、かの山菅のなびくをも、なびかぬをもいはず、おしふせてむすぶごとく、まことにおもふ心のせちにて、理非をいはず我にあはむとおもふほどならば、我あはざらめやとなり』とある通りである。新考に、『案ずるにアシヒキノは名ニオフを隔てて山菅にかかり又名ニオフは實ナルチフ名ニオフといふべきを略せるなり。【中略】一首の意は、實ガナルトイフ名ニ負ヘルメデタキ山菅ナレバソレヲ押伏セ結ビテ祝ヒタマハバ再逢ハザラムヤハ、必逢フ事アルベシといへるならむ』とあるのは、少し穿ち過ぎたかも知れない。卷四〔五三九)に、吾背子師遂常云者人事者繁有登毛出而相麻志呼《ワガセコシトゲムトイハバヒトゴトハシゲクアリトモイデテアハマシヲ》とあるのも同じやうな心理の歌で、女性の靡いてゆく甘美の經路をあらはしてゐる。
 草木を結ぶ例は既に引用したとおもふが、なほ一二をいふなら、卷一(一〇)に、君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去來結手名《キミガヨモワガヨモシレヤイハシロノヲカノクサネヲイザムスビテナ》。卷二(一四一)に、磐白乃濱松之枝乎引結眞幸有者亦遠見武《イハシロノハママツガエヲヒキムスビマサキクアラバマタカヘリミム》。卷六(一〇四三)に、靈剋壽者不知松之枝結情者長等曾念《タマキハルイノチハシラズマツガエフムスブココロハナガクトゾオモフ》などがある。
 
          ○
 
(677)  〔卷十一・二四七八〕
  秋柏《アキガシハ》潤和川邊《いりわかはべ》の篠《しぬ》のめの人《ひと》に忍《しぬ》べば君《きみ》に堪《た》へなく
  秋柏 潤和川邊 細竹目 人不顔面 公無勝
 
 この歌舊訓、秋柏潤和《あきがしはぬるや》川べの細竹目《しののめ》に人も相見《あひみ》し君に勝《まさ》らじ。考の訓。秋柏|潤和《ウルヤ》川べのシヌノメノヒトニシヌベバキミニタヘナク。略解がそれに據り、又第二句をウルワカハベノと訓んだ。新考はヒトニシヌベドと訓んだ。なほ諸訓をあげれば、代匠記は、下句をヒトニハアハジキミニマサナク(初)。キミニマスナシ(精)などとも訓み、童蒙抄宗師案『うるやかはべのしののめにしのびてのみぞきみをまく也』。新訓『しぬのめに人には逢はじ君にたへなく』等である。初句は枕詞だが説があり、契沖は朝柏《あさがしは》の誤だらうとも云つてゐるが、説未定である。契沖が、朝柏云々と云つたのは、この卷(二七五四)に、朝柏閏八河邊之小竹之眼笶思而宿者夢所見來《アサガシハウルヤカハベノシヌノメノシヌビテヌレバイメニミエケリ》といふ歌のあるのを參考したのであつただらうか。それほどこの二つの歌が類似してゐる。代匠記には、『秋ノ柏ハ夜霧朝露ニヌルル意ニ潤和川トツヅク』といひ、新考では、『カシハは食物を盛る料なる木葉をいふ。さて秋の木葉又朝つみたる木葉は露にうるひたれば秋ガシハウルワ川邊ノまた朝ガシハウルハ河邊ノといへるなり』といつてゐる。潤和川は代匠記に、『何レノ國ニ有ト云事ヲ知ラ(678)ズ』と注し、略解では、『打まかせて言はば畿内にあるべし』といひ、新考では、播磨明石郡伊川谷村大字|潤和《ジユンナ》だらうかと云つてゐる。この歌は、シヌノメのシヌブと同音で續けた序歌である。内容は、『人にしぬべば君にたへなく』にあり、人目を忍び憚《はばか》り遠慮し隱れてゐるものだから、しじゆうお逢するわけにゆかずに、君に對する思ひに堪へがたいといふのである。
 この歌はさういふ簡單な歌だが、代匠記などで、『人不顔面トハ、君ナラヌ人ヲバ細目ニモ見ジトナリ』等と解釋し、童蒙抄なども面倒なことをいひ、新考で、『ヒトニシヌベド|下〔右△〕キミニタヘナクとよみて餘人ニ對シテハ堪忍ベドモ君ニ向ヘバ堪忍バレヌ事ヨといふ意とすべし』と解釋してゐるのは甚だまづい。ここは平凡に、『さて人目《ひとめ》をしのぶ故に、公《きみ》に逢がたくして思ひに堪ざる也』(考)。『人目をしのびかくるれば、あふことのならぬ故に、公を戀しく思ふ心のたへられず、さりとてほに出むも、さすがにおもはゆげなれば、いかにともせむかたなきものを、と云なるべし』(古義)などの解釋の方がいいやうである。なほ、この歌は男の歌か女の歌かといふにやはり女の歌であらう。公《きみ》と書いてあるのは男のことを指したのであらう。寄v草戀で、序詞は例の如くに寫生から來て居り、具體的でなかなか好い。下の句は、調が伸び抽々としてゐる點が好く、『君に』と云つて、直ぐ『堪へなく』と續けて止めたのは切實で好い。此處でもやはり、『君に』と『に』を用ゐて居る。
(679) この歌は袖中抄に、『アキカシハヌルワカハヘノ細竹目《シノヽメニ》人モアヒミスツマナキカチニ』として載つてゐる。また六帖には、第四の『雜の思』に、『あさ柏ぬるや川べのしののめに人もあひあはずきみなしかちに』と載り、第五の『くれどあはず』に人麿作として、『あき柏ぬるや川べのしののめに人もあひみずつまなしかちに』と載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四七九〕
  さね葛《かづら》のちも逢《あ》はむと夢《いめ》のみに祈誓《うけ》ひわたりて年《とし》は經《へ》につつ
  核葛 後相 夢耳 受日度 年經乍
 
 ○夢耳 舊訓ユメニノミ。代匠記精ユメノミヲ。考イメヲノミ。古義イメノミニ。新考(夢は裏の誤)シタノミニ。○受日度 舊訓ウケヒゾワタル。考ウケヒワタリテ。
 一首の意。今は逢へないから後の機會に逢はう。そこで今は夢にだけなりと逢ひたいと神樣に祈りながら、實際は逢ふことが叶はずに歳月が經つてしまつた。この一首は、『さね葛のちも逢はむと。年は經につつ』が主で、その間に、『夢のみに祈誓ひわたりて』を插入したものとせば理會(680)し易い。私は以上のやうに解釋したが、古義の解釋は少し違ふから參考のため記し置く。『今こそあれ、後にはあはむと、神に誓ひて、ただ夢に見るばかりにて、其をたのみに思ひつつ、年月を經度れども、つひにあふ事もなし、となり』(古義)。
 卷十三(三二八〇)に、左奈葛後毛相得名草武類心乎持而三袖特床打拂卯管庭君爾波不相夢谷相跡所見社天之足夜于《サナカヅラノチモアハムトナグサムルココロヲモチテミソデモチトコウチハラヒウツツニハキミニハアハズイメニダニアフトミエコソアメノタリヨニ》。卷十二(二八八〇)に、得管二毛今見牡鹿夢耳手本纏宿登見者辛吉毛《ウツツニモイマモミテシカイメノミニタモトマキヌトミレバクルシモ》。卷十五(三四七一)に、思麻良久波禰都追母安艮牟乎伊米能未爾母登奈見要都追安乎禰思奈久流《シマラクハネツツモアラムヲイメノミニモトナミエツツアヲネシナクル》。卷四(七七二)に、夢爾谷將所見常吾者保杼毛友不相志思者諾不所見武《イメニダニミエムトワレハホドケドモアハズシオモヘバウベミエザラム》。卷十九(四二三七)に、寤爾等念※[氏/一]之可毛夢耳爾手本卷寢等見者須便奈之《ウツツニトオモヒテシカモイメノミニタモトマキヌトミルハスベナシ》などの例があり、卷四(七六七)に、都路乎遠哉妹之比來者得飼飯而雖宿夢爾不所見來《ミヤコヂヲトホミヤイモガコノゴロハウケヒテヌレドイメニミエコヌ》があつて、類似してゐる。家持の此歌は或は人麿歌集の影響であらうか。
 この歌も寄v草戀で、男の歌でもよく女の歌でもよいが、先づ男の歌として好いであらうか。人麿作、卷二(二〇七)の、狹根葛後毛將相等大船之思憑而《サネカヅラノチモアハムトオホフネノオモヒタノミテ》をはじめ、類例があるが、この例も、或は人麿の工夫になつたものではなからうかとおもはしめる點がある。併し、この歌は樂《らく》に作つてあるから、同じ人麿作と想像しても、民謠的に作つたもので、精神を引きしぼつたものではない。そこに差別があるのである。
(681) この歌は袖中抄第二十に、『サネカツラ後ニアハムトユメニノミ受日《ウケヒ》ソワタルトシハヘニツヽ』として載つて居る。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八〇〕
  路《みち》の邊《べ》の壹師《いちし》の花《はな》のいちじろく人《ひと》皆《みな》知《し》りぬ我《わ》が戀妻《こひづま》は 【或本歌云、著《いちじ》ろく人《ひと》知《し》りにけり繼《つ》ぎてし念《おも》へば】
  路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀嬬 【或本歌云、灼然人知爾家里繼而之念者】
 
 ○我戀嬬 奮訓ワガコヒヅマハ。童蒙抄ワガオモヒヅマ。古義アガコフルツマ。古寫本中、ワガコヒツマト(【嘉・類・古・細・神】)。古寫本の訓の『と』は、戀妻だといふことを。戀妻として。などの意味になるのだらうが、此處は、『は』の方が順當であるだらう。新考では、ヒトミナシリツ・ワガコモリヅマと名詞止としたが、多くの古寫本も、『戀※[女+麗]』であるから、コモリの訓は出て來ない。壹師《いちし》は白井光太郎博士はチシヤの木だらうと云つた。一名エゴ、ロクロ木、ヅサ、ヂナイ等ともいふ。エゴの木だとすると齊※[土+敦]果《えご》科の落葉小喬木で挽物細工などにもするものである。併し、この歌は寄v草戀らしいから、さうすれば、何かの草であらう。そこで、羊蹄菜《ぎしぎし》だらうといふ説があ(682)る。ギシギシはシブクサともいひ、蓼科羊蹄屬の草本で春五月頃花が開くものである。代匠記では、オホシ即ち、和名鈔の本草云、大黄一名黄良【和名於保之】だらうと云つてゐる。蓼科の藥用植物で大羊蹄とも云ふ。ギシギシと同科である。
 イチシとイチジロクとイチシが同音だから序詞としたもので、我が戀妻のことは人が皆知つてしまつた。折角隱して置いたのに、といふ意で、かういふ云ひ方をするのはやはり民謠的で誰の心にも通ずる流傳性を持つてゐる。『いちじろく』も萬葉に多い語だが、これも當時の人の語感が分かつて面白い。卷十二(三〇二一)に、市白久人之可知歎爲米也母《イチジロクヒトノシルベクナゲキセメヤモ》。卷十七(三九三五)に、志良奈美能伊知之路久伊泥奴比登乃師流倍久《シラナミノイチジロクイデヌヒトノシルベク》等の例がある。
 『或本歌云』は歌の次に、同じ大さで書いてあるのを、便利のために小文字に書いて置いた。古寫本中、小文字で書いたのもある(類・古・神)からである。これは以前に出たのも同樣である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八一〕
  大野《おほぬら》にたどきも知《し》らに標繩《しめ》結《ゆ》ひて在《あ》りぞかねつる吾《わ》がこふらくは
 大野 跡状不知 印結 有不得 吾眷
 
(683) ○大野・跡状不知 舊訓オホノラノ・アトカタシラズ。童蒙抄ヒロキノニ・ソコトモシレズ。考オホノラノ・タヅキモシラズ。略解オホノラニ・タヅキモシラズ。古義オホヌラニ・タヅキモシラズ(新考同訓)。新訓オホヌニ・タドキモシラニ。○有不得・吾眷 舊訓アリトモエメヤ・ワガカヘリミム。古寫本アリトモエズヤ(【文・西・細・神】)。代匠記初アリカネヌレバ・ワガカヘリミシ。代匠記精アリトモエメヤ・ワレカヘリミム。アリシカヌレバ・ワガカヘリミシ。童蒙抄アリハエズトモ・ワレカヘリミム。考アリガテマシヤ・ワガカヘリミバ。略解アリガテマシモ・ワガカヘリミバ。略解宣長訓(眷は戀の誤)アリゾカネツル・ワガコフラクハ。古義(眷は戀と通用)アリゾカネツル・アガコフラクハ。新考アリガテナクモ・ワガコフラクハ。新訓アリモカネツツ・ワガカヘリミシ。
 一首の意は、大野に當所《あてど》もなくとりとめなく標《しめ》を結つたごとくに、もうどうしたらいいか分からない、わが戀の有樣は。といふぐらゐの意か。『とりとめもなき大野の原に、標繩ゆひまはしたるごとく、無益なる戀を爲《シ》はじめて、わがこふることは、あるにもあられぬことになりぬるよ』(古義)。
 初句オホヌニと四音にするよりも、オホヌラニと訓めば調をなす。古寫本の訓を尊重して五音にした。卷十二(二九四一)の、跡状毛我者《タドキモワレハ》を參照して、考・新訓の訓に從つて、タドキモシラニ(684)とした。宣長がワガコフラクハと訓んだのに從つて、古義の解をも引用して解釋したのであるが、もとの儘で、眷をカヘリミルと訓み、アリトモエメヤ・ワガカヘリミムとせば、『大野ニ跡状知ラズ結シメノ如ク、我思ヒモハカナキ事トハ知ナガラ、サテモ有カヌレバ猶其野ヲ立歸リ見ル如ク戀シキ心ノ立カヘルナリ』(代匠記精)といふぐらゐになるのであらうか。或は『大野ノ原中ニトリトメモナク標繩ヲ張ツタヤウナ甲斐ナイ約束ヲシタノデ、不安心デジツトシテ居レナイノデ、私ハ又女ノトコロヘ行ツテ見タ』(全釋)となるのであらうか。代匠記や新訓のカヘリミシよりも、考のカヘリミバの方が調べが好いから、カヘリミルと訓まば、それにしたい。カヘリミシでは弱過ぎて据ゑることが出來ぬ。
 卷十一(二五〇一)に、里遠《サトトホミ》〓|浦經眞鏡床重不去夢所見與《ウラブレヌマソカガミトコノヘサラズイメニミニコソ》があり、此は後に評釋する筈であるが、〓は古寫本(文・細・温)には眷になつて居り、卷十一(二六三四)に、里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミコヒワビニケリマソカガミオモカゲサラズイメニミエコソ》とあるのに雅澄が目を附けて、それから類推して、眷をコフと訓んだのである。そして、『此(ノ)處と合せて、戀(ノ)字を書べき所に、通(ハシ)用たるを知べし。もしは眷《カヘリ》み慕ふ義もて書るにや』(古義)と云つたのは、大に注意すべき言説である。眷は顧と共に思ひ慕ふ意があり、『哀悲眷〔二字右○〕戀不2敢違距1』(晉書)、『眷戀〔二字右○〕想2平素1』(潘岳)とあるのが其證である。又、眷は※[目+卷]にも作る。※[目+卷]には戀ふる意があつて、詩經の、『※[目+卷]※[目+卷]懷顧』は、眷眷と同じである。さうして見れば、眷をコ(685)フラクハと訓んだのは、善訓で且つ正訓であつて、略解宣長説のやうに、必ずしも、『戀』の誤としなくともいい。ただこれを直覺に據つてワガコフラクハと訓まうとした宣長の神經を尊敬せねばならない。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八二〕
  水底《みなぞこ》に生《お》ふる玉藻《たまも》のうち靡《なび》き心《こころ》は依《よ》りて戀《こ》ふるこのごろ
  水底 生玉藻 打靡 心依 戀比日
 
 ○戀比日 寛永本は比が此になつてゐるのを、古寫本(【嘉・類・文・細・西・神・温・矢・京】)によつて改めた。舊訓ココロヲヨセテ・コフルコノゴロ(【代匠記・童蒙抄・考・略解・古義同訓】)。新考ココロユヨリテ。新訓ココロハヨリテ。卷十三(三二六六)に、打靡情者因而《ウチナビキココロハヨリテ》とあるから、調もそれで好いやうである。
 一首の意。水の底に生えてゐる玉藻が靡きよるやうに【序詞】うち靡き心が寄つて行つて戀に斷えず悩んで居るけふこのごろよ。
 寄v草戀で、人麿の長歌にも幾つか同じやうな表現があつたが、人麿の歌を讀んで來てこの歌に(686)至れば誠に平凡に聞こえる。併しこの歌も人麿の作とせば、同一人の力量でも、心の構へ方によつて、その聲調も變つてくる實例として、鑑賞上大切な材料の一つとなるのである。
 此歌は拾遺集に人麿作として入り、下句『心をよせて戀ふるころかな』となつてゐる。また六帖にも人麿作とし、柿本集にも入り、共に下句『心をよせて戀ふるこのごろ』である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八三〕
  敷妙《しきたへ》の衣手《ころもで》離《か》れて玉藻《たまも》なす靡《なび》きか寢《ぬ》らむ吾《わ》を待《ま》ちがてに
  敷栲之 衣手離而 玉藻成 靡可宿濫 和乎待難爾
 
 第三句、舊訓タマモナルであるが、古寫本中既にタマモナスと訓んだのがある(西・細・神・温)。略解に、『シキタヘノ枕詞。衣手カレテは、我が袖を離れてと言ふ意なり。妹が我を待ち兼ねて、玉藻の如く靡き伏せるらんとなり』で、一首の意味が分かる。
 これも寄v草戀であらう。この歌は、女が自分を待かねて、獨りで寐る時の容子をおもひやつて、それに一種の戀愛的快感を感じつつ咏んでゐるのである。これは人麿の長歌に挽歌の時の表現に(687)似たやうなものがあつた。その官能的な所で一種の戀歌になるのである。それから、ナビキヌルといつても共に寢るときにも使ふし、衣を敷いてなよなよと獨りで寐るときにも使ふ。また、『衣手かれて』といふ言ひ方も、自分の衣手離れで、男が離れて居る趣に使つて居り、やはり注意していいとおもふ表現である。本卷(二六〇七)に、敷細之衣手可禮天吾乎待登在濫子等者面影爾見《シキタヘノコロモデカレテワヲマツトアルラムコラハオモカゲニミユ》とあるのは、やはりコロモデカレテの語が入つてゐるのみならず、その姿が大に好く似てゐる。おもふに、人麿歌集の歌の異傳であらうか。それとも民謠風に吟誦せられつつ、改作模倣せられたものであらうか。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八四〕
  君《きみ》來《こ》ずは形見《かたみ》にせむと我二人《ワガフタリ》植《う》ゑし松《まつ》の木《き》君《きみ》を待《ま》ち出《い》でむ
  君不來者 形見爲等 我二人 植松木 君乎待出牟
 
 ○我二人 舊訓ワレフタリ。童豪抄ワガフタリ(【略解・新訓同訓】)。古義カタミニセヨト・アトフタリ。○君乎待出牟 舊訓キミヲマチイデム。考キミヲマチデナ。略解宣長訓キミヲマチデネ(【古義・新考同訓】)。
(688) 一首の意。あなたがお出でにならぬ時に、あなたの形見《かたみ》としてあなたと思つて眺めてゐませうと話合つて、二人で植ゑた松の樹です。この松の樹は、待《まつ》といふ名のついてゐる樹であるから、この寂しい私に同感して、いつまでもあなたを待つてくれるでございませう。
 マチ・イデムといふ表はし方が注意せられるが、つまり、卷十一(二六八八)に、待不得内者不入《マチカネテウチヘハイラジ》の如くに、待つて家から外へ出るやうな能働的な氣持をあらはすのである。同卷(二八〇四)に、高山爾高部左波高高爾余待公乎待將出可聞《タカヤマニタカベサワタリタカダカニワガマツキミヲマチイデムカモ》とある、マテイデムと同じ用法である。
 寄v木戀であるが、必ずしも題咏臭のないところがよく、自然にこだはりなく運ばれてゐる。松のマツといふ音は待に通ずるので、昔からこんなことが男女間に行はれてゐたのであつただらう。卷十三(三三二四)の、遠人待之下道湯登之而國見所遊《トホツヒトマツノシタヂユノボラシテクニミアソバシ》は、松のことであるが、待に共通せしめてゐるのを見てわかるのである。
 參考歌として、卷八(一四七一)の、戀之家婆形見爾將爲跡吾屋戸爾殖之藤浪今開爾家里《コヒシケバカタミニセムトワガヤドニウヱシフヂナミイマサキニケリ》。卷十六(三七九一)長歌の、後之世之竪監將爲迹老人矣送爲車持還來《ノチノヨノカタミニセムトオイビトヲオクリシクルマモチカヘリコシ》等をしるし置く。
 
          ○
(689)  〔卷十一・二四八五〕
  袖《そで》振《ふ》るが見《み》ゆべきかぎり吾《われ》はあれど其《そ》の松《まつ》が枝《え》に隱《かく》りたりけり
  袖振 可見限 吾雖有 其松枝 隱在
 
 舊訓ソデフルヲ・ミルベキカギリ。代匠記精ソデフラバ。略解ソデフルガ・ミユベキカギリ。舊訓カクレタリケリ。古義カクリタルラム。新考カクリタルラシ。新訓カクリタリケリ。
 一首の意。妹《いも》の袖振るのが見える限りは私は別を惜しむのだが、あの松の枝が邪魔をして見えなくなつた。嗚呼殘念なことだ。
 代匠記に、『その松かえは、上の哥によめる松をさせり』(初)、略解に、『男の歌なり。妹と別るる時、妹が袖ふるを言ふ。其松ガエは上の歌に言へる松を言ふ』とあるのを顧慮すれば、此歌は前の歌に應へた趣になつて居るのであるが、必ずしもさう即せしめずに味ふことも出來るものである。
 カギリの例は、卷四(五九五)に、吾命之將全幸限忘目八彌日異者念益十方《ワガイノチノマタケムカギリワスレメヤイヤヒニケニハオモヒマストモ》。卷二十(四四四一)に、多知之奈布伎美我須我多乎和須禮受波與能可藝里爾夜故非和多里奈無《タチシナフキミガスガタヲワスレズハヨノカギリニヤコヒワタリナム》。卷五(八八一)に、加久能未夜伊吉豆伎遠良牟阿良多麻能吉倍由久等志乃可伎利斯良受提《カクノミヤイキヅキヲラムアラタマノキヘユクトシノカギリシラズテ》等があり、既に評釋した、卷(690)十の人麿歌集の歌(一八九一)の例もある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八六〕
  血沼《ちぬ》の海《うみ》の濱邊《はまべ》の小松《こまつ》根《ね》深《ふか》めて吾《わ》が戀《こ》ひわたる人《ひと》の子《こ》ゆゑに
  珍梅 濱邊小松 根深 吾戀度 人子※[女+后]
 
 『人子※[女+后]』の※[女+后]を考では故に改めた。併し清水濱臣の考證があつて(【略解卷十一上追加】)、※[女+后]は妬の訛で、また遊仙窟の、『無情明月故臨v※[窗/心]』を、『あぢきなきありあけづきのみぞねたましげ〔五字右○〕にまどにいる』と訓んでゐたについて、『いにしへは故・妬〔二字右○〕通じ用ひしものと見ゆ。されば互に相通はして、ゆゑ〔二字右○〕といふにも妬の字を用ひしなるべし』と云つたが、木村博士の訓義辨證【下卷】には、濱臣のにも賛成せずして、龍龕手鑑の※[女+戸]、妬、※[女+后]。一切經音義の、嫉※[女+后]、嫉〓を引いて、※[女+后]は妬の俗體だとし、『詩小星序の箋に、以(テスルヲ)v色(ヲ)曰v※[女+戸](ト)、また玉篇に※[女+戸]【丹故切、爭色也】妬【同上】とあれば、人妻の我おもふままならぬを、ねたくおぼゆる意をもて、かける文字なるべし。さるによりて、人子※[女+后]、また人妻※[女+后]とある所にかぎりて、ただにゆゑ〔二字右○〕といふべき所に用ゐたるはなき也』と云つてゐる。卷十一(二三六五)に、(691)宮道爾相之人妻※[女+后]《ミヤヂニアヒシヒトヅマユヱニ》。卷十二(三〇一七)に、人之子※[女+后]戀渡青頭鷄《ヒトノコユヱニコヒワタルカモ》。同(三〇九三)に、人妻※[女+后]爾吾戀二來《ヒトヅマユヱニワレコヒニケリ》がある。
 一首の意は、茅渟《ちぬ》の海の濱べに生えて居る松の樹の根の深いごとく【序詞】心を深く、心の底から、私は斷えず戀をして來てゐる。あの人妻《ひとづま》に。といふのである。
 寄v木戀だが、茅渟の海即ち今の大阪の南から堺市に至る海の邊を咏んで居るから、あの邊の經驗を念中に置いて、民謠風に咏んだものである。人妻であつて、戀の未だ成就しない趣であるから、『※[女+后]』の文字を使つたことに理會が附くわけである。卷二(一二二)に、大船之泊流登麻里能絶多日二物念痩奴人能兒故爾《オホフネノハツルトマリノタユタヒニモノモヒヤセヌヒトノコユヱニ》。卷十一(二三六七)に、海原乃路爾乘哉吾戀居大舟之由多爾將有人兒由惠爾《ウナバラノミチニノレレヤワガコヒヲラムオホフネノユタニアルラムヒトノコユヱニ》。あとは、既出の卷十二(三〇一七)のがある。この固有名詞から推して、茅渟海をおもひ浮べ得る大和地方の民謠として役立つたものかも知れず、その頃の人々は人麿作と看做してゐたものであつただらうか。何の苦もなく自由に一首を爲上げてゐることこのあたりの全體の歌同樣である。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、下句『われ戀ひわたるひとのこゆへき』となつてゐる。
 
          ○
 
(692)  〔卷十一・二四八六、或本歌〕
  血沼《ちぬ》の海《うみ》の潮干《しほひ》の小松《こまつ》懃《ねもころ》に戀《こ》ひやわたらむ人《ひと》の兒《こ》ゆゑに
  血沼之海之 塩干能小松 根母己呂爾 戀屋度 人兒故爾
 
 この歌は前の歌と大同小異で、潮干になると根があらはれるから、根《ね》とネモコロと同音で續けたものである。コマツは、語感が、現在謂ふ稚い松といふのでなしに、もつと大きいのでもいふやうであつて、コは愛憐のための接頭語であらうか。卷一(一一)の、小松下乃草乎苅核《コマツガシタノクサフカラサネ》。卷二(一四六)の、磐代乃子松之宇禮乎又將見香聞《イハシロノコマツガウレヲマタミケムカモ》。卷四(五九三)の、楢山之子松下爾立嘆鴨《ナラヤマノコマツガモトニタチナゲクカモ》。卷十(二三一四)の、卷向之檜原毛未雲居者子松之末由沫雪流《マキムクノヒハラモイマダクモヰネバコマツガウレユアワユキナガル》などの例を見て悟るべきである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八七〕
  奈良山《ならやま》の小松《こまつ》が末《うれ》の何《うれむ》ぞは我《わ》が思《も》ふ妹《いも》に逢《あ》はず止《や》みなむ
  平山 子松未 有廉叙波 我思妹 不相止者
 
(693) ○平山・子松未・有廉叙波 流布本、『小松未』は、古寫本によつて『小松末』に改めた。舊訓ナラヤマノ・コマツガウレユ・アレコソハ。代匠記精コマツガウレノ、ウレムゾハ。○我思妹・不相止者 舊訓ワガオモフイモニ・アハズヤミナメ。代匠記精ワガモフイモニ・アハデヤミナム。又はワガモフイモガ・アハデヤメテフ。考アハデヤミナメ、者は嘗の誤。略解ワガオモフイモニ・アハズヤミナム。古義アガモフイモニ・アハズヤミナム。新考ワガモフイモニ・アハズヤミナム。
 第二句までは、ウレムゾに續く序で、奈良の山の松の木の末《うれ》(梢)から同音のウレムゾにつづけた。ウレムゾは、卷三(三二七)に、海若之奧爾持行而雖放宇禮牟曾此之將死還生《ワダツミノオキニモチユキテハナツトモウレムゾコレガヨミガヘリナム》とあるウレムゾと同じく、契沖に從つて、いかんぞ。何《なん》ぞ。どうして。といふ意味に解していいだらう。有廉《ウレム》と字音そのまま訓んだもので、『者』は、助語で添へた。咏歎の分子も含まつてゐるのであらう。『イヅレモゾと言ふ詞にて、イカムゾと言ふに同じ』(略解)とあるが語原はいまだ不明である。慨哉《ウレタシ》・字禮豆玖《ウレヅク》・※[立心偏+中]※[立心偏+中]《ウレフ》・吁矣《ウレハシ》などのウレか、若しくは卜合《ウラフ》などのウラとこの感動詞と何かの關聯はないであらうか。
 一首の意は、〔平山《ならやまの》。子松末《こまつがうれの》【序詞】〕どうして、この私の戀しくおもふ女に逢はずにしまはうか。何としても逢つてやるといふのである。
 寄v木戀で、ウレムゾは語原は縦ひ不明でも、感動詞、間投詞のやうな強いところがその語氣の(694)うちに感じ得るから、結句の語氣も、『あはで止みなめ』。『あはでやまめや』。『あはずはやまじ』のやうに強いもののやうである。『いかんぞ我が思ふ妹に逢はずして止みなんやと言ふのみにて、上二句は序なり』(略解)。
 
          ○
 
 
  〔卷十一・二四八八〕
  磯《いそ》の上《うへ》に立《た》てる囘香樹《むろのき》心《こころ》いたく何《なに》に深《ふか》めて思《おも》ひ始《そ》めけむ
  礒上 立回香瀧〔樹〕 心哀 何深目 念始
 
 ○礒上 舊訓イソノウヘニ。古寫本中イソノカミ(古)と訓んだのもある。○立回香瀧 舊訓タチマフタキノ。古寫本中タチマヒタキハ(嘉)。タチマフタキツ(古)。タヽ《(消)》チマヒタキツ(類)等の訓があつたが、代匠記で、タテルワカマツと訓み、『前後木ニ寄タル歌ノ中ニ、瀧ヲヨメル歌有ベカラザレバ、今按瀧ハ※[木+龍]ニテ、タテルワカマツト讀ベシ。其故ハ玉篇云、 【力同切、房室之疎、亦作〓】カカレバ※[窗/心]《マド》ト同ジク讀、常ノ事ナリ。集中ニ高圓ヲ高松ト書タレバ※[木+龍]ヲ松ニ借コト恠シブベカラズ』云々と云つたが、考では、『今本樹を瀧に誤たり。卷十四【今三】。礒上、根蔓室木、見之人乎、又吾もこか、(695)みし鞆浦之、天木香樹者、常世有跡、これを囘香ともいふべし』といつて、ムロノキと訓み、爾來諸書共に從ふやうになつた。この眞淵の引いた例歌は、卷三(四四九)の、吾妹子之見師鞆浦之天木香樹者《ワギモコガミシトモノウラノムロノキハ》云々をいふのである。それから、心哀《ココロイタク》になぜ續けたかといふに、考に、『荒磯の上に根もあらはに立たるを見るに、あや|う《(ふ)》く心痛をもて我戀に譬へし也』と云つてゐるので見當がつく。『何に』はドウシテ、何ゆゑにぐらゐの意である。どうしてこんなに戀心が深くなつたのであらうといふのである。室の木は松杉科の常緑喬木で杜松とも天木香樹とも書く。○心哀 舊訓ココロイタクであつたのを、古義でネモコロニと訓み、『心哀は、十二に、豐國聞濱松心喪《トヨクニノキクノハママツネモコロニ》云々(略解に、春海云、喪は衷の誤なるべし。字書に、衷(ハ)誠也とあれば、心衷を義もてネモコロニと訓べしといへりと見えたり)とあるを合(セ)考(フ)るに、共に心衷にてネモコロニなるべし』と云つた。○何深目 舊訓ナニノフカメテ。代匠記精ナニニフカメテ。校本萬葉所收の古寫本皆ナニニとある。
 一首は、なぜこんなに心を痛めて深くあの人を思ひそめたのであらう。といふだけの歌だが、寄v木戀で、いろいろ工夫したものだから、後世の學者に難儀をかけたが、諸學者の骨折で釋然とするやうになつた。そして、この歌は、『礒の上に立てる囘香樹《むろのき》』が、危くおぼつかないといふので、心哀《こころいたく》に續けたところに、稍抽象的な理論があつて、そのために解釋が面倒になつたのであつ(696)た。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四八九〕
  橘《たちばな》の下《もと》に我《わ》が立《た》ち下枝《しづえ》取《と》り成《な》らむや君《きみ》と問《と》ひし子《こ》らはも
  橘 本我立 下枝取 成哉君 問子等
 
 ○我立 舊訓ワレタチ。新考ワガタチ。○成哉君 舊訓ナリヌヤキミト(諸書從之)。考ナランヤキミト(【新考・新訓・全釋同訓】)。
 この歌も寄v木戀だから、上半は序詞と看做すべきだが、例によつて寫生から來てゐるから、必ずしも序とせずに、意味を持たせて解釋することも出來る。即ち、橘の木の下に立つて、下枝を取り、愛する女がそのとき、この橘の實のなるやうに、私どもの願がかなへるでせうか、不安でなりませぬ、などと問うたこともあつたが、それも今はすべて過去のことになつてしまうた、と追懷の情を咏んで居るのである。『子ら』は單數である。代匠記初稿本に、『橘のもとにわれ立。是は橘の實のなりぬやといふを、戀の成就するによそへたるなり。我立は女の身の我なり。下枝(697)とりは、下枝を取てしめすなり。思ふこのかなひて相見し時に、今こそは成たれといひし女の、後はあひみぬを、いづらやと尋てよめる心なり。とひしはいひしなり』と解釋し、考に、『今、君が方、吾方ともに障多かれど、かくても末は成なんやと問たりし妹は、遂にならずなりて、はなれて後おもひ出て、ゆかしむさま也』と解釋してゐるので、大體が分かり、一首の中に、會話の口調まで入れて自在な歌である。また、『本にわが立ち』、『成らむや君と』のところは、謂ゆる句割であるが、此も間々あることで、却つて古樸であるやうに響くことがある。
 此歌は大體右の如くであるが、新考に、『從來相思の男女が對立せる趣に心得たるは誤なり。我といへるは男子即作者にて、君といへるは媒なり。即對立せるは若き男と老いたる女即媒となり。四五の意は成ラムヤイカニトワガ媒ニ問ウタ其本尊樣ハドウシタラウといへるなり。妹よりいまだ答の無きをおぼつかなみたるなり。卷七に、むかつをにたてる桃の樹成らむやと人ぞささめきしながこころゆめ。といふ歌あり。一首の意も初二の格も今と異なれどナラムヤの意は相同じ』と解釋して居るが、此は少しく面倒で、惡い解釋であらう。
 
          ○
 
(698)  〔卷十一・二四九〇〕
  天雲《あまぐも》に翼《はね》うちつけて飛《と》ぶ鶴《たづ》のたづたづしかも君《きみ》し坐《ま》さねば
  天雲爾 翼打附而 飛鶴乃 多頭多頭思鴨 君不座者
 
 結句舊訓キミシマサネバ(【考・略解・古義同訓】)。古寫本中キミガマサネバ(嘉)。キミシマサヌハ(矢)。代匠記精キミキマサネバ(新考同訓)。童蒙抄キミイマサネバ(新訓同訓)。代匠記精に云。『六帖ニハキミキマサネバトアリ。然レバ今ノ本若不ノ下ニ來ノ字ノ落タル歟』。『飛ぶ鶴《たづ》の』から、同音のタヅタヅシに續けた序詞で、天雲に翼を打ち附ける、即ち高く飛翔する形容であるから、ただ同音で續けて、そこに特別の意味は無い。タヅタヅシは、おぼつかない、たよりない、はかない意に落著く。
 一首の意は、〔天雲爾翼打附而飛鶴乃《あまぐもにはねうちつけてとぶたづの》【序詞】〕たづたづしく、たよりない、よりどころない心持で居ります。戀しいあなたと御一しよでないものですから。私ひとりだものですから。
 卷四(五七五)に、草香江之入江二求食蘆鶴乃痛多豆多頭思友無二指天《クサカエノイリエニアサルアシタヅノアナタヅタヅシトモナシニシテ》。卷十五(三六二六)に、多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類安奈多頭多頭志比等里佐奴禮婆《タヅガナキアシベヲサシテトビワタルアナタヅタヅシヒトリサヌレバ》とあるのも同じやうな發想で同じやうな表現である。
(699) 寄v鳥戀で、序詞を前驅せしめて一首を纏める手段は既に常套のやうであるが、この一首の歌調には、緊まつて大柄のところがある。樂に、苦澁せずに作つてゐるのであるが、それでも、古今集の、『白雲に羽うちかはし飛ぶ鴈の|かげ《(かず)》さへ見ゆる秋の夜の月』よりも重くて澁い。想像すればこれなども或は人麿の自由な生活時期に作つたものかも知れないし、そして其頃の人々も此歌を或は人麿作と思つてゐたものかも知れない。さうすれば、右に引いた卷四の旅人の歌も、卷十五の歌も、この人麿歌集の歌から影響を受けたものと想像することも亦可能である。
 この歌は六帖に載り、結句『君來まさねば』である。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九一〕
  妹《いも》に戀《こ》ひ寐《い》ねぬ朝明《あさけ》に鴛鴦《をしどり》のここゆわたるは妹《いも》が使《つかひ》か
  妹戀 不寐朝明 男爲鳥 從是此度 妹使
 
 ○妹戀・不寐朝明 舊訓イモコフト・イネヌアサケニ。童蒙抄イモニコヒ(【考・略解・古義・新考・新訓同訓】)。○從是此度・妹使 舊訓ココニワタル・イモガツカヒカ。代匠記ココニワタルハ。又はココニシワタ(700)ル(童蒙抄同訓)。考、此は飛の誤でトビワタル。略解、考に從つてコユトビワタル(新考同訓)。古義コヨトビワタル。新訓ココユワタルハ。ココは此とも是とも書いてゐるから、是此二字でココと訓ませたものと看做して、新訓の如くココユワタルハと訓んでいい。結句、考イモガツカヒニ。他は盡く舊訓に從つた。
 一首の意は、妹《いも》を戀しく思うて一晩ぢゆう眠らなかつた曉に鴛鴦《をしどり》の飛んで居るのはあれは妹からの使であらうか。といふので、鴛鴦は雌雄の睦じい鳥であるから聯想が直ぐそこに向いたので、妹《いも》も亦自分のことを思うて一晩眠らなかつただらうといふ意を含めてゐるらしいのである。
 書紀孝徳天皇卷の野中川原|史滿《ふひとみつ》の歌に、耶麻鵝播爾烏志賦※[手偏+施の旁]都威底陀虞※[田+比]預倶陀虞陛屡伊慕乎多例柯威爾鷄武《ヤマガハニヲシフタツヰテタグヒヨクタグヘルイモヲタレカヰニケム》があり、萬葉卷二十(四五一一)に、乎之能須牟伎美我許乃之麻家布美禮婆安之婢乃波奈毛左伎爾家流可母《《ヲシノスムキミガコノシマケフミレバアシビノハナモサキニケルカモ》がある。なほ鳥を使とした歌は、古事記允恭天皇條、輕太子の御歌に、阿麻登夫登理母都加比曾多豆賀泥能岐許延牟登岐波和賀那斗波佐泥《アマトブトリモツカヒゾタヅガネノキコエムトキハワガナトハサネ》といふのがあり、萬葉卷八(一六一四)に、九月之其始鴈乃使爾毛念心者可聞來奴鴨《ナガツキノソノハツカリノツカヒニモオモフココロハキコエコヌカモ》。卷十五(三六七六)に、安麻等夫也可里乎都可比爾衣弖之可母奈良能彌夜古爾許登都礙夜良武《アマトブヤカリヲツカヒニエテシカモナラノミヤコニコトツゲヤラム》。卷十七(三九五三)に、鴈我禰波都可比爾許牟等佐和久良武秋風左無美曾乃可波能倍爾《カリガネハツカヒニコムトサワグラムアキカゼサムミソノカハノヘニ》といふのがある。
 この歌は、寄v鳥戀であらうが、一面には附會して作つたやうなところもあり、また鴛鴦といふ(701)鳥の性質からの聯想によつて空想によつて作つたやうなところもあるが、それにしても一首全體としては實際感が滲出でて居り、同時に何か象徴詩的なにほひのする、可憐な歌だといふことが出來る。そして、結句は、『妹が使か』と訓んだのに從ふべく、考の訓の、『妹が使に』では、結句のカが餘程減却するやうにおもふ。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、『いもこふといね|す《ぬイ》朝け|の《にイ》をし鳥のこれよりわたる妹かつかひか』とある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九二〕
  念《おも》ふにし餘《あま》りにしかば鳰鳥《にほどり》の足沾《あぬ》らし來《こ》しを人《ひと》見《み》けむかも
  念 餘者 丹穗鳥 足沾來 人見鴨
 
 ○足沾來 舊訓アシヌレクルヲ。古寫本中、アシヌレタルヲ(神)。アシヌルクルヲ(温)。アシヌレイルヲ(京)等の訓がある。考アヌラシコシヨ。略解アヌラシコシヲ。略解宣長訓(沾は脳の誤)アナヤミコシヲ(新考從之)。古義アシヌレコシヲ(新訓同訓)。
(702) 此歌は、寄v鳥戀だから、『鳰鳥の』といふ枕詞の格を使つたのだらうが、そのほかは、言葉どほりに解釋が出來るやうである。
 お前の戀しさに思ひ餘つて、足を濡らして難儀して通つて來たのを、人が見たであらうか、見つかつたか、どうも不安だといふのであらう。
 考で、『川をかち渡りしがわろきを愧ていふ』と云つたが、これは愧づるのではなく、『人モカカル氣色恠シトヤ見トガムラムトナリ』(代匠記精)といふ方が穩當である。また、この『足沾らし』は、『川ヲ渡リ野原ノ露ヲワケナドシテ』(代匠記精)足を濡らすことである。卷十(二〇七一)の、天河足沾渡は《アマノガハアシヌレワタリ》、川を渡つて足の濡れることであり、卷九(一七六四)の、裳不令濕不息來益常《モヌラサズヤマズキマセト》もさうであり、卷十一(二三五七)の、早起出乍吾毛裳下閏奈《ハヤクオキイデツツワレモモスソヌラサナ》は、朝の草露に濡れることである。
 なほ、卷十二(二九四七)の、念西餘西鹿齒爲便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾《オモフニシアマリニシカバスベヲナミワレハイヒテキイムベキモノヲ》の左注に、柿本朝臣人麿歌集云、爾保鳥之奈津柴比來乎人見鴨《ニホトリノナヅサヒコシヲヒトミケムカモ》とある。少しづつ變化して傳はつてゐることが分かる。
 
          ○
 
(703)  〔卷十一・二四九三〕
  高山《たかやま》の岑《みね》行《ゆ》く鹿猪《しし》の友《とも》を多《おほ》み袖《そで》振《ふ》らず來《き》つ忘《わす》ると念《おも》ふな
  高山 岑行完 友衆 袖不振來 忘念勿
 
 ○岑行完・友衆 舊訓ミネユクシシノ・トモオホミ。古寫本中ミネユクシカノ(嘉・類・細)。ミネユクシシノ(【神・温・文・西・矢・京】)。トモヲオホミ(嘉)。トモヲヽホミ(類)。考トモヲオホミ。代匠記初稿本で『岑行|完〔右○〕』とあるのを、『完は宍に作るべし』と言ひ、童蒙抄・考・以下『岑行|宍〔右○〕』と改めたが、文字辨證【上卷】に據るに、これは完〔右○〕の儘でよいやうである。文字辨證では、倭名鈔に、肉の字を完に作る之々《シシ》。新撰字鏡に、肉【如陸反肥也】完【上同】。類聚名義抄に、完シシ。宍【肉上俗下正】。天台六十卷音義に、完《ニク》シシ等とあるのを證據とし、なほ日本書紀卷二に、膂完之空國《ソジシノムナグニ》。卷二十五に、衣衿足2以朽1v完。卷二十九に、有人云得2麟《鹿イ》角於葛城山1、角本(ハ)二枝而未合、有v完々上有v毛。太神宮儀式帳に、完多氣云。靈異記卷下に、※[口+敢](テ)v完爲v效などとあるのを引いて、『按に、宍は肉の俗字なれば、これより轉じて完とはかけるなり。完全の完とは源委同じからず。混ずることなかれ』と云つた。萬葉集の例は、既に評釋した、卷七(一二九二)の、江林次完也物《エバヤシニヤドルシシヤモ》…完待我背《シシマツワガセ》。卷九(一八〇九)の、完串呂《シジクシロ》。卷十三(三三四四)の、所射完乃行文《イユシシノユキモ》。卷十六(三八八五)の、完待跡《シシマツト》…吾完者《ワガシシハ》などである。(704)○袖不振來 舊訓ソデフリコヌヲ。嘉暦傳承本ソデフラズキヌ。考ソデフラデ〔キヌ〕。略解ソデフラズキヌ。新考ソデフラズキツ。
 一首の意は、〔高山《たかやまの》・岑行完《みねゆくししの》【序詞】〕友《とも》(連《つれ》の人々)が多かつたために、振りたい袖をも振らずに、その儘別れて來てしまひました。どうぞあなたを忘れてゐるとは思ひ下さるな。といふのである。
 寄v獣戀で、序詞は、山間生活によく經驗する、鹿などの群れて歩く有樣から、自分の連れの人々の多いことに懸け、その人々に遠慮し、または二人の間の戀の氣附かれることを處れて、別離の徴の袖振ることをしない心持をあらはした歌で、山間住民の間などに歌はれ得る民謠のおもかげを備へたもののやうに思へる歌である。
 卷十四(三四二八)に、安太多良乃禰爾布須思之能安里都都毛安禮波伊多良牟禰度奈佐利曾禰《アダタラノネニフスシシノアリツツモアレハイタラムネドナサリソネ》。同(三五三一)に、伊母乎許曾安比美爾許思可麻欲婢吉能與許夜麻敝呂能思之奈須於母敝流《イモヲコソアヒミニコシカマヨビキノヨコヤマヘロノシシナスオモヘル》などとあるのも、鹿猪《しし》を聯想の中に置く歌で、戀愛の心を織りまぜた民謠風の歌である。
 此歌は、六帖に入り、『高山の嶺行く鹿の友を多み袖振りこぬを忘ると思ふな』となつてゐる。又、夫木和歌抄には人丸作とし、『鹿のともおほみ袖ふりこむをわすると思ふな』とある。
 
          ○
 
(705)  〔卷十一・二四九四〕
  大船《おほふね》に眞楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き榜《こ》ぐ間《ほど》も極太《ここだく》戀《こひ》し年《とし》にあらば如何《いか》に
  大船 眞※[楫+戈]繁拔 榜間 極太戀 年在如何
 
 ○榜間 舊訓コグホドヲ(童蒙抄・考同訓)。代匠記コグホドモ(【略解・新考・新訓同訓】)。古義コグマダニ。『間』をホドと訓ませた例は、卷三(四六〇)に、草枕客有間爾佐保河乎朝川渡《クサマクラタビナルホドニサホカハヲアサカハワタリ》。卷九(一七四〇)に、從家出而三歳之間爾墻毛無《イヘユイデテミトセノホドニカキモナク》等がある。○極太戀・年在如何 舊訓イタクナコヒソ・トシニアルイカニ(【童蒙抄從之】)。代匠記初イタクコヒナバ又はイタクコフルヲ・トシニアラバイカニ。代匠記精イタクコフルヲ・トシニアラバイカニ。イタクシコヒバ・トシニアラバイカニ。考イタクナコヒソ・トシフラバイカニ(【極勿戀とし、年古如何とした。】)。略解ネモコロコヒシ・トシニアラバイカニ(古義同訓)。新考ココダクコヒシ・トシニアラバイカニ(新訓同訓)。
 前の歌(二四〇〇)の時にも、伊田何極太甚《イデイカニココダハナハダシ》と訓む例があつたからそれに傚つた。幾許吾戀渡《ココダクワガコヒワタル》等の例は既にその時に引用して置いた。トシニアルとは、一年の長さを經過することで、卷十(二〇三五)に、年有而今香將卷烏玉之夜霧隱遠妻手乎《トシニアリテイマカマクラムヌバタマノヨギリゴモリニトホヅマノテヲ》。卷十五(三六五七)に、等之爾安里弖比等欲伊母爾安布比故保思母和禮爾麻佐里弖於毛布良米也母《トシニアリテヒトヨイモニアフヒコボシモワレニマサリテオモフラメヤモ》。卷四〔五二三)に、好渡人者年母有云乎何(706)時間曾毛吾戀爾來《ヨクワタルヒトハトシニモアリトフヲイツノマニゾモワガコヒニケル》。同卷(五二五)に、狹穗河乃小石踐渡夜干玉之黒馬之來夜者年爾母有糠《サホガハノコイシフミワタリヌバタマノクロマノクルヨハトシニモアラヌカ》などとあるのを參考とすべきである。大體、『一とせのあひだ』を意味すると考へていい。
 一首の意は、大船に※[楫+戈]《かぢ》(櫂《かい》)を澤山に爲立てて漕ぐ間《あひだ》でも、こんなにひどく妹が戀しいのだから、これが一ケ年も逢へないのであるのなら、どんなにか戀しいのであらうか。といふのである。
 寄v船戀だが、さういふ題によつて作つたのでなく、船を漕いで居る間と云つて、その時の僅かなのを示して居るのである。また、牽牛・織女のことと關聯せしめて、一ケ年を待たねばならぬ待遠しさを示したやうでもあるが、必ずしもそこまでは解釋しなくともいいやうである。『本は譬へにあらで、海路の旅より歸る程の事と見ゆ。妹がもとへ歸り來る程だに斯く戀しければ、障り有りて一年もあらば、いかに有らんと言ふなり』(略解)といふので大體分かるが、さほどに實際の旅の時の歌ともせず味ふ方が好い。童蒙抄に、『諸抄の説は、七夕の年に一度逢ふ事の如くならばいかにせん。大船に眞梶繁くぬきて漕ぐ如き捗取らぬ事を甚くな餘り歎き佗びそ。年に一夜の七夕の如くならば、いかにぞと諫めたる歌と釋したれど愚意未v落。何とぞ別意の聞樣見樣によりて讀樣有べし。尚追而可v加v案也』といひ、考に、『又二の星の年の渡をいふとするはゆくりなく此一句にいふべくもなし』と云つてゐる。なほ、舊訓の如く、イタクナコヒソといふならば、代匠記の如く、『大船ニ櫓ヲ多ク立テテ漕《コ》ゲドモ、浪風ノ障ニ進ミ難キ如ク、君ガ許ニトクユカバ(707)ヤト思フ事ハ切ナレドモ、人目ヲシノブ程アルヲ暫ノ程心ヲ取延テ待テ痛クナ戀ソ。暫ノ程ヲ待カネテ痛ク戀ハ、若事ノ障ニ依テアハヌ事一年モアラバ如何ニセムトカ思フトナリ』となるのであらう。併し、それにしても訓と解釋とにしつくりせぬ點があつたので、代匠記精撰本で、コグホドモ・イタクコフルヲ・トシニアラバイカニ。又はイタクシコヒバ・トシニアラバイカニ等と改訓したのであつた。そしてその心の向け方は正しかつたので、第四句をココダクコヒシとせば現今の訓になるので、契沖の鑑識の力量を示すものである。
 諸學者がいろいろ苦心した歌だが、現今のやうに訓み、右の如くに解釋すれば何でもない歌なのである。そして平易で自然で無理のない歌である。それゆゑ、萬葉の歌も、餘り面倒に訓み、面倒に解釋するときには、そこに何かの無理があつて、正訓正解でない場合が多いのではあるまいか。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九五〕
  垂乳根《たらちね》の母《はは》が養《か》ふ蠶《こ》の繭隱《まよごも》りこもれる妹《いも》を見《み》むよしもがも
  足常 母養子 眉隱 隱在妹 見依鴨
 
(708) ○足常 タラチネノと訓む。『常』をばチネに借りて居る。『足常ハ、ツトチト通ジテ常ノ字ハ借レリ』(代匠記精)。然るに井上博士は、『ここに足常とかけるについて從來常をチネに借れるなりといへれどおそらくは然らじ。タラチネを訛《ナマ》りてタラツネともいひしかばやがて足常とかけるならむ』(新考)といふ説を出した。參考すべき説とおもふ。特に關東から東北にかけてツに訛つたのを顧慮すれば、この説もなかなか興味が深い。○母養子 舊訓ハハノカフコノ(代匠記同訓)。童蒙抄ハハガカフコノ(【考・略解・古義・新考・新訓同訓】)。古寫本中オヤノカフコノ(嘉・類・細)がある。○眉隱 舊訓マユゴモリ(【代匠記・童蒙抄・略解同訓】)。古義マヨゴモリ(【新考・新訓同訓】)。○見依鴨 舊訓ミルヨシモガモ(【代匠記・童蒙抄同訓】)。略解ミムヨシモガモ(【古義・新考・新訓同訓】)。
 一首の意は、第三句まで、即ち、母の飼つてゐる蠶が繭の中に隱《こも》つてゐるやうに隱《こも》ること、それを序詞とした。こもり隱《かく》れてゐる女をば見る方法が無いものだらうか。見たいものである。といふのである。
 この序詞は誠に巧で、田舍の生業と、そこに働いてゐる男女等も彷彿とあらはれて來て氣持のいいものである。從つてその下の、『こもれる妹を見むよしもがも』といふ句も、直接で抒情詩としても古樸である。代匠記精撰本に、『母ハ我母ニハアラズ、妹ガ母ナリ。蠶ヲモ母ガカヒ、娘ヲモ母ノソダツレバ、蠶ノ繭《マユ》ニコモレル如ク深キ閏ニ養ナハレタル妹ヲモ見ル依モガナト、ユカシ(709)サヲヨメルナリ』と解釋してゐるが、かうまで接近せしめずに、序詞は序詞として、もつと一般的な技法だと思つてかまはない。いづれにしても、民謠風な歌の上乘なるもので、東歌などと共に愛誦すべきものである。
 和名鈔に、蠶【和名加比古。一訓古加比須】虫吐v絲也。説文云、※[爾/虫]【和名萬由】蠶(ノ)衣也。萬葉卷十二(二九九一)に、垂乳根之母我養蚕乃眉隱馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿異母二不相而《タラチネノハハガカフコノマヨゴモリイブセクモアルカイモニアハズテ》があり、非常によく似て居る。また、卷十三(三二五八)の長歌にも、帶乳根笶母之養蚕之眉隱氣衝渡吾戀心中少人丹言物西不有者《タラチネノハハガカフコノマヨゴモリイキヅキワタリワガコフルココロノウチヲヒトニイフモノニシアラネバ》といふのがある。
 右の卷十二(二九九一)の歌の方が、第二句『おやのかふこの』として、拾遺集、柿本集及び六帖第二と第五に載つてゐる。拾遺集では人麿作。柿本集一本、結句『君にあはずて』。六帖第二、作者いへのおとくろまろ、結句『妹にまかせて』。六帖第五作者不明。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九六〕
  肥人《くまびと》の額髪《ぬかがみ》結《ゆ》へる染木綿《しめゆふ》の染《し》めてしこころ我《われ》忘《わす》れめや,【一云、忘《わす》らえめやも】
  肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉【一云、所忘目八方】
 
(710) ○肥人 舊訓コマヒトノ。古寫本中コヱヒトノ(細)。コヒヒトノ(神)といふ訓もある。八雲御抄ハダヒトノ。拾穗抄ウマヒトノ。代匠記ウマヒトノ。童蒙抄コマビトノ、ウマビトノ、カラビトノ、ハダビトノ。考コマヒトノ、狛人の誤。略解ウマビトノ。古義ウマビトノ。古義では平田篤胤の肥人《ヒノヒト》といふ訓を否定して居る。吉田東伍氏大日本地名辭書ではクマビトと訓み、熊人で、求磨の國人の義とし、肥國を本據としたから熊人と同義としたといひ、喜田貞吉氏(【歴史地理二十三ノ三】)もやはり同訓で、玖磨郡を本據として住んだ族で、熊襲も熊人《クマビト》襲人《ソビト》の合稱だとし、井上氏の新考もその説に從つた。また春日政治氏は、肥濃をコマヤギといふ古訓があるので、肥はコマカニ又はコマヤカニと訓んだ證となり、從つて肥人をコマビトと訓じ得るといふ説をたてた(【奈良文化第六號】)。然るに武田氏の新解で、岩橋小彌太氏の説に據つてヒヒトと訓み、新訓も同樣である。播磨國風土記に、日向國肥人朝戸君の名が見え、大寶令集解に肥人を夷人雜類の一とし、本朝書籍目録に肥人書、薩人書といふのがあり、この歌の次にも、隼人《ハヤビト》の歌があるから、大和民族とは別で九州南部に住んでゐたものであつただらうか。私の評釋の訓は先づ新訓に據つて訓を立てる方針であるから、初めヒビトと訓んだのであつたが、再考の後クマビトと改めた。そして、『仙覺が古點にコエビトとありしを、コマビトと改めたるはクマビトの轉訛なるコマビトといふ語が其世にはなほ殘れりし爲ならむ』(新考)の言にうなづいたのであつた。○額髪結在・染木綿・染心 舊訓ヒタヒ(711)カミユヘル・ソメコノフ・ソメシココロヲ。代匠記初ソメユフ(?)。童蒙抄ソメユフノ・ソミシココロヲ。略解ソメユフノ・ソメシココロハ。古義ヌカガミユヘル・シメユフノ・シミニシココロ。新考ヌカガミユヘル・ソメユフノ・ソメテシココロ(又シメテシココロ)。新訓ヌカガミユヘル・シメユフノ・シメテシココロ。
 額髪《ヌカガミ》は、和名鈔に、唐韻云、〓(ハ)額前髪也。俗云、奴加加美《ヌカカミ》とある。和名砂に額を比太比《ヒタヒ》と訓じてゐるが、また、敝髪。釋名云、敝2髪前1爲v飾、和名|比多飛《ヒタヒ》とあるので、移つたのだらうと雅澄は云つてゐる。染木綿《シメユフ》は、『古今集に、濃紫わがもとゆひとよめるごとく、染たる木綿もて、額髪《ヌカカミ》をゆひしならむ。木綿もて髪を結しことは、十三に、蜷腸香黒髪丹眞木綿持阿邪尼結垂《ミナノワタカクロキカミニマユフモチアザネユヒタリ》云々とあり。さてこれまでは、染心《シミニシココロ》といはむための序なり』(古義)とあり、なほ、喜田氏の、『木綿にて頭を飾る風は、古く九州地方の住民に存ず。魏志に倭人の俗を記したる中に、木綿を以て招頭すといふもの是に當る。今も蔭隅地方にこの風あり』(歴史地理)といふ文に據つて理會することが出來る。
 一首の意は、肥人《くまびと・ひびと》の額の前髪に結つて居る染《そ》めた木綿《ゆふ》の【序詞】。その染《し》みた色の如くに、深く染《し》み込んだこの戀心は、どうして私は忘れることが出來ようか。到底忘れられない。『一云』の句も、忘れることが出來ようか。といふので殆ど意味が同じである。
(712) この歌は、寄2木綿1戀といふ意味で作つたのか、或は寄2肥人1戀といふ意味で作つたのかいづれかであらう。恐らく、九州地方、九州北部の大和民族などの間に言はれてゐたものを材料として作つたか、或は人麿とは無關係に九州地方の民謠が此處に流傳せられたものであらう。併し、民謠は種々工夫して珍らしい材料、序詞にしても心の働いた聯想を以て作つてゐるから、この場合も、珍趣向の序詞として大和地方に行はれた歌と解釋することも亦可能である。
 抒情詩としては材料本位のものだから取たてていふ程の歌ではないが、歴史上の資料となるところから珍らしがられる歌である。
 この肥人に就ては、學者が種々苦勞したから、參考のために少しく抄記しよう。『肥人ヲコマビトト點ゼルハ高麗人《コマヒト》ノ意歟。肥ヲコマトヨメル意イマダ知ラズ。今彼國ノ人ヲ見ルニ、イタクフツツカナルマデ肥タルガ多ケレバサル意ニヤ。古點ニコエヒトトヨメルハ一向義ナシ。今按ウマヒトノト義訓スベキ歟。鳥獣ノ肉《シシ》モ肥タルハウマキ理ナリ』(代匠記精)。『此うま人と云事説々有りて一決し難し。日本紀にてはよき人、高貴の人をうま人と讀ませたり。一本には、肌人とも有。是によらせ給ふてか、八雲御抄には、はだ人と讀ませられたり。諸抄の説は、から人と云義にて、唐人は三韓唐國共に肉食に飽きて、其形象身體太りて肥えたるもの故、古より鳥獣の肥えたるは喰に味能き故、見る處の體を義にとりて、肥人と書けると云説也。假名本には、こま人と讀ませ(713)たり。高麗の人は額に髪結る故、ひたひ髪ゆへると讀めるとの説も有りて、いかに共決し難し。古事記景行卷日本武尊の御事にも、當2此之時1其御髪結v額也。如v此あれば、日本紀にては高貴の人をうま人と讀ませたるに引合せて見れば、上古は高貴の人ならでは額髪は結ばざりしか』(童蒙抄)。
 この歌は、六帖に人麿作として、『きへ人のひたひ髪ゆふありそ海のゆふそみ心我忘れめや』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九七〕
  隼人《はやびと》の名《な》に負《お》ふ夜聲《よこゑ》いちじろく吾《わ》が名《な》は告《の》りつ妻《つま》と恃《たの》ませ
  早人 名負夜音 灼然 吾名謂 ※[女+麗]恃
 
 ○早人 即ち隼人《はやびと》で、九州南部(大隅薩摩等)に住んでゐた種族で、喜田氏の隼人考は、唐書倭國傳に、『有d邪古・波邪・多尼三小王u』とあるのは、日本紀の夜句人・隼人・多禰人に相當するから、波邪は九州南部の地名であるが、その名義は不明だと云つて居る。或はすぐれて敏捷《はや》く(714)猛勇《たけ》きゆゑだといふ説(書紀通釋等)もある。神代紀下、海宮の條に、『一云、狗人請哀之、弟還出2涸瓊1、則潮目息、於v是兄知3弟有2神徳《アヤシキイキホヒ》1、遂以伏2事其弟1、是以、火酢芹《ホスセリ》命苗裔諸隼人等、至v今不v離2天皇|宮墻之傍《ミガキノモト》1、代2吠狗《ハイクヘホユルイヌ》1而奉事者也』。欽明紀に、『元年三月、蝦夷隼人竝(ニ)率v衆《トモガラヲ》歸附』。天武紀に、『十一年秋七月壬辰朔甲午、隼人多來貢2方物1、是日、大隅隼人《オホスミノハヤヒト》與2阿多隼人《アタノハヤヒト》1、相2撲於朝廷1、大隅隼人勝之』云々とあり、大嘗會式に、『十一月卯日平明云々。隼人司率2隼人1分立2左右1、朝集堂前待v開v門乃發v聲』ともあり、隼人司(ノ)式に、今來隼人發2吠聲1三節とか、今來隼人爲v吠とか、隼人發v吠、但近幸不v吠とか、凡今來隼人、令2大衣(ヲ)習1v吠、左發2本聲1、右發2末聲1、惣(テ)大聲十遍、小聲一遍、訖(テ)一人更發2細聲1二遍とかいふ記録のあるを見れば、隼人は夜に宮門を護り、犬の吠聲の如き聲を立てたことが分かる。勇猛で且つ言語も違ふところから特別の音聲の習練即ち犬の眞似をせしめたものの如くである。古事記にも、爲2汝(ガ)命之晝夜(ノ)守護人《マモリヒト》1とある。その聲が特有で大きいから、イチジロクに續けて序詞となした。明瞭に、はつきりとといふ意味である。○吾名謂・恃※[女+麗] 舊訓ワガナヲイハジ・ツマトタノマム。拾穗抄ワガナヲイヒテ。代匠記ワガナヲイヒテ。童蒙抄ワガナヲノリテ。考ワガナハイハム・ツマトタノマバ。略解、宣長説により吾は君の誤でキミガナノラセ・ツマトタノマム。古義アガナハノリツ・ツマトタノマセ(新訓同訓)。新考キミガナノラバ・ツマトタノマム。今大體古義の訓に從つた。
(715) 一首の意は、隼人《はやびと》等が評判の、夜警の、犬の吠聲に似た大きい聲の如く【序詞】、はつきりと、明らかに私の名をお知らせ致しました。かう名告《なのり》まで申あげた以上は、どうぞお心のままに私をば妻になすつて下さいまし。といふのである。
 名を告ることは、求婚のしるしでもあり、婚を受付けるしるしでもあるからさういふ言方をしたのである。タノムとは、お心を安んじて、御意の儘にといふ意があるからさう口譯した。卷二(一六七)に、大船之思憑而《オホフネノオモヒタノミテ》。卷三(四七〇)に、妹毛吾毛如千歳憑有來《イモモワレモチトセノゴトクタノミタリケル》。卷四(五四六)に、敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜《シキタヘノコロモデカヘテオノヅマトタノメルコヨヒ》等の例がある。
 この歌は、寄v聲戀のつもりか、さもなくば寄2隼人1戀といふのであらうが、いづれにしても女の心の趣で歌つて居る。前の歌が男の趣で、寄2肥人1戀なら、この歌は女の趣で、答歌として、寄2隼人1戀といふことになるだらう。民謠的の歌だから、人麿が女のつもりになつて作つてもかまはず、また誰が作つたともなく行はれてゐたものが人麿歌集の中に入れられたと解釋してもいい。略解宣長説だと、キミガナノラセ・ツマトタノマムといふのだから、男の歌の趣になるのであり、上半の序詞は寧ろ男性的だからさうおもひついたのであらう。また童蒙抄に、『いちじるく我名をあらはし、名のりておもふ女に知らせ告げて、妻と頼まんとの義也』とあるのも男の歌の趣に解して居る。また新考では、『女の歌にて、※[女+麗]とかけるは夫の借字なり。ハツキリト何ノ某ト(716)名ノリタマハバ我夫ト頼ミ奉ラムといへるなり』とあるのは、また別樣の解釋となるのであるが、やはり女の歌として、古義の説に從ふのが一番自然のやうである。
 この歌は、六帖に人麿作として載り、『いちじるく我が中絶えば妻と頼まむ』となつてゐる。
  追記。柴生田稔君の説では、ワガナハノリツ・ツマトタノマセと訓んだ上で、※[女+麗]を夫の借字として、男の歌と見ることも出來るのではないだらうかと云ふのである。即ち、男が、さあこのやうに自分ははつきりと名を告げたのだから、自分を夫とたのみなさいと、女に向つて言ふ趣にするのである。また宣長が吾を君の誤とし、略解がキミガナノラセ・ツマトタノマムと改訓したのは、或は新考説のやうにツマを夫として、女の歌と見たのではなかつたらうか。といふことである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九八〕
 劔刀《つるぎたち》諸刃《もろは》の利《と》きに足《あし》踏《ふ》みて死《しに》にし死《し》なむ君《きみ》に依《よ》りては
  劔刀 諸刃利 足踏 死死 公依
 
 ○劔刀 ツルギタチと訓む。先に評釋した人麿の長歌に、劔刀於身副不寐者《ツルギタチミニソヘネネバ》(卷二。一九四)。劔刀身二副寐價牟《ツルギタチミニソヘネケム》(卷二。二一七)等とあつたのは、枕詞としての用例であるが、此處は實質的の(717)名詞に用ゐられてゐる。○諸刃利 モロハノトキニと訓む。兩刃の鋭利なのにといふ意で、萬葉に於いて、『諸刃《もろは》』は、他に卷十一(二六三六)に、劔刀諸刃於荷《ツルギタチモロハノウヘニ》といふ一例があるのみであり、『利《と》し』は他に用例がない詞である。○足踏 舊訓アシヲフミ。古寫本にはノボリタチといふ訓 もある。童蒙抄アシフミテ(諸注從之)。古事記允恭天皇の條に、那都久佐能阿比泥能波麻能加岐加比爾阿斯布麻須那《ナツクサノアヒネノハマノカキガヒニアシフマスナ》。萬葉卷十二(三〇五七)に、淺茅原茅生丹足踏《アサヂハラチフニアシフミ》。卷十四(三三九九)に、可里婆禰爾安思布麻之奈牟《カリバネニアシフマシナム》等の用例がある。○死死 舊訓シニニモシナム。古寫本中シニニヲシナム(嘉・類)。シニシモシナム(古)。諸注大方舊訓によつてゐる。童蒙抄シヌトモシナン。新考シナバシヌトモ。新訓シニニシシナム。右の諸訓は萬葉で他に同じ用例が見當らないやうであるが、先に諸刃の例にも引いた卷十一(二六三六)に、所殺鴨將死《シニカモシナム》とあるのは參考になると思ふ。○公依 舊訓キミニヨリナハ。古寫本では、細井本にキミニヨリテムとある外は、キミニヨリテハ(【嘉・類・古・文・西・神・温・矢・京】)が大部分で、諸注も之に從つてゐる。ヨリテハは依つてならばの意で、文法的には『依りて』に係助詞の『は』が附いた形と見るべきであらう。新訓でテハと澄んだがテバと濁つて訓んでゐるのが普通である。卷四(五五七)に、大船乎榜乃進爾磐爾觸覆者覆妹爾因而者《オホフネヲコギノススミニイハニフリカヘラバカヘレイモニヨリテハ》とあるのは、この歌と同じく結句に用ゐられた例であり、其他、妹丹因者千遍立十方《イモニヨリテハチタビタツトモ》(卷四。七三二)。妹依者忍金津毛《イモニヨリテハシヌビカネツモ》(卷十一。二五九〇)。吾念有妹爾縁而者《ワガモヘルイモニヨリテハ》(卷十三。三二八四)。吾念有君爾依者《ワガモヘルキミニヨリテハ》(卷十三。三(718)二八六)等の用例がある。
 一首の意は、劔刀《つるぎたち》の兩刃の鋭いのを足に踏んで死にも致しませう、貴方の爲ならば。といふので、女の歌の心持である。
 上句の言ひ方が變つてゐるのに注意されるが、それだけ表面的に誇張したところがあつて、心持は割合に一般向である。そして何か本當に女の作らしくない感じがある。參考になる歌としては、前にも引いた卷四(五五七)の、『大船を榜ぎの進みに磐に觸り覆らば覆れ妹に依りては』を擧げることが出來る。又卷十一(二六三六)に、劔刀諸刃之於荷行觸而所殺鴨將死戀管不有者《ツルギタチモロハノウヘニユキフリテシニカモシナムコヒツツアラズハ》とあるのは、恐らくこの人麿歌集の歌の異傳であらう。二首を比較すると、やはり他の場合と同樣に、この人麿歌集の歌の方が特殊的で原型的である。六帖には(二六三六)の歌の方を載せてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二四九九〕
  我妹子《わぎもこ》に戀《こ》ひし渡《わた》れば劔刀《つるぎたち》名《な》の惜《を》しけくも念《おも》ひかねつも
  我妹 戀度 劔刀 名惜 念不得
 
(719) ○名惜・念不得 舊訓ナノヲシケクモ・オモホエヌカモ。古寫本中ヲモホエヌカナ(古)の訓もある。代匠記初ナノヲシケサモ・オモヒカネツモ。代匠記精ナノヲシケクモ・オモヒカネツモ(【略解・古義・新考・新訓同訓】)。童蒙抄オモホエヌナリ。考オモホエヌカモ。舊本『劔刀』は古寫本中(【嘉・類・文・西・神・温・矢・京】)に『劔刀』に作る。童蒙抄でも、『刀』の誤とした。『劔刀』はナに懸かる枕詞で、ナは古來|刃《ハ》のある物を云ひしなるべく、語原は薙《ナグ》の意であらうか。片刃《カタハ》の劔をカタナといふのもその意で、※[金+斯]《カナ》・鉈《ナタ》などのナもさうであらうといふ説(雅澄、枕詞解)に從つて置く。或はナは『精好』の義だといふ説も、『名』の義だといふ説もあるが覺束ない。卷四(六一六)に、劔太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシキミニアハズテトシノヘヌレバ》。卷十二(二九八四)に、劔太刀名惜毛吾者無比來之間戀之繁爾《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシコノゴロノマノコヒノシゲキニ》といふのがある。
 一首の意は、私の女に戀して間斷なく思ひわたれば、もはや噂が立つて彼此いはれることなどはかまつて居られぬ。といふのである。
 寄v劔戀であらうが、さういふ題を設けて作つたのではなく、枕詞は自然にさうなつたものであらう。名を惜しむは今いふ名譽を重んずるなどといふ程の道徳的觀念までには行つてゐないが、さういふ意味も無論含まつてゐる。名が惜しいといふことを思はないといふのである。略解に、『オモヒカネツは、オモヒアヘヌなり』と云つてゐる。卷十二(三〇一九)に、河余杼能不通牟心思兼都母《カハヨドノヨドマムココロオモヒカネツモ》。卷二十(四四七九)に、安佐欲比爾禰能末之奈氣婆夜伎多知能刀其己呂毛安禮波於母比(720)加禰都毛《アサヨヒニネノミシナケバヤキタチノトゴコロモアレハオモヒカネツモ》といふのがある。
 取りたてていふほどの歌ではないが、表現も確かで自在である。卷十二、卷四の類似の歌は、この歌に本づくやうにおもはれ、そしてこの歌の方が一番よいやうである。さういふ點で或はこの歌は、そのころから人麿と關係があるやうにして尊重せられてゐたものであつたかも知れない。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇〇〕
  朝《あさ》づく日《ひ》向《むか》ふ黄楊櫛《つげぐし》舊《ふ》りぬれど何《なに》しか君《きみ》が見《み》るに飽《あ》かざらむ
  朝月日 向黄楊櫛 雖舊 何然公 見不飽
 
 ○見不飽 舊訓ミレドアカレヌ。代匠記初所入【校本萬葉】ミルニアカレヌ(【新考同訓】)。略解ミルニアカザラム(【古義同訓】)。童蒙抄イツシカキミハ・ミレドアカレズ。アサヅクヒは、朝の太陽、即朝日で、人々は朝起きて朝日に向ふので、ムカフの枕詞とした。卷七(一二九四)の、朝月日向山月立所見《アサヅクヒムカヒノヤマニツキタテリミユ》も同じ用法である。次に、ムカフ・ツゲグシは、黄楊《つげ》(柘植、本《ほん》つげ)から作つた櫛の匣《はこ》などに婦等が朝々相|對《むか》ふので、やはりムカフに續けたものらしく、御食向《ミケムカフ》などと同じ心理から來た語であら(721)うか。『朝に櫛匣に向ふ意にて斯く續けたり』(略解)といふのに大體從つてよい。『古り』といはむがための序詞にした。
 一首の意は、朝々に向ひ取り差す黄楊の櫛のいつしか古びてしまつたやうに【序詞】、お互の仲ももう古くなつて、あなたもだいぶお年を召したけれども、どうして心がはりが致しませう。はじめてお逢ひした時のやうな心持でいつまでもお慕はしいのでございます。といふのである。何しか〔二字右○〕で係つて、ざらむ〔三字右○〕で結んで居る。大體右のやうな意味だが、『歌(ノ)意は、朝な朝なとりて向へさす黄楊櫛の、もてならしてふるびたる如くに、年經てふるめきたる君なれば、いとはるる方もあるべきに、さらにさやうの心は露思はず、なにしかいつもめづらしく、あく世なく、かくばかりうるはしく思はるらむ、となり』(古義)といふ古義の解を此に轉載して置く。
 これは寄v櫛戀で、私は女の歌のつもりで解し、即ち『公』は男になるのである。序の詞の、黄楊の櫛云々といふのは、第一に女性的の觀察だから、さう解するのは自然のやうである。ただ、女が男に向つて、『見るに飽かざらむ』と云ふのはどうかと思ふ向もあるであらうが、本卷(二三八一)に既に、公目見欲《キミガメヲミマクホリシテ》云々とある等を參考すれば理會が出來るし、同卷(二五五四)に、對面者面隱流物柄爾繼而見卷能欲公毳《アヒミテハオモカクサルルモノカラニツギテミマクノホシキキミカモ》も女の歌で、『公』は男なのだから、これも亦參考になるのである。この一首は、古い戀の趣で、前にも老人の戀の歌があつたが、これも年とつた仲の戀でめづ(722)らしいのである。卷十六(三七九四)に、端寸八爲老夫之歌丹大欲寸九兒等哉蚊間毛而將居《ハシキヤシオキナノウタニオボホシキココノノコラヤカマケテヲラム》とあるのは、稍趣が違ふが、翁といふ點では似て居る。なほ卷十一(二七〇六)の、泊湍川速見早湍乎結上而不飽八妹登問師公羽裳《ハツセガハハヤミハヤセヲムスビアゲテアカズヤイモトトヒシキミハモ》といふのも參考となるであらう。また、本卷(二六〇一)に、現毛夢毛吾者不思寸振有公爾此間將會十羽《ウツツニモイメニモワレハモハザリキフリタルキミニココニアハムトハ》とある振有公《フリタルキミ》は『舊《ふ》りたる君』で、また、その次(二六〇二)の、黒髪白髪左右跡結大王心一乎今解目八方《クロカミノシロカミマデトムスビテシココロヒトツヲイマトカメヤモ》もまた顧慮していい歌である。
 この歌は、六帖に人麿作とし、下句『なるれども何ぞも君がいや珍らしき』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇一〕
  里《さと》遠《とほ》み戀《こ》ひうらぶれぬまそ鏡《かがみ》床《とこ》のへ去《さ》らず夢《いめ》に見《み》えこそ
  里遠 眷浦經 眞鏡 床重不去 夢所見與
 
 ○里遠・眷浦經 舊訓サトトホミ・ウラブレニケリ。童蒙抄サトトホミ・シタヒウラブレ。考、眷は我の誤。略解も同樣でサトトホミ・ワレウラブレヌ。古義コヒウラブレヌ(新考同訓)。これは古義の訓が正しいので、眷をコヒと訓ずることは既に上に説いた。また、下の(二六三四)に、(723)里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミコヒワビニケリマソカガミオモカゲサラズイメニミエコソ》とあるのを以てその傍證とすることも出來る。ウラブレニケリとするのも、稍調が間が伸びて具合も惡いであらうか。○床重不去・夢所見與 舊訓ユカノヘサラズ・ユメニハミエヨ。代匠記精トコノヘサラズ・ユメニミエコソ。
 一首の意は、妹《いも》と自分との間はこんなに隔つてゐて逢ふことも出來ず、日毎戀に苦悩してゐる。せめて夢にでも見えて床の邊去らず居て欲しいものだ。といふのである。
 ウラブルは、心歎《うらなげ》、心寂《うらさび》などの心《うら》で、心觸《うらぶれ》の義だから、悲しき事に心が觸れて、思ひ萎へる、思ひ詫ぶ、おもひなやむこととなる。古義に、『戀しく思ふ心の恍惚《ホレボレ》として愁《ウレ》ひ憐《カナシ》むに堪がたければ、いかで毎夜毎夜の吾夢に入來て相宿すと見えよかし』と解したのは、少し美文的になり過ぎたやうだが、散文にせば必ずこれくらゐの長さになる筈である。
 この歌は寄v鏡戀だが、それよりも、『床のへ去らず』の句におもしろ味がある。この句は卷五(九〇四)に、敷多倍乃登許能邊佐良受立禮杼毛《シキタヘノトコノヘサラズタテレドモ》とあり、この次の(二五〇三)の歌にあり、卷十二(二九五七)の、從今者雖戀妹爾將相哉母床邊不離夢所見乞《イマヨリハコフトモイモニアハメヤモトコノヘサラズイメニミエコソ》に見えてゐる。この卷十二の歌は、恐らく人麿歌集のこの歌が流傳の際に變化したものであらうか。
 六帖は、卷十一(二六三四)の『戀ひわびにけり』の歌の方を採り、結句『夢にこそ見め』となつてゐる。又、猿丸大夫集に、『ほどとほみ戀ひわびにけります鏡面影さらに今は見えこず』とい(724)ふのがある。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇二〕
  まそ鏡《かがみ》手《て》に取《と》り持《も》ちて朝朝《あさなさな》見《み》れども君《きみ》は飽《あ》くこともなし
  眞鏡 手取以 朝朝 雖見君 飽事無
 
 結句、舊訓キミヲ・アクコトモナシ。古寫本にはキミガアクコトノナキと訓んだのがある(嘉・古)。略解キミハ・アクコトモナシ(【古義・新考・新訓同訓】)。『まそ鏡手にとり持ちて』までは朝朝に續く序詞である。
 一首の意。〔眞鏡手取以《まそかがみてにとりもちて》【序詞】〕毎朝毎朝お逢ひしてもあなたは見飽き申すといふことはございません。いつまでもお慕はしくお逢いたしたいのでございます。
 これは寄v鏡戀で、女性の語氣が直ぐに分かる。これも人麿と關係ありとせば、人麿の親しんだ女の作か、或は人麿が女のつもりになつて民謠風に作つたものであらう。寄v鏡であるから、おのづと題咏的な作歌態度になることとなる。この卷(二六三三)に、眞十鏡手取持手朝旦將見時禁屋(725)戀之將繁《マソカガミテニトリモチテアサナサナミムトキサヘヤコヒノシゲケム》は、度々言つたが、恐らくこの歌の異傳か模倣歌であらう。なほこの卷(二六五一)の、難波人 葦火燎屋之 酢<四>手雖有 己妻許増 常目頬次吉《ナニハビトアシビタクヤノスシテアレドオノガツマコソトコメヅラシキ》なども參考になるだらう。或は此は、この前の、『向黄楊櫛雖舊《ムカフツゲグシフリヌレド》』の處に置いて味つていい。
 此歌は、拾遺集戀に人麿作として載り、初句『ますかがみ』、結句『君にあくときぞなき』となつてゐる。柿本集にも同樣である。六帖には(二六三三)の方が人麿作として載つてゐる。
 
          ○
 
 
  〔卷十一・二五〇三〕
  夕《ゆふ》されば床《とこ》のへ去《さ》らぬ黄楊枕《つげまくら》いつしか汝《なれ》が主《ぬし》待《ま》ちがたき
  夕去 床重不去 黄楊枕 射然汝 主待固
 
 ○床重不去 舊訓ユカノヘサラヌ。代匠記精トコノヘサラヌ。童蒙抄トコノヘサラズ。○射然汝・主待固 舊訓イツシカナレガ・ヌシマチガタシ。代匠記精イツシカ、射の下に津脱か。童蒙抄ヌシマチガタミ。考ナニシカナレガ・ヌシマチガタシ、射は何の誤。略解ナニシカナレガ・ヌシマチガタキ(【古義・新考同訓】)。新訓イツシカキミヲ・マテバクルシモ。この新訓の訓は、結句の『待固』(726)が、古寫本(嘉・類・古)に、『待困』に作り、なほイリテモキミヲ・マツソクルシキ(嘉)。サレトモキミヲ・マツソクルシキ(古)と訓んでゐるのにその根據を置いてゐる。『汝主』をキミと訓んだのは一工夫であらう。今、イツシカナレガ・ヌシマチガタキの訓に從つた。
 一首の意。夕がたになると床の邊去らぬ黄楊《つげ》の枕よ、汝の主《ぬし》である私の戀しい君を、何時《いつ》にか汝は待ち難くしたのか、待ち甲斐のないやうになつたのか。この枕との問答體のうちに、戀人の男にむかつて、どうして御いでにならぬのですかと愬へる意が含まれてゐる。ナレガヌシなどといふ小きざみの名詞はどうかともおもふが、卷五(八八二)の、阿我農斯能美多麻《アガヌシノミタマ》。卷十八(四一三二)の、奴之能等能度爾《ヌシノトノドニ》などを參考すれば、必ずしも無理過ぎるといふことはないやうである。
 次に、新訓に從ふとすると、『夕されば床のへ去らぬ黄楊枕』までは序で、寐《イ》のイからイツシカに續けたものとし、一首の意は、いつからか斯うしてあなたを待つやうになつて、苦しさに堪へませぬ。といふやうになる。この方は内容が單純だから、從つて無理も尠い。古寫本の、『困』字と、キミヲマツゾクルシキの訓とを參考尊重するとせば、この解釋をも保存して置きたいのである。
 卷五(八五九)に、ハルサレバワギヘノサトノカハドニハアユコサバシルキミマチガテニ。卷十(二〇〇四)に、己※[女+麗]乏子等者竟津荒礒卷而寐君待難《オノガツマトモシムコラハハテムツノアリソマキテネムキミマチガテニ》などがある。和名鈔で枕を説明して、承v頭(727)木也と云つてゐる如く、黄楊枕は黄楊で造つた木枕で、上品の部に屬したものであつただらう。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作として、『夕さればゆかのへさらぬつげ枕|いつしかなれるぬしまちかたし【いとゝもきみをまつそくるしきイ】』となつてゐる。
 
          ○
 
 
  〔卷十一・二五〇四〕
  解衣《ときぎぬ》の戀《こ》ひ亂《みだ》れつつ浮沙《うきまなご》浮《う》きても吾《われ》はありわたるかも
  解衣 戀亂乍 浮沙 生〔浮〕吾 有度鴨
 
 寛永流布本は、『浮沙・生吾・戀度鴨』で、ウキテノミ・マナゴナスワガ・コヒワタルカモと訓んでゐるが、『戀』の字は古寫本(嘉)に『有』になつてゐる。また、古葉略類聚妙にも『有』がある。また、『沙』は同鈔には『渉』となつてゐる。代匠記精撰本でも舊訓どほりに訓み、『繊沙成浮《マサゴナスウキ》テノミ吾戀度ト云ナリ』と云つた。童蒙抄ウキニノミ。考、浮沙生々萍浮、戀を在とし、ウキクサノ・ウキテモワレハ・アリワタルカモと訓み、『六帖に此哥を、とききぬの思ひ亂れてうきくさの浮ても吾はありわたるかもと有、是ぞ古へ字の正しき時に訓しものしるければ、今右の如(728)くあらためつ』と云つた。略解これに從つた。古義ウキクサノ・ウキテモ(浮草・浮)アレハ・コヒワタルカモ。新考ウキジマノ・ウキテモ(浮洲・浮)ワレハ・コヒワタルカモ。新訓ウキマナゴ・ウキテモ(浮沙・浮)ワレハ・アリワタルカモ。若し誤字説を否定するとせば、新訓の如くにウキマナゴとなるのであらうが、ウキマナゴといふ語の類例は、卷十一(二七三四)に、塩滿者水沫爾浮細砂裳吾者生鹿戀者不死而《シホミテバミナワニウカブマナゴニモワレハナリシカコヒハシナズテ》とあるから、さう不道理ではない。なほマナゴの例は、卷四(五九六)に、八百日往濱之沙毛吾戀二豈不益歟奧島守《ヤホカユクハマノマナゴモワガコヒニアニマサラジカオキツシマモリ》。卷九(一七九九)に、玉津島礒之裏未之眞名仁文爾保比去名妹觸險《タマツシマイソノウラミノマナゴニモニホヒテユカナイモガフリケム》。卷十四(三二七二)に、相模治乃余呂伎能波麻乃麻奈胡奈須兒良波可奈之久於毛波流留可毛《サガムヂノヨロギノハマノマナゴナスコラハカナシクオモハルルカモ》がある。解衣《トキギヌ》は亂れるものだから、下の『亂れつつ』に續けてゐる。
 一首の意は、解衣《ときぎぬ》の亂れてゐるやうに戀ひ亂れ、水沫《みなわ》に浮ぶ細砂《まなご》のやうに浮いて、心も空《そら》になつて、戀しつづけて居る。といふのであらう。
 身も心も浮いてゐるといふ言方は、卷十一〔二五四一)に、妹乎置而心空在土者蹈鞆《イモヲオキテココロソラナリツチハフメドモ》。卷十四(三四二五)に、伊之布麻受蘇良由登伎奴與奈我己許呂能禮《イシフマズソラユトキヌヨナガココロノレ》とあるのによつて知り得る。何となく、ふらふらして、茫乎となる状態である。それゆゑ、浮草《うきくさ》といふ言方でもいいやうであるが、それよりも浮沙《うきまなご》の方が特殊的でおもしろいからそれを主にして解釋した。また、『戀ひわたるかも』、『有りわたるかも』、いづれでも解釋し得るが、今は、嘉暦伝承本に據ることとした。この歌は、(729)寄v衣戀で、寄v沙戀ではない。
 卷四(七一一)に、鴨鳥之遊此池爾木葉落而浮心吾不念國《カモドリノアソブコノイケニコノハオチテウカベルココロワガモハナクニ》があり、『浮心《ウカベルココロ》』について、『まめまめしからぬあだし心也。浮虚の心也』(拾穗抄)。『ウカベルハ、浮虚ニテ實ナキナリ』(代匠記精)。『うきたる心』(略解)等と解して居るから、この(二五〇四)の歌の、『浮きても』云々の心持と違ふ用例である。寧ろ、卷十六(三八〇七〕に、安積香山影副所見山井之淺心乎吾念莫國《アサカヤマカゲサヘミユルヤマノヰノアサキココロヲワガモハナクニ》の『淺き心』に通ふごとき意味である。萬葉の歌人はかういふところは比較的自由に言葉を使つたものかも知れない。
 この歌は、六帖に、『浮くさ』の題で、人麿作とし、『とき衣の思ひ亂れて浮き草の浮きても我はありわたるかな』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇五〕
  梓弓《あづさゆみ》引《ひ》きて縱《ゆる》さずあらませは斯《か》かる戀《こひ》には遇《あ》はざらましを
  梓弓 引不許 有者 此有戀 不相
 
(730) 一首の意は、梓弓《あづさゆみ》を引く手をゆるめず【序詞】心を許《ゆる》さずに、身を許さずに居つたならば、今ごろ斯んなに苦しい戀に逢はずに濟んだものを。といふので、『許す』といふ語から見れば、女の歌であらうか。若しも、貴方に從はなかつたら今ごろこんなに苦しまずに濟んだのです。といふのであるが、表面は悔いてゐても、親しい男にかうして言寄つてゐるのである。そこに民謠的特質が存じて居る。先進の解には、『ひきてゆるさずとは、弓をたもちてはなたぬを云也。それを君が逢事をゆるしてなまじゐに逢初てのち戀のうきめにあふを歎く心成べし』(拾穗抄)。『はじめ戀せじとおもひしままの心ならば、かかる物おもひはせじものをと悔る心なり』(代匠記初)。『はじめうけ引しを悔て詠める女の歌也』(略解)。
 この歌は寄v弓戀で、なほ、卷十二(二九八七)に、梓弓引而不縱大夫哉戀云物乎忍不得牟《アヅサユミヒキテユルサヌマスラヲヤコヒトフモノヲシヌビカネテム》は類似の歌だが、男らしい歌である。もつとも民謠は、男だか女だか分からないやうなのもあつてかまはぬ場合もあるから、此處の歌(二五〇五)も、ユルスを、『手をゆるめず』、『油斷をせず』といふやうにして男の歌としても鑑賞し得るものである。
 なほ、ユルスは、『放つ』、『手離す』といふやうな意味にも用ゐられてゐる。卷四(六四四)
シロタヘノソデノワカレ
に、今者吾羽和備曾四二結類氣乃緒爾念師君乎縱左久思者《イマハワハワビゾシニケルイキノヲニオモヒシキミヲユルサクオモヘバ》。卷十二(三一八二)に、白妙之袖之別
ハヲシケドモオモヒミダレテユルシツルカモ  などはその例である。また、このユルスといふ語は、ユルブに通じ、卷十(731)七(四〇一五)に、情爾波由流布許等奈久《ココロニハユルブコトナク》。卷十二(二九八六)に、梓弓引見縱見《アヅサユミヒキミユルベキ》があり、(二九八七)の『縱』をもユルブと訓ませても居るのである。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇六〕
  言靈《ことだま》の八十《やそ》の衢《ちまた》に夕占《ゆふけ》問《と》ふ占《うら》正《まさ》に告《の》る妹《いも》に逢《あ》はむよし
  事靈 八十衢 夕占問 占正謂 妹相依
 
 ○事靈 コトダマノと訓む。即ち言藍《コトダマ》で、卷五(八九四)に、言靈能佐吉播布國等《コトダマノサキハフクニト》。卷十三(三二五四)に、事靈之所佐國叙眞福在與其《コトダマノタスクルケニゾマサキクアリコソ》などともある。その言語の靈によりて占をするのである。○八十衢 ヤソノチマタニと訓む。道が諸方へ相通ずる辻、四辻のことである。○夕占問 ユフケトフと訓む。夕方、往來の人々の言葉で吉凶を判斷することである。卷三(四二〇)に、夕衢占問石卜以而《ユフケトヒイシウラモチテ》。卷四(七三六)に、月夜爾波門爾出立夕占問《ツクヨニカドニイデタチユフケトヒ》。卷十一(二六八六)に、夜卜問吾袖爾置白露乎《ユフケトフワガソデニオクシラツユヲ》。卷十三(三三三三)に、何時來座登大夕卜置而齋度爾《イツキマサムトユフケオキテイハヒワタルニ》。卷十六(三八一一)に、八十乃衢爾夕占爾毛卜爾毛曾問《ヤソノチマタニユフケニモウラニモゾトフ》などとあるに據つて知ることが出來る。吉凶を判斷する占には、種々の方法(732)があつたが、此處はユフケのところである。○占正謂・妹相依 舊訓ウラマサニイヘ・イモニアヒヨラム。童蒙抄ウラマサニノレ・イモニアヒヨルト。考ウラマサニイヘ・イモニアハムヨシ。略解ウラマサニノレ・イモニアハムヨシ(古義同訓)。新考マサウラニノレ・イモニアハムトキ。新訓ウラマサニノル・イモハアヒヨラム。『謂』をノルと訓んだ例は、卷十一(二四九七)に、灼然吾名謂※[女+麗]恃《イチジロクワガナハノリツツマトタノマセ》。卷十一(二七四七)に、名者謂手師乎《ナハノリテシヲ》があり、『相』をアフと訓む例は、卷二(二一〇)に、戀友相因乎無見《コフレドモアフヨシヲナミ》をはじめ多い。『依』をヨシと訓む例は、卷七(一三〇〇)に、人不知見依鴨《ヒトニシラエズミムヨシモガモ》等がある。
 一首の意は、夕方人の往來の繁き衢の四辻に來て、道ゆく人々の言葉の靈驗によつて、占の判斷をして貰つたところが、その占が正しく云つた。今夜はいよいよ妹に逢ふことが出來るぞと、さう云つたといふのである。ヨシは『逢ひ得る由』、『逢ひ得る機縁』といふのに落著く。卷十一(二三九六)に、何有依以亦一目見《イカナラムヨツヲモチチカマタヒトメミム》。卷十七(三九四五)に、妹之衣袖伎牟餘之母我毛《イモガコロモデキムヨシモガモ》といふのがある。
 此歌は、拾遺集戀三に人麿作として載り、『まさしてふやそのちまたに夕けとふうらまさにせよ妹に逢ふべく』となつてゐる。又、柿本集にも拾遺集のとほりに載つてゐる。
 
(733)          ○
 
  〔卷十一・二五〇七〕
  玉桙《たまぼこ》の路往古《みちゆきうら》にうらなへば妹《いも》に逢《あ》はむと我《われ》に告《の》りつる
  玉桙 路往占 々相 妹逢 我謂
 
 ○玉桙 タマボコノで道に懸る枕詞である。長流の燭明抄には、仙覺の説として、道にいでたつ時には、鉾を先立てて道しるべとする心から續けたといひ、或は玉桙は旗桙で、やはり道しるべのためだとした。契沖は、道の直ぐなるを鉾の直きに譬へたのだとした。眞淵は玉桙の身即ちミから續けたとしたが、宣長は玉桙には古へは知《チ》と稱へた柄があつたのであらう、それに美《ミ》といふ美稱を附けてミチとし、道に續けたものだらうとし、雅澄は舊事記の天〓槍《アメノタマホコ》とあるのを參考とし、玉桙といふのは一種の桙で、玉桙之圓《タマボコノミチ》といふ意から、道《ミチ》に懸けたとしたが、最も初期の、仙覺あたりの説が一番素直ではなからうか。○路往占 ミチユキウラニと訓む。道を往來する人の言葉によつて吉凶を判斷するので、即ち辻占の本《もと》である。占をやるのは多くは夕べから夜であらうから、前の歌にある夕占《ユフケ》と同じものと看做していい。○我謂 舊訓ワレニイヒツル。童蒙抄ワレニノリツル。
(734) 一首の意は、今、衢《ちまた》に來て、往來《ゆきき》の人の言靈《ことだま》によつて判斷をする占の、路往占《みちゆきうら》(辻占《つじうら》)をして見たところが、戀しい女に逢へると出たぞ。といふのである。
 これは寄v占戀といふのだが、さういふ譬よりももつと自然な動機によつて作られたものであらう。『妹に逢はむと、われに告《の》りつる』といふ、特に結句は率直でいい。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとして載り、結句『われにいひつる』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇八〕
  皇祖《すめろぎ》の神《かみ》の御門《みかど》を懼《かしこ》みと侍從《さもら》ふ時《とき》に逢《あ》へる君《きみ》かも
  皇祖乃 神御門乎 懼見等 侍從時爾 相流公鴨
 
 以上で、寄v物陳v思といふ部が終つて、『問答』といふ見出で九首載つてゐる、その始の歌である。次の歌の後に『右二首』と注してある。○皇祖乃 スメロギノと訓む。皇祖は、既に解釋した如く、皇祖神・皇神祖・皇御祖などとも書き、御祖の天皇を申奉るのであるが、轉じて皇祖から今上の天皇までを兼ねて申奉ることになつた。此處は現天皇を申奉るのである。○侍從時爾(735)舊訓サフラフトキニ。略解サモラフトキニ。紀には、侍、候の字を當て、萬葉集でも、卷三(三八八)に、何時鴨此夜乃將明跡侍從爾《イツシカモコノヨノアケムトサモラフニ》。卷二(一八四)に、東乃多藝能御門爾雖伺侍《ヒムガシノタギノミカドニサモラヘド》。同卷(一九九)に、鶉成伊波比廻雖侍候佐母良比不得者《ウヅラナスイハヒモトホリサモラヘドサモラヒエネバ》。卷七(一一七一)に、大御舟竟而佐守布高島乃《オホミフネハテテサモラフタカシマノ》。卷二十(四三九八)に、佐毛良布等和我乎流等伎爾《サモラフトワガヲルトキニ》等の例がある。
 一首の意は、天皇さまの御所の御門《ごもん》を謹み畏んで御仕へ申上げて居ります時に、おもひもよらずあなたさまに御目にかかつたのです。けれども場所がらでもございますから何とも申上げることさへ出來ませんでした。といふのであらう。
 これは一寸見ると、警衛の舍人などが、宮中に出入する女官などに向つていふやうに聞こえるが、能く吟味して、次の答歌をも參照すると、宮中に仕へてゐる女官などが計らずも戀しい男に逢つた趣とする方が好いやうである。『此ハ衛門府ノ屬官ナドノ番ニ當リテ祗候スル時、女ヲ見テヨメル歟。又別ノ官人ナルカ。御門ノ出入ノ制禁ヲ恐レテ、アル時ニ詮ナク只見タル由ニヤ』(代匠記精)。『男の御門を謹み守る時に、思ふ女のそこを通りて見し也』(考)。『戀ふる男の朝廷に侍ふ時に、故有りて女の見しなり。此アヘルは唯だ相見たるなり。たまたま見るも時こそあれ。斯かる時にして甲斐無きを女の歎くなり』(略解)。略解に至つて、女が歎くといふやうに明瞭に言つたが、それでも侍從《さもら》ふのは男だとしてゐる。然るに、井上博士は、『サモラフ時ニはいづくに(736)もあるべし。ただアヤニクニ役目デ詰メテ居ル時ニとなり。さてさもらへるは作者なり。從來男のさもらへるを女が見てよめるなりとせるは無理なり。女が役目にて詰め居る時に男の過ぐるを見かけてよめるなり。御門が御言の誤寫なることを悟れば無理なる解釋を要せざるなり』(新考)と云つたが、この解釋の方が好い。但し、御門《みかど》を御言《みこと》の誤だとするのは稍放恣であらうか。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとして載り、『すめらぎの』、『さふらふときに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五〇九〕
  まそ鏡《かがみ》見《み》とも言《い》はめや玉燿《たまかぎ》る石垣淵《いはがきぶち》の隱《こも》りたる妻《つま》
  眞祖鏡 雖見言哉 玉限 石垣淵乃 隱而在※[女+麗]
 
 ○玉限 舊訓タマキハル。考、玉蜻と改め、略解カギロヒノ。古義タマカギル。○隱而在※[女+麗] 舊訓カクレタルツマ。略解カクレタルイモ(考も同訓か)。古義コモリタルツマ(【新考・新訓同訓】)。語釋は既に皆濟んだもののみである。
(737) 一首の意は、〔眞祖鏡《まそかがみ》〕たとひ見て戀しくおもつても、決して二人の仲は口外しない。〔玉限《たまかぎる》・石垣淵《いはがきぶちの》【序詞】〕内證に秘めて大切にしてある妻である。それゆゑ心を安らかに持てよいふ意の含まれてゐる返答歌である。
 前の歌には序詞などがないが、この歌には枕詞が二ケ所にもある。それでも、『見とも言はめや』といひ、『隱《こも》りたる妻』といつて、實際的寫生をおろそかにしては居ない。また、枕詞の多いのはそれだけ骨折つて對手によく思はれようとする意圖があると、善意に解釋することも出來るけれども、二つ較べれば前の女の歌の方が滋味があるやうである。
 後世は、『見るとも』といふが、この頃は『見とも』と云ひしこと、後世の『見るらむ』を『見らむ』と云つたのと同じである。卷二十(四四八一)に、都良都良爾美等母安加米也《ツラツラニミトモアカメヤ》。同卷(四五〇三)に、之婆之婆美等母安加無伎彌加毛《シバシバミトモアカムキミカモ》があるのが其證である。本居宣長も古調にして、『見とも飽かめや天の香具山』といふ歌を作つたことがある。
 此歌は、袖中抄第十に、『マスカヽミミツトイハメヤタマキハル石垣淵《イハカキフチ》ノカクレタルツマ』として載つてゐる。又六帖の第三と第五とに載り、第五のは袖中抄と同じに訓み、第三のは初句『山高み』、他は袖中抄と同じである。
 
(738)          ○
 
  〔卷十一・二五一〇〕
  赤駒《あかごま》の足掻《あがき》速《はや》けば雲居《くもゐ》にも隱《かく》り往《ゆ》かむぞ袖《そで》卷《ま》け吾妹《わぎも》
  赤駒之 足我枳速者 雲居爾毛 隱往序 袖卷吾妹
 
 以下三首を一括して『右三首』と注してある。○足我枳速者 舊訓アガキハヤクバ。考アガキハヤケバ。○隱往序・袖卷吾妹 舊訓カクレユカムゾ・ソデマクワギモ。略解ソデマカムワギモ。同宣長訓、卷は擧の誤。ソデフレワギモ。古義カクリユカムゾ・ソデフレワギモ(新考同訓)。新訓カクリユカムゾ・ソデマケワギモ。
 袖卷《ソデマク》といふことは、袖纏《ソデマク》、袖枕《ソデマク》といふことで、或は袖交へ、袖さし交ふなどとも通じ、共に寢ることである。卷七(一二九二)に、白栲袖纏上完待我背《シロタヘノソデマキアゲテシシマツワガセ》。卷十(二三二一)に、白妙之袖纏將干人毛不有君《シロタヘノソデマキホサムヒトモアラナクニ》とあるのは、卷《ま》くことで少し意味が違ふが、卷十二(二九二七)の、浦觸而可例西袖※[口+立刀]又《ウラブレテカレニシソデヲマタ》卷者過西戀以亂今可聞《マカバスギニシコヒイミダレコムカモ》の卷《マク》は恰もこの歌の場合と同じなので、マクは纏交《まきかは》す意なのである。略解で、宣長説として、古事記に羽擧をハフリと訓んで居るから、此處も卷は擧の誤でソデフレたら  古義・新考等もそれに從つてゐる。ソデフレは即ち袖振れで、別離を惜しめといふこ(739)とになつて解釋の出來ないことはないが、折角、ソデマケとあつて、寧ろ、袖を纏交《まきか》へて寐るといふ方が直接だから、その方にして解釋すべきである。
 一首の意は、私の乘る赤駒《あかごま》の足掻《あがき》即ち足の運び、驅歩《くほ》は非常に速いから、忽ちに雲居《くもゐ》遙かにお前と隔つてしまふだらう、それゆゑ今の暫しの間でも袖を纏交《まきか》はせ。戀しい女よ。といふので、別離のまへ、旅立つまへの交情をあらはしてゐる歌である。
 前の人麿の歌、卷二(一三六)の、青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類《アヲゴマノアガキヲハヤミクモヰニゾイモガアタリヲスギテキニケル》とこの歌とに聲調上類似の點があるので、この歌も或は人麿の作だらうと想像し得るところがある。特に卷二の歌の結句は、一云、當者隱來計留《アタリハカクリキニケル》とあるから、なほ類似して居ることとなるのである。なほ、卷七(一一四一)に、武庫河水尾急嘉赤駒足何久激沾祁流鴨《ムコガハノミヲヲハヤミカアカゴマノアガクタギチニヌレニケルカモ》。卷十四(三五四〇)に、左和多里能手兒爾伊由伎安比安可故麻我安我伎乎波夜美許等登波受伎奴《サワタリノテコニイユキアヒアカゴマガアガキヲハヤミコトトハズキヌ》。卷十七(四〇二二)に、宇佐可河泊和多流瀬於保美許乃安我馬乃安我枳乃美豆爾伎奴奴禮爾家里《ウサカガハワタルセオホミコノアガマノアガキノミヅニキヌヌレニケリ》といふのがある。當時の實生活を背景として、その心の運び方、ものの言ひ方を味へばなかなか棄て難いところがある。
 この歌は、六帖に、『わがこまの|あしがき《(あがき)》早くは雲居にも隱れゆかむぞ袖まくわざも』として載つてゐる。
 
(740)          ○
 
  〔卷十一・二五一一〕
  隱口《こもりく》の豐泊瀬道《とよはつせぢ》は常滑《とこなめ》の恐《かしこ》き道《みち》ぞ戀《こ》ふらくはゆめ
  隱口乃 豐泊瀬道者 常滑乃 恐道曾 戀由眼
 
 舊本『常濟』とあり、代匠記では、『常滑』の誤としたが、古寫本の多くは『常滑』に作つてゐる。『戀由眼《コフラクハユメ》』は舊訓に從つたが、古寫本中、コヒヨルナユメ(嘉・細)の訓もある。考(【戀は曉の、眼は※[奚+隹]の誤とし】)アカシテヲユケ(略解同訓)。古義(【戀は爾心の誤とし】)ナガココロユメ。新考(【戀は勿怠の誤とし】)オコタルナユメ等の諸訓がある。常滑《とこなめ》は前にも抄したが、從來は水中の石で苔などのために滑らかになつてゐるのを云ふと解した。契沖が、『なめらかなる川中の石なり』と云つてゐるのは即ちそれである。然るに井上博士は、『トコナメは川瀬の飛石なり』といふ説を出し、人爲的に作り敷いた石とした。おもふに、平凡に道又は川原の滑らかなる石道と解していいことは前言したごとくである。滑《す》べるほど滑らかだから、さういふので、形容の詞から名詞になつたものである。さて結句の、『戀ふらくはゆめ』であるが、これは順直に來ない訓であるけれども、略解で代匠記の説を參照しながら、『此歌字の誤り有るべし。試みに言はば、初瀬道は川瀬滑らかにて、かしこければ、しひて渡りな(741)ば危ふからん。我を戀ふとならば、ゆめ渡る事なかれと云へるにや。されど穩かならず』といふのが稍穩當であらうか。つまり、あぶない道だから、私を思ひたまふならば、そのあぶない道はおいでになるな、といふのであらうか。女が男の身の上を案じて云つたやうな歌である。考では、これは前の歌と關係が無く問答歌でないとし、『こは右の答にはあらず、同じ夜の歌ともいはばいひてん』と云つた。古義はナガココロユメと訓み、卷七(一三五六)の人曾耳言爲汝情勤《ヒトゾササメキシナガココロユメ》を證としてゐる。またこれは女から男を汝《な》と呼ぶ例とし、『汝の心を慎みて、ゆめゆめあやまち爲《シ》賜ふことなかれと、男の發《タチ》ていぬるにいひやる女の歌にて、即(チ)右の歌に答へたるなり』と解釋して居る。新考では、『勿怠由眼の誤としてオコタルナユメとよむべし。油斷スナとなり』といつてゐる。
 この歌は、夫木和歌抄に、讀人不知として、ここに訓んだとほりに載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五一二〕
  味酒《うまざけ》の三諸《みもろ》の山《やま》に立《た》つ月《つき》の見《み》が欲《ほ》し君《きみ》が馬《うま》の音《おと》ぞする
  味酒之 三毛侶乃山爾 立月之 見我欲君我 馬之足音〔馬之音〕曾爲
 
(742) 『立月《たつつき》』は、前にもあつたが、出づる月で、出たばかりぐらゐの氣特であらうか。考で、『照月に用ひしならん』といひ、略解に、『光の字を立に誤れるにや。テルツキノと有るべし』と云つてゐるが立月《たつつき》といふ語を保存してそれを先づ吟味したいのである。この歌は、略解で、『是れは男の來たるを、馬の足音にて知りて悦ぶなり』といつてゐるので大體盡きて居る。つまり女が男に向つていふ問答歌なのであるから、かういふ女の歌も人麿歌集に入つてゐるのであるが、これも前言の如く見樣によつては、人麿自身が一人で問答歌の體にして作つたとも解釋することが出來る。併しこの想像は少し放恣であるだらう。考に、『右の三首も、定かなる贈答にもあらぬをかく出し、又右五首は、同じ人まろ歌集とても一本と見ゆ。然れば、此に書しには落しを、一本もて後に加へし哥なり。おもふにここは此一本に亂れたりけん』と云つてゐる。つまり既に前言したが、眞淵も人麿歌集は一本のみではなかつたと考へてゐるのである。この歌も棄てがたい味を持つてゐる。
 訓。初句舊訓ウマサカノ。考(【之は乎の誤とし】)ウマザケヲ(略解同訓)。古義ウマサケノ(【新考・新訓同訓代匠記も同訓か】)。下句舊訓ミガホキワガウマノ・アノオトゾスル。代匠記初(旋頭歌とし)ミガホシキ・キミガウマノ・アノオトゾスル。童蒙抄ミガホシキミガ・ウマノアシオトゾスル。考ミガホルキミガ・ウマノアトゾスル。略解ミガホシキミガ・ウマノアトゾスル(【古義・新考同訓】)等の諸訓がある。結句が、流布(743)本は、『馬之足音曾爲』であるが、今新訓にならひ、嘉暦伝承本に、『馬音曾爲』になつてゐるのに從つてウマノオトゾスルと訓んだ。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五一三〕
  雷神《なるかみ》の暫《しま》し動《とよ》みてさし曇《くも》り雨《あめ》の零《ふ》らばや君《きみ》が留《とま》らむ
  雷神 小動 刺雲 雨零耶 君將留
 
 ○雷神 舊訓ナルカミノ。類聚古集ナルカミヲ。○小動 シマシトヨミテと訓む。古寫本に既にシバシトヨミテ(【文・西・温・矢・京】)。トヨマスバカリ(類)。シバシウゴキテ(嘉・細)等の訓があつた。舊訓シバシトヨミテを、略解宣長説に小は光の誤にてヒカリトヨミテならんと云つた。○刺雲 舊訓サシクモリ。童蒙抄サスクモノ。○雨零耶 舊訓に從つてアメノフラバヤと訓む。古寫本にアメモフラナム(嘉・類・細)の訓がある。童蒙抄アメノフリテヤ。考アメフリナバヤ又はアメモフランヤ。略解アメモフレヤモ。古義・新考等略解に從つた。○君將留 舊訓キミヤトマラム。古寫本に、キミトマルベク(嘉)。キミヲトドメム(類・細)。キミガトマラム(温・京)等の訓があ(744)る。代匠記キミガトマラム。童蒙抄キミガトマラン。考キミガトマラム。キミヲトドメム。略解キミヲトドメム(【古義・新考同訓】)。以上の諸訓を時々參考して味つてかまはない。但し萬葉にはシバシといふ假字書の例がないから、シバシトヨミテはシマシトヨミテと改むべきであらう。卷十五(三七八五)に、保登等藝須安比太之麻思於家《ホトトギスアヒダシマシオケ》。卷十八(四〇三二)に、奈呉乃宇美爾布禰之麻之可勢《ナゴノウミニフネシマシカセ》があり、またシマシクの用例もある。私の如きも宣長訓のヒカリトヨミテに興味を感じさう訓んで味つたこともある。現に古義もそれに從つてゐるから、古義の訓に據つて書きくだした萬葉集のみを讀めば、自然さう訓むこととなるのである。併し、この『小』字は古寫本盡くさうであり、代匠記注に、『校本、小或作少』とあるのみであり、またシマシトヨミテと訓んだ方が自然でもあり、ヒカリトヨミテほ中々好いが、寧ろ近代的感覺だから、今囘は從來の訓に從つて置いた。
 一首の意は、暫《しば》しも雷が鳴つて天が曇り雨が降るなら君が行つてしまはずに此處に留まつて下さるだらう。さうしてもらひたいといふのである。降らばやのヤは係辭で留らむのラムに係るので、願望のバヤではないと解釋すべきである。この歌は女が男に向つて云つた趣にしてある。
 第四句アメモフレヤモと訓ずる説は、『フレヤモはフレカシの意なり』(略解)。『雨もがな降れかしの意なり』(古義)のごとくに解してゐるのであるから、これも一つの解釋方法として、取つて味つてかまはない。嚴密な意味の訓詁學と作歌實行の鑑賞との差別はここにも存じて居る。作(745)歌稽古のための鑑賞は時に極めて自由にいろいろの場合を採用し取捨してかまはぬし、訓詁學の方では其を許さない。此歌は、第二句を、シマシトヨミテと訓むにせよ、ヒカリトヨミテと訓むにせよ、雷雨を配して氣持を出してゐる點は、特殊でもあり、誠に得がたい好いところがある。そして都會的、殿上的情調でなく、田園的、民衆的情調である。
 ヒカリトヨミテと訓んで參考になる例は、卷七(一三六九)に、天雲近光而響神之見者恐不見者悲毛《アマグモニチカクヒカリテナルカミノミレバカシコシミネバカナシモ》。卷十三(三二二三)に、霹靂之日香〔流〕天之九月之《ナルカミノヒカルミソラノナガツキノ》。卷十九(四二三六)に、光神鳴波多※[女+感]嬬携手《ヒカルカミナリハタヲトメテタヅサヒ》等がある。
 この歌は、拾遺集戀三に、人麿作として、『なる神のしばしうごきて空くもり雨もふらなむ君とまるべく』。柿本集に、『鳴神のしばしは空にさしくもり雨もふらなむ君とまるべく』。六帖に、人まろ作として、『鳴神をとよますばかりさしくもり雨もふらなむ君をとどめむ』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五一四〕
  雷神《なるかみ》の暫《しま》し動《とよ》みて零《ふ》らずとも吾《われ》は留《とま》らむ妹《いも》し留《とど》めば
  雷神 小動 雖不零 吾將留 妹留者
 
(746) これは男の氣持になつて右の歌に答へて居るのである。暫し雷が鳴つて雨が降るならと云ふけれども、そんなわけではない、お前さへゐよといつて留めて呉れるなら己《おれ》はいつまでも居ようといふのである。『右二首』と左注がある。
 戀愛的問答は相手を豫想するので孤獨なやうなことを云つても實際はさうではなく、問答の要素が籠つてゐるのである。さてあからさまに問答となると、聯想が奔放になり、甘《あま》く機智を弄しがちになつて、互にその機智に快感をおぼゆるのが常で、後世の戀愛問答歌が皆それである。業平あたりで既にさうであるが、萬葉のこのあたりの問答歌は流石に浮泛でなくてしつとりとしてゐる。これ等の歌は人麿調とは限らぬけれども、ひよつとせば人麿もかういふ男女のつもりになつて作歌して見たのかも知れない。一般的には民謠的歌を人麿或は編輯者が採録したと解釋していいが、時にはさういふ想像をしても別に邪魔にはならぬ。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五一五〕
  布細布《しきたへ》の枕《まくら》動《うご》きて夜《よ》も寐《い》ねず思《おも》ふ人《ひと》には後《のち》も逢《あ》はむもの
  布細布 枕動 夜不寐 思人 後相物
 
(747) ○夜不寐・思人・後相物 舊訓ヨルモネズ・オモフヒトニハ・ノチモアハムモ。代匠記精ノチモアフモノヲ。童蒙抄ヨモイネズ・オモフヒトニハ・ノチアフモノカ。考イヲモネズ・オモフヒトニハ・マタモアハムカモ。略解ヨヲモネズ・オモフヒトニハ・マタモアハムカモ。古義ヨイモネズ・オモフヒトニハ・ノチアフモノヲ。新考ヨルモネズ・オモフヒトニハ・ノチアハムモノヲ。新訓ヨモイネズ・オモフヒトニハ・ノチモアハムモノ。
 『枕動く』とは、幾度も寢返りを打つ、輾轉反側することで、そのために安眠出來ず、枕動くといふのであつて、おもしろい表はし方である。用例は二つばかりであるから、この人麿歌集の歌が始であるかも知れない。古今集十一に、『宵々に枕定めむかたもなしいかに寐し夜か夢に見えけむ』。後撰集十一に、『夕されば我身のみこそ悲しけれ何れのかたに枕さだめむ』とあるのも、同じやうな表はし方であるが稍繊細になつてゐる。
 一首の意は、私は毎夜毎夜寢がへりのみしてゐて、枕動いて眠れずに戀に悩んで居るのだが、かうして思ひつづけて居れば、屹度思ふ人に逢ふことが出來るものです。かう諦念のやうなことをいつて、斷定して置いて對者に愬へ、うながしてゐるのである。
 この歌では結句の、『後も逢はむもの』といふのが注意すべき句で、卷十一(二七五六)に、月草之借有命在人乎何知而鹿後毛將相云《ツキクサノカリナルイノチナルヒトヲイカニシリテカノチモアハムトフ》など參考になる。また、卷五(八七六)に、美夜故摩提意久(748)利摩遠志弖等比可弊流母能《ミヤコマデオクリマヲシテトビカヘルモノ》があり、その他は、モノヲ。モノカ。モノゾ。モノカモ。モノナリなどといつてゐる例が多い。なほ本卷(二五九三)に、敷細枕動而宿不所寢物念此夕急明鴨《シキタヘノマクラウゴキテイネラエズモノモフコヨヒハヤモアケヌカモ》とあるのは、この歌の異傳であらうか。
 六帖には、『しきたへの枕動きていねられず物思ふ今宵はや明けむかも』と(二五九三)の歌の方が載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十一・二五一六〕
  しきたへの枕《まくら》きし人《ひと》言《こと》問《と》へや其《そ》の枕《まくら》には苔《こけ》生《お》ひたらむ
  敷細布 枕人 事問哉 其枕 苔生負爲
 
 ○枕人・事問哉 舊訓マクラセシヒト・コトトヘヤ。考マクラセバヒト・コトトヘヤ。略解マクラニヒトハ・コトトヘヤ(古義同訓)。新考マクラキシヒト・カレヌレヤ。新訓マクラキシヒト・コトトヘヤ。○苔生負爲 舊訓コケムシニタリ。代匠記初コケオヒヲセリ。童蒙抄コケムシニケリ。者コケオヒニタリ(略解同訓)。古義コケムシニタリ。新考コケムシニタル。新訓コケオ(749)ヒタラム。今、新訓に從ふ。
 マクラキは、加行四段に活用したので、卷五(八一〇)の、比等能比射乃倍和我摩久良可武《ヒトノヒザノヘワガマクラカム》。卷十九(四一六三)の、妹之袖和禮枕可牟《イモガソデワレマクラカム》などが其例である。
 一首の意は、女が前の男の歌に答へたもので、あなたは、枕動きて眠れないなどとおつしやいますが、私と一度〔敷細布《しきたへの》〕枕を交はされたお方《かた》なら、つづいて御たづね下すつたらいかがですか。もうあの枕には、あなたが餘りおいでにならぬものですから、今ごろは苔でも蒸してゐるでせうよ。といふのである。前の歌とあはせて『右二首』と左注がある。
 『事問哉』は、言《こと》問《と》へや。訪ね給へよ。といふので、トヘといふ命令法にヤを添へたものである。この下(二六三〇)に、結紐解日遠敷細吾木枕蘿生來《ユヘルヒモトカムヒトホミシキタヘノワガコマクラニコケオヒニケリ》などとあるのも參考となるべく、この卷十一の、寄v物陳v思のうちには、人麿歌集の歌と甚だ似たのが多く、そして概ね人麿歌集の歌よりも劣つて居る。
 この歌は、風雅集戀五と、夫木和歌抄とに、人麿作として載り、第二句『枕せし人』、結句『苔生ひにけり』となつてゐる。
 『右二首』の注に次いで『以前一百四十九首柿本朝臣人麿之歌集出』といふ注が此處に記されて居る。
 
(750)          ○
 
  〔卷十一・二六三四〕
  里《さと》遠《とほ》み戀《こ》ひ佗《わ》びにけりまそ鏡《かがみ》面影《おもかげ》去《さ》らず夢《いめ》に見《み》えこそ
  里遠 戀和備爾家里 眞十鏡 面影不去 夢所見社
 
 前の(二五〇一)に、里遠眷浦經眞鏡床重不去夢所見與《サトトホミコヒウラブレヌマソカガミトコノヘサラズイメニミエコソ》とあるのと殆ど同じで、恐らくこの歌はその異傳であらうか。左注に、『右一首、上見2柿本朝臣人麿之歌中1也。但以2句句相換(レルヲ)1故(ニ)載2於茲(ニ)1』とあるものである。六帖等に出てゐることは前の歌の處であげた。
 
          ○
 
  〔卷十一・二八〇八〕
  眉根《まよね》掻《か》き嚔《はな》ひ紐《ひも》解《と》け待《ま》てりやも何時《いつ》かも見《み》むと戀《こ》ひ來《こ》し吾《われ》を
  眉根掻 鼻火※[糸+刃]解 待八方 何時毛將見跡 戀來吾乎
 
(751) この歌は、前(二四〇八)の、眉根削鼻鳴紐解待哉何時見念吾君《マヨネカキハナヒヒモトケマツラムヤイツカモミムトオモフワガキミ》と甚だ類似して居り、左注に、『右上(ニ)見(ユ)2柿本朝臣人麿(ノ)之歌中(ニ)1、但(シ)以(テ)2問答故(ヲ)1累(テ)載2於茲1也』とあるもので、この歌に答へたものは、今日有者鼻之鼻之火眉可由見思之言者君西在來《ケフナレバハナヒハナヒシマヨカユミオモヒシコトハキミニシアリケリ》(二八〇九)といふのである。
 
(752)     萬葉集卷十二所出歌
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四一〕
  我《わが》背子《せこ》が朝《あさ》けの形《すがた》能《よ》く見《み》ずて今日《けふ》の間《あひだ》を戀《こ》ひ暮《く》らすかも
  我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨
 
 卷十二『古今相聞往來歌類之下』の初めに、『正述心緒』といふ題で十首、次いで『寄物陳思』の題で十三首の歌が、『右二十三首柿本朝臣人麻呂之歌集出』と左注されて載つてゐる。その『正述心緒』第一首である。卷十一、卷十二ともに、人麿歌集出の歌が初めに別にして載せてあるが、かくの如くに、先づ第一に人麿歌集出の歌を載せ、その次から古歌集のものなりその他の讀人不知の歌を載せる傾向があるやうに思はれる。左注は編輯の時よりも後に加へたものとも考へ得る(753)が、それにしても人麿歌集に對して編輯者の持してゐた態度(一種尊重の態度)の一端をうかがふことが出來るやうに思はれるのである。
 この歌の訓は舊訓の儘で、只アサアケノをアサケノとした。一首の意は、一夜交歡して、曉はやく男が立去るとき、よくも見ずに男を歸したが、それが殘念で一日ぢゆう戀ひくらすといふのである。
 『あさけのすがた』といつたのが誠に好く、男の貌、樣子等をも含めたスガタといふので含蓄があり、『能く』もなかなか效果がある。『今日のあひだを』といふ伸ばした云ひ方も、萬葉でなければ出來ないものであらうか。
  卷十(一九二五)に、朝戸出之君之儀乎曲不見而長春日乎戀八九良三《アサトデノキミガスガタヲヨクミズテナガキハルビヲコヒヤクラサム》。卷十二(三〇〇七)に、野干玉夜渡月之清者吉見而申尾君之光儀乎《ヌバタマノヨワタルツキノサヤケクバヨクミテマシヲキミガスガタヲ》といふ例があり、『よく見る』といふ表現は此處にもある。なほ、卷十二(三〇九五)には、朝烏早勿鳴吾背子之旦開之容儀見者悲毛《アサガラスハヤケナナキソワガセコガアサケノスガタミレバカナシモ》といふ歌もある。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四二〕
  我《わ》が心《こころ》と望《のぞ》みし念《も》へば新夜《あらたよ》の一夜《ひとよ》も闕《お》ちず夢《いめ》にし見《み》ゆる
(754)  我心等 望使念 新夜 一夜不落 夢見
 
  ○我心等・望使念 舊訓ワガココロト・ノゾミオモヘバ。代匠記初ノゾミシオモヘバ。同書入【校本萬葉】、使は衍か。代匠記精ノゾミシモヘバ。考、望使は無便の誤、スベナクモヘバ。略解は舊訓及考の説の他に或人の説として、使の下、美の字脱としてワガココロ・トモシミモヘバと訓んだ。古義、我心等は我等心、望使は氣附の誤とし、アガココロ・イキヅキモヘバ。新考ワガココロト・ノゾミシモヘカ。今、代匠記精の訓に從つて、ノゾミシモヘバと訓めば、自分の心から、戀人に逢ひたいと切りに望んで居れば、といふことになる。使をシといふ助語(助詞)に使つた例はないが、助動詞の場合の、卷二(一九九)に、神宮爾装束奉而遣使御門之人毛《カムミヤニヨソヒマツリテツカハシシミカトノヒトモ》とある、『便』は、古寫本(【金・類・温・神・西等】)に『使』とあるのに從つて、訂してシと訓んで置いたが、人麿歌集の歌だから、助詞として『使《シ》』と使つたと解釋出來ないであらうか。支那の熟語の、使人《シジン》、使君《シクン》などがあるので、或る拍子にそのシ音を借りたとも考へられる。尤も、この表現は餘り旨くないから、考或は古義に從へれば好く、『わが心からせんすべ無く思へば』(略解)となるのだが、さう簡單には行かない。○新夜 舊訓アタラヨノ。考、新玉の誤とし、アラタマノ。古義アラタヨノ。『抑々|新夜《アラタヨ》とは、世の事を新世《アラタヨ》といふと同例にて、經易(リ)》經易(リテ)新《アラタ》まる夜と云ことなり。此(ノ)下に、今更將寢哉吾背子荒田麻之全夜毛不落夢所見欲《イマサラニネメヤワガセコアラタマノヒトヨモオチズイメニミエコソ》とあるは、彼處に云如く、麻は夜(ノ)字の誤、荒田夜《アラタヨ》にて、今と全(ラ)同(755)じ』(古義)とあるのを參考にしていい。次ぎ次ぎに來る夜、即ち毎夜といふことになる。○夢見 舊訓ユメニミエケリ。古寫本中、ユメニミユトソ(神)。考、夢ニシミユル。略解イメニシミユル(【古義・新考同訓】)。新訓イメニミエコソ。夢見與と元暦校本によつて補充したのである。元暦校本には此歌と次の歌とを一所に書いて居る。無訓。今暫く元の儘にし、考(略解)の訓に從つた。
 一首の意は、私自身の心から、お逢ひしたいお逢ひしたいと念じて居れば、毎夜、一度も缺かさずに、戀しい貴方《あなた》が夢に見えてまゐります。といふぐらゐの意である。
 この歌は、恐らく女の心持を歌つたものであらうか。この、『等《ト》』の助詞は、稍難解だが、ココロトシテ。ココロカラぐらゐに解せば、一首は自然に解釋の出來る歌である。卷一(五〇)の、新代登泉乃河爾持越流眞木刀都麻手乎《アラタヨトイヅミノカハニモチコセルマキノツマデヲ》。卷二十(四三七三)の、之許乃美多弖等伊※[泥/土]多都和例波《シコノミタテトイデタツワレハ》。卷二(二二〇)の、神乃御面跡次來《カミノミオモトツギキタル》等を記して置く。なほ、卷十五(三七三八)に、於毛比都追奴禮婆可毛等奈奴婆多麻能比等欲毛意知受伊米爾之見由流《オモヒツツヌレバカモトナヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》。卷十一(二五六九)に、將念其人有哉烏王之毎夜君之夢西所見《オモフラムソノヒトナレヤヌバタマノヨゴトニキミガイメニシミユル》。卷四(七一〇)に、三空去月之光二直一目相三師人之夢西所見《ミソラユクツキノヒカリニタダヒトメアヒミシヒトノイメニシミユル》などがあるから、イメニシミユルといふ結句は相當の落著を有つてゐるものである。
 若し新訓に從つて、イメニミエコソと訓むとせば、これも同じ結句の歌が幾つかある。卷五(八〇七)に、宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》。卷十三(三(756)二二七)に、新夜乃好去通牟事計夢爾令見社《アラタヨノサキクカヨハムコトハカリイメニミセコソ》。併しこの歌の場合は、イメニシミユルの方が却つて好い。
 この萬葉卷十二の歌につき、略解は考の文を踏襲して、『目録に古今相聞往來歌類之下と有り。第十一の卷と同じ卷なるを、歌の數多ければ上下と分てるなり。上の卷に出でたる歌の、此卷に再び載れるもたまたまあり。はた上の卷に相聞に入れたるを、此卷には旅に入れ、又は贈答に載せたるも有り。是れらは其撰とられしもとの集どもに二樣に有りしか、又は傳への異なるなどに由りて、そのままに採り集めし物なるべし』と云つてゐる。萬葉の編輯に使つた材料は一本のみでなく、異本が幾つかあつたものと看るべく、それ等を皆尊重したから一句ぐらゐの差ある類歌をも收録したものと解釋して好い。ゆゑに卷十一と卷十二との編輯者が別人であつたといふ説もあるけれども、その説の證據もいまだ積極的といふわけには行かない。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四三〕
  愛《うつく》しと我《わ》が念《も》ふ妹《いも》を人《ひと》みなの行《ゆ》くごと見《み》めや手《て》に纏《ま》かずして
  與愛 我念妹 人皆 如去見耶 手不纏爲
 
(757) ○與愛 舊訓ウツクシト。代匠記初コソハシク。代匠記精、『發句ハ若愛與を倒ニ寫セルカ』。略解ウルハシト。○我念妹 舊訓ワガオモフイモヲ。代匠記精ワガモフイモヲ。○人皆 舊訓モトミナノ。童蒙抄ヒトミナノ。○如去見耶 舊訓イマユキミルヤ。代匠記初モシユキミルヤ。童蒙抄モシユキミンヤ。考ユクナスミルヤ。略解ユクゴトミメヤ(【古義・新考同訓】)。
 一首の意は、愛《うつく》し愛《めぐ》しとわが思ふ妹《いも》をば、一般他人のごとくに、ただよそよそしく客觀的に見過ぐし得ようか。手にも纏かないで。といふのである。略解には、『思ふ妹が道行くを見て、忍べる中故に、大よそ人の道ゆくを見る如くして在むと歎く也』と解して居る。
 かういふ場合のウツクシといふ語なども、ただの形容といふよりも、もつと肉體的の接近をおもはしめる程の力を持つて響いて來るやうである。また、『人皆の行くごと見めや』といふ如き發想は、戀愛心の複雜な動きの一つで、現代人の表現として考へても毫も古くは無い。のみならず、現代人には、『手に纏かずして』のごとくに能働的には云へない。若し云ひ得るとしても、現代人には、『手に纏かずして』では古いから、他の語を用ゐるとすると、卑しくなつたりして具合が惡い。即ち、萬葉歌人には及び難いといふことになるのである。
 代匠記で、第四句を、モシユキミルヤと訓み、『如ハ今按モシト讀ベキ歟。手玉ヲ手ニ卷如ク我妻トモ定メヌ程ナレバ、皆人ノモシ行テ見テ思ヒ懸云ヒ入ナドヤセムト心モトナク思フ意ナリ』(758)(精撰本)と云つてゐる。若しかう訓むとせば、整調が詰まつてしまふのである。それに較べると略解の訓の、ユクゴトミメヤは強くてゆつたりとして居る。初句の『愛』字、萬葉には、宇都久之《ウツクシ》、宇流波之《ウルハシ》兩方の例があるが、今舊訓に從つてウツクシとした。ウツクシミ。ウルハシミといふ訓もまた可能である。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四四〕
  此《こ》の頃《ころ》の寢《い》の寢《ね》らえぬは敷細布《しきたへ》の手枕《たまくら》まきて寢《ね》まく欲《ほ》れこそ
  比日 寢之不寢 敷細布 手枕纏 寢欲
 
 ○寢之不寢 奮訓イノネラレヌニ。代匠記精イノネラエヌニ。略解イノネラエヌハ。○寢欲 舊訓ネマクホシケム。童蒙抄ネマホシトオモフ。又ネマクホリスル。考ネマクシホシモ。略解ネマクホレコソ(新考同訓)。古義ネマクホリコソ。此處のコソは願望のコソ(連用言に續く)でなく、欲レバコソナレといふ場合であるから、ホレコソと訓むべきである。
 一首の意は、このごろ毎晩眠られないのは、〔敷細布《しきたへの》〕女の手枕《たまくら》を纏《ま》いて(枕にして)寢たいと(759)ばかり思つてゐるせいであらう。戀しい女と一しよならこんなに夜も眠れないことはあるまいといふ意味よりも、寧ろ直接に戀しい女の手枕纏きたいといふ意を含ませてゐるのだが、かういふ言ひ方をして居るのである。ホリコソと訓めば、寢たいものであるといふ直接願望の意になるのであらうか。しかしそれでは上からの續きがわるい。
 この歌は、無理がなく筋も通つてゐるけれども、取りたてていふほどのものではなく、必ずしも人麿の手を待つまでも無いとおもふ程度の歌である。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四五〕
  忘《わす》るやと物語《ものがた》りして意《こころ》遣《や》り過《す》ぐせど過《す》ぎず猶《なほ》戀《こ》ひにけり
  忘哉 語 意遣 雖過不過 猶戀
 
 ○忘哉 舊訓ワスレメヤ。代匠記初ワスルヤト。忘が古寫本(元・西・神)に忌に作つてゐるから拾穗抄ではユユシクヤと訓んだ。○語・意遣 舊訓モノガタリシテ・ココロヤリ。略解の一訓、遣は追の誤とし、モノガタリシテ・ナグサメテ(新考同訓)。○雖過不過・猶戀 舊訓スグレドス(760)ギズ・ナヲコヒシクテ。代匠記精スグセドスギズ・ナホコヒニケリ。童蒙抄スグセドスギズ・ナホゾコヒシキ(【考・略解・古義・新考同訓】)。
 一首の意。戀しい女のこともかうすれば忘れるだらうとおもつて、種々世間話などをして氣を紛はさうとするけれども、それも出來ずに、またまた苦しい戀をしたのであつた。童蒙抄・考の訓に從へば、まだまだ戀しくてならぬ。といふことになる。
 この『物語して』は、女と共に寢物語などをするのでなくて、知り人などと共に世間の物語をすることである。『ものがたりするは、友たちなどとかたりて、心をやりて見るなり』(代匠記初)。『思ふ人の事を忘るるやと、外人と物語りをもし心をやりすぐせ共、中々やり過ごされず、猶戀しさの彌ますとの歌と聞ゆる也』(童蒙抄)。『人々と種々のものがたりして、おもひをやり過すなり。…しかまぎれて思ひをやれど、えやり過すことはあらで、かにかくにまだ戀しきなり』(考)。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四六〕
  夜《よる》も寢《ね》ず安《やす》くもあらず白細布《しろたへ》の衣《ころも》は脱《ぬ》がじ直《ただ》に逢《あ》ふまで
  夜不寢 安不有 白細布 衣不脱 及直相
(761) ○夜不寢・安不有 舊訓ヨルモネズ。ヤスクモアラズ(【代匠記・古義・新訓同訓】)。童蒙抄ヨモイネズ。考ヨヲモネジ・ヤスクモアラジ。略解ヨルモネジ・ヤスクモアラジ。新考ヨヲネズテ・ヤスクモアラズ。○衣不脱・及直相 舊訓コロモモヌガジ・タダニアフマデ(【代匠記・考・略解同訓】)。童蒙抄タダニアフマデハ。古義タダニアフマデニ。新考コロモハヌガジ・タダニアフマデ(新訓同訓)。
 一首の意は、今は戀ゆゑ夜も碌々ねむらず、心も常に悩ましく不安で平靜でない。このうへは〔白細布《しろたへの》〕着物も脱がずに丸寢してゐよう。直接戀しき人に逢ふまでは。といふのである。
 これは、男の獨咏的な歌だとしても理會が出來るからさうしたが、女の獨咏としても解釋の出來ないことはない。童蒙抄ではそれゆゑ、『獨りぬればいねがてに心も安き事なく、相見し夜の衣も又逢ふ迄はぬがで、まろ寢をせんと貞節の意を兼て逢はぬ事を歎ける歌也』と解釋してゐるのである。實際かう解釋しても無理のないもので、鑑賞者は必ずしも一方に極めなくともいい。一首の聲調には小休止、例へば、ね|ず〔右○〕。あら|ず〔右○〕。ぬが|じ〔右○〕。あふ|まで〔二字右○〕、といふ具合であるから、稍脆い弱味が暴露せられてゐる。若し人麿作だとせば、骨折らず樂々と民謠風の歌作家のやうな態度で、人形師が澤山の人形を並べて置いて繪具を塗るやうな態度で出來たものの一つでもあらうか。
 
          ○
 
(762)  〔卷十二・二八四七〕
  後《のち》も逢《あ》はむ吾《わ》にな戀《こ》ひそと妹《いも》は言《い》へど戀《こ》ふる間《あひだ》に年《とし》は經《へ》につつ
  後相 吾莫戀 妹雖云 戀間 年經乍
 
 ○後相・吾莫戀 舊訓ノチニアハム・ワレヲコフナト。代匠記精ノチモアハム。考ワヲナコヒソト。古義ノチニアハム・アヲナコヒソト。新考ノチモアハム・ワニナコヒソト。新訓ノチモアハム・ワレニナコヒト。新考の訓に從はうと思ふ。
 一首の意。いづれ後日に逢ひませう、ですからそんなに責付きなさるな、いらいらなさるな、かう妹《いも》は慰めるやうなことを云ふけれども、實はその妹を今日か今日かと待ち焦れてゐるうちに歳月が經つてしまつたのです。
 この歌も、前の、『物語りして心遣り』などと同じく、小きざみで且つ聲調が稍脆弱になつてゐる。第二句は、それでもワニナコヒソトと訓めば幾分伸び得るからさうしたが、それでもいまだ緊密になり得ないところがある。極めて一般的な平凡なものであらう。
 『後もあはむ』といふ表現は、萬葉には可なり多く、卷二(二〇七)に、狹根葛後毛將相等大船之思憑而《サネカヅラノチモアハムトオホフネノオモヒタノミテ》。卷四(七三九)に、後湍山後毛將相常念社《ノチセヤマノチモアハムトオモヘコソ》。卷十二(三一一三)に、在有而後毛將相登言耳(763)乎《アリアリテノチモアハムトコトノミ》。卷十三(三二八〇)に、左奈葛後毛相得《サナカヅラノチモアハムト》とあるなど、皆『モ』といふ助詞を使つてゐる。これ聲調上の強味があつて感情の自然を移し得るためであらう。また、『ナ』といふ禁止の助詞にも、卷四(六二二)の、汝乎社念莫戀吾妹《ナヲコソオモヘナコヒソワギモ》。卷十(一八九五)の、幸命在後相莫戀吾妹《サキクアラバノチニモアハムナコヒソワギモ》などがあつていづれも參考となる。なほ、卷二(一四〇)に、勿念跡君者雖言相時何時跡知而加吾不戀有牟《ナオモヒトキミハイヘドモアハムトキイツトシリテカワガコヒザラム》といふ依羅娘子の歌があつた。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四八〕
  直《ただ》に逢《あ》はず在《あ》るは諾《うべ》なり夢《いか》にだに何《なに》しか人《ひと》の言《こと》の繁《しげ》けむ 【或本歌云、現《うつつ》にはうべも會《あ》はなく夢《いめ》にさへ】
  直不相 有諾 夢谷 何人 事繁 【或本歌曰、寢〔寤〕者諾毛不相夢左倍】
 
 ○有諾 舊訓アルハコトハリ。代匠記初アルハウベナリ。○何人 舊訓イカナルヒトノ。代匠記初ナニシカヒトニとも訓む。略解ナニシカヒトノ(古義同訓)。新考ナニカモヒトノ。或本歌曰、『諾毛不相』は、舊訓ウベモアハズテ。代匠記精ウベモアハナク。
 一首の意。直接に戀しい人に逢ふことの出來ないといふことは、致方がないとして諾《うべな》ひ諦めも(764)しよう。夢にでもせめて逢はうといふのに、なぜこんなに夢の中でも人の口がうるさいのであらう。或本の歌の方は、この覺《さ》めて居る現實で逢はれないといふのは爲方《しかた》ないとしての意。
 この歌も寧ろ民謠的だが、稍心をひねつて言ひ方が細かくなつて居る。夢裏にあつてもなほ蔭口がうるさいといふやうな表現は、一面からいへば進化でもあらうが、一首としての短歌からいふと、決して進歩ではない。特に、逢は|ず〔右○〕。在る|は〔右○〕諾なり〔二字右○〕。だに〔二字右○〕。人|の〔右○〕。繁けむ〔二字右○〕といふやうに、小休止の如き趣があつて、決して好き聲調とは謂へない。卷十一から卷十二に移ると、特にこの聲調の小きざみが目立つやうである。それでも、古今集の、『すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひ路人目よくらむ』。『うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るが佗《わび》しさ』とあるなどに較べれば、まだまだ素朴でいいところがある。比較參攷して悟るべきである。
 『直《ただ》に逢はむ』といふやうな表現は、卷二(二二五)の、直相者相不勝《タダノアヒハアヒカツマシジ》。卷十(二〇三一)の、吉哉雖不直《ヨシヱヤシタダナラズトモ》等のほか、なほ他にあり、既に抄出した筈である。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八四九〕
  ぬばたまのその夢《いめ》にだに《み》見え繼《つ》げや袖《そで》乾《ほ》す日《ひ》無《な》く吾《われ》は戀《こ》ふるを
(765) 烏玉 彼夢 見繼哉 袖乾日無 吾戀矣
 
 ○彼夢・見繼哉 舊訓ソノヨノユメニ・ミツギキヤ。代匠記精ソノユメニダニ・ミエツゲヤ(【略解・新訓從之、但イメニ】)。童蒙抄ソナタノイメニ・ミエツグヤ。考ソノユメヲスラ・ミツガムヤ。略解宣長訓ヨルノイメニヲ。古義ヨルノイメニヲ・ミエツグヤ。新考ソノヨノイメノ・ミニツゲヤ。○吾戀矣 舊訓ワガコフラクヲ(【代匠記・童蒙抄・略解同訓】)。古義アレハコフルヲ(【新考・新訓從之、但ワレハ】)。夢ニダニと代匠記で訓んだのは、他の歌の訓に、夢谷《イメニダニ》といふのがあるからであらう。宣長がヨルノイメと訓んだのは、夜夢《ヨルノイメ》と直したのである。そこでいづれ直すのなら、夢谷とする方が無難である。特に古寫本の多くが、彼をソノと訓んでゐるからである。
 一首の意は、〔烏玉《ぬばたまの》〕その夢にでも、せめてあなたのお姿が見え續けてください。わたくしは涙で濡れた袖を乾かすひまもなく、毎日戀に泣いて居ります。吾戀矣《ワレハコフルヲ》のヲはヨに通ふ咏歎の助詞で、そこで据ゑてゐる。それで餘響を保たせて、支那の矣字を加へてあるのである。もつとも、矣は道之長手矣《ミチノナガテヲ》などの如くに、普通の乎《ヲ》と同じやうにも使つてゐるが、此處のは、卷九(一八〇四)の、心所燎管悲悽別焉《ココロモエツツナゲクワカレヲ》などの焉に同じいのか。
 この歌も、戀涙の歌で、戀涙のことは既に一言を費した筈である。かういふ表現は萬葉には寧ろ少い方であるが、幾つか拾ふことが出來る。卷二(一七八)の、庭多泉流涙止曾金鶴《ニハタヅミナガルルナミダトメゾカネツル》。同卷(二(766)三〇)の、泣涙霈霖爾落者《ナクナミダヒサメニフレバ》などは、誇張でも直接性があるが、卷三(四六〇)の、衣袖不干嘆乍吾泣涙有間山雲居輕引雨爾零寸八《コロモデホサズナゲキツツワガナクナミダアリマヤマクモヰタナビキアメニフリキヤ》から、卷十一(二五四九)の、妹戀吾哭涕敷妙木枕通而袖副所沾《イモニコヒワガナクナミダシキタヘノコマクラトホリテソデサヘヌレヌ》。卷十二(二九五三)の、戀君吾哭涕白妙袖兼所漬爲便母奈之《キミニコヒワガナクナミグシロタヘノソデサヘヌレテセムスベモナシ》等は漸々に繊巧になつて行く徑路が見え、卷四(五〇七)の、敷細乃枕從久久流涙二曾浮宿乎思家類戀乃繁爾《シキタヘノマクラユクグルナミダニゾウキネヲシケルコヒノシゲキニ》になると、萬葉でも技巧が細かくなつて、後世ぶりの序幕をなして居る觀がある。さう觀てくるとこの一首(二八四九)なども、その經過中に見出される一標本と謂ふことも出來るわけである。
 この歌は、家持集に、『むば玉の夜の夢には見ゆらむや袖干る間なく我し戀ふれば』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五〇〕
  現《うつつ》には直《ただ》に逢《あ》はなく夢《いめ》にだに逢《あ》ふと見《み》えこそ我《わ》が戀《こ》ふらくに
  現 直不相 夢谷 相見與 我戀國
 
 ○現・直不相 舊訓ウツツニハ・タダニモアハズ。代匠記精ウツツコソ・タダニアハザラメ。(767)古義ウツツニハ・タダニアハナク。○相見與 舊訓アフトハミエヨ。代匠記アフトハミエコソ。童蒙抄アフトミエコセ。略解では與は乞の誤としてアフトミエコソと訓んだが、與はコソの訓例あること既に云つた如くである。
 一首の意。この現實には直接逢ふことが出來ない。せめて夢の中にでも逢ふやうに見えてくれよ。私はかほどまでに戀に悩んでゐるに。といふのである。
 『現には直に逢はなく』といふやうな表はし方は、慣用されてゐるうちに自然と平凡化するので、かかる場合に緊密の聲調でその平凡化を救ふのだが、それが大衆向な民謠化によつて益々輕い方に導かれて行つてしまふのである。類似の句を有つてゐる歌が、古歌集、讀人不知のものにもあるのを見れば、特にこの歌を人麿作と考へずとも好いやうな氣持がして居る。
 卷五(八〇七)に、宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》。卷十一(二五四四)に、寤者相縁毛無夢谷間無見君戀爾可死《ウツツニハアフヨシモナシイメニダニマナクミエキミコヒニシヌベシ》などがある。又後に拾遺集と貫之集に、『現には逢ふことかたし玉の緒の夜は絶えせず夢に見えなむ』(【貫之集たえずも】)といふのがある。
 
          ○
 
(768)  〔卷十二・二八五一〕
  人《ひと》の見《み》る表《うへ》を結《むす》びて人《ひと》の見《み》ぬ裏紐《したひも》あけて戀《こ》ふる日《ひ》ぞ多《おほ》き
  人所見 表結 人不見 裏紐開 戀日太
 
 以下は『寄物陳思』といふ部類で、卷十一に既にあつたやうな歌が此處に收録せられて居る。これはその第一首である。
 ○人所見・表結 舊訓ヒトメニハ・ウヘモムスビテ。拾穗抄ウヘヲムスビテ。童蒙抄アラハニハ・ウヘハムスビテ。考ヒトミレバ・ウヘヲムスビテ(【略解・古義・同訓】)。新考ヒトノミル・ウヘハムスビテ。新訓ヒトニミユル・ウヘヲムスビテ。○人不見・裏紐開 舊訓シノビニハ・シタヒモトケテ。代匠記初シタヒモトキテ。代匠記精シタヒモアケテ。考ヒトミネバ・シタヒモトキテ。略解ヒトミネバ・シタヒモアケテ(古義同訓)。新考ヒトノミヌ・シタヒモアケテ(新訓同訓)。
 一首の意。人の見る(人から見える)衣服の表《おもて》の背の紐は堅く結んでも、人の見ない(人から見えない)褌《はかま》の紐(下紐《したひも》)をば解いて、逢ふことの出來る吉徴にして、日毎に戀しお待して居ります。
 下紐を解きあけると、逢ふことの出來る前徴でもあり、またその咒にもなつたもので、民間信(769)仰として盛に行はれたものであつたから、この歌のやうなのが殘つてゐるのである。卷十一の方にも、『眉根かき嚔ひ紐とけ』云々といふ、動作のこまかい歌があつたが、この歌も動作がなかなかこまかい。特に、『人の見る』、『人の見ぬ』と對立させたあたり、つまり舊訓の、『人目には』と、『しのびには』と對立せしめてゐるあたりは、寧ろ後世ぶりと謂つてもいい程で、このあたりの歌は、卷十一のものよりも稍劣り、通俗化せられてゐるのである。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五二〕
  人言《ひとごと》の繁《しげ》かる時《とき》に吾妹子《わぎもこ》し衣《きぬ》にありせば下《した》に著《き》ましを
  人言 繁時 吾妹 衣有 裏服矣
 
 ○繁時・吾妹・衣有 舊訓シゲレルトキニ・ワギモコガ・コロモナリセバ。代匠記初シゲカルトキニ。代匠記精シゲケキトキニ。童蒙抄シゲキトキニハ。新考シゲカルトキヲ。古義ワギモコシ。代匠記精キヌニアリセバ。
 一首の意は、かうした二人の仲について、彼此と人の噂のうるさい時に、戀しい妹《いも》が若し著物《きもの》(770)であつたら、人に知れねやうに下の方に著ようものを、下着《したぎ》にして隱さうものを。といふぐらゐの意味である。
 これも民謠的な歌だから、氣の利いたやうに聯想を活溌にしてかういふ表現を採つてゐる。また寄v衣戀だから、意識してかういふ手法を敢てした點もあるであらう。卷二(一五〇)に、衣有者脱時毛無吾戀君曾伎賊乃夜夢所見鶴《キヌナラバヌグトキモナクワガコヒムキミゾキゾノヨイメニミエツル》。卷十二(二九六四)に、如是耳在家流君乎衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《カクノミニアリケルキミヲキヌナラバシタニモキムトワガモヘリケル》といふのがあつて大に似て居り、なほ卷七(一三一二)に、凡爾吾之念者下服而穢爾師衣乎取而將著八方《オホヨヨソニワレシオモハバシタニキテナレニシキヌヲトリテキメヤモ》。卷十一(二八二八)に、紅之深染乃衣乎下著者人之見久爾仁寶比將出鴨《クレナヰノコゾメノキヌヲシタニキバヒトノミラクニニホヒイデムカモ》などの例がある。又、卷三(四三六)に、人言之繁比日玉有者手爾卷以而不戀有益雄《ヒトゴトノシゲキコノゴロタマナラバテニマキモチテコヒザラマシヲ》の如きものもある。
 『繁時』は、代匠記初稿本に、『しけかる時とよむべき歟』と言つたのを、精撰本で『シゲケキトキニト讀ヘキカ』と改め、以來シゲケキトキニと訓んだが、新考で『シゲケキといふ辭は無ければシゲカルトキヲとよむべし』と言ひ、遠藤嘉基氏もシゲカルトキニと訓む方が好いとした(【萬葉集講座第三卷】)。これは、形容詞の連用形のケク(ユタケク、サヤケク、ハルケク、ノドケク、等)の場合は、『氣《ケ》ク』(乙類)の假名を用ゐ、形容詞の語幹にケクの附いたもの(ヨケク、ホシケク、キヨケク、サムケク等)は、『家《ケ》ク』『祁《ケ》ク』(甲類)の假名を用ゐて區別してゐる。(【右は橋本進吉博士が昭和六年九月號の國語と國文學に始めて發表した處である。】)卷十(二三〇七)の、於黄葉置白露之色葉二毛不出跡念者事之繁家口《モミヂバニオクシラツユノニホヒニモイデジトオモヘバコトノシゲケク》は家口《ケク》と甲類の(771)假名を用ゐてゐるから、形容詞の連用段ではないことが分かる。從つて、シゲケシといふのも、シゲケキといふのも無いことが分かる。そこでこの場合も、シゲケキと云ふのではないと説明するのである。また、卷十二(三一三一)の、月易而君乎婆見登念鴨日毛不易爲而戀之重《ツキカヘテキミヲバミムトオモヘカモヒモカヘズシテコヒノシゲケム》の結句は、舊訓シゲケキ。新考シゲケクであるが、古義がシゲケムと訓んだ。聲調の上からもシゲケムが一番自然であるやうである。假名遣のうへからはシゲケク、シゲケムいづれでも好いこととなる。
 孤悲之家久《コヒシケク》(卷十七。四〇〇六)は甲類の家を使つてあるから、形容詞の連用段のケクでないことが分かり、我例乞能米登須臾毛余家久波奈之爾《ワレコヒノメドシマシクモヨケクハナシニ》(卷五。九〇四)。安志家口毛與家久母見牟登《アシケクモヨケクモミムト》(同)でも皆『家』といふ甲類の假名を使つてゐる。さういふ状態にあること、さういふ事といふ意であるが、佐夜氣吉《サヤケキ》、左夜氣久《サヤケク》、佐夜氣久《サヤケク》、由多氣伎《ユタケキ》、波流氣之《ハルケシ》等は皆乙類の『氣』の假名を用ゐて、形容詞連用段のケクである。そして、將依念有濱之淨奚久《ヨラムトモヘルハマノサヤケク》(卷七。一二三九)の『奚』は甲類であるから、同じ音に見えても、左夜氣久《サヤケク》とは區別すべきである。もともとこの淨奚久をサヤケクでは結句として不自然なので、考では久は左の誤でサヤケサと訓み、字音辨證では久にキの音ありとしてサヤケキと訓んだが、これは橋本博士の説によれば、キヨケクと改むべきである(【國語と國文學、昭和六年九月號】)。また、前に云つた孤悲之家久《コヒシケク》は甲類の假名であるが、同じ意味の、多能之氣久《タノシケク》(卷十八。四〇九四)も甲類の假名であるべきだのに、乙類の氣久《ケク》になつてゐるのは、元暦校本には、多之氣(772)久《タシケク》とあるから、これはタシケシといふ形容詞があるので(【正宗・安田・遠藤】)、タノシケクの場合ではあるまいといふ論があるのである。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五三〕
  眞珠《またま》つく遠《をち》をしかねておもふにぞ一重衣《ひとへごろも》を一人《ひとり》著《き》て寢《ぬ》る
  眞珠服 遠兼 念 一重衣 一人服寢
 
 ○眞珠服・遠兼 流布本、『眞珠眼』になつてゐたが、古寫本中(古)に『服』となつて居るのがあるからそれに改めた。舊訓シラタマモ・メニヤトホケム。童蒙抄シラタマノ・マドホサクカニ。考、眼(服)は附の誤でマタマツク・ヲチヲシカネテ。略解は考に從ひ、なほ『宣長云、遠の下近の字脱たり。ヲチコチカネテと有るべしといへり。卷四、ま玉つく彼此兼手《ヲチコチカネテ》と有れば、此説によるべし』。古義、眼は服の誤とし、マタマヅク・ヲチコチカネテ(新考同訓)。新訓マタマツク・ヲチヲシカネテ。○念・一重衣・一人服寢 舊訓オモヒツツ・ヒトヘゴロモヲ・ヒトリキテヌル。童蒙抄モフヒトト・カサネシキヌヲ。考オモホヘバ。略解オモヘレバ。ヒトリキテネヌ(773)(古義同訓)。新考オモフニゾ(新訓同訓)。
 眞珠服《マタマツク》は、眞玉を付ける緒《ヲ》といふので、遠《ヲチ》に續けたのだから、考では附の誤としたが、古義では附は字形が遠いから非である、類聚抄に從つて服がいいとし、『眞珠を服《ツク》緒《ヲ》とかかれる枕詞なり。服は貫《ヌ》き服《ツク》るよしなり』と云つた。卷七(一三四一)に、眞珠付越能菅原吾不苅人之苅卷惜菅原《マタマツクヲチノスガハラワレカラズヒトノカラマクヲシキスガハラ》とあるのは、ヲチと續けて居り、卷十二(二九七三)に、眞玉就越乞兼而結鶴言下紐之所解日有米也《マタマツクヲチコチカネテムスビツルワガシタヒモノトクルヒアラメヤ》。卷四(六七四)に、眞玉付彼此兼手言齒五十戸常相雨後社悔二破有跡五十戸《マタマツクヲチコチカネテイヒハイヘドアヒテノチコソクイニハアリトイヘ》とあるはヲチコチと使つて居る。そこで略解の宣長説では、遠近兼《ヲチコチカネテ》だらうと云つたのである。卷四の歌は恐らく、この歌を模倣したのであらうから、原歌は遠乞《ヲチコチ》か遠近《ヲチコチ》かであつたかも知れぬけれども、現在の古寫本に一つもその證がないから、しばらく考に從つてヲチヲシ(遠《ヲチ》をし)と訓んでおく。シは添へ強めた助詞に過ぎない。遠い先の事をばといふ意味であらう。ヲチコチといへば、遠い近い、あちらこちら、かなたこなたといふことになり、『こなたかなたを兼て、とりつおきつして思ふが故に』(古義)といふ具合になる。そこで、斯く訓んで鑑賞することも亦可能である。
 一首の意。あの方《かた》にお逢ひしたいのは山々ですけれど、〔眞珠服《またまつく》〕遠《をち》の方まで、つまり、遠《とほ》い先《さき》のことまで、後々のことまで考へますと、今急に無理をしてお逢ひしてもいけませんから、我慢して寂しく一重《ひとへ》の衣をただ獨り著て寢て居ります。
(774) 寄v衣戀の歌で、獨り寢することを、一重衣を一人著て寐る。といふ具合に調子をとつて表現して居る。この歌で特殊なのは、『遠《をち》をしかねて思ふにぞ』といふ句にあるので、散文であらはすやうな心理描寫をして居り、なかなか微細である。そして、卷十二(二九七三)に、越乞兼而《ヲチコチカネテ》といふやうなものがあり、卷四(六七四)に、彼此兼手《ヲチコチカネテ》もあり、ヲチコチといふのはほかにも用例が多いから、普通の用語であつたことが分かる。それを旨く適切に使つてゐるのを學ぶべきである。ヲチを後《のち》の意に使つた例をなほ一ついへば、卷十五(三七二六)に、己能許呂波古非都追母安良牟多麻久之氣安氣弖乎知欲利須辨奈可流倍思《コノゴロハコヒツツモアラムタマクシゲアケテヲチヨリスベナカルベシ》といふのがある。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五四〕
  白細布《しろたへ》の我《わ》が紐《ひも》の緒《を》の絶《た》えぬ間《ま》に戀結《こひむす》びせむ逢《あ》はむ日《ひ》までに
  白細布 我紐緒 不絶間 戀結爲 及相日
 
 『白細布《シロタヘノ》』は、此處は紐に懸る枕詞に使つて居る。卷九(一八〇〇)に、白細乃紐緒毛不解一重結帶矣三重結《シロタヘノヒモヲモトカズヒトヘユフオビヲミヘユヒ》。卷十二(三一八一)に、白細之君之下紐吾左倍爾今日結而名將相日之爲《シロタヘノキミガシタヒモワレサヘニケフムスビテナアハムヒノタメ》とあるのがそ(775)の例で、萬葉でも用例は少い方である。『戀結《ヒムスビ》』は、戀の成就と恋の變らぬやうに堅め結ぶので、神にも祈り禁呪ともなつたものであらう。草木を結ぶのに何かさういふ民間信仰があつた。卷二十(四三三四)に、兒良我牟須敝流比毛等久奈由米《コラガムスベルヒモトクナユメ》とあるのもさういふ意味がある。
 一首の意。紐の切れるのは縁が絶える兆だから、〔白細布《しろたへの》〕紐の緒の切れない先きに、よく結び堅めて、變らぬやうに戀精《こひむすび》をしよう。今度逢ふ曰までは。
 寄v紐戀だから、かう歌つたものだが、民間信仰の實際は、現代などよりもまだまだ強かつたであらうから、その實際をば直ぐ抒情詩として歌つてゐるところに強味があるのである。また、その一般民間信仰、禁呪を材料としてゐるから、民謠としてひろがり得る特徴もおのづから其處に具備せられてゐるといふことになる。併し、歌としての價値は、戀結といふ名詞が珍らしいのみで、取りたてていふほどの歌ではないとおもふ。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五五〕
  新墾《にひばり》の今《いま》作《つく》る路《みち》さやかにも聞《き》きてけるかも妹《いも》が上《うへ》のことを
  新治 今作賂 清 聞鴨 妹於事矣
 
(776) ○新治・今作路 舊訓ニヒハリノ・イマツクルミチ(【代匠記・童蒙抄・古義・新訓同訓】)。略解イマツクルミチノ。新考ニヒバリニ・イマハルミチノ。○清 舊訓サヤケクモ(【代匠記・考・新考同訓】)。管見サヤカニモ(【童蒙抄・略解・古義・新訓同訓】)。○聞鴨・妹於事矣 舊訓キコエケルカモ・イモガウヘノコト。童蒙抄イモガヘノコトヲ。考キキテケルカモ・イモカヘノコト、又はイモガマサカヲ。略解キキニケルカモ・イモガウヘノコトヲ(古義同訓)。新考キキテケルカモ・イモガウヘノコトヲ(新訓同訓)。今、新訓に傚つた。
 一首の意。目下開墾して新に道路を作つて居るがその道路が新らしく清《さや》けきごとくに【序詞】清《さや》かに、明らかに、はつきりと、妹《いも》が日常の身の上のことを聞いた。變りなく私を愛してゐてくれるといふ意が續くやうである。『女の身(ノ)上の平安《サキ》かるありさまを、たしかにききて歡べるにや』(古義)。
 此は、寄v路戀であるから、上半をば新開通の道路を以て序詞としたが、新しく開鑿した道路の新鮮流通の清《さやか》といふ語音を、『清《さや》かに聞く』と續けたところは、意圖しないで妙境に達してゐる。
 そしていろいろ複雜な戀人に關する氣分を簡單に統一して、ただ、『清かにも聞きてけるかも妹が上のことを』であらはしてゐるのは誠に旨い。無論民謠的な歌だが、素朴で新鮮で象徴的で愛誦に堪へたる歌である。これまでずつと平凡な歌を評釋し來てこの歌に逢著したのは大きい喜びであつた。
 卷十四(三三九九)に、信濃道者伊麻能波里美知《シナヌヂハイマノハリミチ》。卷九(一七五七)に、新治乃鳥羽淡海毛秋風(777)爾白浪立奴《ニヒバリノトバノアフミモアキカゼシラナミタチヌ》。卷十(二二四四)に、住吉之岸乎田爾墾蒔稻乃《スミノエノキシヲタニハリマキシイネノ》。卷十四(三四四七)に、安努奈由可武等波里之美知《アヌナユカムトハリシミチ》などがあり、卷九の例は枕詞で、日本紀景行卷に、珥比麼利菟玖波塢須擬※[氏/一]《ニヒバリツクバヲスギテ》の例と同じだが、これも新毬《ニヒマリ》ツクではなく、新墾作《ニヒバリツクル》から來たものであらう。イマツクルといふ例は、卷六(一〇三七)に、今造久邇乃王都者《イマツクルクニノミヤコハ》。卷八(一六三一)に、今造久邇能京爾《イマツクルクニノミヤコニ》。また卷七(一二九六)の、人麿歌集の歌に、今造斑衣服《イマツクルマダラノコロモ》とあるから、この歌でも、イマツクルミチと訓んで味つていいとおもふ。併し井上博士の、『新墾《にひばり》に今|墾《は》る道の』といふ訓も古調で棄てがたく、作歌上の稽古として萬葉を鑑賞する場合には、必ずしも一例に執せずとも好い。これは私の持論の一つである。
 ツクルの語の參考となる例は、卷十(二二一九)に、足曳之山田佃子不秀友繩谷延與《アシヒキノヤマダツクルコヒデズトモシメダニハヘヨ》。卷八(一六二五)に、吾妹兒之業跡造有秋田《ワギモコガナリトツクレルアキノタノ》。卷九(一八〇一)に、道邊近磐構作冢矣《ミチノヘチカクイハカマヘツクレルハカヲ》などがある。なほ、卷二十(四四七四)に、武良等里乃安佐太知伊爾之伎美我宇倍波左夜加爾伎吉都於毛比之其等久《ムラトリノアサタチイニシキミガウヘハサヤカニキキツオモヒシゴトク》とあるのは、此の歌の影響であらうか。さすれば興味もまた深い。
 この歌は釋日本紀卷第二十四。和歌童蒙抄第三に載つた。『新治今作路《ニヰハリイマツクルミチ》』(釋日本紀)。『ニヰハリノイマツクルミチサヤケクソキコエケルカモイモカウヘノコト』(和歌童蒙抄)。
 
          ○
 
(778)  〔卷十二・二八五六〕
  山城《やましろ》の石田《いはた》の社《もり》に心《こころ》鈍《おそ》く手向《たむけ》したれや妹《いも》に逢《あ》ひ難《がた》き
  山代 石田社 心鈍 手向爲在 妹相難
 
 ○手向爲在 舊訓タムケシタレバ。童蒙抄タムケシケレバ。略解タムケシタレヤ。山代石田社は今の宇治郡醍醐村に當るといはれてゐる。卷九(一七三〇)に、山品之石田乃小野之母蘇原見乍哉公之山道越良武《ヤマシナノイハタノヲヌノハハソハラミツツヤキミガヤマヂコユラム》。同(一七三一)に、山科乃石田社爾布靡越者蓋吾妹爾直相鴨《ヤマシナノイハタノモリニタムケセバケダシワギモニタダニアハムカモ》。卷十三(三二三六)に、山科之石田之森之須馬神爾奴左取向而吾者越往相坂山遠《ヤマシナノイハタノモリノスメガミニヌサトリムケテワレハコエユクアフサカヤマヲ》とあるのがそれで、延喜式の久世郡石田神社は別であるが、この久世も歌に出て來ること既に卷九の時に注解を加へて置いた。ココロオソクは、ココロニブク、心疎かに、不熱心にといふことで、卷二(一二六)の、吾乎還利於曾能風流士《ワレヲカヘセリオソノミヤビヲ》。卷九(一七四一)の、己之心柄於曾也是君《ナガココロカラオソヤコノキミ》など、鈍、遲、愚などと相通ふ語である。この場合はオソクと形容詞に活用せしめてゐる。
 一首の意。山代《やましろ》の石田《いはた》の神に幣物を供へて戀人に逢ふやうに祈つたが、まだ熱心が足らなかつたせゐで、逢へないのであらうか。タレヤは疑問の係で、ガタキで結んでゐる。さもなければ今ごろは逢へる筈であるのにといふ意を含ませてゐる。
(779) 寄v神戀で、これは前卷の歌にもあつたやうな内容だが、『心鈍く』といふやうに稍細かく言ひあらはしてゐる。そこは巧過ぎるといへば云はれるが、この歌は割合に素直に行つてゐて好い。
 この歌は、六帖に、第四句『手向をしてぞ』。夫木和歌抄に人丸作として、第四句『たむけしたれば』となつて載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五七〕
  菅《すが》の根《ね》のねもころごろに照《て》る日《ひ》にも乾《ひ》めや吾《わ》が袖《そで》妹《いも》に逢《あ》はずして
  菅根之 惻隱惻隱 照日 乾哉吾袖 於妹不相爲
 
 ○惻隱惻隱・照日・乾哉吾袖 舊訓シノビシノビニ・テラスヒニ・ホスヤワガソデ。代匠記精テレルヒニ。考ネモコロゴロニ・テレルヒモ。略解ネモコロゴロニ・テルヒニモ・ヒメヤワガソデ(【古義・新考・新訓同訓】)。
 一首の意は、〔菅根之《すがのねの》〕ねもごろに、遍く、強く照る日光にも、涙で濡れた私の袖は乾くか、いや決して乾くことはない。戀しい妹《いも》に逢へないのだからして。といふほどの意である。
(780) 寄v日戀で、卷十(一九九五)に、六月之地副割而照日爾毛吾袖將乾哉於君不相四手《ミナヅキノツチサヘサケテテルヒニモワガゾデヒメヤキミニアハズシテ》。卷十二(三〇〇四)に、久竪之天水虚爾照日之將失日社吾戀止目《ヒサカタノアマツミソラニテレルヒノウセナムヒコソワガコヒヤマメ》とあるなども皆寄v日戀の歌である。
 この歌で注意すべきは、ネモゴロからテルに續けたのにあるので、ネモゴロといへば、普通オモフとかミルとかコフとかムスブとかタノムとかに續けてゐるが、此處はその心持を取つて用ゐたやうにおもふ。卷十四(三四一〇)に、伊香保呂能蘇比乃波里波良禰毛己呂爾於久乎奈加禰曾麻左可思余加婆《イカホロノソヒノハリハラネモコロニオクヲナカネソマサカシヨカバ》。卷二十(四四五四)に、高山乃伊波保爾於布流須我乃根能禰母許呂其呂爾布里於久白雪《タカヤマノイハホニオフルスガノネノネモコロゴロニフリオクシラユキ》とあるのも普通の用法と違つてゐる。『ねもころごろに照る日』とか、『ねもころごろに降りおく白雪』といふことは、自然も人間も一しよのやうに融け合つた表現で、古代詩歌のなつかしいところである。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五八〕
  妹《いも》に戀《こ》ひ寢《い》ねぬ朝《あした》に吹《ふ》く風《かぜ》の妹《いも》にし觸《ふ》らば吾《われ》さへに觸《ふ》れ
  妹戀 不寢朝 吹風 妹經者 吾共經
 
(781) ○不寢朝・吹風 舊訓イネヌアシタニ・フクカゼノ。古義イネヌアサケニ。略解フクカゼシ(古義同訓)。○妹經者・吾共經 舊訓イモニフレナバ・ワレトフレナム。古義イモニシフラバ。略解補正イモニフリナバ。童蒙抄ワレニモフレヨ。考アニモフレナモ。略解ワガムタニフレネ。古義アガムタニフレ。略解補正ワレサヘニフレ。新考ワレニサヘフレ。
 一首の意。妹を戀しく思うても、逢ふことも出來ず、獨寐した寂しい朝に、吹いて來る風が若しも妹の膚に觸れて來たのならば、この己《おれ》にも觸れて呉れ。
 寄v風戀で、實は心を働かせて輕妙に作つてゐるのであるが、官能的に言つてゐるだけ、素朴で厭味が無い。先づこの近處の歌の中では感心していいものである。この『觸れ』といふのが、直接で官能的だからいいとおもふのである。略解でワガムタニフレネと訓んだのは如何にもむづかしく詰屈で、いくら萬葉調でもそんなにむづかしいものではない。共をサヘと訓ませた例は、卷七(一〇九〇)に、吾妹子之赤裳裾之將染※[泥/土]今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾吾共所沾名《ワギモコガアカモノスソノヒヅチナムケフノコサメニワレサヘヌレナ》。卷十一(二六八三)に、赤土少屋爾※[雨/脉]※[雨/沐]零床共所沾《ハニフノヲヤニコサメフリトコサヘヌレヌ》とあるのが其證で、またさう訓む方が第一調子がいい。人麿なら、恐らくワガムタニフレネなどといはずに、かう作るであらう。
 卷九(一七九九)の、玉津島礒之裏未之眞名仁文爾保比去名妹觸險《タマツシマイソノウラミノマナゴニモニホヒテエカナイモガフリケム》。卷十一(二五七八)の、朝宿髪吾者不梳愛君之手枕觸義之鬼尾《アサネガミワレハケヅラジウツクシキキミガタマクラフリテシモノヲ》。卷十二(三一六三)の、吾妹兒爾觸者無二荒礒囘爾吾衣手者(782)所沾可母《ワギモコニフルトハナシニアリソミニワガコロモデハヌレニケルカモ》等は、フルの例である。
 卷十一(二三六四)に、玉垂小簾之寸鷄吉仁入通來根足乳根之母我問者風跡將申《タマダレノヲスノスゲキニイリカヨヒコネタラチネノハハガトハサバカゼトマヲサム》。卷二十(四三五三)に、伊倍加是波比爾比爾布氣等和伎母古賀伊倍其登母遲弖久流比等母奈之《イヘカゼハヒニヒニフケドワギモコガイヘゴトモチテクルヒトモナシ》。卷四(四八九)に、風乎太爾戀流波乏之風小谷將來登時待者何香將嘆《カゼヲダニコフルハトモシカゼヲダニコムトシマタバナニカナゲカム》といふのがある。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八五九〕
  飛鳥河《あすかがは》高河《たかがは》避《よ》かし越《こ》え來《こ》しをまこと今夜《こよひ》は明《か》けず行《ゆ》かめや
  飛鳥河 高河避紫 越來 信今夜 不明行哉
 
 ○高河避紫・越來 舊訓タカガハトホシ・コエテクル。考タカガハヨカシ。代匠記精コエクレバ。童蒙抄コエテキヌ。考コエテコシ。略解コエテキツ。古義コエコシヲ。新考ナヅサヒコエテ・キタレルヲ。○信今夜・不明行哉 舊訓ツカヒハコヨヒ・アケズユカメヤ。代匠記精マコトコヨヒハ。童蒙抄サネモコヨヒノ。古義マコトコヨヒヲ。童蒙抄アケユカザレヤ。古義アケズヤラメヤ。新考ネズテユカメヤ。
(783) 一首の意、飛鳥川に雨が降つて増水したから、高河《たかがは》といふ。その水の出た飛鳥川を徒渉し得ないから、それを避けて難儀してやうやく戀しい妹《いも》のところに來たのだから、實に夜の明けないうちなどは歸られない。あぶない道だから。といふ意と、一處に居る時を惜しむといふ意と兩方とも含んでゐる。
 これは寄v川戀で、男の身になつて解した。これは、上の句の高河云々といふのと、結句をばアケズユカメヤと訓んだためである。然るに古義で、『男の歌とするは宜しからず。自《ミラ》避ることを、伸て避之《ヨカシ》といはむは、古格に非ず』と云つた。即ち古義では、結句をアケズヤラメヤと訓んだから、女の歌として、『彼(ノ)飛鳥川の高河を避て、廻り道を爲賜ひつつ、辛うじて越來座つるからは、まことに夜を明さずしては、その危き道を夜ごめにはかへし申さじ。今夜は寛に相語て行賜へ、といへる女の歌なり』と解釋してゐる。
 もつとも、この解釋の本は、『勞シテ來タル使ナレバ、明テ後歸レヨト留ムル意ナリ』(代匠記精)。『右の如く道をめぐりつつ遠ければ、かへさは明ぬべし。明ば人やしりなんなど、女のくさぐさ思ふ也』(考)と既にあるのだが、この古義のやうな解釋によつてもこの一首は自然に鑑賞することが出來る。上を新考の如く、南川柴避越・來として、ナヅサヒコエテ・キタレルヲなどと訓めれば全く男の歌になるが、女の歌としても、あはれ深くていい歌である。卷十一(二六八七)(784)に、櫻麻乃苧原之下草露有者令明而射去母者雖知《サクラヲノヲフノシタクサツユシアレバアカシテイユケハハハハシルトモ》といふのがあり、女の歌であるから、この歌を理會する參考となるし、そのほか女が男と別を惜しむ歌はその他にもあり、卷七(一二六三)の、曉跡夜烏雖鳴此山上之木末之於者未靜之《アカトキトヨガラスナケドコノヲカノコヌレノウヘハイマダシヅケシ》も、略解では、『男の別れむとする時女の詠める歌なるべし』と云つたが、或は男の歌としても解し得る歌である。卷九(一七二八)の石河卿の歌に、名草目而今夜者寐南從明日波戀鴨行武從此間別者《ナグサメテコヨヒハネナムアスヨリハコヒカモユカムコユワカレナバ》。卷四(五四八)の笠金村の歌に、今夜之早開者爲便乎無三秋百夜乎願鶴鴨《コヨヒノハヤクアケナバスベヲナミアキノモモヨヲネガヒツルカモ》などとあるのは、明かに男が女と別を惜しんでゐる例である。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八六〇〕
  八釣河《やつりがは》水底《みなそこ》絶《た》えず行《ゆ》く水《みづ》の續《つ》ぎてぞ戀《こ》ふるこの年來《としごろ》を 【或本歌曰、水尾《みを》も絶《た》えせず】
  八釣河 水底不絶 行水 續戀 是比歳 【或本歌曰、水尾母不絶】
 
 八釣河は飛鳥の八釣山の近くを流れて飛鳥河にそそぐ河であらう。結句舊訓コノトシゴロハ。略解コノトシゴロヲ。
 一首の意は、八釣河の水底を絶えず流れ行く水の【序詞】絶えずつづきて妹をば戀して來た。この年(785)來を。といふのである。一本の方は水尾《みを》であるから、水脈、水流の深いところで、つまり水底といふのと同意に落著くのである。卷十(一八六一)に、能登河之水底并爾光及爾《ノトガハノミナゾコサヘニテルマデニ》。卷七(一一〇八)に、泊瀬川流水尾之湍乎早《ハツセガハナガルルミヲノセヲハヤミ》。卷九(一七七〇)に、泊瀬河水尾之不斷者吾忘禮米也《ハツセガハミヲシタエズバワレワスレメヤ》といふのがある。
 寄v河戀で、八釣河といふ固有名詞が入つてゐる。この歌の制作動機は、自ら獨咏的にかう作つたものでもあり得るし、民謠的に、そのあたり(【八釣河あたり】)の經驗からかういふ固有名詞を入れたとも解釋することが出來る。一首は、ありふれたものと謂ふことも出來る歌であるが、『水底《みなそこ》絶えず行水』といつて、『水底』といふ語を入れたのなども、後世ぶりの歌よりも實質的でおもしろい。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八六一〕
  磯《いそ》の上《うへ》に生《お》ふる小松《こまつ》の名《な》を惜《を》しみ人《ひと》に知《し》らえず戀《こ》ひわたるかも
  磯上 生小松 名惜 人不知 戀渡鴨
 
 『磯の上に生ふる小松』とは、さういふ實景の寫生であるが、それから、『名《な》』に續けて序詞とし(786)てゐる。その解釋は古來まちまちで一定してゐない。『小松ハ子松トモカケル所アレバ、子等《コラ》ガタメニ名ヲ惜ムト云意ニカクハツヅケタリ。下ニ至テ巖爾生松根之君心《イハホニオフルマツガネノキミガココロ》者ナドモヨメリ』(代匠記精)。『大なる巖上に一つ生たる松は、顯はに目に立ものなるを、名に顯はるる譬とせり』(考)。『中山(ノ)嚴水、石《イソ》の上に生たる松は、根の多くからみてあれば、小松の根《ネ》といふべきを、禰《ネ》と奈《ナ》と音通へば、名《ナ》と云へりと説り』(古義)。『按ずるに、巖の上に松の生ひたるはめづらしければ、其松に附けたる名ありしによりて名の序とせるならむ』(新考)。古義の説無難か。
 一首の意は、『名の立つ事を厭ひ惜みて、人にも語り云はず、心にのみ戀渡るとの義也』(童蒙抄)で、噂され、評判されることを恐れ、二人のみで秘かに戀したい心持を云つてゐるのである。寄v松戀であらうか。
 古義の説は右の如くであるが、童蒙抄でも、その一考の中に、『小松の音と云處をとりてかく詠めるものか』ともある。音は即ちネで根《ネ》であらう。第四句舊訓ヒトニシラレズ。童蒙抄ヒトニシラセズ。略解ヒトニシラエズ。
 この歌は、續後撰集戀一に人麿作として、『磯の上に生たる芦のなを惜しみ人に知られで戀ひつつぞふる』となつてゐる。六帖に、『岩の上に立てる小松の名を惜しみ言には出でず戀ひつつぞ經る』とあるのは、次の或本の歌の方を採つたのであらう。
 
(787)          ○
 
  〔卷十二・二八六一或本歌〕
  巖《いは》の上《うへ》に立《た》てる小松《こまつ》の名《な》を惜《を》しみ人《ひと》には云《い》はず戀《こ》ひわたるかも
  巖上爾 立小松 名惜 人爾者不云 戀渡鴨
 
 これは、第一二句が、礒上生小松《イソノウヘニオフルコマツ》と巖上爾立小松《イハノウヘニタテルコマツ》と違ひ、第四句が、人不知《ヒトニシラエズ》と人爾者不云《ヒトニハイハズ》と違つてゐるのである。これに據ると、名《ナ》といふのは直接小松につづかなくともよく、立《タテル》から、『名の立つ』といふのにつづいてゐて、解釋上毫も困難を感ぜしめない。そこで、原歌は立小松《タテルコマツ》であつただらうと想像することも出來るのである。卷十一(二五二四)に、吾背子爾直相者社名者立米《ワガセコニタダニアハバコソナハタタメ》。卷四(七三一)に、吾名者毛千名之五百名爾雖立君之名立者惜社泣《ワガナハモチナノイホナニタチヌトモキミガナタタバヲシミコソナケ》などがあるからである。
 
          ○
 
  〔卷十二・二八六二〕
  山河《やまがは》の水陰《みづかげ》に生《お》ふる山草《やますげ》の止《や》まずも妹《いも》がおもほゆるかも
(788)  山河 水陰生 山草 不止妹 所念鴨
 
 ○水陰生 舊訓ミカゲニオフル。考ミゴモリオフル。略解ミヅカゲニオフル。古義ミコモリニオフル。○山草 舊訓ヤマスゲノ。神田本ヤマクサノ。
 一首の意は、第三句までは序詞で、山河《やまがは》の水が隱《こも》り流れるそのところに生えて居る山菅《やますげ》の【序詞】、やまず、斷えず、常に戀しい妹《いも》を思うて居る。絶えず妹が戀しい。といふのである。寄v草戀で、『水陰生トハ、シノビニ思フ譬ナリ』(代匠記精)とある。
 この歌の、『山菅』は、山に生えて居る菅《すげ》のことで、麥門冬(リユウノヒゲ、ヤブラン)のことではない。私は、山菅の生えてゐるところを屡見たが、そのたび毎に、『山河の水陰《みづかげ》に生ふる山草《やますげ》の』の句の寫生力に驚歎したものである。この感じは今でも毫も變りはない。
 この歌は、袖中抄第十六に、此處の訓と同樣に訓んで載つてゐる。
 附 記。前にも注意した如く、佐伯梅友氏の研究に據れば、この歌の第四五句は『止まずも妹は〔右○〕思ほゆるかも』といふこととなる。
 
