齋藤茂吉全集第一卷、岩波書店、1973.1.13
 
(211) あらたま〔入力者注、振り仮名は最小限にした。〕
 
  大正二年 九月より
 
   1 黒き蝉
 
 ふり灑《そそ》ぐあまつひかりに目の見えぬ黒き※[虫+車]《いとど》を追ひつめにけり
 秋づける丘の畑《はた》くまに音たえて晝のいとどはかくろひいそぐ
 あかねさす晝のこほろぎおどろきてかくろひ行くを見むとわがせし
 畑《はた》ゆけばしんしんと光降りしきり黒き蟋蟀《こほろぎ》の目のみえぬころ
 まんじゆ沙華《したげ》さけるを見つつ心さへつかれてをかの畑《はた》こえにけり
 
(212)   2 折にふれ
 
 をさな妻あやぶみまもる心さへ今ははかなくなりにけるかも
 どんよりと歩みきたりし後《しり》へより鐵《くろがね》のにほひながれ來にけり
 わが妻に觸《さや》らむとせし生《いき》ものの彼のいのちの死せざらめやも
 固腹《かたはら》をづぶりと刺して逃げのびし男捕はれて來るとふ朝や  岡田滿
 いきどほろしきこの身もつひに黙《もだ》しつつ入日のなかに無花果《いちじゆく》を食む
 ぬば玉の黒き河豚《ふぐ》の子なびき藻に少女《をとめ》の如くひそみたりけり
 よひあさく土よりのぼる土の香を嗅ぎつつ心いきどほり居り
(213) 郊外をか往きかく往き坂のぼり黄いろき茸ふみにじりたり
 うつし身のわが荒魂《あらたま》も一いろに悲しみにつつ潮間《しほかひ》をあゆむ
 わがこころせつばつまりて手のひらの黒き河豚の子つひに殺したり
 河豚の子をにぎりつぶして潮もぐり悲しき息をこらす吾《あれ》はや
 
   3 野中
 
 たかだかと乾草ぐるま竝びたり乾くさの香を欲《ほつ》しけるかも
 ほしくさの馬車《うまぐるま》なみ行《ゆ》きしかば馬はかくろふ乾くさのかげ
 太陽のひかり散らたりわが命たじろがめやも野中に立ちて
(214) くろぐろと晝のこほろぎ飛び跳ねてわれは涙を落すなりけり
 あしびきの山より下《くだ》る水たぎち二たびここに相見つるかも
 ひしひしと力たへがたく湧きたちて遠き女《をみな》をねたみけるかも
 海岸にくやしき息を漏したり常ならぬかなや荒磯潮間《ありそしほかひ》
 われつひに孤り心《ごころ》に生きざるか少女に離《か》れてさびしきものを
 
   4 乾草
 
 きなぐさきあまつひかりに濡れとほり原のくぼみをあれひとりゆく
 ふりそそぐ秋のひかりに乾くさのこらへかねたるにほひのぼれり
(215) ひたぶるにトマト畑《ばたけ》を飛びこゆるわれの心のいきどほろしも
 いちはやく湧くにやあらむこの身さへ懺悔《さんげ》の心わくにやあらむ
 くろがねの黒きひかりをおもひつつ乾くさのへに目をつむり居り
 
   5 宿直の日
 
 狂院のうらの畑《はたけ》の玉キヤベツ豚の子どもは越えがたきかな
 かんかんと眞日《まひ》照りつくる畑みちに豚の子のむれをしばしいぢめぬ
 むらがりて豚の子走る畑みちにすでに衰ふる黄いろの日のひかり
 むらぎものみだれし心澄みゆかむ豚の子を道にいぢめ居たれば
(216) みちたらはざる心をもちて湯のたぎり見つめけるかな宿直《とのゐ》をしつつ
 
   6 一本道
 
 あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
 かがやけるひとすぢの道遙けくてかうかうと風は吹きゆきにけり
 野のなかにかがやきて一本の道は見ゆここに命をおとしかねつも
 はるばると一すぢのみち見はるかす我は女犯《によぼん》をおもはざりけり
 我はこころ極まりて來し日に照りて一筋みちのとほるは何《なに》ぞも
 こころむなしくここに來れりあはれあはれ士の窪《くぼみ》にくまなき光
(217) 秋づける代々木の原の日のにほひ馬は遠くもなりにけるかも
 かなしみて心|和《な》ぎ來《こ》むえにしあり通りすがひし農夫妻《のうふづま》はや
 
   7 お茶の水
 
 まかがよふひかりたむろに蜻蛉《あきつ》らがほしいままなる飛《とび》のさやけさ
 あか蜻蛉《あきつ》むらがり飛ぶよ入つ日の光につるみみだれて來《く》もよ
 水のへの光たむろに小蜻蛉はひたぶるにして飛びやまずけり
 くれなゐの蜻蛉ひかりて飛びみだるうづまきを見れどいまだ飽かずも
 お茶の水を渡らむとして蜻蛉らのざつくばらんの飛《とび》のおこなひ見つつかなしむ
 
(218) 大正三年
 
   1 七面鳥
 
 冬庭に百日紅《さるすべり》の木ほそり立ち七面鳥《しちめんてう》のつがひあゆめり
 穩田《おんでん》にいへゐる繪かき繪をかくと七面鳥を見らく飽かなく
 穩田の繪かきの庭に歩み居る七面鳥をわれも見て居り
 ひさしより短か垂氷の一ならび白きひかりが滴《したた》つてゐる
 ゆづり葉の木かげ斜にをんどりの七面鳥は急ぎあゆめり
(219) 垂氷より光のかたまり落ちて來る七面鳥は未だつるまず
 うちひびき七面鳥のをんどりの羽ばたき一つ大きかりけり
 十方《じつぱう》に眞《まつ》ぴるまなれ七面の鳥はじけむばかり膨れけるかも
 七面鳥ひとつひたぶるに膨れつつ我《われ》のまともに居たるたまゆら
 まかがよふ光のなかに首《かうべ》あげ七面鳥は身ぶるひをせり
 ひばの木の下枝《しづえ》にのぼるをんどりの七面鳥のかうべ紅《あか》しも
 七面鳥ふたつい竝びふくれたち息凝らす我に近づきにけり
 あかねさす日もすがら見れど雌鳥の七面鳥はしづけきものを
(220) 七面鳥かうべをのべてけたたまし一つの息の聲吐きにけり
 七面鳥の腹へらしかばたわやめは青菜をもちてこまごまと切る
 七面鳥ねむりに行《ゆ》きて殘り立つゆづり葉の莖の紅きがかなし
 ゆづり葉のもとにひとむらの雪きえのこり七面鳥は寢にゆきにけり
 
   2 一心敬禮
 
 海岸の松の木原《こばら》に著きしかば今日のひと日も暮れにけるかも
 潮騷《しほざゐ》をききてしづかに眠らむと思ひやまねばつひに來にけり
 松風が吹きゐたりけり松はらの小道をのぼり童女と行《ゆ》けば
(221) ほのぼのと諸國修行に行《ゆ》くこころ遠松かぜも聞くべかりけり
 父母所生《ふもしよじやう》の眼《まなこ》ひらきて一《ひと》いろの暗きを見たり遠き松かぜ
 ともしびの心《しん》をほそめて松はらのしづかなる家にまなこつむりぬ
 目をとぢて二人さびしくかうかうと行く松風の音をこそ聞け
 松ばらにふたり目ざめて鳥がなく東土《とうど》の海のあけぼのを見つ
 ゆらゆらと朝日子《あさひこ》あかくひむがしの海に生れてゐたりけるかも
 東海の渚に立てば朝日子はわがをとめごの額《ひたひ》を照らす
 目をひらきてありがたきかなやくれなゐの大日《だいにち》われに近づきのぼる
 
(222)   3 雜歌
 
 むかう空《ぞら》にながれて落つる星のあら悲しめる身の命のこぼれ
 赤電車場ずゑをさして走りたりわれの向ひの人はねむりぬ
 みちのくに米《よね》とぼしとぞ小夜ふけし電車のなかに父をしぞ思ふ
 しんしんと雪ふるなかにたたずめる馬の眼《まなこ》はまたたきにけり
 電車とまるここは青山三丁目染屋の紺に雪ふり消居《けを》り
 ほうつとして電車をおりし現身《うつしみ》の我の眉間に雪ふりしきる
 ゆく春はしづかなれども氣にかかるあはれをとめて我《われ》は來にけり
(223) 春がすみとほくながるる西空に入日おほきくなりにけるかも
 侏儒《こびと》ひとり陣羽織《ぢんばおり》きて行きにけり行方《ゆくへ》に春のつちげむり立つ
 入日ぞら頭がちなる侏儒《しゆじゆ》ひとりいま大河《おほかは》の鐵橋《かねはし》わたる
 かなしかる初代ぽんたも古妻《ふりづま》の舞ふ行《ゆ》く春のよるのともしび
 にはたづみ流れ果てねば竹の葉ゆ陽炎《かぎろひ》のぼる日の光さし
 さにづらふ少女の歎《なげき》もものものし人さびせざるこがらしの音《おと》
 いつぽんの杉の大木にかかりたる入日のほのほ澄みにけるかも
 いつぽんの杉の大木に抱《だ》かれゐし紅き入《いり》つ日土に入るかも
(224) 赤光《しやくくわう》のなかに染まりて歸りくる農夫のをみな草負へりけり
 なげかざる女《をんな》のまなこ直《ただ》さびし電燈のもとに湯はたぎるなり
 
   4 諦念
 
 橡の太樹《ふとき》をいま吹きとほる五月《さつき》かぜ嫩葉《わかば》たふとく諸向きにけり
 朝風の流るるまにま橡の樹の嫩葉ひたむきになびき伏すはや
 朝ゆけば朝森うごき夕くれば夕森うごく見とも悔いめや
 しまし我《われ》は目をつむりなむ眞日《まひ》おちて鴉ねむりに行《ゆ》くこゑきこゆ
 この夜《よる》は鳥獣魚介もしづかなれ未練もちてか行きかく行くわれも
(225) あきらめに色なありそとぬば玉の小夜なかにして目ざめかなしむ
 この朝明ひた急ぐ土の土龍《もぐらもち》かなしきものを我《われ》見たりけり
 豚の子と軍※[奚+隹]《しやも》ともの食ふところなり我が魂ももとほるところ
 
   5 とのゐ
 
 はつ夏の日の照りわたりたる狂院のせとの土原に軍※[奚+隹]《しやも》むらがれり
 ひと夜ねしとのゐの朝の疊はふ蟲をころさずめざめごころに
 やまたづのむかひの森にさぬつどり雉子《きじ》啼きとよむ聲のかなしさ
 朝明けてひた怒りをる狂人のこゑをききつつ疑はずけり
(226) ひとりゐて見つつさびしむあぶらむし硯の水を舐め止まずけり
 
   6 ※[虫+科]※[虫+斗]
 
 かへるごは水のもなかに生《うま》れいでかなしきかなや淺岸《あさぎし》に寄る
 くろきものおたまじやくしは命もち今か生《あ》れなむもの怖ぢながら
 あかねさす晝の光の尊くておたまじやくしは生《あ》れやまずけり
 まんまんと滿つる光に生《うま》れゐるおたまじやくしの目は見ゆるらむ
 かへるごの池いちめんになりたらば術あらめやと心散りをり
 水際《みぎは》にはおたまじやくしの聚合《かたまり》の凝《こ》り動かねば夕さりにけり
(227) くろぐろと命みじかく寄りあへるおたまじやくしをしまらくは見む
 きちがひの遊歩《いうほ》がへりのむらがりのひとり掌《て》を合す水に向きつつ
 
   7 朝の螢
 
 足乳根の母に連れられ川越えし四越えしこともありにけむもの
 草づたふ朝の螢よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ
 朝どりの朝立つわれの靴下のやぶれもさびし夏さりにけり
 こころ妻まだうら若く戸をあけて月は紅《あか》しといひにけるかも
 わくらはに生《あ》れこしわれと思へども妻なればとてあひ寢《ぬ》るらむか
(228) ぎばうしゆの葉のひろごりに日《け》ならべし梅雨《さみだれ》晴れて暑しこのごろ
 代々木野をむらがり走る汗馬《あせうま》をかなしと思ふ夏さりにけり
 みじかかるこの世を經むとうらがなし女《をみな》の連《つれ》のありといふかも
 
   8 百日紅
 
 われ起きてあはれといひぬとどろける疾風《はやち》のなかに蝉は鳴かざり
 家鴨らに食み殘されしダアリアは暴風《あらし》の中に伏しにけるかも
 疾風《はやち》來《く》と竹のはやしの鳴る音の近くにきこゆ臥《こや》りつつをれば
 はつはつに咲きふふみつつあしびきの暴風《あらし》にゆるる百日紅《さるすべり》のはな
(229) 油蝉いま鳴きにけり大かぜのなごりの著《し》るき百日紅のはな
 向日葵は諸伏しゐたりひた吹きに疾風《はやち》ふき過ぎし方《かた》にむかひて
 熱いでて臥しつつ思ふかかる日に言よせ妻は何をいふらむ
 嵐やや和ぎ行きにけり床のへに群ぎもさやぎ熱いでて居り
 
   9 遊光
 
 ふくらめる陸稻《をかぼ》ばたけに人はゐずあめなるや日のひかり澄みつつ
 空をかぎりまろくひろごれる青畑《あをはた》をいそぎてのぼる人ひとり見ゆ
 ありがたや玉蜀黍《たうきび》の實のもろもろもみな紅毛《こうまう》をいただきにけり
(230) な騷《さや》ぎそ此の郊外に眞日落ちて山羊は土掘り臥しにけるかも
 あかあかと南瓜《かぼちや》ころがりゐたらけりむかうの途を農夫はかへる
 ゆふづくと南瓜ばたけに漂へるあかき遊光《いうくわう》に礙《さはり》あらずも
 あかあかと土に埋まる大日《さいにち》のなかにひと見ゆ鍬をかつぎて
 眞日おつる陸稻ばたけの向うにもひとりさびしく農夫かがめり
 
   10 海濱守命
 
 ゆふぐれの海の淺處《あさど》にぬばたまの黒牛疲れて洗はれにけり
 ゆふ渚もの言はぬ牛つかれ來てあたまも專ら洗はれにけり
(231) たどり來て煙草ばたけに密《ひそ》ひそと煙草の花を妻とぬすみぬ
 ゆふされば煙草ばたけにかくまれし家念佛すひとは見えなく
 海此岸《かいしがん》に童《わらべ》のこゑすなりうらうらと照り滿《みつ》る光にわれ入《い》らむとす
 うつつなるわらべ專念あそぶこゑ巖《いは》の陰よりのびあがり見つ
 あかあかと照りてあそべる童男《をわらは》におのづからなる童女《めわらは》も居り
 日のもとの入江音なし息づぐと見れど音こそなかりけるかも
 にちりんは白くちひさし海中《かいちゆう》に浮びて聲なき童子《どうじ》のあたま
 妻とふたり命まもりて海つべに直《ただ》つつましく魚《うを》くひにけり
(232) さんごじゆの大樹《だいじゆ》のうへを行く鴉南なぎさに低くなりつも
 みづゆけば根白高萱かやむらは濡れつつ蟹を寢しむるところ
 しろがねの雨わたつみに輝《て》りけむり漕ぎたみ遠きふたり舟びと
 一列に女《をみな》かがまりあかあかと煙草葉を翻《か》へす晝のなぎさに
 いくたりも人いで來《きた》りゆふ待ちて海の藥草《くすりぐさ》に火をつけにけり
 この濱に家ゐて鱗《うろくづ》を食《く》ひしかば命はながくなりにけむかも
 海岸にひとらの童子《どうじ》泣きにけりたらちねの母いづくを來《く》らむ
 
   11 三崎行
 
(233) いちめんにふくらみ圓《まり》き粟畑《あははた》を潮ふきあげし疾《はや》かぜとほる
 あをあをとおもき煙草のひろ葉畑《はばた》くろき著物の人かがみつも
 日もすがら煙草ばたけに蹲りをみなしづかに蟲をつぶせり
 紺に照る海と海との中やまにみづうみありてかぎろひのぼる
 ぬすみたる煙草の花の一にぎりもち歩き來て妻にわたせり
 まるくふくれし煙草ばたけの向う道馬車は小さく隱ろひにけり
 松並樹くろくはるけしなげけとて笠著て旅路ゆくひとのあり
 入日には金のまさごの搖られくる小磯《こいそ》の波に足をぬらす
(234) けふもまた急げいそげとのぼり馬とほり過《すが》へる馬を見て嘶《な》く
 旅を來てかすかに心の澄むものは一樹《いちじゆ》のかげの蒟蒻ぐさのたま
 しみじみと肉眼もちて見るものは蒟蒻ぐさのくきの太たち
 ほくほくとけふも三崎へのぼり馬|粟畑《あははた》こえていななきにけり
 こんにやくの莖の青斑《あをふ》の太莖《ふとくき》をすぼりと拔きて聲もたてなく
 ひたぶるに河豚はふくれて水のうへありのままなる命死にゐる
 潮の上に怺へかねたる河豚の子は眼《まなこ》をあきて命をはれり
 かうかうと西吹きあげて海雀《うみすずめ》あなたふと空に澄みゐて飛ばず
(235) あがつまと古泉千樫と三人《みたり》して清きこの濱に一夜《ひとよ》ねにけり
 
   12 秩父山
 
 ちちのみの秩父の山に時雨ふり峽間《はざま》ほそ路《みち》に人ぬるる見ゆ
 ここにして秩父はざまの溪の水いはに迫りて白くたぎつも
 さむざむと秩父の山に入りにけり馬は恐るる山ふかみかも
 据風呂のなかにしまらく目を閉ぢてありがたきかなや人の音《と》もせず
 苦行者《くぎやうじや》も通りにけらしこの水をいつくし細しといひにけらしも
 石斧《せきふ》ひそむ畑《はたけ》のなかに草鞋ぬぎ肉刺を撫《さす》りてひとり居りけり
(236) 岨《そは》をゆく人に追ひつき水わたる足つめたしといひにけるかも
 夜おそく風呂のけむりの香をかぎて世にも遠かる思ひぞわがする
 
   13 時雨
 
 片山かげに青々として畑あり時雨の雨の降りにけるかも
 山峽《やまかひ》に朝なゆふなに人|居《を》りてものを言ふこそあはれなりけれ
 山こえて片山かげの青畑《あをはたけ》ゆふべしぐれの音のさびしさ
 ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも
 山ふかく遊行《ゆぎやう》をしたり假初のものとなおもひ山は邃《ふか》しも
(237) ひさかたのしぐれふりくる空さびし土に下《お》りたちて鴉は啼くも
 しぐれふる峽《かひ》にいりつつうつしみのともしび見えず馬のおとすも
 現身はみなねむりたりみ空より小夜時雨ふるこの寒しぐれ
 
   14 冬日
 
 かんかんと橡の太樹《ふとき》の立てらくを背向《そがひ》にしつつわれぞ歩める
 橡の樹《き》のひろ葉みな落ちて鴉ゐる枝のさゆれのよく見ゆるかも
 ふゆ原に繪をかく男ひとり來て動くけむりをかきはじめたり
 しぐれふる空の下道身は濡れて縁なきものと我が思《おも》はなくに
(238) ふゆ空に虹の立つこそやさしけれ角兵衛|童子坂《どうじさか》のぼりつつ
 くれなゐの獅子をかうべにもつ童子《どうじ》もんどり打ちてあはれなるかも
 墓はらをこえて聯隊兵營のゆふ寒空に立てる虹かも
 向うには小竹林《せうちくりん》の黄の照りのいよよさびしく日はかたむきぬ
 
(239) 大正四年
 
   1 小竹林
 
 ひるさむき光しんしんとまぢかくの細竹群《ほそたかむら》に染みいるを見む
 ひとむらとしげる竹《たか》むら黄に照りてわれのそがひに冬日かたむく
 冬さむき日のちりぢりに篁の黄にそよぐこそあはれなりけれ
 うつし身はかなしきかなや篁の寒きひかりを見むとし思ふ
 ひとむきに細篁《ほそたかむら》をかたむけし寒かぜのなごりふかくこもりつ
(240) 入日さすほそたかむらをそがひにし出で入る息を愛《かな》しみにけり
 ひとときを明るく照りしたかむらにこもるしづかさや夕づきにつつ
 愛《かな》しめる命をもちて冬の日の染むたかむらに遠ざかりつも
 
   2 雜歌
 
 野のなかの自《おの》づから深き赤土《はに》ぞこに春さりくれど霜をむすぶに
 日のひかりの隈なきに眠る豚ひとつまなこをひらく寂しとぞいはむ
 しづかなる冬木のなかのゆづり葉のにほふ厚葉《あつは》に紅《あけ》のかなしさ
 汗たらし朝坂《あさざか》のぼる荷ぐるまの轍《わだち》おもひきり霜柱つぶす
(241) けむりのぼる砲工廠の土手のへに薄はしろく枯れにけるかも
 あが母の吾《あ》を生ましけむうらわかきかなしき力おもはざらめや 大悲二首
 ははそはの母をおもへば假初に生《あ》れこしわれと豈おもはめや
 水のへにかぎろひの立つ春の日の君が心づまいよよ清《すが》しく 新婚賀三首
 あわ雪のながれふる夜のさ夜ふけてつま問ふ君を我は嬉しむ
 きぞの夜に足らひ降りけむ春の雪つまが手とりてその雪ふます
 いばらきの大津みなとに篝火《かがり》たき泊《は》てたる舟にをさなごのこゑ
 幾朝《いくあさ》か軍器工廠の境内《きやうない》に霜しろきを見つつ我《われ》は來にけむ
(242) 富坂を横にくぐりて溝《どぶ》のみづ砲工廠に入りにけるかも
 機關銃の音のするどき境内《きやうないお》をのびあがり見れば土手ふくれ見ゆ
 
   3 朝
 
 ほがらほがらとひかりあかるき朝の小床《をどこ》に眼《まなこ》をあきて居りにけり
 きぞの夜の戸閉《とじめ》わすれて寢《いね》しより朝てる光《ひかり》のなかに寢《ね》てゐつ
 ありのままねむり目ざめし室中《へやなか》の光たむろに飛ぶものもなし
 ほそほそと女《をんな》のこゑす我が室《へや》に誰《たれ》か來るかとおもひけるかも
 うつしみは誰も來ずけり頭より光《ひかり》かむりて眼《まなこ》あき居り
(243) 朝早く溜まる光にかがやきてえも言はれなき塵をどり居り
 かうべを照らす朝日子のつくづくとうづの光に塵をどるみゆ
 光には微塵をどりてとどまらず肉眼もちて見るべかりけり 四月作
 
   4 春雨
 
 外面《とのも》には雨のふる音かすかなりこころ靜かに二階をくだる
 春雨は降りて幽《かそ》けしこの夜半《よは》に家のかひ馬の目ざむる音す
 春の夜の雨はふりつつ聞こえくる家の小馬の前掻《まへかき》のおと
 しづかなる夜《よる》とおもふに現《うつつ》なる馬ちかくゐて嚔《はなひ》るきこゆ
(244) 春雨の音のしながら幽かにてさ夜ふけと夜はふけにたるらし
 春雨はくだちひそまる夜空より音かすかにて降りにけるかも
 外面には春雨あはれに音しつつさ夜|更《ふく》れどもわれは寢《ね》なくに
 かりそめの病といへど心ほそりさ夜ふけて馬のおとをこそきけ
 日を經つつ心落ちゐぬ我ながら今夜しづかにすわりて居らな
 この夜半に目ざめたる者のひとり居てむかうの室《へや》に咳《しはぶ》けるかも
 かかる夜半に獨言いふこゑきこゆ寢《ぬ》るに堪へざらむ狂者《きやうじや》ひとりふたり
 しづかなる夜半に心の澄み遊ぶいよよ痛きを人知るらむか
(245) 外面《とのも》にはほそ春雨のふりやまずさ夜ふけてわれは目ざめゐにけり 四月作
 
   5 折にふれ
 
 目のまへの電燈の球を見つめたり球ふるひつつ地震《なゐ》ゆりかへる
 狂人のにほひただよふ長廊下まなこみひらき我《われ》はあゆめる
 夜の床に笑ひころげてゐる女《をんな》わがとほれどもかかはりもなし
 馬子ねむり馬は佇む六月《ろくぐわつ》の上富坂をつかれてくだる
 たらたらと額より垂《た》る汗ふきて大きいのちもつひに思はず 五月六月作
 
   6 雉子
 
(246) おたまじやくしこんこんとして聚合《かたま》れる曉森《あかつきもり》の水のべに立つ
 宿直《とのゐ》してさびしく醒めし目のもとに黒きかへるご寄りてうごかず
 朝みづにかたまりひそむかへるごを掻きみだせども慰みがたし
 こらへゐし我のまなこに涙たまる一つの息の朝雉《あさきじ》のこゑ
 朝森にかなしく徹る雉子のこゑ女《をみな》の連《つれ》をわれおもはざらむ
 尊とかりけりこのよの曉に雉子ひといきに悔《くや》しみ啼けり
 大戸《おほど》よりいろ一樣《いちやう》の著物きてものぐるひの群《むれ》外光にいづ
 ひさびさにおのづからなる我がこころ呆《ほ》けし女《をみな》にものいひにけり 六月作
 
(247)   7 寂しき夏
 
 眞夏日《まなつひ》のひかり澄み果てし淺茅原にそよぎの音のきこえけるかも
 まかがよふ淺茅が原のふかき晝むかうの土に豚はねむりぬ
 みじろがぬわれの體中《みぬち》は息づけり淺井茅の原の眞晝まの照り
 停電の街を歩きて久しかり汗ふきをれば街の音さびし
 墓地かげに機關銃のおとけたたましすなはち我は汁のみにけり 七月作
 
   8 漆の木
 
 たらたらと漆の木より漆垂りものいふは憂き夏さりにけり
(248) ぎばうしゆに愛《かな》しき小花《こはな》むれ咲きて白日光《はくじつくわう》に照《てら》され居たり
 いそがしく夜の廻診ををはり來て狂人もりは蚊帳を吊るなり
 のびのびと蚊帳なかに居てわが體すこし痩せぬと獨語《ひとりごと》いへり
 履のおと宿直室のまへ過ぎてとほくかすかになるを聞きつつ
 ものぐるひの屍解剖の最中《もなか》にて溜りかねたる汗おつるなり
 うち黙《もだ》し狂者《きやうじや》を解體する窓の外《と》の面《も》にひとりふたり麥刈る音す
 狂人に親しみてより幾年《いくとせ》か人見んは憂き夏さりにけり
 しんとして直立厚葉《すぐだちあつは》ひかりたるあまりりすの鉢に油蟲のぼる
(249) ぬけいでし太青莖《ふとあをぐき》の莖の秀《ほ》にふくれきりたる花あまりりす
 あまりりす鉢の士より直立《すぐだ》ちて厚葉かぐろくこの朝ひかる 七月作
 
   9 渚の火
 
 まかがよふ眞夏なぎさに寄る波の遠白波の足るたまゆら
 眞夏日《まなつひ》の海のなぎさに燃えのぼる炎のひびき海人《あま》はかこめり
 六人の漁師が圍《かく》みあたりをる眞晝渚の火立《ほだち》のなびき
 くれなゐにひらめく火立《ほだち》を眞晝間の渚の砂に見らくし悲し
 まかがよふ晝のなぎさに燃ゆる火の澄み透るまのいろの寂しさ
(250) すき透り低く燃えたる濱の火にはだか童子《どうじ》は潮にぬれて來《く》
 旅を來て大津の濱に晝もゆる火炎《ほのほ》のなびき見すぐしかねつ
 いばらきの大津みなとの渚べをい行きもとほり一日《ひとひ》わらはず
 
   10 海濱雜歌
 
 腹あかき舟のならべる濱の照り妻もろともに疲れけるかも
 みちのくの勿來へ入らむ山がひに梅干ふふむあれとあがつま
 日燒畑いくつも越えて莖太《くきぶと》のこんにやく畑《ばた》にわれ入《い》りにけり
 うらわかき妻はかなしく砂畑《すなはた》の砂はあつしと言ひにけるかも 八月作
(251) みちのくへあが嬬をやりて足引の山の赤土道《はにみち》あれ一人ゆく
 みちのくに近き驛路《うまやぢ》日はくれて一夜ねむるとねむりぐすり飲む
 平潟《ひらかた》へちかづく道に汗は落つ捨身《しやしん》あんぎやの我ならなくに
 いりうみの汐おちかかる曉方《あけがた》の舟の搖れこそあはれなりけれ
 くもり日《び》のくぼき砂畑《すなはた》に腰を延《の》す女《をみな》見にけり海のなかより
 外海にそへる並木路《なみきみち》ひたはしる郵便脚夫の體ちひさし
 眉ながき漁師のこゑのふとぶとと泊《は》てたる舟にものいひにけり
 松並木の松ふとりつつ傾けり鉛のごとくうみ曇る見ゆ
(252) いばらきの濱街道に眠りゐる洋傘《かうもり》うりを寂しくおもふ
 隧道《とんねる》のなかに牛立つ日のくもりわれ疲れつつ來《きた》りけるかも 八月作
 
   11 雨後
 
 あさまだき道玄坂をくだり來て橋をわたれりさかまけるみづ
 朝川はにごりてながる榧の枝《え》は濡れて垂《しだ》れり水にとどかず
 澀谷川うづまき流るたもとほりうづまく水を見れど飽かぬかも
 家むかうの欅がうへにほびこりし雲は光りて雨ふらむとす
 さ庭べに竝びて高き向日葵の花《はな》雷《らい》とどろきてふるひけるかも
(253) 雨はれて心すがしくなりにけり窓より見ゆる白木槿《しろむくげ》のはな
 雨はれしのちの疊のうすじめり今とどまりし汽車立つきこゆ
 雨はれしさ庭は暗し幽かにてこほろぎ鳴けば人もかなしき 七月作
 
   12 折々の歌
 
 龜戸の普門院にて三年《みとせ》經し伊藤左千夫のおくつきどころ 先師三周忌三首
 墓に來て水をかけたり近眼の大き面わの面影に立つ
 水ぐさの圓葉《まろは》の照りをあはれめり七月《しちぐわつ》ひるのおくつきどころ
 冬服をはじめて著たる日は寒く雨しとしとと降りつづきけり 石原純を迎ふ三首
(254) とほく來《こ》し友をうれしみ秋さむき銀座の店に葡萄もちて食《は》む
 五番町に電車を降りて雨しぶく砂利路《ざりみち》ゆけど寂しくもなし
 みちのくのわぎへの里にうからやから新米《にひごめ》たきて尊みて食む 奉祝歌二首
 いやしかるみ民の我も髯そりてけふの生日《いくひ》をあふがざらめや
 
   13 冬の山 「祖母」其の一
 
 おのづからあらはれ迫る冬山にしぐれの雨の降りにけるかも
 ものの行《ゆき》とどまらめやも山峽の杉のたいぼくの寒さのひびき
 まなかひにあかはだかなる冬の山しぐれに濡れてちかづく吾《われ》を 八月−十一月作
(255) いのちをはりて眼《まなこ》をとぢし祖母《おほはは》の足にかすかなる※[軍+皮]《ひび》のさびしさ
 命たえし祖母《おほば》のかうべ剃りたまふ父を圍みしうからの目のなみだ
 蝋の火のひかりに赤しおほははの棺のうへの太刀鞘《たちざや》のいろ
 朝あけて父のかたはらに食《を》す飯《いひ》ゆ立つ白氣《しらいき》も寂しみて食《を》す
 さむざむと曉に起き麥飯《むぎいひ》をおしいただきて食ひにけり
 ゐろりべにうれへとどまらぬ我《わ》がまなこ煙はかかるその渦けむり
 あつぶすま堅きをかつぎねむる夜《よ》のしばしば覺めて悲し霜夜は
 日の入のあわただしもよ洋燈《らんぷ》つりて心がなしく納豆を食《は》む
(256) 土のうへに霜いたく降り露《あらは》なる玉菜はじけて人音《ひとおと》もなし
 おほははのつひの葬り火田の畔《くろ》に※[虫+車]《いとど》も鳴かぬ霜夜はふり火《び》
 終列車のぼりをはりて葬り火をまもる現身のしはぶきのおと
 愁へつつ祖母《おほはは》はふる火の渦のしづまり行きて曉《あけ》ちかからむ
 ふゆの日の今日も暮れたりゐろりべに胡桃をつぶす獨語《ひとりごと》いひて
 冬の日のかたむき早く櫟原こがらしのなかを鴉くだれり
 ここに來て心いたいたしまなかひに迫れる山に雪つもる見ゆ
 いただきは雪かもみだる眞日くれてはざまの村に人はねむりぬ
(257) 山がはのたぎちの響《とよ》みとどまらぬわぎへの里に父老いにけり 十一月作
 
   14 こがらし 「祖母」其の二
 
 あしびきの山こがらしの行く寒さ鴉のこゑはいよよ遠しも
 高原《たかはら》にくたびれ居れば山脈《やまなみ》は雪にひかりつつあらはれ見え來《く》
 はざまなる杉の大樹の下闇にゆふこがらしは葉おとしやまず
 時雨ふる冬山かげの湯のけむり香に立ち來《きた》りねむりがたしも
 あしびきの山のはざまに幽かなる馬うづまりて霧たちのぼる
 棺《くわん》のまへに蝋の火をつぐ夜《よる》さむく一番どりは鳴きそめにけり
(258) 山形の市《いち》にひとむれてさやげどもまじはらむ心われもたなくに
 むらぎもの心もしまし落ゐたり落葉のうへを黒猫はしる
 冬の山に近づく午後の日のひかり干栗の上に蠅ならびけり
 ぢりぢりとゐろりに燃ゆる楢の樹の太根はつひにけむり擧げつも
 おほははのつひの命にあはずして霜深き國に二夜《ふたよ》ねむりぬ
 せまりくる寒さに堪へて冬山の山ひだにいま陽の照るを見つ
 きのこ汁くひつつおもふ祖母の乳房にすがりて我《あ》はねむりけむ
 稚くてありし日のごと吊柿《つりがき》に陽はあはあはと差しゐたるかも
(259) あら土の霜の解けゆくはあはれなり稚《をさな》きときも我《われ》は見にしが
 ふるさとに歸りてくれば庭隈の鋸層《おがくづ》の上にも霜ふりにけり
 夕されば稻かり終へし田のおもに物の音こそなかりけるかも 十一月作
 
   15 道の霜 「祖母」其の三
 
 山峽にありのままなる道の霜きえゆくらむかこのしづけさに
 つくづくとあかつきに踏む道の霜きぞのよるふかく降りにけるかな
 山こえて山がひにゆく道の霜おのづからなる凝りの寒けさ
 山がひのあかつきの道いそがねど霜照る坂をわれ越えにけり
(260) たか原に澄みとほりたる湖をは礼かに見つつ峽間に入《い》らむ
 あしびきの山よりいでてとどろける湯ずゑのけむりなづみて上《のぼ》らず
 炭竈をのぞきて我はあかあかと照り透《とほ》りたる炭木《すみぎ》を見たり
 炭がまに炎のぼらず見ゆるものけむりの渦のひまに見ゆるを
 おほははのみ靈のまへに香《かう》つぎて穉兒《をさなご》なりし我をおもへり
 この身はもかへらざらめやおほははを火炎《ほのほ》に葬り七夜《ななよ》を經たり
 みやこべにおきて來《きた》りし受持の狂者おもへば心いそぐも 十二月作
 
(261) 大正五年
 
   1 夜の雪
 
 街かげの原にこほれる夜の雪ふみゆく我の咳ひびきけり
 夜ふけてこの原とほること多しこよひは雪もこほりけるかも
 原のうへに降りて冴えたる雪を吹く夜かぜの寒さ居《ゐ》るものもなし
 さ夜なかと夜はふけにけり冴えこほる雪吹く風のおとの寂しさ
 こほりたる泥のうへ行《ゆ》くわがあゆみ風邪のなごりの身にしひびけり
(262) 夜《よ》の最中《もなか》すでに過ぎたりけたたまし軍※[奚+隹]《しやも》の濁《だみ》ごゑをひとり聞き居り
 さむざむと寢むとおもへど一しきり夜《よる》のくだかけの長啼くくを聽く
 夜《よる》ふかし寢つかれなくに來《こ》しかたのかなしき心よみがへり來《く》も
 
   2 雜歌
 
 三宅坂をわれはくだれり嘶かぬ裸馬もひとつ寂しくくだる
 藥鑵よりたぎる湯をつぎいくたびも我は飲み居り咽かわくゆゑに
 ひよろ高き外人ひとり時のまに我を追ひ越す口笛ふきつつ
 あわただしく夜《よる》の廻診ををはり來て獨り嚔《はなひ》るも寂しくおもふ
(263) 冬の日は照り天傳《あまづた》ふひたぶるに坂のぼる黒馬の汗のちるかも
 まれまれに衢もとほる目にし染《し》むいかなればかもひとのかなしき
 きさらぎの三月にむかふ空きよし銀座つむじに塵たちのぼる
 よるおそく家にかへりてひた寒し何か食ひたくおもひてねむる
 
   3 長塚節一周忌
 
 うつうつと眠りにしづみ醒めしときかい細る身の辛痛《せつな》かりけむ
 しらぬひの筑紫のはまの夜《よる》さむく命かなしとしはぶきにけむ
 あつまりて酒は飲むとも悲しかる生《いき》のながれを思はざらむや
(264) つくづくと憂《うれひ》にこもる人あらむこのきさらぎの白梅《しらうめ》のはな
 君が息たえて筑紫に燒かれしと聞きけむ去年《こぞ》のこよひおもほゆ
 
   4 春泥
 
 きさらぎのちまたの泥におもおもと石灰《いしばひ》ぐるま行《ゆ》くさへさびし
 歩兵隊泥ふみすすむ整歩《はやあし》のつらなめて踏む足なみの音《おと》
 きさらぎの雪消《ゆきげ》の泥のただよへる街の十字《つむじ》に人つどひけり
 あからひく晝の光のさしながら衢の泥に見ゆる足あと
 馬ひとつ走りひびきて來《きた》るまの墓石店《ぼせきてん》まへに泥はねかへる
(265) 市路《いちぢ》には泥をあつむる人をりて腰を延《の》したりわれはなげくも
 泥ただよふ十字《つむじ》に電車とまれどもしきりて去るに感ずるさびしさ
 きさらぎのちまたの泥に佇立《たたず》める馬の兩眼《りやうがん》はまたたきにけり
 
   5 寂士
 
 小野の土にかぎろひ立てり眞日あかく天づたふこそ寂しかりけれ
 うつしみは悲しきものか一つ樹《ぎ》をひたに寂しく思ひけるかも
 人ごみのなかに入りつつ暫《しば》しくは眼《まなこ》を閉ぢむこのしづかさや
 寂しかる命にむかふ土の香の生《しやう》は無しとぞ我《あ》は思はなくに
(266) あなあはれ寂しき人ゐ淺草のくらき小路《こみち》にマツチ擦りたり
 現身は現身ゆゑにこころの痛からむ朝けより降れるこの春雨や
 途中にて電車をくだるひしひしと遣らふ方なき懺悔《くやしさ》をもちて
 うつつなるほろびの迅さひとたびは目ざめし※[奚+隹]《かけ》もねむりたるらむ
 
   6 折々の歌
 
 むらむらと練兵場を吹きあげし冬朝風のなごりを見居り
 きぞの夜《よ》にこほりしままの流泥《ながれどろ》わか晝ゆゑに解けがてぬかも
 電車のぼる坂のまがりにつくづくと立坊ならぶ日輪に向きて
(267) うつしみの家居を燒くととどろきて走る炎に家は燒けけり
 胸《むな》さやぎ今朝とどまらず水もちて阿片丸《オピユームぐわん》を呑みこみにけり
 ふゆさむき瘋癲院の湯あみどに病者ならびて洗はれにけり
 霜いたく降れる朝けの庭こえてなにか怒れる狂人のこゑ
 けふもまた病室に來てうらわかき狂ひをみなにものをこそ言へ
 曉にはや近からし目の下につくづくと狂者のいのち終る
 呆けゆきてここは生命《いのち》の果てどころ死行くをまもる我し寒しも
 ことなくていま暮れかかる二月《きさらぎ》の夕《ゆふべ》はぬるし蟇《ひき》いでにけり
(268) あまぐもの雷《いかづち》ひくし夜《よ》の土にはだらにたまる雪を目守《まも》らむ
 ひたぶるにいかづち渡る夜空よりしらじらと雪ながれ來にけり
 ぬば玉の暗き夜ひかりゆく雷《らい》の音とほそきて雪つもりけり
 
   7 體膚懈怠
 
 ひるながら七日に一日ねむらむと晝の小床につかれつつ居り
 ひそまりてけふは眠らむおのづから眠り足らはば起ちてゆかむか
 晝床に眼ひらけばあかあかと玻璃戸《はりど》のそとを日のわたる見ゆ
 晝床にほのりほのりとゐる我の出で入る息のおとの幽けさ
(269) わくらはの眠り戀《こほ》しとあかねさす晝の小床に目をつむりけり
 晝眠《ひるねむ》りありがたしとて眠らむか聞えくる音もかりそめならず
 晝ごもり獨りし寐れど悲しもよ夢を視るもよもの殺すゆめ
 晝床に電車くだかけうつし身の笑ふもきこゆ我が晝床に
 
   8 雨蛙
 
 あまがへる鳴きこそいづれ照りとほる五月の小野《をぬ》の青きなかより
 かいかいと五月青野に鳴きいづる晝蛙こそあはれなりしか
 五月|野《ぬ》の青きにほひの照るひまや歎けば人ぞ幽かなりける
(270) 五月野《さつきぬ》の草のなみだちしづまりて光《ひかり》照りしがあまがへる鳴く
 五月《ごぐわつ》の陽《ひ》てれる草野《くさの》にうらがなし青蛙ひとつ鳴きいでにけり
 さつき野《の》の草のひかりに鳴く蛙こころがなしく空にひびけり
 青がへるひかりのなかになくこゑのひびき徹りて草野かなしき
 あをあをと五月の眞日の照りかへる草野たまゆら蛙|音《ね》にいづ
 
   9 五月野
 
 五月野《さつきぬ》の淺茅《あさぢ》をてらす日のひかり人こそ見えね青がへる鳴く
 行《ゆ》きずりに聞くとふものか五月野《さつきぬ》の青がへるこそかなしかりけれ
(271) さびしさに堪ふるといはばたはやすし命みじかし青がへるのこゑ
 晝の野《ぬ》にこもりて鳴ける青蛙《あをがへる》ほがらにとほるこゑのさびしさ
 青がへる日光のふる晝の野にほがらに鳴けばましてかなしき
 くやしさに人なげくとき野の青さあまがへるこそ鳴きやみにけれ
 眞日すみて天づたふとき五月野《さつきぬ》の動きて青しかへる音《ね》にいづ
 命あるものの悲しき眞晝間の五月《さつき》の草に雨蛙鳴く
 
   10 初夏
 
 梅の木かげのかわける砂に蟻地獄こもるも寂し夏さりにけり
(272) 夕疾風《ゆふはやち》けむりをあぐる原とほく車を挽きて兵かへる見ゆ
 宵はやく新宿どほり歩き來て蝦蟇のあぶらを買ひて持ちたり
 一夜《ひとよ》ふりし雨はれにつつ橡の樹の若葉もろなびく朝風ぞ吹く
 ゆふされば相撲勝負の掲示札ひもじくて見る初夏のちまたに
 人だかりの中にさびしく我きたり相撲の勝負まもりつつ居り
 夜おそく電車のなかに兵ひとりしづかに居るは何かさびしき
 雨あとのいちごの花の幽かにて咲けるを見れば心なごむも
 
   11 深夜
 
(273) 垢づきし瘋癲學に面《おも》よせてしましく讀めば夜ぞふけにける
 煙草のけむり咽に吸ひこみ字書の面《めん》つくづくと見る我《われ》をおもへよ
 墓原にひびきし銃の音たえて電燈のもとに夜《よ》ぞふけにける
 階下には女中ねむりぬ階上にわれは書物を片付けて居り
 電燈を消せば直くらし蠅ひとつひたぶる飛べる音を聞きける
 しんしんと夜《よ》は暗し蠅の飛びめぐる音のたえまのしづけさあはれ
 夜は暗し寢てをる我の顔のべを飛びて遠そく蠅の寂しさ
 汗いでてなほ目ざめゐる夜は暗しう《(*)》つつは深し蠅の飛ぶおと
(274) ひたぶるに暗黒を飛ぶ蠅ひとつ障子にあたる音ぞきこゆる
 部屋なかの闇を飛ぶ蠅かすかなる戸漏る光にむかひて飛びつ
      * ニイチエは“Die Welt ist tief.”と謂へり。
 
   12 暗緑林
 
 さやぎつつ鴉のむれのかくろへる暗緑の森をわれは見て立つ
 うれひつつひとり來りし野のはての暗緑林に近づく群鳥《むらどり》
 かぜむかふ欅太樹《けやきふとき》の日てり葉の青きうづだちしまし見て居り
 眞日あかく傾きにけり一つ樹《ぎ》のもとに佇ずむ徒歩兵《とほへい》ひとり
(275) 風はやし橡の高樹《たかき》のをさな葉のもろむきなびき鴉ちかづく
 くもり日《ひ》の晝も過ぎたるすかんぼの穗のくれなゐにこころなげけり
 おもおもと空の曇れる晝すぎて岡のぼりつめ心しづけし
 みちのくの我家《わぎへ》の里ゆおくり來し蕨を沾《ひ》でてけふも食ひけり
 
   13 蠅
 
 ひた走る電車のなかを飛ぶ蠅のおとの寂しさしぶくさみだれ
 晝すぎて電車のなかの梅雨いきれ人うつり飛ぶ蠅の大きさ
 おほほしくさみだれ降るに坂のぼる電車の玻璃《はり》に蠅とまりけり
(276) ひたはしる電車のなかにむらぎもの心は重し蠅の飛ぶおと
 狂院をはやくまかりて我が乘れる午後の電車のひびきてはしる
 
   14 蜩
 
 橡の樹も今くれかかる曇日の七月《しちぐわつ》八日ひぐらしは鳴く
 狂院に宿《とま》りに來つつうつうつと汗かきをれば蜩鳴けり
 いささかの爲事《しごと》を終へてこころよし夕餉の蕎麥をあつらへにけり
 土曜日の宿直《とのゐ》のこころ獨りゐて煙草をもはら吸へるひととき
 蜩は一とき鳴けり去年ここに聞きけむがごとこゑのかなしき
(277) 卓の下に蚊遣の香《かう》を焚きながら人ねむらせむ處方書きたり
 こし方のことをおもひてむらぎもの心|騷《さや》げどつひに空しき
 ひぐらしはひとつ鳴きしが空も地も暗くなりつつこたびは鳴かず
 
   15 折にふれ
 
 苦しさに叫びあげけむ故人《なきひと》の古りたる寫眞けふ見つるかも 子規忌一首
 眞夏日のけふをつどへる九人《ここのたり》つつましくして君をおもへり 左千夫忌四首
 肉太《ししぶと》の君の寫眞を目守るとき汗はしとどに出でゐたりけり
 君が愛でし牛の寫眞のいろ褪せて久しくなりぬこのはだら牛
(278) アララギは寂しけれども守《まも》るもの身に病なしうれしとおぼせ
 
   16 故郷。瀬上。吾妻山
 
 ふる郷に入らむとしつつあかときの板谷峠にみづをのむかな
 みちのくの父にささげむと遙々と藥まもりて我は來にけり
 老いたまふ父のかたはらにめざめたり朝蜩のむらがれるこゑ
 けふ一日《ひとひ》我《わ》をたより來し村びとの病癒ゆがに藥もりたり
 額よりながれし汗に日に燒けし結城哀草果はわが側に居り
 うらがなしき朝蝉《あさぜみ》のこゑの透れるをわぎへのさとに聞きにけるかも
(279) ふるさとの藏の白かべに鳴きそめし蝉も身に沁む晩夏のひかり
 朝じめる瀬上《せのうへ》の道をあるき來てあやめの花をかなしみにけり
 山こえて二夜《ふたよ》ねむりし瀬上の合歡花《ねむ》のあはれをこの朝つげむ
 霧こむる吾妻やまはらの硫黄湯に門間《もんま》春雄とこもりゐにけり
 あまつかせ吹きのまにまに山上《さんじやう》の薄なびきて雨はれんとす
 五日ふりし雨はるるらし山腹に迫りながるる吾妻のさ霧
 現身の聲あぐるときたたなはる岩代のかたに山反響《やまこだま》すも
 山がひにおきな一人ゐ山刀《なた》おひて吾妻の山をみちびきのぼる
(280) 吾妻峰《あづまね》を狹霧にぬれて登るときつがの木立の枯れしを見たり
 梅干をふふみて見居り山腹におしてせまれる白雲ぞ疾き
 うごきくるさ霧のひまにあしびきの深やま鴉《がらす》なづみて飛ばず
 おきふせる目下《ました》むらやま天つ日の照りてかげろふ時のまを見つ
 あづまねのみねの石はら眞日てれるけだもの糞《ぐそ》に蠅ひとつをり
 あづまやまの谿あひくだる硫黄ふく南疾風《みなみはやち》にむかひてくだる
 いましめて峽《かひ》をめぐれりまながひのあかはだかなる山に陽の照る
 くたびれて息づき居ればはるばると硫黄を負ひて馬くだるなり
(281) 火口よりとほぞきしときあかあかと鋭き山はあらはれにけり
 山をおほひて湧き立つさ霧にわが眼鏡しばしば曇るをぬぐひつつゆく
 吾妻山くだりくだりて聞きつるはふもとの森のひぐらしのこゑ
 雨はげしきに山をくだれり虻が來て我が傘に幾つもひそむなり
 
   17 寒土
 
 さけさめて夜半に歩めばけたたまし我を追ひ越す電車のともしび
 この日ごろ心は寂しい往くみちかへらふ道のかぜは寒しも
 夜おそくひとりし來ればちまた路《ぢ》は氷《ひ》に乾きたりわれのしはぶき
(282) よるふけて火事《くわじ》を報ずるひとひとり黒外套をまとひて行けり
 冬さむきちまたの夜はふけにけり人まれに行くおもき靴音
 土ふかくながるる水のこもり音聞すましつつ夜半に立つかも
 ふゆの夜は冴えふけにけりちまた路《ぢ》の底ひゆひびく水のさびしさ
 さ夜なかに地下水道の音きけば行《ゆ》きとどまらぬさびしさのおと
 この夜半にわれにかなしき士のみづつきつめてわれ物思《ものおも》はざらむ
 音にぶき太鼓をうちて遠火事をふれゆく人にとほりすがへり
 かかる夜《よ》にひと怨みむは悲しかりいたき心をひとりまもらむ
 
(283) 大正六年
 
   1 節忌
 
     二月八日、長塚節三周忌歌會をひらく。會者、百穗、赤彦、千樫、文明、迢空、重、今衛、茂吉等。夜ふけて會はてつ。百穗千樫と三たり青山どほりを歩きてかへる。
 おもかげに立ちくる君も今日|今夜《こよひ》おぼろなるかなや時ゆくらむか
 心づまの寫眞を秘めてきさらぎのあかつきがたに死にし君はや
 おもかげに立ちくる君や辛痛《せつな》しとつひに言ひけむか寒き濱べに
(284) まをとめをかなしといひて風さむき筑紫の濱に君|死《し》しにけり
 こころ疑りていのち生きむと山川を海洋《わたつみ》をこえて行《ゆ》きし君はや
 まながひに立ちくる君がおもかげのたまゆらにして消ゆる寂しさ
 山がはのこもりてとよむながれにもかなしきいのち君まもりけむ
 山がひのうつろふ木々のそよぎにも清《すが》し光《ひかり》を君見けむもの
 生きたしとむさぼり思《も》ふな天つ日の落ちなむときに草を染《そ》むるを
 しらぬひ筑紫を戀ひて行きしかど濱風さむみ咽に沁みけむ
 息たえて炎に燒けしものながらまもりて歸る汽車のとどろき
(285) 赤き火に燒けのこりたる君の骨はるばる歸る父母《ちちはは》の國に
 君の骨箱にはひりて鳥がなく東のくにに埋《う》められにけり
 まながひに立ちくる君のおもかげの眼《まなこ》つぶらなる現身にあはれ
 息ありてのこれる我等けふつどひ君がかなしきいのち偲びつ
 夜おそく青山どほりかへり來て解熱のくすり買ふも寂しき
 
   2 赤彦に酬ゆ
 
 なまけつつ居りと思ふな明暮をい往き還らひその夜《よ》ねむるに
 悲しさを歌ひあげむと思へども茂太《しげた》を見ればこころ和むに
(286) 昨《きぞ》の夜もねむり足はず戸をあけて霜の白きにおどろきにけり
 無沙汰してかなしけれども落ちゐざるこころをもちてけふも暮るるを
 よるふけて※[奚+隹]《にはとり》なくにもまだ寢ず電車のおともなくなりにけり
 いとまあるわれとおもふないちじろく幽かに人の死にゆくを見つ
 あつぶすまかつぎてぬれどわがこころ疲れやしけむねむりがたしも
 なりはひのしげく生《い》くればあはれなる歌なかりけりとがむるなゆめ
 
   3 蹄のあと
 
 もの戀《こほ》しく電車を待てり塵あげて吹きとほる風のいたく寒しも
(287) をさなごを心にもちて歸りくる初冬のちまた夕さりにけり
 かわききりたる直士《ひたつち》に氷《ひ》に凝《こご》るひとむら雪ををさなごも見よ
 秩父かぜおろしてきたる街上《がいじやう》を牛とほり居り見すぐしがたし
 この日ごろ人を厭へりをさなごの頭《かうべ》を見ればこころゆらぐを
 七とせの勤務《つとめ》をやめて街ゆかず獨りこもれば晝さへねむし
 ひさびさに外にいづれば泥こほり蹄のあとも心ひきたり
 をさなごの頬の凍風《しもやけ》をあはれみてまた見にぞ來《こ》しをさな兩頬《もろほほ》
 
   4 友に
 
(288) おこたりて百日《ももか》あけくれ微かなる儚きこともありと告げなむ
 ひさびさにちまたを行《ゆ》けば塵風の立ちのぼるさへいたいたしかり
 告げやらむ事はありとも食む飯の二食にて足らふこの日頃かなや
 墓原をもとほり見れどものこほしものこほしとふ心にあらず
 をみなさへ孩兒《をさなご》さへや春陽《はるのひ》のわたるを見つつ目はかがやくに
 ほそりつつ心ふるふらしこの日ごろ人の來《きた》るをおそれてこもる
 うち競《きほ》ふ心もわかず秘かなるかなしみごともなくなりにけり
 街にいでて酒にゑへども何なれや水撒《みづまき》ぐるまにもをののくこのごろ
 
(289)   5 春光
 
 春の陽《ひ》は空よりわたるひとりゐて心寂しめばくらきがごとし
 むらぎものゆらぎ怺へてあたたかき飯《いひ》食《は》みにけりものもいはなく
 ひむがしの空よりつたふ春の日の白き光にも馴れし寂しさ
 おのづからねむりもよほすひるごもり障子のやれに風ふきひびく
 光る日の嚴くしさにも馴れくれば疑はずけり春の日のぼる
 あらはれむことは悲しもたまきはるいのちのうちに我はいふべし
 萱草を見ればうつくしはつはつに芽ぐみそめたるこの小草《をぐさ》あはれ
(290) をさなごは眠りてゐたりしまらくはねむれとおもふわがひたごころ
 
   6 三月三十日
 
 もの戀《こほ》しく家をいでたりしづかなるけふ朝空のひむがし曇る
 赤坂の見付を行きつ目のまへに森こそせまれゆらぐ朝森
 馬なめてとどろとゆかす大王《おほきみ》の御行をまもるのびあがりつつ
 病む友の枕べに來ぬよみがへるいきどほろしき心にあらず
 このゆふべ砲工廠のひとすみにくれなゐの旗ひるがへるなり
 
   7 獨居
 
(291) 腹ばひになりてもの書く癖つきしこの日ごろわれに人な來《きた》りそ
 つくづくと百日《ももか》こもればいきどほる心も今は起らざるらし
 をさなごの頭《かうべ》を見ればことわりに爭ひかねてかなしかりけり
 七とせの勤務《つとめ》をやめて獨|居《ゐ》るわれのこころに嶮しさもなし
 こがらしの吹く音きこゆ兒を守《も》りて寒き衢にわれ行かざらむ
 おのづから顱頂《ろちやう》禿げくる寂しさも君に告げなく明けくれにけり
 けふ一日《ひとひ》煙草をのまず尊かることせしごとくまなこつぶりぬ
 この日頃ひとり籠りゐ食《は》む飯《いひ》も二食《にじき》となりて足らふ寂しさ
(292) ひろはらの塵をあげくる寒き風|玻璃窓《はりど》に吹きて心いらだたし
 この朝け玻璃戸ひらきてうちわたす墓原見れば木々ぞうごける
 すわり居《ゐ》る吾の周圍《まはり》におのづから溜まりくるものを除《や》らむともせす
 この日ごろ空しく經つつ戀《こほ》しかるものを尋ねむ心さへなし
 火曜日の午後のひととき湯を浴みに行かむとおもふ心おこりぬ
 をさなごの咳《しはぶき》のおとを氣にしつつ夜の小床に目をあきてをり
 ひさびさに縁に立ちつつさ庭べの士をし見ればただ乾きたる
 鳴り傳ふ春いかづちの音さへや心燃えたたむおとにあらずも
(293) こもりつつ百日を經たりしみじみと十年《とをとせ》ぶりの思をあがする
 
   8 折にふれ
 
 電燈をひくくおろして讀む文字のかすかになりて疲れけるかも
 むらぎもの心なごみてをさなごの直《ただ》に遊ぶにまじはりにけり
 このゆふべわがさ庭べに男來て石炭の殻すてて去りたり
 過ぎし日のことをかすかに悔いながら春いまだ寒き墓地をもとほる
 さるすべりの細きはだか木むらだちて墓をめぐれりもとほりくれば
 かりそめに病みつつをれば熱高くおとろへし君をけふもしぬびつ 水穗に與ふ五首
(294) 君かつまのたよりよみつつ熱落ちし君を思へり晝床《ひるどこ》のへに
 つげてこし文をよみつつおとろへて室《へや》あゆみをる君をしぬびつ
 わがそばにいとけなき兒を遊ばせてつくづくと見つ直にあそぶを
 墓地かげより響きくる銃《つつ》の音さへや心にとめていまぞききける
 このあさけ墓原かげの兵營のいらかひかれり夏|來《きた》るらし
 墓地に來て椎の落葉を聽くときぞ音のさびしき夏は來《き》むかふ
 夏にいる椎の落葉のおと聽けば時雨に似たる音のさびしさ
 眞日おちていまだあかるき墓はらに青葉のにほひを我はかなしむ
(295) さみだれの音たてて降るさ庭べをわが稚兒《をさなご》に見しむる朝《あさ》や
 しづかなる夜《よ》に入りにけり悲しかるおのが心をひとり目守《まも》らむ
 をさなごの音《おと》もこそせねかかる夜《よ》に罪|悔《くや》しめる人をおもはむ
 
   9 初夏
 
 もの投げてこゑをあげたるをさなごをこころ虚《むな》しくわれは見がたし
 ひたぶるにあそぶをさなごの額より汗いでにけり夏は來向ふ
 かりそめの病に籠りをさなごを我がかたはらに遊ばせにけり
 をさなごの去りたるあとに散らばれるものを見つめてしまし我《わ》が居《を》り
(296) 目の前の屋根瓦より照りかへす初夏《はつなつ》のひかりも心がなしも
 かかる日にひと來ずもがなこもりゐて己心《おのれごころ》のゆらぎをぞ見む
 をさなごの遊ぶを見ればおのづから疊ねぶりをり何かいひつつ
 うちわたす墓はら中にとりよろふ青葉のしづけさ朝のひかりに
 朝はやく街にいで來てあわただし毛拔を一つもとめてかへる
 夏ちかき空はかがよふ朝ながらいそげる我の額に汗わく
 ものぐるひの診察に手間どりてすでに冷たき朝飯《あさいひ》を食《は》む
 かりそめに病みつつ居ればほそほそし女《をみな》のこゑも沁みにけるかも
(297) こもらへば裏町どほりの遠近《をちこち》に疊をたたく音のさびしさ
 窓したをののしりあひて通りをる埃《ごみ》あつめぐるま窓にひびけり
 
   10 室にて
 
 うつうつと空は曇れり風ひけるをさなご守りて外《と》に行《ゆ》かしめず
 墓原のかげよりおこる銃のおとわが向つへの窓にこだます
 診察を今しをはりてあが室《へや》のうすくらがりにすわりけるかも
 おのづから心足らはずひたぶるにむづかり泣く子を立ちて見に來し
 さみだれのふる音きこゆうすぐらき室《へや》ぬちにゐて心やすらふ
(298) むらぎもの心くるへるをとこらの湯浴むる響《とよみ》しまし聽き居り
 悔いごころあはあはしかり晝つかた外面みなぎり雨のふるおと
 ものこほしく夕さりにけり歸るらむ徒歩《とほ》兵隊の墓地こゆるみゆ
 
   11 曇り空
 
 くもり空にうすき煙の立ちのぼる夕かたまけて子の音もせず
 鳳仙花いまだ小さくさみだれのしきふる庭の隅にそよげり
 窓のべにいとけなき子を立たしめてわが向つへの森を見てをり
 心こめし爲事《しごと》をへつつ眞夏日《まなつひ》のかがよふ甍みらくしよしも
(299) うすぐらき病室に來て物言ふ時わが額《ぬか》のへに汗いでにけり
 ひとときの梅雨の晴間にさ庭べの軍鷄《したも》の羽ばたき見てゐるわれは 硝子ごしむかひに見ゆる栗の木の栗の白花《しらはな》すぎにけるかも
 まむかひの墓原なかにいつしかも白き墓ひとつ見えそめにけり
 
   12 日暈
 
 をさなごは疊のうへに立ちて居りこの穉兒《をさなご》は立ちそめにけり
 へやに歸り何もせす居りにはとりの長鳴鳥《ながなきどり》がきほひ鳴くはや
 知れる人たづねても來ずうすぐもる午後のさ庭に書《ふみ》を干し居り
(300) いちじろくあらはれし大き日暈《ひのかさ》はくもりいよいよふかく消《け》につつ
 みなみかぜ空吹くなべにあまつ日をめぐりて立てる虹のいろかも
 うすじめる書《ふみ》もちいだしさ庭べの隅のひかりに書《ふみ》なめて干す
 くもりぞら電柱のいただきにともりたる光は赤く晝すぎにけり
 ひる過ぎて空くもりつつ道のべの電燈あかくわが室《へや》ゆ見ゆ
 室《へや》にゐて汗あえにつつ古き手紙ふるき葉書を整理し時《とき》經《へ》し
 病室の亞鉛《とたん》の屋根を塗りかふる男のうしろをしまし見てをり
 
   13 漫吟
 
(301) 汗あえて洋服を著むわづかなる時のひまさへつまを叱れり
 をさなごはつひに歩めりさ庭べの土ふましめてかなしむわれは
 みちのくの病みふす友に書《ふみ》かくとしばし心を落つけにけり
 術に來て人だかりさへ見むは憂し心さびしくなりにけるかも
 墓はらを徒歩兵隊の越えゆきてしばらく人の見えぬさびしさ
 こうこうと南風ふく窓のべにをさなご立たせ※[奚+隹]《かけ》ゆくを見しむ
 目のさきの甍のうへを跳ねあゆむ鴉を見れば大きかるかも
 狂院の病室が見ゆつり垂れしひくき電燈にちかよる人がほ
 
(302)   14 晩夏
 
 日《ひに》日《け》にあわただしさのつのりきて晩夏の街をれれは急げり
 むらぎもの心はりつめしましくは幻覺をもつをとこにたいす
 馬追は庭に來鳴けり心ぐし溜りし爲事《しごと》いまだはたさず
 さるすべりの木《こ》の下かげにをさなごの茂太を率つつ蟻をころせり
 電燈の光とどかぬ宵やみのひくき空より蛾はとびて來つ
 ものさびしく室《へや》に居りつつみちのくの温泉|街《まち》の弟おもへり
 味噌汁をはこぶ男のうしろより黙《もだ》してわれは病室に入る
(303) 晩夏《おそなつ》の月あかき夜《よ》に墓地あひの細きとほりを行《ゆ》きて歸るも
 
   15 日日
 
 いらだたしもよ朝の電車に乘りあへるひとのことごと罪なきごとし
 晩夏のひかりしみ入れり目のまへの石垣|面《めん》のしろき大石
 跳ねてこし黒き※[虫+車]《こほろぎ》ひとめみむ時の間もあらめはじきとばせり
 うらさびしき女《をみな》にあひて手の甲の靜脈まもる朝のひととき
 おもおもと曇りて暑き坂下に竝《な》みてたたサむ鐵はこぶうま
 夜《よる》ふけて久しとおもふにわが臥せる室《へや》のそと道をとほる人あり
(304) 兵營のねむりの喇叭しとしとと降り居る雨のなかよりきこゆ
 汗ばみて室《へや》にすわれり一しきり墓地|下《した》とほる電車きこえぬ
 
   16 停電
 
 晩夏のひかりしみとほる見附したむきむきに電車停電し居り
 しづかなる午後の日ざかりを行《ゆ》きし牛|坂《さか》のなかばを今しあゆめる
 夏の日の照りとほりたる街なかをひと往き來れどしづけさあはれ
 午後の陽の照りのしづまり停電の電車は一つ坂うへに見ゆ
 停電の街の日でりを行きもどる撒水《みづまき》ぐるまの音のさびしさ
 
(305)   17 午後
 
 診察ををはりて洋服をぬぐひまもむかう病室の音をわがきく
 海山《うみやま》よりとどきしたよりのいくつにも返事せずけふも暮れなむ うつうつと暑さいきるる病室の壁にむかひて男もだせり
 はりつめてことに隨はむわがこころ眞夏|八十日《やそか》もつひに過ぎなむ
 寒蝉《かんせん》は鳴きそめにけりなりはひのしげく明けくれて幾日《いくひ》か經たる
 
   18 馬追
 
 馬追の來啼ける夜《よる》となりけりと人に告げざらむききのさびしさ
(306) 馬追はつひに來啼けりさ庭べの草むらなかに雨ふるおとす
 いそぎ啼く馬追がねやめざめゐて心さびしめるわれもこそきけ
 あかときはいまだをぐらしさむざむとわがまぢかくに馬追なけり
 あかつきの馬追ききつ悔しみてひとりめざめゐる心ゆらぎに
 このひごろつかれたりけりあかつきの夢さへ恐れてひとり起きいづ
 あわただし明暮《あけくれ》夜《よは》のめぐりさへ言問はぬかなや青き馬追
 
   19 箱根浸吟
 
      大正六年十月九日、渡邊草童、瀬戸佐大郎二君と小田原に會飲す。翌十日ひとり箱根五段に行く。日々浴泉してしづかに(307)生を養ふ。廿一日妻東京より來る。廿六日下山。夜に入り東京青山に歸る。折々に詠み棄てたる歌どもをここに録す。
 
 ひむがしの海の上《へ》の空あかあかとこのやまの峽間《はざま》に雨みだれふる
 山がはの鳴りのひびきを吾《あが》嬬の家さかり來て聞けばするどし
 わが親しみしものぐるひの幾人《いくたり人を心にしぬぶ山をゆきつつ
 いきづめる我が目交《まなかひ》にあらはれし鷹の巣山に天つ日照れり
 秋ふけし箱根の山をあゆみつつ水のべ來れば吹く風さむし
 われひとり寂しく聞けり山かげに石切る音がこだまし居るかな
 山がはに寒き風ふき大石のむらがれるかげにひとりわが居つ
(308) さかさまに山のみねよりながれくるさぎりの渦をまともにか見む
 現はるる高山の襞くろぐろとうねりゆきつつ息づくごとし
 ふかきはざまの底ひに立ちて天つ日をかなし命のまにまにも見む
 ちり亂るる峽間の木《こ》の葉きぞの夜《よ》のあらしの雨に打たれけるかも
 山川《やまかは》の成りのまにまに險《こご》しきを踏み通りつつ狹霧《さぎり》に濡れぬ
 たたなはる八峯《やつを》の上を雲のかげ動くを見れば心すがしも
 さやかなる空にか黒き山膚はうねりをうちて谿にかくろふ
 むらぎものみだれしづまらず峽《かひ》ふかくひとりこもれど峽の音《と》かなし
(309) やまみづのたぎつ峽間に光さし大き石ただにむらがり居れり
 かみな月十日山べを行《ゆ》きしかば虹あらはれぬ山の峽より
 前山はすでにかげるに奥山はいまあかあかと照りにたらずや
 おのづから遶《めぐ》りあふ山のながれみづいよいよ細し山ふかみつつ
 ま澄空《すみぞら》にさやかに照れる高山の谿ふかぶかと陰をつくりぬ
 ゆふぐれのをぐらきに入りて谿ぞこに石なげうてば谿|木精《こだま》すも 目のもとのふかき峽間は朝霧の滿ちの湛《たた》へに飛ぶ鳥もなし
 くろがねの色に照り立つ高山の尾ぬれは深く谿にしづめり
(310) 峯向《をむかひ》を人のゆく見ゆしみじみと見ゆる山みちも照りかげりつつ
 あまつ日の光をうけし嚴《いか》し山うねりをうちて山襞くらし
 白なみの立ちてながるる早川の丘べのみちにわれはつかれぬ
 乳いろにたたふる霧は狹《せば》まれる山のはざまに動かぬごとし
 つかれつつ赤埴路《はにぢ》ゆくわがまなかひにすでにあらはるる襞ふかき山
 山ゆかば心和ぐやと來しかどもわが胸いたしもみぢちりつつ
 わがこころしまし空しきに暗谷《くらだに》の低空《ひくぞら》なかを鳥なき過ぎぬ
 打なびく萱くさやまに直向ふ青清山《あをすがやま》の尾ぬれ見えずも
(311) たたなづく青山の秀《ほ》に朝日子の美《うづ》のひかりはさしそめにけり
 湯を浴みて我は眠れりぬば玉の夜《よる》のすがらを鳴れる水おと
 こほろぎのほそく鳴きゐる山上《さんじやう》を清《さや》に照して月かたぶきぬ
 大き石むらがりにけり山がはのたぎちに近くうち迫りつつ
 石の間に砂をゆるがし湧く水の清《すが》しきかなや我は見つるに
 宵ごとに灯《ともし》ともして白き峨の飛びすがれるを殺しけるかな
 しづかなる砂地あはれめりひたぶるに大き石むれてあらき川原《かはら》に
 さびしみてひとり下《お》り來し山がはの岸の滑岩《なめいは》ぬれてゐにけり
(312) 大石のむらがる峽に入り來つつ心はりつめて石を見て居り
 せまりつつ峽間は深し天つ日の白く照りたるはあはれなるかも
 暗谷の流の上《かみ》を尋《と》めしかばあはれひとところ谷の明るさ
 この深き峽間の底にさにづらふ紅葉《もみぢ》ちりつつ時ゆきぬらむ
 わたる日の暮れつつゆけば歸るらむ鴉は低し山峽のそら
 この世のものと思へど遙にてこだま相とよむ谿に來にけり
 紺ふかきりんだうの花をあがつまと道に摘みしが棄てにけるかも
 山路《やまみち》をのぼりつめつつむかうにはしろがねの色に湖《うみ》ひかりたり
(313) あらそはず行《ゆ》かしめたまへたづさはり吾《あが》妻としづかに額《ぬか》ふしにけり
 いにしへの碓氷峠ののぼり路《ぢ》にわれを恐れて飛ぶ小鳥《こどり》あり
 ここにして顧りみすれば高山の峯はかくろふ低山のかげに
 ゆふぐれの道は峽間に細りつつ崖のおもよりこほろぎのこゑ
 山あざみの花をあはれみ丘貫きて水おち激つほとりにぞ來し
 芦の湯に近づきぬらし波だてる高野原《たかぬはら》の上《へ》に黒き山みゆ
 薄波よる高野《たかぬ》こえきて山峽はいよいよふかし我《あれ》ぞ入りゆく
 乙女峠に風さむくして富士が嶺《ね》の裾野に響き砲《はう》うつを見つ
(314) 澄みはてし空の彼方にとほざかる双子の山の秋のいろはや
 さびしさに我《われ》のこもりし山川《やまかは》をあつみ清《さや》けみまたかへりみむ
 
   20 長崎へ
 
      箱根より歸れば、おもひまうけぬ長崎に行くこととなりつ。十一月はじめ一たび東京長崎間を往反す。十二月四日辭令を受く。十七日午前八時五分東京を發し、十八日午後五時五分長崎に著す。
 
 いつしかも寒くなりつつ長崎へわが行《ゆ》かむ日は近づきにけり
 目の前のいらかの上に白霜《しろじも》の降れるを見ればつひに寂しき
 ひたぶるに汽車走りつつ富士が根のすでに小きをふりさけにけり
(315) おもおもと雲せまりつつ暮れかかる伊吹連山に雪つもる見ゆ
 西ぞらにしづかなる雲たなびきて近江の海は暮れにけるかも
 佐賀驛を汽車すぐるとき灰色の雲さむき山をしばし目守れり
 さむざむとしぐれ來にけり朝鮮に近き空よりしぐれ來ぬらむ
 長崎のみなとの色に見入るとき遙けくも吾《あ》は來りけるかも
 あはれあはれここは肥前の長崎か唐寺《からでら》の甍にふる寒き雨
 しらぬひ筑紫の國の長崎にしはぶきにつつ一夜《ひとよ》ねにけり
 しづかなる港のいろや朝飯《あさいひ》のしろく息たつを食《く》ひつつおもふ
(316) 朝あけて船より鳴れる太笛《ふとぶえ》のこだまはながし竝みよろふ山
 
(317) あらたま編輯手記
 
 大正六年の夏に、「あらたま」を纏めて見ようと思つて、大正二年、大正三年あたりに作つた歌を清書したりなどした。併しいよいよ歌集にするとなると、雜誌に載せた歌その儘では氣に入らないのがある。例へば、大正三年あたりに作つた漢語や佛典語まじりの歌は、大正六年の夏には既にいろいろ氣に入らなくなつて居た。そこで、少しづつ語句を直したりなどして幾ばくか清書した。そして其の年の十月にしばらく箱根に養生して、家に歸つたら全く纏めてしまはうと思ってゐたところが、急に思ひがけない長崎に來ることになつて、「あらたま」の編輯も放擲しなければならなくなつた。そして、その草稿や雜誌の切拔などを東京に置いたまま長崎へ立つた。
 大正八年一月に用事あつて東京に歸ると、古泉千樫君の云ふには、早く「あらたま」を纏めないか。そして春陽堂から發行しないか。さういふから、春陽堂の小峯氏にも會つて、「あらたま」の原稿や雜誌の切拔を持つて長崎に來た。さて夏に入つてぽつぽつ纏めようとしたが、その頃不自由な生活をしてゐるのに、夏ぢゆう病院にも休まないで勤めたりなどして、編輯がなかなかはかどらない。それに、いざ清書しようとすると、見る歌も見る歌も不滿で溜まらない。さればと(318)て其を棄ててしまふと、歌の數が減つてしまつて、歌集の體裁を爲さなくたるであらう。それなら、いま歌が直せるかといふに、さういふことはなかなか出來るものでない。落膽と失望とで爲事が中絶した。
 それでも時が少し經てば、やはり自分の歌に未練があつた。十月の末ごろから復た纏めにかかつて十一月半ばごろ大體了へた。十一月の末に妻が子を連れて長崎に來た。子が來ると一處に遊んでゐて歌集どころではない。そして大正八年も暮れた。大正九年一月九日の夜から流行性感冒に罹つてひどく苦しんだが、病が幸に癒つて學校にも病院にも勤めてゐた。然るに六月一日になつて血を喀いた。談話をも禁じて仰臥してゐたけれども、血痰を喀くことがなかなか止まない。そこで二週間ばかり病院に入院したりした。退院して寂しく寢てゐると、島木赤彦君が遙々見舞に來てくれたので、四人づれで温泉嶽《うんぜんがたけ》の浴場地に轉地した。そしてかういふ時に「あらたま」でも纏めて見ようと思つてその材料を持つて行つた。しかし手をつけずに八月十四日に長崎に歸つた。それから八月三十日に友と二人で佐賀縣唐津海岸に轉地した。九月十一日の朝唐津を去り、僕一人になつて、佐賀縣の南山村|古湯《ふるゆ》温泉に來た。ここへ來て十日目程から痰がだんだん減つて行つて二十三日から血の色が附かなくなつた。その廿三日にはじめて「あらたま」の草稿の入つてゐる風呂敷をあけて、心しつかに少しづつ歌を整理して行つた。その間に數日風を引いて寢た(319)が、それでもやめずに到頭九月三十日にどうにか編輯を了へた。山中のこの浴場も僅かの間にひつそりとして行き、流れる如き月光が峽間を照らしたり、細く冷い雨が終日降つたりした。簇がり立つて咲いてゐた曼珠沙華も凋んで、赭く金《かね》づいた粟が僕のゐる部屋の前にも落ちたりした。山の祠の公孫樹の下にはいつか黄色に熟した銀杏が落ちはじめて、毎朝其を拾ふのを樂にしてゐると、ある朝『ギナンヒロコトナラヌ持主稻口熊藏』といふ木の札が公孫樹にぶらさがつてゐたりした。以上十月一日古湯にて記。
 
 いつか自作の歌を後《あと》で改作して、ある人から批難されたことがあつた。それは僕でも作歌當時の感動を尊重しないことはない。しかし現に面と向つてゐる自作の不滿足な歌に就て、冷然として當時の感動云々等と云つては居られない。自分が作つた歌は自分のものである。棄てるのは痛ましく、その儘では憎くく、そこに愛惜と憎惡からくる煩悶がある。その擧句に僕は改作しようと思つたのである。改作しようと企てた心は、世間に氣兼などをしてゐては成就されない。勇猛の心が必要である。しかし今おもふと、如何に結猛の心を振つて改作しようとしても、自づから一語一句の改作に止まつてゐた。なるべく原形を存して居きたいといふのは作者の作物に對する愛惜の心に相違ないのである。さもあるべきことで、これは『當時の感動』云々といふやうな理(320)論から來てゐるのでなく、もつと本然のところから來てゐるのであらう。かう自ら云つて、僕は僕の改作の迹を暴露させて見ようと思ふ。縱ひ目敏き少年の徒に批難の材料を與へようとも、僕自身にとつては懷しい思出になるからである。
  (1)ぽつかりと朝日子あかく東海の水に生れてゐたりけるかも(原作)
   ゆらゆらと朝日子あかくひむがしの海に生れてゐたりけるかも(改作)  (2)いちめんにふくらみ圓《まろ》し粟ばたけ疾風《はやかぜ》とほる生一本のかぜ(原作)
   いちめんにふくらみ圓き粟畑《あははた》を潮ふきあげし疾風とほる(改作)
  (3)海濱に人出で來りゆふ待ちて海の藥ぐさ火炎《くわえん》に燒きゐ(原作)
   海濱に人出で來りゆふ待ちて海の藥草を火炎に燒きたり(改作)
   いくたりも人出で來りゆふ待ちて海の藥草に火をつけにけり(改作)
  (4)ひゆうひゆうと細篁《ほそたかむら》をかたむけし風ゆきてたごりふかく澄みつも(原作)
   ひとむきに細篁をかたむけし寒かぜのなごりふかくこもりつ(改作)
  (5)原つぱに繪をかく男ひとり來て動くけむりを描《か》きにけるかも(原作)
   冬原に繪をかく男ひとり來て動くけむりをゑがきはじめぬ(改作)
   冬原に繪をかく男ひとり來て動くけむりを描きはじめたり(改作)
(321)  (6)風とほる欅の大樹《だいじゆ》うづだちて青の火立《ほだち》とありにけるかも(原作)
   かぜむかふ欅|太樹《ふとき》の日てり葉の青きうづだちしまし見て居り(改作)
  (7)ふゆ空に虹の立つこそやさしけれ角兵衛童子幽かに來るも(原作)
   ふゆ空に虹の立つこそやさしけれ角兵衛童子幽かにあゆむ(改作)
   ふゆ空に虹の立つこそやさしけれ角兵衛童子幽かに來つつ(改作)
   ふゆ空に虹の立つこそやさしけれ角兵衛童子むかう歩めり(改作)
   ふゆ空に虹の立つこそやさしけれ角兵衛童子坂のぼりつつ(改作)
  (8)はざまなる杉の大樹《だいじゆ》の木下闇《こしたやみ》ゆふこがらしは葉おとしやまず(原作)
   はざまなる杉のむらだちの下闇にゆふこがらしは葉おとしやまず(原作)
   はざまなる杉の木立の下闇にゆふこがらしは葉おとしやまず(改作)
   はざまなる杉の大樹の下闇にゆふこがらしは葉おとしやまず(改作)
 これらは、大正六年に「あらたま」を編輯しようとした時に既に改作してあつたものである。今これらの歌を見ると、大正三年大正四年の作が多い。大正二年から掛けて大正三年四年は、僕の歌が一轉化を來さうとして、いろいろの事をやつて居る。内容も外形も共にさうであるが、今目立つのは重に外形のやうである。さうして是等の變化は、自發的のものが多いが、讀書により(322)繪畫彫刻などを鑑賞したことにより友との交流によつて所働的にもなされてゐる。さういふものは、大正五年にはもうだんだん減じて行つて、大正六年には自作の歌に對しながら既に厭で厭でならなくなつたものである。それゆゑ少しづつ改作してゐるのであるが、改作したのを今見ると却つて惡くなつたのがある。原作には厭味があつても何處か緊張したところがあるので、原作の儘にしようか直さうかと甚《ひど》く迷つた形跡もある。ここに抄した八首の例は改作の重なものであるが、作つた當時には自分でも幾分得意のものであつて人からも褒められたりしたものもある。それが極端に厭になつたりしたのであるから興味がある。そして、どういふところを主に改めてゐるかと云ふに、『ぽつかりと』『生一本の風』『火炎』『ひゆうひゆう』『原つば』などの言葉を改めて居る。かういふ音便や漢語やを織り交ぜた、一種促迫して強く跳ね返るやうた言葉は、作つた頃には新しくもあり珍らしくもあつたのであるが、直ぐ飽いたものと見える。『幽かに來るも』といふやうな四三調の結句も既に大正六年頃に飽いてしまつて居る。僕の現在の考から看ても、無論到底氣に入る訣に行かぬが、直した方の歌が相待上氣に入つてゐるから、差當りその方を採つて置いたのである。
 徒らに他人の模倣をせず、自力で新機軸を出さうといふのは餘程むづかしいことである。創造力の乏しい僕などが身分不相應に幾分さういふことを企てても、直ぐ厭味に陷つてしまつたのは、(323)陷るところに陷つた感がある。ただ大正三年四年ごろの歌が厭味であつても少し活氣があつて作歌に熱中して居たことが囘顧されるから、僕自身にとつてはやはり興味がふかい。また縱ひ失敗に終つても、僕の骨折つた表現や看方が、何かの形となつて歌壇の中に滅びずにゐるやうな氣がしてならない。これも亦せめてもの慰安である。以上十月五日長崎にて記。
 
 この「あらたま」を編むに、大正二年九月から大正六年十二月に至るまでに作つた短歌から七百|五十《〔四十六〕》首を採つて收めた。僕の第一歌集「赤光」を編んだ時、自分の歌の不滿足なのをひどく悲しんで、どうしようかと思つた。それでも「赤光」を發行してしまふと、「赤光」以後の歌は僕の本物のやうな氣がして、第二歌集には今度こそいい歌を載せられるといふ一種の希望が僕の心にあつたのである。そこで未だ發行もしない第二歌集に「あらたま」などと名を付けて、ひとり秘かに嬉しがつてゐた。森鴎外先生の文章に、『次第に璞《あらたま》から玉が出來るやうに、記憶の中で淨められて、周圍から浮き上がつて、光の強い力の大きいものになつてゐる』といふのがあつた。又、『まだ璞の儘であつた。親が子を見ても老人が若いものを見ても、美しいものは美しい。そして美しいものが人の心を和げる威力の下には、親だつて老人だつて屈せずにはゐられない』といふのもあつた。僕は自分の歌集が佳い内容を有つてゐることを其の名が何となし指示してゐるや(324)うな氣がして秘かに喜んでゐた。そして萬葉集では、あらたまを、麁玉、荒珠、荒玉、未玉、荒田麻、荒璞とも書いてゐることを調べたりした。
 それから插繪なども自分で豫め用意しておくのが樂しみであつた。正岡子規先生の「藤娘の圖」は、蕨桐軒君の手から松本の某氏の手に渡つたのを、平瀬泣崖君を介して借りて、日能製版印刷所で三色版にした。それは大正四年の春頃である。平福百穗畫伯の「七面鳥圖」は大正三年の文部省美術展覽會に出品されたもので、所有者渡邊草童君が態々寫眞師を小田原から呼んで寫して呉れたのを東雲堂の西村陽吉君の骨折で田中製版印刷所で印刷に附した。木下杢太郎氏の「五月末」は繪葉書にして僕に呉れたのを伊上凡骨氏に依頼して刷つてもらつた。そのことで數囘新宿のずつと先きの方に居る伊上氏を訪ねたことなどが今想出される。共に大正五年六年の頃である。それから表紙のことでいろいろ紙店を訪ねたりしたが、戰爭の影響で思はしいものは皆品切であつたことなどが今思ひ出される。
 
 さういふことをいろいろ思出してくると、「あらたま」の編輯にまだ手を著けない前は、「あらたま」の發行に就てなかなか氣乘がしてゐたことが分かる。優れた歌集になるやうなつもりで居たのである。然るにいよいよ編輯をはじめてからは、刻々にその希望が破壞されて行つて、編輯(325)の了つた今では、希望のかはりに只深い深い寂しさが心を領してゐる。その間に人知れぬ煩悶もあったのであるが、今ではそんな心の張りも無くなつてゐる。編輯の長引いたのは、途中で自分の歌を見るのが厭になつたからで、思出したやうに雜誌の切拔などをひろげて纏めかかると、數首讀んでゆくうちにもう厭になる。厭で溜まらぬから改作しようとすると到底思ふやうに行かない。そこで放擲してしまふ。手を著けては中止し中止してゐたのが、このたび病になつて山中に轉地したために、二週間ばかり毎日少しづつ爲事をして、どうにか纏めてしまつた。桂園一枝拾遺の序を讀むと、『嚮に桂園一枝世にあらはれし頃師の大人悔い歎きてのたまへらく、今十年ばかりの齢をえてよみ試みたらましかばと』云々と書いてある。景樹が桂園一枝を刊行したときに云つたといふ景樹の言葉は、景樹の眞實のこゑであつたのであらう。けれども、桂園一枝は當時の歌壇を風靡した歌集である。幽かな歌集を抱いて歎いてゐる僕とは比べものにならぬであらう。
 當時の僕の外面生活は極めて平板に見えてゐても、内面にはいろいろな動搖波瀾があつた。そのありさまが此の歌集一卷にまざまざと出てゐる。それゆゑ、この過去つた内面生活の記念に對ふとき、一首でも怱卒には讀過し難い。かう思ふ事がせめてもの僕の慰安になる。以上十月八日長崎にて。
(326) 十月三日に、すべてに感謝したき心持で、古湯を立つた。長崎に歸つて來て諏訪神社に參拜した。それから「あらたま」の原稿一切を纏めて春陽堂の小峯氏宛送つて、十一日の朝、西彼杵郡西浦上村の奥の山間にある木場郷《こばがう》六枚板に行つた。晝は山を越えて天主教徒の墓に詣でたり、夜は洋燈を吊つて山家集を讀んだりした。靜寂の氣が全身に染みわたつて夜半にしばしば目が覺めた。僕は魚が食ひたくなつて、十五日に南高來郡小濱温泉に行つた。そこで鯛などを食べて、西洋人にまじつて砂濱で午後の日光を浴びながら少し英語を使つてみたりした。小濱は豐かな温泉場である。それゆゑ僕は二十日に小濱を去つて、佐賀縣藤津郡嬉野温泉に行つた。山にも野にもすでに露じもが繁く降つて、稻を苅つたあとの田を牛が鋤返してゐたり、むかうの峽間の道を小學兒童の走るのが見えたりした。鹿島町を通つて祐徳稻荷神社に參拜した。廿六日は大安吉日だから、朝はやく嬉野を立つて長崎に歸つた。歸つてみると、春陽堂から「あらたま」の校正刷と、古泉千樫君から「左千夫全集」二册とが屆いてゐた。僕はつつましい心になつて、「あらたま」の校正をし、かたはら色々書物の體裁上の註文などを書いたり、繪模樣の事に就いて百穗畫伯に頼んだりした。今は咽から血も出なくなつた。僕のあの病に心から同情された多くの友に、深い深い感謝の念を捧げながら、この處の文章を僕は書いてゐる。さうして「あらたま」の發行ももう間もないことであらう。僕の此のあはれなる歌集に幸ひたまへ。十月廿八日。
 
(327) 以上のやうな雜記をこの歌集の後に附けるのは恥かしくて氣が引けたけれども、とどのつまりやはり附けることにした。不滿足な歌集でも纏めるのに長い間かかり、今度の病氣とも關聯してゐるので、やはり後日の覺えのために附けておかうと思つた。大正九年にはいろいろ優れた歌集が發行された。そして同人の著では、島木赤彦君の「氷魚」が新たに出、中村憲吉君の「林泉集」が再版になり、先師伊藤左千夫先生の「左千夫歌集」も全集の第一卷として出た。編輯に長く手間どつた古泉千樫君の「屋上の土」もそのうち發行になる筈である。そのほか友人の歌集で近々發行になるのが二三ある。僕の哀れな歌集がそれらの歌集と道づれになることの出來たのを僕は多幸だとおもふし、そして僕の「あらたま」もどうか賣れて呉れればいいとおもふ。神神よ、僕の歌集を護りたまへ。十月三十日長崎にて齋藤茂吉謹み記す。
 
 「あらたま」第八版にのぞみて
 
 第八版の校正は、悲しく、いらいらした生活のうちにやうやく濟んだ。口繪の「七面鳥」は第八版に際して、百穗畫伯よりの賜物である。第一版のときは、自分の歌に強い不滿があつても、(328)それでも、新たに自分の歌集が世に出るのであるから、校正するにも、おのづと心の競ひがあつた。今度はそれとは趣がちがふ。實に久しぶりで、自分の歌を讀むと、どうも自分のものでないやうなものが、幾つもあつた。けれども、氣を出來るだけ靜めて校正につとめてゐるあひだに、やうやく自分の歌に親しみが出て來て、やはり自分のものであつたといふ氣がしたりした。しかし全體としては、みんな古い作ばかりである。僕は、短歌の歴史から見て興味ある幾つかの歌と、さういふものに關係ない極く僅かの不易の歌とを、世に問ふに過ぎないのである。いろいろ苦勞して、留學から歸ると、周圍はすつかり變つてゐた。大正十二年の地震で春陽堂も印刷所も燒けてしまつて「あらたま」は無くなつてゐた。それから大正十三年十二月廿八日の夜半に失火して、僕の住ひも僕のものも盡く燒けはててゐた。僕は茫然として、せん術を知らずに日を送つた。しかしこのたび「あらたま」も二たび世に出るやうになつた。それを僕はかたじけないとおもふ。僕は、無常の現世に、正しき人間の道を行かねばならぬ。神々よ、僕をまもりたまへ。大正十四年二月十四日よる。齋藤茂吉。
 
   つゆじも
 
(331)大正七年
 
    漫吟
 
     齋藤茂吉送別歌會 【大正六年十二月二十五日東京青山茂吉宅に於て】
 
 わが住める家のいらかの白霜《しろじも》を見ずて行かむ日近づきにけり
 
    長崎著任後折にふれたる
 
 うつり來しいへの疊のにほひさへ心がなしく起臥しにけり
 据風呂《すゑふろ》を買ひに行きつつこよひまた買はず歸り來て寂しく眠る
(332) 東京にのこし來しをさなごの茂太《しげた》もおほきくなりにつらむか
 かりずみのねむりは淺くさめしかば外面の道に雨降りをるかな
 聖福寺《しやうふくじ》の鐘の音ちかしかさなれる家の甍を越えつつ聞こゆ
 ゆふぐれて浦上村《うらかみむら》をわが來ればかはず鳴くなり谷に滿ちつつ
 電燈にむれとべる羽蟻《はあり》おのづから羽をおとして疊をありく
 うなじたれて道いそぎつつこよひごろ螢を買ひにゆかむとおもへり
 灰いろの海鳥むれし田中には朝日のひかりすがしくさせり
 とほく來てひとり寂しむに長崎の山のたかむらに日はあたり居り
(333) 陸奥《みちのく》に友は死につつまたたきのひまもとどまらぬ日の光かなや
 われつひに和《のど》に生きざらむとおもへども何《なに》にこのごろ友つぎつぎに死す
 おもかげに立ちくる友を悲しめりせまき湯あみどに目をつむりつつ
 かりずみの家に起きふしをりふしの妻のほしいままをわれは寂しむ
 うつしみはつひに悲しとおもへども迫り來《く》ひとのいのちの悲しさ
 むし暑き家のとのもに降る雨のひびきの鋭さわれやつかれし
 長崎の石だたみ道いつしかも日のいろ強く夏さりにけり
 假住《かりずみ》の家の二階にひとりゐるわがまぢかくに蚊は飛びそめぬ
(334) わが家の石垣に生ふる虎耳草《ゆきのした》その葉かげより蚊は出でにけり
 すぢ向ひの家に大工の夜爲事《よしごと》の長崎訛きくはさびしも
 
    長崎歌會【大正七年十一月十一日於齋藤茂吉宅 題「夜」】
 
 はやり風をおそれいましめてしぐれ來し淺夜《あさよ》の床に一人寢にけり
 
(335)大正八年
 
   雜詠
 
    奉迎攝政宮殿下歌【長崎日日新聞所載】
 
 豐榮といや新らしくなり成れる國見をせすといでましたまふ
 日つぎの皇子《みこ》國を見ますといでたたす筑紫の國の春もなかなり
 日の皇子《みこ》のいましたまへばみめぐみの雨にうるほふうまし國はら
 かけまくもあやにかしこし年|古《ふ》れる長崎のうみに御艦《みふね》はてたまふ
(336) 日の皇子の召したまふ御艦《みふね》泊つるとき長崎の海に光かがよふ
 山川も寄りてつかふる國の秀《ほ》にもえたつ眞日の大きなるかも
 ほのぼのと朝明《あさけ》港に入りたまふ御艦《みふね》かしこみ波もさやらず
 百千代《ももちよ》と祝《ほ》ぎてとどろく大砲《おほづつ》に應へとよもす春の群山《むらやま》
 み民等の祝ぎて呼ぶこゑとりよろふ港の天《あめ》にとほらざらめや
 
    友に與ふ
 
 港をよろふ山の若葉に光さしあはれ靜かなるこのゆく春や
(337) 長崎は石だたみ道ヴエネチアの古りし小路《こうぢ》のごととこそ聞け
 おのづからきこゆる音の清《すが》しさよ春の山よりながれくる水
 はりつめて事に從はむと思へどもあはれこのごろは痛々しかり
 よわよわと幽かなりともはからひの濁りあらすなわれの世過《よすぎ》に
 
    八月三十日。長崎同人小集を土橋青村宅に開く
 
 こほろぎの鳴けるひと夜の歌がたり亂れたる心しましなごみぬ
 長崎に來てよりあはれなる歌なきをわれにな問ひそ寂しきものを
 
    九月二日。日ごろ獨りゐを寂しむ
 
(338) 白たへのさるすべりの花散りをりて佛の寺の日の光はや
 中町の天主堂の鐘ちかく聞き二たびの夏過ぎむとすらし
 
    九月十日。晧臺寺
 
 ヘンドリク・ドウフの妻は長崎の婦《をみな》にてすなはち道富《だうふ》丈吉生みき
 
    九月十日。天主堂
 
 浦上天主堂|無元罪《むげんざい》サンタマリアの殿堂あるひは單純に御堂とぞいふ
 外國よりわたり來れる靈父《れいふ》らも「晝夜勤勞」ここにみまかりぬ
 
    九月十二日。獨逸潜航艇を觀る。縣廰小使云、「潜航艇は唐人《たうじん》の靴のごとある」。夕べ新地の四海樓を訪ふ
 
(339) 長崎の港の岸に浮かばしめしドイツ潜航艇にわれ出入《いでい》りつ
 四海樓に陳玉といふをとめ居りよくよく今日も見つつかへり來《く》
 
    九月二十五日。古賀、武藤二氏とともに猶太殿堂《ジナゴーグ》を訪ふ。猶太新年なり
 
 猶太《ユダヤ》紀元五千六百八〇年その新年のけふに會へりき
 滿州よりここに來れる若者は叫びて泣くも卓にすがりて
 長崎の商人としてゐる Lessner《レスナー》 も Cohn《コーン》 も耀く法服を著つ
 
    十月二十五日。平戸行。平戸丸や旅館。小國李花に會ふ。崎方町阿蘭陀塀、阿蘭陀井戸、龜甲城址、龜岡神社等
 
 阿蘭陀の商人《あきびと》たちは自らの生業《なりはひ》のためにこれを遺《のこ》しき
(340) あはれなる物語さへありけむを人は過ぎつつよすがだになし
 われは見つ肥前|平戸《ひらと》の年ふりし神樂の舞を海わたり來て
 
    十月。東京大相撲來る。釈迦嶽九州山長興山秀の山出羽嶽等に會ふ
 
 巡業に來ゐる出羽嶽《ではがたけ》わが家にチャンポン食ひぬ不足もいはず
 
    十月三十日。夜古賀十二郎氏の「長崎美術史」の講演を聞く
 
 南蠻繪の渡來も花粉の飛びてくる趣なしていつしかにあり
 
    十月三十一日。光源寺にて曉烏敏師の説教を聽き、のち鳴瀧シイボルト遺跡を訪ふ
 
 この址にいろいろの樹あり竹林《ちくりん》に冬の蠅の飛ぶ音のする
 
(341)    十一月六日。司馬江漢畫を觀る、「天明戊申冬日於崎陽梧眞寺謹寫司馬峻」
 
 江漢が此處に來りて心こめし色をし見なむ雲中觀音圖
 
    十二月二十八日。渡邊與茂平と聖福寺を訪ふ
 
 隱元の八十一歳の筆といふ老いし聖の面しおもほゆ
 
    十二月三十日。十一月なかば妻、茂太を伴ひて東京より來る。今夕二人と共に大浦長崎ホテルを訪ふ
 
 四歳《よんさい》の茂太をつれて大浦の洋食くひに今宵は來たり
 はやり風はげしくなりし長崎の夜寒をわが子|外《と》に行かしめず
 寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰へぬ長崎の年暮れむとす
 
(342)大正九年
 
   漫吟
 
    一月六日。東京より弟西洋來る。妻・茂太等と共に大浦なる長崎ホテルにて晩餐を共にせりしが、予夜半より發熱、臥床をつづく
 
 はやりかぜ一年おそれ過ぎ來しが吾は臥《こや》りて現ともなし
 
    二月某日。臥床。私立孤兒院は我家の向隣なり
 
 朝な朝な正信偈よむ穉兒《をさなご》ら親あらなくにこゑ樂しかり
 わが病やうやく癒えて心に染む朝の經よむ穉等《をさな》のこゑ
(343) 對岸の造船所より聞こえくる鐵の響は遠あらしのごとし
 鐵を打つ音遠暴風のごとくにてこよひまた聞く夜のふくるまで
 
    三月一日。連日勤務す
 
 東京より來にしをさなご夕ごとに吾をむかへてこゑを擧ぐるも
 
    五月四日。大光寺にて三浦達雄一周忌歌會を催す
 
 長崎のしづかなるみ寺に我ぞ來し蟇《ひき》が鳴けるかな外《そと》の池にて
 外のもにて魚《うを》が跳ねたり時のまの魚跳ねし音寂しかりけれ
 藤浪の花は長しと君はいふ夜の色いよよ深くなりつつ
(344) 君死にしよりまる一年《ひととせ》になるといふ五月はじめに君死にしかも
 このみ寺は山ゆゑ夜のしづかなる林の中に鷺啼きにけり
 山のみ寺のゆふぐれ見ればはつはつに水銀《みづがね》いろの港見えつも
 ここのみ寺より目《ま》したに見ゆる唐寺《たうでら》の門の甍も暮れゆかむとす
 
    五月二十四日。大槻如電翁を迎へ瓊林館にて食を共にす。會者古賀十二郎、武藤長藏、永山時英、奥田啓市の諸氏及び予
 
 シイボルトを中心とせるのみならずなほ洋學の源とほし
 
    五月二十五日。ひとり西坂をゆく
 
 西坂《にしざか》を伴天連不淨の地といひて言繼ぎにけり悲しくもあるか
 
(345)    短册二種
 
 おもほえず長崎に來て豐けき君がこころに親しみにけり(永山圖書館長に)
 長崎のいにし古《ふる》ごと明らむる君ぞたふときあはれたふとき(古賀十二郎翁に)
 
    「慶長十年にはじめて南蠻より種をつたへて長崎櫻馬場にこれをうゆる」(近代世事談、金糸烟、烟草)
 
 ささやけき藥草《くすりぐさ》の一つとおもへども烟草のみしよりすでに幾とせ
 
    武藤長藏教授より大阪天主公教會の公教會月報を借覽しぬ
 
 大音寺の樟の太樹《ふとき》を見てかへり公教會報の歌を寫すも
 
    五月三十日。雷が丘、雨聲樓(秋帆別邸)辰巳にて夕餐會等を催す
 
(346) 萱草の花さくころとなりし庭なつかしみつつ吾等つどひぬ
 
    六月一日。ひとり西坂を行く。石塔「南無妙法蓮華經安永五丙申歳四月廿八日」石標「天下之死刑場ノ馬込千人埋タル法塔樣誰方モ參リ被下度」「長崎市東中町中島ノイ建」
 
 長崎の麥の秋なるくもり日にわれひとりこそこころ安けれ
 
    六月二日。西浦上|伊木力《いきりき》に到る
 
 まろき丘一面に麥いろづきて西浦上の道はしづけり
 ところどころ麥の刈られし丘のあり牛は佇むその丘の上
 曇り日の西浦上のひく丘に蛙は鳴けり高くひびきて
(347) をさならが胡頽子《ぐみ》の枝さげ來《きた》る見ゆこだはりのなき信者の子らよ
 畠より烟がしろく立てる見ゆ麥刈る秋となりにけるかも
 
六月三日。一千八百六十年寫し、長崎寫眞、E.Boeddinghausu 撮影
 鳥瞰圖の如き長崎の寫眞をばはやなつかしむ歴史家君は
 
    六月二十五日。六月はじめ小喀血あり、はかばかしからねば今日縣立病院に入院す。西二病棟七號室なり。菅沼教授來診
 
 病ある人いくたりかこの室《へや》を出入《いでい》りにけむ壁は厚しも
 ゆふされば蚊のむらがりて鳴くこゑす病むしはぶきの聲も聞こゆる
 闇深きに蟋蟀《こほろぎ》鳴けり聞き居れど病人《やみびと》吾は心しづかにあらな
 
(348)    六月二十七日。血いづ。腎結核にて入院中の大久保仁男來りて予の病を問ふ
 
 わが心あらしの和《な》ぎたらむがごとし寢所《ふしど》に居りて水飲みにけり
 くらやみに向ひてわれは目を開きぬ限《かぎり》もあらぬものの寂《しづ》けさ
 若き友ひとり傍に來つつ居りこの友もつひに病を持てり
 
    七月二日。縣立病院を退院す。三日より自宅に臥床して治療を專らにす
 
 あらくさの繁れる見ればいけるがに地息《ぢいき》のぼりて青き香ぞする
 午すぎごろわが病室の入口に鶉の卵売りに來りぬ
 ゆふぐれの泰山木《たいざんぼく》の白花はわれのなげきをおほふがごとし
 
(349)    七月二十二日。高谷寛日々來りてクロールカルシウムの注射せり
 
 わが家の狹き中庭を照らしつつかげり行く光を愛《かな》しみにけり
 ひと坪ほどの中庭のせまきにもいのち闘ふ昆蟲が居り
 年わかき内科醫君は日ごと來てわが靜脈に藥入れゆく
 長崎に來りて四年《よとせ》の夏ふけむ白さるすべり咲くは未か
 
    七月二十四日。島木赤彦はるばる來りて予の病を問ふ
 
 長崎の暑き日に君は來りたり涙しながるわがまなこより
 よしゑやしつひの命と過ぎむとも友のこころを空しからしむな
 
(350)   温泉嶽療養
 
    大正九年七月二十六日。島木赤彦、土橋青村二君と共に温泉嶽にのぼり、よろづ屋にやどる。予の病を治せむがためなり。二十七日赤彦かへる。二十八日青村かへる。
 
 この道は山峽《やまがひ》ふかく入りゆけど吾はここにて歩みとどめつ
 この道に立ちてぞおもふ赤彦ははや山越しになりにつらむか
 赤彦はいづく行くらむただひとりこの山道をおりて行きしが
 草むらのかなしき花よわれ病みし生《いのち》やしなふ山の草むら
 みちのくに穉《いとけな》くしてかなしみし釣鐘草《つりがねさう》の花を摘みたり
(351) うつせみの命を愛《を》しみ地響きて湯いづる山にわれは來にけり
 温泉《うんぜん》にのぼり來《きた》りて吾は居り常なきかなや雲光《くもひかり》さへ
 温泉のむらを離れてほのぐらき谿の中にて水の音《と》ぞする
 谿ふかくくだる道見ゆあまつ日の照ることもなき谿にかあらむ
 千々和灘にむかひて低く幾つ谷《だに》息づくごとし山のうねりは
 高々と山のうへより目守るとき天草の灘雲とぢにけり
 
    七月二十八日
 
 きぞの朝友の行きたるこの道に日は當り居り見つつ戀《こほ》しむ
(352) 家いでて來にしたひらに青膚の温泉嶽の道見ゆるかな
 小鳥らのいかに睦みてありぬべき夏青山に我はちかづく
 山の根の木立くろくして靜けきを家いで來つつ戀ふることあり
 羊齒のしげり吾をめぐりてありしかば寒蝉《ひぐらし》ひとつ近くに鳴きつ
 たまたまは咳《しはぶき》の音きこえつつ山の深きに木こる人あり
 臥處にて身を寂しみしわれに見ゆ山の背並のうねりてゆくが
 あそぶごと雲のうごける夕まぐれ近やま暗《くら》く遠やま明《あか》し
 夏の日の牧の高原《たかはら》しづまりて温泉の山暮れゆくを見たり
(353) 遠風のいまだ聞こゆる高原に夕さりくれば馬むれにけり
 水光《みづひかり》ななめにぞなる高原に群れたる馬ぞ走ることなき
 
    七月二十九日。廣河原道其他、前田徳八郎、高谷寛のぼり來
 
 松かぜの音は遠くに近くにも聞こえくるころ吾は行くなり
 合歡の花ひくく匂ひてありたるを手折らむとする心利《こころど》もなし
 あまつ日は既にのぼりて向山《むかやま》に晩蝉《ひぐらし》鳴けどここには鳴かず
 行きずりの道のべにして茱萸の実ははつかに紅《あか》し紅《あけ》極まらなむ
 赤土の道より黒土の坂となり往くも反るも心にぞ留む
 
(354)    七月三十日
 
 湯いづる山の月の光は隈なくて枕べにおきししろがねの時計を照らす
 長崎に二年《ふたとせ》居りて聞かざりし曉がたの蝉のもろごゑ
 まくらべに時計と手帳置きたるにいまだ射しくるあけがたの月
 起きいでて疊のうへに立ちにけりはるかに月は傾きにつつ
 山の上にひとときに鳴くあかときの寒蝉《ひぐらし》聞けば蟋蟀に似たり
 あかつきのさ霧に濡れてかすかなる蟲捕ぐさの咲けるこのやま
 寂しさに堪ふる寢所《ふしど》に明暮れし吾にせまりて青き山々
 
(355)    七月三十日、三十一日。別所奥、林中
 
 温泉の別所の奥は遠く來し西洋人《にしのくにびと》もまじりて住めり
 木もれ日はしめれる土の一ところ微《かす》かなる蟲の遊ばむとする
 谿水のながるる音も巖かげになりて聞こえぬこのひと時を
 牛ふたつ林のなかに來り居りきのふも此處に來りてゐしか
 あまつ日はからくれなゐに山に落つその麓なる海は見えぬに
 露西亞よりのがれ來れる童子《わらべ》らもはざまの瀧に水あみにけり
 
    八月一日。一切經瀧等
 
(356) 幾重なる山のはざまに瀧のあり切支丹宗の歴史を持ちて
 深き峽《かひ》南ひらきておち激つ瀧のゆくへを吾はおもひき
 この山に湧きいだしたる幾泉《いくいづみ》あひ寄り峽の底ひに落激つ
 安息《やすらひ》をおもひて心みだれざりふもとの山に紅《あか》き日かたむく
 落つる日の夕かがやきはこの山の平《たひら》に居りてしばしだに見む
 
    八月二日
 
 あかつきはいまだ暗きにこの山にむらがりて鳴く蜩《ひぐらし》のこゑ
 たぎり湧く湯のとどろきを聞きながらこの石原に一日《ひとひ》すぐしぬ
(357) 温泉が嶽に十日こもれど我が咽のすがすがしからぬを一人さびしむ
 水激ちけむ因縁《よすが》も知らずあしびきの山の奥より石原の見ゆ
 ひぐらしは山の奥がに鳴き居りて近くは鳴かず日照る近山《ちかやま》
 かなかなの山ごもり鳴くは蟋蟀のあはれに似たりひとり聞くとき
 
    八月三日。谿
 
 けふもまた山泉なる砂のべに居《を》るかな病める咽を愛《を》しみて
 谿のうへの樹を吹く風は強くしてわが居る石のほとりしづけし
 雨はれし後の谿水《たにみづ》いたいたしきのふも今日も赭《あか》く色づき走る
(358) この山に鴉すくなしゆふぐれて小鴉一つ地《つち》におりたつ
 山かげの楢の木原の下枝《しづえ》にも山蠶《こ》が居りて鳥知らざらむ
 大き石むらがれる谿の水のべに心しづかになりにけるかも
 
    八月三日。廣河原道
 
 わがあゆむ山の細道《ほそぢ》に片よりに薊しげれば小林《をばやし》なすも
 山なみの此處にあひ迫る深谿を見おろすときに心落ちゐず
 しばしして吾が立向ふ温泉《うんぜん》の妙見が嶽《たけ》の雲のかがやき
 長崎をふりさけむとするベンチには露西亞文字など人名《ひとな》きざめり
(359) 多良嶽とあひむかふとき温泉の秋立つ山にころもひるがへる
 吾が憩ふひとついただきに漆の木いまだ小さく人かへりみず
 めぐりつつ岨《そは》をし來れば島山と天草の海ひらけたり見ゆ
 なぎさには白浪の寄るところ見えこの高きより見らくしよしも
 ものなべて秋にしむかふ廣河原《ひろがはら》の水のほとりに馬居り走らず
 山かげに今日も聞ければ晩蝉は秋蟋蟀の寂しさに似つ
 やまかがし草に入りゆくに足とどむ額の汗を拭きつつ吾は
 
    八月四日。谿、温泉神社(四面宮《おしめんさま》、國魂《くにたま》神社)裏の石原に沈黙せり
 
(360) 石原に來り黙《もだ》せばわが生《いのち》石のうへ過ぎし雲のかげにひとし
 小さなる※[虫+奚]※[虫+斥]《ばつた》のたぐひ跳ねゆきぬ水涸れをりて白き石はら
 曼珠沙華咲くべくなりて石原へおり來む道のほとりに咲きぬ
 けふ一日《ひとひ》雲のうごきのありありて石原のうへに眩暈《めまひ》をおぼゆ
 音たてて硫黄ふきいづるところより近き木立に山蠶《やまこ》ゐるなり
 
    八月五日。廣河原池、絹笠山
 
 この山を吾あゆむとき長崎の眞晝の砲を聞きつつあはれ
 絹笠の峰ちかくして長崎の眞晝を告ぐる砲の音《と》きこゆ
(361) ふか山のみづうみに來てぬばたまの黒き牛等は水飲みにけり
 山はらを貫きめぐる道ありて馬駈けゆくがをりをりに見ゆ
 山谿が幾重《いくへ》の山の中ごもり南の流《ながれ》ここゆ出でむか
 
    八月六日。晩景、谿
 
 見おろして吾居る谿の石のべに没日《いりひ》の光さすところあり
 理由《ゆゑよし》もなきわが歩み谿底《たにそこ》は既にくらきに水の音すも
 わたつみに日は入りぬらむとおもほゆる夕映とほしこころにぞ染《し》む
 くらくなりし山を流るる深谿《ふかだに》の水の音《と》きけば絶えざるかなや
(362) 谿底を流るるみづは今ゆ後くらきを流れ音《おと》のかなしさ
 わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途《みち》に佇みにけり
 闇空《やみぞら》に羽《は》鳴らして蟲飛びゆけり峠につかれて我あゆむとき
 夕映の赤きを見れば凡《おほよそ》のものとしもなし山のうへにて
 
    八月七日。谿谷
 
 谷底にくだり來にけり獨り言も今はいはなくに眼《まなこ》をつむる
 晝ちかきころほひならむと四五歩ゆき山谿みづに眼《まなこ》をあらふ
 みづ越えてなほし行くときうづたかき落葉のにほひその落葉はや
(363) 谷底《たにそこ》の石間《いしま》くぐりてゆく水に魚《うを》住みをりて見ゆるかなしさ
 この谿をおほへる樹々のしげり葉を照らす光よともしむわれは
 青々と樹々の葉てらす天つ日はいま谷底の石をてらさず
 かすかなる水のながれとおもへども夕さりくればその音《おと》さびし
 石苔にわが出《いだ》したる唾のべに來りて去らぬ羽蟲《はむし》あはれむ
 この狹間を強き水|激《たぎ》ち流れけむ石むらがりて横たふ見れば
 苔あをく羊齒のしげれる石群《いしむら》を山ゆく水は常濡らしけり
 石のひまくぐり流るる谷の水ききつつ吾は一日《ひとひ》ここにゐる
(364) みなかみにのぼりてゆけば水の道落葉が下に隱ろひにけり
 石のまゆ常湧《とこわき》きにして音たつるいづみの水をあはれ一人見つ
 おのづから水ながれたる澤越えて青山見ゆるところまで來し
 しづかなる一日を經むと山水のながるる谿に吾は來にけり
 山みづのながるる音の親しさにわれは來りて言《こと》さへいはず
 山道をゆけばなつかし眞夏さへ冷たき谷の道はなつかし
 傾きつつ太木しげれるきりぎしのその下のべの水光《みづひかり》見む
 みづ流るる谷底いでて木漏日の寂しき道を歸り來るなり
 
(365)    八月八日。林中、谿、山
 
 けふもまたしづかに經むと夏山の青きがなかに入りつつぞ居《を》る
 しらじらと巖間《いはま》を傳ふかすかなる水をあはれと思ひ居《を》るかも
 山みづの源どころの土踏める馬の蹄のあとも好《よ》きかも
 石の上吹きくる風はつめたくて石のうへにて眠りもよほす
 くだり來し谷際《たにあひ》にして一時を白くちひさき太陽を見し
 
    八月九日。觀音堂
 
 吾が憩ふ觀音堂に樂書あり Wixon, Nicol, Spark 等《ら》の名よ
 
 
(366)    八月十日 谿、林
 
 谷底を日は照らしたり谷そこにふかき落葉の朽ちし色はや
 谷かげに今日も來にけり山みづのおのづからなる音きこえつつ
 魚の子はかすかなるものかものおそれしつつ泉の水なかにゐる
 妙見へ雨乞にのぼり來し人らこの谿のみづ口づけ飲めり
 
    八月十一日。午前三時、高谷寛、大橋松平、前田徳八郎等普賢嶽にのぼりぬ。おのれ宿にのこりて、朝食ののち林中を歩く
 
 向山《むかやま》のむら立つ杉生《すぎふ》ときをりに鴉の連《つれ》の飛びゆくところ
 おのづから夏ふけぬらし温泉《うんぜん》の山の蠶《かふこ》も繭ごもりして
 
(367)    八月十二日。久保(猪之吉)博士予を診察したまふ。また夫人より菓子を贈らる
 
 ジユネーヴのアスカナシイの業績を語りたまひて和《のど》に日は暮る
 この山に君は來りて昆蟲の卵あつむと聞くが親しさ
 わが病診たまひしかど朗らにていませばか吾の心は和ぎぬ
 温平《ゆのひら》の温泉《をんせん》の話もしたまひて君がねもごろ吾は忘れず
 萬屋《よろづや》に吾を訪ひまし物語るよりえ夫人は長塚節のこと
 
   長崎。
    八月十四日、温泉嶽を發ちて長崎に歸りぬ。病いまだ癒えず。十六日拔齒、日毎に齒科醫にかよふ。十九日諏訪公園逍遥。温泉嶽にのぼりし日より煙草のむことを罷めき
 
(368) 長崎に歸り來りてむしばめるわが齒を除《と》りぬ命を愛《を》しみ
 暑かりし日を寢處《ふしど》より起き來しが向ひの山は蒼く暮れむとす
 公園の石の階《かい》より長崎の街を見にけりさるすべりのはな
 温泉より吾はかへりて暑き日を齒科醫に通ふ心しづかに
 
    八月二十五日。福濟寺
 
 のぼり來し福濟禅寺《ふくさいぜんじ》の石だたみそよげる小草《をぐさ》とおのれ一人と
 石のひまに生ひてかすかなる草のありわれ病みをれば心かなしゑ
 長崎の午《ひる》の大砲中町の天主堂の鐘ここの禅寺《ぜんじ》の鐘
(369) 福濟寺にわれ居り見ればくれなゐに街の處々《ところどころ》に百日紅のはな
 
    八月二十六日。仰臥
 
 ものなべて過ぎゆかむもの現身《うつしみ》はしづかに生きてありなむ吾よ
 みづからの此身よあはれしひたぐることなく終《つひ》の日にも許さな
 しづかなる吾の臥處にうす青き草かげろふは飛びて來にけり
 
    八月二十七日。仰臥。二十八日。仰臥、長崎精靈ながし
 
 精靈《しやうりやう》をながす日來り港には人みちをれどわれは臥し居り
 
    八月二十九日。北海道なる次兄より長女富子の寫眞をおくりこしければ
 
(370) たらちねの母の乳房にすがりゐる富子をみれば心は和ぎぬ
 山たかく河大いなる國原に生れしをさなごことほぐわれは
 とほくゐて汝がうつしゑを見るときは心をどらむほども嬉しゑ
 
   唐津濱
 
    八月三十日。午前八時十五分長崎發、午後一時三十五分久保田發、午後三時十五分唐津著、木村屋旅館投宿。高谷寛共に行きぬ
 
 五日あまり物をいはなく鉛筆をもちて書きつつ旅行くわれは
 肥前なる唐津の濱にやどりして?《おし》のごとくに明暮れむとす
 
    八月三十一日。木村屋旅館滯在
 
(371) 海のべの唐津のやどりしばしばも噛みあつる飯《いひ》の砂のかなしさ
 潮鳴《うしほな》り夜もすがら聞きて目ざむれば果敢なきがごとしわが明日さへや
 城址《しろあと》にのぼり來りて蹲《したが》むとき石垣にてる月のかげの明るさ
 
    九月一日。爲刑死靈菩提、享保二丁酉歳九月十七日
 
 砂濱に古りて刑死の墓のありいかなる深き罪となりにし
 滿島《みちしま》にわたりて遊ぶ人等ゆく月に照らされ吾等もい往く
 
    九月三日。終日沙濱沈黙
 
 日もすがら砂原に來て黙《もだ》せりき海風つよく我身に吹くも
 
(372)    九月四日。沙濱
 
 飯《いひ》の中にまじれる砂を氣にしつつ海邊の宿に明暮れにけり
 はるかなる獨り旅路の果てにして壹岐の夜寒に曾良は死にけり
 命はてしひとり旅こそ哀れなれ元禄の代の曾良の旅路は
 朝鮮に近く果てたる曾良の身の悲しきかなや獨りしおもへば
 朝のなぎさに眼《まなこ》つむりてやはらかき天つ光に照らされにけり
 この病癒えしめたまへ朝日子の光よ赤く照らす光よ
 唐津の濱に居りつつ城跡の年ふりし樹を幾たびか見む
(373) 砂濱にしづまり居れば海を吹く風ひむがしになりにけるかも
 孤獨なるもののごとくに目のまへの日に照らされし砂に蠅居り
 日の入りし雲をうつせる西の海はあかがねいろにかがやきにけり
 
    九月五日。高谷寛と滿島にわたる
 
 松浦河《まつらがは》月あかくして人の世のかなしみさへも隱さふべしや
 
    九月六日。男ひとり藝妓ふたり
 
 隣り間に男|女《をみな》の語らふをあな嫉《ねた》ましと言ひてはならず
 
    九月八日。沙濱
 
(374) いつくしく虹たちにけりあはれあはれ戯れのごとくおもほゆるかも
 日を繼ぎてわれの病をおもへれば濱のまさごも生《しやう》なからめや
 わがまへの砂をほりつつ蜘蛛はこぶ蜂のおこなひ見らくしかなし
 わたつみを吹きしく風はいたいたしいづべの山にふたたび入らむ
 
    九月十日。高谷寛と來しかたあひ語りて
 
 わが友はわが枕べにすわり居り訣《わか》れむとして涙をおとす
 
    九月十一日。午前九時五十六分唐津發、十二時半佐賀驛にて高谷寛と訣ををしむ。軌道、人力車に乘り、ゆふぐれ小城郡古湯温泉に著きぬ
 
(375) ねもごろに吾の病を看護《みとり》してここの海べに幾夜か寐つる
 わがためにここまで附きて離れざる君をおもへば涙しながる
 わたつみの海を離れて山がはの源のぼりわれ行かむとす
 
   古湯温泉
 
    九月十一日。佐賀縣小城郡南山村古湯温泉扇屋に投宿、十月三日に至る
 
 うつせみの病やしなふ寂しさは川上川《かはかみがは》のみなもとどころ
 ほとほとにぬるき温泉《いでゆ》を浴《あ》むるまも君が情を忘れておもへや
 
    遠雲の遠きまにまに近雲の近きまにまにかりがねはあひ呼びわたれ羽おとさへ聞ゆるまでに
 
(376) 川きよき佐賀のあがたの川のべに吾はこもりて人に知らゆな
 蟷螂《かまきり》が蜂を食ひをるいたましさはじめて見たり佐賀の山べに
 日の光浴みて川べの石に居り赤蜻蛉《あかあきつ》等ははやも飛びつつ
 われひとりうらぶれ來れば山川《やまがは》の水の激ちも心にぞ沁む
 この川の向ひの岸に白々と咲きそめたるは何の花ぞも
 淺山をわれはわたりて谷水の砂ながるるを今ぞ見てゐる
 杉の樹に紅きあぶらの滲《し》みづるををさなごの時のごとく愛《かな》しむ
 曼珠沙華むらがり咲けりこの花の咲くべくなりて未だし籠る
(377) 山がはの石のほとりに身を寄せて日の光浴む病癒えむか
 山がはの水の香《にほひ》のする時にしみじみとして秋風ふきぬ
 黄櫨《はぜ》もみぢこの山本にさやかにて慌しくも秋は深まむ
 いつしかに生《うま》れてゐたる蝗等はわが行くときに逃ぐる音たつ
 風ひきて一日《ひとり》臥したりわが部屋のなげしわたらふ蛇《くちなは》ひとつ
 この家に急に病みたる一人《ひとり》ありわれは手當す夜半過ぎしころ
 旅とほき佐賀の山べの村祭り相撲のきほひ吾は來て見つ(二十一日松森神社)
 秋さりし山といへども蒸暑く雲のほびこり低くなり來も(二十三日雷雨)
(378) 東京に子規忌歌會のある日ぞとおもひて吾は川邊《かはのべ》往くも(二十六日)
 やうやくに秋のふかまむ山の峽朝の雷鳴りとどろけり
 けふの晝|雷《らい》鳴りし雲そきゆきて秋の夜の月のぼらむとする
 けふもまた山に入り來て樹の下《もと》に銀杏ひろふ遊ぶがごとく
 病みながら秋のはざまに起臥してけふも噛みたる飯《いひ》の石あはれ
 此處に來て蛇のあまたを見たりけり常日ごろ蛇をおそれてゐしが
 親しかる心になりて此里のまだ金《かね》つかぬ栗の實を買ふ
 烟草やめてより日を經たりしがけふの曉《あけ》がた烟草のむ夢視つ
(379) みづからの生《いのち》愛《を》しまむ日を經つつ川上がはに月照りにけり
 秋づきて寂《しづ》けき山の細川にまさご流れてやむときなしも
 みづ清き川上がはに住む魚《うを》のエダを食《を》したり晝のかれひに
 胡桃の實まだやはらかき頃にしてわれの病は癒えゆくらむか
 川のべに蜂むらがるを恐れつつ幾たび此處をとほり行きけむ
 秋水をわきて悲しとおもはねど深き狹間に見るべかりけり
 向山《むかやま》に朝ひかり差しそめしかば谷もあらはになりにけるかも
 早稻の香はみぎりひだりにほのかにて小城《をぎ》のこほりの道をわれゆく
(380) ゆくりなく見つつわがゐる青栗は近き電燈に照らされゐたり
 曼珠沙華咲きつづきたる川のべをわれ去りなむか病癒えつつ
 小野五平翁九十一歳にて身まかりぬ氣根つめつつ長命《ながいき》したり
 旅ゆきつつ勝負をしたるつよき逸話この翁にはめづらしからず
 
    山口好を悼む【十月十七日大牟田淨心院追悼歌會のために送る】
 
 君死せりとふしらせを我は山深く狹間に居りて聞けるさびしさ
 ありし日を思ひいでなむ世の相《すがた》の悲しき歌を君はうたひし
 きびしかりし勞働の歌いくつかが人の心にかがやかむかも
 
(381)   長崎
 
    十月三日。朝古湯をたち午後長崎にかへる。萬物に無沙汰の感ふかし
 
 長崎にかへり來りて友を見つ遠のめづらの心かなしも
 校長にも會ひに行きたりおのづから低きこゑにて病を語る
 われ病みて旅に起臥《おきふし》しありしかば諏訪の祭にけふ逢ひにける
 心しづめて部屋にし居れば衢より神の祭りの笛の音《ね》きこゆ
 わが部屋に書《ふみ》を重ねて旅行きしが書を持てれば手の痕つくも
 
    十月九日。中村三郎氏と共に諏訪神社うへの丘にのぼる。諏訪祭第二日
 
(382) 長崎の港見おろすこの岡に君も病めれば息づきのぼる
 
   六枚板
 
    十月十一日。西彼杵郡西浦上|木場《こば》郷|六枚板《ろくまいいた》の金湯にいたる。浴泉靜養せむためなり
 
 浦上《うらかみ》の奥に來にけりはざまより流れ來る川をあはれに思ひて
 クルスある墓を見ながら通り來し浦上道を何時かかへりみむ
 日もすがら朽葉《くちば》の香する湯をあみて心しづめむ自らのため
 僂麻質斯《リユーマチス》病みをる媼等にあひ交り日ねもす多く言ふこともなし
 朝な朝な同じ頃あひに稻田《いなた》道兒らは走りて學校へ行く
(383) 道のべに赤楝蛇《やまかがし》多きをおどろきつつ西浦上をもとほりて來も
 山のべにひそむがごとき切支丹の貧しき村もわれは見たりき
 かかる墓もあはれなりけり「ドミニカ柿本スギ之墓行年九歳」
 「ドナメ松下ヒサ墓行年九十二歳」信者にて世を終へしものなり
 信徒のため宝盒《はうかふ》抄略といふ書物御堂の中にぽつりとありぬ
 小さなる御堂にのぼり散在する信者の家を見つつしゐたり
 この宿に島原ゆ來し少女《をとめ》居りわがために夕べ洋燈《ランプ》を運ぶ
 油煙たつランプともして山家集を吾は讀み居り物音たえつ
(384) この家の主人《あるじ》わざわざ長崎に買ひたる刺身を吾に食はしむ
 ここ越えてゆかば長崎の西山にいづるらむとて暫く歩《あり》く
 ひらけたる谷にむかひて長崎の港のかたをおもひつつ居り
 
   小濱
 
    十月十五日。六枚板發。少女予の荷を負ふ。午前十時四十分長與發、午後一時小濱著、柳川屋旅館に投ず。學生立石源治靜養に來居るに會ふ
 
 朝なさな船の太笛《ふとぶえ》聞きしより山峽のこともわきて思はず
 土手かげに二人來りて光浴む一人はわれの教ふる學生
(385) 覇王樹《さぼてん》のくれなゐの花海のべの光をうけて氣を發し居り
 砂濱に外人ひとりところがりて戯れ遊ぶ日本のをみな
 鹽はゆき温泉を浴みてこよひ寢む病癒えむとおもふたまゆら
 鴎等はためらひもなく今ぞ飛ぶ嫉《ねた》くしおもふ現身《うつしみ》われは
 日本舟《にほんぶね》にひるがへりゐる旗見つつその傳承をかたみに語る
 長崎の茂木の港にかよふ船ふとぶとと汽笛を吹きいだしたり
 入りつ日の紅き光のゆらぐとき磯鵯《いそひよどり》のこゑもこそ聞け
 日だまりにけふも來りぬ行末のことをおもはば悲しからむぞ
(386) ここに來て落日《いりひ》を見るを常とせり海の落日も忘れざるべし
 小濱なる森芳泰來《もりよしやすき》わがための心づくしを永くおもはむ
 温泉の山のふもとの鹽の湯のたゆることなく吾は讃へむ
 
   嬉野
 
    十月二十日。小濱發、零時二十二分彼杵著、夕べ嬉野著
 
 旅にして彼杵《そのき》神社の境内に遊樂相撲見ればたのしも
 祐徳院稻荷にも吾等まうでたり遠く旅|來《こ》しことを語りて
 嬉野の旅のやどりに中林梧竹|翁《おきな》の手ふるひし書よ
(387) この山を越えて進みし大隊が演習やめて一夜《ひとよ》湯浴みす
 透きとほるいで湯の中にこもごもの思ひまつはり限りもなしも
 この村の小さき社《やしろ》の森に來て黙《もだ》すことあれど心足らはず
 わが病やうやく癒えぬとおもふまで嬉野の山秋ふけむとす
 
   長崎
 
    十月二十六日。午前八時四十分嬉野發、十時四十三分彼杵發、十二時半長崎著。十月二十八日。病院學校に勤務す
 
 病院のわが部屋に來て水道のあかく出で來るを寂しみゐたり
 
    十一月一日。武藤長藏教授より大浦天主堂に聖體降福式あることを知らせありしかど、身をいたはりてまゐらず
 
(388) けふ一日腹をいためて臥しをれば聖きまとゐに行きがてなくに
 
    十一月五日。長尾寛濟十月八日東京にて没す行年四十。東京巣鴨眞性寺に葬る。寛濟は予より長ずること一歳なりき
 
 長崎に心しづめて居るときに永遠《とは》の悲しみ聞かむと思ひきや
 淺草の三筋町なるおもひでもうたかたの如や過ぎゆく光《かげ》の如や
 
    十一月十四日。土屋文明氏と共に春徳寺を訪ふ
 
 黄檗の傑れし僧のおもかげをきのふも偲びけふもおもほゆ
 赤く塗りし大き木の魚《うを》かかりゐる僧等の飯《はん》のときに打つべく
 扁額に海不揚波《かいふやうは》の四つの文字おごそかにしも年ふりにける
 
(389)    シイボルト鳴瀧校舍址
 
 年々ににほふうつつの秋草につゆじも降《ふ》りてさびにけるかも
 石垣のほとりに居れば過ぎし世のことも偲ばゆよみがへるはや
 もろ人が此處に競《きほ》ひて學びつるその時おもほゆ井戸をし見れば
 芭蕉葉もやうやく破《や》れて秋ふけぬと思ふばかりに物ひそかなり
 洋學の東漸《とうぜん》ここに定まりて青年の徒はなべて競ひき
 柿落葉色うつくしく散りしきぬ出島人《でじまびと》等も來て愛でけむか
 鳴瀧の激ちの音を聞きつつぞ西洋の學に日々目ざめけむ
 
(390)    興福寺、深崇寺、書畫帖
 
 深崇寺に栗崎道喜の墓を訪ふ顕耀院道喜正元居士
 祭も過ぎて照らす日の光しづかなる長崎の山いろづきにけり
 
    十一月二十一日。土屋氏長崎を發つ。夜辰巳に會合あり
 
 くれぐれの家に石蕗《つはぶき》の黄の花はわれとひととを招ぐに似たり
 
    十一月二十二日。平福百穗畫伯と浦上村をゆく
 
 浦上《うらかみ》の女《をんな》つらなり荷を運ぶそのかけごゑは此處まで聞こゆ
 白く光るクロスの立てる丘のうへ人ゆくときに大きく見えつ
(391) 浦上の女等の生活異りて西方のくにの歎きもぞする
 長崎の人等もなべてクロス山と名づけていまに見つつ經たりき
 斜なる畠《はた》の上にてはたらける浦上人|等《ら》のその鍬ひかる
 牛の背に畠つものをば負はしめぬ浦上人は世の唄うたはず
 黄櫨もみぢこきくれなゐにならむとすクロス山より吹く夕風《ゆふべかぜ》
 
    十一月二十三日。百穗畫伯と長崎圖書館を訪ひ南蠻史料を看る
 
 モリソン文庫明惠上人の歌集をば少しく讀みて吾ものおもふ
 
    十一月二十四日。百穗畫伯と街上を行く
 
(392) 西比列亞よりおくりこされし俘虜あまた町にむらがるきのふも今日も
 大浦の道のほとりにルーヴルの紙幣を売ると俘虜は佇む
 チエツコへ歸らむとする捕虜ひとり山の石かげに自殺をしたり
 寺町の墓のほとりにもかたまりてチエツコの俘虜は時を費す
 親しかる友をむかへて身の上のことも語りぬ夜のふくるまで(平福氏)
 
   長崎より
 
    このとし秋より冬にかけ折にふれて作りたる歌、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞に公にせり
 
 眞日あかく港の西に落ちゆきて今しみじみと夕映えにけり
(393) 港より太笛鳴れるひまさへや我が足もとに蟋蟀のこゑ
 みち足らはざる心をもちて入日さす切支丹|坂《ざか》をくだり來にけり
 鹽おひてひむがしの山こゆる牛まだ幾ほども行かざるを見し
 山かげの大根の畑に日もすがら光あたるを見るはさびしも
 港をよろふ山の棚畑に人居りて今しがた晝飯《ひるいひ》を食ひたるらしき
 雨はれし港はつひに水銀《みづがね》のしづかなるいろに夕ぐれにけり
 友二人もつひに歸りぬはりつめし心ゆるみて水を飲むなり(土屋氏・平福氏)
 支那|街《まち》のきたなき家に我の食ふ黒き皮卵《びいだん》もかりそめならず
(394) 夏の初めより病に罹り居りしかど癒えて白霜《しらじも》の降りたるを見つ
 君が業務《なりはひ》は忙しからむ然れども張りつむる心を守《まも》り居らむか
 長崎の港を見れば我がこころ和みしづまるをあやしと思ふな
 セミヨノフの砲艦ひとつ泊てゐるを背向にしつつ我は急げり
 病いえてここに來りぬ目のもとの落葉のしづかさを獨ゆかむか
 長崎にも霜ふりにけりありふれしもののあはれと我は思はず
 さむき雨長崎の山にも降りそそぐ冬の最中《もなか》となるにやあらむ
 ものぐるひの被害妄想の心さへ悲しきかなや冬になりつつ
(395) ウンガルンの俘虜むらがりて長崎の街を歩くに赤く入日す
 あはれとも君は見ざらむ寺まちの高き石垣にさむき雨かな
 みちのくの仙臺よりおくりくれしてふ納豆を食む心しづけさ
 山上の白き十字架《クルス》の見えそむる浦上|道《みち》は霜どけにけり
 豆もやしと氷豆腐を買ひ來つつ汁つくらむと心いそげり
 長崎の港の岸をあゆみゐるピナテールこそあはれなりしか
 うらがなしき夕なれどもピナテールが寢所《ふしど》おもひて心なごまむ
 
    十二月五日。午前武藤長藏教授、三上知治畫伯と共に大浦天主堂を訪ひ、午後ピナテール(Pignatel)翁を訪ふ
 
(396) 寢所には括枕のかたはらに朱の筥枕置きつつあはれ
 冬の雨ふるけふをしも Pignatel《ピナテル》が家をたづねて身にし染《し》むもの
 年老いてただひとりなるピナテール寂かなるごとくなほも起臥《おきふ》す
 
    歳晩
 
 このやまひ癒したまへと山川《やまかは》をゆきゆきし歳の暮となりぬる
 長崎を去る日やうやく近づけば小さなる論文に心をこめつ
 クリスマスの長崎の御堂《みだう》に入ることも二たびをせむ吾ならなくに
 暮れの年妻ともに身をいたはりて筑紫のくにの旅ゆかむとす
 
(397)   歌會
 
    土屋文明氏歡迎歌會【十一月十七日於茂吉宅、課題「坂」】
 
 ひむがしの峠を越ゆる牛ひとつ歩みしづかなるをわれは見にけり(西山所見)
 
    平福百穗氏歡迎歌會【十一月二十四日於長崎縣立圖書館、課題「港」】
 
 くもり日の港をいでてゆく船はかなしきかなやけむりあげつつ
 
(398) 大正十年
 
   九州の旅
 
    大正九年十二月三十日。長崎發、熊本泊、翌三十一日熊本見物を終り、同夜人吉林温泉泊。大正十年一月一日。林温泉より鹿兒島に至る。一泊
 
 秀頼が五歳のときに書きし文字いまに残りてわれも崇《たふと》む
 熊本のあがたより遠く見はるかす温泉が嶽《たけ》は凡《ただ》ならぬやま
 光よりそともになれる温泉の山腹にして雲ぞひそめる
(399) 球磨川の岸に群れゐて遊べるはここの狹間に生れし子等ぞ
 みぎはには冬草いまだ青くして朝の球磨川ゆ霧たちのぼる
 青々と水綿ゆらぐ川のべにわれはおりたつ冬といへども
 一月の冬の眞中《もなか》にくろぐろと蝌蚪《おたまじやくし》はかたまるあはれ
 白髪岳《しらがだけ》市房山もふりさけて薩摩ざかひを汽車は行くなり
 大畑《おこば》驛よりループ線となり矢嶽《やたけ》越す隧道《トンネル》の中にてくだりとなりぬ
 櫻島は黒びかりしてそばだちぬ溶巖ながれしあとはおそろし
 鹿兒島の名所を人力車にて見てめぐり疲れてをりぬ妻と吾とは
(400) わが友はここに居れどもあわただし使を君にやることもなし
 陸軍大將の大禮服をわれ等見つすべて尊しおほろかならず
 城山にのぼり來りて劇しかりし戰のあとつぶさに聞きて去る
 開聞のさやかに見ゆるこの朝け櫻島のうへに雲かかりたる
 大隅は山の秀つ國《ぐに》冬がれし山のいただき朝日さすなり
 霧島は朝をすがしみおほどかに白雲かかるうごくがごとし
 霧島はただに嚴《いつく》しここにして南風《みんなみかぜ》に晴れゆきしとき
 
    一月二日。夜宮崎神田橋旅館、三日宮崎神宮參拜
 
(401) 宮崎の神の社にまゐり來てわれうなねつく妻もろともに
 神倭磐余彦の神の御光《みひかり》を源として永久《とは》に興らむ
 冬の雨いさごに降りてひろ前にあゆめるわれの靴の音すも
 ねたましくそのこゑを聞く旅商人《たびあきびと》は行く先々に契をむすぶ
 
    一月三日。午後三時青島につき、廣瀬旅館投宿、第五高等學校教師ポーター(五十四歳)滯在しゐる
 
 打寄する浪は寂しく南なる樹々ぞ生ひたるかげふかきまで
 暖き洋《うみ》のながれのありてこそかかる繁りとなりにけらしも
 旅館にはポーターといふ洋人《やうじん》もやどりて日本の酒をのむ見ゆ
(402) 青島の木立を見ればかなしかる南の洋《うみ》のしげりおもほゆ
 南より流れわたれる種子《たね》ひとつわが遠き代のことしぬばしむ
 かすかなる光海よりのぼりくる日向のあかつきの國のいろはや
 青島に一夜《ひとよ》やどりてひむがしのくれなゐ見たりわが遠き代や
 ひむがしは赤く染まりてわが覺むる日向の國のあかつきのいろ
 わたつみの海につづける茜空|二時《ふたとき》にしてくもりに入りぬ
 
    一月四日。歸途につく
 
 霧島はおごそかにして高原《たかばる》の木原《きはら》を遠《をち》に雲ぞうごける
(403) 灰いろのくすしき色も日あたりてこの高山は見れども飽かず
 あたらしき年のはじめを旅|來《こ》しが高千穗の峰に添ふごとかりき
 青井岳の驛出でてより猪の床の話を聽きつつ居たり
 
    一月五日。久留米、「寛政五癸丑年六月二十七日、生國上州新田郡細谷村、高山彦九郎正之墓」。上野旅館にてアララギ歌會。梅林寺を訪ふ
 
 久留米なる遍照院にわれまうづ「松陰|以白居士《いはくこじ》」のおくつき
 神つ代のこと戀《こほ》しみてしらぬひ筑紫のくにに果てし君はも
 炎なす心勤王にかかはりて自《みづか》らの命ここに斷ちたり
(404) 夜もすがら歌を語りて飽かなくに朝鷄《あさどり》が鳴く茜さすらし
 九州の十一人の友よりてわれと歌はげむ夜の明くるまで
 梅林寺に紫海禅林の扁額あり谷を持ちたるこの佛林よ
 三生軒居室《さんじやうけんこしつ》より見おろす谷まには僧一人來て松葉を掃くも
 筑後川日田よりくだる白き帆も見ゆるおもむきの話をぞ聞く
 
    一月六日。太宰府、觀世音寺、都府樓址、武雄温泉
 
 觀世音寺都府樓のあともわれ見たり雜談をしてもとほりながら
 
   長崎
 
(405)    一月三十一日。奥田氏送別會を榮家に開く。會者圖書館談話會員、主賓のほか、永見徳太郎、増田廉吉、谷田定男、林源吉、大庭耀、水谷安嗣諸氏
 
 くさぐさの事を思ひて盡きざるにこよひ吾等は互《かたみ》に醉ひつ
 南の國はゆたけし朝あけて君を照らさむ天つ日のいろ
 
    二月三日。奥田啓市氏鹿兒島縣立圖書館長として出發す。予さはりありて見おくり得ざりしことを悔ゆ
 
 このゆふべ悔いおもへども君とほく今し去りゆく悔いてかへらず
 
    二月十日。述懷
 
 長崎の港をよろふむら山に來向ふ春の光さしたり
(406) ものぐるひはかなしきかなと思ふときそのものぐるひにも吾は訣れむ
 長崎に來りて既にまる三年《みとせ》友のいくたり忘れがたかり
 きびしかりしはやり風にて見近《みぢか》くの三たりはつひに過ぎにけらずや
 そがひなる山を越えゆく矢上《やがみ》にも思のこりてわれ發たむとす
 
    三月十四日。雪大に降、諸家に暇乞にまはる。夜茂吉送別歌會を長崎圖書館に開く
 
 長崎をわれ去りなむとあかつきの暗きにさめて心さびしむ
 長崎をわれ去りゆきて船笛《ふなぶえ》の長きこだまを人聞くらむか
 白雪のみだれ降りつつ日は暮れて港の音も聞こえ來るかな
 
(407)    三月十五日。醫學專門學校職員食堂のために一首をしたたむ
 
 行春の港より鳴る船笛の長きこだまをおもひ出でなむ
 
   長崎を去り東上。
 
    三月十六日。午後十一時長崎を出發す。先輩知友多く見送らる。予長崎に居ること足掛五年、滿三年三月なり。前田毅、江藤義成二君同車し、途上門司義夫君に會ふ。三月十七日。午前五時博多著、榮屋旅館。大學生青木義作、金子慎吾二君來る。榊、久保二教授を訪問し、耳鼻科教室精神病學教室を參觀す。夜久保博士夫妻と晩餐を共にす
 
 もろびとに訣をつげて立ちしかど夜半《よは》過ぎて心耐へがてなくに
 春さむしとおもはぬ部屋に長崎の御堂の話長塚節の話
(408) あたたかき御心こもるこの室《へや》にあまたの猫も飼はれて遊ぶ
 
    三月十八日。午前九時四十二分博多發、十一時四十二分小倉著、市中を見物し、ついで延命寺に行き公園を逍遙、奇兵隊墓、名物おやき餅
 
 春いまだ寒き小倉をわれは行く鴎外先生おもひ出《いだ》して
 公園の赤土のいろ奇兵隊戰死の墓延命寺の春は海潮音
 
    三月十八日。午後一時小倉發、午後四時四十二分別府著、別府には大正八年夏一たび來りき。街見物、保養院長鳥潟博士訪問、博士は大學同窓也。大分共進會を見る
 
 あたたかき海邊の街は春菊を既に売りありく霞は遠し
(409) 鳥の音も海にしば鳴く港町湯いづる町を二たび過ぎつ
 
    三月二十日。午後二時別府より紅丸にて出航、高濱上陸、汽車にて道後著、入湯一泊。二十一日。松山見物(人力車)、三津港より上船、多度津上陸、琴平行一泊、神社參拜
 
 年ふりし道後のいでゆわが浴めばまさごの中ゆ湧きくるらしも
 大洋《おほうみ》をわれ渡らむにこの神を齋ひてゆかな妻もろともに
 
    三月廿二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林公園、屋島。高松午後四時發、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六高等學校に山宮・志田二教授を訪ひ、醫學專門學校に荒木(蒼太郎)教授を訪ふ。市内(人力車)城、後樂園
 
 この園に鶴《たづ》はしづかに遊べればかたはらに灰色の鶴《たづ》の子ひとつ
(410) 時もおかずここに攻めけむ古への戰のあと波かがやきぬ
 元義がきほひて歌をよみたりし岡山五番町けふよぎりたり
 
    三月二十三日。岡山を發してゆふぐれ神戸著、中村憲吉君出迎ふ。みつわにて神戸牛肉を食ふ。香櫨園畔の中村氏方に泊。長女良子さん(五歳)次女厚惠さん(三歳)
 
 ひさびさに君とあひ見てわが病癒えつることをうれしみかはす
 何といふ平安《やすらぎ》なるか朝《あした》よりわがまへに友のをさなご二たり
 
    三月廿四日。大阪。大學法醫學教室(中田篤郎氏)、精神病學教室(小關光尚氏)、浪速花屋碑、心齋橋通、道頓堀(文樂人形芝居)、よる森園天涙、花田大五郎、加納曉氏等も加はり晩餐。中村氏宅泊。
    三月廿五日より廿七日。中村君の案内にて奈良を見る。法(411)隆寺佐伯管長にも會ふ。雨降る。ついで大和に行き萬葉の歌に關する古跡をめぐる。ゆふ京都著。藤岡旅館に入る。
    三月廿八日。宇治、鳳凰堂、平等院、宇治川花屋敷、佐久間象山遭難地、加茂川、本能寺、御所、烏丸通、堀川、嵐山電車、仁和寺の山、塔、如意輪觀音、大竹林、隱窟、臨濟宗大本山天龍寺、保津川、桂川、金閣寺(鹿苑院)、大極殿(平安神宮)。藤岡旅館
 
 いそがしき君はひねもすわがために古山川をみちびきやまず
 あはれあはれ戀ふる心に沁みとほり山川ぞ見し君がなさけに
 
    三月二十九日。午前十時四十分京都を發ち、米原驛下車、番場蓮華寺に※[穴/隆)]應和尚にあひまつる。石川隆道、樋口宗太郎二氏に會ふ
 
 ぬばたまの夜さりくれば湯豆腐をかたみに食へとのたまひにけり
 夜もすがら底びえしつつありたるが曉庭《あかつきには》に薄氷《うすらひ》が見ゆ
 
 
(412) この寺に※[うがんむり/隆]應和尚よろこびて焦したる湯葉をわれに食はしむ
 
    三月三十日。米原發急行にて上京す。車中、榊、和田、小野寺の三教授にあふ。教授等は學會出席のために上京するなり。
    四月一日。日本神經學會に出席し、呉秀三先生の大學教授莅職二十五年祝賀會(上野精養軒)に出席しぬ
 
   賀歌
 
    芳溪呉秀三先生大學教授莅職二十五年賀謌竝正抒心緒謌(佛足石歌體)二十五章
 
 長崎の港をよろふ山並に來むかふ春の光さしたりあまつ光は
 長崎にわれ明暮れてとりがなくあづまの國の君をしぬびつしぬびけるかな
 み冬つき來むかふ春にこころこそゆらぎてやまね導きたまふ情しぬびて
(413) しらぬひ筑紫のはてにわれ居れどをしへの親を讃へざらめや仰がざらめや
 藥師《くすりし》はさはにをれどもあれの師はおほかたに似ず現し世のため今の世のため
 さちはひに充ち滿ちにつつあれの師の君が力はいや新しもきみがいのちは
 ものぐるひは哀しきかなとおもふときさびしきこころ君にこそ寄れ救ひたまはな
 しきしまのやまとにしてはわが君や師のきみなれや Pinel《ピネル》 Conolly《コノリ》 は外くににして
 靈樞に狂といふともわがどちは狂とな云ひそと宣《のら》しけるらし病むひとのため
 二十年《はたとせ》にあまる五とせになるといふみ祝《ほぎ》のにはに差せる光や瑞《うづ》のみひかり
 ものぐるひをまもりたまひて年を經し君がみ髭はつひに白しもその清《すが》しさや
(414) しろがねの髭さへひかり新幸《にひさち》もいよよ重ねむ君がいのちやおのづからなる
 ものぐるひは悲しきものぞ護らせる君こそたふとあはれ尊きけふの尊さや
 うからやから彌々《いよよ》さかゆる君ゆゑに新幸《にひさちはひ》もかぎり知らえず祝はざらめや
 長崎に來てより三とせは過ぎにけりいざ歸りなむあづまの春へ君がみもとへ
 なまけつつ十年を經たりおこたりて十歳過ぎけむことをしおもふ君を祝《ほ》ぎつつ
 中學の四級生《しきふせい》にてありけむか精神啓微をわれは買ひにき小川まちにて
 もろもろのくるへる人のあはれなるすがたを見つつ君をおもはむ敬ひまつり
 わがもてるものは貧しとおもへども狂人守りてこの世は經なむありのまにまに
(415) をしへを受けしもろもろの人あつまりて教への親を圍むけふかも言壽《ことほ》ぎにつつ
 うつしみの狂へるひとの哀しさをかへりみもせぬ世の人醒めよもろびと覺めよ
 君がこころひろく寛けくたまかづら絶ゆることなく幸はへてあらむ若えつつあらむ
 おなじ世にうまれあひたる嬉しさや教へのおやにこの敬ひをささげまつらむ
 むらぎものこころ傾けことほぎの吉言《よごと》まうさむ酒祝もせよ豐酒《とよき》清酒《きよき》に
 あまつ日の光るがごとく月讀の照らすがごとく常幸福《とこさいはひ》にいます君かも
 
    歸京。大正六年十二月長崎に赴任してより滿三年三月餘、足掛五年になりて大正十年三月歸京しぬ
 
(416) 東京に歸りきたりて人ごろしの新聞記事こそかなしかりけれ
 閨中の秘語を心平らかに聞くごとし町の夜なかに蛙《かはづ》鳴きたり
 長崎よりかへりてみれば銀座|十字《つむじ》に牛は通らずなりにけるかも
 さみだれの日《け》ならべ降れば市に住む我が腎ははや衰へにけり
 流行の心理は模倣憑依の概念を以て律すべからず夏の都會に
 ゆたかなる春日《はるび》かがよふ狂院に葦原金次郎つひに老いたり
 さみだれはしぶきて降れり殺人の心きざさむ人をぞおもふ
 わが心いまだ落ちゐぬにくれなゐの胡頽子《ぐみ》を商ふ夏さりにけり
(417) われ銀座をもとほり居りてブルドック連れし女《をんな》にとほりすがへり
 長崎の晝しづかなる唐寺《たうでら》やおもひいづれば白きさるすべりのはな
 朝はやき日比谷の園に腫《むく》みたる足をぞ撫《さす》る勞働《はたらき》びとひとり
 馬に乘りて行く人のあり日がへりに玉川あたり迄行くにやあらむ
 淺草の八木節さへや悲しくて都に百日《ももか》あけくれにけり
 ものぐるひを看護して面はればれとしてゐる女と相見つるかも
 長崎にて暮らししひまに蟲ばみし金槐集をあはれみにけり
 さ庭べにトマトを植ゑて幽かなる花咲きたるをよろこぶ吾は
(418) けふもまた何か氣がかりになる事あり蟲ばみし書《ふみ》いぢり居れども
 このごろ又外國人を殺しし盗人《どろばう》あり我心あやしきを君はとがむな
 疊のしたにナフタリンなどふり撒きて蚤おそれゐる吾をしぬばね
 
   雜吟
 
    東京アララギ歌會
 
 心いらだたしく風吹きし日は過ぎてかへるで赤く萌えいでにけり
 
    墓前
 
 龜戸の普門院なる御墓べに水青き溝いまだのこれり
 
(419)    山形より
 
 月讀の山はなつかし斑《はだ》ら雪照れる春日に解けがてなくに
 
    五月九日
 
 ふきいづる木々の芽いまだ調はぬみちのく山に水のみにけり
 谿ふかくしろきは吾妻山なみの雪解《ゆきげ》のみづのたぎつなるらし
 みちのくは春まだ寒し遠じろくはざまをいづる川のさびしさ
 
    ふるさと
 
 かなしきいろの紅《くれなゐ》や春ふけて白頭翁《おきなぐさ》さける野べを來にけり
(420) われひとりと思ふ心に居りにけりをさなき蠶《かふこ》すでにねむりつ
 
    五月十二日。結城哀草果を率て林間の野を行く
 
 山がひに日に照らされし田の水やものの命の幽かなりけり
 みちのくのわが故里に歸り來て白頭翁を掘る春の山べに
 山陰のしづかなる野に二人ゐて細く萌えたる蕨をぞ摘む
 みちのくの春の光はすがしくてこの山かげにみづの音する
 山かげを吾等來しかば淺水に蛭のおよぐこそ寂しかりけれ
(421) 木立よりかこまれてゐる春の小野昆蟲跳ぬるだにこの平安《やすらぎ》よ
 
    六月十六日
     女等の飼へる蠶
 
 かりそめとおもふは寂し飼ひし蠶《こ》は黄いろき繭にこもりはてたり
 
    七月六日
     胃腸病院に神保孝太郎博士を訪ひ、ついで入澤達吉博士の診察を受く
 
 われひとり物おもふ室《へや》にきこえくる鈍くおもおもしき衢のおとは
 けふ一日たえまなく汗が流れしと記しおかむわが病のことも
 
(422)   山水人間蟲魚
 
    一夜
 
 甲斐がねを汽車は走れり時のまにしらじらと川原《かはら》の見えし寂しさ
 しづかなる川原をもちてながれたる狹間の川をたまゆらに見し
 山がひにをりをりしろく激ちつつ寂しき川がながれけるかな
 ふく風はすでにつめたし八ケ嶽《たけ》のとほき裾野に汽車かかりけり
 天づたふ日のかたむける信濃路や山の高原《たかはら》に小鴉啼けり
 高原に足をとどめてまもらむか飛騨のさかひの雲ひそむ山
(423) 澄みはてていろふかき空に相寄れる富士見|高原《たかはら》ゆふぐれにけり
 あかときはいまだ暗きに目ざめゐる吾にひびきて啼く鳥のこゑ
 蚊帳つりてひとりねむりしあかときの冷たきみづは齒に沁みにけり
 みすずかる信濃高原の朝めざめ口そそぐ水に落葉しづめり
 
    林間
 
 山ふかき林のなかのしづけさに鳥に追はれて落つる蝉あり
 桔梗《きちかう》のむらさきの色ふかくして富士見が原に吾は來にけり
 松かぜのおともこそすれ松かぜは遠くかすかになりにけるかも
(424) 谷ぞこはひえびえとして木下《こした》やみわが口笛のこだまするなり
 あまつ日は松の木原《きはら》のひまもりてつひに寂しき蘚苔《こけ》を照せり
 
    燈下(一)
 
 ともし火のもとにさびしくわれ居りて腫《むく》みたる足のばしけるかな
 ひとを愛《かな》しとおもふ心のきはまりて吾に言《こと》つげし友をぞおもふ
 諏訪のみづうみの泥ふかく住みしとふ蜆を食ひぬ友がなさけに
 みすずかる信濃の國に足たゆく燈《ともしび》のもとに糠《ぬか》を煮にけり
 高はらのしづかに暮るるよひごとにともしびに來て縋る蟲あり
 
(425)    燈下(二)
 
 窓外《まどのと》は月のひかりに照されぬともし火を消しいざひとり寢む
 しづかなる山の高原とおもへども電流に觸れてひとは死にけり
 月の光いまだてらさず白雲は谷べにふかく沈みたるらし
 潮浴《しほあみ》に安房の海べに行きたりしわがをさなごは眠りけむかも
 夕飯《ゆふいひ》をはやくしまひてこのよひは妻をおもへり何か知らねど
 諏訪のうみの田螺を食へばみちのくに稚《をさな》かりし日おもほゆるかも
 よひとおもふにはや更けそめし山家《やまが》なるこのともしびに死ぬる蟲あり
(426) うつしみは現身ゆゑに嘆かむに山がはのおともあはれなるかも
 文身《ほりもの》だらけの屍《かばね》隅田川に浮きしとふ記事も身に沁む山の夜ふけに
 やまふかきその谷川に住むといふやまめ岩魚を人はとり食《は》む
 八ケ嶽の裾野のなびきはるかにて鴉かくろふ白樺の森
 
    高原
 
 蓼科《たてしな》はかなしき山とおもひつつ松原《まつはら》なかに入りて來にけり
 いまだ鳴きがてぬこほろぎ土のへにいでて遊べり黒きこほろぎ
 秋づくといまだいはぬに生《あ》れいでて我が足もとに逃ぐるこほろぎ
(427) 秋らしき夜空とおもふ目のまへを光はなちて行く螢あり
 谷川のほとりに見ゆるふる道はたえだえにして山に入るなり
 
    月夜
 
 高原の月のひかりは隈なくて落葉がくれの水のおとすも
 ながらふる月のひかりに照らされしわが足もとの秋ぐさのはな
 月あかし谷ぞこふかくこもり鳴る釜無川のおとのさびしさ
 秋の夜のくまなき月に似たれどもこほろぎ鳴かぬ茅生《ちふ》のつゆ原
 飛騨の空に夕の光のこれるはあけぼのの如くしづかなるいろ
(428) 飛騨の空にあまつ日おちて夕映《ゆふばえ》のしづかなるいろを月てらすなり
 空すみて照りとほりたる月の夜に底ごもり鳴る山がはのおと
 わがいのちをくやしまむとは思はねど月の光は身にしみにけり
 
    あららぎの實
 
 あららぎのくれなゐの實を食《は》むときはちちはは戀《こひ》し信濃路にして
 ゆふぐれの日に照らされし早稻の香をなつかしみつつくだる山路《やまみち》
 八千ぐさは朝よひに咲きそめにけり桔梗の花われもかうのはな
 やまめの子あはれみにつつゆふぐれて釜無川をわたりけるかな
(429) 山のべににほひし葛の房花は藤なみよりもあはれなりけり
 くたびれて吾の息づく釜無の谷のくらがりに啼くほととぎす
 
    釜無
 
 夕まぐれ南谿《みなみだに》よりにごりくる谿がはの香をなつかしみつも
 
    小吟随時
 
     左千夫先生九回忌【七月十日於龜戸普門院】
 
 逝きましてはや九年《ここのとせ》になるといふ御寺《みてら》の池に蓮咲かんとす
 
     諏訪アララギ會【八月二十二日於上諏訪地藏寺】
 
(430) 八千ぐさの朝な夕なに咲きにほふ富士見が原に吾は來にけり
 
     諏訪アララギ會【九月三日於温泉寺】
 
 日の御子むかふる足る日と信濃なる富士見の里にわれはめざめぬ
 
     齋藤茂吉渡欧送別歌會【十月九日日限地藏】
 
 わが心かたじけなさに充ちにけり雨さむきけふをあへる友はや
 
    洋行漫吟
 
     大正十年十月二十六日東京驛發、二十七日熱田丸横濱出帆、諸先輩諸友の見送を忝うせり。二十八日神戸著、上陸諸友に會ふ。京都に遊び藤岡旅館泊。中村憲吉君宅一泊。六甲苦樂園六甲ホテル一泊。十一月一日神戸出帆。十一月二日 門司著、上陸、(431)巖流島、下關萬歳樓、山陽ホテルに泊る
 
 しづかにいにしへ人をしたふ心もて冬の港を渡りけるかな(巖流島三首)
 わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ
 はるかなる旅路のひまのひと時をここの小島《をじま》におりたちにけり
 
     十一月三日。午前十二時門司出帆、藤井公平、奈良秀治、山口八九子三氏見送る。玄海浪高く、四十八分時計をおくれしむ。大方の船客船に醉ふ。十一月五日上海。福民病院長頓宮博士を訪ふ
 
 海の面《おも》しづかになれる朝あけて四十八分《しじふはちふん》の時おくれしむ
 あかあかと濁れる海と黯湛《かぐろ》くも澄みたる海と境をぞする
(432) 戎克《じやんく》の帆赭き色してたかだかとゆく揚子江の川口わたる
 上海のもろもろの樣相《さま》人の世のなりのままなるものとこそ思へ
 「日本首相原敬被刺」と報じたる上海新聞の切拔しまふ(六日)
 
     十一月香港
 
 清麗とも謂ふべき小都市につらなりし山のかなたの支那國《しなこく》の見ゆ
 たちまちに山上にのぼり見おろせる市街冬がれのさまにはあらず
 no smoking に不准食煙《ふじゆんしよくえん》と注せりき「食煙」の文字善しと思はずや
 茶館《ちやくわん》には「清潤甜茶」の※[匡の王が扁]がありにほへる處女近づき來《きた》る
(433) 海岸はさびしき椰子の林より潮のおとの合ふがに聞こゆ
 
     十一月十五日。新嘉坡
 
 空ひくく南十字星を見るまでに吾等をりけるわたつみのうへ
 日本國の森に似しかなと近づくに椰子くろぐろとつづきて居たり
 腰まきを腰に巻きつつとほるもの男|女《をみな》とまだ穉《をさな》きと
 汗じめるわが帳面の片隅にブルンボアンとしるしとどむる
 ジヨホールの宮殿のまへに佇みしわれ等|同胞《はらから》十人《とたり》あまりは
 椰子しげる中に群れゐし水牛がうごくとき人をおそれしめつつ
(434) 岬なるタンジヨンカトン訪ひしかばスラヤの落葉蟋蟀のこゑ
 太陽をマタハリといひて禮拜すまた「感天大帝」の文字
 牛車《うしぐるま》ゆるく行きつつ南なる國のみどりに日は落ちむとす
 「にほんじんはかの入口《いりくち》」の標《しるし》あり遊子樹《いうしじゆ》といふ樹さへ悲しも
 火葬場にマングローヴ樹《じゆ》植ゑたりき其處の灰を手にすくひても見つ【二葉亭四迷も此處に火葬せらる】
 日本人墓地の中にてはるかなる旅をし行かむこころ和ぎ居り
 赤き道椰子の林に入りにけり新嘉坡のこほろぎのこゑ
 はるばると船わたり來てかなしきはジヤランプサルの夜のとよめき
 
(435)     十一月十八日。マラツカ
 
 マラツカの山本に霞たなびけりあたたかき國の霞かなしも
 平なる陸《くが》にかたまり青きをば柳の木かとおもひつつ居る
 東《とう》印度會社のしるし今遺り過去のにほひを放ちてきたる
 戰死者の記念塔のまへにセナ樹うゑ往くも還るも見む人のため
 日本人の齒科醫にあひぬささやかに紙障子などたてて居たりき
 今しがた牛闘ひてその一つ角折れたるが途《みち》のうへに立つ
 ふさふさにバナナ成り居るをまのあたり見てゐる吾等馴れむとすらし
(436) 額より汗いでながら支那人墓地馬來人墓地めぐりて來たり
 マラツカの街上にしてわれも見つ富める女《をみな》の面《おも》の愛《は》しきを
 聖 Francis Xavier《ザビアー》 の墓時ふりて此處にしづまる雪降らぬくに
 マラツカをはなれ來りて入つ日の雲のながきににほふ紅《あけ》のいろ
 
     十一月十九日。ペナン
 
 ややにしてペナンは近しそのはての空に白き雨ふるが見えつつ
 その角を色うつくしく塗れる牛幾つも通るペナンに來れば
 蛇おほく住める寺あり額の文字「恩沾無涯」は國|境《さかひ》せず
(437) ペナン川に添ひて遡るところには水田ありて日本しのばゆ
 支那街はここにも伸びておのづから富みたるものも代《よ》をしかさねつ
 夜に入りて大雨となり乘りこめるデツキ航者(deckpassenger)の床さへ濡れぬ
 
     十一月二十四日。セイロン・コロンボ
 
 水の中に水牛の群れゐるさまはなよなよとせるものにしあらず
 おほどかに水張りて光てりかへし田植は今にはじまるらむか
 この村に鍛冶が鋼鐵を鍛へ居り鎚のひびきも日本に似たり
 Kandy《キヤンデイ》にゆく途中にて土民等が象に命令するこゑ聞きつ
(438) 高々と聳えてゐたる山ひとつマハベリガンガと云ふにやあらむ
 ことわりはおのづからにて錫蘭のサカブタの山に瀧かかりけり
 コロンボのちまたの上に童子等が獨樂《こま》をまはせり遊び樂しも
 ここにしも植物園のもろ木々が油ぎりたる葉を誇らむか
 佛牙寺《ぶつがじ》にまうできたりて菩提樹の種子《しゆし》日本にも渡れるをおもふ
 おほきなる白き獣《けだもの》ちひさなる獣を食ふところを彫りぬ
 椰子の葉をかざしつつ來る男子《をのこ》らの黄なるころもは皆|佛子《ぶつし》にて
 つづき居る椰子の木立のひまもりて入日の雲のくれなゐ見えつ
(439) 冬さむき國いでて遠くわたりけりセイロンの島に螢を見れば
 
     十一月二十六日。印度洋
 
 餘光さへなくなりゆきし渡津海にミニコイ嶋の燈臺の見ゆ
 あらはれし二つの虹のにほへるにひとつはおぼろひとつ清けく
 印度の洋《うみ》けふもわたりて食卓に薯蕷汁《とろろ》の飯《いひ》を人々たのしむ
 わたつみの空はとほけどかたまれる雲の中より雷《らい》鳴りきこゆ
 虹ふたつ空にたちけるそのひとつ直ぐ眼のまへにあるにあらずや
 
     十二月一日。アデン灣。三日。紅海
 
(440) アデン灣にのぞむ山々|展《ひら》くれど青きいろ見ゆる山一つなし
 佐渡丸ととほり過がへり海わたる汽笛かたみに高きひととき
 朝あけて遠く目に入る鋭《と》き山をアフリカなりといふ聲ぞする
 空のはてながき餘光をたもちつつ今日よりは日がアフリカに落つ
 夜八時バベルマンデブの海峽を過ぎにけるかも星かがやきて
 ペリム島亞刺比亞の國に近くしてその燈臺の見えはじめたり
 アフリカに日の入るときに前山《さきやま》は黒くなりつつ雲の中の日
 あかつきは海のおもてに棚びける黄色《くわうしよく》の靄あな美しも
(441) 紅海に入りたる船はのぼる陽を右にふりさけ見れども飽かず
 甚だしく紅かりし雲あせゆきて黙示《もくし》のごとき三つ星の見ゆ
 紅海の船の上より見えてゐるカソリン山《ざん》は寂しかりけり
 海風は北より吹きてはや寒しシナイの山に陽は照りながら
 
     十二月七日。エヂプト。Suez より Genefe, Fayed, Nefisha, Esmailia, Abou-hammad, Zagazig, Benha 等の驛を經て Cairo 著。ピラミツド、スフインクス等よりカイロ市街を觀、Port Said に至る。同行神尾、藥師寺、庄司三氏のみ
 
 大きなる砂漠のうへに軍隊のテントならびて飛行機飛べり
 丘陵のうへに白雲の棚びけるところもありぬすずしくなりて
(442) 砂原のうへに白々《しろじろ》と穗にづるはしろがね薄といふにし似たり
 列なしてゆく駱駝等のおこなひをエヂプトに來て見らくし好しも
 Bitterlake《ビタレーキ》といふ湖水《みづうみ》が見ゆ小鴉のむれ飛びをるは何するらむか
 土の家部落をなして女《をんな》など折々いでて此方見にけり
 英吉利の兵営なるかかたはらに軍馬の調練せるところあり
 モハメツドの僧侶ひとりが路上にてただに太陽の禮拜をする
 たかり來る蠅あやしまむ暇なく小さき町に汽車を乘換ふ
 白き鷺畑のなかに降りて居り玉蜀黍《たうきび》の列ながくつづく見ゆ
(443) しづかなる午後の砂漠にたち見えし三角の塔あはれ色なし
 ピラミツドの内部に入りて外光をのぞきて見たりかはるがはるに
 スフインクスは大きかりけり古き民これを造りて心なごみきや
 はるばると砂に照りくる陽に燒けてニルの大河《おほかは》けふぞわたれる
 はるかなる國にしありき埃及のニルの河べに立てるけふかも
 ニル河はおほどかにして濁りたり大いなる河いつか忘れむ
 朝床に聞こえつつゐる馬の鈴われの心をよみがへらしむ
 黒々としたるモツカを飲みにけり明日よりは寒き海をわたらむ
 
(444)     十二月九日。地中海
 
 この夕べ鯛の刺身とナイル河《が》の鰻食はしむ日本の船は
 シシリーのイトナの山はあまつ日にかがよふまでに雪ふりにけり
 伊太利亞の Reggio《レツジヨ》の町を見つつ過ぐしらじらとせる川原もありて
 Messina《メツシナ》の海峽わたり冬枯のさびたる山が目にし入《い》り來も
 孤獨なるストロンボリーのいただきに煙たつ見ゆ親しくもあるか
 Bark《バルク》といふ三檣船《みはしらせん》も見えそめてコルシカ島に近づきゆかむ
 
     十二月十四日。マルセーユ
 
(445) 朝さむきマルセーユにて白き霜|錻力《ブリキ》のうへに見えつつあはれ
 山のうへのみ寺に來り見さくるや勝鬨あぐる時にし似たり
 
     十二月十五日。巴里。十二月十五日午後十時十分巴里ガル・ド・リオン著。オテル・アンテルナシヨナール投宿。銀行、大使館、市街、トロカデロ、エツフエル塔、エトワール、ルウヴル、パンテオン、アンヴアリード、リユクサンブール、クルニエ博物館、オペラ、地下鐵道(メトロ)等。十八日まで滯在す
 
 霧くらく罩めて晴れざる巴里《パリー》にて豐なるものを日々に求めき
 ルウヴルの中にはひりて魂もいたきばかりに去りあへぬかも
 英雄はその光をも永久《とは》にして放たむものぞ疑ふなゆめ
(446) Ici repose un soldat francais mort pour la patrie 1914-1918.われもぬかづく
 
     十二月二十日。伯林。十二月十九日、午前八時十分、ガル・ド・ノールを出發して伯林に向ふ。小池・神尾二君と予と同車なり。十二月二十日伯林アンハルターバンホーフ著。石原房雄君出迎ふ。Hotel Alemannia 投宿。○爾來前田茂三郎君はじめ多くの同胞に會ふ。○十二月二十七日、ハンブルグに行き老川茂信氏に會ふ。歸途の汽車中にて信用状の盗難に遭ひ困難したるが、信用状大使館に屆き、謝禮三五〇〇麻克にて結末を告ぐ。○三十一日、ユニオン・バレエにて除夜を過ごし、十二時に大正十一年の新年を祝ふ。○四日より連日美術館を見る。○八日神尾君ウユルツブルヒに立つ。○十三日、墺太利、維也納に向ふ。
 
 大きなる都會のなかにたどりつきわれ平凡に盗難にあふ
 美術館《ムゼウム》に入りて佇む時にのみおのれ一人の心となりつ
(447) おどおどと伯林の中に居りし日の安らぎて維也納《ウインナ》に旅立たむとす
 
(449)「つゆじも」後記
 
      ○
 歌集「つゆじも」は制作年代よりいへば、自分の第三歌集に當り、歌集「あらたま」に次ぐものである。そして、大正六年十二月、自分が長崎醫學專門學校教授になつて赴任した時から、大正十年三月長崎を去るまでのあひだに、折に觸れて作つた歌、それから、東京に歸つて來て、その年の十月すゑ、歐羅巴留學の途に上るまでのあひだに作つた歌(その中には信濃富士見で靜養した時の歌をも含んでゐる)、それから、船に乘つてマルセーユまで行き、汽車で巴里を經て伯林に著き、暫時其處に滯在し、大正十一年一月十三日、維也納に向つた時までの歌をひろひ集めたことになつて居る。
      ○
 自分の長崎時代の歌、即ち大體大正七年八年九年の歌は、アララギ、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞、長崎日日新聞、雜誌紅毛船、雜誌アコウ等にたまたま載つたもの以外は、未定稿のものをも交へて手帳に控へ、一部は歌稿として整理してあつたものが、大正十三年の火難に際して燒失(450)してしまつた。そこでもはや奈何とも爲ることが出來ないから、既に發表したもののみにとどめて編輯しようとおもひ、大正十五年ごろその一部を印刷にまで附したのであつた。然るに計らずも、歐羅巴から持歸つた荷物の中に、長崎時代の小帳面四册あることを發見したが、その中には大正九年病のため靜養してゐた頃の歌がいろいろ書いてあつた。即ち、自分が大正十年の夏ごろ解放といふ雜誌に發表した「温泉嶽」と題した十數首の歌は、皆この小帳面の中にあることを發見したのである。さうして見ると、是等の小帳面は自分が洋行するとき、荷物の中にほかの物と一しよに入れたのであつた。帳面には、長崎から鹿兒島宮崎の方に旅したときの未定稿のもの、それから長崎を去つて上京するまでの途中の歌をも若干首書き記してある。是等は皆粗末な歌であるが、自分としては記念したいものであつた。ただ大正七年八年ごろの小帳面が失せたからその年に作つた歌が無い。大正七年夏には、二三の同僚と共に宇佐から耶馬溪、それから山越をして日田に出て、日田から舟で筑後川をくだり、鮎の大きいのを食ひ、その耶馬溪から日田への途上、夜の山越をしたとき、紅い山火事を見たりして、その時の歌もあつたのに、それ等は燒失せたのであつた。また大正八年には同僚知人と共に熊本に遊びそれから阿蘇山にのぼり、別府へ拔ける旅をし、阿蘇の中腹で撮つた寫眞も遺つて居るし、その時の歌も若干首あつた筈だが、それ等は燒けたから奈何ともすることが出來ない。
(451)      ○
 燒失せた其等の歌のごときは、所詮粗末なものであるから、大觀すれば決して惜しむには足らぬけれども、燒失して見れば、つまらぬものにも愛惜をおぼゆるは人の常情であらうから、この歌集には隨分つまらぬ歌まで收録せられたのである。また洋行の歌であるが、洋行は自分のはじめての經驗であり、慌しい作のうちから、辛うじてこれだけ整理したのであつた。海上の赤い雲の歌などが幾首も出て來るが、これも初航海の經驗者として免れがたいことであつた。
      ○
 私が歸朝して、火事のために、雜誌書籍を燒失してしまつたとき、同情深き諸友は、私のために、所藏の新聞雜誌の切拔を贈られたのであつた。その諸友は、渡邊庫輔(與茂平)、村田利明、鵜木保、鹿兒島壽藏、竹内治三郎、森路匆平(高谷寛)、赤星信一、村田敏夫、山根浩、加納美代、佐藤峰人、遠藤勝、畠山元三郎、結城健三、三田澪人、志村沿之助、我謝秀昌の諸氏で、この集を編むことの出來たのも、皆此諸氏のたまものである。特に、私ごとき者の書いたものを、斯く丁寧に保存して置かれたといふことに對し、私は涙の出るほどふかく感動したのであつた。この感動と感謝とは、既に十數年を經過した今日といへども毫も變るところがない。
      ○
(452) 集の名「つゆじも」といふのは、この一卷の内容が主として長崎晩期の心にかよふと思ひ、かく命名したのであつた。併し、萬葉に、露霜乃消去之如久。露霜之過麻之爾家禮などの如く、無常悲哀を暗指するやうだから、歌集の名としてはどうかしらんと云つて呉れた友もゐたが、『露霜乃、消安我身、雖老、又若反、君乎思將待』(萬葉卷十二)といふ歌もあるから、大體この名にしておかうと答へたのであつた。また私のこの集を予告したのと前後して、某氏の遺稿に、「つゆじも」といふのが出でて、かたがた自分もどうしようかとおもつたのであるが、やはり最初の心にこだはつてこの名を存することとしたのである。
      ○
 この歌集は昭和十五年の夏に編輯した。自分の歌集は「寒雲」以來新しい方から逆に發行しようと企てたから、本集の發行はいつになるか明瞭ではないが、兎も角、ほかの歌集を整理したついでに整理して置くのである。(以上昭和十五年八月記)
      ○
 昭和十八年夏、横濱の佐伯藤之助氏が、私が大正七年八月七日長崎で書いた左の短册を示された。
  長崎に來てより百日過ぎゆきてあはれと思ふからたちの花
(453)      ○
 ついで昭和十八年十二月六日、長崎の森路匆平氏が左のごとくに通信せられた。
    大正十年一月二十三日、長崎市酒屋町松樂にて齋藤先生送別小宴を催す。會するもの、齋藤茂吉、廣田寒山の両先生、大久保日吐男(仁男)、前田毅、大塚九二生並に高谷寛(森路匆平)、齋藤先生に左の即吟あり
  うつしみは悲しけれどもおのづから行かなかたみにおもひいでつつ
  この家に酒に亂れゑひて人は居りとも我等の心にさやらぬしづけさ
  をみな等のさやぎのひまに聞ゆるはあられ降りつつあはれなる音
  女等のさやぎのひまに聞ゆるは霰のたまるさ夜の音かな
  寺まちの南のやまの黒々とつひに更けつつあられ降る音
      ○
 昭和二十年九月、山形縣金瓶在住中、熱海磯八莊なる永見徳太郎(夏汀)氏より來書、米軍の用ゐた原子爆弾の慘害を報ずると共に、大正九年予がのこした次の三首を報じた。
  長崎の永見夏汀が愛で持ちし鰐の卵をわれは忘れず
(454)  南京の羹を我に食はしめし夏汀が嬬は美しきかな
  しづかなる夏汀が家のこの部屋に我しばしば來し百穗も來し
      ○
 大正七年は自分の三十七歳の年に當るから、本集の歌は殆どすべて三十七歳から四十歳に至るあひだに作つたものといふことになる。また、本集の歌數は、本文中に六百九十七首、後記中に九首あるから、合算すれば七百六首といふことになる。(以上昭和二十年九月記)
      ○
 本歌集の發行は岩波茂雄、布川角左衛門、佐藤佐太郎、中山武雄、榎本順行諸氏の厚き御世話になりました。私は三月から病氣になり今なほ臥床中でありますが、その間岩波茂雄氏の急逝にあひ、悲歎限りありません。(昭和二十一年五月廿九日、大石田にて、齋藤茂吉記。)
      ○
大正七年六月大橋松平君新婚賀
寂しくてあり經し君はひるさへや新若妻にたさしかりなむ
晝日中にはたらけば君が額よりしみ出る汗は新妻ふかむ
 右の二首が脱落してゐるので、第三版發行の機會に増補して置く。(昭和二十六年二月四日記)
〔2021年12月21日(日)午前11時50分、入力終了〕
 
 遠遊
               〔アルファベットにつく符号類はすべて省略〕
(457)   維也納歌稿
 
     大正十一年一月十三日午前八時伯林 Anhalterbahnhof を出發して維也納に向ふ。前田茂三郎君見おくる
 
 わが心やうやく和み雪つもる獨逸のくにを南へくだる
 見わたしの畑に雪降りかぎりには黒くつづける常緑樹《ときはぎ》の森
 牛の二頭あるひは馬の二頭にて耕せる見ゆ冬の畑に
 ひむがしの空の一ところ紅《くれなゐ》のにじみたる見ゆ寒きドイツに
 カバン負ひて小學兒童行く見ればいづこの國も穉《をさな》はかなし
 かくのごと朝早くより働ける獨逸農夫を見すぐし兼ねき
(458) 落葉樹の木立のなかに水たまりあり折々反射の光をはなつ
 丘陵がゆるくつづきてその上に林あり墓地ゐるを吾が見つつ居る
 童子等の橇の遊びの日に入りし小さき家の一廓も見ゆ
 寺の尖塔が見えしとおもふに大きなる停車場にとまるドレスデンなり
 水量《みかさ》ましひたにごりたる Elbe《エルベ》の河を滿たして雪はながるる
 ドレスデンをいでて間もなきにこの河の對岸の山に雪降りにけり
 シヤンダウを過ぎてあらはれし谿谷を目守りてゐたり遠き旅人
 蒼き空はつかに見ゆるところあり山にかかりて雪ふりながら
(459) 雪深き國境に來て吏《り》のまへに整理とどかざりしトランク開く Tetschen(Decin)
 午後六時半ごろ空にかすかなる月あることを氣づきつつ居り
 二《ふた》たびの國境に來て無造作にわがトランクに許可の印《しるし》うつ Gmund(Cmunt)
 月かげの雪てらす國正目にし墺太利《オウストリア》にわれ入りにけり
 やうやくに月ひくきころおもほえず見えわたりけれ Donau の河は
 Droschke《ドロシユケ》といへるに乘りてわれ行けり石疊なる冬の夜のおと Hotel de France 投宿
 公使館たづね來《きた》れば手續をすまし居りつつ同胞にあふ 一月十五日
 銀行より吾は歸りてこの國の紙幣いろいろ並べ見つつゐる 一月十六日
(460) ドウナウの流れの寒さ一めんに雪を浮べて流るるそのおと 一月十八日訪笹川正男君
 
    一月二十日神經學研究所にマールブルク先生(Prof.Dr.O.Marburg)にまみゆ
 
 大きなる御手《みて》無造作にわがまへにさし出されけりこの碩學は
 けふよりは吾を導きたまはむとする碩學の髯見つつ居り
 おぼつかなき墺太利語《オーストリご》をわが言ひて教授のそばに十分間ぼかり居る
 はるばると來て教室の門を入る我の心はへりくだるなり
 
    一月二十二日(日曜〕、一人外出、笹川君と夕食を共にす
 
 雪ふれるうへに日の光さすさまを小公園にひとり見てゐる
 
(461)    一月二十三日(月曜)、教授材料を指導す。この日オーベルシユタイネル先生(Hofrat Prof.Dr.H.Obersteiner)にまみゆ
 
 はるばると憧憬《あくが》れたりし學の聖《ひじり》まのあたり見てわれは動悸す
 門弟のマールブルクをかへりみて諧謔ひとつ言ひたまひたり
 
    一月二十九日(日嘩〕、笹川君とドウナウ河を見、午餐を共にす
 
 こほりつつ流るるにかあらし豐かなるドウナウのみづの音のさびしさ
 暖かき君の部屋にて時うつり食《しよく》にハンガリイの Paprika を愛づ
 
    一月三十日、雪大に降る。終日教室にて勉強し、夜笹川君に會ふ
 
 業房に一日《ひとひ》こもりて天霧《あまぎら》し降りくる雪ををりをり覗く
 
(462)    二月一日、ホテルより移居す(b/Fr.Halphen Nussdorfstr.77.)
 