          ○
 
(789)  〔卷十二・二八六三〕
  淺葉野《あさばぬ》に立《た》つる神占《かむうら》の菅《すが》の根《ね》のねもころ誰《たれ》ゆゑ吾《われ》戀《こ》ひざらむ 【或本歌云、誰葉野《たがはぬ》に立《た》ちしなひたる】
  淺葉野 立神古〔占〕 菅根 惻隱誰故 吾不戀 【或本歌云、誰葉野爾立志奈比垂】
 
 ○立神古・菅根 舊訓タツミワコスゲネ。代匠記精、古は占の誤、タツカムウラノ・スガノネノ。考、神古は紳有の誤、タチシナヒタル・スガノネノ。古義、神の下に左の字脱、タチカムサブル・スガノネノ(新考同訓)。○惻隱誰故・吾不戀 舊訓カクレテタレユヘニカハ・ワガコヒザラム。代匠記精シノビテタレユヱ・ワガコヒザラム。考ネモコロタレユヱ・アガコハナクニ(略解同訓)。古義ネモコロタレユヱ・アガコヒナクニ。新訓ネモコロタレユヱ・ワレコヒザラム。或本歌云、○誰葉野爾・立志奈比垂 舊訓タカハノニ・タチシナヒタル。代匠記初カは清音。『竹葉野といふなるべし』。童蒙抄タレハノニ・タチシナヒタル。
 淺葉野は未詳であるが、卷十一(二七六三)に、紅之淺葉乃野良爾苅草乃束之間毛吾忘渚菜《クレナヰノアサハノヌラニカルクサノツカノアヒダモワヲワスラスナ》とある所と同所か。和名鈔に、武藏國入間郡|麻羽《アサハ》があり、また、遠江國佐野郡に麻葉《アサハ》庄があると云はれてゐる。續後撰集に、『紅のあさはの野らの露の上にわが敷袖ぞ人なとがめそ』とあるのは卷十一の歌の模倣である。
(790) 神古は神占の誤だといふ代匠記の説に從ふ。『神占トハ神代紀云、時(ニ)天(ノ)神以2太占《フトマニヲ》1而|卜合《ウラフ》之。カカレバ神モ占ナヒ給ヘバ云ベシ。又神ニ依テ占ナヘバ云ベシ。又占スナハチ測《ハカリ》ガタキ事ナレバ神占ト云ベシ』(代匠記精)とあるが、これは、神に幣を捧げつつ神の御靈によつて判斷をしてもらふ神占なのである。卷十九(四二四三)の、住吉爾伊都久祝之神言等《スミノエニイツクハフリガカムゴトト》といふのと同じであらう。どうして、菅根《スガノネ》につづけたかといふに、『菅は神のめで給ふ草なり。祓の具にも用、また山菅占とて、菅の葉にてうらなひするも、神のよりたまふ草なるゆへなり。杉を神杉などいふごとくに、神小菅とはよめるなり』(代匠記初)。これは神古菅《ミワコスゲ》と訓んでの解であるが、大に參考となるのである。山菅占は、既に注した、卷十一(二四七七)の、足引名負山菅押伏公結不相有哉《アシヒキノナニオフヤマスゲオシフセテキミシムスババアハザラメヤモ》などをいふのであらうか。兎に角、『神占の菅の根の』の續きは、さう解釋するより今のところ途は無いやうである。
 一首の意。淺葉野で神占《かむうら》を立つるに用ゐる菅《すげ》のその根《ね》の【序詞】ねもごろに、心《しん》から私は誰かに對して戀をせずに居られますか。それは居られない。そしてその唯一の戀人はあなたなのです。或本の方は、誰葉野《たがはぬ》は淺葉野《あさはぬ》の轉寫の際の變化であらう。『立《たち》しなひたる』は、菅《すげ》にかかるので、無論これでも解釋の出來ないことはなく、萎《しな》ひなびいてゐる菅《すげ》となるので、下の句は同じである。
 併し、神占といふから特殊でおもしろくなるが、立ちしなひたるでは平凡になつておもしろく(791)ない。傳誦されるあひだに、大衆向に通俗化されてゆく徑路はこのあたりにも看取することが出來るのである。
 この歌は寄v菅戀である。そして相當に重厚な點があつて、素通せしめないものを持つてゐる。この歌は、新千載集に人麿作とし、『淺羽野に立つみわ小菅根深めて誰故にかは吾が戀ひざ《つイ》らむ』として載り、和歌童蒙抄に、『淺葉野《アサハノ》ニタツ神古菅子カクレテタレユヘニカハワカコヒサラム』として選出せられてゐるし、また新拾遺集には、『春雨に降り變り行くあさは野にたつみわ小菅色も難面なし』とある如く、本歌取に用ゐられ、ミワコスゲと舊訓どほりの訓に據つて眞似せられてゐる。なほ夫木和歌抄雜十菅に、人丸作として、『あさはのにたつ三輪小菅根隱れてたれゆゑにかは我こひさらん』とあり、同書雜四野に、よみ人しらずとして、『たかはのにたちしなひたるみわこすけ誰故にかはわひ戀さらん』とある。後者は或本の方の傳で、上に(たがはの、誰葉、大和)と注してある。
 『右二十三首柿本朝臣人麻呂之歌集出』といふ注が此處に記されて居る。
 
          ○
 
(792)  〔卷十二・二九四七〕
  思《おも》ふにし餘《あま》りにしかば【柿本朝臣人麻呂歌集に云ふ】鳰鳥《にほとり》のなづさひ來《こ》しを人《ひと》見《み》けむかも
  念西 餘西鹿齒【柿本朝臣人麻呂歌集云】爾保鳥之 奈津柴比來乎 人見鴨
 
 此歌は、念西餘西鹿齒爲便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾《オモフニシアマリニシカバスベヲナミワレハイヒテキイムベキモノヲ》(二九四七)といふのの、左注に、『柿本朝臣人麿歌集云、爾保鳥之奈津柴比來乎人見鴨』とあるので、此處に出した。その人麿歌集の歌といふのは、既に卷十一(二四九二)で解釋した如く、念餘者丹穗鳥足沾來人見鴨《オモフニシアマリニシカバニホトリノアヌラシコシヲヒトミケムカモ》といふので、奈津柴比來乎《ナヅサヒコシヲ》といふのではない。併し斯く記載されてゐるのだから、さうなつてゐる人麿歌集の一本もあつたものと看るべく、人麿歌集は唯一つのものでなかつたことが分かるのである。
 また、卷十一の方は、『念餘者』と文字を尠く書いてゐるのに、卷十二の此處のは、『念西餘西鹿齒』と書いてゐる。また、卷十一の方は、『足沾來』と文字を少く書いて居るのに、卷十二の方は、『奈津柴比來乎』の如く、助詞までをも書記してある。この人麿歌集の歌の書き方は夙く契沖・眞淵等も顧慮したもので、公式的に除外例無しとは行かぬが、概して文字を尠く書いてゐるのだから、卷十二のものはその流傳の間に變化してしまつて、人麿歌集の歌でなくなつたものと(793)解釋すべきである。
 
          ○
 
  〔卷十二・三〇六三〕
  淺茅原《あさぢはら》小野《をぬ》に標《しめ》結《ゆ》ふ空言《むなごと》も逢《あ》はむと聞《き》こせ戀《こひ》の慰《なぐさ》に
  淺茅原 小野爾標結 空言毛 將相跡令聞 戀之名種爾
 
 この歌の左注に、『又見(ユ)2柿本朝臣人麿歌集(ニ)1。然(レトモ)落句少(ク)異(ル)耳』とあるが、これは、卷十一(二四六六)の、淺茅原小野印空事何在云公待《アサヂハラヲヌニシメユフムナゴトヲイカナリトイヒテキミヲシマタム》をいふのである。これにしても、卷十一の方は、『小野印』と書いてゐるのに、卷十二の方は、『小野爾標結』と書いてゐる。これは異傳本だといふことが分かる。なほ、卷十二(二七五五)に、淺茅原刈標刺而空事文所縁之君之辭鴛鴦將待《アサヂハラカリシメサシテムナゴトモヨセテシキミガコトヲシマタム》があり、大に似てゐるが、一方は、『公待』であるのに、一方は、『君之辭鴛鴦待』と書いて居る。
 今試に、キミヲシマタムといふ結句を檢するに、『吉美遠志麻多武』(卷五。八六〇)。『君乎之將待』(卷十。一九三五)。『君乎之將待』(卷十一。二五三八)。『君乎思將待』(卷十一。二六八九)。『君乎志將待』(卷十一。二七五九)。『君乎思將待』(卷十二。三〇四三)。『伎美乎思麻多武』(卷十四。三四九(794)三或本歌)。『伎美乎之麻多武』(卷十七。三九四一)などであり、そのほか、『君乎者將待《キミヲバマタム》』(卷二。八七・八九)。『公乎者將往《キミヲバマタム》〔待〕』(卷八。一四五三)などがあるが、これを、『公待』と比較すればその特色が分かるのである。
 もつとも人麿歌集の歌でも、『檜原丹立流《ヒハラニタテル》』(卷十。一八一三)。『明日者來牟等《アスハキナムト》』(卷十。一八一七)。『爾寶比爾往奈《ニホヒニユカナ》』〔卷十。二〇一四)。『相與勿湯目《アヒコスナユメ》』(卷十一。二三七五)。『多頭多頭思鴨《タヅタヅシカモ》』(卷十一。二四九〇)などと書いたのもあるが、一般から看て特色があるのである。
 
          ○
 
  〔卷十二・三一二七〕
  度會《わたらひ》の大河《おほかは》の邊《べ》の若歴木《わかくぬぎ》吾《わ》が久《ひさ》ならば妹《いも》戀《こ》ひむかも
  度會 大河邊 若歴木 吾久在者 妹戀鴨
 
 この歌以下四首は、『羈旅發思』といふ部類の初めにあり、『右四首柿本朝臣人麿歌集出』と左注してある。○若歴木 舊訓ワカクヌギ。考ワカヒサギとも訓ず。○吾久在者 舊訓ワレヒサニアラバ。代匠記精ワガヒサナラバ。
(795) 度會大河邊《ワタラヒノオホカハ》は、伊勢|度會《わたらひ》郡の五十鈴川《いすずがは》のことである。歴木はクヌギであるのが普通で、古事記に、香坂王騰2坐歴木1。景行天皇紀に、有2一老夫1曰是樹者歴木也。仁徳天皇紀に、忽生2兩歴木1狹v路而末合。新撰字鏡に※[木+歴]・櫟、久奴木。和名鈔に、本草云、擧樹、【久奴木】日本紀私記云、歴木。箋注和名類聚鈔に、歴木俗作v※[木+歴]とある。そしてヒサギは萬葉では久木《ヒサギ》と書いてゐるから、歴木は舊訓の如くにクヌギといふわけであるが、さうすれば、下のヒサといふ音に續きにくい。そこで眞淵はヒサギと訓んだのだが、歴木をクヌギとすることを知らなかつた者が、歴年、歴劫などの字からヒサシに借りて、歴木をヒサギとしたものではなからうか。併し、ヒサギ……ヒサと續けたのでなくて、ワカヒサギ…ワガと續けたとせば、歴木をクヌギと訓んで差支ない。眞淵はヒサギとも訓んでゐるが、それでも、『是は若を吾に重ねたる序なり』(考)と云つて居り、略解も其に從つて居るから、はじめ、考・新訓に據つてヒサギ訓を採用して見たが、再考のうへクヌギの訓に從ふこととした。
 然るに、宣長も之をヒサギと訓む方に賛成して居り、『此上(ノ)句は、吾久《ワガヒサ》と詞を疊《カサネ》む料の序なれば、歴木は必(ス)比佐岐《ヒサギ》なること著《シル》ければなり。(本には此《コレ》をも、クヌギ〔三字右○〕と訓(ミ)たれど、さては若《ワカ》と吾《ワガ》と、詞の疊《カサ》なるのみにて、久《ヒサ》に縁《ヨシ》なし。此哥は久《ヒサ》と云こと主《ムネ》たるを思ふべし)』(【古事記傳第三十一】)。雅澄もそれを踏襲し、『凡て草木鳥獣などの名の字は、古(ヘ)は人の心々に充て書たれば、泥むべきにあらず。又歴(796)木と書るは、岡部氏も云し如く、歴v年(ヲ)の義に取て、久木《ヒサキ》をかくかけるにて、いはゆる(久奴岐《クヌキ》を云)歴木には拘はらずともありぬべし。故(レ)今は右の説どもによりて、ワカヒサキ〔五字右○〕と訓つ。なほ此(ノ)木共の事品物解に委く釋たるを見て考(フ)べし。(或人は、若歴木《ワカクヌキ》は、我(カ)不《ヌ》v來《コ》と云に通はせて、下に久《ヒサ》しくとうけたり、久しく吾(カ)不v來者の意なり、といへれどおぼつかなし)』(古義)と云つて居る。久木《ヒサギ》(楸)は、萬葉に例はあるが、歴木《クヌギ》の例は無い。また、此處の歴木のほかに、小歴木(卷四。五二九)があつてシバと訓ませて居る。さういふ點で、若しヒサギと訓み得れば都合は好いのである。
 一首の意は、度會の大河のほとりに生えて居る若歴木《あかくぬぎ》【序詞】わが旅も久しくなつて、歸りがおそくなるなら、家に留守してゐる妻が嘸かし戀ひ嘆くことであらう。といふのである。『わが旅の日數の久しくなりなば、家なる妹がいかにか吾を戀しく思はむ、さてもいとほしや、となり』(古義)。卷十三(三二五三)に、荒礒浪有毛見登《アリソナミアリテモミムト》。卷十五(三七四一)に、安里伎奴能安里弖能知爾毛《アリギヌノアリテノチニモ》とあるのはアリとアリに續けた。
 この歌は、夫木和歌抄に、よみ人しらずとし、第三句以下『わかくぬき我久にあらばいもこひめやも』として載つてゐる。
 
(797)          ○
  〔卷十二・三一二八〕
  吾妹子《わぎもこ》を夢《いめ》に見《み》え來《こ》と大和路《やまとぢ》の度瀬《わたりせ》ごとに手向《たむけ》吾《わ》がする
  吾妹子 夢見來 倭路 度瀬別 手向吾爲
 
 ○度瀬別 舊訓ワタルセゴトニ。童蒙抄ワタリセゴトニ。○手向吾爲 舊訓タムケワレスル。童蒙抄タムケワガスル。古義タムケゾアガスル。ワギモコヲのヲは、ヨに通ふ助詞であるが、古寫本にはワギモコガ(元・西・細)。ワギモコハ(類)となつてゐる。
 一首の意。遠く旅をやつて來たが、わが家に殘つてゐる妻よ、夢に見えて來いと、大和へ行く道の川の渡瀬《わたりせ》毎に、道祖神に幣をささげて願つた。
 これも羈旅發思であるから、大和の人の趣でなく、他國の人の歌の趣で、大和へ向つて旅してゐる旅人の趣である。そして萬葉の用例に據ると、卷四(五五一)の、山跡道之島乃浦廻爾縁浪間無牟吾戀卷者《ヤマトヂノシマノウラミニヨスルナミアヒダモナケムワガコヒマクハ》。卷六(九六六)の、倭道者等隱有雖然余振袖乎無禮登母布奈《ヤマトヂハクモガクリタリシカレドモワガフルソデヲナメシトモフナ》。同(九六七)の、日本道乃吉備乃兒島乎過而行者筑紫乃子島所念香裳《ヤマトヂノキビノコジマヲスギテユカバツクシノコジマオモホエムカモ》などで、大和へ向ふ道筋になつてゐる。この歌も、大和へ旅して來る道筋の川の渡瀬の趣であらう。
(798) この歌も、稍一般的で、戀歌であるから、一面は民謠的でもあるが、何か聲調に好いところがあつて心を牽かれてゐた歌である。そして、若しこれが人麿の歌ででもあるなら、何か石見あたりから上來する時の途上の歌ででもあらうかなどと空想したこともあつたが、人麿晩年の歌とは、いかにしても違ふ點があり、石見から上來の時の短歌と、これを較べれば、この歌の方がやはり輕い。それを現在でも私は注意して居るが、人麿の上來の時の歌は、あれきりで、途中の歌が無いので、この歌などをその一つに擬したことなどもあつたのである。
 この歌は、夫木和歌抄に人丸作とし、第四句『渡るせことに』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十二・三一二九〕
  櫻花《さくらばな》咲《さ》きかも散《ち》ると見《み》るまでに誰《たれ》かも此所《ここ》に見《み》えて散《ち》りゆく
  櫻花 開哉散 及見 誰此所 見散行
 
 舊訓サクラバナ咲キテヤ散ルト見ルマデニ誰カ此所《ココ》ニテ散リユクヲ見ム。略解サキカモチルト。略解タレカモココニ・ミエテチリユク。今略解に從つた。古寫本中タレカハココニ・ミエテチリ(799)ユク(細)。略解に、『櫻の咲きて散る如くに、うるはしみ相見し程も無く、離去を悲しみて詠めるなるべし。誰かもと言へるは、實は一人を指すなれど、よそ事のやうに言ふも歌の常なり』と解釋してゐる。
 この歌は、櫻花を咏みこんでゐるのがめづらしく、それも戀歌に關聯せしめて、直ぐ散る櫻の花の特徴を捉へたのも珍らしく、『見えて散りゆく』といつたあらはし方にも特色があつて、棄がたい歌の一つである。第一、調べが『かも』と、『散る』とを繰返して極めて節奏的にして居る。これと同じやうな歌調の歌は、卷十(一八四一)に、山高三零來雪乎梅花落鴨來跡念鶴鴨《ヤマタカミフリクルユキヲウメノハナチリカモクルトオモヒツルカモ》があり、第四句、一には、開香裳落跡《サキカモチルト》となつてゐるから、此歌の句と同じである。かういふ歌調類似の徑路等について種々調査するのも好い爲事の一つであるとおもふ。
 
          ○
 
  〔卷十二・三一三〇〕
  豐州《とよくに》の企玖《きく》の濱松《はままつ》こころ哀《いた》く何《なに》しか妹《いも》に相言《あひい》ひ始《そ》めし
  豐州 聞濱松 心哀 何妹 相云始
 
(800) 舊本の『心喪』。『相之始』を古寫本(元・類)により改めた。舊訓ココロニモ・ナニトテイモガ・アヒシソメケム。神田本ココロイタク。代匠記精ココロイタク・ナニシカイモニ・アヒイヒソメケム(古義從之)。童蒙抄ココロウク・イカナルイモガ・アヒシソメケン。略解に云、『元暦本、喪を哀に、之を云に作る。さらば松は待の借字にて、ココロイタク、ナニシカイモニ、アヒイヒソメケムと訓むべし。されど些か穩かならず。翁は心喪は不遠などの字の誤にて、之は見の誤なるべし。キクノ濱松、トホカラズ、ナニシカイモヲ、アヒミソメケムと訓むべし。心は濱松を遙かに見る由にて、不遠と續けたるかと言はれき。宣長は心喪の字は誤にて、ネモコロニと有るべき所なりと言へり。春海云、喪は衷の誤か。字書に衷は誠也と有れば、心衷を義もてネモコロと訓むべしと言へり』(略解)。新考アヒイヒソメシ。なほ新考では第三句を宣長訓のネモコロニに從ひ、卷十一の、『磯の上に立てるむろの木心哀などか深めておもひそめけむ』(【二四八八、新考訓のまま】)の『心哀』をネモコロニと訓んだのを例證としてゐる。これは古義が既に顧慮し、先に(二四八八)の解釋では、この(三一三〇)の歌と兩方を、春海説に從つてネモコロニと訓んだが、この歌の處では、ココロイタクの訓をも存して、二樣の解釋を試みてゐる。企玖《キク》は豐前の西北端にある。瀬戸内海の西口であるから此處の歌が他にもある。その濱の松が潮風になやむ如き氣配を見て取つて 『心哀』と云つたとせばココロイタクといつてもいいとおもふのである。卷十一(二四八八)の『心哀』は(801)やはりココロイタクと詠んで置いたし、卷三(四六七)の『情哀』をもココロイタクと訓むこと既に云つたとほりである。
 『いたき心』、『心いたき』といふ用語も、直接で實質的でよい。卷二十(四四八三)に、家持作、宇都里由久時見其登爾許己呂伊多久牟可之能比等之於毛保由流加毛《ウツリユクトキミルゴトニココロイタクムカシノヒトシオモホユルカモ》。同卷(四三〇七)に、家持作、秋等伊閇婆許己呂曾伊多伎宇多弖家爾花爾奈蘇倍弖見麻久保里香聞《アキトイヘバココロゾイタキウタテケニハナニナソヘテミマクホリカモ》等がある。卷二(二三〇)の語者心曾痛《カタレバココロゾイタキ》といふのなども、簡潔で強い句である。
 この歌は、夫木和歌抄によみ人しらずとし、第三句以下『心にもなにとていもにあひしそめけん』とある。ナニトテイモニの訓は多くの萬葉古寫本にもあつた。
 
(802)萬葉集卷十三所出歌
 
          ○
 
  〔卷十三・三二五三〕
  葦原《あしはら》の 水穗《みづほ》の國《くに》は 神《かむ》ながら 言擧《ことあげ》せぬ國《くに》 然《しか》れども 言擧《ことあげ》ぞ吾《わ》がする 言《こと》幸《さき》く 眞福《まさき》く坐《ま》せと 恙《つつみ》なく 福《さき》く坐《いま》さば 荒磯浪《ありそなみ》 ありても見《み》むと 百重波《ももへなみ》 千重浪《ちへなみ》にしき 言擧《ことあげ》する吾《われ》
  葦原 水穗國者 神在隨 事擧不爲國 雖然 辭擧叙吾爲 言幸 眞福座跡 恙無 福座者 荒磯浪 有毛見登 百重波 千重浪爾敷 言上爲吾
 
 〔題意〕 『相聞』の部に載り、柿本朝臣人麿歌集歌曰とあり、類聚古集には本文の下に小さく人麿哥一首とある。
(803) 〔語釋〕○葦原・水穗國者 アシハラノ・ミヅホノクニハ。日本國の總稱で、高天の原から見れば一面に葦の茂つてゐるやうに見えたからアシハラノといひ、ミヅはミヅミヅしの意。稻穗がみのつて榮える貌である。卷二(一六七)に、葦原乃水穗之國乎天地之依相之極《アシハラノミヅホノクニヲアメツチノヨリアヒノキハミ》がある。この日本の國は、この國は元來といふ意がある。
 ○神在隨・事擧不爲國 カムナガラ・コトアゲセヌクニ。神である儘に、神さながらに、言擧《ことあげ》をせぬ、即ち彼此《かれこれ》と煩しいことを言はぬ國といふ意。舊訓カミノマニ。代匠記初書入【校本萬葉】カムナガラ。
 ○雖然・辭擧叙吾爲 シカレドモ・コトアゲゾワガスル。併し吾は言擧をする。今の言ひざまで云へば、吾は強調して云はう、言葉に出して大に祝はうといふぐらゐの意で、卷六(九七二)に、
 
千萬乃軍奈利友言擧不爲取而可來男常曾念《チヨロヅノイクサナリトモコトアゲセズトリテキヌベキヲトコトゾオモフ》。卷十八(四一二四)に、可久之安良波許登安氣世受杼母登思波佐可延牟《カクシアラバコトアゲセズトモトシハサカエム》といふ例がある。
 ○言幸・眞福座跡 コトサキク・マサキクマセトと訓む。言靈にも幸があり、ためにあなたも幸に御無事でおいでくださいといふ意で、言《こと》サキク眞《ま》サキクと類音で續けて居る。この句から前の言擧《ことあげ》ぞわがするに關聯してゐる。
 ○恙無・福座者 ツツミナク・サキクイマサバと訓む。舊訓ツツガナクであつたのを代匠記精(804)でさう訓んだ。障りなく、無事で御いでになるならばといふ意。卷五(八九四)に、都都美無久佐伎久伊麻志弖《ツツミナクサキクイマシテ》。卷二十(四四〇八)に、多比良氣久於夜波伊麻佐禰都都美奈久都麻波麻多世等《タヒラケクオヤハイマサネツツミナクツマハマタセト》がある。
 ○荒磯浪・有毛見登 アリソナミ・アリテモミムトと訓む。荒磯の浪のアリから、アリテと續けた枕詞である。『有《アリ》ながらへて、久しく相見むとて』(古義)といふ意で、卷十四(三四二八)に、安里都都毛安禮波伊多良牟《アリツツモアレハイタラム》といふ例がある。
 ○百重波・千重浪爾敷・言上爲吾 モモヘナミ・チヘナミニシキ・コトアゲスルワレ。百重《ももへ》の浪が立ち、千重の浪が立つごとく、頻《しき》りに(敷《しき》)、言葉に出して御祝をするといふ意。訓では、代匠記初の書入【校本萬葉】では、百の上に五脱とあり、略解でもそれを認め、『イホヘ浪チヘ浪と言ふが例なり』と云つてゐる。考では爾敷は敷爾だとし、チヘナミシキニ。古義、言上叙吾爲としコトアゲゾアガスル。卷三(四〇九)に、一日爾波千重浪敷爾雖念奈何其玉之手二卷難寸《ヒトヒニハチヘナミシキニオモヘドモナゾソノタマノテニマキガタキ》。卷十一(二四三七)に、奧藻隱障浪五百重浪千重敷敷戀慶鴨《オキツモヲカクサフナミノイホヘナミチヘシクシクニコヒワタルカモ》。同卷(二五五二)に、情者千遍敷及雖念《ココロニハチヘシクシクニオモヘドモ》があり、同卷(二五九六)の或本歌に、奧津浪敷而耳八方戀度奈牟《オキツナミシキテノミヤモコヒワタリナム》。卷四(四九六)の人麿作に、百重成心雖念直不相鴨《モモヘナスココロハモヘドタダニアハヌカモ》。卷十二(二九〇二)に、百重成情之念者甚爲便無《モモヘナスココロシモヘバイトモスベナシ》といふ例がある。
 〔大意〕 この葦原の水穗國、即ち日本の國は、神さながらに、神たる儘に、元々彼此|瑣《こち》たい事(805)は言はぬ國だ。併し私はこの際、あなたが言葉の神靈《みたま》で御無事であるやうにと、言葉に出して御祝申す。そしてあなたが御無事で御いでになるならば、〔荒磯浪《ありそなみ》〕あり永らへて久しく御逢しようと、〔百重波《ももへなみ》・千重浪爾敷《ちへたみにしき》〕しきりに、幾遍でも心から言葉で出して祝福する。
 〔鑑賞〕 この歌は、知人が旅立つ時に祝つて送る歌のやうに思へる。そして、句句緊密であるのみならず、枕詞を自在に驅使して、内容を細々しく云はないところが却つて象徴的にも感ぜしめて居る。『言擧《ことあげ》ぞ吾がする』。『言《こと》あげする吾《われ》』といふのが眼目だから、それをかくの如く二度も繰返すやうにして、その間にある句も、繰返しがあつて、流動的で且つ莊重である。これなどは恐らく人麿的と感じて差支ないものであらう。卷十三には、こまごましくて、長歌でも民謠風、或は後世風を感ぜしめるものが多いが、かういふのも雜つて居るのである。
 この前の歌(三二五〇)の、蜻島《アキツシマ》、倭之國者《ヤマトノクニハ》、神柄跡《カムカラト》、言擧不爲國《コトアゲセヌクニ》、雖然《シカレドモ》、吾者事上爲《ワレハコトアゲス》、天地之《アメツチノ》、神毛甚《カミモハナハダ》、吾念《ワガオモフ》、心不知哉《ココロシラズヤ》、往影乃《ユクカゲノ》、月文經往者《ツキモヘユケバ》、玉限《タマカギル》、日文累《ヒモカサナリ》、念戸鴨《オモヘカモ》云々といふ長歌も、重厚で相當に骨折つてゐるが、この歌よりも細かく言つてゐる。そこに差別がある訣である。なほ、これまで評釋して來た人麿歌集では、はじめて長歌に逢つたのだが、あれほど長歌に於て力量を示した人麿が、その他の場合で長歌を作らないとせば、不思議のやうであるが、人麿の長歌は、實際的の動機に本づいた場合が多く、獻歌とか頌歌とかいふ場合に作つたのが多かつたとも解釋(806)し得るが、それも當にはならない。そして、長歌を多く集めた卷十三に、『柿本朝臣人麿歌集歌曰』とあるのは興味のあることで、署名の明かな、人麿の長歌もかういふ歌と共に、人麿歌集といふものの中に集められてゐたものであつたのかも知れない。そして事實の明かなものだけを前に出し、かういふ歌はその儘になつてゐたのかも知れない。なほ考ふべきである。
 
          ○
 
  〔卷十三・三二五四〕
  敷島《しきしま》の日本《やまと》の國《くに》は言靈《ことだま》の佐《たす》くる國《くに》ぞま福《さき》くありこそ
  志貴島 倭國者 事靈之 所佐國叙 眞福在與具〔其〕
 
 これは前の長歌の反歌である。結句原文は、『在與具』で、アレヨクと訓んでゐたのを、考で與具は乞其の誤としてアリコソと訓み、略解補正で興其の誤としてアリコソと訓んだ。新考・新訓與其の誤とした。
 一首の意は、敷島の日本の國は、言葉の神靈が人々に幸を與へ助ける國であるから私が言擧するのにもさういふ靈妙の力がこもつてゐる、よつてどうぞ幸を得て無事であつて欲しい。といふ(807)のである。
 前の長歌の繰返しの觀を呈する歌だが、『言靈の佐《たす》くる國ぞ』と云つて變化せしめて居るから、その邊の技巧を吟味することはなかなか有益である。國ゾ〔右○〕。アリコソ〔二字右○〕のところの類音について奈何に批評すべきか。
 
          ○
 
  〔卷十三・三三〇九〕
  物《もの》念《も》はず 路《みち》行《ゆ》きなむも 青山《あをやま》を ふり《さ》放け《み》見れば 躑躅花《つつじばな》 香少女《にほえをとめ》 櫻花《さくらばな》 盛少女《さかえをとめ》 汝《な》をぞも 吾《あ》に依《よ》すとふ 吾《あ》をぞも 汝《な》に《よ》依すとふ 汝《な》はいかに念《も》ふや 念《おも》へこそ 歳《とし》の八年《やとせ》を 切《き》る髪《かみ》の よちこを過ぐり 橘《たちばな》の 末技《ほつえ》を過《す》ぐり この川《かは》の 下《した》にも長《なが》く 汝《な》が心《こころ》待《ま》て
  物不念 路行去裳 青山乎 振酒見者 都追慈花 爾太追越賣 作樂花 佐可遙越賣 汝乎叙母 吾爾依云 吾乎叙物 汝爾依云 汝者如何念也 念社 歳八年乎 斬髪 與知子乎過 橘之 末枝乎須具里 (808)此川之 下母長久 汝心待
 
 〔題意〕 『問答』の部に載り、『柿本朝臣人麿之集歌』といふ題がある。
 〔語釋〕 ○物不念・路行去裳 モノモハズ・ミチユキナムモ。何も物思《ものおもひ》することなく路を行くであらうのに。此處のナムは連用段に續く推量のナムで、卷五(八八六)の、和何余須疑奈牟《ワガヨスギナム》。卷十五(三六九三)の、毛美知葉能知里奈牟山爾《モミヂバノチリナムヤマニ》。卷二十(四四四一)の、與能可藝里爾夜故非和多里奈無《ヨノカギリニヤコヒワタリナム》等の例と同じい。モは咏歎の助詞で、そこで意味も強まりヲに通ふところがある。ムから續けた例を聲調上の參考に書けば、卷十二(三一〇五)に、吾戀死者誰名將有裳《ワガコヒシナバタガナナラムモ》。卷十四(三四四二)に、夜麻爾加禰牟毛夜杼里波奈之爾《ヤマニカネムモヤドリハナシニ》がある。
 ○青山乎・振酒見者 アヲヤマヲ・フリサケミレバ。春山の青くなつたのを遠く眺むればの意。卷三(三七七)に、青山之嶺乃白雲《アヲヤマノミネノシラクモ》。卷四(六八八)に、青山乎横〓雲之《アヲヤマヲヨコギルクモノ》。卷七(一二八九)に、青山等茂山邊馬安君《アヲヤマトシゲキヤマベニウマヤスメキミ》等があり、なほ、卷一(五二)に、日本乃青香具山《ヤマトノアヲカグヤマ》の例がある。古義ではハルヤマと訓んだ。
 ○都追慈花・爾太追越賣 ツツジバナ・ニホエヲトメ。躑躅花のやうに美しい少女といふ意で、前の長歌(三三〇五)には『香未通女』となつてゐるから、ニホヘルヲトメ或はニホヒヲトメ(古義)と訓んだが、此處は也行のエになつて居る。考では遙は逕の誤だらうとしてニホヘルと訓ん(809)だのは一考であつたが、宣長が田中道麿に答へたのには、『ニホ|エ〔右○〕ハ、トニカクニイブカシ』と云つて居る。古義ではニホエでよいとした。卷十九(四二一一)に、春花乃爾太要盛而秋葉之爾保比爾照有《ハルハナノニホエサカエテアキノハノニホヒニテレル》とある如く、波行にも也行にも活用せしめてゐる。これは萎をシナヘともシナエとも活用せしめて居るのと同樣であらうか。遙は呉音にエの音があるから必ずしも誤字とせずともよく、可愛少女《エヲトメ》などとは直接關係はないが、言語學的にでなしに關聯せしめることが出來る。太をホと訓むのは、古事記下に、間人穴太部王《ハシビトノアナホベノミコ》(【書紀用明天皇紀穴穗部間人皇女】)。書紀繼體天皇卷に、男太迹《ヲホト》天皇。天武天皇卷に、迹太《トホ》川の例がある。この『太』をホと訓ませるのは、オホを略してホといふのである。『太』をオホと訓んだ例は、『太宰』をオホミコトモチ、『太宮處』をオホミヤドコロと訓んだ例で分かる。これは『大』のオホを略してホと訓むのと同じく、古事記上に、御大之御前《ミホノミサキ》(【出雲風土記に美保埼神名帳には美保神社】)。續記第三十九【桓武天皇】に、穴大村主《アナホノスクリ》の例がある。なほ、『凡』のオホをホと訓むのも同樣で、『凡津子』はオホの例、卷七(一三三三)の、佐保山乎|於凡爾見之鹿跡《オホニミシカド》はホの例である。ツツジは前の長歌には、茵花《ツツジバナ》と書き、卷三(四四三)にも、茵花香君之《ツツジバナニホヘルキミガ》の例があり、卷三(四三四)は、美保乃浦廻之白管仕見十方不怜《ミホノウラミノシラツツジミレドモサブシ》。卷十(一九〇五)に、姫部思咲野爾生白管自不知事以《ヲミナベシサキヌニオフルシラツツジシラヌコトモチ》。卷六(九七一)に、丹管士乃將薫時能櫻花將開時爾《ニツツジノニホハムトキノサクラバナサキナムトキニ》等の例がある。春の躑躅と櫻とを共にして歌つて居る。
 ○作樂花・佐可遙越賣 サクラバナ・サカエヲトメ。櫻花の如く盛《さか》えにほふ少女の意で、前に(810)引いた爾太要盛而《ニホエサカエテ》とある如く、咲いた花の美しいさまを斯う形容してゐるのである。卷二(一九九)に、木綿花乃榮時爾《ユフハナノサカユルトキニ》。卷十三(三二三四)に、春山之四名比盛而秋山之色名付思吉《ハルヤマノシナヒサカエテアキヤマノイロナツカシキ》などの例がある。次に櫻花の例は、卷八(一四四〇)に、春雨乃敷布零爾高圓山能櫻者何如有良武《ハルサメノシクシクフルニタカマドノヤマノサクラハイカニアルラム》。卷十六(三七八七)に、妹之名爾繋有櫻花開者常哉將戀彌年之羽爾《イモガナニカケタルサクラハナサカバツネニヤコヒムイヤトシノハニ》。卷十八(四〇七四)に、櫻花今曾盛等雖人云我佐夫之毛伎美止之不在者《サクラバナイマゾサカリトヒトハイヘドワレハサブシモキミトシアラネバ》。卷十(一八六四)に、足日木之山間照櫻花是春雨爾散去鴨《アシヒキノヤマカヒテラスサクラバナコノハルサメニチリユカムカモ》。同(一八七二)に、見渡者春日之野邊爾霞立開艶者櫻花鴨《ミワタセバカスガノヌベニカスミタチサキニホヘルハサクラバナカモ》とあるなど、櫻花の歌は三十七首ばかりある。そして櫻の歌は古いところには無いやうで、ただ『花』。『春花』といふうちに入つて居るのではないかとおもはれる。
 ○汝乎叔母・吾爾依云・吾乎叙物・汝爾依云 ナヲゾモ・アニヨストフ・アヲゾモ・ナニヨストフ。舊訓ナレヲゾモ・ワレニヨルトイフ・ワレヲゾモ・ナレニヨルトイフ。考ワレニヨストフ。ナレニヨストフ。古義ナヲゾモ・アニヨスチフ云々。モは咏歎の助詞で、汝をぞモ依すとふ、吾をぞモ依すとふとなる。ヨスは佐行四段に活用し、寄せる意で、汝と吾を相寄らせる。相近よらせるといふので、第三者が二人を近寄らせることである。お前を私に近づけてくれるといふ。また私もお前に近づけてくれるといふといふ意。卷九(一六七九)に、城國爾不止將往來妻社妻依來西尼妻常言長柄《キノクニニヤマズカヨハムツマノモリツマヨシコセネツマトイヒナガラ》。卷十四(三四五四)に、爾波爾多都安佐提古夫須麻許余比太爾都麻余之許西禰(811)安佐提古夫須麻《ニハニタツアサデコブスマコヨヒダニツマヨシコセネアサデコブスマ》。同(三三八四)に、可都思加能麻末能手兒奈乎麻許登可聞和禮爾余須等布麻末乃※[氏/一]胡奈乎《カツシカノママノテコナヲマコトカモワレニヨストフママノテコナヲ》。同(三五四八)に、奈流世呂爾木都能余須奈須《ナルセロニコツノヨスナス》(【依すなす】)伊等能伎提可奈思家世呂爾比等佐敝余須母《イトノキテカナシケセロニヒトサヘヨスモ》(【依すも】)。なほ、卷十一(二七三一)の、牛窓之浪乃鹽左猪島響所依之《ウシマドノナミノシホサヰシマトヨミヨサエシ》(【依さえし】)君不相鴨將有《キミニアハズカモアラム)。同(二七五五)の、空事文所縁之《ムナゴトモヨサエシ》(【依さえし】)君之辭鴛鴦將待《キミガコトヲシマタム》。卷十四(三四七八)の、等保斯等布故奈乃思良禰爾阿抱思太毛安波乃敝思大毛奈《爾己曾與佐禮トホシトフコナノシラネニアホシダモアハノヘシダモナニコソヨサレ》(【依され】)等などの場合も同じであらうか。新考では今の俗語のトリモツことだと云つてゐる。
 ○汝者如何念也・念社・歳八年乎 ナハイカニモフヤ・オモヘコソ・トシノヤトセヲ。お前はどう思ふか。以上は問で以下は答の趣である。つまり、問答體で連續してゐない。おつしやるとほり私もさう思つて居ります。さう思つて居ればこそ、八年の間(長い年月の間)をば、といふ意になる。この長歌は、問は男で答は女の趣であるから、二つを一處にしたやうな歌である。このことは後述する。
 ○斬髪・與知子乎過 キルカミノ・ヨチコヲスグリと訓む。まだ老幼だから、髪を切つて居る振分髪《ふりわけがみ》の、同年輩の兒ども等よりも、ずつと大きくなつて、つまり、もつと女らしくなつてといふ意になる。卷五(八〇四)に、余知古良等手多豆佐波利提阿蘇比家武《ヨチコラトテタヅサハリテアソビケム》といふ例がある。同齡兒即ち齡《ヨ》つ兒《コ》の意だといはれてゐる。流布本、與和子になつてゐるが、古寫本(【天・元・類・西・神・温・矢・京】)に、『與(812)知子』とあるのに從つた。
 ○橘之・末枝乎須具里 タチバナノ・ホツエヲスグリと訓む。橘の末枝を過ぎての意、末枝まではスグリといふためである。このスグリといふ活用は珍らしいので、スグルといふ四段の動詞があると都合が好いのだが、私はいまだそれを知らない。このあたり先輩の教を乞ふべきである。普通はスギを延言にしてスグリとしたと解して居る。ヨギ、ヨギリと同じであらうか。
 ○此川之・下母長久・汝心待 コノカハノ・シタニモナガク・ナガココロマテと訓む。コノカハノは枕詞でシタに續くが、それがまたナガクへ關聯してゐる。あなたの心をば待つて居ります。といふ意で、念ヘコソで懸つて、待テで結んで居る。卷四(五九八)に、水瀬河下從吾痩月日異《ミナセガハシタユワレヤスツキニヒニケニ》。卷十一(二七一九)に、隱沼乃下爾戀者《コモリヌノシタニコフレバ》等の例がある。シタは川の水底といふ意と心といふ意とに通じて居る。
 〔大意〕 何も物思《ものおも》ふことなく(【戀などせずに心平安に】)、路を行かうとおもつて居るに、向うの青い春山を遠く見れば、躑躅の花が咲きにほうてゐる、また櫻の花も咲きさかつて居る、恰もその花のにほふやうな美しい少女《をとめ》が居るではないか。そして、その美しい少女よ、お前をば私に近寄せてくれるといふし、また私をばお前に近づけて呉れるといふことであるが、一體お前はどうおもふ。(【以上は男の言葉下は少女の答】)私もさうおもひます。さう思へばこそ、この長い八年の間を、振分髪である穉い同輩の童(813)女等よりもずつと大きくなり、〔橘之末枝乎《たちばなのほつえを》〕時も經つて〔此川之下母《このかはのしたにも》〕川の水の長く流れる如く、心長くいつまでもあなたと御一しよになられることをお待して居ります。
 〔鑑賞〕 この歌は、これまでの人麿の長歌とは違つて、もつと素朴で且つ古風に響く歌である。そして一首の中に、内容が相交錯して、常識的には渾沌としたものがあるが、それが却つて素朴に響かせる點であるかも知れない。試に云はむに、『物念はず路行きなむも』は、道を來つつある趣だが、相聞の情調を既に漂はせて居る。そんなら、相聞の歌的に進行するかといふに、『青山をふりさけ見れば』と云つて稍敍景的になつてゐる。然らばそれで進行するかといふに、『躑躅花《つつじばな》、香少女《にほえをとめ》、櫻《さくら》ばな、盛少女《さかえをとめ》』といつて、春山の花から突如として、美麗な少女を現出せしめてゐる。そのあひだの聯結は、常識的な聯想に據らずに、朦朧として居り、不合理のやうであつて、詩的には極めて自然であり、極めて緊密なのである。語を換へていへば、單純化の極、象徴詩の域に到達してゐるのである。
 そして、其處から、直ちに、『汝《な》をぞも、吾《あ》に依《よ》すとふ、吾《あ》をぞも、汝《な》に依すとふ、汝はいかに念《も》ふや』と云つて、男が少女に問掛けて居る趣に歌つてゐる。これなども常識的に批評すれば餘り突如だといふことにもなるのだが、そこが韻文として、特に古調韻文の何ともいはれぬいい特色だといふことも言ひ得るのである。さて、さういつて、なほ突如として、『念へこそ』といつて(814)ゐる。此は女が男の問に答へる語である。この問答體の長歌は、貧窮問答などにも見え、浦島子などの長いものには少しづつ見えてゐるが、この歌の場合のやうに直接で且つ著しくない。『念へこそ、歳の八年を……汝が心待て』と云つて結んでゐる。誠に古樸にして簡淨極りなきものである。
 そして此長歌は、よく讀んでみると、民謠的のもので、いつのまにか傳誦せられつつ來つたやうでもあり、或は、都會的と謂はむよりは寧ろ地方的のにほひがある。よつて、人麿の集の歌とあるけれども、人麿の作ではあるまいといふ結論に今のところ愚見は傾いて居る。
 次にこの歌で問題になるのは、この歌の直ぐ前に、『問答』といふ見出しで(三三〇五)の、物不念《モノモハズ》、道行去毛《ミチユキナムモ》、青山乎《アヲヤマヲ》、振放見者《フリサケミレバ》、茵花《ツツジバナ》、香未通女《ニホヒヲトメ》、櫻花《サクラバナ》、盛未通女《サカエヲトメ》、汝乎曾母《ナヲゾモ》、吾丹依云《アニヨストフ》、吾※[口+立刀]毛曾《アヲモゾ》、汝丹依云《ナニヨストフ》、荒山毛《アラヤマモ》、人師依者《ヒトシヨスレバ》、余所留跡序云《ヨソルトゾイフ》、汝心勤《ナガココロユメ》といふ長歌があり、反歌(三三〇六)の、何爲而戀止物序天地乃神乎祷迹吾八思益《イカニシテコヒヤムモノゾアメツチノカミヲイノレドアハオモヒマス》があつて、次に(三三〇七)の、然有社《シカレコソ》、歳乃八歳※[口+立刀]《トシノヤトセヲ》、鑽髪乃《キルカミノ》、吾同子※[口+立刀]過《ヨチコヲスギ》、橘《タチバナノ》、末枝乎過而《ホツエヲスギテ》、此河能《コノカハノ》、下文長《シタニモナガク》、汝情待《ナガココロマテ》といふ長歌があり、その反歌(三三〇八)に、天地之神尾母吾者祷而寸戀云物者都不止來《アメツチノカミヲモワレハイノリテキコヒトフモノハカツテヤマズケリ》といふのがあつて、その次に、『柿本朝臣人麿之集歌』としてこの長歌が載つてゐるのである。
 そこでこれを比較して見れば、人麿歌集のこの長歌といふのは、大體に於て、(三三〇五)と(三(815)三〇七)の長歌とを合併した如くに出來て居る。そこで、眞淵などは、人麿歌集の方を否定して、種々誤字を訂し、『汝者如何念也。此六字は右を上の哥ぞとも知らぬ人のここをよまんとて加しものなり。念社《オモヘコソ》、是よりは上の女の答し哥也。かく二首の間の句落たるをよせて、一首としたる此卷に多し。皆哥てふものをもしらぬもののわざ也』といひ、頭注にも、『人万呂哥集の中にも、いかなる亂本有てここには注しけん。是を強て一首として解んとする人有はいふにもたらず』と云つて居る。また、眞淵は、前の(三三〇五)の長歌の條で、(三三〇六)の反歌につき、『今本ここに反哥とて擧し哥は、此長哥の意にあらず、且ここの問答の長哥は、古代のよき哥なり。かの短哥は、古哥にもあらずしてつたなし、又古哥に反哥なきことも既にいふが如し。ここはいと亂れたるを、古哥の意をもしらぬもの校合すとて、ここにつけしことしるければ除つ』といひ、(三三〇八)の歌についても、『こは右の哥(三三〇六)の轉ぜしにて別哥にあらざるなり』と評して居る。この反歌の後ぶりだといふ論は略解も踏襲したが、古義では、『推當なり。何處か後めきたる』と駁して居る。
 先輩の言は右の如くであるが、この(三三〇五)あたりの長歌を、『古代のよき哥なり』と眞淵が評したのは流石におもしろい。併し、人麿歌集の方が原で、それを二首に作り直して、反歌などを附加したものだらうとは眞淵も想到し得なかつた。反歌をば後ぶりだと論斷した眞淵が、一首(816)の長歌を常識的に二つに分離したのみならず、『荒山も人し依すればよそるとぞいふ』などといふ恣な増補をしたものだといふことに氣が附かなかつたのである。
 ここで結論をいへば、この人麿の集の歌といふ長歌は、人麿作ではあるまい。寧ろ人麿以前の傳誦歌で、地方的の色彩を有つてゐる。そしてこの歌が原作で、その前の二首とその反歌とは、誰かが氣を利かして分離し増補したものであらう。さうであるから、人麿歌集の歌は皆、人麿作だと論斷する説も妄説である一證となる歌である。
 
(817)萬葉集卷十四所出歌
 
          ○
 
  〔卷十四・三四一七〕
  上毛野《かみつけぬ》伊奈良《いなら》の沼《ぬま》の大藺草《おほゐぐさ》よそに見《み》しよは今《いま》こそ勝《まさ》れ
  可美都氣奴 伊奈良能奴麻能 於保爲具左 與曾爾見之欲波 伊麻許曾麻左禮 【柿本朝臣人麿歌集出也】
 
 伊奈良《いなら》の沼は所在不明である。上野邑樂郡、板倉沼があり、沼の西に板倉村があつて、今岩田、籾谷を合せて伊奈良村と改めたが、それは萬葉のこの伊奈良の沼は板倉の沼だらうといふ説に本づいたものである(【上野歌解・大日本地名辭書參照】)。『於保爲具左』は、即ち大藺草《おほゐぐさ》で、和名鈔に、廣韻云、莞【漢語抄云、於保井】可2以爲1v席者也とある。太藺《ふとゐ》ともいふ莎草科の多年生草本である。
(818) 一首の意は、上野《かみつけ》國の伊奈良《いなら》の沼に生えてゐる大藺草《おほゐぐさ》の有樣が【序詞】遠く離れて見るよりも近くで見た方がいい。お前もよそでばかり見て戀してゐたが、逢つて目のあたり見ると、今の方がまだまだよい。もつと美しくてもつと可哀いい。といふぐらゐの意味であらう。
 この歌は、人麿歌集にあつたといふから、恐らく卷十一あたりに交つてゐて、『凡見者』などとあつて、オホヰ草オホニと續けたのを、ヨソニと訓んで、卷十四で書直して、與曾爾としたものかも知れない。此は空想だが、さういふこともあり得て、決して不自然ではなく、卷七(一三三三)に、佐保山乎於凡爾見之鹿跡《サホヤマヲオホニミシカド》とあるほか、凡爾《オホロカニ》(卷七。一三一二)。凡吾之念者《オホロカニワレシオモハバ》(卷十一。二五六八)などとあるから、人麿歌集のであつたら、もつと簡潔に書いたかも知れない。
 この想像はかういふことを意味する。この歌は、東歌の聲調とちがふ點があつて、寧ろ寄v何戀歌に似て居る。そこで、『古への歌集は、歌を傳へ得るままに書集れば、東歌も何も交るべきなり』と眞淵の云つて居るのは、この歌を東歌と看て、それが人麿歌集の方に紛れ込んだとし、童蒙抄でも、後人傍注也としてゐるのは同論であるが、愚案はその反對で、寄v何戀を、上野の地名があるために東歌の中に集め、書き方も替へて統一したのではなからうか。これはなほ年代のことにも關聯してゐることとなる。つまり東歌の編輯は、卷十一あたりの資料となつた人麿歌集の編輯よりも後れただらうといふことにもなるのである。また、人麿歌集の中に東歌も混入して居(819)るといふのでなく、人麿歌集の歌が東歌の方まで流傳せられたといふことにもなるのである。
 この歌は六帖には、初句『かんつけの』とあり、大藺草の部に入れて、人まろとしてゐる。夫木和歌抄には、沼の部に入れよみ人しらずになつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷十四・三四四一〕
  ま遠《どほ》くの雲居《くもゐ》に見《み》ゆる妹《いも》が家《へ》にいつか到《いた》らむ歩《あゆ》めあが駒《こま》
  麻等保久能 久毛爲爾見由流 伊毛我敝爾 伊都可伊多良武 安由賣安我古麻
 
 この歌の左注に、『柿本朝臣人麿歌集曰、等保久之※[氏/一]、又曰、安由賣久路古麻』とあるものである。これは、卷七(一二七一)に、遠有而雲居爾所見妹家爾早將至歩黒駒《トホクアリテクモヰニミユルイモガイヘニハヤクイタラムアユメクロコマ》とあるものである。
 これにしても、『いつかいたらむ』よりも、『早くいたらむ』の方が直接で且つ自然である。結句の、『あゆめ吾《あ》が駒』よりも、『歩め黒駒』の方が、寫生的實質的で直接に感じにうつたへて作つてゐる。特に初句の、『遠くありて』は寧ろ人麿的だともいへるが、『まどほくの』の方はそれ(820)よりも稍劣るのである。それを、左注の、『とほくして』としたのは、一本の人麿歌集に據つたものかも知れぬが、これも、『とほくありて』の句よりも劣る。斯くの如くであるから、人麿歌集の歌でさへ幾通りにも流傳せられ、且つ東歌の中にまで※[手偏+讒の旁]入せられてゐるといふことが分かるのである。
 
          ○
 
  〔卷十四・三四七〇〕
  相見《あひみ》ては千年《ちとせ》や去《い》ぬる否《いな》をかも我《あれ》や然《しか》思《も》ふ君《きみ》待《ま》ちがてに
  安比見※[氏/一]波 千等世夜伊奴流 伊奈乎加母 安禮也思加毛布 伎美未知我※[氏/一]爾
 
 この歌の左注に、『柿本朝臣人麻呂歌集出也』とあるが、この歌は、卷十一(二五三九)の、相見者千歳八去流否乎鴨《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモ》我《ワレ・アレ》哉然念待君難爾《ヤシカモフキミマチガテニ》と全く同じである。然かもこの卷十一の歌には、人麿歌集出といふ左注の無いものである。
 それにつき、代匠記精撰本に、『第十一ニ人麿歌集歌百四十九首ヲ載畢テ、正述2心緒(ヲ)1歌中ニア(821)ルヲ、今カク注セラレタルハ不審ナリ。ツラツラ按ズルニ、彼卷ニハ他本ニヨノツネノ歌ノ中ニ入レタルニ依テ載セ、今ハ人丸集ニ東歌ト注セラレタルニ依テ此處ニモ載ル故ニ、後人ニ兩卷ノ相違ヲ疑ガハシメジトテ注セラルルナリ』といひ、眞淵は、『今は其卷四(卷十一)に有は、後に人まろ集より亂れ入しならん。依てかしこは除て人万呂集へいるべき事なり。哥詞も東|風《フリ》にて卷四(卷十一)に入べからねば、かたがた疑ひなし、是を以て思ふに、卷四(卷十一)より六(卷十四)までの間に重り載し哥は、皆他より亂れ入しもの也。よく考へてかうがへ除べし』といふのは、眞淵はこの歌を、東歌が原歌で、それが人麿歌集の中に亂れ入つたのだと考へてゐる。併し、これは、卷十一の方が原歌であらう。そして人麿歌集の歌ではないであらう。この左注は間違か、或は人麿歌集の一本に據つたか。井上博士は、『卷十一によれば、人麻呂歌集所出にあらず、そはともあれ、此歌を東歌の中に入れたるによりて思へば、イナヲカモといふ辭は、東語ならむか』(新考)と云つてゐる。
 約めていへば、この歌は、人麿歌集の歌ではなからうが、人麿歌集の歌の流轉した有樣を傍看するのに好資料である。
 なほ六帖には、『あひ見ては千歳や經ぬるいなをかの我やしか思ふ君待ち兼ねて』とあり、作者をことわつてゐない。
 
(822)          ○
 
  〔卷十四・三四八一〕
  あり衣《ぎぬ》のさゑさゑ鎭《しづ》み家《いへ》の妹《いも》に物《もの》言《い》はず來《き》にて思《おも》ひ苦《ぐる》しも
  安利伎奴乃 佐惠佐惠之豆美 伊敝能伊母爾 毛乃伊波受伎爾※[氏/一] 於毛比具流之母
 
 この歌の左注に、『柿本朝臣人麻呂歌集(ノ)中(ニ)出(ヅ)見(ユルコト)v上(ニ)已(ニ)詮(セリ)也』とあるもので、卷四(五〇三)に人麿作として出てゐる、珠衣乃狹藍左謂法家妹爾物不語來而思金津裳《タマギヌノサヰサヰシヅミイヘノイモニモノイハズキテオモヒカネツモ》といふのが即ちそれである。
 眞淵は、『卷六(卷十四)なるは國風《クニブリ》なり。ここは此卿のきかれたるままにあげられたるなめり。さればいささか、言もてにをはもたがへるは宮風《ミヤブリ》と見すぐすべし』(考)と云つた。これは、眞淵の考では、東歌の此歌(三四八一)が原歌で、それが助詞等が少し變化して、稍都會風になつて、卷四の方になつたのだらうといふのであるが、これも、『物云はず來て』の方が、『物云はず來にて』よりも一首の調和上大切である。また、結句の、『思ひかねつも』の方が、『思ひぐるしも』よりも自然で且つ上等である。よつて愚見では、卷四の方が原歌で、卷十四の方がその異傳であ(823)らう。また、この左注を信ずるとせば、卷四の人麿作の歌の原本は、家持などを中心として見た人麿歌集で、卷十四の左注の人麿歌集と別であつてもいいわけである。人麿歌集出といふ左注の書き方も幾とほりにもなつてゐるのを顧慮すれば、同一人が連續的に記入したと見るよりも、同一人が時々、異時的に記入したか、別な人が數本の人麿歌集に據つて記入したか、種々の場合を考へることが出來る。また愚見では、卷四の歌を東歌の材料として揃へるときに、假名書きに直したものだとおもふのである。
 
          ○
 
  〔卷十四・三四九〇〕
  梓弓《あづさゆみ》未《すゑ》は依《よ》り寢《ね》むまさかこそ人目《ひとめ》を多《おほ》み汝《な》を間《はし》におけれ
  安都佐由美 須惠波余里禰牟 麻左可許曾 比等目乎於保美 奈乎波思爾於家禮
 
 この歌の左注に、『柿本朝臣人麻呂歌集出也』とあるものである。梓弓《あづさゆみ》は、スヱに懸けた枕詞で、弓末《ゆずゑ》といふによりて理會が出來る。卷三(三六四)に、大夫之弓上振起《マスラヲノユズヱフリオコシ》あり、卷九(一七三八)に、(824)梓弓末乃珠名者《アヅサユミスヱノタマナハ》。卷十二(三一四九)に、梓弓末者不知杼《アヅサユミスヱハシラネド》。卷十四(三四八七)に、安豆左由美須惠爾多麻末吉《アヅサユミスヱニタママキ》等がある。麻左可許曾《マサカコソ》は、今現在はといふ意。眞盛《マサカリ》又は、目前《マサキ》の轉だといはれてゐる。まのあたり、差當つて、などと翻し得る。卷十八(四〇八八)に、伊末能麻左可母宇流波之美須禮《イマノマサカモウルハシミスレ》。卷十四(三四一〇)に、禰毛己呂爾於久乎奈加禰曾麻左可思余加婆《ネモコロニオクヲナカネソマサカシヨカバ》といふのがある。
 一首の意は、〔梓弓《あづさゆみ》〕すゑは相寄つて一しよに寢ませう。けれど今さし當つては餘り人目が多いものですから、それまではお前さんをば家の端の方に寐かしますよ。
 これは女が訪ねて來た男にむかつていふ趣の歌で、田園生活を背景とした民謠的な歌である。この歌は、人麿作と想像するよりも、寧ろ東歌的だから、東歌の方を原歌と考へることも出來るが、卷十二(二九八五)に、梓弓末者師不知雖然眞坂者君爾縁西物乎《アヅサユミスヱハシシラズシカレドモマサカハキミニヨリニシモノヲ》といふのがあるが、それに類似して居る。さすれば、この歌も、必ずしも東歌が原歌だとは謂へないところがある。ゆゑに、『柿本朝臣人麻呂歌集出也』とあるのは、何か據りどころがあつたと看做すべく、その左注者の參考した人麿歌集にはこの歌が載つてゐたと看做していいであらう。かういふ點でも人麿歌集に數本あつただらうと想像することも出來る。
 ハシにつき、眞淵の考には、『汝を端の方におけれなり。つまどひに來し男に心はよれど、まだ奥へ入すべきはどならねば、端の簀子などにをらするをいふなり』とあるが、井上博士の新考に(825)は、『ドチラツカズ』と解し、同卷(三四〇八)の、爾比多夜麻禰爾波都可奈那和爾余曾利波之奈流兒良師安夜爾可奈思母《ニヒタヤマネニハツカナナワニヨソリハシナルコラシアヤニカナシモ》を例としてゐる。實際この歌は、さう解釋して意味が分かる。これはまた、卷二(一九九)の、去鳥乃相競端爾《ユクトリノアラソフハシニ》。卷十九(四一六六)の、之努比都追《シヌビツツ》有爭《アリクル・アラソフ》〔來〕波之爾《ハシニ》などと同語原で、アヒダから來たものとせば、家の内の端《はし》の間《ま》の意味とはちがふが、ハシニオクをば、誰にも知れぬやうに、ドチラツカズに、不關係のやうに、不得要領に、といふやうにも解釋の出來ないことはない。
 
(826) 補遺
 
 卷九は、雜歌と題し、泊瀬朝倉宮御宇天皇御製歌一首、崗本宮御宇天皇幸紀伊國時歌二首があつて、その次に、大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首があり、後人歌二首があり、獻忍壁皇子歌一首、その他が續いて、獻弓削皇子歌一首(一七〇九)の次に、『右柿本朝臣人麻呂之歌集所出』といふ左注があるが、この評釋には、獻忍壁皇子歌一首(一六八二)から、人麿歌集所出と解してさうしたのであるが、武田博士の説(【柿本人麻呂の作品の傳來】)では、大寶元年の歌からと解釋してゐる。博士云。『大寶元年の歌十三首、及び後れたる人の歌二首をも、人麻呂集所出の歌と爲すべきではあるまいか。さて進んで卷一の大寶元年の題詞ある歌をも、人麻呂集所出と考ふる傾向に進みたいと思ふのである。人麻呂歌集には、題詞の明記のあるものもあり、その中作者の知らるるを卷一に出し、結松を詠めるは縁につきて卷二に載せ、更に作者の署名無きを卷九に出して、その一二に他の資料による案文を附したのではなからうか』云々。今博士の説に從つて、以下の評釋を増補することとする。
 
(827)          ○
 
  〔卷九・一六六七〕
  妹《いも》がため我《われ》玉《たま》求《もと》む沖邊《おきべ》なる白玉《しらたま》寄《よ》せ來《こ》沖《おき》つ白波《しらなみ》
  爲妹 我王〔玉〕求 於伎邊有 白玉依來 於岐都白浪
 
 『大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首』といふ題詞のある十三首中のはじめの歌である。なほこの歌の左注に、『右一首上見既畢、但歌辭小換、年代相違、因以累載』とあるものである。
 
 萬葉卷一(【五四・五五・五六】)に、大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌とあるのと同時の歌と考へられてゐる。文武紀に、大寶元年九月丁亥天皇幸2紀伊國1、冬十月丁未車駕至2武漏温泉1、戊午車駕自2紀伊1至とある。この中の『天皇』は『太上天皇』だらうかと契沖が考へてゐる。又九月とあるは途中を意味し、十月とあるは既に紀伊に到達せられてからのことを意味するだらうと云つてゐる。また、太上天皇は持統、大行天皇は文武であるから、契沖は、『太上天皇大行天皇とあるは、元明天皇の御治世の時、これをしるすとて、持統天皇を太上天皇といひ、文武天皇をいま(828)だをくり名奉らぬ程なれば、大行天皇と申にや。しからば持統と文武と共にみゆきせさせたまへるを、紀には行幸をのみしるして御幸をもらし、此集には御幸をのみしるして、行幸をもらせりと意得べきにや』(代匠記初)とも云つてゐる。
 『我王』は、多くの古寫本『我玉』に作る。舊訓ワレタマモトム。類聚古集ワガタマヒロフ。
 一首の意。大和に殘して來た妻のために我は玉(美しい小石・貝の類)を捜し求めてゐる。沖に立つてゐる白浪よ、沖の方にある白玉をば濱べに寄せて呉れ。それをひろつて家づとにしよう。
 この歌の左注にある如く、この歌は、(一六六五)の、爲妹吾玉拾奧邊有玉縁持來奧津白波《イモガタメワレタマヒリフオキベナルタマヨセモチコオキツシラナミ》といふのと少異あるのみである。そしてこの(一六六五)の歌の題詞は、『崗本宮御宇天皇幸2紀伊國1時歌』とあり、舒明天皇か、齊明天皇であるが、さうすれば人麿よりも時代がもつと上るわけであるが、或は、大寶元年の行幸の時のは、この古歌をおぼえてゐてそれを記したのかも知れない。或はこの歌が人麿が作つたものだとすると、崗本宮御宇天皇云々といふ題詞は誤だといふことになるのだが、歌柄から云つて、(一六六五)の方が優れてゐるから、大寶元年の方が寧ろ第二次的だらうと推察せられ、從つて、人麿作ではないだらうといふことになるのである。
 六帖には、『われ玉拾ふ沖べなる白玉ゐてこ』と、(一六六五)とこの歌とどつちつかずのやうになつてをり、文武天皇の御歌としてゐる。
 
(829)          ○
 
  〔卷九・一六六八〕
  白崎《しらさき》は幸《さき》く在《あ》り待《ま》て大船《おほふね》に眞楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》きまた反《かへ》り見《み》む
  白崎〔埼〕者 幸在待 大船爾 眞梶繁貫 又將顧
 
 『崎』は、古寫本の多く、『埼』になつてゐる。代匠記精撰本でも、『埼』を善いとした。『幸在待』は舊訓サキクアリマテ。古寫本中サチアリトテモ(壬)。サチアリトマテ(【藍・類・古・神】)。『又將顧』は舊訓マタカヘリミム。古寫本の中、マタカヘリコム(類)がある。白崎は、紀伊日高郡衣奈浦の東南に衣奈八幡があり、その神社の縁起に白崎がある。現在は白崎村大引に屬す。名所圖會に云。『白崎は大引浦の西北に在り、雪の色を奪ひて海原にさし出でたる眞白の巖むらはしも、二十丈にもあまりて高く聳え』云々。即ち、石灰岩で白いから白崎といふのである。
 一首の意。この白崎は變らず無事で待つてゐて呉れよ。大きな船に澤山の櫂《かい》を爲立てて、もう一度たづねて來よう。
 『幸在待《サキクアリマテ》』といふやうな言方は、卷一(三〇)に、人麿作、樂浪之思賀乃辛碕雖幸有大宮人之船麻(830)知兼津《ササナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤビトノフネマチカネツ》がある。樂々と作つてゐるけれども、輕浮に陷らずに、落著かせてゐる點が好い。そして、白崎といふ岬は石灰岩から成る白い岬であるから、さういふ寫象をも注意して鑑賞すれば、『大船爾眞梶繋貫《オホフネニマカヂシジヌキ》』云々といふ、稍誇張した言方も自然に聞こえるし、また、大和の山國から紀伊の海に來て驚歎してゐる心境をもうかがふことが出來て、さう容易に素通りの出來ない歌である。
 この歌は、六帖に、『白崎に行幸かくあらば大舟に眞楫しげぬき又返りみむ』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六六九〕
  三名部《みなべ》の浦《うら》潮《しほ》な滿《み》ちそね鹿島《かしま》なる釣《つり》する海人《あま》を見《み》て歸《かへ》り來《こ》む
  三名部乃浦 塩莫滿 鹿島在 釣爲海人乎 見變來六
 
 一二句は、古寫本中、ミツナヘノウラシマミツナ(藍)。ミナヘノウラシホミツナ(類)。ミツナヘノウラシホミツナ(古・神)。ミナヘノウラシホナミチソネ(西)。ミナヘノウラシホノミチソネ(温)等の訓がある。流布本舊訓ミナヘノウラシホナミチソ。仙覺新點ミナヘノウラシホナミチソネ。
(831) 三名部乃浦《ミナベノウラ》は、和名鈔に紀伊國日高郡|南部《ミナベ》とあり、現存の南部町の海岸である。鹿島《カシマ》は南部町の沖にある小島であるが、現在では、潮干の時でも徒渉は出來ない。ただ大寶元年ごろはもつと淺かつたのかも知れない。歌柄から見れば徒渉が出來たやうでもある。併し小舟で渡ると解しても差支はない。
 一首の意。三名部《みなべ》の浦に潮が滿ちずに呉れ、私は向うに見える鹿島《かしま》で釣してゐる海人《あま》の有樣を見て歸つて來ようとおもふ。
 大和から旅して來たのだから、海濱の生活が萬事めづらしく、從つて、『潮な滿ちそね』といふ一句でも、ただ上の空で云つてゐるのとは違つて、活々としてゐるのは、心が自然に其處に動いてゐるがためである。『見てかへり來む』の句でもまたさうである。海人は一部落をなして住んで居たものであらうが、鹿島の海人もまた一の特殊生業のもので、旅人によつても興深かつたものであつただらう。
 この歌は、六帖に、第一二句『みつなへの浦潮滿つな』として載つてゐる。
 
          ○
 
(832)  〔卷九・一六七〇〕
  朝《あさ》びらき榜《こ》ぎ出《い》でて我《われ》は湯羅《ゆら》の崎《さき》釣《つり》する海人《あま》を見《み》て歸《かへ》り來《こ》む
  朝開 榜出而我者 湯羅前 釣爲海人乎 見變將來
 
 古寫本中の訓には、アサホラケ(【藍・壬・類・神・細】)。アサヒラケ(古)。コキイテシワレヲ(類)。コキテテワレハ(古・神)。ユラノウラニ(類)。ミニカヘリコム(【藍・類・神】)などがあり、略解は第二句をコギデテワレハと訓んだ。
 『朝開《アサビラキ》』は、朝に港を船出することである。『開き』といふ表現は面白く、心が勇ましく事の成ることを暗に示す語である。延喜式に、遣唐使開2船居《フナスエ》1祭とあるのも相通ずる心持であらう。卷三(三五一)に、世間乎何物爾將譬旦開榜去師船之跡無如《ヨノナカヲナニニタトヘムアサビラキコギイニシフネノアトナキゴトシ》。卷十五(三五九五)に、安佐妣良伎許藝弖天久禮婆《アサビラキコギデテクレバ》。卷十七(四〇二九)に、珠洲能宇美爾安佐比良伎之底許藝久禮婆奈我波麻能宇良爾都奇底理爾家里《ススノウミニアサビラキシテコギクレバナガハマノウラニツキテリニケリ》。卷十八(四〇六五)に、安佐妣良伎伊里江許具奈流可治能於登乃《アサビラキイリエコグナルカヂノオトノ》。卷二十(四四〇八)に、安佐婢良伎和波己藝※[泥/土]奴等《アサビラキワハコギデヌト》等の例がある。
 『湯羅前《ユラノサキ》』は、紀伊日高郡|由良《ユラ》港の西にある岬で、今の神谷崎である。卷七(一二二〇)に、爲妹玉乎拾跡木國之湯等乃三埼二此日鞍四通《イモガタメタマヲヒリフトキノクニノユラノミサキニコノヒクラシツ》といふのがある。
(833) 一首の意。この朝に船を榜ぎ出して湯羅《ゆら》の崎《さき》で釣をしてゐる海人《あま》を見て歸つて來よう。
 出來た歌の結果から見れば、取立てていふほどの歌ではないが、前の歌同樣、山國の人の旅情に同情しつつ味へば相當の歌で、厭味なく自然に響くところがいいのである。
 この歌は、夫木和歌抄に、よみびとしらずとして、第一二句『朝ぼらけこぎ出てわれは』となつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六七一〕
  湯羅《ゆら》の崎《さき》潮干《しほひ》にけらし白神《しらかみ》の磯《いそ》の浦囘《うらみ》を敢《あ》へて榜《こ》ぎ動《とよ》む
  湯羅乃前 塩乾爾祁良志 白神之 礒浦箕乎 敢而榜動
 
 ウラミヲを、古寫本中、ウラミニ(類・壬・古)と訓んだのもある。『白神之礒』は、今の紀伊有田郡|田栖川《たすがは》村大字|栖原《すはら》にある。その栖原山は一に白上《しらかみ》山ともいふ。大日本地名辭書に、『白上《シラカミ》。栖原山の一名にして、磯をも白神磯と呼べりとぞ』とある。
 一首の意。湯羅の崎のあたりの海は潮が干いたと見える。多くの船がいま遙かの白神の磯に近(834)い浦の邊を威勢づいて榜ぎ響《とよ》んでゐる。
 これは客觀的歌に聞こえるが、その船といふのは、海人の船であるか、或は大和から來て、潮干狩などをした船をいふのか。これは恐らくは海人等の威勢の好い船を見て、興を以て咏んだものであらうとおもふ。なほ此の歌では、『敢へて』といふ副詞は注意すべきであるが、敢は、説文に進取也。廣韻に犯也ともあつて、押切つてなどの意味である。波行下二段に活用する。卷三(三八八)に、率兒等安倍而榜出牟爾波母之頭氣師《イザコドモアヘテコギデムニハモシヅケシ》。卷十七(三九五六)に、伊麻許曾婆敷奈太那宇知底安倍底許藝泥米《イマコソハフナダナウチチアヘチコキデメ》。卷十五(三六九九)に、安伎左禮婆於久都由之毛爾安倍受之弖《アキサレバオクツユジモニアヘズシテ》。卷十九(四二二〇)に、可久古非婆意伊豆久安我未氣太志安倍牟可母《カクコヒバオイヅクアガミケダシアヘムカモ》等の例がある。この歌では、『敢へて榜ぎとよむ』の結句はやはり旨くて適切である。
 この歌は、夫木和歌抄に、よみ人不v知とし、結句『あへてこ|きとよ《くとよイ》む』とある。
 
          ○
 
  〔卷九・一六七二〕
   
  黒牛潟《くろうしがた》潮干《しほひ》の浦《うら》をくれなゐの玉裳《たまも》裾《すそ》びき行《ゆ》くは誰《た》が妻《つま》
  黒牛方 塩干乃浦乎 紅 玉裙須蘇延 往者誰妻
 
(835) 黒牛潟は紀伊國海草郡黒江町に當る。もとは名草郡にあつた。大日本地名辭書に、『黒江の海を萬葉集久漏牛潟に充つる説は信なるべし』とある。
 一首の意は、黒牛潟の潮の干た浦をば赤い裳の裾を引きながら行くのほ誰の妻であらうか。
 この『妻』は、行幸に從つて來た女官などであつたか、その土地の若い女等を云つたものであつたか。新考には、『おそらくは土地の人の妻ならむ』とあるが、童蒙抄には、『御幸の供奉の官女の海づらを行通ふを見てよめる也』とあるし、考にも、『供奉の女房をさしいふ』。略解にも、『供奉の女房を指せるならん』とある。童蒙抄に、『昔は尊卑の差別なく、女はすべて赤き裳と云ものを著たる也』とあるから、土地の女のことでもかまはぬが、これは供奉の女についていつたもののやうである。
 卷七(一二一八)に、黒牛乃海紅丹穗經百礒城乃大宮人四朝入爲良霜《クロウシノミクレナヰニホフモモシキノオホミヤビトシアサリスラシモ》。卷九(一七九八)に、古家丹妹等吾見黒玉之久漏牛方乎見佐府下《イニシヘニイモトワガミシヌバタマノクロウシガタヲミレバサブシモ》といふ歌がある。
 
 
          ○
  〔卷九・一六七三〕
  風莫《かぜなし》の濱《はま》の白浪《しらなみ》いたづらに此處《ここ》に寄《よ》り來《く》る見《み》る人《ひと》無《な》しに 【一云、ここに寄《よ》り來《く》も】
(836)  風莫乃 濱之白浪 徒 於斯依久流 見入無 【一云、於斯依來藻】
 
 左注に、『右一首、山上臣憶良類聚歌林曰、長忌寸意吉麻呂應詔作此歌』とあるものである。
 ○風莫乃 舊訓カザナギノ。古寫本中、カゼナギノ(藍)の訓もある。考カザナミノ。或はカザハヤノ。略解、『風莫の訓さだかならず。莫は早の字か、暴の誤にて、カザハヤか。卷七、風早のみほのうらまをこぐ舟の、と詠めり。ミホは紀伊なり』とある。古義も大體それに據り、新考もそれに據つたが、新訓はカゼナシノと訓み、また全釋でもカゼナシに據り、紀路歌枕抄の、西牟婁郡瀬戸鉛山村の綱不知だとし、その、『山陰の入江にて難風の時も、此浦へ漕入ぬれば、船の碇もおろさず綱にも及ばず、此故に名付ともいふ。海深き故の名ともいふとて、此所風なぎたる浦なれば、風莫濱とも云ふ』を引用してゐる。
 一首の意は、風莫の濱に寄せてゐる白浪は誰見る人もなくて空しく寄せてゐることだ。といふのである。
 卷二(二三一)に、高圓之野邊秋芽子徒開香將散見人無爾《タカマドノヌベノアキハギイタヅラニサキカチルラムミルヒトナシニ》。卷十(一八六三)に、去年咲之久木今開徒土哉將墮見人名四二《コゾサキシヒサギイマサクイタヅラニツチニヤオチムミルヒトナシニ》。同卷(一八六七)に、阿保山之佐宿木花者今日毛鴨散亂見入無二《アホヤマノサクラノハナハケフモカモチリミダルラムミルヒトナシニ》。卷十五(三七七九)に、和我夜度乃波奈多知婆奈波伊多都良爾知利可須具良牟見流比等奈思爾《ワガヤドノハナタチバナハイタヅラニチリカスグラムミルヒトナシニ》。かういふ歌があつて、花のことに關して歌つてゐるが、此歌は、寂しい海濱の白浪の氣持を歌つて(837)ゐる。大和から旅して、この海の浪のいふに云はれぬ寂しい音を感じたのであつただらう。そこが大におもしろい。
 若し憶良の類聚歌林にある如く、長忌寸意吉麻呂の歌で、應詔作歌だとすると、孤獨的な觀相よりももつと明朗の氣分になるのだが、それでもその根調をなすものは寂しい、惜しまれるやうな氣分であらうか。
 
          ○
 
  〔卷九・一六七四〕
  我背子《わがせこ》が使《つかひ》來《こ》むかと出立《いでたち》のこの松原《まつばら》を今日《けふ》か過《す》ぎなむ
  我背兒我 使將來歟跡 出立之 此松原乎 今日香過南
 
 ○出立之 舊訓イデタチシ。代匠記初イデタタシ。童蒙抄イデタタシ。イデタチノ。イデタチシ。いづれとも決し難いが、イデタチシに傾いてゐる。考、出立之は出立弖の誤。略解イデタチノ。古義も同訓。この、『出立の松原』は地名であらう。『今按、讀出タルヤウヲ思フニ、唯名モナキ松原ヲ、待ト云ニ云懸ムトノミニハアラジ、濱邊ニ出立《イデタチ》ノ松原ト云所ノ有テ、ソレヲ云ハム(838)トテイロヘタルニヤアラム。住吉ノ出見ノ濱、大津ノ打出ノ濱ナド云名ヲ思フニ、出立ノ松原アラバ海邊ナルベシ』(代匠記精)とあるのに從つて好い。然るに古義には、『出立《イデタチ》は、十三に、大舟乃思恃而出立之清瀲爾《オホブネノオモヒタノミテイデタチノキヨキナギサニ》とよめる出立《イデタチ》に同じ。走出《ワシリデ》などいへる類とはいささか異にて、これは其(ノ)地の體勢の海濱などに自(ラ)出立たる如く見ゆるを云るなり』と云つて普通名詞に取扱つてゐるが、此は元來はさういふ地の體勢からの名であつただらうが、その頃は既に固有名詞になつてゐたものであらう。新考も、『出立の松原は地名なり。無論海中へ出立てる松原なればさる名を負へるなり』といひ、全釋にも、『紀伊國西牟婁郡田邊町の海岸の松原で、古くかの附近を出立莊といつたといふことである。【中略】卷十三に、紀伊國之室之江邊爾千年爾障車無萬世爾如是將有登大舟乃思恃而出立之清瀲爾《キノクニノムロノエノベニチトセニサハルコトナクヨロヅヨニカクモアラムトオホフネノオモヒタノミテイデタチノキヨキナギサニ》(三三〇二)とあるのも同所である』とあるから、共に從つていい。
 一首の意。私の夫《をつと》からの使が來るかと出でて待つ【序詞】出立《いでたち》の松原《まつばら》をば今日過ぎて行つてしまふことか。名殘惜しいことである。
 この歌も、『今日か過ぎなむ』といふ結句が好いので、名殘を惜しむ感慨がこの結句に籠められてゐる。序詞は女の言葉のやうになつてゐるが、この頃の序詞は必ずしも寫實で行かずに、心持で行つてゐるから、この歌も男の作として考へても毫も差支はないわけである。
 この歌は、六帖に松の歌の處に出し、第三四句『出立し此松がえを』となつてゐる。
 
(839)          ○
 
  〔卷九・一六七五〕
  藤白《ふぢしろ》のみ坂《さか》を越《こ》ゆと白妙《しろたへ》の我《わ》が衣手《ころもで》は沾《ぬ》れにけるかも
  藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣手者 所沾香裳
 
 藤白坂は、紀伊海草郡内海町大字藤白にあり、その南に東西にわたる山を越える坂が藤白の坂である。宣長(玉勝間)などもさう考へてゐる。大日本地名辭書は、日高郡岩代濱にあると云つて、『按に藤白は磐白《イハシロ》の謬ならむ』と云つてゐるのは、卷二(一四一)の、有間皇子自傷結2松枝1歌に、『磐白乃濱松之枝乎』云々とあるから、其處と同一處だと考へたのであらう。併し、齊明天皇紀には、『四年十一月庚寅遣3丹比(ノ)小澤(ノ)連|國襲《クニソ》絞2有間皇子於藤白坂1』と明記してあるのだから、これは『磐白』と別處でもかまはぬのである。
 一首の意。藤白の坂を越えると〔白栲之《しろたへの》〕わが衣が涙に濡れた。有間皇子の御事を追懷しつつ。といふくらゐの意であらう。『四十餘年ノ前、有間皇子此坂ニテ絞ラレ給ヒケルヲ慟ミテ泣意ナリ』(代匠記精)とある如くであらう。
(840) 極めて分かり好く歌つてゐるけれども、身に沁みるものがあつて棄てがたい。また、『み坂を越ゆと』で下に續け、有間皇子のことはちつとも云つてゐないで暗黙のうちにそれを悟らせるといふ單純化も行はれて居り、その技法は、藤白の坂といへばひとりでに有間皇子のことは聯想せられる程に一般化してゐたものと見えるのである。
 この歌は、よみ人知らずとして、續古今集及び夫木和歌抄に載つてゐる。續古今結句『ぬれにけるかな』。
 
          ○
 
  〔卷九・一六七六〕
  背《せ》の山《やま》に黄葉《もみぢ》常敷《とこし》く神岳《かみをか》の山《やま》の黄葉《もみぢ》は今日《けふ》か散《ち》るらむ
  勢能山爾 黄葉常敷 神岳之 山黄葉者 今日散濫
 
 ○常敷 舊訓トコシク。童蒙抄シキシク。略解宣長訓チリシク(【古義・新考從之】)。○神岳之 舊訓ミワヤマノ。代匠記初カミヲカノ。古寫本中カミヲカノ(藍・壬・類・古・神)。結句、舊訓ケフカチルラム。考イマモチルラン。日は目の誤。勢能山《セノヤマ》は、紀(ノ)川の岸にある背山・妹山の背山で、卷一(841)(三五)に、此也是能倭爾四手者我戀流木路爾有云名二負勢能山《コレヤコノヤマトニシテハワガコフルキヂニアリトフナニオフセノヤマ》がある。神岳《カミヲカ》は、飛鳥の神南備山《カムナビヤマ》即ち雷岳《イカヅチノヲカ》である。卷二(一五九)に、神岳乃山之黄葉乎今日毛鴨問給麻思明日毛鴨召賜萬旨《カミヲカノヤマノモミヂヲケフモカモトヒタマハマシアスモカモメシタマハマシ》云々とあるのと同じである。
 一首の意は、いま紀の國の背の山で紅葉が頻に散つてゐるが、郷里の飛鳥の神岳の山の紅葉は今日あたりやはり散るであらうか。といふのである。
 眼前の光景から、家郷の山に聯想がつながつたのだが、言葉どほりでは、山の紅葉の散ることを云つてゐるが、家郷にゐる妻のことなどもおのづから含まつてゐる心境であらうか。
 
          ○
 
  〔卷九・一六七七〕
  大和《やまと》には聞《きこ》えもゆくか大我野《おほがぬ》の竹葉《たかば》苅《か》り敷《し》き廬《いほり》せりとは
  山跡庭 聞往歟 大我野之 竹葉苅敷 廬爲有跡者
 
 大我野《オホガヌ》は、紀伊伊都郡橋本町の東家《トウケ》・市脇あたりの野に當る。大日本地名辭書に、『相賀。庄名にして今橋本村紀見村に當る。相馬驛は大字|東家《トウケ》市脇に在りしなり』。『大我野《オホガノ》。相賀野に同じ。(842)古今の轉訛なり』とある。
 一首の意。大我野の竹の葉を苅り敷いて假廬を作りつつわびしく宿るありさまが家郷の大和まで知れてゐるのか知らん。この難儀のさまは分かるまい。といふのであらう。
 代匠記精に、『竹葉苅敷ハ今按小竹葉トカキテササハナリケムヲ、小ノ字ノ落タルニヤ。竹葉ハ少似ツカハシカラデ感スクナクオボユルナリ』とあるし、新考にも、『官本竹の上小の字あるをよしとす』とあるが、校本萬葉を檢するに、『小竹葉』となつてゐる古寫本は無いやうだから、『竹葉』として味ひたい。また『竹葉』といつても味へぬことなく、却つて常套を破つておもしろいとおもふ。
 これは大和の家郷つまり妻あたりを念中にもつて咏んでゐるので、簡潔のうちに豐かな情味がありなかなか棄てがたい。『聞えもゆくか』は疑問が主だが、願望の意が含まつてゐる。そして、『聞えもゆくか』のところの音調と、『大我野の竹葉』あたりの音調に現代歌人の及ばぬ點がないだらうかといふ氣がして居る。
 この歌は、夫木和歌抄に、よみ人しらずとして載つてゐる。第三句『おほがのの』。
 
          ○
 
(843)  〔卷九・一六七八〕
  紀《き》の國《くに》の昔弓雄《むかしゆみを》の響矢《なりや》用《も》ち鹿獲《かと》り靡《なび》けし坂《さか》の上《へ》にぞある
  木國之 昔弓雄之 饗矢用 鹿取靡 坂上爾曾安留
 
 ○昔弓雄之 舊訓ムカシユミヲノ(【代匠記・考・略解同訓】)。童蒙抄イニシサ|チ《ツ》ヲノ。古義ムカシサツヲノ。新考サツヲガムカシ。○響矢用・鹿取靡 舊訓カブラモテ・シカトリナビク。考ナルヤモテ。略解ナリヤモテ。童蒙抄シカカリフセシ。考シカトリナメシ(略解)。古義カトリナビケシ。
 昔弓雄は、『古歌ニアサモヨヒ紀ノ關守ガ手束弓トモ讀タレバ、昔能射手ヲ出シケル故ニ昔弓雄トハ云歟』(代匠記精)。響矢は、和名鈔に鳴箭、漢書音義云、鳴鏑如2今之鳴箭1也。日本紀私記云、八目鏑|夜豆女加布良《ヤツメカフラ》とあり、新撰字鏡に鏑|奈利加夫良《ナリカブラ》とあり、卷十六(三八八五)に、梓弓八多婆佐彌比米加夫良八多婆佐彌《アヅサユミヤツタバサミヒメカブラヤツタバサミ》云々とある。
 一首の意。いにしへにゐた紀伊國の名高い弓の名手が、鳴鏑矢《なりかぷらや》を以て多くの鹿を射止めたといふその坂の上に立つて私等が居る。
 旅をすれば、種々の傳説だの、舊跡縁起だのを聞かせられるが、それを短歌に咏みこなすことはなかなかむづかしいものであるが、この歌がそれを苦もなく成し遂げてゐる。そしていろいろ(844)の主觀語を使はずに、『坂《さか》の上《へ》にぞある』で結んでゐるが實に旨いものである。その上に、『紀の國の昔弓雄の響矢用ち鹿獲り靡けし』といふ如き事實内容を並べて來て、その結末はどうなるかと思つてゐると、『坂の上にぞある』で結んだのは、古歌の好きところを遺憾なく發揮してゐる。
 從來の説は、『鹿取靡シハ此坂上マサニソノ處ナリト云意ナリ』(代匠記精)。『坂(ノ)上ぞ即(チ)此處《ココ》なるとなり』(古義)。『結句はココゾソノ坂上ナルとなり』(新考)などといふ具合に解したのが多いが、童蒙抄では、『歌の意は昔狩人の鹿を狩伏せしと云坂の上に、今宿りして居るとの歌也』と言つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一六七九〕
  紀《き》の國《くに》に止《や》まず通《かよ》はむ都麻《つま》の社《もり》妻《つま》依《よ》し來《こ》せね妻《つま》と言《い》ひながら 【一云、妻《つま》たまはなも妻《つま》といひながら】
  城國爾 不止將往來 妻社 妻依來西尼 妻當言長柄 【一云、嬬賜爾毛嬬云長柄】
 
 『右一首或云坂上忌寸人長作』といふ左注がある。『妻社』は、舊訓ツマモコソ。代匠記初書入【校本萬葉】ツマノモリ。童蒙抄ツマモリ。ツマノモリ。ツマヤシロ。考イモモコソ。『ツマノモリは、神名(845)帳、紀伊名草郡都麻津比賣神社とありて、和名抄、同郡津麻郷有り、そこを詠めるなり』(略解)。今の海草郡西山東村大字平尾字若林に當る。然るに萬葉地理研究紀伊篇では、今の伊都郡橋本町字妻の地だと考へてゐる。
 『妻依來西尼』は、舊訓ツマヨリコサネであるのを略解でツマヨシコセネと訓んだ。西をセと訓んだ例は、卷十(一九一八)に、廬入西留良武《イホリセルラム》。卷十四(三四五四)に、許余比太爾都麻余之許西禰《コヨヒダニツマヨシコセネ》等がある。妻を寄せてくれよといふ意。妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》は、妻といふ名であるからは、妻といふ名そのままに、妻といふ名さながらにの意で、神在隨《カムナガラ》のナガラに同じだと説かれてある。
 一首の意は、紀伊の國にしじゆう通つて來よう。妻《つま》の社《もり》の神よ、妻といふ名であるからは、その名どほり、私のおもふ妻を寄せ下されよ。といふのである。一に云ふの、嬬賜爾毛は、略解に、『按ずるに爾は南の誤にて、ツマタマハナモならんか。然らば妻を賜へと神に乞ふ意なるべし』と云つて居り、古義もそれに從つたが、字音辨證では爾の儘でナと訓み得ることを證してゐる。また新考では、『卷十九にもイユキナカナモを鳴爾毛と書けり』と云つて補充して居る。
 この歌は現代の吾等には、聯想から來た輕い樂な氣特で歌つてゐるやうにおもへるが、作者本人はもつと眞面目になつて妻社の神に希つてゐるのかも知れない。
 
(846)          ○
 
  〔卷九・一六八〇〕
  麻裳《あさも》よし紀《き》へ行《ゆ》く君《きみ》が信士山《まつちやま》越《こ》ゆらむ今日《けふ》ぞ雨《あめ》な零《ふ》りそね
  朝裳吉 木方往君我 信士山 越濫今日曾 雨莫零根
 
  〔卷九・一六八一〕
  後《おく》れ居《ゐ》て吾《わ》が戀《こ》ひ居《を》れば白雲《しらくも》の棚引《たなび》く山《やま》を今日《けふ》か越《こ》ゆらむ
  後居而 吾戀居者 白雲 棚引山乎 今日香越濫
 
 右二首に、『後人《おくれたるひとの》歌二首』といふ題詞がある。後人は即ち、大和に殘つて留守してゐる人の意で、妻らしい口吻の歌である。信土《まつち》山は大和から紀伊へ行く境にある眞土《まつち》山(又打《まつち》山)である。この山は萬葉に七八首咏まれてゐる。二首とも、分かりよい、技巧のない歌で、從駕の人の妻の作つた歌が一處に記されたものであらう。
 初めの歌は、袖中抄に、第一二句『アサモヨキカタユクキミカ』として載り、夫木和歌抄に、よみびとしらずとし、初句『あさもよひ』として載つてゐる。次の歌は、拾遺集及び金葉集に、(847)よみ人知らずとし、結句『今日や越ゆらん』として載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七一五〕
  樂浪《ささなみ》の比良山風《ひらやまかぜ》の海《うみ》吹《ふ》けば釣《つり》する海人《あま》の袂《そで》かへる見《み》ゆ
  樂波之 平山風之 海吹者 釣爲海人之 袂變所見
 
 この歌には、『槐本歌一首』といふ題があつて、槐本は、從來ヱニスノモトと訓み、童蒙抄に『えにすもとと云氏なるべし』と云ひ、古義に、『人(ノ)名なるべし』と云つたのを、井上博士は、『案ずる迄もなく槐本は柿本の誤にて柿本人麿の氏のみをかけるなり』(新考)といひ、森本治吉氏(【萬葉集第九卷考。國語と國文學昭和三年十一月號】)は、この儘でカキノモトと訓んだ。それから、(一七二五)の歌の處の左注に、『右柿本朝臣人麻呂之歌集出』とある、その『右』の範圍をば、石井庄司氏(【人麻呂集考。國語國文の研究二十二號人麻呂集再考。國語國文の研究三十號】)に據つて、この(一七一五)から始まるやうに解釋して、ここに載せることにした。
 古寫本中、ササナミヤヒラヤマカゼノ(類)。ササナミヤヒラノヤマカゼ(壬・古)。ソデカヘリミユ(神)等の訓がある。
(848) 樂波《ササナミ》は近江の地名で、常套的に用ゐられて既に枕詞の傾向になつて居るものである。
 一首の意は、近江|樂波《ささなみ》の地にある比良山《ひらやま》の山風が湖水に吹きおろして來ると、釣して居る漁師の袖の飜るのが見えるといふので、小舟に乘つて釣して居る漁夫の趣であらう。
 この歌は句々が緊密で且つ重厚であるのに加へて、寫生の手腕がなかなか確實である。『比良山風のうみ吹けば』といふ句なども、後世ならばもつと長くして弛むところであるのに、斯く簡潔に緊密にして居るのは上代言語の特色でもある。ただこの歌は餘り樂々と明快に歌つて陰翳の少い點がある。この歌は近江湖水を題材としてゐるし、また歌調にも人麿的なところがあるから、人麿作と看做しても敢て不思議でないともおもふが、それにしても以上の如き不滿のあるのは、比較的早期に屬する歌のためか、或は人間的背景の尠い即事の歌のためであるのかも知れない。
 この歌は、新古今集雜下に題しらず、讀人不知として載り、また、和歌童蒙抄第三にも載り、共に初句サザナミヤになつてをり、なほ和歌童蒙抄では、第二句『ヒラノ|ヤマカゼ《アラシノ》』となつてゐる。又六帖には、第三句『打吹けば』とし、夫木和歌抄には第二句『ひらのやまかせ』として載り、共に作者不明になつてゐる。
 此處で森本氏の槐本をカキノモトと訓んだ理由を記すと、論據は二つになる。一つは、卷十七の、『山柿の門』が、佐佐木博士説の如く、山上憶良と柿本人麿であるならば、此處の、槐本、山(849)上と並べであるのは、『山柿』と同じく人麿と憶良であらう。そして、槐本、山上、春日、高市、春日藏は、それぞれ人麿・憶艮・老・黒人と藤原京奈良京時代の著名作家を年代の順序に略記したものであらう。さう考へたので、槐本をカキノモトと訓んだ。第二の根據は、槐本は柿本の書きかへと思はれる事。即ち大伴旅人を卷五(八〇九)の歌の次に『大伴淡等』と記し、山部赤人を卷十七(三九一五)の歌の題詞、細井本・流布本には、『山部宿禰赤人』とあるが、それより古い西本願寺本・温故堂本・神田本・大矢本・京大本には『山部宿禰明人』とある。これらの書きかへを以て見れば、『槐本』も、『柿本』の書きかへと思はれる。思ふに、『淡』と『旅』、『明』と『赤』との音の相似より起つた書きかへであるから、ここも『槐』と『柿』との音の相似がもたらした書きかへであらう。そして以上は、新考の説と、澤瀉博士の『樂浪』の用字法を論孃とした上の立論だといふのである。森本氏のこの意見は、アララギ昭和四年十一月號の「萬葉作家考證」にも載つてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七一六〕
  白波《しらなみ》の濱松《はままつ》の木《き》の手向草《たむけぐさ》幾代《いくよ》までにか年《とし》は經《へ》ぬらむ
(850)  白那彌之 濱松之木乃 手酬草 幾世左右二筒 年薄經濫
 
 題に、『山上歌一首』とあり、左注に、『右一首或云河島皇子御作歌』とある歌である。そして、この歌は、卷一(三四)に、『幸于紀伊國時川島皇子御作歌或云山上臣憶良作』と題して、『白浪乃濱松之枝乃手向草幾代左右二賀年刀經去良武《シラナミノハママツガエノタムケグサイクヨマデニカトシノヘヌラム》一云|年者經爾計武《トシハヘニケム》』とあるものであるから、若し、作者を、『山上歌』を主にして考へれば、山上憶良の歌だといふことになる。卷一のこの歌の左注に、『日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸(シタマフ)2紀伊國1也』とあるので、その時の憶良の歌としては不合理だとする論者もあるが、憶良が齊明天皇の六年に生れたとせば、この歌を作つた時には三十一歳になつて居る筈で、人麿よりも年長者である。ただ歌人としての生活は人麿ほどで無かつたと考へていいが、『或云山上憶良作』といふ言傳があつたところから推考しても、憶良作を否定し去ることが出來ないのである。私は寧ろ卷一(三四)の題を主として考へるから、川島皇子の歌として味ふことに傾いてゐるが、今は人麿歌集のことを云つてゐるのだから、一言するのである。約めていへば、朱鳥四年即ち持統四年に憶良が紀伊でこの歌を作つても別に不思議ではないといふことになり、また、憶良の歌人生活が人麿に接觸してゐることも敢て不合理でないことが分かつて興味ふかいのである。
 一首の意は、白浪の寄せてゐる海邊の松の木に布帛を掛けて旅の無事ならむことを希つて神を(851)祭つた、その手向草《たむけぐさ》がいまだに殘つてゐるが、この布帛を手向けてから幾何の歳月を經たことであらうか。といふので、松の木の繁つてゐるのに手向のなごりを見つつ古へを偲んだ歌であらう。
 第二句の『濱松之木』は、考で『濱松之本《ハママツガネ》』の誤とし、略解もそれに從ひ、古義では、卷一の如く、『濱松之枝《ハママツガエ》』とすべきことを云つてゐるが、この歌は恐らく、人麿歌集には、『濱松之木』とあつたものであらう。ただ、『濱松之枝』の方が自然で無理がないから、原作はさうであつただらうと推察せられる。
 この歌(卷一の歌)は、古今六帖にも新古今にも夫木和歌抄にも載つてゐる。この、『白浪の濱』は、『※[(貝+貝)/鳥]之春《ウグヒスノハル》』(卷十。一八四五)などと同じく、『の』で續ける格であるが、後世俳句の方で『の』で續ける法を行つてゐるのも、別途に發達した同類の『の』だと謂つていい。井上博士は之を准枕辭の中に入れて考へてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七一七〕
  三河《みつかは》の淵瀬《ふちせ》もおちず小網《さで》刺《さ》すに衣手《ころもで》濕《ぬ》れぬ干《ほ》す兒《こ》は無《な》しに
  三河之 淵瀬物不落 左提刺爾 衣手湖〔潮〕 干兒波無爾
 
(852) 『春日歌一首』といふ題がある。諸注釋書が、春日藏首老の作だらうと云ふ。『老ナルベシ。次ノ次ニ有ニ准ゼバ日ノ下ニ藏ノ字ヲ落セルカ』(代匠記精)。
 ○三河之 舊訓ミツカハノ(諸書同訓)。新考ヤマガハノ。○淵瀬物不落・左提刺爾 舊訓フチセモオチヌ・サデサシニ。代匠記精フチセモオチズ・サデサスニ。○衣手湖 舊訓コロモデヌレヌ。代匠記精で、『湖は沾ヲ誤レルナルベシ』と云つたが、古寫本中、『潮』(類・古・神)となつてゐるのがあるから、義訓でヌルと訓んだものであらうか。三河《みつかは》は、『三河ハヒエノ山ノ東坂本ニアリトカヤ』(代匠記精)とあるが未だ審でない。新考では、これを普通名詞として、ヤマガハノとしたが、やはり固有名詞として解釋する方が歌柄がよくなるやうである。
 一首の意は、三河《みつかは》の淵も瀬も殘らず小網《さで》を用ゐて魚捕をしたので、このやうに着物が濡れてしまつた。乾して呉れる女(妻)も居ないのに。といふ歌である。
 民謠らしく歌つてゐるが、三河が固有名詞で、近江の河だとすると、京からの旅なども聯想せられ、實際の吟で却つておもしろいのである。六帖には、川の歌として、『みつ河の淵瀬も知らずさほさしてかりの衣をほす人もなし』となつて居る。
 
          ○
 
(853)  〔卷九・一七一八〕
  率《あとも》ひて榜《こ》ぎ行《ゆ》く船《ふね》は高島《たかしま》の阿渡《あど》の港《みなと》に泊《は》てにけむかも
  足利思代 榜行舟薄 高島之 足速之水門爾 極爾濫〔監〕鴨
 
 『高市《たけちの》歌一首』といふ題がある。諸注釋書、高市黒人の作としてゐる。『足利思代』は、舊訓アシリヲバ。代匠記初書入【校本萬葉】アトモヒテ。『高島之・足速之水門』は、近江高島島郡安曇で、古の安曇川の河口である。アトモヒテは相率ゐての意。卷二(一九九)に、安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》とあつて既に解釋した。『極爾濫鴨』、の『濫』を古寫本(類・古・神)によつて『監』に改めた。
 一首の意は、幾艘の舟をも相率ゐて榜いで行つたあの舟はもう高島の阿渡の港に著いたころであらう。といふのである。
 淡々としてゐて厭味がなく、然かも情と景とを相調和せしめてゐるから、黒人の歌として異議のないところであらう。『阿渡の港に泊てにけむかも』には感慨がある。そしてその感慨の細かいのもまた黒人の特色と謂つていい。
 この歌は、六帖に、作者を高市の皇子とし、初句『あしりして』、結句『よりにけるかな』として載つてゐる。又夫木和歌抄湊の部に、初句『あしりをば』として、同蘆の部に『あしとみてこ(854)ぎ行舟はたかしまのあとまの道につきにけんかも』として載り、共によみ人しらずになつてゐる。
 
          ○
 
  〔卷九・一七一九〕
  照《て》る月《つき》を雲《くも》な隱《かく》しそ島《しま》かげに吾《わ》が船《ふね》泊《は》てむ泊《とまり》知《し》らずも
  照月遠 望莫隱 島陰爾 吾船將極 留不知毛
 
 『春日藏歌一首』といふ題があり、左注に、『右一首、或本云小辯作也。或記姓氏、無記名字、或稱名號、不※[人偏+稱の旁]姓氏、然依古記便以次載、凡如此類下皆效焉』とある歌である。この長い注があつて、それから、『元仁歌三首』。『絹歌一首』等と續いてゐる。この歌の下に、小辯歌一首として、高島之足利湖乎榜過而塩津菅浦今香將榜《タカシマノアトノミナトヲコギスギテシホツスガウライマカコグラム》(一七三四)といふのがあるから、小辯といふのも、そのあたりに旅して作歌して居ることが分かる。
 この歌の意。照る月を雲が隱してくれるな。島かげにこの舟を碇泊させようとおもふが、よい碇泊處が分からない。
 樂に平淡に歌つてゐるが、實際の吟味だといふ氣を起させるところのある歌で、ただ一般化さ(855)せる民謠的な歌と違つてゐる。それは、『島陰爾吾船將極《シマカゲニワガフネハテム》』と云つて、『留不知毛《トマリシラズモ》』と止めたところにその要素があるのである。この歌の下の方、卷九(一七三二)に、母山霞棚引左夜深而吾舟將泊等萬里不知母《オホバヤマカスミタナビキサヨフケテワガフネハテムトマリシラズモ》とあるのと甚だ好く似てゐる。かういふ實際の場合が多かつたので、自然にその表現をも模倣せられるに至つたものであらう。
 この歌は、六帖及び續千載集に、作者不明で、第四句『わが舟よせむ』として載り、家持集に、第四句『わが舟とめむ』として載つてゐる。なほ、『照月を雲な隔てそ夜舟こぐ我もよるべき島隱れなし』(【從三位頼政卿集】)のやうな模倣歌も作られてゐる。
 
 以上で、人麿歌集出の歌と考へられてゐる歌をば皆評釋してしまつた筈であるが、考で、(一七二五)の歌の左注『右柿本朝臣人麻呂之歌集出』をば、『登筑波山詠月云々以下の十四首人万呂集の哥なる事既にいふがごとし』と解釋してゐる。さすれば、
      登筑波山詠月一首
  〔一七一二〕天原《アマノハラ》 雲無夕爾《クモナキヨヒニ》 烏玉乃《ヌバタマノ》 宵度月乃《ヨワタルツキノ》 入卷〓毛《イラマクヲシモ》
      幸芳野離宮時歌二首
(856)  〔一七一三〕瀧上乃《タギノウヘノ》 三船山從《ミフネノヤマユ》 秋津邊《アキツベニ》 來鳴度者《キナキワタルハ》 誰喚兒鳥《タレヨブコドリ》
  〔一七一四〕落多藝知《オチタギチ》 流水之《ナガルルミヅノ》 磐觸《イハニフリ》 與杼賣類與杼爾《ヨドメルヨドニ》 月影所見《ツキノカゲミユ》
       右三首作者未詳
 以上の三首も人麿歌集中に含まることとなるが、(一七一四)の次の左注に、『右三首作者未詳』とあるのによっても、人麻呂之歌集出とは解釋し難く、一般の注釋書も、さうは考察してゐないから、評釋外の歌と看做したが、芳野歌二首にはなかなか好いところがあつて棄てがたい。
 
 
(857) 【附録】【宮内省圖書寮本】柿本人麿集
 
(859) 寫本云
寛元三年八月五日以或
所御本書了 此書一
本書也
哥都合七百六十首
     尤可秘々々
 
(860)柿本人麿集 上
 
 春部
  早春 若菜 月
  雪 霞 風
  雨 露 遊絲
  川 梅 柳
  櫻 款冬 野望
  鶯 喚子鳥
 
    早春
いまさらにゆきふらめや|はしら雲のたなひく春と《もかけろふのもゆるはるへと》なりにしものを
かせませにゆきはふ|りつゝ《れとも》しかすかにかすみたなひく春は來にけり
(861)    春哥
いにしへの人のうへけむ杉|の《か》枝にかすみたなひく春はきぬらし
    春哥
久かたのあまのかこやまこの|くれに《ゆふへ》かすみたなひく春たつらしも
    若菜
あす|から《より・々》はわかなつませむかたをかのあしたのはらはけ|さ《ふ》そやくめる
きみかためやまたのさはにゑくつむとゆきけの水に|ものすそぬらす《もすそぬらしつ》
   月
    詠月
あさかすみはるひのくれはこのまよりうつろふ月をいつ|しかまたん《かまつへき》
    つきをゑいす
春かすみたなひくけふのゆふつくよきよくてるらむたかまつの野に
    詠月
春されはこかくれおほきゆふつくよおほつかなしも山かけにして
   雪
(862)むめの花ふりおほふ雪をつゝみもて君にみせんととれはきえつゝ
むめの花さきちりすきぬしかすかにしらゆき庭にふりかさねつゝ
嶺のうへにふりをける雪もし  (ママ)こゝにちるらし春にはあれとも
うちなひきはるさりくれはしかすかにあま雲きりあひ雪はふりつゝ
   霞
    かすみをゑいす
きのふこそ年はくれしか春かすみ春日の山にはやたちにけり
きのふこそつきはすきしかいつのまに春のかすみはたちにけるかも
    詠霞
冬過て春はきぬらしあさ日さす春日の山にかすみたな引
こゝにしてかすかの山をみわたせはこ松の枝にかすみたなひく
    詠霞
     やまたかみふるゆきと云哥のかへし
うくひすのはるになるらしかすかやまかすみたなひくよめにみれとも
    霞
(863)かけろふのゆきされくれてきつ人のゆつきかたけにかすみたなひく    春哥
こらか手をまきむく山にはるされはこのはしのきて霞たなひく
今朝ゆきてあすはこむといひしかすかにあさまつ山にかすみたなひく
こらかなにつけのよろしきあさつまのかたやまきしにかすみたなひく
   風
わかかさす柳のいとをふきみたる風にかいもかむめ|か《の》ちるらん
   雨
    あめをゑいす
春|さめ《のあ》にありけるものを立かくれいもかい|つ《へ》ちにけふは暮しつ
   露
    詠露
いもかためほつ枝のむめをたをるとはしつえのつゆにぬれにけるかな
   遊絲
いまさらに雪ふらめやもかけろふのもゆる春へとなりにしものを
(864)   河
    詠川
いまゆきてきくしのはもかあすか河春雨ふりてたきつせのをとを
   梅
雪はさむみさきはひらけてむめの花よしこのころはさくもあるかな
むめの花それともみえすひさかたのあまきる雪のなへてふれゝは
    詠花
雪みれはいまた冬なりしかすかに春かすみたつむめはちりつゝ
    詠花
梅のはなまつさく枝をたをりてはいとゝなつけてよそへてんかも
春されはちらまくおしきむめのはなしはしはさかす|つゝみてもかも《・つほみてもかも》
梅のはなさきてちるとはしらぬかもいまゝていてゝいもにあひみぬ
たかそのゝ梅にかありけむこたかくもさけるもみえてわかおもふまてに
こまなへてたかき山邊をしろたへににほはしたるはむめのはなかも
    詠花
(865)うつたへにとりは|まなねと《つなひても・はまねと》しめはへよも|ゝ《ろ》まてほしきむめのはなか|な《も》
    詠花
年ことに梅はさけともうつせみのよの人のみも春なかりける
    詠花
誰そのゝむめの花そも久かたのきよき月夜にこゝたちをくる
    詠花
きてみへき人もあらなくにわか|やと《いへ》とのむめのはつ花ちりぬともよし
    詠花
いつしかもこの|よ《よひ》あけなんうくひすのこつたひちらすむめのはなみむ
   柳
春雨のうちふるときはわかやとの柳の枝は色つきにけり
    詠柳
霜かれの冬のやなきはみる人のかつらにすへくもえにけるかな
    詠柳
淺みとりそめかけたりとみるまてに春のやなぎはもえにけるか|な《も》
(866)山|本《のは・きは》にゆきはふりつゝしかすかにこの河柳もえにけるか|な《も》
    詠柳
梅のはなとりもてみれはわかやとのやなきのまゆみおもほゆるかも
青柳のいとのほそさをはるかせにみた|れ《らす》る色に|あ《み》せん|と《こ》もか|も《な》
    詠柳
あさな/\わかみるやなきうくひすのきゐてなくへくしはにはやなれ
もゝしきのおほみや人のかさしたるしたり柳はみれとあかぬかも
   櫻
    詠花
春雨にあらそひかねてわかやとのさくらの花はさきそめにけり
    詠花
みわたせは春日の野へに霞たちさはにはへるはさくら花かも
    詠花
    詠花
うくひすのこつたふむめのうつろへはさくらのはなのと  《(ママ)》たまけぬ
(867)足引のやまのまててらすさくらはなこのはるさめにちりぬらむかも
きゝすなくたかまとのへにさくらはな|と《ち》りなからふるみむ人もかも
    詠花
春雨はいたくなふりそさくらはないまたみなくにちらまくおしも
    詠花
さくら花ときはすき|す《ね》とみる人のこひのさかりといまかちるらん
春雨にたなひく山のさくらはなはやくみましをちりすきにけり
ちりぬともいかてかしらむ山さくらはるのかすみのたちしかくせは
さくら花とくちりぬともしらぬかもいまゝていもかいてゝあひみぬ
    花
まきもくのひはらのかすみたちかへりみれとも花のあかすもあるかな
    詠花
のとかはのみなそこさへにてるまてにみかさの山はさきにけるかも
   款冬
    詠花
(868)花さきてみはならすともなかけくにおもほゆるかもやまふきのはな   野望
    野遊
春の野にこゝろやらむとおもふとちいてこしけふくれすもあらぬか
    野遊
春かすみたつかすかのゝゆきかへりわれもあひみむいやとしのはに
   鴬
あをやきのかつらにすへくなるまてにまてともなかぬうくひすのこゑ
    詠鳥
うちなひ|く《き》はるたちぬらし我かとのやなきのうへにうくひすなきつ
梅のはなさけるをかへにいへゐせはともしくもあらしうくひすのこゑ
春かすみなかるゝも|と《は》に青柳の枝くひもちてうくひすな|らん《くも》
    詠鳥
春なれはつま|を《や》もとむ|る《と》うくひすのこすゑをつたへなきつゝもとな
    詠鳥
(869)むめかえに鳴てうつろふうくひすのはねしろたえにあはゆきそふる
    詠鳥
あつさ弓はるやまちかくい|ゑ《へ》ゐしてつきてきくらむうくひすのこゑ
    詠鳥
やまの|ま《きは》にうくひすなきてうちなひく春とおほへとゆきふりしきぬ
    詠鳥
むらさきのねはふよこのゝ春のには君をかけつゝうくひずなくも
    詠鳥
冬|こもり《かくれ》春さりくらし足引のやまにも野にもうくひすなくも
    詠鳥
うちなききはるさりくれはさゝのはにをはうちふれて鶯なくも
   喚子鳥
    詠鳥
朝かすみやへ山こえてよふことりなきやなかくるやともあらなくに
かすかなるはかひ山よりさほのう|ら《ち》へ|さしてよふなり《なきゆくなるは》たれよふことり
(870)あさきりにしぬゝにぬれてよふこ鳥みふね|山より《のやまを》なきわたるみゆ
    詠鳥
わかせこをならしのやまのよふことりきみよひかへせ夜のふけぬとき
こたへぬになきなとよみそよふことりさほの山へをのほりくたりに
                  已上八十首
 
夏部
 卯花  花橘  藤花
 瞿麥  郭公
 
   卯花
   ※[いおり点]う《在中》くひすのかよふかきねのはなのうきことあれやきみにきまさぬ《イ本》
    詠花
ときならぬたまをそぬけるうの花のさつきをまたはひさしかるへき
   橘
(871)    花
われこそはにくゝもあらめわかやとの花たちはなを|お《みイ》るにはこしとや
    詠花
かのほそきはなたち花をたまにぬきをくらんいもはみむとてもあるか
かたよりにい|と《も》をこそよれわかせこかはなたち花をぬかむとおもひて
    詠花
ほとゝきすなきてよとむるたち花の花ちる庭をみむ人やたれ
    花をゑいす
風にちる花たちはなを袖にうけて君がためにとおもひぬるかな
    詠花
わかやとの花たちはなはちりにけりくやしきことにあへる君かも
   藤花
    詠花 ※[いおり点]たこのうらにそこさへにほふゝちなみをかさしてゆかむみぬ人のため《イ本》
春日野のふちはちりにきなにをかもみかりの人のおりてかさゝむ
   瞿麥
(872)みわたせはむかしのゝへのなてしこのちらまくおしもあめなふりこそ
    詠花
野へみれはなてしこのはなちりにけりわかまつあきはちかくゝるらん
   郭公
わか宿のいけのふち波さきにけりやまほとゝきすいつかきなかん
    詠鳥
あさかすみたなひく野へ|に《の》足引のやまほとゝきすいつかきなかん
ほとゝきすあく時もなしあやめ草かさゝむひよりきてなきわたれ
    詠鳥
藤浪のちらまくおしきほとゝきすいまきのをかをなきてこゆなり
ほとゝきすきなくとよますをかのなるふちなみみれは君はこしとや
    詠鳥
もとつ人ほとゝきすをやまれにみむいまやなかくるこひつゝをれは
    詠鳥
ほとゝきすなくこゑきくやうの花のさきちるをかにたくさひくいも
(873)    詠鳥
卯のはなのちらまくおしみほとゝきす野にいて山にいりきなきとよます
    詠鳥
かくはかりあめのふらくにほとゝきす卯のはな山になをかなくらむ
    とひこたへたるうた
卯花のさきちるをかにほとゝきすなきてさわたれきみはきゝつや
    詠鳥
さつき山うの花さかりほとゝきすきけともあかすまたもなかむかも
    詠鳥
朝きりのやへやまこえてほとゝきすうの花なからなきてこゆらし
    詠鳥
たちはなのはやしをうへはほとゝきすつねに冬まてすみわたるかに
    詠鳥
郭公はなたち花のえたにゐてなきとよませははなはちりつゝ
    寄鳥
(874)さつき山はなたち花にほとゝきすかくろふときにあへる君かも
郭公きゐてもなくかわかやとのはなたち花のつちにおつるみむ
たちはなの花ちる里にかよひなは山ほとゝきすとよまさむかも
わかきぬを君にきせよとほとゝきすわかけよふひの袖にきゐつゝ
    同哥
きつゝやと君かとはせるほとゝきすしのゝにぬれてこゝになく|なり《める・なる》
    詠鳥
あまはりの雲にたくひてほとゝきすかすかをさしてなきわたるなり
    詠鳥
あひかたき君にあへるよほとゝきすことゝきよりはいまこそなかめ
    詠鳥
ほとゝきすなかなくこゑはわれにゑしさつきのたまにましへてぬかん
    詠鳥
ほとゝきすけさのあさまになきつるはきみきくらむかあさいかぬらん
    詠鳥
(875)やまとにはなきてかくらんほとゝきすなかなくことになき人をほめ
    詠鳥
こよひこのおほつかなきにほとゝきすなくなるこゑのをとのはるけさ
    詠鳥
月夜よしなくほとゝきすみまくほしわかくさとれるみる人もかも
    詠鳥
おしへかしゆくほとゝきすいまこそはこゑのかれかにきなきとよます
夏なれはやまほとゝきすとほ/\といまにあはてもかにけるかも
夏山になくほとゝきすいまこそはこすゑはるかになきひゝらか|す《め》                         已上三十九首
 
秋部
 七夕  風   雨
 露   霧   山
 黄葉  鹿鳴草 薄
(876) 秋田  鴈  鹿
 茅蜩
 
   七夕
秋かせにかはかせさむみひこほしのけさこく船になみのさはくか
あまの河かちをときこゆひこほしのたなはたつめとこよひあふらむ
わかためとたなはたつめ|と《の》そのやとにおるしらねのはおりてけむかも
わかせこにうらひれをれはあまのかはふねこきくらきかちのをときこゆ
天の河水かけ草のあきかせになひくをみれはときはきぬらし
秋されはかはきりのたつあまのかはかはにゐかひゐこふるよそおほき
あまのかはやすのかはらにさたまりてこゝろくらへはときまたなくに
あまの河よふねこきいてゝあけぬともあはむとおもふよ袖かへすあらん
あまの河むかひにたちてこふるときことたにつけむいもことゝはむ
あまのかわやすのわたりにふねこきてあきたちまつといもにつけこそ
おほそらにかよふわれそらなれゆへにあまのかはらをなつみてそくる
(877)久かたのあまのかはらにぬゑとりのうらなきしつも戀しきまてに
あまの河ゆきてやみむとしらまゆみひきてかくるゝ月ひとをとこ
あまの川よはふけにきつさぬるよはとしのまれらにたゝひと夜のみ
あまの川せにたちいてゝわかまちしきみきかるなり人もきくまて
こふるひはけなかきものをあまのかわへたてゝまたやわかこひをらん
あまの河こそのわたりのうつろへはかはせふむまによそふけにける
ゆふつゝもゆきかふそらをいつまてかあふきてまたむつきひとをとこ
さゝかにのよはふかしつゝさぬる夜はとしのまれらにたゝひとよのみ
あからひくいろたへのこのかすみれはひとつまゆへにわれこひぬへし
やちほこのかみのみよゝりともしつまひとりにけりつきてしもおもへは
戀しきはけなきものをいまたにもともしむへしやあふへきよたに
よろつよをてるへき月も雲かくれくるしきものそあはむとおもへと
よろつよとたつさはにゐてあひみともおもひすくへきこひならなくに
ひとゝせになぬかの夜のみあふ人のこひもつきねはよはふけぬらん
しら雲のいほへかくれてとほくともよかれすをみむいもかあたりは
(878)君にあはてひさしき時におりきたるしろたへころもあかつくまてにわかまちしみはきさきぬいまたにもにほひにい|ふ《ゆ》なをちかた人に
とふつまとたまくらかへてねたる夜はとりねなくなあけはあくとも
あひみらくあきたえねともいなのめのあけゆくをこけりふなてせむいも
ひこほしをなけかすいもかことたにもつけにきつるみれほくろしみ
   風
わかやとのは|な《ちす》のうへ|にさくしらつゆの《のしらつゆの》をきにしひよりあきかせそふく
秋山のこのはもいまたもみちねはけさふく風は霜をきぬへく
   雨
    詠雨
秋たかるたひのいほりにしくれふりわか袖ぬれぬほす人なしに
   露
    寄露
秋はきのさきたる野へのゆふつゆにぬれつゝきませよはふけぬとも
   霧
(879)われゆへにいはれしいもはたかやまのみねのあさきりすきにけむかも
秋くれはかすかのやまにたつきりをうみとそみけるなみたゝなくに
   秋山
くれなゐのやしほのあめやふりてしむたつたの山の色つくみれは
からころもたつたのやまはしらつゆのをきしあしたより色つきにけり
露霜もをくあしたよりかみなひのみむろの山も色つきにけり
   紅葉
つまかく|れ《す》やのゝ神山つゆしもににほひそめたりちらまくおしも
あさつゆにそめはしめたるあきやまにしくれなふりそありわたるかね
はふりこかいはふやしろのもみちはもしめをはこえてちるてふものを
たつたかはもみちはなかる神なひのみ室の山にしくれふるらし
     このうたはたつた川のほとにおはします御ともにつかまつりて
   鹿鳴草
ゆふされは野へのあきはきすゑわかみつゆにかれかねかせまちかたし
    寄花
(880)鴈かねのはつこゑきゝてさきたてるやとのあきはきみにこわかせこなにすとか君をいとはむあきはき|の《は》そのはつはなのうれしきものを
わかやとのはな咲にけりちらぬまにはやきてみへしならのさと人
さきぬともしらすしあれはもたもあるをこのあきはきをみせつゝもとな
草ふかみきり/\すいたく鳴やとのはきみに君にいつかきまさん
秋|たかる《のたの》かりほのやとのにほふまてさける秋はきみれとあかぬかも
さをしかのこゝろあひおもふ秋はきのしくれのふるにちらまくおしも
はきの花|おしけむ秋の《ちるはおしけむ》あめならは《あきのあめの》しはしなふりそ色のつくまて
秋きりのたなひくをのゝはきのはないまやちるらむまたあかなくに
よをさむみころもかりかねなくなへにはきのした葉も色つきにけり
   花薄
さをしかのゐる野のすゝきはつをはないつしかいもかたまくら|に《を》せん
よそにありて雲井にみゆるいそのうへにさけるをはなをとらてはやまし
   秋田
秋たかるかりほさへなりわかをれはころもてうむしつゆをきける
(881)秋田のほのうへにをけるしら露のけぬへくわれはおもほゆるかも
   鴈
あやしくもなかぬかりを|か《も》しらつゆ 《(ママ)》をきてあしたはひさしきものを
あつさゆみしとゝにぬれてきゝこむとわかやまより 《(ママ)》なきわたるかな
神無月しくれのあめをまつとかもかりのなくねのこゝにともしき
   鹿
秋はきのおとろへなすをおしむかも野にいてつゝさをしかのなく
さをしかのあさふすをのゝ草わかみかくれかねてか人にしらる|ゝ《な》
あめのよにあはさらめやもあし引のやまひことよみよひたてまくも
   ※[虫+茅]蜩
もたもあらんときもなかなむひくらしのものおもふときになきつゝもとな
                  已上六十六首
 
冬部
 時雨  霜  電
(882) 雪  殘葉  網代
 
   時雨
もみちはをゝとすしくれのふるなへによさへそなかきひとりしぬれは
たまたすきかけぬときなくわかこふるしくれしふらはぬれつゝも|ゆ《し》かん
ひとりにはとくにしきこわかこふるいもかあたりにしくれふれみむ
けふありてあすはすきなむ神な月しくれにまかふもみちかさゝむ
   霜
あさしものきえみきえすみおもひつゝいつしかこよひはやもあけむかも
そらをとふ《あまとふや》かりの|う《つ》は|ゝ《さ》のお|も《ほ》ひはのいつこも|るこ《りて》かしも《の》ふるとに
   電
わか袖にあられたはしりまきからしけすもかあれやいもかみんため
   雪
足引のやまにしろきはわかやとのきの|○《ふの》くれにふりしゆきかも
よをさむみあさとをあけて|いて《けさ》みれはにはもはたらにみゆきふりたり
(883)まきもくのひはらもいまたく|むゐ《もら・左傍線(消)》ねはこまつかすゑにあは雪そふる
ならやまのみねな|とよ《をき・左傍線(消)》りあふうへしこそまかきのもとのゆきはけすけれ
ことふらは袖さへぬれてとほるへくふらむゆきのそらにけにつゝ
ゆふされはころもてさむしたかまつのやまの木ことにゆきそふりける
あはゆきはけふはなふりそしろたへの袖まきほさむ人もあらなくに
足引の山路もしらすしらかしのえた|もとをゝに《にもはにも》雪のふれゝは
足引の山かもたかきまきもくのきしの小松にみゆきふりけり
わか袖にふりつる雪もなかれきていもかたもとに雪もふれぬる
はなはたもふらぬ雪ゆへこちたくもあまのみそらはくもりあひつゝ
山たかみふりくる雪をむめの花ちり|かもくる《くるかも》とおもひけるかな
雪をゝきてむめをなこひそ足引のやまかたつきていつるせ|な《る》きに
   殘紅葉
やたのゝにあさち色つくあら 《(ママ)》みねのあは雪さむくそあるらし
   網代
    あふみよりのほるとて宇治河のほとりにてよめる
(884)ものゝふのやそうち河のあしろ木にいさよふなみのゆくゑしらすも                         已上二十二首
          都合二百七首
 
(885)柿本人麿集中
 
戀部
 不被知  被知
 會    會後
 
   不被知
    春相聞
春やまの|きりにまかへる《かすみにまとふ》うくひずもわれにまさりてもの|お《は》もふら《や》んや
したにのみこふれはくるしなてしこのなにさきいてよあさな/\みむ
このくれにゆふやみなるにほとゝきすいつこをいつとなきわたるらん
もみちはにをけるしらつゆいろはにもいてしとおもふことのしけゝむ
(886)秋の野のかりのしたにすむしかもわれらかことくものおもふらめやさほやまにたなひくゝものたゆたひにおもふこゝろをいまそさたむる
おほと|り《も》の水のしらなみ|あひたなくわかこふらくを人しらなくに《まなくわ|れ《か》こふらく人のしらてひさしき》
はきやすのいけのつゝみのかくれすのゆくゑもしらすこりねまとひぬ
いそのうへにおふるしまつのなをゝしみ人にしられすこひわたるかも
いそのうへにおひたるあしのよをゝしみをとにしられてこひつゝそふる
たらちおのおもひかへさすますらをのこひてはものしのひかねて|む《も》
くれなゐにころもをそめてきほしきをにほひやいてむ人のしるへく
   被知
とをやまにかすみたなひきいやとほにいもかめろまてわかこふるかも
    春哥
まきもくのひはらにたてるはるかすみはれぬおもひはなくさ|まめ《めつ》やは
いまさらにいもにあはてやはるかすみたなひくのへのはなにちりなん
あをつゝいもをたつぬるはるかすみかすみたちもちこひはうしつゝ
かくてのみこひやはたらむはるやまのみねのしら雲すくとはなしに
(887)    しものよす
春たてはみくさのうへに置霜のけつゝもわれはこひわたるかな
    春相聞
いてゝみるむかひのをかのもとしけくさきたる花のならすはやまし
    春相聞
冬こもりはる咲花をたをりもてちえのかきりもこひ|もするかな《しかるらん》
はつ草のしけきわかこひおほうみのかたゆくなみのちへつもりぬ
さくら花|いたく《えたに》なれたるうくひすの|をへ《うつ》しこゝろもわかおもはなくに
春されはのへになくてふうくひすのこゑもきこえすこひのしけみに
    寄蝦
あさかすみかひやかしたになくかはつこゑたにきかはわれこひむやも
おほそらにたにひく 《(ママ)》あやめくさみれはをのつゑしわひぬへし
    寄日
みな月のつちさへさけててる日にもわかそてひめやいもにあはずして
    はなによす
(888)うのはなのさくとはなしにあるひとにこひやわたらむかたおもひして
    草をよめる
このころのこひのしけゝくなつくさのかりそくれともおひし|くかこと《けるらん》
夏草のしけみわかこひすみよしのはまのしらなはへにとまりぬ
    寄花
よそにのみみつゝやこひむくれなゐのすゑつむ花の色にいて|す《ぬ》とも
    寄草
まくすはふなつのこしけくかくらひはまとわかいのちつねならぬやも
かけてのみこふれはくるしなてしこのはなにさかなむあさな/\みむ
われのみやかくこひすらむかきつはたにほへるいもはいかにかあらん
はるされはまつさ|い《き》くさのさちあらはのちもあひみむこふなわ|きもこ《かいも》
    詠鳥
ほとゝきすなくやさつきのみしか夜もひとりしぬれはあかしかねつも
わかことく君をこふとやほとゝきすこよひすからにいねかてにする
ほとゝきすなくさほ山のまつのねのねこゝろみまくほしき君かな
(889)わかやとのはなたち花にほとゝきすさけひてなかぬこひのしけみに木かくれていもかかきねにほとゝきすなかき日くらしこひやわたらん
    寄夜
おしへかしこひとおもへとあきかせのさむくふく夜はをしそおもふ
秋の夜をなかしと思へとつもりにしこひをつくさはみしかゝりけり
    寄月
君こふとしなはうらむなわかをれは秋かせふきてつきかたふくを
あまの河みなそこまてにてらすつねつゐにふな人くもにあはすや
    寄風
わきもこかころもあらなむ秋風のさむきこのころしたにきましを
はつせかせかくふるよるをいつまてかころもかたしき我ひとりねむ
    寄露
秋のほををしのにをしみをく露のけかもしなましこひつゝあらすは
秋はきのうへにをきたるしら露のけかもしなましこひつゝあらすは
よるはをきてひるはきえぬる白露のけぬへきこひもわれはするかな
(890)わかやとのあきはきのうへに置露のいちしろくもわれこひめやも
やまちさへしらつゆをもみうらふして心にふかきわかこひやます
ゆきゆけとあはぬもの|ゆへ《から》ひさかたのあまつゆしものうかひゐるかな
うはたまのよるよりかくれとほくともいもしつたへはゝやくつけこよ
    寄雨
秋はきを|ちら《をと》す|なかあめ《しくれの》ふるころはひとりおりゐてこふるまそおほき
長月のしくれのあめのやまきりにけふきわかむねたれみはやさむ
    獻弓削皇子
神なひの|いた《うみ》よりいたにある秋のおもひもすきすこひのしけきに
    寄黄葉
あし引のやまさ|な《ね》かつらもみちまていもにあはすやわかこひをらん
わかやとのくすはひことに色つきぬきまさね君はなにこゝろそも
もみちはのすきかてねこをひとつ松とみつゝやあらむ戀しきものを
    秋相聞
あき山にしもふりおほひ木葉ちるとしはゆくともわれわすれめや
(891)こゝろのみおもひしものを秋山のはつもみちはの色つきにけり
ことに出ていへはゆゝしみあさかほのよにもひらけぬ戀もするかな
    寄花
わかさとに今咲はなのをみなへしたえぬこゝろになをこひにけり
いさなみにいまもみてしか秋はきのしなひにあらぬいもかすかたを
はきの花さけるをみれは君にあはすまこともひさになりにけるかな
秋はきをちりすきぬへみたをりもてあれともあかす君にしあはねは
わかやとにまけるあきはきちり過てみになるまてに君にあはぬかも
ふ|く《ち》はらのふりにしさとの秋はきはさきてちりにききみ待かねて
秋はきの花のゝすゝきほにはいてすわかこひわたるかくれつまほも
わきも子にあふさか山のしのすゝきほにはさきいてす戀わたるかも
つきくさのかりなるいのちある人をいかにしりてかのちにあはぬてふ
あさつゆにさきすさいたるつきくさのひたくるともにけぬへくおもほゆ
あさひらけゆふへはかゝるつきくさのけぬへき戀も我はするかな
こふるひのけなかくあれはわかそのゝからゐの花の色に出にけり
(892)あきつけはみくさのはなのあはぬかにおも○《・ふ歟》としらすたゝにあはされは
この山のもみちのしたらはななれかはつ/\にみてさらに戀しき
    みつによせたる
すみよしのきしを|よせたる《たまはり》まきしいねのしかもかるまてあはぬ君かな
    寄水田
春かすみたなひくたひにい|を《ほ》りして秋たかるまてお|む《も》はしむらて
秋やまをかりいほにつくりいほりしてあるらむきみをみむよしもか|な《も》
秋の田のほむけのよめるかたよりにわれはものおもふつれなきものを
磯の神ふるのわさたのほにはいてすこゝろのうちにこふるこの比
    寄鴈
いてゝいけはそらとふかりのなきぬへとけさ/\といふにとしそへにける
あらちをのかるやのさきにたつしかもいとわかことくものはおもはし
さをしかのふすくさむさ|の《は》みえねともいもかわたりをゆけはかなしも
草かくれなくさをしかのみえねともいもかあたりをゆけは戀しな
    寄蝉
(893)日くらしはときとなけともわかこふるたをやめわれはさためかねつも
ひくらしはとこりになけと君こひてなをやふれしをはなは 《(ママ)》むこす
    寄蟋
きり/\すまちよろこへるあきの夜をぬるしるしなきまくら○《と》われは
    冬相聞
あはゆきのちさとふりしき戀しくはけなかくみつゝわれやしのはん
ふるゆきのそらにけぬへくこふれともあふよしもなみつきそ 《(ママ)》き《に》ける
あらたまの|いつとせ《としは》ふれとわかこふるあとなきこひのやまぬあやし|な《も》
あさかけにわかみはなりぬたまかきにほのかにみえていにしこゆへに
いつとても戀せぬときはなけれともゆふかたまけて戀はすへなし
けふ/\ときみかまつよのあけぬれはなかきこゝろをおもひかねつる
    正述心緒
人のぬるあ|ら《・傍線(消)》《ち》ねもねすてはしきやし君かめをなをほしみな|せて《・二字傍線(消)》《けく》か
あきかしはぬる|わ《や》かは|へ《つ》のしのゝめに人めもあひあはすつまなしうちに
雨つちといふなのたえてあらはこそいもにわかあふこともやみなめ
(894)おほつちもとれはつくてふ世中につきせぬものは戀にそ有ける
すかのねのしひ/\にてらすひにほすやわか袖いもにあはすして
むかしよりあけて|○《し》ころもかへ|さねは《・〔二字傍線〕(消)》《りみす》あまのかはらにとしそへにける
くもたにもしるくしたゝはなくさめにみつゝもしてむたゝにあふまて
たつたやまみねのしら雲たゆたふにおもひしやれはまつそすへなき
あま雲をちへにかきわけあまくたる人もなにせぬいもにあはすは
いまもおもふのちもわすれす|かるころも《すりころも》みたれて後そ我戀まさる
こゑにたにあひぬといはてくらはしのみねのしら雲たゆたひにけり
ひとりゐておもひみたれてあま雲のたゆたふこゝろわかおもはなくに
あをやきのかつらき山にたつ雲のたちてもゐてもいもをしそ思ふ
しらま弓いそへの山にときはなるいのちなれはや戀つゝをらん
むは玉のくろかみやまの山すけにこさめふりしきます/\そ思ふ
いもありといはせの山のやまあらしに手のとりふれそかほまさるに
なき名のみたつたの山のふもとにはよにもあらしのかせもふかなん
たらちねのふれてものおもふわれをおやのたれこの山にきゝてこふらん
(895)かすか山雲井|かくれて《はるかに》とをけれといへはおもはす君をしそ思ふ
    寄物鰊思
おとめこか袖ふる山のみつかきのひさしきよゝりおもひきわれ
いはをすらゆきとほるへきますらをもこひてふことはのちのくひあり
みや 《(ママ)》ひくいつみのそまにたつたみのやむときもなくこひわたるかな
    寄標喩思
かくしてやなをやゝみなむおはあらきのうきたのもりのしめならなくに
山しろのいはたのもりにこゝろをのくたむけしたれはいもにあひかたき
ゆふされはせゝのゝへにきかすまつこひそすらむさよなかになく
奥山のこのはかくれてゆく水のをと|に《きゝ》しよりつねわすられす
水そこにおほるたまものうちなひきこゝろによせて戀(る)このころ
水のうへにかすかくことくわか命をいもにあはむとうけひつるかも
三輪山のやました|水の《とよみ》ゆく水のよをしたえすはのちもわかつま
やつりかはみなそこたえすゆく水のつきてそこふるこのとしころは
    寄河
(896)この河は船もゆくへくありといへはわたるせことにまもる人あり
ことにいてゝいへはいみしみ山かはのたきつこゝろをせきそかねたる
雨ふれはたきつ山かはいわにふれきみかくたらむこゝろはもたし
ちはや人うちのわたりのはやきせにあはすありとも後のわかつま
はしきやしあはぬこゆ|へ《ゑ》にいたつらにこの河の瀬にものすそぬらす
あふみのうみおきつしらなみしらすともいもかりといはゝなぬかこすらん
あふみのうみおきつしま山をくまけてわかおもふいもにことのしけゝん
かくれぬのしたにこふれはすへをなみいもかなつせんいむてふものを
    寄海
風ふきてうみはあるともあすといはゝ  《(ママ)》しかるへし君かまに/\
うちの海につりするあまのふなのりにのりにしこゝろつねにわすれす
ひとことはしはしわきもこつなてひく海よりましてふかくそおもふ
ちゝのあまのしほやき衣からけれと戀てふものはわすれかねつも
をしかあまのけふりやきたてやく塩のからき戀をもわれはするかな
くもかくるをしかのかみしかしろくはめはへたつともこゝろへたつな
(897)戀しきにこゝろをやれとゆかれぬはしまもかはほもしらぬなりけりみさこゐるおきつあら磯|こかよろよるか《によるなみもゆくゑも》しらす|いも《わか》戀しき|に《は》
磯のうへにたはまひたきつこゝろかもなにゝふかめておもひそめけん
おきつもをかくさふをみのいほ|つ《へ》なみちへし/\に戀わたるかも
あらいそ|こす《の》よそ《ほか》ゆくなみの|よそ《ほか》こゝろわれはおもはすこひ|て《は》しぬとも
ひ|く《ら》やまのこまつかすゑにあれはこそわかおもふいもにあはすなりなは
かくしつゝよをやつくさむたかさこのおのへにたてるまつならなくに
    ※[覊の馬が奇]旅發思
とよくにのきくのはま松こゝろにもなにとていもにあひそめにけん
かせふけは波うちきしのまつなれやねにあらはれてなきぬへらな|り《れ》
ちぬのうみのはまへのこまつねふかめてわかこひわたる人のこゆへに
いそのかみふるのかみすきかみなれやこひをもわれはさこにするかも
たちはなのもとにわれたちしつはとりなりねや君とゝひし 《(ママ)》く《ら》はも
なかき世を君にこひつゝいけらすはさきてちりにしはなならましを
しほあしにましれるくさのしわくさの人みなしりぬわかしたおもひと
(898)わかやとののきのしたくさおふれともこひわすれ草みれとまたおひす
みちのくのくさふかゆりのゝちにてふいもかみことをわれはしらめや
みつかきのをかのくすはをふきかへしたれかも君をこひむとおもひし
みくまのゝうらのはまゆふもゝへなるこゝろはおもへとたゝにあはぬかも
ときゝぬ|と《の》にひみたれつゝうき草のいきてもわれはありわたるかも
いまよりもいもをはこひすおくやまのいはにこけおひてはさしきものを
奥やまのいはねのこけのねかたくもおもほゆるかなわかおもふつま
やますけのみたれこひのみせさせつゝあはぬいもかも年はへにつゝ
やま河のみかけにおふるやますけのやますもいもかおもほゆるかも
足引のなにおふ山すけをしふせて君しむすはゝあはすあらめや
しほのうらにねはふこすけのしのひずてきみにこひつゝありかちぬかも
山しろのいつみのこすけよふなみにいもかこゝろをわかおもはなくに
みわたせはみむろのやまのいほ|ほ《こ》すけしのひにわれはかたおもひをする
ことにいてゝいへはゆゝし|も《み》さき草の色にはいてゝこひわたるかな
あさちはらをのゝしるしのそらことをいかなりといひて君をはまたむ
(899)みちのへのいちしのはなのいちしろく人みなしりぬわか戀つまと
いしはしりまのにほひたるかははなのはなにしあらしありつゝみれは
ますらをのう|へ《つ》し心もわれはなし夜ひる|いは《わか》す戀しわたれは
わかの|く《ち》に|か《う》まれむ人もわかことくこひする道にあひあふなゆめ
うつたへにあまたの人もありといふをわきてわれしもよるひとりぬる
いにしへにありけむ人もわかこと|く《か》いもに戀つゝいねかちにけむ
いまのみのわさにはあらすいにしへの人にまさりてなきさへなきし
たらちねのおやのて|そきて《はなれ》かくはかりす|ゑ《へ》なきこと|は《も》いまた|あら《せ》なくに
ひとりしてものおもふかすへなさにゆけともいまたあふときもなし
いもかあたりとをくみゆれはなけきつゝわれはこふるかあふよしをなみ
たちゐするわさもしられすおもへともいものつけねはまつかせそこす
のちにあはむわれをこふなといもいへとこふるあひたに年はへにけり
たまきぬのさる/\しつむいへのいもにものいはすきて思かねつも
ことたへていまは戀しとおもへともせぬあへねこゝろなをにこひにける
わかこふるこゝろをしらてのちつひにかゝるこひにしもあらすあはめや
(900)こひてつはたゝにかやみしちゐさくもこゝろのうちにわかおもはなくに
こゝろにはちへにおもへと人にいはぬわかこひつまむみるよしもかも
こゑひとのひたかみゆふありそうみの|ゆふさり《・〔四字傍線〕(消)》《そめし》こゝろ|○《を》われめや
たゝにあはすあるはことはりゆめにたにいかなる人のことのしけゝむ
ぬはたまのそのよのゆめにみつけきやそてほすひなくわかこひすれは
さねかつら後にあはぬとゆめにのみをけひそわたる年はへにつゝ
うちなけきひとりねつれはますかゝみとると夢みめいもにあふかも
わきもこにこひてすへなみゆめみむとわれはおもへといこそねられぬ
しきたへのまくらうくまてわかなきみなみたそかりにあめはふりける
かく|しのみ《はかり》こひ|や《し》わた|らむ《れは》玉|きはる《しひの》しらぬいのちも年|はへにつゝ《のみはへつ》
もゝつきもきゝきれかもとおもふかも君かつかひのみれとあかさらん
たまら|を《せ》のきよきかはらにみそきしていのるいのりもいもかためなり
まさしてふやそのちまたにゆふけとふうらまにせよいもにあひよらん
玉鉾のみちゆき人にうらなへはいもにあは|む《す》とわれに|かたりつ《いひつる》
戀するにしにするものにあらませはわかみはちたひしにかへらまし
(901)戀はかくけなかきものをあふ事の時のあくまてをみむあはさるほとに
たくひあらはふなへのしけみかく戀ひと|か《り》ひのひつねならぬかも
なにせむにいのちつきけむわきもこにこひせぬさきにしなましものを
かくらくのとよはつとつとちはとこなめのかしこきみちそこひよるなゆめ
世中のつねかくそとはおもへともはてはわすれすをこひにけり
戀しなむのちはなにせんわかいのちいきたるひこそみまくほしけれ
      大宰監百代か戀しなむのちはなにせむいけるひのためこそいもをみまくほしみぬれと云哥にあひにたり
人ことくしけきこのころわきもこかころもなりせはしたにきましを
よるもねすやすみもあへすしろたへのころもゝぬかしたゝにあふまて
しろたへの袖をはつかにみしからにかゝるこひをもわれはするかも
ころも手もさしかへぬへくちかけれと人めをつゝみ戀つゝそふる
すり衣き|つゝ《ると》ゆめみつうつゝにはたかことのはかしけくあるへき
あらたまのとしはくるれとしろたへの袖かへし子をわすれておもへや
すかのねのしのひに君かむすひてしわかひものをゝとく人あらめや
(902)    問答
たひになをひもとくものをことしけみまろねわれするなかきしの夜を
白妙のわかひものをのたえぬまにこひむすひたるあはぬひまなき
ひとみにはうへをむすひてしのひにはしたひもとけてこふる日そおほき
君こふとうらふれをれはくやしくもわかしたひもをむすひてたゝに
    正述心緒
このころのいのねられぬかしきたへのたまくらまきてねまほしみして
たちのをのおひにさへさすますらをの戀すてふものをわすれかねつも
わきもこに戀しわたれはつるきたちなのおしけくもおもほへぬかも
つるきたちもろはの時にのほりたちしにゝもしなむ君によりては
つるきらを事にとりもちてあらしこか戀のみたれの戀はありけり
かたいとも手ぬきたるたまをゝよわみみたれやしねむ人のしるへく
こまにしきひもときあけてゆふへともしらぬいのちを戀つゝやあらん
かきほなる人といふともこまにしきひもときあくる君もなきかも
いかならむ神にぬさをもたむけはかわかおもふいもをゆめにたにみん
(903)なき名のみたつたといちとさはけとも|わかおもふ《いさまた》人をうるよしもなし
やま里のうらにふることくものをもみこゝろふかくてわか戀やます
戀しなは戀もしねとやたまほこの道行人にこともつけかね
もゝしきのおほみや人はたまほこのみちもいてぬにこふるころかも
おほふねのたゆとふうみにいかりおろしいかにしてかもわか戀やまん
あふみのうみをきしにふなにいかりおろしかくれしきみかことまつわれそ
おほふねのことりうみへにいかりおろしいかなる人かものおもはさらん
おほふねにまかてしゝぬきこくほとをいたくなこひそとりにあるはいかに
    秋相聞
かみ《・〔二字傍線〕(消)》《あき》やまのしたひかしたになくとりのこゑたにきかはなにかなけかん
わかせこにこひてすへなみはるさめのふるはきしらすいてゝこしかも
はるさめにこむのそてはひち|つゝも《ぬとも》いもかい|つは《へち》のやまはこえなん
あせみつむ春の露しもをきそめてしはしもみねはこひしきものを
春されはしたりやなきのとをゝにもいもかこゝろにのりにけるかも
春雨にもゆるあをやきてにもちてひことにみれとあかぬ君かも
(904)青柳のしけりにたちてまと|へとも《ふやと》いもにむすひしひもとけぬやは
我やとにはるさく花の年毎におもひはすれすわすれめやわれ
わか草のにゐたまゝくらをゆひそめてよをやへたてむくらからなくに
    寄水田
たちのしりたまゝくたゐにいつまてかいもをあひみすいへこひをらん
    寄花
うくひすの|かよふ《ゆきし》かきねのうのはなのうきことあれや君かきまさん
    寄草
ひとことはなつのゝ草のしけくともいもとわれともたつさはり|ねは《なん》
夏のゆくをしかのつのゝつかのまもいもか心をわすれておもへや
わかこふるにほへるいもはこよひかもあまのかはらにいそまくらまく
    寄月
秋の夜のつきかもきみは雲かくれしはしもみねはこゝ|た《ら》こひしき
ころも手にたゆとふいのちなかつきの有明の月にみれとあかぬかも
    寄月
(905)長月のありあげの月|よ《の》ありつゝもきみしきまさはわれ戀|やも《むめか》
彦星のつまよふゝねのひくつなのたえむときみにわかおもはなくに
    寄露
秋はきのうへにしら露をくことにみつゝそしのふ君かすかたを
秋はきのさきたるのへのゆふつゆにゆれつゝきませよはふけぬとも
竹の葉にをきゐるつゆのまろひあひてぬるとはなしにたつわかなかな
    寄露
露しもに衣手ぬれていまたにもいもかりゆかなよはふけぬとも
色つきあふ秋のつゆしもなふりそねいもにたもとをまかぬこよひは
みくまのにたつあききりのたえすしてわれはあひみむたえむとおもふを
    寄山
あきされは馬かりこゆるたつたやまた|ちて《つて》もゐ|ても《るとに》君をしそ思|ふ《へ》
    秋相聞
秋の野のおはなかすゑのおひなひきこゝろはいもによりにけるかも
たか山の峯ゆくしかのともをおほみ袖ふりこねをわするなと思ふな
(906)ともしひのかゝよふうつせみの|いもか《・〔三字傍線〕(消)》○ゑぬ《いもか》 《・(マヽ)》しおもかけにみゆ
わかせこのけさか/\といてみれはあはゆきふれる庭もほとろに
あはぬよのふるしらゆきとつもりなはわれさへともにけぬへきものを
    霜雪
あさきりあひふりくるゆきのきえぬともきみにあはむとなからへわたる
    相聞
あひみてはちとせやいぬるいなをかもあれやしかおもふ君まちかてに
うちあひてものなおもひそあま雲のたゆたふこゝろわかおもはなくに
いもによりみまくほしけくゆふやみのこのはかくれをまちてこそゆけ
むは玉のよるひはかくれとほくともいもしつたへはゝやくつけこよ
きみか|た《・々》《(消)》めをみまほしきにこのふたよちとせの子ともわかこふるかも
あからひくはたもふれすてねたれともこゝろをことにわかおもはなくに
雨つちとわけしときよりわかいもとそひてあれはかねてまつわれを
わか宿のこのしたつくよいもかためこはこゝろよしうたてこの比
山のはにさしいつる月のはつ/\にいもをそみつる戀しきまてに
(907)久かたのあまてる月の雲まにも君をわすれてわかおもはなくに
なからふるいもかいのちはあくまてにそらふるみへつ雲かくるまて
とをつまのふりあふきみてしのふらむこのつきのをかに雲なたなひき
鳴かみ|をとよますはかり《のしはしうこきて》さしくもりあめもふらなむ君|をとゝめむ《とまるへく》
鳴かみをとよますはかりふらすともわれはとまらむ君しとゝめは
みれとあかぬひとくにやまのこのはをそをのかこゝろになつかしくおもふ
みくに山やまの木かくれなか/\も君かすかたをあさことにみん
いるみちはいしつむやまのなくもかもわかまつきみかまつま|へ《つ》らん
つく|は《わ》かはたゆる事なくおもふかもひとひもいもをおもひかねつる
賀茂河ののちせしつけものちもあはむいもにはわれよけふならすとも
初瀬河ゆふわたりしてわきもこかいへのみかとはちかつきにけり
たつた河たゆるときなく思ふかもひとひもいもをおもひかねつる
このかはのみなはさかまきゆくみつのことかへさふなおもひこめたり
しまつたふ|うら《はや》ひとふね|の《は》なみたかみひとよ|そ《と》きますた|えむと《つと》思ふな
この河のせゝにしくなみしく/\もいもかこゝろにのりにたるかも
(908)    寄草
ひ《み》ちのへのをはなかしたのおもひ草いまさらなにのものかおもはん
わか|せこ《いも》にわか戀おれはわかやとの草さへおもひうらかれにけり
    寄水田
たつかねのきこゆるたゐにいほりしてわれたひにあれいもにつけこそ
たれかこのやとにきてよふたらちねのおやにいはれてものおもふわれを
のちつひにあかすもなりねいもをゝきていまはもとめし戀はしぬとも
うちひさすみやこの人はおほかれとわかおもふ人はたゝひとりのみ
わ|きも《かせ》こか|あさけの《あけかを》すかたよくみすてけふのあひた|を《に》戀くらし|かも《つゝ》
をのかいもなしとはきゝついもに來てまてねよきみかま|へ《つ》にともよし
しはらくもみねはこひしみわきもこにひに/\くれはことのしけゝむ
はや人のなにをふ|よ《ま》しゑのいちしろくわかなをいはゝつまとたのまむ
なか/\にみさりしまりもあひみては戀しきこゝろましておもほゆ
あさねかみわれはけつらしうつくしき|きみか《人の》たまくらふれ  《(ママ)》しものを
あひおもはぬいもはなにせむゝほたまのひとよもゆめにみえもこなくに
(909) 《(ママ)》きのおにおもひおもへはたまさかにいもかつかひをあひみつるかも
戀しきはけになきものをいまたにもともしかるへくあふへきよたに
たまひゝき昨日のゆふへみしものをけふのあしたにこふへきものか
もとあらしとことのなくなにいふことをきゝしるらくはすくなかりけり
おもふよりみるよりものはあるものをひとひへたつるわするとおもふな
かくてのみ|まちつゝや《もちわつらふに》へむたまのをのたへてみたれてはす|へ《つ》なかるへし
しきた|ゑ《へ》のころもてかれてたまも|さひに《・〔三字傍線〕(消)》《なす》なひきかぬらむわれまちかてに
    寄衣
あきつはにゝほへる衣われはきしきみにまたさはよるもきるかね
    寄露
夏草の露わけころもきもせぬに|わかころもてのひるときもなき《なとわかそてのかはくよもなき》
ゆへなしにわかしたひほのとけたるを人にしらるなたゝにあふまて
袖ふるをあるへかりけるわれなれとそのまつか|え《は》にかくれたりけり
ひもかゝのとかのやま|むるか《・〔三字傍線〕(消)》《もたれ》ゆへかきみきませるにひも|よ《とか》すねむ
ゆふされはゆかのうへさらぬつけまくらされともなれかぬしまちかたし
(910)わ|きもこし《かいもに》われをおもはゝますかゝみてり出る月のかけにみえてこ
里とをみうらわれにけりますかゝみゆかのうへさらす夢にみえにき
ますかゝみ手にとりもちてあさな/\みれともきみをあく時もなし
    問答
ますかゝみみつといはめやたまきはるいわかきふちのかくれたるつま
しら玉をまきもちしよりいまたにもわかたまにせむしる時たにも
あふみの海しつむしらたましらすしてこひせしよりはいまそまされる
あ|さ《か》つ|く《きす》ひむかふつけくし 《は》ふるけれとなにそも君かみれとあ|か《は》れ|ぬ《は》
たまほこのみちをわかすしあらませはしのひにかゝる戀にあはましや
わかこふるいもはゝるかにゆくふねのすきてくやしやこともつけなん
おほつねのおもひたのめるきみゆへにつくすこゝろはおしけくもなし
おもふにしあまりにしかはにほとりのあ“は《ひ》 《(ママ)》ぬれくるを人みてむかも
春されはのへにまつさくかほとりのかほにありつゝわすれかねつも
あけてとくちとりしはなくし|き《ろ》たへの君かたまくらまたあかなくに
さほ河にあそふちとりのさ夜ふけてそのこゑきけはいねられなくに
(911)いもこふといねすあさけにをしとりのこれよりわたるいもかつかひに
あかこまのあしかきはやみ雲ゐにもかくれゆくともまかむわきもこ
雨土のかみをもわれはいのりきてこひてふものはすへてやますき
あらかへは神はにてみすよしゑやしよそふる人のにくからなくに
池のおものたまわけせとにいをゝをきて戀やわたらむなかきはるひを
春かすみたなくやとのわかひけるつなはまつなたへとおもへは
うくひすはとき/\なけとあつま路にいもかつかひはまてとこぬかも
    春相聞
春山にいるうくひすのあひわかれかへりますまのおもひするかも
かはゝしき花たちはなをはにぬひてをちらむいもをいつとかまたむ
わかせこをうらまちか|けて《ねつ》ほとゝきすいたくなかなむ戀もやむやと
    詠鳥
ものおもふといねぬあさあけのほとゝきすなきてさわたるすへなきまてに
    寄鳥
はるしあれはすか|る《み》なるのゝほとゝきすほと/\いもにあはすきにけり
(912)ひこほしのうらふるいもかことたにもつけにきつるみねはくるしもまけなかくこふるこゝろし秋かせにいもかをときこゆひもときゆかな
    寄露
あきはきの枝もとをゝにをく露のけかむしなまし戀つゝあらすは
    秋相聞
たれかれとわれをなとひそなかつきのつゆにぬれつゝ君まつわれそ
    秋相聞
秋の夜のきりたちわたるあさな/\ゆめのことみる君かすかたを
あしたさきゆふへはしほむつき草のうつろふものは人にそありける
    寄水田
たちはなの森へのいへのかとた|へ《は》をかる年すきねこしとすこしも
    寄鹿
さをしかのをのゝくさふしいちしろくわれはとはぬに人のしるらく
ころもての山おろしふきてさむきよを君きまさすはひとりかねゝむ
かさゝきのはねのしもふりさむきよをひとりかねぬる君をまちかね
(913)時雨ふるあかつき/\よひも|つ《と》かす戀しき君とをらましものを
あひみすてとしはへにけりあやしくもいもはこすしてありわたるかな
あひみてはいくひさゝにもあらねともとし月のことおもほゆかな
むは玉のこのよなあけそあからひてあさゆくきみをまてはくるしも
たのめつゝこぬよあまたになりぬれはまたしと思ふそまつにまされる
みつかきのさやかにみへす雲かくれみまくそほしきうたてこのころ
雲まよりさはたる月かおほゝしくあひみしこらにみるよしもかも
月をみる國にはおなしくやまへたてうつくしいもはへたてたるかも
あま雲のよりあひとをくあはすともことたまくらをわれまかめやも
あはさるをおもへはくろしあま雲のほかにそ君はあるへかりける
ゆきつゝもあはぬいもゆへひさかたの雨の露しもぬれにたるかも
やましなのこわたのさとにむまはあれとあゆみてわれら君をおもひかね
みちのしりふかくしまやましまころもきみをしみれはくるしくもあり
かこ山に雲ゐたなひ|く《き》おほ 《(ママ)》しくあひみしこらをのちこひむかも
岩ねふみかさなる山|にあらね《はなけれ》ともあはぬひ|あまたこひわたるかも《へたてつるかな》
(914)    ※[覊の馬が奇]旅發思
わたらひのおほかはのへのわかくぬきわかくしあれはいもこふるかも
戀しきをなくさめかねていてゆけはやまかはしらすきにけるものを
久かたのあめのしるしとみなしかはへたてゝをきしかみよのうらみ
君こすはかたみにせむとわれふたりうへしま|つ《へ》の木君をまちいてん
    寄木
あま雲のたなひく山にかくるれとわれわすれめやこのはしるらん
たまさかにわかみし人はいかなれやいかにしてかもまためにはみむ
よし|ゑや《やよ》しきま|さぬ《せは》きみを|なにすとかうとます《いかゝせんいとはす》われは戀つゝをらん
あひ|みて《あへ》はおもてかくるゝもの|ならく《からに》につねにみまくのほしき君か|な《も》
おもふなと君はいへともあふ事をいつとしりてかわか戀さらん
まゆねかき花ひゝもときまつらんやいつしかみむとわかおもふきみ
のちつひに君をまつとてうちなひくわかくろかみにゆき○《の》ふるまて
やまこえてとをくいにしをいかてかはこのやまこえてゆめにみえけん
年きはるよまでさためてたのみたるきみによりてもことのしけゝん
(915)かくはかり戀しきものとしら|ませ《れり》はよ|る《そ》にみるへくありけるものを
わきもこかきすて|き《へ》にけるわかころもけかれふりなは戀しかるへき
さねそめていくたもあらねは白妙のおひこふへしや戀もつきねは
しきたへのまくらせし人ことゝへやそのまくらにはこけおひにけり
あさな/\みすはこひ|むか《なむ》草まくらたひゆく君かかへりくるまて
しきたへのまくらうこきていねられすおもひし人にのちにあふまて
かくこひむものとしりせはあつま弓かゝるこゝろにあはさりしかも
白玉のひまをあけつゝぬきしをのむすひしによりのちにあふものを
しら玉をてにまきしよりわすれしとおもひしことはいつかやむへき
戀しなは戀もしねとやわきも子かわかゝとをしもすきてゆくらん
みわたせはちかきわたりをうちめくりいまやきますと待つゝそをる
いもみてはつきもかはらすいそのさきみちなき戀をわれはするかも
玉鉾の道ゆきすりに思は|すに《せ《を》る》にいもをあひみてこふるころかも
はしきやしたかさふる|さ《か》もたまほこのみちわすられて君かきまさぬ
あま雲にはねうち|つけ《かけ》けてとふたつのたつ/\しかも君きまさねは
(916)よしゑやしたゝならねともぬゑとりのうへなけを|か《る》つけむこもかも
                  已上三百九十一首
 
(917)柿本人麿集 下
 
 行旅部
  夏草  秋風  山
  野   海   嶋  
  磯   浦   藻
  京都  家   路
  船   馬
 
  夏草
   ※[覊の馬が奇]旅哥八首内
たまもかるとしまをすきて夏草のこしまのさきに船ちかつきぬ
(918)   秋風
おもはすに|たひしてふくあきかせに《ふく秋かせかたひにして》ころもか|す《る》へ|に《キ》ひともあらなくに
   山
    たひにてよめる
おほなむちゝひさみかみのつくりたるいもせのやまをみるはしよらも
いもかためすかのねとるとゆくわれをやまちまとひてこの日くらしつ
    就所發思
こらか手をまきもくやまはつねにあれとすきゆく人にゆきまかめやも
むは玉のくろかみやまを朝こえて山した露にぬれにけるかも
    おほうわのたいふのなかとの神になるときにみわのかはへにあつまりて
をくれゐてわれはやこひむ春かすみたなひくやまを君かこへくなは
   野
    輕皇子宿安騎野時
まくさかるあら野はあれとゑすきさるきみかゝたみのあとよりそこし
   海
(919)    つくしにくたる時海路にてよめる
名にたかきいなみのうみのおきつなみちへにかくれぬやまとしまねは
   嶋
     万葉本云處如乎過而夏草乃野嶋我埼爾伊埼爾埼保里爲吾等者
あはみちのゝしまのさきのはまかせにいもかむすひてひもふきかへす
     万葉集天本云白栲乃藤能浦爾伊射利爲依
いなひのもゆきすきかてにおもへれはこゝろ戀しきうらのしまあゆ
すへらきのとほつみかとゝありかよふ嶋とほみれは神よしそ思ふ
   ※[覊の馬が奇]旅八首内
あまさかるひなのなかちをこきくれはあかしのとよりやまとしまみゆ
     万葉集に一本家門當見由
もゝつくのやそのしまねをこきくれとありのこしましみれとあかぬかも
   磯
    たひにてよめる
あひきするあまとやみらむ秋のうらのきよきあら磯みにこしわれを
(920)   浦
ほの/\とあかしのうらの朝きりに嶋かくれゆく船をしそおもふ
あらたへのふちゑのうらにすゝきつるあまとかみらむたひゆくわれを
    幸于伊勢國留京時
をみのうらにふなのりすらむつまとものたまものすそにしほみつらむか
   藻
    たひにてよめる
あきもこかみつゝしのはむおきつものはなさきたらはわれにつけこよ
   京都
久かたのみやこをゝきて草まくらたひゆく君をいつしかまたん
   家
たひねしてあたねするよの戀しくはわかいへのかたに枕せよきみ
ともしひのあかしのさとにいる日にやこきわかれなむ家のわたりみて
   道
    ※[覊の馬が奇]旅發思
(921)わきも|は《・(消)》《こを》ゆめにみへことやまとちの|の《・(消)》わたるせとにたむけわ|れ《かす》ゐ《・(消)》る
   船胎
いけのうみのかはよくあらしかり  《(ママ)》のみたれてみゆるあまのつり船
    万葉集一本云
む《此哥有二首同》このうらのとまりにはあらしいさりするあまのつりふね波まよりみゆ
   馬
    みちをゆくに
とをくありて雲ゐにみるいもか家にはやもいたらむあゆめくろこま
    石見國より妻わかれてのほるとて
あをこま《青駒》の|あかき《足掻》をはやみ雲ゐにはいもかあたりをすきて來にけり
                  二十七首
 
 哀傷部
  秋紅葉  天  日
  月    雲  霧
(922)  山   峯  河
  池    嶋  磯
  小竹   人  使
  枕    家  門
  鳥    社    
 
   秋紅葉
    めにをくれたるときのうた
秋山のもみちをしけみまと|ふらむ《ひぬる》いもをもと|めむ《むと》やまはしらすも《山ちしらすも・山ちくらしつ】
    石見國よりめをわかれてのほる時に
秋山におつるもみち|はしは《・須臾》ら《のかれぬとも》う《く》は|なとりみたれ《ちりなまかひ》そいも|かあたみむ《もみるへく》
   天
    高市皇子を城上におさめたてまつるときの哥
久かたのあめにしら|る《を》ゝきみ|ゆへに《により》つきひもしらす戀わたるかも
    日
(923)    吉備津采女死時
あまかそらおふしつこうかあひし日をおほきみしかはいまそくやしき
   月
こそみてし秋のつきよはてらせともあひみし|こら《いも》はいや|としはな《をさか》る
     万葉集にこそみてしあきの月夜はわたれともあひみしいもはいやとしさかる
    日並皇子殯宮之時哥
あかねさす日はてらせとも|うは玉《烏玉》のよわたる月のか|くらく《けくら》をしも
   雲
    土形娘子火葬伯瀬山時
かくらくのとませのやまの山きはにいさよふ雲はいもにかあらん
   霧
    溺死出雲娘子火葬吉野之時二首
やまきはにいつものこらはきりなれやよし野の山のみねにたなひく
   山
    妻におくれたるときのうた
(924)ふすまちをひきての山《衾道乎引手山》にいもをゝきて山路をゆけはいけりともなし
     万葉集にふすまちをひきての山にいもをゝきてやまち思ふにいけりともなく
か|り《も》やま《鴨山》のいはね|のたまにあるわれを《しまけるわれをかも》しらぬもいもかまちつゝ|ませる《あらん》
    さぬきのさみねのしまにていはのうへなるなくなれる人をみて
つまもあらはとりてたきましきみのやまのかみのうは|き《は》すきにけら|め《す》や
   峯
    《挽歌》宇治若郎子宮所哥
いもこかりいまきのみねになみたてるつまゝつ木|の《は》むかしの人みけむ
   河
    きひつうねへなくなりてのちによめる
さゝなみのしかのつゝこかゆくみちのかはせのみちをみれはかなしも
河かせのさむきはつ瀬をなけきつゝきみかあるくにゝたる人もあへや
     右二首
     万葉葉に紀《或云》皇女薨之後山前王代石田王作者但前哥題雖注山前王哥右非注人丸次返啓二首無其題與前哥相同可云人丸歟
(925)    明日香皇女殯宮時
あすかゝはあすたにみむとお|む《も》ふや|む《も》わかおほきみのみなわすれせぬ
八雲たついつものこらかくろ髪はよしのゝかはのおきになつさふ
   あすかの皇女を|かねにおさむる時《木※[瓦+缶]殯宮時》によめる
あすか河しからみわたしとりませはなかるゝみつものとけからまし
   池
    たけちの皇子をしきのかみかりにおさめたてまつるときの哥
うゑやすのいけのつゝみのかくれぬのゆくえもしらすとねりはまとふ
    さるさはのいけにうねへのみなけけるときによめり
わきもこかねくたれかみをさるさはのいけのたまもとみるそかなしき
   嶋
玉つ嶋いそのうらまのまなこにもにほひてゆかないもゝふれけん
   磯
    讃岐狹峯嶋視石中死人
おきつなみよきあらいそを|しきたへ《色妙》のまくらとまきてな|せ《れ》るきみかも
(926)しほけたつあらいそはあれと行水のすみゆくいもかたみとそみる
    紀伊國作哥四首
紅葉ゝのすきゆくこらとたつさはりあそひしいそまみれはかなしも
   小竹
    いはみの國よりめをわかれてのほるときに
さゝ《小竹》の葉にみやまも|さや《清》にみたる|とも《らん》われはいもをもわかれきぬれは
   人
朝つゆのけやすき|わかみ《みは》おいぬともまた|わかゝり《こまかへるらん》きみをし|まるらん《思はん》
   使
    めにをくれたるときのうた
もみちはのちりゆくなへに|たまほこ《玉鉾》のつかひをみれはあひしおもほゆ
    見香具山屍哥
草枕たひねのやとりにたかつまかくにわすれたるいつまたなくに
   家
    めにをくれてよめる
(927)いゑにきてわかや|を《と》みれはたまゆかのほかにむ|かへり《きける》いもか|きまくら《こ 木枕》
  いはみのうみうつるのやまのこのまよりわかそてふるをいもみらむかも
     右哥躰雖同句々相替因此重載|石田《(ママ)》王卒時
かくらくのとませをちめかてにまけるまたはみたれてありといはしや|む《も》
ふるきいゑにいもとわかみしぬは玉のくろ|う《く》しかたをみれはさふらん
   門
    日並皇子殯宮時
久かた《久堅》の|そら《あめを》みるかことあふきみし|みこのみかと《皇子御門》のあれまくをし|み《も》
   鳥
    日並皇子殯宮之時のうた
            萬葉集
             或本哥者
しまのみやみかりのいけのはなちとりひとめにこひていけに・《は》すます《たゝてす》
   社
    高市皇子城上殯宮時
     万葉集云件一首檜※[人偏+畏]母王怨泣澤神躰之哥也
(928)なくさはのもりにみわすゑいゝのれともわかおほきみはたかひしられぬ
                  三十三首
 
 雜部
  春【立春・花】  夏【阿不知花・榛】  秋【田】
  天        月          雲
  雨        露          煙
  山        野          河
  湖        濱          浪
  藻        松          葉
  藺        天皇         皇子
  髪        祈          懷舊
  衣        弓          玉
  道        船          筥鳥
  ぬ衣鳥      旋頭歌
 
(929)   春
    立春
冬すきて春しきぬれは年月はあらたまれとも人はふりゆく
   花
    懽逢
すみよしのさとをこしかははるはなのましめつらしみきみにあへるかも
    詠花
うちなひき春さりくれはやまの|やの《はに》ひさきのすゑのさきゆくみれは
    詠花
かはつなくよしのゝ河のたきのうへ|に《の》あせみのはなそ|さきてあたなる《おくにまもなき》
    詠花
こそさきしひさきいまさく《いにしときさきしひさきはいまさきぬ》いたつらに|へ《つ・たゝ》ちこやをちむみる人なくに
    詠花
あほやまのさねきのはなはけふもかもちり|まかふ《みたる》らむみる人なしに
    をんなをゑいす
(930)うくひすのこつたふ|えた《梅》のうつろへはさくらのはなのときかたまきぬ
   夏 阿不知花
わきもこにあふちのはなはちりすきぬいまさけることありとか|む《も》きく
   榛
    榛をゑいす
おもふこのころもにすらむにほひさよしまのはにそらあきたゝすとも
   秋田
わきもこかあか|む《も》ぬらしてうへしたをかりてをさめむくらなしのはま
   天
    詠天
天の|海《かはイ》に雲もなみたち月のふねほしのはやしにこきかくされぬ
   月
    詠月
さ夜ふけていてこむ月をたかやまの峯のしらくもかくしてむかも
    譬喩哥
(931)わかやとのけもゝのしたにつきよさししたこゝろよしうたてこのころ
久かたのあまてる月のかくれなはなにゝよそへていもをしのはん
   雲
    詠雲
足引のやま川のせのなるなへに|ゆ|つ《へ》きかたけに《つきゆみたかく》雲たちわたる
    詠雲
あなしかはかはなみたちぬまきもくのゆつきかたけに雲たてるらし
なからふるいもかいのちはあくまてに袖ふりかけて雲かゝるまて
ことにのみあひぬといひしくらはしの峯のしら雲たゆたひにけり
     万葉集云弓削皇子遊吉野時御かへりに春皇奉和哥但件哥出人麿之寄集
みよし野のみふねの山にたつ雲のつねにあらむとわかおもはなくに
   雨
わ|きも《かせ》こかあかもの|すその《こしを》そ|みぬれは《めむとて》けふのこさめにわれ|と《を》ぬらすな
   露
ゆふけとふわか|ころもてにをく露をきみにみせむと《そてにをくつゆおほみいかにせむとか》とれはけえつゝ
(932)   煙
    詠煙
かすかのにけふりたつみゆをとめ|こ《良》しはるのゝをはきつみてに|らしも《るらし》
   山
    詠山
みむそのやそのやまなみにこなかてをまきもく山はつきてしよらむ
    やま
鳴神のをとのみきくまきもくのひはらのやまをけふみつるかな
とまりゐてかつらきやまをみわたせはみゆきそれるまた雪ふくて
    いわみの國にありてなくなりぬへきときによめる
いもやまのいはねしまけるわれをかもしらすていもかまちつゝをらん
    なつのさうふをゑいす
ますらをのいてたちむかふしのゝめにかなひやまに 《(ママ)》
   野
    野遊
(933)かすかのゝあさちかうへにおもふとちあそふけふをはわすられめやも
   河
    詠河
まきもくのあなしのかはにゆく水のたゆることなくまたかへりみん
むは玉の夜さりくれはまきもくのかはをとたかしもあらしかもとき
    就所發思
まきもくのやまへときみてゆく水のみなはのことしよひとわれらは
あまの河わたるせことのみちくらのこゝろもきみをゆきゝませとや
いにしへのさかしき人のあそひけんよしのゝかはらみれとあかぬかも
くたらかは河瀬をせはみわかこまのあしのそこにもぬれたくるかも
    よし野やまにみゆきするときの
みれとあかぬよし野の河のとこなめにたゆるときなくまたかへり|み《こ》む
みぬほとの戀しみよしのけふみれはむへもいひけりやま河きよみ
   湖
さゝ波やしかのか|く《ら》さき|/\《さちあれと》おほみや人のみねはまさらす
(934)   濱
みに|ゆ《し》かむおきつしらまのはまひさしなみにやつしてくちはてぬまに
   波
しら波はたてところもにかさならすあかしもすまもをのかうら/\
   藻
たちはきのたふさのすゑに|かけむ《いまも》かをおほみや人のたまもかるらん
夕されはかちをとすなりかつきひめおきはもかりにいつるなるへし
   松
あつさ弓いそへのこ松たか世にかよろすよかねてたねをまきけん
    幸紀伊国見結松
のちみむときみかむすへる|いわしろ《磐代》のこまつかうれをまた|もみむ《みつる》かも
いにしへのふるきおきなのいはひつゝうへしこ松はこけむしにけり
   葉
    詠葉
ゆくかはのすき|ゆく《にし》ひとのたおらすはうらふれたてるみわのひはらは
(935)    詠葉
いにしへのありけむ人もわかことかみわのひはらにかさしおりけむ
   藺
    上野國哥
かむつけのいな|ら《こ》のぬまのおほひくさよそにみしよはいまこそまされ
   天皇遊雷岳之時
すへらきはかみにしませはあまくまのいかつちうへにいほりするかも
     万葉集 或本云獻忍壁皇子也其哥曰 王神座者雲隱伊加山耳宮 座
    吉野行幸のときよめる
やま河もよりてつかふるかみなからたきつかふちにふなてするかも
    問答
すへらきのかみのみかとをかしこみとさふらときにみつるきみかも
   皇子
    長皇子遊臈路地之時
久かたのそらゆく月をあ|ゐ《み》にさしわかおほきみはかさになしたり
(936)おほきみのかみにしませはあきのたつあらやまなかにうみをな・《め》かめも
あめのますことのへのこかあはむときおほのみしかはいまそくやしき
やゝまろかわかおほきみかおほくかは山とみかともおなしとそおもふ
    獻舍人皇子
たらちねのおやのいのちのことにあらはとしのをなかくたのみすきめや
   髪
むはたまのいもかくろかみこよひもやわかなきとこになひきてぬらん
   祈
しきしまのやまとのくにはことたまのたすくるくにそまさちあれ|ま《よ》た
   懷舊
    近江の荒たるみやこをすくるとき
さゝなみのしかのおほわたよとむともむかしの人にまたむあはめやも
    あふみのみやこのあれたるをみて
さゝ波のおほつの宮はなのみしてかすみたなひき|ひ《み》やきもりな|む《し》
    ふるきことをゑいす
(937)みなものはあたらしきよにみなひとはふりぬるのみそよろしかりける
    あふみのあれたる宮をすきし時
さゝなみのしかのからさきさちあれともおほみや人のふねまちかねつ
あふみのうみゆふなみちとりなかなけはこゝろもしらぬにいにしへおもほゆ
   衣
    寄衣
いまぬへるまたらころもはめにつくとわれにおむほゆいまたきねとも
    寄衣
はなにはむ人はいふともおりつかむわかはたものゝしろあさころも
きみかためうきぬのいけにひしとるとわかそめたもとぬれにけるかな
    石見の國よりめをわかれてのほるときに
いはみのや|たかつの《高角》やまのこのまよりわかふるそてをいもみつらむかも
     万葉集ゝ或本反哥曰
いわみなるたかつの山のこのまよりわかそてふるをいも|みけむかも《つらむか》
   弓
(938)    未勘國哥
あつさ弓すゑはよりねむまさかこそひとめをおほみなをはしにをけむ
   笠
わかせこかい|しひ《へを》たのみてあし引のやますけ|かさ《みの》をとらてきにけ|り《る》
   簾
    獻泊瀕部皇女
しきたへのそて|かへ《易》しきみたまたれの|こすのをすきて《うちのすませる》またはあは|むか《しや》も
   玉
    寄玉
わたつ海のてに|まきしたる《かしもたる》たまゆへにいそ|のうらわに《はうちめくり》あさりするかも
    寄玉
わたつみのもたるしらたまみまほしみちかへりつけ|つ《む》あさりするあま
    寄玉
あちむらのとほよのうみに舟をうけてしらたまとらむ人にしらすな
をちこちのいそなかにあるしら玉を人にしらせてみるよしもかも
(939)あさりするあまはつくともわたつうみこゝろをへてはみるといはなくに
   道
みやこちはわれもしりたりそのみちはとをくもあらずとしのふるまて
   船
    いせのくにゝみゆきするとき京にとゝめられて
あ|ら《み》の海にふなのりすらむ|おとめ《わきも》こかあかむのすそにしほみつらむか
こちかせによせむなみたかあまをふねゆとりそわふる|さ《ひ》をさけのしま
    いせのくにゝみゆきし給へるとき京にとゝまりて
しほさゐにい|つらこのしまに《ちしのうらに》こく舟にいもぬるらむかあらき|し《は》まへを
むこのうらのとまりはあるらしいさりめかあまのつり舟波まよりみゆ
    万葉集ゝ遣新羅使當所誦詠之中
    むこのうみのはまよくあらしいさりするあまのつりふねなみのうへゆみゆ
    哥雖相似一句 墨仍不載件哥同事也
   筥鳥
    詠鳥
(940)あさゐてにきなくはことりなれたにもきみにこふれはときをへすなく
   奴衣鳥
よからむやよからしやとそぬゑとりのうらひれをれはゝるけかしむ
   旋頭哥
白雪のつねしく冬はすきにけらしもはるかすみたなひくのへのうくひす鳴|も《を》
春日なるみかさのやまに月|む《も》いてぬかもさきやまにさけるさくらのはな|も《の》みゆへく
はるひすらたにたちつから君はあはれやわかくさのつまなきゝみかたにたちつかる
なつかけのねやのしたにてころもたついもうらふれてわかためたゝはやゝおほきにたら
かのをかに草かるわらはしかなかりそありつゝもきみかきまさむみまくさにせん
きり/\すわかゆかのうへになきつゝもとなをきゐつゝきみにこふるにいもねかねぬに
しのすゝきほにはさきいてぬ戀そわれするかけろふのたゝひとめのみゝし人ゆへに
あられふるとほつ  《(畫キタル字ヲ削リテ消セリ)》にあるあとかはやなぎかりつともまたもおふてふあとかはやなき
う|ら《ち》ひさすみやちにあへりしひとつまゆゑにたまのをのおもひみたれてぬるよこそおほき
あつさ弓ひきつへにあるなのりそのはなつむまてにあさゝらめやもなのりそのはな
ますかゝみしかとおもふいもにあへるかもたまのをのたへたる戀のしけきこの比
(941)あさつくひむかひの山につきたてるみゆとをつまをもたらむ人はみつゝしのはせ
うらひさす|か《み》やちをゆくとわかむはやれぬたまのをのおむひみたれて家にあらましを
きみかためてつからおれるころむきませよはるさらはいかにやいかにすりてはよけむ
はしたてのくらはし河のはしのはしはむみさかりにわかわたしたるいしのはしはも
はしたてのくらはしやまにたてるしらむみまほしみわかするなへにたてるしら雲
はしたてのくらはし河のかはのし|へ《つ歟》すけわれかりてかさにむあますかはのしつけすに
あ|を《せ》みつらよさみのはらのひとにあへるかむはしはしはるあふみのかたにものかたりしつ
なみとなるあしのすゑはをたれかたおりしわかせこかふるらむてみむとわれそたをりし
かきこしにいぬよひこしてとかりするきみ|を《あら》やまのはらにやまへにむまやすめきみ
水そこにおきのたま|む《も》のなかてわそのはないもとあれとこゝにかあるとなのりその花
すみよしのいてゐのはまのしはなかりそねをとめらかあかむのすそをぬれてゆらむみむ
いけのへのをくさかしたのしのなかりそねそれをたにきみかかたみにみつしのはむ
よふこゑをきかましものをゆふかけ|に《こ》なくひくらしこゝはくのひことにきけとあかぬかも
                  已上百五首
                都合百六十五首
(942)           惣上中下合七百六十三首歟
 本云
建長五年五月八目以繖前槐
 御本書寫校合畢
  可秘々々   日孝
 
(943)解題
 
系統。宮内省圖書寮御藏の「柿本人麿集」は、もと桂宮家の御舊藏であつて、江戸時代の寛文から元禄頃にかけて、即ち靈元天皇の御代、公卿に書寫せしめられたものらしく、同一人の筆である。第二葉に『寛元三年八月云々』、卷末に『建長五年五月云々、日孝』の舊奥書があり、書名は題箋を用ゐず、表紙左上部に墨書されてゐるが、高貴の御方の御筆と拜察せられる。體裁。表紙・裏紙は共に薄手|礬水《どうさ》引鳥の子紙で、何れにも木版で藍色の「芭蕉葉繪模樣」を摺つてある。
 綴糸は圖書寮に於て修理を加へられたものらしく、白絹糸を用ゐられてゐるが、舊態を知ることは出來ない。
 外題は墨痕鮮に、しかも雄渾に、各文字方八分位の大きさで、「柿本人麿集」と記され、「人麿」の二字には右肩に朱線を施してあるが、これも同時代のものと思はれる。
 御本の大きさは縱八寸・横五寸五分の美濃判で、横一尺一寸・縱八寸の鳥の子紙を、第一には(944)十枚・第二には九枚・第三には十枚・第四には十一枚・第五には十四枚重ねたものを、各中央から縱に二つ折にし、之を各一つ宛の括とし、前記の括を五つ合せて、俗に云ふ蝶綴(大和綴)にして居る。それであるから御本全體の紙數を數へる時は百八枚になるべき處であるが、最初の一枚は見返に、最後の一枚は裏見返にして居るため、都合百六枚になつて居る。
 また内容は上・中・下の三卷よりなり、上卷は春部・夏部・秋部・冬部、中卷は戀部、下卷は行旅部・哀傷部・雜部に分かれて居る。
 表紙・見返を除き、紙數百六枚の中墨付は百二枚、一枚は大體十行を普通とし、一行の字詰は目次・歌題・歌によつて一定して居ないが、歌であれば、十四字から十七字位になつて居る。遊び紙は初葉一枚奧は三枚である。
 