 やうやくに部屋片づけて故郷より持てこしたふさぎを一纏《ひとまとめ》にす
 朱硯《しゆすずり》の小さきを荷より取りいだし机の片隅に置きて見て居り
 
    二月十日、同胞と共にオペラ座にてアイダを觀る
 
 巴里《パリー》にて一たび聽けるこの歌劇けふのゆふべに二たび飽かず
 
    二月十一日、日本紀元節
 
 朝はやく日本公使館に祝言《ほぎごと》をまうしそれより自らの部屋をさがす
 
    二月十四日、業房勤勉、夕べ部屋をさがす
 
(463) 太陽の紅く沈むを第九區の石階《せきかい》のうへにしばらく見たり
 
    二月十九日、マールアルク先生に案内せられて、Schwarzenberger Park に遠足し、畫家 Kelmec を訪ふ
 
 雪ふかく積める山べの日のひかり新しきドイツ語を頸つか憶《おぼ》ゆ
 
    二月二十日、伯林なるロスト夫人、前田茂三郎氏伊太利の旅を了へて立寄り、伯林に立つ
 
 業房に業《げふ》いそしめばこの都市に君と遊ばむ時を無くせり
 
    三月三日、ゆふべ Hotel Sach にて日本人會を開く
 
 ひむがしの國のはらからあつまりて本つわが國|祝《ほ》ぎあひにけり
 
    三月七日、Wagner 教室の大講堂にて神經學會あり
 
(464) 學者らをまのあたり見て業績のつながるさきをたぐるがごとし
 
    三月十日、笹川君の歸國を、岩淵、佐藤、三木、井手の諸君とともに、西停車場におくる
 
 ウインの第一歩より君のみなさけをわれ蒙りぬ忘るとおもふな
 
    三月十一日(土曜〕、オウベルシユタイネル先生予の業房を訪はる
 
 おもひまうけず老先生そばに立ち簡潔にわれを勵ましたまふ
 
    三月十三日(月曜〕、マールブルク先生はじめて予の標本を見る
 
 わが作りし腦標本をいろいろ見たまひて曰く ヽesultat positiv!"
 
    四月五日(水曜〕、四月一日廢帝カール、マデエラ島にて流行性感冒のために薨去せらる。伯林のクレムペレル教授、露都にて(465)レーニンを診察す。そして、器質性疾患にあらずして、週勞症状なることを報ぜり。(Keinerlei organische Krannkheit hat.Er ist jedoch uberarrbeitet und ubermudet,usw.)夜、カフエに入りて心をしづむ
 
 きのふ大學の講堂にて聽きし學者等の報告を二三行づつ書留む
 
    四月九日(日曜〕、維也納の童子等と、ライムンド劇場(Raimund-Theater)にシユニツツレルの「遺言」等を觀る
 
 童子らをつれて遊べば東京にのこし來りし茂太おもほゆ
 
    四月十六日(日曜〕、Ostersonntag
 
    四月十七日(月曜)、Ostermontag
 
 Mauer《マウエル》の青山に一日《ひとひ》遊びたる耶蘇復活の日曜のよる
 業房は今日も閉ぢたれば寺々の樂を聽きつつ市内を出でず
 
(466)    四月二十日(木曜〕、オウベルシユタイネル先生をクロツテンバツハ街三番地の邸に訪ふ
 
 年ひさに戀ひて慕へる大き人の御手《みて》をにぎりてよろこびやまぬ
 わが業《げふ》を勵ましたまひ勘忍の日々を積めとふ言《こと》のたふとさ 「四週間業績を羨むことなかれ」かくのごとくも諭したまへる
 小間使の愛《かな》しき面《おも》よウインに來てはじめて見たりかかる少女を
 古りし代の希臘哲人の胸像がこの庭に一並びに並びてぞ立つ
 黒き鳥木立の間《ま》を縫ひ飛ぶ見ればこの大き人の起臥おもほゆ
 コベンツルの丘陵青く起きふすを此處よりふりさけて暫し和ぎゐる
(467) 東海の國よりとほく來りたる學徒の吾よ今日をな忘れそ
 
    四月二十日、勞働者デモンストラチオン
 
 十二萬と注せられたる勞働者の示威行進にも目を瞠りゐる
 つらなめて歌うたひ來る一群にわが知れる車掌處女も居るはや
 行列の右にも左にもくばり來る「赤き旗」といふ新聞求め持ちかへる
 
    四月二十二日、移居(ハルフエン方よりキイン方に)
 
 寢に歸るのみとおもへどこの部屋を祝福し暫くして二重の窓を閉づ
 
    四月二十四日、夜カフエにて時を過しぬ
 
(468) 日本の鯉のぼりのこと言ひし通信に「勇猛の象徴」といふ語を用ゐあり
 
    四月二十六日、Hotel Imperial に川上公使夫妻に會ふ。本多公使夫妻同席なり
 
 川上公使夫人と同船にてわれ來しゆゑにけふ甘納豆をもらふ
 
    四月三十日、ひとり Prater 公園にあそぶ。夜、友をフランツヨゼフ停車場にむかふ
 
 Prater《プラータ》にひとり來りて奇術師と蚤戰爭と泣く小劇と
 伯林より來れる友は長崎の同僚にしていつのまにか髭おとし居り
 
    五月一日、Staatsfeiertag
 
 Maitag《マイターク》の示威行進は雨のため中止となりしか警官等歸り來る
 
(469)    五月七日(日曜)Laxenburg 離宮行
 
 デモンストラチオン今日に延びたれば一しきり勞働者等の行進つづく
 遠足を好める市民むらがりてこの停車場に時を惜しめり
 いつしかも青くなりたる丘こえて Steinhof《シユタインホーフ》の狂院が見ゆ
 Kastanien-Allee《カスタニエンアレエ》の色は匂ひだち背向《そがひ》の丘の青き起伏《おきふし》
 この城に入りて聯想の糸ひけば封建の世も鬱々として
 白鳥《しらとり》の浮きて遊べるきよき水城をめぐりて今も湛ふる
 太陽の紅く落つるを見つつゐてドナウ流域のひろきをおもふ
 
(470)    五月十五日、アルツール・シユニツツレル六十歳誕辰
 
 青年の作家とおもひゐたりしにはや大家となりて動搖もなし
 
    五月十七日、教室にて
 
 この野郎|小生利《こなまぎき》なことをいふとおもひたりしかば面罵をしたり
 
    五月二十一日、Hofbibliothek(Nationalbibliothek)
 
 皇室の御紋章ある漆塗かしこしと吾は歩みとどめつ
 マリア・テレジアの御臥處《おんふしど》をもぞろぞろと見物人は見て過ぎむとす
 戰勝の油繪壯麗に懸けあるも悲哀をさそふひとつなるべし
 
(471)    五月二十一日、Schonbrunn を案内す
 
 二人來し法醫學者を案内し「街の少女」のこと一切言はず
 
    五月二十六日、業房にて
 
 午後になり間もなく雷《らい》の鳴りたるを吾の心は樂しむごとし
 
    五月二十八日(日曜〕、Modling 行
 
 見るかぎり青野ゆたかに起伏《おきふ》せば水の中にてひきがへる鳴く
 アムゼルが樅《もみ》の木立に來ゐて啼く冬のあひだは啼かぬこの鳥
 青野には日の光にさやるものなきに蟋蟀ぞ鳴く晝のこほろぎ
(472) 酸模《すかんぽ》の花のほほけし一群《ひとむら》も異國《ことぐに》ゆゑにあはれとおもふ
 松かぜの聞こゆるときに心寂し遠くも來つるわれの心の
 
    六月四日、Voslau 行
 
 アカシアの花白く散り櫻桃もきのこも店頭に見えて春更く
 砂しろき大きなる湯の池に入り日本にゐたるごとき一とき
 この町に石垣あるを嬉しみてカスタニエンの樹のもと行くも
 夏の野をながるる小川砂白くよく見れど魚の走ることなし
 南方の Voslau《フエスラウ》の温泉にこころ和ぎ日は傾きぬ青野のはてに
(473) 日獨の同盟を説く論者あり Emil Seeliger《エミールゼーリガア》といふ中佐なり
 レーニンの疾病を報ぜし記事のあり Gehirnschlag《ゲヒルンシユラーク》即ち卒中せしと
 
    六月五日、Dr.Pollak より請待を受く
 
 今にても富み足らひたるところあり若葉のしたに蚊の飛ぶおとす
 
    六月十一日(日曜)、Lichtenstein Gemaldegalerie を訪ふ
 
 半日を古代美術にこだはりて午後黒人の踊に放心したり
 
    六月十四日、シエンブルン動物園に立寄りて去る
 
 白き鸚鵡園丁の手にのり居りて離れがたきを吾見つるかな
 
(474)    六月十八日、童子二人を連れ Servittenkirche に Prozesssion を見たり
 
 ふるさとの茂太のことをおもひ出しこの童子等に菓子を與へし
 
    六月二十三日、Reichert 顯微鏡工場を見る
 
 顯微鏡の會社見學に來ておもふこの間にも餘裕のなきをおぼゆる
 
    六月二十四日(土曜)、猶太殿堂に入る
 
 東方の祷《いのり》のゆゑに支那びとのうたふに似たる悲しさありて
 
    六月二十五日(日曜)、美術館、マウエル行
 
 Pieter《ペータ》 Brueghel《ブリユーゲル》 の冬の村落圖その他《ほか》を見て出で來たりけり
(475) 雷《らい》の雨《あめ》音たてて降りし野のうへに二たび光さすを見て居つ
 
    六月二十六日、友を訪ふ
 
 電車罷業けふもつづきて夕闇の街いくまがり歩きて歸る
 
    六月二十九日、Este'sche Kunstsammlung 博物館
 
 エジプトの狒狒の石像を眼にとめて心よろこびながら出で來つ
 
    七月二日(日曜)、Purkersdorf 遠足
 
 谷間には Jagerbrunnl といふ泉あり音して湧きぬわがかがむとき
 この村の修道僧院に一團の孤兒來りいのりの歌うたふこゑ
(476) いちごの花一めんに咲くところよりまどかに青き山見えわたる
 
    七月三日、四日、吹田、成瀬、小牧三教授と共に濁逸國民劇場に Moissi の演劇を見る
 
 劇はててより觀客群集の少女等が鬨をつくりて讃歎す噫
 
    七月九日(日曜)、Schwarzenberger, Zentralfriedhof
 
 カスタニエンの繁る木下《こした》に休らふを貴きもののごとくにおもふ
 張りつめて爲事する七日《なのか》の一日《ひとひ》だにかかる寂しさを愛《を》しまざらめや
 汗垂りて中央墓地に來りけり墓地の木下にしばし眠らな
 我が生《せい》のときに痛々しくあり經しが一人この墓地に來ゐる寂《しづ》かさ
 
(477)    七月十五日(土曜)、維也納水源見學す
 
 洞窟の中にみなぎる雪解水帝王もつねに召したまひにき
 アルペンの雪解の水のとどろきを゜eimfrei"と注解をせり
 維也納市《ういんなし》の水道源を約言すれば氷のみづと謂《おも》ふべからし
 
    七月十六日、Semmering
 
 白雲はこの大谿《おほだに》に動けどもその間《ひま》にしてたたなはる山 くろぐろと樅の木原のつづきたる山ふりさけて曉《あかつき》に居り
 山の氣《いき》ゆふべとなれば冷え來りアルペンの脈おもほゆるかも
(478) この山に飛びかふ螢の幽かなる青きひかりを何とか言はむ
 暗やみの谿を越えたる向う空ほのかにあかし町の灯《あかり》か
 赤き屋根この山原に點在し傍看せしむる時にだに好し
 Schneeberg《シユネエベルク》 は即ち雪山《せつざん》の意味にしてふかき谿谷を幾つも持てる
 
    七月二十日、齋藤秀雄君の寫眞帖に題す
 
 おのづから君を慕ひし少女子のしづかなる眼も寫しけるかな
 
    七月二十二日、東京來信
 
 出羽の海の身まかりし知らせ受取りてよりあやしき迄に東京おもほゆ
 
(479)    七月二十三日(日曜)、ひとり街上を行く
 
 朝宵を青年のごとく起臥してひぐらし鳴かぬ夏ふけむとす
 
    ドウナウ下航
 
     大正十一年七月二十七日、午前七時半、Donau-Brucke(Prater Reichsbrucke)の側より船に乘る。内藤、津田(終吉)、津田(博通〕三氏同行す
 
 空合《そらあひ》につづかむとするきほひにて「青きドナウ」は今日こそ濁れ
 大きなる河としいへば親しかり白き水鳥ひらめき飛びて
 鴉らは相むらがりて低く飛ぶ島の森に來れば入りゆくもあり
 ゆたかなる河のうへより見て過ぎむ岸の青野は牛群れにけり
(480) すでにして過ぎ來し森のかすむまで吾等の船はかくも速しも
 大き河國をくだれば暗緑の森のこごりし陸《くが》をこそ見め
 緑なる平野より來て Donau《ドウナウ》 に支流のあふは寂しかりけれ
 平野には木立つづきて青けれど黄色《くわうしよく》に見ゆる處ありたり
 ひむがしに向ひ流るるドウナウの河にせまれる山も青しも
 Theben《テエベン》に著けば此處にも支流あり山の上なる城塞しろく
 砂原の白く見えゐるところあり支流がここに合ひをるらしも Pressburg
 元始的に見ゆることあり網たれてドウナウの鯉捕る人のあり
(481) おほどかに流るる河の舟に添ふ水車がありて麥をひくらし
 此處にまた支流がありて國原の森のあひだを浸して來《きた》る
 岸ひくく白き鳥群れ丘陵の半腹に牛群れたるも見ゆ
 ここにして支流 Waag《ワーク》の合ふところ水銀《みづがね》のいろに光を没す komorn
 ドウナウをかへり見すれば大きなる河としなりて浪音《なみのと》もせず
ひくき岸よりただに平野につづきたるウンガルン國われも愛でつる
午後六時わが船つけば Basilika《バジリカ》の寺院のうへに入日さしたり
 
    ブダペスト
 
(482) ドウナウにせまり來れる山見つつエレデンクの唄聞けども飽かず
 夜のドウナウ語りあひつつ朝はやく Erzsebethid を渡る
 城砦にものぼり來りつ Joseph《ヨーゼフ》 Peridy《ペリデイ》大尉がドイツ語にて導く
 名にたかき泥浴《でいよく》に來て見しかども時を惜しみて誰も浴せず
 王宮をも吾等は觀たりエリザベト皇后の悲しき黒き御《み》ころも
 かくのごと小公園に芍藥も紫蘇石竹もにほひてかなし
 西瓜、瓜、桃、李、巴旦杏《ハダンキヤウ》、青唐辛子をも店にならべつ
 この町の Joseph《ヨーゼフ》 Reitzer《ライツエル》君の日本語を十《とを》ばかり手帳に記したるのみ
(483) 唐黍《たうきび》の赤毛《あかげ》のふさもなつかしと街上《がいじやう》を來て足をとどむる
 大學の助手がわが手を痛きほど握りヽassen-Verwandt"と言ひたり
 この都市も一たびポルシエヴイスムスに破れたる過去持つことを暫しおもへる
 
    獨逸旅行
 
     ミユンヘン。大正十一年八月四日、維也納を立ち、獨逸ミユンヘンに著く
 
 ミユンヘンにはじめて來り旅びとの第一歩のごとくに歩く
 諸教授を訪ひてこころは和ぎゐたり Spielmeyer《シユビールマイエル》、Rudin《リユーヂン》、Isserlin《イツセリン》
 バワリアの古き都市としおもへればなべての物がこころに觸《ふ》り來《く》
(484) Platzl《プラツツル》,Hofbrau《ホーフブロイ》もひとり來てこの國人のなかに醉《ゑ》ひけり
 イサールの青きながれとひと歌ふこの山川《やまがは》はあはれとどろく
 日ざかりの汗は垂りつつ Frauenkirche《フラウエンキルヘ》の塔のうへの吾はや
 觀るべきはおほかた觀たり豐かなるピナコテークもいそぎめぐれば
 、n Auslander wird keine Ware abgegeben.この貼り紙にまなこを※[目+爭]《みは》る
 この町に六日をりつつ維也納より心落ちゐざることをおもはむ
 戰にやぶれしあとの國を來てわれの心は驕《おご》りがたしも
 
    オーベルアムメルガウ。八月八日、九日、Oberammergau に至り、基督受難劇(Passionsspiel)を觀る
 
(485) 湖の濃き碧《あを》のいろ高山《たかやま》のはだら雪のいろこの國ゆけば
 牛むるる牧のかたはらに面紅き雉子の降りゐるは恐怖《おそれ》なけむか
 Brdford Cragin といふアメリカの青年と同じ家に寢《いね》たり
 十年に一皮のみなる受難劇ひとり旅路のわれ會ひにける
 この村の小川の岸におりたちて藻のゆらぐさま心こほしむ
 石竹《せきちく》と天竺牡丹と花あふひ日本の村を行くにし似たり
 基督の一代の劇壯大に果てむとしつつ雷《らい》鳴りわたる
 相こぞりこの村人の演ずるを神の黙示《もくし》と代々に繼ぎ來し
(486) 青き野が峽《かひ》のあひだにつづけるに牛の頸《くび》の鈴をりをり聞こゆ
 きりぎりす夏野に鳴けり故郷の野べを思ひて眼《まなこ》つむりぬ
 おごそかに既にせまれるアルペンの山脈《やまなみ》にしも相對ひたる
 山かひのさびしき村に立ちてゐる寺の尖塔は心をしづむ
 ここを流るる Ammer《アムメル》川はおのづから Ammer湖まで北へ流るる
 
    ニユルンベルク。八月十一日、この都市を見る
 
 あわただしくこの都市に來て古城をも Durer《デユーレル》の家をも見たり 古城にては「ひよつとこ」の面ひとつ見ついかなる時に渡來しっらむ
(487) バワリア製鉛筆工場はこの都市にありと知れども今は機《をり》なし
 聖ローレンツ寺院の内部も Tugendbrunnen の水もあわただしく見つ
 
    ウユルツブルク。八月十一日、十二日見物す
 
 ここに來る途中の畑《はた》に案山子《かかし》ありパワリア農夫の貌《かたち》おもしろ
 友一人ここの教室に居りたるを訪ねしかども旅ゆきて居ず
 Dom《ドオーム》はいづれの都市も持てれども年古りたれば心ゆかしも
 馬鈴薯の畑のまはりに向日葵が高々と咲きかがやくごとし
 シイボルトの記念像を暫し立ち見るに長崎鳴瀧の事をしおもふ
(486) 青き野が峽《かひ》のあひだにつづけるに牛の頸《くび》の鈴をりをり聞こゆ
 きりぎりす夏野に鳴けり故郷の野べを思ひて眼《まなこ》つむりぬ
 おごそかに既にせまれるアルペンの山脈《やまなみ》にしも相對ひたる
 山かひのさびしき村に立ちてゐる寺の尖塔は心をしづむ
 ここを流るる Ammer《アムメル》川はおのづから Ammer湖まで北へ流るる
 
    ニユルンベルク。八月十一日、この都市を見る
 
 あわただしくこの都市に來て古城をも Durer《デユーレル》の家をも見たり
 古城にては「ひよつとこ」の面ひとつ見ついかなる時に渡來しつらむ
(487) バワリア製鉛筆工場はこの都市にありと知れども今は機《をり》なし
 聖ローレンツ寺院の内部も Tugendbrunnen の水もあわただしく見つ
 
    ウユルツブルク。八月十一日、十二日見物す
 
 ここに來る途中の畑《はた》に案山子《かかし》ありパワリア農夫の貌《かたち》おもしろ
 友一人ここの教室に居りたるを訪ねしかども旅ゆきて居ず
 Dom《ドオーム》はいづれの都市も持てれども年古りたれば心ゆかしも
 馬鈴薯の畑のまはりに向日葵が高々と咲きかがやくごとし
 シイボルトの記念像を暫し立ち見るに長崎鳴瀧の事をしおもふ
(488) この大學の精神科主任の Rieger翁《リーゲルをう》は兎の腦を持ちながら話す
 マイン河の橋わたり來て猶太童子の疎外せらるるを目のあたり見つ
 ここの食店にゝrinkgeld nicht abgeschaffen″とことわりてあり
 公園に大き寒暖計すゑありて攝氏《ツエルジユス》の二十五度を示せり
 大きなる鎌にて草を薙《な》ぐこともおほどかにしていそがしからず
 
    フランクフルト。八月十二日、十三日、十四日滯在、齋藤(豐)、寺田、清瀧氏等に會ふ
 
 クールベの海波國ゴオホのガツシエ像デユレルの父の像カタソナの像
 熱心に語りやまぬ教授 Jahnel《ヤーネル》のやぶれし靴を今は尊ぶ
(489) ゲエテの家われも見めぐりおほよその旅人のごと出でて來りぬ
 同胞《どうばう》の研究室をも今日は見ぬ小さき不平も無くて居りにき
 河に治ふ猶太街《ゆだやがい》まで入りゆきてその雰圍氣をおもひつつ居り
    ギーセン。八月十四日、十五日
 
 しづかなるギーセンに向ふは Robert《ローベルト》 Sommer《ゾンメル》翁を訪はむためのみ
 碩學のこの老翁は山嶽に行かず日ごとにここにし通ふ
 
    ライン河。八月十六日、マインツ市より、Kaiser Wilhelm U.號に乘船してラインをくだる。Rudesheim,Bingen,Bingerbrucke,Assmannshausen,Lorch,Bacharacha,Caub,Ober(490)wesel,St.Goar,Boppard,Rhens,Oberlahnstein,Koblenz等を過ぎ、午後四時半にボンに著く
 
 穉きよりラインの河の名を聞きて今日|現實《うつつ》なる船のうへの旅
 ひだりにも右にもせまる山ありて麓の村は水にひたるごと
 時により湖水のごとき寂しさを峽のラインは示しつつあり
 はるかなる行方を暗指するごときラインの流にいまぞ順ふ
 山の上に尖塔あるをこの河の前景にして飽くこともなし
 流れゆくラインの河はおのおのに支流をたもつ町を過ぎゆく
 沿岸に成るべき必然の成りなりて大きながれの止むときもなき
(491) 山の上なる古き砦の外貌のこの安定をひとは好みし
 
    ボン。八月十六日午後四時牛、船より上陸し、獨り歩く
 
 アメリカの旅人のむれにもまじはりて沈黙をせずけふの一日は
 佛蘭西兵の往來《ゆきき》せるが目にたちてラインに添ふ靜肅なる街
 Storring《シユテーリング》 教授を訪ねむとしたりしが罷めてベエトウフエンの家に來ぬ
 Beethoven《ベエトウフエン》若かりしときの像の立つここの廣場をいそぎてよぎる
 公園のペンチにひとり腰をかけ Karl《カール》 Simrock《ジムロツク》を手帳にとどむ
 Koln《ケルン》行の列車も列車も佛蘭西兵の占有にしてつひに乘り得ず
 
(492)    ケルン。八月十六日夜辛うじてケルンに著きぬ
 
 旅舍なくて苦しみとほし旅來つる事のかずかず人にか告げむ
 Dom《ドオム》にはしばしば入りぬ敗戰の悲哀示さぬここの Domに
        しる
 この大學をもつぶさに見たり快りし Dr.Wistermann《ドクトル ウイステルマン》の名をば記さむ
 樂しきめぐりあはせかケルンに來てはからず數多くのゴオホを見たり
 備蘭西の士官等あまた往來する街上の夜にわれは孤兒のごとしも
 ケルンにて苦しき旅の最後をば味はむとしてほとほと寢《いね》ず
 
    ベルリン。八月十八日より二十四日までベルリンに滯在す。宮城、大學、シヤリテ病院、醫學書肆、美術館を訪うて日を過ご(493)せり。前田茂三郎君と會し、神尾、福島、緒方、小野、赤松の諸君と會す。シヤリテにては Prof.Seelert 案内したり
 
 九ケ月めに二たび此處に來りたりひとり旅して此處に來りぬ
 ウイルヘルム一世陛下の机には簡素なるものを並べたまへり
 藤卷に來りてわが食ふ日本食|白飯《しらいひ》といへど過ごすことなし
 大都會に形式のごと過ぐれども空しからずとのちは思はむ
 
    ワイマール。八月二十四日、Goethe-Nationalmuseum,Schillerhaus,Schlosspark(Gartenhaus Goethes),Kunstausstelling,Denkmal etc.
 
 このふたりの詩人の臨終の部屋さへも年ふりながら人に見しむる
(494) みどり濃き園のなかなる家に入り萬國の旅人おのが名を書く
 世の常の感激に似しこころもて博物品類のまへに立ち居り
 靜かなる書齋と終焉の部屋と隣りあひゐしをわれ諾ひき
 黄色《くわうしよく》の部屋にて彼は八十の齢のまにま食事せるなり
 靜嚴なる臨終なりしと傳《でん》しありて藥のそばに珈琲|茶碗《ちやわん》ひとつ
 おのづから日の要求と言ひいでしゲエテは既にゆたかに老いき
 晩年のゲエテの名刺なども遺しあり戀ひて見に來む世の人のため
 シルレルの死にゆきし部屋もわれは見つ寂しきものを今につたふる
(495) ニイチエもこの町に來て果てしかど好みてここに來《こ》しにはあらず
 ワイマルの青き木立のなかにゐて短歌ひとつに暫しこだはる
 
    ライプチヒ。八月二十五日、醫科大學精神病學教室、グスターフ・フオツク書店、美術展覽會その他
 
 Bumke《ブムケ》教授の考案による病室の壁の色いろいろに塗りてありしは
 Bostereom《ボステレム》講師がわれを案内《あない》せり専門學的に複雜せるを
 グスターフ・フオツク書店の階上に時をうつして日はかたぶきぬ
 プラタヌスがしきりに落葉したりけり少女の掃くも心《うら》なごましむ
 ウイルヘルム・ヴント先生みまかりて初期の論文をわれは求むる
 
(496)    ドレスデン。エルベ河。八月二十六日(土曜〕、二十七日(日曜)、美術館(Madonna di S.Sisto〕。Riesa 號に乗り、エルベ河をのぼり Schandau に至る
 
 この畫廊にラフアエルのシスチンマドンナを今ぞあふげる旅とほく來て
 この國のエルベの河のかはべりにかすかに降れる露をあはれむ
 ザクセンの國の朝雲太陽が眞紅《まあか》にいでていまだ低しも
 城砦は山のうへなるしづけさを河中にして見さけけるはや
 わがそばに國民學校の童女らが一團となりて集まりて居り
 小景は常に樂しもこの岸に自轉車おきて釣する人みゆ
(497) シヤンダウの丘にのぼれば酸模はあまたほほけぬ日本のごとく
 山なみの重るあひにエルベ河みなもととほし南のかたに
 ここよりもなほし上らばチエツコ國の境をこえてなほしゆくべし
 山羊の群|來《きた》るにあひて原始的平和を戀ふるわれは旅びと
 夜《よ》のねむりやはらかにまどかなりしこと殆《ほとほ》と無くに旅こし吾は
 
    ベルリン。八月二十八日、二たびベルリンに來る。前田(茂三郎)、藥師寺、梅津、石原(昇雄)諸君に逢ふ。大使館にゆき、森鴎外先生逝去のことを知る。記事は七月十日の東京朝日新聞なりしが、驚愕のあまり、森於菟、田邊元二氏を訪ふに、旅して在らず。二十九日、コツホ研究所、三十日、美術館、三十一日、動物園を訪ひ、同日夕ベルリンを立ち、九月一日朝七時維也納に著きぬ
 
(498) 伯林にやうやく著けば森鴎外先生の死を知りて寂しさ堪へがたし
 歸りゆかば心おごりて告げまゐらせむ事|多《さは》なるに君はいまさず
 ペルリンを去らむとして二時間あまり動物園に來りわが居り
 この五月生れたりといふ日本|鹿《しか》ヾikaと記してあるも親しも
 車房に入りて腰をおろしし時の間のこの安けさを何とか言はむ
 難儀なる旅をつづけて歸りこしこの狹き部屋の平和悲しも
 やすらぎも極まるごとし維也納のわが床にうづまり眠らむとして
 
    維也納歌稿 其二
 
(499)    九月十日(日曜)、Modling 行。Lichtensteinburg を見る
 
 石をもてつみあげし城寒々としたる内部に美しき書斎あり
 
    九月十七日(日曜〕、Tillnerbach 行
 
 松の樹に小さき十字架など懸かりたる山に入り來て二人居りつも
 木もれ日がをとめの顔にあたるときまぼしといひて言のかなしき
 この川のみなもとに人音せねば落葉をくぐる水の聞こゆる
 樅木原《もみきはら》深きをくぐりくれなゐのあざやけき斑の茸を見たり
 木原いでて谷間《たにあひ》の道日の照れば黒き苺をあまたも食《は》みつ
(500) 蝉ひとつ鳴かぬ夏山ふけむとし遠国《とほくに》びとのわれを居らしむ
 都會より來にし人々茸をばルツクサツクに大切にせり
 かへり路に居れば一日のをはりなるみ寺の鐘は山こえて聞こゆ
 しづかなる黄のいろの空や維也納《ウイーンナ》のうへにも長き餘光をたもつ
 
    九月十九日(火曜)
 
 「マアルブルク教授予の標本を一覽す」新秋《にひあき》の夜《よる》に記しとどむる
 もの食ひつつ下向きに來る少女あり街上にして言《こと》を問はむか
 
    九月二十三日(土曜)、猶太新年、Mullergasse lsraeltempel
 
(501) いろいろの帽をかむれる猶太族殿堂に居りて帽を脱せず
 神殿にむかひて法衣《ほふい》のかがやくを著たるが聲あげて平安《やすき》を呼ばふ
 雷《いかづち》がとほくの方になりしころ第九區のひくき石道を來る
 
    九月二十四日(日曜)、Schwarzenberger Park
 
 基督数的右黨のデモンストラチオン街《まち》をうづめて歩きそめたり
 橡の實《み》がすでに金《かね》つき落ちゐるを吾はよろこぶ一人來りて
 勵みたる日月《ひつき》なりしがリンデンの落葉ふかきを踏むべくなりぬ
 木立には人のにほひもなかりけり落葉おしなべて深くなりつつ
 
(502)    九月二十五日(月曜)、大學講堂にて
 
 グレゴル・メンデル百年祭の講演を聽きて眼《まなこ》をみはりつつ居り
 
    九月二十九日(金曜)
 
 ゆうべあやしく日本に歸りし夢見たり呉先生に會ひてをるゆめ
 
    十月一日(日曜)、雨降、籠居
 
 うすら寒き一日くれたり家こもり Zionismus《チオニスムス》の話をしつつ
    十月四日(水曜)、太田正雄、正宗得三郎二氏に會ふ
 
 巴里より旅し來れる友ふたり秋ふけし維也納の街を寂しむ
 
(503)    十月二十日(金曜)
 
 入りかはり立ちかはり友ウインに來てその日その日の樂しさを得つ
 
    十月二十一日(土曜)
 
 マルガレト浴場の中にあたたまる二月ぶりの入浴にして
 
    ワイドリング。十月二十二日、詩人 Lenau の墓にまうづ
 
 リンデンの黄に色づきし木のもとに落葉がたまる日に照らされて
 ひむがしの國の旅びとたたずめるワイドリングの川水のおと
 悲しみを歌ひながらに氣狂《きぐる》ひて果てしレナウの墓のべにたつ
(504) たどり來しレナウの墓の傍にほほづき赤くなれる寂しさ
 この墓に黄菊の花の咲きたるを驚かむばかりかなしむわれは
 秋ふかき村の小さき墓地中の胡桃の木より落葉しやまず
 墓のべに年ふりてある垂り柳芽ぶかむとする春しおもほゆ
 うちわたす低き山々|褐色《かばいろ》に色はしづみて秋ゆくらむか
 ドウナウの岸の林の中に入り水泳場を見めぐりありく
 激ちなくはやきドナウの水のうへ白き鳥群る秋は寒きに
 
    十月二十九日(日曜)
 
(505) 數萬にのぼる Sozialdemokrat の示威運動あれど學生團比較的少し
 猶太殿堂に結婚式を見に來たり同族のもののみ此處に集へる
 部屋に歸りて靴下のほころびを縫ひ體を丁寧に拭きをはりたり
 
    十月三十一日(火曜)、日本天長佳節
 
 天長の佳き日を祝ひまつらむと公使館にゆく街上寒し
 本多公使「牡丹正宗」をめぐまれぬゆふぐれぬうちに醉《ゑ》ひて歸らむ
 街頭に賣る菊の花見るときぞけふのよき日を祝ぎたてまつる
 
    十一月一日(水曜)、中央墓地
 
(506) この墓地のしづけさか行きかく行けば常の日の「苦」も忘れてゐたり
 
    十一月四日(土曜)、公使請待
 
 日本《につぽん》の醤油をもて肉を煮るかたはらに牛芳の味噌づけありて
 
    十一月五日(日曜)、weidlingau Wuzbach
 
 一谷《ひとだに》をうめつくしたる落葉かな Weidlingau《ワイドリンガウ》の山のこがらし
 この谷の落葉褐色に深きにも入り來《きた》りけり心は和ぎて
 わが體うづもれむとすとおもほゆる深き落葉のなかに居りつも
 この山にこがらし吹きて一つ鳥啼くこともなし谷のこがらし
(507) 異國《ことぐに》の山谷《やまだに》に來てかく深き落葉に入らむとわれおもひきや
 谷淺きところに一人木を伐りぬこだまは聞こゆ向ひの山に
 寒き雲はやきかなやといひしばかりにわが目交に雪降りみだる
 わがむかふ山にうねりて見ゆる道さやかに白し雪ふりつれば
 山に沿ふながれにいでぬかすかなる小魚《こうを》泳ぐをみとめて樂し
 
    十一月十一日(土曜)、Staatlicher Feiertag
 
 教室がけふ閉ぢたればクレペリソのヴント追悼せる一文を讀む
 
    十一月十二日(日曜)、同じく共和國記念日
 
(508) 日曜を待ち居たりしが群衆を見に出でて來ぬ寒き曉
 小山よりふりさけみれば國原はうす霧こむるそのはたてまで
 
    十一月十五日(水曜)、猶太養老院を見る。Klosterneuburg,Kierling に行き、Stiftkirche を見る
 
 過去の代の猶太の墓地を第九區の市中《いちなか》に見て身に染みにけり
 キイルリングの Stiftkeller にくれなゐの葡萄の酒を愛し時たつ
 
    十一月十八日(土曜)、寒氣強し
 
 辛うじて部屋あたためしけふの午後鴎外先生の臨終記よむ
 
    十一月十九日(日曜)、オウベルシユタイネル先生逝く
 
(509) ハインリヒ・オウベルシユタイネル先生死し給ひ堪へがてに寂し立ちても居ても
 先生の膝下《しつか》にわが業《げふ》をささげむと心たのしみて日々を競《きほ》ひき
 あたたかき御心をもてわがかしら撫でたまひたるごとくおもひし
 
    十一月二十二日(水曜)、オウベルシユタイネル先生葬送。シユーベルトの‥er Tod und Madchen,‥as Wirthshausうたふ
 
 老碩學の棺のまへに相ともに涙垂れてシユーベルトうたふ悲しみ
 ドエブリングの墓地に葬りのつひの日に雲ひくくおりて寒さいたしも
 Richard《リヒアルト》 Hertwig《ヘルトウイヒ》も十六日に身まかりゆきし伯林のよる
 
(510) O先生《オーせんせい》は腦の實驗病理學を若くして建立したまへるなり
 ブロンセカールの説を駁せし青年學徒なりし日の先生おもほゆ
 三日まへ降りたる雪の消えのこる道をかへりぬかうべを垂れて
 先生の遺言に「日本醫有」のことありとマールブルク教授が語る
 
    十一月二十五日(土曜)
 
 墺太利人の休日《やすみび》の過多を論じたるエルンスト・クラウゼの論文が出づ
 
    十一月二十八日(火曜)、猶太學生排斥連動
 
 獨逸系學生團隊の動きにも胎動のごときありて未だ模索のみ
 
(511)    十二月五日(火曜)、オウベルシユタイネル先生の追悼會(Trauersitzung)あり
 
 ワーグネル・ヤオレツク教授も立ちてO先生を讃へたるが簡潔にて可也
 マールブルク教授は門下生後繼者として碩学マイネルトに比す
 
    十ニ月十四日(木曜)、夜街を行く
 
 黄いろなる霧こそたてれ襟たてて夜の街上をひとりし行けば
 おぼほしく冬さむき夜々に立つらむか維也納の街のきなくさき霧
 時のまもかりそめならぬわが業《げふ》をいそぎいそぎて年暮れむとす
 冬寒くなりまさりたる街上にこころ空虚をおもふひととき
 
(512)    十二月二十三日(土曜)、暮の市場
 
 いろいろの野菜も積みぬドウナウの鯉とならびてイタリアの魚
 
    十二月二十四日(日曜)、クリスマス夕
 
 Stephanskirche《シユテファンスキルヘ》に來て群衆のなかに寺院樂を聞けるこよひかな
 
    十二月二十六日(火曜)
 
 シユテファン寺カポチン寺アクグスチン寺奉獻寺等の寺院樂および黙祷
 
    ゲゾイゼ行。十二月二十七日より三十日迄 Gesause に遊ぶ
 
 温き朝の乳のむ卓のうへブフシユタインの位置をしるしつ
(513) 高山のいただきに日のあたるころ Enn《エン》谿谷の大きをおもふ
 この狹間の奥より來つる馬橇が鈴つけしかば山に聞こゆる
 大きなる山の膚《はだへ》も白くなり谿のひびきを吸ふがごとしも
 橇に乘りすべりて遊ぶ童子らはこの旅びとをあやしみもせず
 おのづから牛馬の飲む泉ありて彼等みづからこもごもに飲む
 狹の奥より木材はこぶ牛と馬と十二|基《キロ》ほどまた歸り行く
 この道に小さき食店ひとつありいたく鹽辛き肉汁《ソツプ》飲ましむ
 Johnsbach《ヨオンスバツハ》 にたどりつけばこの村の墓地もふかぶかと雪にうづみぬ
(514) 雪道を四キロも通ふ童女ありヨオンスバツハの小學校に
 食卓のうへに載りたる「鹿の肉と團子」より暫し白き氣《いき》たつ
 小さなる祠のなかにキリストの繪馬あまたありこころ親しく
 樅樹立《もみこだち》くらきがなかにのぼりゆき鹿の臥處をわが見たりける 雪つもるこの山の獣《けだもの》にあたへたる食餌のことを語る媼《おうな》よ
 ここにして山のけだもの愛したる Moritz《モーリツ》 Janniss《ヤンニス》の名をぞとどむる
 
    十二月三十一日(日曜)、Cafe Astria,Cafe Atlatis
 
 寺院に入りて老いし僧正の説教を聽きてより夜のカフエに入る
(515) 群衆のみなぎりてゐる眞夜なかに葡萄の酒を高くささぐる
 何事も忘れしごとく樂しむはあはれこの都會の人のみならず
 一とせをかへりみすればわが生の貧しかりしをな疑ひそ
 此處に來てより堪へがたくしてあらはれし小さき怒もいめのごとしも
 
   維也納歌稿 其三
    大正十二年(西暦一九二三年〕。一月一日、コベンツル
 
 孤獨《ひとり》なる寂《しづ》けさをけふ保たむと Kobenzl《コベンツル》なる山に入りけり
 一月の一日《いちにち》をひとり寂かなる山に來りて晝の食をす
(516) いろさびて落葉つもりし木原をば踏みつつぞゆくけふの一日を
 ちりしける落葉の山はふかぶかとさながら遠く谷につづけり
 けふ一日日本語を話すこともなく新《あたら》しき年のはじめをぞ祝ぐ
 ほそき雨いつか降り來て谷落葉ぬるる頃ほひ去りゆかむとす
 
    一月二日(火曜)、公使館祝辭
 
 公使本多|閣下《かくか》に祝辭のべ歸り來て靴下と犢鼻褌《ふんどし》と洗ふ
 
    一月十一日(木曜)
 
 ふるさとに七歳《ななつ》になれる穉兒の寫眞を見つつこよひはねむる
 
(517)    一月十三日(土曜)、維也納著一周年
 
 去年《こぞ》のけふ Wien《ウイン》に著きたることおもひひとりしづかに夕食すます
 
    一月二十一日(日曜)
 
 あらゆる黨の合同|示威《しゐ》運動あれば佛軍ルール占領に關聯すべし
 詩人歌ふ?eil dir,mein Volk,mein Vaterland! Du kannst nicht untergehn!
 おなじ國語を待てる二國《ふたぐに》がおこなはむとする行動を見む
 
    二月三日(土曜)、赤松信麿君一月三十日病歿せり
 
 同船にて來りし君がベルリンに死にたりといふ動悸しやまず
 
(518)    二月十一日(日曜)、紀元節
 
 雪ちらちらと降り來りたり日本の紀元節の日に實驗をする
 
    三月三日(土曜)、Autisemitische aggressive Bewegung
 
 猶太排斥の實行運動町を支配して Hakenkreuz《ハーケンクロイツ》の旗たてきたる
 
    三月八日(木曜)、論文原稿全部纏めて發行所 Deutike に渡しぬ
 
 殘念も何も彼も澹《あは》くなりゆきて重重《おもおも》とせるわが原稿わたす
 一區劃《ひとくぎり》とおもふ心の安けさに夜《よる》ふけてかへりわが足洗ふ
 
    三月十四日(水曜)
 
(519) ロンドンにて此日歿したるマルクスの記念日を[arkstschreierisches Getueと評せるものあり
 
     (註)karl Marx,ein Jude aus Trier,ist am 14,Marz 1883 in London gestorben.Die Wiederkehr seines Todestages wird uberall dort,wo seine Nachtreter haufen,mit markstschreierischem Getue gefeiert.
 
    三月十八日(日曜)、示威連動あり。維也納メツセ初まる
 
 Proletarier《プロレタリエル》とBourgeois《ブールジヨア》との分類に人爲的なる無理かもあらむ
 「階級の戰闘」といふ一語さへマルクス以來のいきほひがあり
 
    春の旅。バートガシユタイン。三月三十日(金曜)、午前七時五十五分維也納發。午後七時十分バートガシユタイン著、Hotel (520)Moser に投ず
 
 尖りたる寺院の塔はいづくより見てもこころの清《きよ》まるらむか
 郊外にさしかかりつつ丘かげに雪きえのこる春寒きかも
 わが胸に袋をさげて種子をまく農を見るべく春はなりぬる
 ひろびろとしたる畑に馬並めて耕すも見ゆ畑《はた》はかぐろし
 路傍なる柳の木には青き芽も黄なる芽もふき春《はる》光《ひかり》さす
 ドナウ河見えそめてより風景にたまたま山上の砦などあり
 山村の高きに寺がひとつ見え白き川原が見えつつゐたり
(521) ドウナウの水面《すゐめん》ちかく黒き鳥みだれてぞ飛ぶ旅のひととき
 陶器|工場《こうば》の大きなるもの此處にありて大戰時中は閉ざしたりとぞ
 Lambach《ラムバツハ》の修道院も傍看し雪をいただく山にちかづく
 雪のこる山のかげれば灰色になりて見ゆるも山いつくしも
 ある驛に來りしときに木炭《もくたん》がたかだかとしてつみてありたり
 高山の峽の川原は此處よりも高きにありてさびしきろかも
 小鵜が山すれすれに飛ぶごとく見ゆる狹間を我等は過ぎつ
 
    バートガシユタイン。三月三十一日(土曜)、復活祭前夜
    (Karsaamstag、Osterabend)
 
(522) 川しもに霞はこめてゆふぐれむとす温泉|街《まち》の高きに見れば
 絲のごとき瀧のいくつも見ゆる山|富人《とみびと》つどふ夏の眞中《まなか》は
 この峽にこだまをおこすところあり・cho am Echoとぞいふ
 のぼりゆく汽車にむかひて犬が吠ゆオウストリアのこの山の峽
 山かひの美しき村一つありしばらくにして月照れる見ゆ Hofgastein
 東海のくにの旅びとこよひ食ふ復活祭の卵と魚を
 Ache《アーヘ》川の谿谷のぼり浴泉の街にこの夜をわれはねむらむ
 
    四月一日(日曜)、復活祭の日曜(Ostersonntag)
 
(523) 復活祭の朝にうちたる銃《つつ》のおと谷谷わたるこだまとぞなる
 眞赤《まあか》なる燈明ひとつともりたり復活祭のみ寺のなかに
 み寺より鐘鳴りわたる復活の歓喜《よろこび》の日の天ふるはして
 獵人《かりびと》は古き日よりのおこなひを今日につたへて銃とどろけり
 連れだてる女《をみな》をとめはことごとくザルツブルクの古裝《こさう》をしたり
 み寺には香《かう》のけむりの立のぼりもろもろ歓喜《くわんぎ》の讃《たたへ》をうたふ pfarrkirche
 祭日《まつりび》の酒のみかはす人々は東海のくにのわれに親しむ
 雪道の Promenade《プロメナーデ》を吾は行く富入ら群れて歩みけむ道
(524) 山がひの雪消の道に蕗の薹もえつつぞ居るかなしきまでに
 谿谷の魚食はしむと言ひてあり‖usenstationの文字の親しさ
 いちはやき春の光にこの谿に黄なる小花が咲き滿ちむとす
 
    四月一日、午後三時五十五分發車して、インスブルクにむかふ
 
 朝寒をおぼえたりしが我腹のしくしくいたむころ立たむとす
 Badgastein《バートガシユタイン》,Hofgastein《ホーフガシユタイン》,Dorfgastein《ドルフガシユタイン》アーヘの川のひとつ谷なる
 小鴉のしきりに飛ぶを前景に Bruck《ブルツク》の驛に日はかたぶきぬ
 湖岸の Zell《ツエル》を過ぐれば靜嚴《せいごん》の山みえそめておどろく吾は
(525) ちかぢかと天そそる山のいただきは全けく白し春日てれども
 Worgl《ウールグル》驛を過ぎてよりわが汽車は車房暖たむ峽ふかくして
 
    インスブルク。四月一日夜著、ホテル・クライド投宿
 
 チロールの山間の都市まだ寒しよろひたる雪の反射に近く
 この町のマリアテレジア街上をゆく女等は顔赤羅ひく
 もろともに生《いき》の命をささげたるチロール戰を此處に傳へぬ
 Andreas《アンドレアス》 Hofer《ホウフエル》の墓石目のまへにあるをおもへば旅ぞ愛《かな》しき
 かくのごと高くきびしき山々のかたまりを見て言《こと》も絶えたり Hungerburgにて
(526) 午の鐘フランシス寺より鳴りわたるこだまはこもるこの谷々に おなじく
 大き山團塊となりありたりき Sutbai《シユトバイ》谿谷線 Brenner《ブレンネル》鞍部線
 高原は山の中腹にいくつかありその高原は寂しくもあるか
 チロールの山の奥なる限りなきアルプの山に陽はかたよりぬ
 太陽はまばゆきひかり放射してチロールの野に草青く萌ゆ
 しばらくは奥の奥なる雪山の頂あかく染まるを見たり
 うつくしきものにもあるか峽とほく入日をうけし雪のいただき
 インスブルクに一夜《ひとよ》安らかに寢たりけり雪の奥山おもひうかべて
 
(527)    四月三日(火曜)、午前八時五分インスブルクを立ちザルツブルクにむかふ
 
 朝明けしインスブルクの奥の山雪ある輪郭がするどく浮かぶ
 陽をうけし雪溪のいろむらさきに西北方に極まらむとす
 向うには夫婦《めをと》の農夫働きて前景に黒衣の老媼《おうな》が歩《あり》く
 野のなかを雪解の水が流れをり水くさなびくその急流に
 おもひがけなき山嶽の雪が見ゆ野にも平たく雪のこりつつ
 分水嶺越えたるらむか山の川ほそくなりつつ激つおとすも
 いつしかも Reiteralp《ライテルアルプ》に近づきて見ゆる山山するどきろかも
 
(528)    ザルツブルク。四月三日、Dom, Residenz,Mozartplatz,Denkmal,Mozartgeburtshaus,Mozartmuseum, St.Petersfriedhof,Festung(Hohensalzburg)
 
 ザルツアツハ河とカプチン山《ざん》と相寄りしこの都市にモツアールト生れき
 Dom《ドオーム》の内部白くして彫刻繪畫ありその鐘のおと聽かずして出づ
 宮殿のゴブランも暖爐も食堂もせまき廊下も皆見たりけり
 モツアールト生家の二部屋暖爐あり幼重なりし彼の肖像あり
 彼ののこしし魔笛《ツアウベルフルーテ》の第一版その他の樂譜免状など見つ
 聖ペトロ墓地にのぼり縁起をも調べぬうちにいそぎてくだる
(529) それより古城の塞《さい》をも見たりその一部見て Monchsberg《メンヒスベルク》にのぼる
 小さなる博物館に物寂びし郷土的のものいろいろとあり
 
    グムンデン。四月四日、午前十一時五十分ザルツブルクを發しイツシルを經てグムンデンに至る
 
 同じ車房のザルツブルクの婦等《をんなら》の素撲なる風をわれはよろこぶ 青野なる光みなぎり岡のへに案山子たちて女《をみな》の衣著せたり
 大きなる湖水二つがつぎつぎに展開し來てすべて樂しも Mondsee,Abersee
 浴泉地として離宮のありし Ischl《イツシル》はイツシル川にいだかれて居り
 グムンデンに來て Traunsee《トラウンゼー》の湖岸に宿るああこの湖はわれを活かしむ
 
(530) この町の並樹のことを記入せり杏の花も忘れがたかり
 
    四月五日(木曜)、午後グムンデン發、アムシユテツテン午後六時、メルク午後七時、ウイン午後八時半著
 
 ドウナウが見えそめてより稍たちて大き太陽落ちて行きたり
 我汽車がメルクを過ぎて遠ながく夕燒せるを目守りて樂し
 
    四月八日(日曜)
 
 けふひと日旅|來《こ》し友を導きてみぞれ降り居る夜の街のうへ
 
    四月九日(月曜)、墺獨聯合内科學會、エコノモ(ウイン〕、ノンネ(ハンブルク)の特別講演あり
 
 獨墺の教授等の貧しき晝餐《ちうさん》のその食券をわれも買ひ持つ
(531) この堂に滿ち滿ちてゐる學者らの心競ひをおほにし見めや
 
    四月十日(火曜)
 
 公使舘にて貝の柱をふるまはれし話を持ちて友たづねこし
 
    四月十三日(金曜)、樫田五郎君を案内す
 
 宮殿のなかをつぶさに見つつゆく日本の品物もときどき目につく
 同門の友とあひ見て夜ふけまで業房のことを話してゐたり
 
    四月十四日(土曜)、予の論文、?irnkarte der Paralytiker(麻痺性癡呆者の腦カルテ)印刷成る
 
 ぎりぎりに精を出したる論文を眼下に見をりかさねしままに
(532) 幾たびか頁めくりてさながらに眼に浮びくる生のかかはり
 簡淨にここに記せる論文の結論のみとおのれ思ふな
 過ぎ來つる一年半のわが生はこの一册にほとほとかかはる
 眼前に在《いま》すごと Marburg《マールブルク》先生に感謝ささげけり動悸しながら
 誰ひとり此處にゐざれば論文の頁を閉ぢて涙ぐみたり
 Forschung《フオルシユング》の一片として世のつねの冷靜になりし論文ならず
 幾たびか寢られざりし夜《よる》のことおもふ憤怒《いきどほり》さへそこにこもりて
 
    四月十四日(土曜)、ワーグネル教室にて、麻痺性癡呆のマラリア療法の講演供覽あり、豐富なる症例を示す
 
(533) 新しきこの療法を目のあたり客觀《かくくわん》的に見ればくすしも
 われ醫となりてよりのことをよく知れりこの療法を革命とせむ
 
    四月十九日(木曜)
 
 昨夜風船にて日本にかへりし夢を見ぬをかしき夢よあやしき夢よ
 大きなる馬を街上に見るときは吾心なごむもの運ぶ馬
 
    四月二十日(金曜)
 
 この日ごろ心理實驗を勵みしが夜半過ぎてよりしばしば目ざむ
 ゆふぐれの空をし見たり高層の家のあひだにひくく紅《あか》きを
 
(534)    四月二十五日(水曜)、伊太利料理〇um grunen Anker
 
 友曰くロンドン通過せし眼に見れば獨墺の學者らは田夫《でんぶ》のごとし 「視察者」と「留學生」の差別點爲政者の徒も輕々にすな
 
    四月二十七日(金曜)、Schweizer Garten,Heeresmuseum
 
 難儀しつっ爲しし實驗的論文ひとつ纏めて故郷へおくる
 リンデンの芽ぶきたる葉もやうやくに色の定まる頃となりつも
 みづみづしくはやも蕾をもちてゐるカヌタニエンの並樹|路《ぢ》ゆきぬ
 自動車の横腹に穴のあきたるを歴史的遺物として見しむ噫
(535) くれなゐに咲きたる花を桃かともおもひてゆけばうべ桃の花
 芍藥のむらがり生ふるこの園を歩むはなべて維也納《ウインナ》をとめのみ
 
    五月一日(火曜U、勞働者行進、繪畫展覽會、プラーテル
 
 紅《くれなゐ》の旗をかかげて進みくる約二萬餘の Sozialdemokraten
 をさな兒を胸に抱きてくる女婦《ぢよふ》もあり少年少女の一隊もあり
 あたたかく日の差したれば騎馬巡査の一隊も左右に添ひつつ歩む
 歌ごゑはただに鋭く聞こえ居り少しも意味を解し得ざれど
 プラーテルの小さき苑に白つつじ咲きにほひけり塵埃《ほこり》を浴びて
 
(536)    五月二日(水曜)、夜公使館に招かる
 
 このゆふべ數の子食ひぬ愛《かな》しくもウインナの水にほとびし數の子
 
    五月五日(土曜)、六日(日曜)、Anninger 行
 
 青くなりし木立をゆけば留學生らしき思ひの毫《すこ》しもあらぬ
 
    五月十三日(日曜)、細谷雄太君を案内す
 
 この友人《とも》は Kreidl《クライドル》教授を訪問しその後われと連れだちありく
 
    五月十六日(水曜)、「重量感覺知見補遺」の稿成る。十七日(木曜)、小關光尚、高瀬清二君を停車場に迎ふ
 
 日本《につぽん》に歸りてよりの事のためこの小實驗をわれは爲たりき
(537) 同學の二人の著くをよろこびて今朝ははやくより目がさめゐたり
 
    五月二十日(日曜)、聖靈降臨祭(Pfingstfeiertag〕、Kaltenleut geben,Durrc,Liesing を經て Baden に至る
 
 岩山に松の木の立つ谷間《たにあひ》を古《いにしへ》の代《よ》も愛でにけむかも
 聖靈はくだり小さきみ寺には心ひとつに讃へてやまず
 谿にそふ木原に入ればやはらかき青きにほひはしみわたりたる
 Amsel《アムゼル》は近くに啼けば郭公《くわくこう》は遠くに啼けるこの谿ゆくも
 青き野に強き光のさすときに空にひびかふこほろぎのこゑ
 わが來つるオウストリアの晝の野に蟋蟀の聲ためらひもなき
(538) 我額に汗のいづるを幾たびか拭きつつぞ來る青き晝野を
 僧院の窖《あなぐら》に入り卓のうへに葡萄の酒を持ち來《きた》らしむ
 酒藏に白葡萄酒を飲むときはさびしく過ぎし一年《ひととせ》おもふ
 
    五月二十一日(月曜)、Doblingerfriedhof
 
 この都市を去りゆかむ日の近ければ御墓《みはか》にまうづ二たびは來が.てぬ
 新みどり日に透きとほる木立にて去りゆかむとする心惜しめり
 郊外に家居がありてむらさきの藤の花房さけるあはれさ
 
(539)    五月二十七日(日曜)、西停車場に阿部次郎教授を迎ふ。Gartenbau-gesellschaft の事務所をたづね、シイボルト記念碑の行方を求む
 
 國越えて旅來し君とたづさはりドナウ河原にものおもひもなし
 シイボルト記念碑の事見つかりて呉教授に手紙をいそぎしたたむ
 Bier u. Scholl 商店たづね行き畫仙紙もとむ拓を得むため
 
    六月一日(金曜)、阿部教授ミユンヘンに立つ
 
 業房のことに關はりいとま無み君と會ひ居しはただ五日のみ
 論文をまとむる暇にもあこがれしルネツサンスの藝術を問ふ
(540) レオナルドウ・ダ・ヴインチの老い居りしミラノのことも問ひ終りけり
 
   伊太利亜の旅
 
    大正十二年六月二日(土曜)、夜行にて維也納を立つ。六月三日 Villach を過ぐるころ曉となる。Arnoldstein にて墺國國境檢査あり、Tarvisio にて伊國國境檢査あり
 
 一夜《ひとよ》あけて霧たちのぼる山々のその間《かひ》にして湖《うみ》はこもれり
 高原《たかはら》の牧もいくつか過ぎ來つつ牛馬《うしうま》のむれに心したしむ
 にぶき色に雪光りたる遠山のその前山《さきやま》にうごく霧|疾《と》し このあたりの山嶽戰をおもひいで墺太利國《オウストリアこく》なりしをおもふ
(541) 朝の寺より鐘鳴りきこゆ山系《やまなみ》ののびて來りし國ざかひにて
 イタリアとオウストリアの境にて山をうづむる雲のなみだつ
 朝あけてよりいまだ間もなきイタリアの國境《くにざかひ》にて山の膚見つ イタリアの國の境にみだれつつ石原おほき川を見にけり
 山ふかき向う谿《だに》よりながれ來て白き川原をつくりて流る
 白き巖あらはになりてそびえをる山のかたまり此處にしも見つ
 いつしかも Dogna《ドンナ》驛にて午《ひる》の鐘なりひびくとき空は清しも
 白き川原とほくに見えてあらあらしき北イタリアの山を愛でつも
(542) 國ざかひの山をいで來て南なる平野につづく汽車走るなり
 麥の畑黄になりてつづくところあり桑の木があり唐黍があり
 櫻の實房なりになる風景も旅びとわれのこころにぞ沁む
 
    ヴエネチア。六月三日午後五時著、五日去る
 
 大小の渠《みぞ》に出入るゴンドラに古の代の音を聞かむか
 雲あかきゆふまぐれどきゴンドラに乘りつつ來《きた》れ旅はさびしも
 サン・マルコの夜深き鐘の餘韻にもわが身ひとつのこの靜けさよ
 古き代の航路のこともおもはしむサン・マルコ寺院の夜ぶかき鐘は
(543) ヴエネチアの夜のふけぬればあはれあはれ吾に近づく蚊のこゑぞする
 ひとり言《ごと》いふさびしさもなくなりて白き蚊帳中に眼《まなこ》をとぢぬ
 ヴエネチアの晝の市なる海の魚われの心を躍らしめたり
 Bovoli《ボオリー》といふ蝸牛うづたかく積みて賣れるを見れば樂しも
 ヴエネチアは遠いにしへゆ樂しくもこの海の魚《うを》食ひ來りしよ
 パドワなる Giotto《ジオツトー》も觀たりヴエネチアの流派も見たり幸《さち》ふかくして
 古への井戸のあとあり清きみづ欲りて幾代の過ぎ來《こ》し跡ぞ
 Palazzo Ducale(總督政廳)を素どほりの如くして見き連《つれ》なき吾は
(544) 街上にイタリアの語を聞くときは古き代の粗《あら》さおもほゆるかな
 幾たびもごみごみとせし道とほり見るべきものも大方見たり
 ほそき雨朝より降りてここよ見ゆるサン・マルコ寺の屋根ぬらしゐる
 
    フイレンツエ。六月六日より九日まで滞在、九日午後〇時二十五分發ローマに向ふ。Uffizi,Pitti,Museo Nazionale,Duomo,Piazzale Michelangelo,S.Croce,S.Maria del Carmina.S.Maria Novella,Museo S.Marco,Academia delle Belle Arti,SS.Annunziata その他
 
 暑き日に我身より汗は流るれどわれの心は常に樂しき
 フイレンツエは巨匠のものが實に多し旅の難澁も日ごとに忘る
(545) はなやかに成りしルネツサンスのいきほひを日々に吾が見て心ただならぬ
 巨匠らの相競《あひきほ》ひたる時つ代をあな嚴《いつく》しとこゑあげむとす
 この都市を中心として榮えたる心の大き流おもはむ
 見のがし得ざるもののみあまたたび觀たりしわれは心和ぎゐる
 エルベ河わたりて高きによる時は美術の都市の古へおもほゆ
 青くなりし低山《ひくやま》とほく起伏して夏の霞のたなびかむとす
 粗々しく聞こえて來たる音調の言葉も日々に馴れむとぞする
 大き馬|口籠《くつこ》をはめて赤房もゆれつつ來ることも忘れず
(546) 幾つかの繪畫彫刻ありありと我が眼のまへにあらはるるなり
 しづかなる心の興奮をさながらにねむりにつかむときの樂しさ
 
    ロ−マ。六月九日より十四日まで滯在す。十四日午前八時二十分發にてナポリにむかふ
 
 宏大なるローマに來り定めなく街上ゆきぬ夜のローマを
 北方より來れる吾は心づくローマの土壤より塵だつことを
 「五日羅馬」の遊覽に吾も加入して國々より來つる人に親しむ
 Forum Romanum(市場)Colosseo(劇場)Caracallatherme(浴場)その名とどめむ
 カピトルのヴエヌス、カピトルの牝狼《めおほかみ》、見切れざる程のなかより記す
(547) Katakombe の暗きに入りて人の世の平凡ならぬこともおもへる
 ミケランジェロのモーゼも見たり感動は我身に早もこもりてあらむ S.Pietro in Vincoli
 ひるがへり燕むれ飛びあきらけきものとぞ思ふ羅馬の空を
 街上の馬糞掃除をする者もありて羅馬の往還ひろし
 レオナルドウの素描ひとつも専門の人々は心をひそめて見たり Galleria Borghes
 ボチツエリのマドンナ、チチアノのダナエをも手帳の隅に記しとどめぬ
 紅く落つるローマの太陽を見よといふ人ありければここに佇む S.Pietro in Montario
 サン・ピエトロの圓き柱にわが身寄せ壁畫のごとき僧の列見つ
(548) ヴアチカノの巨大なる畫も殘りなく見たりし後は常の人ならぬ
 ラオコオンの群像ベルヴエデルの Apollo《アポロ》オトリコリの Zeus《ゼウス》も見たり
 ヴアチカノの集古舘にて見し物をひとり樂しむ小床《をどこ》に入りて
 サン・ピエトロ寺のドオムの上にのぼりたり中空《なかぞら》にして羅馬みおろす
 郊外に來りて見れば去りかねつ Acqua《アツクワ》 Acetosa《アケトーザ》年ふり居りて
 南方を戀ひておもへばイタリアの Campagna《カムパニヤ》の野に罌粟《けし》の花ちる
 疲れきりて觀たるいにしへの藝術も一つ一つ好し身の靜まれば
 
    ナポリ。六月十四日著、十六日まで帶在す
 
(549) 山上にかたまりて居る灰色の家の群落南イタリア
 ナポリ途上小林の楢櫟唐きびの赤ふさ葱の鉾たち
 黒貝《くろがひ》のむきみの上にしたたれる檸檬の汁は古詩にか似たる
 黒き斑《ふ》の牛街上に立ちをりてしぼりながらの乳飲ませけり
 街頭の石だたみの上に兒ども等がごろごろとして遊ぶのはあなあぶな
 めまぐるしき程に人ごむ街上を驢馬物運びゆくのもあなあぶな
 Museo《ムゼオ》Nizionale《ナチヨナーレ》にひと日費して實にいろいろの物をば見たり
 ポンペイに同胞《どうばう》ひとり死せること知りてより琅※[王+干]洞をおもひ止まり居る
(550) 寺々もいそぎまはりて郊外はトマト畑にほそ雨ぞ降る
 名にたてる水族舘にも入りて來つ魚のおこなひは常に樂しく
 ナポリーの食物《しよくもつ》に吾々と共通のものあるゆゑに此處に居りたし
 蠅多き食店にゐてどろどろに煮込みし野菜くへばうましも
 あさあさは紺の朝顔もくれなゐの柘榴の花もさやけき國よ
 ヴエスヴイオの山がかなたに松の樹が金の紛《こ》ふきしごとき空にたつ
 東海のくにに似たるを親しみてたもとほれどもこころ飽かずも
 
    ポンペイ。六月十五日、遺跡を訪ふ
 
(551) 兵營に六十三の骸骨がありしと聞けどすでに古《ふり》ごと
 富びとの寢室も酒あたためし厨も牀上のモザイツクも
 奴隷らも豪富のひともかぎりなく生を愛《を》しみて此處につどひき
 黒き壁に童子樂書のこりけり武士闘ひてひとり僵るるところ
 噴火にて滅《めつ》しはてしとおもひしにあはれなるかなや貧富の跡を遺せる
 ポンペイに吾《わ》が立ちて悲しむこと無かり食色《しよくしよく》の生と神の殿堂と.
 ヴエスヴイオの中腹あたりよりのぼる雲頂にしてこごるがごとし
 驢馬に乗りてヴエスヴイオの山にのぼりしこと紀行文中にいくつもあらむ
 
(552)    ヴエスヴイオ山。十五日雲霧のなかを登る
 
 栗の花さく親しさも目前にありとしおもへ飯《いひ》くひながら
 いちじゆくも胡桃あんずも豐かなる南イタリアの國ゆくわれは
 くろぐろと天の半をうづめたる熔巖の山のぼりつつあり
 わきのぼる白雲の中のヴエスヴイオを白雲とのみけふ見つるはや
 ヴエスヴイオの外輪ゆきて奥ふかくにぶきとどろき聽かむとおもひき
 
    ミラノ。六月十六日の夜行にてナポリを立つ。十七日午後五時ごろ、ミラノに著きぬ
 
 ナポリより來りて見れば海の峯氣より山の空氣にうつりてゐたり
(553) レオナルドウの立像があり四隅なる四人《よたり》の門弟はともに美青年
 このみ寺の壁畫を見むと何時よりかわれ戀ひにけむけふ思ひ足る
 いたみたるここの壁畫を吾おもへば美しく深きものなりけむか
 街をゆくわかき女等《をみなら》すでにしてウイン系統におもほゆるかな
 レオナルドウの門流のもの數多あり非力《ひりき》とぞおもふこの門流は
 マンテニアもベルリーニもコルレジヨも手帳に少しく書きとどめたり
 計らすも街頭に鵞堂流のビラの文字あり「世界に名高き蝶々さん」
 うすぐらきドオムの中に靜まれる旅人われに附きし蠅ひとつ
(554) この町のマカロニをわれ食ひしかば心は足りぬ旅とほけども
 レオナルドウの素描《そべう》も幾つか此處に見ぬやみがたかりし巨匠ぞ彼は
 
    ウイン途上。六月十九日午後七時ミラノを發して、六月二十日午後九時ウインに著きたり。アルノルドシユタインを國ざかひとす
 
 窗外に蛙の聲のきこゆるは湖水に近く走るなるべし
 一夜《ひとよ》あけて雪をかかぶる山山をわが眉に觸るるがにおもふ
 イタリアとオウストリアと國境ふこの山山を凡にし見めや
 ナポリーに汗流れたることおもひ空氣は寒しタルヴイジオ過ぐ
(555) いただきに雪雲みだれ直ぐまへの川に虹たつあはれひととき
 
    ウイン。六月二十一日、維也納は心やすし
 
 うすぐらき維也納街上をわれあゆみ羅馬のよるを樂しとぞおもふ
 しかすがに維也納《ウインナ》のよるをこよなしとおもふ心の時ををしめり
   維也納歌稿 其四
 
    六月二十八日、教授助手諸氏をオペラに請待して、デイアボロを聞く。はてて、イムペリアルホテルにて夕食す。次の日より連日維也納入京以來の物を片付く
    七月一日、Katholikentag の行列を見る。七月五日、旅行免状と日本公使館の手紙とを持ちて、獨逸公使館に行き入國許可を受けむとす。家にかへりて部屋を片付く。七月八日、ジーベリングの森に行く
 
(556) 山の香をかなしきかなと思ふにも遙けき國に我はゐるなり
 
    七月十二日、公使本多閣下に暇乞をなす。十三日、オウベルシユタイネル先生未亡人を訪ひ暇乞をなす。十四日、諸数授(ワーグネル、ベルツエ、ピルツ、シユトランスキイ、エコノモ等)に暇乞の挨拶す。十五日、メードリングに行く
 
 維也納をば去り行かむとして心かなし二たびを來む吾ならなくに
 挨拶にまはるべきところまはり了へ暑き維也納をわれ去らむとす
 わが部屋を日々片づけておもひでのこもれるものも片付けをはる
 Modling の松の林をとほりぬけ青野の花を手《た》ぐさにもしつ
 メードリングの青野を見むもけふのみとおもひ悲しき心とめがたし
(557) 汗の流るる日に日を繼げばこの森に一時だにも心しづめむ
 
    七月十七日、銀行、ツーリストビユローに行く。十八日、片付け、銀行、論文のタイプライター製本出來きたる。夜、部屋にひとりゐる
 
 この部屋に留學生と吾なりてまたたくひまも惜しみたりにき
 
    七月十八日(水曜)、小雨、稍冷ゆ
 
 銀行のこと入國券のことむつかしく午後三時を過ぎて歸りく
 最後なるひと夜とおもひ片づけて物何もなき机にむかふ
 
    七月十九日(木曜)、午前十時十五分、維也納西停車場を發して、ミユンヘンに向ふ。内藤、松本、秋吉、小關の諸君見おくる
 
(558) 同胞の親しきとわかれを惜しみたり互にみじかき言《こと》いひながら
 
 日曜の時ををしみて遊びたる Wienerwaid《ウイネルワルト》.われはおもはむ
 眞夏日の黒々とせる森こめて Wien《ウイン》はしりへに遠ざかる見ゆ
 
(559) 後記
 
 この歌集「遠遊」は「つゆじも」につづく私の第四歌集であつて、西暦一九二二年(大正十一年)一月十三日墺太利維也納に著いた曰から、西暦一九二三年(大正十二年)七月十九日維也納を去る迄の歌、六百二十三首を收めた。されば、私の四十一歳の一月から四十二歳の七月迄の作といふことになる。
 私は大正十一年一月維也納に著き、マールブルク教授の神經學研究所に入つて翌年夏迄に及んだ。その聞、麻痺性癡呆の腦病理に就て、及び他二題の論文を作つた。また、アルレルス講師の心理學教室に入り重量感覺知見補遺を公にし、また、ワーグネル教授の精神病學教室に出入して臨牀上の知識を補つた。また、滯在の折々に能ふ限り墺太利國内の旅行をし、引いて獨逸、ハンガリー、伊太利の旅をもした。さういふ忙しい生活であつたが、成らうことなら滯在中の小記念を殘さうとして、簡單な日録の餘白に歌を書きつけることにした。本集の歌は即ちそれである。併し心を凝らして一首一首の錬成をすることが不可能であつたから、出來るに從つて漫然と書きつけたものが多く、全く歌日記程度のものになつてしまつた。
(560) 私が留學の途にのぼらうとした時、外國の風物に接するにあたつては、歌の表現にもおのづから變化があらねばならぬといふ豫感があつた。また實際に當つてもその心構が常にあつたといふことは、この集の歌が證明してゐるのである。歌の出來不出來はその折々のもので如何とも爲しがたいが、兎も角かういふものを殘すことが出來、自分にとつてのおもひでとして役立つことになつた。歸朝後實生活上の種々の事情のために、長らく放置してゐたのであつたが、「つゆじも」を編輯したから、ついでにこの「遠遊」をもいそいで編輯したのであつた。
 「遠遊」は杜甫あたりの詩にもあり、なつかしい語なのでこの集の名とした。昭和十五年夏記。
齋藤茂吉。
 
 追記
 このたび發行するにつき、岩波書店の布川角左衛門氏、榎本順行氏、藤森善貢氏から萬瑞御世話になつたことを感謝いたします。昭和二十二年三月盡、山形縣大石田にて。齋藤茂吉
 
  遍歴
 
(563)   ミユンヘン漫吟 其一
 
    大正十二年(西歴一九二三年)七月十九日午後九時五十分ミユンヘンに著く。七月二十一日シユピールマイエル教室に入りぬ
 
 初學者のごとき形にたちもどりニツスル染色法をはじめつ
 僧侶ひとりルツクサックを負ひて行く民顯《ミユンヘン》の市の街上にして 新しき方嚮《はうかう》の繪畫來て見たり]eusachliche《ノイザツハリツヘ》 Malerei《マーレライ》と謂へり
 この教室に外國人研究者五人居りわれよりも皆初學のごとし
 
    七月二十三日(月曜)、途上
 
 大馬の耳を赤布にて包みなどして麥酒《ビイル》の樽を高々はこぶ
(564) 維也納《ウインナ》より來りて直ぐに氣づきたりこの市《し》に自轉車の甚だ多きを
 バヴアリアの峽《かひ》の農民に東洋の種族に似たる顔いくらもあり
 
    七月二十六日(木曜)、驟雨屡來
 
 バヴアリアは山高けれや雷《らい》のあめ業房の窓をふるはせ降りぬ
 
    七月二十八日(土曜)、エトス食店、神經精神病學會
 
 Ethos《エトス》といふ野菜食店に來て見るに吾等にはさしたる感動もなし
 大戰後はじめて開く學會にまだいたく若き學者も來て居る
 
(565)    ベルリン。七月三十日(月曜)伯林に行き、大使館を訪ひ、シヤリテの病院を訪ひ、カイゼル・フリドリヒムゼウムを訪ひ、民族館、前史館、國民美術舘、水族館等を訪ひ、書肆を訪ひ、親しき友と會談す(前田茂三郎、下田光造、小宮豐隆、茅野蕭々、上田春次郎、出井淳三、柿沼昊作諸氏)。八月十二日(日曜)午前八時五十二分伯林を立ち、午後十時十三分にミユンヘンに著きぬ
 
 ベルリンに吾居るうちに一ポンド五ミルリオンより十四ミルリオンとなる
 赤き色したる刺身を食ひながら「同胞の哄笑」といふを聞き居り
 嘗て見しレムブラントを見に來り我が體|豐《ゆた》けく何とも言へず
 この首都に十日餘りゐて〃aluta-Materialismusといふ語をおぼえて歸る 大きなる動きを秘めてこの首都は悲しき眼光をわれにも與ふ
 
(566)    八月十四日(火曜)、一ボンド一六ミルリオーンとなる。シユビールマイエル先生と談る
 
 「小腦の發育制止」の問題を吾に與へておほどかにいます
 
    八月十五日(水曜)、祭日(Maria Himmelfahlt)植物園、ニユンフエンブルク、麥酒店レエウエンブロイ、伊太利料理
 
 山ちかきゆゑとおもへばこころよしいきほふ水に魚群がるを
 
    八月十九日(日曜)、冷、驟雨、ミユンヘン一月目なり
 
 この都市にわれ著きしより一月ははやくも過ぎて部屋定まらず
 夜毎に床蝨《とこだに》のため苦しみていまだ居るべきわが部屋もなし
 いつしかも時のうつりと街路樹が青きながらに落葉するころ
 
(567)    八月十九日、アルテ・ピナコテークの入場料は、内國人墺國人無料、外國人百萬マルクと掲示しあり
 
 アララギの友のひとりの事につき通信ありてものをしぞおもふ
 こよひも安らかに床に入らむとして吾足をつくづくと見る時のあり
 
 八月二十三日(木曜)
 
    Hillenbrand《ヒルレンブラント》媼の飼へるカナリアは十五歳になりて吾に親しも
 
    八月二十五日(土曜)、小雨、寒
 
 街頭を石炭|車《ぐるま》ひきてゆくをとめのにほへる面わつひに忘れむ
 バヴアリアの果物は好しけふもまた李を買ひて机にならぶ
 
(568)    八月二十六日(日曜)、ヾechs Tage englischer Politikといふ浸畫あり、人溺れむとするところに浮嚢を投じ、人それにたどりつかむとすれば、突如その浮嚢をひこます圖なり
 
 業房に日毎に過ぎむ吾なれど政治漫畫も時に樂しも
 
    八月二十九日(水曜)、晴、父、守谷傳右衛門死去の報に接す。父は七月二十七日、故郷の金瓶村に逝きしとぞ
 
 わが父が老いてみまかりゆきしこと獨逸の國にひたになげかふ
 七十四歳になりたまふらむ父のこと一日おもへば悲しくもあるか
 
    九月二日(日曜)
 
 イサールの河べを行きつ此處に來る勞働階級の青年おほし
 
(569)    九月三日(月曜)、夕刊新開に、・rdbebenkatastrophe in Japanと題して東京の震災を報ぜり。翌四日、翌五日も然り。‥ie grossste Katastrophe der Menschheit云々の句あり
 
 大地震《おほなゐ》の焔に燃ゆるありさまを日々にをののきせむ術なしも
 東京の滅びたらむとおもほえば部屋に立ちつつ何をか爲さむ
 わが親も妻子《めこ》も友らも過ぎにしと心におもへ涙もいでず
 こよひまた Hofbrau の片隅に友と來りてしづまりて居り
 ゾルフ大使の無事を報ぜるかたはらに死者五十萬餘と註せる
 
    九月六日(木曜)
 
(570) 引越《ひきこし》をつひになしたりうす暗き部屋に覺悟をきめむとぞする
 今日ゆ後いかにか爲むとおもへどもおもひ定まらぬ現身《うつしみ》われは
    九月九日(日曜)、西村資治君とイサール川原を行く
 
 友とともに飯《めし》に生卵かけて食ひそののち清き川原に黙《もだ》す
 
    九月十三日(木曜)、伯林經由の電報とどく。〆our family friends safe西村君宛の電報もあり、゛ishin hidoi buji
 
 體ぢゆうが空《から》になりしごと樂にして途中鞜墨とマツチとを買ふ
 一人して Alzbergerkeller《アルツベルゲルケレル》といふ處にて夕食したりまづしき食店
 
    九月十四日(金曜)
 
(571) 業房にけふは來りて電報を教授に見しむ教授わが手を握る
 かはるがはる我側に來てよろこびを言ひいづあはれこの人々
 街上を童子等|互《かたみ》に語りゆく「ペン尖ひとつ五十萬マークするよ」
 壯嚴と謂ふべからむかたくましく肥りし馬が荷を輓きゐるは
 
    九月十五日(土曜)
 街路樹の葉が黄になりて散りしかむころを我身はとりとめもなき
 
    九月二十三日(日曜)、イサール河
 
 はるかなる國とおもふに狹間には木精おこしてゐる童子あり
(572) イサールの賂のこだまは谿かげに七《なな》のこだまとなりて消えたる
 ひるすぎのおもき空氣にふるひ來る遠雷《とほいかづち》は川のみなかみ
 イサールの谷の柳の皮むきて箸をぞつくる飯《いひ》を食ふがに
 山がはのみづに下り來て現身を恐るるがごと足を洗へり
 支那|國《こく》の人ひとりゐて山がはの流れ見おろすは何か寂しき
 かすかなる心なごみて川上のしろき砂地に靴ぬぎにけり
 女《め》わらはが吾がまへよぎりしげしげと吾を見つるは寂しさに似む
 
    九月二十四日(月曜)
 
(573) 朝けよりおもひ直して黒き麺麭に牛酪《ぎうらく》ぬるもひとり寂しゑ
 業房の業を遂げむといそぐさへ心にかかる地震《なゐ》のいたきは
 
    九月二十六日(水曜)
 
 維也納《ウイン》のごとくカフエにて時を過ごすことミユンヘンにては心|落居《おちゐ》ず
 往來に`assenkundgeebubありて市民の心を暗指しつつあり ルール地方放棄
 
    九月二十八日(金曜)、奉天の大成潔君來る
 
 おもほえず君と相見てあなうれし呉先生のことをたづぬる
 
    九月三十日(日曜)、イサール河、マクシミリアン橋畔
 
(574) イサールの河の激ちのしぶき浴び繁樹くらきが中に入り居り
 
    十月四日(木曜)、Platzl を訪ふ
 
 山嶽のきこりの歌も「緑なるイサール」の歌もこよひ身に沁む
 民謠を聽きながら泣く女ありただの淫傷とわれおもはめや
 
    十月七日(日曜)
 
 部屋にゐて寒さ堪へがてに街ゆけば維也納カフエを見いでて入りつ Cafe Maria Theresia
 
    十月九日(火曜)
 
きのふより暖められし隣室にシユピールマイエル口笛を吹く
(575) こがらしが切《しき》りに吹きて橡の木の黄なる落葉が見る見るたまる
 わが部屋にこがらし聽けば山ふかき中の風音《かざおと》聽くがごとしも
 
    十月十一日(木曜)、學會
 
 愛敬《あいぎやう》の相のとぼしき老碩學 Emil《エミール》 kraepelin《クレペリーン》をわれは今日見つ
 われ專門に入りてよりこの老學者に憧憬《どうけい》持ちしことがありにき
    十月十五日(月曜)、岡田眞君大阪朝日新聞週報おくり來る
 
 東京のもえ居《を》る空がほの赤く碓氷峠よりのぞみ得たりと
 
    十月二十一日(日曜)、西村君と Grunewald を行く
 
(576) もみぢ葉の黄に透りたる木立にてそのひまゆ碧きイサールながる
 イサールのながれを越えて向岸《むかぎし》は山につらなる大高野はら
 日本の新聞を同胞らあひ寄りて息づまり讀む地震《なゐ》の事のみ
 
    十月二十二日(月曜)
 
 強き雨ひと日降りしが金色にひかる夕空ほそく見えそむ
 
    十月二十五日(木曜)、井上啓一氏より日本新聞來る
 
 暖めぬ部屋にかへりぬ湯婆《たんぽ》にて足をつつめば足《た》るおもひぞする
 
    十月二十八日(日曜)、一昨年横濱を出帆せしより滿二年に當る。グリユーネワルトを行く
 
(577) 川べりをわれひとり行くおもひきり儉約せむと心にきめて
 一隊が Hakenkreuz《ハーケンクロイツ》の赤旗を立てつつゆきぬこの川上に
 イサールの川の川原におりゆくに水綿なびく泉を見たり
 
    十月二十九日(月曜)、伯林前田氏來書
 
 業房にとどまり居よといふ友の強きこころに涙いでむとす
 
    十月三十日(火曜)、ヒルレンブラント方にて、上月、中井、西村、小宮山、松尾夫妻の諸君と夕餐を共にす
 
 日本飯われ等くひたり茶精といふ粉を溶かしていくたびか飲む
 行進の歌ごゑきこゆ Hitler《ヒツトラ》の演説すでに果てたるころか
(578) 夜半《よは》すぎて歸り來れり霧ふかくこめたる街に吸はるるごとく
 
    十月三十一日(水曜)
 
 天皇《てんわう》の生《あ》れましの日をことほぎて集へるものがよろこびかはす 名譽領事宅
 けふは Karl《カアール》Haushofer《ハウスホーフアー》將軍も祝《ほぎ》の言の葉申しあげたり
 
    十一月一日(木曜)、萬聖節祭日(Allerheiligenfest)、業房休、北方墓地(Nrdfrirdhof)森林基地(Waldfrirdhof)を逍遙す
 
 墓地ゆけばなべて靜けし墓地のみちこの國人とともに吾ゆく
 白菊と黄菊の花も※[奚+隹]頭の紅《あけ》のふりたる花も賣りけり
 ゆふ毎に我ぞあゆめるしとしとと霧にぬれたる石だたみ道
(579) けふもまたそこはかとなく暮れゆきて南ドイツの家にねむらむ
 
    十一月三日(土曜)、ヒルレンブラント、中井氏室
 
 日本より持て來し蓴菜を食はしむと酢を買ひに行きし我友あはれ
 
    十一月四日(日曜)、曇、時雨。服喪日(Trauertag)、Hofgarten に式あり、盛大を極む
 
 祖國ドイツの悲しみの日よしかすがに燃ゆる心とけふを集へる
 ながくつづく悲哀の樂は寒空に新しき餘韻を二たびおこす
 中空に打つ銃《つつ》のおとにつづきたる鋭き樂を聽きつつゐたり
 
    十一月七日(水曜)、部屋に關し警察行
 
(580) 落葉せる庭のしぐれの音きけば日本《にほん》の山のごとき寂しさ
 さだめなきこの假住《かりずみ》や夢にして白飯《しらいひ》の中より氣《いき》たちのぼる
 
    十一月八日(木曜)、初めて雪降る
 
 ミユンヘンの夜寒となりぬあるよひに味噌汁の夢見てゐきわれは
 
    十一月九日(金曜)より十五日に至るヒツトラー事件
 
 をりをりに群衆のこゑか遠ひびき戒嚴令の街はくらしも
 警察時間|夜《よる》の十時にのびしかど大學全部けふ休講す 十一月十二日
 物のふと無くなりしごと夜ふけて警《いまし》めし街に女たたすむ
(581) おもおもとさ霧こめたる街にして遠くきこゆる鬨のもろごゑ
 執政官 karl《カアール》の訓示街頭にはられてありぬ祖國のために
 ミユンヘンを中心として新しき原動力は動くにかあらむ
 ヒツトラアのため命おとしし學生の十數名の名がいでて居り
 槍もてる騎馬兵の一隊も護り居り事過ぎたりとおもふごとくに
 イサールの橋のたもとを國軍が占領したれば戒嚴終らむ
 
    十一月十八日(日曜)
 
 ふるさとの曉おきの白霜も此處には見ずて冬はふかめり
(582) 夫婦にて來居る同胞がある時に豆腐つくりぬ食はむといひて
 ふるさとの穉子《をさなご》がかきし走り馬枕の許に置きつつねむる
 山の間に立ちし虹さへ七色にかきてありけり我が穉きは
 しらじらと雪の降れるを起きいでて見むともせざる吾《われ》疲れけむ
 騷動の町に起臥してありしかば故郷《ふるさと》のことも暫し忘れき
 
    十一月十九日(月曜)、アララギ震災號屆く
 
 寒きちまた歸りてぞ來る東京の地震のさまにをののきながら
 うれし涙われの眼《まなこ》にたまりたり廣野三郎高田浪吉
(583) ふたりとも此世になしと歎きしが高田も廣野も生きてゐしはや
 
    十一月二十一日(水曜)
 
 ゆくりなく屈みても見つ冬がれし路傍の草に霜かそけきを
 
    十一月二十三日(金曜)、東京の家より新聞屆く
 
 本所の被服廠あとの悲劇をも記してありぬ夢ならなくに
 
    十一月二十六日(月曜)、雪降る
 
 またたくまも定まらぬ金位ききながら兎の腦の切片染めつ  一ポンド一八ビルリオン
 あまぎらし雪は降れれど忙しく銀行に來ぬきのふもけふも
 
(584) 十一月二十九日(木曜)、學會
 
 學者等の並びてゐたる學會に我も來居りて心たかぶる
 クレペリーン「眠りの深さ」についての報告をなしたり嘗ての増補をも爲き
 
    十二月二日(日曜)
 
 ふるさとの平福畫伯よりのはげましの便りを讀みてわれ泣かむとす
 金のことも願ひて手紙書きにけり業房に明暮るる心きめつつ
 二年《ふたとせ》さしし洋傘《かうもり》のやぶれつくろひて苦しかりし思出もここにまつはる
 四人寄りて將棋を差しぬこの樂しき一日《ひとひ》が暮れて飯《いひ》を食したり
 
(585)    十二月三日(月曜)、Odeon 座宗教樂
 
 寺院樂の合唱ききぬいそがしき僅《はつ》かのいとま吾も樂しむ
 
    十二月八日(土曜)、Mariaempfangnis 祭日
 
 さかんなる行進を見ぬ少年の數隊もその中にまじりて
 
    十二月九日(日曜)、Peterhof
 
 淺草に行きつつゐたる心地にてこの俗謠を一夜《ひとよ》たのしむ
 
    十二月十五日(土曜)、降雪、ヒルレンブラント媼のところに轉室す
 これまでに種々《いろいろ》世話になりたるが今日よりは住處《すみか》をここと定むる
 
(586) 大雪となりたるけふをいささかのゆとりがありて日は暮れむとす
 
    十二月十六日(日曜)、雪降、Kunstlerring
 
 素朴なる女《をみな》のうたごゑは山間の村に聞くべきあはれならむか
 
    十二月二十一日(金曜)、大雪降
 
 小腦の今までの檢索を放棄せよと教授は單純に吾にいひたる
 
    十二月二十三日(日曜U、カフエ・ドイツチエス・テアターに來りて、心をしづかにす
 
 業房の難澁をまた繰返しくらがりに來て心を靜む
 
    十二月二十四日(月曜)、クリスマス夕
 
(587) 六人の日本人紆あつまりて鋤燒を食ふ平凡なれども
 Frauenkirghe《フラウエンキルヘ》の夜の更くるなべ樂《がく》の音いよよさえまさるなり
 歡喜《よろこび》をもろともにして白雪は Frauenkirghe《フラウエンキルヘ》のうへに降りつむ
 
    十二月二十五日(火曜)
 
 われひとり Starnberg《シユタルンベルク》湖《みづうみ》の雪道あゆむ雪照りかへす
 みづうみのかなたに見ゆる山々は一山《ひとやま》晴れて一山くもる
 往にし日の Gudden《グツデン》先生の悲しきを弔らふ心湧きて吾《われ》來つ
 あまつ日のやうやく低くなるなべに黄なる光は雪をてらせり
 
(588)    十二月二十八日(金曜)、Alte Pinakothek
 
 レムブラントの Sylvius《シルヴイウス》の像を今日も見て歳暮の一日《ひとひ》心は和ぎぬ
 
 この日ドイツ新聞報じて日本の faschistisch《フアシスチツシユ》の傾向に及びき
 
    十二月二十九日(土曜)、Neue Pinakothek,Tonhalle
 
 古代畫に較ぶるときに物足らず例へばレンバツハの肖像畫にても
 ベエートウフエンの第九シユンフオニイは壯嚴にをはりて行きぬ今宵のゆとりよ
 
    十二月三十日(日曜)
 
 雪ふみて南方墓地にシーボルトの墓をたづねぬ雪ふりみだる
 
(589)    十二月三十一日(月曜)、晴
 
 一とせの悲喜こもごもを過去として葡萄の酒を今こそは飲め
 新しき第一の瞬時いはひて拔く一〇ビルリオンの白葡萄酒の栓
 
   ミユンヘン浸吟 其二
    大正十三年(西暦一九二四年〕一月一日(火曜)
 
 歐羅巴にわたりて第三囘のこの新年を靜かならしめ
 湯たんぽを机の下に置きながらけふの午前をしづかに籠る
 
    一月二日(水曜)、教授に新年の挨拶をなし、のちは同胞三人、飯を食し將棋差してゆふぐれとなる
 
(590) 街上に雪を掃除する人等居り急流のなかに忽ち雪棄つ
 日本飯をけふも食ひたりおごりにはあらぬ儉約とこのごろおもふ
 將棋さす心のいとまおのづから出で來しことを神に忝なむ
 
    一月五日(土曜)
 
 雪つもる南方墓地にシーボルトの子の墓たづねけふも吾《わが》ゆく
 小腦の研究問題もいさぎよく放棄することに心さだめつ
 
    二月六日(日曜)
 
 鼻のさきびりびりと痛くなるまでに寒きミユンヘンを友に告げむか
(591) 納豆をつくるといひて夜も起きゐる留學生の心ともしも
 
    一月八日(火曜)、腰痛あり、兎の手術に著手す
 
 新しきテーマに入りて心きほひ二世の兎たちまち手術す
 
    一月九日(水曜)、呉先生のシーボルト研究のため、民族博物館を訪ひ、Dirr 教授、Schermann 教授に會ふ。Lex 君同道す
 
 シーボルト關係の日本物《にほんもの》見むとしてカンテラの火をともして行くも
 
    一月十一日(金曜)、岡田・井上二氏より日本新聞送らる
 
 今とどきし日本のくにの新聞の地震の記事は胸いたましむ
 
    一月十五日(火曜)、寒さ甚し
 
(592) 樹の枝に氷|花《はな》さく寒さをもいとふことなし心きほひて
 屋根裏に住む夫妻もの宵毎にギタをかなでてあはれにうたふ
 やうやくに金貨マルクと定まりて心みだれずならむとすらむ
 
    一月十六日(水曜)
 
 新しき地震東京にありたりと報ぜる朝刊をもちて立ち居り
 
    一月十八日(金曜)
 
 一匹の犬の頭蓋に穴あけし手術にわれは午前を過ごす
 
    一月十九日(土曜)、Lex 君を訪ふ
(593) 彼いはく獨逸人の眼は「絹」にして猶太人の眼は先づ「天鵞絨《びろうど》」か
 同治五年の新約聖書とりいでて示しながらに彼はよろこぶ
 「一日の勞苦は一日にて足れり」と聖《ひじり》いへども今にふさはじ
 
    一月二十二日(火曜)
 
 飯《いひ》のなかの砂を噛みたる時のまを留学生のわれは寂しむ
 
    一月二十四日(木曜)、晴、寒
 
 一月二十一日 Lenin 死して軟腦膜に出血ありしがごとし
 攝政宮殿下御婚儀の賀詞ありきドクトル・オスフルドのひた心善し
 
(594) 一月二十五日(金曜)
 
 業房にいろいろ氣を使ひしためかあけがた妻の夢を斯てゐし
 
    一月二十六日(土曜)
 
 わが部屋に四人《よたり》あつまり肉を煮て東宮婚儀を祝ぎたてまつる
 
    一月二十七日(日曜)
 
 Lenin《レエニン》の腦がミユゼーに納められしといふ唯物論者のLenin《レエニン》の腦が
 
    一月三十一日(木曜)
 
 けふ第二の犬の頭蓋の手術をばつひに爲したり汗垂りながら
 
(595)    二月九日(土曜)
 
 Cafe《カフエ》 Minerva《ミネルヴア》のことたづねむと大學の裏幾度か往反《ゆきき》す
 
    二月十日(日曜)、オデオン座にワーグネル祭を行ふ
 
 エイチエの詩の朗讀をひとりの若き女性のしたるが好しも
 音樂の大き波動の進行に豫感をひとつ持つこともなし
 實驗の爲事やうやくはかどれば樂しきときありて夜半に目ざむる
 風氣味のことは屡《しばしば》ありしかど熱に臥ししこと一日もあらず
 
    二月二十日(水曜)
 
(596) 床に入りて相撲の番附を見てゐたり出羽ケ嶽の名も大きくなりて
 
    二月二十一日(木曜)、平福神・中村二氏來書
 
 女ドクトルわがそばに來て^ tempora! O mores!の歌を教へてゆきぬ
 金爲換《きんかはせ》けふとどきたりわが友のみなさけにして涙ぐみ居り
 
    二月二十七日(水曜)
 
 ヒツトラー事件の列判ありて新聞にも街頭にも大きく寫眞出でゐる
 
    三月一日(土曜)
 
 Fohn《フエーン》の風吹くべくなりて積れりし雪は解けそむきのふもけふも
 
(597)    三月二日(日曜)、寺院、國民美術館等
 
 やうやくに暖かとなりしこよひは Serenissimus《セレニシムス》に入る Minerva《ミネルヴア》のあと
 
    三月十六日(日曜)、Pfalztag(Munchner Pfalzwoche〕
 
 數萬の群衆ここにつめきりて式を遂げつる美しく強く
 形式のみのためとおもふなかくのごと壯嚴にして事おこなはる
 何といふ大きなる樂か一國の心にひびきとほりてあはれ
 
    三月十七日(月曜)、折々の歌
 
 あわ雪は降りつもれどもアムゼルの鳴くこゑのして春たけむとす
(598) かすかにてあるか無きかにおもほゆる草のうへなる三月の霜
 寺の鐘しきりに鳴りて安息のけふ明けわたる春のこころに
 イサールを渡り來りて人形の芝居を見たりその簡單よ
 
    三月二十一日(金曜)、茂太誕生日
 
 東京のわが穉子の生れたるけふを麥酒少し飲みて祝ぐ
 
    三月二十三日(日曜)、Neue Staatsgalerie,Peterskirche
 
 ※[ワに濁点]アン・ゴオホの向日葵の圖も眼《ま》ぢかくに見たる幸《さいはひ》をわすれかねめや
 イサールの流れとともに歌はれし古きみ寺にけふは來にけり
 
(599)    三月二十六日(水曜)
 
 兎らの腦の所見と經過とを書きはじめたり春雨ききつつ
 たどたどしき讀逸文にて記しゆく深秘なるべき鏡見像を
 
    三月三十日(日曜)、ペタースキルヘ、夜雪降る
 
 このみ寺の彌撒に逢ひぬれば童男《をわらは》と童女《めわらは》の列はすべて清けく
 
    四月一日(火曜)
 
 この爲事いそがねばならず日もすがら夜《よ》を繼ぎて運び來りしかども
 
    四月六日(日曜)、Neue Staatsgalerie,選擧日
 
(600) 平《たひら》ならぬ心を持ちて辛うじてここの美術に親しみなむか
 
    四月八日(火曜)、東方墓地(Ostfriedhof)
 
 グツデン先生のみ墓のまへに帽とりて心靜めぬ日々|苛《いら》てるを
 
    四月十日(木曜)、春雪大に降る
 
 春の雪みなぎり降りぬ高山のつらなり延ぶるみなみ獨逸に
 あさけより雪を降らしし雲の峯|北方《ほつぽう》によりてそばだち居たり けふ降りし春のはだれに日は差してかがやきながら斑雪《はだれ》常なき
 
    四月十三日(日曜)、春雪大に降る
 
(601) 猫柳の花たづさへて寺に入りゆく童女を見たりわが心和む
 雪雲はけふも立ちたりバヴアブアは高山のくにその空の雲
 
    四月十四日(月曜)、アララギ三月號來
 
 春の光ながらふるごとかがやきて衢をい行くわれは汗ばむ
 東京の妻がおくりし御守護《みまもり》をおしいただきてカバンにしまふ
 
    四月十六日(水曜)、咽より血出づ
 
 くろ雲はこの都市《とし》をおほはむとして春のいかづちとどろきにけり
 眞向《まむかう》の家並《やなみ》のいらか光るときたちまちにして雷ぞとどろく
(602) いかづちの鋭きときはくしやくしやになり居る心しばし和《やは》らぐ
 
   ドナウ源流行
 
    四月十八曰(金曜)、karfreitag
 
 中空《なかぞら》の塔にのぼればドウナウは白くきらひて西よりながる Ulm
 ドウナウの流《ながれ》をりをり見え來り川上にゆくを感じつつ居り
 Sigmaringen《シグマリンゲン》を過ぎてよりまどかなる月の光はドナウを照らす
 
    四月十九日(土曜)、カール土曜日、Donaueschingen,Villingen
 
 Brigach《ブリガハ》とBrege《ブレーゲ》と平野の河ふたつここに合ふこそ安らなりけれ
(603) あひ合ひてドウナウとなるところ見つ水面《みのも》は白し日のかがやきに
 ただ白くかがやき居れど二つ川相合ふ渦を見すぐしかねつ
 ゆたかなる水草《みづくさ》なびきこの川の鯉のむらがり怖《おそれ》さへなし
 直岸《ただぎし》に來つつドナウに手をひたす白き反射《てりかへし》にわが眼まぼしく
 ドウナウエシンゲンに來てドウナウの水泡《みなわ》かたまり流るるも見つ ドウナウの岸の葦むらまだ去らぬ雁《かり》のたむろも平安《やすらぎ》にして
 黒林《こくりん》のなかに入りゆくドウナウはふかぶかとして波さへたたず
 
    四月十九日、ゆふべコンスタンツに向ふ
 
(604) たづね來しドナウの河は山裾にみづがね色に細りけるかも
 なほほそきドナウの川のみなもとは暗黒《*あんこく》の森にかくろひにけり *Schwarzwald
 この川のみなもととなり山峽《やまかひ》のほそき激ちとならむとすらむ
 大き河ドナウの遠きみなもとを尋《と》めつつぞ來て谷のゆふぐれ
 Brigachquelle《ブリガハクヱルレ》尋《と》めむとおもひしがかすかなるこの縁《えにし》も棄てつ
 
    四月二十日(日曜)、コンスタンツ、復活祭《オステルン》、Bodensee
 
 大きなるみづうみのうへに白き鳥しきりに啼きて今日のあかとき
 復活祭《ふくくわつさい》の鐘ひびきわたりけれ南獨逸にて大きみづうみ
(605) Munster《ミユンステル》に入りゆく尼の一連《ひとつら》の面《おも》にほひたるけふの春日《はるび》は
 くさぐさのいろどりありて高き家古き代よりの心のこりける
 
    Bodensee を汽船にてわたる
 
 國境《くにさか》ふ瑞西《スイス》のうへに白雲のかたまるさまをふりさけ居りき
 基督のよみがへりし日旅を來てみづうみの中に衣さむけく
 み寺より鳴りくる榮の鐘きけばこの國人《くにびと》のごとく身にしむ
 初夏《はつなつ》にむかふ光はみづうみをかがやかしめつ白き水鳥
 湖《うみ》のべの町のみ寺はあなかなしかすかになりていまだ見え居り
 
(606)    Meersburg,Immenstadt,Friedrichshafen,Wasserburg 等をとほりて Lindau に著く
 
 人の住む湖岸《うみぎし》とアルプ山なみと共にし見ればとどこほらざる
 現身のわれはも見しか白雲の遠くにこごるそのさびしきを
 わが目路はひろくまどかにアルプスの雪かがよふも永久《とことは》なすも 橡の葉はみづみづしくて秀枝なる蕾みるべくなりにけるかも
 竹行李もてる旅びと間々あれば日本製かとおもふひととき
 
    午後五時五十分リンダウを發して、オウベルスドルフに向ふ
 
 青野には黄なる小花がむれ咲きて目路のとほくになるところあり
(607) 雪|消《け》たるあとがすぢなしなだれくるその有樣もすでに高國《たかぐに》
 山山が湖の西方《さいはう》にたたなはり紅くなりたる太陽ひくし
 樅木立ふかぶか立てる山のべを過ぎて入日の雲ひくく見ゆ Rothenbach
 ここにしてもろもろのみづ二《ふた》分かる Rhein《ライン》のみづ Donau《ドウナウ》のみづ Oberstaufen,Wasserscheide
 アルゴイの山々すでに見え來り限りなきその奥處《おくが》おもほゆ
 高原のうへに湛へし湖ありき雪かむる山あはれ映りぬ
 
    四月二十一日、復活祭月曜、オウベルスドルフ
 
 Algau《アルゴイ》の山のはざまの春たけて消《け》のこる雪はけふぞ踏みつる
(608) 夜おそく著きてさびしくわが宿る旅舍の食堂に山歌きこゆ
 アルゴイの飛びわたる鳥の呼吸する山の空氣がわが咽に入る
 足許のするどき水の激《たぎ》てるはとほくドウナウに入りてしゆかむ
 一八七〇年九月一日セダンのたたかひに戰死したる兵士の碑
 高々とせまれる山はアルゴイのアルプ山なみのひとつなるらし
 雪消えてしらじらとせる川原《かははら》に春のこほろぎすでに聞こゆる
 蕗の薹の赤莖《あかぐき》ながくほほけ居りその香をかげば日本《にほん》おもほゆ
 割薪《わりまき》をやまほどに積み山ぐにのこもるしづかさ我身《わがみ》にしみて
 
(609)    四月二十二日(火曜)、歸宅、入浴(Wannenbad)に行く
 
 午後の二時入浴に來たり昨年の八月以來の入浴なるぞ
 
    四月二十六日(土曜)
 
 橡の葉が二三寸の若葉になりゐたり日々にはげみて夢のごときか
 十六例の兎の所見を書き了へてさもあらばあれけふはやく寢む
 
    四月二十八日(月曜)、下田君來る
 
 同門の三人《みたり》あつまりためらひのなき批評をもかたみに言ひつ
 
    五月一日(木曜)、下田君ウインに立つ。教授予の標本を見、予の文章を閲す。顯微鏡寫眞とりはじめつ
 
(610) わが書きし獨逸文を教授一讀し文獻補充のことに及べり
 
    五月二日(金曜)、夕ひとり日本飯くふ
 
 イタリアの米を炊ぎてひとり食ふこのたそがれの鹽のいろはや
 はるかなる國に居りつつ飯《いひ》たきて噛みあてし砂さびしくぞおもふ
 ミユンヘンの假のやどりに食む飯や Maggi《マツジー》にしめす海の海苔の香
 このゆふべ異國《ことぐに》の語《ことば》いとひつつ白飯《しらいひ》をくふ室《へや》にこもりて
 
    五月五日(月曜)、弟西洋山形高等學校入學の報に接し歡喜せり。教授予の標本を鏡見
 
 弟の入學のしらせほがむとぞ飯《いひ》を炊ぎて友待つけふぞ
(611) 文獻は電文《テレグラム》のごとき體裁に審きてもよしと教授いひたり
 
    五月六日(火曜)、小宮豐隆氏來、小西誠一氏同道す。ブムケ(Geheimrat Bumke)新任講義第一日。プラウト、シユピールマイエル、リユーデイン三教授も出席す
 
 クレペリンの後を繼ぎたる一代の碩學としてこの講堂は滿つ
 小宮教授をむかへて心樂しひと夜 Platzl《プラツツル》に相醉《あひゑ》ひにけり
 
    五月九日(金曜)
 
 日本《につぽん》へ歸りし夢を見てゐたり剃刀を置き忘れしことなど言ひて
 
    五月十−日(日曜)
 
(614) 教授よりわが結論の賛同を得たるけふしも緑さやけし
 この園のみづうみのごと湛へたる水はアルプの山よりぞ來る
 
    六月一日(日曜)、Feiertag d.bayrisch.Kriegsbundes,Isartal
 
 行進はすべて軍除に關係し普佛戰ごろの服裝もあり
 イサールの川上ゆけば乳いろをなしたる淵も見おろすわれは
 
    六月六日(金曜)、昨日、ンユピールマイエル教授、プラウト教授の自宅にいとま乞をし、シユワービング病院に Prof.Oberndorf,Prof.Lange を訪ふ。今日、リユーデイン教授、イツセリン教授に挨拶をいたせり
銀行に行くに、この日ごろ一ポンドの爲換相場一七・六金貨マルクなり
 
(615) ミユンヘンの諸教授をけふ訪ねゆき訣れ告げたり感恩とともに
 
   山の旅
 
    六月七日(土曜)、中井・西村・兒玉三君と共に、ベルヒテスガーデンの旅にいづ
 
 日もすがら草を刈りほす青野より草の香ぞする心なごむと
 森林のいく重《へ》かさなるところ越え山するどきに日はあたり見ゆ
 くろぐろとしたる山べに打つづき萌葱《もえぎ》の森も見るべかりけり
 Inn《イン》川《がは》はにごりてながる川かみの大き山べに雨の降りたる
 ひろびろとしたる平《たひら》にさやりなく Chiemsee《ヒームゼー》のみづうみ有りき
 
(616)    六月八日(日曜)、ベルヒテスガーデン
 
 あかつきの晴るる空氣のさむきまで高山ぐにとおもほゆるかも
 雪たかき山の秀《ほ》むらの見え居りてすがしき朝の乳のみにけり
 日のさせばうすくれなゐににほふものアルプの山のそめいただきよ
 はるばると來て国境なる山なかに白き寺見ゆる朝のしづかさ
 
    六月八日、Konigssee
 
 ほそき瀧山にかかりぬおちいりし山をぞ傳ふこのみづうみに
 うみ圍む高きいはほに子を率《ゐ》つつ羚羊《かもしか》が見ゆ湖《うみ》のしづかさ
(617) みづうみの空にむかひて打つ銃《つつ》の音の七こだま八《や》こだま
 山ふかくこもるみづうみ黒きまで澄みとほりつつみづうみの香よ
 鱒の子はあはれなるものか高國のこのみづうみに育たむとする
 みづうみに吹く角笛のつぎつぎに移ろふ谺は峽の奥ゆく
 
    Chiemsee(ヒーム湖)、Fraueninsel(雌島)、Herreninsel(男島)
 泥炭を掘れるところも見つつ來し平野に寄ら近づきゆくも
 すでにしてかへりみすればきびしくも南のかたにむらがれる山
 村いくつ見えつつゐたり小さなるみ寺の上につばめ飛びつつ
(618) 春の野に見ゆるかぎりの小花《こはな》さき南ドイツのこころ樂しも
 Chiemsee《ヒームゼー》の一部ならむとおもひたり西に湖《うみ》ひかりひむがしに虹
 この島の朝あけぬれば牛の乳を飲みたるのちに寺に入り來《こ》し
 この島の畑《はた》に小さき林檎成り尼修道院の鐘の音《ね》湖《うみ》わたる
 
    Stock,Prien を経て Kufstein 行の汽車に搭じ、Bosenheim より乘かへ、Inn 川の谷をくだる。Brannenburg
 
 Inn《イン》河はにごりて流る國境こえつつここを流れくる河
 道をゆく童女《をとめ》のともが山國の風俗をして愛《かな》しとも愛し
 
    Brannenburg より登山電車(Wendelsteinbahn)
 
(619) 中腹に蕨ほほけてしげれるを見つつ來しかな人に知らゆな
 たたなはる山々近く見え來り雲うごくそばに雲ひそむ山
 かかる瀧いくつもありていつしかもこの谿谷は成り成りけらし
 青山の高きなだれに牛馬がかくばかり數多《あまた》をるとこそおもへ
 谿川の瀬の音のひびく近々にいまだ萌葱のひとむら木立
 おきな草|白房《しろふさ》となりありたりきここにし見れば白頭翁《おきなぐさ》かなし
 あまつかぜ吹きしけるこの高處《たかき》をば幽かに人ののぼりくる見ゆ
 山なみは幾重の奥にあらはれてこの大きなる谷を日てらす
(620) ひろらなる眼路《めぢ》となりたる高國のむかつ奥山に雲あそぶなり
 アルペンの幾山なみのつたはりて奥處《おくが》を知らぬ山のかたまり
 眼《まな》したにこもりて見ゆる二つ湖|現身《うつせみ》は「互《かたみ》の湖」とおもはむ Schliersee,Tegernsee
 
   ガルミツシユ行
 
    六月十日、ミユンヘンを立ち Garmisch に向ふ、途上
 
 みづうみは Starnbergeree《シユタルンベルゲルゼエ》にして南ざかひの山ひかる見ゆ
 きらひたる空につづける西南に國ひくくなりて二たびの湖《うみ》 Ammersee
 みづうみの岸の淺處《あさど》によし原の青めるみれば春は逝くめり
(621) 黒き森みづうみのべにつづきたるなべてしづけさわれに近しも
 イタリアの野にも散りけむひなげしの紅きが此處にも咲きちりにける
 いろ布をかぶりてゐたる女《をみな》さへ風《かざ》やけしたる頬あからひく
 
    六月十日、ガルミツシユ、Rissersee
 
 みづうみの近く歩きてほほけたる蕨を手折り新聞につつむ
 この湖にうき草あまた浮き居るを蓴菜に似たるものとおもひぬ
 岸ちかくみづすましなど遊ぶさへ外國《とつくに》の旅もものしづかなる
 やはらかき蕨もありてわれは摘む讀逸のくにの人に知らえず
(622) なほふかく Aulaalm《アウラアルム》へ行くといふ吾はえ行かず踵《きびす》をかへす
 
    六月十一日、Eibsee
 
 ここにして Zugspitze《ツークシユピツツエ》のいただきを正面《まとも》に見むと人ら旅來る
 春ふけし南ドイツの山なかのひとり旅こそさびしかりけれ
 うみのべの草野に鳴けるこほろぎの聲はほがらにあまたは鳴かず
 山なかに吹く風寒し遠くより來りて去《い》ぬるはさびしきろかも
 シイボルトの孫にあたるが湖のべの店をひらけり縁《えにし》とやいはむ
 みづうみのふちをめぐりて岩むらの常陰《とかげ》ゆわける水飲みにけり
 
(623)    六月十二日、歸宅、六月十四日、ミユンヘン郊外なる Eglfing精神病院を參觀す
 
 大きなる狂院に來て現《うつつ》にし身に沁むことのそのかずかずを
 
   獨逸の旅
 
    六月十六日、シユトツトガルト、チユビンゲン
 
 なだらかに小山おきふしつづきたるその起伏《おきふし》に葡萄|園《その》見ゆ
 クールベの海波圖をここに來て見たり濱に石あるこの海波《かいは》の圖
 丘陵によりて成りたるこの都市の生々《いきいき》しさを吾よく知らず
 ベルツ博士の遺族訪はむとおもひしが訪ふこともなくこの町を發つ
(624) 刈りほせる草の香たかき六月の野をてらす日も低くなりつも
 
    六月十七日、チユビンゲン。Neckar河、醫科大學、Prof.Gaup,Prof.Kretschmer,Dr.Scholz
 
 おもほえず月がのぼりて Neckar《ネツカー》の川波てらすあかくまどかに Neckar《ネツカー》の川べりに紅き提灯をつり居るを見て旅をしおもふ
 この町の旅のやどりは夜半すぎてただひとつなる蚊の聲ぞ聞く
 業房の窓より見ゆる黒林はおきふす小山《をやま》こめてつづきぬ
 小さなるこの町に研鑽の學者等をたづぬる心きよくもあるか
 走る汽車山地に入りて Neckar《ネツカー》はさながらにして山がはとなる
(625) 白牛《しろうし》のひける車は乾くさを高々とつみてあはれいそが
 つづきたる森の暗緑とほくなりしばらくにして近づききたる
 暮れのこる夕《ゆふべ》の光ひくくして丘の村の灯またたきそめぬ
 わが汽車はフライブルクに近づきて今夜もあかく月いでにけり
 
    六月十八日、十九日、フライブルク
 
 古風なる模樣を持てる家々もこの町に來れば常に見得べし
 大學の名にたてるこの都市に來て大學の銘も寫しとりけり
 本寺にはクラナツハの描ける繪がありて群衆もけふここにつどへる
(626) この都市に今日の鐘鳴り空砲のひびきあふ時われぞ旅來し
 橡の葉もゆたにしげれる丘の上の公園に來て心しづむる
 けふ一日《ひとひ》街を見めぐり聞き來つる鱒(Forelleblau)も食ひたり明日去りゆかむ
 名にたてるこの大學の教室にわが同胞と親しみ語る 病理學教室、精神病學教室
 
    六月十九日、二十日、二十一日、ハイデルベルク
 
 Neckar《ネツカー》はここに大きくなり居りて名にききし橋をけふわたりぬる
 この河に釣する人のちらりほらり見えをるはまた寂しくもあるか
 ネツカーの川上の方《かた》に山たたまる川下のかたは夢のごとしも
(627) けさの朝け街上にして同胞のふたりに會ひぬ彼等も旅びと
 古くより大學街の名に負へる此石室に學生の樂書も見つ
 この河の鱒の鹽燒を食ひゐたり西洋人もかくの如くして食ふ
 ふりさけてネツカー川のきはまりのラインに入らむかたぞきらへる
 高々とのぼり來れる城の門このあたり一帶の赤き石の門
 見おろして吾等しづかにおもふなりこの古き町に「學」ぞさかゆる
 みどり濃くなりまさりたる下かげに蚊のこゑを聞く吾は旅びと
 Wilmanns《ウイルマンス》教授にあひてわが父が嘗て來しことをおもひいでつも
(628) みどり濃くなりたるハイデルベルクにて燕のともは城にひるがへる
 
    六月二十二日、二十三日、カツセル
 
 この都市を終日《ひねもす》歩きて城に來しここよりカツセルはただ一目のみ
 兵團のある都市にして工業の都市としいへば心なごまず
 かかる町の畫廊にレムブラントが十五六ありたるを見て驚くわれは
 丁寧に道を教へし翁あり安南も廣東も知りて居りにき
 ふりさけて眺むるときにこの都市はやや高き丘陵《きうりよう》に成り成りにける
 
    六月二十四日、ワイマール
(629)
 チユリソグソの森をとほりて Eisenach《アイゼナハ》の Wartburg《ワルトブルク》もけふは見にける
 二たびの訪問なれど心飽かず青き園にても心足らひて
 この街のゲエテ、シルラー、ニイチエと親しむものは親しみ來《きた》る
 わが胸もとどろきき彼等が現身《うつしみ》にありけむ時のものとおもへば ミユンヘンより來りて見れば獨逸語もほがらなりけりここの國べは
 Furstengruft《フユルステングルフト》にゲエテとシルラーの棺もありき年古りしなり
 
    六月二十五日、イエナ。市街、ツアイス工場、精神病學教室
 
 大體の雰圍氣は大學町にして道に會ふ學生とりどりに善し
(630) ひとり旅の吾の如きもさげすまぬツアイス會社の人々|羨《とも》し
 教室にては教授 Berger《ベルガー》氏と講師 Jacobi《ヤコビー》氏とがわれをもてなせり
 起伏せる小山《こやま》を負ひてしづかなるこの町にしも「學」はおこりぬ 【オイケン教授もここなりき】
 午後になりて腹を痛めしのみにいきほひなくて停車場に居り
 櫻の實が Saal《ザール》河の岸にふさなりになり居るをみて此處を去りゆく
 野菜畑果樹園を見つつわれおもふ夏至の永日《ながひ》ははやも過ぎつと
 
    六月二十六日、ライプチヒ。美術舘、フオツク書店、エンゲルマン書店、チンメルマン會社、市街、墓地
 
 街頭にゐたる巡査が日本語を五つ六つ知る俘虜にておぼえき
(631) ライプチヒは書籍の都市と聞きゐしがうべも言ひけり古書山の如し
 一年も心しつかにこの都市に居りたらば好けむとひとりおもへり
 
    六月二十六日、Lutzen,Rocken
 
 Rocken《レツケン》のエイチエの墓にたどりつき遙けくもわれ來たるおもひす
 東海のくにの旅びとみづからを寂しむがごとひとり歩きす
 フリードリヒ・エイチエがまだ穉《いとけな》く遊びてゐリユツツエン
 Lutzen《リユツツエン》の旅舍《りよしや》に夜もすがらをどりたる村の男と女らの歸るこゑ
 
(632)    六月二十八日(土曜)、ハルレ。市内、市場、赤塔、市役所、精神病學教室(Dr.Ponitz,Dr.Schramm)等
 
 わが父が嘗てここにて學びしをおもひ偲びて語りあひける
 そのころの Hitzig《ヒツチツヒ》教授の寫眞をも見せてもらひぬ髯の白きを
 テオドール・チーエン先生もこの都市に哲學部門を講じいませり
 ものひそけき町はづれにも來て見たり穉《をさな》きもの等きたなく遊ぶ
 
    六月二十九日より.七月六日まで、ベルリン。大使館、カイゼルフリードリヒムゼウム、ナチョナールガレリー、書店、チンメルマン會社、大學參觀、藤卷、日本人會、支那飯店、東洋軒、フオークト教授、ビールショウスキー教授(神經研究所)、アルテルスムゼウム(小宮茅野兩教授)、三菱商事會社飯野氏等
 
(633) しかすがに首都ベルリンは巨大にていつ來てみても驚くわれは
 日本食支部食くひて悲しみを尠くしゐる同胞を見し
 ベルリンの研究所にて碩學の二人にあへば心みつるごと
 競馬にもつれゆかれたり競《きほ》ひ見るその心をぞ空しくなせそ
 
    七月七日、ハンブルク。遊覧自動車、遊覽船、美術館、博物館日本部、精神病學教室(Weygandt,Jacob,Kafka 三教授)、墓地、ハーゲンベツク動物園
 
 もろ國の旅人にまじり廻遊も一とほり濟めば單獨になる
 ハンブルクの港に來れば港町のそのおもかげは長崎のごとし
(634) いつしかに夜の十時になりしかど名殘のひかりあはあはとして
 同胞がここに爲事をせしゆゑにヤコブ教授はわれにも親し
 名高かりしハーゲンベツクの動物の園にも入りつさびれてゐたる
 
    七月十日、ベルリンに還る、十三日ベルリンを發ちミユンヘンに還る
 「日本の櫻の花」といふに今宵ゆきぬ美しき花火空をいろどる
 Reisebureau《ライゼビユロウ》銀行等をおとづれてしみじみとせし日さへあらずも
 三年まへこの部屋に來てつかれつつ晝寢《ひるい》ねしこともおもひいでなむ
 Rost夫人《ロストふじん》といとまごひしぬ歸りゆかば二たびわれ等會ふことなけむ
(635) わづかなるひまに本多大使にもあいさつす維也納以來の感謝は深し
 三年まへ冬の曇りのふかきころおどおどとしてありしおもほゆ
 
    最後のミユンヘン
 
 我が部屋に一人こもりて荷づくりをするとき悲しみのわくこと多し
 買ふべきものも大方買ひをはり Tiez《テイーツ》に來て黒き麥酒《ばくしゆ》のむ
 アルザス經由|巳里《パリー》までの切符をも買ひて Zirkus《チルクス》見るいとまあり
 Leistbraui《ライストブロイ》の麥酒醸造のありさまを一日參観す Braumeister《ブラウマイスター》の語あり
 アルテピナコテークを觀たりしみじみとしてこれが最後なるべし
(636) 部屋代もすべてすまして明日《あす》発たむとひとり心をしづめてゐたり
 一年《ひととせ》をここに起臥したりしかば Hillenbrand《ヒルレンブラント》媼は泣きぬ
 
    七月二十二日(火曜)、午前十二時、ミユンヘンを立ちてパリにむかふ。中井・西村・兒玉三者見おくる
 
 荷の保險もすでにをはりて車房に入りくるときにはやも汗いづ
 同胞の三人《みたり》はわれをおくりに來平凡なれど寂しきこといふ
 
   巴里雜歌 其一
 
    大正十三年(西暦一九二四年)七月二十二日ミユンヘンを發ちてパリに向ふ。ウルム、シユトツトガルト、カールスルエを通過す
 
 麥を刈る時にいたりて麥を刈る案山子のたてる裝《ふり》もおもしろ
 
(637)    Appenweier 驛にて旅券の検査あり、Kehl にて荷物の檢査あり、佛蘭西の税關吏執拗に予の荷物を見る
 
 國境のフランス官吏くどくどとわれをいぢめてこころ好けむか
 モロツコより振遣の兵と本國の佛蘭西兵と何かいそがし Strassburg
 同房に和蘭人ひとり乘り居れば Van《フアン》 Gogh《ホツホ》の發音教ふ
 
    七月二十三日、朝、巴里、Hotel international
 
 夜はやく獨逸|國《くに》ざかひ通過して巴里《パリー》の朝にわが妻と會ふ
 
    七月二十五日、ヴエルダン戰跡を弔ふ
 
 ヴエルダンの戰《たたかひ》の跡とめくれば蝉も聞こえぬ夏|深《ふ》けむとす
(638) ひとつひとつ戰《たたかひ》のあとの名がありてけふ曇り日のしづ心なき
 青草のほしいままなるヴエルダンに銃丸《じゆうぐわん》ひろひ紙に包むも なだらなる丘の起伏《おきふし》とおもへどもヴエルダンに來て心はたぎつ 青くかげるかの窪あひに數萬のドイツの兵は命おとしし
 しづかなる丘の起伏つづけるを日は照らしけり凡《おほ》にし見めや
 はげしかりし戰といふのみならずいたき心をしづめかねつも
 互《かたみ》なるたたかひは命のかぎりにて善惡喜怒のさかひにあらず
 ここに來て見るは遊びのためならずヴエルダンはなほ息づくごとし
 
(639)    七月二十七日、三島氏等を北停車場におくり、ついで、ヴエルサイユに行く
 
 ヴエルサイユも目《ま》のあたり見つはつかなるゆとりがありて妻と來りつ 帝王の私房もけふは傍觀す佛軍 Danube《ダニユーブ》を渡りたる圖も
 
    七月二十七日、街ゆく
 
 郊外は葱の花さく都市《とし》びともここに安けさ希《こひねが》ひけり
 街上に枝ながら賣る蓁栗《はしばみ》は東海のくにの山おもはしむ
 停車場の二等待合室の蠅わが體にも時にうつり來《く》
 齒をもちて割るはしばみの白き實を從ひてくる妻に食はしむ
 
(640)    七月二十七日、Hotel des Invalides
 
 病にて歿せしナポレオン一世の面型は鼻が秀でたるのみ
 海なかのセントヘレナの墓石《ぼせき》をもこの殿堂に見るは悲しも
 
    八月二日
 
 落付くべき部屋がいまだも定まらすノオトルダアムを見てくだるなり
 大きなる都會のどよみゆふぐれし支部飯店に妻をいたはる
 
    八月六日、Place de l'Etoile,Arc det triomphe de l'Etoile
 
 永久《とことは》の聖き火もゆるこの門のなかに來れる遠ひとわれは
(641) エトワールの無名戰士の墓碑銘にわれ脱帽す心さやけく
 アスフアルト黒き街上に陽炎《かぎろひ》のしきりに立つをかへりみけるかな
 
    八月七日、Palais du Louvre
 
 現身《うつせみ》のはてなき旅の心にてセエヌに雨の降るを見たりし
 秋づきしといまだいふにはあらなくにしとしとと降る巴里の空の雨
 ひるの雨ほそくけむれるルウヴルにしづかなる心つづかむとする
 うつくしく深きいのちとあらはれし古への代の女《をんな》の面《おも》わ
    八月八日、オデオン地下鐵道近し
 
(642) せまき處に Paul《ポール》 Broca《ブローカ》の像ありき fondateur《フオンダトウール》の文字を刻しき
 
    八月九日、Musee du Luxembourg,Jardin du Luxembourg
 
 をりをり日の光てれどもかげれれば肌ざむき日ありパリーの夏は
 
 マチスの畫ける Oddalisque《オダリスク》あざやかにここにあれども心さだまらず
 
    八月十日
 
 たえまなきシヤンゼリゼイのとよめきを心つかれてわれは見て居り
 
    八月十二日
 
 齒いためば Concorde《コンコルド》公園の腰かけにひとり來りてこらへつつ居り
 
(643)    八月十四日、木下杢太郎氏われを齒科醫に伴ふ
 
 老齒科醫われの齒齦《はぐき》を切開し突然として讀逸語いひぬ
 この齒科醫の故郷アルザスと聞きしかば苟且《かりそめ》ならずおもふことあり
 
    八月十七日、齒齦炎去る、そのあひだ、小宮豐隆、木下杢太郎、磯部美知の諸氏と相會す
 
 あたたかき飯《めし》に生卵かけたるを呑みこみし日は果敢なかりしか
 
   欧羅巴の旅
 
    倫敦。八月二十日發、ドウバー海映よりロンドンに向ふ。八月二十日より九月二日倫敦を去るまで二週間の滯在にて、Mrs.Harrow 方に寓す。その間、遊覽自動車、案内者等により、市中の觀るべきものを見、然るのち、ナショナルギヤレリー、ブリチツシユミユゼアム、ワツツコレクション(ブレーク)、ター(644)ナーコレクシヨン、ワーレスコレクシヨン、ローヤルアカデミー、ヴイクトリアアルバート、大博覧會、シヨウの演劇、音樂會等に訪歴、書店に精神病學書を購ふ。ベーカーステーシヨンに松尾夫妻に會ふ。ミユンヘン以來也
 
 ロンドンの見物が輪郭にはじまりて夜毎夜毎におもひ浮べつ
 藝術も日に日に心充つるごとおもひ至りて疲れざるはや
 二週間われ等ロンドンにあるうちにバス電車にもみづから乘りつ
 二階ある市中のバスに乘りながら名だかき場處もいく度かとほる
 街上にある無名戰士の墓の銘“The glorious death”の銘
 テームズはバツキンガムの宮殿をうつしてぞ立つ心ゆくまで
(645) 大きなる都會を見たり人々のよき發音を時おかず聞く
 ロンドンに日本の飯《めし》をくひしとき同胞のひとり醉泣したり
 
    ブリユツセル。九月三日、市街、美術館
 
 小便をしてゐる童子の像も一瞥しのちは當所《あてど》もなきが如しも
 フアン・デイク、ルーベンス等のものの中にブリユーゲルの聖童禮拜圖あり
    ハーグ。九月四日、五日、W.H.Muller 氏藏のゴオホの繪畫を見たり。モーリツツムゼウム(レムブラント)、メスダクムゼウム(ミレエ等)、海岸、林、燈臺
 
 ここに來てゴオホの物をあまた見たりいくたびかわが生《せい》よみがへる
(646) 海岸は潮浴むる人居らなくにおもおもとしてしき波のおと
 
    アムステルダム。九月五日、Dom 廣場、Rijksmuseum,堀割、猶太人街(Judenbree Straat)
 
 レムブラントの大作も三つ此處にあり彼いまだ老に入らざりしもの
 猶太街、支那カフエなどありたるが帝國領事館には御紋章見ゆ
 和蘭は水よりひくき陸《くが》ありと聽きたりしかな牧ひろびろし
 
    Brook,Edam.九月七日
 
 水郷がはるか向うにつづきたり白き水鳥《みづとり》むらがり居りて
 とほくまでつづく平野に人ひとり空にひたりてひよろだかく見ゆ
(647) 平らなるこの國の上に童馬ひとつ立てるも寂し雲さへなくて
 華原が茂りつづきて風車《かざぐるま》とほくちかくに見ゆる國はも
 乾酪《かんらく》をつくるところも見たりけり白き乳汁《ちしる》のかたまりゆくを
 エーダムの村の風俗も當代の一片として旅びと樂しむ
 風俗は保守といへども實用をおろそかにせずこの平和國《へいわこく》
 
    ライデン。九月八日
 
 シイボルト將來したるいろいろがここに殘れり佛壇一つも
 出島蘭館圖にも眼科の看板にもまめまめしき彼の心しのばゆ
(648) 寺院模型神社模型も日本の大工が造りしとおもへばあはれ
 長崎の精靈《しやうりやう》ながしの圖もありてシーボルトむらむらとよみがへる
 掘割にかかれる橋をわたるとき長崎のことしきりにおもふ
 
    ベルリン。九月九日、午前八時四十三分アムステルダムを發ち、ベントハイム驛にて國境検査あり。夜ベルリンに著く。九月二十二日ベルリンを發つまで滯在足掛二週間、大使館、宮城、ウエルトハイム、カデウエ、ノイエナチヨナールガレリー、カイザーフリードリヒムゼウム、警察、警視廳、日本亭、藤卷日本食店、支那飯店、チーアガルテン、普樂會(ベエトウフエン)、歌劇(アイダ)、小劇場、活動寫眞、動物園、植物園、競馬、ポツダム、チムメルマン器械店、大學附屬病院(シヤリテー〕、モアビツツ病院、ロータツケル書店、ミルレル書店、議事堂、種々銅像、交りし人々、前田(茂三郎)、飯野、沖本、久保(護躬)、勝沼、尾熊、菅沼、井上、赤坂の諸氏
 
(649) 車房より草葺屋根の家が見ゆ外貌日本の家のごとくに
 ベルリンに著きて繪畫を日々に見つまた此處に來むわれならなくに
 古き代の新しき代の藝術をあぢはふときは光を呑むごとし
 宮城を妻に見しむる機《をり》にして帝王の牀《とこ》のことなどをいふ
 醫學の書あまた買求め淡き淡き豫感はつねに人に語らず
 おほどかにおぼえて置けとベルリンの Unter den Linden《ウンターデンリンデン》街《がい》を歩み來《く》
 Grunewald《グリユネワルト》の競馬も見たり賭けて居る外国人等にいたく老いしあり
 みごもりし妻いたはりてベルリンの街上ゆけば秋は寒しも
(650) ポツダムは二とせ前に來りしが今は橡の實が金《かね》つきて落つ
 二たびは來じとおもひし伯林に妻と相ともに君にしたしむ ロスト夫人
 皇后の御墓にかうべ打ふしぬわが老いゆかむのちの日のため
 櫨もみぢはや赤くなりかたはらに黄にいろづきて透きとほるあり 植物園日本部
 ア*ララギのくれなゐの實がこの園にめざむるばかりありと思ひき
 いそがしき君わづらはしみ情《なさけ》をこたびもうけぬにくくおもふな
     * 學名記、Taxus baccata L.Var.elegantissima
 
    チユーリヒ。九月二十三日著
 
(651) 高原《たかはら》の秋ふけむとするときに大鎌ひかる草刈るその鎌
 黒林《こくりん》を通過して Immendingen《イムメンデインゲン》の驛三たび此驛を通過すわれは
 Singen《シンゲン》に至りて國境の検査ありここにドイツの貨幣をしらぶ
 この都市のみづうみのほとり歩み來て小さき時計ひとつ買ひたり
 おとづれてMonakow《モナコフ》老先生の掌《たなぞこ》をにぎる我が掌は兒童《じどう》のごとし
 アルプスの高原《かうげん》といへばきびしくもつつましく生きし畫家に親しむ
 セガンチニーの展覽會をゆくりなく見たる幸《さいはひ》いひ合へりけり
 hohe《ホーエ》 Promenade《プロメナーデ》などをとほりて年さびし墓地にも來たり雨の寒きを
(652) チユーリヒはセガンチニーにて心足りこれより Rigi《リギー》に旅たたむとす
 
    リギ山上。九月二十五日夕リギ・クルム山上旅舍に著き、二十六日早曉おきて、日出を見る
 
 しろがねと雪をかかむるアルプスのたたなはる山の奥が知らずも
 しみとほるこのしづけさに堪へがてずわがゐたる Rigi《リギー》の山のうへの夜《よる》
 いただきのアルプの山にめざめたる夜半はいひがたきしづけさのおと
 角笛のわたらふ音は谷々を行方《ゆくへ》になしてすでにはるけし
 かくのごと奥がも知らぬ山脈《やまなみ》の千脈《ちなみ》をなして人國のあり
 あかつきの山にひびきて角笛のきこゆる時はこの世のごとからず
(653) アルプより日いづる光見むとして窓のところはかたまりあへる
 アルプスは空のなかばにつづきたる幾重のうへにやはらかき日あたる
 みづうみは寂しきものかくろぐろと光たたへて山の奥處《おくが》に
 大山のあひのみづうみあかときは雲こそあそべアルプ白雲
 
    ルツエルン。九月二十六日
 
 風燒《かざや》けのしたる處女のあかき頬いくたりもいく人《たり》も逢ひつつくだる
 牛の頸にさげたる鈴が日もすがら鳴りゐるアルプの青原《あをはら》を來も
 みづうみは大きなるもの島々のいただきはいまだ朝雲かかむる vierwaldstattersee
(654) 高山のふもとにあたる Lutzern《ルツエルン》はみづうみの返照《てりかへし》をも受けぬ
 麓より見れば雲とぢし高山《たかやま》はいただき雲をつらぬけるらし
 栗の實もいまだ金つかぬ山のべにもろ葉しみみに柿もみぢせり
 
    ユングフラウ途上。九月二十七日
 
 「童貞女《どうていぢよ》」「をとめ」の名をも冠《かむ》らししこの高山のいつくしきかも
 高山のするどきあひにはさまりて高原《たかはら》ありきその中の村
 くれなゐの木《こ》の實かたまり成れるものアルプの山のこの高山に
 雪うづみし山の上よりくろぐろとするどき山の秀《ほ》が見えてゐる
(655) かなたには雪原《ゆきはら》となりつづけるに巖のうへに羚羊ひとつ
 現身《うつしみ》のわれとほとほとすれすれに大きするどき雪山の膚
 山ひだは直線《すぐ》と波形《なみがた》なせるものひたぶるにして怖《おそ》れざらめや
 雪山をのぼりてつひに大山と深谿かぎりも知らざるがごと
 
    ユングフラウ山上。九月二十七日
 
 山かぜの吹きのすさびにかたよりし儘の氷柱《つらら》よここの高山《たかやま》
 雪吹雪《ゆきふぶき》ユングフラウのいただきに吹きすさぶるを現《うつつ》に見たり
 高山に雪降るさまのきびしきを今こそは見め雪の高山
(656) 山がらす雪のふぶきの眞中にて飛びひるがへるこの生けるもの
 のぼり來て熱き肉汁《にくじふ》を飲みゐたりユングフラウに雪ぞみだるる うつせみはのぼりのぼりて高山のあらきをも見む心足らひに
 見はるかすこごしき白きいただきが常ならなくに今ぞかくろふ
 
    ベルン。九月二十八日
 
 ベルンなる小公園にあららぎの實を啄みに來る小鳥あり
 この町に一夜《ひとよ》やどりて Hodler《ホドラー》と Segantini《セガンチニー》をこもごも見たり
 高臺によりて建ち居る大學のいらかを見つつ歩く衢《ちまた》よ
 
(657)    ベルンよりミラノ。九月二十九日
 
 たたなはる山々深きひだもちてイタリア境《さか》ふところに出でぬ
 まさびしき山間《さんかん》の驛を通りすぎそこに小さなる墓地などが見ゆ 小さなるトンネルがまたあまたあり山嶽國《さんがくこく》の汽車とおもはむ
 ユングフラウの山の峯見え來りしがわれが行方の右《みぎり》になりぬ
 日光が美しく照りふるさとの人のいはゆる「小春日」なせり
 隧道《すいだう》の長きをくぐり Varzo《ワルツオー》來ればイタリアの貨幣をもちぬ
 イタリアのくにぶりなして遠近《をちこち》の高きがうへに村ありにけり
(658) イタリアの野に汽車いりて見えわたる遠山の膚青くなりたり
 
    ミラノ。二十九日著 Hotel du Parc 投宿、レオナルドの記念像、ドウム、スカーラ劇場、演劇博物館、サンタ・マリア・デル・グラチエ、カステロ、その博物館、アムブロジアナ、ムゼオ・ポルヂ・ペツツ、パラツオ・ヂ・ブレラ
 
 去年|來《き》にしこの町のさまもほとほとに忘れてゐたり慌しくて
 レオナルドウの最後の晩餐圖このたびは妻にも見しむそのけだかきを
 ミラノ派の末流《ばつりう》の繪もあまたあり力のかぎり畫きたるらしも
 伊太利の食を愛していにしへの時代《ときよ》のさまもおもほゆるなり
 ミラノにて買ひたる大理石の女像《ぢよざう》など日本の國に持ちゆかむとす
 
(659)    ヴエネチア。十月一日夜著、市中見物、サンマルコ、アカデ ア、總督府等
 
 十月の一日《いちにち》のよるヴエネチアの蚊の飛びきたるそのおと寂し
 幾とせの年ふりにける石橋をわれ等わたりつもの歎きもなく
 ヴエネチアの廣場なつかし日の光沁み入るがごと古へさびて
 ゴンドラに乘りてヴエネチアめぐり居る吾と妻とは爭ひもなし
 もろもろの海魚《かいぎよ》あつめし市たちて遠き異国のヴエネチアの香よ サンマルコの日曜の鐘の鳴るころを二人旅びと《い》去なむとぞする
 
    パドア。十月三日、ヴエネチアより來る。ジヨツトウ壁畫、ドナテルロ作の騎馬像、市中散歩
 
(660) 年ふりし物といへどもいまの現《うつつ》ににほふがごとき壁畫のいろぞ
 小園《こその》には芭蕉竹松うゑありてイタリアと日本と血筋のごとし
 
    ゼノア。十月五日夜著
 
 夜もすがら街の雜音のつづきくるこの一室にまどろみたりき
 高臺につきて人通りしげけれど往還にして心落ちゐず
 白殿《はくでん》も赤殿《せきでん》も見つこの市《まち》にマルコポロの背像を見たる親しさ
 港町ひくきところを通り來て赤黄の茸と章魚を食ひたり
 去りゆかむとするゼノアの場末には紺の朝顔|紅《べに》の朝顔
 
(661)    トリノ。十月七日
 
 清潔なるこの都市を過ぎフランスに近き心を得たるらむかも
 小さなるトリノの町にピナコテカを時を惜しみて見に行きにけり
 廻廊の街ゆきしかばくれなゐの天鵞絨買ひたり妻が著むため
 國境を越えたるころは月あかくなべてのもののうへに照りたり
 
    リオン。十月八日
 
 リオンにはや近きころ眞赤《まあか》なる太陽ありき靄のなかには
 佛蘭西の貨幣にかへて朝の食卓に蝸牛の料理われ等愛でつも
(662) 水色の騎兵一隊が過ぎ行けり獨逸あたりにてはすでに見られず
 この町の美術館にて近代畫の優れしものあまたあまた見たり
 ゆたかなる Rhone《ローンヌ》の川の水のべに妻とふたりは來て手をひたす S.Jean《サンジヤン》の寺にゆく途に勞働者らがむらがり遊びて止まず
 Saone《ソーンヌ》川わたりてより方嚮をかへ新市街の方《かた》に Rhone《ローンヌ》をわたる
 ローンヌ川の魚をこよひも食ひしかば佛蘭西の國親しみ思ひき
 
   巴里雜歌 其二
 
    十月十日、リオンを發ちてパリに著きぬ。爾來十一月二十六日パリを去るまで、滯在すること四十有餘日、折にふれて作りし歌
 
(663) この市《いち》に蛤貝《はまぐりかひ》も柿も賣るカキ・ジヤポネエと札を立てたり
 うつくしく秋日が晴れて空にうかぶエツフエル、パンテオン、サソシユルピスも
 Magazin《マガザン》 Lafayette《ラフアエツト》,Printemps《プランタン》等に入りて小さなる品をもとむる
 ルウヴルのマガザンにみとむる東洋的日本的なる小流行よ
 セエヌ縁《べり》の古本店《こほんてん》をものぞきしが二言三言かたりたるのみ
 ルウヴルはわれには無限の感ふかしボチツエリひとつに相對《あひむか》ひても
 レオナルドウにこの二日あまり集注しわれの眼《まなこ》の澄むをおぼゆる 俄蘭西語を習はむとおもひはじめたり今後わづかなる縁《えにし》なれども
 
(664)    三上知治、大久保作次郎、足立源一郎、藤堂杢三郎、安倍能成、三木渚、板垣鷹穗、久保猪之吉、小西誠一、兒島喜久雄の諸氏と相會ふ
 
 アナトールフランスの棺のまへに來て脱帽したり佛蘭西|人《びと》と 十七日
 セエヌ川の對岸よりのびあがりてアナトールフランスの葬送見たり 十八日 園の上にマロニエの葉はしき散りて空氣ひえびえとうごきつつあり 【リユクサンブール】
 
    十月十九日、Chantilly 行、安倍、板垣、小西、石川の諸氏同行す
 
 うす靄の遠たなびきし森林を背景にせる城に來にけり
 ジヨウコンダの素描《そべう》といふもの此處にありしみじみと見て共に出で來つ
 
(665)    十月二十日、ロダンミユゼ、サン・グザヴイエ寺
 
 バルザツクの大きなる像も原塑《げんそ》としてわれ見たるにかあらむ
 にほひたる大理石像も眼前に見るべかりけりわれの福《さいはひ》
 S.Xzavier《サングザヴイエ》のみ寺に入りぬ暮れはてぬ空は黄いろに西にありつつ
 戰歿の兵をまつりぬ“Morts pour la patrie”とありぬべし
 
    十月二十二日、久保猪之吉教授パリを立つ
 
 首都倫敦首都巴里にていくたびかみ會ひまつりて今日ぞわかるる
 
    十月二十三日、ソルボンヌ大學を訪ふ。太田正雄、磯部美知二氏の研究室を見學せり
 
(666) やまあらしといふ動物ひとつ實驗後|斃《たふ》れしがよこたはりゐる
 ソルボンヌ大學いでて茹卵《うでたまご》など賣り居る店の軒したを來る
 北支那にての Wu 氏と Chang-tso-lin 氏との戰爭の記事
 モンパルナツス畫學生等のあつまり來るキヤフエに行きのち畫商訪ふ 宮坂氏
 ローゼンベルグ畫商にてモネ、ピカソ、ルノアール、ヅラン、マチス等見たり
 
    十月二十七日、森田菊次郎氏、結城素明畫伯にあふ、午餐後、サン・クルー公園に遊ぶ。貧民街。夜、カジノ・ド・パリに行く
 
 鯛ちりに葱を入れたる午食《ひるしよく》をふるまはれたる心のどけさ
 公園に黄いろなる葉が落ちたまり外套にふる時雨ほそしも
(667) 巴里《パリー》なるセエヌの川の川ちかき公園に降りし秋しぐれのおと
 素明畫伯われを導き貧者らのぎりぎりに住むところ見しめし
 
    十月二十八日、ペルラン氏藏セザンヌを觀る
 
 セザンヌ夫人像トランプ遊ぶ二人等ぞくぞくとして眼《め》のまへにあり
 リユ・カフエに來りてコムポジション論を聽くセザンヌのもの實證にして
 
    十月二十九日、プチ・パレ美術館をみる。支那料理店に青唐辛子の鹽漬あり、佐賀縣の澤蟹鹽漬の話したるに、磯部氏はシヤムに蝉の鹽漬あることを話しぬ
 
 鹽づけの蝉をおもへばあはれあはれ蝉鳴かぬ國に三とせ經にけり
(668) ゆふぐれの公園にほがらに喇叭ふき群衆《ぐんじゆう》ここを出でよとぞいふ
 維也納《ウインナ》にて買ひたるカバンをけふ失ふ殘念にして爲方《しかた》なけれど
 Demence《デマンス》 Precoce《プレコース》の創《はじめ》の論文を借入《しやくにふ》し得てタイプに打たしむ 十月三十日
 
    十月三十一日、サロン・ドートンヌ
 
 藤田氏のものも異彩を放てるが強き傳統のものにはあらず
 
    十一月二日(日曜)、オウヴエルのガツシエ氏宅にゴオホの繪を見る。安倍、板垣、宮坂氏同道す
 
 ふらんすの國といへどもふるさとに似たる雨こそ降りしきにけれ
 ヴアン・ゴオホつひの命ををはりたる狹き家に來て晝の肉|食《を》す
(669) 雨のふる丘のうへには同胞《はらから》の二つの墓がならびて悲し
 ふらんすのひろき畑に降る雨はおぼろに物をかすませゐたり
 醫師ガツセの肖像も見つフランクフルトのものとこの二つとあはれ
 空の藍つよさきはまりて描かれし寺院をも見つ動悸しながら
 洋傘《かうもり》をかしげつつ來し墓のまへ五分間ばかり立ちて居りにき
 脳病みてここに起臥しし境界《きやうがい》の彼をおもへば悲しむわれは
 ふらんすの畑《はたけ》のなかに降る雨よこまかき雨よこよひ降らむか
 
    十一月五日
 
(670) チオールといふ熱帶樹の葉煎じたるものを飲みたりモンパルナツスに
 ガツシエ氏訪問せられドクトルの父君《ふくん》のことを話しゆきたり
 
    十一月六日
 
 セエヌ川|水《み》かさまさりて流れ居り岸のところに砂たまりつつ
 
    十一月八日
 
 ルウヴルをいで來てセエヌの水のべに寐をる勞働者ひと時|目守る
 
    十一月九日、オペラにてクライスラーを聽く
 
 パンテオンの壁畫一とほり見しかども敵《かな》ふべくもなし古代のものに
 
(671)    十一月十日、口腔損ず
 
 この寺は十二世紀に成りしものといふ川べりに干魚《ほしうを》などを賣るなり
 
    十一月十一日、佛蘭西軍紀念日
 
 エトワールの門にむかひて行進す佛蘭西の國のいろいろの兵
 冬空に打ちし大砲につづきたる軍樂を以て象徴したり
 
    十一月十四日、コメデイフランセーズ
 
 チオールといふ熱き飲料は何かしら東方の寺のにほひこそすれ
 
    十一月十六日、Barbizon 行
 
(672) 落ちつもりし紅葉を踏みて入り來《きた》るバルビゾンの森鴉のこゑす
 フランソア・ミレエの畫室見たるときわが心臓はしづかになりぬ
 ミレエの畫室《アトリエ》にあはれ瓢箪が二つ弔りありけり東洋的か
 いまの代にフオンテンブロウに鹿住むと聞くさへ親し佛蘭西國は
 木の下に梨果《なしのみ》が一ぱい落ちて居り佛蘭西田園のこの豐けさよ
 糖大根《たうだいこん》たかだかと積みてゐたりけりある處にては士にうづむる
 赤き日が大きくなりて入るころに荷馬車の音ぞ澄みてきこゆる
 しづかなるミレエ畫境はこの森の中にこもりて現《うつつ》なるごと
 
(673)    十一月二十日、精神病院(Asile Ste-Anne)參觀、Prof.Dr.Claude,Assistant Dr.Montatassut
 
 古びたる傳統をもちて巳里なるこの狂院はおろそかならず
 Bouchad《ブシヤー》,Charcot《シヤルコー》を經て當代の Claude《クロード》教授はいまだ老いずも
 
    十一月二十一日、大學神經病學教室參觀、Prof.Dr.Guilain
 
 教授ギーランいまだ若くして巴里なる大學生もきほひつつ見ゆ
 この教室のピネルを描きし油繪をまのあたり見しことをよろこぶ
 
    十一月二十二日、サロン・ドートンヌ、湖月、オペラ
 
 あひともに牛の肉くひぬパリーにて飲む味噌汁も最後ならむか
 
(674)    十一月二十六日、モンマルトルなるハイネの墓に詣づ、破部美知君予を導く。けふは予のパリーを發つ日なり
 
 寂しき顔したるハイネの胸像は晩年のおもざしならむとおもふ
 この墓は維也納《ウインナ》の猶太人たちもたづさはりぬと書記《かきしる》されぬ
 妻と共にうづめられたる墓なりきドイツを去りて幾年《いくとせ》經けむ
 猶太族としてのがれ來し安息處《あんそくじよ》六十のよはひに彼はみまかる 西紀一八八六年
 死後にして獨逸憎惡のあくどきを彼みづからに聞くは悲しも
 
    十一月二十六日、磯部、板倉、淺井、市場の四君と共に湖月にて午食を共にし、宮坂君と共和飯店にて夕食を共にす。夜パリーを出發す。松原博士夫妻、宮坂、磯部、市場、岩田の諸氏みおくる。予等夫妻と淺井氏と同じ車房なり
(675) 佛蘭西にしき降る夜の雨のおと聞きつつ吾等南へむかふ
 
    十一月二十七日、二十八日、マルセーユ發、モナコ、モントカルロ著、オテルナショナール泊、カジノを參觀す。二十八日モントカルロ、Musse oceanographique,Chateau du Prince を觀る。電車にて Corniche を経て Nice に行く。海岸、Quaides Anglais を散策す。Boulevard de la Victoire を經て、停車場著、午後七時五十分マルセーユに歸りぬ。オテル・ルウヴル投宿
 
 松の木のみどりさやけく照るごとし南の國は日本に似たり
 柑橘のたぐひ黄金《こがね》のつやありてある處には青き竹《たか》むら
 カジノに入り來ておそるおそる試むは路傍に卵を買ふごときのみ
 日ねもすをさ霧に暗むこともなき南のくにの日向《ひなた》にむかふ
(676) あたたかき Nice《ニイス》の濱に寄する浪園のなかなる花にしひびく
 
    十一月二十九日、マルセーユの精神病院(Asile d'alienes,St.Peue.Maison des fous〕を參觀す。Dr.Wape,Dr.Alaize氏案内す。美術館(ミレエ母授乳圖あり〕ホリベルゼーを訪ふ
 
 中苑《なかには》にむかひてひらく建築のその色どりはものやはらかし
 一時代過去のごとくにも思ほゆるこの狂院に一日《ひとひ》親しむ
 躁暴はマルセーユにても同じにて狂者|乾海草《ほしうみぐさ》の中に居りけり
 男室と女室をつなぐ寺院あり加特力教國の狂院なれば
 港町のマルセーユにてすぐれたる美術のいくつ見らくし樂し
(677) 五とせの過去になりたりこの町に上陸をしておどろきたるは
 
   歸航漫吟
 
    大正十三年(西暦一九二四年)十一月三十日、榛名丸に乘船マルセーユを出帆す。船長中村操氏、事務長金井藤三郎氏。十二月一日ストロンボリー見ゆ
 
 夜の空にストロンボリーの火山見ゆほのかに空に見えつつもとな
 
    十二月二日
 
 朝あけしエトナの山は白雪をいまぞかかむる冬の深けば
 
    十二月五日、ポートサイド、スエズ運河
 
(678) 緑樹《みどりぎ》に芙蓉のごときくれなゐの花さく國に上陸をする
 女等《をみなら》は黒き布にて柔かき身をまとひつつあたたかき國
 あふりかに日が入ればあらびあの空あかしこの表現をわれは樂しむ
 月明《げつめい》になりぬといへばわが船はせまき運河をとほりつつ居り
 
    十二月六日
 
 木々生ふることなき山脈《やまなみ》の奥がにも夢《いめ》のごとくに大山《おほやま》の見ゆ
 灰いろのひだを深めて見ゆる山とほりて澄みし空のかぎりに
 青き色つひにあらなくに空とほき寂しき山をけふ見つるかも
(679) いただきのこごりし山がとほどほに聳えて雲の居ることもなし
 黄に見ゆる砂丘おほどかにつづきゐて人のいとなむものの幽《かす》けさ
 山泉《やまいづみ》ありや否やとおもふまでくろぐろとして聳えわたれる
 かかる山を空のはたてに見るときぞ寂しきもののかぎりをぞおもふ
 
    十二月六日、船は紅海に入る
 
 わたつみの涯にそそりしあらびやの幾重《いくへ》の山も遠ざかるなり
 ポートサイドより移り來りし蠅ならむ我が船室に日ねもす飛べり
 紅海を船わたり來て山みれば猶太の國のいにしへおもほゆ
(680) 赤き雲空のなかばにたなびきてアフリカの山見えそむるはや
 紅海のただちに空に見えたりしさびしき山も遠そきにけり
 
    十二月七日、紅海
 
 しづかなる紅海を船は行きにけり朝の林檎を愛づべくなりて
 アフリカの山にかたまる雲みればアルプの山の雪雲おもほゆ
 紅海をなかば來りてあまつ日の光ゆゆしくわが目にし染む
 アラビヤの國に遠そき吹く風のわれの皮膚《はだへ》にしみてあつしも
 海豚《いるか》らは船にむかひて群れ來《きた》る波のひまより浮きつつ來《きた》る
(681) あぶらなす海にくろぐろと附き來る海豚の群は平凡《おほよそ》ならず
 
    十二月八日、紅海
 
 わが船にさやらふごとき黄なる藻のながるるさまを見てゐたりけり
 紅海をくだるまにまにあまつ日の光を強みたまたま眼を閉づ
 空ひくくほのぼのとして日の入りしのちのくれなゐ忘られなくに
 澄みとほりたるままに夜になり紅海のかぐろき海に月は照りたり
 
    十二月九日、十日、紅海をいづ
 
 冬がれの暗きフランスの國いでて印度のうみのあつきあかるさ
(682) 南より吹く風いたみ波だてる海のへに Mokha の白き町見ゆ
 アフリカの陸地もすでに過ぎむとし白き砂濱も見つつうらがなし
 口腔のただれやうやく癒えむとしてこよひバベルマンデブの海峽を過ぐ
 暮れきりしあたたかき海見るときは闇の方《かた》には鳥も飛ばずも
 あふりかの陸《りく》のかなたに暮れはてぬ光のなごり寂しくもあるか
 わたつみの闇のかなたの空あかり入りしあまつ日ののこりのひかり
 ふとぶとと汽笛鳴らして我船居り箱根丸はいま通過せむとす
 
    十二月十一日、アラビヤ海(印度洋)
 
(683) この島を中心とせる雲が湧く印度の洋《うみ》に船入りくれば
 ソコトラの島の一角に日があたり巖のもとに白浪の寄る
 うつせみは住むか巖のたたなはる Sokotra の島日にひかりたり
 くもり深き空かと見れば水淺葱《みづあさぎ》のすみとほりたる空がありつつ
 島山はわたつみの上にあるかなきかに幽かになりて見えがくれする
 島の無き洋《うみ》のうへの空澄みに澄み美《いつく》しきかなや術《すべ》さへあらず
 ソコトラの島を過ぐれば兄弟《はらから》の二つ小島《こじま》ぞ見えそめにける
 まどかなるこの月の出よ世の創まりの月のひかりと相見るごとし
(684) こよひはも印度の洋《うみ》におもほえぬ滿ち足らひたる月の大きさ
 洋《うみ》のうへに出ではじめたる大き月この清《さや》けきも吾は見にしか
 
    十二月十三日、印度洋、時計十八分進ましむ
 
 ひろらなる天原《あまのはら》おほひはたしたる雲のふるまひゆゆしくもあるか
 うつうつと蒸暑かりし航海に十八分の時すすましむ
 
    十二月十四日、印度洋
 
 太陽が入りたるのちの雷《らい》の雲くろくなりつつ隣る澄空《すみぞら》 澄む空はかなしきまでに極まりてのこりの光あかく染めたり
 
(685)    十二月十五日ミニコイ島
 
 わたり來し印度のうみに椰子むらのみどり濃き島はじめてぞ見し
 椰子の木の生ひしげりたるひくき島中に浪だたぬ水の親しさ
 この洋《うみ》にかなしきかなやあさみどりしづかなる水を抱《いだ》く島あり
 椰子の樹のしげれる見ればおのづからミニコイ島はあはれなる島
 見るさへにさびしかりけり珊瑚|島《じま》の入口《いりくち》ならむ白浪が見ゆ
 みどりなる島をふりさけうつし身の成りのさまさへ見るとおもひし
 
    十二月十五日、印度洋
 
(686) 日の入りしのちの天《あま》の原たてる雲たなびける雲かぎりを知らず
 くれなゐのしづかなる雲|線《すぢ》なして暮れゆかむとす印度の海は
 かくのごとき雲をも見たり現身にありける吾は生けるながらに
 いのち死にしのちのしづけさを願はむか印度のうみにたなびける雲
 ふるさとのみちのく國にをはりたるわが足乳根はかかる雲見ず
 うつくしく常なきものをみ佛《ほとけ》はさとし給ひき洋のうへの雲
 
    十二月十六日、夜、コロンボ見ゆ
 
 夜に入りてコロンボの灯《ひ》はまたたけり船ちかづかむ心したしさ
(687) 蛾がひとつ闇の空より飛び來り人ぐにに來《こ》しことを思《も》はしむ
 夜おそくなりて上陸したれども氷の水を飲みしことのみ
 
    十二月十七日、コロンボ上陸
 
 小鴉《こがらす》のあまたさびしく鳴き居《ゐ》るが水のべに來て時についばむ
 椰子の樹が一めんに茂れるところありそれゆゑに青々と見ゆる島かも
 檳榔の實を絶えず噛みをるをとめらも街上《がいじやう》行きてセイロン暑し
 汗にあえつつわれは思へりいとけなき瞿曇《くどん》も辛き飯《いひ》食ひにけむ
 日のひかり強くかがよふ錫蘭《セイロン》のあかき道のべに牛立ちにけり
(688) 牛車《うしぐるま》は街のちまたをとほること五とせまへに一たびを見き
 菩提樹の年ふりにける下かげに黄なるころもの僧|經《きやう》を待つ
 白塔のあるマリアカンダ寺に釋迦牟尼のみすがたがあり年ふりつらむ
 翁等は白くなりたる髭たりて佛につかへし羅漢おもほゆ
 加特力《カトリツク》の耶蘇の寺院もありしかばその塔《あららぎ》がわが心ひく
 ヴイクトリア公園の青き芝のいろ英國びとの心とぞおもふ
 
    十二月十七日、コロンボを出づ
 
 港にはすきとほるごとき白き蝶飛びて居りけりもののあはれに
(689) セイロンの近くを船がゆきをりて寄する白浪岸のべに見ゆ
 人の住むその親しさのあらはれとセイロン島にけむりたつ見ゆ
 大きなる天《あめ》の中なるセイロンの青き山山雨にけむれり
 スコールの降れるところと竪の虹|現《あ》るるところと近きが悲し
 いつしかも海のかなたに遠そきしセイロンに虹の立てるあはれさ
 わが船のそきへ遙けきセイロンにかなしき虹は立ちてゐにけり
 青々としたる前山《さきやま》も見えながら海の斷崖《きりぎし》に日のあたる見ゆ
 幾重《いくへ》なる山かさなりて雲ひそむセイロンの島は大きかりけり
 
(690)    十二月十八日、べんがる灣
 
 パパイアをわれ食はむとすすがすがし朝《あした》の卓《たく》に黄なる匂の
 渡海する deckpassenger《デツキパセンジヤ》の女等は働かずすべてしづまりて居り
 黄金の耳輪もかけて女等はしとやかなれば高く笑はず
 セイロン的ライスカレエを食ひしとき木の葉入りありこの國の香ぞ
 ゆふぐれのわたつみの雲あはれにて黒き棚ぐもくれなゐの雲
 奥ふかき雲にもあるかここにしてベンガル灣のうへの雲見つ
 
    十二月二十日、午後一時半
 
(691) かすかなるスマトラが見ゆ午後四時になればいよいよ近づき來る
 青きところ黄なるところが見え來り日本の山のごとき親しさ
 
    十二月二十一日(日曜)、スマトラ海峽
 
 朝あけて間もなきにスコールの幅ひろき帶なす雨のすすむさま見ゆ
 雨ぐもの黒きがうごきあるときはさ霧に似たるスコールの雲
 高山のそばだつなせる雲あれば砂漠のさまを成せる雲あり
 汗垂りて見つつわがゐる天中《あめなか》のむくむくと白き光もつ雲
 驟雨《スコール》の過ぎたるのちのたなびきは極樂國のものにぞありける
(692) あひ向ふかたに二つの汽船みゆけむりをあげし樂しさもちて
 かなたにもスコールの雲|太柱《ふとばしら》たてるに似たる雨のただざま 飛魚の小さきが浪間に飛びにけりベンガル灣にては見ざりき
 とろとろと鉛の熔けしいろをして見ゆる雲あり海より近く
 重なりし厚き天雲ありたるが日が入りしより紅々《あかあか》と見ゆ
 かの遠くいなびかりするたまゆらにつひの奥がの雲璽も見えける
 
    十二月二十二日(月曜)、シンガポール
 
 木の葉ずれの音のきこゆるこの街をあつき南のはてとおもひき
(693) 土人等の下駄の音する夜の町南國とおもひ聞きつつゐたり
 いろいろの民族混合の街にして蟋蟀のこゑ夜すがらきこゆ
 パパイヤの樹にはくれなゐの花さくとシンガポールにあひ語らひき
 ここに來て日本語の斷片を街上に聞くとき吾等涙ぐみつも
 「日本藥房」「海友休息所」などといふ日本系統の看板があり
 大木のパンの樹のもと歩み居り黄なるその實を問はむ子もがも
 支那人の墓地にも行き馬來人の墓地にも行きぬ心おちゐて
 街頭に「西法接生」の※[區の品が扁]《へん》を見て支那の文字《もんじ》をわれは讃《たた》へぬ
(694) チヤンギーの海の邊に來て魚釣れば常世のごとし君がなさけに 宮島氏
 月きよき夜ごろとなれば椰子林に黄なる光がみちわたるとふ
 
    十二月二十四日(水曜)、支那海に入る
 
 夜もすがら日ねもす強き海風がモンスーンといひて白き浪あぐ
 しほはゆき風をまともに吾が立つや飛魚のむれ遊ぶに似たり
 かぎりなき曇海《くもりうみ》にてひとところ白金の溶けしごとかがやきぬ 風をいたみ白きしき浪高浪の立つしほけむり散れるたまゆら
 わが船は北東《きたひむがし》にむかへりき日すがら文那海のくろきとどろき
(695) さだまりし道のうへなる支那の海のおほきうねりの中にゐるかも
 くろき海の常なきごとき四方にてけふ曇り日を我船は行く
 支那海のあかがねいろの雲なかに虹こそ立てれ現身《うつせみ》や見む
 ゆふぐれて海より直《ただ》に立てる虹みじかき虹の常なかりける
 スコールといふ語にていひ慣はされひたぶるの雨うみに降る見ゆ
 海中《わたなか》にひたぶるに降る雨みれば低雨《ひくあめ》にしてつづく澄空《すみぞら》
 ただならぬ雲のなびきは遠そきて暮にいるらむしづかなるいろ
 
    十二月二十七日、二十八日、支那海
 
(696) 支那の海をゆく頃ほそき新月《にひづき》がはや入りがたの低きにありつ
 とどろきし支那海のうへに幽かなる月のいでしを惜しまむとする
 腎炎にかかりし孫文の記事ありて北京行《ペキンかう》のことに言ひ及びけり
 北東の向《むき》としなりて秋の風|染《し》むをしおぼゆわれの肌《はだへ》に
 秋かぜの吹きのまにまにゐたれどもあはれとおもふことなかりけり
 