第十九回配本(全三十六卷)
          齋藤茂吉全集 第十七卷
            定價千八百圓
昭和四十九年七月十三日發行
   著 者  齋 藤 茂 吉
   發行者  岩 波 雄 二 郎
        東京都千代田區一ツ橋二丁目五番五號
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 〔第十七巻、2011年4月30日(土)午後1時25分、入力終了〕
 
齋藤茂吉全集第十八卷
 
柿本人麿 四
 
(3)     目次
 雑纂篇
  自序……………………………………………………………三
  柿本集考證……………………………………………………七
  柿本集に就いて………………………………………………九
  柿本集………………………………………………………七九
 勅撰集選出歌考證…………………………………………二六七
 古今集 總敷七首…………………………………………二六九
  卷三夏歌 一  卷四秋歌上 一  卷六冬歌  一
  卷九※[覊の馬が奇]旅歌 一  卷十三戀歌三 二  卷十七雜歌上 一
 拾遺集 總數百四首(【内長歌一首、旋頭歌二首、重出一首】)………二七三
  卷一春 二  卷二夏 一  卷三秋  三
(4) 卷四冬 三  卷六別 一  巻八雜上 十二  卷九雜下 五(點【長歌一・旋頭歌二】) 卷十神樂歌 三  卷十一戀一 六
  卷十二戀二 七  卷十三戀三 十八  卷十四戀四 十一
  卷十五戀五 九  卷十六雜春 一  卷十七雜秋 八
  卷十八雜賀 一  卷十九雜戀 六(重出一)  卷二十哀傷 七
 新古今集 總數二十三首……………………………………………………三二四
  卷三夏歌 一  卷四秋歌上 二  卷五秋歌下 六
  卷六冬歌 二  卷八哀傷歌 一  卷十※[覊の馬が奇]旅歌 二
  卷十一戀歌一 三  卷十三戀歌三 一  卷十五戀歌五 二
  卷十七雜歌中 二  卷十八雜歌下 一
 新勅撰集 總數六首…………………………………………………………三三七
  卷四秋歌上 一  卷五秋歌下 一  卷十四戀歌四 三
  卷十八雜歌三 一
 續後撰集 總數十一首………………………………………………………三四一
  卷一春歌上 一  卷二春歌中 一  卷三春歌下 一
  卷五秋歌上 一  卷七秋歌下 二  卷八冬歌 一
  卷十一戀歌一 一  卷十二戀歌二 一  卷十五戀歌五 一
  卷十九※[覊の馬が奇]旅歌 一
(5) 績古今集 總數二十六首…………………………………………………三四七
  卷一春歌上 二  卷二春歌下 二  卷三夏歌 一
  卷四秋歌上 二  卷五秋歌下 一  卷九離別歌 一
  卷十※[覊の馬が奇]旅歌 三  卷十一戀歌一 二   卷十二戀歌二 一
  卷十四戀歌四 六  卷十七難歌上 一  卷十八難歌中 二
  卷十九雜歌下 二
 玉葉集 總數二十四首…………………………………………………………三六〇
  卷一春歌上 三  卷三夏歌 一  卷四秋歌上 二
  卷五秋歌下 一  卷六冬歌 二  卷八旅歌 四
  卷九戀歌一 二  卷十戀歌二 三  卷十二戀歌四 一
  卷十三戀歌五 二  卷十五雜歌二 二  卷十八雜歌五 一
 續千載集 總數四首……………………………………………………………三七二
  卷一春歌上 一  卷四秋歌上 一  卷七難體 一
  卷十二戀歌二 一
 續後拾遺集 總數十一首………………………………………………………三七四
  卷一春歌上 一  卷二春歌下 一  卷四秋歌上 一
  卷五秋歌下 二  卷六冬歌 一  卷八離別歌 一
  卷十一戀歌一 一  卷十二戀歌二 一  卷十三戀歌三 二
(6) 風雅集 總數九首 …………………………………………………………三八〇
  卷一春歌上 三  卷二春歌中 四  卷九旅歌 一
  卷十四戀歌五 一
 新千載集 總數十首………………………………………………………………三八五
  卷一春歌上 一  卷三夏歌 一  卷四秋歌上 一
  卷五秋歌下 一  卷六冬歌 一  卷十一戀歌一 二
  卷十二戀歌二 二  卷十三戀歌三 一
 新拾遺集 總敷十五首……………………………………………………………三九〇
  卷一春歌上 一  卷二春歌下 一  卷四秋歌上 二
  卷五秋歌下 三  卷九※[覊の馬が奇]旅歌 一  卷十哀傷歌 二
  卷十一戀歌一 二  卷十四戀歌四 二  卷十八雜歌上 一
 新後拾遺集 總數三首……………………………………………………………三九八
  卷五秋歌下 一  卷八雜秋歌 一  卷十※[覊の馬が奇]旅歌 一
 新續古今集 總數三首……………………………………………………………四〇〇
  卷一春歌上 一  卷四秋歌上 一  卷五秋歌下 一
 【香川景樹】柿本朝臣人麻呂歌師説……………………………………………四〇三
(7) 鴨山後考其他…………………………………………………………………四三五
  鴨山後考…………………………………………………………………………四三七
  粕淵村湯抱の『鴨山』に就いて………………………………………………四四一
  人麿閲歴の一暗指………………………………………………………………四五九
  『湯抱』は『湯が谷』か………………………………………………………四六三
  辛乃埼考其他……………………………………………………………………四六五
  辛乃埼考…………………………………………………………………………四六七
  琴高磯・辛の浦・床の浦其他…………………………………………………四七七
  『カラノ浦』に就いて…………………………………………………………四八五
  『唐の島』其他…………………………………………………………………四八九
  屋上山……………………………………………………………………………四九二三
 藤原宮御井に就いて………………………………………………………………四九五
  藤原宮御井考……………………………………………………………………四九七
  二たび藤原宮御井に就いて……………………………………………………五二〇
  「藤原宮御井考」追記…………………………………………………………五四六
(8)人麿地理踏査録…………………………………………………………………五五一
  備後・石見・讃岐・伊豫・淡路・大和………………………………………五五三
  浮沼池・鴨山・尾道・鴨公其他………………………………………………五七二
 人麿雑纂……………………………………………………………………………五八三
  伊能忠敬の「測量日記」………………………………………………………五八五
  人馬賃銭の事……………………………………………………………………五八九
  本朝神社考………………………………………………………………………五九三
  柿本大明神略縁起………………………………………………………………五九四
  櫟本の柿本寺略縁起……………………………………………………………五九六
  人麿神疫病除け靈驗……………………………………………………………五九九
  【埴科】人丸大明神碑樹立由縁碑撰文………………………………………六〇三
  【小室氏】人麿明神縁起………………………………………………………六〇六
  出雲伯耆より姫路・新見………………………………………………………六一一
  あての木…………………………………………………………………………六一三
  雜録………………………………………………………………………………六一五
(9)  柿本神社參拜記念…………………………………………………………六一九
  柿本人麿御傳……………………………………………………………………六二六
  超大極秘人丸傳…………………………………………………………………六三四
  歌道筒守二重之卷………………………………………………………………六四二
  歌仙二葉抄………………………………………………………………………六四七
 人麿像補記…………………………………………………………………………六六一
 小考…………………………………………………………………………………六七七
  諸説記載に就いて………………………………………………………………六七九
  いほる考…………………………………………………………………………六八〇
  『うはぎ』補遺…………………………………………………………………六八三
  賀茂・鴨・神・龜………………………………………………………………六八七
  『亂友』に關聯して……………………………………………………………六八九
  『みだる』の語原………………………………………………………………七一〇
  月西渡……………………………………………………………………………七一四
  『※[手偏+求]』を『たむ』と訓む小考…………………………………七一五
(10) 人麿文獻補遺…………………………………………………………………七二一
 「柿本人麿」縁起…………………………………………………………………七六七
 
 鴨山『三瓶山』説に就いて………………………………………………………八〇五
 人麿文獻補遺………………………………………………………………………八一一
 鴨山一説……………………………………………………………………………八一三
 小篠大記………‥…………………………………………………………………八一六
 
   後記……………………………………………………………………………八一七
 
 
(1) 雑纂篇
 
(3) 自序
 
 本卷は、前卷までに收め得なかつた人麿に關する雜事諸篇を收めたものである。そのうち歌に關しては、「柿本集考證」と、「勅撰集選出歌考證」とが主なものであるが、前者は所謂歌仙家集(三十六人集)中の柿本集で、純粹に人麿作と看做し得ぬ紛亂したものである。併し或時代に人麿の歌がかかる有樣を以て傳へられつつあつたといふことを觀察するに便利であり、訓などの上にも少しく參考とすべきもののあらむことを思ひ、夙くからその小考證を志してゐたものである。後者は評釋篇と幾たびも重複する嫌ひあるものであるが、古今集以後の勅撰集に人麿の歌がいかに取扱はれたかを知るうへに便利だらうと思つて纏めて見たのである。そのうち例へば、人麿作と謂はれてゐる、『ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ』といふ歌は、實は古今集に作者不詳の歌であるから、評釋篇には出て居ない。また、小倉百人一首に人麿作とせる、『足引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かも寐む』といふ歌も、萬葉集では作者不詳の歌であるのに、拾遺集に人麿作として載つたために、小倉百人一首もそれを踏襲したのである。(4)さういふ種類の歌は總て評釋篇には出て居ないので、やはり此卷で記して置く方が便利であるから、煩瑣重複を厭はずそれを纏めたのであつた。
 「鴨山後考」、「辛乃埼考」、「藤原宮御井考」等は皆小考證に過ぎぬけれども、私の主觀では全五卷を通じて最も心樂しい部分に屬するものである。特に人麿臨終地に關する、「鴨山後考」は、嘗て「鴨山考」で結論した粕淵村小原の津目山《つのめやま》から、粕淵村湯抱湯谷の鴨山《かもやま》に移動したものであり、私はこの小發見を樂しんで終身厭かざらむとしてゐる。
 その他の雜纂は、取立てて云ふほどのものではなく、神道で人麿を取扱つた部分、人麿肖像、人麿地理踏査録、文獻補遺等若干の小文は、寧ろ總論篇の補遺として役立つに過ぎぬものである。
 數篇の「小考」は、これもまた評釋篇の部分的補訂に類するものである。評釋篇は能ふかぎり勉強したのであつたが、執筆年代によつて齊一の手際を缺き、いまだ顛倒錯謬の缺點を免れ得ないとおもふので、先づこの志を示したのであつた。向後も先輩の教をあふぎつつ、みづから獨斷に僭ることを懼れつつ、この企を續行したいと念ふのであるが、この拙著も既に冗長にわたつてしまつたので、本卷をあはせた五冊を以て一先づ打切ることにしたいとおもつたのである。
 顧れば、總論篇を發行した昭和九年以來、この雜纂篇を發行するに至るまで足掛け七年の歳月を閲した。その間諸先生諸友人の教示鞭撻助力を得たこと極めて多大である。私はここに深き感(5)謝の念をささげる。 柿本人麿は皇國歌人のうち最も尊敬すべき一人である。それにむかつて縷々として論讃の語を聯ね來つたのは分を踰えた所爲であつたかも知れぬけれども、然も私の心中には常に一家見の妄縱に陷らざらむことを期して居たものの如くであつた。若し不幸にして世の人麿を崇ぶ人々のために阻碍となり覊絆となつたならば、それは私の力のいまだ足らざるがためである。
 本卷の原稿は大體昭和十四年春纏つた。爾來原稿校閲・校正・索引の作製には、柴生田稔、佐藤佐太郎、山口茂吉三氏の盡力を煩はし、發行萬端は岩波茂雄氏の厚意によつたことを衷心感謝するものである。昭和十五年一月吉日、齋藤茂吉識。
 
(7)柿本集考證
 
(9)柿本集に就いて
 
     一
 
 柿本集は、公にせられたものに、歌仙家集本(三十六人集本)と群書類從本との二種がある。前者は、正保四年刊行の流布本のほかに、和歌叢書、歌仙家集、國歌大系、續國歌大觀等に收められ、後者は覆刻の群書類從二種類の中に收録せられてゐる。私の校合に用ゐた底本は前者であつて、後者及び其他を以て比較對校した。
 〔歌仙家集本〕。歌仙家集本柿本集の歌數は、博文館和歌叢書本(佐佐木信綱氏校訂)、及び、歌學書院歌書刊行會本歌仙家集(中川恭次郎氏校訂)共に合計三百一首である。然るに、續國歌大觀本(松下大三郎氏校訂〕及び國歌大系本(長連恒氏校訂)共に二百九十九首である。此は流布本歌仙家集に據つたものである。同書には、『書寫本色紙手跡古體也、建長五年六月日、此本以三ケ之本校正了、同六年三月日、藤原朝臣【在判】』、『正保四丁亥暦八月書林中野道也※[糸+棣の旁]梓』とある。そして二首不(10)足したのは、
   秋風の日ごとに吹けば露おもみ萩のした葉は色づきにけり (一二七番)
   秋の田のかりほにつくりいほりしてひまなく君を見るよしも哉 (一四五番)
の二首であつて、それを他の古鈔本によつて増補すれば三百一首となるわけである。右の如く、歌仙家集本柿本葉の歌數は三百一首であるが、少しく形を變へて、寧ろ重出と看做してもいい程のものがある。
   さゝなみのしがのからさき行てみれど大宮人の船まちかねつ (五四番)
   さゝなみやしがのからさき來たれども大宮人の船まちかねつ (二一一番)
   しきたへの袖かへしてし君やたれのうちのすきをまたはあはむや (四三番)
   しきたへの袖かへしきみまたれのをちに過ぎたる玉もあらむや (二三二番)は
   やまのかひそことも見えずしらかしの枝にも葉にも雪のふれゝば (六四番)
   あしびきのやまぢも知らずしらかしの枝もたわゝに雪のふれゝば (一五九番)
   あすかがはしがらみ渡しせかませばながるゝ水ものどけからまし (四四番)
   あじろ木のしらなみよりてせかませば流るゝ水ものどけからまし (二一四番)
   あわ雪の降るに消えぬべく思へども逢ふよしもなみ年ぞ經にける (一六五番)
(11)   降る雪の空に消えぬべくおもへども逢ふよしもなし年ぞ經にける (二三五番)
   いもやまの岩ねにおける我をかも知らずていもが待ちつゝあらむ (六二番)
   かみ山のいはねのたまにある我をしらぬかいもがまちつゝませる (六三番)
   おふの海に船乘すらむつまともに玉藻の裾にしほみちぬらむかも (三六番)
   須磨の浦に船のりすらむをとめ子があかもの裾にしほやみつらむ (五七番)
 〔群書類從本〕。群書類從本柿本集には六百四十二首【冬。天皇御製、「立田川紅葉みだれてながるめり」計算外】と、一本所載歌十四首、合計六百五十六首を收めてゐるから、歌仙家集の約二倍の歌數になる。またその掲載の順序も違つてゐる。今試に表にしてその大體を次に示す。數字は各本に所載の歌の番號を表してゐる。
 
歌仙歌集  群書類從
 一    二二四
 二    三九〇
 三    二三〇
 四    三九一
 五    三一五
〔以下省略、入力者〕
(14) 一三五  (一七七)
〔以下省略、入力者〕
 二八〇
 (以下略)
 
歌仙家集本にあつて、類從本に無い歌は次の如くである。【番號は歌仙家集本の番號である】
(15)   しきやみの路のつゝみのかくれぬの行方もしらずこねりまどひぬ (四六番)
   ふすまぢのひくての山に妹を置きて山路をゆけばいけりともなし (五〇番)
   あまのがは霧たちわたるたなばたの天の羽衣とひ別るかも (八五番)
   秋さればかり飛び越ゆるたつた山たちてもゐても君をこそ思へ (一五一番)
   夜を寒みあさ戸をあけて出でぬれば庭もはだらに雪ふりにけり (一六〇番)
   あさきりあひ降來る雪の消えぬとも君には逢はむと我歸りきたる (一六六番)
   こひつつもけふはありなむ玉くしげあけなむあすをいかで暮さむ (一九四番)
   まきもくの山べひびきて往く水のみなわのごとに世をばわが見る (二三一番)
   秋田苅るかり庵つくりわが居ればころも手さむし露ぞ置きける (二三三番)
 右のうち、『こひつつもけふはありなむ』は、直ぐその前の、『わびつつも今日は暮しつ霞たつあすの春日をいかで暮さむ』(一九三番)が類從本にあるので、類從本では、重出歌として取扱つたのかも知れない。
 類從本の本をなしたと思はれる寫本の終には、『萬治二とせ小春後の八日豐の前中津河にして書入の歌あり。詠譽宗連坊。華押』といふ識語があり、なほ、この寫本に無くして、歌仙家集本にある十四首の歌を、一本所載歌として増補してゐる。それから、その終に、『右人麿集以橋本肥(16)後守經亮本書寫以一本印本及萬葉集校正』と記してある。
 類從本にあつて、歌仙家集本に無いものを次に列記する。
   昨日こそ年はくれしか春霞春日の山にはや立にけり
   きのふこそ月は立しかいつのまに春の霞の立にけるぞも
   雪さむみ咲けどきかれぬ梅花なほこのころはしかとあるかは
   梅花さきて散とはしらぬかも今まで妹か出てあひみぬ
   河水に蛙なくなり夕されば衣手さむみつままくらせむ
   わがせ子をならしの岡の呼子鳥君よびかへせ夜の更けぬとに
   よそに有て雲ゐに見ゆる磯の上に咲散る花をとらではあらじ
   朝な/\わがみる柳鶯のきゐて鳴くべき時にはあらぬ
   とまりゐてかづらき山を見渡せばみぞれぞ降《ふれ》るまだ冬ながら
   青柳のかづらにすべくあるまでにまてどもなかぬ鶯の聲
   春雨のうちふるごとにわが宿の柳が枝はいろづきにけり
   今さらに雪ふらめやもかげろふのもゆる春日となりにし物を
   春雨にもゆる青柳手に持ちて日ごとにみれどあかぬ君かな
(17)   こゝにきて春日の原を見渡せば小松が上に霞たなびく
   わが宿に鳴きし雁がね雲の上に今宵鳴くなりくにへ行くかも
   春されば野べに鳴きてし鶯の聲も聞えず戀のしげきに
   春霞たなびく山の櫻花はやくみてまし散り過ぎにけり
   櫻花枝になれたる鶯のうつし心もわがおもはなくに
   我宿の花橘に時鳥さけびてなかむこひのしげきに
   我がせこをうらまちかねて時鳥いたくなかなむ戀もやむやと
   我がごとく君をまつとや時鳥こよひすがらにいねがてにする
   萩の花枝もたわゝに露《霜》のおきさむくも|夏も《時は》なりにけるかな
   わたし守舟はやわたせおとよばふ聲もきかぬか梶音もせず
   夕立の雨ふる毎に春日野の尾花が上のしらつゆおもふ
   このくれに秋風吹きぬ白露のあらそふ花のあすかみざらむ
   てまもなくうゑし草ばを出でみれば宿の初萩咲きにけるかも
   秋風はすゞしくなりぬ駒なべていざみにゆかむ萩の花みに
   秋霧のたなびくを野の萩が花今や散るらむいまだあかなくに
(18)   秋風は日ごとに吹きぬ高松の野べの秋萩ちらまくをしみ
   雁がねのきなかむ日迄みつゝあらし此の萩原に雨なふりこそ
   わが衣すれるにはあらず高松の野を行きしかば萩のすれるぞ
   さきぬ共しられじ我はたゞにあらむ此秋萩にしらでをあらむ
   みまほしく我待ち戀ひし秋萩は枝もたわゝに花咲きにけり
   秋萩はちりはてぬべみ立よりてみれどもあかず君としあれば
   夜をさむみころも雁がね鳴くなべに萩の下葉は色づきにけり
   雁がねのさむき夕べの露ならむ春日の山をもみだす物は
   かりがねの聲聞くからにあすよりは春日の山も紅葉そめなむ
   雁がねのさむくなるより水くきの岡の木の葉は色づきにけり
   ことさらに衣はすゞし女郎花さく野の花に匂ひてをらむ
   おく山にありてふ鹿のよひさらず妻よぶ萩のちらまくをしも
   白露にあらそひかねてさける萩ちらばをしくも雨な降りこそ
   たづがねのけさなくなべに雁がねのいづくをさして雲隱るらむ
   むば玉の夜中ばかりは覺東な幾よをへてかおのが名をよぶ
(19)   此のごろの秋のあさけの霧がくれ妻よぶ鹿の聲のさやけき
   秋萩のさきたる野べはさを鹿の分れつゝねは妹戀をする
   山へまでいたせる年はおほかれど嶺にも尾にもさを鹿の鳴く
   きり/”\す我が床の上になき明すおき出でぬるにぬれどねられず
   白露をとらばけぬべみいさもにも露にいそひて萩の遊びせむ
   ますかゞみみなふち山はけふもかも白露おきて紅葉ちるらむ
   曉の時雨の雨にぬれわたりかすがの山はいろづきにけり
   秋山をゆめ人かくな忘れにしその紅葉ばのおもほゆるかも
   物おもふとかくれのみゐてけさみれば春日の山は色付きにけり
   紅葉ちる時になるらしつまをとこ桂のいたく色付きぬれば
   秋の田のほむけの風のかたよりに我は物おもふつれなき物を
   橘をもりへの家のたわせかるとて過ぬこしとすらしも
   さを鹿のを野の草ぶしいちじるく我もとはぬに人の知るらむ
   わが宿のはぎさきにけり散らぬまにとくみにこなむ都里人
   草深みきり/”\すおほく鳴く宿の萩見に君はいつかきまさむ
(20)   故里のはつ紅葉ばを手折りつゝ今ぞわがくるみぬ人のため
   心なき秋の月夜の物思ひにぬれどねられずてらしつゝふる
   朝な/\立つ川ぎりを寒みかもたかはし山のもみぢそめけむ
   秋くればかぶりの山に立つ霧を海とぞみつる波たゝなくに
   さを鹿の戀をしのぶと鳴く聲のいはむかぎりはなびけ萩原
   など鹿のわびなきすらむよそにても秋野の萩|に《や》繁くあるらむ
   足引の山の木かげに鳴く鹿の聲しのばず山田もらすと
   秋風はさむく吹くなりわが宿の淺ぢがもとにきり/”\すなく
   秋の野の尾花がくれに鳴く蟲の聲を聞けばか我も我妹も
   秋萩の枝もたわゝに露もおき寒くも秋のなりにけるかな
   春はもえ夏はみどりにくれなゐのいろにみゆめる秋の山かな
   いもが袖まきの朝霧をしむらむ紅葉はちれるくちをしきかも
   紅葉ばの匂ひは繁くなりぬとも妻なしの木を手折りかざさむ
   露霜のさむき夕べの山風は紅葉しにける妻なしの木は
   雁がねのきなきしからにから衣立田の山は紅葉はじまる
(21)   風吹けばもみぢ散りつゝ暫くも我まつはらにきよからなくに
   妹こそは今おきてゆけ伊駒山打ちこえくればもみぢ散りつゝ
   秋萩の下葉のもみぢ色に出でて時過ぎぬれば後戀ひむかも
   色付きぬ有明の月もなふりこそ殊がたもともまかぬ此の日は
   くれなゐの八しほの雨はふりけらし春日の山の色付くみれば
   あやしくもきなかぬかりか白露のおきて朝はさびしき物を
   わが宿の淺茅生までも色付きぬまだこぬ君はなにの心ぞ
   秋霧のおとろへなむ思ふかも野べに出でつゝさをしかのなく
   妹が紐とくとむすぶと立田山今こそもみぢはじめたりけれ
   足引の山田の稻はひてずともつなだにはへよもるとしるがね
   たかまつの此のみね毎に風吹きて紅葉たえたる秋の月かな
   妹をこひとこしの池の波まよりとりのね聞ゆ秋はきぬらし
   けふくれてあすにならなむ神無月時雨にまがふ紅葉かざさむ
   君が家のともしき紅葉とくは散る時雨の雨にぬらさざらなむ
   おしてるや難波堀江の蘆べにはかりねたるらし霜のふれるに
(22)   いそぐともよぶかく行くな道のへのこ笹が上に霜のふれるに
   あさ月の峯なほくもるうべしこそ籬のうちの雪げさえけり
   ことならば袖さへぬれて通ふべく降りなむ雪の空に晴れ行く
   いといたくふらぬ雪ゆゑことおほけに天つみ空は曇あひつゝ
   妹が家は我まどはしつ久堅の空より雪のなべてふれゝば
   笹の葉にはだれふり被ひけ永くも忘れずといはば我も頼まむ
   霰ふりいたくもふぶきさむきよははたのに今宵|かり人の《わかひとり》ねむ
   天少女のぼるの山の峯にふる雪は消えしとつげよそのこに
   天とぶやかりの翅のおほひばのいづくもりてか霜の置くらむ
   我がせこと朝な/\に出でみればあは雪ふりぬ庭もはだらに
   常はさも思はぬ物を此の月の過ぎかくれ行くをしきよひかな
   あすの夜を照す月影かたよりに今宵によりて夜ながからなむ
   玉だれのこすのま遠し獨りゐてみるしるしなき夕月よ哉
   百敷の大宮人のまかり出てあそぶこよひの月のさやけき
   ますかゞみ照る月影を白妙の雲かくせるか天つきりかも
(23)   足引の山川のせのあるなべにつきゆみながく雲立ちわたる
   おほうみはしまもあらなくに海原やたゆたふ波に立てる白雲
   我がせこが袴の裏をそめむとてけふのこし雨に我ぞぬれぬる
   いにしへのことはしらねど我みても久しくなりぬ天のかぐ山
   さほ川に遊ぶ千鳥のさよふけて鳴く聲聞けばいこそねられね
   皆人の戀ひしみよしのけふみればむべもいひけり山川きよみ
   うぢ川におひたる菅も河清みとらで來にけるつとにせましを
   さよ更けて堀江こぐなる松浦舟かぢ音たかしみをはやみかも
   いとまあらばとりにきませよ住吉の岸に生ひたる戀忘れ草
   住吉の岸に心をおきつべによする白波みつゝ思ふらむ
   すみよしの沖つ白波風吹けばきよれるはまをみればきよしも
   夕されば梶音すなりあまを舟おきつめかりに出づるなるべし
   草まくら旅にしあれば秋風のさむき夕べにかり鳴きわたる
   玉つ島みれどもあかずいかにしてつゝみもたらむみぬ人の爲
   むば玉の黒かみ山を朝こえて山下つゆにぬれにけるかも
(24)   さほ山にたな引く雲のたゆたひに思ふ心をいまぞさだむる
   あまとぶやかりの使もえてしがなならの都にことづてやらむ
   たびになほひもとく物をことしげみまろね獨する長き今宵を
   ふな風のかく吹くまでもいつまでか衣かたしきわが獨りねむ
   こ紫ほすかはくれぬいづくにかたま宿からむさとはらにして
   離れいそに立むろの木うたかたも久しき年の過ぎにけるかも
   こがね山したゐの下に鳴く鳥の聲だにきかば何かなげかむ
   もがみ山すがきせしより心ありてまかり歸せるやかたをの鷹
   草がくれ行くさを鹿はみえねども妹があたりはみれば戀しも
   春雨に衣のいろはひぢつとも妹が家ぢの山はこえなむ
   朝さく夕べはしぼむ月草のうつろふ色は人にぞありける
   くだら川かはせをはやみ我せこがあしの底にもふれてふる哉
   旅にしてあだねする夜の戀しくば我が家の方に枕せよきみ
   いにしへのふるき翁のいはひつゝ植ゑし小松は苔生ひにけり
   朝な/\みずば戀ひなむ草枕たび行く君がかへりくるまで
(25)   思はずに吹く秋風か旅ねして衣かすべき妹もあらなくに
   まゆねかきまたいぶかしく思ひける古へ人|に《を》あひみつる|かな《かも》
   おしてるや山すげかさをおきふるし後は誰きむ物ならなくに
   山たかみ下行く水のおちたぎつうら波みれどあかぬ君かも
   ちどりなくみ吉野川の河ごゑのなりやむ時はなきに思ふきみ
   瀧の上のみふねの山はおきながら思ひ忘るゝ時のまもなし
   あらのらにあれはあれども大君のしきますよひは都となりぬ
   稍まじる我が玉の緒をおほくには大和へかとも同じとぞ思ふ
   わたつ海のもたる白玉みまほしき岩ふち巡りあさりするかも
   鶯は時々鳴けど東路の君がたよりはまてどこぬかも
   都ぢは我れもしりたりその道は遠くもあらず年はふれども
   うちひさす宮ぢにありし人妻はねたし玉のをの思ひ亂れてねにし夜ぞ多き
   かの岡に萩かるをのこしかなかりそありつゝも君がきまさむみまぐさにせむ
   さゝ波やしがのてこらのまかりにし川せの道をみれば悲しも
   さゝ波や志賀の大わたよどむともいにしへ人に又あはめやも
(26)   かた絲もて貫く玉の緒をよわみ亂れやしなむ人のしるべく
   から錦ひもときあけてゆふ人も知らぬ命を戀ひつゝやあらむ
   月しあれば明くらむわきもしらずしてねて明しゝも人見けむかも
   さを鹿の岡のかやぶしいちじるく我はしらぬに人のしるらむ
   つるばみのあはせの衣の裏にせば我が袖ひめや君がきまさぬ
   奥山の岩かきぬまのみごもりに戀ひや渡らむあふよしをなみ
   わぎも子に逢坂山のしの薄ほには出でずて戀ひわたるかな
   朝はさき夕べはしぼむ月草のけぬべき戀も我はするかな
   君があたりみつゝををらむ伊駒山雲なかくしそ雨はふるとも
   けふの日の曉方になくつるのおもひはあかず戀こそまされ
   君こふと庭にしをればうちなびき我が黒かみに霜置きまよひ
   み狩する狩ばのを野のなら柴のなれはまさらで戀ぞまされる
   紅のあさはの野らにかる草のつかのまもなく忘られなくに
   この頃の有明の月のありつゝも君をばおきて待つ人もなし
   よそにして戀はしぬれどいちじるく色には出でじ朝顔の花
(27)   宮木ひく泉の杣に立つ民のやむ時もなく我戀ふらくは
   戀るひのけ永くあれど御園ふのからあやの花の色に出にけり
   久堅のあまてる月もかくれ行く何によそへて妹をしのばむ
   春日山雲ゐかくれて遠けれど家はおもはず妹をしぞ思ふ
   この山の嶺に近しとわがみつる月の空なる戀もするかな
   波まよりみゆるこ島のはまひさぎ久しくなりぬ君にあはずて
   わぎもこは衣ならなむ秋風のさむき此の頃したにきましを
   藤の花咲きて散りにき秋萩はさきて散りにき君待ちがてに
   さくらあさのおふの下草露しあらば明してゆかむおや知共
   三輪の山やましたとよみ行く水のみをし絶えずば後も我が妻
   久かたのあまてる月の雲まにも君を忘れて我思はなくに
   いへの井のたまわけ里に妹をおきて戀ひや渡らむ長き春日を
   天雲をちへにかき分けあまくだる人も何せむ妹があはずは
   こと絶えて今はこじとは思へどもせきあへぬ心なほ戀ひにけり
   梓弓引きはり持ちてゆるさぬにわが思ふ心君はしらずや
(28)   今も思ひ後も忘れじかりごもの亂れてのみぞ我戀ひまさる
   打ち靡き人もねつればます鏡とると夢にみつ我戀ひまさる
   あひ思はぬ妹は何せむうば玉の一よも夢にみえもこなくに
   夏草のしげきわが戀住吉の岸の白なみ千重につもりぬ
   さかきにも手はふるなるをうつたへに人妻なればこひぬ物かも
   島づたふはやひと舟の浪高みひとよよどまずたえむと思ふな
   獨りゐて思ひみだれてあま雲のたゆたふ心わが思はなくに
   我がせこが家を頼みて足引の山すげ笠をとらで來にけり
   妹みては月もへだてずいそのさき道なき戀も我はするかな
   夕されば野べに鳴くてふかほ鳥のかほにみえつゝ忘られなくに
   時鳥鳴くさほ山の松の根のねもごろみまくほしき君かな
   み熊野に立つ朝霧の絶えずして我はあひみむたゝむと思ふな
   後つひに君をみむとてうちなびきわが黒かみに雪のふるまで
   けふ/\と君を待つ夜のふけぬればながき心を思ひかぬつる
   雨ふるによは更けにけり今更に君きまさめや誰かきてねむ
(29)   かくてしも戀ひしわたれば玉きはる命もしらず年はへにけり
   つくも川たゆる時なく思ふにはひとひも妹を忍びかねつゝ
   かく戀ひむ物としりせば梓弓すゑのなか頃あひみてしがな
   かさゝぎのはねに霜ふりさむきよを獨ぞねぬる君を待ちかね
   石上ふるのわさ田のほには出ず心のうちにこひやわたらむ
   わが戀ふる心をしらず後つひにかゝる戀にもあはざらめやは
   立田山嶺の白雲たゆたひに思ひしやればまつぞすべなき
   あざみつむ春日の露のおきそめてしばしもみねば戀しき物を
   青柳のしげりに立ちてまどふとも妹とむすびし紐とけめやは
   山越えて遠くいにしをいかでかは此の山こえて夢にみえけむ
   たらちめの母がて離れかくばかり佗しき戀はいまだせなくに
   いつとても戀せぬ時はなけれども夕さるゝまは戀しきはなし
   わが後にうまれむ人は我がごとく戀ひせむ道にあひあふな夢
   よしやよしこざらむ君を如何せむ厭はぬ我は戀ひつゝをらむ
   君をわれみまくほしきはこの二夜年月のごとおもほゆるかな
(30)   秋風の遠く吹くなるわが宿の淺茅がもとにひぐらしも鳴く
   玉だすきかけぬ時なく我戀ふる時雨しふらば行きつゝもみむ
   さもこそは身は心にもあらざらめ身さへ心にたがふなりけり
   玉かつらといふけきつゝさぬるよは年のまれよにたゞ一よのみ
   うちひさすみやぢに人は多かれど我が思ふ人はたゞ一人なり
   あら玉の年はふ|れも《(ママ)》わが戀ふるあしなき戀のやまぬかなしき
   行きゆけどあはぬ物ゆゑ久堅の朝露しもにうるひぬるかな
   戀ひしきに心をやれどやられぬは山も川せもしらぬなりけり
   山しなの木幡の里に馬はあれどかちよりぞゆく君を思へば
   水の上に數かくがごとわが命君にあはむとう|か《け》ひつるかな
   我ゆゑにいはるる妹がたかき山嶺の白雲すぎにけむかも
   むば玉の黒かみ山のやくさに小雨ふりしきます/\ぞ思ふ
   わが妹も我を思はばますかゞみとりても月の影ぞみざらむ
   曉にさすつげぐしのふるけれど何ぞも君がみれどあかぬかも
   玉ぼこの道ゆきぶりにうらなへば妹にあひぬと我につげける
(31)   敷妙の枕をしきてねず思ふ人は後にもあひなむ物を
   誰かこの宿に來てとふたらちねのおやにいはれて物思ふ我を
   さぬるよはちよに有ともわかせこる思ひくゆべき心はもたず
   おほよそは誰かみむにかむば玉のわが黒髪をけづりてをらむ
   獨りぬる床くちめやはあや莚をになるまでに君を忍ばむ
   たそかれととはばこたへむすゑをなみ君が使を返しつるかな
   妹戀ふとわがなく涙敷妙の枕とほりてそでぞひぢぬる
   たちておもひゐてもぞなげく紅のあかものすそを引きし姿を
   思ふ事あまる時にはかひもなし出でてぞ行きしその門を見よ
   夢に見て猶かくばかり戀ふるわれ現にあはばましていかにぞ
   あひみてはおもて隱るゝ物からに常にみまくのほしき君かな
   昨日より今こそよなれ吾妹子がいか|ばり《(ママ)》かもみまくほしきかも
   むば玉の妹が黒かみ今夜もやわがなき床になびきてぬらむ
   色に出でてこひば人皆しりぬべし心のうちのかくれ妻かも
   あひみてはこひ慰むと人はいへどみての後こそ戀まさりけれ
(32)   僞りもにつきてぞするいつよりかみぬ人ゆゑに戀にしにする
   戀しなむ後は何せむわが命いきたる日こそみまくほしけれ
   しき妙の枕うごきていねられず物思ふこよひはやく明けなむ
   夢にだになどかは見えぬみえねども我かも惑ふ戀のしげさに
   なぐさむる心もなきにかくてのみ戀ひや渡らむ月日かさねて
   いかにして忘るゝものぞ我せこに戀はまされど忘られなくに
   かひもなき戀もするかな夕されば人の手枕ねぬるものゆゑ
   百よしもちよしもいきてあらめやは我が思ふ妹をおきて歎かむ
   玉ぼこの道行きぶりに思はずに妹をあひみてなげく頃かな
   妹が袖わかれし日より久堅の衣かたしき戀ひっゝぞぬる
   むば玉のわが黒かみをなきくらし思ひみだれて戀ひ渡るかな
   今さらに君が手枕さだめめやわがひものをのとくともなしに
   大原の荒野らに我妹をおきていねこそかねつ夢にみゆれば
   夕けにも夢にも見えよ今宵だにこざらむ人をいつとか待たむ
   敷妙の枕かさねて君とわれぬるとはなしに年ぞへにける
(33)   山里の槇の板戸の音はやみ君があたりの霜の上にねむ
   足引の山櫻戸をあけ置きてわが待つ君を誰かとゞむる
   月清み妹にあはむとただちから我はくれども夜ぞふけにける
   朝かげに我身はなりぬから衣たもとのあはでさびしくなれば
   すり衣きると夢にみつうつゝにはたが言のはか繁くあるべき
   しかのあまのしほたれ衣なるれども戀てふ物は忘れかねつも
   さと遠み戀ひわびにけります鏡面影さらずゆめにみゆれば
   たちのをのおひに尺さすますらをも戀てふ物は忘れかねつも
   時もりがうちなす鼓數ふれば時にはなりぬあはざるもあやし
   灯のかげにかゞよふうつ蝉のいもがゑみがほおもかげにみゆ
   おはたらやいたゞの橋の崩れなば桁よりゆかむこふな我妹子
   君戀ふとぬれどねられぬつとめては誰がのる馬の足音かする
   紅のすそひく道を中におきて君やきまさむ我や行くべき
   まのの池の小菅の笠をぬはずして人のとふなを立つべき物か
   わぎも子が袖を頼みてまのの浦の小菅の笠をとらできにけり
(34)   山たかみ谷べにはへる玉かづらたゆる時なくみるよしもがな
   いきのをに思へばくるし玉のをのたえて亂れむ人は知るとも
   玉のをのくりよせつゝもあはざらば我同じをにあはむとぞ思ふ
   いせのあまの朝な夕なにかづくてふあはびの貝の片思にして
   思へども思へもかねつ足引の山鳥のをのながきこよひを
   我妹子を戀ふるにあらむ沖にすむ鴨のうきねの安けくもなし
   明けぬとて千鳥しばなく敷妙の君手枕いまだあかなくに
   おく山の木の葉がくれて行く水のおと聞きしより常に忘れず
   風吹かぬうら/\浪になき名をばわが上に立つあふとはなしに
   眉ねかき鼻ひむ時もまためやはいつしかみむと問ひつる我を
   わぎも子に戀ひてかひなき白妙の袖かへしては夢にみえつゝ
   我がせこが袂返せるよるの夢にまさで妹があふかこと/\に
   おしてるや山すげ笠をおきふるし後は誰きむ物ならなくに
   紅の花しありせば衣手にそめつけむとて行くべくぞおもふ
   河上にあらふ若なのながれても君があたりのせにこそよらめ
(35)   百敷の大宮人は玉ぼこの道も出でぬにこふるころかな
   さを鹿のなくらむ山を越ざらむひたにや君があはじとはする
   石上に生ひたるあしの名を惜み人にしられで戀ひつゝぞふる
   わぎもこがきずてふりぬるあか衣穢れふりなば戀やしぬべき
   冬ごもり春さく花を手にとりて千かへり恨み戀もするかな
   春山の霞にまよふ鶯も我にまさりて物はおもはじ
   吾妹子が朝けの顔をよくみればけふのあいふを戀暮しつる
   さきて散る梅が下枝におく露のけぬべく妹を戀ふる頃かな
   朝霞かひやが下に鳴く蛙聲だにきかばわれこひめやも
   櫻花時過ぎぬれどわが戀ふる心のうちのやむ時もなし
   山吹の匂へる妹がはねず色のあかものすがた夢にみえつゝ
   秋の野の尾花が末のうちなびき心もいもに我よするかも
   秋山に霜ふりおきて木の葉ちる年は行くとも我忘れめや
   紅葉ばに匂へる衣我はきし君がまつちはよもきこえかね
   わが宿に今さく花は女郎花さらぬ色にはなほ戀ひにけり
(36)   萩の花匂ふをみれば君にあはぬまの久しくもなりにけるかな
   秋さればかり人こゆる立田山立ちてもゐても君をしぞおもふ
   秋の田をつとに押をりおける露消えもしなまし君にあはずは
   ますらをの心はなくて秋の田の戀には花をみつゝ有なむ
   我が袖にふりつむ雪の流れ出て妹がたもとに今も消えなむ
   夢のごと君にあひみてかきくらし降りくる雪のきえぞ返れる
   ひとめみし人はこふらく掻き暮し降りくる雪のきえぞ返れる
   かきくもり降りくる雪の消えぬとも君にあはむと永らへ渡る
   梅の花うちみ見られず降る雪のいちじるくしも使なやりそ
   獨して物をおもふがすべなさにいけども妹があふ時もなし
   うちの海に釣するあまの舟にのりのりにし心常に忘れず
   今さらに妹にあはでや春霞たな引くのべの花も散なむ
   相見ずて年ぞへにけるあやしくも妹は戀ずて戀ひ渡るかな
   蘆鴨の入りてなくねの白菅のしらずや妹をかく戀ひむとは
   衣手もさしかへつべく近けれど人めをおほみこひつゝぞをる
(37)   露草のかりなる命ある物をいかにしりてか後にあはむ君
   さを鹿のふす草村のみえねども妹があたりをゆかばかなしも
   たけと餘りたかねと長き殊が髪此の頃みねばあげつらむかも
   山草の白つゆおほみ袖にふる心ふかくて我戀ひやまず
   よならべて君をきませと千早振神の心をねがぬ日はなし
   夕づくよ曉がたの朝かげに我が身はなりぬ妹をおもひかね
   ま袖もてゆか打ち拂ひ君まつとをりつるほどに月かたぶきぬ
   君がすむ三笠の山にゐる雲のたてば別るゝ戀もするかな
   夕げとふわが袖におく露を重み妹にみせむととれば消えつゝ
   待ちわびてうちへはいらじ白妙の|我手《(ママ)》につゆはおくとも
   朝露の消えみきえずみ思ひつゝまた駒かへし君をこそみめ
   足引の山鳥のをの人めをばひとめみしこを戀ふべきものを
   妹が名も我名もたてはせしとこそふじの高ねももえつゝ渡れ
   白波の立ちよるかたの荒磯にあらまし物を戀ひつゝあらずは
   おほとものみつの白波妹をなほこふらく人のしらで久しく
(38)   おほ舟のたゆたふ浦に錨おろしいかにしてかも我戀やまむ
   みさごゐる沖の荒いそに立つ浪の行へもしらず我が戀しさは
   大船の沖にもへにもゐる浪のよるべも我は君がまに/\
   なか/\に君に逢はずはまきの浦の蜑ならましを玉もかりつゝ
   鱸とるあまのたく火のほのにだにみぬ人ゆゑにこふる頃かな
   うまやぢにひき舟渡したゞのりに妹が心にのりてふるかも
   我宿のはたてふたからつみはやしみになる迄に君をこそまて
   わが戀のこともかたらむなぐさむる君が使を待ちやかねてむ
   現にはあふよしも無し夢にだにまなくみむ君が戀にしぬべし
   こむといへばたゞにたやすし小くも心の|うに《(ママ)》我が思はなくに
   白妙の袖かけしより玉だれのをすのすかざるまたもあはぬに
   をぐるまの錦のひもをとけむかも我を忍ばばわれも思はむ
   忍ぶべしむすびもあへず小車の錦のひもをよひ/\ごとに
   小車の錦のひもをときそめてあまたはねずはたゞ一よのみ
   あらがふにしひても君が濡ぎぬかきよにそやなそ只一よのみ
(39)   しほ衣あまの身かとぞ思ひけるうきよにふればきぬ人もなし
   濡衣をほすさを鹿の聲聞けばいつしかひよと鳴くにぞありける
   田子の浦蜑の濡衣きたれどもほしきに物はいはずもあるかな
   吹く風のしたの塵にもあらなくにさも立ちやすき我なき名哉
   ほしわびし人をぞ聞きしぬれ衣わが身になして今ぞかなしき
   陸奥にありといふなる名取川なきなとりてはくるしかりけり
   渡りぬる身にこそありける名とり川人の淵せと思ひけるかな
   なき名立つ身のきる物はぬれ衣いくかさねとぞ限らざりける
   しつのをに掛けて留めよ大方はたが立そめしなきなならねば
   我が屋にも君がきるなるぬれ衣をよにも嵐の風も吹かなむ
   同じ名を立つとしたゝばぬれ衣きてを慰むうらぶるゝまで
   おりたゝぬほどばかりをや名取川渡らぬ人もなにならなくに
   夢ならであふこと難き君ゆゑに我も立つ名をたゞにやは聞く
   あぢきなく名をのみたてゝ唐衣身にもならさでやまむとや君
   君をわれいくたの浦のいく度かうき名を立てと思ひし物を
(40)   なきたむる涙の川のうきぬなはくるしや人にあはで立なは
   君といへば何かなき名のをしからむよそへて聞くも嬉しき物を
   うつくしと思ひし妹を夢に見ておきてさぐるになきぞ悲しき
   たのむべき我だにこゝろつらからば深き山にも入らむとぞおもふ(國々の歌部〕
 この最後の歌は、諸國の歌の中で歌仙家集本には、『たにご』(丹後)が缺けて、『丹後國不見如何』と注した書物もあるのだが、類從本(圖書寮本第二も)には此歌が載つてゐる。勝手に補充したものか、歌仙家集本で脱落せしめたものか不明である。
 歌仙家集本柿本集を一讀した時、右の如くに群書類従本を參照したほかに、宮内省圖書寮御藏の二本をも參照することを得た。その一つ(【圖書寮本第一と假に云ふ】)は、歌仙家集本系統のものであり、他の一つ(【圖書寮本第二と假に云ふ】)は、群書類從本系統のものである。
 〔圖書寮本第一〕。圖書寮本第一は、歌仙家集本系統のものであるが、大體は歌仙家集と順序も等しいが、終の方の畿内五箇國の歌等は缺如して居り、その他にも缺如してゐるのがある。順序の違ふのは、例へば一〇八番が一〇七番になり、一三二番が一三〇番になり、一六八番が一六七番になつてゐる如きであり、缺如は、例へば二四番、二五番、四二番、四九番、五〇番、五六番、五七番等をはじめ三十二三首と、畿内五箇國の歌等で、また圖書寮本第一にあつて、歌仙家集本(41)に無いのもある、例へば、『秋霧のたなびくをのゝはぎの花いまやはるらんいまだあかなくに』(一〇四番の次)の如きである。その一々は一首一首の部に記して置いた。それから、歌の違つたのも可なりある。その數例を云へば、
   あき山のもみぢおしなみまどひぬる妹ををしむと山ぢくらしつ(歌仙家集)
   あき山のもみぢをしげみまどひぬる妹をもとむと山ぢくらしつ(圖書寮本第一)
   かみ山のいはねのたまにある我をしらぬか妹がまちつつませる(歌仙家集)
   かも山のいはねしまけるわれをかもしらずて妹がまちてらむかも(圖書寮本第一)
   住吉の岸を田にはりまきし稻の苅るほどまでもあはぬ君かな(歌仙家集)
   住吉の岸を田にはりさきし稻かるまで妹があはぬなりけり(圖書寮本第一)
 右のごとくで、圖書寮本第一の方が萬葉集の歌に近いのがあり、或は反對のもある。そのことは一首一首のところに記入して置いた。
 〔圖書寮本第二〕。次に、圖書寮本第二は、殆ど群書類從本と同じく、類從本はこの本を本としたのであらうと想像し得るものである。ただ、順序が少しく違ふところがあり、例へば、類從本の番號でいへば、八一番が八三番の次に入り、九一番と九二番がかはり、一二〇番が一二三番の次に入り、一七五番と一七六番とかはり、三八一番が三七三番の次に、三九四番が三四四番の次(42)に入つてゐる如くである。なほ、一〇八番の下の句、『秋の海のうらの秋萩すゝきおもほゆ』を缺如し、一一〇番の初句、『秋の花』が、『萩の花』となつて居たりする程度であり、『こひしさはけながきものをこよひたゞひさしかるべくあふべきものを』といふのが、二九四番に載つてゐる。
 〔鷹司家傳本〕。なほ、私は鷹司家傳本といふ寫本をも參照することを得た。卷末に、『本云、花園左府うへの自筆云々 右近衛大將在判』【以上】『眞親自筆奧書、自院卿書達之由被仰下以件本光事寫之、色々色紙在薄青羅表紙、右大將ハ前相國云々。建長四年六月九日書之翌日相具貫之集邊云々。御料紙内隱色紙也。阿門眞親』【以上】『弘安四年秋比書之』【以上】右三通りの識語がある。なほ表紙裏に、『鷹司二代目基忠公。元祖兼平公男、文永五年關白、弘安八年太政大臣、正和二年七月七日薨、六十七。號囘光院』とある。これはおぼえ書であらう。この寫本を假に、鷹司本と名づけて置いた。此寫本は、歌仙家集本系統の如くであるが、順序が不同である。歌仙本の一七〇番が一番、一七一番が二番、一六四番が三番になつてゐる如くである。また歌の數も少い。ただ歌仙家集本に無いものも入つてゐる、例へば次の如きものである。
   やましなのこはだの森にうまはあれどかちよりぞくる君をおもへば
   このをかにくさかるわらはしかなかりそありつつも君がきまさんみまくさにせむ
   かすが山くもゐはなれてとほけれど家はおもはず君をこそおもへ
(43) 私は、柿本集の『國々の名』を詠んだ歌は、後の人の恣に作つたものだといふことが分かるが、圖書寮本第一には、この部分缺如してゐるので、この本にはどうかと思つたのであつたが、やはり缺如してゐない。ただ詞書と歌に小さい差別があるほかに、國名は漢字で書いたのが多い。それ等の一々は一首一首のところに書しるして置いた。
 
     二
 
 〔公任選柿本集〕。公任の三十六人撰、柿本集(辞書類從)には次の十首が載つてゐる。
   昨日こそ年はくれしか春霞かすがの山に早立ちにけり (【歌仙家集本に無く、類從本・赤人集にある】)
   明日からは若菜摘まむと片岡のあしたの原は今日ぞ燒くめる
   梅の花それとも見えず久方の天ぎる雪のなべて降れれば
   郭公なくや五月の短か夜も一人しぬれば明しかねつも
   あすかがは紅葉ば流るかつらぎの山の秋風ふきぞしぬらし (【柿本集二本とも無く、家持集にある】)
   ほの/”\とあかしの浦の朝霧に嶋がくれ行く船をしぞ思ふ
   頼めつゝ來ぬ夜あまたになりぬれば待たじと思ふぞ待にまされる
   足引の島《マヽ》のおのしだりおのなが/\し夜を一人かもねむ
(44)   わぎもこがね|む《マヽ》たれ髪を猿澤の池のたまもと見るぞかなしき
   もののふの八十氏川の早き瀬に漾ふ浪の寄邊知らずも
 右の十首が眞に公任が選んだ歌だかどうかといふことは甚だあやしく、歌仙家集本柿本集に無いものが二首もあるといふのは、その疑問を濃厚ならしめるし、誤寫など多くて、傳本の善くないことを示して居る。
 
     三
 
 〔萬葉集〕。柿本集の歌は、大部分はその原歌を萬葉集中に見出し得るのであるが、今それを卷別にすれば次の如くである。番嘘は萬葉の國歌大觀の番號である。(′或本歌)
 卷一、213037404142 卷二、132133134137140144168169170195197200201208209211212214216219221222223 卷三、255256264 卷四、496500502 卷七〔以下、卷十七まで番号省略〕、 卷八、卷九、卷十、卷十一、(45)卷十二、卷十五、卷十七、卷十九、4200
 右の如くであるが、右の萬葉の歌は、人麿作又は人麿歌集出といふのではなく、他の人の歌が混入してゐる。人麿、三二首(【外に、一七一〇・三六一〇は左注に或云人麿歌、合すれば三四首】)。人麿歌集出、三一首(【外に、二三一五は或云三方沙彌、一六八五は題詞間人宿禰左注人麿歌集、これを合すれば三三首】)。古歌集二首。天武天皇一首、但馬皇女一首。長忌寸意吉麻呂一首、内藏《うちくら》忌寸繩麿一首、碁檀越一首、依羅娘子一首、作者不詳一四〇首、(【外に、左注に或云人麿歌とある一七一〇・三六一〇】)。
 〔古今集〕。萬葉集に無くて、古今集にあるものは次の如きものである。
   うめの花それとも見えずひさ方のあまきる雪のなべてふれれば(冬、讀人不知)
   わが宿のいけの藤なみ咲きにけり山ほととぎすいつか來なかむ(夏、讀人不知)
   たつた川もみぢ葉ながる神なびの三室の山にしぐれ降るらし(秋下、讀人不知)
   あはぬ夜のふる白雪とつもりなば我さへともに消ぬべきものを(戀三、讀人不知)
   風ふけば浪うつきしの松なれやねにあらはれてなきぬべらなり(戀三、讀人不知)
   ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島がくれ往く船をしぞ思ふ(※[覊の馬が奇]旅、讀人不知)
   陸奧にありといふなる名取川なき名とりては苫しかりけり(戀三、忠岑)
 初の六首は、いづれも歌仙家集本柿本集では下卷の方にのみあるものである。そして、大體古(46)今集の歌の左注の、『この歌はある人のいはく柿本人麿が(歌)なり』といふのを參考として拔出したものである。最後の一首は類從本のみにあるものである。
 〔古今六帖〕。次に、柿本集の歌と同じ歌が、多少の相違を以て古今六帖にも載つてをり、大體百二十一首ある。今後日の便利のため、歌仙家集本の歌の番號を示せば次の如くである。
 
 右のうち、人麿と記してあるのもあり、作者不明、作者相違のものをも混じてゐる。字句は前言の如くに多少の相違があるが、その一々は後に見えてゐる。古今六帖には、國々の名を詠込んだ歌は一つも載つてゐない。これも成立年代を推測するのに一顧していい點である。
 〔後撰集〕。後撰集に萬葉の歌が載つて、それが柿本集にもあるものは次の五首である。
   來て見べき人もあらじな我が宿の梅の初花折りつくしてむ(後撰ハル上、讀人不知)
   來て見べき人もあらなくに我が宿の梅の初花散りぬれどよし(柿本集、一六四番)
   天の川遠き渡りはなけれども君が舟出は年にこそまて(後撰秋上、讀人不知)
   天の川遠きわたりと無けれども君が舟出は年にこそ待て(柿本集、八三番)
(47)   天の川瀬々の白波高けれどただ渡り來ぬ待つに苦しみ(後撰秋上、續人不知)
   天の川淺瀬白浪高ければただ渡りなむ待てば術なし(柿本集、九二番)
   白露のおかまく惜しき秋萩を祈りては更に我やかざさむ(後撰秋中、讀人不知)
   白露のおかまく惜しき秋萩|の《イを》折り|て《イの》み折りて置きやか|くら《イらさ》む(柿本集、九五番)
   かりがねの鳴きつるなべに唐衣立田の山は紅葉しにけり(後撰秋下、讀人不知)
   かりがねの鳴きつるなべに唐衣立田の山は色づきにけり(柿本集、三九番)
 これを以て見れば、大體の印象として、後撰集の歌と柿本集の歌とは直接關聯が無いごとくである。即ち、柿本集は直接後撰集に據らなかつたことが分かる。なほ『天の川遠き渡りは』の歌は拾遺集にも載つてゐる。
 〔拾遺集〕。拾遺集に載つてゐて、柿本葉にある歌も可なり多く、九十四首ばかりある。これも後日の參考のために、歌仙家集本の歌の番號を記せば次の如くである。
 〔番号省略、入力者〕
(48) 最後の二三七番は、諸國を詠込んだ中の『やまと』で、拾遺集に輔相、拾遺抄に元輔とあるものである。また、一九九番は拾遺集卷九の、藤原爲頼の作で、『廉義公の家の紙繪に旅人のぬす人に逢ひたるかたかける所』といふ詞書ある二首中の一首である。
 〔原歌不明〕。國々の歌も一首のほか、原歌不明だが、次の二首も原歌を見出し難いものである。
   山里は月日もおそくうつ|ならむ《イらなむ》こころのどかにもみぢ葉も見む(六六番)
   しらずともまた|ひ《イゆ》く道をしらずともすまぢをゆけば|ゆけろ《イいけり》ともなし(四八番)
 これ等は原歌不明のものだが、四八番のは、五〇番の異傳の如く、『すまぢ』は衾路の誤寫、『ひく道』は一本『ゆく道』、『ゆけろ』は一本『いけり』であるから、大體原歌を想像することだけは辛うじて出來る。その他の一つは不明である。
 右の如くに、萬葉集、古今集、古今六帖、拾遺集等と柿本集が關聯のあることは明かであるが、古今集の歌は直接古今集の左註に據つて拔出したものだらうといふことは大體の見當がつくが、その他のものは直接それらのものによつたか奈何は速斷が出來ない。或は拾遺集の人麿作といふのを拔出したことも可能であり、古今六帖から拔出したことも可能であるが、拾遺集の資料となつた、萬葉集の同じ系統の寫本等に據つたものからの拔出しであることもまた可能である。恐ら(49)くその可能性が尤も多いのではあるまいか。そして、上帖が先づ出來、下帖はその増補であり、國々の歌はその次の増補であるやうにおもへる。類從本は、それにまた増補し、類聚的に整理を加へたものの如くである。
 
     四
 
 〔赤人集〕。柿本集と赤人集の二集に共通のもの十八首あり、次の如くである。それに柿本・赤人・家持三集共通の六首があるから、柿本集と赤人集とに共通のものは合計二十四首あることになる。
   わび《戀ひ(赤人)》(イ戀ひ〕つつも今日は暮しつ霞たつ明日の春日をいかで暮さむ(柿本集一九三番)
   ほととぎす鳴くやさつきの短夜も獨しぬれぼ明かしかねつも(一七三番)
   人ごとは夏野の|草の《草と(赤人)》(イと)しげくとも|きみ《妹(赤人)》(イいも)とわれとしたづさはりなば(六五番)
   このごろの戀の|しげ|けむ《しげらく(赤人)》(イけく)夏草のかり|はつれ(イはらへ)ども《はらへども(赤人)》生ひ|しくがごと《しけるごと(赤人)》(六七番)
   かたよりに糸をこそよれ我せこが花たちばなをぬかむと思ひて(六八番)
   ほととぎす通ふかきねの卯の花のうきことあれや君がきまさぬ(六九番)
(50)   我こそはにくくもあらめわが宿の花たちぼなを見に|も《は(赤人)》來じとや(七〇番)
   夏草のつゆ分ころも|きぬものを《きもせぬに(赤人)》(イきもせぬに)などかわが袖のかわくときなき《我衣手のひるよしもなき(赤人)》(七三番)
   あまの川こぞのわたりの移ろへば|河瀬ふむまみ《河せをゆきて(赤人)》夜ぞふけにける(七六番)
   逢|はずては《なくは。一本、あせずして(赤人)一本、ものは(赤人)》けながきものを天の川|へだつるまでやわが戀ひ居らむ《隔てて又や(赤人)わが戀をせん(赤人)》(七八番)
   ひこ星とたなばたづめとこよひ|逢はむ《逢ふ(赤人)》天の|河瀬《かはら(赤人)》に浪たつなゆめ(七九番)
   天の川霧たち|わたり《わたる(赤人)》ひこぼしのかぢ音きこゆ夜の更けゆけば(八二番)
   あまの川橋打ちわたす妹が|いへにやまずかよはむ《いへとまらずかよへ(赤人)》時またずとも(八四番)
   あまのがは瀬をはやみかもぬばたまの|夜は更け《夜はあけつつ(赤人)》行けど逢はぬ彦星(八七番)
   わたし守ふねはやわたせひととせにふたたび|來ます《通ふ(赤人)》君《一本、道(赤人)》ならなくに(八六番)
   戀ふる日は|け長きものを今夜さへともしかるらむ《今だにも。一本、今宵だに(赤人)乏しむべしや(赤人)》逢ふべきものを(七五番)
   たなばたのこよひ|逢ひなば《あけなば(赤人)》つねのごと|月日へだつる年なからなむ《明日を隔てて年はこえなむ(赤人)》(八九番)
   あまの川こぞのわたりは|あせにけり《荒れけるを、一本、荒れにける(赤人)》君が|きまさむあと殘らなむ《來らむ(赤人)道の知らなく(赤人)》(九一番)
 以上を以て觀るに、赤人集の歌は、柿本集の或一部の歌、大體同一處にかたまつて居る歌がまぎれ込んでゐるらしくおもはれる。そこで、柿本集も赤人集も時を同じうして撰ばれたものでなく、恐らく赤人集の方がおくれて撰ばれたものではなからうかと思はれる。
(51) 〔家持集〕。柿本集と家持集とに共通してゐる歌は二十首あり(【類聚本のみにあるもの二首】)、次の如くである。(この外に柿本、赤人、家持三集に共通歌が六首あるから合計二十六首となる)。
   こそ見てし秋の月夜は|やどれども《照らせども(家持)》(ィ【わたらでも・てらせども】)あひみしいもはいやとほざかる(五一番)
   妹に|逢ふときみまたまつと《逢はむ夜をかたまつと(家持)》久方のあまの川原に|年そへにける《月はへにけり(家持)》(九四番)
   春|されば霞がくれに見えざりし秋萩さけり《くれば霞にこめて見せざりし萩さきにけり(家持)》折りてかざさむ(九八番)
   わがやどに咲ける秋萩つねならばわれ待つひとに見せましものを(一〇一番)
   手に|とれば《折れば(家持)》袖さへにはふをみなへし|この下つゆ《その白露の(家持)》に散らまく|も惜し《惜しも(家持)》(一〇三番)
   秋風に山飛びこゆるかりがねの|いや遠《こゑ(家持)》ざかり雲がくれつつ(一〇八番)
   天雲の|よその《よそに(家持)》かりがねききしより|はだれ《霰(家持)》霜|ふりさむしこよひは《ふる寒き今夜か(家持)》(一〇九番〕
   秋田苅るかりいほ《秋の田の假庵(家持)》つくりわが居ればころも手さむし露ぞ置きける(二三三番)
   秋さればおく白露にわがやどの淺茅が|うはは《うれは(家持)》色づきにけり(一二六番)
   かりがねの|鳴きつるなべに《鳴くなるなべに(家持)》唐衣たつたの山は|色づきにけり《紅葉しぬらむ(家持)》(一二九番)
   ひととせにふたたび行かぬ秋山を|ところにもあらで《心にもあらず暮し(素持)》過しつるかな(一二八番)
   さを鹿の妻とふ山のをかべなるわさ田は刈らじ霜はおくとも(【家持集類従本のみ】)(一三〇番)
   しら露を玉に|つくれる《ぬきもて(家持)》ながつきの有明の月は見れど飽かぬかも(一三五番)
(52)   もみぢ葉を|おとす《散らす(家持)》しぐれの降るなべに夜さへぞ寒き獨しぬれば (一四一番)
   秋はぎの|咲きける《咲きいづる(家持)》(イちる)野べの|夕ぐれに《夕露に(家持)》(イ夕蕗)にぬれつつ來ませ夜は更けぬとも (一四六番)
   夜をさむみ朝戸をあけて|出でぬれば《見わたせば(家持)》庭もはだらに|雪ふりにけり《泡雪ぞふる(家持)》 (一六〇番)
   やたの野にあさぢ色づくあらちやま峯のあわ雪|さむくぞあるらし《寒くなるらし(家持)》(【家持集類從本のみ】) (二三四番)
   來て見べき人もあらなくにわが宿の梅の初花|散りぬれど《敢りぬとも(家持)》(イ散りぬとも)よし (一六四番)
   わがやどに咲きたる梅を|月かげに《月きよみ(家持)》夜な夜な|來つつ見む人もがな《見せむ君をこそ待て(家持)》 (一六七番)
   あしびきの山したかぜは吹かねども君が來ぬ夜は|かねて《たもと(家持)》寒しも (一六八番)
 〔柿本・赤人・家持三集〕。柿本集、赤人集、家持集の三集に共通のものは六首ある。
   かけてのみ《人知れず(赤人)・下にのみ(家持)》戀ふればくるしなでしこの花に|さかなむ《咲きいでよ(赤人)・咲きいでよ(家持)》朝な朝な見む (七一番)
   しばしばもあひ見ぬ|妹を《君は(赤人)・君は(家持)》あまのがは船出はやせよ夜のふけぬとき (八〇番)
   秋かぜの清きゆふべにあまのがはふね漕ぎ|わたせ《わたる(赤人)わたせ(家持)》月人をとこ (八一番)
   あまのがは霧たち|わたる《わたり(赤人)のぼる(家持)》たなばたの|天の羽衣とび別るかも《雲の衣のあへる空かな(赤人)雲の衣のなびく袖かも(家持)》 (八五番)
   秋風の吹きにし日よりあまの|がは《はら(赤人)》瀬に|たちいでて《・出で立ちて(家持)》待つと|つげこせ《・つげこそ(家持)》 (九〇番)
   ひこぼしの|つま|まつ《・よぶ(家持)》船のひきつなの《妹よぶ聲のひく綱の(赤人)》たえむと君|に《・そこにたえむと(家持)》わが《をわれ(赤人)》思はなくに (九三番)
 
(53)     五
 
 藤原公任の三十六人撰に據つて、誰かが銘々の家集を編んだのが三十六人集だといふのは大體間違はないだらう。公任の三十六人撰について、後拾遺集の序に、『この外、大納言公任卿三十ぢあまり六つの歌人をぬき出でて、これかれたへなる歌ももちあまり五十ぢをかきいだし、又十あまり五つがひの歌を合せて世に傳へたり。(中略)畏きも賤しきも、知れるも知らざるも、玉くしげあけくれの心をやるなかだちとせずといふことなし』と云つてゐる。即ち公任の十五番歌合、和漢朗詠集、九品和歌等六種の編著の中に、三十六人撰も入つてゐたのだらう。『ももちあまり五十ぢ』は、百五十首であらう。
 三十六人撰に本づいて誰かの編んだ三十六人集の文獻に見えた始は千載集であつて、卷十七雜歌中に、
     大納言實家のもとに三十六人集をかりて返しつかはしけるなかに、故大炊御門右大臣のかきて侍りけるさうしにかきておしつけられて侍りける
                           太皇太后宮
   この本にかき集めたる言の葉を別れし秋の形見とぞ見る
(54)    かへし                   權大納言實家
   この本にかく言の葉を見る度に頼みし蔭のなきぞ悲しき
とあるのが即ちそれである。そこで三十六人集の成つた年代は、大凡、少くとも後拾遺集の後、即ち堀河天皇の應徳三年九月十六日以後、實家が大納言である頃までの間に出來たと推測するのはそのためである。
 三十六人集については、定家の詠歌大概に、『殊(ニ)可2見習1者、古今、伊勢物語、後撰、拾遺、三十六人集之内、殊上手歌、可v懸v心』とあり、頓阿の愚問賢註に、『三十六人作者集も百首に及びたるは少なし。花山僧正、齋宮女御、本院中納言忠辨などの集、歌僅かに侍るをや』とあるが、頓阿ごろでも、(【後龜山天皇文中元年歿】)歌數がそんなに多くなかつたことが分かる。
 なほ契沖の河社に、『みづからあつめたるもあり、後に人のあつめたるもあり。貫之集などのやうに、みづからあつめたるだに、いかなるゆゑにかあらん、おぼつかなき事まじれれば、まして後にあつめたるには、うたがひのこらざるにあらず。又康秀、喜撰、黒主、貞文、棟梁、元方、千里、深養父、忠房等を除て、これらには及ぶまじき後の作者を入られたる事おほきも、おぼつかなし。これおほよそなり』とある如く、當時の三十六人集も既に杜撰なものであつたのに、途中で恣に増補などをして、原形をとどめなくなつたらしいといふのである。
(55) なほ契沖の河社に、『人まろの集は、ひたふるに信じがたきものなり。むなしく萬葉集の中より、ぬししらぬ歌までぬき出たり。六十よこくを、物の名によめる歌は、ことに用るにたらぬものなり。さすがに歌のすがたは、延喜天暦の後の作者のしわざなるべし』とある。
 この國々の名を物名とした中、大和を詠んだ、『やまと。ふるみちに我やまとはむいにしへの野中の草もしげりあひにけり』といふ歌は、第四句、『草は』で、拾遺集卷七物名、藤原輔相の作になつて居り、拾遺抄卷九雜上には元輔の作になつてゐる。そこで群書一覽の著者尾崎雅嘉は、『雅嘉按ずるに、【中略】此六十六首元輔の哥なるを、後の人ことがきをそへて人丸集の中に收めたるなるべし。契沖拾遺抄を考へもらされたるにや、この沙汰《サタ》に及ばれず』と云つてゐる。然るに、長連恒氏は、國歌大系の解題に於て、『この六十餘首は恐らく輔相の詠と見るが正しからうと思ふ。輔相は藤原弘經の男である。尊卑分脈に據れば無官、號藤六、歌人とあつて、昭宣公基經は其の伯父に當つて居る。當意即妙にして機智に富んだ歌人であつた。宇治拾遺物語卷三、第十一話の「藤六の事」、或は袋草子卷三の獄前の菊を詠じた事は、其の間の消息を雄辯に傳へるものであらう。和歌は拾遺集にもあるが、今日、輔相集又は藤六集と稱するものが稀に存在する。歌員三十九首殆どすべては物名を詠んで居る。景樹がこの國名歌を承平より天徳頃に至る調と言つたのは、中らずと雖も遠からずであらうと思ふ』と云つて居る。
(56) 大體さう想像しても好からうが、或は、輔相の「やまと」を詠んだ拾遺集の歌を本とし、それを動機として、輔相よりも後の誰かがほかの諸國の歌を作りあげたと想像することが出來る。類從本の、「名立ちける女の十首よみておくりける」の中に、拾遺集第九、藤原爲頼の『なき名のみたつたの山の』から來てゐる歌があり、それを本として、いろいろに十首作りあげ、「返し十首」の方にも、拾遺集にある二首を使つてゐる、その心理を考へれば、六十六首全部を輔相の作とせずとも好いやうな氣特もしてゐるが、これは私の想像である。
 前言のごとく、類從本の、戀部終の方に、『名立ちける女の十首よみて送りける』と返歌十首とが載つてゐる。
     名立ちける女の十首よみて送りける
   しほ衣あまの身かとぞ思ひけるうきよにふればきぬ人もなし
   なき名のみいはれの池のみぎはかなよにも嵐の風も吹かなむ
   濡衣をほすさを鹿の聲聞けばいつしかひよと鳴くにぞありける
   田子の浦蜑の濡衣きたれどもほしきに物はいはずもあるかな
   吹く風のしたの塵にもあらなくにさも立ちやすき我なき名哉
   ほしわびし人をぞ聞きしぬれ衣わが身になして今ぞかなしき
(57)   陸奥にありといふなる名取川なきなとりてはくるしかりけり
   渡りぬる身にこそありける名とり川人の淵せと思ひけるかな
   なき名立つ身のきる物はぬれ衣いくかさねとぞ限らざりける
   しつのをに掛けて留めよ大方はたが立そめしなきなならねば
 右の十首の中、歌仙家集本にあるのは、『なき名のみ』だけであり、然かも、拾遺集の歌どほりに、『なき名のみ立田の山のふもとには世にもあらしの風も吹かなむ』になつてゐる。そして、拾遺集には別に讀人不知で、『なき事をいはれの池の浮きぬなは苦しき物は世にこそありけれ』といふ歌があり、類從本の方は他の歌の句の※[手偏+讒の旁]入してゐることが分かる。或は意識してさう企てたのかも知れない。なほ、『陸奥にありといふなる名取川』の歌は、古今集、忠岑の歌であり、『人の淵瀬』の入つてゐる歌は、拾遺集讀人不知に、『行く水の泡ならばこそ消えかへり人の淵瀬〔四字右○〕を流れてもみめ』があり、『蜑の濡衣』は、源氏物語夕霧に、『松島の蜑の濡衣〔四字右○〕なれぬとて脱更へつてふ名をたためやは』がある。なほ、『吹く風の下の塵』の歌は、後撰集、伊勢の、『吹く風の下の塵〔七字右○〕にもあらなくにさも|た《(散)》ちやすき我なき名哉』と全く同じである。また、『ほしわび』の入つてゐる歌には、拾遺集、躬恒の『かりてほす山田の稻をほし詫びて〔五字右○〕守る假庵に幾夜へぬらむ』があるけれども、斯くの如く、人麿の歌と關係無きのみならず、古今集、後撰集から作者明瞭の二首を持(58)つて來、他も類似句のある歌を持つて來て、十首連作なるかの如くに組立てたものだといふことが分かる。そして歌仙家集本にこの連作の無いのを見れば、類從本は、歌仙家集に恣に増補して行つたものだといふことも推察するに難くはない。
     返し十首
   我が屋にも君がきるなるぬれ衣をよにも嵐の風も吹かなむ
   同じ名を立つとしたゝばぬれ衣きてを慰むうらぶるゝまで
   なき名のみたつの市とは騷げどもいさまた人をうる由もなし
   おりたゝぬほどばかりをや名取川渡らぬ人もなにならなくに
   夢ならであふこと難き君ゆゑに我も立つ名をたゞにやは聞く
   あぢきなく名をのみたてゝ唐衣身にもならさでやまむとや君
   君をわれいくたの浦のいく度かうき名を立てと思ひし物を
   竹のはにおちゐる露の轉びあひてぬるとはなしに立つ我名哉
   なきたむる涙の川のうきぬなはくるしや人にあはで立なは
   君といへば何かなき名のをしからむよそへて聞くも嬉しき物を
   うつくしと思ひし妹を夢に見ておきてさぐるになきぞ悲しき
(59) 返し十首とあるが、十一首ある。また、この中に拾遺集にあり、歌仙家集本に入つてゐるのに、『なき名のみ』(一九八番)と『竹の葉に』(一九七番)がある。そして、後者は、拾遺集・歌仙家集共に第二句『おきゐる』となつてゐる。それから、最後の、『うつくしと思ひし妹を』の歌は、拾遺集卷二十、讀人不知の歌であつて、歌仙家集本には無い。そのほか、次の如き歌を參考しつつ作つたと想像し得るところがある。
   きて歸る名をのみぞ立つ唐衣〔九字右○〕したゆふひもの心解けねば (後撰集、讀人不知)
   幾度かいくたの浦〔五字右○〕に立ちかへる浪に我身を打ち濡すらむ (後撰集、讀人不知)
   立歸りぬれては干ぬる汐なればいくたの浦の〔六字右○〕さがとこそみれ (後撰集、讀人不知)
   泣きたむる〔五字右○〕袂こほれる今朝みれば心とけても君をおもはず (後撰集、讀人不知)
   流れいづる涙の川の〔四字右○〕行末は遂にあふみの海とたのまむ (後撰集、讀人不知)
   君といへば〔五字右○〕見まれ見ずまれ富士の根の珍しげなく燃ゆる我が戀 (古今集、忠行)
   ふりぬとて思ひも捨てじ唐衣よそへて〔六字右○〕あやな恨もぞする (後撰集、雅正)
 右の如き状態であるから、歌仙家集本が既に、人麿以外の歌を載せてゐるのに、類從本は、二たびそれに増補し、古今、後撰、拾遺あたりの讀人不知の歌、或は作者明瞭の歌を參考して作りかへつつ、贈答連作歌の如き體裁に作りあげたものだらうと推察せられるものである。
 
(60)     六
 
 次に、柿本集は諸本によつて異同のあるのは、いづれかが誤寫をしてゐるためである。
   しら露のおかまく惜しき秋はぎのをりてみをりておきやかくらむ (歌仙家集本、九五番)
   しら露のおかまく惜しき秋はぎををりのみをりておきやからさむ (圖書寮本第二)
   しら露をあかまく惜しみ秋はぎをおりのみおりてをきやかくさむ (圖書寮本第二)
   白露のおかまくをしき秋萩を折のみ折ておきやからさん (類從本)
   白露乃置卷惜秋芽子乎折耳折而置哉枯《シラツユノオカマクヲシキアキハギヲヲリノミヲリテオキヤカラサム》 (萬葉集卷十・二〇九九)
 この歌は、歌仙家集系統本にも、類從本系統本にもあつて、萬葉集の原歌も分かるものであるが、各本同一ではない。つまり傳寫されてゐるあひだに、斯くのごとくに違つて來たものである。さういふ事實を示さうとしてこの一首を選んだが、若し後世このうちから一つに整理しようとするならば、圖書寮本第一、類從本に據らねばならぬこととなる。
   わびつつも〔五字右○〕今日は暮しつ霞立つあすの春日をいかで暮さむ (歌仙家集本、一九三番)
   こひつつも〔五字右○〕今日は暮しつ霞立つあすの春日をいかで暮さむ (圖書寮本第二)
   こひつつも〔五字右○〕今日は暮しつ霞立つあすの春日をいかで暮さむ (類從本)
(61)   こひつつも〔五字右○〕今日は暮しつ霞立つあすの春日をいかで暮さむ (拾遺集)
   戀乍毛今日者暮都霞立明日之春日乎如何將晩《コヒツツモケフハクラシツカスミタツアスノハルヒヲイカニクラサム》 (萬葉集卷十・一九一四)
 はじめ歌仙家集の『わびつつも』をば、當時の萬葉の或る一つの訓に據つたものかともおもつたが、同じ系統の圖書寮本第一には、明かに、『こひつつも』とあるところを見ると、これは傳寫のあひだに誤つたので、最初の柿本集のは、『こひつつも』であつただらうと考へて間違が無い。かういふのも若し一つに整理するのであつたら、『こひつつも』と極めるのだが、今はただ有りの儘に記すにとどめるのである。
   時雨のみ〔四字右○〕めにはふれればまきの葉もあらそひかねて紅葉しにけり〔六字右○〕 (歌仙家集本、一八一番)
   時雨の雨〔四字右○〕まなくしふればまきの葉もあらそひかねてうつろひにけり〔七字右○〕 (圖書寮本第一)
   時雨のあめ〔五字右○〕まなくしふればまきの葉もあらそひかねていろづきにけり〔七字右○〕 (類從本)
   四具禮能雨無間之零者眞木葉毛爭不勝而色付爾家里《シグレノアメマナクシフレバマキノハモアラソヒカネテイロヅキニケリ》 (萬葉集卷十・二一九六)
 斯くの如くだが、かう比較して見ると、歌仙家集中の、『時雨のみめにはふれれば』といふのは確かに誤寫である。結句の、『紅葉しにけり』もほかに根據が無いとすると、筆寫のあひだに都合で恣に變へたもののやうである。圖書寮本第一の、『うつろひにけり』も、古鈔本の訓に無いからこれも勝手に變へたものと看做せば、どうしても、『色づきにけり』とせねばならぬところである。
(62)   たが宿の梅の花ぞもひさかたの清き月夜にのこらざりけり (歌仙家集本、一六二番)
   たが宿のうめの花かもひさかたの清き月夜にここら散りたる (圖書寮本第二)
   たが宿の梅の花ぞもひさかたの清き月夜にここだ散りくる (類從本)
   誰苑之梅花毛久堅之清月夜爾幾許散來《タガソノノウメノハナゾモヒサカタノキヨキツクヨニココダチリクル》 (高菜集卷十・二三二五)
 萬葉の、『梅花毛』は、舊訓ウメノハナソモ。古寫本(元)ウメノハナカモ。圖書寮本第一ウメノハナカモ。『幾許散』は、舊訓ココラチリクル。古寫本中(類)ココタフリクル。代匠記ココダチリクル。國書寮本第一の、『梅の花かも』は元暦校本に等しく、『ここら散りたる』は舊訓に近いから、古い訓に根據を置いてゐる。歌仙家集の、『のこらざりけり』は恣に變へたものと見える。類從本が一番よいが、圖書寮本が或は原本に近いともおもふ。
   言にいでていはばゆゆしみ山川の瀧つ心をせきぞかねつる (歌仙家集本、一八四番)
   言にいでていはばゆゆしも朝顔の匂ひひらけぬ戀もする哉 (類從本)
 萬葉集卷十一(二四三二)に、言出云忌忌山川之當都心塞耐在《コトニイヂテイハバユユシミヤマカハノタギツココロヲセキアヘニケリ》。結句、舊訓セキゾカネタル。古寫本中(嘉・類・古)セキヅカネツルがあるから、歌仙家集本は大體萬葉に據つたことの推測が出來るが、類從本の方はどうして、かういふ風になつたか、推測も出來ない有樣にある。そこで類從本には二たび一本所載歌中に一八四番と同じ歌を收めた。
(63)   長月を〔三字右○〕君に戀ひつつ生けらずば咲きて散りにし花ならましを (歌仙家集本、一五五番)
   長き夜を〔四字右○〕君|に《を》戀ひつつ生けらずば咲きて散りにし花ならましを (類從本)
 この場合は、萬葉の原歌は、『長夜乎』(卷十。二二八二)であるから、類從本の方が正しいのである。また、圖書寮本第一には第四句、『咲きて散りぬる』となつてゐるが、これが原歌が、『落西』だから、『散りにし』と訓むのが順當で、『散りぬる』は誤寫といふことになる。
   かりがねの初聲ならで〔三字右○〕咲きて散る宿の〔五字右○〕秋萩見にこわがせこ (歌仙家集本、一五三番)
   雁金の初聲ききて〔三字右○〕咲き出たる野べの〔六字右○〕秋萩見にこわがせこ (類從本)
   鴈鳴之始音聞而開出有屋前之秋芽子見來吾世古《カリガネノハツコヱキキテサキデタルヤドノアキハギミニコワガセコ》 (萬葉集卷十・二二七六)
 第二句の、『初聲ききて』とある類從本の方が萬葉に同じで、第三句、『咲きでたる』も類從本の方が正しい。然るに、第四句の、『野べの秋萩』になると、寧ろ歌仙家集の方が原歌に近いのであるから、兩本が一部分づつ原歌に同じだといふことになるのである。そして圖書寮本第一では、『初聲ききて』とあるから、『ならで』の誤寫なることは確かだが、『咲きて散る』は勝手に變へたもののやうである。
   なにすとか君を〔二字右○〕いとはむ秋萩のその初花の戀ひしき〔四字右○〕ものを (歌仙家集本、一五二番)
   なにすとか妹を〔二字右○〕いとはむ秋萩のその初花のうれしき〔四字右○〕ものを (類從本)
(64)   何爲等加君乎將厭秋芽子乃其始花之歡寸物乎《ナニストカキミヲイトハムアキハギノソノハツハナノウレシキモノヲ》 (萬葉集卷十・二二七三)
 これを見ると、歌仙家集本(圖書寮本第一)の方が萬葉と同じのところもあり、類從本(圖書寮本第二)の方が萬葉と同じところもある。傳寫の間に一部分づつ變化してゐる有様がこれで分かるのである。類従本の『妹を』は誤寫か或は恣に變へたものである。
   このよひは〔三字右○〕さよ更けぬらしかりがねの聞ゆる空に月たちわたる〔六字右○〕 (歌仙家集本、一三二番)
   このよひは〔三字右○〕さよ更けぬらしかりがねの聞ゆる空に月わたる見ゆ〔六字右○〕 (圖書寮本第一)
   このよらは〔三字右○〕さ夜更けぬらしかりがねの聞ゆる空に月さえわたる〔六字右○〕 (圖書寮本第二)
   このよらは〔三字右○〕さ夜更けぬらしかりがねの聞ゆる空|は《にイ》月|わたるみゆ《たちわたるイ》 (類從本)
   此夜等者沙夜深去良之鴈鳴乃所聞空從月立度《コノヨラハサヨフケヌラシカリガネノキコユルソラユツキタチワタル》 (萬葉集卷十・二二二四)
 かう並べて見ると、歌仙家集本が一番萬葉の原歌に近いことになる。圖書寮本第一・類從本の結句は誤寫であらうし、圖書寮本第二の結句は恣に變へたものであらう。それにも拘らず、圖書寮本第二・類從本初句の、『このよらは』が萬葉どほりであるから、相交錯してゐるのである。
   かりがねの鳴きつるなべに〔七字右○〕からごろも立田の山は色づきにけり (歌仙家集本、一二九番)
   かりがねの來鳴きし日より〔七字右○〕からごろも立田の山は色づきにけり (圖書寮本第一)
   かりがねを聞きつる〔五字右○〕なべに高松ののゝうへの草はもみぢはじまる (圖書寮本第二)
(65)   かりがねを聞きつる〔五字右○〕なべに高松ののゝうへの草は色づきにけり (類從本)
   かりがねの鳴くなる〔四字右○〕なべにからごろも立田の山は紅葉しにけり〔六字右○〕 (古今六帖)
   鴈鳴乃來鳴之共韓衣裁田之山者黄好有《カリガネノキナキシナベニカラゴロモタツタノヤマハモミヂソメタリ》 (萬葉集卷十・二一九四)
 かうして見ると、萬葉集の原歌に同じなのは一つもなく、少しづつ違つてゐる。『黄好有』を『色づきにけり』と訓めば圖書寮本第一が一番原歌に似るといふことになる。
   秋萩の咲きける〔二字右○〕野べの夕ぐれに〔四字右○〕ぬれつつ來ませ夜は更けぬとも〔七字右○〕 (歌仙家集本、一四六番)
   秋萩の咲きちる〔二字右○〕野べの夕霧に〔三字右○〕ぬれてをいませさ夜はふくとも〔七字右○〕 (圖書寮本第一)
   秋萩の咲きちる〔二字右○〕野べの夕霧に〔三字右○〕ぬれつつ來ませ夜は更けぬとも (類從本)
   秋芽子之開散野邊之暮露爾沾乍來益夜者深去鞆《アキハギノサキチルヌベノユフツユニヌレツツキマセヨハフケヌトモ》 (萬葉集卷十・二二五二)
 これで見ると類従本のが萬葉集の歌と同じだから、どれか一つに極める場合には類従本のを採用するといふことになる。
 以上は大體を示したに過ぎぬけれども、誤寫といふ事實が意外に多いといふことが分かる。なほ一首一首のくはしいことは後に載せる各論の部にゆづる。
 
     七
 
(66) 既に記したごとく、柿本集は單に萬葉集のみでなく、その他の歌集の歌をも取入れられてゐるが、次にその趣をなほ一應分析することとする。一首一首のくはしい事は後段の柿本集各論の部に讓り、此處にはその一端を示すにとどめるのである。
   梅の花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべて降れれば (歌仙家集本、一七〇番)
 古今葉卷六に題しらず、讀人不知として載り、『この歌はある人のいはく柿本人麿が歌なり』と注してあるが、それに據つたものであらう。萬葉卷八(一四二六)、赤人の歌に、吾勢子爾令見常念之梅花其十方不所見雪乃零有者《ワガセコニミセムトオモヒシウメノハナソレトモミエズユキノフレレバ》といふのがあるけれども、初句が違つて居る。
   わがやどの池の藤なみ咲きにけり山時鳥いまや(【圖書寮本第一・第二・類從本、いつか】)來鳴かむ (歌仙家集本、一七一番)
 この歌は、萬葉集には類歌が無いのに、古今集卷三に、題しらず、讀人不知、結句『いつか來鳴かむ』として載り、『この歌、ある人のいはく、柿本人麿がなり』と注してある。即ち、柿本集の此歌は、古今集の歌に本づいてゐることが分かるのである。
   あはぬよのふる白雪と積りなば我さへ共に消ぬべきものを (歌仙家集本、一七九番)
 古今集卷十三、題不知、讀人不知。左注に、『この歌はある人のいはく柿本人麿が歌なり』とある。萬葉集には類歌がない。
(67)   風吹けば浪立つ(【圖書寮本第一・第二、浪うつ】)岸の松なれやねに現はれてなきぬべらなり (歌仙家集本、一八五番)
 古今集卷十三、題しらず、讀人しらず、第二句『浪うつ岸の』、左注『この歌は或人のいはく、柿本人麿がなり』に據つたものであらう。萬葉集には類歌が見つからない。
   ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく船をしぞ思ふ (歌仙家集本、二一七番)
 古今集卷九、題しらず、讀人不知、『この歌はある人のいはく柿本人麿がなり』といふ左注がある。萬葉集に類歌が無い。
   たつた川もみぢ葉流る神なびのみむろの山に時雨降るらし (歌仙家集本、一七八番)
 古今集卷五に、題しらず、讀人不知としてあり、古今六帖、拾遺集にも載つた。萬葉集に類歌は無い。
   ますらをのうつし心も我はなし夜昼わかず戀ひしわたれば (歌仙家集本、一九二番)
 この歌は、歌仙家集本(圖書寮本第一)、類從本(圖書寮本第二)、鷹司本共に同一であるが、萬葉集(卷十一・二三七六)の、『夜昼不云』が『夜昼わかず』といふ訓が無く、この歌が古今六帖にかく載つてゐるところを見ると、六帖に據つたかともおもふがどうであらうか。
   なき名のみたつの市とは騷げどもいさ又人をうる由もなし (歌仙家集本、一九八番)
(68) この歌は、諸本皆同一で、拾遺集卷十二、題しらず、人麿として載つて居り、萬葉集に類似の歌が見當らない。拾遺集はどういふ系統の萬葉集に據つたか不明であるが、柿本集は同一系統の萬葉に據つたか、或は直接拾遺集に據つたかいづれかであらう。併し、拾遺集の爲頼・輔相等の歌が入つてゐるところを見れば、直接拾遺集に據つたと考へる方が穩當である。
   いはみなるたかまの山の木の間よりわがふる袖をいも見けむかも (歌仙家集本、一番)
 この歌は人麿の歌で、結句は、『妹見つらむか』(卷二・一三二)で、袖中抄にもさうなつてゐるのに、拾遺集卷十九にはこのとほりにあるから、柿本集は直接萬葉集に據らずに、拾遺集に據つたことが分かる。
   いはしろの野中に立てる結び松心もとけずむかしおもへば (歌仙家集本、三番)
 これは拾遺集卷十九に人麿として載つてゐるが、萬葉では長忌寸意吉麿の歌(卷二・一四四)であるところを見ると、直接拾遺集に據つたことが分かる。
   明日よりは(【類從本、からは】)若菜摘まむと片岡の朝の原はけふぞ燒くめる (歌仙家集本、一六九番)
   從明日者春菜將採跡標之野爾昨日毛今日毛雪波布利管《アスヨリハハルナツマムトシメシヌニキノフモケフモユキハフリツツ》 (萬葉集卷八二四二七)
 下の句はどうしても萬葉の諸古寫本に見つからないが、拾遺集卷一には人丸として斯く載つてゐるから、柿本集の此歌は、拾遺集あたりに據つたものであらうといふことは大體考察すること(69)が出來る。
   たごの浦の底さへ匂ふ藤波をかざして往かむ見ぬ人のため (歌仙家集本、一七二番)
   秋風の日ごとに吹けば我宿の岡の木の葉も色づきにけり (歌仙家集本、一七六番)
   あしびきの山下とよみゆく水の時ぞともなく戀ふる我身か (歌仙家集本、一八〇番)
 一七二番の歌は萬葉集(卷十九・四二〇〇)では、内藏忌寸繩麿であるから、拾遺集で人麿作としたのに據つたことが分かる。一七六番は、萬葉集(卷十・二一九三)では讀人不知であるから、拾遺集の人麿作に據つたものか。一八〇番は、萬葉集(卷十一・二七〇四)から來てゐるが、結句は、拾遺集『こひわたるかな』、圖書寮本第一『こひわたるかな』であるから、拾遺集に據つたといふ可能性が多い。
   青柳のかつらぎ山にゐる雲の立ちても居ても君をこそ思へ (歌仙家集本、一八二番)
   あしびきのかつらぎ山にゐる雲の立ちても居ても君をこそ思へ (國書寮本第一)
   あしびきのかつらぎ山にゐる雲の立ちてもゐても妹をしぞ思ふ (圖書寮本第二。類從本)
   足曳のかつらぎ山にゐる雲の立ちてもゐても君をこそ思へ (拾遺集)
   春楊葛山發雲立座殊念《ハルヤナギカツラギヤマニタツクモノタチテモヰテモイモヲシゾオモフ》 (萬葉集卷十一・二四五三)
 萬葉の初句、古寫本中アヲヤギノ(嘉・細)と訓んだのがあり、なほ、漢字の左にアヲヤギノ(70)(西・温・京・矢)と書いたのがある。然らば柿本集歌仙家集本は、萬葉集に據つたかといふに、結句の『君をこそ思へ』は拾遺集に據つてゐる。次に、圖書寮本第二、類從本の結句は、『妹をしぞ思ふ』で、萬葉集に據つたかとおもふと、初句は、『あしびきの』で、寧ろ拾遺集系統である。斯くの如くに、互に交錯してゐるのである。併し、歌仙家集本系統と考へられる、國書寮本第一が拾遺集と同じであるところを見ると、初句だけ變化してゐる、歌仙家集本は、やはり拾遺集に據つたものと推考することもまた可能だと思ふのである。或は拾遺集の據つた萬葉集と同じ系統の萬葉集に據つたといふ方が好いかも知れない。
   みなそこに生ふる玉藻のうち靡き心をよせて戀ふる此ごろ (歌仙家集本、一八三番)
   みなそこに生ふる玉藻のうち靡き心をよせて戀ふるころかな (類從本)
   みなそこに生ふる玉藻のうち靡き心をよせて戀ふるころかな (拾遺集)
   水底生玉藻打靡心依戀比日《ミナソコニオフルタマモノウチナビキココロハヨリテコフルコノゴロ》 (萬葉集卷十一・二四八二)
 歌仙家集本(圖書寮本第一同じ)は結句は萬葉集と同じく、類從本(圖書寮本第二同じ)は結句は拾遺集と同じである。この關係が交錯してゐて一樣ではないが、圖書寮本第一及び歌仙家集本は、直接萬葉集に據つたか、或は一たび拾遺集に據つたかはつきりしないのである。
   渡し守船はや渡せ〔五字右○〕ひととせにふたたび來ます君ならなくに (歌仙家集本、八六番)
(71)   渡し守はや船寄せよ〔六字右○〕ひととせにふたたび來ます君ならなくに (拾遺集卷十七)
 これは萬葉卷十(二〇七七)の、渡守舟早渡世《ワタシモリフネハヤワタセ》に據つたものだから、拾遺集に據つたのでないことが分かる。即ち直接萬葉集に擦つた例である。
   たまゆらに昨日の暮に見し物を今日のあしたに問ふべき(【類從本、こふべき】)ものか (歌仙家集本、二〇二番)
   玉響昨夕見物今朝可戀物《タマユラニキノフノユフベミシモノヲケフノアシタニコフベキモノカ》 (萬葉集卷十一・二三九一)
 これは、萬葉集に原歌があつて拾遺集にない。即ち直接萬葉集に據つた明かな證壕である。
   秋の夜の月かも君は雲隱れしばしも見ねばここら戀ひしき (歌仙家集本、一五六番)
   秋夜之月疑意君者雲隱須臾不見者幾許戀敷《アキノヨノツキカモキミハクモガクリシマシモミネバココダコヒシキ》 (萬葉集卷十・二二九九)
 この萬葉の訓は新訓萬葉に據つたが、『須臾』は舊訓及古寫本シバシモ。『幾許』も、舊訓及古寫本ココラで、ココダは代匠記の訓である。しかし此歌は拾遺集にも人麿作としてこの儘載つてゐるから、或は拾遺集に據つたかも知れない。
   さを鹿のいる野の薄はつ尾ばないつしかいもが手枕にせむ (歌仙家集本、一五四番)
   左小牡鹿之入野乃爲酢寸初尾花何時加妹之手將枕《サヲシカノイリヌノススキハツヲバナイヅレノトキカイモガテマカム》 (萬葉集卷十・二二七七)
 この萬葉の訓は新訓萬葉集に據つたけれども、『入野』は舊訓及び古寫本イルノであり、四五句(72)も舊訓及び古寫本イツシカイモガ・タマクラニセムであるから、そのあたりの訓に據つたものだといふことが分かる。イリノは考の訓、イヅレノトキカ・イモガテマカムは代匠記の訓である。この歌は拾遺集にないから、直接萬葉集に據つたことが分かる。以上の如き直接萬葉集に據つた例は多く、各論の方でそれを示して置いたし、前項に萬葉集の國歌大觀の番號を示して置いたから、それによつて檢出することもまた容易である。
 
     八
 
 柿本集の大部分が、萬葉集の歌に直接據つたことは動かすべからざる事實であるが、その萬葉集は現在分かつてゐる古寫本のうち、どの系統に屬する萬葉集であつただらうか。この事は一概には云はれないとおもふが、まづ神田本系統のものに據つた形跡があるやうである。今次にその數例を示すこととする。
   秋田かるひたの庵にしぐれ降りわが袖ぬれぬほす人もなし (歌仙家集本、一三九番)
   秋田苅客乃廬入爾四具禮零我袖沾干人無二《アキタカルタビノイホリニシグレフリワガソデヌレヌホススヒトナシニ》 (萬葉集卷十・二二三五)
 第二句、『客乃廬入爾』であるから、ヒタノとなるわけはないが、神田本にはヒタノイホリニとなつてゐる。
(73)   たまぼこの君が使のたをりたる此秋萩は見れど飽かぬかも (歌仙家集本、一〇〇番)
   玉梓公之使乃手折來有此秋芽子者雄見不飽鹿裳《タマヅサノキミガツカヒノタヲリケルコノアキハギハミレドアカヌカモ》 (萬葉集卷十・二一一一)
 この初句、『たまぼこの』はどうしてかうなつたか、これは神田本・元暦校本にタマボコノとあるに據つたものである。
   さを鹿の妻とふ山の岡べなるわさ田は刈らじ霜はおくとも (歌仙家集本、一三〇番)
   左小牡鹿之妻喚山之岳邊在早田者不苅霜者雖零《サヲシカノツマヨブヤマノヲカベナルワサダハカラジシモハフルトモ》 (萬葉集卷十・二二二〇)
 萬葉集の第二句、『妻喚山之』は舊訓ツマヨブヤマノであるが、神田本にはツマトフヤマノとあり、結句、『霜者雖零』は、古寫本中(元・類・神)シモハオクトモと訓じてゐるのがある。即ち柿本集の此歌は、それらの古寫本に據つただらうと想像することが出來る。
   戀ひしくば形見にせむと〔三字右○〕吾背子が植ゑし秋萩花咲きにけり (歌仙家集本、一〇五番)
   戀しくぼかたみにせよと〔三字右○〕吾背子が植ゑし秋萩花咲きにけり (類從本)
 萬葉集(卷十・二一一九)は『形見爾爲與登』であるが、神田本にはカタミニセントの訓がある。そこで歌仙家集本はその系統のものに據つたものか、或は、恣に分かり易きに從つたものか、一概にいふことが出來ないが、少くも歌仙家集の歌は神田本系統の萬葉集に據つただらうと想像することが出來る。
(74)   なほあらじことなし草にいふことをききてしあらば嬉しからまし (歌仙家集本、二五番)
   黙然不有跡事之名種爾云言乎聞知良久波少可者有來《モダアラジトコトノナグサニイフコトヲキキシレラクハカラクハアリケリ》 〔萬葉集卷七・一二五八)
 かうで、原歌とその形態が類似してゐず、何に據つたか不明であつたが、神田本には、第一二句を、『なほあらじとことなしぐさに』と訓んでゐる。
   手にとれば袖さへにほふ女郎花この下つゆに散らまくも惜し (歌仙家集本、一〇三番)
   手にとれば袖さへにほふ女郎花木下つゆに散らまく惜しみ (類從本)
 右の結句の差につき萬葉葉(卷十・二一一五)の原文は、『散卷惜』で、舊訓チラマクヲシモ。神田本チラマクモヲシ。類聚古集チラマクヲシミ。京大本チラマクオシミ等がある。これで二本の系統が大體區別せられるやうに思ふのであるが、必ずしもさうではなからうか否か。
   足曳の山より聞けば〔六字右○〕さをしかの妻よぶ聲をきかましものを (歌仙家集本、一一二番)
   足引の山ならませば〔六字右○〕さをしかの妻よぶ聲をきかましものを (類從本〕
 第二句、萬葉集(卷十・二一四八)の原文は、『山從來世波』で、舊訓ヤマヨリキセバ。古寫本中、神田本のみ、ヤマヨリマセバである。さうすれば類從本の方が神田本系統の萬葉集に據つたやうにも見えるが、或は類從本の方は全くの誤寫だかも知れない。兎に角書留め置くのである。
   もののふの八十うぢ川のあじろ木にいさよふ浪のよるべ知らずも (歌仙家集本、二一番)
(75) 圖書寮本第一には、『ただよふ浪の』とあり、神田本には、『ただよふ浪のよるべしらずも』とあるらしい。
 但し、全部神田本に據つてはゐず、寛永流布本舊訓に同じいのが幾つかある。或は、神田本に從はないのもあり(一〇六番、ハナチリニケリ)、或は類聚古集の訓と同じのもあり(九〇番、マツトツゲコセ)、或は元暦校本に同じいのもあり(九一番、アセニケリ)、必ずしも神田本だけによつて律することが出來ないけれども、さういふ樣子を感じたので書留め置くこととした。
 
     九
 
 以上をかいつまんでいへば次の如くになるだらう。
 柿本集は、公任の選んだ三十六人を本として、誰かが三十六人集といふものを作つた、その一つであるだらう。
 内容は人麿の歌と人麿歌集出の歌のみでなく、萬葉集でも天武天皇の御製はじめ數人の作と、讀人不知の歌とを混じてゐる。古今集の讀人不知の歌で、『この歌はある人のいはく柿本人麿が(歌)なり』といふ左注のある六首が入つて居り、また、拾遺集に載つた藤原爲頼、藤原輔相(または元輔)の歌も入り、その他は作者不明が多く入つてゐる。柿本集には、歌仙家集本(圖書寮(76)本第一)と、群書類從本(圖書寮本第二)と二つの系統があり、歌仙家集本の方が古く、類從本は後に恣に増補したものの如くである。歌仙家集本でも、上帖が先づ出來て、下帖がそれに増補したものであらう。をはりにある諸國の歌六十六七首は、前言の輔相の歌が一首入つてをり、他は作者不明だから、或は輔相(または元輔)等の作つたものではなからうかと想像せられる。柿本集の成立は後拾遺集の後遠くない頃だらうと考へられてゐる。文獻に見えたのは千載集の太皇太后宮の御歌の詞書がはじめである。
 柿本集の歌は、萬葉集の歌から直接取つたものが一番多いらしく、その萬葉集は神田本系統に屬するものではなかつただらうかとおもへる樣子がある。併し成立は數次にわたつてゐるから、必ずしも一本のみに據つたのではなからう。萬葉集のほかに、古今集に據つたもの、古今六帖に據つたもの、拾遺集に據つたもの等の歌がある。
 柿本集は萬葉校合の發達した時にあつて、もはや價値の無いものだが、三十六人集の一つとして、尊重せられた時代があり、作歌稽古上にも利益を與へたものと謂ふことが出來る。さういふ意味で常に一顧すべきものである。
 
     十
 
(77) この集が作歌稽古上參考せられても、その當時の歌言葉に適するやうに按配しつつ採用せられて、純粋の萬葉調といふものはその儘は採用せられてゐない。人麿は歌聖として尊敬せられてゐても、その人麿の歌といふものは、この程度のものとして受納れられてゐたものである。
   ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれ行く船をしぞ思ふ
 この歌をば人麿の歌と信じきつて、そしてそれを學んだ歌人も幾人か居たであらう。試に、藤原公任の撰といはれる、「九品和歌」に、上品上として、この『ほのぼのと』の歌が載り、『これは言葉妙《たへ》にして、あまりに心さへあるなり』とさへ説明せられて居るものである。また、この歌と一處に、『春たつといふ許《ばか》りにやみよし野の山も霞みて今朝は見ゆらむ』といふ壬生忠岑の歌が、やはり上品上の歌として置かれてゐるから、大體の目安とするところが分かるのである。さうであるから、縱ひ萬葉の言葉を取るにしても、名詞とか動詞とかいふものを部分的に取るに過ぎなかつた。例へば、俊頼の散木奇歌集の、『きぎす鳴くすだのに君がくち据ゑて朝踏ますらむいざ行きて見む』といふ歌の、『朝踏ますらむ』は、萬葉卷一(四)の、玉刻春《タマキハル》、内乃大野爾《ウチノオホヌニ》、馬數而《ウマナメテ》、朝布麻須等六《アサフマスラム》、其草深野《ソノクサフカヌ》に本づき、『さくらあさのをふの浦波たちかへり見れども飽かぬ山梨の花』は、卷十一(二六八七)の、櫻麻乃《サクラアサノ》、苧原之下草《ヲフノシタクサ》、露有者《ツユシアレバ》、令明而射去《アカシテイユケ》、母者雖知《ハハハシルトモ》に本づいてゐる。そのやうに部分的の採用であつた。併し、さういふ部分的の採用でも採用しないよりも好(78)いのであつて、さういふ氣運が遂に實朝の歌の如き萬葉調を見得るやうになつたのである。さういふ意味に於て、柿本集の如きも亦棄て難いものと解釋すべきであらう。
 
    參考文獻
阿閣梨契沖  河社(契沖全集第八卷)
香川景樹   三十六人集解略(桂園遺稿下卷)
尾崎雅嘉   群書一覽
佐佐木信綱  柿本集解題(和歌叢書三十六人集大正三年)
長 連恒   柿本集解題(國歌大系)
山岸徳平   平安時代の文筆と萬葉集(萬葉集講座第四卷)
武智雅一   柿本集に就いて(立命館文學第三卷第四號)
 
(79) 柿本集上
 
        ○
     いはみの國よりきける人に
  1いはみなるたかまの山の木の間よりわがふる袖をいも見けむかも
 
 詞書、流布一本には、『きける時に』。圖書寮本第一には、『いはみのくにから來たる女に』。圖書寮本第二及び類從本には、『いはみにて京をおもひやりて』。鷹司本には、『石見國にありける女のきたりけるに』とある。この歌は拾遺集卷十九の歌と全く同じであるが、拾遺集の歌の詞書には、『いはみに侍りける女のまうで來りけるに』とある。『たかまの山』は、拾遺集も同樣であるが、圖書寮本第一、第二、類從本、鷹司本等皆、『たかつの山』であり、六帖にも、『石見のやたかつの山の木の間より我が袖振るを妹見つらむや』とあるし、袖中抄にも、『石見ノヤ高角《タカツノ》山ノコノマヨリワカフルソテヲイモミツラムカ』とあつて、皆タカツノヤマである。またタカマは萬葉(80)集卷七(三三七)に、葛城乃高間草野《カツラギノタカマノカヤヌ》があるのみで他の卷には無い。そこで、拾遺集で誤りそれを踏襲したものと思へるが、他本が皆タカツノであるのは注意すべき事である。この歌は、萬葉集卷二、柿本朝臣人麿從石見國別妻上來時歌二首并短歌中(一三二)の、石見乃也高角山之木際從我振袖乎妹見都良武香《イハミノヤタカツヌヤマノコノマヨリワガフルソデヲイモミツラムカ》と、(一三四)の、石見爾有高角山乃木間從文吾袂振乎妹見監鴨《イハミナルタカツヌヤマノコノマユモワガソデフルヲイモミケムカモ》とに本づいてゐる。
 
       ○
  2 秋山に散るもみぢばの暫くも散りな亂れそ妹があたりみむ
 
 萬葉集卷二(一三七)、やはり人麿上來時の歌に、秋山爾落黄葉須臾者勿散亂曾殊之當將見《アキヤマニオツルモミヂバシマシクハナチリミダレソイモガアタリミム》【一云、知里勿亂曾《ミダレソ》】がある。そして古寫本中(神・細)にはシバラクモ、(元・金・類・細)にはチリナミタレソになつて居る。六帖には第二句以下、『落つるもみぢ葉暫くもいりな亂れそ』。圖書寮本第一、鷹司本はこの流布本に同じく、圖書寮本第二及び類從本は、初句、『秋風に』、第四句、『散りなみだりそ』、類從本は更に、結句、『君があたりみむ』となつて居る。
 
       ○
(81)  3 いはしろの野中に立てる結び松心もとけずむかしおもへば
 
 拾遺集卷十四及び卷十九にも斯く載つてゐる。萬葉集卷二(一四四)、長忌寸意吉麿見結松哀咽歌に、磐代乃野中爾立有結松情毛不解古所念《イハシロノヌナカニタテルムスビマツココロモトケズイニシヘオモホユ》があり、結句、舊訓ムカシオモヘバ。古寫本の多くもさうである。そこで此歌は萬葉集の歌の紛れこんだのに相違ないが、人麿と關係なきものである。圖書寮本第一、第二、類從本これに同じい。鷹司本、結句、『むかしおもほゆ』。六帖には、結句、『むかしをぞおもふ』。
 
       ○
 
  4 紫に匂へるいもがかくしあらばは人妻ゆゑにわれ戀ひめやも
 
 萬葉集卷一(二一)、皇太子答御歌に、紫草能爾保敝類妹乎爾苦久有者人嬬故爾吾戀目八方《ムラサキノニホヘルイモヲニククアラバヒトヅマユヱニワレコヒメヤモ》がある。即ち、天武天皇(大海人皇子)が額田王に答へられた御歌であるが、どうして柿本集に紛れこましめたものか、萬葉の歌を材料にして興味本位に作つたものか、そして、『憎くあらば』が當時の心持に合はぬので、『かくしあらば』としたものか。いづれにしても人麿とは關係は無い。圖書寮本第一、『人つまゆへにわれこひめやは』。同第二、『ゆへにわがこひめやは』。類從本、『一もと《人つまイ》(82)ゆゑにわかこひめやは』。鷹司本此歌缺く。六帖には、第二句、『いもをにくくあらば』となつてゐる。
 
       ○
  5 み熊野の浦の濱木綿百重なる心は思へどただにあはぬかも
 
 拾遺集卷十一にも六帖にも斯く載つてゐる。圖書寮本第一、第二、類從本同樣。鷹司本、結句、『あはぬかな』。萬葉集卷四、柿本朝臣人麻呂歌四首中(四九六)に、三熊野之浦乃濱木綿百重成心者雖念直不相鴨《ミクマヌノウラノハマユフモモヘナスココロハモヘドタダニアハヌカモ》がある。そして第三句は、舊訓モモヘナル。古寫本の多くもさうであつて、代匠記初稿本で、モモヘナスの一訓を試み、諸家それに從ふに至つたのだから、柿本集は舊い訓に據つたことがわかる。
 
       ○
  6 神風《かみかぜ》の伊勢の濱荻《はまをぎ》をりふせてたびねかすらむあらき濱邊《はまべ》に
 
 流布本、初句、『秋風の』。萬葉集卷四(五〇〇)、碁借越往伊勢國時留妻作歌一首に、神風之伊勢乃濱荻折伏客宿也將爲荒濱邊爾《カムカゼノイセノハマヲギヲリフセテタビネヤスラムアラキハマベニ》があるが、此は無論人麿の歌ではない。併し、その次に直ぐ柿(83)本朝臣人麻呂歌三首があつて、その一首が柿本集に載つてゐるから、不注意にして紛れたのかも知れない。萬葉のこの歌、初句、舊訓カミカゼノ。略解カンカゼノ。圖書寮本第一、初句、『神風と』、第四句、『たびねやすらん』。圖書寮本第二、類從本、詞書、『旅の歌、伊勢のみゆきの時』、初句、『神風や』、第四句、『たびねやすらん』。類從本、第三句、『折敷て』。鷹司本に此歌缺く。この歌は、六帖にも新古今集卷十にも讀人不知として載り、六帖、初句、『かみかぜや』、第四句、『旅寢やすらむ』。新古今、第四句、『旅寢やすらむ』となつてゐる。
 
       ○
  7 夏野行くをじかの角の束の間もわすれず思ふ妹がこころを
 
 圖書寮本第一、第四句、『わすれずぞおもふ』。圖書寮本第二、類從本、第四句、『忘れずおもへ』。鷹司本此歌缺。萬葉集卷四(五〇二)に、人麿作として、夏野去小牡鹿之角乃束間毛妹之心乎忘而念哉《ナツヌユクヲジカノツヌノツカノマモイモガココロフワスレテオモヘヤ》がある。六帖に、『夏野ゆく牡鹿の角のつかのまも見ねば戀しき君にもあるかな』。新古今集卷十五に、『夏野ゆく牡鹿の角のつかのまも忘れず思へ妹がこころを』として載つてゐる。いづれも下の句を變化せしめてゐるのは當時の氣持に合はなかつたからであらう。
 
(84)       ○
  8 朝寢髪われはけづらじうつくしき人の手枕ふれてしものを
 
 拾遺集卷十四にも同樣に載つてゐる。萬葉集卷十一(二五七八)に、朝宿髪吾者不梳愛君之手枕觸義之鬼尾《アサネガミワレハケヅラジウツクシキキミガタマクラフリテシモノヲ》がある。此は讀人不知の歌であるのを人麿作としたもので、實は人麿とは關係は無い。圖書寮本第一、第二、類從本、鷹司本同樣。
 
       ○
  9 夕されば君來まさむと待ちし夜の名殘ぞ今もいねがてにする
 
 此歌は新勅撰集卷十四に柿本人丸として載つてゐるのはこれに本づいたものとも思ふが、萬葉集卷十一(二五八八)に、夕去者公來座跡待夜之名凝衣今宿不勝爲《ユフサレバキミキマサムトマチシヨノナゴリゾイマモイネガテニスル》があり、讀人不知の歌である。圖書寮本第一、第二、類從本同樣。鷹司本此歌缺。
 
       ○
  10 おもひつつ音《ね》には泣《な》くとも著《いちじる》く人の知るべくなげきすな君《きみ》
 
(85) 萬葉集卷十一(二六〇四)、讀人不知の歌に、念出而哭者雖泣灼然人之可知婆嘆爲勿謹《オモヒイデテネニハナクトモイチジロクヒトノシルベクナゲカスナユメ》がある。結句、舊訓及び古寫本訓ナゲキスナユメ、第三句、嘉暦本イチジルク。圖書寮本第二第三句、『いちじろく』、結句、『なげきすなゆめ』。高司本、初句、『おもひいでて』。圖書寮本第二、類從本、戀部の終に近くあり、初句、『おもひ出《いで》て』、結句、『なげきすなゆめ』。六帖には、初句、『おもひいでて』、第三句、『いちじろく』、結句、『なげきすなゆめ』とある。
 
       ○
  11 解衣《ときぎぬ》の思ひ亂《みだ》れてこふれどもなど汝《な》がゆゑといふ人もなし
 
 萬葉集卷十一(二六二〇)、讀人不知の歌に、解衣之思亂而雖戀何如汝之故跡問人毛無《トキギヌノオモヒミダレテコフレドモナゾナガユヱトトフヒトモナシ》があり、第四句、古寫本中(嘉・古)ナドナガユヘトといふ訓がある。萬葉集の結句、『問ふ人』が、『いふ人』になつてゐる。然るに圖書寮本第一には、『なとなかゆへととふ人なし』とあるから流布本の『いふ』は途中からの變化であらう。圖書寮本第一の『とふ人なし』は『も』字を脱した。圖書寮本第二、類從本、第四・五句、『なそ何ゆ|へ《ゑ》ととふ人もなき』。鷹司本此歌缺。六帖には、『なぞ何故と問ふ人もなし』とある。
 
(86)       ○
  12 梓弓引きみ引かすみこすはこずこばこそはなぞ外《よそ》にこそ見め
 
 流布本、第四句、『こばこそをなぞ』。萬葉集卷十一(二六四〇)、讀人不知に、梓弓引見弛見不來者不來來者來其乎奈何不來者來者其乎《アヅサユミヒキミユルベミコズハコズコバコソヲナゾコズハコバソヲ》がある。第二句、古寫本中(嘉・類・古・細)ヒキミヒカズミ。圖書寮本第一には、『こはこそ人をこすはこはしを』とあるから、いづれも訓がむづかしかつたので斯く諸訓があつたのであらう。圖書寮本第二、類從本此歌に同じ。鷹司本、第四句、『こばこそもなど』。六帖に、きの女郎として、第四句、『こばこそをなど』、拾遺集卷十八に、題しらず、柿本人麿として、第四句、『こばこそなほぞ』となつてゐる。此歌、それらの訓に據つたものであらう。
 
       ○
  13 玉桙《たまぼこ》の道《みち》行《ゆ》き疲れいなむしろしきても人を見るよしもがな
 
 圖書寮本第一、第二、類從本同樣。鷹司本此歌缺。新勅撰集卷十四に人丸作として入る。萬葉集卷十一(二六四三)、讀人不知に、玉戈之通行疲伊奈武思侶敷而毛君乎將見因母鴨《タマボコノミチユキツカレイナムシロシキテモキミヲミムヨシモガモ》がある。袖中(87)抄・釋日本紀に、萬葉集の如く載り、六帖・和歌色葉集に、『君を見むよしもがな』として載つてゐる。
 
       ○
  14 とにかくに物は思はず飛騨《ひだ》たくみうつ墨繩《すみなは》のただひと筋に
 
 圖書寮本第一、結句、『一すじに』、同第二、『一すぢに』、類從本、『一すじに』。鷹司本此に同。拾遺集卷十五にかく載り、六帖には、『言ひし言はば物は思はじ飛騨人のうつ墨繩の唯一道に』とある。此等は、萬葉集卷十一(二六四八)に、云云物者不念斐太人乃打墨繩之直一道二《カニカクニモノハオモハズヒダヒトノウツスミナハノタダヒトミチニ》とあるに本づいて居る。此は讀人不知の歌である。萬葉集の古寫本中(嘉・類・古・細)トニカクニ、(類)ヒダタクミの訓があり、また結句は舊訓及び多くの古寫本タダヒトスヂニとなつてゐる。
 
       ○
  15 足曳の山田《やまた》守《も》るをの置く蚊火《かび》の下焦れつつわが戀ふらくは
 
 萬葉集卷十一(二六四九)、讀人不知の歌に、足日木之山田守翁置蚊火之下粉枯耳余戀居久《アシヒキノヤマタモルヲヂガオクカビノシタコガレノミワガコヒヲラク》がある。圖書寮本第一に、『したこがれのみわがこひをらく』とあつて、萬葉の下の句に同樣であるの(88)は注意すべきである。六帖には、下の句、『したこがれのみわが戀ひをらむ』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『山田もる庵に』。鷹司本此歌缺。新古今集卷十一に載り、第二句、『山田もる庵に』となつてゐる。萬葉、『山田守翁』は舊訓ヤマタモルヲノであるから、其に據つたものであらう。そして新古今は類從本系統の柿本集に據つたものであらうか。
 
       ○
  16 杉板《すぎた》もてふける板間《いたま》の合はざらばいかにせむとかあひみ初めけむ
 
 一本、結句、『わかれそめけむ』。一本、『わがねそめけむ』。圖書寮本第一、第二、初句、『杉いたもて』とある。類從本、『杉板もて』。拾遺集卷十二に、結句、『わがねそめけむ』として載り、六帖には、下の句、『いかにせよとてわかねそめけむ』となつてゐる。萬葉集卷十一(二六五〇)、讀人不知に、十寸板持蓋流板目乃不令相者如何爲跡可吾宿始兼《ソキイタモチフケルイタメノアハセズハイカニセムトカワガネソメケム》がある。第二・三句、舊訓フケルイタマノ・アハザラバ。初句、舊訓ソギイタモテ。古寫本中(嘉・古・細)スギイタモテ、(類)スギタモテと訓んだのもあるから其訓が此に傳はつたのである。鷹司本もやはり初句、『すぎたもて』である。
 
(89)       ○
  17 難波人葦火たくやはすすたれど己が妻こそとこめづらなれ
 
 拾遺集卷十四にかく載つた。流布本一本、第三句、『すきたれど』、圖書寮本第一、第二、類從本、鷹司本、『すゝたれど』。六帖に、上句、『難波女の蘆火たく屋はすしたれど』とある。萬葉集卷十一(二六五一)、讀人不知に、難波人葦火燎屋之酢四手雖有己妻許増常目頬次吉《ナニハビトアシビタクヤノスシテアレドオノガツマコソトコメヅラシキ》がある。舊訓ススタレドであるから此に傳はつてゐる。神田本にはススタレドとあり、スの右にシィと記入がある。第二句、類聚古集アシビタクヤハとある。
 
       ○
  18 妹が髪うつをささのの放れ駒たはれにけらしあはぬ思へば
 
 六帖に、第二句、『あげをささのの』となつてゐる。圖書寮本第一、第二句、『あげさゝはのの』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『あげをささのの』、第四句、『こかれにけらし』。鷹司本此歌缺。萬葉集卷十一(二六五二)、讀人不知に、妹之髪上小竹葉野之放駒蕩去家良思不合思者《イモガカミアゲタカバヌノハナレゴマアレユキケラシアハナクモヘバ》があり、舊訓アゲサヽバノヽ、類聚古集ウヘハサヽハノヽとなつてゐる。柿本集流布本の『うつをささのの』(90)は、『うへをささのの』の誤讀であらうか。なほ萬葉の結句、舊訓アハヌオモヘバであり、京都大學本、『蕩去』の左に赭くタハレと記してある。
 
       ○
  19 天雲のやへ雲がくれ鳴る神の音にのみやはききわたるべき
 
 拾遺集卷十一にかくあり、六帖に結句、『ききわたりなむ』としてある。萬葉集卷十一(二六五八)、讀人不知に、天雲之八重雲《アマグモノヤヘグモ》隱《ガクリ・ガクレ》鳴神之音耳爾八方聞度南《ナルカミノオトノミニヤモキキワタリナム》がある。第四句は、舊本及び多くの古寫本に音爾耳八方《オトニノミヤモ》とあり、和歌童蒙抄も同じく、嘉暦本・類聚古集はヲトニノミヤハと訓んでゐる。圖書寮本第一には、結句、『ききわたりなむ』とあるところを見れば、流布本及び拾遺集のは如何なる徑路を取つた變化であらうか。圖書寮本第二、類從本、結句、『こひわたりなむ』。鷹司本、結句、『ききわたりなむ』。
 
       ○
     さみの郎女あひわかれ侍りけるときの
  20 思ふなと君はいへども逢ふ事をいつと知りてかわが戀ひざらむ
(91) 流布本一本、第二句、『人はいへども』圖書寮本第一には詞書、『をむなのあひわかれけるとき』。圖書寮本第二、類從本、詞書が無い。鷹司本此歌缺。拾遺集卷十二に、題しらず人麿として載り、六帖に、第二・三句、『妹は言へども逢はむとき』として載つてゐる。此は萬葉集卷二(一四〇)、柿本朝臣人麿妻依羅娘子與人麿相別歌一首、勿念跡君者雖言相時何時跡知而加吾不戀有牟《ナオモヒトキミハイヘドモアハムトキイツトシリテカワガコヒザラム》に本づいてゐる。『依羅娘子』を、『さみの郎女』としてゐる。萬葉、『勿念跡』は、舊訓オモフナトであり、『雖言』は、舊訓イフトモであるが、古寫本中(元・金・神)イヘドモと訓んだのがある。
 
       ○
      近江よりのぼりて宇治川のほとりにて
  21 もののふの八十うぢ川のあじろ木にいさよふ浪のよるべ知らずも
 
 圖書寮本第一に、詞書、『近江よりのぼるうちかはのほとりにてよめる』、第四・五句、『ただよふ浪のよるべしらずも』になつてゐる。圖書寮本第二、類從本、第四・五句、『いさよふ浪の行衛しらずも』。類從本、詞書、『近江よりのぼるに宇治川のほとりにてよめる』。鷹司本此歌缺。六帖に、結句、『よるべ知らずも』として載り、新古今集卷十七に、題しらず、結句、『ゆくへ知らず(92)も』として載つてゐる。此は萬葉集卷三(二六四)、柿本朝臣人麻呂從近江國上來時至宇治河邊作歌一首、物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノノフノヤソウヂガハノアジロギニイサヨフナミノユクヘシラズモ》に本づいてゐる。萬葉古寫本中、神田本は『ただよふ浪のよるへ知らずも』と訓んだらしく、また、袖中抄には、『イサヨフナミノヨルヘシラスモ』。和歌童蒙抄には、『タヽヨフナミノユクヘシラスモ』になつて居る。
 
       ○
  22 我背子をきませの山と人はいへど山の名ならし君もきまさぬ
 
 流布本一本、結句、『君もきまさず』。圖書寮本第一、鷹司本、第四・五句、『きみもきまさぬやまの名ならし』。圖書寮本第二、類從本、『君がきまさぬ山の名ならし』。拾遺集卷十三に載り、題しらず人麿、下の句、『君もきまさぬ山の名ならし』になつてゐる。又六帖には、石河郎女の歌として、第二句、『こませの山と』、第四・五句、『君もきませぬ山の名ならし』になつてゐる。萬葉集卷七(一〇九七)、讀人不知に、吾勢子乎乞許世山登人者雖云君毛不來益山之名爾有之《ワガセコヲコチコセヤマトヒトハイヘドキミモキマサズヤマノナニアラシ》があり、第四句、舊訓キミモキマサヌ。結句、元暦本ヤマノナナラシとある。
 
       ○
(93)     かはを
  23 大君がみかさの山を帶にするほそたに川のおとのさやけさ
 
 流布本一本、第二句、『みかきの山を』。萬葉集卷七、詠河中(一一〇二)に、大王之御笠山之帶爾爲流細谷川之音乃清也《オホキミノミカサノヤマノオビニセルホソタニガハノオトノサヤケサ》がある。此は讀人不知である。第二句、古葉略類聚鈔にはミカサノヤマヲとある。六帖に、黒主の作として、第一・二・三句、『まがねふくきびの中山帶にせる』となつてゐるのは古今集卷二十にある讀人不知の歌と同じで、古今集には、『此歌は承和のおほむべのきびの國の哥』といふ注がある。圖書寮本第一、上句、『すべらぎのみかさの山のおびにせる』。圖書寮本第二、類從本、山の部にあり、初句、『大君の』、第三句、『帶にせる』。類從本、第二句、『みかさの山の』。鷹司本無題。
 
       ○
  24 つき草に衣《ころも》ぞ染むる君が爲《ため》色どりごろもすらむとおもひて
 
 萬葉葉卷七(一二五五)、臨時、讀人不知に、月草爾衣曾染流君之爲綵色衣將摺跡念而《ツキクサニコロモゾシムルキミガタメイロドリゴロモスラムトモヒテ》がある。此は古歌集に出づといふ注のあるものである。第二句、舊訓コロモゾソムル。第四句、舊訓イロ(94)トルコロモ。古寫本中(古・西・細)イロトリコロモの訓がある。結句、舊訓スラムトオモヒテ。圖書寮本第一、鷹司本、此歌缺。圖書寮本第二、類從本、第四・五句、『色のわかはのかけとおもひて』。
 
       ○
  25 なほあらじことなし草にいふ事を聞きてしあらば嬉しからまし
 
 萬葉集卷七(一二五)、古歌集出、臨時、讀人不知に、黙然不有跡事之名種爾云言乎聞知良久波少可者有來《モダアラジトコトノナグサニイフコトヲキキシレラクハカラクハアリケリ》があり、第一・二句、神田本にナホアラシトコトナシクサニの訓がある。圖書寮本第一、麿司本此歌を缺く。圖書寮本第二、類從本、『猶あへとことなし草にいふ事を聞てもしらばうれしからまし』。
 
       ○
  26 山たかみ夕日がくれの淺茅原のち見む爲にしめゆはましを
 
 六帖に、同樣に載り、拾遺集卷九に、題しらず、人麿として、第二句、『夕日かくれぬ』となつて載つてゐる。一本、第二句、『夕日かくれぬ』。萬葉集卷七(一三四二)、寄草、讀人不知、山高(95)夕日隱奴淺茅原後見多米爾標結申尾《ヤマタカミゆふひかくりぬアサヂハラノチミムタメニシメユハマシヲ》がある。第二句、舊訓ユフヒカクレヌ。圖書寮本第一、『夕日かくれぬ淺ちふののち見むためと』。圖書寮木第二、類從本、この歌仙流布本に同。鷹司本、此歌缺。
 
       ○
  27 みしま江の玉江の芦をしめしより己《おの》がとぞ思ふ未だからねど
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、同樣。鷹司本、第二句、『玉江のこもを』。萬葉集卷七(一三四八)、寄草、讀人不知に、三島江之玉江之薦乎從標之己我跡曾念雖未苅《ミシマエノタマエノコモヲシメシヨリオノガトゾオモフイマダカラネド》がある。斯く原歌が『玉江之薦乎』で、鷹司本に、『玉江のこもを』とあるのだから、もとは、『玉江のこもを』であつただらうと推することも出來る。然るに、此歌拾遺集卷十九に、題しらず、柿本人麿として載り、『玉江の芦を』となつてゐるから、もとは拾遺集に據つたとせば、必ずしも、『玉江のこもを』であつたと解釋せずとも好いこととなる。なほ六帖には、讀人不知で、同樣『玉江の芦を』として載つてゐる。
 
       ○
(96)  28 つき草に衣はすらむ朝つゆにぬれての後はうつろひぬとも
 
 圖書寮本第二、類從本、鷹司本、同樣。圖書寮本第一、『うつろひぬとも』。一本、『あさ霧に』萬葉集卷七(一三五一)、寄草、讀人不知に、月草爾衣者將摺朝露爾所沾而後者徙去友《ツキクサニコロモハスラムアサツユニヌレテノチニハウツロヒヌトモ》がある。第四句、舊訓ヌレテノノチハ。代匠記精以來ヌレテノチニハとなつた。古今集卷四と、六帖とに、讀人不知、拾遺集卷八に、人麿作として載り、訓み方は皆柿本集と同樣である。
 
       ○
  29 わが心ゆたのたゆたにうき蓴《ぬなは》邊にもおきにも成りにけるかな
 
 一本に第三句、『うきぬれば』、結句、『よらん方なし』。六帖に結句、『よりや兼ねまし』となつてゐる。萬葉集卷七(一三五二)、寄草、讀人不知に、吾情湯谷絶谷浮蓴邊毛奧毛依勝益士《ワガココロユタニタユタニウキヌナハヘニモオキニモヨリカツマシジ》がある。結句、舊訓ヨリカタマシヲ。古寫本の多くは、ヨリヤカネマシ。代匠記ヨリガテマシヲ。ヨリカツマシジは橋本博士訓である。圖書寮本第一、結句、『よりやしぬらむ』。圖書寮本第二、類從本、第三句、『うきぬれば』、結句、『よらむかたなく』『よらむかたなし』。鷹司本、此歌缺。
 
(97)       ○
  30 久方の雨には著《き》ぬをあやしくもわが衣手《ころもで》のひるときもなき
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、同樣。鷹司本、缺。拾遺集卷八に、題しらず、人麿として載つてゐる。萬葉集卷七(一三七一)、寄雨、讀人不知に、久堅之雨爾波不著乎恠毛吾袖者干時無香《ヒサカタノアメニハキヌヲアヤシクモワガコロモデハヒルトキナキカ》がある。結句、古寫本等に如是の訓がない。恐らく拾遺集に據つたものであらう。
 
       ○
  31 木綿《ゆふ》かけて祈るみむろの神さびて否にはあらず人目《ひとめ》繁みぞ
 
 圖書寮本第一、『神さひしいむにはあらすひとめつゝみそ』。圖書寮本第二、類從本、『神さひていもにはあはす人めおほみそ』。鷹司本、缺。萬葉集卷七(一三七七)、寄神、讀人不知に、木綿懸而祭三諸乃神佐備而齋爾波不在人目多見許増《ユフカケテマツルミモロノカムサビテイハフニハアラズヒトメオホミコソ》。(一三七八)に、木綿懸而齋此神社可超所念可毛戀之繁爾《ユフカケテイハフコノモリモコエヌベクオモホユルカモコヒノシゲキニ》がある。(一三七七)の歌の舊訓、ミムロノカミサビテイムニハアラズとなつてゐる。
 
       ○
(98)  32 ももつたひ八十の島邊にこぐ船にのりにし心わすれかねつも
 
 流布一本、第二句、『やすのしまべに』。圖書寮本第一、『百傳ひ八十の島へにこぐ舟の』。圖書寮本第二、類從本、『もゝへなる八十の島へをこぐ舟に』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷七(一三九九)、寄船、讀人不知に、百傳八十之島廻乎※[手偏+旁]船爾乘西情忘不得裳《モモヅタフヤソノシマミヲコグフネニノリニシココロワスレカネツモ》がある。
 
       ○
  33 言繁き里に住まずは今朝鳴きし雁に比ひていなましものを
 
 六帖にかく出てゐる。圖書寮本第一、同樣。同第二、類從本、初句、『ことしけに』、結句、『きなましものを』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷八(一五一五)、但馬皇女御歌一首【一首云子部王作】、事繁里爾不住者今朝鳴之鴈爾副而去益物乎《コトシゲキサトニスマズハケサナキシカリニタグヒテユカマシモノヲ》【一云|國爾不有者《クニニアラズハ》】がある。結句、古寫本中(類・神)イナマシモノヲの訓がある。
 
       ○
  34 河の瀬に渦卷《うづま》く見れば玉藻《たまも》かる散亂《ちりみだ》れたるかはのふねかな
 
(99) 圖書寮本第一、『河のせの……はりみたれたるかはのふねかも』。圖書寮本第二、類従本、結句、『川の舟かも』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷九(一六八五)、泉河邊間人宿禰作歌に、河瀬激乎見者玉鴨散亂而在河常鴨《カハノセノタギツヲミレバタマヲカモチリミダシタルカハノツネカモ》があり、人麿歌集出である。第二句、古寫本中(藍・壬・類・古・神)、ウヅマクミレバと訓んだのがある。舊訓タギルヲミレバ。古義タギツヲミレバである。なほ、古寫本中、初句、カハノセニ(古)、第三・四句、タマモカモチリミタレタル(藍・壬・類・神)、タマヲカモチリミタレタル(古)と訓んだのもある。拾遺集卷八に、『藻を詠める、人麿』『川の瀬のうづまく見れば玉もかるちりみだれたる川の舟かも』といふのが載つてゐるから、柿本集は恐らくそれに據つたものであらう。六帖には、『川の瀬になびくを見れば玉もかも散りみだれたる川の常かも』となつてゐる。
 
       ○
     よしの山にみゆきする時の
  35 見れど飽かぬ吉野の山の常滑《とこなめ》にたゆる時なく又かへりみむ
 
 圖書寮本第一、詞書、『芳野川のみゆきのうた』。第二句、『よしのゝかはの』。圖書寮本第二、類從本、上句、『みよしののあきつの河の萬代に』。類從本、結句、『又かへりこむ』。無題。そし(100)て、終の『一本所載歌』中に、上句、『見れど飽かぬ吉野の河とこなめに』として此歌を補つてゐる。鷹司本、此歌缺。六帖に、上句、『みよしののあきつの川の萬代に』として載り、拾遺集卷九、『吉野の宮にたてまつる歌、人麿』の反歌に、第二・三句、『吉野の川の流れても』、結句、『行きかへり見む』として載つてゐる。萬葉集卷一(三七)、幸于吉野宮之時柿本朝臣人麿作歌の反歌、雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復遠見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》がある。
 
       ○
      伊勢の國にみゆきする時に京にとどめられて詠める
  36 おふの海に船乘すらむつまともに玉藻の裾に汐滿ちぬらむかも
 
 一本、初句、『みをうみに』、第四句、『袂《あかもイ》のすそに』。圖書寮本第一、『伊勢國にみゆきありしとき京にとどめられて。いせの海にふなのりすらむつまどもの玉藻のすそにしほみつらんか』。圖書寮本第二、『おみのうらに船のりすらむわぎもこが』。類從本、『おみの海に《生の海にイ》舟のりすらんわぎもこが玉ものすそに鹽みつらんか』『あすの海に花の香すらむわぎもこが玉ものすそに浪やよすらん』。鷹司本、『あみの浦に舟乘すらむわぎもこがころもの裾に汐やみつらむ』。萬葉集卷一(四〇)、幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麿作歌に、嗚呼見乃浦爾船乘爲良武※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二四寶三都(101)良武香《アミノウラニフナノリスラムヲトメラガタマモノスソニシホミツラムカ》がある。六帖に、人麿イとして、『をふのうらに舟乘すらん少女子が玉藻の裾に潮滿つらむか』。拾遺集卷八に、『伊勢のみゆきにまかりとまりて、人麿』として、『をふの海に舟乘すらむ我妹子が赤裳の裾に汐滿つらむか』とある。なほ、後出(五七番)、『須磨の浦に舟乘すらむ』の歌參照。
 
       ○
  37 潮さゐにいつしの浦に漕ぐ船に妹乘るらむか荒きはまべに
 
 圖書寮本第一、『いちしのうらに』。圖書寮本第二、『ぬるらむか』。類從本、『いつものうみにこく舟に妹《〔の〕》るらんかあらき|磯へ《しまわ》に』。萬葉集卷一(四二)、前の歌の續きで、潮左爲二五十等兒乃島邊榜船荷妹乘良六鹿荒島回乎《シホサヰニイラゴノシマベコグフネニイモノルラムカアラキシマミヲ》がある。この島囘は舊訓シマワで、代匠記・僻案抄・考・略解・燈等皆其に從つたが、荒木田久老が、シマミと訓み、『其證は卷三に磯前※[手偏+旁]手囘行者《イソノサキコキタミユケハ》とありて囘を美の假字《カナ》に用ひたり。又四に稻日都麻浦箕乎過而《イナヒツマウラミヲスキテ》など』(信濃漫録)と云ひ、古義で賛成し、卷十七の之麻未《シマミ》を證とし、守部も鐘の響【六十三段】檜嬬手等にて賛成し、註疏、講義も同説で、講義は、道乃久麻尾《ミチノクマミ》、礒浦箕《イソノウラミ》をも證例とした。併し、攷證は宣長のシママ説を持し、美夫君志はシマワを持してゐる。
 
(102)       ○
  38 たちはきのたぶさのすゑに今もかも大宮人の玉藻刈るらむ
 
 圖書寮本第一、第二句、『たふさのさきに』。圖書寮本第二、類從本、『たちはきのたまきの末にいつしかと大宮人の玉もかるらん』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷一(四〇、やはり三首中の一首、釵著手節乃埼二今日毛可母大宮人之玉藻苅良武《クシロツクタブシノサキニケフモカモオホミヤビトノタマモカルラム》がある。初句は舊本『劔著』で、舊訓タチハキノ。古寫本中(細)タチワキノ。『劔』は古寫本中(類・冷・文・神・西)『釼』に作つてをり、美夫君志で『釼』の誤としてクシロツクと訓んだ。それより先、僻案抄で、『釧』の誤としてクシロツクと訓んだ。第三句は、舊本、『今毛可母』となつてをり、古寫本中(京)イマモカモと訓んでゐる。
 
       ○
      石見國に女をおきてのぼりて詠める
  39 笹の葉はみ山もそよに亂るらむわれは妹思ふ別れきぬれば
 
 一本、結句、『置きて來つれば』とある。圖書寮本第一に、『石見國に女ををきてのほるとてよめる。さゝの葉にみ山もそよとみだるらんわれはいもおもふわかれきぬれば』とあり、圖書寮本(103)第二、類從本、『さゝのはのみ山もそよにみだるめり』。高司本、此歌缺。萬葉集卷二(一三三)、柿本朝臣人麿從石見國別妻上來時歌二首并短歌の短歌第二に、小竹之葉者三山毛清爾《ササノハハミヤマモサヤニ》亂友《ミダレドモ・ミダルトモ》吾者妹思別來禮婆《ワレハイモオモフワカレキヌレバ》がある。元暦本、ミヤマモソヨニと訓んでゐる。新古今集卷十に、人麿作、『み山もそよに亂るなり』として載り、六帖に、人麿作、『み山もよそに別るらむ我は妹にし別れきぬれば』として載つた。
 
       ○
      なみの宮のうせたるとき
  40 久方の雨ふることに□□□□□宮のみことのあれまくもをし
 
 一本、第三句、『あふぎみし』とある。圖書寮本第一では、上卷の終の方、『竹の葉におきゐる露のまろびあひて』の歌の次にあり、『ひさかたのあめを見るごとあふぎみし宮のみことのあれまくおしも』とある。萬葉集卷二(一六八)、日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌の反歌第一に、久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之荒卷惜毛《ヒサカタノアメミルゴトクアフギミシミコノミカドノアレマケヲシモ》があり、新拾遺集卷十に、人麿作、『日置皇子かくれ給ひける時よみ侍りける』『ひさかたの空見るごとく』、以下萬葉と同じで採られてゐる。
(104) 圖書寮本第一には、『南の宮うせ給へるとき』といふ詞書があり、『たまゆらにきのふの暮に見し物をけふいつのまにこひしかるらむ』『かくばかりこひしきものとしらませばよそにぞ見るべくありけるものを』と二首續けてあるが、この二首は流布本には下卷に出でてゐるものである。圖書寮本第二、類從本、『ひなみのうせたまへるとき』『久堅の雨のふることあふきみしみこのみ|こ《か》とのあれまく|をしも《おしみ》』。鷹司本、此歌缺。
 
       ○
  41 茜さし日は照らせどもぬば玉の夜渡る月のかくらくをしも
 
 萬葉集卷二(一六九)、前の反歌第二に、茜刺日者雖照有烏玉之夜渡月之隱良久惜毛《アカネサスヒハテラセレドヌバタマノヨワタルツキノカクラクヲシモ》があり、第二句、古寫本中(金・類・古・神・温)テラセドモの訓がある。圖書寮本第一には前の歌の次に、上卷の終りに配列されてゐること同前である。『あかねさす日はてらせどもむばたまのよわたる月のかげしくらしも』となつてゐる。圖書寮本第二、鷹司本、此歌缺。類從本には、『一本所載歌』中に收む。六帖には、『茜さす日は照りながら……隱らくもをし』となつて載つてゐる。
 
       ○
(105)     ある人にいはく
  42 しまみやのみかりの池の放ち鳥人目きらひて人におよばず
 
 一本、第三句、『はま千鳥』。圖書寮本第一、鷹司本、此歌缺。圖書寮本第二、類從本、題無し。『しま宮のまかりの池のはまちとり人めをちかみおきに及ばず』。萬葉集卷二(一七〇)、或本歌一首に、島宮勾乃池之放鳥人目爾戀而池爾不潜《シマノミヤマガリノイケノハナチドリヒトメニコヒテイケニカヅカズ》がある。初句、古寫本中(金・類・神)シマミヤノの訓あり。
 
       ○
     はせのわう女おさかへの宮に奉る
  43 敷妙の袖かへしてし君やたれのうちのすきを又はあはむや
   ひとつにいはく、をちにすきぬと。又ある本にいはく、はつせのわう女に奉れるなり
 
 圖書寮本に、詞書、『伊勢王女をゝさめたてまつる。しきたえの袖かへしきみたまたれのをちのにすきぬまたはあはしや』。左注缺。圖書寮本第二、類從本、詞書、『八さ|伊《ひ》の女王のおさかへの(106)御子に奉る哥』、歌、『しきたへの袖かへし君たまたれのおちのすきせるきえてあらんやは』。左注無。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷二(一九五)、柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌の反歌に、敷妙乃袖易之君玉垂之越野過去亦毛將相八方《シキタヘノソデカヘシキミタマダレノヲチヌニスギヌマタモアハメヤモ》がある。結句、古寫本中(類・神)アハンヤハと訓んだのがある。
 
       ○
     飛鳥のわう女をさむる時に詠める
  44 飛鳥川しがらみ渡しせかませば流るる水ものどげからまし
     ひとつにいはく、見むと思ふや。また、見むと思ふらむ。わか大君のみなを忘れぬ。ひとつにいはく、みな忘れずと
 
 圖書寮本第一に、詞書、『あすかの王女をかりにおさむるによめる』。第二句、『しらなみたかし』。左注缺。圖書寮本第二、類從本、詞書、『あすかの女王をおさむる時によめる歌』。歌同じ。鷹司本、第二句、『しらなみたかし』。詞書無。拾遺集卷八に、『あすかの女王ををさむる時よめる、人麿』として、同じく載り、六帖には第二句、『柵かけて』になつてゐる。萬葉集卷二(一九七)、明日香皇女木〓殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌の短歌に、明日香川四我良美渡之塞益者進(107)留水母能杼爾賀有萬思《アスカガハシガラミワタシセカマセバナガルルミヅノノドニカアラマシ》がある。結句、古寫本中(金・類・古・神)ノドケカラマシの訓がある。
 
       ○
     たけちのかみをしきのかみにかりにおさめたてまつるときのうた
  45 久方のあめにしをるる君故に月日も知らで戀ひわたるらむ
 
 流布一本、『しくるる』、『月日もしらず』。圖書寮本第一、前歌につぐ。詞書、『たけちのかみをしまにおさめたてまつりけるに』。第三句以下、『君により月日もしらずこひわたるかも』。圖書寮本第二、類從本、詞書、『ならの御かとをおさめたてまつりけるをみて』。第四・五句、『月日もしらす戀ひわたるかも』。鷹司本、缺。新古今集卷八に、『奈良の帝ををさめ奉りけるをみて、人麿』として載つてゐる。萬葉集卷二(二〇〇)、高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌の短歌第一に、久堅之天所知流君故爾日月毛不知戀渡鴨《ヒサカタノアメシラシヌルキミユヱニヒツキモシラズコヒワタルカモ》がある。舊訓アメニシラルル。
 
       ○
  46 しきやみの路のつつみの隱《かく》れ沼《ぬ》の行方《ゆくへ》も知らずとねり惑ひぬ
 
 圖書寮本第一、『はにやすのいけのつゝみのかくれぬのゆくゑもしらずとねりはまどふ』。圖書(108)寮本第二、類從本、鷹司本、此歌缺。萬葉集卷二(二〇〇、前の續き短歌第二に、埴安乃池之堤之隱沼乃去方乎不知舍人者迷惑《ハニヤスノイケノツツミノコモリヌノユクヘヲシラニトネリハマドフ》がある。第三句、舊訓カクレヌノ。第四・五句、舊訓ユクヘヲシラズトネリハマドフで、古寫本中(金・類・古)トネリマドヒヌと訓んだのもある。
 
       ○
     女の死にて後に詠める
  47 秋山のもみぢをしなみまどひぬる妹ををしむと山ぢくらしつ
 
 圖書寮本第一、詞書、『妻のしにて後によめる』。第二句、『もみぢをしげみ』、第四句、『いもをもとむと』。圖書寮本第二、類從本、詞書、『めにおくれて』、第二句、『紅葉をしげみ』、第四句、『いもをもとむと』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷二(二〇八)、柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌の短歌第一に、秋山之黄葉乎茂迷流妹乎將求山道不知母《アキヤマノモミヂフシゲミマドハセルイモヲモトメムヤマヂシラズモ》がある。第三句、舊訓マドヒヌル。第四句、舊訓イモヲモトメム。古寫本中(古)モトムト、(金)モトムル。
 
       ○
  48 知らずともまたひく道を知らずともすまぢを行けばゆけろともなし
(109)    しらすとも又いはく、みちしらすとも
 
 流布一本、結句、『ゆけにともなし』。圖書寮本第一、第二句、『またゆく道を』、結句、『いけりともなし』。左注釈。圖書寮本第二、鷹司本、此歌缺。類從本、『一本所載歌』中にあり、結句、『つかひおもほゆ』。萬葉集卷二(二一二)、右第二長歌の短歌第二に、衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無《フスマヂヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマヂヲユケバイケリトモナシ》がある。併し著しく訛つてしまつてゐるから、この歌に本づくといふことが直ちには分かり難い程であり、また、『衾道乎』云々の歌は一つ置いて次に出て來て居る。
 
       ○
  49 もみぢ葉の散りぬる秋を玉づさの使を見ればつかひ思ほゆ
 
 圖書寮本第一、鷹司本、此歌缺。圖書寮本第二、類從本、第二句、『ちりぬるなへに』、類從本、結句、『あひしひおもほゆ』。萬葉集卷二(二〇九)、右第一長歌の反歌第二に、黄葉之落去奈倍爾玉梓之使乎見者相日所念《モミヂバノチリユクナベニタマヅサノツカヒヲミレバアヒシヒオモホユ》がある。第二句、落去を代匠記初稿本書入【校本萬葉】にチリヌルといふ一訓あるほか、古寫本に此訓は無い。
 
       ○
(110)  50 衾道《ふすまぢ》の引手《ひくて》の山に妹《いも》を置きて山路《やまぢ》をゆけばいけりともなし
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、鷹司本、此歌缺。萬葉集卷二(二一二)、右第二長歌の短歌第二に、衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無《フスマヂヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマヂヲユケバイケリトモナシ》があり、この方は直ちにこの歌に本づくといふことが分かる。六帖には第二・三句、『衾ぢを引き手の山に』、第四句、『山べを見れば』になつてゐる。
 
       ○
     又いはく
  51 こぞみてし秋の月夜は宿れどもあひ見し妹はいや遠ざかる
 
 圖書寮本第一、詞書缺。第三句、『わたれども』。圖書寮本第二、類從本、詞書、『かへるとしの秋月おもしろきに』。第三句、『てらせども』(第二)、『照らすとも』(類從)。鷹司本、此歌缺。拾遺集卷二十、六帖、家持集に載り、いづれも第三句、『照らせども』になつてゐる。拾遺集の詞書、『妻にまかりおくれて又の年の秋月を見侍りて、人麿』。萬葉集卷二(二一一)、第二長歌の短歌第一に、去年見而之秋乃月夜者雖照相見之妹者彌年放《コゾミテシアキノツクヨハテラセドモアヒミシイモハイヤトシサカル》がある。第三句、舊訓テラセドモ。考テラセ(111)レド。
 
       ○
  52 家にいきてわがやを見れば玉ゆかのほかにおきける妹がこ枕
 
 流布一本、第三・四句、『玉ささのほのかにをける』。圖書寮本第一、第四・五句、『ほかにおきたるいもがをまくら』。圖書寮本第二、類從本、詞書、『めのしにたるをかなしみてよめる』。第三句、『しきたへの』、結句、『妹が手まくら』(第二)、『妹かこ枕』(類從)。鷹司本、此歌無。拾遺集卷二十に、『妻《め》の死に侍りて後悲びてよめる、人麿』とし、『玉笹のほかに置きたる』ともなつて居る。萬葉集卷二(二一六)に、家來而吾屋乎見者玉床之外向來妹木枕《イヘニキテワガヤヲミレバタマドコノホカニムキケリイモガコマクラ》がある。第三句、舊訓タマユカノ。第四句、(【類・神・西・細・温・矢・京・附】)ホカニムキケル。(古)ホカニムカヘルの訓がある。
 
       ○
     ひきての采女《うねめ》身なくなる時よめる
  53 あめのこがみつの日にあはむ日ぞおほのみしかは今ぞ悔しき
 
 一本、結句、『今もくやしき』。圖書寮本第一、此歌缺。圖書寮本第二、類從本、詞書、『ひきて(112)のうねへの|身なけたる《身をなけたる(類從)》時の歌』とあり、圖書寮本第二には、或本、『わきもこかすゝしののへのあはむひをおほのみしかはいまそくやしき』とあり、類從本には、戀部に、『あめのこるすゝしののへのあはん日をおほのはしかは今そ戀しき』とあるのは、この歌の變化で、甚だしく亂れてゐることが分かる。ただこの二書には詞書につづいて、『さゝ波やしかのてこら|か《の(顆從)》まかりにしかはせのみちをみれはかなしも』が載つて居る。萬葉集卷二(二一九)、吉備津采女死時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌の短歌第二に、天數凡津子之相日於保爾見敷者今叙悔《アマカゾフオホツノコガアヒシヒニオホニミシカバイマゾクヤシキ》と比較すれば、その變形の趣が知れる。
 
       ○
     近江の荒れたる宮を見て
  54 ささなみのしがの辛崎行きてみれどおほみや人の船待ちかねつ
 
 圖書寮本第一に、詞書、『近江宮のあれたるをみて』。第三句、『さちはあれど』とある。圖書寮本第二、類從本、『さゝなみや志賀のからさきさきくあれど』とある。鷹司本、詞書無。第三句、『きたれとも』。下卷(二一一番)に、『さゝ浪やしがのからさき來たれどもおほみや人の船待ちかねつ』とあるのは、重出であらう。そして鷹司本と一致してゐる。萬葉集卷一(三〇)、過近江荒(113)都時柿本朝臣人麿作歌の反歌第一に、樂浪之思賀乃辛碕雖幸有大宮人之船麻知兼津《ササナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤビトノフネマチカネツ》がある。第三句、古寫本はサチハアレド、サチアレド、サキクアレドで、『行きてみれど』、『來たれども』等の訓は無い。
 
       ○
  55 あまざかる鄙《ひな》の長路《ながぢ》を漕行けば明石のとよりやまと嶋見ゆ
 
 流布一本、結句、『家のあたりみゆ』。圖書寮本第一、第三句、『こひくれば』、結句、『家のあたり見ゆ』。圖書寮本第二、類從本、第三句、『こぎくれば』。鷹司本、此歌缺。新古今集卷十に、題しらず、人麿として載り、第三句、『漕ぎくれば』となつてゐる。萬葉集卷三(二五五)、柿本朝臣人麻呂※[覊の馬が奇]旅歌八首の中に、天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマザカルヒナノナガヂユコヒクレバアカシノトヨリヤマトシマミユ》がある。第二句、舊訓ナガヂヲ。第三句、古寫本中(類・神)コギクレバ。
 
       ○
  56 みこの海はよくこそあるらし漁《いさり》する蜑《あま》の釣船波のうへに見ゆ
 
 一本、第三句、『いさりせる』。圖書寮本第一に此歌缺。圖書寮本第二、類從本、『むこのうらの(114)とまり成らし《イにはよくあらし》』。鷹司本、缺。玉葉集卷十五に、題しらず、人麿、『武庫の浦のとまりなるらし……波間より見ゆ』。萬葉集卷三(二五六)、右※[覊の馬が奇]旅歌の一本云に、武庫乃海能爾波好有之伊射里爲流海部乃釣船浪上從所見《ムコノウミノニハヨクアラシイサリスルアマノツリフネナミノウヘユミユ》がある。第二句、(古・細)トマリニハアラシ。結句、(細)ナミノウヘニミユ。
 
       ○
  57 須磨の浦に船のりすらむをとめ子が赤裳の裾に潮《しほ》やみつらむ
 
 圖書寮本第一に此歌缺。既出の萬葉集卷一(四〇)に、嗚呼見乃浦爾船乘爲良武※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二四寶三都良武香《アミノウラニフナノリスラムヲトメラガタマモノスソニシホミツラムカ》があるが、これよりも寧ろ、卷十五(三六一〇)に、安胡乃宇良爾布奈能里須良牟乎等女良我安可毛能須素爾之保美都良武賀《アゴノウラニフナノリスラムヲトヌラガアカモノスソニシホミツラムカ》とあるのに本づいてゐるであらう。その頃、安胡《あご》の浦《うら》よりも須磨の浦が有名であるからさう直し、『少女等』を『少女子』とし、『潮みつらむか』が調子が惡いといふので、『潮やみつらむ』と直したものであらう。併し兎も角萬葉集卷十五の歌あたりをものぞいてゐることが分かる。類從本、戀部に、詞書、『伊勢のみゆきに京にまかりとまりて』として、『あすの海に花の香すらんわきもこか玉ものすそになみやよすらん』とあるのは此歌に據つたものらしいが、既に出でた(三六番)、『おふの海に船乘すらむつまともに』と重複してゐることもまた明かである。類從本には、なほ、『一本所載歌』中に、この歌を載せてゐる。(115)拾遺集卷八に、『伊勢のみゆきにまかりとまりて。おふの海に船乘すらむ我妹子が赤裳の裾に潮みつらむか』、六帖に、『おふの浦に船乘すらむをとめ子が玉藻の裾に潮みつらむか』があること、前述の如くである。
 
       ○
  58 大船にまかぢしげぬきうなちとり漕ぎでて渡る月人をとこ
 
 一本、第二句、『まかちのしぬに』。圖書寮本第一に此歌缺。圖書寮本第二、類從本、第三・四句、『おはかちをこきつつわたる』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十五(三六一一)、七夕歌一首、於保夫禰爾麻可治之自奴伎宇奈波良乎許藝弖天和多流月人乎登※[示+古]《オホフネニマヂシジヌキウナバラヲコギデテワタルツキヒトヲトコ》(右柿本朝臣人麿歌)に本づいてゐる。
 
       ○
     近江の宮の荒れたるを見て
  59 ささなみや近江の宮は名のみして霞たなびき宮木もりなし
 
 流布本、第二句、『あふみおほつのうらは』、結句、『えあきもいなん』。圖書寮本第一、第二句、(116)『しがのみやこは』。圖書寮本第二、類從本、『お|ふ《は》つの宮は』。鷹司本、『おほつの宮は』。拾遺集卷八に、『大津の宮のあれて侍りけるを見て、人麿』として、かう載つてゐるから、此歌は恐らく其に據つたものであらうか。萬葉集には、『名のみして』、『宮木もりなし』の句のある歌は無い。そして拾遺集の歌は何に本づいたかといふに、卷一(二九)、長歌の、春草之茂生有霞立春日之霧流百磯城之大宮處見者悲毛《ハルクサノシゲクオヒタルカスミタチハルビノキレルモモシキノオホミヤドコロミレバカナシモ》あたりから、恣に作つたものではあるまいか。
 
       ○
     讃岐のみ井のこしまにして岩の上にて死にたるくひをみて
  60 妻もあらはつみてたかましさみ山のとこのおはしき過ぎぬべしやは
 
 圖書寮本第一、詞書、『讃岐のさみのゝしまにてしにたる人をみて』。第三句以下、『さみの山のかみのおはぎすぎぬべしやは』。圖書寮本第二、類從本、詞書、『さぬきのさみねの山にして岩の上になくなれる人をみて』。歌、『つましあらはつみてゆかまし|さみ山の《さみの山(類從)》うへのおは|りに《ら(類從)》過ぎにけらしも』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷二(二二一)、讃岐狹岑島視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首并短歌の短歌第一、妻毛有者採而多宜麻之佐美乃山野上乃宇波疑過去計良受也《ツマモアラバツミテタゲマシサミノヤマヌノヘノウハギスギニケラズヤ》がある。第三句、金澤本サミヤマノ。第四句、舊訓ノカミノウハギ。
 
(117)       ○
     石見の國にてなくなりぬべきをりに詠める
  61 おきつ浪よるあら磯のしきたへの枕となりてなれる君かも
 
 圖書寮本第一に、詞書、『なくなりぬべきおりいはみのくににてよめる』。第二句、『よるあら磯を』、第四句、『まくらになして』とある。圖書寮本第二、類從本は、詞書なく、直に前の歌につづいてある。第二句、『よるあらいそを』、第四句、『まくらとしても』。萬葉集卷二(二二二)、同じく短歌第二、奧波來依荒磯乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマキテナセルキミカモ》があり、卷二(二二六)、丹比眞人名闕擬柿本朝臣人麿之意報歌一首、荒浪爾縁來玉乎枕爾置吾此間有跡誰將告《アラナミニヨリクルタマヲマクラニオキワレココニアリトタレカツゲケム》がある。つまり歌の方は狹岑島死人のことで、詞書の方は石見で死んだときの歌になつてゐる。これは順序が誤まつたので、圖書寮本第二、類從本の方が正しい。萬葉集の第二句、舊訓キヨルアライソヲ。金澤本ヨルアライソヲ。結句、金澤本ナレルキミカモ。拾遺集卷二十に、人麿作、詞書、『讃岐のさみねの島にしていはやのなかにてなくなりたる人を見て』。第二句、『よるあら磯を』、下句、『枕とまきてなれる君かも』とあり、六帖に、人麿作、第二句、『よるあら磯を』、下句、『枕にまきて臥せる妹かな』とある。
 
(118)       ○
  62 いも山の岩ねにおける我をかも知らずて妹が待ちつつあらむ
 
 圖書寮本第一に此歌缺。圖書寮本第二、類從本には、『石見國に有てなくなりぬへき時にのそみて』といふ詞書があり、第四句、『しらすといまか』(第二)、結句、『待ちてやあらむ』とある。鷹司本、此歌缺。拾遺集卷二十、人麿作、『石見に侍りてなくなり侍りぬべき時にのぞみて』といふ詞書があつてこの歌がある。六帖には、第一・二句、『神山の岩根しまける』、結句、『待ちつつをらむ』となつてゐる。萬葉集卷二(二二三)、柿本朝臣人麿在石見國臨死時自傷作歌一首、鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有《カモヤマノイハネシマケルワレヲカモシラニトイモガマチツツアラム》がある。第四句、舊訓シラストイモガ。古寫本中(金・神・細)シラステイモガ。
 
       ○
  63 かみ山の岩根のたまにある我を知らぬか妹が待ちつつませる
 
 圖書寮本第一、『かも山のいはねしまけるわれをかもしらずていもがまちてらむかも』。圖書寮本第二、類從本、『かも山の岩ねのたかにある我をしらすて妹かまちつつませる』。鷹司本、此歌(119)缺。此もまた萬葉集(二二三)の歌に本づくとおもふが、餘程變化してゐる。六帖に、『かみ山のいはねしまける我をかも知らずて妹が待ちつつ居らむ』とあること前述の如くである。
 
       ○
  64 山のかひそことも見えず白樫の枝にも葉にも雪のふれれば
 
 下卷(一五九番)に、『あしびきのやまぢも知らずしらかしの枝もたわわに雪のふれれば』といふ歌がまた出てゐる。圖書寮本第一、第二、類從本、鷹司本、ともに『あしびきの』の方だけを載せ、その第四句が、『枝にも葉にも』になつてゐる。萬葉集卷十七(三九二四)、紀朝臣男梶應詔歌一首、山乃可比曾許登母見延受乎登都日毛昨日毛今日毛由吉能布禮禮婆《ヤマノカヒソコトモミエズヲトツヒモキノフモケフモユキノフレレバ》があり、卷十(二三一五)、冬雜歌、足引山道不知白杜※[木+戈]枝母等乎乎爾雪落者《アシヒキノヤマヂモシラズシラカシノエダモトヲヲニユキノフレレバ》【或云枝毛多和多和】(右柿本朝臣人麿之歌集出也但件一首或本云三方沙彌作)がある。六帖に、『山のかひそことも見えず一昨日も昨日もけふも雪の降れれば』と『あしびきの山路も知らず白樫の枝にも葉にも雪の降れれば』と二首並んでゐる。拾遺集卷四に、題しらず、人麿として、後者がある。
 以上で、柿本集上卷が終つてゐる。
 
(120) 柿本集下 【圖書寮本に柿本集下帖】
 
       ○
  65 人ごとは夏野の草|の《イと》繁くとも|君《イ妹》とわれとしたづさはりなば
 
 拾遺集卷十三、人麿として載つてゐる。六帖には、作者名なく、第四句、『妹と我とし』となつてゐる。萬葉集卷十(一九八三)、寄草、讀人不知、人言者夏野乃草之繁友妹與吾携宿者《ヒトゴトハナツヌノクサノシゲクトモイモトワレトシタヅサハリネバ》がある。萬葉古寫本中、一つも『君と吾とし』といふのは無く、又結句も元暦本・類聚古集の書入以外に、『なば』といふのは無い。然るに、和歌童蒙抄には、『ヒトゴトハナツノヽクサノシゲクトモイモトワレトシタヅサハリナバ』とあり、赤人集には、『ひとことはなつのゝ|くさに《イくさと》しげくともいもとわれとしたづさはりなば』とある。なほ圖書寮本柿本集第一には、第四句『妹とわれとし』とあるから、これは『妹と吾とし』に據る方が好いと思ふ。結句の『なば』と變化したのはどういふ徑路に由つたものかといふに、これも當時の人に理會し易かつたためであつただらう。一本第四(121)句、『君と』になつてゐるのもさうであらう。圖書寮本第二、類從本、第四句、『妹とわれとし』。鷹司本、此歌缺。
 
       ○
  66 山里は月日もおそくうつならむ心のどかにもみぢ葉も見む
 
 一本、第三句、『うつらなむ』。圖書寮本第一、第三句、『うつらなむ』。圖書寮本第二、鷹司本、此歌缺。類從本、『一本所載歌』中にある。これに類似の歌は萬葉集、拾遺集等に無いやうであるから後考を俟つ。後撰集卷九に、『夢にだに見る事ぞなき年を經て心のどかにぬる夜なければ』。拾遺集卷三に、『紅葉を今日は猶みむ暮れぬとも小倉の山の名にはさはらじ』があるが、いづれもただ參考になる歌のみで、無論類似の歌ではない。
 
       ○
  67 此頃のこひの繁けむ夏草の刈り果つれども生ひしくがごと
 
 圖書寮本第一に、『こひのしげけく夏草のかりはらへども生ひしげるらん』とあり、圖書寮本第二、類從本には、『此比の戀のしけゝは夏草のかりそくれどもおひらくのごと』とある。鷹司本、(122)此歌缺。一本、第二句、『戀のしけらん』。又一本、第四句、『かりそくれども』とある。萬葉集卷十(一九八四)、寄草、讀人不知に、廼者之戀乃繁久夏草乃苅掃友生布如《コノゴロノコヒノシゲケクナツクサノカリハラヘドモオヒシクゴトシ》がある。結句の訓は、古寫本の多く、及び舊訓オヒシクガゴトである。第四句は舊訓カリハラフトモ。古寫本にカリソクレドモの訓があるが、カリハツレドモの訓は無い。六帖には、『このごろの戀の繁くて夏草の刈りそくれども生ひしくがごと』、赤人集には、『このごろの戀の茂《しげ》らく夏草の刈り拂へども|生ひ茂るごと《おもひけること(西本願寺本)》』となつてゐる。さうすれば柿本葉の『刈り果つれども』は、恣に改めたもののやうにおもへる。
 
       ○
  68 かたよりに糸をこそよれ我がせこが花橘をぬかむと思《おも》ひて
 
 圖書寮本第一に、第四・五句、『□□□にはなをぬかんとおもひし』とある。圖書寮本第二、類從本、夏部にあり、結句、『ぬ|は《か(類從)》むと思ひて』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(一九八七)、寄花、讀人不知に、片搓爾絲※[口+立刀]曾吾搓吾背兒之花橘乎將貫跡母日手《カタヨリニイトヲゾワガヨルワガセコガハナタチバナヲヌカムトモヒテ》がある。第二句、舊訓イトヲゾワガヨル。古寫本中(元・神)イトヲコソヨレの訓があるから、それに據つたものであらう。赤人集にはやはり、『花によす。片よりに絲をこそよれ我がせこが花橘をぬかむとおもひて』になつてゐ(123)る。
 
       ○
  69 時鳥かよふかきねの卯の花のうきことあれや君がきまさぬ
 
 圖書寮本第一、同樣。圖書寮本第二、類從本、夏部にあり、同樣。拾遺集卷十六に、題しらず人麿としてあり、一本、初句、『鷺の』とある。萬葉集卷十(一九八八)、寄花、讀人不知に、※[(貝+貝)/鳥]之往來垣根乃宇能花之厭事有哉君之不來座《ウグヒスノカヨフカキネノウノハナノウキコトアレヤキミガキマサヌ》がある。そこで初句、『鶯の』とある方は原歌に近いのであるが、萬葉集(一九九一)に、霍公鳥來鳴動崗部有《ホトトギスキナキトヨモスヲカベナル》が接近してゐるのでそれを取つて用ゐたのかも知れない。赤人集には、『花によす。時鳥かよふ垣根の卯の花のうきことあれや君が來まさぬ』とあるから、柿本集のと同一である。初句を『時鳥』としたのは、どちらが早いのであるか不明である。
 
       ○
  70 我こそはにくくもあらめわが宿のはな橘は見にも來じとや
 
 圖書寮本第一に、第四・五句、『はなたちばなを見にはこじとや』とある。圖書寮本第二、類從(124)本、夏部。第四・五句、『花橘を見にはこじとや』。鷹司本、缺。萬葉集卷十(一九九〇)、寄花、讀人不知に、吾社葉憎毛有目吾家前之花橘乎見爾波不來鳥屋《ワレコソハニククモアラメワガヤドノハナタチバナヲミニハコジトヤ》がある。六帖、赤人集にも、萬葉集と同樣になつてゐる。西本願寺本の赤人集には、第二句、『きくゝもあらめ』となつて居り、『このうた人丸集にあり』といふ注が附してある。
 
       ○
  71 かけてのみ戀ふれは苦し撫子の花に咲かなむ朝な朝な見む
 
 圖書寮本第一、初句、『かくてのみ』。圖書寮本第二、類從本、戀部。此歌に同。鷹司本、缺。萬葉集卷十(一九九二)、寄花、讀人不知に、隱耳戀者苦瞿麥之花爾開出與朝旦將見《コモリノミコフレバクルシナデシコノハナニサキデヨアサナサナミム》がある。初句、舊訓カクシノミ。古寫本中(類・神)シタニノミ、(神別訓)カクレノミ、ヒトシレズ。第四句、舊訓ハナニサキイデ。古寫本中(類)ハナサキイテヨ、(神)ハナニサキテヨ、(西・温・細)ハナニサキイテヨ。結句、舊訓アサナサナミム。古寫本中(類・神)アサナ/\ミム、(温)アサケサナミム。赤人集には、『人しれずこふれば苦し撫子の花に咲き|てよ《イいてよ》あさな/\みむ』、家持集には、『下にのみ戀ふれば苦し撫子の花に咲きいでよ朝な/\みむ』になつてゐる。柿本集の『かけてのみ』、『咲かなむ』は恣に改めたやうでもあり、或はかういふ傳本に據つたやうでもある。
 
(125)       ○
  72 よそにのみ見つつや戀ひむ紅《くれなゐ》の未《すゑ》摘む花の色にいでぬとも
 
 一本、結句、『いろに出ぬと』。圖書寮本第一、此歌と同樣。圖書寮本第二、結句、『いでなむ』。類從本、『出なで』。鷹司本、『いでずとも』。拾遺集卷十一に、よみ人しらずとして、第二句、『見てやは戀ひむ』、結句、『色に出でずは』とあり、六帖に、第二句、『見つつを戀ひむ』、結句、『色に出でずとも』とある。萬葉集卷十(一九九三)、寄花、讀人不知に、外耳見筒戀牟紅乃末採花乃色不出友《ヨソノミニミツツヲコヒムクレナヰノウレツムハナノイロニイデズトモ》がある。第一・二句、古寫本及び舊訓ヨソニノミ・ミツツヤコヒム。第四句、古寫本及び舊訓スヱ(エ)ツムハナノ。ウレツムハナノは略解宣長訓。結句、古寫本及び奮訓イロニイデズトモ。
 
       ○
  73 なつ草の露分衣著ぬものをなどかわが袖《そで》のかわくときなき
 
 圖書寮本第一に此歌缺。圖書寮本第二、類從本、戀部。第三・四句、『きもせぬになどわが袖の』。鷹司本、缺。新古今集卷十五に、作者人丸、第三・四句、『著もせぬになどわが袖の』とし(126)て載り、六帖に、作者を記さず、『きもせぬにわが衣手の』として載つた。萬葉集卷十(一九九四)、寄露、請人不知に、夏草乃露別衣不著爾我衣手乃干時毛名寸《ナツクサノツユワケゴロモツケナクニワガコロモデノヒルトキモナキ》がある。第三句、舊訓キモセヌニ。古寫本同訓。第四・五句、舊訓ワガコロモデノ・ヒルトキモナキ。古寫本同訓。赤人集、『夏草の露分ごろもきもせぬに我が衣手のひるよしもなき』(流布本)。『夏草のつゆわけごろもまだきぬにわがころもで|に《は》ひるよしもなし』(西本願寺本)。
 
       ○
  74 みな月の土さへさけて照る日にも我袖ひめや妹にあはずて
 
 圖書寮本第一、此歌缺。圖書寮本第二、類從本、戀部。歌同。鷹司本、此歌缺。六帖に載り、同樣。拾遺集卷十三には、讀人不知として、結句、『妹にあはずして』。萬葉集卷十(一九九五)、寄日、讀人不知に、六月之地副割而照日爾毛吾袖將乾哉於君不相四手《ミナヅキノツチサヘサケテテルヒニモワガゾデヒメヤキミニアハズシテ》がある。第四句、舊訓ワガソデヒヌヤ、古寫本中(元・類・神・温・矢)ワガソデヒメヤ。結句、古寫本中(類・神)イモニアハズシテ。赤人集には、『日によす。みなつきのつちさへさけててる日にもわが袖《そで》ひめやいもにあはずして。このうた人丸集にあり』(西本願寺本)とある。流布本には見えないやうである。
 
(127)       ○
  75 戀ふる日はけ長き物を今夜《こよひ》さへともしかるらむ逢ふべきものを
 
 圖書寮本第一、此歌缺。類從本、第四句、『ともしかるべく』。圖書寮本第二、初句、『戀しさは』、第三・四句、『こよひただひさしかるべく』。鷹司本、缺。萬葉菓卷十(二〇七九)、七夕、讀人不知に、戀日者氣長物乎今夜谷令乏應哉可相物乎《コフルヒハケナガキモノヲコヨヒダニトモシムベシヤアフベキモノヲ》がある。初句、舊訓コフルヒハ。第四句、舊訓トモシムベシヤ。赤人集には、『こひするはけながきものをこよひだにくるゝべしやはとくあけずして』(西本願寺本)。『戀ふる日はけ長きものを【いまだにも・こよひだに】乏しむべしや逢ふべきものを』(流布本、重出)とある。
 
       ○
  76 天の川こぞの渡りの移ろへば河瀬踏むまに夜ぞふけにける
 
 圖書寮本第一、缺。圖書寮本第二、類從本、秋部。第四句、『あさせ|ふむまに《ふまに(類從)》』。麿司本、缺。一本、第二句、『秋の渡りの』、第四句、『淺瀬踏むまに』。萬葉集卷十(二〇一八)、七夕、柿本朝臣人麿歌集出に、天漢去歳渡代遷閉者河瀬於蹈夜深去來《アマノガハコゾノワタリデウツロヘバカハセヲフムニヨゾフケニケル》がある。第二句、渡伐(流布本)、渡代(【類・神・(128)西・温・矢・京・無】)。舊訓コソノワタリハ。古寫本中(類・元・神)コソノワタリノ。第四句、舊訓カハセヲフムニ。古寫本中(元・神)カハセフムマニ。拾遺集卷三に、柿本人麿として、『天の川こぞの渡りのうつろへば淺瀬ふむまに夜ぞ更けにける』とあり、赤人集に、『あまのがはそこのわたりのうつろへばかはらを行くに夜ぞふけにける』(西本願寺本)。『天の川こぞの渡りの移ろへば川瀬を行きて夜ぞ更けにける』(流布本)とあり、和歌童蒙抄に、『アマノガハコゾノワタリノウツロヘバカハセフムマニヨゾタケニケル。同(【万十】)ニアリ』とある。
 
       ○
  77 年の戀|今夜《こよひ》つくしてあすよりは常の戀にやわがこひをせむ
 
 圖書寮本第一、此歌無し。圖書寮本第二、類從本、秋部。第四句、『常のことにや我戀をらん』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二〇三七)、七夕、讀人不知に、年之戀今夜盡而明日從者如常哉吾戀居牟《トシノコヒコヨヒツクシテアスヨリハツネノゴトクヤワガコヒヲラム》がある。
 
       ○
  78 逢はずてはけ長きものを天の川隔つる迄やわがこひ居らむ
 
(129) 圖書寮本第一、此歌無し。圖書寮本第二、類從本、第四句、『へたててまたそ』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二〇三八)、七夕、讀人不知に、不合者氣長物乎天漢隔又哉吾戀將居《アハナクハケナガキモノヲアマノガハヘダテテマタヤワガコヒヲラム》がある。初句、舊訓アハザルハ。古寫本中(元・類)アヒミテハ、(神)アヒミヌハ。アハナクハは代匠記精の訓である。赤人集には、『あけすぐしけながきものはあまのがは隔ててまたやわが戀をせむ』(西本願寺本)。『あはなくはけ長きものを天の河隔てて又やわが戀ひをらむ』(流布本)とある。
 
       ○
  79 彦星とたなばたつめと今宵逢はむ天の河せに浪立つなゆめ
 
 圖書寮本第一、此歌無し。圖書寮本第二、此歌に同。類從本・第四句、『天|河《せイ》原に』。鷹司本、缺。萬葉集卷十(二〇四〇)、七夕、讀人不知に、牽牛與織女今夜相天漢門爾波立勿謹《ヒコボシトタナバタツメトコヨヒアフアマノカハトニナミタツナユメ》がある。第三句、舊訓及び古寫本コヨヒアハム。『天の河瀬』は改めたものであらうか。赤人集に、『彦星とたなばたつめと今宵あふ天の河原に波たつなゆめ』となつてをり、それが續千載集卷四に、作者山邊赤人として載つてゐる。
 
       ○
(130)  80 しばしばもあひ見ぬ妹を天の川船出早せよ夜のふけぬとき
 圖書寮本第一、此歌無し。圖書寮本第二、類從本に、秋部。『あはずてはけながきものを天河ふなではせまし夜の深ぬ時』とある。前半は誤寫であらう。萬葉集卷十(二〇四二)、七夕、讀人不知に、數裳相不見君矣天漢舟出速爲夜不深間《シバシバモアヒミヌキミヲアマノガハフナデハヤセヨヨノフケヌマニ》がある。第二句、舊訓アヒミヌキミヲ。古寫本中(類)アヒミズキミニ、(神)アヒミヌキミニ、(京)アヒミズキミヲ。赤人集に、『しばしばもあひ見ぬ君はあまのがはふなではやせよよのふけぬときに』(西本願寺本)。『しばしばも相見ぬ君を天の河舟出はやせよ夜の更けぬまに』(流布本)とある。又、家持集に、『しるしる|も《マヽ》あひ見ぬ君は』とある。
 
       ○
  81 あきかぜのきよきゆふべに天の川船漕ぎわたせ月人をとこ
 
 圖書寮本第一、此歌無し。圖書寮本第二、類從本、戀部の少し前にあり、初句、『神風の』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二〇四三)、七夕、讀人不知に、秋風之清夕天漢舟榜度月人壯子《アキカゼノキヨキユフベニアマノガハフネコギワタルツキヒトヲトコ》がある。第四句、舊訓フネコギワタル。古寫本中(神の一訓)フネコキワタセ。赤人集に、『秋風のきよきゆふべに天の川ふねこぎわたせつきびとをとこ』(西本願寺本)。『秋風のきよき夕に天のが(131)は舟こぎわたる月人をとこ』(流布本)とある。家持集に、やはり第四句、『ふねこぎわたせ』となつてゐる。
 
       ○
  82 天の川霧たち渡りひこぼしのかぢ音きこゆ夜の更けゆけば
 
 圖書寮本第一、此歌無し。圖書寮本第二、類從本、秋部。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二〇四四)、七夕、讀人不知に、天漢霧立度牽牛之※[楫+戈]音所聞夜深往《アマノガハキリタチワタリヒコボシノカヂノトキコユヨノフケユケバ》がある。第二句、舊訓キリタチワタル。古寫本中(類・神)キリタチワタリ。第四句、舊訓カヂノオトキコユ。古寫本中(類)カヂオトキコユ、(神・京)カジヲトキコユ。赤人集に、『あまのがは霧たちわたるひこぼしのかぢおときこゆよのふけゆけば』(西本願寺本・流布本)とある。續後拾遺集卷四に、讀人しらずとして載つた。
 
       ○
  83 天の川とほきわたりとなけれども君が船出は年にこそ待て
 
 圖書寮本第一、第二・三句、『とほきわたりいなけれども』。圖書寮本第二、類從本、第二・三句、『わたりにあらねども』。鷹司本、此歌缺。一本、第二・三句、『遠きわたりにあらねども』。拾(132)遺集卷三、六帖にもさうあり、作者人麿としてある。後撰集卷五には、讀人しらずとし、第二・三句、『遠きわたりはなけれども』となつてゐる。萬葉集卷十(二〇五五)、七夕、讀人不知に、天河遠度者無友公之舟出者年爾社候《アマノガハトホキワタリハナケレドモキミガフナデハトシニコソマテ》がある。
 
       ○
  84 天の川橋うちわたす妹がいへにやまず通はむ時またずとも
 
 圖書寮本第一、第四句、『たえずかよはむ』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『打橋渡し』。鷹司本、此歌缺。一本、第三句、『いもいかに』。萬葉集卷十(二〇五六)、七夕、讀人不知に、天河打橋度妹之家道不止通時不待友《アマノガハウチハシワタセイモガイヘヂヤマズカヨハムトキマタズトモ》がある。第二句、舊訓ウチハシワタス。古寫本中(類・神)ウチハシワタシ。赤人集に、『あまのがはうち橋わたす妹が家とどまらずかよへ時またずとも』(西本願寺本)。『とまらず通へ』(流布本)とある。
 
       ○
  85 天の川霧たち渡るたなばたのあまのはごろもとひ別るかも
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、鷹司本、此歌缺。一本、第三句、『たなばたは』。萬葉集卷十(二(133)〇六三)、讀人不知に、天漢霧立上棚幡乃雲衣能飄袖鴨《アマノガハキリタチノボルタナバタノクモノコロモノカヘルソデカモ》がある。赤人集に、『天の川きりたちのぼりたなばたの雲のころものあへるそらかな』(西本願寺本)。『天の川霧たちわたる七夕のくものころものかへる袖かな』(流布本)とある。家持集に、『天の川霧たちわたり七夕の雲のころものなびく袖かも』とあり、續後撰集卷五に、人丸として、『雲の衣のかへる袖かも』となつてゐる。
 
       ○
  86 渡し守船はや渡せひととせにふたたび來ます君ならなくに
 
 圖書寮本第一に、第二句、『ふねはやかくせ』、第四句、『ふたたび來べき』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『はや舟わたせ』。なほこの前に、『渡守舟はやわたせおとよばふ聲もきかぬか梶音もせず』を載す。鷹司本、此歌缺。六帖に、歌仙家集本と同樣にあり、拾遺集卷十七に、題しらず、人麿としてあるが、第二句、『はや舟寄せよ』、一本、『はや舟かくせ』になつてゐる。萬葉集卷十(二〇七七)、七夕、讀人不知に、渡守舟早渡世一年爾二遍往來君爾有勿久爾《ワタリモリフネハヤワタセヒトトセニフタタビカヨフキミニアラナクニ》がある。古寫本中、初句、(元・類・神)ワタシモリ。第四句、(元・類・神)フタタビキマス。結句、(元・神)キミナラナクニ。赤人集に、『わたしもり舟はやはたせひとことにふたたびかよふきみならなくに』(西本願寺本)。『渡守舟はやわたせ一年《ひととせ》にふたたびかよふ君ならなくに』(流布本)とある。
 