    十二月二十九日、三十日、香港
 
 混合の都會なれどもおのおのに和《わ》ありてかかる生《せい》をいとなむ 支那街は吾には親しにぶき音叫び雜音ここより來れば
(697) 小路《こうぢ》には卵店《たまごみせ》などあるかたはらに「相命」の文字「集善醫所」の文字
 雜然としつつきこゆる物おとに歌姫《かき》のこわねのまじはるらむか
 ※[奚+隹]《にはとり》の長鳴くこゑを聞きながら黄色《くわうしよく》の靄のしづむを見ゐる
 行路屍《かうろし》の寫眞をべたべたと貼りてある警察のまへに吾等行けりき
 茶館《ちやくわん》にはまろき面《おもて》のをとめごも甲斐甲斐しくてわすれかねつも
 
    十二月三十日、香港を出帆す、支那大陸の山見ゆ
 
 冬山とおもほゆるまで白雲をかかむる山をあひ見たりける
 茶褐色の帆をはりし支那|戎克《じやんく》をも眼路《めぢ》のおもてに見るべくなりぬ
(698) 和ぎしかば海のおもてにたなびける靄は動かず見えつつぞ居る
 橙《だいだい》のいろの帆を張る支那の船ちかくに群れしところも行くも
 
    十二月三十一日、午前二時青山腦病院全燒の無線電報を受く
 
 おどろきも悲しみも境《さかひ》過ぎつるか言絶えにけり天つ日のまへ
 船房にひとりひそみて罪ふかきなべてのもののごとくならむか
 みごもりし妻をいたはらむ言《こと》さへもただに短しきのふもけふも
 言なくてひれふさむとするあめつちにわが悲しみはとほりてゆかむ
 
    十二月三十一日、臺灣海峽
 
(699) たかだかに帆をはらませる戎克|等《ら》は目のまへ走るほがらほがらに
 百穗畫伯よりの電報をいくたびか目守りて船房に相寄りにけり
 もの呆けしごとくになりし吾と妻と食卓に少しの蕎麥をくひたり
 
    大正十四年一月一日、新年、上海途上
 
 父母のことをおもひていねざりし一夜あけぬるあまつ日のいろ
 何事もいたし方なししづかなる力をわれに授けしめたまへ
 まともなる海のしほかぜ吹くときにわが悲しみをおのれ見むとす
 南洋に住める犬らも鳥すらも辛きを食ふと聞けばかなしも
(700) 風呂のみづにごるといふは揚子江みづのにごりのここにし及ぶ
 
    一月二日、上海、漢口行を止む
 
 かなしみを深く抑へて上海の街上をゆくは傍觀に似む
 上海に謹防※[手偏+八]手の文字を見たりしがさうざうしきこの街を愛せむ
 大江《たいかう》のみづがにごりておもおもと見ゆるをわたり黄海に入る
 
    一月五日、月曜、午後五時、神戸著
 
 瀬戸のうみの島のうつくしさ見つつ居り大王《おほきみ》のくに日のもとのくに
 
    一月七日、水曜、夜、東京に著く
 
(701) 比良山の雪をかむりてそびゆるもしたしき心たへがてなくに
 澄みきらぬくぐもりの空とおもひしに晴れわたりつつ伊吹嶺《いぶきね》の雪
 みすずかる信濃ざかひとおもほゆるくもりの奥《おき》に雪のむら山
 国府津にて君とあひたるたまゆらは涙いで來てあはれ見がたし
 
(703) 後記
 
 歌集「遍歴」は「遠遊」につぐ、私の第五歌集であつて、大正十二年七月十九日獨逸ミユンヘンに著いた日から、翌年七月二十二日ミュンヘンを去り、巴里に滯在しつつ、なほ諸國を遍歴し、十一月廿六日夜巴里を去り、三十日マルセーユを出帆して、大正十四年一月歸朝するまでの歌、八百二十八首を收めた。
 歌は「遠遊」の歌同樣、歌日記程度のもので、もつとも慌しかつたものに滿たされてゐる。私の四十二歳の七月から、四十四歳の一月までの作といふことになる。
 私はミユンヘンに著き、シユピールマイエル教授に師事し、二つの研究に著手したが、一つを放棄し、一つを完成した。恰もその年の九月は日本關東大震災であつた。ミュンヘンの精神病學教室は、クレペリーン教授が停年退職してブムケ教授が主任となつてゐたので、その學風にも接することが出來た。
 ミユンヘンを去つて巴里に行つてから、迎へに來た妻と一しよになり、なほ諸友とも相見ることが出來た。それから巴里を根據として、英國、和蘭、獨逸、瑞西、伊太利等を旅し、十一月三(704)十日マルセーユから出船、歸朝の途にのぼつたが、十二月二十八日の夜に青山腦病院が全燒し、十二月三十一日支那海上に於てその報知に接した。私は大正十四年一月七日燒け果てた家跡に歸つて來たのであつた。
 本集の歌も「遠遊」の歌の如く粗末なものであるが、西洋の生活、西洋の風物を詠んで居るので、おのづからその特色が見えて、私自身のおもひ出となすことが出來る。はじめは嚴選して、「遠遊」、「遍歴」を一卷とするつもりであつたが、中途から方針をかへて、粗末な歌をも全部收録して、二卷とすることとしたのである。昭和十五年夏 箱根強羅にて記。齋藤茂吉。
 
 追記
發行に際し、布川角左衛門、榎本順行、玉井乾介、矢口進諸氏からいろいろ御世話になりました。お蔭で立派な書物にたりましたことを感謝いたします。
 口繪のシユピールマイエル先生の背像は、私が當時先生の部屋で撮影したものであつた。先生はこの質素な狹い部屋で顯微鏡を觀、論文を書き、著述をせられた。既に先生が物故せられたから、貴重な寫眞として遺つた。昭和二十二年秋彼岸、羽前大石田にて、齋藤茂吉     〔2022年1月25日(火)午後6時57分、入力終了〕
 
 
齋藤茂吉全集第二卷、岩波書店、1973.6.13
 
 ともしび
 
(3)  大正十四年
 
    歸國
 
 かへりこし日本のくにのたかむらもあかき鳥居もけふぞ身に沁む
 ひといろに霜がれてをり日の光すがしくさすを見たりけるかも
 はるかなる山べのかすみ眞ぢかくに竹の林の黄なるしづかさ
 比良山《ひらやま》は雪かかむりて居たりけり春の來向ふ比良のゆふぐれ
 蕗のたういまやふふまむ蓮華寺の※[うがんむり/隆]應《りゆうおう》和尚を訪ひがてぬかも
(4) たまゆらに見えずなりたる天龍のしろき川原も身に沁みにけり
 よるさむき國府津の驛に時のまは言も絶えたり友とあひ見て
 チロールの山のはざまをみちびきしをとめのことを思ひいでつも
 
    火難
 
 燒けはてしわれの家居のあとどころ士の霜ばしらいま解けむとす
 かへり來てせんすべもなし東京のあらき空氣にわれは親しむ
 とどろきてすさまじき火をものがたる穉兒《をさなご》のかうべわれは撫でたり
 やけのこれる家に家族があひよりて納豆|餅《もちひ》くひにけり
(5) やけあとのまづしきいへに朝々《あさあさ》に生きのこり啼くにはとりのこゑ
 
    燒あと
 
 燒あとにわれは立ちたり日は暮れていのりも絶えし空しさのはて
 ゆふぐれはものの音《と》もなし燒けはててくろぐろと横たはるむなしさ
 かへりこし家にあかつきのちやぶ臺に火※[陷の旁+炎]《ほのほ》の香する澤庵を食《は》む
 家いでてわれは來しとき澁谷川《しぶやがは》に卵のからがながれ居にけり うつしみは赤土道《はにみち》のべの霜ばしらくづるるを見てうらなげくなり
 
    隨緑近作
 
(6)    齋藤歸朝歡迎歌會 【二月七日於清水谷公園皆香園】
 
 きもむかふ友とあひ見むと燒あとの寒き家より吾がいでて來ぬ
 
    長塚節忌 【三月七日於清水谷公園皆香園】
 
 うつせみの我より先きに身まかりてはや十年《とをとせ》になりにけるかも
 
    燒あとに渉湯をあみて、爪も剪りぬ
 
 うつしみの吾がなかにあるくるしみは白《しら》ひげとなりてあらはるるなり
 
    白田舍即事
 
 霜しろき土に寒竹の竹の子はほそほそしほそほそし皮をかむりて
(7) たかむらのなかに秋田の蕗の薹ひとつは霜にいたみけるかも
 かたまりて土をやぶれる羊齒の芽の卷葉《まきは》かなしく春ゆかむとす
 
    きさらぎなかば
 
 燒あとに掘りだす書《ふみ》はうつそみの屍《かばね》のごとしわが目のもとに
 くろこげになりゐる書をただに見て悔しさも既《はや》わかざるらしき
 あわただしく手にとれる金槐集は蠹《しみ》くひしまま燒けて居りたり
 
    歸雁
 
 燒けあとに新しき家たちがたし遠空《とほぞら》をむれてかへるかりがね
(8) ひとりこもれば何ごとにもあきらめて胡座をかけり夜ふけにつつ
 きこゆるはあはれなるこゑと吾《あ》はおもふ行《ゆく》春ぞらに雁なきわたる
 
    家居
 
 いましがた童《わらべ》が居りて去りけらしあかつきの土にこぼれたる鹽
 をさなごは齒をきよむると朝々にわれより先におきいでにけり
 男《を》のわらは咳《しはぶき》しつつ口そそぐしはぶきの音《おと》ここに聞こゆる
 このあさけ燒跡を少しもとほりて燒けたる眼鏡ふみつけにけり
 さしあたりてただただ空し納豆を食《は》まむとおもふ念願《ねがひ》こそあれ
 
(9)    行春の雨
 
 ここにもほそく萌えにし羊齒の芽の渦葉《うづは》ひらきて行春のあめ
 はしけやしこの身なげきて虎杖のひいづるときになりにけるかも
 きほふ心もなくなりにけるかなや五月一日かぜひきて居り
 よるふけて思ひだしたりうづまける羊齒のもえこそあはれなりしか
 うまれし國にかへりきたりてゆふされば韮をくひたり心しづかに
 かすかなる蟲のあそびも見ゆるなり日にてらされし擬寶珠《ぎばうしゆ》の葉に
 むなしきあとの宵《よひ》やみにして蝙蝠《かはほり》のひらめくを見れば二つゐるらし
(10) やけあとに黒きいきものの蝙蝠はひくぞら飛べりゆふやみゆゑに
 湯をあみてまなこつむればうつしみの人の寂しきや命さびしき
 わがこころしづかになりて見て居《を》るは油ぎりたる羊齒のむらだち
 櫻ばな咲きのさかりをこもりゐて狂ふをみなに物をいふなり
 
    伊藤左千夫第十三回忌 【五月三日於龜戸普門院】
 
 師の墓に降れる雨こそ寂しけれ墓をぬらせる行《ゆく》春の雨
 
    長崎往反
 
 ひそかなる旅のごとくにわれは來ぬ病みたる友を診《み》むとおもひて
(11) 四年《よとせ》經て來《こ》し長崎のあさあけに御堂の鐘の鳴りひびくおと
 氣ぐるひて居りたる友を一目見しわれの心はきはまらむとす
 丸山の夜《よる》のとほりを素通りし花月《くわげつ》のまへにわれは佇む かへりぢの汽車の中にても病院の復興の金をおもひて止まず
 神戸なる友に逢ひなばいくばくかの話遂げむとおもひて來しを
 足柄の友とあひ見てのぞみ無きことをも吾はこひねがひけれ
 一等の汽車に乘りゐる友にあひ吾《われ》を語れば心やや和む
 その友の語りていふに「君が不幸の限度は既にとほり越したり」
(12) 横濱にてわかるる時に洋風にわれ友の手をつよく握りつ
 金圓のことはたはやすきことならずしをしをとして歸り來《きた》れり
 
    近江蓮華寺行 其一
 
 右中山道みちひだりながはま越前みちとふ石じるしあはれ
 このみ寺に仲時の軍《ぐん》やぶれ來て腹きりたりと聞けばかなしも
 山なかのみ寺しづかにゆふぐれて※[うがんむり/隆]應上人は病みこやりたる
 あかつきも木兎《みみづく》なけり寺なかに※[うがんむり/隆]應和尚やみてこやせる
 茂吉には何かうまきもの食はしめと言ひたまふ和尚のこゑぞきこゆる
(13) さ夜ふけていまだ寐なくに山なかを啼きゆく木兎のこゑを聞きたり
 
    近江蓮華寺行 其二
 
 ひかりさす松山のべを越えしかば苔よりいづるみづを飲むなり
 しづかなる春山なかのみ寺には夜半にわれらが居たりけるかな
 さ夜なかにめざむるときに物音《ものと》たえわれに涙のいづることあり
 目をあきてわがかたはらに臥したまふ※[うがんむり/隆]應和尚のにほひかなしも やまなかの泉にひかりさし居りてわきづるみづは清《すが》しといはむ
 
    となり間に、偏※[病垂/難]を得て常臥に臥せる※[うがんむり/隆]應和尚も、はや眠りたまひつらむとおもほゆる、夜もいたくふけて
 
(14) となり間《ま》にかすかなるものきこゆなり夜半《よは》につまぐる數珠はきこえぬ
 
    醒が井途上
 
 醒が井に眞日くれゆきて宵闇にみづのながれのおとこころよし
 桑の實はいまだ青しとおもふなり息長川のみなかみにして
 近江路の夏もまだきの小草《をぐさ》には一つ螢ぞしづかなりける
 やまがひのそらにひびきて鳴く蛙《かhづ》やまをめぐればすでにかそけし たぎちくるながれの岸におりこしが顔をあらへり目金はづして
 ゆふまぐれ息長川をわたりつつかじかのこゑの徹るをききぬ
 
(15)    摺針越抄
 
 かぎろひの春山ごえの道のべに赤がへるひとつかくろひにけれ
 木の間がくり湧きでしみづはおのづからここの坂路《さかぢ》にながれ來たりし
 近江路の夏の來むかふ山もとにひとりぞ來つる漆を摘みに
 番場いでて摺針越《するはりごえ》をとめくればいまこそ萌ゆれ合歡の若葉は
 
    閉居吟 其一
 
 なにがなし心おそれて居たりけり雨にしめれる疊のうへに
 烟草をやめてよりもはや六年《むとせ》になりぬらむ或る折《をり》はかくおもふことあり
(16) 言《こと》にいでて強く悔いむとはおもはねどさびしき心いやたへがたし
 Munchen《ミユンヘン》にわが居りしとき夜ふけて陰《ほと》の白毛《しらげ》を切りて棄てにき
 梅賣のこゑの清《すが》しさやわが身にははや衰ふるけはひがするに
 ただ一つ生きのこり居る牡※[奚+隹]《をんどり》に牝※[奚+隹]ひとつ買ひしさびしさ
 庭すみに竈つくれり燒辭書《やけじしよ》も燒人形も燃やしてしまへ
 さ夜ふけゆきて朱硯《しゆすずり》に蚊がひとつとまりて居るも心がなしも さみだれて疊のうへにふく黴を寂しと言はな足に踏みつつ
 午前二時ごろにてもありつらむ何か清々《すがすが》しき夢を見てゐし
(17) 夜ふけてみじかきこゑを立てて鳴く鳥こそ過ぐれ臥處《ふしど》に近く
 
    閉居吟 其二
 
 をさなごの熱いでて居る枕べにありし櫻桃《あうたう》を取り去らしめし
 さみだれも晴間といへば燒けし書《ふみ》つらなめ干せりあはれがりつつ
 窓したを兵幾隊も過ぐるなり足竝の音をしまし聞き居り
 わがこころ呆けしごとしと人みるらむか雷こそ鳴れ玻璃窓ひびきて
 あつぐるしき日にこもりつつ居たりけり黒きダリアの花も身に沁む
 四五日まへに買ひてあたへし牝※[奚+隹]が居なくなれりといふこゑのすも
(18) 燒あとに迫りしげれる草むらにきのふもけふも雨は降りつつ
 Thanatos《タナトス》といふ文字見つけむと今日一日燒けただれたる書《ふみ》をいぢれり
 今日の日も夕ぐれざまとおもふとき首《かうべ》をたれて我は居りにき
 
    逢坂山
 
 春逝きし逢坂山の白き路きのふもけふもひたに乾ける
 ひるがへる萌黄わか葉や逝春のひかりかなしき逢坂を越ゆ
 砂けむりあがるを見つつ午すぎし逢坂山をくだり來にけり
 逢坂をわが越えくれば笹の葉も虎杖もしろく塵かむり居り
(19) あふさかの關の清水ははしり出の水さへもなし砂ぞかわける
 逢坂の山のふもとに地卵を賣るとふ家も年ふりて居り
 その家に※[奚+隹]の糞をも賣るといふ張紙ありてうらさびしかり
 蝉丸の社にたどりつきしとき新聞紙をば敷きてやすらふ
 春ふけし逢坂山ののぼりぐち生ふるあらくさに塵かかりけり
 逢坂山の道のべにながれけむ砂のかわけるを吾は踏みける
 
    沙羅雙樹花
 
 いにしへも今のうつつも悲しくて沙羅雙樹のはな散りにけるかも
(20) あかつきに吹きそめたるがゆふぐれてはや散りがたの沙羅雙樹の花
 いとまなき現身《うつしみ》なれどゆふぐれて沙羅雙樹の花を見にぞわが來し
 白たへの沙羅の木《こ》の花くもり日のしづかなる庭に散りしきにけり
 命をはりて穉き兒らもうづまりしみ寺の庭の沙羅雙樹のはな
 白妙の淡き花こそ散りにけれいまだ丈ひくき沙羅の木のもと
 くるしみにこらふる人もおのづから沙羅の木のもとに來りけるかも
 ゆふぐれのをぐらき土にほのかにて沙羅の木の花散りもこそすれ
 あはれなる花を見むとて來りけり一もと立てる沙羅雙樹の花
(21) うつそみの人のいのちのかなしとぞ沙羅の木の花ちりにけるかも
 
    木曾福島
 
 あが心かたじけなさに木曾がはの鳴瀬聞きつつ二夜寢にけり
 こころ細りしにやあらむ山にして漆の芽さへかなしきものを
 闇鳥《やみどり》の佛法僧鳥の呼ぶこゑをまなこつむりて我は聞きたり
 木曾の夜《よ》くだちに佛法僧といふさびしき鳥を聞きそめにけり
 山のべにかすかに咲ける木苺の花に現身の指はさやらふ
 くれなゐの炎にもゆる山火事の話しながら木曾谷ゆけり
(22) 樹の根がたの土にこもれる蟻地獄あはれ幽《かそ》けしとこそおもひしか
 
    木曾山中 其一
 
 あはれとぞ聲をあげたる雪照りて茂山《しげやま》のひまに見えしたまゆら 滿ちわたる夏のひかりとなりにけり木曾路の山に雲ぞひそめる
 おくやまの岩垣ぶちを小舟《をぶね》にて人ぞ渡らふ木曾路かなしも
 かなしかる願をもちて人あゆむ黒澤口の道のほそさよ
 ここにして雪をかかむる奥山はおりゐしづめる雲のかげなる
 くろずめる山は幾重もたたなはり見えがくれする山ぞ戀しき
(23) しげ山の日かげるうへにあらはれし雪はだらなる山は何やま
 赤彦はわれに語らふ昨《きぞ》の夜は燕嶽《つばめだけ》の夢《いめ》みて居たりとふ
 あまねくもわたらふ夏とたたなはる茂山のかげに雲しづむ見ゆ
 旅を來て王瀧川のさざれには馬の遊ぶをわが見つつをり
 奥木曾へ汽車こそ走れ御嶽の雪のかがやきをもろともに見つ
 あしびきの山澤びとの家居よりをさなごひとり出でて來れり
 椹樹《さはらぎ》のしげき樹の間を通り來てこころ明るし羊齒のむらだち
 山がはの鳴瀬に近くかすかなる胡頽子《ぐみ》の花こそ咲きてこぼるれ
(24) 木曾谷は行くべかりけりふかぶかと山肌くろくなりにけるかも
 
    木曾鞍馬溪
 
 こもり波あをきがうへにうたかたの消えがてにして行くはさびしゑ
 ふかぶかと青ぎるみづにいつしかも雨の降り居るはあはれなるかも
 鶺鴒のあそべる見れば岩淵にほしいままにして隱ろふもあり
 岩のまのみづのこもりに細き雨ふりて波よるときのまを見し
 青淵に蛙ひとつがいづこゆかぽたりと落ちてしづごころなし
 おく山の淵に來しかば水のへに浮きてたゆたふ水沫を見たり
(25) 頬白は淵のそがひの春の樹の秀《ほ》にうち羽ぶり啼きたるらしも
 青淵に石おち入りしときのまのとどろく水をなぐさみがたし
 山がはのあふれみなぎる音にこそかなしき音は聞くべかりけれ
 こもり淵たたへがうへの岩の秀に赤蜂《あかばち》の巣はかかりけるかも
 
    木曾山中 其二
 
 やまがひのすでに黝《くろ》ずむしげり生《ふ》に枯れし木立を見すぐしかねつ
 しげ山に枯れし木群は雷《いかづち》のひびきて落ちしあとと云ふはや
 夏山のしげりがおくに一ところ枯れ果て居るをわれは目守れり
(26) 奥木曾のかぐろくしげる山なかに枯れし木群を見ればかなしも
 繁山のしげりのなかに枯れたるは雷の火に枯れしとを聞け
 毒ぐさの黄いろき花を摘みしときその花恐れよといへば棄てつる
 山|田居《たゐ》に今はくぐもり鳴く蛙ゆふさりくれば多く鳴くらむ
 
    木曾氷が瀬 其一
 
 やまこえし細谷川に棲むといふ魚を食ふらむ旅のやどりに
 ふかやまのはざまの陰におちたまり栗のいがこそあはれなりけれ
 粟のいが谷まのそこにおち居れば夏さりくれどしめりぬるかも
(27) 羚羊の皮の腰皮さげながら木曾の山びと山くだる見ゆ
 のぼりゆく谷水のうへを蝶ひとつ飛べるもさびし山は邃《ふか》くて
 峽間路《はざまぢ》をとほく入りしか山かげに焚火のあとがありにけるかも 黒くなりて焚火せるあとの殘れるをしばし見てゐしが我は急げり
 人戀ひて來しとおもふなあかねさす眞日くれてより山がはのおと
 櫟若葉ひねもす風にうごきたる山のゆふぐれ人怒り居り
 山路來て通草の花のくろぐろとかなしきものをなどか我がせむ
 初夏の山の夜にして湯に沾《ひ》でし太き蕨も食《を》しにけるかも
 
(28)    木曾氷が瀬 其二
 
 細谷のすがしきみづに魚《うろくづ》の命とりたりと思ひつつ寢し
 山水《やまみづ》にねもごろあそび居りぬらむ魚のいのちを死なしめにけり 慈悲心鳥ひとつ啼くゆゑ起きいでてあはれとぞおもふその啼くこゑを
 あかねさす晝のひかりに啼かぬ鳥慈悲心鳥を山なかに聞け
 木曾山に夜《よる》は更けつつ湯を浴むと木の香身に沁む湯あみ處《ど》に居し
 さ夜ふけて慈悲心鳥のこゑ聞けば光にむかふこゑならなくに
 啼くこゑはみじかけれどもひとむきに迫るがごとし十一鳥《じふいち》のこゑ
(29) 二ごゑに呼ばふ鳥がね聞こえつつ川の鳴瀬の耳に入り來も
 ぬばたまの夜の山よりひびきくる慈悲心鳥をめざめて聞かな
 まぢかくの山より一夜《ひとよ》きこえ來し慈悲心鳥は山うつりせず
 ほがらかにこゑは啼かねど十一鳥《じふいち》のおもひつめたるこゑのかなしさ
 夜半《よは》に起きて聞きつつ居れば十一鳥は川の向うの一處《ひととこ
》に啼く
 なくこゑの稍にけどほくなりたるは山移《やまうつり》して啼くにやあらむ 木曾やまの春くれゆきし木末《こぬれ》には闇に戀《こほ》しき鳥鳴きにけり
 夜《よる》ふけて慈悲心鳥の啼く聞けばまどかに足らふ心ともなし
(30) あはれなるこゑに啼きつつ木曾山の慈悲心鳥はあかつきも啼く
 夜ふけし山かげにして啼くらしき佛法僧鳥のこゑのかそけさ
 
    木曾氷が瀬 其三
 
 すがすがし谿のながれに生れたる魚《いろくづ》をとりて食ふあはれさよ  おきなぐさ小き見れば木曾山に染み入るひかり寒しとおもふ
 白頭翁ここにひともとあな哀し蕾ぞ見ゆる山のべにして
 山かげのながれのみづを塞きとどめ今ぞ魚《うを》とる汗かきながら
 魚とると細谷川のほそみづにいさごながれてしましにごりぬ
(31) 谷あひをながるる川の水|乾《ひ》るとさざれに潜む黒き魚あはれ
 瀬と淵とこもごもあれど日の光あかきところに魚は居なくに
 塞止めて細きながれのにごるときはやも衰ふる魚ぞ哀しき
 ほがらかにあしたの鳥の啼けるとき慈悲心鳥はつひに啼かずも
 あしびきの山よりいづるやまがはの石はあらはに日に温《ぬく》み居り
 石楠《しやくなぎ》は木曾奥谷ににほへどもそのくれなゐを人見つらむか
 さるをがせ長きを見れば五百重なす山め峠も越えにけらしも
 たまゆらはいのち和まむやまがはに温《あたたか》き砂を手につかみ居り
(32) ひかり染む山ふかくして咲きにけり石楠の花いはかがみのはな
 白雲は直ぐ目のまへをうごきつつ夏にい向ふ空晴るるらし
 ここにして寂しき山に雨合羽かけられし馬いななきにけり
 慈悲心鳥すでに啼かざる朝山に峠を越ゆる馬が憩へり
 
    閉居吟 其三
 
 燒あとに草はしげりて蟲が音《ね》のきこゆる宵となりにけるかも
 極樂へゆきたくなりぬ額よりしたたる汗をふきあへなくに
 ひさびさに銀座あるきてうらわかき夜の女《をみな》を見ればすがしも
(33) 戀にこがれて死なむとすらむをとめごもここの通《とほり》に居《を》るにやあらむ
 尋常《つね》のごとくわれはおもへり羽蟻《はねあり》が羽おちて疊まよひありくを
 燒死にし靈をおくるとゆふぐれてさ庭に低く火を焚きにけり
 まじろがず吾は目守れり二形《ふたなり》になり果てたりといへる少男《をとこ》を
 吾つひに薯蕷汁《とろろ》をくひて滿ち足らふ外面《とのも》に雨のしぶき降るとき
 ひぐらしは墓地の森より鳴きそめてけふのゆふぐれわが身にぞ沁む
 ひぐらしの心がなしくひびくこゑ五年《いつとせ》ぶりに聞きて我が居り
 かたづかぬ爲事いくつか手にもちて比叡の山に旅だたむとす
(34) 偶像の黄昏《くわうこん》などといふ語も今ぞかなしくおもほゆるかも 馬追のすがしきこゑはこのゆふべ變りはてたる庭より聞こゆ
 
    比叡山安居會
 
     大正十四年七月二十八日より五日間、比叡山上にて第二囘アララギ安居會を催す。講師、岡麓・島木赤彦・齋藤茂吉・中村意吉・土屋文明。作歌若干を録す
 
 比叡山《ひえやま》のいただきにして歌がたりわがともがらは飽くこともなし
 をりをりは光る近江のみづうみを見おろしにけり戀《こほ》しむごとく
 赤き雲すぐまぢかくに棚びけり此叡山《ひえいざん》の上に目ざめしときに
(35) 白壁のうへにさしたる入りがたのよわき光を吾は見てゐる
 わが受けし火難ののちの悲しみをこの夏山にやらはむとする
 蝉のこゑ波動をなして鳴きつぐを聽けども飽かず比叡《ひえい》の山に
 むらぎもの心さだまりて讀みつげる萬葉びとの歌のかなしさ
 うろくづの香のたえて無き食物《をしもの》を朝な夕なに殘すことなし
 夜もすがらねむりがてなくに明けくれし吾《わ》れこの山にあらたまりける
 ある時はあわただしくも雲まよふ佛の山にその雲を咏む
 
    高野山 其一
 
(36) 空海のまだ若かりし像を見てわれ去りかねき今のうつつに
 あひともに疑ひながら聽く鳥のするどきこゑは木の間に近し
 金堂にしまし吾等は居りにけり山にとどろく雷《らい》聞きながら
 うごきゐし夜《よる》のしら雲の無くなりて高野《たかの》の山に月てりわたる
 まゐり來て高野《かうや》の山のくらやみに佛法僧といふ鳥を聞く
 はるけくも黝《くろ》ずむ山の起伏《おきふし》のつひのはたてに淡路島みゆ
 はるばるとのぼり來りし五人《いつたり》は雲より鳴れる雷を聞き居り
 紀伊のくに高野《かうや》の山のくだり路につめたき心太《ところてん》をぞ食ひにける
(37) ひさかたの雲にとどろきし雨はれて青くおきふす紀伊のくに見ゆ
 父こふる石童丸のあはれさも月あかき山ゆきつつおもふ
 いにしへにありし聖《ひじり》は青山を越えゆく彌陀にすがりましけり
 みなみより音たてて來し疾きあめ大門|外《ぐわい》の砂をながせり
 たかのやま奥のながれに掛かりをる無明の頼も吾等わたりつ
 のぼりつめ來つる高野《かうや》の山のへに護摩の火《ほ》むらの音ひびきけり
 
    高野山 其二
 
 くにぐにの城にこもりし現身《うつせみ》も高野《かうや》の山に墓をならぶる
(38) 紀伊のくに高野《たかの》の山に一日《ひとひ》ゐて封建の代の墓どころ見よ
 いく山ごえ佛の山に砂あさきみづの流は心しづけし
 日一日《ひひとひ》みだりたりける雲たえて月あかあかと山をてらしぬ
 時のまとおもほゆるまに南より大き雲こそ湧きいでにけれ
 佛法僧鳥《ぶつぽふそう》のこと論らひ居りたりし吾らも寢《いね》ぬ月かたむきて
     五人は岡麓、土屋文明、内藤喬、武藤善友及び予なり
 おしなべてものの常なき高山《たかやま》の杉の木立に雲かかりけり
 年ふりしいまの現《うつつ》にたかのやま魚燒く香こそものさびしけれ
(39) ひる未《まだ》き高野のやまに女子《をみなご》と麥酒《むぎざけ》を飲みねむけもよほす
 紀伊のくに高野の山の雨はれて嘴太《はしぶと》の鴉めのまへをゆく
 
    熊野越 其一
 
 雉子の雛おぼつかなくもかくろひぬ打ひらきたる谷のうねりに
 紀伊のくに大雲取の峰ごえに一足ごとにわが汗はおつ
 いましめて吾等のこゆる山路《やまみち》は日にこがれたる草ぞみだるる
 やま越えむねがひをもちてとめどなく汗はしたたる我が額より
 紀の海よりただに起れる眼下《まなした》の幾|山脈《やまなみ》はうごくがごとし
(40) 谷底を暫《しま》し歩みて居りにけり嚔《くさめ》をぞせし後《のち》はさぶしも
 くたびれていこへるひまに脚絆よりとりし山蛭《やまびる》ひとつ殺しぬ
 かがなべし旅といはなくに紀の國のさびしき山に汗をおとせり
 峠賂のながれがもとの午餉《ひるがれひ》梅干のたねを谿間に落す
 山なかのほそき流れに飯《いひ》のつぶながれ行きけりかすかなるもの
 この山はいよよさびしくなるらむか焚火をしたる跡さへもなし
 暗谷にありし泉にかがまりて汗にぬれたる眼鏡をあらふ
 夏ふけし大雲取を越えながら手拭の汗幾しぼりしつ
(41) 雲取を越えて來ぬれば山蛭の口處《くちど》あはれむ三人《みたり》よりつつ
 山つみの目に見えぬ神にまもられて吾ら夕餉の鮎くひにけり
 峠より相むかひける山峡《やまがひ》にしろき川原ははつかに見えつ
 目のわるき遍路が鳴らす鈴の音《ね》は一山《ひとやま》かげになりてきこえず
 茶屋のあと幾つもありてのぼり來しこの山道はいよいよ寂し
 しづかなる眠よりさめ三人《みたり》くふ朝がれひには味噌汁は無し
 あまつ日に面《おもて》をこがし紀の國の山をぞ越ゆる北にむかひて
 
    熊野越 其二
 
(42)     大雲取小雲敬を適え、本宮、湯峰を經て、熊野川をくだり、新宮より勝浦にいで、夜航船にて伊勢の鳥羽港に上陸せり。後、二見浦、伊勢神宮參拜
 
 熊野賂を越えつつくれば遙かなる二山《ふたやま》にわたり燒けしあとあり 峰ごえを一つをはりし谿ぞらに黒き蝶こそ飛びをりにけれ
 まさびしきものとぞ思ふたたなづく青山のまの川原を見れば
 本宮へ近づく道に出で居りし赤楝蛇《やまかがし》を吾ころしけり
 虹のわの清《さや》けき見つつ紀伊のくに音無川をけふぞわたれる
 山のうへに滴る汗はうつつ世に苦しみ生きむわが額より
(43) 紀伊のくに大雲取を越ゆるとて二人の友にまもられにけり
 眼下に小口《こぐち》の宿《しゆく》の見ゆるころ山のくだりはわが足によし
 くに境《さか》ふ山をやぶりてにごり水あふれみなぎりし時を思へり
 ゆふばえの雲あかあかとみだりつつ熊野の灘は夜《よは》にわたりぬ
 
    箱根浸吟の中 其一
 
     大正十四年八月より九月にわたり箱根強羅にこもりしをりをりの歌を輯め録す
 
 しづかなる峠をのぼり來しときに月のひかりは八谷《やたに》をてらす
 くまなき月の光に照らされしさびしき山をけふ見つるかも
(44) ほそほそととほりて鳴ける蟲が音はわがまへにしてしまらくやみぬ
 こほろぎは消《け》ぬがに鳴きてゐたりけり箱根のやまに月照れるとき
 ものの音《と》に怖《お》づといへどもほがらかに蟋蟀鳴きぬ山の上にて
 まなかひに迫りし山はさやかなる月の光に照らされにけり
 山なかのあかつきはやき温泉《いでゆ》には黒き蟋蟀ひとつ溺れし
 見てをれば湯いづる山のひるすぎに氷を負ひてのぼり來し馬
 いそぎ行く馬の背なかの氷よりしづくは落ちぬ夏の山路に
 たまくしげ箱根の山に夜もすがら薄をてらす月のさやけさ
 
(45)    箱根浸吟の中 其二
 
 さやかなる月の光に照らされて動ける雲は峰をはなれず
 この峰にきこゆる音はおもおもし湯の吹きいづる谿のつづきか
 青栗《あをぐり》のむらがりて居《を》る山はらに吾はしまらく息をやすめぬ
 まながひに雲はしれども遠雲《とほぐも》は動かぬごとし谿をうづみて
 をさなごの茂太があぐるとほりごゑ谿を幾つか越えてこだます
 秋ふかきおもひこそすれしかすがに夕雨《ゆふさめ》はれて蟋蟀きこゆ
 おのづから寂しくもあるかゆふぐれて雲は大きく谿にしづみぬ
(46) 目のまへに雉子《きぎす》とびたつ響動《とよもし》は雨のふりゐる山なかにして
 あしびきの山のたをりにこころよし熟《う》めるしどみの香をかぎ居れば
 夏山の繁みがくれを來しみづは砂地がなかに見えなくなりつ
 谷つかぜいきほひ吹けば高原の薄なみょる狹霧のなかに
 あしびきの細き山路に湯のあふれ白くながれて居りにけるかな
 青山に動ける雲の寂しきをひとり雲とぞ吾は云はむか
 おのづから谷を越え來ぬ香に立てる山のいぶきに吾はちかづく
 わがむかふ鷹巣山《たかのすやま》の黒きひだ地震《なゐ》ゆりしよりかはりたりとふ
(47) かがまりて吾の見てゐるところにはたぎりいづる湯いき吹きながら
 あらはなる石原のうへをあゆみ居り硫黄ふきたつまなこに沁みて
 ほそほそと士に沁みいる蟲がねは月あかき夜にたゆることなし
 しづかなる光は夜《よは》にかたむきておどろがうへの露を照らせり
 山そぎて谿は深しも白波の立ちてながらふ川原荒しも
 おのづから吾の越えにし青山は谿の流までうねり至れる
 たまくしげ箱根の山はきはまらずこの湖をよろひけるかな
 ひる過ぎてくもれる空となりにけり馬おそふ虻は山こえて飛ぶ
 
(48)    箱根漫吟の中 其三
 
 しらじらと谿の奥處《おくど》に砂ありて遊べる鳥は多からなくに
 をさな兒は手をひたしつつ居たりけりいさご動きて湧きいづる湯に
 葛の花さきぬるみればみすずかる信濃に居たるころしおもほゆ
 朝明《あさけ》より寂しき雨は降り居りて槇の木立に啼く鳥もなし
 山なかに一夜《ひとよ》明けつつ味噌煮ると泉のみづはわれ汲みて來む
 水のおとの谿の底よりきこゆるはたまさかにして近くなりつつ
 秋づけるこの山なかに雨ふりて蟋蟀のこゑ一夜《ひとよ》きこえず
(49) かすかなるものにもあるかうつせみの我が足元に痰なむる蟲
 をさなごは咳《しはぶき》をすと目ざめたるこのさ夜なかに雨ふる音す
 夜の雨林のなかに降るきけば心さびしくなりにけるかも
 
    草蜉蝣
 
     八月三十日浅草觀世音詣
 
 みちのべの白きひかりの燈《ともしび》に草かげろふは一つ來て居り
 淺草の日のくれぐれの燈に青き蟲こそ飛びすがりけれ
 電燈のひかりにむるる細か蟲は隅田川より飛び來つるなり
(50) 電燈の光まばゆき玻璃《はり》戸には蚊に似たる蟲むれて死につつ
 四年《よとせ》まへわれも聞きつつかなしみし八木節音頭すたれ居りたり
 眼《まなこ》とぢて吾は乞ひ祈《の》むありのままにこの生《いき》の身をまもらせたまへ
 月赤くかたむくを見し夜《よる》ふけて蟲が音しげき道を來しかば
 蟲が音《ね》はしきりに悲し月よみの光あかあかと傾きゆきて
 
    八月三十一日
 
     偶行脚に來れる小國宗碩を伴ひて、本所被服廠顔を弔ふ
 
 ひとあまた炎に燒けし跡どころに高野《たかの》のやまの箸を賣る見ゆ
(51) たちのぼる香《かう》のにほひを嗅ぎながらここに迫りし火炎《ほのほ》おもほゆ
 
    渾沌
 
     折に觸れたる
 
 娑婆苦より彼岸をねがふうつしみは山のなかにも居りにけむもの
 うそざむく夜《よる》ふけゆきてかりがねの鳴けるを聞けばかなしくもあるか
 今しがた空たかくして鳴ける雁《かり》ひとつならずとおもほゆるかも
 めざめゐてひとりぞおもふいつしかもかりがね來鳴くころとなりにし
 かりがねは遠くの空を鳴きゆけり夜《よる》ふけし家にかなしむときに
(52) 燒あとにほしいままにてしげりにし雜草もなべてうらがれにけり
 あらはにてうづたかかりし落葉には今朝みれば霜ぞいたく降りつる
 いのりさへ今は絶えつつ小夜ふけし暗やみの中にわれ立てりけり
 うつしみは苦しくもあるかあぶりたる魚《いを》しみじみと食ひつつおもふ まどかなるわがをさな兒の眠りさへ顧みずして幾日《いくひ》か經たる
 
    百子
 
 朝はやくすでに目ざむるをさなごのこゑを聞きつつわれ疲れ居り
 ふゆの陽《ひ》は南かたよりにあまづたふその日向《ひなた》にて百子《ももこ》匍ひ居り
 
(53)    子規忌歌會 【十月四日於大龍寺】
 
 おのづから秋は深むとおもふにも寂《しづ》かなるひかり岡を照らせり
 
    みちのくの兄
 
 みちのくのわぎへの里ゆ來《こ》し兄は父が臨終《いまは》のことを語りぬ おもほえばかなしくもあるか熱たかく七日《なぬか》ふして父は死にゆきしとふ
 うつし身はかなしけれども皇孫女《ひめみまご》生《あ》れまししけふぞ心なごまむ.
 
    火災より一年目
 
 柱時計ここに燒けけむ齒ぐるまの錆び果て居るを蹴とばしにけり
(54) 燒あとよりいづる碁石のころがりも心に沁むと告げやらましを
 いつしかも冬のひかりに萌えいでし細かき草をここに我が見む
 うらがれしむぐらを照らす冬の日の光を見ればもの懸《こほ》しかり
 ひといろに霜がれ立てる雜草《あらくさ》のひまに萌えづるこの小草《をぐさ》はや
 
    雜歌控
 
     一月一日上海歌會
 
 海外にいそしむはらからと相まみえ我が心ふるひたたざらめやも
 
     山口茂吉ぬしの轉居をききて
 
(55) この男にさきはひ給へこの男蒲田のさきへ移り住むとふ
 藤なみの花のむらさき咲かんとき君が新室いよよすがしき
 
(56)  昭和元年(大正十五年)
 
    家常茶飯
 
 くれぐれにわれのいそげる砂利みちは三月《やよひ》にちかき雨ふりて居り おのづからゆらぎつつゐる紙帳《かみがや》のなかに疲れてものをこそおもへ
 くろき空罎《あきびん》をうづたかく積みし小路《こうぢ》のところよりわれ入りて來つ
 いちじゆくのあらき枝には芽ぶかねばさへづる鳥の濡れたるが見ゆ
 味噌しるのなかに卵を煮て食ふは幾年《いくとせ》ぶりに食ふにやあらむ
 
(57)    雪ぐもり
 
     大正十五年三月一日ゆふべ
 
 雪ぐもりひくく暗きにひんがしの空ぞはつかに澄みとほりたる
 罪ふかき我にやあらむとおもふなり雪ぐもり空さむくなりつつ
 おもおもとたたなはりにし雪ぐもり雪ははだらに降りくるらむか
 くもり日の低空《ひくぞら》のはてに心こほしきあかがねいろの空はれわたる
 
    寒月集
 
 わがこころいつしか和みあかあかと冴えたる月ののぼるを見をり
(58) 氣づかすに吾《われ》は居つるに牡※[奚+隹]《をんどり》はただひとつにてけふぞ遊べる
 あまつ日の無くなることを悲しみて踊りし神代おもほゆるかも
 をさなごを遊ばせをればくりやより油いたむる音もこそすれ
 ゆふぐれて吾《あ》に食はしむと煮し魚《いを》の白き目の玉噛みゐたりけり
 我家やけてより三聯隊の兵營は直ぐまぢかくに見ゆるがごとし
 紙帳《かみがや》のなかにこもりてしづかなる息をつかむとわが居たりける こよひもすでに更けゆくとおもひつつ紙帳なかにわれめざめ居り
 齒のいたみおのづからにてしづまりしこの曉をわれはねむりぬ
(59) みちのくの湯花《ゆばな》を塗りてこよひしも癢《かゆ》きわが身をいとほしむなり
 みちのくの最上高湯《もがみたかゆ》の湯の花をおろそかにせじ人のみなさけ
 
    山房の夜中
 
 みちのくに雪解のみづのとどろくと告げこし友を我はおもはむ
 われひとり眼《まなこ》みひらく小夜ふけに近くをとほる兵の足おと
 さ夜ふけと春の夜ふけしひもじさに乳のあぶらを麺麭にぬりつつ
 とりよろふ青野《あをぬ》を越えてあゆみつつ神死したりといひし人はも
 赤彦はいまごろ痛みふかからむ赤彦をしましねむらせたまへ
 
(60)    山房漫吟其他
 
     一月十一日、讀新聞 二首
 
 武林文子おもかげに立つごとしニースの濱に殺されしとふ
 こみいりし女《をみな》にもあるか平凡に遘合《まぐはひ》をせし女《をみな》とおもへど
 ひたさむき大つごもりの銀座にて獨樂《こま》など賣るをしまし目守りぬ
 帽とりてわれは立ち居り目のまへを大臣《おとど》加藤の柩とほりぬ
 うめのはな咲けるを見れば穉くて梅の實くひしむかしおもほゆ
(61) をさなごの朱羅ひきたる兩頬《もろほほ》を我は見て居り寒き朝明《あさけ》に
 みちのくに大雪ふりてひとの住む家つぶれぬと聞くぞかしこき
 すゑ風呂にゆあみしをれば目のまへにきさらぎの夜の月かたぶきぬ
 くすり湯をたてて浴みつつぬばたまの夜ふけぬればしばし靜けし
 
    長塚節第十二囘忌 【二月七日於松秀寺】
 
 しづかなるみ寺のなかにおもふどちひとつ心に君を偲びつ
 をりをりは君よりゆづり受けし書《ふみ》も火事に燒けたることを思はむ
 
    三月五日 三首
 
(62) 墓原の空にみなぎり時のまに降りくる雪をあはれといはむ
 ひさびさに湯屋へ行きたる歸るさに道のべの大き石に氣がつく
 けさの朝明ふれる泡雪ことごとく消えぬといひて湯より歸れり
 
    四月五日、書物などの塵を拂ふ。鬼をやらひしは二月三日の寒き宵なりけむ。その夜島木赤彦君アララギ發行所に熱いでて居たりき
 
 行春《ゆくはる》の部屋かたづけてひとり居り追儺の豆をわれはひろひぬ
 
    四月十五日、強風砂塵をあぐ
 
 きぞの夜に叫びもあげず牡※[奚+隹]は何かの獣《けもの》に殺されて居り
(63) わがこころ安くもあらず街に來て壁ぬり居《を》るを見て過ぎにけり
 
    五月五日、澄江堂のあるじより「かげろふや棟も落ちたる茅の屋根」といふ消息たまはりければ
 
 湯のなかに青く浮かししあやめぐさ身に沁むときに春くれむとす
 ふけわたる夜といへども目をあきて痩せ居《を》る君し我は會ひたし
 
    赤彦忌 【五月九日於犬山寂光院】 寄詠
 
 わが友は信濃の國にみまかりてひたすら寂しこの逝春を
 
    六月二十日
 
 竹煮草ほしいままにも延びたりと見てをるときは心安けし
(64) みちのくの便きたりて大き螢とびそめたりといふがかなしさ
 あかねさす晝野《ひるぬ》の草にこもりたる螢か飛ばむきよき夜空は
 
    左千夫第十四囘忌 【六月二十七日於龜戸普門院】
 
 久方の空よく晴れしけふの日や師のみ墓べに吾等來りし
 
    第三囘安居會 【自八月二日至八月六日於武州三峯山上】
 
 山のうへのあかつきにして見おろせりこの深谿《ふかだに》をみづ流るらむ
    赤彦追悼歌會 【十月十六日於上諏訪町法光寺】
 
 うつし身と生きのこりつつ春山のこの寂しさに堪へざらめやも
 
(65)    麥の秋
 
 ついでありてわれ郊外に來てみれば麥の畑はいろづきにけり
 目のまへの雜草《あらくさ》なびき空國《むなぐに》にもの充つるなして雨ぞ降りゐる
 眞夏の來むかふときに青き草のしげりがなかに立ちもとほろふ
 むなしき空にくれなゐに立ちのぼる火炎《ほのほ》のごとくわれ生きむとす ひとりゐて今夜《こよひ》は何もせざりけり友死にしより寂しくもあるか
 
    三峯山上
 
 いつしかもあかあかとして月てれる檜原《ひはら》の山に夜《よ》の鳥ぞ啼く
(66) 二つ居りて啼くこゑきけば相呼ばふ鳥が音《ね》かなし山の月夜《つくよ》に
 うつそみの悲しむごとし月あかき山の上にしてひびかふ鳥よ
 月よみの光くまなき山中に佛法僧といふ鳥啼けり
 山のうへに光あまねく月照りて眞木の木立にきほひ啼く鳥
 
    上野國に入る
 
 雲うごく檜原《ひはら》の山をくだり來て繭煮るにほひ身にもこそ染《し》め
 あまつ日の光はつよし米《こめ》負ひて山に入るひとここにいこひぬ
 上野《かみつけ》のくにに來りてあまつ日の傾くかたの山に入りゆく
(67) ひぐらしのこゑ透りつつあかつきの青き山峽《やまかひ》ゐる雲もなし
 ひさかたの空すみゆきてあかあかとかの山のべに月おつるべし
 
    歩道の氷
 
 齒科醫より歸りきたれる道すがらわれの額に汗いでて居り
 うつせみの生《いき》のまにまにおとろへし齒を拔きしかば吾はさびしゑ
 むしばみてわが齒なやみし日ごろより日《ひ》に日《け》に秋は深くなりつも
 日の光きびしかりしをおもふとき今日このごろは涼しくなりぬ
 口なかににぶき痛みをおぼえつつ青山どほり横ぎるわれは
(68) 秋に入りし歩道あゆみて我は見たり四角の氷を並《な》めて挽《ひ》けるを
 家ごもり久々にして街ゆけり青山どほりの祭すぎつつ
 稚《をさな》らのはしやぎ通れるあとどころ或時はこころ平《たひら》かならず
 
    金線草
 
 秋づきて心しづけし町なかの家に氷を挽きをる見れば
 おのづから生ひしげりたる帚《ははき》ぐさ皆かたむきぬあらしのあとに
 野分すぎて寂びたる庭に薄の穗うすくれなゐにいでそめしころ
 女の童《わらは》あつぶすま著てねむりたりはや宵々は寒くなりつつ
(69) しげりにし莠草《はぐさ》を見ればあはれなるひといろになりてうら枯れむとす
 めざめゐてわれはおもへり雜草《あらくさ》の實はこぼるらむいまの夜ごろに
 秋ふけし日のにほひだつ草なかに金線草《みづひきぐさ》もうらさびにけり 月かげのしづみゆくころ置きそふる露ひゆらむかこの石のうへ
 
    諏訪
 
     十一月九日高木材に亡友の墓を弔ふ
 
 あかつきのいまだをぐらきころよりぞ國のまほらに砲《はう》を打ちつる
 道のべに黄いろになりしくわりんの實棄ててあるさへこよなく寂し
 
(70) にほひけむ紅葉《もみぢ》もすがれはてにけり友をうづめし信濃のやまに
 いのちありて我は老いつつ居りぬとも君のなきがらここにあるべし
 かぎろひの春まだ寒く君死にて小草《をぐさ》かれゆく冬は來むかふ
 ひとりしてのぼり來れる墓どころ心しづめて友をおもはむ
 霜いたくおきし小草を踏みつつぞ心を遣らむ寂しかれども
 あかつきより師團の兵はうごきしとおもひつつ居りこの丘のへに
 山がひの平《たひら》をつたふ地ひびきをかすかに感じ岡の上に居り
 日あたりのよき丘のべは春のごと青々としてもゆる草あり
(71) 機關銃の音もこだますみづうみを甲《よろ》へる山のかげより聞こゆ
 われひとり歩みきたれる山かげに霜の白きをかむる草々
 墓のべにあららぎの木を植ゑむとて涙をながし語る友はや
 
    霜
 
 信濃路はあかつきのみち車前草も黄色になりて霜がれにけり
 朝づく日のぼるころしも繭倉《まゆぐら》のしろきを見れば旅はしづけし
 山々にうづの光はさしながら天龍川よ雲たちわたる
 國の秀を我ゆきしかばひむがしの二つの山に雪ふりにけり
(72) 寒水《さむみず》に幾千といふ鯉の子のひそむを見つつ心なごまむ
 みすずかる信濃の國は車前草もうらがれにけり霜をかむりて
 やま峽の道にひびけり馬車《うまぐるま》は秋刀魚をつみて日ねもすとほる ここに見る赤石白根の山脈は南のかたに低くなりつも
 桑の葉に霜の解くるを見たりけりまたたくひまと思はざらめや
 ぬばたまの夜明けわたれる野の道に青き小草《をぐさ》や霜がくれつつ
 むかうより瀬のしらなみの激ちくる天龍川におりたちにけり
 道芝の霜をいたしと思ほえて光あたらぬところ歩みつ
(73) 霜ふれる野のほそ川に青々と藻のゆらぐさへかなしきものを
 みすずかる信濃の國や峽《かひ》とほく日は入りゆきてなごりの光
 
    信濃數日
 
 道のべの水のながれに溜りにし柿の落葉をわれは見て居り
 わが友は幾度かここを通りけむ高木《たかき》の道をあへぎてのぼる
 わが友のいのちをはりしこの村の公孫樹はすでに落ちつくしたり
 しづかなる朝にもあるかみづうみに冬の靄こそたなびきにけれ
 霜いたく降りたる朝の丘のうへ竹村《たかむら》のなかに水たぎちつつ
(74) うらがれし造の小草にあはあはと入日の光いまだ差し居り
 そのかみに織田の軍よりやぶられし城あとどころ霜がれにけり
 あまづたふ日の入りゆけば涯《はて》とほき北空にして濁るいろはや
 
    高遠
 
     十一月八日信濃國高遠町に繪島の墓を弔ふ
 
 あはれなる流されびとの手弱女は媼となりてここに果てにし
 みすずかる信濃の國の高遠にかなしき墓を吾も見つるかも
 信濃路に霜のいたきを我は見し柿の落葉にも栗の落葉にも
(75) みすずかる信濃のくにの高遠に一夜《ひとよ》ねむりて霜をあはれむ
 
    童馬浸吟
 
     九日廿五日土屋文明ぬしと鵠沼に澄江堂主人を訪ふ。夜ふけて主人は「安ともらひの蓮のあけぼの」といふ古川柳の事などを語りぬ
 
 相見つつうれしけれどもこの濱に心ほそりて君はありとふ
 こもごもにものいひながら松原の空家のなかにわれら入りゆく
 ひんがしの相模の海にながれ入る小さき川を渡りけるかも
 煉乳《ねりちち》の鑵《くわん》のあきがら棄ててある道おそろしと君ぞいひつる
(76) うつそみの世はきびしけれ心足りて濱に遊ばむ我ならなくに
 
    庭前の冬おのづからふかむ
 
 晝ながら悲しかりとふ心にぞ黄なる落葉に照れる日のいろ
 日もすがら夜《よ》すがら落ちし公孫樹葉はこがらし吹きてここにたまりぬ さいはひの如何なる人か和毛《にこげ》なすやさしき妻と相ともに寢《ぬ》る
 冬の夜は音なかりけりさ夜ふけとふけゆくときに土氷らむか
 
    この日ごろ
 
 ゆふまぐれくろくなりたる灰に降る時雨の雨はさむくもあるか
(77) あわただしき世に生くれども心しづめて紙帳《しちやう》にこもる冬になりたり
 この日ごろ人を厭《いと》はむ思《おもひ》あり火鉢の※[火+畏]《おき》を吹きおこし居り
 わがこころに障らふものもなかりけり更くる夜なかに炭を割りたり
 日もすがら落ちてたまれる公孫樹葉はさ夜ふけにして音もこそせね
 
    この夜ごろ眠りがたし
 
 しろがねも黄金も欲しとおもふなよ胸のとどろきを今しつめつつ
 うつそみの吾を救ひてあはれあはれ十萬圓を貸すひとなきか
 たまきはる命をはりし後世《のちのよ》に砂に生れて我は居るべし
 
(78)    奉悼歌
 
     大正十五年十二月二十五日今上天皇(大正天皇〕崩御あらせたまふ
 ふゆのいかづちのとどろけるさ夜なかにわが大王《おほきみ》は息たえたまふ
 おほきみのつひの御《み》いのち白雪は天の原よりながらふるなり
 かすかなる臣のわれより三《みつ》おほき御齢《おんよはひ》なりしことしぬびたてまつる
 あかねさす日は照らせれどくにたみのなげききはまりてくらきがごとし
 み民らはつどひ額ふしあめつちのくらきがなかにたどき知らずも
 大王のつひの行幸やきさらぎのこほれる道のおとぞかなしき
(79) かがり火は寒きちまたに燃ゆれどもこよひの行幸かへりたまはず
 きさらぎの氷れる道をきしりゆく御柩ぐるまのおとは遠そく
 
(80) 昭和二年
 
    昭和二年歳旦頌
 
 しみとほるあかときみづにうつせみの眼《まなこ》あらひて年ほがむとす
 いなびかり光るごとしと歎きつついひし聖《ひじり》のことのかなしさ
 くぐもりのさ霧がうへに寂《しづ》かなる光てるごとくあらしめたまへ
 
    山房小歌
 
     金澤治右衛門八十歳賀歌
 
(81) 伯父《をぢ》のきみはめでたやめでた高山《たかやま》の年ふるごとくいのちながしも
 
    伊東浴泉 一首
 
 冬がれし山のうへより波だてるひむがし伊豆の海を見おろす
 
    生業
 
 狂人《ものぐるひ》まもる生業《なりはひ》をわれ爲《す》れどかりそめごとと人なおもひそ
 
    平福一郎君、久保田周介君高等學校に入學す
 
 食ひしものおのづからこなれゆくごとくつづけざまにも吉報をきく
 
    五月七日 一首
 
 (82) ぬばたまの夜にならむとするときに向ひの丘に雷ちかづきぬ
 
    淺草寺參詣
 
 ひとときの心しづめむたどきさへなかりしわれと豈おもはめや
 
    陸奥の山のみづ
 
 みちのくの山のみづさへ常ならぬいたいたしき世にわれ老いむとす
 夜ふけて紙屑籠にのぼりゐる蟻をし見ればうら和《なご》ましむ
 いのち死にし友をぞおもふこのゆふべは鰌《どぢやう》を買ひてひとりし食はむ
 
    伊東浴泉雜歌の中
 
(83) さびしとは分《わ》きておもはねど冬がれし山より水のながるるを見つ
 伊豆の海にただにせまれる山のべのさむき泉に小鳥來て居り
 見おろせるくろがねいろの伊豆のうみに西ふきあげて波たちわたる
 冬の夜ふけわたりつつ鹹《しほはゆ》く湧きいづる湯はながれてやまず
 かすかなる湯のにほひする細川に鱗《うろくづ》のむれ見ゆるゆふまぐれ
 
    春のはだれ
 
 熱いでてわれ臥しにけり夜もすがら音してぞ降る三月《さんぐわつ》のあめ 晝すぎより吹雪となりぬ直ぐ消えむ春の斑雪《はだれ》とおもほゆれども
 
 
       (84) とどこほるいのちは寂しこのゆふべ粥をすすりて汗いでにけり
 をさなごは吾が病み臥せる枕べの蜜柑を持ちて逃げ行かむとす
 わが身より熱おちそめしとぞおもふ生《なま》あたたかき風をし聞けば
 
    韮
 
 南かぜ吹き居るときに青々と灰のなかより韮萌えにけり
 雨かぜのはげしき夜《よは》にめざめつつ病院のこと氣にかかり居り
 百鳥《ももどり》のさへづりかはす山なかにおのづからにして死ぬるけだもの
 はやりかぜにかかり臥《こや》ればわれの食ふ蜜柑も苦《にが》しあはれ寂しき
(85) 熱おちてひとりこやれば口ひげの白くなれるをつまみつつ居り
 
    雨
 
 生業《なりはひ》はいとまさへなしものぐるひのことをぞおもふ寢てもさめても
 おのづから年を經につつうち解けて交はる人は少くなりぬ
 狂院に寢つかれずして吾居れば現身のことをしまし思へり
 むらがれる蛙《かはづ》のこゑす夜ふけて狂院にねむらざる人は居りつつ. うちわたす麥の畑のむかうより蛙のこゑはひびきて聞こゆ
 あをあをとむらがりながら萌えて居る藜《あかざ》のうへに雨ふりにけり
(86) さみだれは寂しくもあるかいそがしくあり經し吾を籠らしむなり
 ものぐるひを守《まも》る生業のものづかれきはまりにつつ心やすけし
 
    童馬山房折々
 
     業餘の吟
 
 いささかのつとめなすにも額より汗わきいづるころとなりつも
 はだれ雪あはれに降りし日ごろより心つかれて明暮れにけり
 夏草のしげみに立ちて吾おもふ心あわただしきのふも今日も
 はりつめし心ゆるまむ時のまの遊をさへやこの日ごろせず
(87) いなびかりひくく光るをいとけなき女《め》の童子《わらはご》に見しめたりけり
 ものぐるひの命終るをみとめ來てあはれ久しぶりに珈琲を飲む
 をさなごの物いふきけばあはれなる言《こと》もいひけりひとり遊びて
 
    澄江堂の主をとむらふ
 
 夜ふけてねむり死なむとせし君の心はつひに水のごとし
 壁に來て草かげろふはすがり居り透きとほりたる羽のかなしさ
 やうやくに老いづくわれや八月の蒸しくる部屋に生きのこり居り
 
    第四囘安居會 【自八月二日至八月六日於永平寺】
 
(88) あかつきに群れ鳴く蝉のこゑ聞けば山のみ寺に父ぞ戀《こほ》しき
 
    古泉千樫君を弔ふ
 
 よろこびて歩《あり》きしこともありたりし肉太《ししぶと》の師のみぎりひだりに
 息たえし師のまくらべにいそぎ來て携《たづさ》はりけることをおもはむ
 うつつにし言ひたきこともありしかど吾より先にいのち死にゆく
 
    子規忌歌會 【九月十七日於田端大龍寺】
 
 秋づきし庭のおもてにさす光こころしづけし苔も落葉も
 
    大龍寺即事 二首
 
(89) しづかなる庭に午後の日さしをりて槻の落葉は片よりにけり
 寺なかのともりし白き電燈に蟷螂《かまきり》とべり羽をひろげて
 
    庭前 二首
 
 しぐれこし吾が廢園《あれその》の帚《ははき》ぐさ赤らみにけりかたむきながら
 むらがりて庭に衰ふるあら草にさ霧は白しいで立ちみれば
 
    赤彦忌 【十月十六日豐平村】 寄稿
 
 みまかりし友を偲びにゆかんころ信濃の山は色づきぬべし
 
    上林温泉歌會 一首
 
(90) 秋さむくなりまさりつつ旅を來て北信濃路に鯉こくを食ふ
 
    悼芥川氏一首
 
 むしあつくふけわたりたるさ夜なかのねむりにつぎし死《しに》をおもはむ
 
    永平寺吟
 
     アララギ第四囘安居會
 
 大き聖いましし山ゆながれくる水ゆたかにて心たぬしも
 海をわたりて聖が負ひし笈見れば尊くもあるかあはれ尊《たふと》し
 もろともにここに明暮るる大衆の淋汗の日にわれもこもれり
(91) あしびきの山のはざまに白雲《しらくも》のうごくがごとく人は住みけり
 朝よひにおしいただきて食《は》む飯《いひ》は鱗《うろくづ》の香《か》ぞなかりけるかな
 
    大佛寺途上
 
 ひんがしにむかひいくたびか踏みわたる谷川の香は親しくもあるか
 ひるながら人のおとせぬ山なかに入りて來にけり百鳥《ももどり》ぞ啼く
 うつせみの苦しみ歎くこころさへはやあはあはし山のみ寺に
 谷間《たにあひ》はいまだ源に遠からし山みづの音《おと》のこもるを聞けば
 葛の花ここにも咲きて人里のものの戀《こほ》しき心おこらず
(92) 夏山のみちをうづめてしげりける車前草ぞ踏む心たらひて
 
    玲瓏巖
 
 いにしへの望はこひし山中のここに明暮れしことぞこひしき
 大き聖この山なかの岩にゐて腹へりしときに下《お》りゆきけむか
 谷に生ふる高杉の秀のゆらぎをぞかく目《ま》ぢかくに見るは樂しき
 谷川の音たえまなきあかつきにいにしへびとぞここに居りける
 蟻地獄砂にこもりてゐるを見つかりそめのごと見てか過ぎなむ
 この巖《いは》より滲《し》みいづる水かすかにて苔の雫となりがてなくに
(93) 杉の秀《ほ》のうごくを見つついにしへの聖《ひじり》のあとに吾ぞ居りける
 きぞの夜にねむり足らはず覺めしかばこの岩のはざまにまどろみにけり
 志比川《しびがは》の谷の入《いり》さへ白雪のふりつむころに道絶えぬべし
 冬ふかみ志比谷川の奥谷に夜半はしづかに雪つもるべし
 
    門外・歸途
 
 ほのぐらき承陽殿《じようやうでん》のあかつきに石のたたみに額《ぬか》を伏したり
 晝すぎし龍門外にわれは來て氷水をばむさぼりて飲む
 山なかの畑を見ればきなくさき煙《けむり》を立てて燃えをるものよ
(94) おくつきを清めに行くと脚絆をはきし少女《をとめ》の尼を見ればまがなし
 門外の極樂橋のほとりにて少女の尼と今か別れむ
 
    永平寺漫吟補遺
 
 あかつきの光はつかに差しそめし木立が梢《うれ》に夜《よ》の鳥ぞ啼く
 夏ふけし山のみ寺の杉むらに朝雨《あささめ》ふるを見て立つわれは
 志比川の谷を入り來てうらやすし杉生《すぎふ》のなかの落葉を見れば
 ながれあふ谷間のみづはあるときにしぶきをあげて此處にあふれぬ
 しづかなるこの谷合に青々と稻田いくつかあるも親しき
(95) 道のべにどくだみの花かすかにて咲きゐることをわれは忘れず
 山がひの畑にひとりの女子《をみなご》は布《ぬの》を燃《もや》しぬ蟆子《ぶと》の來《こ》ぬがに
 
    十國峠
 
 ひがしかせ吹きしくなべにここよりぞ天城の山はおほにくもれる
 小鴉は茅がやすれずれに飛び交へり海をぞよろふ峠のうへに
 ひと乘りてけふの朝明《あさけ》に駿河よりのぼり來し馬か山に草はむ
 うちきらひ駿河の海は見えながらここより遠き甲斐が峯《ね》くもる
 音立てて茅がやなびける山のうへに秋の彼岸のひかり差し居り
 
(96)    青山墓地
 
 をさな兒のきほひ遊べるこゑはしてこの墓原も野分すぎにし
 こまかき蚊むらがりくれば我足の靴下のうへより刺せりその蚊はや
 百日紅《ひやくじつこう》さきのこりけるをあはれみて墓のあひだをもとほりにけり
 ならび立つ墓石のひまにマリガレツといふ少女《をとめ》の墓も心ひきたり
 雨はれて秋の日のさす墓原を今しよこぎり行きし靴おと
 しばしだに墓原くれば遊びありくひとの如くに心なごめる
 戰に果てにしチエツコスロワキアの兵士の墓も見て過ぎむとす
(97) かりがねの來鳴かむころをわれひとり墓地の草生《くさふ》に疲れつつ居り
 
    信濃行 其一
 
 くらがりをいでたる谷の細川は日向のところを流れ居りにき
 遠山は雪ふれるときつゆじもに濡れしもろ草わけつつぞゆく
 あたらしき馬糞《まぐそ》がありて朝けより日のくるるまで踏むものもなし はざまより空にひびかふ日すがらにわれは寂しゑ鳴澤のおと
 こがらしのしきりてぞ吹く晝つかた黒姫山にただに對へり
 うちひさす都をいでて山川のさやけき國をわれ行かむとす
(98) 湯のいづるはざまの家にふりさけし五つの山は皆晴れにけり
 いろづきて夕日に映ゆる山もとの湯いづる里にわれは近づく
 
    信濃行 其二
 
 稻を扱く器械の音はやむひまの無くぞ聞こゆる丘のかげより
 ひたひより汗はにじみてしばしだに山を歩むはたのしかりけれ
 山ふかき杉生のなかにおちたまる杉の落葉はいまだひろはず
 晝しぐれの音も寂しきことありて日ましに山は赤くなるべし
 山がひの空つたふ日よあるときは杉の根方まで光さしきぬ
(99) とどろける谿のみなかみにあはれなる砂川《すなかは》みむと常におもはず
 谷あひの杉むら照らす秋の日はかの川しもに落ちゆくらむか
 奥谷の川原の砂に香にたちてあらき山みづ湧くところあり
 
    信濃行 其三
 
 たどりこしこの奥谷《おくだに》に家ありて賣れる粽《ちまき》はまだあたたかし
 わが友は語りつつゆくトロツコにて二匹の牛の死にけることを
 湯の宿に一夜ねむりし朝めざめまたたびの實の鹽漬を食ふ
 三年《みとせ》まへ秋ぐちにして洪水のあらしし川原よこぎりにけり
(100) たぎりつつ湧きいづる湯にしの竹の青々とせしを束《つか》ねしづめぬ
 湯田中の川原に立てば北側ははつかに白し妙高の山
 石原の湧きいでし湯に鯉飼へり小さき鯉はここに育たむ
 ひとむきに泳げる鯉はわきいでしなまぬるき湯に育ちけるかも
 
    天龍川 其一
 
     昭和二年晩秋講演をへてのち天龍峽にあそぶ
 
 ぬばたまの夜《よ》のあけがたの霜ぐもる國の平《たひら》は川の音《と》ぞする
 信濃路や天のなか川に立つ波の寒きひびきを間近くに聞く
(101) 峽《かひ》すぎて見えわたりたる石原に川風さむし日は照れれども
 きのふまで時雨の雨のふりしとふ天龍川を漕ぎくだりゆく
 冬日てれる天龍川の川舟にしまらく吾の言ぞたえたる
 信濃なる天龍川のたぎちゆく寒きひびきの常ならなくに
 あしびきの山峽《やまがひ》ひくく流るるときしぶきをあげて川波立てり
 
    天龍川 其二
 
 きはまりて晴れわたりたる冬の日の天龍川にたてる白波
 雨はれて寒きかぜ吹く山がはの常なき瀬々の音《おと》ぞきこゆる
(102) 山がひの天のなか川漕ぎくだりて川瀬をひろみ波たちわたる
 天龍川の中つ瀬にして浪だてりしぶきはかかるわが額《ひたひ》まで
 ひた晴れに澄みきはまれる冬空やきのふまでこそ時雨ふりしか
 奥やまの秀《ほ》には眞白く雪ふりて駒が根つづきのひまに見えそむ
 天龍をこぎくだりゆく舟ありて淀ゆきしかば水の香ぞする
 おのづからなりのまにまにとどろきて奇《く》しき山水《うあまみづ》やうまし山がは
 南《みんなみ》へながるる川を漕ぎ來つる舟は走れりたぎつ瀬ごとに
 ゆふがれひ食ひつつ居れば川波の寒きひびきはここに聞こゆる
(103) 天龍のいく激つ瀬をくだり來て泡だつみづを見れど飽かずも
 
    妙高温泉 其一
 
 さむざむと時雨は晴れて妙高の裾野をとほく紅葉うつろふ 土屋文明君同行
 起伏《おきふし》は北へのびつつわたつみの海よりおこる山ひとつ見ず
 道草《みちぐさ》のうごくを見れば妙高の山をおろしてこがらし吹きぬ
 もみぢばもうつろふころか山ひだに屯せる雲うごきそめつつ
 北空のけむりのごとき涯《はたて》まで越後の國に山は起伏《おきふ》す
 
    妙高温泉 其二
 
(104) ゆき降れる襞も見えつつ今しまし山のうつろに雲うごくらし
 妙高の裾野のなだり音ぞして木枯のかぜひくく過ぎつも
 まぢかくに直《ただ》にいむかふ黒姫や山は樂《たぬ》しと言はざらめやも しぐれの雨あさまだきより晴れをりて北國街道《ほくこくかいだう》ふくかぜ寒し
 むらぎもの心しづけし雲はれて入日にかげる黒姫山は
 しぐれ降るころとぞ日和さだめなき越後の山に一夜ねにけり
 朴の葉の青きを見れば心あやし紅葉すがれし山なかにして
 鹽づけにしたる茸を友として食へばあしびきの山の香ぞする
 
(105)    晩秋
 
 かたばみの青々とせし葉をぞ見る廢れし園に霜ふりしかど
 うらがれて白くなりたる古草に新草まじり生ふるさへ見む
 郊外の家の庭には唐辛子をむしろのうへにもり上げて干す
 けふ一日つめたき雨は群立ちてすがれそめにし雜草《あらくさ》に降る
 ちちの葉の黄にみだりつつ散りぬるを心にとめむ人さへもなし
 業をへし勞働者《はたらきびと》の入りてゆく日比谷の園にしぐれふる見ゆ
 今ふりし時雨とおもふにさむざむとアスフアルト道の泥をながせり
(106) 一人してしばしあゆまむ公園に時雨は降りぬ橡の落葉ふかく
 
    業餘の吟
 
 庭隈の苔をぬらして朝《あした》よりしぐれの雨は降りにけるかも
 亡き友のなきを悲しみ信濃路のみ寺のなかに一日《ひとひ》こもりぬ
 かりがねは夕空たかく飛び行けりいづらの里に落つるにやあらむ
 秋萩のうつろふ見ればこの庭のなべての草に照る月もがも
 しみじみと見しは幾年ぶりならむむらがり匂ふ菊のとりどり 菊花大會三首
 白菊のもりあがりたる花瓣《はなびら》は心しづかに見るべかりけり
(107) くれなゐに群がり咲ける小花《こはな》さへ菊はかなしきものとぞおもふ
 老にむかふ命かすかに生くれども何におそれて明暮れにけむ
 月讀のいまだ出でざる宵闇にわれの立ちにし庭のうへのつゆ
 つらなめて空にひびける飛行機は向《むき》をかへしと思ひつつ居り
 木曾やまに啼きけむ鳥をこのあしたあぶりてぞ食ふ命延ぶがに
 いとまなき吾なりながら冬ふけし信濃の國の河さかのぼる
 朝あけし厠のなかにゐておもふけふのゆふべは何を食はむか
 みすずかる信濃の友のたまはりし紙に澁ぬりぬ日向《ひなた》にいでて
108) わが庭のいまだ枯れざる小草《をぐさ》にはつゆじもしげし空晴れしかば
 血すぢひきし人の世事《よごと》に苦しめる備後のくにの友をぞおもふ
 
    この日頃
 
 けならべてあわただしくも暮れゆけど心さびしき事ありにけれ
 ゆふぐれし机のまへにひとり居りて鰻を食ふは樂しかりけり
 いちはやくうらがれそめし草なかにけふも日もすがら小鳥のこゑす
 つゆじもはしとしととしてしげけれど日毎にし見むわれならなくに
 うらがれて白くなりたる草叢にかくろふ鳥は心やすきか
(109) 北窓に目張をしつつこの冬を心しづかに我ありぬべし
 ももくさにけふのあさけのつゆじもは時雨の雨のふれるがごとし
 北びさし音するばかり吹くかぜの寒きゆふべにわれ黙《もだ》しをり
 
    雜歌
 
     長塚節忌歌會(二月二十七日)
             ,
 きさらぎに降りたる斑雪《はだれ》すでによごれ消《け》のこる見れば君し偲ばゆ
 
     うららか(雜誌キング四月號のために)
 
(110) 低山の雪は滑えつつ日もすがらかぎろひの立つ國を吾れゆく
 雪げ水谿にみなぎりとどろけるみちのく山にうぐひす啼くも
 さわらびの萌えいづる野にわれひとりけふも來にけり鎌をもちつつ
 
     四月土岐善麿ぬしの洋行を祝して
 
 われかつて心をこめて見入りけむドナウの河を君も見るべし
 
     子現忌歌會(九月十七日〕
 
 常臥《とこぶし》の痛し痛しと苦しみて泣きたる人は竹の里人
 
(111) 昭和三年
 
    折に觸れつつ
 
 一月の二日のゆふべ物戀《ものこほ》しき心をもちて出でて來にけり
 けさ搖りし地震《なゐ》のみなもとは金華山のひむがし南の沖にありとふ
 つかれつつ寢《ね》ざむるものか寒にいりてなまあたたかき夜にものの音《と》もなし
 よるふけし街の十字にしたたかに吐きたるものの氷りけるかも
 墓地の木にすくふ鴉かむらがりて我がいへの※[奚+隹]《かけ》おそふことあり
(112) 自動車のわだちが附きて日もすがらこほれる泥は五日あまり經ぬ
 うつし身は現身《うつしみ》ゆゑになげきつとおもふゆふべに降る寒《かん》のあめ
 あわただしく起臥すわれに蕗の薹くふべくなりぬ小さけれども
 雪のうへに二月なかばに降る雨のしき降るときに心いらだたし
 はやりかぜ癒えかかりつつ冬の夜の冴えたる月の光をぞ見し
 一夜《ひとよ》あけばものぐるひらの疥癬に藥のあぶらわれは塗るべし
 
    近時
 
 釜山《ふざん》なるひとりの友を夢《いめ》に見つ夜《よる》ふけてよりねむりたりしに
(113) わが庭に來ゐる鴉のくちはしに綿をくはへて飛べるは寂し
 をさなごは「なるほど」といふ言おぼえて朝な夕なにしきりに使ふ
 うるはしき女《をみな》なりしと菊きしかど相見むこともなかりけるかな
 うちかへす古綿《ふるわた》を日にほしけるに鴉ふたつがおり立つあはれ
 
    淺草をりをり
 
 觀音の高きいらかの北がはは雪ははつかに消え殘りけり
 人だかりのなかにまじはりうつせみの命のゆゑの説法を聽く
 淺草のきさらぎ寒きゆふまぐれ石燈籠にねむる※[奚+隹]《とり》あり
(114) 川蒸氣久しぶりなるおもひにてあぶらの浮ける水を見て居り
 みちのくより稀々《まれまれ》に來るわが友と觀音堂に雨やどりせり
 
    この日ごろ
 
 けならべて體の無理をとほせりとおもひて夜半にかへり來にけり
 哀草果てのおもてほてりてみちのくの農村のことを吾に語りぬ
 この日ごろはやれる天然疱瘡は支郵の國よりわたり來りき
 あづさゆみ春ふけがたになりぬればみじかき蕨朝な朝な食ふ
 日曜の朝寢《あさい》をすれば節々は痛むがごとし疲れけるらし
 
(115)    折に觸れて
 
 難破船《なんぱせん》より救はれたりし人なかにミングといへる犬が居りたり
 きさらぎはそこはかとなく過ぎ行けりわが北窓のべに砂たまりつつ
 現身のわれ死ぬるとき氣味よしとおもはむ人は幾たり居《ゐ》むか
 
 わがいのち絶えゆくことを喜ばむ人のこころは sadisme《サヂスム》に似む みちのくを我はおもへりこの夜ごろ雪ふりつもる山がはのべを
 
    青根
 
 岩代にむかへる山の起伏は青々として此處よはるけし
(116) しげやまのうへにまぢかく見えてをる藏王の山は雷なりわたる
 春ふけて最上だひらの女《をみな》らもここの温泉《いでゆ》にうたをうたへり
 消《け》のこりし雪のはだれはみちのくの藏王の山にけふも見るべし
 雪きゆる藏王谿よりながれ來て川遠じろし見おろしにけり
 
    C病棟
 
 郊外の病院に來て夜《よる》ふけぬ田ゐの蛙《かはづ》のこゑ減りにけり
 水に住むこまかき蟲は病棟のたかき燈《あかり》にしばし群れける
 おしなべてつひに貧しく生きたりしものぐるひ等はここに起臥《おきふ》す
(117) むらぎもの心ぐるひしひと守りてありのまにまにこの世は經《ふ》べし
 さみだれの暗く降りしくきのふけふ心はりつめて事にしたがふ
 
    業餘小吟
 
 かすかなる燈《あかり》とぼりて飛行機は梅雨《ばいう》の晴れし夜空に飛べり
 現世を憤るとにはあらねどもこの日ごろわれ夜半《よは》に眠らず
 みすずかる信濃のくにの山がひに聲さやさやし飛ぶほととぎす
 時のまの心あやしもむくむくと疊うごきて地震《なゐ》しづまりぬ
 漸くに老いづく吾やあるはずみにアルプの山を思ふことあり
(118) 五月雨の雨の晴れたる夕まぐれうなぎを食ひに街にいで來し
 はりつめし吾の心を歌よみにうつつ拔かすと人なおもひそ
 ゆふぐれの光に鰻の飯《いひ》はみて病院のことしばしおもへる
 
    仙臺
 
 みちのくに來しとおもへば樂《たぬ》しかりこよひしづかに吾はねむらむ 阿部次郎教授宅
 さ夜ふけと更けわたるころ海草のうかべる風呂にあたたまりけり
 朝がれひ君とむかひてみちのくの山の蕨を食へばたのしも
 わがこころ和ぎつつゐたり川の瀬の音たえまなき君が家居《いへゐ》に
(119) いとまなき吾なりしかどみちのくの仙臺に來て友にあへるはや
 
    三山參拜の歌
 
     昭和三年七月二十八日午後九時三十分上野驛をいで立つ。二十九日朝上山驛にて高橋四郎兵衛、同重男と落合ひ同車しつ。羽前高松驛下車。高松より海味《かいしう》を經て、午前十時五十分本堂寺著。此間一部乘合自動車。それより徒歩にて午後四時志津著、投宿。本堂寺も志津も、明治二十九年(予十五歳〕、父に連れられて宿りし處なるが、今は參拜者も少く、なべて境界ひそかなり
 
    志津 七月二十九日
 
 月山にはだらに雪の殘れるを三人《みたり》ふりさけ心|樂《たの》しも
 黒々としてつづきたる森の上に月山の膚《はだへ》斑《ふ》に見えそめつ
(120) 夕がれひの皿にのりたる木布《きふ》海苔は山がはの香をわれに食はしむ
 死のごとしづまりかへる沼ありてゆふぐれ空《ぞら》に啼くほととぎす
 ゆふぐれてわれに寄りくるかすかなる蟆子を殺しつ山の沼《ぬ》のべに
 暮れきらぬこの谿中にとどろきて巖をくだく音ぞきこゆる
 山がひの夏のゆふべに立つ風に青くさやけき草々なびく
 夕闇はほのあかりつつ山のうへにあはあはと大き月いでにけり
 腰すでにまがりし父とこの里にひと夜宿りしことしおもほゆ
 羊齒の葉のむらがり生ふる小澤《をさは》にも下り來りて心は親し
(121) にぎり飯《いひ》を持てこし見ればほほの葉に包まれながらにほふひととき
 
    湯殿山 七月三十日
 
 朝くらく志津を立ちいで道いそぐ川を渡ればしぶきに濡れつ
 大井|澤《ざは》わたらむとして岩魚釣りその歸り路《ぢ》の山びとに逢ふ
 鳴澤の音聞きながらあまつ日の未だのぼらぬ石ふみわたる
 神山にさしかかりつつ谷川のうへ吹く風に汗ひえむとす
 湯殿山一の木戸なる藥湯のあつきを飲みていろいろ話す
 湧いづる谷まの水に水芭蕉ひいづにひいづゆゆしきまでに
(122) 一の木戸の笹の家《や》に焚火しつつ居り夏の最中もわが膚寒く
 水芭蕉生ふるを見れば人いまだ無かりしころの草木おもほゆ
 雪谿《ゆきだに》の雪のさかひに山草《やまくさ》はやうやく萌ゆるその芽|愛《かな》しも
 夏ふけしここに萌えでし小草《をぐさ》らに間もなく雪は降りつもるべし
 ほうほうとけむりだちつつ目交《まなかひ》に氷の谿はいまだ續けり
 ゎれ等ゆく道の向ひの雪谿に罅《ひび》入りて居り恐ろしく見ゆ
 山道は仙人|嶽《たけ》に差し懸り牛の舌といふ草など茂る
 ここにしてわが立つ湯殿の山谷《やまだに》は朝日が嶽の谷とむかへり
(123) 三人していこへる山のいただきに吹く風強しなびく山草《やまくさ》
 雪谿をわたりつつ居り底に鳴る音をし聞けば雪解の音ぞ
 むらぎもの心畏れずこごしこごし湯殿の谿を黙《もだ》してくだる
 わが父も母もなかりし頃よりぞ湯殿のやまに湯は湧きたまふ
 谷ぞこに湧きいづる湯に神いまし吾の一世《ひとよ》も神のまにまに
 鐵《かね》いろに赭《あか》く湧きづる御湯《みゆ》にしてくすしく尊《たふと》この谷のそこ
 梵字川とどろき落つる岸に立ちわれを育みし父母しぬばゆ
 額伏してわが居たりける山谷にみ湯のとどろく音ぞきこゆる
(124) この吾を護り給はなあはれあはれ父母のためをさなごのため
 
     月山 七月三十日
 
 高山《たかやま》をのぼりてゆけば山の上ににほふ草ありかなしとおもふ
 月山の山のなだりに雪げむり日ねもす立ちてそのいつくしさ
 谷々を見おろしながら行けれども月讀《つきよみ》のやまいまだ遠しも
 あまつ日はひととき見えてしかすがに白々《しろじろ》として笠をかかむる さ霧たつ月讀の山のいただきに神ををろがむ草鞋をぬぎて
 吹く風はさ霧をおくり行きがたし眼鏡はづして走りてくだる
(125) ひさかたのさ霧に濡れてひたぶるに月山の道くだりくだりぬ
 岩道のこごしき道をくだらむと遠山河も見ることもなし
 月山をくだりくだればやうやくにさ霧の雨に逢ふこともなし
 笹小屋にひととき入りていこふなべ笹竹《ささだけ》の子の長きを食ひぬ
 味噌汁に笹竹の子を入れたるをあな珍らあな難有と云ひつつ居たり
 小屋の外《と》はまだ強き風ふきやまず身ぶるひをする現身《うつせみ》三人《みたり》
 道すがら宿らむとして幾たびか笹小屋のぞきつひに宿らず
 ひたぶるにくだりくだりて羽黒山森は見ゆれど遠くもあるか
(126) あるところに高山の草養へる園がありたり臥して見入りつ
 月山のいただきにこよひ寢ねたらば好かりしならむと吾等おもはず
 なぜならば振返り見る月山のいただきに雲の亂れてをれば
 一合め一合めと吾ら下りつつなほもはるけし羽黒の山は
 眼《まな》したに羽黒の森は見えぬれど行著きがたし共に疲れぬ
 峠にてほとほと渡れ心太《ところてん》ふたりは食ひぬ腹ふくるるに
 ゆふ闇におびただしき蚊のいで來るを怪しみながら羽黒にむかふ
 懷中燈にて道照らしつつ行きゆくに大き月いで羽黒を照らす
(127) 羽黒やま手向のむらの入口《いりくち》に動けぬまでに疲れはてつる
 
    羽黒 七月三十一日
 
 やどりたる隣りの部屋に教員と役人とふたりなかなか寢ねず
 朝まだきに眼ざめしかどもわが足の痛みのまにま立ちても行かず
 朝がれひ旨らに食へど足いたし諸足《もろあし》いたしかがみがたしも
 しづかなる羽黒の山や杉のまの石の階《きざはし》を匍ひつつのぼる
 神います羽黒の山にのぼり來てわが身は清《すが》し汗をさまりぬ
 年ふりし杉の木立の木下《こした》やみ家いでてより吾は遙けし
(128) やうやくに年老いむとして吾は來ぬ湯殿やま羽黒やま月讀のやま
 みちのくの出羽《いでは》のくにに三山《みつやま》はふるさとの山|戀《こほ》しくもあるか
 
    歸路 七月三十一日
 
 最上川|水嵩《みかさ》まされどしかすがに山がはのごとおもほゆるかも
 心|和《のど》にのびのびとして見はるかす鳥海山は晴れ月山くもる
 東風ふきつのりつつ今日|一日《ひとひ》最上川に白き逆浪たつも
 海にちかづく最上とふし思ほえどいまだ鋭き流《ながれ》たもてり
 新庄に汽車とまるまもなつかしき此國びとのおほどかのこゑ
 
(129)    出羽三山
 
 みちのくの湯殿の山に八月のこほれる谿をわたりつつゆく
 常ならぬものにもあるか月山のうへにけむりをあげて雪とくる見ゆ
 わが父がわれを導きこの山にのぼりしころは腰まがり居き
 をさなくてここに來りしこともへばわれの命も年ふりにけり
 ぅつせみの願をもてば息づきて山の谿底に下《お》りきたりける
 
     最上平野を過ぐ
 
(130) ひむがしの藏王を越ゆる疾きかぜは昨日も今日も斷ゆることなし
 
    草むら
 
 七月のつよき光のさしそめし草むらなかに革刈らむとす
 夜半すぎに起きてをさなごの遊ぶこゑ何か足らへるこゑの聞こゆる
 ひとりして机のまへにゐるときもわが體よりあぶら汗いづ
 さすたけの君がなさけは信濃路の高山の蕨けふぞ持てこし
 秋になりし濠《ほり》に何千といふ魚族《うろくづ》しろく浮きあがりけり
 飛行機のうへよりとりし山脈《やまなみ》の寫眞は寂しけふも我が見つ
(131) 家に飼ふ小鳥いくつもまぢかくの墓地の林に住みて居りとふ
 絶間なきものの響やわれひとり野分だつ庭にいで來りける
 飛行機のうへより見ゆる佐渡が島のその寫眞をも吾は愛せり
 夜もすがらたまゆらも眠りがたしとて吾にむかへる勞働人《はたらきびと》ひとり
 馬場先の青々とせし濠のみづ鵜の來てくぐることぞさびしき
 
    歌會
 
     長塚節忌 【二月十一日於松秀寺】
 
 身まかりし君の年よりも十あまり吾の齢《よはひ》は多くなりたり
 
(132)     島木赤彦忌 【三月二十五日於松秀寺】
 
 木《こ》の芽だつ春のゆふべとなりぬれば心しづかにわれひとり居らな
 
     仙臺アララギ歌會 【五月十九日於木町通蝶花堂】
 
 旅を來し一人ごころに松島の瑞巖寺にて砂の道踏む
 
     正岡子規二十七囘忌歌會 【九月三十日於田端大龍寺】
 
 うつせみは寂しきゆゑにたづさはり君にすがらむ世にし亡《な》しとも
 
    折々の歌
 
 あかつきに小芋を入れて煮る汁の府中の味噌は君がたまもの
(133) もの冷ゆるころとはなりて朝々の薄明より鳥は群れ立つ
 独逸書のこまかき文字は夜ふけて見む競《きほひ》なし老いそめにけり
 たちまちにいきどほりたる穉兒《をさなご》の投げし茶碗は疊を飛びぬ
 いのちせまりて子規の書きける俳諧をけふ三越に吾も來て見つ
 人だかりの後ろよりわれのびあがり正岡子規が遺物見にけり
 たまたまは頭《かしら》いためど直ぐ癒えて身に病なく起臥すわれは
 秋日さす都會の道にわれおもふ一国のことは豈たはやすからず
 わが庭の草をなびけて暑ぐるしく野分の風は日ねもす吹きぬ
(134) 夕飯《ゆふいひ》に鰻も食へどゆとりなき一日一日《ひとひひとひ》は暮れゆきにけり
 心こめし西洋の學の系統もすでにもの憂し秋の夜ごろは
 つらなめて目のまへを行く群集の心おごりをわれ旁看《ばうかん》す
 をととしの秋にととのへし齒なりしが石かみしより痛むあはれさ
 毬《いが》ながらけふおくりこし吉備の栗秋ふけゆかむ山しぬべとぞ
 
    奉祝
 
 アララギはかすかなりとも言《こと》あげて新大君《にひおほきみ》につかへまつらく
 もろともに生《あ》れこしわれ等あらた代の大君のへに空しくいきじ
 
(135)    冬
 
 飛行機の飛ばざるこよひつれだちて雁《がん》のゆくこそ寂しかりけれ
 いらだたしき電話の鈴《りん》のひびき來《こ》ぬ夜半のひととき心たのしむ
 利根川を幾むらがりにのぼりくる鰻の子をぞともに養ふ
 とし二つになれるをさなご著《き》ぶくれてわがゐる前を幾度にても走る
 よき人といやしき人の闘ひを吾は見にけりめづらしからず
 櫻田門われいでくれば御濠《みほり》なる青きさざなみは限しらえず
 ぬばたまのこの一夜《ひとよ》だに病院のことを忘れて山にねむらな
(136) 郊外の病院に來て一夜《ひとよ》寢ぬなべての土の冷えわたるころ
 
    籠喪
 
     十一月十七日、父紀一身まかりたまふ、行年六十八歳、法號專修院紀阿一道清居士、淺草柴崎町日輪寺に葬る
 
 わが父を永久《とは》におくりてみだれたる心しづめむ宵のひととき
 しづかなる死《しに》にもあるかいそがしき劇しき一代《ひとよ》おもひいづるに
 かぞふれば明治二十九年われ十五歳父三十六歳父斯く若し
 休みなき一代のさまを謔《たはむ》れに勞働蟻《らうどうあり》といひしおもほゆ
 身みづからこの學のため西方《さいほう》の國に渡り二たび渡りき
(137) 働きて一代を過ぎしわが父をひたにぞおもふ一家《うから》寄りつつ
 今ゆのち子らも孫も元祖 Begrunder と稱へ行かなむ
 しかすがに子孫のために買はざるは美田のみと豈おもはめや
 おもひ出づる三十年の建設が一夜《ひとよ》に燃えてただ虚しかり
 目の當り目の當りと年を經たるからほのぼのとせる悲しみもなし
 
    雜歌
 
     兩角喜重氏南米移民状態視察のため文部省より派遣、一首はなむけす 五月十七日
 
 みすずかる信濃のをのこすごやかにアマゾン河に小便して來《こ》
 
(138)    海外の同胞に (雜誌植民のため)
 
 海外にわれ居りしこともありしゆゑ無理したまふなとぞ書きて送らむ
 
    秩父宮御成婚を祝ぎたてまつる 九月廿八日 (東京朝日新聞)
 
 國こぞりよろこぶけふを吾と妻も一つごころに祝《ほ》ぎたてまつる
 
     大嘗祭 十一月十四日 (東京日日新聞)
 
 悠紀主基の田ゐのみのりをあまてらすすめ大神ときこしをします
 祭りますみ庭のかがりいろ澄みて神代ながらの夜は明けむとす
 
     〇
 
(139) 備後より都にのぼり來し友ともしみじみ話すいとまさへなし
 
    御大典奉祝歌
 
     奉祝歌 其一(青年)
 
 あまてらし豐榮《とよさか》のぼる朝日子の光のごとしわが大君は
 ひんがしの日の本つくに統べたまふわが大君はかしこきろかも
 高御座のぼらせたまふ我大君を世界こぞりてことほぐらしき
 高山の木々のことごと大海の浪のことごと大君を祝ぐ
 陸《くぬが》より砲《つつ》のとどろきわたつみに砲のとどろき祝ぎのとどろき
 
(140)    奉祝歌 其二 (東京日日新聞)
 
 あまつ日繼しろしめすとぞあきつ神《がみ》わが大君をあふぎまつらむ
 高御座高しりたまふ大君はとよさかのぼる光のごとし
 ぁまてらすけふの生日《いくひ》に御たからのやまとだましひに障《さやり》あらすな
 
    奉祝歌 其三 (報知新聞)
 
 十一月の十日のいく日|國土《くにつち》をゆるがしたてるよろこびのこゑ
 あかねさす日のもとつ國の大君を世はこぞりつつことほぎ讃ふ
 わが守る勤務《つとめ》しあれば家ごもり時の間さへやことほぎにける
(141) 國民《くにたみ》のよろこぶこゑは陸《くぬが》よりわたつ海より天つ空より
 菊の花咲きのさかりを御民らは園に集ひてことほぎやまず
 
    奉祝歌 其四 (令女界)
 
 あらたしき國の興を統べたまふわが大王は神にしいます
 おほきみは神にしませば新しき力をつねに創造《つく》らせたまふ
 いやしかる御民のわれも酒のみて大臣《おとど》のごとく祝《ほ》がざらめやも
 北のみ民みなみのみ民けふの生日《いくひ》けふの足日を祝《ほ》ぎたてまつる
 高御座のぼらせたまふ吾大王あふぎまつれば尊くもあるか
(142) ことさへぐ西くにぶりのともがらもほぎたてまつるけふのいく日に
 國こぞりひとつごころにことほぐやみ空ゆるがしこゑこそひびけ
 をとこをみな老も若きもをさなごも一つごころにほぎまつるなり
 たかみくらけふはのぼらすわご大君いよよ新しき國統べたまふ
 
    奉祝歌 其五 (同仁)
 
 大いなる白菊の在ひむがしの聖王《ひじり》のくにの白菊のはな
 新世《あらたよ》をしろしめし給ふ大王《おほきみ》のみまへににほふ菊のたまはな
 九重の御園生にしてあな尊と黄菊白菊咲きみてりけり
 
(143) 後記
 
       〇
 「ともしび」は「遍歴」に次ぐ私の第六歌集であつて、大正十四年歸朝した時から、昭和元年(大正十五年)、昭和二年、昭和三年に至る四年間の作九〇七首を收録した。私の四十四歳、四十五感、四十六蔵、四十七歳の時に當つてゐる。
 私は大正十三年十二月二十八日の火難にあひ、青山の家に歸つて來た時には未だ餘燼が立つてゐた。以來私は艱難の生活をしたが、昭和元年、府下松原村に病院を復興し、昭和二年五月から青山腦病院長になつた。私は病院の復興に精根をつくしたけれども、辛うじて作歌をつづけることが出來、生活の足しに雜文をも草し、安居會にも出席し、講演にも出かけた。さうしてその間、大正十五年三月廿七日島木赤彦氏が歿し、昭和三年十一月十七日養父紀一が歿した。
 赤彦氏歿後、岡麓・中村憲吉・土屋文明の諸氏と共にアララギ發行に骨折つた。作歌は本業に力を致したがために、飛躍は無かつたが、西洋で作つたもののやうな、日記の域から脱することが出來た。
(144)       〇
  燒あとにわれは立ちたり日は暮れていのりも絶えし空しさのはて
  ゆふぐれはものの音《と》もなし燒けはててくろぐろと横たはるむなしさ  かへりこし家にあかつきのちやぶ臺に火焔《ほのほ》の香する澤庵を食《は》む
  家いでてわれは來しとき澁谷川《しぶやがは》に卵のからがながれ居にけり
  うつしみの吾がなかにあるくるしみは白ひげとなりてあらはるるなり
       ×
  ひとりこもれば何ごとにもあきらめて胡座をかけり夜《よる》ふけにつつ  娑婆苦より彼岸をねがふうつしみは山のなかにも居りにけむもの
  かりがねは遠くの空を鳴きゆけり夜ふけし家にかなしむときに
 火難後艱難の生活をしたときに、かういふ歌をも作つたのであつた.その當時のいはゆる破調の歌なども交じつて居るし、『火焔の香する澤庵』の歌などは、苦しいなかにかういふ客觀約表現をも敢てしたのであつた。澁谷川に流れる卵の殻の歌は古泉千樫も褒めたし、『白ひげとなりてあらはるるなり』の歌は、島木赤彦も褒めてくれたりしたものであつた。併し全體として、『悲しい歌』ばかりである。『娑婆苦より彼岸をねがふ』の歌は、芥川龍之介氏が私に會ふたびごとに、(145)この歌のことを話した。
かなしかる願をもちて人あゆむ黒澤口のみちのほそさよ
  さ夜ふけて慈悲心鳥のこゑ聞けば光にむかふこゑならなくに
 歸京した年に、島木赤彦と共に、木曾に遊んだときに出來た歌の二つである。歐羅巴から歸つて來て、また日本の風光に接したときの感慨がいくらか出て居るのであつた。
  空海のまだ若かりし像を見てわれ去りかねき今のうつつに
  うごきゐし夜《よる》のしら雲の無くなりて高野《たかの》の山に月てりわたる
  いにしへにありし聖《ひじり》は青山を越えゆく彌陀にすがりましけり
  みなみより音たてて來し疾きあめ大門外の砂をながせり
 大正十四年比叡山で第二囘安居會のあつたとき、そのかへりに高野山に遊んで出來た歌の中のものである。
  しづかなる峠をのぼり來しときに月のひかりは八谷をてらす
  しらじらと谿の奥虚《おくど》に砂ありて遊べる鳥は多からなくに
 これも亦その年に出來た。今から見れば、遠い過去の氣持のものであるが、その中には短册などに書いた歌もあるので、近年作つた歌のやうにもおもはれるものがある。
(146)  おのづからゆらぎつつねる紙帳《かみがや》のなかに疲れてものをこそおもへ
  あまつ日の無くなることを悲しみて踊りし神代おもほゆるかも
  むなしき空にくれなゐに立ちのぼる火炎《ほのほ》のごとくわれ生きむとす
  寺なかのともりししろき電燈に蟷螂《かまきり》飛べり羽をひろげて
  かういふ歌をも私は昭和元年、昭和二年あたりに作つた。從來の歌といくらか違つてゐるので人目を牽いたものであつた。又歌中、『紙帳』の文字のあるのは、私が歸朝したのは、寒い時だつたので、信濃の友人が心配して私のためにこの『シチヤウ』を惠んでくれたのであつた。それを私は『カミガヤ』と讀んで歌を作つたのであつた。
  みちのくに雪解のみづのとどろくと告げこし友を我はおもはむ
  われひとり眼《まなこ》みひらく小夜ふけに近くをとほる兵の足おと
  さ夜ふけと春の夜ふけしひもじさに乳のあぶらを麺麭にぬりつつ
  とりよろふ青野《あをぬ》を越えてあゆみつつ神死したりといひし人はも  赤彦はいまごろ痛みふかからむ赤彦をしましねむらせたまへ
 この五首は、「山房の夜中」と題し、大正十五年四月號の改造に載つたものである。この歌集「ともしび」の編輯清書は、ずつと以前(既に昭和四年ごろ)に出來てゐたのであるが、うつか(147)りしてこの五首は脱落してゐた。それを山口茂吉君の厚意で補充することの出來たのは幸福であつた。
  信濃路はあかつきのみち車前草も黄色に
  寒水に幾千といふ鯉の子のひそむを見つつこころなごまむ
  むかうより瀬のしらなみの激ちくる天龍川におりたちにけり
  晝しぐれの音も寂しきことありて日ましに山は赤くなるべし
  石原の湧きいでし湯に鯉飼へり小さき鯉はここに育たむ
  さむざむと時雨は晴れて妙高の裾野をとほく紅葉うつろふ
 私は昭和元年、昭和二年あたり信濃に旅し、また越後妙高山近くに行つて歌を作つた中に、やや特殊なものがあり、當時人の注意をも牽いたので、ここに若干抄して置いた。
  大き聖いましし山ゆながれくる水ゆたかにて心たぬしも
  常ならぬものにもあるか月山のうへにけむりをあげて雪とくる見ゆ
  わが父も母もなかりし頃よりぞ湯殿のやまに湯は湧きたまふ
 一番めの歌は、昭和二年永平寺にてアララギ安居會を開いた時出來た歌で、たびたび短册色紙などに書いたものである。第二第三の歌は昭和三年夏、山形縣三山參拜の時に作つた。一つは、(148)月山の山上の雪解の景で、莊嚴雄大な氣持である。一つは、吾々が祖先以來湯殿山を尊崇した氣持で、『湯はわきたまふ』の表現はそれに本づいてゐる。
  つらなめて目のまへを行く群集の心おごりをわれ旁看す
  心こめし西洋の學の系統もすでにもの憂し秋の夜ごろは
  もの冷ゆるころとはなりて朝々の薄明より鳥は群れ立つ
 昭和三年には、こんな歌をも作つた。必ずしも歌壇と同行しなかつた歌といふことも出來るやうである。
       〇
 この歌集に「ともしび」と命名したのは、艱難暗澹たる生に、辛うじて『ともしび』をとぼして歩くといふやうな暗指でもあつただらうか。
       〇
 本集發行に際し、岩波雄二郎、布川角左衛門、榎本順行、中島義勝諸氏に感謝の意をささげる。
昭和二十四年初秋。齋藤茂吉.
 
   たかはら
 
(151)    日常吟
 
 酒によわくなりたる吾を寂しとぞ思はむ折もなかりけるかな
 朝々にわれの食《たう》ぶる飯《いひ》へりておのづからなる老に入るらし 幻覺のことあげつらふ吾さへや生産などといふ事を云ふ
 はかなごとわれは思へり今までに食ひたきものは大方くひぬ
 近江のうみ堅田《かたた》に群れしかりがねはいつの頃まで居《を》るにやあらむ
(152) きのふより紙帳《しちやう》のなかに幾册か書《ふみ》をかさねて吾は居りけり
 家いでてちまた歩《あり》けば午すぎし三時といふに日はかたむきぬ
 ぬばたまの夜《よる》の川べに屯して寐《ぬ》る鳥ありやその川のべに
 
    一月某日
 
 あたたかき飯《いひ》くふことをたのしみて今しばらくは生きざらめやも
 この通《とほり》に足をとどめて古本《ふるほん》を値切ることさへさびしくぞおもふ
 めぐらしし紙帳のなかに狐らのこもるがごとく心しづまる
 自殺せしものぐるひらの幾人《いくたり》をおもひいだして惡みつつ居り
(153) あまたたびこの寂しさを遣らはむと心きほひしことさへもなし
 
所縁
 
     一月廿九日、仰臥、耳に心臓の鼓動をきく
 
 こぞの年あたりよりわが性欲は淡くなりつつ無くなるらしも
 
    きさらぎ
 
 三越の七階に來れば百鳥《ももとり》のさへづりあへるこゑぞかなしき
 ひとしきり窓よりいづる部屋の塵いきほひづくを我は見てをり
 せまり來て心はさびしすがのねの永き春日《はるび》とひとはいへども
 
(154)    三月十一日終夜風不息
 
 あかつきのしろき光のさしそめし窓目のまへにありてとどろく
 
    五月一日
 
 日比谷より左にをれて忽ちにいきほひづける行列を見つ
 ととのへる街路の上を一萬人の勞働者《はたらきびと》ははしやぎて行けり
    五月十三日、ホトトギス發行所を訪ふ
 
 八階に居りてきけども目下《まなした》の街におもぐるしき音ぞきこゆる
 
    七月十五日の曉
 
(155) 午前四時すでに過ぎたるころほひに寢ぐるしかりし夜《よ》はあけむとす
 あかつきのいまだ暗きに蜩はときのま鳴きてうつりけるらし
 きこえくる銃《つつ》のひびきをあかつきの臥所に居りてあやしまなくに
 かなかなの曉に鳴くこゑ聞けば現世《このよ》のものはあはれなりけり
 
    明治大正短歌史概觀を書く
 
 あたらしき歌のおこれるありさまをしるし置かむと吾はおもひき
 あつき日に家ごもりつつもの書くに文字を忘れていたく苦しむ
 
    十月十九日夜空にはじめて雁を聞く
 
(156) 啼くこゑはあはれならむとおもへども雁《がん》の子をしみじみと見たることなし
 
    歌會
 
     長塚節・山本信一忌 (二月十七日於松秀寺)
 
 この會に集る人も入りかはり立ちかはりつつ年は經ゆかむ
 しづかなるみ寺の庭に植ゑてある龍のひげにも埃つもれり
 
     島木赤彦第四囘忌 (三月十七日於松秀寺)
 
 四年《よとせ》まへ君みまかりしこのかたはアララギの歌亂れたるらむ
 この寺に住む穉兒《をさなご》はたえまなきもののひびきに慣れにけるらし
 
(157)    七月二十日荒川吟行
 
 荒川の水門に來て見ゆるもの聞こゆるものを吾は樂しむ
 
    この日ごろ
 
 六月のすゑになりつつ部屋に來て砂たまりをる紙帳をはづす
 いつごろか机に置きし耳掻に黴ふける見ればあはれかなしき
 いとまなく明暮れしかば一冬をここにこもりしは幾日《いくか》もあらず
 
    をりにふれて
 
 うしろなる立木をこめて淺草の觀音堂は板がこひせり
(158) この世をし愛《かな》しみけれどやうやくに老いづく吾もけむりのごとし
 不思議なることもあるものと吾おもふ目のまへを行く女《をみな》に見おぼえあり
 もろもろに立ちまじはりて居る我は時のまにしていきどほりを斷つ
 章魚の足を煮てひさぎをる店ありて玉の井|町《まち》にこころは和ぎぬ
 氣ぐるひてここに起臥しし老人《おいびと》の癒りて去るを見おくらむとす みなかみの激ちの音もうたがはずひとつの山に老ゆるしづかさ 發妄念
 
    最上川行
 
     昭和四年九月十四日大石田に來りて偶最上川の濁流を見る。ついでに左澤百目木を防ふ
 
(159) 秋に入るみちのく山に雨降れば最上川の水逆まき流る
 大石田《おほいしだ》の橋をわたれば汀までくだりて行きぬ水したしみて
 最上川の岸ひくくして濁りみづ天より來《きた》るごとくぞおもふ
 元禄のいにしへにして旅を來し芭蕉の文字をここにとどむる
 左澤《あてらざは》の百目木《どめき》たぎちて最上川ながるるさまも今日見つるかも
 最上川のさかまくみづを今日は見て心の充つるさ夜ふけにけり
 われいまだ十四歳にて庄内へ旅せし時に一夜《ひとよ》やどりき
 新庄ぶしあはれなるこゑに歌ひたるこよひのことをまた思ひ出《で》む
(160) さ夜なかとなりたるころに目をあきて最上川の波の音をこそ聞け
 
    秋
 
 野分すぎてみだれふしたる草むらに常にゐざりし小鳥おりたつ
 
    病雁
 
 月讀はあかく照れどもはるかなる空をわたらふ雁《かり》もきこえず
 よひよひの露ひえまさるこの原に病雁《やむかり》おちてしばしだに居よ
 みづうみにゆふぎりがくり啼きながら屯《たむろ》する雁《がん》も安からなくに
 
    高萱
 
(161) さ夜なかにねむりより覺めておもふこと何に心の弱きにやあらむ
 しぐれの雨山をめぐりてわが庭に高萱しろく枯れにけるかも
 
    一日
 
 朝明《あさけ》より日のくるるまで一日《ひとひ》だに心しづめて吾は居りたし
 なべて世のひとの老いゆくときのごと吾が口ひげも白くなりたり
 なまぬるく時雨《しぐれ》ふりをる今宵もかみちのく山に雪ふるらしも
 戒名をおぼゆるときも無かりしか父みまかりてより一年《ひととせ》を經ぬ あかあかと月冴えわたり落ちゆくを紙帳をいでて吾は見にけり
 
(162)    飛行機
 
     昭和四年十一月二十八日、立川飛行場より朝日新聞機に便乘したる即吟
 
 飛行機にはじめて乘れば空わたる太陽の心理を少し解《かい》せり
 丹澤の上空にして小便を袋のなかにしたるこの身よ
 雲のなか通過するときいひしらぬこの動搖を秀吉も知らず
 われより幾代か後の子孫ども今日のわが得意をけだし笑はむ
 
    虚空小吟 其一
 
     昭和四年十一月二十八日東京朝日新聞社の厚意により立川より飛行して吟咏を恣にす。便乘するもの土妓善麿・前田夕(163)暮・吉植荘亮の諸氏及び予
 
 コメツト第百二號機はとどろけり北より吹ける風にむかひて
 山なみの起伏し來《きた》るありさまを一瞬《ひととき》に見ておどろきにけり
 くろき海の光をはなつ時のまの寂しきを見つ天《あめ》のなかより
 つづけざまに風《かざ》あれの峰峰やまなだれ深き狹間《はざま》もきはまりて見ゆ
 直ぐ目のしたの山嶽よりせまりくる Chaos《カオス》きびしきさびしさ
 いのち恐れむ豫覺のきざしさへなしむなしき空を飛びつつぞ行く
 まむかうの山間《さんかん》に冷肉《ひやにく》のごとき色の山のなだれはしばらく見えつ
(164) 都會の建設を眞下に看過しきたりて遠きはざまより雲のおこるを見つ
 
     午後零時十七分著陸す
 
 ビステキの肉くひながら飛行士は飛行慘死のことを話す
 きりもみに墜ちて來りし飛行機のときのまのさまも吾等聽きたり
 航空機ひだりひだりとかたよりて飛びける誤差の大いさを聞く
 この身なまなまとなりて慘死せむおそれは遂に識閾のうへにのぼらず
 たとへば隼のごとき鳥の觀像の心理を人も疑はざらむ
 丹澤山にさしかかりし時の氣流の變動におもひあたり居り
(165) 飛行著陸ののち一時間あまりしてはじめて心にきざすものあり
 
    虚空小吟 其二
 
 川口《かはぐち》はあかくにごりて居りたるが海潮《うなじほ》のなかに入りてあとなし
 時のまとおもはざらめや谷こゆる風音《かざおと》きこゆ直ぐ目のしたに
 海上にせまりて盡きし山のありそこを越えつつ人ゆくらしも
 信濃路のみなみの空か幽かなる山のいただきに雪ぞ降りける
 寂かなる冬の光に照らされし國の起伏《おきふし》を直《ただ》ざまに見つ
 天のはら澄める奥處《おくが》にひとつらに氷れる山や見えわたるかも
(166) あしがらは冬さび居れど信濃路の赤石白根に雪ふりにけり
 飛行機のゆれを感する時のまに白雲《しらくも》のなかに虹たちわたる
 丹澤の連山に飛行機のかかるとき天《あめ》のもなかに冬日《ふゆひ》小さし
 北ぞらの越後境とおもほゆる雪ふれる山に日こそ照りけれ
 白くものなかを通りてたちまちに大菩薩澤をひだりに見たり
 うねりたる襞にふかぶかと陰ありて山のじやくまく見れど飽かぬかも
 雪ふりて日にかがやける富士がねはうごくがごとく傾きて見ゆ
 山裏は白雲の凝り見えそめてみづのみなかみ寂しくもあるか
 
(167)    虚空小吟 其三
 
 飛行機のなかに居るゆゑにや暫しだに懺悔《さんげ》横著のこころ無かりき
 赤く小さき五重の塔を眼下に見てこころ宗教|莊嚴《しやうごん》の形式に及ぶ
 西北《にしきた》より發して今しがた銀座の上空を過ぎしはあはれあはれ看忙のためならず
 けふは晴れ透りたる空を飛べどもこの山にとどろく雷震もありぬべし
 谷合をひとときに見て飛行すれば現象の此岸に心かなしむ
 
    虚空小吟 其四
 
 わが額を飛行機の窓に押しつけて鉛直に見おろす海はくろし
(168) 山のまに小さきみづうみ澄みたたふその湖よりいづる川あり
 荒谿《あらだに》の上空を過ぎて心中にうかぶ.es Chaos Tochter sind wir unbestritten.
 黒びかり反射する海潮《かいてう》のうへに群がりて船は米粒のごとし
 あまがけり見おろす谿に斷ゆるときなく百《もも》の泉の湧くをおもはむ
 東京の空を飛行《ひぎやう》してこころ囘歸す地《つち》ふるひし日の焔のみだれ
 電信隊淨水池女子大學刑務所射撃場塹壕赤羽の鐵橋隅田川品川灣
 上空より東京を見れば既にあやしき人工の物質塊“Masse”と謂はむか
 横濱の港にかたまれる腹あかき船舶にしばし視線をあつむ
(169) 山上の孤獨のごとくたたへたるみづうみを一瞬《いちじゆん》に見おろせり
 海南先生に葉書かきしときにあたかも高度一九〇〇米突なりき
 
    虚空小吟 其五
 
 すでに雪ふりて驚くべし富士の山腹に隆起を見よ
 蘆の湖の南岸の空を過ぎてたちまち右《う》旋囘せしごとし
 見る見るかはり來し眼界にかたまりて黄色《くわうしよく》におきふす山
 冬がれにいたれる色はあらあらしき峰を境して變りけるかも
 足柄にさしかかりつつ見はるかす甲斐の盆地はわれよりひくし
(170) 富士がねをひだりななめに見おろして白雲の渦のなかに入りつも
 奥谷よりながれていでし谷がはの太りゆけるを諸共に見む
 甲斐が根のうねりを越えてあまづたふ日の入るかたの山に雪降る
 うつせみは或るとき命おとしきや峰づたふ道さびしくもあるか
 やうやくに國の平は見え來つつ横ほる山もあはれ小さし
 くろぐろと光たたふる海のうへ南のそらの果ぞ濁れる
 
    業餘微吟
 
 朝鮮學生の陰謀の記事を朝はやくいらいらせし心にて目を通せり
(171) わづらはしき事はありともありのままに事のせまるを獨りおもはむ
 スキイもちて雪ふる山に行く友はしきりに吾を誘へど行かず
 しろけむり渦まきだつを樂しとてけふの夕べに火を焚きにけり
 大かたはうらがれにけるわが庭のつちには低く生ふる冬草
 年の暮におしせまりて思ひまうけず森鴎外の書簡を買へり
 晝のまの勤め果てつつ一息をつかむころには何を食はむか
 陰謀をたくらむ者等いろいろに難儀するところ身に沁みにけり
 風ふきてゆふさりぬうば冬曇南のかたにうごきつつ見ゆ
(172) 富人《とみびと》とまづしき人のたたかひの理論にも吾はいつしか馴れつ
 冬の日の光あたれるところにてかがまり居るはこころ樂しも
 にほへりし菊も枯れつつ朝々の霜のいたきを立ちて見にけり
 共産主義者一味の行動をこまごまと記しし書《ふみ》買ひて來し
 うつせみの無くて叶はぬたましひのつひのゆくへを彼等は知らず
 
    冬深し
 
 冬の夜のやうやく寒くふけしころ歌ひとつつくり樂しかりけり
 淺草寺のかげに賣りをるいろいろのくちなはも今日見ればひそけし
(173) 冬草の低くかたまりてゐるを見つ日のあたたかさ吾はおもはむ
 あまつ日も傾きそめしころほひの冬のくもりに飛ぶ鳥を見ず
 うつせみの吾に物求めむとひと來れどこころ滿たししことさへもなし
 
    昭和四年雜歌
 
     某月吉日山本實彦改造社長より星岡茶寮に招かる。同席佐佐木信綱・高濱虚子・與謝野寛・同晶子・北原白秋・釋迢空・吉田絃二郎・後藤多喜藏の諸氏。席上正岡子規(竹の里人)をあげつらふものありければ一首
 
 あげつらふ餓鬼は居りともひたぶるに竹の里人《さとびと》を我は尊ぶ
 
     「日本精神」(キング附録のために)
 
(174) おのづから興り來にける國力《くにちから》つねに新しくとどこほりなし
 
     寫眞に題す(婦人の友)
 
 峠路に牛をひき居る老《おい》びとと心したしくものいひにけり
 
     哀草果の「山麓」記念會(山形)に送る
 
 言あげてほがざらめやもみちのくのくにをこぞりて歌は興らむ
 
     岡本かの子薯「わが最終歌集」序歌
 
 このあさけ庭に飛びつつ啼く鳥のたはむれならぬこゑぞかなしき
 わが友の歌をし讀めばしづかなる光のごとくおもほゆるかな
 
(175)     中山翁壽碑(山形縣半郷村)
 
 もろともに教の親のみいのちのさきくいませと建つる石ぶみ
 
(176) 昭和五年
 
    昭和五年歳旦
 
 新しき年のはじめに貧しきも富めるも食ひたきものを食ふらむ
 たちかへり新年《にひとし》にして吾おもふ敵ありて闘はばただにたたかへ ほがらかに遊ばむとして雪つもる寂しき山に人ゆくらむか
 
     海邊巖 (東京朝日新聞)
 
 國よろふゆついはむらにうち寄するさきはひ浪の絶ゆることなし
 
(177)     國
 
 あたらしき年たちにけり今日ひと日心しづめて國をおもはむ
 しきしまのやまとのくにの皇國《すめぐに》のあたらしき日は豐さかのぼる
 
    小吟
 
     みまかれる會員諸氏を弔ふ
 
 うたかたのうつつに消えて無きがごとはかなかりける友を悲しむ
 
     杉原皓三君を悼む
 
 いくとせかわれより後にうまれつつ君も亡きひとのかずに入りたり
 
(178)    加納曉君を弔ふ
 
 まひるまのサイレンの音きこえつつしばらく吾は眼《まなこ》つむりぬ
 夜《よ》ふけくる火鉢のそばにあひ寄りてさびしくなりぬせんすべもなし
 きさらぎの八日《やうか》の夜《よる》はふけしかば消《け》のこる雪を月は照らせり
 
    この日ごろ
 
 ドイツより持ちかへりたる革物は黴ふきしまま棄てられにけり
 をさなごのおぼつかなくも言ふ聞けば心足らひを言ふこともあり
 みまかりし千樫のことなどおもひつつ晝つかたより風ひきて臥す
(179) 春さむき紙帳のなかに飯《いひ》も食《く》はず風のなごりの身はこもりけり
 とりちす書籍《ふみ》のあひだにいつしかも夏ごろよりの塵はたまりし
 
    加納曉君を追憶す
 
 越のくに和倉の濱にしほはゆく湧きいづる湯に一夜《ひとよ》浴みにき
 いましめのきびしき山をくだり來てあわただしくも君は歸りぬ
 能登のうみ漕ぎたみゆきて立山にこもれる雲を見しを忘れず
 うつせみは斯くのごとくにあり經るや君なきあとにもの思ひいづ
 海のうへに星かたむける宵闇は寂しきものと思はざりきや
 
(180)    折々のうた
 
 きさらぎはいまだ寒きに石かげの韮は群がり萌えいでむとす
 ありし日の父のごとくに行春の日ごろとなれば腰いたむらし
        わが父は四十歳どろより腰まがりゐき
 ちちのみの父が老いつつありしごと我が腰けふも痛みてのびず
 南かぜ朝明《あさけ》より吹きいたいたし銀杏のわかば庭に散りしく
 もえいでて幾日《いくか》たたねばあはれなる銀杏は散りぬ疾きみなみかぜ 味噌汁をつつしみ居りし冬過ぎていまこそは食はめやまの蕨を
(181) 芍藥はすでにふふむにかたはらの柘榴の赤芽いまだ青まず
 ひとときは吾の心も清しかり庭の草生《くさふ》に蟲いであそぶ
 古くさはうらがれながら新草の杉菜は茂しわが目のもとに
 身にひそむ病しあればこの春は青き韮さへ剪ることもなし
 
    妙高温泉
 
 山かげの水田《みづあ》にものの生きをるは春ふけにしてひそむがごとし.菅沼能君同行
 きぞの夜《よ》の一夜《ひとよ》あらびし雲はれて黒姫のやま妙高のやま
 鳥がねも人をおそれず新草はしげりしげりて道をうづみぬ
(182) 群山の青きを占めてこのあさけ一夜《ひとよ》とどろきし雲はれにけり
 妙高の裾野うごくと見るまでに南のかたに雲は晴れゆく
 あをあをと水草《みくさ》の生ふる流あり湯ずゑのけむりここに消《け》につつ
 高原《たかはら》に光のごとく鶯のむらがり鳴くはたのしかりけり
 妙高の山路を來れば土くろしみぎりひだりに蕨もえつつ
 山草の高きしげりに暗がりし草うごかして水はいきほふ
 黒姫の山の奥がに戸隱や雪のはだれは見れど飽かぬかも
 もえいでて未だやはらかく廣き葉も細葉《ほそは》もなべてひるがへりけり
(183) 汗ばみて高原のみち來しかども杉の下生《したふ》の風は寒しも
 深襞も青くなりつつ消のこれる妙高のやまの雪ちかく見ゆ
 あまつ日に透きとほりたる楢の葉の間なくしうごく山をわれ行く
 朝雲は疾くうごきて山襞のふかきに殘る雪見えわたる
 黒姫の山の原よりふりさくる越後の山に雪滑えにけり
 吾の如く細谷がくりおりくればこの清きみづ人は飲むらむ
 山のべにくれなゐ深き白頭翁ほほけしものは毛になりにけり
 常陰《とこかげ》の山といはなくにおきなぐさはつはつふふむ寒きにやあらむ
(184) 春の火に燃えたるあとを登りをり黒々として生けるもの見ず
 妙高のあらき谿より幾すぢも雪解の水はながれたるらし
 友とふたり言も絶えつつ妙高の山原燒けしあとのぼりゆく
 妙高のなだれに見れば信濃なる群山かげに雲そきにけり
 妙高の山はいつくし片寄りに裾野てらして日は落ちむとす
 あまつ光かたむくころは黒姫の山襞ふかきかげをつくりぬ
 こしのくに妙高の山すがしみとふたりは居りき日の落つるまで
 
    越後妙高山
 
(185) 春ふけし水のながれのおとぞする妙高の山にわれゆき向ふ
 高原に百《もも》鶯の啼くこゑは雪降るころは啼くこともなし
 こもごもに木《こ》の芽やはらかくふきいでし一峰《ひとを》を越えて息づきにけり
 雪のこるたをりの道に赤々と椿はな咲く山ぞかなしき
 妙高をのぼり來しかど頂はわが力なしくだりて行かむ
 
    妙高・野澤温泉
 
 山の火のあらびとどむと高原《たかはら》に人のつどひし跡のこりをり
 風まじり雨つよき夜を友とふたり小床《をどこ》を寄せてねむり入りけり
(186) ここにして信濃は近し山のまの野尻のうみは眞藍《まあゐ》をたたふ
 山峽にひびきながるる關川のおとを夜もすがら聞きてやどりぬ
 のぼり來てわれ等は踏みぬ雪消えしあとの草生のなびき伏せるを
 うつせみの妻に離れてひとりなる君は入野《いりぬ》を導きにけり
 
    野澤温泉即事
 
 わがねむる家の迂くに水足りて山の蛙《かはづ》は夜もすがら鳴く
 かなしさに堰sにほ》ふを見れば幾年《いくとせ》かあやめの花も見すぐしにけむ
 北ふきの風しづまりし山のべに花櫚《くわりん》の花は散り過ぎむとす
(187) 雪きゆる谷川のべに養ひしアスパラガスをわれに食はしむ
 このあした咲きひらきたるくれなゐの牡丹の花はあはれなりけり
 春ふけてしづかになりし山かひに小さき氷室の見ゆる親しさ
 千曲川北へながれてきほひたる瀬々の白浪の見とも飽かめや
 はざま路に入りつつくれば若葉して柿の諸木は皆かたむけり
 都べに居れども見ざるくれなゐの牡丹の花をけふ見つるかも
 この谿に春は來りて屋根のうへに小鳥の啼くは寂しかりけり
 
    この日ごろ
 
(188) 朝々に味噌汁にして食ふ蕨は奥山より採りこし蕨にあらず
 墨田川のほとりに行くといらだたしく電車罷業の街にいで來し
 ともしびに羽ふるはして居たりける草かげろふはいづこに行かむ
 巡業の組に入りつつ上海に相撲取る出羽ケ嶽をおもひ出でつも
 金曜の午後のいとまに南より北にむかひてゆく雲は疾《と》し
 けふの朝買ひし蕨は淺山より採りきて賣りたるものならむ
 五月一日一萬人あまりの行列はここの十字にしばしば斷えぬ
 赤き旗もてる勞働者と警官と先列に追付かんとして大股に驅歩す
(189) 百貨店の夜《よる》の地下室に鯉飼へり紅《あか》き鯉ひとつみづに衰ふ
 山かげの潮《うしほ》のおとはくらやみの至れるころにふたたび聞こゆ
 わたつみの音もかなしもをやみなきものにもあらぬそのとどろきを
 
    歌會
 
     平福畫伯洋行送別歌會 (一月十八日於上野公園韻松亭)
 
 わたつみを越えたる遠き國の旅ひとすぢにさきく足らはしたまへ
 はるかなる道にもあるかあたたかき印度の洋《うみ》も越えゆきたまふ
 
     長塚節忌歌會 (二月十六日於上野寛永寺山内福聚院)
(190)     年あわただしく過ぎて、みづからの身をも得かへりみず
 
 ここに來て悲しくもあるかありし日の君おもふことも稀になりたり
 
     五月十八日於野澤温泉桐屋
 
 夜もすがら屯せりける雲晴れて今朝はさやけし妙高の山
 
     左千夫忌歌會 (六月八日於龜戸普門院)
 
 師の大人《うし》をここのみ寺にはうむりて十年《とをとせ》あまり八年《やとせ》經にけり
 一年《ひととせ》にひとたびここに集まりて相見むことぞ楽しかりける
 
    蝉 【七月四日東京を立ち七月五日上山に居る】
 
(191) 上山に夏の雨ふり閑古鳥飛びつつ啼けり家にまぢかく
 置賜《おきたま》の方《かた》より雲はうごき居り藏王の山はいま雲の中
 雨のひまに谷に入り來て青胡桃いくつも潰すその香なつかし
 弟と弟の子と相寄りて夕餉《ゆふがれひ》鯉こくのたぎれるを食《く》ふ
 立石寺《りふしやくじ》の蝉を聞かむと來しかども雨降り蝉は鳴くこともなし
 
    三山參拜初途
 
     昭和五年七月二十日、長男茂太十五歳になりたるゆゑ、出羽三山に初詣せしめむとて出發す。上山にて高橋四郎兵衛加はり、岩根澤口にむかふ
 
(192)    追分より岩根澤途上 七月二十一日
 
 くもり日の川にそひつつ歩み居り岩根澤口に迂づくらしも
 むらがれるものの寂しさとおもはむか一谷《ひとだに》に鳴くひぐらしのこゑ
 寒河江川の水上とほく來にけむと折々おもふ旅にしあれば
 尾長鳥道のべの木に飛び交へりあはれ美しと吾はおもへる
 淡々しきものとおもへど山中にこもらふ如く夏蕎麥の畑《はた》
 ほどちかき森の中より聞こえくる鶫のこゑをわが子に教ふ
 一山のたをりめぐれば源を異にせる澤の音は聞こえぬ
(193) まなしたの木立をくらみたぎちゐる川の白浪たまたまに見ゆ
 
    岩根澤十善妨
 
     二十一日、午前十一時過ぎ岩根澤十善坊に著く。直ちに月山に向はむとせりしが、案内の者家に居ず、加ふるに雷鳴しきりなるを以てつひに此處に泊ることとし、草鞋をぬぎぬ
 
 午飯《ひるいひ》を此處に濟ますと唐辛子の咽ひびくまで辛きを食ひぬ
 窓そとを見つつし居れば田の中に浮く青き藻に雨ふりやまず
 今日ひと日岩根澤口に過ごしたり山杜鵑まぢかく飛びて
 午過ぎにはやも宿かり親しみて油揚げ餅食ひつつ居たり
(194) 月山の登山ぐちに草鞋ぬぎ雨|一日《ひとひ》降り夕ぐれにけり
 夏ふけし山のやどりは電燈に螢飛びくるも心しづけく
 いにしへは諸国千人この宿に溢れしことを物語りけり
 のまへの田のなかに降る雨見つつ雷《らい》くだり行く音を聞き居り
 夜も啼く山ほととぎす我が子にも教へなどして眠りに入りつ
 山のやどの堅き布團に身をすぼめ朝《あした》の空を氣にしつつ居り
 あかつきに近づきゆきてほととぎす啼き透れども多くは啼かず
 目のまへの山には深き霧ながら心こほしき朝ほととぎす
(195) 高山に霧のせまりてくるさまを吾が子はときに立ちどまり見つ
 はしばみの實をまだ若み道すがら取りて食へどもその味無しも
 
    月山 七月二十二日
 
 東より朝あけわたるほのひかりいよいよ山に登りてゆくも
 ほほの木の實《み》はじめて見たる少年に暫しは足をとどめて見しむ
 撫の實のおちゐる道を踏みながらやうやく明けし峽《かひ》にかかりぬ
 山谷にあやしく鳴ける蝉のこゑ妙見蝉といひ傳へける
 般若坊清水にたどりつき汗あえし顔も眼《まなこ》も浸してあらふ
(196) 宿いでて二里半あるき立石澤流れに著きぬさ霧の中を
 山ふかく入りつつ來り驚くべし谿に生ふる草の秀《ひい》でたるさま
 この谷の空にこもりてにぶきこゑ鋭きこゑのもろ鳥啼くも
 水芭蕉山煙草などいふものをわが子の茂太もわれも見てをり
 行人《ぎやうにん》清水は道より流れ折戸澤《をんどざは》流水《りうすゐ》は谿の水にぞありける
 雷の火に燃え倒れたる太樹をも少年は見たりこの山に來て
 からす川といふ名をもち山そこに寂しき川は流れてゆくも
 烏川谿をながれぬ下りたちてきよき川原に飯《いひ》くひにけり
(197) わが家より持ちて來りし胡瓜漬を互《かたみ》に食ひぬ溪の川原に
 その行方ひんがし北へからす川音は寂しく流れけかかな
 小屋見れば兎の足が六十餘りあり冬に來りて狩せるらしも
 溪にしぶく夏の雨強み油紙《あぶらかみ》體にまとひ歩みを止めつ
 月山の山の腹より湧きいづる水は豐けし胡瓜を浸す
 月山の山腹にして雪解水いきほひながるあひ響くおと
 しづかなる心になりて音ごもる氷の谷を上りゆきつも
 眞夏|日《ひ》の光といへど消えがてぬ雪谿《ゆきだに》のうへに雨降りにけり
(198) 谷うづめ消え殘りたる氷には※[虫+榮]※[虫+原]《ゐもり》が一つ死ぬる寒けさ
 月山の谷のこほりに赤蜻蛉《あかあきつ》蝶蜂なども死に居りにけり
 雪溪《ゆきだに》はきびしくもあるかわが體こごゆる程にさ霧はのぼる
 雪溪ゆのぼるけむりの渦卷くとあやしきまでに雪解するらし
 この山の氷の溪の底にしてとどろく音は雪|消《き》ゆるみづ
 この山にのぼる旅びと黒百合をいくつか掘りて持ちゆかむとす
 雨の降る氷のうへをわたり來て月山のみねに手を暖めぬ
 けむりあげて雪の解けゐる月山をひたに急げり日は傾くに
 
(199)    湯殿山 七月二十二日
 
 あまつ日はやうやく低く疲れたるわがこ勵《はげ》まし湯殿へくだる
 東谷ふかぶかとして續けれど盡く消えて殘る雪見ず
 登山者は若者多くたちまちに我等追ひ越し見えなくなるも
 御月光《おぐわつこ》の峻《けは》しき谿をくだるとて我も我が子も言たえて居り
 うつせみは淨くなりつつ神に守られてこの谿くだるいにしへも今も
 峰かげに日は隱ろひて行きしころいまだ谷間をくだりつつあり
 梵字川とどろき落つるまぢかくを目覺めたるごとく下りて行きつ
(200) ほのぐらきゆふまぐれどきわれ等|四人《よたり》は神のみ前に近づきゆきつ
 ちはやぶる神ゐたまひてみ湯の湧く湯殿の山を語ることなし
 ながれ合ふ谿川いくつわたりつつゆふやみの中に入り行きにけり
 谿間道いそぎいそぎぬ足もとをあひ警しめて闇の谿中
 
    笹小屋より羽黒
 
     七月二十三日午前六時笹小屋を立ちて間道を行く。八時四十分田麥俣著、田麥川の橋梁、高さ三十八米、長さ二十五米、巾四米、明治三十六年十月架橋。午後三時半上名川より自動車に乗る
 
 わが子にも鹽をもて齒を磨かしむ山谷《やまだに》の底に夜《よる》は明けつつ
(201) やまがはの底ごもるおと聞こえ居り湯殿の谿に一夜寐しかば
 谿ぞこの笹小屋といふ一つ家《や》に足をちぢめて共にねむりぬ
 この山にあやしきこゑに啼く鳥は嘴赤し飛びゆける見ゆ
 くれなゐの嘴もつゆゑにこの鳥を南蠻|啄木《けら》と山びと云へり
 山こえて庄内領に入るときはこの鳥を雨啄木《あまけら》と名づけゐるとぞ 人おとも遂に絶えたるこの山は※[木+無]しげりたりひる暗きまで
 山の雨晴れゆかむとして白雲が立ちのぼるごと動きてやまず
 雨あとの滑べる山路を四人して田麥俣まで直《ただ》にあゆめる
(202) 湯殿谿に飲食物《のみくひもの》をはこぶ馬がこの山道を通ふさびしさ
 この道も古へ人はむらがりて行きしか弘法の遺跡もとどむ
 田麥俣を眼下《まなした》に見る峠にて餅《もちひ》をくひぬわが子と共に 梵字川の谿に沿ひつつ歩み居り山を抱《いだ》ける谿の大きさ
 茣蓙しきてしばしば憩ふこの道に梵字川の水底にきこゆる
 山道に少し許りの平《たひら》あり清水いでつつ店に油揚げを賣る
 山中のかすかなる店に油揚げにて午飯《ひるいひ》食ひぬその握り飯《いひ》
 梵字川の川しものこの釣橋を幾たびもわたる馬は一つづつ
(203) 釣橋のまへの立札人ならば五人づつ馬ならば一頭づつといましめてあり
 梵字川大鳥川と相あひて赤川となるところを徒歩す
 
    羽黒 七月二十四日
 
     二十三日下名川より二たび自動車に乘りて手向《たうげ》村に著き、羽黒館に投宿すれば、隣室に醉客ありて眠まどかならず。二十四日羽黒山參拜。參道|一昨年《をととし》の如く寂けし
 
 羽黒道まうでて來ればくれなゐの杉のあぶら落つ石のたたみに
 出羽《いでは》なる羽黒の山はとことはに雲に觸りつつ古りし大杉
 雪解時より霜ふるころに至るまで大杉のうへの白鷺のこゑ
(204) 羽黒山杉の木立に巣ごもれば日もすがら聞こゆ杉の上の鷺
 大杉のうへに巣くへる白鷺の杉の秀《ほ》に立つを見れば清《きよ》しも
 たふとくも見ゆる白鷺この山の杉のうへにして卵を生みつ
 南谷ふりにし跡にわが來ればかすかにのこる河骨の花
 おのづから杉の落葉はつもりつつ南谷道足をうづむも
 しづかなる蘆《よし》の茂りも年を經て見る人もなしここ南谷
 雲うごく杉の上より白鷺の羽ばたきの音ここに聞こゆる
 山の上にむらだつ杉の梢より子をはぐくみて白鷺啼くも
(205) 羽黒山の高杉の秀《ほ》を仰ぎつつわが聞きて居る鷺の子のこゑ
 いにしへの芭蕉|翁《おきな》のこの山に書きのこしたる三日月の發句《ほく》
 天宥を讃へて芭蕉の書きし文まのあたり見てつつしむ吾は
 南谷におもかげ遺る池の水時を過ぎたる蛙のこゑす
 齋館の一つ部屋より見はるかす國原青く夏ふけむとす
 羽黒山のうへに立ちつつわが對ふ鳥海山は雲かかむれり
 うつせみはつどひ來りてあきらけく罪のほろびし山の上ぞこれ
 雨はれし羽黒の山にのぼり來て餅《もちひ》を食ひぬ食へども飽かず
 
(206)    最上川
 
     七月二十四日午後五時十五分狩川驛發にて歸途にむかふ。同日上山山城屋宿泊
 
 最上川水かさまさりてけふもかもわがゆく汽車の方よりながる
 うつせみのわが身に近く最上川の川面《かはのも》ひくしみなぎり流る
 最上川にそそぐ川あり一處ひろびろとして濁り浪たつ
 にごりつつ豐けき川の渦の上に白きうたかた暫したゆたふ
 
     芭蕉も元禄二年このあたり舟にて過ぎけむか
 
 古口《ふるくち》のほとりを過ぎてまのあたり親しくもあるか夏の最上川
(207) けふのひもひむがし吹きて最上がは空《そら》にほとばしり浪たちわたる
 
    雪谿
 
 いかづちのうごきゆくさまを子に見しむひむがしの方にすでにうつろふ
 雪谿《ゆきだに》にあかき蜻蛉《あきつ》は死にてをりひとつふたつにあらぬ寂しさ
 黒百合を掘りつつゆけば山はらにわれの肌《はだへ》は冷えにけるかも
 霧うごく谿をゆきつつひとときは月あかき山をわがおもひけり
 月山のいただき今しかくろひて氷の谿に雨ふりにけり
 
    高野山
 
(208)     八月四日より八日に亙り、紀州高野山清淨心院に於て第六囘安居會を開く
 
 ふりさけて峠を見ればうつせみは低きに據りて山を越えにき 紀見峠遠望
 ひとときに雨すぎしかば赭くなりて高野《たかの》の山に水おちたぎつ
 紀の川の流かくろふころほひに槇立つ山に雲ぞうごける
 高野山《たかのやま》あかつきがたの鉾杉に狹霧は立ちぬ秋といはぬに
 三成が悲母の菩提のねがひもてここにのぼり來し時をしぞおもふ
 秋づきしあまつ光か目のもとの苔を照らしてかげりゆくらし
 おく谿はここにもありてあかあかと高野《たかの》の山に月照りにけり
(209) 白雲のおしいぇうごける鉾杉の木《こ》の下闇にしづくは落ちつ
 空海の四十二歳の像《すがた》こそ見欲《みほ》しかりけれ年ふりにけり
 紀伊のくに高野《たかの》の山をとりよろふ群山のうへにゐる雲もなし
 ここに啼く鳥かぞふれば幾つ居む山の中こそあはれなりけれ
 紀伊のくに高野《たかの》の山の月あかししづむ光を見つつ寢にける
 われひとり歩み來りておもほえずこの山谷に鳥さはに啼く
 
     八月九日大會堂《たいゑだう》に於て不斷|會《ゑ》を修するにのぞむ
 
 經頭のこゑのひびきは身に沁みて唐《たう》の長安のいにしへおもほゆ
(210) もろともに唱ふる聲にいつしかに聞こえ居り新發意《しんぽち》の清らなるこゑ
 われの居るみ寺の庭に山の雨みだれてぞ降る砂を飛ばして
 杉|樹立《こだち》たちてくらきにたちまちに地《つち》は震ひて雷鳴りわたる
 もろごゑは澄みわたりつついにしへの佛《ほとけ》讃ふるに滯懈《たゆみ》消《け》にける
 谷に立つ槇の木立に燃えたちてけふぞ高野《かうや》の山に雷落つ
 降る雨は木々をゆるがす時の間のするどき雷に眼《め》昏《くら》まむとす
     ゆふぐれ新別所なる圓通寺にいたる
 
 沙羅の花ここに散りたり夕ぐれの光ののこる白砂《しろすな》のうへ
(211) たか野山新別所なる夕闇に螢は飛べり有るか無きかに
 弘法のいのちのながれ斷なくに吾等ねぎらふここの法師は
 
    飛鳥
 
     八月十日、中村憲音・森山汀川ふたりと共に飛鳥くすりや旅館にやどりて、故友島木赤彦を偲ぶ。翌の日中村ぬしに導かれ、ひねもす萬葉の遺跡をたづぬ。
 
 ここに來て吾等たたずむ萬葉のかなしき命も年ふりゆきて
 飛鳥なるひと夜のやどり夜くだちて月照りたるを見てゐる吾は
 ひむがしの多武《たふ》の峯より月いでぬ古國原をわたる月かげ
(212) ひとつ蚊帳にねむりしことも現なる飛鳥の里の朝あけにけり
 たもちたる暇を清み夏ふけし南淵山にあひ對ひける
 岡寺の樓門のもとに三人《みたり》等は時を惜しみて相居たるかな
 橘のみ寺をここにふりさけて友の教ふる事は遙けし
 大原の里を戀《こほ》しみゐたるときわがかうべより汗したたりぬ
 たかむらは川の流に沿ふらむかここよ小さき雷の丘
 久米寺の凌霄花《のうぜんかづら》の蜂のおと思ひいでなむ靜かなる時もがも
 あまつ日の照りきはまれる道のへに西瓜を置きぬあたたまるらむ
(213) とぶ鳥の明日香の里に汗たりてきのうふも今日もいにしへおもほゆ
 あまつ日のきびしき道をあゆみ來て眞近になりぬ天の香具山
 
    吉野
 
     八月十一日午後三時半中村ぬしとわかれ、二人は岡寺を發ちて吉野に向ふ。午後五時竹林院著、土屋ぬし一行と會す
 
 こひねがひ上り來りて見はるかすあな深々し吉野むら山
 大峰を越え來し友ら寄合ひてゑらぐを見つつ二人いでたつ
 あはれあはれ吉野の谿に入りつ日のからくれなゐの光こもりて
 見おろせる遠き谷間にかがやきて赤き光のかたまれるはや
(214) とくとくの清水といへる谷の水いそぎ足にて吾もむすびつ
 いつしかも谷を下《お》り來てくれぐれの庵の前に立ち居りにけり
 淋しさに堪へたりといひしいにしへの人の食ひけむ物おもひつつ
 塔尾《たふのを》の陵の苔手にもちてしばらくにして隱しに入れぬ
 みちのくの山を思ひて戀しかり藏王權現の御像《みすがた》のべに
 この山に悲しき物を數《かず》見つつ一日の名殘かつ惜しみけり
 
    丹生の川上
 
     八月十二日十一時半上市より自動車に乘り、東川、西川、大瀧を經、丹生の川上に至り、官幣大社上社にまうづ
 
(215) 風のおと川わたり來るみやしろに栴檀の實のおつるひととき
 ふかぶかと積りてゐたる落葉越えて川の激ちに近づく吾は
 苔の香は沁とほるまで幽かにて神の社に雲かかりくる
 のぼり來し丹生川上の石むらに雲の觸《ふ》りつつゐるをともしむ
 瀧のべの龍泉寺にて夏ふけし白さるすべり見つつ旅人
 ここにして老木《おいき》となりし白松《はくしよう》を福州松と人等いひつぐ
 山ふかき村のはづれにいささかの鹽賣る家の前を過ぎつつ
 
    宮瀧
 
(216) 吉野なる瀧の河内をもとほりて心和らぎ人麿おもほゆ
 萬葉の歌をおもへばよろこびも極まらずして船うけあそぶ
 互《かたみ》なる睦みを持ちて山川の清き河内にけふ遊びつる
 夢《いめ》のわだ象の小川もけふは見つ友がみちびきに汗をさまりぬ
 いにしへの歌の聖のよみがへり心も古りて言ひがてなくに
 
    郡山
 
     高野山より來りし諸同人と、郡山町に起臥する土田耕平ぬしを見舞ふ
 
 うすぐらき一間に臥して命さへ消え入らむとすといふを我聞く
(217) これの世にあるかなきかに起臥して庭のおどろも見ることもなし
 現身のみづからの聲持てれども君はほそほそとして佛《ほとけ》のごとし
 かくしつつ君の眼はものを見ざりけり青田をわたる風の行方も
 君臥り歌によまむとせざれども此處のおどろに蟲すだかむか
 いましめて君が臥處をいでて來ぬ悲しかれども醤師《くすし》ぞわれは
 うつつにし尊かりけり晝と夜《よる》と君をまもらむ君が嬬はや
 
    近江番場八葉山蓮華寺小吟
 
 松かぜのおと聞くときはいにしへの聖のごとくわれは寂しむ
(218) 松かぜは裏のやまより音し來てここのみ寺にしばしきこゆる
 松かぜのとほざかりゆく音きこゆ麓の田井を過ぎにけるらし
 苔ふみてわが行く谿に水はいづ朝はまだきの苔を踏みつも
 みみづくは闇を木傳ふ宵やみに啼きたりしかど夜ふけて啼かず
 馬追の鳴く夜となりぬ紀のくにの高野《たかの》の山に七日《なのか》へしかば
 馬追のとほれるこゑを聞くときぞ山のみ寺はさびしかりける
 をやみなく馬追のこゑのとほれるを※[うがんむり/隆]應和尚も聞きたまふらし
 
     この寺に澤ありて龜住めり。龜畑に来りて卵を生む。縞蛇といふ蛇、首を深く土中にさし入れて龜の卵を食ふとぞ
 
(219) 石龜の生める卵をくちなはが待ちわびながら呑むとこそ聞け
 
     昭和五年八月十三日朝、近江なる蓮華寺に著きぬ
 
 み寺なる朝のいづみに槇の木實《このみ》青きがあまた落ちしづみけり
 
     ※[うがんむり/隆]應上人は六十八歳になりていませり。久々にあひまつるに、右の偏※[病垂/難]にて御手足かい細り、常臥のままはや八年を經たまふ
 
 寺なかにあかくともりし蝋《らふ》の火の蝋つきてゆくごとくしづけし
 
     わが口髭の白く、かしらの禿げたるを見たまひて、いたく興がりたまへど、語《ことば》すでにさだかならず。われ等隣室にさがりてくさぐさの物語などしてゐるに上人のみこゑきこゆ
 となり間に常臥しいます上人は茂吉の顔が見えぬといひたまふ
 
(220)     平福百穗うしのかきたまへる蓮華寺上人の繪はがきを示しまゐらす
 
 左手の利くかたのべてしましくはおのがみすがたををろがみたまふ
 
     ※[うがんむり/隆]應和尚のかすかなるみこゑきこゆ。耳すましきけば唱名のみこゑなりけり
 
 あかつきのまだくらきより御名となふるいでいる息ぞ尊かりける
 
     ※[うがんむり/隆]應上人は羽前置賜に生れたまひぬ
 
 常臥に床に臥しつつ水のおとめざめゐるまは聞きたまふらし
 この山の苔よりいづる水すらも氷るみ冬ぞおもほゆるかも
 伊吹嶺《いぶきね》に雪ふるころはみちのくのみ寺しぬびたまふといふも尊し 金瓶村寶泉寺也
(221) 中林梧竹おきなの書きし字を幾つかわれにたびにけるかな
 松かぜのつひの行方も聞きがたく堅き衾をわれはかむりぬ
 
    歳晩雜事
 
 北平のとほき旅よりかへり著きてわれ四十九の年ゆかむとす
 みちのくの兄は老いつつ金のことくれぐれ云ひてかへり行きけり
 夜ふけてしづかになりしこの家を一日《ひとひ》たりとも我は尊ぶ
 にごりなき西のかなたや冬至すぎむ日の餘光こそかなしかりけれ
 冬寒くなりゐる部屋に歸り來て二側《ふたがは》の壁を吾は塗らしむ
 
(222) 昭和五年雜歌
 
     鎌倉にて(樂燒に)
 
 日の光つよくかがよふ砂原にあきつひたぶるに飛べる寂しさ
 
     九月十三日(山口氏宅)
 
 一日たゆくそこはかとなきゆふまぐれ風北より吹きて神鳴る
 
     題寫眞(婦人倶樂部のため)
 
 努めゆかむ生業のこと思ひつつ海よりいでむ月待つわれは
 
京城にて(警務彙報)
 
(223) 朝明より日のくるるまできほひたちいそしむ人を見るぞ尊き
 
九月二十七日、映畫館
 
 うつつなる此世界としもおもほえず氷の山の浮きくるところ
 
(225) 後記
       〇
 本集「たかはら」は、私の第七歌集であつて、昭和四年、昭和五年の作四百五十四首を收め、私の四十八歳、四十九歳に當つて居る。
 歌數の比較的少いのは、本業の忙しかつたためといふことも出來るが、單にそれのみでなく、いろいろの事をした。それを略記すれば次のごとくである。 昭和四年に、醫友の診察を受け、食養生を專らにす。春から夏にかけ、改造社の現代日本文學全集短歌篇のために力を致し、明治大正短歌史概觀を草した。
 十一月はじめて飛行機に乘り、虚空小吟の作がある。この一聯は、留學の時とは稍違つた意味で、歌の表現が變化したが、從來の歌調に似ざるものがあつたために、歌壇の一部から批評を受けたものである。
 昭和五年には平福畫伯が洋行した。アララギに太田水穗氏との論戰記を發表した。これは太田氏から闘をいどまれ、所働的に闘つたのであつた.
(226) 夏、長男茂太の元服を機に出羽三山を參拜した。ついで高野山にのぼり、第六囘アララギ安居會に出席し、飛鳥、吉野地方から、郡山町に至つた。歸路、近江蓮華寺に臥床中の佐原※[うがんむり/隆]應和尚を訪ひ、蓮華寺小吟十九首を發表した。これがまた、飛行小吟と別な意味でいささか歌の變化を試みて居る。
 十月、南滿鐵道株式會社から招かれ、南滿洲から、ハルピンを經て、滿洲里に至り、北平に滯在し、朝鮮京城にて歸朝中の平福畫伯とおち合ひ、石見から備後を經て歸宅した。この滿洲遊行吟は、「連山」と題し、この「たかはら」につづくのである。
        〇
  はかなごとわれは思へり今までに食ひたきものは大方くひぬ
  近江のうみ堅田に群れしかりがねはいつの頃まで居るにやあらむ
  あたたかき飯《いひ》くふことをたのしみて今しばらくは生きざらめやも  みなかみの激ちの音もうたがはずひとつの山に老ゆるしづかさ
 昭和四年醫友の珍察を受け、食養生をすすめられたので、計らずかういふ歌があつた。しかし歌壇はさういふ事情を知らぬところから、かういふ歌もただ空想で出來たものの如くに解したりした。
(227)  あかあかと月冴えわたり落ちゆくを紙帳をいでて吾は見みけり
 昭和四年にも未だ紙帳を吊つてゐるのであつた。私は燒けのこりの家に貧寒として住み、紙帳を用ゐたといふことは、私の生涯での記念になつたといふべきである。
  天のはら澄める奥處にひひとつらに氷れる山や見えわたるかも
  丹澤の連山に飛行機のかかるとき天のもなかに冬日小さし
  うねりたる襞にふかぶかと陰ありて山のじやくまく見れど蝕かぬかも
  西北《にしきた》より發して今しがた銀座の上空を過ぎしはあはれあはれ看忙のためならず
  直ぐ目のしたの山嶽よりせまりくる Chaos きびしきさびしさ
 昭和四年十一月二十八日の飛行の時に吟んだものである。飛行機に乘るといふことは、はじめての經驗だつたので、そのときの作歌にも新しい經驗を盛らうとしたのだが、實行上にはなかなかむつかしいことであつた。しかし記念として茲に記しとどめる。
        〇
  きぞの夜の一夜《ひとよ》あらびし雲はれて黒姫のやま妙高のやま
  群山の青きを占めてこのあさけ一夜《ひとよ》とどろきし雲はれにけり
  妙高の裾野うごくと見るまでに南のかたに雲は晴れゆく
(228)  高原に光のごとくうぐひすのむらがり鳴くはたのしかりけり
  山草の高きしげりに暗がりし草うごかして水はいきほふ
 かういふ歌をも作つた。此等の中には當時短册などにも書き、歌壇でも稍注意を牽いたものもあつたが、一册の歌集にして見たらどういふものであらうか。
  一山のたをりめぐれば源を異にせる澤のおとは聞こえぬ
  しづかなるこころになりて音ごもる氷の谷を上りゆきつも
  雪谿ゆのぼるけむりの渦卷くとあやしきまでに雪解するらし
  この山にあやしきこゑに啼く鳥は嘴赤し飛びゆける見ゆ
  梵字川のたにに沿ひつつ歩み居り山を抱ける谿の大きさ
 昭和五年七月、長男茂太が十五歳になつたのを機として、三山を參拜した。そのときに出來た歌である。私が明治二十九年に父に連れられ湯殿山を參拜したのを追憶しつつ茂太を連れて歩いたのだが、今度は湯殿山のみならず、三山を參拜したのであつた。
  ふりさけて峠を見ればうつせみは低きに據りて山を越えにき
  紀の川の流かくろふころほひに槇立つ山に雲ぞうごける
おく谿はここにもありてあかあかと高野の山に月照りにけり
(229)  紀伊のくに高野の山の月あかししづむ光を見つつ寢にける
沙羅の花ここに散りたり夕ぐれの光ののこる白砂のうへ
たか野やま新別所なる夕闇に螢は飛べり有るか無きかに
 昭和五年八月四日から、高野山の清淨心院で、第六囘アララギ安居會を開いたときの歌である。その時は中村憲吉君も出席した。會の終つた日に、清淨心院の庭で會員がうつしてくれた寫眞が殘つてゐたので、記念のためこの歌集の口繪にした。そのあけがた、月のしづむ光を浴びつつ會員の數名と寢てゐたが、何ともいへぬ光であつた。むかしの明惠などの歌の詞書そつくりだと私らはその時語り合つたのであつた。
  松かぜのおと聞くときはいにしへの聖のごとくわれは寂しむ
  松かぜは裏の山より音し來てここのみ寺にしばしきこゆる
  石龜の生める卵をくちなはが待ちわびながら呑むとこそ聞け
  み寺なる朝のいづみに槇の木實青きがあまた落ちしづみけり
  寺なかにあかくともりし蝋の火の蝋つきてゆくごとくしづけし
 それから、私は近江蓮華寺に病臥しています佐原※[うがんむり/隆]應和何を見舞つた。そのときに出來た歌であるが、何處かに古の僧侶の心にかよふやうなところがないであらうか。『松風のおと聞くとき(230)は』の歌は、しばしば短册などにも書いた。それから間もなく私は滿洲へ旅立つたのであつた.
        〇
 本歌集に、「たかはら」と命名したのは、昭和五年の作に、『高原に光のごとく鶯のむらがり鳴くはたのしかりけり』といふ一首があるためである。
        〇
 本歌集を發行するに當り、岩波雄二郎、布川角左衛門、榎本順行、中島義勝、栗田博之の諸氏並に柴生田稔氏に感謝の念をささげる。昭和二十五年夏。齋藤茂吉。
 
   連山
 
(233)  滿洲遊行
 
    大連 (十月十六日)
 
 日のぼりて美しき光足らへれば大連の海《うみ》鳥ひるがへる
 日のまへに斷崖あかく見え來り籠めたる挾霧ひらかむとする
 汽船より直ぐ目前に大きなる埠頭がありて吾は對へる
 大連の埠頭にうごく物なべては時の間おかぬいきほふ堆積
 かくしつつ力の動き止《とど》まらぬ近代都市を二人は歩む
(234) 星が浦の白波寄するゆふぐれを日本人と共に洋人華人
 大洋《わたつみ》を渡りはらからは新しき興運《いきほひ》としてここにいそしむ
 小崗子《シヤオカンズ》にふたり足とどむ雜然と躊躇なくして傳來の燻《いぶし》あり
 路傍に両替屋ありて「財通百川《ツアイツアンパイシヤン》、公平交易《コンビンチョウイ》」云々ぞ好き
 小盗兒市場《シヤオトールいちば》は有名にして誰も訪ふ「堆金積玉《ツエチエンチユユ》」の語に邪氣なかりけり
 たゆるまも無くてあつまる做工者《さこうしや》の動力ここに整頓せらる 碧山莊
 天徳寺も萬靈塔も此處にあり苦力《クリイ》は現身《うつせみ》ゆゑに亡きのちのため
 ここにては苦力のことを華工《くわこう》と謂ひ一萬三千を常に住ましむ
(235) 饅頭《まんとう》を頬ばる時も痘痕ある顔一面を笑みかたまけて
 華工頭は妻帶をしてここに住むその食物《しよくもつ》も差別あらむか
 門のある一劃の家のまへに居《ゐ》る二頭《アルトウ》の妻をさな兒|抱《だ》けり
 此の莊を廻りて誰か現實の苦力樂土《クリイらくど》といふを拒まむ
 勞働の區切がありて苦力らの靜かなるときに笛吹くきこゆ
 碧山莊の高きによりて金州に日のおらかかるしづけさ見たり
 南華園に日本の秋の款の草花のすでにすがれむとしたるが奄モ
 アララギの友あひ集ふ歌がたり登瀛閣の燈火《ともしび》あかく
(236) 同胞《はらから》は營まむとしていろいろの樹を植ゑにけりこの異ぐにに
 この海に刀魚《トウウイ》釣るを樂しむとわが同胞は語りてやまず
 老虎灘《らうこたん》の空になびけるうすき雲冬來むとしてたなびける雲
 驢馬騾馬馬の列つらなりて老虎灘のこの岩道を越えゆくらしも
 東南へ越えてしゆけば石※[石+曹]屯《せきそうとん》といふ佳景の支那部落あり
 伊勢|町《まち》を夜もとほれば植木市あり身に沁むものか小さき紅葉も
 羅振玉翁の家にて友待つ間朱墨の大きなるを買ひ得たり
 共和樓に高梁酒《かうりやうしゆ》をも少し飲み吾が血脈を太くならしむ
(237) 大連の圖書館に來て一たび見たり海源閣本楊紹和氏の書 松崎鶴雄先生
 大連の浪速|町《まち》をも素どほりす明日は金州へ立たむとすれば
 
    旅順途上
 
 督軍《どくうん》等の家々が見ゆ心安んずれば子孫のためをもおもふ
 鼻ほじる小孩《せうがい》が立つ水邊《すゐへん》の直ぐかたはらに鵲居りて
 海岸に近づき來れば鹽田もあり龍王塘の水源地いづく
 玉の浦の海岸の浪しろし旅大八景も間も無く過ぎむ
 うつくしき海邊をとほる時ありて自動車を降《お》る七分《しちふん》あまり
 
(238)    旅順
 
 鉢卷山と簡素なる名をつけて薄《せま》りてゆきし山は近しも 盤龍山北堡壘
 二龍山|堡壘《ほるゐ》に坑道を鑿りたりしその戰《たたかひ》を偲びてやまず
 飛行機の無かりし戰にもろともに命をかけし跡どころこれ 東鷄冠山北堡壘戰跡
 ゆるやかにしづまりかへるあたの堡に勇猛の兵せまりてかへらず
 水師營の會見所にて書きとどむ「棗の樹より血しほ出でけむか」
 風音《かざおと》が下の方よりきこえくるこの山のうへの現身《うつせみ》われは 二〇三高地
 紅《あか》くなりて傾きそむるあまつ日を戰てらしし光とおもはむ
(239) 年ふれる壕のなかよりわが兵の煙管出でしと聞くが悲しさ
 戰の激しさも既《はや》超えはてて一かたまりに迫りゆきにし
 風さむきこの山の上に吾ありて君と去りかねき日のしづむまで
 今の世の人も見たりき後の世の人も見らむぞ永久《とは》に偲びて
 ここに立ちてふりさくる旅順の山山はおほどかにして涙しながる
 二百零三高地なる石の上《へ》に三人《みたり》は居りぬ日はおちゆきて
 この塔に身は近よりていくそたびものをぞおもふ白きこの塔 白玉山上
 眼のまへの櫻の木々もかくのごと大きくなりて秋落葉すも
(240) 一たびを旅順に來なばおもはなむ命をかけしもののみなるを
 導きし友の二人とたづさはり鶉めづらしむ寒きゆふべに 八木沼氏・藤懸氏
 
    南山
 
 金州の驛に著きぬれば日本語にて林檎を賣れり支那の小孩《せうがい》
 此處にして見ゆるなべての山々に木なかりし頃ぞその戰は
 フォーク軍の散兵壕のあとに立ち見さくる時にわがこころ燃ゆ
 曉より日の暮るるまで薄りつつ二千の兵はここに果てたり
 金洲灣を吹き來る冬の風をいたみわれの體もときどき震ふ
(241) 劇しかりその戰のあとどころ冬の深まむ小鳥のこゑす
 この山のかげにかたまる露西亞墓地|女《をみな》の墓もここにあるらし
 おのづから南扇嶋《なんせんとう》の名に負へるこの低山を今くだるなり
 
    千山途上
 
 やうやくに山に入りつつ道すがら山蠶の話を幾つも聞きぬ
 青年のひとり山口に立ちゐつつ「看山《かんざん》」をすと答ふるも好し
 山の間の青雲觀の白菊をただかりそめのものとおもふな
 道觀に飼はるる猫はキヤラメルを今食はむとしてよろづを忘る
(242) 狼のこゑする山と聞くだにもこの一廓《いつくわく》の觀《くわん》のきびしさ
 麓より豆腐かつぎてのぼり來し若き道士と觀にちかづく
 たたなはる山をのぼりて汗垂りし普庵觀にて水を愛《を》しむも
 ここに住む現身《うつせみ》なべて水ををしむ五佛頂上にあはれ泉なし
 
    千山 其一
 
 竜泉に石門ふたつ入りしころ灯赤くすでにとぼりつ
 山寺の冬の深まむことわりに鐘樓いつばいに干す唐辛子
 蟋蟀のこゑぞ聞こゆる山中のこの寒き夜の※[火+亢]《かん》に近きか
(243) 無量觀に鹽漬ありて口ひびく辛きを食へば夜ぞ更けにける
 ひくく吊りしラムプともりて蓴菜の鹽辛きをもこよひは愛《め》でつ
 油燈にて照らし出されしみ佛に紅《べに》あざやけき柿の實ひとつ
 うつせみの眼がさめしかば佛《ほとけ》の山のさ夜中にして驢のこゑ聞こゆ 暗闇に足音ぞするうちつづく足音とおもふ吾の目ざめは
 この山のおのおのの僧あつまりて勤《ごん》は朝《あした》のまだ暗きより をさなくて入り來りけむ幾たりか菩薩となりて出でて行きつる
 この谿のうへの空よりかがやきて星見ゆるをも昨《きぞ》の夜は見ず
(244) 一巌《いちがん》が一山《いちざん》をなすうへにして堂の口より今しがた人入りぬ
 石のうへの小坐禅堂《せうざぜんだう》に文字《もんじ》あり「對此芒芒《たいしばうばう》」「笑爾芒芒《せうじばうばう》」
 色《しき》の欲此處に封じて一冬を越えむとしつつ干す唐がらし
 
    千山 其二
 
 あらがねの香のする水に面《おも》あらふ支那千山のひとつあかつき
 山水《やまみづ》がここに流るればもろもろの落葉の中に下がくれけり
 中腹の小堂《せうだう》に木魚の音せれど千萬の人聞くこともなし
 冬山の寺の木ぬれになつめの實はつかに殘り鳥のまにまに
(245) 桑門にして唐辛子日向に干し白菜積みぬ現身《げんじん》利益《りやく》のため
 あやしかるもののごとくに谷々にあまねく朝の日は差しにけり
 梨の實は木より墜ちつつ終《を》はるあり僧來りあまた貯ふるあり
 狼のこゑがきこゆといふまでに山の夜ふけはあらくしづみぬ
 
    千山歸途
 
 千山の谿をくだりて來し路は中腹にして湧く泉あり
 松の太樹《ふとき》路上にありて下かげに日本のごときおもひをしたり
 いま一つ泉がありて鐵分を含めるといふを共に掬びつ
(246) すでに平地となれるところにいつしかに水激つ音聞くは樂しも
 婦《をんな》ひとり畑を耕す没法子《メイフアズ》の如しといへばあはれに聞こゆ
 白楊《どろ》の木の並木となりて村落のあるところをもなほし歩むも
 おもほえぬ空の彼方となりにけりかたむきて見ゆするどき山は
 沈鬱になりて紅山《こうざん》のそびゆるを吾|一夜《ひとよ》寐し山とおもへや
 
    遼陽
 
 太子河《たいしが》にかからむとして東方に露軍堡のあといまだ見るべく
 城内に較ぶるときは何ゆゑのこのしづけさと問はむとぞする
(247) 乞丐《こつがい》の面前の文字|可憐我的瞎子《クオーレンウオデシヤーズ》、善心的老爺太太《シヤンシンデラオエタイタイ》
 北へむかふ汽車よりおりて遼陽の白塔のもとに二人は立ちぬ
 遼陽の朝《あした》のめざめ鵲がすぐ眼のまへの土にも下りたつ 遼陽館
 遼陽戰の大規|模《も》なりしことおもひ吾等かたみに眼瞼《まなぶた》熱し
 城内を吾等は歸るごみごみと爭ひに似つるこゑを後へに
 口食《こうしよく》の官能をもて朝さむる民のつどひもおろそかならず
 
    黒溝臺
 
 沙河《しやが》對陣の一變化として劇しかりし黒溝臺戰の名をぞとどむる
(248) 吾にては立見《たつみ》尚文彼にてはグリツペンブルクの名をぞとどむる
 ひとときは焔《ほのほ》をなせるミシユチエンコの能働戰をおもはざらめや わが兄の戰ひたりしあとどころ蘇麻堡《そまほ》を過ぎてこころたかぶる
 一月の二十五日は渾河の水すでに氷りてをりたるらむか
 八師團の兵の築きし士堡一部殘れるがうへに暫したたずむ
 我軍の書附いくつも保存せり登殿印《とうでんいん》は七十《しちじふ》になりて
 「大鼻子《ターピーズ》」のせまり來れる方嚮と眼《まなこ》ひかりて登殿印立つ
 わが左翼に雷《いかづち》なしてせまりたるミシユチエンコ軍を語りて止まね
(249) 劇しかりしこの戰をおもふとき渾河を越えて入日のなごり
 うねりつつ流れて來る渾河には此岸たかく彼岸《かのきし》ひくし
 向うよりおりて來れる馬車《うまぐるま》渾河のみづをたちまちわたる
 黒溝臺の夜《よる》ふけにして高梁酒《かおりやんちゆ》の透明のみて醉《ゑ》ひはきはまる
 こもごもに心に迫るものありて黒溝臺の夜をねむらず
 機關銃のおとをはじめて聞きたりし東北兵《とうほくへい》を吾はおもひつ
 太陽の紅くいでしを戀《こほ》しみて暫しして登《とう》と名殘ををしむ
 幾千といふ鴉らの飛ぶを見て渾河のながれおもほゆるかも
(250) 馬車はげまし※[人偏+冬]二堡にたどりつき饅頭《まんとう》くひぬ村人《むらびと》と共に
 平康里《ピンカンリ》の廣告ありて名を示す翠里《ツユイリ》、金鈴《チンリン》、雅琴《ヤチン》、等々
 
    奉天 (遼寧)
 
 低くなりて空に動くに心親しむ奉天に來て雨雲見たり
 奉天の瀋陽館《しんやうくわん》にわが著きて日本女《にほんをみな》のこゑを親しむ
 ここにして大學同級の友ふたり大成潔《おほなりきよし》、森川千丈《もりかはせんぢやう》
 奉天は歴史ゆたかなる都市にして吾を導く八木沼丈夫《やぎぬまたけを》
 「十方《じつぱう》」といふ扁額を見し十分後《じつぷんご》沐浴室を見つつ過ぎたり
(251) 清眞寺《しやうしんじ》黄寺《わうじ》太清宮《たいせいきゆう》をおとづれてやうやく疲る日は暮れしかば
 南門をくぐりし時にいそがしく大山總司令官のこと語る
 奉天の大包圍戰の莊嚴を現のいまによみがへらしむ
 太陽の紅き光はくろずみて奉天のはてに入りゆかむとす
 奉天の吉順絲房《きつじゆんしばう》の屋上に一望としてたたへざらめや
 明湖春飯店《めいこしゆんはんてん》にてのわが手帳|醉蟹《ツオイシエ》、紹興酒《シヤオシンチユ》等のほかに何も無し
 旅とほく來つつ見たりき殿堂の青丹は古りてものは移ろふ
 帝王のいきほひにして年ふりぬ崇政殿《すうせいでん》に「正大光明《しやうだいくわうみやう》」の扁《へん》
(252) 奉天の春日通に米商《べいしやう》あり「胚芽半搗米」といふ貼出あり 三時五十分發長春に向ふ
 
    奉天大成無著居士宅
 
 はるかなる旅とおもふにふた夜さへ君とあひ見ていひ食ひにける
 あわただしき旅のゆくへのひと時を君が家居にこころ休らふ
 
    北陵
 
 日もすがら斷えぬ松風の音のする隆恩殿《りゆうおんでん》に近づきにけり 石獣のそばを過りて朝ざむき苔の上なる赤楝蛇《やまかがし》の子
 磚道《かはらみち》にいつしか草のしげりしが冬のひそけきころとなりにし
(253) 旅びとはすなはち首《かうべ》あげにけり松かぜの吹く大きみたまや
 四つ隅に角樓《かくろう》のあるみたまやを今の現に見て過ぎむとす
 暫して寒さおぼゆる身を安む隆恩殿の石の上の龍
 その後に生《あ》れて大理の石だたみ幾たりか踏みし白いしだたみ
 こもりたる隆恩殿の庭にして冬の光は隈さへもなし
 帝らは次々の代に來たまはむそのしづ心|現《うつつ》にせりき
 乾隆《けんりゆう》の代の碧丹《あをに》なるみたまやの雲は北ゆきて鳥のこゑごゑ
 こひねがひっひに來りし明棲《みんろう》の朱《あけ》のいろ古りぬしづかにもあるか
(254) 日の光させる木立にこもりたるこのみささぎの中《うち》はしづけく
 みささぎのうへに年ふる楡の樹に鵲來啼くひとつかささぎ
 露じもの未だ乾ぬ道に一人をり古への代のいきほひおもひて
 一冬に入らむよすがと寢陵の草に朝々霜ふりぬべし
 黄の瓦碧き瓦のみたまやにしづまりいますことの尊さ
 もどり來て二たび過ぐと隆恩門の紅き扉に吾はむかへり
 
    東陵(福陵)
 
 ひむがしの陵くれ朝靄のひくき國内《くぬち》に渾河がながれ
(255) 天柱隆崇《てんちゆうりゆうしゆう》と歌ひたまへるみささぎは谷のまにまに此處にこもれり
 松木立ふかきにこもる陵よ童子いはく門不開門不開《メンブハイメンブハイ》
 東陵の裏のたをりに國ゆくや渾河のながれ既に見おろす
 紅き扉《と》は閉されありて山の小鳥の聲おびただしあやしきまでに
 この陵の門の屯兵《とんへい》にまじりゐる少年兵のをさなきこゑす
 みたまやの外園をなす淺き谷紅葉すがれて朝のつゆじも
 草の實の赤き採りつつ疱瘡の痕ある童子《どうじ》ここにも遊ぶ
 うねりたる渾河見えそむ秋空のふかぶかとせるその下びにて
(256) つゆじもに濡れたる草にかすかにて音《ね》にしいづるは蟋蟀ならず
 寢陵をのぞみめぐれば親しきや鵲ひくく谷をし渡る
 
    撫順
 
 黒々としてよこたはる炭鑛を天《あめ》が下に見て言ぞきはまる 十月二十七日
 廣大にして露天掘なる炭鑛を旁觀的に吾も觀がたし
 目前に十億噸の石炭を藏することを知れよとぞいふ
 炭坑のうへをしづかにめぐりたり張學良の飛行機一機
 遠くまで指す方を目守りけり大山坑にての犧牲の話
(257) わがそばに克琴《くうちん》といふ小婦居り西瓜の種子《たね》を舌の上《へ》に載す
 野のはての低き家むら見つつ來て撫順の一夜《ひとよ》腹をいたはる
 天然を征服しつつあるところ人の行爲の不邪気迅速《ふじやきじんそく》
 わが體に觸れむばかりの支那|少女《せうぢよ》巧笑倩兮《かうせうせんたり》といへど解せず
 撫順城、舊市街、新市街、すべては渾河の岸に成りけり
 時々に鈍き爆破のおとするを聞きつつ「小心小偸《せうしんせうとう》」の貼紙《はりがみ》見居り
 
    哈爾濱 其一
 
 車房《しやばう》より見えし時のま哈爾濱《ハルピン》近き地《つち》のかぎりに雪は降りける
(258) 寒き日の一瞬に命を殞したる伊藤博文のことをおもひき
 北滿ホテル第三十五號室の鏡にて伸びしわが頤鬚を見つつつまむ
 此處に來てまのあたり吾の接したる雪ぐもり空雪の降る空
 まづ此處に旅の心をしづめしむ露西亞中央寺院支那極樂寺《ろしあちゆうあうじゐんしなごくらくじ》
 をとめ等の顔佳きに會ふ今日の日よ白系露西亞人《はくけいろしあじん》ここにつどへる
 とことはに悲しき碑《いしぶみ》の傍に櫻を植ゑしことを聞き居り 横川・沖兩烈士
 キタイスカヤ街を歩きて混合の都市の動きを今日見つるかな
 露西亞語を日ねもす聞きぬ處女等《をとめら》の往反《ゆきか》ふちまたわれも往きつつ
(259) カウカサス的饌のシヤシリック、ツベリヤンク、カリニエル等並びに透明ウオツカ
 夜ふけてより露西亞をとめの舞踊をば暗黒背景のうちに目守りき
 
    哈爾濱 其二
 
 日本街に日本の兒童歩きゆく心うごけば吾は見て立つ
 立寄りし哈爾濱日本小學校その暖房は豊けくおもほゆ
 幽かなるもののごとくに此處に果てし三瓶與十松君《みかめよそまつくん》を弔ふ
 おのおのの事に從ふを見むとして十五分ゐたる東支鐵道廳
 あひ群れて日本の兒らのわらふこゑ聞きつつしばし涙ぐましも
(260) 松花江を吾等わたりぬ日の光あをじろく低きが背向になりて
 この河の黒龍江となるころはひろびろとして激ちなからむ
 松花江のひくき汀の砂にゐてうたかたのかたまり流るるを見たり
 傅家甸《ふかてん》の街よりさほど遠からず日本人墓地露西亞人墓地
 身近くに支那語の尻ひく發音を聞きてよりはや幾日なるか
 貧民街ナハロフカをも歩きたりすべて行ずりの物とおもはず
 夫人を介して短詩チヤストシユカをいふスキターレツ氏のふとき大き手
 哈爾濱の南市場に痘痕のある女《をんな》の子らを二三人見つ
(261) おなじ街區に猶太寺院二つもあるを心にとめて吾は入りゆく
 ニコライスキイよりの鮭も並びぬ山雉がつるされ並びゐる傍に
 いそがしく街を見まはり踏み減りし石畳道を南へ來るも
 フイリボワの露西亞食店に午食せる二時間のちに去りゆくわれは
 
    滿洲里途上 其一
 
 松花江《スンガリイ》を汽車わたるとき白き泡おびただしくも流れて居たり かりがねの群れて眠らむ葦原のしげりは遠くつづくその果
 遠々し青きいろせる一ところ青きながらに氷りたらむか
(262) 哈爾濱を北へむかへる野のはてにゆふ雲紅くなびきつつあり
 たひらけき國内《くぬち》とおもふたまゆらによく見れば國内おほに起伏す 對青山《たいせいざん》いまし過ぎたり北の空はつかに蒼く哈爾濱をさかる
 雁《かりがね》のわたらふ時は空昏くなるばかりとふそのかりがねよ
 この驛に兵の屯《たむろ》のありしかば少年兵のいで入るが見ゆ.
 あひ群れて空をわたらふ雁《かり》の道さだまり居りといふがあはれさ
 空ひくく雁《かりがね》わたり飛ぶときは羽ばたく音もみな聞こゆとふ
 山ひとつなき空の西くぐもりてほのかに紅し日は入るらむか
 
(263)    滿洲里途上 其二
 
 甜草崗《てんさうかう》に日は暮れむとす隣室よりフランス語聞こゆ男の聲のみ
 蒙古包《もうこはう》の一部が見ゆるのみにして人の音なきところとなりぬ 夜の三時半窗の外に黒き森みえつつ森に雪ふりつもる
 大きなる巖見えしとおもふばかりに隧道となりながしながし
 興安《シンアン》を螺旋の形に登りゆくここに闢特拉《ピテラ》の隧道ありて
 やうやくに興安の嶺のつづきなる起伏がありて夜は明けむとす
 數驛を通過すらしき氣配なりしが平野にうつりたるべし
(264).牙克石《ヤーコシ》に著けば雪降りて居り山の中の博克圖《ポーコト》驛も遙かになりて
 平原にある雪山はおのづから白き石|等《など》を見るにし似たり
 山東の土民百萬|年々《としどし》に移動し來れどいづこに居るや
 雪ふりし一夜《ひとよ》は明けて見るかぎり渺漠としたるところにも川あるらしも
 曇のなかに憂鬱に白き太陽みゆ興安嶺《こうあんれい》を過ぎて走れば
 雪しろく降りたる山のごときものとりとめのなき平野にひとつ
 札羅木特《チャロムテ》に十本あまりの松の樹が見えたるのみに心親しも
 哈克《ハコ》すぎて向へる方は茫々と雪の曇りの涯さへ見えず
(265)朝たくれば海拉爾《ハイラル》に汽車著きにけり露支戰のあと累々として
 眼のまへに怪しきまでに見えそめつ雪降りて白くなりたる砂丘ひとつ 烏固諾爾《ウクノール》
 野のうへに川の流のごときもの見ゆるがなべて凍りつらむか
 おき伏せる山もあらなく降る雪はこのひろき野に多くは降らず
 まばらなる松の樹が見ゆ北国《きたぐに》のかかるところに松の樹あはれ
 雪の野に黒きもの見ゆあはれあはれ流の岸の土としおもふ
 降りつづく雪のあひだに眼にし沁む黄に枯れはてしその原のいろ
 戰爭のあと著明にてしな側の壕のみだれも暫くつづく 赫爾洪得
(266) 木材を積みつつあればわが國の驛のおもひす數秒の間
 羊《ひつじ》牛《うし》馬《うま》の放牧あまた見て旅もはるけき恩ぞわがする
 ひたぶるに汽車は走りて海の面《おも》和ぎたる如き平野みえわたる
 穗の白く枯れたる草がはつか見ゆかかるものさへ身に沁むものを
 平野より高くのぼらぬ太陽を圍みしごとく虹立つあはれ
 
    滿洲里
 
 國境の小さき町に嚴しかる「人のあはれ」をわれに聞かしむ
 慌しと吾はおもふに窓外のすでにくらきは日は入りしかも
(267) 國境ふ小さき町に穉等《をさなら》の日本の歌を聞きつつ泣かゆ
 はるかなる旅路のはての一夜寐《ひとよね》に湯婆《ゆたんぽ》をもて腹をあたたむ
 國境に遂に來りてすき透るウオツカを飲めば一夜《ひとよ》身に染《し》む わがそばに眠らむとするをみなごよ露西亞語少し語り聞かしむ
 葯房《やくばう》の店員なりしとこそ聞け心中したる墓ひとつあり
 私《わたくし》のこころにあらず日本人墓地の小さきいやはての町
 をやみなく雪の降る日に日本人共同墓地に吾と君と二人
 墓標《はかじるし》小さく立ちて戒名の無き儘なるが多きあはれさ
(268) いやはての國の境に住みつきてをとめの身さへ此處に終りき
 春になれば日本人墓地のほとりにも雲雀が群れて啼きのぼるとふ
 ものの音《と》ははやも絶えたる国境の町の一夜《ひとよ》を心しづめむ
 ダライ湖に群れてわたらふ雁《かりがね》の聲もきこえず冬は深まむ
 ものの音《と》も絶えはてにけり滿洲里《マンチユリー》の夜《よ》ふかき空は氷りつらむか
 空低くひとつ浮べる白雲《しらくも》はいづちに靡くことさへもなし
 この朝け空にうかべる雲ひとつほびこることも無くて過ぎなむ
 
    歸途 其一
 
(269) なだらなる國土《くにつち》白くおきふすをおもおもと駱駝の列《つら》が越え行く
 いろいろの國語車房に聞きながら吾も東方に向ひつつあり
 かすかなる心とぞおもふ雪のうへに枯草の穗のなびくを見れば
 吹く風は斷えざるものかたまゆらも形常なき沙漠の上の雪
 たちまちに人の世のさま蒙古|人《びと》紅き衣《え》を著て汽車に近づく この丘を越えつつゆかば乾草《ほしぐさ》を貯ふ部落に行かむとすらむ
 うちわたす曠野《あらの》見えつつ雪白き山の間に黄なる山あり
 かの山におのもおのもの谿ありて雪解《ゆきげ》あふるる水ながれむか
(270) 黒々と亂れしものに雪降れり札來諾爾《チヤライノール》に軍は破れき
 二箇師團の露國の兵の薄りたるあとにも雪は降りつもりけり
 露國兵迂囘し來り忽ちにここに炎はあがりけらしも
 
    歸途 其二
 
 わが乘れる汽車の煙のかたまりはをりをり雪に觸れてなづさふ
 雪降りてなべて障《さや》らふもののなき國士《くにつち》の涯に黒きは何ぞも
 かささぎは寂しき鳥か人住まぬ野の低木《ひくき》にも啼きとまりけれ
 あらそひてつけたる跡もありぬべし雪のへに數多けだものの迹
(271) 汽車のおと過ぎ行きしかば冬の野に羊の群はかたまりうごく
 車房にて幾度まどろまむとしたりしか赫爾洪得《ホロハンテ》驛にもたたかひありき
 松生ふる丘のおきふし見つつゆく汽車は南へ走るがごとし
 おきふしのあやしき色の原中を汽車の窗より眼さへ放たず
 札羅木特《チヤロムテ》にすでに近くて窗の外を吹雪吹き過ぐるありさま見たり
 とりとめのなき平野をば竝車《なみぐるま》乾草つみて幾日《いくひ》かかよふ
 雪ぐもは西へ動きて蒼白き日の光つひに隱れて見えず
 雪ふりてただに虚しく見えわたる此ひろき野を通ふものあり
(272) 海拉爾《ハイラル》を過ぎて幾時か野の上に雪の少き處も見ゆる
 降る雪は大きくなりて日本の春の泡雪に相あへるごと
 丘の上に小《ち》さき墓地見ゆ異國《ことぐに》といへどもなべて心にし沁む
 點在する家見え乾草をかこへるが見え露西亞人ゆく
 興安《シンアン》の山なみ近く來れるかものものしくも曇る空あり
 
    歸途 其三
 
 きびしくも雪の降りたる山越えて馬車はいづこへ行かむとすらむ
 牙克石《ヤーコシ》に日は暮れむとして野のはてに灯火《ともしび》が見ゆ瞬く灯火
(273) 伊列克得《イレクテ》を過ぎてより山の起伏《おきふし》に月あかり差すその奥の山
 午後八時興安《シシアン》に著き暫しして隧道《トンネル》くぐる特殊なるおと
 興安《シシアン》の山脈《やまなみ》つづき通り來て興安嶺《シンアンれい》を月は照らせり
 土に即きて低きともし火《び》時により瞬くごとし見らく寂しく
 野のはてにともしび並ぶさびしさよ一線《ひとすぢ》にして高き低きなし
 雪降れる冬野を照らす月かげは興安嶺《シンアンれい》の西になりたり
 汽車|中《なか》に寐むとおもひしころほひは國土《くにつち》すでに月おちてゐき
 寢臺車の中に目ざめて現身《うつしみ》にありふれしはかなき事をもおもふ
(274) 山東の民ら年々にうつり來てここに耕すひくき家むら
 ひむがしへ一夜《ひとよ》走りし車房より見ゆる哈爾濱の空のあかるさ
 黄に澄める地平の上の空ほそくその上部なる雪曇空
 哈爾濱のあたりの空は黄にあかり雪降りし野に鵲くだる
 時のまの心にあれど枯原に小さき鳥はむらがりておつ
 ハルピンに間もなく著くか松花江《スンガリイ》へそそぐ川見ゆ氷りわたりて
 その半凍りつきつつ松花江《しようくわかう》の濁れるみづに浪たちわたる 【十一月三日午前八時二十五分ハルピン著】
 
    哈爾濱
 
(275) チチハルに雁飛ぶときは太陽の光くらむこと二たび聞きつ
 大部隊の馬賊|夜中《やちゆう》にたちまちに正陽河まで薄りし話
 泰來仁《たいらいじん》、同義慶《どうぎけい》、同豐《どうほう》、大羅新寰球貨店《たいらしんくわんきうくわてん》等々《とうとう》がある
 埠頭街《ふとうがい》二たびよぎりソビエツト小學校のまへにたたずむ
 大きなる支那|餅《へい》を賣る店があり時無きゆゑにただ見たるのみ
 ハルピンの公圍來れば楡の葉の青くすがれて殘る幾ひら
 ナハロフカ區に近づかむとしてこのあたり垂氷《つらら》の長き家見て過ぎつ
 棺商《くわんしやう》が所々目だつ木慶《のくけい》與徳局、徳順成木局等の名を持つ
 
(276)    南下 哈爾濱より長春
 
 東支鉄道從業員の住宅にも防備トオチカ銃眼等見ゆ
 暫くは眼《まなこ》をつむり居たりけり汽車あたたまり南へ走る
 平安も孤獨にあらずまだ暗き汽車に目ざめて何かおもはむ
 つらなめて日の暮るるまで通りけむ轍のうへに雪降りにけり
 もの慣れし樣ならなくに東《ひむがし》にあかねは凝りて低き國士《くにつち》
 紅き雲あやしきまでに厚らにて棚びくときに山ひとつ見ず
 大國を旅ゆく朝やものものしく紅くなりたる雲がなびかふ
(277) 朝くらく哈爾濱を立ち雪ふれる冬野のうへに日は出でむとす
 輝きて雲をいでたる朝日子を稀なるものの如しとて見つ
 長春に近づく頃はかたまれる木々見えそめて親しくなりつ
 露西亞語の三語五語《みこといつこと》おぼえしを片假名をもて書きとむるなり
 雪降りて白くなりたる朝道が向うの村へ入りつつ行ける
 東京に居れば朝寐をするゆゑにかかる太陽見ることもなし
 朝明に長春に著きすぐさまに三十分の時後れしむ
 長春の停車場に來て日本語の電話のこゑを聞ける親しさ
(278) 長春の廣場を日本童子等がしきりに道草《みちぐさ》食ひつつ行けり
 滿洲里のはつえといへる女《をんな》の名友にたづねて手帳にしるす
 
    吉林途上
 
 冬の日は隈なけれども飲馬河《いんばが》の水も氷りぬ北へながれむ 十一月四日
 東《ひむがし》へ吾等むかへば雪ふりて吉林省の山は見えそむ
 飲馬河も遙かになれど水おほき國へ入るらむ心は著し
 下九臺既に過ぎつつ山の間の狹きに家居《かきよ》し畑さへも見ゆ
 眼界はすでに清《さや》けくひくき山幾つつらなる雪降りにつつ
(279) 乾草を山のごとくに積みたりき家のめぐりの防禦のごとく
 親しみてながるる水を見たりしが二たび山は遠くなりつも
 やうやくに心しつかに黒き豚畑に遊ぶを見るべくなりぬ
 吉林《キイリン》に入りても海拉爾《ハイラル》の野のごとく野の上に孤獨なるひとつ山あり
 禾本科の一つなれかも枯れはてし枯草うごく雪のうへにて
 しばしなる點景にして鵲の巣にも雪見ゆ雛は居なくに
 村近く川のながるるところあり農夫の一人が白き馬に乘り來《く》
 士們嶺《ともんれい》より山《やま》地帶となりわが汽車は伐木したる峽《かひ》を過ぎゐる
(280) 永き日の春日《はるび》となればこの山の峽にも杏《すもも》の花にほふとぞ
 隧道のながきが果てて山べなる日向《ひなた》といへど雪はつもれり
 大きなる河ながれゐて國士《くにつち》に降りつもりたる雪かがやきぬ 九站附近
 昨日の夜《よ》にふぶきしものか此山の一方にして雪ぞたまれる
 
    吉林松花江
 
 吉林《きつりん》の市街に據りて松花江《しようくわかう》氷《ひ》にこほりつつ東《ひむがし》むかふ
 松花江《スンガリイ》の空にひびかふ音を聞く氷らむとして流るる音を
 海拉爾《ハイラル》をふたたび過ぎて松花江《しようくわかう》の氷らむ時に吾は會ひにき
(281) この河の氷らむとして流れゆくきびしき音を今ぞ聞きつる
 眼《まな》したにひびきをあげて氷り居《を》る吉林《チーリン》の河はおそろしきまで
 わたりつつ言も絶えたり眼のまへを大き流は氷らむとする
 かくのごと凍りつつ行く河音のひまなき音の何にするどき
 松花江の河の中より音ひびくながれのまにま氷《ひ》の割るるおと
 ひと斷《きだ》の激ちとなりてスンガリイの河の氷《こほり》はながれて止まず
 くにとほく行方《ゆくへ》北向かふ冬河よスンガリイの氷は割れつつ流る
 現なるものにもあるかかかれとて氷《ひ》にこほりつつ逝く河のおと
(282) はて遠くここに迂囘する松花江《しようくわかう》の氷らむとする音のきびしさ
 スンガリイは凍りあひつつ音ひびくその鋭きをまた聞かめやも
 現身《うつせみ》の世のものとしも思ほえず氷りつつゆく河ぞ聞こゆる
 時の間も氷の群はためらはずこの大河《おほかは》をうづめて流る
 たえまなき峻《きび》しきおとは國斷ちて北ゆく河の氷らむ音ぞ
 牛橇は吹雪おとろふる間を求めいまし松花江の氷をわたる
 
    吉林
 
 雪降る日|吉林《きりん》に著きたり日本人吉林居留民會《にほんじんきりんきよりうみんくわい》あり親し
(283) 松花江のきびしき音を聞きしより一時ののち北山《ほくざん》の上
 白雪の降りて氷れる山の上の寺中にして人ごゑ聞こゆ
 暫しくは眼《まなこ》を閉ぢてこの山に吹きすさびたる風もこそ聽け
 風鐸のつねに音する朶雲殿《だうんでん》女《をんな》の神はうすくらがりに
 北山《ほくざん》に白雪積みて樓觀《ろうくわん》をいで來たる人は薪《まき》を持ちたり
 山寺の屋上の雪飛ばしたる風つぎつぎに谷に音せり
 眼のわるき馬等が居ると語らひて一群《ひとむれ》の馬にとほりすがへり
 一袋買ひて惜しむが如くせり長白山《ちやうはくざん》の松の木の實を
(284) しな街《まち》を暫し歩きて簡素なる毛靴を買ひぬ當なけれども
 日本よりの旅人のためスンガリイの鮒のあらひを調理しはじむ 名古屋館
 雪こごるいたき寒さに天つ日の光てれれど外《と》に出でかねつ
 吾面も旅やけしつつ年ふりし山邊の街に今夜かも寢む
 間島《かんたう》のさまを寢床にて聽きをはりあらき水にて面《おもて》をあらふ
 
    吉林より四平街
 
 丘陵の低くなだれてよこたふを道ひとすぢに白きもあはれ
 雪降れる畑の中より家かげに豚の子ひとつ走りくる見ゆ
(285) 冬がれし葦原が見ゆかりがねの屯すること幾たびなるか
 あめつちのひとつ相《すがた》雪の間《ま》にみじかき草のそよぐを見れば
 車房にて支那人唄の稽古をすチエンホー、ジャンハレー、ヤーパン、アアア……
 おごそかに雪降り積みし山を去り長春に來て雪の解くるを見たり 長春
 雪解けて衢のうへに小さなる水脈《みを》をつくるはこころ親しも
 赤土の日向掘り居る苦力《クリイ》等はかくのごとくに暫し住みつく
 原始よりの續をなしてこだはらず此處に假初の家居をつくる
 冬ふけて眞澄の果のなかりける空にひたりて馬の行く見ゆ 長春發
(286) かぎろひの夕べの空のくらむまで鴉むるるも寂しきものか
 沿線に分遣所《ぶんけんじよ》ありただ一人の日本兵《につぽんへい》が其處に立ちゐる
 しな國の旅あはれなり著ぶくれて走る穉兒《をさなご》門に向ひて 范家屯 澄みきりし空に映りて木立なき草さへもなき丘を人行く
 紅《くれなゐ》のころもを著たるシナ童女空をかぎれる線のうへに立つ
 この驛にたまたま駐屯したりける日本兵士《にほんへいし》も耳の保護せり
 丘陵群は分水嶺をなすといふ松花江の支流と遼河の支流と 公主嶺
 
    四平街
 
(287) 家いでて幾夜か寢つるはるばると鴉のおほき國に來にけり 十一月五日植半旅館
 四平街のながき丘まで軍の先鋒せまり來りしことしおもほゆ
 暮れゆける此處の市街よ南下せる旅に疲れて一人寢にけり
 起きゆくと疊のうへの光踏む曉がたの月かたぶきて
 ゆるやかに長き丘陵よこたはる此處にも吾はわかれむとする
 
    四平街より鄭家屯
 
 車中にて賣に來る森永ミルクキヤラメル盛京公司味樂乳糖《せいきやうこうしみらくにゆうたう》
 四※[さんずい+兆]線《したうせん》朝立ちくれば遠々し草枯れし野に消《け》のこれる雪
(288) ちかづかむ山脈《やまなみ》もなき蒙古野の草のかぎりは冬枯れにけり
 わが汽車の行《ゆき》のまにまにめぐりくる沙漠の涯に見ゆるは何ぞも
 おほどかに脹みたりと見るまでに遼寧の野は光にきらふ
 
    オポ山(※[咢+おおざと]博山《おぽさん》)
 
 天のしたのこの國士は起伏も崩《なだ》れもあれやは枯れて冬さぶ
 古への奚王嶺《けいわうれい》の名をもてるこの小さ山も蒙古野の中
 見はるかす天の最中におのづから雲も起らずいやはてのくに
 けむりなし溶けむとぞする蒙古野の空にひびかふ雁も聞こえず
(289) ものなべて虚しくもあるか暮れむとしつつこの天《あめ》を動く雲さへもなし
 まどかなる天《あめ》をかぎりて蒙古野のきらへる涯《はて》に陽はおちむとす
 ここに立ち限りも知らにおぼおぼしにごりたゆたふ天《あめ》を見むとす
 空の涯のくれなゐの日をふりさけて東蒙古の山の上にたつ
 一つだに山の見えざる地のはてに日の入りゆくはあはれなりけり
 現身《うつせみ》の住むとふものかけむりなす此士の上にくぐもりたるは
 遙かなるものはおぼろに溶けゐつつかぐろき處人は住まむぞ
 この地《つち》に相對ふとき原始《はじまり》の人世《ひとよ》おもひて心足らはむ
(290) ※[咢+おおざと]博山《おぽさん》のふもと通りてゆく道は遠きはたてに見えずなりたる
 山川の清けきを來て極みなき波がたの國振りさくわれは
 
    鄭家屯
 
 このあたり群れとぶ雁《かり》は羽ばたきの聞こゆるまでに低くゆくとふ
 聞くにだに心|充《み》たむを思ほえてかりがね渡る空をこほしむ
 この空をすでに黄河《くわうが》の以南までわたらふ雁は渡りつらむか
 鴻雁《こうがん》の羽ばたく音が川面《かはづら》の谺響《こだま》とならむころをしおもふ
 土ほこり風吹きあげて街中を昏くするとき吾等歩きつ
(291) 目前に石塀《いしへい》があり學良の話聽ききつつそれを見て居る
 滿鐵の業《げふ》の尊きを對談に云はざりしかど事眼前にす
 鄭家屯事件を語る君が眼のかがやく時は一秒程のみ
 卓の上に支那史年表を粘りつけて興亡劇甚の念を惜しむと
 日本《につぽん》の茶室造りの部屋に寢て夜ふけむとする月かげが見ゆ
 小房に心やうやくしづまりてこの遍歴を感謝すわれは
 
    金山驛
 
 此處よりは未だ見えざる部落まで驢に乗りてゆく人にしあれや
(292) この夏に溢れし水に此處にても平たくなりぬ土の家居は
 驢に乘りて行ける人等は砂山のうねりのかげになりて見えずも
 赤き棺《くわん》ぼつりと野の上《へ》に置かれたり人死しぬれば悲歎せられて
 放牧の牛驢羊がうちまじり物襲なく見ゆるたのしさ
 ことごとく平たくなりて一部落流れし跡あり殘念もなし
 或處に來れば沼地に見え隱《がく》る細きながれもありとおもはむ
 野の上を横向きて行く人見れば驚くばかり長身に見ゆ
 
    歸路(四平街迄)
 
(293) いしなべて見るものもなき枯原に土の家群《いへむら》が時に聚《かた》まる
 地平のうへに淡然《たんねん》に置かれたるものの如くに孤山がひとつ
 土の家くづれし跡が幾つもありほしいままにも家移りたる
 氣安くも家移りゆく民あらむ馬牛などを引連れながら
 野のはてにかすかに見えし黒きもの近づけば高々と積みしほし草
 あるところにては部落の眞近くに氾濫したる砂原のあと
 はつかなる茂みがありて雉子《きぎす》飛ぶかかる機縁もわれに親しき
 夕がたに近くわが汽車さしかかる遼河の砂原もりあがりたり
(294) 地平より大雲いでてかがやけど空のひろらに驚かざらめや
 礙《さまた》ぐるものなき空のむら雲の雲の末邊に雷《らい》鳴るきこゆ
 平より平にわたるこの空に充つらむ雲しおもほゆるかも
 
    奉天
 
 二たびを奉天に來て居るひまに「乾屎※[木+厥]《かんしいけつ》」の事を知りつる
 ゆふぐれの厚徳福《こうとくふく》に入り來り※[火+考]羊肉《かおやんりよう》の煙《けむ》の香|愛《かな》しむ
 
    八木沼丈夫氏に寄す
 
 日を繼ぎて遠山河の涯《はたて》までわれ導きし君は痩せたり
(295) はるかなる旅なりしかばつつしみて酒|醉《ゑ》ひしれしこともなかりき
 導きし君がたまものやこれの世にありがたしとておもひ堪へずも
 とほき旅なほし行かむとおもふにも共に飯《いひ》食はむ君なしにあはれ
 君なしに寂しけれども今ゆのち一人旅路の幾夜か寢ねむ
 北平はなほし遙けしさむぐににひとりになりて吾は行くべし
 君なくて直《ひた》にし寂し大き國流るる河をわたりて行くも
 くもり夜を君にわかれむひとりなる行方は白雪の降り來む旅ぞ
 
(296) 北平漫吟
 
    北平途上
 
 地平より鋭き山の見ゆるとき未だかがやくあかつきの月
 黒々と見えはじめたる山なみの前方に一色《ひといろ》の平沙あり
 峨々としてそびえし山のつらなりに小さき三角の山がこもれり
 鋭くも嚴しき山のそばだつをみなもととして河ながれ來る
 寒風《さむかぜ》の吹きのまにまにひとしきり鶉飛ぶ見ゆ水あかるべに
(297) 窓外《まどそとに》に見え來《きた》りつつ幾百か赤土の墳墓かたまりあへる
 ひと色となりて平《たひら》はよこたはる鋭くとほき山のかなたに
 時により心きびしきものにして平野のうへの好山《かうざん》とほし
 目のまへを鵲が飛ぶ鵲は水濱《すゐひん》にも飛ぶかなしき鳥か
 ひろがりて來《きた》る視界に波動のごと小鳥むれ飛ぶ何の鳥かも
 山脈《やまなみ》は極まりて見えず黄に枯れしたかき葦むらいづこまでつづく
 山のうへにうねりて行ける石の城なほ山とほく長き城はや
 年古りし山の砦のうねれるを海べの關《くわん》にはじめて見たり
(298) 山海關《さんかいくわん》よりおこる山脈たたなはり奥《おき》の山には雪降りにけり
 寒空《さむぞら》の雲に觸りつつ長城《ちやうじやう》はうねりて行けり幾谷わたる
 日本《につぽん》の汽船も居りて白浪のとどろき寄する海のべ行くも
 海のおとにぶくしながらたかまりし砂丘のさまも島國《たうごく》ならず
 やうやくに遠ざかるころ海のうへにかすかなる雲浮きつつゐたり
 ひむがしに山海關の山脈は後《しり》へになりぬ日に照らされて
 川青くうねりて流るるを見れば民の營み此處ゆ近からし
 旅人は時に感傷の心あり犬ひとつゐて畑《はたけ》を歩く
(299) 山東を來れば一つなる相《すがた》にて山の斜面にいまだ穴ごもる
 石門を過ぎつつ目路の近くにも青き畑を見るべくなりぬ
 冬の日の光やはらかき眞晝どき水のにごれる※[さんずい+欒]河《らんが》を過ぎつ
 山に沿ひて流れてきたる大きなる※[さんずい+欒]の白沙に寵卷のぼる
 しばらくは平野を走る遠そきて見ゆる山々藍になりたり
 ※[さんずい+欒]縣を過ぎて幾時の眺めかな紅《あか》くつらなる山の上の觀
 あまつ日に照らされし地平の彼山は沙漠の山と相見る如し
 旅とほき吾にもあるかしな國《こく》に低くよこほる黄なる山々
(300) 北平《ペーピン》のはじめの旅に露西亞人と吾は起臥すひとつ車房に
 山々はやうやく盡きて平原を行き行くとき緑の林を見たり
 たちまちに大き鹽田の連りに雁《かりがね》とびまた海のうへの空
 冬河がここに流れぬ向つ岸見えず濁りてあふれむとする
 沼水《ぬまみづ》のひかりてゐるを幾處《いくところ》にも抱《いだ》きてとほき葦原があり
 おもはざる沙漠見え來て直線の運河鑿りあり海に到るか
 冬ふけし空につづくと見るまでに白河《はくが》の水は濁をあげぬ
 棉の畑《はたけ》わが眼のかぎり續きたり夕ぐれ天津《てんしん》に近づけるとき
(301)我心既におぼろに車房より青き麥畑《むぎはた》しばらく見えつ
 あたふたと他の寢臺車に乘換へぬ天津|總站《そうてん》に著きたる吾は
 天津の城内にいま天つ日落つ紅色《こうしよく》になりてはや光なし
 ひろらなる國のはたてに落ちゆきし光のなごりしづまむとする
 ものなべて安息《やすらぎ》としも入りつ日の紅き光はなごりをとどむ
 天津を過ぎてより暫くひろごりしあかきなごりは寂しかりしぞ
 くれなゐの殘りの光消ええがてに遠き低處《ひくど》にこもりつつあり
 われひとり目守りてゐたるあまつ日の餘光はながし發車せしのち
(302) 天津を過ぎ來し空にのこりたる入日の光とほく褪せつつ
 はて遠き空の光は黄に殘り陸《くぬが》ぐらしも二たびを見ず
 
    故宮
 
 大和門《たいわもん》にこの身ちかづく青銅の獅子の頭《かしら》のこの大きさよ
 大和殿の階《かい》を歩みて空が見ゆなべてこころを豐かならしむ
 時のまは夢のごとしと大和殿の前面の階を歩みてくだる
 中庭《ちゆうてい》を水はゆたかに流れたり北海《ほくかい》の水をそそぐとこそ聞け
 傍觀者のこころになりて大和殿も禮元殿もわれは看過ぐす
 
(303)    萬壽山昆明池
 
 仁壽殿のまへの白松《はくしよう》樂壽堂のまへの杏も今は年ふる
 水邊をめぐり來りぬあな清《すが》しここの木立《こだち》に啄木鳥《きつつき》住むも
 昆明の池海《ちかい》の上に風のむた寒き浪よる水脈《みを》のひかる間《ま》
 白松《はくしよう》のそそる大樹《おほき》を吹きゆきてこの閣のまへにしばし風止む
 佛香閣《ぶつかうかく》登らむとする石階《きざはし》に吾ひとり蹲《しやが》む旅につかれて
 西の空風ににごりて澄まざるをこの高樓《かうろう》のうへに見てゐつ
 高きより目蔭《まかげ》するとき西山《せいざん》を越えて吹きくる砂けむり見ゆ
(304) たかだかと吾等登りぬ極まりに「衆香界《しゆうかうかい》」の額の閣あり
 人ひとり水汲みのぼる勞生がこの高きより暫らく見えつ
 冬さむくなりたる空におぼろにて玉泉山《ぎよくせんざん》のあららぎが見ゆ
 日にきらふわが眼下《まなした》のみづうみに波だちてくる水脈も見るべし 古への人も見たりき閣のまへの砂に棗の赤き實が落つ
 昆明《こんめい》の湖《うみ》のみぎはに日はさせど水泡《みなわ》かたより氷りつつゐる
 五方閣《ごはうかく》に鏡ありたる歴史をも茫々として旅人聽くも 義和團事變
 
    玉泉山
 
(305) 西山を後背にして清けかり玉泉山の白塔ふたつ
 われの來し玉泉山の白松は空にせまりて鳥さはに啼く
 白巖《しろいは》の打つづきたるところより汀《みぎは》におりぬあはれすがしさ
 「天下第一泉《てんかだいいつせん》」にして湧く水は水泡の玉と湧きまきのぼる
 この清きいづみの上にもろ共に鴨浮びゐて樂しきろかも
 
    天壇
 
 遠くより仰ぎつつゐて天壇のこの象徴のまへに來りぬ
 天壇の白き石階《せきかい》に身をかがむ帝王踏まぬ六《む》つの雲の龍
(306) 朱の柱|赤金《しやくごん》の柱立ちたるをただ色彩を好むといふや
 遙かよりその形態の全きをさながらに見むとほき旅路に
 祈年殿むかうにありてわたりくる冬風さむし石の上を行く
 むらさきの三蓋をもて空に涵《ひた》りたる天壇に吾も近づきしはや
 寒々としたる一日《ひとひ》よ天壇の森ふかくして鳥しきりに飛ぶ
 殿堂になべて照りたるあまつ日もやうやく低し風音《かざおと》きこゆ
 天壇の五色《ごしよく》の石を見るときは五つの山を相見るごとし
ひだ                  
 あきらけき襞を持ちたる山五つわが身|近《ぢか》くにありとこそおもへ
(307) 砂のうへにしづまりてゐる石五つ苔生ふることもなくて年ふる
 そびえたつこの殿堂の背《はい》なすはうなはち「天《てん》」なることをおもはむ
 澄みきりし空に直ちに立てるものこの殿堂に起臥す人ゐず
 天壇にて日の落つる見ゆ言ひがたきからくれなゐに極まりて落つ
 
    城門城壁
 
 北平の城壁に對ひて心なごむしな國《こく》にあるこの城壁よ
 突出する角樓《かくろう》の面《めん》の直角《ちよくかく》を見む人飽かず厚きこの樓
 並びつつある城壁の突出が遙かの方におぼろになりつ
(308) 大きなる城門具ふるこの都市を平和にいくたびか人いりて出《で》けむぞ
 日本を輕蔑したる文字のこり正陽門《せいやうもん》に人はむらがる
 鹽負うて城門外に休みゐし駱駝の列がうごきはじめぬ
 營々としたる人等は前門の五牌樓よりなほくぐり來る
 黄瓦の天安門の裏がはをわれは歩みてしばしば休らふ
 
    北平圖書館
 
 海棠も白茅《はくばう》も猫も同樣に目につくと言はぼ君|謔《ぎやく》せむか
 明の御製|大誥《たいかう》は表紙|藍《らん》、宋板《そうばん》周禮に君子堂の印
(309) 乾隆十九年甲戌科會試録あり保存丁寧にしてなべて感あり
 居仁堂《きよじんだう》は西洋式の館にして袁世凱も此處に住みにき
 典籍といへど生けるが如かりき永楽大典《えいらくたいてん》文苑英華《ぶんえんえいくわ》
 朱の印は此處に現《うつつ》に尊かり「避暑山莊」「太上皇帝|之寶《しはう》」
 排日の思想は近代のものにしてこの典籍と諧調無しも
 君とふたり會釋し其處を通りたり寫字生群の飯くふところ
 
    喇嘛廟
 
 朱の衣|黄衣《きごろも》とりどりの喇嘛僧に童幼の僧まじりて行くも
(310) 釋迦如來其他と共に廟内のうす闇に歓喜天のいろいろあり
 雍和殿には佛像ありて經卷も山のごとくに此處にすすびぬ
 大佛がここにも一つ聯にいはく「定光澄月相慧海湧潮音《ぢやうくわうちようげつさうゑかいゆうてうおん》」
 西藏語のオンマニバトメーホンといふ如くに聞こゆるを繰かへすなり
 
    孔子廟辟雍殿
 
 柏樹より青き實が落つ順帝の甘雨しのびて手に取り持つも
 石階の神路五龍のそばに立つ天子もよきて踏ましたまはぬ
 雲と共に龍を彫りたるこの階ををさなき帝《てい》ものぼりけらしも
(311) 孔子廟に石柱しろく並び立ち地震なきこの國土しおもほゆ
 殿《でん》の内に棕櫚の敷物年ふりて至聖|先師|孔子《くじ》神位います
 圜水も周の遺制に則取りて古へをおもふ飛行機飛ぶ世に
 辟雍殿の石階に差せる日の光乾隆ここに學したまひき
 この殿《でん》のうすくらがりにみづからの靴音ひびく何をかおもはむ
 孔教を陳腐としたるともがらは東海|姫氏《きし》の國をさげすむ
 しづかなる辟雍殿の石の牀《ゆか》外の光のさすところあり
 われ等|穉《いとけな》くて敬虔を養ひし聖人の廟の内にきたりしかな
 
(312)    萬里長城行
 
 精華園|車站《しやてん》に近き家々の屋根には白く霜ふりて居る
 清河驛を過ぎて山上にうづまる如くにして元代の兵營の見ゆ
 城塞の走る大行山脈のその奥處《おくが》には雪降りにけり
 ひといろに冬さびにけるこの山も夏さりくれば青くなるとふ
 柿の木の多きを吾は愛でにけり十三陵の近くになりて
 この關《くわん》の谷にせまれる斷崖《きりぎし》に烽火臺あり見つつ樂しも
 吹く風のしづまりたるか白き雲|線《すぢ》にたなびく山をめぐりて
(313) とほくこの關の峽《はざま》をいづる川ひろくなりつつ川原《かははら》が見ゆ
 年ふればおのづからなる理に塞《さい》は幾筋もありし跡あり
 穀物のたぐひを負ひて遠々しこの關越ゆる馬の一列《ひとつら》
 このはざまをくだりつつある驢の群は五十ほどづつ續くがごとし
 一山《いちざん》を越ゆる青龍橋に吾くだる消のこる雪をしばしばに見て
 驢のむれは人のたづきの物負ひて日ねもす南の關《くわん》までくだる
 支那兵が柿を食ひつつ歩み來る南口驛《なんこうえき》に霜しろきとき
 石門に「居庸外鎭《きよようぐわいちん》」の赤き文字旅びとわれの心にし沁む
(314) 長城は嘉谷關《かこくくわん》まで延ぶといふ高き峯より高きに即きて
 ひとつ脈は山海關にひとつ脈は甘粛省《かんしゆくしやう》の嘉谷關まで
 山襞はこまかくなりてその峽《かひ》の雪吹く風の音ぞ聞こゆる
 遠山は藍に澄み雪をかうむりぬ八達嶺《はつたつれい》に吾の立つとき
 一擧して拔きしにあらぬこの砦《さい》もほとりに戰《たたかひ》のあとをとどめつ
 
    中海南海瀛臺
 
 中海《ちゆうかい》の蓮《はちす》は枯れぬほうほうと葦の白花《しらはな》飛べる鵲 中海
 白き橋ひくく懸かりてこの海の南の方に氷はりゐる
(315) この海《かい》の心|細《くは》しく白き橋の襴に小さき獅子をかざれり 南海
 瀛臺《えいたい》のベツトの側の樂書をわれは愛《を》しみて寫し歸るなり
 南海のひくき汀の水のおと鴨のたてたる音を傳ふる
 南向く階より直ちに水となり迎薫亭《げいくんてい》に波の寄る見ゆ
 紫の屋根の瓦の霜解けぬ湛虚《たんきよ》・春明《しゆんめい》の文字をとどむる
 南海にもとほりぬれば北海《ほくかい》の白き樓閣《あららぎ》ここよりも見ゆ
 
   景山北海
 
 明の思宗《しそう》殉國したる悲しきを楡の樹《き》うゑて現世に傳ふる 景山
(316) のぼり來しここの高處《たかど》に白松《はくしよう》の風を聞きつつ立ちつくすべし
 北平《ペイピン》に入りくる駱駝の一隊が小さくなりて眼下《めのした》に見ゆ
 紅き鼓樓背後の鐘樓東北にあたりてとほき雪かがやく山
 景山にのぼり來りて樂書をわれ寫し取るかなしきゆゑに
 今日此處に來て爪ながき宦官といふものをはじめて見たり 壽皇殿
 乾隆の考賢皇后のおん像《すがた》は囘々《ふいふい》にして龍に乗りいます
 十刹海《じふさつかい》は古文人の愛でにしを現代青年はただ素通りす 北海
 北海の水さむざむとしづまりて何に鳥群るる多きこの鳥
(317) 大き鷺水のなかにて動かざり配合としてかささぎ鴉
 太陽が朱色になりて西山《せいざん》に入るを見て居り樓のうへの吾
 
    陶然亭其他
 
 太柵欄《たいさくらん》の街をとほり來て天橋《てんけう》の大衆劇を外よりのぞく
 西南陽外城の一廓にも制限のなき墳墓のかたまり
 ふかぶかと葦はしげりてきこえくる幼童《をさなご》の聲々鳥のこゑごゑ
 雪の降るまへのしづかさの光ありて陶然亭《たうぜんてい》を黒猫あゆむ
 冬さびし陶然亭の石だたみの隅に柔かき光さし居り
(318) 見わたしのほしいままなる葦原を越えつつ城にのぼる道見ゆ
 いにしへの人の愛でにし此の亭の廊のうすくらがりを暫し歩む
 おのづから心しづけし黄に枯れし葦間の水に落つる鳥あり
 此處にしも冬ふけぬれば土掘りて野菜をかこふ佛の寺に
 牛街《ぎうがい》を吾等とほりぬここに住む民の多くは豚《とん》を食らはず
 囘々《フイフイ》の禮《れい》拜堂に「率由舊章《そつゆうきうしやう》」の文字ありて疊に似しものを敷く 清眞寺
 慶親王の「清眞古教《せいしんこけう》」の扁のある囘々寺の亞刺比亜の文字
 牛街《ぎうがい》の西寺《さいじ》はいまだ暗からず窓より光さし來るに居り
(319) 法源の寺に來りてくらがりに僧群れて食《しよく》をするをぞ見たる 法源寺
 驚くばかり年ふれる白松と竹林とあり天|王殿《わうでん》は側《わき》より入りぬ
 明の崇禎・正統・萬暦、清の雍正云々の碑ありいそぎて讀みぬ
 最もうしろに人のしはぶきなかりけり嚴淨昆尼《ごんじやうこんに》の扁額潜む
 
    歸路 【十一月十九日午前八時二十分北平發】
 
 城壁を忽ちに過ぎ遠ざかるこの旅心言はましものを
 目のまへをすみやかにして黄色なる風はうつろふ河を越えつつ
 白鹽《しろじほ》を盛りあげしやまつらなれり奥の遠きへ運ばれゆかむ
(320) 畑中に人を葬るさまが見ゆ馬ひとつ其處に佇み居りて
 女《め》の子らが赤き衣《ころも》に著ぶくれて走りて來たるこの汽車を見に
 冬の日は暮るるにはやく寒々としてうねりたる連山見えそむ
 けふひと日曇れる空にまじはりて山海關《さんかいくわん》の山は近しも
 大國《おほくに》の海よりおこる冬山のむらがりて天《あま》そそる寂しさ くれかかりたる西空《にしぞら》の一ところほのかに紅し日のなごりにか
 暮れ入らむ地平のうへにただひとつ黒き山見ゆ人居るらむか
 十日まへ此處を過ぎしが今朝の朝け渾河の水は氷りわたりぬ
 
(321)  朝鮮・日本本土
 
    朝鮮
 
      十一月二十日、午後奉天を立ちて朝鮮にむかふ。池内氏おのれと行をともにせり。大成潔氏驛頭に見おくる
 
 車房よりはやく移ろふ眼に低く起伏す山も白くなりたり
 奉天を吾たちくれば雪もよほすくもれる空の奥に山見ゆ
 やうやくに心しづかに吾が友と安奉線《あんぼうせん》をみなみへ走る
 煙突はふとぶととして夜《よる》ながらけむりは赤くいろづきのぼる 本溪湖製鐵所
(322) わが汽車の音とどろきて鋭きは隧道《トンネル》か橋か渡り居るらむ
 窓の外に氷れる雪が殘りゐて今日降りたるらしき雪にあらずも ※[奚+隹]冠山驛
 くぐもれるごとき響に間《ま》がありてわが乘れる汽車山に入りけらし
 
      午後九時安東著、安東にて時を一時間すすめぬ。ひと夜あけて、二十一日曉に朝鮮を南下す
 
 朝鮮のあかつきにして吾は見つ時雨のあめの過ぎつつ行くを
 うつせみのわれの一世《ひとよ》に幾たびかかかるしづけさ見むとし思《も》へや
 朝あけて見れば山々はもみぢしておしなべて國の稻を刈り干す
 親しみて國をし見れば朝はやく道を歩むは韓人《からひと》のみなり
(323) をりをりは窓ゆ乘りだして見て過ぐる水田《みづた》の水はいまだ氷らず
 朝あけの黄にいろづきて雲すこし山の低空《ひくぞら》に見えつつあはれ
 米を負ふ牛ひとつ引き行くも見え朝鮮のくに冬はふかまむ
 この國は暖しといふべきか北韓山《きたからやま》に雪もあらなくに
 山もとの小沼《をぬ》につどひて鴨鳥《かもどり》のゐるさへ親し異國《ことぐに》ならぬ
 
      十一月二十一日午前京城著。總督府、講演、博物館、昌慶苑
 
 旅ごころ新たになりてのぼりゐる勤政殿より低山が見ゆ
 魚水門のまへに白檀の一木《ひとき》ありあわただしきに心とめつも
(324) 松かぜの吹きしく時に王宮を見めぐりありくこのゆたけさよ
 この苑の中にしづかに傳へたる親蠶歡民《しんさんくわんみん》は王の御言ぞ
 ひろびろし苑の中なる奥まりに雨をよろこぶといふ亭があり
 ふかぶかと落葉してゐるところあり玉流泉《ぎよくりゆうせん》は眞近かるべし
 白虹《しろにじ》の起るといひて誇りにし古へびともあはれ親しき
 王宮の秘めたる苑にめぐりあひ時雨にぬるる栗の毬ふむ
 きよらけく成りし御苑といふべきかこの一言もおのづからにて
 來し方に松かぜの音きこえつつ望春門をわれはくぐれる
 
(325)      食道園《シツタウウオン》に會食す。妓生、林春紅、康g花、金花子、南山紅、宗蓮花等侍し、歌舞音曲をほしいままにす
 
 白妙のころもを著たるたわやめと辛き食物《をしもの》くへば見に染《し》む
 まをとめのうたへる聲はかなしけど寂びて窒《とどこ》ほることなかりけり
 ともし火のもとに出で來てにほえ少女《をとめ》が劍を舞ひたるそのあはれさよ
 アリランの唄は峠を越えてゆく君をおもひて愬《うつた》ふるなり
 
      十一月二十二日、朝鮮神宮、經學院、大成殿、雅樂部等
 
 北ぐにの旅はるばるにをはり來て神宮《みやしろ》の石のうへに額ふす
 しぐれの雨とみに過ぎつつゆたかなる漢江のみづふりさけにけり
(326) をのこ等に打たれけむかも紅色《こうしよく》の皮弁《ひべん》といへる古樂器《こがくき》ひとつ
 
     十一月二十三日、東大門、清凉里、郊外等
 松の樹に暴くふ鵲かく低く巣くへるみれば和《のど》にありけらし
 いとけなく過ぎましし晉殿下のみささぎにむかひかなしむわれは
 たまゆらの時を惜しめば出でて來しけふみささぎの砂道こほる
 砧うつおこなひも見て家ひくくかたまりあへるところをも過ぐ
 清凉寺はひそけくありきをとめごの尼も居りつつ悲しからねど
 上元周のグロテスクなる立像も形式ありてみだりにあらず
(327) 新堂里まづしき町をとほりたりいつの時代《ときよ》ゆここに貧しき
 松落葉家の軒したに積みためて冬ごもりせむなべてひそけく
 
     十一月二十四日、午前九時四十分、京城驛にて平福百穗畫伯(岡田三郎助、富澤有爲男、中村良造三氏同道)に會ふ。午前十時予も共に京城驛を出發す
 
 滿洲里《マンチユリー》に吾が行きしより日日《かが》なべて待ち戀ひ居りし君にあひにける
 あから頬《ほ》をゆたかにしつつ西此利亞《シベリア》を走り來れるそのあから頬よ
 
    日本本土
 
     大邱驛午後五時、夜、徳壽丸にて海峽を渡る.十一月二十五日午前七時門司著。下關山陽ホテル小憩。下關を發し小郡降(328)車、中村憲吉君と會し、午後小都を發し、山口、津和野を經て益田に至り、青木屋旅館に投ず。翌二十六日、益田の萬福寺、醫光寺を訪ひ、高津の人丸神社に參拜す。歸途、予北平以來携帶せる小手帳紛失せることに氣づきたるが、捜索を青木屋番頭に託し、三人大社に向つて出發せり。翌二十七日出雲大社參拜。青木屋に電話にて問ふに手帳いまだ見つからぬといふ。予一人大社を立ち益田著、人丸神社に二たび參拜、手帳捜索の手續なし、雪舟終焉の地を吉田村に訪ふ
     十一月二十七日、午後四時四十分益田發、汽車横田驛を過ぎし時、驛吏來りて手帳發見のことを報ぜり。予の心安堵し、小郡を經て午後十一時五十五分廣島著。驛前吉川旅舘投宿、
     二十八日午前八時四十分廣島を發して布野に向ふ
 
 廣島のあがたを來れば刈りのこる稻田もありてまだ暖かし
 もみぢせる山峽《やまがひ》をわが汽車ゆくと汽車の煙は草にうづまく
 しづかなる川は見えつつ山峽を南のかたに繞れるらしも 戸坂《へさか》驛
(329) 石原に沿ひて立ちたる家むらは石垣高く築きてありぬ
 川の瀬のはやきところも見えわたり北に向ひて川上となる 矢口驛
 高原《たかはら》とおもほゆるころ山がははにはかに細くなりたるごとし
 日だまりのかたちをなせる畑中に稚兒《をさなご》をりて何か競へり
 わが友の生れし國をながれたる川の瀬ごとに魚かも遊ばむ
 ほそき川北へむかひていつしかも分水嶺を越えてありけり
 まどかなる心のごとく吾居りて三次の驛に汽車は著きたり
 北へむかふ備後のくにの冬川を筏は流る人ふたり居り
 
(330)     十一時三十五分三次著、直ちに布野に至り、平福、中村ふた
りと會合す
 ここにして三人《みたり》あつまり樂しくももの定まれる顔付をせり
 うしなひし物見つかれる顛末もあはれに響くユーモアーのみ
 現身《うつしみ》の吾もこよひはたのしくて君の鼾のそばにいねたり
 
(331) 後記
 
      〇
 歌集「連山」は私の第八歌集で、滿洲吟其他、七百五首を收め、私の四十九歳の時に當つて居る。
 私は昭和五年十月に滿鐵から招がれ、八木沼丈夫氏の案内で滿洲の各地を巡遊した。大連(十月十六日、十七日、十八日)。旅順(十七日)。金州・南山・熊岳城(十九日)。湯崗子・千山(二十日、二十一日、二十二日)。鞍山(二十二日)。遼陽(二十二日、二十四日)。黒溝臺(二十三日、二十四日)。奉天(二十四日、二十五日、二十六日)。撫順(二十七日、二十八日)。奉天・長春・哈爾濱(二十八日、二十九日、三十日、三十一日)。
 滿洲里途上(三十一日)。滿洲里(十一月一日、二日)。歸途・哈爾濱(三日)。吉林・四平街(四日、五日)。鄭家屯・オポ山(六日、七日、八日)。八日奉天で、八木沼氏と別れた。北平遊行(十一月九日、十日、十一日、十二日、十三日、十四日、十五日、十六日、十七日、十八日、十九日)。十九日午前八時二十分北平を發して奉天に向つた。橋川氏夫妻、杉村氏、池田氏、伯氏等見おくられた。
(332) それから十一月二十日奉天を立ち、朝鮮に來り、二十一日京城著、二十四日、京城驛にて平福百穗畫伯と會ひ、二十五日門司著。小郡にて中村憲吉君と會ひ、三人にて山陰道にまはり、二十九日三人布野に會したのであつた。 この滿洲巡遊の歌は、滿洲の風物が私にはじめての經驗なので、なかなか旨くはまゐらなかつた。それでもその時々にいそいで手帳に書きとどめたのを少しく推敲して整理したのであつた。
  饅頭を頬ばる時も痘痕ある顔一面を笑みかたまけて(碧山莊)
  鉢卷山と簡素なる名をつけて薄《せま》りてゆきし山は近しも(盤龍山)  年ふれる壕のなかよりわが兵の煙管出でしと聞くが悲しさ(二〇三高地)  たたかひの激しさもはや超えはてて一かたまりに迫りゆきにし(同)
  一巖《いちがん》が一山《いちざん》をなすうへにして堂の口より今しがた人入りぬ(千山)
  「大鼻子《タービーズ》」のせまり來れる方嚮と眼ひかりて登殿印立つ(黒溝臺)
  ものの音《と》ははやも絶えたる國境の町の一夜《ひとよ》を心しづめむ(滿洲里)
  雪ふれる冬野を照らす月かげは興安嶺の西になりたり(興安嶺)
 このやうた歌がある。そのころ、少し骨折つたものであつたが、時を經てみると、どんなものであらうか。「一巖が一山をなす」などといふ句も、事實をとらへたものであるが、或は趣味で(333)作つたもののやうに取られまいとも限らぬ。また、興安嶺の歌も、「興安嶺」といふ名があつて、はじめて趣をなすのであるが、全體として趣を得たかどうか、短歌は形式が小さいだけなかなかむづかしいことが分かる。
  松花江の空にひびかふ音を聞く氷らむとして流るる音を(吉林)
  眼《まな》したにひびきをあげて氷り居る吉林《チーリン》の河はおそろしきまで(同〕
  見はるかす天の最中におのづから雲もおこらずいやはてのくに(オポ山)  一つだに山の見えざる地のはてに日の入りゆくはあはれなりけり(同)
 吉林の松花江の冬の流はまことに深嚴なものであつた。いくつか連作體にして見たが、力が足りなかつたやうにもおもふ。これも固有名詞を入れないと、全體があらはれないだらうと思つて、入れてみたが全體の調和がとれたかどうか、おぼつかないであらう。
  峨々としてそびえし山のつらなりに小さき三角の山がこもれり(北平途上)
  たびびとは時に感傷のこころあり犬ひとつ居て畑を歩く(同)
  沼水のひかりてゐるを幾處にも抱きてとほき葦原があり(同)
  時のまは夢のごとしと大和殿の前面の階を歩みてくだる(北平)
  鹽負うて城門外に休みゐし駱駝の列がうごきはじめぬ(同)
(334)  營々としたる人等は前門の五牌樓よりなほくぐり來る(同)
  朱の印は此處に現に尊かり「避暑山莊」「太上皇帝之寶」(同)
  辟雍殿の石階に差せる日の光乾隆ここに學したまひき(同)
 滿洲遊行をすませ北平に遊んだときこんな歌をも作つた。「峨々tして」といふ表現でも辛うじて出來た。又「小さき三角の山」といふ表現も、全くこのとほりの風光だが、歌言葉になかなかならず、難儀したのであつた。一首としての此等の表現は、中華的でもあり西洋的でもあり、日本にない、大陸的なものだが、それが充分あらはれて居るか如何といふことに歸著するのである。そのほかの歌も中華的に幾らかでも表現せられてゐるなら、自分自身滿足せねばならない。歌は斯くむづかしくもあり、また樂しみでもある。
       〇
 この滿洲旅行に、終始かはらず私を案内せられた、八木沼丈夫氏は、昭和十九年十二月、北平で病歿せられた。この一卷が今や、君と私とを結ぶ記念となつたことをおもうて悲歎無量である。なほ北平では、橋川時雄氏の斷えない厚意を忝うした。
 この歌集を發行するにあたり、岩波雄二郎、布川角左衛門、榎本順行、古莊信臣諸氏及び柴生田稔氏の盡力を忝うした。昭和二十五年十月、齋藤茂吉
 
  石泉
 
(337)  昭和六年
 
    新年
 
 あたらしき年のはじめは樂しかりわがたましひを養ひゆかむ
 富人《とみびと》を憂しとにくしとおもはねど貧しきひとをわれはおもへり おのづから心つかれて我は居りわれに五十《ごじふ》の年明けにけり
 
    御題社頭雪
 
 すめらぎもおみのみたみもぬかづかむかみのやしろにゆきふりにけり
(338) しらゆきのふりつもりたるやすくにのかみのやしろにまうづるやたれ
 みちのくのいではのかみのほこすぎのえだもとををにゆきはふりける
 
    全國金滿家大番附。附全國多額納税者一覽といふものを讀みぬ
 
 いまのうつつに富み足らひたるひとびとの名を讀みをれば夜ふけにけり
 こころ憂き世にしいくれどたまたまは富みてゆたけき人の面《おも》見む
 富みたるはなべて相人《さうじん》のいふごとくゆたけき運命の相を持つらむ
 
   この日ごろ
 
 けだものの穴ごもりもしてゐるごとく布團のなかに吾は目を開《あ》く
(339) あらあらしくなりし空氣とおもひつつ追儺の夜に病み臥して居り
 ものの音けどほくなりてゆけるらしみなぎりにつつ墓地にふる雪
 ゆふぐれの薄明にも雪のまの土くろぐろし冴えかへりつつ
 ふりつもる雪のもなかにわれ立つや衢のかたは鈍きものおと
 このゆふべ徳川の代にありしとふ戀愛劇を見て涙をおとす
 本所を序ありて來しわれの後《しり》へより勞動者等の靴音ぞする
 熱いでていとけなき子は目ざめたり低き屋根より雪はなだれつ
 
    病牀浸吟の中
 
(340) 試驗にて苦しむさまをありありと年老いて夢に見るはかなしも
 夜もおそく試驗のために心きほひて明治末期を經つつ來りき
 今しがた試驗に苦しみし夢を見つ夢より覺めてわれは悲しむ
 うつつなる身としいへども夜いねば年老いゆきてかかる夢見つ
 おそひ來しはやりかぜにて長崎に死にせるひとをおもひいでつも
 天井に鼠の走る音きけば紙のたぐひを運べるらしも
 異國《ことぐに》の旅よりかへり旅のことかたづかなくにわれは病み臥す
 蒙古|野《の》に降りたる雪に觸るるなす雲をおもひて病み臥すわれは
 
(341)    折々の歌
 
 風癒えてわれの見てゐる目のまへの士よりひくくかぎろひの立つ
 時のまのありのままなる樂しみか疊のうへにわれは背のびす
 春の雨ひねもす降れば石かげにかすかになりて殘る雪あり
 むかひ居て朝飯《あさいひ》をくふ少年は聲がはりして來れるらしき
 かかる風を春嵐とぞいひなれて歌を作りきいにしへゆ今に
 
    瑞巖寺
 
 ちちははが幾たび話したまひけるほとけの寺にわれは來にけり
(342) きさらぎはいまだも寒し雪のまにはつかに見ゆる砂は氷りぬ
 瑞巖寺まうでてくれば氷りつつ春のはだれは殘りけるかも
 降りつみし雪より見ゆる牡丹にぞ大きくれなゐの花はひらかむ
 きさらぎのはだれのうへに見つつゆく杉の青き葉おちてゐたるを
 雪に立てる南蠻鐵の燈籠をわきて尊ぶいとまなかりき
 政宗の二十七歳《に じふしちさい》の像を見つよろひたる身にわれは親しむ
 まぢかくの雪の中より水わきて流るる音す立ちてし來れば
 瑞巖寺のうらの園生《そのふ》に雪しろし幾たびも積みし雪とおもほゆ
(343) 正宗の追腹《おいはら》きりし侍に少年らしきものは居らじか
 海を吹く風をいたみとさかさまに杉の葉ちりぬ春の斑雪《はだれ》に
 みちのくの瑞巖禅寺のほとりにて杉葉もやしし跡ぞ殘れる
 しづかなるみ寺といへど封建の代の悲しみの過去を傳へし
 
    春雜歌
 
 もえいでし草うごかして山原に雪解のみづのさかまきながる
 さわらびの萌えづる山にうつせみの命足りつつ老いゆきにけれ
 富人と貧しき人のあらそひも天保の代のごとからなくに
(344) そのかみに陸奥人《みちのくびと》の餓ゑ死にしことしもぞ思ふ稻の萌え見て
 みちのくの藏王の山に斑雪《はだらゆき》いまだ殘ると人ぞ告げこし
 つぎつぎに風を引きたる穉兒《をさなご》の癒えゆくときぞ樂しかりける
 春ふけし銀座の夜《よは》にをとめらの豐けき見つつわれ老いむとす
 みちのくのはたらきびとも日もすがら遂にいそしみ貧しかりてふ
 うつせみの目ざむばかりにくれなゐの牡丹ひらきて春ゆかむとす
 納豆の餅《もちひ》くはむとみちのくの縣《あがた》をさしてわれはゆくなり
 山形のあがたに入ればおしなべて奥山の上に雪は白しも
 
(345)    機縁小歌
 
     平福畫伯歸朝歡迎歌會(一月十七日於上野韻松亭)
 
 こころよき日に逢へるかも百穗の君の赤丹頬《あかにほ》に相むかひ居て
 
    節忌(二月八日於清水谷皆香園)
 
 きさらぎの雪のはだれを行きつつぞ寂しかりにし人をおもはむ
 一年《ひととせ》にひとたび集ふ友らすら少くなりて時は經ゆかむ
 
    赤彦忌(三月二十二日於芝松秀寺)
 
 君をしのぶみ寺のなかに衢より馬のひづめの音續きてきこゆ
(346) この日ごろなま温かき日につぎて夜ふる雨を聽くべくなりぬ
 ゆふぐれ時より空はくもらむかけふ朝まだきより頭痛しにけり
 
    地久節に當り婦人倶樂部のために一首
 
 地久節のけふのいく日は國こぞりをとめのともは樂しかりけり
 
    仙臺往反
 
 みちのくの藏王の山はけさのあさけ雪ぐもりつつゐるぞかなしき
 をりをりにしはぶきながらみちのくを南へくだる汽車にわが居り
 みちのくのこごしき山に雪ふりて襞さわやかにけふ見えわたる
(347) きさらぎに降りしはだれの氷るころ旅を來りて病み臥すわれは
 
     醫學會總會には處々より同學の友集りぬ
 
 相よりてこよひは酒を飲みしかど泥のごとくに醉《ゑ》ふこともなし
 きほひつつ飲みけむ酒も弱くなりてこのともがらも老いゆかむとす
 若くして巣鴨病院にゐたるもの見れば老ゆるにもはやきおそきあり
 
    佛像讃歌
 
     奈良東大寺 彌勒佛
 
 せまりつつ苦しみ生きしもろもろの救はれにける木の佛《ほとけ》これ
 
(348)     奈良岡寺 如意輪觀音
 
 いにしへのひじりみかどもあはれあはれこのみ佛に近寄りたまひきや
 
     京都醍醐寺 帝釋天像
 
 いにしへは尊かりけりひれふしてこの白き象もつひにきざみぬ
 
     大阪觀心寺 秘佛
 
 六臂秘佛如意輪觀世音菩薩《ろくひひぶつによいりんくわんぜおんぼさつ》まどかにいつくしくのこりたまへる
 
    旅行
 
     四月十七日大阪行
 
(349) 桑の葉のもえいづるころになりたりとひとり思へり汽車の中にて
 いくたびかわれ見つらむか浪しろく馬入の川の海に入る見ゆ
 かかはりのなしといへども梨の花しらじらとして咲き散りて居り
 白浪の立ちくるを見て汽車すぐる沼津の濱を吾は好めり
 砂の丘|鵠段《いくきた》になりて高まれる天龍川は親しきろかも
 汽車の窓に顔を押しつけ見て過ぐる鰻やしなふ水親しかり
 入海に人つどふ見ればかすかなる業のごとくに海埋めをり
 
     四月二十一日岡山行。午前平賀元義の墓に詣づ。午後「定家と實朝」を講ず
 
(350) たかむらのしげれる道をのぼりゆき平賀元義のおくつきどころ
 春草《はるくさ》の秀いづる岡にわれ立ちて兒島の海はきらひけるかも
 ここにゐる三人《みたり》の友とあひ語り夜ふけて舍監官舍にやどる
 この日ごろ學に遠ざかりをりながら教室に來れば過ぎし日おもほゆ
 中林梧竹|翁《おきな》の雙軸を後の日にわれに呉れむとぞいふ 林道倫教授
 
    上宮王院救世觀世音菩薩
 
 み佛のみ額《ひたひ》の殊のかがよふをけふこそはあふげうつせみわれは
.とことはにくがねかがよふみ佛の御足のもとによみがへるもの
(351) たはやめにいますみ佛もの戀《こほ》しき心のみだれ救ひたまはね
 みほとけの御手にもたせる炎にしわがよのつみのもえて消《け》たむぞ
 うるはしくいますみ佛世くだちてあはれいつくしくみ立たしたまふ
 ながらへてひとりなりけるつひの道かなしき我をいだきたまはな
 くちびるのあけのみほとけとおもひつつけふの縁《えにし》にわれあふぎけり
 人のよははかなきゆゑに一日だにこのみ佛をあふがざらめや
 
    病牀吟
 
 みすずかる信濃の蕨くひがてに病み臥しをれば寂しかりけり
(352) 熱いでて病み臥すひまにうちこぞるけはしき事の世に起れるらしも
 おのおのに苦しき病あるごとしこの人の世もかりそめならず
 わが家にかつて育ちし出羽ケ嶽の勝ちたる日こそ嬉しかりけれ
 朝々の味噌汁のあぢ苦くして蕨をひでて食ふこともなし
 
    熱海にて
 
 よひ闇のはかなかりける遠くより雷とどろきて海に降る雨
 ひくくして海にせまれる森なかに山鳩啼くはあやしかりけり
 うろくづのおよげる見れば飛魚も衰へてありここのうしほに
(353) 夜ふけて心したしまぬもののあり温泉街の人のこゑごゑ
 おもおもと潮きこゆる山に來て病のなごり我はいたはる
 かの山をひとりさびしく越えゆかむ願をもちてわれ老いむとす
 雨ぐもの退《そ》きゆきしころ我ひとり荒磯《ありそ》に居りてしはぶきのこゑ
 けふもわれひとり來りて海のべをか行きかく行きいのちやしなふ
 
    熱海小吟
 
 苦しかりし風のなごりのまだ癒えずあたたかき海に來て遊べども
 もの言はむ人にも逢はずけふ一日浪際に來て體やすらふ
(354) しづかなる日とおもひつつ歩き來て木下闇にしはぶく吾は
 けふ一日もゆふぐれて來し夏山に樟の若葉のもりあがる見ゆ
 ひとりしてわが來つつをる松山に地震はゆりて士うごく見ゆ
 うづくまり吾がゐる地《つち》に幽かなる地震《なゐ》はゆりつつ寂しきものを
 われひとり來てひそみゐる伊豆山《いづやま》は潮《うしほ》の音の間遠に聞こゆ
 しはぶきを病みてわが來し淺山の若葉あかるし蟲も遊びて
 いつしかも若葉になりし山かげに新聞敷きて息しづめ居り
 伊豆の海に近くつづきし山中は蛙きこゆる夏になりたり
(355) むらがりて烏賊のおよぐを見つつあり見知人《みしりびと》もなきこころ安けく
 荒磯の潮をかこひてうろくづを飼へるところに時をすごしつ
 墨を吐く烏賊を幾度《いくたび》も見たれども遊びてゆかむわれならなくに 岩かげに吾は來りておもひきり獨按摩す見る人もなし
 とりとめも無く吾《わが》居れば幽かにてけふも山の上の地《つち》は震ひぬ
 ひかりさして夏の來むかふ梅園《うめぞの》に青き梅の實かくも落ちたる
 日のもとの清き流にかがまりて見れば斷えまなく砂の流るる
 草むらのなかに落ちたる梅の實のまだ小さきを噛みつつ行けり
(356) 箱根賂の風をいたみか山の雲海になびきて晴れむとすらし
 病あるわれは見て居り大きなる灰色の鳥浪のうへを飛ぶ
 あまづたふ日はかくろへば海の色くろぐろとして物ぞ漂ふ
 ただひとり海のなぎさの石かげにすわりて居れば罪はふかきか
 潮のおときこゆる山の小峽《をかひ》にて蛙《かはづ》のこゑはわれにまぢかに
 
    初島
 
 この島にて心太草《ところてんぐさ》採集すなべてやさしき業にはあらず 六月四日同行古今書院主人
 潮くぐる人をおもへば此處にして起臥す志摩のあま朝鮮のあま
(357) 清きこの離れ小島に夏くればおびただしき蚊が居るとこそいへ
 小さなる自治制布きて昔より役人ひとり居たることなし
 島に湧く泉を汲める少女子ははきはきとして物を言ひ居り
 日の光つよし此の島に青々とあぶらぎりたる木木の葉見れば
 この島に濱に働く人々はこの島人にあらぬも多し
 眉しろき老人《おいびと》をりて歩きけりひとよのことを終るがごとく
 うつしみは死にするゆゑにこの島に幽かなる佛《ほとけ》の寺ひとつあり
 簡易なる共産制を布きありき明治時代になりたる後も
(358) 命ながき翁媼も日向にはうづくまりけり影のごとしも
 わたつみの魚とることを業《なり》としていくよふりぬるここの小島《をじま》は
 夫婦して島に雇はるる海人のはなしその特色の話聞きたり
 帆をあげていでゆく海人の小舟《をぶね》をば何かあやしきもののごと見し ある家の晝の休に若者がヴアイオリンをば器用に奏けり
 關東の地震の後に此の島に窒扶斯《チフス》はやりし話をしたり
 この島に醫師一人居じトラホームなどもひろがるに放任しあり
 
    那須にて
 
(359) くらやみに那須の木原にとよもせる山のあらしを夜もすがら聞く
 日の光さしてあかるくなりまさる萌黄の山にしばし入り來ぬ
 楢の花こまかく屋根に散りしきてこの山なかに七日《なぬか》經にけり
このあした楢の若葉にながらふるさ霧のおとを聞くはさびしゑ
 都須|山《やま》の底よりおこる大き谿いくつもありて雲ぞうごける
 あしびおきの山のはざまに自らはあかつき起の痰をさびしむ
 いのちありて山を越え來ぬ硫黄ふくたぎりの音は聞きつつあはれ
 冬さむく病みて海のべにゐたりしがいま那須山に春ゆかむとす
 
(360)    養病微吟
 
 雨はれし山べを來れば新笹《にひざさ》のしげみがしたに水の行くおと
 日の光しづかなる日に白河へ越えゆく道をわれもあゆめり
 楢若葉ととのふ夏となりしかど吹く風さむしこの高原は
 山中のここのいでゆにもろ人はきびしき病いえて樂しむ
 いただきを少し下りて雪は見ゆあはれになりて消えのこりけり
 もえいでてまだやはらかくうごきゐる楢の木立にけふぞ雨降る
 はやはやも蝉なきそめぬ楢原のしげきが中にあやしく鳴けり
(361) 下野の那須のこほりにむらがりてつつじ咲きにほふ心かなしも
 家いでて我はなほ來し若葉せる楢山道に雨ふりそそぐ
 もの負ひて白河越をしたりける男女《をとこをみな》のいにしへおもほゆ
 あまのはらにけふふりさくる那須山の五つの山は青みわたれり
 身に迫めてくる悔恨《くやしさ》もおもほえずしばし入りけり楢わかば山
 たまぼこの道のうへよりいつ見ても谿の青きが湧きたつ如し
 目のまへを鶯啼きてわたる見ゆ山にわが居ればかく樂しめり
 おきふして青みわたれる下野の國のはたては岩代のくに
(362) 高原《たかはら》につつじ群れ咲く日のひかり雲雀のこゑはみぎりひだりに
 みづ楢の葉のひるがへる一日だに木原のなかにこもりて居らな
 雨はれてきのふもけふも青みける高原わたり風のふく音
 きのふまできびしく閉ぢて見えざりし常陸ざかひの雲はれにけり
 一谷《ひとだに》をわたりてくれば那須嶽は大きくなりぬ立つけむり見ゆ
 那須嶽につづける山のこごしこごし今朝の朝明に雲まきのぼる
 檜山の雨は晴れつつ曇る日を殺生石に死ぬ鳥を見し
 常陸の山岩代の山のはたてまでさやらふものもなきけさのあさけ
(363) ひとり來し身にしむばかり朴の花白く散りつつ山のとかげは
 夏山をおほへる雨のうつろへば山のかげより雲のいでくる
 幾とせぶりにてあるかつつじ花にほへる山に君とあひ見し 大橋松平君
 
    那須
 
 山風に木々の靡きはしづまらずのぼりつつゐる那須|山道《やまみち》に 六月十三日同行古今書院主人
 あしびきの晴れとほりたる山ゆけど吾はしはぶく人に後れて
 一山をたえずあゆみて越えしかば心がなしき平《たひら》見えそむ
 おのづからのぼりつつあるか東《ひむがし》の常陸の山に雲しづむ見ゆ
(364) 青山を吹きとほりくる風強し石かげとめて身をかがめ居り
 しげ山のそがひの道をのぼりつつ夏山風の吹かぬ間もなし
 あまのはらひろらになれば片ざまに盛りあがりたる青谿の見ゆ
 山蕗《やまぶき》は手に折るときに香にたちて道のひとところ生ひしげり居り
 雨あとの水のたまりは殘りをり水草《みづぐさ》に似し草も生ひつつ
 那須|山《やま》にのぼらむとする山道に笹竹の子を摘むこともあり
 もろ木々は白く立枯れ山腹《やまはら》の草は青めどただに目につく
 日のひかり足もとの土に沁むごとし風衰ふる一山《ひとやま》かげに
(365) いただきに夏の來むかふ那須山にのぼり來りて大き谿見つ
 あしびきの山のうへにはけふもかも硫黄いぶきてしづむ時なき
 西北《にしきた》の道をめぐりてまながひに直ぐ見えたるは赤くただれし山
 中空は晴れわたりつつ一いろに狹霧は籠めぬ會津ざかひは
 やまがはの水のながれとなりゆかむ源のさま相見つるかも
 うつしみの息づきながら硫黄ふく山をわたりて幾時なるか
 山もとの硫黄あつむるところにもいまだ吹きやまぬ谷おろしの風
 米つけて山のぼりゆく馬のあり三斗《さんど》小屋まで行くといひつつ
(366) 那須山の空あひにして虹ひくく立ちてゐにけり低きその虹
 土橇《どぞり》にて硫黄を運ぶなりはひを山行きしかばきのふもけふも見つ 夏に入りし那須の峽ゆきいま採れる笹竹の子を買はむとおもひぬ
 那須山の山のはざまに牛ゐるは食物負ふなり働くひとのため
 那須山を越えし雷《いかづち》は時もおかず國の平にうごきゆく見ゆ
 赤きくも空にたなびき利根川の水にうつろふさまも一時《ひととき》
 
    折に觸れて
 
     病牀に關原合戰圖志を讀む
 
(367) 三成がとらはれびとになる時の戰記を讀みて涙いでたり
 
     六月七日(寄左千夫忌)
 
 おとろへしこの身いたはりひそひそと那須野をさして旅ゆくわれは
 
     やうやくアララギの選歌を了る〔一首〕
 
 あしびきの山ゆく道におもき荷をおろして立てる人のごとしも
 山笹をわが庭くまに植ゑしより白くおとろふる葉を日ごと見き
 心しづかに山をくだりて來しかども曉がたは喘《ぜん》を患ふる
 
    大澤禅寺
 
(368) すわりつつこころ親しまぬ夜《よ》の寺は山にこもらふ雷《らい》鳴りわたる
 あつき日を汽車に乘り來て盗難にあひたることもいひがたかりき
 この寺にこもれるひまに二たり三たり腹を痛めてかへりたりとふ
 本堂の明きにひとつ飛び來たるやんまは向きを變へしときのま
 雪谿《ゆきだに》の見ゆる山には雨降れかあかくにごりてたぎちけるみづ
 ひとときもためらはざらむ馬虻が疊のうへをひくく飛ぶ見ゆ
 あかつきの光やうやく見ゆるころすゑたる甕のなかに糞《ふん》を垂る
 ときのまにあまたむむらがり寄る蟆子《ぬと》をただわづらはしとぞわれはおもへる
(369) 音たててしろきもちひをいまぞ搗くももたりあまり餅《もちひ》くはむとす
 そこはかとなく日くれかかれる山寺に胡桃もちひを呑みくだしけり
 寺なかに夕がれひ食ふあな甘《うま》ともちひに飽くは幾とせぶりか
 ひとむらに桔梗《きちかう》の咲くやまでらや君と床《とこ》なめ寢《ね》しをおもはむ
 ちひさなる虻にもあるか時もおかず人をおそひに來るを殺しつ
 香《か》にたてる蕎麥をむさぼりくひしかど若きがごとくし食ひがてなくに くにぐにの友等はこよひ面やせてかたみに山をくだりゆくなり
 この寺に七日きほひて歌がたりきはめむとして來りし吾を
(370) もろともに七日《なぬか》おきふしいとまなみ親しき言《こと》もつひに言はずき
 木原よりふく風のおとのきこえくるここの臥所に蚤ひとつゐず
 罪をもつ人もひそみて居りしとふうつしみのことはなべてかなしき
 この寺も火に燃えはてしときありき山の木立の燃えのまにまに
 おのづから年ふりてある山寺は晝もかはほりくろく飛ぶみゆ
 いま搗きしもちひを見むと煤たりしゐろりのふちに身をかがめつつ
 喘《ぜん》のやまひいまだ癒えなくにこの寺のあかつきはやく起きてあるきつ
 
    葛温泉
 
(371) 山道におくれがちなるをいたはりてわがうしろより友あゆむはや
 音たてて砂のくづるるやまがはを見おろしにけりあゆみとどめて
 隣間《となりま》にここのいでゆにひとよ寢むをみならほそくわらふがきこゆ
 西にむきてとほきはざまに來りけり湯のいぶき白雲やまがはの浪や
 山がひに日のいりゆくをしばし見てむくみし足を疊にのばす
 よもすがら清き山川《やまがは》の音ききてここに眠らむ人に幸あり
 くらがりに青きひかりを放ちをる苔をし見れば山は深しも
 石《いし》むらのあたたまりゐる山がはにおりて樂しむ日のしづむまで
(372) 人參を畑《はた》よりほりて直ぐに食ふ友をし見つつわれもうべなふ
 あめつちのものは悲しもたぎりつつ湯いづる口に苔あをあをし
 山羊歯のあらきにほひに親しみてひとときさへも樂しかりけり
 川かみに一夜《ひとよ》やどればひたぶるに岩魚のゐるをまのあたり見き
 山がはのおとする岸に旅やどり東京は暑さきびしとおもふ
 やまの湯にあたたまり寢し一夜だに蚤にくるしむは吾ひとりのみ
 人里よりはこびしままに飼はれける鯉は病むとふみづのあらきに
 高山に遊のごとくのぼりゆく人の話をききてやすらふ
(373) やまがはの激ちのしぶきかかるほど近き温泉《いでゆ》に入りつつ居たり
 
    箱根
 
 こほろぎは夜もすがらこそ鳴きにけれ野分のふける山の峽より
 山あるるころとしなりて岡のへの砂飛ぶときにひとりものいふ
 赤楝蛇《やまかがし》みづをわたれるときのまはものより逃げむさまならなくに
 みづからの咳嗽《しはぶき》のおともこだまする山陰に來て胡桃つぶせり
 たまくしげ箱娘の山にわれひとり薄を照らす月にあそばむ
 
    箱根路
 
(374) つき草ははかなき花とおもへども相模の小野に見ればかなしも 八月十九日二十日
 たうきびのいきほひに立つさま見れば都をいでて來にしおもほゆ
 箱根路のすがしき谿に山葵うゑ異ぐささへもともにひいでつ
 わきいづる水を清《すが》しみうつせみは山葵をここにやしなひにける
 みづうみの空ひくく飛ぶやんまありこのひたぶるを誰《たれ》見つらむか
 山の湖のなぎさの砂にかすかにてしき寄る波もわが心かなし
 みづうみのなぎさに遊ぶをさなごは山をうたがふことさへもなし
 樂しみて見て居たり山に湛ふるみづうみの上をやんまの飛ぶを
(375) いつしかも相模の國の秀に立ちてかげともに見む富士のたかねは
 富士がねに屯する雲はあやしかも甲斐がねうづみうごけるらしも
 大きくもくすしき山の富士がねを雪|消《け》て青きときに見にける
 箱根きて長尾峠のひとときは青富士がねに雲いでそめつ
 いつくしきさまにもあるか富士がねに雲はこごりて靡くともなし
 たらちねの母は北ぐににみまかりてひとたびだにもこの山を見ず
 むらさきに晴れわたりたる富士がねをこの國の秀《ほ》に見むとおもへや
 富士がねを飯《いひ》くふひまも見む人ぞこの山のうへに住みつきにける
(376) 不二がねは大きくもあるか白雪の降りつもるころにも人來つつ見む
 
    早雲山
 
 谿あひのひらけむとする時しもあれ鷹とびたるにこゑをあげたり 【八月二十一日茂太同行】
 おほほしきくもりにつづき心こほし相模の海の遠なぎさ見ゆ
 吹きすぐる疾風《はやち》のあれか丈ひくく山の常陰《とかげ》に木々古りてをり
 この谿に馬醉木の古木《ふるぎ》生ふれども花のことごとはやも過ぎたり
 ここにしてあらはれ見えし夏山ゆ足柄山はつづきたるらし
 林木《はやしぎ》のなかに赤肌の木のあるをあやしくおもひ觸《さや》りつつをり
(377) ひとときもためらはず來て早雲山の峰のわたりに汗を落せり
 強羅よりのぼり來りし山陰の苔のしめりを踏みつつぞゐる
 なだれたる山の常陰をくだりきて大涌谷のいぶきを聞きぬ
 かすかなる花さきて居りときありて硫黄のいぶきかかる木《こ》むらに
 夏ふけし山中に來て氣をしづむ人にたちまじり居りけるわれは
 
    上山※[行人偏+低の旁]徊
 
 上山《かみのやま》のまちに鍛冶《かぬち》のおとを聞く大鋸《おが》をきたふるおととこそ聞け 九月十三日
 ひがしより日のさす山を開きたる葡萄の園もおとろへむとす
(378) 秋ぐもは北へうごきぬ藏王より幾なだりたる青高原《あをたかはら》に
 見るさへにきびしかりけりむらくもは宮城あがたの方《かた》に退《そ》きつつ
 たかむらはおぼろになりて秋ぎりの過ぎゆくかたに日は落ちむとす
 くろすみてさびたる秋の山がひにいく屯《たむろ》せる低き家むら
 上山の秋ぐちにして紫蘇の實を賣りありくこゑ聞くもしづけく
 裏戸いでてわれ畑中になげくなり人のいのちは薤《かい》のうへのつゆ
 
    ※[うがんむり/隆]應上人挽歌
 
     昭和六年八月十日曉天※[うがんむり/隆]應上人近江蓮華寺に遷化したまふ。御年六十九にいましき
 
(379) 信濃路にわがこもれりしあかつきや※[うがんむり/隆]應上人の息たえたまふ
 番場なる蓮華寺に鳴くこほろぎのこゑをし待たず逝きましにけり
 常臥《とこぶし》に九《ここの》とせ臥したまひけり近江のみ寺ふゆさむくして
 みほとけに茶呑茶碗ほどの大きさの床ずれありきと泣きかたるかな
 ともしびの蝋ともりつつ盡きてゆくごとくひじりは病みていましき
ひとあし
 あらがねのつちゆくみちにここのとせ一足だにもあゆみたまはず
 法類《ほふるゐ》は泣きなげけどもうつせみの息たえたまひいさごのごとし 右がはの麻痺に堪へたる御體《みからだ》ぞとおもへば九《ここの》とせは悲しくもあるか
(380) しづかなる土にはふらずなきがらは炎に燒きぬ山のうへはや
 近江路はあつさきびしくありつらむ篁《たかむら》なかの臥處なりとも
 
    柿紅葉
 
 朝ゆふはやうやく寒し上山の旅のやどりに山の夢《いめ》みつ
 秋ふけてゆくとしおもふ煮つけたる源五郎蟲ひさげる見れば
 みちのくは秋の日よりの定まらず田居のむかうの柿もみぢせり
 くに境ふ高山なみはかくろひて雲のみだれのおろしくる見ゆ
 あさけより日のくるるまでふりさくる藏王の山の雲は常なし
(381) よろこびて我をむかふる兄みつつ涙いでむとすはらから我は
 もの音もけどほくにして病みて臥す兄の枕べに床をならべぬ
 わが兄のいのちはかなきを夢《いめ》のごとおもふことありこの時のまや
 田の畦《あぜ》をとほりてをれば枝豆は低きながらに赤らみそめつ
 ほそくなりて道のこり居りいとけなく吾はこの道を走りくだりき
 高空《たかぞら》は細く澄みつつ清けれど雲のみだれに秋ふけむとす
 飯《いひ》をへてわれの見てをるひむがしの藏王の山は雲にかくりぬ
 早稻田よりたちてくる香をこほしみぬきのふのごとく今日も通りて
(382) 衰ふる兄にむかひて亡きのちの寂しきこともつひに言はむか
 兄が見し地獄の夢は一卷《いちくわん》の繪卷のごとき感じをあたふ
 龍《りゆう》に乘りてただひと飛びにめぐりたる地獄の夢をわらひて語る
 けふひと日兄のそばにゐていろいろのことを話せりゑみかたまけて
 
    上山雜吟
 
     九月十九日澤庵禅師の遺跡を訪ふ
 
 かすかなりし庵に居りて土のうへにたぎり湧きいづる湯をし見けむぞ
 低山《ひくやま》に日のあたりをるを見つつゆくみちのく山に秋ふけむとす
(383) いづみよりつづける川に赤き鯉われにおどろくにごりをあげて
 みちのくにいましめられしひじりさへ安らふこころ否と云はずき
 ひるの蟲そらにひびきて聞こえくる稻田《いなた》のあひの道をのぼりつ
 いにしへの人の庵りしあとどころ泉にゆらぐ水ぐさや何
 年ふりし町をはづれて山火事に燒けのこりたる青松のやま
 ひかりさす早稻田の香こそあはれなれおのづから老いて吾はしぞおもふ
 まぢかくに雲のただよふ山のかひ黒き百合の實|食《は》みつつゆけり
 秋蕎麥のこまかき花も散りがたに蟋蟀鳴きぬ山のそがひは
(384) しづかなる早稲の田道にわが立つやいまだ小さき蝗はいでぬ
 みちのくの青群山《あをむらやま》はしまらくは入りがたの日の光さしたり われの胃はよわりにけらし病みて臥す兄をおもひて安からなくに
 
    秋の雲
 
 みちのくの秋ぐもみればおしなべて高山の背にうごくこのごろ
 南よりうつろふ雲は中ぞらにわきて疾しとわれはおもへり
 みちのくの山は親しももみぢばのすでにうつろふころとしなりて
 ひむがしの藏王の山は見つれどもきのふもけふも雲さだめなき
(385) 降りつぎし雨は晴れむとひかりさす最上|山脈《やまなみ》けふ見つるかも
 
    山澤
 
 みづぐさの青青とせし巖よりおちたぎつ水にまなこをぞあらふ
 谿みづのほそきながれにむらがりて黒きもの生くやまずうごきて
 ながれゆく山みづのおと聽くわれは心は空《むな》し咳しづまりぬ
 谿ふかくおりて來にけり杉の葉のうづみし下をくぐる山みづ
 ひぐらしの聲も絶えたるみちのくの澤をくだりて日向《ひなた》にいでぬ
 谿底はすがしかりけりくだり來て水の香のする水際《みぎは》に立ちつ
(386) 雲はれし秋もまだきの谿そこにつめたき風がしばし吹きたる
 栗のいがまだ青くして落ちてゐる谿間の道をしづかにくだる
 はしばみの青きを捩《も》ぎて食はむとす山火事の火に燒けざりし澤
 草なかにいろ青くしてひそまりし※[虫+奚]※[虫+斥]《ばつた》は飛びぬ秋の日向に
 いそがしく早稲田かる人すこし居てしづかなる日の光とぞおもふ
 
    歸路
 
 杉のあぶら垂りて紅きをかなしみしみちのく山をわれはくだりぬ
 朝ぐものあかあかとしてたなびける藏王の山は見とも飽かめや
(387) 低山並《ひくやまなみ》ひとたび越えて置賜の平にいづるこころ親しも
 おのづから平《たひら》せまりて置賜《おいたま》をなみよろふ山に汽車ちかづけり
 吾妻嶺に雪みえなくに國境ふ飯豐のやまは雪はだらなり
 置賜の平をゆけば穗にいでし薄のうごくさまもかなしき
 米澤を汽車たちてよりまもなくに防雪林はとほくつづきつ
 汽車にして板谷をこゆるひるつかた見つつこほしき荒山のみづ
 いにしへの人はあゆみてここ越えき薄なみだつ峰たかきかも
 子を生まむねがひを持ちて女等《をみなら》は山かげ路なるいで湯浴みにき 五色温泉
(388) 國はらのひくきにいでてみちのくの群山みればとほく青しも
 
    伊香保榛名
 
 自動車のヘツドライトは山もとの青き畑の雨を照らしつ 十一月七日土屋文明氏同道
 しぐれ降る伊香保の山に夜著けり一夜《ひとよ》寐むとす友とならびて
 きぞのよの一夜《ひとよ》のしぐれ晴れゆくと音こそこもれ谷に吹く風
 あさまだき向ひの山に日はさしぬ湯づかれし身は山に向き居り
 伊香保かぜ吹きしづまりてあけのいろすでに衰ふるもみぢしげ山
 もみぢちる伊香保の山をすがしみと冬の一日《ひとひ》を入りつつをりぬ
(389) たえまなく冬の白雲のながらふる子持山のべゆふぐれむとす
 伊香保呂をおろして吹ける風をいたみ庭のくぼみにもみぢば散るも
 中空《なかぞら》におとする風はさかさまに吹きおろしつつ谷に吹く風
 高はらにそびゆる山のあひだより低空《ひくぞら》に白き雲いでて居り
 ひといろに素枯《すが》れわたればむら山は天の奥がにとほそくがごと
.信濃路とおもふかなたに日は入りて雪ふるまへの山のしづかさ
 みづうみをかくめるなしてそばだてる冬枯の山きびしきろかも
 音たてて榛名の山を走るとき妙義|山《さん》見ゆ信濃の山みゆ
(390) 榛名の湖の汀に立てば北空はしづかに晴れて動く雲みず
 かなしくもこのみづうみに育ちたる魚をぞ食らふ心しづかに
 上野《かみつけ》の冬ふけてゆく低空《ひくぞら》にしづかなる雲たなびきにけり
 
    挽歌
 
     昭和六年十二月十三日長兄廣吉歿。行年五十八。法號、旌忠院慈譽天阿雄心居士
 
 うかららは共になげけど隣室《となりま》の兄のなきがらを吾つひに見ず
 のどかなる日もたえてなく老いけれどもの嫉《ねたみ》だにせしこともなし
 うつせみのいのち絶えたるわが兄は黒溝臺《こくこうだい》に生きのこりけり
(391) やうやくに冬ふかみゆきし夜《よ》のほどろ兄を入れし棺のそばにすわりぬ
 みづみづしき富にいそしみしわが兄とおもひしかども寂しく老いき
 田のあひにあかあかとして燃えゆける兄のなきがらかなしくもあるか
 近山も雪もよひして兄の亡骸をひと夜のうちに葬りはてぬ
 
    初冬
 
     第八師團混成旅團出發す
 
 ただならぬ寒き國土《くにつち》にたちゆくとこぞるみちのくの兵をおくらむ
 
    生家
 
(392) 金瓶《かなかめ》にあした目ざめて煤たりし家の梁《うつばり》をしばし見て居り
 
    露霜
 
 みちのくの一夜《ひとよ》空はれつゆじもはあふるるまでに草におきたる
 上山の町にふりくる時雨のあめほそきを見れば雪ちかづきぬ
 みちのくの上山にて見つつゐる土のはてより霧たちわたる
 
    鳴子途上
 
 新庄をわがたちしより車房には士官ふたりが乘込み居りつ
 しぶきつつ降る冬雨《ふゆあめ》のおとのまにまいのち死にたる兄をしおもふ
(393) みなぎりて山に降りたる冬のあめの晴れ行けりとふことは思はず
 國ざかひ越えたるらしきころほひにせまりてふかし夜の山谷《やまだに》
 雨はれし山を過ぐるか白雲が月に照らされてうごけるらむぞ
 窓そとに谿はせまりぬ羽前より幾山ごえを越えきたりたる
 目つむりて坐れる妻のかたはらに歌の選みをふたたびはじむ
 汽車なかに居りつつぞ見る月かげは谿をてらしてかたむくらしき
 みまかれる兄をさびしみ湯のいづる鳴子の山にこの夜寢むとす
 おのづから硫黄の香するこの里に一夜《ひとよ》のねむり覺めておもへる
(394) 元禄の芭蕉《ばせを》おきなもここ越えて旅のおもひをとことはにせり
 
    鳴子小吟
 
 ひそかなるわが足音のきこえをり道こほりつつくもりくる山
 ももくさのうら枯るるころ山中はわが足もとの蕨も枯れつ
 あまつ雲《くも》高山のうへにこごれるは秋田あがたの境なるべし
 冬がれてすき透る山にくれなゐの酸《すゆ》き木《こ》の實は現身《うつせみ》も食ふ
 ひとつ居る小鳥とおもひよく聽けばくさぐさの鳥ゐつつかなしき
 しら埴の山みぎはまでうねりたる火口のみづはいまだ氷らず
(395) 久にしてわが見しものか山かげに杉の落葉のおびただしきを
 やうやくに山に親しみてくだりゆく白埴の道こほりてありぬ
 うすら氷《ひ》の張りし山路をたのしみて岫《くき》のほとりに歩みをとどむ
 ひむがしへ起伏《おきふ》せる山きはまりて宮城あがたの國内《くぬち》ひくしも
 山道はこほりてありぬときのまに靴もて踏みつ道の氷を
 
    潟沼畔
 
 あしびきの山の霰はたちまちに落葉のうへに音たてにけり
 山道に細くながれたる水のあり沈まむ砂はしづみ果てつつ
(396) 薄氷《うすらひ》のすでに張りたる山の道ここを越ゆれば潟招《かたぬま》へ行く
 はれ透る天のかなたにたけなはに雪ふる山や見え來《きた》るかも
 みづうみの岸にせまりて硫黄ふくけむりの立つは一ところならず
 しげみよりいできたりたる淺流れ落葉しづめて氷りわたりぬ
 ひとやまを越えきてむかふ冬がれの襞あらき山に雨ふらむとす
 ひとところ雲は亂りてはなれざる高山を見むみちのくにして
 白々《しろじろ》とおきふす山は湖のひがしの方につづきつつあり
 家むらは見えて居りつつおちたぎつ澤のみづおと一ところ聞こゆ
(397) 鳴子よりなほひむがしへたたなはる山をふりさけこころ足らはむ
 
    大谷谿
 
 吹上の川上にしてふかぶかと青ぎるみづに潜《くぐ》る鳥あり
 やうやくに雪は降らむと曇りつつはざま大きく色彩《いろ》なかりけり
 この谿をつたはり行きて山形のあがたに境ふ山にきはまる
 ふかぶかと谿に入り來てあらがねの限りなき土を今ぞ見にける
 たびを來て冬ふかみける山河《やまがは》のきびしき音にはやも疲れぬ
 あまぎらし雪は降るらむみちのくの大きはざまに妻と入り居り
(398) 冬木立あらはになりて深澤《ふかさは》を行きつつ見ゆる山は明るし
 ころもでに水のしぶきのかかりつつ鳴子の澤に日は暮れにけり
 こがらしの音するなべに見つつをり汀《みぎは》の砂に落葉つもるを
 この谿を過ぎて行きなば山みづの幾たぎりするところを見らむ
 ここにして青ぎるみづは山峽《やまかひ》をいくうねりして東にむかふ
 
    中尊寺行
 
 水上へとほくきらへる北上川の流かはりてより年は古りにき
 妻とふたりつまさきあがりにのぼりゆく中尊寺道寒さ身に沁む
(399) 人どほり斷えたるらしきこの道に低く横ぎりて橿鳥飛びつ
 旅遠きおもひこそすれ金堂のくらがりに來て觸《さは》りて居れば
 山伏の笈をし見ればなづみつつ山谷《やまだに》ふかく越えにけむもの
 日は晴れて落葉のうへを照らしたる光|寂《しづ》けし北國にして
 義經のことを悲しみ妻とふたり日に乾きたる落葉をありく
 金堂は遠世《とほよ》ながらに年ふりぬ山の火炎《ほのほ》もここに燃えねば
 中央の文明ここに移り來てひとの悲しき歴史とどむる
 いまの現《うつつ》のごとく悲しみいにしへの此處に滅びし人をおもへり
(400) 中尊寺の年ふりしもの見まはりてやうやくにして現《うつ》しきがごと
 辨慶が持《も》たりしといふ笈を見ぬ煤びしものに顔を寄せつつ
 ここに來てわがこころ悲し人の世のものはうつろふ山河より悲し
 うねりつつ水のひびきの聞こえくる北上川を見おろすわれは
 白雲《しらくも》は峰にこごりてたなびかず雪降れる山なべてかかりき
 あまそそりはつかに雪の降れりける山いつくしと北國ゆくも
 須川嶽《すかはだけ》大日嶽とたたなはる山の幾重も遠そきにけり
 ある年の北上川のみなぎりをこの老人《おいびと》はをののき語る
(401) ふきあぐる北上川の風あらし松かぜのおとのかはるばかりに
 向うには衣川村《ころもがはむら》ありといふ亡びぬるものはとほくひそけし
 
    石卷
 
 石卷の名は戀《こほ》しかりこのゆふべ汽車よりおりてこころ和ぎをり
 うすぐらき通もゆきて灯のあかき港町とおもふ通もゆきつ
 石巻より海をとほらず運河にて米はこびしと聞けばかなしも
 しづかなる北上がはの河口《かはぐち》を見おろしてをり旅を來《こ》しかば
 石卷の高きによりてこのあした南のかたを振りさけにけり
(402) いただきは既に雪ふりしづまりて藏王の山はあまそそりける
 石卷の日和山より見ゆるものとほき渚にかぎろひたちぬ
 わたつみに北上川の入るさまのゆたけきを見てわが飽かなくに
 南には藏王の山はわたつみの海より直にそびゆるごとし
 ひむがしの海かぎり見ゆ松島の海路《うなぢ》をこえてきらへるも見ゆ
 石を賣る家に來りていろいろの石見つつをり亡き父のため
 
    富山より松島
 
 封建の代にひらきたる運河あり石卷より濱野蒜《はまのびる》まで
(403) 富山の觀音道《くわんおんみち》に栗の毬おちかさなりて吾と妻と踏む
 冬にいりし海べの山の日あたりに啄木鳥《けらつつき》とび下《お》り歩きたるさま
 富山の觀音堂の高きよりひむがし見れば海坂《うなざか》ひかる
 松島のうみ逆《さかさ》まに光うけ水銀《みづがね》のいろたまたまくろむ もろもろの小島よこたふ海中《わたなか》もあやしきまでに黝《くろ》みわたれる
 富山のそがひに見ゆる山々は冬がれにつつ行方も見えず
 ここにしてかへり見すれば石の卷ははやも岬のかげになりたり
 瑞巖寺の鷹の間みればひとときに翼を張れる鷹が目に見ゆ
(404) 瑞巖寺の砂を踏みつつ居りしとき三門よりただちに海の波みゆ
 政宗の二十七歳の像見たり名護屋の陣にありしころとぞ
 
    鹽釜
 
 わが舟は音を立てつつ海なかに牡蠣養へるちかくをぞ行く
 ひゆうひゆうと寒さ身にしむ午後四時に松島を出でつ小舟《をぶね》に乘りて
 松島の海を過ぐれば鹽釜の低空《ひくぞら》かけてゆふ燒けそめつ
 あかあかと夕棚雲はしましくは身に沁むまでに棚びきにけり
 冬の日ははや暮れやすく八十島のかげははるかに浮かぶが如し
(405) 海の雲晴れそめしかば鹽釜の舟の帆柱のあきらけく見ゆ
 鹽釜の浦にうつろふくれなゐの夕棚雲を妻と見て居り
 朝舟《あさぶね》のするどき音も世の常の音とおもはむ旅を來りき
 鹽釜に一夜《ひとよ》あくればおもほえず船の太笛がしきりに鳴れり
 鹽釜に一夜ねむりてあかつきのもろごゑきけば諍《あらそ》ふごとし
 鹽釜の神の社にまうで來て妻とあらそふことさへもなし
 鹽釜の社に生ふる異國の木《こ》の實をひろふ蒔かむと思《も》ひて
 みちのくの北へわたらふ山脈《やまなみ》に雪ふるを見て旅を來にけり
(406) 鹽釜のなぎさに魚《うを》の市たてば貧しく生くる人も集へる
 鹽釜の港の岸に人むれて入りくる小舟待つも親しも
 あわただしき生業《なりはひ》に生きてあり經れば妻と旅路に寢《ぬ》るもしづけし
 みちのくのかげともの國旅ゆけば冬といへども光あかるし
 
    仙臺
 
 人力に乘りて仙臺の街を見つ異國《ことぐに》のまちに入りしごとくに
 いにしへの旅ゆく道は國分町《こくぶんちやう》より青森街道になりたりしとぞ
 仙臺の街はなつかしをり々りは古りたる街とおもひをれども
(407) われいまだいとけなくして仙臺の街こほしみしことしおもほゆ
 この城に吾も一たび來りつとかへりみむか記憶も幽かになりて
 
    冬靄
 
 こがらしは一日《ひとひ》吹きしきつたひくる衢のひびき常なかりけり
 うつそみの國と國としあひむかふ心せまりて年あけむとす
 むらがりて銀座をありく人みればなににかくのごとく人ゆたけきか
 うづだかく臥所《ふしど》に書《ふみ》をつみをりて二月《きさらぎ》こなた讀むこともなし
 あかつきのいまだ暗きにはかなきや八木ぶしの夢《ゆめ》みて居たりけり
(408) 北平《ぺえぴん》の旅をぞおもふ日もすがら腹あたためき下痢をこらへて
 にごることなく丘のむかうに日没して張學良の軍樂鳴りき
 狂者らをしばし忘れてわがあゆむ街には冬の靄おりにけり
 春さむく痰喘を病みをりしかど草に霜ふり冬ふけむとす
 掘割のほとりを來つつたちまちに岩野泡鳴をおもひいだせり
 覺悟していでたつ兵も朝なゆふなにひとつ寫象《しやしよう》を持つにはあらず
 蛇を賣る家居のまへにしばらくは立ちをりにけりひそむ蛇みて
 わが病全けく癒えてこもるとき命過ぎにし兄を悲しむ
(409) ひいでたる心をもちて居りしかど兄は六十《むそぢ》のよはひ越えずき
 
    屋上園
 
 庭くまにひいづるを見てあはれみし擬寶珠《ぎばうしゆ》なペて霜がれにけり
 八層の高きに屋上庭園がりて黒豹のあゆむを人らたのしむ
 あまつ日は紅《あか》くにごりてかがやかず家むらのしたに落ちゆくらしき
 ちちの實は黄になりて落つここにして物のほろべと火《ほ》むらは燃えき
 わが眉はうごかざりけりむれてゆくをとめ寐《ね》よげと人いひしかど
 
    銀杏
 
(410) いてふの實の白きを干せる日の光うつろふまでに吾は居りにき
 わたつみのさかまくも炎もえたつもおのづからなるものをおもはむ
 氣ぐるへる人をまもりてくやまねど山河こえむ時なかるべし
 八年まへの火事をおもへば心いたし一時間にして皆もえたりき
 人の名を忘れがちにて明けくれぬ人の名をおもひ出さむとして苦しむ
 
    挽歌
 
 あからひく頬の童子ととことはに消ゆることなしよみがへりこむ 近藤尚徳君
 曉星の少年の子のうたふこゑ聞く朝明《あさあけ》ぞ悲しかりける
 
(411)  昭和七年
 
    新春小歌
 
 おしなべて戰《たたかひ》のごとくせまりけるきびしき世にしわれ生きむとす
 滿洲にいのち果てたる兵士らをおもひつつ居《を》る夜は寒しも
 白霜《しらじも》のむすびわたれる朝まだき胡頽子の若木《わかぎ》を移し植ゑしむ
 おとろふる吾のまなこをいたはりて目薬をさすしばだたきつつ
 朝夕《あさよひ》の時を惜しみて春寒きまちのちまたに出でにけるかも
(412) 父母もすでにみまかり我がこころやうやくにしてしづけかるらし
 二師團のたたかふ軍のなかにゐてわが村人もいのち果てたり
 淺草の五重の塔をそばに來てわれの見たるは幾とせぶりか
 日のあたる縁に置きたる幸草《さちぐさ》の花みるまでに今日はゆたけし
 豐酒《とよみき》を一つき飲むやわがいのち養ふがねと二つき飲まむ
 一人ゐるわれとおもはず紅《くれなゐ》に咲きたるうめをめでにけるかも
 
    春の海
 
 むらぎもの心なごみて春の海のいきほふ浪にわれたちむかふ
(413) 伊豆のうみとどろとどろと白浪のちる荒磯《ありそ》べに國を思はな
 豐さかとさかゆるくにの新年《にひとし》の海べに立ちて幸《さち》をねが
 沖つかぜ寒くし吹けどむら千鳥なくこゑ聞けば心たぬしも
 あまつ日のひかりわたつみにかがやきてわが大王の御稜威なすかも
 
    紅梅
 
 紅梅はかなしきいろに咲きにほふあはれかなしと道ゆきにけり
 くれなゐの梅の咲きちる野べに來てかなしき戀をわれは聞かむか
 梅の園もとほりくれば五十年《い そ とせ》の過ぎこしことは遠世《とほよ》のごとし
(414) くれなゐの梅のふふめる下かげにわれの一世《ひとよ》の老《おい》に入るなり
 うめが香のきこゆるいへに夜《よる》ふけぬわれに言問ふをとめごもがも
 
    早春
 
 ゐまのはらあけわたりたる日のひかりあまねきにわれあゆみ來にけり
 いにしへの心たらへる人のごと餅《もちひ》を食ひぬ今朝のあさけに
 何事もあきらめしごとき人を見ずみづみづとして人歩むはや
 冬の野に頬白啼きぬいそがしき人等あゆみをとどめて聞けば
 あづさゆみ春はまだきに寒けれど光たむろに花を咲かしむ
(415) あたらしき年のはじめににしへゆ水をくまむと泉におりつ
 くれなゐの林檎がひとつをりにふれて疊のうへにあるが清しも
 飛行士の勇猛によりてこの夏ごろ太平洋を乘りきるらむか
 
    春雜歌
 
 あたらしき年のはじめに我おもふひたぶるの道に生きむは誰か
 
    孤兒(福田會)
 
 この童子みなし兒といへどふたりの祖父ふたりの祖母がすでにあるにあらずや
 
    岩波講座「源實朝」を草す
(416) 鎌倉のきびしくうごく代にありて殺されし君うたびとにあはれ
 ふゆの夜の更けゆけるまで實朝の歌をし讀めばおとろへし眼や
 もの書きつぐわれのうしろにおもほえず月かたぶきて疊を照らす
 
    新興短歌
 
 短歌革新の氣勢をあぐる顔ぶれは皆われに會釋するもののみなりき
 いどみくるこの闘《たたかひ》に斥候を放たむことをわれ敢てせず
 
    折々
 
 きさらぎの日は落ちゆきてはやはやも氷らむとする甕のなかのみづ
(417) ほしいままに霜がれわたるわが庭に頬白來るを知らで過ぎにき
 出羽ケ嶽にもの話さむとこのゆふべ相撲爭議團の一室に居り
 
    童馬山房近咏
 
 こゑあげてひとりをさなごの遊ぶ聞けばこの世のものははやあはれなり
 やうやくに老いづきにけりさびしさや命にかけてせしものもなし
 われを惡む人おもはぬにあらねどもこよひやすらかに臥し居りにけり
 まなこ冴えてわれはねむれず巨流河《きよりうか》の警戒塹《けいかいざん》に雪ふるらしも
 空にひびきてニコライでらの鐘鳴るを旅人のごとくわれは聞くなり
(418) 敵の塹に一氣になだれいりし犧牲勇猛をわれも泣かざらめやも 廟行鎭三首
 おのが身をほのほになしていのちはてし三たりの兵を泣きておもはむ
 たたかひはただに勝ためととどろきし突撃兵に生きしものあり
 
    春雲
 
 ゆふぐれの車房より赤きをふりさけし山のうへの火ひろごるらむか
 ゆたかなるものにもあるかあまつ雲箱娘の山を越えてなびける
 しげみより湧きかへりくる山みづの浪に入りゆきしあかき鯉くろき鯉
 たかむらに春日のてれる伊豆のくにや幽かに人は家居せりけり
(419) 年ふりて山の南の椿の木にあふるるばかり椿花さく
 
    伊賀上野にて
 
 旅とほく病めるわが子よもろびとのあつきなさけに今ぞよみがへる
 病みてふす子の枕べにわが寢《ね》ねどよはに眼ざめてこころなげかむ
 あわただしき心のごとく春ゆきて伊賀の山べに霞たなびく
 奈良に境ふ山竝とこそ聞きつれど心は悲し行きがてぬかな
 年ふりしいほりに入ればかすかなる音だにもなし萌ゆる若葉に
 
    春より夏
 
(420)    徳富蘇峰先生古稀賀
 
 とことはにふみのひじりと現《うつつ》にはいのちはながく立ちていませり まぢかくに見まゐらするかなやうつし身の君はたふとく老いたまふなり
 もえたてるほのほのいろの澄みゆきて君が心ぞさやけかりける
 
    左千夫忌(五月二十二日於龜戸普門院)
 
 一とせにひとたびまうで來ることも忘れがちにて生くるさびしさ
 
    澤及昆蟲則聖人歸之
 
 コスモポリイはさもあらばあれ心もえて直に一國を憂ふる者ぞ
 
(421)    安行吟行(六月十九日)
 
 この家の木のくらがりに雉子飼へり山のなかなるくらがりに似む
 
    新京たる八木沼丈夫に寄す
 
 術上《がいじやう》の石だたみが朝ぎりにしめるころ既に剽悍の目附してあるき居らむか
 譬へていはば精子のごときか目に見えぬ個の生滅《せいめつ》ののちにあたらしき國は興らむ
 おのづから日の要求の始末つけてなほ今ごろ君は何食ふらむぞ
 
    折に觸れて
 
 軍の要素なる士官の行爲は單に突撃戰の場合のみと誰かいひたる
(422) なかぞらに音する雨はまたたくまに羊齒のしげみに降りそそぎけり
 伊賀の上野にわが子病みぬといひしとき妻はわれよりも早くいで立ちぬ
 
    美男美女毎日のごとく心中す
 
 心中といふ甘たるき語を發音するさへいまいましくなりてわれ老いんとす
 有島武郎氏なども美女と心中して二つの死體が腐敗してぶらさがりけり
 抱きつきたる死ぎはの遘合をおもへばむらむらとなりて吾はぶちのめすべし
 
    久保田健次君來書
 
ハルピンより二十里北に屯《たむろ》すといふみじかき文も身に沁みにけり
(423) 高粱《かうりやん》が高くしげりてちかづける土匪のひとりも見えがてぬとぞ
 呼蘭より綏化の線にたたかひつづけてはやふた月は經きといふかも
 
    七月三十一日
 
 あつき日のひるは過ぎしにわが庭に山の小鳥來てしばし鳴きたる
 合歡の葉に入りがたの日のひかりさしすきとほるこそ常なかりけれ
 あつかりし一日《ひとひ》くれゆく宵やみに蝉鳴きしかどつひには鳴かず
 
    子規忌(九月十八日於青山會館別館)
 
 うすらさむき疊のうへにのぼりくる蟻をさまたげむものなかりけり
 
(424)    龜の子
 
 この日ごろ實朝の歌にこだはりてあけくれにけりなにのゆゑぞも
 胡頽子の實のくれなゐふかくなりゆくをわれは樂しむ汗を垂りつつ
 おほつぴらに軍服を著て侵入し來《きた》るものを何とおもはねぼならぬか 龜の子の坎にひそむとかなしみし時代《ときよ》のごとくわれひとり居り
 卑怯なるテロリズムは老人の首相の面部にピストルを打つ
 
    折に觸れたる
 
 革命者氣味にはしやぎてとほる群衆《ぐんじゆう》の斷續を見てかへるわが靴のおと
(425) おもおもしきさみだれまへのかなしみを山にひそみし人は知らぬか
 あまつ日の白き光のまばゆきに合歡の延ぶるはあはれなりけり
 ものぐるひのあらぶるなかにたちまじりわれの命は長しとおもはず
 よひやみの空にひびきて蟲ぞ鳴くこほろぎいまだ鳴かぬ草より
 しほはゆき昆布を煮つつわれは居り暑きひと日よものおもひもなし
 ひぐらしの鳴くころほひとなりにけり蜩を聞けば寂しきろかも
 とほき世のひじりのごとく額《ぬか》ふしてなげきくやしまむ時もなかりき
 
    志文内 其一
 
(426)     昭和七年八月十四日、弟高橋四郎兵衛と共に北海道天鹽國志文内なる次兄守谷富太郎を訪ふ
 
 あをあをとおどろくばかり太き蕗が澤をうづめて生ひしげりたる
 ひと里も絶えたる澤に車前草の花にまつはる蜂見つつをり
 とほく來しわれに食はしむと家人は岩魚もとめて出でゆきにけり
 志文内の山澤中に生くといふ岩魚を見ればひとつさへよし
 山なかにくすしいとなみゐる兄はゴムの長靴を幾つも持てり
 燕麥《からすむぎ》のなびきおきふす山畑《やまばたけ》晴れたりとおもふにはや曇りける
 うつせみのはらから三人《みたり》ここに會ひて涙のいづるごとき話す
(427) 雪ふかきころとしなればこの村の驛遞所《えきていじよ》より馬も橇もいづ
 笹むらのしげりなだれしこの澤を熊は立ちざまに走り越ゆとふ
 しみじみとみちのく村の話せりまづしく人の老ゆる話を
 人も馬もうづむばかりの太蕗のしげりが中にわれは入り居り
 ひるの蟲まれに鳴きつつこの道や人の歩みに逢ふこともなし
 午前二時すぎとおぼしきころほひに往診に行くと兄のこゑする
 ひと寢いりせしかせぬまに山こえて兄は往診に行かねばならぬ
 ゐろり火にやまべあぶりていまだ食はず見つつしをれば樂しかりけり
(428) 山澤におのづから生ひし桑の木に桑の實くろくなりしあはれさ
 このあした名のなき山べひとつ越えくら谷にしてしづく落つるおと
 おとうとは酒のみながら祖父よりの遺傳のことをかたみにぞいふ
 白樺の年ふりにける一つ木《ぎ》の立てるもさびし北ぐにのやま
 
    志文内 其二
 
 十尺《とさか》よりも秀でておふる蕗のむれに山がはのみづの荒れてくる見ゆ
 去蟹《さりがに》と名づくる蟹が山がはの砂地ありくを暫し見てをり
 二里奥へ往診をしてかへり來し兄の額《ひたひ》より汗ながれけり
(429) 人かよふ道ありしかば水上へ入りつつゆくにきはまるらしも
 除蟲菊を山奥にうゑて日もすがら年老いし人ひとりゐる見ゆ
 かすかなるもののごとくにわが兄は北ぐにに老いぬ尊かりけり
 おのづから白くなりゆきし髭そめて村醤の業《げふ》に倦むこともなし
 いささかのトマトを植ゑてありしかど青きながらに霜は降るとふ
 秋の夜の身に沁むごとくさ夜なかと更けゆきにけりまどかなる月
 さ夜なかと夜《よる》は過ぎつつ志文内の山のうへ照らす月のかげのさやけさ
 二日ふりし雨雲とほく退《そ》きながらありあけのつき空ひくく見ゆ
(430) 雨はれてひくむら山にかこまれし村を照らせる夏の夜の月
 かはかみの小畑《をばたけ》にまで薄荷うゑてかすかに人は住みつきにけり 年々にトマト植うれどくれなゐにいまだならねばうらがるるなり
 一週に一度豆腐をつくる村を幸福《さいはひ》のごとくかたりあへるかな
 この村の八人《やたり》つどひて酒のみぬ宮城あがたのひと秋田あがたの人 わが兄のひとりごをとめ北ぐにの言《こと》になまりつつ五日したしむ
 
    志文内 其三
 
 小學のをさなごどもは朝な朝なこの一峠《ひとたうげ》走りつつ越ゆ
(431) 裏土にわづかばかりの唐辛子うゑ居る見ればやうやく赤し
 妻運《つまうん》のうすきはらからとおもへども北ぐににして老に入りけり
 原始林の麓をすぎてけだものの住みをることをかつて思はす
 年老いつつ鴉を打ちて食ひしとふ貧しきもののことを語りつ
 過去帳を繰るがごとくにつぎつぎに血すぢを語りあふぞさびしき
 夏ふけし北の山路に小豆畑は霜によわしと語りつつゆく
 白雲はかすみのごとくたなびきてこの澤なかに月てりにけり
 日は入りて薄荷畑に石灰《いしばひ》をまきつつをりし人もかへりぬ
(432) 旅とほく來りてみれば八月のなかばといふに麥を刈るなり
 十字架ある會堂も見ずほとけの寺の鐘は一日《ひとひ》も聞こえざりけり
 
    志文内より稚内
 
     八月十八日午前七時志文内を發して佐久にむかふ
 
 あかつきの蝉さへ鳴かぬ道のべになごりを惜しむあゆみとどめつ
 ふもとまであをあをしたる薄荷畑のうへにいつしかも白雲の見ゆ
 この谷の奥より掘りしアンモナイト貝の化石を兄は呉れたり
 志文内に五日をるうちひとたびも墓地にゆき見むと吾はせざりき
(433) 五日まへに雨にぬれつつ來し道を日に照らされていまぞ歩める
 志文内をいでたる道に桑の實をくひし鴉の糞《ふん》おちてをり
 天鹽川見えそめしころ谷の入《いり》にくろぐろとして山はおきふす
 阿平志内川《あべしないがは》のながれにそひてあゆみをりある時は道ひくくなりつつ
 つかれつつ佐久に著きたり小料理店運迭店蹄鉄鍛冶馬橇工場等々
 天鹽川のあかくにごれるいきほひをまぢかくに見ておどろくわれは
 
    稚内途上
 
     八月十八日午後零時四十八分、佐久を發して稚内にむかふ
 
(434) 天鹽がはの洪水見つつわが汽車は北へ走りぬ眠む氣もよほす
 小驛のトイカンベツのあたりより山火事の跡すでに見えをる
 ととのはぬ山間《やまあひ》を行くわが汽車の窓のガラスに虻うちあたる
 兵ひとり中にまじりてどやどやとカブト沼驛に人降りゆけり
 わたつみのうへかとぞおもふ北空の低きところに雲は屯す
 なだらかに起伏し海にいたるまで北見の山の燒け果てしあと
 峽間《はざま》よりいづれば遠くさへぎらぬ空に續きて海近からし
 
    稚内
 
(435)     十八日午後稚内に著き、木谷旅館に投宿す。夜食ののち街を逍遥、萬事めづらし
 
 太々としたる昆布を干す濱にこころ虚しく足を延ばしぬ
 北ぐにの涯とおもへばうち寄する青き海松《みるめ》も身に沁むがごと
 濱べにはすなどる家が屯せり古く住みつきし人々なるか
 はるばるとつひに來にけるこの夕《ゆふべ》時を惜みて町を歩けり
 公園になり居るらしき此山をかゆきかくゆき町を見おろす
 稚内の山に登りてあかあかとわたつみに陽《ひ》の落ちゆくを見つ
 夕食後散歩にいでて天理教の路傍説教聽きてゐたりき
(436) 天理教の説教聞けば即ち曰く『諸君のやまと魂を呉れてください』
 受持の女中來りてまめまめしくわれのズボンを寢押にしたり
 蚊が居りてねむれずといひ弟は蚤取粉《のみとりこな》を火鉢にいぶす
 
    亞庭丸
 
 やうやくに遠ざかるなり稚内を船出して見る青陸《あをくが》の山 八月十九日
 青山の裾に見えゐる部落等は海の潮に浸れるごとし
 海峽を船わたりゆく時にして東北《ひがしきた》晴れて南西《みなみにし》くもる
 おもおもと曇のしづむわたの原かりがね一つ鳴くもきこえず
(437) 朝かぜの吹きゐし港船出して曇れる海を北へぞむかふ
 海の上に鴎むれつつ浮ける樣たまたま見えて我船は行く
 樺太が雲の上よりあらはれぬ何かかたまりしもののごとくに
 大泊の山見えそめてかはるころ旅なつかしくおもほゆるかも
 
    眞岡
 
 船に乘りて海をわたれば半日の旅といへども心あやしも 八月十九日二十日
 係戀に似しこころもて樺太の原始林をただ空想せりき
 山火事の煙のために空暗くその時午後三時には灯《ともし》つけしと
(438) 平原を河の流れて行くが見ゆ淺岸にして水はあらしも
 花原が隈も知らに續きつつ豐原近く日は暮れむとす
 白樺の太樹《ふとき》ならびて立つ見れば露西亞|人《びと》等が植ゑたるならし
 午後九時ごろ西海岸にちかづきて高山つづきただに黒黒《くろぐろ》し
 樺太の眞岡の町に目につきし「凱旋どんぶり」とそして「謎の鍋」
 盆をどりありしと聞けど旅づかれ海岸通までも行かずも
 とある術の角に來し時むくむくと朝井の水があふれて居たり
 日のいづる前に來れば中學生小學生もまじり海の魚釣る
(439) 濱べより見あぐる丘に家並《やなみ》たち異國《ことぐに》らしきおもかげもあり
 天つ日は裏の山よりいでつつあり忽ちにして海を照らせり
 すかんぼなども交りて樺太の港の岸に青くさ生ひぬ
 眞岡の濱の鯡《にしん》干場をもとほりて旅遠く來しとおもほえなくに
 發動船今いでゆけり沖合に船をならべて魚つるらしも
 船はつる港をそれて突堤に近く山ほどの昆布乾したり
 この町の裏山つづき立派なる建物あり中學校などもよし
 まもり來しわがまぼろしは無くなりつ樺太のやま火に燃えしかば
(440) 心の歎きなどいふことの度を越えぬ山に燃えたる火のあとを見て
 
    豐原
 
 かすみつつ高山の見ゆ原始林しげりてゐたるころしおもほゆ 八月二十日二十一日
 汽車中の話樺太神社舊市街農場ロシア人墓地山火事
 鈴谷山鈴谷川とふ山河の名さへいつしか云ひ馴るるらし
 町ゆきて貝の化石の佳き見れば皆たわやめのものにぞありし
 豐原にひと夜を寐たり庭に降る雨見てをれば京都あたりにゐるごとし
 露西亞人の造りし家も殘り居り日本人は其を參考だにせず
(441) 住みつきて業《げふ》にいそしむ人々に逢ひつつ旅の心は和ぎぬ
 おひおひに土地草木も日本らしく整理され行くがかすかに目立つ
 小沼《こぬま》に來て養狐場に養はれゐる銀黒狐いくつも見たり
 食物を與ふるときに狐等は實に驚くばかり吠えける
 いろいろとこまかき用意話しながら「神經動物」といふ語を用ゐたり
 狐等に交尾せしむることさへも一《いつ》の技術といふを聽き居つ
 麪包《ぱん》を賣るロシア人等も漸くに小さき驛へ移りゆくとぞ
 夜寒にしなるらむ頃とおもはねど鳴く蟋蟀のこゑも聞こえず
 
(442)    高麗丸
 
 長旅ををはれるごときおもひもて南へむかふ船にわが居り 八月二十一日雨
 わたつみに雨は降れどもわが目路《めぢ》にノトロ半島見ゆシレトコ半島見ゆ
 行《ゆき》の船にて麥酒《びいる》を少し飲みしかどこの船にては麥酒も飲まず
 樺太に來て消えはてしまぼろしを育くむ思ひ無きにもあらず
 いろ赤くたなびく雲もあらなくに天の原遠く暮れにけるかも
 
    南下
 
     八月二十一日午後九時四十分、稚内を發して旭川にむかふ。翌二十二日午前六時旭川に著けば、兄富大郎志文内より來り(443)會しぬ
 
 つかれつつ汽車の長旅することもわれの一生《ひとよ》のこころとぞおもふ よる一夜《ひとよ》おりゐしづめる雲ありて天鹽のくにを汽車はくだりぬ
 よるの汽車名寄をすぎてひむがしの空黄になるはあはれなりけり
 山々に光さしくるいとまありて空はひととき赤羅ひくなり
 やまめ住む川のながれとおもふさへ身に沁むまでにわれは旅來ぬ
 夏ふけし石狩のくにのあかつきは雲はれし山雲のゐるやま
 朝寒をあはれとおもひ吾汽車のしめし玻璃窓《はりど》に顔を寄せつつ
 
(444)    層雲峡
 
     八月二十三日、層雲峽に遊ぶ。守谷富太郎、高橋四郎兵衛、石本米藏同行せり。ゆふぐれてひと夜やどりぬ
 
 朝日岳十勝岳見ゆみんなみに石狩岳はかた寄りにけり
 愛奴語のチヤシは士壁《どへき》の意味にして闘のあと殘りけるかも
 愛奴等のはげしき戰闘《たたかひ》のあとどころ環状石は山のうへに見ゆ
 たけ樺いちゐとど松蝦夷松の樹《こ》むらを見つつ山に入りゆく
 とりかぶとの花咲くそばを通りつつアイヌ毒矢のことを言ひつつ
 蜥蜴いでて赤蜻蛉《あかあきつ》くふさまを見つ互に生くるもののかなしさ
(445) 病兵がここに來りてしづかなる山の朝よひを歩みつつ居り
 みなもとはかかるすがしさたひらなる小谷《こだに》にあふれみづは湧きたり
 ふりし木に生ひたる苔をやさしみと手にとり見つる山はふかしも
 山がはに倒れおちいりしとど松にみなわ逆まき身に沁みにけり
 山がははきのふもけふも濁らねどゆたけく岸の木賊ひたせり
 波だちて瀬々のつづける山がはに砂たむろせる淺岸《あさぎし》あはれ
 山がはのみづの荒浪みるときはなかに生くらむ魚《うを》しおもほゆ
 ひとところ谷あかるきにそそりたつや巖のやまをけふ見つるかも
(446) 山がはの音をしきけば底ひより鳴りくるごとし山がはのおと
 黒巖《くろいは》に水しみづるを見たりけり人のくるしきこころ絶えつつ
 とど松の木下《こした》やみよりいでくればおもく聞こゆる水上のおと
 山がはに倒れたりける太樹々《ふときぎ》が浪をかぶるを見つつゆきけり
 海に入る石狩川のみなかみはかかるはざまをながれたるはや
 いつしかに谿みづほそくなりゆけど木《こ》の下やみにしぶきあがれり
 宋人《そうひと》がさびしみしごと山のうへより音の聞こゆる瀧見つつをり
 ゆふぐれの道をいそぎぬ谿のそら北へひらきて黄のくものいろ
 
(447)    層雲峽より深川
 
 このあさけ起きいでて見ればまながひの桂月嶽《けいげつだけ》に雲はうつろふ 八月二十四日
 よべひとよ谷にみなぎりし白雲の動きそめつつ鳥が音きこゆ
 せばまれる谷の空はれて虚しきにひびきを擧げて浪は疾《はや》しも
 いそがしくわが目のまへを流れたる丸太はひとつ見えなくなりつ
 上のいづちの山とおもほゆる雲ふかきより流れくるもの
 山峽はせまくなりつつむかうより盛りあがりくる浪は白しも
 おのづから一夜《ひとよ》はあけて山峽やはらから三人《みたり》朝いひを食ふ
(448) 兄も吾も心したしくもの言ひつ石狩川のみづに手ひたす
 
    深川
 
 山鳩はすぐ眞近くに落葉松の林のなかに居て鳴くらしも 八月二十四日鬼川氏を訪ふ
 くれなゐに色づきながら生《な》りてゐる林檎を食ひぬ清《すが》しといひて
 三人《みたり》して林檎の圍に入りて來つ林檎のあひを潜りてぞ行く
 降りつぎし雨の晴れまに人居りて音江山《》べに麥刈りにけり
 音江村の高きに居ればとほどほに石狩川のうねりたる見ゆ
 
    狩勝を越ゆ
 
(449) 降りつぎしひと夜の雨の晴れしまの石狩川は浪だちながる 八月二十五日
 息つめてわれの見おろす空知川石狩川の濁り浪はや
 狩勝へいまだほどある行方にしおもおもと雲とづる山あり
 にごり浪あげくる流見えなくに空知川のみづ林をひたす
 まぢかくを空知の川の川浪はしぶきあげつつ流れゆく見ゆ
 高山のうねりの間《あひ》を過ぎ來《こ》しが分水嶺を此處にして越ゆ
 塞き風嶺に吹きつつ空知がはの源となる水は濁らず
 ふく風になびく山草《やまくさ》見えながら谿川細くなりまさりけり
(450) 狩勝の峠にうごく白雲はここに極まり嶺こえなくに
 のぼり來し汽車のけむりは高原《たかはら》の木々にまつはり消ゆるまのあり
 くもり風いまだ吹けども狩勝の分水嶺はきはまるらしも
 八雲よりいづれば十勝國原《とかちくにはら》の目ざむるまでに雨晴れむとす
 狩勝の峠こゆればみち足らふ山川《やまかは》青し晴れにけるかも
 くにざかひすでに越えたる窓ちかく異る水のたぎちの音す
 
    釧路途上
 
 帶廣を汽車いでてよりややしばし東《ひがし》のかたに虹たちにけり 八月二十五日
(451) 汽車とほる近くにも野がひの馬が見ゆ草食む馬を見らく樂しも
 帶廣にて士官あまた乘り池田にて獣醫總監がひとり乘りたり
 空はれて十弗《とをふつ》驛を週ぐるまで十勝の川は光りつつ見ゆ
 蕗いちめんに谿をうづめて繁る見ゆ海岸《うみぎし》離れ峽間路ゆくも
 
    釧路
 
 この旅館に部下をつれたる陸軍の獣醫總監もやどをとりたり 八月二十五日二十六日
 北國の釧路の町はともしびもあかあかとつきにぎはふところ
 標茶より來れる友と床ならべて愛奴のはなし幾つも聽けり
(452) 朝はやきちまたはすずし赤蟹の大きを積みて車が行くも
 ふかぶかと轍のあとのめり込みしよひ闇の町とほりてゐたり
 ぬばたまの夜のくらきにとどろける釧路の濱もわが見つるかも
 闇ふかき海に對ひて潮鳴《うしほなり》ききつつ居れば寂しきものを
 燕雀の一座來りてよひ毎に釧路の町に人とよめけり
 
    阿寒湖行
 
 秋にむかふ野をよろしみとあらくさの秀づるかぎり秀でつるもの 【八月二十六日二十七日】
 釧路野に咲きつづきたる秋花を馬食むらむか飽かむともひて
(453) 阿寒湖をさしてわがゆく涯とほく蘆が花さく釧路野を行く
 釧路賂の秋野のあひに畑ありみじかき蕎麥は花さきにけり
 みづうみは高きにありて雌阿寒のやま雄阿寒のやま海霧《がす》ぐもりせり
 みづうみの岸の木立より飛びしもの鷹とこそいへ忽ち見えず
 舟に乘りて阿寒の湖を漕ぎためば思ひも愛《かな》しこの縁《えにし》はや
 寒ぐにの山にしあれや樹立さへ荒く立枯れしものも交れり
 阿寒湖の島の木立に蝉のこゑ聞こえつつ居りときどき中絶《とだ》ゆ
 湖《うみ》ぞこに毬藻の生ふるありさまを見むと思ひて顔を近づく
(454) 一たびは見むと思ひてあひ見つる雄阿寒の山雌阿寒の山
 雌阿寒の火を吹く山に人おほくのぼりて行くにわれは行かぬに
 阿寒湖のほとりにやどり幾たびも湧出づる湯に入りて眠りぬ
 雄阿寒の山に對ひてしみじみと吾は目守れりかなしきまでに
 雄阿寒の麓にいづる湯を見むと谿ふかくまで下りて來たり
 阿寒川のながるる谿を見下せり二たびは來むわれならなくに
 舌辛《したから》の村をとほりて荷車の心を鍛ふる鍛冶を見て居り
 
    根室途上
 
(455) 陸《くが》も海も靄のくもりのかかりたる今朝の朝けを東へむかふ 八月二十八日
 山ひとつ見えなくなりしくぐもりの深き際涯《はたて》にあまつ日はあり
 ときのまに魚を干したるにほひ來て厚岸《あつけし》灣は近くに見えぬ
 右《みぎり》右にはくろぐろしたる森林《》あり遠くつづけば起伏もなし
 放牧の原に沁むまでに靄かかり馬居りながら海につづきぬ
 わが汽車の落石《おつちし》ちかくなれるころ小灣が見ゆ異國《いこく》のごとし
 蝦夷松の暗き山こえわたつみの海におちいる狹霧は疾し
 海ちかき山の中なるみづうみの高き湛《たたへ》を汽車より見たり
(456) ふかぶかと松かこみゐる高原《たかはら》に牛百あまり居り旅を來にけり
 みづうみの水に生ひたる水草《みづぐさ》のかず限なきを見つつ過ぎたり
 岬より續ける陸《くが》のいくうねり牧の馬こそ見るべかりけれ
 
    根室
 
 北ぐにのはての港とおもひつつ弟と二人街歩き行く 八月二十八日
 船の中のエトロフ鱒の鹽づめのひまなる爲事《しごと》立ちて見にけり
 金此羅の社にのぼり遙かなる旅をしぞおもふ靴をぬぎつつ
 根室灣の潮かぜ吹くを見るまでに家いでて吾は遠く來にけり
(157) 小さなる鱒鑵詰の會社あり働く作業を見せてもらひぬ
 旅びとの心こほしく白雲をかむれる山は国後《くなじり》千島の山
 グロナー機けふあたり此處に著くべしと稚兒《をさなご》どもは言ひつつ行けり
 北ぐにの港に來つつ或る時は昆布倉庫を窺《のぞ》きつつ居り
 飲食店ならべる町をたづね來て卵とぢ蕎麥ふたりは食ひぬ
 海濱に因縁《えにし》の小石給はむと暫し行きしが思ひとまりぬ
 くれなゐに色づきし茱萸の果《み》を買ひて根室を去らむ汽車に乘りたり
 
    旅小吟
 
(458)     八月三十日、札幌西本願寺別院にてアララギ歌會を開く。即事四首
 
 夏ふけしみ寺の庭におのづから杏子《あんず》落ちゐるも親しからすや
 旅とほく吾は來りてしづかなるみ寺のなかに友とあひ見む
 庭苔のしめりのうへに來つつ鳴くこほろぎもがもこころ足るがに
 札幌のみ寺に友とあひ語り雨ふりしぶく頃にわかれぬ
 
    石狩川
 
     八月三十一日、雨大に降る。札幌軌道株式會社の電車に乘りて茨戸《バラト》に著けば、其處より汽船にて石狩川をくだる
 
 札幌を立ちいで來れば街ほそりて馬宿あり遠き旅のしづかさ
(459) 青々としたる田中に兵村のなごりの家居ひと處見ゆ
 川浪のあかく濁れるいきほひに汽船に乘りて下り行きけり
 船乗り場バラトといふ名も石狩の川岸にありていにしへおもほゆ
 くろ雲は疾くうごくと見えしかば石狩川に雨ふり亂る
 河の汽船に乘りあはせたるものながら處々に人は降り行く
 たひらなる陸《くが》をながるる大河《おほかは》はほしいままなるものにし似たり
 はるかにし濁れる河や見とほしの岸低くして丘さへも見ず
 おのづから直線《すぐ》にながれぬ大河や一たびうねりいや廣らなり
(460) わたつみの海に近づく石狩川かずかぎり無き浪たちわたる
 日を繼ぎて石狩川の濁るとき恐ろしきまでに岸をひたせり
 國はらを斷ちてながるる大き河海近くなりてかかるゆたけさ
 かきくらし雲ひくきなべに川浪の立てるが上を鳥いそぐ見ゆ
 海ちかき石狩川のにごりなみ見れども飽かずあはれ旅びと
 船のなかに臥しつつ居れば石狩の濁れる浪は天の中より來る
 わたつみに石狩川の入る見れば大どかにして濁りうごくや
 石狩の川口《かはぐち》ちかく※[魚+休]《ごり》といふ魚幾萬となく人に捕はる
(461) つづきたる砂丘の上に?瑰の熟れそめし果《み》を食ひつつ行けり
 そのかみに榮えし町の石狩はものひそけきに行きもとほろふ
 
    道廳孵化場
 
 この山に澄みとほりたる水わけばきよき水に住む魚をはなちぬ 九月−日
 人工の受精をはりて二月めに幾萬の魚《うを》か此處に孵《かへ》らむ
 かくのごとさやけき水が湧きいでてをさなき魚を暫しとどむる
 孵化場の魚を襲ふものに梟《ふくろふ》も鳶も鷹らも居りとこそ聞け
 あめ鱒ら紅鱒らやまべひとときに餌を食ふさまぞかなしかりける
 
(462)    支笏湖途上
 
 孵化場をいでて來れば流れ居《を》る水のいきほひに小魚《こうを》し思ほゆ 九月一日
 藪のそばに愛奴めのこの立ちゐるを寂しきものの如くにおもふ
 木群ある澤となりつつむかうには愛奴の童子《わらべ》走りつつ居り
 こもりたるしづかさありて此澤に愛奴部落のあるを知りたり
 自動車を熊がふりかへり見て過ぎし話などして山を越えたり
 すさまじくあつまり落つる水をしぞ心|亢《たか》ぶりて見おろしゐたる
 さかさまに直《ただ》ざまに水落ち居るを瀧にはあらぬものとおもひつ
(463) おのづから暗きしげりと茂りたる林のなかに入りがてなくに
 北海遣の山中にありてわが時計を震災記念の時間とあはす
 支笏湖へ自動車道路つかぬまに吾等きたりぬ心たらひて
 ひと山の羊齒の茂りも心ひく支笏の湖にくだりゆくころ
 
    支笏湖
 
 七たりが支笏湖に來て立ちながら見て居たりけり降りみだる雨 九月一日二日
 白雲のひろごりはてしとばかりに冷たき雨は湖に降る
 みづうみをよろふ山々隱ろひて白雲のなかの雨としおもふ
(464) ひといろに雲とぢゆきし湖の空のまほらより音たつる雨
 おぼほしく見るものもなき天の原みなぎりて雨はみづうみに降る
 ふる雨を見つつし居ればみづうみの汀《なぎさ》の砂のはねあがるまで
 新しき風呂に入りつつ支笏湖に雨の晴れゆく雲を見てをり
 雨ぐもの動きそめたるひむがしに浅黄の空ははつかに見えつ
 みづうみに對ひてをればそき山の一ところにいまだ雨の降る見ゆ
 支笏湖に幽かに生きてゐる蝦を油にあげて今宵食ひたり
 年わかき愛奴がひとりこの家に雇はれ居りて萬事まめまめし
(465) 支笏湖の黒く澄みたるみづを見てわれは和《なご》む心極まるまでに
 しぶき降りし雨晴るるなべに青山がこの湖を圍《かく》みて居りき
 みづうみに迫るがごとく見えそめし樽前山の赭きいろ見ゆ
 支笏湖を漕ぎたみゆけばおのづから恐ろしきまでに水は澄みたり
 空はれて白老山《しらおいやま》も見えしかどなほ奥處《おくが》なる山ぞくもれる
 
     一夜明く(九月二日〕
 
 みづうみの朝の水際《みぎは》にわが來ればいつしか山に日當りて居り
 罪の無き人のごとくに起きいでてつめたき湖《うみ》の水に手ひたす
(466) 朝あけて樽前山ゆ立ちのぼるけむり時のまは直《すぐ》になりたり
 みづうみの涯《はて》にかすかに見えにけるオコタンの湯は行きがてなくに あかつきの湖《うみ》のほとりに聞こえくる鳥が音《ね》とほしうすら寒しも
 みづうみにそばだつ山の背をつたふ白雲すでに沈みそめたり
 青山にこごりながらに朝あけてうつろひ行かむ雲はおもむろ
 みづうみの朝のいさごにおりたちて人の世の受くる苦しさもなし
 湖じりの水をし見ればうたかたの消えつつぞゆくかつ結びつつ
 
    苫小牧
 
(467) 白老山樽前のやまフウプシヌプリ惠庭の山脈《やまなみ》あらはになりつ 九月二日
 ここにして惠庭の山はか青きにいただき近く木の無きが見ゆ
 樽前のけむりのさまが時々にかはりつつ居り此處より見れば
 製紙場の作業のさまを見まはりて山を旅來しわれぞ驚く
 木材より紙になるまでのありさまがただ目の前にあらはるるなり
 
    白老
 
 うすら寒く雨降りしきり砂に沁む白老むらを歩きて行けり 九月二日
 白老の愛奴酋長の家に來て媼若きをみな童女《わらはめ》に逢ふ
(468) 白き髯ながき愛奴の翁ゐて旅こしものを怪しまなくに
 口づから古きときより傳へたるメノコの唄は悲しきろかも
 降る雨を見ながら黒く煤垂りし愛奴のいへの中に入り居り
 過ぎ去りし時代《ときよ》のままに起臥して山ゆくときは猛猛《たけたけ》しとぞ
 しぼりたての牛の乳のみ出で來しに一時間にして腹をくだせり
 この丘に秋きたりぬとおもふにし蟋蟀鳴きぬいまだ幽かに
 
    登別
 
 登別にひと夜やどりて寄りあへる湯治の客のなかに親しむ 九月二日三日
(469) 登別に飼ひゐし熊を見て居れば山のままなる熊しおもほゆ
 刀拔きて舞へるアイヌがうたふこゑわが目の前に太々と鋭《と》き
 いくつにも小山うねりて入る谷に白き山ありて音ぞきこゆる
 あかあかと色ただれたる山は見ゆ谷よりいづる烟なづさふ
 あゆみゐるわが足元にかすかなる砂《いさご》うごきていぶきの音す
 小火山の群落を見る思ひして大湯池《だいたうち》まで山に入りゆく
 酸きけむり谷をこめつつながれにはいろくづ一つゐることもなし
 
    車房漫吟
 
(470)     九月三日登別温泉をたち、登別驛九時七分發、長萬部行の汽車に乗る。車房雜吟。大沼公園を見、函館に著く
 
 馬も牛も雨に濡れつつゐる見れば長雨《ながあめ》ふりて秋立つらむか
 清き川が海に入りゆくところなど見えつつ磯に治ひて走りぬ
 なぎさより直ぐに續ける沼ありて青々として草しげる見ゆ
 アシベツといふ海岸の村見えつ小山のすそに潜むがごとく
 青々としたる低山おきふせり山のそがひは海なるらむか
 室蘭の製鋼所より立つけむり室蘭の町を見る時間無し
 忽ちにせまき谷合とほり過ぎベンベの浦の海にごりたる
(471) 白浪のとどろく磯にひとりしてメノコ居たるを見おろして過ぐ
 鴎らが驚くばかり數むれて海のなぎさに昇るところあり
 禮文華《れぶんげ》の連續したる隧道《とんねる》をやうやく出でて靜狩《しづかり》のうみ
 隧道をいでて明るき峽の空部落のうへに海の潮《うしほ》みゆ
 旅とほく來つつおもほゆ人の生くるたづきはなべて苦しくもあるか
 長萬部の驛に下りたちいそがしく停車場に賣る蕎麥を食ひたり
まへやま
 わたつみの海より直に秀でたる駒ケ嶽見れば前山もなし
 片がはに草木生ひつつ駒ケ嶽の裾野は引きて海に入る見ゆ
(472) 二つ峯もちて鋭き駒ケ嶽北より來つつ振りさけにけり
 駒ケ嶽の裾野は引きてひろごれば柏の木立幾里つづきぬ
 常ならぬ空合にして駒ケ嶽の西のおもては黒雲とぢぬ
 おのづからめぐり來れる裾野なる防雪林に汽車のけむりかかる
 
   湯川即事
 
    九月四日高橋四郎兵衛とともに函館市外湯川温泉にやどりぬ。武藤善友君等會す.雨大に降る
 
 しほはゆき湯のたぎり湧く音ききて海まぢかしとおもほえなくに
 牛の乳のきよきを盛りし玻※[王+黎]《はり》あれど腹いたはりて飲むこともなし
(473) ロシアびとひとかたまりに住みつきて街のかげなる家等はひくし
 魯西亜人のひとつの家族はこの夏も胡瓜の鑵詰つくりて業《げふ》とす
 魯西亜人が移住し來てすぐ建てたらしき黄いろの家もいまは古りたり
 うすざむき街をしゆきて馬の藥うる家のまへに足をとどめつ
 しほはゆき湯にあたたまり久にあひし友の體を見をる親しさ アララギ歌會
   十和田湖
 
    九月五日、飛鸞丸に乘り函館出帆、青森著。汽車にて古間木《ふるまぎ》驛下車、三本木より乘合自動車にて十和田にむかふ。六日午前十和田にあり
(474) 奥入瀬の川浪しろくながるるを幾時か見て國のさかひ越ゆ
 この谿にわきかへりくる白浪を見つつ飽かねどわれは去りゆく
 ひむがしへふかき奥入瀬の谷間よりあふれみなぎりし湖のうへの雲
 みちのくの山に入り來て淺川にながるるみづもかなしきろかも
 ひがしより霧わきあふれかくろへる十和田のうみの奥處しらずも
 ゆふやみになりしみづうみの木立より黒鳥《くろどり》の鵜はみだれて飛びぬ
 みづうみの夜《よ》のほどろには遠くよりふるひくる地震《なゐ》をひとり聞きにき
 アメリカの女旅人《をみなたびびと》とつれだちて目下に赤き巖《いは》を見おろす
(475) 現身《うつしみ》に沁むしづかさや旅ながら十和田の湖にわれは來にけり
 むらがりて鵜のすむ山とおもほえずみづうみの中に舟をとどむる
 よもすがらみづうみのなかに降りし雨あかときがたに聞こえずなりぬ
 朝あけて十和田のうみを弟ともとほり居りて母をしぞおもふ
 夜もすがら降りみだれたる夏の雨|湖《うみ》のなぎさをおほどかにせり
 みちのくの大きみづうみのよひ闇は雲とぢにけり低山《ひくやま》も見ず
 あさ明けしうみの低空《ひくぞら》をひとしきりくびをのばして鵜のわたる見ゆ
 東谷よりひとときにしてあふれくるさ霧は湖《うみ》のうへにたゆたふ
(476) 湖ふかく魚は棲めども悲しきや魚《うを》おそふものの時なかりけり
 はしばみのまだ小さきを手にもちて湖の岬の木立に入り來《く》
 うごきゐる雲にまじはりて見るときぞ十和田のうみはゆゆしかりける
 嘴《はし》ながく飛びゆく鵜等を見てをればところ定まらず水にしづみき
 みちのくに雪ふるころはこの湖の鵜のとりもなべて南へぞ飛ぶ
 山鳩のこゑはさびしく聞こえ居り道はやうやく高しとおもふに
 
    芸香草
 
 けふ見れば机にかぶせおきたりし風呂敷のうへに塵つもりけり
(477) 午前より疲れしならずとおもへども身のおきどころなし雷鳴るらむか
 土屋君が心をこめて養ひし芸香草《うんかうさう》をくれたまひたり
 山水圖は樂しくもあるかこの身さへ山のそこひにかくるるごとし
 この朝や露さむくなりて胡頽子の實のやうやく赤しわれはかなしむ
 
    朝日かげ
 
 てらす日の光しづかになりゆくとき草むらなかに蟲はおとろふ
 きびしかりし暑さをぞおもふ朝日かげふかく疊にさすを見につつ
 わたりくる雁もきこえぬ東京の空そこはかとなく日はくれにけり
(478) 濠のみづよりいま飛びたちし鵜ひとつ高空《たかぞら》こえて行くとおもほえず
 北ぐにの旅よりかへりものわすれしきりにしつつ爲事《しごと》すわれは
 
    寒霧
 
     十二月の言葉(雜誌日の出のため)
 
 高山のいただきにして雲みだる明日さへ晴れば白くかがやかむ
 あかつきになりたるらしきころほひにペチカを焚きてひとは起きいづ
 鎔鑛爐の炎ののぼるいろさへや親しくなりて冬ふかむなり
 ふかぶかとフアーコオト著て鼻ひくく清きをとめは銀座をあゆむ
(479) キリストはけふは生れき東京も巴里のごとくに樂の音きこゆ
 淺草や吉原かけて寒靄《かんもや》のたなびくころを人むらがりぬ
 一とせは短いごとくにて粕當に長し一くぎりなる年くれむとす
 
    寒月
 
 うつせみのいのちの長きさいはひをまぢかくに見てわれはしぞおもふ
 空峯ひくくまどかなる月いでにけり市中《いちなか》にしてたたずむわれは この夜ごろ餓ゑて死にする人ありと知るも知らぬも此處につどへる
 慈善鍋に銀貨ひとつを入るるさへ善根ゆゑに公にせり
(480) アララギも二十五年を經たりけりアララギをおもへば涙ぐましも
 
    世田谷
 
     新東京
 
 きほひ立つ大東京の西方に世田谷區こそ位置を取りけれ
 あさあさに千二千人の人々は中心街區へ運ばれきたる
 
     世田谷街道
 
 白田舍《はくでんしや》に往來したりし八年《やとせ》まへの衢おもへば變化したりぬ
 市街戰演習をすと汗を垂らしてアスフアルトの上に匍ふ兵士あり
(481) 世田谷の砲兵旅團へ入りてゆく將軍はいまだ若きにあらずや
 
    松澤病院
 
 ものぐるひここに起臥しうつせみに似ぬありさまもありとこそいへ
 おそるべきものさへもなく老いゆきて蘆原金次郎はひじりとぞおもふ
 
    豪徳寺
 
 地所おほく持ちたる曹洞禅寺にてけふ來て見ればこころ和ぎたり
 瞳さだめて井伊直弼の墓の字を見れば活字體に書きてありけり
 
    甲州街道
 
(482) 近代の都會道路になり濟まして新宿をいでし街道を見よ
 
    松陰神社
 
 市《いち》なかに松かぜのおとを聞くときはここの社は清けかりける
 人をまつりし神のやしろのまぢかくに桂太郎のおくつきどころ
 
    青山腦病院
 
 茂吉われ院長となりいそしむを世のもろびとよ知りてくだされよ
 
    襤褸市
 
北平《ペエピン》も巴里も知りてわれ居れど此處の襤褸市にしばし親しむ
 
(483)    展望
 
 杉むらののこるを見れば東京の市中《まちなか》にして霧たちのぼる
 
    雜歌控
 
     宮本武藏筆鵙。渡達崋山の箱書に、「宮本二天枯木鳴鵙、第一※[巾+(穴/登)]、丈政庚辰嘉奈月四日、渡邊登審鑑謹書」
 
 眼のところより嘴《くちはし》にかけて直ざまに生《いのち》寫せりとわれ この鵙の圖をわれ幾たびか見つれども劍法を聯想したることなし
 
     日の出創刊號のために三首
 
 とことはに國あたらしく豐榮とのぼる朝日の光のごとし
(484) あまのはら雲はなびきてくれなゐの八尺《やさか》の日こそ見えそめにけれ
 ひむがしの日いづる國のいきほひは常稚國《とこわかぐに》とおもはざらめや
 
     小澤榮一君を悼む(昭和七年三月)
 
 うつしよに君が持ちけむかすかなる光といへどとはに消《け》なめやも
 やすらかにここにいまさむ木々の芽の萌えづる春のおくつきどころ
 きよき花のひと花ちりてこの朝明ものの行方ぞ悲しかりける
 
    那須にて(九月十一日山樂)
 
 天つ風高く吹きつつ今朝の朝け青國原《あをくにばら》は晴れにけるかも
 
(485)     矢野氏母堂挽歌
 
 いつしかも時は經ゆきて亡きひとのいまししころぞましてしぬばゆ
 おのづから冬ふかみつつ一夜さへいよよこほしきおもかげにたつ
 
     鈴木金二君に
 
 八王子南町なる君が顔しばらく見ずて我は戀ひ居り
 
     鈴木金二者の第三男を祝ひて
 
 まづしさも君は言あげせざるらし君がふみよめばいつも樂しも
 
(487) 後記
 
       〇
 歌集「石泉」は、私の第九歌集で、昭和六年、昭和七年の作千十三首を収めたものである。昭和六・七年は私の五十歳、五十一歳に當る。
 卷は昭和五年の十一月に滿洲の旅から歸つて來たが、昭和六年の春から度々感冒發熱して臥床した。そして熱海・那須に轉地してやうやく輕快したが、大澤禅寺で安居會を開いたあたりはいまだ喘息のやうな症状が殘つてゐた。この年、長兄守谷廣吉が郷里山形縣で病歿し、佐原※[うがんむり/隆]應上人が近江蓮華寺で遷化せられた。
 熱海、那須頻、箱根、伊香保の歌があり、長兄の葬送に出席した歸りに、鳴子、中尊寺、鹽釜等に遊び、その歌がある。痰喘の症は年末になつて辛うじて癒えた。
 昭和七年、伊賀上野に行き長男の病氣を見舞ひ、菊山當年男氏に會つた。夏、舎弟高橋四郎兵衛と共に、北海道の次兄守谷富太郎を訪ひ、志文内から稚内・眞岡・豐原・層雲峡・深川・釧路・阿寒湖・根室・支笏湖・苫小牧・白老・登別等に遊び、歸途十和田湖を見た。
(488)     〇
 ゆふぐれの薄明にも雪のまの土くろぐろし冴えかへりつつ
 ふりつもる雪のもなかにわれ立つや衢のかたは鈍きものおと
 このゆふべ徳川の代にありしとふ戀愛劇を見て涙をおとす
 試驗にて苦しむさまをありありと年老いて夢に見るはかなしも
 夜もおそく試驗のために心きほひて明治末期を經つつ來りき
 風癒えてわれの見てゐる目のまへの土よりひくくかぎろひの立つ
 時のまのありのままなる樂しみか疊のうへにわれは背のびす
 むかひ居て朝飯《あさいひ》をくふ少年は聲がはりして來れるらしき
 政宗の追腹きりしさむらひに少年らしきものは居らじか
       〇
 ながらへてひとりなりけるつひの道かなしき我をいだきたまはな 救世觀世音菩薩
 よひ闇のはかなかりける遠くより雷とどろきて海に降る雨
 かの山をひとりさびしく越えゆかむ願をもちてわれ老いむとす
 ひとりしてわが來つつをる松山に地震はゆりて土うごく見ゆ
(489) 小さなる自治制布きて昔より役人ひとり居たることなし
 眉しろき老人《おいびと》をりて歩きけりひと世のことを終るがごとく
 あしびきの山のはざまに自らはあかつき起の痰をさびしむ
 たまぼこの道のうへよりいつ見ても谿の青きが湧きたつ如し
 心しづかに山をくだりて來しかども曉がたは喘を患ふる
       〇
 ひとときもためらはざらむ馬虻が疊のうへをひくく飛ぶ見ゆ
 音たてて砂のくづるるやまがはを見おろしにけり歩みとどめて
 つき草ははかなき花とおもへども相模の小野に見ればかなしも
 上の山のまちに鍛冶《かぬち》のおとを聞く大鋸《おが》をきたふる音とこそ聞け
 たかむらはおぼろになりて秋ぎりの過ぎゆく方に日は落ちむとす
 みほとけに茶呑茶碗ほどの大きさの床ずれありきと泣き語るかな
 いづみよりつづける川に赤き鯉われにおどろく濁りをあげて
 信濃路とおもふかなたに日は入りて雪ふるまへの山のしづかさ
 うつせみのいのち絶えたるわが兄は黒溝臺に生きのこりけり
(490) 昭和六年には右のやうな歌がある。おほむね平凡な歌であつて、句の上などに奇拔な工夫などが無いやうであるが、寫生の比較的眞面目に出來てゐるものも交つてゐるやうである。
       〇
  こゑあげてひとりをさなごの遊ぶ聞けばこの世のものははやあはれなり
  やうやくに老いづきにけりさびしさや命にかけてせしものもなし
  われを惡む人おもはぬにあらねどもこよひやすらかに臥し居りにけり
  まなこ冴えてわれはねむれず巨流河の警戒塹に雪ふるらしも
 昭和七年には、かういふ歌などもあり、「警警塹」などといふ文字が見えるやうになつた。
  山なかにくすしいとなみゐる兄はゴムの長靴を幾つも持てり
  燕麥《からすむぎ》のなびきおきふす山畑《やまばたけ》晴れたりとおもふにはや曇りける
  うつせみのはらから三人ここに會ひて涙のいづるごとき話す
  雪ふかきころとしなればこの村の驛遞所より馬も橇もいづ
  笹むらのしげりなだれしこの澤を熊は立ちざまに走り越ゆとふ
 次兄を天鹽志文内に訪うたとき出來たものであつた。ものめづらしいばかりでなく、久しぶり(491)で會つた兄弟三人が、一しよに數日を過ごした感慨がおのづと出たもののやうであつた。
       〇
 この歌集「石泉」につづくのは、歌集「白桃」であるから、はじめて私の歌集は連續することになるわけである。ただ歌集「のぼり路」の後は、戰爭となつたため、戰爭の歌を棄てることとし、平和の歌を以て編輯し、「小園」につづけるつもりである。
        〇
 本歌集發行にあたり、岩波雄二郎、布川角左衛門、榎本順行、古莊信臣、長島陽子諸氏及び柴生田稔氏の芳情を忝うした。昭和二十六年三月、齋藤茂吉。
 
  白桃
 
(495)  昭和八年
 
    新春賦
 
 あさ明けしわたつみのうへにしろたへの雲ひとつなし和ぎにけるかも
 いのちながくして富み足らふさちはひを年のはじめにまうさざらめや
 福壽草《さちぐさ》を縁のひかりに置かしめてわが見つるときに心は和ぎぬ 雪つもる北の山べにをとめ等も相たづさはり遊びゆくとぞ
 雀らのさへづるこゑも樂しかりものに恐れむこゑにあらずも
 
(496)    新年
 
 あたらしき年のはじめに思ひきり富み足らひたる夢をだに見よ
 いささかの事なりながらみづからの事し遂ぐるに金を借りねばならぬ
 四《よ》たりの子そだてつつをれば四たりとも皆ちがふゆゑに樂しむわれは 押入にひそむこの子よ父われのわるきところのみ傳はりけらし
 うつせみの命おびやかし金をとる人つぎつぎに捕はれにけり
 
    朝の海
 
 飛行機に飛びつつゆけば目下《まなした》のゆたけき海に夜《よ》は明けむとす 御題朝の海二首
(497) ひむがしの海あかねさし天《あめ》の御中主の神の成りませる時しおもほゆ
 しらじらと柳の花に降る雪を戀しき人はけふ見けむかも
 あわ雪のほどろほどろに降るを見て心しづかにわが老ゆるなり
 年の暮よりあたらしき年にうつるまの時のひらめきにも病むこともなし
 こがらしも今は絶えたる寒空よりきのふも今日も月の照りくる
 もの嫉む心おこりもなくて我が歩みゆく道の泥も氷りぬ
 とことはの力を秘めてかぎろひの立ちたる海に波しづまりぬ 朝の海
 ほがらかに睦みあひつつ現身《うつしみ》の正しきみちにたたざらめやも 青山五丁目會報
(498) まどかなる人の心の相よりていまのうつつぞ尊かりける 青山六丁目會報
 機關銃の空にひびくを聞きて居りここに住みつきてはや幾とせか
 
    早春獨吟
 
 春さむき一日《ひとひ》の業《なり》は果てねども紙帳のなかに吾は入りけり
 この堂にむらがりし人のことごとは富み足らひたるものにあらじか
 とげとげしき心おとろへてわが妻と親しみゆくもあはれなりけり
 はたらきて止むときもなきうつせみに寒さきびしかりし冬過ぎむとす
 氣ぐるひし老人《おいびと》ひとりわが門を癒えてかへりゆく涙ぐましも
(499) 丸ビルにむかひてあゆむ朝の群衆《ぐんじゆう》を見るゆとりあり春日《はるび》になりぬ
 この日ごろ日脚のびしとおもふさへ心にぞ沁む老に入るなり
 黴ふきし餅《もちひ》を水のなかに入れ今しばらくを惜しみて居らむ
 
    殘雪
 
 冬木原とほりて行ける道のうへの殘る斑彗《はだれ》ぞ戀《こほ》しかりける
 さむき風ふきたる杉の木下《こした》やみは深山《みやま》さびして雪のこりけり
 ふかぶかと積りけむことおもほゆる落葉の上に殘りたる雪
 しづかなるここの木立に山に鳴く小鳥のこゑは間を置き聞こゆ
(500) 林間を帽子かぶらぬ獨逸人が二人ゆけるに通り過《すが》へり
 冬木立いでつつ來れば原にしもまどかに雪は消えのこりたる
            
    長塚節忌歌會 【二月十八日於清水谷公園内皆香園】
 
 午後の日はやうやく低く木立より雪のしづくを聞くべくなりぬ
 
    事々
 
 漢口《ハンカオ》を引きあげ腦の比較解剖學に專念したる汝《なれ》を悲しむ 二月四日爲助歿
 
 幸《さいはひ》は妻を得てよりはじまりて心しづかなる年老ゆるまで 二月六日西洋新婚賀
 外套を著てわが國の能を觀るバーナードシヨウ稍倦みにけむ 三月八日九段能樂堂
(501) わが父が独逸留學より歸り來て爲事はじめし頃よりの恩 三月九日栗本庸勝先生歿
 年わかく身まかる汝《なれ》も五年《いつとせ》の女男《めを》のちぎりを足らへりとせよ 三月十四日島秀子歿
 
    殘雁行
 
 山あひに冬がれ立てる一むらの柞《ははそ》に近く汽車は走りぬ
 あかつきの麥生《むぎふ》の霜は白けれど春の彼岸に近づきにけり
 むらがりて落ちかかりたるかりがねは柴崎沼《しばさきぬま》のむかうになりつ
 あまのはら見る見るうちにかりがねの一つら低くなり行きにけり
 春の雲かたよりゆきし晝つかたとほき眞菰に雁《がん》しづまりぬ
(502) 下總をあゆみ居《を》るときあはれあはれおどろくばかり低く雁《かり》なきわたる
 聲しげき雲雀のこゑは中空《なかぞら》に聞きつつぞ行く黄なる蘆はら
 かぎろひの春日《はるび》といへど未《ま》だ寒き田中の泥にこころこほしむ
 
    山房獨語の歌
 
 うつせみは和《のど》に死なじと甲《よろ》ひつついにしへ人もなげきけるかも
 國こぞるいきほひをしも今のうつつにこのひむがしの國にさだめむぞ
 このゆふべ勞働《はたらき》びとのひとつらは首《かうべ》をあげてかへりくる見ゆ
 民を牧《やしな》ふ人ゆたかにて富みたりと封建の世にも定まりかねき
(503) 民族のエミグラチオはいにしへも國のさかひをつひに越えにき
 暴富の家にはぐくまれたる一青年が「貧」のあそびを今日も爲したり
 街にいで來て熱河戰闘の實寫眞をまなぶた熱くなりて見て居り
 一國のうごき峻《きび》しくなるときに模倣餓鬼らの何のたはれぞ
 
    嚴し
 
 うつつなるきびしきさまに會ひ會ひて夜半《よは》のひととき菓子を食ひをり
 五郎劇にいでくるほどのモラールも日の要約のひとつならむか
 あかあかと月てりわたる冬の夜に市中《いちなか》にして人はあふがず
(504) 弟の死にゆくさまを見たれども名殘をしまむ言ひとつなし 齋藤爲助一首
 ただならぬ代にうまれあひて働くに生《なま》ぎきのことを言はざるなゆめ
 
    山房近咏
 
 はやりかぜの熱おちゆきてしづかなる疊のうへにわれはすわりぬ
 先驅者歿後五十年にして幾たりかマルチリウム氣味に死せるものあり 【マルクス五十周年】
 北平《ペエピン》にわが居しときも行かざりし熱河おもへば心は激つ
 若くしてやもめになれるいもうとは宵はあさきにはやも寢《ぬ》るとふ
 はるの雪そらも暗しと降るときは驚くごとくわれも見てをり
(505) 西暦一九二三年のヒツトラアをまのあたり見しことをしおもふ
 あまのはらより見たる熱河の山々の寫眞を見れば生けるがごとし
 かぎりなき襞となりつつおきふせる支那の山脈《やまなみ》は見れど飽かぬかも
 東北の師團の兵がいきもつかずせまりてゆきし山かはぞこれ
 みちのくに海嘯あらびてもろともに命死にせりわがこころ泣かゆ
 
    赤彦歌會
 
     三月廿五日於清水谷公園内皆香園二首
 
 春の雨ふりたる庭にあはれなる萱草の芽は萌えいでて居り
(506) やうやくに老のしづけさにあけくれて亡き數に入りし友をしぞおもふ
 
     三月廿一日於犬山町外繼鹿尾山寂光院一首
 
 きみしのぶもろ人つどひけふの日の清けき一日暮れにけむかも
 
    番場蓮華寺
 
 近江賂の番場蓮華寺に上人の葬りのみ聲山にひびきて
 ※[うがんむり/隆]應上人のつひのはふりとわが妻も二人はともにこの山に居り
 法類は涙ながして石かげに白きみ骨をうづめをはりぬ
 苔のみづきよきみ寺よいまゆのち二たびわれは此處に來ざらむ
(507) 山形の縣の村の幾たりかけふこの山に香《かう》焚きこもる
 
    比叡山
 
 咲く花は咲きつつありて芽ぶかむとする山のおとこそ寂しかりけれ 四月六日
 戒壇院にのぼりて來ればまだ寒く裏手にまはり直ぐにおりにき
 やうやくに芽ぶかむとして沙羅雙樹たてる木《こ》のもとゆきかへりすも
 中堂の庭に消《け》のこる雪見れば土につき白きいはほのごとし
 のぼり來し比叡の山の雲にぬれて馬醉木の花は咲きさかりけり
 百鳥《ももとり》のこゑをし聞けばよしゑやし一日だにわれ心しつけく
(508) かぎりなく丹波の山はおきふしてそれより目路は鞍馬にむかふ
 岫の路いくまがり來しころほひに鐘つく音すうしろのかたに
 山めぐりわが立來れば樅の實は木下闇《こしたやみ》に落つ人は踏みつつ
 あふみの海いまだ寒しと此良山《ひらやま》に消《け》のこる雪は見らくしよしも
 幾つ山おきふし居りて一谷《ひとだに》を光てらせり明るくもあるか
 木《こ》ぐれ道たひらとなればやすやすと吾は歩ける話もせずに
 峯路《みねぢ》よりくだりてぞ來し谷あひも杉木立ありて吹く風さむし
 みづうみを見おろして居《を》る山の上に杉の青葉おつ心親しも
(509) しばらくは尾根歩き來てわが妻も黒谷道をおりゆきにけり
 やどりには黴のにほひの身にし沁む厚ぶすま著ていつかねむりぬ
 現在《いまのうつつ》なるこよひは寂《しづ》かにて杉まの砂に月照りにけり
 黒つぐみ曉に鳴くこの山は修法《しゆほふ》の法師つらなめて行く 【根本中堂聖上御衣奉安加持御修法】
 榮西のしたる庵はたかむらを前にして谷をひとつ隔てぬ
 冬枯のせぬ羊齒ありて今朝の朝も山のさ霧にぬれつつぞゐる
 
    沙羅雙樹
 
 雲いまだうごきやまざる空ひくく鳥がね聞こゆ比叡の山は
(510) 沙羅雙樹芽ぶかむとする山のうへに一日《ひとひ》を居りていにしへおもほゆ
 日もすがら庭を清むとここにゐる僧のひとりはしはぶきをせり
 つもりたる杉の落葉をふむときにこのしづかなるいとまを愛《を》しむ
 しげ山の木立を過ぎてひとときは開くる岨《そは》ゆ八瀬が見ゆるなり
 
    鞍馬山
 
 道のべの木いちごの花にほへるをあらそはなくに蜂ひとつゐる 四月七日
 いくたびかわれは休みてこの道をのぼれるときに人を戀ひにき ※[うがんむり/隆]應上人
 たわやめが涙もよほすとなげかひし水の音こそ聞こえをりけれ
(511) 比叡くだりてふたたび比叡にわがむかふここの高きに鳥啼きわたる
 ともし火は晝といへども赤くしてくらまの山にうれひを消《け》たむ
 鞍馬より四明が嶽の見ゆるとき起きふす山を間《かひ》となしつる
 鞍馬寺にのぼり來りてやすらふも一時にしてをはりとぞおもふ
 少年の義經のこともいめのごとき僧正谷にわれの汗垂る
 青みたる比叡の山をかへりみしわれは寂けしくらま山のうへ
 をみな等の惱む額にもふれたりし平安朝の聖おもほゆ
 かくばかりおきふすかなと墨染のくらまの谷にわが向ひたる
 
(512)    京都・大阪
 
 夜《よは》すぎて旅のやどりもしづけかり寢處《ふしど》にちかく鯉跳ぬるおと 四月七日八日
 うづたかく生ひ古りにける青苔に春雨ぞ降るあかときにして
 中庭のせまきに植ゑし木やうやくに芽ぶきそめしを見つつわが居り
 あづさゆみ春の一日はすがしかり大阪の城に青むもろ草 九日大阪
 ひく山をそがひにしつつ色碧く流るる川も向《むき》かはりたる 十一日廣島途上
 しろき川原を片側《かたかは》にもち流れたる川はしばらく西へむかひぬ
 大阪の城の石垣見しことを友に語らむ病む友の邊に
 
(513)    五日市濱
 
     四月十一日中村憲吉君の病を問ふ
 
 病みこやす友とあひつつなつかしき思ぞたぎつ夕ぐれにけり
 しづかなる濱にいたづき養ふと君ひたすらに臥していませり
 床のうへに胡座をかきてものをいふ君にむかへば吾はうれしも
 病みこやり痩せたる君を相見つつ何より先に話すべきかも
 あひむかひ一つ卓袱臺《ちやぶだい》に夕飯《ゆふいひ》を食ひつつをればこころは和ぎぬ
 床とりて寢むとおもへばおぼろなる月波のうへを照らしそめたり
(514) 友のこと心におもひ寢つかれず幾時か聞く海どりのこゑ
 あさ明けてしづかなる海の渚ゆき今ごろ友は覺めしとおもふ
 病みて臥す君が枕べに短册《たんざく》に歌など書けば悲しみは無し
 愬《うつた》ふる言《こと》さへもなき靜かさを君は保ちてかい細りけり
 みまかりし師のこと友のことのこりたる遺族のことに君は關はる
 
    嚴島
 
 わが眠る枕にちかく夜もすがら蛙《かはづ》鳴くなり春ふけむとす 四月十二日
 濤の音《と》の聞こえぬ島の一夜寢《ひとよね》をひがしの國にわれかへりみむ
(515) 嚴島に一夜《ひとよ》やどれば鶯は止まず鳴きたりこゑなつかしも
 こよひ一夜《ひとよ》友と離れてみづに鳴く蛙のこゑを聞けばさびしも
 過去とほきこのみ社にまうで來て心は疲る春のひと夜を
 
    伊香保 其一
 
 白雲は谿をうごきてのぼれども山の高野に消《け》たりけるかも
 ここにしてさ霧のうづは風をいたみ相馬が嶽の尾根をかくせり
 白雲のみだれしづまるありさまをそひの榛原に居りてこそ見れ
 ひるすぎて霧のみだれの晴れゆけば榛名の谷に雪のこる見ゆ
(516) 兒持山さぎりのうへに見えながらわれのそがひに日は落ちむとす
 
    伊香保 其二
 
 高はらにただちにひくくそびえたる山のいくつをわれ見つるかも
 くろぐろと高はらのうへの燒かれたるひとところにも雪は殘りぬ
 あるよひの雪のなだれのなごりにか楢の太木は道にかたむく
 うす闇にあやしき鳥のこゑしたる相馬が嶽の谷を見おろす
 群山は暮れむとしつつあな寂し北空とほく日あたる山あり
 