(134)       ○
  87 天の川瀬を早みかもぬばたまの夜は更け行けど逢はぬ彦星
 
 流布本、圖書寮本第一、類從本、第三句、『むばたまの』。圖書寮本第二、此歌に同。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二〇七六)、七夕、讀人不知、天漢瀬乎早鴨烏珠之夜者闌爾乍不合牽牛《アマノガハセヲハヤミカモヌバタマノヨハフケニツツアハヌヒコボシ》がある。赤人集に、『あまのがは瀬をはやみらむゝばたまのよるはあけつゝあはぬひこほし』(西本願寺本)。『瀬をはやみかも』(流布本)とある。
 
       ○
  88 天の川夜はふけにつつさぬるよの年のまれらにただ一夜《ひとよ》のみ
 
 圖書寮本第二同じ。圖書寮本第二、類從本、第二句、『夜はふけゆきて』、第三・四句、『さぬる夜はとしのわたりに』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二〇七六)、七夕、讀人不知に、天漢瀬乎早鴨烏珠之夜者闌爾乍不合牽牛《アマノガハセヲハヤミカモヌバタマノヨハフケニツツアハヌヒコボシ》があり、同卷(二〇七八)に、玉葛不絶物可良佐宿者年之度爾直一夜耳《タマカヅラタエヌモノカラサヌラクハトシノワタリニタダヒトヨノミ》がある。第三句、『佐宿者』の訓、古寫本中(元・類・神)サヌルヨハがある。六帖に、『玉かづらたえぬものからさぬるよは年のわたりにただ一夜のみ』が載り、後撰集卷五に、『玉かづらた(135)えぬものからあら玉の年のわたりはただ一夜のみ』が載つた。
 
       ○
  89 たなばたの今宵逢ひなば常のごと月日隔つる年なからなむ
 
 圖書寮本第一、第四句、『あすをへだつる』。圖書寮本第二、類從本、第四句以下、『秋をへだつることなからなむ』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二〇八〇)、七夕、讀人不知、織女之今夜相奈婆如常明日乎阻而年者將長《タナバタノコヨヒアヒナバツネノゴトアスヲヘダテテトシハナガケム》がある。結句、舊訓ナガケレ。古寫本中(【元・類・西・細・温・京】)ナガケム、(神)ナカナム。赤人集に、『たなばたのこよひあかねばつねのごとまたこひてやわたさむたなばたわたせ』(西本願寺本)。『七夕の今宵あけなば常のごとあすをへだてて年は越えなむ』(流布本)とある。
 
       ○
  90 秋風の吹きにし日より天の川瀬に立出でて待つとつげこせ
 
 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、戀部の直ぐ前にあり、第四句、『瀬《川瀬》にいでたちて』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二〇八三)、七夕、讀人不知に、秋風乃吹西日從天漢瀬爾出立待登告許曾《アキカゼノフキニシヒヨリアマノガハセニイデタチテマツトツゲコソ》がある。結句、舊訓マツトツゲコソ。古寫本中(類)マツトツゲコセ。家持集に、第四句、(136)『瀬にいでたちて』とあり、赤人集に、『秋風のふきにし日よりあまのはらせにいでたちてまつとつけこせ』(西本願寺本)。『たちいでて』(流布本)とある。萬葉の連用段から續く願望のコソが、コセになつてゐる。連用段を受ける願望の助詞コソは、柿本集成立時代には既に用法が絶えてゐたので、分かり易きに就いたものであらう。
 
       ○
  91 天の川こぞの渡りはあせにけり君が來まさむあと殘らなむ
 
 圖書寮本第一、此歌無し。圖書寮本第二、類從本、結句、『あとの白浪』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二〇八四)、七夕、讀人不知に、天漢去年之渡湍有二家里君將來道乃不知久《アマノガハコゾノワタリセアレニケリキミガキマサムミチノシラナク》がある。第三句、舊訓アレニケリ。古寫本中、元暦本にはアレの右に墨を以てアセィと記してある。赤人集には、『あまのがはこぞのわたせはありけるを君がきたらむみちのしらなく』(西本願寺本)。『渡りは荒れけるを』(流布本)とある。
 
       ○
  92 天の河あさせ白浪高けれはただわたりなむ待てばすべなし
 
(137) 圖書寮本第一、第三句、『たどりつつ』。圖書寮本第二、第二、三句、『せせの白浪たかけれど』、類從本、『せせの白浪ふかけれど』。兩本、第四句、『たたわたりしぬ』。鷹司本、此歌缺。一本、第二句以下、『せぜの白波ふかけれどただわたりしぬまてばすべなし』とある。萬葉集卷十(二〇八五)、七夕、讀人不知に、天漢湍瀬爾白浪雖高直渡來沼待者苦三《アマノガハセセニシラナミタカケドモタダワタリキヌマタバクルシミ》がある。第三句、舊訓タカケレド。古寫本中(神)タカケレハ。結句、舊訓マテバクルシミ。古寫本中(元)マテバクルシモ、(温)マチハクルシミ。後撰集卷五に、讀人しらずとして、『天の川せぜの白波高けれどただわたりきぬまつに苦しみ』とあり、それと同樣のものが友則集にも載つてゐる。
 
       ○
  93 彦星の妻待つ船のひきつなのたえむと君にわが思《おも》はなくに
 
 圖書寮本第一に、第三句、『つなひきの』。圖書寮本第二、類從本、第二・三句、『つまよぶふねのひくつなの』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二〇八六)、七夕、讀人不知に、牽牛之嬬喚舟之引綱乃將絶跡君乎吾念勿國《ヒコボシノツマヨブフネノヒキヅナノタエムトキミヲワガオモハナクニ》がある。第三句、舊訓ヒクツナノ。元暦本クの右に朱でキ。京大本、引の左に赭くヒキあり。赤人集に、『ひこぼしのいもよぶこゑのふきつなのたえむときみをわがおもはなくに』(西本願寺本)。『よぶ舟の引綱の』(流布本)とある。家持集に、『彦星の妻よぶ舟の引(138)綱の空にたえむと我思はなくに』とある。
 
       ○
  94 妹に逢ふときみまたまつと久方の天の川原に年ぞへにける
 
 圖書寮本第一、此歌無し。圖書寮本第二、第二句、『君かたまつと』。類從本、第一二句、『妹にあふときかたまつと』。兩本、結句、『月ぞへにける』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二〇九三)、長歌の反歌、讀人不知に、妹爾相時片待跡久方乃天之漢原爾月叙經來《イモニアフトキカタマツトヒサカタノアマノカハラニツキゾヘニケル》がある。又、家持集にもある。
 
       ○
  95 白露のおかまく惜しき秋萩のをりてみをりておきやかくらむ
 
 圖書寮本第一、第三句以下、『あき萩をおりのみおりてをきやからさん』。圖書寮本第二、『白露をあかまくをしみ秋はぎをおりのみおりてをきやかくさむ』。類從本、『秋萩を祈のみ折ておきやからさん』。鷹司本、缺。後撰集卷六に、讀人不知として、第三句以下、『秋萩を折りてはさらに我やかざさむ』といふのがあり、宗于集に、『白露のおかまく惜しみ秋萩の折りてはさらにおきや(139)まさらむ』といふのがある。萬葉集卷十(二〇九九)、詠花、讀人不知に、白露乃置卷惜秋芽子乎折耳折而置哉枯《シラツユノオカマクヲシミアキハギヲヲリノミヲリテオキヤカラサム》がある。古寫本中、第四句、(西・温)オリノミオリテ、(細)オリノミヲリテ。結句、(類)オキヤカクサム、(神・温)ヲキヤカラサム。
 
       ○
  96 秋の田のかりほの宿の匂ふまで咲ける秋萩見れど飽かぬかも
 
 圖書寮本第一、第二句、『かりいほのやどの』。圖書寮本第二、類從本、此歌に同。鷹司本、此歌結。一本、第二句、『したほのやとの』。後撰集卷六に、讀人不知として、第二句、『かりほの庵《やどイ》の』とある。萬葉集卷十(二一〇〇)、詠花、讀人不知に、秋田苅借廬之宿爾穂經及咲有秋芽子雖見不飽香聞《アキタカルカリホノヤドリニホフマデサケルアキハギミレドアカヌカモ》がある。
 
       ○
  97 朝顔の朝露おきて咲くといへど夕顔にこそにほひましけれ
 
 圖書寮本第一、此歌無し。圖書寮本第二、『夕かげにこそさきかかりけれ』。類從本、初句、『朝顔は』、第四・五句、『夕影にこそ咲きかかりけり』。鷹司本、此歌結。一本に、第四・五句、『夕(140)かげにこそ咲きかかりけれ』とある。六帖には、初句、『朝がほは』、第四・五句、『夕かげにこそ咲きまさりけれ』となつてゐる。萬葉集卷十(二一〇四)、詠花、讀人不知に、朝杲朝露負咲雖云暮陰社咲益家禮《アサガホハアサツユオヒテサクトイヘドユフカゲニコソサキマサリケレ》とある。第二句、舊訓アサツユオヒテ。古寫本中(類)アサツユオキテ。
 
       ○
  98 春されば霞がくれに見えざりし秋萩咲けり折りてかざさむ
 
 圖書寮本第一、鷹司本、此歌缺。圖書寮本第二、類從本、此歌に同。新拾遺集卷四に、題しらず、人麿として載つた。なほ、家持集に、『春くれば霞にこめてみせざりし萩咲きにけり折りてかざさむ』とある。萬葉集卷十(二一〇五)、詠花、讀人不知に、春去者霞隱不所見有師秋芽子咲折而將挿頭《ハルサレバカスミガクリテミエザリシアキハギサケリヲリテカザサム》がある。第二句、舊訓カスミガクレテ。古寫本中(元・類・神)カスミニカクレ。
 
       ○
  99 ひとはみな萩を秋とはいふなれど尾花がすゑを秋とはいはむ
 
 圖書寮本第一に、第二・三句、『秋といふいなわれは』。圖書寮本第二、類從本、初句、『皆人は』、第二・三句、『萩を秋といふいなわれは』。鷹司本、此歌缺。一本、第四句、『をばなのすゑを』。(141)萬葉集卷十(二一一〇)、詠花、讀人不知に、人皆者芽子乎秋云縱吾等者乎花之末乎秋跡者將言《ヒトミナハハギヲアキトイフヨシワレハヲバナガウレヲあきとはいはむ》がある。初句、舊訓ヒトミナハ。古寫本中(元・類)ミナヒトハ、(類或本)ヒトハミナ。第二句、舊訓ハギヲアキトイフ。古寫本中(元)ハギヲアキテフ、(京)ハギヲアキトノフ。第三句、舊訓及び多くの古寫本イナワレハ。第四句、舊訓ヲバナガスヱヲ。古寫本中(元・神)ヲバナノスヱヲ。
 
       ○
  100 たまほこの君が使のたをりたるこの秋萩は見れど飽かぬかも
 
 圖書寮本第一、第四句、『なこのあきはぎ』。圖書寮本第二、類從本、此歌に同。鷹司本、缺。萬葉集卷十(二一一一)、詠花、讀人不知に、玉梓公之使乃手折來有此秋芽子者雖見不飽鹿裳《タマヅサノキミガツカヒノタヲリケルコノアキハギハミレドアカヌカモ》がある。初句は古寫本中に、玉桙《タマホコ》と注したものもあり、元暦本・神田本にはタマホコの訓があるから、柿本集のこの初句は恣に改めたのではなく、さういふ系統のものに據つたものかも知れない。第三句、舊訓タヲリクル。古寫本中(元・類・神)タヲリタル。
 
       ○
  101 わが宿に咲ける秋萩常ならば我待つ人に見せましものを
 
(142) 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、第三・四句、『あきならばわが待つ人に』。鷹司本、此歌缺。家持集に載り、第四句、『わが待つ人に』。萬葉集卷十(二一一二)、詠花、讀人不知に、吾屋前爾開有秋芽子常有者我待人爾令見猿物乎《ワガヤドニサケルアキハギツネナラバワガマツヒトニミセマシモノヲ》がある。
 
       ○
  102 わが宿に殖ゑて置きたる秋萩を誰かしめさし我に知らせぬ
 
 圖書寮本第一に、『我やどにうへおほしたる』、『我にしらせず』。圖書寮本第二、類從本、第四・五句、『たれかしめさす我に知らせで』。類從本、第二句、『うゑ生したる』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二一一四)、詠花、讀人不知に、吾屋外爾殖生有秋芽子乎誰標刺吾爾不所知《ワガヤドニウヱオホシタルアキハギヲタレカシメサスワレニシラエズ》がある。結句、舊訓シラセデ。古寫本中(類)シラセズ、(神)シラレズ。
 
       ○
  103 手にとれば袖さへにほふをみなへしこの下つゆに散らまくも惜し
 
 圖書寮本第一に、第四・五句、『このしらつゆにをかまくおしみ』。圖書寮本第二、類從本、『ちらまく|お《を》しみ』。鷹司本、此歌缺。六帖に、結句、『散らまく惜しも』とある。新續古今集卷四に、(143)題しらず、柿本人丸として、歌仙家集本の形のものが載つてゐる。萬葉集卷十(二一一五)、詠花、讀人不知に、手取者袖并丹覆美人部師此白露爾散卷惜《》がある。結句、神田本でチラマクモヲシと訓み、類聚古集チラマクヲシミ。家持集に、初句、『手に折れば』、第四句、『その白露|の《も》』とある。
 
       ○
  104 吾妹子が行合《ゆきかひ》の稻の刈るときになりにけるかな萩の花咲く
 
 圖書寮本第一に、第二句、『ゆきあひのわせを』、第四句、『なりにけらしな』。圖書寮本第二、類從本、初句、『わきもこに』。第二句、『ゆきあひのわせを』(圖)、『わさを』(類)。第四句、『なりにけらしも』(圖)、『けらしな』(類)。新拾遺集卷十八に、題しらず、人丸として、圖書寮本第二の形のものが載つてゐる。萬葉集卷十(二一一七)、詠花、讀人不知に、※[女+感]嬬等行相乃速稻乎苅
時成來下芽子花咲《ヲトメラニユキアヒノワセヲカルトキニナリニケラシモハギガハナサク》がある。結句、舊訓ハギノハナサク。
 
       ○
  105 戀ひしくば形見にせむと吾背子が殖ゑし秋萩花咲きにけり
 
(144) 圖書寮本第一にはこの歌の前に、『あききりのたなびくをのゝはぎのはないまやはるらんいまたあかなくに』一首がある。此歌第三句、『わぎもこが』となつてゐる。圖書寮本第二、類從本、第二・三句、『かたみにせよとわがせこが』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二一一九)、詠花、讀人不知に、戀之久者形見爾爲與登吾背子我殖之秋芽子花咲爾家里《コヒシクハカタミニセヨトワガセコガウヱシアキハギハナサキニケリ》がある。第二句、舊訓カタミニセヨト。神田本カタミニセント。
 
       ○
  106 秋萩は鴈にあはじといへればか聲をききては花散りにけり
 
 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、初句、『秋萩を』、結句、『花の散らん』。鷹司本、此歌缺。一本、第四・五句、『聲をたてては花咲にけり』。萬葉集卷十(二一二六)、詠花、讀人不
知に、秋芽子者於鴈不相常言有者香《アキハギハカリニアハジトイヘレバカ》【一云言有可聞】 音乎聞而者花爾散去流《コヱヲキキテハハナニチリヌル》がある。結句、舊訓ハナニチリヌル。古寫本中(類・神)ハナノチリヌル。
 
       ○
  107 秋されば妹に見せむと殖ゑし萩露霜置きて散りにけらしも
 
(145) 圖書寮本第一、第二句、『いもにせんと』。圖書寮本第二、類從本、結句、『ちりにけるかも』。麿司本、此歌缺。續後撰集卷七に、人丸として載り、一本の結句、『散りにけるかな』になつてゐる。萬葉集卷十(二一二七)、詠花、讀人不知に、秋去者殊令視跡殖之芽子露霜負而散來毳《アキサラバイモニミセムトウヱシハギツユジモオヒテチリニケルカモ》がある。初句、舊訓アキサレバ。第四句、神田本に、負而の左にオキテの訓がある。
 
       ○
  108 秋風に山飛びこゆるかりがねのいや遠ざかり雲がくれつつ
 
 圖書寮本第一に、第二句、『峯とびこゆる』。圖書寮本第二、類從本、戀部の中程にあり、此歌に同。鷹司本、缺。六帖、新古今集卷五に、人麿作として、かく載り、家持集に、第四句、『聲とほざかり』として載つた。萬葉集卷十(二一二八)、詠鴈、讀人不知に、秋風爾山跡部越鴈鳴者射矢遠放雲隱筒《アキカゼニヤマトヘコユルカリガネハイヤトホザカルクモガクリツツ》がある。第二句、舊訓ヤマトヒコユル。諸本みなヤマトヒコユルで、ただ元暦本ヒの右にヘを書いてゐる。第四句、舊訓イヤトホサカル。古寫本中(神)イヤトヲサカリ、(温)イヤトホサカリ。結句、舊訓クモガクレツツ。
 
       ○
(146)  109 天雲のよそのかりがねききしよりはだれ霜ふり寒し今宵は
 
 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、第二句、『よそにかりがね』、結句、『さむし此よは』。一本、第四句、『いたく霜ふり』。鷹司本、此歌缺。六帖に、作者おとくろとして、第二句、『よそにかりがね』、第四・五句、『はだれ雪ふりさえしこの夜は』となつてをり、家持集に、第二句、『よそにかりがね』、第四・五句、『あられしもふる寒きこよひか』となつてゐる。また新拾遺集卷五に、人丸として、類從本同樣に載つてゐる。萬葉集卷十(二一三二)、詠鴈、讀人不知に、天雲之外鴈鳴從聞之薄垂霜零寒此夜者《アマグモノヨソニカリガネキキシヨリハダレシモフリサムシコノヨハ》がある。結句、舊訓コノヨハ。古寫本中(元・類)コヨヒハ、(神)漢字の左にコヨヒハ。柿本集のこの結句はさういふ系統の訓に據つたものであらう。
 
       ○
  110 垣根なる萩の花さく秋風の吹くなるなべにかり鳴きわたる
 
 圖書寮本第一、第二句、『萩の花さき』。圖書寮本第二、類從本、戀部、『かきほなる荻のはさやぎ吹風の吹なるなべに雁ぞ嶋なる』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二一三四)、詠鴈、讀人不知に、葦邊在荻之葉左夜藝秋風之吹來苗丹鴈鳴渡《アシベナルヲギノハサヤギアキカゼノフキクルナベニカリナキワタル》がある。柿本集の、『垣根なる萩の花』は、『葦べなる(147)荻の葉』を恣に改めたものの如くである。『垣根』の用例は、萬葉集卷十(一九八八)に、※[(貝+貝)/鳥]之往來垣根乃宇能花之《ウグヒスノカヨフカキネノウノハナノ》があり、拾遺集卷二に、『山賤の垣根に咲ける卯の花はたが白妙の衣かけしか』。卷三に、『君こずば誰に見せましわがやどの垣根に咲ける朝顔の花』等がある。六帖に、人丸として、『葦べなる荻の葉そよぎ秋風の吹き來るなべに雁鳴きわたる』とあり、新古今集卷五に、人麿として、『垣ほなる荻の葉そよぎ秋風の吹くなるなべに雁ぞなくなる』とある。
 
       ○
  111 山近く家居をせればさを鹿の聲をききつついもねかねつも
 
 圖書寮本第一、結句、『いをねかねつも』。圖書寮本第二、類從本、結句、『いねんころかも』。類從本、第二句、『家をしをれば』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二一四六)、詠鹿嶋、請人不知に、山近家哉可居左小牡鹿乃音乎聞乍宿不勝鴨《ヤマチカクイヘヤヲルベキサヲシカノコエヲキキツツイネガテヌカモ》がある。『家居をせれば』は分かり易く改めたものであらう。萬葉集卷十(一八四二)に、山片就而家居爲流君《ヤマカタツキテイヘヰセルキミ》があり、古今集卷一に、『野べ近く家居しをれば鶯のなくなる聲は朝な朝な聞く』。拾遺集卷二に、『この里にいかなる人か家居してやま郭公絶えず聞くらむ』等がある。
 
(148)       ○
  112 あしびきの山より聞けばさをしかの妻呼ぶ聲をきかましものを
 條書寮本第一、第四句、『妻呼ぶこゑは』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『山ならませば』。鷹司本、此歌缺。六帖に、人麻呂として、第四・五句、『妻呼ぶ聲もかつ聞かましを』となつてゐる。萬葉集卷十(二一四八)、詠鹿鳴、讀人不知に、足日木笶山從來世波左小鹿之妻呼音聞益物乎《アシヒキノヤマヨリキセバサヲシカノツマヨブコエヲキカマシモノヲ》がある。第二句、舊訓ヤマヨリキセバ。神田本ヤマヨリマセバ。六帖、柿本集のは、分かり易いやうに恣に改めたものであらう。
 
       ○
  113 夕影《ゆふかげ》に鳴く茅蜩《ひぐらし》のここばくに日ごとに聞けど飽かぬ君かな
 
 圖書寮本第一に、初句、『夕かけて』、第四・五句、『なけどもあかぬ君にもあるかな』。なほこの歌より直ちに、『なき名のみたつの市とは』の歌につづき、『ますかがみ』の歌で一段落をなしてゐる。圖書寮本第二、第四句以下、『日ごとになけどあかぬ君かも』。類從本、初句、『夕かけて』、第三句以下、『そくはくの日ごとに聞とあかぬ君かも』。鷹司本、此歌缺。六帖に、第二・三句、(149)『きなくひぐらしいくそばく』、結句、『あかぬ聲かな』。萬葉集卷十(二一五七)、詠蝉、讀人不知に、暮影來鳴日晩之幾許毎日聞跡不足音可聞《ユフカゲニキナクヒグラシココダクモヒゴトニキケドアカヌコヱカモ》がある。第三句、舊訓ココダクノ。元暦本に訓の右にイカバカリ。『ここはくに』は、萬葉集卷四(七五一)の幾許久毛。同卷(六六六)の幾許吾者。卷八(一四七五)の幾許戀流などを、ココバクモ、ココバクワレハ、ココバクコフルと訓んだ例に等しいので、これは、卷十七(三九九一)の許己婆久毛見乃佐夜氣吉加《ココバクモミノサヤケキカ》の訓に據つたのであらう。今は多くココダクと訓んでゐること此處(二一五七)に示したごとくである。
 
       ○
  114 秋風の寒く吹くなるわが宿の淺茅《あさぢ》がもとに日ぐらしもなく
 
 圖書寮本第一は、『ますかがみ』の歌で一段落をなし、この歌から、『竹の葉におきゐる露の』の歌まで一群をなし、『ひさかたのあめを見るごと』の歌につづいてゐる。此歌第四句、『あさぢがはらに』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『寒く吹くなべに』、第四句以下、『あさぢがすゑは色づきにけり』。鷹司本、結句、『日ぐらしぞなく』。拾遺集卷十七に、題しらず、人麿として、かく載つてゐる。萬葉集卷十(二一五八)、詠蟋蟀、讀人不知に、秋風之寒吹奈倍吾屋前之淺茅之本蟋蟀鳴毛《アキカゼノサムクフクナベワガヤドノアサヂガモトニコホロギナクモ》がある。結句、舊訓キリギリスナクモ。元暦本ヒグラシナクモ。訓の右に墨でキリギリ(150)スナクィとある。
 
       ○
  115 かげ草の生ひたる宿の夕影に鳴く茅蜩《ひぐらし》はきけど飽かぬかも
 
 圖書寮本第一、此歌無。圖書寮本第二、類從本、第三句、『夕霧に』。鷹司本、此歌無。萬葉集卷十(二一五九)、詠蟋蟀、讀人不知に、影草乃生有屋外之暮陰爾鳴蟋蟀者雖聞不足可聞《カゲクサノオヒタルヤドノユフカゲニナクコホロギハキケドアカヌカモ》がある。『蟋蟀』は舊訓キリギリス。ここは元暦本もキリギリスと訓んでゐる。
 
       ○
  116 神なびの山下とよみ行く川にかはづ鳴くなり秋といはばや
 
 圖書寮本第一、第三句、『行く水に』、結句、『いはんとや』。圖書寮本第二、類從本、第三句、『ゆく水に』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二一六二)、詠蝦、讀人不知に、神名火之山下動去水丹川津鳴成秋登將云鳥屋《カムナビノヤマシタトヨミユクミヅニカハヅナクナリアキトイハムトヤ》がある。
 
       ○
(151)  117 庭草に村雨ふりて日ぐらしの鳴くこゑ聞けば秋は來にけり
 
 圖書寮本第一、結句、『秋づきにけり』。圖書寮本第二、類從本、此歌に同じ。鷹司本、此歌缺。拾遺集卷十七に、題しらず、人麿として、また六帖に、村雨と題し、讀人不知で、かく載つてゐる。萬葉集卷十(二一六〇)、詠蟋蟀、讀人不知に、庭草爾村雨落而蟋蟀之鳴音聞者秋付爾家里《ニハクサニムラサメフリテコホロギノナクコヱキケバアキヅキニケリ》がある。『蟋蟀』は、舊訓キリギリス。元暦本ヒグラシノ。訓の右に墨でキリギリスィ。このあたりのヒグラシは元暦本にさうあるのだから、ただ恣に改めたものではあるまい。
 
       ○
  118 草枕旅に物思ふわがきけばゆふかたかげになく日ぐらしか
 
 圖書寮本第一、第四・五句、『ゆふかたかけてなくかはづかも』。圖書寮本第二、類從本、第三句以下、『わが聞ばゆふかげつ|け《き(類)》て鳴かはづかも』。鷹司本、此歌缺。一本、第四・五句、『夕かけつきてなくかはづかも』とある。六帖に載り、第三句以下、『わが聞くに夕かたかけてなくかはづかも』。萬葉集卷十(二一六三)、詠蝦、讀人不知に、草枕客爾物念吾聞者夕片設而鳴川津可聞《クサマクラタビニモノオモヒワガキケバユフカタマケテナクカハヅカモ》がある。第二句、舊訓タビニモノオモフ。略解タビニモノモヒ。第四句、舊訓ユフカタマケテ。古寫(152)本中(神一訓)ユフカタカケテ。原歌のカハヅは此處ではヒグラシとなつてゐる。
 
       ○
  119 瀬を早み落ちたぎつらし白波《しらなみ》にかはづ鳴くなり朝夕《あさゆふ》ごとに
 
 圖書寮本第一、第二句、『おちたぎるらし』。圖書寮本第二、類從本、春部にあり、初句、『風はやみ』。鷹司本、缺。六帖に載り、第二句、『河落ちたぎつ』。萬葉集卷十(二一六四)、詠蝦、讀人不知に、瀬乎速見落當知足白浪爾川津鳴奈里朝夕毎《セヲハヤミオチタギチタルシラナミニカハヅナクナリアサヨヒゴトニ》がある。第二句、舊訓オチタギチタル。古寫本中(元)オチタキツラシ。結句、舊訓アサヨヒコトニ。古寫本中(元・類・神・京〕アサユフゴトニ。
 
       ○
  120 秋萩に置けるしらつゆ朝な朝な玉とぞ見ゆる置けるしら露
 
 圖書寮本第一、初二句、『わがやどに咲ける秋はぎ』。圖書寮本第二、類從本、第四句、『玉とこそ見れ』。鷹司本、缺。六帖に、家持として斯くある。萬葉集卷十(二一六八)、詠露、讀人不知に、冷芽子丹置白露朝朝珠年曾見流置白露《アキハギニオケルシラツユアサナサナタマトシゾミルオケルシラツユ》がある。第四句、流布本、『珠斗曾見流《タマトゾミユル》』であるが、古寫本(153)中(元・類・神)『斗』が『年』になつてゐるので、今新訓に從つてさうして置いたが、古寫本の訓は皆タマトゾミユルであるから、柿本集のは大方それによつたものであらう。
 
       ○
  121 しら露と秋の花とをこきまぜてわくことかたきわが心かな
 
 一本、第四句、『あくことかたき』。圖書寮本第一、結句、『わがこころかも』。圖書寮本第二、類從本、第四句、『あくことかたき』。鷹司本、此歌に同じ。六帖、讀人不知、『しら露を秋の萩原に』とある。此歌、柿本人丸として新勅撰集卷四に入つた。萬葉集卷十(二一七一)、詠露、讀人不知に、白露與秋芽子者戀亂別事難吾情可聞《シラツユトアキノハギトハコヒミダレワクコトカタキワガココロカモ》がある。第二句、神田本アキノハナトハになつてゐる。
 
       ○
  122 我宿の尾花おしなみ置く露に手《て》ふれ吾妹子散らまくも惜し
 
 圖書寮本第一、結句、『ちらまく惜しも』。圖書寮本第二、此歌に同じ。類從本、第三句、『おく露の』。鷹司本、此歌缺。六帖、讀人不知、下句、『手ふれ我が兄子散らさでも見む』とある。萬(154)葉集卷十(二一七二)、詠露、讀人不知に、吾屋戸之麻花押靡置露爾手觸我妹兒落卷毛將見《ワガヤドノヲバナオシナベオクツユニタフレワギモコチラマクモミム》がある。第二句、舊訓オシナミ。第四句、舊訓テフレ。
 
       ○
  123 このごろの秋風寒し萩が花散らすしらつゆ置きにけらしな
 
 圖書寮本第一、此歌無し。圖書寮本第二、類從本、戀部。第二句、『秋風寒み』、第三句、『萩の花』、結句、『けらしも』。鷹司本、無。六帖、讀人不知、第二句、『秋風寒み』、結句、『おきにけらしも』。新勅撰葉卷四に入り、題しらず、讀人しらず、歌は類從本に同じである。萬葉集卷十(二一七五)、詠露、讀人不知に、日來之秋風寒芽子之花令散白露置爾來下《コノゴロノアキカゼサムシハギガハナチラスシラツユオキニケラシモ》がある。第二句、舊訓アキカゼサムシ。古寫本中(元・類・神)アキカゼサムミ。第三句、舊訓ハギノハナ。
 
       ○
  124 此ごろのあかつき露にわがやどの萩の下葉は色づきにけり
 
 圖書寮本第一、此歌に同。圖書寮本第二、類從本、第二句、『秋風さむみ』。鷹司本、此歌に同。拾遺集卷十七、題しらず、人麿として載つた。六帖、第一・二句、『このごろも曉露に』になつて(155)ゐる。萬葉集卷十(二一八二)、詠黄葉、讀人不知に、比日之曉露丹吾《コノゴロノアカトキツユニわが》屋前《ニハ・ヤド》之芽子乃下葉者色付爾家里《ノハギノシタハハイロヅキニケリ》がある。第二句、舊訓アカツキツユニ。第三句、舊訓ワガヤドノ。童蒙抄ワガニハノ。新訓もそれに從つたので暫くさうして置いた。
 
       ○
  125 雁がねは今はきなきぬわが待ちしもみぢ早つげ待てば苦しも
 
 圖書寮本第一、第四句、『もみぢはやせよ』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『今ぞきな|き《か(類)》ぬ』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二一八三)、詠黄葉、讀人不知に、鴈鳴者今者來鳴沼吾待之黄葉早繼待者辛苦母《カリガネハイマハキナキヌワガマチシモミヂハヤツゲマテバクルツモ》がある。古寫本中、元暦本はナキヌの右に赭でカと書いてあり、類聚古集はイマハキナカヌであるから、類從本のキナカヌは、ただ恣に替へたのではあるまい。
 
       ○
  126 あきさればおく白露にわがやどの淺茅が上葉《うはば》色づきにけり
 
 一本、第四句、『あさぢがうへは』。圖書寮本第一、第四句、『あさぢがうへは』。圖書寮本第二、類從本、第四句、『淺茅がうれは』。鷹司本、初句、『秋なれば』、結句、『淺茅の色は移ろひにけり』。(156)新古今集卷五に、人麿として入つた。家持集に、第四句、『淺茅がうれは』。萬葉集卷十(二一八六)、詠黄葉、讀人不知に、秋去者置白露爾吾門乃淺茅何浦葉色付爾家里《アキサレバオクシラツユニワガカドノアサヂガウラハイロヅキニケリ》がある。第三句、舊訓ワガカドノ。古寫本中(元・類)ワガヤドノ。和歌童蒙抄に、『アキクレバヲクシラツユニワガヤドノアサヂガハラハイロヅキニケリ』とある。
 
       ○
  127 秋風の日ごとに吹けば露おもみ萩のした葉は色づきにけり
 
 流布一本、此歌缺。圖書寮本第一、第三・四句、『みづくきのをかの葛葉は』。圖書寮本第二、類從本、第三句、『つゆかさね』。鷹司本、此歌缺。六帖に、第三・四句、『水莖の岡の木葉も』。萬葉集卷十(二二〇四)、詠黄葉、讀人不知に、秋風之日異吹者露重芽子之下葉者色付來《アキカゼノヒニケニフケバツユシゲミハギノシタハハイロヅキニケリ》がある。第二句、舊訓ヒニケニフケバ。古寫本中(元・類・神)ヒゴトニフケバ。第三句、舊訓ツユヲモミ。古寫本中(元)ツユヲオモミ、(類)ツユシゲミ。また同じく萬葉集卷十(二一九三)、詠黄葉、讀人不知に、秋風之日異吹者水莖能岡之木葉毛色付爾家里《アキカゼノヒニケニフケバミヅクキノヲカノコノハモイロヅキニケリ》がある。第二句、古寫本中(元・類・神)ヒゴトニ。圖書寮本第一は、六帖とともにこの方から來てゐると見るべきである。
 
(157)       ○
  128 ひととせに再びゆかぬ秋山をところにもあらで過しつるかな
 
 圖書寮本第一、第四句、『こゝろにもあらず』。圖書寮本第二、類從本、第四句、『心にあかず』。鷹司本、缺。家持集に、第三句以下、『秋山に心にはあらず暮しつるかな』。萬葉集卷十(二二一八)、詠黄葉、讀人不知、一年二遍不行秋山乎情爾不飽過之鶴鴨《ヒトトセニフタタビユカヌアキヤマヲココロニアカズスグシツルカモ》がある。『ところにもあらで』は『こころにもあかで』の誤寫かも知れない。
 
       ○
  129 かりがねのなきつるなべに唐衣《からころも》たつたの山は色づきにけり
 
 一本、第二句、『鳴にしともに』。圖書寮本第一、第二句、『來鳴きし日より』。圖書寮本第二、類從本には、この歌なく、『かりがねを聞きつるなべに高松ののゝうへの草は|色づきにけり《もみぢはじまる(圖)》』がある。鷹司本、『雁のきなきし日より』。後撰集卷七に、讀人不知、『大和にまかりけるついでに』と題し、結句、『紅葉しにけり』。六帖、第二句、『鳴くなる』、第五句、『紅葉しにけり』。家持集に、第二句、『鳴くなる』、第五句、『紅葉しぬらむ』。玉葉集卷五に、赤人作とし、第二句、『鳴くなる』、(158)第五句、『紅葉しぬらし』。家持集にはなほ、類從本系統の方の 『かりがねを聞きつるなべに高圓の野べの草葉ぞ色づきにける』といふ歌もある。萬葉集卷十(二一九四)、詠黄葉、讀人不知に、鴈鳴乃來鳴之《カリガネノキナキシ》共《ムタニ・ナベニ》韓衣裁田之山者黄始有《カラコロモタツタノヤマハモミヂソメタリ》がある。第二句、舊訓キナキシトモニ。古寫本中(類)キナケルナベニ。類從本系統の方の原歌としては、萬葉集卷十(二一九一)、詠黄葉、讀人不知に、鴈之鳴乎聞鶴奈倍爾高松之野上之草曾色付爾家留《カリガネヲキキツルナヘニタカマトノヌノヘノクサゾイロヅキニケル》がある。第四句、舊訓ノノウヘノクサブ。
 
       ○
  130 さを鹿の妻とふ山の岡べなるわさ田はからじ霜はおくとも
 
 一本、第四・五句、『わさ田はからず霜はふれども』。圖書寮本第一、第二、類從本、同じ。鷹司本、缺。六帖、讀人不知、第二句、『妻まつ山の』。新古今集卷五に、人麿作とし、歌ここと同じ。萬葉集卷十(二二二〇)、詠水田、讀人不知、左小牡鹿之妻喚山之岳邊在早田者不苅霜者雖零《サヲシカノツマヨプヤマノヲカベナルワサダハカラジシモハフルトモ》がある。第二句、舊訓ツマヨブヤマノ。古寫本中(神)ツマトフヤマノ。第四句、舊訓ワサダハカラジ。古寫本中(西・細・温)ワサダハカラズ。結句、舊訓シモハフルトモ。古寫本中(元・類)シモハオクトモ、(神)シモハヲクトモ。家持集(類從本)にも出てゐる。
 
(159)       ○
  131 我宿のまもる田みればさほの内に秋はみつにて思ほゆるかな
 
 一本、第三句、『さ|は《ひイ》のうらに』。圖書寮本第一、此歌無し。圖書寮本第二、下の句缺。類從本、『我宿にまもる田みれど秋の海のうらの秋萩すゝきおもほゆ』。鷹司本、缺。萬葉集卷十(二二二一)、詠水田、讀人不知に、我門爾禁田乎見者沙穗内之秋芽于爲酢寸所念鴨《ワガカドニモルタヲミレバサホノウチノアキハギススキオモホユルカモ》がある。『さほの内に』は書誤であらうが、『澤のうちに』として味つてゐたものか。『秋はみつにて』は難讀であつたためにかうしたものか不明である。類從本もいたく亂れて居り、圖書寮本第二の如きは下の句を書かずに居る。
 
       ○
  132 此宵はさよ更けぬらしかりがねの聞ゆるそらに月たち渡る
 
 圖書寮本第一、『さを鹿の』の前にあり、結句、『月わたる見ゆ』。圖書寮本第二、初句、『このよらは』、結句、『月さえわたる』。類從本、初句、『このよらは』、第四・五句、『空|は《にイ》月|わたるみゆ《たちわたるイ》』。麿司本、缺。萬葉集卷十(二二二四)、詠月、讀人不知に、此夜等者沙夜深去良之鴈鳴乃所聞(160)空從月立度《コノヨラハサヨフケヌラシカリガネノキコユルソラユツキタチワタル》がある。初句、舊訓コノヨラハ。古寫本中(元)コヨヒラ|ノ《ハ》、(類)コヨヒヲバ、(神)コヨヒラハ。第四句、舊訓キコユルソラニ。
 
       ○
  133 我背子がかざしの枝に置く露を清く見せむと月は照るらし
 
 圖書寮本第一、第二句、『さゝのゝはなに』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『かざしの花に』。鷹司本、此歌缺。一本、第二句、『かざしの花に』。又一本、第三句、『をく露の』とある。萬葉集卷十(二二二五)、詠月、讀人不知に、吾背子之挿頭之芽子爾置露乎清見世跡月者照良思《ワガセコガカザシノハギニオクツユヲサヤカニミヨトツキハテルラシ》がある。第四句、舊訓サヤカニミヨト。古寫本中(元・類・神)キヨクミセムト。
 
       ○
  134 おもはずにしぐれの雨は降りたれど天雲はれて月は清きを
 
 圖書寮木第一、第三句、『降りたれば』。圖書寮本第二、類從本、冬部。此歌に同。鷹司本、缺。萬葉集卷十(二二二七)、詠月、讀人不知に、不念爾四具禮乃雨者零有跡天雲霽而月夜清焉《オモハヌニシグレノアメハフリタレドアマグモハレテツクヨサヤケシ》がある。初句、舊訓オモハズニ。結句、舊訓ツキヨキヨキヲ。古寫本中(元)ツキヨサヤケシ。その右に赭(161)く、キヨキヲ。
 
       ○
  135 白露を玉につくれるなが月の有明の月は見れどあかぬかも
 
 圖書寮本第一、第四句、『殘月は』。圖書寮本第二、鷹司本、此歌缺。類從本、『一本所載歌』中にある。六帖に、讀人不知、第二句、『玉になしたる』、第四句、『有明の月よ』。家持集に、第二句、『玉にぬきもて』。萬葉集卷十(二二二九)、詠月、讀人不知に、白露乎玉作有九月在明之月夜雖見不飽可聞《シラツユヲタマニナシタルナガツキノアリアケノツクヨミレドアカヌカモ》がある。第二句、舊訓タマニナシタル。古寫本中(類)タマニツクレル。然るに、校本萬葉集に據れば、神田本には、『作有』の左に、『ツクレル人丸集説』とある。これは、此柿本集に據つて記したものか、或は後に仙覺などの記したものか、識者の増補を待つ。
 
       ○
  136 戀ひつつも稻葉《いなば》かき分け家居れば乏《とも》しくもあらず秋の夕暮
 
 圖書寮本第一、結句、『秋の夕かげ』。圖書寮本第二、類從本、第三句、『我をれば』、結句、『秋の初風』。鷹司本、此歌缺。六帖、讀人不知、第三句、『家居せば』、第四・五句、『乏しくもあら(162)じ秋の夕風』。新續古今集卷五に、柿本人麿として、第三句、『家居して』、結句、『秋の夕風』。萬葉集卷十(二二三〇)、詠風、讀人不知に、戀乍裳稻葉掻別家居者乏不有秋之暮風《コヒツツモイナハカキワケイヘヲレバトモシクモアラズアキノユフカゼ》がある。舊訓イヘヰセバトモシクモアラジ。
 
       ○
  137 萩の花咲きたる野邊は茅蜩《びぐらし》の鳴くなるともに秋かぜぞ吹く
 
 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、第二句、『咲たる野べ|の《はイ》』。初句、類從本『秋の花』は誤寫。鷹司本、缺。萬葉集卷十(二二三一)、詠風、讀人不知に、芽子花咲有野邊日晩之乃
鳴奈流共秋風吹《ハギガハナサキタルヌベニヒグラシノナクナルムタニアキノカゼフク》がある。初句、舊訓ハギノハナ。第二句、奮訓サキタルノベニ。古寫本中(類)サキタルノベノ。第四句、舊訓ナクナルトモニ。代匠記精ナクナルムタニ。結句、舊訓アキカゼノフク。古寫本中(元・類・神・温)アキカゼゾフク。
 
       ○
  138 秋山の木の葉もいまだもみぢねばけさ吹く風は霜きえぬべし
 
 圖書寮本第一、『今はもみぢつゝけさ吹く風に霜おきにけり』。圖書寮本第二、類從本、第三句、(163)『もみぢねど』、結句、『霜もけぬべし』。鷹司本、缺。續後撰集卷七に、題しらず、人丸として、圖書寮本第一と同じになつてゐる。萬葉葉卷十(二二三二)、詠風、讀人不知に、秋山之木葉文未赤者今且吹風者窟毛置應久《アキヤマノコノハモイマダモミヂネバケサフクカゼハシモモオキヌベク》がある。萬葉古寫本中に、モミヂネドといふ訓は無い。
 
       ○
  139 秋田かるひたの庵《いほり》にしぐれ降りわが袖ぬれぬほす人もなし
 
 圖書寮本第一、此歌缺。圖書寮本第二、類從本、初句、『秋田もる』、結句、『ほす人なしに』。鷹司本、此歌缺。六帖、人麿とし、第二句、『旅の空にて』、結句、『乾す人なしに』。新勅撰集卷五に、題しらず、人丸として、初句、『秋田もる』、以下ここと同じになつてゐる。萬葉集卷十(二二三五)、詠雨、讀人不知に、秋田苅客乃廬入爾四具禮零我袖沾干人無二《アキタカルタビノイホリニシグレフリワガゾデヌレヌホスヒトナシニ》がある。第二句、舊訓タヒノイホリこ。古寫本中、神田本ヒタノイホリニとあるから柿本集と同じである。
 
       ○
  140 玉だすきかけぬ時なく我戀ふるしぐれしふらば濡れつつもこむ
 圖書寮本第一、第三句、『我戀ふと』。圖書寮本第二、類從本、『行きつつも見む』(圖)。『わが待(164)ちし時雨しあらば佗つつもゆかん』(類)。六帖、讀人不知、結句、『濡れつつもいかむ』。萬葉集卷十(二二三六)、詠雨、讀人不知に、玉手次不懸時無吾戀此具禮志零者沾乍毛將行《タマダスキカケヌトキナシワガコヒハシグレシフラバヌレツツモユカム》がある。第二・三句、舊訓カケヌトキナシワガコヒハ。古寫本中(元)カケヌトキナクワガコフル。
 
       ○
  141 もみぢ葉を落す時雨の降るなべに夜さへぞ寒き獨しぬれば
 
 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、第三句、『ふるころは』。鷹司本、缺。玉葉集卷六に、題しらず、人麿として載つた。家持集に、第二句、『ちらすしぐれの』。萬葉集卷十(二二三七)、詠雨、讀人不知に、黄葉乎令落四具禮能零苗爾夜副衣寒一之宿者《モミヂバヲチラスシグレノフルナベニヨサヘゾサムキヒトリシヌレバ》がある。第二句、舊訓チラスシグレノ。古寫本中(元・類)オトスシグレノ。第四句、舊訓ヨサヘゾサムキ。古寫本中(類)フスマモサムシ。古義がフスマモサムシ訓を採用してゐる。
 
       ○
  142 たれかれと我をなとひそ長月の時雨《しぐれ》にぬれて君まつわれぞ
 
 圖書寮本第一、同じ。一本、『君まつ我を』。圖書寮本第二、鷹司本。此歌缺。類從木、『一本所(165)載歌』中にある。六帖に載り、結句、『君待つ人を』。玉葉集卷十に、題しらず、人麿として載り、第四句、『露にぬれつつ』。萬葉集卷十(二二四〇)、秋相聞、人麿歌集出に、誰彼我莫問九月露沾乍君待吾《ヌレツツキミマツワレヲ》がある。初句、舊訓タレカレト。古寫本中(類)タレカ|ラ《レ》ニ、(西・細・温)タソカレト等。結句、舊訓キミマツワレヲ。神田本キミマツワレゾ。『露』をば、『時雨』に直したのであらうか。
 
       ○
  143 住吉《すみよし》の岸を田にほりまきしいねの刈る程までもあはぬ君かな
 
 一本、第四・五句、『かるまでいもにあはぬなりけり』。圖書寮本第一、『さきしいねかるまでいもにあはぬなりけり』。圖書寮本第二、類從本、第三・四句、『蒔きし稻かりほすまでも』。鷹司本、缺。拾遺集卷十三に載り、題しらず、人麿。萬葉集卷十(二二四四)、寄水田、讀人不知に、住吉之岸乎田爾墾蒔稻乃而及苅不相公鴨《スミノエノキシヲタニハリマキシイネノシカカルマデニアハヌキミカモ》がある。初句、舊訓スミノエノ。古寫本中(類・神)スミヨシノ。
 
       ○
(166)  144 秋の田のほのかに置ける白露のけぬべく我は思ほゆるかな
 
 圖書寮本第一、第二句、『ほのうへに置ける』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『ほの上に』。一本、第四句、『すきにぬへくも』。拾遺集卷十三に前の歌と共にある。第二句、『ほの上に置ける』。萬葉集卷十(二二四六)、寄水田、讀人不知に、秋田之穗上爾置白露之可消吾者所念鴨《アキノタノホノヘニオケルシラツユノケヌベクワレハオモホユルカモ》がある。第二句、舊訓ホノウヘニオケル。ホノカニは恣に改めたものであらう。
 
       ○
  145 秋の田のかりほにつくり庵《いほり》してひまなく君を見るよしもがな
 
 流布一本に此歌缺。圖書寮本第一、『かりほにいほりつくりしてまなくもいもを』。圖書寮本第二、類從本、『つくる庵してまつらん君を』。鷹司本、缺。萬葉集卷十(二二四八)、寄水田、讀人不知に、秋田※[口+立刀]借廬作五百入爲而有藍君※[口+立刀]將見依毛欲將《アキノタヲカリイホツクリイホリシテアルラムキミヲミムヨシモガモ》がある。初句は、古寫本中(元・類・神)『田』を『山』に作つた。第二句、奮訓カリイホツクリ。古寫本中(元)カリイホニツクリ、(類)カリイホツクリテ、(神)カリホニツクリ。結句、舊訓ミムヨシモガモ。古寫本中(元・類)ミルヨシモガナ。
 
(167)       ○
  146 秋萩の咲きける野邊の夕碁にぬれつつ來ませ夜は更けぬとも
 
 圖書寮本第一、『秋萩のさきちる野べのゆふ霧にぬれてをいませさ夜はふくとも』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『咲きちるのべの夕霧に』。鷹司本、缺。六帖に載り、讀人不知、『咲ける岡べの夕霧に』、『濡れつつもませ』。家持集に載り、『咲出る野邊の夕霧に』。新古今集卷四に載り、題しらず、人麿、『咲き散る野邊の夕露に』。萬葉集卷十(二二五二)、寄露、讀人不知に、秋芽子之開散野邊之暮露爾沾乍來益夜者深去鞆《アキハギノサキチルヌベノユフツユニヌレツツキマセヨハフケヌトモ》がある。
 
       ○
  147 秋萩の技もたわわに置く露の消えもしなましわれ戀ひつつあらば
 
 圖書寮本第一、『きみもしぬべしこひつゝあはずは』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『枝もとをゝに』、結句、『われ』無し。鷹司本、缺。萬葉集卷十(二二五八)、寄露、讀人不知に、秋芽子之枝毛十尾爾置露之消毳死猿戀乍不有者《アキハギノエダモトヲヲニオクツユノケカモシナマシコヒツツアラズハ》がある。第四句、舊訓ケカモシナマシ。古寫本中(元)ケエモシナマシ。六帖に、讀人不知、『秋のほを篠に押なべ置く露の消えもしなまし戀ひつつあらず(168)は』。玉葉集卷十二に、題しらず、家持、『秋の田のしのにおしなみ置く露の消えやしなまし戀ひつつあらずは』とあるのも同じ歌であらうか。
 
       ○
  148 秋萩におとす時雨のふる時は人をおき居て戀ふる夜ぞ多き
 
 圖書寮本第一、『秋萩を』。『ひとりおきゐて』、圖書寮本第二、類從本、上句、『秋萩をお|と《ら(類)》すながめのふるころは』。類從本、下句、『ひとりおきゐて戀ふることおほき』。鷹司本、缺。萬葉集卷十(二二六二)、寄雨、讀人不知に、秋芽子乎令落長雨之零比者一起居而戀夜曾大寸《アキハギヲチラスナガメノフルコロハヒトリオキヰテコフルヨゾオホキ》がある。『時雨』は『長雨』を改めたものであらう。『ひとをおきゐて』は、『ひとりおきゐて』の誤寫に本づいて、斯くなつたものであらう。圖書寮本、類從本に據つてそれを證することが出來る。萬葉元暦本に『人りおきゐて』とあるのも參考すべきである。六帖に、讀人不知で、『秋萩をおとすながめのふるほどはひとり起きゐて戀ふる夜ぞ多き』及び『秋萩を散らすながめの降るなべにひとり起きゐて戀ふる夜ぞ多き』がある。また玉葉集卷十二に、題しらず、人麿として、『秋萩をちらす時雨の降る頃はひとり起きゐて戀ふる夜ぞ多き』となつてゐる。
 
(169)       ○
  149 さを鹿の朝ふすをのの草若み隱れかねてか人に知られぬる
 
 圖書寮本第一、『かくろへかねて人に知らるゝ』。圖書寮本第二、類從本、第四句以下、『かくろひかねて人に知らるな』。鷹司本、缺。新勅撰集卷十二に、題しらず、讀人しらず、第四・五句、『かくろへかねて人にしらるな』として載つた。萬葉集卷十(二二六七)、寄鹿、讀人不知に、左小牡鹿之朝伏小野之草若美隱不得而於人所知名《サヲシカノアサフスヲヌノクサワカミカクロヒカネテヒトニシラユナ》がある。第四句、舊訓カクロヒカネテ。古寫本中(類・神・西・細・温)カクロヘカネテ。結句、舊訓ヒトニシラルナ。類聚古集ヒトニシラルナの右にシレヌルの訓がある。シラユナは略解の訓に從つた。
 
       ○
  150 わが宿に咲ける秋萩散りはてて秋にもあへぬ身とやなりなむ
 
 一本、第三・四句、『ちりはてば秋にもあはぬ』。圖書寮本第一、第二、此歌無し。既出の、『我宿に咲ける秋萩あきならば』と同一に看做して棄てたるか。鷹司本、缺。類從本、『一本所載歌』中にあり、第三句、『ちりはてば』、第四句、『秋にもあはぬ』。萬葉集卷十(二二八六)、寄花、讀(170)人不知に、吾屋戸爾開秋芽子散過而實成及丹於君不相鴨
《ワガヤドニサキシアキハギチリスギテミニナルマデニキミニアハヌカモ》がある。『みになるまでに』のところを、『身とやなりけむ』とし、『君にあはぬかも』のところを、『秋にもあへぬ』とした。第二句は、舊訓サケルアキハギ。古寫本中(類)サキシアキハキ。
 
       ○
  151 秋されば鴈飛び越ゆる立田山立ちても居ても君をこそ思へ
 
 一本、第四句、『立つと居るとに』。圖書寮本第一、第四句、『たつとゐるとに』。圖書寮本第二、類從本、鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二二九四)、寄山、讀人不知に、秋去者鴈飛越龍田山立而毛居而毛君乎思曾念《アキサレバカリトビコユルタツタヤマタチテモヰテモキミヲシゾオモフ》がある。新古今集卷十七に、題しらず、人麿として、第二句、『狩人こゆる』、結句、『ものをしぞ思ふ』となつてゐる。
 
       ○
  152 なにすとか君をいとはむ秋萩のその初花の戀ひしきものを
 
 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、第二句、『妹をいとはん』、結句、『うれしきものを』。鷹司本、此歌缺。六帖に載り、讀人不知、結句、『うれしきものを』。萬葉集卷十(二二七三)、(171)寄花、讀人不知に、何爲等加君乎將厭秋芽子乃其始花之歡寸物乎《ナニストカキミヲイトハムアキハギノソノハツハナノウレシキモノヲ》
 
       ○
  153かりがねの初聲ならで咲きて散る宿の秋萩見にこわがせこ
 
 圖書寮本第一、第二句、『はつ聲ききて』。圖書寮本第二、類從本、第二句以下、『初聲ききて咲きでたるのべの秋はぎ』。鷹司本、此歌缺。六帖に、讀人不知、『初聲聞きてたつ宿の秋萩咲けり』。萬葉集卷十(二二七六)、寄花、讀人不知に、鴈鳴之始音聞而開出有《カリガネノハツコヱキキテサキデタル》屋前《ニハ・ヤド》之秋芽子見來吾世古《ノアキハギミニコアガセコ》がある。『初聲ならで』はさう改めたものである。『散る』もまたさうであつて、古寫本の異訓も、サキイデタルぐらゐで、チルの訓は一つも無い。さういふ點で、類從本の方が原歌に近い。それでも、『屋前《には・やど》』を、『野べ』に變へてゐる。
 
       ○
  154 さを鹿のいる野の薄《すすき》はつ尾ばないつしかいもが手枕にせむ
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、此歌に同じ。鷹司本、此歌缺。新古今集卷四に、人麿として入る。六帖に、人麿として載り、下句、『いつしか君が手枕をせむ』。萬葉集卷十(二二七七)、寄花、(172)讀人不知に、左小牡鹿之入野乃爲酢寸初尾花何時加妹之手將枕《サヲシカノイリヌノススキハツヲハナイヅレノトキカイモガテマカム》がある。『入野』は、舊訓及古寫本イルノ。イリノは考の訓である。第四・五句は、舊訓及古寫本イツシカイモガ・タマクラニセム。イヅレノトキカ・イモガテマカムは代匠記精撰本の訓である。
 
       ○
  155長月を君に戀ひつつ生《い》けらずは咲きて散りにし花ならましを
 
 圖書寮本第一、第四句、『咲きて散りぬる』。圖書寮本第二、類從本、初句、『長き夜を君|に《を(圖)》』。なほ、類從本には、『一本所載歌』に此歌を載せてゐる。鷹司本、此歌缺。一本、第一・二句、『長き夜を君を戀ひつつ』とある。萬葉集卷十(二二八二)、寄花、讀人不知に、長夜乎於君戀乍不生者開而落西花有益乎《ナガキヨヲキミニコヒツツイケラズハサキテチリニシハナナラマシヲ》がある。結句、舊訓ハナニアラマシヲ。古寫本中(元・類・神・細・京)ハナナラマシヲ。『長月』の語は古寫本にも見當らない。ただ、(二三〇〇)に九月之在明能月夜《ナガツキノアリアケノツクヨ》云々がある。
 
       ○
  156 秋の夜の月かも君は雲隱れしばしも見ねばここら戀ひしき
 
(173) 一本、結句、『君ぞ戀しき』。圖書寮本第一、第二句、『つきかも君か』、結句、『こゝらこひしき』、『こひしかるらん』。圖書寮本第二、類從本、結句、『戀しかるらむ《ここもこひしきイ》』。鷹司本、初句、『ながつきの』。拾遺集卷十三に、人麿としてかくある。萬葉集卷十(二二九九)、寄月、讀人不知、秋夜之月疑意君者雲隱須臾不見者幾許戀敷《アキノヨノツキカモキミハクモガクリシマシモミネバココダコヒシキ》がある。『雲隱』『幾許』は、舊訓及古寫本訓クモカクレ。ココラ。
 
       ○
  157 長月の有明の月のありつつも君し來まさばわれ戀ひめやも
 
 一本、結句、『我こひんかも』。圖書寮本第一、結句、『われこひすかも』。圖書寮本第二、類從本、下句、『戀《君(類)》しきまさばわがこひめやも』。鷹司本、『君ををきては待つ人もなし』。拾遺集卷十
三に、題しらず、人麿として載つた。六帖、人麿、結句、『我も忘れじ』。小町集に、下句、『君しもまさば待ちこそはせめ』。萬葉集卷十(二三〇〇)、寄月、讀人不知、九月之在明能月夜有乍毛君之來座者吾將戀八方《ナガツキノアリアケノツクヨアリツツモキミガキマサバワレコヒメヤモ》がある。第二句、舊訓アリアケノツキヨ。古寫本中(元)アリアケノツキノ。第四句、舊訓キミガキマサバ。古寫本中(元・神・西・温)キミシキマサバ。結句、舊訓ワレコヒムヤモ。古寫本中(元・神)ワレコヒメヤハ、(類)ワレコヒムカモ、(細)ワレコヒヌヤモ、(西・温)ワレコヒメヤモ。
 
(174)       ○
  158 祝子《はふりこ》が祝ふ社のもみぢ葉もしめをばこえて散り來るものを
 
 圖書寮本第一、結句、『ちるてふものを』。圖書寮本第二、類從本、題、『たびのうた』。結句、『散といふものを』。鷹司本、結句、『しめなはくちてちるてふものを』。拾遺集卷十七、題しらず、よみ人しらず、結句、『散るといふものを』。六帖に、讀人不知、結句、『散るてふものを』。なほ、六帖には、人まろとして、第一・二句、『い垣して守る社の』、結句、『散るてふものを』となつたのもある。萬葉集卷十(二三〇九)、譬喩歌、讀人不知に、祝部等之齋經社之黄葉毛標繩越而落云物乎《ハフリラガイハフヤシロノモミヂバモシメナハコエテチルトフモノヲ》がある。第四句、舊訓シメナハコエテ。古寫本中(元・神)シメヲバコエテ。結句、舊訓チルテフモノヲ。古寫本中(元・類・古)チルトイフモノヲ。
 
       ○
  159 あしびきの山路も知らず白樫の枝もたわわに雪のふれれば
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、鷹司本、第四句、『枝にも葉にも』。拾遺集卷四、人麿、第四句、『枝にも葉にも』。六帖、作者無。第四句、『枝にも葉にも』。萬葉集卷十(二三一五)、冬和歌、人麿(175)歌集出(或本三方沙彌作)、足引山道不知白杜※[木+戈]枝母等乎乎爾雪落者《アシヒキノヤマヂモシラズシラカシノエダモトヲヲニユキノフレレバ》、或云、枝毛多和多和《エダモタワタワ》がある。歌仙家集本の此歌は、卷上の終の方に(六四番)、『やまのかひそことも見患えず白樫の枝にも葉にも雪のふれれば』と重出したやうにおもへる。併し、『山のかひ』の方は、萬葉集卷十七(三九二四)の、山乃可比曾許登母見延受乎登都日毛昨日毛今日毛由吉能布禮禮婆《ヤマノカヒソコトモミエズヲトツヒモキノフモケフモユキノフレレバ》に本づくだらう。
 
       ○
  160 夜を寒みあさ戸をあけて出でぬれば庭もはだらに雪ふりにけり
 圖書寮本第一、第三句、『けさ見れば』。圖書寮本第二、類從本、鷹司本、此歌缺。六帖に、讀人不知、第三句、『出で見れば』、結句、『雪はふりつつ』。家持集に、第三句、『見わたせば』、結句、『泡雪ぞふる』。續後撰集卷八に、題しらず、人丸、第三句、『けさ見れば』として載つた。萬葉集卷十(二三一八)、詠雪、讀人不知に、夜乎寒三朝戸乎開出見者庭毛薄太良爾三雪落有《ヨヲサムミアサトヲヒラキイデミレバニハモハダラニミユキフリタリ》【一云、庭裳保杼呂爾雪曾零而有《ニハモホドロニユキゾフリタル》】がある。第二句、舊訓アサトヲアケテ。結句、舊訓ミユキフリタリ。類聚古集ユキフリニケリ。
 
       ○
(176)  161 泡雪《あわゆき》はけさはな降りそ白妙《しろたへ》の杣木《そまき》をほさむ人もあらなくに
 
 圖書寮木第一、第四句、『袖まきほさん』。圖書寮本第二、初句、『あわ雪の』、第四・五句、『袖まきほさん妹もあらなくに』。類從本、初句、『淡雪は』、第四・五句、『袖まきほさん妹かあらなくに』。鷹司本、缺。六帖、讀人不知、第四句、『袖まきほさむ』。萬葉集卷十(二三二一)、詠雪、讀人不知に、沫雪者今日者莫零白妙之袖纏將干人毛不有君《アワユキハケフハナフリソシロタヘノソデマキホサムヒトモアラナクニ》がある。ソデマキをソマキとしたものであらう。
 
       ○
  162 たが宿の梅の花ぞもひさかたの清き月夜にのこらざりけり
 
 圖書寮本第一、第二句、『うめの花かも』、結句、『こゝらちりたる』。圖書寮本第二、類從本、春部。結句、『ここらちりくる』。鷹司本、缺。萬葉集卷十(二三二五)、詠花、讀人不知に、誰苑之梅花毛久堅之清月夜爾幾許散來《タガソノノウメノハナゾモヒサカタノキヨキツクヨニココダチリクル》がある。結句、奮訓ココラチリクル。古寫本中(類)ココダフリクル。
 
(177)       ○
  163 梅の花まづ咲く枝を折持ちてつととなづけて袖を見むかも
 
 圖書寮本第一、『たをりもていとゝなつけてよそへ見むかも』。圖書寮本第二、類從本、『手をりもてつととなつけて|よそへてむかも《よそへてもみん(類)》』。鷹司本、缺。一本、第四句、『いとゝなつけく』。萬葉集卷十(二三二六)、詠花一讀人不知に、梅花先開枝手折而者※[果/衣]常名付而與副手六香聞《ウメノハナマヅサクエダヲタヲリテハツトトナヅケテヨソヘテムカモ》がある。ヨソヘテムカモをソデヲミムカモとしたものであらう。この場合は、圖書寮本が正しい。
 
       ○
  164 來て見べき人もあらなくにわが宿の梅の初花散りぬれどよし
 
 圖書寮本第一、鷹司本、同じ。圖書寮本第二、類從本、結句、『ちりぬともよし』。家持集に、結句、『散りぬともよし』。萬葉集卷十(二三二八)、詠花、讀人不知に、來可視人毛不有爾吾家有梅早花落十方吉《キテミベキヒトモアラナクニワギヘナルウメノハツハナチリヌトモヨシ》がある。第三句、舊訓ワギヘナル。古寫本中(元)ワガイヘナル、(温)ワカヘナル等。
 
(178)       ○
  165 泡雪《あわゆき》の降るに消えぬべく思へども逢ふ由もなみ年ぞ經にける
 
 後に諸國の歌の前(二三五番)に、『降る雪の空に消えぬべく思へども逢ふ由もなし年ぞ經にける』があり、重出と認められる。圖書寮本第一、第二句、『降るにけぬべく』。圖書寮本第二、類從本、題、『ゆきにあひきて』。第一・二句、『降《淡イ》雪の空にけぬべし』、第四句、『あふよしをなみ』。鷹司本、缺。一本、結句、『程ぞへにける』。萬葉集卷十(二三二三)、冬相聞、人麿歌集出に、零雪虚空可消雖戀相依無月經在《フルユキノソラニケヌベクコフレドモアフヨシナクテツキゾヘニタル》がある。第四句、舊訓アフヨシヲナミ。類聚古集アフヨシモナク。結句、奮訓ツキゾヘニケル。『虚空』は舊訓ソラ。古寫本中、元暦本『心ニケヌベク』と訓んでゐたのを、墨を以て『心』を消して、その右に『ソラ』と入れてある。柿本集のは、『泡雪の降るに』と直してしまつたものであらう。
 
       ○
  166 あさぎりあひ降來る雪のきえぬとも君には逢はむと我《わが》歸りきたる
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、鷹司本、此歌缺。萬葉集卷十(二三四五)、寄雪、讀人不知に、(179)天霧相零來雪之消友於君合常流經度《アマギラヒフリクルユキノキエヌトモキミニアハムトナガラヘワタル》がある。初句、舊訓アマキリアヒ。古寫本同。第三句、舊訓キユレドモ。古寫本中(元)キエヌトモ。代匠記之を認容した。柿本集のは、ナガラヘワタルを、似た音調のワガカヘリキタルに改めたものである。
 
       ○
  167 わが宿に咲きたる梅を月影に夜な夜な來つつ見む人もがな
 
 圖書寮本第一、第三句、『月きよみ』。圖書寮本第二、類從本、第二句以下、『咲きちる梅を月清みよる/\きつつ』。鷹司本、缺。續古今集卷一に、題しらず、柿本人丸として載つた。家持集に、『我が宿に咲きたる梅を月きよみ夜々見せむ君をこそまて』。六帖に、讀人不知、『わが宿に咲きたる梅の月清み夜な夜な見せむ君をこそまて』。萬葉集卷十(二三四九)、寄花、讀人不知に、吾屋戸爾開有梅乎月夜好美夕夕令見君乎祚待也《ワガヤドニサキタルウメヲツクヨヨミヨヒヨヒミセムキミヲコソマテ》がある。第四句、舊訓ヨナヨナミセム。結句、奮訓キミヲゾマツヤ。古寫本中(元・類・神)キミヲコソマテ。
 
       ○
  168 あしびきの山下風は吹かねども君が來ぬ夜はかねて寒しも
 
(180) 圖書寮本第一、同じ。順序は『わが宿に』の前にある。圖書寮本第二、類從本、戀部にあり。六帖に、人麿、新勅撰集卷十四に、題しらず、柿本人丸として載つた。家持集に、結句、『たもとさむしも』。萬葉集卷十(二三五〇)、寄夜、讀人不知に、足檜木乃山下風波雖不吹君無夕者豫寒毛《アシヒキノヤマノアラシハフカネドモキミナキヨヒハカネテサムシモ》がある。第二句、舊訓ヤマシタカゼハ。考ヤマノアラシハ又はアラシノカゼハ。第四句、舊訓キミナキヨヒハ。古寫本中(元・神)キミガコヌヨハ。
 
       ○
  169 明日よりは若菜摘まむと片岡のあしたのはらはけふぞ燒くめる
 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、春部。初句、『明日からは』。鷹司本、初句、『明日からは』、第二句、『若菜つませむ』。拾遺集卷一に、題しらず、人丸として載り、初句、『あすからは』ともある。萬葉集卷八(一四二七)、山部赤人歌に、從明日者春菜將採跡標之野爾昨日毛今日毛雪波布利管《アスヨリハハルナツマムトシメシヌニキノフモケフモユキハフリツツ》。初句、舊訓アスヨリハ。古寫本中(類)アスカラハ、(京)漢字の左に赭くアスカラハと記す。『春菜』は、舊訓及古寫本訓ワカナ。古今集卷五に、『霧たちて雁ぞなくなる片岡のあしたの原は紅葉しぬらむ』がある。此歌は、拾遺集に據つたことは大體想像せられるが、『片岡の朝の原はけふぞ燒くめる』は何處より來たか、なほ攷ふべきである。
 
(181)       ○
  170 梅の花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれれば
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、鷹司本、此歌に同じ。古今集卷六に、題しらず、讀人不知として載り、『この歌はある人のいはく柿本人麿が歌なり』と注してあり、又拾遺集卷一に、題しらず、柿本人丸として載つたものである。そして、萬葉集卷八(一四二六)、赤人歌に、吾勢子爾令見常念之梅花其十方不所見雪乃零有者《ワガセコニミセムトオモヒシウメノハナソレトモミエズユキノフレレバ》とあるのに本づいたのかも知れない。
 
       ○
  171 わがやどのいけの藤なみ咲きにけり山ほととぎす今や來なかむ
 圖書寮本第一、第二、類從本、結句、『いつか來なかん』。鷹司本、此歌缺。古今集卷三に、題しらず、讀人不知として載り、結句、『いつかきなかむ』、『この歌ある人のいはく柿本人麿がなり』と注してある。また、人麿として、六帖に入つた。萬葉集卷十(一九九一)、寄花、讀人不知、公鳥來鳴動崗部有藤浪見者君者不來登夜《ホトトギスキナキトヨモスヲカベナルフヂナミミニハキミハコジトヤ》。同卷十(一九四〇)、詠鳥、讀人不知、朝霞棚引野邊足檜木乃山霍公鳥何時來將鳴《アサガスミタナビクヌベニアシビキノヤマホトトギスイツカキナカム》。同卷十九(四二一〇)、詠霍公鳥、久米廣繩作、敷治奈美乃志氣里(182)波須疑奴安志比紀乃夜麻保登等藝須奈騰可伎奈賀奴《フヂナミノシゲリハスギヌアシビキノヤマホトトギスナドカキナカヌ》等があるけれども、直接この歌には關係はなく、古今集の歌の左注をその儘採用したものであらう。
 
       ○
      たこの浦にて藤の花を見て思をのぶ
  172 たこの浦の底さへ匂ふ藤浪をかざして往《ゆ》かむ見ぬ人のため
 
 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、初句、『田子の浦』。鷹司本、缺。拾遺集卷二に、『田子の浦の|藤のはなを見侍りて《イ篠花を見て》、柿本人麿』として載つてゐるが、これは萬葉集卷十九(四二〇〇)、内藏忌寸繩麻呂作、多※[示+古]砧乃浦能底左倍爾保布藤奈美乎加射之※[氏/一]將去不見人之爲《タコノウラノソコサヘニホフフヂナミヲカザシテユカムミヌヒトノタメ》に本づくので、實は繩麻呂の作なのである。そこで柿本集は、直接萬葉集に據つたといふよりも、この歌の場合は拾遺集に據つたもののやうである。なほ六帖には、讀人不知で載つてゐる。
 
       ○
  173 ほととぎす鳴くやさつきのみじか夜も獨しぬればあかしかねつも
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、此歌に同じ。鷹司本、缺。拾遺集卷二、題しらず、讀人不知と(183)して載つてゐる。また六帖に載り、讀人不知。赤人集にも載つた。萬葉集卷十(一九八一)、寄鳥、讀人不知に、霍公鳥來鳴五月之短夜毛獨宿者明不得毛《ホトトギスキナクサツキノミジカヨモヒトリシヌレバアカシカネツモ》がある。第二句、古寫本中(元・類・神)ナクヤと訓んだのがある。
 
       ○
  174 年にありて一夜《ひとよ》妹に逢ふ彦星の我にまさりて思ふらむやそ
 
 圖書寮本第一、初句、『年にあひて』、第三句、『天人を』。圖書寮本第二、類從本、初句、『年にあひて』。拾遺集卷三、題しらず、人麿、第三句、『彦星も』、結句、一本、『思らんやは』とある。六帖、讀人不知、第三句、『彦星も』、結句、『思ふらめやは』。萬葉集卷十五(三六五七)、遣新羅使人等が、七夕仰觀天漢各棟所思作歌中、等之爾安里弖比等欲伊母爾安布比故保思母和禮爾麻佐里弖於毛布良米也母《トシニアリテヒトヨイモニアフヒコホシモワレニマサリテオモフラメヤモ》があり、請人不知である。
 
       ○
  175 吾妹子が赤裳ぬらして殖ゑし田を刈りて收めむ倉なしの濱
 
 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、結句、『くらなしの山』。鷹司本、第四句、『かり(184)て收めよ』。拾遺集卷十七に、題しらず、人麿として、第四句、『刈りてをさむる』。六帖第二に、夏の田、人まろ、上句、『濡れつつ植うる田を』。同第三に、濱、人麿、初句、『わが背子が』になつて居る。萬葉集卷九(一七一〇)、吾妹兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅將藏倉無之濱《ワギモコガアカモヒヅチテウヱシタヲカリテヲサメムクラナシノハマ》があり、『或云柿本朝臣人麻呂作』と注されてゐる。『泥塗而』は、舊訓ヒツチテ。古寫本中(藍・壬・古・神)ヌラシテ。
 
       ○
  176 秋風の日ごとに吹けばわが宿のをかの木の葉も色づきにけり
 
 一本、第三句、『久方の』。圖書寮本第一、第三句、『みつくきの』、第四句、『をかの葉は』。圖書寮本第二、類從本、第三句、『みづくきの』。鷹司本、第四句、『岡の葛葉も』。拾遺集卷十七にあり、初句、『秋風し』、第四句、『木の葉は』、題しらず、人麿とある。六帖には、讀人不知、第三句、『みづくきの』になつてゐる。萬葉集卷十(二一九三)、詠黄葉、讀人不知、秋風之日異吹者水莖能岡之木葉毛色付爾家里《アキカゼノヒニケニフケバミヅクキノヲカノコノハモイロヅキニケリ》。第二句、舊訓ヒニケニフケバ。古寫本中(元・類・神)ヒゴトニフケバ。
 
(185)       ○
  177 我背子をわが戀ひ居れば我宿の草さへおもひうらがれにけり
 
 圖書寮本第一、初句、『我妹に』。圖書寮本第二、類從本、戀部。此歌に同じ。拾遺集卷十三に、人麿として載つてゐる。六帖には、作者笠の女郎、初句、『わが背子に』になつてゐる。萬葉集卷十一(二四六五)、寄物陳思、人麿歌集出、我背兒爾吾戀居者吾屋戸之草佐倍思浦乾來《ワガセコニワガコヒヲレバワガヤドノクササヘオモヒウラガレニケリ》がある。
 
       ○
      みかどたつた川のわたりにおはしますみ供につかうまつりて
  178 たつた川もみぢ葉ながる神なびのみむろの山にしぐれ降るらし
 圖書寮本第一、詞書缺。第三句、『神なみの』。圖書寮本第二、類從本、鷹司本、此歌に同じ。圖書寮本第二、類從本には、詞書、『天皇立田川のわたりに行幸ありけるに御供にまゐりて紅葉おもしろかりけるに、天皇御製、立田川紅葉みだれてながるめり渡らばにしき中や絶えなむ、とありけるに』となつてゐる。古今集卷五に、題しらず、讀人不知として入り、『又はあすか川もみぢ葉流る』とも注してある。拾遺集卷四には、『奈良のみかど龍田川に紅葉御覽じに行幸ありける御と(186)もにつかうまつりて、柿本人麿』となつてゐる。また六帖にも人麿として載つた。大和物語にも出てゐる。萬葉集卷十(二一八五)に、大坂乎吾越來者二上爾黄葉流志具禮零乍《オホサカヲワガコエクレバフタカミニモミヂバナガルシグレフリツツ》。同卷(二一九四)に、鴈鳴乃來鳴之共韓衣裁田之山者黄始有《カリガネノキナキシムタニカラゴロモタツタノヤマハモミヂソメタリ》がある。
 
       ○
  179 あはぬよのふる白雪と積りなば我さへ共に消ぬべきものを
 
 圖書寮本第一、結句、『きえぬべきかな』。圖書寮本第二、類從本、戀部。結句、『消ぬべき哉』。鷹司本、此歌に同じ。古今集卷十三、題しらず、讀人不知、『この歌はある人のいはく柿本人麿が歌なり』といふ左注がある。六帖に人麿として載つてゐる。萬葉には類歌が餘り見當らない。卷八(一六六二)に、沫雪之可消物乎至今流經者妹爾相曾《アワユキノケヌベキモノヲイママデニナガラヘヌルハイモニアハムトゾ》。卷十(二三四〇)に、一眼見之人爾戀良久天霧之零來雪之可消所念《ヒトメミシヒトニコフラクアマギラシフリケルユキノケヌベクオモホユ》がある。
 
       ○
  180 あしびきの山下とよみゆく水の時ぞともなく戀ふる我身か
 
 圖書寮本第一、結句、『こひわたるかな』。圖書寮本第二、類從本、戀部。結句、『戀わたるかも』。(187)鷹司本、結句、『戀わたるかな』。拾遺集卷十一、題不知、讀人不知として載り、結句、『戀ひわたるかな』になつてゐる。六帖、讀人不知、結句、『思ほゆるかな』。萬葉集卷十一(二七〇四)、寄物陳思、讀人不知に、惡氷木之山下動逝水之時友無雲戀度鴨《アシヒキノヤマシタトヨミユクミヅノトキトモナクモコヒワタルカモ》がある。第四句、舊訓トキトモナクモ。古寫本中(嘉)トキゾトモナク。
 
       ○
  181 時雨のみめにはふれれば槇《まき》の葉《は》も爭ひかねてもみぢしにけり
 
 圖書寮本第一、初二句、『しぐれの雨まなくしふれば』、結句、『うつろひにけり』。圖書寮本第二、類從本、第一・二句、『時雨の雨まなくし降れば』、結句、『色づきにけり』。鷹司本、缺。新古今集卷六に、題しらず、人麿として載つた。第一・二句、『時雨の雨まなくし降れば』。萬葉集卷十(二一九六)、詠黄葉、讀人不知に、四具禮能雨無間之零者眞木葉毛爭不勝而色付爾家里《シグレノアメマナクシフレバマキノハモアラソヒカネテイロヅキニケリ》がある。六帖に、『しぐれの雨まなくしふれば神なびの森の木葉も色づきにけり』といふのもある。
 
       ○
  182 青柳のかつらぎ山にゐる雲の立ちても居ても君をこそ思へ
 
(188) 圖書寮本第一、初句、『あしひきの』。圖書寮本第二、類從本、戀部。初句、『あしひきの』、結句、『妹をしぞ思ふ』。類從本に初句『青柳のイ』と注す。鷹司本、缺。拾遺集卷十三に、題不知、讀人不知、初句、『あしびきの』。萬葉集卷十一(二四五三)、寄物陳思、人麿歌集出に、春楊葛山發雲立座妹念《ハルヤナギカヅラキヤマニタツクモノクチテモヰテモイモヲシゾオモフ》がある。初句、舊訓ハルヤナギ。古寫本中(嘉・細)アヲヤギノ。結句、舊訓イモヲシゾオモフ。古寫本中(嘉)イモヲコソオモヘ。
 
       ○
  183 みなそこに生ふる玉藻のうち靡き心をよせて戀ふる此ごろ
 
 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、鷹司本、結句、『戀ふるころかな』。拾遺集卷十二題しらず、人丸、結句、『戀ふる頃かな』。六帖に人麿として載る。萬葉集卷十一(二四八二)、寄物陳思、人麿歌集出に、水底生玉藻打靡心依戀比日《ミナソコニオフルタマモノウチナビキココロハヨリテコフルコノゴロ》がある。第四句、舊訓ココロヲヨセテ。
 
       ○
  184 言にいでていはばゆゆしみ山川のたぎつ心をせきぞかねつる
 
(189) 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、『ゆゆし|み《も(類)》朝貌の匂ひらけぬ戀もする哉』。なほ、類從本には、『一本所載歌』中にこの歌を載せてゐる。鷹司本、缺。古今集卷十一、題しらず、讀人しらずに、『足引の山下水のこがくれてたぎつ心をせきぞかねつる』があり、後撰集に、よしの朝臣作として再録、六帖に人麿作とし、第三句、『云はばいみじみ』とある。六帖には別に、古今・後撰と同じものをも、作者源よしの朝臣として載せてゐる。然らばこれは柿本集の歌とは別歌と見るべきか。萬葉集卷十一(二四三二)、寄物陳思、人麿歌集出に、言出云忌忌山川之當都心塞耐在《コトニイデテイハバユユシミヤマカハノタギツココロハセキアヘニタリ》がある。結句、舊訓セキゾカネタル。古寫本中(嘉・類・古)セキゾカネツル。
 
       ○
  185 風吹けば浪立つ岸の松なれやねにあらはれてなきぬべらなり
 
 一本、第二句、『波うつ岸の』。圖書寮本第一、第二、鷹司本、第二句、『なみうつきしの』。類從本、『浪たつ岸の』。古今集卷十三、題しらず、讀人不知、第二句、『浪うつ岸の』、左注に、『この歌は或人のいはく柿本人麿がなり』。六帖、人麿、第二・三句『波こす磯の磯馴松』。
 
       ○
(190)  186 日の曇り雨ふる川のさざら浪まなくも人の戀ひらるるかな
 
 圖書寮本第一、初句、『日ぐらしに』。圖書寮本第二、此歌缺。類從本、『一本所載歌』中にあり、下句、『人を戀わたるかな』。鷹司本、初句、『日ぐらしに』、結句、『君がおもほゆる』。拾遺集卷十五、題しらず、人麿、初句、『かき曇り』。六帖、素性或本、初句、『日暮しの』。萬葉集卷十二(三〇一二)、寄物陳思、讀人不知、登能雲入雨零河之左射禮浪間無毛君者所念鴨《トノグモリアメフルカハノサザレナミマナクモキミハオモホユルカモ》がある。第三句、古寫本中(類・古)サヽラナミ。なほ、後撰集卷十九に、『人毎に今日けふとのみ戀ひらるる都近くもなりにけるかな』がある。
 
       ○
  187 たらちねの親のかふこの繭ごもりいぶせくもあるか妹にあはずて
 
 一本、結句、『君にあはずて』。圖書寮本第一、第二、類從本、此歌に同じ。鷹司本、結句、『妹にあはずして』。拾遺集卷十四、題しらず、人麿とある。六帖に、讀人不知。六帖になほ、作者いへのおとくろまろとして、結句、『妹にまかせて』となつたのもある。萬葉集卷十二(二九九一)、寄物陳思、讀人不知、垂乳根之母我養蠶乃眉隱馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿異母二不相而《タラチネノハハガカフコノマユゴモリイブセクモアルカイモニアハズテ》がある。第二(191)句、舊訓ハハガカフコノ。古寫本中(元・類)オヤノカフコノ、(西)ヲヤガカフコノ、(細)オヤガカフコノ。
 
       ○
  188 戀ひ戀ひて後《のち》に逢はむと慰むる心しなくば生きてあらめや
 
 圖書寮本第一、同じ。圖書寮本第二、類從本、鷹司本、第二句、『のちも逢はむと』。拾遺集卷十四、題しらず、人麿、第二句、『のちもあはむと』、結句、『いのちあらめや』。萬葉集卷十二(二九〇四)、正述心緒、讀人不知、戀戀而後裳將相常名草漏心四無者五十寸手有目八面《コヒコヒテノチモアハムトナグサモルココロシナクバイキテアラメヤモ》がある。第二句、舊訓ノチモアハムト。元暦本ノチニアハムト。第三句、舊訓ナグサムル。
 
       ○
  189 戀するに死ねるものにしあらませば我身は千《ち》たび死にかへらまし
 
 圖書寮本第一、『戀するにしにするものにあらませば我身いくたびしにかへらまし』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『死にするものにし』、第四句、『千たびぞわれは』。鷹司本、『死にするものに』、『いくたび』。拾遺集卷十五、題しらず、人麿として載つてゐる。第二・三・四句、『死に(192)する物にあらませば千たびぞ我は』。六帖に、讀人不知(【或本かさの女郎】)、第四句、『ちたびぞ我は』。萬葉集卷十一(二三九〇)、正述心緒、人麿歌集出に、戀爲死爲物有者我身千遍死反《コヒスルニシニスルモノニアラマセバワガミハチタビシニカヘラマシ》がある。初句、舊訓コヒヲシテ。嘉暦本コヒスルニ。
 
       ○
  190 こひこひて戀ひて死ねとや我妹子が我家《わがや》の門を過ぎてゆきぬる
 
 圖書寮本第一、結句、『過ぎて行くらん』。圖書寮本第二、類從本、初句、『戀ひて死ね』、結句、『過て行くらむ』。鷹司本、『戀ひも死なば戀ひも死ねとや』、結句、『行くらむ』。拾遺集卷十五に、題しらず、人麿として、圖書寮本第二、類從本に同じい。萬葉集卷十一(二四〇一)、正述心緒、人麿歌集出に、戀死戀死哉我妹吾家門過行《コヒシナバコヒモシネトヤワギモコガワギヘノカドヲスギテユクラム》がある。第四句、細井本ワガイヘノカドヲ。
 
       ○
  191 あら磯のほかゆくなみの外心《ほかごころ》われは思はじ戀ひは死ぬとも
 
 圖書寮本第一、鷹司本、同じ。圖書寮本第二、此歌缺。類從本、『一本所載歌』中にある。拾遺集卷十五に、題しらず、人麿としてある。萬葉集卷十一(二四三四)、寄物陳思、人麿歌集出、荒礒(193)越外往波乃外心吾者不思戀而死鞆《アリソコエホカユクナミノホカゴコロワレハオモハジコヒテシヌトモ》がある。初句、舊訓アライソコエ。結句、舊訓コヒテシヌトモ。古寫本中(古)コヒハシヌトモ。
 
       ○
  192 ますらをのうつし心も我はなし夜晝わかず戀ひしわたれば
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、鷹司本、此歌に同じ。六帖に、讀人不知でかく載り、なほ別に、初句、『あらしほの』、第四句、『よるひる人を』となつたものもある。風雅集卷十四に、題しらず、讀人しらず、第四句、『よるひる言はず』とある。萬葉集卷十一(二三七六)、正述心緒、人麿歌集出、健男現心吾無夜晝不云戀度《マスラヲノウツシゴコロモワレハナシヨルヒルトイハズコヒシワタレバ》がある。第四句、舊訓ヨルヒルイハズ。古寫本中(嘉)ヨルヒルイハヌ、(神)ヨルヒルイワヌ。
 
       ○
  193 わびつつも今日は暮しつ霞立つあすの春日をいかで暮さむ
 
 圖書寮本第一、初句、『こひつつも』。圖書寮本第二、類從本、初句、『こひつつも』。拾遺集卷十一に、題しらず、人麿、『戀ひつつもけふは暮しつ霞立つあすの春日をいかで暮さむ』。六帖、(194)『照る日』と『霞』の二つの題に重出し、共に讀人不知、初句、『戀ひつつも』、『照る日』の方は、第三句、『茜さす』になつてゐる。萬葉集卷十(一九一四)、寄霞、讀人不知、戀乍毛今目者暮都霞立明日之春日乎如何將晩《コヒツツモケフハクラシツカスミタツアスノハルヒヲイカニクラサム》。結句、舊訓イカデクラサム。赤人集に、『こひつつもけふは暮しつかすみたつあすの春びをいかでくらさむ』とある。
 
       ○
  194 戀ひつつもけふはありなむ玉櫛笥《たまくしげ》明けなむ明日をいかで暮さむ
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、此歌缺。鷹司本、此歌に同。拾遺集卷十一、題不知、人麿としてある。第四句、『あけむあしたを』。萬葉集卷十二(二八八四)、正述心緒、讀人不知、戀管母今日者在目杼玉※[しんにょう+更]將開明日如何將暮《コヒツツモケフハアラメドタマクシゲアケナムアスヲイカニクラサム》がある。結句、舊訓イカデクラサム。古寫本中(細)イカヾクラサム。
 
       ○
  195 ちはやぶる神の忌垣《いがき》も越えぬべし今は我身の惜しけくもなし
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、同じ。鷹司本、第四句、『今は我名も』。拾遺集卷十四、題しら(195)ず、柿本人麿としてある。六帖に、讀人不知、結句、『惜しからなくに』になつてゐる。萬葉集卷十一(二六六三)、寄物陳思、讀人不知、千葉破神之伊垣毛可越今者吾名之惜無《チハヤブルカミノイガキモコエヌベシイマハワガナノヲシケクモナシ》がある。
 
       ○
  196 山の端《は》にさし入る月のはつはつに妹をぞ見つる戀ひしきまでに
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、第一・二句、『山のはをさし出る月の』。鷹司本、『さしいづる』、第三句、『はつかにし』。六帖、人麿、第二句、『さしいづる』、第四句、『君をぞ』。萬葉集卷十一(二四六二)、寄物陳思、人麿歌集出、山葉進出月端端妹見鶴及戀《ヤマノハニサシイヅルツキノハツハツニイモヲゾミツルコヒシキマデニ》がある。
 
       ○
  197 竹の葉におきゐる露の轉《まろ》びあひてぬる夜はなしにたつ我名《わがな》かな
 
 圖書寮本第一、第四句、『ぬるとはなしに』。圖書寮本第二、類從本、戀の終、『名立ける女』云々の『返し十首』中にある。第二句、『おちゐる露の』、第四句、『ぬるとはなしに』。拾遺集卷十一、題しらず、人麿としてあり、第四句、『ぬるとはなしに』。萬葉集卷十一(二六一五)、正述心緒、讀人不知、敷栲乃枕卷而妹與吾寐夜者無而年曾經來《シキタヘノマクラヲマキテイモトワレトヌルヨハナクテトシゾヘニケル》がある。後撰集卷九に、『逢ふことはいとど雲(196)居の大空に立つ名のみしてやみぬばかりか』、同卷に、『見そめずてあらましものを唐衣立つ名のみしてきるよなきかな』がある。
 
       ○
  198 なき名のみたつの市とは騷げどもいさ又人をうる由もなし
 
 圖書寮本第二同じ。順序は、前の(一一三番)、『夕かけて』の歌につづく。圖書寮本第二、類從本、鷹司本、同じ。拾遺集卷十二、題しらず、人麿として載つてゐる。類似の歌萬葉集にあるか奈何未考である。ただ、卷十一(二七二六)に、風不吹浦爾浪立無名乎吾者負香逢者無二《カゼフカヌウラニナミタチナキナヲモワレハオヘルカアフトハナシニ》があり、また、卷十七(三九三二)に、吉美爾餘里吾名波須泥爾多都多山《キミニヨリワガナハスデニタツタヤマ》がある。併し此歌との直接關係は無い。
 
       ○
  199 なき名のみ立田の山の麓には世にもあらしの風も吹かなむ
 
 圖書寮本第一、初句、『うき名のみ』。圖書寮本第二、類從本、第二・三句、『いはれの池のみぎはかな』。鷹司本、第四句、『世にあらしてふ』。拾遺集卷九に、作者は藤原爲頼として載つてゐる。(197)即ち、人麿とは關係のない歌である。類從本には、なほ、『一本所載歌』中にこの儘入れてゐる。
 
       ○
  200 みな人の笠に縫ふてふ有間菅《ありますげ》ありての後も逢はむとぞ思ふ
 
 圖書寮本第一、第二、類從本、此歌に同じ。鷹司本、第四句、『ありての後は』。拾遺集卷十四、題しらず、人麿として載つてゐる。六帖、讀人不知とし、結句、『あはざらめやは』。萬葉集卷十二(三〇六四)、寄物陳思、讀人不知、人皆之笠爾縫云有間菅在而後爾毛相等曾念《ヒトミナノカサニヌフトフアリマスゲアリテノチニモアハムトゾオモフ》がある。初句、舊訓ヒトミナノ。古寫本中(元・類・古・西)ミナヒトノ。第二句、舊訓カサニヌフテフ。
 
       ○
  201 増鏡手にとり持ちて朝な朝な見れども君に飽くときぞなき
 
 圖書寮本第一、結句、『あふよしぞなき』。圖書寮本第一の歌は、これより以下缺〔七字右○〕。圖書寮本第二、類從本、第四・五句、『見れどもあかぬ君にもあるかな』。鷹司本、結句、『飽くことのなき』。拾遺集卷十四に、題しらず、人麿として載つてゐる。萬葉集卷十一(二五〇二)、寄物陳思、人麿歌集出、眞鏡手取以朝朝雖見君飽事無《マソカガミテニトリモチチアサナサナミレドモキミハアクコトモナシ》がある。初句、古寫本中(嘉・類・古・細)マスカガミ。(198)結句、舊訓キミヲアクコトモナシ。古寫本中(嘉・古)キミガアクコトノナキ、(類)キミヲア|ル《(ク)》コトノナキ。
 
       ○
  202 たまゆらに昨日の暮に見しものを今日のあしたに問ふべきものか
 
 一本、結句、『こふべき物か』。圖書寮本第二、類從本、『けふ|も《の(類〕》あしたにこふべきものか』。鷹司本、初句、『たまくらに』、第四・五句、『今日いつのまにこひしかるらむ』。六帖、人麿、第二句、『昨日のゆふべ』、結句、『戀ふべきものか』。風雅集卷十一に、題しらず、讀人しらず、第二句、『昨日の夕べ』、第四・五句、『今日のあしたは戀ふべきものか』。萬葉集卷十一(二三九一)、正述心緒、人麿歌集出、玉響昨夕見物今朝可戀物《タマユラニキノフノユフベミシモノヲケフノアシタニコフベキモノカ》がある。第四句、奮訓ケフノアシタハ。萬葉にあつて拾遺にない場合である。
 
       ○
  203 かくばかり戀《こひ》しきものを知らせばや外《よそ》に見ゆべくあらましものを
 
 圖書寮本第二、類從本、『戀しきものと知らませばよそにぞ見つつ有け|る《ん(類)》ものを』。鷹司本、同(199)樣。拾遺集卷十四に、題不知、人麿として、『かくばかり戀しきものと知らませばよそに見るべくありけるものを』とあり、萬葉集卷十一(二三七二)、正述心緒、人麿歌集出、是量戀物知者遠可見有物《カクバカリコヒムモノトシシラマセバトホクミツベクアリケルモノヲ》がある。第二句、舊訓コヒシキモノト。第四句、舊訓ヨソニミルベク。
 
       ○
  204 戀ひ死なば戀ひも死ねとか玉桙《たまほこ》のみちゆき人に言傳《ことづて》もなし
 
 圖書寮本第二、類從本、第二句、『戀ひも死ねとや』、結句、『ことづても|なき《なし(類)》』。鷹司本、結句、『なき』。六帖、或本作者人麿、第三句、『戀ひも死ねとや』、結句、『言傳もせぬ』。拾遺集卷十五、題しらず、人麿、『戀ひも死ねとや玉桙の道ゆく人に言傳もな|し《キイ》』。萬葉集卷十一(二三七〇)、正述心緒、人麿歌集出、戀死戀死耶玉桙路行人事告無《コヒシナバコヒモシネトヤタマボコノミチユキビトニコトモツゲナク》がある。結句、舊訓コトモツゲケム(事告兼)。嘉暦本『喜告無』。古寫本中(嘉)コトツケモナシ、(古・細)コトモツゲカネ。
 
       ○
  205 あしびきの山より出づる月待つとひとにはいひて君をこそ待て
 圖書寮本第二、類從本、鷹司本、同じ。拾遺集卷十三、題しらず、人麿。六帖に、讀人不知、(200)『山高み出でずいざよふ月待つと人には言ひて君待つ我ぞ』。萬葉集卷十二(三〇〇二)、寄物陳思、讀人不知、足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシヒキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》がある。結句、奮訓イモマツワレヲ。古寫本中(西)イモヲコソマテ。
 
       ○
  206 あひ見ては幾ひささにもあらねども年月のごと思ほゆるかな
 
 圖書寮本第二、鷹司本、同じ。類從本、第二句、『いく久しさにも』。拾遺集卷十二、題不知、人麿。六帖、人麿。萬葉集卷十一(二五八三)、正述心緒、讀人不知、相見而幾久毛不有爾如年月所思可聞《アヒミテハイクバクヒサモアラナクニトシツキノゴトオモホユルカモ》がある。第二句、舊訓イクヒサシサモ。古寫本中(嘉・細)イクヒサヽニモ。
 
       ○
  207 岩根ふみかさなる山はなけれども逢はぬ日かずを戀ひ渡るかな
 
 鷹司本、これに同じ。圖書寮本第二、類從本、第三句、『へだてねど』、結句、『戀わたるかも』。拾遺集卷十五に、題しらず、坂上郎女として載り、結句、『戀ひやわたらむ』。伊勢物語に載り、『重なる山|にあらねども《はへだてねどイ》逢はぬ日多く』。萬葉集卷十一(二四二二)、寄物陳思、人麿歌集出、石根蹈(201)重成山雖不有不相日數戀度鴨《イハネフミヘナレルヤマハアラネドモアハヌヒマネミコヒワタルカモ》がある。第二句、舊訓カサナルヤマハ。古寫本中(嘉・類・古・細)カサナルヤマニ。第四句、舊訓アハヌヒアマタ。古寫本中(嘉・類・古)アハヌヒカズヲ。アハヌヒマネミは略解の訓に從つた。和歌童蒙抄に、『イハネフミカサナルヤマニアラネトモイハヌヒアマタコヒワタルカモ』となつてゐる。
 
       ○
  208 頼めつつ來ぬ夜あまたになりぬれば待たじと思ふぞ待つに勝《まさ》れる
 
 圖書寮本第二、類從本、鷹司本、同樣。拾遺集卷十三に、題しらず、人麿として載つてゐる。
 
       ○
  209 鳴神のしばしうごきてさし曇り雨も降らなむ君とまるべく
 
 一本、第二句、『しばしは空に』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『しばし|くもりて《は空にイ(類)》』。鷹司本、此歌に同。六帖、人まろ、第一・二句、『鳴神をとよますばかり』、結句、『君を留めむ』。拾遺集卷十三に、題しらず、人麿として、第三句、『空くもり』。萬葉集卷十一(二五一三)、問答、人麿歌集出、雷神小動刺雲雨零耶君將留《ナルカミノシマシトヨミテサシクモリアメノフラバヤキミガトマラム》がある。第二句、舊訓シバシトヨミテ。古寫本中(嘉・(202)細)シバシウゴキテ。第四・五句、舊訓アメノフラバヤキミヤトマラム。古寫本中(嘉)アメモフラナムキミトマルベク、(類・細)アメモフラナムキミヲトドメム、(温・京)アメノフラバヤキミガトマラム。
 
       ○
  210 ぬばたまの今宵《こよひ》なあけそ明けゆかば朝往く君を待つも苦しも
 
 一本、初句、『むば玉の』、第三句、『明ゆけば』。圖書寮本第二、類從本、初句、『むば玉の』、結句、『まつくるしきに』。鷹司本、『今宵はなあけそ』、『まつくるしきに』。拾遺集卷十二に、題しらず、人麿、結句、『待つ苦しきに』『待つが苦しき』として載り、六帖に、『あらたまのこの夜な明けそあかひかるあしたゆく君待てば苦しも』と載つた。萬葉集卷十一(二三八九)、正述心緒、人麿歌集出、烏玉是夜莫明朱引朝行公待苦《ヌバタマノコノヨナアケソアカラヒクアサユクキミヲマタバクルシモ》とある。第二句、舊訓コノヨナアケソ。古寫本中(嘉)コヨヒナアケソ。
 
       ○
  211 ささ浪やしがのからさき來たれども大宮人の船待ちかねつ
 
(203) 前に(五四番)、第三句『行てみれど』としてあり。此處に重出か。圖書寮本第二、類從本、既に出づ。第三句、『さきくあれど』。鷹司本、、既出。第三句これと同じ。萬葉集卷一(三〇)、過近江荒都時柿本朝臣人麿作歌の反歌第一に、樂浪之思賀乃辛碕雖幸有大宮人之船麻知兼津《ササナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤビトノフネマチカネツ》がある。
 
       ○
  212 あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を獨かもねむ
 
 圖書寮本第二、類從本(第三句、『の』脱)、鷹司本、此に同じ。六帖、讀人不知、結句、『わが獨りぬる』。六帖には別に、第一・二句が『にほとりのかけの垂り尾の』となつた歌もある。拾遺集卷十三、題しらず、人麿として載り、萬葉集卷十一(二八〇二或本歌)、寄物陳思、讀人不知、足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃長永夜乎一鴨將宿《アシヒキノヤマドリノヲノシダリヲノナガキナガヨヲヒトリカモネム》がある。第四句、舊訓ナガナガシヨヲ。
 
       ○
  213 ちはやぶる神のたもてる命をもたが爲と思ふ我ならなくに
 
 圖書寮本第二、類從本、第四・五句、『たが《我が(類)》爲にかはながくとおもはむ』。鷹司本、『たれがためにかながくと思はむ』。六帖、第二句以下、『神のたもたるいのちあらば誰がためとかは我は思は(204)む』。拾遺集卷十、題しらず、人麿として載り、『いのちをばたれがためにかながくと思はむ』。萬葉集卷十一(二四一六)、寄物陳思、人麿歌集出、千早振神特在命誰爲長欲爲《チハヤブルカミノモタセルイノチヲバタガタメニカモナガクホリセム》がある。舊訓カミノタモテルイノチヲモタガタメニカハナガクホリ|フ(ス)ル。ナガクホリセムは考の訓に從つた。
 
       ○○
  214 網代木《あじろぎ》の白浪よりてせかませば流るる水ものどけからまし
 
 既出(四十四番)の、『あすかがはしがらみわたしせかませばながるる水ものどけからまし』と類似してゐる。圖書寮本第二、類從本、既出。四十四番に同じ。鷹司本、既出。第一・二句、『あすかがはしらなみたかし』。拾遺集卷八、『あすかの女王ををさむる時よめる、人麿、飛鳥川柵わたしせかませば流るる水ものどけからまし』。六帖、讀人不知、『あすかがは柵かけて』。萬葉集卷二(一九七)、明日香皇女木〓殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌の短歌第一に、明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼爾賀有萬思《アスカガハシガラミワタシセカマセバナガルルミヅモノドニカアラマシ》がある。結句、古寫本中(金・類・古・神)ノドケカラマシ。
 
(205)       ○
  215 白波はたてど衣にかさならす明石も須磨もおのがうらうら
 
 圖書寮本第二、類從本、鷹司本、同樣。拾遺集卷八に、題しらず、人麿として載つてゐる。又榮花物語に、柿本人麿作として出てゐる。
 
       ○
  216 あらちなのかるやのさきに立つ鹿もいとわればかり物は思はじ
 一本、第四句、『いとわがごとに』。圖書寮本第二、類從本、『立つ鹿|の《も(類)》いとわがごとく』。鷹司本、缺。拾遺集卷十五に、題しらず、人麿として載つてゐる。
 
       ○
  217 ほのぼのと明石の浦の朝霧にしまがくれ往く船をしぞ思ふ
 
 圖書寮本第二、缺(?)。類從本、此歌に同。鷹司本、缺。古今集卷九、題しらず、讀人不知、『この歌はある人のいはく柿本人麿がなり』といふ左注がある。六帖に、人麿作として入る。今昔(206)物語では小野篁の作になつて居る。
 
       ○
  218 鳴神の音にのみ聞くまきもくの檜原《ひはら》の山をけふみつるかな
 
 一本、第三句、『卷向の』。圖書寮本第二、類從本、題『山』。此歌に同。鷹司本、缺。拾遺集卷八に、人麿作、『山を詠める』と題して載る。六帖に入り、讀人不知。萬葉集卷七(一〇九二)、詠山、人麿歌集出、動神之音耳聞卷向之檜原山乎今日見鶴鴨《ナルカミノオトノミキキシマキムクノヒハラノヤマヲケフミツルカモ》がある。第二・三句、舊訓オトニノミキクマキモクノ。結句、元暦本ケフミツルカナ。
 
       ○
  219 古にありけむ人もわがごとやみわの檜原にかざしをりけむ
 
 圖書寮本第二、類從本、此歌に同じ。鷹司本、此歌缺。拾遺集卷八、人麿、『詠葉』としてあり、また、人麿として六帖に入る。萬葉集卷七(一一一八)、詠葉、人麿歌集出、古爾有險人母如吾等架彌和乃檜原爾插頭折兼《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカミワノヒハラニカザシヲリケム》がある。第三句、類聚古葉ワガゴトヤ。和歌童蒙抄に、『イニシヘノアリケムヒトモワカコトヤミワノヒハラニカサシヲリケム』。
 
(207)       ○
  220 よそにして雲居に見ゆるいもが家に早くいたらむ歩め黒駒
 
 圖書寮本第二、類從本、初句、『よそにありて』。鷹司本、此歌缺。拾遺集卷十四、『道をまかりてよみ侍りける、人麿』として載り、初句、『よそにありて』。六帖に、同じく作者人麿、初句、『遠くありて』となつて居る。萬葉集卷七(一二七一)、行路、人麿歌集出、遠有而雲居爾所見妹家爾早將至歩黒駒《トホクアリテクモヰニミユルイモガイヘニハヤクイタラムアユメクロコマ》がある。
 
       ○
      猿澤の池に身をなげたるうねべを見て詠める
  221 わぎも子がねくたれ髪をさる澤の池の玉藻と見るぞ悲しき
 
 圖書寮本第二、類從本、詞書『さる澤の池にうねべの身なげたるを』。歌此歌に同じ。鷹司本、缺。この歌、大和物語に出で、拾遺集卷二十に、『さる澤の池に采女の身なげたるを見て、人麿』として載つてゐる。
 
(208)       ○
  222 みなといりの芦分小船さはり多み我思ふ人に逢はぬ頃かな
 
 一本、第四句、『こひしき人に』。圖書寮本第二、類從本、此歌に同じ。拾遺集卷十四、題しらず、人麿としてあり、萬葉集卷十一(二七四五)、寄物陳思、讀人不知、湊入之葦別小舟障多見吾念公爾不相頃者鴨《ミナトイリノアシワケヲブネサハリオホミワガオモフキミニアハヌコロカモ》がある。第四句、古寫本中(古)ワカヲモフ人ニ。
 
       ○
  223 朝霜の消えみ消えずみ思へどもいかでか今宵明しつるかも
 
 圖書寮本第二、此歌に同じ。類從本、第四句、『いかでこよひを』。鷹司本、第三句、『思ひつつ』。一本(【和歌叢書頭注】)、『朝霜の消えみ消ずみ思ひつつまた駒かへし君をこそ見め』とある。萬葉集卷十一(二四五八)、寄物陳思、人麿歌集出、朝霜消消念乍何此夜明鴨《アサシモノケナバケヌベクオモヒツツイカニコノヨヲアカシナムカモ》がある。第四・五句、舊訓イカデコノヨヲアカシナムカモ。古寫本中(嘉・細)イカデカコヨヒアカシツルカモ。
 
       ○
(209)224 みか月のさやけくもあらず雲隱れ見まくぞほしきうたて此頃
 
 圖書寮本第二、類從本、此歌に同じ。鷹司本、上句、『ひさかたのあまてる月もかくれゆく』。拾遺集卷十三、題しらず、人麿としてあり、第二句、『さやかに見えず』。萬葉集卷十一(二四六四)、寄物陳思、人麿歌集出、若月清不見雲隱見欲宇多手比日《ミカヅキノサヤニモミエズクモガクリミマクゾホシキウタテコノゴロ》がある。第二・三句、舊訓サヤカニミエズクモガクレ。結句、舊訓ウタタコノコロ。古寫本中(嘉・類・細)ウタテコノコロ。
 
       ○
  225 まさしてふやその衢《ちまた》に夕占《ゆふけ》とふ占《うら》正にせよいもに逢ふよし
 
 圖書寮本第二、此歌缺。類從本、『一本所載歌』中にあり、結句、『妹にあふべく』。鷹司本、第二句、『やそちまたそち』。拾遺集卷十三、題しらず、人麿、結句、『逢ふべく』。萬葉集卷十一(二五〇六)、寄物陳思、人麿歌集出、事靈八十衢夕占問占正謂殊相依《コトダマノヤソノチマタニユフケトフウラマサニノルイモニアハムヨシ》がある。結句、舊訓イモニアヒヨラム。古寫本中(嘉)イモニアハムヨシ。
 
       ○
(210)  226 空の海に雲のなみ立ち月の船星のはやしに漕ぎかへる見ゆ
 
 一本、第二句、『雲の波たつ』。圖書寮本第二、類從本、題『蒼天』。初句、『あめのうみに』。鷹司本、結句、『こぎかくされぬ』。拾遺集卷八、『詠天、人麿』。六帖、人麿、初句、『天の川』、結句、『こぎかくる見ゆ』。萬葉集卷七(一〇六八)、詠天、人麿歌集出、天海丹雲之波立月船星之林丹※[手偏+旁]隱所見《アメノウミニクモノナミタチツキノフネホシノハヤシニコギカクルミユ》。初句、古寫本中(細)ソラノウミニ、(神)アマノカハがある。和歌童蒙抄に、初句アマノカハ、結句コキカクサレヌと訓んでゐる。
 
       ○
  227 ちちに人はいふとも人はおりつがむわがはた物に白き麻ぎぬ
 
 圖書寮本第二、類從本、『ちゝわくに人はいへどもをりてきむ我はたもの|に《の(類)》』。鷹司本、缺。拾遺集卷八、題しらず、人麿、『ちちわくに人はいふともおりてきむわがはた物に白き麻衣』。六帖、讀人不知、『ちなにはも人はいふともおりつがむわがはたものの』。萬葉集卷七(一二九八)、寄衣、人麿歌集出、干各人雖云織次我二十物白麻衣《カニカクニヒトハイフトモオリツガムワガハタモノノシロアサゴロモ》。初句、舊訓チナニハモ。古寫本中(元・類・古)トニカクニ。第二句、古寫本中(元・古・神)ヒトハイヘドモ。結句、古寫本中(類・古・神)シロ(211)キアサキヌ。
 
       ○
      せんとう歌
  228 ます鏡見しかと思ふ妹に逢はむかも玉の緒の絶えたる思《おもひ》繁きこの頃
 
 圖書寮本第二、類從本、『たえたる戀の』。(【類從本、第四句、タマノヲノノと誤る。】)。拾遺集卷九、柿本人麿、『みしかとぞ思ふ』、『たえたる戀の』。萬葉集卷十一(二三六六)、旋頭歌、古歌集出、眞十鏡見之賀登念妹相可聞玉緒之絶有戀之繁比者《マソカガミミシカトオモフイモニアハヌカモタマノヲノタエタルコヒノシゲキコノゴロ》。初句、古寫本中(嘉・細)マスカヽミ。第三句、舊訓イモニアハムカモ。
 
       ○
  229 夕されば秋風寒しわぎもこがときあらひ衣往きてはやきむ
 
 圖書寮本第二、缺。類從本、此歌に同(第四句、『ときあらひぎぬ』と假名書)。拾遺集卷八、『もろこしへ遣はしける時によめる、人麿』として此歌がある。第二句、『ころもでさむし』。萬葉集卷十五(三六六六)、遣新羅使人等の海邊望月作歌九首中、由布佐禮婆安伎可是左牟思和伎母故(212)我等伎安良比其呂母由伎弖波也伎牟《ユフサレバアキカゼサムシワギモコガトキアラヒゴロモユキテハヤキム》がある。
 
       ○
  230 おほなむちすくなひかみの造れりし妹背の山を見るがうれしさ
 類從本、第二句、『すくなみかみの』、結句、『見るがともしも』。拾遺集卷十、『旅にてよみ侍りける、人麿』、第二句、『すくなみかみの』、結句、『見るぞ嬉しき』とあり、六帖には、人まろ、第二句、『少彦名の作りたる』、結句、『みるはしもよし』になつてゐる。萬葉集卷七(一二四七)、※[覊の馬が奇]旅作、人麿歌集出、大穴道少御神作妹勢能山見吉《オホナムチスクナミカミノツクラシシイモセノヤマヲミラクシヨシモ》がある。結句、舊訓ミレバシヨシモ。古寫本中(神)ミレバウレシキ、(西・細)ミルハシヨシモ。
 
       ○
  231 まきもくの山べ響きて往く水のみなわのごとに世をばわが見る
 一本、第四句、『みつのあはこと』。圖書寮本第二、類從本、鷹司本、此歌缺。拾遺集卷二十に、『めの死に侍りて後かなしびてよめる、人麿』、第四句、『みなわのごとく』として載つてゐる。萬葉集卷七(一二六九)、就所發思、人麿歌集出には、卷向之山邊響而往水之三名沫如世人吾等者《マキムクノヤマベトヨミテユクミヅノミナワノゴトシヨノヒトワレハ》と(213)ある。第二句、舊訓ヤマベヒビキテ。第四句、古寫本中(類・神・細)ミナワノゴトク。
 
       ○
  232 しきたへの袖かへしきみ玉だれのをちに過ぎたる玉もあらむやは
 
 前に(四十三番)、『しきたへの袖かへしてし君やたれのうちのすきを又はあはむや』がある。圖書寮本第二、類從本、既に出づ。『しきたへの袖かへし君たまだれのおちのすきせるきえてあらむやは』。鷹司本、此歌缺。萬葉集卷二(一九五)、柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首并短歌の短歌に、敷妙乃袖易之君玉垂之越野過去亦毛將相八方《シキタヘノソデカヘシキミタマダレノヲチヌニスギヌマタモアハメヤモ》がある。
 
       ○
  233 秋田刈るかりいほつくりわが居れば衣手《ころもで》さむし露ぞ置きける
 
 圖書寮本第二、類從本、鷹司本、此歌缺。新古今集卷五、題しらず、讀人しらず、初句、『秋田もる』として載り、萬葉集卷十(二一七四)、詠露、讀人不知に、秋田苅借廬乎作吾居者衣手寒露置爾家留《アキタカルカリホヲツクリワガヲレバコロモデサムクツユゾオキニケル》がある。第四句、舊訓コロモデサムシ。六帖に、讀人不知、『秋田刈るかりほを見つつこきくれば衣手さむし露おきにけり』といふのもある。家持集に、初句、『秋の田の』とある。
 
(214)       ○
  234 やたの野に淺茅《あさぢ》色づくあらち山峯の泡雪さむくぞあるらし
 
 圖書寮本第二缺(?)。類從本、此歌に同。鷹司本、此歌缺。六帖、讀人不知、初句、『矢田の野の』。新古今集卷六、題しらず、人麿としてあり、萬葉集卷十(二三三一)、詠黄葉、讀人不知に、八田乃野之淺茅色付有乳山峯之沫雪寒零良之《ヤタノヌノアサヂイロヅクアラチヤマミネノアワユキサムクフルラシ》がある。結句、元暦本サムクアルラシ、類聚古集サムクゾアルラシ、神田本サムクゾフルラシ。家持集(類從本)にも出てゐる。
 
       ○
  235 降る雪の空に消えぬべく思へども逢ふ由もなし年ぞ經にける
 
 これは既出(一六五番)の、『あわ雪の降るに消えぬべく思へども逢ふよしもなみ年ぞ經にける』に類似し、重出と謂つていい。一本、第二句、『空に消ぬべく』。圖書寮本第二、類從本、既出。題、『ゆきにあひきて』。第二句、『空にけぬべし』、第四句、『あふよしをなみ』。鷹司本、缺。萬葉集卷十(二三三三)、冬相聞、人麿歌集出に、零雪虚空可消雖戀相依無月經在《フルユキノソラニケヌベクコフレドモアフヨシナクテツキゾヘニタル》がある。第四句、舊訓アフヨシヲナミ。類聚古集アフヨシモナク。結句、舊訓ツキゾヘニケル。
 
(215)       ○
     柿本の人丸、あからさまに京近きところに下りけるを、とく上らむと思ひけれど、いささかに障ることありてえ上らぬに、正月さへ二つありける年にて、いと春ながき心地して、なぐさめがてらに此世にある國々の名を詠みける。これなんゐなかにまかり下り|たり《(一本、たりナシ)》つるて、或やむごとなき所にたてまつりける|と《(一本とナシ)》なむ
 この詞書、圖書寮本第二、類從本には、『柿本人麿……京近き所にしはすの廿余り〔三字右○〕(廿よる〔三字右○〕《(圖)》)くだりけるを……とう〔二字右○〕のぼらむと……正月さへふたつある〔二字右○〕としにていとど……なぐさめかねて〔三字右○〕……國々を〔三字右○〕よみける……まかりたりつるつと〔六字右○〕とて……』云々となつてゐる。なほ、圖書寮本第一には、この國々の歌は全部無い。鷹司本詞書、『人丸、あからさまに、京近きところへしはすの二十よる下りけるに、とく上らむと思ひけれど、いささか障ることありてえ上らぬに、正月さへ二つある年にていと春ながき心地してなぐさめかてら此世にある國々を詠みける、これなんゐなかにまかりたりつるつとゝて或やごとなき所にたてまつりける』とある。
 契沖の河社に、『人まろの集は、ひたぶるに信じがたき物なり。むなしく萬葉集の中より、ぬし(216)しらぬ歌までぬき出たり。六十よこくを、物の名によめる歌は、ことに用るにたらぬものなり。さすがに歌のすがたは、延喜天暦の後の作者のしわざなるべし』といひ、香川景樹の三十六人集解略には、『柿本葉は後人の物せしは本よりの事ながら、いや果にあつめたる國名の歌は承平より天徳あたりにわたれるすがたにて、しかも上手のわざと見ゆめれば、その證とすべき事或はうつし謬まれること、かつがつかい出す』云々とある。
 この詞書に據ると、人麿が京近きところに下つた趣にしてある。また、『正月さへ二つありける』といふのは、正月と閏正月と二つあつた歳といふことである。閏正月といへぼ、文武天皇の慶雲三年か、聖武天皇の神龜二年か、天平十六年か、桓武天皇の延暦元年か、延暦二十年かに當るわけである。そしてこの詞書は後人のいたづらだと看做しても、人麿歿年につき、神龜元年説や、大同二年説は除外していいと思ふし、天平元年説も除外していいとすれば、和銅二年説、慶雲四年説などが殘る。閏正月のあつた慶雲三年ごろは大體人麿は石見に居ただらうと推測していい。併しそれでは、『京近きところ』には該當しない。いづれにしても具合の惡いものであるから、ただ後人のおもひつきとして讀むべきである。
 それから、なぜ、『正月さへ二つありける年にて』などと書いたかといふに、これは、下の『いと春ながき心地して』と聯絡があるのであつて、なほ、古今集の、『ふる年に春立ちける日よめる』(217)とか、後撰集の、『しはすばかりに、大和へ事につきてまかりけるほどに、宿りて侍りける人の家のむすめを思ひかけて侍りけれども、やむことなき事によりてまかりのぼりにけり。あくる春、親の許につかはしける』などといふのと、同一系統に屬する心の使ひ方である。また、當時の人々は、閏月について心が牽かれたらしく、『閏三月盡によみ侍りける』とか、『閏六月七日よめる』とか、あるのによつてそれを知ることが出來る。
 また、國々の名を咏んだのは、萬葉卷十四あたりの影響といふよりも、古今集の物名の歌、大歌所御歌あたりの影響のやうである。
 
   畿内五箇國
 
       ○
     やましろ
  236 うちはへてあな風さむの冬の夜やま白に霜の置けるあさみち
 
 鷹司本に、結句、『ふれる朝道』。『夜やま白に』の『やましろ』と、『山城』と言ひ掛けてゐる。出所不明。古今集卷十九に、『秋の野になまめき立てる女郎花あな〔二字右○〕かしがまし花も一時』。風雅(218)卷十五に、『山さむし秋も暮れぬとつぐるかも槇の葉ごとに置ける朝霜〔五字右○〕』がある。景樹評して、『本末はなれたりと誰もおもふべし。しからず。又朝道めづらし』と云つてゐる。古今和歌六帖、夫木和歌抄に、讀人不知、『朝道のふる道わけてなく鹿の立ち別れにし妻や戀しき』が載つて居る。夫木、第三句、『なくしかは』、結句、『人や戀しき』。古今和歌六帖の『朝道』の語を取つて、この歌を作つたものか、さういふ可能性もある訣である。
 
       ○
     やまと
  237 ふるみちに我《われ》やまどはむ古《いにしへ》の野中《のなか》の草《くさ》もしげりあひにけり
 
 一本、第四句、『草と』。『我やまどはむ』の中に『やまと』を含ませてゐる。これは拾遺集卷七、續古今集卷三に載り、『野中の草は〔右○〕しげり|あひにけり《あひけり(續古今)》』とある。拾遺集にもやはり、物名『やまと』を詠みこんだ歌とし、藤原|輔相《すけみ》の作としてあり、拾遺抄には、清原|元輔《もとすけ》として載つてゐる。續古今集に、『題しらず、柿本人丸』とあるのは、この柿本葉によつたのであらう。群書一覽に、『この歌拾遺抄に元輔とて一首入れたり。されば此の六十六首元輔の歌なるを後の人こと書きをそへて人丸集の中に收めたるなるべし』と説明した。類似の語あるものには、古今集卷二十神あそび(219)の歌に、『神垣の三室の山の榊葉は神のみまへにしげりあひにけり』。拾遺集卷十三に、『み吉野の雪に籠れる山人もふる道とめてんをや鳴くらむ』等がある。
 
       ○
      かうち
  238 朝まだきわがうちこゆる立田山ふかくも見ゆる松のみどりか
 
 『わがうち』の中に、『かうち』(河内)を含ませてゐる。この歌は新後拾遺集卷十に、題不知、人丸として載つたが、結句は『松の色かな』になつてゐる。景樹云。『こは河内をよめる也。假字はかふちなるを、かうちとよめるいかが。是をもて天暦のころより假名のみだれたるをしる。天暦のころかかるを見て、延喜のころもかつがつはたじろぎけん事しらる。然るに誰も和名抄の正しきを見て天暦のころまでは、みだりなることなしといふはあたらず。此頃しか亂れたるによりてこそ和名抄のえらびはおほせごともありつるなめれ。式みだれて延喜式あるたぐひなり』。元輔集に、『増鏡二たび世にやくもるとて塵を出ぬときくは誠か』といふ歌あり、これには結句に『か』があるが、なほ古今集の『か』止めの歌を拾ふと次のごとくである。『留むべき物とはなしにはかなくも散る花毎にたぐふ心か』。『秋風の吹上にたてる白菊は花かあらぬか浪の寄するか』。(220)『刈れる田に生ふるひつぢのほに出でぬはよを今更にあき果てぬとか』。『わがうへに露ぞおくなる天の川とわたる船のかいの雫か』。『老いぬとてなどか我身をせめぎけむ老いずば今日にあはまし物か』。
 
       ○
      いつみ
  239 蜑《あま》ならで海の心を知らぬかないつみてしほにみるめ刈るらむ
 
 『いつ見』と『和泉《いづみ》』と言掛けてゐる。類從本には、第四句、『いつみつしほに』、結句、『からなむ』とある。拾遺集卷十九に、『玉藻かる蜑のゆきがたさす竿の長くや人を恨み渡らむ』がある。
 
       ○
      つのくに
  240 あし鴨の騷ぐ入江のみづならで世に住み難き我身なりけり
 
 『みづ』の『つ』と『津』とに言掛けてゐる。類從本に、第三句、『水の江の』。新古今集卷十八に、題不知、人麿、第三句、『みつのえの』として載つた。契沖云。『これは、新古今雜に、人丸(221)とて入たるは、家集によれるなるべし。つのくにをば、いかにかくせるにか。みづのえといへるは足らず』。古今集卷十一に、『芦鴨のさわぐ入江の白波のしらずや人をかく戀ひむとは』。後撰集卷十九に、『初瀬川渡る瀬さへや濁るらむ世に住み難き我身と思へば』がある。
 
   東海道十五箇國
 
       ○
      いが
  241 散りねともいかでか知らむ山ざくら春の霞の立ちし隱せば
 
 一本、第二句、『いかでかしらなむ』。類從本、題、『伊賀』。『いかで』の『いか』と『伊賀』と言掛けてゐる。續古今集卷二に、『春の歌とて、人丸』として載つた。類似の語のある歌は、古今集卷一に、『山櫻わが見にくれば春霞嶺にもをにもたち隱しつつ』。『誰しかもとめて折りつる春霞立ちかくすらむ山の櫻を』。『散りぬとも香をだに殘せ梅の花戀しき時の思ひ出にせむ』等がある。
 
(222)       ○
      伊勢
  242 二葉より引きこそ植ゑめ見る人の老いせぬ物と松をきくにも
 
 『老いせぬ』の中に、『いせ』(伊勢)を含ませてゐる。新續古今集卷一に、『題しらず、柿本人麿』として載つた。景樹云。『老の假名、おひならざる證とすべし。伊勢をよめる歌なり』。拾遺集卷五に、『二葉より頼もしきかな春日山木高き松の種ぞとおもへば』があり、後撰集卷四に、『二葉よりわがしめゆひし撫子の花の盛りを人に折らすな』がある。
 
       ○
      しま
  243 山がはの石間《いしま》をわけて行く水は深き心もあらじとぞ思ふ
 
 類從本、題『しま|の《イ無》くに』。『いしま』の『しま』と『志摩』と言掛けてゐる。續古今集卷十四に、『題しらず、柿本人丸』として載つてゐる。景樹云。『石走るなど、古へ皆いはばしるとよみていしとはよまずと、ある人のいへるはさることなれど、古今集のいしばしるも後人のさかしら(223)に直したる也とて、いはとのみしひてよまれたるは過たり。ここにいはまといはでいしまとよめり。さらば古今集のころ、いしばしるとよまんこと論あるべからず。この歌は志摩をよめる也』。古今集卷十四に、『石間ゆく水の白浪立返りかくこそは見めあかずもあるかな』がある。
 
       ○
      をはり
  244 春たてばうめの花がさ鶯のなにをはりにて縫ひとどむらむ
 
 『何を針にて』の『をはり』と『尾張』と言掛けてゐる。景樹云。『尾張をよめる也。尾はをのかななることしるべし』。古今集卷二十に、『青柳をかたいとによりて鶯のぬふてふ笠はうめの花がさ』。後撰集卷一に、『春雨の降らば野山に交りなむ梅の花がさありといふなり』がある。
 
       ○
      みかは
  245 あだ人の言《こと》に附くべき我が身かは知らばやよそに戀してふらむ
 
 圖書寮本第二、類從本、鷹司本には、題、『參河』。第四句以下、『知らでや人の戀《こひ》むといふらむ』(224)とある。『我が身かは』の『身かは』と『三河』と言掛けてゐる。後撰集卷八に、『身をわけて霜や置くらむあだ人の言の葉さへに枯れもゆくかな』。古今集卷十一に、『立ち返りあはれとぞおもふよそにても人に心をおきつ白浪』がある。結句の『戀してふらむ』は、類從本の、『戀ひむといふらむ』の方が好いやうだが、後拾遺集卷十一に、『戀してふことを知らでや止みなましつれなき人の無き世なりせば』がある。
 
       ○
      とほたあふみ
  246 ひねもすにとほたあふみに種蒔きて歸る田長《たをさ》は苦しかるらん
 
 『とほたあふみ』と遠た淡海、『遠江』に言掛けてゐる。景樹云。『遠江をとほたあふみといふは、あの字あまりてあやまり成事誰もしれり。このころよりはやく誤れり。されど此歌いかなる意ともたしかにいひがたければ、證とまではなしがたし。もし遠田畔踏《トホタアフミ》か。さらば、に文字ての誤なるべし』。遠江は遠つ淡海の義で、和名抄に止保太阿不三。萬葉集に等保都安布美、又等倍多保美に作つてゐる。拾遺集卷十四に、『根|蓴《ぬなは》の苦しかるらむ人よりも我ぞます田のいけるかひなき』がある。
 
(225)       ○
      するが
  247 ふじのねの絶えぬ思をするからに常磐に燃ゆる身とぞなりぬる
 『するからに』の『するか』と『駿河』と言掛けてゐる。後撰集卷九に、『人こふる涙は春ぞぬるみけるたえぬ思のわかすなるべし』。古今集卷十九長歌に、『富じの根の燃ゆる思ひもあかずして別るる涙』。同じく卷十九に、『ふじのねのならぬ思に燃えば燃え神だに消たぬ空し煙を』。卷十四に、『君といへば見まれ見ずまれ富士の根の珍しげなく燃ゆるわが戀』があり、後撰集卷五に、『明暮し守るたのみをからせつつ袂そほづの身とぞ成ぬる』がある。
 
       ○
      いづ
  248 逢ふ事をいつしかとのみまつしまの變らず人を戀ひ渡るかな
 
 類從本、題『伊豆』。『いつしか』の『いつ』と『伊豆』と言掛けた。また松と待と言掛けた。續古今集卷十二に、『題しらず、柿本人丸』として載つておる。古今集卷四に、『けふよりは今こ(226)む年の昨日をぞいつしかとのみ待渡るべき』。拾遺集卷十一に、『逢ふ事をいつとも知らで君がいはむ常磐の山の松ぞ苦しき』がある。
 
       ○
      かひ
  249 すまの浦に鶴《つる》のかひ子《こ》のある時はこれか千世へむ物とやは見る
 
 類從本、初句、『須磨のうらの』。『卵《かひ》』の『かひ』と『甲斐』と言掛けた。拾遺集卷十八に、『松の苔千年をかけておひ茂れ鶴《つる》のかひこの巣とも見るべく』。後撰集卷十一に、『千代へむと契置きてし姫松のねざしとめてし宿は忘れじ』がある。
 
       ○
      さがみ
  250 足柄のさか見に行かむ玉くしげ箱根の山のあけむあしたに
 
 鷹司本、第四句、『ふたみのうらの』。『坂見に』の『さかみ』と『相模』を言掛けた。拾遺集卷十一に、『戀ひつつもけふはありなむ玉くしげあけむあしたをいかで暮らさむ』。後撰集卷十九に、(227)『足柄の關の山路を行く人は知るも知らぬもうとからぬかな』。千載集卷十八に、『燈して箱根の山に明けにけりふたよりみより逢ふとせしまに』がある。
 
       ○
      むさし
  251 栞《しをり》せむさしてたづねよあしびきの山のをちにてあとはとどめつ
 
 類從本、第二句、『尋に』、結句、『とゞめん』。鷹司本、『たづねん』。『せむさして』の『むさし』を『武藏』とした。景樹云。『六帖に、行かよふ山の細道いかなればしをりも見えで跡はたゆらん。下紐はとけてやつけぬ玉鉾のしをりもしらぬ空にわび(ぶ・た)ればとあると、此歌しをりのふるき證なるべし』。千載集卷六に、『跡も絶えしをりも雪にうづもれてかへる山路に迷ひぬるかな』がある。
 
       ○
      あは
  252 春の田の苗代《なはしろ》どころ作るとてあはけふよりぞせきは始むる
 
(228) 『畔《あ》は』を『安房』とした。類從本、題、『安房』。結句、『せきはじめつる』。鷹司本、『せきはじめける』。景樹云。『こは安房をよめる也。此ころまで畔をばあとのみいひけん。今雅俗ともにあぜといふ。せは今俗に一うねをひとせといふせにてあにへだての意までをそへていふなるべし。せはへだつことなり。馬柵をマセ、關をセキといふ類皆しかり。セキのキは城《キ》なり』。後撰集卷十一に、『小山田の苗代みづは絶えぬとも心のいけのいひは放たじ』がある。『あ』は景樹が云つたごとく『畔』の意であらう。古事記上卷に、『營田之|阿《あ》(畔)』。祝詞大祓に、『畔放《あはなち》』の語がある。
 
       ○
      かむつふさ
  253 とめゆかむ具《つぶさ》に跡は見えずとも鹿《しか》のはかりは知るといふなり
 
 類從本、第二句、『つふさにあはと』。『行かむ具《つぶさ》に』の『かむつふさ』を『上つ總』とした。契沖云。『はかりは、和名集云。續捜神記云、聶支少時家貧。常(ニ)照射。見2一(ノ)白鹿(ヲ)1、射(テ)中(テツ)v之(ヲ)。明晨尋2蹤血(ヲ)1矣。【今按俗云、照射、止毛之。蹤血、波加利】今もゐなかには申す詞にや。肥前の國のものの申たるを、うけたまはりき』。頭註云。『萬葉ニ、イユシシヲトメルカハヘノニコ草ノトヨメルモ、ハカリヲタツネテ、(229)シシヲモトメユクナリ』。景樹云。『かみつふさとのみ今はいへど、かむつふさともいふなるべし』。和名抄に、上總、加三豆不佐とある。
 
       ○
      しもつふさ
  254 梢しもひらけざりけり櫻花しもつふさこそまづは咲きけれ
 
 『下つ房』を『下總』とした。圖書寮本第二、類從本、第二句、『開けざりつる』になつてゐる。景樹云。『下總をよめるなり』。和名抄に、下總、之宅豆不佐とある。『しもつふさ』は、『下つ房』であらう。
 
       ○
      ひたち
  255 いつしかと思ひたちにし春がすみ君が山路にかからざらめや
 
 類從本、第四句、『君がみ山に』。『思ひ立ち』の『ひたち』を『常陸』とした。景樹云。『かかるいつしかのつかひざまを見て、寛治の頃よりいつのまになどやうの意に思ひとりそこなはれけ(230)んかし。これも猶いつしかとまちまちて思ひ立にしといふこころなり』。古今集卷十九に、『思へども猶うとまれぬ春霞かからぬ山のあらじと思へば』がある。
 
  東山道八箇國
 
       ○
      あふみ
  256 流れあふみなとの水のうまければかたへも汐《しほ》はあまきなりけり
 
 圖書寮本第二、第三句、『むもふれば』。類從本、『むしふれば』。類從本、第二句、『みかとの水の』。兩本、第四・五句、『かたへもしもはむまきなりけり』になつて居る。『合ふみなとの』の『あふみ』を『近江』とした。後撰集卷十三に、『たえぬとも何思ひけむ涙川流れあふ瀬もありけるものを』がある。圖書寮本及類從本の第三句不明。
 
       ○
      みの
(231) 257 わたつうみの沖にこち風早からしかのこ斑《まだら》浪たかく見ゆ
 
 類從本、題、『美濃』。圖書寮本第二、第三句、『たかからし』。『わたつ海の』の『みの』を『美濃』にした。景樹云。『こちかぜめづらし』。拾遺集卷十六に、『こち吹かば匂おこせよ梅の花主人なしとて春を忘るな』。後拾遺集卷十九に、『にほひきや都のはなは東路の東風《こち》の返しの風につけしは』があり、伊勢物語に、『時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿子斑《かのこまだら》に雪の降るらむ』。續古今集卷十、家持の歌に、『舟出する沖つ汐さゐ白妙のかしはのわたり波たかく見ゆ』がある。
 
       ○
      ひだ
  258 さして往く三笠の山し遠ければ今日は日たけぬあすぞ到らむ
 
 圖書寮本第二、類從本、題、『飛騨』、第四句、『今は日たけぬ』。『日たけぬ』の『ひた』を『飛騨』にした。後撰集卷十四の問答歌に、『さしてこと思ひしものを三笠山かひなく雨のもりにけるかな』。『もるめのみ數多見ゆれば三笠山しるしる如何さして行くべき』があり、後拾遺集卷四に、『さしてゆく道は忘れて雁がねの聞ゆるかたに心をぞやる』があり、古今集卷八に、『けふ別れあ(232)すはあふみと思へども夜や更けぬらむ袖の露けき』。卷十に、『いささめに時待つ間にぞ日は經ぬる心ばせをば人に見えつつ』がある。
 
       ○
      しなの
  259 あだなりと云ひそめられし濡衣ひしなのみこそ立ち増りけれ
 
 流布本一本、第三句、『ぬれ衣|は〔右○〕、イぬれごろも』。圖書寮本第二、類從本、題、『信濃』。第二句、『いひ|さ〔右○〕められし』、第三句以下、『濡衣|は〔右○〕ひしなのみこそたちまさるらめ〔三字右○〕』となつてゐる。鷹司本、『濡衣の』、『まさるらめ』。『干しなのみこそ』の『しなの』を『信濃』にした。景樹云。『こは信濃をよめり。上の歌は美濃也。此頃濃はのとよみて、みぬしなぬとははやくいはざりし證也。本より古今など野濃の假字のとのみかけれど、是に限らず假字をばちかき世に皆わたくしに引直したれば、その世のままにつたはれるはなし。さればみなまたくはうけられず。梅などみなむめとかけれど、物名にあなうめとあるをもて、たまたまあやまちをしる類ひにて、ひし名のみわたつみのなどかく書まきらはされぬ歌によりてさだむるの外あるべからず。物の名の歌はいとたはれてよからぬ物ながら、いにしへの假字をしるにうへなきたまもの也けり。貫之あるは道風などの(233)眞筆にあるによりてただすをあきらかなりとするもさることなめれど、こと誠にそのぬしたちのかき給へるにや、後の手かきのかきまがへたるにや、おぼつかなき限りはいかにすともまぬがれず。ちかき世にさる人々の眞跡といふものちりほふるを見るに、大かた疑はしき物なり。歌はその世々のさまその人々のすがた外より似すべき術なきものにて塵もまがはぬ千歳の鏡也けり』。古今集卷一に、『仇なりと名にこそ立てれ櫻花年に稀なる人も待ちけり』。卷十三に、『秋の夜も名のみなりけり逢ふといへば事ぞともなく明けぬるものを』。『あふ事は玉の緒ばかり名の立つは吉野の川の瀧つ瀬のごと』。後撰集卷三に、『山櫻咲きぬる時は常よりも峯の白雲立ち増りけり』。なほ、後撰集卷三に、『春くれば咲くてふ事を濡衣にきするばかりの花にぞありける』。拾遺集卷十九に、『天の下遁るるひとの無ければやきてし濡衣ひる由もなき』がある。『ひしな』は『干し名』であらう。
 
       ○
      かむつけ
  260 音に聞くよしのの櫻見に行かむ告げよ山もり花のさかりを
 
 流布本一本、圖書寮本第二、類從本、題、『かんつけ』。『行かむ告げよ』の『かむつけ』を『上(234)野』にした。續千載集卷一に、『題しらず、柿本人丸』として載り、結句、『花のさかりは』。和名抄に、上野、加三豆介乃とある。上毛野を略して上野と書いたものであらう。後撰集卷十五に、『音にきく松が浦島今日ぞ見るむべも心ある蜑はすみけり』。拾遺集卷九に、『音にきく鼓の瀧を打見ればただ山川の鳴るにぞありける』。後撰集卷二に、『山守はいはばいはなむ高砂の尾のへの櫻をりてかざさむ』。拾遺集卷一に、『告げやらむまにも散りなば櫻花僞り人にわれやなりなむ』がある。
 
       ○
      しもつけ
  261 春來ぬと人しもつげず逢坂のゆふつけどりの聲にこそ知れ
 
 類從本、第二句、『つけ|よ〔右○〕』、第四句、『ゆふ付とり|も〔右○〕』とある。『人しも告げず』の『しもつけ』を『下野』にした。續後拾遺集卷一に、『題しらず、柿本人麿』として、この歌仙家集のとほりに載つた。和名抄に、下野、之毛豆介乃とある。古今集卷十一に、『逢坂のゆふつけ鳥もわが如く人や戀しきねのみなくらむ』。卷十三に、『こひこひて稀に今宵ぞ逢坂のゆふつけ鳥は鳴かずもあらなむ』。卷十四に、『相坂のゆふつけ鳥にあらばこそ君がゆききをなくなくも見め』。 なほ卷一に、(235)春來ぬと人はいへども鶯の鳴かぬ限はあらじとぞおもふ』がある。
 
       ○
      むつのくに
  262 いつか生ひむつのくに葦を見る程は難波の浦も名のみとぞ思ふ
 流布本一本、鷹司本、第二句、『つのく|む〔右○〕あしを』。圖書寮本第二、類從本、第四句、『なにはの浦|の〔右○〕』とある。『生ひむ津のくに』の『むつのくに』を『陸奥の國』とした。『津の國葦』であるが、或は『つのくむ』のつもりであつたかも知れぬ。いづれにしても巧ではない。景樹云。『陸奥をよめる也。むつのくともいへりし證也』。和名抄に、陸奥、三知乃於久と注せられてゐる。古今集卷十二に、『津の園の難波の芦のめもはるに繁きわが戀人しるらめや』。後拾遺集卷一に、『難波潟浦ふく風に浪たてばつのぐむ芦の見えみ見えずみ』。拾遺集卷九に、『難波江の芦の花げの離れるは津の國かひの駒にやあるらむ』がある。流布本一本及び鷹司本に、『つのくむ〔二字右○〕葦』とあるから、原本がさうあつただらうといふ推察は無理でないやうである。併しさうすれば、『むつのくに』と合はぬ。山田孝雄博士は、『むつのく』とせば別に不可ではあるまいと云はれた。
 
(236)       ○
      いでは
  263 夕やみはあな覺束な月かげの出でばや花の色もまさらむ
 
 『出でばや』の『いでは』を『出羽』とした。續古今集卷二に、『題しらず、人丸』として載つた。出羽は、和名抄に以天波とあり、出庭の義だらうと云はれてゐる。萬葉集卷四(七〇九)に、『夕やみは道たづたづし月待ちて行かせ吾背子その間にも見む』。後撰集卷十三に、『夕やみは道も見えねど古さとはもとこし駒に任せてぞくる』。古今集卷十九に、『そへにとてとすればかかりかくすればあな云ひしらずあふさきるさに』。後撰集卷二に、『春くれば木隱れ多き夕づく夜覺束なしもはなかげにして』がある。
 
   北陸道 七ケ國(類從本)
 
       ○
      わかさ
(237)  264 春立てばわかさはみづに摘む芹の根深く人を思ひぬるかな
 
 圖書寮本第二、類從本に、第二句、『わかさ|ゝ〔右○〕水に』、結句、『思ひ|け〔右○〕るかな』とある。『わか澤』の『わかさ』を『若狭』とした。拾遺集卷一に、『澤水に蛙なくなり山吹のうつろふかげやそこにみゆらむ』。千載集卷十一に、『いかにせむ御垣が原に摘む芹のねにのみなけどしる人のなき』。萬葉集巻十一(二七六一)に、『奧山の石もと菅の根深くも思ほゆるかも吾が念妻は』がある。萬葉集も千載集もこの歌と直接の關聯を豫想することは無理とおもふが、參考のため抽出して置いた。
 
       ○
      ゑちぜむ
  265 しが山を越えゆく人をつづらつゑちとせまたすときくは誠か
 
 類從本、題、『越前』。『つづら枚《つゑ》ちとせ』から『越前』を導くことは困難であって、誤寫を想像せしめるが、圖書寮本第二、類從本には、第二句以下、『越ゆく人|の〔右○〕つ|く〔右○〕しつゑちせんわたす〔七字右○〕と聞くはまことか』になつてゐる。景樹云。『ゑちぜんをよめる也。ちとせといふ所かきあやまれりとみゆれど、いかにともえおもひよらず。つつらつゑは鞭杖か、つゑのかなの證とすべし』。後の(238)例の如く、肥前をヒゼ、豐前をブゼと云つたとせば、越前をヱチゼと云つて、ち歳の歳《セイ》をセとのみ云つたとも解せられるが、いかにしても無理があるやうである。和名抄には、越前、古之乃三知乃久知と注されてある。大日本國語辭典には、葛杖《つづらつゑ》を藤杖のこととし、『志賀山を越えゆく人はつづらづゑ(つくしィ)ちせんまたずと』として引いてゐるが、未解決である。後撰集卷十七に、『わがためにおきにくかりしはしたかの人の手にありと聞くは誠か』。後拾遺集卷十六に、『生ひ立つをまつとたのめしかひもなく浪こすべしと聞くは誠か』。竹取物語に、『年を經て浪立ちよらぬ住の江の待つかひなしと聞くは誠か』があり、その他『か』止めの歌については、前に『河内』の歌のところにあげた。
 追考。圖書寮本第二、及び類從本には、『越ゆく人のつくしつゑちせ|ん《む》わたすときくはまことか』となつてゐるが、『つくしつゑ』は、『つづらつゑ』の誤だとし、『志賀山を越ゆく人|の〔右○〕葛籠故《つづらつゑ》ちせんわたす〔六字右○〕ときくはまことか』といふ一首に落著《おちつ》くことになると思ふ。そして、『つつらつゑ』は、山越ゆる旅人(修驗者・山人)の用ゐる葛籠《つづら》と杖《つゑ》だと解し、『ちせん』は、『地錢《ぢぜに・ぢぜん》』のことだと解したい。『地錢《ぢぜに》』は、古へ畿内地方で私に鑄た錢で、東大寺文書に、『地ぜにの内』云々とあるのが即ちそれである。私鑄の錢のことが當時の人々に特殊な印象を與へたものと見え、かういふ言ひ方をしたものであらう。以上で、言掛けの、『ゑちせん』(越前)の解釋が出來た。そこで歌(239)仙家集の方の、『ちとせまたす』は誤寫だらうといふことを大體確めることも出來た。
 
       ○
      かが
 266 おのがかくあけけるものを花と云へば一つ匂に思ひけるかな
 
 圖書寮本第二、類從本、題、『加賀』。第一・二句、『おのが香|の〔右○〕あ|り〔右○〕けるものを』、第四句、『一つ匂|と〔右○〕』とあり、なほ鷹司本に『ありけるものを』とあるから、斯く落著く句であらう。『おのがかく』の『かか』を『加賀』とした。古今集卷九に、『夕づく夜覺束なきを玉くしげ二見の浦はあけてこそ見め』があり、卷十六に、『夢とこそいふべかりけれ世中に現あるものと思ひけるかな』がある。『花といへば』のごとき句は、續後拾遺集卷七に、『花といはば熟れか匂なしと見む散りかふ色の異ならなくに』。源氏物語蜻蛉の卷に、『花といへば名こそ仇なれ女郎花なべての露に亂れやはする』があり、共に紫式部の歌である。第一の歌、家集には、初句、『花といへば』、第四句、『ちりまがふ色の』になつてゐる。なほ右京大夫家集に、『花といへばうつろふ色もあだなるを君がにほひは久しかるべし』がある。時代を餘り顧慮せず參考のため書記して置く。
 
(240)       ○
      のと
  267 咲けばかつ散りぬる山の櫻花こころのどかに思ひけるかな
 
 圖書寮本第二、類從本、鷹司本、題、『能登』。第三句、『花さくら』とある。『のどかに』の『のと』を『能登』にした。續後撰集卷三に、『題しらず、人麿』として載つてゐる。古今集卷二に、『空蝉の世にも似たるか花櫻咲くと見しまにかつ散りにけり』。卷六に、『ふる雪はかつぞ消《け》ぬらし足引の山の瀧つ瀬おとまさるなり』があり、後撰集卷九に、『夢にだに見る事ぞなき年を經て心のどかにぬる夜なければ』。拾遺集卷一に、『春はなほわれにてしりぬ花ざかり心のどけき人はあらじな』がある。
 
       ○
      ゑちう
  268 花のすゑちうにまさりて匂せばそれをぞ人は折りてとらまし
 
 『すゑちうに』の『ゑちう』を『越中』とした。景樹云。『越中をよめるなり。ちうには中にとい(241)ふ意なるべし』。和名抄に越中、古之乃三知乃奈加とある。『花のすゑ』の語は、玉葉集、風雅集に見えるが、古今集、後撰集、拾遺集あたりには見えないやうである。また、『ちう』は『中』、『宙』で、あひだ、中間の義で、すゑと對照せしめてゐる。ここは字音その儘用ゐてゐるのは注意すべきである。玉葉集卷十四に、『過ぎにける花の今まで匂せば今日のかざしに先づぞ折らまし』といふ歌がある。
 
       ○
      ゑちご
  269 人に似ずさがなき親の心ゆゑちごさへにくくおもほゆるかな
 
 流布本一本、第四句、『に|つ〔右○〕ゝ』。『心ゆゑちごさへ』の『ゑちご』を『越後』とした。景樹云。『越後也。故の假字ゆゑなる證とすべし』。和名抄に、越後、古之乃美知乃之利とある。『さがなし』は、垂仁紀、推古紀等に不良の文字を當て、神代紀には性惡の文字を當ててゐる。伊勢物語に、『さるさがなきえびす心を見ては』。宇津保物語に、『ゆゆしくさがなき事をしつつ』等の例がある。拾遺集卷十七に、『ここにしも何匂ふらむ女郎花人の物いひさがにくき世に』。『ちご』は、乳兒《ちご》、孩子、赤子、稚兒。和名抄に、『赤子、知古、今案含v乳之義也』とある。『にくく』は憎く(242)の意である。
 
       ○
      さと
  270 東路《あづまぢ》のもろこしさとに織りて裁《た》つ布《ぬの》をや唐《から》の衣《ころも》といはむ
 
 流布本一本、『きぬ〔二字右○〕をや』。圖書寮本第二、鷹司本、『きぬ〔二字右○〕をやからのころも〔三字右○〕といふらむ』。類從本、『きぬ〔二字右○〕をやからのきぬ〔二字右○〕といふらむ』。『里』を『佐渡』とした。『もろこしさと』は、『唐里』で、東國にさういふ物を織る歸化人の一部落があるものの如くに思つたいひあらはし方のやうである。或は『もろこし里』は固有名詞でもあつたのであらうか。『もろこし里』といふ名詞は、『もろこし人』、『もろこし舟』などと同樣な合成名詞である。相模の中郡に高麗寺山があり、諸越《もろこし》原(唐原)があるから、其邊を、『もろこし里』と稱したのであらうと考へることも出來る。
 
   山陰道
 
       ○
(243)      たには
  271 春雨にたには水こそまさるらしたはたたきこえ音高くなる
 
 流布本一本、題、『たは、イたには』。第二句、『はには、イたには』。第四句、『たはたたきこ|ゑ〔右○〕』。圖書寮本第二、類從本、第二句、『よには』、第四句、『たにはたきえは』。鷹司本、第四句、『たには〔二字右○〕たきこえ』になつてゐる。『たには』を『丹波』とした。和名抄に、丹波、太邇波とあり、なほ古書には旦波《タニハ》とも作つてある。和銅六年に丹後と分離した。『たには』は、『田には』であつて、『谷は』ではあるまい。『たはたたきこえ(ゑ)』は、『田は唯聞こえ』か、『田は叩き聲』かであらう。千載集卷一に、『三室山谷にや春の立ちぬらむ雪の下水岩たたくなり』があるから、田に水の増さつた趣を、『田は叩きこゑ』と云つたものかも知れない。若し『たには』は、『谷は』だとすると、第四句も鷹司本に從つて、『たには』を採り、『谷|叩《はた》きごゑ』と解しても解釋の出來ないことはない。此は識者の教を乞ひたい。
 
       ○
      たにご
(244)  たのむべき我だにこころつらからば深き山にも入らむとぞおもふ
 
 『我だに心』の『たにこ』を『丹後』とした。此歌は、流布本にも鷹司本にも缺けて居り、流布本には、山陰道の下に『丹後國不見如何』と注してあるが、今、圖書寮本第二、類從本によつて補つて置いた。和名抄に、丹後、太邇波乃美知乃之利とある。後撰集卷二に、『時しもあれ花の盛につらければ思はぬ山に入りやしなまし』。拾遺集卷十五に、『恨みての後さへ人のつらからば如何に言ひてかねをもなかまし』。後拾遺集卷十二に、『わが心こころにもあらでつらからば夜かれむ床の形見ともせよ』がある。『深き山にも』の句は、他に見あたらぬやうである。萬葉では、山に『深し』とは言つてゐない。後撰集に『山深み』があり、西行あたりになると『深き山』と言つてゐる。『深き山路』といふ句も、古今集、後撰集あたりには見えぬが、新古今集卷十に、『白雲のかかる旅ねもならはぬに深き山路に日はくれにけり』があり、新古今以後の勅撰集には數例見えてゐる。なほ、後撰集卷十に、『足引の山におふてふもろ蔓もろともにこそ入らまほしけれ』があり、玉葉集卷九に、『うちたのむ君が心のつらからば野にも山にも行きかくれなむ』といふのがある。
 
(245)       ○
      たぢま
  272 春がすみ立ちまふ山と見えつるはこのもかのもの櫻なりけり
 
 『立ちまふ』の『たちま』を『但馬』とした。續後撰集卷二に、『題しらず、人丸』として載つた。景樹云。『かのつくば山のこのもかのもは山のあなたおもて山のこなたおもてをいふ事と人もいひ、さもともきこえたれど、此歌によりて思へば、ただ見渡したる山のここかしこ成べし。大井川のみゆきの序なるは河のうへなればここにかかはらず』。新古今集卷五に、『薄霧の立ちまふ山の紅葉はさやかならねどそれと見えけり』。古今集卷二十に、『筑波根のこのもかのもに蔭はあれど君がみ蔭に増すかげはなし』。後撰集卷七に、『山風の吹きのまにまに紅葉はこのもかのもに散りぬべらなり』がある。
 
       ○
      いなば
  273 鶯の聲をほのかにうち啼きていなばいづれの山をたづねむ
 
(246) 類從本、結句、『山に尋む』。『去なば』を『因幡』とした。古今集卷四に、『秋風に聲をほにあげてくる船は天のと渡る雁にぞありける』。濱松中納言物語に、『み吉野の雪の内にも住み佗びぬいづれの山を今は尋ねむ』がある。このあたりの歌は、濫りに句割があり、無理があつて、決して巧ではないことが分かる。
 
       ○
      ははき
  274 山ぎははきよく見ゆれどあまつ空ただよふ雲の月やかくさむ
 
 圖書寮本第二、類從本、初句、『山のはゝ』、第三句、『天の原』。『山ぎは(山のは)はきよく』の『ははき』を『伯耆』とした。續古今集卷四に、『題しらず、柿本人丸』、初句、『山のはは』として載つた。景樹云。『山きはといふは、山のはわたりをいふと見ゆる證とすべし』。和名抄に、伯耆、波々岐とある。『きよく見ゆれど』は他に見あたらず、『ただよふ雲の』の如き用例も、古今・後撰・拾遺あたりには見えない。
 
       ○
(247)      いはみ
  275 よとともに浪なき磯の岩見ればかたへぞ乾く時はありける
 
 類從本、鷹司本、第二句、『浪なれ磯の』とある。『岩見れば』の『いはみ』を『石見』とした。景樹云。『磯はやがて岩のことにて、いといとふるくはさこそのみ見ゆめれ、この時などよりは、さるかたのみにあらざる證とすべし』。古今集卷三に、『夏と秋とゆきかふ空の通路はかたへ涼しき風や吹くらむ』がある。
 
       ○
      おき
  276 草の葉におきゐる露の消えぬ間は玉かと見ゆる事のはかなさ
 
 流布本一本、第二句、『おき|ぬ〔右○〕る露の』。『置き』を『隱岐』とした。新拾遺集卷十に、『題しらず、人丸』として載り、第三句、『消えぬまに』となつて居る。後拾遺集卷十七に、『草の葉に置かぬばかりの露の身はいつ其數に人らむとすらむ』。後撰集卷九に、『夕暮はまつにもかかる白露のおくる朝や消えははつらむ』がある。
 
(248)       ○
      いづも
  277 程もなく今朝ふる雪の朝まだきいつもと云ふは虚言《そらごと》か君
 
 圖書寮本第二、類從本には、初句、『あ〔右○〕ともなく』、第三・四句、『あさまたいつもると聞くは』(鷹司本同)になつてゐる。『何時《いつ》も』を『出雲』とした。拾遺集卷十一に、『程もなく消えぬる雪はかひもなし身をつみてこそ哀と思はめ』。卷三に、『朝まだき嵐の山の寒ければ紅葉の錦きぬ人ぞなき』。卷二十に、『思ふよりいふは愚に成りぬれば譬へていはむ言の葉ぞ無き』があり、萬葉集卷十一(二四六六)に、『淺茅原小野に標結ふ空《ソラ・ムナ》ごとをいかなりと云ひて君をし待たむ』。後撰集卷十六に、『雲居路の遙けき程のそらごとはいかなる風の吹きてつげけむ』がある。
 
   山陽道
 
       ○
      はりま
(249)  278 立ちかはります田の池の浮蓴《うきぬなは》くれども絶えぬ物にぞありける
 
 『かはります田』の『はりま』を『播磨』とした。『來れども』と『繰れども』と言掛け、初句に聯關せしめてゐる。拾遺集卷十二に、『なき事を磐余《いほれ》の池の浮きぬなはくるしき物はよにこそありけれ』。後拾遺集卷十四に、『我戀はますたの池のうきぬなは苦しくてのみ年をふるかな』。卷十八に、『出づる湯のわくに懸れる白絲はくる人絶えぬものにぞありける』がある。
 
       ○
      みまさか
  279 君がみまさがなく常にはなれつつわが花園を踏みしだくめり
 
 流布本一本、圖書寮本第二、類從本、第四句、『我が花その|に〔右○〕』。『御馬《みま》さがなく』の『みまさか』を『美作』とした。後拾遺集卷三に、『夏刈の玉江の芦をふみしだき群れ居る鳥のたつ空ぞなき』があり、催馬樂、竹河に、『竹河の橋のつめなる橋のつめなる花園に花ぞのに我をば放てや我をば放てやめざしたぐへて』がある。
 
(250)       ○
      びぜ
  280 ときは山|二葉《ふたば》の松の年を經てくひぜにならむ年を見てしか
 
 類從本、題、『ひせに』。圖書寮本第二、結句、『ときを見てしな』(類從本同)、『ときをこそまて』。『くひぜ(に)』の『ひせ(に)』を『備前』にした。景樹云。『備前也。くひの假字くゐならざる證也』。和名抄に、備前、岐比乃美知乃久知とある。『くひぜ』は伐株《きりくひ》の事で、和名抄に、株、久比世と注してある。時代は後れるが、散木奇歌集卷九に、『若々となりばえしても見ゆるかなくひぜにもとはまことなりけり』。夫木和歌抄卷十六に、『枯れたてる櫨のくひぜのわかだちに色づくと見し葉さへちりぬる』があり、なほ後撰集卷二十に、『植ゑ置きし二葉の松はありながら君が千歳のなきぞ悲しき』。古今集卷七に、『秋くれど色も變らぬときは山よその紅葉を風ぞかしける』がある。
 
       ○
      びちう
(251)  281 袂《たもと》ひぢうきて身さへぞ流れつるわりなきこひのあはぬ涙に
 
 流布本一本、第四句、『わ|か〔右○〕なき』。圖書寮本第二、『わ|り〔右○〕なき』。類從本、『わ|か〔右○〕なき』。『ひぢ浮きて』の『ひちう』を『備中』とした。和名抄に、備中、吉備乃美知乃奈加とある。古今集卷一に、『袖びぢて結びし水の氷れるを春たつけふの風やとくらむ』。後撰集卷五に、『露かけし袂ほすまもなきものをなど秋風のまだき吹くらむ』。金葉集卷四に、『おとにだに袂をぬらす時雨かな槇の板屋のよるの寐覺に』があり、後撰集卷十二に、『浪の上に跡やはみゆる水鳥の浮きてへぬらむ年は數かは』。卷九に、『思ひだに驗なしてふ我身にぞあはぬ歎きの數はもえける』。古今集卷十四に、『心をぞわりなきものと思ひぬるみる物からや戀しかるべき』がある。
 
       ○
      びご
  282 ひごろ經て見れどもあかぬ櫻花風のさそはむことのねたさよ
 
 『日ごろ』の『ひこ』を『備後』とした。和名抄に、備後、吉備乃美知乃之利とある。後拾遺集卷五に、『見渡せば紅葉しにけり山里はねたくぞ今日は一人きにける』。拾遺集卷一に、『足引の山(252)がくれなる櫻ばな散り殘れりと風に知らるな』がある。風のさそふといふ風の句は、勅撰集では續古今集・新後撰集・新千載集等にある。『みれどもあかぬ』の句は、古今集・後撰集には無く、拾遺集卷三に、『日ぐらしに見れども飽かぬ女郎花野べにや今宵旅寐しなまし』。卷四に、『ひねもすに見れども飽かぬ紅葉はいかなる山の嵐なるらむ』がある。
 
       ○
      あき
  283 鶯のあきてたちぬる花の香をかぜのたよりに我は待つかな
 
 圖書寮本第二、類從本、結句、『しる〔二字右○〕かな』。『あきて』の『あき』を『安藝』とした。『あきて』は『飽きて』であらう。後撰集卷五に、『心ありて鳴きもしつるか蜩の何れも物のあきてうければ』。古今集卷一に、『花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯さそふしるべにはやる』。拾遺集卷二十に、『君まさばまづぞ折らまし櫻花風のたよりに聞くぞかなしき』がある。
 
       ○
      すはう
(253)  284 水鳥のたちゐてさわぐ磯のすは浮べる舟ぞよそに過ぎける
 
 圖書寮本第二、類從本、第三句、『みつのすは』、結句、『うきていにける』。鷹司本、『みづのすは浮べる舟ぞよきていそける』になつて居る。『巣はうかべる』の『すはう』を『周防』とした。景樹云。『周防也。いそのすは磯の洲也。沖つ洲にむかへる名なり』。和名抄に、周防、須波宇とある。拾遺葉卷四に、『水鳥のしたやすからぬ思にはあたりの水も氷らざりけり』。古今集卷十七に、『水の上に浮べる船の君ならばここぞ泊りといはましものを』。後撰集卷十七に、『大井川うかべる舟の篝火にをぐらの山も名のみなりけり』。後撰集卷十五に、『うば玉の今宵ばかりぞあけ衣あけなば人をよそにこそ見め』がある。
 
       ○
      ながと
  285 海の中ときはに入りてかづく蜑《あま》も人にあはびはともしかりけり
 
 圖書寮本第二、第二句、『とにいでいりて』、第四句、類從本共に、『人にはあはび』になつてゐる。『中常磐《なかときは》』の『なかと』を『長門』とした。後撰集卷十二に、『常磐にと頼めし事は待つ程の(254)久しかるべき名にこそありけれ』があるが、『ときはに入りて』の句は素人じみて巧でない。古今集卷十四に、『伊勢の蜑の朝な夕なに潜《かづ》くてふみるめに人をあくよしもがな』。古今集卷十九に、『人にあはむ月のなきには思ひ置きてむね走り火に心やけをり』があるが、『人にあはびは』は俗調甚しいものである。
 
   南海道
 
       ○
      きのくに
  286 淺緑《あさみどり》野邊のあを柳出でて見むいとを吹き來る風はありやと
 
 『吹き』の『き』を『木』とした(木國、紀伊)。新拾遺集卷一に、『題しらず、柿本人丸』として載つてゐる。景樹云。『紀伊也。題にきのくにとはいかでかける』。拾遺集卷一に、『淺緑野べの霞はつつめどもこぼれて匂ふ花ざくらかな』。古今集卷一に、『青柳の糸よりかくる春しもぞ亂れて花のほころびにける』がある。
 
(255)       ○
      あはぢ
  287 わが誓ふことを誠と思はずばあはちはやぶる神に問へきみ
 
 『あはち早振神』の『あはち』を『淡路』とした。『あは』は感動詞である。拾遺集卷六に、『君が世を長月とだに思はずばいかに別れのかなしからまし』。榮花物語に、『住吉の神に問はばや古もかかるみゆきはあらじとぞ思ふ』がある。『あは』につき山田孝雄博士の教をあふいだ。
 
       ○
      あは
 288 木末《こずゑ》のみあはと見えつつ帚木《ははきぎ》の本《もと》をもとより見る人ぞなき
 
 類從本、結句、『し〔右○〕る人ぞなき』。『あはと』の『あは』を『阿波』とした。景樹云。『そのはら伏やのうたによりて、箒木の説委しくのちのものにいはれたるを、いかにぞやおぼえたるに、此歌によりておもへばさること也けんかし。ありとは見えて逢ぬ君哉とよめると時代いくばくもかはりなければ也。又あはとは見つつとありてはきこえず、いかが、聊か書誤あるべし』。大鏡及大(256)和物語にある、『濱千鳥飛び行く限ありければ雲たつ山をあはとこそ見れ』も、源氏物語松風の、『廻來て手に取るばかりさやけきや淡路の島のあはと見し月』も『あは』は此處も感動詞だらうが、『淡と』といふ意味にも使つてゐるやうである。新古今集卷十六の躬恒作、『淡路にてあはと遙かに見し月の近きこよひは所がらかも』もさうであるから、この歌もさう解していいやうである。
 
       ○
      さぬき
  289 我はけさぬぎて歸りぬ唐衣《からごろも》よのまといひしことを忘れず
 
 圖書寮本第二、類從本、第二句、『歸り|つ〔右○〕』、結句、『忘れ|で〔右○〕』。『けさ脱ぎて』の『さぬき』を『讃岐』とした。千載集卷六、相模の歌に、『哀にも暮れゆく年の日數かな歸らむ事は夜のまと思ふに』があつて參考となる。なほ土佐日記に、『白散を或者よのまとて船屋形にはさめりければ』云々とある。夜間、夜中のことである。この歌は表現は巧ではない。『よのまにいひし』ぐらゐのつもりとも思ふが確かではない。古今集卷十、物名に、『我はけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり』がある。
 
(257)       ○
      いよ
  290 はかなしや風にうかべる蜘蛛のいよ心細くも空にわたれる
 
 流布本一本、第四句、『心ほ(そ)く|そ〔右○〕』。類從本、第二句、『風に|ま〔右○〕がへる』、第四句、『心ほそく|て〔右○〕』。『巣《い》よ心細く』の『いよ』を『伊豫』とした。『いよ』は『いや』と同じく愈の意も存するであらう。景樹云。『伊豫也。蛛のゐとはかくべからず、いなる證也』。千載集卷十一に、『はかなしや枕定めぬうたたねにほのかにまよふ夢の通路』。後撰集卷十八に、『風ふけば絶えぬと見ゆる蜘蛛のいも又かきつかでやむとやはきく』。後拾遺集卷十七に、『大空に風まつほどの蜘蛛のいの心細さをおもひやらなむ』がある。
 
       ○
      とさ
  291 湊さる舟こそけさは怪しけれ日たけて風の吹きてかへるに
 
 圖書寮本第二、類從本、第四・五句、『日たけ|ば〔右○〕風のふきてかへ|す〔右○〕に』。『湊さる』の『とさ』を(258)『土佐』とした。拾遺集卷十一に、『湊いづる蜑の小舟のいかりなは苦しきものと戀をしりぬる』。卷十五に、『怪しくもいとふにはゆる心かないかにしてかは思絶ゆべき』がある。
 
   西海道 十一ケ國(類從本)
 
       ○
      ちくぜ
  292 かたみちくせにつくれと言ひ遣らむましき若菜も生ひば摘むべく
 
 圖書寮本第二、類從本、初句、『かたみちち』(鷹司本同)、第三句、『蒔きし』。『片道くせに』の『ちくせ』を『筑前』とした。初句は『かたみち』と訓んでゐるが、『かたつ道とよむか』といふ長連恆氏の説を參考とすべきである。和名抄に、筑前、筑紫乃三知乃久知とある。ゼンを單にゼとしてゐる。『くせ』は久世の地名か。或は『曲』、『癖』の意か。初句、類從本、『片身乳《かたみちち》癖』でもあらうか。『籠《かたみ》』と關係あるか。識者の教を乞ふ。筑後缺如。流布本に、『西海道』の下に『ちくこ不見』、類從本に、この歌の後に、『ちくこ哥本になし』と注してある。
 
(259)       ○
      ひぜ
  293 人を戀ひせめて涙のこぼるればこれたかかたの袖ぞ濡れける
 
 圖書寮本第二、類從本、題、『ひせん』(【流布本一本も同じ】)。第四句、『こなたかなたの』。『戀ひせめて』の『ひせ』を『肥前』とした。續古今集卷十四に載り、『戀の歌の中に、人丸』、第四句、『こなたかなたの』となつてゐる。和名抄に、肥前、比乃三知乃久知とある。後拾遺集卷十一に、『逢ふまでとせめて命のをしければ戀こそ人の命なりけれ』。卷十二に、『恨むとも今は見えじと思ふこそせめてつらさの餘りなりけれ』がある。『たかかた』は播磨の地名であらう。後撰集卷十六に、『物思ふと行きても見ねば高潟《たかかた》の蜑の苫屋は朽ちやしぬらむ』がある。後撰集の歌で見るに、高潟は海濱であるから、そこでこの浦でも、『袖ぞ濡れける』といつたものであらう。
 
       ○
      ひご
  294 誰しかも我を戀ふらむ下紐の結びもあはず解くるひごろは
 
(260) 圖書寮本第二、類從本、第四・五句、『結びもあへず解くる|こ〔右○〕ころは』になつてゐる。『日ごろは』の『ひご』を『肥後』とした。續古今集卷十四に、『題しらず、柿本人丸』として載つた。第四・五句、類從本に同じ。和名抄に、肥後、比乃美知乃之利とある。古今集卷一に、『誰しかもとめて折りつる春霞立ちかくすらむ山の櫻を』。後拾遺集卷十一に、『朽ちにける袖の印は下紐の解くるになどか知らせざりけむ』がある。
 
       ○
      ぶぜ
  295 春の野にきのふうせにしわが駒をいづれの方にさして求めむ
 
 圖書寮本第二、類從本に、題、『ふうせ』とある。『きのふ失せ』の『ふうせ』を『豐前』とした。景樹云。『豐前なり。次の豐後に花にてふここにて常に云々とありて、ぶごとよみたれば、ここもぶぜとのみよむべきを、ぶうぜとあるは、ふの韻脚うなれば、ふうとのばへたるならん。木の國をきい、屠蘇をとおそとのばへし類也。此時まではもとのことわりだにきはめぬれば、心の行にしたがひて、詞をおのがまにまに、のべもつづめもうたへる也けり』。一本題ブゼニ。ブゼンをブゼともブゼニともしてゐたものと思ふ。和名抄に、豐前、止與久邇乃美知乃久知とある。(261)拾遺集卷十の神樂歌に、『わが駒は早く行かなむ朝日子がやへさす岡の玉笹のうへに』。後撰集卷十四に、『もるめのみ數多見ゆれば三笠山しるしる如何さして行くべき』がある。
 
       ○
      ぶご
  296 花に蝶《てふ》ここにて常に睦《むつ》れなむのどけからねば見る人もなし
 
 『蝶《てふ》ここに』の『ふこ』を『豐後』とした。はじめはブゴと言つたのがブウゴとなりブンゴとなつたのであらう。和名抄に、豐後、止與久邇乃美知乃之利とある。拾遺集卷三に、『女郎花匂ふあたりにむつるればあやなく露や心置くらむ』がある。『花に蝶』といふ句といひ、『のどけからねば』といふ句といひ、俗調の甚しきもののごとくである。
 
       ○
      ひうが
  297 あはぬ戀うかりけりとぞ思ひぬる身をば焦せど驗《しるし》なければ
 
 『戀《こ》ひうかり』の『ひうか』を『日向』とした。景樹云。『日向也。いと古へはひむかといひけり。(262)はやく此世のころはひうかとのみいひし證也。是なんやがて上のぶんごをぶうごとかよはせるうらうへなりけり』。後撰集卷十一に、『伊勢の海に汐やく蜑の藤衣なるとはすれどあはぬ君かな』。後拾遺集卷十三に、『來じとだに云はで絶えなばうかりける人の誠をいかで知らまし』。千載集卷三に、『ともしする火串を妻と思へばや逢見て鹿の身を焦すらむ』。後撰集卷十の貫之の歌に、『涙にも思ひのきゆるものならばいとかく胸は焦さざらまし』。卷九に、『消えはててやみぬばかりか年をへて君を思ひの驗なければ』がある。
 
       ○
      おほすみ
  298 わが宿におほすみ山のいかなれば秋を知らずてときはなるらむ
 圖書寮本第二、類從本、初句、『我がやどの』。『おほすみ山』の『おほすみ』を『大隅』とした。『大すみ山』は山城の綴喜郡の大住のことであらうか。ほかのところにも『久世』があつたから、さう解していいやうである。後拾遺集卷五に、『いかなれば同じ時雨に紅葉する柞の森の薄く濃からむ』。古今集卷一に、『常磐なる松のみどりも春くれば今一しほの色まさりけり』。拾遺集卷十八に、『花の色も常磐ならなむなよ竹の長きよに置く露しかからば』がある。
 
(263)       ○
      さつま
  299 春の野の花をくさぐさつまむとてさも筐《かたみ》をもつくりつるかな
 
 『くさ摘まむ』の『さつま』を『薩摩』とした。『かたみ』は『かたま』即ち籠である。風雅集卷十八に、『くさぐさの草木の種と思ひしを潤す雨は一つなりけり』。後拾遺集卷十一に、『逢事はさもこそ人め難からめ心ばかりはとけて見えなむ』。千載集卷十二に、『などやかくさも暮れがたき大空ぞ我待つ事はありと知らずや』がある。拾遺集卷七に、『白露の懸るかやがて消えざらば草葉ぞ玉の櫛笥ならまし』がある。
 
       ○
      ゆき
  300 ゆき通ふ雲井は路も無きものをいかでか雁のまどはざるらむ
 
 圖書寮本第二、類從本、第一・二句、『ゆきかへる雲井に道も』。『ゆき通ふ』の『ゆき』を『壹岐』とした。續千載集卷四に、『題しらず、人麿』として載つた。結句、『迷はざるらむ』。群書一(264)覽に、『丹後筑前の兩國かけたれど、壹岐對馬入りたる故、六十六首となれり。壹岐を假名にてゆきとかけり』。景樹云。『壹岐也。是もいとふるくは伊岐島ともかければ、いきといはん事もとより論なし。壹をゆとはよむべからず。さるを萬葉のころより由吉とかけるよりさのみいひきたりて、此ころもなほゆきといへればぞ此歌はありける。和名抄もおなじ。今はまたいきとのみいひて、ゆきとはいはず。いつよりもとにかへりけんおぼつかなし。是も本《モト》はいきかよふとよみたるにもやあらんともいはるれど、猶さにはあらじかし』。萬葉葉卷十五(三六九四)に、毛奈久由可牟登由吉能安末能保都手乃宇良倣乎《モナクユカムトユキノアマノホツチノウラヘヲ》。同卷(三六九六)に、新羅奇敝可伊敝爾可加反流由吉能之麻由可牟多登伎毛於毛比可禰都母《シラギヘカイヘニカカヘルユキノシマユカムタドキモオモヒカネツモ》等とあり、『由吉《ユキ》』は皆、『壹岐』を示してゐる。なほ、壹岐守《ユキノカミ》板氏安麻呂。壹岐目《ユキノフミビト》村氏彼方。到2壹岐島《ユキノシマ》1雪連宅滿忽遇2鬼病1等の例があり、『壹』をユと訓んでゐる。これは、漢次音、ユだからである。『壹』のイツは阿《あ》行の伊《イ》でなくて、也《や》行の以《イ》であるから、由《ユ》となるのである。これは太田全齋の解説である。『愚案。是ニテ影母第四等の耶行ナルヲ證(ス)ベシ』(漢呉音徴)。後撰集卷十九に、『我をのみ思ひつるがの越ならば歸るの山はまどはざらまし』。拾遺集卷七に、『水もなく舟も通はぬ此島にいかでか海士のながめかるらむ』がある。
 
       ○
(265)      つしま
  301 山川に水しまさらば水上《みなかみ》につもる木の葉はおとしはつらむ
 
 類從本、初句、『山きはに』。『水し増らば』の『つしま』を『對馬』とした。新後拾遺集卷八に人丸作として入つた。初句、『山川の』。金葉集卷三に、『歸るさは淺瀬も知らじ天の河あかぬ涙に水しまさらば』。後拾遺集卷五に、『水上に紅葉ながれて大井川むらごに見ゆる瀧の白絲』がある。
 
 右で大體の考を了へた。ついでに對馬に關係ある歌は、萬葉卷一から見當るから、參考のためその數首を記し置かうとおもふ。
     三野連名闕入唐時春日藏首老作歌
   在根良對馬乃渡渡中爾幣取向而早還許年《アリネヨシツシマノワタリワタナカニヌサトリムケテハヤカヘリコネ》 (卷一、六二)
     到2對馬島淺茅浦1、舶泊之時、不v得2順風1、經停五箇日、於是瞻2望物華1各陳2慟心1作歌
   毛母布禰乃波都流對馬能安佐治山志具禮能安米爾毛美多比爾家里《モモフネノハツルツシマノアサヂヤマシグレノアメニモミダヒニケリ》 (卷十五、三六九七)
 古今集以後の歌で、氣づいたもの、
(266)     嘉言對馬になりて下り侍りけるに人にかはりて遣しける                              相模
   厭はしき我命さへゆく人のかへらむまでぞをしく成ぬる
     對馬になりてまかり下りけるに津の國のほどより能因法師がもとにつかはしける                   大江嘉言
   命あらば|今《イまた》歸りこむ津の國の難波ほりえの芦のうらわに
かういふ歌が目についた。筑紫に旅した歌が可なりあるし、新古今には、『入唐し侍りける時いつほどか歸るべきと人のとひ侍りければ。旅衣たちゆく浪路とほければいざ白雲のほどもしられず』といふ歌もあつて、壹岐、對馬を通つて行つたものであるから、國づくしの歌ならば自然壹岐對馬までも及ぶこととなるのである。對馬は、津島、津のある島の義だといはれてゐる。魏志に對島と見え、書紀、和名抄等に對馬島などと書いた。
 
(267)  勅撰集選出歌考證
 
(269) 古今集
 
       ○
   我がやどの池の藤波さきにけり山ほととぎすいつか來なかむ
 
 古今葉巻三夏歌にあり、題しらず、讀人しらずとして、左注に、『この歌ある人のいはく柿本人麿がなり』とある。六帖に、人麿として載り、結句、『今やきなかむ』となつてゐる。柿本集に載り、歌仙家集本は六帖に同じく、圖書寮本第一、第二、類從本は、古今集に同じである。
 
       ○
   夜を寒み衣かりがねなくなべに萩の下葉もうつろひにけり
 
 古今集卷四秋歌上にあり、題しらず、讀人しらずとして、左注に、『この歌はある人のいはく柿本の人麿がなり』とある。六帖及び拾遺集卷十七に、人麿として載り、六帖の結句、『色づきにけ(270)り』、拾遺集の第四・五句、『萩の下葉は色づきにけり』となつてゐる。
 
       ○
   梅のはなそれとも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれれば
 
 古今集卷六冬歌にあり、題しらず、讀人しらずとして、左注に、『この歌は或人のいはく柿本人麿が歌なり』とある。拾遺集卷一に、題しらず、柿本人丸として載り、また柿本集に載つた。萬葉集卷八(一四二六)、山部宿禰赤人歌に、吾勢子爾令見常念之梅花其十方不所見雪乃零有者《ワガセコニミセムトオモヒシウメノハナソレトモミエズユキノフレレバ》がある。
 
       ○
   ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれ行くふねをしぞおもふ
 
 古今集卷九※[覊の馬が奇]旅歌にあり、題しらず、讀人しらずとして、左注に、『この歌はある人のいはく柿本人麿がなり』とある。六帖に人麿として載り、また柿本集に載つた。今昔物語には小野篁の作になつてゐる。
 
(271)       ○
   逢はぬ夜のふる白雪とつもりなばわれさへ共にけぬべきものを
 
 古今集卷十三戀歌三にあり、題しらず、讀人しらずとして、左注に、『この歌はある人のいはく柿本人麿が歌なり』とある。六帖に人麿として載り、また柿本集に載つた。
 
       ○
   風ふけば波うつ岸の松なれやねにあらはれて泣きぬべらなり
 
 古今集卷十三戀歌三にあり、讀人しらずとして、左注に、『此歌は或人のいはく柿本人麿がなり』とある。六帖に、人麿として、第二・三句、『波こす磯の磯馴松』となつてゐる。柿本集に載り、類從本では第二句、『波たつ岸の』となつてゐる。
 
       ○
   あづさゆみ磯邊の小松たがよにか萬代かけてたねをまきけむ
 
 古今集卷十七雜歌上にあり、題しらず、讀人しらずとして、左注に、『この歌はある人のいはく(272)柿本人麿がなり』とある。一本、第四句、『よろづよかねて』。六帖に、讀人不知で、第三・四句、『たが世にも萬代かねて』となつてゐる。
 
(273) 拾遺集
 
       ○
   梅の花それとも見えず久方のあまぎるゆきのなべて降れれば
 
 拾遺集卷一春にあり、題しらず、柿本人丸とある。古今集巻六に、題しらず、讀人しらずとして載り、左注に、『この歌は或人のいはく柿本人麿が歌なり』とある。柿本集に載つた。萬葉集卷八(一四二六)、赤人の歌に、吾勢子爾令見常念之梅花其十方不所見雪乃零有者《ワガセコニミセムトオモヒシウメノハナソレトモミエズユキノフレレバ》がある。
 
       ○
   あす|から《よりイ》は若菜摘まむと片岡のあしたの原はけふぞ燒くめる
 
 拾遺集卷一春にあり、題しらず、人丸とある。柿本集に載り、初句、歌仙家集本、『あすよりは』になつてゐる。萬葉集卷八(一四二七)、山部宿禰赤人歌に、從明日者春菜將採跡標之野爾昨日(274)毛今日毛雪波布利管《アスヨリハハルナツマムトシメシヌニキノフモケフモユキハフリツツ》がある。第二句、舊訓ワカナ。初句、類聚古集アスカラハ。
 
       ○
   たごの浦の底さへにほふ藤浪をかざして行かむ見ぬ人のため
 
 拾遺集卷二夏にあり、『たごの浦の藤の花を見侍りて、柿本人麿』とある。萬葉集卷十九(四二〇〇)、内藏繩麻呂《ウチノクラノナハマロ》の歌に、多※[示+古]乃浦能底左倍爾保布藤奈美乎加射之※[氏/一]將去不見人之爲《タコノウラノソコサヘニホフフヂナミヲカザシテユカムミヌヒトノタメ》がある。六帖に讀人不知で載り、また柿本集に載つた。
 
       ○
   あまの川遠きわたりにあらねども君が船出はとしにこそまて
 
 拾遺集卷三秋にあり、題しらず、柿本人麿とある。萬葉集卷十(二〇五五)、七夕、讀人不知に、天河遠度者無友公之船出者年爾社候《アマノガハトホキワタリハナケレドモキミガフナデハトシニコソマテ》があり、後撰集卷五にも、七夕をよめる、讀人しらずとして、萬葉集の通りに載つてゐる。六帖に、人麿として、この拾遺集の如くある。柿本集に載り、第二・三句、歌仙家集本、『とほきわたりとなけれども』、類從本は拾遺集の通りである。
 
(275)       ○
   天の川こぞのわたりの移ろへば淺瀬ふむまに夜ぞ更けにける
 
 拾遺集卷三秋にあり、前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷十(二〇一八)、七夕、人麿歌集出に、天漢去歳渡代遷閉者河瀬於蹈夜深去來《アマノガハコゾノワタリデウツロヘバカハセヲフムニヨゾフケニケル》がある。第二句、舊訓コゾノワタリハ。古寫本中(元・類・神)コゾノワタリノ。第四句、古寫本中(元・神)カハセフムマニ。柿本集に載り、圖書寮本第二・類從本は、拾遺集に同じく、歌仙家集本は、『淺瀬』が『かはせ』になつてゐる。また赤人集には、西本願寺本、第二句、『そこのわたりの』、第四句、『かはらをゆくに』。流布本、第四句、『川瀬を行きて』になつてゐる。
 