    伊香保 其三
 
(517) 北とほき雲のおくがに雪ふりて常に晴れざる山あるらしも
 ここに吾居りて天とほき信濃賂の穗高《ほたか》の山に雲は離れず
 しづかなる形になりし北空の雲をし見れば心こほしも
 そびえたる二山のあひの山のうへの空はつかに明し信濃の方に
 あめなるや遠山の峰にこごりたる雲やうやくにうつろふらしも
 かぎろひの日は照らせれどみづうみの浪うちぎはに雪ぞのこれる
 伊香保呂の榛名の湖の汀にて消《け》のこる雪を食へるをさなご
 たえまなくみづうみの浪よするとき浪をかぶりて雪|消《け》のこれり
(518) ふく風のおとする中に鳴きながら岩にすむ鳥飛びくだる見ゆ
 ひたぶるに吹く風をいたみこの山の南の谷もおそろしきかも
 そひの榛原見おろしをればこころよし大き石見ゆところどころに
 谷底に木立はありて冬枯のすさまじきさまを未だたもてり
 白き霧しづむまにまに伊香保ろの谷くらがりて飛ぶ鳥もなし
 あしびきの山の常蔭とひとむらの雪のこりつつ吾は渡れり
 冬がれて木《こ》むらの見ゆるこの谿はひがしの方に開けたるらし
 ふかぶかとおち入りて水のながれざるきびしき谷を見おろしてをり
(519) このあたりに兎ほしいままに住めるらし萱むらなかのここのあたりに
 雪のこる相馬が嶽の笹原をふきなびけくる風は寒しも
 上野《かみつけ》の春の山より北空の雲をし見ればとほく亂れぬ
 かくのごと遠くさびしき山並の雪のひかりに心寄りゆく
 から松の木立をしげみわれ居れどいまだ芽吹かぬ春の木立は
 ふゆがれの山のあひだにわれ憩ふ吹きくる山風のおとを聞きつつ
 いま吾の見おろしてゐる木立ある谷なかにして風かとよもす
 
    鹿野山
 
(520) 四十雀たえす聞こゆる小糸川《こいとがは》の谿あひふかくのぼりつつあり 五月二十日地曳氏同行
 けふ一日谿ふきあぐる風をいたみ山のうへにして砂の飛ぶおと
 この山の空のひくきに燕《つばくら》はむれつつぞ鳴く風に吹かれて
 わたつみの西ふきあげてけふ一日九十九谷の空晴れかねつ
 ふか谷は相まじはりて空とほく限りもしらにおもほゆるかも
 この谷のゆくへを見ればおぼほしく海は霧《きら》ひて天つ日ひくし
 安房のくに山の上よりよもすがら谷の底にて風のふくおと
 きぞの夜の雲しひらきて青山はいくへの奧《おき》にたたなはりけり
(521) 雲きるる時のあひだは深谷のそこひを照らす日の光かも
 かぎろひの春ふけにける青き山|百《もも》なみ千なみおきふしにけり
 あをあをと九十九谷のわたれるを中つ空より見て居《を》るわれは
 むくむくと動くごとしといひしかど九十九谷のとはのしづまり
 たたなはるこの谷を越えわが友の古泉千樫の生《あ》れし村あり
 家いでてあたたかき國の山くれば櫟がしたの草は秀でぬ
 人にあはず家ごもりつるわが目には九十九谷《くじふくたに》はただにあやしき
 鹿野山《かのうざん》のをとめの伴はわがために竹筒に小石いれて樂《がく》成す
(522) この山に古くつたはりし笹飴もやがては滅びゆかむとぞする
 
    墓參
 
 吉尾村細野たどりて亡き友をひたにしぬびつけふの春日《はるび》を
 桑原に桑の實赤くなりたるをなつかしみつつ友戀ひわたる
 老いたまひし千樫が母の蠶飼するところに行きてわれはものいふ
 わが友が歌にも咏みし霞たつ嶺岡山に吾むかひけり
 わが友のおくつきどころ春ふけしおどろをわけてしまし居りつる 【顯密院千樫道慧居士】
 
    清澄山
 
(523) われはじめてのぼり來りし清澄の大杉の秀《ほ》に四十雀鳴く
 木々もえて青くなりたるは心親しひく山いくつ海よりおこる
 海にそひて汽車は走ればある時にするどき山の見ゆることあり
 日のくれになりてわが立つ木下《こした》やみこの山のうへは浪の音《と》きこゆ
 永き日もゆふまぐれとぞ清澄の茂山なかに雲たちのぼる
 
    蕨
 
 あさなゆふな食ひつつ心樂しかり信濃のわらびみちのくの蕨
 
    左千夫忌 【五月二十八日深川清澄庭園涼亭】
 
(524) くれなゐの牡丹の花は散りがたにむし暑き日は二日つづきぬ
 君がをしへ受けつるものも幾人《いくたり》か既に身まかり時ゆかむとす
 この世にし君しいまさば七十歳《ななそぢ》の翁になりていましたまはむ
 
    中宮寺
 
     昭和六年四月十八日中宮寺に如意輪觀世音菩薩ををろがみて雛尼宗淳(年十三歳)を見き
 
 あひ見しよりはやも三年《みとせ》かをとめごの尼のかなしさ忘れがたしも
    牡丹花
 
 くれなゐの大き牡丹の咲くみれば花のおほきみ今かかがやく
(525) 夏日《なつび》てる八層のいへにをとこをみなほがらかにして事にしたがふ
 晴れとほる大き都の日のひかり行くをとめらの衣さやけく
 海山にひたぶるあそび來むときの働くちから養ふらむぞ
 富びともまづしきひともたづさはりこの新代に生きざらめやも
 
    栗の花
 
     六月十一日山口茂吉君と共に禅林寺なる森鴎外先生の墓に詣づ
 
 栗の花|香《か》にたちて咲くひるさがり森鴎外先生のおくつきどころ
 武藏野の小さき寺に君がみ墓うつされ來つつはや五とせか
(526) 禅林寺はまづしき寺とおもへどもあはれたふとし草木もひそけく
 くれなゐのいろの胡頽子の實ふさなりになりつつありぬ見れど飽かなく
 ありし日のごとく君をし偲ばむと茅がやの原に憩ひつつをり
 向島にみ墓のありしころよりもなべては親しわれも老いつつ
 わがこころいつの日よりか寂しくて君がみ墓にまうで來にけり
 
    時々感想斷片集
 
 ヒマラヤの山に雪のつもれる寫眞しみじみ見つつ吾は居りけり
 獄にゐるは苦しからむとおもへども獄より出でて街ゆくらむか 河上博士出獄
(527) フエリシタ夫人の分娩のときの話をば晴々しき顔してわれも聽きをり
 年々《としどし》のことなりしかど庭の木に蝉なきそめて心うらがなし
 うつせみは生きつつ居ればくろがねのごとき心をもちて人泣きしとぞ
 マルクス死後五十餘年になれるまに幾度にも幾度にもなりて渡來したり
いレつせん
 實戰とたがふところは避くべからぬ心のさまの無しといふのみ
 現にて無理とほすときとどのつまりは生命のことに至りゆかむぞ
 わたり來しハアゲンベツクのけだものも所説奇術のひとつといふや
 むかひがはの勞働者の妻がときをりにあぐるこゑごゑあはれ卑しき
(528) いりかはりたちかはりつつ起りゐる闘爭のさまを見て樂しむらしも
 このゆふべ支那料理苑の木立にて蜩がひとつ鳴きそむるなり
 ある個人らの思想の轉向といふことが手柄らしくあからさまになりぬめでたや
 ユダヤ族を論ぜむひとは身みづから彼等と闘ひて後になすべからずや
 七月《しちぐわつ》のひと日くもりて暮るるころ庭におりたちて笹を移しぬ
 あはれあはれ電のごとくにひらめきてわが子等すらをにくむことあり
 死後のことなどいろいろ云ひて呉れしかどその點はもはや空想にちかし
 こがらしのおとを戀ひつつ立ちいづる吉井勇は寂しきろかも
(529) わが心に何《なに》のはずみにかあらむ河上肇おもほゆ大鹽平八郎おもほゆ
 あつき日は心ととのふる術もなし心のまにまみだれつつ居り
 
    芥川氏七周忌
 
 宵やみよりくさかげろふの飛ぶみればすでにひそけき君ししぬばゆ
 暑くして堪へがたきときに君おもふ七年《ななとせ》まへのそのあかつきを
    谷汲
 
     西國第三十三番美濃谷汲御詠歌「萬づ代の願をここに納めおく水は苔よりいづる谷ぐみ」「今までは親と頼みし笈摺《おひずり》を脱ぎて納める美濃の谷ぐみ」
 
(530) 美濃のくに谷汲《たにぐみ》やまの山のまにひぐらし鳴けばしづけくもあるか
 谷汲の苔よりいでて砂ながすいまだかすかの水なりしかば
 夏山をそがひにしつつこもりたるみ寺の中に入りてゐるはや
 谷汲はしづかなる寺くれなゐの梅干ほしぬ日のくるるまで
 遍路らへ留置の手紙一箱に入りつつあるを見てうらがなし
 美濃のくにの低山なみの峡を來て心しづけしと吾はおもひつ
 山川をはるばる越えて遍路らはつひのまゐりを此處にとどむる
 
    長良川
 
(531) 美濃のくに長良の川の鵜を見むとえふぞ來にける古き遊《あそび》ぞ
 おのおのの炎を持てる小舟等《をぶねら》は暗き彼方よりつらなめ來《きた》る
 水上の浪の音するくら闇に篝火見えしその時のまよ
 青淵の中より舟にのぼりつつ鵜らは幾つも身ぶるひをせり
 ぬばたまの黒き鵜の鳥むらがりて年魚とることは業《げふ》となしたり
 篝火の火が深淵《ふかぶち》に散るなかに鵜のかづくさまを人は樂しむ
 幾億萬の鮎の卵とおもへどもかく鮎となるに數かぎりあり
 鵜のともの競《きほ》ふ行ひ見るときは彼等みづからの爲めのみならず
 
(532)    第八囘アララギ安居會 【自八月二日至八月六日於比叡山上宿院】
 
 こほしみし近江の山にのぼり來てねむり少く明けくれむとす
 あかつきの谿のそこひにをやみなき杉のしづくの落ちてゆく見ゆ
 
    比叡山上の歌
 
 よもすがら山のあらしの音きけば比叡山のうへにこころは和ぎぬ
 九《ここの》とせ前にこの山に起臥ししことをおもへばわれは老いたり
 ひとつ蚊帳に六人《むたり》ともどもにねむるときみまかりし友を相かたりつつ
 あかつきのくら山道に起きありく加行《けぎやう》の僧をわれ驚きつ
(533) むら鳥はいまだ鳴かねばあかあかと丹波の方《かた》に月かたぶきぬ
 やうやくによはひはふけて比叡《ひえい》の山の一曉《ひとあかつき》を惜しみあるきつ
 わが生《いのち》もすでにひそけしとおもほゆる比叡のやまの杉の下かげ
 わがまへをともしび消して行きつつある加行のふたり歩みいそがず
 ひとりして此叡の山をわれ歩みあかつき闇に啼くほととぎす
 自動車のひびき聞こえぬあはれさへ山の曉は心しむもの
 山のあらし一夜《ひとよ》ふきつつ砂のへに白く落ちたる沙羅雙樹のはな
 白妙の花びらひろひ新聞につつみてかへる沙羅雙樹のはな
(534) 杉の秀にまつはる霧を見つつをり霧は時のまに峰こゆるらし
 年ふりてたかき杉むら夜もすがら狭霧のいぶき音ぞ開こゆる
 たちまちにあまつさ霧のおほへれば一山《ひとやま》くらく鳥がねきこゆ
 おと立てて霧の過ぎゆく杉木立きのふもけふもただに見にけり
 まどかなる月はいでつつ空ひくく近江のうみに光うつろふ
 山のかぜ夜《よる》をすがらに吹きにしを散りつくしたる沙羅雙樹の花
 夏ふけし山のうへにて吹き散りし沙羅の樹の花ひろひつつ居り
 みづうみを見おろす山はあかつきのいまだ中空《なかぞら》に月かがやきぬ
(535) 白雲はひくくこごれば曉の光さしつつ啼くほととぎす
 あかつきの比叡にのぼり息づくやまぢかくにゐる朝どりのこゑ
 杉むらに音をつたへて夏山の十六谷《じふろくだに》にけふぞ雨ふる
 寛永二十年十月二日にみまかりし慈眼大師《じげんだいし》は長生をせり
 あらし風ふきしづまりてあかときの蝉なきいでし山中《やまなか》に居り
 文殊棲くぐりてゆけばみぎりひだり苔のふかきに雨降りにけり
 ものなべて過ぎしがごとし安居はてて秋立ちし山に一日し居れば
 けふひとたび根本中堂のかげに來て元龜の火炎《ほのほ》おもひつつ居り
(536) 麓には雲の横たふありのまま月かげあかき比叡山《ひえやま》われは
 しげ山のなかにこもりて黒谷のみ寺の見ゆるとはのしづかさ
 障子よりさす光をもあやしみぬ横川中堂のくらきに居れば
 元三《ぐわんざん》の墓いでてよりしばしして惠心の墓にまはり道せり
 おのれさへ有るか無きかにおもほえむ苔ふかぶかと生ふるを見れば
 暑き山くだりくだりて寂かなる安樂律院の水のみにけり
 あかつきの蝉しげく鳴く山のうへに萬葉集の歌をかなしむ
 大きひじりい立たせりけむ比叡のたふとき山に七日《なのか》おきふす
(537) あかつきの光さしくる山の上にやうやく老ゆるこころ寂《しづ》けし
 もも鳥のこゑする山のあかつきに大き聖はよみがへりたまふ
 白雲《しらくも》はあかつきがたにしづまりて高杉のうへに啼く時鳥
 白きはな散りすぎしとき沙羅の木の青き木《こ》の實を手のひらに載す
 月かげは夜はにかがやき露のたまおくとこそきけ山のうへのくさ
 ここにしも聞こえ來にけりかすかなる籠山比丘の帚《ははき》のおとは
 息づきて比叡山《ひえいざん》のみねにのぼるとき近江のうみのあかつきのいろ
 沙羅の花すぎし淨士院のひかり淡くまなこつむりていますみすがた
 
(538)    幻住庵址
 
     八月八日比叡山をくだる。藤田清ぬしの案内にて同人等芭蕉の幻住庵址を訪ふ
 
 瀬田川にみだりて降れる夏雨のやうやくにしてうつりけるらし
 蟋蟀はすでに鳴きたり暑き暑き夏とおもひて山くだりしに
 瀬田川の川べり來つつ相ともに螢ほろびむこと語りけり
 草むらに螢のしづむ宵やみを時のま吾は歩みとどめつ
 山がひの空ひくく飛ぶ螢あり螢のゆくへ見ればかなしも
 夕食を樂しみて食ふ音きこゆわが沿ひてゆく壁のなかにて
(539) あはれなる光はなちてゆく螢ここのはざまを下りゆくべし
 蝋燭をあやぶみながら入りてゆく木立ひととき風しづまりぬ
 この山をある宵くだり村里に風呂をもらひし翁おもほゆ
 身をかがめ持ちたる蝋のともしびはくらき泉のみづを照らしぬ
 
    比叡・坂本・大津・石山等
 
 惠心僧都の墓のほとりにこの山にいのち果てにし僧の墓あり
 谷合のくろき木立を見つつ居り生きのたづきのこともおもはず
 横川路をくだりて來れど晝たけて山ほととぎすこゑもせなくに
(540) 藤原定家《ふぢはらのさだいへ》の墓にたどりつき汗しとどなる眼鏡はづせり
 しづかなる安樂律院《あんらくりつゐん》の晝のひかり山にわがよの過ぎむすべもがも
 ふかぶかと生ひぬる苔のあはれさは心に染《し》みてかへりゆくべし
 ひとときは安らけき山ほのぐらく杉のむら立に啼くほととぎす
 西数寺の晴れたる空にひかりつつ雲ほびこりしときはいつくし
 ひるの山道くだりくだり坂本に蕎麥かぐはしく食ひあへるかな
 ひむがしの低き山べをいにしへの志賀峠とぞいへるかなしさ
 フエノロサの墓は近しと聞きしかど身の疲るれば行きがてにせり
(541) わが友に導かれ來し義仲寺のせまきくまみ萩咲かむとす
 あぶら火のともりしづかに見ゆるころ建部の宮にぬかを伏したり
 丈艸の墓に來しかどいそがしく立ち去りにけり日はかたぶきて
 比叡山にまどかなりし月ややかけてこよひ瀬田川のうへに照りたる
 石山にひとよ宿りてふりさけにけり比叡の山に横たふ雲を
 靈仙《れいせん》の名をしるしある觀經《くわんぎやう》を一たび見たるえにしをぞおもふ
 多寶塔の鍵をあけつつ導きしわかき法師を忘れかねつも
 石山の旅のやどりに煤びつつ梧竹おきなの書きし文字ふたつ
(542) はやはやも戸をとざしたる釋迦堂に雨はれしかば暮れのこる空
 杉木立南のかたにつづくべく暗闇よひの五位鷺のこゑ
 三井寺に日は暮れにけり石垣のあひをのぼりてゆけば寺々
 くらきより歩み來りて三井寺のいさごのうへの杉しづくのおと
 
    嵯峨澤
 
 まなかひの山はひびきて諸蝉《もろぜみ》のこゑするときぞ夏は深まむ 柴生田氏同行
 蝉の聲やむときもなきあしびきの山のはざまに入りつつ歩《あり》く
 浪に近くわが居りしかば山がはのひま無き音の縁《えにし》をぞおもふ
(543) 電燈にあつまる蟲をよく見ればここの川原に住むもの多し
 水たぎつ川を隔てて山もとにこの村の墓場見ゆるやすけさ
 熊蝉のこゑのまじりて聞こゆるは伊豆湯ケ島に入るころの山
 瀧のおとのとどろく間《ひま》に山羊齒のたぐひは生《いき》をほしいままにせり
 しづまらむ時としもなく瀧壺に風おこるらし草なびく見ゆ
 しげ山の木群を見ればおのもおのもあはれは深し鳥も聞こえず
 夏ふけしとおもひつつ來る谷の入《いり》の流にそひて見ゆる竹林《たかむら》
 炭馬車が谿よりくだるころほひに吾家いでてとほり過《すが》へり
(544) 伊豆のくに天城をいづる山がはのみづの香かなしひとり居りつつ
 山がはの岸の淺處《あさど》に鮎の子か群れつつをるはしばし安けし
 やんまひとつ泉のすゑに飛ぶみればむらがるよりもあはれなりけり
 
    白桃
 
 ただひとつ惜しみて置きし白桃《しろもも》のゆたけきを吾は食ひをはりけり
 みちのくの高山の湯のつもりして湯花の風呂にいくたびにても入《い》る
 暑き日の午後になりたるひとときを蚊遣のけむり外にいでゆく
 額よりまだたらたらと汗たるを拭きながらあつき飯《いひ》を樂しむ
(545) 在原の業平の歌讀みをへて萬葉びとをあこがるるなり
 目のまへに太々として青桐の幹ありこの春に移しうゑにき
 いつのまにおとろへをりしわが齒にて漬けたる茄子をながくかかりて噛む
 日もすがら暑さきびしき日なりしに蜩のこゑはやも聞こえず
 
    輕井澤より碓氷
 
 無理をしていとまをつくり時すぎし輕井澤へと旅を來にけり
 野分だちて朝寒となれる輕井澤ものあきなひの店閉ぢむとす
 妻とふたり碓氷の坂をとほりたり落葉松の葉のおちそめしころ
(546) 輕井澤に一夜やどりてこのあした矢ケ崎川の川原を越えぬ
 山中をぬひつつゆけばしづかにて山みづの音や青栗のいがや
 輕井澤を見おろしをれば諸人の樂しむところあはれ豐けし
 いつしかも碓氷峠の頂に立てりけり妙義の山々くすし
 碓氷ねの泉のみづはあふれあふれ清きながらに東へおちたぎつ
 碓氷川の水のみなもとはおのづから砂もりあげて湧きいでにけり
 ひなぐもり碓氷の山にいきづきてしぬびたてまつる日本武尊
 落葉松のしげき木立にかこまれて薄の原はなびきなびきつ
(547) 淺間ケ嶽のふもと越ゆれば落葉松のたふれ木多しあらしのために
 分水嶺すでに越えつつはるかなる六里ケ原ときくもなつかし
 輕井澤の名にこそ負へれおのづからここより水は北へながれぬ
 
    草津小吟
 
 朝寒をおぼゆるころに草津賂の古りしながらの平に立ちぬ
 温泉街《ゆのまち》の草津のよるは更けわたり三時ごろにしばらく人ごゑの絶ゆ
 西へむかひて谷間のいりをふさぎたる青きしげ山にはや近づきぬ
 一谿は煙《けむ》にほひだちて細石《さざれ》より夜々《よよ》のこほろぎ鳴くこともなし
(548) ふかぶかと青くひといろに茂りたる落葉松山は見らくしよしも
 いづこにも湯が噴きいでて流れゐる谷間を行けば身はあたたかし
 たぎり居る草津|温泉《いでゆ》を樽づめにしつつ高々に運び出したり
 病人《やみびと》に癩者もまじり幾山を越え來しことをなげきおもほゆ
 白根山《しらねやま》の鋭く延びしなだれをし雲晴れゆきて人見るらむか
 上野《かみつけ》の草津のみ湯に夏すぎて二夜《ふたよ》ねむりしことをおもひぬ
 この山にベルツ博士ものぼり來て湯治のことを通信しゐる
 
    川原湯温泉
 
(549) 吾妻川の谿におり來て魚住まぬ川としいへばわれは目守れり
 おりて來しあがつま川の砂原に蟻地獄あまたむれて巣くへり
 いづみのみづ谿よりいでて吾妻川《あがつまがは》にそそぐところに草茂るなり
 金氣あかく滲《し》みいでてゐる川原をも旅にしあれば身に沁むわれは
 高きより窓をあけつつふりさけぬ山のはざまに日の入りゆくを
 日は落ちてとみにをぐらく目下《》の吾妻川の遠白きのみ
 ぬばたまの暗きに居りてこの谷に月かげささむころをしぞおもふ
 窓のそとは直ぐ深谿《ふかだに》におちいりてあがつま川の間《ま》なき水音
(550) 深きより吾妻川の鳴る音を夜すがらに聞くしばしば覺めて
 朝あけていろいろの蛾の死《しに》がらのあるをし見れば卵産みけり
 わが庭のこほろぎよりもあはれにて透きとほり鳴く川原蟋蟀
 
    四萬
 
 上野の谷川の瀬にまたたくま青き木《こ》の葉はながれて行ける
 四萬谷にしげりて生ふる杉の樹は古葉《ふるは》をこめて秋ふかむなり
 たえまなく激ちの越ゆる石ありて生《しやう》なきものをわれはかなしむ
 秋の日の入りたるのちのひとときを山の川原にわれは遊びぬ
(551) 山がはのひまなき水にうたかたのたゆたふさまも此處に居れば見ゆ
 みづの泡の片寄りうかぶ山川《やまがは》に吾が下りゐつつ心和ぎけり
 川上よりたぎち來りて川下に流るる見ればさびしきろかも
 うつせみのつひのねがひか日もすがら山がはの音を聞けど飽かなく
 朝の日はいまだも低く四萬川の石のべに來て身をあたためぬ
 このあした四萬の川原の石かげに下りて居れば風しばし絶ゆ
 あさざむき光となりて峡のいり吾が來りつるおどろのうへの露
 あはあはと光のさせる草むらに山こほろぎは夢のごとしも
(552) 木がくれを來る山川《やまがは》に朝な朝なしぐれの雨の降るべくなりぬ
 いくつかの夢をむすびて覺めにけり四萬のはざまに秋ふかむころ
 
    朝寒
 
 朝ざむきちまた行きつつものぐるひの現身《うつせみ》ゆゑに心しづまらず
 ひと夏に體よわりしが冬服をけふより著つつ廻珍し居り
 まぢかくに吾にせまりて聞くときは心は痛しものぐるひのこゑ
 ロシアにては皇帝の墓を發掘し勅章等を没收しつつあり
 庭のうへにつゆじもおけどあしびきの山羊歯はいまだ青をたもちぬ
 
(553)    山莊
 
 秋ふけし山のゆふべにわが焚きしひくき炎もこほしきものぞ 十月六日強羅
 蝋燭を消して眼《まなこ》をつむりけりひとりごとさへ言ふこともなく
 砂の中に蟲ひそむごとこのひと夜|山中《やまなか》に來てわれは眠りぬ
 味噌汁に卵おとしてひとり食ふ朝けの山をさびしとおもふ
 秋山に一夜のねむりさめしかば山路を行かずただこもり居り
 
     五湖
 
     佐藤佐大郎氏同行せり
 
(554) 白雲は南へなびき不二がねのいただきに白く雪降りにけり 山中湖呼
 あさまだき烏帽子ケ岳にのぼりたち五つの湖をふりさけにけり 烏帽子岳展望
 赤くなるまへの秋山をふりさけて見つつしをれば雲しづまりぬ
 つゆじもの降るらむまへの秋山を吾は思ひて此處に立つはや
 青きいろやうやくふけて山脈《やまなみ》とうねる秋山われを圍《かく》めり
 富士川のとほじろき水見えざれどかの群山の峡流るらし
 いただきに雪|僅《はつ》か降り不二がねは嚴《いづ》の高山やまどかにもあるか
 青きいろすでにしづみて秋山の起伏す見れば言《こと》も絶えにけり
(555) まなかひにたたなはりつつ秋山はもみでむとしてあはれしづけさ
 駒ケ嶽白根雁が嶽赤石の山脈いまし目に展けたる
 しつまりかへりし秋の山のまに精進の湖はこもりつつあり
 まなかひの信濃のくにの群山はもみづるまへの色のしづかさ
 富士がねのなだれなだれし裾とほく青き木原《きはら》としげりあひたる
 なまよみの甲斐のはざまに富士川の流の谿谷《たに》もありといふなり
 うねりなす樹海の木々は樅栂樺五葉の松のたぐひとぞいふ
 鎌倉の裏街道はあらあらしき樹海のなかに道とほりたり
(556) 信濃路の八ケ嶽見ゆ澄みはてて秋空にひくくうかべるごとし
 
    高山國吟行
 
     一 途上
 
 わが行かむ山の高原《たかはら》を心にし樂しみにつつ目をつむりをり 十月二十日
 をりをりはさ霧の白く動く見てアララギの選歌われははじめぬ
 汽車に乘りて身はおのづから揺れながら何か氣味よき當處《あてど》ありやなし
 甲斐が根をしばしば見しが今日くれば新しき山見るがごとしも
 わが友の奥津城ちかく汽車走り心のまにまわれは思へり
 
(557)    稻核
 
 ゆゆしくもありけるものか濁り浪のうづまく川に下りて來にけり
 二人してこゑをあげたり梓川のにごれる浪のたぎち來るとき
 あしびきの山風ふけば紅葉《もみぢば》の散りのみだれをけふ見つるかも
 向うより見えくる川はおのづから二分れつつながれて來《きた》る
 日をつぎて水かさまされる山がはに風吹きぬれば音ぞとどろく
 梓川さかまくを見て山岸の高きに來れば音たかまりぬ
 強き風吹きしくまにま夜半すぎてこの谷間《たにあひ》に月照りにけり
(558) 梓川の岸の村なる稻核に風邪氣味にして今朝は目ざめぬ
 梓川の川上とほく東北《ひがしきた》ひらきそむれば萌黄空《もえぎぞら》見ゆ
 日をつぎて降りたる雨の晴れしかばうつくしき柿のもみぢ落ちをり
 風音《かざおと》の吹きしくままに眠りしが今朝しづかなる狭間になりぬ
 きぞのひとよ雲か動きし朝あけてせまき峡《はざま》の山に日あたる
 夜もすがら音とどろきし峡《かひ》の空の雲高くなりて雨はれにけり
 しづかなるこの宿に賣藥商《くすりうり》蠶種賣《こだねうり》年々に來てなじみけりとぞ
 風呂場より二人聞き居る風のおと梓川より吹きあぐるらし
(559) しづかなる峽間となりし朝がれひ生《なま》の卵を我も呑みたり
 この宿のをとめかなしと云ひしかどひと夜は明けてわが部屋に來ず
 二日經て顔にのびそめしわが髭を君ねもころに剃りてくれたり 大橋松平氏 あふむけに疊のうへに寢《い》ねながら聞くはおもおもし山川《やまがは》のおと
 
    三 上高地途上
 
 山の雨おそろしきまで降りけるをなべての人は知りがてなくに
 見ゆる山見ゆる山みなあざやけし時雨の雨の晴れたりしかば
 山崩やうやくにして越えゆきぬ二時間まへは越え得ざりしを
(560) くれなゐの濃染《こぞめ》のもみぢ遠くより見つつ來りていま近づきぬ
 道普請はかどるままにのぼり來る自動車つぎつぎ動きそめたり
 早晝《はやひる》の辨當を食ふ工夫らは川浪ちかくまで並びつつ居り
 日をつぎし雨さむくしてもみぢばの散りのみだりの間《ひま》あらなくに
 見下《みおろ》しつつしばし來にける梓川の岸ひくくなりて石むらがれり
 峡とほく雨のなごりのあらあらし吹きとほる山川の水の上のかぜ
 自動車の中にまぢかく見つつ行く梓川の浪躍りあがりつ
 
    四 上高地
 
(561) くろぐろと色をあらはす硫黄岳のなだれを見ればおどろく吾は
 大き山わが目のまへに見えたるを穗高《ほたか》の山と言ひにけるかも
 あしびきの高山のまに立ちがれし木々|白々《しらじら》と水の中に立つ
 白樺の落葉かたまりひとところ明るみゐるはしづかなるもの
 山笹のほしいままなる茂りにも高山原《たかやまはら》とおもほゆるかも
 照るばかり黄にもみぢたる一本《ひともと》のから松を見て過ぎゆく吾は
 目のまへの黄にもみぢたるから松を見つつしをれば吾より低し
 しづまりし色を保ちて冬に入る穗高の山をけふ見つるかも
(562) 山すげのみだれふしたる一谷《ひとだに》に湧くこもりづの音はきこゆる
 この谷をうづめて生ひし山菅はひといろにして枯れ伏しにけり
 うらがれて亂れふしたる山すげのしたに音たつるいづみかなしも
 高原のうへを行くとき一つ樹のさはら老いつつ立てるを見たり
 みづうみを過ぎてはざまの平《たひら》をば行けば一ところ鳥がね多し
 あまつ日は入りぬるらむとおもふまで狭間せまりてここのくら谷
 冬山に近づくときに山見つつあないつくしと云はざらめやも
 はざま路をわが行きしかば足もとに鏡のごとく苔ひたすみづ
(563) ここに湧くいづみといへどあかあかと錆びたるもあり鐵《くろがね》あらむ
 山がはになびく川藻のすがしさも明日さへ見なば馴れむとすらむ
 山なかのゆふまぐれとぞ乾《ひ》そりたる楢の落葉のうへに降る雨
 一谷に草かれふして底ごもりかなしきまでに水の音はや
 おしなべて梓の川の岸に生ふるいぬこり柳も素《す》がれゆくなり
 梓川すでにはなれてありのままに太木たふれふす谷間を來たり
 峡の原もみの太樹の木下《こした》やみにおりて歩くは何といふ鳥
 日の光つねにとほらぬ岩間水魚を養ふところを見たり
(564) 山みづにかくろひて住む岩魚をもここの泉に養ひにけり
 このゆふべしぐれ降れどもから松の木立の奥處《おくが》ほのあかりせり
 椎茸をそだてつつゐるところありきのふもけふもしぐれふる山
 梓川のみなもとはなほはるかにてここよりわれは歩みをかへす
 ゆふやみとしづまりゆきしこの谷に生き居るものは何にかもあらむ
 やますげの亂れふしたるくら谷にたまゆらにして物のおと絶ゆ
 このゆふべ山人ひとり楢の落葉のたまれる道に炭こぼしゆく
 山のうへ湖のみぎはにうらがるる菅をし見ればはや力なし
(565) さむざむと水泡《みなわ》を寄する風ふきてわがかたはらに生けるもの見ず
 うらざむく冬の來むかふ水のべに菅枯れふして音なかりけり
 鳥がねも今はきこえずなぎさには水泡は白く吹きよせられつ
 山なかにたたふる湖の水さむし下りたつわれの足いたきまで
 隣室《となりま》のをとこをみなの若きこゑ聞こえくれども嫉むことなし
 ふかぶかと雪降るころはこの宿の女《をみな》らも山を下《くだ》りゆくとふ
 この部屋を受けもつをとめものごしも朗らかにして山の話す
 もみぢばの映ゆる山べを入りて來《こ》ばうら若くして樂しからむか
(566) わが友は下の部屋にて寢につきぬひとりになりてラムプ見て居り
 いで湯よりあがり來りてわれひとり濡れしタオルを釘にかけたり
 うつせみの生々《なまなま》したる思ひ無しラムプ片付け寢につかむとす
 霞澤《かすみざは》つづきてたてる山々の黒みをおびて日はまだ出でず
 ひと夜寢しここのはざまに朝はれて山々ちかく見ゆるあやしさ
 まながひとおもほゆるまで近づける穗高の山はさやに晴れたり
 ひむがしへ谷はひらけて梓川の水上のかたに晴れゆける空
 ますみ空にほそきけむりを立ててゐる硫黄が嶽に人のぼりゆく
(567) 夜《よる》ひと夜雨ふりしかど一夜あけ穗高の山に日はあたりたり
 峡とほく寒きひびきとひびきくる梓の川におりたつ吾は
 よべ一夜しぐれ雨ふり今朝みれば穗高の山は雪ふりにけり
 燒嶽《やけたけ》の一すぢの道越え行けば行きつくといふ飛騨の高山
 この山の襞のふかきにこごりつつ消《け》のこる雪は春の雪かも
 この朝明空はれとほり穗高根はあきらかにして深谿の見ゆ
 起きいでて見れば穗高の峯々のはだらになりて雪つもりけり
 高原をながるる川はしまらくは落激ち無く流れてゆきぬ
(568) 朝はれて心落居るしばらくを川にしづける石もてあそぶ
 梓川の川原におりて硯にせむかぐろき石を拾ひつつをり
 M君は目前にたつ山々を黒きかたまりに描きつつあり
 くれなゐのあららぎの實の生りにける山の高原いまぞ去りゆく
 ゆくりなくも知れる青年に出あひたりわれを目守りていたく喜ぶ
 
    五 白骨途上吟
 
 葛の葉のあかきもみぢのひるがへる谷あひゆきぬ眞晝にちかし
 草の實のはぜ落つるおとこの谷のところどころに聞こえつつ居り
(569) かげ路よりいでて日向に對ふとき山のいただきいやあざやけし
 かすかなる流に沿ひて歩みこし谷の極まりに楢櫟の山
 谷ひとつ越えつつゆけば平あり沼地《ぬまぢ》の岸に蒲ぞ生ひたる
 峯ごえをせしとおもへる時のまに水たぎつ音はや聞こえける
 水のひびき其處よりきこゆおもほえず遙かの下に深谿ありて
 あかあかと映えしもみぢの散りそむる山谷みちを吾はあゆめり
 山峡の白骨道と人はいへど五ところ六處《むところ》の雨《あま》くづれあり
 つもりたる落葉の下をながれづるみづの音さへわが身にし沁む
(570) なづみ行く谿のべの道雨あとのくえくづれたるところわたれり
 トンネルは幾つかありてくぐるとき水のしづくに顔さへ濡れつ
 山の上よりおちたぎちくる水のあり峯より直におちたぎつべし
 
    六 白骨漫吟
 
 谷まより空にそびえし高山のあふげば見ゆる峯の青草
 ここに來てよき水見たり苔のなか流らふるみづ落葉いづるみづ
 白骨の温泉《いでゆ》をめぐる山の草しぐれの雨の降ればすがれぬ
 白骨にわきいでてゐる湯の池に鯉の群るるを見らくしよしも
(571) 山のみづ流れて入れば鯉のむれかたまりあへり背《せな》あらはれて
 ながれ入る水にあぎとふ鯉みればゆたけきものと吾思はなくに
 深谿がここに成りつつ二つ合ふ谿の眞うへの草高野原《かやたかぬはら》
 冬山の大き峯よりひとむきに谿にむかひて傾く高原
 谷まより直ぐに聳えし秋山の高きを見れば心ゆたけし
 幾たびも吾は湯あむれわが友はうま酒のみし好みたるらし
 わが背《せな》の皮ひびくまで浴むれども白骨の湯に吾は飽かずも
 わが友の春蘭《はるあららぎ》を描くそばにいでゆを出でし吾は眞裸《まはだか》
(572) しぐれ降る峡の道ゆき山草に顔寄せて掘る友を見て居り
 山峡をとほく入り來ていづる湯の丘のはだれにけふも親しむ 題M君春蘭圖
 
    七 歸路
 
 谷ごもる風といへども強からし山路に落葉片寄せられぬ
 澤渡へ越ゆる峠にさしかかりうしろの方に谷の音とほし
 川の音底ごもりして聞こえくる山なかの道峯ちかからし
 乘鞍の山よりいでし前川《まへかは》が梓の川に此處にてあへり
 二日まへに濁りとどろきし梓川いま見ればはやも澄みかかりたる
(573) 白骨の谿を流れし湯川また乗鞍嶽をみなもととせり
 梓川が犀川となることなどをこまごま語る人し親しも
 自動事の光のまへを兎一つ道よぎりたりあな危《あやふ》あやふ
 やうやくに道はひらけて自動車のヘツドライトは稻田《いなた》照らせり
 黒き山せまりつつありてその麓を梓川の流の音ぞきこゆる
 島々といふ村の灯の見えそめて山峡《やまがひ》なべて暮れにけるかも
 闇にたつ松の太樹のこずゑまで自動車の灯は今照らしたり
 冬の日はみじかきゆゑに松本に日暮れて著きつ汽車待つ吾は
 
(574)    横手
 
 院内を過ぐれば寒き雲たれてながるる川は北へむかひぬ 十月二十四日二首
 虹たちし空もありつつ北ぐにのとほき横手のかたに雨降る
 日をつぎて君をみとれど明らけきみ心は無し悲しきろかも 二十七日
 はるばると君をたづねて來たまひし友の幾たりにわれは告げ居り
 朝ざむき横手の町に山のものつらなめて賣るころに逢ひつつ 二十八日
 山の蕈うづたかく盛り賣る町にわが悲しみを遣らふ方なし
 憂ひつつわが立つ道に雪ふりし鳥海山の霽れきたる見ゆ 二十九日
(575) 北ぐにのゆふべの空にたつ虹をあはれと思ふこころさへなし
 たえまなくみ手を動かしたまへるは秋山などの襞にかあるらし
 小さなる文字幾たびも書きたまふみ手を目守りてせむすべ知らに
 すくよかに君はありなばいかばかりこの朝町の樂しからまし
 まだ覺めぬ君を目守りて一言もつひに告げねば旅ゆかむとす 三十日
 君をおきてわれは横手を立たむとす露霜さむくなりし横手を
 横手よりしらせがありてひとりなる旅のやどりに涙しながる 上ノ山
 
    歳晩
 
(576) 冬ふかく時を惜みて一つづつ人麿短歌の評釋を爲も
 詩の論に排悶といふ語がありて今の代の人も容易に使ふ
 身に迫る事多かりし一年《ひととせ》もやうやく暮れてゆかむとぞする
 わが友と低きこゑにて話し行く鎌倉のうみの冬の夜の月
 大つごもりに近き一日を人麿の鴨山の歌解きつつ居たり
 
    雜歌控
 
     雜誌「太湖」のため一首
 
 山かはを越えてきたれる旅人とここに語らふ心しづけさ
 
(577)    田端やぶ忠アララギ歌評會
 
 いしだたみ東中町を君が訪ひしころをおもへばわれ老いにけり
 たわやめと貫一君とまぐはひてたぬしむさまをねたまざらめや
 
    齋藤西洋新婚賀(二月六日)
        
 天地《あめつち》によき娘子《をとめ》えてまぐはひす汝《なれ》のいのちはいやあらたしき
 
     京都鹿ケ谷住友別邸(四月八日)
 
 あまつ光てり來るごとくさきはひのいよいよゆたにひとは樂しむ
 このゆふべゆたけき庭におりたちて鯉のおよぐを我は樂しむ
(578) しげ山をそがひにしたるこの家はあしびの花は咲きにほふなり
 
     陸奥の山(キング五月號)
 
 みちのくの山を越えつつ見わたせば雪のこる山いやはるかなり
 白頭翁の花ふふみつつ春ふけて青山のうへに啼くほととぎす
 
     那須嶽(日の出五月號)
 
 那須嶽をふりさけ見ればふか谷に青葉若葉はもり上り見ゆ
 
     那須三宅鑛一先生別莊
 
 とりよろふ高山のべに家居りて命は長しゆたけきしづかさ
(579) いづる湯の清《すが》しきを浴みてよき人のいます林に百鳥《ももどり》のこゑ
 
     「靜」賛歌。昭和八年五月一日歌舞伎座に、佐佐木信綱博士作「靜」が上演されたので、招かれて觀に行つた。その日、佐佐木博士より歌を所望せられたので、次のごとき歌を色紙に書いた。五月三日
 
 ふみ行かむいばらの道とかなしみしをみなを今にしのびけるかな
 
     竹柏園先生。そのついでに、色紙の交替といふことにて、北平から求めて來た紙に次の一首を書いて贈つた。五月三日
 
 源の實朝の歌解きあかさむと君がみをしへをあふぎたてまつる
 
     牡丹の賛。昭和八年五月七日武州金澤×家の牡丹園に招かれた。色紙に歌かけよといふので、辛うじて次の二首をかいた
 
 クレナヰノ大キ牡丹ノムラガリテ富ミタラフ園ニアレハ來ニケリ
(580) 松カゼノ音モサヤカニ鞫コエツツ大キ牡丹ハ咲キニホフナリ
 
     村松常雄氏を送る(七月六日萬平ホテル)
 
 あめりかへ心きほひて行く君を月あかき夜にことほぎにほぐ
 
     七月三十日夜
 
 さるすべりのくれなゐの花咲きそめてはや一とせの夏ふかむなり
 
     兒童百科大辭典文藝篇のために一首(八月二十三日)
 
 日本國《にほんこく》の辭童諸君はおしなべて辛抱づよくあれとしぞおもふ
     機械(雜誌キングのために。七月三日)
 
(581) ひたひより汗かき垂りて街なかにはたらき人は機械うごかす
 いつしかもわが戀ひゐたる夏わらび山より下り友は賜びたり
 親も子も貧しきままにみまかりてひそけきものと思ほゆるかな
 ひさかたの空くもりつつ木垂《こた》るまで胡頽子のくれなゐを相見つるかも
 八階の高き屋上に川獺をやしなふ水に雨は降りをり
 
     醫業(臨床の日本のために)
 
 いにしへゆくすしの業《なり》を尊しとひといふゆゑに我もうべなふ
 
     秋ふかし(日の出のために)
 
(582) 山がはの水嵩まさりて目まぐるしきまでに紅《くれなゐ》のもみぢ葉流る
 
    八木沼丈夫氏歌集「長城を踰ゆ」序歌
 
 あたらしき國のおこらむたたかひの砲《はう》とどろきになりなれるうた
 山なみにこだまのつたふおほづつのけむりのなかに君は立ちつも
 いのちすてむ心きはむればあなあやし熱河の山にかくぞうたへる
 
(583)  昭和九年
 
    上ノ山滯在吟
 
 置賜のこほりに入れば雪雲のひまに朝明《あさあけ》の黄雲《きぐも》は高し 一月二十四日朝
 吾妻山飯豊の山もこのあさけ近く見えわたる雪降りしかば
 空の雲うつろふなべに降積みし雪はまばゆし日を照りかへす
 あさけより日の暮るるまで見つれども藏王の山は雲にかくろふ
 南より東北《ひむがしきた》へあまぎらし降りくる雪を見ればただならず
(584) あしひきの傍山《かたやま》のへに低き木々うづもれむとして雪の中に見ゆ
 ひむがしに見ゆるかぎりの山脈は嚴かになり雪晴れにけり
 かぎろひの日のさす岡に白妙に雪つみぬれば小鳥來鳴かず
 中空はたちまち晴れて遙かにしこごれる雲の峯つたふ見ゆ
 やまかひの泉に雪の降りみだるを菩は見にけり幾年ぶりか
 夜もすがら降りつもりたる雪の中の川瀬のおとは夏よりも親し
 常ならぬ空合《そらあひ》にして霽れしとき仔牛雪のうへにひき出され居り
 まなかひに見ゆる山々雪はれてしづかなる日にわれは歩みぬ 一月二十九日
(585) 日をつぎて雪降るなべに道絶えし山のふもとを來つつ寂しむ
 人ひとりこの山越をせし跡の雪に殘るをわれは見て居り
 人いとふ心となりて雪の峽流れて出づる水をむすびつ
 みちのくの山を蔽ひて降りみだる雪に遊ばむと來しわれならず
 上ノ山の町朝くれば銃に打たれし白き兎はつるされてあり
 いとけなかりし吾を思へばこの世なるものとしもなし雪は降りつつ
 弟と相むかひゐてものを言ふ互《かたみ》のこゑは父母のこゑ
 
    續上ノ山滯在吟
 
(586) みちのくの雪亂れ降る山のべにこころ寂しく我は來にけり
 この雪の消《け》ゆかむがごと現身《うつそみ》のわれのくやしき命か果てむ
 上ノ山の町に賣りゐる山鳥もわが見るゆゑに寂しからむか
 わが生《あ》れし家にも行かず雪ふれる山さかふ空見つつ居《を》るかも
 はざまより流れくる水の音すれど降りつみし雪に隱ろひ見えず
 雪のうへに落ちし木葉は冬枯れて散りのこりゐし楢の菜櫟の葉
 きぞの夜《よる》なま温かく明けしかぼ冬山の峽に風いでにけり
 杉ひともと吾が目のまへに動きをり木のなかばまで雪つもりたる
(587) この峽のいたく積りし雪のへに青き杉の葉こごりて落ちぬ
 峠路《たうげぢ》の日のあたりたる一ところかなしきまでに雪なかりけり
 わが部屋のすぐ近くまで樫鳥が來ゐてかたみに戯るらしき
 酒のみし伯父のことなど語りあひ弟は醉ひぬ涙いづるまで
 土くえて洞となりをるところあり雪ふりたまること絶えてなし
 雪ふりて眞白く晴れし藏王の山脈はまどかなる月照りにけり
 雪山の松の木ぬれに一しきり小雀むれ來ぬ移りゆくらし
 山道をたどりてゆけば雪なだれの跡いくつもありおそろしきまで
(588) たちまちに曇りてくれば雪を吹く風は寒しもわが身にし染む
 弟と火鉢によりて夜おそくまで穉《いとけな》かりしことを語れり
 雪山は松ふく風の音のして雪のしづるること斷間なし
 やうやくに道高まれば雪ふかき谷のなぞへを見おろして行く
 いつしかも岨《そは》をめぐりて山かげはとみに雪深し風吹かなくに
 むかひにも奥にひろごる山ありてあからさまに見ゆ雪降りしかば
 あまぎらし雪降りつみて見えなくにこの山かげへ越ゆる道あり
 山越をあそびの如く人見らめ雪ふれる山越えがてぬかも
(589) 雪降れる山に汗垂り我が心のこの苦しさを遣らむとぞ思ふ
 峠賂に雪はふかきに幽かなるいづる水ありて雪は消えをり
 雪山にかすかなる水いでてをりかかるさまさへ身に沁みにけり
 谷をせばみ吾がまなかひに見えて來し木立なき山白妙にして
 おのづから登り來にけむとぞおもふ木立は盡きて空あきらけし
 越えてゆくこの朝道はふかぶかと雪ふりし山の岨《そは》めぐり居り
 ゆふまぐれ降りしきりたるこの雪は夜《よる》はすがらに暗きに降らむ
 ひさかたの雪はれしかば入日さし藏王の山は赤々と見ゆ
 
(590)    谿
 
 清き雪のうへに日の光てりたるをゴムの長靴穿きてし行くも 二月一日吟
 焚き物を橇にて運び日ねもすをここの谷間道雪は積らず
 雪の上に青杉の葉のおちをりて心しづけしきのふもけふも
 兎のあと山鳥のあと山鳥は二つ居りしか繼ぎ行きしかも
 山鳥はすぐ目のまへを飛びたてり獵人《かりびと》ならばかかるところを直打つらしも
 やまどりがこの雪に幾時か居たるべし山漆の實を食《は》みちらしたる
 雪降りて折れし松の木見ながらに心いたいたしこの世なるまか
(591) 大きなる杉を倒してその皮をむきつつぞ居るその山人は
 谷合に道は極まり山水はせまれる雪のあひに激ちつ
 雪のあひを細まりてゆく谷川は時おかず瀧となりて落つべし
 夜すがらに降りたる雪のふかけれぼ底ごもり鳴る谷の川みづ
 谷あひにいまだも低き杉むらは雪をかむりて傾きにけり
 谷川の水際《みぎは》來しかば岸ひくくわが足もとを水はながれぬ
 笹むらをひたして水ぞながれたる降りつみし雪水にせまりて
 切倒しし松の丸太の重りてみるみるうちに雪つもり居り
(592) 鐵砲の音のひびきし山かげに打たれたるものは山どりか何
 馴れつれば清くゆたけきこの雪をかりそめのごとく人はこそ見め
 
    歸途
 
 蒼じろき日はさしながら雪の降る板谷の山をのぼりつつ居り 二月二日
 むかひ谷すでに霧ひて雪つもる板谷の峯はさびしきろかも
 きさらぎの板谷の峽に降りみだる雪をし見つつ心は和ぎぬ
 山なかの冬の川瀬を一時に見おろして汽車は平へぞむかふ
 雪山を越えくだり來て福島の町の甍はあやしきごとし
(593) 山も木々も見えわかぬまで霧ひたる板谷峠の吹雪を見居り
 向うには雪ふぶきする墓地が見え葬禮ひとつ微かに行けり
 たひらかに水のおもての光りをる阿武隈河を見て過ぎにけり
 晝の野に紅々《あかあか》として炎だち燃えき汽車の中より見れば
 晝ながらなびく炎のくれなゐに三ところばかり野火の火の見ゆ
 わが歸りをかくも喜ぶわが子等にいのちかたぶけこよひ寢むとす
 
    寂
 
 山のうへの氷のごとく寂しめばこの世過ぎなむわがゆくへ見ず
(594) 落葉せし木立のなかや冬の日の入日のひかりここにさしけり
 あわただしき寂しさとこそおもほゆれ櫟木原《くぬぎきはら》にうつろふひかり
 過ぎ來つる五十二年をうたかたの浮びしごとくおもふことあり 述懷三首
 わが心のはしやぎしづみも時ありて平安《たひらぎ》のなかにきはまりぬべき
 われはしも一年ぐさの秋ふけてうらがるるごと呆けゆきぬらし
 箱根なるかの射干はくろき實を保ちながらに枯れふすらむか
 みちのくの雪降る山に入りしかどこのわれは何にこころ足らはむ
 
    折に觸れたる
 
(595) わがこもる部屋に來りて穉兒は追儺の豆を撒きて行きたり 二月三日
 うづくまるごとく籠りて生ける世のはかなきものを片附けて居り 二月十五日
 二十年つれそひたりしわが妻を忘れむとして衢を行くも 二月十七日
 かなしかる妻に死なれし人あれどわれを思へば人さへに似ず
                         あたたかかぜ
 きさらぎの寒かりし日とおもひしに夜すがら吹きぬなま温き風 二月十八日夜
 春あらし吹くべくなりぬわが通るこの小路《こうぢ》にも砂ふきあげて 二月二十二日
 參道の廣きに風は吹きてをり日のくるるまで止まず吹かむか
 しづけさを戀ひに戀ひつつ曇り日の鎌倉山をわれ歩《あり》きけり 二月二十六日
(596) 孤獨《ひとり》なる心にもあるか谷の入り細篁をとほりて來れば
 たかむらをうち靡けつつ風の吹く鎌倉山をけふも行きける 二月二十七日
 松毬《まつかさ》の落ちちらばれる山道をわが行きしかど急ぐともなき
 日の照れる山ふところに來りしが吾をめぐりて松風のおと
 白梅《しらうめ》は散りがたにして幾本《いくもと》か立てる山峽《やまがひ》われ行きにけり
 麥畑はゆるきなだれにひろがりてその青色を吾は樂しむ
 目高の子たちまちにして隱ろへどあはれ生きつつあるものは好し
 鎌倉の淺山|峽《がひ》をとほり來て白き砂丘は見えそめにけり
(597) 悲しみてひとり來れる現身《うつせみ》を春の潮《うしほ》のおとは消たむか
 
    内苑
 
 木立より雪解のしづく落つるおと聞きつつわれは歩みをとどむ
 廣葉なる橡の落葉もけふ濡れて神の林に山の鳥啼く
 たひらかに雪の残れるところあり林をいでてわれの來しとき
 消のこりし雪の清きをかへりみて木立のなかへ二たび入るも
 橡の樹の根がたに落葉たまりをりそこに僅《はつ》かに雪ぞのこれる
 
    三月八日
 
(598) いつしかも日あし延びつつ女中部屋の風呂敷のうへに光さし居り
 はからずもこの部屋に來てわれは立つ北へ向ひて窓ある部屋に
 常日ごろ光あたらぬこの部屋におもひまうけぬ西日さしをり
 西空に低くなりたる三月の光ひとときこの部屋に差す
 日の光はかなしきものか五分間たたぬに風呂敷をはやも越えつつ
 
    餅
 
 二時間あまり机のまへにすわりしが渾沌として階をくだりぬ 三月八日
 ゆふばえのなごりを見つつ庭に居り羊齒の青き芽まだ萌えなくに
(599) やうやくに日は延びゆくとおもひつつこころ寂しく餅あぶりけり
 みちのくの妹が吾におくり來し餅《もちひ》をぞ食ふ朝もゆふべも
 富みたると貧しきと福と苦みとかたみにありとひともうべなふ
 
    上ノ山
 
 けふの眞晝淺山|峽《かひ》ゆいでて來る雪解の水はにごることなし 三月十四日
 あしひきの狹間の方へ降る雪に吸はるるごとく子ら走る見ゆ
 音たてて山の峽よりいでてくる雪解の水は岸を浸せり
 みちのくにわが來て見れば春の雪|山田《やまた》のみづに降りつつ消えぬ 三月十五日
(600) 春山の木立にみだれ降る雪はわれにむかひて降るにしありき
 春の雪上ノ山の裏の山に降り小雀のこゑはしきりに聞こゆ
 あふれつついきほふ春の雪解水山笹の葉を常なびかしむ
 上ノ山に二たび來つつ人麿の歿處をおもふ昨日も今日も
 夜ふけて炬燵の燠を灰をもてことごとうづむひとりわが寢む
 雪つもるこの淺山に鳴きながら目白飛ぶ見ゆ番《つがひ》も共に 三月十六日
 目のまへの楢の木原にけふ一日いたいたしきまでに雪つもる見ゆ
 あまぎらしけふ降りしきる雪かむり杉のひく木は皆かたむけり 三月十六日、歸途
(601) 來むかへる春を淺みとけふ一日板谷のやまに大雪ふれり
 ひさかたの空くらきまで雪吹雪ふきまくを見て汽車|中《なか》に居り
 
    庭前即事
 
 擬實珠《ぎばうしゆ》も羊齒も萌えつつゆく春のくれかかる庭ひとり見にけり
 わがおもふことは悲しも萌えいでし羊齒のそよぎの暮れてゆくころ
 ゆふぐれの光のこりて羊齒もゆるわが庭の土にしましおりたつ
 大和にも何時か行かむとひとりごち蹲《しやが》みてありぬ春の庭のうへ
 かへるでのこまかき花の散りてゐる庭にそそぎぬ逝春《ゆくはる》のあめ
 
(602)    平福百穗畫伯追悼歌會 【二月十一日於上野公園韻松亭】
 
 何事も寂しきままにありしかど君を歎かむと生きにけめかも
 
    島木赤彦忌歌會 【三月二十五日於清水谷公園皆香園】
 
 雪ふぶく信濃路に入りいのちせまりし君のかたはらに居たるおもほゆ
 久々に部屋をかたづけ立ちながら君の歌集をひろひ讀みせり
 年々に君みまかりし日のめぐり來てこだはりにつつ幾日しのびぬ
 
    百穗畫伯挽歌
 
 おもふどち身まかり行きて生きのこる吾ひとり今日涙しながる
(603) 現身にいましし豊《ゆた》にまどかなる君をおもへば悲しきろかも
 貧しかりしアララギのこと相言ひて夜ふけの街を行きしおもほゆ
 うつつには君はいまさず何せむや心よわりてわれは生き居り
 やうやくに老いたまひぬと肉類もこのごろ斷ちて飯《いひ》食しましき
 
    追悼百穗畫伯
 
 一すぢに進みたまひし君が道ここに行著きてしづかなるかな
 たえまなき直路を行くと計らひの濁り無きままに君は生きたり
 まどかなりし君がこころの思出もひたすら悲しありありとして
(604) 日ごろ來し畫室の奥に君が集めし書等《ふみら》も一かたまりになりて居りたり
 ときのまに面かげに立つ君をしも命たえたる人とし思へや
 さすたけの君と交りいつしかも二十五年が過ぎてゐたりき
 あまたたび心きほひて御名いまだ普からざりし頃しおもほゆ
 うつせみは悲しけれどもいなづまの閃くがごと逝きたまひしはや
 君が家にけふも來《きた》れば篁がしげりにしげり君待つごとし
 羊齒むらは春の光にいきほひて萌えつつ居れど君なくあはれ
 くれなゐの大き牡丹もこの春は寫さむとする主《あるじ》はなしに
 
(605)    悲歎禄
 
     布野に中村憲吉君を哀悼す
 
 こゑあげてこの寂しさを遣らふとはけふの現のことにしあらず
 うつつなるこの世のうちに生き居りて吾は近づく君がなきがら
 三人《みたり》して布野《ふのう》の村を去りゆくと晝のかれひの包《つつみ》を持ちぬ
 この山に我ら入り來て晝の飯《いひ》くひつつ居れど君はいまさず
 石見なる三瓶の山を見つつ行きただ三人のみ君あらなくに
 
    鷺のこゑ
 
(606) おとろへし齒をはげまして常陸あがた山形あがたの蕨をくひぬ
 これの世にあるか無きかのごとくにもあやしきままに日をおくりけり
 くれなゐに成りし胡頽子の實こもれるを夜の店より買ひて樂しむ
 鷺のこゑ暗きをわたりゆく聞こゆ風は南となりたるらしも
 きれぎれに過去の感動の蘇へるドイツ映畫を見つつ居りたり
 
    悼東郷元帥
 
 海のうへに敵《あた》ほろぼししありさまをいかなるものと人いふらむか
 いのちながき現身《うつせ 》にして天皇《おほきみ》のへにこそ君はさもらひにけれ
(607) むかふ敵打ちてしやまむ力をし潜めて君は常に靜けし
 み棺のうへにただひとつ載りてをる君がころもや永遠のかなしみ
 ただならぬいまの時代《ときよ》にもろもろはうちこぞりつつ君をこそおもへ
 
    青野
 
 むし暑き部屋におもへりあるときは人死なしむる山のうへの雨
 大臣らのぞろりとならび居る見つつ暑きこの日はこゑさへ立てず
 六月の青野のうへにひとつのみ蜻※[虫+廷]《やんま》の飛ぶを見るべくなりぬ
 さみだれのしぶき降るときわが庭の山羊齒の葉はひと日ゆらげり
(608) あやしみて人はおもふな年老いしショオペンハウエル笛ふきしかど
 あかつきのいまだ暗きに目をあけてひととき居れば雀が啼きつ
 よひ闇より負けてかへれるわが猫は机のしたに入りてゆきたり
 一たびは疊のうへを片付けて低く飛び來し蚊をぞ憎める
 
    東郷元帥
 
 ただひとつのこの戰ひにきはまると時のまにして雄たけびにけり
 ひむがしの日いづる國に君ありと老も穉《をさな》も語りつぎつつ
 
    藏王山上歌碑
 
(609)     六月四日、舍弟高橋四郎兵衛が企てのままに藏王山上歌碑の一首を作りて送る
 
 陸奥をふたわけざまに聳えたまふ藏王の山の雲の中に立つ
 
    この日ごろ
 
 ながき雨やうやく晴れて白雲《しらくも》は北へ北へと日ねもす動く
 うつうつと汗わきいづる眞晝中いきどほろしき心だになし
 しみとほるかかる暑さも二月も經たば朝寒にはやもうつろふ
 この夏もすでに終らむもろもろの人健やかに勤めつづけむ
 一とほり倶樂部會員の歌縞をば選びをはりて二つに折りぬ
 
(610)    大峰參拜
 
     七月十二日、土屋文明君に導かれて午後七時半|洞川《どろかは》著、大峰ホテルに投宿。十三日雨やまず。十四日午前洞川を發し、八時洞辻著、十時大峰參拜、牛食、下山、午後一時洞川著、川合、舵ケ谷を經て下市著、電車にて上市に到り、投宿
 
谿がはに深山《ふかやま》のおと聞こゆるとおもひつつぞ寐る心は和《な》ぎて
 雨の音谷をおろして來るときに夕がれひにて山女の魚《うを》を噛む
 山人らこの谷の音《と》を聞きけむかあかとき醒に屡おもふ
 いにしへの山伏どものいきほひを現のごとく霧たちのぼる
 みちのくに吾は生れて大和なる山上嶽《さんじやうがたけ》にけふぞ雲分く
(611) 息づきて我がのぼるとき法螺貝を吹きて登りし頃しおもほゆ
 大峰につひに登りぬわが友の導くまにま雲のなか來て
 疾きくも空にうごける一ときをあらはれ見えしか青山藍の山
 この山の目したに青く幾重なる國のむら山かくれて見えず
 高山のいただきに紅の炎もゆ携はれる二人の生《いのち》のために
 山の上のお花ばたけの小草等《をぐさら》はさ霧に濡れて傾かむとす
 味噌の汁たぎり居りしを顧みてふたりは午飯《ひるのいひ》食はむとおもひき
 ほととぎすわが目のまへを飛びて鳴くさ霧にくらむ花原のうへ
(612) 川合にて休らひをれば水別《みくまり》の神のやしろに少女等むれつ
 言《こと》ひとつ言ひがてなくに古への未通女さびする大和未通女を
 石垣を背向にしつつ藥ぐさかすかに植ゑてこのひとつ村
 
    東熊野街道
 
 ひしひしと歴史の悲哀もてれどもはじめて通るとき慌し
 大瀧・迫を過ぎて柏木に吉野の川のみなもとを越ゆ
 伯母峰の峠のうへにかへりみる吉野の山は大きしづけさ
 新なるみなもととなりみんなみへ北山川は流れてくだる
(613) 東より大又川の見ゆるころ雨かぜしぶき肌《はだへ》寒しも
 
    紀州木本海岸
 
 一夜《ひとよ》雨はれて居りけるわたつみの海のなぎさに鳶は休らふ
 紀伊の海の鹽氣のけむりたつ濱に鳶は下《お》り居り寂しくもあるか
 濱にゐる鳶をし見ればあな寂し群れ戯るることさへもなし
 遠々し白きなぎさに潮気だちそがひの山は雲かたよりぬ
 わが友の病みこやすときわれひとり木本の海のなぎさを行くも
 
    瀞・本宮・湯の峯
 
(614) 山がはの激ちの水にあらなくにこのおほ瀞《とろ》をのぼりつつ行く
 瀞に來て心中のさま見たりけり死にゆきし者はこのさま知らず 女十八男二十三
 瀞にこがれて相共にこの深淵《ふかぶち》に入りたるものをひとは葬むる
 山のまにしづみ湛ふる瀞のいろうつせみの世のよろこびならず
 大雲取小雲取こえまゐり來しその夏の日をおもはざらめや
 この宮に額づきわれの居りたりしことを思へば十年を經たり
 十年まへ友にいたはられ辿りたる熊野|川原《がはら》に二たびぞ立つ
 たちまちに燈消していましむる湯の峯の夜《よ》に酒を飲みたり 燈火管制
(615) となり間に媚び戯るるこゑ聞きて氷の水を飲みほすわれは
 そのむかし一遍上人かすかにてここの温泉《いでゆ》に浴みにけむもの
 いにしへのすめらみかども中邊路を越えたまひたりのこる眞清水
 
    湯崎白濱
 
 熊野路の中邊路ごえはむら山をいくつ越えてし今ぞ磯浪
 雲とぢし山を見さけてこのゆふべ海の荒磯《ありそ》にものおもひもなし
 ふる國《ぐに》の磯のいで湯にたづさはり夏の日の海に落ちゆくを見つ
 横ぐもをすでにとほりてゆらゆらに平たくなりぬ海の入日は
(616) 枕べに潮《うしほ》きこゆるよもすがら砂に一つゐるこほろぎのこゑ
 
    濱原
 
 江川《がうのがは》濁り流るる岸にゐて上つ代のこと切りに偲ぶ 七月二十二日より二十四日
 夢のごとき「鴨山」戀ひてわれは來ぬ誰も見しらぬその「鴨山」を
 あかり消してひとり寢しかばあな朗ら濱原《はまわら》の山に鳴くほととぎす
 人麿の死《しに》をおもひて夜もすがら吾は居たりき現《うつつ》のごとく いつしかも心はげみて澤谷《さはだに》村粕淵村を二日《ふたひ》あるきつ
 
    濱田より下府
 
(617) この町に一夜《ひとよ》やどりてくさぐさの事を語りぬ翁ふたりと 岡鹿太郎・大島幾太郎二翁
 圖書館に入り石見の書《ふみ》われは見ぬ石見|一國《ひとくに》といふも廣しも
 城山の森のしげりをちかぢかに暫し目守りて雨に濡れつも
 朝鮮にみまかりし友のおくつきを自らここに弔ふわれは 内村牛尾龍七君墓 下府より上府にわたる平《たひら》には稻あをあをし國府《こくふ》のあとぞ 下府材
 湧きいづるゆたけき水を目のあたり見つつ人麿をおもふべけむか
 國分村に國分寺址たづねつつ礎のみを見らくも樂し
 唐鐘《たうがね》の浦いにしへは榮えぬと言ひ傳へたるを聞きつつとほる
 
(618)    有福より濱原
 
 有福のいで湯|浴《あ》みつつ人麿の妻の娘子《をとめ》の年をぞおもふ 七月廿五日廿六日
 強き雨日ねもす降りていにしへの角《つぬ》へ向はむ山越えがたし
 有福の旅のやどりに安藝ゆ來し勞働者《はたらきびと》の病を聽きぬ
 二宮《にこう》村|惠良《ゑら》のスイ床たどらむとわが額より汗しとど落つ 七月廿七日
 人麿の命果てけむといふ説を心に有ちて砂丘にそひ行く
 二たびを濱原に來ぬまどかなる月をし見むとわれおもひきや 七月廿七日
 あきらけき月の光が江川《がうのがは》てらすを見つつ亡き友おもほゆ 憶中村憲吉
(619) 川の音《と》のたゆるま無きに「鴨山」のことをおもひて吾はねむれず
 空想は悲しきものかある夜の夢となりつつあらはれ來る
 雨おほき旅なりしかば江川|水《み》かさまさりて「龜」へ渡らず
 おのづから心を籠めて往くも還るもわれの見たりし島星《しまのほし》やま 雨はれて二日照れどもひろびろと宍道の湖はいまだ濁れり
 出雲路をわれは通れば雨はれし三瓶山《さんべやま》見つ大山を見つ
 くすしくむ聳ゆる山の大山は車房にありて見れども飽かず
 
    三朝
 
(620) 三朝川の川瀬をきよみこのゆふべ旅人われは足をぞ浸す
 この里の童幼どもは蛇のことを普通くちなはといふもめづらし
 川の瀬に入日の雲のうつろふを愛《かな》しみ居りぬ足をとどめて
 親しきはうすくれなゐの合歡の花むらがり奄モ旅のやどりに
 やはらかき三朝の温泉《いでゆ》浴みに來て一夜《ひとよ》が明けばわれ去らむとす
 
    新秋雜歌
 
 旅路よりかへりてみればわが部屋の黴のにほひも親しまなくに
 唐辛子いれたる鑵に住みつきし蟲をし見つつしばし悲しむ
(621) 唐辛子の中に繭こもる微《かす》かなる蟲とりいだして見てゐる吾は
 なが雨の晴れしゆふべに小《ち》さき蚊がむらがりくるを怒りつつ居り
 ヒツトラのこゑ聞きしとき何か悲し前行《ぜんかう》したりし樂も悲しも ヒンデンブルク大統領逝去
 黴ふきし疊をほすと持ちいだす庭のなかばは光は差さず
 やすらかにこころあり經ず怒りつつ獨りしてわが部屋に入り來ぬ
 額より汗のながるるあつき日もいつか過ぎむか晩蝉《ひぐらし》鳴くも
 おほどかにわれにあれよと人いへばきのふもけふも怒《いか》ることなし
 蟲ばまれ居たる陸放翁全集を寂しくおもひ庭に干したり
(622) サイレンがしきりに鳴りて戰闘機あらはれたらむつもりの如し 防空演習
 松花江芳水|河子《かし》の虐殺をかりそめのことと世人《よひと》おもふか
 
    夏季歌會
 
     八月三日より八月五日まで青山會館別館に於てアララギ歌會
を開く
 
 ひとびとは鮎壽司《あゆず》くひてよろこべど吾が齒はよわし食ひがてなくに
 丹波より但馬に汽車の入りしころ空を亂して雨は降りたり
 かきくらし稻田に雨のしぶければ白鷺の群の飛びたちかねつ
 白鷺がとどろく雨の中にして見えがくれするさまぞ見にける
(623) 西北の方より降りて來しものか圓山川に音たつる雨
 有福の温泉《いでゆ》にわれの行きしとき張りつめし心暫しゆるみつ
 
   野分
 
 わが庭に野分のかぜの吹く見れば靡かふ羊齒の向さだまらず
 小さくてくれなゐふかき※[奚+隹]頭は野分の風にうごきつつ居り
 あらあらしく風の吹きたつけふしもぞ家籠りつつ笑ふことさへもなき
 白雲は空にうごきてこのゆふべ南より風ふきしきにけり
 よもすがら野分の風は吹けれども蟋蟀のこゑやむときもなし
 
(624)    中村意吉君を憶ふ
 
 うす寒きけふこのごろやひとり居るさびしき時に君をおもふも
 電報を受取りぬれば海中《わたなか》の浪なぎはてしことのしづまり
 君と共に歎きしことのおもひでも戯れのごとく吾老いにけり
 ほがらかに遊びし春秋《はるあき》をわれひとり偲《しぬ》びて居らむ四つのみほとけ
 ある宵は心みだれてありありと君がやまひを吾はおもひき
 
    百花園
 
     九月十六日向島百花園に正岡子規先生三十三囘忌歌會を開く
 
(625) 野分だつ空のはるけくたなびきてあさぎのいろや澄みわたりたる
 秋雲の荒れくるひまに見えそめしあさぎ細空《ほそぞら》は悲しきまでに
 
     百花園の秋草のかずかず咲きみだるれどおとづるる人おほからずおほむね寂びに寂びむとす
 
 ここに來てひよどりじやうごといふ花をわれは愛でつと人は知らなく
 もも草の花さきちるをこの園にまのあたり見てゆきかへりつつ
 丈のびし紅虎杖の一群《ひとむれ》を古へ人のごとく愛でつも
 この園の白銀薄たとふれば直ぐに立ちたるをとめのごとし
 にごり江に睡蓮も過ぎ百草《ももくさ》のこの花園に秋さびむとす
(626) さるすべりの老い立てる木にくれなゐの散りがたに咲く花を惜しみつ
 みづのべの太藺むらだついきほひを哀ともふに秋ふかむめり
 
    小吟
 
 九月よりわがま近くに聞こゆるは小學校のをさな等のこゑ
 枯れふしし山羊齒の葉のさま見つつのどけきものと吾いはめやも
 庭の士にしらじらとして降る雪のはだらになりて降りつむらしも
 けふ一日ことを勵みてこころよく鰻食はむと銀座にぞ來し
 冬の夜は更けわたりつつ吾がそばに置き亂したる書《ふみ》を片づく
(627) 柿本人麿の歌讀み居りてときには吾は聲をあげつつ
 「柿本人麿」といふ書つくり今日の日ごろは痩せたるらしき
 大きなる花とにほへる白菊を朝な夕なに見つつ飽かなく
 
    日光小吟
 
     十一月すゑつ方日光湯本にあそぶわれ嘗て中學校の生徒にて來りしところなるが記憶もすでにおぼろになりにけり
 
 三十年《みそとせ》ははやも過ぎぬとおもふなべ二荒《ふたあら》の山に今日は入りゆく
 ゆたかなる山河《やまがは》のみづ見つつ來てこの山のうへに湖たたふ
 まぢかくに山のなだれのゆゆしきを吾こそは見め雪ふらむとす
(628) ぬばたまの一夜は明けて山のうへの寒水《さむみづ》のなかの鱒の子ぞ疾《と》き
 立ち枯れて白き蘆むらを向うにし泉の中の魚はしづけく
 風ふけばさやぎの音の絶えまなき山笹のうへに雪ぞつもれる
 山脈の低くなりつつ峽間なるここを嵐はとほり過ぎたり
 太樹々《ふときぎ》の倒れし見ればこのせまき峽を嵐は通れるらしも
 山坂にあへげる吾を友三人ともに勞はり歩みをとどむ
 山谿《やまだに》もあらはになりて見ゆるまでのぼりぞわが來し樂《たぬ》しくもあるか
 ふかぶかとおちいりし谿をへだてたるかの山のうへに鹿は鳴くとふ
(629) たどりつきし峠のうへに祭る石神あらはにありて裝ふものなし
 この山のかなたの市へつらなめて馬は越えゆく嘶くもあり
 
    秩父吟行
 
     十一月三日秩父三峰山登山口にてアララギ歌會を開きて明けし四日中津峽を遊行せり
 
 高きより山がはの水を見おろしつしばらくにして水際《みぎは》あるきつ
 いろづきし山にむかひてわが行けばはざまの水は音たかまりぬ
 なまよみの甲斐につづきてたたなはる秩父の山に冬の日入りぬ
 屯せる雲さへもなく秋ふけし山々見つつなほぞ入りゆく
(630) 山がひの青菜畑《あをなばたけ》につゆじもの干ゆくころほひ吾等來りぬ
 いくとせの前見いでしか黄金《こがね》ほるところは川瀬の眞近くにあり
 犬いで來《き》人いで來《こ》しと思ふばかりに川の對岸に雉子は打たれぬ 川の瀬に山かぶさりてあるごときはざまも行きぬ相語りつつ
 道のべに榛の大樹《おほき》の立ちたるを共に見あげておどろき合ひつ
 もみぢばのうつろふころを山に入りて今年の秋の福《さいはひ》を待つ
 かばいろにもみぢのしづむ秩父山雪降り來むは幾日《いくひ》ののちか
 もみぢばのすがれにむかふころにして雲をうかべし山峽《やまがひ》のそら
(631) 秩父嶺の山峽とほく入り來つつあかとき霜のいたきをも愛づ
 
    獨吟抄
 
 われもかく育ちしおもほゆをさなきが衣寒らに雪のへに遊ぶ
 このごろも鴨山考を忘れ得ずひとり居りつつ夜ぞふけにける
 ひとり寢にすでに馴れつつ枕べに書《ふみ》をかさねてあかりを消しぬ
 はやはやも夜晝つぎて志文内の空くらむまで雪は降るとふ
 部屋なかに一日をりつつこころ疲れ背のびをわれは幾度にてもする
 
     一區切りをはりたれば人麿歌評釋の筆をおきてしばらく街上を行かむとす
 
(632) 街上に轢かれし猫はぼろ切か何かのごとく平たくなりぬ
 鋪道よりわれの覗きし富びとの木立は古りて荒山なせり
 わがむかふ對岸は消滅せりといふとも預言者《よげんじや》のごとくわれはおもはず
 丹那より轟轟としてきこえくる音をあやしむはただ一夜|二夜《ふたよ》
 冬雲のなかより白く差しながら直線光《すぐなるひかり》ところをかへぬ
 
    熱海
 
 年久しく慕ひまつりし君ゆゑにけふわが心ゆたけくもあるか 幸田先生
 冬の海|玻璃窓《はりど》の外に近くして露伴先生と吾と同室に居り
(633) あぢさゐの素がれし花が岡高き冬の光に殘れるもよし
 伊豆の海ほびこりたりし冬雲は片寄りにつつ夕映えにけり
 しづかなりし一日の海をふりさけて君がみそばに幸を保ちつ
 
    十二月
 
 ためらはず衣にほへるひと形のをとめのそばに近づきにけり
 煖房して等身大の人形《にんぎやう》は朱色のコオト今日ぞ著てゐる
 ほのぼのとにほふをとめの人形《ひとがた》に近づきをれば現身のごとや
 朝けより降りはじめたる雪見れば春のはだれのごとくに降るも
(634) さびしとて心は和ぎぬ晝つかた林のなかに雨ふりそそぐ
 都會の歳ゆかむとして街あひの空に雲はひろらにうごきつつあり
 冬風の吹きすさぶなへ徒歩《とほ》にして行きゆく吾は影の如きか
 この日ごろ夜《よは》に目さめて眠れねばねむれぬままにありて臥し居り
 さびしとて心は和ぎぬ晝つかた林のなかに雨ふりそそぐ
 
    冬ふかむ
 
 朝な朝な啼きつつ行きし鴉らも都の空に減りたるらしも
 霜しろく庭くさに降りて今朝の朝や師よりも三年ながくわれは生きたり
 鬱々《おぼほ》しくくもりつつゐる北空《きたぞら》はひらかず暮れぬきのふもけふも
(635) 蕗の薹賣れるを見れば日のあたる岡のうへにははや萌ゆるらし
 あらたしき年のはじめの一日ゆゑいきどほろしきことあらしむな
 幼等《をさなら》のもの學ぶこゑわが窓の下のところより響きて聞こゆ
 をさな兒のただに遊ぶをわが聞けばわが穉兒もまじり居るらし
 心しづめてわが居るときにいとけなきもろごゑ聞けば心はゆらぐ
 北空に夕雲とぢてうつせみの吾にせまりこむ雪か雨かも
 たらちねの母のゆくへを言問ふはをさなき兒等の常と誰かいふ
 たまきはる内のこころの悲しみも人し死せれば空しくもあるか
(636) ぎばうしゆも羊齒も枯れ伏しつはぶきの黄に咲きし花はけふぞうつろふ
 納豆を餅《もちひ》につけて食《を》すことをわれは樂しむ人にいはぬかも 冬霧のたちのまにまに石だたみの歩道は濡れて長し夜ごろは
 もの學ぶをさなき子等の透るこゑ日曜は朝より一日きこえず
 「吾嬬はや」となげきしみこゑ悲しけど倭建のみことしともし
 冬の夜の中空にいでてさだまらぬ白雲見つつ家に歸りぬ
 こゑとほく曉天鴉《あかときがらす》啼きゆくに窓をし見ればいまだ暗しも
 まどかにも照りくるものか歩みとどめて吾の見てゐる冬の夜の月
(637) 街にいでて何をし食はば平けき心はわれにかへり來むかも
 
    寒月
 
 雁打ちに日曜日毎ゆく友と鋪道のうへに逢ひて立ち居り
 をとめ等が連れてをどるを目を据ゑて渓の滲むまでもわれ見ぬ
 すすり泣くこゑも聞こえず平凡に悲劇の幕はおりむとすらし
 簡易なる食店に入りなめこ汁と飯《めし》とを食ひていでて來りぬ
 わが窓のくもり硝子に黄に映えし銀杏葉《いてふば》もはや散り過ぎにけり
 おほどかに幾日ばかりかわが窓に公孫樹映りて今は散りつも
(638) 底冷えに更くる夜ごろを起きゆきて五勺の洒を煖めしめぬ
 あひ抱き接吻をする場面をもまともに見つつ吾は歸りぬ
 一日づつ經ゆかむときにいたいたしき心も褪せて行くにかあらむ
 寒き臥處に體ちぢめつかたはらに吾の怒《いか》らむ人さへもなし
 
    歳晩近作
 
 蟲ばみし齒を拔きとりてやうやくに馴るるにかあらし年くれむとす
 をさな兒の飯《いひ》くふ見ればこのゆふべはつかのハムをうばひ合ふなり
 みちのくを吾はおもひて山形のあがたの山もありありと見ゆ
(639) 一とせを鴨山考にこだはりて悲しきこともあはれ忘れき
 ひそむごとくあり經て來つる一とせをわれの机だにしばし知り居よ
 
    歳晩
 
 新宿のムーラン・ルージユのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり 【十二月二十六日直八子供旅】
 大股に歩ける人のうしろより吾歩みゐていや離れゆく
 人むれて銀座をゆくにまじはれりいまだ降りゐる夜更《よるふ》けの雨 十二月三十一日三首
 しまらくも心しづかに街ゆくや家にしかへり獨りかも寐む
 寐につきてよりなほ絶え間なく聞こえ居り大つごもりの夜ふけたる雨
 
(640)    雜歌一束
 
     石井柏亭氏筆水の江瀧子肖像に題する歌(二月十一日作)
 
 ときのまは言《こと》もとだえてゆたかなる秋の泉に下りたちにけり
 
     中根貞彦氏へ(一月十三日)
 
 わがいのち寂しきよひも豐酒《とよみき》にゑひはてにけり君がなさけに
 
     三月二十日
 
 定まりて雲の行方もおもほえずあまの原遠くくれにけるかも
 
     百穗筆富嶽賛(爲神保孝太郎君三月廿六日)
 
(641) 豐《とよ》さかと朝日はのぼりかぐはしくいやあらたしき神の國かも
 
     泉幸吉君の外遊をおくる(五月十七日)
 
 大海《おほうみ》の波をわたりて君行くやたぬしき心みち足らふがに
 
     中根氏へ消息(四月三日夜)
 
 けだもののひそむがごとくあり經れば君がなさけもおろそかにせし
 ぬばたまのよるのほどろに目をあきてあひたのしまむ嬬はあらずも
 はしきやし今日の筍手に持ちてその香さへよしわれ一人居り
 
     祝齋藤洋一誕生
 
(642) 春の日の光かがよふゆたけきにをのこ兒のこゑ樂しくもあるか
 
    牛尾龍七墓碣の歌(六月五日)
 
 君しぬぶとはのよすがやくれなゐにいまこそふふめさるすべりのはな
 
     七月十一日午前九時土屋文明氏と共に東京驛を立ち夕大阪に著く田中・高安諸氏に案内せられて西宮甲陽園に宿りぬ
 
 この日ごろたまさかにして會ふ友らしげしげと吾を見ることもあり
 
     七月十二日大阪伊勢屋にて川田順氏のもてなしを受けぬ同席土屋文明・田中四郎・曉夢艸の五人席上短册に歌かけといひしかば
 
 四方竹すぐ立つ庭に向ひゐてゆらげる心しづめかねつつ
(643) 猪名川のかぐはしき魚《いを》をまへに置きくふも食はぬも君がまにまに
 
     今中楓溪氏家君古稀賀
 
 いのちながき君ことほぐとこのあした泉の水を硯にそそぐ
 
     蕨を食して「紫塵の嫩蕨人手を拳る」の句をおもふ。蕨は諸友のたまものにして、朝々これを合す。杜甫に「石喧蕨芽紫、渚秀蘆筍緑」、楊萬里に「蕨長如樹」、翁卷に「宿妥蒸泥早蕨肥」の句あり
 
 青々としたる蕨のとどけるを疊のうへにしばし置きつつ
 うるはしきをみなに似ざるさ蕨をわれは愛でつつ朝々に食ふ
 
     濱原
 
(644) 人麿のことをおもひて眠られずはや鳴きいづるかなかなのこゑ
 
     殘暑偶成
 
 ものぐるひの聲きくときはわづらはし尊き業《なり》とおもひ來《こ》しかど
 わが窓に吹き入る風はあかときのまだをぐらきに音を立てたり
 
     十月廿日醫科大學卒業滿廿五周年記念のために同級生相集り舊師を請じて謝恩の意を表せり午後五時東京柳橋柳光亭にて
 
 豐酒《とよみき》をゑらぎ飲まむと健《すくよ》かに今日のまとゐに來たるたぬしさ
 師の君をかくみことほぎわがどちよ老いづくころを共につどへる
 
(645) 後記
 
 本集には、昭和八年作(六〇三首)、昭和九年作(四一四首)、合せて一〇一七首を收めた。發行の順からいへぼ、私の第五歌集で「曉紅」に次ぐが、作歌年代からいへば、「曉紅」の前になるものである。
 昭和八年、昭和九年は、私の五十二歳、五十三歳の時に當る。然るにこの兩年は實生活の上に於て不思議に悲歎のつづいた年であつた。昭和八年十月三十日に平福百穗畫伯が歿し、昭和九年五月五日に中村憲吉君が歿した。さうして私事にわたつてもいろいろの事があつた。
 私のかかる精神的負傷が作歌の上に反映してゐるとおもふが、さういふ悲歎時の未だ無かつたまへに、處々に旅行してゐるので、天然に觀入した歌が存外多く、ために一卷の歌集としては多過ぎる程の歌を收めることが出來た。私は柴崎沼に殘雁を賞した。ついで、近江番場の蓮華寺に※[うがんむり/隆]應和尚本葬の式に列し、比叡山から京都大阪を經て、安藝の五日市濱に中村憲吉君の病を見舞ひ、ついでに嚴島に詣でた。それから伊香保にも行つた。また鹿野山、九十九谷を觀て吉尾村に古泉千樫の墓にまうで、清澄山にのぼつた。夏、比叡山のアララギ安居會にのぞみ、大津・石(646)山・嵯峨澤等を經て歸京した。それから秋になり輕井澤から碓氷・草津・四萬にも行き、富士五湖、上高地にも遊んだ。昭和九年には土屋文明氏に導かれて大峰に參拜し、木本、本宮、湯の峯、湯崎、白濱に遊び、また石見の濱原、濱田をも訪うた。
 前年から志してゐた、「柿本人麿」の稿をつづけ、昭和九年十一月十日に、その「總論篇」一卷を岩波書店から發行した。本歌集の私の歌には、『過ぎ來つる五十二年をうたかたの浮びしごとくおもふことあり』の如き寂しいものもあるが、人麿の歌に接しつつこの寂しさをまぎらはすことの出來た時もあつた。
       〇
  あまのはら見る見るうちにかりがねの一つら低くなり行きにけり
  春の雲かたよりゆきし晝つかたとほき眞菰に雁しづまりぬ
       〇
  やうやくによはひはふけて比叡の山の一曉《ひとあかつき》を惜しみあるきつ
  まどかなる月はいでつつ空ひくく近江のうみに光うつろふ
  みづうみを見おろす山はあかつきのいまだ中空に月かがやきぬ
       〇
(647)  山のうへ湖のみぎはにうらがるる菅をし見ればはや力なし
 さむざむと水泡を寄する風ふきてわがかたはらに生けるもの見ず
天然を咏んだものに上の如きものがあつて、前年のものに比して幾らか變化があるとおもふが、進歩といふ方面から謂へば、やはりおぼつかないのであらうか。
       〇
  民族のエミグラチオはいにしへも國のさかひをつひに越えにき
  唐辛子の中に繭こもる微かなる蟲とりいだし見てゐる吾は
  うつせみは和に死なじと甲ひつついにしへ人もなげきけるかも
  國こぞるいきほひをしも今のうつつにこのひむがしの國にさだめむぞ
  街上に轢かれし猫はぼろ切か何かのごとく平たくなりぬ
  冬雲のなかより白く差しながら直線《すぐなる》光ところをかへぬ
  ヒツトラのこゑ聞きしとき何か悲し前行《ぜんかう》したりし樂《がく》も悲しも
  街にいで來て熱河戦闘の實寫眞をまなぶた熱くなりて見て居り
  まどかにも照りくるものか歩みとどめて吾の見てゐる冬の夜の月
  松花江芳水河子の虐殺をかりそめのことと世人《よひと》おもふか
(648)漫然と氣づいたものにこのやうな歌もあり、從來の歌に比して幾らか注意せらるべきものともおもふが、併しこれとても時がもつと經つて見なければならない。
 私の作に、『ただひとつ惜しみて置きし白桃《しろもも》のゆたけきを吾は食ひをはりけり』といふ一首があるのに因んで本集の名とした。本集は昭和十四年の夏に編輯を了へたこと、「寒雲」、「曉紅」と同樣であるが、原稿を印刷所にまはしたのは昭和十六年十月で、發行については、岡麓、土屋文明、岩波茂雄、佐藤佐太郎、山口茂吉の諸氏より深き恩賚を忝うした。昭和十六年十一月吉日齋藤茂吉
 
  曉紅
 
(651)  昭和十年
 
    新春小歌
 
 おほ君は神にしいませひさかたの天の御中も統べたまひたる
 高ひかる日つぎの御子のさかえたまふこの新年《にひとし》をあふがざらめや
 かすかなる御民のわれも若水《わかみづ》を汲みつつまうせけふの吉事を
 新しく興れる國をまもれとぞわがますらをの海わたりゆく
 みちのくの山峽うづめつもりたる雪をわたらふ山鳥のこゑ
(652) 拳闘の猛烈なりし時のまをわれはしきりに動悸して居り
 拳闘をはじめて見に來するどしと息づまりたるわれ老いにけり
 
    岡の冬草
 
 伊豆のくにあたたかき岡の青草にまつはる蟲は冬を越さむか
 眉しろき老といふともさにづらふ處女を見ればこころ和ぐもの
 むら雲は山のごとくに見えながら天《あま》の原とほく暮れゆきにけり
 かすかなる心のひまや紀伊のくに白濱の湯をわれはこほしむ
 中空に小さくなりて照り透り悲しきまでに冬の夜の月
 
(653)    春光
 
 あたらしき春の光のさしそめてよみがへり來む力とぞおもふ
 白妙の雪のつもりてしづかなる池のみぎはに鶴がねきこゆ
 北空にただよふ雲を見つつゐる遠々にして雪か降るらむ
 落葉したるばかりの木々にはやはやも萌えいづるらむ春の芽ぞこれ
 あかつきのまだ暗きよりわが庭に來啼きし雀このごろ聞かず
 われのゐる窓の下よりまぢかくに小學校のをさなごのこゑ
 女《め》の童をの童らのあぐる聲まじりて聞こゆ楽しくもあるか
(654) 冬靄のおりゐしづめる夜半ながら光こもりて月かたぶきぬ
 納豆もちひわれは食ひつつ熊本の干納豆をおもひいでつも
 冬の夜の月の光のあらなくに天の原とほく冴えわたりけり
 この日ぶみいよよ榮えてうつせみを正しき道にみちびきやまず 新聞一萬五千號一首
 
    餅
 
 新しく力はじめむこの朝け聖ごころのごとくしづけし
 寒木瓜のくれなゐの花ふふめるを身ぢかく置きて吾ひとり居り
 谷々をうづめて降りし雪こえて人のいきほふ頃となりつも
(655) 富人は富人どち貧しきは貧しきどちと餅《もちひ》をぞ食《を》す
 ひややかに世のありさまを見むことはわれは老いつつ爲《せ》しこともなし
 
    みちのく山
 
 新しき年のはじめにおもふことひとつ心につとめて行かな
 みちのくのはらからおもひ雪ふぶくみちのく山を忘れておもへや
 たかだかと物を積みたるトラツクのとほりて過ぐるあとを見てゐる
 やはらかく朝日のさせる外苑の造をし行けば街の遠ひびき
 うまいより醒めて話をしはじめたるわが子等見つつ心ゆらぐも
 
(656)    たぢから
 
 辛うじて怒おさへし時のまを尊きものと豈おもはめや
 手ぢからのあらむ極みとひむがしの國をこぞりて行くとふものぞ
 をとめ等は玉のごときを好しとせり映畫の中のをとめにてもよし
 とどろきて飛行機過ぐる空合を久々にして吾は見て居り
 みちのくの貧しき友をおもへども富みて足らへる吾ならなくに
 
    御題池邊鶴
 
 かぎろひの春の來むかふ他の邊にむつみて樂し雌《め》の鶴《つる》雄《を
》の鶴
(657) むらがりて池のみぎはにゐる鶴《たづ》のしづまるもあり飛びたつもあり
 光さし春の池べののどけきにもろともにゐる白きたづむら
 朝あけて池のみぎはに飛びくだる鶴《たづ》の羽ばたき大きくもあるか
 池みづにゆたけき光さしながら君が代よばふ鶴《たづ》がね高し
 
    池邊鶴
 
 あまつ日の光かがよふ池の邊の高啼く鶴《たづ》の千代よばふこゑ
 くれなゐのかうべをあげて親鶴《おやたづ》のみぎはに立てば雛鶴《ひなたづ》も居り
 池水の氷は解けてこのあした天にひびかふ鶴《たづ》啼きわたる
 
(658)     女性往來のため一首
 
 たらちねの母しおもほゆ年老いしわれはますます母しおもほゆ
 
    新草
 
 高山の嶺をおほひて降れる雪あまつひかりに今ぞ照りたる
 少男《をとこ》らも少女《をとめ》の伴もたづさはりきほひて立たむ春ぞ來むかふ
 ひそみ居し木々のこの芽のいつしかにふくらみ行くを見つつ樂しも
 冬草のみどりにさせる日の光遊びて舞へる蟲に閑なし
 春川のながれの岸に生ふる草摘みてし食へば若やぐらしも
 
(659)    一日
 
 月島の倉庫にあかく入日さし一月|一日《いちにち》のこころ落ちゐぬ
 休息の靜けさに似てあかあかと水上警察の右に日は落つ
 一月の一日友と連れだちて築地明石|町《ちやう》の界隈ありく
 月島を向ひに見つつ通り來し新年の靜かなる立體性の街
 美しき男をみなの葛藤を見るともなしに見てしまひけり
 
    平野
 
 下總を朝あけ行けば冬がれし國ひくくして雲たなびきぬ
(660) 大き河そがひにしつつ相共に常陸に境ふ國べを行くも
 友と三人語らひにけり湖の水と小川の水がしづかに合ふを
 潮鳴の聞こゆるとしもあらなくに小松が原を横ぎりて行く
 四方見るは心よろしとのぼり來し砂丘のうへに青きもの見ず
 冬の日のひくくなりたる光沁む砂丘に幾つか小《ち》さき谿あり
 いろも無くよこたふ砂の山にして鹿島の海は黒く見えたる
 あまつ日は傾きはやくなり居りてのぼる砂丘のうへに砂飛ぶ
 利根河の舟中《ふねなか》にして西空や紅《べに》むら雲も心にとめむ
(661) さむざむとたゆたひにける簇雲《むらくも》は西へこごりて日はかたぶきぬ
 海ちかき國のたひらを利根は行くけはしからぬ河やひろらなる河や
 ものなべて黄枯《きがれ》にしづむ國はらをいろを湛へて河ながれたる
 利根川の川をへだてし白妙の砂丘《すなをか》のふくれ遠くになりぬ
 豊里の驛の近くの利根川はおどろくばかりひろくなりたり
 冬がれし岡の起伏《おきふし》も見えずなりひむがしの空うみのうへの雲
 海軍の爆撃場がちかぢかにありとしいへどよこたふ砂はら
 彼岸《かのきし》に砂の山みえ利根河は大きひろらに音さへもなし
 
(662)    銚子附近
 
 犬吠の海のいろ見れば暫くはおほにし濁り沖へうつろふ
 おと鈍くとどろく浪をわれ聞きて岩陰にさす光|戀《こほ》しむ
 うみのうへを鵜はつらなめて飛ぶが見ゆ屯し住めるところあらむか
 ただひとつ空たかく飛ぶ鵜も居れど浪のうへ低く飛べるが多し
 寄る浪の白き水泡《みなわ》のただよふを人もこそ見めわれの見るごと
 目のまへの岩のひまなる湛へ潮しろき水泡《うたかた》うごきて止まず
 わたつみのうへの晝雲うつろふと思ほえなくに常ならなくに
(663) 高きよりわが眼下《まなした》に湧きながら寄せくる浪のしぶき散る見ゆ
 冬風は海よりおこりわれの行く磯の石むらあたたまりけり
 とことはに寂しきものかたたまりて段《きだ》にし寄する汀《なぎさ》白波 磯におりてかすかなる水の湧くを見つ清水にちかく磯の浪のおと
 鴎らは砂のなぎさに屯してうづくまりつつ或は歩《あり》く
 磯におりて貝のちりぼふを拾ふにもかなしきものの蘇りつつ
 わたつみに直にむかふとわれ思《も》ひていさごの上に身を休ましむ
 
    漁村
 
(664) 一ときに飛びあがりたる鴎らはわれのうしろにまた降《お》りたちぬ
 そがひより光をうけし家群を暗くけむるが如く見につつ
 砂の上におりゐる鴎ちかぢかに見れば豐けきものにしありける
 わたつみの海にむかひて屯せる家居にはみな鰯を干せり
 浪ちかく乾きてありし砂のうへ一つ鶴はしづかに下りぬ
 鴎らが心しづかに居るらしき汀《なぎさ》をわれは亂し來るかな
 海にそひて香にたつ磯を歩めれば砂白妙の岡にのぼりぬ
 今ゆのちわれの訪ひ來むことありや外川村《とがはむら》とふ漁村《すなどりのむら》
(665) あまつ日は低くなりつつ西方《にしかた》におほどかに直なる崎を照らしぬ
 川原茱萸やうやく赤く砂丘《すなをか》の麓のところ二木《ふたき》ばかりあり
 うつくしきいろに染まりて冬の海のうへ片寄りに雲をさまりぬ
 
    川口
 
 目のまへのただひろらなる利根河のみなとを見れば白きしき浪
 ひろびろとしたる利根川の川口に浚渫船が火を焚くその音
 利根川はうねりて來らし川上は圍《かく》まれて見ゆ四方《よも》の陸《くが》より
 あしびきの山ひとつ見えぬ利根河はかのところにてうねりにけらし
(666) 利根河の河の水近く大規模《おほきも》に醤油をつくる一劃を來し
 この道に直角《ちよくかく》に立つ高塀のあかき煉瓦に向ひて行くも
 わが心なごましめつつ利根川の川口かけて白浪ぞたつ
 
    國技舘
 
 番附もくだりくだりて弱くなりし出羽ケ嶽見に來て黙しけり
 四時間のいとまをつくり國技館の片すみにゐて息づく吾は
 いきれする人ごみの中に吾は居り出羽ケ嶽の相撲ひとつ見むとて
 斷間なく動悸してわれは出羽ケ嶽の相撲に負くるありさまを見つ
(667) 木偶の如くに負けてしまへば一息にいきどほろしとも今は思はず
 固唾のむいとまも何もなくなりて負くる相撲を何とかもいふ
 一隊の小學兒童が出羽ケ嶽に聲援すればわが涙出でて止まらず
 五とせあまりのうちにかく弱くなりし力士の出羽ケ嶽はや
 火曜日の午後にいそぎて來りたる國技館の雜音にわれ力なし
 先代の出羽の海がまだ丈夫にてわれに語りしことし思ほゆ
 のぼせあがりし吾なりしかど今は心つめたくなりて兩國わたる
 
    夕かぎろひ
 
(668) 街なかの甍のうへにあかあかと夕かぎろひの見えてわれ行く
 春の雪みだれ降る日に西北《にしきた》の郊外にゐるをとめ訪ひたり
 ガレージへトラツクひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり
 夕街《ゆふまち》に子を負ひてゆく女《をみな》ありいかなる人の妻とおもはむ
 きさらぎに入りしばかりのゆふまぐれ一時ちかく日延びけらしも
 軍隊の通り過ぎたるうしろより心しみじみと見てゐる吾は
 西洋も然にあれかも衢ゆくをとめはなべていよよ美し
 新宿にかへり來しとき午ちかく春のはだれは間なくし解けぬ
(669) 代々木野を見はるし居れば夕靄はけむりのごとくかた靡きすも
 新聞の記事を讀みつつわれおもふ政治家の體は強かるらむか
 ほそき月おちて行きたる二月の虚しき空をわれはあふぎぬ
 
    春雲
 
 冴えかへりし空のなごりのむなしくて夜の白雲あな慌し
 「陣歿したる大學生等の書簡」が落命の順に配列せられけり
 ガレージに入りて行きたるトラツクは底ごもりせる音を立てたり
 ひとりしてわれの入り來し山中の落葉おとするきさらぎの雨
(670) いきどほり遣らはむとする方しらず白くなりたる鼻毛おのれ拔く
 小さなる病院を建てて心和む火難にあひしより十年《ととせ》か經たる
 あたたかき飯《いひ》をゆふぐれ食ふときに天の命も怖ぢておもはず
 小路《こうぢ》には歩兵の隊にはさまれて制服の處女ひとり歩き居り
 かなしみて生きつつ居れど或ときは人來り吾に求むるは何
 かくばかり圓かなる女《をみな》もの戀《》こほしく映畫のなかにほそき聲あぐ
 めざめつつ眼あきゐる暗闇にはや何物も浮ぶことなし
 
    山房私歌
 
(671)     吾心日日憤怒踰矩
 
 わが體机に押しつくるごとくにしてみだれ心をしづめつつ居り
 息づまるばかりに怒りしわがこころしづまり行けと部屋を閉しつ
 老いづきていよよ心のにごるとき人居り吾をいきどほらしむ
 
     落日
 
 雲のなかに日の落つる見ゆ三月《さんぐわつ》のなかばを過ぎし街角に立つ 過ぎてゆく時を惜しみて居りしかど風ひきぬれば晝にこやりつ
 しらたまのをとめ現はれかなしめる映畫たはやすく終りてゆけり
(672) うつつにしもののおもひを遂ぐるごと春の彼岸に降れる白雪
 
     四月十五日四首
 
 いとけなきわが子二人が枕ならべて阿多福風を引き臥して居り
 友みまかりてはや一年やむらさきの長藤浪の花咲かむとす
 朝けより蒸あつき日とおもひしにゆふぐれどきに空荒れわたる
 旅だちて行かむとすれば雨まじり風の吹きしくゆふまぐれはや
 
    踰矩の歌
 
 うつし身の老いつる人の寂まりて矩を踰えずと云ひにけるらし
(673) くれなゐに咲き足らひたる梅の花や觸れむばかりに顔ちかづけぬ
 風ひきて二日寢しかば黄禍論の大概讀みぬ樂しくもなし
 燠のうへにわれの棄てたる飯《いひ》つぶよりけむりは出でて黒く燒けゆく つつましくして豚食はぬ猶太《ユダ》族のをとめとも吾は谷をわたりき
 三年まへに身まかりゆけるわが兄は黒溝臺戰に生き殘りけり
 
     ミユンヘンなるシユピイルマイエル先生を悼む
 
 業房をわれ去りしより十年《ととせ》經て Spielmeyer《シユピイルマイエル》先生悲し
 
     こぞの夏にあがなひし鐵砲茱萸は諸葉青くしげり枝もたわわに實をつけにけり
 
(674) かぎろひの春逝きぬればわれひとり樂しみにして居る茱萸の青き實
 くれなゐのこぞめの色にならむ日をこの鉢茱萸に吾は待たむぞ
 
    吉野山
 
     四月二十三日、備後石見の旅よりかへるさ大阪に寄りて高安やす子、鈴江幸太郎こたりとともに吉野山の殘花を賞でつ
 三人《みたり》してけふ入り來つるみよしのの吉野の山の春ふけむとす
 もえぎたつ若葉となりて雲のごと散りのこりたる山櫻ばな
 春の日はきらひわたりてみよしのの吉野の山はふかぶかと見ゆ
 くろぐろとしたる杉生に沁入るがに吉野の山に撞く鐘のおと
(675) 杉生山藍にけむりて涯しらず吉野のうへに三人し居れば
 あしびきの山谷《やまだに》ふたつ見え居りて杉の黒生にかげり常なし
 谷間に行かむ閑あり三たり等は蕨の餅《もちひ》もとめつつ行く
 
    高層
 
 たかき家にのぼりきたりて春まだきの夕くれなゐを振りさけにけり
 隅田川のひむがしがはに友とふたり暮れてまもなき道あるき居り
 
    吉野山
 
 春の日は午を過ぎつつみよしのの山の杉生は陰をつくりぬ
(676) 見はるかす藏王堂より北の方のびたる山は川に盡くらし
 のぼり行く道のべにしてむらぎもの心足らはむ山さくら花
 奥ふかく櫻の花をたづぬれば河内の山に日はかたぶきぬ
 遠山は藍にかすめど近山は入日さし來て緑さやけし
 
    胡頽子を愛する歌
 
 赤々と色づきそめし茱萸の實は六月二日に十まり七つ
 くもり日の二日經れども茱萸の實の色づく早し悲しきろかも
 まどかなる赤《あけ》になりつつ熟みし茱萸六月五日にも吾は數へつ
(677) うつせみの吾見つつゐる茱萸の實はくろきまで紅《あけ》きはまりにけり
 をさなごの吾子《わがこ》は居れどくれなゐの茱萸の木の實を食ふこともなし
 百あまり濃きくれなゐにしづまれる茱萸の實こほし朝な夕なに
 
    左千夫先生二十三囘忌
 
 われらどち勵みあひつつ命をはりしものあり生きて老ゆるものあり
 君みまかりしあとのアララギをまもりたり世界大戰をあひだにおきて
 二十年あまり三年の時の過去《すぎゆき》やわが眉の毛もかすかに白し
 赤彦と泣崖と三人汽車のなかになげきしこともすでにかそけく
(678) わが友が棺《ひつぎ》にすがり泣きしことも山の上にておもひいづるなり
 龜井戸の普門院《ふもんゐん》なるおくつきに水そそがむもあと幾たびか
 山のうへに起臥すわれはけふ一日山を下りて君を偲びつ
 
    山中
 
 杉の木はまだ若くしてむら立てり霧のしづむはあかときにして
 むら雲のはやく動くもかかはりのなきがごとくに明暮れにけり
 
    強羅漫吟 其一
 
 茅蜩《かなかな》の鳴く諸ごゑをあはれみて起きいでてくる朝のひととき 七月二十日
(679) 東京に居れば聽かれずこの山の雨にこもりて啼くほととぎす 七月二十一日
 箱根なる山家に起臥してゐるうちに蟻を幾疋われ殺しけむ
 朝夕にむらがり鳴きし蝉のこゑ稀々にして秋立つらしも
 木々の葉に音して吹ける山のかぜしき吹くゆくへ下谿《しただに》にして
 あしびきの山路せまめてむらがれる車前草のうへに雨の降る見ゆ
 はづし置きし眼鏡をかけて山にまよふ雲の行ひ見らくしよしも
 この山に生きゐるものの短かなるうつりかはりを吾はおもひつ
 山草に秋風ふけばかすかなる花もけふこそ目にたちにけれ
(680) 萩が花はや幾とせもかへりみずこの曉にわれ見つるかも
 谷川は黄なる淀みを保ちつつけふこそは澄めかひの山がは
 せまき土のうへに※[虫+奚]※[虫+斥]《ばつた》のゐるを見つ※[虫+奚]※[虫+斥]はひととき何もおそれず
 月よみの光の照らぬ闇中に杉の木立は常に立ちつつ
 たまぼこの道すたれゆくありさまを山中にしも見つることあり
 われひとり入りて居りつつ人の來ぬ谷のくらきを蜻※[虫+廷]《やんま》とほりつ
 月のなき星空みれば山がひの空は清くもなりにけるかな
 おきいでてわが來る山に高萱はあひ靡きつつ露のちる見ゆ
(681) やはらかに今年のびたる杉の秀のしづまる時を樂しむわれは
 ひとねむり吾の醒めゐる夜半すぎてむかひの山に月はのぼりつ
 日を繼ぎてあひ見たれども山襞は生けるがごとしむかふ青山
 時の過はあわただしきか日ざかりに鳴く蝉のこゑもけふは稀なる
 いたどりの白き小花《こはな》のむれ咲くを幾たびも見て山を越え來ぬ
 
    強羅漫吟 其二
 
 あか膚の古りたる樹々の立つ山に入りても見むとためらひ居たり 小塚山
 午後八時十分すぎに箱根強羅のくらやみ空を飛行機とぶも
(682) ひとり來てわれ逍遥《もとほり》りし野の中に晝の蟲鳴く頃としなりぬ
 一谷をへだてて對ふ夜の山月照れれども襞さへ見えず
 おのづから秋づきぬらし山中の晴れたる空は杉の秀のうへ
 みちぐさを食ひつつ附きて來し吾が子坂の入口に蜻※[虫+廷]《やんま》を打ちぬ
 むらぎもの心遣らむと雲はれし山をこそ踏め聲さへたてず 八月二十一日早雲山
 山なみに雲はれしかばこのあした息あへぎのぼる谷を見むとて
 よろひたる青き山々谷ごめに源とほくあらはれにけり
 むか山の薄波よると見しばかりに秋風ふきぬひたひの汗に
(683) 見おろしてゐたる目下《ました》の山はらに硫黄をいぶくさまもかなしも
 いつくしき山にもあるかおもほえず早雲山より富士の見ゆるは
 ねもごろにわれは起きゐてさ夜中の山をいでたる月かがやきぬ 八月二十日 山の雨降りみだるるを聽きながらこちたきものとわれはおもはず
 日もすがらさ霧ひまなく押して居り釣鐘草の花も過ぎつつ
 枕べに來鳴く馬追年々に聞きし蟲なるが吾死なば聞かれぬ
 「わが庭を見おろしてゐるあつさかな」俳句にならばわれは嬉しゑ
 さわだちて杉生を傳ふ秋かぜの音を聽くべく今宵はなりぬ
(684) 秋のかぜ吹きしくなべに山のべに紅《あけ》の小蜻蛉《こあきつ》むらがり飛べり
 家いでて來しゆふまぐれひた吹きにあらしの過ぎし山のいろはや 八月二十九日
 黄なる雲高くありつつ霽れそめし嵐のあとの低雲《ひくくも》ぞ疾き
 まどかなるものにし對《むか》ふ心地して疾風《はやち》の過ぎし山にむかへる
 峽とほく開けわたりていまは見ゆあらしの過ぎししづかなる雲
 ひた吹きに吹きみだりたる風和ぎてわがむかふ山はあはれ圓《まど》けし
 山つたふ風見ゆるまでうち靡く高萱山《たかがややま》の麓に出でつ
 ほのぼのと二重《ふたへ》にたてる峽の虹明日のあかつき忘れか行かむ
(685) 山の中におもひきり降る雨のおと幾日も聞けば飽きむとぞする 八月三十−日
 草むらに降りしきる雨見て居ればはやくも吾の心おちゐず
 あはれなる月かげも見てすすきの穗いでそむるころ山くだるなり 九月三日
 棚雲のうへに白雲のこごれるは入日のひかり受けむとすらむ
 早川の谿の邃《ふか》きがこのゆふべ雨はれしかば溢れて激つ
 くだりゆく人はくだりてけふの日も雨ふりながら山に吹く風
 
    晩夏一日
 
 雨おほき夏なりしかどをりをりの日照りのさまがおむひうかぶも
(686) やまず降る雨のさなかにいづこゆかもの呆《ほ》けしごと雷ぞ聞こゆる
 
    漫吟
 
 眞夜なかにわれを襲ひし家ダニは心足らひて居るにやあらむ
 秋の夜の雲のいそげる間ありて利根河のうへに月明りせり
 雲のなかにあまつかりがね啼くときの暗き河原を過ぎにけるかも
 
    山中小吟
 
 電燈のさせる山草を見つつ居り吾《わが》ひとりなる心は和ぎて
 ひぐらしの繁く鳴く日と一つだに鳴かぬ日とありてわれは起き臥す
(687) 萱草の花もいつしか過ぎゆきてゆふべは深く霧たちわたる
 日もすがら山に對へば佛陀《みほとけ》が歎きし如きおもひ吾になし
 
    歌會の歌
 
     赤彦忌歌會 【三月廿四日於芝區白金三光町松秀寺】
 
 町なかの寒きみ寺に集ひ居り君みまかりて十年とぞおもふ
 亡き友をしぬぶよすがとこの寺の疊のうへにすわり居にけり
 
     子規忌歌會 【九月二十二日於アララギ發行所】
 
 われつひに正岡の大人を見ざれども見たるもおなじ寫眞まもれば
(688) あるよひに竹の里歌よみしときおもほえずわれは聲をあげたり
 わが庭にならびて低き※[奚+隹]頭はひと夜あらあらしき雨に流れぬ
 ゆふぐれのかぜ庭士をふきとほり散りし百日紅《ひやくじつこう》の花を動かす
 
    秋日
 
 利根河のあふれ漲るありさまの寫眞は概ね空より撮りき
 戰史家が心をこめて記したるサンカンタン戰をわれも讀みたり
 跣《はだし》なる兵を觀たまふエチオピヤの皇太子幼くて映畫にうつりぬ
 雲のうへより光が差せばあはれあはれ彼岸すぎてより鳴く蝉のこゑ
(689) しづかなる秋日となりて百日紅いまだも庭に散りしきにけり
 
    九月十九日
 
     子規忌にひとり來りて御墓にまうづ
 
 大龍寺の門を入りつつ左手にまがりて行きぬ君がおくつき
 この墓に水をそそぎて「いつまでも苔はむさず」といひし師の大人はも
 石のうへ歩き來てわれはおもひけり歌をよみしよりはや幾年か
 このみ寺に百日紅《ひやくじつこう》の散るさまをひさしく見ずてけふも見ず行く
 
    新冬小吟
 
(690) 年老いて山の獣もかかれかも日の暮れざるに疲るれば寢《い》ぬ
 飲食《のみくひ》にかかはることの卑しさを露はに言ひし時代《ときよ》おもほゆ
 冬靄はちまたのうへにしづまりて夜もすがらなる月照りにけり
 嫩江《のんこう》のほとりに馬が草食むといふ短文にも心とどろく
 奥ふかき男女《をとこをみな》のまじはりの時に尊くおもふことあり
 わが庭の一木《ひとき》の公孫樹殘りなく落葉しせれば心しづけし
 平凡なる邪宗といへど女等《をみなら》を説伏するときはおもしろきかも
 時により心みだれてあり經れどわれを救はむ聲さへもなし
 
(691)    大和路
 
 三輪路なる岡に大和の三山《みつやま》のゆふぐれゆくを戀《こほ》しみにけり
 人麿が妻を悲しみし春日なる羽易の山をたづねかゆかむ
 黄にとほる萩のもみぢば愛でつつぞ富岳《いかづちをか》をしづかにくだる やうやくに鴨公村にいでむとして飛鳥川原をわれ等よぎりぬ
 露じものしげくもあるかと言ひながらわがのぼりゆく天の香具山
 
    伊香保
 
 にほひたる紅葉のいろのすがるれば雪ふるまへの山のしづまり
(692) 音たてて木立のなかに消ゆる雪うつつに聞けば身にし沁むもの
 けさの朝は信濃ざかひとおもほゆる遠山脈《とほやまなみ》の雪かがやきぬ 下野の古ぐににして山もとに雲こごりつつゐるを見さけし
 笹むらは峽をひろごりしづかなる色としなれば冬は來むかふ
 もみぢばはすでにすがれて伊香保呂のやまの木立に雪消ゆるおと
 黄にとほる松楊《ちさ》のひろ葉のもみぢ葉は現身《うつせみ》見ずて鳥は見るべし
 黄いろなるいでゆ浴みつつけふ一日君とこもれば戀《こほ》しきろかも
 雲かよふなかの山なる笹むらやきぞのひと夜の雪のこりける
(693) この山にみぞれは既に降りしかど萩のにほへる一枝《ひとえ》手折りつ
 落葉せる一山越えていにしへの傍の榛原すでに近しも
 
    秋冬雜歌
 
 十字路を横らむとして待ちてをり卷ゲートルを穿きし少年 澁谷
 デパートを上り下《お》りして精米の標本のまへに暫し立ちけり 三越
 何といふ當もなけれどすわりけり落葉のうへに新聞敷きて 神宮内苑
 しづかなるここの林にこまかき蚊われ刺しに來るをいくつか殺す
 うづたかき落葉のうへにそそぐ雨われの亂れをしづかならしむ 十二月十七日神苑二首
(694) 寒しぐれ降りつつをれば落葉せる木立より雉子のこゑも聞こえず
 天理教の太鼓鳴りわたるあかつきの暗きにさめて居りつつ起きず
 清らなるをとめと居れば悲しかりけり青年《をよこ》のごとくわれは息づく
    ガード下
 
 荒妙を身にし纏ひて士のうへにひれ伏すときに何は善けむぞ
 わがこころしづまりがたし萬有《あめつち》にわれ迫むるもの何かありつつ 寒くなりしガードのしたに臥す犬に近寄りてゆく犬ありにけり
 彼《か》の岸に到りしのちはまどかにて男女《をとこをみな》のけぢめも無けむ
(695) 朝な朝な味噌汁のこと怒《いか》るのも遠世ながらの罪のつながり
 
    憶寺田惇士
 
 鋪裝道路ととのひしより深川の地《つち》沈むといひし君しおもほゆ
 のみ食ひのあけくれに君のみとめたる「人生物理」をいまはおもはむ
 西方《さいはう》のくにの人らはあかき月見向きもせずといひしことあり
 教授にてその學風をあざやかにしたまへること記しおかむぞ
 十數年過去にならむか吾が歌集を悲劇的なりと云ひたまひけり
 
    晩秋より歳晩
 
(696) つゆじものしとしととして枯れゆける庭の羊齒むら見て立ちにけり
 みづ霜はあふるるばかり置きながら黄いろになりて羊齒かたむきぬ
 家※[虫+(草/内)]《いへだに》に苦しめられしこと思《も》へば家※[虫+(草/内)]とわれは戰ひをしぬ
 あらしのかぜ一夜ふきしきわがいへの公孫樹の樹には一葉だになし
 黄ににほひし公孫樹もみぢもことごとく落葉ししまへば心しづまるか
 わづかばかりそのをりをりに手に入れし掛物の類《たぐひ》にも心うとしも 幾たびか怒りし一年《ひととせ》も暮れゆきていよいよ吾は愚になりつ
 手あたり次第に男殺して一世經し高橋お傳|妲妃《だつき》のお百
(697) うつせみのはかなき吾もやうやくに老いつつ朝床《あさどこ》より起きいづ
 まどかなる顔をしながら歌壇にてわれをにくむは誰と誰と誰か
 人に云はむことならねどもいつの頃よりか抹茶《ひきちや》のむこと吾ははじめぬ
 ゴリアテに似たらむロベツが起き得ざるざまを世の少女《をとめ》らは樂しむらしも
 うつせみのわが口髭も白くなりて戀人のごとく年をむかふる
 秋しぐれ降るべくなりて樹のもとに白く露なる銀杏の實いくつ
 樺太の山のふと樹を切りたふす映畫ひととき雪ひびきせり
 雪ふれる山くだり來る人々をみちびきし犬たちどまる見ゆ
(698) 毒殺の新聞記事讀む夫人らは劇見しごときおもひしたりや
 霜ぐもる朝々子等と飯《いひ》を食ふひとり兒だにもなき人|思《も》ひて 午後に瀬れば寢込むことおほきこの日ごろ論戰等をして居《を》る暇なし
 むづかりて學校休むをさなごは穉かりし日の吾にかもあらむ
 
    雜歌控
 
 あまのはら蒼く透りてゆふぐるるものしづかなる街ゆきにけり 一月二日
 さよ更けに地震《なゐ》強くゆり眼ざめたりそれより吾は眠ることなし 一月三日夜
 
     三宅家新婚賀二首
 
(699) たづが音は高くひびきて天のはらこのよろこびにともなふらしも
 にひ年の光にめをのちぎりこめ永久《とことは》にいや榮えたまはむ、
 
     石見歸路(四月二十二日)
 
 丹波賂のたたなはる山ふりさけてなほ奥がなる山しこほしも
 
     滿洲國皇帝陛下奉迎の歌(四月六日、東京朝日新聞)
 
 新しくおこれる國の皇帝をひとつごころに迎へまつらむ
 春の光あまねく照れるわたつみを滿洲國皇帝わたりたまへり
 
     藤浪
 
(700) 山々に白雲こごりとどろきしいかづちの音すでに遠しも
 むらさきの藤浪の花散りすぎて勞動者《はたらきびと》の額に汗わく
 梅の實は黄にいろづきてこの朝明すがしき庭に一つ落ちをり
 新しく興れる國の山川を清《さや》に照らして天つ日のぼる
 飛行機に乘りつつ國のさやけきを見おろす時は神にかも似る
 
     泉幸吉氏歌集「雲光」序歌
 
 はるかなる國見つつ來し歌あまた眞玉《まだま》のごとくここにあるはや
 わたつみの雲の光を高山にかがよふ雲を君のまにまに
(701) しきしまのやまとの國をかへりみし海のはたての君をしぞおもふ
 にひづまと二人しゆけばあまそそるアルプの雪も生けるがごとし
 ひむがしの日いづるくにの國がらを遠くかへりみて幸はふ君ぞ
 ことさへぐ國の山かはを歌だまのすがしき玉のつとになしける
 
     堀内通孝君名古屋赴任を送る(九月廿二日)
 
 とよさかにさちはふ君のいでたちを味よろし魚《うを》くひて送らむ
 
     十月二十六日夜
 
 秋日和十日つづきて今日ひと日しぐれは降りぬ街はぬれつつ
 
(702)     送出月三郎君獨逸留学(十一月十六日伊香保)
 
 もみぢ葉のにほへる山の湯を浴みて君が外國遊《とつくにあそび》おくらむ おほきみのみことかしこみ奮ひつつドイツの國へいでたつ君は
 
     十一月、正倉院拜觀をはりて、辰巳利文ぬしに萬葉地理の案内を乞ふ。その時の歌一首
 
 秋さむき一日を君にみちびかれ山陵村《みささぎむら》に我は來にけり
 
     鴨公村小學校長吉田宇大郎氏に(藤森朋夫氏同道)
 
 藤原の京《みやこ》のあとにたどり來てかぎりも知らに心つつしむ
 
     鴎外先生を憶ふ(十二月四日、全集出版相談會)
 
(703) うつせみの吾も老ゆれば日をつぎて森鴎外先生をしきりに思ふ
 三毒のうへに立ちたるけぢめとぞひとたびのらしし君をこそおもへ
 故先生がハバナくゆらしゐたまひしみすがた偲ぶこよひ樂しも
 軍醫総監の軍服にて胡座をかきゐ給ひしおもかげわれのまなかひにあり
 
     伊香保
 
 松楊《ちさ》の木の黄葉のしたる山道をひとり行けども近よりて見つ
 ふかぶかと落葉つもれる山坂に風の吹きまくときあらむかも
 伊香保呂にもみぢ素枯れて天つ日の傾くかたの雪の山山
 
(704)     十二月二十八日
 
 みづからの子に毒盛りて殺さむとしたる現身《うつせみ》を語りぐさにす
 子をおもふ猫といへどものぞみなき子猫と極まればかへりみもせず
 
(705)  昭和十一年
 
    新春の歌
 
 とことはのよはひを籠めてひむがしのわたつみのうへに雲しづまりぬ
 朝なぎに群がりうかぶ船みればただに怠ける人なかりけり
 皇子のみや生れたまひしと稚等《をさなら》はわが部屋にかはるがはるいひに來つ
 大阪の友の幾たりわがために命のべよと牡蠣を食はしむ
 冬のあめほそく銀座に降りにけり道頓堀のおもほゆるころ
 
(706)    海雲
 
 あらたしき年のはじめととどろけるわたつみのうへの雲ははるけし
 雪ふかき山に遊びに行く人ら雪やけしつつ飽くこと知らに
 をやみなく人ら働く夜のちまた罪ふかき人捕はれにけり
 いちはやく梅はふふむと告げて來むかなしき人はありやなしや
 ひむがしに國の興らむいきほひに雪のかがやきもただならぬかも
 
    新春
 
 あかつきのまだくらきよりともしびをつけて書《ふみ》讀む人ぞ尊き
(707) あしひきの山よりいでていきほへる朝明の川に春たつらしも
 新京の道の凍れる宵々をはげめる君に送らむは何
 わたつみの浪のとどろく曉に千鳥のこゑも幸よばふなり
 春川のほとりに生ふるつくづくし生ふれぼ直ぐに摘みて食《たう》べむ
 黄金《くがね》いろの眞玉《まだま》のいろの幸草《さちぐさ》を側をはなさず一日居りけり
 み雪降る滿洲國にすこやけき春を迎ふるますらをのとも
 大君のみ民のわれやふるひ立ち春の來むかふ河をわたりぬ
 
    新年紙上
 
(708) 足ることを知れといひけるいにしへの望もその時は老い居《を》りたらし
 伊豆のくにの山べをゆけば時雨のあめ日すがら降りて年明けむとす
 山に住みていのちを終る獣のたたかふさまをわれ知らずけり
 富み足りて清きをとめとねむることなべての人に許すことなし
 人を買ふ山椒大夫《さんせうたいふ》のいにしへも今にまさりて酒うまからず
 
    木の實
 
 もろこしの大き聖人もかくのごと奄ヨる木の實食ひしことなし
 冬すでに寒くなりつつ家ダニと命名したる博士《はくし》の文に親しむ
(709) 酒にみだれて街頭をゆく人少しいかなるところにて人酒飲むや
 まどかなる天地《あめつち》ならばくれなゐににほへる花も散る時無しも
 すこやけき時代《ときよ》となりてもろもろはひと日勵みてひと夜樂しむ
 
    紅梅
 
 くれなゐに染めたる梅をうつせみの我が顔ちかく近づけ見たり
 こぞめにし咲きにほひたる梅のはな朝なゆふなに身に近づけぬ
 まをとめにちかづくごとくくれなゐの梅におも寄せ見らくしよしも
 近眼《ちかめ》なる眼鏡をはづしくれなゐの梅をし見れば大きかりけり
(710) 老いらくの人といへども少女さぶる赤きうめのはな豈飽かめやも
 いにしへの聖も愛でしくれなゐの濃染のうめや散りがたにして
 
    ゆづり葉
 
 この朝け雪をかむれるゆづり葉の厚葉のいろを愛《かな》しみにけり
 ひととせの勤め果して新らしき年に餅《もちひ》を食へど飽かなくに
 わたつみのそきへの極み天ひくくしづかなる雲たなびきにけり
 塔《あららぎ》の高きにのぼり吾は立つめぐるときなき天つ日小さし
 春まだき野べといへどもけふ來れば光みなぎり草そよぐおと
(711) いきいきとしたる諸君を見つるときよみがへりくるは何といはむかも 一高新校舍
 いそがしく駒場よぎりて行きしこと少年の記憶のただひとつのみ
 
    路地
 
 ゆきずりに吾が見つつゐるこの路地の士凍らむもあと幾日か
 壁のなかに鼠の兒らの育つをば日ごと夜ごとにわれ惡みけり
 若人《わかひと》の涙のごときかなしみの吾にきざすを濟ひたまはな
 ぬばたまのくらき夜すがら空ひくく疾風《はやち》は吹きて春來ぬらしも
 わが籠る机のまへの壁ぬちに鼠つつしむことざへもなし
 
(712)    二月十八日
 
 うつくしきをとめの顔がわが顔の十數倍になりて映りぬ
 いにしへの人の幾たり氷る光と相言ひにけり冬の夜の月
 くれなゐに咲き散る梅を幾とせかかへり見なくにこの鉢の梅や
 夜もすがらふぶきて降れる白雪に家路絶たれて相寢《あひね》し寫眞
 バヴアリアの映畫を見つつ願望《こひねがひ》われにもありとはやも思はず
 
    木のもと
 
 みづからをしひたげしとにあらなくに消え入りなむとせし心あり
(713) ひとりゐて吾の心をいたはれるをとめと云はば眼を瞠《みは》りなむ
 
    雪
 
 常に見て寂しきものか小野《をぬ》のうへ平らになりて雪ぞのこれる
 むら雲のゆふ映えわたる冬空を見つつし行けばあはれ悔なし
 降り積みし雪のなかよりぬきいでて斷えぬ動きをせり笹竹は
 東京驛に朝むらがりて降りて來る勤めをとめをわれはともしむ
 かの草野あはれなりけりをとめごのいぶきのごとく草か萌えなむ
 
    殘雪
 
(714) 朝けより冴えかへりつつ木原には雪は平に消殘《けのこ》りにけり
 みづからを虐げしとにあらなくに消《け》のこる雪は寂しくもあるか
 
    三月
 
 よしゑやし鼠ひとつを殺してもわれの心は慰むべきに
 
    東京赤彦忌歌會 【三月二十九日於アララギ發行所】
 
 みづうみにうつろふ雲の黄になりて日の暮るるとにこほしきろかも
 君が墓訪ひがてにして年經れば信濃のくにも遠きおもひす
 鉢植の茱萸にもえたる新芽《にひめ》らののびつつありと今夜おもへり
 
(715)    樂
 
 鼠等を毒殺せむとけふ一夜心樂しみわれは寢にけり
 
    淺夜【明日香創刊號】
 
 うつせみの吾がまぢかくにほしいままに群りて紅き梅吹きにけり
 
    中村憲吉三囘忌 【五月三日於アララギ發行所】
 
 君が眼の永久に閉ぢたるころとなり椎の落葉は日にけにしげし
 現身《うつしみ》に君し居りなば老いづきてわれの濁るをゆるしたまはむ
 
    楢の葉
 
(716) 楢の葉のあぶらの如きにほひにもこのわが心堪へざるらしも
 遠雲《とほぐも》にはつかにのこる赤光《あかひかり》いつ消えむとも我は思はず
 號外は「死刑」報ぜりしかれども行くもろつびとただにひそけし
 學校の角をばすでにまはるらし鈴《りん》を鳴らせる號外のおと
 
    東海寺塋域
 
 縣居の大人のおくつきたづねむとわれの額にすでに汗いづ
 慌しき時代《ときよ》を經つつ此丘に學者の墓のあるに親しむ
 青葉くらきその下かげのあはれさは「女囚携帶|乳兒墓《にゆうじのはか》」
(717) この墓地にせまりて汽車のひびくとき墓盡く靜かにあらず
 東海寺の牡丹は過ぎて行春の光のよどむ道歸りけり
 
    一つ螢
 
 たわたわと生りたる茱萸を身ぢかくに置きつつぞ見るそのくれなゐを
 この茱萸を買ひ求め來て夏の日を樂しみしより三年《みとせ》經につつ
 海のかぜ山越えて吹く國内《くぬち》には蜜柑の花は既に咲くとぞ
 ゆふ闇の空をとほりていづべなる水にかもゆく一つ螢は
 日蝕の月は午後となり額より汗いでながら渉みをとどむ
(718) おぼほしきくもりの中に天つ日は今こそは缺けめ見とも見えぬに
 
    現身
 
 朝な朝な鋸をもて氷挽く音するころはうらがなしかり
 ソビエツトロシアの國の境にて飛行機ひとつ墮ちゐたるのみ
 怒《いか》るにも怒られず夜なかすぎ人磨の評釋のうへに雨漏りしぶく
 河馬の子はけさのあけがた死にしとて現身《うつせみ》あまた歎もぞする
 
    自題
 
 やうやくに五十五歳になりたりとおもふことさへ屡《しばしば》ならず
(719) 毒のある蚊遣の香は蚊のともを疊におとし外へ流るる
 ある時はわがなりはひの尊きをおもふことあり心怖ぢつつ
 このゆふべいで立ちくれば丘あうへの天とほくして星かがやきぬ
 いま少し氣を落著けてもの食へと母にいはれしわれ老いにけり
 
    青谿
 
 朝な夕なわがまともなる山谿《やまだに》の青くうづまり見ゆるこほしさ
 石のべの乾ける砂のごとくにも吾《われ》ありなむかあはれこの砂
 この谿にひともと太き櫟の木|山蠶《やまこ》がゐつつ繭ごもらば好けむ
(720) うつせみの人のにほひも絶えはてて日もすがらなる霧にくらみぬ
 味噌汁を朝なゆふなにわが飲めば和布《わかめ》を入れていくたびか煮る
 山百合を花瓶《はながめ》にさし香にたつをしげしげと見つ暇《いとま》あれやも
 紙縒《かみより》を百本あまり作りたりありのすさびと言《こと》にいひつつ
 にはか雨山にしぶきて峽ひくく虹たちにけり常ならなくに
 山の雨たちまち晴れてわがにはの杉の根方《ねがた》に入日さしたり
 白雲は長く棚なし箱根路の強羅の天《そら》の月てりわたる
 ひくき虹しばらく立ちてゐたりしがたはやすくして今は見えずも
 
(721)    山上小吟
 
 こがらしに似たる音して吹きて來とはやも嚴しき山の中のかぜ
 七月の二十二日の朝けより夜までも聞く山あれのおと
 なまめかしき聲してとほる女《をみな》あり樹立《こだち》のなかにこだまするごと
 この山にみだるる雲はひむがしのはざま大門《おほと》に線《すぢ》にたなびく
 山草《やまくさ》にあらぬやさしき花びらはかへりみぬまにはやも散りぬる 白雲《しらくも》は峰に即きつつをやみなく動くといへど中空《なかぞら》に來ず
 雲の片《ひら》の中空ひくくうづまくを遊べる雲と誰かおもへる
(722) 赤土のなかよりいでて來る水を稀々にして人は掬ぶも
 一息に十《と》こゑばかり鳴く蜩が千居れば萬のこゑにきこゆる
 あまねくも日の光さし茅蜩《かなかな》の聲のせざるはいづこに潜む
 朝なゆふな煩はしとももはざりし雲絶えゆきて山はしづけし
 
    たかがや
 
 雲とぢてここは暗けど東《ひがし》なるはざまの門《と》には日の光さす
 高萱のまぢかくにわれ立ちて居りあらしは既に和む山中
 山の鳥むらがり啼けるところありこの山中は何に住みよけむ
(723) 山々はくらくしづまりありしかば淺茅生《あさぢふ》の道行きつつ濡れぬ
 茅萱おふる青き山はわが目の下に幾谷保ちうねりたりけれ 七月二十八日明神嶽三首
 ある時は雷鳴りてためらはずこの山の峯に降る雨おもほゆ
 この峯に生えしなべての草むらにおもひきり泥はねかへり居り
 峽に差す入日の光しづかにてまもなく此處もくらくなるべし 七月二十九日
 
    左千夫忌 【七月二十六日於アララギ發行所】
 
 暑く照る日ごろとなればにはかなる死《しに》にあひけむことをしおもふ
 ものなべて終りしごときおもひにて夜半の桑畑とほりて行きつ
 
(724)    夜雷
 
 苔むして石のありける山中をまぼろしに見て目ざめつつ居り
 夜の雷《らい》とどろき過ぐるひまありて汗いでにけり吾は臥處に
 
    明神嶽
 
 蜩のむらがり鳴けるこゑ遠く麓になりていまだ聞こゆる 七月二十八日
 やうやくに朝の日はさし諸鳥の聲はしながら數へきれずも
 あをあをし目下《ました》の山を鳥一つ飛びをる見れば一谷わたる
 雉子のこゑわが行く道のすぐそばに短く鳴きて何|爲《せ》るらしも
(725) 巖に背を押しつけながら疲れにしこの身を暫し安く居らしむ
 鶯は日の照りそむる山なかにほしいままにし啼きて樂しむ
 つばくらは高天《たかあめ》にして飛べればかほかの鳥々に交じることなし
 穀鼠劑撒きちらしたる山ゆきぬ數萬《すうまん》の鼠移動したれば
 あをあをと茅萱の山は起伏してひがしの方《かた》に波動のごとし
 高萱の山は常なきうねりしてかたみに迫る谿は青しも
 日にきらふ青山のうへにわが立ちて山とふものに直に交じらふ
 たまくしげ箱根の峽はこの峯を境にしつつ陰になりつも
(726) 來て見ればただ茅萱生のあをあをと山は目下におちいりにけり
 高山のいただきに日は照りつけて單調に鳴く蟲がね幾つ
 時のまにのぼる曇りは今ひとつ向うの山の尾根を越す見ゆ
 足もとの萱草《かやくさ》まじり麓には見らえぬ赤き花むれ咲くも
 汗たりて尾根を傳はる道を越ゆ物あこがるる心ともなし
 足跡は羚羊らしく二三時間まへあたりには此處を駈けけむ
 高山の尾根の矮木《ひくき》に蝉ひとつ怪しく鳴きて吾に聞かしむ
 尾根づたふ道に鳴きをる蟲のこゑわが身にし沁むものならなくに
 
(727)    散歩
 
 雨あれしなごりの見ゆる山はらの赭きなだれにけふも對ひつ 七月二十六日
 高原《たかはら》の青きを越えて行く道は山本にそふ川をわたりぬ
 みづうみの黯《くろ》きがうへに傾きし古りし太樹々《ふときぎ》われは見おろす
 草いちごの幽かなる花咲き居りてわが歩みゆく道は樂しも
 みづうみのいろ深々と目下《まなした》にあるを目守りぬおそるるがごと
 車前草は群れひいでたるところあり嘗ての道とおもほゆれども
 ほととぎす湖ぞひの山に今ぞ鳴く強羅の山にすでに鳴かぬに
(728) 茅蜩《かなかな》にあらぬあやしき蝉のこゑ湖べの山に鳴きわたりける
 こころ和《のど》に馬が草食む音をききなほみづうみにそひて吾《あれ》ゆく
 みづうみに入る山がはは細けれど杉生の中に音たぎちけり
 あはれなる戀を傳へしこの山にきびしき關のあとをとどむる
 
    滯在雜歌
 
 山がひにひらくる空はしづかなる萌黄になりぬあはれその空
 たまくしげ箱根の山は日もすがら雨もひかりて茅がやに降りぬ
 萬葉の評釋しゐる紙のへに匍ひでし馬陸《やすで》を吹き飛ばしたり
(729) すくやかに老いつつありとひとりごつ月の落ちたる山のなかの空
 青山を日もすがら見てその山に月の照れるを見らくし善しも
 山なかに心かなしみてわが落す渓を舐むる獅子さへもなし
 けふ一日雨はれしかばゆふぐれてひむがし空にうす茜せる
 山にあふれて鳴きしきりつる蝉のこゑあかねさす日のいづるころ止む
 ひさかたの天より露の降りたるか一夜のうちに萩が花咲く
 うつせみのわが蹲跼《かが》み居る谷なかの山草《やまくさ》を染め朝日はさしぬ 廿七日早曉大涌谷
 あしひきの山のたをりの土のへにわがかげ長し老いし朝かげ 同じく
(730) あら草に日のぢりぢりと照らす見て心を遣らむ何物もなし 八月十二日
 年々に十年《ととせ》あひ見し死火山のここのなだれをわれは愛せり 八月十三日
 川の瀬の高く聞こゆる山の上の茂みのなかに暫しこもりぬ 八月十五日
 この山にのぼり來りて日を經ればさやけき空に星の流れ見つ 八月二十日
 夜の土に鳴く蟋蟀のしげきころわれもこの山くだりて行かむ 八月二十一日 ゆふぐれと思ほえぬまでおぼほしく木立の奥白しさ霧のために 八月二十二日
 硫黄ふく峽のうへにはあはれなることもあらむと思ひつつゆく 八月二十四日
 この谿をへだてし岸におのづから石おちて來るひびき聞こゆる
(731) 山の峰にこごる白雲中空にうごきて來れどつひにたゆたふ 八月二十五日
 かの山に押してみだるる天雲はここの狹間に來ることもなし
 あまねくも日は照らせれど山山はこころひそけし秋づきにけり 八月二十七日
 かくまでに蟲あまた鳴くことさへも常の日ごろにわれは知らなく
 またたきのひまの如しといにしへの人なげきしをかへりみなむか 八月二十八日
 この夜明けて山をくだると穉等《をさなら》はひと夏のもの片づけて居り 八月二十九日
 捕へたる蜻蛉《あきつ》のたぐひを我兒等は棄てて見て居り庭の草の上
 せまり來しかの悲しさも天ゆ降る甘露《あまきつゆ》のごと消えか行くらむ 八月三十一日
(732) 山くだる人はくだりて夜ごろにはちかき木立に犬の鳴くこゑ 九月一日
 わづかばかりの物片付けてゐるひまもうら寂しきは心弱きか
 幾たびかこの道來つつ葛の花咲き散らふまで山にこもりぬ
 しづかなる秋の日ざしとわれ言ひて九月二日に強羅をくだる 九月二日
 
    堂ケ島
 
 谷々の夏はふけしとおもふにしここの流にうろくづを見ず 八月二十一日
 鯉を飼ふ水のみなもとは硫黄ふく谿と異なれる山山のかげ
 吾ひとりくだりて來つる水ちかく大き石むら暖まりけり
(733) 現身《うつせみ》と思ほえぬまで心やすし石かげに來てわれは居たれば
 風やみし山のはざまは大き石むらがりあひて水を行かしむ
 ものさびしき心に覺めむありありと後《あと》幾とせの現《うつつ》ともよし
 檻のなかに飼はれてあれどこの獣わが足音にすでに恐るる
 水綿のゆれ靡きゐるさまも見つ堂ケ島の谷のながれの中に
 暗くなりて鳥等ねむりしころほひに山を出でたる月かがやきぬ
 この山に起臥してよりまどかなる月見しことを記しとどめき
(734) 片よりにあらぶる雲は寄りながら強羅の天《そら》の月冴えにけり
 つらなりてこの峽よろふ夜の山に月照りにけり悲しきまでに
 たたずめるわが足もとの虎杖の花あきらかに月照りわたる
 月てれる道を歩めばあまねくも蒼ぎる光ひとぞこひしき
 山に居りて照りとほりたる月も見つ疊のうへにさし來る月を
 月よみの光にぬれて坐れるは遠き代よりの人のごときか
 
    一日
 
 木香《もくかう》の赤實《あけみ》を採りて手ぐさにすわが穉くてありし日のごと
(735) 高きより見おろして居る山肌の青きは高がや枯れしは竹《たか》むら
 遠そきて見ればやはらかき茅原《かやはら》のうねりの上に黒き山ひとつ
 たまくしげ箱根のうみに沿ふ道は古き代よりの物語あり
 山くづれところどころに赭くして時には我をうらなごましむ
 尼の面《おも》にほへるごとき眼のまへの山を雲閉づおもほえなくに
 山の峰ちかき空には流れありや湖にむかひて雲おろす見ゆ
 みづうみの汀に寄する浪のおと大海の浪に似つつかなしも
 
    夜雷
 
(736) さ夜中に山に鳴り來しいかづちをいまだ起きゐて我は怖るる 八月三十一日夜半
 いかづちは過ぎ行きたりとおもふころ間遠くにしも高くとどろく
 ほしいままと恩ほゆるまで轟きし山のいかづち移ろふらしも
 やうやくに西にうつろふ雷の山のこだまも鈍くなりつつ
 山かげに移ろひゆきし雷の音心安けくなりて身に沁む
 夜空にし低き雷のとどろきの終らむとして山は震へり
 まどかなる月をかくして谷のへの空にほびこる雲ひかり始む
 いつしかに心は和む低き雷の一轟のおとろふるころ
(737) かみなりの雨はみなぎり降る山に物を越えつつ土ながるめり
 雷の雨はれて間もなき風立《かざだち》は高萱の露はらふ音する
 山の雨みなぎり降りて過ぎしかど暫らく蟲はひそみて鳴かず
 
    殘居
 
 雲しづむ夜ごろとなりて山のまに悲しき迄に月を見にけり
 いろいろの山の小鳥がこの家のめぐりに來鳴きわれに聞かしむ
 馬追も山こほろぎもいそがしく鳴く聲きけば秋ふかまむか
 窓したに犬が來りて身ぶるひをする音がして去りゆきけらし
(738) 常日ごろ心しづめて見つつありしこの深山《ふかやま》に入りておどろく
 
    歸京
 
 東京のそらに高山のごとき雲たてるを見つつわれ行き對ふ
 照りつくる空の低處《ひくど》に見えわたる直《すぐ》なる雲と傾ける雲
 
    映畫中
 
 あきらけきふたつの眼|副《たぐ》へたるふたつの眉《まよ》を奈何にかもせむ
 ほのぼのと清き眉根も歎きつつわれに言問ふとはの言問
 
    庭
 
(739) あしひきの山くだり來てけふ一日庭の日でりに對ひつつ居り
 わが家に歸りて見れば朝な夕な散りはじめたるさるすべりの花
 日の照れる庭にくれなゐの花ちるをわれ下り立ちてひろふことなく
 砂のへにくれなゐの花散れる見て青花《あをはな》びらのあらはれにけり
 夜すがらに蟋蟀の鳴くこの庭はあまつ日照りて隈さへもなし
 
    遠雲
 
 耳掻をもちて耳のなか掻くことも吾がひとり居の夜《よる》ふけにけり
 あまのはら遠くに立てる雲のむれいま紅々《あかあか》と日をし入らしむ
(740) 辛うじて二つ捕へし家ダニを死刑囚の如く書は見て居り
 落ちのびし王にむかひて慰むる詞のかずを幾つ持ちけむ
 年老いてかなしき戀にしづみたる西方《さいはう》のひとの歌遺りけり
 
    子規忌 【九月廿日アララギ發行所】
 
 一年に一たび君を偲ぶにも幾人《いくたり》かはや人の過ぎつる
 ある時はわが身のごとく痛ましく苦しみし君をおもふことあり
 丈ひくく※[奚+隹]頭の花咲きそめて一本《ひともと》ならぬ親しさもあり
 
    新秋雜歌
(741) 白槿吹きしばかりの清《すが》しきを手に取り持ちて部屋に歸り來《く》
 何よりも楽しみにして日毎見し新聞將棋切り溜めにけり
 朝な朝なすずしくなりて腰いたく曲りて居けむ父しおもほゆ
 幾臺もトラツクにてわが隣地《となりち》に砂利《ざり》を運ぶを氣にすることあり
 劔《けん》に刺されし星享は平凡に賄《まひなひ》を受取りたりしか否か
 つぎつぎに起る国際の事件《ことがら》も顎につきし飯粒ひとつと言ふかも知れず
 蒸暑かりし一日の南より野分は過ぎて月照りにけり 九月廿八日(陰暦八月十三日)
 丘のごと此處に持て來し砂のへに照り透りたる秋の夜の月
(742) 硝子戸に一日くもりをおくりたる風の音絶えて夜になりつも
 むし暑きしめりを一日吹きあげし風のなごりを吾は見て居り
 たえまなく低き曇りの移ろふを衢を來つつ怪しと思はず
 ※[奚+隹]頭の古りたる紅《あけ》の見ゆるまでわが庭のへに月ぞ照りける
 いつしかに小さくなりし秋の蚊が宵々いまだ吾に飛び來る 九月二十九日
 いそがしく吾を刺したる小さき蚊は將棋盤の下に潜みて行きぬ
 吾を刺して體ふくれし蚊がひとつ疊すれずれに飛びて行きたり
 上海の事にこだはり眠りしが曉がたはすでに思はず
(743) 箱根路の山をくだりし幾日《いくか》めに納豆食ひたく思ひし日あり
 煉瓦ひとつ何の目的に持ち來しかわが部屋にありて彼此四五年か 九月三十日
 あきらめてわが來し道はハイラルの騎兵戰よりも暗黒にして
 たたなづく樫の木立の互《かたみ》なるしげり合へれば門なせりけり
 身のまはり世話するもののゐぬ儘に留學生のごとく明暮《あけく》る
 雪降れる湖水のほとり二人ありくヘルマン・ヘツセ、ハンス・カロツサ
 阿部定が新聞記者に話したるみじかき言もわれは悲しむ
 嵐和ぎしあとの野のうへに月照れり夜は月のみとおもほえなくに
(744) 十月の四日になりてやうやくに机のまへに胡座をかきぬ
 
    月
 
 露のたま高萱のうへに光るまでこよひの月はあかくもあるか 九月三十日
 蟲のこゑいたりわたれる野《ぬ》のうへに吾も來てをり天のなかの月
 あらくさに露の白玉かがやきて月はやうやくうつろふらしも
 ひさかたの乳いろなせる大き輪の中にかがやく秋のよの月
 蟲がねはかくもしげしと思ほえずあり經しわれの身にしみわたる
 葦むらの高くしげれるところまで澁谷を立ちてわれは來にけり
 
(745)    新秋
 
 汗垂りて事に從ひし夏の日も夢のごとくにおもほゆるかな
 花咲きし百日紅《ひやくじつこう》の下かげに書《ふみ》もちいだししばし竝べぬ
 秋みづの清きおもひをはぐくみてひむがしの野を二人し行かな
 戰死者の屍のまへを一隊の兵行進す喇叭を吹きて 映畫「地の果を行く」
 
    嵐の前
 
 颱風のまへに降り來しつよき雨屋根の上より砂利にひびけり 十月三日
 石垣の下の處のはけ口より濁れる水がかくも流るる
(746) 雨つよくなりて來りし鋪裝路を直線に行く長靴穿きて
 つね日頃見るさまならず槻の葉は散り亂れつつ風吹かむとす
 一時ははげしき風の気配して後よりつづく風いまだ無し
 はやはやも高槻の枝が時おきて撓ひみだる見つつ苦しきまでに
 ひと揉みにみだれたりける木々の葉は靜かになりぬ死《しに》のごとくに
 おもひ出しし如き疾風《はやち》に目のまへの木々の葉は片はしょり揉まれ初む
 
    野火
 
 すすきの穗日に照らされてかがやける丘のふもとに心しづめぬ 十月四日妙蓮寺
(747) ゆくりなく野火をし見たり風のむた赤き炎は飛びつつゐたり
 飛蝗《ばつた》が幾つも居りてわが近くに來りしものははやも逃げゆく
 晴れとほる空をかぎりて黍立てりある一時は音さへもなし
 岡ひとつ越えたる陰に秋の日は隈なく照りて吾は來にけり
 
    妙蓮寺
 
 風呂桶なども据ゑつけありて露西亞びと山ふところに傳道をせり 十月四日 ガリラヤのむかし目のまへに見るごとき思ひしながら吾も蹲跼《しやが》みぬ
 もろごゑを張りあげ叫ぶエクスタジアを心つめたく吾は見て居り
(748) 贋物《いつはり》にしてはあはれに過ぐべしと原始傳道のことをし思ふ
 茅原の一方になびき伏したるは昨日吹きたる疾風にかあらむ
 蜀黍《もろこし》はあかく實りて秋の日の光ゆたかに差したるところ
 日本少女《にほんせうぢよ》が両手ささげて目をとづる模倣歓喜をはじめて見たり
 秋の日のそこはかとなくかげりたる牛蒡の畑越えつつ行けり
 
    雜歌
 
 朝鳥のうちにては鴉の早目覺氣づきて吾は幾とせ經けむ 十月十日
 少女等が脚の一聯動くときエデプトの浮彫《レリーフ》おもひつつ居り
(749) 朝どりの啼きゆくこゑを聞かむとす體ちぢめて寐し臥處より
 煙草やめてより幾年なるか眞近なるハバナの煙なびきて戀《こほ》し
 ものの音《と》のいまだ聞こえぬ曉のともしびの如き「あはれ」をぞおもふ 【十月十一日映畫二首】
 胸火《むなび》消えて白くなりたる灰のごと悲しきことをかたみに語る
 四年ぶりに「制服の處女」見しかどもフイルムは既に損じて居たり 十月十二日
 牡丹江|穆稜《ムーリン》にある密林に砲のひびきを聞くとこそ云へ 十月十三日
 われひとり秋野を行けば草の實はこぼれつつあり冬は來むかふ
 地《つち》に伏して乞ひのまむとするもの無けど野をゆけば既に心つかるる
(750) 秋の日は白く霧ひて山のなき低き國内《くぬち》に今し傾く 十月三十一日妙蓮寺山口氏同行
 蓬生は枯れつつゐたり吾等ふたり蓬生の中に入りてやすらふ
 切どほし通りて來れば横濱の方《かた》にあたりて砲のとどろき
 ひとつ岡われ等越えつつあはれみぬ平たくなりて枯れわたる草
 ここの野を過ぎてむかうに部落あり寺の塔あらば独逸にし似む
 岡の上にもゆる火ありて煙《けむ》のむた時をり炎だつ人は近きか
 うらがれにしづむ野中に小草あり青々として冬越えぬべし
 
    木曾福島
 
(751) 十二年まへになりたりすでに亡き友と夜遲くまでをどりを見しは
 子を負へる朝鮮の女《をみな》とわれはみぎはの同じ所に居りぬ
 木曾川にわれは來にけり淵と瀬とあまたまじはりて水はながるる
 清きみづ湧きかへるそばに米《よね》とぐを木曾路の町にたまたま見たり
 木曾川のさざれあまたたび運び來て寺の門前に暫らく積みぬ
 朝鮮の人の妻等がうら安く山の茸を手に取り見つつ
 木曾川の水のやぶりし堤防をつくろはむとして朝鮮人をり
 小さなる市のあひだをたもとほり朝鮮人の妻とあひ對ふ
(752) この町に一夜ねむらばさ夜中の溲瓶《しゆびん》とおもひバケツを買ひつ
 十二年ぶりに來りし木曾の町におどおどとして講演を了る
 明日たちて木曾山ふかく入らむとす臥處にをればましておもほゆ
 
    上松發
 
 うごく雲やうやく多く槇の立つ尾根のあひだを雲越えむとす
 ひろびろと峽をうづめて積みあげし木材《きぎ》に親しみ吾《わ》がのぼりけり
 たかだかと此處につまれし木材《もくざい》は百年二百年を過ぎしものとぞ 駒ケ嶽見えそめけるを背後《そがひ》にし小さき汽車は峽に入りゆく
(753) しましくは見え居りながら駒ケ嶽の山の肌《はだへ》に雲片なびく
 峽ひくくなりしあまつ日の光にて桂のもみぢ黄にとほりたり
 上松の驛いでてよりいつしかも傾く天つ日に吾等はむかふ
 時のまの極まりを見むかげともと御嶽の峯は入日にけむる
 山がはを目守りてをればかなしくも尾を引くなせる瀬々の白波
 ふくらめる川原の位置のかはりゆき隱れて見えぬ瀬々しおもほゆ
 小汽車にて入りつつ行ける木曾がはの川の瀬とほくあるひは近く
 木曾谷に入日あたりてしづつかなる心になりぬ奈何に保たむ
(754) 木曾谷は山かさなりて山のうへに半ば圓かに斑らなる雲
 山がはに添ひゆきしかば遠じろと瀬の白波の常《とこ》うごき見ゆ
 秋茱萸のくれなゐの實は山がはの淵に立てればこの夕べ見つ
 桑の実の黄にもみぢたる畑のべを心むなしきごとくに行きつ
 蕎麥の畑《はた》すでに刈られて赤莖《あかぐき》の殘れるがうへに時雨は降るらむ
 
    鞍馬
 
 陰ふかく見ゆる川原の大石は五つあまりもかたまりてあり
 山椒の實が露霜《つゆじも》に赤らみて山がは淵《ぶち》にのぞみつつ見ゆ(755) −時を火のごとき雲たなびきてはざまの空をあざやかにせり
 深淵にのぞみて居れば朴の葉のいまだ青きが向岸《むかぎし》に立つ
 流れ來てここに淀める秋みづのおのづからなる砂あらはれぬ
 この淵の底あきらかに見えねどもふかぶかとして清《さや》けくもあるか
 深淵のみづ瀬にうつろふを悲しみし友と二たび來しにはあらず
 ふかぶかと山にたたへし蒼淵のうたかた目守るいとまをぞ惜しむ
 峽の空黄にうつろひてゆきしころ流れにそひてなほし入りゆく
 ひとつ雲《ぐも》ねむるに似つつ殘れるを山深く來て心にとどむ
(756) 鞍馬《あんば》よりのぼり來れる途の上の蓼は素がれて山峽さむし
 
    王瀧
 
 ながれ來し秋の川瀬が山もとに即《つ》き居るを見つつ心は和ぎぬ
 いつしかに暮れてゆきける川の瀬に近く一夜を寢むとぞおもふ
 くれぐれの狹間にをりて音かはる鳴瀬を開きつ嵐おろすも
 川下に起伏せる山夜あかりにわが對《むか》へれば近きがごとし
 くれなゐに燒けていきほふごとかりし雲あせゆきぬなべてしづけく
 いめのごとき薄き要らも或る時は紅葉の紅《あか》き山にいさよふ
(757) 暮れゆきし山にむかひてひとり居り時の移ろふおもひさへなし
 若々しき叫び隣室《となりま》に聞きながら宵はやくより臥處に入りぬ
 さ夜床に足をちぢめてはかなごとそこはかとなく吾は思へる
 川の瀬としぐれの雨と交はりて音する夜半にしばしば目さむ
 さ夜ふけて外の草原にあわただし時雨の雨は今か過ぐらし
 
    王瀧發
 
 つゆじもは幾夜降りしとおもふまで立てる唐辛子のくれなゐ古りぬ
 一夜あけて時雨のあめの降り過ぎし青菜が畑《はた》にわが歩みいる
(758) このあしたくれなゐ深くいろづける山の膚《はだへ》に雲|觸《ふ》りゆくも
 音たてて時雨ふり週ぐるせはしさは紅葉おとろふるこの狹間にも
 たえまなく時雨は降りてわれ等ゆくたたなはる山鳥がねぞする
 しぐれ降る峽をのぼりてこの朝けなほ奥處なる峽にしむかふ
 わがまへにもみぢせる山|夢《いめ》のごとただよふ雲の觸りてゆく山
 木の根など流れつつゐる山川《やまがは》の浪をし見つつ峽に入るもの
 黄ににほふ丸葉《まろは》のもみぢ川浪にたまたま散ればかくろひ流る
 ふかぶかとくろく眞木たつ山いくつ見え隱《がく》れする峽わたるなり
(759) ながれ來て大鹿淵の名に負へる蒼淵のなかに巖ひとつ見ゆ
 
    氷ケ瀬
 
 わが友としばしば目ざめ一夜寢けむ山の氷《こほり》ケ|瀬《せ》に來り悲しむ
 赤松の葉の散りしける砂原に時雨の雨は降りそめにける
 しぐれ降るなかに立てれば峽にして瀬の合ふ音は寂しかりけり
 この峽に降りくる時雨おと寒し水木はいまだ紅からなくに
 時雨のあめ降りくるなべに砂のへに山※[木+怱]《やまたら》の實の黒きが落ちぬ
 わが友と慈悲心鳥を聞きしより十二年の時はまたたくひまのごと
(760) この谷に時雨のあめは降りつぎて慈悲心鳥のこゑも聞こえず
 くろぐろと檜のしげりたる奥山はあはれおぼろに雨ふりしきる
 山がはの二つの激ちここに會ひて下谷《しただに》に流れ逝くをしぞおもふ
 氷ケ瀬のひとつ太樹のさるをがせ年古りければ人かへりみる
 石むらに時雨あめ降りけふの日や心もしぬに去りがてなくに
 
    瀧越途上
 
 雨はれてあかるくなりしもみぢ葉を見とほしにして吾等行きつも
 もみぢせる橡の高木《たかき》はあざやけしくれなゐの山の中に見ゆるは
(761) 一ところ見おろしてゆく川中に白き石しづみあはれなりけれ
 やうやくに雲過ぎゆきし彼岸《かのきし》の紅葉さやけし透きとほるごと
 樅の木は傾きながら山がはのみづまぢかくに立てるさへよし
 おほどかに淺く流れしところある山がはも見つ峽の遠けば
 山中のからくれなゐの紅葉《もみぢば》はわが身にかなし言ひがてなくに
 かすかなる部落がありて谿ふたつ合ふところまで吾は來りぬ
 木曾山をふかく入りこし川岸に分教場は建てられてあり
 藥賣この狹間まで入り來つる時代《ときよ》のことを語りあひけり
(762) 谷のみづ筋に分かれて流れゆくかかるところも一たびは見つ
 
    瀧越
 
 しぐれの雨晴れたるひまにいそがしく紅葉のなかに入りて歩めり
 このあたり馬の越ゆるをふせぐとて馬籬《うまがき》つくりながくつづきぬ
 この村の家ことごとく三浦といふ姓にてありと君ものがたる
 ひとつ部落と此處にこもりて古き代のなごりの言語《ことば》いまにとどめし
 八王子大明神の繪馬見れば明治初年のもの多くあり
 二三日まへに朝霜きびしくも降りしがごとし草伏しぬるは
(763) 沿ひてゆく山がはの岸ひくくなり山は邃《ふか》しとおもほえなくに
 しぐれの雨かぜに動くとせしばかりに石よりいでて雲のぼる見ゆ
 
    三浦伐木所
 
 木曾山を深く入り來てしづかなる平《たひら》のうへに笹しげりあふ 棲高一三〇三米
 上松より四十二|基《キロ》を入り來つつこころ靜かに晝の飯《いひ》食《を》す
 この峽に堰堤《ダム》をつくりて山のみづ湛へむことを既にはじめぬ
 低き山起伏せれども木曾山のすでに高きに吾等いま居《ゐ》る
 高原をなほし行きなばくらかけの峠を越えて飛騨に入るとふ
(764) 歩みつつ烟草のむことを警しめて山の茂木を人まもり繼ぐ
 水上を遠く入り來ておのづから平地《たひら》のあるを心さびしむ
 いく年の年ふりゐたるあららぎが細長く立つそばにも居りぬ
 羚羊の皮もてつくりし腰皮《こしかは》をさげつつあればはやも山人
 目のまへにただ一本《ひともと》はあざやけし大葉《おほは》うちはかへでの紅葉
 あしひきの山とほく來て人働く勇敢にして心やさしも
 
    した谿
 
 しげり立つ枝をとほして下谿に川の瀬々なる浪うごく見ゆ
(765) 照るばかりもみぢしたりしみ山木のもろ葉のそよぐ音ぞ聞こゆる
 たぎち行く川にむかひてあららぎのひよろひよろとしたる狐木《ひとつぎ》たてり
 樅の樹は並びてたてり川のべに風をいたみかなべて傾く
 岩床に觸り來る浪の音のみを舟きて寂しと誰かおもはむ
 いくそたび時雨のあめのかかりけむ川原の草もはやもみぢせり
 しぐれ雲とみにうごけば山中に白き陽《ひ》ありて川原を照らす
 木曾だにをつひにくだりてわれおもふ幾千萬の淀と激ちを
 木曾谿は邃《ふか》くしあればいたいたしく亂れし川原あり日にあらはにて
(766) 和《のど》かなる浪とせく浪とまじはりて川は一樣《ひとざま》に流れざるもの
 せまき峽に稻田がありてゆたけしとおもほえぬ稻なかば刈られぬ
 
    歸路
 
 平らなる淵のしづみを斜よりしばしば見つつ山をくだり來《く》
 深淵が瀬にうつろひてながるるを眼には見れども音ぞ聞こえぬ
 この淵に見ゆる岩魚よあな悲し人に食はるなとわれは思へり
 朝な夕なおもはざりしに冬に入る山の木葉はさびしかりけり
 赤き實はすき透りつつ落ちむとす雪ふるまへの山中にして
(767) よつづみのくれなゐ深くなれる實を山の小鳥は樂しむらしも
 むら宴は御嶽のかげに移ろふと山肌赭くあらはれにける
 いたいたしき戀にもあるか山鳥のひとつは打たれ啼くこゑもなし
 しぐれの雨ともなひたらむ山雲は東に向かひ動きつつあり
 御嶽のなだれあらはに見えゐたるはつかの時をわれはおもはむ
 長き瀬々日に光りつつ見ゆるころ入り來し山を離れむとする
 
    寢覺の床
 
 渦ごもり巖垣淵のなかに住む魚をしおもふ心しづけさ
(768) 白き巖《いは》のひまにたたふる深淵の湧きかへるものを見すぐしかねつ
 まをとめと寢覺めのとこに老の身はとどまる術のつひに無かりし
 西空に乘鞍山のいただきの見えたる時にこゑ擧げにける
 木曾山をくだりてくれば日は入りて餘光《なごりのひかり》とほくもあるか
    大平峠
 
 黒川の谿まにそひてのぼりゆく木曾峠より今かへりみす
 麓にはあららぎといふ村ありて吾にかなしき名をぞとどむる
 谷ふかくある家むらの生業《なりはひ》を見おろすこともあはれとぞおもふ
(769) ここにして黄にとほりたるもみぢ斑《ふ》の檜山を見れば言絶えにけり
 吹きあぐる風寒くして相ともに谷を見おろすところまで來《こ》し
 大平《おほだひら》の峠に立てば天《あめ》遠く穗高《ほたか》のすそに雲しづまりぬ
 目のまへを聳ゆる山に紅のかたまりいくつ清《さや》けくなりつ
 右は飛騨ひだりは美濃の山々とたたなはりつつ曇りけるかな
 雲さむき天《あめ》の涯《はたて》にはつかなる萌黄空ありそのなかの山
 北空の曇りひらきて山二つとはの悲しみを見さけざらめや
 山葡萄の黒く沁みとほる實を食みてひとのあはれに遠そくがごと
(770) さむざむと木立なき山あらはれてその奥がにはこもる檜の山
 かたみなる麓の村に一夜ねて長き峠を人は越えにき
 われ嘗て此處を越えにしことあらず始《はじめて》にして終とぞおもふ
 北とほき限りにありて山のうへのほの明きひかり雪を照らせり
 曇り垂れし空とほくしてあけぼのの如き光につつまるる山
    たうげ
 大きなる峠を越えし人々は歩みつかれて休みけむかも 三留野山田屋旅館より飯田
 
    飯田
 
 友あまた今宵つどひてわがために豐酒《とよみき》飲みぬ豐酒の香や
(771) 年月は早く流れて忘れゐし事も今宵はよみがへりけり
 
    瀧温泉より巖温泉
 
     十月十九日森山汀川君と共に瀧温泉に浴し翌日巖温泉に遊びて展望を恣にすそのをりの歌
 
 寒き雲閉しつつある奧がにし蓼科山は有りとこそ云へ
 平らなる岩床の上を水ながれ忽ちにしてとどろき鳴るも
 閉しゐる雲の下びに山の見ゆるは霧が峰よりの山つづきとぞ
 赤土《はに》のうへに落葉したるを見るときぞ靜まりてゆく我身おぼゆる
 かがやける山澤のべの紅葉《もみぢば》はこの現つ世のものにぞありける
(772) うつせみのにほふをとめと山中に照りたらひたる紅葉とあはれ
 面よせてただ一樹なるくれなゐをしげしげ見たり友と吾とは
 松楊《ちしや》の実は黄にとほりつつもみぢたりいつの日よりのその黄なるいろ
 山深くなりてもみづる木の葉見つけふの一日も夕ちかづきて
 霧が峰とおもほゆる方の山裾は夕ぐれざまの日あたりにけり
 黒生《くろふ》やま峯にして雲うごけども麓までくだり來ることなしも
 人ひとり横谷《よこや》をさして行かむとす日暮に著きて蕎麥食ふために
 群雲は日はあたりつつ高原のなだれのうへにうごきつつあり
(773) 山深く入りつつ來れば谿水とわきいづる湯と共に流れぬ
 沈まむとして動く白雲《しらくも》の奥處にはすでに凝る雲つひのしづかさ
 冬がれし蓼科やまのつづきなる山のなだれに入日さしたり
 木曾谷にわが見し如く寒き雲この高原にても東《ひむがし》に向ふ
 坂道に轍がありてきぞの夜の雨の流れし跡ぞこほれる
 わが側《そば》にくれなゐ深く動きゐし山葡萄の葉はしづまらなくに
 水洟《みづはな》のながるるまでに吹く風の寒き朝あけを吾は來にけり
 甲斐が根も雪降りにけり寒き寒ききぞの一夜とおもひたりしに
(774) 朝あけし雲甲斐がねに即《つ》く時し山のうへの空さやに赤しも
 
    朝
 
 沈みたる天《あめ》の白雲このあしたひむがしの方の平《たひら》をうづむ 十月二十一日
 はかなかること語りあひ朝あけて氷れる道を吾等あゆめる
 薄氷《うすらひ》ははやもおきつつわが行けば靴の下びに音してくだく
 雪ふりてしづかになりし山のいろ吾等二人はともにあふぎぬ
 山本に雲のこごれるあかつきは諏訪のみづうみ雲がくりせり
 うつつにしはじめて見たる蓼科はわが眼前《まなかひ》に雪降りにけり
(775) 落葉松の木原のうへに今朝のあさけあはれ八ケ嶽白くなりたる
 紅葉《もみぢば》に霜はいたけばあかつきの山路上りて歩みとどむる
 乘鞍は白くなりつつ雲のなき天の退《そ》きへに暫《しま》し見えわたる
 もみぢ斑《ふ》のさやけき間《ひま》に雪ふれる蓼科やまは見がほしきやま
 さむざむと雲しづまれるこの朝け蓼科やまに雪降りにけり
 冬さびし前山のうへに蓼科の全けき山は今ぞ見えわたる
 もとほれる吾が足もとに霜ながらいまだ開かぬりんだうの花
 雲かむる現のさまや天とほき穗高のやまには雪降るらしも
 
(776)    白骨途上
 
 北とほくおほに曇りて見えざるは白馬に今か雪降るらしも 十月二十二日
 くぐもりて雲のくらきは山脈のたかきがうへに雪かみだるる
 あまそそり雪降る山と赤土の現はれしのみが目引く小山《をやま》と
 山のうへくらくなりつつ雲ゐるは白馬の山を本とせりけり
 かなしみて四年過ぎたるゆふまぐれ白骨越の落葉を踏みぬ
 大石のむらがりてゐる谿なかを直下《ました》のもののごとく見おろす
 やうやくに冬になりぬと山あざみの花もすがれて崖にかたむく
(777) 高山の上ゆただちに流れ來とおもほゆるまで水の道見ゆ
 水のながれ眞近くになり又遠そきて白骨道を吾はのぼりぬ
 四年前わが見たるごと苔のみづ流れゐたれば足をとどめつ
 この水を朝なゆふなにわが見なば時に悲しきことありぬべし
 
    白骨温泉 其一
 
 夜半過ぎて覺めしにかあらし暗闇に時のま吾はかうべをもたぐ
 あかつきの光空より來らむと谿の暗きを吾は見おろす
 ひとりいでて朝のくらきに對ふ時あやしき迄に山は見えそむ
(778) 山がひの空の白《しら》まむ間《ま》のありて暗谿《きらだに》のなかに水の音《と》ぞする
 あかつきのいまだをぐらき秋山は芽ぶかむとする春山なすも
 朝の茶の小つぶ梅の實われひとり寂しく食ひて種子を並べぬ
 熱いでて君は來らず秋山にむかひつつぞ居《を》る日のくるるまで
 あしひきの山のうへよりおこりたる風早《かざはや》にして行方見えわたる 谷底は日の光さへをぐらきにわれに觸《ふ》りつつ水泡飛ぶおと
 たちまちに時雨は晴れておもはざる山の膚《はだへ》を日は照らしたり
 あたたかき部屋の中よりこがらしの常吹きしくを見てゐるわれは
(779) 雲ひと日はやく動きてゆふまぐれ草むらの上に霰をおとす
 もみぢ散るはざまのおとを聞くなべに孤心《ひとりごころ》を吾は愛《を》しまむ
 
    白骨温泉 其二
 
 よこざまにしぶく時雨を色そめし山のはざまに今ぞ降らしむ
 もろともに動かされむとおもふまで山荒れとなり恐るる吾は
 みすずかる西信濃路に冬來むかふあらぶる山をわが見つるかも
 峽のみづしぶきをあげてもろ木々のいたいたしきまでに風はとほりぬ
 常にして人は見らむか紅に綾なす山に雪降りせまる
(780) 高山に雪ふるときの荒びをしここにして吾はうつつに見たり
 木の葉みな落ちたる高樹川べより直《ただ》に立てるを見おろす吾は
 むら小鳥風のまにまに飛び過ぎて一時《ひととき》われは木の葉とおもひし 午前より雲荒びしが午後となりて谷々を籠め雪降りしきる
 便所にて赤蜂の骸《から》を拾ひたりちぢこまりたるこの蜂の骸
 山のあらし吹きしづまるとおもひしころ見る見る雪は降りしきりけり
 けふ一日風ふきしきてゆふぐれのうすき光に雪の降るおと
 山をおほふ吹雪となりぬ白骨の峽の一ところに吾のゐるとき
(781) 夕闇とくらめる谿に降りつづく雪は見えなくなりて行きたり
 
    白骨温泉 其三
 
 けさの朝け蛾が衰へてすがれるを近々に見てこの身寒しも
 わが部屋の坂戸をゆりて強き風ふきしくなべに耳そばだてつ
 現身《うつせみ》の「あはれ」の彼方にあるものを吾に見しむと山は荒るるか
 吹きすさぶ山のこがらし一冬をとほすと思へ堪へがてなくに
 夜半過ぎて降りたる雪は谷合の石のうへにも白くつもれり
 葉は落ちてあらはになりし太樹々《ふときぎ》が見おろしてゐる谷まより立つ
(782) 白き湯をいくたびも浴みこもりたるこの部屋いでてわれ行かむとす
 糸のごとく瀧かかりたり朝な夕な見つつ居りしかな高野原《たかぬはら》の瀧
 したびより雲ものぼらぬ曉がた寒さはすでに山にとほりぬ
 紅葉すがれし山谷てらす日の光和けきものと誰やおもはむ
 ぬばたまの二夜經たれば湯づかれて晴れたる峽をくだりゆくなり
 
    初冬
 
 ひひらぎの白き小花の吹くときにいつとしもなき冬は來むかふ
 わが庭にひかりのさせる一ところひひらぎの花あまたこぼれつ
(783) ひひらぎの香にたつ花を身近くに置かむともせず冬深みゆく
 
    十月二十四日
 
 信濃路ゆ歸り來りていのち無き石のごとくにゐたる一朝《ひとあさ》
 すがれむとして日に照らされし紅葉《もみぢば》をまぼろしに見て目さむる吾は
 をさな等はおのもおのもに朝まだき吾をのぞきに來て歸りゆく
 山中にゐておもひつるわが子等をまのあたり見てかなしきろかも
 
    庭前初冬
 
 いくたびか時雨のあめのかかりたる石蕗の花もつひに終りぬ
(784) 石蕗に隣りて生ふる山羊齒の黄に伏す時にわれは見にけり
 赤き雲おびただしくも棚引きてありし夕と聞きしこほしさ
 いくひらの公孫樹の落葉かさなりてここにしあるかたどきも知らず
 わが庭は冬さびにけりまぼろしにいまだも見ゆるさるすべりの花
 冬の光さしそふ野べの曼珠沙華青々としたる一むらの草
 窓したに馬の蹄の音しつつめづらしき物音のごとくに聞きつ
 
    冬の雨
 
 あたたかき鰻を食ひてかへりくる道玄坂に月おし照れり
(785) ひひらぎのこまかき花の散りたまる朝々にして何か歎かむ
 冬の雨ふる一日だに厚衾かづきて寐むといふ人のあり
 
    歳晩小歌
 
 鋪裝せる道路のうへを餘響をもちて小型のタンクとほりゆきたり
 うづたかく並べる菓子を見てをれど直ぐに入りつつ食はむともせず
 戀愛の映畫見てひとり歸りくる道の上にしてはや淡々し
 滿洲より凱旋したる一隊を戀しむがごと家いでにけり
 金網のひびききらひて鼠らが逃げゆくなどと誰かいひたる
(786) み山よりくだり來れる小鳥等はいのち安けく日もすがら鳴く
 椋鳥は幾百となく鳴きさけぶ警《いま》しめて鳴く聲ならなくに
 小鳥らの親しみて鳴くこゑ聞けばわがひとり行く心さびしも
 
    雜歌控
 
     加藤淘綾筆あららぎ歌賛
 
 白雲のおりゐうかべる山かげにしづかなる心われはたもたむ
 
     佛法僧鳥ラヂオ放送
 
 谿川のたぎちと共に幽かなる佛法僧鳥《ぶつぽふそう》のこゑを聽かしむ
(787) 三河なる鳳來寺山の木立にて啼く鳥がねを目つむり聽くも
 山中に居りても稀に聞く鳥を都にいそしむ人も聞くなり
 
     岩改版新撰「鴎外全集」
 
 新しくいでし鴎外垂集をかい撫でて居り師のごと親のごと
 
     童謠
 
 道のべの石に彫《ゑ》りたる三つ猿をはや過ぎし世のものとおもひき
 口籠《くつこ》して馬はいななくこともなし馬いななかばこゑ傳はらむ
 
「村田豐作歌集」序歌
 
(788) 老いましていよよ尊きみいのちを歌ひあげたるふみぞこのふみ
 ななそぢのくすしの道のいさをしをたたふる南の海のいろはも
 巧なくうたひあげたる言の葉を一卷《ひとまき》にしてここに尊む
 
     家母古稀齢賀
 
 幸《さき》くます母をめぐりてうからやから今こそはあげめことほぎのこゑ
     子規忌
 
 年のはに君にせまらむ冀ひもちつつ今日をあひ集ひける
 
     日蝕
 
(789) 時のまはあらはれにけり曇り中かけはじめたる白きあまつ日
 おぼほしき曇りのなかに見えねども今こそは缺けて陽は細からめ
 日蝕の日は午後になり蒸し暑く細き太陽を見ることもなし
 
     フイツシヤア君(新潟高等學校教授)のために
 
 あまぎらし雪の降る日はいにしへの越の聖を戀ふべくなりぬ
 
     弔橋健行君
 
 うつせみのわが身も老いてまぼろしに立ちくる君と手携はらむ
 
     初冬
 
(790) 飼ひおきし猫棄てたるは家ダニを恐れしほかの理由《ゆゑよし》もなし
 蒋介石生存か否かまだ不明の最中にわが戀人は虐殺せらる
 
     竹内春吉(六三〕は短刀と手斧とを以て長男長一郎(三六)を殺害せること夕刊に出づ
 
 なにゆゑに吾が子殺すとたはやすく聖説くともわれ泣かむとす
 年老いし父が血氣の盛なるわが子殺しぬ南無阿彌陀佛
 冬の陽のしづかに差せる野のうへに高き蓬《よもぎ》はうら枯れにけり
 
     十月二日
 
(791) サダイズムなどといふ語も造りつつ世人《よひと》はこころ慰むらしも
 この二人の男|女《をみな》のなからひは果となりけり罪ふかきまで
 阿部定が切り取りしものの調書をば見得べくもなき常の市民われは
 行ひのペルヴエルジヨを否定して彼女しづかに腰おろしたり
 
     書畫帖に
                                    おのづからアワンチユールも醒めはてて銀座街上に老びと少し
 
     家兄來信(十二月二十三日)
 
 いとまなきものの如くに北空は晝さへくらし吹雪する音
(792) 夜もすがら日ねもす吹雪く音ばかり聞こゆる家に老いつつぞ居る
 おのづから老ゆといへども生業《なりはひ》に倦むこともなし物思《ものも》はなくに
 山こえて藥もらひに來る老《おい》はときどき熊の肉を禮に置く
 
(793) 卷未記
 
 本集には、昭和十年(三六一首〕、昭和十一年(六〇七首)の作、合計九六八首を收めた。
 發行の順序からいへば、「寒雲」に次ぐ私の第四集であるが、制作の順序からいふと、「寒雲」に前行するものである。この卷の歌も、折に觸れて詠み棄てた氣樂なものが多いけれども、それ等をも棄てぬ方鍼にしたこと、「寒雲」と同然である。また、「寒雲」と時が接觸するために、歌風の變遷といふことも作者自身殆ど認識し得ない、それのみでなく、歌句が幾つも同樣なのが目につくほどである。
 併し、制作年代から云つて、この「曉紅」に前行する昭和八年、昭和九年あたりの歌に比して、幾分變化の跡を見ることが出來るやうにおもふ。ひとつは抒情詩としての主觀に少しく動きを認め得るのではないかと思ふのであるが、これは願はくは本集中から幾首かを拾ひあげていただきたいのである。天然風光に接した歌に於ても同然である。
 それから、此は作者自ら云ふのは、をかしいことで氣が引けるが、觀入した對象に幾らか新しいものがある。
(794)  「陣歿したる大學生等の書簡」が落命の順に配列せられけり
  ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひ入りて行きたり
  しらたまのをとめ現はれかなしめる映畫たはやすく終りてゆけり
  寒くなりしガードのしたに臥す犬に近寄りてゆく犬ありにけり
  ソビエツトロシアの國の境にて飛行機ひとつ墮ちゐたるのみ
こんな歌がある。第一次世界大戦で陣歿した獨逸大學生等の書簡は、昭和十四年に岩波新書の一册となつて發行せられたから、何のために私がこんな歌を作つたか、ただ物珍しい對象を獵りつつ作歌したものか、さういふ點にも觸れて貰へることだとおもふ。
 それからもう一つ、本集の歌の中に、たまたま戰爭關係のごとき歌がまじつてゐる。即ち日支事變以前、既にかういふ歌を作つてゐるといふことは、今囘歌集を纏めるに際して氣づいたことで、作者自身興味をおぼゆるものである。  嫩江《のんこう》のほとりに馬が草食むといふ短文にも心とどろく
  上海のことにこだはり眠りしが曉がたはすでにおもはず
  牡丹江|穆稜《むうりん》にある密林に砲のひびきを聞くとこそ云へ
  ひむがしに國の興らむいきほひに雪のかがやきもただならぬかも
(795)  舗裝せる道路のうへを餘響をもちて小型のタンクとはり行きたり
是等は皆戰爭を詠じたといふのではないが、もはや鬱勃たるものを反映してゐるのであつて、私の如き簡單な一歌人に於て、なほ是等の歌のあつたことに興味をおぼゆるものである。
 この一卷を作つた昭和十年、昭和十一年は私の五十四歳、五十五歳の時に當り、拙著「柿本人麿」では、鴨山考補註篇、評釋篇卷上のために勉強した年である。『萬葉の評釋しゐる紙のへに匍ひでし馬陸《やすで》を吹き飛ばしたり』などといふのは、人麿長歌の評釋中に出來たものであつた。
 本集には未發表の歌が幾首もあり、銚子の方へ旅した歌、木曾から白骨へ行つた歌等で、雜誌等に發表せずに清書して居いたものである。本集を纏めるとき、葉てようかと思つたものも幾つかあつたけれども、前集以來の編輯方鍼どほりに盡く載せることとした。依つて私に同情ある讀者諸氏に希ふは、つまらぬ歌はどしどし素通して行つていただきたいといふことである。
 本集の編輯は、「寒雲」同樣、昭和十四年の夏に終了したものである。そして昭和十五年一月原稿を印刷所にまはし、三月には全部校了になつた。
 本集の偏執及び發行には、岡麓、土屋文明、岩波茂雄、山口茂吉、佐藤佐太郎諸氏の鞭撻助力をあふいだこと多大である。謹しみて感謝の念をいたす。昭和十五年春彼岸、齋藤茂吉識。
 
 寒雲
 
(3)  昭和十二年
 
    豐年
 
 高山も低山も皆白たへの雪にうづもれて籠る家村
 豐年《とよのとし》のはげみに集ふうからやから朝早くより爲事|初《ぞめ》せり
 高山の雪を滑りに行くをとめ樂しき顔をしたるものかも
 ひとつ國興る力のみなぎりに死ぬるいのちも和にあらめや
 みちのくの藏王の山に雪ふりてすでに寒しと家ごもるらむ
 
(4)    新年
 
 あかつきのまだ暗きより目さめゐて心樂しくおもほゆるかも
 ひと年のはじめのあかり差しそむるそがひの山に群鳥のこゑ
 わが部屋を片付くるひまも無かりしとわが獨りごとおのれ聞きつつ
 一年のはじめといへば迫りくるものおもひもなく寂かにあらな
 わが庭に枯れ伏しにける羊齒の葉にさ夜中に降る霜いたいたし
 むらぎもの心|清《さや》けくなるころの老に入りつつもの食はむとす
 おほいなる富をいだきて死ぬこともひと代の莊嚴といふべかりける
(5) 子らがためスヰトポテト買ひ持ちて暫し銀座を歩きつつ居り
 七階の高きにのぼり吾は來て紅くにほへる梅見て降る
 うづたかく一樹のもとにたまりたる落葉をこめて雪は降るらし
 わたつみの荒れ居《を》るさまを空とほくうつしし寫眞愛でて離さず
 
    一月雜歌
 
 一ところ杉の低木《ひくき》がかたまりて落葉し居《を》るを見ながらに來し 一日神苑
 少し前參道とほり淺草の人ごみのなかに時移りゆく 一日
 街上の反吐を幾つか避けながら歩けるわれは北へ向きつつ 二日
(6) 一月の二日になれば脱却の安けさにゐて街を歩けり 二日
 くらやみに眼《まなこ》ひらきて浮びくるはかなき事もわが命とぞおもふ 三日
 街道を驅歩する歩兵一隊が横に折れたりその最後の兵 七日
 ものなべて彼岸《かのきし》になりし如ければ如何なる時にわれは笑まむか 八日
 女身《ぢよしん》より光放つとおもはしむこの看相を女に聽かむ 八日禁男館オープン
 おほどかに遠くより見れば冬枯れし箱根の山も吾を慰む 九日選歌行
 二日まへみだれ降りたるこの雪は谷合の石に消えあへなくに
 冬がれし木立の中はものも居ず幽《かそ》けくもあるか落葉うごく音
 
(7)    梅
 
 近よりて笑ひせしむることなかれ白梅の園にをとめひとり立つ
 くれなゐににほへる梅が日もすがら我が傍にあり樂《たぬ》しくもあるか
 梅が香のただよふ闇にひとりのみ吾來れりや獨りにやはあらぬ
 戀ひおもふをとめのごとくふふめりしくれなゐの梅をいかにかもせむ
 きはまりて障《さや》らふものもなかりけり梅が香たかき園のうへの月
 
    春寒
 
 十日經し春のはだれは小公園に白き巖のごとく殘りぬ
(8) 北とほく眞澄がありて冬のくもり遍ねからざる午後になりたり
 算術を學びていまだ起きゐたる子よりも先にわれいねむとす
 朝刊の新聞を見てあわただしく蘆原金次郎を悲しむ一時《ひととき》
 入りかはり立らかはりつつ諸人は誇大妄|想《ざう》をなぐさみにけり
 山峽を導きし鳶|黄金《くがね》いろの光放てる時しおもほゆ
 むらぎもの心にひそむ悲しみを發《あば》きながらに遊ぶといふや
 
    庭前
 
 まぼろしに現まじはり蕗の薹萌ゆべくなりぬ狹き庭のうへ
(9) 枯れ伏しし蕗にまぢかき虎耳草ひかりを浴みて冬越えむとす
 冬がれて伏しみだれ居る山羊齒を切りとりて棄つ春は來むかふ
 
    歌會の歌
 
     節忌 【二月十四日】
 
 きさらぎの半ばを過ぎて降る雨を雪にならむと語りつつ居り
 
     赤彦忌 【三月二十一日】
 
 一とせに一たび君を偲ぶにも思ひつむることなくなりにけり
 
    近作十首
 
(10) けさの朝け起きいで來れば山羊齒に萌ゆらむとする青のかたまり
 夜の霜降りたるあとの無くなりて土やうやくに定まるらしも
 リユクルゴスの囘歸|讃《たた》ふるこころにもなり得ず吾は子にむかひ居り
 きさらぎの二日の月をふりさけて戀しき眉をおもふ何故
 ヴエネチアに吾の見たりし聖き眉おもふも悲しいまの現《うつつ》に
 石垣にもたれて暫し戰を落ちのびて來しおもひのごとし
 鼠の巣片づけながらいふこゑは「ああそれなのにそれなのにねえ」
 温泉《うんぜん》を越えて島原にくだりゆく友おもひつつ晝床に居り
(11) 吾のなかに溜まりし滓《おり》がいかならむ形となりていで來るらむか
 づづけざまに巖《いは》爆破する映畫見て結論ひとつ得るいとまなし 業餘
 
    岡麓先生還暦賀歌
 
 しづかにも老いたまひたる岡大人《をかのうし》に祝酒《ほぎざけ》ささぐわれも飲ままく
 おもふどち今日はあふがむ書博士《てのはかせ》歌聖《うたのひじり》といませる君を
 長生のさきがけしたまふ岡大人の後《しりへ》こぞりて我等も行かむ
 さくら花咲きのさかりの木のもとに大人ともろともにゆたけくしあらな
 蘭《らに》のはなにほひそめたるかたはらに翁さびつつしづまりたまふ
 
(12)    餘響
 
 子ら三人臥處のなかに入るまでは私事《わたくしごと》のごとくおもほゆ
 しばらくの餘響を吾は感じ居りヒンデンブルク元帥のこゑ
 洋食をこのごろ食ひてあぶらの香しみこみしごとおもふも寂し
 たのまれし必要ありて今日一日性欲の書讀む遠き世界の如く
 われ醫となりて親しみたりし蘆原も身まかりぬればあはれひそけし
 
     岡麓先生還暦賀
 
 さやかなる御生《みいのち》としもあふぐべく先づこの老に入りたまひけり
 
(13)     四月一日、神風號
 
 一米あまり隔てて見つつをるこの飛行機は明日飛びゆかむ
 
     流感
 
 一冬を過ぎむとすればあやしくも風邪《ふうじや》にかかり悲しむ吾は
 窓の月の白々あけに處々《しよしよ》の肉いたみながらに熱おちにけり
 
     神風號倫敦著
 
 風邪《ふうじや》の熱たかくのぼりて居りし夜神風號は飛行を遂げぬ
 
     羊齒秀づ
 
(14) 青々とすきとほるまで茂りたる羊齒の荒まむこともおもはず
 みづからは風邪《かぜ》のなごりのたゆくして羊齒むらのへに一日を惜しむ
 
    涓滴
 
     寒きより暖きに移りゆくころほひ氣温の變動にいたく影響せらるるまでになりし明暮
 
 さだかならぬ希望《のぞみ》に似たるおもひにて音の開こゆるあけがたの雨
 をさなごの筥を開くれば僅《はつ》かなる追儺の豆がしまひありたり
 極まりは一つになりぬこの吾を死骸とおもはば安らけくこそ
 少年ひとり間道を走るところありタンネンベルク戰のはじめのころに
(15) 乳の中になかば沈みしくれなゐの苺を見つつ食はむとぞする
 冴えかへる幾日か過ぎてなまぬるき気温にもわれは弱くなりたり
 羊齒の芽に光のさすは午後二時を既に過ぎつつはかなくおもふ
 一冬は今ぞ過ぎなむわが側の陶の火鉢に灰たまりたる
 マドリツドに迫れる兵も濫りなる戰死を避けて動くことなし
 飛行場のあらゆるさまを見しむるを奢のためと何人《なにひと》か言ふ
 春彼岸の寒き一日をとほく行く者のごとくに衢を徒歩す
 松の果があまた落ちたり神森の手入とどきしゆふくらがりに
(16) 穴のなかに入りゆきたしといくばくの人は現《うつつ》に恥ぢにけるらし
 人々は五分經たぬに目のまへの戀にこがるる寫實をわらふ
 私《わたくし》の感動ならず夕刊に「小受驗戰士」といふ造語ありたり
 はづしたる眼鏡疊に置きながら危《あぶな》とおもふことさへもなし
 
    晩春の山
 
     春暮れむとするころアララギ選歌稿を携へて箱根の山を越ゆ
 
 山鳩の啼きゐる山の下谿は川の鳴瀬にそそぎて行くも
 みづうみに下りて行かむ道のべに苺の花は吹きさかりけり
(17) ぬばたまの夜あけしかば山膚にけむるがごとく萌黄だてる見ゆ
 みづうみの岸より直にそびえゐる太樹《ふとき》の列《つら》にわれはまぢかく
 しづかなる石かげに來てハトロン紙に包みし選歌のひも解きにけり
 ゆく春の雨ふりそそぎかたむける馬醉木の花のまへを歸るも
 くだり來て稍とほそきし山もとに早川の瀬がにごりをあげぬ
 
    近況雜歌
 
 春くれむとしつつ胡頽子の白き花咲きむらがりし鉢を並べぬ
 莖赤く萌えにし蕎麥をたまはりぬ朝な朝な食《を》すわがいのち愛《を》し
(18) つちのうへに莖くれなゐに萌えいでしものを食ひつつ君しおもほゆ
 森なかに寒さをたもつかくれ沼《ぬ》に散り浮くものは木《こ》の花らしも 水のうへに數かぎりなきもの浮けり木立のなかの春くれむとす
 
    木芽(連作)
 
 もろもろの木芽《このめ》ふきいづる山の上にわれは來りぬ寢ねむと思《も》ひて
 夜をこめて曇《くもり》のしづむ山かひに木芽はいまだととのはなくに
 山なかに雉子《きぎす》が啼きて行春の曇のふるふ晝つ方あはれ
 花の咲く馬醉木のかげに吾が居れば山の獣《けだもの》やすらふごとし
(19) みづうみを甲《よろ》へる山の青だちて空のひと隅より光さしたり
 こよひあやしくも自らの掌《たなぞこ》を見るみまかりゆきし父に似たりや
 のぼり來し山の一夜のまなかひにまぼろし見つつ吾は眠らむ
 とほき彼方の壁の上にはくれなゐの衣を著たるマリア・マグダレナ
 北平の城壁くぐりながながと駱駝の連《つら》はあゆみそめ居り
 涙いでてシンガポールの日本《にほん》墓地よぎりて行きしこともおもほゆ
 山襞のうねれる見ればこの朝明ほのけきがごと青みそむるなり
 こころ虚しく見むとし思《も》へや山の上の湖《うみ》にしきりに曇をおくる
(20) 行春の雨のそそげる山なかにためらふ間なく葉はうごきけり
 山こえて雨ふりくれば目のまへの若かへるでのゆるるこの夜
 
    平福泰子新婚賀
 
 父ぎみが繪をかくそばに時たまに這ひだして來しことも吾が知る
 わが心奥にゆらぎて嬉しきは背の君にしも豈おとらめや
 
    中村良子新婚賀
 
 とことはに斷ゆることなきみ血筋とともしびの下ににほふにひづま
 よろこびをしみじみとして語りたり文明君と床をならべて
 
(21)    布野
 
 よろこびの筵に坐りこもごもに湧きくる思ひ涙となりつ
 うつくしく若き夫婦よこよひ寢ば人のこの世のよしと思はむ
 今のうつつに君しいまさば手をとりて互《かたみ》に踊り痴れたるならむ
 この家に安らにいねて明日越えむ赤名の山をまぼろしに見つ
 わがねむる床の下より清しくも水のながるる音ぞきこゆる
 
    湯抱
 
 年まねくわれの戀ひにし鴨山を夢《いめ》かとぞ思ふあひ對ひつる
(22) 我身みづから今の現《うつつ》にこの山に觸りつつ居るは何の幸ぞも
 鴨山は古りたる山か麓ゆく川の流のいにしへおもほゆ
 「湯抱」は「湯が峽」ならむ諸びとのユガカイと呼ぶ發音聞けば
 人磨がつひのいのちををはりたる鴨山をしもここと定めむ
 
    唐鐘疊ケ浦
 
 はるかなる石見の國と思へども唐鐘浦《たうがねうら》を戀ひつつぞ來し
 唐鐘の濱の翁と媼とにあふたび毎に地名《ちのな》聽きありく
 唐鐘の埼をめぐりて浪にぬれ「辛乃埼考」の假説をおもふ
(23) ひろびろし疊が浦の巖《いは》のへに腰をおろして疲れつつ居り
 下府《しもこふ》にわれの心は驚きたり伊甘《いかん》の泉さま變りゐて
 
    砂彌島
 
 浪の上《へ》に平たく見ゆる砂彌島《しやみじま》はそのいにしへに人は愛《を》しみき
 砂彌島は小《ち》さく愛《かな》しき島なりと思ひつつぞゆく曇れる海を
 砂彌島の荒磯の石《いは》に漕ぎ寄せて吾ひとりなる心やすらふ
 藤原の代のいにしへにこの島に聖きみづ湧きいでたりけむか
 鹽田の傍《かたはら》とほり西濱といふひろき砂原に香はかへり來《く》
 
(24)    松山道後
 
 城山に高くのぼりて日にきらふ古ぐに伊豫はわれのまにまに
 この國にあふちの花の咲くときに心は和ぎぬ君とあひ見て
 「旅人の晝寢してゐる暑さかな」黙禅はわれをかく寫生せり
 正宗寺の墓にまうでて色あせし布圍地も見つ君生けるがに
 年古りし道後に一夜ねしことも朦朧《おぼろ》にならむわれ歸りなば
 
    琴平より高砂加古
 
 金毘羅の荒ぶる神をみちのくの穉き吾に聞かせし母よ
(25) 金毘羅の神います山晴れたるにあへぎて登り忽ちくだる
 高砂に夜おそく著き部屋にとほれば既にてきばきと床をとる
 加古川の川口にある松原を漕ぎさかる海の浪のうへゆ見つ
 印南野は加古のながれを中にして月あかかりし野としぞおもふ
 
    淡路
 
 淡路なる野島を過ぎて海のべを南へくだる戀ふるがごとく
 まさごよりかぎろひぞ立ついつよりか慶野松原ここに豐けく
 われひとり湊の濱をたもとほり船工場《ふなこうば》にて暫し物言ふ
(26) 湊より淡路の島を横ぎれば鳴門うづしほ見ることもなし
 酒宴《さかもり》にもろごゑ響き洲本なる旅の宿りに一夜《ひとよ》いを寐《ね》ず
 
    大和鴨公
 
 藤原の御井のいづみを求めむと穿ける草鞋はすでに濡れたる
 年ふりし泉のなかに見ゆるもの黒水綿を手につかみたる
 田のあひに人のかへりみせぬ泉吾手にひびくまでにつめたし
 人に言はむ理由《ゆゑよし》もなし色づきし麥生のあひに泉もとむる
 立ちつくす吾のめぐりに降るあめにおぼろになりぬあめの香具山
 
(27)    旅中
 
 城山にひとつ寂しく啼く夜鳥《よとり》ねむる際まで吾は聞きつも
 むらがりてつひにほがらに啼くものか城山のうへの朝どりのこゑ
 町なかを淺く音たてながれ居るみぎはの闇に螢くだりぬ
 
   左千夫忌 【七月十八日於發行所】
 
 或る時は心さびしきにこだはりて世にいましたる君ししぬばゆ
 幾たびも水をそそぎてわが居たるみ墓やうやく年を經るなり 普門院
 
    近状一首
                                   
(28) さみだれの晴間ををしみ一日だに大和のくにへ行かむとぞ思ふ
 
    伊香保
 
     昭和十二年七月四日土屋文明橋本福松の二者と共に伊香保に浴泉してアララギ及び新萬葉集の選歌を勵みつ
 
 雨ふりて濁り流るる山川《やまがは》をわが偲《しぬ》びつる温泉《いでゆ》ぞこれは
 とき折に櫟落葉のまじりくるここの温泉を念《も》はむ兒もがも
 北支那のことを語りて夜ふけたる部屋ゆ三人はわかれ寢むとす
 群れ生ふる擬寶珠《ぎばうしゆ》つむと友ゆけば高野《たかの》のうへに自動車が待つ 老ゆる吾をいたはりたまふ友ふたり高原のうへに草とり飽かぬ
(29) わが友は山の入野《いりぬ》に擬寶珠のやはらかを摘む明日食はむため
 夏霧は眞下の谷にうごき居り或る時は青々としたる底見ゆ
 かつこうの聲の遠そくあたりより果敢なきがごと狹霧霽れたる
 青々と光の差せる高野原《たかぬはら》うつろふ鳥も高く飛ばなく
 伊香保呂の湧きて常なるあかき湯にきのふもけふも穢れをおとす
 
    手帳より
 
 森なかに白き花おもく散る見つつ心遊《こころあそび》と言はば安けむ
 たかだかと部屋の眞中に絲張りて飛越せと妹に命じつつ居り
(30) あぢさゐの花を傾け降る雨の霽れなむと君の言ひしゆふぐれ
 梅南降りてひとつ置きたる桃の紅《あけ》沁みくるまでに心うごきし
 今しがた灑《そそ》ぎし水に浮きあがる松葉牡丹の小さき萌えは
 眞上よりやや西方《にしがた》に傾ける天つ日見つり君戀ひにけり 展墓二首
 ひむがしの野をわれ行けばさみだれの雲こごりにし中に日は落つ
 歓喜天の前に行きつつ脣をのぞきなどしてしづかに歸る
 罪ふかきもののごとくに晝ながら淺草寺《あさくさでら》のにはとりの聲
 うすぐらき小路《こうぢ》をゆきて人の香をおぼゆるまでに梅南ふけわたる(31)
(31) ミユンヘンの Scholz《シヨルツ》教授が立寄りて嘗ての顔をおもひ出でしむ
 
    出動
 
 腹かかへ笑ふもろごゑの中にゐて寂しく吾は目を《目+爭》《みは》りけり
 額より汗の垂る日を家いでて表參道を直《すぐ》にし行くも
 すでにして暑くなりたる街上に命をかけし物音ぞする
 兵の移動を目のまへにして角帶《かくおび》をしめし少年とわが並び居り
 ひとたびは命死なむをたはやすしと運轉手なりし兵はいで立つ
 わが側にをとめ來りてドラ燒をしみじみ食ひて去りたるかなや 澁谷
(32) 横濱の成昌樓につどひたる友等みな吾よりわかし 七月十七日
 シエパアドも既に常識となりたるか淺草|皮店《かはてん》の路地にも居たり 淺草三首
 わがそばの女《》しきりに煙草吸ふ芝居みる時は多く吸ふらし
 もろともに滅ぶといへど現なる罪にもいろいろの種類あるべし
 幾年ぶりにわが身に沁みしものの一つ泉におりて鷲が水飲む 上野二首
 その眼あきらけくしてあな清け尾白鷲は巖《いは》のうへにかが鳴く
 富人のロツクフエラア身まかりて映畫のなかにその聲を聞く
 
    新萬葉集
 
(33)     箱根にありて新萬葉集の選歌を勵むに一區切終へたればいねんとす
 
 夜半にして照りとほりたる月のかげわれ獨りのみ見るがごとしも
 まなかひに月の照りたる山なれど一つの谷を隔てけるかな
 
    BK放迭の歌 【八月廿五日作十月九日放送】
 
 天地につらぬき徹り正しかるいきほひのまへに何ぞ觸《さや》らふ
 國こぞる大き力によこしまに相むかふものぞ打ちてし止まむ
 くろがねの兜かむりていで立ちぬ大君のため祖國《おやのくに》のため
 省みむ暇さへこそ無かりけれ死を決したる空撃部隊
(34) 八百よろづ千よろづ神のい立たせる國をとよもすいきほひの聲
 
    箱根にて
 
 この峽も日でりつづけば汗あえておりて來にけり泉を飲みに
 月の夜に心こほしき高萱がわが窓ちかく一たむろせり
 曉かけし〇〇部隊の上陸に君居るらむか覺悟を極めて
 月讀はさやけきなべに雲ごもる峽のひくきに虹立ちわたる
 山の雲うごきながらに月てりであが心いたし夜《よは》の虹はや
 七日《なのか》あまりかかりて出づる薄の穗|愛《を》しみたりにき朝な夕なに
(35) さまざまの山の草花さくまでに吾はこもりてくだりて行かず
 朝蝉の鳴くよりも早く吾が起きて歌を選むを君は知らむか
 
    一国民の歌
 
 よこしまに何ものかある國こぞる一ついきほひのまへに何なる
 けがれたるものの滅ぶるありさまぞ空中陣のとどろくなかに
 あな清《すが》し敵前|渡河《とか》の寫眞みれば皆死を決して犢鼻禅《たふさぎ》ひとつ
 あからさまに敵《あた》と云はめや衰ふる國を救はむ聖き焔《ほのほ》ぞ
 ときのまの心を極《き》めてトーチカに迫れる部隊おもはざらめや
(36) パラシウトを皆否定して飛び立たむ空襲部隊の禮するところ
 おもひ殘す事なしと云ひ立ちてゆく少尉にネエブル二つ手渡す
 上海戰の部隊おもへば炎だつ心となりて今夜《こよひ》ねむれり
 あたらしきうづの光はこの時し東《ひむがし》亞細亞に差しそめむとす
 戰《たたかひ》のきびしきさまを幻にありありと見つつ心しづめ居り
 敵前に上陸したるありさまをわが言をもて何時かしるさむ
 
    時事歌抄
 
 息もつかず迫り迫れる永定のにごりし河をあるきて渡る
(37) ひむがしの亞細亞を照らす天なるや光のごとき大聖勅《おほみことのり》
 直心《ただごころ》こぞれる今かいかづちの炎と燃えて打ちてしやまむ
 おびただしき軍馬上陸のさまを見て私《わたくし》の熱き涙せきあへず
 塹のなかにすでに冷たくよこたはる少年兵を目守れりといふ
 この任を今の日にこそ果さめと大臣《おとど》近衛は雄たけびにけり
 嶽《がく》のうへに鐵兜よりしたたれる鹹《しほは》ゆき汗|永久《とは》におもはむ
 宋美齢夫人よ汝《なんぢ》が閨房の手管と國際の大事とを混同するな
 やきつけし夏あわただしく過ぎゆきて戰ふ山に雪は降るとふ
(38) あめつちにただ一つなる命さへ今ぞささぐる侮はあらめやも
 大君はいでたたせれば天地に神《かむ》ながらなる勅語《みおと》のりたまふ
 
    保定陷落直後
 
 陣のなかにささやかに爲《せ》る靈祭《たままつり》二本の麥酒《びいる》そなへありたり
 かたまりて兵立つうしろを幾つかの屍運ぶがおぼろに過ぎつ
 弾藥を負ひて走れる老兵がいひがたくきびしき面持せるも
 
     十月一日終日降雨
 
 劉家行の落ちたるゆふべ大股にわれ歩きゆく北むかふ街
 
(39)     上海戰線映畫
 
 弾藥の箱を背負ひて匍ふ兵がクリークのみづにすれずれなるか
 壕の内に時待つひまもひとり刀《たう》を愛してあぶらを塗るし悲もも
 
     長岡部隊出陣
さくや
 昨夜より午前につづき冬服になりたる部隊つひに立ちゆく
 
     信濃途上
 
 たたかひに出でゆく馬に白飯《しらいひ》を焚きて食はせぬと聞きつつ黙《もだ》す
 
     隣地
 
(40) わが家の隣につどひし馬いくつ或日の夜半《よは》に皆發ち行けり
 
    觸發の歌
 
     靖國神社三首
 
 いのち死にし臣《おみ》もののふにかしこきやすめらみことは額《ぬか》ふしたまふ
 吾よりも先に來りてぬかづける頭しろきは誰將軍《たれしやうぐん》か
 戰ひのはげしきさまも勝鬨のひびかふさまも我が涙に浮かぶ
 
     折に觸れたる
 
 上空に見たるトーチカの寫眞ありしが既に我軍の後《しり》へになりぬ
(41) たたかひの最中にありてをののかむ時のまもなき命ら終る
 いきほひと立ちあがりなば天地に貫きとほり戰ひ果たせ
 「戰闘の渦」といふこと幾たびも話のなかに交りて居たり
 袖が國の「渡洋部隊」の名詞ひとつも實戰史のうへの造語なるはや
 日々聞こえし「第三國」と云へる語も既に新しき色調を帶ぶ
 
    箱根小吟
 
     昭和十二年夏箱根に滯在して新萬葉集の選歌に從事せりけるに七月末既に支那事變進展皇軍のいきほひ猛火のごとし
 
 吾もまた目ざめむとせし曉の山に地震ふりて雉子けたたまし
(42) あかかりし月落ちゆきて暗闇のあまねきころの庭におりたつ
 山中に水の荒びしあとありて石の寄れるを越えむとぞする
 こころ凝り起臥すときに軍動きて世はただならね家居りがたし
 わがどちの戰《たたかひ》にゆく數ふえて心は滾《たぎ》つきのふも今日も
 中空に月はかがやき西の峽ただよふ雲に虹おぼおぼし
 數十萬の歌讀みをへて疲れたる吾いでて來ぬ峽の砂はら
 葛の花ちりがたになりてわが側に茂るも愛《かな》し幾日《いくひ》か見ざる
 選歌了へてわが歩きゐる峽の道目の下《もと》に黒蟻ひとつさへ好し
(43) 家ごもり時たちぬれば赤蜻蛉《あかあきつ》よわよわと飛ぶ光こほしく
 瑠璃いろの小さき蝶が草のへに飛ぶべくなりて士は乾けり
 ひたふるに猛風如して南下する軍のうごきを鉛筆にてしるす
 山中のこの驛よりも日毎立つ兵おくる鬨の聲ぞ聞こゆる
 つぎつぎにかはる上海戰の戰闘圖障子に貼りて手帳にも貼る
 日々とほる旅客機ならぬ飛行機が驚くばかり速くとほりぬ
 谿石に腰をおろして選りをへし選歌のことをしばし思へり
 
    山房小歌
 
(44) けふ一日あらし吹ければ百日紅の散花《ちりはな》庭にさだまりがたし
 羊齒の葉は茂りしかども雨ふらぬ夏ふけてはやも素枯《すが》るるらむか
 實戰の映畫ながらにあはれあはれせつばつまりしは平凡に見ゆ
 街上を歩きつつ聞こゆ「皇軍」といふ語のひびきさへ神のごとし
 わが知れる兵も平和《たひらぎ》に限りなき命に生くと戰歿をせり
 暑かりし夏しぬばむと坐りをる秋の彼岸の一日くもれり
 大册河《だいさくが》わたれる兵の頸までも没すとききて吾《わ》れ立ちあるく
 前方に白色の壘も映りたりこの白色の壘を忘るな
(45) 宋美齢ほそき聲して放送するを閨房のこゑのごとくに讃ふ
 一家《いつけ》より五人の應召を出だせりといふ新聞記事を凝視するのみ
 少年になせる抗日数育も消極抵抗に過ぎざりしこと彼知らず
 
    此日頃折々
 
 さ夜なかに胸さわぎする時あれど戰《たたかひ》のことしばし思はず
 クリークに竹梯子見えたちまちに前のめりして將校わたる
 大場鎭《だいぢやうちん》おちしといへば部屋にわれひとり立ちつつ言さへもなし
 なきがらを葬《はふ》る火のおと一隊の銃《じゆう》をささぐるときに聞こゆる
(46) ハリウドのくちびる紅きをとめ等が映りて吾のところ恥《やさ》しも
 山水圖のなかにうら若き女子《をみなご》の居ぬをうべなふ夜ふけて吾は
 機關銃もつ兵ひとりへなへなに掛かりし橋に身を躍らしむ
 塹壕に見ゆる眞裸《まはだか》の工兵が今し酒のむ物恐れなし
 くろぐろと敵の屍のよこたふも「涙の彼岸」と時におもへり
 いくたびかわが目しばだたくたまゆらに過ぐる映畫のたたかひ見れば
 箱負ひて一人の兵の走れるもすでに命をかけにしものを
 映畫みつつ記しとどめむとおもふうち太原おち軍は蘇州にせまる
(47) 太原の城に勝鬨はきこゆれど戰死せし兵ひとりも見えず
 命かけて棉の畠を匍ふところ「新晴好天氣、誰伴老人遊」といづれ
 
    初冬
 
 北支那の山にははやも雪降れりとふ氷らむとする河しおもほゆ
 泥まみれになりしゲエトル洗ふ見ゆ心を決めし兵の幾たり
 柘榴の菜ふるひおとして時雨のあめ降りくるころは君をしおもふ
 わが庭の石蕗の花咲きそめて二日《ふたひ》晴れつつけふぞ曇れる
 いささかの氷砂糖|等《など》君の陣に屆かむ日ごろ雨な降りそね
 
(48)    街頭小歌
 
 この界隈に宿りゐし部隊たちゆけばもののひそけくなりたるごとし
 淺草のみ寺に詣で戰《いくさ》にゆきし兵の家族と行きずりに談る
 脚ながきをとめのむれの一列《ひとつら》を見れども飽かす老いつつ吾は
 街路樹に黄牛《あめうし》ひとつ繋がれて心|亢《たか》ぶりしわれ和ましむ
 戰ひの映畫館をいで歩き來し小公園に眼《まなこ》をあらふ
 土嚢かつぐ兵目のまへに轉びしときおもほえず吾《われ》の聲が出でたり
 昭和通の歩道いそぎてわれ行けり燒印賣を見つつなどして
(49) ひとりして吾がとほり居る問屋街日曜の午前に休むことなし
 
    隨縁雜歌
 
ばつた
 ※[虫+奚]※[虫+斥]《ばつた》の顔に似し飛行機が音たててわが目の前にあるは嬉しも
 顱頂より額にかけて誰《たれ》に似しか母にもつかず父にもつかず
 ドイツ製の兜かむれる支那兵に顔佳きをみなご立まじる壕
 銀座より少しそれたる街角《がいかく》に自由律よむ男にあひき
 閭丘胤の姓閭丘の方が正しといふ考證聞きてものおもひけり
 國語學者二人と共に支那兵に銃殺さるる夢を視てゐし
(50) 普門院に行かむとおもひ行かざりしゆふまぐれにて歌亂作す
 わが母は大正二年にみまかりてわが歌一つ讀ましたまはず
 腦病院火事としいへば背筋よりわれ自らの燃ゆらむとせり
 枸杞の實のあけのにほへる冬の野に山より小鳥くだりて鳴くも
 わたつみの中に待機し陸ひくく傳はりてくる砲を聞くとぞ
 戎克《じやんく》ひとつ通りてゆけど誰も誰もかかはりのある面持をせず
 冬園に入りわが來れば伸びきりししろがね薄の穗立見つるも
 みなもとは石のかげなる冬池や白き鯉うきいでてしまし※[口+僉]※[口+禺]《あぎと》ふ
(51) よひよひに露霜《つゆじも》ふれか擬寶珠はさながら白くなりて伏したり
 おしなべて冬さびにけり瑠璃色の玉を求むと體かがめつ
 アネモネは春さく花といひしかど冬の光に咲くもかなしも
 戰線より便あるとき映畫にて補充をしつつ今も偲びつ
 私《わたくし》のいたき心も空しきろひとつ烟と屍《から》のなりゆけば
 ひろ葉みな落ち盡したる太木よりくれなゐの實の房垂りに垂る
 おきいでてすがしき朝につゆじものいまだ降らねば黄なるたま菊
 さむざむと朝《あした》晴れぬと見えながら閘北《ざほく》にかけし空くらみたる
(52) 淺草の五重塔のまぢかくに皆あはれなる命うらなふ
 
    冬の月
 
 戰に勝ついきほひのありさまを眼のまへに見てこゑさへいでず
 黒けむり海をおほひてなびけるがその下かげに兵はこもれる
 ひるすぎてわが穉子《をさなご》の學校よりかへり來るを待つべくなりぬ
 うづたかくかがよふごとき公孫樹葉《いちやうば》を焚かむといひて惜しむことなし
 映畫館の中にひそみてまどろむもはや消えがたきわが行ひや
 水中《みづなか》に進み來れる兵ころぶたちまち起きて體こごめつ
(53) おごそかにくらき國内《くぬち》となりしかば西に冴えたる月かたぶきぬ
 杭州灣上陸部隊の第一線より少しおくれて君は居るべし
 
    即事五首
 
 街上をゆく戰車隊われ見むと伸びあがりつつ少し見えそむ
 群れ生ひし酸漿草の葉のか青きに時雨ふりつつさびしきろかも
 しづかなる黄いろの草も目につきて木立のしたは霜がれにけり
 ゆくりなく蒙古の天《そら》の映りしに近々として雁ぞわたれる
 たたかひにいのちは果てて嚴《いつく》しき象《かたち》のまにま蘇へるなり
 
(54)    冬岡
 
 冬岡に青々として幾むらの曼珠沙華見ゆわれひとり來む
 とめどなくこころ狂ひて悲しむをいだきて寢しとわれに聞かしむ
 かなりやの鳴くこと稀になりしより時雨のあめはつぎて降りける
 俘虜になりしまだ十二歳の童《わらはべ》がわが眼間《まなかひ》にあらはれて居り
 あひ寄りてこころ暗みし女《をみな》のこと戰の記事のあひにまじりぬ
 じやのひげの瑠璃いろふかくならむ實をそこはかとなくあけくれて見ず
 愛《かな》しかる遺りの髪に近づけどこゑをあげつつ泣きがてなくに
(55) 上隱《うはがく》しよりのぞきてゐるはまた一つの眼鏡なること悲しきろかも 題自像一首
 
    戰車の音
 
 嬬ゆゑに心なやましきことなしと上海戰線に蕎麥うつところ
 灯《ともし》なき都會のうへに靄だちて圓か過ぎにし月冴えわたる
 東京の空はればれとせるけふも太原の空さだまりなしも
 金網を張りめぐらしていましめし天井うらに鼠入り居り 山房
 戰車隊より打いだしたる砲のおと思ひもかけず近くに聞こゆ 代々木
 
    冬の薔薇
 
(56) くれなゐの深く咲かむとする薔薇《うばら》ふる霜ちかきけふの曇り日 長崎の友がおくりて言問ひし晩香玉《ばんかうぎよく》の花瓣《はなびら》ぞこれ
 公孫樹葉はかがやくまでに散りしきてきのふも今日もものおもひなし
 つゆじもはしとしとと降るわが庭に虎耳草の葉の色しづまりぬ
 國土《くにつち》に雪みだれ降る日をつぎて戰ふこころ徹らざらめや
 
    新冬
 
 公孫樹葉の數かぎりなく落つる見て疑ふ心わが持たなくに
 山なかのいまだ小さき木のもとに廣葉《ひろは》の落葉ありぬいくひら
(57) 我軍のうごき記すと鉛筆は無錫の線にけふはとどかむ
 雨降りて晴れざる夜《よは》はいかにして兵はあらむと思は轟盡きず
 わが窓のガラスに映ゆる公孫樹葉も見えずかならむ七日を經なば
 
    南京落つ
 
 わが體うづくがごとく喜びて街ゆくときになべては空し 十二月十三日
 南京に脇坂部隊伊藤部隊せまりて行きしその時おもほゆ 十二月十七日入城式
 光華門の爆破前十分に撮りし寫眞に見入れり吾は
 大道路光華門より入りたるが中山門路と交叉してゐる
(58) 城壁にへばりつくといふ語ありたり其處に幾兵かいのちを殞す
 敵の首都おちむとせし勢の中にパネー號事件其他あり
 南京の陷落戰を免れたる支那の將軍いつか妻に遭ふ
 見ゆる眼が一つとなりて肉薄《せま》り戰ひ光華門にて命をはる 伊藤善光少佐
 
    雜歌控
 
     武林イヴオンヌ(十七歳)
 
 武林イヴオンヌのことをわれ偲ぶ巴里にて見しその女童《めわらは》を
 
     海彼岸
 
(59) 海の彼岸より通信あり砲身に鑄られて無くなりしメンデルスゾーン アイプチヒ來信
 民族の純粹化といふ叫びごゑ既に過去世《かこせ》のものを襲はむ
 
     童謠
 
 妻いだく時のあひだはわれ知らず homo alalus の群りを見よ
 スパイ等はわれに來らず Volapuk 空想しゐて時の移れば
 くれなゐに染めたる爪を噛みながら常に臥處をおもふことなし
 
     賀歌
 
 藤なみの花の紫永き日をこのよろこびに吾逢ひにけり 中村家のために
(60) 春の光若葉のまにま照る時に君さきはひの道の上に立つ 友のために
 
     伊藤信愛氏を悼む
 
 うつせみの君とまぢかく語らひし一夜《ひとよ》かぎりて永久《とは》にあひ見ず
 山茶花の散る花びらは木のもとのめぐりにありて悲しきろかも
 みすずかる信濃のくにと聞くにだに君が罷道いたまざらめや
 
     竹下澄人君を追慕する歌(行雲流水序〕
 
 ねもごろに書きて遺しし文見れば君と膝ちかく語らふがごと
 慌だしく十五年經てあひ見ざるときに君こそ悲しかりけれ
(61) 長崎に三年さびしくあり經けむ頃を偲《しぬ》びて君忘らえず
 浦上《うらかみ》の丘を越えつつクルスある墓めぐりにしこともおもほゆ
 寺町のくらきとほりをくだり來て二人は明き街を行きけり
 長崎は戀《こほ》しくもあるか君とわれと川の汀《みぎは》に下りゆきしころ
 あるゆふべ君がみづから呉れたりし我口ひびく佐賀の蟹づけ
 いきほひて恵が創りしフストール我は服みにき大正九年
 ほがらかに豐けき君が眼を見つつほしいままにてありしころはも
 西空に遠暮れのこる長崎の光と君とわれはおもはむ
 
(62)     泉幸吉氏夫妻渡米送別一首(三月廿六日)
 
 ゆたかなる心二つが相寄りて春日《はるひ》かがよふ大海わたる
 
     岡山巖氏三著出版記念會(四月十五日)
 
 岡山の巖見に來とひともいひわれもおもへどあはれ行き得ず
 われ一人ゆくもゆかずも大勢にかかはりなしとさ思召《おぼ》しあれ
 入澤の達吉先生にむ御ぶさたせりこよひの會にてよろしくねがふ
 
     秋月延生(原田庫之介〕墓碑刻歌
 
 新《にひ》みどりそよがむ春のめぐり來ばいやさらにし永久《とは》にしぬばむ
 
(63)     大阪朝日新聞二萬號賀歌(六月廿七日)
 
 ともしびをかかげすすみし功績《いさをし》を吾ももろともにここに讃へむ
 ひとひらが積りつもりてあな尊と二萬のかずを祝《ほ》がざらめやも
 大君のみことのまにまかしこみて正しく豐《ゆた》に世を導かなむ
 
     「土」上演を祝す(十月)
 
 心こめて君の遺ししものがたりもろもろ人《びと》に今ぞ沁みわたる
 
     茄子の歌(椿一郎氏に〕
 
 わがあゆみ立ちどまりたる茄子畑老のいのちをしばし樂しむ
 
(64)     水戸彰考館(十一月十一日藤森君同道)
 
 わがこふる書《ふみ》をとめ來て園のへのもみぢ清けきけふにあへりける
 よろづ卷のふみを守らし尊くもいやとしのはにさきはひいま人せ 寄雨谷大
     山形縣堀田小學校のために
 
 あかねさす日のまともなる高岡に心ゆたけく子らは學ばむ
 
     ムソリニ首相に與へし
 
 七いろの綾とよもして雲に乘る天馬從ふ君を仰がむ
 
     寄武藤長藏先生
(65)     武藤長崎高等商業學校名譽教授在職三十年記念に偶晩香玉の花瓣を贈られしかば
 
 しぐれ降る寒き日ごろに香ににほふ君にたぐへむ晩香玉《ワンシヤンユイ》の花
 白花の晩香玉を身ぢかくに置ければ君と相見るごとし
 ここにして晩香玉の高き香は君がいさをし讃へよとこそ
 わが夢にかよひても來む晩香玉たわやめならぬ君し偲ばむ
 月よみの下びににほふ月下香《げつかかう》長崎にわがありし日おもほゆ
 
     色紙に書きし
 
 白雲《しらくも》の中に入らむとおもふ老《おい》勝鬨ききに今日も街ゆく ホームライフのため
(66) 勝鬨のひびきの中にけふ一日心しづめて吾は居るべし 福岡日日新聞のため
 
     祝應召澁澤喜守雄君
 
 亂軍の時はさもあらばあれ常の日は若き力を小出しに使へ
 
     折にふれて
 
 一切の女人はわれの母なりとおもへる人は清く經にけめ
 自らの命斷つほどにワイニングル泣かしめし女《をみな》おもへば悲し
 
(67)  昭和十三年
 
    貫徹
 
 あま照らす光を負へる御軍と眸の碧きもの等知らずや
 なまぬるき事にこだはり後悔いむ神は許さじ許すことなし
 けがれたる敵《あた》ほろぼすと戰はば戰ひ遂げよこの天地《あめつち》に 國のために直《ただ》に捨てたる現身《うつそみ》の命の靈《たま》を空しからしむな
 言さへぐこちたき國ら何といふとも我は貫き徹すとおもへ
 
(68)    新春
 
 今朝のあさ初雪降れる山あらむ既に頻《し》き降りし山より低く
 今朝の雪を處女雪とぞいひにける寒さは肉《しし》にとほりて居れど
 にひ年の家ごもりつつみちのくの藏王ふぶくと聞けば戀《こほ》しも
 一とせを亂れたりけるわがまはり片付けぬればをりをり寂し
 新しき年のはじめに勝戰徹らむとすることの聲あぐ
 
    寒の華
 
 濱木綿の鉢を家に入れ守り居り午後にしなれば日の光さす
(69) ほしいままといふ人言はさもあらばあれくれなゐ深き薔薇をめでつも
 寒き日に濃きくれなゐの薔薇《ばら》を愛でしばらくにして晝寢《ひるい》ぬわれは
 二百機のかへり行く音我が窓より少し高きに聞こえつつあり
 美女の顔たちまちにして驚くばかり大きく映り睫毛またたく
 冬がれに入る山羊齒をこの年もわが見て立てり孤獨《ひとり》ごころに
 くらくなりし衢のうへに月照らず燈《ともし》いましむるすでに七日《なぬか》か
 ゆくりなく話のなかにいひいでぬ愛《うつく》し夫《づま》ははや寢つらむか
 寒の入り昨日よりにていささかの日の延びし時カナリア啼くも
(70) 學生のころぞおもほゆる麗しきをとめ映畫も無かりしころぞ
 なべて世は動きすすみて富人も貧しき人も生き飽かなくに
 我國を直におもはばかぎりなく底ごもりせる力おもはむ
 たたかひに行かざる吾は家ごもり心凝りつつ事をし爲さむ
 冬のあかつきも未《ま》だ暗きよりペン執らす徳富蘇峰先生おもほゆ
 ゆたかなる武運にあれとうちこぞり部隊の兵は餅食ふらむか
 部屋にして紅梅の鉢置きながら幾たびにてもそのまへ通る
 くれなゐの梅散りがたになりたるを目守らむ時も無くて過ぎつも
(71) 忽ちに飯店出來て兵いで入る「突撃めし」といふ看板あはれ
 彰徳西南方十五キロあたりに居るらしき工藤部隊が新聞に見ゆ
 あはれなる結論ひとつ遠き世のクレオバトラもかく香《にほ》ひけめ
 
    寒林
 
 ふたたびも大雪降りて消《け》のこれる冬の山より水音《みづのと》きこゆ 伊香保
 日かげりて斜に空をおほひたる楢の木はらは冬さびにけり
 しげりつつ在りしながらに冬がれてこほれる雪のうへに伏す草
 この神に逼り乞ひ祈みし現身《うつしみ》はたたかふ兵の妻なるか母か 榛名神社
(72) 黒々といかし巖を保ちたる相馬が嶽は冬がれにけり
 
    虎耳草
 
 きさらぎの寒き日のびて來しかなや衰へて風邪よりたちあがりたり
 虎耳草生ふるところに日が差せば士あらあらし冬逝くらしも
 床ぬちに吾臥しをれば盲ひたる宮脇武夫も死にてかへらず
 重慶を爆撃したり火げむりの立ちけむ時をおもはざらめや
 日曜の朝起きいでて雲南の昆明府に赤きしるしをつ打つ
 大の里大連にありて死にしこと相待的に人等悲しむ
(73) 息を屏《つ》めて吾の云ひたる獨語はや「戰歿の間際に悲しみは無し」
 おろかなる日々過ごせども世の常の迷路《ラビリントス》に吾は立たずも
 
    小生活
 
 山に鳴く雌雄《めを》の小鳥がとほどほし冬田にくだり飛びてむつめり
 冬もはや過ぎ行きけりと部屋中に書ら亂れてわれの香ぞする
 闘がし飛行機を直ぐ目のまへに見てたつ吾は怪しみもせず
 この夜ごろかぎりなき星かがやきて寒田《さむだ》のうへに雨降らなくに
 眞向へる雀斑《かすも》をとめがにほひだち古《いにしへ》の代の佛のごとし
(74) 夢《いめ》ぬちにいで來るみれば戰にたぎちしこころ底ごもりせる
 雨はれし木原の中の沼《ぬ》の水にたまたま見えし紅《くれなゐ》の魚《うを》
 妻ごめにこもれる友を清《すが》しむとせまき疊に吾もすわれり
 春されば落葉の中のひとつ萌ただひとりのみ戀《こほ》しくもあるか
 數千の女學生らの行進を見たりしことを思ひうかべつ
 ひとに會はず我家《わぎへ》のなかに居たりしがその夜《よ》空はれて冴えかへりたる
 
    春陽
 
 並槻はいまだ芽ぶかずあをあをと芽ぶかむとする時しおもほゆ
(75) 海のべの砂にもえたつかぎろひを見ず久なりし吾は眩しむ
 海のべにこころ極めて居る時し戰のこと暫しおもはず
 榛《はん》の花青く垂れつつ海の風とほりて吹かぬここの小峽《をかひ》は
 野のうへの白き斑雪《はだれ》をわれの入る木原とほして見らくしよしも
 榧《かや》の枝《え》につもりし雪を口づから食はむとぞする我ならなくに
 たたかひに命果てたる現身《うつしみ》はとことはにして悲しくもあるか
 をとめ等がゑみかたまけしたまゆらを常なるものとおもふことなし
 「改造」の二十周年のよろこびは現實史の上の血しほとおもへ
(76) そこはかとなく吾入り來ぬるこのゆふべ木下闇《こしたやみ》にも雪は降りけり
 童女《どうぢよ》むれて街を歩ける入學のことのみにかかはりて歩ける
 
    閘北のけむり
 
 ゆづり葉に斑雪《はだれ》ふりおほひしづまりしこの園中《そのなか》をふたたびとほる
 昨年の十一月の映寫なれど閘北《ざほく》のけむり空くらましぬ
         
 來華助幾章洋人《らいくわじよせんやうじん》といふ美しき護照《ごせう》あればわれの顔を近づく
 われ學生群に向き色欲も無所畏無所畏と言ひたるあはれ
 この梅を愛《め》でむいとまも無かりしと青葉の萌えし鉢はこび行く
(77) 塵づきし部屋片付けて出て來たる西安事件の切拔すこし讀む
 たかだかと獣皮つみたるトラツクの並び走るは戰に關係ありや
 朝たちて試驗に行きし長男ををさなのごとくたまゆらおもふ
 いなびかり光りてのちに鳴る雷《かみ》の鋭き時に獨り居れば好し
 杉はらにたまりて居りし落葉かな寒山《さむやま》なしてあれひとりゆく
 唐生智《たうせいち》銃殺せらると報ずれど緊張したる背景ぞ無き
 
    春
 
 高槻のはやき若葉は黄にそよぎおそきはいまだ枯樹のごとし
(78) われよりも背高くなりし子と共に秩父宮殿下の御聲《みこゑ》ききたてまつる 四月十日
 かへるでの新葉《にひは》のみどりととのふときのふも今日も風吹きたつも 冬枯のさまといふとも赤芽出し草見ゆる野に嘆きを留めむ
 まぢかくを山鳥あゆむおそれざる山鳥みれば悲しきろかも
 
    選歌行
 
 保土ケ谷の高處《たかど》に見ゆる家群はイタリアの國ゆけるに似たり
 山ざくら咲きたるところとほり行き心はきよし言ひがてなくに
 山のたをひとつ越え來て下谷《しただに》に蛙のこゑす水ぬるまむぞ
(79) 山かげの道に木通《あけび》の黒き花ふふまむとする時は來《きた》りぬ
 鎌持ちて※[木+怱]のこのめを君が切るおどろが中に吾待ち居りて
 ※[木+怱]の芽の萌えしばかりを食はむとて軍手をはめし君が手摘むも
 いたぶりて浪の寄するを身ぢかくに風呂の火を焚く音とおもひし
 なぎさ邊をならびていゆく君が髭やうやく白しうれしきろかも
 干潟にしあるか無きかにゐるものの紫の毒吐き出すあはれ
 夜もすがら浪の荒れしがおとろへてうたかた白くここにのこれる
 幾年か歌にかかはり經たりける二人ならびて汀《なぎさ》かへり來《く》
 
(80)    底ごもり
 
 我庭の隅に萌えいでし蕗の薹幾つかありてはやくほほけぬ
 わたつみの奥《おき》にこもれる悲哀《かなしみ》をわがものとしも思ふ時のま
 北支那のはざま通りて戰へる若き少尉は何を欲りせむ
 敵前に上陸したるころほひの心とどろきは底ごもりたり
 山吹ははやく青き葉もえそめて人の眼《まなこ》もさやけかるべし
 人皆の笑ひて過ぎむ事にしも心いたみて晝寢《ひるい》すわれは
 木蓮の白き花びら散りしける木《こ》の下かげをとほりて行ける
(81) 伊太利《イタリヤ》の使節人《つかひびと》らを迎へたる酒筵《さかむしろ》にゆきてのぼせつつ居り
 バルセロナ陷《おちい》らむとする通信をほや珍らしむごとくに聞きつ
 バルセロナ救援といふ語ありたり救援の語は直接ならず
 灸點と Hormon《ホルモン》等とこもごもに關はり居りて人ぞ富みたる
 くれなゐの椿の花の落ちたまるこのあはれさも見ずて久しも
 さ庭べに萌えし羊齒群見すぐしてきのふもけふも家|居《を》らなくに
 いそがしく同級會より歸り來て熱河の話二三行書き留《と》む
 羽前なる弟の子が滿洲に行くをよろこび飯《いひ》くふわれは
(82) 台兒莊《だいじさう》包圍戰闘の終末を聞かざるうちに海邊に行くも
 むらぎもの心いたはり起臥せばあからさまに私《わたくし》の言さへもなし かしこくも騎兵中尉にましませる殿下の御馬とも勇むらし
 くろぐろと蟻行進のさまを見て徐州戰は既に近しとおもふ
 ひそかなる軍醫中將の話あり猥談に似て息づまらしむ
 決死兵も映畫にてはただ日常の行爲のごとく映りてゐたり
 
    節忌 【二月十三日於發行所】
 
 ここに今日集ひて君を偲ばむも遠く過ぎたるおもかげにして
 
(83)    赤彦忌 【四月十七日於小石川後樂園】
 笹青くまどかなる山吾は見て君は見ざりしことを悲しむ 小廬山
 笹むらにしづまりてゐる鶴ふたつけふの春日《はるび》に見らくし樂し
 
    憲吉忌 【五月十五日於發行所】
 
 一とせはまためぐり來て墓のべの酸模《すいば》の花もほけにつらむか
 人麿のことをおもひて眠られず赤名越えつつ行きしおもほゆ
 
    沼
 
 かぎり無くこまかき草は萌え出しを怪しとおもふ小野《をぬ》に入りつつ
(84) 過ぎし世の行爲にあれどこの寺は「守護使不入」と石に彫《ゑ》らせし
 吾が歩むみぎりとひだり畑《はたけ》にて大麥よりも小麥が秀づ
 黒き森そびゆるがごと一方《ひとかた》に見えつつ畑《はた》の中をわれ行く
 上井草《かみゐぐさ》の道路を過《よ》ぎりゆきしかばははその木立いまだ芽ぶかず
 わきいづる沼《ぬ》のみづ湛へいまだかも寒くしあれや鴨は歸らず
 春さむき辛夷の花はこの沼《ぬま》の水にしづきて散りがてにせり
 鴨どりは沼《ぬ》の上《へ》に浮けど或るときに飛びてさわげり爭ふらしも
 鴨がねはすぐま近くに聞こゆるを雲より下りしものと見て居り
(85) 春いまだ深けて行かざることわりに水より出でし青葦みじかし
 わたつみの砂濱よりも悲しかる常水《とこみ》づく土黒く續きつ
 しみじみと沼《ぬ》のほとりなる常《とこ》じめり此處にし生《お》ひて冬枯《ふゆが》るる草
 わが家の幾本《いくもと》かある椎の花散りしくころは歸らむ鴨か
 いましめて鳥打つ銃《つつ》の聞こえざるこの沼《ぬ》のみづに鴨どり浮かぶ
 をやみなく澄みて流るる川のべのわれの後《しりへ》に友ひとり居り
 身をかがめ暫し見入れる流にはいさごあきらかに滯窒《とどこほり》なし
 萱草はむれて生ひたり枯芝の上に青々と眼の清《きよ》むまで
 
(86)    トオチカ
 
 いきほひの昇らむ國に生《あ》れあひし君と吾《われ》とは樂《たぬ》しきを經め
 トオチカの厚さ幾十米と兒等暗記して相言ふ聞こゆ
 われつひに老いづきしかど氣《いき》屏《つ》めて處女子《しよぢよし》の色の反射する見む
 三叉《さんさ》神經の微々末梢と誰かいふ齒痛《しつう》の去りし夕まぐれどき
 春の夜の午前二時より目ざむれば牀《とこ》の中にてものをしおもふ
 夜《よる》毎に徐州戰より聞こえ來る放送のこゑは壕にて言ふか
 晝すぎて春いかづちの鳴るころは朝のうちよりわれ力なし
(87) 出羽ケ嶽勝ちたるけふをよろこびて二たりつれだち飯《めし》くひはじむ【平野屋にて出羽ケ嶽と予】
 
    御柱行
 
 御柱《おんばしら》の奉仕《つかへ》を見つついきほひの猛くあらぶる神にひれふす 岩波・藤森二氏同道
 現身《うつせみ》のわれが聞きつつ樂しかり數多《あまた》の蛙とほりて鳴きぬ
 入ヶ嶽より切りいだしたる太柱|宮川《みやかは》の瀬に一たび潔まる
 年老いて逸話遺ししも親しかり嘉納治五郎|翁《おきな》しのばゆ
 諏訪湖よりあまた飛びきたる昆蟲が燈火《ともしび》にすがるを迷《まよひ》といふや
 
    露伴先生
 
(88) 春深けしけふの一日をゆたかなる心になりつ君が邊《へ》に居て 五月二十二日
 大理石雲南の山脈《やまなみ》にいでしより古りつる名をぞ今にとどむる
 石斛を愛でいましけむゆゑよしも聞かぬに阮元に移りたまへり
 白※[草がんむり/及]《びやくぎふ》をもちて硯の割をつぐ「血」はときにより「のり」と訓ましむ
 來禽はすなはち林檎のことにして或るときは露伴先生の「音幻論」
 
    梅雨まで
 
 過《よ》ぎらむとするのか否か不明にて歩道に來たる黒猫ひとつ
 この原に胸當《むなあて》をして伏し居りし兵の幾人實戰に死す
(89) 松の芽のやうやく長く立てるをしあやしむがごとわが入りし山
 自轉車のうへの氷を忽ちに鋸もちて挽きはじめたり
 母に手を引かれて行ける穉兒を見つつしゐたり歩みとどめて
 ともなはむ物さへも無き吾がそばの石あたたまる青葉しみ山
 わがあゆむ木下闇《こしたやみ》より見えながらあかるき小野《をぬ》の界《かぎ》られにたる
 この山にわれの戀しき一樹《ひとき》あり夕ぐれぬればをりをり見に來《く》
 おもふ間もなくけむりの出づる銃丸が右季肋部《うきろくぶ》よりころげたりとぞ
 蒸暑き日にはおのれの額より汗は垂りたり紅《あけ》の胡頽子の實
(90) どくだみの白き小花《こはな》は過ぎむとす飽けるがごときさみだれ降りて
 小さなる目的ひとつありしかど澁谷まで來てわれ戻りけり
 潜山《せんざん》のたたかひ既にをはれりとおもほゆるまでこころ虚しも
 戸をしめて遠地《とほち》をおもふこの夜ごろ杏子黄いろになりにつらむか ひとりのみ吾行きしかばいつしかとうすくらがりし山に鳥啼く
 日もすがらなま暖き風ふけば靡きとどまらぬ雲の下の花
 おのおのは陰をふかめて羊葉|群《むら》のゆふまぐれどき見らくし好しも
 
    海邊
 
(91) おほどかに眼路はひらけて浚渫船海の上より音ぞ聞こゆる 六月二十日
 家いでて來ればひろびろとしたる海|線《すぢ》をなせる雲|段《きだ》をなせる雲
 吹く風は海より音しまぢかくの葦群につづく青草のはら
 わたつみの吹きしくけふの風をいたみ曇《くもり》うつろふ海邊葦原
 遙かなるものにもあるかおもおもと曇の靡き北にかたまりぬ
 
    放水賂
 
 直線に此處を流をる放水路青き葦はらにサイレン鳴りわたる 六月二十五日
 青原に入りつつ來れば生ふる葦やうやく荒く湧く水のおと
(92) 目の前に川平明に見え居りて青浮萍《あをうきぐさ》も水泡《みなわ》も逆流す
 草はらの中に小流の舵に住む儚きもの等出でて雨に濡る
 豐かなるこの水中に鰻鱸|沙蠶《ごかい》を食はむさましおもほゆ
 
    酸漿草
 
 ひとむらの酸漿ぐさを吾が愛でて朝な夕なに庭におりたつ
 すさまじき黄河の水のみなぎりも映畫なれば忽ち見えず
 暫くは廊下をゆきてあひ對ふ狂人も吾もともに汗垂る
 バケツより雜巾しぼる音ききてそれより後の五分あまりの夢
(93) 言ひ繼ぎし「武門の譽れ」といふこともいまの現實《うつつ》にかなしく聞かゆ
 
    夏深し
 
 くろずむまでになりたる茱萸の實を前を通り幾つか食ふも
 二十人餘りの男合唱す僧院はチロ−ルあたりかとおもふ
 洋傘《かうもり》を待てるドン・キホーテは淺草の江戸館に來て涙をおとす
 雨降りて居れば我が窓の薄明《はくめい》に鴉啼きゆく聲も聞こえず
 擬寶珠の長き花莖ひとつ立ち日のゆく道に傾きはじむ
 忽ちに映畫過ぐれど安慶の燃ゆる煙はただならなくに
(94) 飛行機の上より遠き眼下《まなした》に黄河の堤破れつつあり
 小さき蛾が部屋に入り來て飛び居るを何に止まるかとおもふことなし
 朝宵に梅雨は降れれば既にして羊齒のむら立《だち》おどろをなすも
 道の上にかたまりてあるトラツクは軍用|色《しよく》に塗り終りたり
 汝《なれ》が眼にたまる涙にうつるとき吾の面わは數倍ならむ
 わが部屋の疊の上に屆きたり山にて常に雲にぬるる花
 あまつ日の遂に見えざりし市中《いちなか》に色新しき茄子並びけり
 南ともつかざる方にひろびろと曇《くもり》動きて海に梅雨ふる
(95) おほどかに閉ぢし曇りの一ところ明るみながら陽ぞ隱れたる
 イロニイを數多用ゐて万才の女は男をしきりに辯護す
 月光の中にあらはれ歌うたふ女|三人《みたり》のほそき聲はや
 山のべの草苑《まき》の蟋蟀鳴くころとなりにけらしも夏は深きに
 墺太利をおもふ三首
 部厚なる肉體のいろにほひだつ人工樂土と誰《た》が言ひそめし
 山の雪にひと夜《よ》寢たりき純全《またき》にも限ありてふことは悲しく
 
    竹内六郎君送別(七月六日幸樂)
 
 三十四歳一等兵の君征かばおほどかにして敵《あた》平げむ
 
(96)     事變一周年(七月七日〕
 
 戰の一周年目に家いでて揚子江の浪高き寫眞見てかへる
 
     東京驛
 
 戰にいでたつ兵を見おくりて群集にひとり西洋人まじる
 
    箱根
 
 みづからの食はむ米もち入りて來し峽の大門《おほと》に雲とぢわたる
 さねさし相模越えつつ雲のなかの天傳ふ日をおもはざらめや
 飼ひおきし五つあまりの蟻地獄疊のうへに持出して來る
(97) 雲ひくく川瀬のうへにうごけるを見つつ飽かなく古人《ふるひと》なすも
 瀬のおとの迫《せ》むるなしつついく夜の月かげささぬ山に起臥す
 
    馬追
 
 七月に來りてわれの親しみし一もと薊花終ふる見ゆ
 吾《わ》をおもふ悲しき友のひとつにて嵐だつ夜《よは》に馬追來居り
 いつしかも楢の木立に平らなる流となりて砂地さへあり
 わが歩む小野《をぬ》のうへにて蓼の花咲くべくなりぬ夏をはりけり
 夕ぐれに近づくころのはつかなる淺黄の空を凡にし見めや
 
(98)    明神嶽
 
 むらがりて木立に鳴ける朝蝉はとほく眼下《まなした》になりて聞こゆる
 黒生山《くろふやま》斜めになりて見えそめしその頃われの汗しとど落つ
 おそらくはこの峯ちかくとどろきて雨の降りけむあとどころこれ
 傳ひ來し峰のうへにて小林《をばやし》のひとつある中に入りつつ居たり
 峯の上のひくき木原《きはた》のいづこゆか鳴く蝉のありあやしき聲す
 
    金時山
 
 一方は高萱にして一かたの木立のなだれ粗くあらしも
(99) 現なる眼下とほきを火をあげし山のなごりと見つるけふかも
 霧うごくとばかりに香《か》ごもりてあやしと思ふ谷あひ行くも
 をやみなき雲に觸りさびしきまでに箱根の峽を見おろしにけり
 身みづからこの山の上に居りにけり近きごと天つ日わたり時ゆくや
 
    左千夫忌 【六月十九日於發行所】
 
 けふひと日ものさだめなき空合の梅雨ふけむとして君をこそおもへ
 眼鏡ふたつ掛けしおもかげありありと見ゆることあり寂しくもあるか
 
    子規忌 【九月十八日於發行所】
 
(100) 尊かる君の年より二十年《はたとせ》もわれ生きのびて歌はげみ咏む
 つき草もおほかた過ぎて正岡の大人を呼ばはむ日は近づきぬ
 
    祝歌五章
 
 神と共に進み進みて絶待に迫りて迫る包圍の大軍陣
 漢口は陷りにけり穢れたる罪のほろぶる砲の火のなか
 敵軍の根據の滅び徹底して大きアジアの曉明いたる
 あやまれる蒋介石の面前に武漢おちて平和建立第一歩
 今とどろとどろ天《あま》ひびき地《つち》ひびく聖き勝どきや大き勝鬨や(101)
 
(101)    その折々
 
 草草の實ふたつに割れてそのなかの乳色なすをわれは惜しめり
 石山に前こごみの兵と砲身を負ひたる馬と二秒ばかり映る
 絶待に爲推げねばならぬ現實だからしてこの後續部隊あり
 隘口街より追撃戰に移れりと知るときわれも聲を立てなく
 あかあかと海のなぎさを照らしたる秋のよの月あかつきに落つ 相模の海
 
    ぶだう
 
 むらさきの葡萄のたねはとほき世のアナクレオンの咽を塞ぎき
(102) おほつぶの葡萄惜しみてありしかどけふの夕はすでに惜しまず
 ただ見てもわれはよろこぶ青ぶだうむらさき葡萄ならびてあれば
 黒葡萄われは食ひつつ年ふりしグレシヤの野をおもふことなし
 をとめ等がくちびるをもてつつましく押しつつ食はむ葡萄ぞこれは
 
    山房折々
 
     木原
 
 木立には小鳥來鳴きてうつせみの吾の痛々しき心は和ぎぬ
 機關銃のおと鋭きに秋の日のこの原なかに小鳥來啼くも
(103) しぐれの雨この朝はれて木原にはたのしく鳴ける鳥のこゑごゑ
 まをとめの乳房のごとしといはれたる葡萄を積みぬわがまぢかくに
 
     十月二十五日
 
 「皇軍おほいに勝ちね」の句神皇正統記にあり心つつしむ
 漢口は燃えつつありといふ聲のそのかたはらに人聲きこゆ
 
     宮脇武夫歌集序歌
 
 旨ひたる君なりしかばわがこゑをなつかしといひて近く居りにき
 くれなゐの蓮《はちす》の花も目にわかずあり經たりけむ遺歌《のこしうた》あはれ
(104) 朝よひに君が起居のおもかげの永久に遺りてかなしきろかも
 
     十月三十日の忌日を過ぎつつ
 
 わがよはひ百穗畫伯のみまかりしよはひを過ぎておほく晝寢す
 
     十一月六日電報來
 
 山西のあたりにてか戰死せる中尉をおもひ一夜《ひとよ》ねむれず
 むなさわぎせしこと一再にとどまらず九月以來通信も斷えて居りにき
 あやしくも動悸してくる暗黒を救はむとして燈《あかり》をともす
 
     十月二十七日山西省絳縣薫封村にて陸軍中尉山口隆一戰死す
 
(105) 漢口陷ちてとどろきし日に山西の小さき村に戰死をしたり
 
     十一月十五日漢口慰靈祭
 
 捧げ銃の號令きこゆつぎつぎに鋭きこゑは涙をつたふ
 揚子江ふく風強きけふの日に六千の靈を呼びて止まずも
 戰友《とも》呼びて銃をささぐる兵《つはもの》の顔のこの尊きを忘らるべしや
 
     十一月二十日
 
 朝はやくより穉《いとけな》き子を疑ひたりなどして冬日みじかし
 
     十一月二十五日
 
(106) 漢口にすでに雪ふるありさまが映畫となりてわれに見しむる
 空中より岳州燃ゆるところ見ゆ右上方は洞庭の湖《うみ》
 
     十一月二十六日
 
 五日の月は燈《ともし》なき街上に角《かど》ある屋根のかげをおとせり
 つれあひの無きわれひとり街上に原始のよるをおもひつつゐる
 
     十一月二十八日
 
 しづかなる午前十時に飛鳥佛の小さき前にわれは來りぬ
 
     十一月三十日ゆふべ
 
(107) 靖國の社のそばのかすかなる英靈假宮に來り額伏す
 
     十月はじめつ方よりつぎつぎに人うせにけり
 
 いくたりの人のいのちを堪へがたく歎きながらに歳くれむとす
 
    挽歌
 
 勲功《いさをし》は人こそいはめ君|一生《ひとよ》おほどかにしてをはりたまへり 岡田和一郎先生
 かがやかしき業《げふ》をおもへばかしこきや我等けふこそはみ靈を呼ばめ 入澤達吉先生
 君と吾と仲善くあれば相ともに遊びしかども人は嫉まず 神保孝太郎君
 うつせみの身まかるごとくしづかなる佛になりぬ吾が傍に 松田やを
(108) 日もすがら樂しきごとし家内《いへぬち》に居りて働けば外に遊ばず 同じく
 
    山房微吟
 
 漢口に進みたまひていまします殿下の御《み》こゑ聞きたてまつる
 をとめ等の樂行進をわれは見てこころをどれりをとめ清《さや》けく
 ガード下われゆくときに轟きて列車とほれり餘響みじかし
 わが國の人ら瞠目したれどもミユンヘン會議は既に第二的のみ
 秋の陽は雲のしたびに熟したる苺のごとくなりて入りゆく
 涙にじむ林芙美子がお話を公會堂にてわれは聞きたり
(109) 皮膚白く瞳孔あをき形態と皮膚黄いろなる形態われは
 武漢三鎭なだるるなして落ちしかば我が心今日も呆《ほ》けたるごとし
 目のまへに大川のみづ見るゆゑに隅田公園は寂しきろかも
 巖鹽は幾何幾何幾何と計算ずみといふを聞きゐる
 お歴々らの心きまらばこの時に「施無畏」のまへにひれふして見よ
 小地震いくたびとなく搖《ゆ》りて來て棚の書物のはみ出すあはれ
 わが撰りし「萬葉秀歌」の小方册をひとり枕べに置きつつねむる
 かたまれる軍馬の寫眞見るときはさながらにしてわれの身に沁む
 
(110)    英靈凱旋
 
     十二月二十四日朝、松井、工藤、小田、高樹、井上、今村、大熊、横山以下諸部隊の英靈芝浦に凱旋す
 「國の鎭め」悲しき樂《がく》のひびき來て一千二百七十五の御靈
 戰ひて生《いのち》終りしもののふと云はば安けし悲しくもあるか
 國のためささげまつりしたましひに君も交りてここに還れる 山口陸一大尉 品川の驛に別れしおもかげも髭少したて汝が父に似て
 實戰を繰返しつつ居りたりし工藤部除の悲しきみ靈や
 一つ艦《ふね》に乘り來しみ靈おのおのの山河のべに歸らむとする
(111) うつつなる此世まかりて今こそは※[うがんむり/隆]應和尚のみそばに行かめ
 
    雜歌控
 
     新萬葉集を賀して二首(二月十七日)
 人麿のうたの載りたる萬葉と友のごとくにすわる新萬葉
 新萬葉の第一卷を見たるとき孔子《くし》のごとくに心をどれり
 
     伊川氏魚介圖賛歌(三月三日)
 
 山のさちはさもあらばあれ海の幸おのれが幸とものおもひもなし
 
     山形縣歌人協會年刊歌集序(五月廿日)
(112) やまがたの野《ぬ》をしおもほゆ白頭翁並みふふむらむ野をしおもほゆ
 
     平野秀吉翁「高嶺いばら」序歌(六月)
 
 青山に行くらむ君は人しれず山の聖となりていまさむ
 
     佐佐木博士より金槐集古鈔本を送られけるに
 
 鎌倉のおほまへつぎみの歌卷《うたまき》をいかにか愛でむ君がたまもの
 
     平福一郎氏宅即事
 みどり兒のおひすゑ祝ふともしびのかがよふもとにわれ醉ひにけり
 もろともに祝ぎに來にけり乳足《ちたら》ひて今にこにこと玉の如き子や
 
(113)     林愛吉氏藏人麿像に題す
 いにしへの歌の聖の尊きを人がたにしていやとことはに
 
     祝朝日新聞五十周年
 
 永遠《とことは》にさかゆるくにに五十年《いそとせ》のこの勲《いさをし》を忘れておもへや
 
     鹿島氏歌集「白光」序(七月十一日)
 
 いにしへの歌の望も知らざりしアマゾンの河やサガレンの海や
 
     送高安國世君應召(八月三十日)
 
 八百よろづ神導かすたたかひに若きますらを今ぞいでたつ
 
(114)     前田多門ぬし丈他大使として渡米せらるるをことほぎて一首(九月)
 
 天地《あめつち》に透るまことを欲りしつつアメリカびとは君待つらむぞ
 
     初秋
 
 百萬の常備軍馬の記事ありしその切拔をけふもさがせり
 秋雲は河を越えつつ退《そ》きゆきて高槻ちりぬ昨日も今日も
 この庭の三尺《みさか》にあまる月草のしげりやうやく寂びにけるかも
 靖國の社のそばの假宮にわれぬかづくとただひとりのみ
 
     題良寛
 
(115) 鉢の子に赭くなりたる栗入れて歸りましけむ聖しおもほゆ
 
     山口隆一
 
 官報にて吾は知れども自らの中尉になりし手紙まだ來ず
 
     悼藤島兼道夫人
 
 白菊の光に映ゆる時|來《き》なば心しづめて君を偲ばむ
 
     鬼川俊藏吉植庄亮二氏(十叫月二十四日)
 
 久々に君と相見れば一國の米を論ずるいきほひぞよき
 
     神保を偲ぶ(二十五日會の爲めに)
 
(116) 洒のみて痴れむとすとも在りし日の神保《じんぼ》おもへば涙し流る
 醉泣《ゑひなき》は誰とかもするありし日の君を偲びて醉泣かむとす
 たわやめは幾人|來《く》とも障なし佛のまへに戯《たはぶれ》もせよ
 朗《ほがら》けき神保おもへば今日こよひ倒れむまでにとよもして飲め
 
     阜新縣なる甥に與ふ
 
 野を遠く雪降りつらむ降る雪に汝《なれ》は驚くことなかるべし
 寒しとも何おどろかむ日本國《にほんこく》東北うまれの少年汝は
 伯父われも滿洲を知る國ひろくおほどかにして汝は働く
(117) 日のつとめ果して飯《いひ》を食ふ時は高き心を汝に與ふる
 あたらしき光のごとき建國《けんごく》の心を持ちて飯《いひ》を食はむぞ
 
     菊山當年男氏伊賀燒芭蕉窯作品展覽會祝歌
 
 窯の火の淨きなかよりあらはるる小さきものも君がたましひ
 
(118) 昭和十四年
 
    歳旦頌
 
 あらたしく年たちぬるを耳ちかく囁くこゑと樂しみて居り
 白柚《しろゆず》は南のくにのかぐの實ときのふもけふも愛で飽かなくに
 やはらかき餅《もちひ》を咽にのみこみて新幸《にひさいはひ》の心を遂げぬ
 遠くゆく鴉のこゑを聞きてをり五十八歳のあかときにして
 くに生ましたりけむ時の豐榮に八十島かけて朝日かがよふ 朝陽映島
 
(119)    鶴
 
 鹿兒島の阿久根の島の鶴《たづ》のこゑ一しきり聞くわがまへちかく
 くびあげてゐる鶴ふたつあとはみな右のかた向くその寫眞見つ
 かく近く羽ひるがへる大きさを始めて見たり天のたづむら
 羽をひろげてとほく天《あめ》向く一つありそのかたはらの三つあまりの鶴 黒龍《アムール》の沼地に屯したりしが阿久根の鶴といま飛びわたる
 
    國祝ぎ
くにほ
 新しき年のはじめにむらぎもの心しづまり國|祝《ほ》がむとす
(120) 大やまと日の本つくに神ながらいます天皇《てんわう》に吉事《よごと》をまをす
 ひむがしにあけわたりたるうなばらや今こそは照れ島の八十島
 とよあしはらみづほのくにのこの力やむにやまれぬこの力はや
 皇軍《みいくさ》のいきほひたぎり炎だちけがれたるもの打ちてしやまむ
 
    新年
 
 大いなる勝のいくさの新年《にひとし》のけふの心を充《み》たしめたまへ
 新しき年の光を浴びつつぞゆくもかへるもここにつどへる
 初春の空は寒きに瓶にさすうすくれなゐの石楠の花
(121) 朝な夕なこひのみ止まず海こえし百萬のみ軍の武運ながきを
 戰線にはや雪降るを映畫にて幾たびか見て歸り來われは
 
    戰勝新年
 
 たたかひに勝ちて兜の緒をしめし昔のわが軍いまのわが軍
 天皇の御《おん》下賜の御酒《みき》前線にごくりと飲みて年ほぎわたる
 富みたるは富をおもはず貧しきは貧しきままに年祝ぐけふぞ
 空中より岳陽もゆるところ見ゆ洞庭の湖《うみ》は右に接して
 大き日はこの天地にひとつにて今こそのぼれわれを照らして
 
(122)    冬の泉
 
 戰線に雪は降るとも大君のみことのまにま豐けかるべし
 つゆじもの降りたる野べに青々と生ふる草ありひた士の上
 野のなかの丘を越えたるわれひとり冬の泉をむすびて飲みつ
 山茶花の散りたまりたる下かげにけふの吉き日をしまし樂しむ
 龍のひげ木下《こした》に群れて瑠璃色の玉を籠らすをさな等のため
 
    豐酒
 
 百萬の皇軍ともに豐酒《とよみき》を飲みほす時ぞひかりかがよふ
(123) 朝日子ののぼれる海のたまゆらに島は光につつまれにけり
 わが國の正しき力のびのびて東洋和同いま建立す
 大づつは鳴りこそわたれ新しき年のはじめのこの朝空《あさぞら》に
 いざ子ども世のさいはひは健《すくや》かに豐酒を飲むこの一ときを
 
    戰勝日本
 
 いきほひは神《かむ》いきほひとさはりなき勝ちたたかひて年あけわたる
 あまてらす日の本つくにのみ軍の全きがうへにさきはひたまへ
 業房をいで來て遊ぶ今日の日をわが大君もゆるしたまへり
(124) 洞庭のみぎはの泥を行く部隊の兵と馬の脚大きく映る
 島山はさやけしと見る見るうちにあかねかがよふその白雪に
 
    皇軍
 
 勝いくさ心に占めて靜かなる洋《うみ》のごとくに年あけにけり
 一高《いちかう》の學生にて旅順の陷落をまのあたり見きけふの幸福
 年のはに心しづかに愛でにけりくれなゐ深く梅のにほふを
 つつましく年を祝ぐとも消極の心ゆるみを國民《くにたみ》はせず
 國こぞり新しき年祝ぐけふぞまづみ軍を祝ぎたてまつる
 
(125)    山茶花
 
 落ち葉せる高槻ひと樹《き》ゆふぐれの空に見ゆるを尊むごとし
 山茶花の白きを愛づるこの園にわれを怖れぬ山鳥のこゑ
 いのちさへ顧みなくに征く友の武運ながきをこひのみて居り
 大いなる國のいきほひの渦なかに君がいのちも見えなくなりぬ
 かたばみの青々とせる一鉢を日向におきて歳をむかふる
 
    梅
 
 新しく年たちにけりくれなゐの梅を身ぢかくに置きて年祝ぐ
(126) 軍事便手にとり持ちて讀むときに一たびは眼《まなこ》とぢつつおもふ
 南京が陷りてより一とせを經たる今夜の樂鳴りわたる
 遞信の機關現地へ伸び伸びて戰ひの香を嗅ぐがごとしも
 六時には來むといひたる友は來ず老の體を疲れしむるを
 
    風
 
 たけたかきゆづり葉の木に冬つかぜ吹き來し時に諸葉ふるへぬ
 ときのまに空をうつろふ冬風はわが眞上なる槻の樹を過ぐ
 たえまなく風の吹きしく一時を落葉のなかを靴にて歩《あり》く
(127) 冬山をつたはりて來る風のおとこの谷あひにしづかになりぬ
 かさなりて落葉の深き冬やまにわが入りて行くとほき風音《かざおと》
 
    雜歌抄
 
 ただひとり歩きて來るアウリツチ大使にむかひわれ脱帽す 一月五日明治神宮内苑
 うづみ火のかたはらに吾悲しめど凡そびとの悲しみならず
 ゆふまぐれ小さくなりて殘りたる燠をあはれにおもふことあり
 餅のうへにふける青黴の聚落を庖丁をもて吾けづりけり
 寒《かん》の夜はいまだあさきに洟《はなみづ》は Winckelmann《ウインケルマン》のうへにおちたり
(128) 灰のなかに五つあまりの炭火ありあかあかとしてこもれど見えず
 家いでて街に來しかばこのゆふべ追儺はをさなき子等がしつらむ
 杉はらに降りける斑雪《はだれ》かなしみと歩きて居れば深しはだれは
 降りしける雪てりかへすあまつ日をまともに受けて佇むわれは
 みちのくの山形あがたの山中を行くおもひして歩きつつあり
 チロールをわが行きしとき雪山の寒施行《かんせぎやう》見つつ谷をくだりき
 ほしいままにわが物として拾ひたる濱の白貝|汝《なれ》に見しめむ
 われ等にありては「寫生」彼にありては「意志の放出」「寫生」の語は善し
(129) はりつめし甕の氷をかへりみずこの夜《よ》ごろ魚は生きつつゐむか
 紅梅の咲きのさかりの過ぎし頃はじめて鉢を外に出《いだ》すよ
 坂の上にあかがね色の雲のむれ動きそむれば下びは明《あか》し
 ひとり寝のベツトの上にこの朝け追儺の豆はころがりて居り
 
    内親王御生誕
 
 サイレンの響きてつたふ御しらせを天の御聲とよろこびかはす
 内親王《ひめみこ》の生《あ》れたまひたるよろこびのとよみは空にひびきて止まず
 雛まつるけふの佳き日にひめの宮生れたまひたり瑞の御《み》しるし
(130) サイレンの空つたはれる聖《きよ》き音わが子等躍りあがらしめたり
 み民われここに謹しみ言擧げむ國生ますこゑ御子生ます聲
 
    英譯萬葉集竟宴
 
 豐酒《とよみき》はためらはず飲め樂しかる今日のゆふべのこの一時を 三月七日東京會館
 寛宴のゆふべとなりておのづから心ゆたけし戀遂げしごと
 大人《うし》たちのきほひたまへる後《うしろ》より心つつしみ吾もあゆみき
 竟宴のあかりの下に吾等つどふ馬醉木の花もそこににほひて
 萬葉の古き歌らよ大洋《おほうみ》を越えたる國に今こそは染《し》め
 
(131)    ヒツトラー總統五十囘誕辰 【四月廿日】
 
 エーベルト政府に伺ひて進軍を企てたりし彼は若しも
 ミユンヘンに吾居りし時アドルフ・ヒツトラーは青年三十四歳
 メーメルを軍港とすと火のごとき結語殘して彼はかへりぬ
 五十囘の誕辰をむかふるヒツトラー多分夫人は居らぬなるべし
 いきほひに乘りたるかなとたはやすく彼の英雄は言ひしことなし
 
    作歌其折々
 
 鹽斷ちてこやる童《わらべ》を時をりにのぞきに來つつ心しづめ居り
(132) 風つよく衢を吹きてゆくころをわれは晝寢《ひるいお》すその風のおと
 ヴアチカノの鐘のひびきは現なるわれの臥處にしばらく聞こゆ 三月十二日ピオ十二世
 傘もたす歩みてゐたる街上にわが濡れしきさらぎ二十日の雨
 遠き懸案小學兒童の告げ口をナチ政策は根絶《ねだえ》せんとす
 マルクスが profunda melancholia をうつたへし書簡殘りき老身《らうしん》彼は
 きぞの夜の雨が朝けに雪になり晝すぐるまで降りてつもらず
 をさな兒は鹽を斷たれて臥しをれど時々ほがらかに笑ふ聲すも
 テロリスト上海にありてその弾に命《めい》おとせるを史的と謂はむ
(133) 十九日陳録廿一日|李國杰《りこくけつ》いのち死したり空《むな》しとおもふな
 未來よりひびきて來るもの音の如しといひてかなしむ吾は
 南より窓を鳴らして明日の日もなま暖かく風ふくらむか
 少年兵潘※[さんずい+希]生は家はなれ十二歳にてここに戰死す 三月二十九日武寧陷つ
 春雨は霧のごとくに降りそめて夜の外套を幽かに濡らす
 下の部屋より掃除の音すみなぎりし塵出でゆくをおもひつつ居り
 欧羅巴の國の動きを雜然と心のうへに置きて晝寢ぬ
 春の夜の午前三時に眼をあきてわれの體の和むことあり
(134) 眼の前に映りそめたる南昌の炎を見つつまたたきもせず
 突如として聞こゆ新南群島を臺灣總督府の管轄とせり
 睡より醒めむとしつつあかつきの其時ごとに雀鳴くこゑ
 廬山※[牛+古]嶺の陣も陷ちたり逃げたるは三十二歳の指揮官楊遇春
 十九日午前四時共同租界にてテロリスト團揚氏を襲ふ 揚其看氏
 夜《よは》にして山の上よりこがらしの過ぎぬるがごと過ぎてかへらず 悼中村孝
 
    青羊齒
 
 青羊齒のひいで秀でし形態に「平衡《グライヒゲウイヒト》」のさま見えむとす
(135) 擬寶珠《ぎばうしゆ》の芽は鉾形にのび立ちてけふの夕方あたり葉開かむ
 とほざかる鵜のこゑも未だくらき朝々ごとに聞くにはあらず
 をさな子が癒えむとしつつ鹽味を少しづつ食ふ時にはなりぬ
 入學のしらせ受けたる長男をよろこびこよひ洋食くへり
 青羊齒のいきほひづきて伸びゆくを顧みがてに一日庭見ず
 時たまに部屋をいで來て山羊齒のひいでてそよぐ傍《そば》に寄居り
 春の雨朝けより降り山羊齒はことごと濡れてにほふ色はや
 
    多胡
 
(136) 多胡の碑の古りたる文字を見るにだにおほどかにして心|樂《たぬ》しも 四月十六日
 きぞの夜の曇りのそきし上野に芽ぶかむとしてにほひだつ山
 はるかなる天の中處《なかど》に右榛名ひだり妙義の山も見るべく
 木の芽ふく低山《ひくやま》なみのあひにこそ多胡の入野《いりぬ》は見るべかりけれ
 ふる國の春を見しむとわが友はゲエトル穿きて峽をみちびく
 低山のあひだに見ゆる谷ほそくなりゆくさまもわれの身に沁む
 この山に泉なきこと談らふを聞きつつ居りて從ひ行くも
 低山の峰のまじはり稀ならずこの古國《ふるぐに》のいにしへおもほゆ
(137) 金井澤のはざまにくだり行かむとぞ蘭おほくして香《か》ある山ゆく
 赤松を運ぶ馬等のあへぎ居るはざまの道はいまだ新し
 褐炭の小さき坑が一つ見え二つ見えつつ谷は開けむ
 
    日曜
 
 午後二時半大川の泥あらはるるころを來りて心|虚《むな》しも 四月二十三日
 東《ひがし》より雲のうごきの疾くなりて川しもなべて水銀《みづがね》のいろ
 傍看してわれは過ぎ居り太鼓店|革店《かはてん》いく軒か軒を並べつ
 南より風の吹きしく曇り日に聖天町《しやうてんちやう》をひとりし行くも
(138) 山谷堀《さんやぼり》に橋がならびて掛りけり既に珍らなる世界のごとし
 
    靖國神社大祭
 
 若葉森あかるくなりし今日の日に悲しみて一萬の兵|銃《つつ》ささぐ 四月二十四日
 靖國の神垣の外《と》に身を寄せて額づくときに聲さへ出でず
 かしこきやすめらみことは御立《みたち》して新らしき數萬の神呼びたまふ 四月二十五日
 新聞に遺族アパートの寫眞あり老も穉《をさな》も祷をささげて
 サイレンの鳴りひびくとき一分間街上にても歩みをとどむ
 
    日記より
 
(139) 近々と盧山の霧のうごき來るその疾き霧いまだ見はてぬ
 首都いでし汪兆銘の存在をおもひ出《いだ》すがごとくに傳ふる
 わが子等と共に飯《めし》くふ時にすら諧謔ひとつ言はむともせず
 こもりにし家居より出づ山隈に通草の花の散りしけるころ
 信陽より西南方に應山といふところあり軍うごき始む
 
    浮沼池
 
 三瓶|山《やま》の野にこもりたるこの沼を一たび見つつ二たびを見む 五月五日
 かつてわれ疑ひたりし山の沼にけふは來りて心しづまる
(140) 菱のことをコツトイカケといひ慣らし穉らが採るいまの現《うつつ》に
 人麿が国府をいでて佐比賣山の原に誰とか廬せりけめ
 夏茱萸がいろくれなゐにむらがりて生ふるを見れば古へ思ほゆ
 
    鴨山
 
 佐比賣山その高原と鴨山と人かよひけむことをおもはむ
 安濃より邑智へ越ゆる槇原の山の岨《そね》よりふりさけにけり
 いつよりか人の往來《ゆきき》の道たえて水あふるるをくだりて行くも
 鴨山をけふわが見れば一昨年に相見しよりも青くなりつも
(141) 鴨山を二たび見つつ我心もゆるが如しひとに言はなくに
 
    佐比賣野
 
 佐比賣野は生ふる蕨の數しれずひくくして蕨ほほけつつあり 五月七日
 いろいろの鳥が音のする裾野にて雲雀幾つか中空《なかぞら》のぼる
 あひ呼ばふ牛の長鳴き淺山のかげにも聞こゆ芽ぶく淺山
 うちつづきあさ黄と芽ぶく高原《たかはら》の鳥啼く時にあひにけるかむ
 白頭翁むらがり生ふる佐比賣野を二たび過《よぎ》りわが歩みけり
 
    布野
 
(142) 出雲路をとほり來りて山青きふたつの墓に今ぞぬかづく 五月八日
 窓したの山がはに鳴く河鹿らを現かとおもひ否かとおもふ
 こまごまと君の遺ししもの見れば眼鏡おぼろにわれは悲しゑ
 夜をこめて布野のはざまに鳴く蛙曉がたは稀にし鳴くも
 石垣のうちに平安《やすけさ》のありといふことぞ悲しき布野を行きつつ 五月九日
 赤名越えて布野のはざまに藤なみのながき心をとどめむとする
 山のたをり廻りて來れば目下《まなした》に二つならびし奥津域が見ゆ
 かぎりなき木《こ》の芽もえつつ春ふけしひとつの山にのぼりてくだる
 
(143)    近作雜歌
 
 市なかに人富みしかばしろたへの椿のはなに鵯啼くも
 目のまへの甍のうへに春の雨さむく降るころをひとかへりゆく
 小林《をばやし》の芽ぶくを見れば悲しみて逼らむとするものならなくに
 數メートル前におつる敵弾の水しぶきあはれ心にわれ怖れしむ
 捕はれし熊劔東の徒といへど維新前後の吾が模倣のみ
 
     四月二十七日中村憲吉全集慰勞並に中村孝君追悼會席上
 
 布野の峽ましておもほゆ風おほき春ふけぬれば心よわりて
 
(144)     大日本歌人協會より授賞せられたる橋本徳壽君におくる一首
 
 たましひは流るるものぞ天《あめ》ゆくや地ゆくやなべて止まらなくに
 露伴翁※[病垂/(夾/土)]鶴の銘を示したまふかかる靜けさも吾は保ちつ 五月二十五日
 出羽ケ嶽引退をすることに極め廻るべき處に吾はまはりぬ 五月二十六日出羽海春日野挨拶
 五台|山《ざん》に吹雪するところ吾れ見たり心は痛しこの時のまは 五月三十日
 車房よりあふるるがごと朝な朝な勤むる人の競《きほ》ひ見るべく 春逝く三首
 わが底にかすかなる草の咲き散るをかへり見ざるに春行かむとす
 平凡にただの不思議と我軍のこの勇猛を思ひて過ぐな
 
(145)    深大寺
 
 深大寺に湧ける泉のゆたけきを我見に來たり立ちて見てをり 五月三十一日
 かくまでに無盡水にて湧きくるををとめ幾つにならばあはれむ
 水草《みづぐさ》のあまねき池にゐる鯉のしづまりたるは眠りけるらし
 うき草の間《ひま》に見えたる白き鯉あほれねむりぬまだ明るきに
 無患樹《むくろじゆ》の黒き木の實を外隱《そとがく》しに幾つか入れてわれ去らむとす
 
    節忌 【二月四日於發行所】
 
 あやしくも底びえがすとおもふころ歌會に行かむ時ちかづきぬ
(146) 一とせに一日をここに集へども君を見しひと幾人もゐず
 ひる過ぎて頭のいたみ強けれどわれは歌會にしづまりて居り
 
    赤彦忌 【三月廿一日於發行所】
 
 茂吉われやうやく老いて麥酒さへこのごろ飲まずあはれと思へ
 霜柱やうやく絶えて春の來しけふの日なかに君を語りつ
 年毎《としのは》におもふみ墓にあららぎの實の落つるころ我は行かむか
 
    左千夫忌  【七月二日於發行所】
 
 おきなさびいませるかなと師のきみを思ひてをりし頃ししのばゆ
(147) 口ひげの延びたまひたるおもかげも吾より若くすでになります
 淺草のみ寺にちかく餅《もちひ》くひし君と千樫とわれとおもほゆ
 
    姫あやめ
 
     和辻博士の新邸の庭は夫人丹誠のひめあやめ群生して青氈を敷きたるが如し即事數首
 
 おほどかに樂しき君がさ庭かな姫あやめはな限りも知らに
 しかすがに姫あやめぐさあはれにて夕づかなくに萎まむとする
 おりたちて今こそ歩め庭をおほふこまかき花を君は愛でつつ
 しづかなる君が家居は夕月夜露ふる頃しましておもほゆ
 
(148)    銃後
 
 三年《みとせ》以來「銃後」といへる日本語が時のま置かず脈うちきたる
 大きなるこのたたかひの火けむりに淨められたる國土《くにつち》涯《はて》見ず
 靖國の神のやしろに立ちのぼるうづ御光《みひかり》にわれは申さむ
 泥すすむ軍馬の列が映畫より消えゆきし後涙いづるかな
 こころみに思へぎりぎりの處なりともルーター網ごときに負けて何せむぞ
 
    記念日を迎ふ
 
 この力つらぬき透す國民《くにたみ》とさだめられたるを誰か疑ふ
(149) 二とせの國のこぞりをかへり見に今こそは見めそのいきほひを
 なまぬるきことをな言ひそ國こぞるひとつ火焔《ほのほ》の立ちのぼるとき
 哈爾哈《ハルハ》より海南島にわたりたる戰線をわが神明《かみ》は見たまふ
 聖きいのち何にかかへむあめつちにむかひて吾は呼ばむとぞする
 
    七月二十日曉
 
 午前四時過ぎたるときにあな寂し茅蜩《かなかな》のこゑはじめて聞こゆ
 あかつきの蝉の寂しきひとつごゑこだはり居りて眼を開《あ》くわれは
 わが庭の椎にしあれや朝の蝉ちかづき來つつみじかく鳴くも
(150) くらやみと過ぎし都會のあかつきに雀啼けばはや蝉は聞こえず
 うなじより流れし汗をありありとひとりごつさへ面《おも》はゆきもの
 
    こゑ
 
 みづみづし若きいのちを國興るほのほの中に捧げたてまつる
 おほきみのみ民とともに手《た》づさへて聖き叫びをあぐる民ぞも
 相こもりしわが妻をおきいでたちてはや二年の山は青しも
 おほいなる動きのすすみ明らけく退轉《しりぞ》かむとするものと思ふな
 いにしへに嘗て聞こえぬ物のこゑひむがし亞細亞に聞こえ來りぬ
 
(151)    歌碑行
 
 いただきに寂しくたてる歌碑見むと藏王の山を息あへぎのぼる
 山腹の三本楢といふところ水湧きいでて古へゆ今に
 平《たひら》ぐらの高牧に來てあかときの水飲み居れば雲はしづみぬ
 月山のやまの斑《はだれ》の見ゆるころこの高原を馬わたる見ゆ
 さやかなる山の曉ゆくときに蟆子《ぶと》ぞまつはるおそろしきまで
 水の湧く平がありて柔かき草の生ふるを暫く踏みぬ
 この山にのぼれる人の幾たりは仙人澤のさ霧にまよふ
(152) 低草《ひくくさ》をこもらしめたる水湧けり小《ち》さき砂地も近くにありて
 藏王にのぼらむとする道にわかれて峩々温泉に行く人のあり
 湧きいでてたまれる水のこもり處《ど》に蟇《ひき》の蝌蚪《かへるご》生《しやう》は安けし
 むら山のうねりか青なる眞中《もなか》に藏王のやまは赭くそびえぬ
 
     七月八日歌碑を見むとて藏王山に登る同行岡本信二郎、河野與一、河野多麻、給城哀草果、高橋四郎兵衛の諸氏
 
 歌碑のまへにわれは來りて時のまは言ぞ絶えたるあはれ高山や
 れが歌碑のたてる藏王につひにのぼりけふの一日をながく思はむ
 一冬を雪にうもるる吾が歌碑が春の光に會へらくおもほゆ
(153) この山に寂しくたてるわが歌碑よ月あかき夜《よ》をわれはおもはむ
 みちのくの藏王の山に消《け》のこれる雪を食ひたり沁みとほるまで
 藏王の赤はだかなる峰にゐて雁戸《がんど》の山は直《ただ》に青しも
 雪消えしのちに藏王の太陽がはぐくみたりし駒草《こまぐさ》のはな
 いにしへは神にせまりてこの山に上りしかども遊びせなくに
 この山にまうせん苔を遊びしは三十年の過去となりたり
 北にこごる雲をあふぎてわれの見し鳥海山はをとめのごとし
 さんげ坂くだりくだりて汗にあゆ友のうしろに吾は黙《もだ》して
 
(154)    明神嶽明星嶽
 
 山鳩は悲しき鳥か相呼ばふ聲はかたみに透ることなく 七月三十一日
 明神の山腹にして富士が根のいただきさやに見えたるあはれ
 平より雲わき上りこの谷の青きうねりを斑《はだら》になすも
 東谿白く霧ひて相模《さがむ》の國のまほらに見ゆるもの無し
 赤蜻蛉《あかあきつ》よわよわとして飛びかへる山はまだきに秋たつらしも 曉のさ霧にぬるるさだめにていまこそにほへあめの花原
 東《ひがし》より押して迫れる白雲は峯に觸りつつうづまきのぼる
(155) ちかづきて見れば高萱あらあらし年の行事と此處に火ともす
 
    山莊日記
 
     七月二十二日より山莊にこもりて折に觸れ咏み棄てたる歌若干首あり便に從うて茲に録す
 
 怠らむとわれ思はねど山中に來りて生《しやう》を靜かならしむ
 わがためにここに起臥し炊《かしぎ》せし媼身まかりて日々に悲しも
 劇しかりし上海戰の新聞が赭くなりて障子に貼られつつあり
 鉛筆にて赤き標をわがつけし北支事變の新聞のこる
 クレーギー大使は兩手《もろて》の拳《こぶし》をば接して立てりこの表情よ 日英會談
(156) 敬虔なるこの體樣《たいやう》を彼は先づ具備せしめたり見すぐし難し
 咄嗟なる有田大臣の手の位置はクレーギーよりも稍流動す
 一國の外交戰といふといへども人客觀的には斯くも見ゆるも
 射干の花のふふまむ頃となり山ほととぎすいまだ聞こえず
 ひとつ谷に圓かなる月かがやきて雷の音する雲ちかづくも 七月三十一日
 峽の門《と》にいまだも低き月かげはおどろの露を照らしてゐたり 八月一日
 東京にありて聞かざるもの聞きぬ月のひかりに夜鳥《よとり》のこゑす
 すわりゐて圓かなる月われ見たり杉の木間をかたむきゆくを
(157) 日の光眼に沁むまでに強くして草生《くさふ》のうへに※[虫+奚]※[虫+斥]《ばつた》しづまる 八月二日
 さ夜ふけてより峽の門はあかるめりわが居る此處はおほにくらきに
 谷の中に虹いつくしく立ちたれどありふれし物の如くになりつ 八月三日
 茅蜩《かなかな》の鳴きやむ頃に待つ蝉の聲の如きが交はりて鳴く
 わが娘時々に新約のことをいふ善き言の葉を聞くはうれしも
 ノモンハンの戰《たたかひ》のさま氣を屏《つ》めて思ふことありさだかならねど
 この庭に土龍もたげし黒土が朝々にあり淋しきものぞ
 日英の會談の記事日々讀みて亢ぶるこころ靜めにしづむ 八月四日
(158) 「彼等は女に汚されぬ者なり潔きものなり」とは女の側《かは》より見しか 八月五日
 山中の家居に居りて新聞を待ちこがるるを獨語《ひとりご》ちつつ
 奉天の大成潔みまかりてはや二週間過ぎむとしたり 八月七日
 蟋蟀が杉の下びに鳴きはじむ月いづるまへの暗やみにして 八月八日
 かくばかり竹の落葉のつもりたる山もとの道しばし通れる 八月十日
 鵯は朝々來鳴く谷遠く鳴きつつ來《きた》るこゑの戀《こほ》しさ
 ほととぎす向つ谷間にこもり鳴く曉起に聞きて飽かなく
 白き百合をはりとなりて黄なる百合ひらかむとする頃をこもれる 八月十二日
(159) よはよはと咲きはじめたる射干のいろかなしきはただ一日のみ
 十三日箱根の山の上空を三機編隊の音とどろくも 八月十三日
 山鳩は晴れわたりたる山峽の今日の午前《ひるまへ》啼くこゑ聞こゆ 八月十五日
 白桃の大きなるものわが部屋に並べつつあり清《すが》しといひて
 みづみづし新妻が手を手《た》にぎりて君は南へ大洋《おほうみ》わたる 八月十七日爲小谷君新婚
 
    續山莊日記
 
 朝の雷《らい》北の空より聞こえ來るそのとき鳥の聲も聞こえず 八月十九日大橋君歸る
 朝いまだくらき空より飛行機の音ぞきこゆる急げるものか 八月二十日
(160) 茅蜩《ひぐらし》はあかつきに鳴き時おけば幾たびか鳴く日のくるるまで 八月二十二日
 眼の青き蜻※[虫+廷]《やんま》を一つ捕へたり稚きものら暫し樂しむ
 元の使者斬られて六百六十年の秋口にしてその墓洗ふ
 杉の樹に巣くへる鳥を襲ひたる蛇ひとつ見つ山にし居れば
 ゆふぐれに近づくころは新聞の來るを待ちわぶ戀ふるがごとく
 雲低くうごくを見つつけふひと日露件先生とただ吾とのみ 八月二十二、二十三日
 幾たびか眼高手低の境界《きやうがい》に入るを惜しむと言ひたまふなり
 君とふたりのみなる大き幸をわれいだきつつ象棋負け居り
(161) いにしへの佛の世より巧者等は以問爲教の實を傳へし
 あはれ豐けき露伴先生のみそばにて支那|女《ぢよ》詩人に執著《しふぢやく》をする
 ここに來て二たびわれの相むかふ箱根の山にかがやける月 八月二十九日
 あきらけき月の光に見ゆるもの青き馬追薄を歩《あり》く
 起臥して日を經るままにかく明き月を見ること稀々にして
 月の夜に吾起き居れば蟲がねの數限りなきごとく聞こゆる
 片かはにあらぶる浪の形せる雲たむろして圓かなる月
 飛行機ニツポン太平洋を横斷す勝鬨よりも強きに似たり 八月三十日
(162) 圓かなる月はのぼりて山の上《へ》に群がりてゐる石さへ明《あか》し
 あまのはら月の光の隈なしとわが立つなべに雁の行く見ゆ
 このときに六全大會を報じ來る新勢《にひいきほひ》に動悸を威す 八月三十一日
 新しく造らるる成語に眼をとどむ「睦隣政道」「複雜怪奇」
 かすかなる書を讀みつつ山の上《うへ》に興亞奉公の一日暮れたり 九月一日
 われよりも七歳《しちさい》あまり年若き彼の英雄は行く手をいそぐ
 バルシヤガル平地戰線の砲の音わが耳朶《みみたぶ》にくひ入る如し
 谷を隔てて應召おくるこゑきこゆ狹霧のたちし朝まだきより 九月二日
(163) 九月一日二日獨逸ポ−ランド國境戰爭のみじかき記事あり
 飛行機の音谺する一時をここのはざまの道にわれ立つ
 序幕戰すでに溷濁し居りて一九一四年の華かさなき 九月四日
 滿洲國牡丹江よりの軍事便蝮の群を捕へしことのみ
 ああ西部戰線に猛烈の動きなし合意の Interruptus か
 雲ひくく垂れて樹立に入るときに睡眠《ねむり》は吾を迫めてやまずも 九月八日
 ただならぬ國と國とのなからひを山の川原に思ふあはれさ
 鳥獣も然れ希臘《グレシヤ》の神々はいま死なむとする人を見捨つ
(164) さびしさの嚴しきものを身に染《し》めて起臥すときに吾弱々し 九月九日
 山のべの朝とゆふぐれ二たびは僅かばかりの飯《いひ》を炊《かし》ぎぬ
 ノモンハンに續く國境戰闘を氣にかけながら眠るよひよひ 九月九日十日
 月かげの無きこのごろの宵闇に鳴く蟲のこゑあまたになりつ
 この雲の上をし行くか強き雨そそげる時に飛行機きこゆ
 第二次の西部戰線に猛烈の勢ひなきをわれもおもへる
 やうやくに秋寂びむとすとおもほゆる此處の木立に雨蛙鳴く
 思ひきり海軍戰もあるべしと中立國の人々おもはむ
(165) ウイルヘルム二世の寫眞ドールンにて撮りたるものの老いしおもかげ
 山なかに日ねもす雨の降るを見てわれひとり此處に居りがてなくに
 豆もやし蒸せるがごとき感動よ歐洲戰を背景とする
 葛に似し薄むらさきの秋花の吹きそむるまで籠りけるはや 九月十二日
 秋のいろ山の膚《はだへ》に見えそめし今日のゆふぐれ山をくだらむ
 
    小吟
 
 九月十五日の東郷モロトフ會談を偶然となす人ありやなし 九月十六日
 私《わたくし》の感情に過ぎずと思ふらむさもあらばあれ齒痛《しつう》の去りしに似たり
(166) やうやくにわが口ひげは白けれど參同契《さんどうけい》を知ることもなし 九月十八日訪幸田先生
 ここを獨りわれは歩める瓜生刀自銅像の前に靜かなるベンチあり 九月三十日
 淺草のみ寺をこめて一目なる平らなる市街かなと見おろす
 川獺の水くぐるときこゑあげし童子等と吾と干係は無く
 群集は足音たてて昇降す八層《はつそう》の家のおのおのの階
 丈高き茶の木に白き花咲きて人どよめきを感じつつあり
 感情をいふ暇なし空氣切る對地戰闘の時のまのおと 十月一日
 夜ふかく應寡歌あまた讀みとほし鹿兒島縣へ旅立たむとす 十月二日
 
(167)    雜歌控
 
     賀壽
 
 わが父の兄の治右衛門伯父こそは九十二歳の老に入りけれ
 大君もほめたまひたる伯父のきみはいのち長くて國の寶ぞ
 甥茂吉五十八歳にしてよろこびぬ九十二歳の伯父治右衛門を
 餅あまたくひ飽かぬてふ伯父のきみを今《いま》壽老人とわれ申しける
 金瓶《かながめ》が金谷《かなや》のころに生れたる伯父をおもへば年ふりにけり
 
     讀賣新聞兎の寫眞を示して一首を題せよといふ即ち一首(一月十七日)
 
(168) 兎|如《な》して言擧せざる國なれど今年はつひの勝鬨あげむ
 
     汪洋島連太郎翁古稀賀(二月十一日)
 
 わたつみのよせ來る浪はをやみなく君をよろこぶこゑをつたふる
 
     石橋二三郎翁古稀賀(二月十一日〕
 
 あまそそる越の白山うちあふぎながきみ齢《よはひ》ほがざらめやも
 
     菊池幽芳翁古稀記念「幽芳歌集」序(三月八日)
 
 秋さればもみぢのあかきふか溪に幽芳溪《いうはうけい》の名をぞとどむる
 勝どきのとどろくときに菊の花ふるふてふみ歌たたへざらめや
(169) 菊つくる翁とこそはおもひしか人麿も知らぬ菊の歌あり
 海龜が卵を生むを見つけられ泣く涙さへ歌によみます
 萬葉のひびきつたへし歌いくつ老のみいのちいよよすがしも
 
     短歌新聞百號祝歌(四月十五日)
 
 百號になりたるといふこと聞けば黙《もだ》し居りとも黙《もだ》すにあらず
 柳田が短歌新聞か短歌新聞が柳田かといふことは吾も云はむぞ
 
      神保孝太郎博士墓參(五月三十一日)
 ゆく春のひと日のゆふべいそぎ來て君がおくつきをわれ去りあへず
 
(170)      高安國世君新婚賀
 
 つまを得て家ごもりするときよりぞ和《にぎ》よろこびははじまりにける
 
      子規忌(九月二十三日)
 
 あきらけき道の上に立つ幾たりを君は見いでて喜びけむを
 
      太平洋
 
 新しくみなぎる興亞のいきほひは太平洋のうへにし及ぶ
 大うみの浪を越ゆるとためらはぬこの力こそ美《うま》しかりけれ
 わたつみの奥《おき》を渡りて人は見む天《そら》をうつ浪あぶらなす凪
(171)かぎりなき力伸びむと我が同胞《どち》の船ぞわたらふこの大海《おほうみ》を
 大き艦《ふね》かずをつらねでゆく時ぞわたつみの浪|幸《さきは》ひを呼ぶ
 海ゆかば水づくかばねとことほぎて太平洋は砲ぞとどろく
 
(173) 卷末記
 
 本集には、昭和十二年(四一八首)、昭和十三年(三二九首)、昭和十四年(三六八首)に作つた短歌合せて一一一五首を收めた。私のものとしては最近の制作にかかつてゐる。
 この「寒雲」は、發行の順序からいへば私の第三歌集であるが、大正十四年に、「つゆじも」といふ歌集を發行せむとして、古今書院主橋本福松氏と相談して、印刷の組みに著手したほどであつたが、その頃の歌には、年代的に空隙があり、手帳に未完成で書とどめたものなどが可なり多いので、それを整理しようといふと、時間がかかつて當時の私の生活状態では奈何ともし難かつた。併しそれを整理して「つゆじも」を出すつもりでゐたが、その實行が出來ぬうち徒らに歳月がたつて今日に及んでしまつた。友人がいふに、その纏まるのを待つてゐてはいつまでも埒が明かぬから、反對に新しい歌の方から出して行つたならどうであらうか。そこで私はその説に從つて、先づ新しい方の歌を纏めることにした。さうしてこの「寒雲」が私の第三歌集になつたわけである。
 私の第二歌集「あらたま」の發行は、大正十年一月であつたから、それから算へると、この(174)「寒雲」の發行は、二十年目に當つてゐる。そのあひだ、同情ある友人等は歌集の發行を期待してくれられたので、さういふ事情からしても、今囘の歌集は、内容を精選して少しくは讀むに堪ふべきもののみを收録するのが、最も自然な遣り方だとおもつたのであつたところが、中途から方鍼をかへて、即興即事の歌、註文に應じた歌、手紙ハガキの端に書いた歌等に至るまで、見つかつたものは全部收録することにしてしまつたから、「赤光」、「あらたま」發行當時のごとく、新歌集を以て世に問ふといふやうな氣持とは全く縁の遠きものになつた。そこで私に同情ある讀者諸氏に、この中から幾らか讀むに足るもの若干首を拾ひつつ鑑賞してもらふといふことを私は希ふのである。
 本集の制作時に於ける私の生活は、別にかはりなく、作歌はやはり業餘のすさびといふことになるわけである。ただ昭和十二年に支那事變が起り、私は事變に感動した歌をいちはやく作つてゐるのを異なつた點としてもかまはぬやうである。なほ私はこの「寒雲」發行以後、昭和十一年昭和十年といふ具合に溯つて、一年に一册ぐらゐづつの新歌集を出すつもりであるから、ねがはくは一瞥せられたい。
 本集出版に際し、岡麓、土屋文明、橋本福松、佐藤佐太郎、山口茂吉諸氏の鞭撻助力に對して深き感謝の念をささげる。
 
 のぼり路
 
(177) 昭和十四年 十月以後
 
    高千穗峰
 
     可愛山陵
 
      天孫瓊瓊杵尊の御陵にして鹿兒島縣川内市大字宮内にあり
 
 あまつ日高彦|火瓊瓊杵尊《ほににぎのみこと》を葬《をさ》めまつりし山の可愛御陵《えのみささぎ》
 天孫《すめみま》のみささぎのうへに年ふれる樟の太樹《ふとき》のかげにわが立つ
 空とほく秋のしづまるひるつ方みささぎにのぼり三たり額ふす
(178) いつしかも神のみささぎに吾等をりて現しき山に涙しながる
 雲はやく西にうごきてやまぬとき天つ日さしぬ可愛のみささぎは
 
     高屋山上陵
 
      彦火火出見尊の御陵にて鹿兒島縣姶良郡溝邊村大字麓字菅の口にあり。古事記上卷云、「御陵者即在2其高千穗山之西1也」云々
 
 ひむがしの空にあきらけき高千穗の峰に直向ふみささぎぞこれ
 澄みはてし吾のこころを額づくや高屋の山のうへの御陵
 神の代のとほき明りの差すごとき安けきにゐて啼く鳥のこゑ
 吹く風の松の木立にこもりたるそのひと時をかしこむ吾は
(179) あたたかく陽のさす斜面《ななめおもて》には蜂ごもりして遠つ世《よ》なすも
 みささぎを守るこの翁わがために審に云ひて國を見おろす
 うつつなるこの御陵に神の代を直《ひた》におもひて去りあへなくに
 しげりたる木《こ》むらのなかのゆたけきに鵯鳥來鳴く神のみささぎ
 
     吾平山上陵
 
      吾平山上陵は※[盧+鳥]※[茲+鳥]草葺不合尊の御陵にまします。鹿兒島縣肝屬郡姶良村大字上名字吾平山にあり
                .
 大隅のくにの南の御陵に雨に濡れつつ川の瀬わたる
 しぐれ降る峽に足とどめ山がはの音斷えまなき瀬々を目守りぬ
(180) とほく來てわれの渡れる川の上《かみ》の巌洞《いはほ》のなかに神こもります
 この深きはざまを籠めし御陵《みささぎ》に日もすがらなる雨降りみだる
 石川のきよき流れの極まりに巌《いはほ》おほきくとはのしづまり
 みささぎゆ出でてながるる清川《きよかは》や白き鳥ゐていさごを歩む
 そのかみに峽にみなぎりし奔浪《はやなみ》を心におもひ吾もひれふす
 日向《ひむか》の吾平の山の上の御陵にわがころも濡れしことも傳へむ
 
    鹿兒島神宮・石體神社
 
 鹿兒島の方《かた》ふりさくる神宮《みやしろ》にこの身潔まり旅ゆかむとす
(181) 天孫《すめみま》の神のみまへにひれふして豐酒《とよき》を飲みぬあはれ甘酒《あまき》を
 鹿兒島の大御社の杉木立その下かげに一とき立ちぬ
 裏山の徑をのぼりて木犀の香を嗅ぐころぞ秋はれわたる
 梛の木のふと木にとまり鳴く禽《とり》を顧みしつつ山に入るなり
 罪けがれここに祓ひて秋ふかき十日の旅の行方たのしも
 石體《しやくたい》の社へくだる山道をわが知る人もくだりけむかも
 高千穗の宮に軍の議《はかりほと》遂げたまひたることぞかしこき
 石體の神のやしろに小石つむこの縁《えにし》さへ愛《かな》しかりけれ
(182) 高千穗の宮居をしぬびたてまつり二たび見さくる山ぞ全《また》けき
 
    霧島途上
 
 加治木|町《まち》の士族の家を見などして暫くにして隼人|町《まち》過ぐ
 隼人塚の直ぐそがひにし黒々としげれる山にのぼりまうでむ
 おしなべて國分煙草の名に負へる米葉《べいは》ぐるまにあまた逢ひつも
 大隅の姶良|郡《こほり》の山川をよろしと云ひて北へぞむかふ
 和氣祠堂《わけしだう》のことも細かく聞きしかど心のこして急ぎつつあり
 日當山《ひなたやま》 妙見 安樂 鹽浸《しほひたし》 湯は湧きいでてくすしき國ぞ
(183) 韓國のいただき和《のど》になだるるをすでに此處より見つつすがしむ
 天降川《あもりがは》やうやく細くなりゆくを霧島山にかかるとおもひぬ
 高原《かうげん》に優秀|種馬《しゆば》のかずかずを養ふ君に吾等感謝す 交尾期は大切にしてもろもろの馬ももろ人《びと》も一心となる
 
    霧島林田温泉
 
 この山にわが著きぬれば暮れかかる櫻島より煙は絶えつ
 遠々し薩摩のくには日は入りてたなびきにけり天のくれなゐ
 霧島の山に入りつつ星ひくくかがやきたるをはや珍らしむ
(184) やま水がたぎり湧く湯をぬるむとて相共にありこよひの宿に
 大きなるこのしづけさや高千穗の峰の統べ」たるあまつゆふぐれ
 南なる開聞嶽の暮れゆきて暫くわれは寄りどころなし
 霧島の高野《たかぬ》のうへの夕空をいまだ樂《たぬ》しむ暮れゆきしかど すでにして黄なる除光は大隅のくにを越えたる空に求めつ
 關門にきのふ亂れし雨もへばけふのゆふべはあはれ樂《たの》しも
 霧島の山のいで湯にあたたまり一夜を寢たり明日さへも寢む
 
    蝦野・韓國嶽・大浪池
 
(185) 猪の足跡を見てこもごもに語る實例しばらくつづく
 高はらの光を浴みて振り放けまつる高屋の山のうへのみささぎ
 高原にさせる光のあまねきにこの身ひそめむ石さへもなし
 ふかぶかとしたる木立をつひに過ぎ蝦野《えびの》のうへに空は明《あ》かるも
 韓国の北の一峰《ひとみね》おちいりて硫黄のいぶき此處に聞こゆる
 韓國の山に近づく山なだり大峽小峽《おほかひをかひ》皆古りにけり
 栂樅の密林すぎてあな愛《かな》し四照花《やまばうし》の實共にし食へば
 おほどかに年ふる山と韓國を吾もぞおもふあひ近づきて
(186) 野海棠くれなゐ深きもみぢ葉のこの高處《たかど》より見ゆる遙けさ
 あまつ日は白く懸かれど谷々を越えし國原ゆふぐれむとす
 韓國の山をめぐりて延び延ぶる四十八谿《しじふやたに》の木立ふり放く
 谿々は木立の中にうづまりて鳥が音《ね》とほし韓國の嶽
 大浪の池にのぼれば色づかむとする木原のうへにあまつ日ひくし
 火口湖は高々として水たたふあやしくもあるかこの高きみづ
 大浪の池にさざ波立つころを狭霧はくだる水にむかひて
 
    霧島神宮・參拜歩道
 
(187) 午前三時霧島山の大神にまうでむとして眼《まなこ》をあらふ
 霧島の神の社にぬかづくとあかとき闇をい往く五人《いつたり》
 蟲がねのしげき神宮《みやしろ》のくらやみに時を待ちをる我ならなくに
 潔《きよ》まりてわれ等をろがむ御社《みやしろ》の天孫《あまつみこと》のみ靈《たま》うつしけ
 むら雲に有明の月こもりしが霧島山をたちまち照らす
 みやしろの杉の樹立にこだまする曉闇《あかときやみ》のこほろぎのこゑ
 ともし火を持ちつつ歩む山道は吾としいへどためらひもなし
 この道を開ける勤勞奉仕團聾唖生徒も力ささげつ
(188) 谷間より曉《あけ》の光の見え來り大樹《おほき》の立てる間《かひ》をうかがふ
 霧島の林を來ればおちいりし石群《いしむら》中に激つ水なし
 
    古宮址神籬齋場
 
 高千穗はいまの現《うつつ》に神さぶと天《あま》つ狹霧に隱ろひにけり
 高千穗の狹霧の渦を背景《そがひ》にし日の丸の旗は天《あま》ひるがへる 天降《あも》りましし國の肇のいきほひを青年《わかびと》こぞりけふぞあふがむ
 神籬の齋のにはの石積むと力ささげむ若きもろごゑ
 日の本の常稚國《とこわかぐに》の血の脈《すぢ》をいまに傳へて仕へまつらふ
 
(189)    歸途・湯の野温泉・高千穗寮
 
 天降川《あもりがは》その名を好しとはるばると旅來しわれは名を書きとどむ
 六米五〇の道路新しく開けつつあり谷をわたりて
 赤松の聳ゆるひまゆ底ごもり霧島川のおとの戀《こほ》しさ
 霧島の山の木通を子等取ると走り入りぬる茂み見とほす
 數多きいでゆを見むと田のあひも小徑もい行く驚きながら
 この寮に心かがやき起臥しぬ男女學生青年奉仕團
 息づきて狹をのぼれば遠くにし霧島川の浪うごく見ゆ
(190) 湯に近き岡のうへには草生ひず白岡つづく澤に至るまで
 
    硫黄谷
 
 よもすがら山を染めむと降りそそぐ硫黄の谷のしぐれの雨は
 ほしいままに時雨のあめめ降りつぐを風かはりぬと思ひつつゐし
 硫黄谷のみ湯の眞中に入ることを處女《をとめ》といへどためらはなくに
 ゆたかなる温泉《いでゆ》の中に居たりしが部屋に歸りてものをこそ思へ
 湯のいづるはざまのうへに天雲の垂れ來るときに夜は更けたり
 ひもろぎの齋庭に立ちてい吹《ぶ》きくる狹霧を吸ふも君がまにまに 松原總務部長
(191) 童山《どうざん》の手にとらはれし朝鳥《あさどり》を永きえにしと吾もおもはむ 奥田縣立圖書館長
 霧島の山の木草《きぐさ》をつばらかに吾に教へて君は飽かなく 内藤高等農林學校教授
 
    高千穗途上
 
 さかさまにおろして來《きた》る白雲は霧島山に千筋をなすも
 天地《あめつち》もくらみわたれる狹霧にし霧島山はかくれて見えず
 おろし來る天つ狹霧にい對《むか》ひてのぼらむとおもふ心ぞわれは
 眞向ひの新燃岳の黄のもみぢおぼろになりて狹霧はわたる
 うつせみの吾の額はたちまちに天の狹霧に濡れてしづくす
(192) 霧にぬれし女男《めを》の童《わらは》のい競《きほ》ひに足をとどめて言《こと》さへもなし
 這ふごとき體しながらいましめて赭くなだれし道踏みのぼる
 龜石と人よぶ石にたどり著き隱ろふごとく眼《まなこ》を閉ぢつ
 今しがた通り過がひしが雲の下になりし稚等《をさなら》の聲々きこゆ
 馬の背を越えつつゆけど眼交《まなかひ》もみぎりひだりも動く白雲
 
    高千穗山上
 
 高千穗の山のいただきに息づくや大きかも寒きかも天の高山
 吹きおこる風のいぶきに天雲の入室雲うごき見えそむるもの
(193) やま閉ぢし雲は開けてはつかなる空の蒼きを戀《こほ》しみかはす
 高山の峰に立てれば天《あま》のぼる狹霧の渦を直にし見たり
 わだつみの上にただよふおぼほしき低雲にしも光あるはや
 退《そ》き走るあまつ狹霧の奥《おき》とほき日向の國はあらはれにけり
 あま照らす光のまにまあざやけしこの時のまや起伏す國士《くにつち》
 青山と嚴《いつく》しきかもこぞりたる山なみ千《ち》なみ國をわたれる
 もろもろの生《いのち》をこめて現《うつ》しきや青き山脈《やまなみ》浪だつなすも
 國はらはあやしきまでに光うけ開聞が嶽《たけ》たちまちに見ゆ
(194) 高千穗の峰のうへより豐秋の國を見放けて勝《かち》さびにさぶ
 天のはら八重棚雲を押分けて天降《あも》りましきと心かがやく
 遠ぐもはこごりこごりて肥のくにの阿蘇をつつめるきびしき雲ぞ
 はるけきや高天《たかあめ》の門《と》にあはれあはれ頂あをき温泉《うんぜん》が嶽《たけ》
 高千穗の峰をきはめてこころ安し我身いたはりくだりて行かむ
 火を吹きて空さへ燒きし上つ代を心にもちてわが心燃ゆ
 雲のひまのわが眼交にうつくしき山にもあるか韓國の嶽
 年ふりし火口の底ひ見おろして赭くただれし斷崖《きりぎし》行くも
(195) しら雲を百分《ももわ》き千分《ちわ》きしたがひてをとめの神も天降《あも》らしけらし
 高千穗をくだり來てここに足とどむ國つむら山あまつむら雲
 
    東串良・柏原
 
 みささぎの雨に濡れける歸途《かへりぢ》に串良《くしら》の町を一たび過ぎぬ
 黄にみのりし田畝《でんぼ》の間《あひ》に見ゆるもの古墳の群《むれ》と君語り行く
 柏原《かしはばる》の橋をわたりて相むかふ波見《はみ》の港のいにしへおもほゆ
 たひらなる肝屬川《きもつきがは》の川口に雨はれわたり搖波《ゆりなみ》を見ず
 大隅の串良の川に樂しみし鰻を食ひてわれは立ち行く
 
(196)    指宿
 
 しほはゆきいで湯の中にしづまりて高千穗の山をおもひつつ居り
 枕べに濤《なみ》の音《と》きこえ重々しとどろく中に蟋蟀のこゑ
 くらやみの夜《よる》にきこゆる濤のおと夜もすがらにてしばしば目ざむ
 大隅の高隈山に雲ゐつつひむがし風は海ふきやまず
 なぎさにも湧きいづる湯の音すれど潮滿ちきたりかくろひゆくも
 
    指宿植物試驗場
 
 此處にしも湯は湧きいでて熱帶の花等もからくれなゐに咲けり
(197) 佛桑華にほへる見ればしひたぐるもの無き此處に咲きにほふらめ
 扇椰子糸椰子の掛も高々としげりにしげり驚くわれは
 海紅豆の花紅くしてハナキリン朝日かつらも紅くかなしき
 しぐれ降る頃となりつつ植うるもの茄子《なすび》の苗に顔ちかづけぬ
 
    山川港
 
 琉球の船連なめて出で入れるころの港にすでに近づく
 長崎に先行したる貿易を今は平凡なる語にて語らむ
 海きよき南薩摩を過ぎむとし古き歴史の斷片《きれぎれ》も好し
(198) 南蠻の船の寄來《よりこ》しころほひの人事ゆゑに「あはれ」が多し
 この港よろへる山に道とほりまだ青々し秋といへれど
 
    長崎鼻・開聞嶽
 
 いただきは雲に隱ろふ開聞のゆたけき山に今は近しも
 開聞の山のいただきにかかりゐる雲は東北《ひむがしきた》よりうごく
 開聞の山の猪のものがたり現に聞きて吾はおどろく
 長崎の鼻のいはほに小鴉の飛びくるさまも旅路はるけし
 南薩摩のはての岬に浪かぶる岩のいくつを心に留めつ
(199) この丘の砂のあひだににほひ居る濱なでしこは低くかなしも
 潮風の吹く砂の上におのづから厚葉となりし小草《をぐさ》しげりつ
 はての岸に寄せ來る浪の幾きだを旅遠く來て心したしむ
 開聞は圓かなる山とわたつみの中より直に天に聳えけれ
 開聞の山のふもとに黒々とつづける山の雲はれわたる
 長崎のはたての岩に常なべてしぶきあがるを吾はまもりぬ
 まなかひに近づき見たる開聞のいつくしき山青きしみ山
 
    池田瑚・枚聞神社
 
(200) 大きなる湖《みづうみ》ありと思ひきや開聞が嶽映るなりとふ
 玉の井に心|戀《こほ》しみ丘のへをのぼりてくだる泉は無しに
 枚聞《ひらきき》の神の社にをろがみてわたつみの幸をあまた眼に視し
 わわやめの納めまつりし玉手筥そのただ香にしわが觸るるごと
 廿五代島津|重豪《しげひで》の納めたる「始生《しせい》」の二文字見すぐしかねき
 
    枕崎港
 
 この町に近づきくれば魚の香ははや旅人の心に沁みつ
 秋の海のくもりの低きひるつ方此處に來りて南はてなし
(201) としどしに榮えてやまぬこの町に蠅のつどふを語りつつ居り
 わたつみをおそれためらふことなくてかぎり無き代に生《あ》れ繼ぐらむか
 南洋にいで行くことも稀ならぬここの港の老人若人《おいびとわかびと》
 幾萬を超えたる鰹港より陸にあがるを表象とする
 漁獵中の應召者らへの傳達を瞼《まなぶた》あつく聽きつつ居たり
 船こぞりいきほふさまを目《ま》のあたり見ざりしかども見たるに等し
 
    野間岬(笠狹之碕)
 
 潮浪和ぎをさまりて平和《たひらぎ》の住むとこそ見め大浦小浦
(202) こもりづのしづかさ保つさもあらばあれ海のうろくづ此處につどへる 野間池
 ここにして野間の岬に照りかへす雲をとほりて日は入らむとす
 神つ代の笠狹之碕にわが足を一たびとどめ心和ぎなむ
 眼《ま》かがやく野間の岬の浪のいろまと面《も》にゐりて古へおもほゆ
 御面《みおもて》はにほふがごとく「朝日のただ差す國」と宣らしけむかも
 この崎に到りましてよりあな清《さや》け神の國覓はや妻覓はや
 すでにしてここの汀を歩みけむ麗女《くはしめ》の神|童女《をとめご》の神
 
    加世田・伊作
 
(203) いにしへの吾田《あた》をとほれば妻覓ぎし神の尊のかしこきろかも
 神の代の聖きあとどころめぐるべくこの功績《いさをし》を讃へざらめや 南薩鐵道會社
 野間岬を遠ざかりつつ日置郡《ひおきこほり》の境に入りて日は暮れにけり
 よもすがら蟇《ひき》鳴く聞きて眠りしが朝あけてより蟇の卵見つ
 白蚊帳のなかにこもりて眠ることあはれと思ふ神な月のよる
 このいで湯に浴みつつ遠き神のことおもほゆるまで心しづけし
 つゆじものしとしととせる朝あけに柿の落葉のいろを愛《め》でつも
 蟋蟀を聞きて眠りしこの宿のゆたかをとめを吾は忘れず
 
(204)    吹上濱
 
 野間嶽を眞面《まとも》に見つつ濱砂を歩みてぞ行く岡のうへまで
 この濱の白き砂丘のうへに立ち笠狹の碕は見るべくなりぬ
 濱すげは砂に即き生ふる草にして砂山のうへをか青になせり
 吹上の濱におき伏す砂丘《すなをか》に立つ陽炎《かぎろひ》の中をい行くも
 ごの濱につづきて黒き松原《まつはら》の松ふく風のゆくへ知らなく
 ま弓なす海のなぎさの遠々し羽島《はしま》の崎は霧ひけるかも
 甑島わたつみの上に見ゆれどもあはあはとしてくろの住む島
(205) 吹上の濱に網ひく海人ともにわれは忘れじ心に持ちて
 幸に二たびを來ばこの海の江口の濱に下《お》り立たましを
 をとめ神も歩ましけむと遼遠《とほき》世をおもへば戀《こほ》し吹上の濱
 
    川内市
 
 秀吉がここに來りて大塹《だいざん》を築きしといふその古がたり
 西ノ海嘉冶郎のことゆくりなく吾《われ》の心によみがへるあはれ
 この町の頓《とみ》に榮ゆるありさまをまのあたり見て社《やしろ》へいそぐ
 可愛《え》の山の神《かむ》づまります御社にはじめて詣づ靴をぬぎつつ 新田神社
(206) 萬里紅《まりこう》の鯉を食はむとわれ餓鬼は石の階三百三十忽ちくだる
 萬里紅の鯉は珍しもをとめだちかはるがはるに笑みかたまけて
 海龜の卵をひおさぎ賣るといふこの町なかを歩き見まほし
 
    山本改造社長生家
 
 しぐれ降る頃といへども繊芝《ほそしば》が青々としてこころは和ぎぬ
 ほしいままに空氣の中に香を放つ白妙の薔薇《ばら》くれなゐの薔薇
 高々とめぐらされたる石塀を童子實彦幾わたりせし
 芋の葉は油ぎりたる青さにてこの秋庭に我を立たしむ
(207) 柔和なる媼ひとりの家守はかそけき蠶飼繭を並《な》め干す
 
    磯島津邸
 
 たかむらは青き光を放つとぞ知りぬるわれはしばし離れつ
 あるときは潮《うしほ》の波も照りかへすここのみ園の石のうへのつゆ
 高きより低きにつかむことわりよきびしからざる水も流らふ
 うつくしき苔のうへなる山小禽《やまことり》ほしいままとて罪ふかからず 外國《とつくに》のにほひもここにこもりけり高きこころを人知るらめや
 
    四照花
 
(208) くれなゐの木の實といふもかすかなる斑《ふ》のあるものと吾は知りにき
 ゆくりなく霧島山にあひ見つる四照花《やまばうし》の實をいくつか食ひぬ むらがりて生《な》れるこの實を小禽らが時に樂しむその嘴《はし》のあと われ嘗てかすかなるこの白花をおもひて居りき箱根のやまに
 霧島の山のなかなる四照花その實の紅《あけ》をひとり戀《こほ》しむ
 
    霧島川
 
 ここにして遠きいはほの間《かひ》を行く霧島川の音ぞ聞こゆる
 赤松の秀づる山をとほるとき松の膚《はだへ》に折々寄るも
(209) 霧島の川に接してそばだてる山は直角《ちよくかく》の平らをなせり
 はるかなる巖のあひに狹まりし霧島川の高浪の見ゆ
 ま向ひの扁平高地にひびきたる霧島川の川浪のおと
 
    關門
 
 雨しぶく關門海峽の船に乘り二十二年の來し方おもほゆ
 海峽の船の上にて群集《ぐんじふ》も會ひたてまつりぬ聖《きよ》きもの一つ
 雨雲のみだれ移るを車房よりわが見つつ居り關門の海
 福岡も熊本もつひに過ぎぬればわが眼交に友のおもかげ
(210) 南より北にむかひてうごく雲薩摩に近き海のうへの空
 
    秋
 
 晴れゆきし秋の彼岸に人つどふ街上にして懈怠《おこたり》を見ず
 深まむとする秋にしあれや日もすがら高天《たかあめ》の門《と》に風吹きわたる
 しぶく雨晴れし一日に秋の蚊は小さくなりて吾にせまり來《く》
 靖國のやしろの祭り來《き》むかふと夜々に我がこころ靜かにしあらな
 ダンチヒにショウペンハウエル生《うま》れしといふ記憶のみありて過ぎにき
 戰のやみし平野にノモンハン合同慰靈の銃《つつ》をささぐる
(211) 停戰に入りし平野に日をつぎてみぞれが降るといふぞ悲しき
 ダンチツヒ戰《せん》にやぶれし司令官劔に腕くみ頤《あご》を載せたる
 
    名古屋
 
 名古屋城の石垣に降る秋の雨けふは西南の方《かた》より降れり
 天守閣の門内の石に鐫《ゑ》りつけし目印の象《かた》も空しとおもはず
 金藏《かねぐら》が天守閣内にありしこと知りてしばらくこころ親しむ
 日もすがら城の甍に降る時雨そのひと時をわれのぼり來つ
 久々に蓬ひし友よりいたはられつつ汪兆銘の聲を聞きたり
 
(212)    冬
 
 戰死者の墓のちかくをわが汽車は幾たびか過ぐ國をし行けば
 窓くらく垂れつつ臥しし風癒えて遠地《とほち》の人をしばしおもひつ
 この夜ごろ早寐《はやい》せりしが湯婆《ゆたんぽ》を床よりいだす夜半過ぎぬれば
 悲しみのごとく心もしづまりて日のあたりたる土手背向にす
 日は入りて光のなごり及びたる北の地平より冬の白雲
 
    晩秋の園
 
 いにしへの和尚的《くわしやうてき》なる音たててゆふペの風は葦をわたりぬ
(213) 一谷《ひとだに》は山にきはまり一谷は浪もとどろの海にひらけつ
 ふたがはに斷崖《きりぎし》つよくそばだつを由縁となして間《あひ》に潮浪《しほなみ》
 ひらけたる空のしたびに赤き雲やうやくにしてあせかかり居り
 鴨寄りて眠らむとするゆふまぐれわれは歩きぬ男の友と
 
    隨縁
 
     村田博士邸にて鹿兒島宮崎の會員にあふ
 
 とほく來てただ一夜なる歌の會二たび來むとわれは言ひたり
 
     歸路
 
(214) 特急車山陽道を走るときわが目に浮かぶ山のみささぎ
 けふ一日砂糖商人と同車して砂糖の話題にも感傷しゐる
 
     庭前
 
 青々とおどろなしし羊齒を刈りとりて冬に入る庭のうへ安らけし
 
     弔久保猪之吉先生(十一月十二日歿、法名慈明院殿光譽仁道文昭大居士)
 
 温泉《うんぜん》のいただきにありて昆蟲の卵溜められしころもしぬばゆ
 
     大學卒業滿三十年同窓會(十一月十八日〕
 
 相當に皆老びとの顔をしてあつまり來る寒きひと夜を
(215) 百四名のうち三十餘名は身まかりぬおぼろになりし顔のいくたり
 車座になりて話すを聞くとしもなくに聞ければあはれ「死」のこと
 わが歌を後世にのこるといひて褒む褒められぬれば嬉しきろかも
 孫のあるもの手を擧げといひしかば忽ちにしてあまた手を擧ぐ
 
     呉秀三先生胸像除幕式(十一月十九日)
 
 功業《いさをし》は光のごとく成りたまひさながらにしてこれの御像《みすがた》
 御額《みひたひ》のひろくいまししありし日の師の御像に吾等ちかづく
 
     十二月四日郷里にて傳右衛門(七月廿七日歿)のぶ(十一月十七日歿)十七囘法要を營むといふ
 
(216) けふといへど行きがてなくに物なべて流らふるこそ悲しかりけれ
 ミユンヘンに吾《わが》居りしとき身まかりし二人の靈《たま》をけふこそは呼べ
 わが生《あ》れし家といふともひそかにて小川の岸も氷りつらむか
 
     歳晩
 
 ひととせをかへりみすれば箱根なる山に居りてもことを努めき
 高千穗の山にのぼりてその山におこるさ霧を吸ひたるかなや
 
(217) 昭和十五年
 
    皇紀二千六百年
 
 あめの下ひとつなるこころ大きかも二千年《ふたちとせ》足り六百《むつもも》の年
 戰勝ちて驕《おご》ることなきたましひを神武の天皇《みかど》つたへたまへり
 ひたぶるに進み來れる祖《おや》の國のこの初春をまのあたりにす
 皇軍《みいくさ》が天《あめ》をあふぎて笑ひたる二千六百年以前おもほゆ
 神代の三山陵を拜しまつりてこの現實のみなもとを見き
(218) もろごゑに呼ばはむとするもの何《なに》ぞ東《ひむがし》亞細亞のこのあかつきに
 紀元二千六百年の曉なりにけるかもふるひたつべく
 にひ年の珍の光よここに立つわれの額を照らしたまはな
 たちのぼる炎のごときいきほひを眼前《まなかひ》に見て何をいはむぞ
 大きなる勝鬨あげてもろともに迎ふる皇紀二千六百年
 
    紀元二千六百年
 
 八紘《あめのした》を掩ひて宇と爲む可《よしとのたまひてより直《ただ》のひとすぢ
(219) 肇國しらす天皇《すめらみこと》の橿原のみやこの代よりひたぶるの道
 大孝をオヤニシタガフと訓ましめしこの言靈のさちはふ國ぞ
 大忠をオホキミノヘニ、イノチササゲム、ノドニシナジと訓むべからずや
 紀元二千六百年の日のもとつ國のあまつ日の大きかがやき
 
    共鳴
 
 遠くより聞こえくるもの近くより聞こえ行くもの共にし樂し
 皇紀二千六百年のにひ年に直土《ひたつち》のへに奮ひて立たな
 新しく興らむとするいきほひに東亞細亞にこゑぞとどろく
(220) 中つくに邊土《ほとりのくに》をおしなべて祝ひ呼ばはむ音の共鳴《ともなり》
 あめのした掩ひて宇と爲したまふそのいつくしみ限しらえず
 
    あまつ一日
 
 のぼり來るあまつ陽にむき言擧げむその言はや聖きかも大きかも
 ひとつなるいきほひとして徹りたる皇士《わうど》紀元二千六百年
 南のくにの神の御陵にうつせみのわがうなねつきかへり來りぬ
 ひたぶるに命ささげしもののふをわが天皇《おほきみ》は神としたまふ
 老いづきしわれのこころもあるときに火焔《ほのほ》のごとし祖《おや》をおもへば
 
(221)    協和
 
 北海《ほくかい》に上陸したるありさまをまのあたり見て心はたぎつ
 くらやみよりあかつき闇に移るころ報に曰く「蜿蜒七里の大船團」
 新しく興らむとする國おもふひむがし亞細亞のきほふまにまに
 まぢかくに汪兆銘氏の聲きけば強し朗《さや》けし創造と協和と
 大陸に働く甥に何ものも畏るなといひて遣りし後あはれ
 くれなゐににほへる梅は大陸の卓の上にて愛でられゐむか
 「日軍百萬北海登陸」といさぎよきもの中空《なかぞら》に浮かぶ
(222) 新しき年のはじめに國こぞり極めむとするものをぞおもふ
 大陸に年を迎ふる同胞《はらから》を映畫の中に見つっ樂しも
 漢口に年を迎ふるわが友山西に年を迎ふるわが友
 
    冬山
 
 天そそる山のふたつが今晴れて雪の膚《はだへ》しかがやくあはれ
 雪つめる山のはざまを飛ぶごとくスキーに走るをとこをとめ等
 雪の山あまつ日うけて照るときにひたぶるにして進めもろもろ
 
    皇土の讃
 
(223) 紀元二千六百年のあかつきに富士を籠めたるこの國土《くにつち》や
 走り出の温泉《いでゆ》といへる日本語もかりそめならずおもはざらめや
 竹《たか》むらの黄にしげりたる山べより鳴き來る鳥はあはれ恐なし
 もみぢ葉の山あかきころわれひとり入りてし行かむ峽《かひ》のその峽
 わたつみの奥《おき》に降る雨かたよりにいま入りつ日の光うけたり
 かぎりなくつづく春山雲はれつつ雲湧きつつとほく雷《らい》は小さし
 もみぢ葉の山をふりさけ息ながく「緋の雲立つ」と大人《うし》はうたへる
 海の幸ひろら厚らに積みあげてひたぶるの聲あがりつつあり
(224) 高千穗の峰にのぼりて歸り來しわれの心ははやも徹りぬ
 神々のまぐはひたまふよろこびに國うまれ國うまるうづの國はら
 ひむがしの亞細亞にあまた明らけき國うまれむと動くそのおと
 
    行進
 
 六歳のわが甥よりもおん一つのみ年|長《た》けいます皇太子殿下
 日本産狐は肉を食ひをはり平安の顔をしたる時の間
 空撃を免れむとして移動するミロのヴエヌスより我眼放たず
 觀兵に御立《みたち》し給ふ天皇をラヂオに寄りてかしこみたてまつる
(225) 行軍の軍樂のあひに肉聲の號令聞こゆつづく將校のこゑ
 
    近縁抄
 
 神武紀元二千六百年の皇士《わうど》よりのぼる光を額《ひたひ》にうけむ
 飲食《のみくひ》の儉約をすといひたてて朝々を一時間餘多くねむる
 われ醫となりて三十年を過ぎたるをかへり見すれば一人の狂人守
 年ふりし「濯足圖軸」に面寄せてしばらく吾は息を屏《つ》めたり
 燕文貴の「江山樓觀圖卷」あり山の生《いのち》はや水の生《いのち》はや
 
    山房小歌
 
(226) はればれとをとこをみなはあひいだきこのいきほひの時に隨ふ
 肇國しらすすめらみことのいにしへを今のうつつに輝かしめぬ
 よしゑやしひとつ命の捨てどころひとつといへどにくからなくに
 鳴りひびくおほつごもりの鐘のおと寒靄《かんもや》の中をとほり來《きた》るはや
 國をおもふ心ひとつに赤きをし疑ふなゆめそのみづからも
 
    霧氷
 
 前景は雪のこごれる木立にて奥にたたなはる天のむら山
 山なみの雪は晴れつつかがやくがわが眼《め》の下にしばらく見えぬ
(227) はれわたりたる雪の群山の奥《おき》にしてかそけくもあるか雲みだる山
 はるかなる山なみの雪に日あたりて暫し天地《あめつち》にとほるしづまり
 かげりたる前山ありてその奥の幾つの山の雪のかがやき
 
    勝さび
 
 勝鬨のこぞりてあがる時しもあれ皇紀二千六百年の新春《にひはる》きたる
 紀元二千六百年のあさあけに大君の御軍を祝ぎたてまつる
 北はみ雪踏みさくみ南は兜より汗垂りてたたかふ神の皇軍《みいくさ》
 あらたしき年のはじめに大きなるわが皇軍《くわうぐん》は勝さびにさぶ
(228) 假宮のみまへに來りノモンハンの英靈にわれは涙しながる
 
    新年頌
 
 雪降れる大峽《おほかひ》すすむ皇軍《みいくさ》の寫眞とどきてわがそばにあり
 あらたしき年のはじめと山河にちはやぶる神もゑらぎたまへり
 たたかひに進む皇軍を現にし夢のあひだも忘れて思へや
 日向の高千穗の峰のいただきにあまつ群霧晴れて寄り來ず
 國をあげて打こぞりたるたたかひの心極まりをおほろかにすな
 
    躍進
 
(229) 畝火山そがひにしたる橿原の宮の朝けのももどりの聲
 肇國しらすすめらみことの神宮《かみみや》に御民こぞりて皇國《みくに》祝《ほ》がむぞ
 紀元二千六百年の新明り一億の御民《みたみ》きほひ立つべく
 めぐり來し新しき年のはじめより何か甲斐甲斐しき事を爲さむぞ
 皇紀二千六百年とめぐり來て目ざむるばかり陽はあらたなり
 
    祝歌
 
 まかがやくこの新年《にひとし》に現津|神《がみ》わが天皇をあふぎたてまつる
 新しき創造の世に光なす天皇の紀元二千六百年
(230) めぐり來れる皇紀二千六百年豐けくもあるか皇御國《すめらみくに》は
 大きなるこの新年《にひとし》に一憶の御民ひとつに奮ひて立たむ
 新しく興らむとする友國《ともぐに》とわれ等と天地《あめつち》のことわりに立つ
 
    讃歌五章
 
 紀元二千六百年の大きなるいきほひにして平安《うらやす》のくに
 新《あらた》しき清き光の瑞年《みづとし》にめぐりあひつつ空しからめや あま足らし國足らすこのよき時を肇國のごと御民ことほぐ
 眞玉《まだま》なすをとめごころの圓《まど》けきをこの佳き年に顯はさましを
(231) あまねくも充ちわたりたるみめぐみを心一つに讃へあげなむ
 
    奉讃歌
 
 二千《ふたち》まり六百《むつもも》とせの眞秀國《まほぐに》とかぎりも知らに豐足らすはや 讀賣新聞社獻納歌
 あらた代の日いづるくにの眞秀國と限もしらに豊足らすはや
 
    紅梅
 
 一尺《いつしやく》に足らぬ木ながら百《ひやく》あまり豐けき紅梅の花こそ勾へ
 くれなゐに咲きたる梅の香をこめて更けむとぞする部屋に起き居り
 紅梅の散りたる花をわが手もて火鉢の燠のうへに燒きつつ
(232) 一尺に足らぬ紅梅の木のもとに苔ふかぶかし丘といはむか
 年々にわれの愛でたる紅梅を今年も愛でつこの平和《たひらぎ》を
 
    奉祝紀元節
 
 あめのした直きひとすぢのいきほひのけふの生日《いくひ》を祝ぎたてまつる
 うつつなる諸ぐにの中の皇國《すめぐに》はこのけふの日を言あげにけり
 勝鬨の大きもろごゑ蒼ぐもの中に入る時に國あらたしも
 肇國のそのかがやきをけふの日にあふぎてやます吾等御民は
 あまつ日の光を負ひていたり來しすめらみ國をあきらかに見よ
 
(233)    砂
 
 あまつ日は高くのぼらず海のべのわがまぢかくになべて砂飛ぶ
 春の夜のはだれは悲し濱べなるいさごの上に降りたりしかど
 二日まへ夜空にみだれこの濱の砂《すな》に降りし雪のおもかげもなき
 しづかなるものにもあるか幾分《いくふん》か海の淺處《あさど》に鷺たちつくす
 客塵《かくぢん》の語感さへなし海鳥がさざなみのうへに鳴きつつ飛べば
 
    春霞
 
 なほ高き塔にのぼりて春霞いまだ淡しとおもふ樂しさ
(234) 煙突の太々とせる上部より吾までの距離を目測したり
 きらひたる五重の塔の碧き屋根一|密米突《ミリメートル》ほどにもあるか 褐色の屋根をもちたる博物館遙けきものは心安けし
 童女《めわらは》はをみな童子《をわらは》は男《をのこ》の未來ありて都會のうへのきらふ天つ日
 
    蕗の薹
 
 一つ鉢にこもりつつある蕗の薹いづれを見ても春のさきがけ
 十以上かたまりてゐる蕗の薹を冬の寒きに誰か守らむ
 十あまり一つ鉢なる蕗の薹おくれ先だつ一樣《ひとさま》ならず
(235) 五寸あまり六寸あまりに伸びたちて蕗の薹青し鉢の眞中《まなか》に
 あをあをと冬を越したる蕗の薹彼岸を過ぎて外にもち出す
 わが部屋のすみに置きたる蕗の薹をぐらきにかく伸びにつらむか
 ひらきたる苞の眞中に蕗の花ふふみそめつつ十日を經しか
 蕗の薹の苞の青きがそよぐときあまつ光を吸はむとぞする
 
    塵
 
 春の風吹くおとのする窓の外に無數の塵は飛びいづる見ゆ
 書《ふみ》のうへ疊のすみにかくのごと積れる塵をわれは惡まむ
(236) 時のまもためらふまなく積りける塵とおもへば悲しくもあるか
 いづこよりあつまりて來む塵ぞとも分きがたくして吾は見てゐる
 一とせに稀々にする掃除にて塵を惡むといふは愚かか
 
    山房近作八章
 
 地下道を二分あまりも歩くとき女性の足駄こもごも聞こゆ
 飛行機の解體したる上空に印をつけて弔《とも》らふとすや
 西空に大きなる星二つありある時は電燈の光かとおもふ
 ノモンハンの戰きびしくなりはじむと手帳の端に文字をとどめき
(237) 大きなる艦《ふね》ひとつ見えランチより九名《くめい》の獨逸人移りゆくなり
 國こぞり激り心《ごころ》と激りしをはや物憂しといふ顔ぞする
 紀元二千六百年のいきほひは心つつしみ享くべきものぞ
 裏門に下りゆく近代の石疊むかしの城の一部に似たり
 
    たまもの
 
 夜著きし賜物をしも手づからにおしいただかむ朝あけわたる
 かたまりて冬を越えたる蕗の薹五寸餘のびて部屋中にあり
 なやましく風ふくけふは午前より吾は寢込みぬ物ぞ忘るる
(238) 皇太子殿下の切拔三つあまり貼りたてまつる机のそばに
 蠅一つ窓より入りて飛廻るこのほしいままにわれは關はる
 
    殿臺
 
 成東町の殿臺《とのだい》といふところ元治元年君は生れき
 左千夫先生生れたまひし家に來て疊の上に暫し立ちけり
 わが大人の二十六歳の寫眞見つ横濱に居りて撮しし寫眞
 かへるでの赤く萌えたる一樹《ひとき》をも君がえにしと今日見つるかも
 昨《きぞ》の夜《よ》にあらび降りけむ春の雨この蕗群《ふきむら》を越えたるらしも
 
(239)    九十九里濱
 
 ひむがしの涯《はたて》の濱はいつしかもひくき曇《くもり》につづく白波
 雲のむたあきらかならぬ空合にひびき傳ふる濱のしら波
 おほどかに至りわたれる海のべに濤の音《と》聞かむ現身《うつせみ》われは
 沙濱に朝日は差さず天雲のくもり厚らに立てるしき波
 ひとところ立騰りをる潮けぶり曇につづく雨晴れしかば
 白々とさわだつ波が眼のまへに幾段《いくきだ》なして天つ日見えず
 雲うごく空ひくくして海の鳴りわが悲しみとおもほえなくに
(240) なぎさ波たゆることなくひびき來てわが眼前《まなかひ》を千鳥たちたつ
 
    草いぶき
 
 もろ草の秀でむとして光だついぶきに吾は堪へつつぞ居《ゐ》る
 青山に曇の低くこむるころ晝の日中といへど吾が臥す
 するするとして平易なる分類に關はりゆきしやまとだましひ
 午前より體たゆきを怪しまず忽ちにして臥處に入るも
 ためらはず泣き極まりし女《をみな》にて大き目守に淨まらむとす 戰死
 
    行春
 
(241) わが齢しづかならむとする時に行春のかぜは痛くもあるか
 とほり行く馬の額《ひたひ》に功章のかかるを見つつ涙ぐましも
 タイマイといふはタイ國の米にして心もしぬに其國おもほゆ
 新しき源泉課税の擴りをおもひ居りつつ廻診すます
 謠曲の男のみなるこゑ聞けばこころの滓《おり》を棄つるに似たり
 
    中村憲吉君七周忌 五月五日
 
 すくやかに君がいまさば五十二になりて吾にし物言ひにけめ
 君みまかりてはや七年や現なる苦しきことも吾は目守りて
(242) 白くなりて落ちし眉毛を見つつ居り君にも見せむよすがさへなし
 尾道の圓居に行かばもろともに日の照る丘を今日は越えけむ
 草あぶらぎる頃としなれば永遠《とことは》に君に訣れしその日おもほゆ
 
    森山汀川君還暦賀
 
 六十なる齢いたりて朝宵の食物《をしもの》のべに君はしづけく
 むら山の波だつ如きつらなりをかへり見せむか高きに據りて
 はやくより歌の境にまじはりて君はけふこそ尊かりけれ
 新派和歌の既にはじめに君が名の散見するを君にも云はず
(243) 老に入る君がこころよ幾たびか聖の如くあり經たりけめ
 よろづまりの穉等《をさなら》今にみちびきて君は清《すが》しく老いむとぞする
 赤彦のみまかりたりし信濃なる歌の直路《ただぢ》を君は守りき
 アララギの來しかた思ふ宵々に君が眞心よ虚しからめや
 
    隨緑歌
 
     赤彦忌歌會
 
 勵みつつ歌は詠めども身みづから心足らへるものならなくに
 戰ひの大きなる代を吾は見て君はみまかり見ることもなし
 
(244)     短歌新聞のために
 
 けだものの行爲にあらず意識して無理しどほしのわが生老いむ
 こもりたる懺悔《さんげ》ながらに經つつ來しこの境界《きやうがい》もまぼろしなすよ
 モナ・リザの脣《くちびる》もしづかなる暗黒にあらむか戰《たたかひ》はきびしくなりて
 
     一高校友會雜誌のために
 
 母校にて學びしものの斷片をわが左手に提げつつありぬ
 若ければ甘露のごとしといはれたるアヴアンチユールも春の夜のゆめ
 かなしみは光となりて額《》より放射するゆゑにわれはひれふす
(245) 母校の「校風」といふ一語をもかりそめならずわれはおもはむ
 在學の三年間のすゑにして日露の役を内容とせり
 
     浸吟
 
 慌しく階下におりて來りしが何のために下りて來しか分からず
 ナルヴイクの戰闘の記事數行に過ぎざりしかどただならめやも
 雉子ひとつニこの木立のかげに啼く聞こえ來《きた》るをわれは樂しむ
 はるかなる處にありて戰ふをただ地圖を見てわが偲ぶのみ
 かくのごと群鳥《むらどり》の啼く青山に心やすめむわれにやはあらぬ
(246) ひよ鳥は呼びかはし啼くそのあひの距離をたもちて吾は歩み來《く》
 
     六月四日學土院賞受領祝賀會
 
 わがために開きたまへるこの會を亡き父母に傳へむよしもがも
 もろもろの心のめぐみかかむりてこよひの吾は飽くこともなし
 
     六月十二日田子浦(出羽嶽)新婚
 
 世すぎごと何をおきても眞ごころに吾はよろこぶこれの夫妻《めをと》を
 
     六月二十日前後三首
 
 檜《ひ》の根もとにこまかくたまる落葉あり稀に來りて見てゐるわれは
(247) 地下室の一隅に居て心をどりつつリオンの陷ちしニユース聞きたり
 現實の斷片のその斷片を大切にしておもひ出し居り
 
     六月廿六日滿洲國皇帝陛下御著
 
 日本國天皇陛下と滿洲國皇帝陛下とひとつ輦轂《みくるま》
 皇帝は天《あめ》のさだむる道のためわが天皇に言《こと》いひたまふ
 
     七月七日支那事變三周年記念日
 
 めぐり來て三年なる聖き戰《たたかひ》の空しかるべき今日とおもへや
 十萬《とよろづ》の御靈のまへに國民《くにたみ》の心のどかにありがてなくに
(248) 戰線は四千六百キロとなりいよよますます撃ちてし止まむ
 衢ゆく男女《をとこをみな》もたづさへてけふの眞晝にいのりささぐる
かうにちばうこくきうばつ
 知らざるも知れるもおもへおのづから抗日亡國の救拔にあり
 
     六月より七月に至る日日小吟
 
 忘却をくりかへしつつ日の業《げふ》のおぼろに吾はならむとすらむ
       ふりよ
 二十萬庵えたる俘虜の徒歩といふ幾キロつづく徒歩にかあらむ
 ヴエルサイユにナチスの旗のひるがへるかかる日にこそ何を呼ばはめ
おちい
 黒くこげてセダン陷落《おちい》る有樣が映畫のなかに五六秒のみ
(249) 額より汗は流れてとどまらず病室まはり拭きあへなくに
 ひぐらしのはじめて鳴きしけふの日を記《し》るす七月十五日ゆふぐれ
 簡單に戰車のまへに立ちて居る姿勢なれども敗兵彼は
 をととひに晩蝉《ひぐらし》ひとつ鳴きしかどきのふも今日も晩蝉鳴かず
 一向《ひたぶる》にすめらみくにに生きつつぞ生《いのち》のまにま捧げむとする
 なにゆゑに巴里《パリー》陷ちぬと幾たびか吾が喉つまり街上ゆくも
 日を繼ぎて懈《たゆ》き體を勵まさむたどきもなしと獨り横たはる
 
    受賞
 
(250)     五月十四日、拙著「柿本人麿」學士院賞を授與せらる
 
 佳きけふのひと日大人たちあつまりて「柿本人麿」を褒めたまひけり
 この賞をおしいただきて人麻呂の涙いづる歌しぬびこそ居れ
 おほけなきことなりながら人麻呂のかなしき歌をわれ明らめつ
 
     五月十五日、午前十二時宮中參内
 
 かすかなる臣にありけむ人麻呂をしたに思ひてけふ參内《まゐ》り來し
 うつせみのわれけふの日にかぎりなき心になりぬ御餐《みけ》たまはりて
 ひたふるに濁なかりし人麻呂を二分あまり申あげたてまつる
 
(251)     五月十四日夜、前田侯爵にまねかる
 
 「加賀さまの百萬石」も新代のこよひともし火のもとにつどへる
 おほきなる歌の聖を今の世のうつつに呼びしことをまうせり
 
    六月
 
 夏さればもろ木々の葉のくらがりし森にかこまれて青野が一つ
 青葉森とほくうごくを見つつゐる波だつ青のひまのひかりを
 ひとむらの苔の上なるこもれ日を移ろふまでに戀ひつつゐたり
 松かぜが近く聞こえてひとしきり寂しき音《おと》を人につたふる
(252) 東北辯の夫婦まうでて憩ひ居り納豆のこと話してゐるも
 戰ひを濟ませてきたる歸還部隊ひとかたまりがしばし憩へる
 空のことおもふにまかせす人々の藤原博士に頼る心理あり
 襄西に軍うごきそめしと見る見るうちに包圍はひだりに至る
 
    衝迫
 
 藏王より火を噴くときのくれなゐを豫報のごとく傳へつつ來る
 妄なる死《しに》にあらなくに時もおかずささげむとする生《いのち》をぞ持つ
 大臣をして暫く存分に言はしむと半時間餘の時を割當つ
(253) 夥しき俘虜のなかより飛行機にて運ばれ來つる大將級の俘虜 將軍死綏
 戰死して綏《や》むべしとせる感情も瞬くまの保釐心《ほきしん》にあゝ負けぬ
 
    山中滯在吟
 
 鶯が三尺《さんじやく》あまりの距離に啼き時のま吾の心おそれしむ
 峽のそらに雷《いかづち》にぶく鳴るなべに小鳥のむれが來鳴く窓べに
 杉の木の秀《ほ》のしづまりを見つつゐて後幾年の命をぞおもふ
 百合の香の闇をとほりて來し時に山ゆゑ我の心ためらはず
 射干のつぼみもいまだ見えなくにわれは起臥す峽をのぼりて
(254) 陳中尉の陣中日記の拔萃を一たび讀みてカバンにしまふ 七月二十二日
 よもすがら君を悲しむことさへも憊《つか》れてゐたりしばしば覺《さ》めて 八月十二日土田耕平君歿
 檐したに年々に咲く射干を今年もひとり來り愛《かな》しむ 八月十四日菱華選者吟
 雨風のさへぎるごとき直士《ひたつち》にこの射干は生ひつつあはれ
 とほき代の人も愛でにしこの花のにほふ花瓣《はなびら》はただ一日《ひとひ》のみ
 日もすがら山にみなぎる雨の音|西南《にしみなみ》より降り來とぞいふ 八月廿六日
 しづかなる光になりぬあらくさの伏したるうへに蟲もいで來て 八月廿八日
 たちまちに機關銃の音山ひびき峽門かひと《》におよぶ長きこだまは 八月廿九日
(255) 三日月のすでに入りたる暗きより聞こえつつゐる野分だつ音 九月四日
 慌しかりし日月とわれ思《も》ひて星さゆる空をこよひは見たり 九月五日
 地響に常つたはりて來るごとき鋭き世にし凡《おほ》にあらめや 九月九日獨機倫敦を襲ふ
 まのあたりこの現なるきびしさに面《おもて》そむけむ吾ならなくに
 山中にゐて何事も忘れむとするにはあらず心もゆるを
 朝よりなべてむなしき窓の外《と》にいかなる鳥か短かく啼くも
 けふ一日しづかになりぬ|土のうへ《・イ草の上《へ》に》にさせる光も染《し》みて反らず
 ロンドンの燃ゆるさまをし告げ來る嚴しき現實《うつつ》おもひてやまず 九月十日
(256) 朝より降る雨音《あまおと》を聞きつつぞ古へびとのごとくに居たる
 人いくたりこの世過ぎつつ秋まだきのけふも降りくる山中《やまなか》のあめ
 雨蛙しばしば鳴きてゐたりしがしき降る雨のなかにも聞こゆ
 あまたたび小鳥むらがり過ぎつつぞ音して來る山中のあめ
 垂れこめし白きさ霧に浮びたる杉の木の秀は細くもあるか
 ひめ沙羅のあかき肌《はだへ》に降る雨を一時《ひととき》まもり吾はこもりぬ
 ものさびむとする野づかさやいろづきし櫨子《しどみ》こもりて士に即くなす
 谷ひくく虹が立ちたり定めなき雨とおもひてわれ居りたるに
(257) 理由《ゆゑよし》もなくこちたしと思はめや山にわたりて大き虹たつ
 しぐれのあめ一日さだめなく谷に降り夜明けむとして疾風《はやかぜ》のおと
 ためらひもなく降りきたる豪雨《おほあめ》を部屋に居りつつ見ることもなし 九月十二日
 われひとり部屋にし居れば大雨のややをさまりて鳥過ぐるこゑ
 片附もをはりて庭を見おろせりきのふの雨に砂ながれたる 九月十三日下山
 
    讀壽貞尼考
 
 わが友の心をこめしこの卷に秋の月かげまさやかに照れ
 あはれなるまこと傳ふる考證をこよひ夜寒に身より離たず
(258) うつせみの二つ命を明らめてこの一卷に書きぞとどむる
 まことなる男女《をとこをみな》のなからひをひとたび讀みてこころ足らはむ
 はかなしと誰かおもはむ彼岸《かのきし》にわたりて行きし現身《うつせみ》ふたり
 
    温海
 
 夜をこめて朝市たてば男女ひとごゑぞする湯の里ここは 十月十八日十九日温海
 朝々に立つ市ありて紫ににほへる木通の實さへつらなむ
 いにしへゆ温泉の里のならはしにあかつき起の市にあきなふ
 しめぢ茸栗茸むらさきしめぢ茸木の葉のつきしままに並《な》めたる
(259) 朝市の山のきのこの側に小さき蝮も賣られて居たり
 海べより峽に入りつるこの里に朝な朝《さ》な立つ市をたのしむ
 この市に野老《ところ》を買へりいにしへの人さびて食む苦き野老を
 この市は海の魚のいろいろを朝のさやけきままに賣りゐる
 淺谷のここに眼覺むる一朝を海にむかひて月かたぶきぬ
 ひとり來し温海《あつみ》のうみの石かげに旅のこころをしづかならしむ
 をさな等は温海の海の巖のべにい群れて遊ぶこゑをあげつつ
 
    旅(湯の濱より加茂)
 
(260) 高萱を今を刈りほす遠き代の假廬のさまが濱のをちこち
 雛にして鳥海山に棲みし鷲ここにかが鳴くいくたびにても
 この園に鳥海山のいぬ鷲は魚を押へてしばしかが鳴く
 午過ぎし港の水に反射するあまつ光はたちまちひくし
ひくやまなみ        くろ
 松生ふる低《ひく》山並はなだらなる砂丘を越えて黝《くろ》くつづきぬ
 松山のくろくつづくに親しむと砂丘を越えて息あへぎ來る
 鳥海の頂とほくかくろひてひむがし北の羽後ぞくもれる
 日本海にしづみゆきたる大き日の餘光は長く雲にうつろふ
 
(261)    酒田
 
 鈍き鐘きこえくるころ床敷きてもののなべてを忘れつつ居る
もがみがは               じんこう
 最上川海に入るところに來りけりつぎつぎに人工加はり居りて
 おほどかなるものにもあるか河口《かはぐち》は青くなりたる砂丘おきふす 最上川のをはりとなれる水のいろ晝近くしてわれ見つるかも
 つよき雨空をおほひて降りつがば濁《にごり》をあげむこの川おもほゆ
 
    歸路
 
 土ひびく電車のおともせぬ町にわが寂しさを守《まも》るがごとし
(262) 酒田より北ゆくことを諦めて二日をゐたり海風《うみかぜ》のおと
 五つばかり西洋梨をカバンに入れ越後まはりの汽車にまたゐつ
 鳥海のいただき荒るる雲ありて冬さびぞする南なだれは
 北の海の潮《うしほ》の色のかぐろきをそこはかとして心にとどむ
 