       ○
   年にありて一夜|妹《いも》に逢ふ彦星もわれにまさりて思ふらむやぞ
 
 拾遺集卷三秋にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十五(三六五七)、遣新羅使人等の七夕仰觀天漢各棟所思作歌三首中に、讀人不知、等之爾安里弖比等欲伊母爾安布比故保思母和禮爾麻佐里弖於毛布良米也母《トシニアリテヒトヨイモニアフヒコホシモワレニマサリテオモフラメヤモ》がある。六帖に、讀人不知で載り、結句、『思ふらめやは』になつてゐる。(276)柿本集に載り、第三句、『彦星の』、他は拾遺集の如くである。
 
       ○
   龍田川もみぢ葉ながる神なびのみむろのやまに時雨ふるらし
 
 拾遺集巻四冬にあり、『奈良のみかど龍田川に紅葉御覽じに行幸ありける御供につかうまつりて、柿本人麿』とある。古今集卷五に、題しらず、讀人不知として載り、『又はあすか川もみぢ葉流る』と注してあり、六帖に、人麿として載つてゐる。柿本集に、詞書、『みかど龍田河のわたりにおはします御供につかうまつりて』(歌仙家集本)として載つた。また大和物語に出てゐる。
 
       ○
   浦ちかく降り來る雪はしらなみの末の松山こすかとぞ見る
 
 拾遺集卷四冬にあり、題しらず、人麿とある。寛平御時后宮歌合に興風としてあり、古今集卷七にも、『寛平の御時きさいの宮の歌合の歌、藤原興風』として載り、また興風集にも載つてゐる即ち興風の歌である。六帖には、作者を記さずに載せてゐる。
 
(277)       ○
   あしひきの山路も知らずしらかしの枝にも葉にも雪の降れれば
 
 拾遺集卷四冬にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二三一五)、冬雜歌、人麿歌集出(或本云三方沙彌作)に、足引山道不知白杜※[木+戈]枝母等乎乎爾雪落者《アシヒキノヤマヂモシラズシラカシノエダモトヲヲニユキノフレレバ》(或云|枝毛多和多和《エダモタワタワ》)がある。六帖に、讀人不知で、拾遺集の如く出てゐる。柿本集に載り、歌仙家集本、第四句、『枝もたわわに』になつてゐる(圖書寮本第一・第二・類從本等拾遺集に同じ)。
 
       ○
   あま飛ぶやかりの使にいつしかも奈良の都にことづてやらむ
 
 拾遺集卷六別にあり、『もろこしにて、柿本人麿』とある。萬葉集卷十五(三六七六)、遣新羅使人等の引津亭舶泊之作歌七首中に、讀人不知、安麻等夫也可里乎都可比爾衣弖之可母奈良能彌夜古爾許登都礙夜良武《アマトブヤカリヲツカヒニエテシカモナラノミヤコニコトツゲヤラム》がある。
 
       ○
(278)   月草にころもはすらむ朝露にぬれてののちはうつろひぬとも
 拾遺集卷八雜上にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷七(一三五一)、寄草、讀人不知に、月草爾衣者將摺朝露爾所沾而後者徙去友《ツキクサニコロモハスラムアサツユニヌレテノチニハウツロヒヌトモ》があり、第四句、舊訓ヌレテノノチハである。古今集卷四に、題しらず、讀人しらずとして載り、六帖にも讀人不知で載つてゐる。柿本集に載り、流布本一本、第三句、『あさ霧に』とある。
 
       ○
   ちちわくに人はいふとも織りて著む我がはたものに白き麻衣《あさぎぬ》
 
 拾遺集卷八雜上、前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷七(一二九八)、寄衣、人麿歌集出に、干各人雖云織次我二十物白麻衣《カニカクニヒトハイフトモオリツガムワガハタモノノシロアサゴロモ》がある。初句、舊訓チナニハモ。古寫本中(元・類・古)トニカクニ。第二句、古寫本中(元・古・神)ヒトハイヘドモ。第四・五句、古寫本中(類・古・神)ワガハタモノハ・シロキアサギヌとなつてゐる。六帖に、作者不詳で載り、初句、『ちなにはも』、第三・四句、『おりつがむわがはたものの』となつてゐる。柿本集に、『ちちに人はいふとも人はおりつがむわがはたものに白き麻ぎぬ』(歌仙家集本)、『ちゝはくに人はいへどもおりてきん我は(279)た物の白きあさ衣』(類從本)といふ具合に載つた。
 
       ○
   久方のあめには著ぬをあやしくもわが衣手のひるときもなき
 
 拾遺集卷八雜上、前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷七(一三七一)、寄雨、讀人不知に、久堅之雨爾波不著乎恠毛吾袖者干時無香《ヒサカタノアメニハキヌヲアヤシクモワガコロモデハヒルトキナキカ》がある。古寫本等にヒルトキモナキの訓は見當らない。柿本集にこの拾遺集の通りに載つた。
 
       ○
   白波は立てど衣にかさならずあかしも須磨もおのがうらうら
 
 拾遺集卷八雜上、前の歌につづき、以上四首『題しらず、人麿』となつてゐる。榮華物語に柿本人麿作として載り、柿本集に載つた。
 
       ○
   夕されば衣手さむしわぎもこがときあらひ衣ゆきてはや著む
 
(280) 拾遺集卷八雜上、前四首につづいてあり、『もろこしへ遣はしける時によめる』と詞書がある。萬葉集卷十五(三六六六)、遣新羅使人等の海邊望月作歌九首中、讀人不知、由布佐禮婆安伎可是左牟思和伎母故我等伎安良比其呂母由伎弖波也伎牟《ユフサレバアキカゼサムシワギモコガトキアラヒゴロモユキテハヤキム》がある。柿本集に、第二句、『秋風寒し』と、萬葉集どほりに載つた。
 
       ○
   ささ浪や近江の宮は名のみしてかすみたなびき宮木もりなし
 
 拾遺集卷八雜上にあり、『大津の宮のあれて侍りけるを見て、人麿』とある。柿本集に、『あふみの宮のあれたるを見て』として載つた。萬葉集に類似の歌はない。
 
       ○
   空の海にくものなみたち月のふね星のはやしに漕ぎかへる見ゆ
 
 拾遺集卷八雜上、『詠天、人麿』とある。萬葉集卷七(一〇六八)、詠天、人麿歌集出に、天海丹雲之波立月船星之林丹榜隱所見《アメノウミニクモノナミタチツキノフネホシノハヤシニコギカクルミユ》がある。初句、細井本ソラノウミニとある。六帖に、人麿として、初句、『天の川』、結句、『漕ぎ隱る見ゆ』とある。柿本集に、拾遺集通り載つた(類從本は初句、『あ(281)めのうみに』)。
 
       ○
   川の瀬のうづまく見れば玉藻かるちりみだれたる川の舟かも
 
 拾遺集卷八雜上、前の歌につづいてあり、『藻を詠める』と題してある。萬葉集卷九(一六八五)、泉河邊間人宿禰作歌に、河瀬激乎見者玉鴨散亂而在河常鴨《カハノセノタギツヲミレバタマヲカモチリミダシタルカハノツネカモ》があり、人麿歌集出である。第一・二句、舊訓カハノセノ・タギルヲミレバ。古寫本中(藍・壬・類・神)カハノセヲ・ウヅマクミレバ、(古)カハノセニ・ウヅマクミレバ。第三句、寛永本其他、『玉藻鴨』とあり、舊訓タマモカモ。タマモカルの訓は見當らない。第四句、舊訓チリミダレテアル。古寫本中(藍・壬・類・古・神)チリミダレタル。結句、寛永本、『此河常鴨』とあり、舊訓コノカハトカモ。古寫本の大部分『此』字なく、(藍・壬・類・古・神)カハノツネカモ。『川の舟』はこれを誤つたものであらう。六帖に、『川の瀬になびくを見れば玉もかも散り亂れたる川の常かも』とある。柿本集に、大體この拾遺集の通りに載つた。歌仙家集本初句、『川の瀬に』(圖書寮本第一、『川の瀬の』)。結句、『川の舟かな』(類從本其他『川の舟かも』)。
 
(282)       ○
   なる神の音にのみ聞くまきもくの檜原《ひばら》の山を今日みつるかな
 
 拾遺集卷八雜上、前の歌に續いてあり、『山を詠める』と題してある。萬葉集卷七(一〇九二)、詠山、人麿歌集出に、動神之音耳開卷向之檜原山乎今日見鶴鴨《ナルカミノオトノミキキシマキムクノヒハラノヤマヲケフミツルカモ》がある。第二・三句の舊訓オトニノミキク・マキモクノで、拾遺集と等しい。結句、元暦本ケフミツルカナ。六帖に、『山』の題、讀人不知としてある。柿本集に載つた。
 
       ○
   いにしへにありけむ人もわがごとや三輪のひばらにかざし折りけむ
 
 拾遺集卷八雜上、前の歌に續いてあり、『詠葉』と題してある。萬葉集卷七(一一一八)、詠葉、
 人麿歌集出に、古爾有險人母如吾等架彌和乃檜原爾插頭折兼《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカミワノヒハラニカザシヲリケム》がある。第三句、類聚古集ワガゴトヤ。六帖に、人麿と題してある。柿本集に載つた。
 
       ○
(283)   をふの海に船のりすらむ吾妹子が赤裳の裾にしほ滿つらむか
 拾遺集卷八雜上にあり、『伊勢のみゆきにまかりとまりて、人麿』とある。萬葉集卷十五(三六一〇)、遣新羅使人等の當所謂詠古歌に、安胡乃宇良爾布奈能里須良牟乎等女良我安可毛能須素爾之保美都艮武賀《アゴノウラニフナノリスラムヲトメラガアカモノスソニシホミツラムカ》があり、これは、卷一(四〇)、幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麿作歌、嗚呼見乃浦爾船乘爲良武※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二四寶三都良武香《アミノウラニフナノリスラムヲトメラガタマモノスソニシホミツラムカ》に基いてゐる。六帖に、『人麿イ』として、『をふの浦に舟乘すらむをとめごが玉藻の裾に潮滿つらむか』とある。柿本集【歌仙家集流布本】に、『みを《おふのイ》うみに船乘すらんつまともに袂《あかもイ》のすそに鹽みちぬらむかも』及び『須磨の浦に舟のりすらん乙女子があかものすそに鹽やみつらん』と載り、諸本異同が多い。
 
       ○
   あすか川しがらみ渡しせかませば流るる水ものどけからまし
 
 拾遺集卷八雜上にあり、『あすかの女王ををさむる時よめる、人麿』とある。萬葉集卷二(一九七)、明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌の短歌に、明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼爾賀有萬思《アスカガハシガラミワタシセカマセバナガルルミヅモノドニカアラマシ》があり、結句、古寫本中(金・類・古・神)ノドケカラマシである。六(284)帖に、第二句、『しがらみかけて』になつてゐる。柿本集にこの拾遺集の通りに載り、別に、第一・二句、『網代木の白浪よりて』となつたものも載つた。
 
       ○
   山高みゆふひかくれぬ淺茅原のち見むためにしめ結はましを
 
 拾遺集卷九雜下にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷七(一三四二)、寄草、讀人不知に、山高夕日隱奴淺茅原後見多米爾標結申尾《ヤマタカミユフヒカクリヌアサヂハラノチミムタメニシメユハマシヲ》があり、第二句、舊訓ユフヒカクレヌである。六帖に、讀人不知、第二句、『夕日かくれの』。柿本集にも、第二句、『夕日がくれの』(圖書寮本第一、『夕日かくれぬ』)となつてゐる。
 
       ○
   ますかがみ見しかとぞ思ふ妹に逢はむかも玉の緒のたえたる戀のしげきこのごろ
 
 拾遺集卷九雜下旋頭歌にあり、柿本人麿とある。萬葉集卷十一(二三六六)、旋頭歌、古歌集出に、眞十鏡見之賀登念妹相可聞玉緒之絶有戀之繁比者《マソカガミミシカトオモフイモニアハヌカモタマノヲノタエタルコヒノシゲキコノゴロ》がある。初句、古寫本中(嘉・細)マスカガミ。(285)第三句、舊訓イモニアハムカオ。柿本集に載り、第二句、『見しかと思ふ』である。
 
       ○
   かのをかに草かるをのこしかな刈りそ有りつつも君が來まさむみまくさにせむ
 
 拾遺集卷九雜下旋頭歌にあり、前の歌につづいてゐる。萬葉集卷七(一二九一)、旋頭歌、人麿歌集出に、此崗草苅小子勿然苅有乍君來座御馬草爲《コノヲカニクサカルワラハシカナカリソネアリツツモキミガキマサムミマクサニセム》がある。第二句、京大本『小子』の左に赭でヲノコとある。第三句、舊訓シカナカリソ。
 
       ○
   ちはやぶる わがおほきみの きこしめす あめのしたなる くさの葉も うるひにたりと やまかはの 澄めるかふちと みこころを よしののくにの はなざかり あきつの野邊に みやばしら ふとしきまして ももしきの おほみやびとは ふねならべ あさかはわたり ふなくらべ ゆふかはわたり このかはの 絶ゆることなく こ(286)のやまの いやたかからし たまみづの たきつのみやこ 見れどあかぬかも
 拾遺集卷九雜下長歌にあり、『吉野の宮にたてまつる歌、人麿』とある。萬葉集卷一(三六)、幸于吉野宮之時柿本朝臣人麿作歌に、八隅知之《ヤスミシシ》、吾大王之《ワガオホキミノ》、所聞食《キコシヲス》、天下爾《アメノシタニ》、國者思毛《クニハシモ》、澤二雖有《サハニアレドモ》、山川之《ヤマカハノ》、清河内跡《キヨキカフチト》、御心乎《ミココロヲ》、吉野乃國之《ヨシヌノクニノ》、花散相《ハナチラフ》、秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》、宮柱《ミヤバシラ》、太敷座波《フトシキマセバ》、百磯城乃《モモシキノ》、大宮人者《オホミヤビトハ》、船並※[氏/一]《フネナメテ》、旦川渡《アサカハワタリ》、舟競《フナギホヒ》、夕河渡《ユフカハワタル》、此川乃《コノカハノ》、絶事奈久《タユルコトナク》、此山乃《コノヤマノ》、彌高良之《イヤタカカラシ》、珠水激《イハバシル》、瀧之宮子波《タギノミヤコハ》、見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》がある。今、萬葉集古寫本中から、拾遺集に參考になる訓を拾ふと、『澤二雖有』は、冷泉本一訓ウルヒニタリトがあり、『船並※[氏/一]』は、元暦本フナナラベ、『舟競』は、(元・古・神・細)フナクラベ、『夕河渡』は、舊訓ユフカハワタリであり、又『珠水激瀧』を、舊訓、珠水《タマミヅ》ノ激瀧《タキ》と訓み、元暦本・神田本は、タギノミヤコハをタギツミヤコハと訓んでゐる。その他は、『ちはやぶる』でも『くさの葉も』でも、拾遺集特有の句の原據となつたやうなものは見出せない。
 
       ○
   見れどあかぬ吉野の河の流れても絶ゆる時なく行きかへり見む
 
(287) 拾遺集卷九雜下、前の長歌の反歌である。前出萬葉集卷一(三六)の長歌の反歌(三七)に、雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレドアカヌコトナクヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》がある。柿本集に、『吉野の山の常滑にたゆる時なく又かへりみむ』となつてゐる。
 
       ○
   ちはやふる神のたもてるいのちをはたれがためにか長くとおもはむ
 
 拾遺集卷十神樂歌にあり、題しらず、人まろとある。萬葉葉卷十一(二四一六)、寄物陳思、人麿歌集出に、千早振神持在命誰爲長欲爲《チハヤブルカミノモタセルイノチヲバタガタメニカモナカクホリセム》がある。第二句、舊訓カミノタモテル。第三句、舊訓イノチヲモ。六帖に、『ちはやふる神のたもたる命あらば誰がためとかは我は思はむ』。柿本集に、第三句以下、『命をもたが爲と思ふ我ならなくに』(歌仙家集本)、『我が爲にかは長くと思はん』(類從本)として載つた。
 
       ○
   ちはやふる神も思ひのあればこそ年へて富士の山も燃ゆらめ
 
 拾遺集卷十神樂歌にあり、前の歌につづいて出てゐる。類似の歌萬葉集になく、他の歌集にも(288)見當らない。
 
       ○
   おほなむちすくなみ神の造れりし妹背の山を見るぞうれしき
 
 拾遺集卷十神樂歌にあり、『たびにてよみ侍りける、人まろ』とある。萬葉集卷七(一二四七)、※[覊の馬が奇]旅作、人麿歌集出に、大穴道少御神作妹勢能山見吉《オホナムチスクナミカミノツクラシシイモセノヤマヲミラクシヨシモ》がある。第三句、舊訓ツクリタル。結句、舊訓ミレバシヨシモ。神田本ミレバウレシキ。六帖に、『人まろ』として、第二・三句、『すくなひこなの造りたる』、結句、『見るはしもよし』とあり、柿本集には、第二句、『すくなひ《み(類)》かみの』、結句、『見|るがうれしさ《ればともしも(類)》』となつてゐる。
 
       ○
   天雲の八重ぐもがくれ鳴る神の音にのみやは聞きわたるべき
 
 拾遺集卷十一戀一にあり、題しらず、人丸とある。萬葉葉卷十一(二六五八)、寄物陳思、讀人不知に、天雲之八重雲隱鳴神之音耳爾八方聞渡南《アマグモノヤヘグモガクリナルカミノオトノミニヤモキキワタリナム》がある。第二句、舊訓ヤヘグモガクレ。第四句、寛永本等『音爾耳八方』とあり、舊訓オトニノミヤモ。古寫本中(嘉・類)オトニノミヤハ。『聞(289)きわたるべき』の訓は見當らない。六帖に、結句、『聞きわたりなむ』。柿本集流布本は、拾遺集に同じであるが、圖書寮本第一、『ききわたりなむ』、類從本、『戀渡りなむ《イききわたるべき》』とある。
 
       ○
   みなそこに生ふる玉藻のうちなびき心をよせて戀ふるころかな
 
 拾遺集卷十一戀一にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十一(二四八二)、寄物陳思、人麿
ミナソコニオフルタマモノウチナビキココロハヨリテコフルコノゴロ
歌集出に、水底生玉藻打靡心依戀比日《》がある。第四句、舊訓ココロヲヨセテ。『戀ふるころかな』の訓は見當らない。六帖に、人麿として載り、結句、『戀ふるこのごろ』である。柿本集では、歌仙家集本系統、『戀ふるこのごろ』、類從本系統、『戀ふるころかな』になつてゐる。
 
       ○
   奥山のいはがき沼のみごもりに戀ひや渡らむ逢ふよしをなみ
 
 拾遺集卷十一戀一にあり、題しらず、人まろとある。萬葉集卷十一(二七〇七)、寄物棟思、讀人不知に、青山之石垣沼間力水隱爾戀哉渡相縁乎無《アヲヤマノイハガキヌマノミゴモリニコヒヤワタラムアフヨシヲナミ》がある。初句、古寫本中(類・神)の一訓にオクヤマがあり、和歌色葉集・和歌童蒙抄にいづれもヲクヤマとして引かれてゐる。六帖にも、拾(290)遺集と同樣になつてゐる。
 
       ○
   み熊野の浦のはまゆふ百重なる心は思へどただに逢はぬかも
 
 拾遺集卷十一戀一にあり、題しらず、柿本人麿とある。萬葉集卷四(四九六)、柿本朝臣人麻呂歌に、三熊野之浦乃濱木綿百重成心者雖念直不相鴨《ミクマヌノウラノハマユフモモヘナスココロハモヘドタダニアハヌカモ》があり、第三句、舊訓モモヘナルである。六帖に、人麿として載り、また柿本集に載つた。
 
       ○
   戀ひつつも今日は暮しつ霞たつ明日の春日をいかでくらさむ
 
 拾遺集卷十一戀一にあり、題しらず、人まろとある。萬葉集卷十(一九一四)、寄霞、讀人不知に、戀乍毛今日暮都霞立明日之春日乎如何將晩《コヒツツモケフハクラシツカスミタツアスノハルヒヲイカニクラサム》があり、結句、舊訓イカデクラサムである。六帖に、『霞』の題下に載り、又、『照る日』の題下に、第三句、『茜さす』となつたものが載つてゐる。赤人集と柿本集とに載つた。柿本集諸本中流布本のみが、初句、『わびつつも』になつてゐる。
 
(291)       ○
   戀ひつつも今日はありなむ玉くしげ明けむあしたをいかで暮さむ
 
 拾遺集卷十一戀一にあり、前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷十二(二八八四)、正述心緒、讀人不知に、戀管母今日在目杼玉匣將開明日如何將暮《コヒツツモケフハアラメドタマクシゲアケムアシタヲイカニクラサム》がある。結句、舊訓イカデクラサム。柿本集に載り、第四句、『明けなむ明日を』になつてゐる。
 
       ○
   無き名のみたつの市とは騷げどもいさまた人をうる由もなし
 
 拾遺集卷十二戀二にあり、題しらず、人麿とある。柿本集に載つた。萬葉集に類似の歌は見當らない。
 
       ○
   竹の葉におきゐる露のまろびあひてぬるとはなしに立つ我が名かな
 
 拾遺集卷十二戀二にあり、題しらず、人麿とある。柿本集に載り、流布本、第四句、『ぬる|よ《と》は(292)なしに』であるが、圖書寮本第一、類從本等には、やはり『ぬるとは』になつてゐる。
 
       ○
   うばたまの今宵なあけそ明けゆかば朝ゆく君をまつがくるしき
 
 拾遺集卷十二戀二にあり、人まろとある。結句一本『待つくるしきに』。萬葉集卷十一(二三八九)、正遽心緒、人麿歌集出に、烏玉是夜莫明朱引朝行公待苦《ヌバタマノコノヨナアケソアカラヒクアサユクキミヲマタバクルシモ》がある。第二句、嘉暦本コヨヒナアケソ。柿本集に載り、第三句、『明ゆけば』(流布本)、『明ゆかば』(類從本)。結句、『まつもくるしも』(流布本)、『待つくるしきに』(類従本)。六帖には、『あらたまのこの夜な明けそあかひかるあしたゆく君待てば苦しも』となつてゐる。
 
       ○
   逢ひ見てはいくひささにもあらねども年月のごと思ほゆるかな
 
 拾遺集卷十二戀二にあり、題しらず、人まろとある。萬葉集卷十一(二五八三)、正述心緒、讀人不知に、相見而幾久毛不有爾如年月所思可聞《アヒミテハイクバクヒサモアラナクニトシツキノゴトオモホユルカモ》がある。第二句、舊訓イクヒサシサモ。古寫本中(嘉・細)イクヒササニモ。六帖に、人麿として載り、又柿本集にも載つた。ともに拾遺集と同(293)じになつてゐる。
 
       ○
   としを經て思ひ思ひて逢ひぬれば月日のみこそ嬉しかりけれ
 
 拾遺集卷十二戀二にあり、前の歌につづいてゐる。躬恒集にも載つて居り、萬葉集に類似の歌は見當らない。
 
       ○
   杉板もてふける板間のあはざらばいかにせむとか我が寢そめけむ
 
 拾遺集卷十二戀二にあり、前の歌につづいてゐる。萬葉集卷十一(二六五〇)、寄物陳思、讀人不知に、十寸板持蓋流板目乃不令相者如何爲跡可吾宿始兼《ソキイタモチフケルイタメノアハセズハイカニセムトカワガネソメケム》がある。初句、古寫本中(嘉・古・細)スギイタモテ、(類)スキタモテ。第二・三句、舊訓フケルイタマノ・アハザラバ。六帖に、第四句、『いかにせよとて』。柿本集に、結句、『あひみそめけむ』となつてゐる。
 
       ○
(294)   思ふなと君はいへども逢ふことをいつと知りてかわが戀ひざらむ
 
 拾遺集卷十二戀二、題しらず、人麿とある。萬葉集卷二(一四〇)、柿本朝臣人麿妻依羅娘子與人麿相別歌一首に、勿念跡君者雖言相時何時跡知而加吾不戀有牟《ナオモヒトキミハイヘドモアハムトキイツトシリテカワガコヒザラム》がある。初句、舊訓オモフナト。第二句、舊訓キミハイフトモ。古寫本中(元・金・神)キミハイヘトモ。六帖に、第二・三句、『妹は言へども逢はむ時』となつてゐる。柿本集に、この拾遺集どほりに載つた。
 
       ○
   あしびきの山鳥のをのしだり尾の長々し夜をひとりかもねむ
 
 拾遺集卷十三戀三にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二八〇二或本歌)、寄物陳思、讀人不知に、足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃長永夜乎一鴨將宿《アシヒキノヤマドリノヲノシダリヲノナガキナガヨヲヒトリカモネム》があり、第四句、舊訓ナガナガシヨヲで、即ち拾遺集はこれに同じである。柿本集に載つた。六帖に、結句、『わがひとりぬる』となつてをり、また別に、第一・二句が『にはとりのかけの垂り尾の』となつてゐるものもある。
 
       ○
(295)   あしびきの山より出づる月まつと人にはいひて君をこそまて
 拾遺集卷十三戀三にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十二(三〇〇二)、寄物陳思、讀人不知に、足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシヒキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》がある。西本願寺本イモヲコソマテ。六帖に、『山高み出でずいざよふ月待つと人には言ひて君待つ我ぞ』とある。柿本集に拾遺集の通りに載つた。
 
       ○
   三日月のさやかに見えず雲がくれ見まくぞほしきうたてこの頃
 
 拾遺集卷十三戀三、前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷十一(二四六四)、寄物陳思、人麿歌集出に、若月清不見雲隱見欲宇多手比日《ミカヅキノサヤニモミエズクモガクリミマクゾホシキウタテコノゴロ》がある。第二・三句、舊訓、拾遺集に同じ。結句、舊訓ウタタコノゴロ。古寫本中(嘉・類・細)ウタテコノゴロ。柿本集に、第二句、『さやけくもあらず』となつて載つた。
 
       ○
(296)   秋の夜の月かも君は雲がくれしばしも見ねばここらこひしき
 拾遺集卷十三戀三、題しらず、人麿。萬葉集卷十(二二九九)、寄月、讀人不知に、秋夜之月疑意君者雲隱須臾不見者幾許戀敷《アキノヨノツキカモキミハクモガクリシマシモミネバココダコヒツキ》があり、第三句以下、舊訓、拾遺集と同じである。柿本集に載り、結句、『君ぞこひしき』『戀ひしかるらむ』などともなつてゐる。
 
       ○
   ひさかたのあま照る月もかくれ行く何によそへて君をしのばむ
 
 拾遺集卷十三戀三、題しらず、人麿。萬葉集卷十一(二四六三)、寄物陳思、人麿歌集出に、久方天光月隱去何名副妹偲《ヒサカタノアマテルツキノカクリナバナニニナゾヘテイモヲシヌバム》がある。第四句、舊訓ナニノソヘテ。古寫本中(嘉・類)ナニニヨソヘテ。和歌童蒙抄ナニニヨソヘテ。
 
       ○
   長月のあり明の月のありつつも君し來まさばわれ戀ひめやも
 
 拾遺集卷十三戀三、題しらず、人麿。萬葉集卷十(二三〇〇)、寄月、讀人不知に、九月之在明(297)能月夜有乍毛君之來座者吾將戀八方《ナガツキノアリアケノツクヨアリツツモキミガキマサバワレコヒメヤモ》がある。第二句、古寫本中(元)アリアケノツキノ。第四句、古寫本中(元・神・西・温)キミシキマサバ。結句、舊訓ワレコヒムヤモ。古寫本中(元・神)ワレコヒメヤハ、(西・温)ワレコヒメヤモ。六帖に、人麿とし、結句、『我も忘れじ』。小町集に、下句、『君しもまさば待ちこそはせめ』。柿本集に載り、結句、流布本『我こひんかも』、なほ諸本少しづつ違ふ。
 
       ○
   ことならば闇にぞあらまし秋の夜のなぞ月影の人だのめなる
 
 拾遺集卷十三戀三、前の歌に續き『月のあかき夜人を待ちはべりて』と詞書があつて出てゐる。六帖第一『夏の月』と、同第五『人をまつ』とに、『ことならば闇にもあらなむ夏の夜|の《は(第五)》照る月影ぞ人だのめなる』がある。他に類似の歌が見當らない。因に言ふ。さきに柿本人麿總論篇の『人麿評論史略』に於いて、拾遺集中人麿作とあるものを列擧した時には(【總論篇一一六頁】)〔一五卷一二〇頁〕、この歌を入れずして、旋頭歌短歌一〇二と數へたのであつたが、これはやはり、拾遺集撰者は人麿作としてこの歌を載せたものと認むべきであり、總論篇の數に一首を加ふべきである。契冲の拾遺集考要にも、『人丸とありて不審の歌』といふ中にあげてある。
 
(298)       ○
   まさしてふやそのちまたに夕占《ゆふけ》とふ占《うら》まさにせよ妹に逢ふべく
 
 拾遺集卷十三戀三、題しらず、人麿。萬葉集卷十一(二五〇六)、寄物辣思、人麿歌集出に、事靈八十衢夕占問占正謂妹相依《コトダマノヤソノチマタニユフケトフウラマサニノルイモニアハムヨシ》がある。柿本集に、拾遺集の如くに載り、結句、一本、『妹に逢ふよし』ともある。
 
       ○
   夕占《ゆふけ》とふ占《うら》にもよくあり今夜《こよひ》だに來ざらむ君をいつかまつべき
 
 拾遺集卷十三戀三、前の歌につづいてある。萬葉集卷十一(二六二二)、正述心緒、讀人不知に、夕卜爾毛占爾毛吉有今夜谷不來君乎何時將待《ユフケニモウラニモヨクアルコヨヒダニキマサヌキミヲイツトカマタム》がある。第二句、舊訓ウラニモツゲアル。嘉暦本ウラニモヨクアリ。第四句、嘉暦本コザラムキミヲ。六帖に、『夕けにもうらにもつける今夜だに來まさぬ君をいつとか待たむ』がある。
 
       ○
(299)   夢をだにいかで形見に見てしがな逢はでぬる夜の慰めにせむ
 拾遺集卷十三戀三、前の歌につづいてある。萬菓集はじめ他の歌集等に同樣の歌は見當らない。
 
       ○
   うつつには逢ふことかたし玉の緒のよるは絶えせず夢に見えなむ
 
 拾遺集卷十三戀三、前の歌につづいてある。萬葉集卷五(八〇七)、大伴旅人の歌に、宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊味仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》がある。貫之集に、第四句、『夜は絶えずも』となつて載つてゐる。なほ、拾遺集では、この歌に續けて、『いにしへをいかでかとのみ思ふ身にこよひの夢をはるになさばや』といふ歌を載せてゐるが、これは詞書に、『ひろはたのみやす所久しう内にも參らざりける夢になむ例のやうにて内にさぶらひ給ひつると人のいひ侍りけるを聞きて』とあつて、人麿作と見るべきものではない。廣幡《ひろはた》の御息所は村上天皇の妃である。
 
       ○
   我が背子をきませの山と人はいへど君もきまさぬ山の名ならし
 
(300) 拾遺集卷十三戀三、題しらず、人麿。萬葉集卷七(一〇九七)、詠山、讀人不知に、吾勢子乎乞許世山登人者雖云君毛不來益山之名爾有之《ワガセコヲコチコセヤマトヒトハイヘドキミモキマサズヤマノナニアラシ》がある。第二句、元暦本コヽセノヤマト。第四句、舊訓キミモキマサヌ。結句、元暦本ヤマノナナラシ。六帖に、石河郎女の作として載り、第二句、『こませの山と』、第四句、『君もきませぬ』となつてゐる。又、柿本集に載り、圖書寮本第一・鷹司本は、拾遺集に同じく、圖書寮本第二・類從本は、第四句『君が來まさぬ』となり、流布歌仙家集本は、『山の名ならし君もきまさ|す《ぬイ》』となつてゐる。
 
       ○
   なる神のしばしうごきて空くもり雨も降らなむ君とまるべく
 
 拾遺集卷十三戀三、題しらず、人麿。萬葉集卷十一(二五三一)、問答、人麿歌集出に、雷神小動刺雲雨零耶君將留《ナルカミノシマシトヨミテサシクモリアメノフラバヤキミガトマラム》がある。第二句、舊訓シバシトヨミテ。古寫本中(嘉・細)シバシウゴキテ。第四句、古寫本中(嘉・類・細)アメモフラナム。結句、舊訓キミヤトマラム。嘉暦本キミトマルベク。柿本集に、第二・三句、『しばし|は空にさしくもり《うごきて空くもり》』となつてゐる。六帖に、人まろとして、『鳴神をとよますばかりさし曇り雨も降らなむ君を留めむ』とある。
 
(301)       ○
   人ごとは夏野の草のしげくとも君とわれとしたづさはりなば
 
 拾遺集卷十三戀三、前の歌につづいてある。萬葉集卷十(一九八三)、寄草、讀人不知に、人言者夏野乃草之繁友妹與吾携宿者《ヒトゴトハナツヌノクサノシゲクトモイモトワレトシタヅサハリネバ》がある。結句、古寫本中元暦本にネの右に緒でナとあり、類聚古集に『宿者』の右に朱でナハとあり、和歌童蒙抄・八雲御抄等に、『たづさはりなば』として引かれてゐる。六帖に、『妹とわれとしたづさはりなば』。柿本集も同樣で、なほ第二句、『夏野の草と』ともある。赤人集に、『夏野の草|に《と》……いもとわれとしたづさはりなば』とある。
 
       ○
   秋の田の穗の上におけるしら露の消ぬべく我はおもほゆるかな
 
 拾遺集卷十三戀三、題しらず、人麿。萬葉集卷十(二二四六)、寄水田、讀人不知に、秋田之穗上爾置白露之可消吾者所念鴨《アキノタノホノヘニオケルシラツユノケヌベクワレハオモホユルカモ》がある。第二句、舊訓ホノウヘニオケル。柿本集に載り、第二句、流布本は『ほのかに置ける』であるが、他の諸本、『ほのうへに』『ほの上に』とある。
 
(302)       ○
   住吉の岸を田にほり蒔きし稻の刈るほどまでも逢はぬ君かな
 
 拾遺集卷十三戀三、前の歌につづいてある。萬葉集卷十(二二四四)、寄水田、讀人不知に、住吉之岸乎田爾墾蒔稻乃而及苅不相公鴨《スミノエノキシヲタニハリマキシイネノシカカルマテニアハヌキミカモ》がある。初句、類聚古葉及び神田本スミヨシノ。和歌童蒙抄に、『スミヨシノキシヲタニホリ』云々とある。柿本集に載り、第四・五句、『刈るまで妹に《かりほすまでも》あはぬなりけり』ともある。
 
       ○
   我が背子をわが戀ひをれば我が宿の草さへ思ひうらがれにけり
 
 拾遺集卷十三戀三、人麿。萬葉集卷十一(二四六五)、寄物陳思、人麿歌集出に、我背兒爾吾戀居者吾屋戸之草佐倍思浦乾來《ワガセコニワガコヒヲレバワガヤトノクササヘオモヒウラガレニケリ》がある。六帖に、笠の女郎の作とし、初句、萬葉集同樣『我背子に』とある。柿本集に拾遺集の如くに載つてゐる。
 
       ○
(303)   頼めつつこぬ夜あまたになりぬればまたじと思ふぞ待つに勝《まさ》れる
 
 拾遺集卷十三戀三、題しらず、人麿。柿本集に載つた。萬葉集等に原歌らしきものを見ない。
 
       ○
   朝寢がみわれはけづらじうつくしき人の手枕ふれてしものを
 
 拾遺集卷十四戀四にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二五七八)、正述心緒、讀人不知に、朝宿髪吾者不梳愛君之手枕觸義之鬼尾《アサネガミワレハケヅラジウツクシキキミガタマクラフリテシモノヲ》がある。結句、舊訓フレテシモノヲ。六帖に、讀人不知とし、歌は拾遺集に同じである。柿本集にも同樣に載つてゐる。
 
       ○
   みなといりの蘆わけ小舟さはり多み我が思ふ人に逢はぬころかな
 
 拾遺集卷十四戀四にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二七四五)、寄物棟思、讀人不知に、湊入之葦別小舟障多見吾念公爾不相頃者鴨《ミナトイリノアシワケヲブネサハリオホミワガオモフキミニアハヌコロカモ》がある。第四句、古寫本中(古)ワカヲモフ人ニ。柿本集に載り、第四句、『こひしき人に』ともある。
 
(304)       ○
   岩しろの野なかに立てるむすび松心も解けずむかしおもへば
 
 拾遺集卷十四戀四に、前の歌につづいてあり、後に、卷十九雜戀にも重出してゐる。萬葉集卷二(一四四)、長忌寸意吉麿見缺松哀咽歌に、磐代乃野中爾立有結松情毛不解古所念《イハシロノヌナカニタテルムスビマツココロモトケズイニシヘオモホユ》があり、結句、舊訓ムカシオモヘバである。六帖に、結句、『むかしをぞおもふ』とある。柿本集に、拾遺集のごとくに載つた。
 
       ○
   ますかがみ手に取りもちて朝な朝な見れども君にあくときぞなき
 
 拾遺集卷十四戀四にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二五〇二)、寄物陳思、人麿歌集出に、眞鏡手取以朝朝雖見君飽事無《マソカガミテニトリモチテアサナサナミレドモキミハアクコトモナシ》がある。初句、古寫本中(嘉・類・古・細)マスカガミ。『君飽事無』は、舊訓キミヲアクコトモナシ。古寫本中(嘉・古)キミカアクコトノナキ、(類)キミヲアクコトノナキ。柿本集に、拾遺集どほりに載つた。(類從本系統は、『みれどもあかぬ君にもあるかな』)、六帖に、下句、『見む時さへや戀の繁けむ』となつたのがあるが、これは萬葉集(305)卷十一(二六三三)、眞十鏡手取持手朝旦將見時禁屋戀之將繁《マソカガミテニトリモチテアサナサナミムトキサヘヤコヒノシゲケム》の歌である。
 
       ○
   皆人の笠にぬふてふ有間すげありての後も逢はむとぞおもふ
 
 拾遺集卷十四戀四、前の歌につづいてある。萬葉集卷十二(三〇六四)、寄物陳思、讀人不知に、人皆之笠爾縫云有間菅在而後爾毛相等曾念《ヒトミナノカサニヌフトフアリマスゲアリテノチニモアハムトゾオモフ》がある。初句、寛永本等『皆人之』とあり、訓は古寫本中(元・類・古・西)ミナヒトノとある。第二句、舊訓カサニヌフテフ。第四句、アリテノノチモといふ訓は見當らない。柿本集に、拾遺集の如くに載つた。六帖には、結句、『あはざらめやは』となつてゐる。
 
       ○
   戀ひ戀ひてのちも逢はむと慰むる心しなくばいのちあらめや
 
 拾遺集卷十四戀四にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十二(二九〇四)、正述心緒、讀人不知に、戀戀而後裳將相常名草漏心四無者五十寸手有目八面《コヒコヒテノチモアハムトナグサモルココロシナクバイキテアラメヤモ》がある。第三句、舊訓ナゲサムル。柿本集に載り、結句、『生きてあらめや』、なほ第二句、流布本に『のちに』とあるが、他の諸本(306)はやはり『のちも』である。
 
       ○
   かくばかり戀ひしきものと知らませばよそに見るべくありけるものを
 
 拾遺集卷十四戀四、前の歌につづいてある。萬葉集卷十一(二三七二)、正述心緒、人麿歌集出に、是量戀物知者遠可見有物《カクバカリコヒムモノトシシラマセバトホクミツベクアリケルモノヲ》があり、第二句、舊訓コヒシキモノト。第四句、舊訓ヨソニミルベク。即ち舊訓は拾遺集と同じである。柿本集に載り、流布歌仙家集本は、『かくばかり戀ひしきものを知らせばやよそに見ゆべくあらましものを』で、大分違つてゐるが、圖書寮本第二・類從本は、下句、『よそにぞ見つつ有ける|《ん(類)》ものを』の他は、拾遺集に同じである。
 
       ○
   難波人葦火たくやはすすたれどおのが妻こそとこめづらなれ
 
 拾遺集卷十四戀四、題しらず、人麿。萬葉集卷十一(二六五一)、寄物陳思、讀人不知に、難波人葦火燒屋之酢四手雖有己妻許曾常目頻次吉《ナニハビトアシビタクヤノスシテアレドオノガツマコソトコメヅラシキ》がある。第二句、類聚古集アシビタクヤハ。第三句、舊訓スヽタレド。六帖に載り、下句は拾遺集と同じであるが、上句、『難波女の蘆火たく屋はすし(307)たれど』とある。柿本集は、拾遺集に全く同じである。
 
       ○
   たらちねの親のかふこのまゆ籠りいぶせくも有るか妹にあはずて
 
 拾遺集卷十四戀四にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十二(二九九一)、寄物陳思、讀人不知に、垂乳根之母我養蠶乃眉隱馬聲蜂音石花蜘蛛荒鹿異母二不相而《タラチネノハハガカフコノマユゴモリイブセクモアルカイモニアハズテ》がある。第二句、古寫本中(元・類)オヤノカフコノ、(細・西)オヤガカフコノ。京都帝國大學本は『母』の傍に『オヤ諸本如此』と注してある。六帖の第五『わぎもこ』と第二『親』に載り、後者は、いへのおとくろまろ作、結句、『妹にまかせて』となつてゐる。柿本集に載り、流布本結句、『君に《いもイ》あはずて』とあるが、他の諸本『妹に』である。
 
       ○
   よそにありて雲居に見ゆる妹が家に早くいたらむあゆめ黒駒
 
 拾遺集卷十四戀四、『道をまかりてよみ侍りける、人麿』とある。萬葉集卷七(一二七一)、行路、人麿歌集出に、遠有而雲居爾所見妹家爾早將至歩黒駒《トホクアリテクモヰニミユルイモガイヘニハヤクイタラムアユメクロコマ》がある。古寫本等にヨソニアリテの訓は(308)ない。六帖に、人麿として載り、初句、『遠くありて』となつてゐる。柿本集に載り、流布本は、『よそにして』ともなつてゐるが、類從本系統『よそにありて』である。
 
       ○
   ちはやふる神のいがきも越えぬべし今はわが身の惜しけくもなし
 
 拾遺集卷十四戀四、第しらず、柿本人麿とある。萬葉集巻十一(二六六三)、寄物陳思、讀人不知に、千葉破神之伊垣毛可越今者吾名之惜無《チハヤフルカミノイガキモコエヌベシイマハワガナノヲシケクモナシ》がある。六帖に、『今はわが身の惜しからなくに』となつてゐる。柿本集に、拾遺集のごとく載つてゐる。
 
       ○
   住吉のきしにむかへる淡路島あはれときみをいはぬ日ぞなき
 
 拾遺集卷十五戀五にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十二(三一九七)、悲別歌、讀人不知に、住吉乃崖爾向有淡路島※[立心偏+可]怜登君乎不言日者無《スミノエノキシニムカヘルアハヂシマアハレトキミヲイハヌヒハナシ》がある。初句、古寫本中(元・類・古・西)スミヨシノ。六帖に、拾遺集と同じに載つてゐる。
 
(309)       ○
   こひするに死《しに》する物にあらませば千たびぞ我は死にかへらまし
 
 拾遺集卷十五戀五、題しらず、人麿とある。萬葉集巻十一(二三九〇)、正述心緒、人麿歌集出に、戀爲死爲物有者我身千遁死反《コヒスルニシニスルモノニアラマセバワガミハチタビシニカヘラマシ》がある。初句、舊訓コヒヲシテ。嘉暦本コヒスルニ。六帖に、かさの郎女【ある本】として、第二句、『しぬるものにし』、他は拾遺集と同じで載つてゐる。柿本集に載り、流布本、『死ぬるものにし』『我身は千たび』、類從本、『死にするものにし』となつてゐる。
 
       ○
   戀ひて死ね戀ひて死ねとや吾妹子《わぎもこ》が我が家の門を過ぎてゆくらむ
 
 拾遺集卷十五戀五、前の歌につづいてある。萬葉集巻十一(二四〇一)、正述心緒、人麿歌集出に、戀死戀死哉我妹吾家門過行《コヒシナハコヒモシネトヤワギモコガワギヘノカドヲスギテユクラム》がある。第四句、細井本ワガイヘノカドヲ。柿本集に載り、流布本、初句『こひこひて』、結句、『過ぎてゆきぬる』。類從本は拾遺集に同じである。
 
(310)       ○
   戀ひ死なば戀ひも死ねとや玉鉾の道行く人にことづてもなき
 
 拾遺集卷十五戀五、前の歌につづいてある。一本、結句、『ことづてもなし』。萬葉集卷十一(二三七〇)、正述心緒、人麿歌集出に、戀死戀死耶玉桙路行人事告無《コヒシナバコヒモシネトヤタマホコノミチユキビトニコトモツゲナク》がある。結句、舊訓コトモツゲケム(事告兼)。嘉暦本コトツケモナシ(事告無)。六帖に、人麿【或る本】として載り、結句、『言つてもせぬ』とある。柿本集に載り、類從本、『ことづてもなし』、流布本、『こひも死ねとか』『ことづてもなし』となつてゐる。
 
       ○
   あらちをのかる矢の先にたつ鹿もいとわればかり物はおもはじ
 
 拾遺集卷十五戀五、題しらず、人麿。柿本集に載り、第四句、『わがごとに《わればかりイ》』(流布本)、『わがごとく』(類從本)とある。
 
       ○
(311)   荒磯《あらいそ》のほかゆく浪のほかごころ我はおもはじ戀ひは死ぬとも
 
 拾遺集卷十五戀五、前の歌につづいてある。萬葉集卷十一(二四三四)、寄物陳思、人麿歌集出に、荒磯越外往波乃外心吾者不思戀而死鞆《アリソコエホカユクナミノホカゴコロワレハオモハジコヒテツヌトモ》がある。初句、舊訓アライソコエ。結句、古寫本中(古)コヒハシヌトモ。柿本集に、拾遺集の如くに載つた。
 
       ○
   かきくもり雨ふる川のさざら浪まなくも人の戀ひらるるかな
 
 拾遺集卷十五戀五、前の歌につづいてある。萬葉集卷十二(三〇一二)、寄物陳思、讀人不知に、登能雲入雨零河之左射禮浪間無毛君者所念鴨《トノグモリアメフルカハノサザレナミマナクモキミハオモホユルカモ》がある。第三句、古寫本中(類・古)サヽラナミ。六帖に、素性或本として載り、初句、『日暮しの』。柿本集に載り、初句、『日の|くもり《くらしにィ》』である。
 
       ○
   我がごとや雲の中にもおもふらむあめも涙もふりにこそ降れ
 
 拾遺集卷十五戀五、前の歌につづいてある。伊勢集に載り、初句、『わが宿や』(流布本)、『わが(312)ごとや』(類從本)となつてゐる。
 
       ○
   とにかくに物は思はず飛騨たくみ打つすみなはのただ一筋に
 
 拾遺葉卷十五戀五、超しらず、人麿。萬葉集卷十一(二六四八)、寄物陳思、讀人不知に、云云物者不念斐太人乃打墨繩之直一道二《カニカクニモノハオモハズヒダビトノウツスミナハノタダヒトミチニ》がある。初句、古寫本中(嘉・類・古・細)トニカクニ。第三句、類聚古集ヒダタクミ。結句、舊訓タダヒトスヂニ。古寫本中(古・京)タタヒトミチニ。六帖に、人麿とし、『云ひし云はば物は思はじ飛騨人の打つすみなはのただ一道に』とある。柿本集に、拾遺集の通りに載つた。
 
       ○
   郭公かよふかきねの卯の花のうきことあれやきみが來まさぬ
 
 拾遺集卷十六雜春にあり、題しらず、人麿。初句、一本に、『うぐひすの』とある。萬葉集卷十(一九八八)、寄花、讀人不知に、※[(貝+貝)/鳥]之往來垣根乃宇能花之厭事有哉君之不來座《ウグヒスノカヨフカキネノウノハナノウキコトアレヤキミガキマサヌ》がある。柿本集及び赤人集に載り、初句いづれも 『ほととぎす』である。
 
(313)       ○
   わたし守はや舟よせよひととせに二たび來ます君ならなくに
 
 拾遺集卷十七雜秋にあり、題しらず、人麿。第二句の『よせよ』は、一本に『かくせ』とある。萬葉集卷十(二〇七七)、七夕、讀人不知に、渡守舟早渡世一年爾二遍往來君爾有勿久爾《ワタリモリフネハヤワタセヒトトセニフタタビカヨフキミニアラナクニ》がある。初句、古寫本中(元・類・神)ワタシモリ。第四句、古寫本中(元・類・神)フタタビキマス。結句、古寫本中(元・神)キミナラナクニ。六帖に、第二句、『舟はやわたせ』。赤人集に、第二句、『舟はやわたせ』、第四句、『ふたたびかよふ』とある。柿本集に、第二句、『船はやわたせ』(流布本)、『ふねはやかくせ』(圖書寮本第一)、『はや舟わたせ』(類從本)となつてゐる。
 
       ○
   庭草にむらさめ降りてひぐらしの鳴くこゑきけば秋は來にけり
 
 拾遺集卷十七雜秋、題しらず、人麿。萬葉集卷十(二一六〇)、詠蟋蟀、讀人不知に、庭草爾村雨落而蟋蟀之鳴音聞者秋付爾家里《ニハクサニムラサメフリテコホロギノナクコヱキケバアキヅキニケリ》がある。第三句、舊訓キリギリス。元暦本ヒグラシノ。六帖に、讀人不知とし、歌は拾遺集に同じである。柿本集にもその通りに載つた。
 
(314)       ○
   秋風のさむく吹くなる我が宿の淺茅《あさぢ》がもとにひぐらしも鳴く
 
 拾遺集卷十七雜秋にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二一五八)、詠蟋蟀、讀人不知に、秋風之寒吹奈倍吾屋前之淺茅之本蟋蟀鳴毛《アキカゼノサムクフクナベワガヤドノアサヂガモトニコホロギナクモ》がある。結句、舊訓キリギリスナクモ。元暦本ヒグラシナクモ。柿本集に、拾遺集の通りに載つた。
 
       ○
   秋風し日ごとに吹けば我が宿のをかの木の葉はいろづきにけり
 
 拾遺集卷十七雜秋にあり、前の歌につづいてある。萬葉集卷十(二一九三)、詠黄葉、讀人不知に、秋風之日異吹者水莖能岡之木葉毛色付爾家里《アキカゼノヒニケニフケバミヅクキノヲカノコノハモイロヅキニケリ》がある。第二句、古寫本中(元・類・神)ヒゴトニフケバ。六帖に、讀人不知とし、初句、『秋風の』、第三・四句、『水莖の岡の木の葉も』とある。柿本集に載り、初句、『秋風の』。第三句、『久方の』(流布本)、『みづくきの』(類從本等)。第四句、『岡の木の葉も』となつてゐる。
 
(315)       ○
   秋霧のたなびく小野《をの》の萩の花今や散るらむいまだあかなくに
 
 拾遺集卷十七雜秋、前の歌につづいてある。萬葉集卷十(二一一八)、詠花、讀人不知に、朝霧之棚引小野之芽子花今哉散濫未※[厭のがんだれなし]爾《アサギリノタナビクヲヌノハギガハナイマヤチルラムイマダフカナクニ》がある。初句、神田本アキヽリノ。第三句、舊訓ハギノハナとなつてゐる。
 
       ○
   このごろのあかつき露に我がやどの萩の下葉はいろづきにけり
 
 拾遺集卷十七雜秋にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二一八二)、詠黄葉、讀人不知に、比日之曉露丹吾屋前之芽子乃下葉者色付爾家里《コノゴロノアカトキツユニワガヤドノハギノシタバハイロヅキニケリ》がある。第二句、舊訓アカツキツユニ。六帖に、讀人不知とし、初句、『このごろも』とある。柿本集に載つた。
 
       ○
   夜をさむみ衣かりがね鳴くなべに萩の下葉はいろづきにけり
 
(316) 拾遺集卷十七雜秋、前の歌につづいてある。先にあげた如く、古今集卷四に、題しらず、讀人しらず、下句、『萩の下葉もうつろひにけり』とあり、左注に『この歌はある人のいはく柿本の人麿がなりと』とある。又、六帖に、人麿とし、下句、『萩の下葉も色づきにけり』とある。
 
       ○
   わぎもこが赤裳ぬらして植ゑし田を刈りてをさむる藏なしの濱
 
 拾遺集卷十七雜秋にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷九(一七一〇)、右二首或云柿本朝臣人麻呂作と注された歌に、吾妹兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅將藏倉無之濱《ワギモコガアカモヒヅチテウヱシタヲカリテヲサメムクラナシノハマ》がある。第二句、古寫本中(藍・壬・古・神)アカモヌラシテ。六帖第二、『夏の田』に、人まろとして、第二句以下『赤裳ぬれつつ植うる田を刈りてをさめむ』云々とあり、同第三、『濱』に、人麿として、『我背子が……刈りてをさめむ』云々とある。柿本集に、第四句、『刈りてをさめむ』として載つた。
 
       ○
   梓弓ひきみ引かすみこすはこずこばこそ猶ぞよそにこそみめ
 
 拾遺集卷十八雜賀にあり、柿本人麿とある。萬葉集卷十一(二六四〇)、寄物陳思、讀人不知に、(317)梓弓引見弛見不來者不來來者來其乎奈何不來者來者其乎《アヅサユミヒキミユルベミコズハコズコバコソヲナゾコズハコバソヲ》がある。第二句、古寫本中(嘉・類・古・細)ヒキミヒカズミ。六帖に、きの女郎として、第四句、『こばこそをなど』とある。柿本集に載り、第四句、『こばこそをなぞ』(流布本)、『こばこそはなぞ』(類從本)とある。結句は、六帖、拾遺集、柿本集、皆同一であるが、萬葉集古寫本に原據が見當らない。
 
       ○
   少女子が袖ふる山のみづがきのひさしき世よりおもひそめてき
 
 拾遺集卷十九雜戀にあり、題しらず、柿本人麿とある。萬葉集卷四(五〇一)、柿本朝臣人麻呂歌に、未通女等之袖振山乃水垣之久時從憶寸吾者《ヲトメラガソデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒキワレハ》があり、初句、類聚古集・神田本ヲトメゴガ。第四句、舊訓ヒサシキヨヨリ。卷十一(二四一五)、寄物陳思、人麿歌集出に、處女等乎袖振山水垣久時由念來吾等者《ヲトメラヲソデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒケリワレハ》と重出し、初句、嘉暦本・類聚古集ヲトメラガ。第四句、舊訓ヒサシキヨヨリである。卷四の歌は、和歌童蒙抄にも、『ヲトメコカソテフルヤマノミツカキノヒサシキヨヽリヲモヒソメテキ』として引かれてゐる。六帖にも、人麿として同樣に載つてゐる。
 
       ○
(318)   三島江の玉江の葦をしめしよりおのがとぞ思ふいまだ刈らぬど
 
 拾遺集卷十九雜戀にあり、題しらず、柿本人麿とある。萬葉集卷七(一三四八)、寄草、讀人不知に、三島江之玉江之薦乎從標之己我跡曾念雖未苅《ミシマエノタマエノコモヲシメシヨリオノガトゾオモフイマダカラネド》がある。六帖に、讀人不知、第二句拾遺集に同じ。柿本集も同樣である。
 
       ○
   石見なるたかまの山の木の間より我がふる袖を妹見けむかも
 
 拾遺集卷十九雜戀にあり、『いはみに侍りける女のまうで來りけるに、人麿』とある。萬葉集卷二(一三二)、柿本朝臣人麿從石見國別妻上來時歌の反歌に、石見乃也高角山之木際從我振袖乎妹見都良武香《イハミノヤタカツヌヤマノコノマヨリワガフルソデヲイモミツラムカ》があり、その或本歌(一三四)に、石見爾有高角山乃木間從文吾袂振乎妹見監鴨《イハミナルタカツヌヤマノコノマユモワガソデフルヲイモミケムカモ》がある。この拾遺集の歌はその或本歌の方から來てゐると思はれる。第三句、舊訓コノマニモ。古寫本中(元・金・類)コノマヨリ。第四句、古寫本中(元・金・類・神・温)ワガフルソデヲで、拾遺集と一致する。但し『たかまの山』の訓は、萬葉の諸本に見當らない。六帖には、人麿として、『石見のや高角山の木の間より我が袖ふるを妹見つらむや』とある。柿本集に載り、流布本は拾遺集同樣(319)であるが、他の諸本みな『たかつの山』になつてゐる。
 
       ○
   山科のこはたの里に馬はあれどかちよりぞ來る君を思へば
 
 拾遺集卷十九雜戀にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二四二五)、寄物陳思、人麿歌集出に、山科強田山馬雖在歩吾來汝念不得《ヤマシナノコハタノヤマヲウマハアレドカチユワガコシナヲオモヒカネ》がある。第二句、舊訓コハタノヤマニ。第四句、舊訓カチヨリワレク。古寫本中(嘉)カチヨリゾクル。結句、舊訓ナレヲオモヒカネ。古寫本中(嘉・古・細)キミヲオモヒカネ、(類)キミオモヒカネである。
 
       ○
   春日やま雲ゐがくれてとほけれど家はおもはず君をこそおもへ
 
 拾遺集卷十九雜戀にあり、前の歌につづいてゐる。萬葉集卷十一(二四五四)、寄物陳思、人麿歌集出に、春日山雲座隱雖遠家不念公念《カスガヤマクモヰガクリテトホケレドイヘハオモハズキミヲシゾオモフ》があり、舊訓クモヰガクレテトホケレドである。
 
       ○
(320)   いはしろの野中にたてるむすび松心も解けずむかしおもへば
 拾遺集卷十九雜戀、題しらず、人麿。前出卷十四と重出してゐる。萬葉集卷二(一四四)、磐代乃野中爾立有結松情毛不解古所念《イハシロノヌナカニタテルムスビマツココロモトケズイニシヘオモホユ》{舊訓ムカシオモヘバ)があり、六帖(結句ムカシヲゾオモフ)、柿本集に載つてゐること前述の如くである(本書三一七頁)。〔本卷三〇四頁〕
 
       ○
   こぞ見てし秋の月夜はてらせどもあひ見し妹はいや遠ざかる
 
 拾遺集卷二十哀傷にあり、『妻にまかりおくれて又の年の秋月を見侍りて、人麿』とある。萬葉集卷二(二一一)、柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌の反歌に、去年見而之秋乃月夜者雖照相見之妹者彌年放《コゾミテシアキノツクヨハテラセドモアヒミシイモハイヤトシサカル》がある。なほ、右の或本歌に去年見而之秋月夜雖度相見之妹者益年離《コゾミテシアキノツクヨハワタレドモアヒミシイモハイヤトシサカル》があつて、この方の結句を、類聚古集では『いやとをさかる』としてゐる。六帖に拾遺集と同じに載つてゐる。家持集も同樣で、『この歌人丸集にいでたり』と注がある。柿本集には、第三句が『宿れども』(流布本)、『わたれども』(圖書寮本第一)、『てらせども』(圖書寮本第二)、『照らすとも』(類從本)などいろいろになつてゐる。
 
(321)       ○
   わぎもこがねくたれがみを猿澤の池の玉藻と見るぞかなしき
 
 拾遺集卷二十哀傷にあり、『猿澤の池に采女《うねめ》の身なげたるを見て、人麿』とある。この歌は大和物語に出てゐる。また柿本集に載つた。
 
       ○
   ささ波やしがのてこらがまかりにし川瀬の道を見れば悲しも
 
 拾遺集卷二十哀傷にあり、『吉備津の采女なくなりて後よみ侍りける、人麿』とある。萬葉集卷二(二一八)、吉備津采女死時柿本朝臣人麿作歌の反歌に、樂浪之志我津子等何罷道之川瀬道見者不怜毛《ササナミノシガツノコラガマカリヂノカハセノミチヲミレバサブシモ》がある。第四・五句、古寫本中(類・神)カハセノミチハミレバカナシモとある。和歌童蒙抄にもさうなつてをり、又第二句『シカノツコラカ』とあるのは、『しかのてこら』への轉訛の徑路を想像せしめるものである。
 
       ○
(322)   沖つ浪よる荒磯をしきたへのまくらとまきてなれるきみかも
 拾遺集卷二十哀傷。前の歌につづき、『讃岐のさみねの島にしていはやのなかにてなくなりたる人を見て』と詞書がある。萬葉集卷二(二二二)、讃岐狹岑島視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首并短歌の反歌に、奧波來依荒磯乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマキテナセルキミカモ》がある。第二句、舊訓キヨルアライソヲ。金澤本ヨルアライソヲ。結句、金澤本ナレルキミカモ。即ち、拾遺集は、萬葉古寫本中金澤本の訓と全く一致してゐることがわかる。六帖に、人麿とし、下句、『枕にまきてふせる妹かな』となつてゐる。柿本集に載り、流布本、第二句、『よる荒磯の』、第四句、『枕となりて』。
 
       ○
   家にいきて我が家を見れば玉笹のほかにおきたる妹がこまくら
 
 拾遺集卷二十哀傷にあり、『妻《め》の死に侍りて後悲しびてよめる、人麿』とある。萬葉集卷二(二一六)、柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌の或本歌反歌に、家來而吾屋乎見者玉床之外向來妹木枕《イヘニキテワガヤヲミレバタマドコノホカニムキケリイモガコマクラ》がある。柿本集に載り、第三・四句、『玉ゆかの外におき|ける《たる一本》』となつてゐる。
 
(323)       ○
   まきもくの山べ響《ひび》きて行く水のみなわの如くよをば我がみる
 
 拾遺集卷二十哀傷。前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷七(一二六九)、就所發思、人麿歌集出に、卷向之山邊響而往水之三名沫如世人吾等者《マキムクノヤマベトヨミテユクミヅノミナワノゴトシヨノヒトワレハ》がある。初句、舊訓マキモムノ。古寫本マキモクノ。第二句、舊訓ヤマベヒビキテ。第四句、古寫本中(類・神・細)ミナワノゴトク。結句は拾遺集の如き訓は見當らない。柿本集に載り、第四句、『みつのあはこと《みなはのことに》』となつてゐる。
 
       ○
   いも山の岩根における我をかも知らずて妹が待ちつつあらむ
 
 拾遺集卷二十哀傷。前の歌につづき、詞書、『石見に侍りてなくなり侍りぬべき時にのぞみて』とある。萬葉集卷二(二二三)、柿本朝臣人麿在石見國臨死時自傷作歌一首に、鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有《カモヤマノイハネシマケルワレヲカモシラニトイモガマチツツアラム》がある。第四句、舊訓シラズトイモガ。古寫本中(金・神・細)シラズテイモガ。六帖に、『神山の岩根しまける我をかも知らずて妹が待ちつつをらむ』となつてゐる。柿本集に拾遺集の如くに載つた。
 
(324) 新古今集
 
       ○
   鳴く聲をえやは忍ばぬほととぎす初卯の花のかげにかくれて
 
 新古今集卷三夏歌にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集其他に同樣の歌は見當らない。
 
       ○
   秋萩のさきちる野邊《のべ》の夕露にぬれつつ來ませ夜はふけぬとも
 
 新古今集卷四秋歌上にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二二五二)、寄露、讀人不知に、秋芽子之開散野邊之暮露爾沾乍來益夜者深去鞆《アキハギノサキチルヌベノユフツユニヌレツツキマセヨハフケヌトモ》がある。六帖に、第二句、『咲ける岡べの』、第四句、『ぬれつつもませ』とあり、柿本集流布本に、第二・三句、『咲ける野への夕暮に』(類從本は新古今に同じ)とあり、家持集に、第二句、『咲出る野べの』とある。
 
(325)       ○
   さをしかのいる野のすすきはつ尾花いつしか妹が手枕にせむ
 
 新古今集卷四秋歌上にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二二七七)、寄花、讀人不知に、左小牡鹿之入野乃爲酢寸初尾花何時加妹之手將枕《サヲシカノイリヌノススキハツヲバナイヅレノトキカイモガテマカム》がある。第二句、舊訓イルノノススキ。『手將枕』は、舊本『將手枕』となつてをり、下句の舊訓イツシカイモガ・タマクラニセムである。今の訓は代匠記の訓で、古寫本中(元・類・神)に、『手將枕』とあるから、萬葉本來の訓み方としてはこれに從ふべきであるが、『將手枕』とある古寫本も多く、古寫本の訓は皆舊訓乃至舊訓類似のものであるから、新古今集の訓み方は由來のあるものであることが分かる。柿本集に同樣にあり、六帖に、人麿として、下句『いつしか君が手枕をせむ』とある。
 
       ○
   秋されば雁のはかぜに霜ふりてさむき夜な夜な時雨さへ降る
 
 新古今集卷五秋歌下にあり、題しらず、人麿とある。第二句、一本、『雁のつばさに』。萬葉集、他の勅撰集等に同じ歌と認むべきものがない。萬葉集卷一(六四)、志貴皇子御作歌に、葦邊行鴨(326)之羽我比爾霜零而寒暮夕倭之所念《アシベユクカモノハガヒニシモフリテサムキユフベハヤマトシオモホユ》。定家が『雁がねの雲行く羽に置く霜の寒き夜頃に時雨さへ降る』といふ歌を作り、拾遺愚草に載つてゐる。
 
       ○
   さを鹿の妻とふ山の岡べなるわさ田は刈らじ霜はおくとも
 
 新古今集卷五秋歌下にあり、前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷十(二二二〇)、詠水田、讀人不知に、左小牡鹿之妻喚山之岳邊在早田者不苅霜者雖零《サヲシカノツマヨブヤマノヲカベナルワサダハカラジシモハフルトモ》があり、第二句、古寫本中(神)ツマトフヤマノ。結句、古寫本中(元・類・神)シモハオクトモの訓がある。即ち萬葉の古訓と一致してゐる。柿本集にも同樣にある。六帖には、讀人不知、第二句、『妻待つ山の』となつてゐる。
 
       ○
   秋さればおく白露にわが宿の淺茅がうは葉いろづきにけり
 
 新古今集卷五秋歌下にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二一八六)、詠黄葉、讀人不知に、秋去者置白露爾吾門乃淺茅何浦葉色付爾家里《アキサレバオクシラツユニワガカドノアサヂガウラバイロヅキニケリ》があり、第三句、古寫本中(元・類)ワガヤドノとあり、和歌童蒙抄の引用にもさうある。柿本集に、第四句、『あさぢがうへは』ともあり、家(327)持集には、『あさぢがうれは』となつて載つてゐる。
 
       ○
   かきはなる荻の葉そよぎ秋風の吹くなるなべに雁ぞなくなる
 
 新古今集卷五秋歌下にあり、題しらず、人麿とある。萬葉葉卷十(二三四)、詠鴈、讀人不知に、葦邊在荻之葉左夜藝秋風之吹來苗丹鴈鳴渡《アシベナルヲギノハサヤギアキカゼノフキクルナベニカリナキワタル》がある。六帖に、人丸として、『葦べなる荻の葉そよぎ秋風の吹き來るなべに雁鳴きわたる』とある。柿本集類從本に、第二・三句、『荻の葉さやぎ吹風の吹なるなべに』とあり、その他はこの新古今集と同じである。柿本集流布本は、『垣ねなるはぎの花さく秋風の吹なるなべにかり鳴わたる』となつてゐる。
 
       ○
   秋かぜに山とび越ゆる雁がねのいや遠ざかりくもがくれつつ
 
 新古今集卷五秋歌下にあり、前の歌につづいてゐる。萬葉集卷十(二一二八)、詠鴈、讀人不知に、秋風爾山跡部越鴈鳴者射失遠放雲隱筒《アキカゼニヤマトヘコユルカリガネハイヤトホザカルクモガクリツツ》がある。第二句、舊訓ヤマトビコユル。結句、舊訓、クモガクレツツ。第四句、古寫本中(神・温)イヤトホザカリ。同じく萬葉集卷十(二一三六)、詠(328)鴈、讀人不知に、秋風爾山飛越鴈鳴之聲遠離雲隱良思《アキカゼニヤマトビコユルカリガネノコヱトホザカルクモガクルラシ》といふ歌もあり、第四句、古寫本中(元)イヤトホサカル、(神)イヤトヲサカリと訓んでゐる。六帖に、『人まろ』として載り、又柿本集にも載り、新古今集と同樣になつてゐる。家持集は、第四句、『聲遠ざかり』となつたのが載つてゐる。
 
       ○
   飛鳥川もみぢ葉ながるかつらぎのやまの秋風吹きぞしぬらし
 
 新古今集卷五秋歌下にあり、題しらず、柿本人麿とある。一本、結句、『吹きぞしぬらむ』。萬葉集卷十(二二一〇)、詠黄葉、讀人不知に、明日香河黄葉流葛木山之木葉者今之散疑《アスカガハモミヂバナガルカヅラキノヤマノコノハハイマシチルカモ》がある。結句、舊訓イマシチルラシ。古寫本中(元)イマシチルラン、(類・神)イマカチルラン。萬葉集には『山の秋風』といふ句は見當らない。六帖に、第三句以下、『かつらぎや山には今ぞしぐれふるらし』となつてをり、家持集に、下句、『山の木の葉は今か散るらむ』となつてゐる。
 
       ○
   しぐれの雨まなくし降れば槇の葉もあらそひかねて色づきにけり
 
(329) 新古今集卷六冬歌にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二一九六)、詠黄葉、讀人不知に、四具禮能雨無間之零者眞木葉毛爭不勝而色付爾家里《シグレノアメマナクシフレバマキノハモアラソヒカネテイロヅキニケリ》がある。六帖に、第三・四句、『神なびの森の木葉も』となつてゐる。柿本集類從本は、萬葉・新古今に同じく、流布本は、第一・二句、『時雨のみめにはふれゝは』、結句、『紅葉しにけり』となつてゐる。
 
       ○
   矢田の野に淺茅《あさぢ》いろづく荒乳《あらち》やま嶺の泡雪さむくぞあるらし
 
 新古今集卷六冬歌にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二三三一)、詠黄葉、讀人不知に、八田乃野之淺茅色付有乳山峯之沫雪寒零良之《ヤタノヌノアサヂイロヅクアラチヤマミネノアワユキサムクフルラシ》がある。結句、類聚古集サムクゾアルラシ、元暦校本サムクアルラシ、神田本サムクゾフルラシとなつてゐる。六帖に、初句、『矢田の野の』、結句は新古今と同じ。柿本集にも載り、これは全く新古今と同じである。
 
       ○
   久方のあめにしをるる君ゆゑに月日もしらで戀ひわたるらむ
 
 新古今集卷八哀傷歌にあり、『奈良の帝ををさめ奉りけるを見て、人麿』とある。萬葉集卷二(330)(二〇〇)、高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌の反歌に、久竪之天所知流君故爾日月毛不知戀渡鴨《ヒサカタノアメシラシヌルキミユヱニヒツキモシラズコヒワタルカモ》がある。第二句、舊訓アメニシラルルであるから、『あめにしをるる』はそれから來てゐるのであらう。ツキヒとかシラデとかコヒワタルラムとかの訓は、萬葉古寫本にはない。柿本集流布本は、『あめにしくるゝ君ゆへに月日もしら|ず《で》戀わたるらん』、類從本は、『あめにしほるゝ君ゆゑに月日もしらず戀渡るかも』で、大分新古今と共通點が出て來てゐる。
 
       ○
   あまざかるひなの長路を漕ぎくれは明石のとより大和島みゆ
 
 新古今集卷十※[覊の馬が奇]旅歌にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷三(二五五)、柿本朝臣人麻呂※[覊の馬が奇]旅歌八首の中に、天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマザカルヒナノナガヂユコヒクレバアカシノトヨリヤマトシマミユ》一本云|家門當見由《ヤドノアタリミユ》がある。第二句、舊訓ヒナノナガヂヲ。第三句、古寫本中(類・神)コギクレバ。即ち新古今はこれらの訓によつたものであることが分かる。柿本集流布本は、第三句、『こぎゆけば』、結句、『家の《大和嶋イ》あたりみゆ』となつてをり、同じく類從本は、新古今集と一致してゐる。
 
       ○
(331)   笹の葉はみ山もそよに亂るりちわれは妹思ふ別れ來ぬれば
 
 新古今集卷十※[覊の馬が奇]旅歌、前の歌に續いて出てゐる。萬葉集卷二(一三三)、柿本朝臣人麿從2石見國1別v妻上來時歌の反歌に、小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆《ササノハハミヤマモサヤニミダレドモワレハイモオモフワカレキヌレバ》がある。第二句、元暦校本にはソヨニとあるが、ミダルナリといふ訓は、萬葉古寫本に見當らない。六帖に、人麿として載つたが、これは『み山もよそに別るらむ我は妹にし別れ來ぬれば』となつてゐる。柿本集流布本は、『みやまもそよにみだるらん我はいも思ふ|おきて《わかれイ》き|つ《ぬイ》れば』であり、同じく類從本は、『そよにみだるめり我は妹思別きぬれば』である。
 
       ○
   あしびきの山田もる庵におくかびの下こがれつつ我が戀ふらくは
 
 新古今集卷十一戀歌一にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二六四九)、寄物陳思、讀人不知に、足日木之山田守翁置蚊火之下粉枯耳余戀居久《アシヒキノヤマダモルヲヂガオクカビノシタコガレノミワガコヒヲラク》がある。新古今集のやうな訓は古寫本等にも見當らない。六帖には、『山田もるをのをくかびの下焦れのみ我戀ひをらむ』とあり、柿本集流布本には、『山田もる|おの《いほに》をくかびのしたこがれつつわがこふらくは』とある。兩者の第二・三(332)句は、萬葉の舊訓ヤマダモルヲノ・オクカビノに一致し、柿本集の下の句は新古今と一致する。一本、『いほに』とあるのは、類從本系統がさうであつて、これなら全然新古今と同じである。
 
       ○
   石《いそ》の上《かみ》ふるのわさ田のほには出でず心のうちに戀ひやわたらむ
 
 新古今集卷十一戀歌一、前の歌に續いて出てゐる。萬葉集卷九(一七六八)、拔氣大首任2筑紫1時娶2豐前國娘子紐兒1作歌三首の中に、石上振乃早田乃穗爾波不出心中爾戀流比日《イソノカミフルノワサダノホニハイデズココロノウチニコフルコノゴロ》がある。六帖にも、萬葉のとほりに、結句、『こふるこのごろ』となつてゐる。
 
       ○
   みかりするかりばのをののなら柴の馴れはまさらで戀ぞまされる
 
 新古今集卷十一戀歌一にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十二(三〇四八)、寄物陳思、讀人不知に、御獵爲鴈羽之小野之櫟柴之奈禮波不益戀社益《ミカリスルカリハノヲヌノナラシバノナレハマサラズコヒコソマサレ》がある。第四句、舊訓ナレハマサラデ。結句、西本願寺本の一訓にコヒゾマサレルがある。
 
(333)       ○
   衣手に山おろし吹きて寒き夜を君來まさずばひとりかも寢む
 
 新古今集卷十三戀歌三にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十三(三二八)、讀人不知に、衣袖丹山下吹而寒夜乎君不來者獨鴨寢《コロモデニアラシノフキテサムキヨヲキミキマサズハヒトリカモネム》があり、第二句、舊訓ヤマオロシフキテである。六帖に載り、第四句、『君來まさねば』となつてゐる。
 
       ○
   夏野ゆく牡鹿の角のつかのまも忘れずぞ思ふ妹がこころを
 
 新古今集卷十五戀歌五にあり、題しらず、人丸とある。一本、第四句、『忘れず思へ』。萬葉集卷四(五〇二)、柿本朝臣人麻呂歌三首の中に、夏野去小牡鹿之角乃東間毛妹之心乎忘而念哉《ナツヌユクヲジカノツヌノツカノマモイモガココロヲワスレテオモヘヤ》がある。六帖に、人麿作として、『鹿』と『夏野』の二箇所に載つたが、これは下の句が『見ねば戀しき君にもあるかな』となつてゐる。柿本集流布本には、『忘れず思ふいもが心を』、一本、『みねばこひしき君にも有哉』とあり、なほ『忘れず思|へ《ふイ》』(類從本)、『忘れずぞおもふ』(圖書寮本第一)などともなつてゐる。
 
(334)       ○
   なつくさの露分ごろもきもせぬになどわが袖のかわく時なき
 
 新古今集卷十五戀歌五、前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷十(一九九四)、寄露、讀人不知に、夏草乃露別衣不著爾我衣手乃干時毛名寸《ナツクサノツユワケゴロモツケナクニワガコロモデノヒルトキモナキ》があり、第三句、舊訓キモセヌニである。六帖に、第四句、『我が衣手の』、他は新古今集と同じになつてゐる。柿本集に載り、類從本は、新古今集と同じく、流布本、第三句以下、『きぬ物をなどか我袖のかわく時なき』となつてゐる。又、赤人集にも載り、流布本、『きもせぬに我が衣手のひるよしもなき』。西本願寺本、『まだきぬにわがころもで|に《は》ひるよしもなし』 である。
 
       ○
   もののふの八十うぢ川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも
 
 新古今集卷十七雜歌中にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷三(二六四)、柿木朝臣人麻呂從2近江國1上來時至2宇治河邊1作歌一首に、物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノノフノヤソウヂガハノアジロキニイサヨフナミノユクヘシラズモ》がある。六帖に、人麿として載り、結句、『寄べ知らずも』となつてをり、柿本集も六帖と同樣(335)である。(但し類從本系統は『行衛知らずも』)。因に、その『よるべ』といふ訓も、萬葉古寫本中神田本にあり、又袖中抄でもさう訓んでゐるのであるが、新古今集はそれを採用しなかつたらしい。和歌童蒙抄では『タヽヨフナミノユクヘシラスモ』としてゐる。
 
       ○
   秋されば狩人こゆる立田山たちても居てもものをしぞ思ふ
 
 新古今集卷十七雜歌中にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二二九四)、寄山、讀人不知に、秋去者鴈飛越龍田山立而毛居而毛君乎思曾念《アキサレバカリトビコユルタツタヤヤタチテモヰテモキミヲシゾオモフ》がある。古寫本等に、『狩人こゆる』、『ものをしぞ思ふ』等の訓はない。柿本集にあり、第四・五句、『たつとゐるとに君をこそ思へ』、或は『立ちても居ても物をこそ思へ』になつてゐる。
 
       ○
   蘆鴨の騷ぐ入江の水の江の世にすみがたき我が身なりけり
 
 新古今集卷十八雜歌下にあり、題しらず、人麿とある。第一・二句に就いては、萬葉集卷十一(二七六八)、寄物陳思、讀人不知に、葦多頭乃颯入江乃白菅乃知爲等乞痛鴨《アシタヅノサワグイリエノシラスゲノシラレムタメトコチタカルカモ》があり、古今集卷十一(336) 戀歌一に、『蘆鴨のさわぐ入江の白波のしらずや人をかく戀ひむとは』があるけれども、同じ歌と見るべきものは、萬葉集にも他の勅撰集にも見當らない。柿本集に、國名の歌の中『つのくに』の歌としてあり、流布本、第三句、『みづならで』ともなってゐる。
 
(337) 新勅撰集
 
       ○
   白露と秋の花とをこきまぜてわくことかたきわが心かな
 
 新勅撰集巻四秋歌上にあり、題しらず、柿本人丸とある。萬葉集巻十(二一七一)、詠露、讀人不知に、白露與秋芽子者戀亂別事難吾情可聞《シラツユトアキノハギトハコヒミダリワクコトカタキワガココロカモ》がある。第二句、神田本アキノハナトハ。第三句、舊訓コヒミダレ。コキマゼテといふ訓は萬葉古訓に見當らない。六帖に、第一二句、『白露を秋の萩原に』として載り、第三句以下新勅撰と同様である。柿本集には、第四句、『あくことかたき』とあるほかは(一本は『わくこと』)、新勅撰と同様になつてゐる。
 
       ○
   秋田もるひたのいほりに時雨ふりわが袖ぬれぬほす人もなし
 
(338) 新勅撰集卷五秋歌下にあり、題しらず、人丸とある。萬葉卷十(二二三五)、詠雨、讀人不知に、秋田苅客乃廬入爾四具禮零我袖沾干人無二《アキタカルタビノイホリニシグレフリワガソデヌレヌホスヒトナシニ》がある。第二句、神田本はヒタノイホリニと訓んでゐる。六帖に、人麿として、第一・二句、『秋田かる旅の空にて』、結句、『乾す人なしに』とある。柿本集流布本は、初句、『秋田かる』、同類從本は、結句、『ほす人なしに』と、それぞれ一部分づつ新勅撰と小差異がある。
 
       ○
   夕されば君來まさむと待ちし夜の名殘ぞ今も寢ねがてにする
 
 新勅撰集卷十四戀歌四にあり、題しらず、柿本人丸とある。萬葉集卷十一(二五八八)、正述心緒、讀人不知に、夕去者公來座跡待夜之名凝衣今宿不勝爲《ユフサレバキミキマサムトマチシヨノナゴリゾイマモイネガテニスル》がある。第二句、舊訓キミキマスカトであり、古寫本中(嘉・細)キミヤキマスト、(西)キミキマスヤトで、新勅撰と一致するキミキマサムトといふ訓は、考に始まるのである。柿本集に、全く同樣に載つてをり(一本、『今は寢ねがてにする』)、新勅撰はこれから採つたのであらう。
 
       ○
 
(339)   あしびきの山下風は吹かねども君が來ぬ夜はかねてさむしも
 新勅撰集卷十四戀歌四、前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷十(二三五〇)、寄夜、讀人不知に、足檜木乃山下風波雖不吹君無夕者豫寒毛《アシヒキノヤマノアラシハフカネドモキミナキヨヒハカネテサムシモ》がある。第二句、舊訓ヤマシタカゼハ。第四句、古寫本中(元・神)キミガコヌヨハである。六帖に、人麿として、新勅撰と同樣に載り、柿木集も諸本皆新勅撰と一致してゐる。家持集には、結句、『袂寒しも』となつてゐる。
 
       ○
   玉ほこの道行きつかれいな筵《むしろ》しきても人を見るよしもがな
 
 新勅撰集卷十四戀歌四にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十一(二六四三)、寄物陳思、讀人不知に、玉戈之道行疲伊奈武思侶敷而毛君乎將見因母鴨《タマホコノミチユキツカレイナムシロシキテモキミヲミムヨシモガモ》がある。六帖に、結句、『見むよしもがな』と載つた。柿本集には、新勅撰と同じく、『見るよしもがな』と載つてゐる。
 
       ○
   み吉野の御舟《みふね》の山にたつ雲の常にあらむとわが思《おも》はなくに
 
(340) 新勅撰集卷十八雑歌三にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷三(二四四)、或本歌、人麿歌集出に、三吉野之御船乃山爾立雲之常將在跡我思莫苦二《ミヨシヌノミフネノヤマニタツクモノツネニアラムトワガオモハナクニ》がある。家持集にも載り、第四句、『常ならむとも』となつてゐる。
 
(341) 續後撰集
 
       ○
   青柳のかづらにすべくなるまでにまてどもなかぬ鶯の聲
 
 續後撰集卷一春歌上にあり、題しらず、柿本人丸とある。他の歌集等に見當らない。
 
       ○
   春霞立ちまふ山と見えつるはこのもかのもの櫻なりけり
 
 續後撰集卷二春歌中にあり、題しらず、人丸とある。柿本集、國名の歌の中、『但馬』の国の歌として載つてゐる。それを採つたものであらう。
 
       ○
(342)   咲けばかつ散りぬる山のさくら花こころのどかにおもひけるかな
 
 續後撰集卷三春歌下にあり、題しらず、人麿とある。柿本集、國名の歌の中『能登』の國の歌にある。(類從本等第三句、『花さくら』)。續後撰はそれをとつたのであらう。
 
       ○
   あまの川霧たちわたるたなばたの雲の衣のかへる袖かも
 
 續後撰集卷五秋歌上にあり、『七夕の心を』と題した一聯の終に、人丸として出てゐる。萬葉集卷十(二〇六三)、天漢霧立上棚幡乃雲衣能飄袖鴨《アマノカハキリタチノボルタナバタノクモノコロモノカヘルソデカモ》がある。キリタチワタルといふ訓は見當らない。赤人集に、『あまのがはきりたちのぼりたなばたのくものころものあへるそらかな』(西本願寺本)、『天の川霧たちわたる七夕のくもの衣のかへる袖かな』(流布本)とあり、柿本集に、『天の川霧立ちわたるたなばた|は《のイ》あまのは衣とひわかるかも』とあり、家持集に、『天の川霧たちわたり七夕の雲のころものなびく袖かも』とある。即ち赤人集流布本がほとんど同一である。
 
       ○
(343)   秋さればいもに見せむと植ゑし萩露霜おきて散りにけらしも
 續後撰集卷七秋歌下にあり、『秋の歌の中に』と題した歌につづき、人丸としてある。一本、結句、『散りにけるかな』。萬葉集卷十(二一二七)、詠花、讀人不知に、秋去者妹令視跡殖之芽子露霜負而散來毳《アキサラバイモニミセムトウヱシハギツユジモオヒテチリニケルカモ》がある。初句、舊訓アキサレバ。第四句、神田本の一訓にオキテがある。結句、元暦校本チリニケムカモ。柿本集に、後撰と同樣に載つてゐる。(類從本系統は結句、『ちりにけるかも』)。
 
       ○
   秋山の木の葉も今はもみぢつつ今朝吹く風に霜おきにけり
 
 續後撰集卷七秋歌下にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十(二二三二)、詠風、讀人不知に、秋山之木葉文未赤者今旦吹風者霜毛置應久《アキヤマノコノハモイマダモミヂネバケサフクカゼハシモモオキヌベク》がある。第四句、京都大學本クサフクカゼニとあるほかは、續後撰集に一致する古訓は見當らない。柿本集に載り、流布本、『いまだもみぢねば今朝吹風はしもきえぬべし』、類從本、『いまだもみぢねどけさ吹風は霜もけぬべし』であるが、圖書寮本第一のみは全く續後撰と一致してゐる。
 
(344)       ○
   夜を寒み朝戸をあけてけさ見れば庭もはだらに雪ふりにけり
 
 續後撰集卷八冬歌にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十(二三一八)、詠雪、讀人不知に、夜乎寒三朝戸乎開出見者庭毛薄太良爾三雪落有《ヨヲサムミアサドヲヒラキイデミレバニハモハダラニミユキフリタリ》一云|庭裳保杼呂爾雪曾零而有《ニハモホドロニユキゾフリタル》がある。第二句、舊訓アサドヲアケテ。結句、類聚古集ユキフリニケリである。六帖に、第三句、『出で見れば』、結句、『雪は降りつつ』と載り、家持集に、第三句、『見渡せば』、結句、『あわ雪ぞ降る』と載つた。柿本集は、流布本では、第三句、『出でぬれば』となつてゐるが、圖書寮本第一は、第三句、『けさ見れば』で、全く續後撰と一致してゐる。
 
       ○
   磯の上に生ひたる葦の名を惜しみ人に知られで戀ひつつぞふる
 
 續後撰集卷十一戀歌一にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十二(二八六一)、寄物陳思、人麿歌集出に、礒上生小松名惜人不知戀渡鴨《イソノウヘニオフルコマツノナヲヲシミヒトニシラエズコヒワタルカモ》がある。六帖に、『岩の上に立てる小松の名を惜しみ言には出でず戀ひつつぞ經る』がある。これは、萬葉では、右(二八六一)の或本歌、巖(345)上爾立小松名惜人爾者不云戀渡鴨《イハノウヘニタテルコマツノナヲヲシミヒトニハイハズコヒワタルカモ》の方に近いが、結句が續後撰集と一致する點は注意すべきである。
 
       ○
   かくてのみ戀ひやわたらむたまきはる命も知らず年はへにけり
 
 續後撰集卷十二戀歌二にあり、題しらず、柿本人丸とある。萬葉集卷十一(二三七四)、正述心緒、人麿歌集出に、是耳戀度玉切不知命歳經管《カクノミシコヒヤワタラムタマキハルイノチモシラズトシヲヘニツツ》がある。初句、舊訓カクシノミ。古寫本中(嘉・細)カクテノミ。結句、舊訓トシハヘニツツ。『年は經にけり』の訓は見當らない。
 
       ○
   あし引の山田のひたのひたぶるに忘るる人をおどろかすかな
 
 續後撰集卷十五戀歌五にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集に原歌と認むべきものは見當らない。六帖に、『おどろかす』といふ題で載つてをり、續後撰はそれをとつたのであらうか。又、詞花集卷九雜上の能因法師の歌に、『ひたぶるに山田もる身となりぬれば我のみ人をおどろかすかな』とあるのも關係がありさうに思はれる。
 
(346)       ○
   わぎも子が袖をたのみてまのの浦のこすげの笠をきずて來にけり
 
 續後撰集卷十九※[覊の馬が奇]旅歌にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二七七一)、寄物陳思、讀人不知に、吾妹子之袖乎憑而眞野浦之小菅乃笠乎不著而來二來有《ワギモコガソデヲタノミテマヌノウラノコスゲノカサヲキズテキニケリ》がある。六帖にも載つたが、初句、『わがせこが』となつてゐる。なほ六帖拾遺に、第三句以下が『あしびきの山すげの實を取らできにけり』となつたものもある。
 
(347) 續古今集
 
       ○
   ここに來て春日の原を見わたせば小松がうへに霞たなびく
 
 續古今集卷一春歌上にあり、題しらず、柿本人丸とある。六帖に、『ここにして春日の山を見渡せば小松が枝に霞たなびく』となつてゐる。萬葉集に原歌と認むべきものは見出せない。
 
       ○
   わが宿に咲きたる梅を月影に夜な夜な來つつ見む人もがな
 
 續古今集卷一春歌上にあり、題しらず、柿本人丸とある。萬葉集卷十(二三四九)、寄花、讀人不知に、吾屋戸爾開有梅乎月夜好美夕少令見君乎所待也《ワガヤドニサキタルウメヲツクヨヨミヨヒヨヒミセムキミヲコソマテ》がある。第四句、舊訓ヨナヨナミセム。結句、舊訓キミヲゾマツヤ。古寫本中(元・類・神)キミヲコソマテである。柿本集に載り、流布本(348)は全く續古今と同じであり、類從本は、第二句以下、『さき散梅を月清みよるよるきつつ』となつてゐる。又六帖に、『咲きたる梅の月清み夜な夜な見せむ君をこそ待て』とあり、家持集に、『咲きたる梅を月きよみ夜々見せむ君をこそ待て』とある。續古今は恐らく柿本集から採録したのであらう。
 
       ○
   夕やみはあなおぼつかな月影のいでばや花の色もまさらむ
 
 續古今集卷二春歌下にあり、題しらず、人丸とある。柿本集に、國名の歌の中、『いでは(出羽)』の國の歌として出てゐる。これは、續古今集が柿本集の歌を人麿作として採録したものと考へることが出來る。なほ、以下にも幾つか、柿本集の國名の歌が續古今に入つてゐる。
 
       ○
   散りぬともいかでか知らむ山櫻春の霞の立ちしかくせば
 
 續古今集卷二春歌下にあり、『春の歌とて、人丸』とある。柿本集に、國名の歌の中、『いが(伊賀)』の國の歌として載り、流布本、第二句、『いかでかしらなむ』となつてゐる。類從本は、續(349)古今と同じである。
 
       ○
   ふる道に我やまどはむいにしへの野中の草は茂りあひけり
 
 續古今集卷三夏歌にあり、題しらず、柿本人丸とある。この歌は、もと拾遺集卷七物名に載り、藤原輔相が『やまと』を詠みこんだ歌であるのを、柿本集の國名の歌の中に入れられ、續古今はそれから採つたものと考へられる。但し、拾遺集は、結句、『茂りあひに〔右○〕けり』。柿本集は、下の句、『野中の草と〔右○〕しげりあひに〔右○〕けり』(流布本)、『野中の草も〔右○〕しげりあひに〔右○〕けり』(類從本)となつてゐる。
 
       ○
   萩の花散らば惜しけむ秋の雨しばしな降りそ色のつくまで
 
 續古今集卷四秋歌上にあり、題しらず、人丸とある。萬葉その他に原歌と認むべきものが見當らない。
 
(350)       ○
   山の端は清く見ゆれど天つ空ただよふ雲の月やかくさむ
 
 續古今集卷四秋歌上にあり、題しらず、柿本人丸とある。一本、結句、『月やかゝらむ』。柿本集に、國名の歌の中、『ははき』の國の歌として載り、流布本、初句、『山ぎはは』、類從本、第三句、『天原』となつてゐる。續古今はそれをとつたものであらう。
 
       ○
   この頃の秋の朝けの霧がくれ妻よぶ鹿の聲のさやけさ
 
 續古今集卷五秋歌下にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二一四一)、詠鹿鳴、讀人不知に、比日之秋朝開爾霧隱妻呼雄鹿之音之亮左《コノゴロノアキノアサケニキリガクリツマヨブシカノコヱノサヤケサ》がある。第三句、舊訓キリガクレ。結句、舊訓コヱノハルケサ。古寫本中(【元・類・神・西・細・温】)オトノハルケサ。元暦本の一訓にのみサヤケサがある。一般にサヤケサと訓むやうになつたのは拾穗抄以後である。六帖に、『このごろの秋の朝けに霧がくれ妻よぶ鹿の音のさびしさ』と載つてゐる。
 
(351)       ○
   おくれゐて我やはこひむ春霞たなびく山を君し越えなば
 
 續古今集卷九離別歌にあり、『大寶二年正月贈從三位高市丸長門になりてくだりけるに三輪川のほとりにて餞すとてよみ侍りける、柿本人丸』とある。萬葉集卷九(一七七一)、古歌集出、大神大夫任2長門守1時集2三輪河邊1宴歌二首の中に、於久禮居而吾波也將戀春霞多奈妣久山乎君之越去者《オクレヰテワレハヤコヒムハルガスミタナビクヤマヲキミガコエイナバ》がある。結句、類聚古集は、『君しこえなば』になつてゐる。家持集に、『後れゐてあれはや戀の春霞たなびく山を君が越ぬる』と載つてゐる。
 
       ○
   白鳥の鷺坂山の松かげにやどりてゆかむ夜も更けにけり
 
 續古今集卷十※[覊の馬が奇]旅歌にあり、『さぎさか山をこゆとてよめる、人麿』とある。萬葉集卷九(一六八七)、鷺坂作歌一首、人麿歌集出に、白鳥鷺坂山松影宿而往奈夜毛深徃乎《シラトリノサギサカヤマノマツカゲニヤドリテユカナヨモフケユクヲ》がある。第四句、舊訓ヤドリテユクナ。古寫本中(藍・壬・古)ヤドリテユカム、(神・西)ヤドリテユカナ。『夜も更けにけり』は萬葉の古訓に見當らない。
 
(352)       ○
   うば玉の黒髪山を今朝こえて木のした露に濡れにけるかな
 
 續古今集卷十※[覊の馬が奇]旅歌にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷七(一二四一)、※[覊の馬が奇]旅作、古歌集出に、黒玉之玄髪山乎朝越而山下露爾沾來鴨《ヌバタマノクロカミヤマヲアサコエテヤマシタツユニヌレニケルカモ》がある。『けさこえて』、『木の下露』、ともに萬葉の古訓に見當らない。六帖第一に、『雫』の題で、人麿として、『ぬばたまの黒髪山をけふ越えて雫にいたくねれにけるかな』。同第二に、『山』の題で、『ぬばたまの黒髪山を朝こえて木の下露にぬれにけるかも』と載つてゐる。
 
       ○
   草まくら旅にしあれば秋風の寒きゆふべに雁鳴きわたる
 
 續古今集卷十※[覊の馬が奇]旅歌にあり、題しらず、柿本人麿とある。萬葉集卷七(一一六一)、※[覊の馬が奇]旅作、讀人不知に、離家旅西在者秋風寒暮丹鴈喧渡《イヘサカリタビニシアレバアキカゼノサムキユフベニカリナキワタル》がある。初句の異訓は、古寫本中(元・類・神)イヘハナレ位で、『草まくら』は故意に改めたものであらうか。六帖には、初句、『家はなれ』になつてゐる。
 
(353)       ○
   この山の嶺にちかしとわが見つる月の空なる戀もするかな
 
 續古今集卷十一戀歌一にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二六七二)、寄物陳思、讀人不知に、此山之嶺爾近跡吾見鶴月之空有戀毛爲鴨《コノヤマノミネニチカシトワガミツルツキノソラナルコヒモスルカモ》があり、結句、類聚古集コヒモスルカナである。六帖に載り、第二句、『みねのあらしと』となつてゐる。
 
       ○
   かくしつつさてや止みなむ大荒木の浮田《うきた》の杜《もり》のしめならなくに
 
 續古今集卷十一戀歌一、前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷十一(二八三九)、寄標喩思、讀人不知に、如是爲哉猶八戍牛啼大荒木之浮田之社之標爾不有爾《カクシテヤナホヤマモラムオホアラキノウキタノモリノシメナラナクニ》があり、第二句、舊訓ナヲヤヤミナムである。
 
       ○
   逢ふ事をいつしかとのみまつしまのかはらず人を戀ひわたるかな
 
(354) 續古今集卷十二戀歌二にあり、題しらず、柿本人丸とある。柿本集に、國名の歌の中、『いづ(伊豆)』の國の歌として載つてゐる。續古今集はそれを採つたのであらう。
 
       ○
   志賀のあまの塩燒衣なるれども戀てふものは忘れかねつも
 
 續古今集卷十四戀歌四にあり、題しらず、柿本人丸とある。萬葉集卷十一(二六二二)、寄物陳思、讀人不知に、志賀乃白水郎之鹽燒衣雖穢戀云物者忘金津毛《シガノアマノシホヤキゴロモナレヌレドコヒトフモノハワスレカネツモ》がある。第三句、舊訓ナルトイヘドで、古訓にナルレドモは見當らない。第四句、舊訓コヒテノモノハ。古寫諸本コヒテフモノハ。六帖に載り、第三・四句、『なれゆけば戀てふものは』となつてゐる。
 
       ○
   君こふとわがなく涙しきたへの枕とほりて袖は濡れつつ
 
 續古今葉卷十四戀歌四にあり、『戀の歌の中に、人丸』として以下三首ならんでゐる。萬葉集卷十一(二五四九)、正述心緒、讀人不知に、妹戀吾哭涕敷妙木枕通袖副所沾《イモニコヒワガナクナミダシキタヘノコマクラトホリソデサヘヌレヌ》がある。初句、舊訓イモコフト。第四句、舊訓マクラトホリテ。六帖に、人麿として載り、『妹を戀ひわが泣く涙し(355)きたへの枕とほりて袖さへぬれぬ』となつてゐる。
 
       ○
   人を戀ひせめて涙のこぼるれば此方彼方の袖ぞぬれける
 
 續古今集卷十四戀歌四、前の歌につづいて出てゐる。柿本集に、國名の歌の中、『ひぜん(肥前)』の國の歌として載り、第四句、流布本、『これたかかたの』、類從本は、續古今と同じく『こなたかなたの』である。この歌は、これも續古今が柿本集から採つたものと考へていいであらう。
 
       ○
   うば玉のわが黒髪をなきぬらし思ひみだれて戀ひわたるかな
 
 續古今集卷十四戀歌四、前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷十一(二六一〇)、正述心緒、讀人不知に、夜干玉之吾黒髪乎引奴良思亂而反戀度鴨《ヌバタマノワガクロカミヲヒキヌラシミダレテサラニコヒワタルカモ》がある。第四句、舊訓ミダレテカヘリ。六帖に、萬葉舊訓と同樣に載つた。
 
       ○
(356)   誰しかもわれを戀ふらむ下紐のむすびもあへずとくる心は
 
 續古今集卷十四戀歌四にあり、題しらず、柿本人丸とある。萬葉集には、卷十二(三一四五)、吾妹兒之阿乎偲良志草枕旅之丸寢爾下紐解《ワギモコシアヲシヌブラシクサマクラタビノマロネニシタヒモトケヌ》の如きものはあつても、ここの原歌と認むべきものは見當らない。柿本集に、國名の歌の中、『ひご(肥後)』の國の歌として『たれしかも我をこふらん下ひものむすびもあはずとくる日ごろは』があり、續古今の歌は、それから來てゐるのであらう。柿本集類從本は、下句、『むすびもあへずとくる心は』と續古今と同じになつてゐる。
 
       ○
   山川の石間《いしま》を分けて行く水はふかき心もあらじとぞ思ふ
 
 續古今集卷十四戀歌四、前の歌につづいてゐる。柿本集に、國名の歌の中、『しま(志摩)』の國の歌として載つてをり、續古今はそれを採つたものと考へられる。
 
       ○
   卷向の檜原にたてる春霞晴れぬおもひはなぐさまるやは
 
(357) 續古今集卷十七雜歌上にあり、『霞をよめる、人丸』とある。萬葉集卷十(一八一三)、卷向之檜原丹立流春霞欝之思者名積米八方《マキムクノヒハラニタテルハルガスミオホニシモハバナヅミコメヤモ》がある。第四句、舊訓クレシオモヒハ。古寫本中(元・類・神)ハレヌオモヒハ。結句、舊訓ナツミケメヤモ。古寫本中(元・神)ナグサメツヤハ【一訓、ナグ○サマルヤハ】赤人集に載り、西本願寺本、『まきもくがひはらにたてるはるがすみ』とのみあり、流布本は、下句、『晴れぬ思ひにわかな摘まめや』となつてゐる。
 
       ○
   さ夜更けて堀江こぐなるまつら舟かぢ音たかしみを早みかも
 
 續古今集卷十八雜歌中にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷七(一一四三)、攝津作、讀人不知に、作夜深而穿江水手鳴松浦船梶音高之水尾早見鴨《サヨフケテホリエコグナルマツラブネカヂノトタカシミヲハヤミカモ》があり、第四句、舊訓カヂオトタカシである。
 
       ○
   大海は島もあらなくに海原やたゆたふ波に立てる白雲
 
 續古今集卷十八雜歌中にあり、題しらず、柿本人丸とある。萬葉集卷七(一〇八九)、詠雲、伊(358)勢從駕作、讀人不知に、大海爾島毛不在爾海原絶塔浪爾立有白雲《オホウミニシマモアラナクニウナバラノタユタフナミニタテルシラクモ》がある。六帖には、萬葉と全く同じに載つてゐる。
 
       ○
   年つもるをすての山の槇《まき》の葉もひさしく見ねば苔おひにけり
 
 續古今集卷十九雜歌下にあり、題しらず、柿本人丸とある。萬葉集卷七(一二一四)、※[覊の馬が奇]旅作、讀人不知に、安太部去小爲手乃山之眞木葉毛久不見者蘿生爾家里《アタヘユクヲステノヤマノマキノハモヒサシクミネバコケムシニケリ》があり、結句、舊訓コケオヒニケリである。續古今の初句、『年つもる』は、恣に改めたものであらうか。六帖には、『あたへゆく小鹽の山の槇の葉もひさしく見ねば苔生ひにけり』となつてゐる。
 
       ○
   穴師川川音たかしまきもくの弓槻がたけに雲たてるらし
 
 續古今集卷十九雜歌下、前の歌につづいて出てゐる。萬葉集卷七(一〇八七)、詠雲、人麿歌集出に、痛足河河浪立奴卷目之由槻我高仁雲居立有良志《アナシガハカハナミタチヌマキムクノユツキガタケニクモヰタテルラシ》がある。第三句、舊訓マキモクノ。結句、舊訓クモタテルラシであるが、續古今の『川音たかし』は何から來てゐるか、未だ知ることを得(359)ない。
 
(360) 玉葉集
 
       ○
   うちなびき春たちぬらし我が門の柳のうれに鶯なきつ
 
 玉葉集卷一春歌上にあり、『鶯をよみ侍りける、柿本人麿』とある。萬葉集卷十(一八一九)、詠鳥、讀人不知に、打靡春立奴良志吾門之柳乃宇禮爾※[(貝+貝)/鳥]鳴都《ウチナビキハルタチヌラシワガカドノヤナギノウレニウグヒスナキツ》がある。赤人集に載り(西本願寺本缺)、第三句以下、『我が宿の柳の枝にうぐひす鳴くも』となつてゐる。又家持集に載り、第二・三句、『春は來ぬらし我が宿は』となつてゐる。
 
       ○
   春雨のうちふるごとに我が宿の柳のすゑは色づきにけり
 
 玉葉集卷一春歌上にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集に原歌らしいものは見當らない。六(361)帖に載り、初句、『春の雨の』となつてゐる。
 
       ○
   春の野に心やらむと思ふどちいでこし今日はくれずもあらなむ
 
 玉葉集卷一春歌上にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(一八八二)、野遊、讀人不知に、春野爾意將述跡念共來之今日者不晩毛荒粳《ハルノヌニココロノベムトオモフドチキタリシケフハクレズモアラヌカ》がある。第二句、舊訓ココロヤラムト。第四句、古寫本中(類・古・神)イデコシケフハとなつてゐる。又、六帖に載り、第四句、『ちぎりし今日は』となつてゐる。
 
       ○
   かくばかり雨のふらくにほととぎす卯の花山になほか啼くくらむ
 
 玉葉集卷三夏歌にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(一九六三)、詠鳥、讀人不知に、如是許雨之零爾霍公鳥宇之花山爾猶香將鳴《カクバカリアメノフラクニホトトギスウノハナヤマニナホカナクラム》がある。赤人集に、第二句、『雨のふるをや』として載つてゐる。(西本願寺本は、他に結句、『なほやなくらむ』になつてゐる)。
 
(362)       ○
   かりがねのさむくなるより水莖の岡のくず葉は色付きにけり
 
 玉葉集卷四秋歌上にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二二〇八)、詠黄葉、讀人不知に、鴈鳴之寒鳴從水莖之岡乃葛葉者色付爾來《カリガネノサムクナキシユミヅクキノヲカノクズハハイロヅキニケリ》がある。第二句、舊訓サムクナクヨリ。古寫本中神田本はサムクナルヨリである。
 
       ○
   草深みきりぎりすいたく鳴く宿の萩見に君はいつかきまさむ
 
 玉葉集卷四秋歌上にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二二七一)、寄花、讀人不知に、草深三蟋多鳴屋前芽見公者何時來益牟《クサフカミコホロギサハニナクニハノハギミニキミハイツカキマサム》がある。第二句、舊訓キリギリスイタク。第三句、舊訓ナクヤドニ。古寫本中類聚古集ナクヤドノ。神田本にもヤドノ〔右○〕の訓がある。
 
       ○
   つまかくすやのの神山露霜に匂ひそめたり散らまくもをし
 
(363) 玉葉集卷五秋歌下にあり、『紅葉を』の題で、人丸とある。一本、結句、『散らまくをしも』。萬葉集卷十(二一七八)、詠黄葉、人麿歌集出に、妻隱矢野神山露霜爾爾寶比始散卷惜《ツマゴモルヤヌノカミヤマツユジモニニホヒソメタリチラマクヲシモ》があり、初句、古寫本中(元・類・神)ツマカクスである。六帖に載り、下句、『匂ひそむらし散らまく惜しみ』となつてゐる。
 
       ○
   紅葉ばをおとす時雨のふるなべに夜さへぞさむきひとりし寢《ぬ》れば
 
 玉葉葉卷六冬歌にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二二三七)、詠雨、讀人不知に、黄葉乎令落四具禮能零苗爾夜副衣寒一之宿者《モミヂバヲチラスシグレノフルナベニヨサヘゾサムキヒトリシヌレバ》があり、第二句、元暦校本・類聚古集オトスシグレノである。柿本集に載り、流布本は玉葉と同樣、類從本は、第三句、『降比は』となつてゐる。又家持集に載り、これは第二句、『散らす時雨の』となつてゐる。
 
       ○
   けふにありてあすは過ぎなむ神無月時雨にまよふ紅葉かざさむ
 
 玉葉集卷六冬歌、前の歌につづいてある。萬葉集に原歌と認むべきものが見當らない。六帖に、(364)人麿として載り、第一・二句、『今日ありて明日すぎぬらむ』、第四句、『時雨にまがふ』となつてゐる。
 
       ○
   あづまののけぶりのたてる所みてかへりみすれば月かたぶきぬ
 
 玉葉集卷八旅歌にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷一(四八)、輕皇子宿2于安騎野1時柿本朝臣人麿作歌の反歌に、東野炎立所見而反見爲者月西渡《ヒムガシノヌニカギロヒノタツミエテカヘリミスレバツキカタブキヌ》がある。上句、舊訓アヅマノノ・ケブリノタテル・トコロミテであつて、今の萬葉の訓は眞淵の考に始まるのである。だから中世に萬葉から採るとせぼ、玉葉集の如くになるのが當然であると言ふことが出來る。
 
       ○
   たづがねの聞ゆる田居にいほりしてわれ旅なりといもに告げこせ
 
 玉葉集卷八旅歌にあり、前の歌につづいてある。萬葉集卷十(二二四九)、寄水田、讀人不知に、鶴鳴之所聞田井爾五百入爲而吾客有跡於妹告社《タヅガネノキコユルタヰニイホリシテワレタビナリトイモニツゲコソ》がある。結句、古寫本中類聚古集はイモニツゲコセであり、元暦校本と神田本の一訓にも、ツゲコセがある。六帖には、第二句、『聞ゆるなべに』、(365)下句、『旅にありきと妹に告げなむ』となつてゐる。又、後の新後拾遺集卷十※[覊の馬が奇]旅歌に、題しらず、讃人しらずとして載り、初句『たづのねの』、他は玉葉と同樣である。
 
       ○
   名に高きいはみの海の沖つ波ちへにかくれねやまと島ねは
 
 玉葉葉卷八旅歌にあり、『筑紫に下りける時海路にてよめる、人丸』とある。一本、第四句、『ちへぬかくりぬ』。萬葉集卷三(三〇三)、柿本朝臣人麻呂下2筑紫國1時海路作歌二首の中に、名細寸稻見乃海之奧津浪千重爾隱奴山跡島根者《ナグハシキイナミノウミノオキツナミチヘニカクリヌヤマトシマネハ》がある。初句、古寫本中(類・神)ナニタカキであり、和歌童蒙抄にもナニタカキとしてある。第四句、舊訓チヘニカクレヌである。
 
       ○
   近江路の野島がさきの濱風にいもが結びしひも吹きかへす
 
 玉葉集卷八旅歌にあり、『旅の歌、人麿』とある。萬葉集卷三(二五一)、柿本朝臣人麻呂※[覊の馬が奇]旅歌八首の中に、粟路之野島之前乃濱風爾妹之結紐吹返《アハヂノヌジマノサキノハマカゼニイモガムスビシヒモフキカヘス》がある。初句、舊訓アハミチノであるから、それから近江路《アフミチ》ノとなつたものであらうか。第二句、古寫本中(西・細・温・京)ノジマガサキノ(366)とあつて、玉葉と一致してゐる。
 
       ○
   心にはちへに思へど人にいはぬわが戀妻はみるよしもなし
 
 玉葉集卷九戀歌一にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二三七一)、正述心緒、人麿歌集出に、心千遍雖念人不云吾戀※[女+麗]見依鴨《ココロニハチタビオモヘドヒトニイハズワガコヒヅマヲミムヨシモガモ》がある。第二・三句、舊訓チヘニオモヘド・ヒトニイハヌ。結句、舊訓ミルヨシモガモ。六帖に載り、結句、『見むよしもがな』、其他は玉葉集と同樣である。
 
       ○
   吾妹子にこひてすべなみ夢にみむと我は思へどいこそねられぬ
 
 玉葉集卷九戀歌一にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二四二一)、正述心緒、人麿歌集出に、我妹戀無乏夢見吾雖念不所寐《ワギモコニコヒスベナカリイメニミムトワレハオモヘドイネラエナクニ》がある。第二句、舊訓コヒテスベナミ。第三句、舊訓ユメミント。古訓には、『夢に〔右○〕見むと』は見當らず、童蒙抄でユメニミムト、考でイメニミントと訓むに至つた。結句、舊訓イネラレナクニ。古寫本中(細・西・温・京)の一訓にイコソネラレ(367)ネがある。
 
       ○
   かささぎのはねに霜ふりさむき夜を獨りかねなむ君を待ちかね
 
 玉葉集卷十戀歌二にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集に原歌と認むべきものは見出せない。六帖に、人まろとして載り、下句、『ひとりや我が寢む君待ちかねて』となつてゐる。
 
       ○
   たれかれと我をなとひそ長月の露にぬれつつ君まつわれぞ
 
 玉葉集卷十戀歌二にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二二四〇)、秋相聞、人麿歌集出に、誰彼我莫問九月露沾乍君待吾《タソカレトワレヲナトヒソナガツキノツユニヌレツツキミマツワレヲ》があり、初句、舊訓タレカレト。結句、神田本キミマツワレゾである。六帖に、下句、『時雨にぬれて君待つ人を』として載り、柿本集に、下句、『時雨にぬれて君まつ我を』として載つてゐる。それらに比べて、この玉葉の『露にぬれつつ』は萬葉と符合してゐるから、この場合、玉葉は六帖や柿本集から採つたのでないと考へていいであらう。
 
(368)       ○
   秋の夜を長しと思へどつもりにし戀をつくせばみじかかりけり
 
 玉葉集卷十戀歌二にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二三〇三)、寄夜、讀人不知に、秋夜乎長跡雖言積西戀盡者短有家里《アキノヨヲナガシトイヘドツモリニシコヒヲツクセバミジカクアリケリ》があり、第二句、古寫本中(元・神)ナガシトオモヘド、(類)ナガシトオモヘドモ。結句、舊訓ミジカカリケリで、即ち玉葉集の句は、萬葉古訓の或るものに一致してゐる。
 
       ○
   秋萩を散らす時雨の降る頃はひとりおきゐて戀ふる夜ぞ多き
 
 玉葉集卷十二戀歌四にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二二六二)、寄雨、讀人不知に、秋芽子乎令落長雨之零比者一起居而戀夜曾大寸《アキハギヲチラスナガメノフルコロハヒトリオキヰテコフルヨゾオホキ》がある。第二句、古寫本等に、シグレといふ訓は見當らない。六帖第一、『雨』に、第二句、『おとすながめのふる程は』として載り、同じく六帖第五、『夜ひとりをり』に、第二句、『ちらすながめのふるなべに』として載つてゐる。柿本集流布本に、『秋萩におとす時雨のふる時は人をおきゐて戀ふる夜ぞ多き』とあり、なほ諸本異同が(369)ある。
 
       ○
   今も思ふ後も忘れじかり菰の亂れて後ぞわれ戀ひまさる
 
 玉葉集卷十三戀歌五にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集其他に原歌と認むべきものが見當らない。六帖に載り、『今も思ふ後も忘れず〔右○〕かりごもの亂れてのみ〔二字右○〕ぞ我戀ひわたる〔三字右○〕』となつてゐる。
 
       ○
   いかならむ神にぬさをも手向けばか我が思ふ妹を夢にだにみむ
 
 玉葉集卷十三戀歌五、前の歌につづいてある。萬葉集卷十一(二四一八)、寄物陳思、人麿歌集
 
出に、何名負神幣嚮奉者吾念妹夢谷見《イカナラムナニオフカミニタムケセバワガモフイモヲイメニダニミム》がある。舊訓イカナラム・カミニヌサヲモ・タムケバカ・ワガオモフイモヲ・ユメニダニミムで、玉葉集は全くこれに一致してゐる。
 
       ○
   ささ波の志賀のおほわたよどむとも昔の人にまたあはめやも
 
(370) 玉葉集卷十五雜歌二にあり、『近江のあれたる都をすぐとてよみ侍りける、人麿』とある。萬葉集卷一(三一)、過2近江荒都1時柿本朝臣人麿作歌の反歌に、左散難彌乃志我能大和太與杼六友昔人二亦母相目八毛《ササナミノシガノオホワダヨドムトモムカシノヒトニマタモアハメヤモ》がある。
 
       ○
   武庫の浦の泊りなるらしいさりするあまの釣舟波まよりみゆ
 
 玉葉集卷十五雜歌二にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷三(二五六)、柿本朝臣人麻呂※[覊の馬が奇]旅歌八首中第八首の一本云に、武庫乃海爾波好有之伊射里爲流海部乃釣船浪上從所見《ムコノウミノニハヨクアラシイサリスルアマノツリフネナミノウヘユミユ》があり、又卷十五(三六〇九)、遣新羅使の當所誦詠古歌の中にも、武庫能宇美能爾波余久安良之伊射里須流安麻能都里船奈美能宇倍由見由《ムコノウミノニハヨクアラシイサリスルアマノツリフネナミノウヘユミユ》があつて、柿本朝臣人麿歌曰云々の注がついてゐる。卷三の歌は、第二句、多くの本に、舶爾波有之とあつて、舊訓フネニハナラシ。古寫本中(古・細)トマリニハアラシとなつてをり、又、結句、古寫本中細井本の一訓にナミマヨリミユとある。一方、卷十五の歌は、結句、舊訓ナミノウヘニミユで、諸本に大して異訓もないから、玉葉集の歌は、萬葉の卷三の方から來てゐると大體考へて差支ないであらう。柿本集にも載り、『みこのうみはよくこそ有らしいさりせるあまの釣舟波の上にみゆ』(類從本は上句、『むこのうらの|とまり成らし《にはよくもらしイ》いさ(371)りする』)となつてゐる。
 
       ○
   後見むと君がむすべるいはしろのこ松がうれを又みつるかな
 
 玉葉集卷十八雜歌五にあり、『紀伊國にみゆき侍りける時むすび松を見てよみ侍りける、人麿』とある。萬葉集卷二(一四六)、大寶元年辛丑幸2于紀伊國1時見2結松1歌一首に、後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮乎又將見香聞《ノチミムトキミガムスベルイハシロノコマツガウレヲマタミケムカモ》があり、古寫本の大部分に、題詞のあとに、『柿本朝臣人麻呂歌集中出也』といふ注がある。結句、古寫本中(元・類・古・神)マタモミムカモ、(金)マタミツルカモの訓がある。六帖に、人麿として載り、結句、『またも見むかも』となつてゐる。
 
(372) 續千載集
 
       ○
   音にきく吉野の櫻見にゆかむ告げよ山守花のさかりは
 
 續千載集卷一春歌上にあり、題しらず、柿本人丸とある。柿本集に、國名の歌の中、『かんつけ(上野)』の國の歌として載り、結句、『花のさかりを』である。續千載は、それを採つて人丸の歌としたのであらう。
 
       ○
   行きかよふ雲居は道もなきものをいかでか雁の迷はざるらむ
 
 續千載集卷四秋歌上にあり、題しらず、人麿とある。柿本集に、國名の歌の中、『ゆき(壹岐)』の國の歡として載り、結句、『まどはざるらむ』である。(類從本はなほ、第一・二句、『ゆきかへ(373)る雲ゐに道も』となつてゐる)。それを、續千載は採つたものであらう。
 
       ○
   池のべのを槻が下に笹な刈りそ其《それ》をだに君がかたみに見つつ偲はむ
 
 續千載集卷七雜體にあり、旋頭歌、題しらず、人麿とある。萬葉集卷七(一二七六)、旋頭歌、人麿歌集出に、池邊小槻下細竹莫苅嫌其谷君形見爾監乍將偲《イケノベノヲツキガモトノシヌナカリソネソレヲダニキミガカタミニミツツシヌバム》がある。第二句、舊訓ヲツキガシタノ。古寫本中(元)ヲツキガシタニ。(古)ヲツキガモトニ。第三句、舊訓シノナカリソネ。古寫本中(古)ササナカリソネ。
 
       ○
   奥山の木の葉がくれにゆく水の音聞きしより常に忘れず
 
 續千載集卷十二戀歌二にあり、題しらず、柿本人麿とある。萬葉集卷十一(二七一一)、寄物陳思、讀人不知に、奥山之木葉隱而行水乃音聞從常不所忘《オクヤマノコノハガクリテユクミヅノオトキキシヨリツネワスラエズ》がある。第二句、舊訓コノハガクレニ。結句、舊訓ツネワスラレズ。類聚古集ツネニワスレズである。六帖に、續千載と同樣に載つてゐる。
 
(374) 續後拾遺集
 
       ○
   春來ぬと人しもつげず逢坂のゆふつけ鳥の聲にこそしれ
 
 續後拾遺集卷一春歌上にあり、題しらず、柿本人麿とある。柿本集に、國名の歌の中、『しもつけ(下野)』の國の歌として載つてゐる。類從本は、第二句、『人しもつげよ』、第四句、『ゆふ付とりも』となつてゐるが、流布本は、全く續後拾遺と一致してゐる。これも、續後拾遺が柿本集から採録したものと考へてよいであらう。
 
       ○
   櫻花ころ過ぎぬれど我が戀ふる心のうちはやむ時もなし
 
 續後拾遺集卷二春歌下にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十一(二七八五)、寄物陳思、(375)讀人不知に、開花者雖過時有我戀流心中者止時毛梨《サクハナハスグルトキアレドワガコフルココロノウチハヤムトキモナシ》がある。初句、類聚古集サクラハナハとあるが、ラは朱で消してある。第二句、嘉暦本トキスギヌトモ、類聚古集トキスギテアレド。續後拾遺の第一・二句のやうな訓は見當らない。
 
       ○
   あやしくも鳴かぬ雁かも白露の置きし淺茅生色付きにけり
 
 續後拾遺集卷四秋歌上にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集に原歌らしきものは見當らない。六帖に、『あやしくも來鳴かぬ雁か白露の置きにし秋は久しきものを』といふのが出てゐる。
 
       ○
   木の間よりうつろふ月の影をしみ立ちやすらふにさ夜更けにけり
 
 續後拾遺集卷五秋歌下にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二八二一)、問答、讀人不知に、木間從移歴月之影惜徘徊爾左夜深去家里《コノマヨリウツロフツキノカゲヲシミタチモトホルニサヨフケニケリ》がある。第四句、舊訓タチヤスラフニである。
 
(376)       ○
   天飛ぶや雁の翼の蔽ひ羽のいづく漏りてか霜の置くらむ
 
 續後拾遺集卷五秋歌下にあり、人麿とある。萬葉集卷十(二二三八)、詠霜、讀人不知に、天飛也鴈之翅乃覆羽之何處漏香霜之零異牟《アマトブヤカリノツバサノオホヒバノイヅクモリテカシモノフリケム》、第四句、舊訓イヅコモリテカ。神田本イヅクモルカ。結句、元暦校本の一訓にシモノオクラムがあり、それから、和歌色葉集や和歌童蒙抄にもシモノオクラムと出てゐる。
 
       ○
   近江の海夕浪千鳥なが鳴けば心もしのに昔おもほゆ
 
 續後拾遺集卷六冬歌にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷三(二六六)、柿本朝臣人麻呂歌一首に、淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念《アフミノウミユフナミチドリナガナケバココロモシヌニイニシヘオモホユ》がある。第四句、舊訓ココロモシノニ。結句、類聚古集ムカシオモホユとなつてゐる。六帖に載り、下句、『心もしらぬむかしおもほゆ』となつてゐる。
 
(377)       ○
   朝な朝な見ずば戀ひなむ草枕旅行く君が歸り來るまで
 
 續後拾遺集卷八離別歌にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷九(一七四七)の長歌の終が、草枕客去君之及還來《クサマクラタビユクキミガカヘリコムマデ》となつてゐるが、この短歌全體としての原歌らしきものは見當らない。
 
       ○
   同じ名をたちと立ちなは唐衣きてこそ馴れめうらぶるるまで
 
 續後拾遺集卷十一戀歌一、題しらず、人麿とある。六帖に、全く同樣に出てゐるから、それがもとであらうか。但し、六帖では人麿作とはしてゐない。
 
       ○
   いきのをに思へばくるし玉の緒の絶えて亂れむ知らば知るとも
 
 續後拾遺集卷十二戀歌二、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十一(二七八八)、寄物陳思、讀人不知に、生緒爾念者苦玉緒乃絶天亂名知者知友《イキノヲニオモフハクルシタマノヲノタエテミダレナシラバシルトモ》がある。第二句、舊訓オモヘバクルシ。タエテミダ(378)レムといふ訓は見當らない。六帖に載り、これは第四句、『絶えて亂るな』となつてゐる。古今集卷十三戀歌三の友則の歌に、『下にのみ戀ふれば苦し玉の緒の絶えて亂れむ〔六字右○〕人なとがめそ』といふのがある。
 
       ○
   足引の山櫻戸をあけおきてわがまつ君を誰か留むる
 
 續後拾遺集卷十三戀歌三にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二六一七)、正述心緒、讀人不知に、足日木能山櫻戸乎開置而吾待君乎誰留流《アシヒキノヤマサクラトヲアケオキテワガマツキミヲタレカトドムル》がある。六帖にも、同樣に載つてゐる。
 
       ○
   をはただの板田の橋のこぼれなば桁より行かむこふな我が兄子《せこ》
 
 續後拾遺集卷十三戀歌三にあり、人麿とある。萬葉集卷十一(二六四四)、寄物陳思、讀人不知に、小墾田之板田乃橋之壞者從桁將去莫戀吾妹《ヲハリダノイタダノハシノコボレナバケタヨリユカムナコヒソワギモ》がある。初句、古寫本中(嘉・類・古・細)ヲハタヽノ。結句、舊本訓缺。古寫本中(嘉・類・西・温)コフナワカイモ。類聚古集『いも』の右に朱で『セコ』とある。(古・細)コフナワギモコ。和歌童蒙抄にも、初句、『オハタヽノ』、結句、『コ(379)フナワカイモ』とある。六帖に載り、結句、『戀ふなわぎもこ』、他は續後拾遺と一致してゐる。
 
(380) 風雅集
 
       ○
   子等がてをまきもく山に春されば木の葉しのぎて霞たなびく
 
 風雅集卷一春歌上にあり、『春の歌の中に、柿本人麿』とある。一本、初句、『こしかてを』。萬葉集卷十(一八一五)、春雜歌、人麿歌集出に、子等我手乎卷向山丹春去者木葉凌而霞霏※[雨/微]《コラガテヲマキムクヤマニハルサレバコノハシヌギテカスミタナビク》がある。第二句、舊訓マキモクヤマニ。第四句、舊訓コノハシノギテである。六帖に、上句、『せながてを卷もく山にこの夕べ』として載つた。又、赤人集に載り、流布本、第三句、『春くれば』、西本願寺本は、第三句は『春されば』であるが、初句、『としかみを』、第四句、『このはるしきて』となつてゐる。
 
       ○
(381)   山ぎはに鶯鳴きてうちなびき春と思へど雪ふりしきぬ。
 
 風雅集卷一春歌上にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(一八三七)、詠雪、讀人不知に、山際爾鶯喧而打靡春跡雖念雪落布沼《ヤマノマニウグヒスナキテウチナビクハルトオモヘドユキフリシキヌ》がある。初句、舊訓ヤマノハニ。古寫本中(元・類・神)ヤマキハニ。第三句、舊訓ウチナビキである。赤人集に、二箇所に載り、始の方のは、第四句、『春と思へば』。後の方のは、第二句、『うぐひす鳴きつ』、第四句、『春と思へば』となつてをり、その他は風雅集と一致する(西本願寺本には後者のみある)。それから六帖には、初句、『山の端に』、結句『雪は降りつつ』として載つてゐる。
 
       ○
   妹がためほつえの梅を手折るとてしづえの露にぬれにけるかも
 
 風雅集卷一春歌上にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(二三三〇)、詠露、讀人不知に、爲妹末枝梅乎手折登波下枝之露爾沾家類可聞《イモガタメホツエノウメヲタヲルトハシヅエノツユニヌレニケルカモ》がある。第三句、神田本の一訓にタヲルトテがある。家持集に載り、風雅集と全く一致してゐる。
 
(382)       ○
   ももしきの大宮人のかざしたるしだり柳はみれど飽かぬかも
 
 風雅葉卷二春歌中にあり、『柳を詠める』の題で、人丸とある。萬葉集卷十(一八五二)、詠柳、讀人不知に、百磯城大宮人之蘊有垂柳者雖見不飽鴨《モモシキノオホミヤビトノカヅラケルシダリヤナギハミレドアカヌカモ》がある。第三句、舊訓カツラナル。古寫本中(元・神一訓)カザシタルである。家持集に載り、第三句、『かづらする』となつてゐる。
 
       ○
   朝霧にしののに濡れて呼子鳥み船の山を鳴き渡る見ゆ
 
 風雅集卷二春歌中、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(一八三一)、詠鳥、讀人不知に、朝霧爾之怒怒爾所沾而喚子鳥三船山從喧渡所見《アサキリニシヌヌニヌレテヨブコドリミフネノヤマユナキワタルミユ》がある。第二句、古寫本中(西・細・矢・京)シノヽニヌレテ。第四句、舊訓ミフネノヤマニ。古寫本中(元・西・神)ミフネノヤマヲである。
 
       ○
   見渡せば春日の野べに霞たち開くる花は櫻花かも
 
(383) 風雅集卷二春歌中にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十(一八七二)、詠花、讀人不知に、見渡者春日之野邊爾霞立開艶者櫻花鴨《ミワタセバカスガノヌベニカスミタチサキニホヘルハサクラナナカモ》がある。赤人集に載り、風雅集と同じく、第四句、『開くる花は』。西本願寺本では、なほ、第二句、『かすがのうへに』となつてゐる。又、家持集に載り、下句、『咲きみだれたる櫻花かな』となつてゐる。
 
       ○
   鶯の木づたふ梅のうつろへば櫻の花の時かたまけぬ
 
 風雅集卷二春歌中にあり、前の歌につづいてゐる。萬葉集卷十(一八五四)、詠花、讀人不知に、※[(貝+貝)/鳥]之木傳梅乃移者櫻花之時片設奴《ウグヒスノコヅタフウメノウツロヘバサクラノハナノトキカタマケヌ》がある。赤人集【西本願寺本】に、『うくひすのこつたふえたのうつりかはさくらのはなのときのまへきぬ』と載つた。同じく流布本には、初句『うくひすが』、結句、『ときかたつきぬ』となつてゐる。
 
       ○
   いざや子等やまとへはやく白菅のまのの萩原手折りてゆかむ
 
 風雅集卷九旅歌にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷三(二八〇)、高市連黒人歌二首の中(384)に、去來兒等倭部早白菅乃眞野乃榛原手折而將歸《イザコドモヤマトヘハヤクシラスゲノマヌノハリハラタヲリテユカム》がある。初句、舊訓イザヤコラ。第四句、舊訓マノノハギハラで、即ち風雅集と同じである。
 
       ○
   敷妙の枕せし人こと問へやその枕には苔おひにけり
 
 風雅集卷十四戀歌五にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二五一六)、問答、人麿歌集出に、敷細布枕人事問哉其枕苔生負爲《シキタヘノマクラキシヒトコトトヘヤソノマクラニハコケオヒタラム》がある。第二句、舊訓マクラセシヒトで、古寫本等すべて同じである。結句、舊訓コケムシニタリ。古寫本中(嘉・類・古)コケオヒニケリである。
 
(385) 新千載集
 
       ○
   春日なる三笠の山に月は出でぬさける櫻の色も見ゆらむ
 
 新千載集卷一春歌上にあり、題しらず、柿本人丸とある。萬葉集卷十(一八八七)、旋頭歌、讀人不知に、春日在三笠乃山爾月母出奴可母佐紀山爾開有櫻之花乃可見《カスガナルミカサノヤマニツキモイデヌカモサキヤマニサケルサクラノハナノミユベク》がある。この旋頭歌は、六帖にも採られ、結句、『花も見るべく』、他は右の萬葉の訓と同じである(萬葉舊訓ハナノミルベク)。又赤人集に、『かうべをめぐらす』として、『かすかなるみかさのやまのつきもいてぬかもせきやまにさけるさくら花』(西本願寺本)、『さける櫻の花も見るべく』(流布本。上句西本願寺本に同じ)といふ具合に載つてゐる。
 
       ○
 
(386)   結ぶ手の岩間をせばみ奥山の石垣清水《いはがきしみづ》あかずもあるかな
 
 新千載集卷三夏歌にあり、題しらず、人丸とある。六帖に、人麿として載つてゐる。
 
       ○
   天の原雲なき空にうば玉の夜わたる月の入らまくも惜し
 
 新千載集卷四秋歌上にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷九(一七一二)、登2筑波山1詠v月一首、讀人不知に、天原雲無夕爾鳥玉乃宵度月乃入卷〓毛《アマノハラクモナキヨヒニヌバタマノヨワタルツキノイラマクヲシモ》がある。六帖に、第三句、『雲なき宵に』、結句、『かくらく惜しも』となつて載つてゐる。
 
       ○
   住吉の遠里小野の眞萩もて摺れる衣のさかり過ぎゆく
 
 新千載集卷五秋歌下にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷七(一一五六)、攝津作、讀人不知に、住吉之遠里小野之眞榛以須禮流衣乃盛過去《スミノエノトホサトヲヌノマハリモチスレルコロモノサカリスギヌル》がある。初句、古寫本中(元・類・神)スミヨシノ。第三句、舊訓マハギモテ。結句、舊訓サカリスギユク。袖中抄・和歌童蒙抄にも、新千載集と同(387)樣に訓んで引かれてゐる。六帖に、やはり同樣に載つてゐる。
 
       ○
   風にちる紅葉の色や神無月からくれなゐの時雨なるらむ
 
 新千載集卷六冬歌にあり、題しらず、人丸とある。躬恒集に、『風に散るもみぢの色は神無月からくれなゐの時雨こそふれ』といふのがある。
 
       ○
   淺羽野にたつみわ小菅根深めて誰故にかは我が戀ひざらむ
 
 新千載集卷十一戀歌一にあり、題しらず、人麿とある。一本、結句、『こひつらむ』。萬葉集卷十二(二八六三)、寄物陳思、人麿歌集出に、淺葉野立神古(占)菅根惻隱誰故吾不戀《アサバヌニタツルカムウラノスガノネノネモコロタレユヱワレコヒザラム》がある。第二句以下、舊訓タツミワコスゲ・ネカクレテ・タレユヱニカハ・ワガコヒザラムとなつてゐる。
 
       ○
   谷川の水陰に生ふる山菅のやまずも人に戀ひわたるかな
 
(388) 新千載集卷十一戀歌一にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十二(二八六二)、寄物陳思、人麿歌集出に、山河水陰生山草不止妹所念鴨《ヤマカハノミヅカゲニオフルヤマスゲノヤマズモイモガオモホユルカモ》がある。和泉式部集に、『山陰にみがくれおふる山草のやまずよ人を思ふ心は』。式子内親王集に、『君が代のみかげにおふる山菅の止まずぞ思ふ久しかれとは』といふ如きものもある。
 
       ○
   敷妙の枕をまきて妹とわがぬる夜はなしに年ぞ經にける
 
 新千載集卷十二戀歌二にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集卷十一(二六一五)、正述心緒、讀人不知に、敷栲乃枕卷而妹與吾寢夜者無而年曾經來《シキタヘノマクラヲマキテイモトワレトヌルヨハナクテトシゾヘニケル》がある。第三句、舊訓イモトワレ。古寫本中(細)イモトアレトである。六帖に、第三・四句、『妹とあれとぬる夜はなくて』となつて載つてゐる。
 
       ○
   思へどもおもひもかねつ足引の山鳥の尾の長きこよひを
 
 新千載集卷十二戀歌二にあり、超しらず、人丸とある。萬葉集卷十一(二八〇二)、寄物陳思、(389)讀人不知に、念友念毛金津足檜之山鳥尾之永此夜乎《オモヘドモオモヒモカネツアシヒキノヤマドリノヲノナガキコノヨヲ》がある。結句、嘉暦本には、ナガキコヨヒヲとなつてゐる。
 
       ○
   君がきる三笠の山にゐる雲の立てばわかるる戀もするかな
 
 新千載集卷十三戀歌三にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十一(二六七五)、寄物陳思、讀人不知に、君之服三笠之山爾居雲乃立者繼流戀爲鴨《キミガキルミカサノヤマニヰルクモノタテバツガルルコヒモスルカモ》がある。結句、舊訓コヒヲスルカモ。古寫本中(細・神)コヒモスルカモである。六帖第二、『原』と、同第五、『かさ』とに、『君がきる三笠の原に(葬五『山に』)ゐる雲の絶えて別るる戀もするかな』となつて載つてゐる。
 
(390) 新拾遺集
 
       ○
   あさみどり野べの青柳出でて見む絲を吹きくる風はありやと
 
 新拾遺集卷一春歌上にあり、題しらず、柿本人丸とある。萬葉集に原歌と認むべきものが見當らない。柿本集に、國名の歌の中、『きのくに(紀伊)』の歌として載つてゐるから、それを採録したものであらう。
 
       ○
   春霞たなびく山のさくら花はやく見てまし散り過ぎにけり
 
 新拾遺集卷二春歌下にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集・六帖・勅撰集等に、原歌と認むべきものが見當らない。
 
(391)       ○
   秋風は涼しくなりぬ駒なべていざ見にゆかむ萩の花見に
 
 新拾遺集卷四秋歌上にあり、題しらず、人麿とある。一本、結句、『秋の花見に』。萬葉集卷十(二一〇三)、詠花、讀人不知に、秋風冷成奴馬並而去來於野行奈芽子花見爾《アキカゼハスズシクナリヌウマナメテイザヌニユカナハギノハナミニ》がある。第三句、古寫本中(元・類)コマナベテ、(神・細)コマナメテ。第四句、古寫本中(元)イサノニユカンである。六帖に、第四句、『いざ野にゆかむ』として載つてゐる。
 
       ○
   春されば霞がくれに見えざりし秋萩さけり折りてかざさむ
 
 新拾遺集卷四秋歌上にあり、前の歌につづいてゐる。萬葉集卷十(二一〇五)、詠花、讀人不知に、春去者霞隱不所見有師秋芽子咲折而將插頭《ハルサレバカスミガクリテミエザリシアキハギサケリヲリテカザサム》がある。第二句、舊訓カスミカクレテ。古寫本中(元・類・神)カスミニカクレである。柿本集に載り、新拾遺と全く同樣である。なほ、家持集に、『春くれば霞にこめてみせざりし萩咲きにけり折りてかざさむ』となつて載つてゐる。
 
(392)       ○
   あま雲のよそに雁がね聞きしよりはだれ霜降りさむし此夜《このよ》は
 
 新拾遺集卷五秋歌下にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十(二一三二)、詠鴈、讀人不知に、天雲之外鴈鳴從聞之薄垂霜零寒此夜者《アマグモノヨソニカリガネキキシヨリハダレシモフリサムシコノヨハ》がある。柿本集に載り、類從本、新拾遺に同じく、流布本、第二句、『よそのかりがね』、第四・五句、『いたく霜ふりさむしこよひは』となつてゐる。六帖に、作者『おとくろ』として載り、第四・五句、『はだれ雪ふりさえしこの夜は』とあり、又、家持集に、第四・五句、『あられしもふる寒き今夜《こよひ》か』として載つてゐる。
 
       ○
   故郷の初もみぢ葉を手折りもてけふぞ我が來る見ぬ人のため
 
 新拾遺集卷五秋歌下にあり、前の歌につづいてゐる。萬葉集卷十(二二一六)、詠黄葉、讀人不知に、古郷之始黄葉乎手折以今日曾吾來不見人之爲《フルサトノハツモミヂバヲタヲリモチケフソワガコシミヌヒトノタメ》がある。第三句、舊訓タヲリモチであるが、今或る古訓は皆タヲリモテとなつてをり、第四句は、舊訓ケフゾワガクルである。
 
(393)       ○
   紅《くれなゐ》のやしほの雨は降り來らし立田《たつた》の山の色づく見れば
 
 新拾遺集卷五秋歌下にあり、題しらず、人丸とある。六帖に載つてゐて、句々全く同一である。萬葉集に原歌らしきものは見當らない。
 
       ○
   玉藻かるとしまを過ぎて夏草の野島が崎に舟近づきぬ
 
 新拾遺集卷九※[覊の馬が奇]旅歌にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷三(二五〇)、柿本朝臣人麻呂※[覊の馬が奇]旅歌八首の中に、珠藻苅敏馬乎過夏草之野島之埼爾舟近著奴《タマモカルミヌメヲスギテナツクサノヌジマノサキニフネチカヅキヌ》がある。第二句、古寫本中(古・細)トシマヲスギテ、(神)トシマヲスギツとあるから、新拾遺の句もよりどころあるものといふことがわかる。第四句、舊訓ノジマガサキニ。古寫本中(類・神・細)ノジマノサキニ。ノジマノ〔右○〕が古點で、ノジマガ〔右○〕は仙覺の新點である。六帖に載り、第二句はやはり『としまをすぎて』であるが、第四・五句、『野島が崎にいほりする我』で、萬葉の『一本云』の方によつてゐる。
 
(394)       ○
   草の葉に置きゐる露の消えぬ間に玉かと見ゆることのはかなさ
 
 新拾遺集卷十哀傷歌にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集に原歌と認むべきものが見當らない。柿本集に、國名の歌の中、『おき(隱岐)』の國の歌として載り、第三句、『きえぬまは〔右○〕』となつてゐる。それを採つたものであらうか。
 
       ○
   久方の空見るごとく仰ぎみしみこの御門の荒れまく惜しも
 
 新拾遺集卷十哀傷歌にあり、前の歌につづき『日置皇子かくれ給ひける時よみ侍りける』と題してある。萬葉集卷二(一六八)、日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌の反歌第一に、久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之荒卷惜毛《ヒサカタノアメミルゴトクアフギミシミコノミカドノアレマクヲシモ》があり、第二句、古寫本中(金・類)ソラミルコトク、(古・神)ソラミルカコトとあるから、新拾遺の句は、放恣なものでないことがわかる。柿本集にも載つたが、流布本、『なみの宮のうせたる時。久方のあめふることに口□□□□みやのみことのあれまくもをし』。類從本、『ひなみのうせ給へきとき。久堅のあめのふることあふきみしみこの(395)みことのあれまくをしも』で、大分違つてゐる。
 
       ○
   空に知る人はあらじなしら雪の消えてもの思ふ我が心とは
 
 新拾遺集卷十一戀歌一にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集に原歌らしきものは見當らない。六帖に、結句が『わが心かな』となつて出てゐるのが、もとであるやうである。
 
       ○
   相思はぬ妹をなにせむ烏羽玉の今宵も夢に見えも來なくに
 
 新拾遺集卷十一戀歌一にあり、『戀の歌の中に、人丸』とある。萬葉集に原歌が見當らない。六帖に、人麿として、第三・四句、『ぬばたまの一夜も夢に』となつて出てゐるから、それがもとになつたのであらうか。
 
       ○
   今のみも妹をば戀ひず奥山の岩根苔生ひて久しきものを
 
(396) 新拾遺集卷十四戀歌四にあり、題しらず、人麿とある。萬葉集に原歌が見當らない。六帖に、初句、『今のみは』、第四句、『岩に苔生ひ』として出てゐる。『岩根苔生ひ』は、『岩に苔生ひ』を誤つたものであらうか。
 
       ○
   ます鏡絶えにし妹を逢ひ見ずは我が態やまじ年は經ぬとも
 
 新拾遺葉卷十四戀歌四にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十一(二六三二)、寄物陳思、讀人不知に、眞素鏡直二四妹乎不相見者我戀不止年者雖經《マソカガミタダニシイモヲアヒミズハワガコヒヤマジトシハヘヌトモ》がある。『絶えにし妹を』は、萬葉の訓には見當らない。六帖に載り、第二句、『ただにし妹を』、第四・五句、『わが戀やまず年はふれども』となつてゐる。
 
       ○
   我妹子にゆきあひのわせを刈る時になりにけらしも萩の花咲く
 
 新拾遺集卷十八雜歌上にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集卷十(二一一七)、詠花、讀人不知に、※[女+感]嬬等行相乃速稻乎苅時成來下芽子花咲《ヲトメラニユキアヒノワセヲカルトキニナリニケラシモハギガハナサク》がある。初句の異訓は、類聚古集ヲトメゴニぐ(397)らゐで、ワギモコニといふのは見當らない。結句、舊訓ハギノハナサク、柿本集に載り、流布本、『わぎも子がゆきあひのいねのかる時に成にけるかな萩の花さく』であるが、類從本には、『わぎもこに行あひのわさをかる時に成にけらしな萩の花さく』とあり、更に、圖書寮本第二(類從本系統)は、全く新拾遺と同樣になつてゐる。
 
(398) 新後拾遺集
 
       ○
   露霜の置くあしたより神なびの三室の山は色づきにけり
 
 新後拾遺集卷五秋歌下にあり、『山紅葉を』と題した歌のあとに、『同じ心を』として、柿本人丸とある。萬葉集に原歌と認めるべきものが見當らず、他の勅撰集、六帖等にも載ってゐないやうである。
 
       ○
   山川の水し噌らば水上につもる木の葉は落しはつらむ
 
 新後拾遺集卷八雜秋歌にあり、人丸とある。萬葉集に原歌らしきものが見當らない。柿本集に、國名の歌の中、『つしま(對馬)』の國の歌として載り、初句、『山川に』となつてゐる。新後拾遺(399)の歌は、これから來てゐるのであらう。
 
       ○
   朝まだき我が打ち越ゆる立田山深くも見ゆる松の色かな
 
 新後拾遺集卷十※[覊の馬が奇]旅歌にあり、題しらず、人丸とある。萬葉集に原歌らしきものが見當らない。柿本集に、國名の歌の中、『かうち(河内)』の國の歌として載り、結句、『松のみどりか』となつてゐる。新後拾遺の歌は、これにもとづくものであらう。
 
(400) 新續古今集
 
       ○
   二葉より引きこそ植ゑめ見る人の老いせぬものと松を聞くにも
 
 新續古今集卷一春歌上にあり、題しらず、柿本人麿とある。萬葉集に原歌と認めるべきものが見當らない。柿本集に、國名の歌の中、『いせ(伊勢)』の國の歌として載つてゐる。即ち新續古今は、それを採つたものであらう。
 
       ○
   手に取れば袖さへ匂ふ女郎花木の下露に散らまくも惜し
 
 新續古今集卷四秋歌上にあり、題しらず、柿本人丸とある。萬葉集卷十(二一一五)、詠花、讀人不知に、手取者袖并丹覆美人部師此白露爾散卷惜《テニトレバソデサヘニホフヲミナヘシコノシラツユニチラマクヲシモ》があり、結句、類聚古集チラマクヲシミ、神(401)田本チラマクモヲシと訓んでゐる。コノシタツユといふ訓は、萬葉諸本には見當らない。六帖に、結句、『散らまくをしも』として載り、柿本集に、新續古今と全く同樣に載つてゐる。(類從本は、結句『ちらまくをしみ』)。新續古今は、多分柿本集から採つたものではあるまいか。
 
       ○
   戀ひつつも稻葉掻き分け家居してともしくもあらず秋の夕風
 
 新續古今集卷五秋歌下にあり、題しらず、柿本人麿とある。萬葉集卷十(二二三〇)、詠風、讀人不知に、戀乍裳稻葉掻別家居者乏不有秋之暮風《コヒツツモイナバカキワケイヘヲレバトモシクモアラズアキノユフカゼ》がある。第三句、舊訓イヘヰセバ。元暦校本イヘヰセン。イヘヰシテは古訓に見當らない。第四句は、舊訓トモシクモアラジで、トモシクモアラズは、萬葉としては考で初めて訓んだ訓である。六帖に、第三・四句、『家居せばともしくもあらじ』として載つてゐる。又、柿本集に載り、流布本、第三句、『いへをれば』、結句、『秋の夕暮』、類從本、第三句、『我をれば』、結句、『秋の初風』である。
 右の如く、『二葉より引きこそ植ゑめ』といふ歌を人麿作としたのは、柿本集に據つたものであらうし、また、『手に取れば袖さへ匂ふ』の歌も、萬葉では讀人不知であるのに、人麿作としたのは、やはり柿本集に據つたものであらうと推測することが出來る。さうして、『戀ひつつも稻葉か(402)き分け』の歌も、やはり柿本集から取つたと看做し得るが、第三句の、『家居して』は、柿本集には、『家居れば』とあり、萬葉の舊訓及び多くの古寫本訓はイヘヰセバであるから、新續古今で收録に際して、時様に、『家居して』と變化せしめたものであらう。なほ、先にあげたやうに、右の萬葉の訓を、現在はイヘヲレバと訓むのが一般になつてをり、柿本集とあたかも一致してゐるわけであるが、これは古義に至つて始めて試みた訓であつて、古寫本等には見當らぬものである。要するに、新續古今時代では、この柿本集を稍廣く用ゐただらうと想像することが出來るのである。
 
(403)   【香川景樹】柿本朝臣人麻呂歌師説
 
(405)    【香川景樹】柿本朝臣人麻呂歌師説
 
       ○
 
  過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌
玉手次《タマタスキ》畝火之山乃橿原乃日知之御世從【或云自宮】阿禮座師神之|盡《コト/”\》 「玉だすきうねび」此枕詞、手次《タスキ》をうなじにかくる事とは聞ゆれど、うね〔二字傍点〕とのみにては少しことたらぬ心ちす。比〔右△〕までかゝる意ありや考ふべし。同じ事を手次懸く〔四字傍点〕などあらんにはうね〔二字傍点〕とのみにかけて論なし。○日知は、月夜見命夜之食國を知すにむかへて、日之食國知たまふ云々といふ略解の説いかがなり。日〔右△〕はすべて秀るの稱にておほくいへり。しり〔二字傍点〕はいちじるきの意にやあらん。さては只すぐれたる人をいふなり。かの日の食國の説の如きは、僧などひじりといふ時はさらにかなはず。○從《ユ》はより〔二字傍点〕と同じ。されど所により今と語勢異なるなり。そこに解べし。○或本自宮も聞えぬにはあらぬど、こゝは本文にてしかるべし。○阿禮座は、有無の有〔右△〕にて、人の死ぬるをなく〔二字傍点〕なるといふ裏にて、形あら(406)はれて有るやうになれば也。生ずる事也。○惣意は、神武天皇より以來天子御代々々といふ心なり。
樛木乃彌繼嗣爾天下所知食之乎〔二字左○〕【或云食來】天爾滿倭乎置而青丹吉平山乎超〔天爾〜左○〕【或云虚見倭乎置青丹吉平山越而】何方《イヅカタ》御念食可〔二字左○〕【或云所念計米可】
つがの木〔四字傍点〕詞を重ねたる枕詞。○或云食來を用べし。調すぐれたり。○天爾滿以下も或云の方よろし。○何方いかさまに〔四字傍点〕と訓來れど猶今少しの訓也。卷二に「何方爾御念食可由縁母無眞弓乃岡云云、同三卷「何方爾念鷄目鴨都禮毛奈吉」云々などありて意も詞もこゝと似たる所也。即「いづかたにおもほしめせか」と訓て、いかなる思召ありてか此大津に云々、いかなる意ありてか所も多きに此佐保山に云々とやうに方〔右△〕の字は所にあたりて聞べき歟。さらば此大津いかなる所とて御心とまりけんといふやうの意味になるべし。只いかさまにおもほすならば其大和の國より思ひたゝせ給ふ時の事なるべし。奈良山越てといふ次にゆくりなく出べからず。調おもふべし。○或云計米可の方後より押はかる意にはよろし。○倭乎置以下天智の御心をはかり奉るなり。
天離夷者雖有石走淡海國乃樂浪乃大津宮爾天下所知食兼天皇之神之御言能大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流〔春草〜左○〕【或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留】 石はし〔三字傍点〕はならべたる石の間といふ意にかゝれり。「石はしのまぢかき」といふにおなじ。逢〔右△〕といふ心にいふは迂しといふべし。○春草の茂て生たる云々を都のあれたる實景と見ても、結句「大宮所見れと見(407)えぬ鴨」などあらば聞ゆべきを、「此間ときけ共」「此間といへども」といふには「見えずしられぬ」といふが語の順にて「こゝと聞けどもこゝといへども荒にけり」とはつゞけがたき理なれば、或云の二ッの香《カ》文字あるを用べし。さて意は大宮大殿の跡は此間といへども、草の茂たるか、霞の立きらふか、しられずといふ意になれり。いひつめたる重ね詞のしらべのよければ、おのづからさと聞ゆるなり。○春草と霞と時のたがへるは、畧解にいかなる事ぞと思ひまどへるかたなりといへるはわろし。四月ころよまんにはいづれもいひてさまたげなかるべし。後世のうたよみの意にはあらず。
百磯城之大宮處見者悲毛【或云見者左夫思毛】 これは一首の大旨をいひむすびたる意なり。結句は、本文或云いづれにてもあるべけれど、上皆或本を用れば是も或本なるべき歟。
 
   反歌
 
○樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大宮人之船麻知兼津 さき〔二字傍点〕の言は、ものゝ格外にさし出たる事にて山の崎、花の咲、鉾のさきなどすべてもの/\によりて趣はかはれども心はおなじ。老人も大かた人壽の限より越たるは幸ひ也。天子の行もさる所は必ことなる幸ひあればなり。今からさきも年へてそのまゝあるは幸ひの意地。○二卷「やすみしゝ我大君の大御ふね待か戀なんしがのからさき」とあるにおなじく、からさきが大宮人の船まつなるべし。○まちかねつ〔五字傍点〕は待がたくす(408)るなり。
○左散難彌乃志我能【一云比良乃】大和太與杼六友昔人二亦母相目八毛【一云將會跡母戸八】榎並ノ説モ語勢はさる事ながら、かの水海常に流るゝ所ならず。和太といふ名もよめる所の名なれば是も上のうたと同じく、さやうによどみ居るとも昔の人に又あふべしや、あはじといふ意なるべし。古人はかやうの所おほく同意をよめれば上はから崎の船まちかぬる心、これは大和たのむかし人を戀る心なるべし。
 
      ○
 
  幸于吉野宮之時云々
○八隅知之 仙覺の説に、安く見そなはすといへる意よろしかるべし。安きといふほ甚だやすらかによろしき限の語にて今俗輕きかたにつきてやすしといふの類にはあらず。又今休息をヤスムといふも一轉の語也。シヽは爲しにてせしといふと同じ。さるは今なるかたちをいふなればスルとこそいふべきを、シシといふは如何といふに、枕詞は調を專らといふ故に此類多し。いさなとるといふべきをいさなとりといふが如し。されば次の歌安見と書るを正字とすべし。一説は隅を知スル也といへれど、かゝる所をスミといふことなし。漢字の意に取てはすむことなれど詞は(409)いかゞなり。されば上の説によるものなり。
吾大王之所聞食 キコシメスとよむべし。ヲス〔二字傍線〕もメス〔二字傍線〕も似たる事ながら、メスはおほしめす、知しめす〔九字傍線〕などのメス也。しろしをす〔五字傍線〕といへどおほしをす〔五字傍線〕とはいはず。メスはマスと同じくて何にもつけいふなり。もとミスといふが本躰にてメスはその立たるなり。マスはその居たる也。ムスはその伏たるなり。かく五音は強弱の音あり。其中尤つよきを躰とし語のもとゝす。されども第二立たる音より用る多し。これらもメスマスと轉ずるなり。さればヲスといふは異音にてあれば先こゝは、メスとよまん方まさるべし。猶音の例考見るべし。
天下爾國者思澤二雖有山川之 此山川〔二字傍線〕は山と川にてあれば、清てよみてわくべしといふ説は次の此山の〔三字傍線〕云々此川の〔三字傍線〕云々に對していふにてしるべけれど、猶よく考れば一首すべて河の清きをめづる事のみにて、山を取立てほめたる歌にあらず。實に川こそよろしけれ。山は此宮所のむねとする所にあらず。清河内といふも清きは川にのみかゝりて山によるにあらず。さればやはり山川の〔三字傍線〕にて山みづの〔四字傍線〕の意にてしかるべし。此山の此川の〔六字傍線〕といへる次の二句はさいわひて所のものもて序に用たるにてふかきこゝろなし考べし。
清河内跡 河内〔二字傍線〕は河の内なる地をいふにて、今も河内國其外所々此名あり。今は秋津の野べ即河内の地なり。跡はとして〔三字傍線〕といふ心也。
(410)御心乎 枕詞。心よし〔三字傍線〕とかゝるなり。御心ヲ廣田國〔六字傍線〕などいふ類天子の心をさすにあらず、又乎〔傍線〕の字は瀬乎早み〔四字傍線〕などの乎〔傍線〕にて今俗には此を〔傍線〕なし。古への用ざまなり。
吉野乃國之花散相 枕詞なるべし。必枕詞なるべき所なり。さて秋津野といふを秋野とみて萩すゝきなどのちりかふ秋野といふにや。萬葉十四花ちらふ此向峯〔七字傍線〕云々とあるも枕なるべき歌さまなり。猶考べし。
秋津乃野邊爾宮柱太敷座波 これはかの離宮を營造し給ふを古語もていへる也。座《マセ》ば〔二字傍線〕はその營し給ふをいふなり。さて幸し給ふ事ならばおのづからこもる文勢なり。混ずべからず。
百磯城乃大宮人者|船並底《フナナメテ》 次をもふなきほひ〔五字傍線〕とよめば、これもふななめて〔五字傍線〕とよむべし。ふなきほふ堀江の川の〔十字傍線〕ともあれば也。次の語の躰用にかゝはらずフナとも調によりては唱る也。
旦川渡舟競|夕河渡《ユフカハワタリ》 夕川ワタルとよむはわろし。心はこれにてきるれども調は夕川わたり此川の〔八字傍線〕云々とかゝるなり。次の歌の上瀬に鵜川を立下瀬にさでさしわたし〔上瀬〜傍線〕も心はきるれどわたし〔三字傍線〕とよむがごとし。
此川乃絶事奈久此山乃彌高良之 これたゆる事なく〔六字傍線〕とは絶ず幸し給はんをいふ。彌高からし〔五字傍線〕とは十分さかんに見えさせ給ふをいふなり。古へ高々に〔三字傍線〕と云詞あり。皆今云とは異なり。高々にまつ高々に思ふ〔十字傍線〕などの類萬葉中よめる皆心一盃十分などいふ意也。よりて今も高く尊きなどいふ(411)高也。さて川といひ山といふは、時所のものもて序として句をおこせるなり。川の如く山のごとくといふにはあらぬ事、余の序歌體詞などのごとし。
珠水激 眞淵の石ばしる〔四字傍線〕とよめるによるべし。
瀧之宮子波見禮跡不飽可聞 此二句は太敷ます大宮所のめでたきをいひむすべるにて一首の惣意なり。
   反歌
雖見飽奴吉野乃河之常滑乃 常なめ〔三字傍線〕は水中に顯れたる石に常になめらかなる苔のごときものゝつきてかはかぬをいふ。卷十一豐初瀬路は常滑のかしこき道ぞ〔豐初〜傍線〕といへるは、さる道は踏すべりあやまつものなるをいふにて、今しか谷越など即常滑道なり。されば此よしのゝ離宮なども、往通ふ常滑道なるをもて序に用たるなるべし。さなくては常滑の名はありとも水中に隱れたるを取出すべくもおもはれず。考べし。
絶事無久復還見牟 しば/\御供してかへりみんの心なり。
 
       ○
 
安見知之吾大王神長柄神佐備世須登 神ながらといふ詞は、いにしへ天皇の御上又さなく(412)ても神のうへにもかろくつけていひし詞にて、言意はくにて其けぢめを斷りたる詞なり。神代のごとく光輝を放ち空をもかけり給はんには奇妙事規に見ゆればかけても言べき詞にあらず。下に神隨爾有之などはたらかし用たるも見るべし。又考|〓《(マヽ)》紀に惟神我子應治故寄とありて、古註に惟神者謂隨神遺亦自有神遺也とある註はおぼつかなし。可考。さて神ながら、御容に付ていふもあり、御行に付ていふもあり、此うたなどは次々常のことなるを奇妙きさまにいひなしたるが一首の主意なれば、その意をもていへり。又たゞ夫までもなくかろく用たるもあり。○神佐備は「つげの小櫛も神さびにけり」などの類多くいふ神さび〔三字傍線〕にはあらず。こゝは翁さびをとめさび〔八字傍線〕の類にて、神でありながら神ぶりたるわざし給ふといふ心也。さび〔二字傍線〕はぶり〔二字傍線〕といふやうの意也。ふりの考は別にくはしくせり。
芳野川多藝津河内爾高殿乎高知座而上立國見乎|爲波《セレハ》 此所國見をすれば〔六字傍線〕とよめるはわろし。國見し給ふをかたはらより見奉りていふなれば、セレバ〔三字傍線〕とよむべし。上の舒明天皇の御製はみづからのたまふなればすれば〔三字傍線〕にてよし。
疊有青垣山山神乃奉御調等春部者花插頭持秋立者黄葉頭刺理 花や紅葉や、うつくしくなり出るを人のかざし遊ぶなど、春秋のけしきをおしこめて、山神の調進としてかの高殿より見そなはしうけ行給ふ意なり。
(413)遊副川之神母 此所落文あるべし。疊有青垣山の山神のといふ對句なれば必かくてはとゝのはず。川戸の神も〔五字傍線〕などやうの句猶ふさはしきがありしものなるべし。
大御食爾仕奉等上瀬爾鵜川乎|立《タテ》下瀬爾小網刺|渡《ワタシ》 これらの事比(皆か)川神のみにへ奉るとするなり。鵜川を立の説畧解に鵜川する人を立るをいふと解るは非なり。鵜使ふ業を起し立るを言にて、何にてもかりそめならぬ目立ばかりの事を言。やがて目立の詞も同意也。御獵立、市を立などより轉りて名を立、志を立、功を立など皆たやすからぬ業を云詞也。○さてさしわたし〔五字傍線〕とよみて次につゝくべし。意はこゝにてきるゝ心なり。上の長歌の夕河渡とおなじ。
山川母依※[氏/一]奉流神乃御代鴨 これ一首の意を結ぶなり。かく山川も依合なびきて仕へ奉るは、古言に神ながらといふにたがはず、實に現神にて神めきたるわざしたまふなりと言なり。
   反歌
山川毛因而奉流神長柄多藝津河内爾船出爲加母 此神ながら〔四字傍線〕は、はたらかして用ひたり。上の句につけて意得べし。上の長歌は高殿より見そなはすをいふ。短歌には船にて遊び給ふをいへり。
 
       ○
 
(414)  幸于伊勢國時留京柿本朝臣人磨作歌
嗚呼見乃浦爾船乘爲良武※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二四寶三都良武香
釧著手節乃崎二今毛可母大宮人之玉藻苅良武
潮左爲二五十良兒乃島邊※[手偏+旁]船荷妹乘良六鹿荒島回乎 囘をわ〔傍線〕とよめれど、上も島邊〔二字傍線〕なればこゝもへ〔傍線〕とよむべきか。○しほさゐ〔四字傍線〕は防州三田尻の浦人、海底に岩ある處は其上自から打さわぐを潮さや〔三字傍線〕と申てかしこき事として、さる所と見れば舟を※[手偏+旁]そけて行通ふ事也。そのけぢめ常人は見分難く、あやまつ事多しとかたれり。今席に多田韶ありていはく、今も潮さゐといふ詞もありといへり。いづれ潮のさわぐ事とは聞ゆれば、こゝはいらごの島のめぐり底は岩なればおのづから潮のわきかへるなるべし。あながち滿干の汐にかゝはるにもあるべからねど、滿潮にはいとゞさわぐなるべし。
 
       ○
 
  輕皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌
八隅知之吾大王高照日之皇子云々 此歌の解已前の師説に、大かたかはることなし。其中隱口〔二字傍線〕乃枕、久老の説可然やとあり。三雪落を已前は師説枕詞なるべしとありしを、再び此度はやは(415)り景物にて、此行啓は十月頃なるべければ實の雪にやとあり。
   短歌
阿騎乃野爾宿旅人云々
眞草苅荒野二者雖有云々
東野炎立所見而云々
 以上以前の師説にかはらず。
日雙斯《ヒナメシ》皇子命乃馬副而御獵立師斯|時者來向《トキハキマケリ》 きまけり〔四字傍線〕と讀べしと言り。
 
       ○
 
  柿本朝臣人麻呂從石見國別妻上來時歌二首并短歌
石見乃海角乃浦囘乎 上に囘《ヘ》とよめればこゝもべとよむべし。猶所による。
浦無等人社見良目滷無等
 
       ○
 
  日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
(416)天地之初時|之《ノ》 之の字シとよめるもあれど猶ノとよめる方おだやかにて調もまさるべし。白雲の棚引國の青雲の〔白雲〜傍線〕などのノの如し。
久堅之天河原爾 畧解天の安川の安の字を畧きたりといへど、それまでもなく天の川ともおほくいへり。
八百萬千萬神之神集集座而神分分之時爾天照日女之命天乎波所知食登葦原乃水穗之國乎天地之依相之極所知行神之命等 八百萬千萬神の〔七字傍線〕云々、畧解に天孫を水穂の國へまゐらせんとの神議なれば、天照の句以下四句を隔てゝ、葦原云々といふへかゝれりといふは非なり。天照日女命云々以下、皆天孫を下し奉る神議の意をのべたるなり。今諸侯たらん人の嗣子を議定するに、大殿には云々あらせられて其御子は云々などいひ述るが如し。夫故諸神議定して此天上をば日神しろしめすとして、かの下つ國をぼ御孫の命長くしろしめすべしとてといふ心也。
天地之依相之極は、祝詞などに天雲の向伏限といふに同じく、天と地と遠く見放れば依相たるが如く見ゆるをいふにて、畢竟此國土の限り天の覆ふ限りの事也。是を分れたる天地の又末にてよりあふ事といふはわろし。さる祝言あるべくもなし。
天雲之八重掻別而|神下座奉之《カンクタリイマシマツリシ》 さて上にいふ如く神議定りしかば、天孫天雲を押分下りましませりといふ也。イマセマツリシとよめるは如何也。さては天雲云々も八百萬神の方にていふ(417)なれば、神議より引つゞきて雲をわくるも下し奉るも皆諸神のする事となれり。さては此所次の文に應じもわろく又カンクダシとよむべき所也。さる詞も如何なれば、かたがた天雲以下天孫の方にていふなり。
高照日之皇子波 是日並知皇子をいふなり。かの雲掻別天下りし給ひし天孫より次々相續し來り給ふ此日並知命はといふほどの語也。次の飛鳥之淨之宮以下、此皇子の思召趣をいふなり。
飛鳥之淨之宮爾神隨太布座而天皇之敷座國等 是は持統天皇を申奉るにて、皇子の思し給ふ旨をいふなり。此日本の國は淨之宮に持統おはしませば、事かくことなしとして、皇子は天に上り給ふよしなり。敷座國等はくにとしてといふほどのこゝろなり。すべて上すも兩所等文字あるは皆輕からぬ等にて多く意を含めり。こゝも則しかり。畧解に、皇子波の下暫く切て天原へかゝるといふはわろし。上の日女命天乎波所知等といふ解のわろきと同じ事なり。さるよしはすでにいふがごとし。
天原石門乎開|神上上《カンノホリノホリ》座奴 是薨じ給ふ事をいふなり。さて意は神代の神議に天をば日神しろしめすとして、天孫を此地にくた|り〔右△〕給へり。その御末なる今此皇子は又此國は持統のしろしめす國なりとして天にのぼり給へりといふなり。かの例を打返して用ひ給ひし意なり。上は或本に登と書しもあればノボリとよむべし。扨是迄は皇子薨去の事を神例など引て、さる故よしあるが(418)如く申なし奉りたるなり。さて打返してそれはさる事なれども、此皇子薨じ給はずして天位にものぼり給はゞ云々と、次よりは實の悲しみをのべたり。
吾王皇子之命乃天下所知食世者 上はおほやけざまに申なす故、高照日皇子などいひこゝは實の悲しみを述る故に、親み奉りて吾大王云々などいへり。シロシメシセバとよむべし。
春花之|貴《メテタ》在等 貴をたふと〔三字傍線〕と訓たるはわろし。春花といふ詞もたふとし〔四字傍線〕とはかゝらぬをや。又天位しろしめして政事とり給はん事を四方人のおもひまつるもたふときとては今少也。めでた〔三字傍線〕と訓むべし。おそらくは貴は賞の字誤もはかりがたし。
望月乃滿波之計武跡天下四方之人之大船之思憑而天水仰而待爾 諸註にくはしければとくに及ばず。タタハシケンはゆきわたらぬ所もなきなり。
何方爾《イツカタニ》 いづかたに〔五字傍線〕とよむべし。眞弓の岡をいづ方と思し召てかゆきかくれ給ひしといふなり。
御念食可由縁母無眞弓乃崗爾宮柱太布座御在香乎高知座而明言爾 朝毎といふを只毎日の事とするはわろし。朝は一日の初なれば、仕へ奉る人どもも先伺ひ奉る事あるべし。それにつきては必御言も承ることなり。憶良の子のうせにし時の長歌にも「朝な/\いふことやみて」とあり。これも夜は寢て常にも言問ぬものなるが朝は先おき出て言とふなるを死てよりいはねばいふ事やみて〔六字傍線〕といふなり。すべて朝な/\など皆朝の用ありていたづらならず。只日毎と心得る(419)はわろし。
御言不御問日月之 ひつきの〔四字傍線〕と訓むべし。
數多成塗 まねく〔三字傍線〕と訓るにしたがふべし。さまねく〔四字傍線〕などいふ語もあれば古言なり。
其故皇子之宮人行方不知毛 畧解にここは、御墓にて宮殿はなけれど云々といへれ共、宮人等の行かへりとのゐするばかりの御墓なれば、天子の殯ほどこそならね、さばかりの殿舍はあるべきなり。
   反歌
久堅乃天見如久云々
茜刺日者雖照有烏玉之夜渡月之隱良久惜毛 この歌は、畧解には此時持統にて天皇はおはしまさねば、天子を日にいひかけしにはあらずといへれど、いかにも日を天皇によそへ奉らではかなはぬうた也。さらば或本云以件歌爲後皇子尊殯宮之時反歌也といふにしたがひて、こゝは上の一首のみとすべし。
   或本歌一首
島宮勾乃池之放鳥人目爾戀而池爾不潜 本文云はく、是は水鳥の、たまたま陸にあがりて集りをるを見て、かくいひなせしなりといへり。隨ふべし。
 
(420)       ○
 
  柿本朝臣人麻呂獻泊瀬部皇女忍坂部|皇歌《(マヽ)》 此端詞は或本のかたちにしたがふといへる諸説にしたがふべし。
飛鳥明日香乃河之上瀬爾生玉藻者下瀬爾|流觸經《ナカレフラヘ》 宣長古事記を引てフラバヘとよめれどあしし。ハヘ〔二字傍線〕は意はへ〔三字傍線〕などのハヘ〔二字傍線〕にてラヘ〔二字傍線〕ともライ〔二字傍線〕ともナイ〔二字傍線〕ともはたらく語にて只フレ〔二字傍線〕といふ事にはあらず。又眞淵はフラヘリとリ文字を付られたれどフレリといふ詞もなければ無理なり。フルのルをのべて調をなす所なればナガレフラヘ〔六字傍線〕と四言によみて次へつゞくべし。
玉藻成 此成l〔傍線〕如くなりとして聞説あり。又或は似ス〔二字傍線〕といふ人もあれど似ス〔二字傍線〕とは無理なり。やはりナス〔二字傍線〕にて五月蠅なすわき〔七字傍線〕は、五月蠅のさまをなしてわき、泣子成したふ〔六字傍線〕は、泣子のしたふ樣をなしてしたふなり。こゝも玉藻のなびくさまなしてかよりかくよりなびく也。
彼依此依靡相之 これは婦夫互になびきよりあひ共寐し給ふなり。
嬬乃命乃多田名附 枕詞。意考ふべし。
柔膚尚乎 スラはソレヲサナガラなど解するもかたはらならぬにはあらねど語勢はかはれり。畢竟つよむる詞にて、こゝには柔はだをちよつとも身にそへたまはぬといふ心にめぐりてあたれ(421)り。
劍刀於身副不寐者烏玉乃 ヌハタマ久老|寐程《ヌハタマ》也といへるおもしろし。
夜床母|荒良《(マヽ)》所虚故名具鮫魚天氣留敷藻相屋常念而 此所舊點のまゝにてはとゝのひがたし。久老の説、魚は兼、留は田としてよめるにしたがふべし。○ケタシは蓋の字をあてたれど蓋はつよき詞にて十の物を八九はいふ詞也。古への詞のけたしはいとよわき語にて十の物三四より以下にかかる詞也。俗に第二義におちて但しなどいふににたること葉なり。
玉垂乃越乃大野之旦露爾玉藻者※[泥/土]打夕霧爾衣者沾而草枕旅宿鴨爲留 タビといふ詞は本|田人《タヒト》の意にて、古へ田作るには、家よりは遙の所に田のあるに、かり庵などつくりて往かよひして居つゝ作る、その居るを田居《タヰ》といひ、やどるを田廬《タブセ》といふ、田臥《タフシ》の意也。さるかたち家になくして他所に寐るさまなどに似たれば、旅をもタビといひしなり。民《タミ》はもとよりの事也。
不相君故 比君ゆゑ〔三字傍線〕は俗にいはゞ君じやに〔四字傍線〕といふほどの事也。
 玉藻の上瀬に生る下瀬になびくさまなど已前の師説の如し。こゝに畧す。
敷妙乃袖易之君玉垂之越野過去亦毛將相八方
 
       ○
 
(422)  明日香皇女木〓殯宮之時云々
玉藻毛曾云々 モゾのてにをはゝ、必然る事のいまだしからぬを、あらかじめ推定むる詞なり。玉藻もかるれば必生るは必定ながら、今めのまへにしからざればモゾといふなり。
何然毛吾王乃云々ヨリ忘賜哉云々背賜哉 これまで自問の意なり。以下自答の如くみるべし。
宇都曾臣跡云々ヨリ味澤相目辭毛絶奴 是迄自答のごとし。さばかりあかぬ朝宮夕宮を何しに忘れそむき給ひしやといひて、それは御在世のふし時々諸共にあそび給ひし木のへ故に常宮とさだめ給ひし也といふ意味なり。
   反歌
明日香川明日谷云々 これ川の皇子を見んと思ふよし也。しがのから崎におなじ。我大王の御名わすれせぬとは此川の明日香といふ名をおひてあるをいふなり。
 四 大船ヲユキノ進《スヽミ》ニ石ニフリ
 
       ○
 
   柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作二首并
 
(423)天飛也輕路者云々妹名喚而袖曾振鶴 これ只妹をこひて狂瀾のごとくなりて、名をよび袖ふりしにはあらず。古への喪送などの禮に名をよび袖ふるやうの事もありしなるべし。おのづからの人情しかるべきものなり。
   或本歌曰
宇都曾臣等云々 此長歌は惣て或本のかたまされり。取べし。
好雲叙無 此一句は解がたし。本文にも吉雲曾無寸とあれば誤ともいひがたし。猶可考也。すべての解は以前におなじ。
去年見而之 長歌も次の短歌も死後無程よめりしとみゆるを、これのみは一周の後なるべく見ゆるは異時の詠か。
 
       ○
 
  吉備津采女云々
秋山下部留妹奈用竹乃騰遠依子等者|何方爾《イツカタニ》 此何方爾は、古點のごとくイカサマニとよむ方よろしきやうに聞ゆ。それは次にさす所なければ也。されども次に必二三句も落句ありと見ゆれば、そのところに必死たる事、且墓所のさまなどもありつらん。さらば何方爾は、上にいふご(424)とくイツカタニとよみてかなひし事ならん。脱文の所は次にいへり。必なくてほうたの意通らぬなり。
念居可栲紲之長命乎 此次にまだわかくして死たる事などあるべし。さてその墓所へ通ふ道の露こそは云々、霧こそは云々とやうにいひつゞけしならん。
露己曾婆、朝爾置而、夕者、消等言、霧己曾婆、夕立而、明者、失等言、梓弓、音聞吾母、髣髴見之、事悔敷乎 ほのかにだにも見ざらましかば、今かくなげかざらましを、見しことのくやしきといふなり。短歌のも同心なり。
布栲乃云々、時不在、過去子等我 此下にも一句ばかり脱句あるべし。さなくては七言三句つゞけり。さて次二句の也《ヤ》文字は此所の句によりてよむべし。如何《イカ》なれば等の句ならばヤ〔右△〕と訓べき歟。さなくば置字にて訓べからず。惣ては以前の解のごとし。
天數、凡律子之、相日、於保爾見敷者、今叙悔 これは、ほのかに見たるによりて、今死たるをきくが悔しきとやうにも聞ゆるやうなれど、やはり長歌と同意に聞かたまされり。
 
       ○
 
  讃岐狹岑島視石中死人云々
 
(425)玉藻吉、讃岐國者、國柄加、雖見不飽、神柄加、幾許貴寸 此カラカをガラと濁りてよむはわろし。ガラと濁る時は上に屬して人ガラ家ガラなどの語となりてカのてには付られず。カラは必用言ならではかなはず。されば必清てよむべし。扨意は、四國は神代の故事もありて、即神なれば、神の故にや貴かるらん、國のすぐれたる故にや、見れどもあかぬといふ心なり。○此歌の解諸注と異にて、中の湊より乘出せし舟の、俄に風おこり海あれてあやうければ梶引返し、狹岑島にこぎよせしかども、猶舟にありがたければ磯に上りて庵りせし事などなべて先の解にくはし。又短歌に、うはぎの花をよめれば凡八月頃なるべし。其頃は野分吹立時にて海上も俄にあるゝ事今もありて船人のかしこむ時也。これもさるゆくりなき難風なるべし。此死人も此難風に破船せしが波に打あげられたるにてもあるべしかし。
家知者、往而毛將告、妻知者、來毛問益乎 此死人の郷里もしれてあらば行ても告ましを妻もしれてあらば行てもいはましものを、といふこゝろなり。
玉桙之、道太爾不知、欝悒久、待加戀良武、愛伎妻等者 玉鉾之道以下家なる妻の上をいふなり。以前の解には道太爾不知までを上につけしかども、今再び考るに、「たにしらすおゝしく」と續きたる語勢にて、きれがたければ玉鉾以下妻にかけて意汲べしといへり。惣ては先解のごとし。
(426)妻毛有者、採而多宜麻之、佐美乃山、野上乃宇波疑、過去計良受也 此解、蒿の花の盛過たるが、死體のかたはらにあるをみて、あはれ妻もあらばやがて採て手向ましをといへるなること以前の解にくはし。さるは死たる人に花手向る事今のごときのみならず、いにしへは猶甚だしかりけん。故先思ひよせたるなるべし。タケは手擧にて兩の手を向さまにさし出して物するをいふ。ムダク、タグル、タガヌル、イダク等の語皆其心よりいへるなり。馬ダキ行テ〔五字傍線〕などいふもこれなり。
 
       ○
 
  柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時云々
鴨山之、磐根之卷 之《シ》を助字なりといふはあしゝ。必シマクと續く詞也。今俗にも此詞のこれり。
 
       ○
 
  人麻呂妻云々
旦今日旦今日、吾待君者、石水、貝爾【一云|谷《・カヒ》爾】交而、有登不言八方 貝は借字にて山のかひ(427)のかひなり。交るは「春の山べにまじりなん」などの交る〔二字傍線〕に同じ。そこに葬りてあるをいふ也。さて一云谷もカヒとよむなり。後世谷をカヤ或はカヘなどいふももとカヒなる事しらる。此贈答すべて石見にての事なるべし。次の擬歌は後に心得違ひてよめるものなるべし。
 
       ○
 
     三卷ノ中
  天皇御遊雷岳之時柿本云々
皇者、神二四座者、天雲之、雷之上爾、廬爲流鴨 此うた下句の調の打靜りたるをみれば、恐らくは御墓所を菴するかも〔五字傍線〕とよめるにて、御遊の歌にはあらじ歟。荒山中に海をなすの歌は別なり。
 
       ○
 
  長皇子遊獵云々柿本云々
八隅知之、吾大王云々十六社者、伊波比|拜目《ヲロカメ》、鶉己曾、伊波比囘禮、四時自物、伊波比拜、鶉成、伊波比毛等保埋、恐等云々 上の鹿鶉は、御獵場の物もていひて序とせり(428)とも見ゆれど、拜目《ヲロガメ》といふ詞をかけたれば、鹿鶉も王に仕奉る意あるべし。扱又自物といふ詞、成《ナス》と對ひたれば、鹿のやうにと心得べき所なれ共、男自物といふ詞のさは聞がたきにより、是は如成などと同詞にはあらず。「夕されば」と同じく只夕といふ事にも聞え、又夕になり行といふ處にも聞ゆるなり。畢竟詞のそひて長くなればおのづから意こもらざる事なし。男自物の時は男たる者《モノ》のといふやうに聞え、かく「鹿じものいはひ拜み」などは、その鹿の如くといふ意味にも轉るなり。
   反歌
久堅乃、天歸月乎、綱爾刺、我大王者、蓋爾爲有 畧解に、蓋を月にたとへたりといへるもさる事にて、今も丸き蓋なきにしもあらず。菅などの蓋はもとより丸きなり。されども蓋を月にたとへんには「天行月を蓋にせり」といはんこそ詞も意もやすらかならめ、月を網にさし〔六字傍線〕といふは必月を綱にさして、さてきぬがさにする事也。今考るに大寶令蓋の定などはもとより後の事にて、古へは色々の蓋もなどかなからん。天子の御蓋には或は日輪の御形を作りて、今の鳳凰の有所に立て、皇太子はそれにしたがひて月輪の形を作りしなどいふ事もやありけん。さらばその月の形の左右より御綱引はへてその下に蓋釣たらんには、うたのおもていとよくかなふべし。されど何にも證の見えぬ事なればしひては定がたし。
 
(429)       ○
 
  柿本云々※[羈の馬が奇]旅歌八首
三津埼云々 此うたは、下句いたく落字あれば手を下しがたし。
珠藻苅云々
粟路之云々 畧解に、古事記の文をあしく見て、青摺衣などあるより、今の小忌の赤紐のやうにおもひて、肩にある紐也といへるは誤也。古事記の文しからず。腰の紐也。さればこゝも只衣の紐にてよし。必出立時妹が結びしならずとも、紐結ふなどは常に妹がわざなればかくいはん事何のうたがひかあらん。
荒栲、藤江之浦云々 この歌などは、陸路ゆきし時のなるべし。此八首は後に取あつめたる物と見ゆれば、必一時の往來にはあらじ。これは旅にやつれて、月もかくまではとおもふさまよりおもひよせて、海人とや見らんなどもいへるなるべし。
一本云白栲乃 誤とせる説もあれど、葛布ならんからに白からずばこそあらめ。眞の布にも増りて白ければしろたへ〔四字傍線〕といふとも必誤とのみはいひがたきか。
稻日野毛云々
 
(430)留火之、明大門爾、入日我、※[手偏+旁]將別、家當不見 是歌上《ノボ》ル時のとせるはわろし。必下る時のなるべし。いかにといふに攝津より舟出すれば直に此大門なり。此歌いらん日や〔五字傍線〕などある調一兩日の中に※[手偏+旁]入べきをいふなり。實に此せとに入て西國の方見えずなり果るなり。久老がアカシオホトとよめるもおもしろきにや。
天離、夷之長道從、戀來者、自明門、倭島所見 是は陸路を登りし時、やうやう播磨路にかゝりて、淡路島のはづれよりはるかに大和の山々の見えたるをよろこびてよめるなるべし。泉州はあまり高山なければ大和の志貴山などは打こして見ゆるとぞ。
飼飯海乃、庭好有之云々 ミタレイデ見ユと古點のまゝによむも難なし。
 
       ○
 
  同石田王卒之時云々
角障經、石村之道乎云々 此歌は試ニイハヾ、石村ノアタリニ別庄ニテモ造ラレテ、春ノ頃ナドハ專ラ通ヒ玉ヒ、猶度々末カケテ通ヒ樂ミ玉ンノアラマシノアリテ俄ニカクレ玉フニヤ。橘紅葉等モイマダ物セヌサマ也。又或ハカノアタリニ思ヒ妻ナドイデキテカヨヒ玉ヒシニヤ。イヅレイハレアルベキ也。
 