    靖國神社臨時大祭
 
 祀らるる一萬四千のみ靈をし在りし日のごと今夜は呼ばふ
 朝飯《あさいひ》をすます傍《かたはら》にわが次男も參拜をへてはや歸りゐる
 遺族等はこぞりて歩《あり》く悲しみを追はむとぞするおももちならず
(263) うつつにしこよなかりける夫《つま》さへもささげまつりて心やすけく
 ぬばたまの暗きに呼ばふみ靈らを現實《うつつ》国民《くにたみ》は守護《まもり》としせむ 十月二十三日
 
    軍馬祭
 
 功賞を受けし二百四頭の軍馬等よその行ひの審《つばら》かにして
 甲功賞もらひし中に涙ぐましく二十二歳の老齢馬あり 岩南號
 機關銃駄馬といふ名稱を用ゐられ琢州保定の戰線に居き
 軍馬らの額に懸けられし牌《はい》を見てわが涙垂るを誰かとどむる
 迅號と名づけし軍犬も居りたりきノモンハンにて命をおとしぬ 十月二十四日
 
(264)    雲
 
 地平より曇《くもり》移動するさまならず上空より厚き雲湧きわたる 十月廿五日
 爆弾の外形は能くみがかれて冷き光反射する美貌のみ
 だらりとせる安息希求の内心も平和神《へいわじん》のごとき假面常に持つ
 未盡|時《じ》にむかひ渦なす世界意志に常《じやう》平衡はありやあらずや
 海中に没しをはりし潜艦をむなしきものと御民おもはず
 
    勝
 
 ささげたる命こぞりてあきらかによみがへるらむ時代《ときよ》しおもふ
(265) たたかひの遂の極みはことわりを空しくしたる勝《かち》にやはあらぬ
 靖國の社より聞こえくる喇叭|天《あま》のぼるべきとはのかなしみ
 すでにして過去のとほ世に命死に悔をせざりしわが祖先《おや》らはも
 戰にゆきがてぬ齢とわれなりてただ一つなる死《しに》を愛《を》しまむ
 
    奉祝紀元二千六百年
 
 紀元二千六百年のあらた代を地《つち》もとどろ天もとどろに祝ぎ足らはさむ
 大きなる年の生日《いくひ》をひれふしてわが天皇《てんわう》にほぎたてまつる
 まかがよふ朝日に映ゆるもみぢばをけふの心とほぎたてまつる
(266) おほきみのおほきまにまにみ民らが進むあゆみのおとをこそ聞け
 大君の全けくしもぞ統べたまふひとついきほひのくにの現實ぞ
 おほやまとすめらみくにのいきほひはこの天地に何か畏るる
 御民らはひたぶるにして大いなる覺悟を極めよけふの足日に
 おのづから心結びし三つのくにわが大君ぞみことのります
 この時にためらふ故のあるべしやもろもろのこゑ「捨所愛之身《しやしよあいししん》」
 ためらはず大門をひらけ時もおかず直にし進め生けらむきはみ
 祖《おや》の國のとほの先代《さきよ》にささげたる命もともにけふよみがへる
 
(267)    奉祝歌
 
 肇國しらしし天皇《すめらみこと》のいきほひのそのかがやきをまのあたりにす
 紀元二千六百年の聖年《きよとし》を心のかぎり祝ぎてし止まむ
 
 一億の心ひたぶるに天皇《すめらぎ》のみことのまにまあゆみをはじむ
 天とほく南のくにに親しむとすめらみ軍《いくさ》はやも動きぬ
 湧きあがることほぐこゑの天響《あまひびき》きこしめすわがおほきみ現神《あきつがみ》
 
    奉祝歌
 
 大君は神にしいませ永遠《とことは》の平和《たひらぎ》をしぞ導かせたまふ
(268) 天がした大御寶はにごりなき一ついきほひを祝ぎたてまつる
 あまてらす日の本つくにのいきほひはこの大き年にいや新なり
 紀元二千六百年の大き年あめつちが共《むた》ことほぎのこゑ
 あめつちにすめらみくには日に新たいよよ新たに榮ゆくものぞ
 
    奉祝賀
 
 微かなる臣のこの身もひれ伏してけふのひかりの足日をぞおもふ 十一月十日
 犬きなる式典《みのり》にまゐりたてまつり眼《め》をしばだたく幾たびならず
 あめつちの清く明《あか》くしさだまりておんみづからを臣と宣りたまふ
(269) 天皇の御箸とらすをあゝ臣のわれ眼《まなこ》はげまし見たてまつる
 五萬《いよろづ》のすめらみ民の一人にてひろきところにかすかに立てり
 眞綿をば背に當て來《こ》しがいつしかにわれの頭のうへに汗いづ
 くれなゐの衣を著つつい並びてこの天地に清《すが》しき民ぞ 十一月十九日
 單甲《ひとへよろひ》つけし四人の射る弓の天《あめ》を貫くときにし※[目+爭]《みは》る
 迦陵頻《かりようびん》飛びたつときの羽ばたきと童子《をのわらは》手をあげしたまゆら
 各々の聯舞なれどもひとつなる感情となりそめつつ終る
 外国の使臣夫妻の幾組は係りの人に見おくられけり
 
(270)    正倉院御物拜觀
 
 ありがたきかなや秘封|御物《ぎよもつ》のかずかずをこの現身の眼前《めのまへ》にして
 紀元二千六百年のかがやける時にあ光りて拜觀したてまつる
 いにしへの聖の御代の梓弓槻弓みればもののふおもほゆ
 奈良のみ世のすめらみことの持率《もちゐ》たまひしふみの御筥《みはこ》黒柿厨子《くろがきづし》よこれ
 咲く花のにほふごとしと歌はれし聖の御代を戀ひたてまつる
 み民らのあふるるなかにたちまじりこのさきはひをおほろかにせじ
 金銅の火舍《くわしや》のみまへにあなかしこ雪降りつみしその時おもふ
(271) 白《はく》瑠璃碗瑪瑙|杯《はい》のまへにたたずまむねがひありしが押されてとほる
 乘雲の菩薩の像は麻布《まふ》のうへに畫《ゑが》かれたりき色彩無しも
 奈良の代の借錢解《しやくせんかい》ものこりゐて今の時代《ときよ》のわが身にし沁む
 
    山房雜歌
 
 額より汗のながれて暑かりし山べの道をいま誰か行く
 靖國の社にのぼるいつくしきかなしき光つひのみ光
 をみな等が抱きまもりし白玉のもののあはれもおもふ閑なき
 あわただしき一年なりしにたまたまの下痢《はらくだり》にて過ぎしあはれさ
(272) いなづまの光のひまの迅しとてはやも驚く身にあらなくに
 いそいそとしつつ電車に乘り來《きた》る遺族の伴に心ちかづく
 「錯迷は死したり」といひて自らのこころ和ぎしを諾ふべしや
 この一月《いちぐわつ》に棄てられしは牝犬《めいぬ》なりしかば初冬には犬の母の位ぞ
 
    晩秋初冬
 
 桐の葉はまだも青きに橡の葉は落ちつぎて居りわが庭隅に
 源五郎を飼ひて居りしがをさなごは二つとも今日放ちやりけり
 暖くひと日風吹きわれ惱めりつはぶきの花すがれそめしころ
(273) 天井より物のきしまむ音のして冬としおもふひと日雨降る
 武漢三鎭陷ちてより二年めぐり來てわが空軍は成都を襲ふ 十月廿七日
 孫太郎蟲の成蟲が源五郎蟲にしてまのあたりするどき形態あはれ
 獨逸空軍二噸爆弾をも投下せりといふ通信をいたく好む
 八戸の東海岸はこほりぬと告ぐるたよりも身に沁む朝や
 薄荷《はくか》蒸す日和つづきを樂しむと北ぐによりの便は今日も
 成都の空にて敵の十機を撃墜すこの簡素なる報を目守るも
 督促し炭團をけふも作らしむ官費患者のこともおもひて
(274) 志文内は既にみぞれの降るころと知らせて來たるたより手に持つ
 飼ひおきし源五郎蟲を放ちなばいづらの水に行かむとすらむ
 橡の葉はあわただしくも落ちつぎて寂しきいろの落葉となりぬ
 
    徹底
 
 おほどかに動きせまりて徹らむとする勢のむた擧りはや續げ
 たたかひを疑ふ者はよしゑやし一人しあらば恥ぢ死ぬべけむ
 紀元二千六百年の現神《あきつがみ》ぞいたたせるはやこのかがやきに
 上つ代の清き命をさながらに現に生きてとどこほらめや
(275) 公にたてまつるべき時にしもあらばこの身よ迫りつつゆけ
 
    萬年青
 
 何せむにさかしらを言ふ事ここに到れる時に疑ありや
 空中より爆撃うくる驅逐艦の二つは離れ離れとなりし
 この日ごろ天眼鏡をそばに置く習慣《ならはし》となり指紋なども見る
 わが庭を見おろすときにおのづから萬年青の實の紅《あけ》も見ゆるなり
 日に幾度愚なる行爲をわれ爲れどその大かたはものわすれのため
 おのれ如き舟際にして奉公をはげむと言はばをかしからむか
(276) しかれどもこのやみがたき希もて子らの顔見る男の子女の子
 ※[木+解]《かしは》の葉あかくすがれて冬の色ひそけくならむこのあさよひを
 
    冬
 
 窓下をひさびさにして通りたる蹄の音にこころを集む
 わが家のまへを通れる騎馬隊より「腦病院」などといふ聲きこゆ
 つもり居る塵埃《ちり》をし見れば同類とおもはるるまで同じきいろぞ
 いづこよりかかる微塵が寄りくるかあるひは微塵のなかに吾《わが》居《を》るか
 この部屋にいつとしもなく積りくる塵を憎みて老いつつぞゐる
 
(277)    即事八首
 
 みちのくの温海の濱にひろひたる斑《ふ》の白玉も惜しむことなし
 冬山にこもる風《かぜ》おと目のまへの柞《ははそ》の落葉ときの間うごく
 角兵衛の額の獅子を見ぬことのはや幾とせか街上にして
 夜をこめて鴉いまだも啼かざるに暗黒に鰥鰥《くわんくわん》として國をおもふ
 西園寺老公の齢《よはひ》も時ありて心にかけきわれは醫なれば
 この王の背《せな》に負ひたる炎より生るるもののあらば好けむぞ
 査閲よりかへり來れる長男が卷ゲエトルを手に持ちて立つ
(278) 朴落葉その木のもとに落ちゐたり木のもとにしてしづまりゆかむ
 
    みづから
 
 みづからの身さへ不憫の連續とおもふこのごろ何をか求む
 一日の戰費八千萬磅、英國人は簡明に似たり
 きこえくるラヂオドラマの女の聲くるしむ獣《けだもの》のこゑよりはかな 襄西と襄東戰の規模《きも》をしも息を屏《つ》めつつかたみに語る
 汪精衛先生の宣ぶる言瑞《げんたん》におどおどとせるものありやなし
 
    歳晩
 
(279)    先考十三囘忌(十一月十七日)松田やを三囘忌(十一月五日)日輪寺にて
 
 過ぎゆきし十三年のわが事もみ寺の中におもひつつ居り
 寄附金もすくなきながら配りたり思義追善のこひねがひにて
 うからやから集ひてみればおのおののつながりありて亡き人おもほゆ
 ひととせの事をおもへばきびしかり冬至の夜半にひとりごちつつ
 明日よりは日は延びむとすらむしづかなる冬の至《きはみ》とおもひてゐたり
 わが父の十三囘忌をはるころ淡々《あはあは》として着物をかさぬ
 恐らくはこの戰開に參加せる軍醫少尉を一日おもひつ
(280) 落葉にも光てりかへす水のべにゐつる小雀《こがら》は配偶《つれあひ》ありや
 九十二の齢をささげたまひたるそのいさをしよ海《わた》にたぐへむ
 夕飯に會合のことも少くてわが五十九の歳ゆかむとす
 月いりて霜ぐもる夜を起きゐつるわれのこの身よ客観《かくくわん》に似たり
 ひととせの大つごもりにいたるまであきらかに云はむ乞願《こひねがひ》なし
 亂作の歌を封筒に入るることも優しとおもひ年暮れむとす
 
    昭和十五年雜歌控
 
     一月民部年緒君入營賀
 
(281) 皇軍《みいくさ》の進まむきはみ八百よろづ神の護《まもり》にことむけはてむ
 
     二月四日酒井知行君新婚賀
 
 大いなる年の生日《いくひ》の足日にぞ女男《》のちぎりは神もよろこぶ
 
     三月山田正文氏歌集序
 
 富士がねに月照るよはのしづけさの君を偲ばむ歌のひと卷
 
     三月芝松太郎翁喜壽賀
 
 鶴がねの高啼くときにいで聞かす君がみ壽いよよ清《すが》しも
 
     三月如命堂腦病院新築賀
 
(282) もろもろの病み亂れたる現身《うつしみ》もここに癒えなむ福《さいはひ》をぞおもふ
 
     四月寺内仲子刀自喜壽賀
 
 天なるやたなびく雲の長雲《ながぐも》のながき御いのちもろともに祝ぐ
 
     四月十六日阿部全權大使出發
 
 大君のみことかしこみ出でたたす道の長手に光あらしめ
 君のみの命にあらず神のごとあらはさむとする大きまことぞ
 
     四月二十五日山口隆一大尉敍功五級賜旭日六等
 
 山西に戰ひてたてしいさをしを永遠にあらはせり今日のかしこさ
(283) 靖國の神としなりて今よりは君こそいませわれまゐり來む
 
     四月二十八日九十九里濱吟行
 
 木苺の白き花より雨雫《あましづく》いまだ華りゐて君を偲びつ
 
     五月十五日宮中參内
 
 人麻呂をまうしあげたてまつらむと吾が膝震ふ殿下のまへに
 
     五月十九日中村憲吉忌歌會
 
 こもごもに慌しかりし春のくれ布野のはざまに行きも見なくに
 
     六月七日横尾夫人芽ばえ集序
 
(284) 清みづの湧井《わきゐ》のもとに立つごときおもひぞわがする歌のひと卷
 
     六月八日エ・ワン即事
 
 目前に女流大家もあつまりて茂吉山人と「六月」を讃ふ
 
     六月十八日内本浩亮氏藏左千夫像を見る
 
 かくのごと時は往けども新《あらた》しくいのちつたはるさやのみいのち
 
 
     小峯|善茂《よししげ》軍醫中尉を悼む
 
 おほきかりし南寧戰にみいのちを獻げし君を悔いて思《も》はねど
 
     七月二十一日左千夫忌歌會二首
 
(285) 暑かりし日のほとぼりの殘りたるみ寺の庭に歎きたりけれ
 二十八年の昔になりぬかにかくに君のおもかげ偲びしぬびて
 
     九月二十一日石川貞吉博士歿
 
 ふかかりし縁《えにし》おもひて弔はむただ同學のよしみのみならず
 
     某日
 
 月草は三尺《みさか》よりなほたけ高くこのあかつきの花にほひけり
 むらがれる蓮《はちす》のあひに忍ぶごとうかぶ水草《みづくさ》手に取りて見な
 ロンドンの市街からくれなゐに燃えだつと昨日も今日も報ずるものを
 
(286)     加藤清忠氏令息新婚
 
 紀元二千六百年の聖年《きよとし》のめをのちぎりの幸のおほきさ
 
     前賢讃
 
 いにしへを戀ひておもへばいくたりか賢き入のおもかげにたつ
 
 あらたしき歌のうごきをみちびくと門開《とびらき》したるかしこき人ぞ
 
     佐佐木弘綱翁五十年祭
 
 相共に今日をこぞりて尊くも歌學はぐくみし大人をこそおもへ
 
     初冬某日
(287) 見失ひ四年經たりし檢温器塵まみれにて疊のすみにあり
 いささかの所有物《もちもの》も振りかへりみずこの日ごろわれ癡呆のごとし
 
(289) 後記
 
 歌集「のぼり路」は、歌集「寒雲」につづくものであつて、昭和十四年十月から昭和十五年の歳晩にいたるまでの作七百三十六《〔四〕》首を收録した。その大部分は新聞雜誌に公にしたものであるが、その他は私的に知人のために作つたものなどである。見つかつたものは全部載せたから、「寒雲」に於けるがごとく、いかがはしい歌が實に澤山あることとおもふけれども、さういふことを氣にしたところでもはや及ばぬ。
 自分は昭和十四年十月、鹿兒島縣から招かれて神代の聖蹟をめぐり、高千穗峰の上をもきはめ、その他のところにも旅して、二百餘首の歌を作つた。神代山陵の參拜は自分にははじめてのことなので、作歌にもなかなかの難儀があつた。
.それから、昭和十五年は、皇紀二千六百年に當るので、昭和十四年の十一月頃から、新年の新聞雜誌のためにその祝歌を作り、その數も澤山ある。それから昭和十五年の秋には、二千六百年祝賀の式典が行はれたので、それに應じて澤山の祝歌を作つた。只今校正刷を一覽して、どうしてこんなに澤山の祝歌を作り得ただらうかとおもふほどである。
(290) そのほかに戰爭の歌も可なり多く、そのころの世界状勢に感激して作つたものも可なりまじつて居る。その他はわたくしの感懐に過ぎぬ。
 昭和十四年は自分の五十八歳、昭和十五年は五十九歳の時にあたる。『夕飯た會合のことも少くてわが五十九の歳ゆかむとす』といふ歌があるかとおもへば、『孫太郎蟲の成蟲が源五郎蟲にしてまのあたりするどき形態あはれ』などといふ歌もあつておもひでとすることが出來る。
 併し、一卷全體を通じてながれてゐるひびきは、決してなまやさしいものでないことがわかる。これ本歌集が自分の生涯にとつての一特色を有つ所以である。
 本歌集發行にあたり、岩波書店主岩波茂雄氏はじめ、同店の堤常氏、布川角左衛門氏、鈴木三郎氏及び佐藤佐太郎氏より多大の厚意をうけたことを、つつしんで感謝する。昭和十八年七月吉日。齋藤茂吉識。
 
 霜
 
(293)  昭和十六年
 
    曉の水
 
 白き餅《もちひ》われは呑みこむ愛染も私《わたくし》ならずと今しおもはむ
ただならぬ世《よ》さまといへど物怖《ものおそれ》うちはらひたるこの風のおと
 滿洲の國のさかひに屯してゐるわが甥は眼の具合報ず
 午前より寢込むといはば悲しむならむしかすがに言問ふなゆめ
 六十になりつつおもふ曉の水のごとくに豈きよからめ
 
(294)    新年賀歌
 
 身みづから六十歳《ろくじつさい》になりぬると眼鏡はづしてそばに置きたり
 うしほなみ寄せくる音のおもおもと豐けき濱に夜は明けむとす
 内にして鬩ぐこころの絶えむ上き日いづる國の曙きたる
 いささかの暇《いとま》を持ちて惜しみしが宮本武藏の劇見て歸る
 大和田に茜はさしてひびき來る潮の浪に天《あめ》あらたなり
 くぐもれる物を拂ひて南なる大門《おほと》を開けいきほひのむた
 海の幸あふるるばかりよりて來むはや呼べわが背はや呼べ吾妹
(295) しづかなる歩みつづけて醫師らは仁のみなもとを遠退《とほそ》くなゆめ
 秋さむく富士川先生みまかりて空洞のまへに吾等いま立つ
 醫の道はつひに覺官的なりと誰いふとなく言ふを聽かむか
 みちのくの蕨王の上に立つ歌碑が雪にうもれむ頃となりつも
 六十に吾なりてほろぶる罪ありや古りつるものの消《け》ゆかむがごと
 幻とその聲がなり悲しきかなや異邦の園に啼きしアムゼル
 目ざめたる寒きあしたぞ新しく感じて吾は二階をくだる
 傳統をありの儘にて見むとして努むるものは幾人《いくたり》もあり
(296) 新なる大きいきほひに入らむ日のこの国民《くにたみ》の眼のかがやきよ
 あらた代の富とさかえのしるしとて今こそなびけ海のあかねは
 年のはに心をこめておもふことものの流動《ながれ》のいや新しく
 大きけき年くれゆきて更々にはじめの年の天あけわたる
 紀元二千六百年をことほぎて第一年の年あたらしも
 業房にこもりて眼《まなこ》※[目+爭]ることもあな清々《さやさや》し年あけわたる
 この現をさげすむものはおのづから理法《ことわり》なきに同じからむぞ
 ここにして究めむとする學をしもささぐべき時いたらざらめや
 
(297)    漁村曙
 
 あかときの男女のこぞりたる網引《あびき》のこゑは海の幸呼ぶ
 天地《あめつち》の目ざめむとする時にしもはやもおこれる海人の呼びごゑ この濱に茜の雲の棚びくを幾代か見つつけふ新なり
 もろともに朝のこゑあぐる汀《なぎさ》には今こそ躍れ大魚小魚
 朝日子を眞面《まおとも》に受けて入りつ船海の幸あふるるばかり
 あけぼのの色にそまらむ潮浪|永久《とは》のひびきを海人常に聞く
 あまつ日が海の中よりいでしとき人はいくたび喜びにけむ
(298) 天とほく茜に染まりたなびきて船漕ぎいでむきほひおこれる
 ひるがへる旗にまたけき幸をこめ呼ばふ潮の音かぎりなし
 漕ぎいづる船に心をとめむとぞ濱の女人《をみな》ら目蔭《まかげ》すらしき
 斷崖《きりぎし》のあかくつづきてそばだつを山より來つる人見けむかも
 
    曉
 
 ものなべて靜かならむを好しとせり心しづまれこの曉に
 海どりの白くひるがへる曉をおのづからなる人群れむとす
 くれなゐの光にもあるかあまつ日の海よりただにのぼるを見れば
(299) とことはに仕へまつらふ海幸を海人の生《いのち》をさきはひたまへ
 鰭の狹物鰭のひろものに至るまで置き足らはして朝明けむとす
 
    願ひ
 
 北平《ペイピン》といひたる頃のおもひでを數多持ちつつ夜ぞ更けわたる
 哈爾濱《ハルピン》の市場にありて食料品買はむと誘惑を感じけるころ
 わが甥の勤めはげむは山海關にいたらぬ前の驛とおぼえむ
 寒さきびしき滿洲なれど降りつもる雪は奥羽の雪に及ばず
 いくたびか洋《うみ》をわたらむ願あり北京《ベ キン》の春をいまだも知らず
 
(300)    紅梅
 
 梅の木の低木《ひくき》のもとの青き苔冬の眞《も》なかに冬さびをせず
 外面《とのも》には霜はいたきに赤き花むらがり咲きて梅家ごもる
 一尺《ひとさか》に滿たぬ木ながら百《もも》あまり香ににほひたる紅《くれなゐ》の梅
 花びらは上枝《ほつえ》にもあり下枝《しづえ》にもありて蕾のなほし五十《いそ》まり
 くれなゐに染めたる梅もにくからず今こそおもへ白梅《しらうめ》のはな
 花びらは上向きたるも間々ありて下向きたるもにくからなくに
 くれなゐの梅を愛《かな》しむわが歌ををとめの伴はいかにか讀まむ
(301) 散りがたになりたる梅を眼ぢかくに置きつつ居ればわれ獨りよし
 くれなゐに香に立ちきたる梅の花さ夜ふけに見て心しづまる
 うつし世のきびしき時のたまゆらの心の和《なぎ》と紅梅のはな
 
    アララギ隨時
 
     〇二月號
 
 歸還せる看護婦隊の記事ありて朝のうちより涙いでたり
 肉體に自淨作用のあることを吾聽きしより三十三年経たり
 
     〇三月號
 
(302) 一夜明けばかかれとてしも思はめや屋上園に消《け》のこれる雪
 小さなる矩形の鉢に朝よひに※[木+無]の幼木《をさなぎ》は冬木立なす 五寸にも充たぬ木にして紅梅の蕾が一つはやも匂へる
 
     〇四月號
 
 ソロの木のまだ稚きが五本たち山の木原をあひ見る如し
 ソロの木はイヌシデといひ或る學者アカシデといふソロにて好けむ
 ※[木+隋]圓形の鉢に竝べるソロの木はニ月にほそほそとして芽こもる
 
     〇五月號
 
(303) きさらぎの鮒をもらひぬ腹ごとに卵をもちていかにか居けむ
 間を置きてにぶき鳴動のつたはるを汝《なむぢ》ひとりに關はらしむな
 飯《いひ》の恩いづこより來る晝のあかき夜のくらきにありておもはむ
 
     〇六月號
 
 石|竝《な》めて賣り居りしかばとりどりにシナ國の山と相見るごとし
 Kurier 四發長距離爆撃機ことごとく近き運命を持つ
 
     〇七月號
 
 重々ととよみはじめて夜明けたる梅雨入空に啼くほととぎす
(304) 涯《はて》とほく梅雨うごきしを見つつ居り追及きゆかむ曇《くもり》おもひて
 北ぐにの雪|消《け》たる庭うかびたり紅《》のこごりし芍藥ひとつ
 やまかはのかたまりあへる平面圖年老いし人も目守らむとする
 
    折に觸れつつ
 
 冴えかへるこのゆふまぐれ白髭《しろひげ》にマスクをかけてわれ一人ゆく 一月二月作
 午前より地下鐵道の入口にのぼる氣流をしばしあやしむ
 納豆もしばらく食はずしかすがに恣にてわれあるべしや
 百貨店の休憩室に來りけり十分間ばかり心は虚し
(305) 蕗の薹五寸あまりに伸びたちて華になりたり今朝はあひ見つ
 なやましく時にひびけどさもあらばあれいくる爲事《しごと》は實に大いなり
 浮釣木と名づけて愛づる紅花《あけばな》は外《そと》のあらきに當つることなし
 小さなる欅の三もと立ちゐたり大木《おほき》のごとき心をもちて.
 高層の七階にして午後の二時白色のレグホンが時をつくる
 吾がとなりに若き母|乳《ちち》を飲ませをりあまたたび乳兒《ちご》に面《おもて》すりつく
 平野より直にそびゆる遠山の青きにむかふ心地して立つ
 三越の地階に來りいそがしく買ひし納豆を新聞につつむ
(306) 狂者らの殘しし飯もかりそめのものとな思ひ乾飯にせよ
 蕗の薹むらがり立つをよろこびてほほけぬ日日を來て立ちまもる
 みちのくの農に老いつつみまかりし父の稲刈《いねかり》がおもかげに立つ 春たけて來つつ北空の風をいたみ机のうへに煤おちきたる
 日ねもすを吹きすさびたる風のため小さき青葉の萌《もえ》が散りくる
 
    春山
 
 春山をわが來るなべに眼のまへの柞のおち葉しきりにうごく
 うづたかく散りつもりたる落葉山おち実の下にこもり水《づ》ありて
(307) しずかなるものにもあるか木間にて落葉のうへに照りかへすみづ
 小峽《をかひ》にし杉の木立の茂ければ杉の落葉をふみつつぞゆく
 地《つち》のうへにくろびかりする石ひとつ朝な夕なに誰かも見らむ
 汝《な》をおいひしみみに見れば春山の槻の落葉もおほよそならず
 春のみづ砂をながせる跡ありて山の小鳥らむつみあそびし
 木々の葉のまだ芽ぶかざる上野《かみつけ》の山路をゆけば地《つち》ふるふおと
 
    舞踊
 
 朝鮮の舞のちひさき冠よ健康なる女體《ぢよたい》の額のうへに
(308) 白き領巾《ひれ》ひるがへりける悲しさをしばし心に秘めむとぞする
 おもほえず彼女《かのぢよ》ちかづき來りつつ三米突餘ばかりになれり
 崔承喜まなこを閉ぢて歎くときその面わより光だつはや
 みつみつしき女《をみな》の舞のひとしきりをはりて吾はうつむきて居る 二月二十五日歌舞伎座
 
    海濤
 
 ゆふまぐれ陸《くが》のはたてにつづきたる曇に觸りてわたつ白波
 とどろきは海《わた》の中なる濤にしてゆふぐれむとする沙に降るあめ
 いのちもちてつひに悲しく相せめぐものにしもあらず海はとどろく
(309) 海中《わたなか》は沖といへども暮れかかり巖のめぐりの濤さわぐ見ゆ
 巖むらは黒きながらに見えて居り浪のみだれの副《たぐ》へてもとな
 やうやくに闇にならむとせしばかりに雨降る海に波たちさわぐ
 安房のくにの燈臺の燈の廻轉をややしばし見て心足りをり
 ゆふぐれになりておもおもと海中《わたなか》に湧くうづ潮に飛ぶ鳥もなし
 酢章魚などよく噛みて食ひ終へしころ降りみだれくる海のうへの雨
 巖こゆる濤といへども時の間のその鋭きを忘れかねつも
 夜もすがら疾きあまつ雲うごけるを見ることもなく眠りてゐたり
(310) おのづから聞こえ來《きた》るは鈍くして海中《わたなか》のよる明けむとすらし
 わたつみに向ひてゐたる乳牛《ちちうし》が前脚折りてひざまづく見ゆ
 あめつちの出で入る息の音にして眞砂のはまに迫むる白汲
 
    米
 
 タイ國の砂とおもひて身にぞ沁む宵々に米より砂ひろはしむ
 いろ赤き砂もまじりて遙かなる洋《うみ》の彼方ゆ來つる米《よね》はも
 配給を受けたる米を愛《を》しみつつ居りたるなべに砂ひろひけり
 まじりゐる籾をし見れば細長くわがくにぐにの籾ごめに似ず
(311) 底ごもり安からぬものの傳はるをわれ否定して米袋解く 三月二十八日作
 
    兄
 
 ひとり子《ご》を嫁がしむとてわが兄は北見の山を越えつつ行けり
 ただひとりの少女はぐくみわが兄は年老いてよりその子手離す
 北見なる野付の町にふた夜寢て兄はひとり子を今嫁がしむ
 おのづから子より離れて年老ゆるその寂しさを言ふこともなし
 眞少女《まをとめ》になれる一人子手ばなしてしづかに老ゆる兄をおもへり
 
   佐渡小吟
 
(312)     昭和十六年四月二十五日、午前八時牛、佐渡丸新潟港を出づ。十二時兩津著、乘合バスにて午後二時相川に著く。相川の町、千畳敷、金鑛山などを觀て、ふた夜相川にやどりぬ
 
 碧きいろあやしきまでに深くして佐渡相川の海の潮さゐ
 海草《うみぐさ》のおふるがなかに流れくるうしほの渦も見るべかりけり 千疊敷
 潮なわのたゆたふ海のふかきいろ巖めぐりてあをぎりわたる
 波の寄る佐渡の濱べのさざれいし色ににほひてかぎりも知らず
 佐渡の濱のくれなゐの石かなしきまで吾は手に持つそのにほへるを
 春ふけし佐渡の入日はわたつみの線《すぢ》ひく雲に入りてゆきたり
(313) 海にいたる小谷《をだに》がありておち入れば常ふかぶかととどろける浪
 いささかのすなどり村に廣場あり寺も共同井《ともゐ》も其處にありける
 北狄《きたえびす》といふ部落ありそのしたの海もとどろく巖のひまに
 相川の金鑛山のひびきをも眞近に聞きてのぼり來りぬ
 
     四月二十六日眞野陵・國分寺址
 
 御船泊てたまひしといふ戀が浦|京《みやこ》おもへばいく重《へ》の雲かも
 みささぎの苔のふかきにまのあたり遠く旅來つるわれは觸《さや》りつ
 國分寺あとの松原にひろひたる布目|瓦《かはら》を衣嚢《かくし》に入れぬ
(314) 海ちかき山の中なる金堂にこひねがひけむ島びとおもほゆ
 今の代にまうで來りて薬師瑠璃光如來のくがねのひかり
 漆の芽あかく萌えつつゐたりけり遠くの岡に道はとほりて
 上人のいぶきかかりし木の苗もありけむかもともとほり居たり
 いつくしき五重の塔の立てる見つ佐渡のこころは淺からなくに
 
     四月二十七日河原田新町を經て小木に向ふ
 
 國府川《こふのがは》の流わたれば直ぐ海の碧きひかりが眼にし入りくも
 松山のむかうになりてたかだかと金北山《きんぽくざん》はやや形かはる
(315) やうやくに灣をめぐりて來しときに佐渡は低きにひらけつつ見ゆ
 あひ對ふ佐渡の山なみの間《かひ》ひらけ南の方《かた》へさやるものなし
 雪のこる金北山の位置うつり近き岬のうへになりたり
 對岸《むかぎし》になりたるところ海に入る川などありて石はらが見ゆ
 木炭を嚢《ふくろ》より出すそのときにをとめの車掌も補助してゐたり
 やうやくに木の芽大きくなりにつつ佐渡を南へ旅ゆくわれは
 
     四月二十七日小木港
 
 佐渡にして羽茂川の鮎|愛《は》しといへど旅をいそぎて一つだに見ず
(316) 越後なる彌彦《やひこ》米山をふりさけぬ米山いまだ白く見ゆるを
 城山に雲雀さへづり天つかげ隈なきときに獨り來りき
 紅葉の俳諧|彫《ゑ》りし石ぶみが立ちたるまへに來て身をかがむ
 松かぜの音する山の木の間にて小木の港を見おろすわれは
 いにしへに人買ぶねも泊りけむ小木のみなとの汀《なぎさ》に立ちつ
 すなどりの網ほせる濱のなぎさにて老いたる人と短く話す
 榮えけむ小木の港のおもかげを小路《こうぢ》ゆきつつ見むとこそすれ
 山寄りの家々の間をわれ來たりたづき靜かなるありさま見えて
(317) 佐渡の春ゆかむとぞする晝なかの小木の港は物音《ものと》ひそけし
 日過ぎなば小木のみなとに赤き石買ひもとめたる縁《えにし》おもはむ
 
     四月二十七日歸路
 
 上人のありがたきいにしへ想ふべき齢になりてわれは道來る
 佐渡の春行かむとしつつかげともに白きを見れば梨の花さく
 女等《をみなら》も田を鋤くなべに現身にあまつめぐみの垂りつつゐたり
 消えのこるいただきの雪鉛なすいろにもなりて佐渡の行春
 路のべに義民の墓が立ちゐたりいつの時代《ときよ》の義民なるべき
 
(318)     四月二十七日黒木御所蹟(泉村下車)
 
 正觀世音菩薩しづまりたまひたるここの御寺《みてら》に春ゆふまぐれ 法教山本光寺
 すめらぎのこもりたまへるみあとにて椿の花があまた落ちつも
 高山に對ふ宮居のあとどころかなしみふかき春ゆかむとす
 かの山の雪春ごとに解けゆきて青きをみそなはしたまひたる
 山鳩はうらが灯しきに啼きをりて二つ啼かざるこのゆふまぐれ
 としどしにここに山ざくら吹き散りて畏《かしこ》きろかもいにしへおもほゆ
 洋傘《かうもり》と鞄を持ちて滿員のバス素どほるを吾は見てゐる
(319) 辛うじて吾乘せくれし乘合のバスの中にて旅をぞ思ふ 車掌山本タツさん運轉手近藤治作君
 
      四月二十八日午前九時五十分兩津を出づ
 
 應召にゆく青年らおなじ時にひとつ船にて出でたたむとす
 松毬《まつかさ》が松のこずゑより落ちくるを拾ひて持てり鞄のなかに
 
      彌彦山
 
 ほのぐらき山の朝道ひとりゆく七曲ともいひをる道を 四月二十九日
 杉山に松はらまじりしげりたる彌彦のやまをめぐりてのぼる
 あはあはと苺の花のにほひゐて黒き蜂こそまつはりにけれ
(320) かたくりの花をもとめむ吾ならず山のたをりににほへるあはれ
 あかときのくらき森ぬちに啼きゐたる山鳩のこゑ下になりたり
 かへるでの木の芽はいまだむらさきに見えつつ春の寒きにやあらむ
 むら山に低山いくつかたまりて越後のくには霞みわたれり
 ぜんまいのわたをかむれる萌立をひとり見つれば黙《もだ》にしありき
 松かぜの吹けるところもとほり來し松風ふけばこころさびしも
 秋蟲に似たる音《ね》にして聞こゆるを春山にのぼり吾はおもひき
 わが對ふ山よりくだる水のおと石間にひびき聞こえたるらし
(321) 切通と山びとのいふところあり小峽吹きあぐる風はわたりて
 のぼりゆくあるところには白き色あやしきさまに雪は消《け》のこる
 ながれたる川のみなもとほそほそとなりつつゆきて吾は見がてぬ 彌彦山上
 彌彦《いやひこ》の高きにをりてこほしめる佐渡は曇りの奥《おき》になりつも
 岩代の曾津の山とおもほゆる雪しろき山やや横ほりて
 春ふかき越後のくにの山河をふりさけ見ればあらた人《びと》われは
 
    羽前
 
     四月二十九日午後二時四十四分新潟發、坂町に乘換へて、羽前の泉、小國、赤湯にむかふ
 
(322) わがよはひ六十《むそぢ》になりてあな清け彌彦の山のうへに汗垂る 車中一首
 淺山も春の光のとほればかこごるがごとく青芽だちぬる
 春の日の空にむかひてひと山の落葉松の芽のもゆるやさしさ
 山がはに沿ひてのぼれば白雪はおもひだしたるごとくに殘る
 越後より羽前に入りて小峽《をかひ》なる雪解のみづのさかまきながる
 朝日嶽みづがねいろに雪殘り前山《さきやき》のまの奥に見ゆるを
 山がひに消《け》のこる雪は小さくなりて赤土のへりにも殘る
 
     四月三十日、赤湯を立ち上山温泉山城屋に著く。五月一日、上山を立ち山形を經て高湯温泉なる龍山に登る。高橋重男同道せり
 
(323) ここにして藏王の山はあら山と常立ちわたる雲見つつをり
 ひさかたの天はれしかば藏王のみ雲はこごりてゆゆしくおもほゆ
 櫻桃の花しらじらと咲き群るる川べをゆけば母をしぞおもふ
 春ふけむ五月|一日《いちにち》しら雪は澤のひだりに消えのこりたる
 しろ妙の雪をかかむる遠山がをりをりに見ゆ木立の間《かひ》に
 うつせみの胸戸《むなと》びらくるわがまへに藏王は白く雁戸《がんど》ははだら
 いきほひて山の奥よりながれたる水際《みぎは》しづかに雪は消殘る
 いつしかも笹生ひたしてこの谿の雪解の水のあつまるあはれ
(324) 消《け》のこれる雪は笹生のうへにして春のふかみに日ごとに解けむ
 雪ふみていゆく春山のしづかさに光をかへす雪のうへより
 
      龍山のいただきにありて
 
 藏王よりなだれをなせる山膚に白斑《しらふ》になりて雪消えのこる
 羽前なるあまそそる山いまだかもそともの雪かげともの雪
 山の峰かたみに低くなりゆきて笹谷峠は其處にあるはや
 雁戸よりひだりに低くなりゆきし笹谷峠は愛《かな》しきろかも
 藏王よりひくき雁戸のあゐ色をしばし戀《こほ》しむ雪のはだらも
(325) 絲のごとき道の見えをる山越えてわきいづる湯に病み人かよひき
 しらじらと川原がありてその岸にわが生《あ》れし村の杉木立みゆ
 生きものの膚をなせる山むらにまだらに雪の白きかなしさ
 斑《はだ》らにし消《け》のこる雪をさやりなく見つつやうやくに高きゆ下る
 
     山をくだりて若松屋長右衛門方にやどる。五月二日、結城哀草果來り會ふ
 
 枝ひくき杉はらに消えのこる雪斯くやすらかに見ゆるものかも
 あまつ日の光全けきを樂しみて照りかへし來る雪のうへに居り
 かく近く聞かむものかも鶯はわれのうしろに啼きつつあはれ
(326) 高原《たかはら》の春のひかりの隈なきに消のこる雪の傍《そば》にわがゐつ
 ひと小谿おほひて殘る雪踏めばその雪きしむ音もこそすれ
 太陽は五月|一日《いちにち》かがやくと冬がれ草伏して雪|消《け》たる原
 消えのこる雪のかたへに杉の樹の根方にすわる愛しく思ひて
 おきなぐさ野にしふふまむころにして藏王の山の雪はだらなり
 春ふけし山中《やまなか》にしてたちてくる割木《わりぎ》の香こそこよなかりけれ
 高原を越えのぼり來て消《け》のこれる雪のかたへに我はたたずむ
 
     哀草果と林中を行く
(327) しづまりて消のこれる雪に入り日さし青杉の葉の落ちたるが見ゆ
 石原の石に苔生ふることもなくあたたかき水きほひ七ながる
 しづかなる春山峽のかなしさよ杉原ゆけば杉の香ぞする
 
    雜之歌
 
 粒粒|皆《かい》辛苦すなはち一つぶの一つぶの米のなかのかなしさ
 粒《りふ》卻けて霞を喰ふといふことを古への代に誇りしもあり
ことはか  て し梓
 ひとりごの爲めに朝よひの事計り天鹽の國に兄すこやけし 兄富太郎二首
 新《あたら》しき夫婦を旅にたたしめて兄ら夫婦は雪ある村にかへる
(328) ユーゴウ國のクーデターに驚くは誰ももち居る懷疑よりする
 わが机をもむくむくと動かして日に幾たびかトラツクとほる
 北平《ペエピン》より求め來し漢魏叢書など日向に竝《な》めて陽はうつりける
 この園にひかり移りて白《しろ》牡丹くづるるときの音をこそおもへ
 いとまなきわれにありしか日向には五年ぶりに書をならべぬ
 
     太刀山峰右衛門(老本彌次郎)四月三日歿、行年六十五
 
 四十歳以後もますます強かりし二十一代横綱みまかる
 ウンガルンの首相テレキイ氏逝去して自殺ならむといふ記事があり
(329) 十日まりまへにいでたる羊齒のもえ開かむとしてそよぎてやまず
 庭くまの羊齒の新《にひ》もえ日もすがら此處になよなよとしたる安けさ
 羊齒の芽の上にむかひて伸びたるを垂直にわれ見おろしてゐる
 ブルガリアのソフイアに櫻が咲くといふその櫻ばな一日おもへり
 日もすがら建築の音ひびき來てわれの机もときどきうごく
 春山の青みだついろあひ見つつうつつむいめもこめておもほゆ 五月十八日大阪
 近江路はいまだ寒しとおもほゆる伊吹のうへに線《すぢ》なす雲あり 五月十九日大阪を立つ
 あひつぎて見がほしき山春ふけし青きが上の伊吹の山は
(330) 姫あやめの愛《かな》しき花をうごかして地《つち》のうへ低く風ふきわたる
 われつひに老いたりとおもふことありて幾度か疊のうへにはらばふ
 
    山中漫歌
 
 朴《ほほ》の木の二尺ばかりになりしものみづみづしくも此處に立ちけり
 この家の木立に來鳴く山鳩もうつつなる世のものにしありき
 山なかに鳴く鶯のもろごゑを嫉まむ時の吾にありやなし
 過去になりし左千夫|翁《おきな》の小説を讀みてしばらく泣きつつゐたり
 朝はやく天がけりゆく音響の聞こゆるあひだ吾あふぎけり
(331) かなかなは波動をなして鳴き來りそのひと時はわれ快し
 峽空《かひぞら》の光のなごり消えなくに啼くほととぎす峽に聞こゆる
 山こもりわれは居れどもむらぎもの心よわしと豈いはめやも
 ひぐらしは日毎にふえてわがそばの百日紅の木の膚《はだへ》にも二つ
 山なみにひびきて鳴きし晩蝉は暗やみとなり皆ねむるらむ
 草の上の蜘蛛のいのつゆ朝日子が染めてしばしのかがよふものを
 朝けより雲なくなればいたきまで山の光は額にし染む
 國力《くにぢから》われはおもひて寢たりしが夢を幾つも見つつ居りにき
(332) 實生より五年あまりになりつらむ杉を一本《ひともと》ここに移しつ
 こほろぎのいまだ鳴かざる山中の月のおばろをしばし戀《こほ》しむ
 山鳩がひとっ爽鳴きてわがいへの松木立よりなかなか去らず
 あかつきの山鳩のこゑ聞くときは心はなごむ哀れならねど
 くぐみたるこゑに啼きづる山鳩を心に持ちて靜けくもあるか
 この山にみなぎりて降る雨のおと一つの鳥のこゑも交へぬ 七月十二日
 こほろぎの子の生れしが百あまり廊下に居りて士にこもらず 七月十四日
 
    岩元禎先生七月十四日午前零時逝去
 
(333) あぢさゐの紺のにほひの深きころ君みまかりてかなしくもあるか
 かいほそりし手を枕にしわがまへに杜少陵のこといひ給ひたる
 山にては女《をみな》ささやく聲さへも聞こえて來《きた》るしづかさを有つ 七月十七日
 書《ふみ》のうへに黴ふきながら山中は霧にくらみぬきのふも今日も 七月十八日
 山をおほひ雨のするどく降るときは鶯らいづこに隱ろひ居らむ 七月二十日 白き霧|天《あめ》よりつづき果てしかば杉の秀立《ほだち》が前にあるのみ
 ひといろにうづみつくしし白雲は天地成れる元始《はじめ》のごとし
 かなかなの群れ鳴く時はひとしきり雨晴れ來り白雲の疾き
(334) 舟上《しうじやう》に孤高たのしむシナ國のいにしへびとの事にしあらず
 數千の蝉鳴くこゑも驚かずなりにしものを朝宵に聞く
 山中に降る雨のおと或時はこの寂しさの堪へがてなくに
 
     七月二十二日颱風豪雨
 
 みなぎりて雨ふるときにきのふより昆蟲は壁につきしままなる
 壁の上にしづまり居りし甲蟲《かふちゆう》がいまだ動かず山あらしの雨
 川のおと夜もすがらするを聽きをればあらし吹きゆくごとくにむ聞こゆ 【七月二十三日】
 白雲の立ちみだる奥の澄空《すみぞら》や羽のかたちのしづかなる雲
(335) 米を縁がはに干せば米の蟲いくつも出でて逃ぐるを見てゐる
 
    續山中漫歌
 
 さだめなき夕まぐれとてこの山の高天《たかあめ》の戸に虹たちにけり 八月一日半天に夕虹立つ
 黄金《くがね》いろの空あらはるとおもひしにその眞中《まなか》にて虹たちわたる
 峽空のみだれて來るなかにしてこがねの雲にたてる虹はや
 山峽を朝な夕なに見しかどもこの美《いつく》しさ見しことぞなき
 高空に虹のたつこそあはれなれあまつ日山に没しけるかな
 たまはりし食物《をしもの》をおしいただきぬ朝のかれひにゆふの餉《かれひ》に 八月五日
(336) みんみんと鳴く蝉をはじめて今日聞けり彼等といへど晴をたのしむ
 この山の杉木立よりひくくして月あかあかとかがやきにけり
 まどかなる月にならむとする時の夜雲《よぐも》は晴れてくぐもりぞ無き
【八月六日陰暦閏六月十四日晴る】
 あきらけき月にむかひて咲く花をあはれなるかなや心に待たむ 八月七日滿月
 
     八月三日丸山東一氏逝去す
 
 公にささげむとするためのみになみなみならず君は居りにし 八月十日
 ほのぼのと空ににほひし合歡の花のおとろふる頃いまだ山を下らず
 夏山はさ霧にくらみほとほとに女《をみな》おそるる吾身に沁みわたる 八月十一日
(337) 豪雨《おほあめ》の雷《らい》をまじへて降る聞けば傷《いた》まむとする國土《くに》をしおもふ 八月十三日
 おぼろなる心うごきは安からず米《よね》に係はりつ昨日も今日も
 山中《やまなか》の空は凡《おほよそ》のものならず黄昏《くわうこん》にみづからの足蹠《あしうら》を揉むかな
 
     子規忌歌會のために
 
 つつましきその直觀を爲しましき正岡子規の俳句も歌も 八月十四日夜
 山なかに來て氣づきつつ居り次男もこゑがはりしてわれに優しも 八月十六日
 夏ごろより次男もこゑがはりそめて漢文讀本讀むこゑ聞こゆ
 右がはの偏※[病垂/難]《へんたん》になりこやりたる君がかひなせをりてなげくも 八月十七日渡邊草童を訪ふ
(338) しまひ置きて黴びむとぞする紙幣をば山の日向に泣べつつ居り 八月十八日
 日をつぎて雨の降りたる山峽の晴れむか朝け山鳩啼きつ 八月十九日
 
     八月十五日井上通泰先生逝去せらる、行年七十六歳
 
 新しくこまやかなりし考證の學をのこして去にし君はも 八月二十日
 
     八月十六日長與又郎先生逝去せらる、行年六十四
 
 束漸の學なりし Pathologia《パトロギア》 の綜合ひとたび爲したまひけりことり     おと
 われひとりしづまる窓にすれずれに山の小鳥の羽ばたく音す 八月二十一日 すでにして曇《くもり》のふかき山峽は朝はまだきの山鳩のこゑ 八月二十二日
(339) 山越ゆる雨はれしかば日もすがらけふもにほひし萩が花ちる
 山中にくもり深けば惜しみつつ珈琲《コオヒイ》を煮しこの私事《わたくし》よ
 いでそめしうすくれなゐの薄の穗野分だつおとはやも聞こゆる
 山中にこもれるわれに樂しめと最上川の鮎十おくりこし 八月二十三日林壽子より
 峽の門があかがねいろになりしとき空のなかばを雲はれわたる
 山毛欅の樹はふとぶとと枝持ちながらこの山中に年經りて居り 【八月二十四日小塚山乙女峠】
 むら山の青きが守るごとくにてかく高きところにみづうみあるか
 合歡木のはな終となりてやはらかくそよげる葉のみここより見れば 八月二十五日
(340) こもりゐる吾にも食へよとたまものと熱海のうみの生き足りし魚 坂夫人より
 夜もすがら野分のおとすひとつだに馬追來鳴くことなかりしに 八月二十五日夜
 山のうへの石にとまれる蜻蛉みゆ飛びゆきてまた石に歸り來 【八月二十六日茂太宗吉と明星嶽登山】
 石のうへに蜂ひとつ來てとまりけり蜻蛉《あきつ》の如きしづけさなしも
 われのゐる部屋の窓より直ぐつづく低空にして鴉の羽音 八月二十七日細雨 杉の樹の膚《はだへ》をちかく見つつ居り寂かになりし光あたれる
 山なかのまだ暮れきらぬ小草《をぐさ》より白露のぼるこのしづかさよ 八月二十八日
 ゆふぐれの淺茅にひかる白露のたまを或る時は螢かとおもふ
(341) 太杉の枝はらはしめ枝すきし杉をしげしげと見|居《を》るわれかも 八月三十日午後雨
 米の蟲の白米侵すありさまを見たりけるいたく驚きながら 八月三十日雨
 のこり居るひぐらしのこゑ下谿《しただに》にとほく聞こえて日は暮れむとす 九月四日
あをはら ばつたはね
 やはらかき秋の光のしみ入りて青原に※[虫+奚]※[虫+斥]《ばつた》羽ひろげ飛ぶ
 暗谷《くらだに》に姫沙羅の木は古りをりてをりをり雲のくり來るなり 【九月五日陰暦七月十四日月清朗】
 山かぜの音のゆくへは下谷の杉生を越えてなほし遠きか
 海のおとこの山がひに聞こえしをかなしく吾はひと夜おもひき
 雨ふりし夏すぎゆきてこよひもや高萱ひかるまどかなる月
(342) 馬追はこの月の夜に鳴きにけり時過ぎたりとおもひ居りしに
 一椀《いちわん》の味噌汁の恩干し蕨いれてたぎてる汁をし飲めば 九月六日陰暦七月十五日滿月
 ものきびしき世相《よさま》にありてはしけやし胡瓜噛む音わが身よりする
 彩雲《あやぐも》は月のほとりにいざよひてしばらくにして消《け》たるあはれさ
 杉木立の間《あひ》をさしくる月かげは岡の淺茅を照らしてゐたり
 あやしまむものならなくに蟋蟀は湧くごとしげし山の月夜《つくよ》に
 しげみには青き葡萄の房も見てそこはかとなく山を遊ぶも 九月八日
 激ちある谿にむかひておのづから傾き生ふる木原も好しも 九月九日小塚山
(343) 白膠木《ぬるで》の實うすくれなゐになりにけり秋ふけにして鹽ふくらむぞ
 けふひと日強き雨ふり爲むすべのなきがまにまにまどろむ吾は 【九月十一日二百二十日豪雨】
 ゆふぐれて山のはざまに鳴る雷を雨のをはらむ徴《しるし》とこそ聞け
 しづかなる心をもちて山くだる雨おほかりしことをおもひて 九月十二日下山
 この山に吾はこもりて健けくありたることをおもはざらめや
 さ庭なる小草《をぐさ》をおきて行かむとすわが下駄の踏みしひくき小草を
 
    秋
 
 哀草果われにくれけむ納豆も七日《なのか》たもたずかたまりぬるを
(344) 山形のあがた新米《にひごめ》のかしぎ飯《いひ》納豆かけて食はむ日もがも
 
    アララギ隨時
 
     〇八月號
 
 ※[草がんむり/〓]草《どくだみ》の群れたる花もあはれにて朝な夕なにさ霧がながる
 ほがらかに來啼く鶯このゆふべ戯れのごと聞こえつつあり
 山なかにわが持て來つるこ二斗餘の米を愛《を》しみて疊にひろぐ
 
    〇九月號
 
 アララギの魂《たましひ》をしてつつましく諸ともにせむ時は來むかふ
(345) 子規左千夫そのきびしかりしみ命を今に傳へておこなはむとす
 
    〇十月號
 
 ものなべて乏しといひて粘《ぬめり》ある山草《やまくさ》くへばよろこびまさる
 小つぶなる金米糖《こんぺいたう》を見いで來てをしみつつ居る女中等のこゑ
 納豆を食はずなりしより日數經てその味ひもおもひいださず
 
    折にふれて
 
 ひむがしゆ北へわたりて開きたる天ことごとく黄なるゆふぐれ 九月十九日
 川のべにひとかたまりの淺茅むらそよぎながらに秋さびむとす 十一月七日五首
(346) かたはらに自轉車置ける少年が大川のみづに對ひつつ居る
 川のべの道の白きにさす光冬の來むかふ光とぞおもふ
 大川のみづに及ぶ小公園につみたる砂はなべてみだれつ
 榧の樹が淺草寺の境内にあるを見ながら歩みてゐたり
 ひとところ槻の落葉はうづたかくつもりてゐたり秋の日にけに 十一月八日
 家のあひの狹き空地にしげりけるおどろの色も秋さびゐたり
 ひひらぎの木に直立《すぐだち》の萌《もえ》みゆるけふの秋日《あきひ》にわれいでて來ぬ
 いく段《きだ》の雲は空合にたなびけり寒くなるらむとおもほえなくに
(347) 圖書館の出納をする少年がきびきびとしてゐたるうれしさ 十一月九日
 一谷を越えて彼方にありといふははその落葉見にゆかむとす 十一月十一日 街上にゆきあふうからことごとく神のうからとおもふたまゆら
 胸のへに徽章《しるし》をつけていそいそとをさなきを背に負ひつつぞ來る
    引馬野
 
     萬葉の阿禮埼は現在寶飯郡|御津町《みとまち》大字下佐脇新田に當る。右、御津町|御馬《おんま》、今泉忠男氏の考澄によれり。十一月二十一日今泉氏は堀内氏及び予を導きて萬葉の古跡に及ぶ
 
 わきいづる水のゆたけき海のべにいにしへの代の行幸《みゆき》おもほゆ
(348) 萬葉のいにしへの代の阿禮の埼考證し來れば雨ふりしきる
 いにしへの引馬の野べをゆきゆきて萩の過ぎたることをしおもふ
 引馬野ににほひし萩をみとめむと宮路山べをのぼりつつをり
 宮路山つひにのぼりてたちこむる狹霧の奥《おき》の海をしぞおもふ
 山くだり三人いそげど国府町の國分寺址に日は暮れにけり
 せまり來し時ををしみて家こぞるあつき情をかたじけなみぬ
 
    關ケ原
 
 いにしへの和※[斬/足]が原をさだめむと友の言《こと》もち道いそぎける
(349) ひとりなる心さびしく立ちゐたりもみぢの赤き不破の關の址
 不破の關址とし思《も》へばうらがなし朝な夕なにもみぢ散らむに
 八百の銃卒攻撃をはじめたる福島隊をここにておもふ
 刈りをへし稻田にくだり晝の飯食ひつつ目守る松尾山ひくし
 脇坂の陣のあと見ていきどほり山中村にたどりつきたり
 萬止むを得ずといふとも裏切は審判のまへにまぬがるべからぬ
 汗しとどながれてわれは立ちて居り大谷吉繼戰死のところ
 天滿山《てんまんざん》のかげになりつつもみぢばのすがれし谿にしばしば迷ふ
(350) つゆじもの未だ乾ぬ道をゆきゆくに負けし戰《たたかひ》つねにおもへる
 藤子川の谿みづわたりなづむころ天滿山のかげになり居り
 竹村《たかむら》のなかをきたれる息休めわれひとりにていくさ悲しむ
 まはりみち幾度もして小西隊宇喜多隊|等《ら》の跡を歩みつ
 天地もくらむばかりと記しあるたたかひのあと尊くもあるか
 鬨のこゑあがる最中に立ちながら指を噛みゐし家康おもほゆ
 激戰のきはまりぬれば諸手打込の白兵戰に始終せられき
 小池村の遣のほとりに島津隊布陣のあとが直ぐ見つかりぬ
(351) 中山道|北國《ほくこく》街道扼すとも守勢の陣といふべからずや
 のぼり來し石田の陣のあとどころ笹尾の山に汗冷えむとす
 黒田勢特殊部隊のすすみたる相川をしもここに見おろす
 冬に入るたひらに立ちて今しがたのぼれる山をかなしむわれは
 勝さだまりし最後の陣のあとどころ稻田のうへに西日さしたり
 六十になりたるわれは午後四時の汽車に乘らむと汗垂りいそぐ
 
    小佛より大垂水
 
     十一月二十七日、淺川驛に汽車を降り、小佛の峠路をゆく。山口茂吉君同道せり
 
(352) 山椒の實を摘みとりて秋山をおもひいでむと語りあひける
 水の瀬にそひつつのぼりゆくときにははその木原もみ音うつろふ
 一國《ひとぐに》のさかひを越えてうつせみは關を過ぎきとふあとどころこれ
 うめもどきからくれなゐにもみでるを小佛道《こぼとけみち》に見つつし行けり
 うつくしく柿落葉せるかたはらに茶の花咲けりひとのたづきに
 胡頽子の實のくれなゐ深けしこの峽は夜空は晴れて霜ふるらむか
 のぼりゆく山のはだへにこごるごと檜原は黝し秋はさむきに
 小佛のたうげに居ればふりさくる狹間はながし北にむかひて
(353) 小佛にのぼり來りてむら山の奧がなる山の雲|愛《を》しみける
 いただきに出でたを水はすぢなして谷の底ひにながるるあはれ
 木下《こした》やみふかぶかとせるを通り來て光あかし山をめぐりつらむか
 木下闇わがとほり來し木原山その全けきがあらはになりつ
 しげ山のくらき木原のみちを來て水のゆたけきところに出でぬ
 
    歳晩
 
 黄いろなる公孫樹落葉のさだまるを朝な夕なに見とも飽かめや
 こがらしの吹きとほるおと庭隈《にはくま》にすゑたる甕のへにも聞こゆる
(354) としどしに吹き愛《かな》しみしつはぶきはいまだふふまぬ時雨は降りて
 をみなごの千社祈願としるしたる札かかりけりまづしきその文字
 うつつなる大きなからひするどさの渦なすなべに年くれむとす
 ひとり居のひそむ願にありしかど衢よこぎりわが心もゆ
 ものに迫らむ吾ならなくに冬夜《ふゆのよ》の暗きに向きてしばし眼をあく 書の上にも書と書とのあひだにも目に見えぬ塵來りてつもる
 
    童馬山房小歌
 
 みちのくの秋田あがたより送りこし※[木+冥]櫨《くわりん》ななつをわれは愛《を》しむも
(355) 黄色なる※[木+冥]櫨枕べにひとつ置くわれの眠らむその枕べに
 健忘になりてことごとに失せゆきし戀《こほ》しき心ときのまよみがへる
 小さなる鐵工場に火花ちる往還よりわれ入りて來《きた》るに
 鐵砧《かなしき》のまへにこごめる樂しけき少年工の面《おも》ほてりけり
 脊柱を伸ばし得為かぎり伸ばしたり海のかなたのこと聞きながら
 香のもの食《は》むときさへにただならず國のお歴々感冒《かんばう》を爲な
 厚ら葉のなかにこもりて萬年青の實紅きころほひ時雨ふりけり
 健康の遺傳すること見つつくる路傍の石榴くれなゐふけて
(356) しぐれ降るわが庭隈《にはくま》にあをあをと冬越えゆかむ姫あやめぐさ
 たわやめのたぎつ涙の清けれどあかき光に人に知らゆな
 
    不疑
 
 冬ふかむ夜に醒めゐて丸山東一君のことおもひ出されてならず
 苅草の燃ゆるけむりが秋河の水にむかひてなびきつつあり
 わが心たひらになりて快し落葉をしたる橡の樹みれば
 秋山にむら鳥の啼くゆふまぐれいまだ塒《ねぐら》にゆかざるまへよ
 辛うじて忠實なりしわが部屋に年くれむとしておびただしき塵
 
(357)    雜歌抄
 
     長寂節忌歌會(二月二十三日)
 
 きさらぎのすゑにもなりて吹く風の強き一日の歌會に來る
 
     T氏新婚賀(二月二十四日)
 
 ゆたかなる光を浴みて芽だちくる松の常みどり君にたぐへむ
 
     醫事新報二十周年賀(二月二十五日)
 
 くすりしの尊き業をひたぶるに言あげしつる君を讃へむ
 
     森類・安宅美保子新婚賀(三月二十九日)
 
(358) なべて世の祝事《ほぎごと》なれどうれしさに涙のいでむばかりになりぬ
 
     赤彦忌歌會(三月三十日)
 
 木々の芽のやうやくにして見ゆるころ嵐ふき過ぎて厚し曇は
 
     沼田哲子刀自を訪ふ(四月七日)
 
 さくら花咲きさかりたるけふ一日いにしへ人をしぬぶ樂しさ 伊藤並根翁
 牛飼と牛飼どちの交りは歌をつくりて樂しかりけめ 伊藤並根・伊藤左千夫
     武藤長藏先生還暦賀(六月九日)
 
 君の「學」を愛でつつ遠きおもひでよ今日ありのままに君ぞ尊き
 
(359)     豐田八十代翁を偲びて
 
 山川を踏みさくみつつ新しく萬葉を釋きあかしたまひき
 
     石田昇氏一周忌追悼(六月十日)
 
 鳴瀧をともに訪ひたることさへもおぼろになりて君ぞ悲しき
 
     子規先生四十囘忌歌會(九月二十一日)
 
 わがどちの尊ぶ竹の里人はやまひの牀《とこ》に若くいましき
 
     能面圖録に題す
 
 小面《こおもて》にあひむかかたる秋の夜のふけゆく頃に雁《かり》なきわたる
 
(360)     徳富蘇峰先生
 
 うつつなる君を聽かむと五千人の中にはひりて額《ひたひ》に汗いづ
 
     竹葉亭にて
 
 高ひかるひじりのみよにためらはず鰻をめでてこころいさまむ
 
     贈られし薔薇
 
 かたまりて百《もも》あまりある薔薇《うばら》より香にたちくるをあやしと思はず
 心古りしものとおもひて過ぎこしを今夜こそ見め花のうばらを
 
     橋健行君墓銘
 
(361) 亡き友の墓碑銘かくと夜《よる》ふけてあぶら汗いづわが額より
 手ふるひつつ書きをはりたる墓碑銘をわれ一人のみ見るは悲しも
 
(362) 昭和十七年
 
    新年頌
 
 あたらしき年のはじめのあかときと清《さや》に目ざめて吾うたがはず
 峰々のとほきそきへにたたまれる雲のしづまり身に沁む吾は
 みちのくの藏王山なみにゐる雲のひねもす動き春たつらしも 連峰雲
 高原をいくつか持ちて山脈のつづけるなべに雲ひそめ居り
 山なみは更に奥がにふかくして見えわたりける冬の雲原
 
(363)    連峯雲
 
 あらたしき年のはじめに連山《むらやま》に親しむ雲を見れども飽かず
 うつせみは此處にしづかに立ちにけり千重《ちへ》山なみの雲なくなりて
 まへ山に雲のうごきのはやくして奥《おき》には高き峯澄みわたる
 いつくしき山脈は雲をあそばしむ雪ふらむとしていまだ降らぬに
 山なみにこごれる雲に光さし神平和《かむやはらぎ》はあらはるるはや
 
    つらら
 
 雪ふれる峡に入るときときのまに右に左に小鳥むれ飛ぶ 二月二十六日上ノ山山城屋滯在
(364) あらがねの峡の岩よりながながとしたる氷柱の垂りて寒しも
 雪のなかに湧く水ありて黄いろなる水綿ゆらぐ時のまにまに
 松はらのなかに小杉の立ちたるは雪降るなかにその秀《ほ》さへよし
 山がらも小雀《こがら》もきこゆ雪ふりし峽路《かひぢ》に足をとどめて聞けば
 谿のおときこゆるときにわれは居きほしいままなる心も和ぎて
 おのづから楢の落葉が雪のへにつきてしづみきこのゆふまぐれ
 いつしかもうすむらさきになりて來し雪の高原ここよ見とほす
 
    雪やま
 
(365) きさらぎといふに日を繼ぎて降れる雪この山河をまどかならしむ
 藏王よりゆるくなだるる高はらはなべて眞白し雪ふりつみて
 藏王ねのいただき今しあらはれて退《そ》きゆく雲のゆくへしらずも
 藏王より雁戸にわたる山なみに雪かも降れるくもりの奥《おく》に
 冬川の三つながれあふところよりわが生《あ》れし村はつかに見えつ
 この川は時にあらぶる川となり森ながし畑《はた》流し田ながす
 三島縣令のひらきし早坂新道を今年の冬にバスは通らず
 山形の奥にたたなはるいくつ山白くひかりて見ゆる山あり
 
(366)    大石田
 
 尾花澤より大石田《おほいしだ》にかけて雪ふかしいづれか大き峽なすらむか 【二月二十七日四郎兵衛同道】
 雪ふかきこの里とこそ聞き來しかすでに二丈を越えたるらしも
 あまぎらし降りみだれくる雪を見てこの穉等《をさなら》はつひにおそれず
 最上川を中にこめたるきさらぎの雪ぐもり空低く厚らに
 おのづから水嵩《みかさ》まさりてとどまらぬ最上川見つ雪は深けば
 冬河《ふゆかは》となりてながるる最上川雪のふかきに見とも飽かぬに
 蒼き空たまたま見えて居たるまに最上川のうへに雪降りきたる
 
(367)    獨歩
 
 かしのみのただひとりにて山べなる降りつめる雪ゆくはなつかし 二月二十八日
 楢の木に楢の枯葉ののこれるが雪ふる山に見えつつゐたり
 いづる水ここにしありて夜もすがら降りたる雪もたまりあへなく
 この沼にはりし氷を方形に挽きて運びしあとを見てゐる
 ひばの木の小木《をぎ》もたまたま降り積みし雪の中よりその秀出《ほだ》し居り
 山かげにスキー場あり數千の人のあそぶを見おろすわれは
(368) 雪雲は最上平野のうへに疾く空のなかばをおほひそむるころ
 雪山に一足ごとにあへぎつつおそかりしかどこころ足らはむ
 くもりたる空を奥《おき》にししろたへの藏王の山はしばしあらはる
 をさなくて見しごと峯のとがりをる三吉山《さんきちやま》は見れども飽かず
 雪ふりし山のはだへはゆふぐれの光となりてむらさきに見ゆ
 
    旅路
 
 けふ越ゆる板谷の山の山峽に雪解のみづはきよくするどし 4月三十日
 ものなべて清《きよ》らけくしてみちのくの山には櫻こぶしほのけし
(369) 米澤にむかひて汽車のくだるころ防雪林は芽ぶきつつあり
 わが汽車がやうやく平地《たひら》ゆくときに吾妻の山に雪はだらなり
 梨の花家をかこみて咲きゐたり春ゆくらむとおもふ旅路に
 
    笹谷越
 
     おのれ今年六十一歳の還暦をむかへたれば、をさなき頃父兄より屡その話聞きつる笹谷峠を越えて記念とす。五月一日朝、甥高橋重男を伴とし上ノ山を立つ
 
 おもほえず川原を越えてあらはれき雪はだらなる藏王の山は 坊原、寶淨川
 うぐひすは晝の光に啼きをれど川原のうへに啼くこともなし
(370) 馬見《まみ》が崎川の川原は年ごとに荒れつつありてひろびろとせり
 はだらなる藏王の山を右に見て寶澤川を今ぞわたれる
 朝日嶽のまだ眞白きが連なりつはざまの門《と》にてかへりみしとき 滑川 咲きさかるからくれなゐの桃の花みちのくの峽に見たるあはれさ
 田の中の雀の鐵砲といふ草はわれの稚き時の田のくさ
 霜よけの紙のおほひも心親し胡瓜のたぐひ双葉に萌えて
 くろぐろと咲ける木通の花をしも道のべにしてわれはかなしむ
 新山《にひやま》の村に入り來て書きとどむいちご山吹山楠咲けり 新山
(371) 川上にむきて入りゆく峽の道やうやく汗は額よりいづ
 この村のおのがじしなる營みに薪をつみぬ家のめぐりに
 大根《おほね》の丸ぼしを軒に吊したり雪ふる時の食物《をしもの》なるか
 新山を過ぎてのぼり路はじまりぬ吾はをりをり歩みをとどむ
 この部落に著くまでわれの目にとめしつぼ董の花せんまいの萌え
 かりそめのものと思へど肥りたる蜂とぶが見ゆ道の小《を》ぐさに
 さくら花山に群れ咲くうつくしさ時にはあふぐ歩みながらに
 桑の葉のやうやく芽ぶくけふの日を笹谷にむかひ越えつつゐたり
(372) この村を過ぎてのぼりとなりたるに雲雀のこゑははじめて聞こゆ
 關澤の宿近づけば川のおとをりをり聞こえ吾は越えゆく
 その母は畠《はた》たがやすと畠すみの行李の中に稚兒《をさなご》置けり 庭ひろき家つらなめて山街道むかし榮えしおもかげの見ゆ 關澤
 うまや路とにぎはひしこの關澤も今はひそけし時のうつりに
 關澤をいでてやうやく山ひびく右左《みぎりひだり》に水のおとすも
 たうげ路にさしかかりしに杉原の奥よりひくく谿のおとする
 石の苔谿の深きをおもはしむいにしへ人の如く吾行く
(373) 雪のこる狹き山路に床なめになめ石古りてむかしおもほゆ
 峽ふかくのぼり來にけりそのかみの笹谷の道を戀ひおもふがに
 雪解水音しながるるころにして笹谷街道に蛇はまだ出ず
 
     十二時笹谷のいただきにいたる。風つよく松の矮樹のみにて休らふ樹かげなし。凹きを選びて荷をおろしつ
 
 いきづきて笹谷たうげにわがのぼり月山が見ゆ雪ましろくぞ
 西のかた高山々は月山よりすべて續きて雪のこり見ゆ
 神室山の麓のごときおもむきに笹谷の道を人は越えたり
 はかなかるわれの希ひの足れるがに笹谷峠のうへにゐたりき
(374) みちのくの笹谷峠のうへにのぼり午餉ひさしくかかりて食へり
 わが父のしばしば越えしこのたうげ六十一になりてわが越ゆ
 ふた國の生きのたづきのあひかよふこの峠賂を愛《かな》しむわれは
 わたつみの魚を背負ひて山形のあがたへ越えし峠賂ぞこれ
 雁戸山のひむがしがはに消《け》のこれる雪厚らにて渡りつつゆく
 おほどかに雪ののこれる春山につづける空の白雲みじかし
 たうげよりややにくだれる落ち激つ水にせまりて雪きえのこる
 笹谷のたむけを分水嶺としたる水たちまちにして音たぎつかも
(375) そのみづのうへにかぶさり消《け》のこれる雪ふみ越ゆる時に雪|食《は》む
 深谷をとほく見おろすその音を聞きつつ二人歩まむとする
 から松の木原めぶきてにほへるを目交にして下りつつあり
 宮城あがたに入りてより大峽《おほがひ》になりたるごとし道ながしながし
 
     ゆふぐれて笹谷村に著き鈴木旅館に投ず。部屋の襖に、朝出碧蹄館、暮宿蔚山城、壮士憶快戰、雄劍欲吼鳴云々の詩を書しあり
 
 くろびかり煤びし部屋にはらばひになりて言ひがてぬ安けさのあり
 この部屋のすすびかりする天井をしばしば見たり眼をあき居りて
 うすぐらき電燈の笠に管制の遮蓋《おほひ》したるも身に沁みにけり
 
(376)     五月二日、午前七時出發してきのふ來し街道を歸る。天氣清朗、小鳥の聲しきりに聞こゆ
 
 天《あめ》清く晴れわたりたる峽にして啼く筒鳥のこゑはみじかし
 ほほの木はふとく芽ぶくにさにづらふかへるでの萌もゆるがごとし
 大きなる谿にむかひてかたむくと常陰《とかげ》の山に雪|消《け》のこりぬ
 かぎろひの春逝かむとしてみちのくのはだらに萌ゆる山ぞかなしき
 おほどかに豐《ゆた》に見えたる落葉松の木原青みて山がはのおと
 山中にひとつ啼きつつ來る鳥は何しかわれに媚ぶるがごとし
 ふたがはに谿谷あればおほきなる道のうねりに遠白き見ゆ
(377) わが心|充《み》たむがごとく山中のふと樹の橡は芽ぶきそめたり
 二つ山あひ寄る峽に一つ山見えそめながら空澄みわたる
 秋山を見る心地して笹谷路の斑《はだ》らの山にあひ對ひけり
 道づれになりたる老いし炭燒のふたり子《ご》共にとほく戰ふ
 ふた谿の白き激ちもとほくなり一歩一喘《いちほいちぜん》のさかひとぞなる
 
     九時二十五分笹谷のいただき著、直ちにくだり路となり、舊道舊道と選びて急ぎけり。十時五分關澤過ぎて、十時五十分新山著、十一時折好きバスに乘じて山形にむかひぬ
 
    上ノ山小吟
 
(378) 鳥々はほしいままにて樂しかりみちのく山に春ふけしかば 五月三日より七日
 降りがてぬ雨おもほゆるゆふぐれの春のくもりは山にしづみぬ
 久々に山をし見たりあしひきの山をし見ればあな嚴《いつく》しよ
 息づきつつ山に入り來ぬうつせみの吾は老いつつ山みづわたる
 野を來るとけふあらはなる吾が足に蟆子《ぶと》の近より來《きた》る幽《かす》けさ
 くろぐろとして我がそばに咲きゐたる通草の花のふるふゆふぐれ
 桑の花かすかに咲きて垂りをるを一たび吾はかへりみにつつ
 もろ鳥のこゑを聞きつつ白埴のあらはなる山越えむとぞする
(379) おもほえず此處にありける小峽より蛙《かはづ》のこゑす共に鳴きつつ
 萌えそめし木々の木芽《 このめ》の愛《は》しきかもそのおほむねはいまだ開かず
 春山にわが來しときに大き蟻稔の落葉にあつまりゐたり
とほ
 鳥がねもしばし遠くになりたるか若葉うごかし降る山のあめ
 日をつぎて青みだちくる山々を見さくるときに心樂しも
 夜もすがら友をおもひて眠られず胃を病みこもる友をおもひて
 ひむがしの藏王はいまだ見えながら國のたひらに雨の降る見ゆ
 丈ひくく丹つつじの花ふふめるに蜂のまつはることさへも好《よ》き
(380) みちのくの春ふけがたに松の芽の長きを見つつ此山に居り
 笹の葉にとまる蜻蛉《あき》のうごかぬを春の逝くらむこの山の上
 澤のべにむらがり居りて薇《ぜんまい》のいまだ開かぬ萌を愛《かな》しむ
 樺いろに芽ぶける木々の側《かたはら》に鈍銀《にぶしろがね》に芽ぶけるもあり
 なら若葉やはらかくしてそよげるを見つつしをれば春ゆかむとす
 この峽に入りて來ぬれば小沼《をぬ》のみづ青くたたふを見てしばし居り
 この小野に蜻蛉《あきつ》むらがり飛べるまで春はふかしと告げかやらまし
 山みづのながるる音を聞くときは老いむこの身とおもほえなくに
(381) おはぐろ蟲源五郎のごとき甲蟲も春あたたかき水を樂しむ
 栗の毬などかたまりありてそのほとりかたくりの花にほひてゐたり
     〇
 底見えぬ小沼のうへなる浮草の葉にとまりたるくろき甲蟲 五月四日
 みちのくの山の沼《ぬ》のべに新しく葦の角ぐむころとなりにし
 水のなかに黒き甲蟲やすらふをみとむるまでに心やすけし
 白埴の山よりいづる水ありて落葉のなかをくぐりつつ居り
 わがそばに寢し哀草果村葬の相談ありと言ひ歸りゆきたり
(382) 十人の甥の子のこと談りあふ上ノ山なる春の夜がたり
 東北地區の空より空につたはれる警戒管制の町におちつく
     ○
 くわん草のひとつらなりに竝びたるあやめぐさには紫ふふむ 五月五日
 楢の花垂りて咲けるが幽かなる心をわれに與へてやまず
 置賜《おきたま》のさかひを越えてこの朝け西南《にしみなみ》より曇《くもり》うごかむ
 笹原のなかにほそほそと道のあり徳川の時のあたりの道か
 松かさのかたまり落ちし山みちに春ゆかむとする心おさふる
(383) 藏王のくもりて見えぬこのあした一人あゆみて小山《をやま》にのぼる
 松風がしきりに吹きて遠そくを山のたをりにひとりし聞くも
 松はらを歩み來りて眼《まな》したにあはれとおもふ青き小沼見ゆ
 山人は老ゆといふとも物負ひてこごしき道をのぼりてくだる
 山のまの沼《ぬま》の淺處《あさど》は數萬のおたまじやくしの遊びのところ
 みなもとを此處にもとめてわれひとり心やすらに見つつし居たり
 菅ぐさのほそくなびかふこのところ水のしたたる音ぞきこゆる
 水いでしところの如くかすかなる砂石《さざれ》がありて心こほしき
(384) さざれなどかすかにありてこの山の水元としもわれはおもむつ
 小さなる山ふところと、なりにけり泉もとめてしばらく歩《あり》く
 おのづからあるかなきかに幽かなるみなもとを持つ小峽のぼりつ
 さびしくもこの山に降りし雨と雪水元となりて出でむとすらし
 ふた山のよりあふ小峽にさ蕨のもえいでて春逝かむとすらむ
 のぼりゆく山のいただき近くしていでし蕨はおよびのごとし
 山のうへの松の根がたにこもりたる蟻地獄も見て過ぐわれは
(385) 山のべの沼に下り來て蓴菜をもとむる吾をあやしとおもふな
 春の野のつかさのうへの藤うばらさかりを未だ過ぎがてなくに
 春日てる小野をとほりてすでにして若葉のかをる山路を行くも
 道のべの年ふりし石をさなくて母と通りしことしおもほゆ
 山のうへに狼石と言ひつぎし石は木立のかげになりぬる
 おきなぐさここの高野にむれ咲きてそのくれなゐをわれは愛《かな》しむ
     ○
 眼下《まなした》に平たくなりて丘が見ゆ丘の上には畑がありて 五月六日虚空藏山(龜岡山)
(386) 東川《あづまがは》の谿谷とほく入りてゆく川の石原しろく見えつつ
 
    還暦
 
     明治十五年陰暦三月二十七日は、陽暦五月十四日に當る。その日おのれ生れき。戸籍面の七月二十七日出生といふは届出おくれしによるのみ
 
 出羽《いでは》なる山の蕨も越のくにの笹餅《ささもちひ》をも食ひてあまさず
 わが父が本卦還をよろこびしことおもひ出《で》て夜床《よどこ》にゐたり
 この大き時にあひつつ清《すが》しくも老いゆかむとすためらふべしや
 還暦になりたる吾はみちのくの笹谷峠を戀しとおもひき
(387) 日に幾度にても眼鏡をおきわすれそれを輕蔑することもなし
 還暦にならば隱退せむとして口外せるを君も聽きつや
 わがために友のよろこぶこゑ聞けばこの齢さへ愛《は》しくもあるか
 
    五月二十五日
 
 櫻の實くろく落ちたる下かげをわれ行きしかば人しおもほゆ
 白きはなむらがり落ちてゐたりけり夏に入るころの我身はたゆく
 日にむかふ油ぎりたる青草を目のまへにしてしづ心なき
 雉子ひとつまぢかくの野にこゑ透り啼きたるけふを吾はともしむ
(388) 春野菜滿載したるトラツクの勢づきてゆくを目守りつ
 
    をりをりの歌.
 
 スラバヤに八年をりしわが甥のもて來し僅かの品物見をり
 いでたたむ軍醫中尉の弟とひるの餅《もちひ》を食《を》すいとまあり
 闘ひて角の折れたる牛を見きマラツカにわれ上陸せし日に
 午前より既に疲るるこの身をもいたはらむとして獨し居たり
 夜ふかく春のあらしの空かけるその音聞こゆわが家《や》動きて
 藏王よりおほになだれし高原も青みわたりて春ゆかむとす
(389) 蕗の葉の裏につきゐる青蟲をけさもつぶしに吾は來りぬ
 桔梗さく野をわかれきと歎きたる君もみまかるとはのしづまり
 
    ほととぎす
 
 蘇東坡は「小山無數」と歌ひしがかかる嚴しき山々ならず
 あきらけき月の光の染《し》むときにわが家ちかく啼くほととぎす
 杜鵑ひとつなりしがゆく春のあかき月夜《つくよ》に飛びつつ啼けり
 うつつなる戰すすむこの夜頃ひとつほととぎす聞かくしよしも
 哨戒機にきこゆる鑛物音おどろくばかり低き空より
(390) あかつきのいまだ暗きに鳴く蝉のそのむらがりを聞き居るわれは
 合歡のはな高々と空ににほひたりこのくれなゐを人見つらむか
 ほがらかに山の青きにわがむかふ朝《あした》のひかり夕のひかり
 山なかにわれは居れども夏の日にひとり衰ふる心かなしも
 ひがしより西にうごける白雲はこの峽空にたゆたふらしき
 ある時はわれの心も樂しかりせまきさ庭に小鳥むれ飛ぶ
 しづかなる山の峽なる高萱のそよぐ音して夜《よる》更けむとす
 七日の月かげはやも落ちゆきてひくき夜空をわたる鳥あり
(391) あまつ日の高くのぼれば松の樹にながく引く音《ね》に鳴く蝉のこゑ
 
    山中偶歌
 
 あかときのはやきより日の暮るるまでけふあまたたび山鳩啼けり
 星きよく晴れわたりたるこの夜を杉の木立のあひに露ふる
 還暦になりたるわれは午前より眠しねむしと感じ居るのみ
 木瓜の實はまだ青しなどいへれどもやうやくにして夏は深まむ
 山鳩をわが身ぢかくに聞きて居り鴎外先生のよはひを過ぎて
 
    挽歌 岡本信二郎氏を悼む
 
(392) いきほひて藏王の山にのぼりたるその日おもへば悲しよわれは
 言問はむあまたを持ちて君のべに行きがてにせしいまぞくやしき
 上ノ山に探き縁《えにし》をとどめたる君を泣くかなわが弟も
 山がひの小沼に浮べる菱のはなまぼろしに見ゆ君をおもへば
 月讀《つきよみ》の山のはだれとしづかなる寂しき一世《ひとよ》かへることなし
 秋さればかの野のうへに桔梗《きちかう》のはなはにほふと聞くも悲しも
 まどかなりし君とむらひてこもごもに集へるものは涙をながす
 ある時の君をおもへば悲しかる藏王のうへの氷のごとし 八月八日作
 
(393)    山中雜歌
 
 凡常《よのつね》のこととおもへどこの峽に雲のいづるをわれは樂しむ 八月八日
 夜ごもりに峽をし見ればこごりたる雲ののぼらむいきほひもなし
 あるときは庭におりたち射干の人工受精われ爲したりき 八月十日
 この木立にあやしき聲の蝉ひとつ鳴きたるなべに夏は深しも
 射干の萎まむとするゆふまぐれ底ごもりtて鳴《なる》雷《かみ》きこゆ
 雨はれし杉の木立をこの朝け小雀のむれは鳴きつつわたる 八月十一日
 曉のまだ暗きより浮きいでて木槿の花は咲きいづる見ゆ
(394) この朝けこぼるるまでに露ふりし庭の小草《をぐさ》に秋たつらしも
 山のかひわたらふ風のおとのするこよひ起きゐて軍《いくさ》おもほゆ
 大き石むらがりたるを怪しまず此處にもしづかに砂たむろあり 八月十二日
 山の端の空にはつかに見ゆる雲白くかがやく見とも飽かぬに
 暗がりし山道のべにみつみつし一むら羊齒も見らくしよしも
 白雲のひまより光させるとき忽ち聞こゆ蝦夷蝉ひとつ
 寄生蠅に數多の種類ありといふ事を吾が子が語りつつ來る
 ガラス器につぎつぎに入るる昆蟲のその體色をあはれとおもふ
(395) 川原《かははら》のこの石むらをある時はあらぶる水は越ゆとこそ言へ
 二つにてあひ呼ばふごと啼くもあり夜のあけ方の山鳩のこゑ 【八月十三日明星嶽宗吉横田同道】
 かぐろきを心にとめきたえまなくさ霧の觸るる山のうへの士
 峰の上に射干の花にほひけりそのかなしきを見てたつ吾は
 姫沙羅も山毛欅|楓も年ふりておそろしきまでここの木原は 八月十四日宗吉昌子同道
 すでにして三百年《みつももとせ》を經たらむと楓《かへるで》の樹に觸れつつゐたり
 年へたる樹膚を見つつもろもろの事ぞおもほゆる現身《うつせみ》われは
 あはきあはき緑《えにし》なれども此山の泉をめでてわれは居らむか
(396) 朝あけて露ある萱に大きなる明緑色の蛾が生れけり 八月十六日
 おのづから悲しきものといろいろの花は過ぎにきここの山べに
 ゆふまぐれ咲きて一夜の花のあり心安らに見むとしおもふ
 すぐ傍の姫沙羅の木にとまりたるみんみん蝉の聲はいそがし
 谷ひくく稻妻見えしときのまに籠めし雨雲赤びかりせり
 けふ一日山の雨ふり萩むらに風だちぬれば玉ちりみだる 八月十七日
 萩の実にあふるるばかりおける露かくも光るか萩の玉露
 山の雨しき降るなべにいちじろく玉とあまねき萩の露見つ
(397) このゆふべ驚くばかり光りをる雨の眞中の淺茅のうへの露
 ゆふ闇となりたる峽はすき透るこほろぎの聲士より聞こゆ 八月十九日
 わがそばの小杉のうれを照らしたる月のあかきに蟋蟀鳴くも 八月二十一日夜
 峽空とおもほえぬまで晴れわたりむかひの山は今朝藍に見ゆ 八月二十二日
 かの山の藍に見ゆるが稀なりとわが對ひをる朝のひととき
 かげともの吉備の布野なる笹卷をわれにぞたびしいのち延びよと 中村氏
 
    木原
 
 小塚山の原始林に吾入りにけり年ふりし樹々の晩夏のかをり
(398) ひめ沙羅の年ふりにたる樹々みれば苔さへむさすあやしきまでに
 としどしに吾は來りてこころ愛《を》しむこの老木の丹《たん》の膚《はだへ》に
 おごそかに古りけるものか樹膚《きはだ》には白ききのこをやどらしめつつ
 かへるでの太樹に凭りてわれゐたり年老いし樹のこのしづけさよ
 高天《たかあめ》は藍にはれつつけふ一日木原に雲のゐることもなし
 蝉のこゑひびきあひつつ聞こゆれどここの木原に蚊はひとつ居ず
 ひとかかへ二かかへある※[木+無]の樹を尊むがごとわれ一人居り
 
    十四夜月
 
(399) あしひきの山の峽なる夜《よ》の道の月のきよきに蛾は飛びわたる 八月二十五日夜
 おくふかく疊にさせる月かげをあはれとおもひわれは坐りぬ
 月よみの光てらせる草むらの青き反射にむかひて立つも
 月かげの隈なくさすをかうむりぬ疊の上にわれひとりゐて
 眼前《まなかひ》にせまるがごとくくろぐろと山は見えつつ月てりわたる
 蟲の飛ぶかげも見えつつ杉のまをほがらほがらに月はうつろふ
 なでしこの花も過ぎつつふふみたる薊が見えつぁかき月夜に
 この夏にみまかりし人かなしくてゆくへも知らずものをこそおもへ
 
(400)    折に觸れ
 
 いそがしく雲觸れゆきてまともなる茅原のなびく音もこそすれ 八月二十六日
 雨はるるしるしにかあらし風だちに青き茅野はなみだちさわぐ
 山すげの歌を解かむと窓したにやぶ蘭うゑて五年經たり
 死骸の如き歌累々とよこたはるいたしかたなく作れるものぞ
 山中は日かげりはやし午後三時すぐればあたりゆふべのごとし
 わが娘朝夕新聞とりに行くにはか雨さへ降るときありて
 雨はれし後のしづかさ高野槇のひとところ金に光りをる露 八月二十八日
(401) のぼり來て朝な夕なに吾の見し此處にいくばくの花が過ぎつる
 友ひとりゆふぐれ山をくだりしが吾はその夜はやくいねたり
 萱のうへにひとつとまれる蟷螂《かまきり》に雨ふりくれど彼はうごかぬ 八月三十日
 火を焚きながら女中のうたふこゑ不意識にして長くつづかず
 日に二たび晝寐ねたるをあやしまず強く聞こゆる山の雨のおと
 女童《めわらは》は明日立たむとして干物をたたみなどする傍に居り
 きびしかりし夏もをはりて夜もすがら全けき山に雨降るおとす
 あらしの風の吹き來とひといきにさわだつ山を見れども飽かず
(402) まなかひに見つるものかも杉樹立吹ける嵐のそのゆゆしきを
 つよき風吹きのつのりに雲のむた山かうごくとおもほゆるまで
 雲のうづ山をのぼりてゆくが見ゆ嵐はつひに和がむとすらし
 あまのはら神々しいろ見えそめてあらし晴れむと雲はするどし
 あらし和ぎてかぎろひもゆる土のうへ低く飛びたる昆蟲ひとつ
 
    初秋小吟
 
 この丘に月あかきときのぼりぬとおもひ出でむはあと幾年か
 秋さりてやうやく茂る草のあり傍《かたはら》のくさ實のこぼるるに
(403) 道のいさごうづむるまでに松の葉は散りしきにけりけふのあらしに
 高がやに蟷螂ひとつひそみたり何して居《を》るか見れどうごかぬ
 蝉にてもおくれ先だつものありてはやきは既にいのち過ぎぬる
 この道を後の人あるひは歩まむにわれの如くに草鞋は穿かじ
 くろぐろと實になる草のかたはらに月草いまだにほふあはれさ
 二百十日はやも過ぎつつゆふぐれの短き地震をわれは寂しむ
 甥五人現地にありてわがために便よこすとよこさぬとあり
 いさをしき人の多くの顯はれてけふの日頃を感謝すわれは
(404) 九月になれば日の光やはらかし射干の實も青くふくれて
 
    稔り
 
 かぎりなき稻は稔りていつしかも天のうるほふ頃としなりぬ
 いたぶれる嵐はすぎてたまくしげ箱根の空を雁啼きわたる
 世のなかのことを思へどきのふけふ吾の心のさやぐことなし
 われ嘗てシンガポールの蟋蟀を愛《を》しみしことにいまも關はる
 はるかなる南の島にゆく友にわれ言はむとす眞心もちて
 
    午後
 
(405) 日の光しみて入るらむごとくにてあらし過ぎたる山はひそけし 九月三日
 稀々にみんみん蝉のこゑ聞こゆ九月になりて暑きはざまに
 青蛙高野槇より鳴きにけり蟋蟀よりもとほるこゑにて
 黄の小花おもひまうけず咲きゐたり秋花にして咲けるにかあらむ
 山かげゆいなづまひかり吾のゐるはざまの夜空星は清しも
 このあした薊の花のふふめるをわが庭に見て心よろこぶ
 脚ながき蜘蛛がふるまひわがそばに來りてゐたり間もなく去りぬ
 たちのぼる炎のなかに現身の生やさしきを今はゆるさず
 
(406)    萩
 
 すすきの穂いでむとしつつふくれたるそのところゆも霧しづくせり 九月四日
 萩の花あふるるばかり咲きたるに雲こそくだれけさの朝明は
 雨はれし後の日ざしのつよければ萩がはな散る土のいぶきに
 感に打たれて霧のかかるを見てゐたりつね日頃見し杉の樹なれど
 山の鳥いろいろ來啼くこの庭をそのままにしてわれ往なむとす
 
    蟋蟀
 
 めざめつつ蟋蟀のこゑ聞きつるをしばしば吾は思ひいづべし 九月四日
(407) ただひとり此處にすわりておりしかば蟋蟀のこゑしげくもあるか
 この家にただひとりゐるしづかさをつきつめぬればわれ居りがてぬ
 當藥を杉の木したにもとめたる今日のゆとりを清《すが》しむわれは
 たへがたく寂しくなれる時のまを心遣らはむとするにもあらず
 
    殘暑
 
 東京に歸り來りて聞こえをる哨戒機のおとに心あつむる
 絶えまなく汗いづる夜《よ》にすわりゐて我身といへど愛《を》しくもあるか
 ものなべてあな忝なくらやみに飛行機の音とどろく聞けば
(408) おもひだせる如くに鳴ける蝉ひとつこの暑き日に生《うま》れつらむか
 ひと夏を山に明け暮れかへり來て稻の稔りをおもひつつ居り
 
    雜歌
 
     九月二十六日、茂太卒業式
 
 長男の卒業式にわれは來てしきりに汗を拭きつつゐたり
 道すがら老いし教授と同車するわづかの時もよろこびかはす
 卒業をしたるわが子を新しきもののごとくに見ることもなく
 
     十月二日拂曉病棟火事
 
(409) ものぐるひのわざとしいはば何人も笑ひて過ぎむわがこころ痛し
 きびしかる時といへるにあはれあはれまがつ火炎《ほのほ》は夜をこめてもゆ
 この日ごろ心ゆるびもありつらむことを思ひて夜《よる》も寐《い》を寐《ね》ず
 
     十月二十日、わが子
 
 ためらはむことひとつなしくらきより起きて飯《いひ》くふ汝《な》が父われは
 うまれ出《で》し大正五年このかたの汝《な》がをりふしもおもひいでつつ
 わが子なる汝《な》が存在をあきらかに今知りぬると云はざらめやも
 この門を入りつつゆかばあはれあはれ五尺|七寸《しちすん》の若きをのこぞ
(410) しぐれ降るころは近しと言ひあひて門に入りたる子をかへりみず
 
    柘榴
 
 あまのはら冷ゆらむときにおのづから柘榴は割れてそのくれなゐよ
 つゆじもは谿に降るなへわたり來しむら鳥きこゆかなしきまでに
 あかときに低空《ひくぞら》を飛ぶ飛行機はわが家《や》のうへに近づききたる
 あたらしき勢に入るときにして藝文のみちに光あらしめ
 世のなかは聖く大きくあきらけく進みに進むな疑ひそ
 
    しぐれ
 
(411) ほそき月はや入りゆきてあまたたび雁のこゑする山のうへの空
 夜もすがら時雨の雨は降りにけり秋ふけてより色づく野べに
 こひねがふ心に光さすごとし古りたる家の白菊のはな
 しぐれの雨降る音ききて雪すでに白き遠國のことしおもほゆ
 据ゑおけるわがさ庭べの甕のみづ朝々澄みて霜ちかからむ
 おしなべて常なけれどもアララギの源|求《と》めて樂しくをあらな
 諦めむとせぬ能動のさだまりを心に得つつ年くれむとす
 
    北原白秋君挽歌
 
(412) 川上の草野のはらにつゆじもの降るとき君は、氷久《とは》にかへらず 十一月二日年前七時五十分
 草木々《くさきぎ》のなべてしづまらむ行秋を悲しきもののきはみとぞする
 ゑらぎつつ酒相のみし二十五年のむかしおもへば涙おちむとす
 大きなる光とならむうつし世のもなかにありて白秋は死す
 「童心」と人のいはゆる濁りなき心のまにま君も過ぎつる
 
    悼白秋君
 
 荒磯《ありそ》なる間《かひ》の眞砂にふる雨のかそけき音のきこゆるものを
 白波は磯こす浪と寄すれどもうつせみ君は立つこともなし
(413) ヴエルレエンの雨の歌よりあはれなるひとつ歎《なげき》ぞのこりたりける
 潮けむり磯ふる雨に相あひて「利休ねずみ」の雨が降るとぞ
 若くして神經ふるふころほひを磯ふる雨に君はむかひき
 
    隨縁雜歌控
 
     年頭述志(日本醫事新報)
 
 老いづきし醫師のはてと誰かいふ心燃えたたむおみのひとりぞ
 
     養和會誌選者吟
 
 豐年《とよのとし》ほがむきほひにけふ一日空くらむまで雪ふりきたる
(414) わが庭を見ればくれなゐの實をもてる萬年青のうへに雪ふりしきる
 
     蘇峰先生八十壽齢賀歌(一月二十五日)
 
 うつそみにいましたまふをあふがざらめや不休息菩薩常精進菩薩
 
     熱海岩波別業櫟庵即事(三月五日)
 
 とどろける潮《うしほ》のおとが夜もすがら聞こえて吾はひとり臥しぬる
 わが臥せる枕のしたにおもおもと間遠に寄するうしほかなしも
 春がすみ立ちわたりたるけさの朝けことわり絶えて心ゆたけし
 うみにむかふ一つ木ありていろいろの山の小鳥のあそび來る見ゆ
(415) ひるがへる白き海どり見えながらかかはらなくに小雀《こがら》來啼くも
 たかむらに椿ふたもと立ちにけり紅《あけ》きはまりし花おちむとす
 いづる湯を浴みつつ居りて唐の代のたわやめおもふ吾ならなくに
 わたつみの海にせまれる廬《いほ》ながらうぐひす啼けりけさのあさけは
 
     赤彦忌歌會(三月二十九日)
 
 ながらへて君をおもへば衰ふる齒のこといふもはやおふけなし
 
     岡本信二郎氏を悼む(五月八日)
 
 藏王のかなしきがごとこの縣《あがた》にかなしき縁とどめけるはや
(416) 兩足の甲にも浮腫のいでたるを見とめし時に吾は黙しき
 いささかの庭のながめもゆく春のしづけさたもつけふのえにしに
 酒《さか》やけに常あかかりし君の鼻はや白きかなやつひのわかれは
 藏王の雪谿《ゆきだに》のうへこゑあげて共にのぼりしその日おもほゆ
 
     橋本徳壽君五月八日海上にて無事、五月十九日來訪せり
 
 生死《いきじに》のさかひを越えし君の顔つくづくと見て涙いでむとす
 まのあたり君をあひ見て涙いづ生死《いきじに》のさかひ今ぞこえたる
 
     五月八日橋本徳壽君の乘れる船中おのれの舊著數種もありて、しづみぬと聞けば
 
(417) とほく行く君のカバンに入りありしわが書《ふみ》ここによみがへるあはれ
 わた中に入りしわがふみ時のまも思ふ時にし君に感謝す
 
     五月二十四日志田(正二)中村(厚惠)両家新婚賀
 
 かぎりなきさちはひこむるけふのちぎりわれも勇まむ祝《ほ》ぎのいはひに
 
     平福周藏君南方航
 
 あまぐもをわたり大洋《おほうみ》をわたりゆく君がゆくへをわれはおもへる
 
     茂太
 
 目前に制服著たる長男が顔日燒して立ちたるも善し
 
(418)     中村シヅ子夫人に
 
 霜ちかき寒きゆふべにほのりほのり身のあたたまる君のたまもの
 
     小池甚三氏のハガキ帖に
 
 かりそめに書きしふみ等も時ゆくやながれの岸によりて安けし
 
     池上幸二郎氏藏初版「赤光」に
 
 君のべにありとおもへばわが咏みしはかなき歌も聲あぐらむぞ
 
     十一月十二日森山汀川君へ
 
 たまはりし信濃のうなぎ忝な三日かかりてわれ食ひをはる
 
(419)     母上喜壽賀
 
 高ひかるひじりの御代に母刀自の齢ながきは樂しくもあるか
 
     堀内ゑん刀自古稀壽賀
 
 七十《ななそぢ》はまだ若松のためしにて百代千代にも榮えいまさむ
 
     十二月二十二日
 
 狩野亨吉先生ゆきたまふ夜《よ》もすがらからくれなゐの血潮を吐きて
 
(421)  後記
 
       〇
 本集「霜」は、歌集「のぼり路」につぐもので、昭和十六年、昭和十七年の作八百六十三首を收め、私の六十歳、六十一歳のときに當る。
  しろき餅われは呑みこむ愛染も私ならずと今しおもはむ
  きさらぎの鮒をもらひぬ腹ごとに卵をもちていかにか居けむ
  飯の恩いづこより來る晝のあかき夜のくらきにありておもはむ
  冴えかへるこのゆふまぐれ白髭にマスクをかけてわれ一人ゆく
  午前より地下鐵道の入口にのぼる氣流をしばしあやしむ
  高層の七階にして午後の二時白色のレグホンが時をつくる
  吾がとなりに若き母乳を飲ませをりあまたたび乳児に面すりつく
  三越の地階に來りいそがしく買ひし納豆を新聞につつむ
 かういふ雜歌を昭和十六年に作つて居る。以前に作つた雜歌と幾分ちがつたところがあるかも(422)知れないと思つて、此處に抄録した。
  春山をわが來るなべに眼のまへの柞のおち葉しきりにうごく
  地のうへにくろびかりする石ひとつ朝な夕なに誰かも見らむ
  木々の葉のまだ芽ぶかざる上野の山路をゆけば地ふるふおと
 かういふ歌もある。昭和十五年の歌に、『冬山にこもる風おと目のまへの柞の落葉ときの間うごく』といふ一首もあつて類似してゐる。時が近いからかも知れないが、兎に角、別な歌として記入することとした。
  ゆふまぐれ陸のはたてにつづきたる曇に觸りてわたつ白波
  とどろきは海の中なる濤にしてゆふぐれむとする沙に降る雨
  いのちもちてつひに悲しく相せめぐものにしもあらず海はとどろく
  わたつみに向ひてゐたる乳牛が前脚折りてひざまづく見ゆ
  あめつちの出で入る息の音にして眞砂のはまに迫むる白波
 この年安房海岸に旅してかういふ歌もある。おなじ十六年四月には佐渡に旅し、それから越後彌彦山にのぼり、羽前にいで、置賜の赤湯を經て、村山の藏王山腹の高湯温泉に行つて結城哀草果にあひ各歌があつた。同年強羅に滯在し、秋には御津町御馬(今泉忠男氏)から、岐阜、關ケ(423)原をめぐり初冬は小佛峠から大垂水で若干の作歌がある。
 昭和十七年に、六十一歳になつたので、五月一日笹谷越をした。笹谷峠は宮城・山形兩縣の境をなし、亡父などもしばしば越えたところであるから、私は六十一歳のとき記念のためここを越えたのであつた。もう戰爭がたけなはになり道中も並々ではなかつた。
  神室山の麓のごときおもむきに笹谷の道を人は越えたり
  はかなかるわれの希ひの足れるがに笹谷峠のうへにゐたりき
  わが父のしばしば越えしこのたうげ六十一になりてわが越ゆ
 昭和十七年は私の還暦の年で、『日に幾度にても眼鏡をおきわすれそれを輕蔑することもなし』といふ歌などを作つて居る。
  あしひきの山の峡なる夜の道の月のきよきに蛾は飛びわたる
  おくふかく疊にさせる月かげをあはれとおもひわれは坐りぬ
  月かげの隈なくさすをかうむりぬ疊の上にわれひとりゐて
 箱根の強羅にゐたときこんな月明の歌を作つたことがあつた。月光は萬葉時代から歌に作られ、いまだ絶えずに居る。
 大きな戰爭中にあつても、幾首づつか歌を作つた。その一部を今囘は棄てたが、それでもその(424)殘りはこれくらゐある。また六十歳を過ぎ、かすかな變化をも認めることが出來る。金瓶村に疎開してゐたとき書肆から頼まれ、「淺流」といふ一册子を出版したが、「淺流」に收録した歌は、「のぼり路」「小園」及びこの、「霜」に載つて居るのである。昭和二十五年二月ニ十七日記.
 
 本歌集發行にあたり、岩波雄二郎、布川角左衛門、榎本順行、長島陽子、柴生田稔諸氏に御世話になつたことを深く感謝する。昭和二十六年春、齋藤茂吉
 
 小園
 
(427) 昭和十八年
 
    新春
 
 過去にして圓かなる日日もなかりしが六十二歳になりたり吾は
 還暦の僅かの歌を夏のころ手帳のすみに作りおきたり
 大きなる時にあたりて朝よひの玄米《くろごめ》の飯《いひ》も押しいただかむ
 ゆたかなる稔をさめて新しき年を祝がむとあぐるこゑごゑ
 備後なる山の峽よりおくりこし醤《ひしほ》を愛でていのちを延べむ
(428) 穉くてありけむ時のごとくにて麥飯《むぎいひ》食めば心すがしも
 麥の飯《いひ》日ごとに食めばみちのくに我をはぐくみし母しおもほゆ
 あらた米《ごめ》すでにをさめてみちのくは日毎夜毎に雪ふるらむか
 青々とそよぎたりし茅《ち》のうらがれて既《はや》もきびしき霜をかうむる
 萬年青の實くれなゐふかくなるころをわが甥がひとり國境《こくきやう》へ行く
 翁にてわれはすわりぬ傍にくれなゐの梅くれなゐの木瓜
 
    春
 
 あわただしくも湧きいで來つる心あり臥所にひとりこやらむとして
(429) 三月の十九日|夜半《よは》茫茫とわれの體に熱いでて居り
 日をつぎて空晴れわたる三月の大切なる時に風を引きたり
 ただひとつ樂しみとする朝々の味噌汁にがくなりてわが臥す
 やうやくに熱おちむとして夜もすがら薄き衾も大石のごとし
 目に見えぬ塵といふともを止なくうごきて此處の隈にたむろす
 橡の樹の枝のきはまりにふくれたる芽を見つるとき心いそがし
 上枝《ほつえ》よりさわだつ風のきこゆれど下技《しづえ》のこもりあはれしづけし
 日もすがら空の曇のひくくして楓《かへるで》の木の萌えわたる見ゆ
(430) 岡の上に萱草青くもえつつぞ低きくもりの觸《ふ》るらくおもほゆ
 家ごもり三十日を經つつかへるでの萌えいづる見れば心はをどる
 ほほほの葉のおちたまりたる傍に青き小ぐさは冬を越えつも
 ゆづり葉は見らくし樂しもろ木々の木立《きだち》のなかにその葉厚らに
 かへるでのこまかき花は風のむたいさごの上に見る見るたまる
 けふ一日心たひらに並槻の樹膚《きはだ》うるほふ春雨ぞ降る
 さ夜なかに幾たびわれの目ざむらし清明《あきらか》ならぬこころなれども
 風ひきて吾臥したればつね日ごろ氣づかぬ※[奚+隹]《にはとり》のこゑぞ聞こゆる
 
(431)    春の霜
 
 年々のことなりながら羊齒青くもえづる見れば涙ぐましも
 夜な夜なに霜ふりたりし庭土のうへに擬寶珠は芽を出《だ》しそめつ
 配給をうけし蕨のみじかきをおしいただかむばかりにしたり
 みちのくに來りてをれば夜《よる》くだち平野へ出づる汽車のおときこゆ
 供米《きようまい》のことにかかはる話あり聞きつつわれは涙いでむとす
 もろともに霜の降らむを警めし山形あがたの朝あけわたる
 みちのくの村より村に養蠶のことあきらめて春ふけむとす
(432) 同胞の四人《よたり》すくやかにけふ會ひてこもごも語る世のはかなごと
 わが心まとまらずしてひるまへの時たちまちに過ぎたるあはれ
 中産の生活をしてあり經るを足らふこころにわれは過ぎ來し
 街ゆけど食事すること難くなり午後二時すぎて歸りて來たり
 
    峽田の蛙
 
 松風のきこゆるころをわれひとりのぼりゆく山やまの白埴
 小峽なる田を鋤くをとめ疲るらむ二人ならびてまだ休まぬに
 目のもとにつとむる蟻のむらがりを見つつし居りて日かげうつろふ
(433) むらぎもの悲しきまでにうちひびき蛙《かはづ》鳴きたつ峽のうへの空
 芽ぶきたる春の小山《をやま》にわれ來居り低く過ぎなむ風の音する
 日の光とほりてゐたる泥《ひぢ》のうへ田螺のうごくありさまあはれ
 しづかなるものにもあるか峽田《かひだ》にて蛭およぐべくなりぬ春日《はるび》は
 孤獨なるものとおもふなこの澤を魚さかのぼる本能かなし
 蜻蛉《あきつ》晴らはすでに生れて山べなる赤埴のうへにしばしば止まる
 東京を立ちて來りし次日《つぎひ》より吾にきこゆる山みづのおと
 こもごもに玄鳥《つばめ》ひるがへるころとなり藏王はだらに春ふけわたる
(434) 胡桃あへにしたる※[木+(匆/心)]の芽あぶら熬《い》りにしたる※[木+(匆/心)]の芽山人われは
 かたくりの實になりたるを手にとりてしばしば口に含《ふふ》みてゐたり
 ひとときを小澤《をさは》のみづに魚の子のさばしる見つつわが命のぶ
 けふもまた澤にいり來て水の音きこゆる時は身さへ樂しも
 笹の葉のさやぐ山べをたもとほり行方もしらぬ心のごとし
 楢の木の落葉しづめる水なかに生けらむもののありとしもなし
 日の光とほりいさごの動くさへ見ゆる平のみづのへに居り
 杉むらの中にこもりし苔のみづきこゆる迄に山はしづけく
(435) 苔おふるくがらりにしてひとところいさご洗はれ清くもあるか
 春ふけし小峽をくればみなもとの淨ききはみに生けるものあり
 このきよき泉のなかにたもちたる小さきもののひそむ命よ
 われひとり心にとめむ石のあひに水泡あひ寄るもあはれならすや
 おちたぎつ小瀧がありていかならむ魚といへどものぼりがてずも
 この町の小學校に通ひたるころ偲びつつ苔の水のかそけさ
 時のまは木未しづまることありてわが目交に萌えいづる山
 やうやくに心したしむものとなり躑躅花ふふむこの春山よ
(436) おほよその青としもなくにほひだつみちのく山に吾來入り居り
 しづかなる時代《ときよ》のごとく狹間よりあふぎてゐたる木の芽だつ山
 はざなる柞が落葉ふかきをば踏みつつゐしが歩みをかへす
 あな寒とおもひたりしがうべなうべな藏王の山に一夜《ひとよ》雪ふる
 あひ會へる兄弟《はらから》四人《よたり》きれぎれに思ひいづるかなや父のこと母のこと
 
    強羅より
 
 合歡の花にほへるころをのぼり來て空しくしゐむ吾ならなくに
 この庭にひと本ありて夏のころいくつか生れる桃さにづらふ
(437) 雲たかきこの夕べかも日をつぎて山にみなぎりし雨はれわたる
 山がひに降りみだれたる夏のあめ晴るるにかあらし潮の音《と》きこゆ
 衰ふるものとなおもひ夏ふけてあらぶる山に起臥すわれを
 去年《こぞ》の夏のこしてゆきし吸取紙《すひとり》を見てをるときに吾は寂しゑ
 さすたけの君がたまひし精げごめ蝉鳴く朝にかしがむとする
 のぼり來しこの狹の家に雨傘のやぶれつくろふ油を塗りつ
 馬追は高萱のなか歩けどもひるの光に鳴くこともなし
 うつせみのことわり絶えて合歡の花咲き敢る山にわれ來りけり
(438) ひたぶるに雨降る山を戀ひねども雨のまにまに來居りけるかも
 狹霧たつ山にし居ればおのがためきのふも今日も米をいたはる
 この家の杉のしげみを山鳩はねぐらとすらしふくだみ鳴くも
 午前四時十五各より鳴きそむる朝蝉のこゑ波動のごとし
 杉の樹のしたくらがりに當藥がひそみたてるを見らくし樂し
 西吹きて晴れむとすらむ峽の門ににぶき潮《うしほ》のおとぞ聞こゆる
 ゆふ闇を一直線に飛びゆける甲蟲《かふちゆう》ありてわれ寂しめり
 
    山上漫吟
 
(439) 道の上にわが立ちしかば低きより松風吹き來《く》すずしくなりて
 こほろぎは生れていまだ日を經ねば落葉が下にあそべるらしも
 息|屏《つ》むるわれの時の開この山ににぶき地響つたはり來れば
 おのづから胸戸《むなと》ひらけてこの朝け青き山見つ黒斑《くろふ》ある山
 こほろぎのまだいとけなく鳴くこゑをこよひの床に吾は聞きつる
 平らなる時代《ときよ》のごとく吾はゐつ山鳩のこゑ近くきこえて
 われひとりこもりて居れば飛びきつる蜂といへども殺さむとせず
 いかづちの音遠くより聞こえくる晝さがりより一たびねむる
(440) しばしくは遠のめづらのごとくにも白き鳴瀬を見おろして居り 八月八日立秋
 一とせに一たび來る福《さいはひ》を杉の木だちのなかにしおもふ
 しづかなる生《せい》のまにまにゆふぐれのひと時かかり唐辛子煮ぬ
 いささかの畑《はた》をつくりてありしかばこの林中もおろそかならず
 山みづのこもるを聞けば、永遠《とことは》に通ふしづかさを何にいなまむ
 おどろなる丘陵《つかさ》を越えて日の光つよき川原に汗おとしけり
 晝飯《ひるいひ》を食ひたるのちに板のへに吾は打ち込む錆びたる釘を
 馬追のはじめて鳴ける高萱を八日の月は照らしてゐたり
(441) 八日月てらすこよひは蟋蟀のまちよろこべるごとくおもほゆ
 せんぶりをたづね入る山おのづから杉のしづくの落つらむところ
 むぐら等のほりかへしたる新土《あらつち》を下駄もて踏み氾朝な朝なは
 みんみんといふ聲をして鳴く蝉はおほどかなれや庭の檜の木に
 澄空にいかづち雲のうつろふをもの創《はじま》りのごとくに見むか
 一山を越えし彼方よあかがねのいろにいでたる簇雲《むらくも》ぞあはれ
 あまつ日は入りゆきしかど背向なる山に立ちたる虹あざやけし
 いましがた此處の眞上を移動せる雷といへども音のするどさ
(442) 隣り間に※[口+〓]《しやくり》して居《ゐ》るをとめごよ汝が父親はそれを聞き居る
 闇ふかき夜《よる》としなりてわが心しづみにしづむ聲もたてなく
 
    清明
 
 山の陽は傾きはやく庭くさの上に干したる皿もかげりぬ
 おほ雨の晴れたるのちの天なるや峽の大門に月ひくく出づ
 まさやけきこよひの月は峽の門にこごりたる雲かがやかしめぬ
 峽の門におりゐしづみしむら雲のかがやくなべに海かとおもひつ
 その光みだりさやらふものなくて杉の樹の間を月はうつりぬ
(443) まどかなる月の光を見しことをわが獨り居に忘らるべしや
 はざまなる木下《こした》くらがりわが來ればとりとめもなく物をしおもふ
 底ごもり鳴りてきこゆる山みづは絶ゆることなし迫《せむ》るがごとく
 日の光まれまれにして射して來む木のくらがりに何住むらむか
 今年また來りて吾はものぞおもふここの谿間の常ならなくに
 山がはのたぎちに近く下駄ぬぎて吾はのぼりぬ石のうへまで
 雉子《きじ》ふたつわれの前より飛びたちぬ彼等亂らむわれならなくに
 あはれなるものとおもひき草なかに螢のごとく光る蟲あり
(444) くさむらに螢にまがふ青ひかり放つものありて吾はうらがなし
 
    十八夜
 
 山のうへの空は餘光のごとくなり見る見るうちに月はいでたり
 わがむかふ山より月のいづるをば忝けなまむこころにぞ見し
 月あかきこよひにもあるかもろもろの音《ね》にいづる蟲かぎりも知らに
 こほろぎのこゑにあらぬにあはれにて杉の木下に音にいづる蟲
 もろもろの音にいづる蟲を樂しまむこよひの月はあかくもあるか
 ありがたき月の光のこよひをぞ忘れむと思ふわれならなくに
(445) ひむがしにまどかなる月かがやけばわが居るここの石さへあかし
 あかあかと疊のうへに射せる月又來む夜半にわが見ざらめや
 蝦夷蝉の鳴きそむるころひとり來つあらあらとせる木立の中に
 木立より風さわがしく音するをわが獨りにて聞きつつ居たり
 ほとゝとぎす啼くこともなく山中《やまなか》は風ふく頃となりにけるかも
 むらがりて朝蜩のなくこゑに先がけをする聲ひとつあり
 古き代のことをしのびて萩が花白妙のうへにけふぞにほはす
 そこはかとなきわがこころ夕ぐれの草の上にて釜掻く音す
(446) くだりゆかむその日近みと蟲ばみし障子の紙を張りつつもとな
 この家をたち去らむとしてぐらぐらになりし處に釘をうち居り
 いきほひて吾は塗りしがコールター乾かむころはわれ去らむとす
 油蝉はほほの木にても鳴きにけりきのふ吹きし風けふをさまりて
 部屋に來し青き馬追一尺の距離にて鳴けばかくも愛しも
 さ夜ふけて瀬の音《と》きこゆる時のあり西ふく風のまにまになるか
 高萱のかげにこもれる射干は九月に入りてふふむことなし
 ひあふぎの花のあはれをわれ見ずて夏ふけし山下りか行かむ
(447)勤勞の奉仕に山をくだりゆくをとめのために晴れわたらなむ
 まなかひにわが見る山にのぼらむと今年もわれは思ひたりしか
 年々に※[牛+尨]牛兒《げんのしようこ》の實をむすぶころとしなりてわれ山くだる
 簡單に髪など結ひて仕度する吾子やうやくをとめさびして
 すゑの子も今はかへりて寂しきに障子目ばりす夕ぐるるまで
 どしや降りの午後になりつつものをいふことさへもなく木瓜の實煮たり
 赤蜂が萩花むらに即くことを今日しみじみと吾が見たりけり
 野分だつけはひとなりてさ庭べのつらなむ蝉の聲いそがはし
(448) すすきの穗うすくれなゐにいでしより十日を經たりかへりか行かむ
 鳥がねのひとつ聞こゆることもなく山をおほひて降りそそぐ雨
 爾がへる朝木立より鳴くこゑす疾風《はやち》はいまだ來むといはぬに
 いつくしく朝あけそめしまなかひの峯はふ雲は小止《をや》むことなし
 二日まへ讀みてしまひしわが友の少安集を日向にいだす
 
    山上餘韻
 
 この峽に起臥のまにしめりたるわづかばかりの紙幣並め干す
 うつせみのかかる暇や家くまの高きいたどり草ぎるわれは
(449) 松の葉に黄の幼蟲がむらがれりいかなる蛾にかならむとすらむ
 堪へがたきまでに寂しくなることあり松かさを焚く土のたひらに
 星の夜もかたむきはやくおもほゆるこの山峽《やまがひ》のわが嚔《くさめ》ひとつ
 あしひきの山のはざまの星づく夜われのうちより迫《せむ》るもの何
 みちのくのわが故里に聞きがてぬ箱根の山のこほろぎのこゑ
 暫しくはすべて空しきうつせみのわれにしみ入るこほろぎのこゑ
 つくよみの光のいでぬ山の夜のくらきそこひにこほろぎ鳴くも
 やうやくに宵闇となりし時のまに下の村よりサイレン傳ふ
(450) しづかなる二百十日の前夜にて馬追のこゑ蟋蟀のこゑ
 警戒のサイレン鳴りてちやぶ臺のうへに懸かれる燈火をひそむ
 かかはりのなきがごとくに聞きしかどひたぶるなれや蟋蟀のこゑ
 いなびかりたまさかにして山の峽警戒警報の夜ぞふけわたる
 わがゐたる部屋にたちまち飛入りて大き赤蜂穴をもとむる
 朝よひに米《よね》ををしみて幽かなる私《わたくし》ごとをゆるしたまはな
 わが友とただ二人にてとほりたるほとびし赤土《はに》をおもひつつ居り
 さ霧ふるれのさ庭に黒き蝶つかずなりたる萩が花ちる
(451) 雲なべてうごきたりしが暴風《あらし》來むけはひしづまりもろ蝉のこゑ
 おそれゐし二百十日の空晴れて峽の西よりよわき雷《らい》のおと
 きぞの夜につづきて今日にいたりたる警めの日はゆふぐれとなる
 一夜《ひとよ》ねてかへりゆきたるわが友よ響めの夜をいかにか居らむ
 吹き散らむ花もさだまり蝉のこゑやうやく稀になりゆくらしも
 一とせをかへりみがてに置きゆかむ古ぶ疊をいたはりて居り
 たまくしげ箱根のかひをわたらむとあまつかりがねこゑ呼びかはす
 いまの世の時はこよなしつらなめて闇空《やみぞら》ひくく雁《かり》なきわたる
 
(452)    十月三日
 
 せまりくるものごゑもなく日曜のけふの心に安らぎのあり
 ひる過ぎに暴《あれ》來らむといましめし空むしむしと雨降りそそぐ
 青き葉が空のもなかにのぼりそめ暴風來《ばうふうらい》は午後三時より
 瓦ふき今日は來れば吹きつのる風にまじりて瓦ふく音す
 北の空蒼くなりつつ東國《あづまぐに》吹きとほる風しづまるらしも
 
    海邊
 
     十二月二日安房勝浦に轉地養生せる山口茂吉ぬしを訪ひて見晴館にやどりぬ
 
(453) 冬寒きちまたをいでてひむがしの此處にこもれる君とあひ見し
 うつし世の餘韻きこゆるかとおもふ渚にひろふ白玉黄の玉
 くぐもりし空のひらけてゆふなぎし海の一時を鵜が浮かびけり
 朝濱にむらがりて來る鴉らのふるまふ見れば現身《うつせみ》に似たり
 ひく山は重りあひておのづから小さき港と成りゐたりける
 浪のおと夜すがら聞こえゐたらむか和ぎたる港今朝は見つるに
 あたたかき天つ光は照れれども海べの山に嚔《はなひ》るわれは
 わたつみをふりさけ見れば曇りにも幾段《いくきだ》ありてひむがし曇る
(454) 飛行機のひくく飛ぶこと稀ならぬここの海べに二夜ねにけり
 高岡にいませる神は海幸の港をまもりたまふがごとし
 
    雜歌
 
 藏王には既に雪ふるといひしかど暇を無みと應へせざりき
 頭髪をみじかく刈りし八木沼丈夫われを勵ましたちまち歸る
 あしひきの山澤淵に住む魚のいのちながきをともしむ吾は 石川確治翁の山澤集
 高山の高きながらに老いたまふ君のみまへにまゐる樂しも 幸田露伴翁喜壽賀
 たまたまに鵯來鳴くこの園の柞もみぢむ十日を經なば 同清美庵にて
(455) 最上川ながるる國にすぐれ人あまた居れどもこの君われは 最上徳内先生
 うらわかき二人ゐならぶかたはらに心ゆらぎて涙いでつも 十月二十三日茂太美智子新婚
 みなさけのふかき友どち燈火のかがよふもとに祝ぎたまひけり
 あまつ日の照りのかしこきけふの午後氷徳寺にて君を悲しむ 中村不折畫伯年七十八
 外科講座の先達としていさを成り老いましてより聖のごとし 佐藤三吉先生年八十七
 抒情詩に涙おとししおもかげよ七十《ななそぢ》こえて人おほいなり 島崎藤村翁七十二
 をさなくて命きゆるをいかにせむうつつに吾も力なしはや 中村瑞子
 母おきてみまかりゆきしをさな兒を佛のみ手はいだきたまはむ
(456) 冬の月ひくくいでたるところよりあまたの響ひととき聞こゆ 十二月十五日
 すくよかにいまして君のたましひは大き學の道にかがやく 加藤元一教援
 開帳のごとき光景に街上の鰻食堂けふひらきあり 神田にて
 ももの花咲きのさかりを少女子のおひすゑ祝ふこころ寛けく 澤瀉教授へ
 
(457)  昭和十九年
 
    冬の光
 
 たましひを育みますと聳えたつ藏王のやまの朝雪げむり
 ひむがしの藏王の山の嚴かを朝な夕なに空しくしすな
 陸《くが》も山も見ることもなき海中《わたなか》にただ一つなる朝日子のぼる
 くれなゐのあまつ大日はわたつみのうへの棚雲わけむとぞする
 わたつみの波のまがひに尊きろ雲をいでたる眞赤あさひこ
(458) 大うみの朝日に向きでをどりあがり限も知らぬ心と云はむ
 冬の日は午後となりたり家いでて心安らに松のしたかげ
 朝日子が海よりいづる歌ひとつわれは作りて朝たのしも
 おのづから六十三になりたるは蕨うらがれむとするさまに似む
 悲しさもかへりみすれば或宵の螢のごとき光とぞおもふ
 驛頭に鬨の波だつその波のしづまるときに涙いでたり
 
    安樂
 
 床中にわが入りてより何物も無きまで安樂におもふことあり
(459) かひがひしくヅボンなど穿き立居する嫁をしみつつ涙ぐましも
 このごときいささごとにもいらだてば我慢しきれぬ我となりたり
 かくまでに心落ちゐぬ明暮は腦の血流に關係あらむ
 いにしへの聖の書《ふみ》にのこりたる女子と小人《せうじん》の小人かわれ
 電車にてゆくりなく聞く事實談自稱志士らの富みてゆくさま
 かぐはしみ吾にも食へと蕗の濤あまつ光に萌えいづらむか
 このゆふべ嫁がかひがひしくわがために肉の數片を煮こみくれたり
 にひ年にあたりて友がわがために白き餅《もちひ》をひそませ持ち來《く》
(460) 水兵の一隊仲見世の石だたみあゆみ來たるにわれ脱帽す
 のどかなる顔して二階よりくだり來《こ》し茂太にむかひ微笑をしたり
 妻と二人何か話してゐるらしき茂太のけはひ時をりおもふ
 ほしいままといふにはあらず汝が父も大儀のときはおのづから寢む
 黴ふける餅ののこり食ひつつぞ勇みて居らむ汝が父われは
 軍服を着たる長男とわかれ來て一時間にして眠氣もよほす
 みふゆつき春の來むかふ葛飾の國のたひらを見おろす吾は
 たかむらのめぐりに濠を掘るべくもおのづからにて竹《たか》落葉ふかし
(461) かつしかの眞間の山なる松かげにけふを來《きた》れば心は和ぎぬ
 おしなべて土かわけども枇杷の木に白きつぼみの見えそむるころ
 並み立てる樟の高木《たかき》はよひよひに白きうみどり鴎を寢しむ
 横山にしみたつ樟の高木なる鴉のねぐらまどかにもがも
 君とふたりあひむかふとき釜の湯の沸てる音は心さだむる
 中庭に木の葉ちりしき人音もせぬころほひは時雨ふるなり
 
    蕗の薹
 
 朝はやき土間のうへには青々と配給の蕗の薹十ばかりあり
(462) 南瓜《たうなす》を猫の食ふこそあはれなれ大きたたかひここに及びつ
 活きの手足まとひになるべくはありの儘にてこもり果てむか
 こらへるといふは消極のことならず充滿《みちみ》たむ積極《せききよく》を要約とする
 雨ふらぬ冬日つづきてわが庭の蕗の薹の萌えいまだ目だたず
 
    雪解
 
 この眞ひる春の彼岸の木原にてひたぶるに雪の消ゆる音せり
 ほうほうと煙《けむ》たちのぼり春山に雪の消ゆるはゆゆしかりけれ
 さわがしくたえまなけれど小鳥らの聲もまじへぬ雪解の音す
(463) 光さす春山にしてたえまなき雪解の音はたたかふごとし
 おのづから撓みあひたる木村《こむら》より積れる雪はなだれてやまず
 春山にただに光のさすなべにけむりをあげて雪解けむとす
 きぞの一夜《ひとよ》いきもつかず降りおほひたる彼岸の雪は今ぞ消えをる いきほふと木々をかたむけ降りつみし春の斑雪《はだれ》はたちまち消《け》たり
 
    折に觸れつつ
 
 チチハルにわれの歌集を買ひしとふことをし聞きて涙ぐみたり
 ちひさなる餅《もちひ》かたみに食ふときは春の彼岸にものおもひなし
(464) 家の猫が蒟蒻ぬすみ食ひしこと奇蹟のごとくいふ聲のする
 けふ一日心やすらになりにけり「疎開」のこともはや諦らめて
 掛物のたぐひ幾つかもてあまし塵埃《ほこり》のままに二たびしまふ
 少しばかり隱して持てる氷砂糖も爆撃にあはば燃えてちり飛べ
 親しみし書籍と雜誌われをめぐればこのままにして心おちゐむ
 吾も少し驚きし地震の源が東京灣にありといひける
 南かぜ一日ふきしき庭隈にいでたる羊齒の渦のをさな葉
 ひたぶるにこの道往けといひしかど迷ふことあり親といふもの
(465) 並槻の芽ぶかむとする時にして大學學生の足並のおと
 動亂の時をくぐりて來りたる小草《せうさう》千文《せんぶん》懷素時に年六十三
 相模なる畑《はた》のくろ土にこもりたるアスパラガスよあな尊しよ
 日もすがら鳩啼くみちのくの山のべを吾戀ひしかど時代《ときよ》きびしき
 むらぎもの心さだまればあな清け亂れむとおもふものならなくに
 これまでに吾に食はれし鰻らは佛となりてかがよふらむか
 くだものを實らしめむとあたたかき伊豆を戀ひつつ行きし汝《なれ》はも 弟|米國《よねくに》挽歌
 
    茅原 【眞間木内邸、平福一郎氏同道、六月二十三日】
 
(466) いつしかも夏の極みの日は過ぎてこの園のへに人おともなし
 樟の木の太きしげみのくらがりに尾の長き鳥來つつついばむ
 ことごとく葉はひるがへりかがやきて楠の大木《おほき》にあまつ日つよし
 うつせみの人音もせねばしろじろと茅花《つばな》なびきて夏深けむとす
 夏さりし茅原が上にあまつ日の光くまなく心たらはむ
 ゆたかなる園の茅原に白妙の茅花《ちばな》そよぎて夏はふかしも
 ひろらなる家の園生にかたばみの幽かなる花黄ににほひけり
 君とふたり茅原に立ちてうつつなることを語りぬ汗ながれつつ
 
(467)    強羅漫吟
 
 きはまりて嚴しき時にのぼり來てこの山ごもり空しくしせじ 七月十日登山
 わが友はすでに朝鮮にわたりぬとひとりおもひて山に草ぎる
 おもひではなべて寂しく庭くまにやぶ蘭うゑしころしおもほゆ
 をさごの遊び殘ししもの見ればこの山がひの十年《ととせ》しのばゆ
 過ぎゆける媼おもかげに立ち來つつ山の家居にひとりわが居り 【松田やを、昭和十三年歿】
 あかときのまだくらきより鳴きそめて一日に五《い》たび鳴く蝉のこゑ
 草かげにひと處なる當藥はわれ見いでつと人に知らゆな
(468) 日もすがら黄にそよぎゐる合歡の木は大坂泰君こぞに植ゑたる
 鳴神の遠くきこゆる晝さがりこの山がひにひぐらし鳴くも
 わが力いかにささげむあらがねの國土《くにつち》ひでりきびしといふに
 日のてれる庭の茅がやの葉のうへに鳴く蟲みゆるころとなりにし
 父われはまなこつむりてこの日ごろいかにわが子等ゐるかとぞ思ふ
 山なかに朝にはとりのこゑを聞く洋人家族つつましく住む
 やうやくに熱落ちたれどなほ臥してしづかになればわが子おもほゆ
 みづからのもののごとくに起臥してはげみし部屋よさきくありこそ
(469) 草むらに青く光れる蟲のあり月照れる夜をもとほりくれば
 洋人の女男《めを》の童《わらは》のこゑひびくこの界隈は去年とちがふ
 わが子らが稚《をさな》かりし日この家に遊びのこししものも蟲ばむ
 おくりこし唐きびの香をなつかしみ杉の落葉の火もてあぶれる
 いかにしてわれ食はむかとおもひ居り目ざむるばかり赤きトマトを
 たたなはる山に沁むがにまどかなる強羅の月はかがやきわたる
 ひとりごといふこともなく杉の木《こ》したに月の光をあふぎてゐたり
 きはまりて月の光のかがやけばかたむく頃に起きゐたりける
(470) ましろなる西洋種の猫ひとつわれの家居にはひりて來たり
 生《しやう》の身を愛しむがごとくのぼりこし強羅の山に宵はやく寐つ
 赤がへるひとつ跳ねをりこのゆふべ降り來む雨をよろこぶらしも
 やうやくに晴れたる山のゆふまぐれからびてゐたる茄子を煮にけり
 この山の土の中なる石のごとわれの心は堪ふるにかあらし
 みだれ降る雨をし見れば東京に業《げふ》にいそしむ子らしおもほゆ
 あさまだきよりひといろにくらがりて荒ぶる山に堪へつつぞ居る
 ひとときもたゆみあらむと思はねど秋たつ今日を心しづめむ
(471) ひたぶるに降りたる雨のをやむとき心あやしくしづむがごとし
 松風とうべいひけらし朝よひの寂しきかぜは松よりおこる
 山かぜの音たえまなきを寂しみて窓の近くにこごまりゐたり
 人參ををしみ置きしがこのゆふべ五目の如く入れてしまひぬ
 葛の花さくべくなりて歩みくるここの小峽《をかひ》もわれに親しも
 蝉のこゑ一しきりにてかぎろひの日いづる前の山のしづかさ
 あさ蝉のこゑのやみたる一ときをしづかなる山と吾はおもひき
 むらがりていまだも朝の蝉なけばけふ峽の空さやけかるべし
(472) にはつ鳥|※[奚+隹]《かけ》のきこゆるは猶太人家族が飼へるをんどりのこゑ
 朝日子ののぼりたる後しばらくを松蝉とおもふ蝉のこゑする
 蝉のこゑやうやく減りし八月の十日のあさけ心をしづむ
.いつしかも荒れむとぞするこの園にふふめる白き桔梗《きちかう》の花
 朗らかにとどこほりなし界隈に疎開兒童のこゑをし聞けば
 日のいづる時間少しくおそくなり蝉の鳴きやむのちのしづかさ
 萱の秀にのぼりし露のかがやくをしばらく見たる吾ぞ樂しき
 娘らが二人來居れば松かげに笑ふこゑしてさびしくもなし
(473) のぼりたちをればぬばたまの清き夜の天の極みにいなびかりせり
 馬追のとほれる聲のかたはらにかすかなる蟲あまた鳴きゐる
 かすかにしわれは住めども朝夕の米とぼしらになりまさりたり
 くろく蔽へる燈《ともし》の下に貯への米計りをり娘とともに
 馬追のこゑしげくして或るこゑはわれの顔より一尺《さか》あまり
 都會より移動はじめし數十萬の兒童割當を手帳にとどむ
 さびしさに堪へがてなくに庭草のほしいままなるを刈りて棄て棄つ
 峽の空ふりさけみれば高きにも鴉うかべて餘光ながしも
(474) 朝はやき木立のなかに啼きかはす鴉のこゑを聞けばやさしも
 去年より用意をしつつ持て來たるともしき米も食ひ終へむとす
 配給をうけぬ生活をわれすればこだはりなくて歸りなむいざ
 あしひきの山の狹間に蝉ひとつも鳴かぬ時あり午ちかづきぬ
 くだりゆかむ娘のためにいささかの紅茶を沸かすわが心から
 汝《なれ》ら二人かへりてゆかばひたぶるに業にいそしめ身もたなしらず
 寒蜩《ひぐらし》のすでにおとろふる頃となり朝な夕なはしきりに寂し 秋艸道人に酬ゆ
 まどかなる月杉のまにかがやくを獨りながむと告げやらましを
(475) わが庭のあらくさに差す日の光しづかになりて秋たつらしも
 馬追のしげき夜ごろを米ぶくろひとつたづさへのぼり來まさね
 たまひたる君がみ歌の六つの歌身にしみわたりいざひとり寢む
 去年の夏この杉に來鳴きし山鳩のつがひありしが今年來啼かず 八月十六日
 夏されば山鳩何におそるれか朝な夕なに啼くこともなし
 おのづから山鳩うつりゆきけらしここの狹間に聲もきこえず
 うぐひすといへどうつせみの人の香をよくるにかあらし間遠になりぬ
 月かげのきよきはざまと思へども山ほととぎすはやも來啼かず
(476) きよき空日毎つづきてたまくしげ箱根の山に鳥がねきこゆ
 界隈に住みうつり來し外人に往診をせり醫師《くすし》のわれは
 十年《ととせ》まへ山ほととぎすまぢかくに幾つも啼きしことをおもはむ
 年々につかひてあかくなりゐたる鉈を研ぎたりゆふぐるるまで 十七日
 山住みの身に安らなる時ありて杉の根方にしばし休らふ
 鈍痛のごとき内在を感じたるけふの日頃をいかに遣らはむ
 いつしかも夜ふけゆきてむらぎもの心の渦を統べむとぞする
 鉈をもて焚物つくる三日《みか》經なばこの焚物も皆燃えゆかむ 十八日
(477) かの山にをととしまでは登りしが去年よりはわれつひにのぼらず
 身ぢかくに馬追のこゑいにしへもこのかなしきを鳴きにけむもの
 射干の花さきにけりかなしくも咲きたるものか秋のひかりに
 排水の土管直すと泥あくたつまりしものを掘りかへし居り
 臺所ながるる水がながれそめわれの心ははじめて樂し
 刈りそけて積みおきたりしあらくさも置きしままにてわれ去らむとす
 ひめ沙羅の木立の中に入りてみむ思ひあれども家ごもりをり
 よわき雷をりをり鳴りてわがむかふ山のいただきの雲うごきそむ
(478) はやくより朝蝉なきてしばしだにわれの心を清《すが》しからしむ 十九日
 飯《いひ》を焚く火の音きこゆをりをりは撥ぬる音さへ聞こゆるものを
 うつくしく朝日山よりいづるころしげしと思ふ草のうへの露
 きぞの夜《よる》ねにいでし蟋蟀のこゑを聞き秋なる山をわれはおもひき
 いでそめしうすくれなゐのすすきの穗ことしはひとり下《お》りたち見るも
 野のうへに足伸ばすときあはれあはれ悲慘のことを吾はおもはず
 おとにぶき雷をつたへて午後三時仙石村のかたに白雲《しらくも》
 餘光とほく及べるころを一人|住《ずみ》の釜のそこひに飯《はん》煮ゆるおと
(479) たちまちに雨しぶくおときこえきて吾のねむりの豈やすからめ
 友一人のぼり來りてわがためにねもころころに背《そびら》を揉めり 二十日
 わがために行李《こり》ととのふるわが友は一夜《ひとよ》あくれば山くだるなり
 小田原の電車にて一夜《ひとよ》明かしぬとわが子いひつつのぼり來りぬ
 味噌樽のあきたるをけふつつがなく山形あがたへ送らむとする
 久々に來れる友と相見つつ胸門《むなと》ひらけて言すくなかり
 かへりゆく友をおくりてくだりこしついでに吾は寄道をせり
 この夏にはじめてわれは杉村の中に入りきぬこころ親しみ
 
(486)  昭和二十年
 
    老
 
 人知れず老いたるかなや夜をこめてわが臀《ゐさらひ》も冷ゆるこのごろ
 のがれ來て一時間にもなりたるか壕のなかにて銀杏《ぎんなん》を食む
 一日なる心やすらぎをこひねがひ眞間の高岡こえゆくわれは
 老いゆかむ吾をいたはりたまひたる飯《いひ》の中より氣《いき》たちのぼる
 わが母の八十《やそぢ》の老《おい》をことほぎて警報解けし間《あひ》に來りぬ
(487) 海のうへの太陽こほしさびしみて國のはたてにわが來つるとき
 あさぞらにひるがへりたる燕《つばくら》を見てゐるときに涙いでむとす
 あかときの雲のくれなゐ老いづけるわれのかうべのうへにかがやく
 きさらぎの三日の宵よ小ごゑにて追儺の豆を撒きをはりけり
 北海温北見のくににゐる兄の齢ことほぐ弟われは
 まどかなる齢となりし同胞《はらから》の兄をおもひて飽くこともなし
 
    上(ノ)山・金瓶雜歌
 
     昭和二十年二月十六日夜、上野驛を立ち、十七日上(ノ)山著、.上(ノ)山の裏山あたりを歩きて作歌、金瓶村に移る。三月六日(488)上(ノ)山發、仙山線、常磐線、三月七日東京著。四月十日東京を發ち十一日上(ノ)山著。十四日より金瓶移居
 
 松山に杉山つづき雪ふればただにうつくし見れど飽かなくに
 南より止まずうごける白雲は山脈《やまなみ》のうへに即きて離れず
 ふり積みし雪のうへよりあらはるる小松がうれはをりをりうごく
 くづれたる赤土のうへに青笹が重《かさな》りて見ゆあわ雪ふりしかど
 眞澄みつつ空はれしかどかげともの楢の木原に物の音《と》もなし
 氷りたる赤土のうへにこまかき垂氷《つらら》ならびて心ひくもの
 わきいづる音のきこゆる弘法水雪あゆみ來て我心なごむ
(489) ゆたかにも雪ふりつみし丘のべをゴムの長靴はきて越えゆく
 ひむがしの境ふ山並おち入りし藏王の谿はあきらかに見ゆ
 ふつか降りし雪はれしかばみつみつし處女《をとめ》のにほふごとき山山
 たかだかと國を境へる山なみの雪雲はれて春きたらむか
 積茅《つみがや》のまへの日なたにうづくまり戰《たたかひ》の世をわれはおもへる
 冬の夜のふけしづむころみちのくの村にし居りて栗食むわれは
 上(ノ)山わがたちくればけさの朝け藏王は晴れて心たのしゑ
 眞澄なる空となりしかど一しきり藏王のいただきに雪げむりたつ
(490) コレヒドルおちいりしかど陸奥の幼《をさな》らは樂し橇ひき遊ぶ
 コレヒドルおちいりしことをみちのくの我家《わぎへ》の里に聞きつぎにける
 大きなる谿谷そこにありとしもわが知らざりし大き谿谷《けいこく》
 むらぎもの心はりつめ見つつゐる雪てりかへすけふのあまつ日
 藏王より北へつらなり聳ゆらむ雁戸の山はかくれて見えず
 ここにも心親しきものの一つあり冬の眞中に水綿ゆらぐ
 まどかなる相《すがた》に雪は降りつみてたたかひの世に生くる村々
 この雪の中にこもれる村々にたたかひの世のうづくがごとし
(491) けふ一日ゆたに雪晴れしかば峽にせまりて山ちかく見ゆ
 うづなせるところもありて疾き雲の山にかかれば雪ふるらしも
 松山をわが歩むとき忽ちに雪を散らして風ふき過ぎつ
 日の光てりかへしたる雪の上に松が枝敷きてわれはいこへり
 金瓶をいづれば雪を保てる風ふきてわが面《おも》をうつ日ぐれむとする
 金瓶をいで上(ノ)山へむかふとき日に照らされて雪の降りくる
 みちのくの寒さきびしきあかつきに眼《まなこ》をひらき寂しむわれは 廿二日
 みちのくのきさらぎの日のこもりゐに一日のわが世いかに思はむ
(492) われ一人とおもふ心よ雪ふれる白き藏王もけふ見えなくに
 けふ一日たちても居ても老の身のせむすべ知らに寒くなりたり
 低山はまろくなりつつ雪つもり小雀のむれがしきて聞こゆる
 みちのくの白くなりたる冬山にむかひて吾は心をしづむ
 松山をよぎりて來れは灰色に天ぎる空はつひに開けぬ
 をやみなくきさらぎ雪の降りまがふみちのく山に向ひてゐたり
 やうやくに老いづきし如き面持に小作適性につきて物語る 二十五日、結城哀草果
 いとまなき君とあひ見しうれしさに五十《いそぢ》を越えし君とおもはず
(493) 一つ部屋に夜ふけていねし安らかさ君のいびきを折々ききて
 くさぐさの事を頼みて語りたる哀草果君とけふぞわかるる
 ことわりも絶えしがごとくせまりくる泉の音はれが眞近より
 金瓶の邑にむかひて歩むとききぞの夜降りし雪ふかぶかし 廿六日
 わが生れし金瓶村に雪つもりとほりすがへる兒童のことば
 ふかぶかとした灰色を奥にして白き藏王は聳えけるかも
 雪の上すれすれに飛びし頬白は松の根方にものをついばむ
 金瓶に一夜ねむればみ雪ふる音もきこえぬそのしづかさよ 廿七日
(494) 窓のとの雪を見ながらたたかひの心きざさぬ今のひととき
 をやみなく降る雪を見て戰のやぶるらむこと誰かおもはむ
 ことつひに極みとなりて雪山の松根を掘るたたかひのくに
 四方の空ふかぶかとして晴れわたり三月一日の山並の雪 三月一日
 やすらかにねむる一夜も東京の家居のことを思ひてやまず 三月三日
 
     四月三日東京。大久保齒科醫院、美智子河佐各手傳
 
 むらぎものみだろる時は心こりてわが大君をおもひたてまつる
 わが心くるしきき時も大君をおもひまつれば心は和ぎぬ
(495) 生死《いきじに》のことにかかづらふ時しもあれわが大君のみ民ぞわれ
 大君のいましますこの都よりみ民のがるるをゆるたまひぬ
 みみづからのこり給ひて都より民のがるるをゆるし給ふはや
 
      題秋艸道人村莊雜事
 
 ゆく春のひと日こもれと人いへど君のみ歌にをどるこころぞ
 
      四月十日夜、山形縣へ疎開のため出發上野驛より
 
 おのづから車房にまなこつむりけり額の上に汗いでながら
 警報をきかぬ一夜の車房にてわれの寫象は單純ならず
(496) わきがたき心の渦を持ちながら汽車の車房にしばし目ざめつ
 
    疎開浸吟 (一)
 
     昭和二十年四月十四日より、金瓶村齋藤十右衛門方に移り住む。をりをりの歌
 
 かへるでの赤芽萌えたつ頃となりわが犢鼻褌《たふさぎ》をみづから洗ふ
 藏の中のひとつ火鉢の燠ほりつつ東京のことたまゆら忘る
 競はひむする心は失せて獨り居り薄縁のうへを幾たびも掃く
 宵ごとに下劑を飲めばわづらはし烏芻沙摩《うすさま》明王護りたまはな
 のがれ來し吾を思へばうしろぐらし心は痛し子等しおもほゆ
(497) 村びとの誰《たれ》彼見れど吾がごとき齢のものも吾は忘れき
 ここにしてひむがし見れば朝な夕な藏王の山の雪きゆるなり
 きぞの夜も猛火あがりぬといふなべに止みがたくして都し思ほゆ
 幾たびも幾たびも覺めしこの朝けまぼろしに立つは紅き炎ぞ
 ゆふがれひ食ひをはりたる一時《ひととき》を灰となりゆく燠を目守りつ
 わがために窓に暗幕垂れしめし君と君の宴の心うれしも
 空とほく時は運りてみちのくの藏王の山の雪きえむとす
 午《ご》を過ぎて忽ちにしてひびき來る警戒警報は東北南部地區
(498) わが生れし村に來りて柔き韮を食《は》むとき思ほゆるかも
 おとろへしわが齒哀れと言ひつつぞ豆腐のめづら吾に食はしむ
 たたかひの劇しきさまにあらなくに山の彼方になごりのひかり
 ゆふぐれの空に諸枝の擴がれる一木《ひとき》の立つも身に染《し》むものを
 ほの赤く山のへの空染まるころ家をいで來てたたずみ居たり
 この道はいづらにか行くわが心迷ひてゐたり雲雀啼く野に
 山がはの鳴瀬を近みわが居ればなべてのものを忘れむとする
 きびしかる心に沁みて山がはのさをどる波は吾に近しも
(499) はるばると黄なる餘光は長くしてみちのく山の雪消えむとす
 われの居る金瓶村を出はづれてやぶ萱草の萌えいづる野に
 おほよそに過ぎ來つるごと年老いてわれの見てゐる藏王《ざうわう》の山
 のぼり來る小山の上に笹の芽の直《すぐ》にのびつつ春ふけゆくも
 春山にわが來入りゐてひとりのみ乾反《ひそ》る落葉のおと聞かむとす
 春のみづ山よりくだる音きけばただならぬ戰《たたかひ》の世のごとからず
 上(ノ)山の裏山としもおもほえずわれのめぐりに小雀《こがら》飛びつつ
 椋鳥は群れて戯るるごとく啼く櫻桃の花しろく咲くころ
(500) 四つの澤に滿ち足らはむとする水はいくさ劇しき時に流るる
 つねの世のごとくに歩む黒々と木通の花のふふむ坂路《さかぢ》を
 この山の中に田あれやほがらほがら鳴ける蛙《かはづ》のこゑをし聞けば
 ここにして遙かなれども雪しろき月讀《つきよみ》の山にむかひて歩む
 松根《しようこん》を掘りたるあとの狹間なる新しき泉の水おLぞする
 
    疎開漫吟 (二)
 
 みちのくの山形あがたの金瓶は山鳩ちかく臥處《ふしど》にきこゆ
 いただきはきその一夜《ひとよ》に白くなり五月五日の藏王《ざうわう》の山
(501) 日もすがらけむりをあげむ月山の氷の谷をここにおもへる
 小園《せうゑん》のをだまきのはな野のうへの白頭翁の花ともににほひて
 いきほひは西より動きこの朝け藏王を包む雲の渦みゆ
 前川《まへかは》に溺れむとせる穉子に往診をしてつかれてかへる
 あはれなるものにぞありける五十年にして再會せる谷の泉の水
 みちのくの金瓶村の朝ぼらけ黒土《くろつち》のうへ冴えかへりつつ
 家いでて振さけみればゆく春の藏王《ざわう》はきびしけふも曇れる
 燒けはてし東京の家を忘れ得ず青き山べに入り來りけり
(502) 櫟の葉みづ楢の葉のひるがへる淺山なかに吾はしづまる
 くもり日の松山なかに吾は居り暫くにして眠らむとする
 ひとり寂しくけふの晝餉にわが食みし野蒜の香をもやがて忘れむ
 松の樹の太々としたる膚《はだへ》よりわれにせまりて來るは何ぞも
 ひとりなる吾とおもふに甲蟲《かふちゆう》がたまたま飛びて松山ふかし
 朴《ほほ》がしはまだ柔き春の日に一日《ひとひ》のいのち抒べむとぞおもふ
 警しめのサイレンの音ひびきぬる上(ノ)山過ぎここに來りき
 蟻一つ死せる同類を口にくはへ下《くだ》りてゆくはいづこなるべき
(503) 鶯もほしいままなる山中に白き花咲き春逝かむとす
 松山に水の滲みづるところありかつてのさ霧凝れるにかあらむ
 朴の花のその圓《まど》けきを見つつゐて涙のいづるまでになりたり
 わがひそむこの山中に筒どりのこゑの近きと稍《やや》にとほきと
 うつくしき聲に啼く鳥ほうけたるこゑに啼く鳥おのおの聞こゆ
 藏王より南のかたの谿谷に初夏のあさけの靄たなびきぬ
 たたかひの劇しき時に茱萸の花むらがり咲きて春ゆかむとす
 郭公と山鳩のこゑきこえ居る木立の中に心しづめつ
(504) かたまりし丹《たん》のつつじが春あらし吹き居る山にゆらぎて止まず
 せまりたる時の眞中《まなか》にいそがしく黄の花粉とぶ松の花より
 ひむがしゆ下りくだりて幾川は金瓶村のあひを流るる
 さびしくも聞ゆるものか現身《うつしみ》の吾をめでりて杉木立風
 握りたる飯《いひ》を食はむと山のべにわが脚を伸ぶ草鞋をぬぎて
 しかすがに色きよき蟲匍ひ來り手帳の上に暫しためらふ
 あらがねの土を照らせる天つ日を稚かりし日の如くに見たり
 藏王山《ざわうさん》その生けきを大君は明治十四年あふぎたまひき
(505) 松はらのしげりの奧はとほどほし峽を隔ててなほしげり山
 石原を遠くたもちて流れたる山川《やまがは》みれば心和ぐもの
 のぼり來し高きによりて若葉かせ浪だつ山を今し見おろす
 夏されば雪|消《け》わたりて高高《たかだか》とあかがねいろの藏王《ざうわう》の山
 はるの陽はやうやく低くあをあをと北の方とほき國原きらふ
 葦切《よしきり》の啼くこゑ聞けば五十年の過去の一時《ひととき》やよみがへりたる
 この村にのがれ來りてするどくも刹那を追はむ六十四歳のわれ
 みちのくの春逝く山のふところに白く散りたる大根の花
(506) またたびの花たづねゆく川原ぎし酢川はここに堰かれつつあり
 のがれ來てはやも百日《ももか》か下畑《しもはた》に馬鈴薯のはな咲きそむるころ
 實になれる菠薐草《はうれんさう》に朝な朝な鶸が來りて食みこぼしけり
 ※[豆+工]豆畑《ささげばた》の雜草《あらくさ》とるとあまつ日の入りたる後に連れられて來つ
 十右衛門が手入をしたる玉葱の玉あらはれて夏は深まむ
 さみだれは二日降りつぎ蠶《かふこ》らの繭ごもらむ日すでに近づく
 朝々はすがしくもあるか此庭に雀あらそひて松の皮おとす
 藻のなかに鯉のやからの眠るべくこのしづけさをたもたむとすや
(507) 蝉いまだ鳴くこともなく山中の土の平《たひら》に※[虫+奚]※[虫+斥]《ばつた》飛びいづ
 疎開者の家族|氣狂《きぐる》ひになりたれば夜のあけあけに往診したり
 みづからの産卵せむと土を掘る蟲のおこなひ微かなりとも
 土ごもりをはりし甲蟲は雌蟲《しちゆう》にてこもれる後はわれかへり見ず
 日もすがら雨をもよほす空合ををりをり見をりこころ憂ひて
 戰歿の二たりの遺骨むかへむと半郷《はんがう》道にわれの汗いづ
 豐後梅と稱する梅の大き實が寶泉寺よりとどきてゐたり
 あひ繼ぎて警戒報のこだまする山の麓をわれ行かむとす
(508) この部屋の塵埃の中に生れゐる蚤の幼蟲をいくつかころす
 アツツ島に命おとししこの村の一人勇士には遺髪さへなし
 美しき斑を持ちながら夏ふけて梅の木の葉を食ふ蟲のあり
 診察の謝禮にもらひし※[奚+隹]卵を朝がれひのとき十右衛門と食ふ
 海上にありて打ちたる砲の音藏王を越えてひびきてきたる
 つづけざまに窓にひびきて陸中の釜石をうつ艦砲射撃
 ねむの花咲くべくなりて山がひにわれの憂ひの深くもあるか
 
    疎開漫吟 (三)
 
(509) この村の小さき園に※[草がんむり/見]といふ草はしげりて秋は來むかふ
 たかだかと唐もろこしの並みたつを吾は見てをり日のしづむころ
 状勢は深刻となりくにあげて聲のむときにわれも黙さむ
 山形地區を北上する爆撃機たちまちのうちに聞きすごしけり
 蚤ひとつ捉ふるにも力をそそげりとわれ若しいはば罵られむか
 仙臺の部隊に入りし老兵が炎をあびし夜《よ》のものがたり
 たたかひのため穉《をさな》らの競《きほ》ひたる路傍の豆を見つつ歩めり
 はらばひになりて暫らくわがゐたる疊の上に蚤のむくろひとつ
(510) 北方ににぶき投弾の音きこゆ山形市街かなほも遠きか
 八月の十日を過ぎてみちのくの金瓶村に蟋蟀鳴くも
 おちつかぬ朝餉《あさがれひ》にて石噛みし齒をいたはりて山のべに來し
 すき透らむばかりに深きくれなゐの松葉牡丹のまへを過《よ》ぎりぬ
 たのまれてたまたま藥あたへたるそのおほむねは貧しく疎開せりけり
 麥飯《むぎいひ》の石をひろふは夜ぶすまゆ蚤捉ふるに豈おとらめや
 夜もすがらわれの體を襲ふ蚤朝くらがりにはやも逃げゆく
 蝉のこゑしげくなりたるきのふけふこの身は懈《たゆ》し堪へがてなくに
(511) 新島ゆ疎開せる翁とつれだちて天皇のみこゑききたてまつる
 停戰ののち五日この村の畑《はたけ》のほとりにわれは休らふ
 秋たちてうすくれなゐの穗のいでし薄のかげに悲しむわれは
 よわき齒に噛みて味はふ鮎ふたつ山の川浪くぐりしものぞ
 かすかなるわれの命の過ぎなむもこの山河よさきくありこそ
 天なるや日てりそめたるころに來て小松のかげに心しづむる
 山のべの茂みが中に蓁栗《はしばみ》もやうやく固く款づかむとす
 桔梗《きちかう》の過ぎむとぞするこの山にけふ入りて來つつぎて來べしや
(512) 鈴蟲のこもりて鳴ける萱むらにわれは近づくこのゆふまぐれ
 すでにして山道くれば新しき粟のいがおほく落されてあり
 墓はらの日向に咲きてにほへどもいまだも低きさるすべりの花
 戰ひのをはりとなりし秋にしてかすかなる村の施餓鬼おこなふ
 白萩は寶泉寺の庭に咲きみだれ餓鬼にほどこすけふはやも過ぐ
 松原の中にし入ればふかぶかとしたる苔ありこころ安けく
 さやけくもはだらになりしくれなゐが藏王つづきに見えわたりたる
 この見ゆる藏王の山の前山のはだらの紅《あけ》に雲は移ろふ
(513) 新島より疎開してゐし一家族言葉すくなくかへりゆきたり
 いきほひて水かさまされる秋川は日の入りぬればおと高まりぬ
 齒科醫まで通はむとしていそぐとき藏王の山は隱ろひにける
 わが枕ゆるるが如く夜もすがら水嵩《みかさ》まされる川おとぞする
 つゆじものしとしとと置く今朝の朝けここに遊びし蛇もひそみて
 おのづからわが吐く息の見えそめて金瓶むらの秋ふけむとす
 朝寒ともひつつ時の移ろへば蕎麥の小花に來ゐる蜂あり
 ひとつある岡にのぼらむと思ひけり野分すぎたるけさのあかつき
(514) 南より村を貫くこの川は洪水《おほみづ》となりながれさかまく
 西南の方にこごれる雲みつつ秋はふかしと思ひけるかも
 こがらしは吹くべくなりてこの村の楢の木原に青き繭さがる
 ふかぶかとひむがしにして雲かかる藏王のもみぢはやもすがれむ
 稻を刈る鎌音きけばさやけくも聞こゆるものか朝まだきより
 金瓶の橋をわたりて黒澤へわが向ふとき日は傾きぬ
 この村のしぐれの雨はあはれあはれ藏王高はらに流らふる雪
 朝雲は山のごとくにそばだちて羽前のくにの秋ふけむとす
(515) 大河のほとりに立てばおもほえず鳥海山に雪ぞ降りける
 大高根山のもみぢにこのゆふべ大旗なして雲ぞちかづく
 やぶからしの玉もやうやく色づきてその紫も愛づべからずや
 水せまる岸のなぎさにたむろして草もみぢせりかなしきまでに
 みちのくの最上川べの大石田にわが齒は痊えてすがしこの朝
 わたつみの海よりのぼり來し鮭を今ぞわが食ふ君がなさけに
 みづうみに似し靜けさを保ちたる最上の川は見らく飽かなく
 おごそかに北へむかへる最上川ここの平はたぎつことなし
 
(516)    金瓶村小吟
 
 桑の實はやうやく黒しのがれ來て感冒もせずわれは居りしに
 夏至すでに過ぎたることをおもひいで藏王の山をふりさけにける
 朝な夕な吾はおどろく入りかはりたちかはりくる鳥の多きに
 椋鳥ははやも巣だちて岡べなる胡桃の花も過ぎむとぞする
 しづかなる時代《ときよ》のごときこころにて白き鯉この水にあぎとふ
 ふりつぎし雨はれしかばあなさやけ最上だひらゆ雲の峯みゆ
 月山もゆふぐれゆきて北とほくくれなゐの雲たなびきにける
(517) ほがらほがら月あかくして一しきり近き山べにふくろふ啼けり
 つくよみの光|明《あか》けばたたかひのきびしき代とぞ起きて來にける
 空襲の二日つづきて雲凝りしここのあがたの山に日の入る
 ゆふばえの紅《くれなゐ》にしてすぢひくをふりさけゐたり空襲すぎて
 こゑながく鳴きをはりたる蝉ひとつ暫しはゐたりこの梅の樹に
 一むらの萱かげに來て心しづむいかなる老をわれは過ぎむか
 いつにならばわれこの村を去りなむかゆふぐれむとする川原蟋蟀
 ものなべてしづかならむと山かひの川原の砂に秋の陽のさす
(518) 白雲は南にひろくうつろひてまどかなる月今ぞかがやく
 秋のかぜ吹くべくなりて夜もすがら最上の川に月てりわたる
 まどかなる月の照りたる最上川ひむがし南より流れて來る
 みちのくの村にかすかに吾をりて秋の彼岸の山に入りゆく
 秋雲は月山のうへにこごりたり夕ぐれにしてうつろふらむか
 おもおもと水のながるる音のしてここの川原に蟋蟀鳴くも
 かたはらに人のつれなき吾ひとり山べの道に涙しながる
 たたかひのをはりたる代に生きのこり來向ふ冬に老いつつぞゐる
(519) このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜《あまよ》かりがね
 石の上に羽を平めてとまりたる茜蜻蛉《あかねあきつ》も物もふらむか
 ぬばたまの夜はすがらにくれなゐの蜻蛉のむれよ何處にかねむる
 ひそかなる吾の足音《あのと》におどろけり桑のはたけの黒蟋蟀は
 夏雲の中にいかづちのとどろきの稀なりし年とおもふも寂し
 いつしかに黄ににほひたる羊齒の葉に酢川の水のしぶきはかかる
 漆の葉からくれなゐにならむとす秋の山べのにほひ戀《こほ》しく
 ここに啼く小雀ひとつもあはれにて苔の水べに來《きた》れるらしも
(520) むらさきににほひそめたる木通の實進駐兵は食むこともなし
 たむろには紫がかる葉もありてわが目のまへにこがらしが吹く
 西の方ははざまに朝の雲しづみ月山のうへの細眞澄空《ほそますみぞら》
 月山の膚きびしく色づくを見れば一夜に雪ふるらむか
 最上川おほどかにして流るれど支流のさやぎここにまじはる
 おごそかに水嵩まされる最上川ひとときわれにむかひて流る
 秋の鳥最上川べに啼きつぐをわれは樂しむ歩みとどめて
 あめ晴れし最上川のうへにためらはず流るる水泡見れども飽かず
(521) みづうみの如くしづけき最上川その兩岸《もろぎし》は既に高しも
 いくたびか立ちあがりけりこの部屋の秋の蠅ひとつ殺さむとして
 星空の中より降らむみちのくの時雨のあめは寂しきろかも
 いでゆきて疊のうへに持てきたる南蠻鐵色の柿の葉ひとつ
 いそぎつつ川原わたればおもほえず月山のかたに時雨虹たつ
 金瓶の木原いで入る人見えて藏王白くかがやきわたる
 天保の代に餓死《うゑじ》にしものがたり今も悲しく語りつたふる
 くやしまむ言も絶えたり爐のなかに炎のあそぶ冬のゆふぐれ
(522) こがらしの山をおほひて吹く時ぞわれに聞こゆるこゑとほざかる
 山々は白くなりつつまなかひに生けるが如く冬ふかみけり
 うつせみのわれの横たふ臥處にも蟲來ずなりて年くれむとす
 
    岡の上
 
 すがしくも胸門《むなと》ひらけばこの縣の稻の稔りを見て立つわれは
 くさぐさの實こそこぼるれ岡のへの秋の日ざしはしづかになりて
 あららぎのくれなゐの實の結ぶとき淨《さや》けき秋のこころにぞ入る
 沈黙のわれに見よとぞ百房《ひやくふさ》の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
(523) こゑひくき歸還兵士のものがたり焚火を繼がむまへにをはりぬ
 大きなる河のうねりの見ゆるころ水嵩《みかさ》まさりぬとわれはおもへる
 松かぜのつたふる音を聞きしかどその源はいづこなるべき
 新しき歩みの音のつづきくる朝明《あさあけ》にして涙のごはむ
 
    秋のみのり
 
 すめらぎの大御心の安らぎをもろともにこひ奉るのみ
 秋晴のひかりとなりて樂しくも實りに入らむ栗も胡桃も
 あさ早く颱風|來《らい》の警報を聞けばなまぬき風ふききたる
(524) 灰燼の中より吾もフエニキスとなりてし飛ばむ小さけれども
 颱風の遠過ぎゆきしゆふまぐれ甘薯のつるをひでて食ひつも
 
    遠のひびき
 
 秋風の遠のひびきの聞こゆべき夜ごろとなれど早く寐《いね》にき
 ひむがしに直にい向ふ岡にのぼり藏王の山を目守りてくだる
 たたかひにやぶれし國の山川を今日ふりさくと人に知らゆな
 いばらの實赤くならむとするころを金瓶村にいまだ起き臥す
 空ひくく疾風《はやち》ふきすぎしあかときに寂しくもわが心ひらくる
 
(525)    柿落葉
 
 よの常のことといふともつゆじもに濡れて深々し柿の落葉は
 やうやくに友より來る文よめばなべては悲し現身ゆゑに
 十月二十五日あさ藏王《ざうわう》に雪ふりたりといふこゑぞする
 わが心しづかになれど家隈《いへくま》の茗荷黄いろにうらがれわたる
 石見にて老ゆる翁に鴨山の説をつたへていざこよひ寢む
 
    霜どけ
 
 左千夫先生大正二年にみまかりてかかる事を知りたまはざるなり
(526) 霜とけてしづくするおと朝なさなここに聞けどもはかなきものか
 明治十五年われこの村に生れいで六十四歳の年ゆかむとす
 ひとたびはここにうねりし最上川みづがね色にふくれつつ見ゆ
 いたいたしき時代《ときよ》なれどもまなかひに君が面影いやあざやけし 百穂畫伯十三囘忌
 
    殘生
 
 すでにして藏王《ざわう》の山の眞白きを心だらひにふりさけむとす
 一日すぎ二日《ふたひ》すぎつつ居りたるにいつの頃よりか山鳩啼かぬ
 うつせみのわが息息《そくそく》を見むものは窗にのぼれる蟷螂《かまきり》ひとつ
(527) のがれ來てわが戀《こほ》しみし蓁栗《はしばみ》も木通も冬の山にをはりぬ
 夜な夜なは土もこほりぬしかすがにたぎつ心をとどめかねつる
 あかがねの色になりたるはげあたまかくの如くに生きのこりけり
 來む春に穴をいづらむくちなはがこの石の上に何見るらむか
 もろともに叫びをあげむくれなゐの光の浮ぶひむがし見れば
 
    寒靄
 
 寒靄のたちのおぼろにわたり鳥群れつつ飛べば吾はよろこぶ
 ひむがしをふりさけみれば雪暴れむ藏王ぞこもる黄雲《きぐも》のなかに
(528) とほどほし國の平の隈もおちず霜ぐもりして朝あけわたる
 ためらはむ暇さへなしたまきはる命のまにま奮ひて立たな
 最上川流らふ國はあな清《さや》けありあけの月ひくくかがやく
 
    冬至
 
 あまぎらし降りくる雪のをやみなき冬のはての日こころにぞ沁む
 降る雪はみなぎりながら中空《なかぞら》に天つ日白くあらはるるなり
 目のまへの相《すがた》となれる悲劇さへ空しきごとく年ゆかんとす
 いつしかに運《めぐ》りきたれる一年《いちねん》の最短の日に居りてかなしむ
(529) 時により競《きほ》ひたたむとせしかども衰ふるなりこの年のくれ
 うつたふる心動きもなくなりて冬至の夜をはやく寐にけり
 穴ごもるけだもののごとわが入りし臥處にてものを言ふこともなし
 この村にのがれ來し年の冬至の夜こほらむとしてしばし音斷ゆ
 
    氷柱
 
 雪つもるけふの夕をつつましくあぶらに揚げし干柿いくつ
 目のまへに並ぶ氷柱にともし火のさす時心あらたしきごと
 みちのくにありて思へどとりがなく東の山も雪ふるらむか
(530) おもふどち相集りてけふ居れば一つの歌もおほろかならず
 穉《をさな》かりし頃しのばなと此ゆふべ帚ぐさの實われに食はしむ
 
    獨坐
 
 いかならむ人に見よとか慌し註文のうた幾つもつくる
 新聞に銀座どほりの寫眞ありその歩道には人みちみちて
 北國《きたくに》の空さだめなく南よりくもりとどきて雪ふりやまず
 たたかひの終末ちかくこの村に鳴りひびきたる鐘をわすれず
 火をいはば大正十三年昭和二十年たちまちにして吾が書籍をほろぼしぬ
 
(531)  昭和二十一年
 
    新春
 
 あまのはら亂れむとするものもなくほがらほがらと朝明けわたる
 天地はあらたになりておもふどち相寄りたたむ苦しかりとも
 山々に雪ふりつもりしろがねの光を放つおごそかを見よ
 あめつちに陣痛ありとおもほゆるこれの時代に生きむとぞする
 勅題の歌さながらに雪かむる松の下びに雀むれたり
 
(532)    日向
 
 国士《くにつち》にひくくしづめる冬の靄ゆふぐれむとして動くにかあらし しづかなる冬の日向にいださるる清《さや》けくも白き豆くろき豆
 新しく興れ興れと叫ぶこゑ老いたるわれをゆるがして過ぐ
 いつしかも年めぐり來ぬ新しき年といへどもわれは苦しゑ
 かくのごと雪は流らふものなべて眞白きがうへになほし流らふ
 
    籠居
 
 雪つもる村にひそみて吾が居れど都のなかの叫びきこゆる
(533) 寒の粥くひをはりたるひと時をこの世の話聽かむとおもひし
 戰地よりいまだ歸らぬ三人子《みたりご》をしのばむとして薪木つぎたす
 黄になりて地《つち》に伏したりし紫咢《ぎばうしゆ》に三尺《さんじやく》あまりの雪はつもりぬ
 をやみなく雪降りつもる道の上にひとりごつこゑ寂しかるべし
 
    雪しづく
 
 日の光一日かがよひ太杉のしたにあまねく雪しづくする
 まどかなる雪のおもより照りかへす光にむかひ歩みとどめつ
 うつくしく降りたる雪を眞少女《まをとめ》のごとしといひて讃めつつぞ居る
(534) 雪ふれる川原に來り歩むときゴムの長靴歩みなづめり
 冬川のみぎはの砂に寄る浪の雪にさやれば雪はつもらず
 
    松上雪(一)
 
 高松の枝もたわわに降りつめるけさの白雪見とも飽かめや
 ゆたかにも降れる雪かも高松の秀枝《ほつえ》を見ればかがやきわたる
 あまぎらし降りくる雪はたちまちに降りこそつもれ庭松が枝に
 晴れとほり春の來むかふ時にこそ白くかがやけ松のうへの雪
 このあした眞白き雪をかかむれる松をよろしみ言祝《ことほ》がむとす
 
(535)    松上雪(二)
 
 あかときとあけわたりたる松が枝はたわわに雪をいただきにけり
 かぎろひの春のはだれはうつくしく降りこそつもれ庭の小松に
 庭松をおほはむとするいきほひに流らへわたるけふの雪かも
 あまぎらし降りくる雪は見る見るうちに松の太木のうへにつもれる
 きぞの夜の一夜ながらへし天つ雪はれにけるかも高松の上に
 
    松上雪(三)
 
 おごそかに雪をいただく高松をすめらみ民のこころともがも
(536) しろがねとかがよふ雪はこのあした高松のうへに降りつもりたり
 老いらくのわれの心も清まれと降りつもりたる松のうへのゆき
 老松がゆたにかかむる白雪を歩みとどめて見らくしよしも
 とことはの潔きこころとけさの朝け松につもれるこの白雪よ
 
    松上雪(四)
 
 「松上の雪」と題する歌ひとつ作りてこよひ心すがしも
 わがこもる村をいで來て松原をおほへるみ雪見らく飽かなく
 松はらにふりつみし雪みおろしてあはれ新年《にひとし》をわが祝がむとす
(537) たかだかと松の太樹の立てらくに雪ふりつみてあな嚴《いつく》しよ
 新しき年のけふ松の高きより雪ぞちりくる光をうけて
 ゆたけくもつもれる雪がおのづからしづまりにけり松の太樹に
 たかだかと聳ゆる松にあまぎらし流らふる雪つもりけるかも
 松が枝の雪を散らしてあはれあはれ雀がとももよろこびかはす
 
    雪
 
 をやみなく雪ふるときはわが身内《みぬち》しづかになりぬこのしづかさよ
 午後一時の時計のおとを聞くころはしきりに眠し雪の降らくに
(538) あまぎらし雪はつもれどあららぎのくれなゐの實はいまだこもれり
 藏王より北に延びたる山並の潔《さや》けきひだをあひめでにけり
 新しく雪ふりつみて馬橇のあと牛橇のあとゴム長靴のあと
 ふかぶかと積もりし雪を戰車もて進駐兵は除去しはじめつ
 貧しきが幾軒か富みて戰をとほりこしたるこの村の雪
 ほそほそとなれる生《いのち》よ雪ふかき河のほとりにおのれ息はく
 農のわざつぶさに見つる一年《ひととせ》ををしむがごとく村去らむとす
 この村の媼《おうな》おさよも九十二に間もなくならむことをよろこぶ
(539) ひびきつつ峽《かひ》よりいづる冬川のさざれあらはれて春立つらしも
 朝の靄ひくくこめたる國土《くにつち》を北へ移りてわれゆかむとす
 この村をまからむとしておぼろなる日日ぞつづける春の立つころ
 夜もすがら雪のしづくの聞こゆるを春さきがけと思ふべからむ
 
    二つの山
 
 あまのはらほがらほがらと全けくも二つの山はあらはれて見ゆ 一月三日
 月山は白くかがやき藏王山はなまり色なす雪山ぞこれ
 くすしくも冬の眞中《もなか》の空はれて二つの御山《みやま》あひむかひたる
(540) 雪あらび降りつもりたる二つ山今こそ見ゆれ晴れにけるかも
 ひさかたの空さだまりて樂しくも見ゆるものかも北の高山《たかやま》
 
    空の八隅
 
 杉木立ひびきをあげてゆふぐるるこの儼かに堪へざらめやも
 雪はれし丘にのぼりてふりさくる空の八隅はいまだくもれり
 ほがらほがら天のみ中の晴れくるを雪山の間ゆ見らくしよしも
 とほどほし紫だちて明けわたる眞冬の空に鴉は啼きぬ
 雪ふぶく丘のたかむらするどくも片靡きつつゆふぐれむとす
 
(541)  後記
 
        〇
 本集「小園」は、昭和十八年、昭和十九年の作から平和なものを選び、それに山形縣金瓶村疎開中の大部分の歌を加へて一卷としたものである。
 はじめは、金瓶在住の歌のみを以て一卷とするつもりであつたが、それでは歌數が少し足りぬので、戰爭中の歌を加へることにしたのであつた。
 本集收むるところの歌數は七八二首であつて、大體私の六十二歳、六十三歳、六十四歳の時に當る。
 本集の名を「小園」としたのは、金瓶疎開吟のなかに、『小園のをだまきのはな野の上の白頭翁のはな共ににほひて』といふ歌があるのに縁つた。
 それから、本集には大石田で作つた歌をも共に入れるつもりでゐたが、頁數が餘り増加するので、大石田の歌は別に一冊とし、「白き山」と題して本集につづけることにした。
        ○
(542) 昭和二十年二月、山形縣上(ノ)山にゐる舍弟山城屋四郎兵衛が、しきりに疎開をすすめるので、その相談のために十六日夜立つて十七日上(ノ)山に著いた。談合の結果いよいよ疎開することとなり、金瓶村の齋藤十右衛門とも會つて手筈をきめ、三月六日、上(ノ)山を立ち七日東京に歸つた。中一日置いて、九日夜に東京の大空襲があつた。以後用意をいそいだがなかなかはかどらず、四月一日、義齒床の破損を發見したりなどして手當に日數を費した。しかし用意もそこそこにて、辛うじて四月十日東京を立ち、十一日朝上(ノ)山に著いた。
 疎開の計畫は、山城屋で食事をし、近所に一室を借りてそこで寢起をするつもりであつた。然るに東京空襲のため、陸軍軍醫學校が山形に移動することとたり、山城屋も病室の一部に指定された。私は致し方なく金瓶村の齋藤十右衛門方に移動することにした。以後ずつとここに生活したが、十右衛門の妻は私の實妹でよく面倒を見て呉れた。併し、戰爭がまだ續行中であり、十右衛門の長男は千島に、次男は沖繩に、三男はシンガポールにといふ具合で、特に沖繩の戰では、次男は戦歿の部類に考へられてゐた。
 はじめは、農事をも少し手傳ふつもりであつたが、實際に當つてみると、畑の雜草除が滿足に出來ない。そこで子守をしたり、庭の掃除をしたり、些少な手傳をするのがせいぜいであつた。
青山の家も病院も盡く灰燼に歸した。私は明治二十九年、十五歳(543)でこの村を出て東京に行つたのであるから、五十年ぶりで二たびこの村に住むこととなつたのである。同齢ぐらゐの人々の多くはこの世を去つてゐたが、サヨといふ媼は九十歳を過ぎてまだ丈夫でゐた。この媼は私のために草鞋などを作つてくれた。
 そのうち藏王山の雪も消え、全く夏になつた。東京の家が燒失したにつき、家内と娘が金瓶に免れて來たので替らく一しよの部屋に住んだ.夏の部屋には蚤が多く、袋に入つて寐たりしたが、なかなか難澁であつた。しかし、病にかかることもなく一日一日が暮れた。
 八月十五日には終戰になつた。その少し前、神町《じんまち》といふところの飛行場を襲ふ編隊の通るのは、金瓶と藏王山のあひだぐらゐの上空であつた。その時に村では半鐘を鳴らしたが、萬事が過去つてしまつてゐた。
 私は別に大切な爲事もないのでよく出歩いた。山に行つては沈黙し、川のほとりに行つては沈黙し、隣村の觀音堂の境内に行つて鯉の泳ぐのを見てゐたりした。また上(ノ)山まで歩いてゆき、そこの裏山に入つて太陽の沈むころまで居り居りした。さうして外氣はすべてあらあらしく、公園のやうな柔かなものではなかつた。それでも金瓶村の山、隣村の寺、神社の境内、谷まの不動尊等は殆ど皆歩いた。さうして少年であつたころの經驗の蘇へつてくるのを知つた。
 終戰後私は一度大石田の歌會に行つたのが縁で、毎月一度行くやうになつた。この歌集に大石(544)田、最上川の歌のまじつてゐるのはそのためである。そのころ、アララギの發行も中絶したし、歌の註文もなかつたので、機に縁つて、手帳に歌を書きとどめておいた。本集に「疎開漫吟」として出したのはその大部分である。それから「金瓶村小吟」といふ五十首は、創元社から頼まれたために「邊土小吟」として一たび「創元」に公にしたものである。
 そのうち新聞雜誌に歌を出すやうになつた。さうして秋になり、滿山色づき、月山も藏王山も白くなり、金瓶村にも雪が降つて來て、少年のころ生活したと同樣、私も冬の生活に入ることになつた。ふぶきの日は藏の一堂に籠居し、天の晴れた日にはゴムの長靴などを借りて上(ノ)山あたりまで往反した。私は金瓶村で昭和二十一年の新春を迎へた。
 しかるに、司令部ですら戰歿の部類にあつた次男が無事生きて居るといふ状報が入つた。長男も間もなく千島から歸るであらう。三男は未詳だが、これも先づ先づ生きてゐるに相違なからう。かうして三人歸るとなると、私の疎開してゐるこの部屋を明けねばならぬ。さうしてその期限は一月一ぱいといふことになつた。これが、私の大石田へ移動した理由である。金瓶疎開中、齋藤十右衛門、結城哀草果、岩波茂雄、高橋四郎兵衛、金澤治右衛門諸氏、其他から受けた厚意を感謝して止まない。さうして岩波茂雄氏が私の大石田疎開中永眠せられたことにつき甚深の弔意をささげる。
(545)        ○
 發行に當り、岩波雄二郎氏、布川角左衛門氏、榎本順行氏、玉井乾介氏から萬端の世話を忝うした。それから歌の清書は、ひとへに藤森朋夫氏、同洋子孃の手をわづらはしたことを感謝する。
  昭和二十三年秋、東京都代田にて。齋藤茂吉。
 
  白き山
 
(549)  昭和二十一年
 
    大石田移居
 
 藏王より離《さか》りてくれば平らけき國の眞中《もなか》に雪の降る見ゆ
 朝な夕なこの山見しがあまのはら藏王の見えぬ處にぞ來し
 かりそめの事と思ふなふかぶかと雪ながらふる小國《をぐに》に著けば
 最上川の支流の音はひびきつつ心は寒し冬のゆふぐれ
 さすたけの君がなさけにあはれあはれ腹みちにけり吾は現身《うつせみ》
 
(550)    紅色の靄【昭和二十一年二月十四日(陰暦一月十三日)大石田】
 
 雪ふりて白き山よりいづる日の光に今朝は照らされてゐぬ
 きさらぎの日いづるときに紅色《こうしよく》の靄こそうごけ最上川より
 川もやは黄にかがやきぬ朝日子ののぼるがまにまわが立ち見れば
 最上川の川上の方にたちわたる狹霧のうづも常ならなくに
 最上川の川の面《おも》よりたちのぼるうすくれなゐのさ霧のうづは
 春たつとおもほゆるかも西日さす最上川の水か青になりて
 今しがた空をかぎれる甑嶽の山のつづきは光をうけぬ
(551) ひたぶるに雪かも解くる眞向ひの山のいただきけむりをあげて
 しづかなる空にもあるか春雲のたなびく極み鳥海が見ゆ
 一つらの山並白くおごそかにひだを保ちて今ぞかがやく
 最上川の岸の朝雪わが踏めばひくきあまつ日かうべを照らす
 たとふれ一瞬《ひとまたたき》の朝日子はうすくれなゐに雪を染めたる
 ふかぶかと降りつもりたる雪原に杉木立あるは寂しきものぞ
 あまのはら晴れとほりたる一日こそ山脈《やまなみ》の雪見るべかりけれ
 ひむがしに雪のおもひきり降れる山ひだふかぶかと天そそる山
(552) きさらぎのひるの光に照らされて雪の消えをる川原を歩む
 ひむがしの空をかぎりて雪てれる峯の七つをかぞへつつ居り
 遠山は見えず近山もおぼろにて雪に照りとほるきさらぎの月
 おしなべて雪を照らせる月かげはこの老いし身にもくまなかりけり
 われひとり歩きてくれば雪しろきデルタのうへに月照りにけり
 山峽を好みてわれはのぼり來ぬ雪の氷柱のうつくしくして 二月廿八日
 大石田《おほいしだ》に移りきたればよわよわと峽の入日は雪を照らせり
 夜半にして涙ながるることあれど受難の涙といふにはあらず
 
(553)    みそさざい
 
 しづけさは斯くのごときか冬の夜のわれをめぐれる空氣の音す
 あまづたふ日の照りかへす雪のべはみそさざい啼くあひ呼ぶらしも
 雪の中に立つ朝市は貧しけど戰《たたかひ》過ぎし今日に逢へりける
 あかあかとおこれる炭を見る時ぞはやも安らぐきのふも今日も
 おしなべて境も見えず雪つもる墓地の一隅をわが通り居り
 
    ふくろふ
 
 わが眠る家の近くの杉森にふくろふ啼けり春たつらむか
(554) 純白《ましろ》なる藏王の山をおもひいで藏王の見えぬここに起臥《おきふ》す
 最上川みづ寒けれや岸べなる淺淀にして鮠《はや》の子も見ず
 朝な朝な惰性的に見る新聞の記事にをののく日に一たびは
 ここにして藏王の山は見えねども鳥海の山眞白くもあるか
 
    大石田漫吟
 
 最上川ひろしとおもふ淀の上に鴨ぞうかべるあひつらなめて 三月一日今宿 ここにして天《あめ》の遠くにふりさくる鳥海山は氷糖《ひようたう》のごとし 三月二日炭坑道
 雪ふれる鳥海山はけふ一日しづかなる空を背景とせる
(555) わたくしの排悶として炭坑に行かむはざまに小便したり
 うつり來て家をいづればこころよく鳥海山高し地平の上に
 山中の雪より垂るる氷柱こそ世の常人《つねびと》の見ざるものなれ
 三月《さんぐわつ》になりぬといへるゆふまぐれ白き峽より人いでて來し
 寢ぐるしき一夜なりしが今朝の朝け泡雪ぞ降る高山こめて 三月三日
 四方《しはう》の山皚々として居りながら最上川に降る三月のあめ
 眞白なる鳥海山を見る時に藏王の山をわれはおもへり
 わが庭の杉の木立に來ゐる鳥何かついばむただひとつにて
(556) かがなべてひたぶる雪のつもりたるデルタとわれと相むかひけり 三月四日
 横山村を過ぎたる路傍には太々と豆柿の樹は秀でてゐたり
 三月の光となりて藁靴とゴム靴と南日向《みなみひなた》に吾はならべぬ
 齒科醫より歸りし吾はゆふまぐれ鬱々として雪の道ありく 三月六日
 洞窟となりて雪なきところありそこよりいづる水をよろこぶ
 厚らなる曇りとなりてけふ一日雪ふれる上の空はうるほふ
 
    病床にて
 
 杉の木に杉風おこり松の木に松風が吹くこの庭あはれ
(557) 日をつぎて吹雪つのれば我が骨にわれの病はとほりてゆかむ
 よもすがらあやしき夢を見とほしてわれの病はつのらむとする
 ふかぶかと積りし雪に朝がたの地震などゆり三月《さんぐわつ》ゆかむとす
 最上川みかさ増りていきほふを一目を見むとおもひて臥しゐる
 飛行機の音のきこえし今日の午後われは平凡なる妄想《まうざう》したり
 さ夜中と夜は更けたらし目をあけば闇にむかひてまたたけるのみ
 生きのこらむとこひねがふ心にて歌一つ作る鴉の歌を
 あたたかき粥と菠蔆草とくひし歌一つ作らむと時をつひやす
(558) 看護婦と我とのみゐる今日の午後こころ安けさ人な來《きた》りそ
 かすかなる出で入る息をたのしみて臥處にけふも暮れむとぞする
 
    鴨
 
 つらなめて鴨のうかべる最上川部落やうやく遠きにやあらむ
 あまつ日の光てりかへす雪の上あなうつくしといはざらめやも
 ここに來て篤きなさけをかうむりぬすこやけき日にも病みをる日にも
 庭杉に音してゐるは鳥海をおろして來る風にかあるらし
 熱いでてこやれる夜の明けがたみ燒けぬ東京の夢さへぞ見し
 
 
(559)    春ふかし
 
 雪ふぶく頃より臥してゐたりけり氣にかかる事も皆あきらめて
 うぐひすはかなしき鳥か梅の樹に來啼ける聲を聞けど飽かなく
 幻のごとくに病みてありふればここの夜空を雁《かり》がかへりゆく
 たたかひにやぶれしのちにながらへてこの係戀は何に本づく 偶成
 鳥海を前景にして夕映ゆとそのくれなゐを語りてゐたり 【板垣家子夫枕頭に來りて春すでにふかきを告ぐ】
 
    吉井勇に酬ゆ
 
 なほ臥《こや》るわが枕べに聞こえ來よ君住む京の山ほととぎす
(560) 觀潮樓に君と相見し時ふりてほそき縁《えにし》の斷えざるものを
 おもかげに立つや長崎支那街の混血をとめ世にありやなし
 ひそかにも告げこそやらめみちのくに病みさらぼひて涙ながると
 老びととなりてゆたけき君ゆゑにわれは戀しよはるかなりとも
 
    岡麓翁古稀賀
 
 十年まへ君をことほぎ十年經てけふますますに君をおもはな
 新しき苦しき時代《ときよ》に尊かるみいのちとぞおもふまさきくいませ
 み齢《よはひ》の長きはよしと雪つもるはげしき山も君をむかふる
(561) 内鎌《ないがま》にも春の光のみなぎらふ頃となりけらし月も照りこそ
 わが體よわりたれども七十《ななそぢ》の君をおもひていきほひづかな
 
    陸奥
 
 東京をのがれ來りて陸奥《みちのく》の友をおむへばあはれなつかし
 うつり來てわれの生《いのち》を抒べむとす鳥海山《てうかいさん》の見ゆるところに
 少しづつ疊のうへを歩むことわれは樂しむ病癒ゆがに
 もろごゑに鳴ける蛙を夜もすがら聞きつつ病の癒えむ日近し
 みちのくに生れしわれは親しみぬ藏王のやま鳥海のやま
 
(562)    罌粟の花、
 
 臥處よりおきいでくればくれなゐの罌粟の花ちる庭の隈みに
 やうやくに夏ふかむころもろびとの厚きなさけに病癒えむとす
 病癒えばかもかもせむとおもひたる逝春《ゆくはる》の日も過ぎてはるけし 朝な夕な鳴くひぐらしを戀しみていでて來しかど遠く歩まず
 われひとりおし戴きて最上川の鮎をこそ食はめ病癒ゆがに
 
    聽禽書屋
 
 照りさかる夏の一日をほがらほがら鶯來鳴き樂しくもあるか
(563) この庭にそびえてたてる太き樹の桂さわだち雷《らい》鳴りはじむ
 たたかひの歌をつくりて疲勞せしこともありしがわれ何せむに
 梅の實の色づきて落つるきのふけふ山ほととぎす聲もせなくに
 梟のこゑを夜ごとに聞きながら「聽禽書屋」にしばしば目ざむ
 
   夕浪の音
 
 ゎが病やうやく癒えて歩みこし最上の川の夕浪のおと
 鉛いろになりしゆふべの最上川こころ靜かに見ゆるものかも
 夕映のくれなゐの雲とほ長く鳥海山の奥にきはまれり
(564) 彼岸《かのきし》に何をもとむるよひ闇の最上川のうへのひとつ螢は
 かの空にたたまれる夜《よる》の雲ありて遽いなづまに紅くかがやく
 
    螢火
 
 わが生おぼろおばろと一とせの半を過ぎてうら悲しかり
 晝蚊帳のなかにこもりて東京の鰻のあたひを暫しおもひき
 罌粟の花ちりがたになるころほひに庭をぞ歩む時々疲れて
 哀草果わが傍にゐて戀愛の話をしたり樂天的にして
 螢火をひとつ見いでて目守りしがいざ歸りなむ老の臥處に
 
(565)    弔岩波茂雄君
 
 この世より君みまかりて痛々しきわれの心を何に遣らはむ
 世こぞりて嘆ける時にここにひとり病の床に音《ね》のみし泣かゆ
 うつせみは常なきものと知りしかど君みまかりてかかる悲しさ
 たえまなき三十年のいさをしを常にひそめてありし君はや
 のみならず馬を愛せし逸話さへ君をしのばむよすがとなりつ
 まことなる時代《ときよ》に生きむ樂しさを聖のごとく君は欲りせり
 かうむりし恩をおもへばけふの日にアララギこぞり君を弔ふ
(566) まなかひに君おもかげに立つ時しその潔《さや》けさに黙《もだ》居るべしや
 
    蕗の薹
 
 しづかなる曇りのおくに雪のこる鳥海山の全けきが見ゆ
 五月はじめの夜《よる》はみじかく夢二つばかり見てしまへばはやもあかとき
 黒鶫《くろつぐみ》來鳴く春べとなりにけり樂しきかなやこの老い人も
 大きなるものの運《めぐ》りにすがるごとわれも大石田の冬を越えたり
 みづからがもて來りたる蕗の薹あまつ光にむかひて震ふ
 
    春より夏
 
(567) ひとときに春のかがやくみちのくの葉廣柏は見とも飽かめやも
 水の上にほしいままなる甲蟲のやすらふさまも心ひきたり
 近よりてわれは目守らむ白玉の牡丹の花のその自在心
 ながらへてゐれば涙のいづるまで最上の川の春ををしまむ
 逝く春の朝謁こむる最上川岸べの道を少し歩めり
 戒律を守りし尼の命終にあらはれたりしまぼろしあはれ
 おしなべて人は知らじな衰ふるわれにせまりて啼くほととぎす
 いきどほる心われより無くなりて呆《ほ》けむとぞする病の牀《とこ》に
(568) ほがらかに聞こゆるものか夜《よ》をこめて二つあひ呼ばふ梟のこゑ
 水すまし流にむかひさかのぼる汝《な》がいきほひよ微《かす》かなれども
 あはれなる小説ありて二人とも長生《ながいき》をする運命のこす
 癒えかかる吾にむかひてやすらかに晝もいねよと啼くほととぎす
 わがために夜の蚤さへ捕へたる看護婦去りて寂しくてならぬ
 白牡丹つぎつぎひらきにほひしが最後の花がけふ過ぎむとす
 
    黒瀧向川寺
 
 最上川の岸にしげれる高葦の穂にいづるころ舟わたり來ぬ
(569) 向川寺《かうせんじ》一夜《ひとよ》の雨に音たてて流れけむ砂しろくなりけり
 四百《しひやく》年の老の桂樹《かつらぎ》うつせみのわがかたはらに立てる樂しさ
 足のべて休らふなべに山の上の杉ふく風のしきて聞こゆる
 ひむがしゆうねりてぞ來る最上川見おろす山に眠りむよほす
 庭の上に柏の太樹かたむきて立てるを見れば過ぎし代おもほゆ
 山鳩がわがまぢかくに啼くときに午餉《ひるげ》を食はむ湯を乞ひにけり
 えにしありて樂しく昔も食はむとす紫蘇の實を堅鹽につけたる
 ひとり居る和尚不在の寺に入り「壽山聳《じゆざんそびゆ》」の※[區の品が扁]《へん》を見にけり
(570) 山中に金線草《みづひきぐさ》のにほへるを共に來りみてあやしまなくに
 峯越をせむとおもひてさやさやし葛ふく風にむかひてゆくも
 黒瀧の山にのぼりて見はるかす最上川の行方こほしくもあるか
 ひがしよりながれて大き最上川見おろしをれば時は逝くはや
 額より汗は垂りつつ蛇の衣《え》ののこれる山を越えゆくわれは
 北空にするどき山の並べるを秋田あがたの境とおもはむ
 元禄の二年芭蕉ものぼりたる山にのぼりて疲れつつ居り
 年老いてここのみ寺にのぼれりとおもはむ時に吾は樂しゑ 九月八日
 
(571)    暑き日
 
 きのふけふ病癒えしとおもひしに道をのぼればあな息づかし
 そびえたる白雲の中にいくたびか晝の雷鳴る雨の降らぬに
 七十《ななそぢ》の齢|越《こ》さして岡の大人《うし》いかにかいますこの暑き日に
 馬追は宵々鳴くに晝なかば老いたるこの身たどきも知らず
 稻の花咲くべくなりて白雲は幾重の上にすぢに棚びく
 
    虹
 
 東南のくもりをおくるまたたくま最上川のうへに朝虹たてり
(572) 颱風の餘浪を語りて君とわれと罌粟の過ぎたるところにぞ立つ
 最上川の上空にして殘れるはいまだうつくしき虹の斷片
 太陽に黒點見ゆと報ずれば涼しくなりぬきのふもけふも
 最上川にそそぐ支流の石原にこほろぎが鳴くころとなりつも
 眞紅《まあか》なるしやうじやう蜻蛉《とんぼ》いづるまで夏は深みぬ病みゐたりしに
 昆蟲の世界ことごとくあはれにて夜な夜なわれの燈火《ともしび》に來る
 砂のうへに杉より落ちしくれなゐの油がありて光れるものを
 やみがたきものの如しとおもほゆる自淨作用は大河《たいが》にも見ゆ
(573) 年ふりしものは快《こころよ》し歩み來て井出の部落の橡の木見れば
 あまつ日の強き光にさらしたる梅干の香が臥處に入り來《く》
 軍閥といふことさへも知らざりしわれを思へば涙しながる
 天雲《あまぐも》の上より來るかたちにて最上川のみづあふれみなぎる
 朝な朝な胡瓜畑を樂しみに見にくるわれの髯のびて白し
 杉山の泉に來り水浴ぶる尾長どり一つわれをおそれず
 わが歩む最上川べにかたまりて胡麻の花咲き夏ふけむとす
 ひるも夜もしきりに啼きし杜鵑やうやく稀に夏ふけむとす
 
(574)    秋來る
 
 ひたぶるに飛びて來れる大《おほ》ゑんば臥處をいでしわれは見てゐる
 外光にいで來りたるわれに見ゆ斜面を逃ぐるやまかがしの子
 秋づくといへば光もしづかにて胡麻のこぼるるひそけさにあり
 西のかた朝いかづものとどろきて九月一日晴れむとすらし
 わが來つる最上の川の川原にて鴉羽ばたくおとぞきこゆる
 かなしくも遠山脈《とほやまなみ》の晴れわたる秋の光にいでて來にけり
 ま澄にも澄みたる空に白雲の湧きそびゆるはこころ足らはむ
(575) 秋たつとおもふ心や對岸の杉の木立のうごくを見つつ
 秋のいろ限も知らになりにけり遠山のうへに雲たたまりて
 くろぐろとしたる木立にかこまるる小峽《をかひ》の空は清《さや》にこそ澄め
 かぎりなく稔らむとする田のあひの秋の光にわれは歩める
 
    秋
 
 高々とたてる向日葵とあひちかく韮の花さく時になりぬる
 黄になりて櫻桃の葉のおつる音午後の日ざしに聞こゆるものを
 いにしへの人がいひたる如くにし萩が花ちる見る人なしに
(576) 松山の中に心をしづめ居るわれに近づく蟆子《ぶと》のかそけさ
 うつせみの身をいたはりて松山に入りこしときに蟋蟀鳴くも
 
    松山
 
 われひとり憩ひてゐたる松山に松蝉鳴きていまだ暑しも
 ここにして心しづかになりにけり松山の中に蛙が鳴きて
 つくづくと病に臥せば山のべの躑躅の花も見ずて過ぎにき
 秋の日は對岸の山に落ちゆきて一日ははやし日月ははやし
 蕎麥の花咲きそろひたる畑あれば蕎麥を食はむと思ふさびしさ
 
(577)    最上川下河原
 
 最上川の大きながれの下河原《しもがはら》かゆきかくゆきわれは思はな
 ゎれをめぐる茅がやそよぎて寂かなる秋の光になりにけるかも
 やまひ癒えてわが歩み來しこの原に野萩の衣も散りがたにして
 茨の實くれなゐになりて貌《かたち》づくるここの河原をわれは樂しむ
 つばくらめいまだ最上川にひるがへり遊ぶを見れば物な恩ひそ
 最上川に手を浸せれば魚の子が寄りくるかなや手に觸るるまで
 ここにして藏王見えずとおもひしにかの山は藏王南たか空
(578) あまつ日のかたむく頃の最上川わたつみの色になりてながるる
 この原にわれの居りたるゆふまぐれ鳥海山は晴れて全けし
 はだらなる乳牛《ちちうし》がつねにこの原の草を食ひしが霜がれむとす
 冬さらばふかぶかと雪ふりつまむここの河原を一日をしみつ
 
    對岸
 
 最上川のなぎさに居れば對岸《かのきし》の蟲の聲きこゆかなしきまでに
 大川の岸の淺處《あさど》に風を寒みうろくづの子もけふは見えなく
 空襲のはげしきをわれのがれ來て金瓶村に夢をむすびき
(579) 病より癒えて來れば最上川狹霧の深きころとなりつも
 うつせみのこの世の限りあな寂し森山汀川もみまかりゆきて
 
    弔森山汀川君
 
 信濃路の歌びとあまた導きて君飽かなくにけふぞ悲しき
 赤彦ののちに信濃の歌びととそのいさをしを忘れておもへや
 七十《ななそぢ》に君なりたらば馳せゆきて手取り交さむ吾にあらずきや
 もみぢばのからくれなゐを相めでて蓼科山にふたりむかひき
 諏訪の湖のうなぎを燒きて送りこし君おもかげに立ちて悲しも
 
(580)    海
 
 鳥海のまともにむかふこの家は青わたつみを中におきける
 岩の間に子らの遊びしあとありてたどり著きたる吾もひそめり
 白波のたゆるひまなく寄する音われのそがひに聞こえつつをり
 天傳ふ日に照らされて網船のこぎたむ見ればいきほふごとし
 ひさかたの星のひかれる一夜あけてしきりに白くうしほ浪たてり
 日本海まともにしたる砂の上に秋に入りたるかぎろひの立つ
 いちはやく立ちたる夜の魚市にあまのをみなのあぐるこゑごゑ
(581) あけびの實うすむらさきににほへるが山より濱に運ばれてくる
 
    浪
 
 岩の間にかぐろき海が見えをれば岩をこえたる浪しぶき散る
 うしほ浪寄るさま見ればせまりつつその鋭きも常ならなくに
 西田川《にしたがは》のこほりにたどりつきしかば白浪たぎつ岩のはざまに
 海ぐさのなびかふさまもこほしかるもののごとくに見て立てりけり
 海つかせ西吹きあげて高山の鳥海山は朝より見えず
 水平の上にほがらなる層ありて日本海に日は近づきぬ
(582) うみの雨けむりて降れば磯山はおほどかにして親しむわれは
 わたつみのいろか黝《ぐろ》きに流れ浪しぶきをあぐる時のまを見つ
 もえぎ空はつかに見ゆるひるつ方鳥海山は裾より晴れぬ
 魚市の中にし來れば雷魚《はたはた》はうづたかくしてあまのもろごゑ
 夜ごとに立つ魚市につどひくるあまの女の顔をおぼえつ
 わが友のいでたたむ日を潮騷の音は高しとおもひつつをり
 はたはたの重量はかるあま少女或るをりをりに笑みかたまけぬ
 しづかなる心に海の魚を食ひ二夜《ふたよ》ねぶりていま去らむとす
(583) わたつみは凪ぎたるらむか夜をこめていでゆく船のその音きこゆ
 みちのくの田川こほりの海のべの砂原こえて歩みつつをり
 さ夜中と夜は更けたらし荒磯べの山をわたらふ吹く風のおと
 ここにして浪の上なるみちのくの鳥海山はさやけき山ぞ
 わが友は潮くむ少女見しといへどわれは見ずけりその愛《かな》しきを
 この見ゆる鳥海山のふもとにて酒田の市街は浪の上に見ゆ
 元禄のいにしへ芭蕉と曾良とふたり温海の道に疲れけらしも
 あまが家もなかりしころとおもほゆる過去世《くわこせ》の道を吾はしのびつ
(584) 旅人もここに飲むべくさやけくも磯山かげはいづる水あり
 鳥海をふりさけみればゐる雲は心こほしき色に匂ひつ
 かすかなる時宗の寺もありながら堅苔澤《かたのりざは》の磯山くもる
 三瀬《さんぜ》をば過ぎて鶴岡にいでむとす三瀬の磯をいくたびか見て
 
    鳥追ふ聲
 
 鳥を追ふこゑの透りてわたるころ病ののちの吾は歩める
 淺山にわが入り來れば蟋蟀の鳴くこゑがして心は和ぎぬ
 外光にいでてし來れば一山を吹き過ぎし風もわれに寂しゑ
(585) 家いでて吾は歩きぬ水のべに櫻桃の葉の散りそむるころ
 最上川の支流の岸にえび葛黒く色づくころとしなりて
 
    大石田より
 
 最上川ながるるがうへにつらなめて雁《がん》飛ぶころとなりにけるかも
 はやくより雨戸をしめしこのゆふべひでし黄菊を食へば樂しも
 現身《うつしみ》はあはれなりけりさばき人安寢しなしてひとを裁くも
 健《すこや》きものにもあるかつゆじもにしとどに濡るる菊の花々
 とし老いてはじめて吾の採り持てるアスパラガスのくれなゐの實よ
(586) をりをりにわが見る夢は東京を中心にして見るにぞありける
 朝な朝な寒くなりたり庭くまの茗荷の畑《はた》につゆじも降りて
 最上川の對岸もまた低くしてうねりは見えす直《す》ぐに流るる
 おそろしき語感をもちて「物量」の文字われに浮かぶことあり
 うるし紅葉のからくれなゐの傍に岩蕗の葉は青く厚らに
 大石田の山の中よりふりさくる鳥海山は白くなりたり
 
    山と川
 
 黄の雲の屯したりと見るまでに太樹の桂もみぢせりけり
(587) 目のまへにうら枯れし蕨の幾本が立ちけり礙ぐるものあらなくに
 やうやくに色づかむとする秋山の谷あひ占めて白き茅原《かやはら》
 おほどかにここを流るる最上川鴨を浮べむ時ちかづきぬ
 かくしつつわがおりたてば岸ひくき最上川のみづ速くもあるか
 つゆじもはあふるるばかり朝草にたまりてゐたり寒くなりつる
 われひとりきのふのごとく今日もゐてつひに寂しきくれぐれの山
 ここに立ち夕ぐるるまでながめたる最上川のみづ平明にして
 秋ふけし最上の川はもみぢせるデルタをはさみ二流れたる
(588) 彼の部落まで人通はむとねもごろにきりとほしたる白埴の山
 去年の秋金瓶村に見しごとくうつくしきかなや柿の落葉は
 
    しぐれ
 
 たひらなる命生きむとこひねがひ朝まだきより山こゆるなり
 山の木々さわだつとおもひしばかりにしぐれの雨は峽こえて來つ
 峽の空片よりに蒼く晴れをりて吹きしまく時雨の音ぞ聞こゆる
 あまつ日は入りたるらむか細々《ほそほそ》し黄いろに浮ける峽のうへの雲
 にごり酒のみし者らのうたふ聲われの枕をゆるがしきこゆ
(589) みちのくの瀬見のいでゆのあさあけに熊茸《くまたけ》といふきのこ賣りけり
 朝市はせまきところに終りけり賣れのこりたる蝮ひとつ居て
 小國川《をぐにがは》迅きながれにゐる魚《うを》をわれも食ひけり山澤《やまさは》びとと
 最上川の大き支流の一つなる小國川の浪におもてをあらふ
 この鮎はわれに食はれぬ小國川の蒼ぎる水に大きくなりて
 新庄にかへり來りてむらさきの木通の實をし持てばかなしも
 
    晩秋
 
 最上川の支流は山にうちひびきゆふぐれむとする時にわが居つ
(590) 山岸の畑《はた》より大根を背負ひくる女《め》の童《わらは》らは笑みかたまけて
 やうやくにくもりはひくく山中に小鳥さへづりわれは眠りぬ
 新しき意法發布の當日となりたりけりな吾はおもはな
 淺山に入りつつ心しづまりぬ楢のもみぢもくれなゐにして
 こもごもに心のみだれやまなくに葉廣がしはのもみぢするころ
 しぐれの雨うつろふなべに吾をめぐる山うつくしくなりて來にけり
 館址にのぼりて來れど白がやのしげりが中に君と入りかねつ
 のきに干す黍に光のさすみればまもなく山越え白雪の來む
(591) ひとたびはきざす心のきざしけり稻刈り終へし田面《たづら》を見れば
 今の代にありて小女《せうぢよ》のかどはかしいたいたしいたいたし小女にほふに
 
    鳶
 
 かくのごとく樂しきこゑをするものか松山のうへに鳶啼く聞けば
 しづかなる亡ぶるものの心にてひぐらし一つみじかく鳴けり
 日ごと夜毎いそぐがごとく赤くなりしもみぢの上に降る山の雨
 少年の心は清く何事もいやいやながら爲ることぞなき
 もろともにふりさけ見よとうつくしく高山の上に雪はつもれり
(592) しぐれふる峽にしづかにゐむことも今のうつつは吾にゆるさず
 かすかにも來鳴ける鳥のみそさざいの塒《ねぐら》おもはむ雪の夜ごろは
 部落より部落にかよふ一すぢの道のみとなり雪ふりしきる
 夢あまたわれは見たりき然れどもさめての後はそのつまらなさ
 鹽の澤の觀音にくる途すがら極めて小さき分水嶺あり
 かしこには確かにありと思へらくいまだ沈まぬ白き太陽
 新光《にひひかり》のぼらむとするごとくにて國のゆくへは今日ぞさだまる
 萬國のなかにいきほふ日本國|永久《とは》の平和はけふぞはじまる
(593) 萬軍《ばんぐん》はこの日本より消滅す淨く明しと云はざらめやも
 
    新光
 
 をやみなくきのふもけふも雪つもる國の平に鴉は啼きつ
 ルツクサツク負へる女に橋の上にとほりすがへり月夜最上川
 あまねくも春の光のみちわたる國原みれば生ける驗あり
 かくしつつ生き繼ぐくにの國民《くにたみ》は健かにして力足らはむ
 新しくかがやく光かうむりて勵み勵まむ時ぞ來むかふ
 うちこぞり手取り競はむわがどちよ樂しくもあるかこの代のかぎり
(594) つつましき心となりて萬國のなかに競はば何かなげかむ
 新しき生《いのち》はぐくむわが僚《どち》よ畏るるなゆめためらふなゆめ
 
    年
 
 あたらしき命もがもと白雪のふぶくがなかに年をむかふる
 おほどかに流れの見ゆるのみにして月の照りたる冬最上川
 いくたびかい行き歸らひありありと吾の見てゐる東京のゆめ
 十一月三日小山にのぼりけりかなしき國や常若《とこわか》の國や
 この國のにほひ少女《をとめ》よ豐かなる母となるとき何かなげかむ
(595) 線路越えてをりをり吾は來るなり白くなりたる鳥海山を見に
 あかときの山にむかひてゐる如く大きなるかなやこの諦念《あきらめ》は
 ひむがしに霧はうごくと見しばかりに最上川に降る朝しぐれの雨
 
    ひとり寐
 
 いただきに黄金《こがね》のごとき光もちて鳥海の山ゆふぐれむとす
 わが先になれる少年酒負ひてここの山路を越えゆくものぞ
 秋山をわが下りくれば大石田西のひかりを受けつつぞゐる
 ひとり寐の夜な夜なに見る夢いくつ消滅するをとどめかねつも
(596) 街頭に柿の實ならぴ進駐兵|聖《サンクト》ペテロの寺に出入《いでい》りつ
 この家に新婚賀あり白くのびし髪をわれ刈り言ほぎにける
 岡のべによりてこもるごと安らなるこの火葬場にも雪つもるべし
 東京の場末のごとき感じにて映畫の夢をわれ見てゐたり
 進駐兵山形縣の林檎をも好しといふこそほがらなりけれ
 最上川岸べの雪をふみつつぞわれも健康の年をむかふる
 もろともに見らくし好けむかうべ紅き鶴まひたたむ空のあけぼの 御題あけぽの
 
    をりをり
 
(597) 鳥海のいただき白く雪ふれる十月五日われは歸り來
 かすかなる吾《わ》が如きさへ朝な夕なふかくなげきて時は流るる
 またたぴの實を秋の光に干しなめて香にたつそばに暫し居るなり
 はるばると溯りくる秋の鮭われはあはれむひとりねざめに
 あたたかき心の奥にきざすもの人を救はむためならなくに
 
    寒土
 
 たけ高き紫苑の花の一むらに時雨の雨は降りそそぎけり
 やうやくに病癒えたるわれは來て栗のいがを焚く寒士《さむつち》のうへ
(598) 最上川のほとりをかゆきかくゆきて小さき幸をわれはいだかむ
 けふもまた葱南先生の牡丹圖を目守りてをれば心ゆかむとす
 かみな月五日に雪をかかむれる鳥海のやま月讀のやま
 あたらしき時代《ときよ》に老いて生きむとす山に落ちたる栗の如くに
 入りがたの日に照らされて沁むるがに朱を流したる秋山これは
 ねむりかねて悲しむさまの畫かれたる病の草紙の著者しなつかし
 二とせの雪にあひつつあはれあはれ戰《たたかひ》のことは夢にだに見ず
 栗の實のおちつくしたる秋山をわれは歩めりときどきかがみて
(599) さびしくも雪ふるまへの山に鳴く蛙《かへる》に射すや入日のひかり
 
    越年の歌
 
 おのづからみのり豐けき新米《にひごめ》ををさめをさめて年ゆかむとす
 わが國のそのつつしみの眞心は今しあめつちに徹らむとする
 みちのくの鳥海山にゆたかにも雪ふりつみて年くれむとす
 むろもろはこぞり喜びし豐の年の大つごもりの鐘鳴りわたる
 健康のこころきほひて女男《をみなをとこ》ひかり新しき年をむかへむ
 
    逆白波
 
(600) かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる
 この春に生れいでたるわが孫よはしけやしはしけやし未だ見ねども
 最上川|逆白波《さかしらなみ》のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
 きさらぎにならば鶫も來むといふ桑の木はらに雪はつもりぬ
 人皆のなげく時代に生きのこりわが眉の毛も白くなりにき
 
    北國より
 
 おのづから心は充ちて諸聲をあげむとぞする國のあけぼの
 冬眠に入りたる蟲のしづかさを雪ふる國にわれはおもへり
(601) 老びとの吾にこもれとかきくらし空を蔽ひて雪ふり來る
 供米のことに關はるものがたりほがらほがらに冬はふかみぬ
 かぎろひの春來むかへば若きどち國のまほろに競ひたつなり
 
    歳晩
 
 たまさかに二階にのぼるこんこんと雪降りつむを見らくし好しと
 窓よりも高くなりたる街道を馬橇くれば子ら聲をあぐ
 歳晩をひとりゐたりけり寒々とよわくなりたる身をいたはれば
 冬の夜の飯《いひ》をはるころ新聞の悲しき記事のことも忘るる
(602) 青山にて燒けほろぴたる我家《わがいへ》に惜しきものありき惜しみて何せむに
 
(603)  昭和二十二年
 
    雪の面
 
 雪の面《おも》のみ見てゐたり悲しみを遣らはむとしてわが出で來しが
 上ノ山に籠居したりし澤庵を大切にせる人しおもほゆ
 外出をわがせずなりてアララギの四月號の歌を一月《いちぐわつ》つくる
 冬の鯉の内臓も皆わが胃にてこなされにけりありがたや
 國土《くにつち》をつつむ悲哀を外國《とつくに》のたふとき人は見に海わたる
 
(604)    新年
 
 朝日子ののぼる光にたぐへむと古へ人も勇みたりしか
 新しくめぐり來れる年のむたわが若き友よひとしく立たな
 悲しみも極まりぬれば新しき涙となりて落ちむとすらむ
 つつましく生きのいのちを長らへて新しき代は氷遠《とことは》ならめ
 新しき時代とともに新しき國ぢからこそ見るべかりけれ
 
    黒どり
 
 雪の上にかげをおとせる杉木立その影ながしわれの來しとき
(605) 齒科醫よりかへり來りて一時間あまり床中《しやうちゆう》に這入りゐしのみ
 蝋燭を消せば心は氷《ひ》のごとく現身《うつそみ》のする計らひをせず
 高熱をもちて病に臥ししごとかくのごとくに歎かざらめや
 重かりし去年《きよねん》の病を身獨りは干柿などを食ひて記念す
 アララギはわが雜誌ゆゑ餘所行のこころ要らずと云ひて可なりや
 短歌ほろべ短歌ほろべといふ聲す明治末期のごとくひぴきて
 きさらぎの六日このかた外光にいづることなし恐べくして
 黒どりの鴉が啼けばおのづからほかの鳥啼く春にはなりぬ
(606) 三月の空をおもひて居りたるが三月になり雪ぞみだるる
 「追放」といふことになりみづからの滅ぶる歌を悲しみなむか
 
    雀
 
 老の身も免《のが》るべからぬ審判《しんぱん》を受けつつありと知るよしもなき
 兩岸《もろぎし》にかぶさるごとく雪つみて早春《はやはる》の川|水嵩《みかさ》まされる
 アララギの初期にかたみにきほひたる石原純《いしはらあつし》もすでに身まかる
 硯のみづもこほらずなりゆきて三月十日雀啼くこゑ
 うつせみに病といふことあり經ればかなしくもあるかその現身《ぅつせみ》は
(607) ひとり言われは言はむかしかすがに一首の歌も骨が折れるなり
 外出より歸り來りて靴下をぬぎ足袋に穿きかへにけり何故《なにゆゑ》か
 われひとり食はむとおもひて夕暮の六時を過ぎて蕎麥の粉を煮る
 わが孫の赤羅ひくらむ頬もひてひとり寢《ぬ》る夜《よ》のともしぴを消す 鎌倉に梅さきたりと告げ來しをしばらく吾はおもひつつ居り
 朝な朝なおそく起きるを常とするこの老體よ風ひくなゆめ
 
    寒月
 
 鳥ふたついなづまのごと飛びゆけり雪のみだるる支流のうへを
(608) 春たてる清水港ゆおくりこし蜜柑食む夜の月かたぶきぬ
 大石田さむき夜ごろにもろみ酒のめと二たび言へども飲まず
 かくのごと老いつつをれば朝々のさゆる空氣は齒をいたましむ
 春の來むけはひといへどあまのはら一方《ひとかた》はれて一方くもる
 春の光日ねもす照れど川の洲につもりし雪はまるくのこれる
 名殘とはかくのごときか鹽からき魚の眼玉をねぶり居りける
 短距離の汽車に乘れれど吾よりも老いたる人は稀になりたり
 大石田いでて上ノ山に一夜《ひとよ》寢つ藏王《ざうわう》の山いまだ白きに
(609) 遠く去りし物のごとくにおもほゆる明治時代の單舍利別も
 一冬を降りつみし雪わが傍に白きいはほのごとく消のこる
 
    あまつ日
 
 あまづたふ日は高きより照らせれど最上川の浪しづまりかねつ
 家ごもり一人し居れば朝な夕な降りつむ雪を越ゆることなし
 ここにして吾はおもへりはるかなるダボスの山に雪のつもるを
 やうやくに病は癒えて最上川の寒《かん》の鮒食むもえにしとぞせむ
 あまつ日はひとつ昇りてまどかにも降りつもりたる雪てりかへす
 
(610)    ひとり歌へる
 
 道のべに蓖麻《ひま》の花咲きたりしこと何か罪ふかき感じのごとく
 やまひより癒えたる吾はこころ樂し晝ふけにして紺の最上川
 みちのくの十和田の湖の赤き山われの臥處にまぼろしに見ゆ
 西北《にしきた》の高山なみの山越しの冬のあらしは一日きこゆる
 うつせみの吾が居たりけり雪つもるあがたのまほら冬のはての日
 冬至の夜はやく臥處に入りにけり息切のする身をいたはりて
 のがれ來て二たびの年暮れむとす悲しきことわりと思ひしかども
(611) くらがりの中におちいる罪ふかき世紀にゐたる吾もひとりぞ
 みまかりし女の夢を見たりなどして冬のねむりはしばしば覺めぬ
 ふかぶかと雪とざしたるこの町に思ひ出《だ》ししごとく「永靈」かへる
 雲つもる國の平をすすみくる汽車をし見ればあな息づかし
 ほがらほがらのぼりし月の下びにはさ霧のうごく夜《よる》の最上川
 まどかなる月はのぼりぬ二わかれながるる川瀬|明《あか》くなりつつ
 月の夜の川瀬のおとの聞こえくるデルタあたりにさ霧しろしも
 月讀ののぼる光のきはまりて大きくもあるかふゆ最上川
(612) 中ぞらにのぼれる月のさゆるころ最上川にむかふわれひとり來て
 まどかなる月の照りたる最上川川瀬のうへよ霧見えはじむ
 まどかなる月やうやくに傾きて最上川のうへにうごく寒靄《さむもや》
 わが国の捕鯨船隊八隻はオーストラリアを通過せりとぞ
 みそさざいひそむが如く家ちかく來るのみにして雪つもりけり
 かん高く「待避!」と叫ぶ女のこゑ大石田にてわが夢のなか
 ふる雪の降りみだるれば岡の上の杉の木立もおぼろになりぬ
 馬ぐるま往來とだえて夜もすがら日ねもすやまぬ雪のあらぶる
(613) 雪の中より小杉ひともと出でてをり或る時は生《しやう》あるごとくうごく
 あまぎらし降りくる雪のおごそかさそのなかにして最上川のみづ
 勝ちたりといふ放送に興奮し眠られざりし吾にあらずきや
 オリーヴのあぶらの如き悲しみを彼の使徒もつねに持ちてゐたりや
 交媾に必ず關はりし女殺しよ新時代といふひぴき悲しく
 あひいだき死ぬらむほどの戀愛にかかはる小説もつひにおよばず
 高々につもれる雪に幾たぴもぬかる音して童《わらべ》あそびけり
 窓よりも高くなりたる雪ふみて穉《をさな》は居たり何か競へる
(614) 歳晩《さいばん》の夜にわが割りし黄の林檎それを二つに割りて食はむとす
 高々と氷《ひ》にさえわたる雪の上に午前三時の月かげがあり
 かくのごとき月にむかへれば極まりて一首の歌もいのちとぞおもふ
 おもひきり降りたる雪が一年の最短の日に晴間みせたり
 まどかなる雪の降りかも日をつぎてつもらむとする雪の降りかも
 最上川の流のうへに浮びゆけ行方なきわれのこころの貧困
 空襲の炎だつを思出すのみにて寒々としておきふすわれは
 ふゆ寒く最上川べにわが住みて心かなしきをいかにかもせむ
(615) わかくして懺《ざん》の涙をおとししが年老いてよりはや力なし
 最上川ながれさやけみ時のまもとどこほることなかりけるかも
 
    山上の雪
 
 晩餐ののち鐵瓶の湯のたぎり十時ごろまで音してゐたり
 をりをりは舞ひあがる音もまじはりて夜の底ひに雪はつもらむ
 われつひに老に呆《ほ》けむとするときにここの夜寒は嚴しくもあるか
 とほどほし南ひらけて冬山の藏王につづく白き團塊《かたまり》
 最上川に住む鯉のこと常におもふ※[口+僉]※[口+禺]《あぎと》ふさまもはやしづけきか
(616) 教員諸氏團結記事のかたはらに少年盗《せうねんたう》のことを報ずる
 老いし齒にさやらば直に呑めあら尊と牛肉一片あるひは二片三片
 足元の雪にまどかなる月照れば青ぎる光ふみてかへるも
 外套のまま部屋なかに立ちにけり財申告《ざいしんこく》のことをおもへる
 かかる夜の汽笛を聞けば進みゆく一隊のあへぎ聞くにし似たり
 横ざまにふぶける雪をかへりみむいとまもあらず橋をわたりつ
 けふ一日雪のはれたるしづかさに小さくなりて日が山に入る
 最上川遠ふりさくるよろこびは窈窕少年のこころのごとし
(617) 數十年の過去世《くわこせ》となくなりしうら若きわが存在はいま夢となる
 人生は一生《いつせい》に寄るといへるもの今に傳へて心いたましむ
 雪ごもる吾《われ》のごときをおぴやかす世のありさまも常ならなくに
 眼下《まなした》を大淀なして流れたる最上の川のうづのおと聞こゆ
 おほどかに流れてぞ行く大川がデルタに添ひて川瀬はやしも
 雪はれし厚きくもりは天《あめ》なるや八隅の奥にしづまむとする
 日をつぎて雪ふかくなりあしぎきの山の小鳥も來啼くことなし
 兩岸は白く雪つみ最上川中瀬のひぴきひくくなりつも
(618) ここにして雪はれしかば南《みんなみ》に藏王を包む雲はこごりぬ
 退《そ》きゆきし南とほき雪雲は高浪のごと見えわたりたる
 雪はれて西日《にしひ》さしたる最上川くろびかりするをしばしだに見む
 兩岸は眞白くなりて流れゐる最上川の行方おもはざらめや
 午前より雪ふりやめば川上にデルタが白くなりて見え居り
 雪雲の山を離れてゆくなべに最上川より直に虹たつ 一月十九日五首
 最上川水のうへよりまぢかくにふとぶとと短き冬虹たてり
 歩き來てしばしくは見てゐたりけり最上川に短き冬虹たつを
(619) 最上川のながれの上に冬虹のたてるを見れば春は來むかふ
 炭坑へ細々として道のある山のなかより銃の音きこゆ
 しづかなる空合となりをやみなく降りつもり來る雪のなかに立つ
 八隅には雪山なみの浮びいで大きなるかなやこのゆふまぐれ 二首
 せまりくる寒きがなかに春たたむとして山上の雪けむりをあげぬ
 最上川にごりみなぎるいきほひをまぼろしに見て冬ごもりけり
 すさまじくなりし時代《ときよ》のありさまを念々おもひいにしへ思ほゆ
 健康のにほひしたらむ樂しさよ平安初期のその肉慾も
(620) 身毒の渡來以前の女體をばウインケルマンと共に欲《ほつ》する
 死後のさま電《でん》のごとくわが心中にひらめきにけり弱きかなや
 チロールを過ぎつるときに雪ふみて路傍の基督に面《おもて》寄せにき
 南海に獻身せりとあきらかにいふこともなく時はゆくなり
 東京におもひ及べば概論がすでに絶えたり野犬をとめを食ふ
 歌ひとつ作りて涙ぐむことあり世の現身《うつせみ》よわが面《おもて》をな見そ
 ああかなしくも精神病者の夢われにすがりて離しきれざる
 腦病院長の吾をおもひ出さむか濁々として單純ならず
(621) かの町の八人ごろし穉《いとけな》きものもまじりてことごとく死す
 葬斂《とむらひ》の日に親戚ひとり氣ぐるひてげらげらげらと笑ひてやまず
 今の世のいはゆる復員青年がかかる罪業してしまひたり
 終戰のち一年を過ぎ世をおそる生きながらへて死をもおそるる
 小杉ひとつ埋れむとして秀《ほ》を出せる雪原をゆくきのふもけふも
 つつましきものにもあるかけむるごと最上川に降る三月のあめ
 最上川ながれの岸に黒どりの鴉は啼きてはや春は來む
 すでにして日のかがやきに雪かづくとほの山山浮きいづるころ
 
(622)    東雲
 
 老身はひたすらにしていひにけり「群鳥《むらどり》とともにはやく春來よ」
 夜をこめて未だも暗き雪のうへ風すぐるおとひとたび聞こゆ
 最上川雪を浮ぶるきびしさを來りて見たりきさらぎなれば
 不可思議の物のごとくに見入りたりColn《キヨルン》渡りの石鹸ひとつ
 今上御製短歌が二つあなたふと新聞に小さく組まれてゐたり
 女佛《によぶつ》をば白き栲にて包みつつ秘めたるこころ悲しくもあるか
 雪しづく夜すがらせむとおもひしに曉がたは音なかりけり
(623) 雪ぐものそのふるまひを見たりけり重《かさな》り合ひにせめぐがごとく
 渡り鳥のごと去りゆきてこの雪を二たぴ見らむ吾ならなくに
 東京に見るべからざる雪山をまなかひにして老いつつぞゐる
 南海より歸りきたれる鯨船《くぢらせん》目前にしてあなこころ好や
 聞ける者は聞けり聞かぬ者は聞かずけりワーテルロオのその轟きも
 困難の汽車の旅にて頓死のこと雪つもる夜に語りゆきたり
 氣ぐるひが神と稱するカーズスを禮拜《れいはい》せむと人さやぎけり
 山の中ゆいで來し小雀飛ばしめて雪の上に降るきさらぎの雨
(624) 夢の世界中間にしてわが生はきのふも今日もその果《はか》なさよ
 高山の冬の眞中に狐すむ雌雄《ねを》の睦《むつ》むさま吾は見がほし
 老いし齒の痛みゆるみしさ夜ふけは何といふわが心のしづかさ
 門齒にても噛みて食はむとおもひけり既に鹽がるるこの蕪菜よ
 後の代の學問にあそぶ人のため「新興財閥」の名をぞとどむる
 運命にしたがふ如くつぎつぎに山の小鳥は峽をいでくる
 桂樹《かつらぎ》の秀枝《ほつえ》に來り鳴きそめし椋鳥ふたつ春呼ぶらしも
 遙かなる古代小國の興亡も現在の予はその刺戰に堪へず
(625) かたむきし冬の光を受けむとす藏王の山を離れたる雲
 偶然のものの如くに蝋涙はながく垂れゐき朝あけぬれば
 遠き過去になりし心地すをさな等もたたかひ遊することがなく
 とほがすみ國の平にかかるころ吾を照らして陽の道をゆく
 白き陽はいまだかしこにあるらしくみだれ降りたる雪やまむとす
 なげかひを今夜はやめむ最上川の石といへども常ならなくに
 
    晝と夜
 
 ぬばたまの夜空に鷺の啼くこゑすいづらの水におりむとすらむ
(626) いたきまでかがやく春の日光に蛙《かへる》がひとつ息づきてゐる
 最上川のなぎさに近くゐたりけりわれのそがひはうちつづく雪
 瑠璃いろに光る昆蟲いづるまで最上川べの春たけむとす
 われに近く常にうごきてゐたりけり川にひたれる銀のやなぎの花
 わがまへにさかまきてをる最上川そのあかきみづの音ぞきこゆる
 一冬を雪におされしははそ葉の落葉の下にいぶきゐるなり
 うちわたしいまだも雪の消えのこる最上川べに燕ひるがへる
 蕗の薹ひらく息づき見つつをり消《け》のこる雪にほとほと觸れて
(627) 啼きのぼる雲雀のこゑは淨《さや》けかり地平はいまだ雪のしろきに
 やうやくに梟の鳴くこゑ聞けばものおぢをして鳴くにし似たり
 
    春光
 
 かげる山てりかへる山もろともに雪は眞白に降りつもりたる
 まなかひに見えをる山の雪げむりたちまちにしてひくくなりたり
 あまつ日の光あたれる山なみのつづくを見れば白ききびしさ
 山ひだの深々として照るみればかの雪山は見らく飽かなく
 たまたまに雲は浮かぴて高山のなまり色なすかげりをぞ見る
(628) うかびでし白き山々空かぎるそのおごそかを目守りてゐたり
 ひといろに雪のつもれるのみにして地平に遊ばむたどきしらずも
 きさらぎの空のはたては朝けよりおほに曇りぬその中の山
 いへ出でてみちのく山に雪てるを戀《こほ》しみにしが冬越えむとす
 眞白なる色てりかへす時ありて春の彼岸の來むかふ山山
 三月の陽はしづまむと南《みなみ》なる五つの山の雪にほはしむ
 
    邊士獨吟 大石田より
 
 
(629) かたはらに黒くすがれし木の實みて雪ちかからむゆふ山をいづ
 東京を離れて居れど夜な夜なに東京を見る夢路かなしも
 おごそかのつひのしづまり高山は曇りのおきに雪をかかむる
 最上川の鯉もねむらむ冬さむき眞夜中にしてものおもひけり
 本能にしたがふごとくただひとり足をちぢめて晝|寐《い》ぬわれは
 みわたせば國のたひらにふかぶかと降りつみし雪しづかになりぬ
 はるかなる宮城ざかひに見えて居り曇りの中の山膚しろく
 春どりははやも來啼くに天雲のそきへの極み雪しろき山
(630) 雪山にむかひて歌をよまむとすしよぼしよぼとせる眼《まなこ》をもちて
 山脈が波動をなせるうつくしさ直に白しと歌ひけるかも
 日をつぎて雪ふりし空|開《ひら》くれば光まばゆく道ゆきかねつ
     ○
 鷽ひとつ啼きしばかりとおもひしに春の目ざめは空をわたりぬ
 こもりより吾がいでくればとほどほに雪うるほひていまぞ春來む
 かくしつつ立ちわたりたるみづ藍の霞はひくし雪に接して
 もも鳥が峽をいづらむ時とへど鳥海の山しろくかがやく
(631) 春彼岸に吾はもちひをあぶりけり餅は見てゐるうちにふくるる
 人は餅《もちひ》のみにて生くるものに非ず漢譯聖書はかくもつたへぬ
 すこやかに家をいで來て見てゐたり春の彼岸の最上川のあめ
     ○
 雪しろき裾野の斷片見ゆるのみ四月|一日《いちにち》鳥海くもる
 殘雪は砂丘のそばに見えをりて酒田のうみに強風ふけり
 はるかなる源をもつ最上川波たかぶりていま海に入る
 最上川海に入らむと風をいたみうなじほの浪とまじはる音す
(632) 殘る雪平たくなりて對岸のふるき村落のつづきに見えつ
 おほきなる流となればためらはず酒田のうみにそそがむとする
     ○
 全けき鳥海山はかくのごとからくれなゐの夕ばえのなか
 むらぎもの心樂しもとどろきて春の支流のそそぐを見れば
 春のみづ雪解《ゆきげ》となりて四つの澤いつつの澤に滿たむとぞする
 水面はわが顔と觸るるばかりにて最上川べの雪解けむとす
 冬眠より醒めし蛙が殘雪のうへにのぼりて體を平《ひら》ぶ
(633) 穴いでし蛙が雪に反射する春の光を呑みつつゐたり
 北とほき鳥海山はまどかにてけむる殘雪を踏み越ゆわれは
 
    四月
 
 酒田なる吹きしく風に面《おも》むけて歩みてゐたりあな息づかし
 酒田のうみ強風ふけば防砂林海岸につづく縣ざかひまで
 海岸につづく黒松の防砂林「光が丘」の名をぞとどむる
 大石田に歸り來りてこころよくわれの聞きゐる雲ひばりのこゑ
 殘雪も低くなりたり最上川上空のくもりの中に雲雀が啼きて
 
(634)    ゆきげ雲
 
 地平より雪解の雲のたつさまを吾は見てゐる眼鏡を拭きて
 まどかにも降れる雪より蓬蓬《ほうほう》と雲たちわたる春はたけむと
 雪きゆる春風ふけば平よりわれを包みて白雲たちぬ
 斷えまなき雪解のくもの立ちのぼる地平の上をわれ歩みけり
 たひらより雪消えむとして白雲の立ちのぼる時われはよしとす
 
    雪解の水
 
 兩岸をつひに浸してあらそはず最上川のみづひたぶる流る
(635) わが心今かおちゐむ最上川にぶき光のただよふ見れば
 最上川大みづとなりみなぎるにデルタのあたまが少し見え居り
 濁水に浮び來りて速し速しこの大き河にしたがへるもの
 最上川|五月《ごぐわつ》のみづをよろしみと岸べの道に足をとどめつ
 
    洪水
 
 平明に膨脹をする最上がは對岸の雪すでにひたしぬ
 最上川の洪水のうへを浮動して來《きた》るものあり海まで行くか
 下河原に水はつきたり浸りたる殘雪のうへに渦の音きこゆ
(636) 最上川ふくるるを見つ穿きて來しゴムの長靴岸にひたして
 最上川の洪水みれば膨れつつ行方も知らぬそのおほどかさ
 大きなる流動をわがまへにしてここ去りゆかむことをおもへり
 水ひきしあとの砂地に生けるもの居りとも見えず物ぬくみけり
 南よりうねりて來る最上川川の彼岸にうぐひす啼くも
 日をつぎて雪は消えむと天なるやあがたを境ふ山の一角ひかる
 戀《こほ》しかるものの如くに今宿《いましゆく》のへぐりの岨《そは》ゆ藏王山が見ゆ
 白雪のいまだ消殘《けのこ》る對岸に青くなりたる丘が見え居り
 
(637)    白頭草
 
 おきなぐさここに殘りてにほへるをひとり掘りつつ涙ぐむなり
 をさなくてわれ掘りにけむ白頭翁山岸にしてはやほろびつる
 金瓶の向ひ山なる大石の狼石を來つつ見て居り
 われ世をも去らむ頃にし白頭翁いづらの野べに移りにほはむ
 たたかひにやふれし國の高野原口あかく咲くくさをあはれむ
 
    樹蔭山房 五月五日哀草果宅
 
 門人と君をおもへばこの家に心おきなし立ちつう居つつ
(638) わが心いつしか君に傳はりてあはれなるかなやわが血しほもや
 藏王山をここより見れば雪ながらやや斜にて立てらくあはれ
 まれ人をむかふるごとく長谷堂の蕎麥を打たせて食はしむるはや
 年老いてはじめて來たるこの家に家鷄《にはとり》の肉をながくかかりて噛む
 亂雜にとりちらし居《を》る藏の部屋蚤のいで來むけはひだになく
 すゑ風呂をあがりてくれば日は暮れてすぐ目のまへに牛藁を食む
 あはあはとよみがへりくるもののあり哀草果の家に一夜《ひとよ》やどれば 哀草果も五十五歳になりたりと朝川のべにわれひとりごつ
(639) ひと夜寢て朝あけぬれば萌えゐたる韮のほとりにわが水洟はおつ
 櫻桃の花咲きつづくころにして君が家の花梨《くわりん》の花はいまだ
 
    本澤村 五月六日
 
 かたまりて李の花の咲きゐたる本澤村《もとざはむら》に一夜《ひとよ》いねけり
 田を鋤ける牛をし見ればおほかたは二歳牛三歳牛にあらずや
 この村の家々に林檎の白花の咲くらむころをふたたび來むか
 おきなぐさ山べゆ掘りて持て來たりとし久にして見つるものかも
 最上川べに歸りてゆかばしばしばも君をたづねむ吾ならなくに
 
(640)    胡桃の花
 
 山に居ればわれに傳はる若葉の香行々子《よしきり》はいま對岸に啼く
 輩原はいまだも低き新しさその中にゐる行々子《ぎやうぎやうし》あはれ
 わが體休むるために居りにけりしづかに落ちくる胡桃の花は
 この川の岸をうづむる蓬生《よもぎふ》は高々となりて春ゆかむとす
 河鹿鳴くおぼろけ川の水上《みなかみ》にわが居るときに日はかたぶきぬ
 
    猿羽根峠 五月二十九日
 
 名木澤《なぎさは》を入口《いりくち》としてのぼるときちかく飛びつつ啼くほととぎす
(641) 谷うつぎむらがり咲きて山越ゆるわれに見しむと言へるに似たり
 明治十四年九月二十八日天皇ここを越えたまひにき
 郭公と杜鵑《とけん》と啼きてこの山のみづ葉ととのふ春ゆかむとす
 あさき峽とふかき峽とのまじはれる猿羽根《さばね》の山に飛ぶほととぎす
 笹の葉を敷きていこへるたうげ路ゆ南のかたをふりさけゐたり
 こほしかる道とおもひて居りたりしさばねの山をけふ越えむとす
 猿羽根峠のぼりきはめしひと時を汗はながれていにしへ思ほゆ
 おのづから北へむかはむ最上川大きくうねるわが眼下《めのした》に
(642) 元禄のときの山道《やまぢ》も最上川ここに見さけておどろきけむか
 雪しろき月讀の山横たふをあなうつくしと互《かたみ》に言ひつ
 たうげにはいづる水あり既にして微かなれども分水界をなす
 舟形にくだり來れば小國川ながれの岸にねむりもよほす
 年老いて猿羽根のたうげ越えつるを今ゆ幾とせわれおもはむか
 山岸に走井ありて人ら飲む心はすがしいにしへおもひて
 したしくも海苔につつみしにぎり飯《いひ》さばね越えきて取りいだすなり
 小國川宮城ざかひゆ流れきて川瀬川瀬に河鹿鳴かしむ
 
(643)    露伴先生頌
 
 むらぎもの心さびしくみちのくの蘭咲く山に君をしのびつ
 ほととぎす眞近く來啼くこの家にこもりて居れど君と離《さか》りて
 過ぎし代のことにしあらず現なるたふとき人を直にあふがむ
 やうやくにわが齢《よ》もふけて現身《うつせみ》の君とむかへばたふとくもあるか
 さいはひの極みとぞおもふ大きなる賢き君とあひむかひゐて
 その學はとほきいにしへに入りたまひ今のうつつに奥がしらずも
 かりそめの現實ならず夢幻界もおほひたまひてかぎり知らえず
(644) きびしかる同じ時世にさやけくも賢き人と會ひまつりける
 玉ひとつもらひ得たりとおもふまでわが歸り路は樂しかりにき
 わがいのち安らぎを得て常に常に君が家をばまかりいでにき
 慕ひまつり君をおもへば眼交に煙管たたかす音さへ聞こゆ
 
    横手 六月十四日
 
 ふと蕗のむらがり生ふる庭の上にしづかなる光さしもこそすれ
 この町に君を悲しみしこと思へば十五年の時日《ときひ》みじかし
 おごそかに百穗先生の寒梅圖ここに掛かれり見とも飽かめや
(645) 城山をくだり來りて川の瀬にあまたの河鹿聞けば樂しも
 ゆたかなる君が家居の朝めざめ大蕗《おほぶき》のむれに朝日かがやく
 
    秋田 六月十六日
 
 太蕗《ふとぶき》の並みたつうへに降りそそぐ秋田の梅雨《ばいう》見るべかりけり
 うちつれて學校に行く少女《をとめ》らを秋田|街上《がいじやう》に見らくし樂し
 美しき女《をみな》ここより生るると話しながらたちまちに過ぐ 土崎
 空襲が一夜《いちや》のうちに集中したる油田地帶といへば悲しも
 菅江眞澄便器持參の旅せしといふをし聞けばわれも老びと
 
(646)    八郎潟 六月十六日
 
 年老いて吾來りけりふかぶかと八郎潟に梅雨《つゆ》の降るころ
 ひといろにさみだれの降る奥にして男鹿の山々こもりけるかも
 陸《くが》も湖《うみ》もひといろになりてさみだるるこのしづかさを語りあひける
 潟に沿ふ平野を舟より見つつゆくおりたつ鳶も形おほきく
 この潟に住むうろくづを捕りて食ふ業《げふ》もやや衰へて平和來し
 時惜しみてわれ等が舟は梅雨《ばいう》ふる八郎潟を漕ぎたみゆくも
 しかすがに心おほどかになりゐたり八郎潟の六月《ろくぐわつ》の雨
(647) ここにして西北ぞらに見がほしき寒風山はあめにこもりぬ
 白魚の生けるがままを善し善しと食ひつつゐたり手づかみにして
 午《ご》にちかづきつつあらむ八郎潟の中央にして風ふきおこる
 風のむた波だちそめしみづうみに鵜のひとつ飛ぶところもありて
 大きなる八郎潟をわたりゆく舟のなかには晝餉も載せあり
 北へ向ふ船のまにまに見えて來しひくき陸山《くがやま》くろき前山《さきやま》
 わが眼路のやうやく開けくるなべに八郎潟はおほに濁れる
 三倉鼻に上陸すれば暖し野のすかんぽも皆丈たかく
(648) あま雲のうつろふころを大きなるみづうみの水ふりさけむとす
 眼下《まなした》に行々子の鳴くところありひとむら葦《よし》は青くうごきて
 あまのはらうつろふ雲にまじはりて寒風《さむかぜ》のやま眞山本山
 二郡《ふたこほり》境ふ岬のうへにして大きくもあるかこのみづうみは
 秋田あがたの森吉山もここゆ見ゆ雲のうつろふただ中にして
 岬なる高きによればかの舟は歸りゆかむと帆をあげにけり
 追風にややかたむきて行く舟を高きに見れば戀《こほ》しきに似たり
 あかあかと開けはじむる西ぞらに男鹿半島の低山《ひくやま》うかぶ
(649) 水平に接するところ明《あか》くなりけふの夜空に星見えむかも
 鉢の子を待ちて歩きしいとけなき高柳得寶われは思はむ
 わたり鳥たとへば雁《かり》のたぐひなどここに睦みけむ頃ししのばゆ
 空襲の炎をあびし土崎の油田地帶をたちまち過ぎつ
 高清水の屯田兵のいにしへを聽きつつ居ればわが眼《め》かがやく
 しづかなる心になりて歸るとき虎毛山《とらけやま》部落の富《とみ》をおもへる
 
    田澤湖 六月十八日
 
 行々子《ぎやうぎやうし》むらがりて住む小谷《を だに》をも吾等は過ぎて湖へちかづく
(650) 白濱のなぎさを踏めば亡き友のもはらごころの蘇へりくる
 うつせみは願をもてばあはれなりけり田澤の湖に傳説ひとつ
 とどろきて水湧きいでし時といふひとり來りてをとめ龍《りゆう》となる
 われもまた現身《うつせみ》なれば悲しかり山にたたふるこの湖に來て
 おほどかに春は逝かむと田澤湖の大森山ゆ蝉のこゑする
 山々は細部没してけふ一日|梅雨《ばいう》の降らぬ田澤湖に居り
 田澤湖にわれは來りて午の飯《いひ》はみたりしかばこのふと蕨
 健かに君しいまさば二たびも三たびもわれを導きけむか
(651) 常なしと吾もおもへど見てゐたり田澤湖の水のきはまれるいろ
 年老いて苦しかりとも相ともに仙巖峠も越えにけむもの
 
    角館 六月十九日
 
 おのづから心平らになりゐたり學法寺なるおくつきに來て
 たかだかと空しのぐ葉廣※[木+解]木を武士町とほりしばし見て居る
 松庵寺に高木となりし玄圃梨《げんぽなし》白き小花の散りそむるころ
 春ごとにしだり櫻を咲かしめて京《きやう》しのびしとふ女《をみな》ものがたり
 武士町の家のつくりのなごりをもめづらしくして人に物いふ
 
(652)    奉迎 八月十六日
 
 大君をむかへまつら藏王のやま鳥海のやま月讀《つきよみ》の山
 みちのくの山形あがたこぞりたちわが大君を祝ぎたてまつる
 山河のよりてつかふるみちのくの出羽《いでは》の國をみそなはします
 大君のいでましの日のかがやきのけふの足日に怠りあらめや
 あまつ日の照りかがやける國原はわが天皇《てんわう》にちかひたてまつる
 
    晩夏
 
 地響のおどろくまでにとどろとどろ山にむかひて砲撃をする
(653) 最上川あかくにごれるきのふけふ岸べの道をわが歩みをり
 わが心あはれなりけり郭公《くわくこう》もつひに來啼かぬころとしなりて 角砂糖ひとつ女童《めわらは》に與へたり郵便物もて來し褒美のつもり
 さみだれにもあらぬ雨かも空低く雷ともなひしけさの朝けの雨
 
    田澤村の沼
 
 夏すでにふけむとぞする高原《かうげん》の沼のほとりに吾は來たりき
 年ふりし高野の沼の水草が水よりいでて見ゆるこのごろ
 高原《たかはら》の沼におりたつ鸛《こふ》ひとつ山のかげまも白雲わきて
(654) 今しがた羽ばたき大きくおりし鸛《こふ》この沼の魚を幾つ食はむか
 鳰鳥のそろひて浮かぶ山の沼《ぬ》に山ほととぎす聲も聞こえず
 
    次年子
 
 茂山の葉山の中腹とおもほゆる高き部落を次年子《じねご》とぞいふ
 分水嶺われ等過ぎつつおもひけり東のながれと西のながれと
 二わかれ流れておつる水なれどつひにはひとつ最上川の水
 自動車のはじめて通るよろこびをこの部落びと聲にあげたり
 高はらの村の人々酒もりす凱旋したる時のごとくに
 
(655)    推移
 
 黒鶫のこゑも聞こえずなりゆきて最上川のうへの八月のあめ
 山のべにうすくれなゐの胡麻の花過ぎゆきしかば沁むる日のいろ
 しづかなる朝やわが側にとりだせるバタもやうやくかたまりゆきて
 かば色になれる胡瓜を持ち來り疊のうへに並べて居りき
 封建の代の奴踊《やつこをどり》がをどり居《を》る進み居る尾花澤往還のうへ
 松葉牡丹すでに實になるころほひを野分に似たる風ふきとほる
 夏ふけし山にむかひて砲撃をつづけたり憎惡の氣配も見えず
(656) 白雲は湧きつつあれど雨ふらず露伴先生も亡きかずに入り
 去りゆかむ日も近づきて白々といまだも咲ける唐がらしの花
 たかだかと日まはりの花並びたりけふは曇りの厚らになりて
 水ひける最上川べの石垣に韮の花さく夏もをはりと
 
    肘折
 
 山嶽の中腹にして平あり小さき部落そこにこもりて
 峽のうへの高原《たかはら》にして湧きいづる湯を樂しめば何かも云はむ
 のぼり來し肘折の湯はすがしけれ眼つぶりながら浴ぶるなり
(657) 朝市に山のぶだうの酸ゆきを食みたりけりその眞黒きを
 湯を浴みていねむとぞするこの部屋に蚤も少くなりてゐたりき
 あかつきのいまだくらきに物負ひて山越えきたる女《をみな》ら好しも
 山を越え峽をわたりて來し人らいつくしみあふ古りし代のごと
 川のおと山にひびきて聞こえをるその川のおと吾は見おろす
 ここにして大きく見ゆる月山も雪近からむ秋に入りたり
 月山を源とするからす川本合海《もとあひかい》にをはりとぞなる
 最上川いまだ濁りてながれたる本合海に舟帆をあげつ
 
(658)    もみぢ
 
 馬叱る人のこゑする狹間よりなほその奥が紅葉せりけり
 ふりさくる彼の部落より音きこゆ家ひとつ建つる音のごとしも
 この山に小雀が木の間たちくぐり睦むに似たる爭ひをする
 あけび一つ机の上に載せて見つ惜しみ居れども明日は食はむか
 りんだうの匂へる山に入りにけり二たびを來む吾ならなくに
 秋の日の光くまなきに汗いでてあな慌し山くだるはや
 赤とんば吾のかうべに止まりきと東京にゆかば思ひいづらむ
(659) 秋の雲ひむがしざかひにあつまるをしづ心なく見て立つわれは
 いただきは棚びかぬ雲こごりつつ鳥海山に雪ふるらしも
 大石田の午のサイレン鳴りひびき山の上よりわれ覗き居り
 ここにしてふりさけ見れば鳥海はおのづからのごと雲にかくりぬ
 
    冬
 
 さだめなきもののことわり直路《ただぢ》にて時雨ははやしおのづからなる 日をつぎて雪ふりつめば雀らはわが窓のべに啼くこともなし
 此の岸も彼の岸も共に白くなり最上の川はおのづからなる
(660) この家の榾の火みればさかんなりやうやくにしてまた熾《さかん》となる
 きびしくも冬になりたる空とほく鳥海山は見えざるものを
 
    秋山
 
 栗の實もおちつくしたるこの山に一時を居てわれ去らむとす
 斧のおと向ひの山に聞こゆるを間近くのごと聞かくし好しも
 秋山の黒き木《こ》の實は極まりてここに來れる吾は居ねむる
 車挽きし馬峽を行くその馬がいななくこともなくて行きたり
 つらなめて赤くなりたるこの山に迫むるがごとく雪は降りこむ
 
(661)    酒田
 
 魚くひて安らかなりし朝めざめ藤井康夫の庭に下りたつ 十月二十一日
 安種亭のことをおもひて現なる港に近き道のぼりけり
 最上川黒びかりして海に入る秋の一日となりにけるかも
 わたつみの海のまじはる平明のデルタによりて鴎むれたる
 下の山は今の本町三丁目|不玉《ふぎよく》のあとといへば戀《こほ》しも
 ここに至りて最終の最上川わたつみの中にそそぐを見たり
 たへがたき波の動搖をわれに見しむ最上川海に没するときに
(662) 袖の浦は酒田對岸の砂丘より成り成りにけり古き漁村圖殘る
 面《おも》かくす濱の女の風俗を愛《かな》しと云ひつ旅のこころに
 旅を來てはじめて吾のなつかしむ鶴岡街道をしばしとほりぬ
 「負劍録」の中の一語を君はいふそれの一語をわれは忘れず
 酒田なる伊東|不玉《ふぎよく》のあとどころ今は本町三丁目にて.「酒田」補遺
 明和七年の頼春水が負劍録酒田をみなに親しみたりしや
 新庄の馬喰《ばくろ》町より直線の街道があり鐵砲まちまで
 
    象潟
(663)
 秋の光しづかに差せる通り來て店に無花果《いちじゆく》の實《このみ》を食む 十月二十二日
 象潟の蚶滿《かんまん》禅寺も一たびは燃えぬと聞きてものをこそ思へ
 秋すでに深まむとする象潟に來てさにづらふ少女《をとめ》を見たり
 象潟の海のなぎさに人稀にそそぐ川ひとつ古き世よりの川
 あかあかと鳥海山の火を吹きし享和元年われはおもほゆ
 
    湯の濱
 
 めざむればあかあかと光かがやきて日本海《につぽんかい》の有明の月
 人生きてたたかひの後に悲しめる陸《くぬが》に向ひ迫《せむ》るしき浪
(664) やまがたの田川の海の潮けむり濱をこめつつ朝明けむとす
 冬來むとこのあかときの海中《わたなか》に湧きたる浪はしづまり兼ねつ
 時雨かぜ遠く吹きしきこごりこごり飛びあがりたる日本海の浪
 
    湯田川
 
 式内の由豆佐賣の神ここにいまし透きとほる湯は湧きでて止まず
 湯田川に來りてみれば心なごむ柿の葉あかく色づきそめて
 田川なる清きいで湯にもろ人は命を延べきいにしへゆ今に
 湯田川の湯をすがしめど年老いて二たびを來む吾ならなくに
(665) この業《げふ》のいよよ榮えむ徴《しるし》にぞすくやかにして孝の子うまる 豐田工場
 
    恩
 
 こほろぎの聲になりたる夜な夜なを心みだれむ吾ならなくに
 さまざまの蟲のむらがり鳴く聲をひとつの聲と聞く時あるも
 雁來啼くころとしなれば家いでて最上の川の支流をわたる
 しづかなる秋の光となりにけりわれの起臥せる大石田の恩
 この河のゆたの流も正眼《まさめ》には見ることなけむわが歸りなば
 
    峽間田
 
(666) 紅き茸《たけ》まだ損せぎる細き道とほりてぞ來し山に別ると
 しぐれ來む空にもあるか刈りをへし峽間田《はざまだ》ごもり水の音する
 山かげに響をたつる流あり瑠璃いろの翡翠《かはせみ》ひとつ來啼きて
 牛蒡畑《ごばうばた》に桑畑つづき秋のひかりしづかになりてわが歸りゆく
 いへいでて河鹿の聲をききたりしおぼろけ川にも今ぞ別るる 茂吉送別歌會
 
    蓬生
 
 秋雨とおもほゆるまで降りつぎし山の峠に寒蝉きこゆ
 丈たかくなりて香にたつ蓬生《よもぎふ》のそのまぢかくに歩みてぞ來る
(667) 最上川の水嵩ましたる彼岸《かのきし》の高き平に穗萱なみだつ
 日をつぎて水《み》かさまされる最上川デルタの先が少し出で居つ
 ひとむらの川原母子をかへりみて我が歸らむ日すでに近しと
 
    鹽澤
 
 あさぎりのたてる田づらをとほり來て心もしぬにわれは居りにき 十一月一日
 もみぢ葉のからくれなゐの溶くるまで山の光はさしわたりけり
 をさな等の落穗ひろはむ聲きこゆわが去りゆくと寂しむ田ゐに
 ひとりにて屡《しばしば》も來し鹽の澤の觀音力《くわんおんりき》よわれ々な忘れそ
(668) はるかなる南の方へ晴れとほる空ふりさけて名殘を惜しむ
 
(669) 後記
 
       〇
 昭和二十一年一月三十日、金瓶村から大石田町に移り、二藤部兵右衛門氏の離れ(後私は聽禽書屋と名づけた)に落著いた。二藤部・板垣氏等が萬端面倒を見てくれて、敗戰後にも拘はらず生活が平靜であつたが、三月から左側の肋膜炎に罹り佐佐木國手の手當を忝うした。九月一ぱいは寢たり起きたりといふ状態にあつたが、その間、岩波茂雄君、村岡典嗣君の逝去を哀悼し、ついで森山汀川君を哀悼した。
       〇
 大石田は最上川の沿岸にあり、雪の澤山降るところである。病床に臥す迄は、雪の晴間を見ては隣村迄散歩したが、病中は全く外をも見ずに過ごした。梨の花が眞盛りに咲く時分になつても外出せずにしまつたが、最上川増水の時に看護婦に連れられてそれを見に行つたことがある。雪解けで増水した最上川は實に雄大であつた。
 九月になつて、日本海海岸小波渡堅苔澤といふところに靜養し、十月になつて瀬見温泉に靜養(670)した。十月五日には鳥海山の中腹まで雪が見えるやうになつた。私は天氣のいい日には草鞋を穿き近くの山野を歩き、最上川沿岸を歩いたが、そのうち秋も更け、十二月六日からいよいよ大石田にも雪が降りはじめた。
 昭和二十二年には五月に大石田の雪が殆ど消えた。四月に酒田、五月に結城哀草巣宅、それから山形、上ノ山、宮内、新庄等に行き、六月には秋田縣に行き八郎潟、田澤湖等を見た。八月には上ノ山で東北御巡幸の今上陛下に御目にかかつた(結城哀草果同道)。秋には二たぴ酒田に行き、最上川の川口、象潟等を見た。それから肘折といふ温泉をも見た。初冬には永年子といふ山間の部落、それから最上川の三難所を見た。
 かうして小旅行をしてみると、病は癒えたといつていい。私は十一月三日、大石田を立ち、板垣家子夫氏同道にて東上し、翌四日東京に著いたのであつた。
 私は大石田に二年ゐた。その間、庄司喜與太、土屋貞吉、庄司たけよ、高桑祐太郎、富樫忠也、清水麟太郎、佐藤茂兵衛、庄司精一郎、高桑幸助、神部政藏、板垣家子夫、高桑喜之助、二藤部兵右衛門、田中一策、鈴木善良、後藤昇、小山良平、佐々木芳吉、阿部高次郎、宮臺昇一、井刈敬太郎、江口二三男諸氏の深き芳情を感謝する。
      〇
(671) 自分は大石田に疎開して來てからも、金瓶村にゐた時同樣作歌した。その中には、從來の手法どほりのもあり、いくらか工夫、變化を試みたのもある。出來のわるいのもあり、幾分出來のいいのもある。それらを一しよにして此處に八二四首を收録したのであつた。
 「白き山」といふ名は、別にたいした意味はない。大石田を中心とする山々に雪つもり、白くていかにも美しいからである。
 「白き山」所收の歌は、自分の六十五歳、六十六歳の時の作といふことになる。
      〇
 大石田も尾花澤もまことに好いところである。それに元録の芭蕉を念中に有つといよいよなつかしいところである。「最上川」一卷が無事現存してゐるし、又曾良の隨行日記が發見せられたために、芭蕉の行動も一段と明かになつたが、芭蕉は大石田から乘船せず、猿羽根越をして舟形に出たのであつたが、その猿羽根越も明治に出來た新道に據らなかつたのであるから、山間の谿谷を縫ひ、峯を傳はつてこ人の乘つた馬を馬子が導いたのであつただらう。さうして頂上に到つたとき、眼下に最上川の大きいうねりを見、葉山・月山の山鋭の相並ぶさまを見た時には、芭蕉もおのづと讃歎の聲をあげたに相違ない。しかし芭蕉はここでは句作をしなかつたやうである。
      〇
(672) 本集發行に際し、岩波雄二郎、布川角左衛門、榎本順行、中島義勝諸氏に感謝の念をささげる。昭和二十四年春。齋藤茂吉。
 
  つきかげ
 
(675)  昭和二十三年
 
    新年
 
 白雪の降りつもりたるこの町に年めぐり來て定まらむとす
 新しき年のはじめといふ聲す稚《をさな》きもの等雪につどひて
 にひ米を搗きたる餅《もちひ》あひともに食《を》せとしいへば力とぞなる
 雪のうへに立てる朝市去年より豐かになりてわれ釘を買ふ
 朝日さす最上川より黄の靄の立ちののぼりにわれ没しけり
(676) こもごもに嘆かむとするためならずここの細路《ほそぢ》にたたずむわれは
 上ノ山の山べの泉夏のころむすびたりしがわかれか行かむ
 手力をふるはむとすと息卷ける少年を見ればうれしきものか
 一年のはじまりの日とみづからも心しづけし北窓に目ばりして
 充ち足らふ食にあらねど食ひてのち心を据ゑむ年あらたにて
 日本の漁船活動のもとゐなる石油すらも湧きいでて來ず
 夕映えのなかにうかべる富士山を外国人のごとく立ち見し
 青山の墓地にやぶ蚊の居ずなりしことを聞きければしばし驚く
(677) 地下道をのぼれば銀座の四丁目ことわり絶えて目を※[目+爭]《みは》りけり
 電熱器あひいましめて使用せず電氣とほらず歸り來りて
 人間は豫感なしに病むことあり癒れば樂しなほらねばこまる
 欠伸すれば傍にゐる孫眞似す欠伸といふは善なりや惡か
 
    アザミのために
 
 つつましく君に從ふ青年を傍觀しゆかむわれとおもはず
 すでにして三寸の雪ふりたりと大石田より言をつたふる
 さはしたる柿のとどけばひとつ食ひにけり東田川のをとめおもひて
(678) いきいきとしたる青年にたちまじる君のかたはらに吾がかへり來ぬ
 もみぢばのすがれむとする君の庭ひとめ見しさへうれしとおもふ
 
    歸京の歌
 
 みちのくの最上川べを住み棄てて歎かむとして來しわれならず
 この體古くなりしばかりに靴穿きゆけばつまづくものを
 紅療治ありしところと思ひ出《づ》る道をくだりて東京裁判の門
 感恩は年老いてより切《せち》なりといにしへびとも言ひたりや否
 清水|澄《とほる》老先生の悲しき訃わが得てしよりはやもふた月
(679) 一國のことにかかはる悲歎をも吾はしたりき燈火《ともしび》消して
 淺草の觀音力《くわんおんりき》もほろびぬと西方《さいはう》の人はおもひたるべし
 肉厚き鰻もて來し友の顔しげしげと見むいとまもあらず
 あきらめむ心をりをりひらめくを再建の國のなかにておもふ
 編隊の戰闘機いなづまの如く行く今は武器とし思へざれども
 ドラム鑵にて入浴したる安樂をあぢはふごとく坂くだりくる
 三年のあひだ見ざりし燒都市《やけとし》の見附より葬送行進の曲
 豚《とん》の肉うづたかけれど「食はざればその旨きを知らず」噫
(680) 二十五年の過去になりたり勝ちし國の一人なるわれミユンヘンに居き
 東北の町よりわれは歸り來てあゝ東京の秋の夜の月
 殘年はあるか無きかの如くにて二階にのぼり眞晝間も寐ぬ
 酒田なる安種亭をもおほよそにわがかへりみて歸りきたりぬ
 
    御苑
 
 もろ草の霜に伏したるさやけさに吾等は行けり御苑《みその》の中を
 天皇《おほきみ》のあゆみたまはむ冬苑《ふゆぞの》を吾等も行きつあなかしこかしこ
 雉子《きぎし》啼くここのみ苑にまゐり來て老いのこの身もまなこかがやく
(681) 霜しろきこののばり路をわが天皇ゴムの長靴はきて歩ます
 ひといろに冬がれわたる高萱の春をし待たむみ園を行きつ
 み冬つき春のきむかふ苑の木の細々し秀枝もくれなゐだちて
 鴨どりがねぐらとしつつ安寐せし平和《たひらぎ》のみづそのかしこさよ
 大君のいます眞ぢかく光りつつ螢とぶとふことのさやけさ
 久方の天にむかひてとどろかむいづみもがもなここのみ苑は
 すくやかにいまし給はな微かなる臣《おみ》ここにまゐり來て立ちてこひのむ
 
(682)    猫柳の花
 
 みちのくの山形あがたより東京へ歸り來りて虹をいまだ見ず
 税務署へ屆けに行かむ道すがら馬に逢ひたりあゝ馬のかほ
 けふもまた午前よりわれ眞込みたり空には飛行機しきりに飛びて
 天際に觸れたりといふうらわかき女※[女+堝の旁]氏の顔を思はばいかに
 界隈にをん鳥をればあかつきの聲あげむとしてその身羽ばたく
 われの背にゐるをさな兒が吃逆《しやくり》せり世の賢きもするがごとくに
 冬至すぎしゆふぐれ毎に黄色《くわうしよく》のくもりのしづむ東京の空
(683) 竹炭を燒きはじめたる報來たり熊本あがたの山の峽より
 よひよひの膝のうへに水洟《みづはな》が落ち免《のが》るべからぬ生《せい》のかよひぢ
 とほくより近づききたるごとく啼く冬あかつきの鵯鳥《ひよどり》ひとつ
 過去世にも好きこのんでたたかひし國ありや首《かうべ》を俯してわれはおもへる
 黄海もわたりゆきたるおびただしき陣亡《ぢんばう》の馬をおもふことあり
 目かくしをされし女の銃殺をまのあたり見むわが境界《きやうがい》ならず
 みちのくの農の子にしてわれつひに臣のひとりと老いづきにける
 國歩なほ艱難のとき家いでずきのふもけふも涙ぐましも
(684) 孫負うて疊をありく時さへや現のひぴきただならぬはや
 代田川《だいたがは》のほとりにわれをいこはしむ柳の花もほほけそめつつ
 隣人の庭の木むらに朝な朝なわれにも聽けとうぐひす啼くも
 米粒《べいりふ》は玉のごとしといへる句も陳腐といはばわれは黙せむ
 わかくして戰捷の世も過ぎ來つるわが生の火はやうやく幽《かす》けし
 現實は孫うまれ來て乳を呑む直接にして最上の善
 誕生の屆け濟まししのみにて中央術へ行くことぞなき
 わが心しづかになりぬ極まりし紅梅に雨のそそぐを見れば
(685) ひとりさめて思ふ中宵を過ぎしころ闇黒の中の紅梅の花
 いぶくごときしづけさなるかこの河の二百萬の放魚《はうぎよ》はてたるときに
 戰爭に隨伴《ずゐばん》したるこまごまを古人しるしき堪へがたきまで
 ポート・モレスビイの燈火の見ゆるところまでたどりつきたるが全滅したり
 二階にてきけば野球の放送す老懶《らうらい》の耳飽くや飽くやと
 冬毎にひそむ蚤この冬も潜みしが三月盡にひとつ生まるる
 空襲のとどろき過ぎてこの河の流《ながれ》わたりし炎おもほゆ
 墨田川の彼岸《かのきし》ににぶきものの音 amor fati と聞こえ來らむか
(686) 腹ばひになりて流を見おろせる二人の兒童なかなか飽かず
 淺草の晩春となり人力車ひとつ北方へむかひて走る
 われひ上り行春《ゆくはる》の道とほりけりをりをり進駐の番號ありて
 東京の春ゆかむとしてあらがねのせまきところに麥そよぎけり
 
    挽歌
 
     一月二十六日養母歿す。行年八十三。淺草月輪寺に葬る
 
 われ明治二十九年の晩夏より呼びにし母をいまぞとむらふ
 ながき世のこととも思ふ瞬きのひまとも思ふ養ひの我が母はや
(687) 東京のまだうらわかき母のべに樂しかりにき朝な夕なに
 東京にのぼり來りしほがらかさ十五歳なるわれは仕へき
 五十年の過去をおもひてわが母を弔ふなべに涙いでむとす
 爭ひし事もあらなくにあり經しをおのづから時の過ぐと思ひき
 われもまた年は老いたり孝《けう》の子と人はいふとも否も諾《う》もなし
 わが母の寡黙のうちにつつみたる苦をしぞおもふけふの夜《よ》ごろは
 あふむけに臥しつつをりてわが母の中陰の日に涙ぐみたり
 すでにして現なる世にいまさねど今よりのちもわが感慕の母
 
(688)    晩春
 
 かみつけの山べの※[木+愡の旁]《たら》はみつみつし吾にも食《を》せともてぞ來れる
 納豆は君が手づからつくりしを試みよちふことのゆたけさ
 古今書院|主人《あるじ》と君と吾と三人《みたり》伊香保|高野《たかの》をもとほりけむよ
 思ひではをかしきものか遙かにし過ぎにし人も目のまへにくる
 近江のや坂田こほりの蓮華寺へ行きがてなくにこひかも居らむ
 きこえくる代田小路《だいたこうぢ》の紙芝居たたかひ過ぎて三とせといへば
 ほそほそし伊豆の蕨も樂しかりわが胃の中に入りをはりけり
(689) あるよひにせつなきまでに悲しかりひとのいのちに思ひ及べば
 爪だてて外見むとするをさな兒を大き聖もよしといふめり
 やまがたの最上こほりの金山《かなやま》の高野蕨《たかのわらび》もこよなかりけり
 羽前より羽後へ越えむとする山の蕨をつみてわれさへや食《は》む
 
    ※[奚+隹]
 
 あかあかと咲きたる梅の下かげに雛をひきゐしめんどりひとつ
 夜をこめて時をつくるとくだかけの空氣ふるはす羽ばたききこゆ
 あまつ日の照りたるなかにくれなゐのかうべをあげて軍※[奚+隹]《しやも》は鳴きたり
(690) めんどりもをんどりも皆仲よくてこころ樂しも死にいたるまで
 高天《たかあめ》に飛ぶこともなきには鳥はここに睦びぬたたかひ過ぎて
 
    東京
 
 隣家より英語のこゑす生垣をへだてたるのみ富貴者の位置
 おのづから涙がいでて青山に板坂龜尾の墓にまうづる
 東京に歸り來れどもこもりゐて二重橋|外《そと》にいまだも行かず
 いひ繼げるカチドキ橋のたもとより房州がよひの船出するなり
 かたまりてしきめく男女目前に性のにほひもすでに滅して
(691) をさな兒はたたみし布團越えむとすいくたびにてもころがりながら
 おそらくは東北縣の米ならむ縁にかがみて籾選りゐるは
 聞こえくるサイレンの音三年まへの警報の音さながらならずや
 ひくく出でし東京の月まどかにて吾のこころのゆくへ知らずも
 わら灰をつくりて心しづまるを歸りし家に感じつつ居る
 青山の南町なる燒けあとを恐るるごとくいまだ行き見ず
 
    孫
 
 年老いて心たひらかにありなむを能はぬかなや命いきむため
(692) 敗戰ののちに生れしわが孫をつくづくと見つ東京に來て
 老身のひとり歩きをいましめて友は日暮れぬうちに歸りぬ
 さびしくもひびくか八十三の年たけし養母のための挽歌ひとつ
 背に負はるるこの穉兒よわが死後のいかなる時世《ときよ》に大きくならむ
    金の五月
 
 この他界歎じわびたる冬過ぎてわれをおほはむ五月の金《きん》のひかり
 小田急に乘りて新宿に出で來しが間なく暇なく息《い》ぶくならずや
 うつくしき顔がにほひてまぢかくをとほりて行けりわれはまたたく
(693) セガンチニの境界の山くだりきて青野のうへに少女《をとめ》ひとりたつ
 とほき世のことといへども舜の妃《き》が涙を垂れしたかむらあはれ
 
    根源の代
 
 軍隊が全《また》くなくなりあかあかと根源の代のごとき月いづ
 供米をかたじけなしと言ひにけり粗《あら》を選りつつ粗を噛みつつ
 かくのごとくナシヨナルリードルをおもひいづ野の鼠の苦家の鼠の苦
 罪業は生きながら消えはしけやし夢の中にてあらはれきたる
 われ病んで仰向にをれば現身《げんしん》の菊池寛君も突如としてほとけ
 
(694)    春雲
 
 春の雲葉山の根ろにたつらむときさらぎ盡の朝におもへる
 東京にかへり來りて川のべの梅が香しるきほとりにぞ居る
 つくづくとおもひいづれば雪しろき大石田なる往還のうへ
 最上川ながれゆたけき春の日にかの翁ぐさも咲きいづらむか
 味噌の香を味ふなべにみちのくの大石田なる友しおもほゆ
 
    鶯(歩道のために)
 
 家ごもりしづまり居れどうつせみの老びとなれば病むときに病む
(695) 界隈に啼くうぐひすを飼鳥《かひどり》と錯まり聞きしこの三朝《みあさ》四朝《よあさ》
 あつまりて歌をかたらふ樂しさはとほく差しくる光のごとし
 かしの實のひとり心をはぐくみてせまき二階に老いつつぞゐる
 いやさらに老いしがごとく出でくれば三月盡の道氷りけり
 
    行春
 
 竹賣りにふれくる人のこゑ聞けばおぼろおぼろと春ゆかむとす
 あゆみ來て老いらくの身は山ぎしの青葉のなかにとぷりと入りぬ
 眼を閉ぢて貴妃《きひ》をおもへば心たひらぎ雜沓電車にはこばれて行く
(696) カストリといふ酒を飲む處女子《しよぢよし》らの息づかひをも心にとめず
 天上より神のごときがいたいたしき國歩《こくほ》と言はば吾《われ》うなじを垂れむ
 
    梅雨
 
 平凡にかくのごときか淺草の梅雨《ばいう》に濡れてわれはゐたりき
 かたむける午前三時の月かげをわれは愛すと人につげめや
 われ嘗てジオニズムのこと知りしかどその時われの髯しろからず
 ありさまは淡淡として目のまへの水のなぎさに鶴卵をあたたむ
 老ゆといふことわりをわれ背《せな》に負ひ心あへぎし記憶たどらむ
(697) ホルモーンの内分泌《ないぶんぴつ》説を否定せずぐづぐづしゐて吾が世しまひか
 鰻の子さかのぼるらむ大き川われは渡りてこころ樂しも
 黄になりて梅おつるころ遠方にアラブ軍師團ヨルダンわたる
 錢湯にわれの來るとき浴槽《ゆぶね》にて陰部をあらふ人は善からず
 ここに來て狐を見るは樂しかり狐の香こそ日本古代の香
 人の世の片隅にゐてまれまれに生の火《ほ》むらを感じたらずや
 
    紅梅の實
 
 紅梅の實の小さきを愛せむとおり立ち來たりわれのさ庭に
(698) くれなゐににほひし梅に生れる實は乏しけれどもそのかなしさを
 わが庭に鳴きはじめたる蛙ありあはれとぞおもふつゆの降るころ
 わが庭のなかに梅雨《ばいう》のふりそそぐころとしなりて友の病はや
 二階より下りてゆかざる一時間孫の走るおとしきりにすれど
 人に醉《ゑ》ふといふことあれば銀座より日比谷にかけてわれ醉ひにけり
 おもひいづることあり夏のみじか夜に金瓶の蚤大石田の蚤
 左背部《さはいぶ》の鈍痛かこつきのふけふ夏至になりたることも忘れき
 かへりみむ事ありとしもおもほえず年のなかばは過ぎゆきにける
(699) 福井市を中心とする震害のこと氣にかかりいまだねむらず
 西とほくこもる光の消えながら七月三日かなかな鳴きつ
 
    露伴先生一周忌
 
 夕づつの光の明《あか》きころほひに露伴先生いますがごとし
 哀樂のきはみを超えてとどろける天《そら》うつ浪を今こそは聽かめ
 若かりし君にたぐひて風流に徹《とほ》らむとする人生《うま》れ來よ
 
    朝日歌壇
 
 ひぐらしは近くの森に鳴きはじむパリの森にも鳴かざるものを
(700) 坪あたり一石五斗の雨の量けふの眞晝にわれおびやかす
 供出の速度といへる言葉あり新しき日本のさきがけにして
 平易なる日本語をもてあらはせる短歌一つもかりそめならず
 かくのごと老いたるわれも奮ひたつ朝日歌壇にわが友よ來よ
 
    隨縁五首
 
 最上川螢の飛ばむころほひに吾も行きなば樂しからむに
 大石田に飯《いひ》くひに來よと君いへば行かむ術《すべ》もが晝の汽車にて
 しらたまの飯《いひ》をみか腹滿つるまで食ひての後にものを言ふべし
(701) 大石田の歌のつどひを忘れ得ずかにもかくにも生きてし居らな
 カブタレの餅《もちひ》のことをわれ書きぬ縁《えにし》ありたることをよろこぶ
 
    わが氣息
 
 わが氣息《いぶき》かすかなれどもあかつきに向ふ薄明《はくめい》にひたりゐたりき
 三碗の白飯《しらいひ》をしもこひねがひこの短夜の明けむとすらし
 ある時の將軍提督の如くにも四碗《よんわん》といはばこの世のことならず
 人の世の鰻供養といふものにかつても吾は行きしことなし
 隣人のさ庭にこごる朱《しゆ》のあけの柘榴のはなも咲くべくなりて
(702) ぶらぶらになることありてわが孫の齋藤|茂一《もいち》路上をあるく
 老身に汗ふきいづるのみにてかかる一日何も能はぬ
 やみがたき迫る聲としおもはねどわが庭の松に松蝉鳴くも
 蚤渡來のことなどしばし空想しせまき疊に居たる安心《あんじん》
 かなしくも自問自答す銃殺をされし女にこだはるかこだはりもせず
 寒蜩《ひぐらし》もすでに鳴かずとあきらめてそれより後のゆふまぐれどき
 汗垂れてわれ鰻くふしかすがに吾よりさきに食ふ人のあり
 わが汗は歩道のうへに落ちながら忽ち行進の軍樂きこゆ
(703) 今ごろになればおもほゆ高原の葡萄のそのに秋たつらむか
 
    山鳩
 
 山鳩のつがひ目のまへに止まりゐてその啼くこゑは相むつむなり
 われつひに心なかりき八月の木立に雨のそそぐを見つつ
 もろ膝をわれは抱きて山中にむらがる蝉を聞きゐたるのみ
 午前より鳴雷《なるかみ》のおと南より移りきたりつ雨晴れむとす
 たたかひにやぶれし故とこの庭はおどろとなりつ見る人なしに
 
    山の家
 
(704) 山の家に次男ともなひ吾は來ぬ干饂飩《ほしうどん》をも少しく持ちて
 五年ぶりここに來りてほうほうと騰るさ霧を呑まむとぞする
 山なかに作歌能力も衰へて七日を居つつ十日を居たり
 かなかなと朝な夕なに鳴く蝉をいまだも吾は聞き飽かなくに
 鹽澤《しほのさは》の觀音堂|今宿《いましゆく》の藥師堂汗をさまりてわが眠りしところ
 今ごろになれば大石田をおもひいづゆふぐれ蟆子《ぶと》の飛ぶ大石田
 最上川難所の歌をつくりかけ未だ能はぬに夏ふけむとす
 殘年にあへげる吾も二時間ばかりジヨセフ・フーシエを知らむとおもひき
(705) 顱頂をば中剃にせし敬虔も砂利《ざり》のごとくに蹶り飛ばしたる
 トリエストを終焉の地とのがれ來て神と和睦をつひにせしもの
 ふはふはとしたる短歌をわれ作る古關孃より催促されて
 
    強羅
 
 東京の空よもすがら赤くなり見えたりといふ頃も忘れな
 早川の瀬にあぎとへる鰻をもかくのごとくに消化せむとす
 かくしつつ強羅の山の月讀を二たぴ見むとわがおもひきや
 しかすがにわれ命ありてのぼり來し峽の大門《おほと》に雲はこごりぬ
(706) 鳴雷《なるかみ》は谷のしたよりひびき來て玻璃窓《はりど》ふるはすわがゐたるとき
 あかあかと明星が嶽もゆるとき平和のひびきここに聞こゆる
 たたずみてわがおもひ居りひぐらしのこゑの少くなりたることを
 棚のすみブリキの箱にかびふきて耳掻なども殘りゐしはや
 ここに住みし洋人いくたり移りぬとおもひめぐらす今日のひととき
 むらぎものわれの心の清くして一時《ひととき》あらばや山のこの家
 ねむの花たかだかと咲きにほひけり左千夫翁つねに愛《かな》しめる花
 
 
(707) 東京の空赤くなり見えしとふ話をききて心かなしむ
 たたかひのことを思へば心いたむこの山も五ケ年の空白にして
 白雲は中空《なかぞら》にしてひびくまで早雲山をおろして來たる
 秋たちし疊の上に居る蠅をわれに近づくまへに殺せり
 栗のいがまだ小さきが見えて居りそれに接して直ぐ葛の花
 月かげの疊のうへに射しくるを五年《いつとせ》まへのごとくに見たり
 丁寧に線路の草を取りのぞくこの作業をば青年がする
 道のべのうばらの花が香《か》にたちて人のをとめとむかふがごとし
(708) ややにして低く夕日のさし來るなだりの道を衰へてあゆむ
 谷ぞこにひぴきを揚ぐる山がはを十年《ととせ》のまへにわれは渡りき
 限りなく湧きいづる水は創世の世の外輪山をみなもととする
 
    鰻すら
 
 辛うじて中央街にいでくれば行くも歸るも老びとならず
 この部屋にいまだ殘暑のにほひしてつづく午睡の夢見たりけり
 われひとり下りたちくれば亂れがはし野分すぎたるこの庭のさま
 くさの香がいつになりなばこの野より無くならむかとおもはざるかも
(709) 銀杏がおびただしくも落ちてゐるみ苑をゆけば心たひらぐ
 ひと老いて何のいのりぞ鰻すらあぶら濃過ぐと言はむとぞする
 こほろぎの鳴く山中に吾は居り杉の木下《こした》を吹きとほる風
 萩の花いたるところににほへるが十一月までは保たずといふを
 
    歳晩
 
 春さむくわが買ひて來し唐辛子ここに殘りて年くれむとす
 平凡に冬至となりぬつきつめていたし方なき吾ならなくに
 返りごとするさへ吾はもの憂くて長らふる時に年ゆかむとす
(710) 香《かう》の物噛みゐることも煩はしかかる境界《きやうがい》も人あやしむな
 枕べに書物數册おきながら塵はかかりて一月は來む
 戀愛の小説ひとつ讀むさへや披るるときに年くれむとす
 北見なる七十三歳のわが兄は醫業をやめて年くれむとす
 今年《こんねん》は幾首の歌を詠みつらむみづからも知らず歳晩となる
 哀草果贈りくれし綿入われは著てあたたかき午後をりをり脱ぐも
 西方の基督教國の人々も新年めでたと葡萄の酒を飲む
 味噌汁は尊かりけりうつせみのこの世の限り飲まむとおもへば
(711) 老いといふこの現なることわりに朝な夕なは萬事もの憂く
 大石田の病このかたのねがひにてわれの來れる憲吉墓前
 こゑあげてわれ言はねどもつゆじもの降りゐる見れば涙ぐましも
 十年へてつひに來れりもみぢたる鴨山をつくづくと見れば樂しも
 新年號に歌つくるべくなりにけり四十年來の私《わたくし》ごとなれど
 おそらくはこの心境も空しからむわが食む飯《いひ》も少なくなりて
 くさぐさの事うかび來てねむられずアララギのことも過去になりたり
 さげすまるとも恐れず老いたれど貧しき時に長き息する
(712) もろびとのふかき心にわが食みし鰻のかずをおもふことあり
 置きざりにして來りたるものありと思ひいづれば京の夢ひとつ
 名古屋にてひと夜ねむりししづかさを問ふ人あらば語らむとする
 天に沁みわたり士に沁むごとし名古屋あかつきの佛教の鐘
 
    赤き石
 
 ひろひ來て佐渡のなぎさの赤き石われは愛しき空襲のした
 うち日さすところの岡は相模なる小野のごとくに曼珠沙華あかし
 その音はあるときにわが身に沁みぬ地下道電車の戸のしまる音
(713) 終戰となりかうべを俯して行きし高萱の野に霜ふらむとす
 今の代は古き勞働者《はたらきびと》ならずポンペイをか行きかく行き見れば
 夜半すぎて寐ぐるしくなる時のありさもあらばあれ息をしづむる
 予の知れる英雄にても今の代にいたし方なく運命の過剰を棄つ
 この山の草に住む螢の幼蟲も夜々にひかればかなしむわれは
 かへり打になりて果てたる物語封建の代の涙とどむる
 みづからの落度などとはおもふなよわが細胞は刻々死するを
 沈鬱なる日本のくにの一時間のがるべからぬこの一時間
(714) 罪業妄想といへる證状ありこの語は呉秀三教授の譯
 老いしわが眼《まなこ》よりながるる感涙もすでに他人に見しむるものならず
 新年にあたたかき餅《もち》を呑むこともあと幾たびか覺めておもへる
 
    旅路
 
 山みづの入りくる池に白き鯉かうべを並めて遊ぶを見れば
 朝なさな三朝川べにおりたちてひとを思へば心あたたまる
 たかむらの中ににほへる一木《ひとき》あり柿なるやといへば「應《おう》」とこそいへ
 いまの代に老いつつ吾は見つれども苔の深きはあはれなるもの
(715) 柿の葉の朱いろの一葉もち來りわがゐる疊のうへに置きたり
 山みづの清き流にゐもり住むゐもりの住むは人のためならず
 秋ふけし苔よりいづる山みづを遠き石見路にわれは見にけり
 二尺にも足らはぬ柿のその落葉からくれなゐに染まりてゐたり
 
    山口茂吉君へ
 
 夏のころより君を見ずけりしかすがにわれの心をあやしとおもふな
 新年にはやならむとす新年にならばしづかに君起きられよ
 勝浦に君ゐしときのことおもふその朝飯《あさいひ》もその夕飯も
(716) 食日記君の記せるをわれは見て仰臥漫録おもひてゐたり
 日をつぎてうまらに君の食《を》すきけば君の癒えむ日こころ待ちどほし
 短歌とは寂しき道か年老いていよよますますわが歌さびし
 つきつめておもへば歌は寂しかり鴨山にふるつゆじものごと
 わが生《せい》もひもじくなりぬこもりゐて人にうつたふるものならなくに
 
    芦角集へ
 
 朝な朝なわれの樂しむ汁の味噌を大石田なる君がおくりぬ
 最上川に住むうろくづもしろじろと雪ふるときはいかにかもあらむ
(717) しも河原に薔薇の實あかくなるころを幾たび吾はもとほりけむか
 馬橇も通らすなりて雪ふぶく大石田町をまたも見がほし
 戰犯の宣告ありしけふのよるひとり寐れば言の葉もなし
 
    無題
 
 あつぶすま著るべくなりて夜な夜なを幾たぴかわれしぴんを用ゐる
 わが友は皆ぎりぎりの生活をしてゐるらむと今もおもへり
 たひらなる心のまにまこの一日暮れてゆくとき直ぐ臥しどに入る
 人富みてゆたかになれる面相を牛馬見なばいかにか見らむ
(718) きさらぎにならば蕗の薹も店頭に出づらむといふ心たのしも
 外出より歸りきたりて沈黙す十二月二十三日の午後
 わが友の誰も彼も背いそがはし來よと呼ばむに言ひがてなくに
 植木やをやとふにしてもままならぬ時代《ときよ》になりぬここに老いつつ
 
    雜歌控
 
 言あげて祝ひまうさむ今日の契り常めづらしも常新しき 岩波高野兩家新婚賀
 春山に入り百どりのこゑ聞けばよみがへりこむ心とぞおもふ 御題「春山」
 とし老いしこの翁さへ歩み得る銀座街のひる銀座街のよる むく鳥印象記六首
(719) 獨占をしてはならぬといふごとく桃割のをとめここに一人立つ
 過去の世をうちたち切りて行かむとすこの街上に悲痛ひとつ無く
 むく鳥のおどおどし居るさまを見て樂しと言はば其時代善けむ
 運勢はかりそめならずわが國のこの新なる時にあたりて
 みちのくの山より來たり椋鳥が一こゑ鳴きていざかへりなむ
 あたらしく世のうごかむとするときに君が心にわれ寄らむとす ブラジル岩波菊治氏に
 みほとけの大きなげきのきはまりを永久《とは》につたへてひぴきわたらむ 長岡市西福寺梵鐘に
 汗たるる處とこそきけささげたる若きみいのちおもへば泣かゆ 安藤達三郎挽歌
(720) 樂しさをとはに傳へむ現なるそのひとときのにほひなれども 題冬青先生(小林勇)畫卷
 君さめて下りたたすらむこの庵のははそ木原に水の流るる 王堂畫伯偶庵即事(十一月九日)
 ジンメルの貨幣の哲學増刷しき人は模索の眞《ま》なかにありて 「梅雨」中の−首
 み苑生は疾風《はやち》ふきすぎわが大きみ秋の光にもとほりたまふ 皇居 病む人をみとる心はぬばたまのやみにさしくる光なるべし 山崎看護婦に
 おしなぺて人のいのちは樂しかりわれも否まじその樂しきを サンデー毎日のために
 さくら花咲き匂はむときほひたる春の光に女男の契りはや 高橋彌生新婚賀(四月七日)
 しも月の半とならば勅封のかしこき音を人忘れざらむ 正倉院にて
 
(721)  昭和二十四年
 
    波多禮
 
 まどかにも降りたる雪かためらはず降れるものかも今朝のはだれは 御題「朝雪」
 早春の寒き身ぬちに透れども血はすがすがしをとめ等をとこ等
 さむらひの少年といへど覺悟しき不意識に似たりとおもふその覺悟
 高山に日にかがやける雪ふりて日本の國はいやあたらしき
 有磯《ありそ》にて相呼ぶ千鳥のこゑきけば樂しくなりぬくるしみびとも
 
(722)    銀杏の實
 
 新年といへば何がなく豐かならずや銀杏などをあぶり食《は》みつつ
 老身よひとり歩きをするなかれかかる聲きけどなほ出で歩く
 いそがしく山陰道を旅せしにつはぶきの花すでににほひき
 わが眉も白くなりたれば地下鐵にひそむ時さへ氣がひけてならず
 けふ一日心おちゐて居りにけりヴイタミンの液も注射せざるに
 霜ふらむ時ちかみかもこの山にひよ鳥のこゑ多くきこゆる
 温泉《をんせん》のうしろの山に毬《いが》ごもり赤き栗の實おちたるも好し
(723) 藥物のためならなくに或宵は不思議に心しづかになりぬ
 いさぎよく霜ふるらむか鴨山がすでに紅葉せるその色みれば
 空襲に燒けざる京のゆふしぐれ堀川のべにわがゐたるとき
 旅賂よりかへり來りて老の身が獨り寐むとして眼鏡をはづす
 
    一月一日
 
 一月|一日《いちにち》しづかに寒きうらうらもの追はむとする衝迫ならず
 山茶花は白くちりたり人の世の愛戀思慕のポーズにあらすして
 ひと來りて待どほきこと言ふといへど停電のよる沈黙のよる
(724) なにゆゑにわれに迫るか知らねども初冬の雷《らい》のひぴきわたれる
 きはまれる果てとおもへど人の世の「惡」の肯定をわれは悲しむ
 予自身の心臓の音《おん》を聞くごとく冬の泉の湧く音《おん》を開く
 さしあたり吾にむかひて傳ふるな性欲に似し惰の甘美を
 ふきいづる火山の上にみづからの命《いのち》たたむとす苦しかるらむ
 朝のうち一時間あまりはすがすがしそれより後は否も應《う》もなし
 悲しみのみなぎりし大き戰を戯畫に過ぎずといひたるは誰
 年老いし翁はしづかにありなむをしづかに吾はありがてなくに
(725) 一樣《ひとざま》のごとくにてもあり限りなきヴアリエテの如くにてもあり人の死《し》ゆくは
 このひととき希《こひねが》はくはわが歌に人の固有名詞つひにあらしむな
 しづかなる天にむかひてひびかなむキリストの鐘も佛陀の鐘も
 
    新年
 
 あらたまる年のはじめに平和《たひらぎ》の心きはまりて飯《いひ》はむわれは
 床の間に簡素なる軸をかけにけり鶴の親どりとその雛どりと
 富士山を見れば新年の朝あけに雪かかむりて陳腐にあらず
 あめつちの新らしからむとする時に現身《うつせみ》も新らしからざらめやも
(726) 白雪のながらふる今朝のあかつきに新年《にひとし》きたるよろこぴの聲
 ほがらかにあらたなる代の新年を祝ぎてし止まむ力をこめて
 目をあげて日本國民性を見よ萬國平和のために立たむとす
 あかつきに聲のかぎりをあぐる※[奚+隹]このいきほひのごときにひ年
 いく藥つぎつぎに世にあらはれて老の稚《をさな》のいのち樂しも
 おしなべて革《あらた》まらむとするときにわが持つ力ためらふべしや
 くれなゐの梅のにほはむ春となり悲しき時代《ときよ》はやも過ぎこそ
 
    無題
 
(727) あたらしき時代となりてにひ年のそのあかつきに濁りあらすな
 めぐり來し年のはじめのいさぎよき心のまにましるしとどむる
 
    無題
 
 街頭にきたりてわれは悲しかり寫眞ニユースの一つを見れば
 新宿にはやく來ればデパートのガラス窓のそとにこがらしが吹く
 かぐのごとく萬人が萬人くるしみぬ西ヨウロツパの國も然るか
 午前二時飛行機すぐる音のしてわれの眠りはやうやく淺し
 日々のいのち淡々《あはあは》としてある時にわがまなかひに見えくるは何
(728) もの干の竿にかけたる一つらのむつきの影が斯く動きけり
 机のうへに伏せたる朱硯が年越えていまだその位置にあり
 新風の歌會に行きて禁煙の説教したること想ひいづ
 
    山塊のために
 
 月山に雪ふりしより荒びたる幾日《いくひ》かありて春たたむとす
 あたらしく生れいでたるごとき雜誌しみじみと見つ老いぴと吾は
 あひともに人勵むとき最上川にひそめる魚もさをどるらむか
 通俗の意味あひつけて末梢にこだはるなかれ君の雜誌は
(729) いづくにか君ゆき著かむひとすぢに歩みいでたるこの遠き道
 
    無題
 
 活動をやめて午前より臥すときに人の來るは至極害がある
 生活を單純化して生きむとす單純化とは帥ち臥床なり
 蚤めゐぬ晝の床にて臥すわれを幸福の極とみづから言はむか
 不可思議の面もちをしてわが孫はわが小便するをつくづくと見る
 あひたしと思へる友が來ずなりてけふも日すがら諦めて居り
 わが庭の紅梅の木に朝まだき鶯來啼くもあはれならずや
(730) わきいづる清きながれに茂りたる芹をぞたびし食《を》したまへとて
 高山にのぼりしこともありしかど年老いていまだ雷鳥を見ず
 
    無題
 
 人に害を及ぼすとにはあらねども手帳の置き場處幾度にても忘る
 牛《ぎう》の肉|豚《とん》の肉をも少し食ふ人に贈らるるかたじけなさに
 まだ止まぬはだれを見れば信濃路に岡麓うしいかにかいます
 わが顔に浮腫あらはるる時ありて朝なさな孫よりも遅く起きいづ
 東京に歸りて二年《ふたとせ》に入らむとすうすくれなゐの梅咲く見れば
(731) をとめ等が匂ひさかえてとどまらぬ銀座を行けど吾ははなひる
 電燈は今宵もつかねど不平いふ暇《いとま》もなし忽ちにして床に入る
 わが生《せい》はかくのごとけむおのがため納豆買ひて歸るゆふぐれ
 
    三年味噌
 
 山形のあがたよりくる人のあり三年味噌を手にたづさへて
 子規居士は長き病に臥しながら蚤の記事こそ尠なかりけれ
 からうじて今日の一日も過ぎけりと思ふことありさびしきむのを
 ねばるちふ手法を用ゐ日もすがちわれに迫りてものいふ人はや
(732) 俗にいふ畢丸《きんたま》火鉢もせずなりてはや三十年になりにけるはや
 ミユンヘンのヒルレンブラント媼《おうな》をも忘れむとしてわれは老いたり
 やうやくに心賢くなるころと嘗ては吾もおもひたりしか
 どくだみのこまかきが庭に生えそめぬ人に嫌はるる草なりながら
 
    老殘
 
 老殘を退屈ならずおもへども春川《はるかは》の鯉みむよしもがも
 けふも亦外出をせずこもり居り春になりぬとひとり言いひて
 まづしともおもはぬながらをさなごは破れし服を著て歩みけり
(733) 山もとに生ふる蕨をもらひければはやはや食はむわれひとりにて
 あざやかに行進をする外兵を立ちて見にけり三十分間は
 
    冴えかへる
 
 老身の吾といへどもしづかなるめざめとなりて石の上冴えかへる
 齒の手入あらためてせむとおもひたち寐《ね》しかば夢二つばかり見たるかも
 いくたびか寐がへりをしてやうやくに午前三時になりゐたりけり
 われの住む代田《だいた》の家の二階より白糖《はくたう》のごとき富士山が見ゆ
 この道のゆききにわれの見て過ぐる華鬘《けまん》牡丹は常にかなしも
(734) とりよろふ天《あめ》の香久山にをとめ率てのぼりたりけむいにしへおもほゆ
 神經の太き彼等もへとへとになり居るらむかハンブルクにて
 せまりくるその樂しさよ子規居士の草花帖を人に借り來て
 
    哀草果君に
 
 六十にやうやく近き朝よひにためらふこともありといふはや
 よもすがら君安寐すといふゆゑにうまらにか食す朝の麥飯《むぎいひ》
 青梅の實の落ちゐたる下蔭にいくたぴか行きし疎開の時は
 金瓶の村の川原にうづくまりゆくへもしらずもの思ひしか
(735) おのづから疎開の記憶うすらぎて蚤の少なき床に臥し居り
 
    鍵
 
 さまざまの工夫をしたる鍵ありて諸國の町に運ばれてゆく
 大國《だいこく》の山水の圖に出で入るはみな翁にて女の香なし
 わが家に隣れる家に或る一夜《ひとよ》やむに止まれぬ野犬子を生む
 たよりなきものを思はずいきいきと銀座街上の光を吸ひて
 ※[奚+隹]《にはとり》を闘はしめし緊張も一夜《いちや》あくればこころ茫々
 看護婦の一群ありて相なげき生《せい》を捨てむとしたる短き記事
(736) わが家をいでて一時間にもなりたるか中央術に騎馬巡査ひとり
 こもりゐて糊をねりたり北窓の風を防がむこころになりて
 Schonbrunn にわが行きしとき一しきりこがらしの美に入りてゐたりき
 ひる寐ぬること警しめし孔丘は七十歳に未だならずけむ
 春雨の降りつぐけふを晝いねて心のこりも吾なかりけり
 いつしかもサンマ・タイムになりゐたる代田の空のありあけの月
 目のまへの賣犬《ばいけん》の小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ
 蚤のゐぬ夜の臥處は戰爭のなき世界のごとくにて好し
 
(737)    幸福
 
 わが庭に鳴ける蛙を愛すれど肉眼をもてその蛙見ず
 幸福がつぎつぎにわれに近寄るとおもふことあり君に言はねど
 朝々に納豆を買ひて食むこともやうやくに世の囘復のさま
 おのづからのことなりながらこの世にて老いさらぼはむ時ちかづきぬ
 秋田あがた山形あがたの納豆をおくり來りぬ時には汁にもせよと
 地下鐵もストライキなりと云ふゆゑに穴ごもるごと吾は家に居り
 けぶりたつ淺間の山の麓にてをだまきの花見つつか居らむ
(738) 線路こえてわが稚兒《をさなご》をあそばしむをさな兒ときどき坂きほひくだる
 
    熱海
 
 南洋のくににめばえし遺傳もてさぼてんの花手をひろげ見ゆ
 藤波の花のふふまむころほひに伊豆の熱海に蚊のこゑきこゆ
 白壁にうすべり一枚たてかけあり清められたる廊下をゆけば
 熱海より氣温うごきてたまくしげ筥根の山につつじ咲くころ
 夜もすがらおもおもとせる海のおとわれのねむりの枕にきこゆ
 
    岬
 
(739) 海と陸《くが》はかたみに象《かた》をなせりけむ岬のむかうに又岬あり
 かもめ等の飜り飛ぶさま見るもわが生涯の一ときにして
 麥の秋に近づくらむか麥飯をくはずしばらく我は過ぐれど
 たまたまに農の家よりいでてこし猫がわが乘れる汽車見てゐたり
 命終《みやうじゆう》に際して予の歌集あらたまを撫でたりと聞き涙ぐみたり
 
    濯足
 
 濃厚の關係にある面相に熱海の道をつれだち歩む
 最上川海に入らむとする時の波うちぎはの砂しおもほゆ
(740) 櫻桃の花白く咲く頃ほひを哀草果らはいかにしてゐる
 最上川の渦にて足を濯ぐとき心は和ぐと今もおもはむ
 この童子の聲樂を聞くたまゆらは善の力を呑込むごとし
 
    黄蝶
 
 黄蝶ひとつ山の空ひくく飜へる長き年月《としつき》かへりみざりしに
 朝の蝉むらがり鳴くをわが聞けばたたかひし世の時おもひいづ
 生きながら果なき歌を發表す行くもかへるも見ぬふりをせよ
 いぬる前におそるるごとく入浴す月あかく差す夜などもありて
(741) 箱根なる強羅の山にひとり臥しひとり寂しきおもひをぞする
 
    檜あふぎ
 
 わが生きし嘗ての生《せい》もくらがりの杉の落葉とおもはざらめや
 よるの犬長鳴くきこゆ箱根なる強羅の山にめざむるときに
 おのづから老いて來れるわれながらをさなき孫をおもひ浮ぶる
 この家の雨の沁まざる軒したに殘りてにほふ檜あふぎの花
 青山のはれたる朝を家いでてわが見るときに心しづまる
 
    強羅雜歌 【昭和二十四年七月十九日より】
 
(742) たたかひのをはりたる後五年にて強羅の山の入りがたの月
 かの夜《よる》に電燈のうへ蔽ひたる黒き紙いまだも殘り居りにき
 東京のあつき日ざかりのがれ來て強羅の山に老い呆けむとす
 山家なる庭に穴ほり玉葱の皮など棄ててわれ住みはじむ
 雨どよに積りし松葉のぞきけりあつき日に山にのぼり來りて
 わが次男に飯を焚かしめやうやくに心さだまるを待ちつつぞ居る
 トマト賣りに來し媼あり今朝あけがた村を出でぬと笑みかたまけて
 今ゆのちいくばく吾は生くらむと思ひつつ三島の納豆買ひつ
(743) をさな等の蝉とりに來る行ひも今日の日にしてあなうるさうるさ
 人の世のうごきのさまをかへりみむ暇《》も無みと山ごもりけり
 よもすがら音せし風のさびしさを思ひながらに朝寐をぞする
 青き山ふりさけ見つつその山の薄なみよるさま遠きかも
 平凡に日は暮れゆきて山なかのいほりの壁に馬追鳴くも
 のぼり來て十日を經たる山の庵《いほ》に道ゆく女《をんな》のこゑの聞こゆる
 鳴りひぴく正午のサイレン氣にとめむ機《をり》としもなく新聞を讀む
 かくのごときわが生活を輕蔑すさもあらばあれおそく起きいづ
(744) たたかひに外國兵の用ゐたる:uel-Tabletをわれも用ゐる
 夜な夜なに十年《ととせ》もちゐしわが便器のこりゐたるを目守りもぞする
 十餘年たちし鰻の罐詰ををしみをしみてここに殘れる
 わがよはひやうやくふけて箱根なる強羅の山の道をこほしむ
 あたらしく耳掻買ひて耳を掻くふるぶるしくなりて毛の生えし耳を
 オトシブミといふ昆蟲の翅の色その紅色《こうしよく》はいかなるものぞ
 のがれ來てわがゐる山のむかうには一種のイヂオロギーがをどるをどる
 昭和十六年用ゐしハリバ軟膏が引出のなかにのこりゐたるを
(745) 朝の蝉むらがり鳴くを聽くときにさきがけらしく鳴くこゑのあり
 日に三たび或は五《いつ》たび鳴くこゑのそのもろごゑの蝉を愛する
 あひともにもろごゑに鳴くひぐらしを本年《ことし》も音は聞きゐたりける
 このこゑが九月に入らば稀になるその運命《さだまり》もわれはよく知る
 ひぐらしがもろごゑに鳴くその間《ひま》に油蝉のこゑまじりてぞゐる
 ふかぶかと苔の蒸したる青き石われは踏みにき強羅の山に
 ダイナマイトしきりに聞こゆ向山《むかやま》の巖くだきて道は通はむ
 強羅いでて沈黙の谷にわれ隱る誰もゐぬ日よくもりたる日よ
(746) 大石田おもひすごせば幽かなる木天蓼《またたび》の花すぎにつらむか
 吹きいづる大涌谷《おほわきだに》の衰へてながれのすゑに石のあつまる
 けふ一日老いたるわれの渡り來し強羅の山の黒き石あかき石
 朝飯《あさいひ》をすまししのちに臥處にてまた眠りけりものも言はずに
 あぶら蝉こゑのあつまる時ありて間もなく「立秋」にならむとぞする
 韓人と折衝をして疲れたり年老いてよりわれかくのごとし
 くろぐろとしげれる杉のしたかげにいまだも清き未通女《みつうぢよ》のこゑ
 茄子うりに來し媼より茄子を買ひ心和ぎつとたまたまおもふ
(747) 夜な夜なに胸のあたりがいきぐるしこの世の果にわが來しごとく
 わが歌を清書するさへものうくてきのふも今日もなげやりにせし
 あぶら蝉杉の木膚をいだくときそのたまゆらを目守らむとする
 深夜には物の音《と》すでに絶えゆけば堪へがたきほどになるときがある
 小島《せうたう》に禁錮刑にていまも臥すペタン元帥のよはひ九十五
 八月二日ゆふまぐれみんみん鳴くただひとつ鳴く入日にむきて
 竹行李くふ昆蟲のひそめるをつひに捕へて保護しつつあり
 桃郷《たうがう》の桃といひつつ君たびぬ紅《あけ》のとほりてきはまりけるを
(748) 野いちごを摘みつつ食ひぬ七十に近き齢にわれはなれども
 黒どりの羽のおちゐるをひろひたる東京の友にこにことして
 少年の時せしごとくかがまりて路傍のいちごつみ取りて居る
 小塚山去年見しよりくろぐろとつやだちたりとわれ感じけり
 大工らの爲事やうやく濟みしころ驛のまへにて太鼓きこゆる
 山の家に朝の光のさしくれば塵こそをどれ數いく億萬
 ひとつ雷《らい》山を過ぎたる夜《よる》あけて吹く風すずしわがころもでに
 ねむの木の枝にすがりて光りたる山の螢はあなめづらしも
(749) 夜ごとに部屋の燈火に飛びてくる昆蟲あまた疊の上ありく
 この山のあかつきおきに一しきり止みがたきかなや蝉のこゑする
 あらあらしき植木屋のこゑ聞こえくるこのわが庭をけふも惜みつ
 明星が嶽のいただきに火を焚きて青年こぞるその炎のいろ
 十時過ぎて山を出でたる月よみの落ちゆくころはあけがたならむ
 夏の夜に演奏をする樂人の Apathie の面貌も一種の品《ひん》
 山道の土に下りたつシホヤ虻たちまちにしてまた飛びあがる
 山鳩も近く來啼けるこの山の秋の空氣をしばし感ずる
(750) 明星の山に燃えたついはひ火を庵をいでてひとり見に來し
 をさな等は三日とまりてけふの午後はやも東京に出發したり
 熊蝉のひとつ聞こゆる山の木の下かげとほるわれは老いつつ
 この山に秋たちてよりあらくさの草むらなかに螢ひかりぬ
 ひぐらしのこゑのむらがるゆふまぐれこの山の家に身は老いてをり
 灌木にひかる螢の幼蟲も成蟲になるときは近けむ
 たたかひのはげしきあひだ飼はれゐて生きのこりたる猿蠅を食ふ
 うつせみの睦みものいふごとく鳴く鴉のこゑが臥處にきこゆ
(751) さ霧だつころとなりける強羅にて氷食はむと吾はおもひき
 時によりひとりさびしく聞きにける箱根強羅のこほろぎのこゑ
 ゆくりなくみみず出で來ぬ然れども彼の行方を求めむともせず
 焜爐の上に藥鑵ぽつねんとかかりたるわが住む家はあはれ小さし
 あぶら蝉杉の膚に鳴きそめてをはりの聲にいよよ近づく
 晴れに向ふ雲のゆくへを樂しまむ秋のはじめに家ごもりをり
 五日まへ焚火をしたるあとありてかすかなるかもよわれの住ひは
 あぶら蝉鳴きゐるこゑもにくからずわれと汝《なれ》とのなからひのごと
(752) 山の巖爆破をする音きこえそこはかとなく夕ぐれむとす
 草なぎて汗いだしたる老の身のはかなきさまを知るや知らずや
 烏賊賣りに人來れどもわれ買はず二十年間魚賣りに親しみなく
 嶺こえて雲くだりくるゆゆしさを今年も見たり來む年も見むか
 透明に鳴くこほろぎのしき鳴くに強羅の月は照りわたるなり
 宮城野の村に夜な夜な鳴く犬の長鳴くこゑはこよひ聞こえず
 夏山にひたぶる沁むる雨のおとゆふまぐれとぞなりにけるかも
 山の空にあかがね色の雲のこりいまだ定まらぬ世のかなしみか
(753) こほろぎのそばに馬追鳴きしきりこのありさまも戀しきものを
 年老いてわれの心をしづかにす石のひまに居る月夜こほろぎ
 われひとり早寐入りしたりしさ夜ふけて氣味わるき迄しづかになりぬ
 くろつぐみ朝々おなじ木立より鳴くを聞ければ心さびしゑ
 小さなる山家の中に住む吾はたまたま※[口+歳]《しやくり》してゐたりける
 ひと日ひと日なすべきわざの定まりも今はなかりけり老いつつもとな
 四十日ここにこもればあな果なカバンの明けかたも時々わする
 苔むして青くなりたる大石のそばに來りてこころいたはる
(754) やうやくに足を馴らすと小公園にけふも來りて猿みてかへる
 大石のうへに草生ふるころとなり菊科の花が一つにほへる
 わが意識やうやくに明かとなりて目ざ為し後の午前二時の雷《らい》
 谷へだてて向ひの山に木々うごくその波動をも次男と二人見つ
 ゲエテ生誕二百年の記念會小學生も時にまじりて
 妻ごみに君ゐる岡の家居には潮《うしほ》のおとを常に聞くとふ
 月の夜に馬追のこゑ透りしが九月になりて空さだめなき
 八月も今し盡きむと山家《さんか》なる雨のゆふぐれ次男炊事をする
(755) ひとねむりせし老の身が目をあきて寂しくなりぬ山の夜のあめ
 わが六十八歳の夏一山の木々がひびきて二百十日前夜
 ヴオルヒーズ陸軍次官の入京を寫眞入りにて今日ぞ報ずる
 同學の杉田直樹の死したるはこの老身《らうしん》いなづまに打たれしごとし
 便所にて生れたる蚊のこゑするを箱根の山の蚊とおもひ聞け
 小さなる山中《さんちゆう》の家きのふより雨みだれ降れ家うごかして
 山にふる豪雨のなかに地震あり氣づきたりとおもふその時にやむ
 蝉のこゑ全《また》く斷えにし雨の山の小さき家にわれは眠れる
(756) 海外のことに及べばルマニアの國境線に戰車群れつと
 豪雨ふる山の家にて炭火ふくわが口もとを次男見てゐる
 ひといきに杉をゆるがし吹ききたる疾風《はやち》の音ぞ北へむかへる
 二百十日の前日にしてくすしくもこの外輪山にあふれみなぎる雨
 次男と二人よひはやくより寢《いね》むとす電燈つかぬ一夜《ひとよ》の山の中や
 雨もりがところどころにせしゆゑにバケツを當ててそのままに寢る
 ともしびをつけむ方法も無くなりてキテイ颱風荒れに荒れくる
 秋山に鳴くこほろぎを年老いしゲエテも聽きしことなかりけり
(757) 颱風のなごりあらあらしく殘りゐて濡れたる壁を今もしらぶる
 蚊帳つりて蠅をふせぎしいく日かあなあわただし九月になりて
 滿月は杉のあひだにかがやきて強羅の山にわれはまだ居る
 杉の秀より一尺あまりへだたりてこよひ月讀の光まどかなる
 昭和十九年以來の鎌をさがして研ぎはじめたり草を薙がむと
 豚《とん》の肉少し入れたる汁つくりうどん煮込みたり娘とともに
 身に沁みてわれに聞こえぬほど近く強羅山莊にて釘を打つおと
 リヒアルト・シユトラウス南獨ガルミツシユにて歿す九月八日
 
(758)    秋はれ
 
 山塊のために五つの歌を作らむと日くれしかども一つも出來ず
 秋はれの空にはじめてけふなりぬ豫期せざる客六人ばかり來て
 すこやかにありや否やと金瓶の十右衛門のことおもふ日のあり
 大石田ながらふる最上の川波のさやけきころとなりにつらむか
 われひとり山形あがたの新米《にひごめ》を食ふよしあらば食はむと思ふ
 
    靜心
 
 代田に住みて月のかがやきをふりさけしその一たびもおぼろになりぬ
(759) 時としてベルリン郊外のワン・ゼエにも心の及ぶ老人《おいびと》われは
 單獨に外出すなといふこゑの憂鬱となるけふの夕ぐれ
 エドワルド・フオン・ハルトマンの葬※[歹+斂の左]に彼に感謝せる人の名も知る
 戰後派の一首の歌に角砂糖の如き甘きもの少しありたり
 
    蠅
 
 一人にて坐る机のまへにして蠅とびくればあなうるさうるさ
 秋の丘に整理されたる畑あり黒きにとなり大根の列青々
 硯の中に黒みづのかたまりが老いたる人の憂ひのごとし
(760) 大政治家まがひの面持するもよし細君などに自慢するべく
 好山《かうざん》が朱泥のごとき色となり遠く遙かになりてゐたるを
 
    無題
 
 一年《ひととせ》をかへりみすれば茫としてこの一年は短きごとし
 ねぐるしき夜々《よよ》つづきしと思ほゆるこの一年をふりかへり居り
 歳末に今年もなりぬ十和田湖のもみぢ紅きをつひに見ずして
 平凡に過ぎしがごとく見ゆれどもねぐるしかりしこの一年ぞ
 ねぐるしといふは不眠のためならずわが腎臓もやうやくよわく
 
(761)    雜歌
 
 新しき時代たふとくけふの契りいよよたふとく酒のみ祝がむ 佐藤嘉一氏新婚賀
 ひめあやめの細《こまか》き花のそよぎさへ君が目にしもかりそめならず 和辻照子夫人歌集序軟
 常なしと移る世にしてとことはの言のまことをここにとどむる
 たたかひのさ中にありて春寒く山茱萸の花もめでますものを
 ゆたかなる牡丹の花の咲くころとなりにけるかも日ねもす眠し 「鍵」中の一首
 世界こぞり湯川博士を讃ふるを同胞のわがうれし涙いづ ノーベル賞
 ゑだくみの聖はたふとうつつなるみいのちながしいよよさやけく 川合玉堂先生喜壽賀
(762) 君の學いよいよふかくかがやきて共にミユンヘンに居りし日思ほゆ 西村資雄氏
 うつせみのこの世にありて不思議なる光を放つ歌のかずかず 伊藤保歌集仰日序歌
 全集の第一囘配本成就して世のもろもろの心は滿ちぬ 露伴全集第一囘配本祝宴(六月十五日)
 みいのちはいよいよ長くみいさをし永久《とは》にかがやく今日の樂しさ 【三浦謹之助先生文化勲章受領】
 
(763)  昭和二十五年
 
    好新年
 
 明日《みやうにち》は好新年《かうしんねん》と口ずさみ孫の来しあと直ぐ臥處に行く
 家ダニが蜘蛛類ならばわれの撒くDDTも甲斐なからむぞ
 われつひに六十九歳の翁にて機嫌よき日は納豆など食む
 日本《につぽん》の神は China 國の神ならず宣長は一生《ひとよ》かくも言ひにき
 最上川あふれむとする壯大を今後幾たび吾は見らむか
 
(764)    新年
 
 新年はめでたやめでた生れ來て命あるまは祝ぎあはないざ
 苦蟲をつぶしし如き顔のもち主もゑみかたまけて餅《もちひ》をも食《は》む
 ほがらほがらわれの心に沁みわたるヴアイニング夫人の「皇太子殿下」
 颱風になやまされたるこの家の屋根にも白き霜みゆるころ
 をとめ等のみづみづとして清きときこの國がらもやうやくに「新《しん》」
 
    新春
 
 新春が來りてこぞりことほぎぬ老いたるわれもまじはり行きて
(765) うつせみの老の心をはげましてよき歌一つわれは作らな
 歌つくりはじめてより四十年過ぎにけり幾首の歌が後に殘るか
 あたらしき年きたれりともろもろが喜びかはすあやしきまでに
 みちのくより百合の根をわれに送り來ぬ大切にしまひ置きたるものか
 
    無題
 
 新しき年のはじめの朝めざめ生きとし生けるこころはげまむ NHK放送
 生けるもの鳥けだものもわが如く心すがしく聲あげむとす
 新しきうづの光を身にあびてとどこほるものを遣《やら》はむとする
 
(766)    師子
 
 奈良の代に用ゐられたる伎藝面師子《ぎげいめんしし》のかうべはおどろくばかり
 川原よりひろひ來れる黒き石われの心をしづかならしむ
 人まへに吾は恥かし老いびとの心ますます下等になりて
 この小路《こうぢ》に糞尿はこぶ馬居るをとほりかかりてあやしと思はず
 紅玉のごとくににほはむ眞をとめこの老人に來らば來れ
 
    朝どり
 
 新年《にひとし》のあさあけにして朝鳥の心たひらかに出でたたむとす
(767) 海濱より運びきたれる砂なるか砂は東京の陸《りく》におろさる
 場末をもわれは行き行く或る處滿足をしてにはとり水を飲む
 そのうれひ深くしづみぬうす光大理石より反射するとき
 萬國に新年《しんねん》くれば祝がむとす帽子の塵にブラシをかけて
 
    ひもじ
 
 この身一つさへもてあますことのありある時はわが胃ひもじくもとな
 朝食をすましたる後におもひいづ昨夜地震のありたることを
 輕蔑せちれたることと知らずして地下鐵の中に大き聲あぐ
(768) 淺草の觀音堂にたどり來てをがむことありわれ自身のため
 この現世《げんぜ》清くしなれとをろがむにあらざりけりあゝ菩薩よ
 
    象
 
 新年にいよいよなれるこころよさ霜とくる音ちかく聞こえて
 藁の上に寢てゐる象の寫眞あり日本のくにの動物園にて
 永世樂土、永遠童貞女、永遠囘歸、而して永世中立、エトセトラ
 アルブレヒト・デユーレルが一五〇〇年に描ける青年ひとり
 一月になればなべての人は樂しくて狂者のむれもしばし怒らず
 
(769)    年のはじめ
 
 かにかくに年のはじめになりぬれば晝にわれ臥して心をやすむ
 冬の日の正午を過ぎて東京の開閉橋のこなたに居りぬ
 魚《うろくづ》は一つも居らずなりたりとわれひとりごつ廢園の池のみぎは 「大口の眞神」といへる率直を遠き古代のひとが言ひつる
 年老いてはじめて吾れの渡りたる用水の急流にうづまき聞こゆ
 
    蜜柑
 
 あたらしき年のはじめに年ひとつとりぬと思へば喜ぶわれは
(770) 店頭に蜜柑うづたかく積みかさなり人に食はるる運命が見ゆ
 よぼよぼとしてわが訪づるる内苑の孟宗竹林に風のおとする
 やうやくに落葉つもりて居りしかどこれより奥は人入りかねつ
 孫ふたりわれにまつはりうるさけど蜜柑一つづつ吾は與ふる
 
    題月ケ瀬
 
 梅が香のみなぎりわたる朝ぼらけ青年《をとこ》のわれのこころ爽々《さわさわ》
 をとめらの心きはまりてこの朝や白梅の花に飽かで止まめや
 
    陽春
 
(771) 三月の木《こ》の芽を見ればもろもろのいのちのはじめ見る心地して
 あかつきの衣手いまだ冷ゆれども心熟するゆふまぐれどき
 收の馬いばゆる聲のきこえくる三盡にわれ山越えむ
 
    山口茂吉君に
 
 ここに集ふ君が門人のゆくすゑをわれは樂しむもだして居れど
 おのづから業《げふ》は仲間をつくるとぞ西方《さいはう》の人かくも言ひにき
 身みづから飯《いひ》をかしぎて命のぶる人あるものを何かかこたむ
 いにしへの優《すぐ》れし人のしりへより禮拜《らいはい》をして年老いむとす
(772) 朝鳥の高鳴くころに起きいでてそのこゑ聽かばおもひあがるな
 
    夕映
 
 ゆふまぐれ雨ふりくれば東京の築地界隈のもの音を聞く
 聖路加病院のまへの堀割の水あきらかにあげ潮のとき
 すみた川の川面《かはづら》の上にかたまれる感慨ふかき古雲《ふるぐも》も見ゆ
 かくのごと休らひゐたる鳩のつれ開閉|橋《けう》の下より飛ぶも
 築地のかたへ來りて歩みとどむ三十分にても安間《あんかん》の氣味
 園いでてかへりて來ればいちじゆくの熟せる果《このみ》の觸覺あはれ
(773) みづからの作りし歌を賣りにゆく消なば消ぬがのその歌ひとつ
 活動は戰爭のためのものならず勝鬨ばしの名をとどむれど
 かにかくに吾の齢も年ふりて萬年青の玉にしぐれ降りくる
 冬の日の布團の中にひそまりて短き安息を惜しみてゐたり
 ひとりゐておもひなやみも無くなれと念じつつ居るおふけなきかなや
 春風がたえまなく吹き蕗の薹もえたつときに部屋に塵つもる
 過ぎゆきし佛教にても或るときのさんげの快《くわい》はしたたるごとし
 孫ふたり下の部屋にて遊びけり炬燵やぐらより飛ぶ音ぞする
(774) 戀愛はかくのごときか本能もなよなよとして獨占を欲る
 地下鐵の終點に來てひとりごつまぼろしは死せりこのまぼろし
 片づけぬくくり枕より蕎麥がらが疊のうへへ運命のこぼれ
 忠犬の銅像の前に腰かけてみづから命終《みやうじゆう》のことをおもふや
 臥處には時をり吾が身臥せれども「食中鹽なき」境界《きやうがい》ならず
 ゆふぐれのくれなゐ見ゆる東京の家の二階にわれは老いにき
 抒情詩にこころ沁みつつみづからの老身《らうしん》のために道を求めず
 そのかみに峰より峰につたはりしながき狐火が無くなり居りき
(775) 一言もいふこともなく床ぬちに「年ふりにたるかたち」入りぬる
 この日ごろ世に交はらむ事絶えてひとり言さへ少くなれり
 斷え間なき世の動搖の通信に疑問いだかばののしられむか
 をさな兒と家をいでつつ丘の上に爽《さわ》やぐ春の香をも欲する 
 千葉縣より戀のこころに告げていふきさらぎ空に雲雀啼くとぞ
 きさらぎの五日|天《てん》より雪ふりてはだらの名殘いまぞとどむる
 ときとして思ひ出《で》ることも淺薄にひとり寐の冬のあかつきはやく
 
    朱實
 
(776) をさなき兒ものいふ聞けば樂しかり人の世の「まこと」の始まりなるか
 午前より臥處に入りて寐てゐしがゆふぐるるまで四五たぴ目ざむ
 圓柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先きいろいろの事があるらむ
 わが生の途上にありて山岸の薔薇の朱實《あけみ》を記念したりき
 氣味わるき夢をまた見つわれ老いて爽々《さわさわ》とせむ頃ほひなれど
 たかむらを透きて見え居る西のかた夕染《ゆふそ》め空にあこがれむとす
 わが日毎老いつつあれど近々に目に浮びくる大理石モーゼ像
 龍のおとしごといふ魚《うを》の族あり海濱の沙などに落ちてゐる
(777) われ老いて涙ぐましく來りけるかなや「軍用動物慰靈之碑」まで
 ミユンヘンの Waschlappen いつまでも使はず老いぬ疎開にも待ちゆきて
 一月の二十一日深谷葱みづから買ひて急ぎつつをり
 肉體の衰ふるとき朝食後ひとりゐたるがものおもひなし
 友をれど言問もなく身のまはり空しくなりて二時間あまり臥す
 節分の夜ちかづきて東京の中央街に風のおとする
 籠の中の蜜柑をひとり見つつをり孫せまり來む氣配もなきに
 冬至より幾日《いくひ》過ぎたるころほひか孤獨のねむり窗の薄明《はくめい》
(778) ひとり寢の清《さや》にありなむこひねがひ銀座を過ぎて今かへりこし
 
    雪ふぶき
 
 わが孫もわれもひと時よろこべと一月十日雪ふぶきせり
 教室もち助手多くもてる有樣を我國にてもわれは見たりき
 いへごもり吾は居りつつ致し方なし果なき歌も大切にする
 捕鯨船とほく南氷洋に行きたるが今や歸らむ時ちかづきぬ
 辛うじて不犯の生を終はらむとしたる明惠がまなかひに見ゆ
 
    葱
 
(779) 下仁田の葱は樂しも朝がれひわが食ふ時に食み終るべし
 雪ふりし次の日われは家をいづ太陽の光まともにうけて
 つくづくし萌ゆる春べと誰も率ずひとり行きけむ時しおもほゆ
 金欲しと日もすがら思ひ夜もすがら思ひしかども罪のごときか
 ためらはず雪ふるさまがこころよし一月十四日ひるが過ぎても
 
    馬
 
 蕗の等味噌汁に入れて食はむとす春のはじまりとわが言ひながら
 をとめごのにほはむ時に諸國《もろぐに》も榮えとほりぬ人つ諸國
(780) 日本橋ひとり渡れどおのがじしほかの人らもわたりて居るも
 見いでつる石見のくにの鴨山にはだらの雪がいま殘るとぞ
 いまさらに他《ほか》の往還ゆかずして銀座|十字《つむじ》を荷の馬とほる
 
    ゆく春
 
 わが庭の梅の木に啼くうぐひすをはじめは籠の中とおもひき
 肉體がやうやくたゆくなりきたり春の逝くらむあわただしさよ
 青梅の空しく落つるつかさには蟻のいとなむ穴十ばかり
 櫻桃の花白妙に吹きみだれここの部落にわれは行きつく
(781) 左背部に二週このかた痛みあり藥のめどもなかなか癒えず
 一顆の栗柿にてもわが胃にてこなれぬれば紅《くれなゐ》の血しほになる
 孫太郎蟲の成蟲を捕へ來て一日《ひとひ》見て居りわれと次男と
 戀愛のこよなき歌をつくり居る人ありしかど遠ざかりぬる
 くれなゐの梅のふふまむ頃となりおのもおのもに心のべこそ 「白埴」のために
 きも向ふ心のまにま生きむとすをとめの伴もまじはり來り
 友ら皆心きほひて集ふとき永久《とは》に殘らむ象徴もあれ
 
    内鎌
 
(782) 内鎌《ないがま》におき臥しいまし二月《きさらぎ》も既に過ぎつとここに思ふなり
 からたちの素朴の花をあはれがる空襲のあとにわれは來りて
 かくのごとき歌を作りて人皆に示さむことし涙ぐましも
 衰へしわが身親切をかうむりぬ親切はひかりの滿ちくるごとく
 おのづから日が長くなり度忘れを幾たびもして夕暮れとなる
 
    黄卵
 
 睡眠の藥を飲まず臥たりしがあかつきは夢を見ながらねむる
 黄卵《わうらん》を味噌汁に入れし朝がれひあと幾とせかつづかむとする
(783) この年ごろわれは以前の如からず陸橋の下を歎きてかへる
 傳はりくる世界ニユースの流動に神經ふるふ老いし神經
 冬粥を煮てゐたりけりくれなゐの鮭のはららご添へて食はむと
 夏山に孫と二人が相對す孫は夏山に何ゐるかを知らず
 朝起きの鴉のこゑを聞くときは心はしばし透きとほるほど
 洞窟の中にとぼれる太き蝋燭よ聖者ひとりねにねる時に消ゆ
 
    晩春
 
 並槻《なみつき》の若葉もえいづるころとなりこの老びとは家いでてくる
(784) 七年《しちねん》の時は過ぎつつあやしくも森なかの榧の木に見おぼえあり
 眞少女《まをとめ》のうしろを吾は歩みゆく銀座鋪道のゆく春にして
 曉の薄明《はくめい》に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの
 内苑の木立のなかにほほの木の若葉の色やしたたるがごと
 この國士を終焉の地としてシユテルンベルヒさん逝く國士は晩春
 宗達が描ける山歸來に鳥が來て山歸來しなひ動けるところ
 家ごもう中央街にゆかざれば眼鏡かくることほとほと無し
 
    無題
 
(785) わがために夜の汽車にてもて來たる秋田の山の蕨し好しも
 二たびは見ることなけむみちのくの田澤の湖《うみ》をわが戀ひわたる
 
    ふるひ立ち
 
 夏に入るさきがけとして梅の實が黄いろになりて此處に竝びき
 わが孫のをさなご二人めさむればそれより先きに雨ふりてゐる
 さみだれの降るわが庭に蛙鳴く嘗て田井中なりしわが庭
 もやもやし吹きくる風にわが身ぬち溶けむばかりになりか行くらむ
 ふるひ立ちつとむる時にわが心神とひとしく澄みゆかむとす
 
(786)    無題
 
 代田なる八幡宮の境内にわれは來りてまどろみゐたり
 樫の枝のわか葉の色をなつかしみわがまぢかくに置きつつぞ居る
 ほのぼのと香をかぐはしみみちのくの金瓶村より笹卷とどく
 わが庭に啼ける蛙を聞くときぞ夜はやうやくに更けゆくらしき
 蒸しあつき夜《よは》となりつつうつせみのわが體こそあやしかりけれ
 
    無題
 
 午前より鳴きはじめたる蝉のこゑわれは一とき戀ひつつぞゐる
(787) わが庭にうまれいでたる蝉の聲|去年《こぞ》ききしよりあはれにきこゆ
 老いづきてわが居る時に蝉のこゑわれの身ぬちを透りて行きぬ
 
    無題
 
 疊の上あるきゆく赤蟻を一つぶしにつぶすあはれなれども
 おもひきり梅雨《ばいう》のときがめぐり來てしぶき降る雨この二階まで
 櫻桃の品よきものが選ばれて山形縣より送り來りぬ
 ここにして東京會談の餘韻をば考ふる餘地老いてわれになし
 日本はわが生《あ》れし國しかれどもその色彩もすでに淡しも
 
(788)    箱娘強羅
 
 夜もすがら寐ぐるしくして居たりけり今年の強羅しづごころなく
 衰へてわが行けるとき箱根なる強羅の山にうぐひす啼くも
 山鳩がおもひだしたる如く啼く強羅の山に靜かにし經む
 明星が嶽をうづむる霧のなか鳥の啼くこゑしたに聞こゆる
 ねむの花あかつきおきににほへるをこの山峽にひとり目守らむ
 さ夜ふけてとらつぐみ啼くころほひとなりにけるらしここにもきこゆ
 この山にとらつぐみといふ夜鳥《よとり》啼くを聞きつつをればわれはねむりぬ
(789) われおいてしばしだにこそ目守りけれ強羅の山の十三夜の月
 谷底をふかく雷鳴る音のして寐ぐるしかりし夜は明けむとす
 仙石原の方にあたりて雷が鳴るはげしき雨の降りくるなかに
 うつしみのわれに聞こゆるよすがとぞ強羅の谷に啼くほととぎす
 山に來しわれのごとくにひぐらしといふ山蝉は陰氣をこのむ
 蝉のこゑあわただしくもなり來りそこはかとなく秋立つらしも
 鴉啼く強羅の山にわが居りていかになりゆく定命《さだめ》なるべき
 あやしくも箱根の山にわれ目ざめ行方も知らぬおもひをぞする
(790) こほろぎのひたぶるに鳴くころほひにわれの心はしづまりかねつ
 宮城野へおりて行きたる茂太をば心にかけてひたぶるに居る
 夕まぐれ強羅をくだり行きたるが今はふもとまで著きたるらむか
 
    無題
 
 山中《やまなか》にわれは來りてこもれども甲斐なきかなや身は衰へて
 
     ○
 
 とらつぐみ山の木立に啼くときに夜ふけむとしてしきりに寂し
 
 
(791) 茄子の汁このゆふまぐれ作りしにものわすれせるごとくにおもふ
 いかづちのとどろくなかにかがよひて黄なる光のただならぬはや
 口中が專ら苦きもかへりみず晝の臥處にねむらむとする
     ○
 杉の枝にひかる雨つゆくれなゐに光る雨つゆ見つつわがゐる
     ○
 きぞの夜もけふの夜中もおのづから息ぐるしくなり箱根をくだる 九月十二日
 
    手帳より〔手帳六十五〕
 
(792) かなかなが一時強羅の山に啼くその一時をあはれに思ふ 七月二十八日
 さ夜ふけにわれは目ざむるかなかなもこゑ絶えゆきてゐたるひととき
 七月も終らむとしてわがこもる箱根強羅に大雨ぞ降る
 一昨年大石田より持ちかへれるDDTも利かなくなりて 七月二十九日
 雨ふる日われは強羅にこもり居り雨のしづくは廊をつたはる
 雨のふる強羅の山にわれは寐て何を遂げむとするにもあらず
 日はいまだしづまぬころに高原のせまき家居にわがゐたりけり 八月二日
 夜半にして息ぐるしくなる時のあり山の高原にしばしば醒めて
(793) きぞの夜は一夜《ひとよ》ねぐるし汗ばみてわがゐたるとき雨のおとする 八月三日
 戰中の鰻のかんづめ殘れるがさぴて居りけり見つつ悲しき
 この年も幾たぴか鞫くうつつなる強羅の山のこほろぎのこゑ 八月十一日
 さ夜中に地震《ヂシン》のゆりたる一時をわれは目ざめぬあやしみながら 八月十二日
 衰ふるわれの心を人しらずたださげすむを業《なり》のごとくする
 衰ふるわが老身をかへりみむいとまさへあらば心足らはむ
 箱根なる強羅の山にのぼり來てそこはかとなきネムのおもかげ 八月二十八日
 くずの花にほひそめたる山峽を二たぴわれは通らむとする
(794) 十三夜の月木の間より見えそめてわれの心はあやしくもあるか
 つくづくほふしといふ蝉の鳴けるをあはれみて箱根の山にけふくれむとす 九月一日
 夏富士にわがむかふごとさす竹の君とあひ見む心すがしも 佐伯藤之助氏を詠ず 九月四日
 
    蔵王山
 
 萬國の人來り見よ雲はるる蔵王の山のその全けきを
 とどろける火はをさまりてみちのくの蔵王の山はさやに聳ゆる
 
    無題
 
 みちのくの蔵王の山が一等に當選をして木通霜さぶ
(795) 金瓶のわぎへの里ゆ蔵王見ゆ雲幾とほりにもなりて越えくる
 川原ぐみくれなゐの色あざやかになりてゆく時いのち長しも
 みちのくの最上の川の川水の寒くなるときもの忘れする
 われ老いて金瓶村をおもひ出す飛行機が一たび越えし村の空
 
    この日ごろ
 
 西の空赤くからくれなゐにして代田の家をわれ去らむとす
 ここに住みて安らにわれは居りたりき孫もおのづから吾になつきて
 大石田に二とせ住みてわが一世《ひとよ》のおもひであはくあとにのこりき
(796) 山形あがたの堀田村は今ゆのち蔵王村とぞ呼びはじめける
 われ穉くて蔵王の山をふりさけしころほひゆ五十年年を經にける
 
    無題
 
 秋の雨一日降りつぎ寒々となりたる部屋にばう然とゐる
 いちじゆくの實を二つばかりもぎ來り明治の代のごとく食みけり
 あはれなるこの茂吉かなや人知れず臥處に居りと沈黙をする
 
    曉
 
 朦朧としたる意識を辛うじてたもちながらにわれ曉に臥す
(797) あけびの實我がために君はもぎて後そのうすむらさきを食ひつつゐたり
 あらあらしき風吹ききたり空高く雲のゆくとき庭の隅にゐる
 隅田川の川口近くたなびきて行方も知らぬ夕雲のいろ
 柿の實の胡麻ふきたるを貰ひたり如何なる柿の木になりたる實か
 
    枇杷の花
 
 くれなゐの木の實かたまり冬ふかむみ園の中に入りて居りける
 銀杏のむらがり落つる道のぺにわれは佇ずむ驚きながら
 風の吹くまともにむかひわがあゆみ御園の橋をわたりかねたる
(798) 枇杷の花白く咲きゐるみ園にて物いふこともなくて過ぎにき
 よわりたる足をはげまし歩み來てわが友の肩に倚りゐたりけり
 
    冬の魚
 
 みちのくの蔵王の山に雪の降る頃としなりてわれひとり臥す
 茫々としたるこころの中にゐてゆくへも知らぬ遠のこがらし
 あめつちのそきへの極み遠々し空しき涯に風の吹くおと
 とつ國の河に砲《はう》の音とどろけり運命の行くもののごとくに
 ねむりより醒めたるわれはうつつなく天に感謝すおほけなけれど
(799) 冬の魚くひたるさまもあやしまず最上の川の夢を見たりける
 
    自體
 
 おとろへしわれの體を愛《は》しとおもふはやことわりも無くなり果てつ
 大栗の實をひでて食まむとこのゆふべ老いたるわが身起きいでにける
 みちのくに吾いとけなく居りたるがわが父母も心にありて
 幼子の泣くこゑ聞こゆ母を呼ぶそのこゑきけば母にこだはる
 わが孫の章二といへるをさな兒をめぐしとおもふこの朝よひに
 
    時すぐ
 
(800) わが家の猫は小さなる鼠の子いづこよりか捕へ來りて食はむとす
 辛うじて机のまへにすわれども有りとしも無しこのうつしみは
 わがかしらおのづから禿げて居りしことさだかに然と知らず過ぎにき
 白き鶴《たづ》空に群れたるおもかげをまさやかにしてひとり臥し居り
 みちのくのわが友ひとり山に入りきのこ狩りせし後の話す
 わが父も母も身まかり現身《うつせみ》のことわりにして時が過ぎゆく
 
    近詠十首
 
 秋ふけになりたるごときけはひにてわれは家うつりせむとして居り
(801) 寢ぐるしき一夜辛うじて過ごしたるあかつきの光あはれなるべき
 北海道の北見の國にいのち果てし兄をおもへばわすれかねつも
 わが家の猫が庭たづみを飲みに來て樂しきが如しくれなゐのした
 夕ばえの雲くれなゐにたなびける御苑を去りて行かむとぞする
 もみがらを燃やす炎が夕ぐれてたちまちにしてその煙匍ふ
 冬の池のほとりの石を踏みこえぬ時雨ふりこむを恐るる如く
 ふとぶとと老いたる公孫樹の下かげにわれはたたずむこの年のくれ
 やうやくに歳くれむとするこの園に泰山木《たいざんぼく》をかへり見ゐたり
(802) ふゆがれしフイリダンチクの黄色《くわうしよく》をわれめづらしむ園の隈みに
 
    蔵王山
 
 ひいでつつ天が下なる嚴かさ山形あがたの蔵王の山は
 
    雜歌
 
 若草のいぶきわたらふ頃ほひに大野を越えてわれ行かむとす 新年同詠「若草」應制歌
 あめつちに平和《たひらぎ》の心さだまりて今こそはひぴけ大きなる鐘 平和の鐘
 たわやめの顔よきを一瞬にわれ勘づけば東洋外国人 「内鎌」中の二首
 池の端の蓮玉庵に吾も入りつ上野公園に行く道すがら
(803) むく鳥は強きこゑにて叫びけりわが住む家の眞近くに來て 四首
 あかつきのいまだ暗きに蠅は飛ぶ昨日《きそ》の夜ふけに飛びし一つ蠅
 ここにして一《ひと》たかむらのこもりにも籠るものありいはれあるごと
 宗達の畫《ゑが》きたる畫に小鳥居てわれらが心を|みたしくる《イ常になぐさむ》るなり
 
(804)  昭和二十六年
 
    新年
 
 新年がめぐりくるとき七十近き齢になりて吾は喜ぶ
 十二月二十二日は冬至ゆゑひとりこもりて吾はゐたりき
 口も利かず我は居れどもをさなごの泣くこゑ聽けば疲るるものを
 アララギを吾に呉れけりアララギの若木よろしと友等がいひて
 ひむがしに茜さす雲たなびきぬ平凡にして欲のなき雲
 
(805)    新春
 
 あめつちの眞中《もなか》にありて新しききほひのまにま育《はぐく》むらむか
 こがらしは新もく吹きもろもろの罪のすがたもあとなかりける
 絶ゆるまもあらず吹きくる劫運をあやしとおもふことさへもなき
 この代なるうつつのさまもはかなけど記して置かむのちの代のため
 つらなめて雁《がん》の飛ぶとき折々は平砂のうへに下りにけるかも
 
    吉言
 
 日の光紅くかがやきいでしときこの身ひとつに仰がむとする
(806) をさなごがやうやく物をいふときに言《こと》の吉言《よごと》をおのづから言ふ
 枇杷の花冬木のなかににほへるをこの世のものと今こそは見め
 
    新年
 
 新年《にひとし》の一時われは身はさやけ心はさやけ透きとほるほど
 北よりの雲をさまりて啼きわたる鴉のむれを見らく樂しも
 もろともに老人《おいびと》となりてこもるときこちたきことを相言ふなゆめ
 
    新光
 
 むら雲はしづまり行きて日の光まどかになりぬ年は明けぬと
(807) 人の世はしづかなるけふの新年《にひとし》とあらたまりたる時にあひにける
 山の上に日は這ひのぼるごとくにてまたたく間《ひま》もとどまらなくに
 たたかひの劇しかりし日も忘れ得ずみちのくの山を吾は下りき
 すくよかに事をはげまむまぼろしのごとく現《うつつ》の吾は老いつつ
 
    新光
 
 あまねくも年たちかへる新しさわが大君を祝ひたてまつる
 新しく平和みちわたるわが國に國民の道ゆたかに通ず
 白玉の光かがよふ御一家はみ民と共に榮えたまひて
(808) 平和なる日本の國にいでまして天皇陛下のおほん一家
 ひむがしに茜たなびき御共に皇后陛下|豐《ゆた》に立ちます
 御一家がこぞりたまへるおほんすがたみつみつし皇太子殿下
 空あまねく平安みちてみ民らと共に樂しみはげみたまひぬ
 われわれも務めはげめば國民の道に陛下もよろこびたまふ
 まどかなる平和のうちに榮えたまふ天皇陛下のおほん一家族
 わが國の國民こぞり歌ふなべ空に遍くこだまを返す
 
    御題朝空
 
(809) 七十路のよはひになりてこの朝けからすのこゑを聽かくしよしも
 
    新光
 
 わがくにのひつぎのみこをことほぎてわれもみ民のさきがけびとぞ
 新光《にひひかり》あかねさすときくにつ民み腹もゆたにことほぎまうす
 うめのはな咲きのさかりを大君のみことのまにまよろこびかはす
 日つぎのみこ出でたたすとき世界びといやつぎつぎによろこびのこゑ
 
    朝空
 
 たまきはる命の限り生きむとす新年はなべて清々《すがすが》として
(810) 鴉らはむらがりて飛ぶひむがしのからくれなゐの朝空のなか
 いそがしく道ゆく人をもかへりみず新年のけふ光線を浴ぶ
 みづみづし平和の中に生けらくは白玉いだき生けらむがごと
 ここにして老いたる者も朝まだき起きいでてより心しづめつ
 
    朝空
 
 起きいでて朝の空を見るときにこの世のさまはしるくぞありける
 羊等のむらがりゆける野のはてに空はにほひてこよなかりけり
 みちのくの相馬郡の馬のむれあかときの雲に浮けるがごとし
 
(811)    無題
 
 たたかひを古代のごとく取扱ふ時代は去りて雲たちわたる
 わが兄のつひのいのちを終りたる北見市兵村おもかげにせむ
 新宿の大京町といふとほりわが足よわり住みつかむとす
 
    獨吟鈔
 
 みちのくの酒田のうみによする波絶ゆるまもなくけふ見つるかも
 松島のあがたに生くる牡蠣貝を共にし食ひて幸《さいはひ》とせむ
 松島のうみのなぎさにおり立ちてみちのくびととひとりごちける
(812) みちのくの山のすがしさかへりみてゆくへも知らにわれ老いにける
 むらくもは高く海のうへにたゆたひて日本海のありあけの月
 
    無題
 
 われ七十歳に眞近くなりてよもやまのことを忘れぬこの現《うつつ》より
 素直なる老人になり過ぎ行かむ道筋もがも晩年の道
 大聖文殊菩薩中林掛竹拜書少年茂吉十五歳のため
 わが窓より鍵ぬきとりて日光を入れむとおもふ午前の十一時
 わが色欲いまだ微かに殘るころ澁谷の驛にさしかかりけり
 
(813)    みちのく
 
 みちのくの蔵王の山にしろがねの雪降りつみてひびくそのおと
 冬川の最上の川に赤き鯉見えゆくときぞこころ戀《こほ》しき
 みちのべの人ら競ひて爭はず日すがら居ればいのち幸はふ
 冬の日のゆふまぐれどき鴉らの鳴きゆく時にわがこころ和ぐ
 山並の透るがごとく冬の日の入らむとすれば光りのなごり
 
    無題
 
 をさなごが朝はやくより弟と何を爭ふこゑあげながら
(814) 人の世はこちたきこともありながらおのづから過ぎて行かむとぞする
 みづからの世すぎのさまもおもほえずまぼろしのごと過ぎて行きける
 をさなごが水道の水弄ぶ習慣つきて年くれむとす
 小田原の蜜柑をわれにたまはりぬたまはりし人われと同じとし
 
    草稿
 
 幸の珠をたづさへもろともにをとめは遠く行かむとぞする
 疎開中ねもごろにわれを世話したる齋藤十右衛門を吾は弔ふ
 
    春光
 
(815) 春かぜの吹きのまにまにおのづからわれのいのちはよみがへりたる
 梅の花咲きみだりたるこの園にいで立つわれのおもかげぞこれ
 わがいのちさいはひにして春雨のふりいづるなべに滿ち足らひけれ
 
    悼前田夕暮 〔四月二十一日作〕
 
 君若くして歌に勵みし幾年か今はなきがらに君を悲しむ
 
    御逝去を悼み奉る
 
 国民《くにたみ》のなげき限りもあらなくに皇太后陛下神かくります
 すめらぎの大きなげきの天地《あめつち》に皇太后宮神かくり給ふ
 
(816)    無題
 
 青柳のみどりのうごきうれしみてわれは御苑に行くを樂しむ
 もろこしの國の山かはあなさやけ柳のみどりうごきそめたる
 月かげがまどかに照りてかがやくを窓ごしにして見らく樂しく
 おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震ふるふころ
 人の世のかなしみごととおもほえずあさまだきなる鴉のこゑす
 
    無題
 
 酒田なる藤井康夫がときをりに古代しのべとしほびしほ賜ぶ
(817) あけがらすこゑたてて鳴くそのこゑはわれの枕のひだりがはにて
 梅の實の小さきつぶら朝々の眼に入り來る東京の夏
 
    〇
 
 仙臺の宗吉よりハガキのたよりあり彼は松島を好まぬらしも
 
    草稿
 
 眞實の限りといひて報告す部屋の中心て折々倒る
 孫だちの庭にあそべる聲すれどわれの眠にきこえざりけり
 
(818)    無題
 
 かすかなる命をもちて籠る時人來りつぐ今日の佳き日を
 魂のおくがに沁みてよろこばむ今日の一日も部屋ごもりをり
 
(819)  昭和二十七年
 
    新年
 
 ゆづり葉の紅の新《にひ》ぐきにほへるを象徴として今朝新たなり
 あめつちに充ちわたりたる平らぎのかがやく心空しからめや
 
    無題
 
 午前より御園の森に鴉鳴く人間のつれあひものいふごとく
 
    〇
 
(820) 濱名湖の蓮根をわれにおくり來ぬその蓮根をあげものにする
 梅の花うすくれなゐにひろがりしその中心《なかど》にてもの榮ゆるらし
 ゆふぐれの鐘の鳴るとき思ふどちおぼろになりてゆかむとすらむ
 
    〇
 
 わが部屋の硝子戸あらく音たてて二人の孫が折々來る
 
    〇
 
 いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるらしも
 
      〔2022年9月28日(水)午前9時26分、入力終了〕