(431)       ○
  柿本云々香具山云々
草枕、※[羈の馬が奇]宿爾、誰嬬可云々 古ヘ旅人ハイホリサシテヤドルナレバ、コレラモイホリサシテ死テ居ルナルベシ。サテ此結家待莫國〔四字傍線〕ノ訓ノコト且畧解等ニ古歌ヲ解ソンジタルコトハ先ノ會ノ|ト《(マヽ)》メニクワシクセリ。
 
       ○
 
  士形娘子云々
隱口能、泊|※[さんずい+懶の旁]《(マヽ)》之、山際爾云々 意ハ明ケシ。際ハスベテ波ト訓ベシ。山ノハ〔三字傍線〕ト云カナハ見ユレドマ〔傍線〕ト云コトナシ。末ナドハ義ヲモテカケルニテ、ヤハリハ〔傍線〕トヨムベキ也。
 
       ○
 
  溺死出雲娘子云々
山際從、出雲兒等云々
(432)八雲刺、出雲子等云々 ナヅサフといふ詞は、萬葉などすべて水によりていふ。後世いづくにもなれそふやうの事にいふにあらず。されどもナヅが本|誤《(マヽ)》にてソフの附たるなるべければ、世後にいふ方よくかなへり。ナルヽ、ナヅク、ナヅカシ、ナヅル、ナヅムなどのナヅにそ〔傍線〕ふの付たる也。おそらくは大古はそと同じかりしか、萬葉の頃ふと水にのみよることゝなりて、又いにしへに歸りしにもやあらん。世の久しき中にはさる事も多かるべし。
 
       ○
 
  柿本云々四首
三熊野之、浦乃濱木綿、百重成云々 モヽヘナス〔五字傍線〕とよむよし。
古爾、有兼人毛云々 ガテニケンのガテは、皆カネの意に聞てよし。猶くはしく先の注にあり。
今耳之、行事庭不有云々 結句ネニサヘナキシと訓べし。ナキサヘナキシはあしく聞ゆ。
百重二物、來及毳常云々 キオヨベカモトとよみ來れども、及オヨビとよみし所もありやしらず。今少のよみなり。宣長キタリシケカモとよまれたるはよろしけれど、猶キタリとよむ事今少也。キシケカモトと六字によまんか。猶よき訓あるべし。可考。結句の哉は武の寫誤ならんといふ説に從ふべし。さなくてはよめがたし。
 
(433)       ○
  柿本云々三首
未通女等之云々
夏野去云々 妹之心乎といふは、其妻アルハ待、アルハ別ヲシミさらでも常に心を用ふるうたよりいふにて、いたづらに心をといへるにはあらじ。さて此二首のうた序の妙はいふべくもあらず。折返し感ずべし。
珠衣乃、狹藍左謂云々 これは十四にも出で、東歌なるべし。必人丸のには在らじ。さてサヰサヰの語しれがたし。東語なるべし。もしは今俗に、サイサイ來タ、サイ/\云フなどいふサイサイにはあらぬか。是は再三にやともおもへど、試にいふなり。シヅミは思ひしづみなるべき事、以前の注にくわし。
  附記。柿本朝臣人麻呂歌師説は、文政二年夏、香川景樹の講述したのを門人熊谷直好の書きしるしたものに係る。それを正宗敦夫氏が嘗て筆寫して置かれたのであるが、このたび同氏の厚意により、本篇にて公にすることを得た。
 
(435)  鴨山後考其他
 
(437)  鴨山後考
 
 萬葉集卷二(二二三)の、『柿本朝臣人麿、石見國に在りて死に臨みし時、自ら傷みて作れる歌一首。鴨山《かもやま》の磐根し纏《ま》ける吾をかも知らにと妹《いも》が待ちつつあらむ』中にある、『鴨山』について、私は昭和九年に「鴨山考」を作り、大體、石見國邑智郡粕淵村|江川《がうのがは》岸の『津目山《つのめやま》』だらうと結論して置いた。即ち、人麿は伊甘郷の國府で死せずに、訣があつて粕淵・濱原あたりで死したのであらうと想像したのであつた。
 なぜ津目山を鴨山としたかといふに、津目山と相對して龜村があり、龜は賀茂(鴨)の轉化で、その類例は、『加賀國河北郡高松村大字横山字龜山の縣社賀茂神社』其他によつて證據だてることが出來るからである。
 併し、明かに『鴨山』と名のつく山が存在してゐなかつたので、津目山をそれに當てたのであつた。ついで、「鴨山考補註」を作つたとき、『人麿時代のカモをも、現在の龜・濱原一箇處よりも範圍を廣めることも亦可能である。これも可能の一假説と看做し得る』とも云つて置いた。
(438) 然るに、昭和十二年一月七日、石見邑智郡粕淵村の大字|湯抱《ゆがかへ》に 『鴨山』と名づける山があるといふ通信を受けた。そこで念のため、粕淵村役場土地臺帳の調査を依頼したところが、次の如くであつた。
   湯抱村字鴨山  第五百廿五番
           七等 雜木山
   一、山林反別 八町六反五畝廿一歩
     此地價金貳圓九拾貳錢八厘
     此地租金    七錢三厘
   登記通知 大正十年五月廿三日
   事理 寄附 所有者氏名 粕淵村中
 この臺帳は明治廿三年根基で、地圖は明治二十七八年の頃作製してゐる。即ち、『鴨山』は、古くからその名がついてゐて近時の命名でないことが分かる。
 私は昭和十二年五月十五日自ら踏査して見たが、津目山よりも少し低く(海拔三六〇米、營林署調査)、峯が二つあつて間がくびれてタヲを形成し、筑波山を小さくしたやうなところがある。麓にめら谷《だに》川が流れ、鳴瀬《なるせ》の川と合し津目山の麓で江(ノ)川にそそいでゐる。隣に大釣山《おほつりやま》があり、道は(439)一方別府の方に通じ、一方此處を越せば出雲境でもう佐比賣《サヒメ》村に近い。
 この鴨山を濱原粕淵中間の四日市といふあたりの畑上から遠望すると、西北方に津目山の山續きとして見える。實際は小さい谿を隔ててゐるのだが、遠目には連續としで見えるし、古代には道路が今日程發達してゐないからやはり山續と看做していい有樣だつたかも知れない。湯抱の湯谷には炭酸鹽類泉が湧いて居る。
 大體右の如くで、津目山のある同じ村内(粕淵)に『鴨山』といふ名のついた山が見つかつたのである。そして、津目山との距離は直徑やうやく半里程である。また粕淵村小原の小學校境内から種々土器の出土したことは既に幾たびも記したが、昭和八年に鴨山の麓でそれと同じ系統の土器を土民が拾つてゐる。さういふことをいろいろ総合すれば、粕淵村の小原にも湯抱にも古代に人が住んでゐたことが明かである。
 この新しく發見した『鴨山』、といふ山を、どう處理すべきか。同じ粕淵村内の山であるから、賀茂族に關係ある山とせば大勢からいつて大變動は無いのであるが、鴨山をば單一の山と是非解釋せねばならぬなら、津目山にすべきか、湯抱の鴨山にすべきかが未決定の問題であつた。
 實地に鴨山を踏査しない以前は、やはり津目山を以て鴨山とし、湯抱の鴨山は、そのあたりに古へ賀茂族の住んでゐた名稱の殘存せるものと解釋し、『龜』もその殘存名稱のまた變化したもの(440)と解釋せば、「鴨山考」で結論した如く津目山を以て鴨山に當てて差支ないとも思つたのであるが、湯抱の鴨山を實際踏査するに及んで、やはり人麿臨終地の『鴨山』は、この湯抱の『鴨山』ではなからうかと推考するやうになつたので、このたび報告を敢てしたのである。
 そんなら、なぜ人麿は臨終のときこんな處に來てゐたか、それは既に「鴨山考」で論じた如くであるが、なほ井上通泰博士の人麿の役人としての職掌は班田使のやうなもので、出張して歩いたと解する説(アララギ昭和十一年十二月號)をも參考とすることが出來る。
 この「鴨山後考」は取りあへず、「鴨山考」後の追考の結論だけを記したが、結論に到つた經路等は拙著「柿本人麿雜纂篇」中に記して置いた。(昭和十二年五月稿)
 
(441)  粕淵村湯抱の『鴨山』に就いて
 
     一
 
 昭和十二年一月七日附を以て、島根縣石見國邑智郡|粕淵《かすぶち》村大字|湯抱《ゆがかへ》の苦木《にがき》虎雄氏から手紙を貰つた。これは、苦木氏の住んで居る湯抱に、『鴨山』といふ山があるといふ通信であつた。
  【前略】現在私が住んで居ります湯抱に温泉がありまして、小字名を湯谷と申しますが、その谷から君谷村別府へ拔ける山道の傍に、「かも山」と呼稱される山がある事であります。この山は參謀本部から發行されてゐる五萬分の一地圖には名が出てゐないのでありますが、土地の人は皆、「かも山」と呼び、古老あたりにたづねても、古くから、「かも山」で通つて來てゐるやうであります。この土地は昔から、俗にいふ「かぢや者」の群が部落をなして純醉の土著の人は少ないのでありますが、「かも山」は依然昔から「かも山」に違ひないとの事であります。(442)この山は相當な高さを持ち、地圖にあるやうに(添付しました)ふんばりのある山であります。昨秋から官行造林を始め、今頃降雪が無い爲、植栽を急いで居りますが、人夫監督に來てゐる森林官に、「かも山」の「かも」はどんな字を書くのだらうかと訊ねたところ、「かも山」は「鴨山」で、古くから鴨が澤山ゐたのではないかなどといふのであります。鴨のゐるゐないは兎もあれ、この湯抱に「かも山」といふ山があることを既に先生が御存知なれば、この一文もお笑草に過ぎませんが、もし御存知ないなれば、或は參考になりはせぬかと思ひまして拙ない文を認めました。【下略】
 私は苦木氏に感謝し、なほ一應粕淵村役場について、その土地臺帳を調べてもらふことを依頼したところが、一月十六日附を以てその調査を報告せられた。
   揚抱村字鴨山  第五百廿五番
           七等 雜木山
   一、山林反別 八町六反五畝廿一歩
    此地價金貳圓九拾貳錢八厘
    此地租金    七錢三厘
   登記通知 大正十年五月廿三日
(443)   事理 寄附 所有者氏名 粕淵村中
 なほ苦木氏は臺帳の附圖の映寫をも送られ、そして云。『現在の粕淵村臺帳は、明治廿三年根基となつてをります。その以前のものはあると思つて居りましたが、役場が燒失した時、一緒に燒けた由であります。地圖は明治廿七、八年頃の調製だと役場の吏員たちが申しますが、これは地圖の表紙に何年の調製と記してゐないので正確なところが不明なのであります。併し當時の場抱村戸長が波多野顯作であつたところから推定して大體間違ひないだらうと思ひます。此の地圖の調製人は林善松、梨原久治、當時の地主惣代は景山恒吉、眞苅廣七郎。湯抱村戸長は波多野顯作でありますが、いづれも故人であります【下略】』。
 
     二
 
 苦木氏の通信を得て私の喜んだのは、私が柿本人麿の歿處『鴨山』をば、濱原、龜、粕淵あたりの山だらうと考へ、粕淵にある『津目山』を以てそれに當ててゐるからである。そして私の根據とするところは、現在の『龜村』のカメといふ名は、古へのカモ(賀茂・鴨)の變化したもので、その名殘だらうと假定したのに本づいて居た。
 それから、其他の論據としては人麿の妻依羅娘子の歌に、『石川』とあるのが、現在の川本町が(444)古往『石川』と稱したといふ神社縁起によつて、大體そのあたりの江(ノ)川のことであらうといふこと。それから、粕淵から出土した種々の土器によつて古代民族が其處に住居して居つた事實を確認し得ること。さういふ事柄をも私の鴨山考の論據として居るのである。
 さうして見れば、同じ粕淵村の大字で湯抱といふ一里足らずのところに、『鴨山』といふ名のついた山があるといふことは、ただの偶然と謂ふよりも、古へのカモといふ名の殘存してゐるものと考へる方が順當である。『鴨山』の『鴨』といふ名は、鴨が澤山住んでゐたための名といふよりも、石見以外の他の國にこの名の殘つてゐるやうな理由(【後段參看】)によるものと考へる方が正しいやうである。
 約めていへば、川本あたりから粕淵・濱原・龜あたりにかけて、江(ノ)川は古へ石川と云つたものであらう。そしてこのあたりに賀茂氏族が土著し、從つて賀茂社もあれば、賀茂山、鴨山といふ名も出來てゐたものに相違ない。人麿時代にはその界隈で最も目立つ現在の津目山が鴨山であったであらう。それが名が細かく分化するに從つて、別な細かい名に變り、古へのカモといふ名は、現在のカメ、湯抱の『鴨山』のカモとして、その名殘をとどめて居るのであらう。さう考へて來れば、同じく粕淵村に 『鴨山』と名の付く山の現存してゐるといふことは、私の「鴨山考」にもう一つ重大な論據として役立つことになるのである。
(445) 次に、私は人麿が石見から京に上つた道順をば、備後に拔けさせ瀬戸内海を舟行せしめるやうに考へてゐるのであるが、その時の人麿の歌の、『小竹《ささ》の葉はみ山も清《さや》に亂れども』といふのは、人麿が湯抱あたりを通る時の吟咏だらうと想像した(【評釋篇卷之上參看】)のは、當時交通道路は此處を通つてゐたと考へたからであるが、この考はただの空想ではなく、粕淵小原から古土器が出土する如く、湯抱からも石器が一個出てゐるし、未發掘の圓墳があつたりして、古代住民との交渉のあることを確かに示してゐるからである。なほ此邊の交通路は一方は赤名を越えて備後、一方は三瓶山(佐比賣山)の麓、現在の安濃郡佐比賣村の方を經て出雲の方へ通つてゐたやうである。
 なほ、ついでにいふが、人麿上來の道筋で、若し、『辛の崎』をば、現在の宅野の『韓島』あたりだとすると、大田あたりから東に折れることになるが、愚案のやうに、現在の『唐鐘浦』を以てその『辛の崎』に當てるとせば、大田などよりももつと南方、例へば湯(ノ)津あたりから東へ折れてもいいことになって却つて解釋に便利である。
 
     三
 
  カミ(神)、カモ(賀茂・鴨)、カメ(龜)の流通してゐる實例については、鴨山考補註篇で既に記(446)述したが、此處でも少しく補充しながら再び言及しようと思ふ。
 平賀元義の歌に、『鴨山の瀧の白浪さにづらふ少女《をとめ》と二人見れど飽かぬかも』といふのがある。この鴨山といふのは、備前國兒島郡莊内村・灘崎村・日比町あたりの地域は古への賀茂郷であつた。そこで莊内村の大字長尾の鴻(ノ)巣山の西麓に、郷社鴨神社(【郡中式内二社も一】)が鎭座したまふ。そこで、元義の歌の『鴨山』は恐らくこの鴻(ノ)巣山を指したものであらう。現在は役場の臺帳にも『鴨山』といふ名稱はない。鴨川(現在加茂川)は源を此處に發し、北流して同村大字瀧に至り瀑となる。早瀧が即ちこれである。元義のこの題に、『天保八年四月十四日遊2于早瀧1』とあるその『早瀧』である。また、同じく元義の歌に、『打日さすみやびをもがも水鳥の鴨の社のあきをしめさむ』とある、『鴨の社』も同處である。なほ元義の歌には、『あれはもや早花得たり水鳥の鴨山越えてはや花得たり』『鴨山にひるは梅見つ夕されば逢崎のいそにつきを吾まつ』といふのもある。
 この例でも分かるやうに、『賀茂郷』があつたので、『賀茂神社』があり、それを『鴨神社』と書いたものである。元義の歌の、『鴨山』といふのも、つまり『鴨神社』に本づくのである。
 なほ云ふに、賀茂郷は和名鈔の賀美《カミ》郷であるが高山寺本の和名鈔には賀茂《カモ》郷に作つてゐる。即ちカミとカモと同義に用ゐたことが分かる。なほ地名辭書を檢するに、『鴨神社は延喜式の官社なり。今上加茂村大字|長尾《ナガヲ》の神峰《カウノミネ》に在り。盖神と鴨は古音相通じて同義とす。後世加茂の庄名は(447)更に鴨社より轉じたるなり』云々とある。
 なほ例をいへば、常陸の加茂部は鴨部ともいひ、鴨部の名は伯耆・讃岐・伊豫・土佐等にもある。また、播磨の賀茂郡は、鴨國造から出でた名だといふことである。また、神川《カモガハ》、鴨川《カモガハ》、賀茂川《カモガハ》等は相通じて用ゐられてゐる。
 それから、『龜』と『神』との交流の例は、既に補註篇にも云つたごとく、備後の神石《カメシ》と龜石《カメシ》と同じ處であり、常陸の神代《カメクマ》と龜熊《カメクマ》と同じ處であり、加賀の河北郡高松村大字横山の縣社賀茂神社のある山を龜山《カメヤマ》と云つてゐる。即ち、カミ、カモ、カメの交流してゐる實例である。また、單に發音の方からいへば、石見山間部方言【石田春昭氏調査】には、ナリカメ(雷、鳴神、ナリカミ)。オオカメ(狼、オホカミ)があるから、カミ、カメが流通してゐることが分かる。
 
     四
 
 なほ、苦木氏からの通信により、『鴨山』と、それに關係ある事柄を次々と記載して置くこととする。
 『鴨山は左程高い山ではありませず、粕淵の小原からも見える山であります。距離は江(ノ)川から一里すこしあるばかりであります。岩山でしのぶ〔三字傍点〕、岩松《いはまつ》が生へて居ります。しのぶ〔三字傍点〕、岩松は津目(448)山にもある草ですが、他の山には滅多に生へて居りませぬ』。
 『鴨山の裾を流れて居る幅一間ばかりの谷川は江(ノ)川へ注ぎます。川に沿うて舊道があり、これは君谷村へ拔けます。鴨山に對立する笹ケ谷は高い山で、鴨山と並ぶ大釣山は頂上に三角點のある高い山であります。鴨山の奧小屋谷には大きい蹈鞴《たたら》の跡があり、以前は數百人のかぢや者〔四字傍点〕が住居してゐた由であります』。
 『湯谷【湯抱の温泉のある谷】の出口に千人塚がありますが、愚考致しますに、これは昔、この湯抱で戰があつたか、多くの人が病死したか、乃至は多くの人が住みついてゐたかたみではないかと思はれます』。併しこれは舟木氏の意見で古墳だらうといふことになつた。この古墳は既に邑智郡史に載り、拙著鴨山考補註第にも載つた古墳(圓墳)なのである。昭和八年に鴨山の近くで、粕淵村役場吏員某が古代土器を拾つて居る。
 なほ吉本氏は新舊道路の地圖をも添へて報ぜられたが、大田・濱原間の縣道は明治二十四年の工事で、それを改良して目下は大田・赤名間の省營バスが通つてゐる。舊銀山街道は少し南寄りで、潮道《やなしよう》といひ隔四尺乃至一間、山上を通つてゐる。
 鴨山の近くを流れてゐる川のうち、鴨山から湯谷入口迄を女良谷川《めらだにがは》といひ、湯谷から粕淵に來て江(ノ)川に入るまでを尻無川《しりなしがは》と云ふ。鴨山のある谷一帶を女良谷《めらだに》といふので川にもこの名稱があ(449)る。
     五
 
 湯抱の小字名。邑智郡粕淵村役場土地臺帳。明治廿三年根基。(青木虎雄氏報)。
古寺《フルデラ》。菰澤《コモザハ》。菰澤家ノ前。菰澤家ノ上。菰澤道ノ下。菰澤頭。竹ノ迫。竹ノ迫ノ奥。竹ノ廻リ北平。竹ノ上ヘ曾根。菰澤道ノ脇。重迫。重迫下タ切。二反田。屋敷田。二反田竹ノ迫。二反田竹ノ上。二反田南|平《タヒラ》。二反田北|平《ヒラ》。坂根。坂根家ノ上。坂根砂田。ナメシ平。御堂原。神田道ノ下。竹ノ下タ川原田。竹ノ下タ。竹ノ下往來ノ上。神田道ノ上。柳田。柳田ノ上。柳ノ本。先ノ以後。机段。和田。和田隱居後ロ。和田ノ前。向和田。和田門田。道ノ上。畑ケ尻リノ上。畑ケ尻。柳ノ本道下。末ノ谷。末ノ谷尻。沓原道ノ上。森ノ下。森ノ前。森ノ上。沓原《クツバラ》。廻《マハ》リ子。後田《ウシロダ》。後平《ウシロビラ》前田。後ロ平。原ノ先。沓原上ノ中。門田。釜ケ谷。猪ノ迫。清水。才《サイ》ノ峠。鑪《タタラ》ケ原。稗畑。中ノ原。中原|井手《ヰデ》ノ下。中原|川邊《カハベリ》。向稗畑。大平《オホビラ》谷ノ尻。大平《オホビラ》。大平大畑。大向《オホムカヒ》。田代。果瀬清水下ノ向。果瀬川南。果瀬古屋敷。曲リ。曲リ家ノ迫。眞苅《カカリ》家ノ下道ノ下。岩根。果瀬奧。清臺《セイダ》。果瀬。果瀬道ノ上下《ウヘシタ》。果瀬川北。果瀬清水。川木《カハキ》谷。果瀬清水道ノ上。果瀬川邊。與太郎田、與太郎井手下。堂田《ダウデン》坂根。堂田。堂田田ノ上。堂田道ノ上。樫《カタ》ケ迫《サコ》。堂田下。堂田屋敷。屋敷田。(450)大向井。花畑。花畑後ロ。松本。ハンノ木。白瀧。馬《マ》ノ脊《セ》。先ノ曾根。ハゲノ下。外ケ内。寺ケ原。寺ケ原川邊。湯屋田。四反《シタン》田下モノ下。四反田下モノ中。四反田上。四反田上ミノ下。岡田。岡田家ノ前。柳ケ原。竹ノ前。竹ノ前川平。柳ノ本。女良谷尻。向段。上ミ中ノ原。湯本。湯ノ谷道ノ上。野丈ケ原。竹ノ内。竹ノ内下モ。竹ノ内道ノ下。竹ノ垣内。竹ノ端。シツタテ。苦木《ニガキ》。新屋。迫。迫田《サコタ》。下モ段原《ダンバラ》。シツタテ田ノ上。中屋敷。中ノ原。中屋敷上。シツタテ道ノ下。梨ケ原。中田。殿畑。青木。殿畑家ノ奧川邊。殿畑ケ向イ。杉谷市。道蓮田。アヤメ谷。境ケ谷。後ノ谷。雨堤《アマヅツミ》。雨包以後田。雨堤|大下《オホシモ》。堂ノ脇。桁道下。雨包桁道ノ上。桁道ノ下タ尻。桁道下タ|下切《シモキリ》。下モノ原。桁道ノ脇。七本松。堺ケ田。與右エ門田。堂門。牛ケ曾根。和田山。後ロ山。未谷頭。沓《クツ》原山。栗林。赤城。足谷東平。足谷西平。井手山。大平|鑪《タタラ》ケ原。鳥屋ケ丸。菅澤。廻リ山。果瀬東平。當田山。櫨谷山。灰谷《ハンヤ》山。灰谷。釜ケ廻。下モ釜ケ廻。猪ノ木谷山。樫ケ廻。屋敷田山。蛇蝮《ジヤバミ》山。先ソ子。白瀧頭|兩平《リヤウビラ》。若宮山。※[豆+宛]豆ケ平。荒神森。アナツケ。カヤケ谷。モミソ。小屋ノ谷。下全長《シモゼンチヤウ》。上全長。上笠木。葛籠ケ丸。菅床《スガドコ》。ナルセ。鴨山※[この二字ゴシック]。弓木谷。小屋ノ谷東平。登宇ノ古。小屋ノ谷大瀧ノ奥。小屋ノ谷大瀧ノ下|西平《ニシビラ》。鷹ノ巣。大|釣《ヅ》リ。女良谷《メラダニ》頭。笹ケ谷。大釜ケ谷。矢櫃《ヤビツ》山。野犬ケ原。シツタテ山。洞《ウツ》ロ谷。洞ロ谷西平。洞ロ谷東|平《ビラ》。洞ロ谷頭。長畑。向|圓佛《エンブツ》。圓佛梅ノ木谷。大圓佛。小圓佛。杉谷市山。宮ノ原。猫ノ城道運。ツブレケ谷。(451)辷り坂。猫ノ城奧口。猫ノ城頭ノ口。後ロノ谷北平。駄道ケ以後。境ケ谷大道ノ上。雨包《アマヅツミ》西平。堂ノ奥。後ノ谷頭。雨包後脊戸。雨包。脊戸山。後ノ谷|下端《シモハシ》。花屋山。兩雨下小丸。一里塚上ノ口。一里塚下《シモ》ノ口。大年上ノ口。大年|下《シモ》ノ口。ポウポウ坂上ノ口。小田山。與志古《ヨシコ》。殿畑道下。ポウポウ谷。三瓶|隱《ガク》レ。シヤラシヤラ瀧。上《カミ》段原。迫《サコ》田山。新屋《シンヤ》山。苦木山。新屋谷。苦木谷。寺床山。上大向《カミオホムカヒ》山。大向山。鉄穴流谷。井戸ノ奧。再進《サイシン》坂。天狗岩。稗畑山。菜召平《ナメツビラ》山。原ノ先。繩手《ナハテ》下。シツタテ釜場。梨ケ原道ノ上。
 
     六
 
 以上は昭和十二年一月から三月に至るまでの記入であるが、五月十五日その『鴨山』を見に行った(土屋氏夫妻同道)。濱原を過ぎて粕淵に行く途中、一本松澁谷といふ處から、四日市といふあたりの岡の上にのぼつて行つて展望するに、粕淵を眼下に見おろし、津目山を左にしてその山つづきの彼方にこの『鴨山』を見ることが出來る。實際は谿で切れてゐるのだが、此處からの展望では、津目山と連續した山續きのやうになつて見える。寫眞は好く出來なかつたけれども大體の位置を知ることが出來る。
 それから粕淵の小原を過ぎ、湯抱湯谷の湯抱温泉に行つた。湯抱温泉は炭酸鹽類泉で、湧出の(452)ものは飲むことも出來、温めて浴し、神經痛・僂麻質斯系統の病に利くので浴客が絶えない。特に二月から四月迄が最も盛である。此處を流れる湯谷川には河鹿がしきりに鳴いてゐた。この川の源が鴨山の麓を流れるめら谷川で、それに鳴瀬《なるせ》の方の川をも合せて流れ來てゐる。鴨山は湯抱から正面に見ることの出來る山で、現在は植林のために形が變つてゐるが、よく見ると峯が二つになつてゐて所謂タヲを形成し、形の好い山である。樹木を少しく除去したとすると常陸の筑波山を小さくしたやうな形ではなからうかなどとも思つた程である。その麓をめら谷川が流れて、そこの道路は今はさびれてゐるが、恐らくは古へは相當便利なもので君谷、別府から川合の方へ出る大切な道路のやうである。隣の大釣山と共に植林せられ、粕淵村大釣外三公有林野官行造林地、昭和十二年四月植栽、面積三〇ヘクタール、樹種、アカマツ三九〇〇〇本、ヒノキ二一〇〇〇本、スギ五二〇〇本と記されてゐた。なほ、營林署の調査に據るに、鴨山の高さは、海拔三六〇米。谷から頂まで二七〇米。周圍二・四〇〇米で、大釣山の高さは海拔三八八・六米、谷から頂まで二七〇米。周圍は二・一〇〇米である。
 私は、十五日十六日の兩曰この鴨山のほとりを歩き、昭和八年に鴨山附近で役場吏員某が古代土器を拾つた【舟木賢寛氏の鑑定を經た】こと、粕淵小學校地内出土の土器と同系統のものであつたこと、此處の山地を越せば出雲境で、安濃郡の佐比賣村に近いこと、さういふ事柄を顧慮しつつ徘徊したのであ(453)つたが、いづれにしても鴨山といふ名は隣りの大釣などと共に近い代の名ではあるまいといふ心持がした。大釣の釣は役場の臺帳には立偏になつてゐるが、其は恐らく誤記で、類聚名義抄、新撰字鏡其他にもさういふツリの字が見つからない。陸地測量部の地圖には釣の字に改めて居る。
 さて、私は二日間湯抱に滯在して鴨山を見たのであるが、前記の如くに、此處の鴨山をば、津目山あたりをも籠めた鴨山の一部と見做すか、即ち賀茂族のゐたところの山といふ意味に廣く取るか、或は此の鴨山が即ち人麿の歌の鴨山であるか、この決定は、一たびは前言の如くに考へたのであつたが、二たび考へて未だ決定し兼ねてゐる。
 即ち、鴨山の所在地は同じ粕淵村内にあるのだから大勢から云つて大變動は無いのであるが、津目山にするか、湯抱の鴨山にするかが未決定の問題なのである。
 私が實地に鴨山を見ない以前は、前言の如く廣義に鴨山を解したから、やはり津目山として結果が移動しなかつたのであるが、實際を踏査するに及んで、人麿の歌の鴨山が即ち現在この湯抱の鴨山に當るのではあるまいかとも考へるやうになつた。その理由は大凡次の如くである。
 津目山を鴨山とするのは隣地にカメといふ名の殘存に據つたのであるが、湯抱の方は直ちに鴨山といふ名であつて、同系統の賀茂族、賀茂神等に本づくものだと云つても、湯抱の方の名がもつと直接である。
(454) 津目山を鴨山だとするのは、前言の如くカメからの推定に據るのだが、湯抱の方のは、その儘鴨山なのであるから、寧ろその方と考へる方が適當ではなからうか。
 此處の鴨山の名は役場の土地臺帳にも載つてゐる古い名で、中野村或は平賀元義の歌にあるやうな、賀茂神社のある山を里人が鴨山と稱へるのとは稍趣を異にし、文學的乃至史學的第二次の名稱でないことをも尊重すべく、また今回の發見は偶然であつて、「鴨山考」に強ひて附會せしめるための名稱でなかつたことも亦尊重せねばならぬのである。
 そんなら、なぜ人麿がこの湯抱の鴨山あたりに來て死したか、その理由は既に鴨山考で記したのによつて明かであり、それに井上博士の近い考證(【アララギ昭和十一年十二月號】)による人麿の役人としての職務(班田使勤務)、即ち出張して歩くものであつただらうといふ職務について顧慮すれば、人麿は石見のこの邊に來てゐても毫も怪しむに足らぬのである。
 班田使は、公民に戸籍に照して田地を頒與する役で、十一月一日から翌年二月の末まで四箇月に亙つて足跡國内に※[行人偏+扁]きものであるが、若しその季節に積雪でもあつて困難な場合には幾分時日の手加減をも行つたものであらうし、『春草を馬咋山ゆ越え來なる雁の使は宿過ぐなり』も班田使としての歌だとせば、歸雁だから陰暦二月末のものとなるであらう。
 さういふ其合に、冬から春にかけて人麿が此土地に來てゐたとも解せられるし、また必ずしも(455)その用のために、その季節に來たとせずに、多の用のために晩春から夏にかけて出張してゐても不思議では無いのである。併し、其處まで細かくなれば空想が放恣になるが、既に總論篇で推察的に言及してゐた、『人麿の役人としての出張』云々といふことが、井上博士の考證に據つて或る根據を得たのである。(昭和十二年六月十日)
 
     七
 
 湯抱の微温泉の起原は、私は想像を以て隨分古いもの、つまり人類に注意せられたのは、ひよつとせば人麿時代に溯ることが出來るだらうとおもつたのであるが、口碑傳説に據ると、戰國時代に尼子・毛利が爭つたとき、その落武者がこの温泉に浴した。また徳川時代になつてから、砂鐵作業に關係する勞働者等がここの部落に移り住んだ。明治初年湯抱村の林一松氏が浴場を作り宿屋をも兼ねたのが、温泉場のはじまりである。その後一時眞刈幸太郎氏に委ねられたことがあるが、二たび林一松氏の經營となり、大正三年浴場を新築し、旅館も四軒となつた。昭和十三年に山崎氏二たび浴場を新築改良せられた。温泉の分析表は次の如くである。
  一、クロールナトリウム  六・六五五八
  一、重炭酸ナトリウム   二・二三五〇
(456)  一、遊離炭酸     〇・八八六二
  一、重炭酸マグネシウム  〇・七六九一
  一、硫酸カルシウム    〇・六二七二
  一、重炭酸カルシウム   〇・五三七四
  一、クロールカルシウム  〇・四九八一
  一、硅酸         〇・一四六〇
  一、アルミニウム     痕跡
  一、硼酸         痕跡
  一、燐酸         痕跡
  一、ヨード        痕跡
 即ち、アルカリ性食鹽炭酸泉で、この外にラヂウム含量が多い。特效は神經痛・僂麻質斯だといひ、浴客は、昭和十、十一、十二年三年間の平均を見るに、島根縣(一八〇三人)、廣島縣(五二一人)、山口・鳥取・岡山・大阪(一〇−二〇人)、京都・東京・奈良・兵庫・福岡・佐賀・愛媛・香川(一−九人)等である。
 
(457)     八
 
 粕淵小學校敷地から出土した土器については既に記載するところあつたが、そのうちの把手ある彌生式土器につき一言附記すると、この種の土器は丹波の久美濱からも出土し、朝鮮では金海貝塚から出る。朝鮮との古代交通が江(ノ)川筋に行はれたことは、既に「鴨山考補註篇」にも記して置いたが、江(ノ)川沿岸の粕淵あたりにもその名殘をとどめてゐることが實證せられるのである。なは舟木賢寛氏は川本町から出土した朝鮮青磁香爐を持つてゐる。それにつき、專門家の鑑定を經たといふが、これなども朝鮮交通の一證を示すものである。
 なほ粕淵小學校敷地から出土した土器は、那賀郡下府村中の濱から發見した土器と同系統のものである。江(ノ)川筋と朝鮮との交通が略明かとなつたとせば、無論國府との關係もあつたことであらう。これはその土器の類似を見ても分かるのである。果して然らば、國府に近き只今の唐鐘浦をば、『カラ』といふ名のついたもの、即ち『カラ』の部落でもあつたものと空想しても、妄なるただの空想にをはらぬだらうといふことも出來るのである。
 
     九
 
(458) 以上から歸納した大體の結論は、「鴨山後考」といふ題で、雑誌文學第六卷第一號(昭和十三年一月)に發表した。
 なほ村の小字に『鴨山』といふ名稱のついた山がそのほかにあるかどうかにつき、鴨山考補註篇で大體記したが、其後、昭和十二年から十三年にかけて、吾郷村、君谷村、川合村方面の調査を濟ませ、昭和十四年になつて安濃郡佐比賣村の調査を濟ませた。而していづれにも『鴨山』といふ山を發見すもことが出來なかつた。
 私の望としては、石見國全體の小字を調査したく、或時は縣廳の助力を仰ぎたいといふ空想をいだいたこともあるが、一小「鴨山考」のためにさういふ手數をかけることを恐れ、大體このくらゐにして忍耐することにした。若しも將來、石見國の小學校などの助力を得て、その調査が完成せられるやうなことがあるなら私は多幸であらう。(昭和十四年四月記)
 
(459) 人麿閲歴の一暗指
 
 萬葉集卷九(一七〇八)に、泉河邊作歌一首、『春草を馬くひ山ゆ越えくなる雁の使は宿《やどり》過ぐなり』といふのがある。この泉河は今の木津川であるから、咋山《くひやま》はその木津川の邊にあつたものであらう。そして現在の綴喜郡誌草内村大字|飯岡《イノヲカ》に當る。井上通泰博士は、この一首の研究から引いて、「柿本人麻呂の閲歴の一暗示」(【アララギ昭和十一年十二月號】)を著した。今その主要部を次に手抄する。
 
  『泉河も久世鷺坂も宇治河も皆藤原都から東山道及北陸道に下る道であるから、其道を通る時に彼歌どもはよんだと見てよいが、人麻呂は何の爲に、又は如何なる便《ツイデ》に名木河の邊を通つたであらうか。名木河は泉河から鷺坂を經て宇治河に到る道より西方に在つて、北陸道又は東山道に下る(又は二道より上る)人の通る處で無い。又咋山の歌は其山のどちらの方面で作つたであらうか。大和から山城へ出るには般若寺坂と歌姫越と二路があるが、古、奈良坂と云つたのは歌姫越で、後に奈良坂と呼ばれたのは般若寺坂である』
  『人麻呂が、春草を馬くひ山ゆこえくなる雁の使は宿をすぐなり、とよめるは無論咋山の南方又は西方(460)でよんだのでは無く、咋山の東麓か又は北方か即歌姫越の見當が咋山で隱れる方面でよんだもので無ければならぬ。否咋山の東麓は直に泉河に臨んで居るから若東方でよんだものとすると、泉河の東岸でよんだものとせねばならず、然も咋山は※[草がんむり/最]爾たる孤立に過ぎず、又歌姫越は咋山の西南に當つて居るのでは無く、適《マサ》に南方に當つて居るのであるから、泉河の東岸から見ると歌姫越の見當は咋山に隱れはせぬ。もし雁が大和から人の如く歌姫越を越えて來るものとすると、作者が咋山の北方(泉河の西岸)に居たので無ければ、クヒ山ユコエクナルとは云はれぬ。さて古の官道は咋山より東南方(たとへぼ今の玉水橋附近)で泉河を渡つたのであらうから、咋山の北方は明に官道以外である』
  『かやうに人麻呂が官道以外の名木河や咋山の北方に彷徨したのは、特に咋山の北方には(雁ノ使ハ宿ヲスグナリとあるを思ふと)少くとも一夜以上滯在したのは何の爲であらうか。或は人麻呂は山城の國廳に勤務し職務上部内を巡行したのかも知れぬ。否確證は無いが、山城國班田使の下僚として勤務したのではあるまいか。班田使の事は、略、本集卷三なる攝津國班田史生丈部龍麻呂白經死之時判官大伴宿禰三中作歌の註(新考五四三頁)に書いておいたが、六年日毎に天下の公民に戸籍に照して田地を頒與する役で、十一月一日から翌年二月の末まで四箇月に亙つて足跡國内に※[行人偏+扁]きものである。さて其職員は長官・次官・判官・主典・史生で、史生は等外官の小役人である。天平元年の班田の時の歌は右の大伴三中作の長歌の外に、卷九に笠金村作の長歌並短歌二首あり、又卷二十に葛城王と薩妙觀命婦とが贈答した短歌二首がある』
(461) 右の如くであるが、人麻呂歌集出の歌を人麿作として、官道以外、普通旅人の通るところで無い名木河、咋山の北方あたりになぜ人麿が彷徨したであらうかと疑問して、博士は、『或は人麻呂は山城の國廳に勤務し職務上部内を巡行したのかも知れぬ〔或は〜右○〕。否確證は無いが山城國班田使の下僚として勤務したのではあるまいか』といふ結論に到つてゐるのである。
 井上博士のこの假説的考證は、私の「鴨山考」にとつて極めて大切なものになるのであつて、鴨山を邑智郡の濱原・粕淵近くになぜ見出さうとしたか、なぜ人麿が死ぬ時に、國府を出でてそんな處に來てゐたかについては、世の學者等はただ疑つて驚くのみであるが、私が既に總論篇に於て推論してゐたごとく、『役人としての出張』といふことが、井上博士のこの論文によつて支持せられることとなるのである。從つて、世の學者等がただ驚くことを要せなくなるわけである。
 特に、『鴨山』と名づくる山が、同じ粕淵村内の大字湯抱に發見せられたうへは(別項參照)、「鴨山考」にもう一つの證據を得たこととなり、ただ前考の『津目山』と、この『鴨山』との關係をどう取扱ふべきかといふにとどまるのである。そして、若し現在の湯抱の『鴨山』を人麿の歌の『鴨山』とせば、なぜ人麿が死ぬ時に、そんな處に來てゐたか。といふことが問題になるのだが、これは既に「鴨山考」で考へた事柄と同樣にして解明が附くのである。即ち、粕淵小原から湯抱あたりにかけて部落のあつたことは出土する土器によつて知ることが出來、それも純粹な日本系(462)統と朝鮮系統と相混じて居り、其等の土器は石見國府のあつた下府村出土の土器と相似のものである等の證據があり、人麿がただ漫然とこんな山中に來てゐたので無いことが分かるのである。
 なほ云ふならば、萬葉集に大伴三中及び笠金村の、天平元年の班田の時の歌があるから、それから六年目六年目と繰つて行けば、丁度慶雲二年の十一月から慶等三年の二月にかけて班田が行はれたことになる。そして、續日本紀に、慶雲三年閏正月、『京畿及紀伊・因幡・參河・駿河等國疫、給2醫藥1療v之』。夏四月、『河内・出雲・備前・安藝・淡路・讃岐・伊豫等國飢疫、遣v使賑2恤之1』。十二月、『是年、天下諸國疫疾、百姓多死、始作2土牛1大儺』等の記事があることは、既に總論篇に引用した通りであるが、人麿が鴨山のほとりに來てゐたことと、鴨山のほとりに於て病死したこととを説明し得る大切な事柄のやうに思へるのである。
 
(463) 『湯抱』は『湯が谷』か
 
 石見では、『谷』を概ね『たに』と訓ませ、『かひ』と訓ませる例は甚だ稀で、酒谷《さけだに》、君谷《きみだに》、澤谷《さはだに》等は皆『たに』と呼んでゐる。さうして 『かひ』といふ時には『貝』の字を當ててゐる。然るに邇摩郡の大森町の東南に、炉谷があり、『カタラガイ』と呼んでゐる。即ち『谷』を『カヒ』と云つてある例である。この例は、時代は違ふにしても、萬葉集の、『石川の貝【一に云ふ谷】』を理會するに都合の好い例ではなからうかと思つて記した。
 なほ、『湯抱』はこの字どほりとすると、『ユガカヘ』であるが、發音は『ユガカイ』らしいので、陸地測量部の地圖には『ユガカヒ』と傍訓がしてある。さすれば、この地名の語原は『湯《ゆ》が谷《かひ》』、『湯が峽《かひ》』だかも知れないのである。伯耆の『松谷』を『マツガタニ』と呼ぶその『が』に等しいだらう。
 
(465) 辛乃埼考其他
 
(467) 辛乃埼考
 
     一
 
 萬葉卷二(一三五)、柿本朝臣人麿從石見國別妻上來時歌二首の第二首の長歌に、『角障經《ツヌサハフ》 石見之海之《イハミノウミノ》 言佐敝久《コトサヘグ》 辛乃埼有《カラノサキナル》 伊久里爾曾《イクリニゾ》』云々とある中の、『辛乃埼』は現在石見の何の邊に當るだらうかといふに、仙覺抄に、『辛乃埼ハ、所ノ名ナルベシ』とあり、攷證に、『この外ものに見えず、郡しりがたし、猶たづぬべし』とあり、檜嬬手に、『辛埼は邇摩郡宅野の海邊に、今唐島と云ふ是也』とあり、古義に、『辛乃埼は、石見(ノ)國邇摩郡|託《タク》農(ノ)浦《ウラ》にありと國人云り』とあつて、近頃の萬葉註釋書は大體この託農説に從つてゐるやうであるから、私も「柿本人麿總論篇」に於て、大體さう記して置いた。
 この託農説の本をなしたものは恐らく石見國人の著書であらうから、少しく手抄するならば、石見風土記邇摩郡の條に、『可良農浦【船泊濱也】唐郷山周|二《イ一》里一十歩【有松數株芽雜木】可艮嶋秀2海中1因之可良埼(トモ)(468)云度半里嶋二而【有松芽四邊海草蚫蛤在】』云々とあり、方角集、名所記にも、『邇摩郡宅野浦の沖にありて今の俗から島』とあり、事蹟考辨、石海集、八重葎、底廼伊久里等も大體さう記して居る。
 
     二
 
 大體、辛之埼をば今の宅野あたりの瀉邊の埼と見當をつけ、さて人麿作の第一の長歌(一三一)を見るに、『石見之海《イハミノウミ》 角乃浦囘乎《ツヌノウラミヲ》 浦無等《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 滷無等《カタナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》』云々とあつて、大體、那賀郡の都野津町あたりの海邊を想像せしめる語句である。即ち當時の石見國府は伊甘郷(今の下府・上府・國分)にあつたものとし、其處の海岸から出發した趣で、江(ノ)川に至るまでのことを敍してゐるやうに思へる。そこで、はじめから、『石見の海、角《つぬ》の浦廻を』と云つて、それから江(ノ)川を渡つた向う岸の、『和多豆乃《ワタヅノ》 荒磯乃上爾《アリソノウヘニ》 香青生《カアヲナル》 玉藻息津藻《タマモオキツモ》』云々と云つて居り、大體旅行の順序に從つて語句を置いてゐる。
 次に第二の長歌を二たび顧慮するに、『角障經《ツヌサハフ》 石見之海之《イハミノウミノ》 言佐敝久《コトサヘグ》 辛乃埼有《カラノサキナル》 伊久里爾曾《イクリニゾ》 深海松生流《フカミルオフル》』云々とあつて、數句を隔て置いて、『大舟之《オホフネノ》 渡乃山之《ワタリノヤマノ》 黄葉乃《モミヅバノ》 散之亂爾《チリノマガヒニ》 妹袖《イモガソデ》 清爾毛不見《サヤニモミエズ》 嬬隱有《ツマゴモル》 屋上力山乃《ヤカミノヤマノ》』云々と云つて居り、これも第一の長歌と同じく、大體旅(469)行の順序に從つて語句を置いてゐることが分かる。つまり、『渡乃山』も、『屋上乃山』も既に江(ノ)川を渡つてからの地名であり、大體それに間違は無いとおもふ。さうすれば『辛乃埼〔三字右○〕』をば、『渡乃山』、『屋上乃山』よりもずつと以北に韓つて來て解釋するのは少しく道理に叶はない〔渡乃〜右○〕。歌句の据ゑ方から見ても、突如としてそんなに北方の土地を持つて來て、それから二たび、それよりも南方の、『渡乃山』だの、『屋上乃山』などを逆行せしめて敍するのほ、どうも不自然のやうにおもへる。
 私は前からこの事が氣に懸つてゐた。そしてひよつとせば、この『辛乃埼』は江(ノ)川以南の地ではあるまいか、もつと國府に近く、第一の長歌の如くに、都野津あたりの土地ではなからうか、さうする方が歌としては極めて自然になると思つたのであつた。これが、「辛力埼考」を作らうとした動機である。
 
     三
 
 那賀郡國分村に、『唐鐘』といふところがある。これは現在、『タウガネ』と云つて居り、昔は、『唐金』と書いた。
 徳川時代に、「安藝より石見を通過する道の記」といふのがあり、拙著「柿本人麿鴨山考補註篇」(470)に載せて置いたが、二たびその一部を抄すれば次の如くである。
 
  廿日。けふは空も晴わたりけれど、此比の雨にて行先の山川とも水まし、ことに玉江のわたりちて、海流れおつる入江の水かさまさりて、越がたしと聞えければせんすべなく、はたこゝより百町あまり行ば琴高の磯とて、見所も多しと聞ゆるを見殘さむも口おしければ、巳の時ばかり湯谷をいで上府村より山路へかゝり、國府村を過、國分寺へまうで、唐金の浦へいづ。古へは、國府萬軒唐金千軒とて娠ひし湊なりといへど、今は衰へ、國分はきたなげなるわら屋二つ三つ見へわたり、唐金は海べの家のみ百あまりもありぬべく見ゆ。此浦よりあまの乘れる舟に乘て出るに、犬島猫島といふ島の間をすぎ、岩屋の内へこぎ入る。大きさは相模の國江の島の洞ほどにて、奥へ三十間ばかり行ば、いほほに佛の状ちしたるあや自然にありて、穴の觀音といふ。そこより脇の方へ別るゝほらのあンなるを行ば又海へいづ。【こがねほりなどせし跡にはあらで自然の洞と見ゆ】やゝこぎ行。琴高の磯へ下りて見るに、そびえし岸にそひて、長三六七丁海の表三四丁又は二丁ばかりさし出たる岩のたゞ一ひらにたゝみ出しける如く、いといと平らかに、ゆほひかなる所々に、巾二尺ほどづゝ、みぞの樣にくぼかなるすきまありて潮魚なども行かひぬるを、飛越つゝ沖の方へうち出て見わたせば、海原かぎりなう西のほてなりと聞しもしるく、日も月も波に入ぬべくおもはる。此先の岸に大釜小釜などいへる石とびこゆべき程の巾して、深さはかりがたき淵などもありと舟人どもかたりけれど、潮みち風あしければ、えいたりがたく、もとの道をかへり、湯谷のやどりにつく【けふの道行來二百五十丁なり】
(471)  廿一日。辰上刻湯谷を立て、有福村のはづれより山路を行。頂きに古へ火のいでし穴とて、わたり五六尺ばかり、けたなる石をふたとし、内も石もて箱の如くかまへ、疊六ひら程しかれぬべしといへるは、例のはうぶりのあなたにや、高田山のすそへ下り、唐山【入日のいとよく晴れたる時頂きより朝鮮の山々見ゆと云】などふりさけ見つゝ、都野津、加久志、江津を經て、玉江のわたしをこえ、【巾四百九十間といひ、山々より水おち合て海へ出づ】渡津村を過、海邊へいで、加戸鹽田淺利【こゝまで濱田領なり】の浦々を行。尾濱【こゝより銀山領也】黒松浦吉浦今浦など今蜑のみすめる蘆の屋にて、福光村より温泉津《ユノツ》にいづ。大船つどふ湊にて、家居多くにぎはし。【湯谷より三百五十丁也】出湯はこゝも山のなかばよりわき出るを室の中へひけり。にごりてしほはゆく、やまひにはよかなれど、きよらならねばゆあみ一たびにてやむ。
 
 此の文中、『唐金』の犬島、猫島、穴の觀音などの記載を讀めば、人麿の歌の、『辛乃埼なるいくりにぞ深海松《ふかみる》生ふる荒磯《ありそ》にぞ玉藻《たまも》は生ふる』と決して相反してはゐない。却つて、邇摩郡宅野の韓島あたりよりも親しみがあつて、その頃の國府の人々も遊覽し得たところのやうに思へるから、若しこの『唐金』が『辛乃埼』だとせば、實際の風景の上からもその歌の句を適切に説明することが出來るのである。
 次に、右の如き假説を證據だてる理由として、『唐金』は今は『タウガネ』と稱してゐるが、古くは、『カラカネ』と稱したのではなからうか。若しさうだとせば大に都合もよく、また文中に、(472)『高田山のすそへ下り、唐山などふりさけ見つゝ』とある中の、『唐山』は『カラヤマ』と訓ませるに相違ないから、この紀行文を書いた頃には『カラヤマ』といふ名があつて、その『カラ』は遠き古への『カラノサキ』の『カラ』の名殘でもあり得ると考へたのであつた。
 併し、『唐金』を『タウガネ』と云つてゐるのは徳川末期の書物に見えて居るし、島根縣廳に依頼して調べてもらつたのによると明治初年以後ずつと『タウガネ』と云つてゐる。併し私は今でも古へは『カラカネ』と云はせたものではなからうかと想像してゐるものである。
 その傍證として、やはり那賀郡で、『唐金』の近くの有福村に、大津村・姉金《アニカネ》村があつたのを明治二十一年合併して大金《オホカネ》村と名づけた。それから田野村と千金《チカネ》村とを合併して金田《カネダ》村にした。また島星山の南方に谷金《タニカネ》村がある。皆『金』のついた村の名で、その上の字を皆和訓にして呼んでゐる。『大金』は『オホカネ』で『ダイカネ』では無いのである。かういふ實際例を參考すれば、『唐金』を古へ『カラカネ』と云つただらうと想像してもそんなに虚妄な想像でないことが分かる。
 併し、訓讀を音讀に變へる例はあるかといふに、長崎では支那寺のことを、『タウデラ』(唐寺)と云つてゐる。これも古くは必ず、『カラデラ』と云つたものに相違ないが、いつのまにか『タウ』の音になつて居る。【そしてこれは、宋人をソウヒト、胡人をコヒトと訓ませる如き習慣とは違ふやうである。】『湖尻』なども今は『コジリ』と云つてゐるが、これも『ウミジリ』からの變動であり、かういふ實例はもつとあり得るので、また、『唐金』を(473)『唐鐘』と變へたのなども、誰か後人の爲業であるに相違ないことをもいろいろ考へ合せれば、古くは『カラカネ』と云つたものと想像推論してよく、さうすれば、『カラ』といふ地名の名殘と看做し得べく、それが人麿時代の『カラノサキ』の『カラ』にも連續し得ることとなるのである。
 吉田博士の大日本地名辭書には吉田桃樹の槃游餘録の文として載せて居る文章は、「安藝より石見を通過する道の記」といふのと殆ど同樣であるから、槃游餘録の文と元は一つものなのかも知れない。そして地名辭書では、『唐金』を『カラカネ』と訓ませてゐるのは吉田氏の參考した槃游餘録にさういふ傍訓があつたのかも知れないが、帝國圖書館藏のものにはさういふ傍訓がないから、槃游餘録が書かれた元禄頃に、『カラカネ』と云つたか奈何か不明であるが、またその頃『タウガネ』と明かに云つてゐたといふこともまた不明であるから、地名辭書の『カラカネ』といふ訓をも私は全然誤謬として棄てずに參考として居る。また、姓氏に『カラカネ』(唐金)といふのがあるから、地名にさういふのがあつてもあへて不思議ではない。
 ついで私は、前記の文中の『唐山』は『カラヤマ』と訓むべきものとし、國分村、川波村の小字に類似の音のつくもの、つまり、『カラ』の附くものを捜し求めたが見附けることが出來なかつた。即ち現在では、『カラヤマ』といふ名稱は湮滅してしまつてゐる。また、文中の『高田山』も、恐らく『タカタヤマ』と云ふつもりらしいが、現在は『カウダヤマ』と云つてゐるところを見れ(474)ば、『タカ』といふ和訓が『カウ』といふ音訓になつたものと看做していいであらう。もつともある人の説に、『カウダ』は『神田《かんだ》』の訛轉だといつてゐるが、そのあたりには神田の跡と看做すべきものは見つからないのであるから、私はやはり前説の方に傾いてゐるのである。名所集等には、『高田山』を、『タカタヤマ』と訓ませ、さういふ訓の和歌をも載せてゐるのを見れば、『カウタ』は『タカタ』の轉だらうと推論して大體いいやうにもおもへる。
 唐鐘(唐金)の浦は、一に床の浦ともいひ、前記の如く犬島、猫島があり、なほ千疊敷と稱する巖がある。底廼伊久里に、『此處、疊千万敷タル如クニシテ、敷合セノ如キ溝アリテ、誠ニ面白ク、實ニ行見ルベキ所也』とある。
 昭和十年四月二十日、山口茂吉氏と共にそのあたり一帶を實地踏査した。
 
     四
 
 以上の記述をぼ大凡次の如くに約めることが出來る。
 (一) 人麿の石見から上來する時の第一の長歌の、『石見の海、角の浦同を、涌なしと、人こそ見らめ、潟なしと、人こそ見らめ』云々といふ歌句は、伊甘の國府に近く、、江(ノ)川を渡らぬ手前の叙述として先づ間違が無いとせば、第二の長歌の、『つぬさはふ、石見の海の、言さへぐ、辛の埼(475)なる、いくりにぞ、深海松生ふる、荒磯にぞ、玉藻は生ふる』云々といふ歌句の中の、『石見の海』も、『辛の埼』も、やはり、第一の長歌同樣、國府に近い、江(ノ)川を渡る手前の敍述と解釋するのは適當のやうである。
 (二) 從つて、『辛の埼』をば、邇摩郡宅野近くの韓の島の邊に置いて解釋する從來の説に疑問を抱かぬばならぬ。そしてこの疑問は正しい疑問のやうである。
 (三) 然らば、江(ノ)川の手前で、國府の近くに、『いくりにぞ、深海松生ふる、荒磯にぞ、玉藻は生ふる』云々に該當する場處は何處だらうかといふに、先づ現在の唐鐘浦で、其處の犬島、猫島、千疊敷、疊ケ浦、赤鼻あたり一帶のうちの埼ではなからうか。
 (四) さういふ見當をつけて、現在の『唐鐘』を一顧すると、これは元は、『唐金』と書いたもので、もつと古くは、『カラカネ』と云つたのではあるまいか。若しさうだとすると、槃游餘録の中の、『唐山』などと共に、『カラ』の音が殘留したことになり、この『カラ』は人麿時代の、『辛の埼』の『カラ』の名殘ではあるまいか。
 (五) さうすれば、現在の唐鐘浦を中心とする埼は、人麿の歌の中に咏みこまれてゐる、『辛の埼』だらうといふことになる。
 
(476)     五
 
 以上の愚案は、昭和十年に、拙著「柿本人麿評釋篇」に記載し、未だ發表の運に到らなかつたものである。そして、其後文獻を渉獵してゐるうち、この説は私がはじめて立てたものでなく、既に遠い過去に石見の學者が明言してゐることが分かつた。
 それは、石見八重葎の中の、小篠大記の説であつて、『辛ノ崎ハ、今の唐鐘ナランカ。唐ノ嶺ナド云シヲ訛《ヨコナマリ》シテ唐鐘ト云ヘルナランカ。古ヘヨリ山陰道ノ往來ノ道ノ濱邊ナリ。伊久里は日本書紀應神天皇ノ卷ニ白羅海中ノ石ト云コト古來ヨリ傳ヘナレバ、辛ノ崎ノ伊久里ハ今ノ唐鐘浦ノ千疊敷トイヘル岩ナリ。是ナランカ。千疊敷ハ又ハ疊ケ浦トモ云。皆俗稱ナリ』といふのである。これで見ると元禄年間の槃游餘録の影響のやうにも思はれるが、小篠大記は石見の學者だから必ずしもさうではあるまい。また八重葎の成つた文化十四年頃までは唐嶺《カラノミネ》に類した名の山のあつたことが想像せられ、從つて槃游餘録の唐山《カラノヤマ》もその名が確かにあつただらうと想像し得るのである。
 
(477) 琴高磯・辛の浦・床の浦其他
 
 槃游餘録の文に、『又海へいづ。【こがねほりなどせし跡にはあらで自然の洞と見ゆ】やゝこぎ行。琴高の磯へ下りて見るに、そびえし岸にそひて、長三六七丁海の表三四丁又は二丁ばかりさし出たる岩のたゞ一ひらにたゝみ出しける如く、いと/\平らかに、ゆほひかなる所々に、巾二尺ほどづゝ、みぞの樣にくぼかなるすきまありて』とある。【鴨山考補註篇二二〇頁參看】〔一五卷六九八頁〕これで見ると、今の唐鐘(唐金)浦、疊ケ浦と云つてゐるあたりを、琴高の磯と稱して居ることが分かる。この紀行文は天明のものだから、少くともそのあたりはさう稱してゐた確證である。
 次に石見名所集に、床浦の條に、『那賀郡唐金浦なり』と注し、なほ、『新清が云。いまだ詳ならずと。又云、古登高磯は唐金浦なりと。案ずるに、浦磯は共に海邊なれども、その別をいはば、浦は海邊人家等有べし。人家もなく船よすべきにもあらぬ所を浦とはいひがたし。磯はすべて海(478)邊波際はみな磯なるべし。琴高磯は唐金浦の東にあり。いまの人たゝみが浦と云習はしなり。岩平にして疊敷たる如くなればなり。疊の縁よりして床の浦と云たる説ありと。【拾遺相模】燒とのみ枕の上にしほたれて煙り絶せぬ床の浦哉。とよみたるにて明白なり。疊が浦は、一面の岩疊にて、しほなど燒べき所にあらず。唐金浦はむかしより鹽燒ことをぎやうとして烟りたへせぬ所なり』と記してゐる。また、琴高磯につき、『古登多加磯。ことたか磯は麿金浦の東にあり。今疊が浦といふ。一説に横にほち/\ならびたる石を琴の柱にみなして、ことたか磯といふと云々。又説に波の音たかき所なれば言葉たかからざれぼきく事を得ず、故にことたか磯といふと。【堀川百首】石見かたことたか磯による波のくだけて歸る音をしらずや。俊頼。岩の間筋立て切あり。打來る波歸ることなく、岩の切間々々にながれて、歸るなみの音なし。此うたもし此磯による波のごとく歸る音をばしらざるや否ととがめたるにや、猶浦磯の取あやまり、證歌并畫圖兩所引合て考へ有べし』云々と記してゐる。この文でも、琴高磯、床の浦、疊が浦、唐金浦は相近接して居る場處だとしてゐるから、この書を書いた安永三年頃にはさう稱へてゐたことが分かる。堀川百首などに、『石見がたことたか磯』と咏まれて、一つの歌名所になつてゐるのを見れば、伊甘國府以來、珍らしい場所として注意せられてゐるうちに、『ことたか』などといふ名も附いたものであらう。
 
(479)     二
 
 石見八重葎に、『辛浦は宅野村にして、又古登多加磯といふ。今汐吹と呼び、岩に穴ありて、中より汐を吹きあげる。古歌に、石見潟ことたか磯の寄波のくだけて歸る者と知らずや。と傳へり。又辛之埼の波蹄寺觀音堂は、濤來山と號し、海中出現の佛とぞ』云々とある。
 八重葎の文に據れば、古登多加磯《ことたかのいそ》は宅野の海岸にあることとなり、『邇摩郡|神子地《カムゴチ》ノ濱をいふ。今俗琴の濱といふ是也』とも云つてゐる。金子杜駿の石見海底廼伊久里にも、この八重葎の説に賛成し、『名所記方角集ともに那賀郡唐金にあり、今俗疊か浦といふ是也云々。此説非也。疊カ浦ハ床ノ浦ナル事床ノ浦ノ條ニ云リ。八重葎ニ云。邇摩郡|神子地《カムゴチ》ノ濱をいふ、今俗琴の濱といふ是也ト繪圖イト委シク書セリ。少《イササカ》モ違《タガハ》ズ。此濱ヲ歩ムニ琴彈《コトヒク》如キ足音《アオト》セリ。マタ沖ニ琴ノ形シタル大磐ノアリシガ文化元年甲子ノ大|地震《ナヰ》ニ大津浪ヨセ來リテツヤ/\ト動《ユリ》崩シテ今ハナシ。近キ頃迄モ覺居タル者多カリシトカヤ。琴ノ形海上ニ顯レシヨリ號ケタルヤ、マタ彼足音ヨリ云ニヤ』云々と云つてゐる。
 併し、この二つよりも古い名所集方角集等で、古登多加磯は唐金浦近くだとしてあるのに、それよりも新しい八重葎等で宅野まで持つて行つたのは、推するに、八重葎の著者が、邇摩郡に近(480)い安濃郡の人であつて、那賀郡の人でないからであらう。若しこの推測が餘り穿ちに過ぎるならば、顧みなくとも好い性質のものであるが、一つの、『古登多加磯』でも何かのはずみに移動して考證されてゐる事實を示せば足りるのである。然かも、八重葎でなぜこの磯を宅野まで移動せしめたか、その根據が薄弱であり、八重葎に賛成した底廼伊久里で琴の形した大磐云々といふのも猶根據が薄弱のやうに思はれるので、私は、唐金浦説に賛成するに傾いてゐるが、これは直接『辛乃埼考』には關係はない。
 併し、八重葎で古登多加磯をなぜ宅野に持つて行つたかといふにつき、著者が宅野に近い人であるといふのみでなく、暗黙のうちにまた一つの理由があるやうにもおもふのである。
 名所集には、『辛埼。邇摩郡宅野浦』。『から浦 同郡大浦にあり』とあつて、いづれも江(ノ)川以北と考へてゐるのは、宅野に『韓島』があるためと、天正十五年の九州道の記に、『廿九日。石見の大からと云所にとまりて明るあした仁間といふ津まで』云々とあるのに據つたものであらう。
 此處で一寸註を插入するが、この九州道の記は群書類從第三百三十八紀行部十二にも載つてゐるが、活字本には、『大うらといふ所』になつてゐる。若し『大浦』だとすると、宅野や韓島よりももつと東北になるが、この紀行文を見ると、仁萬よりも南方のやうである。岡田眞氏が群書類從の木版本を檢してくれたところが、どうしても『大から』と讀めるやうになつてゐるから、活(481)字本の『大うら』は『大から』の誤だらうといふことであつた。また大日本地名辭書の引用にも『大から』になつてゐる。今次にこの紀行を抄出するに、
  廿九日。石見の大うらと云所にとまりて、明るあした、仁間といふ津まで行に、石見のうみあらきといふ古事にもたがはず、白波かゝる磯山のいはほそばだちたるあたりをこぎ行とて、
    これやこのうき世をめぐる舟の道石見の海のあらき浪風
  それよりやがて銀山へこえてみるに、やまぶきと云城在所の上に有をみて、
    城の名もことはりなれやまふよりもほる白銀を山吹にして
  やどりける慈恩寺發句所望。庭前に楓の有をみて、
    深山木の中に夏をやわかかへで
  温泉の津まで出て、寶塔院にやどりけるに、先年連歌の一卷見せられし事などかたみに百韵をつらね侍りぬ。
    浪の露にさゝしましける磯邊かな
かういふのである。さてこの紀行は、出雲の方から石見に來たので、この文の前に、『廿九日。朝なぎの程にまはしつるもの共順りきて、いそぎ舟にのれ。日もたけにけりといへば』とある如く、出雲から舟に乘つて來たものである。さうして見れば仁萬以北には、『大うら』があるが、『大から』は無い。其處で、木版本のは誤で、やはり活字本で直した方が正しいことになり、大日本地(482)名辭書の『大から』も間違だといふことが分かつたのである。即ち、細川幽齋は出雲から舟で來て宅野の少し北にある大浦に一泊し、そこを立つて銀山を經、温泉津に一泊したことになり、順序も合理的になるわけである。
 以上の註を插入して、なは考を述べることとする。八重葎には、『大浦』を『からの浦』だとして、繪圖まで畫いて居り、底廼伊久里では、『宅野、大浦ナベテヲ云ル也』と云つてゐるが、宅野の近くに韓島があるから、それからの同音聯想で、辛埼を其處だとするのは好いが、大浦をからの浦だとするのは、大からと讀んだのから來てゐるのではあるまいか。そのへんの連結は極めて不自然で曖昧である。そこで、からの浦が今の大浦だといふ説には根據が少く、それよりも輿地圖などのからの浦を都農近くの海に記入してある方が寧ろ正しいのではなからうかとも思へるのである。
 さう思つて、八重葎が古登多加磯をぼ神子地の琴の濱に持つて行つたり、もつと北の宅野に持つて行つたりしてゐるのは、同時にからの浦をも大浦の方に持つて行つたとも看做し得るのではなからうか。私が、前の方で、『暗黙のうちに』移動せしめたやうに云つたのは、このためであつた。からの浦が大浦だとする名所集の無根據の説を採用して持つて行つたと同時に、古登多加磯が床浦即ち唐金浦だとする、古い口碑に本づく比較的根據ある説をも、同時に其處へ持つて行つ(483)てしまつたものである。
 かういふ移動の事實を種々參考すれば、八重葎、底廼伊久里等の國人の書いた書物だからといつて、直ちに信用し難いものだといふことを云はむと欲して、以上の絮語した。見む人とがめたまふことなかれ。
 
     三
 
 鉄道省編纂日本案内記に、疊ケ浦につき次の如き記載がある。
   【石見疊ケ浦】 下府驛の北約二粁、國分村にある。臺地性を帶びたる第三紀丘陵が海に臨みて波蝕崖をなし、崖下に千疊敷と稱する廣さ二九七アールに餘る隆起海床があるのを云ふのである。明治五年頃濱田地震の際隆起したもので、有史後の隆起海床として模範的のものだと云ふ。崖及床にはこの地方に洽布する第三紀新層の砂岩、礫岩、頁岩の互層より成り、これ等の諸岩が水平層をなして相重なる状が頗る美しい。砂岩には淺海性の貝化石及鯨骨化石がある。この層の特色とすべきは、貝化石、鯨骨、流木片を核心とする球塊の數多存在することである。これ等の球塊は幾多の層列をなして砂層中に介在し、風化水蝕の兩作用に抵抗して海床上及崖側に半球状の凸起をなし、頗る奇觀である。
 
 記載は、新科學的記載で有益であるが、明治五年濱田地震の際の隆起のみであらはれたもので(484)ないことは、既に徳川時代の安永、天明あたりから、床の浦、疊が浦等の名があり、繪圖さへも附してあるのだから、縱ひ明治五年に隆起したとしても、さう著しいものではなかつただらうと考へられる。一體、口碑は餘程注意しないと誤を傳へるもので、萬壽三年の地震などもさうであるが、此處の隆起説なども、もつと古代と考へて差支なかるべく、人麿時代に既に現今と大同小異であつたのではなからうか。
 
(485) 『カラノ浦』に就いて
 
 私が評釋篇卷之上で、『辛乃埼』を考へた時、國郡全圖の中に、都野に近く、『カラノ浦』と記したのがあることを注意して置いた。併しこの國郡全圖は誤寫もあるし、木版彫刻にする時の誤もあり、その他あやしい點もあるので、この『カラノ浦』についてもたいして重きを置かずに、ただ參考としたに過ぎなかつた。
 然るに昭和十二年一月に兵庫縣の金田賢作氏から通信があり、私の「辛乃埼考」(文學析載)を讀んだが、金田氏所藏の大日本輿地便覽といふのに、都野に近くの海に、『カラノウラ』と記してあるといふことであつた。そこで金田氏からその大日本輿地便覽を借覽するに、これは大體、國郡全圖を本にして、それを模寫してゐるものだといふことが分かつた。
 國郡全圖は尾張の青生東谿(元宣)といふ人の著で、文政十一戊子年の自序と同年に奧田叔建の跋とがついてゐるが、享和三年九月に書いたといふ菅原長親の序文もあるから、前から出來てゐたもののやうである。
(486) 次に、大日本輿地便覽は、津の山埼義故といふ人の著で、天保五甲午年の跋文がある。その跋文には、『元禄の比、開祖衡の分域指掌圖ありと云。余いまだみず。たま/\其類本をえて參酌互照』云々とあるが、この地圖は國郡全圖に據つた形跡が充分あるけれども同一ではない。
 次に、國郡全圖には、『カラノ浦』と記入した處に黒い三角の標がある。凡例に據るにこの黒い三角の標は、『陵或は名所舊跡』をあらはしてゐるのだから、『カラノ浦』は名所舊跡の一種と看做してゐることが分かる。輿地便覽にはその黒い三角の標は無いが、やはりさういふつもりであらう。さて、『カラノ浦』を名所舊跡として、之を都野附近の海濱に求むるに、唐金浦の千疊敷、穴觀音あたり以外には見當らない。そこで推察するに、此等の地圖を作製するについてその本をなした地圖には『カラノ浦』の名稱が明かに載つてゐたものであつただらう。そして、二つとも人丸神社が海岸に近くあるところを見れば、時代が現在の神社移轉以前に屬し、益田川と高津川が一しよになつて海に入つてゐるのを見ても、略その時代を想像することが出來る。
 私ははじめ、この『カラノ浦』については、餘り重きを置かぬのであつたが、熟考すれば、これは大切な一つの根據になるべきものと思へるし、『カラ山』の『カラ』と同じく、『辛乃埼』を考へる上に棄ててはならぬものと思つたのである。
 その後、岡田眞氏から、嘉永版、本邦輿地圖(【水戸、長赤水原圖、江戸、鈴木   増訂】を借覽するに、やはり都野の近く(487)に、『カウノ浦』といふところがある。岡田氏は附言して、『井上通泰流にゆけば、ウはラの誤か』と云つたが、蓋し正謔と謂ふべく、この地圖で、『糟淵』が『糟津』と刻せられてゐるのを見ても、ウがラを誤つて彫したものと看て不當ではないことが分かる。
 その後注意するに、この二つの系統を引いた地圖が見當るので、一つはカラノ浦となつて居り、一つはカウノ浦となつてゐるものであるが、いづれも江(ノ)川よりも西南で、都野の近くに記入してゐる。
 文久三年官許、菊亭殿御藏版【菊亭實順】の銅鐫大日本國細圖にはカラノ浦としあり、明治五年開板、東京山崎清七瀬山庄助合梓の、【校正】大日本輿地全圖にもカラノウラと記入してゐる。また、前出の嘉永版が明治四年再刻し、一枚の大地圖とし、【増訂】大日本國郡輿地路程全圖にはカウノ浦とし、明治八年、津江差太郎編輯の大日本國郡便覽にもカウノ浦となつてゐる。明治二年官許葎※[窗/心]貞雅の大日本海陸輿地全圖にはカラタウラとしてあるのは、カラノウラの誤寫であらう。
 斯くの如くで、實際の踏査よりも、據つた原地圖に從ふのであるから、何處までも二とほりのものが傳はるわけである。併し原地圖が、縱ひ大體の想像にせよ、カラノ浦を都野の近くに記入し、大浦は別に大浦として記してあるのは、やはり注意して好いのではあるまいかとおもふのである。
(488) 『カラノ浦』が現在の地名でなく、名所として記入したのだとしても、國郡全圖以前のどういふ地圖に載つたものか、未だ詳にすることが出來ない。『分域指掌圖』は見ることを得ずにゐるが、文化三年浪華※[竹/攸]應道撰文化五年浪華高麗橋藤屋彌兵衛版の、大日本細見指掌全圖には、カラノ浦の記入が無い。
  地圖調査等につき、村岡典嗣、岡田眞、金田賢作、佐藤佐太郎諸氏の教示を得たことを深く感謝する。
 
(489) 『唐の島』其他
 
 今の『唐鐘』が、實際『唐』の文字と關係があるか否か、若し關係がありとすると、私の辛乃崎考に都合がよいのである。このことわりを何故するかといふに、上總の東鐘《とうがね》(東金)は、鴇之嶺《とうがね》といふ山の名から由來したので、今の『東』の文字とは関係が無い。さういふことが唐鐘にもあると具合が惡いからである。
 國分村の小字名にトウノシマといふ處がある。これは一體何處の邊であるか審にしなかつたから、昭和十二年五月十六日唐鐘を訪うて見た。そして漁家に行つて古老に一々たづねて歩いた。
 トウノシマは金周布《かなそふ》の前にある小さい島である。そこで案内人を雇ひ大年神社のところから山越をして金周布に行つた。トウノシマは低い巖から成つてゐるもので、殆ど陸に續いてゐるとも謂つていい程な近い偏平な巖の小島である。金周布は、小舟のもやふことの出來る處で六戸ばかりの人家がある。
 次にトウノシマと唱へる島がもつとある。これは字名でいふ犬島・猫島のことで、前者を沖ノ(490)トウシマ又は後ロノトウノシマといひ、猫島のことを前ノトウノシマといふ。これは漁師だけのとほり語で、鬼頭魚《しいら》を漁る時の目標となつてゐるといふことであつた。そしてこの方の『トウ』は『唐』で、『唐ノ島』だと古老が一人ならず云つてゐる。私は數軒の家を訪うてそれを知つた。さうしてみれば、金周布のトウノシマも『唐ノ島』だといふことは推するに難くはない。
 ここに於て、唐鐘のあたりに、『唐《とう》の島』といふところが三つあるといふことが分かつた。そして犬島猫島などといふのよりも唐の島の方が古い名であるらしく思へるし、漁夫等はずつと古くからさう云ひならはしてゐたものであらう。そして、『唐の島』の『唐』は、『唐鐘にある島』といふのの略稱とも考へ得るが、或は、唐金などと同じく、最初から唐の島といふ名であつても好いわけであるから、やはり『唐』に關係ある文字と推考してもそんなに不道理ではない。特に金周布にある唐《とう》の島は唐鐘にある島の略稱でないことが分かるから、古いころからの獨立した名として、『唐《とう》の島《しま》』を認容することが出來る。
 約めていへば、現在、唐鐘のほかに、唐の島といふ名稱が殘つてゐるから、其處は『唐』の文字に關係のあることが分かる。『唐』は平安朝以後トウと云つてゐたが、もつと時代を溯させればカラである。そこで人麿時代にカラといふ名のつく地が現在の唐鐘あたりにあつたと考證し得るのである。即ち、『唐《とう)》の島《しま》』といふ名の現在は、私の『辛乃崎考』に一つの根據を與へることにな(491)る。
 なほ、この疊浦は若布、海苔を産し、特に海苔は石見海苔の一部をなして有名であつた。かういふことも人麿の長歌を解するうへに必要條件の一つである。
 次に、この旅行のをり、湯抱に於て舟木賢寛氏に會ひ、粕淵小學校裏地から出土した土器は、下府村出土のものと共に、朝鮮系統の土器をも混じてゐるといふことが分かつた。これも亦興味深いことであつて、愚案の鴨山考に一つの積極的な證據を與へるものである。この調査は東京の專門博士の手によつて爲されたものである。
 次に、これは序であるが、唐鐘の疊浦が床の浦だといふことは、國分村小字名に、『床ノ浦石所』といふのがある。これ床浦と云つた積極的な證據であるから、序を以て此處に記し置く。
 次に、都野津町、都濃村、江津町につき、カラ又トウの附く地名の殘存について調査したが、其處には無かつた。これは山田儔氏の勞を煩はした。
 
(492) 屋上山
 
 萬葉卷二(一三五)の人麿作長歌中の、『屋上乃山』を、私は總論篇以來、ヤガミノヤマと濁つて書いてゐたが、これはヤカミノヤマと清んで訓む方がよいやうである。
 石見には邑智郡に矢上村があり、これも私はヤガミと云つてゐたが、土地の人に問ひただしてヤカミと清むことが分かり、なほ今囘、石見那賀郡下松山村にある八神も、問ひただしてヤカミと清むことが分かつたから、人麿の歌の屋上山もヤカミヤマとすることにする。
 諸注釋書では、鴻巣氏の全釋と私の書物だけが濁つてよませ、他の諸書は皆清んでよませてゐるやうである。
 古事記、『八上比賣』につき記傳卷十に、『八上比賣《ヤカミヒメ》、和名抄に、因幡(ノ)國八上(ノ)(夜加美)郡あり、此(レ)より出つる名なり』とあり。石塚龍麿の、古言清濁考には、清むやうに書いてある。
 なほ、大日本地名辭書索引、日本地圖帖地名索引其他に據ると、石見のは皆ヤカミと清んでゐる。兵庫縣多紀郡の八上も、鳥取縣八頭郡の八上も、岡山縣阿哲郡の矢神も清んでゐるが、長崎(493)縣西彼杵郡の矢上、岐阜縣羽島郡の八神等はヤガミと濁つて稱へてゐる。岩手縣二戸郡の矢神嶽もヤガミダケと濁つてゐる。人麿時代には濁音が多くなかつただらうから、現在石見の人々の發音してゐるやうに發音したと看做して大體好いやうである。
 なほ、現在吾等はツマゴモルと發音してゐる『嬬隱有』といふ枕詞もツマコモルと清んで發音したかも知れない。つまり、『都麻胡非』も只今ではツマゴヒと發音してゐるが、そのころではツマコヒと發音してゐたとも考へられるのである。斯くすれば、ツマコモル・ヤカミノヤマノと全部清んで發音して調和がとれることになるのである。
 
(495) 藤原宮御井に就いて
 
(497) 藤原宮御井考
 
     一
 
 萬葉集卷一(五二)の藤原宮御井歌の、『御井』は現在どの邊に當つてゐるだらうかといふことは、誰でも念頭に浮ぶ事柄であるが、先賢の書いたものにも此は明かに記されてゐない。
 考に、『上つ代より異なる清水有て、所の名とも成しものぞ、香山の西北の方に今清水有といふは是にや』とあつて、略解・古義その他の注釋書も概ねそれを引用したにとどまつてゐる。
 なぜ斯くの如く御井阯に就いて諸學者が考察しなかつたかといふに、第一、藤原宮阯についての定説が無かつたためである。考に、『宮の所は十市郡にて、香山耳成畝火の三山の眞中なり。今も大宮|殿《ドノ》と云て、いさゝかの所を畑にすき殘して、松立てる是なり』と云ひ、古義も其を引用し、なほ増補して、『さて香山は十市郡なれども、宮地は其西にて高市郡に屬るなるべし。釋紀に氏族略記を引て、藤原宮在2高市郡鷺栖坂(ノ)北地1と云り』と云つたが、喜田貞吉博士も其等を參考しつ(498)つ、次の如くに考證を進めた。
  其宮城の位置は、釋日本紀引く所の氏族略記に、藤原宮は、「高市郡鷺巣阪の北の地に在り」とある。扶桑略記には、「大和高市郡鷺巣阪の地是なり」とある。兩者稍相異はあるけれども、要するに藤原宮城は、鷺巣阪と稱する地の附近にあつたに相違ない。今藤原宮の所在として知られたる、大和三山の中間の地を調査するに、日高山とか、小山とかいふ小丘陵はあるけれども、位置東に偏して、宮城に充つべき場所では無い。然るに延喜式に高市郡鷺巣神社が有る。今同郡白橿村大字四分の鷺巣八幡祀即是で、其の地は阪と言う可き地勢では無いけれ共、略々畝傍・香久兩山の中央を通過する南北線の附近にあつて、藤原京の朱雀大路が此の神社と遠からざる場所を過ぎて居つた事は明かである。して見れば、宮城を此の鷺巣神社の北方に求めて、ほゞ其位置を知ることが出來やうと思ふ。古事記垂仁天皇の條に鷺巣池が有る。扶桑略記及氏族略記に鷺巣阪とあるのは、或は鷺巣の池若くは杜《もり》の誤寫であるかも知れない。今鷺巣八幡の所在の地に、小字門の脇といふのがある。是或は宮城朱雀門の脇の名を傳へて居るのであるかも知れない。【中略】ともかくも藤原宮城が、鷺巣神社と耳成山との中間にあつた事は動くまい。【下略】(帝都)
 然るにその後、新研究が進み、奧野氏の「萬葉大和志考」には、『高市郡の東北隅、鴨公村大字醍醐・高殿を中心とせる地方。枝葉には異説なきにあらざるも、ほぼ北は鐵道、南は上飛騨、東は香具山、西は四分附近に限れる殆ど方形の地域を占めしならむ。飛鳥川其西半部を貫流せり』。『藤原宮。鴨公村小學校の南に接して土壇あり。持統、文武二帝藤原宮址と傳ふ』と記載してゐる。
(499) その後、昭和九年十二月以來日本古文化研究所で發掘調査えお行ひ、昭和十一年十一月に、足立康、岸熊吉兩氏の「藤原宮阯傳説地高殿の調査一」が發行になつた。此は精細な學術的報告であるから、續行的調査を必要とする點もあるが、從來の文獻に據つて、宮殿の模樣を推すに、朝堂院内の北部中央に南面して立つ正殿は即ち大安殿(大極殿)で、其が大宮土壇の處の殿堂阯として發掘調査せられた。それから東安殿西安殿で、これも大體發掘調査せられた。小安殿が後方にあり、其等の殿堂に所屬の建築もあり、廻廊があり、外部には築垣が繞らされ、四面には門が開いてゐた。朝堂は國家の儀式を行ふところで、正殿は前言のごとく、大安殿(犬極殴)で南面して聳え、それに東殿西殿東樓西樓と其等に附屬の諸建築が布置され、朝堂の四周にも廻廊或は築垣の類があり四方に門があつたに相違ない。そして朝堂の左右の建築は南方に延びてゐたのだから、朝堂の建築は今の別所の近くまで延長してゐたらしい。この朝堂阯については、發掘調査中で、その一部分は調査濟の由であるが、未だ公表には至つてゐない。【足立博士は關野博士に從つて、大安殿と大極殿とは全く別のものと解釋して居る。】
 次に、萬葉卷一の藤原宮御井の歌中の、『埴安の堤の上に在り立たし見《め》し給へば』といふ埴安の池の位置であるが、現在は天香久山(天香具山)の北方の池にその名をとどめて居るけれども、それでは萬葉の歌に合はないのであるから、藤原宮のころは、香具山の西の方にあつたのではなからうかといふ説がある。私もその説に大體從ひたいのであつて、現在別所の小字に池尻といふ(500)ところがある。其は別所部落よりも西で、小貯水池の北に當つてゐる。さうすれば、埴安池は朝堂よりも南方にあり、その大きさは不明だが、今の別所の新池といふ貯水池のせいぜい二倍位なものででもあつたらうか。かく香具山の西にあつたとすれば、萬葉卷一の舒明天皇の天皇登2香具山1望國之時御製歌をも、また、藤原御井の歌をも理解が容易になるやうに思へるからして、大體さう想像して置くこととする。
 次に、藤原京の範圍であるが、之を平城京の東西八里、南北九里の標準によれば、香具山にかかる事となつて具合が惡いので、現在の大宮土壇及び鴨公小學校を中心として、東西約七町の處に線を引くと、東方は、下八釣木之本を通ずる街道よりも半町程東に當り、西方は四分木殿を通ずる線に當ることとなる。それから北方は、土壇から約九町、鐵道線路を越えて八木西之宮櫻井に通ずる道路に及び、南方は土壇から約十五町、小山、川原田中の線まで及んだものと想像し得る。その西片寄りに飛鳥川が流れてゐて、時々氾濫して位置が變つたとしても、大體の位置は變らないであらう。鷺巣神社は現在四分にあるが、古老の話【現在もさう話す】には、古は鷺巣神社は下飛騨の日高山にあつたのが、飛鳥川氾濫のため現在の處まで流されたのだと云つてゐる。さすれば、釋日本紀引用の氏族略記の鷺栖阪といふのは、或は日高山のことであるのかも知れない。
 藤原京の範圖を大體右の如くに想像して、藤原宮御井を考察することとする。
 
(501)     二
 
 藤原宮殿、藤原京をぼ大體右の如くに假定して、藤原宮御井を考へるとき、先づ現在井泉の分布状態がどうなつてゐるか、特に大宮土壇を中心として、それから餘り遠距離で無い場處に、古代の井泉を偲ばしめるやうなものがないだらうか。それを昭和十年十一月から昭和十二年六月に至る間に、調査したのであつて、其等のいづれかが藤原宮御井と關係あるものと假定しつつ考證を進めて行つて、一定の結論に達しようと欲したのである。そして便利のため、現在目撃した井泉を分類して記載すること次の如くにした。
第一部。大字高殿、小字メクロにあるもの。
  【a】 字メクロ、反別番號二一三。中浦忠太郎氏所有。現在、縱九尺二寸、横四尺五寸。なほ凝視するに、泉はもつと大きいもので、丸太、板を以て保護整理してゐる。此は耕作上の關係行爲で、時期は三四十年前と推し得る。深さ十六尺二寸より十六尺五六寸。目高、鮒等が僅かに生息してゐる。表面は水綿等のために、よごれて見えるが、一たび其を除いて見ると、極めて清列な井泉で、黄褐色の水綿の豐かに靡いてゐるのが見える。氣泡が斷えず少しづつ浮上つて水の湧くことを示し、水が斷えず田畔の間へ流れ出でてゐる。試に水質を檢査(502)するに次の如くである。
  色及清濁。 少量の類褐色沈澱物を有するも濾過後は殆ど無色澄明である。
  臭味。 異臭味なし。
  反應。 微弱アルカリ性。
  亞硝酸。 檢出せず。
  鉛及銅。 檢出せず。
  アンモニア。 檢出せず。
  過マンガン酸カリ消費量。 六・九五
  硝酸。 痕跡。
  硫酸。 少量。
  鹽素。 壹七・參八
  硬度(獨逸硬度)。 七・九貳
  蒸發殘渣量。 貳七〇・〇〇
  細菌聚落敦。 −
  大腸菌。 −
(503)  適否及備考。右化學的試驗の成績に據れば、本水は濾過後飲料に適するものとす。
右は、内務省東京衛星試驗所の檢査成績であつて、露天の井泉その儘で、濾過も何もせずに汲んで持參したものであることを一言強調して置く。この井泉は、昭和十年十一月十日藤森朋夫氏と藤原宮阯を踏査したとき、私が始めて注意したものである。ついで、昭和十二年五月二十四日私獨りで調査し、昭和十二年六月十八日、藤森朋夫氏と共に再調査した。
  【b】 右のaの井泉から東南一直線上、六十七尺を隔ててあるもので、小字メクロ。反別番號三四。吉田久四郎氏所有。縱三尺七寸、横三尺八寸。深さ十七尺五寸。魚類僅かに住み、岸に雜草生え、水綿がある。水面は種々のものが浮いてゐるので清水で無いやうに見えるが、水質はaと略同樣である。昭和十年十一月十日藤森氏同道注意し、昭和十二年五月二十四日再見。六月十八日藤森氏同道調査。
  【c】 同一直線上、bから略百四十四尺(二十四間)を隔ててある井泉で、小字メクロ、反別番號二一九。森田熊次郎氏所有。縱六尺六寸。横四尺五寸。深さ九尺七寸。水は一見澄明で無いやうに見える。魚類僅かに住む。水質未檢。此は昭和十二年六月十八日藤森氏と共に始めて注意したものである。昭和十年の時は稻刈に近く、穣つた稻の間にあつて注意し難く、(504) 昭和十二年五月二十四日には麥畑で刈るばかりになつてゐた麥の間にあつて見つけ難かつたのに、六月十八日の時には田植最中の水田になつてゐたために見つけることが出來たものと見える。
 以上の三つを私等は注意した。この三つの中、はじめのaと大安殿阯と想像し奉ることの出來る小字大宮の土壇との距離は目測約一町半から二町足らずである。私は以上の中abの二つに注意し、藤原御井との關聯について想像しつつ、拙著柿本人麿評釋篇卷上に、『私は、小學校から高殿に通ずる小道路を行きつつ、稻田の隅に井戸二つを發見して、非常に喜んだのであつたが、此は土地の習慣で、水を溜めるために掘つて置く井であつた。併し、その邊には、地下水が豐かで、掘れば清い水が湧き出づるといふことを證明するものであるから、私はひそかに、御井はやはり大安殿の近くの宮中にあつたので、常願寺或は鷺栖神社の方では無かつただらうと空想しつつ暫く其處に佇立してゐたのであつた』と書いて置いた。今でも土地の農夫は、旱魃のときのための溜水の如くに謂ふし、また他の田の隅にもさういふ性質の溜水があるので、そこで『此は土地の習慣で水を溜める』云々と書いたのであつたが、實際に當つてみると、單な溜水でなく、湧水過剰のため水田にも畑にもなり得ないために、態々かく保護してゐるやうな形式になつたものと看做していい。この事は、高殿の部落の田の中にある井泉で證明することが出來る。【第二部e參照】
(505)第二部。大字高殿。部落中及びその附近にあるもの。
  【a】 三橋彌一郎氏邸内に、ヒデズミの井(秀泉井)阯といふのがある。今はその阯を斷つて、何等の認むべきものが無いが、古老の傳説に據ると、此處に井泉があつて、今の常願寺の井は、この井の移轉の如きもので、常願寺の井を圍んでゐる石の一部は此處から持つて行つたものである云々。併し、井泉の阯が現在斷えてゐるのだから、藤原御井と關聯せしめることは困難であらう。
  【b】 常願寺庭の井。此は、秀泉井《シウセンヰド》と稱し、秀泉山常願寺にある。鴨八重事代主命の御用水だといふ傳説がある。この神は大宮土壇に齋き祀つてゐる神で、鴨公村七箇大字の氏神である。この井に就き、古來次の如き傳説がある。此井水を使ふと天罰が當る。此井附近の土を踏荒したり土を移動させたりすると腹痛が起る。附近で不淨なことをすると頭痛が起る。長い間、井に石葢をしてあつたが、明治初期其を取除いた。此水は旱魃の時にも涸れることが無い云々。右は昭和十年十一月、鴨公村小學校を訪うて、校長吉田宇太郎氏に面會し、その調査を依觀した材料である。その時(十一月十日)藤森朋夫氏と共にこの井を見たが、水量も少く、稍濁つてゐた。昭和十二年六月十八日、藤森氏と共に二たび見たが、水が矢張り濁つて居り、飲料水に適せないやうに見えた。この井は、昭和十年十一月以來、常に氣に懸け(506)てゐたものであるが、秘かに、藤原御井阯では無いと思ひ、拙著柿本人麿評釋篇卷上にもさう書いて置いたのであつた。そして、昭和十二年六月再踏査するに及んで、いよいよその結論を強めるに至つた。約めていへば、この常願寺の井は藤原御井とは先づ先づ關係はあるまい。なほ、常願寺にはもう一つ井がある。此は普段用ゐてゐるものである。
  【e】 高殿部落の北方の端に東源次郎氏の家があり、その北隣に井泉がある。此は昭和十二年三月十五日、土屋文明氏が注意し、藤原宮井泉の一部と看做して、『藤原のみ井の清水にふし長になびきてありし春草おもほゆ』と咏んだものである。私は昭和十二年五月二十三日二十四日調査(高安氏同道)。六月十八日調査(藤森氏同道)した。水質澄明、常に飲料にしてゐる。現在、横四尺二寸。縱四尺。深さ十尺四寸。鹽見彌太郎氏所有の田にある。此水は湧出量も多く、清冽であつて、藤原京の飲料水の一部を必ずなしてゐたに相違ない。但し、『御井』とは考へてない理由は後段に見えてゐる。この泉は大宮土壇から直線に目測して約二町半餘である。
  【d】 この井と南方同一線上の道側に、板を以て覆うてある井が二つある。水が濁つて、飲料に堪へないやうであるが、やはり同一系統の水が湧いてゐるのでは無からうか。此は委しく調べる暇が無かつた。
(507)  【e】 eから北方略一町半の路傍の田の中に一つの井泉がある。此は昭和十二年六月十九日初めて注意したもので、田植時であつたから障礙物が除去せられ初めて注意することを得たものである。田の中にあるため、縱横深の計算も叶はず、水質も不明であるが、水が常に湧出して田とならぬために、その部分だけを井泉として保存してあるものであらう。從つてその水質もそんなに惡いものでないことを推察することが出來る。
  【f】 高殿部落の中、喜多奈良吉氏家近くの廣場にある井泉で、不正形。縱十五尺五寸程、横十四尺五寸程、深さ四尺から四尺七八寸程。水澄明、水草生えてゐる。現在は飲料にせず、物を洗ふに使つてゐるが、これも手入すれば無論飲料水にすることが出來る。岸に川柳の古木が殘つてゐる。おもふに、此もまた藤原京の飲料水の一部であつただらう。ただ『御井』の一部とは看做し難い。
  【g】 その他、この部落には、自家用の多くの井戸がある。併し、私の見た眼では、水質は概ね同樣で、cの水程好くはないやうである。
 第二部の井泉は右の如くである。cの如き、fの如き井泉が露天の儘現在も殘つてゐて、涸れることが無く、田地にも邸宅地にもなり得ずにゐるところを見ると、古代から連續して湧いてゐたものであるだらう。そして、藤原宮の諸官人等も飲料に使つたものであらう。斯くの如く現在(508)の状態から古代の状態を推測し得るほど、地下水が豐富である。
第三部。高殿部落から別所に行く途中のもの。
  【a】 高殿から別所へ通ずる路傍の流に近く、時に麥畑、時に稻田になる處にある井泉で、山本スエさん所有である。不正長方形に近く、縱十六尺。横六十一尺。深さ四尺から十尺程。水草群生し、田の水流れ入り濁つてゐる。併し、自然に湧出してゐることは確かで、盛夏と雖涸れることが無い。昭和十二年五月廿四日村民の案内にて知つた。六月十八日再調査した。魚類住む。
  【b】 其より南方約一間の處にある井泉で、縱横共約七尺。深さ八尺二寸程。稍濁つてゐる。魚類住む。
 この二つは、第二部、aと同一線上の道路の傍にあるもので、地質學上何等かの關係あるものの如きも、私にはよく分からない。また、古くはこの二つは一つであつたかと想像することが出來る。そして、小さい方だけを人工的に保護して、或時期には飲料水として役立たしめたこともあつたのであらう。此等の井泉の東隣に俗に新池《しんいけ》と名づける貯水池があるが、この貯水池は今から三十七八年以前に出來たもので、井泉はこの新池よりももつと古くからあつたものであることを村の古老が知つてゐる。
(509)第四部。日高山東麓にあるもの。
  【a】 別所春日神社の境内を通拔けて南に行くと、日高山から約半町の處に一つの井泉がある。昭和十二年五月廿四日初めて知つた(高安氏同道)。其時は麥畑の中にあつた。六月十八日再調査(藤森氏同道)。横十四尺。縱八尺。深さ四尺二寸程。水微かに濁る。魚類住む。水綿ある。飲料に堪へるやうである。この泉から大宮土壇、耳成山の中腹迄一直線である。
  【b】 aから約十五六間の處にある不正形の井泉で、横二十七尺程。縱十六尺程。深さ一尺。周邊に川柳生え、黒色の水綿浮き、人工を加へざる井泉の有樣を示してゐる。水質澄明、飲料に適してゐる。氣泡たえず浮上り居る。西方は日高山、東方は香具山に向つてゐる。昭和十二年五月十九日私が一人來りて見つけた。
  【c】 bから數間離れた處、時には麥畑、時には稻田の間にある井泉で、横十尺。縱八尺程。深さ一尺二寸程。不正形。水澄明。昭和十二年六月十八日見付けた(藤森氏同道)。
 右の三つの井泉は、同一系統のもので、古代耕地の無かつた時には、一つの井泉であつたやうにも思ひ、或る時には、土壇(大安殿)、耳成山との位置の關係上、藤原御井阯ではなからうかとも空想し、或る時には、釋日本紀引用の、藤原宮在2高市郡鷺栖阪北地1の鷺栖坂を現在の日高山と想像し、現在の四分の鷺栖神社は後世移轉したものと考へると、延喜式の鷺柄社、古事記の鷺(510)巣池を顧慮するときに、この一群の井泉は或は鷺栖池の名殘では無かつただらうかとも空想した。なほ此等のことは後段に於て繰返すつもりである。
 
     三
 
 石の如くに露天の井泉群を現在見ることが出來るが、大宮土壇を藤原宮の大安殿阯と看做し、諸殿堂がそれから南方にあつたとして、前記の如き、宮殿と外郭のひろがりを假定して、さて、藤原宮御井は以上の如き井泉群のどの邊に當るであらうかと推測せねばならぬ。そしてこの推測は、藤原宮時代の井泉が現在まで續き湧き出でてゐるといふ要約のもとに成立つものであるが、この要約は地質上、大變化の無い限り可能であることは、他の實例、例へば、櫻井や石見伊甘池等に於て類推することが出來るのみならず、昭和十年一月以來の發掘調査によつて、地質上の大變化の無いことをも證明せられたのであるから、藤原宮御井の水が、現在見得る井泉のいづれかと相連續し相關聯してゐるだらうといふ要約を假定することが出來るのである。即ちその要約は決して無道理では無いのである。
 さう大體極めて、井泉のいづれに當るだらうかといふに、昭和十年十一月十日の調査に際し、第一部のaとbの二つの井泉を稻田の隅に見附けて、殆ど直感的の如くに、藤原宮の御井との關(511)係を想像したであつた。そして、大宮土壇から二町足らずの場所であること、即ち古の宮墻の内にあつたらしいこと、湧出する泉であること、水が湧出でて耕地にはなり得ないために、却つて其を保護して、旱魃の時の灌漑に役立たしめようとしたこと、abと二つ並んでゐるのは同一系統の水脈であるらしく、古へはこの二つは融合して一つの大きい井泉であつたらしいこと等、種々空想して、その根據としたのであつた。その時のことを拙著評釋篇卷上では、『空想しつつ暫く其處に佇立してゐたのであつた』と記し、藤森氏の日記には、『腰をおろして二三十分も瞑想』と記してゐる。
 然るに、此形式の井らしいものは、小學校の西の方にも北の方にも田の隅に見つかり、やはり溜め水で、湧出しないものもあつたので、abを藤原宮御井にするには、稍根據が薄弱になつた感がしたのであるが、歸京後降雨の尠い時に小學校長吉田宇太郎氏に依頼して、實際湧出してゐる井泉か奈何を調べて貰つたりしたものである。そして、やはり湧出するものだといふことを確めたが、なほ疑問を存じつつ昭和十二年に至つたものである。
 昭和十二年三月十五日に、土屋文明氏が高殿部落の北端に、第二部cを注意し、その水の豐富澄明なることと、大宮土壇から約三町弱であるところから、藤原宮御井との關係を想像し、五月二十三日に、第二部d、六月十九日に、第二部e等を發見し、其等の井泉を綜合して觀れば、北(512)方に、稍西にそれて耳成山を望み、西に大宮土壇を望み得る位置にあり、高殿の小字には、稻井などといふ名もあるので、ひよつとせば、この第二部の井泉が藤原宮御井となるのではあるまいかとも思つたのである。
 次に、別所に近い、第三部abを祝察し、日高山の麓に近い、第四部を昭和十二年五月二十三日、二十四日の二日に視察した時、第四部aは大宮土壇と耳成山中腹と三つ一直線上にあることを注意し、水質も清く、abと融合すれば極めて豐かな井泉であるから、或はこれが藤原宮御井阯ではあるまいかと想像し、斯樣に殆ど結論を極めようとして歸京した。ついで六月十八日調査した時にも、未だその考を棄てず、特に同日第四部cを發見し、また、そのあたりの流に古代瓦の群を目撃し得たので、この第三部の井泉を以て藤原宮御井阯とする考は棄て得なかつたのである。ただ大宮土壇から此處まで七町半程の距離がある。その遠距離だといふことが一つの消極的な點であるが、この點を除けば、宮殿の南面に當る堂々たる井泉で、幾何學的な形式から云つても、水質から云つても先づ申分が無いと思つたのである。
 右の如くに種々迷つて解決が附かなかつたのであるが、五月二十四日には斯ういふことを思つた。私が藤原宮阯を極めるのに迷ふのは、藤原宮御井と藤原京の用水とを混用してゐるからである。藤原宮御井は一つであつても、藤原京の用水(飲料水)は一つではなく、多元的であるべき(513)である。また藤原宮殿(内裏朝堂)だけの御用水だけでも、上説の第一部の井泉からも、第二部の井泉からも役立てることが出來る。然らば、さういふ御用水と『御井』とは唯一同一でなくともいい。然らば位置から云つても最も好い位置を占めてゐる日高山麓の井泉、即ち第四部の井泉を以て藤原宮御井としたならばどうであらうか。距離の大きいものなどは、位置の好きを以て補ふことが出來るであらう、云々。
 斯くの如くに想像しつつ歩いたのであるが、別所から大宮土壇の方向に歩みつつ、第一部abのほかに、新たにcを發見するに及んで、abcの三つの井泉群を綜合して靜かに再考するに至つたのである。第一土壇からの距離が、他の諸部の井泉よりも近い。即ち宮殿の墻の内部に當るらしく、その東方に小字トハノ垣内があるところを見ても、略さうと想像してよいやうである。この宮墻の内だといふことは、一たびは重きを置かなかつたが、再考では、やはり重きを置かねばならぬと思ふやうになつた。それから水面の水綿などを除去して日光を透して見れば、水質は昭和十年あたりに歡喜した時の印象と違ひ、もつと水量が豐富で且つ澄明である。それから、其處に立つて見れば、三山をば共に障礙なく見ることが出來る。位置としても好位置にある。それからabcが一直線上にあるから、此等は古代は一つの大きな井泉であつただらうと想像することが出來る。以上の如き理由で、この第一部の井泉群は、藤原宮御井阯の候補として二たび復活(514)して來たのであつた。
 次に二たび萬葉の歌に歸つて、『高知るや、天の御蔭、天知るや、日の御影の、水こそは、常しへならめ、御井のま清水』を味ふと、これはどうしても宮殿に近い御井の感じである。この感じは所詮除去することが出來ない。また、生活に大切な飲料水は、形式的と共に實用的なることを要求し、運搬等の點でもなるべく便利な點を欲するのが自然だとせば、やはり、七八町を隔てた日高山麓の井泉よりも、二町足らずの此處の第一部の井泉の方が、藤原宮御井に該當する可能性が多くなつて來てゐる。さういろいろと考へて、先づ日高山麓の井泉を棄てようと思つた。
 さうすれば、高殿部落の第二部井泉群が殘る。その中特に土屋氏の注意したcの如きは、土壇からの距離といひ、三山を一時に望み得る位置といひ、湧出量といひ、水質といひ、御井阯と考へてその根據が充分である。そこで私は、この二つの井泉群のいづれにしようかと思ひつつ、鴨公村役場に寄つて小字を調べたかへりに、小學校長の吉田宇太郎氏に面會した。
 そして昭和十年以來の久闊を謝したが、その時吉田氏は、昭和十一年度に於ける發掘調査の結果を話された。その或る磯會に、私の發見した井泉あたりから以東、高殿部落にかけて、古瓦が發見せられない。そこで、小字には宮殿に關係あるやうな名があつても、その邊は宮殿ではなく、宮墻の外であつただらう、といふことを云はれた。
(515) このことは、私の藤原宮御井阯に結論を與へるのに大切な暗指になつたものである。その夜、私は旅宿にあつて熟慮したすゑに、遂に高殿部落の井泉即ち、第二部のcをも棄てることにした。さうすれば殘るものはやはり第一部の井泉といふことになる。この第一部の井泉は、昭和十年十一月十日に注意して、種々考察の動搖を經過しつつ二たび元に戻つたのである。
 私のはじめて注意して、最後の結論に達した、この第一部の井泉が何故に世の學者の注意を牽かなかつたか。それに就いて數言を費したい。高殿常願寺の秀泉井等には傳説が殘つて居り、その秀泉井は現在の常願寺邸内でなく、元は三橋彌一郎氏邸にあつたといふ傳説もあつて、同一ではないが兎も角傳説は高殿部落内に殘つて居り、大宮土壇に關する傳説が、發掘調査の結果殆ど事實として證明せられつつあるのであるから、井泉に關する傳説も尊重せねばならぬ道理であり、吉田宇太郎氏の如きは、私の依嘱により第一部の井泉を目撃して居られながら藤原宮御井との關聯につき毫も聯憩してゐない。世の學者も亦同樣である。次に村民が此等の井泉に重きを置かない。他の田地の隅にある同一形式の溜水と同一視して居るから、その水質等に就いても細かい調査をしようとはしない。試に一二の古老に問うて見ても、溜水の如くに取扱つて、『あれはあかん』などといふ。さういふ關係でこれまで藤原宮御井阯として誰も顧みなかつたのを、私が顧みて、新説として學界に提出するのである。そして私の提出した、この假説的結論は、今後續行せ(516)らるべき發掘調査に據つてもつと積極的な根據を得るものと豫感せしめられるものである。
 
     四
 
 以上の事柄を約めて、説の結果のみを次に云はうとおもふ。
  一、萬葉巻一(五二)の藤原宮御井は現在目撃し得る井泉を以て、その阯を想像し得るだらう。
  一、目下發掘調査中の高市郡鴨公村大字高殿小字大宮の土壇を中心とする礎石等を藤原宮の礎石と認定し得るとせば、御井はその近く、宮墻内と看做すべき邊にあったものと思へる。
  一、鴨公村大字高殿小字メクロ、反別番號二一三、二一四、二一九に各井泉がある。其等が御井の名殘であるだらう。
  一、此等の三つの井泉(前文の分類中、第一部abc)は、第一第三節即ちaとcとの距離が三十五間餘であるから、古へは三つの井泉が融合して三十五間程の一大井泉であつたであらう。縱ひabだけの融合と考へても十二間程の大井泉になるわけである。
  一、その不断に湧出した清澄な井泉、即ち、『水こそは、常しへならめ、御井のま清水』は、現在の衛生學的檢査によつても其を證明することが出來る。
  一、この假説的結論は、今後續行せらるべき發掘調査に據り更に積極的な根據を得るであら(517)う。
後記。以上の中、藤原京についての記載には不備の點があり、既に公表せられた論文の結論記載の如きもまた不完成であつた。例へば、喜田貞吉文學博士の大阪朝日新聞、岩波歴史講座、夢殿等に公表せられた諸論文、足立康工學博士の大和志、史蹟名勝天然紀念物、夢殿等に發表せられた諸論文、田村吉永氏の大和志、大阪朝日新聞等に發表せられた諸論文等である。右の中、田村吉永氏の「藤原京に就いて」(大和志第三卷第十號)のみを抄記して、參考とする。田村氏の論文は從來の諸説記載が丁寧である。
     ○藤原京の廣袤
北京極 櫻井初瀬間を通ずる初瀬街道の一町南におく。即ち路東條里區、高市郡東郷廿四條三町通以南東京極 高殿村落の東方一町八釣高殿の境界線に當り、條里の三里の西二町通以西西京極 四分鷺栖八幡宮の東北方所在の溜池の東堤防の南北線で、條理の一里東一町通以東南京極 高殿南方の溜池の北堤防の東西線で、條里廿六條北三町通以北以上を四至とした東西九町南北十二町の地域を占むるものである。
     ○藤原宮の地域
藤原宮の内裏及朝堂の位置について。平城京及平安京では共に唐の長安城を摸して、中央以北に位置したのであるが、藤原宮では中央以南にあつたのであらう。即ち東から五町以南で恰も鏡池と俗稱する東當の坪池の一町分の南に接する小字を大宮と稱し、これより以南南京極路まで南北五町東西三町にて十五町分をば内裏及朝堂の地域と考へる。
     ○鷺栖阪・鷺栖神社
現在四分の鷺栖神社は實は春日大明神であるから、大和志(享保丙辰刊)の、在2四分1今稱2鷺栖八幡1(518)といふのと合はない。然るに現在上飛騨にあるのが八幡宮であるから却つて大和志の記載に合致する。またこの上飛騨の八幡神社は元は八十米の標高を有する日高山の頂上に鎭座してゐたのを後年現在の地に移したもので、元の宮阯を古宮と稱し、明治初年迄祭典には必ずこの地に於てした。また神社の東方下に續いて昔から池跡といほれるものがあつて、この形跡を保つてゐる。これ等の地點は大宮の南方八町に當り、十米高く阪を爲しこの神社及池の存在する日高山の北面傾斜地である。よつて上飛騨神社は神名帳に記す處の鷺栖神社であり、元古宮の地に存したものとするもので、現四分の神社は上飛騨から流れ來たものと傳へるものも一つの傍證であらう。從つて北面傾斜地は氏族略記いふ處の鷺栖阪に當つべく、こゝに鶯栖池を求むべきで、現四分の鎭座神社を以て鷺栖神社に當つるは大和志の誤とすべきである。すると藤原宮の地は氏族略記記す處の鷺栖阪の北に合致するものと云へよう。
     ○
田村氏の説は大體右の如くである。藤原京の南京極は、現在の別所の北際に及んでそれから南迄は及んでゐないやうに解してゐる。そして、朝堂の南端がその南京極に至つてゐると解するから、私の發見した、第三部と第四部の井泉は、それぞれ朝堂の飲用水として役立つたものとも想像することが出來る。藤原宮殿、藤原京の廣袤等についてはなほ今後學説の移動があるべく想像せられるが、藤原宮御井阯の考證にはたいした移動的影響を來さない筈であるから、私の記載は大體にとどめて置く。此小論を作るに際し、土屋文明、藤森朋夫、石井庄司、吉田宇太郎、高安やす子諸氏、及鴨公村役場の助力を感謝する。昭和十二年六月二十七日、齋藤茂吉謹識。
 附記。私の文中『大安殿』とあるのは、從來の解釋による、『大極殿』に等しい意味に使つてゐる。然るに、關根博士、足立博士、喜田博士共に、大安殿と大極殿とを全く別棟と解釋してゐるので、私の文(519)中齟齬する點があると思ふから、そこをコントロールしつつ讀まれんことを希ふ。
 
(520) 二たび藤原宮御井に就いて
 
     一
 
 昭和十三年一月九日より、私は發熱臥床した。その間にたまはつた諸友の書簡類を月末に至つて整理したところが、その中に、大阪の上村孫作氏から一月十四日附で贈られた大阪朝曰新聞奈良版(昭和十二年十二月二十二日)と、東京大森の足立康博士から一月十二日附で贈られた、「藤原宮の御井に就いて」(史蹟名勝天然紀念物第十三集第一號別刷)といふ論文とが入つてゐた。私は兩氏に感謝の手紙を出したが、體力衰へて意見を論として書き記すことが出來なかつた。その後も私の意圖を實行し得ず、上村氏から得た旱魃の材料などをも整理し得ぬうちにはやくも盛夏に入つた。今やうやく初秋の小閑を得て、此の備忘を書きしるすのである。
 大阪朝日新聞奈良版の記事は、「齋藤博士の藤原宮御井は灌漑用の野井戸。足立博士の駁論出づ」、といふ見出しで、次のやうなことが書いてあつた。
(521)  ○目下同地の藤原宮址を發掘調査中の日本古文化研究所工學博士足立康氏は、「齋籐氏が千三百年間不斷に清澄な清水の湧出したとする藤原宮御井なるものは、近年村民によつて掘鑿された灌漑用の野井戸に過ぎない」としてその誤謬を指摘した駁論を近く發表することになり、兩博士を知る人の間にセンセイシヨンを起してゐる。○齋藤氏が御井の名殘りとする三つの井戸につき調査したところ、第一の井戸は大正十三年の大旱魃の際村民の中浦忠太郎氏ほか三氏が灌漑用に掘つた野井戸であり、第二の井戸は四、五十年前に東某氏が同じ目的から掘つたことが判明した。第三のものも恐らく同樣の原因で作られたものであらうとして、齋藤氏の説は全面的に成立し得ないとし、御井の調査は非常に大切なことであるが、それは藤原宮址の確定をまつて行ふべきものであらうと結んでゐる。
これは普通新聞の記事であるから、これ以上は分からぬが、足立博士が私の「藤原宮御井考」(昭和十二年八月文學發表)を讀んで、その刺戟を受けられたことは當然と解釋せねばならぬ。次に、足立博士の、「藤原宮の御井に就いて」といふ論文の方は、朝日新聞の記事よりももつと委しく、また博士自身の筆に成つたものであるから、私は直接この論文を讀みつつ、二たび私の意の存するところを記して置く方が便利だと思つたのである。それがやがて前論の補訂としても役立つわけである。
 
     二
 
(522) 先づ、私の「藤原宮御井考」といふ小論はその研究方法が妥當でなかつたといふ批難であるが、これは私自身も承認する。告白すれば、豐富な研究費と有能なる多くの助手と背景としての官の勢力と、少くとも十年の歳月と、さういふものをいろいろ豫想するならば、何とかなるだらう、ああも爲たいかうも爲たいといふやうな欲望も脳裏を往來したものである。けれども斯る事は現在の私にとつては夢想に過ぎない。私が人麿の歌を評釋して行くあひだに逢著した藤原宮御井につき、從來の言説に滿足せずにもう一歩具體化せしめようとしたのがこの小論であるから、謂はば人麿歌評釋の副産物のやうなものである。然かも萬事が單獨で二三私に同情せられる人々の助力をあふいだに過ぎぬのである。その同情者のことは文の末に記して感謝の意を表して置いた。さういふ具合であるから、これを古文化研究所の足立博士の場合と同一標準を以て論ずることが出來ぬのである。さうして學問の研究をば全體的に觀るときに、便利な立場にあるもの、不便利な立場にあるもの、官學にあるもの、私學にあるもの、孤獨的に野にあるもの、皆協力して學問を助長せしめるといふのが物の順序とおもふのである。
 併し、それがかなはぬとすれば、先づ現在の私の状況の許す限りに於て、論を立てなければならぬといふことになるであらう。特に、千數百年を經過した一つの井泉について考察するやうな場合に、またその井泉といふのもただ一つの長歌以外に何の手がかりが無いといふやうな場合に、(523)文獻も不足で何處から手をつけてよいか分からぬといふやうな場合に、その正しい結論が最初から易々として決定せらるといふことなどは先づ先づ不可能だと謂つていいのである。そこで先づ假説的結論を作り、その假説の動搖を或る程度まで許容しつつ進んで行くのもまた研究の一方法と謂つていいであらう。かの喜田博士の論文中に、『されば余輩は暫く右の臆説を提示して、徐ろに後の發見を待たうとする』(日本都制と藤原京)とあるのなどもまた、同樣の要求から出たものだと思ふのである。世人はよく研究方法の妥當不妥當などと輕々しくいふが、藤原宮御井考のやうなむづかしい研究題目について、完全無缺、つまり‘inwandfreiといつたやうな研究方法は先づ先づ當分はあり得ない。併し、假りにどんな方法であつても、『眞』に一歩でも近づき得るならば、それはそれだけで、一歩だけの學問上の業績と看做さなければならぬのである。また、『假説』の自由にして直觀的な妙味もおのづから其處に存じてゐるものであつて、喜田博士の第一の藤原宮阯考の如きは、今では改良せらるべきものであつても、先づその第一歩を出た業績といふ意味で不滅の價値があるのである。私の御井考の如きにしてもまた同樣である。若し私のこの言が不遜ならば許されよ。
 
     三
 
(524) 次に、私の御井考について、まだ藤原宮牡が學術的に決定せられないのに、その宮殿のすぐ近くにあつたと云ふ御井の遺阯を求めるなどといふのは不都合だといふ批難である。『未だ藤原宮の遺阯さへ正確に決定されぬ今日、たゞ徒らに御井の位置などを云々するのは甚だ穩當でない』といふのである。
 この批難も一應もつともな批難である。誰でも云ひ得るやうな常識的批難である。けれども、私の御井考は、最初から藤原宮阯をあそこと推定し、大安殿東安殿西安殿などの位置もあそこと推定し、それ等を要約として、それ等を條件として成立つてゐる假説なのである。それであるから、若しそれ等の要約が誤であるならば私の假説は成立しないのである。その條件が破れるならおのづから私の説は破れるのである。よつて、若しもあの處が藤原宮阯で無いといふ立證さへ確實に擧げて呉れるなち、私は何時でも私の假説を撤回するのである。私の説は、藤原宮阯の研究は世の學者に願つて、差向き毫も容喙してゐるのではない。よつて、若し私の假説を根本から覆へさうとするなら、先づあの場處が藤原宮阯でないといふ實證を擧げて來らねばならぬのである。それをも敢て爲し得ず、ただ『徒らに御井の位置を云々するな』、といふぐらゐな程度の批難では、單純幼稚で大局の批判としては價値の少いものであらう。
 また、足立博士は、あの處は未だ藤原宮阯だかどうか決定して居らぬといふ。これも實際であ(525)る。それを私は藤原宮阯だと推定して、御井の調査を進めたのであつた。そんならなぜさう推定して調査を進めたかといふに、大體の學的傾向がさういふ具合になりつつあつたからである。(【推定といつてもこれはあへて足立博士のみが推定程度に考へてゐるのではない。現在ではどの學者も推定といふことを先づ念頭に置いて此處の藤原宮を論じてゐるのである】これは何も足立博士ただ一人の説に從つたのではない。木村一郎氏以來、奈良縣教育會で大正四年大宮土壇の上に持統文武兩帝の藤原宮後顯彰の石標の立てられた以來、喜田、田村諸氏、その他の萬葉地理書をもまた參考しての末なのである。そのうち、特に喜田博士の如きは寧ろ足立博士の論敵の位置にある學者であるが、それでも喜田博士は、「藤原京再考」に於ては、大寶元年以前の藤原京は左右兩京の區別がなかつたとし、また大宮士壇傳説地の礎石等を、はじめ寺院阯と推察したのを、次のやうに改めてゐるのである。『近ごろ古文化研究所の手によりて發掘調査中の鴨公村小學校庭の遺蹟は、それが内裏であつたか、朝堂であつたかは暫く問題として保留するとしても、ともかくも其の建物の配置から、それが寺院として設けられたものでなく、恐らく當初に營まれた藤原宮の一部であつたと察せられる』と改めるに至つたのである。なほ、博士の「日本都制と藤原京」に於ては、『此の大宮土壇を中心とする地域も、其の地名から恐らく、内裏地であつたと思はれる。果して然らば所謂大宮土壇は大安殿祉であり、其の左右にあるものは、恐らく束安殿及び西安殿の遺址であらうと推定せられるのであるが、勿論それも確ではない』と云つてゐるのであつて、いづれも昭和十(526)一年の言説なのである。即ち私の立てた諭の要約はさういふ諸家の説の上に立てられたものであつた。
 それから、私の「御井考」は、足立博士等の學術決定論の出現を必ずしも待たぬのである。かういふ態度は不備といへば不備には相違ないが、喜田博士なども、『而もそれは余輩の到底待ち得べき所ではない』(【日本都制と藤原京】)と告白してゐるほどであつて、足立博士等の發掘研究とは必ずしも一しよでなく進んで居るのである。
 以上の如き心持で、私は、『從來の文獻に據つて、宮殿の模樣を推すに、朝堂院内の北部中央に南面して立つ正殿は即ち大安殿(大極殿)で、其が大宮土壇の處の殿堂阯として發掘調査せられた』と書いたものである。それについて足立博士は、『これは甚だ迷惑なお言葉であつて、第二吾々は未だ高殿をば藤原宮阯と決定して居らず』云々と云はれるのであるが、これは私の文章中の、『として發掘調査せられた』といふのに迷惑を感ぜられたのであらう。然らば迷惑を感ぜぬやうに自由に訂正せられてかまはぬのである。即ち皆『推定』の二字を附加すればいいのである。實際『推定』に相違なく、私のいふ意味もそれなのだから、極めて容易なことなのである。私は御井の考察をば前言の如くに先づ要約を提げて出發したが、藤原宮阯についての考證は私自身では差當り爲てゐるのではないからである。
(527) 因みになほ一言を添ふるに、足立博士が私の小論につき迷惑を感ぜられたといふ條下の文中に、『吾々の立場としては、一切の先入主を去り、出來るだけ客觀的の中正なる見地から調査を行つてゐるのである』、『或る先入主のもとに發掘でも行つてゐるかのやうに誤解される處もあるので』云々といふのがある。あの土地の發掘調査に際してのかういふ態度は一面には極めて大切なことである。發掘した礎石に一つ一つ先人見の牽強な意味を附けられては溜まつたものではないからである。また私は嘗ての足立・岸兩氏の報告を讀んで一たびもさう感じたことはなく、また斯く公言したこともない。そこで、『此は精細な學術的報告である』と云つてゐるのである。併し、足立博士等といへども、あの發掘作業を行ふに際し、『藤原宮傳説阯』といふ概念を意識に有ちつつ行つたに相違ない。ひよつとせば發掘の結果が藤原宮阯として符合するかも知れない。符合する方が都合が好い。實際の藤原宮阯だかも知れない、さういふ寫象がいろいろ複雜して博士の意識を往來したと考へるのが順當であらう。即ち嚴密な意味に於て、『一切の先入主を去り』などといふのは虚僞の告白と謂はなければならない。若しも一切の史的先入見、史的豫感を離れて、純的な發掘作業だけであるのなら、いくら精細に發掘作業を續行しても、永遠に、藤原宮阯であるか藤原宮阯でないかなどといふ結論には到達し得ないのである。また得る筈は無いのである。石は飽くまで永遠にただの石で、礎石といふ意味概念さへ附けられぬものである。況んや藤原宮の礎(528)石か否かといふやうな問題に於ては、一語をも附加することの出來ざるものである。併し、其處に藤原宮阯の傳説といふ寫象、豫感、假説、推定を結合せしむることに依つて始めて、藤原宮阯か否かといふ概念にむかつて進嚮し得るのである。
 喜田博士が古文化研究所の發掘作業について、『現に古文化研究所に於ても、之を藤原宮址なりとの推定の下に調査を進めて居られるのである』といふやうに書いてゐる。この『推定の下に』も、若し難癖をつけるつもりで讀むなら、一種の『先人見の下に』といふ風にも解釋出來る筈であつて、從つて足立博士に迷惑を感ぜしめる底のものとなるべきである。けれども私見によれば、喜田博士の書き方はこの儘で別に差支が無いのであつて、足立博士を輕蔑したり誤解したりしてゐるのでは無いとおもふのである。私の文章もまたこれに等しい。右は、いかにも言語の末梢に關することのやうであるが、足立博士が私の小論に對した批難が既に如是である以上、一言の附加を必要としたものである。
 
     四
 
 私が小論中第一部の井泉を藤原宮御井の名殘だらうと云つたのは、第一部の井泉が藤原宮御井『そのもの』だといふ意味ではない。現在地表に見得る第一部の井泉が、過去千數百年前の藤原宮(529)御井と、何等かの關聯、聯結即ち〇usammenhangがあるだらうといふ説なのである。假説(Hypothese)なのである。それゆゑ私は、『其等のいづれかが藤原宮御井と關係あるものと假定〔九字右○〕しつつ考證を進めて行つて、一定の結論に達しようと欲したのである』といひ、『現在の状態から古代の状態を推測する〔四字右○〕』といひ『種々空想し〔三字右○〕つつ』といひ、『藤原宮の御井との關聯を想像〔五字右○〕した』といひ、『藤原宮御井との關係を想像〔五字右○〕した』といつて居るのである。さうして、その『關聯』といひ、『聯結』といふのは、無論、『水文的關聯』を意味し、地下水、水脈の關聯を意味して居ることは言ふことを須ゐないのである。私の小論にむかつてただ難癖をつけるために、あら捜しをするために讀むのならいざ知らず、全體として私の意圖を汲み取つてくれる同情があるのなら、誰が讀んでもさう受取れる文章なのである。
 然らば、その『關聯』、『水文的關聯』とはどういふ意味であるか。第一部の井泉群は、現在では灌漑用の井戸である。これは現在誰でもさう言つて居るし、私もさう認めてゐる。たださういふ人々(足立博士もまた)はただ灌漑用の野井戸としてのみ取扱つて、それ以上何等の史的意味を持たせないのに、私は過去に於ける藤原宮御井との關聯を持たせようとしたものである。『關聯』とはさういふ意味なのである。一部の學者等は、調査について、『慎重の態度』などと口癖のやうにいふが、私の假説が公表せられた今日と雖、ただの『野井戸』と稱して私の説を冷笑して(530)ゐるのである。そこで結論の差別は實に明白となつて來るのである。
 次に、然らば、その『水文的關聯』をばどういふ具合に想像するか。藤原宮は既に千數百年の過去に屬し、特に藤原宮御井歌は持統天皇御造營の藤原宮殿建立のころの作と私には想像せられるから、若し喜田博士の假説の如く、文武天皇の慶雲元年に藤原宮が大擴張せられて、その時の宮殿が現在の醍醐小字長谷田の芝地だらうといふのが本當だとすると、その時既に藤原宮御井の觀念に變化を來して居たものにちがひない。それから奈良朝となり、平安朝となり、今日に至るまで、その御井の水が、或は地表から無くなつたり、或はある機會に地表にあらはれたり、多樣の變化を閲しつつ現在に及んでゐるものと想像せられる。そこで、私の調査の根本の考は、その藤原宮御井の水と水文學的に關聯を有する水が、ひよつとせば何等かの形で現在地表のうへに出現してはゐないだらうかといふのにあつた。そして第一部の井泉をば、推定大安殿との位置關係からして、藤原宮御井との關聯を想像したのであつたが、これは少し位置の移動するぐらゐは假説の性質上免れ得ないことで、例へば鴨公小學校建築の際に土壇の東方八九間のところを掘つて清水を得たといふ、その水なども、御井と關聯を有つと考へ得る一つの候補者なのである。
 私の『關聯』といふのはさういふ意味なのであるから、第一部の井泉が現在は灌漑用の野井戸であらうが、大正十三年の旱魃時に新に鑿つたものであらうが、それはかまはぬのである。私の(531)説の根據にこそなれ、否定する材料にはならぬのである。
 次に、それならば、なぜ、第一部井泉の深さを計つたり、大きさを計つたり、水質を調査したりするか。答へていふ。これにはまたこれの理由が存じてゐる。私には目撃した井泉等のその時の状況を出來るだけくはしく記載して置く必要があるからである。井泉などは、いつの間にどう變化するか分からぬものであつて、現に石見の伊甘池でさへ數年見ざるうちに樣子が變化してゐた。さうして見れば、藤原宮阯としての學説の最も有力な大宮土壇に程近いところにある井泉につき、現在の状況を記載して置くことがなかなか大切だと思惟したからであつた。これは後の學者にも必ず參考となると信じたからであつた。
 
     五
 
 前言は私の小論の内容を繰返したに過ぎぬが、それでも注釋として役立つであらう。それは私の小論に對する足立博士の批難中次のやうな事があるからである。
  藤原宮御井は現在目撃し得る井泉を以てその阯を想像しうると云ふ前提のもとに、高殿附近に於て御井阯を探査されてゐる。しかしこの前提にも疑問がないとは云へぬと思ふ。元來人里にある井泉の類は必ずしも永久的のものではなく、一種の日用品的性質を帶びてゐるから、それが果して千年以上もそのま(532)ゝ舊位置を儼存しうるか否やは疑問であらう。勿論殘る場合もあらうが、湮滅する場合も亦決して尠くないであらう。
 かういふ足立博士の文章であるが、いかにも無難な常識である。併し、かういふ當然過ぎるほど當然な常識に對しても、私は一言いふことが出來る。第一、前提とか要約とかいふものに、疑問が無いなどといふのは學問界に一つでも無い。それは通り一遍の常識世間のあひだに於てのみ辛うじて存續するに過ぎぬのである。私の場合はその疑問を或るところで押切つて、前提を先づ一つ立てたのである。『元來人里にある井泉の類は必ずしも永久的のものではなく』などといふのは餘りに通俗的に當りまへのことである。そんなら、反對に千年以上もその關聯してゐる水が地表上にあらはれて『ゐない』といふ證據が何處にあるかといふと、博士は何もいへぬだらう。そこで遁辭として、『勿論殘る場合もあらうが』といふやうな注脚をいふに至るのである。『勿論殘る場合もある』といふことを認容するなら、なぜその事をば學問研究の一方法として『前提』として惡いのであるか、その事がなぜ前提となり要約となり得ないのであるか、私は、殘らぬ場合は假りに傍に置いて、先づ、殘る場合、何等かの形式でその關聯を考察し得る場合の方を以て、前提とし、要約としたのである。私が、『この推測は、藤原宮時代の井泉が現在まで續き湧き出でてゐるといふ要約のもとに成立つものであるが』と云つたのは即ちそれである。なほ現に石見の(533)伊甘池を以て類推上の補助實例としたものである。足立博士と雖、私の謂ゆる第一部の井泉が藤原宮御井の水と水文學上の關聯が全然無いとはどうして實證し得るか。これは永久に出來ないだらう。恰も現在の伊甘池が國府の用水と關聯無いといふ實證が永久に出來ないが如くにである。また、一つの題を以て研究せむとするとき、その前提に確乎不動な唯一の前提を用ゐ得る學者がゐたら、それは量り知るべからざる大學者であらずんばおめでたい愚物であらう。吾等が一つ事を研究する場合の前提は一つ二つでなく、幾つもの前提を用ゐ得ると謂つていいのである。
  尤も藤原宮の敷地が其後連綿としてそのまゝ今日まで保存されてきたものであればいざ知らず、その遺阯は既に荒廢し、或は田畑となり、或は宅地となり、今ではその位置すら不明であるやうな場合に於て、果してその御井が舊位置にその儘殘存しうるとは、輕々しく認められぬと思ふ(但し地下水に惠まれた土地ならば、その水脈に屬する井泉が何かの形で殘りうるに相違ないが、位置そのものは必ずしも不變であるとは限らない)。
 かう足立博士は云ふ。博士の通俗程度はいよいよ茲に著しいが、現時にあつて、『藤原宮の敷地が其後連綿としてそのまゝ今日まで保有されてきたものならばいざ知らず』などとは一體誰にむかつていふつもりか、まことにをかしなものである。また、『その御井が舊位置にそのまゝ殘存』などといふ文句も、ただの難癖のための難癖で、ひとの論文を讀破せざる證據でもあり、『そのま(534)ゝ殘存』などといふ語を平然として使ふ通俗性を暴露してゐるのである。水文學上『關聯』といふことを私の論文中に讀み得ない彼は、批難中に、『但し地下水に惠まれた土地ならば、その水脈に屬する井泉が何かの形で殘りうるに相違ないが』といふやうなことを云つてゐるのである。そもそもこの文句は、私の論文の要約上の骨子ではないか。それをば彼此難癖を附けつつ、『全面的』に私の説を否定するの何のといひつつ、私の口眞似の如きことをいふのはどういふ訣であるか。『地下水に惠まれた土地ならば』と彼はいふ。一體高殿地方は地下水に惠まれてゐるのかゐないのか、これは彼の文中に明かに見えて、地下水の多いことを認めてゐる。『この邊は地下水が多いと見え』と云つてゐるのが即ちそれである。それから、『その水脈に屬する井泉が何かの形で殘りうるに相違ないが』は、取りもなほさず私の説の肯定では無いか。博士は横からも縱からも私の説を打破らむと努めつつ、不用意の時に、私の説を認容してゐるのは、まことに愉快な現象と謂はねばならない。『位置そのものは必ずしも不變であるとは限らない』といふ文句に至つては餘り幼稚であるから、別に言葉を要しないが、位置のことをそんなに嚴密に彼此いふなら、藤原宮時代(然かも持統御治下)に刻々に變化したともいひ得るではないか。私の考説は、そんな單純的なものでは無いのだから、そのつもりで對せられたいのである。
 
(535)     六
 
 私は井泉第一部井泉abcに就き、『藤原宮御井との關聯』につき聯想し、特にそのうちのabに重きを置いたのであるが、足立博士は、『今回博士が御井阯であると推定されたものは、實に大正十三年村人が新に鑿井した灌漑用の野井戸』に過ぎないと云はれ、なほ委しく次の如くに云はれた。
  大變な誤があり、三つの井泉中、博士が最も重視され態々その水質の化學的檢査まで行はれてゐるaなるものは、實のところ大正十三年の旱魃の際、その田の所有者たる高殿の中浦忠太郎及び三橋彌一郎・森井徳藏の三氏が新に鑿井されたもので、即ち今より僅か十數年前の新しい野井戸にすぎないのである。これ即ち土地の古老が「あれはあかん」と云ふ理由であり、また吉田宇太郎氏や世の學者が問題にされなかつた所以でもあらう。この野井戸が田の東南隅にあるのは、高殿邊の地は西北に下降してゐるため、この位置に井戸を掘れば、それより湧水する水が(この邊は地下水が多いと見え井戸を掘れば水が湧き外へ流れ出すところがある)、自然田面を灌漑するからである。尚博士はこの井戸に就いて、「丸太、板を以て保護整理してゐる。此は耕作の關係行爲で、時期は三四十年前と推し得る」と云はれてゐるが、僅か十數年前に造られた井戸側でさへ既に三四十年の物と見誤られる一事から見ても、この種のものの調査は頗る慎重に行はねはならぬ事が窺はれよう。(因みに高殿附近の他の水田の隅にも、同形式の灌(536)漑用の井泉が相當見受けられる。)次に博士がb及びcと呼ばれてゐるものは、aよりも古いものであるが、その位置がaと同じく矢張り田の東南の隅にある事や、またそれらの東側には條里制と一致する道が通つてゐる事などから考へると、これらもaと同じく、曾つて灌漑用に掘られた野井戸でないとは誰も保證し得ないであらう。一般にこの邊の田中に存在する同形式の野井戸を考へる際には一應この點にも留意して置く必要があると思ふ。要するに、小字メクロの井泉を藤原宮御井に擬定されるに當り、それが如何なる性質のものであるかに就いて、普通の調査をもされずに、輕々しく事を定められたのは、甚だ遺憾な事と云はねばならぬ。追記。其後判明したところによれば、小字メクロにある井戸bも今より四五十年前高殿の東氏が灌漑用に掘られたものである。
 かう足立博士は云ふのである。此批評はいかにも常識的にもつともの言説であり、批評の内容としてもなかなか好いものである。而して、博士は私の假説を、『全面的』に否定しようとした批難の文であるが、よく吟味すると、私の説の増補として役立つ大切な材料が含まつてゐるのである。以下、その事に就いて少しく記述して置くこととする。私は第一部井泉aをばその井泉中の丸太や板等を目撃して三四十年前のものと推測したのは誤で、實は大正十三年の作業であつた。併し、bの方は今から四五十年前の鑿井といふことであるなら、やはり私の大體の『感じ』は當つてゐた。私にはその當時二つの井泉の周圍をなす木材を科學的に調査することが叶はず、この二つの井戸を殆ど同時代ぐらゐに考へたのは、結論の錯誤を來たした本であるが、藤原宮御井と(537)の關聯を考察するうへには、鑿つた年代が二三十年ぐらい違つてゐたところで、そんなに大影響が無いからである。足立博士が、『僅か十數年前に造られた井戸側でさへ既に三四十年の物と見誤られる一事から見ても』などといふ末梢的難癖は、素通りして行つてかまはぬ程度のものである。
 それよりも大切で且つ有益なのは、aの井泉は、大正十三年の旱魃時に、中浦忠太郎氏他二氏が共同して鑿つたものだといふことが分かつた點である。特に大正十三年の大旱魃時に當つても、其處のb(恐らくcも)の水が涸れず、またそれに加ふるにaといふ井を新に鑿つて灌漑用の水を得たといふ點にある。私は足立博士の此部分の批評を『批評の内容としてもなかなか好いものである』と云つたのはそのためであつて、あへて諧謔ではない。
 そこで私は念のため、友人【上村氏大村氏近森氏】に依囑して當時の新聞を檢して貰つた。次は大正十三年夏の記事である。
  ○六月廿四日。「久し振りの雨。惠まれた田植」。○七月三日。「悲鳴の渦卷。打續く旱天に」。中和地方では打續く旱魃に農村は擧げて困憊し、火のやうな悲鳴の渦卷を起してゐるが、溜池なく天水にも惠まれぬ箇所は、まだ插秧さへ出來ず、ヘナ/\の人力を機械力に替、半夏生を過ぎた昨今、借入發動機の爆音哀れに水揚喞筒から灌漑してゐる處もある。又插秧が終つた處でも、溜池は村の法度で拔かれぬた(538)め田地に小さなヒビが入り旱魃の悲哀を如實に見せてゐる處もある。高田町附近では此惨状を地主に見せて早くも滅石連動の活きた材料にしようとする火事泥的の手合もあり、ソコでもココでも天帝怨めしいの聲が漲つてゐる。○七月四日。「黄金の雨降る、然し未だ降り足らぬ」。○七月五日。「空梅雨でも悲觀するな 春日試驗場長談」。○七月八日。「旱天が續くため西瓜は成績良い、大和西瓜の名を高めるため惡商人退治に懸命」。○七月十日。「近く雨が降る。生晴雨計の豫言」。○七月十一日。「此の天候も左程悲觀するに及ばぬ中耕と除草とを早めること。春日農事試驗場長談」。○七月十二日。「待ちに待つた雨も遂に空梅雨で終つた。既往二十七年間第三位の近年稀な高温度で」。降るか降るかと待ち焦れてゐた梅雨期も遂に空梅雨に終つて十日に梅雨明けとなつた、八木測候所(【齋籐註。高市郡八木町にあり耳成山付近】)の觀測による今年の梅雨期間中に於ける雨量氣温は左の通りで近年稀に見る高温と寡雨を示した。本年は梅雨中降雨量甚だ寡く、旱天打續き、剰へ未曾有の高温で、農家は旱魃のため灌漑用水を得るに苦み、地方に依つては稻の移植不可能となつた所さへある。この現象は實に稀有のことで、今梅雨期中即ち六月十一日より七月十日に至る三十日間の氣象を調査するに、六月十二日より同廿三日に至る間は降雨を催したが、その量極めて少なく、廿四日以後は晴天打續き七月三日に至り漸く降雨あつたが、これ亦その量僅かに十一粍(坪當り約二斗)に過ぎず單に地表を霑したと云ふだけに止まつた。爾後旱天續き温度急激に上昂したのみである。以上の如く此期間中は年中最高雨期なるに拘らず、降雨のあつたは卅日間僅かに九日間を數へるのみで其雨量合計亦百八粍(坪當り一石九斗七升六勺餘)に過ぎず、これを平年に比すると日數に於て八日間雨量に於ては百卅七粍六(二石五斗一升八合餘)の何れも寡少となる。次に既往廿(539)箇年間中最も寡雨は、明治三十年の一石二升二合餘で、大正二年の一石六斗一升四合餘これに次ぎ、本年はこれに次ぐ旱魃に當つてゐる。又一番多雨であつた明治卅八年に比すると、其五分の一にも當つて居らぬ。氣温は毎日の平均温度が平年に比し攝氏零度二乃至〇、五〇低温であつたが、七月に入り俄に上昇し毎日の平均温度は平年のそれに比し攝氏零度六分乃至四度四の高度を示し、日中最高は七月一日以後華氏八十六度以上を持續し、平年に比して華氏の四度乃至九度の高温を示し、昨年に比べると實に九度乃至十八度の高温であつた。○七月十三日。「不良發動機を賣付ける、旱魃に悩む農家の足許に付込む惡商人跋扈」。○七月十五日。「雨を待つ各地の模樣、水喧嘩や雨乞ひで大騷ぎ」。待ち焦れた梅雨も遂に空梅雨に終り、過般來連日旱天が打續いてゐる爲め、縣下の農家は稻本田の灌漑用水に不足を來し、中には插秧未了の所も相當ある見込みで、農家は前途を憂慮し雨乞ひをなしてゐる所もあれば、水利紛擾を釀してゐる所もあるが、今各地の状況を聞くに、磯城郡。耳成村方面は灌漑用水缺乏し既に田面に龜裂を生じ白土となつた箇所尠くなく、殊に同村大字十市の如きは飲用水にさへ缺乏を來して居ることとて困憊一方ならず、比較的湧出豐富な井水の供與を受けて辛うじて生活してゐる状態である。又吉野郡十津川村方面……。(以下略)○同日。「地下水利用に依つて、今後旱魃が無くなる、大和平野を詳細に調査した、鈴木農商務技師談」。○七月十七日。「雨が降らぬ、灌漑水の不足で各地の爭と雨乞」。○同日。「喜雨が來た――が未だ足らぬ」。雨に餓えた縣下の農家は、過般來各地で雨乞ひやら水利紛擾やら大騷ぎをなしてゐたが、奈良地方は十五日朝より漸く雨氣付豪風加りて間歇的に黄金のやうな喜びの雨が降り、灌漑用水に不足を告げてゐた農家は滿面に喜びの色を漾はした。併し僅か地面に雨(540)水の滲んだ位で燒石に水といふ有樣、物足らないこと夥しい。農家は今一雨を欲しいと天を仰いで祈つてゐる。(以下略)○七月十八日。「雨が來ぬか雨が! 稻田に龜裂が生ずる始末」。○七月十九日。「雨は未だ/\降らぬ、悲觀すべき測候所の觀測」。○七月二十日。「茲四五日が運命、畑作も殆ど枯死し旱魃の被害益多大」。○七月二十二日。「旱魃の被害甚大、其筋の調査に依る状況」。○七月二十三日。「旱魃と小作爭議、今から憂慮されてゐる」。○七月二十四日。「愈被害の増大する旱魃と螟蟲の對策。宇陀都農會で率先着手」。○七月廿五日。「夥しい數に達する稻作植付不能の反別、近く當局で對策を發表」。○七月廿六日。「旱魃の對應策、夥しい農作物被害に對し縣當局發表」。○七月廿七日。「雨が降らぬ、電力には影響ない、旱害に悩む各地」。○七月廿九日。「被害益々甚大、五十日の大旱魃に農民は絶望の姿」。(註。龜裂を生じた水田、旱害に餘念ない農夫、の寫眞二葉あり)○七月三十日。「當局も大狼狽、旱害救済策のため急遽參事會を開く」。○七月三十一日。「動力喞筒が大激増、今年の旱害を轉機に地下水利用に大努力」。○八月三日。「喜雨が來た喜雨が、坪當一斗一升一合」。○八月五日。「本年の氣象 八木測候所觀測」。八木測候所に於ける七月中の氣象觀測によると、氣温は明治三十年以來稀に見る所のもので、毎日平均温度は平年より三度一以上高く最高温度亦平年より五度二以上高かつた。雨量は七月中僅に坪當り三斗餘で、既往二十七年間の最も少なかつた大正六年の七斗五升一合餘に比し尚その半分にも足らぬ。そして同月中の氣象は恰も大正六年と相似た所あるが雨量だけは同年より著しく減じてゐる。○八月六日。「旱害被害は實に五千町歩、殆んど手の盡しやうもなく只天を仰いで歎息。」○八月廿一日。「雨量一石四斗五升降つた/\」。
(541) 如上の記事を見ても分かるごとく、當時の旱魃程度は著しく、『殆ど手の盡しやうもなく、只天を仰いで歎息』の状態であつたことが分かる。かくの如き旱魃状態の時に、aの水が湧きいでて灌漑に役立ち、然かもその水は現在も少しく手入保護すれば充分飲料に堪へるといふことは一體何を意味するものであるか、これ取りも直さずa(bもまた)の水の上等にして、決して輕蔑してはならぬといふことを立證してゐるのである。さうして此事はやがて、藤原宮殿の位置から考察して、藤原宮御井と何等かの關聯を有する井泉の水だとする私の假定説をば、ただ無下に否定してしまはれない事實を示してゐるものである。足立博士は私の説を駁撃せんがために、大正十三年鑿井の事實を調べられたのであつたが、この事は期せずして却つて私の説の補遺として役立つたことは私の主觀としては寧ろ感謝していいのである。
 それから、足立博士はaやbをただ平凡な野井戸と解釋し、ほかの同形式の灌漑用の井と同一視してゐるけれども、これも旱魃時に於けるそれ等の水の状態を各比較研究したうへで、その特質、價値を論議すべきであるが、それは私も出來なかつたし、足立博士もまた毫もそれを實行してゐない。併し、未來に於て誰か私等に同情ある士の研究補充を希ふのである。
 なほ、足立博士は、『因みに高殿附近の池の水田の隅にも、同形式の灌漑用の井泉が相當見受けられる』。『一般にこの邊の田中に存在する同形式の野井戸を考へる際には一應この點にも留意し(542)て置く必要があると思ふ』と私に注意せられたが、これは既に私も明記して居る點である。『此は土地の習慣で、水を溜めるために掘つて置く井であつた』、(入麿評釋篇上卷)、『今でも土地の農夫は、旱魃のときのための溜水の如くに謂ふし、また他の田の隅にもさういふ性質の溜水があるので』、『然るに、此形式の井らしいものは、小學校の西の方にも北の方にも田の隅に見つかり、やはり溜め水で』云々と記してゐる。即ち足立博士の注意せられたことは既に一應考慮を通過してゐるのである。そして『村民が此等の井泉に重きを置かない』、ただの野井戸に過ぎぬといふものを私は顧慮したところが、足立博士等の態度と違ふのである。
 
     七
 
  吾々も、萬一出來る事なら、御井の位置を知りたいと云ふ念願に於いては、敢て人後に落ちぬつもりではあるが、未だ藤原宮の遺阯さへ正確に決定されぬ今日、たゞ徒らに御井の位置など云々するのは甚だ穩當ではないと思ひ、既に附近一帶の井泉を一通り踏査はしてゐるが、猶その間題にふれる事を慎んでゐるのである。然るに今囘齋藤博士が考説を發表され、圖らずも大正末年の鑿井に係る野井戸等を以て藤原宮御井阯であらうと高唱されるに至つたので、萬一世を誤る處もあるかと慮り、茲に一言した次第である。
(543) これは、最後の足立博士の感慨であつて、博士現在の感慨としてはさもあるべきことだとおもふ。博士等の發掘的研究はいまだ中途なのであるから、それが完成せられたうへに、おもむろに御井考に著手せられるといふのはまことに喜ばしいことである。また『既に附近一帶の井泉を一通り踏査はしてゐるが、猶その間題にふれる事を慎んでゐるのである』といふ言も博士の主觀としてはそのとほりであらう。ただ客觀的内容の毫末も公にせられてゐないのを遺憾とするのみである。また、私の小論が、『世を誤る處がある』と云ふが、廣い學界に私の小論の如き一假説が存在したところで、世を誤るの何のといふ訣合のものではあるまい。現に小論が發表せられていまだ半歳も經ぬのに足立博士の駁論の如きが出現したのを見ても分かるのである。若し私の小論の如き程度の假説が一々學界を誤るなら、學界を誤る學説の多きに堪へぬであらう。
 そして、約めていへば、足立博士の私の小論に對する批評は、ただ消極的に否定する一面のみにとどまり、一事も一言も積極的方面に役立たなかつたことを遺憾とする。博士が慎重な態度云々と強調するものも、とほり一遍の通俗談にとどまり、それより一歩をも出でてゐないことを遺憾とする。それでも私は、私の假説の不備をば、足立博士等の發掘的研究によつて補つてもらひたい希望を有つてゐた。『この假説的結論は、今後續行せらるべき發掘調査に據つてもつと積極的な根據を得るものと豫感せしめられるものである』と書いたのはつまりそれである。希望は私(544)の説の不備を補正して貰はうとする希願であり豫望でもあつた。そしてかかる希望はあへて私一人のみでなく、他の學者もまたさうであつた。例へば、『目下實施せられつゝある古文化研究所の發掘調査がます/\進捗するに於ては、實地よりして更に之を確め得るの希望』、『或は其の發掘調査の結果を待つて』、『尚是に就いては古文化研究所の發掘調査が望ましいものである』、『いづれ古文化研究所の發掘調査によりて其の實相が明かにせらるべく、余輩は之を待つて後更に考へて見たいと思ふ』、『是等は假定説の範圍を脱せざるものである。更に現在の發掘調査の進行によりて、考究を重ぬべきものがあらうと信ずる』(喜田博士)等の如きである。私の御井についての考察の如きは、礎石から殿堂を考察する場合よりももつと流動的でありもつと不安定なものであるが、それでも私は現在の私としては實行し得ない發掘作業といふものに幾分の手がかりを空想してゐたのであつたが、今は差向きその空想を廢棄することとしよう。
 最後に、足立博士の文中、『未だ藤原宮阯が學術的に決定されてゐない今日、その宮殿のすぐ近くにあつたと云ふ御井の遺阯を求められんとする』といふのがある。この、『その宮殿のすぐ近くにあつたと云ふ御井〔その〜右○〕』とはどういふ根據によつたものであるか。萬葉集の藤原宮御井歌だけでは、『宮殿のすぐ近くにあつたと云ふ』解釋にはなり得ないのである。そこで從來、鷺栖森近くといひ、或は傳説阯南方の高殿といひ、或は常願寺境内といひ、まちまちになつて居るのである。『御井』(545)は『御舍の清水』だと解しても、その御井の位置について論議すると、さういふ具合になるのである。ただ萬葉集燈に、『此藤原ノ御井といふは、宮中にありける井にや』とある想像は、宮中にあつた井だらうといふのである。さういふことを種々顧慮して、私は、『御井はやはり、大安殿の近くの宮中にあつたので、常願寺は鷺栖神社の方では無かつたらうと空想しつつ』(【柿本人麿評釋篇上卷】)〔一六卷〕と云つたのであつた。それが大體の基本となつて、「御井考」の如き小假説となつたものであるが、若し足立博士が、私の意見以前に、何等かの證據によつてさういふ考になられたのだとすると、その事を明示せられむことを希望する。
 以上で大體私の云はむとするところは云つた感じがする。おもふに、私の「藤原宮御井考」の如きは、多くの要約のもとに成立つた一つの假説であるから、その要約が覆へるならば無論私の假説は成立たない。これは假説の性質上、おのづからさういふ歸結をとるべきものなのである。また將來實證的根據が無く、却つて否定的根據がどしどし出現するやうなら、無論私の假説は成立たない。さういふ場合には何時でもいさぎよく撤回すべき性質のものである。また將來、私の假説よりももつと道理に叶つた假説が出現し、それが繼々に實證せられるやうな場合があるなら、私は喜んでその説に從ふ覺悟を持つてゐるものである。筆を擱くに臨んで足立博士の健康を祝する。(昭和十三年九月上旬記)
 
(546) 「藤原宮御井考」追記
 
     一
 
 私は「藤原宮御井考」に於て、第一部井泉のaとbとの關係に就き、『abと二つ並んでゐるのは同一系統の水脈であるらしく、古へはこの二つは融合して一つの大きい井泉であつたらしいこと等、種々空想して、その根據としたのであつた』と書いた。併しこの同じ系統の水脈云々は推測に過ぎぬものだから、それを實際に證明する方法が無いだらうか。シユリヒター氏の装置を用ゐて、電解物(鹽化アムモニアの如き)の流入により電流上昇の寶驗方法もあるが、私の如き状況にあつてはその實行がむづかしい。何か現在の私に出來る簡單な方法は無いだらうかとおもつてゐたところが、偶昭和十三年七月十七日中谷宇吉郎教授を通じて北川久五郎教授の業績を知ることを得た。
 昭和十四年五月十一日、「藤原宮御井考」の地に行つた。(高安氏同道)井泉bの水を試驗管に入(547)れ、それに一%硝酸銀水を滴下して痕跡白濁といふ結果を得、これを豫備試驗、對照試驗とした。次いで食鹽二升を投入し、約三十分の後、同樣の試驗にて著明白濁の結果を得、それから四時間を經たのち、aの水につき同一試驗をしたところが、やはり著明白濁の結果を得た。次にcの水について同樣の試驗をしたが、白濁の程度が著しからず、やはり痕跡の程度であつた。
 北川氏法を私はもつと簡略にして使つたのであるが、以上の結果に據ると、bとaとは同一地下水であること、またその地下水はbからaに向つて流れてゐるといふことが分かつた。同時にcも以上の二つの井泉と同一地下水で、cの水はbに向つて流れてゐると略推測して誤が無いだらうといふことも分かつた。つまり、私が前の小論に於て想像したことが、大凡これで實證せられたことになる。
 北川教授の實驗では、距離二十六米を達するのに約二十八時間を要してゐるのに、私の場合は距離二十米を達するのに、四時間ぐらゐであるのは奈何といふに、この地下水の流速は大體ダルシイの法則に從ふものであるが、參透流速の場合の砂礫の透水係數は砂礫の状態によつてきまるものだから、私の場合は、流通速度の比較的大きい要約に置かれてゐるのであらう。これももつと專門學的に檢討すべきであるが、これは現在の私に出來ないのはいかにも殘念でならない。致し方がないから未來同學の士の同情を豫想して、私は大體の結論をここに書き記すにとどめねば(548)ならぬ。
 
     二
 
 私の「藤原宮御井考」では、現在の鴨公村大字高殿小字メクロの井泉abcが、藤原宮御井と『關聯』を有つてゐるだらうといふ假説なのであつた。
 昭和十四年五月八日(九日附)の大阪朝日新聞夕刊に、藤原宮の全貌が六ケ年の探査で闡明したといふ記事が載り、それを私は備後布野で讀んだ。そこで私は十一日午後鴨公小學校に校長吉田宇太郎氏を訪ひ、その後の發掘調査について聽くことを得た。即ち既に知られた、大極殿阯、酉殿堂阯、東殿堂阯のほかに、十二堂阯の發掘を完成し、なほ大極殿(大安殿)より正南約百二十五丈にあつて桁行五間八丈二尺梁行二間三丈四尺の南門阯をも探究し得た。この宮殿の廣袤南北五町足らず、東西三町足らずである。なほ、南門阯から東へ廻廓が延び、それからそれが北へ延びて根石が絶えてゐる、そのあたりに東門があるのではなからうかと推測せられてゐた。現在の藤原宮阯探究の結果は大體右の如くだといふのである。
 さて、藤原宮の範圍は右の如くだとすると、私の記載した井泉abcは大體東門外、及び廻廊外に位置することとなる。若し、廻廓の外部に宮墻があつてそれがどういふ風になつてゐたか私(549)には好く分からぬし、東門の位置と考へられる處から、北の方の廻廊阯がいまだ證明せられぬから、餘り積極的には云へぬが、若しその廻廓が無ければ、その井泉は或は墻の内にあつただらう。併し、先づ廻廓は有つただらうと推察する方が穩當だから、さうすれば私の記載した井泉は恐らく東門の外に位置することとなる。從つて宮墻の外といふことになるであらう。
 私の御井考では、なるべく御井が宮墻の内に位置することを欲したのであるから、御井は現在の井泉(abc)と關聯しつつ、もつと大極殿阯の方に接近する方が都合好いのである。
 昭和十年に私が吉田宇太郎氏に會つた時、校庭に清水の湧く處があるといふ話をせられたことがある。それを昭和十四年に會つて念を押したところが、それはかういふことである。鴨公小學校建築の際、壁土をねるのに初のうちは役場の近くの貯水池の水を使つてゐた、併しそれは距離があつて不便なので、試に井を掘つて見たところが、噴き出でるやうな勢で水が出た、それが話の校庭の一處に清水の湧く處といふのであつた。さうしてその位置は、大宮の土壇即ち大極殿阯と推察し奉る處の、その際(その際は巖石である)から東へ七間程離れたところである。その井は今となつては餘計なものだから埋めたといふが、吉田氏は今でもその湧き出でた清水のことを想起して話せられるのである。
 私は今度もいろいろに考へた。その井(今は埋めた)が若しも御井と關聯があるならば、大極(550)殿に近いのであるから、位置としては却つて都合が好いこととなる。さうして恐らくその地下水は私の記載した井泉とも相通じてゐると想像することが出來るならば、實際の御井は、宮殿の塔内に於て、最も都合のよいところに、説の移動を行ふことも亦可能なのである。前にも云つた如く、かういふ性質の研究には、假説の變動などは當然のことなのである。併し大體に於て私の藤原御井考の説はさうひどい動搖は來さない。
 私は御井考で、『この假説的結論は、今後續行せらるべき發掘調査に據つてもつと積極的な根據を得るものと豫感せしめられるものである』と云つたのは、やはりこの場合にも當嵌まるのであるが、それも發掘調査を指導する人が、學問を好み、學問に忠實なる場合に、その意味が甚深となることは言ふことを須ゐないのである。(昭和十四年五月十四日夜)
〔入力者注、ここで私事を書くことをお許し願いたい。藤原宮址は私が生まれ育ち今も暮らすところか二キロほどの距離なので、子供のころから30年ほど前の青年時代まで何度も行った。自転車での夕方の散歩には手頃な所で飛鳥川の堤防から、小房、縄手、時には四分(しぶ)の鷺栖神社などを見ながら行ったものだ。そのころも既に新しい住宅などがすこしできていたが、鴨公小学校は昔のままであったし、茂吉や犬養孝の見たのと殆ど違わない眺めで、大極殿土壇あとの薮陰に座って、麦畑越しに畝傍山などを眺めたものだ。しかし例のバイパス工事が始まって以来、一度も行ったことはない。徹底的に破壊されてかつての風景が完全になくなっていることは明らかだ。茂吉の見たのと同じ風景を永久に脳裏から消したくないので、もう絶対に行かない。40年以上前に購入した戦前の姿をのこす国土地理院の地図をみて思い出すだけである。
あの香具山の建土安神社裏にあるばかでかいマンションみたいな考古学関連の国営施設を見ただけで、もう何もかも終わりだと思わざるを得ない。考古学は自然を破壊する。風景を破壊する。茂吉がこの藤原宮御井調査で何度も泊まった、八木町の竹葉(ちくわ)旅館も、バイパスができてしばらくしたころ15階ほどの高層マンションになり、八木西口駅のホームから見えた畝傍山の優雅な姿が完全に見えなくなった。これほどに休むことなく開発しつづけて何になるのか。今もなお経済を回すとか何とかいって大和平野の景観は破壊し続けられている。風土の保存などとはどこのだれが言ったたわごとなのか。最近も三輪山の近く(黒崎、慈恩寺あたり)で高架の大きな自動車専用道路を見た。こんなものが初瀬の谷を通過するようになったら、大和の風景は死んでしまう。その向こうの榛原駅前にはこれも15階はあるような高層ビルが建っているし、ここは昔のままだろうと思う、室生の三本松駅前も青葉の滝裏はマンションのようなビルが林立している。とにかく奈良県は日本のどこでも同じように、所きらわずビルが建ち続けていくのである。悲しいことだ。2011.6.19(日)〕 補足、昨年夏、湯抱温泉の日の出旅館に泊まった。これも茂吉の立ち寄った旅館である。一方は今も営業し、竹葉はマンションになった。
 
(551) 人麿地理踏査録
 
(553) 備後・石見・讃岐・伊豫・淡路・大和
 
     一
 
 昭和十二年五月十二日土屋氏夫妻同道東京を立ち、十三日備後布野に著き、十四日中村家新婚の賀筵にのぞんだ。翌十五日朝土屋氏夫妻と共に布野を立ち、赤名を越え、石見邑智郡濱原を過ぎた岡の上の畑に立つて、はじめて湯抱の鴨山を見た。粕淵の津目山からずつと山續きのやうになつて見えてゐるが、實はその間に谷と國道筋とがあるわけである。なぜ一見して鴨山だといふことが分かつたかといふに、その隣りの大釣山と共に植林して形が稍變つてゐたのと、前以て鴨山の寫眞を撮つてもらつて、その大體の形を知つてゐたためである。此處から遠望すれば、鴨山はさう高くはないが、よい形の山だといふことが分かる。湯抱湯谷に行つて其處で土屋氏夫妻とわかれ、土屋氏夫妻は大田から山陰の方へ行かれた。私は青山旅館に入り、それから鴨山の寫眞を撮りに歩いた。二たび粕淵の方まで行き、粕淵小學校長山田儔、川本小學校長舟木賢寛の兩氏(554)に逢つて、相携へて鴨山の遠景を見て歩き、粕淵の龍眼地を見て歩いた。ここの龍眼寺址といふのは、あまり古い遺址でもないやうであつた。その夜は舟木・山田二氏と共に湯谷の鴨山について談合するところがあり、粕淵小事校敷地出土の土器につき、また鴨山の麓から粕淵村役場吏員の拾つたといふ土器につき、湯谷入口の千人塚につき、種々有益な話を聽いた。前の小川には河鹿がよい聲をして鳴いてゐること江(ノ)川と同じである。
 今日の午後、温泉の出るところを見た。温泉は炭酸鹽類泉で、谿流の岸に幾ケ處も湧いてゐて飲めばラムネのやうな味がしてゐる。黄褐色の沈澱を有つのは鐵を含んでゐるためで、この特質はずつと川上、つまり鴨山の近くまで認めることが出來、暗緑の水綿が靡いてゐる特色もやはり川上の方まで探求出來るのを見れば、この邊の稍ひろい範圍に温泉の出る傾向があるものと見える。安濃郡の川合にやはり炭酸泉が湧き、同郡の野畑、小屋原等にも微温泉が湧くといふから、三瓶山を中心としてさういふ關係があるものと見える。湯抱の湯は神經痛・僂麻質斯に利くといふので、石見は無論出雲備後安藝の方からも湯治に來る人がある。ただ温泉の量が豐富でなく、また温める設備を要するので、遊山の客よりも療養の客が大部分を占めて居る。
 この谿流の岸、谿流の中に湧き出る微温湯泉と人類との關係は、相當に古く、或は人麿時代まで溯らしめたことが絶待不可能とも謂ひ得ないであらう。さうして、その近接地の粕淵から出土(555)した土器のこと、鴨山近くから拾つた土器のことなどを念頭に置いて考慮する時に、あおのあたりに部落をなした氏族は恐らく、この温泉と一定の生活的關係を有つたのではなからうかと想像することが出來る。また、人麿歌集に、『君がため浮沼《うきぬ》の池《いけ》の菱《ひし》採《つ》むと我が染《し》めし袖ぬれにけるかも』(萬葉卷七。一二四九)とある歌が、三瓶山の裾野にある現在の浮布池だとすると、何かその邊と人麿との關係があるものと看做さねばならず、その三瓶山に程遠からぬこの湯抱の地、それから湯抱の地と人麿との關係が絶待にないと否定してしまはれないものがあるやうにも思はれるし、その湯抱にある鴨山を人麿臨終の時の歌の鴨山と密接な關係あるものと考へても、そんなに妄斷ではなからうとおもふのである。いづれにしても今年發見したこの鴨山をぼ大切に取扱はねばならぬ等、いろいろなことが意識をかすめつつ私は眠つたのであつた。
 
     二
 
 五月十六日(日曜、晴)。此處まで來たついでに、私の「辛乃崎考」と密接の關係ある唐鐘浦をもう一度見ようとおもつて、午前七時二十一分湯抱發の省營バスで出掛けた。八時十八分大田著。八時二十五分發下り汽車に乘つた。八時四十五分仁万驛を通過した。仁万は昭和十一年六月から町になつたさうである。かういふことも一種の感慨があるので、「柿本人麿總論篇」を書いたとき、(556)陸地測量部地圖に都野津村とあつたのが都野津町になり、大和の町村にもさういふ變化はいつのまにか行はれてゐるのであつた。九時四十五分|下府《しもこふ》著。それから國分村大字唐鐘に行つて、戸別のやうに訪うて爲事をしてゐる翁媼或は若者に、この村にカラといふ音のつく土地が無からうか否かをたづねた。この質問は既に二囘ばかり友人に頼んで行つて貰つたものだが、今度も念のため質問してまはつたのである。併し結果は陰性であつた。即ちカラといふ音の附いた場處は無い。
 ただかういふことが分かつた。唐鐘にある猫島のことを『前のトウの島』といひ、犬島のことを、『後ろのトウの島』といひ、これは漁師のあひだだけの通用語で、※[魚+其]鰍《しいら》などを漁するとき、沖からの目標としてさう呼んでゐるさうである。これは『唐鐘』の『唐』であらうか。それからもう一つ『トウの島』といふところがある。これは金周布にあるので、山越をしてそれを見に行つたが、岬の向うかげの、二三軒人家のある處の、其處の濱に近い扁平な巖石群を『トウの島』といふのであつた。これもどういふ字を當てるか分からぬが、兎に角『トウ』の音が殘つてゐる。私はこれを唐鐘(唐金)の唐だとし、唐金の唐は、唐茄子、唐團扇、唐|瘡《がさ》、唐がらし、唐|寺《でら》などの唐《とう》で、もとはカラといつてゐたのを、中ごろから何でもトウといふやうになつたのだらうと想像してゐるのである。青銅のことをカラカネ(唐金)といふ、あのカラカネであつただらうと想像するので、兎に角『トウ』といふ名詞の音のあることを知つたのは今日の收穫であつた。
(557) それから暫く歩いて來て、疊ケ浦、千疊敷で休息し、辨天、賽の河原の洞窟を見た。この邊の荒磯で昆布若布のたぐひが採れる。また海苔も採れるといふことを聞いた。石見の海産物は唐鐘あたりには限らぬが、唐鐘あたりでも採れるといふことが分かつたのも今度の旅の收獲であつた。それから昭和七年三月文部大臣指定の、史蹟名勝天然記念物の説明として、『石見疊ケ浦は大字國分の海岸にあり。臺地性を帶びたる第三紀丘陵は海に臨みて高さ二十メートルの波蝕崖をなし、崖下に千疊敷と稱する廣さ三町歩に餘る隆起海床をなす。明治五年二月の濱田地震の際に隆起せるものにして、有史後の隆起海床として模範的のものなり』とあるけれども、明治五年以前の書物にこの疊ケ浦の繪圖のついた書物があるから、明治五年に隆起したといふのは、もとあつたのがなほ隆起したと解釋すべきもののやうである。
 唐鐘を去つて私は下府を訪ねた。さうすると、廣島濱田間を通ずる廣濱線といふ鐵道工事がはじまつて居り、伊甘池を中斷して石垣がつまれ、樣子がまるで變つてゐた。また石見國府址といふ標石も位置がかはつて神社の境内に建替へられてゐた。史蹟といへどかくの如くに變化するから、一度見たものはなるべくくはしく記載して置く必要がある。幸ひ私は拙著の「柿本人麿鴨山考補註篇」で、伊甘池の寫眞を載せて置いたから、後の人々の參考となるだらうとおもふ。
 午後一時四十五分上り汽車に乘り、三時十一分大田著、それから省營バスで湯抱に歸つた。そ(558)れから獨りで鴨山を見に行き、めら谷川に沿うてずつと奥深く歩いて見た。其處の道に處々敷かれた石の具合を見るに、君谷村の別府へ通じたと云はれる如く、もとは相當の人どほりがあつたものと想像せられる。それらの石は恐らく徳川時代ぐらゐのものであらうが、想像を恣にすれば、時代をもつと遠く溯らしめることもまた不可能ではない。鴨山へ行く途中の澤のところに女の子が數人遊んでゐて虎杖の嫩いのを採つて食べてゐたが、私が通り過ぎてから暫くすると、『ああそれなのにそれなのに』といふ俗謠を聲をはりあげて歌つてゐた。女の子等は學校に於て此唄をうたふことは戒められてゐるが、かかる山間では誰憚ることなくうたふことが出來て、それを實行してゐるのを私はあはれにおもつた。
 植林は、昭和十二年植栽、面積三〇ヘクタール、樹種アカマツI三九〇〇〇本、ヒノキII二一〇〇〇本、スギII五二〇〇本と記してあつた。鴨山の東の谿を鳴瀬といふ。カミゼンチヨウ山、シモゼンチヨウ山があり、そのあひだを通つて安濃郡佐比賣村に行くことが出來る。鴨山も大釣山も只今は植林せられて、なまなましい新しい感じであるが、その麓を流れるめら谷川の樣子などから見るとまことに古い感じのする山である。私がこの山を見つけ、けふ目のあたり此處に居るといふことも不思議な縁と謂ふべきである。
 その夜、湯抱の果瀬辰一氏にあひ、鴨山あたりの樣子をいろいろ話してもらつた。果瀬氏は植(559)林の爲事にも雇はれ、山のことには精しい人である。
 
      三
 
 五月十七日(月曜、晴)。省營バス場抱午前九時二十分發。十時三十八分赤名著。乘替、赤名十一時發。十二時二十七分備後十日市著。藝備鐵道、午後一時二十二分十日市發。三時二十二分廣島著。糸崎行三時四十五分廣島發。五時四十分糸崎著、乘換、五時四十三分糸崎發(東京行)、七時三十四分岡山著、乘換、七時五十三分岡山發(宇野行)、八時四十八分宇野著、汽船八時五十七分宇野發、九時五十七分高松著、十時十分高松發(琴平行)、十時四十五分坂出著。海岸の紅葉屋旅館投宿、間もなく絃歌の聲は止んだが、蚊がしきりに襲ふので蚊帳を吊つてもらつた。
 五月十八日(火曜、曇、小雨)。午前八時小船をやとつて、砂彌島を見に行つた。此は人麿の長歌、『讃岐|狹岑《さみね》島視2石中死人1作歌』云々の狹岑島であつて、現在は讃岐國仲多度郡|與島《よしま》村大字|砂彌《しやみ》島である。船を榜いで行くともう遙か向うに、小さい扁平ともいふべき島が見える。それが砂彌島(沙彌島)である。近づくと磯は大きな巖石がむらがつてゐて、人麿の歌の『石中』云々を偲ばしめる處が多い。また石垣を積んで岸を修理した鹽田がある。この島について中河與一氏がくはしく考證し、川田順氏筆の柿本人麿碑が建つた。その右側面に中河氏の撰文がある。人麿が人(560)屍を見たのは或はその邊であつたかも知れない。その近くに沙濱があつて上陸することが出來る。それから島の方へ入りこんだ處に鹽田があるのである。いま鹽濱といふが、これは元は東濱といつた。此處にも舟が泊てたものであらう。それから西浦(西濱)がある。これは南側が岬でそれに保護せられた形の沙濱で、目下舟は多く其處に泊てる。私等も其處から上陸した。丁度麥の秋で、曇り日の森に山鳩などが啼いてゐる。目下人家三十戸ばかりあり紅瓦屋根の別莊風の家もある。氏神藏王權現は小山の上に鎭座してゐる。楢櫟の林もあり竹林などもある。小學校もある。理源大師の大師堂、井戸もある。私は西浦から二たび舟に乘り島を一周して、坂出に歸つた。砂彌島に關する考證は大體中河氏の文に讓るが、人麿等がこの島の荒磯に廬したといふのも、東濱とか西浦とかいふ處に上陸したものに相違ない。そして偶溺死人のあることを知つてああいふ歌を作つたものであらう。即ち最初からああいふ巖石の多い處に舟をとめて其處に宿つたのではあるまい。ことに、うはぎ(嫁菜)が咏みこんであるのを見てもさうであつただらう。
 次になぜ人麿はこんな小さい島に立寄つたのであらうか。この島に特に清い水でも湧いたか、或は何か特別な信仰上の關係でもあつたのか、この島は山でなくて住み好いのでもあつたのか、種々の聯想が湧くのであるが、けふ人麿が作歌したこの島にみづから上陸して、親しく見聞したことを私は滿足におもつた。それからまだ時間があるので理髪したり、午食を濟ませてから東京(561)の諸友へ繪ハガキだよりを書いたりした。私の撮つた砂彌島の寫眞二三を本篇に入れて置いた。
  中河與一氏の考證は、「佐美島考」(雜誌ごぎやう。昭和十一年十月・十一月、十二年一月)に載つてゐる。砂彌島は現在面積十三町七段八畝、人家三十戸、周圍二十町である。二三の古墳もある。中河氏は砂彌島の西海岸に上陸し、舊家の溝淵氏を訪ひ、人麿岩といふ名のついた岩が東海岸にあることを聞き、それから考を進めて行つて、人麿の歌の人屍は東海岸に漂著したのであらうといふ結論に達し、昭和十一年十一月二日其處の推定した場處に人麿碑を建てた。表面は川田順氏筆で「柿本人麿碑」、側面の撰文は、『文武天皇の大御世、柿本人麿、中之水門よりこの島に航海し來たり、長歌一首短歌二首を作る。中之水門は今の中津附近なるべし。途上海路の風色を讃歎し、この島に廬りて石中の死人を硯、作歌す。惻隱の心底、哀烈の神韻共に古今に絶す。地を卜して今その記念碑を建つ、人來たりで懷古し、わが民族の血統を思ふべし。昭和十一年十月一日、中河與一識』といふので、佐佐木信綱、川田順、萩原朔太郎、前川佐美雄、保田與重部の諸氏が出席した。中河氏の考によると、人麿は筑紫からか或は鞆の津あたりから此島に航したものの如く、京へ歸る途上のものだらうといふことになる。
 午後二時五分發の汽車で松山へ向つたところが、奇縁にも石井庄司教授と一しよになつた。石井氏は松山に講演に行かれるところであつた。二人は萬葉集の歌の話をしたり、埴安の池のことを話したり、三津濱と※[就/火]田津の關係を話したりして退屈もせずに松山に着き石井氏と別れた。三津濱はミツガハマともいひミツハマとも云つて既に一定してゐない。
(562) 松山では赤十字病院長酒井和太郎博士と永井姉妹に會つた。酒井博士は私の大學の同級生であり、虚子門の俳人黙禅である。永井ふさ子さんはアララギ會員である。松山は正岡子規先生の生地であるために、常々から私のなつかしく思つてゐた地である。松山では城山、中の川子規舊居、正宗寺等を見た。城山には群鳥の聲がして、夜も夜烏が啼く。中の川は石手川の水を引いたもので清い水である。正宗寺には子規と鳴雪の墓があり、子規の遺物がいろいろある。日本新聞入社の時の絹の羽織、敷布團の地、上布團の地、羽布團の地などもある。東海紀行の原稿、書簡等、『病林をめぐる五人の雜煮かな』といふ俳句等。それから漱石舊居をも見た。二階は漱石(六疊に三疊)、階下は子規(六疊に四疊半)。赤十字病院を見た。病室の廊下に注意書が貼つてある。『病客《ゴビヨウニン》の爲《タ》め廊下《ロウカ》を靜《シヅ》かにお歩《アル》き下《クダ》さい』。城山の天主閣に上つて見るに、※[就/火]田津は、『今の古三津《ふるみつ》村三津濱等の舊名なり』と地名辭書にもあり、大體その説が有力であつたが、近時道後温泉に近い山寄りの地、御幸寺山《みきじやま》の邊だらうといふ説がある。酒井博士の世話で道後温泉八重垣旅館に宿つた。遺後では三等類の湯(一等|靈《たま》の湯、二等神の湯、三等養生の湯)に入つた。伊社邇波《いさには》岡、湯月《ゆつき》八幡宮(今|伊佐爾波《いさには》社と云ふ)、寶嚴《はうごん》寺(時宗一遍上人開基)等を見た。松前女《まさきめ》(賣魚婦《おたた》)。鯛の鋤燒(金竹旅館)。草鞋一足三錢。湯太皷の音。大正十年三月に私は長崎を去つた時、別府から紅丸に乘り、高濱から遺後に來て一泊し、松山に一寸立寄つて直ぐ高松に向つたのであつたが、(563)記憶がもはや朦朧としてゐた。以上十八日十九日二十日の三日間松山及び道後滯在。
 
     四
 
 五月二十一日(金曜、晴)。午前九時五十五分松山發。多度津一時二十一分發。琴平一時三十九分著。琴平行の汽車の中から象頭山がもう見える。停車場から徒歩、鳥居、左右賣店、石段幾千。私は流汗淋滴、氣促迫、辛うじて拜殿にいたり、參拜祈願。私ののぼるのを途中で追越した海軍軍人の一隊は、私が未だのぼりつかぬのにもう參拜を了へて下つて來るのに會つた。金刀比羅《ことひら》宮は金毘羅《こんぴら》大權規を明治維新に改稱したものである。祭神大己貴命、崇徳天皇を配祀し奉る。私は東北の山村に稚くしてこの靈鉾田の名を聞き、五十六歳にしてはじめて參拜を遂げた。
 午後三時五十分琴平發(高松棧橋行)。五時十一分高松著。五時三十六分高松發(汽船)。六時四十五分宇野發、八時岡山發、十時二十分加古川著、高砂町石寅旅館投宿。
 五月二十二日(土曜、晴)。高砂の松といふ老松も稚くして聞いた有名な松であるが、年老いて枯れつつあつた。舟をやとひ人麿の歌にある『加古島』を想像しようとした。私はあの歌をば加古川よりも西の方から來て加古を東の方にのぞんだものと解釋してゐるから、舟を西の方に漕がせてその趣を見た。漕ぐといつても今はモーターでやるから非常に便利である。これは寫眞を撮(564)つて置いたから分かるとほり、稻日野《いなびぬ》をぼ加古川以西までひろがつてゐたと解するには、小山などが續いてただの平野ではないが、先づそれでも稻日野《いなびぬ》と解していいだらうと思つたのである。また加古川口に今は人絹工場などが立ち、古代の風光を偲ぶには邪魔するけれども、川口にやはり松林があつて、遠景では大體、岬、島の感じとして受取ることが出來た。次に、舟を東方に漕がせたが、現在では小山も少く松林も續いてゐて、この方は稻日野の感じが著しい。私の解釋では稻日野は加古川の東西にわたつてゐたものと解釋したのであつた。また現在も印南郡は加古川の西にあり、和名鈔にも伊奈美《イナミ》とあり、萬葉集卷一中大兄御歌の『伊奈美國原』をば印南郡大國郷(今の曾根、阿彌陀、伊保、米田あたり)の平野と解してゐるから、人麿の歌の稻日野も大體そのあたりと解して間違が無いとおもふし、あの歌も、西から東へ向つた時の歌と解して説明がつくとおもふのである。なほ加古川の流について、地名辭書に、『加古川(一名印南川)其西を流れ、郡村界古今の變遷あり、按ふに上古は水流近世の如くに屈曲せず、稻屋|木村《きむら》(今鳩里村に屬す)などを通過したるごとし、後漸く西方に轉じ、又水脈兩岐に分れ以て今日の形状を生じ、加古川東岸に印南郡河南莊の號ありしは、其地蓋舊時の西北岸の域のみ、されば今の加古川町も其|寺家《ジケ》以東は舊賀古郷の驛家なれど、其西なる加古川宿は舊印南郡|河南《カナン》の地とす』とあるのは有益なる文字であつて、さうすれば、加古川口は人麿時代にはもつと東方にあつたもののごとくであ(565)る。いづれにしても、稻日野の大體の解決がついて今日は愉快である。
 
     五
 
 十時二十分明石行の電車に乘り、明石著、十一時發の聯絡蒸汽船にて淡路へ渡つた。明石には人丸の二字を冠した名があり、『人丸鐵工場』などといふのもあつた。船上で、人麿の歌の『明石大門』の趣を味ふことが出來、また、淡路の江崎燈臺あたりが、萬葉の『野島の崎』あたりだらうといふ説に從ふと、やはり蒸汽船の中でそれを望むことが出來る。そこでその寫眞を撮つたが、靄がうすくかかつてゐて旨く撮れなかつたやうである。淡路の岩屋に著き、そこから全淡バスに乘つて西海岸を走つた。
 暫くすると松帆村を通る。これは萬葉笠金村の作、『名寸隅の、船瀬ゆ見ゆる、淡路島、松帆の浦に、朝凪に、玉藻刈りつつ』とある松帆である。これは三原郡の松帆と混同し易く、砲臺祉を少し過ぎたところの松帆崎をば一時松尾崎と稱へた時もある。このあたり一帶を松帆の浦といひ、百人一首の『松帆の浦の夕なぎに』も此處を詠じたものである。
 少しく過ぎると江崎の燈臺があり、その近くの突出した鼻あたりが、『野島の崎』だらうとも云はれてゐる。江崎を過ぎて野島がある。今は野島村に野島、常磐、箙を屬せしめてゐるが、海岸(566)に箙、平林、大川、轟木、野島、蟇浦といふ順序に村がある。江崎のところを廻ると波が荒くなり、轟木に崎があり、野島の少し手前にも山が突出でてゐる。おもふに、人麿時代にはこの邊一帶を野島と稱し、今の轟木あたりの崎をば總稱して野島崎といつたものとも想像せられるが、今日は、江崎燈臺あたりを見當にして寫眞を撮つた。地名辭書引用の常磐草に、『野島は蟇浦村の海邊なり。里人の曰、むかしは一二町も澳へ出て高く平らかなる野あり、波に崩れて今はなし。古松の村立る汀を野島といふ也』云々とあるから幾分變形したと思はれるが、このあたりに野島の小湊があり、崎があり、漁村のあつたことは想像するに難くはない。遠望でも小岬を幾つか見ることが出來る。
  後記。昭和十四年一月、淡路洲本中學校數論下村章雄氏は、「野島之崎考」を著はして私に示された。この野島之崎については、折口信夫氏は窟《いはや》(今の岩屋)の鼻とし、松岡靜雄氏は、岩屋町と野島村との中間の松尾崎だとし、阪口保氏は松帆の臺場から東南十一町ばかりの龍松の崎だとしてゐるが、下村氏はそれらを通覧した上、松帆より西海岸傳ひに南下して今の野島の地にその岬角を求めるのが一番穩當だとし、萬葉の歌からして、船つき場であるべく、人麿も數日滞在したであらうと想像することも出來るし、なほ常磐草(仲野安雄、享保年中)の記事に、播磨魚住泊から津國大和田泊まで一日行の間に船を泊むべき處がなく、東南の風荒くして岩屋の追門を乘過ぎ難き時には、富島・野島などに舟を泊めて風を待つたと書いてあるのを見ても、富島・野島などは舟つき場であつたことが分かるが、富島・野島等(567)は岩屋、松帆などよりも舟つき場としては適當であるやうに思はれる。なほ淡國通記(元禄年中)、常磐草、淡路温故録(天保年中)等をも參考し、なほ淡路温古之圖といふ徳川時代の地圖をも考慮してゐる。地圖では野島を湾入せしめその北端の岬の大石鼻をば古の野島の崎だとし、沖に野島といふ島を描いてゐる。そして仁和三年の地震で没したといふのである。地圖には、平林、大川、轟と記して來て、大石鼻のところに、往古西國往來諸舟湊テ滞此入江稱野島崎と記入してゐる。以上を綜合すれば、下村氏も古の野島崎をば現在の野島の地に求めたく、それは大體そのあたりでなからうかといふ結論になるであらう。
 富島町の處にも小崎がある。水越、斗(ノ)内(淺野村)、育波などを過ぎて室津町に著く。室津川があり、八幡神社がある。生活が活溌のやうである。少女もエプロンなどをかけて甲斐甲斐しい。路地に朝鮮の女が洗濯などをしてゐる。道で男女の會話が聞こえる。男『よく見えるなあ』、女『ほんとになあ』。午後一時|郡家《ぐんげ》町に着いた。
 此處で湊行のバスに乘換へるのだが、午後二時過ぎまで待つことになる。晝食をするのに不便だと思つてバナナ二つばかり食べて畫食を濟ませた。また繪ハガキを買つて諸友に便りをかいた。郡家町は和名鈔の津名郡郡家郷久宇希である。一時ミヤケとも云つたよし記載に見えてゐる。そこでバスに乘換へ、江井町、山田村、都志町、鳥飼村などを過ぎる。都志は和名鈔の津名郡都志郷豆之である。鳥飼を過ぎ鳥飼川を渡ると五色濱になり、海の景もひらけて來る。全淡バス案内(568)書に、『桃山御陵の敷砂は、此地より獻納せるもの、眺望極めて雄大』とある。午後三時近くに湊町に著くが、その手前、三原川を隔てて、慶野《けいの》松原がある。これは現在、松帆村大字|笥飯野《けいの》である。嘗て訛つて慶野などと書いたのであつただらう。萬葉名所考に、『飼飯は飼は笥の誤にやと思ふ人あれど、誤字とは云ひ難し。集中に飼飯を氣比と訓むべきもの三所あり。畜類を飼ふ料を古へ飼飯とぞ云ひけむ。カヒの切キなるをケに轉じてケヒと云るなるべし』。地名辭書に、『按に、應神紀に淡路は麋鹿鳧雁の多き由を載せ、延喜式に調宍一千斤と録す。蓋此鳥畜は御原の飼飯野に牧養せる者にして、飼飯野の北に鳥飼村の名あるも皆之に起因するごとし』とあるところである。松原は名所の名にそむかぬ、好い松原である。御津の濱松なども、かういふ松原であつただらうなどと空想し得るほどのものである。そこの浦を松帆の浦といつてゐて、前記の松帆の浦と混同し易いので、此處を歌枕の松帆浦だらうといふ説もあつたほどである。
 人麿の歌の、『飼飯の海のには好くあらし』云々の『飼飯の海』は、このあたり一帶の海と解して好かるべく、『かりごもの亂れ出づ見ゆ海人《あま》の釣船』といふのであるから、必ずこの邊に漁村があつて漁夫が活溌に働いてゐただらうと考へることが出來る。さうして見れば現在の湊町の地位はまさしくそれに當ると謂つても好く、飼飯の海の風光は湊町の海岸から、翁媼崎の方へ道をのぼつてゆくその山寄りから眺め得るやうにおもふ。さうすれば、慶野松原をも籠めて眺めること(569)が出來、大體ここの海と見當をつけて間違が無いやうにおもつた。地名辭書に、『三原湊《ミハラノミナト》、今湊村と云ふ。三原川の委口にして、西北に開く。即播磨洋なり。此江湾東北は松帆鳥飼の濱に至り、西は津井村の雁來埼に至る。廣さ二海里、北風を遮る者なし。然れども帆船の寄泊するもの多く、古より湊村の名を負たり』とある。此處に延喜式の三原郡|湊口《ミナトグチ》神社がある。今は三原川の川口のところに防波堤が築かれ、船が泊るのに便にしてゐる。朝鮮人の子女も嬉々として遊んでゐるし、小さい舟工場などもあり、生活は相當に活溌である。此處では薩摩芋を食つて腹拵をした。
 私のはじめの豫定は湊町に一泊して、飼飯の海の樣子をくはしく見るつもりであつたが、これ以上精しく見る必要もないので、四時三十分發の洲本行のバスに乘つて、淡路を東へむかつて横斷し、日暮に洲本に着き、三熊館に宿つたが、神戸からの團體客に騷がれて終夜安眠出來なかつた。洲本の城祉にのぼるのに馬に乘つてのぼる風習があると見えて、途中でしきりにすすめられたが、旅の疲れで興味を牽かなかつた。洲本は淡路第一の町であるが、和名鈔の津名郡物部郷の一部をなしてゐる。
 
     六
 
 五月二十三日(日曜、曇)。午前六時五十五分洲本發のバスに乘り、淡路の東海岸を走り、八時(570)四十分岩屋著。九時半明石著。汽車十時六分明石發、十一時十分大阪著。
 上六《うへろく》停車場から八木驛西口に至り、鴨公村高殿、別所あたりの井泉を調査、別所春日神社の方から高田山の麓へまはり、耳成山の麓の井泉を見、一旦大阪に向つたが、布施まで來て高殿の井泉に疑問が生じたので二たび八木に引返し、高殿再調、同道の高安氏は大阪に歸り、私は竹葉に宿つた。
 五月二十四日(月曜、曇、雨)。朝八時鴨公村高殿から、別所、日高山を調べ、そのあたりの地質(赤土、雲母混ず)に注意し、上飛躍八幡宮に詣で、雨やどりして、『藤原のみ井のいづみを求《と》め來ればわれの草鞋は濡れそぼちつつ』、『いにしへの事にかかはる樂しさに日高のやまに雨ごもりせり』などと口ずさみつつ、鷺巣の池とか、鷺巣の坂とかいふ名を空想しつつ、雨に濡れるのも苦にならなかつた。それから、古文化研究所の發掘研究のあとを想像しながら、土壇の南方にまはり、それから現在の鷺巣神社に參拜し、飛鳥川に沿うて、八木町に歸り、竹葉に少憩して、夕方大阪に向つた。昨日以來調べた井泉と藤原御井との『關聯』について空想しつつ大阪に着き、平野町ガスビルといふところで、岡田眞、神田矩雄、上村孫作、鈴江幸太郎、寺澤亮、梶村正義、岸哲夫、中島榮一、高安やす子、高安國世の諸氏と會食し、梅田ホテル投宿。
 五月二十五日(火曜、晴)。明石人丸神社參拜。神戸湊川神社參拜。祭禮日(御渡《おわたり》)にめぐりあ(571)はせた。有馬温泉入浴。有馬の湯は炭酸鹽類泉で、石見湯抱の湯と甚だ類似してゐるので(特に花湯又新湯といふものがさうである)、今囘の鴨山調査とも密接の關係があるやうに思はれて愉快であつた。有馬の湯は、有間の湯とも書き、豐臣時代から文獻に見えてゐるが、その以前のことは未詳である。微温湯のほかに、『大温無比』と形容されたほど熱い湯の湧出するところもある。有馬午後六時發のバスに乘り、六時四十五分寶塚著。七時大阪行急行電車に乘り、七時四十五分大阪著。梅田ホテル投宿。
 五月二十六日(水曜、曇、雨)。午前八時、特急さくら大阪發。午後三時二十四分小田原著。下車、四時二十五分箱根強羅著、一福旅館投宿。夜豪雨。
 五月二十七日(木曜、曇、雨)。午後四時二十一分強羅發。五時二十四分小田原發。六時四十二分東京著。
 
(572) 浮沼池・鴨山・尾道・鴨公其他
 
 昭和十四年五月四日、午前十時半東京驛を發し、午後七時四十九分京都著。驛で休んでゐるとき、わが海軍機大擧して重慶を爆撃したといふ記事を讀んだ。九時四十分山陰線に乘換へ、翌五日午前八時二十二分石見大田著。大田はオホダと濁つて發音してゐる。それから九時十分發の池田行のバスに乘り、約一時間で池田に著いた。池田は安濃郡|佐比賣《さひめ》村大字池田である。そこで案内人を雇つて浮布地を見に行つた。
 萬菓集卷七(一二四九)に、『君がため浮沼《うきぬ》の池の菱《ひし》採《つ》むと我が染《し》めし袖濡れにけるかも』とある、その『浮沼の池』が此處の浮布池だらうと謂はれてゐるので見に來たのであつた。この浮布池は三瓶山の南麓に位してゐる。池田のバス終點から數町歩いて行き、それから向つて右手に折れて、人家の散在してあるところを通つて行くと浮布池に著く。池は周圍五十町と云はれ水は綺麗である。この池の水は一方三瓶山麓の高利の方から流れる川と合して靜間川の上流を成してゐる。靜間川は忍原川と川合で合して北上する。浮布池の水の清いのは湧水のためと池に流入る水が大概(573)泉の水だからである。東側の林中には一八が澤山に咲き、また萬年青が群生してゐた。それから、萬葉の歌にあるやうに、菱があるかといふに、三ケ處ばかり群生してゐるところがあり、いまは未だ葉が小さくて浮いて見えないが、そろそろ葉も浮き、夏に花が咲いて初秋から實を結ぶし、兒童等は今でも競うて探つてそれを食ふ。また、菱の實のことをコツテカケといふ。コツテは牡牛のことで、コトヒウシがつまつたものである。コツトヒ、コツテ、コテ、ゴツテ等の語としてひろがつてゐる。菱の實は角があつて牡牛の頭に似てゐるので、コツテカケといふのであらうが、カケの意味がよく分からない。
 萬葉卷七の歌は人麿歌集にある歌であるが、『君がため』云々の語調は、女の云ふ趣の歌である。『染《し》めし袖』が濡れたといふのもまた女の語調のやうにおもへる。なほ萬葉卷十六(三八七六)の、『豐國の企玖《きく》の池なる菱《ひし》の末《うれ》を採《つ》むとや妹が御袖《みそで》ぬれけむ』といふのは、まさしく女が菱の實を採む趣であるから、人麿歌集の歌も女が男にむかつて物を云ふ歌と解して先づ間違が無いやうにおもふ。さう極めて置いて、さてそれならば、これは人麿が自ら作つたものか、若しみづから作つたのだとすると、どういふ場合に作つたのか、頼まれて作つたものか、謂ゆる巡遊詩人的に作つたものか、或は人麿歌集にあるほかの民謠風な歌と共に、人麿がある機會に民謠として作つたものか、さういふことをいろいろに考へることが出來る。それから第二に、此歌は人麿の作つたも(574)ので無いとすると、人麿がある機會にこの土地の民謠をぼおぼえのために書きとめて置いたといふことにもなる。さうして、そのいづれの場合にしろ、人麿と石見とに關係があり、人麿はどういふ機會にか、石見の國府を出でて、この邊を歩いてゐたといふことになる。さういふ點でこの浮布池は人麿傳を考察するうへに大切な處だといふことになり、また、私の發見した湯抱湯谷の鴨山が、人麿臨終のときに咏んだ歌の鴨山と密接の關係があるだらうといふ説に、一つの大切な根據を與へることともなるのであるが、このことはなほ後にもいふ筈である。
 浮布池のほとりには既に放牧の牛がぽつぽつ見えてゐた。池の東南端に辨天祠があり毎年七月十五日はその祭禮であるが、近村から幾ら人出があつてもその島が狹く感ぜられたことはないと案内者がいふ。その島で晝の辨當を食べた。それから歩いて行くと、裾野の感じで、川原胡頽子が群生しもう少しく赤くなつてゐる。通草の花、木苺の花、さういふものをも珍らしくおもひつつ到頭池を一めぐりした。池の寫眞は大三瓶小三瓶孫三瓶をも含めて撮ることが出來る。兎に角これまで度々石見に來て居りながら此池を見なかつたのに、今日それを見るやうになつたのは、湯抱の鴨山を發見したおかげである。
 湯抱の鴨山が、人麿の歌の鴨山だとし、此處の浮布池が人麿歌集の浮沼の池だとすると、おのづから其處に聯絡があるわけである。人麿はその邊に恐らく一度ならず來てゐるといふこともま(575)た想像することが出來る。
 そんなら、浮布池と湯抱とはどういふ道路によつて交通するかといふに、その道路は二つある。第一は小田《をだ》の方から湯抱へ越す道、第二は槙原《まきわら》の方から湯抱の湯谷へ越す道である。けふは第一の方の峠を見ようとおもつて、浮布池を濟ましてから、小田に行き、山路にさしかかつて、鳥打《とりうち》といふところに行つた。此處から大體くだりになつて、邑智郡の湯抱に行くのである。此處をくだつて行くうち雨が降つて來た。今朝大田に著いたとき一點の雲もないほど空が晴れてゐたのに、かう雨が降り出すといふのは、やはり山の地帶だからだとおもひながら暫く歩いて行くうち、道に山笹が茂つてゐて、歩くのに難澁なのでもはや遠くまで行くことをやめた。またこの四月十四五日ごろ苦木虎雄君は私のために佐比賣村の小字を調査し、そのときこのコースを踏査してくれたのだから、私は自分で無理にこの道を行かずともよいとおもつたのであつた。
 私と案内人は、鳥打に引返し、今度は三瓶山麓の陸軍演習地帶を歩いた。私は東京から用意して來た草鞋を穿いてゐるので雨が降つても苦痛でない。數時間歩いた後平坦な原に出た。片腕松を右手に見、定松《さだめのまつ》の下をとほつて池田に著いた。池田では湯淺といふ旅宿に入つた。夕がたから雨が晴れて日が見え出した。宿の童子の咳の聲を終夜聞きながら一夜を明かした。
 五月六日、けふは第二のコースを通つて湯抱へ出て見ようと思つたが、幸ひ宿の女が草鞋を見(576)つけて買つて來たのでそれを私は穿いた。午前八時宿を出發し、數町大田の方へ戻つてそれから南方、西田川の谿谷に沿うてのぼり、約一里にして槙原《まきわら》に著く、その邊に農家が散在し、木炭を負うた牛が鳴きつつ來るのなどに會ふ。そこを通つていよいよ山道になる。槙原までは人どほりが相應にあるからして道路が修理せられてある。そのあとの道は殆ど修理せられず、或時は笹が道をうづめ、或時は水が湧いて川のやうになつてゐるところを渡つて行く。併し今のやうに交通機關の發達しないうちは、人どほりが相應にあつたおもかげを殘してゐるところもある。笹は何處の山にも茂るものであるが、何しろ過去の人麿の歌をおもはしめるやうなありさまである。よつて數種の寫眞を撮つた。約半里歩いてやうやく峯に達した。此處は安濃・邑智兩郡の境で、案内者は、槙原の小字|櫻原《さくらわら》といふところの奧《おく》の※[土+峠の旁]《そね》だと説明してくれた。天氣は小雨が降つたり止んだりしてゐて、此處に著いたころには雨が止んで雲がしきりに動いてゐる。この峯、つまり『たうげ』で私は寫生をしたり寫眞を撮つたりして小一時間あまり居た。そこから見ると、邑智郡の山々ばかりでなく、遠く那賀郡の山々、安藝境の山々まで、重々として聳えてゐるのが見える、それほどの大觀的佳景であるから、どの方面から來る旅人も一たびは此處に足をとどめて、或は三瓶山から出雲方面、或は石見から安藝方面の眺をほしいままにしたものに相違ない。眼下に稍離れて粕淵小原の津目山が見える。その下を江(ノ)川が流れてゐるのであらう。津目山は一たび私(577)が鴨山に擬したものであるから、一見してその山だといふことが分かる。それから向かつて右手に山が幾つかある。それは國道の向うの山である。それから國道から手前の山々が見え、そのまた手前に、大釣山・鴨山などを含めた一群の山が見え、その左手に粕淵小原、湯抱から小田鳥打の方へ越す山の一群が見える。山々は新緑で、萌黄なども浮きあがるやうにして動いてゐる。その二つの群山のあひだを私等はこれから下りて行くのである。鴨山はこの向つて右の山のかげになつてゐてこの峯からは直接見えない。
 この下り道には、全く道跡を没したところが幾箇處もあつた。案内人は大體の目分量で其處を通つて行く。或は湧く谿水をば青草が埋めつくして、其處を私等は渡らねばならなかつた。さういふ時にいつも私は草鞋の便利なことを感じた。私は昭和十年の大和旅行以來草鞋の便利なことを痛感し、それ以來の旅には時々脚絆と草鞋とを用意してゐるが、今囘も非常に役立つたことかくの如くである。このコースは今では殆ど全く人どほりが無いといふのは、人々は乘合バスで大田に出て、大田から赤名行の省營バスに乘れば、賃錢は合せて八九十餞で、時間もかからず樂に湯抱に着くことが出來るからである。
 このコースを下れば、湯抱湯谷の丁度鴨山を向つて右に眺め得るところに出る。この鴨山の前山は殆ど皆岩石から成り、何かの鑛を含んでゐるのか、小さい試掘の痕などが二三ケ處に見えて(578)ゐた。岩石はいづこの山にもあるだらうといふかも知れぬが、ここの山のはまた著明であるから、若し湯谷の鴨山が人麿の歌の鴨山だとすると、『巖根しまける』の句はただの觀念句でないといふ想像もつくのである。湯谷近くなると、道も修理して、石垣などもあり、炭燒小屋なども見え、炭を運ぶ牛の樂にとほれる便利な道になつてゐた。また近年植林がはじまつたから自然にこの谿間の道路もよくなつたわけである。因にいふと、ここの谿間の激湍はなかなかの佳景である。
 午後零時半、疲弊して湯谷に著いた。鴨山は一昨年見たときにはまだ植林して間もなかつたので形が變つてゐたが、今度見ると形も稍豐かになり、それに新緑で色彩もよくなつてゐた。私はなつかしいものに會つたやうな氣特でそれを眺め、一休しようと思つた旅館はいづれも滿員で青山旅館からも日の出旅館からも皆ことわられた。爲方がないので日の出旅館の帳場に上りこみ、晝食を濟ませたのち、湯の湧くところを見たり、入浴したり(浴場は一昨年來た時のは取拂はれて、新築せられてゐた)、鴨山の見えるところまで歩いて行つたりした。宿の主人の話に、今日私等の越えて來た道は先づ人どほりは無い。それに夏はマミ(蝮)が出てあぶないところである。數年前一人の六部が槙原の方から越えて來たが、あの澤でマミに噛まれ、全身脹れあがつて湯谷の路傍に臥してゐたのを、村の倶樂部に連れて來て看護しやうやく生命だけはとり止めた云々。それを聞いて私は越えて來たのが夏分でなくてよかつたと思つたのであるが、さて、このコースを越え(579)て來て空想したのは、若し此處の鴨山が人麿の歌の鴨山ならば、その頃にもやはり人々はこのコースを取つて、佐比賣山(三瓶山)から出雲の方へでも交通したであらう。人麿歌集に浮沼池の歌があつて、浮沼池は現在の三瓶山麓の浮布池に相違ないとせば、人麿が湯抱あたりに來てゐても毫も不自然ではなく、湯の湧くこの湯抱にある鴨山をば終焉地の如くにして一首の歌を殘してゐても毫も不自然ではないといふことになる。私は今度の旅で、この考を大體強めることが出來たのを多幸とする。
 それから自動車をやとつて、粕淵を通つて二たび安濃郡に入り、志學温泉浩然樓に投じた。そこで入浴し、三瓶登山を濟せて來た男女小學生數百の聲を聞きつつ夜を明かした。自動車賃四圓五十錢。
 五月七日。午前三瓶山麓を歩く。白頭翁、蕨等群生。放牧の牛群れ、雲雀其他の群鳥止まず啼く。かへりに湯本を見、孫三瓶登山の心湧いたが、體の具合を顧慮し、旅宿に歸つて入湯し臥床した。三瓶山麓には山牛蒡、こうか茶、自然生大根(弘法大根)等を産する。志學には陸軍の廠舍があり、演習に來る兵のための宿舍である。その夜、場面が伯林で二三人の亡友なども交つてゐる夢を視た。
 五月八日。十一時志學を發ち、午後零時五分濱原發の省營バスに乘り、赤名に午後零時五十八(580)分著の豫定のところ、澤谷村宮の前で故障し、自動車を赤名から呼んだりして、赤名に著いたのは午後二時三十分過ぎであつた。次のバスの赤名發は午後五時十分だといふので、致し方なく赤名で一時間ばかり待つてやうやく自動車をやとひ、四時半ごろ布野に著いた。自動車賃六圓。中村憲吉君(昭和九年五月五日歿)、おぼあさま(昭和十三年十二月十五日歿)、中村孝君(昭和十四年三月十日歿)の墓參をし、シヅ子未亡人、良子さん、厚惠さん等といろいろの悲しい話をしながら一夜寢た。
 五月九日。布野滯在。病床の中村おぢいさまを見舞ひ、山にのぼり、谿にくだり、午後晝寢の後、字を書いたりして、また一夜宿つた。備後の山もまた笹が多く、これは赤名を越えてから既に氣がつくが、布野の山を歩いても目立つものである。
 五月十日。午前六時布野出發、良子さん厚惠さん同道、江(ノ)川、馬洗川の霧を見ながら、三次、十日市、山家、鹽町と過ぎる。鐵道鹽町驛で大阪線と福山線とが分かれる。三良坂町には出雲大社分祠がある。吉舍《きさ》、八幡、大見を過ぎ、山間をも幾度か過ぎる、東大田、甲山、諸田、市、三成を過ぎ、この邊一帶は備後表の産地で藺の田が多い。間もなく尾道に著いた。かく、雙三郡、甲奴郡、世羅郡、御調郡を經過するのは、私が人麿上來の道筋を想像した道筋をば今日通過したこととなり、自動車で通つてみると、大體ある川の流に沿ふやうでもあり、山道をも通過するが、(581)さうたいした難路と謂ふべきところが少く、尾道に出ずに、國府のあつた府中あたりを過ぎて鞆に出て其處から船に乘つたと假定しても、決して難路といふのでなく、出雲路から山陰道を通過するよりどのくらゐ樂だか知れないのである。今日私等は備後を尾道まで南下して來て、これも私の想像説を肯定し得たやうにおもつた。
 尾道の千光寺境内に中村憲吉君終焉の地があるから特に立寄つたのであり、三人してその家に寄り臨終の部屋をも見た。櫻の花は過ぎて既に葉になつてゐたし、槻の大木も若葉になつてゐたが、鐘樓も元の儘だし、尾道を一目に見わたす處である。私は亡友を飽くまで偲びつつ其處を辭し、展望臺を十時十五分に出發して直ちに鞆にむかひ、今津、松永、柳津《やないづ》を通り十一時半鞆に著いた。船つき場を鞆江浦といふ。對山樓に寄つて午食の用意の出來るひまに、辨天島、仙醉島をめぐり、恰も舊三月廿七日、『辨當びらき』の日に當つて土地の人が多く群れてゐるのを見た。また※[木+室]《むろ》の木の大小を見たが、萬葉にあるやうな大樹は今は見られぬから、その當時にあつてもああいふ大樹は稀で人目を牽いたものであつただらうか。對山樓で鯛の骨蒸《こつむ》しといふのを馳走になり、直ちに福山に向つた。途中水呑の倉田氏に寄り、二時四十分福山に著、そこで良子さん厚惠さんに別れて三時發の汽車で大阪に向つた。汽車が動いてから車房の中で萬感交々至つて盡くることを知らなかつた。七時四十五分大阪著、大村呉樓氏等の出迎を受けて後、アララギ歌會に暫時出(582)席し、梅田ホテルに一泊した。
 五月十一日。高安國世氏同道、大和高市郡鴨公小學校に吉田校長を訪ひ、布野で讀んだ「藤原宮の全貌」といふ記事について種々教示を得た。それから私の「御井考」に關して小實験を濟ませ、大阪に歸つて諸友と夕食を共にし、梅田ホテルに一泊した。
 五月十二日。午前九時二十分大阪發。午後七時三十五分東京著。
 
(583) 人麿雜纂
 
(585) 伊能忠敬の「測量日記」
 
 同(文化八草未年二月)廿六日。朝より晴天、六ツ後大森町出立、同所止宿前より御代官役所迄測【二丁二十一間】夫より同町【三次雲州】街道三辻より初、石像五百羅漢【道ノ左ニあり即石窟中ニ安直ス石窟モ石工ノ作ナリ道右ニ石室山羅漢寺アリ湯島靈雲寺ノ末ナリト】佐摩村幅原村荻原村【是迄邇摩郡大森より驛一里〇八丁此所中食理惣兵衛】小松地村【此村より邑智郡となる】別府村※[○の中に十]印迄測【大森より二里二十〇丁一十八間二尺内一里〇六丁十二間二尺荻原驛迄内一里十四丁〇六間荻原より※[○の中に十]印迄合二里二十〇丁十八間二尺】又※[○の中に十]印より小松地村止宿迄測【五丁三十三間合二里二十八丁一十二間二尺】九ツ半後ニ着、止宿庄屋宮三郎、此夜晴天測。
 同廿七日朝より晴天、朝六ツ頃小松地村出立、邑智郡※[○の中に十]印より初、惣森村|志君《シキミ》村|湯抱《ユカヽヘ》村高畑村粕淵村枝(ヲ)小原驛【中食別府※[○の中に十]印より一里三十〇丁二十一間荻原より驛路三里荻原より※[○の中に十]迄一里十四丁〇六間ヲ加荻良より小原驛迄三里〇八丁二十七間ナリ一間ヲ六尺五寸トシテ組合】久保村濱原驛【村と云】迄測【別府※[○の中に十]印より二里一十三丁三十〇間小原より驛道半里實測一十九丁〇九間】九ツ半頃、濱原【驛即村】着、本陣新屋森平脇宿|吾江《アゴウ》屋重蔵此夜中晴測
 同廿八日朝より晴天、六ツ後濱原村出立、同所より初、川戸村字乙原石原村千原村九日市村字多々羅枝西ノ原組片山村地先少九日市【村驛】迄測【二里〇七丁一十二間】夫より仕越字亥ノ子田酒谷村界迄測【一十四丁二十七間】行返九日市村止宿【濱原より驛二里】本陣原田屋惣太郎【此節他行好文字由】脇鍛冶屋良右衛門九ツ後ニ着、此夜晴天測。
(586) 同廿九日。朝晴天、六ツ後九日市驛出立、酒谷村界より初【字大平】酒谷驛迄測【九日市より驛路一里半實測一里〇一丁五十七間此村銀山御料所終仕越共一里一十六丁二十四間】又同所より初、出雲國飯石郡廣瀬領【松平佐渡守領】下赤名村赤名驛迄測【一里〇二丁三十一間酒谷より驛路一里】止宿肥後屋柳右衛門、廣瀬侯より使者トシテ福井祖助出ル、侯より肴一折我等へ被贈之即受納、外ニ家士今岡雄兵衛出ル、此夜曇天不測。
 閏二月朔日。朝晴曇、六ツ赤名驛出立、同所より初、備後國三次郡廣島領横谷村枝室市迄測【一里二十七丁一十七間】夫より仕越字犀ケ峠迄測【二十一丁四十八間】行歸テ室市ニ止宿【合二里一十三丁〇五間 本陣百姓幸四郎脇七九郎】此支配代官下役福原來助【書付を村役人より出サシム】此夜晴天測。
 同二日。朝晴天、六頃室市出立、横谷村字犀ケ峠より初、上布野村布野驛迄測【一里二十六丁五十七間五尺赤名より驛路四里實測合四里〇四丁〇二間五尺】四ツ後ニ着【本陣止宿】清兵衛當町【年寄庄屋】長岡廣藏、驛所引請喜七郎、組頭市五郎、用所請割庄屋永川源兵衛、三次郡割庄屋代瀧口新兵衛【年寄代田森六平】驛役人代三郎來ル、此夜曇天不測。
 閏二月三日。朝曇天、六ツ後布野驛出立、下布野村戸河内村西河内村【神ノ瀬川渡巾三十〇間二尺】枝藤地中食字土取場下迄測【一里一十二丁一十二間二尺】別手合坂部下河邊簗田上田平助三次本町本陣前より初【右畑中小路左萬光小路】横町上市【右牢小路左正房小路】上ノ段【】左西光寺小路】字大歳口原村字宮ノ關西河内村字三反田枝大坪谷字土取場下ニ而別手合測【一里二十一丁一十八間四尺】兩手共九ツ後、三次五日市町本町え着【吾等青木永井箱田長藏初宿坂部下河邊簗田上田平助再宿】(以下略)
 伊能忠敬の測量日記は右の如くであるが、此處に少しく注解を加へて置く。この日記の私に有益なのは、(587)忠敬が大森から惣森村、志君村、湯抱村、高畑村、粕淵村、濱原村、酒谷村を經て出雲廣瀬藩の赤名に出て、それから備後に越してゐる道筋は、私の想像してゐる人麿上來の道筋と一致してゐるために有益である。そして廿七日は小松地村を出立し、別府で中食をして、濱原に止宿してゐるから、そのあたりの道路を大體歩いてゐるのである。この道筋は銀山の出來てからのことで、志君村から粕淵へ行く道は只今の縣道筋よりも高い處即ち山の上を通つてゐた。それから道が分かれて、湯谷、湯抱の方へ通じてゐた。併しもつと往古になると、幾らか道筋が違つてゐたとおもふが、横道についてはさうたいした變化は無く、鴨山の麓の遺などは、別府から程近いところであり、現在私等のおもつたよりも人々が往反してゐたかも知れないとおもふ。伊能忠敬のその時の一行は、伊能忠敬、下役青木勝次郎、永井要助、御弟子箱田良助、御若黨松井澤次、御待黒田京吉、御竿取長藏、御草履取三人、御上下十人で、その測量用具は、松三寸角長さ五尺杭三本、長さ五尺片側削つた杭二本、小かけや一丁、ぼんでん竹十本、莚八枚、あわび貝二つ、鍬、はんかけ、鶴嘴等であつた。幕府天文方の測量だとあつて非常な助力と鄭重な待遇を與へたものである。今、赤名に於けるその状態が記録に殘つてゐるが、先づ赤名來著に先だち、庄屋二人を道普請引受とした。これは二月下旬であるから殘雪いまだ深く通行も困難であつたから、酒谷から備後境まで雪を掘り踏みならし、通行の際は人夫二十人を附けて道直をし、庄屋一人年寄二人を村案内に、庄屋四人を御用中附廻り役とし、その他に、ぼんでん持十人、じじやく臺持二人、火入持一人、丁繩持一人、とふ繩持一人、杭並つち持一人、綱引七人、間竿持一人、しようぎ持二人、繪圖板持一人、鑓持一人、御刀持一人、人足(588)二人、合計三十二人を附けた。なほ右の庄屋年寄は股引脚絆羽織脇差を體し、特に附廻庄屋は手帳矢立扇子を持ち、前日迄に九日市宿館に伺候し、翌日酒谷口境から御用を引受け備後境迄勤めたものである。また、下赤各村古市と上赤名の口境との二ケ所に休憩處を設け、兩處の休憩處共に一間半に二間の小屋であつた。なほ、旅宿には本亭主一人、脇亭主二人と定め饗鷹も善美を盡した。
右は文化八年の日記と關係ある記録であるが、それより先だつ五年、文化三年六月にも石見の一部を測量してゐる。「文化三寅六月十五日記、天文方測量方一件」といふ記録に、『天文方御役人、十二日晩、温泉津村御泊りにも可相成候間、宿等手當テいたし置候樣、惣代宿より申越候に付、木津屋、上(ミ)屋供舗譜請掃除爲致候。御附廻御役人樣も可有御座旨に付、御茶屋引當テに取上置申候。其外町方取締船手配候』云々。『右測量方御役人樣六月十一日、郷田村【○今の江津町】鹽屋京左衛門方へ御泊りに付、村方繪圖並明細帳等差出、御機嫌伺相濟、十二日明六っ時悴新次郎罷歸り申候。測量方御役人樣、今日當所へ御着、御泊りの積り、一手は郷田より淺利村迄御打、一手は淺利村吉浦迄御打、一手は今浦より温泉津村迄御打、右三手に別御打被成候趣』云々。かうして見れば、石見の測量も一囘にしたのではなく、文化三年のは下府上府あたりからかけて江津町、江川を渡つて温泉津を中心として測量したものの如くである。
附託。なほ伊能忠敬の測量日記中、鹿足郡、青野村あたりの記事に、『石川を渡船、横田村止宿』、『石川巾三十間』等がある。この『石川』といふのは、『高津川』のことである。そのころは、既に人麿の死と、依羅娘子の歌とを、高津の方に持つて行つてゐたので、『石川』が通稱になつてゐたのかも知れない。この名に迷はされてはならぬから一語加へた。
 
(589) 人馬賃錢の事
 
 實暦三年酉十月改、石見國郡中入用其外取斗定書といふものの中に、「人馬貸錢」の條がある。
  大森より荻原村迄【本馬壹疋ニ付錢五十四文・輕尻馬壹疋ニ付三十六文・人足壹人ニ付貳拾七文】
  荻原村より粕淵村迄【本馬壹疋ニ付百五十貳文・輕尻馬壹疋ニ付百壹文・人足壹人ニ付七拾六文】
  粕淵村より濱原村迄【本馬壹疋ニ付貳拾三文・輕尻馬壹疋ニ付十六文・人足壹人ニ付拾貳文】
  濱原村より九日市村迄【本馬壹疋ニ付八十七文・輕尻馬壹疋ニ付五十八文・人足壹人ニ付四十四文】
  九日市村より酒谷村迄【本馬壹疋ニ付六十壹文・輕尻馬壹疋ニ付四十壹文・人足壹人ニ付三拾壹文】
  九日市村より廣瀬領雲州赤穴村迄【本馬壹疋ニ付百六文・輕尻馬壹疋ニ付七十一文・人足壹人ニ付五十三文】
  酒谷村より赤穴村迄【本馬壹疋ニ付四十五文・輕尻馬壹疋ニ付三十文・人足壹人ニ付二拾三文】
(590)(中略)
一右賃銭を以往返同車に可2心得1候、大坂道中村々に而馬貸錢に増者、不2請取1候問、何れ之道に而も馬に増賃不2相立1候、然共拾疋以下馬數入候節は、御定之賃錢に三割増可v立v之、人足之儀者、先觸等御定之貸可2相立1、駕籠其外荷物人足は是迄之通割増請取候積り、此度書入置候、
一輕尻馬之貸錢を以、人足賃可2相立1候、
   乘物壹挺   人足六人
   山駕籠壹挺  同 四人
   長持壹棹   同 六人
    但貳拾貫迄、其余リハ四貫目に付、壹人増之積り、貫目持出に而可致侯、
(中略)
一郷川渡船之事   
   従來壹人に付 錢五文
   馬壹疋に付  同拾文
   荷物壹駄に付 同拾文
    但乘物駕籠計兩掛荷笈貸錢右に准シ可v取候、
(591)一常水に三尺迄之増水に候はゝ、右定賃錢に可v渡、三尺以上増水之節、船不v可v出事、
一御用に而通行之分大切にいたし、三尺以下之増水に候共、渡舟可v成たけは増加子無2差滯1可2取計1事、
一増傍所杭渡津村立會川端に建置候間、常々心ヲ付、大切相守、紛敷儀無v之樣心得、當所え相断、改申請可v申事、
一武家荷物渡貸不v可v取v之、然とも商人請負候荷物は、定之通貨錢可v取v之事、
一右之外渡賃増取候歟、又者往還之者及2難儀1候段相聞へ候はゝ、渡守取放候儀は勿論、吟味之上、御咎之儀相伺候様被2仰渡1候間、渡守、村役人共重ク可2相守1候、此外渡場有v之候分は、右之趣に准シ増賃錢取候類、往還難儀無v之樣急度可2相心得1事、
一村々庄屋之儀、高持に而身元宜キもの可v願候、水呑之者えは決而不2申付1候、然共是迄も身元宜分、高持等之類も、百姓之爲に成候而、存分取計候得共、自分之爲に計成候類も有v之候、是等之儀、村役人惣百姓共に相考、庄屋役之儀吟味を請可2申出1、然上者御年貢、諸役其外村役人え申渡候御用、違背致間敷事、
 
(592) 本朝神社考 抄(羅浮子道春撰)
 
     人丸 丸。和訓麻呂
 
柿本人麻呂者。石見國人也。或日。未v詳2其何許人1也。善詠2和歌1。多載2萬葉集1焉。紀貫之曰先師柿本太夫者。高振2神妙之思1。獨歩2古今之間1。有2山邊赤人者1。並和歌之仙也。藤原敦光。作2柿下朝臣人麻呂。畫像賛1曰。太夫。姓柿下。名人麻呂。盖上世之歌人也。仕2持統文武之聖朝1。遇2新田高市之王子1。吉野山之春風。從2仙駕1而獻v壽。明石浦之秋霧。思2扁舟1而綴v詞。誠是六義之秀逸。萬代之美談者歟。方今依v重2幽玄之古篇1。聊傳2後素之新樣1。因有v所v感。乃作v讃焉。其辭曰。倭歌之仙。受2性于天1。其才卓爾。厥鋒森然。三十一字。詞華露鮮。四百餘載。來葉風傳。斯道宗匠。我朝前賢。涅而不v緇。纉v之彌堅。鳳毛少v彙。麟角猶專。既謂獨歩。誰敢比v肩【見2續本朝文粹1】。案人丸。蓋以2天平元年1。卒2於石見國1。及2其將1v。詠2和歌1曰。伊波美乃夜《イハミノヤ》。(593)他加都能邪麻《タカツノヤマ》【高角山】乃《ノ》。古乃摩譽利《コノマヨリ》。宇幾與乃都幾於《ウキヨノツキヲ》。美播提都流加奈《ミハテツルカナ》。或曰。鴨長明云。人丸墓。在2大和國。泊瀬傍1。長明嘗往2泊瀬1問2人丸墓1。在2何所1乎。無2知v之者1。土俗呼2其地爲2歌墳1故也。或曰。未v詳2其所1v終也。
 余案。世俗※[さんずい+公]襲之訛誤。傳聞之詭僻。雖2甚不1v鮮。而今論v焉。以明2一二1。夫柿下。姓也。故國史。又有2柿下臣猿乃。柿下朝臣人上者1。萬多姓氏録。亦載2柿下姓1。而云3人丸生2出于梯樹下1。非也。藤原處名也。允恭天皇。爲2衣通姫1。定2藤原部1。持統文武。都2于和州藤原1。大織冠。居2藤原宅1。天智帝。賜2藤原姓1。而云d大織冠以2藤纏鎌1。斬2入鹿1故。爲c藤原氏u。非也。淡海。近江也。封2不比等于近江國1。以比2齊大公之故事1。故號2淡海公1。而云。讃岐國海人。産2不比等1。是以名2淡海公1。非也。且謂2房前1。爲2淡海公1。亦非也。房前者。不比等之子也。菅原者。太和國。所名而所謂菅原伏見里也。土師宿禰古人。住2于菅原1。光仁帝始賜2菅原姓1。古人之孫。是善。相承爲2菅原朝臣姓1。右大臣者。是善之子。而所謂北野天神。是也。而云(丁)天神生2于菅中1。如(丙)伊尹出(乙)於空乘(甲)非也。
 
(594) 柿本大明神略縁起(柿本社別當 月照寺)
 
 夫柿本大明神は、天の押人命の末葉にて、持統天皇、文武天皇に仕へ給ひて、和歌を以て世に鳴せ給ふ。其元は石見國高角の里に國司伸雪といふ人あり。無子ことを歎て恒に天に祈られしが、一日後園の柿の木の下に少童の立るあり、其姿の偉魁なるを見て是は天より我に給ふ子なりとて、伸雪自抱取養育し、朝廷に奏聞し勅を蒙り親子共に參内す。天子其子の異貌なるを叡覽ありて、汝は何ぞと勅問ありしに、人なりと申させ給へば、人は人なり誰といふ人ぞとありしかば、麻呂なりと申させ給ふ。然ば人麻呂といふべしと勅許なされしとかや。誠に觀音の化身にてませし故に諸事人に勝れ給ひしとなん。蓋觀世音菩薩は衆生利益の爲に、神となり、佛と成、六道に遊化して迷る凡夫を救ひ給ふ事御經に委し。此御神も其一つなり。故に石見に化現の日も三月十八日にて御壽六十にて薨ぜ給ふ。辭世に○石見がた高角の松の木間より浮世も月も見はてつるかな、と有しなり。其跡をたれ給ふ所雖v多其名高きは明石の浦にしくはなし。實にほの/”\の御歌世に無類故にや。抑和歌は天津神の御代より始りて、今の世までも我秋津嶋の風俗となり侍る。中(595)にもほの/”\の御歌は、上一人の御位より百官卿相、下萬民に至るまで此御歌を崇まし/\て人丸を先師とあがめ奉て、和歌を學者此御社に詣でずといふ事なし。扨明石の迫門は西海一の難所にて往來の船風波の難にあふ。昔此灘にて風惡敷已に舟かへさんとせしに御神を祈り丹心に、歌の道船の道をも守るとて明石の浦に跡たれし神、と讀て、其難の遁れし也。また筑紫より盲目の詣でて、ほの/”\と誠明石の神ならば我にも見せよ人丸の塚、とよみて兩眼忽に開き、撞來《つききたり》し櫻の杖を庭のほとりに立て歸りしに枝榮花咲しと也。又此里に火難の起りし時、常に御神を信仰せし人の家に火既にかゝりLを主人至心に祈りければ、ほの/”\と明石の浦はやくるとも般若防《はんにやばう》にてやかでひとまる、と御託宣あらたにして忽火とまりぬ。是を見る人聞人御神の御利證あらたなりとて信仰今に絶ず。是故に此里に火難なし。又難産の人の右の手に御守りを握り、口にほのぼのの御歌をとなへて安々と平産せしこと國々に多し。其外の利證は筆にも盡がたし。此ほの/”\の御歌は、一字に千里を含て眞言陀羅尼におなじ。去に依て毎朝三|反《べん》七|反《へん》乃至百反至心にとなへ奉れば、惡事災難を遁れ諸願成就疑なし。此外は古縁起石碑に委し。
  註。右は横一尺四寸五分、縱一尺五分の一枚紙に木版刷にし、總振假名にしたものである。今その振假名を略す。
 
(596) 櫟本の柿本寺略縁起【柿本寺修理勸進趣意書】
 
 昭和十一年七月十四日、大阪毎日新聞奈良版に、大和添上郡櫟本町柿本寺を訪うた大和史會の一行が、同寺の物置から縱七寸、横四寸ぐらゐの版木を見つけた。これには、人麿の像と、『正一位人麿大神』、『我宿のかきのもとまでやけしとも一こえたのめそこで火とまる』、『大和國添上郡柿ノ木村柿本社』とが彫つてある。『燒けしとも』、『一聲頼め』といふ意味で、人麿を火除けの神としたその神符の版下であつたのである。
 そのほかに、寛政年間に住吉廣行が描いた人麿像、寶暦年中柿本寺修理の勸進趣意書、文化十五年櫟本の歌人中村訓榮(今の中村三二氏の曾祖父)が歌塚類題和歌集出版投稿規則の版木その他の版木二十餘枚が發見せられた。
 なほ弘化三年十一月發兌、柿本社中藏板、菊田政史編の「櫟本十景」といふのもある。これは城戸富全の漢文の序と、跋に菊田政史の「詠十景長歌並短歌」があり、その間に、十景の繪と和歌とがある。なほ、享保十七年に森宗範等の建てた人麿歌塚碑陰記(總論篇に收)、寶暦十二年の(597)柿本寺略縁起の木版もあるが、暫く發行せずにゐたのを、最近櫟本町の中村三二氏が印刷して人に示した。
 その『柿本講式云』に、『柿本大夫はたかく神妙の思ひをふるひ獨古今の間にあゆめり。此道に仰ぐべき誰か敢てかたをならぶるものあらむ。仍柿本大夫を迎へたてまつりて、あしはら中つ田のことわざをのべんとなり』とある。
    柿本寺略縁起
  和州添上郡櫟本郷治道山柿本寺は、古へ柿本人麿此地に伽藍を建立し給て、堂舍佛閣甍をならべ、結構美を盡せる靈場たり。それ人麿は奈良|帝《みかど》和歌の御師範にて、古今獨歩の歌仙たる事は萬人後代までよく知れる所也。そのかみ歌神石見國|高角《たかつの》にて仙昇《せんしよう》有しとはいへども、遺命有て尊骸《そんがい》遠くのぼらせ給て、此地に葬し奉るゆへ自然と歌塚の名千歳ながく稱せり。則柿本講式又藤原清輔朝臣家集或は楢葉集《いうえふしふ》の中には股富門院の太輔こゝに詣《まうで》有し事をのせ、鴨長明の無名抄にも此所の事を記《き》せり。かゝる名刹たりとはいへ共、星霜一千餘年を經ぬれば、雲を凌ぐの殿堂|門※[まだれ/無]《もんぶ》も今たゞ一宇一院のみを存して、その堂塔の有し所いま礎石さへ定かならず。すべて田畝となりて傳記口碑ばかりに傳ふばかり也。かくて殘つる寺門さへ軒は傾き棟宇苔を生じて、况や寺資たる地尺寸あらず、修補四方の他力を頼まざれば、一向《ひたすら》叶ひがた(598)く、貧道是を悲歎する事既に幾許の年月をへたり。堂外の松風|旦夕《たんせき》梵唄《ぼんばい》の聲をそへ、庭前の花紅葉春秋舊規の光彩を殘せり。雨露むなしく衲衣をうるほし、霜雪徒に野情をいたましむ。故に今十方僧俗の信財をこひ、修覆ならむ事を願ふ。わきて風雅の志あらむ人々は年來詠作のかぎり少料をそへ爰に奉納し給はば練若《れんにや》風雨にあるるを防ぎ、後に時を得てあらたに潤色の日あらば野僧の愁眉を開くのみに非ず、高く神聖の照覽もるゝ事なく、僧家は學道を成滿《しやうまん》し武門は家運をいやまし好士は其道の奧義をきはめ農商の家は其業の安穩むなしからざるべし。さきに大木村森本宗範並松郷に今住る藤門因齋志を一にし、國中及洛攝河の雅友をすゝめ、廟中の碑石成立すでに思るがごとく、歌塚の二大字は寶篋寺の宮眞翰を染させられ、碑陰の文は檗派の老徳古拙和尚の筆を勞せり。寺院微にして舊時の佳麗に殊也とはいへども、神聖の擁護はかはらざるべし。古縁起記録等に猶委しといへども、其一二を書して遠近に告すゝめ侍る。まさに希はくはすべて有信《うしん》の人々共に信誠を催し給へ。
 歳寶暦十二年壬午十一月吉辰 柿本寺現住師政謹書
 
(599) 人麿神疫病除け靈驗
 
 人麿神が人間の疫病を癒す靈驗のあることは、既に「鴨山考補註篇」(六九−七三頁)〔一五卷五五七−五六二頁〕に尾崎恒雄、正宗敦夫兩氏の通信を得て記録するところがあつたところ、昭和十年八月二十四日の山陽新報に野田實氏の「久米のさら山和歌宮」が載り、人麿神の靈驗のことを記載してゐる。
  私の子供の時には、まだ人麿の影供の像を刷つた神札が、村の辻や家の戸口に貼つてあるのを見たもので、今は全然影を没して仕まつた。この神札は村の和歌の宮で授けてゐたもので、村に疫病などがあると厄病除けとして、近郷の者は必ずこれを戴いて歸つたのである。
  私はこの人麿の影供の像がなぜ疫病除けになるか、そんなことを知らうとも思はなかつたし、もと/\村の無智な俗信としか考へてゐなかつたのであるが、世間の經驗をつんでゆくにつれてだん/\自分達の祖先の生活史が判つてゆくにつれ、これを單なる俗信とのみ片付けられない深い智識が祖先の間に黙々と流れ傳はつて居つたことを覺えるのである。
  この和歌の宮と云のは久米郡佐良村に在り今は村社佐良神社境内に移されてゐるが、もとは皿山(嵯峨(600)山)の麓の人家の藪の中に在つたものである。どうして和歌の宮が此地に勸請されたかといふに今さら説明を要さないであらう。『美作や久米の皿山さら/\に我名はたてじ萬代までに』といふ古今集の大嘗會の歌が古來名高い歌枕となつたが、後に修理大夫顯李が美作の守となつて就任した時に此地に人麿の神影を勸請して和歌宮を祀つたといふ。顯李朝臣は和歌を好みかつて都に住んでゐた頃六條洞院の亭に歌神柿本人丸の供養を行つたことがある。古今著聞集に
   是は粟田讃岐守兼房人丸を愛み給ひて、其圖繪する所は左の手に紙を取り、右の手に筆を握りて、七旬計の人也、其上に讃を書くと云々。此像を白河院鳥羽の寶藏にこめさせ給ふを申うけてうつし取り顯季信仰ありしと也。
とある。又た詞花集卷九に
   修理大夫顯季みまさかの守にて侍りけるとき人々いざなひて右近の馬場に罷りて時鳥まち侍りけるに俊子内親王の女房の車もうできて連歌し歌よみなどして明ぼのに歸り侍りけるにかの女房の車より
    美作やくめの皿山と思へ共和歌の浦とぞ云ふべかりける
とある如く、顯李は美作守となり和歌に堪能の人であつたから、久米の皿山なる和歌の宮の勸請が此人に結托せられたのかも知れぬが、この宮が古く文獻に殘つてゐるのは津山藩士岡村白翁の『美作風土略』(寶暦十二年)と『作陽誌』である。ところで、和歌宮の人麿がなぜ疫病除けとして崇められたかといふに、萬葉集卷二の人麿が石見の任地に在つて死に臨み自ら傷んだ歌に
    鴨山の磐根しまける吾をかも知らにと妹が待ちつゝあらむ
(601)といふのがあり、『和歌童蒙抄』以來、この人麿は單なる病死でなく疫癘などにかゝつて急死したと傳へられてゐることより起つたもので、この歌枕の地に祀られた歌神としての人麿も、さぞ苦笑してゐるだらう。くはしい考證は近日『汎岡山』へ改めて書く約束をしてゐるからそれに讓り、あの人麿の影供の札を保存してゐられる人があつたら、お知らせ願ひたいと思つてゐる。
 
 野田氏の此論文は甚だ興味深いものであるが、ただ、和歌童蒙抄に、『この人麿は單なる病死でなく疫病などにかかつて急死したと傳へられてゐることより起つたもので』とあるのはどういふものか知らん。私は試に藤原範兼の和歌童蒙抄を檢したが、人麿が疫病で死んだとは書いてゐないやうである。
 私は「總論篇」(四五頁)〔一五卷五二頁〕に於て、人麿は或は疫病によつて死したのではなからうかと想像し、續日本紀の文武天皇の慶雲四年の條に、『夏四月丙申、天下疫飢、詔加2賑恤1、但丹波・出雲・石見三國尤甚、奉2幣崗於諸社1、又令2京畿及諸國寺讀經1焉』とあるのをその根據とし、そしてその疫病は恐らく利疫(下痢を證する疾患)のたぐひだらうとしたのは、四月は陽暦の六月に當つてゐたから、利疫の流行時と考へて美支ないのである。若しさうだとせば、人麿は班田使として出張したといふよりも、疫の、流行に關して賑恤に連結あるやうな出張であつたのかも知れない。若しも未來に歴史小説でも書くやうな場合があつたら、少くともこのくらゐの根據(602)に本づくものでなければならぬとおもふのである。
 さて、私の想像説は右のごとくであるが、若しも文獻に人麿が疫病によつて死んだといふことの書いたものがあらば知りたいものである。さういふ意味で野田氏の和歌童蒙抄云々のことに注意したのであつたが、野田氏の文は記憶の誤であつたやうである。
 
(603) 【埴科】人丸大明神碑樹立由縁碑撰文
 
 大八洲のくにの、神のみことゝして、心を天地にひらかし、詞を日月にてらしつゝ、目にみえぬ國の境、耳に聞えぬよのきはみをも、つばらかに思ひやり、まめやかにいひもて行ぬるものから、いかでか鬼かみをも國つちをもあはれと思はせ、かなしと思はせざらめやは、抑此歌よめることは、天地ひらけはじまりける時より出きて、神よより人のよにつたはりけるを、中につき藤なみの名におふみやの大御よ、青によし寧樂のおほむ時よりぞ、誠にさかりにはもておこなはれ玉ひけむ、かかる大御代にぞ、歌よめる人もおほけるを、それが中にも柿本大御神なむことにあやしかりける、かけまくもかしこけれ、いはまくもかしこけれ、高く妙なる大御思ひは、ひとりいにしへ今にあゆめりしを、誰かはしのび誰かはあふがざらめやは、ここに此信濃國松城のみうちに、多々良咸生といへる人なむ、いにしへをあふぎ、今をしのぶ心ふかく、ふりたる跡をも尋ね、おくれたるよにものこれよとて、そらみつ倭のくに葛きの下郡、柿本といふ處になむある、大御おくつきにおひし青き苔をもとめつゝ、ここのはに科の郡、磯並の宮のかたへにおさめ奉り、(604)移し奉けり、こは安永の初つかたの頃になむある、さるを其同じ友がきなりし藤原忠興、月にも花にもひとつ心なりける昔を思ひ、露も霜もふりはてなむ後のよを思ふもの故、かつは大明神のめぐみをあふぎ、かつは友がきのいさをしをとどめむとて、それを石にゑりつけなむ其事をものせよとて、おのれ光枝にもとめぬるならし、抑大御神のみたまは、天にもつちにもみちたらむものから、いづこにもとめ、いづこに移し奉らむとも、ま心のむかふ所にあらはれますらむこと、たとはゞひゞきの聲にあへるがごとくありなむ、いでかくしあらば、彼大御いつくしみをあふぎつゝ、天地にうけ奉らむはさることにて、ふりぬべき後のよにもおなじ心ならむ人、是を見是をきかむ時、遠く藤原の宮のひじりの大みよをしのび奉り、ちかく寛政の今の徳にむくひ奉らずやはあらむ、石にきざめるいさをしここにあらずやも、かゝれば其ことばにいはく、
   みすゞ苅かた山かげにうつしもてみかげたかくもあふぎつるかも 藤原光枝
 
  これは長野縣埴科郡東條村字中川天王山麓玉依比賣神社境内にある人麿碑に因んだ由縁碑の大村光枝の撰文であつて、人麿碑といふのは高さ凡そ五尺、幅二尺、自然石、表面に「人丸大明神」、「前黄門郎公夏書」とあり、向つて右側に、「以和州柿本村人麿冢之苔埋于茲」とあり、向つて左に、「安永四乙未春三月吉日」と彫してゐる。この、「人丸大明神碑樹立由縁碑」はそれに隣るものであつて、光枝の撰文は恐らく寛政六年秋のことであらうか。この撰文中にも「寛政の徳」とあるし、なほ國辞解といふ光枝著(605)の奧書に、「寛政六年とらの秋なが月しなのの國はに科のこほりちくまの河のほとりなる旅ねのやどりにてしるしぬ」とあるからである。なほ松代藩と光枝との關係につきては、山田孝雄博士の、「百二十年にして世に出でたる萬葉集誤字愚考」(アララギ第廿四卷第一號、昭和六年一月)といふ文に委しい。撰文は一志斐雄氏の好意によつて知ることを得た。この由縁碑は高さ三尺一寸方一尺である。なほ、文政の頃この碑のある宮の神職であつた小河原重麿の日記の一節に次の句がある。「三月十八日、人丸明神祭、早朝注連等張候事、上座敷に人丸神像飾り候事、机ニツ重、人丸像上箱に紙を敷き、其下に神像、安置し奉る前に神酒盃臺硯筆紙(但唐机置き此上に備へる)置く、人丸明神に參詣致し立寄、神像拜禮の人へ神酒等出す」云々。右、一志斐雄氏が、昭和十一年二月十一日附の通信に據つた點が多いことを感謝する。
 
(606) 小室氏人麿明神縁起
 
 昭和十四年六月甘七日、山口卯太郎氏、小室|源《げん》さんの來訪を受けた。源さんの女が山口氏夫人で、小室氏は秋田藩士族であるが、家系を溯れば、柿本姓で、『傳(ニ)正三位柿本人麿之末流云云』といふから、源さんも人麿の子孫といふことになる。私が「柿本人麿」を著はしたことが偶山口氏の耳に入り、また今年大阪放送局で萬葉に關する坐談會【吉澤義則、川田順、花田比露思、半田良平、森田たま諸氏】があつたとき、人麿の傳記については何も分かつてゐないといふことを源さんが聞及んだので、その人麿傳の參考になるだらうかとおもつて來訪せられたのであつた。そして種々示された中に、「人麿明神之縁起」と、「柿本氏小室系圖」とがあるから、それを手抄して置くのである。
 
     人麿明神之縁起
 
野州下野國宇都宮大明神者、柿本人麿靈神、是小室之元祖也、因v茲小室代々宇都宮大明神奉v崇2氏神1、後秀只、慶長元丙申歳九月廿九日爲2御堂1造榮、則別當紫雲山寶勝院有2云者1、然所秀年(607)代(ニ)依2養子1知行被2召上1、仍爲2困窮1、右寶勝院滅後、寶勝院儀諏訪之別當移2長善院1、右之依v分長善院明神別當頼v之、其後依2祈祷所1賢固山金照寺頼祭v之者也、享保貳丁酉四月、秀將自刻2人麿像1、堂※[木+存]、武運長久祈之爲、奉納誹諧千句納、是享保三戊戌歳閏十月廿九日賢固山金照寺開2眼之1、猶爲2子孫之1、縁起如v件
  享保三戊戌歳
    閏十月廿九日            秀將(花押)
 
   柿木氏小室系圖
 
 ※[○が三つ]光 聖 常  後漢國人也
  正   王  丹波矢田郡柿本村人醫術通神靈褒譽溢天下以醫心方三十卷選成公義時則人王三十三崇峻天皇御宇人也
  阿 智 王  無官無位
  高 貴 王  孝徳天皇御宇仕曾我入鹿討位四位下丹波宿禰醫術博士
  駒   子  天智御宇仕藤原千方記供※[がんだれ/毛のような字]共討於此始賜坂上性紛
  弓   束  天武天皇御宇仕醫術自典藥頭
  人   麿  持統文武朝仕位從三位進柿本村家任故柿本氏號歌人也和銅四年三月十八日卒是則宇都宮大明神也
(608)  益    麿  參議元明元正朝仕典藥預施藥院主施外見殿聽禁色雜袍
  清   麿  聖武天皇之朝仕從三位昇大友魔取有戰軍忠故官大納言至
  梟   麿  稱徳朝仕位從三位昇歌人風土記作者也
  瀧   麿  桓武平城朝仕平城天皇御宇天下將成宇都宮家|任《(住)》。瀧麿ヨリ分坂上氏及宇都宮家ニ至故ニ坂上與小室之祖ナリ。
  實   行
  秀   頼  淳和天皇仕四位上進
  胤   秀  仁明文徳之朝仕四位上進
  秀   正  文徳清和仕四位上進
  清   秀  陽成院仕位從五位上
  秀   繼  梯本氏右衛門佐 武家下信濃闕小室之宿家|任《(住)》。孫兵衛秀將傳曰、小室ハ下野國白澤ノ内ナリト。但小室ノ臺ト云。秀精考ルニ、中古之先祖子細アリテ下野國ニ下リ年久居住シテ其臺ニ小宴ノ名アルヘ《(ハ)》下野ノ白澤ニ小室ノ臺アリテ是ヲ所トシタルニハアルベカラズ。
  秀   胤  小室冠者右衛門佐依柿本氏崇是愛柿
  秀   次
  秀   行
  秀   方
(609)  秀   宗
  秀   門
  秀   綱
  秀   宣
  秀   政
  秀   光  土佐守下野守長久元庚辰年十二月十日七十八歳卒
  秀   義  小室冠者信濃國小室ニ居也、延文元年二月廿六日六十三歳ニテ卒。
  (中略)
  秀   綱  勘三郎、勘右衙門、土佐守、文禄四乙未年六月二十八日卒。常州水戸志加之御番ヲ勤ム。
  秀   只 後ニ秀|光《ミツ》改、土左介、孫兵衛、常陸ヨリ參。慶長年中大坂戰場ヘ義宣公御供ス。寛永二十一年二月廿六日卒、行年七十五歳、法名來阿彌陀佛。秋田之城外常盤山龍泉寺ニ葬ル。家傳云、「小室者柿本氏之末ニテ野州下野國白澤ニ小室ノ臺ト云所有リ、右ノ地名ナリト申傳。同國宇都宮大明神者小室之氏神也。因テ秀只慶長年中宇都宮大明神ヲ勸請、屋敷ニ奉建所之氏神堂是也」
  (下略)
 即ち秋田の小室家は秀只にはじまるが、信濃、下野、常陸と關聯して、常陸から秋田に移住し、連綿として今に至つたこととなる。人麿明神縁起に署名した秀將《ひでまさ》といふのは、元禄三庚午年三月二十二日生である。
 按ずるに、今の宇都宮市に鎭座の國幣中社二荒山神社は舊名宇都宮大明神であるが、祭神が人(610)麿でないことは明かであるのに、和漢三才圖會に、『在2宇都宮城艮1、社領千七百五十石。祭神柿本人麻呂(ノ)靈』とある。それについて、地名辭書に、『是は當社の寶庫に、古き人麻呂の畫像あれば、其をやがて神體なりと思ひ違ひし非事なるべし』とあるから、或は、小室氏の人麿明神も、和漢三才圖會と同系統の傳説に據つたものであらうか。誰かの考證を聽きたいものである。
 
(611) 出雲伯耆より姫路・新見
 
 昭和十一年五月一日附を以て、島根縣八束郡の果山氏から來書があって、徳川時代の山陰山陽の交通筋を報じて呉れた。出雲・伯耆邊の人々が山陽道に來る道は、例へば伯耆會見郡溝口からならば、一方は四十曲を越え、大山の麓原を過ぎ、大山を左に見て作州に出で、作州津山の城下を過ぎ、姫路に出た。一方は二部から福岡・黒坂・神戸上を經て備中の新見に出た。今參考として文政三年四月の道中日記を抄すると次の如くである。
  四月十五日。發足致し米子迄船にて見立人母其外村方頭分廿人計り米子にて盆いたし分ル夫より溝口泊り。十六日。一、三十四文板井原中飯、一、貳十五文はね茶代、一、三百六十文三鴨泊り。十七日。一、三十文久せもち代(同所にて中飯)、一、十貳文船頭町わらじ、一、三百文津山より勝間田馬代、一、四百六十文津山泊り。十八日。一、三十五文なら原村中飯、一、十文|新《(江)》見茶代、一、三百八十文佐用泊リ。十九日。一、三十五文千本中飯、一、廿文林田久保※[土+峠の旁]茶代、一、四百文餝西泊リ。廿日。一、廿文小遣ひめじ、一、貳百文高砂中飯(以下略)
(612) なほ、果山氏は文化三年渡邊靱負の道中日記を抄して呉れた。これは距離を明細に書いてゐる。
  松江 二リ七丁 出雲郷 三リ四丁 安來 米子 二リ九丁 溝口 一リ 法正寺 三リ 二部 一リ半 根雨 二リ 板井原 二リ廿丁 新庄 一リ半 三鴨 三リ 勝山 二リ 木山 二リ 久世 一リ八丁 坪井 三リ 津山 三リ 勝間田 三リ 土井 四リ 佐用 三リ 三ケ月 二リ半 千本 一リ廿ニ一丁 此角崎 二リ十六丁 餝西 一リ半 姫路
 果山氏は、若しも人麿が松江を通り米子まで來て、山陽道に來るやうなことがあつたならば、かう道筋を通つたのではなからうかとも想像して、通信してくれたものであらう。私は果山氏に感謝して居る。
 
(613) あての木
 
 昭和十年一月三十一日の大阪毎日新聞島根版に、『九〇〇年前航路標識あての木を河底から發見、石見高津海岸大津浪の生々しい惨害の跡を物語る』といふ題で、高津河の底から巨木を發掘した。それは古へ人麿を祀つた鴨嶋に聳えてゐた大樹で、恐らく石見海岸を往來する舶の命とも頼む航路標識ではなかつたらうかといふのである。私はこの結論は信ぜないが、興味ある記事だから次に轉載する。
 
  今を去る九百年前石見海岸を襲うた萬壽三年五月の大海嘯に跡方もなくこの地上から姿を消したと傳へられる島根縣美濃郡高津港海岸唯一つの航路標識――あての木が目下改修工事中の高津川廿尺の河底から數日前發見され今さらながら當時の生々しい惨害の跡をもの語つてゐる。
  發見された場所は高津河口から約一里上流の高津町大字飯田地内鐵道線路西側の河中で百馬力の威力を誇る鋤鏈式掘鑿機を使用して同附近に堆積する十二萬立方メートルの土砂を掘鑿作業中偶然にも掘當て同機械の力をもつてしても如何ともすることが出來ないのでチエーン・ブロツクを使用連日數十人の人(614)夫が交替で漸く巨躯を地下から掘起したものである。この埋木の長さは約六十尺、周圍三十尺といふ素晴らしい巨木で樹齢少くとも五百年は下るまいといはれ結局二千年前から同海岸にそゝり立ってゐたものと推定されてゐる。ところがこの謎の巨木をめぐって次のような奇しき傳説が今もつて傳へられ飯田部落の古老がひとしく口を揃へてもの語るところはかうである――
 萬壽の大津波で人丸を祀つた岡のあつた鴨島の東端を當時高津港の入口にそびえてゐたあての木から見透しさらに牛の角三本ほどの東寄りがそのころ千石船の通ふ航路になつてゐたもので大津浪以來海岸の地形は見る影もなく一變し同時にこのあての木も高津海岸から永遠に姿を消したといふ、いはゞ巨木あての木のあては的の意を現し石見海岸を往き來する船の命とも頼む航路標識になつてゐたものらしい。
かうした傳説の主人公あての木が九百年を經た今日發見されることを誰が豫期したことだらう、人々は傳説のいつはらざることを奇跡の如く信じ異口同音に驚異の眼を見はつてゐる、しかしこの埋木あての木が植物學上何科に屬するものであるか斷定を下すものがなくそれだけにとけぬ謎として數々の話題を提供してくれるわけである。
高津川改修事務所ではこの意外な掘出しものに對して近く學界の鑑定を乞ひ正體をつきとめることになつたがいづれにしても珍しいものだと毎日おすな/\の見物人で黒山を築いてゐる。
 
(615) 雑録
 
 【武江年表】卷七
 文化年間、淺草寺奥山三社權現の後へ、人麿の社を建る。社邊に山吹萩の類を裁、景色を造れり。
 
 【遊歴雜記】 人丸の社前岩本乾什が碑。同寺(淺草寺)境内|人丸《ヒトマル》大明神の社前に乾什《ケンジユウ》が碑あり、これは享保の頃淺草竹門に住し、俳諧《ハイカイ》を業とせし、岩本乾什といひしが、彼日本橋品川町に名だゝる河東ぶしの初代河邊や藤右衛門としたしく交り、河東節の文句を數多作りて、標題を竹婦人《タケフジン》となづけたり、貴志沾州《キシセンシウ》の門人にて、はじめは呉丈《ゴゼウ》と號し千歳兒と稱しけり、俳諧の風は律儀にして當世のごとくの杜撰《ヅセン》にはあらず、寶暦九己卯年二月十七日歿す、歳八十一、文化十二乙亥年に至りて最早五十七年におよぶ、死後乾什が四季の發句を鍛付て、社中打寄て碑を建たる也、これ乾什生涯ふかく人丸明神を信仰せしまゝ爰に建しが、碑左のごとし、
 
(616)    寶暦九卯年如月十七日 鷹一叟卒
   雪解けや八十年のつくりもの
   すゝしさや現に聞し物かたり
   月今宵足跡つかぬひかりかな
   立寄と花に追寄としのくれ
      寶暦十一年仲冬十七日建之發起一柱
                     珍重庵
                造立  雪 齋
 
  ○註。遊歴雜記五編十五卷は小石川小日向水道町廓然寺(眞宗)前任釋敬順(號十方庵、名大淨)の著、その第二編には文化十二年七月無徳〓茶眞人榮道の序あり、原本内閣文庫所藏、江戸叢書四所收
 
 【砂子の殘月】下。 湯島本郷上野邊。日暮淨光寺内に人麿社あり、人麿塔は、南|部《(都カ)》柿本寺にあり、又和州初瀬の近邊にある歌塚、是人丸の墳墓なり、又洛西の鳴瀧妙光寺人丸堂あり、木像は俊頼の作なりと人いふ、播州明石にも又あり、各三月十八日御影供を修す、是人丸忌日なり、人(617)丸終焉の地は石見の國なり。
  ○註。著者未詳、原本は東京文理科大學所藏、幕末の著述、江戸叢書九書收
 
 【住吉三神號大事】【○備前吉備津彦神社所藏】
 住吉三神ハ日神ノ御異名也假令夜ハ日光北方ヘ※[しんにょう+堯]坐ス、是則地ノ底ヲ御通※[しんにょう+堯]アルナリ、其時ハ底筒男神ト申、又ハ底土命《(ト脱カ)》申、東南ニ現坐ス時ヲ中筒男神ト申ス、又ハ赤土命ト申ス、西乾ニ現坐ス時ハ表筒男神ト申ス、又ハ磐土命ト申、三聖者、衣通姫、赤人、人丸是ナリ、底通ヲ衣通トシ、明日《アカヒ》ヲ赤人トシ、日留ヲ人丸トス、皆是本名を秘スル故也、衣通姫ハ底土命ノ化現地、底通日同訓也、赤人ハ赤土命ノ化現地、明日ノ同訓也、人丸ハ磐土命ノ化現地、日留ハ磐土ノ習ナリ、假令磐ト表トハ五音相通同訓也、故表筒ト磐土ト同名也、乾方ハ天ナリ、西乾ニ日留坐ス心ニテ表筒ト申ナリ、右能思惠、深憶陪、
  ○註。右は京都吉田家(代々神祇長上と稱す、神祇大副となる、全國神職の過半を支配す)、唯一神道傳授の一である。足利末期のものか、或はも少し下りても徳川初期のものであらうか。
 
 【雜説嚢話】(林自見正森輯録)
(618) 或ハ曰、柿本(ノ)人丸有(テ)v故謫(セラル)2上總國山邊(ニ)1。時(ニ)加(フ)2萬葉集判者(ノ)之内(ニ)1。其時改(メ)2姓名官階(ヲ)1號(ス)2正三位山邊(ノ)赤人(ト)1。因テ人丸赤人ハ一人二名也ト云。
 
 【尾張志】【春日井郡 寺院禅宗曹洞派】林泉寺 田幡村にあり、吉祥山と號し、熱田の圓通寺末也、はしめ永泉寺といひて、熱田の田中町にありしを、享保十二年二月こゝに移し、寶暦二年今の寺號に改む、本堂、十一面觀音の像を安置す、柿本朝臣人麿杜、境内にあり、勸請の年月定かならず、頓阿法師の作れる人麻呂の尊像を安置す、
 
(619) 柿本神社參拜記念
 
 【高津の柿本神社】
 高津の柿本神社には、正一位々記、宣命、太政官符等の寶物あることは、既に總論篇で記したとほりであるが、その他、明治三十一年四月八日宮内省より、思召を以て萬葉集古義一部御寄附あらせられる旨の達があり、大正十二年三月十六日には、千二百年祭執行につき、明治天皇御集一部と幣饌料百圓御寄附あらせられる旨の達があつた。なほ名士の短册色紙のたぐひ多數にのぼつて居る。また、人麿木像の安置せられてあることも既に記載したごとくである。
 その他、高津の柿本神社でも、參拜記念のみやげとしては杯、箸のたぐひ、今ならば繪ハガキ等を賣つてゐること他の神社とかはりないが、ここに特有なのは、『筆草』といふのがある。「高津案内」の文は次の如くである。
  柿本神社境内に筆柿と云ふ柿の樹あり。此の木老木となれば、其の穗をつぎて植ゑ、古より今に至りて絶えず其の葉は殆んど櫻に似たれども、實は正しく柿にして其形極めて小さく、突端やゝ黒みを帶び筆(620)の穗の如く珍奇のものなり。近き頃里の熱心なる崇敬者の家門に、偶然に生出たる柿樹あるを見出し、當社に獻木せんとして極めて注意を用ひ愛育せしに未だ幾年ならずして大小種々の筆柿結實し年々變る事なき有樣に、愈神異の感に打たれ鄭重に手當して境内に獻木せる事あり。又此地の濱吹上の松原の海邊に盡くる邊りに筆草とて筆に似たる草の生ひ出づるあり。此草全く莖穗共筆に似て又書用を辨ず。柿本人麿朝臣御幼少より常に此を用ひて、言の葉を記し給ひしと言傳ふる尊き縁由により雅客の珍重する所なり。
 この筆草のことは、柿本神社にふさはしい草であるが、その他にも記事がある。蒹葭堂雜録には、諸國筆草の圖とその説明とがある。
  攝播《せつばん》の海邊に生《おふ》筆草《ふでくさ》といへるあり初春より青葉を生ず其葉細長く縁《ふち》に細《こま》かききざあり小なるは葉の長さ七八寸大なるは一尺三四寸もあり大概《おほむね》菅葉《すげのは》の如し冬に至つて葉《は》枯《かれ》又春を迎へて葉《は》生《しやう》ず年々如比《かくのごとく》にして根|絶《たゆ》る事なし冬の頃風|烈《はげ》しく吹て海あれ濤《なみ》岸を穿《うが》ち磯邊の土砂《どしや》を吹上るときに至つて自ら草の根あらはれ出る是を採《とり》て乾《ほし》からし筆に製す筑前國にてほ天生筆《てんせいひつ》といふよし伊勢國の海邊にも生ず又信州|安曇郡《あつみこほり》千國村の山中にも生ず是は夏の日とりて日干よし北國にては蓮如筆《れんによふで》と稱す是は蓮如上人始めて此草にて書せられし故斯は號《なづ》くといふ尤《もつとも》北國に生ずるものは長《たけ》みぢかし全く寒氣強きゆへなるべし【尚石州の海濱よりも出す攝播の海濱に生ずるもの圖のごとし】
その他、北邊隨筆にも蓮如上人の筆草のことを記し、本草綱目にある※[草がんむり/師]草で、弘法むぎとも云(621)ふと云つてゐる。なほ、半日閑話、遠山著聞集等にも記事がある。要するに、筆草は※[草がんむり/師]草、濱むぎ、弘法むぎのことであらう。
 
 【明石の柿本神社】
 明石の柿本社參拜記念のみやげ類にもいろいろあるが、津田騰三氏から贈られたみやげのうち、大きい貝の内面に『ほのぼのと』の歌をかき、小さい陶製の人麿が籠るやうにして入つてゐる、人麿の衣は青色をしてゐる。またもう一つの陶像人麿は黒色の烏帽子をかむり、黄色の衣を著てゐる。もう一つの陶像は黒褐色をしてゐる。さういふ種類の人麿像がいろいろある。次は酒杯であるが、その小さい杯の内面に人麿の像がいろいろ描いてある。あかし人丸盃と稱して居る。その他、人丸山名産酒茶の良媒盲杖櫻。明石名産さくら漬等、これ等は『ほのぼのとまことあかしの神ならばわれにも見せよ人丸の塚』といふ物語に因んで、人麿に關係があるのである。
 それから神社の御いただきもの、柿本神社御大祓、柿本社御守護、柿本社火災除御守護、柿本社御祈祷御守護、柿本神社御大麻、柿本神社御筆柿、御神供。
 それから、明石人丸山柿本神社の人丸像、(畫仙紙に印刷ほのぼのとの歌あり)。柿本人丸碑銘(總論篇に收)、縣社柿本神社案内。スタンプ(柿本神社、人丸山縣社柿本神社社務所)。繪ハガキ。案内は(622)最近の撰で、簡明に説明してあつて有益だから左に轉載する。
 
        兵庫縣明石市人丸町三四三番地
             縣社 柿本神社
 
  一、祭神 贈正一位柿本人麿朝臣
  一、由緒
   (イ)創立沿革 社傳ニ曰ク、仁和丁未ノ創建ナリト。元和四年領主小笠原忠政幕府ノ命ニヨリ、明石郡船上ノ城ヲ赤松山(今ノ明石城跡)ニ建城ノ際、本社ヲ今ノ地ニ遷シ、社殿門※[麻垂/無]ヲ改造ス。此ノ移轉ノ際城内本丸ニモ小祠ヲ建テ、分靈ヲ祭祀シ、舊蹟ヲ止メタリ(今城内本丸ノ西南小丘ニ舊蹟ヲ存ス)。明治十二年七月六日、郷杜ニ加列。大正元年十一月十四日神饌幣帛料供神社ニ指定セラル。大正十五年三月二十三日縣社ニ列セラル。
   (ロ)皇室ノ御崇敬 中御門天皇、享保八年柿本朝臣ノ千年祭ニ當リテ、同天皇ハ吉田侍從ヲシテ神位神號ノ宣下アリ。即チ同年正月十九日、京都所司代松平伊賀守ヨリ上京方示達アリ。同年二月十八日、傳奏中院邸ニ於テ中山大納言及中院大納言列座ノ上神位正一位神號柿本大明神〔神位〜右○〕ト宣下。奉書拜戴。尚寶祚延長歌道繁榮ヲ懇祷スベキ旨ヲモ命ゼサセ給ヘリ。○仙洞東山天皇ノ御時、傳奏東園邸ニ於テ、東園大納言坊城大納言列座ノ上、三ケ年間寶祚長久御歌道繁榮ノ勅願ヲ命ゼラレ給ヒ、勅使桂雅樂御撫物ヲ御光臨在ラセ給ヘリ。○法皇後西院天皇亦三ケ年間毎月十八日御祈祷スベキ旨ヲ仰セ出サセ給ヘリ。○櫻町天皇延享元年初秋、仁和寺宮御執筆正一位柿本大明神ノ額ヲ衛寄附アリ、(623)同年八月廿八日同天皇ノ古今集御傳授ニヨリ、傳奏久我大納言葉室大納言列座ノ上七日間ノ勅願ノ命アリ、御撫物御臨光在ラセ給ヘリ。○桃園天皇寶暦十年、古今集御傳授アリ、傳奏姉小路大納言廣橋大納言列座、御撫物臨光在ラセ給ヘリ。○後櫻町天皇古今集御傳授ノ節、明和四年御撫物御臨光アラセ給ヒ、御製御短册五十首ヲ御奉納アラセラレ、同年四月廿九日傳奏前大納言姉小路ヲ以テ同年以後永年勅願所ニ仰出サセラレ、以テ寶祚延長國家太平歌道繁榮ノ御祈誠ヲ抽デ、毎年三月祭祀ノ後傳奏ヲ經テ如例御守札獻上、其御撫物返上ニ及ビ、然ル上尚更ニ申請被是聊モ疎略無之樣進退スベキ旨仰出サレ候趣御室御所ニ於テ達セラレ、爾來御歴代毎年御撫物御臨光慶應二年迄奉仕シ來リシモ、同三年正月御沙汰ニヨリ御撫物奉還セリ。○明和八年三月十日ヨリ四月十日迄臨時大祭典ノ節御進納物。禁裏御所ヨリ、白銀十枚御臺付。女院御所ヨリ、白銀三枚御臺付。仙洞御所ヨリ、白銀五枚同上。准后御所ヨリ、白銀三枚同上。○文化十一年三月三日ヨリ四月三日迄臨時祭典ノ節御進納物。禁裏御所ヨリ、白銀十枚御臺付。東宮御所ヨリ、白銀三枚御臺付。中宮御所ヨリ、白銀三枚同上。○大正天皇ノ御時、大正五年四月五日、東宮殿下關西地方御行啓ノ砌御參拜在ラセ給ヘリ。
   (ハ)武門武將の崇敬 天正六年春、羽柴筑前守秀吉織田信長ノ命ニヨリ、中國征討ノ軍ヲ進メ當地ニ來着シ、三木城主別所小三郎長治ニ勸降ノ軍使ヲ遣セシモ、長治是ニ應ゼザレバ、愈三木城征伐ト決シ、當神社ニ其ノ軍利ヲ祈リ、同七己卯年三木城ヲ圍ミ、同八年庚辰年正月十七日落城トナリ、同九年四月十一日附ヲ以テ當神社ニ三十石ノ領地併山林竹木諸役ヲ免ゼラル。其ノ文ニ曰ク、播州明石人丸社者和歌第一神仙而諸願之靈顯甚速也仍之大明石村新開之田地高三十石寄附山林竹木等永免除之全可受納也。天正九年四月十一日。筑前守、秀吉花押。別當坊。○元和二年丙辰年、小笠原左近太夫忠政當地ヲ領シ、居城ヲ舟上ヨリ赤松山ニ移轉ノ際、徳川二代將軍秀忠公ノ命ニヨ(624)リ、姫路城主本多美濃守城地見分小堀遠江等奉行トシテ築城ニ際シ、元和四年今ノ地ニ移リシ事前述ノ如シ。又築城ノ爲元ノ社領地大半ハ家中ノ屋敷ニ充テタルニヨリ、替地トシテ明石郡長坂寺村ニ於テ三十石ノ領地ヲ寄附セラル。同四年正月十六日生木伊勢ヲ人麿廟社ニ抱ヘ、大森谷村ニテ高五石ヲ充テ、同四年八月十三日巫子屋敷(龜ノ水西側)下渡サル。同七年五月二日中庄村ニテ、十石ノ領加増(高合セテ五十石)、境内山林竹木諸役免除(采邑私記)及市川惣助原與右衛門ヨリ山林境目添状等下附ノ由、慶安元年八月十七日徳川三代將軍家光公ヨリ社領四十石ノ朱印ヲ賜ヒ、別ニ社樂料五石ヲ寄附セラル。其ノ文ニ曰ク、播州國明石郡人丸社々領同郡長坂寺村ノ内三十石中庄村ノ内十石之事任先規令免除之如有來永不可有相違者也。慶安元年八月十七日。朱印。○靈元天皇寛文四年冬、松平日向守源信之人麿卿碑銘ヲ廟前ニ建設、今尚現在セリ。弘文院學士林子撰ナリ。○同八年七月、松平日向守信之御本殿及幣殿ヲ修補シ、又延寶四年二月本殿屋根替ヲナス。○元禄四年四月松平若狹守直明本殿其ノ他修補ス。○寛永六年七月松平左近衛督定常本殿拜殿鐘樓等ヲ修補ス。○寶暦八年八月廿二日松平左近衛督直純本殿ヲ再建ス。○寛政十一年十一月二目松平左近衛佐直周御本殿ヲ修補ス。○明治十八年拜殿改築。○大正元年社務所新築。○大正十一年人麿公千二百年祭ニ就本社屋根ヲ銅板ニ改葺ス。
         其ノ他
   (1)盲杖櫻 昔筑紫ニ盲人アリ、ハル/”\此社ニ詣デ、『ほの/”\とまこと明石の神ならば我にも見せよ人麿の塚』、カクナン詠ミケレバタチマチ二ツノ目ヒラキテ始メテ物ヲ見ルコトヲ得タリ。盲人コヨナフヨロコビテカヽレバ力トタノミシ杖ハ用ナシトテ廣前ニサシ捨テサリヌ。然ルニ其ノ杖ヨリ枝葉生茂リ來ル春毎ニ花咲キヌレバ名付ケテ盲杖櫻トゾ云フ。
(625)   (2)御筆柿(御神木) 播磨潟明石ノ浦柿ノ本ノ宮居ニ柿ノ古木アリ。昔此ノ神持統文武ノ朝ニ仕ヘ給ヒシ時石見ノ國ヨリ都ヘ通ハセノ路次必ズ此處ニ立寄ラセ地ノ風景ヲ愛シ給ヒ、或年我ガ國ニ結ビタル草柿ノ實ヲ一ツココニ竄シ我ガ敷島ノ道ト共ニ榮エヨト曰ヒシニ、果セルカナ芽ヲ生ジ發葉シテ今ニ繁茂シテ年々實ヲ結ベリ。然ルニ此ノ寶口ニ含メバ齒ノ痛ミタチ處ニ止ミ、マタ子ヲハラメル婦人此ノ實ヲ懷中スレパ難産ノウレヒ無シトテ、乞フ人ノマニ/\コレヲ授ケヌ(口碑)。
   (3)八房梅(舟形梅) 元禄ノ昔、赤穗城圭淺野工匠頭長矩公ノ臣、間瀬久太夫主家没落ノ砌此ノ地ヲ過リ、大石良雄ト共ニ此ノ神ニ主君ノ仇ヲ討タンコトヲ祈誓シ、鉢植ノ八房梅ヲ自ラ地上ニ移植シテ素願ノ占卜トセシニ、枝葉繁茂シ無事主君ノ仇モ討タレシニ依ツテ永ク記念セシモノタリ。舊八房梅ハ經年ノ爲メ枯死シ月照寺境内ニアリ。
   (4)龜ノ木 舊參拜本道山麓ニアリ。清水甘露自然ノ山水ニシテ、四時滾々トシテ湧出シ、旅人ヲシテ慰マシム。此ノ水茶ニ適ストテ茶人ノ間ニ珍重セラル。
 
(626) 梯本人麿御傳 中務卿兼明親王撰
 
 いにしへ、孝照天皇の皇子、天足彦國押人命六代のすゑたえずつゞかせ給ひて、敏達帝の比よりひとしほ時めかせ給ふ事あり。その御すゑ天智の御時に姫みこなりしをめして幸し給ふとなり。しかれどもいまだ此みかどたゞ人にてわたらせ給ひしかば、御心ざしはせちにおぼしめしながら、萬かすかなる御もてなしなり。程へて御くらゐにのばらせ給ひてその後もなを御うと/\しきにはあらねど、打つけに角と色めきうち出させ給ふ事のつゝましさに、人しれぬ御あはれみもふかくて、つねに見そなはし給ふを、かしこくかたじけなき事におもひ給ふ。いつとなく月日をなやみあかしつゝ、物やみとなりて里おりすべき事など、つね/”\なげき奉り給へど、上の御こゝろもいたましううしろめたくおぼしけるにか、やすらかにはゆるし給ふべき御けしきもなし。かくて程へにければ、いとゞ心ちなやましう打ながめがちにありしも、いやましにくるしがりなやみまさるやうにやおぼへ給ひけん、ひたふるに今は奏しなげき給ひけるにぞ、御かどの御心もくるしう心もとなきやうにはありながら、しぶ/\にゆるしおはしましけるまゝ、けふなん里へとて(627)まかり出あひなんとするおりしも、ふときえいり給ふやうにて、御かきのもとにひきかつぎふさせ給ふ。付そへるおもと人などあしをそらに手をむねにあてゝ、こはいかなる事にかとあまたゝび人はしらせ、くすしもとめ出、あるひはしかるべき御いのりなどいへども、にはかの事なればとかくいひなげけどもかひなし。しばししてたすけおこしたてまつり、水など御かほにそゝぎてやう/\にかしづくほど、やがて此ところにてなん、おもひがけなく皇子一かたやすくうまれ出させたまへりける。此よしきこしめされし上の御こゝろおもひやるに、かねて心もとなう見そなはし給ひし御ものおもひも少ゆるびたるやうにはおぼしけれど、御かきのもとにて生れ出させ給ふが、つゝましうのみぞ今はおぼさるゝとかや。されども御名を給はらせ給ふとて、御かきのもとになりいで給ふをあらはになづけて、柿の本と給ひ御名を人丸となんよばせ給ひける。この御沙汰もいまだとりあへぬほどに、ひきつゞきてなをなやましうたへちり/\せさせ給ふよし、やすらかなる御心もせさせ給はぬに、又一かたの皇子おなじ腹よりつゞきてなり出給ふ。これなん世にいふめる二子とかや。めざましう耻かしき事に今さらおぼしなりにけれど、それをさへおぼしいたはり給ひつゝ名を赤人となん給ふも同じ除目にてぞありける。山邊と姓を給りし事はかくてやまんとおぼすうへにとの御心にかありけん。さきだちて人まろうまれさせ給ふが上に、時をもすぐさず又と申がゆへなればなり。あにおとゝ同じみすがたにしも、才などもましおとりなく、(628)ひとへに御父みかどによく似させ給ひながら、二子になり出させ給ふがゆへに、御くらゐにつかせたまふ事はなし、ためしなければなり。されどたゞ人にてもおかせ給ひがたく、うとくももてなさせ給はず、やゝ人ならせ給ひては、内外わいためなくまうのぼり給ふ事たゞ人のやうにもゆめつぶやく人もなかりしかど、おもてたちたる時はみづからしりぞきつゝしませ給ひて出まじらひ給はねば、かへりて人はわざとも御そゝのかし申てまいる事もぞおほかりけれ。のち/\は持統文武の時につかへ、あるときは志賀の故郷にまうでては春草のながめをなし、ある時はいかづちの岡の御あそびにまいりて皇威のたふとき事をいはひ、芳野のみゆきにはんべりては山のさくらをしら雪かとうたがひ、紀の路の供奉に小松を引てはのちのさきはへをねがひ、長の皇子、高市のみこ、新田部弓削のとねり、忍坂部の皇子にしたしみ、泊瀬部の皇子、丹比眞人にもうらなくかたらひまし/\ける。あるひは草壁の太子の天位につかせ給はぬをなげき、高市のみこをしたひては、壬申の御いくさのいさをしをつらね、明日香の皇女をおしみ、吉備津のうねめをかなしみては、朝霧夕ぎりの詠歌あり。あるひはあめにみち地にあらぶる物、よつの時うつりかはるにくらべ歌、たとへ歌そのかずあまた度なるめり。ましてその外の短歌旋頭歌相聞などの諸躰にもこと/\く渡りてその妙を得たまへり。赤人もおなじ歌ににてわたらせ給へれども、猶世に高く遠く千とせの今に人の口すさぶものは、このみこやをのづからすぐれ給ひけんかし。中にも羈(629)旅のおもひをのべて、且あかしのうらの詠歌古今におよぶものなくやとぞ。兼て御こゝろにはその時のまつり事をのみかけて、世をあはれび給ふのみふかく心とはし給ひけると見えたり。此ひとすぢにひかれて、赤人とおなじく別れて、おの/\ともにはるかなる旅にあそび給ひては、歌まくらの名を後の世にいひわたる事のはしをおこし、月にえいじ花にうそぶきつゝありきのみしておはしけるなり。此ゆへにその見めぐり給ふけるあとをとへば、播磨讃岐筑紫のはて、いたり給ふ所ごとによみ歌なきにあらず、おのづから人丸を以て三はしらとし奉るの心にやかなひけん。かしこければしらぬよしをぞ申める。赤人はまた關のひんがしになんうそぶきありき給ふとなり。かくてそのおひらくを石見のくににゐまして身まかりなんとしける時、歌よみし其妻依羅娘御かへしの歌もあり。時はまさに文武の末にてぞありける。しかるをあるひは聖武の御時もなをいませりといふは非なり。おほきみつのくらゐをきはめ給ひ、爵は大夫にておはせし事は、貫之が説にてあきらかにしれるを、三品にのぼり給へりとあらそひ、又は六位におはり給へりといふ説、みなそれにはあらず。これは國史などにもしるして、天平勝寶のころ、けんたう使の副使に從五位上みちのくの介玉手の人丸あり、山しろの史生上道の人丸などもあり、此ゆへにその異なる姓氏をしらずして、名のひとしきを以て、人丸ある時はもろこしに渡り給ふのひが事をしるして、そのたゞしきよんどころをしらずやありけん。むかしならのみかど萬葉しうをゑらませ給ひし時、(630)人まろのよみ給へる歌、四百首ばかりをひろひとりて入らせ侍るを、貫之もまたしたがひて古今をゑらめる時おほくその歌をとりて入るを、これをおしたふとみ、先師人まろとかけるをはじめとして、後の世の撰集ども皆その例にあらざるはなし。塚はいまなを石見の國高角の山にあり、これそのおはりをとり給ひし所なればなり。
 藤原の兼房は和歌に執心ふかく、なをかきのもとの古風をしたひ、月のゆふべ花のあした雨の日風の暮、見るもの聞ものにつきても、かならず歌を詠じて人丸にさゝげ、此みちの秀逸をねがふ心ざしふかく、年月を經て感應あらん事をぞひとへにいのりける。ある夜の夢に見けるやう、所はあふみなるひんがしさかもとのほとりとおぼへて、梅の花さきみてるかうばしき林のもとに、年のほど六十ばかりの人にもやと見えしけだかき人の、おほきみすがたに、さしぬきしたるが、右の手に筆をもち、左にたたうがみたづさへ、おしまつきによりそひ、ふかくかの梅をながめて物など案じ給ふけしきなり。兼房ゆめのうちにあれは何人の夢に物しておはしけるにかとふしんもはれねば、かたへの人にとふとおもふに、誰とはしらず、あれこそいましがつねにゆかしくむかひたてまつるかきのもとのあるじになんとこたふると見て、やがてそのゆめはうちおどろきてけり。うれしくもかしこく、御見そなはしの程のわすれがたきに、いそぎ繪かく人をひそかにま(631)ねき、夢に見たてまつりしありのまゝを、とかくもこのみて、秘藏しつゝ、人にも拜せさせず、我のみさしむかひていよ/\秀逸をねがひけるもしるく、歌かずもおほく時のゑらびには入たりけるとぞ。やがてその身まからんとする比、白川のみかどにたてまつりけるを、鳥羽の寶藏におさめられて侍り。其讃に、
   梅のはなそれとも見えず久かたのあまぎる雪のなべてふれゝば
といふ歌を能書の公卿してかゝせけるとぞ。其後修理大夫藤の顯季ことに歌道の秀逸を得、みかどにもいとかしこくおもはれまいらせけるまゝに、つゐでを以て奏して彼像を申おろし、信茂といへる畫師にこれをうつさせ、心ゆくばかり表補繪して元永元年戊戌の夏、日をゑらみて人丸の影供をまふけらる。其比の儒に秀たる人なればとて、大學頭藤原敦光にあつらへ此讃をかゝしめたり。清書は源の顯仲ぞ書ける。
  倭謌之仙 受性于天 其才卓 爾厥《(其)》鋒森然 三十一字 詞華露鮮 四百餘歳 來葉風傳 斯道宗匠 我朝前賢 涅而不|緇《(滓)》 鑽之彌堅 鳳毛少彙 麟角猶專 既謂獨歩 誰敢比肩
 此時源俊頼以下の名匠おほく詠歌あり。後に顯李ほの/\の詠歌を吟ずる事三たび、酒宴してしりぞきぬ。今世に人の影をつくる眞像これをはじめとぞ。但兼房が見たてまつりし夢中の人丸はえぼしにあらずとなり。尤さもあるべし。えぼうしは後の事なれば、顯季くはゆといふ。
(632) 化現の人まろと申は、かけまくもかしこきいはれある事にて、おぼろげの人に沙汰し申すべき事にあらずといへども、あら/\そのありさまをあかさば、和歌の三神をゆるし傳ふる時、太陽の精の地よりのぼるが、此あきつしまをおほひてらし給ふかたちをさししめして、あまてらすおほんかみの御威光といたゞきまつり、やがてそのひかりのかげの西にいりまさんとするを、そのまゝに日留るとなん傳へ來れるなり。人にとりても非をあらたむる時は是とし、これをかしこき人とす。しかれば非をとゞむるはまつたくよき人なりとつたふるがゆへに、君につかへて忠あり、父母にしたがひて孝あり、友にまじはりて信ある時まことある人なるべしとぞ傳へて侍り。
 
 權化の人まろと申あり。住よしの御神を申なり。御いみなを人たると申、又文武天皇の御いみなは山丸なり。我本身の名の一字と帝の御名の一字とを取て、人丸といふとはいぶかしき説なり。これに三神の傳を書かすめしといふ説もあり、又しらず書にかきたりといふ説もあり、そのいぶかしきはよき人につたへてたゞしき説を聞てぞ、むねははらし侍るべきにや。
 
 右一帖は時のみかどより勅問の事ありて傳へおける一ふしをなんかきつらね、奏覽にいれ(633)なんとするの草なり。火中にすべかりけるを、人にこはれてかくなん。
      此本甲州儒醫磯三節より懇望して終に如本意傳畢
 
(634) 超大極秘人丸傳
 
 人丸は、石見國堵田といふ所の人家の林のもとより、童形にて出現まします、尤仙人也、没期も同所也。人丸集に
     石見國にてなくなりぬべき折よめる
   は《かイ》も山の岩根|し《にィ》まける我をかもしらずて妹が待つゝあらん
 説々多けれども、家集にある上は是に可决擇、時代は日野敦光卿人丸尊像の賛に、仕持統文武之聖朝云々 人丸之時代清輔袋草紙などに、さま/”\あれども、天智、天武、持統、文武、元明、元正此六代ありし人也。紹運録曰、人王五代孝|照《(昭)》天皇、天足彦國押人命《(孝靈天皇)》、柿本の祖とあり、亦敏達天皇の御末ともいふ。吉田神龍院兼倶曰、早津宮大明神は人丸也、社頭の軒近く大木の柿木あり、花表の額に、日光大明神とあり、是にても日神の化現彌决せり。塚は歌塚とて、和州に有、勸請の社頭も舊跡も余多あれども、爰に不入事なれば略之。
 續日本紀云、光仁天皇の御宇に、人丸三月十八日うせ給ふよし、其日諸國より同時に禁裏へ奏(635)聞せしと也、然れば光仁天皇の時代まで在世と見ゆ。袋草紙に、萬葉集に入たる人丸の歌などを以、年數を考へられたるを見れば、凡百五六十年に及べり。信用しがたき事ながら、仙人なればさも侍るべし。人丸已前さもなき人の時代在世さへ正しくしるしとゞめたるに、古今に獨歩の人丸年記不知謂なし、是以神妙不思議と知べし。
 人丸入唐の事、拾遺集に、
     もろこしにてよめる 柿本人丸
   天飛やかりのつかひにいつしかもならの都にことつてやらん
 如此集に出たれば、入唐の事もうたがふべからず。惣じて撰集ほど物の證據に成ものはなし、いかにとなれば、詔を受て撰み、えらび終りて奏覽に入れば也。外の書籍はさもなし、依て撰集は公界のものなり、されば物の證に急度たつなり。
 人丸圖像切紙曰、兼房朝臣云、諸道に祖師の像をうつして仰ぎ貴む事也、然るに歌道に其儀なし。人丸此道の祖神也、此像を圖し留めざる事遺恨なりと、常におもはれしに、或夜夢想に現じまします。翌日、繪師にかゝしめて、白河院へ奉らる。帝大きに悦まし/\て、御信仰なゝめならず、其後宇治の寶藏にこめられしなり。【絹一幅、長三尺、烏帽子直衣也。】六條修理大夫顯季此像を申出し、影供を行はれけり。影供の時、一座の題に一首通り題にて、水風來晩といふ事を各詠ず。俊《(源)》頼朝臣上首た(636)り、道の規模なるべし、鳥羽院永久元年六月に始て行はる。阿波國里海士といふ處を影供料に被v下、其後中絶したるを、光明院の御宇に、安堵ありて、顯李の末孫隆|轉《(博)》朝臣ふたゝび影供を行れける。日野資宣卿を請ず、任2先規1例一首の通り題也。
     初秋風  資宣朝臣
   里のあまの藻鹽の煙たちかへりむかしになびく秋の初風
と安堵の所を詠ぜらる。顯季始て影供執行るゝ時、日野敦光卿に人丸の賛かゝせられたり、資宣は此末葉也、其賛本朝文粹にも出たれば、爰にしるさず。人丸の像日輪の中に書たる有、是相傳の圖なり、其外夢想の圖品々有、木像は石見と大和に有。
 文武帝人丸君臣合體の道理あれども、文武帝御一人に人丸こもり給ふと見る習有。人丸、赤人一躰と見るならひ、いづれも化現の大事より悟るべし。古今集に、人丸一人の歌を入て、赤人、衣通姫の歌を入ぬは、三聖一躰の理をしらせたる也。序に、赤人、衣通姫の名を出したるにて、いよいよ同躰なる口訣を貫之下心にもちてかゝれたるとしるべし。
 古今集序に、人丸なんうたの聖なりといへる心は、先三聖の中、人丸は盤土命にて、西乾の方を主ります。乾は天地、乾坤の時も、乾は天をさす日の西は中央也、亦表筒男命にて上に座す、中を得たる歌人なれば歌の聖とはいふ也。聖人も中庸を行の道理也、和歌も亦中和の和を行也、(637)是亦日の徳をふくめり。赤人は歌にあやしくたへなりといへるは、赤土命にて東南を主る日の東より出て南にめぐります時なれば、妙なる光がみゆれば也。衣通姫の流と小町が歌を、さしてつよからぬは女の歌なればなりといへり。衣通姫の歌は易きなり、底土命にて北方を主り、夜中地の底をめぐる日なり。されば光弱き道理也。
 ほの/”\との歌は別傳也、此歌にさま/\の奇妙ある事不v可2勝計1。是は人も覺えある事なれば不v注v之。人丸相傳已後は、毎朝三返可v誦v之。いかなる神咒陀羅尼にもまさりて祈祷になる也。
 伊弉諾尊小戸の祓せさせ給ひて、身心ともに清淨にならせまして生ます御神の御正體なれば、人丸を信仰すれば、則心中清くなる也。日神、月神、素戔嗚尊も同一躰也。八百萬神も、此中にこもります道理也、懈怠なく毎朝可v唱。則小戸祓を只今行ふ理りと知べし。
 人丸信仰の家は、火災をまぬかるといひつたへたり、ひとまるの和訓を可v思。播州明石人丸明神の社頭の近邊、出火の節、いづくともなく老翁出て、火をふせぎ、即時にしづまりたるとぞ。又男の一陽の女の一陰に合して懷妊す、其最初をひとまるといふ、十月に滿して人躰となる。所詮我身をはなれぬ人丸と知べし。如v此難v有之人躰に生れ出て、其身をおろそかにもち、惡念をさしはさまん事、かへす/\勿躰なき事成べし。人丸明神を祈りて懷妊したる例どもあれど、因(638)縁物語のやうになれば略v之。人丸は懷妊赤人は平産を祈るに奇妙の利生あり、かりにもうたがふ事なかれ、和歌三神三聖も人丸一躰に歸する也。さて其人丸三躰我身を離れず、胸中に座す也。外にある昔の事と見るは一旦の事也、唯今我身の中にありと見ねば、隣の寶也。可v仰可v貴、能思、深憶
 
 右八雲神詠口訣和歌三神並化規之大事者、定家も卜部家より相傳し給ふ也。其後二條中納言亦卜部家より相傳へられき、亦近衛大閤|惠雲《(種家)》院殿も、卜部家より受給ふ。定家卿の流は御家より外へ不出、傳へても亦、其一代にて御家へ返し申也、千貫の禮式に定れり。卜部家に右の衆中の誓盟于今ありとぞ。【清云、貞徳自筆ノ和歌實樹予ガ姻家ニアリテ、曾テ電覽セシニ、此事ヲ詳ニ記セリ、信ズルニ足レリ。】吉田神龍院殿より幽齋公へ八雲神詠和歌三神の口訣御相傳有て、其竟宴に、神龍院殿を幽齋公の吉田の屋敷へ請待有し時、下官も御取持のため伺公せしに、其御席へ御呼出し有て、神龍院殿予に仰せられけるは、卜部家をあなどり給ひそ、右の口訣定家卿も當家より傳受有て、于今我家に誓紙あり、そなたも此道に執心深ければ、さぞ浦山敷こそ思はれ侍らめと、笑止そうに仰られけるに、さしうつむひて御返答もせず、落涙せぬばかりに赤面して、かしこまり居侍りぬ。予心中に思ふ樣は、命に替ても傳り奉り度は思へども、身不肖にて難v叶てやみぬ。しかありて月日を送る程に、不思儀の幸あり、岐阜中納言殿若(639)年の時、予手跡を教へ申しに、逍《(隨カ)》遂の御家頼|泰《(秦カ)》の某とて、予入魂の人有、或時予が宿所へ不慮に來り、こしかたの物語などして懷中より一卷の書を取出し、是は亂坊に取たる書也、歌學の大事、神道の秘傳と見ゆ、そなたは歌道に執心深き人也、舊友のよしみも深し、其上大事の書を我身のなりゆく末もしらず、無道なる者の手にわたらんも本意なければ、是御邊にまいらする也、是而已に來る志を忘れ給ふなといひ、則歸らんとす、強て留め侍れど、さし當る大事をかゝへたる身なれば片時もやすらふことならずとて立出す、誠に難v有芳志に預りたるにあらずや、扨早速ひらき見るに、神詠三神の口訣と見えたり、もしや卜部家の傳にてもや有らんと、心中に渇仰して、其儘幽齋公へ持參して御目にかけければ、幽公殊外驚き給ひたる御氣色にて、年比そなたの此道に眞實あるゆへに、自v天あたへ給ふと覺ゆ、全神龍院殿より傳りたる秘卷に毛頭もたがはずとて、戴き給へられけり。其時、心肝にこたへて最難v有覺へ、さて神龍院殿も此旨を聞しめし、只奇妙/\とのみ仰られ、此上はおもてだちて幽公相傳せらるべきよし御免ありて、則幽公より直にさづかり侍りき。其序に人丸相傳まで御免ありけり。不肖の身に餘りたる大義の、天然とうけつぎたる事、中々冥加おそろしくてぞ覺へ侍りけれ。穴賢、々々。
 
 右八雲神詠和歌三神並化現之大事、人丸相傳者、雖v爲2絶妙深秘之口訣、一貫傳心之正理1、在2(640)奇異之大幸1上、於2此道1被v抽2至誠1之者條、今長頭丸令2授與1之訖。如2誓盟1全不v可v在2他見漏脱1者也。
                  從二位大藏法印玄旨
  歳慶長十一年霜月四日               御判
 
 右條々者、神國之奧旨、歌道之要訣、雖v爲2一子相傳之極秘1、於2此道1感2厚心篤實1、如3一器水|寫《(瀉)》2一器1令2授與1訖。如2誓盟1全不v可v在2他見漏脱1者也。
                         追遊軒貞徳
  慶安二年三月十八日                  判
   望月氏
   兼友丈後號2長孝1
 
 右條々者、和國之大事、歌道之要訣、而雖v爲2絶妙之極秘1、於2此道1備2其器1、以v感2志之篤實1、今玄旨法印、明心居士嫡々相承之趣、不v違2毫釐1令2附屬1訖。非2血脉道統之人1、而爭傳v之哉、全他見漏脱令2禁止1者乎。
(641)                      狹々野屋長好
  延寶四歳八月廿日                    判      平間氏
       長雅丈
 
 
 右八雲神詠和歌三神並化現之大事、人丸相傳者、大藏卿二位法印松永長頭丸、狹々野屋翁貞隆英丈嫡々相承之趣、而雖v爲2歌道之極秘、神道之大事1、年來厚恩依v在v之、如v瀉2一器水一器1令2授與1訖。如2誓盟1全他見漏脱在v之間敷者乎。
                     盈※[糸+相]堂
                            元知
  元禄十五歳五月吉辰                  印印
      北鷲見
       正忠逸士
 
(642) 歌道箇守二重之卷(抄)
 
    和歌三重之事
 
 人麿ハ、石見國堵田ト云處之、人家ノ梯樹ノ本ヨリ童形ニテ出現シ給フ也。没期モ同處ニテ終リ給フ。是生死始終一ニシテ日少宮ニ流ルノ義せ。
     人丸集ニ石見國ニテナクナリヌベキ節《ヲリ》讀ル
   は《かィ》も山の岩|ねし《根にを》まける我をかもしらずて妹が待つゝあらん
 天智天武持統文武元明元正六朝ニ在シ人也。天足彦國押人命ハ柿本ノ祖地ト云ヘリ。又家門ニ梯(ノ)樹有シ故姓トストモ云ヘリ。又敏達天皇ノ御末トモ云ヘリ。異人ナレバ出處不(ト)v知云ヘリ。【一説ニ光仁天皇之御宇ニ卒去云云續日本紀光仁紀ニ柿本人麿卒去不見同紀ニ外從五位下陽候忌寸人麿爲東市正從五位上石川朝臣人麿爲伊豆守同日也從五位下賀茂朝臣人麿爲常陸守】
 
 人丸入唐之事拾遺集ニ
     もろこしにてよめる  柿本人丸
(643)  天飛やかりのつかひにいつしかもならの都にことづてやらん
 影供ハ鳥羽院永久元年六月ニ始テ行ハル。宇津宮大明神ハ人丸也。社頭ノ軒近ク大木ノ柿有、日光大明神ト額アリト云ヘリ。山邊赤人ハ聖武ノ御時ノ人ト云云。又一説人丸ト同時ノ人ト云ヘリ。衣通郎姫者云々(下略)
 
    三神三聖幽契之事
 
 三神者、磐土命・底土命・赤土命也。
 三聖者、人丸・赤人・衣通姫也。
 三神三聖|幽契《・カクレタルチキリ》ト云事ハ、神靈ト人體ト合徳合體之義ヲ云也。【御鎭座次第記曰天照大日〓貴|與《ト》2止由氣皇 大神1豫(メ)結(テ)2幽契(タル)1永(ニ)治(メタマフ)2天下1以降高天原爾神留座云云是ハ造化之天御中主尊ト御人體天照大神ト御合徳御合體ニシテ天下ヲ統御シ絵フ事ヲ云ヘリ三神三聖モ此筋也】
 磐土命者、日留《ヒトマル》也。人體之人丸ヲ以配之。
  磐土トハ本體也。磐ハ堅固不壞之義、人丸ハ日留之義也。丸《マル》トハ混沌《マロカレ》之義、日(ノ)少宮之秘訣有之。赤土命者、赤日通《アカトホル》也。人體之赤人ヲ以配之。赤ハ明カル義、日地上ヲ照シ給フ故、土地赤クシテ萬物明カニ見ユル也。日出ヨリ日没マデノ日ニシテ晝也。(644)産土命者、外通日女《ソトホルヒメ》也。底通日女《ソコトホルヒメ》也。人體衣通姫ヲ以配之。
 日土地ノ底ヲ巡リ給フ故、底土ト云、夜也。此|地《クニ》ヲ照シ給ハヌ故、外通日トハ云也。夜ハ日|陰《キタ》ヲ巡り給フ故、日女云也。(圖略之)
云々
卜部家之説、住吉三神ハ全ク日神ノ御異名也。夜ハ日光北方ヘ※[しんにょう+堯]《メグリ》座ス。是則地ノ底ヲ通リマス也。其時ハ底筒男命ト申ス。赤底土命東南ニ現シ座時ヲ中筒男命ト申ス。亦赤土命西|乾《イヌイ》ニ現シ座時ハ表筒男命ト申。亦磐土命三聖ハ衣通姫・赤人・人丸也。底通日ヲ衣通姫トシ、明日ヲ赤人トシ、日留ヲ人丸トス。皆是本名ヲ秘スル故也。人丸ハ磐土命ノ仙現地。表筒磐土同訓也。乾ノ方ハ天也。上ニ座心ニテ、表筒男命ト申ス。畢竟三神三聖人丸一體ニ歸スルト知ベシ。可v貴可v仰能思惠。
 右卜部家日道三天井二重之秘傳也。日道三天三重之極秘、日少宮之秘訣、別卷記之。(圖略之)
丑寅之隅ヲ日少宮ト云、是一晝夜ノ堺、日將出來出之處、伊弉諾之神靈留リ給フ處也。神道始終之本體、目留之本體也。秘訣深々也、別卷記之。日留始終之傳
古今集ニ、人丸一人ノ歌ヲ入テ、赤人衣通姫ノ歌ヲ不v入(レ)ハ三聖一體之埋ヲシラシメン也。序ニ三(645)聖ノ名ヲ出サレタルニテ、貫之ノ下心ヲ窺ヒ知ベシ。人丸ナン歌之|聖《ヒジリ》ナリト書ル心ハ、三聖ノ中ニ人丸ハ磐土命ナレバ本體ナル故也。人丸トハ日道始終ヲ貫キ給フ事也。聖ト云訓ハ日知《ヒジリ》ト言事也。日徳ヲ體認シテ日ノ道ヲ知リタルト云訓也。赤人ハ歌ニアヤシク妙ナリト云ヘルハ赤土命ニテ晝ニ當ル故ニ萬物アラハレ文《アヤ》ヲ布《シク》也。衣通姫之流ト小町ガ歌ヲサシテ強カラヌハ女ノ歌ナレバ也ト云ヘリ。衣通姫ハ底土命ニ當ル、北方地下ヲメグル日ナレバ光ノ弱キ義也。夜ノ日道ナル故陰中ノ陽ナレバ姫ト號ス、姫ノ訓ハ日女也。又ヒメハカクレタルノ義也。和歌三神三聖ハ日留一體ニ歸ス。扨其ノ日留我身ヲ不v離我ガ胸中ニ有(リ)、高天(ノ)原ハ虚空清淨ノ處ヲ指、則我清淨ノ胸中ヲ云也。天日ハ則我心ノ靈ト一般也。我胸中之高天(ノ)原ニ留リ坐也。此(レ)ヲ自己ノ日留ト云、心ノ動靜ハ赤人・衣通姫之義也。神代卷曰、天地未剖陰陽不分、唯マンマロニシテ牙《キザシ》ヲ含メリ、牙ハ未發ノ生氣也。始テ胎肉ヘヤドル時、陰陽妙合シ火留《ヒトマリ》テ子《コ》トナル。此(レ)火留(ル)也、心ハ則日ノ靈也、是|日留《ヒトマル》也、未v見未v聞未v言マンマロニシテ牙ヲ含ム、是人體ノ渾沌|人圓《ヒトマル》ノ義也。是ヲ胎中人丸ト云、天地ノ開闢ハ人ノ誕生也。人體ハ土金也、混沌ノ形モ圓ク天ノ形モ地ノ形モ日月モ皆圓シ、マロキハ誠ノ姿也。敬ミ誠ハ天地ノ道也、是ヲ道體ノ人丸ト云、人此ノ道ヲ守レバ胸中ニ日トマル故、心身一ニ人丸也。不v守バ身破レ心亡ブ心身一ニヒトマルニ非ザレバ歌道ニ非ズ、歌ヲ詞花言葉ニ詠ズル而已ニ非ズ、此道ヲ身ニ行ヒ實地ヲ不v踏バ浮華ニシテ實ナシ。言行(646)一致花實相對ヲ第一ニ可心得【花十分實十分】歌ヲ讀ニ行跡ヲ第一トシ、威儀ヲ肅《トヽノ》ヘ、心身一ニ慎ミ、全體人丸ニナリテ讀事ヲ肝要トセリ。神人混沌之始ヲ守ルト云事神道《之》大事也。混沌ノ始メヲ守ルトハ未v見未v聞未v言末v發ノ時土金之功ヲ以大元靈ヲ敬ミ守ル事也。大元ノ靈内ニ存シ給ヘバ、日明カニ胸中ニ留リ給フ、人體胎中混沌ニシテ、又神退テ混沌ニ留ル、伊弉諾尊曰少宮ニ留リ給フト云是也。少宮ハ留リ給フハ日留之義也。胎中火留今日人丸神退テ日留生死始終ヒトマル一體也。人體而已ニ非ズ、萬物皆火留也。神代卷曰、※[車+可]遇突《カクツ》智【造花之火神也】娶(ヒテ)2埴山姫1【造花之主神也】生(ム)2稚産靈(ヲ)1【發生之靈也】此火氣入(テ)2於土1物ヲ生ズルヲ云。又曰、斬血激灑染於石櫟樹草此草木沙石自含火之縁也。【血トハ火之義也】云云萬物皆火留之一理ニ歸ス。是人丸傳之極秘安心也。非(ンバ)2其人1慎而莫v傳焉可v崇可v秘矣。
和歌者流ニ、日形ノ内ニ人麿之像ヲ畫クハ此日留始終之極秘ヲ圖シテ示ス者也。
 
(647) 歌仙二葉抄(抄)
 
 敷島の道は、其根千早振神の代より始り、其葉人の世となりて普くひろまり、尊きいやしきとなくたふとみもてあそぶならはしとはなりぬ。窟のうちもとおもへば、ことわざしげき身にしも、いたづらに東流水を詠暮さんもほいなくやと、三十《ミソジ》一文字などふつゝかにならべ、あるは古き哥物語など九牛が一毛も見侍りき。過にしころ、京師に逍遥せしに、或人歌仙傳となん云を予にあたへて此書|官《ツカサ》くらゐなどすゝみし年月日をしるす而已ながら雲の上にもとり/”\もてはやし給ふなれど、歌の山をしるさず、ねがはくは歌人三十六人のあらまし事并哥の心などともにくはしくしるせよと請ふ、山がつの身におふぜぬ物から、せちにゆるさねばいなみがたく、草を見てよろこぶの笑をまつも、下愚の身にしては又幸ならん歟と、筆をとりて歌仙傳にのせ侍る事どもは、其所のかしらにことはりて洩さず書しるし、又見およびし事どもは夫につぎてあらはし、且《カツ》歌の心はかれこれを考合て、卷につゞり名づけて歌仙二葉抄と云ならし。
   延享三丙寅年孟春      平春幸著
 
(648)柿本人麿
 歌仙傳(ニ)先組不見云云、又云(ク)伶人就(テ)2年々(ノ)除目叙位等(ニ)1尋(ルニ)2其昇進(ヲ)1無2所見1云云、歌仙傳は官位の昇進年月を記せる而已の書なれば、人丸の事不v詳、故に愚意のみを次に述る也。柿下は姓氏録|天足彦國押人《アメタラシヒコクニヲシヒトノ》命之後也。敏達天皇(ノ)御世、依3家門有2柿樹1爲2柿本臣(ノ)氏(ト)1云云、此天足彦國押人(ノ)命と申は、日本紀(ニ)見えたり。古事紀には天押帶日子《アメヲシタラシヒコノ》命とあり。人皇第六孝照《(マヽ)》天皇第一の皇子也。柿本は此子孫也。元は柿本の臣《ヲン》といひしを、天武天皇の十三年に至つて、大三輪《オホミワノ》等の五十二氏に姓《カバネ》を朝臣《アソソ》と賜ひし其中にて、其時より柿本の朝臣となりし也。人麿は日本紀續日本紀に見えず。天武の御時柿本|※[獣偏+爰]《サルノ》朝臣と云あり。是のみ日本紀に柿本氏の人見えたり。人丸は此親族なるべけれど、國史に見えざれば父祖詳ならず。時代異説まち/\なり。先人皇四十代天武天皇の時に出現すとも、又持統天皇文武天皇の時分に人丸出現し、元明元正聖武に至つて五代の帝に仕るとも申す。袋草紙人丸の勘文の奧(ニ)人麿は聖武之臣萬業者同帝之撰歟(ト)云云。是も分明ならず。又萬葉第一を老ふるに、持統文武の兩朝のみに柿本人丸の哥見えたり。萬葉第二に石見の國より妻に別れて都へ上り、又第二の奧に石見國にて死する時自(ラ)傷て作れる歌あり。是も持統の時都へのぼり、文武の末に石見にて死せられしやうには見ゆれど、時代と年月しるさざればさだかならず。大學(649)頭敦光の讃(ニ)、大夫姓柿本名人丸蓋上世之歌人也、仕2持統文武之聖朝(ニ)1、遇新田高市之皇子、吉野山之春風從2仙駕1而献v壽、明石浦之秋霧思2扁舟1而瀝v詞、誠是六義之秀逸、萬代之美談者歟(ト)云云下略。是にも持統文武と書れたり。然ども萬葉を考ふるに、天武の朝に柿本の人麿の哥あり、又元正天皇の朝人丸の歌顯然たり。萬葉第十の七夕の哥九十八首ある中に、初三十八首有て、右柿本朝臣人麿の歌集(ニ)出と書(リ)、其三十八首の歌、
   天漢安川原定而神競者磨待無《アマノカハヤスノカハラノサダマリテコヽロクラベハトキマツナクニ》
 此哥の左の註(ニ)云(ク)、此歌一首(ハ)庚辰(ノ)年作v之ト云云、此庚辰(ノ)年とは天武天皇の白鳳九年にあたれり。然れば天武の朝柿本人丸ありしと見えたり。又萬葉第三雜歌(ニ)、天皇御2遊雷(ノ)岳(ニ)1時作歌一首柿本朝臣人麿とありて、
   皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨《スメロギハカミニシマセバアマグモノイカヅチノウヘニイホリスルカモ》
 季吟が萬葉の拾穩抄(ニ)、此天皇とあるを元正天皇と記せるのみにて、其證據なし、是を考ふるに萬葉第二の末に、柿本人丸臨v死(ニ)時の歌より後に四首歌ありて、次(キニ)寧樂宮《ナラノミヤコ》和銅四年の哥あり、是元明天皇の時の哥なり、其歌二首ありて、次キニ靈龜元年の哥あり、是は元正帝の時の年號也、第二の卷は此靈龜元年の長歌反歌等二三首にて終りて、第三の卷の初(ニ)天皇御2遊雷(ノ)岳1時作歌とて、人丸の哥あり、此天皇元正にあらずんば、天皇とばかりはしるさず。何(レ)の宮の御宇天皇御1遊雷(650)岳1と書べきに、さはなくして天皇とばかりしるせるにて、元正帝と決せり。第一にも高市岡本(ノ)宮(ノ)御幸登2香具山1望(メル)v國(ヲ)御歌一首天皇御製とて哥有(リ)、次(キ)の哥の詞書に、天皇遊2獵内野(ニ)1時|間人連老《ハジウドノムラジヲヒ》が哥あり、此歌何(レ)の宮の御宇ともなく、たゞ天皇遊2獵内野1とのみしるせり、高市岡本宮の御宇とは、舒明天皇也、遊2獵内野1哥も舒明天皇なり、又第一に近江大津(ノ)宮(ノ)御宇額田王の歌あり。大津(ノ)宮は天智天皇の時也、其次に又額田王の歌井戸王の歌などありて、其次(キ)に額田王の哥の前書(ニ)云、天皇遊2獵|蒲生野《カマフノニ》1時作歌あり、此天皇とあるも、同|大《(マヽ)》智帝の義也、是等の筆格をもつて見るに、前の御2遊雷岳1とある天皇は、元正帝と見えたり、元正は文武より後にて、文武【四十二代】元明【四十三代】元正【四十四代】聖武【四十五代】とつゞけり、元正の時人丸の哥あるをもつて見れば、文武の時石見にて臨v死の哥も不審也、袋草紙(ニ)云、如(キハ)2萬葉1人丸始(リ)v自(リ)2天武1至2文武(ニ)1如(キハ)2家集(ノ)1至2孝謙(ニ)1(ト)云々、天武より孝謙までは天武【四十代】持統【四十一代】文武元明元正聖武孝謙【四十六代】とつゞきて、孝謙は元正より三代目の帝也、天武より年數を考見るに天武在位十五年、持統在位十年、文武在位十一年合(テ)三十六年なり、又是に元明在位八年、元正在位九年、此二代を加へて五十三年なり。又是に聖武在位二十五年、孝謙在位十年、以上合見れば八十八年の年數也。是に人丸出生の比の年暦を加へて、凡百歳に少し余の年數に見えたり。年數にて見れば天武より文武までと見、又は天武より元正までと見て可なるべし。孝謙までといへる家の集年數久しくして難(シ)2信用1、萬葉文武の末とおぼしきに人丸死する時(651)の歌あれば、元正の朝雷岳の歌と云ももしは別人の哥を萬葉(ニ)人丸とあやまつて書れたる歟。萬葉第三(ニ)遊2吉野1時(ノ)御歌一首、弓《ユ》削皇子とありて、
   瀧のうへのみふねの山にゐる雲の常にあらんとわがおもはなくに
   一(ニ)云、みよしのゝみふねの山に立雲の常にあらんとわがおもはなくに
 かやうにありて、注(ニ)此一首出2柿本人麿(カ)集(ニ)1と、か樣の類にや、萬葉には弓削の皇子の歌也。人丸の哥萬葉第七より第十四まで作者未(ル)v詳《ツマビラカ》哥どもにまじへて載られたり。古代の事なればいかにしてもさだかならず、大學頭敦光の讃にも、仕2持統文武之聖朝(ニ)1と書れ、又袋草紙にも人丸始v自2天武1としるされ、又萬葉にも文武の朝の末とおぼしきに死する時の哥見えたれば、所詮くた/\しき説を捨て、時代は天武の朝より文武の末までの人と見て可なるべし。又古今集の序(ニ)いにしへよりかくつたはるうちにも、ならの御時よりぞひろまりにける、かのおほん世や歌の心をしろしめしたりけん。かのおほん時におほきみつのくらゐかきのもとの人丸なん哥のひじり成ける云云。奈良の都は四十三代元明天皇より四十九代光仁天皇まで七代の帝|平城《ナラ》に都し給ふ。古今の眞名序(ニ)平城天子《ナラノミカド》詔(リシ)2侍臣(ニ)1令v撰2萬葉集(ヲ)1云云、或説に、此平城天子と申は五十一代平城天皇の事を云といへり。此説にて見れば、人丸も同帝の時世にありしと古今かな序のおもむきには見えたり。又萬葉集も同帝の時撰ぜられしと見ゆ。然れども袋草紙并萬葉の仙覺抄等にはあまた證文を引て、(652)ならの帝と申は、聖武帝を申すとしるせり。又萬葉に文武の末とおぼしきに、柿本人丸死するの哥あり、文武の朝より平城天皇迄は時代十代、年數百十三年後の義也。天武の朝に人丸ありしよし前に見えたれば、天武天皇よりかぞふれば、時代十二代、年數百三十八年也。袋草紙に人丸難v及2大同朝1【平城天皇】事委しくしるせり。人生も限りあるもの也。いかにしても平城天皇の時、人丸世にあるべきやうなし、古今の序(ニ)、奈良の帝と云は、疑らくは文武帝の事なる歟、定家卿はならの帝と云は、文武帝の事としるし給へり、秘説(ニ)奈良の帝とあるは文武帝の事にて、ならとは古きと云詞と同じ、古き事を神代《カミヨ》又は昔しなどいへる詞に同じ、奈良の都一代前なれば准じて云事也と云云、是古今の秘説也といへり。案ずるに昔し又は神代などは所をさす詞にあらず、奈良は其所をさす詞也、然るを古きと云事なりとの義いかがと見ゆれど、後撰戀の一題しらずの前に、
   身は早くならの都と成にしを戀しき事の又もふりぬる
 是古きと云事にならと云詞を用ひし證歌也。其外奈良を古里のならの都とも、又ふるき都などおふくよめり。然ればならと云て古き事との義其謂なきにしもあらず。古今の序(ニ)ならの御時よりぞひろまりにけるとあるを、古き御代よりぞひろまりにけると云と見れば、文武帝の御時と見ても難なき歟、眞名序に平城天子《ナラノミカト》詔2侍臣1令v撰2萬葉集(ヲ)1とあるを、聖武の御事と云ても、ならとは古きと云詞也と大やうに見れば其所/\にて何れの帝に見るにも難なし。文武は平城《ナラ》の都御一代(653)前にて藤原の宮地。ならには都し給はず、文武の次《ツキ》は女帝にて元明天皇是より光仁まで七代奈良に都し給ふ。元明は文武の御母也、ならの都は盛(ン)に時めき給ひし時代也、御母帝より始て奈良に都し給ひしゆへ、御子の文武帝を准じてならの帝と申奉る也。然れば萬葉に文武の末に人丸死する時の哥あるによく叶へり。
 人丸位階の事、古今のかな序にはおほきみつのくらゐと書、眞名序には先師柿本|大夫《モフチキミ》と書り。おほきみつのくらゐは、正三位也、大夫は五位の通稱也、兩序の間大きに相違せり、忠岑が長哥にあはれいにしへ有きてふ人丸こそはうれしけれ身はしもながらことの葉を天津空まできこえあげてと云云、身はしもながらとあれば正三位にてはあるべからずと見ゆ、敦光の讃にも大夫と書れたり、然らば五位なるべけれども、歌のひじりなるゆへたつとみて正三位のよしかな序に書しもの歟。眞名序は奏覽なしといへども、兩序の間にてかく異なるべきやうなし。正三位の事猶口傳畧す。北畠親房の古今の序注(ニ)、此人正三位と云事昔より疑v之(ヲ)、公卿補任などにも不(ル)v見之故なり、是はあながちの難歟。上古の補任は現《ゲン》任ばかりを載《ノセ》て、散位をば不v書v之歟と、云云。是親房の説也、現任とは當官の事を云也、散位とは無官の人を云、官を散《サン》して位斗(リ)といへる義也。猶人丸の事深き旨あり、事繁きによつて畧す。
   ほの/”\とあかしの浦の朝霧に嶋がくれゆく舟をしぞおもふ
(654) 古今※[覊の馬が奇]旅の部に入れり。古今隨一幽玄の哥とて、古人も稱嘆せし歌也。大納言公任此哥を解しがたきとて、三年まで工夫をこらし、此歌の玄妙をさとり、和歌の九品を立られしに、上品乃上と定められしと也。古今此歌の左(リ)書に、此歌はある人のいはく、かきのもとの人丸がなりとしるせり。古今に凡《スベ》て誰人の歌と決したるは哥の右に名を書付侍り、此哥も人丸の哥にしかと決定せざるゆへ、左(リ)にある人のいはくと書る歟。然(レ)ども風體抄に、柿本人丸哥也と記せり、世々の先達名譽の人/\人丸の哥と決し、古今にも如此ありて外により所なければ、其分なるべし。又人丸の事は、誰人の哥にても歌の玄妙をあらはせるを云など、古今の秘説あるなれば、左もあるべき也。ほの/”\とは夜の明(ケ)行空のおぼろにてさだかならぬを云。それを曙とは云也。ほの/”\と有明の月の月かげに紅葉吹おろすなども詠り、此ほの/”\の五文字人丸の哥秀逸比類なきによつて、定家卿詠哥大概に制せさせ給ふ、制せられしより前はほの/”\とあかしとつゞける哥も多く侍り、
   ほの/”\とあかしの濱を見渡せば春の浪ともいつる舟のほ  順
   ほの/”\とあかしの濱をこぎゆけば昔し戀しき波ぞ立ける  重之
 ほの/”\とあかしとはいひかけの詞なり。或抄(ニ)ほの/”\と明石浦の朝霧に漕出したる舟の、嶋がくれ行か今いづくにゆくらんとながめやりて、哀に思ふとなりと云云。又同抄(ニ)貫之海路の旅に(655)此集に入たり。されど我出たるとはきこえず、人の海路にこぎ出て行舟をはるかに見をくりてよめると見えたりと云云。或人是を難じて如v此見れば、撰者の心にかなはず、其故は此哥古今※[覊の馬が奇]旅の部に入れり、明石の浦より余所の舟を詠やりし眺望の歌ならば、※[覊の馬が奇]旅の部には入らずして雜乃部に入べき事也、※[覊の馬が奇]旅の部に入たればたゞ旅の心にて我がのりし舟の事を詠ぜる哥と見えたりといへり。予是を思ふに、我がのりし舟の事をよみたる人丸の哥萬葉第三に
   あまさかるひなの長路を漕くれば明石の戸よりやまとじま見ゆ
 此哥新古今※[覊の馬が奇]旅の部に入れり。かやうなるは我がのりし舟の事にしかと聞ゆれども、此ほの/”\の歌は一首の躰我がのりし舟の事とは聞えず、古今旅の部に入るといふに着して、我がのりし舟の哥なりと云は實もとも聞えず。たゞ旅におもむきし比、此明石の浦に旅宿して夜の明方に陸より海路をはるかに見やりてよめると見るが面白き也。※[覊の馬が奇]旅の部に入ればとて眺望の哥あるまじきにあらず、則古今※[覊の馬が奇]旅の部第一の哥安倍仲丸が、天のはらふりさけ見ればの哥も、船路の事はよまずして月の事をよめる哥也。是等にて心得べし。嶋がくれゆくとは明石の浦に立ふたがりし霧にて嶋がくれ行舟も見えずと也。此嶋と云を或鈔(ニ)、或人明石に嶋なしと云、明石の沖にふたご嶋くらかけ嶋などあるをしらざる也と、云云、契冲が古今の餘材抄に顯注を引(テ)、明石の沖にはるかにちり/\なる嶋ども見え侍り、ふたこしま、みなほし嶋、たれか嶋、くらかけ嶋、家しまな(656)どうちちりたるやうに侍ると、云云、契冲が云、明石の浦は淡路の岩屋といふ所に向へり、岩屋の北の磯部は繪嶋なり、そのあはひの海わづかに一里ばかりにて、さらにひとつの小嶋ある事なし、顯注の申されたる鳴/\ほ明石よりははるかに西南の方にあり、家嶋は播磨の揖保《イホ》の郡にて、淡路の西海々上八九里に及びて、何くれといふ小嶋其めぐりに有よしいへば、そこに嶋かくれん舟は離婁の目にあらずば見ゆべからず、しかれば顯昭もいまだよく彼あたりをみずして推量して申されけるにやと、云云、案(ル)に、嶋がくれの嶋は淡路嶋の義也、明石の沖の小嶋あるなしのさたにはおよばぬ義也。然共袖中抄にいはく、隆縁(ノ)云、あはち嶋こそあかしの浦にてはよむべけれ、或人の云、淡路の嶋大嶋にて一國也、嶋がくれ行舟をしぞおもふなど不v可v詠歟と、云云。か樣に袖中抄には侍れども、理にあたらざる歟。淡路は一國の嶋なりとて、此哥によむまじき理なし。或は津の國のなにはの里、近江路や志賀の浦、又はするがなるふじなどは其名所をいはんとて、先國の名をいひ出せるなり。淡路は是等とはちがひ、一國なれども淡路嶋又は淡路嶋山などよみならはせる事、人/\知れる事なれば、しるすにおよばず、又前に柿本人丸萬葉第三のあまざかるひなの長路を漕くれば明石の戸より大和しま見ゆ、とある哥の、大和嶋と云は、則淡路嶋の義也、いかにして淡路をかくいふぞと尋るに、伊弊諾、伊弊册の尊國土を産給ふ最初に、淡路嶋をうみ給ふ、其後に大|八洲《ヤシマ》を産給ひしなり、日本の惣名を倭《ヤマト》の國と云なれば、初めに先うみ出し給(657)ふ嶋なるゆへに淡路嶋をやまとしまと云也。明石の浦に嶋の間近くなき事は、余材抄を引て前に述るごとし。明石より間ぢかき嶋なれば淡路嶋をよめると見えたり、其上人丸の哥に、明石の戸より大和しま見ゆとよみ、又新勅撰雜四に名所の月といへる心を、
   夕なぎに明石の門より見渡せば大和嶋根を出る月かげ  内大臣
 此夕なぎにの哥方角大(キ)にあやまれり、明石と淡路とは南北に向合せり、名所月といへる題にて方角の事をとり違よめる哥也、月は四時にて出やうかはりあれど、大やう東より出る也、南より出る事なし、明石より南にあたる大和嶋より月出るとよめる事方角の取やう違へり、此歌誤りなるべし。然れども大きに所をへだてたる名所を一首によみ合する例は多(ク)侍れども、是は夫とは違、正しく月の出たるよしよめる哥なれば誤也。然共此所へ引(ク)は其義にはかゝはらず、たゞ明石より淡路嶋をよめる證のみに引ばかりなれば、こゝに引るなり。
   あ《新千載旅》かし潟大和嶋根も見えざりきかき曇にし旅のなみだに  土御門院
 かくのごとく明石より淡路嶋をよみならはせり。然ればほの/”\の哥もあまざかるの哥と同じく人丸の哥なれば、淡路嶋を嶋がくれとよめると決せり。船をしぞおもふとは惜むといふ心にあらず、しは助語にてたゞ船をぞ思ふとの心なり、證哥
   春《萬葉十二》日なる三笠の山にゐる雲を出見るごとに君をしぞおもふ
(658)   唐《古今》衣きつゝなれにしつましあればはる/”\きぬる旅をしぞ思ふ
 ある抄に、此哥の下の心文武の御子高市皇子十九にて崩じ給ふ其無常を詠ぜるといへり、さもや侍らん。本宮は君とひとしきゆへに、君は舟の心にて舟にたとふる歟と、云云、此事秘抄等にも見え侍り、世の中の定めなきは、漕行船の朝霧に嶋がくれ行たるやうに、高市の皇子|薨《カウ》じ給ふとなげきよめる心也といへり。然れども此ほの/”\の哥萬葉にも見えず、又高市の薨をいたみてよめる柿本人丸の哥は萬葉第二に長歌反歌ともにあれども、此ほの/”\の哥とは大きに異なり、其外國史等にも見えざる事なれば、何の證據もなければ用ひがたし、哥の詞表には海邊※[覊の馬が奇]旅眺望の哥の詞なり、下心には世の有樣を觀じてよめる哥なり、然れども高市の薨をいたみてよめると云説は用ひがたし、たゞ裏には世の有樣を觀じてよめるとのみ心得て可ならん、凡《すべ》て撰集には表の心をもつて撰ぜらるるものにて、裏の下心は撰集には不v用、故に※[覊の馬が奇]旅の部に入られたる也、裏の説は人間世の有樣を觀じて云。ほの/”\とあかしとは夜明(ケ)也、四時にとりては春夏に比すべし、人間にとりては人の出生世の盛なるを云也。朝霧に、霧は物をおはひたちきるゆへに霧と云、是殺伐の氣、時は秋也。嶋がくれ行、是人間の終世の衰(ヘ)、晝夜にとりては夜陰、四時にとりては冬也。をしぞおもふ、此結句至つて心ふかし。人/\常に此哥の心をよく心得べき事也、此哥を眞言經文等に比して注せる事あり、更に正道にあらず、和歌の道を辨へざる人猥にいひかすむる徒(659)事也と心得べし。此ほの/”\の哥に心の類せる哥
   あ《萬葉第二十》かとき《・曉》のかた《(マヽ)》はれ時にしま|かき《陰》をこぎに|し《イニシ》舟のたつきしらずも
 李遠が黄陵廟の句に、輕舟短|掉《棹》唱歌(シ)去、水遠(ク)山長(シテ)愁2殺(ス)人(ヲ)1、云云、又遊仙窟、張文成が十娘に別れ行時の文に云(ク)、行(クコト)至(テ)2二三里1廻(シ)v頭(ヲ)看《ミルニ》數人猶在(テ)2舊《モトノ》處(ニ)1立(リ)、余時漸々(ニ)去(ルコト)遠(シ)、聲沈影|滅《キヘテ》顧瞻《カヘリミミルニ》不v見、惻愴《ソクソウトシ》而去(ル)、云云、是等の句相叶ふべきにや。
   世《拾遺集》の中を何にたとへん朝朗漕行舟のあとのしらなみ
                      浪華   岨《百川堂》山春幸撰
 古以和歌稱仙者凡三十有六人、各|〓《(列)》朝名臣、有出類之才、而遂爲後世儀矩、其和歌三十六首、遍在人口、而諷之吟之、浪華隱士平春幸者、追山柿之古風、以摸其體製、立志數年乃著歌仙二葉抄一卷、其爲書也、宦品舊典之説、詞章幽玄之辨、意領心會、而底極淵奧、開發秘蘊、可謂詳也、其功其勞不讀不可知焉、予深賞嘆之、况又相知久故爲之跋、
            御厨子所預正五位下采女正妃宗直
   延享四卯歳立秋吉日
                 大坂錦城大手錦町二丁目
                       菊屋勘四郎
(660)    書林
         河南本町一丁目
              泉屋喜太郎
 
 
(661) 人麿像補記
 
(663) 人麿像補記
 
 狩野探幽筆人麿像(口繪參照)〔口繪略〕。狩野探幽筆和歌三聖圖(小坂順造氏藏)は、國華五百五十三號(昭和十一年十二月二十日發行)に載つたものであるが、そのうちの人麿を本書の口繪とした。解説は國華の解説をその儘拜借することにした。
 
  探幽は狩野の正流を受けて一家をなし、元信、永徳以來の家法を變じて、新時代に一新樣式を立てたのであるが、近世初期に於ける古典復活并に日本精神の勃興に關聯して漢畫系統の手法の外に、大和繪の法を參酌して作つたものゝ往々存するのは、注目すべきことである。こゝに示す和歌三聖圖の如きは、即ちその著例といふべきである。
  本圖は和歌の神たる住吉明神を中幅とし、柿本人麿と山邊赤人とを左右に配したものである。各幅の畫中には
   此和歌乃三聖天兒屋根命五十四代※[氏/一]探幽法印行年七十歳
  とあつて、法印生明の白字の角印が押されてゐる。こゝに天兒屋根命五十四代とあるは誰ぞ。神祇要編中唯受一流血脈圖によるに、吉田兼倶の六世の孫兼連であつて、同書に兼連は從三位行左兵衛督兼侍從(664)とし、自2天兒屋根命1的的相承五十四世とあるのである。而してこの人は享保十六年七十七歳で歿したのであるから、探幽の七十歳即ち寛文十一年は十七歳の少年ではあるが、その時既に吉田家を相續してゐたのである。惟ふにこの和歌三聖の圖樣は當時吉田家に傳つてゐたので、探幽がその願によつて書いたのであらうと思ふ。なほ和歌三神といへば、住吉明神、玉津島(【衣通姫】)柿本人麿を指すのであるが、こゝに三聖として衣通姫の代に山邊赤人を以てしたる所に、吉田家傳來の圖に特異性を持つのであらう。この圖によつて見るに、如何に探幽が土佐派の手法を巧に參酌してゐるかを窺ふに足るのであつて、漢畫派に見るやうな佶屈な描線は更になく、力あつて軟かみがあり、歌聖はよくあらはされてゐる。またその背景并に中幅の住吉明神圖をみるに、老松楓樹并に遠山の手法等、よく土佐派の長所を取つて、これを自家藥籠中のものとなし、住吉明神を温雅に且つ神々しくあらはしたのは、頗る效果的である。これよく土佐の古法を體得したのでなければなし能はざる所で、探幽の力量をこれによつて推察することができる。探幽は晩年病んで手の自由を妨げられたといはれるが、この圖が歿時を遡ること三年、七十歳の老筆であることを思ふ時、老いてなほ盛んであつた手腕の程が想見せらるゝのである。
 
 小堀鞆音筆人麿像(插圖參照)〔插圖略〕。宇都野氏藏。武官の服装をして、鹿の皮の上に右膝を立てて坐し、硯を前に置き、左手に紙を持ち、右手に筆を待つて、俯向き加減にして歌を案じてゐる姿である。闕腋の袍を著、その下に半臂竝に下袴を著してゐる。脛に卷いてゐるのは革製の脛巾《はばき》であり、足に穿いてゐるのは糸鞋《しかい》であらう。袍の文樣は異色の離文であり、右肩からは長紐(665)を垂らして居り、腹部から前に垂れてゐるのは倭文幡帶《しづはたおび》のやうである。そして左の腰には劔を吊つてゐる。被つてゐるのは漆紗冠で、その燕尾は先が右の眉にかかつてゐる。すべて奈良朝よりは下る時代の服装である。顔は頬が豐かで、顎にもわづかな鬚を蓄へてゐる。四十二三歳位のつもりで筆者は描いたのであらうか。行幸の供奉か、遊獵か、何れにせよ野外での、少くも屋外でのいでたちである。
 小堀鞆音筆人麿像(插圖參照)〔插圖略〕。宮森麻太郎氏藏戒。前の畫と反對に右向であり、從つて左膝を立ててゐるが、その服装は殆んど同じである。ただ全體として描き方が細かく、顔も上向加減で、頬は豐かでなく、顎鬚も伸びてゐる。顔が上向であるために燕尾も背に垂れて居り、膝の立て方、折り方にも變化がある。立てた左膝の脇から半臂についてゐる忘緒(?)が長く出てゐる。右の肩からは長紐を垂らし、腹部から前には綺帶《かんはた》を垂らしてゐる。劔は外してゐるのか見えず、鹿の皮は敷いて居らず、失立樣のものを右膝の前に置いてゐる。※[覊の馬が奇]旅か、少くも野外に於ける人麿を意中においての筆者の一工夫といふことが謂へるであらう。落款の位階勲等などから推して筆者晩年の作であることがわかる。なほ小堀畫伯は、その歿する二日前、即ち昭和六年九月二十九日に、夕顔棚下凉、人麿獻壽、頼政名譽の三點を描き、文部省に提出して居る。帝展二十五周年記念に際して最高の功勞者福原美術院長、牧野伸顯伯、正木美術學校長に贈呈すべき畫(666)帖に執筆の約を果すために大正十五年以來制作を絶つてゐた畫筆を揮つたのであつた。
 瀧上寺藏人麿像(插圖參照)〔插圖略〕。日本肖像畫圖録解説(望月信成氏)の文は人丸像一般にもわたり、極めて有益であるから、次に拜借する。
 
  佛家に於ける祖師報恩の爲の影供は天台にも眞言にも存し、外典にあつては釋奠の孔子禮拜の事が日本には古來存する。藤原時代の末季に至つては歌會が盛行し、かゝる祖師影供に擬して、歌道の祖師として柿本人丸像を本尊となす所謂人丸供が行はれた。元來此の本尊の濫觴は、粟田讃岐守兼房が或夜の夢に「直衣に薄色のさしぬき紅の下のはかまをきてなえたる烏帽子をして、えぼしのしりいとたかくて、常の人にも似ざりけり、左の手に紙をもち、右の手に筆をそめてものを案ずるけしき」なる人丸形を感得して、後に繪師をして描かしめたと十訓抄に見ゆるものである。その後此の影像を白河院に奉進せるを、六條顯李が繪師信茂をして※[莫/手]寫せしめ、之を本尊として元永元年六月十日に有名な人丸供を行つた。即ち本尊畫像は絹繪で、長さ三尺ばかり、烏帽子直衣を著け、左手に紙を採り右手に筆を握れる年六旬餘の人を描いた。之が後世信實流と言はるゝので、他に虎の皮を敷ける人丸影にして、岩屋流と稱せらるゝといふ、三井寺行尊大僧正の夢想本があるのと區別してゐる。
  信實筆と稱せらるゝ著名な舊佐竹家藏卅六歌仙繪中の人丸は、略ゝこの像樣に近く、然も歌聖の面目躍動して、清爽の容姿が卓絶してゐる。
  現に瀧上寺の圖樣と同形相の遺品は最も多く、硯を前方に置く人丸圖は、室町時代に至つてかくの如き(667)※[莫/手]し崩れを見せるものと考へられる。硯箱のみに就いて言へば、瀧上寺本は梅花文を散書し、卅六歌仙人丸像に源を出すと覺しい。本朝畫史説に依れば、信實筆人丸影の徴證となす所は「髭髯黒稍多」にあると言ふ。然らばこの像は信實流と稱して可であらう。年六旬ばかりの老翁といふが、榮賀筆の脇息に倚る畫像に至れば、極めて老痩の相を現じて、又一種の人丸影の一典據となる。
  本畫像の上方色紙形の歌は、「梅の花それとも見えず久方のあまざる雪のなべてふれゝば」といふ普通人丸讃の歌と、「ほの/”\と明石の浦の」の兩歌を書く。
  影供は藤原時代の末期から絶えず隨所に行はれ、その規式なども一定してゐた。元永の初度影供より後は歌林苑の影供を經て、建仁に和歌所の開かるゝと共に行はれた建仁元年影供は、公の影供の始めであらう。影供歌合は枚擧に遑ない程、公私共に行はれ、その本尊畫像の種類多きは明月記寛喜元年三月十七日に、知家三位邸に向ひ、一軸半紗縁表装せる柿本影を態々拜する事、又柿本影を定家自ら成實に讓與する事【寛喜三年九月七日】、などに知られる。後鳥御院の比などは俊頼の影供があり、(兼載雜談)後には定家の影供が始めらるゝなどゝ、遂には一流の歌仙の影供に迄發展することゝなつた。室町時代に入つては人麿影供の行はるゝ事は、鎌倉時代の初期に復つたように盛大で、各人持本の人丸影も多數にのぼつた事であらう、中にも信實筆といふもの最も多く、看聞御記【永享八年六月廿二日】に若しくは信實筆かと思はるゝ古本と、信實朝臣眞筆人丸影【嘉吉三年八月十五日】とが見え、他に賛中書王筆の人麿繪【永享八年六月十五日】が載つてゐる。實隆公記【延徳三年三月廿四日】には、人丸像新圖【土佐刑部少輔光信書之、本信實眞跡也、讃押定家卿自筆色紙、(山鳥ノオノ哥)】といふ光信本があり、兼載が持來せる畫信實筆、讃爲重筆かといふ人丸像【延徳三年十月十一日】、及預置ける人丸影【文龜元年七月廿六日】、表背を施せる人丸影【永正七年四月十六日、九月廿一日、十一月三日】、(668)滋野井本人丸影【永正八年四月二日】、安宮本信實筆人丸影【永正八年五月廿二日】、神餘本人丸【大永七年六月六日】、佛師本人丸繪像【大永八年閏九月十五日】、懷當本人丸【享禄二年三月十四日】、永元寺本人丸影【天文二年七月廿七日】等の多きに達し、天文元年十二月十六日には人丸影【賛宸筆、梅花哥、光茂筆信實筆寫之】なる光茂木がある、又後法興院政家記に、信實筆本寫しの松藏主筆人丸影【延徳四年六月一日】があり、有名無名の畫家に依つて、幾多の影像が作り出された事を附け加へ、以つてその盛行を知る一班とする。
 土佐光高筆人麿像(插圖參照)〔插圖略〕。著者藏。類型的で取立てて云ふ程のものでない。ただ左手に持つた紙の具合に少しく變化を試みてゐる。
 柿本宮曼荼羅 柿本宮曼荼羅雁といふものの寫眞が國華五百四十二號(昭和十一年一月)に載つた。珍らしいものであるから、その解説を次に轉載する。
  本圖は柿本人麻呂を祀つた社の宮曼荼羅と博へられるもので、文明八年卯月日とある沙門慶範の勸進状が添へられてゐる。この勸進状は群書類從第二百八十三に、柿本像綵色勸進状として收載されたものである、然しこの勸進状は直接この宮曼荼羅に關係あるものではない、この勸進状によると、「人丸の墓所柿本の明神といへるは播磨の國あかしのうらにありとかや」とあつて、次に「抑やまとのくにはりみちの社に人丸の堂あるこれぞまことの舊跡ともいふべき」とある、之によると大和國添上郡治道にある治造山柿本禅寺に人麻呂堂があつて、堂も破損し、是處の人麻呂橡の綵色も剥落したので、十方の檀那を勸めて諸人の助縁を以て再興しやうといふのである、さすればこれによつて人麻呂堂と人麻呂像とが、文明八年頃に修覆せられん事の企てられたことはわかる、而して若し本圖の宮が柿本人麻呂を祀つた治(669)道の人麻呂の社ならば、正さにこれは柿本宮曼荼羅なる譯である、然しこれが果して人麻呂の社であるか否かは明かでないが、人麻呂の宮曼荼羅として傳へられてゐる故に、今まその傳説を尊重して、強ちに之を斥けず更に研究を後日に俟たんとするのである、
  惟ふに神社を寫す宮曼荼羅圖は、淨土變相圖の影響に依て作くられたもので、極樂淨土を寫すと同じやうに、壯嚴なる神域の全體を寫すものである、而して此柿本宮曼荼羅なるものに於ては正面の堂には三柱の神を祀りしものゝ如く、本地佛が三體あらはされて居り、他の小堂には一神に一體の本地佛が寫されてゐる、又此曼荼羅に於ては神域中に樹木茂り、その間に櫻花の咲き亂れたる樣を寫し、鳥居あり、社殿あり、細き流もありて、その奥に樓門あり、廻樓にめぐらされたる本殿あり、その背後には鬱蒼たる樹木に覆はれた山が重なり、その上に日輪の出づる所を寫してゐる、繪は細密を極めて典雅の趣あり、手法の上よりすれば鎌倉の樣式であるが、南北朝頃の作かと思はれる、何れにしても垂跡美術としての宮曼荼羅中屈指のものたるは論がない、
 
 信實筆人麿像 伊達子爵家舊藏。これは既に「鴨山考補註篇」に載せた、仰思態像、榮賀筆と稱せられる(益田氏藏)人麿像と同系統のものである。即ち體を走向にして脇息に凭り、頭を右斜に向けて沈痛の面持をしたものである。これには探幽の極書と安信の畫中極がある。
 柿本人麻呂畫像(插圖參照)〔插圖略〕。東京渡邊綱彦氏所藏。
賛○藏舟島々霧晴邊、偃塞青山吟聳肩、出入古今被天下、扶桑第一老歌仙。遯齋顯騰。○操觚染(670)翰二千石、浦思江情□蹇看、兩壁□流□柿本、和歌達磨可人丸。前福山英與。○日域翰才莫過和、拈毫物外獨婆娑、吟殘明石浦風月、萬口流傳一首歌。謙牧翁中諄。○大唐文物國、日本化人國、和與漢譬如掌與拳、展握固有異、要之手則然、或出人丸像請賛、又曰、人麻呂依歌之兩立、同途異轍乎、釋氏不知人丸之道、猥題四七禅詩、龍華翁撃節賛之、序其後云、柴桑處士爲東林之遠師、見尚其詩云、探菊東離下、悠然見南山、故晋有達磨焉、摩圍老人爲江西二十五之詩祖、雖隻字片言不輕出、故宋有達磨焉、柿本大夫爲歌人三十六之長、明石浦朝霧歌如轉丸、感鬼神、天地開闢以來無此作也。故倭有達磨焉、天下皆滔々者、无不柿本之故実也。※[火+〓]島雲林提妙旨、風柯月渚、以心傳心、或歌書云、達磨和尚我朝用明天皇御宇來和州之片岡、獨守西山飢、聖徳太子有歌、磨即返歌、其二首歌審、世之歌典此不録、磨爲歌僧七十四人之第一也、嗟三國游方如鳥過空、太子之新築、後人呼曰達磨墳、人丸人而曰人何麼、魯叟曰、管仲人也、聖所譽歟、和歌之道、晩世若凌夷、講習失淵源、其跡粉等狂顛如園紅柿葉稀云乎、要知人之所以爲人、丸之所以爲丸者、課歌册莫忽、明應乙卯之第四春二月。相城懶菴之野釋英※[王+與]叙。
 
  註 ○遯齋顯騰は、建長寺一六二世住持竺雲顯騰である。遯齋は其の號、寂年不詳。○英與は建長寺一六四世玉隱英※[王+與]である。與は※[王+與]を略書せるもの、寂年不詳。○謙謙牧翁中諄は、圓覺寺一四四世誠中中諄である。謙牧翁は其の號、永正五年七月十七日寂す。
(671) 柿本人麿畫像 (小林正直氏藏)。紙本墨書後西天皇宸翰土佐光起筆。
 柿本人麿畫像 光貞筆。(森繁夫氏藏)
 柿本人麿畫像 (森繁夫氏藏)。山城寂光院所藏系統のもので、千蔭の賛がある。『柿本朝臣人麻呂大人※[竹/攸]並大津大御代眞清水淨見原荒栲藤原二御代皇子舍人後石見任慶雲齡四十餘【爾志弖】任給【比奴】此大人長歌〓【爾志母】勝短歌將續而有計留其形姿辭海原流我如【久爾之弖】意荒魂和魂不至事奈加理故自古今其名稱續自今後千五百代爾母貴美續歌作人誰歟此恩頼不蒙在哉此體古盛在御代心直雄々敷末代訛【奴留乎】改倍伎事本也』。
 安田靱彦筆人麿像 この畫は、あまり身分も高いとは見えない簡素な旅装の人麿を描いたものであつて、從來全く見ることのなかつた新らしい構圖である。山路に蹲踞つて、兩脚を投げ出し氣味にし、著てゐる※[糸+施の旁]袍の盤領《ばんりやう》の胸をひらいて凉を入れてゐる。被つてゐるのは風祈烏帽子である。幅の右方、上から一行に、『たかやまのみねゆくししのともをおほみそでふらずきぬわするとおもふな』と、萬葉集卷十一、人麿歌集所出の歌を書いて居られるのでも、筆者の意圖が知られる。昭和七年七月白日莊主催の東西日本畫大家新作繪畫展覽會に出品されたものである。
(672) 小野篁作人丸石像(插圖參照)〔插圖略〕。小野篁が勅を奉じて七體だけ作つたと稱するもので、大體高さ一尺ぐらゐの圓みを帶びた自然石に、表に人麿の坐像(兩足を合せるやうな形に坐し、右手に筆、左手に紙を持ち、向つて右側に、柿本人丸とある)を刻し、裏に、『天長二乙巳年、石見かた高津の松の木の間よりもり來る月をひとりかも見ん、九月十八日七躰二造、野篁謹自寫之』と書いてある。昭和十一年十一月の報知新聞に、この像に關する記事が二回にわたつて載り、七體の内六體が發見せられ、所有主も分かつたと報じた。ただ製作年月につき、『天長四丁未年十二月十八日』となつてゐるのもあり、『小野篁』と明かなのもあり、『七體』の二文字の消えてゐるのもあつて六體皆同一ではないさうである。此は「總論篇」二三六頁〔一五卷二三九頁〕に既に記したが、それには、『天長二乙巳年四月日篁』と刻んである由記した。
 高取燒人麿像(總圖參照)〔總圖略〕。これは高さ一尺一寸、初代八山の作だらうかと云はれてゐる。昭和十年六月十八日福岡日々新聞夕刊に、この人麿陶像が福岡西新町の舊家高山家から發見せられたことを報じ、高取燒は朝鮮陶工の八山が筑前藩主專用のみの窯を築いて燒いただけに、遺品も尠い折柄、この人麿像が、『初代八山作品との折紙が著けられたが、【中略】今回の初代高取作品は九州窯業の大きな收獲だらう』と云つてゐる。
 明石人丸山柿本神社寶物木像 これは頓阿法師作と稱へられ、右膝を立てた形の木像で、その(673)他の木像と同型のものである。ただ彫刻が丹念で細部も殘つて居り、森繁夫氏藏(總論篇)のものや、新庄町柿本神社藏(總論篇)のもの、その他の木像(鴨山考補註篇)とも稍趣を異にし、面長である。明治十三年歌聖一千百五十年囘忌東京舊麾下佐々井半十郎明石神社奉納、諸彦歌集副、世話人岩村英俊藤井忠弘といふ副書がある。なほ明石の柿本神社には御歌所寄人遠山英一氏書、『ほの/\と』の一軸があり、神社境内に、尾上柴舟氏書の人麿歌碑が建てられた。
 津和野小川家の人麿像 昭和十年六月十八日大阪毎日新聞島根版に左の記事が載つた。
 
  歌聖人麿の坐像發見さる。(津和野の舊家小川家から)。石見戸田郷で生れひとしく石見高津の鴨山を終焉の地としたと數百年來傳へられる歌聖柿本人丸の事蹟については、最近アララギの大御所齋藤茂吉博士がその著書「柿本人麿」によつて堂々たる論文を發表して以來學界に大なる波紋を卷起し自來諸説紛々として萬葉學者の話題を賑はせてゐるが、こゝにはからずも晩年を人丸研究に捧げてゐる美濃郡高津町世良國太郎氏によつて一民家から人丸の木像が發見されるとともにこの木像の作者で津和野龜井藩の名彫刻師大島松溪に對する貴重な文獻が津和野出身の井上蘭崖畫伯によつて發見され歌聖柿本人丸研究に得難い資料を提供してゐる、この木像の所有主は津和野町大字小坂の舊家小川恒次郎氏で數年前前記世良氏がふと耳にした記憶を頼りに去る十五日津和野町の同家を訪問土藏二階に秘藏されてゐることを確かめたもので小川家ではこれに觸れることさへも恐れてゐるので寫眞はとれなかつたがこの坐像こそ文化十四年正月災禍に神祠、神像を燒失した人丸誕生地美濃郡小野村戸田人丸社再建立のため津和野龜(674)井藩主の公命により文政二年十二月大島松溪が彫刻、當時試作して藩主の御目に供したものである、しかしてその前後の模樣を記した柿本明神再造記は同町夕藏山林内で井上畫伯がこのほど發見、それによると大島家鎭守として當時試作の人丸像を夕藏の地に祠りその後いつの代にか廢り大島家の近親に當る小川家に傳はつてゐるもので松湊は彫刻に要する道具を全財産を投じて購入、人丸の童形老體、侍者の像合計八體を刻み戸田人丸社に祠りさらに道具一切を夕藏に埋藏したことが記されてある、なほこの彫刻師大島松溪は江戸で鏑木梅溪の門に學び南蘋派の畫を能くしまた木彫、石彫にも長じ弘化三年七月十二日八十九歳の高齡で没してゐるが在世當時幕命により伊能忠敬が高津海岸測量の際これが輔佐役を命ぜられ意見の衝突から憤然去つたことは有名な逸話として傳へられてゐる。
 
 文字人丸 これは人丸と漢字で人形をかき、人の右方の凹んだところに、人麿らしい顔をかいてゐる。普通にある文字人丸は、多く平假名で書いたのが多く(別掲の寫眞もその一例である)〔寫眞略〕、私もその數種を見て居るが、これは漢字で書いてゐる。なほこれには、紫野大徳寺の大心和尚の畫賛があるから次にしるす。
  日本歌仙、妙句動天、吟無思着、才發自然、明石風景、寫筆新鮮、人丸名字、遍界流傳、上自聖主、下至群賢、相習爲業、善問攻堅、竺偈神秘、唐詩精專、并君和詠、三皆齊肩
   日ノ本ノ人丸獨リ歌ノ神非々想天ノ上ノ上ナキ  紫野大心
 日禎和尚畫像 京都左京區嵯峨小倉町常寂光寺所藏。京都本國寺十四世、京都常寂光寺開山日(675)禎は、元和三年八月二十二日寂。廣橋大納吉光國卿息也とあるが、廣橋家譜には所見が無い。畫の上に『苔衣きて住そめし小倉山まつにそ老の身をしられける。究竟院僧正日禎聖人詠哥肖影』といふ賛がある。畫像は脇息に凭つた左向の僧形で、何の奇もなく、人麿と關係が無いのであるが、頭に普通人麿像に見るやうな、冠をかむつてゐる。さうしてよく見ると、後人がつけ足したものだといふことが分かる。即ち、人麿の像に似せるためにいたづらをしたものである。
 人麿大明神火防神託(總圖參照)〔總圖略〕。信濃圖、田幡村林泉寺の神符で、中央に、人麿大明神火防神託、右に七難即滅、左に七福即生とあり、下に燒亡はかきの本まで來るともあかしといゑばすぐにひとまるとある。幅二寸八分。長さ一尺。
 
(677) 小考
 
(679) 諸説記載に就いて
 
 萬葉卷二(二二一)の人麿の短歌中、『妻もあらば採而多宜麻之』の『採而』は奮訓トリテであつたのを、眞淵の考でツミテと訓んだやうに書いたが、これは、代匠記初稿本で既に、『とりてはつみてともよむべし。下のうはぎにかかる詞なり』と云つて居り、精撰本に、『トリテハ、ウハギヲツムナリ』とあるから、契沖はさういふ試訓を提出してゐるので、眞淵はそれに據つたものであらう。併し、明かにツミテの一訓に定めたのは眞淵の考からであつた。それを明かにしないのは精しくなかつた。
 私の評釋は、能ふかぎり文獻記載に努め、校本萬葉集諸説部の是正をも若干爲したほどであるが、それでも右の如き見落しがあつた。そのほかにもさういふ見落しがあるなら、どうぞ自由に補正せられたい。
 
(680) いほる考
 
 萬葉卷二(二二〇)、人麿が讃岐狹岑島で咏んだ長歌の中に、『廬作而見者』といふ句がある。これをイホリシテミレバと訓むか、イホリテミレバと訓むか、イホルと動詞に考へる説には、槻落葉・略解・古義・檜嬬手・註疏・新考・新訓・新釋・全釋等があり、藤井高尚の松の落葉でもイホは體言、イホリは用言といつてをり、大言海、大日本國語辭典等もその動詞説である。然るに、山田孝雄博士は、『イホリはイヘヲリの約にして假初の家をつくりて居るをいふ。之を略してイホともいふ。かくして用より體に轉ずるなり。諸家往々イホといふ語よりイホリの出でたりといへるは逆なり』(講義卷第一)。『按ずるにイホリを直ちに動詞とせる例を知らねば、イホリテとよむは無理なるべし』(講義卷第二)と云つて居る。そこで私は評釋篇卷之上の原稿を作つた時は、イホリシテミレバを主とし、イホリテミレバを從として解釋し、それに未練を殘してゐたのであつた。
 そして、廬利、廬入等の利・入が單に假名を表はしたのでなく、活用を暗指したのではあるま(681)いかといふ感じのもとに用例を求めてゐたところ、昭和十二年九月になつて、常陸風土記に一つの用例を見つけた。筑波郡の條に、
 
  都久波尼爾《ツクバネニ》、阿波牟等伊比志《アハムトイヒシ》、古波多賀己等岐氣者《コハタガコトキケバ》、加彌尾阿須波氣牟也《カミネアスバケムヤ》。
  都久波尼爾《ツクバネニ》、伊保利弓都麻奈志爾《イホリテツマナシニ》、和我尼牟欲呂波《ワガネムヨロハ》、波夜母阿氣奴賀母也《ハヤモアケヌカモヤ》。
 右、西野宣明校註本に據つたが、他書もかはりは無い。『加彌尼』につき、栗田寛の古風土記逸文考證に、『詳ならず、闕字あるべし』といひ、『阿須波氣牟也』につき、『遊びけむにて、也は助辭の如く、歌一首の終に置たるなれば、歌詞にはあらず』といひ、『伊保利弖』につき、『庵にて假寐する意にや』と云つて居る。
 この歌の、『伊保利弖』は、異本にあつても同樣であれば、イホリテと訓むべきであるから、恐らくこの歌の出來た頃から、イホリテと動詞にして使つたと結論して差支なかるべく、從つて人麿の歌の、『廬作而』もイホリテと訓んで差支の無いこととなる。因に云。鹿持雅澄は南京遺響で、『伊保利尼。利の下に都久利の三字の落しなどにやあらむ。さて尼は弖の寫誤なるべし。イホリツクリテとあるべし。萬葉十に、詠v露(を)、秋田苅借廬乎作吾居者《きぎたかりかりほをつくりあがをれば》云々』と云つたが、この脱字説はどうであらうか。それから、『尼』とあるのはやはり『弖』の誤であらう。
 なほ、參考のために一二を記す。宣化天皇紀に、元年春正月遷2都于檜隈廬入野1とある廬入野(682)につき通釋に、『廬入野は阿波國風土記に、檜前(ノ)伊富利野宮とあり。入は里の假名なること知られたり。里を省きても云しこと、慶雲四年威奈大村と云人の墓誌に、檜前五百野宮とあり』とある。また、萬葉卷十三(三三二四)に、雲入夜之迷問《クモリヨノマドヘルホドニ》云々とある。此等の『入』は單に廣く『利《リ》』といふ假名の代用のこともあらうが、動詞變化の時の『利』假名の時もあるであらう。
 
(683) 『うはぎ』補遺
 
 萬葉卷二(二二一)の人麿の短歌、『妻もあらば採《つ》みてたげまし沙彌《さみ》の山野の上の宇波疑《うはぎ》過ぎにけらずや』の中の宇波疑《うはぎ》はヨメナの事だと解釋して置いた。それで大體間違はないが、岡不崩氏の萬葉集草木考第二卷には精しい考證が載つてゐる。
 宇波疑《うはぎ》(於八木《おはぎ》)には薺蒿・莪蒿等と『蒿』の字を用ゐてゐるが、蒿は蓬《よもぎ》であるから、別な植物といふことになるが、若菜の時には相似てゐるので、總稱して蒿の字を使つたものと見えるし、支那でも白蒿・青蒿・〓蒿等と區別してゐるが、共に蒿の文字を用ゐてゐるのは通呼したのである。
 さて、岡氏は、『菊科なるヨメナ屬の Aster Laulureanus, Franch. 或は又菊花屬の、Ch.lavandukaefolium,akino. の、古名にてはあらざるか。【中略】今本草和名に依れば、薺蒿菜を崔禹錫は、一名〓蒿、一名齊頭草といへり。〓蒿は爾雅に、莪蒿又は蘿蒿とあり、齊頭草は爾雅に壯蒿なりとあり。然らば萬葉時代に於て、ウハギを漢名蒿に宛つるは、いかゞにやとの説もあらむ、(684)そは菟芽子《ウハギ》又は宇波疑《ウハギ》と、假名書せるを以てなり。されど予の推測するところによれば、當時の本草又は毛詩の注疏等によりて、若菜の宇波疑は、蒿の類に似たるも、蒿の類甚だ多くして、一定し難ければ、菟芽子又は宇波疑と假名書せるにはあらざるか。【中略】ウハギを、蒿の類に宛てたるは誤りなり。されど當時若菜として、其苗葉の類似せるを以て、凡て蒿の類ならんとせるなるべし。【後略】』と云つてゐる。併し、宇波疑《うはぎ》はヨメナ(Aster indicus,L)と解して大體差支はなく、※[奚+隹]兒腸【ヨメガハギ・ノギク】とも解し、なほ鐵桿蒿【ヤマヂノギク・ヤマシロギク】馬蘭 コンギク等と古代は一しょにして採んだものであらう。味は少しづつ差別がある。
 實物に就いての論議は大體以上で分かるが、人麿が宇波疑《うはぎ》を咏み込んだについて岡不崩氏は次の如くに云つてゐる。
 
  【中略】人麻呂の詠じたる、妻もあらばの歌は、古今注の挽歌に題材を得たるにはあらざるか。宇波疑は蒿の屬なるべしと、解したることゝ想はるるなり。そは此哀傷の歌に、何等縁のなき、蒿なり宇波疑なりを、詠むの要はなかるべし。しかも期節を過ごしたる宇波疑なり。早春ならんには、誰にも分別して採むことを得るも、他の雜草の生ひ出でたる、初夏の頃には、唯|一目《ひとめ》には見分けがたかるべし。秋深くして衆草に遲れて、愛らしき小菊花の咲くありて、更にウハギを知るに至るぺし。されば人麻呂は、其實況を詠みたるにはあらで、假想的に詠みたるか、將又聞き傳へて、作歌せるかに外ならざるぺし。【下略】
(685) 岡氏文中、『古今注』といふのは崔豹古今注卷中にあるもので、薤露蒿里並喪歌也。【中略】言人命如2薤上之露1、易2〓滅1也、亦謂人死魂魄歸2乎蒿里1、故有2二章1。一章曰、薤上朝露何易v〓、露〓明朝還復滋、人死一去何時歸。其二曰、蒿里誰家地、聚2斂魂魄1無2賢愚1、鬼伯一何相催促、人命不v得2少踟※[足+厨]1。【中略】薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1、使2挽柩者歌1v之云々。その中に『蒿里』とあるのが即ち宇波疑に關係してゐると做すのである。
 右の如く、岡氏は人麿は支那の詩の模倣で、空想を以て、『野の上の宇波疑《うはぎ》過ぎにけらずや』と作つたのであらうと云ふのであるが、愚考はさうは思はない。縱ひ人麿は、前記の如き支那の詩を讀んでゐたにせよ、この歌はもつと現實に即したもので、當時の食物史上、宇波疑《うはぎ》はさういふ空想的なものでなく、實際に食用とし、然かも大切な滋養菜と看做されてゐたものであつただらう。卷七(一八七九)に、『春日野に烟たつ見ゆをとめらが春野の兎芽子《うはぎ》採《つ》みて煮らしも』とあるのを見ても分かり、また、既に評釋篇にも觸れた如く、和名鈔卷十七に、薺蒿、七卷食經云、薺蒿一名莪蒿【莪音鵝、和名、於八木】崔禹錫食經云、状似艾草而香作羮食之とあり、延喜式卷三十九、内膳司に、漬年料雜菜、薺蒿一石五斗、料鹽六升、右漬2春菜1料とあり、出雲風土記には、嶋根郡|附島《つきしま》、有2椿松薺頭蒿葦茅都波1、其薺頭蒿者、正月元日生長六寸とあるし、なほ、意宇郡|砥神島《とかみしま》、羽嶋《はしま》、嶋根郡|和多多嶋《わたたしま》、結嶋《ゆひのしま》、久字嶋《くうしま》、屋嶋《やしま》、小嶋《こしま》に有薺頭蒿の記述がある如く、煮ても漬けても食した(686)ことが分かり、海中の嶋に多く野生してゐたことも分かる。また現在砂彌島にヨメナを採集し得るのであるから、人麿の歌はただの空想で作つたのでないことが分かる。ただ、溺死體の傍に、時過ぎた宇波疑を採んで來たので無いこともまた明瞭であるから、私が現實的、實際的と云つてもそれを誤り解してはならない。
 薺蒿は支那でも日本でも食する如く、實際生活の樣式に類似共通の點のあるのは自然的事實である。從つて、その一方が一方の模倣・影響だなどとは速かに斷ずることが出來ない場合も多いのである。從つて、人麿の歌の宇波疑《うはぎ》云々は、支那の古今注の、蒿里《かうり》云々の模倣だと速斷することが出來ないのである。
 近時、我國の上代文學と支那の上代文學との關係交渉について研究する學者が多く、これは學問發展上必要なことであるが、結論がややともすれば放縱になつて正鵠を得ない點もあるので、その一二は既に評釋篇に於て愚見を述べて置いたが、今偶、岡不崩氏の説に逢會してまた愚見を補充することとした。(昭和十二年九月)
 
(687) 賀茂・鴨・神・龜
 
 私は、鴨山考、鴨山考補註を作つた時、賀茂・鴨・神・龜の相關に就いて述ぶるところがあつた。なほそれに關し機に接觸して得た參考資料を書繼ぐこととする。
 出雲風土記、意宇《おう》郡、賀茂神戸《かものかむべ》。郡家東南卅四里、所v造2天下1大神命之御子、阿遲須枳高日子命、坐2葛城賀茂社1、此神之神戸、故云v鴨【神龜三年改2字賀茂1】即有2正倉1。ここに、賀茂・神・鴨の相通じて用ゐられたことが證明せられる。此地は風土記と和名鈔で違ふし、現在の地名は不明であるが、能義郡にあると考へて好い。
 平田篤胤の古史傳卷三十一、瓊瓊杵命の御陵は筑紫日向|埃之山《えのやま》に有りといふところの解釋がある。御陵は、前王廟陵記に薩摩國頴娃郡、和名砂に薩摩國|頴娃《え》江乃郡|頴娃《え》郷とある處だとし、種々考證した中に次の事が書いてある。
  此の廟の山を、神龜《かむかめ》山とも、龜山とも云ふは、山の形に依りてなり。【中略】此の山を龜山と云ひて、山の形の、龜に似たりと云ふなるは、蓋《けだし》元《もと》は、神山《かみやま》なるを、龜山と訛りしより、如此《カク》云へるには非ざるか。【下略】
(688) 即ち、薩摩の國人は、龜山といふ名は、その形が龜に似てゐるからだといふけれども、それは神山が訛つたのだらうと、篤胤は考へてゐるのである。これは私が、『龜』といふ村について考へたところに補充してよく、神・龜と相通じてゐるのである。この龜山のことは、神社縁起に、『山者一而包2龜形勢1、因稱(フ)2神龜山1』云々。諸神記に、『鎭2座龜山1』云々。地理纂考に、『山の形状圓くして、實に藏女《かめ》に似たり、故に龜山とも云ふ』云々とあるによつて國人に通じてゐることが分かる。
 
(689) 『亂友』に關聯して
 
     一
 
 萬葉卷二(一三三)の人麿作、『小竹《ささ》の葉はみ山もさやに亂友われは妹おもふ別れ來ぬれば』の中の『亂友』に、ミダルトモ、ミダレドモ、サワゲドモ、サヤゲドモ、マガヘドモ等の諸訓があるが、鑑賞上は皆共に參考して味はつて好いけれども、その中で私は、ミダレドモの訓に一番執著する旨を、評釋篇卷之上(八三頁)〔一六卷八八頁〕に記して置いたのであつた。
 私の評釋はずつと以前(昭和八年)に書いたものだが、發行になつたのは昭和十二年五月であつた。それから少し經て、昭和十二年十月から、澤瀉久孝博士の、「さやぐ攷」(【アララギ第三十卷第十號より第三十一卷第二號迄】)が出た。此論文は寔に精到なる攷證であつて、論文の出現するや早くも學界を動かし、橘守部のサヤゲドモの訓は、博士の攷證によつてまさに定説とならうとして居る。博士のその攷證の結論は次の如くである。
(690)  一、「亂る」は自動詞の場合下二段にして四段の例なし。故にミダレドモとは訓めず。
  一、「亂」はサワグと訓める例あり。
  一、「みだる」は木の葉の場合に用例なく、葉のそよぐ事を「みだる」といふはふさはしからず。
  一、木の葉の場合は「さわぐ」の例なく、すべて「さやぐ」なり。
  一、「さや」に清爽の意あり、「さやぐ」も「さわぐ」も同樣の語なれど、「さやに」につづく場合、「さやぐ」の方ふさはし。
  一、「さやぐ」は聽覺を主とすれども語源的に「視覺」を伴へるものにて、この場合も然り。その意味で、「さわぐ」よりもふさはし。
  一、上代の歌には特にくりかへし多し。この歌もその一例と見るべし。
 右の如くであつて、その一つ一つの結論には精密な理由が附してあるものである。そこで、斯くの如き精細な攷證に對しては、もはや一語も批判すべき餘地が無い觀を呈するのであるが、私は、ミダレドモといふ訓に未練があり執著があるために、評釋篇卷之上を發行した後も折に觸れて書きとどめて置いたものがあるから、それを次に記して、私見の一端を披瀝しようとおもふ。
 
     二
 
 『亂』の活用が萬葉集の假名書の例は、皆、ミダレ(美太禮《ミダレ》、美多禮《ミダレ》、美多要《ミダエ》)といふやうに下(691)二段に活用してゐるが、平安朝になつてからの例では、四段に活用したものは他動詞、下二段に活用したものは自動詞といふ具合にいつのまにか約束が出來てゐた。
  水之上丹《ミヅノオモニ》、文織紊《アヤオリミダル》、春之雨哉《ハルサメヤ》、山之緑緒《ヤマノミドリヲ》、那倍手染濫《ナベテソムラム》
  黄葉《モミヂバハ》、誰手〓砥歟《タガタムケトカ》、秋之野丹《アキノノニ》、秘麻砥散筒《ヌサトチリツツ》、吹交(ィ紊)良牟《フキミダルラム》
 この二つは共に新撰萬葉に載つたもので、『織紊』は連體格であつて、字餘りにせぬためにはミダルと訓まねばならず、さすれば四段に活用することとなる。それのみでない、この歌は、『寛平の御時きさいの宮の歌合のうた』として新古今集にも收められた伊勢の作で、明かにミダルと記されてあるものである。なほ、
  秋くれば野もせに蟲の織りみだる〔五字右○〕聲の綾をば誰かきるらむ (後撰、藤原元善)
といふ歌のオリ・ミダルによつても明かなるが如く、ミダルは四段に活用し、他動詞に使つてゐる。その次の、『吹紊』をフキミダルと訓むことは、
  ふきみだる〔五字右○〕柞が原を見渡せば色なき風ももみぢしにけり (千載、賀茂成保)
  ふきみだる〔五字右○〕風の氣色に女郎花しをれしぬべき心地こそすれ (源氏物語)
等のフキミダルによつても推論することが出來るのである。然らば、
  我刺《ワガサセル》、柳絲乎《ヤナギノイトヲ》、吹亂《フキミダル》、風爾加妹之《カゼニカイモガ》、梅乃散覽《ウメノチルラム》 (萬葉卷十、一八五六)
(692)といふ歌の『吹亂』をフキミダルと訓んでもいいと類推し得、また連體格であつて字餘にせぬためには、どうしても四段に活用せしめてミダルとせねばならぬところである。さうすれば、萬葉集にミダルといふ四段の活用が確かにあると謂つて差支ないこととなる。
   然不有《シカトアラヌ》、五百代小田乎《イホシロヲダヲ》、苅亂《カリミダリ》、田廬爾居者《タブセニヲレバ》、京師所念《ミヤコシオモホユ》 (卷八、一五九二)
   蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》、信櫛持《マグシモチ》、於是蚊寸垂《カタニカキタレ》、取束《トリツカネ》、擧而裳纏見《アゲテモマキミ》、解亂《トキミダリ》 (卷十六、三七九一)
 從つて此等の亂字はミダリと四段に活用せしめ得て決して不合理ではないだらう。さうして是等は皆他動詞即ち後のミダシと同じ意味に使つたものと解釋し得るから、此處は下二段のミダレではどうしても調をなさぬ。
   春のきる霞の衣ぬきをうすみ山風にこそみだるべらなれ  (古今春上、行平)
   ぬき亂《みだ》る人こそあるらし白玉のまなくも散るか袖の狹きに  (古今雜上、伊勢物語、業平)
   瀧つ瀬にたれ白玉を亂《みだ》りけむ拾ふとせしに袖はひぢにき  (後撰雜三、讀人不知)
   ぬき亂《みだ》る漢の玉もとまるやと玉の緒ばかりあはむといはなむ (拾遺戀一、讀人不知)
ぬきみだる涙も暫し止るやと玉のをばかり逢ふ由もがな (綾後撰戀二、貫之)
   おきあかし見つつながむる萩の上の露ふき亂《みだ》る秋の夜の風 (後拾遺秋上、伊勢大輔)
   さゝがにのいかになるらむけふだにも知らばや風の亂《みだ》る景色を (蜻蛉日記)
(693)   氷とけし池のおもてに小車のあや織りみだり春雨ぞ降る (香川景樹)
   春雨を物にたとへば水引の絲をみだりて散らすなりけり (井上文雄)
 このミダルと他動四段に活用した例は、古今集以後傳統をなして徳川から明治の歌壇にも及んで居るのである。約めて云へば、萬葉集編纂の頃から現代にまで及んでゐるといふことになる。次に、然らば、下二段に自動詞に活用せしめた例はどうかといふに、假名書の例は、
   うるはしとさ寢しさ寢てば刈薦の美陀禮婆美陀禮《ミダレバミダレ》さ寢しさ寢てば (古事記下)
   伊豆の海に立つ白浪の在りつつも繼ぎなむものを美太禮志米梅楊《ミダレシメメヤ》 (卷十四、三三六〇)
   白雲の絶えつつも繼がむともへや美太禮曾米家武《ミダレソメケム》 (右同、或本の歌に云ふ)
   刈薦の美太禮※[氏/一]《ミダレテ》出づ見ゆあまの釣船 〔柿本朝臣人麿の歌に曰〕(卷十五、三六〇九左註)
   都べに行かむ船もが刈菰の美太禮弖《ミダレテ》おもふ言告げやらむ (卷十五、三六四〇)
   逢はむ日の形見にせよと手弱女の於毛比美多禮弖《オモヒミダレテ》縫へる衣《ころも》ぞ (卷十五、三七五三)
   くれなゐの赤裳裾引きをとめらは於毛比美太禮底《オモヒミダレテ》君待つと (卷十七、三九七三)
   卯の花山のほととぎす哭《ね》のみし泣かゆ朝霧の美太流流許己呂《ミダルルココロ》 (卷十七、四〇〇八)
 かくの如くに假名書の例があるのだから、訓に異論の出でやうが無く、それから類推して、集中の自動詞の『亂』を大體は下二段に活用せしめてよいといふ結論になるのである。
(694)   飼飯の海の庭よくあらし苅鳶の亂出所見あまの釣船 (卷三、二五六)
   否といはば強ひめや吾背菅の根の念亂而戀ひつつもあらむ (卷四、六七九)
   戀ふる事まされる今は玉の緒の絶而亂而死ぬべく念ほゆ  (卷十二、三〇八三)
   青柳の絲のくはしさ春風に不亂いまに見せむ子もがも  (卷十、一八五一)
   梅の花枝にか散ると見るまでに風爾亂而雪ぞ落りくる  (卷八、一六四七)
   片絲もち貫きたる玉の緒を弱み亂哉爲南人の知るべく  (卷十一、二七九一)
等の『亂』は盡く下二段に活用することとなる。この結論は、『玉の緒を片緒に搓《よ》りて緒を弱み亂時爾戀ひざらめやも』(卷十二、三〇八一)の例で明かにミダルルトキニと訓む方の可なるを以てその證とすることが出來る。
 これは既に澤瀉博士の結論であるが、萬葉集の、『亂』の自動詞の活用は盡く下二段だとせば、人麿の歌の、『み山もさやに亂友』の『亂友』をミダレドモとはどうしても訓めないこととなる。博士が、
  自動の場合は文獻の存する以來既に下二段になつてゐたものである。即ち本論の主題の歌の第三句を「ミダレドモ」と訓むべき「證古今に一も存せず」と申すべく、その訓には從ひ難いのである。
といはれたとほりである。
(695) それであるから、韓日本紀興福寺大法師等の、亂絲有禮裾垂飛波志《ミダレイトノミダレテアレトスソタレトバシ》などをはじめ、新撰萬葉集の、沙亂丹物思居者《サミダレニモノオモヒヲレバ》、沙亂丹情解筒《サミダレニココロトケツツ》等は、ミダレと活用せしめて、『さみだれ』に借りて居る程である。
 
   打亂物緒思歟女倍芝世緒秋之風心倦介禮者《ウチミダレモノヲオモフカヲミナヘシヨヲアキノカセココロウケレバ》 (新撰萬葉下)
   青柳の絲よりかくる春しもぞ亂れて花のほころびにける(古今春上、貫之)
   春日野の若紫のすりごろもしのぶのみだれ限り知られず  (伊勢物語、新古今、業平)
   陸奥の信夫もぢ摺誰ゆゑに亂れむと思ふ我ならなくに  (古今戀四、河原左大臣)
   浪のうつせみれば玉ぞ亂れける拾はば袖に儚なからむや  (古今物名、滋春)
   東屋のかやが下にし亂るれば今や月日の行くもしられず  (後拾遺戀三、康資王母)
   整へしかもの社のゆふだすきかへる朝ぞみだれたりける  (後拾遺雜四、安法)
  東路にかるてふ萱の亂れつつ束のまもなくこひや渡らむ  (新古今戀三、延喜御歌)
   まめなれど何ぞはよけく苅萱の亂れてあれど惡しけくもなし (古今雑體、讀人不知)
   朝な朝なけつれば積るおち髪の亂れて物を思ふころかな (拾遺戀一、貫之)
 斯くのごとくに、ここに掲げた用例の盡くが自動詞として下二段に活用してゐるのであるから、澤瀉博士の、『文獻の存する以來既に下二段になつてゐたものである』をば認容せねばならぬがご(696)とくである。
 
     三
 
 然るに私は、人麿の歌の中の、『亂友』をぼ、ミダレドモと訓みたいのであり、萬己むを得ずばミダルトモと訓み、いよいよ致方が無いときにサヤゲドモに至らうといふのであるから、私は稍別な方面から、このミダレドモと訓む理由を追尋しようと思つたのである。
 日本語の動詞は、古く四段に活用し、或時期から下二段に活用するやうになつた例は幾らもある。『隱』でも、禰呂爾可久里爲《ネロニカクリヰ》(卷十四、三三八三)は四段であり、可久禮奴保刀爾《カクレヌホドニ》(卷十四、三三八九)は下二段であつて、同じ萬葉に既に二とほりの活用があつた。『垂』でも亦さうである。之良比氣乃宇倍由奈美太多利《シラヒゲノウヘユナミダタリ》(卷二十、四四〇八)は四段であり、玉垂之小簀之垂簾乎《タマダレノヲスノタレスヲ》(卷十一、二五五六)は下二段である。『觸』も、伊蘇爾布理宇乃波良和多流《イソニフリウノハラワタル》(卷二十、四三二八)は四段であり、伎美我手敷禮受《キミガテフレズ》(卷十七、三九六八)、和我弖布禮奈奈《ワガテフレナナ》(卷二十、四四二八)は下二段である。斯くの如く、同じ萬葉集にあつて、二とほりの活用が既に存じて居たものであるが、『亂』も亦同樣であるのみならず、この『亂』は、いつの間にか、四段は他動詞に使ひ、下二段は自動詞に使ふといふやうに分化してしまつてゐる。この分化は他の動詞と比較して時間的に早い如くである。どうし(697)て早かつたか、それは私にも分からぬけれども、發音上の便利不便利もあるべく、それが發聲學的に解明が出來ることもあるべく、ミダラズ、ミダラヌよりも、ミダレズ、ミダレヌの方が發聲學的心理學的に自然だといふやうなこともあるべく、いづれにしても『亂』の分化は萬葉時代に既に行はれてゐたことは明瞭である。
 併し、此處に斯ういふ問題がある。萬葉で『亂』の假名書きの例は僅かばかりであるが、あの例を以て、當時の『亂』の用語の全體〔二字右◎〕を律し得るであらうか否かといふのがその問題である。
 この問題を提出して、さうして自ら斯う考へる。『亂』は恐らく、古くは自動・他動共に四段に活用したものであらう。それが漸く、下二段活用に變化し、次いで第二次の變化として、古い四段活用が他動にのみ限局し、下二段活用の方に自動が限局するやうになつた。これは事實であらう。併し、それは必ずしも同時期に一樣に行はれたのでなく、漸を以て自然約束的に行はれたのであると思ふから、さうすればその混合型・移行型が未だ隨時隨處に行はれて居たと推論して大きい誤が無いやうにおもふ。即ち、語を換へて云へば、『亂』の自動四段活用が萬葉時代に未だ實際生活の用語に殘つてゐたものと謂つて差支ないやうにおもふ。また、萬葉集の歌の整理せられた時は既にミダレと下二段に訓ませたが、原作はミダリと四段に活用せしめたのかも知れぬのである。萬葉に『美太禮《ミダレ》』と假名書にしたのは、『亂』字の訓が『美太利《ミダリ》』よりも却つて耳新しかつ(698)たからだといふ如き假説も成立たぬことがなからうと思ふ程である。
 以上はこの問題に對する私の結論であるが、この結論を導いた材料を次に記すこととする。この材料は用例の直接的材料でなしに、稍間接的となるが、これも亦貴重材料の一部となるものである。
 ここに、ミダリニといふ副詞があるが、これは四段に『亂』を活用せしめた證で、古來、妄・濫・猥・漫・浪などの字にこの訓を當てて居る。例へば、書紀、孝徳天皇紀大化二年に、浪要2他女1、而未v約際、女自適v人、其浪要者云々とあるが、その中の『浪』をミダリニと訓み、同紀同年の、※[言+巨]生2浪訴1をばイカムゾ・ミダリニ・ウタフルコトヲナサムと訓み、雄略天皇紀十三年の條に、妄輙答とあるをミダリガハシク・モノイフ或はミダリニ・タダコタヘスルヤと訓み、清寧天皇紀の作亂をミダリ(ミダレ)ヲナス、或はミダリゴトヲナスと訓んでゐる。
 なほ、支那の書、例へば戰國策の民不2妄取1でも、老子の不v知v常妄作凶でも、『妄』をばミダリニと訓んだに相違ない。音讀せずに訓讀した時には、さうであつただらうと推察するのである。妄は亂也。从女亡聲と注せられてゐるのを見ても、ミダリニと訓んで差支の無いことが分かる。
 なほ、金光明最勝王經の、『依2止根處1妄貪求、如3人奔2走空聚中1』(重顯空性品第九)の句は、『ミダリニ貪り求む』云々と倭訓したに相違なく、『六根六境妄生2繋縛1』(同)は、『ミダリニ緊縛(699)を生ず』云々と倭訓し、『惑2人眼目1妄謂2象等1』(依空滿願品第十)は、『ミダリニ象等を謂《おも》ふ』云々と倭訓したに相違ない。なほ、法華經の、『以v不2妄與1v人』(安樂行品第十四)も、『ミダリニ人に與へず』云々と訓み、『我常守護、不2妄開示1』(同)も、『ミダリニ開示せず』云々と訓んだに相違ない。即ち、そのころ既に渡來してゐた佛典中の、『妄』といふ副詞を倭訓にした場合にはそれを『ミダリニ』と訓んでゐたと結論して差支なからうと思ふのである。
   白川の瀧のいと見まほしけれど妾《みだり》に人をよせじものとや(後撰雜一、中務)
   白川の瀧の絲なみ亂れつつよるをぞ人はまつといふなる (同かへし、太政大臣)
 後撰集のこの二首は、副詞として、ミダリニ(妄)があつて、返歌の方にはミダレ(亂)といふ下二段の動詞のある例で、有益な例である。即ち古く『亂』が自他共に四段に活用した、その名殘がミダリニ(妄)となつて行はれて居り、一方その四段の自動詞が下二段に變化して此處に用ゐられてゐるのである。吾等は心しづかにこの二首の歌に相對して、『亂』字の活用の歴史を顧慮せねばならない。語を換へて云へば、『亂』字の自動四段の活用を否定してはならない。
 次に、ミダリガハシといふ形容詞がある。大言海に、妄なる状なり。イソガハシのガハシと同趣と解釋してゐる。類聚名義抄には、濫・浪・※[口+刀]・慢等にミダリガハシの訓を附し、亂にミダル、ミダリガハシ、妄にミダリ、ミダリガハシの訓を附してゐる。天治本新撰字鏡に、論〓を彌太利(700)加波志《ミダリカハシ》と訓ませ、伊呂波字類抄に漫・濫・猥・妄・喪・淆・狂等にミダリカハシの訓を附してゐる。なほ、倭玉篇に、妄にミダリガハシ、日本靈異記(【卷下第十六】)、天骨婬※[さんずい+失]、濫嫁爲v宗、我齡丁時、濫嫁邪婬、濫嫁惜v乳、不v賜2子乳1云々の濫にミダリガハシの訓を附した。この語のミダリは即ち四段に活用した語に本づいてゐる。
 このミグリガハシは、ミダレガハシとも轉じた。上記靈異記の濫字の如きも掖齋の攷證に『高野本リ作vレ』とあるから、一本にはミダレガハシとあるものである。これは同じく靈異記卷中、第三十二、濫就d〓2供養1之處uの濫をミダレガハシと訓んでゐるのを見ても分かる。源氏に、『みだりがはしき中を分け入り給ひ』、『みだりがはしきことを聞え給ひつつ』、狹衣に、『さやうにみだれがはしく心をわくるかただになくて』とあるのを見れば、ミダリ、ミダレと兩方に使つてゐることが分かる。そして此は必ずしも自動他動の區別は無いところを參攷すれば、亂の四段活用も古くは自動他動の差別なく、共にさう活用せしめたと推論して差支ないやうにおもふのである。
 次に、名詞として、ミダリアシ(亂足)、ミダリアシノケ(亂足氣)、ミダリカクビヤウ(亂脚病)、ミダリカゼ(亂風)、ミダリゴコチ(亂心地)、ミダリゴト(亂語)、ミダリムネ(亂胸)、ミダリヲ(亂尾)等の語があり、既に倭訓栞・雅言集覽・言海・國語辭典等にも收録せられて居るが、この熟語のミダリは、亂字を四段に活用せしめた證據となるものであつて、それが自動にも(701)他動にも共に使ひ得る自在性を有するところを見れば、四段活用の亂字も古くは自他兩用であつたと想像して誤が無いとおもふのである。そこで、孟子の『妄人』なども、若し和訓にせば、ミダリビト或はミダリガハシキヒトと訓んだであつただらう。それから此等の語は、ミダレアシ(亂足)、ミダレゴト(亂語)、ミダレゴコろ(亂心)といふ具合に下二段に活用せしめて熟語としてゐるから、亂字の活用の變化につれて變化したことが分かる。
 
     四
 
 古事記下卷の、美陀禮婆美陀禮《ミダレバミダレ》をはじめ、古事記安康卷に、『意富祁王袁祁王【二柱】間此亂而逃去』とある『亂』をミダレと訓ませてゐる等、また萬葉の假名書きの全部がミダレであるところを見れば、この活用の變化は存外早く行はれてゐたのであつただらうといふことは既に前言したとほりであり、また、その下二段活用の中に交つて從來の四段活用も未だ用ゐられてゐたことは想像するに難くはないといふことも亦既に前言したとほりである。
 それから、これも既に前言したが、原の四段活用の自動詞の用例が失せて他動詞の場合のみ殘留するやうになつたのは、恐らく發音上の關係であらうが、それと同時に、例へば、巧言亂(ル)v徳(ヲ)、小心不(レバ)v忍(バ)則亂(ル)2大謀(ヲ)1(論語)、孔子曰、惡2似而非者1、惡v※[草がんむり/秀]、恐2其亂1v苗也。惡v佞、恐2其亂1v義(702)也。惡2利口1、恐2其亂1v信也。惡2鄭聲1、恐2其亂1v樂也。惡v紫、恐2其亂1v朱也。惡2郷原1、恐2其亂1v徳也。(孟子)の如く、他動詞の傾向の時に、原の活用の方が便利であつたといふ點などもあるのかも知れない。それが變化してミダスとなり、好v勇|疾《ニクメバ》v貧亂(ス)也(論語)の如くミダスと訓ませ、このミダスの語は既に、故實|※[さんずい+堯]多之《ヲミダシ》(三代實録卷十七)の如く載つてゐるのである。この三代實録の例は澤瀉博士も手抄せられて居た。この四段のミダルの餞留は、例へば、是(レ)亂2天下1也(孟子)といふ場合に、既に『亂』が下二段に活用してゐて、それが、ミダレム、ミダルと自動に活用してゐるのであるから、それと區別するには、ミダラム、ミダルと從來の活用を以てするのが便利であつたので、ミダラムを他動にしようとする語感に限局せしめることとなつたのであらう。なほこの事は專門の學者の説を聽くべきである。
 
     五
 
 次田潤教授は改修萬葉集新講上卷(【一五七頁】)で、『引馬野爾、仁保布榛原、入亂』の處で、
 
  集中には、「亂る」が下二段に活用した事を示す假名書の例もあるが、一方平安朝時代に用例の多い、「みだり心地」「みだり言《ごと》」「みだり足」「みだりがはし」等の「みだり」は、嘗て四段に活用した名殘を示して居る。上古に於て四段に活用した動詞で、後世下二段活用に轉じた語の例は幾らもある。例へば(703)「青山に日が迦久良《カクラ》ば」(古事記)「いかにか和可《ワカ》む」(八二六)「磯に布理《フリ》」(四三二八)「涙|多利《タリ》」(四四〇八)「和須良むと」(四三四四)等の「隱る」「分く」「觸る」「垂る」「忘る」は、何れも四段括用の動詞として用ゐられてゐる。因つて「亂る」も古くは四段に活用したものと思はれるから、今はイリミダリと訓んで置く。
 
と云はれて居るが、これがやがて私の結論と同樣に落着くのである。なほ私の評釋の文は當時山田|孝雄《よしを》博士の著書から多くの恩頼を受けたものであつたが、山田博士は、『古語にてはこの語四段活用たるなれば、その連用形にてミダリとよむべし』(講義卷第一)、『亂は古は四段活用なれば、ミダリといふべきなり』(講義卷第三)と云つて居られる。なほ本居宣長の文を讀むに、『あらく、みだりにして』、『甚みだりなることなり』、『みだりによみちらせ』、『みだりなる強《シヒ》ごとなり』(うひ山ふみ)等に逢着する。即ち宣長も、『亂』を古くは自他共に四段に活用したものとして、その模倣をしてこの擬古文を書いて居るのである。
 右の如くで、『亂』も嘗ては自他共に四段に活用しただらうといふ結論には先づ間違はないとおもふ。ただ澤瀉博士の云はれるごとく、文獻の存する以來下二段になつてゐたといふ結論も否定することが出來ない。尠くとも明かに假名書になつてゐる例を證據とする以上は否定することが出來ない。
(704) そんなら、何時頃から自動下二段に限局したか、また、萬葉集時代の日本語全體が、或は人麿や奧麻呂時代の日本語全體が、既に下二段に『亂』を活用せしめたか、それは容易に極められない問題だとおもふ。澤瀉博士が、『言葉の放濫時代に生きてゐる現代の人にはそこまでの別を考へなくともと思はれるかも知れないが、かうした上代人の言語感覺を今の人ももう少し尊重してよいのではないかとわたくしは思ふ』と云はれたのは私も至極同感であるが、萬葉集の假名書きの數例のみを以て、萬葉集を通じた時代の全體の日本語を律するのはどうか知らんと私かに思ふのである。前にも云つた如く、私の推察では、萬葉の上期は四段、末期でもいまだ下二段との混合状態が行はれてゐたのではあるまいか。
  さまざま亂れさせ給ふ〔六字右○〕。今年は先づ下人《しもびと》などはいといみじう、唯だ此頃の程に亡せ果てぬらんと見ゆ。【中略】三月ばかりになりぬれば、關白殿の御悩みも、いと頼もしげ無くおはしますに、内に夜の程參らせ給ひて、斯くてみだり心地〔五字右○〕いと惡しく候へば、此程の政は内大臣行ふべき宣旨下させ給へと奏せさせ給へば【下略】(榮華物語)
 榮華物語のこの文には、動詞の時には下二段になつてゐるが、名詞の時にはいまだ四段の形の儘に殘つてゐる實例があるのである。當時の人々は、國語學者、文法學者でなかつたために、その變遷のありさまを歴史的に一々究めたのではないが、自然的潮流としてこの實行が見られるの(705)である。もう一度語を換へて云へば、さう意識せずにこの混合の使ひ方を實行してゐるのである。
  和須良牟砥《ワスラムト》、努由伎夜麻由伎《ヌユキヤマユキ》、和例久禮等《ワレクレド》、和我知知波波波《ワガチチハハハ》、和須例勢努加毛《ワスレセヌカモ》 (卷二十、四三四四)
 これには、『忘る』といふ動詞の四段と下二段と二つ含んでゐる例である。即ち、一首にその混合例の明かな例である。この作者は特に文法上の疑などを起さずに一首の中に二つの活用を平然として使つてゐるのである。『宇奈波良乃《ウナバラノ》、根夜波良古須氣《ネヤハラコスゲ》、安麻多阿禮婆《アマタアレバ》、伎美波和須良酒《キミハワスラス》、和禮和須流禮夜《ワレワスルレヤ》』(卷十四、三四九八)の『忘る』の活用もまた、一首の中に兩方使つて居る。
 上の如き事實をいろいろ綜合して考へると、『亂』の活用の場合も、萬葉集の時代全體から見れば、やはり混合して行はれてゐたのではなかつただらうか。二つの活用(【他動四段、自動下二段】)と、その原形(【自動四段】)がいまだ殘つてゐたのではなかつただらうか。即ち、人麿の時代には、いまだ自動四段の活用が殘つてゐたのではなかつただらうか。然らば、人麿の歌の、『亂友』をば、『ミダレドモ』と訓んで差支あるまいといふことになる。澤瀉博士の精細なる攷證があるにも拘らず、なほ西本願寺本、寛永本(仙覺)、代匠記精等の訓の『ミダレドモ』に執著し、それに私見を附する所以である。
 
(706)     六
 
 右にも云つたやうに、古寫本中で、ミダレドモと訓んだのは西本願寺本のみであるが、そのほか、大矢本、京都大學本には青を以てレと記入あり、なほ京都大學本には亂の左に赭くミタレと書いてある。これは校本萬葉集に據つたのであるが、此等の訓は、仙覺の訓に從つたのがあるやうである。さすれば、古い寫本の大部分(【元・金・類・古・神・温】)はミダルトモである。
 自分はまた次のやうにも考へてゐる。トモといふ助詞は、縱ひ、條件を附し、假令をあらはす時に使ふのだといつても、やはり人麿の作、『大和田《オホワダ》、與杼六友《ヨドムトモ》』(卷一、三一)の場合の如く、現在|淀《よど》んでゐてもよい。此は既に拙著【評釋篇上】で説いたごとくである。(【なほ、柴生田稔氏、佐伯梅友氏の考説がある】)然らば、『亂友』をどうしても、下二段に、訓まねばならぬとせば、この際ミダルトモの訓に還元してもかまはぬと思ふのである。このトモは矢張り人麿作、『石見乃海《イハミノミ》、角乃浦囘乎《ツヌノウラミヲ》、浦無等《ウラナシト》、人社見良目《ヒトコソミラメ》、滷無等《カタナシト》、人社見良目《ヒトコソミラメ》、能咲八師《ヨシヱヤシ》、浦者無友《ウラハナクトモ》、縱畫屋師《ヨシヱヤシ》、滷者無鞆《カタハナクトモ》』(卷二、一三一)の例をも參考にして好く、現在山笹がざわめいて亂れ立つて居つても、さうミダレテ居つても、それでも、といふやうに解し得るのである。この古い訓もまた棄てずに味つて好いと思ふのである。今勅撰集で『みだるとも』の入つた歌數首を示せば次のごとくである。この方は假令の色合がもつと強い。
(707)   亂《みだ》るとも人知るらめやかげろふの岩がき淵の底の玉藻は  (續古今戀一、政村)
   下にこそ忍ぶの露の亂るとも袖の外にはいかがもらさむ  (新後撰戀一、成茂)
   心こそ絶えぬ思ひに亂るとも色にな出でそ忍ぶもぢずり  (新後拾遺戀一、藤經)
   みさび江の底の玉藻の亂るとも知らるな人にふかき心を  (新續古今戀一、兼好)
 
     七
 
 友人柴生田稔氏に、次の如き假定がある。(亂を自動下二段と極めて)。『みだるれども』を發音の關係より『みだれども』とは言はれぬかといふ假定。例へば、『忘らるる』は四段活用の殘りと説明してゐるが、何故にこの形だけ四段活用時代の痕を留めてゐるかと言へば、發音上の要求が考へられるのではないかと思ふ。『みだる』がもと四段であつたとすれば、下二段になつて後も、『みだれども』の形が殘つたと考へる事も出來るのではなからうか。
 右は柴生田氏の假定であるが、人麿の歌の、『妹之結《イモガムスビシ》、紐吹返《ヒモフキカヘス》』(卷三、二五一)のフキカヘスに就いて、佐伯梅友氏が説をたてて、カヘスはカヘラセル心持で、今は濱風に向つて自分が紐を吹きカヘラセルといふ心持に、吹きカヘスと云つたものと考へられまいかと云つてゐる。斯ういふことが言語學上可能だとすると、柴生田氏の説も認容出來るやうにも思はれる。この佐伯氏と同(708)じ説を吉澤義則博士もたてて居られたやうであるから、私等は參考すべきである。
 此處に『忘る』の例が出たが、『あまざかる鄙に五年住まひつつ美夜故能提夫利《ミヤコノテブリ》、和周良延爾家利《ワスラエニケリ》』(卷五、八八〇)も、『忘れられにけり』と下二段にするところを、『忘らえにけり』と原形の四段に使つてゐるのは、發音の便利《ベクエーム》のためであるからであらうか。
 
     八
 
 
 類聚名義抄に、亂にミダル、ミダリガハシの訓あり、妄にミダリ、ミダリガハシ、浪にミダリガハシ、淫にミダルの訓がある。伊呂波字類抄に、ミダルに亂、攪、擾、〓、浪、糜、爛、絲、監、紊、惹、滑、猾等を當て、ミダリガハシに妄、猥、漫、濫、喪、淆、狂等を當ててゐる。また心空の法華經音訓には、亂にミダル、ワタル、ヲサムの訓を附して居る。
 斯くの如くに、亂にサワグの訓が無いのであつて、萬葉ではサワギに、動、散動、驟、驂、※[足+參]、騷、颯等を當ててゐるのであるが、神武紀の未平をサヤゲリと訓み、景行紀の不平をミダルと訓み、允恭紀の散をサワグ、崇峻紀の散をミダレと訓んでゐるから、サワグ、ミダルは相通じた點がある。そこで、萬葉の『松浦舟亂穿江』(卷十二、三一七三)の亂をサワグと訓めないことはないとも云へる。なほ、萬葉の『苅薦之擾《カリゴモノミダレテ》』(卷十二、三一七六)、神武紀の『聞喧擾之響焉《サヤゲリナリ》』、繼體紀の(709)『擾2亂《サワガシ》加羅1』等をも參考とすることが出來る。萬葉の例は小竹の葉などにはサヤグの例が多いやうであるが、併し、例へば張詠詩に、『汀葦亂搖寒夜雨』の句があるが、この『亂搖』を倭語の一語に訓むならば、ミダルと訓んでもかまはぬであらう。必ずしもサヤグと云はずとも足るやうに思へるのである。
 ただ澤瀉博士のは『亂友』を、サヤゲドモと訓むに至る攷證であり、私のは、ミダレドモと訓むのに未練を持つての攷證である。作歌稽古の態度からいへば、ミダルトモ、ミダレドモ、サワゲドモ、サヤゲドモ等を皆活かして鑑賞することが可能である。そのうちで私はミダレドモを一番好いとおもつて味はつてゐるものである。
 
(710) 『みだる』の語原
 
 私は、ミダレは水垂《ミダレ》ではなからうかと想像したことがある(假説)。然らば、水垂《ミダリ》と四段に活用するのが原形で、水垂《ミダレ》と下二段に活用するやうになつたのは、第二次なのである。これにつき少しく類推に役立つ實例を擧げる。
 涎(ヨダレ)は、大言海では、『よよむ口ヨリ垂リ出ヅルシヅクノ意』とその語原を解釋してゐるがこれも正解の如くである。ヨヨムは、萬葉卷四(七六四)に、『百年に老舌《おいじた》出でて與余牟《ヨヨム》とも我は厭はじ戀は益すとも』とあるヨヨムで、なほ、源氏物語の、『しづくもよよに、くひぬらしたまへば』、『おのれもよよと泣きぬ』、徒然草の『よよと飲みぬ』なども意が轉じたが、同じ語原のものに相違ない。
 實際、涎(ヨダレ)は、もとはヨダリであつた。新撰字鏡に、※[口+延]。口水也、液也、唾也、與太利《ヨダリ》又|豆波志留《ツバシル》。和名鈔。津頤。病源論云、津頤、與太利《ヨダリ》。類聚名義抄口部、醫心方等同訓。このタルを四段に活用せしめた例は古事記等にも多く、また、垂水《たるひ》、垂水《たるみ》をはじめ、萬葉集卷五((八〇四)(711)に、伊豆久由可新和何伎多利斯《イヅクユカシワカキタリシ》(皺掻き垂りし)。卷二十(四四〇八)に、多久頭怒能之良比氣乃宇倍由奈美太多利《タクヅヌノシラヒゲノウヘユナミダタリ》(涙垂り)とあるに據つて知ることが出來る。なほ、祈年祭祝詞の水沫畫垂《ミナワカキタリ》も四段に活用せしめたものであらう。そしてこのあたりは、自動詞とも他動詞とも解釋のつくことに注意すべきである。【後段に關係す】古事記上卷の、『神産巣日御祖命之|登陀流《トダル》天之新巣之凝烟【訓凝烟云州須】之|八拳垂摩弖《ヤツカタルマデ》燒擧』のタルは、やはり四段に使つてゐる。
 シダルは下垂《シダル》だらうといふ説があるが、萬葉集卷十(一八五二)に、垂柳者雖見不飽鴨《シダリヤナギハミレドアカヌカモ》。同(一八九六)に、爲垂柳十緒《シダリヤナギノトヲヲニモ》。同(一九〇四)に、梅花四垂柳爾《ウメノハナシダリヤナギニ》。同(一九二四)に、四垂柳之※[草冠/縵]爲吾妹《シダリヤナギノカツラセワギモ》などがあり、シダレヤナギとも訓み得るところであるが、從前からシダリヤナギと訓んでゐるところを見れば、古くから名詞としてさう落着いてゐたものであらう。春去爲垂柳はシダルヤナギノとも訓んでゐるが、いづれも四段に活用せしめてゐる。卷十一(二八〇二)の或本歌、足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃長永夜乎一鴨將宿《アシヒキノヤマドリノヲノシダリヲノナガキナガヨヲヒトリカモネム》の四垂尾もシダリヲと從來訓んでゐるが、これもヤマトリノ……シダリヲノ〔八字右○〕と、同音で調子を取つてゐるのだから、やはりシダレヲでなくてシダリヲであらう。即ち四段活用の自動詞と看做して差支ない。なほ、古事記、『其の矛の末より垂落《しただ》る鹽つもりて嶋となる』のシタダルは四段に活用してゐる。コダルは木垂《コダル》だとおもふが、萬葉集卷三(三一〇)に、東市之殖木乃木足左右不相久美宇倍戀(712)爾家利《ヒムガシノイチノウヱキノコダルマデアハズヒサシミウベコヒニケリ》があり、契沖も、『木タルハ木垂ナリ。木ノ老ヌレバ枝ノサガルナリ』と云つてゐる。なほ同じ用例は、卷十四(三四三三)に、多伎木許流可麻久艮夜麻能許太流木乎麻都等奈我伊波婆古非都追夜安良牟《タキギコルカマクラヤマノコダルキヲマツトナガイハバコヒツツヤアラム》とあり、許太流は木垂《こだる》の意である。この動詞も自動詞、四段活用である。
 ナダル即ち傾くことの語は、山ナダレ、雪ナダレの如く下二段に活用されてゐるが、これは大言海に、『長垂《ナガタ》るノ意カト云フ』と注してあるし、又祝詞(大祓祝詞・廣瀬祭祝詞)に佐久那太理爾《サクナタリニ》、狹久那多利爾《サクナダリニ》の語がある。この語につき、眞淵は、『分流垂の義なるべし』、『逆垂《サカタリ》ちふ言にて、久那《クナ》の約|加《カ》なり』(祝詞考)といひ、宣長は、『眞下垂《マクダタリ》なり。川水の山より落るさまをいへり。……考に、逆垂といはれたるは心得ず』(大祓詞後釋)といひ、重胤は、『狹囘垂《サクナダリ》には非じかと所思ゆ』(祝詞講義)と云つて居る。以上、諸説があつても皆、『垂《タリ》』に關係せしめて釋いてゐる。恐らく此は動かない點であらう。然らば、『垂』といふ動詞は、先に四段活用であつて、後に下二段となつたものと看て差支ないとおもふのである。大言海にも、『決頽《サクリナダリ》ノ約。頽《ナダ》る。古クハ四段ニモ活用セシナラム。即チ、なだるるノたるるモ、垂るるニテ、古キ四段活用ノ、垂るノ一轉ナリ。其外、隱る、亂るナドニ、二活用アル例アリ』とある。
 次に、其後計らずも大島正健氏の説を知つた。大島氏は、ミダルにつき次の如く解釋してゐる。『ミは水、タルルは垂るるにて、ミ〔右○〕タルルを水垂るると注すること正當の解釋にて、即ち其本義は(713)降雨なり。この第一義は既に忘れられて傳はらざるに至れり。次に物の錯綜する状態を降雨に比して形容し、ミダルルと唱ふ。是れ第二義にして、現今行はるる所の語意なり。而して第一義と第二義との關係に就いては、殆ど知る者無きに至らんとせり。ミ〔右○〕タルルをミ〔右○〕ダレの名詞に据ゑ、之に接頭語のサを添ふれぼ、サミダレと爲りて、梅雨の義に用ゐらる。此處に至りて、忽ち隱れ居りたる第一義の、再現するを見るなり』(國語の語根とその分類)。大島氏の説には他に牽強のものもあるが、このミダルの説は顧慮すべき説で、私の嘗ての想像説を支持するものであり、アメ(雨)は天水《アミ》の轉、ナミ(波)は並水《ナミ》だといふたぐひと共に、語原説としてはやはり妥當なのではなからうか。
 以上は、亂《ミダル》は水垂《ミダル》に本づいた語だといふ假定、要約のうへに立つての言説である。そこで若しそれが破れれば成立しないのである。例へば松岡靜雄氏はミダルは、マダラ(斑)の轉音轉義だとしてゐる(新編日本古語辭典)。これが本當ならば私の説は成立たないのであるが、私は松岡氏の説には賛成しない。
 
(714) 月西渡
 
 萬葉卷一(四八)の人麿作の、東野炎立所見而反見爲者月西渡の結句は、舊訓ツキカタブキヌと訓み殆ど定訓であつて、西渡と書いてカタブクと訓むのは義訓の例だと解釋してゐるのであるが、古葉略類聚鈔に、『東野炎立所見而反見爲者月西渡日雙斯皇子命乃馬副而御獵立師期時者來向《アツマノヽモエタツミエテカヘルサハツキニシワタリヒナラヒシミコノミコトノムマソヘテミカリタテヽシコノトキハクル》』とあつて、ツキニシワタリと訓み、代匠記精撰本に、『又案ズルニ東野ト書西渡トカケルハ相對スル詞ナレバ、ヒムガシノノトヨミ、ニシワタルト字ノマヽニヨムベキニヤ』といふ提言があつて、この『西渡』をくだいて訓み、ニシといふ音を活かさうとする説も出づるかも知れぬとおもふが、支那に、『西渡』、『西度』の用例があるから、それに倣つたものと看、やはり義訓としてカタブキヌと訓むのは動かないところだと思ふのである。なほカタブケリと訓む説もあつたが、『月可多夫伎奴《ツキカタブキヌ》』(四三一一)、『月加多夫伎奴《ツキカタブキヌ》』(三九五五)、『月斜烏《ツキカタブキヌ》』(二二九八)があるから、やはりツキカタブキヌであらう。
 
(715) 『※[手偏+求]』を『たむ』と訓む小考
 
 萬葉集にある『※[手偏+求]』の字は、これを『ウチ』と訓ませてゐることは、評釋篇卷之下【二一九頁二七五頁】〔一七卷二一六・二六九頁〕に記述したとほりであるが、この『※[手偏+求]』字に本來『ウチ』の意が無く、そこで私は、『ヒク』、『トル』と訓んではどうであらうかといふ説をも出して置いたのであつた。然るに、萬葉集の『※[手偏+求]』の用例は次の三例である。
   妹が手を取りて引き攀ぢ※[手偏+求]手折わが插頭《かざ》すべき花咲けるかも (卷九、一六八三)
   ※[手偏+求]手折|多武《たむ》の山霧《やまぎり》しげきかも細川の瀬に波の驟《さわ》げる (卷九、一七〇四)
   引き攀《よ》ぢて枝もとををに※[手偏+求]手折|吾《あ》は持ちて往く公《きみ》が頭刺《かざし》に (卷十三、三二二三)
 この三用例であるが、※[手偏+求]手折をウチタヲリと訓むのが不適當として、ヒキタヲリ、或はトリタヲリと訓ませるとすると、上の方に、既にヒク、トルといふ字があるために、音の重複が惡い意味で邪魔をする。例へば、
   妹が手を取り〔二字右○〕て引き〔二字右○〕攀ぢ※[手偏+求]手折《ヒキタヲリ・トリタヲリ》わが插頭《かざ》すべき花咲けるかも
(716) かくの如くに、トリとヒキとが調和の取れぬ重複となつて具合が惡い。そこで何とかもつと好い訓、山田博士のフサタヲル以外に、何かの訓が無からうかと思つてゐたのであつた。
 その後、朱駿聲の説雅を見てゐると、『撓』に、『※[手偏+求]也』と註してあつた。そこで幸田露伴先生に種々教示をあふいだが、説文解字義證にも、裘は求で、タワムの意があり、また擾、撓擾で、※[手偏+求]に通じ、説文一曰※[手偏+求]也といふことが書いてある。撓はタワムであるから、然らば※[手偏+求]は即ちタワムである。そこで私は、これをタムと訓ませ、麻行下二段に活用する動詞として、『※[手偏+求]手折』をば、『タメタヲル』と訓んだならばどうであらうかと考へたのであつた。
 萬葉集には『撓』字の用例は無いやうであるから、『※[手偏+求]』を以て代用したものかも知れず、二例とも柿本朝臣人麿歌集にあるところを見ると、他の漢字の用例と相俟つて興味ある問題である。卷十三の例は、恐らくはそれ以後のものであらう。
 さて、然らば萬葉集に、タム、タムル、タメム等の下二段活用の例があるかといふに、
   玉鉾の道にいで立ち岡のさき伊多牟流《イタムル》ごとに萬たび顧みしつつ (卷二十、四四〇八)
   許伎多武流《コギタムル》浦のことごと往隱る島の埼埼隈もおかず思ひぞ吾來る (卷六、九四二)
かういふ例がある。これ等は活用がちがふが、榜回舟者《コギタムフネハ》(卷三、三五七)、榜轉小舟《コギタムヲブネ》(卷三、三五八)などと同じ語原であるべく、主として、回、廻の字を當ててゐるが、なほ、迂とか轉とか、撓と(717)かにも通じて同じ語原となるのではなからうか。撓は類聚名義抄にタハムとある如くであるが、タメ、タムはその略であつて、和名鈔十三に、揉を註して太無《タム》とあるし、字類抄に揣、矯、直、※[手偏+敬]、※[敬/手]、※[敬/木]、揉等を當ててゐるが、それ等も同じ語原だらうと考へても好くはあるまいか。さうすれば、枝を撓《たわ》めて手折ることを、枝をタメタヲルと訓ませても差支ないとおもふのである。
 右のごとく、※[手偏+求]手折をタメタヲルと訓ませ、萬葉の三用例に就いて考へるに、
   妹が手を取りて引き攀《よ》ぢタメ・タヲリわが插頭すべき花咲けるかも
   タメ・タヲリ多武《タム》の山霧しげきかも細川の瀬に波の驟げる
   引き攀ぢて枝もとををにタメ・タヲリ吾は持ちて行く公が頭刺に
かういふ具合になつて、一首の聲調に破綻を來すことは無いとおもふのである。特に第二首目の※[手偏+求]手折は枕詞化して、多武《たむ》に續けてゐるとせば、タの音を三つ續けて調子を取つてゐると解して好く、第三首目もトヲヲから、タメ・タヲリと多行の音で續けたものと解釋し得るのではあるまいかとおもふのである。よつてこの私訓を學界に送ることにした。
 併し、ウチ・タヲルといふ從來の訓も、聲調の上からは棄てがたいものであるから、この説明をどうつけるかといふと、既に評釋篇卷之下でしたごとく、誤字として、あのやうな説明をしたが、誤字でなしに、飽くまで※[手偏+求]を活かすとして、ウツの訓を認めようとするならば、※[手偏+求]は撓に通(718)じ、撓は挑に通じ、挑は※[手偏+巣]に通じ、※[手偏+巣]にウツ(撃)の訓がある(類聚名義抄)からして、撃越《ウチコエ》、撃日刺《ウチヒサス》のごとくに、ウチ・タヲルと訓んで好いこととなる。そして萬葉の人麿歌集では、撓、※[手偏+巣]の如き面倒な字よりも※[手偏+求]の如き形態の好いものを選んで代用せしめたものと解釋し得るのではあるまいか。これはウチ・タヲルを認容しての解釋であるが、露伴先生も、少し無理な説明だと云はれた。
 それから、※[手偏+求]をウツと訓ませることを認容しての説明にもう一つある。萬葉卷十七(三九四〇)の歌の『都美之手《ツミシテ》』を、佐佐木博士の新訓萬葉集には、『※[手偏+付]《つ》みし手』と書下してゐる。諸書には、『※[手偏+付]』にツムの訓が見當らぬが、今博士の説に從ふこととし、『※[手偏+求]』は天治本新撰字鏡に『採也』とあり、『採』は萬葉にもツムと訓ませた例の多いこと、此岳爾菜採須兒《コノヲカニナツマスコ》(卷一、一)。妻毛有者採而多宜麻之《ツマモアラバツミテタゲマシ》(卷二、二二一)。春野爾須美禮採爾等《ハルノヌニスミレツミニト》(卷八、一四二四)などの例を見て分かる。また、※[手偏+求]は※[手偏+将の旁]に通じ、持にツマミトル、ツムの訓があることも既に云つたが、一方に『※[手偏+付]』は、類聚名義抄に 『ウツ』、字鏡に『撃也』とあり、書經に、『於予《あゝわれ》石を撃ち、石を※[手偏+付]《う》てば、百獣率ゐ舞ひ』の例があるのであるが、然らば、※[手偏+求]は※[手偏+将の旁]に通じ、採に通じ、共にトル、ツムであつて、※[手偏+付]がツム、ウツだといふことが分かれば、同訓の※[手偏+求]、※[手偏+付]をば相通はしめて、※[手偏+求]にウツの訓を與へても好いのではあるまいか。此もまはりくどい説明であるが、※[手偏+求]を飽くまでウツと訓ませることとなれば、(719)かういふ徑路を取らざることを得ない。
 ここに、萬葉のタム(回、廻、轉)が出たから序に一言するが、榜回舟者《コギタムフネハ》(卷三、三五七)、榜轉小舟《コギタムヲブネ》(卷三、三五八)、許藝廻者《コギタメバ》(卷三、三八九)、榜多味行之《コギタミユキシ》(卷一、五八)、多未弖榜來跡《タミテコギクト》(卷十六、三八六七)等は四段に活用せしめたものであらう。それから、許伎多武流《コギタムル》(卷六、九四二)、伊多牟流《イタムル》(卷二十、四四〇八)は下二段に活用せしめたものであらう。さすれば、萬葉集に二とほりの活用の例があるのであつて、そこで、『撓』(※[手偏+求])を、下二段に活用せしめ、タメ、タムルと活用せしめて不道理でないと思つたのである。(昭和十四年十一月)
 
(721) 人麿文獻補遺
 
(723)     一 萬葉集
 
土屋文明 萬葉集名歌評釋 (昭和九年、非凡閣發行)
  人麿作歌十八首、人麿歌集三十三首の評釋が含まれ、簡潔のうちに、その缺くべからざるものを説述し、著者獨特の解釋を見出すことが出來る。
次田潤【改修】萬葉集新講 上卷 (昭和十年、成美堂書店發行)
  舊版を新に増訂したもので、その後の諸説をも盡く網羅し、自説を述べるにも丁寧親切である。初版に比し全く面目を新にしてゐる。
菊池壽人 萬葉集精考 (昭和十年、中興館發行)
  卷頭に概説があり、萬葉卷一・二の全歌について精細な註釋を施したものである。序に、『吾が萬葉の註釋も目的はむねと人麿の歌にあつた』とあるごとく、人麿の歌に力をそそがれた點が多いので有益である。
久松潜一 萬葉集考説 (昭和十年、栗田書店發行)
  「第二篇萬葉歌人と特殊問題」の中で人麿についてくはしく説かれてあるが、此は講座に載つた論文なので、拙著の總論篇で既に抄した。
(724)佐佐木信綱 萬葉讀本 (昭和十年、日本評論社發行)
齋藤※[さんずい+劉] 萬葉集名歌鑑賞 (昭和十年、人文書院發行)
萬葉集總釋 十二卷 (昭和十年、樂浪書院發行)
  卷一を武田祐吉、卷二を土屋文明といふやうに、萬葉の各卷を一人宛二十氏が擔當したもので、解説、口譯、語釋、後記に分けて説述して居る。評釋十卷。總訓一卷。作者傳、歌句索引一卷。合せて十二卷である。
金子元臣 萬葉集評釋 一・二 (昭和十年、昭和十三年、明治書院發行)
  第一册は萬葉集卷一・二、第二册は卷三・四の評釋である。語釋も鑑賞も丁寧で、萬葉寫眞は特に著者の苦心に成つたものである。
山田孝雄 萬葉集講義 卷第三 (昭和十二年、寶文館發行)
  精到なる講義なること卷第一、卷第二と同樣であるが、前二者よりもくはしい。本卷は拙著執筆後の發行なので參照し得なかつた。
佐佐木信綱 萬葉集百話 (昭和十二年、明治書院發行)
  「柿本人麿傳及びその資料の研究」の一項があり、明治以前の人麿傳記文獻をも概説してゐる。
澤瀉久孝・佐伯梅友 新校萬葉集 (昭和十二年、樂浪書院發行)
  もと萬葉集總釋の第十一に當るものに正誤表を添へ装幀を改めた單行本。原文に旁訓を附し、國歌大(725)觀番號、寛永版本の丁數を入れてある。
井上通泰 萬葉集追攷 (昭和十三年、岩波書店發行)
  昭和七年七月から昭和十二年十月まで雜誌アララギに發表された論文四十篇を收めてある。「玉久世清河原」は、人麿歌集中(卷十一・二四〇三)の一二句についての考説である。「柿本人麿の閲歴の一暗示」は、示唆に富む論文で本文中にも引用した。「水陰生山草」の一篇は、人麿歌集の歌(卷十一・二四五六)、(卷十二・二八六二)の『山草』に關するものである。
佐伯梅友 萬葉語研究 (昭和十三年、文學社發行)
  「吉野における人麿の歌」、「淀むとも考」、「人麿の歌二首」(卷三、二五一・三〇三)等人麿に關する論考がある。
齋藤茂吉 萬葉秀歌 上・下 (昭和十三年、岩波書店發行)
  上卷に人麿作人麿歌集併せて三十首、下卷に同じく三十首を抄出評釋した。
井乃香樹 新建萬葉學 (昭和十三年、日本國學會發行)
  本書は井乃春樹(井箆節三)氏の萬葉研究であつて、萬葉の歌は從來の説の如く單純素朴ではなく却つて後世の歌よりも複雜な技巧を持つて居る、即ち萬葉の歌には諧謔が多く、戯書が多く、古歌や故事や漢籍や佛典を引くことが頗る多いといつて、その考證につとめたものである。その一例をいへば、柿本人麿の作『嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》、船乘爲良武《フナノリスラム》、※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》、殊裳乃須十二《タマモノスソニ》、四寶三都良武香《シホミツラムカ》』の歌の『嗚呼(726)兒《アゴ》』は、書經の泰誓『嗚呼西土有衆』に基き、大和は伊勢より見れば西土に當リ、『四寶三都良武香』の『四寶《シホ》』は阿含經の『名爲第四寶』から來て居り、『三都《ミツ》』は文選の三都賦の『三都』から來て居るといふ説であつて、結局この歌は人麿が持統天皇を諷諌し奉り、持統天皇を殷の紂王に擬し奉つて坐興を弄したものだと説くたぐひである。これ等は氏の新意見であるが、私等には過ぎたるはなほ及ばざるが如しの感を強にふものである。
豐田八十代 萬葉集通釋上・下 (昭和十三年、昭和十四年、育英書院發行)
  萬葉集中日本精神の作興に寄與する歌を選んで、語釋・口譯・後記を施したものである。上卷は卷一から卷十まで、下卷は卷十一から卷二十まで、上卷には附録として「吉野離宮について」がある。
赤松景福 萬葉集創見 (昭和十四年、東京堂發行)
  訓詁を主とした研究で、萬葉集全卷を通じて三百五十項の問題を提出し、これに對して私見を示してゐる。みだりに本文の文字を改めずに訓を下してゐる點に特色がある。『珠水激』(三六)をウチタギツ、『釧著』(四一)をクシロハク、『雪驪』(二六二)をユキニクロマノと訓むなど人麿に關する項目が相當にある。
 
     二 人麿主題の圖書
 
自笑・白露 柿本人麿誕生記 (寶暦十二年)
(727)  寶暦十二歳、京都八文字屋板の淨瑠璃式よみ物五卷で、空想を恣にした妄誕至極なものである。播磨國明石の浦に蜑の小さんといふ女がゐたが、ある夜枕元へ束帶の人忽然と顯れ、節會の御當座に天子九穴の貝といふ題を探り給ひしゆゑ、其出生をしろし召れんが爲の勅諚あり、汝ならでは知るものなし、急ぎ昇殿せよと、いふので御殿にまゐり、九穴の貝の由來を具に勅答申上げ奉つたが、その時御文臺の硯石が動くと見るまにふはふはと小さんの口中に入つたと見て夢がさめたが、それから小さんは只ならぬ身となり、軒口の柿の木今年はめつきりと出來ばえよく、鈴なりの枝を手折つて近所の子どもらに與へようとすると、『不思議や俄に脇章門のあたり痛出、わき腹を押やぶり、ひよいと出るは玉のやうなる男の子、生れたてより惣身に皺あり、髪髭ありて髪白く、老子も是《ここ》に誕生かと怪しまる。この子左へ十七足、右のかたへ十四足都合三十一足歩み、左右の手にて天上天下和歌獨尊々々と高聲に呼はれば、妙なる哉々々、和歌の心神盡く顯れ出、正風鉢は熱湯をさゝげ、幽玄躰はぬる湯をさゝぐ。其外十躰三十躰産衣をさゝげ、惡魔を拂ひ守護ある事ぞふしぎなれ』云々。かういふ調子のもので、赤人は赤雲の化身だといつたり、衣通姫だの橘逸成だの和泉式部だのいろいろ出て來るのであるが、人麿がいろいろに取扱はれるのはかまはぬとして、かういふ奔逸ぶりを整理するにはまた特別な態度が要るものとおもふ。
柿本人麻呂影供記
  安永三年、阿波、源元寛の識語ある木板本、その他寫本種々ある。
(728)たかつの山
  柿本社播州石州御法樂享保八癸卯三月十八日、播磨國柿本社、奉納和歌を輯めたものである。
齋藤茂吉 柿本人麿 總論篇 (昭和九年、岩波書店發行)
齋藤茂吉 柿本人麿 鴨山考補註篇 (昭和十年、岩波書店發行)
窪田空穗 柿本人麿篇 (昭和十年、非凡閣發行)
  「作者別萬葉集許釋」の第二卷。卷頭に「柿本人麿について」といふ總論があつて、人麿の歌の性質、歌人としての特徴を論じ、萬葉集中人麿作と明記せられた歌全部と、人麿歌集中の主だつた歌について評釋をしたものである。語釋、譯、評の中、特に評は丁寧親切で氏一流の新鮮な看方を隨處に見出すことが出來る。
齋藤茂吉 柿本人麿 評釋篇卷之上 (昭和十二年、岩波書店發行)
齋藤茂吉 柿本人麿 評釋篇卷之下 (昭和十四年、岩波書店發行)
志田延義 人麿・憶艮・家持 (昭和十二年、北海出版社發行)
  日本教育文庫の第四卷。人麿については、『傳統的精神の高揚』といふ點を主眼として考察してゐる。
武田祐吉 柿本人麿(歴代歌人研究一) (昭和十三年、厚生閣發行)
  前篇「時代評論」は、古代の歌議・文筆的作品の發達・萬葉歌史の大觀・短歌の傳來・人麿の作品の本質〔宮廷歌人として・人間人麿・表現技術。全作品の展開・配偶者の作品・人麿の後を追ふものの(729)十−項。後篇「傳記及び作品清賞」は、人麿の傳記資料・その家系・娘子と旅人・吉野の宮等十三項である。人麿歌集を資料として人麿研究に活用する傾向が顯著で、それが一面本書の特色ともなつてゐる。
竹味ヱキノ 詩聖柿本人麿の生涯とその歌 (昭和十四年、教育研究會發行)
  人麿の幼年時代の世相、青年壯年の各時代、妻の死、石見に下る、彼をめぐる女性、人麿歌集の歌、大和櫟本なる人麿塚を訪ふ記等の各項に亙つて記述がある。
 
     三 雜誌、講座、單行本中の人麿、人麿の歌を主題とする文章
 
畠山健 人麿過近江荒都作歌評釋 (早稻田文學卷2〇−三〇、明治二十五年十一・十二月)
服部躬治 吾嬬歌談、人麿の大業平の眞 (國文學、明治三十五年)
永井一孝 歌謠の隆盛−柿本人麿 (文藝百科全書、阜稻田文學社、明治四十二年)
  人麿の歌の優れたことをいひ、祝詞との修辭的交渉を云つてゐる。
河合醉茗 柿本人丸評傳 (和歌講義録、日本短歌會發行、明治四十五年)
岩野泡鳴 人麻呂の佳作傑作 (短歌雜誌一ノ一、大正六年十月)
  泡鳴はほかの處でも、『人麿の天地は人の心を鳴り響かせるほど動いてゐるが、赤人の天然は澄み渡つてるけれども固定してゐる』、『要するに、人麿は前囘に於て論じた如く想像に豐富な天才的詩人であ(730)つたに反して、赤人は趣味に適確な能才的技術家であつた。後者は模倣ができるが、前者は古今獨歩である』とも云つてゐる。泡鳴は人麿の長歌をも論じてゐるが、今短歌についての彼の批評を抄記してその大體を傳ふることとする。
「近江荒都」も過去としてまだ間がない歴史の追憶哀悼であるが、作として自然と想像とがよく調和した内容は寧ろこれをその反歌に讓つてる。乃ち、左の如くで、二つともいい短歌である。――
   ささ浪の志賀の辛崎幸くあれどおほ宮人の船待ち兼つ
   ささ浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも會はめやも
人麿の短歌三百五十二首のうちから、僕が書き拔いて二重マルを附したのはこの志賀の追囘二首をも入れて都合七首の外にない。
   ものの夫の八十宇治川のあじろ木にいさよふ波の行くへ知らずも
これは非常に人の心を引きつける歌である。考へれば考へるほど僕等は何となく引ツ込まれて行つたものだ。が、決して佛教的な無常觀は這入つてゐない。佛教的なものごころが附いた當時の青年などにはその方へ持つて行かれても仕かたがないかも知れぬが、本來は日本民族の特色なる現在性をそのまま深めたものだ。無常觀では自己を無にして外存の理的觀念に捕へられて行くが、それがこの歌にはない。自己の生活をそのまま内觀した性質は僕等本來の特色であらう。『波の行くへ』を思ふ寂しみが心を心理的に單純な孤獨に馳せしめないで、何となく大きな、複雜の感じを伴つてる。それは(731)『あじろ木にいさよふ』と云ふ形容に既に發音上の賑やか味があるからでもあるが、今一つさか登つて『ものの夫の――八十』とつづけた枕詞に百萬の軍をも率ゐてる重みがある爲めだ。斯くて古代の枕詞なる物は後世に於ける如く無意義に使はれたのでなかつたことが分る。次ぎに、
   あふみの海ゆふ波千鳥汝が鳴けば心もしぬにいにしへおもほゆ
ここにミとナと二種の問題が上の句に各々三つづつ重なつて口調と意味とを和らかに發展させてゐるのに注意せよ。そして千鳥に對し、はつきりと二人稱を使つたのは珍らしい。後世から見れば遊びの技巧とも見える細工を發見することもできるけれども、古今集に於けるかゝる場合とは全く違つて、少しもそれが爲めに作者の意氣を縮小されてはゐないのである。
   あし引の山川の瀬の鳴るなべに弓月が岳に雲立ち渡る
これには、さきの諸作に於ける如き思ふとか、知らずとか、待ち兼ると云ふ主觀的な言葉は、一つも這入つてゐない。而も最初のこ句のゆツたり出たのが、第三句の間韻迄這入つた、失ツ張り別な意味の主觀的な取扱ひに緊張されて、雲の渡らひが讀む人の心に大きな響きと内容とを與へるのだ。この『弓月が岳』がおもて向きでは殆ど全く客觀的叙景詩に見えるのとは反野に、こゝに一つ、餘りに傳統的主觀をあしらひ過ぎてある爲めに、うツかりすると傑作えらびから見落されさうなのがある。乃ち、『持統天皇雷岳に御遊の時』の作で ――
   おほ君は神にしませばあま雲のいかづちの上にいほりせるかも
(732)僕はこれに就いて、舊著『新自然主義』に云つて置いた、『無定見の技巧家輩には、これを山を歌ふ爲めに面白く云ひまはしたに過ぎないと云ふものがあるかも知れないが、たゞア韻と濁音とが旨く急所に當つてゐるといふだけでは、到底この荘嚴な歌の背景と餘韻とを解し得たとは受取れない』と。つまり、生々慾の出現たる痛切な人間神の信仰がたま/\山の名なるいかづちと共鳴して、無限の威力を歌の音律にまで表現したのだ。今一つこれは戀歌であるが、――
   わぎも子しわれを思はばまそ鏡照り出づる月のかげに見え來ね
『われを思はば』と斷わつたのがくどいが、一面には、また、この音律上に『ヲ−オモ』(オ韻三續)から『ハバ』(ア韻二續)の開展があつて、そこに湛へる感情を『マ(そ)カガ(み)』で持續し、最後の『見え來ね』の想像的希望を却つて一層熱烈にしてゐる。ついでに、人麿の死んだ時その妻依羅娘子の作つたと云ふ哀悼歌を引用して見よう、――
   ただの會ひは會ひも兼てむ。石見山雲立ち渡れ、見つつしぬばむ
これにまた僕は二重マルを打つてあつた。始終の感化を受けてゐた爲めか、たま/\かの女に作られたのが如何にもあり餘る響きがあつて、その折天の少數な傑作にも劣らない。一體に戀歌にせよ、國家詩にせよ、入唐の荘嚴の熱烈にして、再も大きな響きを傳へた點に於いて、わが國の他のどんな詩人にも優つてゐる。その他に、※[覊の馬が奇]旅歌として、
   淡路の野島のさきの濱風に、いもが結びしひも吹き返す
(733)これに僕が二重のではないが単純なマルを附けたのは、一つには僕の國で僕が遊んだことのある土地が讀み込まれてある爲だが、また一つには『あはぢの』と四の句で初まつたのが少しも不自然でないのが面白く、その上、旅立つ人に女が紐を結ぶと云ふ習慣が面白かつたのだ。僕の単純なマルの附いた拔萃は長歌で『吉野の宮御幸』兩篇と短歌十四首と旋頭歌一首とだ。
   見れど飽かぬ吉野の川の川なめの絶ゆることなくまた返り見む
   まき向くのあなしの川も行く水の絶ゆることなくまた返り見む
前者は吉野御幸の反歌、後者は別に河を詠じたものだが、執れも下の句は同じだ。
   とほ妻のふりさけ見つつしぬぶらむ、この月の面に雲なたなびき
これは前の『わぎも子し』の裏を行つたもので、想像的熱烈の度がさきの程には現はれてゐない。
   こぞ見てし秋の月夜は照らせども、相見しいもはいや年さかる
   鴨山の岩根し卷けるわれをかも知らずといもが待ちつつあらむ
前者は妻の死を、後者は自分の臨終を痛んだ作である。それから、なほ『高市皇子の殯宮』の反歌として、
   久かたのあめ知らしぬる君ゆゑに月日も知らず戀ひ渡るかも
『いかづち山』の人間神的解釋のしかたで行けば、これも大きな、いい歌であらう。
   あめ地と云ふ名の絶えてあらばこそ、いましとわれと逢ふこと止まめ
(734)斷わりに勝ち過ぎてるが、さきの『八十宇治川』の肯定的人生觀に合はせて讀めば、この戀の如何に熱いことを現はしてるかが分らう。
   ひんがしの野にかげろひの立つ見えて、返り見すれば月かたぶきぬ
『返り見すれば』に主觀的あしらひが這入つて來てゐながら、作者として寧ろ叙景味に傾いたが、口調もよく餘韻も長いところの佳作である。其の他に。――
   あごの浦に舟乘りすらむ乙女らがたま裳の裾にしほ滿つらむか
伊勢の國御幸の時自分は京に留まつて作つたものだ。これが想像的でなく、若し實際を見ての奇麗な叙景であるべきであつたら、かの大伴家持の『藤なみのかげなる海のそこ清み、しづく石をも玉とぞわが見る』の如きに寧ろよく繼承されてゐる。
   はにやすの池の堤のこもり沼の行くへを知らず舍人はまどふ
作者自身をさしてだが、『舍人はまどふ』と云ふ現はしかたが、どうも少しこぢれてゐるやうで、同伴の反歌『久かたの天しらしぬる』の餘韻ほどには行かぬ氣がする。
   名ぐはしき稻見の海の沖津なみ、千重に隱れぬやまと島根は
   遠くありて雲井に見ゆるいもが家に早く至らむ歩め、黒駒
一は海路、一は陸上の旅の感じだが、後者の如き多少想像拔きの實感に近い方面は寧ろその後に家持の得意であつた。乃ち、家持の『しぶ谷をさしてわが行くこの濱につく夜飽きてむ、馬しまし止め』(735)の如きにだ。
ついでに云ふが、人麿の作で出來そくなひと思はれたのを僕は二首拔いて、三角のしるしを附してあつた。その一は『天を詠ず』で、
   あめの海に雲の波立ち、月の船星の林にこぎ隱る見ゆ
最も單純な比喩、而も直喩的なのを四つもくどく疊み上げたに過ぎぬものだ。それにしても、かゝる特別な試みの比喩はその時代には渠自身のにも又他の作者のにも他に殆ど存在しなかつたのを見ると、ちよつと珍らしくないことはない。けれども、下の句が少し調子がいいだけで、その意味しようとしたことと云ひ、その與へる感じと云ひ、渠としては――さすがに多少のゆとりはあるが――決してこれを活かしてはゐない。丸で大人が假りに子供になつて修辭上の技巧を稽古して見せたやうだ。今一つは、――
   こもりくの泊瀬の山の山の間にいさよふ雲はいもにかもあらむ
上の句から『いさよふ雲は』までは大きな進みでないこともないが、『山の』をただ口調の爲めに二つ重ねたのは餘りいいことではない。さきに『吉野川の川』と續いたのがあるけれども、それを直ぐ『の』で受けてゐないからかまはなかつた。且、雲を最後の七の句で女に見ようとした具合が、さきの依羅嬉子の同じやうな挽歌で雲を男に見たのに比して、甚だ不自然に響く。もちろん、『あめの海に』ほどはまづいものではないが、――
(736)最後に、人麿の旋頭歌は萬葉集に總計三十五首あるのだが、僕はそのうちからたつた一つを取つて單純なマルを打つてある。その他に佳作もなく、傑作はもちろんのことに見たと見える。その一つは左のだ、――
   あられ降り遠つ近江の吾跡川柳、枯れれども、またも生ふちふ吾跡川柳
別に何でもないやうなことを云つてるのかも知れぬが、またあつさりと人間の生々慾を多少でも表象してゐるやうにも取れる。渠が短歌の行きかたとはちよつと違つてるではないか?
兎に角、人麿はわが國の古今を通じて第一流の熱烈な想像詩人であつた。その想像力に自然の熟の加はつてた點に於いては、後世に萬葉時代を活かした實朝も、眞淵も、小澤蘆庵も、なか/\渠の足もとへすら寄りつけるものではない。そこが渠をして今日に至るまで歌に於ける莊嚴と偉大とを獨占せしめる所以であらう。
今の國學者どものうちには、渠が得意の長歌をお定りの如く『八隅知しわがおほ君』若しくは『かけまくもあやにかしこき……あまつ御門』などを以つて初めたのを、愛國者として時代の外國崇拜者どもに對するわざとの反動であつた如く云ふものがある。が、渠自身に取つては、恐らく、そんなに反動的、形式的なのではなく、莊嚴偉大の民族的熱烈詩人としておのづからに湧き出た形容であつたらう。渠はまた儒教や佛敦の思想的影響を受けなかつたことを僕等は承知して、渠を純日本人的に研究しなければならぬ。
(737)臼木歳次 特殊な人麿の長歌 (槻の木。昭和六年十一月號)
窪田空穗 人麿及びその當時の人の死に對して持つ觀念 (槻の木。昭和七年三月號)
丸山冷長 人麿と其妻 (みづがき。昭和九年一−十月號)
佐々木臥山 歌聖人麿と日本精神に就て (日本精神文化。昭和九年四月號)
品田太吉 人麿歌集の訓點について (短歌研究。昭和九年四月號)
  卷十一、二四三二・二四九四。卷十二、二八四四・二八五一・二八五二・二八五三・三一三〇・二八六二。卷十、二〇一三・二〇九四・二〇九五。卷九、一七〇九の十二首(人麿歌集)について自訓を示したものである。
森本治吾 人麿 (昭和九年六月、日本文學大辭典第三卷。新潮社)
  氏姓・生歿・閲歴・作品・作風・影響・參考の各項に分けて概説してゐる。
西田忍 人麿の歌鑑賞 (一路。昭和九年七・八・九月號)
  卷十一、二四五五・二四五七・二四一四・二四二五。卷十二、二二四〇・一八九四についての鑑賞である。
岡田桂 詩聖人麿點描 (青虹。昭和九年十一月號)
石井庄司 柿本人麿 (昭和九年十二月、日本文學講座第七卷和歌文學篇下。改造社)
  「人麿とその時代」の項で、人麿生存期間と推定される持統・文武・元明三代の時代樣相と人麿との關(738)聯を考へ、「人麿の特質」の項で、人麿の寫實的作風と詩的想像力の豐富とを特に強調して論述してゐる。
谷亮平 柿本和歌傭材抄に就て (國學院雜誌。昭和九年十二月號)
次田眞幸 人麻呂の長歌の修辭研究 (國語と國文學。昭和十年一月號)
  人麿長歌の詩形の長大なのは、主に對句・枕詞・序詞を多く使驅してゐることによると云つて、その對句構成の特徴、枕詞序詞の使用數などを調べ、人麿の長歌は萬葉各期を通じて最も圓熟完成したものであるといつてゐる。
窪田空穗 斷想−人麿について (短歌研究。昭和十年一月號)
染谷進 柿本人麿の近江荒都の歌の反歌につきて (槻の木。昭和十年一月既)
土屋靜男 人麿の歌 (あしかび。昭和十年一月號)
次田眞幸 萬葉集卷二「下部留」攷 (文學。昭和十年二月號)
  『秋山下部留』(卷二、二一七)の下部留を、四段活用のシタブに助動詞リが附いた形と見て、シタベルと訓んでゐる。
北島葭江 「さやにさやぐ」に就いて (文學。昭和十年二月號)
  『清爾亂友』(卷二、一三三)について、サヤニは清爽の意であると解してゐる。
齋藤茂吉 人麿歿處國府説に放て (アララギ。昭和十年二・三・四月號)
(739)  「柿本人麿」(鴨山考補註篇)に收めてある。
正宗敦夫 柿本人丸の御守 (アララギ。昭和十年四月號)
  「柿本人麿」(鴨山考補註篇)に抄録した。
安田青風外九氏 柿本人麿短歌評釋 (青波。昭和十年五月號)
  青波同人九氏が分擔執筆して、人麿作及び人麿歌集の歌全部を評釋してゐる。
佐伯梅友 語法的に問題のある柿本人麿の歌二首 (國語教室。昭和十年五月號)
  粟路の(卷三、二五一)の歌の『吹きかへす』は、『吹きかへさる』の意に解し、又名細寸(卷三、三〇三)の歌の三・四句は、『沖つ波』の下にあるべき『の』を聲調上の要求から省略した句法として考察してゐる。「萬葉語研究」所收。
石井健司 私の好む歌人と歌(柿本人麿) (青虹。昭和十年六月號)
人麿歌碑について (青波。昭和十年六月號)
森伊左夫 柿本人麿の研究 (槻の木。昭和十年六月號)
  人麿の歌に『一云・或云・或本歌』の如く、異同を註したものの多いのは、廣く口唱されたためであらうといふ角度から、人麿と記紀歌謡との關係を考へ、『歌舞所』との關係を考へてゐる。
村崎凡人 人麿調 (槻の木。昭和十年六月號)
  口誦文學として高市皇子尊殯宮時の長歌を觀察したものである。
(740)加藤政吉 人麿歌雜考 (東邦。昭和十年六月號)
山田孝雄 萬葉集卷三・長皇子遊獵路池之時柿本朝臣人麿作歌の反歌について (奈良文化。昭和十年六月號)
  卷三、ひさかたの(二四〇)の歌の『網爾刺』の解釋で、萬葉集攷證(岸本由豆流)の説を補正したものである。
窪田空穗外三氏 萬葉集の綜合研究 (短歌研究。昭和十年七月號)
  卷一(二九・三〇・三一)の三首。題意・釋義・口譯・鑑賞(窪田空穗)。文法・歌格・修辭(遠藤嘉基)。人類學的視角から(西村眞次)。特殊研究、天離夷者雖有・石走淡海・志我能大和太與杼六友(品田太吉)。文獻摘要(森本健吉)。
佐佐木信綱外二氏 萬葉集の綜合研究 (短歌研究。昭和十年九月號)
  卷一(三六・三七・三八・三九)の四首。文字・題意・語釋・口譯・鑑賞(佐佐木信綱)。文法・歌格・修辭(佐伯梅友)。文獻摘要(藤森朋夫)。
武田祓吉外二氏 萬葉集の綜合研究 (短歌研究。昭和十年十月號)
  卷一(四〇・四一・四二)の三首。文字・題意・釋義・口譯・鑑賞(武田祐吉)。文法・歌格(藤田徳太郎)。文獻摘要(森本治吉)。
森本治吉外二氏 萬葉集の綜合研究 (短歌研究。昭和十年十一月號)
(741)  卷一(四五)の一首。文字・題意・釋義・口譯・鑑賞(森本治吉)。歌格・修辭(粂川定一)。文獻摘要(森本健吉)。
森本治吉外二氏 萬葉集の綜合研究 (短歌祈究。昭和十年十二月號)
  卷一(四六・四七・四八・四九)の四首。文字・題意・釋義・口譯・鑑賞(森本治吉)。文法・歌格・修辭(粂川定一)。文獻摘要(森本健吉)。
武田祓吉外二氏 萬葉集卷二の綜合研究 (短歌研究。昭和十二年十一月號)
  卷二、一三一・一三二・一三三・一三四について。訓釋・口譯・鑑賞(武田祐吉)。考證(石井庄司)。特殊祈究(豐田八十代)。豐田氏は、都野津の風景、都野津から大和への通路、袖振るといふこと、高角山について記述してゐる。
豐田八十代外二氏 萬葉集卷二の綜合研究 (短歌研究。昭和十二年十二月號)
  卷二、一三五・一三六・一三七について。訓釋・口譯・鑑賞(豐田八十代)。考證(今井福治郎)。特殊研究(藤森朋夫)。藤森氏は一三五の枕詞について諸説を擧げて考案してゐる。
藤森朋夫 人麿の歌一首 (國語特報。昭和十年十一月號)
  ひむがしの(卷一、四八)の評釋である。
齋藤貫 柿本人麿(歴代歌人傳一) (ことだま。昭和十一年一月號)
石井庄司 歌人列傳−柿本人麿− (短歌研究。昭和十一年二月號)
(742)  人麿の詩的想像力の特異性を主題としてゐる。
早川幾忠 萬葉集短歌味解(卷第二) (高嶺。昭和十一年二・三月號)
  秋山の(二〇八)、黄葉の(二〇九)、去年見てし(二一一)、衾道を(二一二)、去年見てし(二一四)、家に來て(二一六)、ささ浪の(二一八)、天數ふ(二一九)、妻もあらば(二二一)、奥つ波(二二二)、鴨山の(二二三)、今日今日と(二二四)、ただの逢は(二二五)等の解釋鑑賞である。
幸田露伴 遊副川の訓に就て (アララギ。昭和十一年三月號)
  卷一(三八)の、『遊副川之神母』の訓讀を試みられたもので、その要略は評釋篇卷之上に抄録して置いた。幸田博士の試訓は、(一)ナビキソフカハノカミモ、(二)シラガツク・ユフカハノカミモ、(三)オチタギツ・ユフカハノカミモ、(四)ユフハガハノカミモ、ユフカハノ・カハノカミモ、ユフハガハ・カハノカミモ等である。
次田眞幸 萬葉集卷十一「夕方枉戀無乏」考 (文學。昭和十一年三月號)
  『夕かたまけて戀フルガスベナサ』といふ訓を提出してゐる。
武田祐吉 萬葉史生手實 (アララギ。昭和十一年三月號)
  「人麿歌集と季節」。卷九にある人麿歌集の歌で、一六九四から一七〇九の十六首は春から冬にかけ排列されてゐることに注意し、人麿歌集の原形を想像して、人麿歌集には季節によつて歌を分類した部分があり、雜・相聞等の部類立も行はれてゐたらうと推測してゐる。
(743)齋藤茂吉・鹿兒島壽藏・落合京太郎・柴生田稔・佐藤佐太郎・土屋文明・吉田正俊・藤森朋夫・山口茂吉・五味保義 萬葉集研究(十八) (アララギ。昭和十一年一月號)
  「人麿の歌十首」の合評。私の提出した三一、四八、一六九、一三三、一九八、二〇八、二一九、二三五、二五一、二五三の十首について諸氏の意見がある。
土屋文明外三氏 萬葉集研究(十九) (アララギ。昭和十一年二月號)
  「人麿と卷十三」。眞淵の批評の示唆(五味保義)。先後の問題に關する覺書(柴生田稔)。傳唱と個性と(落合京太郎)。卷十三は模倣の一種(土屋文明)。
土屋文明外四氏 萬葉集研究(二十) (アララギ。昭和十一年三月號)
  「人麿作風の變遷」。石見時代が頂點(土屋文明)。變化と進展(五味保義)。二つの觀方(落合京大郎)。前後二期に分ちて(堀内通孝)。長歌技法上の一現象(柴生田稔)。
山口茂吉・吉田正俊・柴生田稔・五味保義・土屋文明・藤森朋夫・佐藤佐太郎・鹿兒島壽藏 萬葉集研究(二十一) (アララギ。昭和十一年四月號)
  「人麿の歌五首」、四七、一九五、二一一、四二九、五〇三の五首の合評である。
山口茂吉・吉田正俊・落合京太郎・鹿兒島壽藏・土屋文明・五味保義・藤森朋夫・柴生田稔 萬葉集研究(二十二) (アララギ。昭和十一年五月號)
  「人麿の歌五首」、三七、四〇、二〇九、二五二、四九七の合評である。
(744)柴生田稔・藤森朋夫・土屋文明・藤田清・五味保義・鹿兒島壽藏・吉田正俊 萬葉集研究(二十三) (アララギ。昭和十一年六月號)
  「人麿の歌五首」、二二二、二四〇、二五〇、二六四、三〇四の合評である。
鹿兒島壽藏・藤森朋夫・五味保義・柴生田稔・土屋文明・藤田清・吉田正俊 萬葉集研究(二十四) (アララギ。昭和十一年七月號)
  「人麿の歌五首」、二〇〇、二一八、二二三、二六二、二六六の合評である。
土屋文明・吉田正俊・藤田清・五味保義・藤森朋夫・柴生田稔・鹿兒島壽藏 萬葉集研究(二十五) (アララギ。昭和十一年八月號)
  「人麿の歌五首」、一三二、一七〇、二二一、二五五、四九六の合評である。
五味保義・鹿兒島壽歳・竹尾忠吉・土屋文明・吉田正俊・佐藤佐太郎・柴生田稔 萬葉集研究(二十六) (アララギ。昭和十一年九月號)
  「人麿の歌五首」、三〇、三九、四一、四九、二五四の合評である。
藤森朗夫・鹿兒島壽藏・柴生田稔・五味保義・山口茂吉・藤田清・土屋文明・吉田正俊・佐藤佐太郎 萬葉集研究(二十七) (アララギ。昭和十一年十月號)
  「人麿の歌五首」、四六、一三六、一九七、三〇三、五〇二の合評である。
藤森朋夫・柴生田稔・五味保義・土屋文明 萬葉集研究(二十八) (アララギ。昭和十一年十一月號)
(745)  「人麿の歌五首」、四二、一六八、二一二、四二八、四九八の合評である。
鹿兒島壽藏・柴生田稔・五味保義・藤森朋夫・土屋文明 萬葉集研究(二十九) (アララギ。昭和十一年十二月號)
  「人麿の歌五首」、二一六、二四一、二五六、四三〇、四九九の合評である。
武智雅一 柿本集に就いて (立命館文學。昭和十一年四月號)
佐伯梅友 淀むとも考 (奈良文化。昭和十一年六月號)
  卷一(三一)の三句『淀むとも』は、假定説と現在淀んでゐる状態を見てゐるとする説と二種あるが、氏はこれは『修辭的假定』として、後者の解釋に歸著してゐる。「萬葉語研究」所收。
森本治吉 萬葉卷一「小網さし渡す」に就て (國語解釋。昭和十一年七月號)
  卷一(三八)の『小網さし渡す』を解釋して、『さす』は、網を仕掛ける、設備すること、『渡す』は、行爲を連續することであるとして、供奉の人々が幾人も連つて小網をつかつてゐることだと解してゐる。
佐藤小吉 柿本人麿傳 (大和志。昭和十一年七月號)
  柿本氏の出自、人麿の血統、人麿の時代及びその經歴について記述がある。
次田潤 柿本人麿作歌選釋 (むらさき。昭和十一年七月號)
  玉藻刈る(二五〇)、淡路の(二五一)、ともしびの(二五四)、大君の(三〇四)、淡海の海(二六六)(746)を評釋してゐる。
春日井※[さんずい+廣] 柿本人麿と日本精神の再展開 (短歌。昭和十一年七月號)
久松潜一 柿本人麿の歌一首 (解釋と鑑賞。昭和十一年八月號)
  卷三、天ざかる(二五五)の歌の解釋鑑賞である。
篁作の柿本人丸像 (報知新聞。二一五〇一號、昭和十一年十一月六日)
井上通泰 萬葉雜攷 (アララギ。昭和十一年十二月號)
  「柿本人麿の閲歴の一暗示」と題し、後に「萬葉集追攷」に收められた。論の要旨は本文の方にも引用したが、博士は人麿が山城の國府に勤務し班田使の下僚などとして國内を巡行したかも知れぬと臆測して居る。
花田比露思 柿本朝臣人麻呂※[覊の馬が奇]旅歌八首に就て (内外研究。文學號第三號、昭和十一年十二月)
佐佐木信綱 上代文學史 下卷 (昭和十一年、東京堂發行)
  日本文學全史(全十二册)の第二卷。人麿の項に、人麿の業績、出身、近江旅行、吉野宮の歌、天皇讃仰、安騎野の歌、妻の死を悲しむ歌、九州旅行、石見の妻に別るる歌、人麿の死、人麿の年齡、人麿の長歌の構成と形式、人麿の精神、人麿の短歌等の記述がある。
森本健吉 人麿歌集の訓法 (國語解釋。昭和十一年十二月・十二年一月號)
  卷十一(二三九五)の初句『行行』を、ユキユクニと訓み、卷十一『秋柏、潤和川邊、細竹目、人不(747)顔面、公無勝』(二四七八)の第四句をヒトコソシヌベ(又はヒトニハシヌビ)と訓んでゐる。
森本健吉 萬葉集に於ける訓詁と鑑賞 (文學。昭和十二年一月號)
  「人麻呂集を中心として」といふ副題があり、萬葉集を理解するには訓詁的態度と鐙賞的態度との二面の融合を期すべきであることを強調し、卷十一『霞發春永日』(一八九四)、卷十一『我勢古波幸座』(二三八四)等を實例として記述してゐる。
澤瀉久孝 枕詞を通して見たる人麿の獨創性 (國語・國文。昭和十二年一・二月號)
  人麿の歌にある枕詞をば、人麿作品に初めて見えるもの、記紀に例のあるもの、萬葉集中人麿以前又は前後不明のもの、この三種に分つてそれぞれ實例によつて説明し、枕詞使用上の人麿の特徴を考察して獨創性を立證してゐる。從屬として、『あしひきの』『たまきはる』『とぶとりの』『あさもよし』等の枕詞について注目すべき解釋がある。
早水城春・中津賢吉・三鬼實・國枝稔・飯沼喜八郎・原田春乃・小泉光男・伊東仲子 全人の立場より見たる萬葉歌人 (歌と鑑照。昭和十二年自一月至七月號)
  「柿本人麿論」が七回に亙つて載つた。作品の制作時代調査、人麿の生涯、作品の風格、抒情的作風、作品に流れてゐる精神、ロマン的傾向、皇室に關する詠進歌、大君に對する鑑念、挽歌、人麿の血液型の想定、人麿の理念、相聞歌と人麿、死相の表現、人麿と戀愛、人麿歌集の歌、人間性に無關心な人麿、浪漫主義者、一種の形式主義者、人麿の自然鑑、長歌作者としての人麿、戀歌と人麿、皇室尊(748)崇の歌とその歌風、人麿の本領、全人的な人麿等の諸項がある。
吉原敏雄 柿本人麿とその頃 (むらさき。昭和十二年二月號)
淺野晃 人麻呂的なもの (思想。昭和十二年四月號)
  拙著「柿本人麿」(總論篇)の私見を參照しつつ『人麻呂的なもの』を考察したもので、特に『悲劇的』と『カオス』とに注意し、そして赤人と比較することによつて人麿の特質を考へ、人麿作歌の性格を『渾沌からの慟哭』といふことに要約し、『人麿の情熱といふのは、渾沌からの慟哭であつた。個體のなかで個體を超えて波立つてゐる民族の生命の原始的な號叫であつた。(中略)人麿は個性的歌人としてではなく、むしろ民族的歌人として、國家と民衆とに代つて渾沌からの慟哭を歌つた』といつてゐる。
國崎望久太郎 柿本人麿論について (ボトナム。昭和十二年四・五月號)
中島光風 玉蜻存疑 (文學。昭和十二年五月號)
  『玉蜻』《たまかぎる》といふ枕詞は、もと『ほのか』にかかる語であらう。それゆゑ雅澄の如く玉カガヤクといふ意味に解するのは當を得ないだらうとして疑問を提出してゐる。
中河與一 人麿並びに人麿歌集の歌 (コギト。昭和十二年五月號)
白畑よし 人麿像の像容に就いて (美術研究。葬六年第六號、昭和十二年六月)
  美術史專門的の論文で有益である。氏は大體足利期以前までの畫像につき四種類の系統に分類した。
(749) (一)兼房視夢像容、體右向にして右手に筆、左手に紙、歌を案ずる像容、硯筥を像の前方に置き、上疊に坐す。(二)信實視夢に本づくもの、宗淵自賛の人麿像で高橋捨六氏藏のものなどはそれに近からう。『今世所在者藤原信實卿以其所夢施之於事持來要賛於其上』云々といふ賛がある。左向き、又は榮賀筆系統のもの、等これに屬せしめていい。(三)岩屋流(行尊樣岩屋流)像容。行尊が吉野大峰にこもつた時夢を視たのに本づく。虎の皮に坐するもの、梅樹を配するもの等の變化もある。人麿思惟の態は行尊苦行の趣と相通ずる。虎の皮は、延喜式に、『凡五位以上聽v用2虎皮1但豹皮者參議三位聽v之自餘不v在2聽限1』とある如く、獣皮が唐物として上流人に愛用せられた。なほ先徳圖像中には河上公が豹の皮を敷き、吉備大臣入唐繪詞にも虎の皮を敷いてゐる。(四)唐服像容。古典尊重、復古の氣蓮の興つた鎌倉時代に於て服装もまた復原傾向を帶びたものであらう。○結論として、『是れを要するに以上四系統の人麿像容は、其の一々に就いて發生の年代的推定を加へることは困難であるが、兼房視夢の像容を首とし、信實視夢の像容なるものを是れに次ぐものとして、其の他の岩屋流及び唐服像の二系統は、其の像容の特異に過ぐるを見ても、恐らく人麿像の多數が畫かれたに及んで、故らに新樣を望み新意を加へて圖繪されたもので、漠然とながらも、其の源流の鎌倉末期以上に出でないものでないかと推定される』と云つてゐる。
井上通泰 萬葉雜話 (アララギ。昭和十二年七月號)
  『水良玉、五百都集乎、解毛不見』(卷十、二〇一二)の解釋であるが、當時地方官などが歸京に先だ(750)つて、地方の特産物をサキミヤゲとして贈る習しがあつただらうと想像し、この歌も牽牛星が織女星を訪ふ前に、サキミヤゲとして『しら玉のいほつつどひ』即ち眞珠を贈り、織女はその包を解いて見る事もなく只ひたすら牽牛を待つ趣の歌だらうといふのである。
宮崎昇 人麻呂集爲字考 (短歌鑑賞。昭和十二年七月號)
武田祐苦 萬葉史生手實 (アララギ。自昭和十二年八月號至十五年)
  ○「柿本人麻呂の妻」に關する考察は、人麿作と明記せられた歌、人麿歌集出の歌全部にわたつての考案である。『持統天皇の宮女であつたらうと思はれる人麿の妻は、紀伊の國への行幸の後、夫に先立つて死んでしまつた。行を共にしたのは多分四年九月の行幸の度であつたらうと思ふのである。この妻は天皇の宮女として、人麿は舍人その他の役人として行つたのであらう』。『輕に居た妻、纏向に居た妻、引手の山に葬つた妻は、同じ人であつたのでは無からうか』。『春日なる羽易の山に、妻を求める人麻呂のこの歌は、都が奈良に遷されてからの作であらう』。○「柿本人麻呂の歌集」は、人麿歌集の全面的な精細にして極めて有益なる研究である。目下なほ繼續中であるが、其歌數を三八六首と定めて、その内容及び表現法の二大部門に分かち、表現法中その用字格の研究、表意文字と表音文字との配當、正字と假字、書樣の顛倒、具書、省略、助動詞助詞の書き方、その省略法、用言の書き方、題詞の書き方、訓假字の多種複雜性等について調査し、作者姓名の略記、漢字の正用、漢字風の記載を論じ、『人麻呂歌集はある一人の書留としての性質を見る』とも云はれてゐる。○私の人麿歌集に關(751)する考の誤があつたら、博士のこの精細な研究によつて、是正せらるべきである。
澤瀉久孝 萬葉集訓詁私案 (アララギ。自昭和十二年十月號至十三年二月號)
  この「さやぐ攷」は、卷二(一三三)の歌の三句『亂友』の訓を檢討したもので、舊訓『ミダレドモ』を否定して、『サヤゲドモ』と訓む説に落著いてゐる。
佐佐木信綱 柿本人丸明石の松蘇利 (國語と國文學。昭和十二年十一月號)
  「柿本人丸明石の松蘇利」といふ書の紹介で、原本は鳥居清滿が寶暦十年に作つたものであるといふ。人麿の生涯を物語風に書いたもので、事蹟等も全然架空である。
鈴江 歌聖人麿 (古典研究。昭和十二年十二月號)
久松潜一 萬葉集に現れたる日本精神 (昭和十二年、至文堂發行)
  なかに「柿本人麿の歌」の項があり、天ざかる(卷三、二五五)を評釋し、『人麿が特に倭島といつたのは日本といふことを意識しないで用ゐたのであらうが、自ら人麿の國家意識が現れてゐるのである。萬葉歌人の中でも特に神や國家の思想を強く抱いて居る人麿が自ら倭島とうたつたのであらう』といつてゐる。
伊藤左千夫 短歌文學全集・伊藤左千夫篇 (昭和十二年、第一書房發行)
  「短歌文學全集」の一篇で、歌論中「柿本人麿論」がある。
水野一彦 再び「人麿」について (抒情。昭和十三年三月號)
(752)佐野保夫 人丸神社 (飛魚。昭和十三年五月號)
次田潤 萬葉集選釋 (むらさき。昭和十三年五・九月號)
  「人麻呂の挽歌」。玉藻よし(二二〇)、妻もあらば(二二一)、天飛ぶや(二〇七)、秋山の(二〇八)の解釋鑑賞がある。
石井庄司 人麿の長歌と敍事詩的要素 (日本文學。昭和十三年六月號)
  日本文學に強ける敍事詩的展開の源流として人麿の長歌を考察したものである。
宮崎建三 人麿の作品に於ける詞句の別傳 (國語。昭和十三年七月號)
  人麿作歌中、一云・或云といふ注の多いことに注意し、この別傳は製作當時の一案であらうといひ、殊に『越野過去、一云乎知野爾過奴』に就いて詳論がある。
今井福治郎 拾遺集と人麿 (學苑。昭和十三年九・十月號)
中島光風 廣島と柿本人麿 (雲雀笛。昭和十三年十二月號)
  廣島市の西郊宮内村明石の里に傳はる傳説を紹介批判したもので、口碑は人麿が石見から上京の途次この地に滯在して『ほのぼのと』の歌を詠んだといふのである。然し「藝備國郡志」(續々辞書類從所収)には『宮内之明石村者相傳山邊赤人之所v産也舊記未v見2其據1』とある。
宇野浩二 一途の道 (昭和十三年、三和書房發行)
  なかに「齋藤茂吉と柿本人麿」といふ一篇がある。
(753)西角井正慶 柿本集對照表 (國文學論究第九册。昭和十四年三月)
  柿本集について、類從本(新校群書類從)と、三十六人集本(校註國歌大系)とを番號によつて對照し、それと萬葉集、古今六帖、その他の勅撰集とを比較しそれを國歌大觀の番號によつて示してゐる。骨の折れたくはしい爲事である。私もこの對照表は一部作製したが全部でなかつたから、私の作製した對照表の不備な點はこの對照表によつて補ふことが出來る。私のものは既に校正濟であつたからその儘にして西角井氏の對照表は參考しなかつた。
阪口保 人麻呂※[羈の馬が奇]旅難訓歌一首 (短歌研究。昭和十四年九月號)
  『三津埼、浪矣恐、隱江乃、舟公、宜奴島爾』(卷三、二四九)の訓について新説を提出したものである。『公宣』はもと『人喧』であらうとし、終に『向』字を補つて、『三津の埼浪をかしこみ隱り江の舟人サワグ奴島ニ向キテ』。或は生田幸一氏の方法に從ひ『舟』の下に『爾』を補つて、『舟ナル人ヲ呼パフ奴島ニ・舟ナル人ヲ呼ブモ奴島ニ』と訓まうとし、最後に氏は萬葉地理に照らして『舟爾人《フネナルヒト》、喧美奴馬爾《ヨブモミヌメニ》』といふ訓に落著いてゐる。
 
     四 雜誌、講座、單行本等の文章にして人麿、人麿の歌に言及せるもの
 
平田篤胤 歌道大意 (明治十八年發行)
  高津海濱の人麿社につき、『石見ヲ治ラレタル國司ナドノ私に鎭座イタシタモノト見エルデゴザル』と(754)いひ、『ほのぼのと』の歌につき、俗説に、この歌が過去現在未來三世佛法の妙理をのべたもので、それには深秘口傳あるなどといふのを、『牽強附會カツパの屁を見たやうな僻説』だと云つてゐる。また、歌神、和歌三神についても論じてゐる。
久保田米僊 米僊畫談 (明治三十四年十二月、松邑三松堂)
  『人丸の像』についての記事あり、小野豐作の※[莫/手]圖もある。
あらたま同人 萬葉集短歌研究 (あらたま。昭和二年四月至十年四月號)
中島光風 寄物陳思歌の表現方法について (國語と國文學。昭和四年八月號)
五味保義 萬葉卷十一・十二の類歌 (國文雜誌。昭和六年五月號)
橋本敏夫 萬葉集十一「鴨川」の歌について (短歌研究。昭和六年十月號)
青木三二 人麿と赤人 (短歌草原。昭和九年一月號)
土屋文明 萬葉集歌人の研究 (昭和九年十二月、日本文學講座第七卷。改造社)
  「人麿を中心とする作者群」の一項がある。
人見圓吉 人麿・赤入・億良 (學苑。昭和十年一月號)
  淡海の海(卷三、二六六)、久方の(卷三、二四〇)、東の(卷一、四八)、春の野に(卷八、一四二四)の評釋鑑賞がある。
齋藤茂吉 童馬山房夜話 (アララギ。昭和十年五月號)
(755)  人麿が石見の角の里にゐた娘子と情交を結ぶやうになつた事情、又『貝』を『峽』の意に使つた地名について述べた。
野田實 久米のさら山和歌宮 (山陽新報。昭和十年八月二十四日)
  久米のさら山和歌宮の神札が疫病除けになるといふ理由を考察し、修理大夫顯季が美作守になつた時、和歌宮の勸請がこの人に結托せられたからだらうと云つてゐる。
吉水千之 萬葉集の音韻聲調の研究 (文學。昭和十年十月號)
  人麿・赤人・憶良・家持・福麿の短歌を比較した一項がある。
吉水千之 萬葉聲調試論 (國語と國文學。昭和十年十一月號)
  「人麿・赤人・憶良の韻律祈究」といふ副題がある。
進藤清 常滑試論 (鳴澤。昭和十年十一月號)
  『常滑』は、水苔の附著したなめらかな恒久岩であらうといつてゐる。
窪田空穩 現代歌論歌話叢書・窪田空穩篇 (昭和十年、改造社)
  なかに「柿本人麿」の一篇があつて、拙著「柿本人麿」を紹介され、それを機縁として人麿を論じてゐる。
太田水穗 現代歌論歌話叢書・太田水穗篇 (昭和十年、改造社)
  「人麿的なるもの、赤人的なるもの」がある。舊稿である。
(756)宇都野研 萬葉口譯集 (勁草。昭和十一年一・二・三・四・十月號)
  去年見てし(卷二、二一一)、衾道を(二一二)、現身と(二一三)、去年見てし(二一四)、衾道を(二一五)、家に來て(二一六)、秋山の(二一七)、ささなみの(二一八)、天數ふ(二一九)、玉藻よし(二二〇)、妻もあらば(二二一)、奥つ波(二二二)、鴨山の(二二三)、今日今日と(二二四)、直の逢は(二二五)、皇は(卷三、二三五)、やすみしし(同、二三九)、久方の(同、二四〇)、み津の崎(同、二四九)、珠藻刈る(同、二五〇)、淡路の(同、二五一)、荒妙の(同、二五二)、稻日野も(同、二五三)、ともしびの(同、二五四)、天離る(同、二五五)、飼飯海の(同、二五六)、やすみしし(同、二六一)、矢釣山(同、二六二)、物部の(同、二六四)、淡海の海(同、二六六)、なぐはしき(同、三〇三)、大王の(同、三〇四)、草枕(同、四二六)、隱口の(同、四二八)、山際ゆ(同、四二九)、八雲刺す(同、四三〇)の口譯がある。
神月素兒 萬葉集研究 (大和。昭和十一年一月號)
  柿本人麿の歌を主としてゐる。
品田太吉 温古隨筆 (香蘭。昭和十一年二・七月號)
  『霞立』(卷一、二九)はカスミタチと、又『遣悶』(卷二、一九六・二〇七)はオモヒヤルと訓むべきだといふ説である。
坂村眞民 人麿型と赤人型 (蒼弓。昭和十一年四月號)
(757)濱津初 萬葉集研究 (野菊。昭和十一年五月號)
谷馨 歴代名歌評釋(記紀萬葉篇) (昭和十一年、交蘭社發行)
カール・フローレンツ著、篠田太郎・土方定一共譯 日本文學史 (昭和十一年、樂浪書院發行)
  人麿の歌にも觸れてゐる。
武田祐吉 萬葉集と忠君愛國 (昭和十一年、日本文化協會出版部發行)
  「天皇の聖徳」の項に人麿の歌が引かれてある。
金子薫國 歌の作り方 (昭和十一年、新潮社發行)
  「歌の味ひ方」、「古今名歌評釋」の二章に人麿の作をあげてある。
高崎正秀 萬葉集叢考 (昭和十一年、人文書院發行)
  なかに「柿本傳私見」一篇がある。
田中健三 萬葉集の訓と解 (國語解釋。昭和十二年一月號)
  卷一、三〇・三一・三二・三六・三七・三八・三九の歌につき、從來の諸説を批判したものである。
豐田八十代 萬葉卷一の研究 (花房。昭和十二年自一月至九月號)
  卷一、二九・三〇・三一・三六・三七・四〇・四一・四二・四五・四六・四七・四八・四九の語釋口譯がある。
田中勘次 古今の愛誦歌鑑賞 (いぶき。昭和十二年一・三・四月號)
(758)  なかに、淡海の海(卷三、二六六)、けふけふと(卷二、二二四)、袖振るが(卷十一、二四八五)、鳴る神の(同、二五一三)、もののふの(卷三、二六四)、あまざかる(同、二五五)の鑑賞がある。
宇都野研 萬葉口譯集 (勁草。昭和十二年二月號)
  卷四、四九六・四九七・四九八・四九九・五〇一・五〇二・五〇三の口譯である。
池田毅 萬葉集短歌の鑑賞 (歌と評論。昭和十二年自二月至七月號)
  卷一、四八。卷二、一三三・一三七・二一六・二二四。卷三、二五一等の人麿作の鑑賞がある。
次田潤 萬葉集選釋 (むらさき。昭和十二年三・四月號)
  なかに、天雲の(卷十一、二四九〇)、大船の(同、二四三六)、古の(卷十、一八一四)の人麿歌集の歌の解釋批評がある。
中塚莞二 初學講座、萬葉集の七及一〇 (不二。昭和十二年三・八月號)
  あかねさす(卷二、一六九)、鴨山の(同、二二三)、けふけふと(同、二二四)、秋山の(同、二一七)、たらちねの(卷十一、二四九五)の簡単な解釋がある。
岡本明 萬葉名歌鑑賞 (ことだま。昭和十二年三・七・十・十一月號)
  あふみのみ(卷三、二六六)、かしひきの(卷七、一〇八八)、しきしまの(卷十三、三二五四)、ゆけどゆけど(卷十一、二三九五)の解釋鑑賞がある。
齋藤茂吉 制作と研究 (文學。昭和十二年五月號)
(759)  文中、卷二(一三三)の『清爾亂友』の訓釋について一言した。
五味保義 第三句の末尾に助詞「は」を有する短歌 (文學。昭和十二年五月號)
  表題のやうに特殊な表現法を對象とした考察であるが、人麿作『八雲さす』(卷二、四三〇)の歌に論及してゐる。
今井邦子 萬葉集歌話 (明日香。昭和十二年五・六月號)
  玉襷(卷一、二九)、ささなみの(同、三〇)、ささなみの(同、三一)の評釋があり、人麿についての概説がある。
薄井一 萬葉集私解 (くぐひ。昭和十二年五・九月號)
  ひさかたの(卷十、一八一二)、たらちねの(卷十一、二三六八)の評釋が見える。
丸山靜 人麿再興 (抒情。昭和十二年六月號)
  拙著「柿本人麿評釋篇」を紹介した文章である。
山本康夫 萬葉集卷四珠衣の歌について (眞樹。昭和十二年七月號)
  たまぎぬの(卷四、五〇三)の解釋である。
木之下正雄 歌語雜考 (あけび。昭和十二年七月號)
  「人麿の歌一首」として、ささなみの(卷一、三一)の歌の解釋がある。
島津久基 日本文學史 (岩波講座國語教育、昭和十二年八月)
(760)北住敏夫 齋藤茂吉氏の人麿觀 (文化。昭和十二年九月號)
加藤政吉 萬葉集講話 (東邦。昭和十二年九・十・十二月號)
  泊瀬河(卷九、一七七五)、黄葉の(同、一七九六)、ひさかたの(卷十、一八二一)の解釋がある。
中村憲吉 萬葉集短歌輸講 (中村憲吉全集第二卷、昭和十二年、岩波書店發行)
  大正三年六月より昭和五年三月にかけて、雜誌アララギに載つた共同研究の中から憲吉執筆の分を抽いたものである。
岡本明・伊藤壽一 萬葉名歌評釋 (昭和十二年、言靈社發行)
  『淡路の』(卷三、二五一)の註釋鑑賞がある。
品田太吉 萬葉集の訓點について (短歌研究。昭和十三年十一月號)
  三項中「春葉茂如」「四能乎押靡」の二つが人麿の歌に關する。『春の葉』は人麿の新造語であらうといひ、『押靡』を舊訓のままオシナミと訓むべきことを云つてゐる。
次田潤 萬葉集抒情歌の三樣式 (學苑。昭和十三年十二月號)
簗瀬一雄 【學生の爲めの】萬葉集の鑑賞 (昭和十三年、興文閣書房發行)
久松潜一 日本文學評論史 (昭和十三年、至文堂發行)
 
     五 人麿地理文獻
 
(761)日本國花萬葉記 (菊本賀保、元禄十年)
  石見國名所之部に、妹山、渡りの山、高角山、石見野、からの浦、石見かたを記入してゐる。
大井重二郎 萬葉集大和歌枕考 (昭和八年九月、曼陀羅社發行)
山田梅吉 獵路の池 (大阪朝日新聞奈良版。昭和九年一月六・七日)
  獵路池の位置を現在の榛原盆地であらうと推定してゐる。
齋藤茂吉 鴨山考 (文學。昭和九年十月號)
  拙著「柿本人麿」(總論篇)に附録として收めた。
島本正義 雷岡について (大和志。昭和九年十一月號)
奥野健治 萬葉大和志考 (昭和九年、同人社發行)
  大和に關する萬葉地理の考證で、五十音順に地名を排列し、諸説を擧げて歸趨を明かにし、萬葉の例歌をも掲げてゐる。人麿に關する項目も當然多く見える。
北濱正男 狹岑島 (一路。昭和十年三月號)
齋藤茂吉 童馬山房夜話 (アララギ。昭和十年四月號)
  「鴨山考」に關する。
阪口保 萬葉集大和地理辭典 (短歌研究。昭和十年四月號)
  萬葉集にある大和關係の地名百二十一項を五十音順に排列してある。地名を假名書にし、その下に萬(762)葉の用字例を擧げ、陸地測量部地圖の所屬を注記し、實地踏査道順をも示してある。
豐田八十代 所見二つ (國學院雜誌。昭和十年七月號)
  阪口氏の「萬葉集大和地理辭典」に對する異見二項であるが、その一は秋津野に關する。
川田順 人麿と卷向地方 (短歌研究。昭和十年四月號)
  人麿歌集に卷向地方を詠んだ歌が多いことに注目して、人麿は穴師の里あたりに假寓したことがあるだらう、又弓月嶽の麓に隱妻を置いてゐただらうと推測してゐる。
齋藤茂吉 童馬山房夜話 (アララギ。昭和十一年三・十一月號)
  「人麿萬葉地理正誤」、「鴨山考補註篇正誤」がある。
中村耕三 鴨山は三瓶山ならずや (心の花。昭和十一年四月號)
  石見安濃郡の三瓶山《さんべやま》はもとミカメヤマと云つただらうといふ推定を根據として人麿の終焉地カモ山に關聯せしめた説である。
齋藤茂吉 鴨山「三瓶山」説に就いて (アララギ。昭和十一年六月號)
  三瓶山は佐比賣山《さひめやま》から轉化したものであることを云つて、前項中村氏の説を否定した。
小島貞三 柿本寺と歌塚 (大和志。昭和十一年七月號)
  人麿の遺跡を記し、櫟本町極樂寺の歌塚縁起を紹介してゐる。
中河與一 人麿地理 (東京朝日新聞。昭和十一年十月十七−十九日)
(763)  佐美島、人麿岩、中之水門について記してゐる。
中河與一 佐美島考 (ごぎやう。昭和十一年十・十一月、十二年一月號)
  人麿作、讃岐|狹岑《さみね》島の歌にある、狹岑島(砂彌島)の踏査考證で、人麿歌の場處は東海岸であらうといふのである。よつて其處に「柿本人麿碑」(川田順氏書)を建立(昭和十一年十一月二日)したのと關聯して居る。なほ、『なかの水門《みなと》』につき、『結論的に云へば、地名としては、まぎれもなく今の仲多度郡|中津《なかつ》であり、實際の場所としては、寧ろ中津よりは丸龜寄りではないかといふ事である』と云つてゐる。
井上雪下 出雲風土記にあらはれたる山陰山陽の交通 (水甕。昭和十二年三月號)
  出雲風土記の記事により、仁多郡、飯石郡、大原郡、神門郡中の『※[錢の旁+立刀]《せき》』の記事を調べ、『石見から大和への旅にも備後通過の事を容易くうなづかせるわけにもなるのである』といふ結論になつてゐる。この出雲風土記の『※[錢の旁+立刀]』のことは、私も「總論篇」(二六一頁)、「鴨山考補註篇」(五八頁)で、既に注意して置いたものである。
保田與重郎 佐美島に建つ柿本人麿歌碑 (コギト。昭和十一年十一月號)
石田美枝 名ぐはしの佐美の島 (ごぎやう。昭和十一年十二月號)
齋藤茂吉 辛乃崎考 (文學。昭和十二年一月號)
  卷二(一三五)の長歌にある『辛乃埼』を現在の唐鐘浦に擬したものである。この「雜纂篇」に收め(764)てある。
佐佐木信綱 萬葉學の流布と砂彌の島 (ごぎやう。昭和十二年五月號)
田村吉永 大津京考 (大和志。昭和十二年八月號)
齋藤茂吉 藤原宮御井考 (文學。昭和十二年八月號)
中河與一 萬葉の精神 (昭和十二年、千倉書房發行)
  「佐美島考」「瀬戸内海と萬葉集」等がある。雜纂篇に抄して置いた。
橘井清五郎 藤原宮御井歌考説 (國學院雜誌。昭和十三年一月號)
  『井』の本義は『居』、御井は御居であるとして、『藤原宮御井』は『藤原宮皇居』の意と解し、本文の『御井之清水』をも『皇居の清水』と解してゐる。それは埴安池の清水で、埴安池は藤原宮の内裏の北に接して在つただらうと想像してゐる。
齋藤茂吉 鴨山後考 (文學。昭和十三年一月號)
  人麿の終焉地『鴨山』を石見粕淵村湯抱に發見したことの報告である。
大井重二郎 萬葉集攝河泉歌枕考 (昭和十四年、立命館出版部發行)
  萬葉集に見える攝津・河内・和泉三國の地名七十一項についての地理研究であるが、そこに人麿關係の地名が含まれてゐる。
 
(765)     人麿文獻追加
 
木公迂人 人丸赤人の優劣 (知玉叢誌。三四、明治二十三年)
花友情仙 人丸赤人優劣の辞 (知玉叢誌。三五、明治二十三年)
荻野由之 萬葉集講義 (文學。葬一號より、明治二十五年)
新 貞老 萬葉集摘英新釋 (明治二十六年、吉川半七番行)
畠山 健 萬葉集講義 (早稻田講義。明治二十六年)
大町芳衛 柿本人麻呂 (明叢。明治二十七年)
畠山 健 柿本人麻呂の歌 (國學院雜誌。三・二、明治二十九年)
 
(767) 「柿本人麿」縁起
 
(769) 「柿本人麿」縁起
 
     總論篇
 
 人麿はいはゆる歌仙、歌聖であつて、古今集の序に、『柿本の人丸なむ、歌のひじりなりける』とあるのに本づき、顯昭の柿本朝臣人麻呂勘文にも「歌仙事」といふ條があるほどである。また人麿は歌神であり、和歌三神の一である、さういふ具合であるから、和歌に執心するものは人麿を崇び念じてつねにその感應あらむことを希つたことは既にいろいろの書物に見えてゐる。
 正岡子規が嘗て歌を論じた中に、『柿本人丸を歌聖といふ。彼等は人丸の價値を知らず、否人丸の歌を知らずながら雷同してしかいふのみ』といふのがあつた。自分が歌を弄しはじめたのは正岡子規の歌集が機縁となつたのだから、私も一たび人麿に言及して見ようといふ氣持はそのころから萌してゐたもののごとくであつた。そして、自分の習癖と慣例とによつて人麿に關する資料をぼつぼつ蒐めつつあつた。それは明治四十一二年の頃からである。
(770) そのうち先師伊藤左千夫の人麿論が萬葉集新釋の一部として雜誌アララギに載り、人麿の歌に對する不滿の情をのべられた。『予が人麿の作歌につき、多くの不滿を感ずる樣になつたは、餘程以前よりの事である。子規子世を去りて後間もなき程の頃からと記憶する。爾來人麿の作歌に注意を絶たないのである。考究熟察如何に考へても、人麿の作歌は世に買過ぐされて居るとの念が去らないのである。予は必ず一度大に人麿の作歌に就いて論ずる所あらんとの覺悟ありしも、予の境遇を以て人麿の作歌を論ずるは、其の責任の極めて大なるを感ずるものから、容易に筆を下し得なかつたのである。然るにたまたま萬葉新釋の稿を進めて、人麿の作歌に到著したのである。予は今此の稿に臨んで、愈多年胸中に蓄積せる問題を解決せねばならぬことの容易ならざるを思うて、覺えず戰慄したのである。此の長歌を評すれば、自然人麿を論ぜざるを得ない。歌人が人麿を難ずるは、宗教家が宗祖を難ずるの感がある。予は稿に對して十數日猶一行を綴ること能はず、毎日萬葉集を手にして、復讀幾十回漸く意決し、心定まるを得たのである』。これは先師の人麿論の序言のやうなものであつた。先師の人麿論といふものはそれほど骨を折られたものであり、先師晩年の歌論として注目すべきものの一つである。
 先師の歌論は、既に如是の域にまで到達してゐたが、私は總論篇で告白して、『力相應』、『力に順つて』といふ言葉を使つてゐる如く、私は自らの力量を顧慮すれば、到底先師その儘の人麿論(771)をあへてするわけには行かなかつたのである。そこで私はああいふ具合の人麿論を作つた。それから、これも總論篇の序文で告白してゐるごとく、私は大正十三年火難に逢つて一切の藏書を焚燒してしまつた、さういふ自分の境遇のために、一切かういふ著述などのことは斷念してゐたのであつたのを、昭和五六年頃から、雜誌社の徴求に應ずるために書きはじめたのが即ち私の人麿論であるのだから、これも序文で告白してゐるやうに、『柿本人麿に關する研鑽の書を撰述しようなどといふ大望をはじめから抱懷したものではなかつた』のである。總論篇でその根幹をなすものは、「柿本人麿私見覺書」であらうが、これも極めて氣儘な一家見に過ぎぬのである。萬人を前にして叫ぶといふよりも、閉居して獨語するといふところがある。それにもかかはらず、環境を拔きにするといふことが出來ず、相待的な言説の混入したことを自ら顧みねばならぬのである。例へぼ文中唯物史親に立脚した文藝觀を批判してゐる如きは、當時環境の文藝觀を反映してゐるのであつて、さういふ批判などといふ事は私の人麿觀の眞の意圖ではないのである。私の人麿觀はさういふ部分的に道草を食ひつつ行くのではなく、抒情詩人としての人麿をもつと本質に徹して論ぜんと欲したのである。儒の至るところは孔丘也と謂ふけれども、歌の仙として人麿をどういふ位置に据ゑるべきものであるか、たまたま反對の意味にむかつてひどく動搖しつつあつた人麿の評價について、私の取つた態度もまたこの總論篇に於て約説せられてゐる筈である。進撃は(772)勇猛を要することは既に言ふことを須ゐないが、防禦即ち『守勢』にもまた勇猛を要すること、學問界に於てもまたかはりは無い。
 人麿の歿處即ち『鴨山』に關する考察は、「鴨山考」として記述したが、これは自分にとつては主觀的に最も樂しいものであつた。それに、そのころ佐藤佐太郎君が石見の古地圖二種類を求めてくれたり、いろいろと不思議に考證が發展したものであつた。後、この「鴨山考」は、「鴨山後考」によつて改正せられたが、その礎をなすものでもあり、また種々の點に於て人麿に關する從屬的な問題にも觸れ得たものである。例へば、人麿の病志について考察し、歿年を慶雲四年ごろとした如き、人麿をば一人と看做さず、集團的に考へる一派の説をも、この「鴨山考」に於て否定してゐるが如き、人麿上來の道筋を備後路、瀬戸内海と推察したごとき等々である。
 長谷川如是閑氏の人麿論についての私見は、雜誌に頼まれて書いたものであるが、これは、世の萬葉學の泰斗、萬葉學の權威と自らも任じ人も許す諸家が、この長谷川氏の人麿論に對して一言も批評の言葉を與へなかつたために、私が書いたといふ結果になり、極まりの惡いおもひをしながら公表したのであつた。
 この總論篇は實に多くの方々から思頼を蒙つた。石川岩市、板坂達磨、岩波茂雄、牛尾正一、宇野定吉、大島幾太郎、香取秀眞、五味保義、甲村重由、佐佐木清一郎、佐佐木信綱、佐藤佐太(773)郎、柴生田稔、末田斉、武田祐吉、土屋文明、土岐善麿、徳富蘇峰、豐田藤彌、橋本欣也、橋本清之助、橋本福松、廣野三郎、藤森朋夫、舟木賢寛、堀内通孝、三成重敬、森本治吉、安原次郎、山口茂吉、山中範太郎、山本熊太郎、蕨橿堂、岡鹿太郎、岡麓、小野賀柴、小野寺八千枝の諸氏の芳名を記して深甚感謝の念をささげる。
 また、本篇が發行になると、徳富蘇峰(東京日日新聞)、佐佐木信綱(岩波書店特報)、窪田空穗(短歌研究)、相馬御風(野を歩む者)、武田祐吉(短歌研究)、岡崎義惠(東京朝日新聞)、久松潜一(帝國大學新聞)、齋藤昌三(書物展望)、武者小路實篤、川田順(大阪朝日新聞)、尾山篤二郎(自然)、字都野研(勁草)、池崎忠孝(大阪時事新報)、宇野浩二(文學界・書物展望)、片山敏彦(レツエンゾ)、淺野梨郷(武都紀)、岡山巖(短歌研究)、藤田徳太郎(日本短歌)、佐伯梅友(國語・國文)、橋本徳壽(青垣)、早川幾忠(高嶺)、四賀光子(潮音)、島田忠夫(秋田魁新聞)、石田徳太郎(創作)、中河幹子(ごぎやう)、藤川忠治(歌と評論)、阪口保(詩歌)、伊東月草(草上)、笹月清美(文學研究)、山下秀之助(※[木+敢]※[木+覽])、梅澤彦太郎(日本醫事新報)、土屋文明(東京日日新聞)、森山汀川(信濃毎日新聞)、今井邦子、室生犀星(四季)、北夏夫(短歌詩人)、高桑菊子(青垣)、鹿兒島壽藏(アララギ)、森本治吉(讀賣新聞・國語と國文學)、藤森朋夫(文學)等の諸先生諸先輩諸友人から同情に充ちた紹介文を書いていただき、佐藤佐太郎君が後に、「柿本人麿」批評集を編んでくれた程であつた。
(774) 本篇は、(本篇以下雜纂篇に至る全部も)、その紙質、印刷、製本等近來稀に見る立派な點に於て、定價の安い點に於て好評を博した。これは岩波書店主岩波茂雄氏の好意によつたものである。そして第一刷は昭和九年十一月、第二刷は昭和九年十二月、第三刷は昭和十年五月、第四刷は昭和十四年七月といふ具合に、思ひまうけぬ世の同情を得たことを深く感謝してゐる。その間、誤謬を訂し、插圖をあらため、文獻を補充し、第四刷からは索引を改良し、簡單な跋文を添へた。
 
     鴨山考補註篇
 
 これは「鴨山考」を作つた前後に手に入れた新資料だの、「鴨山考」の結論の註として役立つ事柄だのをいろいろと書記したものである。そのうちでも嬉しかつたのは、昭和九年九月九日附で小野賀榮氏から手紙を貰ひ、ついで九月十四日附舟木賢寛氏から手紙を貰ひ、現在の邑智郡川本町が、往古『石河邑』と稱したことが分かつたので、私が以前に、人麿の死んだ時その妻依羅娘子の作つた歌の中の『石川のかひ』は只今の江(ノ)川の峽だらうといふ推察を立てた説が、はじめて積極的な證據を得ることとなつたことであつた。
 それから、私の「鴨山考」では鴨山を粕淵村小原の津目山に擬したので、その他の町村、川本、川下、中野、矢上、高原、阿須那、仁万方面の土地臺帳を調べて、鴨山の重複してゐないことを(775)知つた。その序に、カミ・カモ・カメの音韻變化の例、石見古代の諸氏族分布の状態、神社分布の状態、交通状態、驛制等に言及し、人麿上來の道筋を備後路にぬけしめたその理由を記入した。また、石見國府の所在地を考へ、邇摩郡仁万村説は寧ろ否定しようとする結論に達した。なほ、人麿神社は火防・安産の神として禮拜せられてゐる事實を記した。
 私の「鴨山考」を樹立せしめるには、自然、人麿歿處高津説、人麿歿處國府説(伊甘歿處説)を否定することとなるので、隨分くどくその考證をした。その他の人麿巡遊伶人説、出雲歿處説、明石歿處説等に對しての否定も亦同樣である。私はこの項に於て隨分くどく繰返して否定の考證を爲したのであつたが、それでも私の説に從はない學者が依然として居つて現在に及んでゐる。
 雜記帳抄では、人麿傳説の種々相、人麿同名の人々、その他古文書所載の人麿傳關係記事に及び、人麿尚像補遺をその附録とした。
 なほ、手帳の記、石見管見記、鴨山踏査餘録、備後石見紀行等をも附載した。昭和五年の手帳の記の如きは、人麿傳に關係の無いものであるが、平福百穗・中村憲吉の二亡友が未だ健在の時であり、私は手帳を紛失したために、再度高津の柿本神社に參拜し得たのであつた。さういふ關係で私の「柿本人麿」に深い因縁を有つてゐるものである。
 本篇は以上の如く、雜事を記入したに過ぎぬのであるが、今にして顧れば、やはり人麿を全體(776)として考察するうへに、多くの有益な事柄を含んでゐると思ふのである。本篇は昭和九年歳末に原稿を纏めて印刷に著手し、昭和十年十月十五日發行になつた。
 本篇を作るに際し、小野賀榮、舟木賢寛、土居光知、柳田國男、尾崎恒雄、正宗敦夫、中島匡彌、村岡典嗣、松村勇、中村達吾、中村重孝、牛尾正一、岡鹿太郎、大島幾太郎、土屋文明、岡田眞、金子規矩雄、幸田露伴、泉哲三、大村呉樓、柴生田稔、徳富蘇峰、武田祐吉、末田齊、中島好吉、岩波茂雄、山口茂吉、佐藤佐太郎、藤原運二、山崎慧、辻村直、廣野三郎、橋本欣也、岡麓、荻野仲三郎、脇本樂之軒、護城鳳山、藤森朋夫、山口隆一の諸氏より多大の教示と助力とを得たことを深く感謝する。
 なほ本篇が發行になると、澤瀉久孝(國語・國文)、豐田八十代(短歌研究)、松村英一(國民文學)、西下經一(國語と國文學)、岡山巖(歌と觀照)、早川幾忠(高嶺)、長谷川富士雄(香蘭)、清水文雄(國文學攷)、宇佐美喜三八(水甕)、藤森朋夫(文學)、石田徳太郎(創作)等の諸氏から同情に滿ちた批評乃至紹介をたまはつた。
 
     評釋篇卷之上
 
 人麿の歌に對する結論を云々するに當つては、つまりはその一首一首に言及するのでなければ、(777)その結論に到つた證據を示すわけには行かぬので、私が總論篇で公にした、「柿本人麿私見覺書」の終の方に、人麿作と明記されたもの、及び人麿歌集に出づといふものの中から、傑作若干首を選びその評釋をして載せようと意図したのであつた。さて評釋しようとすると如何なる程度に如何なる體裁に爲すべきであるか、鑑賞を主とするとせば、訓詁解釋上に煩瑣な筆を行る必要が無くなつて來るし、加之、契沖の萬葉代匠記以來、現代に至るまで諸先學の精到なる注釋書が幾つも出來てゐるのであるから、ただそれを繰返すのは所詮屋上屋を架するに過ぎぬと思つたのであつた。そこで始は、諸説の考證等は拔きにして、大體私の好しと思ふ訓なり解釋なりを採り、例へば、卷三(二六一)の人麿作、矢釣山《ヤツリヤマ》、木立不見《コダチモミエズ》の初句は、『矢』は、細井本、無訓本には『矣』とあるし、『釣』は、類聚古集、神田本、細井本、無訓本には『駒』とあり、京都大學本には左方に赭く『駒イ本』とあり、從つて其等ではイコマヤマと訓じてゐる。若し矢釣山だとすると、高市郡飛鳥村大字八釣の山であるし、伊駒山だとすると、生駒郡になる。射駒、伊駒、伊故麻等と書かれた。私は矢釣山の方が解釋し易いので、伊駒山説は棄てたのであつた。さういふ具合にして、最初は筆を進めようとしたのであつたが、評釋を進めて行くと必ずしもさういふ風にばかりは行かぬといふことが分かつた。そこで自然にああいふ風な體裁になつてしまつたものであるが、人麿作短歌の部は、昭和三・四年あたりから書いてゐて、昭和八年の暮には書き畢へて居る。それ(778)から、はじめは長歌の評釋はせぬつもりであつたが、土屋文明・武田祐吉二氏の奨勵によつて長歌の評釋に著手し、箱根に籠つて勉強したので主要な部分は其處で出來た。それから附録の藤原宮之役民作歌、藤原宮御井歌、皇子尊宮舍人等慟傷作歌の評釋をも籠めて、昭和十年十二月末迄に出來上り、それから印刷校正に著手して、昭和十二年五月五日に發行になつた。
 この評釋篇は盡く前賢先輩の著書から思賚を蒙つたものである。その著書の大部分は纏めて總論篇の人麿文獻のところに記して置いたし、また一首一首の評釋の條下に記し、索引でもそれを明かにして置いた。さういふ風であるから、新説などといふものは極めて稀で、偶『遊副』を、『ユキメグレル』或は、『イユキメグレル』と訓ませた如きに過ぎない。また私程度の學力を以てしては濫りに新説などのことを云々すべきで無いことも評釋の進行中に氣づき、また同時に、未解決の部分は必ずしも前賢の説に從はずに、力を盡して究尋せねばならぬといふことをも切に感じたのであつた。
 本篇は千頁を超えた大卷となり、その校正、索引の作製等も並大抵ではなかつた。そしてそれ等は前篇同樣、山口茂吉・柴生田稔・佐藤佐太郎・鈴木三郎諸氏の盡力になり、發行全部は岩波茂雄氏の厚意によつて出來あがつたものである。
 本篇の評釋は、人麿作と明記せられてゐる歌の評釋なので、私は一語一句人麿のいぶきに觸れ(779)る如き感奮を持續しつつ筆を行つたのであり、肉體的には甚だ疲弊を感じつつも、なほ人麿の偉大を犇々と感じて心に飽くことを知らなかつたものである。
 本篇が發行になると、徳富蘇峰(東京日日新聞)、武田祐吉(日本短歌)、久松潜一(短歌研究・帝國大學新聞)、臼井大翼(覇王樹)、中野重治(日本讀書新聞)、西下經一(東京堂月報・帝國大學新聞)、木村毅(東京日日新聞)、楢崎勒(新潮)、岡山巖(歌と觀照)、橋本徳壽(青垣)、四賀光子(潮音)、西角井正慶(多磨)、安富六男(はまなす)、水野一彦(抒情)、西郷信綱(抒情)、結城哀草果(山形新聞)、森本治吉(國語と國文學・明日香)、柴生田稔(文學)、柳田新太郎(短歌新聞・短歌年鑑)の諸先生諸友人より甚大の同情をたまはつたことを感謝する。
 
     評釋篇卷之下
 
 本卷は、萬葉集中、柿本朝臣人麿歌集に出づと左註せられた歌、柿本朝臣人麿之歌集、柿本朝臣人麿歌集歌曰等といふ題の附けられた長歌短歌全部を評釋したものである。
 はじめは其等の歌から、人麿作と想像せらるべき歌を主觀的に抽出してそれを評釋し、他は棄てるつもりで、先づ二百餘首を選んで評釋終了したのは昭和九年四月であつた。然るにその後、全部を評釋補入することとし、その業を了へたのは昭和十一年八月であつた。能ふ限り日課にし(780)て筆を進めたが、長歌二首、短歌三百五十三首、旋頭歌三十五首といふので、業餘の執筆としては進捗遲々、時々筆を投じて茫然たることも一再にとどまらなかつたほどである。
 本卷の評釋も盡く先進諸學者より恩惠を蒙り、特に萬葉全卷の注釋である、代匠記、考、略解、古義、新考(井上)、全釋(鴻巣)等に深き感謝の意を表するものであつて、なほ、本卷の校正中、幸田露伴先生ほか、日本學術振興會第十七小委員會の、瀧精一、姉崎正治、阿部次郎、市河三喜、佐佐木信綱、新村出《しんむらいづる》、鈴木虎雄、武田祐吉、辻善之助、橋本進吉、山田|孝雄《よしを》、吉澤義則の諸先生と相會する機會を與へられ、折に觸れて大小となく教示をあふいだのであつた。なほ、井上通泰先生の萬葉雜話、正宗敦夫氏の萬葉集總索引、澤瀉久孝・久松潜一二教授の業績より思惠を蒙り、萬葉三水會の、石井庄司、五味保義、佐伯梅友、中島光風、藤森朋夫、森本健吉、森本治吉、遠藤嘉基の諸氏によつて鞭撻激勵せられたことも多大であつた。また雜誌アララギでは土屋文明氏指導のもとに五味保義氏、柴生田稔氏はじめ諸同人相勵んで萬葉集諸作家を研究し、柿本人麿の歌にも幾回か言及したので、それから學んだ點も僅少ではなかつた。斯くの如くにして、昭和十四年二月十日無事發行することを得たのであるが、その發行に先だち、宮内省圖書寮御藏の「柿本人麿集」全部を附載する御許可を得たことは私の深く謹しみ感謝するところである。
 本卷が發行になると、徳富蘇峰(東京日日新聞)、武田祐吉(圖書)、久松潜一(東京朝日新聞)、次(781)田眞幸(國語と國文學)、森本治吉(短歌研究)諸氏の同情溢るるばかりの紹介文をたまはつた。
 
     雜纂篇
 
 【柿本集考證】 歌仙家集【三十六人集】中の柿本集(人丸集)に就いての考察意圖は、昭和四・五年ごろであつて、何時も中絶がちであつたところが、それでも幸に數人の助力者を得て少しづつ進行したものである。助力者は、故山口隆一(昭和六年)、佐藤佐太郎(昭和九年)、藤森朋夫(昭和十二年)の諸氏であつたが、宮内省圖書寮御藏本を閲覧し得るに至つてから、頓に爲事が捗り、それを私が毎年夏休を利用して整理しつつ昭和十三年になつて辛うじて纏めたものである。そのあひだ時々幸田露伴・山田孝雄の二先生に教をあふいだ。原稿は一とほり柴生田稔氏の校閲を經てそれから印刷所にまはした。この考證は片手間にした爲事のやうな具合で、隨分長い間かかつたことになるわけである。
 【勅撰集選出歌考證】 これも何時の頃の企圖であつたか、だいぶ以前であるが、纏まらずに放棄してゐたものである。然るに、雜纂篇に收めるために昭和十年になつて歌を書拔き、私が小閑を得次第ぼつぼつと書足して行つたものである。それを近時山口茂吉・柴生田稔の二氏が補充せられた。
(782) 【柿本朝臣人麻呂歌師説】(香川景樹)これは景樹の講話を門人熊谷直好が筆記したもので、文政二年夏と記されてゐる。正宗敦夫氏が數十年以前に筆寫して置かれたのを、私の「柿本人麿」のために贈られたもので、以て珍とするに足りる。これを一讀するに景樹の創見が隨處に見あたるが、その中に、人麿が歿したとき、依羅娘子の作つた歌の、『石水貝爾交而』の『貝』を『峽』と解したのがある。即ち、『貝は借字にて山のかひのかひなり。交るは、春の山べにまじりなん、などの交るに同じ。そこに葬りてあるをいふ也』とある。私は評釋篇卷之上で、この歌を解いたとき、橘守部の檜嬬手の、『貝《カヒ》も峽《カヒ》なること、一本に谷爾《タニニ》とある以《モ》て知るべし』を以てプリオリテエトとしたのであつたが、景樹の説の方がずうつと先行してゐるのは注意すべきであり、創見の譽は景樹に冠せらるべきものの如くである。近藤芳樹、安藤野雁等も同説であり、芳樹の説は評釋篇で抄したが、野雁の萬葉集新考でも、『貝《カヒ》は峽《カヒ》の借字にて山の谷《ハサマ》を云』と云つてゐるが、時代はずつと後れてゐる。以上の三學者等は景樹の説を知らずに、銘々獨創の見として發表したのかも知れぬが、獨創の見は景樹に歸すべきものである。因に云。文政二年は景樹五十二歳に當る。それから、丹比眞人の、『荒浪に寄りくる玉を枕に置き吾ここにありと誰か告げなむ』等に就き、『次の擬歌は後に心得違ひてよめるものなるべし』と云つてゐるのは、流石に眼光が鋭い。この歌を、『心得違ひてよめる』と感ずる人にして、はじめて、鴨山の所在地を海邊でなくとも好いと論(783)斷し得るのであつて、私が「鴨山考」を作つた時に、既に丹比眞人の歌は考の中に入れてはならぬと論斷したのであつた。
 【鴨山後考其他】 人麿が石見國で死せむとした時、作歌した中の『鴨山の巖根し纏ける』の『鴨山』は現在石見のどの邊だらうといふことは、既に大正三年あたりから注意してゐたが、國府から十四五里ぐらゐ離れたところだらうといふこと、江(ノ)川に近いところだらうといふことの、大體の見當をつけたのは、昭和になつてからの事である。それから江(ノ)川に近い處で、賀茂神社の所在地などを調べてゐるうち、邑智郡濱原村に『龜』といふ大字のあることに注意し、それから考が急に發展して、昭和九年に「鴨山考」を作つて、濱原に隣る粕淵の津目山《つのめやま》を以て鴨山に擬することになつた。ついで「鴨山考補註篇」で、川本町の古名が石河邑と稱したことを發見し、鴨山考の説に一證を與へたことを記載した。然るに昭和十二年一月に至り、邑智郡粕淵村の大字湯抱の温泉地、即ち湯谷に『鴨山』といふ山のあることを發見し、「鴨山後者」(【昭和十三年一月文學卷六ノ一】)を發表して大體の結論を得たものである。この考證に着手してから、不思議に石見の古地圖が手に入つたり、そのほか思ひがけぬ發見があつたりして、この鴨山に關する考説はここまで到達したのであつた。昭和十三年三月二十二日、河野與一教授夫妻にあつたとき、河野氏は獨逸の考古學者シユリーマン(Schliemann)の話をして呉れた。シユリーマンはホメロスのトロヤに深く憧憬して、希臘の(784)地をながらく踏査してゐるうちに、小亞細亞のヒサルリクの丘を發掘し、その第二層目の出土品から考證して、其處をばホメロスのトロヤだと推定發表した。そして彼の死後、彼の友ドエルプフエルト(Dorpfeld)によつて實證せられたといふ話である。河野氏は微笑しつつ話し、私も徴笑しつつそれを聽くのであるが、私は甚だしく感動した。私の空想がつひに石見湯抱に鴨山を見付けしめたけれども、私の歿後、ドエルプフエルトのごとき人を豫想し得るか否かをもおもつたからであつた。その後、『湯抱』といふ處を土地の人は『ユガカイ』と發音し、陸地測量部の地圖にも『ユガカヒ』とあるので、これは、『湯が峽《かひ》』のことだらう、即ち現在『湯谷』といふのは、その『湯がかひ』のことだらうとおもふやうになつた。そして、この事は、『石川の貝』は『石川の峽《かひ》』【一に云ふ、谷】だといふ説に關聯して居るのである。
 その後、昭和十四年七月號の短歌研究の萬葉集綜合研究で、武田祐吉博士は、人麿臨終時の歌を解き、『人麻呂が石見の國府で死んだと見るのが順當であるから、その附近に求むべきである。死ねば葬られる筈の山であり、以下の歌の内容に依るに海岸に近く且川に臨んで居た地形であると思はれる』と云つてゐる。私は嘗て(鴨山考補註篇)、武田博士の人麿國府歿處説を否定しくどくどと説いたのであつた。それから數年經過した今日、博士は依然として國府説を固守し、然かも、『病に罹つて將に死なむとする心細さのまゝに、もう墓穴に横はつてゐる身を想像して詠んでゐ(785)る。妻は多少離れた處にあり、通ふのを常として居つて、自分の來るのを待つて居る。遠い旅の空で獨寂しく妻を思ひながら死んで行く人麻呂の氣持がよく出てゐる』と鑑賞してゐる。そして妻の依羅の娘子は角の里に住んで居り、娘子の歌の、『貝に交りて』を、『川ではあるが海に近い河口の處に思はれる。その河原で人麻呂を火葬にしたやうである。それでその骨が貝に交つてあるといふのである』と説いてゐる。昭和十四年の只今、萬葉學專門家中の專門家とも謂ふべき武田博士がかういふ解釋をしてゐる以上は、私の鴨山考の如き、シユリーマンに對するドエルプフエルトの出現もただの夢想として後代に殘るに過ぎないであらうか。
 なほ少しく補記するに、武田博士は人麿は死に臨み娘子に使を遣れない事情があつたのだと解した。それについて私は「鴨山考補註篇」で、『間使ひ』の歌の例を列記したが、その後、佐藤佐太郎氏は、卷十六(三八一三)の、『吾が命は惜しくもあらずさ丹《に》づらふ君に依りてぞ長く欲りせし』といふ歌に注意して私に話した。この歌には、『右傳へ云ふ。時に娘子あり。【姓は車持氏なり】其の夫《せ》久しく年序を逕《へ》て往來することを作《な》さず。時に娘子係戀心を傷ましめ、痾〓《やまひ》に沈み臥しき。痩羸日に異にして忽ち泉路に臨む。ここに使を遣して其の夫君《せのきみ》を喚び來る。しかるに歔欷流涕して斯の歌を口號み、登時《すなはち》逝没《みまか》りき』といふ左註が附いて居る。即ち此歌の言傳へでは、女が死に臨んで男に使を遣つた例である。女でさへ使を遣るのに、男がなぜ使を遣れないか。この『事情』は、(786)單に人麿と娘子とが私通の間柄で、人目をしのぶ爲めだ、といふやうな理由では解け難い常識である。そこで私は、人麿と娘子との距離がその時遠かつたので、使を出す暇が無かつたと解し、その場處を粕淵あたりの江(ノ)川沿岸と想像したのであつた。武田博士の國府歿處説では、この『事情』がどうしても解明が出來ないものである。
 【辛乃埼考其他】 辛の埼についての疑問はだいぶ前からの事だが、それを具體的に書いたのは、「評釋篇卷之上」である。それで私の辛の埼に關する愚案は盡きるのだが、それを纏めて昭和十二年一月號の「文學」に發表した。この考は大體昭和十年に書いたのだが、評釋篇卷之上の發行は昭和十二年五月になつたので、それに先立つて發表したのであつた。その時、石見の學者小篠大記の説を石見八重葎から手抄して紹介して置いた。この小考證と關聯して、「琴高磯・辛の浦・床の浦其他」、「カラノ浦に就いて」、「唐の島其他」等の小文がある。是等はいづれも小考證に過ぎぬが、岡鹿太郎、山崎慧、藤原【布野】運一、村岡典嗣、岡田眞、金田賢作、山田儔諸氏の厚意を恭うした。
 【藤原宮御井に就いて】 これは「評釋篇卷之上」にその斷片を書いたが、昭和十年十一月から昭和十二年六月に至るまでの調査を纏めて、「藤原宮御井考」と題して、昭和十二年八月號の「文學」に發表した。「二たび藤原宮御井に就いて」は足立康博士の駁論に對する私見で、昭和十三年(787)九月に書いて置いたものである。それから、「追記」は昭和十四年五月の調査について記入したものである。この論考については、土屋文明、藤森朋夫、石井庄司、吉田宇太郎、高安やす子、大村呉樓、上村孫作、高安國世諸氏から多大の助力を得た。
 この御井考は、藤原宮阯の研究と相待的、依存的な一つの假説であること、度々本文中に記載したとほりであるから、藤原宮阯に關する專門的研究家の助力を得たい希望を持つてゐたのであつたが、足立博士の駁論を讀むと、ただ一笑に附せようとする傾向のあるものであつた。そして『御井』の位置を定めるにつき、發掘の礎石につき、大安殿(大極殿)であらう、朝堂であらう等と云ふと、それを、『甚だ迷惑な』言葉だといひ、博士等の發掘作業には、『一切の先人見を去り』、客觀的な中正な見地から發掘してゐるといふから、成程さういふものか、さういふ客觀的な態度ならば、千萬年たつても、あそこが藤原宮阯か否か、大宮土壇が大極殿阯か否か、といふやうな問題は解決せられる筈が無い。今後博士はどういふ態度に出るか、興味あることだと私は思つてゐた。然るに昭和十四年六月發行の雜誌月光創刊號に、「藤原宮」と題する足立博士の論文が載つた。その中に次のやうなことが書いてある。
 
  ○日本古文化研究所に於いては、吾々をしてこの地の發掘調査を行はしめることとなり、昭和九年より着手し、爾來連年その發堀を繼續し今日に及んで居り、この間聲見されたる建築物の遺阯は既に十九棟(788)の多きに上つてゐる。いまこれらの配置を見るに、「大宮堂」より發見された南面せる大殿堂を中心とし、その左右及び南方に多くの殿堂が左右對稱を守つて整然と相並び、その全體の布配は平城宮や平安宮に於ける朝堂院のそれと寔によく一致してゐる。これらの點から推察すれば、高殿の遺阯は疑もなく藤原宮朝堂院の一郭と認むべきものであり、「大宮堂」の大殿堂阯は大極殿に當り、その南方に在る十二棟の殿堂は所謂十二堂に該當する。斯くの如く、今囘の發掘によつて、藤原宮阯の正確な地點を決定なし得たと共に、亦その朝堂院の規模をも知り得たのである。○この朝堂院の規模は頗る大きく、南北約五町東西約三町の範圍に亙り、二十數棟の殿堂・門・廻廊等が堂々と布置されてゐたのであつて、平城・平安兩宮の朝堂院の規模と雖もこれに一籌を輸してゐる。また個々の殿堂も頼る大きく、大極殿は正面百十四尺側面六十尺、更に十二堂の中には正面二百五尺側面四十尺にも及ぶものが六棟もある。これらは瓦葺丹塗の莊麗なものであるが、その木材は藤原宮役民作歌に見える「近江國の衣手の田上山のまきさく檜」が用ひられてゐたと思ふと自ら深い感興の湧くを覺える。
 
 この博士の文中、大宮土壇が『大極殿』(即ち私の御井考に散見する大安殿《オホヤスミドノ》に同じい)に當り、その大きさを計算せられ、『疑もなく』、『決定なし得た』といふうへは、博士の言にもはや動搖はあるまい。私が大宮土壇を大安鮫(大極殿)阯だと記載して博士から批評せられてから、一年半も經たぬうち、博士は私が記載したとほりのことを云ふやうになつた。藤原宮阯研究者の『權威』たる足立博士が、かく決定し、別に迷惑をも感ぜられないやうになつたといふことは、大に學界(789)のために慶賀すべきことであり、同時に私の「御井考」を全面的に否定することなどは不可能になつたことを喜ぶものである。この足立博士の文は、本文中に抄すべきであるが、本文は校正濟であるから、この「縁起」中に入れることとした。
 なほ補記せむに、昭和十四年八月號の國學院雜誌に、足立博士は「藤原宮の位置」といふ論文を發表せられた。これは藤原宮の位置に關する從來の諸説を述べ、高殿説が最も有力だと述べると共に、博士等の發掘調査について、次の如き結論を述べて居る。
 
  結局藤原宮朝堂院の一部と認めるの他なく、「大宮堂」の大殿堂阯は大極殿阯と考ふべく、その南方の十二棟の殿堂は所謂十二堂と認むべきものであらう。尚今回の發掘によつて夥しき古瓦が發見されたが、その文樣は明らかに白鳳式の特徴を示し、中には持統天皇御造營の本藥師寺阯より出土する古瓦に酷似してゐるものもある。この事は上記の建物が持統天皇御宇頃に造營された事を示してゐる。斯くの如く今囘の發掘によつて、藤原宮阯の正確な地點を決定なし得たと同時に、亦その朝堂院の規模をも知り得たわけである。○この朝堂院の規模は頗る大きく、南北約五町東西約二町の範圍に亙り、二十數棟の殿堂・門・廻廓等が堂々と布置されてゐたのであつて、平城・平安兩宮の朝堂院の規模と雖もこれに一籌を輸してゐる。また個々の殿堂も頗る大きく、大極殿と推定されるものは正面百十四尺側面六十尺、また十二堂と推定されるものゝ中には正面二百五尺側面四十尺にも及ぶものが六棟もある。これらはいづれも瓦葺丹塗のものであつたが、その木材は、「近江の國の衣手の田上山のまきさく檜」が用ひられてゐ(790)たと思ふと、自ら深い感興の湧くを覺えるであらう。○朝堂院の規模が上述の如くであれば、内裏及び諸官省を含む全藤原宮の規模は實に宏大なものであつたと思はれる。御井歌に宮の四方の門が、それ/”\香具・耳成・畝傍及び吉野の四山に相對してゐたと莊重な言葉で詠まれてゐるのは、よくこの藤原宮の雄大莊巌な有樣を偲ばしめるものがある。
 
 右の如く、足立博士もこの土壇を中心として藤原宮阯だといふ結論を公にするやうになつて見れば、私の「御井考」を積極的に否定することが出來なくなつたのである。なぜかといふに、私の「御井考」は、そもそも其處をば藤原宮阯だといふ要約・前提・條件のもとに成立つた一つの假説だからである。さういふ意味でも、博士のこの論文は、「御井考」のために有益なものである。また、嘗ては喜田博士も、『近ごろ古文化研究所の手によりて發掘調査中の鴨公村小學校庭の遺蹟は、それが内裏であつたか、朝堂であつたかは暫く問題として保留するとしても』(藤原京再考)と云はれたのであつたが、このたび足立博士によつてそれが略解決せられたのは學界の慶事と謂はねばならない。然るに、博士は私の「御井考」を否定しようとするのであるから、おのづから次の如き言説となるのは止むことを得ない。
 
  藤原宮の位置の決定に件ひ、萬葉學者が第一に想起するのは御井歌に詠まれた御井の位置であらう。吾々もこれに就いては大なる關心をもつてゐるが、この種の井戸は原則として内裏附近にあるべき筈で、(791)儀禮的に用ゐられる朝堂院の附近にはないと思はれるから、その位置の決定は更に今後の調査に俟たねばならぬ。因に先頃齋藤茂吉博士は、玉稿「藤原宮御井考」(文學昭和十二年八月號)に於いて、大宮堂の東南約二町の小字「メクロ」にある野井戸を以て問題の御井に擬定されてゐるが、實のところこの井戸は大正十三年の旱魃の際、その田地の所有者が新に鑿井したもので、今より僅か十數年前の新しい野井戸に過ぎない。
 
 かういふ言説になるのは自然のいきほひと謂ふものであらう。『今より僅か十數年前の新しい野井戸に過ぎない』といふ如き批難の、いかに單純無邪氣なものだかといふことは、既に、「二たび藤原宮御井に就いて」の中に述べて置いたごとくである。
 また、博士が御井を内裏近くに求めむとする意圖のあることは私も賛成で、私の「御井考」もそれに他ならぬことは、既に繰返して書いてあるとほりである。ただ博士がその内裏の位置、從つて御井の位置をどの邊に持つて行かれるかが私の興味を以て觀察し得る點である。『同一宮城内に内裏と朝堂とが並び存する状態にあつた』(喜田博士、日本都制と藤原京)藤原京にあつて、内裏をどの邊に持つて行かれるか、これは專門家としての足立博士に吾々は期待してゐるのであるが、内裏は大體朝堂の東北に當るとして、比較的狹いあの土地の宮城周垣内に内裏を推定するとせば、そんなに遠い處に推定するわけにも行かぬとおもふし、規模の莊大な内裏としてどう整理(792)せられるか、また喜田博士の臆説、慶雲元年十一月以後の擴張を豫想に入れるとして、あの藤原宮御井の長歌は、それ以前の、寧ろ最初造營時の作歌と考へられるから、その邊の考をどう整理すべきか、『藤原京に前後の別があつたであらうとの余輩の假定説に從へば、其の宮城の位置其の他に於ても、亦當然前後其の別あることを認むべく、彼の慶雲元年十一月始めて宮地を定むとあるものは、其の擴張後の宮城であつたと解せられる』(喜田博士)を念頭に置けば、今囘の發掘せられた朝堂阯といふのは、『持統天皇御造營の當初の藤原宮』の朝堂の謂であらうか、或は文武天皇慶雲元年擴張後の藤原宮の朝堂であらうか、その解決をもせねばならぬであらう。(【もつとも、喜田博士は、土壇を中心とする建築物は、やはり宮殿として最初に建てられたものであらう。和銅四年に燒亡したものでは無からう。さうでなければ餘り狹隘だと云つて居られる。】)
 さういふ大切で且つ興味深い事柄を長い年月かかつて、繼々と究尋して行くあひだに、私の「御井考」は否定せられずに、却つて肯定せられることとなるであらう。これは私の空想といふものであり、豫感といふものである。
 なほ、昭和十四年から大和地方も雨雪尠く、鴨公村あたりは昭和十四年十一月から約九十日間雨らしい雨降らず、十一月下旬にほんの小雨、昭和十五年一月廿三日に三十分間ぐらゐ降雪があつたのみで、從つて、鴨公小學校北方に接した大池などは底が顯はれるまでになつた。この時の井泉の状態を吉田宇太郎氏にたづねたところが、二月二日附を以て、懇に調査報告せられた。第(793)一部a、水面は地表から〇・五米、水の深さ四・五米、稍白濁。b、水面は地表から〇・五米、水深四・〇米。清冽澄明。c、水面は地表から〇・五米、水深二・三米、稍白濁。さうして見れば、第一部の井泉の水量は減つてゐるけれども、涸れるやうなことは無い。これは注意すべきことである。序に云。日本古文化研究所の作業で、土壇東方廿五間に、大極殿|正門《おもてみかど》の阯とおもはれる基壇石の連續群を發掘したことを報ぜられた。寛に慶賀に堪へぬ。
 【人麿雜纂】 これはこれまで手控にして置いたものを雜然と載せた。伊能忠敬の測量日記、人馬賃錢、本朝神社考、高津柿本大明神略縁起、櫟本柿本寺略縁起、人麿神疫病除靈驗、埴科人麿大明神由縁碑撰文【大村光枝】、徳川時代山陰山陽交通路、あての木、柿本神社參拜記念等である。此等を纏めた後に、昭和十四年初夏になつて、人麿の子孫だといふ小室氏の來訪を受けたので、「柿本氏小室系圖」を補充した。此種類の雜事は今後も集め得ると思ふから、幸に私が健康であつたら、補充したいとおもつてゐる。
 「梯本人麿御傳」中務卿兼明親王撰、初代豐田文三郎氏舊藏本を、岡田眞氏が昭和十年三月十日に影寫しておくられたものである。本篇の原稿とするとき廣野氏の助力を得た。これは人丸と赤人とが雙生兒だといふやうに書いたほどの書であるが、神道の方と結び付いたこと、他の類書と同樣である。
(794) 「超大極秘人丸傳」、「歌道筒守二重之卷」(抄)、「歌仙二葉抄」(抄)、此等は、昭和十一年に、故中村【入澤】孝氏がこの「雜纂篇」のために筆寫しておくられたのを、一應廣野三郎氏に目をとほしてもらつたものである。然るに中村氏は本邊の發行を見ず、昭和十四年三月に病歿せられた。私は深く君の死をいたみ、是等諸篇の君の筆蹟を形見として永く愛惜するものである。
 【人麿地理踏査録】 これは、昭和十二年五月の、「備後・石見・讃岐・伊豫・淡路・大和」と、昭和十四年五月の、「浮沼池・鴨山・尾道・鴨公其他」との二つであるが、前者は「鴨山後考」の鴨山を實地踏査した記事である。ついで私の「辛乃埼考」に關係ある唐鐘浦を訪ひ、伊甘國府阯を訪うた。それから四國へ渡り、讃岐の砂彌島を見、松山・道後をまはり、二たび山陽道に入つて、加古川の近海に舟を浮べて古への『加古の島』を偲び、それから淡路へ渡り、『明石の門』、『野島の埼』、『飼飯《けひ》の海』等を偲び、大和へ行つて藤原宮阯の井泉をしらべたものである。この旅行は一人旅で、先を急ぎ急ぎしたけれども、私にとつて極めて有益なものであつた。後者は、三瓶山の麓の、浮沼池の寫眞を撮るのが目的であつたが、同時に、その浮沼池の邊と、私の發見した鴨山との交通路を實地に踏査しようといふのであつて、それが無事實行せられ、私の學説に積極的な根據を與へたのであつた。この道は今は殆ど全く人の往來が絶えてゐるので、世の學者は顧みないのであらうが、私は可なり重要な道だと思ふのであるし、なほ調査したい事柄が幾つも(795)私の心中を去來してゐるけれども、それが私の如き個人の力では如何とも爲し難いのである。この旅行もまた一人旅であつたが、空想を恣にするには却つて好かつたかも知れない。
 【人麿像補記】 總論篇・鴨山考補註篇で記載した以後に目に觸れたもののうち、注目すべきもの若干を載せた。なほ人麿の畫像は全國では甚だ澤山あるとおもふが、大體は僅かの種類に分類が出來ると推察せられるゆゑ、先づこのくらゐにして忍ぶこととする。なほ人麿像に就いては、白畑よし氏の研究(美術研究、昭和十二年六月)があるから參攷すべきである。
 【小考】 これには「諸説記載に就いて」、「いほる考」、「うはぎ補遺」、「賀茂・鴨・神・龜」、「亂友に關聯して」、「みだるの語原」、「月西渡」、「※[手偏+求]をタムと訓む小考」等を收めた。いづれも小文であるが、人麿の歌を解くうへに若干の關聯を有するものである。評釋篇が發行になつた後、業餘の小閑を得て斯かる事にこだはつたのであつた。
 【人麿文獻補遺】 これは總論篇で文獻を記載したものの補遺と、總論篇發行以後に世に公にせられた文獻の大體である。助力せられた人々は、市毛豐備、小野寺八千枝、石田徳太郎、須釜善勝、藤森朋夫、佐藤佐太郎諸氏であるが、わけても藤森朋夫氏より多大の助力を得た。
 本卷(雜纂篇)を發行するに際し、御盡力たまはりし方々。秋岡武次郎、足立康、石田徳太郎、市毛豐備、一志斐雄、宇都野研、宇野浩二、上村孫作、奥野健治、大村呉樓、幸田露伴、鹿兒島(796)壽藏、金田賢作、北村庸夫、果山、小坂順造、齋藤泰全、澁澤喜守雄、下村章雄、須釜善勝、瀧精一、竹内英之助、津田騰三、徳富蘇峰、中村【入澤】孝、中村三二、苦木虎雄、橋本欣也、橋本福松、廣野三郎、藤森朋夫、舟木賢寛、布野【藤原】運一、正宗敦夫、宮森麻太郎、村岡典嗣、森繁夫、森本治吉、矢代幸雄、山口恭代、山崎慧、山田儔、吉田宇太郎、渡部信、岡鹿太郎、尾形鶴吉、岡田眞、小野賀榮、小野寺八千枝、岩波茂雄、岡麓、土屋文明、柴生田稔、佐藤佐太郎、山口茂吉の
諸氏に甚深感謝の念をささげる。
 本卷に載せた寫眞のうち、鴨山後考、辛乃埼考、人麿地理に關係あるものの大部分は、私自身が覺束ない技で撮つたものであるが、それに上村孫作、奧野健治二氏の盡力に依つたものが加はつてゐる。衾田墓地の寫眞、吉野宮瀧地方、五條野地方の寫眞等が即ちそれである。
 總論篇で、人麿の日常生活等のことを顧慮したとき、聯想が食物のことに及び、果物のことをも少しく記載したのであつた。然るに、その果物の中に柿の實が書いてない。一友人が私に諧謔して云つた。『柿本人麿が柿を食はぬといふのはをかしいではないか』。この質問は如何にもそのとほりで、あそこの蔬菜、果物等は大體を示すに止まつてゐた。例へばあそこに掲げた蔬菜のほかに、蒲公英《たんぽぽ》の葉だの、土筆《つくし》だの、菫《すみれ》だの、酸模《すかんぽ》だの、木の若萌の種々のものだの、それから後世救荒植物として記載せられてゐるものの大部分は、上代の人々はこれを日常の食用としたかも(797)知れないのである。果物でもまたさうである。あそこに掲げた果物のほかに、自然産のものも、既にその頃外國から渡來して栽培して居たものがなかなかあつたと考へることが出來るだらう。あそこには日本産の覆盆子《いちご》とか、葡萄《ゑび》とか、岩棠子《いはなし》とか、木瓜《しどみ》(【早く渡來せりとも云ふ】)とか、蓁栗《はしばみ》、榧《かへ》、胡頽子《ぐみ》とかいふものが書いてないが、、さういふものも無論食用に供したのであらう。胡桃《くるみ》なども種類により(例へば姫胡桃)人麿時代以後の渡來とも思ふものがあるが、人麿時代に既に渡來して居たと謂つて好いものもあらう。柿などもまたさうである。和名鈔に、音市和名賀岐、赤實菓也。鹿心柿、和名夜末加岐とあるから、渡來種であつても餘程古く既に渡來してゐたと考へて好く、柿本といふ姓が第一それを證してゐるのである。その柿も次々に異つた種類が渡來したものと見えるし、三代實録に、雷雨震2内教坊柿樹1。延喜式、内膳司、供奉雜菜の條、柿子二升、漬年料雜菜の條、柿五升料鹽二升。園地、雜菓樹の條、柿五株云々の記事があるから、實用向にも柿樹はどしどし植ゑられたことが分かる。その他、和名鈔に載つてゐる食用植物の一部は既に人麿時代に渡來してゐたと看做し得るから、專門上の知識を以て、私の書いた總論篇の不備の點は自由に之を補ふことが出來るのである。
 
 この雜纂篇も諸友の助力により殆ど校了となり、目下索引作製中である。昭和九年十一月總論(798)篇を出してから、昭和十五年の三月に至るまで足掛七年を經過した。さてこの雜纂篇の校正を了らうとして顧るに、補訂を加ふべくして私の力の足らざるが爲めに、如何とも爲し難いものが幾つもある筈である。
 例へば「小考」として載せた如き題目のものは、今後も續々と出で來ると思ふし、また、あの時以後の考説として少しく加ふべきものの出來あがつたのも幾らかあるとも思ふのである。「小考」の中で、※[手偏+求]をタムと訓ませたのは、撓と相通じたのに據つたのであるが、廣雅に拱※[手偏+求]法也とある、その『法』と通ずる心持が即ち『撓』なのである。さういふ事をももつと突きつめたいのであるが差當つては出來ない。また、嘗て一たび顧みた事のあつた、(【高崎氏説、鴨山考補註篇】)采詩官のやうな職と人麿との關係であるが、周に采詩の官があつたと謂はれてゐる(【其を疑ふ學説もある】)けれども、本邦にさういふ職掌が特にあつたか、古今集にある大歌系統のものが、以前には雅樂寮で取扱つたと謂はれて居るし、萬葉集卷一・二の歌などは大歌の種類だと考ふる學者も居る程で、その采詩の實行は本邦ではどういふ具合に行はれたか、東歌の蒐集等は地方官と宮廷(【家持も含む】)との間に密接の關係があつたとおもはれるから、さういふ蒐集の爲事に人麿が躬を以て從事したか、柿本朝臣人麿歌集の歌と人麿自作との關係、從つて人麿と當時の作歌し得た人々との交流等に就いても、なほ考察を續けねばならぬ問題が、幾つか心中を去來するのであるが、これも差當つては考證が出來難(799)い。そこで拙著「柿本人麿」も大體このくらゐにして切上げることとした。茲に「縁起」の餘白増補をるるにのぞみ、更めて諸先生諸友人の健康を祝する。
 なほ、中川顯允の石見外記(【柿本人麿總論篇三二六頁參考】)〔一五卷三四四頁〕に、『石川』は、『石見川』(即ち江(ノ)川)のことだといふ説を立ててゐることを、濱田の三浦庄市氏が注意せられた。
  ○石見川【一書ニ石《イハミ》川】石見名所記ニ、夫木集ヨミ人不知、「アサゴトニ石見ノ川ノミヲタヘズ戀シキ人ニ逢見テシカナ」トイヘルヲ引テ、江ノ川ノ事トス。扨テ此川ハ石見第一ノ大河ニシテ一國ノ中ヲ流レ恰モ一條ノ帶ニ似タリ。顯允ガ讀メル角彰經石見乃國乃帶爾爲流石見乃川婆看杼不倦鴨《ツヌサハフイハミノクニノオビニセルイハミノカハハミレトアカヌカモ》、イト拙キ業ニコソ。抑モ此川ハ源ヲ市木三坂ノ南溪ヨリ發シ、安藝備後ノ地ヲ繞リ、大河トナリテ再ビ邑智郡ニ入リ那賀郡ノ海ニ入ル。此海口ノ地ヲ石見ノ郷トイヘルニヨリ、石見川トモ石水トモ川ノ名トハナリシモノナリ。扨又鴨山モ此《コノ》川トイト遠カラヌ所ニテ、古ヘ柿本人麿ハ生國大和ノ柿ノ本ノ人六位以下ノ賤官ニテ石見ノ任ニ下ラレシガ、久シク職田ナリシ鴨ト云ヘル地ニ病ミ伏シ玉ヒシガ故郷忘レカネ妻ノ依羅娘子ニタノミスクナキヲ傷メル消息ヲタビタビ贈ラレシニ、逢ヒ見ンコトノ難クシテ命終今日ヲカギリトナレリ。扨テ大和ナル妻ノ依羅娘子ハ夫ノ病ノサシカサナリタル消息ヲ讀ミテ、周章驚キ急ニ石見ノ國ヘ馳セ來ラレシニ、夫ノ人麿ハスデニ此世ヲ辭シ玉ヒ、角枕錦衾ノ燦爛タヾ獨リ悲傷タトヘンニ(800)物ナシ。萬葉集同ジナラビニ見エタル、柿本朝臣人|麿《マロ》ガ死時妻依羅娘子作歌二首【ミマカル時トアレドモ身マカレルノ誤ナルベシ歌ノスガタニテ味フベシ】且今日《ケフ》且今日吾待君者石川|貝《カヒ》爾【1云谷爾】交而|有登不言八方《アリトイハズヤモ》【印本ノ點ニ、アガマツ君トアレドモ、是ハアヲマツ君ナルベシ、、貝ニ交リテ、考フニ、次ニ玉ヲモ云シカバ、此川ノ海ヘ落〔傍点〕ル所ニテ貝モアルベシトアリ。然レドモ此貝ハ借字ニテ川合ノ義ナルベシ。谷爾トアルヲモテ知ルベシ。】直相者相不勝石川《タヽノアヒハアヒモカネテンイハミガハ》爾雲立渡禮|見乍將偲《ミツヽシノバン》。扱初ノ歌ノ意、今日今日カト尋ネ來リ妻ヲ思ヒツヽ身マカリ玉ヘル夫《セ》ノ君ノ御魂戀シヤ、モシヤコノ石見川ノ河合《カヒ》ニ沈ミモヤラデ居玉フカ。次ノ歌ノ意ハ、夫ノ君ニ逢タク見タク泣キカコツトモ黄泉《ヨミ》ノ山坂ヘダヽレバセメテハ此石川ニ雲トモ君ハナリテアラハレ玉ヘ、妾ハソレヲ夫ノ君ゾトナガメテナグサメン。案ズルニ、石見川ト石川ハ同ジ川ニテ分テ二ツトスベカラザルモノナリ。
 斯う記してある。この文章で注意すべきは、『案ズルニ、石見川ト石川ハ同ジ川ニテ分テ二ツトスベカラザルモノナリ〔案ズ〜右○〕』といふので、これは萬葉集にある、石川は即ち石見川(江(ノ)川)だといふ考である。それから、『鴨山モ此川下イト遠カラヌ所ニテ〔鴨山〜右○〕』といふのは、人麿の歿處鴨山もこの石見川(江(ノ)川)から遠くない處にあるといふ説である。私は川本町の石水山弓峯八幡三社の縁起によつて、『石河邑』といふ名稱を知り、私の假説に一根據を得たのであつたが、私と同じやうな考を、既に石見の學者中川顯允が立てて居るのは、極めて興味あることであり、感謝すべきことである。私は昭和九年夏、濱田圖書館を訪うて此書物を一見したのであつたが、旅の慌しさにこ(801)の文章を見おとし、八重葎の説のみを抄記したのである。然るに三浦庄市氏によりて二たび此書の説を顧慮することを得たのは、まことに忝いことである。顯允は、依羅娘子は大和に居たこととしてゐるが、『久シク職田ナリシ鴨ト云ヘル地ニ病ミ伏シ玉ヒ』といひ、石川貝を借字にて『此貝ハ借字ニテ川合ノ義ナルベシ』といつて居るあたり、思考の機轉がいかにも雋敏であつて、後進の吾々はおのづからそれを尊敬せねばならぬのである。
 併し、石川を江(ノ)川としたのは斯くの如くであるが、鴨山をば都農郷の中と考へてゐた。
  ○鴨山ハ都農《ツヌノ》郷石見川ニ近キ地ニ、古ヘ鴨トイヘル所アリ。此ノ鴨ノ地ノ山ナルベシ。※[手偏+榻の旁]鴨曉筆卷十七ニ、加茂、山城・石見ニアリト。加茂・鴨ニ同ジ是レナリ。今ノ世コノ賀茂ノ地ヲ求ムル、サダカナラネバ、カモ・カミ〔四字右○〕訓通ヘバ賀茂・神トナヘノ變リテ今ノ神村ノ山ニテハナカリシカ。此アタリハ國府ノ官人ノ職田モアリ、古ヘ人麿ハ國府ノ官人ユヱ、病痾養生ノ爲メニ職田ノ別業ニ住セラレシニモアラン。カクイフハ全ク牽強ノ言ニシテ、カナラズ徴トハナシガタシ。ソモ/\此山ハ萬葉集二ニ柿本朝臣人麿在2石見國1臨v死時自傷シテ作歌、鴨山ノ磐根之|卷有《シマケル》吾乎|鴨不知等《カモシラズト》妹之待乍將有ト見エシ是レナリ。サテ人麿ノ辭世、加茂眞淵ノ説ニハ、人麿石見ノ國ニ下ツテ司ヲ任《マ》ケ、慶雲(ノ)年ノウチニ、ヨハヒ四十アマリニシテ、任ノ内ニ終リタマヒヌトアリ。【下略】
(802) これで見ると、顯允の説は、『神村』説であるから、私の鴨山とは場處が違ひ、吉田東伍博士の大日本地名辭書の説と合致する。これは鴨山は都農郷の中にあるだらうといふ前提の下に成立つた説であるから、おのづから斯ういふ結論となるので、その不適當な前提だといふことは既に幾たびも論じたごとくであるが、私の感服したのは、『石川』を『江川』に見立てたのにあり、この結論は動かぬのである。
 なほ此の「石見外記」で注意すべきは、人麿の歌の中の、『辛乃埼』をば邇摩郡宅野近くの韓島だとせずに、那賀郡で國府に近く、カラは角の里に近い處で、辛乃埼は今の唐鐘であらうと云つて居る點にある。
  ○辛乃崎《カラノサキ》 言高磯附 人麿ノ長歌ニ、言佐敝久辛乃崎|有《ナル》ト見エタルハ、タヾ辛トノミイヘル地ニテ、萬葉三ニ苦毛零來雨可神之崎トイヘル神ト同ジク、之ハ助字崎ハ先ト訓通ヒ出張タル地ヲイフナリ。然レバ辛トハ何レノ所ゾトイハヾ、辛ハ枯《カラ》虚空ナド、同ジク、渺茫タル一草一木モ生ゼザル野原ヲイフナリ。是ハ下國府アタリヨリ江津邊ヘカケテ砂山白濱多ク目キトヾカザルノ曠野ナルヲ、辛トノミ名ヅケタルモノナリ。此ノ辛ノ地ノ出張タル崎ニハ石多キヲ以テ伊久里爾ゾトハ胃《(原)》トハ咏ゼラレタルモノナリ。石見名所記ニ辛乃崎可良崎ト折《(原)》テ二ケ所トスルハ非ナルベシ。
(803)  堀河百首【源俊頼朝臣】「石見渇コトタカ磯ニヨル浪ノクダケテ歸ルモノトシラズヤ」トミユ。言高磯ノ地イマダ思ヒ得ズ。モシヤ人麿ノ【言高コト】サヘグカラノ|サキ《磯》トアルニヨリテ、石見潟ニツケテコト高磯ト俊頼ハ詠ゼラレシカ。
  ○疊浦 此浦ハ國分村ニアリ。東西十餘町南北六七町、タヾ平坦ナル一枚石ニテ、中程ニハ小高ク枕ト思ハルヽ處モアリ、マタ椀家具ナドナラベタルガ如キ岩モアリ、オシナベテ莚席ヲ敷タルガ如キニヨリ、タヽミガ浦トハ名ヅケシモノナリ。一ニハ床ノ浦トモヨベリ。其風景奇絶ニシテイハンカタナク、思フニ神御代ニ大己貴命少彦名命二柱ノ大神天ガ下所作玉フ時ノ神|造《タクミ》ニモアランカ。サテ是ヨリ西六七町ヲ隔テ海中ニ犬島トイヘル島アリ。遠クコレヲ望メバ海上ニ一玉環《・タマノワ》ノ半分ヨリ上ノ出タルガ如シ。ソノ環ノ中ハ洞ユヘ小船ナドニテ通ラルヽナリ。サテマタ此ニ猫島トイヘル島モアリ。【床ノ浦ヨリ東北ニアタリカナスフ〔四字傍線〕トイヘル海磯アリ通行ノ舟用心スル所ナリトイフ】唐金《カラカネ》ノ里トイヘル地モアリ。コヽハ唐乃嶺ニテ辛乃崎ニモアランカト疑フ地ナリ。
 即ち、右の文中、『唐金《カラカネ》ノ里トイヘル地モアリ。コヽハ唐乃嶺ニテ辛乃崎ニモアランカト疑フ地ナリ〔里ト〜右○〕』は、辛乃埼をば唐鐘の疊浦をも含めた埼を差すのであつて、取りも直さず、私の「辛乃埼考」の結論と合致するのである。さすれば、私の説と合致するものに、「石見八重葎」附記の小篠大記の説と、この「石見外記」の中川顯允の説とで、共に槃游餘録の記事に類似した點もあるが、(804)いづれにしても、私の説に前行して、石見の學者二人まで『辛乃埼唐鐘疊浦説』を出して居るのは、愉快至極のことと謂はねばならない。そこで、實に長い間、辛乃埼は邇摩郡の韓島だといふ説が殆ど學界を支配して居たのであつたが、この辛乃埼唐鐘説は近き將來に於て學界の定説となるのではなからうかとさへ思はれるに至つた。石見外記の題言には、『文政三年庚辰冬十月望、石見濱田臣中川顯允公修識』とあるから、その頃から此説を持してゐたことが分かるのである。
 
(805) 鴨山『三瓶山』説に就いて
 
 鴨山に關する私の説は既に屡云つたごとくであるが、このごろ鹿兒島氏の歌壇風聞記を讀んで、雜誌心の花(【昭和十一年四月第四十卷第四號】)に、中村耕三氏が、鴨山は三瓶山《さんべやま》だらうといふ新説を立ててゐられることを知つた。そこで心の花を借覽して、中村氏の説の大體を知ることを得た。いまその主要な大部分を次に記し、それに就いて愚見を述べることとする。
  ○自分は強ち鴨山即ち終焉の地ではなくともよいと思ふ。かう言ふ見地から人麿終焉の地は江川流域の何れかの地であらうが、鴨山は石見一の高峰しかも神話の簸川の川上にあたり人麿の頃よりずつと以前から有名であつたであらうところの三瓶山ではなからうかと思ふのである。
  ○現實に鴨山の岩根を枕してゐなく共よいと考へられはしないであらうか。假に駿河の三島あたり富士の近くであり乍ら愛鷹山にさへぎられて富士の姿のみえない地で旅に病んだとしても自分は今富士を枕としてゐると言ふ事は誰でもが想ふ事であらうと思ふ。ましてや詩的(806)想像力の特異な人麿が江川流域の地に病臥して死に臨み思ひを大和の妻若しくは國府角の浦あたりに殘せし妻の上に及す時石見の國第一の高峰三瓶山に想をいたすであらう事は極めて普通の推理である。特に濱原あたりに病んだとすれば三瓶山は數里を隔つるにすぎず、しかも窓間に見ゆる筈であるからむしろ歌の中に三瓶山が出て來ない事が不思議な位である。
  ○三瓶山は今土地の人によつて、『サンベ』と讀み馴されてゐるが昔は三瓶山《みかめやま》と訓まれた事もあつたであらうし現在、男三瓶、女三瓶、子三瓶と峰が分れてゐるのをみても、個々の峰は、よし、大小のあらうとも、瓶山であつたであらうし、その三峰の中に今、小池をたたへ炭酸孔のある所は往古の噴火口でありその頃には濛々たる噴煙をあげ之を遠望しえた事でもあらうし、又三瓶山の三は奈良の三笠山に於けるが如くに、美稱、接頭語と解してもよかるべしと思はるる。人麿ほどの人がその死に臨んで眞情も吐露する時その想念にうかんでくる山が路傍の一小山ぞや。秋津島根を枕として、天の川のほとりに魂を遊ばしてゐたとさへ解したい。叙して以つて齋藤茂吉博士並に先輩諸賢の一考を煩らはさうとする所以である。
 中村氏は、拙著二册をつぶさに讀まれたのであり、その點だけでも私は感謝するものであるが、なほ、鴨山考についての氏の新説を得たのは甚だ愉快なことであつた。よつて次に簡單に愚見を述べて、同時に中村氏の好意にも酬いたいと思ふ。
(807) 第一。中村氏は、現在の三瓶山《さんべやま》は、人麿時代には、ミカメヤマと訓まれただらうと云つて居られる。そしてミは美稱、接頭語であり、カメは瓶《かめ》で、噴火口などから由來した名稱だらうと云つて居られる。そして、ミカメのカメと、カモヤマのカモが似てゐるから、人麿のカモヤマは、そのミカメヤマであらうといふ音韻上の論據があるといふのであらうか。
 併し、現在の三瓶山《さんべやま》といふ名は、三瓶山《みかめやま》から轉じたのではなく、佐比賣山《さひめやま》から轉じたものである。つまり、人麿時代の三瓶山《さんべやま》はミカメヤマとは云はず、サヒメヤマと云つてゐたので、カモ、カメとは音韻上の類似は毫も無いのである。
 この佐比賣《さひめやま》山は、出雲風土記の、自2去豆《コヅ》1乃|拆絶《サキタチ》而、八穗米支豆支乃御埼《ヤホニキヅキノミサキ》、以此而堅立加志者《カクテカタメタテシカシハ》、石見國《イハミノクニ》與2出雲國1之堺有《サカヒナル》、名(ハ)佐比賣山《サヒメヤマ》是也。とある山である。それがサヒメから、サブメ、サブベ、サムベ、サンベと轉じたと云はれ、サヒメのサは、五月《サツキ》のサ、早稻《ワセ》のセなどの如くに、稻の事だらうと説かれてゐる(後藤氏)。このことは、今の三瓶山に佐比賣山神社があり、延喜式内社であることも明かであり、藤井宗雄の文にも、『今佐比賣山西南の麓久部と云所にも三瓶大明神ありて少か離れて蘇勢理杜と云傳へたるがあり』とあつて、三瓶は佐比賣の轉だといふことも亦明かである。そこで、大日本地名辭書にも、『三瓶《サンベ・サヒム》山。小屋原の東にて、雲州に跨る。古名|佐比賣《サヒメ》山、又|形見《カタミ》山と云ふ。サンベは蓋三瓶の字をサヒムに假りしより、其字音に移りたるもののごとし。(808)或は山邊《サンベ》に作り、俗説日本第五の高山と云ふ』と記載して居るのである。以上をもう一度約めていへば、サンベヤマは、サヒメヤマから轉じたので、ミカメヤマから轉じたのでは無い。然るに、ミカメヤマより、直ちにサンベヤマに轉じたとするのであるから、中村氏の説の根本の缺點は其處に存在してゐるのである〔中村〜右○〕。この根本の缺點がある以上は、結論に至る過程にどんなに細かい理論があらうとも、結局それはおぼつかない結論だといふことになる。
 第二。中村氏は、縱ひ、石見の濱原邊に於て人麿が病んでも、その邊の小山、津目山《つのめやま》のやうな小山を眼中に置かずに、石見第一の高峰、今の三瓶山ぐらゐを念中に持つたであらう。寧ろ、『秋津島根を枕として天の川のほとりに魂を遊ばしてゐたとさへ解したい』と説かれてゐるが、人麿は、さういふ風流は爲なかつたやうであるから、中村氏のいはれるやうな臨終時の風流や洒落はもつと後代人の心理であらう。人麿の、鴨山の巖根し纏ける云々の歌は、もつと現實的で、もつと切實に生に即した歌であらうとおもふから、中村氏の心理を以て、この歌を律するのはどうかとおもふのである。
 第三。中村氏は、鴨山は必ずしも人麿終焉地でなくともよく、例へば、『假に駿河の三島あたり富士近くであり乍ら愛鷹山にさへぎられて富士の姿のみえない地で旅に病んだとしても自分は今富士を枕としてゐると言ふ事は誰でもが想ふ事であらうと思ふ』といふのであるが、これも後世(809)の漢文などを標準とする議論で、當時は、雲際に聲える高峰などには餘り親しみがなく、もつと平凡で低くとも、生活に親しみのある山を重んじて歌に作つてゐるのは萬葉のほかの歌を見ても明かなることで、藤原宮御井歌で『名ぐはし吉野の山は影面の大御門ゆ雲居にぞ遠くありける』云々と歌つたのは、雲際に聳ゆる高峰といふ後世の漢文的風流に本づいたのでなく、吉野離宮との現實的聯鎖に本づくことを知らねばならない。さうして見れば、やはり鴨山は人麿終焉地に接近してあつた山と解すべきこと、既に私の鴨山考で口の酸くなるほど云つたとほりである。
 以上の如き理由に據つて、私は中村氏の、『鴨山・三瓶山説』に賛成することが出來ない。これが結論である。
 ちなみに云ふが、三瓶山は濱原から見え、龜からも見える。特に天氣の好い時には江川を渡る舟中にあつて、最もよく鑑賞し得る山である。私の如きも、鴨山考を立つるに當つて、幾たびも心中を去來した山であり、土屋氏は備後境の、女龜山《めんかめやま》と三瓶山と何かの關聯がなからうかといつて私に注意せられたこともあつた山である。併し、種々當つてみると、鴨山との關聯は奈何にも稀薄で、所詮致し方が無いのである。
 また、三瓶山の麓は荒涼たる處で、人麿時代には、縱ひ石見から備後へ拔けたにせよ、其處は通過せなかつたのであらう。上代人は、後世の風流人などの思ひも及ばぬ程實際的な行動をして(810)ゐる。私が石見から備後へ拔けさせたのも、實際の旅行を目當としての論であり、備後へ拔けるのに、粕淵・濱原・赤名の道筋を取らせたのも亦同じ理由に本づいて居る。
 私の「鴨山考」に對する異説は、いろいろ出現する方が却つて私には愉快である。なぜかといふに、異説が多ければ多いほど私の「鴨山考」の凡庸でないことがおのづから證明せられるからである。(昭和十一・五)
 
(811) 人麿文獻補遺
 
 保田與重郎 柿本人麻呂(雜誌文藝、昭和十六年八月號) ねちらねちら、くねらくねらした文章であるが、辛うじて次のところを抄し置く。『我々はけふの精神の中に人麻呂を再び擁護せねばならない。彼が詩人としてすぐれてゐたことは、彼が神の如くに國の人倫を美として歌つたからである。この神の如くにといふことは、詩にすぐれたものへの單なる形容の美辭ではない。まことに彼は國のある日に神の如くに歌つた。彼は慟哭して國本の危機に於て、國の臣のみちを歌つた。彼は美辭を以て國體の美しさや臣のみちを説く代りに、臣のみちの絶對感を心情として歌つた。人麻呂を神の如しと云ふのは、この點に於ける彼の詩と思想のあらはれ方である。しかしその點についての彼の眞義は未だ殆んど今日の若い知識人にかへりみられてゐないのである』。
 
 保田與重郎 古典復興の眞義(雜誌公論、昭和十六年九月號) 前と同じくのぼせあがつた文章でくねらくねらであるが、人麿に關して辛うじて次の文を引き得る。『萬葉集の古典性として、(812)他の二つの古典(古事記日本書紀)と異るものは、意識した草莽の精神である。草莽の民が、草莽の心に於て、よく國の大義を守り、己を神に通じた精神に於てである。もし人麻呂の如き歌人がなくして、壬申の歌をなさなければ、我々は志を立てて道義を云ふすべに於ていくらか薄弱となつたかもしれない。人麻呂は歌に於て秀れたのみでなく、日本の精神を臣の立場に説いた點で、まことに神の如き大思想家であつた。彼は歴史を神代よりといて、さらに他の古典が云はなかつた部分をのべた。この云はなかつた部分とは、臣の意識に切迫したものであり、彼はその一等ゆゆしいことを云ふに當つて、歴史と歌によつて、最も我國にとつて大切な思想を述べた』。
 
(813) 鴨山一説
 
 人麿の、『鴨山の磐根し纏ける』といふ歌の『鴨山』について、私は「鴨山考」を作り、はじめ、島根縣邑智郡粕淵村の津目山に擬し、次考に於て同村湯抱の鴨山に擬したのであつた。
 然るに近時土屋文明氏は一新説を發表した。「大和鴨山」(文學、昭和十七年三月號)が即ちそれである。その主要點を次に抄する。
 ○北葛城郡柿本村の近くの櫛羅村に鴨山口神社がある。若し人麿の生地が柿本附近にあつたとせば、この鴨山口神社のあるあたりを登山口とする、背後の葛城二上連峯一體に渡る高嶺のいづれかを鴨山に擬していいであらう。○人麿のころは、死後死といふ一境涯を越えて行つて其の彼岸に一つの生活を持つ、即ち黄泉比良坂の彼方の生活を持つといふ風に信じられてゐたことは、萬葉の歌で證することが出來る。それを土屋氏は假りに『往住思想』と名づけてゐるが、人麿も石見で死せむとしたとき、その死後の思想によつて、大和鴨山を往住の地としたと考へることが出來る。つまり當時は葬斂の地と往住の地と異なり得、またその距離も相當である場合がある。(814)○當時は歸葬の習慣があつた。本郷を遠く離れて客死した場合遺骸なりとも本郷に歸りたいといふのは普通人の生存中の念願だからである。また火葬のはじまつた以來歸葬が容易になつてさう尊貴でないものもそれが實行せられるやうになつた。そこで臨死の人麿に、大和鴨山を往住の地乃至歸葬の地として思ひ浮ばしめることは有り得ることとおもふ。○山田・齋藤二氏は、石見娘子依羅娘子を同一人としたのは、當時兩妻が成立しないといふ根據の上に立つたものであるが、土屋氏は戸令義絶の條の義解に、『凡諸條稱妻者。繼妻亦同。但妾者非』とあるを發見し、以て二人以上同時に妻と稱する法的根據となした。そこで、石見娘子依羅娘子を別人だとする説に別に故障にはならぬこととなる。○土屋氏説は石見娘子と依羅娘子は別人であつて、依羅娘子は恐らく依羅氏からいで河内に居任してゐたものと推斷出來る。○かくの如く依羅娘子が河内依羅にゐたとせば、南河内郡の石川は即ち、依羅娘子の、『石川のかひに交りて在りといはずやも』の石川に當るのである。因に云ふと、南河内郡(元錦織郡)錦織村に人麿塚がある。これ恐らく、何時かの時代に、依羅娘子を河内の人と信じてその遺詠によつてその夫たる人麿の塚を石川の峽谷たる錦織村の地に立てたものとも考へ得る。
 右を約言すれば、鴨山は大和北葛城郡櫛羅村の鴨山口神社あたりを登山口とする背後の葛城二上連峰一體に渡る高嶺のいづれかに當るであらう、さうしてその西麓にあたる石川が依羅娘子の(815)歌にある石川であらう〔鴨山〜右○〕。さうして南河内郡錦織村と、それから三粁程の距離なる鴨習太神社のある神山あたりをも、鴨山の一支脈として鴨山と呼んだ時代があるかも知れない。
 
(816) 小篠大記
 
 小篠大記は拙著の中に屡出て來る濱田の學者だが、本居宣長の玉勝間を讀むと、『小篠大記|御野《ミヌ》といふ人は、石見國濱田の殿のじゆしやにて、おのが弟子《ヲシヘノコ》なり』云々とあるところを見れば小篠大記の内には本居の學問系統の入つて居ることが分かつた。
 
(817) 後記
 
 本卷は「柿本人麿四」として「雜纂篇」を收め、「雜纂篇」の補遺と見るべき「鴨山三瓶山説に就いて」「人麿文献補遺」「鴨山一説」「小篠大記」の四篇を附載した。
 
 「雜纂篇」は、昭和十五年十二月十日に岩波書店から第一刷が發行された。「總論篇」「鴨山考補註篇」「評釋篇卷之上」「評釋篇卷之下」につづく、「柿本人麿」の第五册(終册)である。昭和十六年二月十日第二刷、昭和十六年十一月二十日第三刷が發行された。
 「雜纂篇」に収められた各篇のうち、「辛乃埼考」は雜誌「文學」昭和十二年一月號に、「藤原宮御井考」は雜誌「文學」昭和十二年八月號に、「鴨山後考」は雜誌「文學」昭和十三年一月號に、「※[手偏+求]をたむと訓む小考」は雜誌「文學」昭和十五年三月號に、それぞれ發表され、他はすべてこの書で始めて發表された(「辛乃埼考」は「文學」では「辛乃崎考」になつてゐる)。
 「雜纂篇」の成立事情については、「自序」及び「柿本人麿縁起」に記された如くであり、その中の數篇は文末に執筆年月日が注されてゐるが、なほ著者の日記、手帳及び自筆原稿の注記によつて執筆時期が知られるものは、次の如くである。
 「柿本集考證」日記によつて推察すれば、昭和十一年九月三日に原稿作製に着手し、九月三日から七日、(818)ついで昭和十二年一月三十日から二月七日までに第一段、昭和十二年九月三日から十月三日にかけて第二段の業を終へ、昭和十三年二月三日から仕上げの段階に移つて、九月六日に大體印刷原稿としてまとめられた趣である。
 「鴨山後考」 文末に「昭和十二年五月稿」と注記されてゐるが、日記によれば、昭和十二年十一月二十八日の執筆である。
 「琴高磯・辛の浦・床の浦其他」 その「二」は自筆原稿の注記によつて昭和十二年三月十日に、その「三」は日記によつて翌三月十一日に執筆されたことが分かる。
 「カラノ浦に就いて」 日記によつて昭和十二年一月二十九日の執筆と推定される。
 「藤原宮御井考」 文末に「昭和十二年六月二十七日」とあり、日記によれば六月二十一日、二十六日、二十七日に執筆してゐる。
 「二たび藤原宮御井に就いて」 文末に「昭和十三年九月上旬記」と注記があり、日記によれば九月十日、十一日、十二日に執筆してゐる(「藤原宮御井考追記」とあるが、この文章のことだと認められる)。
 「藤原宮御井考追記」 文末に「昭和十四年五月十四日夜」と注記があり、「手帳四十五」の手記によつてもこれを確かめることができる。
 「浮沼池・鴨山・尾道・鴨公其他」 自筆原稿の終に「昭和十四年五月廿八日廿九日記」と注記がある。
 「柿本人麿縁起」 昭和十四年六月十七日に書き始めて、昭和十五年四月十日に草し了つた趣である。詳細は日記によつて知ることができる。
(819) 本卷に収めるに當つて、第三刷を底本とし、雑誌「文學」の初出及び自筆原稿(齋藤家藏)を參照した。索引及び插圖はこれを省略した。なほ、「人麿雜纂」中の「埴科人丸大明神碑樹立由縁碑撰文」は、全集編纂に當り、松澤恒男氏に原碑の調査を依頼し、單行本の誤を訂正した。
 附載した四篇のうち、「鴨山三瓶山説に就いて」は、雜誌「アララギ」昭和十一年六月號に發表され、「雜纂篇」に入るべくして洩れたものであり、「人麿文獻補遺」「鴨山一説」「小篠大記」の三篇は、未發表のまま遺されてあつた自筆原稿である。著者の日記によれば、「鴨山三瓶山説に就いて」は、昭和十一年五月十七日、十八日に執筆されてゐる。
 
        〔2011年7月5日(日)午前11時15分、入力終了〕